今日は涼しいな。流石に暑さも峠を越えたかな。
《終わり》
そんなことを思いながら、俺はテキストブックを片手に、家を出た。左に折れて15歩。それからもう一度左に向き直ると、見慣れた表札がある。
『藤崎』
そういえば、1学期くらいまではここに来ることも余りなかったのにな。
ふと、そう思って俺は苦笑した。
1学期も終わろうとしていたあの雨の日、詩織の方から「入れてくれないかな?」と聞いてきたときには驚いたけど……。でも、思えばあの瞬間から、それまで凍り付いていた二人の時が、再び流れ始めたような、そんな気がするんだ。
……だけど、詩織は、どう思ってるんだろう?
そんなこと考えても、始まらないか。
俺は自分の頭を軽くこづくと、チャイムを押した。
ピンポォン「はぁい」
軽い足音が聞こえ、ドアが開いた。
「いらっしゃい、公くん」
「や」
詩織はノースリーブにフレアスカートという姿だった。それ以上詳しい服のことは俺には判らないんだけど。
でも、なんだか夏休みになってから、詩織のやつやたらファッショナブルっていうか、いろんな服着てるなぁ。それまで、そんなに服になんかこだわってなかったのに。
「ねぇ、この服どうかな?」
黄色いスカートの裾をちょっと摘んでみながら、詩織は俺に訊ねた。
「え? ああ、似合ってるよ」
「ホント?」
「ああ」
俺は頷いた。もっとも、およそ彼女に似合いそうにないような服って無いような気がするんだけどな。
「ありがとう。あ、ごめんね、玄関に立たせちゃって。上がって」
詩織は微笑むと、俺を家の中に招き入れた。
俺達は、詩織の家の応接室の机にテキストを広げていた。
「あ。公くん、ここもちょっと……」
ワークブックのチェックをしていた詩織が、声を上げた。
「え? マジマジ?」
「うん。ほら、ここ」
彼女が赤いシャープペンシルで示した場所を見る。数学の問題って事は、紐緒さんに頼んだ部分のはずだけど……。
「わざわざ、‘もう一つの解は存在することがガウスによって予言されているが、その証明はまだ為されていない。ただ、私ならおそらく3日で解けると思う’なんて書く必要無いと思うんだけど……」
詩織は笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んだ。
「あはは」
俺は冷や汗を流しながら笑ってごまかした。くそぉ。彼女の答えをそのまま写したのは敗因だったなぁ。
「ホントに、公くんって……」
言いかけて止める詩織。
「なんだよ?」
「ううん。何でも。あ、喉乾いちゃったわね。お茶入れてくるね」
詩織はバタバタと部屋から出ていった。
しかし、やっぱり詩織に手伝って貰えると、助かるなぁ。紐緒さんや如月さんに手伝ってもらったけど、あの二人って専門的すぎて、俺にはワケわかんない部分があるし。如月さんはそれでも俺に合わせようとしてくれるんだけど、紐緒さんはなぁ。ニュートン力学を説明すればいいところで、アインシュタインとかフェルミとか持ち出す人だからなぁ。
俺は立ち上がると、大きく伸びをした。そして、テキストが乱雑に散らばった机の上を見回す。
「あれ?」
詩織がテキストの上に置いた赤いシャープペンシルに、俺の目が止まった。
どこかで見覚えがあるような……。なんだっけ?
「お待たせ」
詩織がジュースを入れて戻ってきたところで、俺の追憶は中断された。
「あ、悪いな」
「ううん」
彼女は、グラスを俺の前に置くと、テキストを片づけ始めた。
「詩織?」
「今日はこれくらいにしない?」
「え? 俺はいいけどさぁ……」
「ねぇ、今日何か予定ある?」
テキストを積み重ねると、彼女は俺に訊ねた。
「いや。別に……」
「だったら、行きたいところがあるの」
え?
俺は、一瞬惚けたように詩織を見つめた。
彼女は頬を染め、じっと俺の返事を待っていた。
こ、これって、いわゆる‘デートのお誘い’ってやつかいなぁ?
