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White Album Short Story #6
なぜ君と出逢えたの

 スタジオの壁際に置かれた折り畳み椅子に座って、英二と由綺は固い表情で、部屋の中央で歌っている娘を見ていた。
 英二は、微かにため息をついた。
「これも、ダメだな」
「……」
 無言で俯く由綺をちらっと見てから、彼は大声で言った。
「もういいよ。ご苦労さん」
 え? という表情で、娘はこちらを見た。だが、二人の表情で何かを悟ったらしく、肩を落としてスタジオから出ていった。
 英二は、手にしていたクリップボードを見て、言った。
「今日の候補者はこれで終わりだ。少し休憩にしよう」
「……はい」
 由綺は、さっきの娘よりもさらに肩を落として、スタジオから廊下に出るドアをくぐって出ていった。それと入れ替わるように、理奈が入ってくると、兄に気遣わしげな声をかけた。
「兄さん……」
 ダムッ
 英二は、防音壁を拳で叩いた。
「駄目なんだ、あれじゃ! 俺が求めているものじゃない!」
「……」
 理奈は、兄の姿にかける言葉を無くした。ごくたまにしか見せない、芸術家としての兄の姿がそこにあった。
 不意に我に返って、英二は理奈に言った。
「すまん、理奈。一人にしてくれないか?」
「……わかったわ。外にいるから……」
 理奈は、そう言い残すと、防音になっている厚いドアをくぐり抜けて、外に出た。そして左右を見たが、先に出てきたはずの由綺の姿は、そこにはなかった。
 軽くため息をつくと、彼女はドアによりかかって、心の中で呟いた。
(兄さん……。このままじゃ、曲より前に、由綺が潰れるわよ……)

 今年も、音楽祭まで、残り1週間を切ろうとしていた。
 音楽祭。それはTV局と大手レコード会社、ミュージックショップその他の提携によって年に一度だけ開催される、現在活躍中の歌手の為のコンサート企画である。
 昨年中に活躍したアイドル歌手のうちの数人が、厳正な審査によってエントリーされ、ライブステージ方式でそのパフォーマンスを競う。
 最優秀賞、優秀賞、特別賞などが用意されているが、中でも最優秀賞に輝いたアイドルには、提携してるレコード会社に、自分のアルバムのプレミアムプレスが約束される。つまり、その年最高の栄誉を手に入れると同時に、その年最高の歌声としてCDアルバムを出してもらえるのだ。
 この企画にエントリーされるのは常に、将来ある若手アイドルだけだ。その年にエントリーされても、もう一年間、認められるだけの活躍を見せなければ連続でのエントリーは難しいからだ。
 そして、その中からたった一人が最優秀賞を手に入れる。それはつまり、アイドル歌手の頂点を手にすることに等しい……。
 今年の音楽祭の焦点は、たった一つ。
 去年の最優秀賞歌手、緒方理奈が王座を守るか、それとも惜しくも次点、優秀賞となった森川由綺が去年の雪辱を晴らすことができるか。
 はっきり言って、二人以外の出場者は、最初から圏外と見られていた。
 この年の歌謡界は、ナガオカがアメリカとヨーロッパで長期レコーディングを行っていたために新曲を出さなかった、ということもあって、事実上二人の独擅場と言ってもいい状態だった。
 そして、この二人の戦いは、この音楽祭で一つの決着がつく。当人達を含め、誰もがそう確信していた。
 その音楽祭に向け、英二は二人に新曲を書いていた。
 どちらの曲も、完成度は素晴らしかった。いや、素晴らしすぎた。
 普通の歌手では歌いこなせないほど……。
 しかし、理奈も由綺も、凡庸な歌手ではなかった。厳しいレッスンを乗りこえ、今やその新曲を完全に自分のものにしていた。
 だが……。
「……ふぅ」
 『エコーズ』のカウンターの中で皿を洗っていた冬弥は、全ての皿が綺麗になったのを確認してから、一息ついて顔を上げた。
