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暑い日 ゆかり編


 毎日、暑い日が続きますねぇ。
 わたくしは、汗をハンカチで拭いながら、お日様を見上げました。
 蝉時雨、とはよく言ったものですねぇ。
 本当に蝉の声が、時雨のように頭上から降って参ります。
 夏、ですねぇ。

「あれ? 古式さんじゃない」
 わたくしがぼーっと蝉時雨に耳を傾けておりますと、後ろから声が掛けられました。振り向きますと、主人さんが立っておられます。学校の帰りなのでしょうか、制服にスポーツバッグを肩から提げた出で立ちです。
「まぁ〜、主人さん。お久しぶりでございます。終業式以来でしたねぇ。お元気でいらっしゃいましたか?」
 わたくしは一礼してご挨拶しました。
「ま、まぁね。古式さんも元気そうで。いま、何してるの?」
「はい、蝉の声に耳を傾けておりました」
「せ、蝉ねぇ……」
「ほら、みーん、みーんと鳴いておりますのよ」
 わたくしがそう言いますと、主人さんもしばらくじっと耳を傾けておりました。
 二人の間を蝉の声だけが埋めていきます。

「でも」
 不意に主人さんが言葉を発しました。
「どこかへ行く途中だったんじゃないの? 古式さんは」
「わたくしですか? いいえ、家に帰る途中でした。今日はお華のお稽古がありましたので」
 わたくしがそう答えますと、主人さんは腕を組みました。
「お華、かぁ。古式さんらしいね。でも、歩いて通ってるの? こんな炎天下を」
「はい。お父さまが車を用意してくださるとおっしゃいましたが、お母さまが、歩くことも必要です、とおっしゃいましたので。それに……」
「それに?」
「車で通っておりましたら、ここで主人さんとお逢いすることはできませんでしたものね」
 そう言いますと、主人さんは何故かちょっと俯かれました。
「そ、そう……。あはは」
「?」
「あ、そうだ。喉乾いたでしょ? ちょっと待ってて。ジュース買ってくるよ」
 主人さんは走って行きかけて、急に立ち止まりました。
「古式さん、何が飲みたい?」
「十○茶が、好きですねぇ」
「……やっぱり?」

 わたくしと主人さんは、近くの公園に入りました。ちょうど木陰になっているベンチに並んで座ります。
「はい、これ」
 主人さんがお茶の缶を渡してくださいました。
「ありがとうございます。まぁ、冷たいですねぇ」
 お茶を一口頂きます。
 冷たいお茶が喉を滑り落ちていくのが、なんとも心地よいですねぇ。
「おいしい?」
「はい。とてもおいしゅうございます」
 わたくしは微笑んでお返事しました。
「よかった」
「主人さんは、学校からお帰りになるところですか?」
「ああ。部活の練習の帰り」
「それは、お疲れでしょうねぇ」
「いやぁ、古式さんの顔見てたら疲れも吹っ飛ぶよ」
「そうですか。このような顔でよろしければ、いくらでもご覧くださいね」
 そうお答えしますと、主人さんもにっこりと微笑まれます。
「そうだね」
 わたくしは、頭上の樹を見上げました、
「蝉の声が、うるさいくらいですねぇ」
「ふわぁ。そう……だねぇ」
 わたくしたちは、しばらく黙ったまま蝉時雨に耳を傾けておりました。

 コトン
 微かな音がしまして、わたくしの肩に重い物が乗り掛かってきました。
「え?」
 脇を見ますと、主人さんがわたくしの肩に頭を預けて、寝息を立てていらっしゃいます。
 部活の練習でお疲れになっていらっしゃるのですね。
 でも、どうしましょう?
 起こして差し上げるべきなのでしょうけれど……。
 と、そのとき、主人さんが呟かれました。
「……ゆかりちゃん……」
「はい?」
 それっきり、また寝息をたてていらっしゃいますね。寝言、でしょうか?
 でも、どうしてわたくしの名前を寝言で呼ばれたのでしょうか?
 よくわかりません。けれど、何故かわたくしの胸が暖かくなって参りました。
 わたくしは、主人さんの頭をそっとかかえると、ふとももの上に置きました。
 その方が、よく眠れそうだと思いましたので。
 蝉時雨だけが辺りを包んで、時折起こるそよ風が、樹の梢をそっと揺らします。
 できれば、ずっとこのままでいたいですねぇ。
 主人さんと一緒に……。

「放せ! ゆかりが、ゆかりがぁぁぁ!!」
「社長! お気を確かに!!」
「だれか社長を押さえろ!!」
 ちょっと離れた茂みでこんな騒ぎが巻き起こってることなど、ゆかりちゃんは知りません。
 夏の午後は、二人を見守りながら、ゆっくりと過ぎて行くのでした。

《終わり》

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