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[10257] 王の名を継ぐ者~マケドニア戦記~
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:e30467db
Date: 2010/03/05 19:18
プロローグ





思っていたよりはるかにものものしい雰囲気にオレはすっかりとまどっていた。

なにせこの身はブカレスト国立大学の史学科四年生………どこにでもいる一大学生にすぎない。

それがなぜこうも大事になっているかというと…………。





五年前、過去を遡る夢の機械が誕生したせいであるのであった。









ウルバンというハンガリー人が生み出したそれは、SF的な意味でいうタイムマシンにほかならなかった。

その理論はとうていオレが理解することなどできないものであるが、要約するとこうである。





個々人には遺伝子的共時性というものがある。

この共時性の適合率が八割を超える過去の人物に憑依することができる。

ただし、あくまでも観測するだけで主体的に過去の人物を自らが動かすことはできない。









なんだ、結局過去に干渉することはできないんじゃないか。

ということなかれ、この発明により歴史学は百年は進んだと言われているのである。

だが、逆に言うと歴史学くらいにしか使い道がなかったとも言える。

なぜなら適合率が八割を超えるというのは実のところ奇蹟のような確率であって、とても自分の好きな時代の好きな人物に乗り移れるようなものではなかったからだ。

体験するだけなら、現代のVR技術はより好みを押さえたダイナミックなものを娯楽として提供することができる。

極端なことを言えば、VRの世界では世界征服もハーレムも思いのままだ。

わざわざ過去に飛んで日常の苦労をともにする理由がなかった。

もちろん過去から得るべき技術的発見などあるわけもない。

はっきりいって学術的興味を満たす以外に使い道がなかったのである。

もっともこれで歴史を操作できるかもしれない、ということになれば世界中に今なおはびこる国粋主義者や原理主義者が黙っていなかっただろうが、そうはどっこい問屋がおろさなかった。

憑依した人物を自らが主体的に動かすことは99.999999%の適合率があれば可能であることは理論的に立証されているのだが、狙った時代にたまたま99.999999%の適合率を持つ人間のいる確率はおよそ4500億分の1………彗星がこともあろうに三連発で地球に激突する確率より低いとされたのである。

統計学的にいえば30万分の1より低い数字はないものとして扱ってもかまわないと言われているのにだ。

しかも遺伝子治療が一般化した二十一世紀後半以降の人間には憑依できないとあれば現在の政治工作にも利用が難しい。

この四年間、各国の研究機関はウルバンのタイムマシンを能動的に動かす可能性を探っていたのだが、昨年遂にその見込みがないことを認め、政治的配慮から十八世紀以前にかぎりその普及を許可したのであった。





そうしてうちの大学にマシンが運び込まれたのが先月のことだ。

史学科の生徒全員に適合検査が行われた。

オレは専攻するルーマニアの歴史とヴラド三世の時代について適合検査を受けたのだがあえなく撃墜。

やはり自分の好きな時代に飛べる確率の低さを身をもって体験するはめとなった。

ところがある日学部長の突然の呼び出しを受けておっかなびっくり駆けつけてみると、どうも古代ギリシャ・ローマ時代に適性があるらしい。

もともとヘレニズム文化を専攻している学部長はそれこそ涙を流さんばかりになってオレにタイムマシンへの搭乗を依頼した。

当時に飛んでもらうだけで大学院の特待生枠を確保し、有益な発見がなされた場合には研究者としての将来が開けるとあっては小市民のオレに断る選択肢など存在しない。

嬉々として学部長の手をとり万事お任せくださいと言ったのが昨日のことである。



「これ………本当に安全なんでしょうね………なんだか不安になってきたわ」



そういって腰まで届こうかという見事な金髪を揺らして見せるのはオレの幼馴染………にして去年から恋人に昇格したシャーロッテ・クベドリアスだった。

とりわけ脳に直接打ち込まれる数十に及ぶナノセンサーがなんとも言えぬ深刻さを浮き彫りにしてくれていた。

さすがにここまで大掛かりな代物だとはオレも予想していなかったのだ。



「大丈夫だろ………いくらなんでも………」



といいつつも冷や汗が流れるのはご愛嬌だ。

安全だと言われても怖いものは怖いのである。理屈ではないのだ。



「おお、来てくれたね。全く君がうらやましいよ。私がどれほど行きたくとも行けない古代ギリシャ世界をその目で見れるのだからね」



ほがらかに笑いつつも内心の嫉妬の色を隠そうともしない学部長が、セッティングを続ける技師にまぎれてオレの到着を待っていたらしかった。

変われるものなら変わりたいよまったく。



「こんな機会を与えて下すった学部長には感謝しております」



そう内心では思いつつも口ではゴマをするオレ。

研究を続けるためには手段を選んではいられないのだ。

大学は残念ながら今も昔も実力以上にコネがものをいうのである。



「……………………」



そこ!呆れた目でオレを見ないように!だって綺麗ごとではないのだよ、現実は!





「君の専攻は中世東欧だったと思うが………古代ギリシャ・ローマについては大丈夫かね?」



「門外漢ではありますが、さすがに基礎的なことぐらいは………」



実際のところ論文レベルでもないかぎりはひととおりの知識はある。

史学部の名は伊達ではないのだ。



「ならばわかっているとは思うが、君が憑依する人物はレオンナトスというマケドニアの武官になる。推定適合率は九割以上というからかなり鮮明な記憶を得られるはずだ。私が最も知りたいのはアレクサンドロス三世の死因が本当に病死なのか、それとも青年将校たちによる毒殺なのか、ということだ。レオンナトスがそれを知りえたかは微妙だが、大王の友人のひとりである以上病中見舞いをする機会ぐらいはあったはずだ。大王の事跡は後代にあまりに脚色されすぎておるし、そのあたりの等身大の大王の人となりについても、ぜひ細大漏らさず注意を払って記憶を持ち帰ってほしい」



適合率が九割以上と聞いて思わずオレは唸ってしまう。

それは現在の世界記録に迫るのではないか?

普通は数十万人にひとりがようやく八割そこそこで、いまだに九割を超えたという話は聞いたことがなかったはずだが………。



「これまでの事例ではまるで映画の中にいるようなものだったらしいが、あるいは君なら触感や嗅覚まで味わえるのかもしれないな。なにせ世界初の九割適合者だ。私はうらやましくてしかたがないよ」



そんな世界初はいりません。



「準備完了しました」



スタッフのひとりが学部長に声をかけるのを合図に巨大な機械が一斉にランプを明滅させ始める。

その圧迫感は小心者のオレを萎縮させるには十分なものだった。

とはいえ不安は隠せないがこれも出世のためだ。





「断っとくけど戻ってこなかったら別の男探すから」





不安そうなオレを慰めてくれないばかりか極上の笑みを浮かべて断言するシャーロッテがいた。

…………それはあんまりな言葉ではないだろうか、恋人よ。





「本当に危険はありませんよね?学部長」



「まあ、99.9999999%の適合率があれば憑依者が本人の意識を乗っ取ることが可能らしいから、それで大きく史実を変えてしまうと戻れなくなる可能性があるらしい。こればかりは前例がないのでなんともいえないがね。理論的にはほぼ99%以上の確率で帰還はできなくなるそうだ。もっとも、そんな事態になるなどこの地球に彗星が激突して人類が滅亡する確率よりさらに低い確率だがね。ウルバン教授に聞いた話では歴史にはある程度修正力があるので小さな違いくらいは問題にはならぬそうだよ。ただし歴史に記されるような大事件を変えてしまったりした場合、世界は平行世界に移行してしまって帰還できなくなるから注意して欲しいそうだ。まあ、そんな事態になることは実際ありえないのだが」



そう話している間にも、着々と実験動物のようにセンサーを埋め込まれていくオレ。

現地時間で何年過ごそうと、戻ってしまえばわずか数時間にすぎないのだから好きなだけ古代のロマンを満喫してきたまえ、などと学部長はのたまっているがとてもそんな気分にはなれない。

そんなオレを慰めてくれるのは、悪態をつきながらも心配気な視線を送ってくれるツンデレなシャーロッテの存在………。





「ちっ……保険をかけておくのを忘れたわね………」





戻ったら絶対に付き合いを考えさせてもらうからな!





「これは最後の忠告なのだが………もし万が一緊急事態によって帰還できなくなったならば……おとなしく天寿の全うを待ちたまえ。死者には憑依ができないからね……あせらず史実どおりの死を迎えるのが一番安全な帰還方法だそうだよ。もちろん、これは万が一、万が一の話だがね」



学部長がメフィストフェレスに見えてきたのは気のせいだろうか?いや、気のせいだと思いたい。



「本当に大丈夫なんでしょうね?メムノン学部長!!」





不安に耐えかねるオレをなだめるように手を振りながら実に楽しそうに学部長は言った。







「この世に絶対などというものはありはしないよ、ヴラド君」










[10257] 第一話 邂逅
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:e30467db
Date: 2009/07/12 23:08


「何か気になるものでも見えるのかい?」



気が付けばいつの間にかオレの隣で女性的で目もくらむような美貌の優男がなんとも不思議そうな視線をオレに向けていた。



…………誰?



記憶の糸を手繰るとなんの障害もなく一人の男の名が脳裏に浮かび上がる。

彼の名はエウメネス、国王陛下の筆頭書記官を務める男だ。



はい……?エウメネス?っておいおいあのカルディアのエウメネスかよ?



カルディアのエウメネス

マケドニア王家最後の守護者にして悲劇の名将

英雄伝中の人物の登場に思わず歴史好きの血が疼いた。



それにしても黒く艶やかな髪を後ろで束ねて微笑んだその美しさはとうてい生半の美姫では及びもつかないほどだ。

涼やかな黒曜石の瞳、すっきりと整った鼻梁、赤く小さな唇の形すら艶かしく感じられる。

あのエウメネスがまさかこんな女みたいな容姿をしてるとは思わなかったよ!









ん………?ところでオレは何か重要なことを忘れてはいないか?









確か過去では自立して行動はできないはずじゃなかったっけ?

………確か99.9999999%の適合率が必要で彗星が激突する確率より低いとかなんとか………







ありえねえええええええええええ!!







戻る!すぐ戻る!今戻る!瞬時にして戻る!この際出世とか言ってられるかあああああ!!







…………現在この回線はお客様の都合により使われて…………プチッ







あっさりとリンク断絶。





あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!







「え~と……レオンナトス、何があったのかわからないけど、そう気を落とさずに………」



こめかみから一筋の汗を流してドン引きしているエウメネスを気遣う余裕もなかった。

まさかこんな時代に島流しにされる日がこようとは………!

メムノン学部長!あなたを犯人です!



「ああエウメネス、こんなところにいたのですか!王がお呼びですよ」



「ああ、すまないねヒエロニュモス。レオンナトス、なにかあったらいつでも相談にのるよ?」



名残惜しげにその場をあとにするエウメネスに思わず一瞬洗いざらいぶちまけたくなったが、かろうじて自制が間に合った。

それをしたら完全に戻るすべが失われてしまうことに気づいたからだ。

オレは必死になって学部長のレクチャーの内容を思い出す。





戻るときには意思の力でスイッチを押す。

………手ごたえはあるが反応はない。うぐっ――いかん、クールになれ。

万が一帰還できないようなことになったら……最後の手段として歴史を改変せず天寿を全うするのを待て………だったか?

現状ではそれだけがオレを未来へと帰還させてくれる希望だ。

確かレオンナトスは後継者戦争の最中にアンティパトロスを救援にいって戦死してるんだよな……それまで待てってのかよ。



「あのう……………」



遠慮がちな声を感じて振り向けば、小動物的ないじめてオーラを発しているいかにも善良そうな青年がオレに視線を向けていた。



「なんだい…………?」



「よろしいのですか?レオンナトス様、そろそろ軍議になろうかと存じますが…………」



ここで再び記憶を解析する。



…………しまったあああああ!オレも軍議に召集されてた途中だったじゃねえか!



「ありがとうヒエロニュモス!このお礼はいずれまた!」







内心の動揺に身を任せる余裕もなく、オレは王の天幕へと走り出した。

急がなくてはならない。なにより歴史を変えてはせっかくの帰還の道が閉ざされてしまうのだ。

史実を変えぬよう細心の注意を払って行動しなくてはならなかった。

ブカレスト大学四年生ヴラド・エラト・ハウレーンはこの古代ギリシャ世界で朽ち果てる気はさらさらないのだから。













「遅いぞレオンナトス」



大王の第一声は叱責の言葉だった。

すでに天幕の中にはマケドニアが世界に誇る知将勇将がズラリと顔を並べていたのである。

当たり前だがオレが一番最後であったらしい。

エウメネスが王の隣で苦笑いを浮かべているのが見えた。

おいおい、わかってたなら一緒に連れて行ってくれよ!



「面目しだいもございませぬ」



諸将に頭を下げあてがわれた席に着座する。

あまりにも想定外の急展開にいまだ脳が追いついていなかったが、歴史好きの本能がかくも豪華な顔ぶれを見逃すことはありえなかった。

正面で諸将を睥睨している若者があのアレクサンドロス三世である。

世界史上初めての世界帝国を建設したとされる男だ。

当年とって二十二歳、その鳶色の瞳から発散される眼光と覇気はさすが大王と呼ばれるに相応しいものだった。

しかし思っていたよりも体躯は小さくその肌はいささか病的な白さが際立っているようにも感じられる。

もちろん鍛えあげられたその身体は十分に水準以上であることもまた間違いないのだが。

収まりの悪い茶金の髪に卵型の綺麗な顔立ちは母親のオリンピュアスの血の影響であろうか、いかにも繊細な印象を禁じえない。

それでもなお、間違いなく稀代の英雄たるそのカリスマ性は離れていてもなお疑うべくもなかった。

臆病なオレにはとうてい正面から瞳を正視することすらかなわない。



そのアレクサンドロス三世の左側に座するのが歴戦の宿将パルメニオンであった。

フィリポス二世のもとで武勲を重ねたその手腕は綺羅星のごときアレクサンドロス配下の諸将を見渡しても右に出るものがいない。

良くも悪くも手堅く、粘り強く、戦理に決して逆らわない愚直なまでの合理主義が身上で、しばしば直感とプライドを優先させるアレクサンドロスとは好対照をなしていた。

いまだ世界帝国の実力を有していないマケドニアにあってパルメニオンの手腕はどれだけ賞賛されても賞賛されすぎるということはないだろう。

後代の歴史書ではとかくアレクサンドロスの引き立て役に目される男だが、その実力は決してアレクサンドロスに引けをとるものではない。

意志の強そうな太い眉にギョロリと大きく丸い目玉と軍人髭、容貌魁偉な如何にも武人らしい人相をしている。

既にこの時代の平均寿命を上回る六十近い年であろうに、おそらくはいまだ一線級の個人的武勇も失ってはいないに違いないかった。

個人的に絶対に敵にまわしたくない相手だ。

そしてパルメニオンとは反対にアレクサンドロスの右側に座するのがヘファイスティオンである。

アレクサンドロスの親友にして恋人であったという噂も名高い男だ。

高い身長に均整のとれた頑強な肢体に恵まれ、大理石の彫像のように彫りの深い男性的魅力に満ちたその容貌はまさに美丈夫と呼ぶに相応しい。

ダレイオス王の母親がマケドニア王と見誤ったという伝説もあながち無理な話とも思えなかった。

だが黄金率のマスク、軍神アレスの肢体を持ち国王の寵愛を一身に受ける彼だが、決定的な何かが欠けているようにも感じられる。

それは後年彼が病死することをオレが知っているせいなのかもしれないが………なんというか少しも怖くないのだ。

どうも遅刻したオレに気を悪くしているようでさっきからしきりとオレを睨んでいるのだが、敵に回してもそれほど恐ろしい気がしない。

パルメニオンの凶暴な威圧感とは比べるのも馬鹿らしくなるほどであった。

むしろ有能な武将に入ると記憶していたのだが……やはりアレクサンドロスあっての彼ということか。

そして中央のアレクサンドロス三世からやや引き下がる形でエウメネスが控えている。

王の発言を記録し、またその指揮命令を整備して全軍の有機性を維持するのが彼の役目であった。

国王の書記官という彼の立場は現代風に言うならば遠征軍の参謀長に類するものだ。

異国人でありながらも国王の補佐官としてアレクサンドロスに与えられた信頼は他の者の追随を許さない。

ヘファイスティオンとの不和が後世に伝えられるが、アレクサンドロスがその死に至るまでエウメネスを右腕として重宝し続けたことを考えても彼の有能さがわかろうというものである。

現在は政治経済兵站と多岐に渡って辣腕を揮う彼だが、その真価は以外にも軍才にこそあった。

少なくともオレの知るかぎり、もし同一条件で戦争をさせたら後継者戦争中最強であろうことは疑いない。

だからこそ柔和な美しい女顔で微笑を湛えるエウメネスがたまらなく恐ろしく感じられた。

パルメニオンとはまた違った意味で絶対に敵対したくない相手であった。



………化け物の巣窟か、ここは………!



この三人ほどは目立たぬとはいえ、後に控える者達も異彩を放つという点においては決して引けはとらない。

パルメニオンの息子でありマケドニア重騎兵ヘタイロイの指揮官でもあるフィロータスは父に似て重厚な武人の気を纏っている。

顔立ちは育ちがよさそうで父に似ず見た目もいいが、気質は間違いなく父親のそれを受け継いでいるように感じられた。

後に帝国摂政として一時は後継者の頂点に立つペルディッカスも、まるでアレクサンドロスの小型版のような覇気とカリスマに恵まれている。

おそらくは意識してアレクサンドロスを模倣しているのに違いなかった。

クレイトスは身長が二メートルには達しようという巨人であり、その武威は素手でも獅子と戦えそうに感じられるほどだ。

武威という点ではクラテロスの方も負けてはいない。

マケドニアの国粋主義者としても名高い彼は丸太のように丸くぶ厚い筋肉を身体の前面にも後面にも満遍なく纏っていた。

身長は小さく手足も決して長いとはいえないが、筋肉の鎧に覆われたその威容はまるで人の形をした鉄塊のような印象を与えずにはおかなかった。

アミュンタスやソクラテス、メレアグロスといった面々もまた歴戦の戦士らしい一筋縄ではいかぬ者ばかりである。



それに比べレオンナトスはいかにも平凡な男であった。

オレの中に残されたレオンナトスの記憶をたぐって見てもそれは明らかだ。

武芸の点ではクラテロスやクレイトスには及ぶべくもなく、政略という点ではアンティゴノスやプトレマイオスに遥かに及ばない。

戦術指揮官としてもエウメネスはもちろんのことフィロータスはおろかペルディッカスにすら及ばないのだからその凡庸さが知れようというものだ。

アレクサンドロスとミエザで学業をともにしたいわゆる大王の友人の中でも最も彼が出世が遅れているのは故ないことではなかった。

なるほどこれでは熾烈な後継者戦争にいち早く脱落するのも無理はない。

血筋が王家に連なるものでなければそもそも後継者に名を連ねることすらなかったであろう。







「さて、皆に集まってもらったわけはほかでもない」



アレクサンドロスの静かだが強い意志の篭められた声音にオレは夢想を断ち切られた。





「余は今夜のうちに全軍を以ってグラニコス川を押し渡るべきであると考えている」





………思い出した。

今はまさに大王東征の始まりともいうべき、グラニコス川夜戦を目前に控えた歴史的瞬間なのだということを。






[10257] 第二話 軍議
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:e30467db
Date: 2009/07/12 23:12


グラニコス川夜戦―――

アレクサンドロスの東征において、初めて本格的なアケメネス朝ペルシャとの戦闘が開始されたことで有名な戦いである。

この戦いにいたるまで、マケドニアはペルシャに対抗する正当な挑戦者としてその資格を認められてはいなかった。

あまりにも国力が隔絶しすぎていたために、まるで獅子に吠え掛かる犬のようにペルシャ側には受け取られていたのだ。

その高慢が近い将来ペルシャの命運を左右することになるということに、このときまだ誰も気づくものはいなかった。

いや、実は一人だけ、臥竜が天に昇る前に討つべきであることを正確に洞察しているものがいる。

ペルシャ側のギリシャ人傭兵部隊の隊長メムノンその人である。

彼は焦土戦術と拠点防御を併用することでマケドニア軍は容易く撃退できるということを主張していた。

彼がもしも戦略的な指導権を有していたならば、アレクサンドロスの東征はこのグラニコス川の戦いで早くも頓挫していた可能性が高い。

実のところアレクサンドロスはこの東征のために王室の領地はもちろん、種々の特権や宝まで売り払ってようやく軍資金を調達していた。

もしも初期の段階で東征が失敗した場合、王権の弱体化と経済的疲弊から二度と立ち直れぬどころか、まかり間違えばマケドニアが滅亡してしまう可能性すらあったのである。

それを見抜いて一時的な焦土戦術を提案したメムノンの才幹はいくら評価しても評価しすぎということはないだろう。

ともあれ、今のところは史実どおりにマケドニア軍が主導権を握ったまま、グラニコス川の戦いは幕を上げようとしていた。







と思いきや







「グラニコス川の急流を押し渡れば隊列が崩れいたずらに敵の集中を許すばかりにございます。明朝の夜明けを待って歩兵数の優位を生かすべきでありましょう」



パルメニオンのこの一声によって軍議の行方は俄然夜戦から払暁戦へと舵を切ろうとしていた。

何この展開?もしかしてオレが遅刻したせいっすか?なんか初日からいきなり歴史が変わりそうなんですけど………もしかしてこれがバタフライ効果とか?

風が吹けば桶屋がもうかるというアレですか?オレマジで涙目。



「あのヘレスポントスがちんけな流れと呼んだグラニコス川ごときに我がマケドニアが停滞を余儀なくされるなどあってはならぬことではないかパルメニオン。余の勇猛を持ってなる兵士たちもいたずらに時を浪費しようとは思わぬだろう」



逸る激情を抑えきれないアレクサンドロスにペルディッカスもここぞとばかりに同調した。



「誠陛下のおっしゃるとおりにございます。あのペルシャの鼻持ちならん連中が、果たして口ほどに勇敢なものかを試す絶好の機会になりましょう」



「戦のなんたるかも知らぬ小僧が己の秤で敵を推し量るでないわ、ペルディッカス!」



パルメニオンの一喝にペルディッカスは顔を赤黒くして激昂したが、口に出しては何も言い返すことが出来なかった。

否、言いたいことはあるのだろうが、パルメニオンの眼光を前にして言えるわけがない。

端的に言えば役者が違うのだ。パルメニオンがひとにらみしただけでペルディッカスは己の格の低さを否応なく自覚させられてしまっていた。

アレクサンドロスに己自身を投影しているペルディッカスにとってこれに勝る恥辱はないだろう。

しかしパルメニオンとペルディッカスの間に横たわる経験と実績の差はたとえアレクサンドロスであろうとも否定は出来ぬ事実であるのであった。

マケドニア軍中でパルメニオンに匹敵する戦歴と識見の持ち主となれば、それはアンティゴノスをおいて他にはいるまい。



「しかしパルメニオン、今ここで躊躇してペルシャ人どもが勇気を盛り返しマケドニアと戦う自信を取り戻すことあらばなんとする。奴らの臆病風がゆえないものではないのだと思い出させてやるためにも、奴らが我らの到着に怯えている今、この勢いを叩きつけることこそ戦機を捉えたものではないか?」



アレクサンドロスはなおも夜戦の方針をあきらめきれぬようであった。

もともと隠忍自重は彼の資質ではない。むしろ彼の本性は臨機応変と速戦即決にこそある。

ここで安全策をよしとするはずがなかった。



「よきかな、まさに勇者の言でございます。しかしながら王の言とは思われませぬ。亡き先王フィリッポス二世陛下のお言葉を今一度思い起こしくださいませ。王とは兵を慈しみ国を保つことこそが本義。勝ちやすきに勝つことをどうかご賢察あってお選びいただきたい」



そのあまりのいい様にオレは目を剥いた。

明らかに臣下の分限を越えた物言いである。

オレが考える以上にアレクサンドロスの王権は決して磐石なものではないようであった。

即位に際して軍権を代表してアレクサンドロス支持を表明したパルメニオンに対する借り分が予想を超えて大きいということだろうか。

臣下の身でありながら、君主に王者のあり方を説くその姿は古代中国の宰相、呂不緯や伍子しょの姿を彷彿とさせる。

確かにアレクサンドロスは即位以前からその地位は不安定なものであり、即位した今でも権力基盤が磐石とは言いがたいのだ。

また、アレクサンドロス陣中の高官の大半は、先代のフィリッポス二世に見出され登用されたものばかりであり、その点から言っても正面きってパルメニオンに対する反論することは難しかった。

しかしそうした理はどうあれヘファイスティオンはパルメニオンの言を黙って見すごすことはできないようであった。



「陛下に対し何たる不遜な物言いであろうか!身の程をわきまえられよパルメニオン殿!」



……ヘファイスティオンの言葉が大王の事跡を知るオレにとってはごく自然なものに感じられたが、意外にも賛意を表すものは一人もいなかった。

それが彼自身の人望のなさ故なのか、それとも彼の言葉そのものが受け取りがたいものなのかはわからないが。



「身の程をわきまえるのは貴様だ、ヘファイスティオン! 軍議をなんと心得る。軍議とは議論を尽くす場であり、臣下は陛下に対し諫言をためらってはならない。それは最終的に陛下の道を誤らせ国家と民を誤らせる基となるからだ。貴様も忠臣たるを志すなら陛下に阿るのではなく、死を賭して陛下に諫言奉ることをこそ尊ぶがよい。このパルメニオン、諫言をするからにはいつでも陛下に剣を賜る覚悟は出来ておるわ!」



パルメニオンの圧倒的な矜持の前に、粛として声を発するものはいない。

感情では納得できないながらも、さすがのヘファイスティオンもこれには対する言葉がなかった。

軍議の行方はもはや完全にパルメニオンの主導で決したかに思えた。







ふと違和感が脊髄を駆け抜ける。







人は思い込みによって身体にないはずのものをあると知覚させることが出来る。

想像妊娠などはその最たるものであろう。

意識下に存在する帰還のためのスイッチへの感覚もそれに近い。決して実体があるものではないが、確かに存在を知覚することができる、と言ったものだ。

その存在が今オレの中で急速に揺らぎ始めていた。

今まで鮮明に写っていた視界が涙で急ににじんだような………あったはずのものが急に目に写らなくなってしまったような……そんな手ごたえのない不安にオレは全身を震わせた。



これはもしかして平行世界に世界が移ろうとしてるのではないか?



グラニコス川の夜戦が夜戦でなくなってしまったら、そりゃいくら歴史には修正力があると言っても修正は効くまいからな。







……ってなんじゃそりゃあああああああああああああああああああああああああああああ!!!







「ちょ、ちょっとお待ちいただきたい!」



そういって口を挟んだのはほとんど反射的な生存本能のなせるわざであった。

ギロリ、と擬音が聞こえそうなほどの迫力でパルメニオンの視線が向けられて思わずちびりそうになる。

……いや、ごめんなさい本当は少しちびりました。ってかおっさん本気で殺気こめるってどうよ?



「………確かに明朝満を持して戦端を開けば犠牲は少ないものとなるやもしれません………」



だが、そうさせてはならない理由がオレにはある。

たとえ残酷に思われようがオレにとってそれだけは譲れぬところだ。

だからこそ詭弁であってもなんとかこの場の流れを変えなくてはならなかった。



「されどペルシャ軍は兵と兵の戦に勝つこと以上に我らの王陛下の命を目標にして参るものと判断せざるをえません。なんとなればたとえ戦の勝敗がどうなろうとも、陛下を失ったマケドニア軍がさらに東へと進むことはありえぬことだからです」



アレクサンドロスにはいまだ嫡子がいない。

異母弟アリスダイオスは知的障害者であり王位に向かぬことは周知の事実である。

もしも今国王という重心を失ったならばマケドニアは後継者を争う戦乱の巷となるだろう。それは後年の後継者戦争を見ても明らかなのだ。

現状アレクサンドロス以外に適当な後継者がいないというのはマケドニアにとって致命的な弱点といってもよいのだった。



「陛下が戦場に出られるにあたり夜戦となればペルシャ軍も陛下を見定めるに難儀することは必定。ここは陛下のお命の安全を優先することが長期的には国家のためと存じますがいかが?」



相変わらず厳しい目で睨み続けるパルメニオンのプレッシャーに膝が笑い始めるのはご愛嬌だろう。

言うべきことは言った。………とりあえず今は自分を褒めたい。



「渡河の際に隊列が崩れるのは昼間であっても避けられませぬ。陛下を守るためにもここは夜戦もやむを得ぬかところではありませぬかな?」



オレの意見に賛同を表明してくれたのはクレイトスだった。

身長二メートルに達するその存在感でオレに代わってパルメニオンに対抗してくれるのはありがたい。

だってこれ以上の説得とか普通に無理だし、ペルディッカスみたいにでら怒鳴られたらきっと何かが漏れます。



ふん、とパルメニオンが鼻を鳴らした。

しかしその表情からは決して自説を否定された怒りのようなものは伺えない。

むしろ存外に機嫌が良さそうに感じられるほどであった。

先ほどまでとは百八十度違った感心の色を露にしてパルメニオンはオレに視線を合わせた。



「なるほどレオンナトスの言にも一理ある。ならばその言に相応しい行動によって陛下を守り参らせよ」



「……必ずや、このレオンナトスの一命にかえても」



そう答えるほかに道はなかった。

まあ、この世界から無事に戻るためにもアレクサンドロスに死なれては困るのも事実だ。

どうせオレが頑張らなくてもクレイトスが守ってくれるはずだしな!



「よろしい、では左翼の指揮はパルメニオンに任せる。フィロータスとヘタイロイの者どもは余とともに右翼にあれ。アミュンタスとソクラテスもだ。
ニカノル、ペルデッカス、クラテロス、コイノスらは中央にあって両軍を補佐せよ。余はただの勝利は望まぬ。大勝利を、更なる大勝利を諸兄らに期待する。以上だ」



そう言ってアレクサンドロスが軍議の終了を宣すると諸将は慌しく自らの率いる兵団へと引き返した。

さきほどアレクサンドロスが宣した陣ぶれどおりに兵を再配置して夜戦に間に合わせるためには一刻の猶予もないからであった。

陣ぶれに名のなかったオレとクレイトスとヘファイスティオンはアレクサンドロスの直衛に当たる。

余計なことを言ったばかりにどうやらいらぬ期待をされてしまったようだった。

そのことがヘファイスティオンにとっては心底面白くないらしい。



「貴公らしからぬ言であったが……遅刻も何かの役に立つこともあるということか」



ええ~とそれは意訳するならば、遅刻して動転してたんで、たまたまあんないつものオレらしからぬ台詞が出たんだろう……と。







喧嘩売ってんのか!







「いやあ、本当に今日のレオンナトスは人が変わったようだねえ……」



ヘファイスティオンと入れ替わるようにエウメネスが現れる。

どうやらこの忙しいのにわざわざオレを追って天幕から走ってきたらしかった。

くつくつといかにもおかしげに笑っているが、その目は少しも笑っているようには見えない。

……というかはっきりと疑われています。

ワタシナニモアヤシクナイデスヨ?ホントデスヨ?



「そんなに韜晦しなくてもいいのに………」



いやいや正体がばれるかばれないかは、はっきりと死活問題ですので!



「お、オレだってちゃんと成長するんだヨ?そりゃあ見識も智謀もエウメネスにはまだまだ及ばないけど」



「ほら、それだよそれ」



おかしくてたまらないといった表情で目に涙さえ浮かべてエウメネスは笑った。



「王家の血すら入っている大貴族である君が、所詮異国人である私に自分を卑下してみせるなんてことはありえないんだ。そもそもマケドニア人自体がそうした謙譲の心に欠ける傾向にあるからね」



言われてみればマケドニア人は良くも悪くも感情というものに素直な傾向にあるような気がする。ましてボンボンであったレオンナトスの言動を思い起こしてみれば………。





根拠のない自信に満ち溢れていました!





「……事実は事実として受け入れることは尊いノデス。オレは今日それに気づいたノデスヨ?」



怪しいカタコト口調になるあまりに頭の悪いオレの言い訳に苦しそうに腹を押さえながら、エウメネスは今度こそ本当に心の底からの笑みを浮かべた。

思わず現在の危機を忘れて見ほれてしまうほどの微笑だった。

片時も緩むことのなかった瞳が、何故か今は歓喜の色に輝いていた。



「………そうだね。君とは仲良くなれそうだよ、レオンナトス」



いったい何が彼の琴線に触れたのかはわからない。

しかし彼の言葉に嘘はないと、直感がそう告げていた。



「こちらこそよろしく頼むよ、エウメネス………」





それがオレとエウメネスの付き合いの始まりだった。










[10257] 第三話 開戦
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:e30467db
Date: 2009/07/12 23:14


馬上からグラニコス川を見つめる二対の瞳がある。

長身で男性的な魅力に富んだ歴戦の風格を漂わせる壮年の男は、にわかに慌しくなった対岸の様子を見てニヤリと口の端を吊り上げた。



「やはり我慢ができなかったようだな、坊や」



アレクサンドロスを坊やと言い切ることになんの不足も感じられぬその覇気は、あるいはマケドニアの筆頭重臣パルメニオンに匹敵するかもしれない。

若干白いものが混じりはじめた髪を手櫛でかき上げる様はなんとも言えぬ色気に満ちたものでさえあった。

その優秀な手腕を認められつつも、彼がペルシャ軍中で煙たがられる理由はこうしたあまりに絵になるカリスマ性に負うとところも大きいのかもしれなかった。

ペルシャ軍中に名高い彼の名はメムノンと言った。







「………勝てるの?メムノン?」



いたずらっぽい笑顔を浮かべながらメムノンを見上げる小柄な女性の言葉に、メムノンは苦笑しながら手を振る。



「必ずしも勝つ必要はない。あの坊やが死ぬか重傷を負うだけでこの戦争は終わる。それがわからぬ阿呆が多過ぎるがな………」



そもそもまともに戦う必要すらない、というのがメムノンの自論であった。

マケドニア軍には戦費の余裕が全くといっていいほどない。メムノンがわざわざ調査するまでもなくごく簡単な算術さえできればそれは明らかであった。

前線を焼き払い、略奪を不可能にして要害の地に立て篭もるだけでマケドニア軍は備蓄の食糧を食いつぶして自然崩壊するはずなのだ。

ところがその説を披露したときのペルシャ軍幹部の対応は陋劣を極めた。



「どうしてわが国の財産を燃やさねばならないのか!」

「大方戦争を長引かせようという傭兵らしい姑息な企みであろうよ!」



ペルシャ軍においてマケドニアのアレクサンドロスを正当に評価している人物がメムノン以外にいないことがメムノンの立場を一層悪化させた。

いまだこのときマケドニア王国はペルシャ王国にとって辺境の小国であり、これに対するに戦うことを避け、守るべき民の土地を焼くような真似をすれば、軍内での鼎の軽重を問われかねない。

ましてダレイオス大王の娘婿にあたるミトリダテスを総大将にいただく精鋭が、アレクサンドロスの如き若造を恐れる理由がなかった。

個人的名誉を充足させるためにもマケドニア軍は正面から打ち破って見せなくてはならなかったのである。



「………全くしょうがないわね……ろくでもないことになるのは目に見えてるのに、貴方今とってもうれしそうよ?」



既に四十も半ばに達しようというメムノンであったが、このときばかりはまるで少年のように頬を紅潮させてはにかむように笑った。



「因果な武人の性かな………我が手で雄敵を葬りさるということは武人にとって何にも代え難い快感なのだよ、バルシネー」



かつての義弟……そして今は愛すべき夫であるメムノンのこうした子供じみた性格がバルシネーは嫌いではなかった。

普段は猛々しくも頼もしいメムノンに、なんともいえぬ母性をくすぐられる感覚はむしろ好ましいとさえ言える。しかしその愉悦がメムノンの命と引き換えにするには些細すぎることもまた確かなのであった。



「死ぬことは許さないわメムノン………あなたが勝利の報告に来るのを待ってる……」



凛とした声でメムノンに告げるとバルシネーはそのまま馬首を翻した。

そんな妻の颯爽とした後ろ姿を見送りながらメムノンはその清冽な美しさに目を細める。

兄の妻であったときからバルシネーの美しさは際立っていた。………年甲斐もなく恋していた、といってもいい。

黒々となめらかな黒髪も、大きく澄んだ黒曜石の瞳も、象牙のような白い肌も、女としての美しさをあらわすには十分なものであったが、何より清純で陽気な気質と明らかに常人とは違う魂の輝きが、彼女をあまたの美女たちとは一線を画させているのだとメムノンは信じていた。

ペルシャ国内での地位を保つためにペルシャ貴族の血を引くバルシネーを妻という形にはしたが、こうして顔を付き合わせれば義姉として一歩引いた立場に甘んじてしまうのは、そうした彼の崇敬と慕情の入り混じった複雑な感情のなせるわざなのだった。



夕暮れが川面を黒く染めようとしている。

戦端が開かれるまでもうそれほどの時間はかからないであろう。

マケドニアの陣立てが次第に形になりつつあるのが遠目にも見て取れた。

メムノンの見るところ、アレクサンドロスは生粋の騎兵指揮官である。その刹那の閃きと果断な決断力を戦場に生かすことのできる騎兵という兵種は、アレクサンドロスがもっとも好むところなのだ。

だからこそ、右翼に位置するマケドニア重騎兵の中にアレクサンドロスがいるのは間違いないはずであった。

そしてそれはつまり、ギリシャ人傭兵部隊の中で唯一最前線に投入された自らの歩兵部隊の戦闘正面にほかならなかったのである。

ペルシャ人歩兵部隊の到着が遅れていることは僥倖だった。

歩兵戦力で圧倒的に劣勢にたったペルシャ軍は、本来であれば手柄からは遠ざけたいギリシャ人傭兵部隊を前線に投入せざるを得なかったのだ。

さすがに歩兵の防御力を無視して、騎兵だけで戦えると考えるほどペルシャ軍指揮官も無能ではなかった。



「………さて、こちらも女神の祝福に不足はないが………いったいどちらの天運が勝るものかな?」







*********





マケドニアの先陣を切ったのはソクラテス率いるヘタイロイ騎兵の一隊であった。そしてアミュンタス率いるバイオネス人騎兵部隊がそれに続く。

ごく短い投槍を装備するペルシャ騎兵とは明らかに異なる、全長三メートルに及ぼうとするサリッサと呼ばれる長い騎槍を装備するマケドニア騎兵が行軍するさまは、圧巻の一語に尽きた。

続々と川中に馬を乗り入れながらも、隊列の乱れを最小限に食い止めるその練度たるや生半なものではありえない。

その様子は対岸の高台で陣を張るメムノンには手に取るように一望することができた。

幸いにして月は明るく、日没前とは比較にならぬにしろ良好な視界を確保することが可能であったのだ。



「斜線陣か………カイロネイアとは条件が違うのはわかっているか?坊や………」



この戦にかけるアレクサンドロスの意気込みが並々ならぬものであることは、陣立てを見るだけでも十分すぎるほどに感じられた。

本来、フィリッポス二世が育て上げたマケドニア軍は密集歩兵をバックボーンとして騎兵を側背に機動させて敵の戦列を双方向から蹂躙することを得意としていた。

ところがこの戦いでアレクサンドロスは自らがもっとも信頼する兵種である騎兵を先陣に抜擢し、さらにそれを直率するという手段に訴えている。

斜線陣の要は、先陣が前線を支えている間に遅れて戦闘に加入する後陣が側方を迂回、あるいは突破し挟み撃ちの状況を作り上げることにあるのだが、こうした場合前線を支えるのは通常歩兵の役目であり、迂回突破を図るのは騎兵の役割であるはずだった。

にもかかわらず騎兵を先陣としてアレクサンドロスが最前線に出てくるあたりに、彼特有の自負心、その背後に見え隠れする願望が透けて見えるようでメムノンは苦笑を禁じえなかった。

確かに戦にかけてはアレクサンドロスは天才だ。

敵の弱点を嗅ぎつけ戦局を一変させてしまう統率力と戦術眼には神懸ったものさえ感じられる。

しかし彼は攻勢の人であって守勢の人ではない。しかも騎兵自体が守勢向きの兵種ではない以上恐れるべき何物もないとメムノンは確信していたのである。



「偉大なるヘレネスの戦いぶりをあなどってもらっては困る……我らはデモステネスの如き輩とは違うのだよ」



旧弊に囚われて戦術的柔軟性を失ったテーバイやアテネの正規軍がカイロネイアで敗れたのは自業自得としか言いようのないものだ。

しかし故国を離れて実戦を重ねてきた自分たちがいれば、戦いの帰趨はわからなかったであろう。

故郷を捨て、異国の地に新天地を見出してなお、彼は偉大なるヘレネスの末裔であった。





*********





粛々と軍馬は進む。

もうじきソクラテスの騎兵部隊が対岸のペルシャ兵との戦闘を開始するだろう。

それはつまり、オレにとっての実戦の始まりを意味するのであった



敵の刃がこの身に降りかかれば当然オレは死ぬ。死ねばもちろん未来への帰還の望みも叶わなくなってしまう………。

その事実が今オレの肩に重くのしかかっていた。

おそらく戦うこと自体は身体が反応してくれるはずだった。それはこうしてオレが大過なく騎乗していられることでも明らかだ。

なにせこの時代にはまだ鐙というものが存在しない。両腿で姿勢を制御する技術は一朝一夕でえられるものではないのである。

無事に馬の轡をとれたとき、オレがどれほど安堵したことか。

それにレオンナトスという青年の能力は凡庸の域ではあるが決して無能ではないから、雑兵にはそうそう遅れをとることもないだろう。

しかしどう甘く見積もっても一線級の武将に抗することは難しい。

よほどの運に恵まれない限り討ち取られてしまうのは目に見えている。

だがそれ以前に甲冑がひしめき合い、林立する槍先が月光に反射してグラニコス川に銀のタペストリーを織りなしたような光景に我知らず高揚している自分がなにより怖かった。

一介の一学徒にすぎない小市民のオレがオレでなくなってしまいそうな………ましてこれから殺人を犯す自分が、以前の自分と同じでいられる自信が全く持てなかったのだ。



………オレは本当に戻れるのか?もしも戻れたとして、それは本当にオレなのか?



戦闘の開始を直前に控えた緊張、昂ぶり………粛然と全身する兵士たちの獣臭さえ漂う生臭い吐息……その生々しさはいかなる戦争映画でも再現はできまい。

小便が漏れそうなほどに怯えているのに、同時に高揚し、敵を屠ることに喜びさえ見出している自分がいる。

それがたまならく恐ろしかった。

軍議の前にはいちいち思い出す必要があったレオンナトスの記憶も、今は生まれたときからこの世界で育ってきたかのように思い起こすことができる。

おそらくはレオンナトスとオレの驚異的という言葉ですら生ぬるい適合率のなせる業に違いない。

こうして思考する自分が、果たしてヴラド・エラト・ハウレーンと言えるのか、などと形而上的な問題にまで考えが及び始めたところでオレは頭をふって思考を打ち切った。

戦場で余計な考え事をしている兵士が決して生き残れぬことはレオンナトスの記憶が知っていたのであった。



「おや、考え事の時間は終わりかい?」



隣を見ればエウメネスが馬を並べてオレの顔を覗き込んでいた。

もしかしてヘタイロイの槍を見てあからさまにびびったり、鐙のない馬を見て明らかに不審がっていたオレなんかも観察されていたのだろうか?

もうすぐ戦闘だというのに考え事に没頭するレオンナトスってありえないだろ、常識的に考えて………。



「えええ、エウメネスは戦装束も似合うんだなあ!これだから美形って奴は!」



………追い込まれると思わず相手を持ち上げてしまう小市民なオレであった。

実際ヘタイロイたちと同じ兜と鎧を身に着けたエウメネスは、文官であることが信じられないほどの勇ましい男ぶりであった。

そしておそらくは見かけだけではなく個人的な武勇においても衆に優れているであろうことは、凡庸なレオンナトスにすら感じ取れるほどである。

マケドニア王国最後の守護者は伊達ではないということであろうか。



「………頼むから変なことを言わないでくれるかい?レオンナトス。さすがにこの場面で爆笑するわけにはいかないんだからさ」



そういったきりエウメネスはうつむいたまま肩を小刻みに揺らしてしまう。

またオレの言葉がどこかつぼに入ってしまったらしい。

確かにレオンナトスにはありえない発言ではある。………というかオレはどこまで墓穴を掘れば気が済むんだ?

せっかくの美形がだいなしになるほど顔をゆがめて耐えるエウメネスをよそに、ソクラテスの部隊がグラニコス川を渡りきった。



「放て」



その瞬間ペルシャ軍からまるで豪雨のように一斉に矢が放たれる。

マケドニア軍もクレタ人弓兵部隊がこれに対抗して射撃を開始するが圧倒的に数で劣るうえ、敵に高所を抑えられていては効果はおぼつかなかった。

ソクラテスに続いてアミュンタスの部隊も戦線に加入するが、メムノンの率いるギリシャ人傭兵の堅陣は小揺るぎもしない。

さらに両翼からペルシャ重騎兵が投槍を投射し始めたために、ソクラテスの率いる精鋭騎兵にたちまち被害が続出した。

史実どおり、マケドニア軍の劣勢をもって、グラニコス川夜戦は幕を開けたのだ。








[10257] 第四話 グラニコス川夜戦その1
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:e30467db
Date: 2009/07/12 23:16


「遅れをとるな!我に続け!」



左翼ではパルメニオン率いるマケドニア重装歩兵が前進を開始していた。

この戦いが、その実時間との競争であることにパルメニオンもアレクサンドロスも気づいている。

象徴的にはミトリダテスがいるとはいえ、ペルシャ軍は実質全権を握る統率者のいない6人の太守とギリシャ傭兵からなる連合体なのだ。

その指揮系統が明確に秩序だてられているはずもなくいざ戦が始まればおもわぬ混乱を引き起こすことは目に見えていた。

おそらくはアレクサンドロスというエサに釣られて、勝手に戦列を乱すのは想像に難くない。

もちろんただでさえ総兵力に劣るペルシャ軍が右翼のアレクサンドロスに吸引されてしまえば、左翼からの強襲突破が容易であることは自明の理であった。

問題は、それまでアレクサンドロスの右翼が持ちこたえてくれるかどうかにかかっていたのである。

幼いころからギリシャ風の高度な教育を受け、イリアスやオデュッセイアに触れたアレクサンドロスには、自らをまるで神話の登場人物のように考えているふしがある。

だが現実は神話の英雄譚ほどに都合よくできてはいない。浪漫は決してその身を守る力にはなりえないのである。

そのことをアレクサンドロスが正しく自覚しているのか、ということがパルメニオンには気がかりでならなかった。

もう少し現実的で地に足がついた考え方をしてくれれば、申し分のない君主になるのだが………そう、前主フィリッポス二世のように。



「貴方の息子にそれを望むのは間違いですか………フィリッポス陛下?」



誰に聞かせるわけでもなく、ポツリとこぼれたパルメニオンの呟きは、戦塵の喧騒にかき消されるように消えていった。









*********



「ひるむな!陛下の御前であるぞ!名を惜しめ!」



ソクラテスの必死の呼びかけにもかかわらず兵たちの反応は鈍い。

戦場で武勲を重ねてきたマケドニア重騎兵をもってしても、現在の状況は手に余るものであったのだ。



………まだペルシャのぬるい騎兵だから凌いじゃいるが………!



