誰の眼にも明らかだ。
大樹と鮫島という執事の差、絶望的なまでに離れた、離されすぎた差はどうやっても埋められない。これは経験、技術の差でもある。そんな現実的な差の前には気持ちという概念は何の意味も無い。
あるだけ無駄、あっても無駄、あるだけで邪魔になる程に無駄。
鮫島の戦闘能力は私の眼から見てもかなり高い位置にいる。魔法という術を持たない人間であるにも関わらず、その動きは強化を掛けた魔導師となんら変わりのない速度。第三者の眼からこの速度なら、これが体感速度ならどれ程なのだろう。
恐らく、私でも最初の一撃は避けられない。反応は出来ても避ける事はおろか、油断していれば防ぐ事も不可能。それほどまでに常人を逸脱した動きに私は思わず見惚れてしまいそうになる。
魔法などなくとも、人はこのレベルまで至る事が可能だと知った。それは驚愕というよりは感心、そして寒心。これだけの技術をその身に宿すまでに彼はどれ程の時間と汗と血を流したのだろう―――私の生きてきた時間などでは決して追いつけない程の努力。もしかしたら才能かもしれない。
だからこそ、この勝敗は既に決している。
「――――ガぁ!?」
鮫島の高速の拳が大樹の顎を打ち上げ、のぞけさせる。でも、彼は倒れない。その場で踏ん張る様に脚をガニ股に開き、反撃を試みる。
当然、空振り。
無様な大ぶり、かすりもしない。これなら誰だって避けられる。私でもなければ少し眼のいい人なら誰でも避けられる大ぶり。まるで素人。喧嘩も闘争も知らないズブの素人の拳が届く事はあり得ない。
空振りした拳の先は虚。その隙ですらない隙を鮫島は的確に、そして冷徹に、腕の力だけで繰り出した適当な裏拳で大樹の後頭部を殴打する。
それだけで、簡単に倒れる。
「―――――終わりですかな?」
「冗談、言えよ……」
「えぇ、冗談です」
差は歴然だ。
これは試合でも組み手でもない。見届けるのは私だけ。でも、私の手には試合を中断させるタオルも無い。そして、彼もそれが無い事をいい事に立ちあがる。
何度も、何度も、何度も、どれだけやられても、どれだけダメージを蓄積しても、大樹はふらふらになりながら、何度も立ち上がる。
「へっ、ようやく……見えてきた」
「綺麗なお花畑ですかな?」
「アンタの拳」
嘘だね。
「そうですか、なら―――――ちょっとギアを上げましょう」
「え、マジ?」
「マジですが?だって、私の遅い拳は佐久間様には見えているのでございましょう?ならば、それに対して速度をワンテンポ、ギアを一段階上げるのは当然の事……」
この鮫島という執事は意外と腹黒いのかもしれない。大樹はやってしまったという顔をしながら冷や汗を大量に流している。
自業自得。
私はそんな馬鹿をした大樹をじっと見守る―――様にしているだけ。実際は見守ってなどいない。彼が甚振られ、地面に倒れ、それでも立ち上がり、そして殴られ、倒れ、立ち上がり、サンドバック状態になっている姿を見ているだけ。
そう、見ているだけ。
何もしない。応援もしないし、心配もしない。
する必要もないからだ。
「先程までは幼稚園児でも見切れる程度ですが、今度は小学生が見切れる程度です」
「――――アンタ、実はSだろ」
「はい、Sとは執事のSならば、私は執事です」
「英語ならBだろ」
「ボディータッチという意味なら、今の状態は相応しいですな」
「最低なBだよ。思春期の中学生が絶望するだろうな……」
「いえいえ、それも青春の味というモノでございます――――そして、挫折と絶望を味わうのもまた、一興ですよ」
鮫島が動く。
先程のよりもスウェーバックで上半身を背後にずらし、その反動で一気に撃ち放つ。本来なら防御技術の法を彼は攻撃の際に使用した。これもボクサーならあり得ないだろう。そんなあり得ない方法で『遊べる』程度の相手なら、面白いかもしれない。
当然、その一撃はあっさりと大樹の顔面を撃つ。
もう一度言う。
この差は歴然だ。
喧嘩も知らない素人と闘争を知る玄人の間にある差は絶望的だ。その断崖絶壁を繋げるロープウェイも、縄梯子も、蔓で出来たロープもない。
どう足掻いても届かない領域。
それでも、
「…………やっぱり、立つんだ」
私の呟きが意味を成す。この数十分で何度も何度も見た光景。いい加減、他の光景も見たいものだと想えるくらいに見飽きた光景だった。
大樹の顔は昨日の夜よりも酷い。
顔は所々が切れ、内出血を起こした皮膚が紫色に変色している。瞼は腫れあがり、あれでは片目は殆ど見えてはいないだろう。
身体もきっとボロボロだ。鮫島が手加減をしていると言っても拳闘士の拳は兇器というのは有名な話だ。誰でも知っている、子供でも知っている事実。その拳を何度も何度も撃ちこまれ、それでも立ち上がる彼の身体はポンコツになっている。
でも、立つ。
立つ事以外は知らない様に、また立った。
「…………」
見ていて辛い。
こんな光景を見ているだけ辛い。
さっさと終わってほしいと懇願したい。
鮫島が手加減などせず、あっさりと大樹を打倒してくれれば終わるのに、どうしてか彼はそれをしない。それどころか、彼はこの闘争にすらならないお遊びを楽しそうにしている。大樹を殴る事を楽しむような顔でもなく、無様に起き上がる大樹を嘲笑うのでもない。
まるで、大樹が立ちあがる事が―――嬉しいように見えた。
お願いだ、もう止めろと私は声に出ない声で叫ぶ。
それ以上は、これ以上は見てられない。
眼を閉じれば見なくていい。でも音が聞こえる。人が殴られる鈍い音。
