……ポツ、ポツ
急に薄暗くなった空から、冷たいものが落ちてきました。
空になったお盆を頭の上に掲げて、空を見上げます。
「やだな、雨だなんて」
『l'omellette』を出るときは、あんなに晴れてたのに。
仕方なく、脇のお店のひさしの下に入って、雨を避けることにしました。
サァーッ
見る間に、アスファルトが黒く濡れていきます。
早く帰らないと、またお兄ちゃんに心配かけちゃうな。
ひさしの下から、空を見上げました。
真っ黒な雲が、ゆっくりと動いています。
当分、止みそうにないみたいです。
困っちゃったな……。
「……あら、乃絵美じゃない」
不意に声を掛けられて、ちょっとびっくりしてそっちを見ると、菜織ちゃんでした。傘も差さないで、制服姿のままそこに立っています。もちろん、びしょびしょに濡れてます。
「菜織ちゃん!? どうしたの、その格好……」
「見ての通りよ。すぐ止むかなって思ったからそのまま走ってたんだけど、甘かったわ」
菜織ちゃんは苦笑して、肩をすくめました。
「ね、そっちに行ってもいい?」
「あ、うん」
頷いて、ちょっと脇にどきました。
「ごめんね〜」
菜織ちゃんはそこに入ってくると、恨めしそうに空を見上げました。
「ったく、いきなりなんだもん」
「うん……」
「正樹も、これじゃ練習できないわよね……」
「……」
菜織ちゃんの口からお兄ちゃんの名前が出ると、今でもちょっと胸が痛い。
私だけのお兄ちゃんじゃないんだ、って言われてるみたいで。
「インターハイももうすぐなのに……。正樹、体調崩してない?」
「うん、大丈夫だよ」
それに、私知っているんです。ここのところ、しばらく、菜織ちゃんはお兄ちゃんを避けているって。
それは、真奈美ちゃんがミャンマーから帰ってきたから。
真奈美ちゃんもお兄ちゃんのことが好きだから……。
私は思いきって、言ってみました。
「菜織ちゃん……。お兄ちゃんに……」
「ストップ」
菜織ちゃんは、私の口に手のひらをぴたりと当てました。雨に濡れた、冷たい手のひら。
「ごめん。乃絵美が心配してくれるのはよく判ってるけど、これはあたしと正樹の……。ううん、あたしの問題だから」
「……」
私は、それ以上何も言えませんでした。
菜織ちゃんは、軒先を伺いました。
「ん? ちょっとは小降りになったかな。それじゃね!」
「あっ……」
そのまま、水たまりを飛び越えて、走っていく菜織ちゃん。
バシャバシャ、という足音が聞こえなくなるまで、私はその背中を見送っていました。
……雨、全然小降りになってないのに……。
カランカラン
「ただいま……」
「乃絵美、どうしたの? 随分遅かったじゃない」
『l'omellette』に戻ると、カウンターの奧でお皿を洗っていたお母さんが、その手を止めて心配そうに私を見てくれました。
「ううん。雨が降ったから、雨宿りしてたの」
「そう? それならいいんだけど」
「お兄ちゃんは帰ってきた?」
「まだよ。でも、雨が降ってるのに部活してるのかしらね、あの子は」
「……」
カランカラン
その時、ドアが開いた音がしました。私は振り返りました。
「いらっしゃいませ」
「やっほー、遊びに来たよ〜」
「あ、みよかちゃん」
そこにいたのは、同級生のみよかちゃんでした。
「乃絵美ちゃん、久しぶり〜。あ、ごめん、仕事中なんだよね」
「えっと……」
「いいわよ、今はお客さんいないから」
お母さんが笑いながら言ってくれました。
「ありがとう、お母さん。それじゃみよかちゃん、こちらへどうぞ」
「うん」
私とみよかちゃんは、奧のボックス席に向かい合って座りました。
お互いに夏休みに入ってからしばらく会っていませんでしたから、ちょっと近況報告みたいな話をしたんですが、みよかちゃんは冴子さんの話ばっかりでした。
「……そういう乃絵美もお兄さんの話ばかりじゃない」
「あ……、えっと、紅茶のお代わりいる?」
「チーズケーキも食べたいなぁ」
……とまぁ、そんなやり取りをした後、不意にみよかちゃんは私の顔を覗き込みました。
「ところでさ、乃絵美。折り入って聞きたいことがあるんだけど」
「うん? なぁに?」
「乃絵美のお兄さんと氷川先輩って、別れたって噂があるけど、ホント?」
どくん
「……し、知らないよ、そんなこと……」
つっかえそうになりながら、私は平気なふりをして返事しました。
