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暑い日 優美編


「今日も暑いねぇ〜」
 優美は元気良く道路を歩いていた。今日の服は、アニメキャラのプリントされたタンクトップとジーンズのホットパンツ。ポニーテイルは、お気に入りの黄色いリボンで結わえている。
 アスファルトの上には、まだ午前中だというのに、もう陽炎がゆらゆらと揺れていた。強烈な陽射しの下、彼女は日に焼けた健康的な肢体を惜しげもなくさらしていた。
 と、彼女は不意に立ち止まった。
 前の方に、見慣れた姿が二つ見える。
「あ、お兄ちゃんと公さんだぁ。よーし、脅かしちゃおうっと!」
 優美はくふふっと笑うと、足音を忍ばせながら駆け寄っていった。
 もう少しで追いつきそうな距離まで近づいたとき、二人の会話が耳に入ってきた。
 公が笑いながら好雄に言った。
「俺さ、とうとうゆかりを手に入れたぜ」
 優美の足は凍り付いたように、ぴたりと止まった。
(ゆかりって、古式先輩のことだよね? 手に入れたって……)
「マジかよ? どうやってだ?」
 好雄が驚いたように訊ねる。
 公は肩をすくめた。
「そりゃ秘密だけどさぁ、苦労したのなんのって。しかし、うまかったぜ」
「もう食べちまったのか!?」
「ああ。とっても美味しく頂きました」
 公は両手を合わせてご馳走様のポーズを取った。
(うそぉ。食べちゃったって、食べちゃったって事!? そんな、主人先輩がぁ……)
 と、不意に好雄が振り返った。
「お、優美。んなところで何やって……、どうしたんだ?」
 途中で妹のただならぬ様子に気づいた好雄は心配そうに訊ねた。
 公も振り返る。
「やぁ、優美ちゃん」
「公さんなんて、公さんなんて、不潔ですっ!!」
 ゴカッ
 鈍い音を立てて、公の顔面に優美の肘がめり込んだ。
「あがぁっ」
「公さんなんて、大っ嫌いですっ! うわぁぁーん」
 そのまま、泣きながら走っていく優美。
 それを見送り、好雄は公に向き直ると、うって変わった冷ややかな声で言う。
「おまえ、優美に何かしたのか?」
「ひゃひもひてない」
 鼻を押さえながら、公は慌てて首を振った。

 好雄は、自分の家の玄関に駆け込んだ。
「ただいま! 優美は!?」
「あら、おかえりなさい。優美なら、部屋じゃないの?」
 台所から母親がそう言うのを聞くと、好雄はそのまま2階に駆け上がった。
 ドアの前には、『ゆみ』と書いてある可愛い林檎のプレートが掛かっている。
 それを見て、好雄は不意に戸惑った。
(あいつ、こないだまでアニメのプレートかけてたくせに、何時の間にこんなモンかけてたんだろう……。ガキだ、ガキだと思ってたけどなぁ……)
 彼は首を振ると、ドアをノックした。
「優美、帰ってるんだろ?」
 返事はない。
 好雄は、ドアに耳を押しつけてみた。
 微かに、押し殺したような嗚咽の声が聞こえる。
 好雄は何事か呟いて、優美の部屋の前から歩き去った。

 午後3時過ぎ。
「ん〜」
 泣き疲れ、そのまま眠っていた優美は、うめき声を上げると、不意にがばっと起き上がった。
 ぼーっとした顔で呟く。
「暑いよぉ〜」
 クーラーも付けずに閉め切った部屋の中で寝ていれば当然だろう。
 彼女はふらふらと起き上がると、部屋の外に出た。そのまま廊下に突っ伏す。
「ひゃぁ。冷たくって気持ちいいよぉぉ」
「優美、なにしてるんだ?」
「あ。お兄ちゃん」
 優美は突っ伏した姿勢から首だけ曲げて好雄を見上げた。
「こうしてるとねぇ、冷たくって気持ちいいんだよぉ」
「おいおい」
 呆れたような口振りで、好雄は肩をすくめた。それからかがみ込むと訊ねる。
「優美、公になにかされたのか?」
「……」
 優美は、しばらく好雄の顔をじっと見つめていた。そして、不意に訊ねる。
「お兄ちゃん、主人先輩、優美のこと食べてくれるかなぁ?」
「なっ!?」
 好雄は思わず絶句した。
 優美はぴょこんと立ち上がった。そして拳をぎゅっと握りしめる。
「そーよっ。優美、大人になるのっ!」
「ま、待て、優美、落ち着け、な?」
「邪魔しないでっ!」
 バキィッ すごい音がした。好雄はノーザンライト・スープレックスをかけられて、そのまま廊下に轟沈していた。
「じゃ、行って来まぁす!」
 優美は好雄をそのままにし、サンダルを突っかけて、外に飛び出した。

「あれ? 優美ちゃん?」
 ドアを開けて、公は困惑した。
 優美は玄関の中に顔を突っ込んでキョロキョロした。
「先輩、先輩のお父さんとお母さんは?」
「え? 親父は仕事だし、お袋は婦人会の寄り合いだけど」
 反射的に正直に答える公。
 優美の目がキラッと光った。
(チャ〜〜ンス!)
「せ、先輩……、優美、優美ね……」
 優美は、玄関の中にはいると、後ろ手でドアを閉めた。そして公を見上げる。
「優美……」
「お腹が空いたの?」
「うん、そうなんれす……え?」
 ポカンとする優美。
 公は微笑んだ。
「そうじゃないかと思ったよ。まぁ、上がりなよ」
「あ、はい。お邪魔しますぅ」
(そんなに急がなくってもいいかなぁ)
 優美はそう思いながら、公の後に従って居間に入った。
「おまたせ」
 公は冷えた麦茶を入れたグラスを、優美の前に置いた。
「わぁい」
 目を覚ましてから、何も飲んでいなかったことを思い出した優美は、グラスを取ると、ごくごくと飲み干した。
「うわぁ、美味しいですね!」
「そう? あ、これもどうぞ」
 彼は、袋に入った煎餅を、皿に盛って優美に勧めた。
 優美は袋を破いた。海老の香りがふわっと漂う。
「うわぁ、海老煎餅ですねぇ」
「そう。名古屋名物、坂角総本舗の“ゆかり”さ」
「え?」
 言われて袋を見てみると、たしかにしっかりと“ゆかり”と書いてある。
 公が得意げに言う。
「前から欲しかったんだけど、こないだ親父が名古屋に出張するってんで、やっと買ってきて貰ったんだ。あ、好雄には内緒だぜ」
「もしかして、お兄ちゃんと話してたのって……」
「え?」
「な、なんでもないれす」
 優美は真っ赤になって俯きながら、海老煎餅を口に運んだ。
 “ゆかり”は、ほのかに磯の味がした。

《終わり》

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