耳を閉じて聞かなければいい。でも見える。人が殴られる嫌な光景を。
なら、両方すればいい。でも、私の身体はそれを良しとはしない。
だから、さっさと終わってほしい。
私はもう嫌なんだ、こんな事をしてほしくないのだ。
だって、
こんな無様な彼が、これ以上無様に転げ回る姿を見ていても、胸糞悪くなるだけだ
さっさと諦めればいいのに……
心の中で私は冷めた声を発する。
さっさと諦めて、無様に地面に倒れて、自分の無力に嘆けばいいのにと、何度も何度も考えた。そんな光景を想像し、心の中で高笑いをしたのも事実だ。
誰の眼からも分かる光景を前に諦めない事を美学と感じる奴の事を、私は心の底から嘲笑っている―――いや、少しだけ違う。
嘲笑うどころではない――――嗤う事すら、私は嫌だ。
諦めろ。
倒れろ。
立ちあがるな。
諦めて、倒れて、立ちあがらず―――そして、絶望しろ。
立ちあがる彼を見て、私の心の中は黒い感情で渦回る。
もう、いいだろう……
黒い感情はきっと憎しみであり、怒りであり、そして悪だ。
もう、諦めろ……
正直な事を告白しよう。
とうせ、誰も聞いていないのだ。
心の中など、誰にも見えないし聞こえない。だから、私は一人で独白し告白する。
私は、
フェイト・テスタロッサは、
佐久間大樹の事が――――大嫌いだ
声が聞こえる。
身体には感覚が無い。
おかしいな……
身体が宙に浮かぶようなゆったりと意識が泳ぐ。宙に浮くという感覚は飛ぶとは違う。なんの力も要らない、水に浮くという感覚とも違う。
なんと言えばいいのだろう―――例えが浮かばなかった。でも、それはどうでもいい事だと想った。そう想ったからこれ以上は考えない事にした。
でも、寒いな……
身体が浮いているような感覚なのに、凍りついた海の底に沈む様な寒さ。感覚が無いのに寒さだけを感じる。体温は急激に下がり、上がる事を忘れたように降下し続け、凍りの剥製になってしまうかもしれない。
寒い、寒すぎて、震えてしまう。
凍える身体を温めるモノは何処にもない。
寒いから火が欲しい。オレンジ色の炎を目の前で焚き、その炎で身体を温めたい。身体を温めたら次は毛布が欲しい。温かい毛布で身体を包み、そのまま眠ってしまいたい。時期は冬が良い。冬の季節に眼を覚ました時の毛布の温かさどんな温もりよりも温かい。だから、そのどちらでもいいから身体を温めてほしい。寒い、寒い、凍りついたように寒い。火が欲しい、毛布が欲しい―――そうだ、毛布が欲しい。毛布に火をつけて燃やし、その燃えた毛布で体を包めばきっと寒くない。
火傷では済まない傷を作る炎で身体を温め、身体が燃える様に、本当に燃えるように身体を温め、身体が焼かれ、痛みを覚え、その痛覚が寒さを消し、代わりに来るのは想像を絶する最低な痛み――――あれ、痛み。
気づいた。
寒さが消えた。
気づいた。
寒さが消え―――身体が、熱くなった。
――――――――――――――――熱い、熱い熱い、熱い熱い熱い、熱い熱い、熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!?
熱い、痛い、苦しい、痛い、痛い、熱い、痛い、熱い、痛い、苦しい、苦しい、痛い、熱い、熱い、いたい、あつい、くるしい、いはび、いあたい、いがかい、いたい、いあは、いあじゃい、いあじゃい、ああたずい、あずい、あうぎゅあい、あうづあづ、ッずい、あぎきあ、あうふぃあ、ずふあいぎやう―――――痛かった。
身体中を駆け巡る激痛が宙を浮く感覚すら失わせる。凍えるような寒さも灼熱の激痛の前には何の意味も無い。
寒さが欲しいとさえ、願う。だが、願いは却下される。寒さは完全に消え去り、残るのは吐き気と灼熱と涙と業火と最終的には痛いという一念。
痛い―――まるで、右手が切り落とされたようだ。
痛い―――まるで、身体に穴があいたようだ。
痛い―――まるで、顔の全てが黒焦げになったようだ。
痛い―――まるで、まるで、まるで、まるで――――死んでいるかのようだ。
「――――」
誰かの声が聞こえる。
「――――」
女の人の声だ。
「――――」
何か、怒りを含んだ声を発しているような声だ。声の主は女の人だ。でも姿は見えない。私の眼が見えないからだ。眼球が焼き殺され、眼があるべき場所が空洞になったような感覚。そのせいで声しか聞こえない。
いや、それも違う。
「――――」
音も、はっきりと聞き取れない。鼓膜が麻痺しているのか、それとも爆音によって破裂したのかわからないが、ともかく音が巧く伝わってこない。
「――――」
それでも分かる。この女の人は怒っている。憎悪している。声を向けている相手を本気で殺さんとする勢いで犬の様に吠え散らかし、自分の怒りの矛先を向ける事が正当だと吠えている。
誰だろう、この人は……あ、駄目だ、痛い。痛みが麻痺してこない。どんな痛みでも時間が立てば引いてくるが、この痛みは別だ。痛みが永久にこの場に居座ると豪語している。身体の死を絶対に譲らないと頑固な意志を示している。
痛いよ……
「――――」
「――――」
声が一つ増えた。
今度は男の人の声だ。聞いた事のある声。いや、女の人の声も聞いたことがあるけど、この声も聞いたことがある。少しだけの時間。単なる顔見知り程度で忘れてしまいそうな程に些細な時間を混じり合わされた相手。
名前は、思い出せない。痛みが思考を支配しているせいか考えが巧くまとまらない。痛い。とにかく痛い。死んでしまう。このままでは死んでしまう。
