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Lost Wing

 ピンポーン
 チャイムの音からしばらくおいて、乃絵美が顔を出した。
「あっ、菜織ちゃん。おはよう」
「おはよ、乃絵美。正樹はまだ寝てる?」
 冗談半分だったけど、乃絵美の答えは私の意表を突いていた。
「ううん。もうとっくに出かけたよ」
「えっ?」
「今日も部活じゃなかったの?」
 不思議そうに私に訊ねる乃絵美。
「そうだけど、おかしいわねぇ。私より先に出てるなんて……」
 私も首をひねった。
「ま、いいわ。それじゃ学校に行ってみるわね」
「うん。あ、お昼はどうするの?」
「多分、食べに戻ると思うから……」
 私がそう言うと、乃絵美はくすっと笑った。
「それじゃ、サンドイッチいっぱい作って待ってるね」
「楽しみにしてるわよ。じゃ、乃絵美のお兄ちゃんの面倒、見てきますか」
 私は駆け出した。

 St.エルシア学園の門をくぐって、グラウンドに出たところで、私の足は止まった。
 グラウンドには、陸上部の面々が散って、それぞれの練習に励んでいる。
 正樹の姿は、すぐに見つけることが出来た。私の方には背中を向けて、スタートダッシュの練習をしている。
 そして、それをグラウンドのそとからじっと見つめている女の子が一人。
 ……真奈美。
 私は、「どうして」という思いと、「やっぱり」という思いの入り交じった、複雑な感情をどうすることも出来ず、校門のところに立ち尽くしていた。
 と。
「あれぇ? どしたの、菜織ぃ?」
 後ろから底抜けに明るい声がして、私は現実に引き戻された。
 振り返ると、ミャーコがいつもの調子で笑っていた。
「なんだ、ミャーコじゃない。脅かさないでよ」
「ふにゃ、別に脅かしたつもりはなかったんだけど……。あれっ? あれあれあれっ? あれって真奈美ちゃん?」
 ミャーコも真奈美に気付いて、声を上げる。あ、そうか。まだ、真奈美が帰ってきた事って私達しか知らなかったんだ。
「ええ、昨日ミャンマーから帰ってきたんだって」
「うっそぉ。くぅーーっっ、このEBCきっての敏腕記者のミャーコちゃんでさえ掴めなかったとはぁ、一生の不覚ぅ」
「なにもそこまで……」
「こうしちゃいらんないわ。鳴瀬真奈美帰国最初のインタビューは、このミャーコちゃんが取らなくちゃ」
「他の誰も取らないわよ」
「いいから、ほら菜織ちゃんも行こうよっ」
 そう言いながら、ミャーコは私の腕を引っ張った。
「あっ、こら、私は保健室へ行くのっ」
「いいからいいからぁ。やっほーっ! 真奈美ちゃぁん!」
 ミャーコが大声で叫びながら私を引きずっていく様は、さぞかし見物だったに違いない。
 ……はぁ。
「あっ、ミャーコちゃん、菜織ちゃん。おはよう」
 真奈美が、明るく声をかけてきた。
「おっはよぉ〜」
「う、うん。おはよ」
「それにしても暑いねぇ〜。ミャンマーより暑いんじゃないかって気がするわ」
 真奈美が、太陽の方を見上げて言う。
 私は、そんな真奈美からそっと視線を逸らして……。
 あれ?
 校庭の木の陰から、じっとこっちを見てる女の子……。
 確か……。そうよ、チャムナじゃない。
 あら? でも、そういえばチャムナってミャンマーに帰ったんじゃ……。
「ね、ねぇ。あれ……」
「えっ? 何、菜織?」
 ミャーコが振り返る。私は彼女の方を指さそうとして、彼女がいないのに気付く。
「あ、あれ?」
「なんなの、菜織?」
「あ、ううん。さっきチャムナがいたような気がしたんだけど……。気のせいよね。あの娘、とっくにミャンマーに帰ったんだもんね。あは、あはは……」
 笑いが途中で止まったのは、ミャーコと正樹が、怪訝そうな顔で私を見てたから。
「何言ってんだ、菜織?」
「そうだよ。チャムナちゃん、ずっとこっちにいるじゃない」
 え? でも、確かに真奈美がミャンマーに行ったすぐ後に……。
 あれ?
 そう言われてみると、確かにこっちにいたような……。でも、あれ?
 混乱している私の頭に、正樹が笑って手を乗せる。
「なんだ、お前暑さのせいでチャムナのこと忘れたのか?」
「ば、ばかっ」
「さぁてと、真奈美ちゃん、インタビューの続き、続きっと」
 ミャーコが真奈美にまとわりついてあれこれ質問している。その間に、私は正樹に尋ねた。
「それにしても、今朝はどうしちゃったの? 迎えに行ったのに……」
「いや、別に……」
 ちらっと真奈美を見る正樹。……そんな、まさかよね?
「そう? あ、私、それじゃ保健委員の仕事あるから」
「あ、そうか? ま、ガンバレよ」
 ……止めてくれないんだ。
 私は、そのまま歩き出した。そして、昇降口でもう一度振り返る。
 ミャーコと真奈美、そして……あいつ。
 ……どうしたの、私は。
 一つ、こつんと頭を叩いて、私は靴を脱いだ。

