月は影ろふ(前編)

著作:狛犬



 両脇を固める二人の厳つい男たちに、いいようのない圧迫感を感じながら促されるままに歩く。男たちは無言のままだが、もし僕が抵抗する素振りでも見せればきっと引きずってでも連れて行くつもりだろう。無言のうちに、それだけの威圧がこめられているような気がした。
 僕は自分が男二人に引きずられて歩く光景を想像して、まるでいつかテレビで見た宇宙人の写真みたいだと、一人苦笑した。
 しばらく歩いていると、長い通路の突き当たりにたどり着いた。どうやらここが目的地だったようで、男の片割れが扉の横にあるスリットにカードを通すと、圧縮された空気の抜ける音と共に目の前の扉がスライドして開いた。
「君はしばらくここで生活することになる。部屋の中で動くことは自由だが、部屋から出る事は許されていない」
 もう一人の男が、低い声で告げる。
 要は僕をこの部屋に監禁すると言うことだろう。いくら回りくどく言ってみても事実は変わるものじゃない。
「何か質問は?」
 男の言葉に、僕は黙ったまま首を横に振った。
「それでは中に入れ。サードチルドレン、碇シンジ」
 僕は言われるままに、部屋の中へと足を踏み入れた。

 扉を潜ると左手に簡単なキッチンがあり、右には恐らくユニットバスの扉があった。典型的なワンルームの部屋のようだ。
 キッチンと区切りをつけている扉を開けてみると、部屋の中はきちんと整頓されていて、思ったよりも住みやすそうだった。強いて言うならば窓が無いのが不自然だったが、少なくとも初めてミサトさんの部屋を訪れた時ほどのインパクトは無い。
 一年近くを共に暮らした女性のずぼらさを思い返して、笑おうとした。でも、その感情は顔に現れるまでの間に別のものに変わってしまったようで、僕は我慢できずに部屋の三分の一を占領しているベッドの上に体を投げ出した。
 涙は流れなかった。けれど今自分は泣いているのだと納得出来るまで、僕は布団に顔を押し付けるようにして嗚咽を上げ続けた。

 サードインパクト。それが一体なんだったのか、僕は今でも正確に語る言葉を持っていない。けれどもそれは確かに起こったことで、少なくとも億単位の人間が死んだという事実は僕にも知ることができた。全ての生命が一度LCLに溶け、多くの人間がそこから帰って来なかった。
 まるで夢の中にでもいるような曖昧な時間の中で、多くの人間と話をしたような気がする。そのどれもが心に楔を打ち込んだように生々しく残っているけれど、思い出そうとすればすり抜けるように記憶からこぼれ落ちてしまう。
 僕にとってサードインパクトとは、そんな鮮烈でいて茫洋とした余りにも矛盾した体験だった。

「希望なのよ」 

 それでも最後に聞いた少女の言葉だけは、今でもはっきりと覚えている。




 初めの三日間は、ひっそりと息を潜めるように生活した。
 自然に目が覚めるまで寝続けて、空腹を感じたら適当に何かを作って食べる。部屋にはテレビもノートパソコンも備え付けられていたけれど、一度も電源を入れることなく過ごした。
 時折トウジを殺してしまう夢や、カヲル君を握り潰してしまう夢を見て跳び起きたりした。そんなときは、自分が生きていることさえ許されない人間だという思いに囚われて衝動的に死にたくなったけど、僕はその抗いがたい誘惑に文字通り必死で耐え続けた。別に死にたく無かったわけでは無いけれど、サードインパクトの中心で人として生きることを選んだ自分が自ら命を絶つのは、やはり間違っているような気がした。

 自分が案外融通のきかない性格だということに気が付いたのは、監禁生活に入って四日目辺りからだった。体の感じる欲求のままに生活していたはずなのに、気が付いてみれば朝起きて、夜寝て、三食きっちり食べるという規則正しい生活を送っていた。この辺はずぼらな同居人に鍛えられた成果だろうか。
 そして、何かおかしいと感じ始めたのもその頃からだった。
 例えばそれはシャワーを浴びた後、部屋に戻ってきた時などに強く感じる。どこかに違和感があるのだ。
 一つ一つは本当に些細な事だった。 
 使っていないはずのテレビのリモコンがベッドの脇に転がっていたり、部屋に置いてある物が自分の記憶と違う位置にあったりと、そんなことがよく起こった。
 始めは自分の気のせいだと思った。
 一日一度ある食料の支給の時以外、この部屋には誰も入って来る事は無いのだから当たり前だ。
 ある日の深夜、ぼんやりと聞こえてくる音に目を覚ますと、暗い部屋の中でテレビの明かりが曖昧に部屋の輪郭を照らし出していた。画面の中では、一昔前のロボットアニメだろうか?暑苦しい少年が何か叫びながら戦っているところだった。
 寝ぼけてリモコンのスイッチを押してしまったのかと思い、周囲を見るとリモコンはテレビの上に置いてあった。それでもテレビが故障したのかもしれないと思い、僕は主電源を切って再び布団の中に潜り込んだ。
 ところがしばらく目を瞑っていると、再び先程の主人公の叫び声が聞こえてきた。布団を打ち捨てるように飛び起きると、やはりテレビの明かりが暗い部屋を照らしていた。
 僕はなんだか意地になって、テレビのコンセントを引き抜くとベッドに跳び乗り目を瞑った。
その途端、今度は先程よりも大きな音で暑苦しい叫び声が聞こえた。起き上がると、抜いたはずのプラグがしっかりと刺さっていた。結局僕はそのアニメを終わりまで見るはめになった。
 僕は自分以外にこの部屋にいる存在を感じずにはいられなかった。
 不意に、一人の少女の顔が頭をよぎったけれど、僕は直ぐにその可能性を否定した。そんな馬鹿げた期待にすがれるほど僕は強くなかった。