「―――――」
「―――――」
女の人が吠える。
男の人が嗤う。
「―――――」
「―――――」
女の人が叫ぶ。
男の人が呆れる。
「―――――」
「―――――」
攻守交替。
男の人が囁くように呟く。
女の人が驚愕するように息をのむ。
「―――――」
「―――――」
男の人がまた嗤う。嗤いながら手を叩き、女の人に向かって何かを言っている。
女の人が悲痛な声を出す。助けを求めるように、自身の全てを擲ってでも救いたいというような、悲痛な叫び。
なんだか私まで悲しくなってくる。この女の人にはこんな声を出してほしくない。安心してほしい、笑って欲しい、だから泣かないで、だから悲しまないで、だから『そんな事を言わないで』と言葉にしたい。
無論、私は声など上げれない。
痛みが引いていく。
どんどん、底なし沼の中に沈むように痛みが引いていく。これは引いていくのではなく、消えていくのかもしれない。そして、それと同時に身体の中から何かが消えていき、外にある大事な何かが消えていく感覚。
手を伸ばさなければいけないと本能が囁く。この手を伸ばし、掴み取れと囁く。同時に、外から中に染み込む黒い思念を追い出せと本能が囁く。手を振り払い、殴り飛ばし、切り裂き、絞殺し、放り投げ、撃ち滅ぼし、この外から内に入り込む思念を否定しろと叫んでいる。
でないと、大切なモノを、大切な者を失うと言っている。
「―――――」
女の人が囁いた。
男の人にではなく、私に向かって囁く。
酷く温かい言葉だ。でも、聞いた瞬間にゾッとする言葉だ。その言葉を否定しなければいけない。この言葉を迎え入れれば全てが終わる。何もかもを失った私の中から、それでも残された大切な『一部』が失われてしまう恐怖が襲ってくる。だから、否定しなければいけない。だから、抗わなければいけない。
動け、この出来そこないの偽物の身体。
否定、出来そこないは動けない。
拒否、偽物は偽物。
入り込む、黒。
失う、最愛。
駆け巡る、悪寒。
消失する、繋がり。
「――――――」
抱きしめられた。
悲しい程、体温が感じられる程に悲しい暖かさが消えていき、大切な何かが消えていく。私はそれに抗えない。抗うどころかこの出来こそないはそれを迎え入れ、歓迎さえしている。
意志は否定しても、身体は生存を望んでいる。
私は聞いた。
最後の瞬間、消失する最後の手前、私は声を聞いた。
私の中に戻る様に、それでいて別れを告げるように、女の人は言葉を残す。
最後の言葉を残し、私の中に戻るように消え去り、そして残った残響。
―――――フェイトは、生きて……
「―――――――ッ!!」
跳ね起きる。
眠りから覚めた頭が世界を見据え、今の自分の現状を即座に理解しようとフル稼働する。けれども寝起きの頭のように巧く稼働はしない。パソコンの起動に時間がかかる事と同義であるように、この頭は即座に世界を、現実を、今を理解出来ていない。
頭の起動まで一分を要し、そして私は世界を知る。
私は生きている。
どうしてか生きている。
先程まで感じていた痛みは存在しない。身体の中から綺麗さっぱり消え去っている。身体の正常。身体にはなんの変化も無い。顔を触っても普通の肌の感触。腹部を見ても穴など開いていない。
そして、右腕――――そこだけ、違った。
右腕に、消えた様な感覚があった右腕には肘先から手先まで、
黒い刺青が刻まれていた。
「…………何、これ?」
触ってみる。刺青は当然の事ながら肌に掘られており、表面上の手触りは普通の肌となんら変わりはない。でも、この刺青を触った瞬間に寒気がした。
あってはならない存在、とでも言う様に嫌な感覚が手を通して脳に伝わる。この刺青を今すぐに消してしまわなければいけないと囁く。だが、刺青を消す事は出来ない。簡易タトゥではないのだ、消せるわけがない。
だが、この刺青はいったなんなのだろう?
形は犬、いや狼だ。黒い狼が吠える図を描いているのか、獰猛な牙をむき出しにしながら吠えている刺青。
覚えがない。
こんな刺青を彫った覚えなど在るはずがない。そもそも、そういう趣味も思考も私にはない。首を傾げながら私はとりあえずその事を一端隅に置き、周囲を見渡す。
暗い場所だ。電気も光も無い、だが暗黒ではない場所。見覚えのある場所―――そうだ、ここは私の家だ。私の住んでいた家の一部、普段は殆ど入る事のない物置に近い場所だ。そんな場所にどうして私はいるのだろう――――そもそも、どうして私は生きているのだろう。
思い出す。意識を失う寸前の記憶を探り出す。探り出し、締め付けられるような痛みが心を支配する。眼の奥が熱くなり、胃が締め付けられ、頬が引き攣る。
自分の本当を思い出す。
自分の存在を思い出す。
全てが、偽りだという事を―――思い出してしまった。
「―――――!!」
狂いそうになる。頭を掻き毟り、この金色の髪の毛を全て引き抜き、眼球を抉りだし、心臓を握り潰し、この命を終わらせ、全てを否定したくなる。
だが、そんな事は無意味だと想った。想ってしまえば、後は簡単。立ち上がり、幽鬼の様に歩き出すだけ。
「…………」
どうして、生きてるんだろう。疑問ではなく、後悔に近い感情を抱きながら知っている場所から外に出る。
静かだった。
殺伐という言葉が似合わない。静寂という言葉が似つかわしくない。この静けさは重苦しい重圧でしかない。そして、この場所にいるべき資格のない自分はいったいどうしたいのだろうか……
聞けば、誰か答えてくれるのだろうか?