ペルシャ騎兵は伝統的に騎兵の突撃衝力よりヒットアンドアウェイの投射戦を重視する傾向にある。

損害は蓄積されるが、戦列を崩されて一気に息の根を止められるリスクは少ない。

それよりも問題なのは目の前のギリシャ傭兵部隊であった。

鉄壁という言葉を絵に描いたような堅陣ぶりである。

もともとギリシャ型の密集歩兵ホプリタイはマケドニア密集歩兵より密集度が高く大きな盾を装備していることも相まって防御力がすこぶる高い。

逆に密集度の高さが仇となって致命的に機動力が低く、また一旦戦列を崩されると再び持ち直すこと極めて難しい。

カイロネイアの戦いでの敗戦はまさにその間隙をアレクサンドロスに衝かれたものであった。

しかし今日のようにあらかじめ地形的優位を得た場所で拠点防御を行うかぎり、これほどに厄介な敵もいないであろう。

対岸に橋頭堡を得るどころか一歩たりとも進めぬ体たらくにソクラテスは歯噛みした。

もうアレクサンドロスの本隊がすぐ後ろに迫っている。

逆にペルシャ騎兵は続々と増強され情け容赦のない攻撃を繰り返しつつあった。

認めたくはないがなんら成果をあげられぬままに兵の一割を損耗するという手詰まりの状況に背筋をのぼる寒気を抑えることができない。



………どうすれば……どうすればこの劣勢を跳ね返せる?



先陣の名誉を賜りながらこのままなすすべなく王の到着を待つことは、ソクラテスにとって恥辱でしかない。

しかしいくら考えてみても打開の道筋は見えなかった。







アレクサンドロスが巨大な愛馬ブケファラスを駆って高々と名乗りをあげたのはそのときである。



「マケドニア王と名誉を分かちあおうという勇者は余に続け!」



これでは夜戦を選択した意味がない。

アレクサンドロスの無法ともいうべき暴挙によって戦線は大きく動こうとしていた。







*********





馬上に立ち上がり剣を抜いて獅子吼するアレクサンドロスにオレの目は点になっていた。

警護の部下を置き去りに最前線に乱入してしかも堂々と名乗りをあげるって……アレク馬鹿なの?死ぬの?



「いや………英断かもしれません………」



エウメネスの声は素直な驚きと賞賛に満ちていた。

納得のいかないオレの視線を感じたのだろう。エウメネスは槍を抱えていない左手をペルシャ軍の中央へと向けて言った。



「ごらんなさい、既に中央の戦列が崩れてこちらへ向かってきています。寄り合い所帯のツケがここにきて回ってきたようですね……この隙をパルメニオン様が見逃すはずはありません」



なるほど確かに、アレクサンドロスという特上の餌を前にペルシャ軍の戦線が大きく左翼に偏ってしまっていることは見て取れる。

だがそれは、マケドニア軍の右翼にさらなる敵の攻撃が集中するということではないのか。

今でさえ圧されているのに、このうえ中央の騎兵部隊の攻撃にまで晒されては耐え抜くことは難しいだろ、常識的に考えて。



「愚かな味方は優秀な敵に勝るといいますが………どうやらペルシャ軍もその轍を踏むことになりそうですね」



エウメネスの視線の先を見てオレは唖然と口をあけるしかなかった。

もしもこの事態の推移をアレクサンドロスが読んでいたのならば、それは神技に近い洞察力だ。

しかしそうした洞察の埒外にあって無意識に戦場の空気を嗅ぎ取ったのだとすれば、それは歴史に名を残す英雄のみに許された奇蹟であると表現するほかはない。

中央から分派されてきたペルシャの騎兵集団は、なぜか鉄壁の布陣でマケドニア騎兵を阻み続けるギリシャ傭兵部隊の前に立ちふさがるように割り込んできたのである。











「………このど阿呆がっ!」



メムノンは歯軋りしながら無能な味方の暴挙を呪っていた。

九分九厘まで勝利を掴みかけていたと思った矢先の出来事である。

中央の騎兵を分派することは戦術的に正しいが、それはマケドニア軍右翼の背後へ機動して退路を断つのでなければ意味がないではないか。

この戦いはアレクサンドロスの命を奪えるかどうかに懸かっていると、あれほど言って聞かせたというのに。



中央部から突進してくるヒュパスピスタイを牽制しつつ、マケドニア軍右翼を完全な包囲下に置く事ができれば後はペルシャ軍右翼がどうなろうと知ったことではない。

たとえ右翼が全滅したとしてもアレクサンドロスを討ち取ることができれば収支は大幅な黒字になるだろう。

少なくとも左翼からパルメニオンが駆けつけない限りマケドニア軍右翼がギリシャ傭兵の堅陣を突破することはできないのは、今尚川中にあって上陸の足がかりさえ掴めていないことでも明らかだ。

たとえアレクサンドロスが参陣しようともその鋭鋒を凌ぎきるだけの自信が、メムノンにはあった。

それが見るも無惨な騎兵同士の乱戦に陥ってしまっては、もはやメムノンに打つ手はない。

今や完全に密集歩兵の精鋭はその存在意義を失ってしまっていた。



「………小人どもが目先の手柄に目が眩みおって………」



メムノンの鼻先に割って入ったのはリュディア太守のスピトリダテス率いる一隊であった。

スピトリダテスのみならず、小アジアの太守たちから自分が疎まれ敵視されていることにメムノンは気づいていた。

傭兵は戦がなければ無用の長物である。だからこそ傭兵たちは戦を望み、戦がなければそこに戦を起こそうと画策するのだ。

ゆえに彼らはマケドニアとの間に戦端が開かれた責任の一端はメムノンたちギリシャ傭兵にあると考えていたのである。

しかもその中には戦功を挙げてペルシャ貴族たる地位を手に入れたものまで存在するとあっては彼らの心中が穏やかであろうはずもない。



それでもメムノンは戦に勝利するためには一切の情を廃してペルシャの勝利だけを追及してきたつもりだった。

戦場にあってはもっとも困難で犠牲の多い戦域を担当し、あまたの味方の命を救い幾度もペルシャに勝利をもたらしてきた。

だからこそ味方が無能であるのはともかく、味方が利敵行為に及ぶとまでは考えが回らなかったのである。

有能な将にありがちなことにメムノンもまた無能なものに噛み砕いて話を理解させるということができない男であった。

そうした疎通の齟齬が、太守たちをしてメムノンを警戒させ、足を引っ張ることを決意させたに違いない。

すなわち、各太守に率いられたペルシャ騎兵部隊にはメムノンに手柄を立てさせる気など毛頭ないということなのである。



「………軽装歩兵を援護に回して重装歩兵を退かせろ、急げ!」



そう気づいた後のメムノンの決断は素早かった。

機動力のない重装歩兵が戦闘に加入する機会はもう見込めない。であるならば再戦のときのために戦力の温存を図るべきだった。



「よろしいので………?まだ戦は終わっておりませぬが………」



「終わってからでは重装歩兵は逃げきれぬ。今のうち距離を稼いでおくのだ」



それでもメムノンの指示に従うのはメムノンが直率するギリシャ傭兵の一部に留まった。

このときペルシャ軍はマケドニア軍を圧倒しており、勝利を目前にして退却するというリスクを犯す決断ができなかったのだ。

遊兵となった密集歩兵などいるだけ邪魔なのは明らかだったのだが………彼らは後にその命で逡巡のツケを払わされることになる。



「この年でまだ学ばされることになろうとはな………次は味方に邪魔されぬ方法を考えるとしようか」



メムノンの眼下で一際大きな歓声があがった。

ミトリダテスの率いる見事な白馬の一隊が、アレクサンドロスへの道筋をこじ開けたようであった。









*********



灯火に群がる蛾のように次から次へと押し寄せるペルシャ騎兵を前にして、とうに悠長な思考は失われていた。

疲労のあまり口をきくことさえ億劫になりながらも、戦うことをやめるわけにはいかない。

戦うことをあきらめたときがオレの死ぬときであるからだった。



アレクサンドロスはさすがに英雄に相応しい武勇の持ち主であった。

槍を二本も折り尽くすほどに多数の兵を討ち果たしている。

王の左ではヘファイスティオンが奮戦していた。こちらも武勇においては王に勝るとも劣らない。

また豪奢な装束に身を包んだヘファイスティオンは、アレクサンドロスの顔を知らないペルシャ兵を惹きつける格好の囮にもなっていた。

死角にあたる王の背後を守るのはクレイトスである。

二メートルに達しようという巨躯を利して、身をもってアレクサンドロスの危機を救ったことも一度や二度ではない。

いや、厳密には王を守る役目はクレイトスとオレなのだが、どう頑張ってもオレは自分の身を守ることで精一杯の有様だった。

三メートルという長いリーチを持ったマケドニアのサリッサは、距離を生かして戦う分には申し分のない武器だが、当たり所が悪く敵の鎧に弾かれたりして懐に入られると対応することがおそろしく難しい。

現にクレイトスとエウメネスがいなければオレの命はとうに失われていておかしくなかった。

小便などとうの昔に出しきっている。のどはカラカラにひりつき、頭は霞がかかったように思考が重い。

殺人に躊躇や罪悪感を感じる余裕がないことだけが救いであった。

夜風を切り裂いてペルシャ騎兵の投槍が飛んでくるのをオレはかろうじて打ち返した。迂闊に避けて王に当たるようなことがあってはならないので打ち返すほかないのだ。

至近距離から投擲される槍が風鳴りとともに自分めがけて飛んでくるという恐怖は言語を絶する。

単純に槍を打ち合わせればペルシャ騎兵など脅威ではないが、投射武器の多さこそがペルシャ騎兵の本領なのであった。



期せずして歓声が沸き起こる。

それも厄介なことにペルシャ軍の陣中に、である。おそらくはまた新たな援軍が現れたのに違いない。

このままではパルメニオンの左翼が側背に着くまでに勝負は決まってしまうのではないか?

最悪の予感が脳裏を掠めた。

もはや史実を知ることなどなんの救いにもなりはしなかった。



「そこにいたか!ミトリダテス!」



アレクサンドロスが馬首をめぐらしてペルシャの主将の名を叫んだのはそのときだった。








[10257] 第五話 グラニコス川夜戦その2
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:e30467db
Date: 2009/07/23 00:17

白馬に跨るミトリダテスの体躯は大きく、四肢に盛り上がる筋肉は大理石で造られた英雄の彫像を思わせた。
ペルシャ王が見初めて、娘を託したのも決して故ないことではない。ミトリダテスは確かに王婿に相応しい武勇の所有者であったのである。
ミトリダテスに続く戦士たちも一騎当千の勇者揃いで知られていた。ロイサケスもスピトリダテスも馬上にあっては無双の武名を轟かしている人物であったのだ。
その雄姿を前にしてペルシャ軍兵士が沸くものはあまりにも当然のことなのであった。

「マケドニアの小僧め!せめてオレの手で葬ってくれようぞ!」

馬腹を蹴ってミトリダテスが駆け出したとき、すでにアレクサンドロスの目にはミトリダテスしか映っていなかった。





「おいおい!いい加減にしろよ!」

素人のオレにでもわかる。
あの相手はやばい。たぶんオレがいっても全く歯が立たないほどにやばい相手だ。
それに向かって一人で突っ走っていくアレクサンドロスの気がしれなかった。
アレクサンドロスの愛馬ブケファラスが、ヘファイスティオンやクレイトスを置き去りにどんどんとミトリダテスとの距離を詰めていく。
死にたいのか、死ぬことを考えてもいないのか、いずれにしろ常人の状況判断でないことだけは確かであった。
できれば全力で見捨てたいところだが、そうも言っていられないのがつらいところだ。

「陛下!お待ちを―――!」

オレの騎馬術ではアレクサンドロスに追いつける可能性は低い。
咄嗟にオレは大地に突き立って主を失くしていたペルシャ騎兵の投槍を手に取っていた。





ミトリダテスは己の優位を信じて疑ってはいなかった。
アレクサンドロスは愚かにも一人で突出することを選択した。
しかも体躯と、おそらくは膂力においても自分が勝ることは明らかだ。やはり蛮族の王は蛮族の王にすぎないということらしい。
サリッサと呼ばれるマケドニアの長槍は、約三メートルという間合いの長さから集団戦においては無類の強さを発揮するが、乱戦になるとその取り回しの難しさから一転して不利に陥る。
アレクサンドロスのやろうとしていることは戦術的にも一人の戦士としても愚かと呼ばれてもしかたのないことであったのだ。

だからこそ、ミトリダテスはアレクサンドロスの迷いのない瞳に一瞬の躊躇を覚えずにはいられなかった。
自分が敗北するなどとは露ほども考えてはいないであろう確信に満ちた鳶色の瞳に思わず気おされたといってよい。
彼は獲物を狩る立場なのであって狩られる立場にいたことは断じてない。
迫り来る若者が、自分を狩ろうとしていることに本質的な違和感を感じずにはいられなかったのである。


ミトリダテスの逡巡などアレクサンドロスは意にも介さない。
彼の胸に去来するのはイリアスに語られるアキレウスの壮大な叙事詩であった。
かつてトロイア戦争で英雄アキレウスがヘクトールを一騎討ちに倒したように、自分もまたミトリダテスを討ち果たしてみせる。
強敵を相手に勇を奮い、これに打ち勝つことこそ英雄たるの努めであるはずだった。

アレクサンドロスの顔面をめがけてミトリダテスの槍が飛ぶ。
風を切り裂き一条の閃光が頬を掠めていくのを、アレクサンドロスは瞬きもせずに見送った。

やはり神は自分に何かを成すことを求めている―――

もしもこのとき、ミトリダテスが欲を出さずに胴体を狙っていたならば、アレクサンドロスは負傷を免れなかっただろう。
それで命を落とすのであればもともと自分はそこまでの人間だったということだ。
だがそうした覚悟とは裏腹にアレクサンドロスの内心にはある確信がある。
自分が英雄に生まれついたという確信であった。
そうであるならば、こんなところであんな小物の槍が当たるはずがない。いや、神が当てさせはしない。

毛筋ひとつ動かさずに槍を見送ったアレクサンドロスにミトリダテスは完全に意表を衝かれた。
顔面を狙われた人間はほぼ例外なく底知れない恐怖に駆られる。
人間のもっとも致命的な部位でもある頭部は、人が潜在的に恐怖をもっとも感ずる部位でもあるのだ。
みっともなく体勢を崩してよけるであろうことを予測していたミトリダテスに、よもやさらに加速して突進してくるアレクサンドロスの一撃を受けきることは不可能だった。

「っぐはぁ!」

次の瞬間、深々とアレクサンドロスの槍がミトリダテスの眉間を貫いていた。
自分にいったい何が起こったかをほとんど認識すらせぬままにミトリダテスは絶命した。
その目は信じられない何かをなじるかのように呆然と見開かれていた。
思いがけぬ僚友の死にロイサケスは激昂しながらも、ミトリダテスから槍を放せぬ無防備なアレクサンドロスの頭部を、得意の偃月刀をもって一撃した。
ところが本来、即死級のダメージを負うはずのこの一撃をアレクサンドロスは受け流すことに成功する。
特別にあつらえた兜の重厚な造りと、わずかにそらされた頭部の角度が、偶然にもロイサケスの渾身の一撃を兜が弾き飛ばされるにとどめたのである。
それは奇蹟の上に奇蹟を重ねたありえないほどの確率の事象であった。
アレクサンドロスは内心に快哉を叫んでいた。

―――やはり余は神に愛されている!愛されているのだ!

脳震盪を起こしそうな衝撃をこらえて今度はロイサケスへと槍を突き出す。
まるで吸い込まれるかのようにアレクサンドロスの槍はロイサケスの胸甲を突き破って心臓へと達した。
朽木が折れるようにどう、と倒れるロイサケスの体重を支えきれずアレクサンドロスの槍がその半ばからへし折れるのと、背後に回りこんでいたスピトロダテスが偃月刀を振りかぶるのは同時であった。



いったいどれだけ幸運な偶然が重なったかしらないが、さすがにこの一撃を防ぐ術はない。
アレクサンドロスを守るべき兜はすでになく、背後に迫るスピトリダテスの脅威にアレクサンドロスは気づいてもいないのだ。
史実ならばここでクレイトスが絶妙なタイミングで乱入し、スピトリダテスの肩先をなぎ払うはずなのだが、そのクレイトスはいまだわずかに王の後ろに接近するにとどまっていた。
間に合わない、このままでは間に合わない!
王が死ぬ!アレクサンドロスが死ぬ!オレの帰還が閉ざされる!
無我夢中でオレは拾ったばかりの投槍をトリミダテスの広い背中に向かって力の限りに投げ放っていた。

いったい今日はどれだけ奇蹟が重なれば気が済むのかわからないが、マケドニアの武将としてそれなりに鍛え上げられていたレオンナトスの右腕は獲物を的からはずしはしなかった。
轟と風をうならせて宙を横切った槍は、あやまたずスピトリダテスの背中に突き立っていたのである。

「おの……れ……っ!神よ!今しばしの力を我に貸し与えたまえ!」

僚友の仇に燃える執念はスピトリダテスを死のふちの一歩手前で押しとどめた。
槍は間違いなく臓器に致命的な損傷を与えているはずだが、ときとして人間の精神力は肉体的限界を超えるのである。
振りかぶっていた偃月刀を両手で持ち直し、渾身の力で打ち下ろそうとしたスピトリダテスの執念は不運にも最後の一歩で実らなかった。
クレイトスが既に抜き打ちの斬撃を放っていたのだ。


スピトリダテスの両手が血しぶきをあげながら剣ごと高く宙に弧を描いて落ちた。
主将級の三人を残らず失ったこの瞬間に、実質的にグラニコス川夜戦の帰趨は決着したのだった。


「勇者たるを欲する者は余に続け!」


高々と剣を掲げてアレクサンドロスは再び前線の渦中へと身を躍らせていった。
あまりにも絵になる寓話のようなその光景にマケドニア兵士の間から、感嘆とともに雄叫びがあがる。
カリスマ性を持つ稀代の王は、一介の兵をも死を恐れぬ勇者へ変貌させる力があるのであった。


頼むから自重してくれよ!
慌しく王の後を追うオレの隣でクレイトスは深くうなづきながら獰猛な笑みを浮かべていた。

「これあるかな、我が君よ!」

………しまった、こいつもバトルマニアの口か。
せめて側近だけでもアレクサンドロスの無謀は止めてしかるべきだと思うんだが………、ふと見ればエウメネスも同意であるようで口の端に苦い笑みを浮かべていた。




アレクサンドロスの怒号に後押しされる形で、右翼に大きな穴が穿たれようとしていた。
しかもアレクサンドロスが孤立しないように左右の両翼でヘタイロイが前線を連動させつつ一気に戦線を押し上げている。
見事なまでの戦略的機動というべきだった。
この芸術的なまでの右翼騎兵部隊を統率した者は、当然ながら一騎打ちに興じていたアレクサンドロスではありえない。
複数の部隊の孤立を防ぎ、王の盾となって戦線の維持を図っていたその指揮官はパルメニオンの長子フィロータスにほかならなかった。


父に似てフィロータスの軍事的な識見はあくまでも堅実な合理主義による。
そのフィロータスの見るところマケドニア軍の圧勝はすでに約束されたも同然であった。
左翼ではパルメニオン率いる歩兵部隊がペルシャ軍右翼を蚕食して後背に回りつつあったし、右翼でもアレクサンドロスが一気に敵の中央を突破したため
完全に指揮系統が機能不全に陥っていた。
完勝といっていい戦況ではあるが、フィロータスの顔色は優れなかった。

―――なぜ喜べないのか?

敵の主将二人を討ち取り、精強を持ってなるペルシャ騎兵をほしいままに蹂躙しているアレクサンドロスは正しく神話に登場する英雄のようだ。
奮い立つ兵士たちも、おそらく自分たちが神話の登場人物であるかのような錯覚に陥っているだろう。
この比類なきカリスマはアレクサンドロス以外の何者にも真似のできることではない。
カイロネイアの戦いのときもそうだった。
ほんの針の先ほどの敵陣の綻びに、迷わず猛進するアレクサンドロスの雄姿に誰もが勝利を確信した。
彼ほど戦場で頼もしい存在はないだろうと、迷わずに断言することができた。

―――彼が王太子であったときには。

だが頼もしい王太子であった彼は今やマケドニアに唯一の王だ。
たかが一地方指揮官にすぎないミトリダテスと一騎打ちなどするべき存在ではない。
彼が倒れたとき、マケドニア王国もまた倒れて立ち上がることは出来ないだろう。ペルシャほどの王国を敵にするというのはそういうことなのだ。
国王たるもの後方から落ち着いて指揮に徹するべきであった。
ただでさえマケドニア軍は数に勝っている。払暁を期してマケドニア軍が総力をあげれば危険などなく倒せる相手なのだ。
指揮官先頭……確かに兵を鼓舞するのにこれ以上の采配はない。
ただしそれは彼が国王でなければの話なのであった。


………かつてアレクサンドロスに感じていた頼もしさが今は歯がゆい。
アレクサンドロスが幼少のころから学友として長いときを共にしてきたフィロータスにはそれが辛くてならなかった。
残念ながらいまだ王としてフィロータスの脳裏に君臨するのは前王フィリッポス二世その人にほかならなかったのである。

「陛下がご存命で……アレクサンドロス様とともに戦場を思う存分駆けられたら……どんなにか幸せであったでしょうに………」

アレクサンドロスは戦場においては並ぶものなき天才であるのは疑いない。
だが、フィロータスの見るところ国王としての識見と実績ではとうていフィリッポス二世に及ぶところではなかった。
前王が志半ばで暗殺などされなければマケドニアはあと二十年は安泰であったはずなのだ。

フィリッポス二世の暗殺を思い浮かべるたびに、フィロータスは胸に黒くわだかまるものを自覚せざるをえない。
前王が暗殺されたそのとき、フィロータスもまたその場に居合わせていたのである。
あまりに出来すぎた暗殺劇だった。
だからこそマケドニアの王宮に根強くはびこる噂を、フィロータスは完全に振り切ることが出来ずにいた。
すなわち、フィリッポス二世暗殺の黒幕はアレクサンドロスの生母オリンピュアスにほかならぬというものであった。

もしも噂が真実であるならば、断じてオリンピュアスを生かしてはおけない。
フィロータスはアレクサンドロスにも内密で捜査の継続をあきらめてはいなかった。
アレクサンドロスの気性からいって彼が暗殺にかかわっていたとは思えないが、彼が生母を強く慕っているのは周知の事実である。
万が一オリンピュアスの罪が明らかになった場合、彼は母をどう扱うのであろうか。

かつてアレクサンドロスの単なる一人の友人であったときから今は信じられないほどに遠く距離が離れてしまったように感じられた。
出来うることなら何もかも忘れて一心にアレクサンドロスに忠誠をささげてしまいたい。
かつてアレクサンドロスとともにマケドニア王国の将来に栄光をもたらさんと誓った誓いも、今も変わらずこの胸にある。
だが、その誓いを捧げるべきフィロータスの心中の王は彼ではない。



………彼ではないのだ。




グラニコス川での戦いはマケドニア軍の圧勝に終わった。
先陣を切ったソクラテスやアミュンタスの騎兵部隊に損害が集中したものの、ペルシャ軍はマケドニアに十倍する損害を受けて避退したのである。
マケドニアにとっての痛恨事は、苦戦の主たる要因でもあるメムノンとその手兵に無傷で逃亡されたことに尽きるであろう。
メムノンは事前からの策に従い、都市防衛を主軸にした持久戦の準備を着々と進めていた。
史実を知らぬものにとって、グラニコス川の勝利はマケドニアの苦境をいささかも改善はしていなかったのである。



[10257] 第六話 ~回想~
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:e30467db
Date: 2009/07/26 22:52

戦場の武神アレクサンドロス大王が登場する以前、マケドニアには一人の偉大なる王の存在があった。
立志伝中に名高き彼の名を人はフィリッポス二世とそう呼んだ。



紀元前368年、マケドニアが、いまだ内乱と対外戦に明け暮れた弱小国であったころ、彼は小国の第三王子としてテーバイで人質生活を送っていた。
このころのマケドニア王国といえば、吹けば飛ぶような辺境の弱小国であり、イリュリアやテーバイといった強国に挟まれてその独立に汲々としている有様であったのである。
フィリッポスの父アミンタス三世の存命中は彼の老練な政治力によって、なんとか国難の波を泳ぎきってきたマケドニアは、その死とともに未曾有の混乱に直面した。
まずフィリッポスの兄が摂政によって暗殺されたばかりか、次兄がようやく即位したのもつかの間今度は隣国イリュリアとの戦役で次兄もまた戦死してしまう。
領土は大幅にイリュリアに奪われもとより山岳が多く耕作面積の少ないマケドニアはさらに窮乏の一途をたどっていた。
小国の興亡の歴史を考えればいつ滅んでもおかしくない状態に当時のマケドニア王国はあったのだ。

そして紀元前359年、兄の子の死に伴い自ら即位したフィリッポスはテーバイでの人質生活で得た先進知識を最大限に活用して国家の再興を着々と実現していく。
為政者としての、とりわけ組織者としての彼は空前絶後の天才であったといっていい。
即位後たちまちのうちに国内の反動勢力を一掃したフィリッポスはまずマケドニアの軍事基盤の改革に乗り出した。

フィリッポスが志向したこの改革はおそらくは世界史上でも特筆すべき軍事革命ともういべきものである。
まず彼は貧しい国民に土地を与えて自立を促し、土地所有権をもった自営農民から兵士を選抜することで、国家への忠誠心の厚い常備軍を手にすることに成功した。
この事実は彼がテーバイでの人質生活で、ヘラス――ギリシャ系ポリス社会のバックボーンが、参政権をもった自由市民層に依っていることを見抜いたことを明瞭に示している。
歩兵戦力に乏しかったマケドニアは、この政策によってヘラスでも有数の歩兵戦力を獲得したのである。
さらにフィリッポスはギリシャ式のファランクスに飽き足らず、歩兵の機動力と打撃力を向上させるため槍の長さを伸ばすかわりに円形の大盾を廃した。
これによりマケドニア式の密集歩兵は陣形を保ったまま駆け足が可能なほどの機動力と、全長5メートルにも及ぶ槍を両手で扱うことによる強大な打撃力を持つに至ったのだ。

もとよりマケドニアは騎兵戦力に優れた辺境地域であったために騎兵の拡充には手間はかからなかった。
ただし、主武装は全長三メートルのサリッサに改められ彼らはヘタイロイ ―友― と呼ばれる美称を与えられ王との親和性を高められる存在となった。
またヘラス伝統の四角型陣形を廃し、楔形陣形を採用することで、指揮官先頭による柔軟な運用が可能となり戦力としての実質は長年の宿敵であるイリュリアを大きく引き離すものとなったのである。

だがフィリッポスの改革の最たるものはそんな瑣末なところにはない。
彼は重騎兵を槌とし、密集歩兵を床に見立てた諸兵科合同 ―コンバインドアームズ― による総力戦を志向したのである。
理由はわからないが、ヘラス世界では騎兵を戦力として当てにしておらず、またペルシャ世界には密集歩兵そのものが存在しなかった。
わずかにペルシャ軍に諸兵科合同の萌芽が見られたものの、砲兵や偵察兵までをも加えた諸兵科を戦術として完全に統合したのはフィリッポスが世界で初めての存在であった。
驚くべきことに、この当時のマケドニア軍が最大の威力を発揮したときの戦闘力は、最盛期のローマをも上回りおそらくは火砲が出現した近代の国家軍が登場するまで彼らに匹敵する存在は現れなかったのである。
後年アレクサンドロスに引き継がれたマケドニア王国軍の精強さは、間違いなくフィリッポスによって築き上げられたものであった。



さらにこれだけの突出した軍事力を所有しながら、フィリッポスはいたずらに軍事力に頼ろうとはしなかった。
ペルシャ軍が圧倒的な戦力をもちながらも遠征に失敗し、その後外交と金惜しみしない政治工作によって結局東エーゲ海の支配権を奪い取ったことをフィリッポスはよく承知していた。
優れた軍事力を持たない国が覇を唱えることはありえないが、軍事力を行使しなくても目的を達成することは可能であり、そのほうが逆に経済的でもあるのだ。
武力に頼ったテーバイの英雄エパミノンダスが最終的に何をもたらしたのか。
フィリッポスも親交のあったエパミノンダスは高潔無私のまさに絵に描いたような英雄だったが、その死により築き上げてきた全てを失わせたのである。
同じ愚を犯すつもりはフィリッポスにはなかった。




彼がこれほどに突出した政治センスを持ちえた理由は諸説あるが、兄たちの死とエパミノンダスの死が彼に与えた影響は確実である。
フィリッポスは兄ペルディッカス三世がイリュリアとの戦役で戦死し、エパミノンダスがスパルタとの戦いで戦死した事実から、総指揮官が最前線に出るべきではないという結論にいたった。
幸い彼にはパルメニオンやアンティゴノスといった宿将がおり、また息子であるアレクサンドロスもまた人並みはずれた将才を見せつつあったために危険を冒してまで指揮官先頭を実践する必要はなかったのだ。
それどころか有用な武将を数多く見出し、王たるものは軍事・外交・謀略を統括する大戦略にのみ専念すべきと考えていた節すらある。
戦場でも有能な将帥であったフィリッポスは、マケドニアの土台が出来上がってくるのと期を同じくして明らかに戦場から遠ざかっているからだ。
また彼によって見出された将帥は、パルメニオンをはじめとしてアンティゴノス、ポリュペルコンといった宿将ばかりかペルディッカス、ネアルコス、プトレマイオス、エウメネスといった後のアレクサンドロスの側近にまで及んだ。
後年アレクサンドロス大王のもとで勇名を馳せる武将のほとんどは実際のところフィリッポスによってすでに見出されていたのである。

亡国の危機にさらされた辺境の小国から、人材を育成し行政機関を整え、全く新たなソフトウェアを使用する最強の軍隊を手に入れた。
さらにその力に驕ることなく外交と謀略を縦横無尽に使いこなし、最小限の力で最大限の果実を得るその万能ぶりは世界史上でも特筆に価するものだ。
だがその彼にもわずかではあるが致命的な欠点が存在した。
すなわち女性問題や派閥問題を抱えていたとはいえ、後継者問題を不確定なままにしすぎたのである。



フィリッポスにはふたりの男子に恵まれていた。
一人はアレクサンドロス、もう一人はアリダイオスという。ところがアリダイオスのほうは言語性の疾患を患っていたために早々に後継者レースからは脱落したと考えられていた。

だからといってアレクサンドロスが後継者に確定して安閑としていられたかというとそうではない。
むしろ幾度もの危機に陥っていると言ったほうがいいだろう。
アリダイオスも完全に後継者レースから脱落したというわけではないのは、婚姻政策でアリダイオスが隣国の王女を娶る話が出たときに、アレクサンドロスがこれをむきになって破談にもちこもうとしたことでも明らかだ。
さらにフィリッポス二世は兄ペルディッカス三世とその子の後を受けているだけに、ペルディッカス三世の系譜に王権を返すべきであるという勢力も存在した。
何よりも問題なのは、事実上の後継者たりつつもアレクサンドロスを後継者とするというフィリッポス二世の明確な意思表示がなかったことである。
現状ではアレクサンドロスが後継者候補最有力なのは疑いないが、新たに第三子が誕生した場合になおアレクサンドロスが後継者たりうる保障はどこにもないのであった。

紀元前337年、アレクサンドロスにとって極めて不都合な事態が発生する。
フィリッポス二世がマケドニアの有力貴族エウリュディケと結婚する意志を明らかにしたのである。
この結婚がマケドニアに与えた衝撃は甚大だった。
フィリッポスは政略的な観点から6人全ての妻を諸外国から娶っていたが、エウリュディケは初めてのマケドニア貴族からの妻であり、慣例を侵そうとするほどにフィリポスがエウリュディケに多大な恋情を抱いていたからである。
結果から言えば人間としてはともかく為政者としてこの結婚は大失敗だった。
天才フィリッポス二世によって急速に発展し巨大化したマケドニアではあるが、いかに彼がバランス感覚の優れた政治家であったとはいえ、その実は様々な軋轢を抱え込んでいたのだ。
リュンケスティスのような小国を併呑したことや、王家への中央集権化、行政機構の刷新による既得権益を失った貴族たちの不満は潜在的にずっと以前からくすぶり続けていた。
王の結婚はこれらの不満に油を注いだに等しかったのである。

エウリュディケの結婚に抗議する形でオリンピュアスとアレクサンドロスは出奔。
隣国でありオリンピュアスの生家でもあるエペイロス王国に身を寄せる。
もともとマケドニアは異国人に対して排他的な風土にあり、エペイロス王家の血よりマケドニア人の血を歓迎する貴族たちはアッタロスを中心に無視できぬ勢力を築きつつあった。
ここでエウリュディケが男子を出産するようなことがあればアレクサンドロスの運命はここで終わっていたかもしれない。
合理性を好み、清濁を併せ呑むフィリッポスにとって、アレクサンドロスの浪漫チシズムと母に似た激情ぶりは為政者として懸念を示さずにいられないことも大きかった。

東方遠征を企図していたフィリッポスにとってここでエペイロス王国と外交問題を引き起こすわけにはいかなかったために、比較的短期間で両者の仲は修復された。
だからといって両者の間に生まれた溝が完全に塞がるはずもなかった。
結局のところフィリッポスはエウリュディケと蜜月を楽しんでおり、アレクサンドロスを正式に後継者に指名したわけではなかったのだから。
アレクサンドロスたちの懸念をよそに、エウリュディケの懐妊が明らかになったのはそれからしばらくしてのことであった。




そして紀元前336年夏、運命の日は訪れたのである。





マケドニアの古都アイガイの劇場はエペイロス王アレクサンドロスとフィリッポスの娘クレオパトラとの結婚に沸きに沸いていた。
何かとプライドの高いヘラスを後方に抱えるマケドニアとしては、ここでエペイロスとの盟約を新たにしておく必要性があったのである。
遡ること数ヶ月前に、遂にフィリッポスは小アジアへパルメニオン率いる先遣隊を進めペルシャとの対決に臨む姿勢を明らかにしていたからであった。

コリントス同盟の盟主としてヘラスを指導する地位を得たフィリッポスは、この機会に東エーゲ海沿岸の植民市を獲得してエーゲ海貿易の独占を図るつもりでいた。
なぜなら強大な常備軍や鉱山の開発などへの投資は、本来健全であったはずのマケドニア財政を再び赤字へ追いやろうとしていたからだ。
また耕作面積あたりの人口が過剰になりつつあるのも原因のひとつであった。
マケドニアは耕作面積が他国に比べて少ないうえに、この時代の人間一人あたりを養うために必要な耕作面積は現代とは比較するのもバカらしいほどに巨大なものであったのである。

エペイロス王アレクサンドロスと、花嫁クレオパトラは叔父と姪の関係にある。
母親のオリンピュアスに似て大輪の華を思わせるクレオパトラの美貌にアレクサンドロスもいたく満足していた。
両者の結婚披露宴は諸外国の使節が見守るなか大成功のうちに幕を降ろそうとしていた。



そんな和やかなムードの中、古都アイガイの中央に位置する劇場に向けて行進する王の背中を思いつめた瞳で凝視する青年がいる。
青年の名をパウサニアスと言った。


マケドニアの中堅貴族である彼は寡黙で武勇に優れ、王の側近護衛官に抜擢されるほどの実力を有していたが胸中には抑えきれぬ憤懣が渦巻いていた。
その憤懣の理由は先日ラバ追いの集団に公衆の面前で辱かしめられたことによる。
武勇に優れるといえども、泥酔中に集団で襲い掛かられてはさすがのパウサニアスもどうすることもできなかったのだ。
このことがパウサニアスの武人としての誇りを著しく傷つけたのは想像に難くない。
ラバ追いたちはアッタロスの家人であることが判明し、ただちにパウサニアスはアッタロスの処罰を王に求めたが王の動きは歯がゆいほどに鈍いものだった。
妻であるエウリュディケに遠慮して父であるアッタロスを庇っているようにしかパウサニアスには思えなかった。
ところが事実はパウサニアスの推測とは異なる。
確かにアッタロスの家人が暴行を働いたのは事実だが、実は前の日の晩にラバ泥棒があり、何者かが「ラバ泥棒がいたぞ!」と叫んだのが騒動の発端であるらしい。
不思議なことにアッタロスの家人にそんなことを叫んだものが見当たらないというのも不審であった。
フィリッポスのアッタロスに対する配慮を抜きにしても、これではアッタロスに叱責以上の処分をするわけにはいかなかったのである。

だがそれが宮廷でどのように見られるかは別の問題であった。
口さがないものは今後生まれるエウリュディケの子供が男であったならば、王位はその子供に譲られることになるだろうと噂した。

そんなことは認められない。
アッタロスの勝ち誇ったような得意顔がパウサニアスの脳裏に浮かんでは消える。
マケドニアの誇りを汚すアッタロスとその一党が王位をおそうようなことがあってはならないのだ。

固い決意とともに懐の短剣に手を伸ばすパウサニアスのもとにフィリッポスの鷹揚な声がかけられた。

「側近護衛官はしばし下がれ」

警護についていた側近護衛官の精鋭が劇場のホールにつくと同時に主賓たちを残してホールの外側へと離れていく。
目の前には二人のアレクサンドロスとフィリッポス二世が、その無防備な姿をさらしていた。
フィリッポスなどは早くも酒が入っているようで足取りまでおぼつかない。
やはりこの男がマケドニアの神聖な王位にいるのは何かが間違っている気がした。


………あのお人の言っていたことはやはり正しかった。


フィリッポスの生命はもはや完全にパウサニアスの掌中のうちである。
武装していないアレクサンドロスたちには自分を止める術はない。
この機会が必ず訪れることを、あのお人は何日も前に予言していた。
そしてまた、アッタロスとその一党を一人残さずマケドニアの地から排除することも誓約してくれているのだ。
逡巡する理由は何もない。
今こそマケドニア貴族の誇りを全うし、マケドニアに正統な王を迎え入れる時なくてはならぬ。
色ボケの老人に国を託せる余裕などこの国にはないのだから。



劇場の中央にはギリシャ十二神と並ぶようにして、フィリッポスの像が飾られている。
ヘラスを支配する者という意味ではこれ以上ないデモンストレーションであった。
辺境の蛮族にすぎなかったマケドニア王家は、これ以後ヘラスでもっとも高貴な血脈となるのだ。
王権の強化と存続の観点からも、王家の神聖化は急がなくてはならない命題なのである。
全長二メートルを超える自身の彫像を目の前にして、フィリッポスはこのうえなく上機嫌であった。




そしてニンマリをした笑みを貼りつけたまま、一代の梟雄は凶刃に倒れた。
己の死すら自覚できぬあまりにあっさりした天才の死であった。



[10257] 第七話 前哨戦その1
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:e30467db
Date: 2009/08/03 07:42

グラニコス川夜戦でのマケドニア軍の大勝利は敵味方双方に甚大な影響を与えずにはおかなかった。
これに対して、アケメネス朝ペルシャにとってこの戦いの結果は全く予想外のものであり、その対応は混乱と拙劣を極めたといっていい。
辺境の蛮族に過ぎないマケドニア軍に敗れた責任を追及され現地ヘッレスポントスとフリュギアの太守であったアルシテスは自殺にまで追い込まれてしまった。
太守として最前線の統治に携わってきた彼の死は、現地の住民を大きくマケドニア側に傾かせる要因ともなったのである。
彼が追い詰められた背景には、メムノンの詳細な報告がダレイオス王のもとに届けられたためとも噂されるが定かなことはわからない。
少なくともグラニコス戦の指揮官の中でほとんどのものが戦死し、あるいは処分されたにもかかわらず、メムノンだけが小アジア方面の総指揮官として出世したことは事実であった。

マケドニア軍にとって幸いであったのは、小アジアにおけるペルシャ最大の拠点であったサルディスは戦わずして降伏することを選び、周辺の各都市もサルディスにならう形で降伏したことである。
中には進んで糧食や資金を提供する都市もあり、これは補給に苦しむマケドニア軍にとっては恵みの雨のごとき贈り物であった。
もしもこれらの都市が敵わぬまでも一戦する覚悟があれば、マケドニアとしてもこれを叩きのめし物資の調達には略奪に頼るほかなかったであろう。
敗北した都市を略奪するのはこの時代には別に珍しいことではないが、今後の占領行政を考えた場合そんなことをせずに済むにこしたことはないのであった。

マケドニアに鞍替えしたエフェソスでは、これまでの支配層であった寡頭派や反マケドニアの領袖が親マケドニア派の市民に引き出され残虐ななぶり殺しにあっていたが、アレクサンドロスはこの虐殺がさらに拡大することを禁じて治安を悪化から守った。
こうした政変にあっては財産目当てで便乗するものが罪のない民を虐殺の対象とすることを彼はよく知っていたのだ。
この処置は結果的に新たな支配者としてのアレクサンドロスの識見とマケドニアの威信を大きく高めることとなったのである。
また、アレクサンドロスはペルシャ・ギリシャを問わずグラニコス川に倒れた戦死者を丁重に埋葬して彼らの死を称えた。

「彼らを粗末に扱ってはならない。彼らの行いは戦士の魂になんら恥じることはないのだから」

敵味方を差別しないアレクサンドロスの大度は彼の英雄としての資質を否応なく喧伝することとなった。
だが、彼が頭を低くして敵を称えたのはあくまでも死んだ敵に対してである。
アレクサンドロスが死者に敬意を払い、生者に容赦のないのは生来の嗜好であるらしい。
降伏を選択したギリシャ傭兵などの末路は悲惨で全員が奴隷として売り払われ、抵抗するものは一人残らず殺された。
メムノンほどにグラニコス川の戦の行方に淡白でいられなかったのが彼らの不幸であった。


アレクサンドロスの戦いはいまだ始まったばかりである。
その道のりはまだ遥かに遠く、困難さは想像を絶するものとなるだろう。
エフェソスの南方ではペルシャ海軍の支援を受けたミレトス・ハリカルナッソスといった諸市が反マケドニアの旗幟を鮮明にしており、特にハリカルナッソスではあのメムノンが作戦のフリーハンドを得て満を持して待ち構えているのだから。




****************

「少々待たせることになるかもしれん。だが勝ちのこるのは誓ってオレだ………だから……オレが迎えに行くまで元気でいてくれ」

メムノンの矜持のこもった強い言葉も、目の前の美女の憂色を払うには至らなかったようであった。

「戦いが全て思い通りになるなんて貴方も思ってないでしょう?勝つにこしたことはないけど………それより必ず生きて迎えに来て」

そう答えるバルシネーの顔色からはいつもの闊達で生命力に満ちた生気が感じられない。
彼女のなかの予感が不吉な未来を予想させずにはおかないのだ。
もしかしてこのままメムノンと顔を合わせる機会はもう二度とないのではないか………と。


バルシネーをはじめとするメムノンの妻と家族たちは今日、ダマスカスへ向けて出発することになっていた。
小アジア方面軍の司令官となったメムノンではあるが、マケドニア側に裏切るものが続出したこともあって家族を体のいい人質として王室に差し出さないわけにはいかなくなったのである。
不本意な部分もあるが、都市持久戦を戦おうとしているメムノンにとってもこの提案は渡りに船でもあった。
ハリカリナッソスは二重の防壁と年来の精鋭で防備を固めているとはいえ、勢いと兵力に勝るマケドニアを相手にいつまでも守り続けることは難しい。
出来うるだけ持久したならば後は都市に火を放って、資金と糧食を全て焼き尽くすのが当初からの計画である。
そうした篭城戦末期には都市住民は往々にして敵に寝返りやすく、とてもではないが家族を手元に置いておけるような環境にはないのであった。

マケドニアを破滅へと追い落とす必殺の戦略がメムノンにはあるが、戦いに絶対がないのはグラニコス川でも思い知らされたことだ。
簡単な話、運のない者は流れ矢にあたってもあっさりと命を落とす。
だとしてもここで愛する女性にわざわざ戦士の宿命を説くつもりはメムノンにはなかった。

「傭兵は死なんさ、意地でも生き残ってみせる。だから………そんな悲しそうな顔をしないでくれ、バルシネー」

メムノンにはある心算がある。
アケメネス朝ペルシャのなかでギリシャ傭兵の地位は決して高いものとはいえないが、ここでマケドニアに対して決定的な勝利を収めることができたならばその状況は一変するはずであった。
おそらくはこの小アジアで二、三州を統括する太守に任命されることも決して夢ではない。

………確証が欲しかった。

バルシネーは大国ペルシャでも上位に含まれる大貴族の血を引いている。
その血に惹かれてバルシネーを望んだのがメムノンの兄メントルであり、彼の判断はトロアス(トロイ)地方の領主という形で報われた。
だが、王家の血すら引くバルシネーの夫としてそんな一領主程度の地位ではまだまだ足りない。
兄がそうした焦慮に駆られ自ら死地に飛び込んでいった日のことをメムノンは昨日のことのように覚えていた。
血だけではない。身体のうちから湧き出るバルシネーの生まれ持った高貴さが、傍らに立つものにその立場に見合った器を強要するのだ。

………この勝利をもってお前に相応しい男としての証とする!

メムノンの想いを知ってか知らずかバルシネーの憂色は一向に去ろうとはしなかった。

「メムノン………今の私は貴方の義姉ではないのよ?早く貴方が私が妻なのだということを思い出してくれることを祈っているわ」


花が美しいのは花自身の意志ではない。
花は咲こうとしてはいても、美しくあろうとなどとは思ってもみないだろう。
しかし花を愛でるものにとって花は美しくあることにこそ無上の価値がある。
花の悲しみは花を愛でる者には決して理解することはできないのというが世の運命なのであった。



********************

快進撃を続けているかに見えるマケドニア軍だが、抗戦の意志を固めているミレトスを前にしてさすがに停滞を余儀なくされていた。
本格的な都市攻城戦を行う場合、攻城武器の構築や準備に時間を取られるのはいたし方のないことなのである。
とはいえ本来なら無駄な戦いではあった。
ミレトスの総指揮官であるヘゲシストラトスはつい先ごろまでほとんど降伏に傾きかけていたからだ。
ところがペルシャ艦隊接近の報を聞きつけた彼はこれに勇気づけられる形で徹底抗戦に踏み切っていた。
海上から自由な補給と援軍を許してしまえば、もはや都市は生半なことでは陥ちない。
だからといって一都市に時間と兵を浪費するぜいたくはマケドニア軍には許されていないのも事実だ。
時を置くほどにペルシャ軍が回復して陣容を厚くするのは確実なのだから。
マケドニア首脳部の苦悩は素人のオレにも察するにあまりあるものであった。

とはいえ史実としてニカノル率いるマケドニア艦隊がペルシャ艦隊より先に到着することを知っているオレとしてはとりたててペルシャ艦隊の来援を気にしてはいない。
というか気にしている暇がなかった。

「レオンナトス!エフェソスからの補給分を受け取りにいってくれ。あと巡検と倉庫の管理の人選も頼む」

………エウメネスにあごでこきつかわれていたからです。
これでも王家由来の大貴族なのですがこの扱いはなんなのでしょうか?
だいたい軍務をおろそかにしてるとかいってヘファスティオンあたりがうるさいのですよ?

「レオンナトスはグラニコス川の馬上でおしっこを………いや、それどころかあまつさえ………」



私が悪うございましたあああああ!!!