 ちらっと時計を見ると、そろそろ夜の11時を過ぎようとしている。
 冬弥は振り返った。
「マスター、そろそろ閉めますか?」
「……」
 黙って店内に流れるクラシックに耳を傾けていたマスター、フランク長瀬は、冬弥の声に顔を上げ、無言でうなずいた。
 寡黙なマスターは、必要が無いときはしゃべろうとしない。ここのバイトが長い冬弥は、マスターの甥である彰ほどではないが、その意を汲み取れるようになっていた。
「わかりました」
 冬弥はうなずき返すと、店を閉める準備に入った。まずはドアにかかっている『営業中』の札をひっくり返そうと、外に出る。
 カランカラン
 ドアにかかっているカウベルが、陽気な音を立てた。
 外に出ると、冷気が突き刺さってくる。
(やっぱり、2月だけあって寒いなぁ)
 心の中でそう呟きながら、札に手を掛けて、冬弥は人の気配を感じた。
 そちらに視線を向ける。
「……由綺?」
「冬弥……くん……」
 ドアの脇にうずくまっていた少女が、頼りなげな声で呟いた。それから、ゆっくりと顔を上げる。
 間違いなく、それは由綺だった。冬弥は慌てて彼女の前に屈み込んだ。
「どうしたんだよ、いったい?」
「……」
 無言でまた俯く由綺。その肩に手を掛けて、冬弥は伝わってきた冷たさに驚く。
「とにかく、入りなよ。ほら、立てるか?」
「……う、うん」
 由綺は冬弥に促されるままに立ち上がった。冬弥は、『営業中』の札を『準備中』にひっくり返して、ドアを閉めた。
 カランカラン
 やっぱり、カウベルは陽気な音を立てた。
「ほら、ホットココア」
 カウンター席にちょこんと座った由綺の前に、冬弥は湯気の立っているマグカップをおいた。そして、その隣に腰掛ける。
「どうしたの?」
「うん……」
 マグカップを両手で包み込むようにしながら、由綺は俯いたままだった。そして、呟く。
「……ごめんね、冬弥くん……」
「え?」
「私、約束……守れないかもしれない……」
 ポツン
 ココアの上に、雫が一滴落ちた。
 冬弥に由綺がした約束。それは、今度の音楽祭で、最優秀賞を取ること。
 冬弥は、由綺の手に自分の手を重ねた。そして、優しく訊ねた。
「練習……辛いの?」
「……ううん」
 かぶりを振る由綺。
 冬弥は、そっとその肩を抱き寄せた。
(そうだよな。由綺は自分でなんとか出来ることなら、がんばっちまうからな……。少なくとも、俺にそのまま弱味を見せたりすることはないんだよな……。そういうところが俺から見ると、なんていうか、建気なんだけど……)
「ごめんね……、ごめんね冬弥くん……」
 そうくり返しながら、由綺は冬弥の胸に自分の顔を押しつけて、肩を震わせながら、嗚咽を漏らしていた。
(俺には……何もできやしないんだ……。謝るのは俺の方だ……)
 冬弥には判っていた。今、由綺の抱えている悩みは、自分に解決できるものじゃないだろう、ということ。
 それだけに、こうして由綺を抱きしめることしかできない自分が、冬弥は歯痒かった。
 翌日も、冬弥は『エコーズ』のバイトをしていた。
 あいかわらず客足はほとんど無く、気怠く時間が過ぎていく、そんな午後。
 冬弥はカウンターに頬杖をついて、ぼーっと由綺の事を考えていた。
 あの時見せた由綺の涙。
(俺は、何もできなかった……)
 結局あの後、弥生が由綺を迎えに来るまで、冬弥は由綺を抱きしめることしかできなかった。
 去り際に、由綺は笑顔を見せて冬弥に謝ったが、その笑顔の痛々しさが、さらに冬弥に、自分を責め立てさせていた。
(結局、俺は由綺の力には、なれないのか……)
 カランカラン
 不意に鳴ったカウベルの音で、冬弥は現実に引き戻された。慌てて顔を上げる。
「いらっしゃいませ。あ……」
「こんにちわ、藤井くん」
 入ってきた女性は、にこっと微笑んだ。
「美咲さん……」
「お邪魔だった?」