「――――お目覚めかな、お姫様」
背後から囀るような声に心臓が止まりそうになった。反射的にその場から飛び退き、背後の存在を確かめる。
「おいおい、それはオジサン傷つくぜ?もしくは悲しむぜ?それでなくとも最近は幼女と接していないのに幼女にそんな態度を取られたら――――寂しさのあまり犯すぜ?」
意味の分からない事を囀りながら、声の主は苦笑する。
「アナタは……」
「そうです。アナタの心の王子様、もしくは心のオアシス、もしくは幼女の前では口が裂けても言えないけど、この際だから言ってみようか試してみる素敵なセックスフレンド――――この世の全ての幼女の敵であり味方、ガルガさんです」
ガルガ・ガルムス―――そういう名前だったと想う。
「どうして、此処に?」
「どうしてって……まぁ、あれだ。現状視察?」
ガルガはそう言ってその場に胡坐をかく。
「座れよ」
「…………」
促されるように私はその場に座る。
「――――素直でよろしい。それで、身体の方は正常か?」
「…………」
「そんな警戒心むき出しな態度は良くないぜ?お前さんみたいな綺麗な子は笑う事をお勧めだな。ニッコリ笑って全部を敵に回すくらいじゃないと、この先厳しいぜ」
本当に何を言っているのか分からない。
そもそも、どうしてこの男が此処にいるのだろう。どうやってこの場所を訪れたのだろう。この場所は普通の人には絶対にたどり着けない次元の海に漂う要塞のような場所だ。転送するにも正確な場所を割り出されないように常にジャミングされているせいで発見する事すら難しいというのに。
「それにしても見事なお家だな。なんでこんな悪趣味な形をしているかは知らないが、立てた人の脳内を一度しっかりと検証するべきだと想うのだが―――まぁ、そんな事はどうでもいいな」
ガルガは私を舐めるように見ながら、
「――――で、自分のお姉さんとの感動の再会はどうだった?」
的確に、心臓を射抜く言葉を口にした。
「お前さんにそっくりだっただろ?何せ、お前さんのオリジナルだ。瓜二つと言うには些か表現が変わる気がするが、それでも見事なコピーだろ?お前にとってのコピーであり、向こうにとってのオリジナル……で、気分はどうだ?」
「最低です……」
この男の言葉は、本当だった。
「…………どうして、私にそんな事を教えたんですか」
「それはどっちの意味だ?教えてくれた理由か、それとも教えやがったなこの野郎という批判か―――まぁ、後者だろうな」
その通りだ。
知らなければよかった。知らなければ、知らなければ―――知らなければ、どうしたというのだ。
これは時間の問題でしかない。遅いか速いか、そして未来の時間が少しばかり前に出ただけの事。私はいずれこの真実を知り、そして今日の結果を迎えただけだ。
けれども、それに対してこの男に礼をする気などこれっぽっちも感じない。
むしろ、睨みつける。
「そうそう、そういう顔がちょうどいい……いいねぇ、幼女の怒る顔もいいが、憎む顔も素晴らしい」
嬉しそうにするガルガの気持ちを理解しろという気はない。この男の気を理解するという行為はどんな問題よりも難問だろう。きっと、答はない。答を導き出す公式もなければ回答欄すら存在しない。
最終的に、問題にすらならない。
「それで、これからどうする?」
「どうするって……どうも、しようがないよ」
「そうだな。どうもしようがない。どうしようもない。こればっかりはどうしようもない。どんな言葉で飾り立てようとも事実は事実だ……なぁ、この際だから家出とかどうよ?子供が意地張って家を出るという意味じゃなくて、本当に家を出て、そんで俺の嫁さんになるとか」
それだけは絶対に嫌だ。生理的に無理だと私は即答する。ガルガは残念そうに項垂れ、即座に復活する。
「どうして俺は幼女にモテないのかねぇ?こんないい男だってのに……まぁ、いいか。嫌よ嫌よも犯す内ってな」
激しく貞操の危機を感じる。
「――――家を出ても、行く所なんて無い……」
「無いから探すか作るのが人の性らしいな。俺はそんな事をせずに適当に放浪するがね。旅先で会った幼女と濃厚な関係を気づき、飽きたら捨てて、また次の場所へって感じでな……だが、それも飽きた所だ」
ガルガの口元が吊り上がる。
「俺は心の底から愛する女が出来た。今はその女の為に全てを擲って、そして愛し抜くと決めた―――言わば、俺は愛の狩人だ」
「嘘臭い」
「嘘だからな。どっちかと言えば、愛の略奪者ってとこだな―――ん、それって恰好良くね?」
「まったく想わない―――ねぇ、私……もう行っていいかな?」
「何処へ?」
「何処かへ」
「行くアテも無いのにか?」
言葉を失う。
「止めとけ止めとけ。今のお前さんが行くべき場所なんて何処にもありゃしねぇよ。歩くだけ無駄、走るだけ無駄、飛ぶだけ無駄―――目的すらないお前には何をして基本的には無駄なんだよ。放浪するのだって放浪するっていう目的があるからするんだよ」
言い返せない。
「自暴自棄では意味がない。何もかもが無駄だ。無駄は省こうぜ?省くべき無駄を無駄にして、無駄のない無駄で余生を過ごそうぜ」
ケタケタと笑うガルガはそう言って煙草を取りだす。
「それによ、お前には何にも無いだろ?何にも無い。誰もいない。縋るべき者も思念もない奴の放浪ほど無様なモノはないぜぇ」
煙草を一本取りだし、指先から小さな火を出して火をつける。これも魔法だろうか?だとしたら、なんて無駄な魔力の使い方だろうか。
「――――とりあえず、目的を持つ事から始めるべきだな。何でもいい。生きたいという目的でもいいし、逃げたいという目的でもいい。そんな一念を抱く事から始めるべきだ。じゃないと、生きるだけ無駄で逃げるだけ無駄だ」
「…………アナタの言っていることが、理解出来ない」
「理解しろとは言って無い。だって、適当に言ってるだけだからな。頭の中に出てきたワードを適当に選別して口に出してるだけの行為だ」
煙草の煙が吐き出される。私に向かって。煙草の匂いが気持ち悪い。
「それとも何か?この場で一発逆転、素敵でコロっていっちまうような素敵な慰めでもしろってか?趣味じゃねぇな。柄でもないな」
そんなモノは必要としていない―――そう言おうとしたが、それ以上に私は気持ちが悪い。ガルガの吸った煙草の煙が気持ち悪い。
なんだ、この感覚は?