みよかちゃんは肩をすくめました。
「親友だから話すけどさぁ、うちのアニキが氷川先輩にちょっと気があるみたいでね」
「橋本先輩が?」
……全然知りませんでした。
「そ。でも、奥手って言うかだらしないって言うか、アニキの奴「菜織ちゃんが好きなのは正樹なんだから、俺はいいんだ」とか言ってねぇ。ま、あたしとしても、乃絵美のお兄さんが氷川先輩とくっついてくれれば、田中先輩はフリーになるわけだから全然オッケイだったんだけどね」
そこまで一気にしゃべると、みよかちゃんはアイスティーのストローをくわえました。
「でも、二人が別れたってことになると、氷川先輩がフリーになったってことだから、そうなるとアニキの応援もしないといけないかなぁ、ってね。妹っていうのも辛い立場なのよねぇ。ね、乃絵美も判るわよね、妹の辛さ」
「う、うん……」
「さすが乃絵美。話が分かるわよねぇ。昨日麗子や幸子に相談したら「あんた、ブラコンじゃない?」なんて言うのよ。あったま来ちゃう。あたしにはちゃんと心に決めた人がいるんだから。ああ〜、冴子先輩〜」
……。
と、不意にみよかちゃんは壁の時計を見て声をあげました。
「あっ、やばっ! 塾の時間だ。ごめん、乃絵美。あたし行かなくちゃ」
「う、うん……」
「それじゃばいばーい」
立ち上がってそう言うと、そのままみよかちゃんはお母さんに「おじゃましました〜」と言って『l'omellette』を飛び出していきました。
「またどうぞ〜。……やれやれ、元気のいいお友達だね、乃絵美。……乃絵美?」
食器を下げにきたお母さんに肩を叩かれて、私は顔を上げました。
「乃絵美、顔色悪くないかい?」
「ううん、大丈夫だ……よ」
あ。
目の前のお母さんの顔が、不意にぐるっと回りました。
全身に、噴き出した汗がまとわりつく、じとっとした感覚。
「乃絵美、どうしたの、乃絵美っ!?」
お母さんの声が、なんだか遠くから聞こえるような……。
カランカラン
ドアの開く、ベルの音。
お母さん、私はいいから、お客さん……だよ。
お母さんの声、そして、こちらに駆け寄ってくる、いくつかの足音。
急速に暗くなっていく視界の中に、見慣れた顔が飛び込んできて……。
そして、私は、意識を失ってしまいました。
「のえみちゃん、こんにちわ」
ドアが開いて、まなみちゃんが顔を出しました。
「あ、まなみちゃん……」
「まさきくんにきいて、おみまい」
にっこり笑って、まなみちゃんは大きな花束を差し出しました。
「わぁ……」
受け取った花束からは、ほんのりといい香りがして、私は顔を埋めるようにしてまなみちゃんにお礼を言いました。
「ありがとう、まなみちゃん。……まなみちゃん?」
「……っく」
まなみちゃんが、泣いてる? どうして?
「……ご、ごめんなさい」
まなみちゃんは、そのままくるっと振り向いて、部屋を飛び出していってしまいました。
「まなみちゃん……?」
それが、私がまなみちゃんに会った、最後の日になりました。
その数日後、私はお兄ちゃんに、まなみちゃんが引っ越していったことを知らされたんです。
「……」
ゆっくりと意識が浮かび上がっていく感覚。
目を開けると、そこは見慣れた私の部屋でした。私は、ベッドに横になっていました。
そして。
「あ、気が付いたんだね。よかった」
枕元にいたのは……。
「真奈美……ちゃん?」
「うん、そうだよ」
真奈美ちゃんは、にっこり笑うと、私の額に手を当てました。
「熱もないみたいだね。今、おばさん呼んでくるね」
「……えっと、私……、どうして……」
「きっと疲れてたんだよ。大丈夫、ゆっくり休めばすぐに直るよ、きっと」
そう言うと、真奈美ちゃんは立ち上がりました。
「それじゃ、すぐに戻るから」
「う、うん……」
真奈美ちゃんは身を翻して部屋を出ていきました。パタン、とドアが閉まります。
枕元の時計に目をやると、そんなに時間はたってないみたいです。
と、ドアが開いてお母さんが入ってきました。
「乃絵美、気がついたかい?」
「あ、お母さん……」
「ごめんね。疲れてたんなら、そう言ってくれれば良かったのに。あ〜、正樹に知られたら、また怒られちゃうねぇ」
お母さんはおおげさにため息を付きました。それから、真奈美ちゃんと同じように額に手を当てます。