 冬弥の顔色がすぐれないのにめざとく気付いたのか、美咲は心配そうな顔になった。冬弥は慌てて手を振った。
「いえ、とんでもない。さ、どうぞどうぞ」
 カウンター席に座った美咲に、冬弥は聞かれるままに、昨日の由綺の様子がおかしかったことを話していた。
「俺、何も出来なくて……。こんなので、由綺を支えてやる、なんて烏滸がましいこと、言えませんよね……」
 ため息をつく冬弥を、優しい目で見ながら、美咲は手を組んだ。
「藤井くん。今度由綺ちゃんに会ったら、教えてあげて欲しい言葉があるんだけど」
「え? 言葉、ですか?」
「“que sera sera”」
「え? ケセ……なに?」
 耳慣れない発音に戸惑う冬弥に、美咲はもう一度くり返した。
「ケセラセラ。スペイン語で、『なるようになる』っていう意味よ」
「なるようになる……」
 冬弥は呟いた。
 美咲は、自分の前に置かれたコーヒーに、ミルクを入れてかき混ぜた。
「藤井くんにも判らないような由綺ちゃんの悩みを、私が判るわけないけど……。でも、由綺ちゃんは一生懸命やってるのよね? それなら、なんとかなるんじゃないかしら? 要するに、気の持ちようよ。下手な考え、休むに似たり。しょせんこの世はケセラセラ、よ」
 そう言って、美咲はにこっと笑った。
「しょせんこの世はケセラセラ……。なるほど」
 冬弥は腕を組んでうなずいた。それから、頭を下げる。
「ありがとうございました、美咲さん」
「そんな、お礼を言われるようなこと、何も言ってないのに……」
 美咲は、例によって照れまくって、何も言えなくなるのだった。
 カランカラン
 その夜もそろそろ閉めようか、という頃になって、『エコーズ』の入り口のカウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 皿を洗っていた冬弥は、顔を上げて微笑んだ。
「こんばんわ、冬弥くん」
 由綺が入ってきた。昨日のあの様子が嘘のように、にこにこしながら。
 だが、冬弥には、その笑顔が、無理をして作った笑顔なのが感じ取れた。
 由綺の後ろから、影のように弥生が入ってくる。
「夕御飯?」
 冬弥はカウンターから出ると、椅子を回してあげながら訊ねた。その席に滑り込みながら、うなずく由綺。
「うん。冬弥くん、今日のお勧めは?」
「そうだね。ジャーマンポテトサンドが結構いけるかも」
「それじゃ、それにするね。弥生さんは?」
「フレンチトーストとコーヒーのセットをお願いします」
 相変わらずのクールさで返す弥生。
「判りました。マスター」
 冬弥の声に、カウンターの奥のマスターは無言でうなずき、作業を始めた。
 冬弥は訊ねた。
「がんばってる?」
「うん。……だけど……」
 由綺は、心なしか肩を落とした。
 隣の弥生が口を挟む。
「由綺さん」
「うん、わかってるよ。ごめんね、冬弥くん。これ以上は……」
「守秘義務ね。了解了解」
 冬弥は笑ってうなずいた。
「……」
 由綺は黙って俯いた。そんな由綺の姿を見て、冬弥は胸の痛みを感じた。
(俺、やっぱり……)
 その時、不意に冬弥の耳に、美咲の声が聞こえた気がした。

『下手な考え、休むに似たり。しょせんこの世はケセラセラ、よ』

(美咲さん……、そうだよな。考える事なんて、ないんだよな)
 冬弥は、由綺を後ろからそっと抱きしめた。
「きゃ! と、冬弥くん……?」
 由綺はかぁっと赤くなり、横に座っている弥生の眉が吊り上がった。だが、冬弥は弥生を無視して、由綺に囁いた。
「美咲さんから、由綺に伝えて欲しいって言われたんだ」
「美咲さんから?」
 冬弥はうなずいて、美咲の言葉を伝えた。そして、つけ加える。
「由綺は一生懸命やってるんだろ? それなら、あとはなるようになるって」
「なるようになる……」
 ちょうど昼間に、冬弥が美咲に言われたときにそうしたように、由綺は冬弥の言葉をくり返した。そして、微かにうなずく。
