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White Album Short Story #6
弁護士 観月マナ 2
白銀のMTB その1

雪が、降っていた。
ひらひらと舞い降りる、白く美しく冷たい結晶。
そんな中を、俺は歩いていた。
心の中で、無力感を噛みしめながら……。
あの事件から、既に3ヶ月がたっていた。
長期休養に入った由綺――トップアイドルにして、俺の元恋人である森川由綺は、弥生さんと英二さんが鉄壁のガードを張ってしまったため、俺にはその所在さえも知ることができなかった。
おかげで、俺はマナちゃんに臑を蹴飛ばされることもなく、平穏無事な日を送っていた。
……表向きは。
だが……。
俺は、あの日のことを思い出していた。
そう。香奈――フリージャーナリストの星佳香奈が呼び出した“真犯人”と逢わされたときのことを。
あのとき、俺はまさかと思った。
だって、あのとき『エコーズ』に現れたのは……。
ズガァッ
いきなり後ろから臑を蹴っ飛ばされて、俺は現実に引き戻されると同時に飛び上がった。
「痛てぇぇっ!」
「もうっ、何をぼーっと外を見てるのよ! そんなに暇してるんならお茶くらい入れてくれればいいでしょっ!」
後ろから俺を蹴っ飛ばしたのは、言うまでもなくマナちゃん――観月マナ弁護士である。なんだかんだいってもこの若さで弁護士事務所を構えているんだから大したもんだ。……って、そこで働いている俺が言うこともないか。
俺も詳しくは知らないが、本来マナちゃんみたいな若い娘が、司法試験とやらに受かったところで、すぐに事務所を構えるなんてことは出来ないらしい。普通は先輩の弁護士さんのところで見習いみたいなことを何年もやった上で独立する、というのが一般的らしいんだ。
それじゃどうしてマナちゃんが、こうやって一人前の弁護士として事務所を構えてるか、というと、これが結構ややっこしい。
マナちゃんも弁護士である以上、地元の弁護士会に名を連ねているわけだ。で、その弁護士会の偉いさんにマナちゃんが妙に気に入られているらしい。当然、他の弁護士達はそれが気にくわない。というわけで、マナちゃんに“勉強させる機会”を奪って、いきなり事務所を持たせて放り出した、というのが正確なところらしい。
それでもどうにかこうにかやっていっているのは、マナちゃん自身の才能もあるんだろうけれど、こないだの“森川由綺えん罪事件”の宣伝効果もあったんだろう。
宣伝効果、っていうのも、“あの”英二さん――緒方プロ社長にして敏腕のプロデューサー、さらにヒットメーカーの作曲家である緒方英二が、あちこちの新聞や週刊誌でマナちゃんの名前を吹聴したせいだ。英二さんとしては、由綺からマスコミの目を逸らすため、という作戦もあったんだろう。必要以上に宣伝してくれて、おかげでマナちゃんは、若き英才弁護士として一躍時の人になってしまったのだ。
「冬弥さんっ!」
もう一度耳元で喚かれて、俺は慌てて耳を押さえた。
「なんだよっ!?」
「もうっ、何回もさっきから言ってるでしょっ! 耳まで遠くなったのっ!?」
「はいはい、お茶ですね。わかりましたよっ」
これ以上逆らわないほうがいい。俺は冷蔵庫を開けて、何も無いことを知ると、怒鳴られる前にとりあえず近所のコンビニまで飲み物を買いにいくことにした。
「ありがとうございました〜」
店員の声を背にして、コンビニの外に出た。何となく空を見上げる。
相変わらず、雪がちらちらと舞っている。積もるほどではないだろうけど……。
と。
キキーーーーッ
いきなり背後から、ブレーキの音がした。そして、とっさに飛び退いた俺の目の前を、銀色の物体が勢いよく滑っていった。
……って、あれは自転車? とすると……。
俺は、何となく既視感を覚えて、それが滑ってきた方向に振り返った。