オレの処遇に対する不満はともかくとして、エウメネスを王が総書記官として同行させた理由をオレはようやくにして理解していた。
ってかこんな仕事はエウメネスにしかできない。
軍の規模に反して膨れ上がった占領地の管理監督
底を尽きそうなマケドニア軍の資金の効率的運用と節減
マケドニアに友好的な占領地からの資金提供や、反抗的な占領地からの収奪
それらを有効的に使うための一元的な管理の方法
その全てをエウメネスが差配しているのだ。
本国で数百に及ぶ文官が手足となってくれていたときはともかく、戦場に連れてこれた文官は数えるほどしかいないのにもかかわらずである。
それでいて本国並みに巨大な領域を管理しようというのだから恐れ入る。
まがりなりにもそれを成し遂げている事実がエウメネスの優秀さを明瞭に示していた。


困ったことにそれだけの難事にも全く理解を示さないバカが多いのが現在のマケドニア軍の実情だったりする。
特にヘファイスティオンやクレイトスやクラテロスといった面々がその筆頭だった。
戦場では頼りになる存在なのだが、戦場を離れると本当に全くといっていいほど役に立たない。
現在の軍中で占領行政にいささかなりとも理解を示してくれるのはパルメニオンとフィロータスくらいなものだ。
ペルディッカスやメレアグロスも表向きは理解しているように振舞っているが、その大半は気分的なものだろうというのがオレの見解だった。



「だいぶ疲れていらっしゃいますね………」

なれない作業に疲労困憊していると、ヒエロニュモスが水をもって現れた。
エウメネスの直属の文官である彼も忙しく飛び回っているはずだが、こうして気を回してくれるのだからありがたい。
オレのなかではヒエロニュモス株鰻登りである。
主にエウメネスにこき使われているもの同士の意味で。

「あまり役に立てなくてすまんな………」

こき使われているとはいえ、主な作業は雑用と変わらない。
エウメネスやヒエロニュモスはこの何倍も複雑な作業を強いられていることだろう。

「いえとんでもない!レオンナトス様は計数に強いので非常に助かっています」

これでも大学生だから四則演算くらいはさすがにできるけどな。
現実問題ではそれをどう現場に生かすかが難しい。

「……レオンナトス様にこんな仕事まで手伝っていただいて、本当になんとお礼を申し上げてよいか……どうかエウメネスの無礼をお許しください」

丸顔で垂れ目がちな、温厚を絵に描いたようなヒエロニュモスがそういって頭を下げた。
このところ気安く会話をするようになってわかったことだが、彼はエウメネスと同様にカルディアの出身で、有力な商家の出であるらしい。
現在の僭主ヘカタイオスに睨まれてマケドニアに亡命してきたそうだ。
エウメネスとはカルディア時代からの幼馴染で腐れ縁ということらしかった。
善良すぎてエウメネスにいいように騙されているような気がして彼の将来が懸念されるところではある。

「まあ、ここでオレたちが頑張らないと勝手に略奪を始める奴らが出てきて全軍の統制も乱れるからな……」

困窮した兵士たちは容易く略奪に走る。
軍紀の乱れは統率の乱れにも繋がるのだ。敵中に孤立した形のマケドニア軍はまさに軍の統率こそが生命線なのであって、これが失われては破滅への道を真っ逆様に進むことになるだろう。

「そういってわかってくださるのはレオンナトス様のほかにはパルメニオン様とアンティゴノス様ぐらいですよ………」

二大重鎮しか理解してくれんとは本当に大丈夫なのかマケドニア?というか大丈夫じゃなかったから後継者戦争なんかが起きたんだろうけどな。


どうやら休息の時間は早くも終わりを告げたようであった。
ヒエロニュモスの部下が足早に現れて新たな仕事の催促を告げたのである。

「さて、オレももう一仕事するか………」

ヒエロニュモスたちと仲良くなれたのはありがたいが、どうも武官の連中と疎遠なのが問題だな………。
ヘファイスティオンはもとよりクレイトスやペルディッカスとの関係も悪化してきている今日この頃なのである。
パルメニオンの親父が何故か意味不明に好意的なのが救いであった。

「……ニカノルの奴がもうすぐ到着するんで機嫌でもいいのかな?」

理由はどうあれパルメニオンに睨まれなくてすむのはありがたい。
一学徒にはなんとも荷の重い対人関係なのであった。





史実どおりニカノルはペルシャ艦隊より三日ほど早くに到着した。
万が一ペルシャ艦隊が先に到着していたならば、マケドニアに為す術はなかっただけにこれは僥倖と考えるべきであろう。
しかし僥倖を神意とか解釈して調子にのるのは勘弁してほしい。

「やはり神は余に勝利を求めておられる!」

アレクサンドロスが脳内で絶賛妄想中なのはその恍惚とした表情からも疑いない。
いつか一人で敵の大軍に突っ込んでいきそうで怖い、いやマジで。

「もはやペルシャ海軍など恐れるにたりませぬな!」

おお、ペルディッカスよ、お前もか!
フェニキア人が多数を占める歴戦のペルシャ艦隊に、急ごしらえのマケドニア艦隊が敵うはずないだろ、常識的に考えて………。

戦意過多気味のアレクサンドロスにオレは不安の色を隠せなかった。
暴走して史実を書き換えそうな先の読めなさがなんともいえず恐ろしくてならないのだ。
その不安は三日後、ペルシャ艦隊の到着とともに的中することとなる………。




[10257] 第八話 前哨戦その2
Name: 高見 梁川◆46a2b7e3 ID:83db7bcf
Date: 2009/08/13 19:46

それは実に壮観な光景である。
沿岸に遊弋するペルシャ艦隊、実にその数四百隻、マケドニア艦隊百六十隻の倍以上の数であった。
ニカノルがペルシャに先んじて到着できたのはやはり僥倖だった。
とてもではないがまともに戦って勝てる相手ではない。
それは艦隊行動のすばやさや遊弋中の艦隊の整然ぶりを見れば、素人のオレの目にも明らかだ。

「今頃やってきても遅いわ!どうやらペルシャ海軍の力も噂ほどではないようだな!」

陛下、頼むからそのポジティブシンキングをなんとかしてくれないかな?
もしかすると味方を鼓舞するためにわざと言っているのかもしれないけど………。

我らが大王は今日も元気でした。




ミレトス攻囲戦は実のところ苦戦していた。
組み上げた投石器や攻城塔で少しずつ守備軍を追い詰めてはいるが、やはり沿岸で遊弋するペルシャ艦隊の存在が、ミレトスの守備軍に目に見えない力を与えているのである。
数千名は下らないであろう援兵と莫大な軍需物資を満載した艦隊を目の前にして降伏しようとする守備軍はいない。
当初はペルシャ艦隊に先んじた幸運に沸き立っていたマケドニア軍首脳部にも、日が経つにつれてペルシャ艦隊の脅威が重荷としてのしかかりつつあった。
数において劣るうえ船乗りとしての練度でも劣るマケドニア海軍ではペルシャ海軍に正面から対抗するのは難しかった。
幸い、先んじて湾内に入港することができたため、舳先を湾外へむけ船団を密集させることで湾口を閉塞することには成功している。
湾口の広さが限られているため、こうして閉塞されてみるとペルシャ海軍も決定的な局面を造り出せず手をこまねいているのが実情であった。
だからといって我が物顔で外洋を走り回られてマケドニア軍が気持ちのよかろうはずもない。
敵味方ともに根競べの様相となった。

基本的に根競べになると海軍側が不利になりやすい。
海上では水を補給する術がないからだ。
船員の水分の補給にも、調理にも水は絶対的に必要であり、しかも水は他の食物に比べても容積を取る上に物持ちが悪いものなのである。
マケドニア軍の補給状態も決してよいものとはいえないが、それでも海上ほどの切実さは今のところ感じられないはずであった。
だから忘れていたのだ。マケドニア王が決して持久や停滞を望む人となりをしてはいなかったということを。




大空から一羽の鷲が飛翔してきたのはミレトスの包囲が始まってから一週間ほどが過ぎてからのことだった。
巨大な羽を広げれば一メートル半になろうかという見事な大鷲である。
高空から獲物を狙って急速に降下することが常の鷲が、こうして地上で羽を休めているのはひどく稀なことだ。
ましてその場所が軍船の船尾であるとすればなおのこと。
やがて鷲はまるで睥睨するかのように兵士たちを一瞥してのち、対岸の岸辺へと居場所を変えた。
幻想的なその光景に誰もが見惚れるなかで、鷲はひどく甲高い声で鳴いた。


「見たか皆の者!あの鷲こそは天よりの使者。我らがマケドニア軍に今こそペルシャに船戦を挑むべしとの神の啓示であるぞ!」


そう叫んで拳を突き上げたのは、誰あろう我らがマケドニア王アレクサンドロス三世陛下であった。





………この気持ちをなんと表現すればよいのだろう。
青天の霹靂か、茫然自失か、あるいはこの理不尽な結末への憤怒か。

「う………あ………」

動転のあまり上手く言葉が出ないが、とりあえずわかっていることは、



……………終わった…………



ということであった。

史学部四回生の誇りにかけて断言するが、その台詞はアレクサンドロスのものではない。
たった今、歴史は変わったのだ。

「へ、陛下……どうかお待ちくださいませ………」

絶望に身を苛まれつつもかろうじてオレは言葉を吐き出していた。
だが一気に血の気が引いた貧血気味の脳はいっこうに次の言葉を紡ぎだしてはくれない。
心臓の鼓動だけが銅鑼のように耳を震わせ、噴出した汗がまるでサウナにでも入っていたかのように全身を濡らしていく。
自分でも気づかぬうちに虚脱していた膝ががっくりと折れて、急速に迫ってくる地面を前にオレはかろうじて両手をついていた。

脂汗をかきながら四つんばいの状態になったオレの様子はアレクサンドロスの目にも明らかに異様であったのだろう。

「どうしたレオンナトス………ずいぶんと顔色が悪いようだが………」

いったい誰のせいだと思ってるんだ!?……そう言いたい、だが言えない。
深刻な動揺に空転しながらも脳は必死に解決の糸口を探している。
何か、何かこの歴史の過誤を修正する手はないものなのかと。

「おわかりになりませぬか?陛下のその無謀ですらない暴挙を前に、このものがマケドニアの未来に深刻な絶望を抱いたということを」

そう言って慰めるかのようにオレの肩に手を置いたのは、誰あろう軍人筆頭重臣パルメニオンその人にほかならなかった。



パルメニオン自重おおおおおおおおおおおおおおおおお!!



終わった

今度こそ終わった

この期に及んではもはや修正は不可能だ。
短かったなオレの人生……。
さようならブカレスト大学四回生のオレ、そしてこんにちは、マケドニア軍人のオレ。
受け入れがたい現実の重みに思わず涙が一筋流れて落ちた。

「そもそもこれほど大規模の海軍を運用したこともなく、また創設から日も浅いマケドニア海軍と遥か古代から海とともに生きてきたフェニキア人やキプロス人とでは経験と実績が雲泥の差であることは明白。ここまで鍛え上げてきたマケドニア軍の忠勇無双な兵士たちをあたら犠牲にするような真似はこのパルメニオン、断じて認めるわけには参りませぬ。また、ひとたび海戦で負けるようなことあらば、サルディスをはじめとする降伏した諸都市にも影響することは必定。そればかりか内心ではマケドニアの支配を疎んじているヘラスがこの期に乗じる可能性すらあります。これでどうして船戦をがんじえましょうか?」

朗々と響くパルメニオンの太い声が耳に痛い。
その台詞は本来アレクサンドロスのものであったはずなのだ。
そして初めの海戦の提起こそパルメニオンの言うべき台詞であった。
それがどうしてこうも史実と真逆の結果になったものか………。

「何様のつもりだパルメニオン!貴様、神意をなんと心得る!?」

グラニコス川の時には自重したヘファイスティオンだが、今度ばかりは堪忍袋の緒が切れたようである。
危ない目を輝かせて抜刀するや、猛然とパルメニオンに向かって突進を開始した。
その姿からはもはや殺意以外のものを感じ取ることはできない。
マケドニア軍で最も功績ある重鎮たるパルメニオンを殺害するつもりであるのは明らかだった。



ところでこんなときではあるがオレはある重要な事実に気がついていた。
オレの内面世界に存在する帰還のスイッチはなぜか今も変わらぬ姿でそこに在ったのだ。

まさか………こっちが史実なのか!?

そういうことならば頷ける。
アッリアノスの著書に限らないが、歴史書を見る限りパルメニオンはほとんどいいところがない。
だが大王の前で無能をさらす引き立て役でしかない彼が、実利を重視するフィリッポス二世に軍人の筆頭として重用される道理がないのである。
アレクサンドロスを神聖化するために貶められたと見るべきだった。
変わっていない―――!
まだ歴史は変わってはいないのだ!



「いよっしゃああああああああああああああああ!!!」



反射的にガッツポーズをとって立ち上がるオレの目前に、憤怒で顔を歪めたヘファイスティオンがいた。

なじぇ………?



「「ブフォオオオオオオオ!!」」



かすかに疑問が脳裏をよぎったが、鈍い衝撃音とともに火花が散ったかと思うと、考える暇もなくオレの意識は闇の彼方へと連れ去られていった。






(ふむ、同士討ちを避けるために徒手で身体を張るとは、思っていたとおり期待できる男よ)

意識してやったのかはわからないが、レオンナトスの頭頂部が、立ち上がるときにヘファイスティオンの顎の先端を的確に捉えていた。
もしもあのままヘファイスティオンが斬りかかっていれば、まず間違いなくヘファイスティオンの命はなかったであろう。
冷静さを失った若者ごときに一対一で敗北するパルメニオンではない。
だがそれは、アレクサンドロスを退くに退けぬ立場に追いやる行為でもあった。
ヘファイスティオンを殺されてパルメニオンをただで済ますようなことがあってはアレクサンドロスの権威が保たれないのである。
レオンナトスの身を挺した献身はアレクサンドロスとパルメニオンの両者を破局の一歩手前で救ったと言っていい。
不恰好ではあるが無視できぬ功績を成し遂げたというべきだった。

「あの鷲が陛下を祝福するものであることに否やはありません。しかし鷲はもとより空を舞う生物。それが地に降り立ったということは、恐れながら地上でこそマケドニアの勢威があがるように、との天啓ではあるまいかと臣は愚考いたしますが…………」

継ぎ穂を失って言葉を発せずにいたアレクサンドロスとパルメニオンの間を取り持つように、穏やかな口調で語りかけたのはエウメネスであった。
マケドニア艦隊の司令官的立場であるニカノルも我が意を得たりとばかりに頷いていた。
一時的な狂騒に感化されかけたとはいえ、やはり冷静に考えれば海戦は非現実的であるという事実は動かせない。
なまじ有能であるだけにマケドニア軍の指揮官たちにはそれが否応なく理解できてしまうのだ。
アレクサンドロスも決して無能ではない。
運気の潮目が変わり、士気が下がった今、決戦を仕掛けるのは無謀であることはわかっていた。


「フィロータス!」

「はっ」

「ペルシャ艦隊の飲料水の補給先を突き止め、これを討て。ヘタイロイの一部と歩兵三個大隊を率いることを許す。目的を達するまで決して戻るな」

フィロータスはわずかに頭を下げて、あえて意気揚々とこの命令を拝命した。

「王命、謹んでお受けいたします」


いささかアレクサンドロスの譲歩分が大きいとはいえ、妥当な落としどころというべきだろう。
フィロータスはパルメニオンの長子であり、ヘタイロイの指揮官でもある。
その彼に土地勘のない異郷で少数の別働隊を率いらせることは一種の懲罰人事ともいうべきものだ。
だが海戦を否定してペルシャ艦隊との決戦を回避しようとしたのはパルメニオンであり、その責務の一部を息子のフィロータスが負うというのは全く筋がとおらぬわけでもない。
フィロータスではなくパルメニオンを派遣することは、ペルシャ軍が王の道を経て援軍を送っているであろう現状ではリスクが高すぎた。
パルメニオンの手腕には、さすがのアレクサンドロスも一目を置かざるをえないのである。
フィロータスの派遣は現状では最善のアレクサンドロスの妥協点であった。

こうしてミレトス湾沿岸での両国海軍の決戦は幻に終わった。






「………というわけなんだよ。ウププッ!」

そうした経緯をオレがエウメネスに聞かされたのは、翌日の朝になってからだった。
激突の衝撃で頬には大きな青痣ができており、頭部には遠めにもはっきりとわかるほどの巨大なたんこぶが膨れ上がっていた。
どうもその有様がエウメネスのツボを刺激してしまったらしく、先ほどから遠慮なく笑われてしまっている。
相変わらず失礼な奴であった。

「すいませんが諦めてください、レオンナトス様………」

非情に気の毒そうな視線で慰めてくれるのはヒエロニュモスである。
お互いエウメネスに虐待されているもの同士、視線を交わしただけでオレたちはわかりあえるのだ。
いつかきっと下克上してくれるからな!






ところでそのころ、自慢の秀麗な顔を青たんで不気味に変色させたヘファイスティオンが水鏡に映る自分の姿を凝視しながらブルブルと肩を震わせていた。

「殺す、いつか必ず殺してやる……………」

呟くように漏れたヘファイスティオンの言葉は、幸い誰の耳に届くこともなく、ミレトスを吹き渡る潮風に溶けて消えた。



[10257] 第九話 最強の傭兵その1
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:e30467db
Date: 2009/08/23 23:52

ミレトス攻防はほどなくマケドニア軍の勝利に終わった。
予想よりも早くミレトスが陥落したわけは湾口を封鎖されたためにペルシャ艦隊がミレトスに直接支援を届けることができなかったためだ。
ということはハリカルナッソスのように城壁の内側に港を有する都市での苦戦は既に決まったようなものである。
海上補給線を断つことが出来ない以上、ハリカルナッソスは兵糧攻めでは落ちないだろう。
地道で陰惨な攻城戦が展開されることは請け合いというわけだ。
しかもあのメムノンが兵を率いているとなれば、できれば金輪際近づきたくもない。
ペルディッカスをはじめとした武断派の面々が張り切っているのでうまいこと影に隠れてやりすごそうとオレは都合のよいことを考えていた。

そういえばミレトスの陥落に伴ってアレクサンドロスはマケドニア艦隊を全面的に解散させてしまっている。
ペルシャ艦隊との戦で全く役に立たなかったことがその理由だった。
また、艦隊を維持していくことに財政的負担が耐えられなそうであることも大きい。
実際にはたとえ艦隊戦のような全面対決には使えなくとも、シーレーンの維持や私掠行為などある程度の艦隊は存在するだけでも十分な価値があるのだが、本質的に陸の将である
アレクサンドロスはそこまで想像をめぐらすことはできなかったのだろう。

「まあ、ペルシャ艦隊に痛い目を見ればすぐ思い直すだろうさ」

「………本当に見違えるほど頭が回るようになったね、レオンナトス。でも人を見る目は今一歩かな」

どうやらおちおち独り言も言えないらしい。
悪魔的な笑みを浮かべたエウメネスがまるで美味しい獲物を目の前にした獣のように、真っ赤な舌で下唇を舐め挙げていた。
なるほど、やはり綺麗な薔薇には棘があるのだな。



ついさっきまで艦隊の解散や、今後の作戦計画の詰めでアレクサンドロスやパルメニオンの間に立って四苦八苦していたはずなのに、いったいこいつはどこでオレを監視しているのだろう。

「ヒエロニュモスに聞いたらすぐ教えてくれたよ」

「あっさり売られた!?」

ヒエロニュモスよ、どうやら君とは友の在り方についてみっちりと討論する必要がありそうだね。
特に自己犠牲による友誼の発露などというのは非常に興味深いと思うのだが………。
具体的にいうと生贄はお前一人で十分だってこった!


「しかし随分早く抜けられたもんだな。パルメニオン閣下がもう少し食い下がるもんだと思ってたんだが………」

例によってパルメニオンはアレクサンドロスの艦隊解散には真っ向から反対している。
そしてその考えは完全に正しい。
結局そう遠くない日に、ペルシャ艦隊にフリーハンドを許すことの愚を悟ったアレクサンドロスは再びマケドニア艦隊を再編することになるのだから。

「陛下をあまり甘く見ないことだねレオンナトス。艦隊が必要なことぐらい陛下も十分わかっておられる。問題は艦隊を率いてきたのが誰か、ということさ」

どうも碌でもないことを聞いた気がする。
つまりは何か?艦隊の募集と教練に当ったのがパルメニオンの息子ニカノルであることが問題だと。
今後の対ペルシャ戦略においてこれ以上パルメニオンの軍における影響力が増大するのを避けたというわけなのか?

「パルメニオン閣下はそのことを………」

「ほんの少し匂わせただけですぐ察してくれたよ。この件について陛下が譲歩する可能性のないこともね」

幸い艦隊の解散はまだマケドニアにとって致命傷とまではならない。
早晩再編することが決まっているのならば尚更だ。
それでも決断するパルメニオンの胸中は断腸の思いであっただろう。純粋にマケドニア王国の将来を案じる股肱の臣パルメニオンにはこのオレですら同情を禁じえない。
これが王国の繁栄を第一に考えるフィリッポス二世であれば、パルメニオンもこんな摩擦を起こさずに済んだのだろうが、アレクサンドロスの望むのは王国の繁栄以上に自らの名声と好奇心であるのは明らかである。
そのすれ違いが遂には老将に悲劇をもたらすことをオレは史実として知っている。

「先日の鷲の一件以来、君もパルメニオン派と思われてるから気をつけたほうがいいよ」

「なんですとぉぉぉぉ!!」

今明かされる驚愕の新事実!!
何その勘違い?だいたいオレはパルメニオンとろくに会話を交わしたこともないですよ?
それにグラニコス夜戦でもちゃんとパルメニオンに反対したじゃん!


「どうもパルメニオン閣下が君をずいぶんと評価していて、ハリカルナッソスでも先鋒に君を推薦したのが原因らしいね。おかげでもともと先鋒の予定だったペルディッカスがえらくご立腹だよ」


パルメニオンまじ自重おおおおおおおおおおおおおお!!!


どうやら大筋はともかく細部の歴史はもはや取り返しもつかぬほどに変わってしまっているらしい。
しかもパルメニオン一党に目されるということは将来的に死亡フラグが立ちかねなかった。
いったいオレのどこに目をつけたもんだか………。


「くっくっくっ………人気者は大変だねえ………それはともかく、これからサルディスからの補給を手伝ってもらうよ?持つべきものはやはり友達だね」



ニヤリング



悪魔だ!悪魔がここにいます!マイガーッ!



*******************


ハリカルナッソスはいまや一個の堅牢な城塞と化していた。
死角を無くし、ほころびを強化し、弱点を補強したハリカルナッソスにこれといった攻略法はない。
ただただ時間と犠牲を大きくするばかりの正攻法による攻囲しかマケドニア軍には選択肢はないのである。

「それにしてもまさか艦隊を解散するとは……所詮坊やは坊やということか」

メムノンの戦略方針は都市持久によるマケドニア軍の消耗とシーパワーを最大限に活用した逆包囲を基本としていた。
マケドニア軍にとって小アジアの地は本国マケドニアのように統治しやすい土地ではない。
海上補給線を失ったマケドニア軍が軍を維持していくためには地上の補給線を利用するほかはないのだが、異郷の地で補給線を維持することと、補給物資を調達することはどんな軍隊でも至難の技なのだ。
あからさまな収奪に走れば占領地域の信を失うし、かといって味方を飢えさせていては士気が維持できない。
兵力的には圧倒的に不利な状況にあるマケドニア軍にとって、兵の士気と練度の低下は死活問題になりかねなかった。
もちろん補給線の警備に兵力を割く余裕もない。それを行うには占領した領域があまりに広すぎるのである。

正面からは相手にならぬペルシャ軍の三分の一ほどの戦力とはいえマケドニア軍にも海軍力があれば多少の海上補給の維持は出来たであろう。
いかにペルシャ海軍が四百隻の大軍を誇ろうといえども、地中海沿岸をくまなく見張るには少なすぎる。
ましてマケドニア海軍が通商破壊に転じた場合、少なからぬ戦力を護衛にも割り割かねばならぬはずであった。

「まさかそんなこともわからぬ道化とも思えんが………案外海軍内で裏切りでも出たか?」

アレクサンドロスの政権基盤が決して磐石なものではないことをメムノンは知っている。
アッタロスを初めとするアレクサンドロス即位に伴う粛清では既に数多くのマケドニア貴族がペルシャ側に亡命していたし、その後もアンティオコスの子アミュンタスやアッラバイオスの子ネオプトレモスなどの重臣級の亡命者が相次いでいるからだ。

メムノンの口の端が不自然な角度に釣りあがった。
確かにマケドニア軍の精強さはこの世界の中でも飛びぬけている。
フィリッポス二世が手塩にかけた重装歩兵と重騎兵の絶妙に連携した戦術機動力は一朝一夕に追いつけるものではない。
特に歩兵の防御力に欠けるペルシャ軍では三倍の兵力があってなお苦戦は免れないだろう。
だが、それも全ては野戦に限ってのことだ。
攻城戦に関する限りマケドニアとペルシャに明確な差は存在しないと言ってよい。

マケドニア軍は諸外国に比しても投石器や攻城塔など工作力に力を注いでいるが、やはり堅固な城塞との戦闘では即効性に欠けると言わざるを得ない。
兵力、資金、物資の全てにおいてペルシャ王国とは比べるべくもないマケドニア軍にとって、時間は敵以外の何者でもなかった。
それでなくとも緒戦の戦果に満足してしまっている貴族もマケドニア軍には少なからず存在するのだ。

「初めからついていた国力の差はそう簡単には埋まらん。坊やの教師はそう教えてはくれなかったのか?」

「まあ、教師の言うことを真面目に聞くような人間なら大ペルシャに喧嘩を売ろうとは思わぬでしょうよ」

そういってメムノンに微笑んで見せたのはカリア地方の太守であるオロントバテスである。
中肉中背であるメムノンよりも頭ひとつは図抜けた長身であり、戦意に満ち溢れながら篤実そうな風貌を持つ期待の青年であった。
ペルシャ貴族にありながらギリシャ人であるメムノンに実に気さくに接してくれる、メムノンにとっては得がたい盟友でもある。
もともと才覚を買われて前太守の婿養子に入った男であり、出自の身分がそれほど高くないことも彼の気さくさの理由であろう。
だからこそ彼の有能さは確実なものであり、メムノンと秘密を共有するに足る有用な人物なのであった。
今のところメムノンの最終的な大戦略を知る者は実にこのオロントバテス一人である。
ハリカルナッソスそのものが、結局のところ巨大な囮にすぎず、いずれ放棄することを前提にしているなどということを末端にまで知られるわけにはいかないのだ。
囮は囮らしく、最後まで死戦してもらわなくてはならないのだから。

「ならば我らが教えてやらねばなるまいな。はねっかえりの小僧には身体に言うことを聞かせるのが一番の躾なのだから」

「なるほど左様にございますな。これほど貴重な教えを享受するのですから、授業料はいささか高くつくでしょうが」

メムノンとオロントバテスは顔を見合わせて不敵に笑いあった。
アレクサンドロスなど恐れるにはあたらない。
勝つための術策は既に万全であり、それを打ち破る手段が、マケドニアにないことは二人にとって自明の理であったのである。



*******************


マケドニア王国の留守を預かるのはフィリッポス二世からの老臣アンティパトロスである。
アレクサンドロスが彼に求めていることは、東征軍の補給策源地としての支援と、隙あらば刃向かおうとするヘラス世界を大過なく治めることだ。
スパルタ王国が相変わらず水面下で蠢動しているとはいえ、戦力のほとんどを東征軍に引き抜かれ、空洞化したマケドニア本国を全く動揺させることなくヘラス世界に君臨させ続けていることが、彼の行政官としての有能さを表していた。
とはいえ東征軍が敗れればたちまちこの平穏は打ち破られるのも確かなことであった。

「グラニコス川での戦勝を祝して民に酒を振舞え」

ペルシャとの戦いに不安を感じている者たちにとって緒戦の勝利は大きい。
実のところこの勝利によってマケドニアが抱える危機はいささかの軽減されてはいないのだが、少なくとも心理的にペルシャ王国は決して手の届かぬ存在ではなくなった。
戦費の増大は今後さらに国民生活に重くのしかかってくることが明白な以上、ここで勝利を徹底的に喧伝し、将来の見返りに期待させるのことも、アンティパトロスにとって必要不可欠な政治的術策なのであった。


「アンティパトロス様、母大后様より使者が参っております」

「……………またか」

老練な政治家であるアンティパトロスではあるが、このところのオリンピュアス母大后の介入には頭を悩ませざるを得なかった。
先代フィリッポス二世が存命していたときには全く政治に関わろうとはしなかったオリンピュアスが、神託と称してこのところ何かと口を挟みたがるのである。
オリンピュアスがデュオニュソス神の巫女であることはもとより承知とはいえ、現実の政治を神託に左右されるわけにはいかないのだ。
これは亡きフィリッポス二世から引き継がれた政治家としての良心であった。

「仕方あるまい。通せ」

アレクサンドロスの母への傾倒を知っているだけに使者に対して無碍な対応は出来なかった。
下手に不興を買って万が一にも自分がマケドニアの留守居役をはずされるようなことがあればそれはマケドニアの破滅と同義である。
長年の実績によって培われた信頼と安心感を諸外国に見せ付けるだけの重みのある人材がマケドニアには残されていないからだ。
有能な若者は育ちつつあるものの、外交関係ではやはり経験と人脈がものを言う。
ましてマケドニアの政治をオリンピュアスのような激情家が握るようなことがあれば、ヘラスはこぞってマケドニアに反旗を翻すだろう。

「母大后様の御神託を申し渡します」

内心は苦りきりながらもアンティパトロスは恭しく頭を下げて使者の言葉を受けた。

「毒蛇に気をつけよ。されど毒蛇を殺すものは英雄の剣にはあらず。毒には毒をもって征すべし、と」

「しかと、お伝え申し上げる」

くだらない。
その気になればなんとでも受け取れる予言だ。
フィリッポス陛下ならばこんな怪しい妄言は一笑に付してしまわれるのだが……それもせんないことか。
まずはアレクサンドロス陛下に使者を立てなければならない。
どうとでも解釈が可能な予言だが、伝えずに責任を追及されるのだけは避けなくてはならなかった。
あとは盟友パルメニオンたちが無謀な真似に及ばぬよう陛下の手綱をとってくれることに期待するほかないだろう。


…………パウサニアスのあの凶行を予言できぬ神託などにいったいなんの意味があろうか!


ほとんど露ほどにも神託を信じぬアンティパトロスの姿勢は政治家として完全に正しい。
しかしこの時代、神託が政治に影響を及ぼさぬ国家のほうが遥かに少ないのも確かなことであった。。
それも全ては一代の偉人フィリッポス二世の薫陶の為せるわざだったのである。




[10257] 第十話 最強の傭兵その2
Name: 高見 梁川◆46a2b7e3 ID:086ad71d
Date: 2009/09/04 23:25
ハリカルナッソスの城壁からマケドニア軍を見下ろすメムノンの表情には、まるで子どものようないたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
結局強固な守備を目の前にして、マケドニア軍はハリカルナッソスの短期攻略をあきらめ、長期持久の構えを取らざるを得なかった。
結果として宿営地の整備や攻城兵器の調達、水や食料の補給といった問題が、有形無形の楔となってマケドニア軍を疲弊させていくことは確実だったのである。
もちろんメムノンもただ漠然とマケドニア軍の疲弊を待つ気はない。
つい先日にも、包囲が完成する前のマケドニア軍の出鼻をくじくべく逆にこちらから先制の攻撃を仕掛けてもいた。
守備側の思わぬ逆撃に動揺したマケドニア軍は、三百人近い損害を出しており、今後の逆撃に備えるために、より一層防備に気を使わねばならぬはずであった。
攻めているのはマケドニアのように見えて真実はそうではないのだ。
頑なに守りを固めたメムノンこそが、その実マケドニア軍を追い詰めていた。

「安心しろ、坊や。ハリカルナッソスはくれてやる。………だから思う存分はりきってくれ」

メムノンにとってハリカルナッソスは自らが防備に手をかけた重要な拠点ではあるが、決して死守すべき都市ではない。
むしろマケドニア軍の疲弊を誘うための囮に過ぎないというのが本音であった。
そのためにはハリカルナッソスの市民にどれほど犠牲が出ようとも知ったことではなかった。
ダレイオス王が堂々たる軍備を整える時間を稼ぎ、かつマケドニア軍を行くことも退くことも叶わぬ蟻地獄へと誘うことこそがメムノンの戦略構想の要なのである。
士気高く、きびきびと包囲網を敷くマケドニア軍ではあるが、兵が強いだけでは決して超えられぬ壁がこの世にはあるのだ。

「始めようか、滅びの宴を」

もちろん滅びるのがマケドニア側であることをメムノンは露ほどにも疑ってはいなかった。





ペルディッカス配下の重装歩兵のなかにカントスとアリアネスという兵士がいる。
彼らは隊の中でも指折りの勇者であったのだが、同郷の出身で年も近いことから事あるごとに比較されており、いつしか二人には熾烈な対抗意識が芽生えていたのだった。
この日も酒を飲み同僚と語らうなかで、果たしていずれの武功が勝っているかという話題になり、互いの優位性を主張して譲らぬ二人は長年の宿怨に明確な決着をつけるためにある無謀な決断を下した。
すなわち、ハリカルナッソスの高台に連なった市壁に攻撃を仕掛け互いの手柄を競うことにしたのである。

「おいおい、いったいどこの酔っ払いだ?」

気が狂ったようになって、たった二人で壁にとりつく様子を見たハリカルナッソスの守備兵は笑った。
明らかに無謀を通り越して狂気の沙汰であったからだ。
しかし頭上から雨あられと浴びせられた矢をいともあっさりと切り払われるとそう笑ってばかりもいられない。
たかが二人の兵士に好き放題をされていては士気に関わるからであった。

「あのお調子者たちを生かして帰すな」

カントスとアリアネスを討ち取るべく門を開いて数十人のペルシャ兵が出戦した。
それでもなかなか二人を討ち取ることができない。競争しあっているかに見えた二人の連携は抜群であり、互いの死角を庇いあって多数の敵に容易に隙を見せなかった。
ペルシャ兵の只中に飛び込むことで頭上からの矢の攻撃を無効化すると、槍を斬り、剣をふるって縦横無尽に敵を翻弄する二人はまるで戦神の申し子であるかのようだ。
一時たりとも立ち止まらず、常に機先を制して主導権を握らせない。
理想的な少数が多数を制するための術策というべきだった。
これほどの奮戦を見せつけられて同僚たちの意気があがらぬはずもない。
ペルディッカス指揮下の重装歩兵たちは勇戦する戦友を救い出さんがために我先にと雄叫びを上げて突貫した。
ペルシャ側も押し返すにしろ退かせるにしろ出戦した兵士を見捨てるわけにいかず第二陣が出戦する。
期せずして両者は無秩序な乱戦に突入しようとしていた。





「いったい誰があのような勝手な真似を許したか!」

本陣で激昂するのは誰あろうパルメニオンその人である。
しかしその怒りは全く正当なものだ。
組み立て中の投石器は四台中一台しか完成していないうえに、宿営地や防御陣地を含めた攻囲網はいまだ未完の状態にある。
しかもつい先日には逆撃を受けて少なからぬ損害を蒙ったばかりで、工作部隊と連携した野戦陣地を整備中でもある。
そんなところで勝手に暴走されては作戦そのものの鼎の軽重を問われるであろう。
まして、先鋒を務める予定からはずされたペルディッカスの部隊の仕業ともなれば怒らぬほうがどうかしていた。
カントスとアリアネスの暴走などというのは所詮体のよい言い訳にすぎない。
失われた先鋒の名誉を奪い返すため、暴走に見せかけて戦端を開いたということは、ペルディッカスに事態を収拾する意志が全くないことでも明らかだったのだ。

「………お待ちください、パルメニオン閣下」

しかしオレにとってこの展開は予想どおりのものだった。
出戦を出来る限り遅らせて攻囲の準備にいそしんできたのはこの機会を待っていたからだ。
ペルディッカス配下の兵士が暴走することは史実にも明記されていたし、人伝に密かにペルディッカスを煽ってもいたのだからこれで何もなかったらそのほうが困ってしまう。
少なくともアレクサンドロス東征記においてハリカルナッソスの先鋒がレオンナトスでないことは確かなのだから。

「敵は明らかに虚を衝かれております。おそらく準備不足のまま強攻してくることを予想していなかったのでしょう。既に見張り塔が二つも切り倒されていることを考えてもここは戦機を捉え戦果を拡張すべきでありましょう」

なんとも言えずペルディッカスが微妙な表情をした。
独断専行で手柄を奪ったことにオレが全く拘らなかったので、逆に良心がとがめたらしい。
虚栄心が強く他人の成功を妬む傾向にあるとはいえ、根っこの部分では人のよい、というか単純な男なのである。

「レオンナトスの言や良し。ペルディッカスよ、このまま市壁を突破して見せよ」

アレクサンドロスの判断は明快だった。
もとより戦機に躊躇するということはアレクサンドロスの本質に反するのだ。

「御意」



事の成り行きに憮然としつつも、パルメニオンもこの判断に逆らうわけにはいかなかった。
現実にマケドニア軍はペルシャ軍を圧倒しており、パルメニオンの目から見ても今がハリカルナッソスを短期に陥とすには絶好の好機だったからだ。
そして感情に流されず好機を読み取り、あっさり先鋒の名誉を手放したレオンナトスの冷徹な判断力は恐るべきものに思われた。
おそらく自分ですらここまで虚心になることはできまい。

…………ペルディッカスのような背伸びしたがる餓鬼など比べるのも愚かしい。せめてこの期に戦功を立ててくれればと思っていたのだが。


もしも全てを見通す神がその言葉を聞いていたら迷わずパルメニオンを諭したであろう。
それは明らかな誤解である、と。






乱戦は終始マケドニア軍が圧倒していた。
それに伴って市壁の一部が土台から破壊されつつある。
高台に位置していたために市壁の高さがその他の場所より低く設計されていることがその大きな要因であった。
もっともメムノンもそうした弱みを座視していたわけではない。
櫓を五つも立てて防御力を強化していたはずなのだが、乱戦のなかでは初期の防御力を発揮することが出来ず今では五基中三基までがマケドニア軍によって引き倒されてしまっていた。

「………蛮勇も時宜さえ得られればなかなかに侮れぬものだな」

さすがのメムノンもこんな単純な力押しは想定していなかった。
マケドニア軍といえば密集歩兵や重装騎兵のシステマチックな野戦能力が真っ先に思い浮かぶが、バリスタや投石器といった攻城兵器の機械化もまた他国を圧倒するものである。
当然そうした兵器を有効に活用した無駄のない攻城戦をするものとばかり思い込んでいたのだが、いつの世にも想定外の事態は起こるものなのだ。

「さらに兵を繰り出してもうしばらく時を稼げ」

メムノンは兵の逐次投入という兵理学上の失策を犯してでも時間を稼ぎ出すことを優先することに決めた。
最初からある程度の兵の喪失は織り込み済みであり、足りなくなれば容赦なくハリカルナッソスの市民を徴集するつもりでいる。
最悪の場合乱戦を維持するために投じた兵力は全滅してしてしまっても構わなかった。

「オロントバテス、予備を起こして待機してくれ。オレなら今このときに全面攻勢に討って出るだろうからな」

「任せてくれ。第二線の構築も急がせよう」

乱戦がこじ開けようとしている一穴は確かに急所であるが、だからこそ防御を集中させぬために為すべきことがある。
戦いの勢いがマケドニアにある以上、今マケドニアが後先を考えず全面攻勢に出た場合、凌ぎきる自信はメムノンにもないのだ。
万が一突破を許した場合、メムノンは都市に火を放ってゲリラ戦を展開するつもりでいた。
出来うる限りの損害をマケドニア軍に強要したうえで海から脱出する予定だが、この場合長年手塩にかけてきた子飼いの傭兵の大半を失う可能性が高い。
なんとか戦線を保たせたいというのがメムノンの偽らざる本音であった。






「………レオンナトスならハリカルナッソスをどう攻める?」

活気付く前線とは裏腹に、すっかり取り残されてしまった感のある本営では、なぜかオレはエウメネスと留守を預かっていた。
どいつもこいつも前線に出撃したがったので消去法でオレが予備を預かることになったのだ。
手柄を立てさせたくないアレクサンドロスの意向なのか、フィロータスもオレたちと同じく留守を申し付けられている。
手柄をあげる機会を逃したフィロータスは残念かもしれないが、オレ的には最高のシチュエーションであった。
……………隣で嫌らしい笑みを浮かべている悪魔さえいなければ。


「どうせメムノンは危なくなれば海から逃げるんだし、無理をする必要はないんじゃないか?投石器を四台集中すれば城壁なんかいくらも保たないんだからガンガン投石して、補修しようとする連中は片っ端からバリスタや弓で狙い討ちにすればいい。湾口に近い場所に突破点を作れれば言うことはないな。逃げ道を心配しながら戦うのは辛かろうよ」

「………まあ確かにそうなんだけど、そう断言できちゃう武人はマケドニア広しといえどレオンナトスだけじゃあないかな?」

どうやらまた何かおかしなことを言ってしまったらしい。
いったいどこが間違ったのだろう?レオンナトスが直情的だったとはいえ、軍人としてそれほど的はずれなことを言ったつもりはないのだが。

「………レオンナトスは手柄を立てたいとは思わないのかい?」

二人の会話を聞くとはなしに聞いてしまったらしいフィロータスが口を挟んだ。
指揮官先頭がこの時代の基本スタイルであり、雄敵と雌雄を決することこそ一番の武人の誉れである。
実際マケドニアの名のある指揮官は皆戦いのなかで敵将を自ら討ち取った経験を持っていた。
しかしレオンナトスのいう遠距離射撃戦ではそうした機会を得ることは難しい。
確かに危険は少ないだろうが、ともすれば敵はろくに戦うこともしないままに海へと逃げ出すだろう。
それでは手柄が立てられないではないか。

「そう、レオンナトスのいう戦法ではレオンナトスという個人が手柄を立てられる可能性は限りなく小さいんだ。まるでハリカルナッソスさえ陥ちれば武将の手柄などどうでもいいと言っているように聞こえるんだよ」

エウメネスの言葉に我が意を得たりと言わんばかりにフィロータスがうんうん、と頷いている。
………これはしくじったな。まだ国家に対する忠誠が手柄に対する褒美とイコールであった時代だということを忘れていた。
マケドニア王国さえ勝利するならば地位も名誉もいらないなどと言えばそれは異端であると言わざるを得まい。

「今ここで精鋭を失えば来るべきダレイオス王との戦いをも失いかねない。より大きな勝利と手柄を得るために小さな勝利と手柄を捨てることが必要なこともある。そういうことさ」


柄にもなく格好をつけて適当なことを言ったのは結果的に大失敗だった。
フィロータスが感激に顔を紅潮させ、エウメネスがより一層の好奇心を瞳に宿して、ヌラリとした真っ赤な舌で唇を舐めまわしているのに気づいたときにはもう遅かった。
ヒエロニュモスによれば、エウメネスが自分の唇を舐めるのは興奮したときの昔からの癖であるらしい。
明日からさらにおもちゃにされるであろうことを確信したオレは、絶望とともに不貞寝を決め込むことにしたのであった。





レオンナトスが自らの運命を呪って不貞寝しているころ、遂に市壁を突破したマケドニア重装歩兵は思わぬ光景に愕然として立ちすくんでいた。
崩壊した壁の先を半円状に新たに築かれた壁が塞いでしまっていたのである。
これまで費やしてきた時間と犠牲を全て無駄にしてしまう事態であった。
この戦の当初から、メムノンは攻城兵器が発達したマケドニア軍を相手にすれば、たちまち城壁が破壊されるであろうことをよく承知していた。
ならば補修すればよい。もしも補修が適わなければ新たに造ればよいのだ。
そのための資材は十分すぎるほどに準備されていた。
しかもハリカルナッソスという都市に立て篭もるメムノンにとって壁を積み上げる人的資源には事欠かくことはない。
さすがのマケドニア軍も、ようやく突破したと思われた壁の向こうに新たな壁が出現してなお士気を維持することは難しかった。

これまで味方に流れていた戦の勢いが急速に失われていくのを敏感に察したアレクサンドロスは一端兵を退き新たな機会を求めることを決意した。
ここにハリカルナッソスを短期に攻略する見込みは完全に失われ、戦の行方はメムノンの目論見どおりに進もうとしていたのである。





[10257] 第十一話 最強の傭兵その3
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:e30467db
Date: 2009/09/09 22:39



ハリカルナッソスの乾いた風に曝されながら、投石器による破壊とそれを妨害するための小競り合いがさらに数ヶ月の間続いた。
繰り返される消耗の中でマケドニアは千人以上の兵を、ペルシャ側は三千人以上の兵を失っていた。
ただ異なっているのはマケドニア兵が遠く本国を離れた精鋭中の精鋭であるのに対し、ペルシャ側は傭兵と市民兵の雑兵が大半であったということである。
お互いに決め手を欠いた攻防戦だが、資材と城壁の耐久力が限界に達しようとした時点でメムノンは全くためらわずに都市の各所に火を放って撤退を決断していた。
すでに計画どおりの時間は稼いでいたし、この先の戦いを見据えたうえで、これ以上ハリカルナッソスを維持するメリットは失われていたからだ。


今こうしてようやくハリカルナッソスに入城できたこともまた、メムノンの手の平のうえの出来事にすぎないことをエウメネスは暗い思いとともに確信していた。
街は焼かれ、奪うべき食料も物資もなく、肝心のギリシャ傭兵部隊の主力は艦隊とともに逃げ出している。
それどころか市民の間に紛れ込んだ傭兵たちが各所で不正規戦を展開しており、その被害もバカにならないものにのぼっていた。
ハリカルナッソス陥落とは名ばかりで事実上のマケドニア軍の敗北であることは補給に携わるエウメネスが誰よりもよくわかっていたのだった。
残念なことにその思いを共有してくれた人間はマケドニア軍内にいくらもいなかったのではあるが。


「さて、ここは急いでアリンダのアダに物資を供出してもらおうかな?」

「ちょっと待て、そこで何故オレを見る?」

「………ペルディッカスの兵士に金を握らせて焚きつけた男がいたそうなんだけど、今度陛下に聞いてもいいかなあ?」

「全力でお手伝いさせていただきます!」

どうしてこの男はこういう情報が早いのだろうか。

悪魔に握られている弱みがどんどん増えていく現実に、オレは涙をこらえることしか出来なかった。

…………泣くな………泣いたら悪魔が喜ぶだけや!顔で笑って心で泣くんや!