 ……ふぅ。
 箒を動かす手が止まって、ため息。
 ……私らしくない。それは、判ってるけど……。

 真奈美が、ミャンマーから戻ってきた。
 素直に喜んであげたいのに……。
 素直に喜べない、自分がいる。
 理由は、判ってる。
 正樹……。
 あいつが走り始めた理由。
 私が見守るようになった理由。
 すべては、真奈美に収束していく。
 その真奈美が、帰ってきた。
 それは、今までの関係がリセットされてしまうことにつながるんじゃないか。そう恐れてる自分がいる。
 前回、真奈美が戻ってきたときは、そんなことはなかった。
 でも、今は違う。
 なぜって、私が気付いてしまったから。
 私自身の想いに……。

 正樹が、好き……。

「おい」
「ひょわぁっ!!」
 いきなり後ろから肩を叩かれて、私は20センチは飛び上がった。反射的に箒を振り回す。
 パシッ
「こらこら。いきなり箒で殴りかかる奴がいるか。参拝者だったらどうする?」
 箒を軽く片手で止めて、笑ってたのは、兄貴だった。
「兄さん……」
「普段ならとっくに掃除を終わらせてるのに、まだもたもたしてるみたいだから、心配して見に来てやったってのに」
 そう言うと、兄貴は私から箒を取り上げた。
「えっ?」
「あとは俺がやっとくから、お前は行って来いよ」
 そう言うと、さっさと境内を掃き始める兄貴。
 と、不意に振り返った。
「それとも、行かないのか?」
「……ありがと、兄貴」
 私は、そう言って駆け出した。そのまま、石段を駆け下りていく。

 『l'omelette』のドアを開けると、乃絵美がいたので聞いてみる。
「あ、乃絵美、正樹は?」
「お兄ちゃん? まだ帰ってきてないから、学校だと思うけど……。どうしたの、菜織ちゃん? お昼にも来なかったし……」
「ごめん。ちょっと色々と、ね。ありがと、乃絵美」
 きょとんとした顔の乃絵美を残して、ドアを閉める。そして学校に向かって駆け出す。

 はぁはぁはぁはぁ
 荒い息をつきながら、校庭を見回す。
 いた。
 トラックを走る正樹。
 そして、それを見ている真奈美。
 ……私は……。
 私は、私は、私は!
 気が付くと、真奈美の前に来ていた。
「あれ? どうしたの、菜織ちゃん?」
 真奈美は笑いかけてくる。
 あいつは、黙々とトラックを走ってる。私が来たことにも気付いてないみたい。
「真奈美……」
「え?」
 私は、ぐっと拳を握りしめた。
「正樹を、取らないで……」
「菜織……ちゃん……」
「私、正樹が好きなの。誰よりも好きなの。だから……」
 顔を上げて、叩き付けるように言う。
「私から、正樹を取ったりしないでっ!」
「……菜織ちゃん……」
「お願い……」
 私は、その場に膝を付いた。
「……だから……」
「やめて!」
 真奈美の叫び。
「菜織ちゃん、やめて」
 真奈美は、激しく首を振った。長い髪が左右に揺れる。
「……真奈美……」
「……ごめん……なさい、菜織ちゃん。でも、でもあたし、あたしも……」
 真奈美は、顔を上げた。
「あたしも、正樹くんが、好きなの……」
「……」
 私達は、しばし、じっと見つめ合っていた。
 ふと、視線を感じて、私は校舎の方を見た。
 2階の廊下の窓から、じっと私達を見つめる瞳。
 チャムナ……。
 私の視線に気付いたのか、チャムナはふっと窓から姿を消した。
「あれ? 菜織じゃねぇか。そんなところに座り込んで、どうしたんだ?」
 後ろから、正樹の声が聞こえた。私は慌てて立ち上がった。
「な、なんでもないわよ。転んだだけ」
「なんだよ、どんくさいな」
 私は、振り返って言い返した。
「ほっといてよ、ばかっ」
「あれ? お前、もしかして泣いてるのか?」
 言われて、私は頬が濡れているのに気付いた。慌てて服の袖で顔を拭う。
「な、なんでもないわよ。暑いから、そう、汗よ、汗。それより、今日の練習は?」
「ああ、最後にちょっと流してたところ。もう終わりだよ」
「そ? なら、帰りましょ」
「あ、すまん。これから、真奈美ちゃんと駅前のラーメン屋に寄っていくんだ」
 ズクッ
「真奈美……と?」
「なんなら、お前も来るか?」
「……いい。私は、ご飯、食べてきたから」
 私は、そう言って振り返った。
 じっと私達を見つめていた真奈美と視線が合った。
「菜織……ちゃん……」
「ごめん。私、今日は帰る」
 私は歩き出した。すれ違うとき、真奈美が何か言いかけたみたいだったけど、私はそれを無視して通り過ぎた。
 後ろで、正樹が真奈美に何か言ってるのが聞こえたけど、私はそのまま歩き出した。
 ホントは、走って逃げたかったけど、そうすると完全に正樹を取られちゃいそうな気がして……。
 わざとゆっくり歩くことだけが、その時の私に出来ることだった……。

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