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暑い日 終章
夏の終わりに……


 なんのかんので、夏も終わっちまったなぁ。
 9月の最初の日曜日の夜。俺は、自分の部屋の机の前で、椅子の背もたれに体重をのせながら、心の中で呟いた。
 開けっ放しの窓からは、数日前までは夜でも蝉の声が聞こえてきていたのに、今はもう鈴虫の声がやかましいくらいに聞こえてくる。
 秋、かぁ……。
 昼はまだ暑いけど、でも吹く風は熱風じゃなくなってきてるし。
 でも……。
 このまま終わるのはなにか、物足りない。
 そんな気分だった。

 変なことを考えててもしょうがない。勉強でもすっかなぁ。
 俺は勢いよく、身を起こした。その弾みに、乱雑に積み上げてあった机の上の本がドサドサッと床に落ちた。
「いっけねぇ」
 俺は舌打ちして、立ち上がった。かがみ込む。
「……あれ?」
 妙にカラフルな色彩のものが本やプリントの下にある。俺はそれを引っぱり出した。
 それは、近所のスーパーで買った花火セットだった。
「ないと思ったら、こんな所にあったのか……」
 俺は、その花火セットを前に、考え込んだ。
「どうしよう。来年まで置いておくと湿気そうだしなぁ……」
 と、ふと天啓が閃いた。
 俺は、コードレスホンに手を伸ばした。

 トルルル、トルルル。
『はい、藤崎です』
「あ、俺。主人だけど……」
『あ……』
「何? どうしたの?」
『ううん、なんでもないの。ところで、何の御用?』
「詩織、今暇してる?」
『えっとね……』
 微かに間をおいて、詩織は答えた。
『うん、暇よ』
「だったらさ、花火しない? 花火」
『え? 花火?』
「ああ。実は、残ってた花火が出て来たんだよ。来年まで置いておくのもなんだなって思ったし、それに……」
 俺は、窓から詩織の部屋を見た。
 詩織は、カーテンを少し開けて、俺の部屋を見ていた。
『そうね。今年は、まだ一緒に花火してなかったものね』
「どうかな?」
『うん。いいわよ』
 詩織は、こくんと頷いた。
「オッケイ。じゃあさ……、近所の公園でどう?」
『いいわよ。……あのね、公くん。私、ちょっと準備があるから、先に行っててくれる?』
「準備? 何の?」
『な・い・しょ』
 そう言うと、詩織は身を翻してカーテンを閉めた。
 コードレスホンから声だけが聞こえてくる。
『お・ね・が・い』
 語尾にハートマークがつきそうなイントネーションだった。これで断れるのは男じゃあるまい。
「ああ。じゃあ、先に公園に行って準備してるから」
『わかったわ。それじゃ』
 プツッ
 電話は切れた。

 俺は、公園のベンチに腰を下ろし、時計を見上げた。
 遅いなぁ。もう10分も待ってんだけど。
 もう一度確認する。
 水を張ったバケツ、ロウソク、マッチ、懐中電灯。
 準備良し。
 と、
「ごめんね、待たせちゃって」
「おそ……」
 言いかけた俺の台詞は、そのまま夜の闇に消えていった。
 詩織は恥ずかしげに頬を染め、その場でくるっと一回りして見せた。
「どう、この浴衣」
「に、似合ってるよ。すごく」
「ホント? 嬉しいな」
 彼女は小首を傾げて微笑んだ。

 シュッ
 マッチの火をロウソクに移すと、俺は花火の袋を開けた。一本出してから詩織に渡す。
「詩織も好きなのやっていいよ」
「わぁ、わりとあるのね」
 嬉しそうに袋を覗き込む詩織から離れ、俺は花火に火を付けた。
 シャァーッ
 色とりどりの光の滝が流れ落ち、消えて行く。
 やがて、詩織も一本を取ると、火を付ける。
「あら、つかないわよ」
「湿気てるのかな?」
「うん、そうかも……きゃっ」
 ボウッ
 いきなり花火が火を噴きだした。詩織はほうっと息をつく。
「びっくりしちゃったぁ」
 詩織の花火は、青白い炎を吹き出している。やがて、その色が黄色に変わり、そして赤に変わる。
 そのたびに、嬉しそうに声をあげる詩織。
 俺は、自分の花火が消えたのにも気づかず、そんな詩織の横顔を見つめていた……。