 サードインパクト後のネルフの対応は、まさに迅速という一言に尽きた。世界への情報操作。日本国、ひいては戦自との和解。全ての黒幕たるゼーレの壊滅作戦。
 ネルフの職員の中には、LCLの海から返ってこなかった人間も多かったけど、父さん、冬月副指令、リツコさん、ミサトさんなどを中心にしてあっという間にネルフは世界を救った英雄になっていた。
 ネルフが本当に世界を救おうとしていたのかどうかなんて僕には分からないけど、少なくともサードインパクト後の混乱を最小限に留めたのはネルフの功績だった。そのことについて、アスカの病室を毎日訪れることしかできなかった僕には何も言う資格なんて無いだろう。
 アスカはサードインパクトの後からずっと、眠ったきり目を覚まさなかった。医師によると肉体的には正常だということで、心の問題だということだった。また、結局直接会うことはできなかったけど、看護婦さんに聞いた話ではトウジは疎開先で義足に慣れるためのリハビリに励んでいると言うことだった。ケンスケや委員長はどこに疎開したのかも分からず、今では連絡をとることさえできない。

 そして、いつまで経っても綾波は戻ってこなかった。 

 様子がおかしいことに気が付いたのは、アスカの病室を訪れるようになってからしばらく経った頃のことだった。
  ネルフの人間が、自分に向ける視線がいやによそよそしい。
  もともと飛び抜けて好かれているとは思っていなかったけれど、ある人はまるで仇でも睨むように、またある人は怯えるように僕を遠巻きに眺めて、決して近づいてこようとはしなかった。
 少しは親しかった幹部やオペレーターの人たちとは、彼らが忙しすぎて会うことができなかったので、僕は自分の置かれた立場をまったく理解していなかった。
 世界はサードインパクト前とは比べ物にならないけれど、それでも確かに安定した。だけど、サードインパクトが起こったという事実は消えることは無い。そして、ネルフがサードインパクトを防ぐために作られた組織である以上、役割を果たせなかった責任をとらなくてはならなかった。

 一体誰の責任なのか。

 世界中の人間は、そのことを知りたがっていて、その欲求はいつまでも抑えておけるものではなかった。
 考えてみれば、初号機を失った以上僕は何の役にも立たないただの中学生だし、サードインパクトが僕を起点にして発生したと言うのも紛れも無い事実だ。それに、ネルフにはまだ世界を立て直すという大きな役割があって、幹部の誰かが欠けるわけにはいかなかったのかもしれない。
 理由を探せばいくらでも見つけることが出来るだろう。
 ある日久しぶりに僕の元を訪れたミサトさんが発した言葉が、ネルフの決断を端的に表していた。

「サードチルドレン碇シンジ。あなたをサードインパクトの首謀者として拘束します」

 不思議と、裏切られたとは思わなかった。
 彼らに僕を保護しなければならない理由は無いのだ。ただ、未だに病室で眠るアスカがこれからどうなるのかが気がかりだった。






 食料を持ってきてくれる人に、何冊か本を持ってきてくれるように頼んだ。一応願いは聞いてもらえたようで、次の日には数冊の文庫本が部屋に備え付けてあった本棚に置かれることになった。
 なぜ読むつもりもない本をわざわざ持ってきて貰ったのか自分でもよく分からなかったけれど、暇さえあれば本を読んでいたという印象が強い彼女のために、という考えを僕は否定することができなかった。
 シャワーを浴びて部屋に戻ると、テーブルの上に一冊の文庫本が置いてあった。勿論僕は本棚から抜いた覚えはない。
 僕は自分の鼓動が驚くほど高鳴っているのを感じながら、今まで決して口に出さなかったその言葉を口にした。
「あ、綾波?」
 その途端、テーブルの上に置きっぱなしになっていたノートパソコンの電源が突然入った。パソコンの立ち上がるその音に、僕は飛び上がりそうなほど驚いた。
 僕は恐る恐るノートパソコンのディスプレイを持ち上げて覗き込んだ。すると、ひとりでにテキストエディタが立ち上がった。
 ゆっくりと、見えない誰かが押しているようにキーボードのキーが押されていく。
 そのたびにディスプレイには文字が表示されていき、ついにそれは一つの単語になった。