煙草の煙を嗅ぎ慣れているわけではないが、それでもこんなに気持ちが悪くなる事はありえない。いや、それだけじゃない。この場所の匂いがそもそもおかしい。如何に自分が長年この場所を訪れていないと言ってもこんなに悪臭の漂う場所であるはずがない。
カビの匂い、煤の匂い、古臭い書物の匂い、全てが必要以上に嗅覚を刺激し吐き気を感じる。
この場所はこんなに臭かっただろうか?
「ん、どうした?気分が悪そうだな……あぁ、これか」
自分の手にある煙草を見て、納得したようにガルガは笑う。そして、煙草の煙を私向けて近づけ――――瞬間、その悪臭に私は反射的にガルガの手を払う。
「――――臭い……」
「あぁ、そうだろうな」
床に堕ちた煙草をガルガは指先で消し、私を見る。
「この場所を今のお前からすればかなりの臭さだろうなぁ。だが、それもいずれ慣れるさ。今はお前の『人間』としての部分が『狼』の部分に慣れてないだけだ」
「どういう、意味?」
「そのままの意味だよ。今のお前の嗅覚はまさに犬並み。人間では嗅ぎとれない匂いを嗅げるし、人が無臭に感じる物でさえお前には嗅ぎ分けられる」
何故だろう。
今の言葉を聞いた瞬間、私は何か大切な事を見落としていた気がする。大切な事、本当に大切な、掛け替えのない―――何か、
「だが、流石って所だな。こんなに巧く『接合』が出来るなんて俺もびっくりだね」
そして、それに気づく前にガルガはソレを口に出す。
「で、どうよ?」
「―――――――お前さんの使い魔の嗅覚を得た気分は?」
歩く。
「疑問に思わないのか?」
歩く、歩く。
「どうして自分が生きてるのかっていう疑問だよ」
歩く、歩く、歩く。
「はっきり言って、お前は死んでもおかしくない状態だったね―――ってか、ぶっちゃけ死んでたに近いかな?全身に重度の火傷、右腕を破壊された事によっての大量出血、わき腹を電撃が貫通した事によって臓器の一部消失―――どんな名医でも確実に死ねる」
暗い夜道を歩く様に、慎重に周囲を見渡しながら私は歩く。
でも、慎重にという意味ではない気がする。どちらかと言えば、これは自分の視界にこの光景を記録させているという意味が近い。
「そんなお前を連れて来たのは、お前の使い魔だ。確か……アルフとか言ってたな。ソイツが今にも死にそうなお前を連れて逃げてきた。其処へ偶然にも家宅侵入していた俺とバッタリ」
この光景を忘れるな、自分に言い聞かせる。
「いやぁ、凄い剣幕だったぜ?何せ、お前のせいフェイトが死にそうなんだとか、そういう言いがかりをつけるんだもんでよ。言いがかりだよなぁ。俺は単純にお前に本当を教えてやっただけで、その後でお前がどうするかなんて予想出来るわけないよな?」
この場所を思い出す為に刻みつけろ。
「俺に出来る事はあれだ、予想じゃなくて――――確信だね。お前が俺から本当の事を聞いたらきっとこうすると確信してた。俺の言った真実を否定して、否定する為に母親に会いに行って、そして本当かと問い詰めるという確信だけだ。予想なんてしてない。何せ、確信だからな――――そう言ったらソイツがマジギレするわけよ。困り果てた俺はしょうがないからお前のご主人様を助けてやるって言ったんだ。うん、俺って相当の善人じゃね?善人なんて糞がつくほど似合わないけど」
私は忘れない、この場所を……
「だが、困った事に死んだ人間は生き返らせない。これは絶対だ。死んだ人間は生きる人間よりもシンプルに出来てるが、それを生きる人間に作り替える事は不可能なわけよ。これは神様でも邪神でも無理だ―――そして、俺の眼から見てもお前は完全ではないが死んでいる側の人間に入っている」
私は忘れない、偽物を思い出を……
「そういえば、使い魔って奴は主人が死んだら死ぬんだよな……だとすると、案外お前はあの時はまだギリギリ死んでない方にいたのかもな―――で、そんな今にも死んだ側に行きそうなお前を助ける術を俺は一つだけ持ってるってわけだ。だが、何事も等価交換って奴は必要だ。俺に得があるとか無いとかじゃない、ルールの問題だ」
例え、この全てが消失したとしても、私は忘れない。
「知ってるか?世界にある命って奴は全てが一つだ。その一つを失えば一つは完全に消滅する。消滅したモノは当然消えるし、作り直す事も出来ない。特に『お前等』の様な『主軸』にいる奴等はな……」
この場所も、忘れない。
「――――それでも、裏技はある。普通の神様じゃ出来ないし、まずやらない。でも俺は神様じゃないしそんな普通を守る気はさらさらないわけだ。だから、俺は裏技を使った。裏技を使ってお前を生きる側に引っ張り込んだわけだ」
私の足音は聞こえない。足音は響かず、無音の足音だけが空間に響く。無音という静寂は耳鳴りに近い音を発している。
「すげ替え、俺はそう呼んでる。生きている人間と死んだ人間がいるとすれば、生きている人間でなくなった人間は当然死ぬ―――そうだな、これを『御伽話』にするとしよう。お前はお姫様、使い魔は王子様、母親は悪い魔女で姉は適当だ。御伽話での主軸は当然お前と使い魔だ。そして、今回の事象はその主軸の一人が死んでしまったというトラブル。さぁ、困った。これでは物語を進めれない。このままでは物語が悪い魔女の勝利で幕を閉じてしまう……困った、本当に困った――――だから、こういう考えをしてみる事にした」
私の脚が止まる。
「――――――死んだのを逆にする。お姫様は生きていて、王子様が逆に死んだ。どっちかが死ぬとしても、物語の上ではお姫様がハッピーエンドでなければいけない。だから、お姫様を生かす為に王子様には死んでもらう」
止まった先にあるのは、暖かい光のある場所。