「うん、そうだね。……そうだよね!」
 冬弥は、そのおでこをかるく指で弾いた。
「だからって、手を抜くなよ。人事を尽くして、天命を待つ、だからな」
「うん。私、がんばるね」
 由綺は笑顔で答えた。その笑顔は、由綺のいつもの笑顔に戻っていた。
「おっと、だからって頑張りすぎて倒れたりするなよ」
 笑って冬弥は、由綺の前にサンドイッチの乗った皿を置いた。それから、弥生の前にはフレンチトーストを置く。
「弥生さんも、由綺のこと、よろしくお願いします」
「言われるまでもありません」
 素っ気なく答えた弥生に、冬弥は苦笑した。
「それなら、いいですよ」
 そして……音楽祭の当日がやってきた。
 開演まで1時間を切った頃。リハーサルも終わり、歌い手達はそれぞれの控え室に戻っていた。
 由綺は大きな姿見に映っている自分を、じっと見つめていた。
(……冬弥くん。私、ここまで来たよ……)
 と、その鏡に、青い衣装に身を包んだ理奈が映った。
 同じプロダクションの二人は、控え室も同室だった。弥生は随分これには抵抗したのだが、英二が「まあ、いいんじゃないの」といつもの調子で言ったために、そうなってしまったのだ。
「あら、由綺。調子良さそうね」
「理奈ちゃん……」
 由綺は振り返った。
 理奈は、余裕を思わせる笑みを浮かべていた。
「でも、最優秀賞は私がもらうわね」
「うん」
 思わずうなずいてから、由綺は慌てて首を振った。
「ううん、そうじゃなくて、私、えっと、えっと……がんばるから」
 理奈は苦笑した。
「でも、お互いの手の内が判っちゃってると、やりにくいけどねぇ」
「……うん、そうだね」
 由綺も肯いた。
 緒方理奈と森川由綺のコラボレーションアルバム、『WHITE ALBUM』は、レコード売り上げ数が空前と呼ばれるヒットとなった。そこで、二人の所属している緒方プロダクションの社長でもある緒方英二は、今年も同じ企画を考え、二人は年明けから同じスタジオでレッスンにはげんでいたのだ。
 自然、この音楽祭向けの練習も、ライバルの目の前でやることになってしまうわけだ。
「でも、負けないからね」
 そう言いながらも、理奈は心の中で呟いていた。
(でも、このままじゃ、今年も私の勝ちね……)
 ザワザワザワ
 音楽祭の会場となるホールは、観客達のざわめきに包まれていた。観客……といっても、いわゆる“業界人”ばかりである。音楽祭に、一般の観客の立ち入りは許されていない……。
 その代わり、会場の至る所に設置されたTVカメラに映し出された映像は、生放送として全国に放送される。
 開演まで、あと十数分を残すのみ。
 冬弥は、テレビの前で、じっとその時を待っていた。
(由綺……、がんばれよ。大丈夫、なるようになるさ)
 心の中で呟きながら。
 トントン
 ノックの音がして、英二が由綺達の控え室に入ってきた。
 由綺が立ち上がる。
「緒方さん……」
 英二は難しい顔をしていた。
「由綺ちゃん、すまん」
「……そうですか……」
 がっかりした顔で、座り込む由綺。
 理奈が訊ねる。
「やっぱり、見つからなかったのね?」
「ああ」
 珍しく、悔しそうな顔で英二はその場にあった椅子に座り込んだ。
 由綺の新曲には、途中でアカペラのコーラスが入る。ファルセットによる高度なテクニックが要求されるコーラスだ。
 由綺の声を引き立たせ、なおかつ存在感を醸し出せるコーラス。それがなくては、由綺の曲は完成しないのだ。
 そのコーラスを任せられる人材が見つからなかったこと。それが、由綺の曲の最大の弱点であり、由綺がひどく落ち込んだ原因でもある。
「仕方ない。本番はソロで行こう」
「……はい」
 由綺は俯いて、小さく答えた。
 ソロ、それは由綺の曲のコーラス部分を、由綺のハミングに置き換えて編曲した別バージョンである。元々コーラスがあっての曲であるため、英二自身が納得出来ない出来になっているのだが、この場合はやむを得なかった。