『碇君』

「綾波っ……」
 僕はノートパソコンに縋り付くようにして叫んだ。
 今確かに綾波がここにいる。僕には見る事も感じることもできないけれど、確かに綾波がここにいるのだ。
「ごめん、綾波。僕は……僕は……」
 伝えたいことや謝りたいことがたくさんあったはずなのに、僕の口からはその千分の一も出てきてはくれなくて、そのもどかしさに僕は苛立った。

『いいの、会えたから』

 次に表示された言葉に、僕は今度こそ打ちのめされた。サードインパクトの時も綾波は僕を求めて、僕を救ってくれた。そして今もこんなに純粋に僕を求めてくれている。
 それでもなぜか涙は流れてくれなくて、僕はディスプレイに縋り付いて咽ぶことしかできなかった。

 その日から、僕と綾波の奇妙な共同生活が始まった。
 どういう理由かはわからなかったけど、どうやら僕の見ている前で物を動かすのは大変らしく、綾波は大抵僕の見ていないところでその存在を表していた。
 僕が眠っている間やシャワーを浴びている間に文庫本を読むようで、気が付けばいつもテーブルの上に本が出しっぱなしになっていた。僕は何度か綾波に読んだ本は本棚に戻すよう注意したけれど、結局次の日にはテーブルの上に本が置いてあった。
 どうやら、前に見た深夜のロボットアニメは綾波のお気に入りらしく、僕はたびたび夜遅くまで起きてそのアニメを見るはめになった。
「あんまり面白くないよ、これ」
 僕がアニメを見ながら呟いた次の日、肉類が全て冷凍庫から外に出されていた。僕が見つけた時には、既に傷んでしまう直前だったので、その日の僕の食事はほとんど肉だけになってしまった。
「食べ物を粗末にしちゃ駄目じゃないか」
 僕がそう注意すると、次の日テーブルの上にノートの切れ端が置いてあった。
 そこにはボールペンで『肉、嫌いだもの』と書かれていた。

 音楽を聞くようになった。
 食料をもって来る人に音楽が聞きたいと告げると、次の日なぜだかポータブルCDプレイヤーをもって来てくれた。どうして今時CD再生のプレイヤーなのかは分からなかったけれど、とりあえず音楽を聞く事はできたので同様に持ってきてもらったCDを擦りきれるほど再生して、ひたすら音楽を聞いた。正直差し入れてもらったのはハードロックで僕の好みではなかったけれど、この際音楽ならばなんでもよかった。

 一日の内で、テレビを見る時間が増えた。
 ニュース番組を特によく見た。僕が今置かれている状況が分かるかもしれないと思ったからだ。
 ニュースなどから得た情報では、サードインパクトの首謀者である碇シンジの裁判が行われていて、死刑が求刑されているということが分かった。
 勿論僕はこの部屋から一歩も出させてもらえないので裁判なんて受けていない。ということは、このまま僕は誰かに何かを言う機会さえ与えられずに死刑になるとみて間違いないだろう。
 薄々勘付いていたこととはいえ、この事実は僕の気分を酷く落ち込ませた。

 次の日、重い気分を抱えたまま目を覚ますとテーブルの上にお皿が置いてあった。お皿の上には、なんだか色々なものが挟まれた食パンが置いてあった。食パンは汁気を吸って何だかぐちゃぐちゃになっていた。
「サンドイッチ……なのかな?」
 目の前の物体は、確かにサンドイッチと呼ばれる物と共通する特徴が幾つか見受けられた。
 落ち込んだ僕を励ますために、綾波が作ってくれたんだろうか。
 僕は見えない綾波に感謝しながら、その料理を手にとって口に運んだ。その途端、表現しがたい味が口内に広がった。
「あ、綾波……もうちょっと料理を勉強した方がいいよ」
 僕は何とかそれだけいうのが精一杯だった。
 サンドイッチにはこんなにたくさんの胡椒は入れないと思う。

 その日から、僕は料理しながら綾波に語り掛けるのが日課になった。

 よく考えて見れば、一人で何もない空間に向かって喋っているのは、もし誰かに見られればさぞかし不気味だっただろう。もしかしたら部屋に監視カメラが付いているかもしれないと思ったけど、明らかにおかしい僕の様子に誰も何も言ってこないところを見ると、そういった類の監視は付いていないようだった。

 夢も希望もなかったけれど、毎日がぬるま湯に浸ったような生活だった。それでもテレビの中ではやってもいない僕の裁判が進行していて、どうやら死刑が確定しそうらしい。
 僕は、綾波に対して申し訳ない気持ちで一杯だった。
 せっかく綾波が自分の命を賭けてまで助けてくれた僕の命なのに、こんなに簡単に奪われてしまいそうになっている。
 あのサードインパクトの時、例え傷付けあっても人が人の形を保ったまま暮らす世界を望んだことを後悔するつもりはなかったけれど、結局誰とも心を通わせることができないまま死んでしまうのはとても悔しかった。
「ごめん、ごめんね綾波」
 僕は綾波に謝りながらベッドに突っ伏す。すると、僕の体にふわりと毛布が掛けられた。直接感じることはできないけれど、綾波に包まれているようなぬくもりをどこかで感じながら、僕は眠りに落ちた。