「考えても見ろよ。沢山の物語の中でお姫様の最後は大抵はハッピーエンドだ―――だが、それはお姫様のハッピーエンドであって王子様のハッピーエンドじゃない。王子様はハッピーエンドになる存在ではなく『ハッピーエンドを運んでくる存在』だと想わないか?例を上げるとすれば『白雪姫』だ。これはタイトルの通りに白雪姫が主役で、王子は実は名前も無い存在だ。次に『眠れる森の美女』だ。これは当然の事ながら主役と主軸は眠りの美女、王子様はその引き立て役でしかない」
家族の談笑が聞こえる。
「このどちらも物語を構成するに値する人物はお姫様だけだ。王子様じゃない。そもそも王子様である意味ですらない。王子様ではなく名も無い村人でもいいし吟遊詩人でもいいわけだ。王子様なんて夢物語チックな存在なんて実はすげ替えが幾らでも出来る奴なんだよ。まぁ、単純に王子様の方が夢があっていいってだけの話だろけどよ―――つまり、王子様という役をすげ替えればいい。王子様から名も無き村人へ、王子様からしがない兵士へ、王子様から最低ない悪党へ……ほら、王子様である意味なんて何処にもないだろ?結局はお姫様さえ幸せなら御伽話なんて幾らでも成立出来るわけなんだよ」
其処にある平穏を、私は息を殺して見ている。
「お姫様を殺したら物語は終了。ハッピーエンドになるべきはずの奴がいなくちゃ何の意味もなくなる。だから、死んだのは王子様にするんだよ。王子様の代わりを別の奴にすれば王子様を殺しても物語は進む。その考えを応用し―――使い魔の命をお前のすげ替えたってわけ」
笑っているのは母さん。
笑っているのは私の本物。
「まぁ、使い魔なんて主の魔法で生かされてるわけだから、命のすげ替えなんて普通は無理なんだがよ―――だが、その存在にも『存在』っていう確かな力があるのも事実。生命とかそういう具体的なものじゃなくて、存在っていう認識出来ない『何か』さえあれば、それをすげ替える事は可能」
家族団欒―――そんな、そんな羨ましい光景。
「そして、結果は成功。お前は死ぬ側には堕ちずに生きる側に停滞できたってわけだ。嬉しいだろ?最高だろ?お前は生き残った。お前が従者として選んだ『道具』を犠牲にしてお前は生き残った。しかも、優しい俺からの素敵なプレゼントとして使い魔の『余り』をお前にくれてやったんだぜ?これを最高と言わずになんていう!!」
その光景を見た瞬間、右腕は痺れた。
「…………アルフ」
まるで私を止めようとするかの様な痺れ。この腕に刻まれた刺青に宿る意志の欠片が警告するようだった。
けれども、私は腕をぎゅっと押えてそれを黙らせる。
コレはアルフじゃない。
ガルガの言う事を鵜呑みにするのなら、コレはアルフの存在の『余り』だ。彼女の自身ではない、彼女の意志も無い、意志のない『存在』という訳のわからない余りだ。
だから、そんなモノが私に指図する事を許しはしない。これはアルフじゃない。
アルフは死んだ。
私が生き残り、アルフが死んだ。
いや、死んではいない。
「そうそう、一応言っておくけどよ。存在のすげ替えってのは普通に死ぬよりも達が悪いんだよ。何せ、すげ替えたのは存在だ。これは世界的には魂って言っても差し支えないだろうな。魂という存在は一人に一つ。輪廻転生を掲げるなら絶対無二の存在だ。それをすげ替えるっていうのはどういう意味か――――簡単だ」
それは、この世界から存在を『消滅』させるという事らしい。
生き返りもない、生まれ変わりも無い。地獄にも行かず、天国にも行かず、完全な無になる。考える事もないし、苦しむ事も無い。完全な無。
それはどんな感覚なのだろうか。
存在の消滅というのはどんな事なのか、私は実はこれっぽっちも理解出来ていない。そもそも、ガルガの言う事が真実だという意味すら曖昧だ。
信じられない―――だが、それは些細な事だ。
ガルガの言葉が戯言だろうと妄想だろうと関係ない。
アルフが死んだ―――それだけ
なのに、
だというに、
目の前にある光景は、
失った者を、
まるで、
侮辱し、
侮辱し、
侮辱し、
「――――――美味しい?」
「うん、美味しい!!」
侮辱し、
侮辱し、
侮辱し、
「私、お母さんのご飯だ~いすき!!」
「そう、よかった……」
侮辱し、侮辱し、侮辱し、侮辱し尽くし――――安穏と平穏を続けている。
いい、私はいい……私は我慢できる。そうだ、私は我慢できる。母さんが笑っている。あんなに嬉しそうに笑っている。私を殺そうとした笑顔ではない、私には一度たりとも見せた事の無い素敵で綺麗な笑顔で笑っている。それだけで私は我慢できる。
だから、これでいい。
右腕が疼く。
これ以上のハッピーエンドは必要ない。
右腕が騒ぐ。
これ以上のハッピーエンドは必要ない。
右腕が、五月蠅い。
私は悪い魔女。母さんは王子様、アリシアはお姫様。悪い魔女は退治され、雷に焼き尽くされ、そして二人は末永く幸せに暮らしました―――それで、物語は終わる。
目の前で繰り広げられるおままごとのような幸福から眼を背け、私は歩き出す。
その日、私はアリシアを絞殺した
私は全てを失った。
この手には何もない。
この想いは偽物で、この身体も作り物で、私の全てが嘘で偽りで虚無で、最終的に何一つとして手に入らなかった。
後悔というよりは、未練だろう。
そう、未練がある。
あの場所にいられない私が惨めでしょうがない。こんなはずじゃない世界を目の前にした私は余りにも無力だ。手を伸ばしても届かない、声をかけても無視され、ようやく手にいれた全てがあやふやな幻想だった。
最初から、私には何もなかった。
手からこぼれ堕ちる砂すら私の手にはない。
だからだろう、
私は、佐久間大樹が大嫌いだ