俺はごくりとつばを飲み込んで訊ねた。
「どどどど、どこへ行くの?」
「遊園地」
あっさりと答える詩織。
「遊園地?」
「うん。夜にナイトパレードやってるでしょう? あれ、一度見てみたいの」
「ナイトパレードかぁ」
俺は考えた。
イルミネーションに映える詩織。
いいじゃないか。
「オッケイ。行こう!」
「よかった。嬉しい」
詩織は頬を染めて微笑んだ。
「じゃ、5時に迎えに行くから」
「うん。待ってるね」
手を振る詩織と別れて、俺は自分の家に戻った。
玄関のドアを開けると、電話が鳴っていた。
トルルル、トルルル。
俺は靴を脱ぐのももどかしく、廊下に駆け上がると受話器を取った。
「は、はい。主人です」
これでセールスか何かの電話だったら、どうしてくれようとか考えていたが、実際は違っていた。
「あ、あの……、私、美樹原ともうしますが……、主人公さん、いらっしゃいますか?」
「美樹原さん? 俺、公だけど」
「あ……」
電話の向こうの彼女は一瞬黙り込み、それから言った。
「この間は、ごめんなさい」
あ、プールのことか。
「いや。気にしてないよ。ムクの調子はどう?」
「はい。おかげですっかり元気になりました。ね、ムク」
ワンワン
おのれぇ。いけしゃあしゃあと!
「あ、あの……」
俺は、受話器から微かに声が聞こえてくるのに気づいて、我に返った。
「ごめん。よかったね」
「はい。ありがとうございます。あの、それで……」
「え?」
「あの、もし、主人さんがよろしかったら、その……。また、一緒に……」
その言葉を聞いた瞬間、俺はにっと笑い、親指をぴっと立てた。
犬よ。やはり俺の勝ちのようだな。
「いいよ。美樹原さんなら大歓迎さ」
「え? ……あ、はい」
多分、電話の向こうで真っ赤になったであろう美樹原さんの声が帰ってきたのは、予想どおり、少し待ってからだった。
「それじゃ、また」
チン 電話を切ると、俺は自分の部屋に戻った。時計を見た。
午後2時。
「あと、3時間かぁ」
なんとなく呟いて、窓から外を見て俺は凍り付いた。
俺の部屋の窓の正面には、詩織の部屋があるんだが、その中で、詩織が着替えていたのだ。
俺はとっさに自分の部屋のカーテンを引いていた。そのままの姿勢で葛藤する。
(見たいぞぉぉ)
(いや、俺はそんなことをする男じゃない)
(なにを格好つけてるんだ、俺は?)
(俺は詩織をそんな目で見てるわけじゃないんだ!)
と。
トルルル、トルルル 心臓が跳ね上がった。おそるおそる、コードレスを取る。
「はい?」
「もしもし、館林です」
「!?」
いつも間違い電話かけてくる娘だな。でも、俺がいるときに掛かってきたのは、初めてだなぁ。
「もしもし、電話番号間違えてますよ」
「え? 留守番電話じゃないの?」
「は? そうだけど……」
「ご、ごめんなさい。それじゃ!」
プツッ
電話が切れた。俺は受話器を持ったまま、唖然としていた。
(なんだったんだ? 今のは……)
はっと我に返ってみると、煩悩と理性の白兵戦はいつの間にか終わっていた。俺は苦笑した。
(……感謝すべき、かなぁ? この場合は)
ピンポーン
俺がチャイムを押すと、中から「はーい」と返事が聞こえた。しばらくして、詩織が出てくる。
「ごめんね、待たせちゃって」
「いや」
詩織は、白いブラウスとピンク色のキュロットという姿であった。着替えてる辺り、さすがそつないなぁ。
「じゃ、行こうか」
「うん。行きましょう!」
詩織はにっこりと笑った。
ナイトパレードは予想以上だった。ただ、そのおかげで俺と詩織は思わぬ陥穽に陥ってしまったのだった。
「急いで、詩織!」
「うん!」
俺と詩織は、暗い夜道を懸命に走っていた。
俺は腕時計を見た。
「終電まで、あと5分!」
「そんなこと言わないでぇ」
迂闊だったなぁ。遊園地がオールナイトだったとは思わなかった。
ナイトパレードは予想通り、いや予想以上に素晴らしく、俺達はお祭りを堪能した。それは良いんだが、オールナイト営業とは思わなかった俺達は、それからも「お、まだ動いてるぞ。超ラッキー!」とばかりにジェットコースターやら観覧車やらに乗りまくってしまい、今の有り様になってるわけだ。
ようやく詩織が「この遊園地、いつまでやってるのかな?」と言ったところで時計を確認して、終電まであと15分しかないことに気づいた俺達は、慌てて遊園地を飛び出して、駅に向かって走ってるわけだ。
「きらめき行き最終、発車いたします」
「わぁーっ、待て待て待てぇっ!」
俺は叫びながら改札を駆け抜けた。それから、律儀に自動改札機に切符を通している詩織を呼ぶ。
「早く早く!」
「う、うん」
電車に飛び乗ると、手を伸ばす。
ピリリリリリ 発車のベルが鳴る中、詩織が駆けてくる。そして……。
俺は詩織の手を握り、ぐいっと引き寄せた。
バタン 電車のドアが閉まり、ゆっくりと動き出す中、俺と詩織は同時にため息を付いた。
「よかった」
「ホント。間に合わなかったらどうしようかと思っちゃった」
そして、顔を見合わせて、俺達は同時に気づいた。
詩織を引っぱり込んだ弾みに、俺達は抱き合うような形になっていたんだ。
俺達は、慌てて離れた。詩織はきょろきょろと辺りを見回す。
「あれぇ、誰もいないね」
言われて俺も気が付いた。俺達の乗った車両には、俺達以外には誰も乗っていなかった。
「貸し切り、だなぁ」
「そうね」
詩織はくすっとわらうと、座席に腰掛けた。
「公くんも、座らない?」
「ああ、そうだね」
俺は、詩織の隣に腰を下ろした。
カタン、カタン
電車は単調な音を立てながら走っていく。
俺は、不意に右肩に重みを感じてそっちを見た。
詩織が、俺の肩にもたれて寝息をたてている。
疲れたんだな、きっと。
そっとしとこうか、それとも起こそうか……。
あ、なんだかいい香りがする。コロン、かな?