「うん、熱もないし、大丈夫みたいだね。それじゃ、今日はゆっくり休んでていいから」
「で、でも、お店が……」
「そんなこと気にしなくても大丈夫。菜織ちゃんも手伝ってくれてるし」
「えっ? 菜織ちゃんが?」
「ええ。乃絵美が倒れたとき、たまたま真奈美ちゃんと一緒にお店に来たのよ。乃絵美をここまで運ぶのも手伝ってもらったし、それに真奈美ちゃんにはさっきまで乃絵美に付いててもらって。ほんとにありがとね、真奈美ちゃん」
「いえ、私はただ、そばにいただけですから」
そう言いながら、真奈美ちゃんが入ってきた。
「おばさん、乃絵美ちゃんには私が付いてますから、お店の方に戻っても大丈夫ですよ」
「そう? それじゃ、ごめんね。ちょうど忙しい時間帯だから、さすがに菜織ちゃんだけに店を任せるわけにもいかないから……。それじゃ乃絵美、また後で来るから」
お母さんは、私に毛布をかけ直してくれて、その上からぽんと私を叩くと、部屋を出ていきました。
ドアが閉まって、部屋には真奈美ちゃんと私だけが残されました。
「あ、乃絵美ちゃん。もし私が邪魔だったら、すぐに出ていくけれど……」
「そんなこと、ないです」
「……よかった」
にっこり笑うと、真奈美ちゃんはベッドの脇にしゃがみ込みました。そして、ため息を一つ。
「……ふぅ」
「真奈美……ちゃん?」
「あ、ごめんね。なんだか気が抜けちゃって……」
そう言うと、真奈美ちゃんはぺろっと舌を出しました。
「ほんとにびっくりしちゃって。だって、『l'omellette』に入るなり、乃絵美ちゃんが倒れていたんだもの」
「ごめんなさい……」
「ううん、乃絵美ちゃんが謝ることないわよ」
首を振ると、真奈美ちゃんはベッドに寄りかかって、文庫本を開きました。私に背を向けたままで言います。
「私のことは気にしないでいいから、ゆっくり休んでね」
「えっ? う、うん……」
その時、不意にお母さんの言葉が頭の中でリフレインしました。
「真奈美ちゃん……、菜織ちゃんと一緒に、お店に来たの?」
「えっ?」
ページを繰る手が、一瞬、止まりました。
「う、うん。そうだよ。それが、どうかしたの?」
「……もしかして、お兄ちゃんのことで……?」
「……」
真奈美ちゃんは、一つ息をつくと、文庫本をパタンと閉じました。
「そうだね、乃絵美ちゃんも正樹くんの妹だもんね。……知っておく権利は、あるよね」
私に、というよりも、自分に言い聞かせるように呟くと、真奈美ちゃんは振り返りました。
「私ね、……正樹くんのことが、好き。6年前から、ずっと好き……」
「……」
「でもね……」
真奈美ちゃんは、視線を落としました。床を見つめながら、小さな声で呟きます。
「私、振られちゃった……」
「……えっ?」
「夕べ、正樹くんに電話して、告白したの。でも、正樹くんは……菜織ちゃんが好きだって……」
ぽたっ
カーペットに、雫が落ちました。
「でも……。そうだよね、いまさら戻ってきて……。そんなこと、むしのいい話だよね……。でも……、好きなんだもの……」
「……真奈美ちゃん」
私は、そっと身体を起こして、真奈美ちゃんを後ろから抱きしめました。
「わかるよ……。私だって、……叶わないことだって、頭ではわかってても、どうしようもない思いがあるって、わかるもの……」
「……っく、うっ」
後ろから回した私の手を、真奈美ちゃんはしっかりと握って、身体を震わせていました……。
どれくらい、そうしていたでしょう?
真奈美ちゃんは、ようやく振り返って私と視線を合わせると、涙を拭いて恥ずかしそうに笑いました。
「ふふっ、ごめんなさい。でも、泣いたらなんだかちょっと、楽になった気がする」
「……よかった」
「健一や正樹くんや菜織ちゃんの前では、泣けないもんね。それに……」
「あたしとの話は、まだ終わってないからね」
その声に、弾かれたように振り返る真奈美ちゃん。
私の部屋のドアのところに立っていたのは、『l'omellette』の制服姿の菜織ちゃんでした。
あとがき
(たまには)リクエストにお答えして、WithYouシリーズ新作です。はい。
今回の語り手は、お待ちかね(笑)の乃絵美ちゃんです。
それでは、また1年後にお逢いしましょう(爆笑)
……冗談になってないんだよなぁ、実際(苦笑)
Little Emotion 01/1/13 Up