最初は、どうでもいい人だった。拠点の隣に住む年上の人で、出る時に何度か挨拶をする程度に認識で、それでも会えば少しは話しくらいして、本当にその程度で十分だった。それがどういうわけか彼の知り合い、友達かもしれない女の子が彼の部屋を訪れた時に偶然会い、よく分からないうちに部屋に引っ張り込まれた。
そこで、彼と女の子は喧嘩した。最初は私のせいでそうなったと想った。なんて勘違いな奴だと今では思う。だから、そんな二人には仲直りしてほしくて彼の後を追った。しかし、見つからない。どれだけ探しても彼の姿は何処にもない。もちろん、私にはやるべき事がある為、彼の捜索などいう寄り道をしている暇はなく、その結果として私の手の中にあの携帯はとどまる事になった―――その間、何度も何度も鳴りだす携帯。こうも何も出るのなら一度くらいは出てみようかと想ったが、そんな勇気も無い。だから、時々鳴りだす携帯をじっと見つめる事しか出来ない自分が腹立たしいとさえ想えた。
その結果、私はあの晩、女の子の屋敷を訪れた。
そんな行動の結果が全てを壊し、真実を露見させる結果となった。
屋敷になど行かなければ良かったと想うのならば、それ以前にしなければ良かったと想う事が山ほどある。もしも、あの日に彼の誘いを強引にでも断っていれば。もしも、彼が話しかけても無視していれば。もしも、エレベーターホールで手伝ってもらわなければ―――でも、ければ、ならば、言い訳がましい言葉しか浮かんでこない。
今更だと割り切る事も出来るが、今更だと割り切るには関わりすぎた。私には母さんとアルフ以外に関係の深い人がいないせいで、人との距離が巧く掴めないのも事実。その事実が私の中で何かを狂わせ、無駄なお節介を焼いてしまった。
後悔している。
後悔しても始まらないと知りながらも、後悔しか出来ない。
会わなければ良かった。
出会わなければ良かった。
そんな過去を後悔した私でも、コレが私に残った最後のモノ。だから、この最後だけは守りたいと想った。最後まで守り、そして見届け―――現実的に、自分を終わらせようとさえ想っていた。
想っていた、のに……
「―――――」
この人は、この男だけは嫌いだ。
ううん、嫌いどころじゃない。私はこの男を憎悪する。
この男の存在が許せない。この男の言葉が許せない。
「―――――」
昨日、星空の下、この男の言葉を聞いた瞬間、私はこの男を屋上から突き落としてやろうという衝動すら覚えた。
この男はなんと言った?
この男は自身の手にある大切なモノをどう称した?
私は、そんな事の為に彼の元を訪れたわけではない。全部を失くした私の中に残った唯一の物。私の物でないコレ、コレがあるのに、コレがまだ二人を繋げているというのに、この男はそれすらも断ち切った。
それが、許せない。
伸ばせば届くのに、
声をかければ届くのに、
そこにあるのは、幻想でもない本物だというのに、それを―――リセットするとこの男は言った。
許せない。
許せるはずがない。
「――――――」
何も失っていないのに。何一つ悪い事をしてないのに、それを簡単に切り捨てるというのは許容できる範囲の事ではなかった。だって、この男は私とは違う。私とは違うという事は本物だという事だ。何処にも誤魔化す要素がない綺麗な存在なのに、それを自身の勝手な理屈と傲慢で切り捨てるというのなら、
何も失っていないのに、その大切さを棒に振る奴を―――憎悪しないわけがない
もう一度、あの子に会って欲しとは願っている。けれども、こんな男をあの子に会わせて、あの子は幸せになるのだろうか、そんな疑問が残る。
この男は自分の事しか考えていない。自分の事だけを最優先にして、他人の事などこれっぽっちも考えてないのではないのではないか。
以前の、私と同じように。
そうだ、これはきっと同族嫌悪という感覚なのかもしれない。初めて感じる感覚。その闇よりも黒い感情は自分でもゾッとする程に怖いと自覚するのに、それでも気持ちは止まらない。止まらないからこそ、この実力の差がありすぎる戦いを見ている事が辛い。
無意味ではない、でも見たくない。きっとこの先に何らかの結末があり、もしかしたら奇跡のような事が起こり、御伽話のようにハッピーエンドで終わるかも知れない。
―――もしかしたら、私はそれが許せないだけなのかもしれない。
同族嫌悪、自分と同じような存在を見てるからこその嫌悪感ならば、その同族が自分と同じように、自分よりも多くのモノを持っていると知った時、それは嫌悪ではなく嫉妬に変わる。
嫉妬している。嫉妬する程に大切なモノが其処にあるのに、その繋がりを、大切な過去を、『何一つ汚れていない』その関係を自分の口で凌辱する事に、私は嫉妬以上の黒い感情を持っている。
負けてしまえ。
膝をついて、二度と立ち上がるな。
口から出そうになる暴言を押し留める事で精一杯だ。
殴られても立ち上がる、何度も立ち上がる姿を見ていて彼を憎む気持ちと、そんな事を考える自分の卑しさを痛感する。
もう、止めろ。
もう、止めて。
これ以上は、見たくない。
これ以上は、見る事が辛い。
彼に向けて放つ憎悪も、彼に向けて放つ嫉妬も、そんな自分に憎悪する私も、そんな自分に嫉妬する私も、何もかもが―――最低でしかない。
「――――――」
自分で自分の事を好きになれない、嫌いだと彼は言った。自分の弱さ、自分の卑劣さ、自分の傲慢、そして否定してしまう自分が嫌いだと彼は言った―――でも、自分が嫌いなのに生きているというのは、きっと凄く普通な事なのかもしれない。嫌いだけど自分だから、その自分の向き合うのが嫌で眼を背けているのも生きている実感の一つ。彼はそんな実感をどの位の間、抱えながら生きているのだろう―――私は、その重さに耐えられないだろう。