 理奈が思わず口を挟む。
「兄さん、それじゃ……」
「……」
 英二の無言が、理奈の言葉を肯定していた。
 ソロでは、理奈には勝てない。
「……私、ちょっとお手洗いに行ってきます」
 由綺は立ち上がった。そのまま、控え室から出ていく。
 カチャ
 ドアが閉まる音を聞いてから、理奈は英二に声を掛けた。
「兄さん、話があるんだけど……」
「ん?」
 英二は顔を上げた。
 その前に、理奈は片手を出した。
「見せて」
「え?」
「スコア。あるんでしょ?」
 英二は、思わず理奈の顔を見た。
「理奈、まさかお前……」
 理奈は真面目な顔で言った。
「由綺とは、対等な立場で戦いたいの。それだけよ」
 ジャーッ
 洗面所。
 由綺は、蛇口から水を出しっぱなしにして、俯いていた。
 その瞳から、涙が流れ落ちていた。
(悔しいよ、冬弥くん……)
 由綺は、泣いていた。
 彼女にも、判っていた。
 あのコーラスが使えない由綺の新曲は、理奈の新曲には太刀打ちできないだろう事が。
 不完全な曲で、緒方理奈を越えることは出来ない。それが、厳然たる事実だった。
 由綺は、この音楽祭で、最初から負ける戦いを強いられることになる。
 一度は冬弥の、そして美咲の励ましで立ち直っていた由綺だったが、ここにきてその事実を突き付けられて、平静ではいられなくなっていた。
(ごめんね……冬弥くん。約束、守れなくて……)
 例え優勝できなくても、冬弥がそれを責めるとは思えない。むしろ、よく頑張ったと誉めてくれるだろう。
 それだけに、由綺はせつなかった。
 自分が全力を出しても、それだけでは勝利できないことに。
 と。
「ケ・セラ・セラ」
 不意に、声がした。由綺は振り返った。
「……弥生さん……」
 弥生がそこにいた。
「藤井さんがおっしゃってました。なるようになる、と」
「でも……」
「藤井さんが、待ってるのではないですか?」
「え……」
 弥生は、おそらく由綺にしか見せない、優しい笑みを浮かべた。そして、黙ってうなずいた。
(……冬弥くん。そうだよ、冬弥くんが……待ってるんだもの)
 由綺もうなずき返すと、蛇口を閉めた。
 キュッ
 そして、ハンカチで顔を拭くと、にこっと微笑んだ。
「私、歌うね! 精いっぱい、歌うね!!」
 ステージで歌う順番は、基本的には下馬評の順番である。つまり、後になればなるほど、実力者の登場となる。
 そして、最後から2番目に、由綺の番が回ってきた。
 前に歌った娘が、一礼して舞台の左袖に引っ込んでいく。
 その反対側、舞台の右袖から、由綺はステージを一望した。
 コーラスの娘がスタンバイするはずのボックスには、誰もいない。スタンドマイクも片づけられ、この場所を使う者は誰もいないことを告げているようだ。
 司会者の声が聞こえてくる。
「さて、本年の音楽祭のエントリー歌手も、いよいよ大詰めとなって参りました。次は、去年惜しくも優勝を逃し、今年こそと燃えている森川由綺さん。曲は、『なぜ君と出逢えたの』です。それでは、どうぞ!」
 弥生が、由綺の背をポンと叩いた。由綺は振り返って微笑んだ。
「行ってきます」
 冬弥は、ステージの中央に進み出る由綺を、ブラウン管越しにじっと見つめていた。
 客席からは、厳しい評価を下す評論家達が。そして、ブラウン管を通して、何万人というファンが、彼女を目で追っていた。
 でも、冬弥は、由綺だけを見つめていた。
(俺は、由綺を、由綺だけを見てれば、それでいいんだ。な、由綺……)
 もちろん、冬弥は舞台裏のことはまったく知る由もない。由綺が最初から負ける戦いをしようとしていることなど、わかるはずもない。
 だが、知っていたとしても、冬弥は信じていただろう。由綺の勝利を。
(だって、由綺は……、俺の恋人なんだぜ!)