「はるかっ!?」
そこに転がっていたのは、間違いなくはるか――幼なじみの河島はるかだった。
「……あれ? 冬弥?」
はるかは、転がったまま、きょとんと俺を見上げた。それから、にこっと笑う。
「久しぶり」
「そうだな……。じゃないっ! さっさと起きろよ」
「……どうして?」
「歩道の上で寝ころんでたら、通行の邪魔だっ!」
「それもそうだね」
納得して、よいしょと身体を起こすはるか。それから、俺に訊ねた。
「ところで、どうしたの?」
……あいかわらず、マイペースな奴。
俺は苦笑しながら、片手で転がっていたはるかの自転車を引っ張り起こした。はるかの愛用している、ドイツの誇るメルセデス製の自転車は、かなり乗り回してたんだろう、あの頃から較べても傷だらけになっている。
「ほら、自転車起こしてやったぞ」
「ありがと、冬弥」
そう言って、はるかは自転車にまたがった。俺は、その肘から赤い滴が落ちるのを見て、訊ねた。
「はるか、肘のところ、怪我してるんじゃないのか?」
そう訊ねながら見直してみた。間違いなく、デニムのジャンパーの肘のところが破けて、血が流れていた。
はるかはひょいっと肘を上げて、のぞき込む。
「本当だ。痛いと思った」
「痛いと思った、じゃないだろ?」
俺は少し呆れた。それから考える。どうせこいつのことだ。保険証なんて持ってないだろうから、医者に連れていくわけにもいかないだろう。とはいえ、このまま放っておくと絶対に治療しないだろうな。
やれやれ、仕方ない。事務所に連れて帰ることにするか。あそこなら、救急箱もあるからな。
「怪我の手当しなきゃならないだろ? 来いよ」
考えをまとめて、はるかに言ってから俺が歩き出すと、はるかは自転車をこいで、さっさと俺を追い越していった。すれ違いざまに言う。
「先に行ってるよ」
慌てて叫ぶ俺。
「おいっ、待てよ、はるかっ! お前、場所知らないだろうがっ!」
「え?」
キィッ、とブレーキを鳴らして、はるかは自転車を止めた。そして振り返る。
「冬弥の家なら知ってるけど?」
「だぁ〜。俺はれっきとした社会人なんだから、今は働いてる時間なんだよっ!」
「あ、そうなんだ」
「そうなんだ、じゃないっ! いいから、こっちに来いっ」
俺はすたすたと歩き出した。はるかは自転車を降りて、その自転車を押しながら俺の後に付いてくる。
「で、どこに行くの?」
「事務所だ。観月法律相談所」
「……なにか相談に行くの?」
「誰が?」
「冬弥」
「違うっ! 俺はそこで働いてるのっ!」
そう言ってから、はるかにはちゃんと教えてなかったことを思い出した。もっとも、はるかのことだ。教えてもすぐに忘れてたに違いない。
「そうなんだ」
「そうなのっ」
そんなやりとりを交わしながら、俺達は道を歩いていった。
はるかは自転車なんだから、買い物袋くらい乗せてもらえばよかったと気が付いたのは、事務所のあるビルに着いたときだった。
俺は、“観月法律相談所”の看板がかかっているドアを開けた。
「ただいま〜」
「遅いわ……よ」
怒鳴り駆けたマナちゃんが、俺の後ろにいるはるかに気づいた。眉を潜めながら俺に尋ねる。
「クライアント?」
「いや、俺の幼なじみ」
「うん、冬弥の幼なじみ」
後ろではるかがうなずいた。
「藤井さん。あのね、ここは弁護士の事務所であってね……」
「いや、こいつが怪我してるんだよ。救急箱出してくれる?」
「えっ? そ、それを早く言いなさいよっ。あ、ごめんなさい。そこに座って待っててね」
はるかに来客用のソファを指してみせると、マナちゃんは事務机の奥から救急箱を取り出した。
「これで、よしと」
包帯を巻くと、マナちゃんははるかに訊ねた。
「きつくないかな?」
「ん〜」
はるかは、二、三回腕を振ってみてから、微笑んだ。
「大丈夫。ありがと」
「どういたしまして」
「それじゃ、帰る」
そう言って、はるかは立ち上がった。