*************







ハリカルナッソスを捨てた後のメムノンの働きは見事の一語に尽きるであろう。
ペルシャ艦隊を縦横に操り、マケドニアの海上連絡線を寸断したばかりかキオス島を手始めに、既にレスボス島をもその大半を支配下へと置こうとしていた。
大陸側の港湾が次々とマケドニア軍に占領されているということもあるが、レスボス島を占拠する理由は、ただ策源根拠地を得るだけにとどまらない。
来るべきヘラス反攻作戦の根拠地にすることが本命なのである。


「それにしても陛下の側近たちは何をやっているのでしょうな。今ならばマケドニア軍は弱体化しておりますし、我が軍と挟撃すれば勝利は容易いでしょうに」


オロントバテスが憤慨したように言うのも無理はない。
マケドニアの侵攻からすでに半年近い時間が経過しているにもかかわらず、本国政府のしたことはメムノンを小アジアの総司令官に任命して艦隊の指揮権を与えただけにすぎないのである。
その気になれば四・五万程度の軍を緊急に動員することは容易かったはずだ。
なんといっても大ペルシャの動員力は十万を超えるのだから。



全ては事なかれ主義の官僚と大国ゆえの慢心のさせるわざとしか言いようがなかった。

「…………どうやら本国でもオレは嫌われ者らしいな」

自嘲するようにメムノンは嗤った。
所詮は外国人傭兵の哀しさである。
メムノンの計画ではハリカルナッソスで持久している間に兵を整える時間を稼ぎ、ダレイオス王の親征に呼応してマケドニア軍を挟撃するはずだった。
王の王たるダレイオスの親征ともなれば、その兵力が五万を下回ることはありえない。
今はマケドニア軍に尻尾を振っている地方豪族たちも、王の親征にはとても心穏やかではいられないだろう。
勝ち馬に乗り続けることが哀しい小領主の宿命なのだから。
現在のマケドニア軍は、ペルシャから離反した小アジアの小領主に補給の大部分を頼っているが、果たしてダレイオス王の軍が間近に迫って尚マケドニア軍に変わらぬ協力をとることが出来るかはおおいに疑問であるとメムノンは考えていた。
小領主からの補給が途絶えれば、マケドニア軍はたちまち飢える。
飢えたマケドニア軍が略奪に走るにしろ補給に戦力を分割するにしろ、何もわざわざ積極的に打って出る必要はペルシャ軍にはない。
ダレイオス王の軍勢が接近したというその事実だけで、占領地の治安は急速に悪化することは確実だった。
あとは有利な土地で、有利な時に、有利な体勢で雌雄を決するだけでよい。
先んじて戦いに打って出なくてはならないのは、追い詰められたマケドニア軍の方なのである。

ただそれだけの自明の理であるはずのことが、プライドや嫉妬から実行できないというのがやるせない現実というものであった。
メムノンの献策どおりに戦争が推移した場合、ペルシャの軍人は面目を失うと考えるものはことのほか多いのである。
また、王の王であるダレイオス王自らが出陣することなどあってはならないと考えるものも少なからずいた。
早急な援軍の望みが薄いことは、メムノン自身が誰よりもよく知っていた。
すなわち、メムノンは次善の策を講ずる必要に迫られていたのだ。

「まあ、それでも勝てぬというわけでもないさ」

必勝の策を封じられたにもかかわらずメムノンはいささかも気落ちした様子はない。
むしろ愉快でたまらないといった様子で嗤っている。
それが虚勢でないということに、オロントバテスは感嘆を禁じえなかった。
小アジアのペルシャ艦隊司令官であるメムノンは、何もただマケドニアの海上補給線を襲わせていただけではない。
完全に手中に収めた制海権を利してヘラスの各ポリスに積極的な政治工作を行っていたのだ。
なかでもスパルタ王はマケドニア王のヘラス支配、すなわちコリントス同盟体制を決してよしとしてはいなかったので、戦況次第ではペルシャ側に寝返ることを
約束してきていた。
もともとペロポネソス戦争においてスパルタはアテネに対抗するためにペルシャ王と手を組んだ実績がある。
ペルシャにとって味方に引き入れるには十分な理由がある勢力なのであった。

「…………全く、貴方にかかってはアレクサンドロスも小僧同然ですな」

メムノンの最終的な目標はレスボス島を根拠地として遠征軍を編成して、ヘラスへ逆侵攻することにある。
それがわずか一万に満たぬ兵力であろうとも、スパルタや、その同盟国の軍勢が呼応してマケドニアに反旗を翻した場合、留守を預かるアンティパトロスには
とうてい手に負えないことは明らかだった。
そもそもアンティパトロスは優秀な行政官ではあるが、戦術家としての能力は凡庸の域を出ない。
本国に残されたマケドニアの戦力は、東征軍に比較するべくもないほど弱体化しているのだからなおさらである。

さらにおそるべきは、たとえその事実を認識していたとしても、それを防ぐ有効な手段がない、ということだった。
海軍力で絶対的な差をつけられているマケドニア軍にはペルシャ艦隊の機動を阻止する術はなく、またヘラスを武力で制圧するだけの兵力も既に東征軍に引き抜かれている。
アレクサンドロスとしては早急にダレイオス王と雌雄を決して戦の帰趨を決めたいところだろうが、ダレイオスが出陣するのは最短でも年明けになるだろう。
八方塞がりとはこのことであった。

「戦いはオデュッセイアのように劇的には出来ていないんだよ、坊や」

戦術家としても戦略家としてもおよそ彼に及ぶ者がオロントバテスにも思いつかない。
まさにメムノンこそは神がペルシャに与えた世界最強の傭兵であった。




***************


マケドニア兵の一部は本国へと帰還を果たし、パルメニオンはサルディスを基点に小アジアの支配を固め、アレクサンドロスは南下して各都市をさらなる支配下に組み込みつつあった。
地図上だけを見ればマケドニアが支配領域を広げペルシャ侵略を順調に推し進めているように思えるかもしれない。
だがその実情は全く異なる。
アレクサンドロスの急速な進撃に補給を追いつかせるのは至難の技だったし、メムノンの軍もダレイオスの軍も無視して軍を分割しているマケドニア軍は、ともすればいつ全滅の危機に陥ってもおかしくない立場にいた。
パルメニオンは当然のことながら軍の分割には消極的であり、アレクサンドロスにも小アジアの基盤を固めメムノンに備えることを諫言していたのだが、とうとうアレクサンドロスに聞き入られることはなかった。
エウメネスはともすれば滞りがちな補給を整理するために東奔西走を余儀なくされている。
…………ところでそこにオレもつき合わされるのはもはや仕様なのだろうか?




「おう!エウメネス。相変わらず綺麗な面してるな。重畳重畳」

ハリカルナッソスの南に位置するミュンドスで積み下ろし中の現場で巨人に見紛いそうな大男がこちらを向いて手を振っていた。
身長はおよそ百九十センチほど。彫りの深い目鼻立ちの整った伊達男でもう六十に手が届くはずなのに、見た目にはとても五十を超えているようには見えない。
赤銅色に焼けた肌の色と、隆々とした筋肉と引き締まった身体は、男が歴戦の武人であることを雄弁に物語っていた。
鷲のように鋭い眼光と隻眼にかけられた刺繍入りの眼帯が、男の精悍さに艶やかさを加え、その際立った存在感は人目をひくことおびただしい。
なんとも絵になる男というほかはないだろう。

「アンティゴノス……!貴方が来てくれたのですか………!!」

エウメネスの顔色が喜色に輝いた。
このところ憂愁の色が強くなりつつあった表情が、ようやく愁眉を開いたようだ。

「がっはっは!………どうやらこの老体も知恵を絞らねばならんようじゃないか、ええ?」

アンティゴノスの言葉にエウメネスはゆっくりと頷いた。
マケドニア軍広しといえども謀将と呼んでよいのはおそらくアンティゴノスとエウメネスの二人だけだ。
パルメニオンやペルディッカスなどの諸将は野戦指揮官としては一流でも帷幄で策をめぐらすことにかけては素人も同然なのである。
もちろんこうした件に関してアレクサンドロスは全くと言ってよいほど当てにならない。

「………ことは王国の存亡にかかわります」

もはや尋常な手段でメムノンの鬼謀を止めることは不可能であるとエウメネスは考えていた。
レスボス島最後の拠点ミュティレネが陥落するまでもはやそれほどの時はない。
このまま無策に時が過ぎればマケドニア王国は戦に一度も敗れぬままに滅亡の道をたどるであろう。
たとえそれが至難だとわかっていても、限られたわずかな時間で戦局を覆す妙策を是が非にもひねり出さなくてはならなかったのである。




マケドニアを代表する宿将でありながら、アンティゴノスとエウメネスが赴いた先はごく普通の民家のひとつであった。
何の変哲もないだけに目立たない場所である。だが一般人に溶け込んではいるが複数の護衛が張り付いていることは気配でわかった。
どえらい機密事項が語られそうな雰囲気にクルリと背を向けたオレの首を後ろも見ずにエウメネスが掴む。

「どこにいくつもりですか?貴方も参加するのですよ、レオンナトス」

「いったいどこまで人使い荒いんだよ!」

オレが憑依してからの経緯を知らないアンティゴノスは呆れたように頭を振った。

「……しばらく会わぬ間にずいぶん仲がよくなったものだな」

「そりゃないだろ!?オレが一方的に虐待されてるだけじゃないか!」

おっさんいい年して目がおかしいいんじゃないのか?
一方的に利用する関係は断じて友情とは認めませんよ!?

「知らんかったのか?この男には気に入った人間をいじめる性質の悪い癖があるのだ。ヒエロニュモスを見ればわかるだろう?」

「そいつはいったいどこのハードSだ!?」

そんな歪んだ友情は断固としてお断りさせていただきたい!
ツンデレか?ツンデレなのかエウメネス?ならばとっととデレ期に入ることを要求する!
いや、それはそれでどうかと思わなくもないが。


「まあ、それはともかく情報が欲しいな。もちろんメムノンの動向は把握しているのだろうな、マケドニアの耳殿」

オレの悲憤を華麗にスルーしつつアンティゴノスが放った言葉は聞き捨てならない意味を含んでいた。
ペルシャ王国には王の耳と呼ばれる諜報機関があるということはオレも聞き及んでいる。
名前から察するにエウメネスがそのマケドニア版の元締めだということだろうか。
確かに立場上そうした組織を管理するには向いているのかもしれないが、いったいこいつは一人で何役の役目をこなしているのだろう?

「いやいや私は彼から報告を受けているだけですからね。………もうそろそろ来る時間なのですが」

その秀麗な顔に透徹な笑みを浮かべながら、エウメネスがそう言うのと玄関の扉が開かれるのは同時であった。

「………遅くなりました」

絶妙なタイミングでやってきた商人風のいでたちの温厚そうな男を、オレはよく知っていた。
詐欺にあったら真っ先に騙されそうな純朴な丸い顔立ちを忘れようはずもない。
内心ではソウルブラザーとさえ思っていた男なのだ。



「マケドニアの耳って………お前のことなのか!?ヒエロニュモス!」


「いやあ………ばれてしまいましたか。くっくっくっ………」



お前キャラ変わりすぎだろ?!
ってか今までエウメネスにいろいろと告げ口してたのお前かよ!?




[10257] 第十二話 最強の傭兵その4
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:523b747f
Date: 2009/09/15 10:52

「………ひどい。裏切りだ。純情なオレの青春の光と影をもてあそびやがって………!」

衝撃の真事実にオレはいまだにショックから立ち直れずにいた。
仲間だと思っていたのに。脳筋マッチョの多いマケドニア軍にあって数少ない草食系男子だと思っていたのに。
対エウメネス用下克上コンビは解散だ。馬鹿野郎。

「いやあ……レオンナトス様が大切な友であることに変わりはありませんよ。今の私は言うなれば世を忍ぶ仮の姿という奴でして……くっくっくっ…」

そんな悪人笑いしながら言われても欠片も説得力がねえ!


「……しかしどうするつもりだ?エウメネス。おそらくミュティレネはあと一月は保たんぞ」

アンティゴノスさんそこでガン無視ですか!?
国難の前には些細な問題でしかないのは確かだろうが、オレにとってはかなり切実な問題なのですけど。
あと可哀相な人でも見るような眼差しでため息とかつかないで下さい。地味にへこみます。

「………どうしてもスパルタは抑えられませんか?」

どうやらエウメネスもこちらのことは一旦棚に上げることにしたらしかった。
少々寂しい気がしなくもないが、オレをからかう余裕もないというのは逆にそれだけ問題が深刻だということなのだろう。
っていうか、だったら最初からオレを交ぜるなよ!

「無理だな。もともとテーバイが負けなければ歯向かう気満々だった国だ。それに我が国がペルシャを打倒したあとになっては反抗の機会は永久に訪れない。ここで起つしかあるまいよ」

スパルタはお国柄的に他国へ隷属することをよしとしない気風がある。
別にヘラス世界や地中海に覇を唱えようという野望があるわけではないのだが、アテネやテーバイといったヘラスをまとめようとする強国が現れるたびに、これに反抗するのは決まってスパルタであったのは故ないことではない。その結果ヘラス世界はポリス単位の都市国家から統一国家に脱皮する機会を失ったとも言えるだろう。
ペロポネソス戦争とその結末として発生したペルシャにとって都合のよい、いわゆる大王の和約体制は、ヘラスの政治的自殺と呼んでも差し支えのないものだ。
今問題なのは、自国の気風を守るならそうした政治的自殺をためらわないスパルタ王国の悪しき政治的風土なのであった。

「…………殺すしかありませんね」

誰を、とはエウメネスは言わなかった。
言う必要もなかったからだ。
ただ女性に見紛うばかりの美貌が殺意を滾らせるのはオレが思っていた以上に背筋の凍る光景ではあった。
人をいじる悪癖はあっても、基本的にエウメネスがおひとよしの部類に入ることをオレは知っている。
しかし国家の戦略的判断を個人の情に優先させることが出来るのはエウメネスが政治家として稀少な才を持っていることの証左であろう。
特にマケドニアの武人たちには欠けている才能であることも大きい。
もっともそれが欠けているのが国王アレクサンドロス陛下であるというのは冗談のような笑えない事実だ。

「確かに、奴さえ殺せればことは終わりだろう。次の司令官が決まるまでに時間がかかるだろうし奴の後任が誰になるにしろ遠い異国に遠征しようなんて決断が出来る将など、そうはおらんからな」

メムノンの戦略構想は一介の武将が考えつく範疇を大きく超えている。
少なくとも、彼の構想を正確に理解し、それを実現できるだけの統率力と胆力を持った武将をアンティゴノスは思いつくことができない。
おそらくはメムノンの死とともに小アジアのペルシャ艦隊はマケドニアにとって危険な存在ではなくなるだろう。
だからエウメネスの選択はアンティゴノスの予測を超えるものではなかった。想定どおりと言っていい。
年こそ離れているが、どこか似たもの同士の二人なのである。
アンティゴノスも同じ考えには達していた。問題なのは………

「………しかしあれほどの男をどうやって殺す?」

とうてい戦場で討ち取れる相手ではない。
そんなことができるくらいならとうの昔にメムノンは戦場の露と消えている。
衆を圧する武勇に、実績が積み上げてきた高次元の統率力。
長年の戦塵に鍛えられてきた忠誠心の高い部下。
何より必要以上の危険を冒さず、常に冷静に状況を読みとる判断力がメムノンには備わっていた。
暗殺を試みるにこれほど相性の悪い男もないであろう。
現にハリカルナッソスでもこの厄介すぎる男の暗殺を試みなかったわけではない。
すべて完膚なきまでの返り討ちにあったというのが厳然たる事実なのである。
さすがのエウメネスも都合の良い手段を思いつけずにいた。

…………はて?
確かメムノンはミュティレネ攻略中に病死する、と史実にあったような気がしたがもしかしてこいつらの暗殺だったのだろうか?
こんなところで歴史が変わるとか、マジで勘弁して欲しい。

「………メムノンって体調が悪くなったりとかしてないのか?」

ついポロリと漏らしてしまったオレの言葉に激しく動揺した人間がいた。

「そ、それ!なんで知ってるんですか?レオンナトス様!」

ヒエロニュモスである。
慌てるあまり口調から先ほどまでの陰が消えている。
なるほど、やはり素はこっちだったかと何故か安堵するオレ。
やっぱりヒエロニュモスは草食系のイジメテ君じゃなきゃいかん。オレの精神衛生的に。

「メムノンが原因不明の腹痛で療養中だというのは、我々が総力をあげてようやく攫んだ機密情報なのに!」

ギギギ………………と、
まるで機械仕掛けの人形のようになめらかさに欠けた動きでエウメネスとアンティゴノスの視線がオレに集中した。
胡散臭そうな目で見つめるアンティゴノスはまだしも、エウメネスの面白いおもちゃを見せられたかのような満面の笑みに思わず腰が引ける。
経験上こうした笑みを浮かべたエウメネスは要注意なのだ。

「いやあ、親友の私に隠し事とはつれないなあ、レオンナトス………」

「べべべ、別に隠してたわけではありませんよ?ふと思いついただけデスよ?」

黒いオーラとともに心臓をわし攫みにされたようなプレッシャーを感じて思わず敬語になってしまうオレ。
どんだけ位負けしてんだよ、と思わなくもないが正直いって全く勝てる気がしないのだから仕方がないのだ。
というか背筋が震えるほどに恐ろしい。誰もが見蕩れそうな完璧な微笑みのなかで瞳だけが内心の怒りに燃えている。
おびえるオレの肩にやさしく手を置いて、エウメネスはにこやかに死刑宣告を告げた。



「………………いいから吐け」











ミアルコルトスはもともとサルディスに逗留していた学者であった。
学者と一口に言うが、この時代の学者の果たす役割は現代とは比べ物にならぬほどに大きい。
なぜなら彼らは哲学者であり、また科学者であり軍事学者であり歴史学者であり医学者でもあったからだ。
こと智に関するもの全てに対する絶大な影響力こそが、彼ら学者が国境を越えて各国に重宝される力の原点なのである。
そのミアルコルトスが現在ミュティレネにいる理由はパトロンであるオロントバテスに招聘されたためであった。
招聘の理由はほかでもない。
彼の医学者としての顔が早急に必要になったのだ。

彼をこの地に呼び寄せた患者は複数の男たちから報告を受け、二三の決裁を下し、病にあってなお活発な執務を続けていた。
ややこけた頬と潤いの欠けた肌以外に彼が病人であることを感じさせるような兆候はない。
不定期に訪れる腹部の激痛がなければ、この男はいまだに鎧を纏い戦陣で指揮をとっていたに違いなかった。

「やれやれ………安静にしていてくださいとあれほど申しておきましたのに………」

「ああ、先生か。いや、これでも身体を動かすことは控えているんだがな」

メムノンにとってもこの大切な時期での体調不良は痛恨事であったと言ってよい。
ヘラス逆侵攻はメムノンが直接指揮を執らなくてはとうてい成功の見込みはおぼつかないからだ。
だからといって身体に無理をさせたあげく命を失うようなつもりはメムノンには毛頭なかった。
戦いに勝つのはあくまでも経過であって、勝ったあとの果実にこそ至高の意義が存在するのである。
メムノンにしてみれば、バルシネーに対する負い目を払拭することが出来るだけの地位と言ったような果実を得るまで死ぬわけにはいかないのだった。

「身体を休めるのと心を休めるのはまた別のことだと申しませんでしたか?」

ミアルコルトスの見るところ、メムノンの症状は長い戦場生活による食生活の偏りや不規則な生活時間がもたらしたストレス性の疾患―――現代風にいうならば―――の典型的なものであるように思われた。船旅の間に軽度の食中毒にあたったことが症状を予想外に悪化させたのであろう。
戦争のひりつくようなストレスから解放されないかぎり、抜本的な解決にはならないのは明白だった。
だからといってメムノンに戦場から去るように言っても無駄であることはわかりきっている。
実のところミアルコルトスに求められているのは症状の根絶というより症状を緩和し、痛みを鎮痛するということなのである。

「これも職務なのでな。先生のおかげでこのところは存外に調子が良いのだ。あまり出来の良い患者ではないだろうが今後ともよろしく頼む」

空気のよい場所で戦場から離れ重要な案件のみ決裁するという今の生活は、十分とは言えないが確実にメムノンの負担を減じていた。
この分ならヘラス侵攻のスケジュールが遅れることはないで済みそうである。
ミアルコルトスの医療の腕は数多い学者の間でも上位の部類に含まれるというのは決して噂ばかりではないという証左であった。

「閣下の頑健な身体でなければ床にしばりつけてでも休ませるところなのですが………このところ睡眠もしっかりとられておられるようですし症状も大分改善してきております。このままですと半月後には戦地に立たれることも可能でしょう。無論、無理をしないという前提つきではありますが」

疲労が限界に達しつつあったとはいえメムノンの身体は常人に比べるべくもないほど頑健に出来ている。
しかし正直なところメムノンの頑健さを支えているのは人並みはずれた精神力にある、とミアルコルトスはみていた。
停滞したヘラスを後にして、ペルシャという異国でその腕だけを頼りにのしあがってきた。
小アジア総司令官という地位は、その彼の人生の絶頂とでもいうべきものだ。
本来ならば王族が担うべき重責と名誉なのだから。
それでもメムノンはそこで歩みを止めてよしとはしない。
彼にとっての未来はさらにその先があり、彼の野心はまだまだ留まる場所を見つけてはいないのである。

「………こちらが新しい薬になります。眠りを促す必要はもうありませんから、まずはこれで三日ほど様子を見ましょうか」

メムノンに何より必要なのは規則正しい生活と正しい食生活と適度な睡眠だった。
このところ生活のリズムが改善されたためにわざわざ睡眠薬を処方する必要がなくなったのだ。

「新しい薬ですな。ところで先生ものは相談なのだが…………」

そう言ってメムノンは口元に薄い嗤いを浮かべた。
子供がしばしば小さな動物たちに残酷ないたずらを施すときにも似た、酷薄で無垢な嗤いであった。

「その薬、ここで飲んでみてはくれまいか?」

ミアルコルトスには彼が自分を疑うに至った理由に心当たりがあった。

「私をお疑いか?」

「この戦火の只中にあるミュティルネにわざわざヘラスから訪問客がある。しかも私の主治医のもとへと。しかもその訪問客はこちらの尾行に気づくやまんまと尾行を振り切って行方をくらましてしまったそうだ。それでもなお先生を信じきれるほどに、私は人間が出来てはいないのだよ」

メムノンの疑いは当然というべきだろう。
彼は自分をどれほどマケドニアが殺したがっているかということについて充分な自覚があった。
今ここで自分が倒れればすべての計画は水泡に帰すのは明らかなのだ。
十中八九までミアルコルトスはマケドニアから自分を暗殺するよう指示を受けているはずであった。
有無を言わさずミアルコルトスを拘留しないのは、ここまで真摯に自分を治療してくれたミアルコルトスへの最後の礼儀のようなものであり、またあるいはミアルコルトスは無実であるという小さな可能性を信じて
みたいというメムノンの個人的な願望の表象であるというべきだった。

「………確かにテオフラストスの弟子である私にヘラスから接触があれば閣下が疑うのはごく当たり前のことでしょう。なんといってもテオフラストス先生はアリストテレスの弟子であり、かつマケドニアに知己の多いかたでありますゆえ」

テオフラストスはアリストテレスのごく親しい友人であり、かつ優秀な弟子でもある。
後年博物学者として歴史に名を残す彼はアリストテレスの学園(リュケイオン)の後継者で、アレクサンドロスが王位に就く前にはミエザの学校でアレクサンドロスを相手に教鞭をとったことさえある男だった。
しかも現在交戦中のミュティレネが存在するレスボス島の出身で、島内の地理には誰よりも詳しいと言っていい。
その彼の弟子に疑いを抱かぬほうがどうかしていた。

「我々学者は国境を越えて門人を助け合う種の人間です。しかし一人の医師として、患者の命は学者同士の絆に勝るものであると心得ております」

そう言ってミアルコルトスは薬をとると躊躇することなく自らの口に入れたのだった。
その所作になんらのためらいも、恐怖も存在しないということをメムノンは認めざるをえなかった。
それほどにミアルコルトスの立ち振る舞いは堂々として立派なものに思われたのだ。

「…………いらぬ邪推をしたようだ。わが身の不明を許して欲しい」

「閣下の身を考えれば当然のこと。謝罪には及びません。どうかこれからもお身大切に」

ミアルコルトスは莞爾と笑った。
なんとも包容力を感じさせる温和で柔らかな笑みであった。






ベッドに身体を横たえたままメムノンは次にマケドニアが打つである手段について思考をめぐらせていた。
ミアルコルトスからの線が消えた以上、食事に毒を盛るか刺客を潜入させるくらいしか残された手はないだろう。
いや、ここでミアルコルトスへの警戒を解くべきではない。
彼の家族を人質に彼に強要することだって充分ありうることなのだ。
刺客への警戒兵力を増員しておくべきかもしれない………。
そんなことを考えながらミアルコルトスに渡された薬を喉へ流し込んだとき、異変は起きた。

「…………馬鹿な………!なぜ………!?」

胃に直接火をつけられたような激痛にメムノンは身をよじらせた。
同時に肺が痙攣を起こしたかのように呼吸を不規則なものに変えていく。
喉元をせりあがる灼熱感は、大量の吐血となってシーツを鮮血に染め上げた。
もはや毒を仕込まれたのは明白だった。

(……あのときミアルコルトスは薬を選別してはいなかった。毒を飲むという恐怖感も一切なかったはずだ。なのになぜ………!?)

喉内に溢れ返った血で言葉を発することも出来なくなりながら、メムノンはこの理不尽な結果を呪った。
納得がいかない。行くわけがない。
自分の策は完璧だった。マケドニアを制することは容易く、時代が自分を後押しするならば新たなマケドニア王となることすら夢物語ではないはずだった。
ミアルコルトスにしても自分の観察眼が間違えていたとは考えられない。
いったい何が、何がおかしかったというのか!







「テオフラストス先生がただの師であるというだけなら、私は貴方を殺そうとは思わなかったでしょう………しかしテオフラストス先生は私の命の救い手であり、二人目の父と慕うお方なのです。それに私のような医師のなかにはある種の毒に対する抵抗力を身につけたものが存在するのですよ…………」

それでも後味の悪いことに変わりはない。
自分が人として大切な何かを裏切ったということを、誰でもなくミアルコルトス自身がよく承知していた。
苦い焦慮と嫌悪感を滲ませながらしわがれた声でミアルコルトスは続けた。

「私にこのような真似をさせた貸しはいつかきっと返していただきますぞ、エウメネス様………!」

沈うつな表情でレスボス島をあとにするミアルコルトスのつぶやきは誰に聞かれることもなく潮騒のなかに溶けて消えたのだった。







「がふっ!ごほっ!」

酸素を求めて喉をかきむしりながらメムノンはベッドから転げ落ちた。
胃は相変わらず松明を押し当てられたように熱く、肺は空気の変わりに血で満たされてしまったかのように血泡を間断なく口腔へと送り込んでいた。
死神の魔の手がはっきりと後ろ髪に手がかかったことをメムノンは自覚した。

(オレはまだ死ねないんだ!)

メムノンは恥も外聞もなく啼いた。
まだ自分は何も伝えていないのだ。妻を、バルシネーを愛しているのだと。
ペルシャ貴族の血脈も亡き兄の意思も関係なく、ただありのままのお前だけを愛していると。

地平線のかなたまで広がる草原に吹く涼風のような、バルシネーの無垢な微笑みがメムノンの脳裏に去来する。
いつか自分も、そんなスケールの大きい存在となってバルシネーと肩を並べることを誓っていた。
マケドニアを打ち破ったときこそ自分はバルシネーに相応しい人間になれると、そんな気がしていたというのに!

(死ねない!神よ!どうかこのオレを殺さないでくれ!)

もうメムノンは喉をかきむしることすら出来なくなりつつあった。
ときおり身体を痙攣させ、ぶくぶくと口から血泡を吹き出させているなか意識だけがかろうじてメムノンの生を繋ぎとめていた。

鬨の声が聞こえる。
それは待望の勝利の雄たけびだった。

(ああ見てくれバルシネー!ついにオレはマケドニアを滅ぼしダレイオス王からヘラスの統治権を賜ったのだぞ!)

マケドニアの首都ベラが燃えていた。
スパルタはおろかアテネやテーバイの残党までが集い、およそ三万もの大兵を集結させている。
根拠地陥落の報に慌てて引き返してくるアレクサンドロスを疲労の頂点で討ち取る準備は万全であった。


(今度こそ迎えにいくぞ、バルシネーよ!)










「どうしたの姉さん、なんだかうれしそうだけど………」

アルトニスはいつも飄々とした姉が珍しく頬をばら色に染めた様子に驚きを隠さなかった。
こんな恥じらう乙女のような姉の姿は、前夫との結婚式以来の出来事だったからだ。
バルシネーは月桂樹の冠をかぶせられた年端もいかぬ乙女のようにはにかんでいた。

「聞いてくれるかしらアルトニス。あの照れ屋で初心なあの人が、初めて私に愛していると言ってくれたのよ……………こんな素敵な夢は久しぶりだわ」





[10257] 第十三話 闇よりも深い闇
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:818e0fc3
Date: 2009/10/03 23:09


「父上にお話があります」



サルディスで占領地の慰撫にあたっていたパルメニオンのもとに息子フィロータスが訪れたのは月も高い深夜になってのことであった。

憔悴の色も露わなフィロータスの様子にパルメニオンは、その事実が示すものをある程度予測することができた。

フィロータスが秘密裏に何を探っているかということについて、当然パルメニオンも無関心というわけにはいかなかったからだ。

ある意味においてパルメニオンがその秘密にむける関心はフィロータス以上とも言える。

なぜならそれは、今は亡き先王フリッポス二世の暗殺の真相に関わるものだったからである。



「………暗殺の数日前、国母様はパウサニアスを親しく招き、そこで復仇を称える唄を吟じております」



「その噂は聞いている。だがパウサニアスが死んだ今それを証言できるものがいるか?」



パルメニオンは顔を顰めて首を振った。

暗殺の当初から国母オリンピュアスを疑う声は決して少なくはなかった。

フィリッポス二世とエウリュディケとの間に男子が誕生した場合、アレクサンドロスの母であると言う一点においてかろうじて宮中に権力を維持していたオリンピュアスは最悪故地エペイロスに追放されても不思議ではない。

夫婦の愛情がとうの昔に冷め切っていることは、宮廷内に詳しいものなら誰でも知っている当たり前の事実だったのである。

だからこそ暗殺時には様々な憶測と噂がマケドニア全土を駆け巡った。

フィロータスの言うオリンピュアスが宴に乗じてパウサニアスに暗殺をそそのかしたというのもそうした噂のひとつであった。



「…………その場に居合わせた女官はわずかの例外を除き不慮の死を遂げております。私がようやく真実を聞き出せたのはエペイロスから国母様に付き従っていた古参女官のひとりです」



調べが進むうちに数々の疑惑が浮上していった。

フィリッポス二世の寵愛を失ったパウサニアスがなぜかオリンピュアスに招かれていたこと。

真相を探ろうにも、当日の目撃者たちが次々と病死や事故死という不慮の死を遂げていったこと。

かろうじてエペイロス王国からオリンピュアスに付けられた側近たちだけが、そうした不幸を免れていた。

そこに人為的な意思が存在するのは火を見るよりも明らかだった。



「いったいどうやって聞き出した?あの神憑りどもは結束が固かったはずだが…………」



オリンピュアスの側近にはひとつの共通点がある。

すべての人間がデュオニュソス教の熱心な信者であるということだ。

激情に身をゆだねることを是とする彼らは現実主義者のフィリッポス二世とその腹心たちにはあまりに相性の悪い存在だった。

オリンピュアスが類稀な美貌であったことを差し引いても、フィリッポスとオリンピュアスが一時は仲の良い夫婦であったということは奇跡に近い確率といえるだろう。

もっともそれには他の側室がなかなか世継ぎを懐妊しないという問題もあったのだが。



「確かに結束は固いようですが身内には逆に甘いようですな。エペイロスのほうに手を回して身内に聞き出させたら実に呆気ないものでしたよ」



そう言ってフィロータスは皮肉気に口の端を吊り上げた。

やはりフィリッポス二世暗殺の主犯はオリンピュアスだったのだ。

あとはさらに証言を固め大逆に相応しい報いを受けさせてやる。

先王の死以来、フィロータスがそれを夢見ぬ日はなかったのだから。



「おそらく陛下には通じぬぞ」



パルメニオンのしわがれた声にフィロータスが目を剥いた。

内心ではうすうす感じ取りながらも、なんとか否定したい事実であったのだ。

アレクサンドロスにはフィリッポス二世の暗殺を奇貨として王に即位したことを天佑と捉えている節がある。

そして偉大な父フィリッポスを自らの名声に対する障害と認識していることが、言葉の節々から受け取れるのである。

さらにアレクサンドロスとオリンピュアスは非常に似通った気質の持ち主で、お互いを特別な絆で結ばれた神聖な親子だと考えていた。

フリィッポス二世の生前、母オリンピュアスと一度はエペイロス王国へ亡命したことを見ても二人の絆は明らかなのだ。



「しかし………それでは………陛下の無念が………っ!」



無意識のうちにフィリッポスを陛下と呼んでしまうところにフィロータスの心情が現れていると言えるだろう。

王として、為政者としていまだ彼を超える存在をフィロータスは知らなかった。

アレクサンドロスでさえ、王としての才は遠くフィリッポスに及ばない。



「まだ動く時は早い………フィロータスよ、その件はわしに預けておけ」



パルメニオンは無力感に打ちひしがれる息子の肩を優しく抱いた。

激発してよいのならばパルメニオン自身がとうに激発している。

それが出来ないのは現在マケドニア王国が未曾有の国難に直面しているからであり、死んだフィリッポスが何よりもマケドニア王国の行く末を大切に思っていたからだ。

国王が国の守護者たることを誰よりもよく知っていたかけがえのない君主であった。



「…………父上は陛下をどうお考えですか?」



フィロータスの問いにパルメニオンは瞑目する。

この陛下とは言うまでもなくアレクサンドロスのことである。

アレクサンドロスがオリンピュアスを擁護した場合、あるいはアレクサンドロス自身が暗殺に関わっていた場合にどうするべきかをフィロータスは問うているのだ。



「……………あの男は天に愛されておる…………」



パルメニオンの口調は苦い。

王としてはいささか物足りないアレクサンドロスだが、戦場においては神がひいきしたかのような天運に恵まれていた。

その天運こそが戦場における最強の切り札であることを歴戦の将であるパルメニオンは知っている。

運のない武将はどれほど策をめぐらし勇を誇ろうとも結局は敗北するし、運のある武将は才が凡庸であろうとも遂には勝つ。

それが冷厳な戦場の運命というものなのであった。

そして兵士をたちまち熱狂させるカリスマ性はあのフィリッポスにもなかったものだ。

武将として当代随一というべきものを、確かにアレクサンドロスは持っているのである。



だからといってその才能がマケドニアを益するかどうかはわからない。

特に博打としか言いようのない対ペルシャ戦争中の今は、たった一度の敗北が十の勝利をやすやすと覆してしまうだろう。

天運は決して永続するものではありえない。むしろ永続しないがゆえに天運は天から与えられるのである。

才あるがゆえにマケドニアを滅亡へと追いやる可能性も、決して低いものではないのであった。



「……今はただその天運の行く先を見守るのみ。そしてあの方が愛したマケドニア王国にとって陛下が障害となるならば、この老体の身命を賭して陛下を排除する。
陛下がマケドニアにとって無くてはならないならば、たとえどれほどの憤怒を抱き、涙を飲もうともこれを守る。それがフィリッポス二世陛下の腹心たる我が覚悟じゃ」



フィリッポスの死後アレクサンドロスが即位しなければマケドニア王国は支柱を失って内乱に突入していたであろう。

今もまたアレクサンドロスの生命なくば強大なペルシャに飲み込まれることは避けられない。

マケドニアを守るためにはまずアレクサンドロスを守らねばならない情勢に変わりはないのである。

だからこそパルメニオンと軍部は結束してアレクサンドロスの支持を続けてきた。



しかし明確にマケドニアの利益とアレクサンドロスの利益とが敵対するようなことがあれば、パルメニオンは躊躇なくアレクサンドロスに剣を向けるつもりでいた。

何も好き好んでエペイロスの物狂いの血をひくアレクサンドロスを支持してきたわけではないのだ。

たとえ内乱になろうとも、マケドニアという国が消えてしまうよりよいという場合もある。



「もしも時がいたればわしも躊躇せぬ。しかし今はこの件は胸にしまって自重しろフィロータス。妙な隔意を持ってはならぬぞ」



フィロータスはミエザの学校でアレクサンドロスとともに机を並べた仲だ。

少年期をともに過ごした連帯感というものは、成長し大人になっても存外に大きい。

パルメニオンの軍に対する影響力を削ぎたいにもかかわらずフィロータスがいまだアレクサンドロスに重用されているのも、そうした過去と無縁ではあるまい。

しかしそうした思い出を背景とした連帯感は、ふとしたきっかけで反転するものでもある。

無条件の信頼が無条件の憎悪となるのも珍しいことではないのだ。

フィロータスがアレクサンドロスに不信感や隔意を悟られてはその反転を誘発しかねなかった。



「…………新たな情報が入ればまた…………」



承知していると言いたげにフィロータスは軽く手を振ると、頭を下げてパルメニオンの天幕を後にしていった。

そして静寂が戻った天幕に小さく吐き出すような声が響く。







「…………あのくされ巫女め………っ!」



主君にして親友でもあったフィリッポスの死について、パルメニオンの怒りがフィロータスのそれを下回ることなどありえないことだった。

他の誰よりも呪詛を叫び、オリンピュアスを殺しにいきたいのはパルメニオン本人に他ならなかったのである。















マケドニアの首都ベラはひとまず小アジアの戦いから帰還した若者たちを迎えて戦勝の喜びに酔っていた。

アレクサンドロスが兵の一部を故郷へ返したのは、功績をあげた兵に対する褒美であり、国民に対する勝利のアピールであった。

勝利を喧伝することなしに新たな兵士を徴募することは難しい。

しかしダレイオス王との決戦を前に、できる限り多くの兵を揃えたいというのがアレクサンドロスの偽らざる本音なのである。



「………毒蛇を無事に退治したとのこと、まことに重畳に存じます」



そういってオリンピュアスは目の前の男にたおやかな笑みを浮かべて見せた。

陽気で話術巧みな男は、厳格で融通の利かないアンティパトロスなどより遥かに親しみやすかったのである。



「全く母太后様の託宣のおかげでございますとも。それに私などよりも今回はエウメネスやレオンナトスが骨を折ってくれまして…………」



謙遜して見せつつも、如才なく手に入れてきた香水をオリンピュアスに贈る男の正体はアンティゴノスであった。

フィリッポス二世の宿将であるアンティゴンスとオリンピュアスの付き合いは古い。

パルメニオンやアンティパトロスといった宿将たちがオリンピュアスの不興を買っているのとは裏腹にアンティゴノスとオリンピュアスの関係は良好だ。

人の心理を操ることを得意とする謀将アンティゴノスにとって、オリンピュアスのお守りなどそれほど難しいことではないのである。



「書記官殿はともかくレオンナトス殿………ですか?」



思いがけぬ人物の名を聞いてオリンピュアスは興をそそられたようであった。



「あれはなかなか底の知れぬ男になっておりますなあ………信じられないことですが今までがすべて演技ではなかったかと思えるほどで」



確かにレオンナトスの変貌はアンティゴノスにとっても新鮮な驚きであった。

プライドが高く目立ちたがり屋であった餓鬼臭さが失せ、驚くほど思考が柔軟なものになっている。

あれはむしろ異国人であるエウメネスのそれに近い。

レオンナトスは王家の血すら引いている男であることを考えればどれだけ破格のことかわかるだろう。



…………それにエウメネスに普通に殴られていたしな……ありえないだろ常識的に考えて………



いずれにせよあの二人からは今後目を離せないようだ。

マケドニア軍広しといえども自分の想定の枠に収まらぬのは王を除けばあの二人だけなのだから。



「それはそうと母太后様、いささか身内に甘うございますぞ。羽虫が一匹エペイロスから紛れ込みましたようで」



アンティゴノスが言外にあらわしている言葉をオリンピュアスは正確に洞察した。



「そういえば先日コウデリムの親族が訪ねて参りましたが………」



「その男はパルメニオン一派の間諜にございます」



オリンピュアスの顔色が変わった。

オリンピュアスの母国であるエペイロスの人間までは警戒をしていなかったためであった。



「………礼を言いますアンティゴノス殿。これからもよしなに………」



「私は母太后様の味方にございます。どうぞお心安らかになさいませ、早めに消してしまえば災いにはなりますまい」



どうせパルメニオンには告発する勇気はあるまい。

あの男は有能だが物事を難しく考えすぎる悪癖がある。

割り切って果断に行動してしまえば後はなるようになるものを………もっともなるようにしかならないとも言えるのだが。



少なくとも今パルメニオンやフィロータスに胡乱な気を起こさせるわけにはいかない。

アンティゴノスにとって確かにフィリッポス二世は得がたい主君であったが、この世に存在しないものに対する忠誠などアンティゴノスは持ち合わせていなかったのである。













「また移動したのか?戦好きにもほどがあるだろ常識的に考えて………」



エウメネスとともにアレクサンドロスの本隊へ補給の手はずを整えていたオレは思わず天を仰いだ。

アレクサンドロスの転戦スピードに補給が追いつけない。

情報が入ってようやく手配がつきそうになると移動しているの繰り返しである。

こうなるとあらかじめ侵攻先を予想していないと補給を届けることは不可能だろう。



「いいことを言うねレオンナトス。それじゃ陛下の侵攻先をひとつ予想しておいてくれ」



「お前オレを殺す気か!ていうかむしろ殺す!」



睡眠時間を削って手配を進めてきたところに無理難題を押し付けられてさすがのオレもキレた。

こんなことを続けていたら冗談ではなく死んでしまう。

そんな殺人的な作業量なのだ。



「へえ…………君が隠している秘密をまた尋問して欲しいのかな………くすっ?」



「私が悪うございました、へへぇぇ………」



メムノンの一件以来エウメネスのオレを見る目は厳しさを増す一方である。

連日にわたる拷問のようなエウメネスの尋問を耐え切った自分の精神力をほめたい、ほめちぎりたい。

いくらなんでも憑依の件がバレたら帰還が不可能になるのは確実だ。

しばらくはおとなしくしておかんと…………。



「もうじきマケドニアから新規の募兵隊がくるから装備品の準備もお願いするね!」








「おありがとうございますぅぅぅぅぅぅぅ!!」






[10257] 第十四話 イッソス前夜
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:b9a1a9ca
Date: 2009/12/20 20:06


開戦以来マケドニアに吹いていた風が急に止まったのはつい先日のことである。

すなわち、連戦連勝を重ねてきたアレクサンドロス陛下が病に倒れ、その命すら危うい状態にあったのだ。

誰もがマケドニア軍の勝利が薄氷の上に立つ儚いものであることを自覚せずにはいられなかった。

王の死の前には百の勝利も何ら恩恵をもたらすものではありえなかったのである。

破滅の間近なことを知って平静でいられるものは少ない。

兵士たちには情報は伏せられていたものの、もしも事実が明らかになれば全軍の崩壊となって表れてもおかしくはないというのが現実だった。





「…………この絶望的な状況でレオンナトスはどうしてそんなに落ち着いているのかな?」





あっるええええええええええええええええええ??

















マケドニア軍がペルシャの中枢へ足を踏み入れるために絶対に突破しなくてはならない関門がある。

世に言うキリキアの門である。

世界史に名高いイッソスの戦いの舞台は、このキリキア門を通り抜けた先にあると言えばわかるだろうか。

シリアの豊かな穀倉地帯をマケドニアの手中に収めるためには、なんとしても突破しなくてはならない関門だったのである。

しかしタウロス山脈をうねるように狭い峠道が延々と続くこの地は守るに易く攻めるに難い、ペルシャでも有数の要害であり、現にペルシャ帝国の誰もがこの地の難攻不落を疑ってはいなかった。



…………確かにその気持ちはわからなくもない。



数の優位を生かせない地形であるうえに、ペルシャ軍は高所にある利を生かして常にマケドニア軍の動向を把握することができる。

さらに左右からの挟撃はし放題であり、弓戦となればやはり高所にある地形的優位がモノを言う。

そんな地獄のような峠道が数十キロも続くとなれば嫌気もさそうというものだ。

正直どれだけ犠牲が出るか、考えただけでも頭が痛い。

真っ当な人間なら、迂回するか敵を調略しようと考えるだろう。

だが残念なことに我らが主君はあらゆる意味で真っ当な人間とは対極にあるお人だった。



「勇者の誉れを尊ぶ者よ!アレスの祝福が欲しくば我に続け!!」



そう叫んだかと思うと愛馬を駆り先頭に立って駆け出したのは誰あろう我らがアレクサンドロス陛下であった。





陛下マヂ自重wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww!!