 静かにイントロが流れはじめ、そして、由綺の歌声が、会場を包み込んでいった。
 由綺は、無心になって歌っていた。
 自分の思いを、願いを、憧れを、すべて歌にして。
 そして、1番を歌い、2番を歌い、問題の間奏に入る。
(……えっ!?)
 間奏が違う。
 通常のコーラスが入る間奏と、ソロの間奏は、由綺が勘違いするのを防ぐ意味もあって、かなり違うものになっている。通常のものがストリング主体のシンフォニックなのに較べて、ソロはドラムを主体としたアップテンポな入り方をする。
 そして、今の間奏の入り方は、ソロではなく、通常のものだった。
 思わず、由綺は振り返った。
 英二が、バックのミュージシャンに楽譜を間違って渡したと思ったのだ。
(!)
 キーボードを演奏していたのは、よく知ってる顔だった。
 スポットライトが彼に当たっていれば、大騒ぎになること間違いなし。こういう公式の場で演奏するのは実に4年振りというのに、そのブランクを感じさせずに、英二はキーボードを演奏していた。
(緒方さん!? で、でもコーラスの人はいないのに、どうして……)
 由綺はうろたえて、コーラスボックスを見た。そして、さらに驚く。
 そこにも、よく知っている顔があったのだ。
(理奈ちゃん!?)
 インカムを付けた理奈は、由綺の視線に気付いて、ぴっと親指を立てた。
 由綺は微かにうなずき、前に向き直った。
 その瞬間、由綺には見えた。
 見えるはずもない。ここにいるはずがない。だが、確かに、冬弥の笑顔が見えた。

『由綺は一生懸命やってるんだろ? それなら、あとはなるようになるって』

(冬弥くん!)
 由綺は、最上の笑顔を浮かべた。
 そして、ファルセットでのコーラスに入る。
 由綺のしっとりした声に、巧みに付かず離れずの理奈の声。
 後に評論家達は、この時のコーラスを「天使の囀り」と表現し、後に伝説となる。
 そのコーラス部分が終わり、由綺は最後のリフレインを綺麗に歌いきった。
 頭を下げる由綺を、満場の拍手が包み込んだ。
 続いて理奈が新曲を披露し、いよいよ結果発表の時がやってきた。
 ステージ上に並んだ歌い手達の間をスポットライトが走り抜け、ドラムロールが会場を満たす。
 観客達が固唾を飲む中、司会者が届けられた封筒にハサミを入れ、中身を取りだして広げると、マイクに向かって叫んだ。
「それでは、発表します! 今年度の最優秀賞は、……森川由綺の『なぜ君と出逢えたの』に決定しました!」
 次の瞬間、ファンファーレが鳴り響き、数十本のスポットライトが一斉に由綺の姿を捉えた。
 由綺は、一瞬信じられないという顔で、辺りを見回した。
 その背中を、理奈が軽く叩いた。
「由綺、おめでとう」
「理奈ちゃん……」
 由綺は振り返って、理奈を見つめた。
「私……」
「ほら、みんな待ってるよ。由綺の歌を」
 理奈は囁いた。由綺は振り返って、会場を埋めつくした人々に視線を向け、そして、うなずいた。
「……決定しました!」
 冬弥の家のテレビに移った司会者が叫んだとき、その部屋にはもう誰もいなかった。
 既に、冬弥は由綺が歌い終わったところで、家を出ていたからである。
 夜道を歩きながら、冬弥が考えていたのは、由綺にどういうお祝いの言葉を言うか、だった。
 音楽祭は、こうして終わりを告げた。
 結果から言えば、最優秀賞は森川由綺、そして次点である優秀賞は緒方理奈が受賞した。つまり、去年と同じく今年も緒方プロダクションが上位を独占したことになるわけだ。