本物ではなく、偽物の自分。
価値もない存在の自分。
そして、自分が嫌いな彼は自分を恥じながらも立ち続ける。綺麗事を口にしても嫌悪し、絵空事を想像しては嫌悪する。何をしても自分の本当が見えない。本当という誤魔化しのきく想いを、そういう想いだと想い込みながら生きている辛さ。
そして昨日、彼はとうとうそれを諦めた。今までの自分を否定し、諦めという形で終わらせた。それでも、終わらせたはずなのに、彼は立とうとしている。
「―――――」
何度も言う。
私は佐久間大樹が大嫌いだ。
手に入ってるモノを終わらせ、それを捨て去った彼を私は憎悪している。心の底から、心の先まで、消える事のない黒い炎で彼を見続ける。
大嫌いだ。
大嫌いだ。
大嫌いだ―――――だから、お願いです。
「――――――頑張れ」
彼に聞こえない声で、
「頑張れ……」
届かない小さな声で、
「頑張れ……」
立ち上がる彼に向けて、大樹に向けて、
「頑張れ……負けないで……絶対に、負けないで……」
これ以上、大樹を嫌いになりたくないという願いを―――言葉にする
人質はリリカル~Alisa~
第五話「全ては喪失」
―――――それは、唐突だった。
大樹が何十回も繰り返した大雑把な一撃を振り回した瞬間、それまでかすりもしなかった動きが、急激に変化した。
素人のような振り回しが、不意に変化する。
緩やかな曲線を描いていた動作が急激に、折れ曲がる。
「―――――!?」
その軌道に初めて鮫島の眼が見開かれる。避ける動作ではなく、受ける動作。腕で顔を守る防御の構えを作る。ここにきて初めての防御。その防御した腕に大樹の拳が突き刺さる。
ドンッと響く程の重さを込めた一撃に聞こえた。事実、ガードした鮫島の身体が微かに後方に退き、小さな呻き声。
「ん、中った?」
それに一番驚いたのは私でも鮫島でもない、大樹本人だった。
「…………ん~」
不思議な顔をしながら腕を回し、それから手首をぷらぷらさせ、首を傾げる。
「なんだよ、今の?」
それは私が聞きたい。あの瞬間、彼の腕のキレが急激に進化したようだった。その急激な変化、進化に驚いた鮫島の反応が微かに遅れ、結果としてガードする事になったと彼は気づいていないのだろうか?
「…………」
自分の手をしばし凝視して、何かに気づいたのか微かに驚愕の表情を作る。
「あぁ、そういう事か……」
今度は苦笑する。苦笑しながら―――構える。
そう、構えた。
今まで素人が喧嘩をするような仕草ではなく、何処となく様になっている構え。
鮫島が拳闘の構えをする様に、大樹は右手を天に突き出すように、左手で地面を掴み取るように下ろし、歩幅を前後にズラし、進むも退くもどちらにも対応できる構え。
格闘技にあまり詳しくない私にはアレがなんの構えかは知らない。でも、その構えを取った瞬間に彼の隙が格段に減った。無論、まだまだ隙だらけである事には変わりないが、それでも先程と違う事は一目瞭然。
「――――佐久間様は、空手の経験でもあるのですか?」
「知らん。なにせ、記憶喪失だからな」
「ほぅ、ではその構えが何を現すのかはご存じで」
「だから、知らん。勝手に身体が動くんだよ―――でも、何となく分かる」
ボロボロ顔で無理矢理に作った無骨な笑みを返す。
「俺はコレを知らない。でも、知っているっていう意味では理解できた」
「おやおや、謎かけですかな?」
「答は無いぞ?俺だって知らないんだ――――だがな、」
右腕を天、左腕を地に、
「知らないけど、知っているっていう感覚は気持ちが悪いぞ」
脚を前後、腰を微かに落とす。
これで型は完成したのだろう、静寂がそれを物語る。
鮫島の顔から表情が消える。消える代わりに先程までしていなかったステップを始める。まったく同じテンポで、それでいてリズミカルに動きが、変わる。
ワン、ツウ、スリー、フォー、ファイブ―――シックスで弾丸の様に飛び出す。
ワンステップで大樹の目の前に到達、そこから右脚を踏み込み、拳を弓の様に引く。大樹は動かない。動かない大樹を尻目に鮫島はそこから踏み出した右脚を捻り、引いた腕が大樹の横から一気に襲い掛かる。
結果として、私には見えなかった。
見えないが、結果は残った。
鮫島の攻撃は当たらなかった。当たらず、彼はバックステップで後退する。後退しながら突き出した腕を抑え、苦笑している。
「――――驚きました……危うく、折られる所でした」
「へぇ、これってそういう技なんだ……教えてくれてありがとよ」
「ですが、仕掛けもわかればなんて事はありません。これでも私は拳闘こそが最高の格闘技だと信じている口でして……二度目はないですぞ?」
「そうかい。けどよ、まだ続くぞ」
そう言って大樹は構えを解く。そして、そのまま別の構えに移行。
握った拳を開き、右腕を腰に、左腕を前に突き出す。
「今度は……拳法ですか」
「らしいな。でも、やっぱりよく分からん。どうしてこんな事が出来るかも知らんし、気分的にはアレだよ。マトリックスの劇中にあった格闘技をインストールして使えるような感じに近いかも」
「佐久間様、映画と現実をごっちゃにしてはいけません。そんな格闘家の九割を敵に回すような機械など存在しません」
「知ってるけど、本当にそんな感じなんだからしょうがないだろ――――だからよ、鮫島さん……」
大樹の顔には笑みがある。
これでようやく同じ立ち位置になったと誇るような、力強い笑み。
「本番は、ここからみたいだぞ?」
あとがき
なんか、何を書きたいのか自分でもわからない、な散雨です。
間話のつもりが普通に一話なってしまったZE……以上、特に書く事なし。
次回は「マトリックス的学習法」で行きます。
PS,村正を買いました。おもろいね、アレ……