雨のように左右から矢が降り注ぐが、何故かただの一本もアレクサンドロスに傷ひとつつけることができない。

……………ように見えるが現実にはヘタイロイの数人が王の身代わりとなって矢に貫かれ、ヘファイスティオンやクレイトスといった王の側近たちがやっきになって迫り来る矢を打ち落としていた。

当然オレも例外ではない。

……というかさっきから至近弾が何発も目の前を通り過ぎてて生きた心地がしません。マジで。



しかしそうした部下の奮闘を勘案したとしても十分に奇跡と表現するに相応しい光景だった。

アレクサンドロス率いる軽騎兵部隊が高低さをものともせずペルシャ軍陣地を蹂躙し、さらに軽歩兵部隊も弓と投槍を振るって突入を開始している。

まるで冗談のような展開にオレも苦笑を禁じえない。

このときペルシャの太守アルサメスが焦土作戦を行うためにキリキア門に貼りつけていた戦力をタルソスまで引き上げさせていたということも望外の幸運だった。

もしも全兵力が出揃っていたら、さすがの陛下でもこうまで一方的に蹂躙できたかどうか。

常軌を明らかに逸したマケドニア軍の士気の高さに、完全に意気阻喪したペルシャ軍はあまりにもあっけなくキリキアの門を開いたのであった。

いったいどれだけの幸運が作用すればこんな大勝利が得られるものか、凡人のオレには想像もつかない。

ただ戦場におけるアレクサンドロスの神懸り的な強さはマケドニア兵士に深い感銘と感動を与えずにはおかなかった。

神に対する信仰にも似た、無条件の信頼がアレクサンドロスに寄せられるようになったのは、今、正にこのときからであるのかもしれなかった。





だが戦場にあっては無類の強運を発揮するアレクサンドロスも、平素にあっては決して幸運な人物とはいえない。

むしろつりあいでもとるかのように時折不運が襲い掛かっているとさえ言えるだろう。

タルソスでの事件はそうした不運のほんのひとつにすぎなかった。





………凱歌を挙げてタルソスの街に入城したアレクサンドロスはその晩、勝利の余韻と酒にしたたか酔っていたという。

火照った身体を冷ますためにアレクサンドロスは思いつくままにキュドノス川へと身を躍らせた。

ところが、キュドノス川で水浴びして火照った身体を冷ましたのはいいが、冷やしすぎたために風をこじらせアレクサンドロスは危篤状態へと陥ったのである。

タウロス山中を水源とする清冽で冷たいキュドノス川の水はたちまちのうちにアレクサンドロスの体温を奪い去ってしまったのだ。

こんな馬鹿なことで大切な専制君主を失おうとしているマケドニア王国軍こそいい面の皮であった。



しかも宮廷医師のほとんどがさじを投げるという深刻な病状である。

ただ一人、アカルナニア人のフィリッポスだけが治療が可能であることを主張していたが、彼はアレクサンドロスの評価は高いもののマケドニア宮廷人にはそれほど信用されていなかったので

王の意識が戻らぬうちは彼に治療を任せるという選択肢はありえなかった。









「このまま陛下の意識が戻らなければ撤退ということも考えなくてはなるまい…………」



既にマケドニア軍の幕僚たちはアレクサンドロス亡き後をめぐって水面下で熾烈な争いを開始しつつあった。

本国への帰還を主張し始めたのはペルディッカス・フィロータス・メレアグロスといった王の側近の中でも前線指揮官的な実務派の将校たちである。

彼らの思惑はそれぞれだが、少なくともこれ以上小アジアに留まり続けるのは危険だ、という見解では一致していた。



さらになんといってもアレクサンドロスには息子はおろか妃すらいない。

現在のところ最有力の後継者はアレクサンドロスの異母弟にあたるアリダイオスだが、深刻な言語障害を患っている彼には重臣の補佐なしに政務をとることは不可能である。

すなわち、アリダイオスの後見人を務める者こそ明日のマケドニアを支配できる可能性があるということなのだ。



だからこそ野心家たちは一刻も早くマケドニア本国に帰りたくて仕方がなかった。

現在本国を統率しているのはマケドニアの宰相とも言える行政官のアンティパトロスと、フィリッポス二世以来の老雄アンティゴノスである。

この東征からはずされ、いわば貧乏くじを引かされたはずの彼らにあごで使われるなどということは悪夢以外の何物でもない。

アレクサンドロスという支配者がいなければもはや彼らを支配すべきものは自ら以外にはいないのだった。



「陛下の大業をなんと心得る!陛下が本復なされたときに、いったいなんと言って申し開きするつもりだ!」



逆にアレクサンドロス亡き後を模索すること事態が冒涜であると考えるものもいた。

もちろんその筆頭はヘファイスティオンである。

ヘファイスティオンほど顕著ではないが、クレイトスも同じような意見を持っているように思われた。

天命を受けたアレクサンドロスがこんなところで命を落とすはずがない。

そう信じているからこそ、側近たちが将来に向かって右往左往することが裏切りのように思えてしょうがないのである。



とはいえさすがに趨勢は帰国派へと傾きつつあった。

アレクサンドロスはもう三日も意識が戻っておらず、点滴による栄養補給もできない古代にあってこれ以上の昏睡は死を意味していたからだ。

帰国派の将校たちにとって、ヘファイスティオンはつらい現実からただ目を背けているだけにしか見えなかった。





「陛下がお気づきになられました!!」





アレクサンドロスの天運はやはり規格外なものであった。

まさに帰国が決定されようとした瞬間、全てを覆す報告が天幕へ飛び込んできたのである。













「余は何日眠っていたか?」



アレクサンドロスの声にまだ覇気があることにヘファイスティオンは涙さえ浮かべて答えた。



「三日にございます、陛下」



高熱による疲労と昏睡による消耗はアレクサンドロスをもってしても無視しえぬほど大きなものであった。

仮にアレクサンドロスが本調子であれば、帰国を提案した側近たちを叱責し、たちまち騎乗して進軍を開始したであろう。

たとえ英雄であろうとも、病は気を弱らせるものなのである。



だからといってアレクサンドロスは自分の回復を全く疑ってはいなかった。

英雄には英雄に相応しい死に場所というものがある。

このタルソスが英雄たるアレクサンドロスに相応しい死に場所であるはずがなかったのだ。



「…………フィリッポスを呼べ」



信頼する侍医を呼ぶよう命じたにもかかわらず、側近たちの反応が鈍いことにアレクサンドロスは気づいた。

考えてみれば今この場にフィリッポスがいないこと自体が不自然である。



「…………どうした?フィリッポスはおらぬのか?」



苦いものでも飲んだような表情でアレクサンドロスに答えたのはペルディッカスである。

王にもっとも信頼を受けていた主治医が王のもとを離れるにはもちろんそれ相応の理由があるのであった。



「実はパルメニオン殿からかような書状が届いておりまして……………」



ペルディッカスから手渡された書状を一瞥したアレクサンドロスは顔色を変えて獅子吼した。



「フィリッポスは医師である前に我が友である。友を疑うことは我をも疑うことと思え!ただちにフィリッポスを呼ぶのだ」



パルメニオンの書状には、フィリッポスがダレイオス王に買収されてアレクサンドロスを毒害せんとの情報を聞き込んだので注意されたし、との文が連ねてあったのである。

ペルディッカスにしろヘファイスティオンにしろ、そうした情報があってなお王の治療を異国人に任せようとする勇気は持ち合わせていなかったのであった。

結果的に見ればその逡巡は巨大な損失となってアレクサンドロスを苦しめていたことになる。



「陛下、御前に」



あわただしく現れたフィリッポスの肩をアレクサンドロスは親しく抱いた。



「余の主治医は貴殿にしか務まらぬ。………友である貴殿以外にどうして我が命を託せようか」









アレクサンドロスは決して猜疑心や嫉心と縁がなかったわけではない。

むしろそれらは旺盛であり、彼が心を開ける人間は通常の人間より遥かに少ないと言ってもいいだろう。

しかし友に対して誠実であることを英雄たるの条件として彼が認識していることもまた、紛れもない事実なのだった。





アレクサンドロスの立ち振る舞いはまさに英雄にしか発することのできぬ威厳に満ちており、ヘファイスティオンなどは感動のあまり滂沱の涙をこぼしている。

多かれ少なかれそうした感動を天幕にいる誰もが味わっていた。

だからこそ、側近の一人が忌々しそうに唇を噛んだことを誰も気づくことが出来ずにいたのだ。















「………どうも考えの足らない羽虫がおるようだな」



男は腹に据えかねるといった様子で頭を振ると、報告に来た密偵の一人を下がらせた。

自他ともに認める策士である男にとって、今回の陰謀はあまりに拙劣なものでありすぎた。これは男の計画にとって甚だ都合が悪い。

今アレクサンドロスが倒れればマケドニアはまたヘラスの一強国に逆戻りである。

それでも一向に構わない世界の狭い男が今回の陰謀の首謀者であるに違いなかった。



「アンティパトロスも息子の躾を誤ったか………あれほど行政家の手腕を持ちながらままならぬものよ」



そう言って男は片目を閉じる。

もう片方の目は永遠に失われていた。

長身の男が瞑目して思索に身をゆだねている様子はなんとも絵になる情景であった。



「王が死ぬのはペルシャを滅ぼしてからであるべきではないか………」



薄く男が嗤う。

アレクサンドロスという戦場の天才は、大ペルシャを完全に打ち破ることだろう。

それは自分には不可能なことだった。



だが男はそれをいささかも恥とは思わない。

自分に不可能なら他の人間にさせれば良いだけであり、結局のところ最終的な果実を奪うものだけが勝利者であるはずだった。

男の見るところ、アレクサンドロスという人間は戦場で討ち取ることは不可能でも、戦場から離れた場所においては年頃の乙女のようにひ弱い存在であるように思われたのである。



「カッサンドロスに刺客を差し向けておけ。襲うフリだけでよいから決して殺すな」



隣の部屋から一人の気配が消えていなくなるのを確認して、男は満足そうに頷いた。

これでしばらくの間、カッサンドロスは疑心暗鬼に捉われて身動きがとれまい。

いささか想定外の事態であったが、概ね男の計画に特に致命的な障害が生じたとは言えなかった。



「そろそろ陛下の病状も回復するだろうて………そうなれば次は…………」



ダレイオス王自ら率いるペルシャ軍本隊との激突。

歴史の潮流を変える戦いが目前に迫っているはずであった。

ここでダレイオスを完膚なきまでに打ち破れば、ひとまずアレクサンドロスの使命は終わる。

余人は知らず男だけがそれを知っていた。



男の名はアンティゴノス。

行政家にして軍政家であり、戦術指揮官であり、一流の謀略家でもある。

簡単な表現をするならば、マケドニア王国内でもっとも前王フィリッポス二世に近い男であった。






[10257] 第十五話 イッソスの戦いその1
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:3c516a68
Date: 2009/12/20 20:06

キリキアの門を突破したマケドニア軍は勢いにのってイッソス湾岸を手中に収めた。
ダレイオス王は当初このイッソスで海陸からマケドニア軍を挟み撃ちにするつもりであったから、マケドニア軍の神速ぶりが知れようというものであろう。
ところが、ここで逆にその神速ぶりが仇となる。
情報力に劣るマケドニア軍はペルシャ軍の集結地に向け進軍を開始するも、それを察したダレイオス王率いるペルシャ軍はマケドニア軍の進路を迂回して背後に回ってしまったのである。
再びイッソスを奪還したペルシャ軍は、イッソスに留まっていたマケドニアの傷病兵の腕を一人残らず切り落として凱歌を上げた。
海上交通権を握っているペルシャ軍はいくらでも補給が可能だが、大軍に後背を断たれたマケドニア軍はいまや風前の灯であるかに思われたのだ。

「…………よかろう、試練を乗り越えるのもまた英雄たるの勤めである」

にもかかわらずマケドニア軍は意気軒昂である。
何よりもまず主将であるアレクサンドロスがこの事態を全く恐れていなかった。
何故なら王の王、ペルシャ世界の精神的支柱たるダレイオスがこうして最前線に出てきた以上、これと雌雄を決することができればほとんどの問題が解決可能であるからだった。
もっとも、まともな人間であれば圧倒的な兵力を誇る無敗のペルシャ軍を相手に、こうも必勝の念を揺るがせずにいることは出来ないであろうが。

後の世に優柔不断で惰弱な印象を与えてしまうダレイオス王だが、それは比較対象であるアレクサンドロスがあまりに規格外であっただけで実は有能をもって知られた男だった。
ギリシャ出身のメムノンを重用したことからもその一端を伺い知ることが出来る。
即位する以前、辺境の一領主として小戦に追われていたダレイオスは戦が数と情報と補給によって支えられているということをよく理解していた。
これは即位後、反抗的な重臣たちや後継者を打ち破り、またその資金力でギリシャをよく懐柔したことでも明らかであった。
王の戦略構想は政治交渉重視の物量戦を志向していたと言ってよいだろう。
そもそもこのイッソスでペルシャ軍がマケドニア軍を捕捉したことも、軍事学的に言うならば会心の機動戦とも言うべきものだ。
もしもここでダレイオス王が勝利を収めたならば、長く戦史にアートオブウォーの名を刻んだに違いなかった。



だからこそ秀才であるダレイオスは天才であるアレクサンドロスを理解することは終生叶わなかったのである。








「アレクサンドロスは必ずや陛下を狙って突出して参ります。このままでは縦深が薄すぎるかと」

マケドニアを裏切りペルシャへと身を寄せたアミュンタスは熱弁をふるっていた。
いや、ふるわざるを得なかった。ここでペルシャ軍が敗北することはアミュンタスの破滅を意味しているからだ。
もともとマケドニア軍中にあったアミュンタスはマケドニア重装騎兵の衝力がどれほどのものかよく承知していた。
彼にとって歩兵の中心的役割を担うヘラス重装歩兵はともかく、ペルシャ重装歩兵のカルダケスごときは瞬く間に一蹴されるのは目に見えていたのである。
そもそもアミュンタスはソコイから離れてイッソスへ向かうこと自体反対であった。
アッシリア地方でも開けた平野部であるソコイは大軍を運用するのに絶好の地であり、さらにバクトリアやソグディアナから援軍をもらうにも適していたであろう。
マケドニアの背後を襲う利を差し引いても、イッソスで戦うことの利をアミュンタスは見出せなかった。
何よりイッソスは大軍が連携をとるには地形が入り組みすぎている。
もしも一度突破を許せば大軍ゆえに身動きが取れなくなるおそれすらあったのである。
それにアミュンタスの見るところペルシャ兵の質は自由市民に戦力の基礎を置くヘラス歩兵に比べ大きく劣っている。
かろうじて騎兵は拮抗していると言ってよいが、騎兵指揮官の質はこれまたマケドニア軍が一枚上手であった。
ペルシャ軍がマケドニア軍に勝っているのは事実上兵数だけだ。
それなのに両翼を伸ばして中央に薄い配置をとるなど自殺行為に等しい。
ペルシャ歩兵は必ずやマケドニア騎兵の突破を許す。だからこそすぐそれに対応できる縦深を持たなくてはならないのだった。

しかしマケドニア軍の強さを肌で味わったことのないペルシャ軍将校にとって、アミュンタスの発言は弱気の一語に尽きた。
マケドニア軍とペルシャ軍の間には干上がったピナロス川が横たわっており、これが天然の防壁を成している。
さらにそこに野戦築城を加えた地形防御力は恐るべきものだ。
いかにマケドニア軍が精強とはいえ突破することは至難の技に思われた。
それでなくともペルシャ軍の総数は十万余、マケドニア軍四万余の二倍を遥かに上回る。
正面の歩兵がマケドニア軍主力を拘束している間に両翼からマケドニア軍を締め上げ、ついには殲滅するというダレイオスの戦術構想のほうがアミュンタスの石橋を叩いて渡る
ような泥臭い戦術より遥かに洗練され美しく見えるのは当然であった。

とはいえダレイオスにも不安がなかったわけではない。
王の王たるペルシャ王も、その実態は間接統治の主権者にすぎないのだ。
こうして大軍を整えアレクサンドロスにまみえるまで、メムノンを見殺しにせねばならぬほど長い時間がかかったのがそのいい証拠であった。
万が一敗れるようなことがあれば、ペルシャ王の威信は地に落ち容易に回復することはないであろう。
統治されるものにとって支配者は必ずしもペルシャ王である必要はないのだから。

アミュンタスの言うとおりソコイで決戦に及べばペルシャ軍が勝利を収める確率は高い。
しかしダレイオスには悠長にアレクサンドロスの到着を待っていられない事情が少なからず存在した。
まず大王が自ら兵を率いた以上、早く目に見える結果を出さなくてはならなかった。
王が出陣していたずらに戦わぬまま時がたてば王の権威に傷がつくことは避けられない。
そしてもうひとつの事情は、ペルシャ軍が開戦からずっと保っていたはずの海上優勢が揺らぎつつあったことである。
一度は艦隊を解散したマケドニアだが、再び再編された新マケドニア艦隊は各地の植民市を味方につけつつ既に二度に渡ってペルシャ艦隊との海戦に勝利していた。
これによりペルシャ軍が奪回した沿岸の諸都市は再びマケドニアの支配下へ置かれることとなった。
かつてギリシャのアテネが隆盛を誇ったように、海上交通がもたらす莫大な富はペルシャにとっても貴重な収入源だったのだ。
このままマケドニアに地中海の制海権を奪われることだけは絶対に避けなければならなかったのである。

「戦いには理をもって勝つべくして勝つ………それが王の戦というものよ。威勢のいいだけの若造にはわかるまいがな」








両軍の隊形は正面に歩兵を配し、両翼に騎兵を展開したオーソドックスなものであった。
しかし展開された兵力が尋常なものではない。
これだけの兵力の集中はペルシャの兵站能力がいかに驚異的なものであるかを物語っている。
現にこの後ローマ帝国の登場まで十万に迫る兵力動員を行い得た国家はついに現れなかったのだから。

「…………それで守りを固めたつもりか。所詮は戦を知らぬ御輿にすぎぬようだな」

確かに攻者三倍の法則はこの時代にも当てはまる。
防御側の優位というものは本格的な火力戦の登場まで変わることがない事実であった。
しかし防御側が戦いの主導権をとり得ないこともまた、広く知られた事実である。
兵力と伝統に優位するペルシャが戦の主導権を放棄したということはアレクサンドロスにとって惰弱以外の何者でもなかったのだ。
アレクサンドロスは生まれ持った本能で、戦の流れをつかむということを知っている。
主導権を敵に渡した状態で戦の流れをつかむことは決してできない。
ただ前に進む勇気の持ち主だけが、戦神の祝福を聞くことが出来るのだということを。






大ペルシャ軍十万の威容を目の前にしてマケドニア兵士たちの士気は小揺るぎもしなかった。
アレクサンドロスに対する畏敬が崇拝の域にまで達しようとしているからだ。
まともな考えをするならば、後背を断たれ、堅固な防衛線を引かれたうえに倍以上の兵数差となれば敗北は必死である。
しかもその地が遠く故郷を離れた異国ということになれば兵士の士気は加速度的に失われていくのが通常というものであろう。

「追い詰められたのは我々ではない、ペルシャの蛮族どもである!」

そう言ってアレクサンドロスは獅子吼した。

「軍神アレスに誓って我々はペルシャにかつて蒙った汚辱を漱ぎ復讐を果たすであろう!」

王の覇気が乗り移ったかのようにマケドニア兵たちは高い士気を維持していた。
もともとアレクサンドロスは自分を特別視する傾向があったが、これまでの博打のような戦の勝利の積み重ねで、その傾向はさらに強まったようにオレには感じられた。

「怖い………ですか?」

エウメネスがからかうようにおどけた口調で話しかけてくる。
実のところ二人とも現在の体調は最悪といっていい。
本来こうして戦場に立つことは自殺行為に等しい有様なのを二人ともよくわかっていたのである。

いまやマケドニアの補給状態は最悪を通り越して既に瀕死なのだ。
新たに艦隊を編成したことで戦費は天井知らずにあがっていたし、ダレイオス王が自ら出陣した以上占領地の警戒レベルもおろそかにするわけにはいかなかった。
しかもいまだ占領地からは収奪でも行わない限り税収が得られる体制にはない。
残り少なくなった軍資金をやりくりしてアレクサンドロスの神速に補給を追いつかせるのももはや限界に達しようとしていた。
そうした事実を前にしてなお、最低限の補給状態を全うしたエウメネスの手腕はまさに瞠目すべきものであった。

「正直………今回ばかりは後衛でおとなしくしてたいかな」

それが現実にはかなわないことをオレもエウメネスもよく承知している。
水準以上の騎兵指揮官を遊ばせておけるほどマケドニア軍に余裕はないのだ。
それに補給作業の難しさは、補給の実務を知った人間にしかなかなか理解されるものではない。
太平洋戦争の日本軍の補給担当者もさぞや歯がゆい思いをしたことだろう。

マケドニアにとっての救いは、このイッソスでダレイオスに勝利さえすれば戦局が変わるのが保障されていることだった。
それほどにダレイオス王が戦場で敗北するという事実は重い。
今は反抗的な占領地や帰趨を決めかねている太守たちも、ダレイオスが敗北すればペルシャを見限りマケドニアの旗の下に集うことは明らかだった。
もっともオレは戦線の後方にダレイオス王が財宝や食糧を山のように抱えていることを知っているからなおさらなのだが。

「率直なのは君の美点だけど、マケドニアの武人が戦いたくないなんて他の人の前では言うんじゃないよ?」

そう言ってエウメネスはくすりと笑った。
この不思議な友人は王家に連なる血を引くにもかかわらず、戦の栄誉にこだわることが少なすぎる。
確かに個人的武勇はそれなりでしかないが、エウメネスの見るところレオンナトスは行政家として稀有な手腕を持っていた。
計数に長け、煩雑な事務作業をこなし、民と雑兵への配慮を忘れない。
惜しむらくは戦場での才が決定的に欠落しているということか。
もっとも目の前の男はそんな才など決して欲しがりはしないのだろう。それがエウメネスはおかしくも快かった。



本当に不思議な男だと思う。
事実を事実として受け入れる、そう言い切ったグラニコスの夜をエウメネスはいまだ鮮明に覚えていた。
頑迷なマケドニア人らしからぬ見識であった。
同様の見識を表に出せる人間はマケドニア広しといえどもレオンナトスとアンティゴノスをおいて他におるまい。
浪漫や名誉よりも目の前の現実を優先する現実主義者であるエウメネスにはどうしてもマケドニア人の直情ぶりが受け入れられずにいた。
王の側近にまで上り詰めながらエウメネスがネアルコスのようにマケドニアに帰化しない理由がそこにある。

良くも悪くもレオンナトスは凡庸で裏表のない人間であった。
それでいながら何かとてつもない英知を隠しているように感じさせるものがあるのだから不可思議なことこのうえない。
正直なところレオンナトスの補佐がなければ補給路の維持統制は難しかったのだ。
もしもレオンナトスがいなければ、本国マケドニアから優秀な官僚団を一個小隊は引き連れてくる必要があったに違いなかった。

だからといって能力を鼻にかけるでもなく、むしろ自分を卑下しているようにすら感じられる。
しかもヒエロニュモスが間諜組織の長であると知ってもまるで態度がかわらぬお人よしぶりには驚きを通り越してあきれ果てるほかなかった。
もしもそれが意識してやっているのならレオンナトスは天才だ。
ああした陰の裏仕事をこなす男は、総じてレオンナトスのような無垢な信頼を寄せられることにひどく弱いものなのである。

…………もっとも計算してそれができるような男ならこうして友人にはなれなかっただろうがね………。

年来の友であるヒエロニュモスもレオンナトスにはすっかりイカレてしまったようだ。
あの気難しい友をして心を開かせてしまうのだから恐れ入る。
ハリカルナッソスからここまで共に苦労をわかちあってきたからこそ(レオンナトスは一方的に酷使されてきたと抗弁するかもしれないが)断言するが、誓ってレオンナトスは己の命を託するに足りるかけがえのない親友であった。

「危険であるかに見えて実は王の周りにこそ活路がある。陛下の動きに乗り遅れるなよ、レオンナトス」

衝力を重視する重騎兵の機動戦は危険そうに見えてその実敵味方ともに損害が少ないものだ。

二人とも戦闘までさして間がないのを十分すぎるほどにわかっていた。
もうじきマケドニア軍の隊伍が整うと同時に、アレクサンドロスが自ら先頭にたってペルシャ軍に突撃を開始するであろうということを。



[10257] 第十六話 イッソスの戦いその2
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:3c516a68
Date: 2010/01/02 23:01

「戦闘とは激動の状態である。ゆえに戦場での全ての行為は激動的になされなければならない」

イッソスで大王が残した名言としてそんな言葉が残っているという。
この場合むしろ迷言であると思わなくもないが。
何その激動的って。



マケドニア軍の展開は迅速であった。
数万の軍勢が一斉に横隊を形成し、歩兵が堅牢な隊伍を組み、両翼に騎兵が展開していく様は圧巻に尽きる。
敵前でなされた戦術機動であることを考えればこれほど見事な機動は戦史にも稀なことであるだろう。
もっともアレクサンドロスは全く心配などしていない。
地形的優位に自らを縛り上げたペルシャ軍が、危険を冒して出戦するなど絶対にないことをアレクサンドロスは露ほども疑っていなかったのである。


マケドニア軍の兵力は歩兵三万五千、騎兵六千ほどでしかない。
しかしコリントス同盟のホプリタイもマケドニアの重装歩兵ペゼタイロイも練度ではペルシャ歩兵を大きく凌駕していた。
唯一マケドニア側がペルシャに勝っているのはただ歩兵の練度とアレクサンドロスの天才あるのみなのだ。
ペルシャ軍総数十万。これには輜重兵である非戦闘員は一切含まれていない。
食糧や褒美の財宝にも不足はなく、武具の装備についてもペルシャ軍とマケドニア軍の差は明らかであった。
しかもダレイオスがその気になればさらに数万以上の兵を手当てすることは容易かった。
それほどにマケドニアとペルシャの国力は隔絶している。

…………それでもなお我に挑むか、小僧。

ダレイオスは寝苦しい夜に感じるような不快さを禁じえなかった。

実際のところアレクサンドロスが奪った土地はペルシャにとって港を除けばそれほど旨みのある土地ではないのである。
決戦を回避しているだけでもマケドニアが疲弊して勝手に自壊してくれる可能性も決して少なくはないのだ。
だからこそダレイオスとしてはメムノンが提案した焦土作戦によって、早期にマケドニアが戦線を維持できなくなることを期待していた。
マケドニアならばいざ知らず、大ペルシャではその程度の経済能力がなければ王の王を名乗る資格はない。
老練な指揮官であるダレイオスは戦場で勝つことだけが勝利の方法でないことを知り尽くしていた。

だが、後継者の一人であった昔とは違い、王の王たるダレイオスには守らなくてはならない権威が存在する。
マケドニアに好き勝手やらせたあげく何ら損害を与えることなく帰国させてしまうのは大ペルシャの王としての権威が許さなかった。
何より大きくなりすぎた現在のペルシャを維持していくためには、王の王というある種幻想上の絶対的な権威というものがどうしても必要なのであった。
本来ならば直接的な戦闘を避けたいダレイオスをして自ら戦場に立たしめた理由がそれだった。

……………メムノンが生きてさえおれば余自らが出る必要もなかったであろうが…………

瞑目してダレイオスは早逝したかつての部下を思った。
無能な味方に足を引っ張られてはいたが、それでもなお彼ならば最終的な勝利をペルシャにもたらしてくれるはずであった。
異国人のギリシャ人である彼が対マケドニア方面軍の指揮官になりおおせたのはダレイオスが強力に後押ししたからに他ならない。
メムノンに与えられた職権は現地太守のそれさえ上回っていた。
王の意志が介在しないかぎりそんな人事が成立するはずはないのである。
唐突なメムノンの病死というアクシデントがなければ、ダレイオスの希望通り緒戦でマケドニアが敗退する可能性は非常に高いものであった。

メムノンの死がペルシャにとってあまりに大きな痛手であることに気づいていたのはダレイオスだけであろう。
戦争というグランドデザインを描くことの出来る人材が、既にペルシャにはダレイオスを除いて残っていなかったからだ。
ただ戦場で槍をとるだけの勇士に不足はなくとも、いかにしてマケドニアに勝利して地中海制海権を死守するかという大戦略を描ける部下がダレイオスには
思い浮かばなかったのである。

――――大ペルシャに人なし

それだけがダレイオス王の心に一抹の不安の影を落としていたのであった。




マケドニアからペルシャに身を投じたアミュンタスはこれから起こるであろう戦場の推移をほぼ正確に洞察していた。
アレクサンドロスはペルシャ歩兵の一部を突破してダレイオス王に直接攻撃を仕掛けようとするであろう。
おそらくはペルシャ歩兵はアレクサンドロスの鋭鋒を受け止められまい。

だが、そのときこそが最大の勝機である。

アミュンタスやあのメムノンの甥であるティンダモスが率いるヘラス密集歩兵部隊はペルシャ軍右翼に配置されていた。
アレクサンドロスがペルシャ軍左翼を突破した瞬間にマケドニア軍左翼は無防備な横腹をさらすことになろう。
ヘラス傭兵はマケドニア軍にも練度で引きはとらない。
数にものを言わせてマケドニア軍左翼を打ち破ることができればアレクサンドロスはペルシャ軍の真っ只中で孤立するのみだ。

―――――そのときこそ己の無謀さを呪うがいい。エペイロスの物狂いの血が貴様を殺すのだ!

アミュンタスはかつてマケドニア王国でも重臣と言ってよい地位にあった。
しかしアレクサンドロスの激情家ぶりと英雄願望は臣下として彼が許容できる範疇を大きく超えていた。
王、王たらずば臣、臣たらず。
あるいはアミュンタスにとっての心の王もまた、今は亡きフィリッポスであるのかもしれなかった。





しかしいかに欠点が多かろうと、アレクサンドロスはやはり戦場の寵児であった。
彼にしか備わっていないであろう天運がこのときもまたマケドニアに恩寵をもたらしたのである。
ピナロス川の南岸には窪地が多く、ペルシャ軍側がマケドニア軍の陣容を把握できなかったのに対し、マケドニア軍は偵察騎兵からペルシャ側の正確な陣容がもたらされていた。

「ヘタイロイの一部とテッサリア騎兵を左翼に向けよ」

ペルシャ軍最精鋭の騎兵部隊と、歩兵戦力の主力であるヘラス傭兵がマケドニア軍左翼側に集中していることが明らかになったためである。
マケドニア軍後方を迂回した騎兵部隊は、その移動をペルシャ軍に気づかれることなく無事左翼への配置を完了した。
もしもマケドニア軍がペルシャ側の配置に気づくことなく戦端を開いていたならば、左翼の劣勢は免れなかったに違いない。
それでもなお左翼が受け持たなくてはならない圧力は並大抵のものではなかったのだが。




「相変わらず陛下の強運には恐れ入るよ」

そういってエウメネスは莞爾と笑った。
こうしたとき、エウメネスはアレクサンドロスに惹かれているのだな、と感じる。
カルディアで命を救ってもらったとかフィリッポスのもとで王と共に薫陶を受けたとか噂は様々だが、このひねくれた男は彼なりにアレクサンドロスに対して忠誠心を
抱いているらしい。

「前にも言ったと思うけど余計なことを考えるとき、人を見下すような目をするね、君は」

「いやいやそんな、滅相もない」

迂闊に考え事もできんのかオレは。

でも正直意外だ。
確かにアレクサンドロスは一代の英傑であることは間違いないんだが、自己中心的というか考えなしというか………現実主義者のオレにはあの浪漫主義にはついていけないものがある。
なんといってもオレやエウメネスはその現実の部分を補うために危うく過労死寸前まで追いやられたのだ。
当然あまりよい感情を抱いていないものだと思っていたのだが…………。

「私が陛下に忠誠を尽くすのが意外かい?」

どこまで顔に出やすいんだろう。
今度会話するときには鏡を見ながらにしてみようか。

「別に特段理由があるわけじゃないよ。強いて言えば………理で割り切れないものに対して私は臆病な性でね。陛下に惹かれるのはそれが理由なのかもしれないな………」

なるほど。
現実主義者のエウメネスにはアレクサンドロスのように後先を考えない無謀な行動はとれない。
もしかすると王のそうした決断の早さがある種爽快さを感じさせるのかも知れなかった。
オレも幾分エウメネスと気質は似ているから、そうした印象を受ける気持ちはわからないでもないのだ。

「これでこちらに迷惑をかけさえしなければ諸手をあげて賛同したいところなんだがね………」

くつくつとのどを鳴らしてエウメネスがまた苦しそうに笑う。

「ところで話の内容が立場が逆転しているような気がするんだけれど?」

「あはははは!本当だ!あははははは!!」

疲労でテンションが高かったせいか、オレもエウメネスも腹が痛くなるまで笑いころげた。
王家に連なる大貴族がアレクサンドロスに呆れ、異国人のひねくれものが無謀な王に忠誠を誓う。
世界とはどこまでも皮肉に満ちているものなのであった。






太陽が大分西に傾き始めたころ、マケドニア軍の展開は完了した。
配置された横隊の長さはほぼ両軍互角である。
それはつまりマケドニア軍の横隊の厚みはペルシャ軍の半分程度であるということだ。
密集歩兵同士の持久戦となれば、この厚みの多寡は決定的な意味を持つことを左翼の主将であるパルメニオンはもちろんよく承知していた。

…………この戦いは時間が味方した側が勝利する。その時間を少しでも増やすのがわしの使命か。

かつての同僚であったアミュンタスの性格はよく知っている。
戦術指揮官としては十分以上に優秀な男だ。
ほぼ間違いなくアレクサンドロスの突出の瞬間を狙ってくるに違いなかった。
その判断は正しいが残念なことに彼はヘラス傭兵の一指揮官であるに過ぎない。
ペルシャ軍右翼の全軍を統括する指揮官では決してないのだ。

……………悪いがアミュンタス、お前の思うようにはいくまいぞ。

「ペルディッカス、お前は二列目に下がって逆撃のときを待て。セレウコスは左翼騎兵を援護しろ」

パルメニオンの言葉にペルディッカスは思わず目を剥いた。
ただでさえ戦列の薄い歩兵部隊からさらに予備を抽出する余裕がマケドニア軍にあるとは到底思われなかったのである。
ペルディッカスもまた優秀な戦術指揮官として、アレクサンドロスが右翼から突破した後どれだけ左翼が持ちこたえるかで戦いの帰趨が決まるということを理解していた。
戦術目的を考えればパルメニオンの指示は戦争そのものを危機に陥らせかねない暴挙に思われたのだ。

「お考え直しください。左翼がわずかでも破れれば全軍の崩壊は必至。今は無駄な冒険は避けねばなりません」

「……………破らせはせん」

「…………………はっ?」

パルメニオンの静かな言葉にペルディッカスは耳を疑った。
静かだが、強烈な自信に満ちた言葉であった。
獰猛な虎が毛を逆立てて威嚇するような殺気が、瞬時にしてペルディッカスの舌を凍りつかせた。

……………忘れていた。閣下の本質は…………

常から安全策で王を諫言するパルメニオンの態度に慣れて忘れていたが、かつて戦場で上司として采配を振るうパルメニオンはまさに獰猛な肉食獣といっていい男であった。




「………わしが今までどれほどの戦場を駆けどれほどの敵を葬ってきたと思っているのだ。わしが破らせぬといったら決して破らせはせぬ」


こと戦場にかぎってはアンティゴノスさえしのぐ、マケドニア最大最強の宿将は国家存亡の危機に、日頃王の抑え役に回り自らを縛っていた鎖を今こそ解き放ったのである。





[10257] 第十七話 イッソスの戦いその3
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:3c516a68
Date: 2010/01/21 23:27
「さえない顔だな、レオンナトス」

そういって豪快に笑い飛ばしている身長二メートルに達しようかという巨人が、その大きな手のひらで容赦なくオレの背中を叩いた。
ズシンと身体の芯にまで衝撃が突き抜けるかのようだ。
もう少し手加減しろっての。
それにさえないは余計だ。

「あいにくの体調でね、今日の手柄は君に譲るよプトレマイオス」

「手柄は譲られるものではないだろう?」

そういってまたプトレマイオスはガハハ……と大口を開けて笑った。
アレクサンドロスの側近のなかでもペルディッカスと並んで年長組に位置し、仲間の求心的な役割を果たしてきたプトレマイオスは
意外にも明朗闊達で人好きのする男であった。
巨体と大きな鷲鼻におおらかな笑みがなんともよく似合っている。
瞳も大きくどんぐり眼が実におかしな愛嬌に富んでいた。
決してヘファイスティオンのような美形ではないが、どちらに好感を抱くかといわれれば同性なら一も二もなくプトレマイオスをあげるであろう。
後年ディアドコイ戦争においてあのアンティゴノスに匹敵する権謀術数を駆使する陰謀家の姿とも思われなかった。

「死にたくなければオレの後ろから離れるなよ、レオンナトス。陛下の守りはオレに任せておけ」

さすが後代の知将なだけあってプトレマイオスはオレやエウメネスの苦労を理解してくれる数少ない武将の一人であった。
パルメニオンとプトレマイオスの協力がなければいかにエウメネスの有能をもってしても、ここまで大過なく補給を維持できたものかは疑わしい。
計算能力に長け、理屈を素直に受け入れることができるプトレマイオスはマケドニアにあって稀有な将帥と言えた。
何かにつけて厭味なヘファイスティオンには本気でプトレマイオスのつめの垢でも煎じて飲ませたい。

性格は豪放磊落だが、頭の回転が速く知識と理論で感情を制御する術を知っている。
プトレマイオスはひとことで言うならやはり王の器として生まれついた男というべきなのかもしれなかった。

「………そろそろ戻ったほうがよさそうですよ」

エウメネスが声を潜めるようにして呟いた。
沈着冷静なエウメネスにして震えるような高揚を抑えることができない。
マケドニアとペルシャの命運を賭けたこの戦いは、歴史上の転換点として永久に語り継がれるであろう。
歴史の証人になれる機会はあっても、歴史の担い手となれる人間はそう多いものではないのだ。

小柄な部類に入ろうかという体躯が距離をへだててもはっきりと確認する事が出来る。
英雄たる者だけが発散することができる存在感ゆえのものであった。
槍を天にむかって突き上げながらアレクサンドロスは配下の兵士に親しく声をかけて回っていた。

「おお、アラクトール、カイロネイアの勇者よ。再び余とともに勝利の美酒を酌み交わそうぞ!」
「お任せください陛下、テーバイの神聖隊に比べればペルシャの有象無象どもなど手もなくひねってみせましょう!」
「たのもしきかな勇者の言よ。聞けマケドニアの誇る兵士たちよ、勇者の栄光と魂はみなと共にあり!」



――――――歓声

割れんばかりの歓声がマケドニアの陣中に満ちた。
今この瞬間にペルシャを恐れ敗北に恐怖するものはただのひとりもマケドニア軍に見ることはできなくなった。
恐るべきは英雄の感染力であった。



「勝利の栄光とともにありたいものは余に続け!」

ブケファラスの巨体が引き絞られた矢のごとくペルシャ軍左翼のただなかへ猛然と突進を開始した。
プトレマイオスやヘファイスティオンもまけじと王の後に続いていく。
空前の高揚に包まれたマケドニア重装騎兵の激流のなかに、オレもエウメネスもたちまち飲み込まれようとしていた。





マケドニア軍とペルシャ軍との間には干上がったピナロス川が横たわっている。
その高低さは最大で3メートル以上に達しており、比較的高低差のない川筋には逆茂木が並べられマケドニアの接近を阻むはずであった。
しかしアレクサンドロスに率いられたマケドニア騎兵の一団はペルシャ軍の予想を遥かに上回る速さで接敵し、射撃戦によって漸減するとうペルシャ軍の構想は
戦いの初手から挫折を余儀なくされようとしていた。

「蛮人め!」

はき捨てるようにダレイオスは呟く。
アレクサンドロスの蛮勇はダレイオスの見るところ恐れというものを知らないただの愚か者の所業にすぎなかった。
王という国家の象徴は戦の行方そのものを握っていると言ってよい。
それが堅牢な防御陣地にわざわざ先陣を切って挑みかかるなど、これを愚行と言わずしてなんと呼べはよいのだろうか。
しかし愚行であるだけにペルシャ軍が意表をつかれていることもまた事実であった。
それがダレイオスには腹立たしい。

騎兵は陣地戦にはむかない。
また騎兵の衝力は密集歩兵の防御力を上回ることはできない。
これまでペルシャが経験した数々の戦いの戦訓はそれを如実に表している。
だからこそダレイオスは地形防御力に拠って後の先をとってマケドニア軍を包囲殲滅するつもりでいた。
誤算があったとすれば、それはペルシャ軍でヘラス歩兵の影響を受け新たに編成されたペルシャ重装歩兵カルダケスが初期の力を発揮できそうにない
ということであった。
言葉に表せばそれだけのことだが、そのことが戦況にもたらす影響はあまりにも甚大である。


「――――なんだと!?」


ダレイオスは悪夢でも見るような思いであった。
マケドニア騎兵に数倍する重装歩兵(カルダケス)が、ほとんど抵抗らしい抵抗もできぬままにアレクサンドロスの突破を許したのだ――――。




同じころアレクサンドロスと歩調を合わせるようにしてマケドニア軍左翼もペルシャ軍右翼と戦闘に突入していた。
こちらはさすがにアレクサンドロスのように鎧袖一触というわけにはいかない。
アレクサンドロスの主敵がペルシャ重装歩兵であったのに対し、パルメニオンの前面に展開していたのはアミュンタス率いる精鋭ヘラス傭兵とペルシャでも最精鋭の騎兵部隊であったからだ。

「陛下の勇戦を貶めるような真似をするものは斬る!」

パルメニオンの割れ鐘のような声が戦場に響き渡る。
巨躯であるパルメニオンの雄叫びは万を超える兵の怒号のなかにもかかわらず確かにマケドニア兵士のもとへと届いていた。
血で血を洗う激戦はまだ始まったばかりであった。

ペルディッカスは続出する被害に戦々恐々としていた。
アミュンタスはマケドニア軍左翼を半包囲するようにしてマケドニア軍を押し戻しており、アレクサンドロスの突出によってがら空きなった右翼に圧力をかけ始めていたからである。
すでにプトレマイオス(ディアドコイのプトレマイオスとは別人)をはじめとして名のある武将たちに戦死者が出始めており、敵の攻勢を支えることができるのも時間の問題のように
思われたのだ。

―――だが総予備として待機を命じられたペルディッカスに戦線投入の指示はない。

このままではなんら戦いに貢献することもないままに敗軍に飲み込まれてしまうのではないか?
ペルディッカスは最悪の予想に身を震わせながらパルメニオンの将旗をにらみつけることしかできなかった。



―――――やりおるわ、アミュンタスめ!


うなぎのぼりに上昇カーブを描いていく被害状況にも、パルメニオンはまだ冷静さを失わずにいた。
先ほどからいったん退いて態勢を整えるべきだ、とペルディッカスから意見具申がきているが片腹痛い。
劣勢のマケドニア軍左翼にあって唯一の武器は最高潮に達した味方の士気だ。
それを下げるようなまねができる筈がなかった。
アミュンタス率いるヘラス傭兵部隊とマケドニア軍の決定的な差はそこである。
傭兵はプロフェッショナルではあるが、与えられた命令以上の士気を保つことはできない。
だからこそアミュンタスもアレクサンドロスのように後先を考えない損害を度外視した突撃を行うことができずにいるのだ。
逆にマケドニア軍は熾烈な味方の損害にも士気を失うことはない。
もっともそれにも限界があることをパルメニオンもよく承知していたのではあるが。

「戦列を乱すな!マケドニアの強さを見せ付けるのは今ぞ!」

パルメニオンは自らも槍をとって敵の戦列の隙間を縫って騎兵による襲撃を繰り返した。
歩兵の前に自分の姿を見せることによって戦意を失わせないためだ。
また騎兵による擾乱はアミュンタスの攻勢に対する遅滞防御の一環でもある。
当然それをアミュンタスも承知していたが、これに対する有効な手段を打ち出せずにいたのである。

「さすがはマケドニアの宿将、半包囲されながらここまで戦列を維持するとはな…………」

それがどれだけ困難なことか、有能な戦術指揮官であるアミュンタスは承知していた。
もともと密集歩兵というものは正面以外に対する防御力が非常にもろい。
マケドニア歩兵はヘラス歩兵よりも密度が薄く自由度が高いが、それでも密集歩兵であることの宿命からは逃れられないはずであった。
それをギリギリで支えているのはパルメニオンの柔軟な指揮と絶妙な予備による穴埋めの成果である。
ほんの数瞬でも予備の投入が遅れれば戦列の崩壊は免れない。

「だが、それもここまでだな」

数に勝るペルシャ軍右翼は軽装歩兵による一団を編成し迂回突破を試みようとしていた。
その数三千、とうていわずかな予備で繕うことのできるものではない。
前線の歩兵に対する圧力を強めながらアミュンタスは勝利を確信していた。
テッサリア騎兵はペルシャ騎兵との乱戦に巻き込まれ対応する力は残されていないし、圧倒的少数であるマケドニア軍にそれほど大きな予備が残っているとも思えなかった。

「一気に走り抜けて背後を確保しろ。それで戦は終わりだ」

確かに軽装歩兵が三千も背後に回ることができたならば戦いはそこで終わってしまうだろう。
問題はそれが実現するか、しなかった場合にどうするかということなのだが甘い未来に酔うアミュンタスはそれに想像をめぐらす余裕はなかった。


「ペルディッカスよ、出番だ。逆撃して反時計周りに敵の左翼を衝け」


パルメニオンの伝令を受け取ったペルディッカスはパルメニオンの洞察の深さに驚愕していた。
あの戦いの始まった瞬間にこれあるを予期していたということか。
攻勢においてはアレクサンドロスのような天才性はないが、防御戦術に関してはアレクサンドロスさえ上回るかもしれぬ。
マケドニア最強の宿将は健在であった。

「敵はこちらに対応する力がないものと油断している。全速で接近して一気に屠り去るぞ」


――――オレが相手方の指揮官でも油断するだろうな……


薄い歩兵の戦列を味方の士気と、本営の護衛を予備にして耐え忍ぶ。
そんな博打のような真似をするなど誰が予想するだろうか。
マケドニアにおいてパルメニオンの存在は王の次に大きなものだ。
それがほぼ数人の護衛を残して残りの歩兵戦力の全てを予備にしてしまうとは。
また倍以上のペルシャの大軍を相手に従来の三分の二程度の薄い戦列を編成するなど、自分には決して真似のできぬ用兵であった。

――――だからこそ報酬は大きい。

もはや敵などいないと思っているのだろう。
ペルシャ軍の軽装歩兵が速度だけを重視してわき目もふらずに走ってくるのが見える。
もとより盾も持たぬ軽装の者達だ。
この速度を捕捉し打ち払うのは至難の技に違いなかった。
……あらかじめ備えているのでなければ。


「横撃して蹴散らすぞ。槍を構えろ」


ペルディッカス率いるマケドニア重装歩兵千名が突出したペルシャ軽装歩兵の側面を衝き、これを壊滅させたのはそれからまもなくのことであった。
ペルシャ軍にとって最悪なことに、彼らは軽装歩兵が壊滅したことを知らず、そのルートを逆走して新たな手柄に燃えるマケドニアの若き戦術指揮官が迫っていることに気づけずにいたのである。




[10257] 第十八話 イッソスの戦いその4
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:3c516a68
Date: 2010/01/21 23:33
「な、なんだ!?」

さきほど味方の軽装歩兵がかけぬけていった荒野を千名ほどの集団が声ひとつあげずにもう目の前まで迫っていた。
マケドニア軍左翼を半包囲していたペルシャ軍は全く無防備な状態でマケドニア軍重装歩兵の一団の強力無比な一撃を受けてしまい蚕食される葉のように壊乱した。
兵数に劣り、戦列も薄いマケドニア軍がまさか予備を隠し持っていて逆撃してくるなどということはペルシャ将兵の想像の埒外にあったのだ。

「………これはいったいなんの手妻だ?パルメニオン!」

パルメニオンほどではなにしろ、ペルディッカスが戦術指揮官として有能なことは疑いなかった。
実に無駄のない機動でヘラス重装歩兵の側面に食らいつき数倍する敵中を我が物顔で押し進んでいく様はその証明と言える。
これによりペルシャ軍右翼は一時的にマケドニア軍によって逆に半包囲されることとなった。
数に倍する勢力が半数以下の勢力に半包囲されるなど戦史にも稀な出来事と言えた。
もともと密集歩兵というものは運動性に乏しい兵科である。
わずか千名ばかりの小勢とはいえ油断がもたらした破滅と言う名の毒はペルシャ軍全体に少なからぬ衝撃を与えずにはおかなかった。

……信じられない。
アミュンタスは混乱していた。
あの練度を見れば彼らがマケドニア軍の最精鋭部隊であることは知れる。
ということはパルメニオンは決戦戦力を温存したままペルシャの圧力を撥ね退けていたということになる。
容易くそんなことができるほど、自分の攻撃は安いものではない。
ないはずだ。

密集歩兵の戦いは消耗戦であり神経戦でもある。
絶え間ない戦列の補充と時間と共に低下していく士気の鼓舞、そして進退に伴う戦列の調整に敵の隙を見逃さずつけこむこと。
分厚い戦列をぶつけあう密集歩兵にはそうした煩雑な指揮が必要不可欠であった。
一瞬の閃きと直感で兵を進退させる騎兵に対し、冷徹な判断力によって極めて合理的に兵を運用するのが歩兵だとも言えるであろう。
そのため歩兵同士の戦いは消耗戦に陥りやすく、一旦劣勢に転じるとそこから挽回するのは至難の技と言えた。
先ほどまでのマケドニアの戦いぶりからは想像もできないことだが、どうやらパルメニオンはペルシャ側の四分の一以下の兵力で戦線を維持していたらしい。
マケドニア最強の宿将の手腕はやはり尋常なものではありえなかった。

「なぜだ………なぜそれほどの腕を持ちながらあのような若僧のために………!」

アミュンタスは喉から搾り出すようにそう独語せずにはいられなかった。
アレクサンドロスの即位を決定づけたのはアレクサンドロスの天才ではなく、パルメニオンの支持によるものなのはマケドニア宮廷では常識である。
母大后オリンピュアスはマケドニア宮廷では嫌われ者に等しかったし、エウリュディケが身ごもった子供が男児である可能性もあった。
さらにはフィリッポス二世の先王であるアミュンタス三世の遺児に政権を返上すべきだとする勢力すら存在した状況であっのだ。
しかもフィリッポスの暗殺の首謀者はオリンピュアスではないか、という噂が流れたこともあってアレクサンドロスを推戴することに心理的抵抗を感じる
貴族も少なくなかったのである。
だからこそ軍部に絶大な発言力を持つパルメニオンが全面的にアレクサンドロスの支持に回ったことは大きかった。
もしパルメニオンが他の王族をかついで反旗を翻せば王国は泥沼の内戦に突入せざるをえなかったであろう。
もちろんパルメニオンもそれを警戒したからこそ早期にアレクサンドロス支持を表明したのであるが。

「あの小僧は君主の器ではない!ただの力を持った餓鬼にすぎん!それがわからぬお前ではあるまいに!」

アレクサンドロスは自らの英雄願望のゆえに容易く国を危うくし国民を殺す。
そして自らを超える英雄の誕生を決して許すことはありえない。
苦労はともにすることができるが楽をともにすることはできない、一皮剥けば嫉妬と欲にまみれた子供でしかないのだ。
とうてい生涯の忠誠を誓う相手にはなりえなかった。

………だからオレはあのとき小僧を見限ったのだ。まだペルシャのほうがましに思えたからな。

かつてフィリッポスに仕えた老臣達はいずれはアレクサンドロスの側近たちにとって変わられ冷遇を余儀なくされるであろう。
それはパルメニオンにもわかっているはずだった。
父を否定し、父を凌駕しようというアレクサンドロスにとってフィリッポスの治世に慣れた旧臣はもはや邪魔でしかない。
今のところ立場が保障されているパルメニオンやアンティパトロス、アンティゴノスといえども将来的には全く安泰というわけではないのである。

それでもなお、あの小僧に尽くすべき理由があるというのか。
それほどまでにお前の中でフィリッポスとの約束は大きなものなのか。
愚かな―――あの小僧は近い将来亡き陛下の愛したマケドニアを滅ぼすぞ、戦いの勝利と敗北とにかかわらず。

一瞬の追憶と感傷に囚われていたアミュンタスだが、歴戦の将らしく手早く応急措置をとることを忘れはしなかった。

「サルビアデス、大隊を率いてあの別働隊の足を止めろ。一線は予備と交替して後方で再編だ。急げ!」

確かに押し戻されはしたがそれも致命的なものではない。
抽出した腹心に別働隊の跳梁を阻止させ動揺した戦列を補強すれば、結果的にペルシャ側の勝利は動くものではなかった。
パルメニオンの勇戦も隠し玉も、失血死を先延ばしにした以上の効果をあげることはできないのだ。
………もっともそれは、戦場をアミュンタスの目の前に限ればの話にすぎない。
イッソスで最も美しく煌びやかな戦場の華はアミュンタスを離れること10スタディオンほどのところで、今まさに大輪の花を咲かせようとしていたのである。






「進め進め!アレスの加護はあの敵の向こうにあるぞ!」

アレクサンドロスの愛馬であるブケファラスはその見事な巨躯に相応しい速度をもってペルシャ陣へと突き進んでいた。
慌てたのはヘファイスティオンをはじめとする王の側近たちである。
ほとんど悲鳴をあげんばかりになって愛馬を鞭打ち、王に離されまいと追いすがる光景はいっそ滑稽というべきものであった。

いい加減自重しろよ……………。

同じく近習の一人として王の守りにつかなくてはならないオレやエウメネスにとっては拷問に等しい難行である。
もとより体調がすぐれないうえに、オレもエウメネスも実際のところ乗馬に長けているとは言い難いのだ。
王に追いすがるヘタイロイについていくだけでも精一杯の有様なのは如何ともしがたい。



しかしそんな無謀が結果的に成功のもとになってしまうのがアレクサンドロスという男であった。
風のような速度で突進する王を目の前にして、ペルシャ重装歩兵はまず驚愕し、そして次に怯えた。
まともな思考ではありえない行動だったからだ。
これが狂人ならば納得もできたかもしれないが、相手は大ペルシャに幾度となく苦渋を飲ませてきた蛮人の王であった。
当然一見無謀な蛮勇にはそれを裏打ちするだけの強さが秘められているはずと思われたのである。

アレクサンドロス個人の思惑は別として、指揮官先頭とそれに必死で追いすがる騎兵という組み合わせは完全にペルシャ軍の予想を覆す速さでも接近を可能とした。
それは通常の軍の侵攻スピードというものを明らかに逸脱した速度であった。
ヘタイロイの大部分はもはや王に追いつくことだけに傾注しており、敵と戦うことなど思考のどこかに置き忘れてしまっている。
恐れも計算もなくただ馬を駆り立てることのみに全力を投じた騎兵部隊の突進圧力は、本格的な歩兵戦闘の経験のないペルシャ重装歩兵カルダケスにはとうてい耐えうるものではなかった。

ヘラス発祥の密集歩兵というものは、一人一人が自立した武装農民でありまた選挙権者でもある非常に高い士気と連帯性を有していた。
マケドニアは専制国家ではあるが、自立した市民に歩兵のバックボーンを担わせていることは変わりない。
だがペルシャ軍にとって残念なことに、民衆の自立性と国家への帰属性においてペルシャはヘラス世界に大きく劣っていた。
行政組織や経済力においてペルシャはヘラスを遥かに上回っていたから、これは一長一短でどちらがよいとも言えぬ類のものであるが、少なくともこの戦場においてペルシャ軍に歩兵の優位性をもたらさなかったことは確実であった。

「止まるな!ダレイオスの命を奪い取るまで歩みを止めてはならぬ!」

怒涛の勢いでペルシャ重装歩兵を突破したアレクサンドロスは大きく開かれた無人の沃野の先に、世界でもっとも強大な王の中の王ダレイオスの姿を認めた。





あまりにもあっけなくアレクサンドロスの突破を許したカルダケスの不甲斐なさにダレイオスは地団太を踏む思いであった。
長年ヘラス密集歩兵に苦い思いをさせられてきた教訓をもとに、ようやくペルシャ世界で編成された新たな密集歩兵であったにもかかわらず、その実力は非常につたないものでしかなかったらしい。

「せっかく死地に飛び込んできてくれたのだ…………トラメトロン、奴を生かして帰すな」

それでもダレイオスは微塵も取り乱してはいなかった。
信頼すべき不死隊(アタナトイ)の指揮官は短く「御意」とだけ答えて配下に指示を出すべく天幕を飛び出していった。
そう、結果は何も変わりはしない。
本陣の後方にはなお三万の辺境兵が無聊を囲っており、さらに自分には無傷の最精鋭部隊不死隊(アタナトイ)がいる。
カルダケスも戦線に大穴をあけられたとはいえその大部分は損害らしい損害を受けてもいなかった。
アレクサンドロスの退路を断ち、重囲におくには十分な状況であったのだ。

「小僧………本陣に手が届けば余に勝てるとでも思ったか」

絶対的に兵数に劣るマケドニア軍が逆転の一手としてダレイオス個人を狙ってくることは十分に予想できた。
だからこそダレイオスは、前線を突破された場合の次善の手段として、マケドニア軍を内部に引き入れて包囲殲滅する手立てを既に整えていたのである。
アレクサンドロスに食い破られたはずのカルダケスは指揮系統を再編し、隊伍を整えて早くもマケドニア軍の退路を遮断しつつあった。


罠に落ちたのは貴様のほうだ、アレクサンドロス――――!!