 控え室は、大騒ぎになっていた。数え切れないほどの報道陣や関係者が押し寄せ、ごった返す。
 その大波がひと段落ついたころには、時計は翌日になろうとしていた。
「ふぅ。やっと落ちつけるわね」
 コーヒーの入った紙コップを片手に、理奈はため息を一つついた。
「あ、あの、理奈ちゃん……」
 その後ろから、由綺が声をかける。
「え?」
 振り向いた理奈に、由綺は頭を下げた。
「ごめんね、理奈ちゃん……」
「謝ることはないわよ」
 紙コップのコーヒーをまずそうに飲みながら、理奈は言った。
「言ったでしょ? あなたとは万全の体勢で戦いたいって。万全の体勢で戦って、負けたんだもの。今回に関しては、悔いは無いわ」
「でも……」
「ま、見てなさい。来年の音楽祭は、私が、王座を奪回してあげますからね」
 理奈は紙コップをぴっと突きつけた。
 その一言で、由綺の表情もほころんだ。
「いいけど……。でもだめかもしれないな……」
「え?」
「だって、私……。寿引退してるかもしれないし」
 はにかむように由綺は笑った。理奈は、苦笑した。
「そんなのあり?」
「ま、まだ、予定はないけど。……だめ、かな?」
 おそるおそる訊ねる由綺の肩を、理奈は軽く叩いた。
「藤井くんと相談しなさい」
「うん、そうだね」
 二人は顔を見合わせて、笑った。
 と。
 トントン
 ノックの音がして、英二が顔を出した。
「二人で何を密談してるんだい?」
「別に何でもないわよ。それより兄さん、そろそろ撤収するんでしょ?」
「そうだな。今年はマスコミがなかなか帰ってくれなくてさ」
 笑う英二。しかし、ここまで時間がかかったことの半分は英二のせいでもある。由綺のバックでキーボードを弾いていたのを目ざとく見つけられてしまい、すわカムバックか? と芸能記者達が色めき立ったためなのだから。
「由綺くんも、こんな時間まで、待たせてすまんな」
「いえ、そんな……」
 口ごもる由綺に、別の声がかかった。
「というわけで、俺が呼ばれたんだけど」
「え?」
 思わず立ち上がる由綺。
「冬弥……くん?」
 扉の影から現れた冬弥は、頭を掻いた。
「や」
「こら、青年。打ち合わせ通りにやれよ」
 その耳元で、英二が悪戯っぽく囁いた。冬弥はうなずくと、由綺を手招きした。
「え? なぁに?」
 駆け寄った由綺を、冬弥は抱きしめた。
「きゃ!」
「おめでとう、由綺」
 静かに告げる冬弥。
「あ……、うん……。ありがとう、冬弥くん……」
 由綺は、冬弥の背中に腕を回した。
 英二は、抱き合う二人のその脇をすり抜けるようにして控え室に入りながら、冬弥に言う。
「それじゃ、青年。由綺ちゃんは任せたよ」
「はい」
「え?」
 冬弥と由綺の声が、綺麗に重なった。
 英二は、部屋の隅にいた弥生に尋ねた。
「かまわないよな、弥生くん」
「……はい」
 思いっ切り何か言いたげではあったが、弥生はうなずいた。それを確認してから、英二はどこか出したのか、帽子を由綺にかぶせて、二人の背中を押した。
「ほらほら、さっさと行った」
 冬弥はうなずいた。
「はい。由綺、行こう!」
「うん。それじゃ、おやすみなさい」
 ペコリと頭を下げて、冬弥と由綺は手を繋いで廊下を走っていった。
 それを見送って、理奈は頭の後ろで腕を組んだ。
「結局、あれなんでしょ? 私と由綺の差って」
「そういうことだな」
 英二はうなずいた。理奈はにこっと笑った。
「“ステキな恋をしてますか”……かぁ。よし、私も……」
「お、おい、誰かいるのか?」
 ちょっと慌てたように訊ねる英二。理奈は肩をすくめる。