「えっ? もう……」
「藤井さんっ」
思わず引き留めかけた俺に、マナちゃんが言った。
「お仕事、しましょうね〜。書類整理が随分溜まってるのよぉ」
「……マナちゃん、頼むから、誰か雇おうよ〜」
俺は額を押さえた。
「あのね、人件費だって安くはないのよ」
「そう言わず。この通り」
手を合わせる俺に、マナちゃんは言った。
「はい、首にされたくなかったら、この書類お願いね」
「……とほほ……」
俺は振り返った。
「そんなわけだから、今日はすまん」
「いいよ。じゃ、またね」
はるかはそのままふらっと事務所から出ていった。
何となく、閉まったドアを見ていた俺に、マナちゃんの声が飛ぶ。
「藤井さんっ!」
「はいっ、仕事しますっ!」
「よろしい」
……とほほ〜。
カランカラン
そんなわけで、その日の仕事を終わらせて、俺とマナちゃんが『エコーズ』のドアをくぐったのは、夜の10時過ぎだった。
「ふぅ。マナちゃん、これってどう見ても超過勤務だよ。特別手当はないの?」
「あら、一緒にご飯食べてあげてるじゃない」
……それが特別手当か?
思わずじっとマナちゃんを見ていると、マナちゃんは何を誤解したのかぽっと赤くなった。
「なによなによっ?」
「な、なんでもないよ」
「フンだ」
ぷいっとそっぽを向いて、マナちゃんはカウンター席に座った。俺は苦笑しながら隣に座ると、マスターに声をかけようとした。
カランカラン
そのとき、不意にドアが開いて、女の人が飛び込んできた。
「あっ! 藤井くんに観月さん、ここにいたのね。よかった……」
「美咲さん?」
ドアに掴まったまま、はあはあと荒い息を付いていたのは、美咲さん――俺や由綺の一つ上の先輩で、今は俺達の通っていた悠凪大学の図書館の司書をしている澤倉美咲さんだった。俺よりも早くマナちゃんが駆け寄る。
「美咲先輩、どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
「え、ええ、ありがとう」
そう言いながらも、多分ここまで全力疾走してきたせいか、美咲さんはすっかり息が上がっているようだった。まぁ、もともと運動なんてしない人だから、仕方ないよな。
俺はマスターに水をもらって、美咲さんのところまで歩み寄った。
「大丈夫ですか? はい、水です」
「あ、ありがと」
美咲さんは、ごくごくとコップの水を飲み干すと、俺に言った。
「はるかちゃんが大変なの」
「はるかが?」
言うまでもなく、美咲さんもはるかのことはよく知っている。
「だから、観月さんを捜してたの。電話かけてもいなかったから、もしかしたら、ここかなって思って……」
「ならここに電話かければあいたっ!」
言いかけた俺の臑を蹴飛ばして、マナちゃんは訊ねた。
「はるかちゃんって、誰ですか?」
ぴょんぴょん飛び跳ねてる俺をちらっと見てから、美咲さんは答えた。
「私や冬弥くんのお友達よ。河島はるかさんっていうの」
「もしかして、藤井さん?」
「そ、そうだよ、今日来たのがはるかだ」
「え?」
今度は美咲さんが目を丸くする。
「今日逢ったの? いつ?」
「昼過ぎだったかな。事務所近くのコンビニから出てきたときに、はるかが自転車でこけてたんですよ。怪我してたんで、事務所まで連れていって手当してやったんでてーーーっ」
「手当したのはあたしよっ!」
再度俺の臑を蹴飛ばしてから、マナちゃんは美咲さんに向き直る。
「それで、その河島さんがどうしたんですか? 私を捜してたって事は、もしかして……」
「ええ。警察に連れて行かれたの。それも……」
美咲さんは、一つ息を付くと、視線を落とした。
「殺人の現行犯で……」
「なんだってぇ!?」
俺は思わず声を上げていた。
To be continued...

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