「これはかなりやばいんじゃないのか?」
「………こうなってはもう陛下の底力を信じるほかはないよ」

カルダケスを突破したときは素直に感心していたオレとエウメネスも、その後の不死隊の重厚な布陣や辺境兵の機動、さらにはカルダケスが退路を断ちに動き始めたのを
見ては楽観してばかりいるわけにはいかなかった。
断言するが史実どおりにダレイオスが逃亡してくれなければマケドニア軍は九分九厘まで全滅を免れないだろう。
先頭で嬉々としてヘファイスティオンとともに無双を繰り広げているアレクサンドロスはこの事実を知っているのだろうか?

…………おそらくは知っているのだろう。
そのうえで自らが勝利することを信じて疑っていないのだ。
アレクサンドロスとはそういう男であった。



今日も相変わらずアレクサンドロスの傍は地獄である。
敵の攻撃が集中しているのだからそれも当然のことなのだが、なぜかアレクサンドロスには致命的な攻撃が通らず護衛の者達だけがその命を散らしていく。
もはやこれには理不尽をとおりこして呆れるほかはない。
若きヘタイロイがその身を張って守るだけではさすがのアレクサンドロスもいずれは死を免れないであろうが、それ以上に王の傍には三人の強力な盾が存在した。
すなわちマケドニアの誇るヘファイスティオンとクレイトスとプトレマイオスであった。
アレクサンドロスとともに獅子奮迅の勢いで剣を振るう三人は、まさにペルシャ軍にとってこの悪しき世界に具現した死の暴風にほかならなかったのである。

不死隊はペルシャ軍中にあって王の王を守護する最精鋭部隊の名に恥じぬ戦いぶりを見せつけていた。
全体としてマケドニア軍の勢いに押されていることは否めないが、もともと数に勝るうえ援軍を期待できる現状においてはそれは致命的な要素にはなりえない。
あと数刻耐えることが出来ればマケドニア軍の敗北は必至である。
満足そうにダレイオスは頷きを繰りかえした。

………あと少しで右翼の決着もつくだろう。パルメニオンの率いる左翼を崩されてはマケドニア軍も士気を維持できまい。

すでにダレイオスの見るところマケドニア軍の敗北は確定していた。
確かにアレクサンドロス率いる騎兵部隊の攻撃力は当初の予想を上回る激しいものであった。
だがそう易々と敗れるほど不死隊の練度と結束力は甘いものではない。
また騎兵は突破力には優れているが、実際に与えられる損害はそれほど大きなものではないのは戦理に照らして明らかだ。

ゆえに、その衝力が失われるまえに不死隊を突破して余の前に辿り着けなければマケドニア軍は終わる。

薄い嗤い声がダレイオスの口から無意識に漏れ出した。


己の無力さに絶望しろ、アレクサンドロス。
そして己の身の程を知れ。


そもそもマケドニアのごとき蛮族が大ペルシャを征服しようなどと考えられること自体がペルシャにとって言葉に言い表せぬほどの恥辱であった。
海を見てこれを飲み干そうと考える人間はいない。
敵対しようなどと考え付くことすら許さない広大無比の大きさこそが大ペルシャの基なのである。
そのためには海を飲み干そうなどと考える愚か者は血の一滴も残さず抹殺しないわけにはいかなかった。
巨大な堤防が蟻の一穴から崩壊するように、そんな不遜な考えを抱けるものはそれ自体が帝国にとっての災いにほかならないのだ。


「お避けください、陛下!」

不死隊とヘタイロイの戦闘が開始されてからすでに半刻、マケドニア軍の衝力は明らかに鈍り始めていた。
集中力を一瞬乱したアレクサンドロスの隙をついて突き出された名も無き兵士の槍は、あやまたずアレクサンドロスの太ももを貫いていた。




[10257] 第十九話 イッソスの戦いその5
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:ff728c60
Date: 2010/02/14 23:22


「陛下!!」



アレクサンドロスと轡を並べていたヘファイスティオンとプトレマイオスが期せずして振り返る。

見たところ出血の量はそれほど多くはないようである。

動脈が傷ついていないというのは不幸中の幸いというほかはない。

しかし槍が突き刺さったという事実を鑑みればアレクサンドロスの体力が今後加速度的に減っていくであろうことは想像に難くなかった。

激昂するヘファイスティオンとは対照的にプトレマイオスの表情から血の気が失せ背筋が凍る。



――――まずい。



マケドニア軍はアレクサンドロスの常軌を逸したカリスマを糧にかろうじて戦意を維持している。

そのカリスマに傷がつけばどれだけ士気を維持できるかははなはだ疑わしいと言わざるをえなかった。

もしもこのままアレクサンドロスが負傷で戦場を離れるようなことがあれば、マケドニア軍は比喩ではなく異郷の土と化す運命を免れまい。





「………余の歩みを止めたければ槍をもってではなく心をもって押しとどめてみせよ。雑兵ごときの槍が英雄の野心を阻むことなど出来ぬ」





アレクサンドロスが獅子吼したのはそのときである。

重傷と言ってもよい負傷も彼にとっては英雄叙事詩のほんの些細なエッセンスにすぎなかった。

むしろ難事に陥れば難事に陥るほど自らを奮い立たせるのが稀代の英雄たるアレクサンドロスという男なのであった。

負傷した国王が一歩も引かずに死戦する軍の弱かろうはずがない。

一時は衝力を失ったかに思えたマケドニア軍は再び不死隊の重厚な布陣を押し戻しつつあったのである。









―――――ありえぬ。



ダレイオスは目の前の現実に目がくらむ思いであった。

こんなことはありえない、ありえてはならない。

確かにこれまでの戦史でもスパルタのレオニダス王のように勇敢に死戦した王は数多くいた。

しかしそれはほとんどが祖国滅亡に際しての防衛戦においてのものであり、亡国を前にした王の義務というべき戦いでもあった。



ところがアレクサンドロスは違う。

彼のマケドニア王国はいまだ国土の開発の途上にあり、無理に戦をしなくても十分に王国を発展させる余地のある新進気鋭の国家である。

確かに小アジア世界に食指を伸ばすのはヘラスへの対抗策としても有効なものだが、国家経営上決して必須というわけではない。

むしろ内政をこそ充実させることが、歴史の浅いマケドニアにとって国家百年の大計であるかもしれなかった。



それを選択しなかったのはアレクサンドロスの飽くなき名誉欲である。

彼にとって自らの名声を歴史に刻印することはマケドニアという国家の歴史より遥かに優先すべきことなのだ。

もしも力及ばず敗れるようなことあらば、マケドニアという国家も王と運命をともにして滅ぶべきであるとすら考えていた。

彼にとって人生とは神が紡ぎだす大いなる叙事詩において、死の瞬間まで英雄を演じきることにほかならなかった。



ダレイオスにはそうしたアレクサンドロスの価値観そのものが理解できない。

ペルシャという世界最大の国家を指導する人間として彼は自らの責任を正しく自覚するものであった。

ゆえにアレクサンドロスの無謀な苛烈さがいやがうえにも不気味に感じられてならなかったのである。



ダレイオスと違い、アレクサンドロスには妻も子もいない。

為政者としては決定的な障害をもつ弟以外に王国を継承すべき人間がいないという事実を考えれば、彼の死後王位をめぐる争いが勃発することは確実であった。

もちろんヘラス諸国もマケドニアの内訌を見て黙ってはいないであろうし、大ペルシャとしても座してそれを見守るつもりはなかった。

高い確率でマケドニア王国が滅亡することは誰の目にも明らかだ。

もしアレクサンドロスがこの戦いを生きながらえたとしてもその未来は決して明るいものではない。

この遠征のためにアレクサンドロスが背負った借金は莫大なもので、王室の直轄領や財宝はそのほとんどが借金の抵当にいれられていた。

なんら得るものなく敗走すれば、本国にたどり着けたとしても破産は免れないだろう。

結果として形骸化した王室はマケドニア王国に不和と無秩序の種となって祖国に仇名す存在となり不名誉な死を迎えることになる。

これだけの事実を前にしてなお槍を振るう男が、もうすぐ近くまで迫っていた。

人馬の怒号がダレイオスの耳にも、はっきりと大地を揺らす津波のような轟きとともに聞こえていた。

アレクサンドロス率いるヘタイロイの精鋭たちは、いまやダレイオス本陣の中枢へとその爪を立てようとしていたのである。



国力において圧倒的に相手を凌駕していた。

兵数において相手に倍する以上の圧倒的多数を揃えて望んだはずであった。

知略において完全に相手を翻弄し、その術中に獲物を捕らえた。いや、まさに捕らえている。

政治、外交、軍事、行政、そのすべてにおいてダレイオスが王としてアレクサンドロスに劣るものはない。

にもかかわらず、ダレイオスの死命に手をかけようとしているのは愚かで無知で野蛮な小国の若き王アレクサンドロスにほかならなかった。

初めてダレイオスはアレクサンドロスという男に原初的な恐怖を抱いた。

それは己の理解の及ばぬ超常現象を前にした人間が、本能的に感じる思いに似ていた。

打ち鳴らされる剣戟の音はさきほどよりダレイオスに迫っているように感じられた。



――――このままでは終われぬ。



生まれて初めてダレイオスは自らが死ぬことではなく、敗北を許容することに恐怖していた。











見た目ほどにマケドニア軍に余裕があるわけではない。

確かに優勢に不死隊を圧迫してはいるが所詮は無勢の悲しさである。

一人また一人とヘタイロイの精鋭がペルシャ兵の槍にかかっていくのは避けるべくもなかった。

さすがのアレクサンドロスも戦意こそ失せてはいないが疲労の色は隠しきれない様子で長い騎槍をあきらめ剣に武器を切り替えていた。



「…………こりゃまずい………かもな」

「陛下の運に期待するほかありませんね………」



オレもエウメネスもどうにか命ながらえていたが、それは奇跡的な偶然の結果であるということをオレは十分に承知していた。

ヘタイロイの精鋭として明らかにオレ以上の武勇を誇るものたちがすでに数多く命を落としていたからだ。

かろうじてオレたちが生き延びる可能性が高いとすれば、それは手柄に固執せずお互いのフォローを心がけているということか。



さすがに王の親衛隊である不死隊は手強い。

歩兵としての防御力はヘラスの密集歩兵に勝るとも劣らないほどだ。

ヘラス歩兵ほどの密集度をもたないことを考えればその強さは世界最強といっても過言ではなかった。

ようやくダレイオスの本陣を前にして狂喜したのはよかったが、その短い距離をつめるのが実のところ至難の業だったのである。

親衛隊長に直卒された不死隊は巨大な巌のごとく厚くしぶとく頑強であった。



しかも後方で控えていた辺境兵三万がもう指呼の距離に迫ろうとしていた。

さきほどオレとエウメネスが危機感を募らせていたのはこの存在のためである。

軍隊としての成熟度はいささか心もとないが、現在の膠着状況を打破するためには十分な兵力であるといわざるをえない。

彼らが戦線に加入する前にダレイオスを捉えることが出来なければ万事休すだ。

突出したヘタイロイたちとともにアレクサンドロスは滅び、同時にオレの命もまたこの異郷に果てることになる。



「………どちくしょう………聞いてねえぞ、こんな話………!!」



史書にいわく、アレクサンドロスが本陣へ突撃をかけるとダレイオスは味方を見捨ててたちまち戦場を逃げ出した、とあるがひどい誤解であった。

ここまで肉薄されてなお不死隊の戦意は旺盛であり、ダレイオスが逃亡する気配は微塵も感じられない。

未来とのチャンネルが切れた感覚が感じられない以上、これが史実であるはずだった。

確かにダレイオスのこれまでの戦歴を考えれば、彼が臆病であることはありえない。

こうして優勢に推移している戦場で多少危険が迫ったくらいで逃げ出すほうがどうかしていた。

もしもダレイオスが逃げ出すことがあるとすれば、それは彼が真実戦の負けを覚悟した瞬間となるだろう。



…………もう一手……ペゼタイロイの一個大隊でもあれば話は違ったんだろうけどな。



おそらくもう一押し別の圧力があれば、マケドニア軍はダレイオスの本陣への突入を達成することができる。

それは必ずしもペルシャ軍の全面壊走を意味しないが、ダレイオスが史実同様味方を捨てて逃亡する可能性は高かった。

ダレイオスが逃亡すれば戦意の薄い辺境兵は実質的な戦力的価値を失うであろうし、史実どおりの勝利を収めることもそれほど難しいことではない。

しかしいくら考えてみてもそんな魔法のつぼから湧き出るような都合のよい戦力は思いつくものではなかった。



そのころプトレマイオスも全くレオンナトスと同様の結論に至っていた。

アレクサンドロスの側近でそうした戦況分析を行える人間はそれほど多くはない。

現にヘファイスティオンもクレイトスも、ただアレクサンドロスとともに剣を振るうことに集中している。

後に王となるプトレマイオスだからこそ、過酷な戦場で剣を振るいながらもそうした思考をめぐらすことが可能なのだ。



しかし不利な要素しか見当たらない戦況は確実にプトレマイオスの集中力を奪っていた。

死角から突き上げるように繰り出された槍の一撃に、プトレマイオスは気づくことすら出来ずにいたのである。





「………くそ、痛え………」





悪友の珍しく余裕のない苦渋の声にプトレマイオスが気づいたとき、そこには槍を打ち払うことでバランスを崩して落馬しているレオンナトスがいた。







レオンナトスに自分の命を救われたことに気づくまでにはさらに数瞬の時間が必要であった。



「プトレマイオス!早くレオンナトスを拾ってください!!」



エウメネスが絶叫する声にようやく身体が反応する。

馬を失ったレオンナトスを放っておいては彼が雑兵の手にかかるのは時間の問題であるからだ。



「早くつかまれ!レオンナトス!」



時間がなかった。

エウメネスがたった一人で支えてくれているが、レオンナトスとプトレマイオスの分までの相手をこなすのは至難の業だ。

文官であるエウメネスだが、その武勇には武官であるプトレマイオスでも賛嘆の念を禁じえない。

レオンナトスには悪いがもし立場が逆であったなら今ごろは三人そろって討ち死にを余儀なくされていたであろう。



弱弱しく差し伸べられた手を力任せに引き上げる。

「グッ」とレオンナトスが声にならぬ悲鳴を上げた気がするが躊躇しているような余裕はどこにもなかった。

そして馬上にレオンナトスを引き上げると同時にエウメネスを狙っていた雑兵の頭に剣を一撃する。



「助かりました」

「いや、助けられたのはこっちさ」



いつのまにかエウメネスもレオンナトスも全身に軽傷を抱えていた。

エウメネスの秀麗な顔にまで及んだ無数の刀創は、すでに満身創痍と表現してよいだろう。

それは戦に余裕があるならば、後方に下げて治療を受けさせるべきほどのものであった。



そんな状態で、言ってはなんだがレオンナトス程度の腕であんな無茶をすれば十中八九まで助からないのは明らかである。

悪友とはいえ格下同然に扱ってきたレオンナトスにここまでされる理由がプトレマイオスには思いつかなかった。



「………どうしてあんな無茶をした?………死ぬぞ?」

「死ぬ気は毛頭ないよ。還ることをあきらめていないから無茶をするのさ」



おそらく還る場所をプトレマイオスには理解できまいと苦笑しながらオレは口の端を歪めた。

ここでプトレマイオスが死ねば歴史の歪みは修正不能だ。

それにどうやらオレはそんな理由とは別にこの男を殺したくないらしい。

実際計算高いが人としての甘さを捨てきれない男でもあるプトレマイオスは、レオンナトスにとって好ましい人物であった。

この先を生き延びていくためには、マケドニア軍中にあって数少ない理解者であること男を死なせるわけにはいかないのも確かであったが。





……………生きる………生き延びてオレは…………





未来に還るという希望がなくなったわけではない。

しかしこの古代マケドニア世界を生き延びていくという現実もまた、オレのなかで大きな領域を占めていることにオレは気づいた。

いつの間にかこの世界の人間関係があの未来の人間関係の比重を超えようとしていたのだ。

決してよい傾向ではない、が心はむしろ逆に晴れ晴れとしていた。





「…………お前という男を見誤っていたようだ」





目の前でプトレマイオスが神妙な表情で頭を下げているが、何をどう見誤っていたのか想像もできない。

またへんな勘違いをしていなければいいのだが。











「…………どうやら勝ったか」



アレクサンドロスの神がかり的な武勇も結局不死隊の組織力には及ばなかったようである。

もはや完全にマケドニア軍の進撃は停止していた。

かろうじて不死隊との間で均衡を保ってはいるが、それも所詮は辺境兵が到着するまでの悪あがきにすぎない。

先ほど感じた理由のない恐怖を振り払うようにことさらダレイオスは声を上げて嗤った。



「こうなることはわかっていた。わからなかった貴様が愚かなのだ、アレクサンドロス」







もしも神がいたならばダレイオスはそのえこひいきぶりを呪い、悪魔にすらその魂を売ったであろう。

ペルディッカスの側撃により全面後退を開始したペルシャ軍右翼に対し、パルメニオン率いるマケドニア軍左翼が後先を考えぬ全面攻勢に打って出たのはまさにその瞬間であったのだから。






[10257] 第二十話 イッソスの戦いその6
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:a33dc5d0
Date: 2010/03/05 18:52
「いったい何が起こったというのだ?」



ダレイオスが思わず絶叫したのも無理はない。

アレクサンドロスの死をも恐れぬ無謀ぶりはいささか度が過ぎているきらいもあるが、まだなんとか予測の範疇内ではあった。

だからこそ不死隊の精鋭はマケドニアの鋭鋒を受け止めダレイオスをここまで守りきってきたのである。

しかしまさかパルメニオン率いるマケドニア軍左翼にペルシャ軍右翼を破られるというのは全く想定だにしていない事態というほかはなかった。



マケドニア軍が密集歩兵をバックボーンにして騎兵による一点突破を図るのは戦理にかなっている。

指揮統制の行き届いた歩兵の集団というものは、たとえ戦力的に劣勢であろうとも崩れるまでには時間のかかるものだからだ。

ましてそれがヘラスを代表するマケドニア密集歩兵となれば持久を期待するには十分な戦力であるはずであった。

兵数において圧倒的に劣るマケドニア軍がとるべき戦術は、防御力に優れた密集歩兵に持久させている間にダレイオス率いるペルシャ本陣を陥れる以外にはない。

ダレイオスはそれを正確に洞察していた。



そして戦闘はほぼダレイオスの考えていたとおりに推移してきたのである。

少なくともここまでの間は。



それが崩されようとしている。

アレクサンドロスを意識するあまり、注意を怠っていた宿将の手によって。



「パルメニオンめ!奴こそがフィリッポスの武の源泉であると知っていながら………余としたことが読みを誤ったわ!!」











マケドニア先代王フィリッポス二世は、頻繁に戦場に立つ人間ではあったがアレクサンドロスのように最前線指揮を執ることは数えるほどであったと言う。

彼は王たるの役目が優れた兵士であることではないと信じていたし、亡き兄の息子から政権を簒奪した王としては、とうてい己を必要以上に危険にさらすことはできなかった。

そもそもマケドニア王国自体、イリュリア王国やヘラスに圧迫され存続すら危ぶまれていた小国であった時代である。

国王の死は国家の滅亡に直結しかねない以上無理は禁物であったのだ。

何より彼には戦場において全幅の信頼を寄せることのできる腹心にして親友がいた。



まるで一塊の巌のような巨大な存在感。

身長180センチを超える長大な体躯に相応しい苛烈かつ鋭敏な闘志。

そして粘り強く柔軟な指揮力を持つ六歳年長の幼馴染はフィリッポスの宝であった。

寡黙だが面倒見のよいパルメニオンは時としてフィリッポスの兄であり、また時として教師であり戦友でもあった。

少年のころより気心の知れた二人が誰もが笑うであろう大望を認め合うまでそう時間はかからなかった。

二人の出会いなくしてマケドニアの急成長はありえなかったと言ってもよい。



宿敵イリュリアを打ち破った時も、フォキスを苦戦の末に制圧した時も、フィリッポスの傍らには必ずパルメニオンがいた。

フィリッポスは当代随一の戦略指揮官であり、パルメニオンはそれを理解し応用することのできる最も有能な戦術指揮官であった。

二人の強力なコンビネーションは瞬く間にマケドニアをヘラスでも有数の大国へと押し上げていった。



そしてついに念願の小アジア進出のため、先遣隊を送り出した時も何の心配もなく全権を託して任せられる人物は当然パルメニオン以外には考えられなかった。

同等の宿将のなかにアンティゴノスがいるが、彼は信用はできても信頼するにはフィリッポスを持ってしても危険すぎる人物であったのだ。

フィリッポスにとってその死の瞬間までパルメニオンはかけがえのない右腕であった。









潮が満ち引きを繰り返すように、戦にも満ち引きが存在する。

それは目に見えるものでも理論で割り切れるものでもないが、戦場で長く生き抜いてきた人間は誰もがその存在を承知していた。

そしてその流れを読むことができるのは、ごく一部の選ばれた人間にしか出来ないのだということも。



勝利を確信した途端ペルディッカスの逆襲を受け、無理せず後退して軍を再編しようとするアミュンタスを、パルメニオンは安堵とわずかな憐憫とともに見つめていた。

アミュンタスは確かに優秀な戦術指揮官であるが、所詮それは一部の戦域に限った戦術指揮官の域を一歩たりとも出るものではなかったのだ。

もしも彼が後方のアレクサンドロスと不死隊との戦いを意識していたとするならば、ここで引くことを選択するはずはなかったからである。

不可視の戦機を見ることが出来たとすれば、今まさにこのときこそがペルシャ軍の勝機に他ならなかった。



「………すまんな、アミュンタス。あと半刻粘れば貴様の勝ちだった」



まさにあと半刻、あと半刻あればアレクサンドロス率いるヘタイロイは攻勢の限界に達するか、あるいは辺境兵に捕捉されるに至ったであろう。

そうなればもはやパルメニオンとアミュンタスの死闘など取るに足らぬものでしかない。

あくまでも戦場の主役はアレクサンドロスとダレイオスという世界を代表する君主にこそあるからだ。

所詮パルメニオン達は主役を彩るための徒花にほかならなかった。

そのことにパルメニオンだけが気づきアミュンタスは気づけなかったのである。





「ブッフォン!大隊を率いてわずかでもいいから時間を稼げ!なに、兵はいるのだ。一気に退いてから押し戻すぞ!」



アミュンタスは土地と兵を犠牲にして逆襲の時間を得るつもりでいた。

冷静に考えてもパルメニオンの逆撃もがそう長く続くものでないのは明らかだ。

遅滞戦闘で多少の兵を失おうとも十分な兵力が自分にはあり、最終的な勝者が自分であるという確信をアミュンタスは失ってはいなかった。

ただ、パルメニオンほどの男ともあろうものが、こんな後先を考えぬ全力出撃に打って出た理由がわからぬことだけが不審であった。



「所詮は悪あがきだぞ、パルメニオン………!」



それでも敗走することが度し難いという事実に変わりはない。

まして戦力的に優位に立っていたはずの現状では特にそうだ。

報復を誓うアミュンタスの耳に逆襲の主力であるべき兵たちの悲鳴が届いたのはまさにそのときであった。

アミュンタスは眼前の光景に目を疑った。

それはアミュンタスの勝利の確信を打ち砕くのに十分なものであったのである。











怒涛の勢いで劣勢下にあったはずのマケドニア軍左翼がヘラス傭兵を蹴散らして本陣へと突進する様子は不死隊の精鋭にも深刻な心理的衝撃を与えずにはおかなかった。

兵ですらそうなのだから指揮官が受けたダメージはとうてい計り知れぬものというほかはない。

まさか兵数に勝る精鋭のヘラス傭兵がマケドニア重装歩兵に突破されるなどありえる話ではなかったからだ。

歩兵という兵科は騎兵と違ってよほどのことがないかぎり数の力がものをいう。

密集歩兵同士の戦いでは特にその傾向が強い。

ここまで戦線を拮抗させてきただけでもマケドニア歩兵の精強さはおそるべきもので、よもや逆撃突破を図るなど夢想だにできなかったのはむしろ当然であった。



「いかん!陛下を落とし参らせよ!!」



不死隊の指揮官であるトラメトロンはここにいたってダレイオスの身の安全を優先せざるをえなかった。

負ければ全てが終わるマケドニアと違い、ペルシャにはまだまだ十分な余力が残されている以上ここでダレイオスに命を落とすリスクを負わせるわけにはいかなかったのである。

それにアレクサンドロスの進撃を食い止めるのもそろそろ限界が近づいていた。

いかに精鋭の不死隊といえども敗北しつつあるなかで士気を保つのは至難の技であるからだった。



「こんな、こんな馬鹿な話があるかっ!」



妄念にも似た勝利への確信がダレイオスの戦場離脱の決断を遅らせていた。

ヘラス傭兵はまだ全面的な敗走に及んだわけではない。

彼らはしたたかに逆襲の準備を整えていた。

しかもパルメニオンの逆撃は疲労の極にあるマケドニア軍最後の悪あがきというべきもので、いったん限界を超えれば二度と立ち上がることすら出来ぬのは確実であった。



ダレイオスの捉える戦理によればそれは明らかなのだが、現実にアレクサンドロスはダレイオスを指呼の間に捉えようとしており、パルメニオンは無人の野を行くごとくペルシャ軍本陣を目指している。

結果不死隊の精鋭は動揺を隠せず、アレクサンドロスのさらなる侵入を許してしまうという悪循環が出来上がっていた。

何よりもアレクサンドロスを視界に捉えたダレイオス自身が激しい動揺を抑えることが出来なかった。



…………余は負けてはいない。今日はたまたま運が悪かっただけのことに過ぎぬ。本来余は勝つはずであったのだ!



その運が悪かった、という事実がどれほど重いものかダレイオスは理解していない。

アレクサンドロスはその運と不屈の意志によって常に相手を組み伏せてきた人間であるからだ。

しかしそれを認めることはダレイオスが築き上げてきた人生そのものの否定と同義であることも確かであった。

これまで戦う前に勝ちを決めてきたダレイオスには、戦いが始まったあとで負けを勝ちにひっくり返す存在という規格外の存在を決して認めるつもりはなかった。



「そこにいたかダレイオス!余が行くまでそこを動くな!」



しかしダレイオスが勝利に執着していられたのもそこまでであった。

アレクサンドロスの獅子吼がごく至近で発せらてなお、戦いを継続する意志をダレイオスは維持することが出来なかったのである。

それでも素直にアレクサンドロスの勝利を認めることだけは出来なかった。







「おのれパルメニオンなかりせば今ごろ勝利の美酒に酔っていたのは余のほうであったろうに!!」







「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」





獣に見紛うばかりの咆哮があがった。

赫怒したアレクサンドロスの姿がそこにあった。

ダレイオスは意識せずしてアレクサンドロスのもっとも痛い部分をついたのである。





このダレイオスの捨て台詞がパルメニオンの未来にもたらすであろう暗雲はあまりにも深かった。

富よりも権力よりもただ英雄たるの栄光のみを求めるアレクサンドロスにとって、ダレイオスの言葉は英雄はアレクサンドロスではなくパルメニオンであると言われたに等しいものである。

それはアレクサンドロスにとってある意味戦場での敗北以上に受け入れがたいものであった。



「ダレイオスを逃がすな!地の果てまで追って余の前に引きずり出すのだ!」



言葉にならぬどす黒い感情が胸を占めていくのをアレクサンドロスは自覚した。

しかしその感情は時を置かずしてダレイオスへの怒りという激情に巧妙にすりかえられていった。

英雄たるもの部下に嫉妬すべきではないという矜持が無意識に講じた防御手段ともいうべきものであった。



アレクサンドロスはごく当然のように確信していた。





ダレイオスめ、余に負けたことを認めたくないばかりに負け惜しみを言いおって…………!





そう、ダレイオスは本陣にまで迫られた余に恐れをなして逃げ出したのだ。

所詮は英雄たる余と正々堂々雌雄を決する度量などあの男にはなかっただけのこと。

決してパルメニオンの進撃を恐れたわけではない――――。

パルメニオンの功績は所詮戦場の片隅での出来事にすぎないのだ―――。













「………た、助かった…………!」



今度ばかりは本気で死を覚悟した。

張り詰めた精神の糸が切れるとともに激痛が全身をかけぬける。

ややもすれば遠のきかける意識をかろうじてオレはつなぎとめていた。

ここで意識を失えば、せっかく助かった命まで失いかねない。





ダレイオスの逃亡とともにペルシャ軍の全面的な崩壊が始まっていた。

辺境兵は真っ先に壊乱していたし、かろうじて組織を維持していたヘラス傭兵部隊も遂に逃走に移りつつあった。

パルメニオンの反撃があと10分、いやあと5分遅れていたならばオレたちの命はなかったかもしれない。



落馬のはずみでオレは右肩を脱臼しており、もはや戦力にはなれずにいた。

そのためプトレマイオスとエウメネスに加わる負担はオレをかばう分を含めると、もはや限界に達しようとしていたのである。

足手まといな自分を今日ほど不甲斐なく思ったことはない。

後から後から湧いて出るペルシャ兵に対して圧倒的に兵数が少なすぎる。

少し離れた場所で戦いを継続するアレクサンドロスの周りからも、明らかにマケドニア兵の数が減っていた。



ここまでなのか?歴史は変わってしまったのか?



………そう思っていたいつのまにから勝手に敵が崩れていた。

狐につままれたような思いとはこのことであろうか。

どうやらパルメニオンの逆撃に不死隊が動揺したらしいと気づいたのはそれからしばらく経ってのことであった。



「今回もなんとか生き延びましたね…………」



そう言ったエウメネスが顔を蒼白にしたままがくりと馬上で身体を九の字して蹲った。

いったいいつの間に負ったものか、背中から流れ落ちた大量の出血が馬の鞍をみるみる赤く染め上げようとしていた。




「エウメネス!!」


気がつけば悲鳴をあげてオレはぐったりと力なく項垂れるエウメネスの背中にとりすがっていた。



[10257] 第二十一話 イッソスの戦いその7
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:ff728c60
Date: 2010/03/14 01:25

ダレイオス王が味方を捨てて戦場を離脱し、いまだ力を残していたはずのペルシャ軍右翼が戦意を失った時点で勝敗は決していた。
しかしそれは決して戦闘そのものの終了を意味するものではない。
大ペルシャにはまだまだ十分な余剰戦力が存在する以上出来る限りの戦力を消耗させておかなくてはならないことは明らかであったし、何よりアレクサンドロスは
ダレイオスをここで討ち取っておくことを諦めたわけではないからだった。

有能で戦意ある王のいるかぎりペルシャは必ずや再起することであろう。
アレクサンドロスはダレイオスの有能を認めたわけではないが、少なくとも大ペルシャの象徴としての価値は認めていた。
古来よりどれほど戦場で勝利をおさめようとも主将たる王を討ち取られた国家は負けなのだ。

「ダレイオスを逃がすな!褒美は思いのままぞ!」

パルメニオンに歩兵の掃討をまかせ、騎兵戦力を分離したアレクサンドロスは闇に落ちかけたイッソスの原野を北へと疾駆していった。





斥候のもたらした情報にダレイオスは驚愕の色を露にしていた。
空の輝きが完全に星と月ばかりになった今も、全くマケドニア軍の追撃が緩む気配はない。
日没後も戦闘行動を継続するというのはこの時代の軍隊の能力を大きく超えるものなのは常識である。
そもそもマケドニア軍は兵数に倍するペルシャ軍を相手にもてる能力以上の奮戦をしたはずであって、本来立っているのも困難な消耗を受けているはずであった。
今のマケドニア軍はアレクサンドロスの狂気が乗り移っているだけで明らかに行動限界点を超えており、もしもここで強力な反撃を受ければたちまち朽木を倒すように崩れ去るのは明白だった。

――――だがその戦力が余にはない―――!

今ここにあの精強なバクトリア騎兵が五百だけでよい、いてくれれば今からでもイッソスの戦いは大逆転だ。
それもむなしい無いものねだりに過ぎないことをダレイオスはもちろん承知していたのだが。

―――――この屈辱、この無念をはらすまで余は死なぬ!

今は見栄えはどうあれ生きて逃げ延びることが先決であった。
弓もマントも脱ぎ捨てて身を守る盾すら捨て去ったダレイオスは無言のままに迫りくるマケドニア軍を睨みつけた。
わだかまる黒々とした闇のなかに小さな影が揺れているのが見て取れる。
いつの間にか大分接近を許していたものらしい。

「戦車をことさらゆっくりと走らせよ。決して捨てて逃げることは許さぬ」

ダレイオスは長年の従者に冷たく言い捨てて新たな戦車へと乗り込んだ。
姑息な手段であることは十分承知している。
しかし生きてアレクサンドロスに復讐を遂げるまでは、なりふりを構うつもりはダレイオスにはなかった。

ダレイオスに付き従う親衛部隊およそ三百。
さらに周辺には指揮系統から離れた千を超える雑軍がひしめいている。
もし仮にダレイオスが己の命を賭けて徹底抗戦を呼びかければ実のところ今からでも抗戦は可能であった。
勝率はそう高いものにはならないであろうが、それでも五分にはどうにか手が届くであろう。
なんといってもペルシャ軍にはろくに戦ってもいない体力十分な兵が数多く存在するのである。
しかしダレイオスには五分の勝算に命を賭けることはできなかった。
せめて八分以上の勝算を手にしなくてはとうてい命がけの行動に移ることは出来ない。
それがダレイオスの長所でもあり、現在では決定的な短所なのであった。




マケドニア軍の追撃はさらに深夜にまで及んだ。
ペルシャ軍は騎兵だけでも一万以上を失い、行方不明者を含めればその損害は実に三万に達しようとしていた。
もちろんこの数字に自力で行動できる負傷者の数は含まれていない。
十万余を誇ったペルシャ軍は事実上イッソスの地において壊滅したのである。
歴戦の上級指揮官もその多くが壮絶な戦死を遂げており、いかにペルシャが大国であるとはいえ再び同様の戦力を整えるのは至難の技であると言えた。
わけてもグラニコス以来の騎兵指揮官であるアルサメス、さらにはエジプト太守であるサウアケスの戦死は今後の戦局にも大きな影を落とさざるをえないだろう。

また追撃の途上に見捨てられていたダレイオスの家族や食料、褒美として与えられるはずであった財宝はマケドニア軍を狂喜させるに十分なものであった。
その額は実に総額で三千タラントに及んだという。
マケドニアで背負ったアレクサンドロスの借金額が七十タラントであるというからそれがいかに巨額なものであるかがわかるであろう。
開戦から終始補給に悩まされ続けてきたマケドニア軍がこれで一息つけることは明らかであった。
見たことのない財宝に目の色を変える部下たちを尻目に、戦いの狂気から覚めたアレクサンドロスは不機嫌を隠そうともせず言い放った。


「ただちに兵を率いてダマスカスに侵攻せよ。万が一にも再起の暇など与えるな、パルメニオンよ」


静かな驚愕がマケドニア陣中にさざめく波のように広がった。




このイッソスの戦いの勲功第一はパルメニオンであることは衆目の一致するところである。
彼の頑強な抵抗と戦機を捉えた逆撃がなければマケドニア軍の勝利はなかったのは間違いない。
もちろん五分の一以下の兵力でペルシャ軍の最精鋭部隊を突破したアレクサンドロスの戦術指揮能力と武勇は並外れたものだが、それでもやはりパルメニオンの
一押しがなければ突破は挫折していたに違いなかった。
その勲功第一の宿将に、ねぎらいの言葉をかけるどころかただちに新たな戦を下命したのだから驚かないほうがどうかしていた。

しかもパルメニオンの指揮する兵の大半は歩兵である。
機動力にものをいわせ一点突破を図る彼らと違い、歩兵はひたすら走り、槍を叩き、盾を押す肉弾戦を強いられる兵種であった。
その疲労たるや立っていることさえ苦痛に感じられるほどであるはずだった。
にもかかわらずあえてパルメニオンに追撃を命じるアレクサンドロスに諸将は明白な悪意を感じずにはいられなかった。

たまらず父に代わって自らが名乗り出ようとするフィロータスをパルメニオンはひとにらみするだけで抑えつけた。

パルメニオンはアレクサンドロスの憤りをほぼ正確に洞察していた。
先刻からペイトンやクラテロスといったマケドニア軍の上級指揮官たちが自分の勇戦を称揚し、礼を述べていくたびに急速にアレクサンドロスの機嫌が悪化していくことに気づいていたからだ。
アレクサンドロスにとって、このイッソスこそは自らの英雄譚の晴れ舞台であるはずだった。
だからこそ勝利のために命を張り、無謀にも敵の眼前にその身体をさらした。
にもかかわらず横から手柄を部下にかっさらわれて穏やかでいれようはずもない。
しかもアレクサンドロスの意識のなかでこのイッソスの勝利を決めたのはあくまでも自分の手によるものなのだ。

ある意味でそれは正しい。
部下の栄誉は主君の栄誉であり、パルメニオンの活躍も戦場を俯瞰して見ればアレクサンドロスのための助攻にすぎないのだから。
しかしアレクサンドロスは決して主君としての栄誉に満足できぬ男であった。
彼にとって重視すべきは主君としての名声ではなくただアレクサンドロス個人の栄誉であるからだ。


……………惜しい……これが一将、いや王太子であったならばマケドニアはどんなにか幸運であったろうに…………。


パルメニオンは不慮の死を遂げた親友の不幸を思わずにはいられなかった。
亡きフィリッポスがアレクサンドロスの英雄願望を特に危険視していたことをパルメニオンは知っている。
なんとなれば国王とはたとえ汚名に塗れても国家の利益を優先させねばならないからだ。
フィリッポスが陰謀家として知られ、笑顔で短剣を突き刺す男などと呼ばれたのはまさにそれを実践してきたからだった。

しかしことここにいたってアレクサンドロスを引きずり落とすという選択肢はパルメニオンにはない。
もしもここでパルメニオンがアレクサンドロスに叛旗を翻せばたちまちマケドニアは小アジアを追われ泥沼の争いの果てに遂には滅びを迎えるであろう。
ペルシャ軍を打ち破ったとはいえマケドニア軍は敵中に孤立しているようなものだし、ヘラスはいまだマケドニアに心服しているというにはほど遠い。
それにアレクサンドロスが勝っているからおとなしく従ってはいるが、内心では反感を覚えている貴族たちもマケドニアには数多いのである。
何よりアレクサンドロスにそうした反アレクサンドロス勢力を懐柔あるいは分断できるだけの政治力がなかった。
だからこそ今ここでアレクサンドロスを見捨てることはパルメニオンには出来なかった。

これがペルシャ戦役が始まる前であればパルメニオンも別の選択肢を選んでいたかも知れない。
しかし不幸にしてフィリッポス二世の存命中に、すでにペルシャへの侵攻作戦は発動されてしまっていた。
未曾有の大戦を乗り切るための君主として、アレクサンドロス以外の候補者はマケドニアに存在しなかったのだ。


「…………陛下の仰せのままに」


己の名誉、この程度の不遇などとるに足らない。
マケドニアの未来のためならば己の命ですら差し出すことをためらうつもりはなかった。
パルメニオンにとって大切なのは世界に冠たるマケドニアの将来を誓い合った亡き親友との約束があるのみなのだから。







「…………ていうかそれでオレたちにも行けと?」

骨折ですよ?重傷ですよ?普通療養に専念させるだろ、常識的に考えて………。

「ダマスカスにどれほど財宝がうなっているか見当もつきません。しかもペルシャの大貴族たちの人質がダマスカスに集められているという情報もあります。
武張ったパルメニオン様の軍だけにダマスカスの占領を任せるのはあまりにも危険が大きすぎるのですよ」

ヒエロニュモスの熱弁もわからなくはないが今の状況ではジャパニーズビジネスマンでも働けないぞ。

「他の人間には無理だということさ。人間あきらめが肝心だよ」

そういって寝台から身を起こしたのはエウメネスである。
傷は浅かったが失血で気を失ったのはつい半日ほど前の話だ。
血の気を失った白皙の頬には乾いた血がいまだにこびりついている状態であった。
とうてい動いてよい身体ではない。
意識を失ったエウメネスを前にオレがどれほど取り乱してしまったか今思い出すのも恥ずかしかった。
というか絶対ネタにされることは確実である。
泣いて助けを呼んだとかマジで記憶から消去したい。

「………私もこんな無理をさせるのは不本意なのですが………ダマスカスに存在する財宝をパルメニオン様が隠匿するのではないか、という憶測もございまして……」

実際マケドニアの人間にとってはお目にかかったことのない大金であることは疑いなかった。
おそらくはその資金とパルメニオンの武が結びつくことを恐れている勢力が存在するということだろうか。
ペルディッカスあたりがその筆頭なのかもしれない。
パルメニオンをライバル視し新たなマケドニア軍のトップに立ちたいという野心を露にしているのは素人のオレにも透けて見えていた。

………馬鹿らしい、あの不器用な御仁にそんな真似ができるなら今頃アレクサンドロスは墓の下だ。

「陛下の側近で派閥的に中立が期待できるのは正直レオンナトス様以外には考えられません。これはプトレマイオス様たっての願いなのです」

………そう思うならお前が行けよ、プトレマイオス………

プトレマイオスの懸念ももっともなものであることはわかった。
軍における主導権を握りたいペルディッカスやヘファイスティオンら若手将校たちではいつパルメニオンに冤罪をでっちあげられるかわかったものではない。
今軍部内でそんな対立が発生することは異郷にいるマケドニア軍にとっては致命傷になりかねなかった。
パルメニオンの地位を保全するためにも彼の潔白を保障する人間が絶対に必要なのだ。
自分がその矢面にたつことだけはきっぱり拒否するあたりが実にプトレマイオスらしい処世術であった。

「ペルシャ貴族をマケドニアに寝返らせるためにもダマスカスの人質は慎重に扱わねばならない。物資の差配と捕虜の保護を滞りなく行うにはレオンナトスだけでは不足だよ」

まかり間違ってマケドニア軍が捕虜を虐殺するようなことがあればペルシャ貴族たちは最後までマケドニアに抗うであろう。
しかもいまだ敵国の婦女子を戦利品として考える兵士は相当数にのぼることが予想されていた。

「お二人のために輿を用意させております。心苦しいですがどうかお早く………」

………まさか古代まできて過労死の心配をすることになろうとはな。

疲れきった身体に鞭打ってオレとエウメネスは輿上の人となった。
経験からいってこれから一週間はほとんど休息もとれぬ日々が続くことは目に見えていた。
いや、物資の量を考えればある程度ペルシャ人の力を借りなくては半月以上かかってしまうやも。


そんなことを考えながら不規則に揺れる輿の上で疲労の極に達していたオレはたちまち気だるいまどろみに身を委ねた。
今日この時こそが歴史の、否、人生の分岐点であったことに気づかぬままに。

もっともそのことに気づくのは、まだまだずっと先の話になるのだが……。



[10257] 第二十二話 運命の輪その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:b1c7fe03
Date: 2010/03/14 01:36

ダマスカスまで命からがら逃げ延びたダレイオスは、マケドニア軍がダマスカスへと進軍中であるという報告に恐慌をきたしていた。
今まで散々常識外な報告を聞かされてきたが、この報告はそのなかでも最大のものであった。

マケドニア兵は不死身なのか――――?