「あと、残ったのはこれだけか」
 俺は小さな袋を出した。二つ入っていたので、一つを詩織に渡す。
「はい、これあげる」
「ありがとう。わぁ、線香花火ね」
 詩織は嬉しそうに笑って、袋を受け取った。
 俺達はロウソクの周りに屈むと、線香花火を取り出した。火を付ける。
 シュバッ
 火花が散る。

 ジジィーッ……ポトッ
「あっ、畜生。また落ちちまった」
 俺は悔しがりながら、詩織の方を見る。
 詩織の線香花火は、盛んに火花を散らしていた。
「詩織は、昔っから上手かったもんなぁ」
「そうかな? 公くんが落ちついてないからじゃない?」
 詩織は、じっと線香花火に視線を注ぎながら言った。
「そんなことはないと思うけどなぁ」
 俺は立ち上がると、大きく伸びをした。
 恥ずかしながら、俺の線香花火はもう無くなっていたのだ。詩織のはまだ半分残ってるっていうのに。
 詩織は顔を上げた。
「公くん。何本かわけてあげようか?」
「いや、いいよ」
「そう?」
 そう言ったきり、詩織はまた真剣な表情を線香花火に注いだ。
 こういう風に集中しないといけないんだなぁ。
 俺は、屈んだ詩織を見おろしながら思った。
 と、その時俺の心臓が大きく鳴った。
 浴衣の合わせ目がすこしはだけていて、白い膨らみの裾野がちらっと見えたんだ。
「!!」
「え? 何か言った?」
 詩織が俺を振り仰いだ。俺は慌てて視線をあらぬ方に逸らした。
「い、いやぁ、なんでもないよ」
「そう?」
 そのまま、詩織はまた線香花火に視線を戻す。
 俺も、もう一度視線を元に戻した。
 ……下着、付けていないんだろうか? 少なくとも、見える範囲には……ない。
 もしかして、ノ、ノー……。
 ドッキン、ドッキン
 心臓がばくばくいってるのが判る。
 いかんいかん。静まれ煩悩!
 別のことを考えるんだ。別の!
 えっと、えっとぉ……。
「終わっちゃった」
「そう、終わりなんだ……。え?」
 俺は詩織の声で我に返った。
 詩織は立ち上がると、手をポンポンとはたいた。
「公くん。花火、全部やっちゃったね」
「そ、そうだね。ナハ、ナハハハ」
 俺は、意味不明の笑いをあげた。
 と。
「くちゅん」
 詩織がくしゃみをした。そして自分の肩を抱く。
「寒いのか、詩織?」
「う、うん。ちょっと」
「もう9月なのに、浴衣なんか着てくるからだよ」
 俺はジャケットを脱ぐと、詩織の肩に掛けた。
「公くん、ダメよ。公くんの方が……」
「いーのいーの。俺は頑丈に出来てるから」
「ホントに、いいの?」
「ああ」
 俺が頷くと、詩織はジャケットを肩に掛けて目を閉じた。
「あったかいね、公くん」
「そ、そう?」
 俺は照れくさくなって頭をかいた。

「じゃ、お休み。また明日」
 俺は詩織を彼女の家まで送り届けて、帰ろうとしていた。
「あ、公くん!」
「何?」
「ジャケット、忘れてるよ」
 詩織は俺のジャケットを振って見せた。
「あ、いけねぇ」
 俺は駆け戻ると、手を伸ばした。
 と、詩織は不意に顔を俺に近づけた。
 CHU!
 俺の唇に、一瞬だけ柔らかいものが触れた。
「え?」
「今日は、ありがとう。楽しかった」
 詩織はにこっと微笑むと、俺にジャケットを渡した。
「あ、う、うん」
 俺はぎくしゃくと頷くと、外に出た。

 詩織の家から俺の家まで、歩数にして20歩。
 今の、キス、だよな?
 一歩ずつ、嬉しくなってくる。
 自分の家につく頃には、俺はすっかり舞い上がっていた。
 玄関に駆け込んで、叫ぶ。
「母さん! 今日は赤飯炊いてくれ!!」

 こうして、俺の夏は終わった。
 そして、秋がやってくる。

《終わり》

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