なんだか、こうしてると、ホントに恋人同士みたいだなぁ。
そう思ったとき、俺は胸がズキンと痛んだ。
−シオリハ、オレノコトヲ、ドウオモッテイルンダロウ?−
不意に列車が揺れて、詩織が目を開けた。
「う……うん」
「あ、目が覚めた?」
「え? あ、私、寝ちゃってたかな?」
身を起こすと、詩織はまだとろんとしたまま、呟いた。
「ごめんね、公くん。私、ちょっと疲れちゃったかな?」
「いや、いいよ」
「そういえば、覚えてる? いつだったか、私の家族と公くんの家族とみんなで遊園地に遊びに行ったことがあったじゃない」
「ああ、覚えてるよ」
俺は微笑んだ。
詩織もにこっと笑うと、俺の肩に頭を寄せかけてきた。
「あの時も、私帰りに疲れて眠っちゃったのよね……」
「……だったよなぁ」
「また……あの時みたいに……」
そう呟くと、詩織はまた目を閉じた。そのまま、微かに呟く。
「……」
カンカンカンカン
ちょうどその時、列車が踏切を通過した。その音にまぎれて、詩織がなんて言ったのか聞き取ることが出来なかった。
聞き返そうとして、俺は詩織がまた寝息を立てているのに気づいた。
やれやれ。
俺は苦笑して、詩織の肩をそっと抱き寄せた。
「詩織!」
「え? ……公……くん?」
「もうすぐきらめきだよ」
俺は詩織の肩を揺すりながら言った。
「あん……そうなんだぁ。あふぅ」
詩織は欠伸をしながら体を起こした。そして、呟く。
「ずっと、乗っていたかったなぁ」
「でも、降りないと帰れないぜ」
俺がそう言うと、詩織はむっとしたように立ち上がった。
「そうよね」
「え? お、おい!」
ちょうどその時、列車はきらめき駅に滑り込んだ。
駅からの帰り道、気の早い鈴虫が鳴いている。
詩織はツンと前を向いたまま、俺の前を歩いている。
「詩織、ちょっと待てよ」
「早く帰りたいんでしょ、公くんは」
う。声に刺がある。
「あの、詩織……さん?」
「なーんてね」
詩織はくるっと振り向くと、にこっと笑った。
「ああーっ、からかったな! このぉ」
「きゃっ、ごめんなさぁい」
俺が手を振り上げると、詩織は首をすくめた。そして、俺達は顔を見合わせて笑い出してしまった。
「アハハハ」
「うふふふ」
家の前まで来ると、詩織はぺこりと頭を下げた。
「公くん、今日はありがとう」
「な、なんだよ、改まって」
「お礼、言いたくって。それじゃ、また明日ね」
「明日?」
「やだ、もう。まだ、宿題残ってるんでしょ?」
「あ、そうか。でもさ、もう、今日だろ?」
俺は腕時計を指していった。
「あ、もう12時過ぎちゃってるんだ」
「そそ。シンデレラは家に帰る時間だぜ」
「そうね。それじゃ、お休みなさい」
詩織はドアを開けると、俺の方を見た。
「ん?」
「お休みなさい」
「ああ、お休み」
パタン
詩織の家のドアが閉まった。
俺は自分の部屋の明かりも付けずに、ベッドに寝転がった。
なんとなく、肩に詩織に頭の重みがまだ残ってるような気がする。
それと、ほのかな香りも。
そうだよなぁ。
俺は暗闇の中で仰向けになりながら、心の中で呟いた。
結局、大事なのは、俺が詩織のことを好きだってこと。
詩織にふさわしい男になるまで、まだまだがんばらなきゃな。
いつしか、俺は夢の世界に飛び立っていった。