すでに敗走した兵から本営に置き去りにした家族や財宝の一切をマケドニアが接収したという報告は受けてはいた。
それはマケドニアの田舎者にとっては想像すらできないほどの物量であったはずだ。
これで少なくとも3日程度はマケドニア軍の足は止まるはずであるとダレイオスは読んでいた。
なんとなればいかにマケドニア軍といえど疲弊困憊していることは確実であるし、莫大な財宝と糧食を前にしてこれを分配しないということは兵達の士気にかかわるからである。
近代の国民軍と違い兵というものは自分の命に見合うだけの報酬を常に期待しているものであり、そのあたりの事情はマケドニア軍も変わりはないはずであった。
それでなくとも都市攻略には周到な準備と資材が欠かせないものだ。
野戦後の論功行賞もなく不眠不休でダマスカスを落としにかかるなど、よほど強固な覚悟とそれに相応しい報酬がなければ為しうることではなかった。
ダレイオスはこのマケドニア軍の常軌を逸した進軍ぶりに、アレクサンドロスの自分に対する明確な殺意を幻視した。

――――アレクサンドロスはここで戦争を決着させてしまいたいのだ―――!

そう考えればこの無謀な進軍ぶりにも納得がいく。
今ダレイオスが戦死すればペルシャはその敗北から立ち直るための時間を大幅に奪われることになるのは確実だった。
王の王たる後継者がすんなり決まることは考えにくいし、辺境の部族国家と意思疎通をはかっていくためには王の王といえどもそれなりの経験とコネを必要とするものなのだ。
しかも後継者の最有力候補であった自分の息子がマケドニア軍に囚われの身となっている現状では、ダレイオスなかりせば大ペルシャは王位をめぐって内戦に突入する可能性
すらあった。
それはペルシャにとって政治的自殺以外の何物でもない。
大ペルシャはその巨大さそのものが何にも代えがたい武器なのであって、分割されたペルシャなどマケドニアにとってさしたる脅威にはなりえないだろう。
各太守たちが反目しあっている間にペルシャの中枢を蹂躙するマケドニア軍の様子が目に浮かぶようだ。
さすがのダレイオスもマケドニアの強行軍がアレクサンドロスのパルメニオンに対する意趣返しであるなどとは想像すらつかなかった。

―――――王権が揺らげば忠誠も揺らぐのは当然だ。アレクサンドロスに知恵があれば離間工作を図るのは必至なのだが…………。

ダマスカスにはペルシャ内の有力貴族の人質の大半が集められていた。
マケドニア軍がこれを手中に収めたならば、人質を盾にペルシャ貴族の懐柔を図ることも可能である。
場合によってはマケドニア軍の仕業に見せかけて彼らを皆殺しにしてしまうという選択肢がダレイオスの脳裏をよぎった。

――――いや、その必要もないことか。

それをするにはアレクサンドロスはあまりに虚栄心が強すぎることをダレイオスは承知していた。
これがもしフィリッポス二世が相手であれば、ダレイオスは躊躇なく人質を殺すことを選んだだろう。
しかしアレクサンドロスには後世の歴史家に英雄として賞賛されたいという個人的な欲望が強すぎる。
人質を盾にペルシャを裏切りマケドニアに仕えることを要求するのは彼の英雄たる矜持が許さないことは明らかだ。
ならばわざわざ危険を犯してまで人質を殺す必要はない。
なんといってもダレイオスの命令で人質が殺されたなどということが露見してはいかに王の王でも権威の失墜は免れないのだから。

――――それだけではない。彼らは武器になる。マケドニアを衰弱死させる静かなる毒に。

ダレイオスの予想は正しかった。
爛熟したペルシャの文化の担い手でもある有力貴族の子弟がマケドニア軍内に入り込むということは、マケドニアという国家にとって体内に入り込んだ強力すぎる異物と同義であった。
事実、後年マケドニアはこの異物を取り込むのか排除するのかで国論を割ることになるのである。
それは古来より、圧倒的少数の民族が多数の民族を支配しようとするときに直面する宿命的な問題であった。
同化か純化か。伝統か進歩か。マケドニアという枠組みか新世界帝国という枠組みなのか。
それを問われるにはいまだマケドニア王国には覚悟も経験も圧倒的に足りないものと言わざるをえない。
問題はここまで正しい洞察をしていながら、ダレイオスがその結果を見る日まで生きていられるのかということになるのであった。







マケドニア軍の宿泊する天幕のひとつでは悲嘆の声が満ち満ちていた。
敵国であるはずのマケドニア軍の兵士ですら哀切の情をもよおさずにはいられないその天幕には、ダレイオスの妻子と母が虜囚の身となっていたのである。

「あの啼いている女どもは誰か………?」

戦勝に沸いている筈の陣内においていかにも悲しげな女の嘆きが聞こえることにアレクサンドロスが疑問を抱いたのも無理はなかった。

「陛下、あれはダレイオスの妻子と母后たちにございます。さきほど陛下が兵士たちにダレイオスの弓と王者のマントを示されたことを聞き、ダレイオスがすでに戦死したものと
嘆いているのでありましょう」

そう答えたのはプトレマイオスである。
彼はアレクサンドロスの性格を熟知しており、彼がダレイオスの家族に対し王者としての温情を示すであろうことを正確に予測していた。

「余にダレイオスに対する個人的な恨みはない。王国の長としてアジアの支配権を争うところではあるが勝敗は天の決したもうところである。ただちに誤解を解き丁重に扱うよう差配せよ。
………そうだな………レオンナトスあたりならよきにはからおう」

「…………御意」



後年、プトレマイオスが記した歴史書によればダレイオスの家族たちに王の意を伝え保護したのはレオンナトスであったという。
しかし現実にダレイオスの家族のもとへ向かったのはレオポントスというプトレマイオス配下の少年であった。
独断でレオンナトスにパルメニオンの後を追わせた以上、プトレマイオスにはそうするほかに術がなかったのだ。
そんな歴史の片隅を史書は黙して語らない。






ダマスカスは地中海から80kmほど内陸に位置し、バラタ川の南岸に形成された古代でも有数の大都市である。
わけても都市の南側に広がるグータと呼ばれる巨大なオアシスは後年エデンの園のモデルではないかともてはやされるほど肥沃で豊穣なものであった。
乳と蜜の流れる土地、シリア地方を支配するためにダマスカスは絶対に必要な要衝であったのだ。
またエジプトからバビロンを結ぶ中継地としても古来よりその重要度は高まりこそすれ低下することはありえなかった。

そのダマスカスは憂愁の色に包まれていた。

「姉さま………私たちはこれからどうなってしまうのでしょう…………?」

少女の脅えは取り残された人質たちの共通の思いであったと言ってよい。
ペルシャにとってマケドニア王国などという国は狩猟と放牧をもっぱらにし、粗末な羊の毛皮を見に巻きつけただけの蛮族という認識しかない。
かろうじてヘラス世界でもっとも戦の強い国という認識がある程度だ。
もっとも確かにフィリッポス二世が国内改革に着手する以前は大多数のマケドニア国民がそのとおりの生活を送っていた。
マケドニア王国の都市が整備され暮らしが豊かになり、法律や社会規範が整えられてからまだそれほどの時は経っていないのである。
そんな連中がやってくるのにもかかわらず頼るべき王の王はいともあっさりと人質を置いて脱出を果たしていた。
彼らは見捨てられた哀れな生贄にほかならなかった。

静かに俯きながら微かに震えて姉の袖口を握り締める妹を、姉は優しく抱きしめた。
傍目にも非常に美しい姉妹である。
二人とも漆黒の艶やかな黒髪に黒曜石のような輝きある美しい瞳をしているが、受ける印象は正反対といってよいだろう。
妹のほうは姉よりも頭ひとつは背が高いのだがやや丸顔で大きな瞳が気の弱そうな印象を与えており、また立ち振る舞いがその印象が正しいことを告げていた。
逆に姉のほうは平均的な女性よりも低めの身長でありながら気の強そうなつり目勝ちな瞳と清冽な覇気が見るものの目を惹かずにはおかなかった。
美しさだけなら好みにもよるが妹のほうが勝るかもしれない。
しかし溢れんばかりの生気と存在感においては姉のほうが圧倒的に勝っていた。
おそらく千人の人ごみに紛れていても姉の居所は一瞬にして明らかになることだろう。否が応にも勝手に目が吸い寄せられてしまうからだ。

………この姉妹の名を妹をアルトニス、姉をバルシネーと呼んだ。
二人は勇将メムノンの人質としてハリカルナッソスの戦いよりこれまでダマスカスに人質として定住を強いられてきたのである。


「………アレクサンドロスがあの人の言うとおりの男なら心配はいらないと思うけどね………」

あの愛すべき夫は言っていた。
アレクサンドロスは正しく神の子なのだと。
それは別にアレクサンドロスが真実神の子孫であるというわけではない。
ただアレクサンドロスが現世での栄達ではなく、未来永劫歴史上において英雄として語り継がれることを望んでいるということであった。
そうした意味においてアレクサンドロスは神と同様不死の存在となる可能性があることをメムノンは気づいていたのである。

「心配することはないわ、アルトニス。貴女は私が守るから」

メムノンの言うとおりアレクサンドロスがその英雄願望によって無法を抑止したにせよ、前線の兵士にそれが行き渡る可能性はそれほど高いものではない。
一部の兵の暴走により人質たちの全てではないにせよ何割かが殺され、あるいは陵辱され、あるいは奴隷として連れ去られる可能性は十分にあった。
もしもその何割かに自分たちが含まれるような時は、命にかけても妹だけは守ってみせることをバルシネーは決意していた。


バルシネーの危惧は当たっていた。
血相を変えたマケドニア兵が欲望に瞳をたぎらせて広間へと押し寄せたのはそれから間もなくのことだったのである。






さすがに疲労の極にあったせいだろう。
移動に手間のかかる輿での行軍であったにもかかわらずオレとエウメネスの到着はパルメニオン指揮下の歩兵とさほど変わらぬ時間となった。
これが半日レベルで遅れていたらせっかくダマスカスまで足を運んだ意味がなくなるところだ。
そういった意味でダマスカス進駐が遅れたのは僥倖であった。

しかしそれはあくまでも政略的な意味でのものであって、一般兵士たちにはあずかりしらぬところである。
無理な転進命令、睡眠不足、前日からの戦闘での疲労が重なって彼らのストレスはすでに限界を大きく超えていた。
戦場のストレスは理性をあっさりと駆逐する。
ダマスカスに点在する莫大な財宝と見たこともない美しい衣装を身に纏ったパルシャ貴族を前にして彼らが暴走するのはむしろ当然であったと言っていい。

それでもそれが軍全体の暴走に繋がらなかったのはひとえにパルメニオンの指揮力によるものであろう。
これが個人的武勇に特化したクレイトスやヘファイスティオンの軍であればこうはいかない。
ダマスカスに存在した金は五千タラントにおよびさらに銀もまた五百ポンドを大きく超えようといているが、どうにか大過なく接収を完了しそうだというときに事件は起きた。



「人質の貴族が匿われていた離宮に傭兵が向かっただと?」

マケドニア軍に参加している一部のヘラス傭兵がどうやら火事場泥棒を働くべくパルメニオンの部隊に紛れ込んでいたらしい。
虐殺を恐れたのか人質たちの姿は懸命の捜索にもかかわらずなかなか見つけられずにいた。
どうやらよりにもよって最も見つかってはならない相手に一番初めに見つけられてしまったものらしかった。

「………いかんな。彼らに無体を働けば陛下がご立腹なされるだろう」

そうつぶやきながらもエウメネスの足はすでに離宮へと向かっている。
アレクサンドロスにとって金銀財宝の価値はさほどに大きいものではない。
軍を維持するのに必要なのはわかっているだろうが、ただその程度のものであった。
そもそも戦場というものは粗食と不衛生を強いられるものであって、戦場を好むアレクサンドロスが王族らしい贅沢に価値を置いていないのは明らかだ。
ならば何に価値を置いているか―――。

それは名誉であり名声であった。
その名声に傷をつけられることをアレクサンドロスが許すはずがない。
もしもこのままペルシャ貴族の人質たちが虐殺されるようなことがあれば、責任者であるパルメニオンが詰め腹を切らされる恐れすらあった。
静かな決意とともにいまだ血の気の戻らぬ蒼白な顔色のままエウメネスは離宮へ向かって騎上の人となったのである。

「お待ちくださいエウメネス様!レオンナトス様お早く!」

「そんなこと言われたってオレは利き腕を骨折して……ってげふぅっ!」

ヒエロニュモスに無理やり馬上に引き上げられて鞍に尾てい骨をしたたか打ち付けて悶絶しているオレがいた。
そんな場所にけが人を連れて行くなよ、常識的に考えて…………。




コリントス同盟に加盟している都合上、マケドニア軍にはおよそ三千人のヘラス傭兵部隊が参加していたがその大半は小アジアでの一攫千金を狙ったならず者に近いものたちであった。
そもそもまともな神経の持ち主ならペルシャを相手に戦争を挑もうとすら考えない。
正規の訓練を受けたまっとうな部隊がマケドニア軍に参加したがらないのはむしろ当然の結果であったのである。
そんな無謀な戦争に参加した彼らにとって戦争で奴隷を得て売り払うこと、敵の財産を奪い略奪の限りを尽くすことは人間が呼吸をすることのように当然のことであった。
戦力としてはいまひとつ当てにならないが、戦後には必ずと言っていいほど軍紀を乱す彼らの存在はマケドニア軍にとっても頭の痛い問題であった。
いっそいなくなってほしいところなのだがヘラス世界がペルシャ戦に参加しているという事実は政治的には絶対に必要なことなのだ。

アレクサンドロス自身もマケドニアに激しく抵抗した都市に対して略奪をけしかけたことはあるが、それは決して物欲にかられてのものではない。
アレクサンドロスの胸中など推し量れるはずもない彼らにとって、離宮に存在するペルシャ貴族たちはパルメニオンらによって一早く押さえられてしまった財宝を補填するに十分な獲物であった。
その獲物をまさか丁重に保護しなければならないなど、彼らには想像することすらできなかったのである。




[10257] 第二十三話 運命の輪その2
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:ff728c60
Date: 2010/03/24 08:21

最前線の兵士たちに理性と知性を期待することは現代の先進国正規軍でもないかぎり難しい。
その先進国ですら実戦の最中には様々な蛮行に手を染めることは珍しくないのである。
現代よりも遥かに死が身近にあった古代においてそれを兵士に期待するのは非常に困難なことと言わざるをえなかった。

もとよりヘラス傭兵に対するマケドニアの待遇は決してよいものとはいえなかった。
フィリッポス二世がつくり上げたマケドニア軍の軍事組織に比べヘラス傭兵の練度はそれほど高いものではない。
ゆえに戦いの最前線はとうてい任せられなかったし、また指揮統制上の問題から都市の占領維持といった非戦闘地域を任せることも出来なかった。
当然彼らはマケドニア軍から給金を受け取ることはできても、それ以上に旨みのある略奪や暴行を働く機会を与えられずにいたのである。
戦いのもっとも大きな部分を占める動機を奪われて彼らが暴発するのも無理からぬところなのであった。

「すげえ………こんなぜいたくな場所見たことねえぜ………」
「もう一生遊んで暮らせるぞ……」
「女どもも上玉ばかりだ」

敵国を略奪し、女子供を奴隷にすることはこの時代では一般常識近いもので特にこの傭兵たちが非道というわけではない。
現にマケドニア軍も一部では略奪を兵たちに許可していた。
むしろ略奪をある程度抑止しただけでもアレクサンドロスの判断は当時としては異常なものだ。
単位面積あたりの人を養える収穫量が貧弱であった中世にいたるまで、占領した地域を維持していくためにはある程度人を間引きするのは当然の措置でもあった。
それでなくともヘラスを代表するポリスであるアテネは数多くの奴隷を格安の労働力とすることによって少数である自由市民の生活を維持していた。
彼らにとって異国の人間は厳密な意味においての人間ではないのであった。

しかしペルシャ世界においてはヘラスとはいささか見識が異なる。
広大な領土に相応しくペルシャは異民族に寛容であり、よくその自治を保障した。
従属と一定の義務を果たすかぎり異民族であろうとも鷹揚に受け入れるその大きさこそがペルシャが世界帝国である所以でもあったのだ。
もちろんそんなペルシャの常識がヘラスの兵士たちに通用するはずもなかったのだが。


離宮に乱入したヘラス傭兵に対抗すべき兵力はすでに失われていた。
戦える兵士という兵士はダレイオスが連れて行ってしまっており、残されたのは老人と女子供のみ。
この状況では反抗する手段など何一つ残されていないに等しい。

「おおっ!こいつはすげえ女だ!」

傭兵の一人が一人の女に吸い寄せられるようにして叫んだ。
象牙のような肌に黒曜石の瞳、それだけでも十分以上の美女ということができるだろうがその女は存在感そのものが常とは違った。
肉感的な美しさでいえば彼女にそれほどの魅力はないかもしれない。
しかし人が時として虹や夕焼けの美しさに瞠目するように、人知を超えた何かを感じさせる雰囲気が彼女にはあった。
万金にも換えがたい宝を掌中に収めんと無造作に手を伸ばす男の手を女は全く躊躇することなく弾き飛ばした。

「下賎な手で私に触れようとするでないわ、蛮族が」

一瞬自分が何をされたか理解できなかった男であるが、数瞬のうちに自分が侮辱されたことを知ると羞恥に顔を赤黒く染めた。
無力なはずのペルシャの女に侮辱されて男のプライドは深く傷ついていた。
いつだって略奪される者たちは見下されるものであるはずだった。
泣いてすがる彼らを情け容赦なく蹂躙し、犯し、殺し、売り飛ばしてきた。
こんな侮りを受けることは一度たりともなかった。
ありえぬはずの出来事が男から冷静な判断力を奪いつつあった。

「ただじゃ殺さねえ………自分から死にたくなるほどじっくりいたぶって………おっ?」

小柄な女の影に隠れるようにして長身の女が身を縮めているのが男の目に止まった。
こちらも見目良い美女と呼んでよい女であった。

「………姉か妹か、まあ運がなかったと思うんだな………」

「お前がな」

「…………ん?」

もうひとりの女に目を奪われていた男が最後に目にしたのは、凝った彫刻に彩られた極彩色の天井であった。

……………なんで天井が見えるんだ…………?

それが男の最後の思考となった。


歴戦の傭兵たちは見ていた。
女が目にも止まれらぬ速さで踏み込んだかと思うと、男の右手をとり後方へ無造作に放り投げたのだ。
それも同時に剣を奪って後頭部を痛打して気を失う男の止めまでさす神速ぶりであった。
女が尋常ではない武勇を身に着けていることは誰の目にも明らかだった。

「……女はおとなしく好きにされるとでも思ったの………?」

弱者からなんの危険もなく奪いつくせると考えていた男たちは、裏切られたかのような理不尽な思いを抱きながら次々に抜剣した。
――――殺さなければならない。
殺すには惜しい女だが生かして捕らえるにはあまりに危険な女であることを男たちの全てが認めていた。





エウメネスは焦りの色を隠そうともせず離宮への道を急いでいた。
これがスパルタやエペイロスのような従来どおりの王が相手であればここまでエウメネスが焦ることはなかったであろう。
しかしエウメネスはアレクサンドロスの欲求が女や金や領土といった形あるものにはないことを知り尽くしている。
王は強きものを敵とすることを喜び、弱きものをいとおしむことを美徳としていた。
まして奪っては去るスキタイのような騎馬民族ならばいざしらず、今後ペルシャ領を支配していくためにはペルシャ貴族たちの力が絶対に必要であった。
ここでヘラス傭兵に欲しいままにされるということは、最悪マケドニア・ヘラス連合軍の分裂とペルシャ貴族の徹底抗戦を呼び込む可能性すらあったのである。
それでなくともアレクサンドロスは捕虜にしたヘラス傭兵たちを故国の抗議にもかかわらず虐殺して不評を買っていた。
こんな話が耳に入れば味方であるヘラス傭兵も虐殺されかねない。
あくまでここで内々に処理してしまう必要があった。

「間に合ってくれ………!」

「痛い痛い痛いっ!!急いでるのはわかったからそんな強くオレの腕を引っ張らないで、頼むから!」

というか怪我人のオレを引っ張っていく理由がわからん!

「すいませんレオンナトス様………」

悪そうにはしていても決して助けようとはしないヒエロニュモスが二人の後に続いていく。
そうだよな、結局のところお前はエウメネスの味方だよな、ヒエロニュモス。

グイッ

「ぎょわああああああああああ!」

激痛のあまり絶叫するオレをなおも省みぬまま、エウメネスはついに離宮の巨大な広間の扉に到着した。







女が不意に身を沈めたかと思うと男の脛が飛んでいた。
そのまま床を転がるようにしてさらに三人の男が脛を飛ばされ戦闘不能に陥る。
予想外の女の剣技に驚くまもなく、伸び上がるようにして振るわれた女の剣がまた一人の男の頚動脈を切断した。
おそろしくすばやく躊躇いのない瞬息の剣であった。

「くそっ、みんなこっちに集まれ!」

認めたくはないが目の前の女は個別にかかっていては返り討ちにあう危険性が高い化け物である。
おそらく膂力は平均的な女性を大きく超えるものではない。
だが神速の速度と理想的な脱力に支えられたしなやかさは天性のものというほかはなかった。
降りかかる火の粉に近づきたくはなかった兵士たちも、ここにいたっては協力して女を排除したくてはならないことを理解していた。

「………お前たちは後ろの女を取り押さえろ」

兵士たちは二手に分かれて女に迫る。
姉か妹かはわからないが、女の背後に庇われた女が目の前の化け物の親族であることは間違いない。
たとえいかなる手を使ってもこの美しくもおぞましいバルバロイを殲滅しなくてはならなかった。
わずかに女が形のよい眉を顰めるのを男たちは見逃さなかった。
やはり家族は女にとって有効な切り札になりえそうであった。

「………姉さま、どうかご存分に」

しかし男たちの期待は意外な形で裏切られた。
恐怖に肩口を目に見えて震わせている女が、それでも決然として死体から剣を取り上げたのだ。
気弱そうに見えても芯の部分では妹は姉と同じ血が流れていることを証明した。
辱めを受けて生き延びるより名誉ある死を選ぶのがペルシャ王家の血を引く自分たちの勤めであるはずであった。

「ちっ………せっかくのお宝を………」

このうえは姉妹そろって殺すより法がない。
なんとも惜しい話であると男たちは考えていた。
姉妹以外にも着飾った女たちはまだ数十人が残されていたがやはりこの姉妹は別格であったからだ。
同量の金にも換え難い価値が姉妹にある可能性すらあった。
もちろん現実にダレイオスの血縁でもあるペルシャでも有数の大貴族の一員である二人には間違いなくそれ以上の価値があったのであるが。

「ぎょわあああああああああああっ!!」

その場の雰囲気には似つかわしくないまぬけな悲鳴が響いたのはそのときだった。







扉が開かれると同時に入ってきた男はもちろんペルシャ側の人間であるはずもないことを女は正確に判断していた。
しかしなんとも場違いな面々であることは間違いなかった。
一人はまるで病み上がりのように蒼白な美丈夫である。
もしも宮廷にあればその美しさで王すら虜に出来たかもしれないと思うほどだ。
もう一人は凡庸を絵に描いたような目立たぬ男でとうてい武に通じているとも思われぬ。
最後の一人にいたっては右手を添え木で固定しているところから見てもおそらくは利き腕を骨折しており戦力として全く期待できない。
どうしてこんな三人が乱入してきたものか意図をつかみかねるところである。

もっともそんな思考とは別に女の身体は闖入者が生んだ隙を見逃さず包囲の一角へ踊りかかっていた。


豹のようなしなやかさで女がまた一人のヘラス傭兵を血煙のしぶきに沈める。
エウメネスは予想外の事態に思わず息を呑んだ。
六人の兵士が物言わぬ骸となって倒れているが見たところ武装しているのは二人の美女がいるのみである。
おそらくは今兵士を一刀のもとに倒した女が一人で倒したものであろう。
おかげでいまだ貴族たちに被害が出ていないのは幸いだが………。

「双方剣を引けっ!」

エウメネスはあえて剣を振るい続ける女を止めることを選択した。
ヘラス傭兵にはこのために用意した切り札がある。
まずは目の前の女を止めなくてはならなかった。

膂力ではエウメネスはクレイトスやヘファイスティオン、クラテロスといった武人たちに遠く及ばない。
神速と天性こそがエウメネスをして文官でありながら一流の武人たらしめていた。
まさに二人の剣は同質のものであったのだ。
ただエウメネスが男性であり、そして実戦経験に大きな差があることがそのまま二人の実力の差となった。

痛いほどの痺れを女に残して女の剣が飛ぶ。
空中に放り出された剣はゆっくりと放物線を描いて遠く広間の反対側で高い金属音を響かせた。
厄介な女が武器を失ったことで兵士たちの間に歓声が沸く。
しかしそれもエウメネスが口を開くまでのことだった。

「ペルシャの貴人にいっさい手出しはならぬ。すみやかに本営に帰陣せよ!」

莫大な宝を横から掠め取ろうとしか思えぬエウメネスの言葉にたちまちヘラス傭兵たちから殺気があがる。
相手は所詮三人にすぎない。
ここで殺して闇に葬り去ることも決して不可能ではないのだ。

「アレクサンドロス陛下は貴人たちを保護するため王家の血族であるレオンナトス様を当地に派遣なされた。それでもなおがんじえぬというなら死を覚悟するのだな」

ヘラス傭兵たちが慌ててレオンナトスを凝視する。
まさかそんな大物が現れるとは予想していなかったからである。
レオンナトスといえばマケドニアに併合されたリュンケスティス王家の王子であり、先代のフィリッポス二世はこのリュンケスティス王家出身の女性を母としていた。
あまりマケドニア軍中で意識されないため忘れがちではあるが、レオンナトスはマケドニア国内でも有数の大貴族なのである。
さすがに王族を殺して無事でいられると考えるほどヘラス傭兵たちも無謀ではなかった。

「ってオレの出番これだけかよ…………」

というか下手したら殺されてただろ、常識的に考えて…………。

「辛抱ですよ、レオンナトス様………お願いですから泣かないでください」

「泣いてないやいっ!」







「ご安心ください。陛下の命により貴方方の安全はわれらマケドニア王国軍が保障いたします」

獣の皮をかぶった蛮族どもになぶり殺しにされことを覚悟していたペルシャ貴族たちはこのアレクサンドロスの処置に思わず歓声をあげた。
文化的な歴史の裏づけのないマケドニアに対する偏見はまだまだペルシャ宮廷に根強いものがあったのである。
ほとんどの者たちが死か奴隷の身に落とされることを覚悟していただけにその安堵は大きかった。

「なかなかにマケドニアにも話のわかる男がいるではないか」

怖じる気配もなくそう言い放ったのは先刻の女丈夫であった。
エウメネスに剣を弾かれたときにはさすがに死を覚悟したようであったが、それでおとなしくなるほど殊勝な人間ではないらしかった。

「まあ私は気にしませんが、もう少し命を大事にしたほうがよろしいかと思いますよ」

エウメネスは苦笑を禁じえない。
目の前の女性がおそるべき手練であることはわかっているが、小柄で大きな黒曜石の瞳をした外見は十代後半に見えなくもない。
そう考えるとなんとも微笑ましい気持ちにさせられてしまうのだ。

「死は誰にも等しく訪れるものだ。命を大事にするとは己の節を曲げずに生を全うするということよ。もしも私が節を曲げることがあるとすれば……それは愛しい男のためだけじゃ」

しかし女の答えは微笑ましいどころのものではなかった。
なんのてらいも逡巡もなく言い切った彼女の言葉にエウメネスは打ちのめされたと言ってもいい。
なぜなら彼は己の節を曲げることで現実に対応してきたからだった。
エウメネスは女の中に王と同質の死生観のようなものを幻視した。

「貴女にそう言わせるほどの男はさぞ立派な御方なのでしょうね………」

心のそこからエウメネスはそう思っていた。
彼女にそこまで想われるのは一個の男としてこのうえもなく名誉で価値があることではないか。



運命の輪は回る。
それが呪いにせよ祝福にせよ、動き出した運命は試練の舞台に役者を乗せようとしていた。
もう誰も運命の舞台から降りることはかなわない。
死が運命の役を分かつまで。




「何、そなたもマケドニア軍のものであれば聞いたことがあろうよ…………ミテュレネで病死したペルシャの将メムノンがわが夫じゃ」




[10257] 第二十四話 運命の輪その3
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:ff728c60
Date: 2010/04/17 19:47
小柄だが明らかに常人にはない覇気を感じさせる美女が好奇心を隠そうともせずこちらを直視している。
なんとも不思議な戦慄がエウメネスを捕らえていた。
生き生きとした野生的でありながら透徹した知性をも秘めた瞳で見つめられることになぜか背筋を冷たく走るものがあることをエウメネスは認めないわけにはいかなかった。

………これが生まれながらのカリスマ、というやつですか………

確かに目の前の美女が魅力的な女性であることに否やはないが、エウメネスはこの感情がもちろん恋情であるとは考えていない。
女性なので最初は戸惑ったが非常に近しい感覚をエウメネスは感じたことがあったのを思い出したのである。
すなわち、主君アレクサンドロス…………。
戦場に立つ稀代の英雄アレクサンドロスほどの劇的さはないが、二人のそれは間違いなく同種のものであった。

人は生まれながらに備えられた器の大きさがあるとエウメネスは考えている。
そして器の中身がその人間の能力、中身を注ぐ作業が努力だ。
努力は器の中身の量には影響を与えはするが、決してその量は器の大きさを超えることはできない。
だからこそ人は意識的にせよ無意識にせよ巨大な器に対して己の足らざる部分を付託せざるをえないのである。
目の前の女性はこの世に数少ないそうした巨大な器としての条件を備えているのに違いなかった。

「もう少し命を大事にしたほうがよろしいと思いますよ」

たいていの場合巨大な器は運も強い。
主君アレクサンドロスなどはその典型的な例であろう。
それにしても先ほどの彼女の行為は蛮勇と評すべきほかないものだ。
故郷カルディアで政争に巻き込まれ、フィリッポス二世に拾われてからも様々な変転を強いられてきたエウメネスには彼女が犬死しようとしているようにしか見えなかった。
生きていてこそ人は未来に希望をつなぐことができるはずなのだが。

「死は誰にも等しく訪れるものだ。命を大事にするとは己の節を曲げずに生を全うするということよ。もしも私が節を曲げることがあるとすれば……それは愛しい男のためだけじゃ」

そう答えた彼女は誇らしげに微笑んでいた。
そのてらいのない表情のなんと美しく、なんと気高く見えたことか。
たとえ泥をすすってでも生き延びることを信条とする自分がいっそみじめですらあった。
自分には決して真似はできないだろうが、彼女であればきっと理不尽な死のなかでも気高いままに死んでいけるのであろう。

「貴女にそう言わせるほどの男はさぞ立派な御方なのでしょうね………」

まるでスキタイの草原に吹く烈風のような………故郷カルディアの蒼い海を吹き抜ける潮風のような彼女がその節を曲げると言うほどの男である。
同じ男の一人としてエウメネスも羨望の念を禁じえない。
たとえるならばあの王が一人の女のために戦を止めることがあるだろうか。
そんなことはありえないことをエウメネスは知っているだけに、そこまで彼女に想われる男が並の人物であろうはずがないことを確信していた。

「何、そなたもマケドニア軍のものであれば聞いたことがあろうよ…………ミュティレネで病死したペルシャの将メムノンがわが夫じゃ」






エウメネスはかろうじて悲鳴を飲み込むことに成功した。
しかし頬を滴り落ちる汗やひりつくような喉の渇きまではさすがに隠しようもない。
勇将メムノンの名はそれだけエウメネスにとっても重大な意味を持ち合わせていたのである。

「………まさかそこまで驚かれるとはな。もはや死んだ者にマケドニアを脅かす力なぞないのだぞ?」

そう言って苦笑する女性の名をエウメネスは知悉していた。

「……あと半年のお命があれば勝利は貴女のご夫君のものであったでありましょう。バルシネー様」

バルシネーはペルシャ王家の血をひく末席とはいえれっきとした王族の一員である。
父であるアルダバゾスはかつて王位を狙って反乱を起こしたこともある人物で、フィリッポス二世の在世中にはマケドニアに亡命していたことすらある。
その血筋を考えればバルシネーを娶ったメムノンはいかに大きな期待をかけられていたかがわかるであろう。

エウメネスの偽りのない賛辞にバルシネーは鷹揚に頷きながら邪気のない笑みを見せた。
まるで子供が自分の宝物を褒められたかのような無垢な微笑みであった。
しかし今はその微笑が斬られるように痛い。

メムノンを毒殺したことを後悔はしていない。
あのとき彼を止めるには暗殺以外の方法はなかった。
そして彼の生存は間違いなくマケドニア王国の滅亡を意味していたのである。
それほどにメムノンは危険な将であった。
もしも彼が最初からペルシャの総指揮官であったならば、グラニコスの夜戦の時点でマケドニア軍は故国へ追い払われてしたに違いなかった。
戦場で相対する危険度においてメムノンという男はダレイオス王にすら勝る存在なのだ。

だからといって彼を倒した方法が恥ずべきものであることもまた確かなことであった。
少なくとも剣によってではなく毒と詐術によって命を奪うという行為はマケドニア王国にあってはもっとも恥ずべき行為のひとつであると言ってよい。
誇り高きマケドニア人は剣によって立つという民族としての伝統が存在した。
マケドニアの歴史において幾度となく発生した暗殺でも、それが毒殺であったことは一度としてないのである。
復讐であるにせよ、己の野望のためであるにせよ、マケドニアで一定の支持を得るためにはそれが自らの武によって立っていなければならなかった。
メムノンを毒殺した行為そのものが、エウメネスが決してマケドニアに帰化することの出来ぬ異邦人であることを何よりも雄弁に物語っていたのであった。
計画を承知していたあのアンティゴノスでさえも、おそらくは毒殺という手段には躊躇せざるを得なかったであろう。
権謀術数に通じ知勇兼備の老雄といえどもマケドニア人としての宿縁から無縁ではありえないのだ。

「強かったか、我が夫は」

バルシネーの問いにエウメネスは満腔の息をこめて頷いた。
あまりに彼は強すぎた。強すぎたゆえにこそ彼は死ななければならなかったのだから。

「メムノン殿ほどの武人はもはやペルシャ広しといえどもおられますまい」

ペルシャ軍にとって不幸なことにそれは全くの事実であった。
ダレイオスも知勇を兼ね備えた良将ではあるのだが、実戦の指揮官としては無理やりにでも戦の流れを手繰り寄せる強引さと何より運が決定的に不足していた。
そうでありながら第一線を託すことのできる戦略級の指揮官がダレイオス以外にどこを見渡してもいないのである。
もしもメムノンのような異国人ではなくペルシャ貴族のなかに同じだけの才能を持った人間がいればダレイオスは安全なバビロンから縦横無尽にその政戦両略を振るえたに違いなかった。

「我が夫に匹敵する人物がペルシャにおらぬとはなんとも耳に痛い言葉じゃが……まあ妻としては礼を返すべきであろうな」

およそマケドニアの虜囚となるべきペルシャ貴族の姿とも思われぬ光景であった。
傲然とエウメネスの賞賛を受け入れたバルシネーはどう見ても勝者以外のものには見えなかったのである。
あるいは事情を知らないものが見れば、エウメネスがバルシネーに求愛しようとかしづいているようにも見えたかもしれない。





バルシネーの背中に庇われていたアルトニスはエウメネスの美貌を陶然となって見つめていた。
マケドニアにせよペルシャにせよ、男性的な魅力というものは決して中性的な顔立ちではないのだが、それでもエウメネスの美貌は度を越しているものに思われた。
もしも女装したならば明日にもペルシャ宮廷一の寵姫にもなれるであろう美貌である。
それでいて精悍な男性的魅力に欠けているというわけでもない。
無法なヘラス傭兵を退けたその威風には犯しがたい気品すら感じられるほどだ。
アルトニスは決してバルシネーほどにメムノンに寵愛されていたとは言いがたかったが、それでもメムノンが自分にとって至上の男であることを疑ってはいなかった。
その経験則が根底から覆されようとしていることをアルトニスは感じた。

バルシネーほどに奔放さも意思の強さもないアルトニスはこれまで非常に小さな世界に生きてきた。
メムノンが失われ、母国ペルシャの庇護さえ失ったアルトニスはつい先ほどまで自分の世界が終焉したように感じていたはずであった。
しかし今は感じたことのない新鮮な喜びに近い感情を抑えることができない。
ただアルトニスはその感情に名前をつけることが出来ずにいた。

――――マケドニア人は獣も同然とばかり思っていたけれど…………。

メムノンの訃報が届いて以来、どこか鬱屈したものを抱えていた姉が久しぶりにかつての闊達さを取り戻していることが何故か胸に痛い。
おかしい、姉さまが元気になってくれて私はうれしいはずだ。
誰よりも気高く、強く、優しく、聡明な私の自慢の姉さま。
いつも私を守り導いてくれた姉さまが少しでも心安らがせてくれるのならこんなにうれしいことはない。
そのはずなのに―――。

強すぎる姉の庇護下にあった妹は、姉に対して否定的な感情を抱く可能性など思いもよらずにいた。
太陽の光なくては生きられぬ植物と同様、太陽の光射すところ必ずや暗い影もまた生まれるということを知るにはアルトニスの精神は幼すぎたのである。
しかしそれは決してアルトニスのせいであるだけではない。
生まれながらに巨大な力をもちえた者は、持たざるものの弱さというものにひどく鈍感なものなのだ。
ひとことで言うならばバルシネーはアルトニスを過保護に育て過ぎたのである。







「………殴りたい。天に届くほど音高く」

「残念ながらあっさりかわされたあげく泣くまで折檻されることになると思いますが」

正当なはずのオレの怒りはあっけなくヒエロニュモスに否定されていた。
確かにその通りかもしれない、しかし男には負けるとわかっていても戦わなければならないときがあるのである。
リア充に正義の裁きを。


「何か言いたそうだね、レオンナトス」

「滅相もございませんっ!」


しかしにこやかなエウメネスの氷の微笑を見た瞬間オレの決意は木っ端微塵に吹き飛んでいた。
あの冷ややかな目をオレは知っている。
ダマスカスの資材を手配し終わるまで寝る暇もないほどこき使う、と言う目だった。
いやだ………あの毎日数時間しか寝れない過重労働の日々はいやああああああああ!

「どうして貴方はそう同じ失敗を繰り返しますか………」

うるさいっ!リア充は世界の敵なのだ。だいたいお前だって同じ悲しい独り身だろう?

「いえいえ、私は故郷にちゃんと妻がおりますから………」

「何いいいいいいいいいいいい!!!」

ま、まさかヒエロニュモスにっ!オレと同じ不可触民(アウトカースト)のはずのヒエロニュモスに妻……だと?
裏切ったな!僕の気持ちを裏切ったな!

「い、いつの間に…………というか今まで全くそんな女っ気なかっただろう。本当なのか?」

お願いだから嘘と言って欲しい。
僕はこれでもマケドニア王家に連なる血統書付なはずなのにそんな相手どこにもイナイ。
こんなに必死に頑張ってるのに。
というか拒否権もなくこき使われています。
……シャーロッテ、君はオレの恋人で間違いなかったよね?
実はお情けで付き合ったけれど幼馴染以外の感情は本当はなかったとか言わないよね?
思わず今は遠い現代に置いてきた恋人にすがりつきたくなるオレがいた。

「まあ、生まれる前からすでに妻として決められていたものですから………正直あまり意識する歳でもありませんですし………」

ちょっと待て。

「参考までに聞くがお前の奥さんは幾つだ、ヒエロニュモス」

「今年12歳になったばかりですが」

おのれリア充のうえロリときたか!虫も殺せないような顔をしてヒエロニュモス………おそろしい子!!






「…………ところでエウメネス殿、あの御仁がマケドニア王家に連なるというのは真なのか?」

珍獣でも見るようにバルシネーは大きく目を見開いていた。
あそこまで嫉妬をあけすけに出来る人間をバルシネーは見たことがない。
バルシネーにとって王族とはもう少し誇り高い生き物であるはずだった。



「間違いなくマケドニア王家のものですよ………正直王家に生まれついたのが間違いとしか思えないときもありますが………私の親友です」




[10257] 第二十五話 運命の輪その4
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:cec6bd83
Date: 2010/05/17 22:53
大ペルシャ恐るべし。
オレとエウメネスはダマスカスの一角に林立した倉庫を見上げて呆然と立ち尽くしていた。
この見渡すかぎりに積み上げられた食糧の山はなんだろう。
なけなしの食料を配給するためにオレたちがどれほど苦労してきたかを考えると阿呆らしくなるような泣けてくるような光景であった。
食料だけでも何万人分?というか今のマケドニア軍が全軍で食い放題をしてドンちゃん騒ぎをしても軽く半年は持ちそうってどんだけだよ。

………それにしてもこの世界に写真がないのが無念でならないな。
ダマスカスに備蓄されていた莫大な物資の量を見て、思わず唖然としているエウメネスの表情はまさに激レアと言っていい。
滅多にこんな無防備な顔をするエウメネスではないだけに、久しぶりに奴をからかうネタが出来たと思ったのだが………。

「…………本当に毎度のことながらこりませんね、レオンナトス様………」

水を差すなよヒエロニュモス。少しくらい黒い優越感に浸らせてくれてもいいだろう?

「………これは仕分けるのが大変そうだねえ………それでもレオンナトスならきっとやり遂げることができるさ!」

あれぇ?

そこでいい感じに嗤っている黒い人は誰でしょうか?
ひしひしと負のオーラを感じるのですが。
そこ!ヒエロニュモス!いかにもあきれ返ったみたいに頭を振らないで助けなさい!オレと君の仲じゃないの。
いや、無理ですよ?こんなマケドニア王国全体の流通量をさらに数倍したような量の仕分けをオレ一人に任されたら間違いなく処理限界を超えます。
というか死にます。こ、殺さないでええええええええええ!

「逝ってらっしゃい」

エウメネス、それちょっと字が違う!古代にそんなネタはいらんからああああ!!






「おぬしら………ずいぶんと楽しそうじゃの」

明らかに苦笑いという表情を浮かべてひょっこり現れたのはバルシネー・アルトニス姉妹であった。
といっても厳密には苦笑いを浮かべているのはバルシネーだけで、アルトニスの方は目を丸くして呆然としている。
大柄な彼女にそんな小動物的な仕草がなんとも言えず似合っていた。

う~ん……黒い邪笑を浮かべたエウメネスの悪魔降臨!はやはり貴族のお嬢様には荷が重かったか?

実際のところバルシネーもアルトニスもレオンナトスの内心とはまったく別の場所にいた。
目の前の光景はペルシャではまず常識的にありえない。
レオンナトスはマケドニアの王家に連なる大貴族でエウメネスは国王秘書官とはいえ一介の異民族である。
予想される上下関係とは理不尽なまでに真逆な光景を見せられて戸惑うなというほうがどうかしていた。

…………もしかしてマケドニアでは貴族は虐待されているのか………?

そんなことはない。虐待されているのはただレオンナトスだけである。
ここでようやくレオンナトスを嬲るのを一時中断したエウメネスがバルシネーたちに向き直った。

「こんなところまでいらっしゃるとはどうかしたのですか?」

エウメネスやレオンナトスの任務には捕虜となったペルシャ貴族たちの世話も含まれる。
アレクサンドロスからは彼らを丁重に扱うようにとの厳命があり、もし不満があるのであれば早急に対処しなければならない立場にエウメネスはいたのである。

「ヒマをもてあましての。散歩がてら挨拶に……と思ったのだが……どうやら人手が足りなさそうだの」

ペルシャの行政機構にはこうした兵站を担う文官に蓄積された分厚い層がある。
広大な版図の物資を必要とされるところに集積するのには当然それを計画運営できるだけの文官が存在していなくてはならないことを、さすが世界帝国だけあってペルシャはよく承知していた。
もちろんマケドニアにも同様の役職は存在するが、ペルシャのそれに比較しては人数も権限もお寒いものでしかない。
かろうじてアンティパトロスが指揮をとる本国だけがなんとか流通を制御するだけの官僚団を整備しつつあった。

「バルシネー様もそう思いますよね?エウメネスはこれを私一人にやらせようとしてるんですよ。これは任務の名を借りた殺人と言わざるを得ません!」

「いや………なんというか……そもそもレオンナトス殿の立場弱すぎじゃろ?」

こんな膨大な量の仕事を押し付けられれば文句のひとつも出るのは仕方ない、が冷静に考えればエウメネスにそんな権限があるはずもないのだ。
むしろ後ろでふんぞり返ってレオンナトスが指示を出しているほうが自然な流れのはずであった。
なんとも鼠に猫がおびえて平身低頭するような違和感を禁じえない。

「そうなんです!こいつは何故かオレにだけは遠慮も呵責もない悪魔なんです!お願いですから慈悲を!あの悪魔を止められる力を!」

「少し………頭冷やそうか…………」

恥も外聞もなく自分の置かれた立場の劣悪さを説くオレの後頭部を、美貌の悪鬼が口元だけで笑いながら渾身の力で締め付けた。
みしみしと頭蓋がきしむ音に真剣に生命の危機を感じたが、しかしこれだけは言っておかなくてはなるまい。

「レオンナトス死すとも自由は死せず!!」

自由を求める人の魂の叫びはどんな圧力にも屈することはないのだよ!by板垣退助。

「………今永久に自由にしてあげるからね………」

ごめんなさい!調子こきました――――!!