「さぁ、御想像にお任せしますわ、お兄さま」
「り、理奈? そんな交際は、俺は認めないぞ!」
 英二の焦った大声が、廊下まで流れ出したために、翌日のスポーツ紙に「緒方理奈に恋人か?」という記事が載る原因になったのだが、それは余談である。
 とっくに電車もバスも終わった時間。
 冬弥はタクシーを止めようとしたのだが、由綺は歩きたいと言ったので、二人は並んで歩道を歩いていた。
「ね、冬弥くん」
「なんだい?」
「私ね、今日優勝できたのは、理奈ちゃんのおかげなの」
「え?」
 由綺は、話しはじめた。コーラスがいなかったこと。そのために負けるだろうと思っていたこと。そして本番で、理奈がそのコーラスをしてくれたこと。
 冬弥は聞き返した。
「理奈ちゃんって、そのコーラスの練習してたの?」
 由綺は首を振った。
「ううん。私が練習しているのを横で聞いてたことはあったけど……」
「それじゃ、ぶっつけ本番で合わせちゃったのか……。さすが、天才って言われるだけのことはあるなぁ」
 冬弥はうーんと腕を組んで呻った。
「でも、俺も聞いてたけど、コーラスを理奈ちゃんがやってたなんて気付かなかったなぁ……」
「だけど……。理奈ちゃんの曲ってその次だったでしょう? だから、あのコーラスのせいで、調子を崩したのかもって思って……。それに、私の歌、理奈ちゃんがいなかったら、あんなにすごい出来にはならなかったもの……」
 俯く由綺。
 冬弥は、いきなり由綺の頭を乱暴にぐしゃっとかき回した。
「きゃぁ!」
「悩むな、悩むな。理奈ちゃんのコーラスで由綺の歌は完成したんだろ?」
「う、うん」
 こくんとうなずく由綺。
「それに、理奈ちゃんの歌は未完成に聞こえた?」
「ううん。すごく綺麗だったよ」
 今度は、由綺はかぶりを振った。
「……俺も、そう思ったよ」
 冬弥は、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「正直言って、俺は素人だからそんなのはよくわからないんだけどさ、理奈ちゃんの歌も、由綺の歌も、どっちもすごかったよ。でもさ、俺は、その上で由綺の方が上だって思ったな」
「でも……」
 まだ、何か言いたげな由綺の頭を、もう一度かき回して、冬弥は笑った。
「自信持てよ、森川由綺!」
「え?」
「どんな形にせよ、あの緒方理奈を破ったんだぞ。それってすごいじゃないか! それだけの力を由綺は持ってるってことだろ!」
 最後は笑って言った冬弥に、由綺ははにかんだ。
「うん。……冬弥くんがそう言ってくれるなら、私もそう思うことにするね」
「そうしなよ」
 冬弥は、由綺の頭をもう一度軽くかき回した。
「きゃ。もう、冬弥くん、やめてよぉ〜。あ、そうだ」
 由綺がいきなり立ち止まったので、冬弥はあやうくつんのめりそうになった。
「ど、どうしたの?」
「冬弥くん、聞いてくれる? 私の歌……」
 由綺は、一歩前に出ると、手を後ろに回して振り返った。そして微笑む。
 冬弥も微笑んで、拍手した。
 冬の路上で、たった一人の観客を迎えて、コンサートが始まった。
 由綺の透き通るような歌声が、星の輝く冬の夜空に吸い込まれていった……。

 ♪この世界のどこで 歌声は生まれるの
  この広い宇宙で なぜ君と出逢えたの……

劇中歌:なぜ君と出逢えたの
 作詞:片岡かれん
 作曲:斉藤ひろし

《Das Ende》   

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