「え~と、その、私でしたら、計数には自信がありますし………少なからずお力になれるかと思いますが………」

エウメネスの怒りの鉄槌はオレを数秒の間生死の境に追い込んでようやく止まった。いや、止まらなかったら間違いなく死んでます。
断罪の終了と見て控えめにおずおずと切り出したのはアルトニスである。
どうも最初から協力を申し出るつもりであったらしい。
ニヤニヤと笑いながらバルシネーがアルトニスの言葉を引き取る。

「私とて文官としても武官としてもその辺の連中には負けんぞ?今は人手がいくらあっても足りるということはなかろう?」

「しかしペルシャでも大貴族であられる貴女がたをこのような激務に関わらせるというのは………」

珍しくエウメネスが困惑していた。
無理もない。ペルシャでも王族に連なろうかという有数の大貴族のご令嬢に兵站仕事を手伝わせようとか他人が聞いたら何かの冗談にしか思わないだろう。
だが今必要なのは屈強な兵士ではなく物資の必要量と輸送量を適切に配分し運用することのできる文官なのも確かであった。

「だいたいそこのレオンナトス殿も王族に連なる大貴族であったと思うがな」

このバルシネーの言葉が決定打となった。
彼女たちが進んで協力してくれようというのを断るにはあまりに作業が膨大でありすぎた。
ダマスカスの備蓄量はエウメネスの当初の予想を遥かに上回っており、これまで想定されてきたマケドニア軍の兵站規模では対応しきれないことはエウメネスの目にも明らかであったのである。
さらにアレクサンドロスはこの機会にフェニキア地方の沿岸制海権を確保することを明言しており、シリア一帯の征服作業はかなりの長期戦になることが予想されていた。
そのためにも物資を無駄に使わせるわけにはいかなかったし、今後の有事のためにはある程度のプール分も見込んでおかなくてはならなかった。
イッソスで一敗地に塗れたとはいえペルシャ軍にはまだまだ十分な余力があるはずなのだ。
お留守になった後背にいつ再びペルシャ軍の逆撃がないとも限らなかった。
保存、駐留、進軍、予備に物資を再配分し、保管しておく場所を確保して警備を立て、略奪から物資を守らなくてはならない。
躊躇している余裕はないことをエウメネスもまた認めざるをえなかったのである。

「それでは………まことに恐縮ですが………ご助力をお願いします」

このとき姉妹がまるで花が咲くかのように微笑んだのをオレは見逃さなかった。
大輪の花の蕾が今まさにこぼれるような笑顔であった。
バルシネーの笑顔が妖艶さを湛えつつも野に咲くたくましさを併せ持つ蘭の花であるとすれば、アルトニスの笑顔は大柄ながら美しくも清楚な佇まいのアマリリスと
言ったところだろうか。
小柄ながら存在感で圧倒するバルシネーに対し長身で抜群のスタイルを誇りながら控えめで清楚なアルトニス。
ちっとも似ていない姉妹だが、鑑賞する方としてはこのうえない好一対である。
下世話な話だが、オレのような凡人から言わせるとアルトニスのつつましくも艶やかな美しさがなんとも好ましい。
ほかの人間がどう感じるのかはわからないが、バルシネーの清冽さはなんともオレには眩しすぎるように感じられてならなかった。

………しかしどうやら一杯食わされたようだ。
姉のいたずらっぽい表情や妹の恥じらいに上気した頬を鑑みるに、妹の恋路を助けるおせっかいな姉の図が垣間見えた。
しかも姉のほうも少なからず興味はある、といったところか。
…………くそっ、これだからリア充は……!

「顔か!やっぱり男は顔なのか!美形なんて一人残らず死んでしまえ!」

「…………レオンナトスは一人でも頑張れるよね」

いやあああああああああああああああ!!
一人にされたら寂しすぎて死んじゃうからああああああああああああああ!!






イッソスの後方基地と、ダマスカスで得た膨大な物資はペルシャとの戦いが始まってから初めてマケドニア軍に長期戦の遂行を可能とさせた。
本国からの細々とした補給に汲々とせず、占領地の略奪に頼らずとも飢える心配が遂になくなったのである。
この事実が示す意味はあまりにも大きい。
エウメネスをはじめとする一部の文官だけが知っていたことだが、もしもペルシャ側に決戦を回避されたとえば大兵力でダマスカスに篭城された場合、
マケドニア軍は二月を持たずして傭兵たちの給金を払えなくなり、遅くとも半年以内には戦わずして飢え死にの已む無きに到ったであろう。
ましてペルシャ軍が有り余る余剰兵力を動かしてハルカルナッソス以北を脅かした場合、マケドニアに帰国することすら危うかったに違いない。
もちろんそれを選択することの出来ぬダレイオス王の政治的事情は確かに存在したが、結果的に見ればただ避戦に徹するだけでペルシャ軍の勝利は約束されていたのである。

イッソス以前と以後の戦略的環境の決定的な違いはそこにある。
イッソス以前のペルシャは戦を回避するだけで勝利を手中にすることが出来た。
しかしイッソス以後は積極的にマケドニアに勝利することなくしてペルシャの勝利はなくなったのだ。
何よりも大きなのは、不滅の大帝国に思われた大ペルシャが決して不滅ではなく西方の蛮国によって滅ぼされてしまう可能性があることを知らしめたということにある。
ペルシャ世界はこのとき初めて滅亡、という言葉を意識せざるを得なかったのであった。


とはいえまだまだ両国の国力の差は冠絶していた。
マケドニアを仰天させたダマスカスの物資ですらペルシャにとっては取りに足らぬものにすぎない。
反抗する力は十分すぎるほどに残されていたのである。
………実はこのとき、ペルシャに天佑神助が訪れようとしていた。
神に選ばれた英雄たるを自認するアレクサンドロスがフェニキア最大の都市国家テュロスのメルカルト神殿の主祭神がヘラクレスに同定されていることを知り、並々ならぬ関心を寄せていたのである。
そもそもマケドニア王家はその始祖をギリシャ神話の英雄ヘラクレスにおいている。
つまりヘラクレスの末裔たるアレクサンドロスがヘラクレスを祭る神殿を詣で、これを庇護下におくことは彼にとってしごく当然の使命のように思われたのだ。
しかし問題なのは誇り高い海の民たるテュロスの市民がアレクサンドロスの信じる正義を共有することができるかということにあるのであった。
アレクサンドロスの信じる正義が最終的にテュロスに何をもたらすのか、今はただ異邦人たるレオンナトスだけが知っていた。




[10257] 第二十六話 運命の輪その5
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:cec6bd83
Date: 2010/07/20 00:18


「だからヘロドトスは…………」

「いえ、それだと天はどう動いているのかしら?」

「天もまた球体であることは動かないと思うけどね。そのよってたつところまでは………」

「だいだい70万スタディアの根拠は………」





このところとみにエウメネスとバルシネーの仲が良かとです。

おのれリア充許すまじ!くらえ嫉妬破壊光線!



そんな嫉妬全開で怨念電波を送ろうとしていたオレの視界の片隅に、寂しそうに一人床に座り込んでいるアルトニスが写ったのはそのときだった。









「………行かなくていいのですか?」

「レオンナトス様………」



まるで全てをあきらめきったようなアルトニスの表情に不覚にも胸が痛む。

アルトニスが姉に対して大きすぎるコンプレックスを抱いているのはわかっていた。

素人に近いオレにでもバルシネーの覇気と博識と度量が人並みはずれているのはわかる。

さすがに英雄アレクサンドロスに生まれて初めて恋を教えたと言われる女だけのことはあると思う。

しかし…………。



…………妹の恋路を応援するってのはどうなったんだ?バルシネーさんよ…………。



フィリッポス2世の時代から図書館の建設などにも携わってきたエウメネスの知識はおそらくマケドニアでも随一のものであろう。

それに気づいたときからバルシネーの態度は明らかに変わっていった。

頭の良い人間にありがちなことだが、己と対等の人間との会話に飢えていていたのであろう。

日に日にバルシネーはエウメネスに傾倒していき、エウメネスもまた苦笑いを浮かべつつも決してそれを嫌がっているそぶりは感じられなかった。

彼もまた同類の人間に飢えている男であったからだ。



もちろんそれでもっとも割を食ったのがアルトニスである。

エウメネスを補佐し、控えめながらも必死に会話しようと努力している様子は、見ているオレが悶えそうなほどいじらしいものだったのに今ではその指定席は

すっかり姉にとって代わられてしまっていた。

いや、むしろ彼女のほうから引いて姉へ譲ったというのが表現としては正しい。

目的のエウメネスの傍にいられなくなったのに、こうして毎日わざわざ手伝いに出てきてくれるのがまたいじらしくてならないのだが。



「わかってはいたんです。きっとエウメネス様も姉に気を惹かれるだろうってことは」



アルトニスが俯くのに合わせるように艶やかな黒髪がアルトニスの肩を流れて落ちた。

寂しそうに微笑むその表情からは嫉妬や憤怒は欠片ほども窺うことはできない。

おそらくは本心から姉が人の注目を集めることを認めきっているのだろう。

もしそうだとすればこの目の前の女性は今までどれほど姉によって自分を忘れ去られてきたのだろうか。



「姉は神に愛された大輪の花…………例え誰であろうと姉を愛さずにはいられません」



「いや、………」



決してそんなことはない。

なぜならオレは―――――



信じ難いことに思わず口をついて出たのは驚くべき言葉だった。

こんな台詞は恋人であるシャーロッテにも言ったことがあったかどうか………。



「他の男はともかく、私はバルシネー殿よりアルトニス殿のほうが美しくも愛らしいと感じておりますよ」



アルトニスの均整のとれた切れ長の瞳が大きく見開かれるのがオレの目にも見て取れた。

言った本人が実は一番驚いていたのだが………。













生まれてこの方姉と比較されて勝ったためしなどない。

容姿、聡明さ、気性、華やかさ、体力………その全てにおいて姉は私の遥か高みに身をおいていた。

それにひきかえ私はといえば、母譲りの容姿こそまともではあるものの、引っ込み思案で気の利いた台詞のひとつも言えない始末。

夫であるメムノンのもとへ嫁いだのも明らかに姉のおまけに等しい立場であった。



それでも夫であるメムノンは男として非常に魅力ある存在であったから、なんとかその寵愛を得ようと努力した時期もあった。

メムノンはやさしく、まるで年の離れた妹のように私を大事に扱ってくれたが、それでもアルトニスを一人の女としてはついに私を見てくれることはなかった。

彼の心は最初から姉バルシネー一人に囚われてしまっていたからだ。

せめて姉の次でもいい。

一人の女として愛されることができたなら、あるいは女としての自分に自信が持てたのかもしれなかったが、その機会を与えることなくメムノンは異郷の地から二度と戻っては来なかった。



まるで初恋の相手をなくしたかのように泣き崩れる私をやさしく慰めてくれたのはやはり姉だった。

物心ついたときからずっと、私が泣きだすと姉は泣き止むまでずっとついていてくれるのだ。

亡命貴族である父に対する中傷から、私たち姉妹へ悪意が向けられるときもいつも私をかばってくれていたのも姉である。

思えば私は姉というこの上なく優しいゆりかごのなかで生きてきたようなものだった。



その私が姉をさしおいて新たな恋を手に入れようなどと出来るはずもない。

そもそもこんな半人前の女を誰が愛してくれようか。

まして姉という誰もが認める天女がそこに在るというのに。





「他の男はともかく、私はバルシネー殿よりアルトニス殿のほうが美しくも愛らしいと感じておりますよ」





今この人はなんと言ったのだろう。

私が姉より美しい?

そんなはずはない。姉はただその造形が美しいだけの存在ではないのだ。

それに今までただの一人だってそんなことを言ってくれた人は―――――



レオンナトス殿が顔を真っ赤にしてものすごい勢いで目をそらす。

もしかして本当に―――――?



天にも昇るような歓喜と同時に、これが決してエウメネスのものではないことに言い知れぬやるせなさを感じてしまう。

そんな自分が醜く思えてならなかった。

せっかく褒めてくれたレオンナトス殿にも申し訳ない。

こんなにうれしいのに、こんなに心が震えているのに、私の心が求めているのは決してレオンナトス殿ではないのだから――――。



「貴女という花は決してバルシネー殿に劣るものではない。遠慮せずにおいきなさい。多弁で優雅な花より清楚で控えめな花のほうが共に生きるには大切なこともあるのだから―――」





そう言って背中を押してくれる彼に申し訳なくて泣きそうになりながら、私は意を決して姉とエウメネスのもとへと生まれて初めての一歩を踏み出していた。

















ヘラオネスという男がいる。

古くからパルメニオンの指揮下で剣を振るってきた歴戦の古強者である。

パルメニオンからの信任も厚く、その武勇はアレクサンドロスさえも名を記憶しているほどに優れたものだ。

その彼は現状に強い不満を抱いていた。



マケドニア軍最強の武勇をもってなるパルメニオン軍団が、異国人に顎で使われて補給作業ごときに汗しなくてはならない。

それは彼にとって屈辱以外のなにものでもないのであった。

どうやらパルメニオンが陛下の不興をかったらしいという噂はヘラオネスの耳にも届いている。

不本意ではあるが正面からあの異国人に反抗することは難しかった。

そんなことをすれば立場を危うくしている尊敬する主将がさらにその立場を悪化させることにもなりかねないからだ。

個人的武勇はともかく、上級指揮官としての能力は評価されることのなかった彼でもさすがにそのくらいのことは承知していた。

だからこそこの現状をなんとかしたい。

マケドニア軍を本来あるべき姿へと戻したいのである。

当然それはパルメニオンがマケドニア軍の副将としてアレクサンドロスとともに軍権を掌握することにあるのであった。



そのためにはパルメニオンに対する王の不興を取り除かなくてはならなかった。

だがいったいどうやって…………。



そんなときヘラオネスの瞳に映るものがあった。

あの忌まわしい異国人と、ペルシャの捕虜の女が仲むつまじく何かを羊皮紙に書き込んでいる様子が見て取れた。

腸が煮えくり返るような憤怒がヘラオネスの胸中に沸き起こる。



――――敵国の女と乳繰り合っている場合か―――!



将兵の誰もが不慣れで不本意な作業に汗しているのに何様のつもりであろうか。

そもそもあの女はマケドニア王国の戦利品であってあの男が自由にしてよいものではないはずではないか。



そこまで考えてヘラオネスの脳裏にひらめくものがある。



―――――果たして陛下はこのことを知っているのだろうか?



確かに敵国人ではあるがあの女の美しさは認めなくてはなるまい。

高貴な血筋の、しかも絶世の美女があの異国人のもとにいるというのはひどく不自然なものに感じられる。



戦利品は王のものであってしかるべきではないか?

もっとも美しい女は、王のもとにこそ侍るべきではないのか?

聞けばペルシャの女は技芸に通じ、ヘラスの学者が舌を巻くほどに聡明であるとも聞く。

王のように色香にうといお人であっても心を動かされる可能性は十分なものであるようにヘラオネスには思えた。



「我が主パルメニオンの名においてあの女を陛下に献上せねばなるまいて」



うまくいけばパルメニオンの立場は不興を解消するどころかさらに強固なものとなるであろう。

都合のいい想像に笑みを浮かべつつヘラオネスはエウメネスを一瞥して冷たく嗤った。



―――――今のうちにいい気になっているがいい。所詮貴様は異国人で我がマケドニアによって使いつぶされる運命にあるのだから。













「これをアンティゴノス様にお届けしろ」



パルメニオンの指揮下にある一人の兵が、行商人の男に一枚の羊皮紙を手渡していた。

これが初めてのことではないらしい。

行商人の男は丁重にその手紙を押し頂き、何事もなかったかのように人ごみへと消えていく。

パルメニオンの兵もまた、ごく自然な動作で人ごみのなかへと身を溶け込ませていった。





「全くアンティゴノス様の手はどこまで長いんでしょうね………」





そういって苦笑とともにことの成り行きを見守っていたのはヒエロニュモスであった。

マケドニア王国の情報を司るヒエロニュモスではあるが、アンティゴノスの行為を正面から処罰するというわけにはいかない。

なぜならアンティゴノスは国内政治の材料として情報を収集しているのであって、別にペルシャやヘラスに情報を売り渡すような利敵行為をしようとしているわけではないからだ。

この程度の情報収集は、情報の価値がわかっている将ならば多かれ少なかれやっているものなのである。

しかしそれでもアンティゴノスの収集部隊は数と質において他の諸将を圧倒するものであった。

これに対抗できる組織はヒエロニュモスの組織するマケドニアの耳以外にはあるまい。



「まあ、あの方がパルメニオン様の苦境を知って援助してくれるならそれにこしたことはないのですが…………」



アンティゴノスはパルメニオンとともに古きマケドニア軍の双璧ともいうべきものだ。

同じ古株であるパルメニオンが不興をかったとなれば決して人事ではないであろう。

だが残念なことにアンティゴノスという怪物はヒエロニュモスが考えるほど人のいい人物ではありえなかった。



―――――ヒエロニュモスは知らない。

この日アンティゴノスの密偵を見逃したことを、彼は終生後悔することになるのだということを。






[10257] 第二十七話 運命の輪その6
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:6b687994
Date: 2010/09/09 11:59

バルシネーはまるでひな鳥が親鳥について回るかのようにエウメネスについて回るのが日常になりつつあった。
彼女の見るところエウメネスは会話する相手としては全く申し分のない男であった。
容姿も美しく物腰もたおやかで武勇は一流であり、学識はペリシャ世界にあっても有数なものであろう。
政略にも知略にも鋭く激しく通じている。
彼にもっとも近い人間をあげるとすれば…………それはかつて愛した夫メムノンをおいて他にあるまいとバルシネーは考えいてた。
武勇・政治力・統率力・学識が非常に高い次元で整備されているあたりは瓜二つと言ってよい。
しかしその人となりについては180度異なるものと言わざるをえなかった。
己の力量に見合った地位を欲してやまなかったメムノンとは違い、異国人であるせいだろうか、エウメネスは己の手腕を発揮することが出来ればそれでよしとする雰囲気がある。
むしろ政治や軍事に関わりを持つことが厄介事であるように感じられるほどだ。
それはエウメネスの本質が行政官であり、また純粋な学究の徒であるせいでもあるだろう。

だがことの問題はそんなところにあるのではない。
問題なのはどうやら自分が女としてエウメネスに惹かれつつあるということなのであった。
メムノンが巌であるとするなら、エウメネスは水流である。
その本質はひとところに留まることをよしとしない。
束縛よりも自由を、既知より未知を求めるその本性がバルシネーにとってはこのうえなく心地よいものであったのだ。

自分が惚れやすい女であるとは思わない。
稀なる佳人としてバルシネーに言い寄る男は多かったが、心から愛したと言えるのはただメムノン一人があるのみだった。
エウメネスに対するほのかな慕情はメムノンに対するものとはいささかベクトルが異なる気もするが、それでも共にありたいという気持ちだけは本物だった。

しかしバルシネーは先にエウメネスに恋情を抱いたアルトニスに対して特に後ろめたさを感じてはいなかった。
それはごく当然のように、夫は姉妹で共有することが出来るものだと信じていたからである。
自分の想いがアルトニスの恋情を傷つけるなどとはバルシネーは考えない。
これまでもこれからも、姉妹は人生を共にしていくことをまるで運命のように信じきっているからだった。
アルトニスもそう望んでくれていると、バルシネーは疑いもなく信じた。




バルシネーのエウメネスを見る目が変わったことを恋する乙女であるアルトニスが見逃すことはありえなかった。
いまだエウメネスは姉の恋情に気づいていないようだが、彼が男女のそれかどうかは別としても姉に好意を抱いていることは連日の親密ぶりが明らかにしていた。
またも自分は恋の戦いに敗れてしまったのか。
アルトニスは常にない積極性をもって姉とエウメネスのなかに割り込んでいったつもりであった。
自分にそんな勇気をくれたレオンナトスにはいくら感謝してもしきれないと思う。
あの甲斐あってか親しく会話を交わすまでになったものの、やはり姉のように深い学識や機知に富んだ応答はアルトニスには難しかった。
アルトニスに出来ることは控えめに笑みを浮かべながら、二人の会話に相槌を打つことぐらいなのだということがたまらなくもどかしかった。
どうしてあの姉は私が欲してやまないものばかりを取り上げていってしまうのか―――――。



アルトニスの落ち込みようは手に取るようにわかる。
もともと表情に出やすいということもあるが、オレは似たような女性をごく身近に知っていたからだ。
シャーロッテ・クベドリアス。
それは遥か二千数百年未来に置いてきてしまった最愛の恋人の名であった。

今でこそ毒舌家になったシャーロッテだが、もとよりそんな性格をしていたわけではない。
むしろ内気ではにかみやな目立たない少女であった。
彼女が現在のように変わったのは、幼いころからいつも一緒にいた三歳年上の姉マーガレッタが婚約したころに遡る。

姉の婚約者はオレ自身もよく知る近所の男性で、幼いころには兄貴分としてよく遊んでもらった人でもあった。
幼馴染同士の婚約は長年の交際を実らせたこととも相まって、盛大な祝福をもって周囲に迎えられた。
しかし同時にそれは幼いころから胸に秘めてきたシャーロッテの初恋の終わりをも意味していたのである。
それでも結婚式までは気丈に姉を祝福していたシャーロッテだったが、式も終り姉が住み慣れた家を出て行ってからしばらくは見ているこちらまで胸が痛くなるような落ち込みよう
であった。
己の無力さを噛みしめながら幾日無言のシャーロッテに付き合っていただろう。
やがてポツリポツリと言葉を交わすようになり、日に幾度か笑みを見せ始めるといつしかシャーロッテは羽化の終わった蝶のように明らかに変わった。

―――――天下無双の毒舌家へと。

恋人よ、それはあまりな変わりようではないだろうか?


それはともかく、シャーロッテにとって姉という重しが取れたことが独り立ちのきっかけとなったことは疑いない。
美しく聡明で頼れる姉であったマーガレッタの存在は、シャーロッテにとって居心地の良さを保証してくれる暖かな繭であった。
しかし繭の中では何を得ることもできない。
姉から与えられるだけの居心地の良さからは、決して自分の人生を生きた充足を得ることはできないことにシャーロッテは気づいたのだ。
自分自身の手で欲しいものを勝ち取る。
ありたいと願った何者かに、自分自身が成ることこそが本当の充足であるのだ、と。
そうして控えめでおとなしかった少女は勝気で誇り高い女豹となった。


………できればアルトニスには女豹になり果てるのは避けていただきたいものだが、姉離れをきっかけにアルトニスが大きく変わるであろうことは十分予想できることであった。



「気を落とすなよアルトニス。勝負なんてものは最後の瞬間までわからないものさ」

「………気休めはよしてください………」

アルトニスはオレの方を見ようともせずに俯いたまま答える。
まるでシャーロッテに無視されたような気がして地味にへこみながら、最大限の親しみを込めてオレはアルトニスの濡れたように黒々とした髪を撫ぜた。
嫌がるそぶりもなく受け入れてくれたのを確認して、安堵の息をともにオレは天を仰いだ。

確かにオレの目にもアルトニスの勝ち目が薄いことはわかっていた。
しかし愛し合う二人が素直に結ばれるほど、この時代は優しくはない―――あるいはそれは親友にとって不幸なことなのかもしれないけれど。
そう、バルシネーはアレクサンドロスの側妾になる運命にあり、エウメネスと最終的に結ばれるのはアルトニスなのだから。






「蛮族の王め!我らが神を土足で汚すつもりか!」

テュロスは海洋民族フェニキア人の都市国家のなかでも最大規模を誇る巨大なものだ。
同じ海洋覇権国家カルタゴと結んだテュロスは、マケドニアとペルシャとの戦争を奇貨として双方からの中立を宣言しその独立性を高める戦略をとろうとしていた。
ところがそれを一顧だにすることなく恭順を求め、そればかりか国家の支柱たるメルカルト神殿へ参拝しようとするアレクサンドロスの政治的姿勢はテュロスにとっては
侮辱以外の何物でもなかったのである。

ヘラス世界が成立する以前から海洋民族として生活してきたフェニキア人の誇りにかけて、主神メルカルトはヘラクレスなどという半神半人の半端者ではありえなかった。
そもそもヘラクレスと始祖とするマケドニア王が祖先の礼拝に訪れるという図式そのものがテュロスにとって耐えがたい屈辱なのであった。
有史以来、テュロスはメルカルトとヘラクレスは同一神であるなどという妄言を一度として認めてはいない。

だからといって日の出の勢いであるマケドニアと全面戦争に突入することもテュロスにとって得策であるとは思えなかった。
苦渋の妥協点としてテュロス指導部はテュロスのマケドニアへの好意的中立と神殿以外へのアレクサンドロスの立ち入りを認めたのである。
これはマケドニアが大ペルシャと交戦中の国の常識として考えるならば満足すべき妥協点であるのかもしれなかった。
しかし損得ではなく誇りを行動の指針とするアレクサンドロスにとって、神域への参拝の拒絶はテュロスの敵対行為以外の何物でもなかったということを、このときテュロス指導部は
読み違えていた。


「余に従わぬならば滅ぶがよい。貴様らの居場所がどこにあろうと余の手から逃れられると思うな」

後方に不安を抱え、さらにエジプトへと遠征しようとしている今、テュロスとおそらくは長期戦を戦うことはマケドニア軍にとっても決して楽な選択肢ではありえない。
利に聡いフェニキア人のこと、戦況がマケドニアに傾いたと判断すれば自ずとマケドニアに尻尾を振ってくることはよほどの外交オンチでもないかぎり予想できることであったからだ。
ましてマケドニア軍は海上戦闘に慣れた軍集団ではないのである。
テュロスの誤算はあるいはそうした利に聡い海洋民族特有の習性にあるのかもしれなかった。



テュロスの征伐を決めたアレクサンドロスはイッソスの戦いで傷ついた東征軍を再編してダマスカスに入城した。
先にダマスカスを実効支配していたパルメニオンは、ペルシャが備蓄していた食料と酒を惜しげもなく振舞って王の入城を歓待したという。
マケドニア王国では想像もつかぬ膨大な食料は東征軍の兵士がいかに飽食しようとも一向に尽きる気配を見せなかった。
アレクサンドロスもまた、このときばかりは浴びるほどに酒を飲み陽気に兵士たちに声をかけていった。
名もなき兵を鼓舞することもまた、英雄たるの使命であるとアレクサンドロスは信じていた

「陛下、このたびの御戦勝お喜び申し上げます」

「おうヘラオネスではないか、息災か」

「陛下のおかげをもちまして」

マケドニア軍の特徴は集団戦の強みにあるが、アレクサンドロス自身は個人的武勇の士を好む傾向にある。
ヘラオネスはパルメニオンの旗下ではあるが、大力で屈強な兵士としてアレクサンドロスの記憶にとどめ置かれていた。

所詮は一部隊長であるヘラオネスが王と私的に言葉を交わせる機会は少ない。
ヘラオネスは偶然訪れたこの機会を最大限に利用するつもりでいた。

「この場を借りて言上させていただくことをお許しください陛下、お引き合わせしたい人物がおります」

「…………ほう……ヘラオネスほどの勇者が言うのであれば一考しよう」

ヘラオネスは実直な男である。
策謀を張り巡らせるには単純に過ぎ、誇り高いがゆえに人に阿ることをよしとしない。
そうした意味でアレクサンドロスはヘラオネスの言葉に興味をそそられたのは事実であった。



「その者はペルシャでもっとも美しく、もっとも聡明で、もっとも武技に秀でたこの世にただ一人の佳人。必ずや陛下のお気に召すものと」

美しい女は数あれど、賢くしかも武技に秀でた女は滅多にあるものではない。
しかしこのときはまだアレクサンドロスはそのペルシャの女に強い好奇心を抱いたにすぎなかった。
運命の二人が顔を合わせるその日には、今少しの時が必要であった。




[10257] 第二十八話 そして運命は踊る
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:abd6acc9
Date: 2010/09/09 11:58


ダマスカスに入城したマケドニア軍は次の戦いをテュロスに定めた。

テュロスはそれでもなおアレクサンドロスとの間に妥協点を探ろうとしたが、アレクサンドロスにとって必要なのはテュロスの服従なのであって決して対等の交渉相手として

認めることはありえなかったことに、いまだテュロスの高官は気づいていない。

地中海上でもっとも巨大な力を誇るフェニキア人――――太古の昔から海上に覇をなしてきた彼らを陸の覇王は陸の理をもって屈服させること心に誓っていた。



しかしこのテュロスへの侵攻に対する戦略的評価はそれほど高いものではない。

そもそもテュロスは中立、それもマケドニアに対して友好的な中立を表明していたのであり、無理に攻略する必然性は低かった。

ペルシャの影響力が低下すれば戦に訴えなくとも自ずと軍門に下ることは明らかであったのである。

後世にアレクサンドロスが戦略家として評価の低い所以であろう。



だがテュロスを中心とした地中海東岸の制海権を確保しつつ、併合から間がなくペルシャに対する忠誠心に欠けるエジプトの豊富な食糧資源を手に入れる。

マケドニア軍の戦略構想はそうした戦争経済の反映としてみるならば実に妥当なものと言えた。

問題なのは裁定者である王がプライドと見栄と好奇心によってそれを為そうとしている点にあるのであった。





しかしどんなに壮大な戦略構想であれ、ただの思いつきであれ、現実にそれを実行するためには様々な環境の整備が絶対に必要である。

わけても重要なのはハリカルナッソスやダマスカスという新たに王国領土に加えられた後方策源地をいまだ膨大な余力を残しているペルシャから防衛することであった。

精鋭の大部分をエジプト遠征に振り向ける以上、戦力としての信用に乏しい傭兵や絶対的に少数のマケドニア兵をもって粘り強く地道な防衛戦を戦わねばならないことは

誰の目にも明らかである。

エジプトという熟した甘い果実を貪ろうとする遠征軍とは違い、劣勢下で防衛線を戦う兵が士気を維持することは困難を極めるであろうことを予測することは容易かった。

こんな貧乏くじを引きたがる将のいるはずもない。

あえていえばパルメニオンにその任を任せることも考えられたがイッソスで見せた宿将の手腕を欠くのはあまりにリスクの高い選択であった。

アレクサンドロスもほとほと人選に悩んだすえ、結局マケドニア本国から切り札を招聘することを選択した。

戦略的柔軟性ではマケドニア王国内でも右に出るものはいないと言う。

すなわちパルメニオンと並ぶマケドニア王国軍の柱石、老将アンティゴノスをもって防衛の任にあてたのであった。









「………まあ、わしにとっては願ったり叶ったりというところじゃがな」



達成困難な任を当てられたにもかかわらずアンティゴノスは意気軒昂である。

すでに60歳を超える年齢からは想像もつかぬほど若々しい美丈夫ぶりは健在だった。

現在のマケドニア軍で美丈夫と謳われるのはまずもってヘファイスティオンであろうが、もう二十年前であればその地位がアンティゴノスのものであったことは疑いない。

重厚な威厳と子供のような闊達さが同居したアンティゴノスの見事な美貌は長くフィリッポスとの同性愛関係さえ噂されたほどなのだ。



隻眼を光らせてアンティゴノスは遥か南方にいるであろうマケドニア軍を一瞥する。

己の夢見るサーガにしか興味のないアレクサンドロスには理解できないのかもしれないが、駐留防衛指揮官の地位はアンティゴノスに言わせれば宝の山であった。

戦争に勝つことは確かに偉大ではあるが、勝った結果手に入るものにこそ戦争の本当の意味がある。

アンティゴノスはそう考えていた。

ダマスカスでは莫大な財宝を手にしたようだが、その財は大陸間貿易と地中海の海洋貿易こそが源泉であり、源泉を手中に治めた者こそが莫大な財の真の支配者になれるのだ。

目先の財宝に目が眩んでそんな自明の理にさえ気づけないマケドニアの将帥たちは愚かというほかはなかった。



戦って奪った土地は的確な占領行政なしには、決して自国のものとして戦力化することはできない。

土豪を掌握し、行政組織を整え、原住民との利害を調整してこの地をマケドニアではなくアンティゴノス・モノフタルモスにこそ心服させてみせる。

アレクサンドロスの人事は実のところ野心に満ちた虎を野に放ったに等しい行為であったのである。







「兵糧と武具の輜重隊のようです。おそらくはレオンナトス殿の差配かと」



副官のマキレオスが砂漠を渡ってくる一隊の集団を見つけて言った。

資材と兵糧あるかぎりいかようにもペルシャ兵などあしらってくれる、とレオンナトスに書簡を送ってからそれほどの時間は経っていない。

おそらくは言われる前から準備していたに違いなかった。





「…………相変わらず底を見せぬ男よ」



レオンナトスは少々計数に長けただけの凡才にしか見えぬ男ではあるがこういうところが実に如才ない。

エウメネスと並んでアンティゴノスが警戒する数少ない男でもある。

もっとも軍才のほうはからきしのようではあるが、エウメネスの才はそれを補ってあまりあるものだ。

あの二人に手を組まれた場合厄介極まる相手になることは確実だった。

あるいは最後に自分の前に立ち塞がる敵というのはあんなとぼけた取るに足らなそうな男なのかもしれなかった。















「…………なんと言われました?」



自分の声が苦渋にひび割れていることをエウメネスは正しく自覚していた。

その事実にエウメネス自身が誰よりも驚きを隠せずにいる。

パルメニオンはエウメネスの動揺を正確に洞察してはいたがあえて口には出さずに言を繰り返すにとどめた。



「皇女バルシネーを王の御前に召しだすことになったゆえ差配を頼む」



エウメネスとバルシネーがそれが男女の感情かは別にしても、深く繋がりあっていたことをパルメニオンはよく承知していた。

しかしそれがどんな理由があろうとも受け入れられる類のものでないことも、歴戦の宿将は知っていたのである。









ことはパルメニオンの配下にあったヘラオネスからアレクサンドロスへ進言があったことに始まる。



しかしもともと女性にさしたる興味のないアレクサンドロスはテュロス攻略のための準備に没頭して彼の言葉を思い出す余裕はなかった。

もしもテュロスに対する武力侵攻が始まれば、それは戦術レベルで見ればランドパワーによるシーパワーの蹂躙という世界史的にも珍しい戦いになるはずであった。

テュロスはそもそもメソポタミアと地中海を結ぶ結節点に建設された中近東で最も古い歴史を持つ交易都市である。

しかも彼らの都市はハリカルナッソスのような沿岸都市ではなく、海上の要塞化した小島に存在していた。

島は高いところでは海抜50mを超える高い城壁に囲まれており、大陸からはおよそ750mに及ぶ海峡によって隔絶されていたのである。

さらに島内には80隻ものガレー船が海上に睨みを利かせており、これを陥落させることが出来るのは同じ海上勢力だけであると長く信じられていた。

難攻不落をもって知られるこの都市をいったいどうやって陥落させるべきか、アレクサンドロスは寝ても覚めてもそのことを考えぬ日はなかったと言っていい。







「こらっ!猫は神の使いとも言われているのよ!」



鈴が鳴るような声が原住民の悪童を叱っていた。

剣幕に驚いたのか悪童たちはくもの子を散らすように逃げ去っていく。

一塵の風とともに美しい黒髪が風にたなびき小柄な肢体と意思の強そうな聡明な美貌が明らかとなった。

誰もいなくなった池の前で、呆れた様子で腰に手をやりながら女は首をかしげた。

どうやら悪童にいたずらされていた猫が池に放り込まれ中州で立ち往生しているらしかった。



すでに二十も半ばになるだろうか。

稀に見る佳人であることはアレクサンドロスも認めざるをえない。

何より生気がそのまま美しさになって溢れるようなたたずまいにアレクサンドロスは瞠目した。

彼女もまた、自分と同じく天によって選ばれた存在ではないか、という埒もない考えに人知れずアレクサンドロスは苦笑する。



「………待ってなさい。今助けてあげるからね」



見かけによらず力持ちであったらしい女は、池の中洲へ向かって石を投げ入れたかと思うと器用に石の上を辿って艶のある白と黒の毛並みの綺麗な子猫を救いだした。

甘えるように子猫が女の胸に額を摺り寄せる光景にアレクサンドロスは思わず微笑を零すが、その瞬間アレクサンドロスの脳裏に天啓が走る。



――――――彼女はいったい何をした?



もしもこれが拡大できるものならば………いや、マケドニアの誇る投石器や工兵部隊であればきっと…………そう、それは不可能ではない!

アレクサンドロスは自分がまさに神話の冒険のなかで、英雄の導き手たる女神に出会った場面を幻視した。







「……………失礼だが美しい貴女の名を聞かせてもらえぬだろうか…………」



驚いたようにアレクサンドロスを見つめた美女はいたずらっぽく瞳を笑わせて恥ずかしそうに頭を下げた。



「これはお恥ずかしいところを見られてしまいました。私の名はバルシネー、アルダバゾスの娘にしてメムノンの妻であった女にございますアレクサンドロス陛下…………」








[10257] 第二十九話 そして運命は踊るその2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:2a078d8c
Date: 2010/11/30 22:59
アレクサンドロスは上機嫌であった。
自らを神話の英雄になぞらえる彼は異性に対する関心に薄かったが、それでもいつか運命上の出会いが訪れることを疑ってはいなかった。
なんとなればそれが英雄に生まれついたものの定めだからである。
自らの英雄たる運命を、アレクサンドロスは片時たりとも疑うことはなかった。

「―――――おもしろい」

正直ペルシャ王家の血筋というものをあなどっていたかもしれない。
そう思いなおすだけの気品と気高さと見るものを惹きつけずにはおかない魔力のようなものがバルシネーにはあった。
イッソスの戦いで捕虜となったダレイオスの家族が命惜しさのために恥も外聞もなく叩頭するのを見ているアレクサンドロスにとってバルシネーの纏う爽やかな空気は実に新鮮なものであった。
小柄な体格ながらまったくそれを感じさせないカリスマと奔放な闊達さにアレクサンドロスは自分に近い神から与えられた何かを見出していた。

―――――しかもこのタイミングでテュロス攻略の啓示を与えられた………これが運命でなくてなんだ?

ヘラオネスがもっとも美しくもっとも聡明でもっとも武技に秀でたと言ったときには話半分に聞いていたが、この分では手合わせしてみるのも面白いかもしれない。
女性が剣を取るなど無粋の極みだと思っていたが、自分だけが例外の対象となることをアレクサンドロスは何より好む性格であった。

――――――あるいはアテナを妻として侍らせるのも英雄の力量というものか。

姉には似ぬという美しい妹ともども、姉妹がアレクサンドロスの前に引き出されるのは明日と決まっていた。
もともとペルシャの地を支配するために王族の血をマケドニア王家に入れなければならないとは考えていた。

―――――やはり私は運命に愛されている。

絢爛な衣装を着てうやうやしく頭を垂れるバルシネーの姿を夢想してアレクサンドロスは莞爾と笑みを浮かべた。
こうしてアレクサンドロスが異性に対して執着を示すのは彼自身にも思い出すことが難しかった。
もともと異性に対する関心が薄かったこともあるが、母であるオリンピュアスが少年期のアレクサンドロスに女性が接近することを嫌ったというのがもっとも大きな原因であろう。
独占欲と虚栄心の塊である彼女はアレクサンドロスにとっての関心が自分以外に向くことを許容するつもりはなかった。
そのために実は何人かの哀れな女性は追放や処刑の憂き目を見ているのだが、その事実を知るのはオリンピュアスとその側近以外にはいない。
もしかするとこれがアレクサンドロスにとっての初恋なのかもしれなかった。

胸の奥が熱い。
知らず下腹部が隆起していることにアレクサンドロスは苦笑した。
性欲というものをどちらかといえば汚らわしいと考えていたアレクサンドロスであったが、どうやら雄としての本能は違う考えをもっているらしかった。

「お休み中まことに恐れながら、陛下に文が届いておりますが…………」

恐々と紡がれた男の声に夢想を断ち切られたアレクサンドロスは不機嫌さを隠そうともせず不幸な伝令の男を睨みつけた。

「誰からだ?」

「……………アンティゴノス様からにございます」






たとえ内心でどんな葛藤があったにせよ、バルシネーをはじめとする捕虜の保護と明日国王に引見するための差配はエウメネスの職務であった。
遠征に同行した文官の筆頭として、エウメネスはバルシネーたち姉妹をアレクサンドロスに失礼のないよう体裁を整える必要があったのである。

「しかしマケドニア風の衣装は慣れぬの…………まあ、贅沢を言える立場ではないが…………」

全くアレクサンドロスの存在を意に介していないバルシネーの様子にエウメネスは苦笑を禁じ得ない。
場合によっては処刑されてもおかしくない………あるいは奴隷に落されて男たちの慰みものにされる可能性すらある。
敵国の捕虜となるのはそういう意味のはずだ。
しかもその敵国の国王と直接会うというのにバルシネーが緊張すらしていないというのはおかしみすら感じさせる光景であった。

「陛下の前ではもう少し御控えくださいませよ」

「ん………?エウメネス殿は私をなんだと思っているのだ?いくら私でも一国の王に対する礼儀くらい心得ておる。そもそもレオンナトス殿を虐待しているエウメネス殿には
言われたくないぞ!?」

痛いところを衝かれてエウメネスは絶句した。
王族であるレオンナトスと異国人の文官にすぎぬエウメネスのやりとりを見ていれば誰もがそう思うことは明白であることは自覚していた。
もっともそれを変えることなど毛頭考えていないが、それを言うのは野暮というものであった。

「…………まあ、心配はありがたくいただいておくとしよう。しかしエウメネス殿、私は私の生き方を曲げられぬぞ」

たとえそれが王が相手であったとしても己の節は曲げられない。
そう、バルシネーはそういう人間であった。
あの日ヘラス傭兵と剣を交えていたときも、彼女はその信念のために戦っていた。
だからこそ―――――そんな彼女だからこそ陛下は―――――。
その先の結論を想像してエウメネスは軽く頭を振った。

もう考えても仕方のないことだ。
彼女はペルシャ王家ゆかりの人物であり、彼女を望んでいるのは敬愛する主君であるのだから――――。

「どうしたエウメネス殿?顔色が悪いようだが」

「いや、大したことはありません。それよりとても似合っておりますよ。ペルシャ風よりヘラス風のほうが馴染んでみえます」

まんざらでもなさそうにバルシネーは笑った。
これまで幾度となく男たちの賞賛を浴びてきたが、エウメネスの褒め言葉はそれらとはまた別の意味をもっているようであった。

いくらバルシネーでも明日王の前に引き出されるということがどんな意味を持っているのかはわかっている。
マケドニアの東方経営上から考えればバルシネーはアレクサンドロスの妃としてペルシャ占領の象徴とされる可能性が高かった。
昨日会ったあのアレクサンドロスならば夫とするのもそう悪い話ではない。
悪い話ではないのだが………。


―――――しかし直感によってこれまでの人生を生きてきたバルシネーは心密かに確信している。自分の人生にもっとも大きな影響を及ぼす男が目の前のエウメネスであろうことを。





「行かなくてよろしいのですか?」

つらそうに目を伏せて椅子に悄然と座ったアルトニスを見ているのが胸に痛い。
アルトニスの常識から言えば明日の二人に訪れる運命はペルシャの王族として処罰されるか、王の女として召しだされるかのいずれかしかない。
しかしオレはアルトニスが後年の集団結婚式においてエウメネスの妻となることを知っている。
すなわち王の愛妾となるのはバルシネー一人…………どんな理由があったのかはわからないが二人がともにアレクサンドロスに仕えるということはありえない。
―――――むしろそんなことになったらオレの命運が尽きる。
だが少なくともオレと未来を繋ぐ回路はいまだ健在であることを考えれば史実どおりに話が進む可能性は高かった。
問題なのはそれをアルトニスに伝える手段がない、ということであった。

「…………きっとアレクサンドロス陛下も姉をお気に入りになられるのでしょうね…………」

見せしめに処刑されるという可能性もないではないが、アルトニスは姉を見たアレクサンドロスがそれを選択するとは露ほどにも考えていなかった。
そしてまた一人、姉の虜になる男が生まれるのだ――――――。

この敗北感をなんと表現すればよいのだろうか。
レオンナトスは自分のほうが魅力的だと言ってくれたし、そのことに感謝もしている。
あるいはアルトニスのほうが好みという男は存外世の中には多いのかもしれない、だが…………。

―――――――意味がない、それでは何も意味がないのよ――――――

女の魅力など好きな男に通じなければなんら意味などないのだ。
エウメネスが、エウメネスさえ振り向いてくれるのなら、姉がどれほどアレクサンドロスに寵愛され権勢を極めても心から喜ぶことが出来るのに…………。

いつも妹を保護してくれた姉だった。
メムノンに嫁いだときも、姉とともに二人で夫を愛するということに何の疑いも持たなかった。
二人の人生は死ぬまで二人で共有できるものだと信じていた。
しかしそれはエウメネスに出会うまでのこと――――――。



…………姉さま、私は生まれて初めて貴女を憎みます…………






アレクサンドロスとの引見はささやかなものであった。
別にアレクサンドロスの正妃としてお披露目するわけでもない。
現在のところはただペルシャの大貴族である令嬢たちに王自ら会見する以上に意味はないのだ。
もちろん国によっては令嬢たちは王の慰み者となる場合もあるであろうが、ことアレクサンドロスにかぎってはそうなる可能性は限りなく低かった。

「バルシネー様・アルトニス様、王命により参上仕りました」

そう言って顔をあげたエウメネスは王の様子がひどく冷たいものであることに気づいた。
昨日引見の予定を報告したときには普段どおりの王であった。
いったい何があったのか知らないが、姉妹に引き合わせるにはあまりよい状態であるとも思えなかった。

「よくぞこられたご令嬢方。美しくも気高い貴女の来訪を得てこのアレクサンドロスまことに感に堪えぬ」

まるで地を這うような低い粘着質な声。
普段は明るく童顔とさえ言える顔立ちが、目を細めてあまり高いとは言えない身長で上目使いに見上げるその仕草にエウメネスは見覚えがあった。

―――――――それは嫉妬。

パルメニオンが、アンティゴノスが手柄を立てるたびにいまだ学業を修めるのに忙しかったアレクサンドロスは丁度こんな表情をして歯噛みしていた。
自分の関わりのないところで、勝利と賞賛が他人に奪われることがアレクサンドロスは何よりも嫌いであった。


偉大な勝利者にして英雄であるアレクサンドロスが誇り高く敗れた敗者を英雄として賞賛することは構わない。
しかし英雄的な勝利をあげた部下を英雄として賞賛することは許されなかった。
もっとも活躍し、もっとも偉大な英雄として賞賛されるべきは誓ってアレクサンドロスでなければならなかった。
史上もっとも偉大な英雄として生きる―――――それだけが今までもそしてこれからもアレクサンドロスの生きる意義であった。

だとすればいったい誰が…………なぜゆえにこれほどに嫉妬を揺り起こしたというのか?

不審に立ちすくむエウメネスの前で、立ち上がりバルシネーに手を差し伸べるアレクサンドロスの口から信じられぬ言葉が漏れるのをエウメネスがは驚愕とともに聞いた。


「だが――――――残念なことに余はご令嬢方にこう伝えなければならない…………貴女方の亡き夫メムノン殿を卑怯にも毒殺したマケドニアの恥さらしが、今そこにいるエウメネスであるということを」




[10257] 第三十話  そして運命は踊るその3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:0facc0e1
Date: 2010/12/28 08:13
もともと男にしては色の白いエウメネスの肌がほとんど血管が透けるかのように白くなっていくのがわかった。

表情を素直に表に出さないはずのエウメネスが驚愕と絶望に声もない。

そもそもここでアレクサンドロスにそんな暴露をされるということを想定できるほうがおかしいのだ。





…………否、想定はできた。

ヒエロニュモスはともかく史実を知るオレならば想定できてしかるべきだった。



しまった

しまった

しまった―――――!



頭を抱えてのたうちまわりたい衝動にかられてオレは己の迂闊さを呪った。

ヒエロニュモスからアンティゴノスの諜報活動が活発化していることは聞いていた。

そして何かしら王に吹き込んだらしいことも。

しかしまさかこんな手を打ってくるとは………!



これでようやくひとつ謎が解けたような気がする。

史実を見るかぎり、エウメネスはあまりにマケドニア将兵の人気が低すぎた。

彼の持つ軍政家と戦術指揮官としての能力はあのアンティゴノスやパルメニオンを凌駕するほどなのである。

それはディアドコイ戦争において彼が成し遂げた数々の武勲がそれを証明していた。

にもかかわらず、ネアルコスのような元異民族ですら受け入れたマケドニア軍がなぜかエウメネスにだけは頑なな嫌悪感を隠そうともしなかった。

彼の不人気は何もマケドニア軍の英雄クラテロスを戦場で討ったためのみでは決してないのである。



エウメネスは稀有な将帥であり、その才能と人格を認めていたものもいる。

アンティゴノスがその筆頭であったし、彼はエウメネスの才能を同時に敵として警戒もしていた。

事実史実のなかでエウメネスの命を奪う原因はアンティゴノスに敗れたことによるものだ。

さらにレオンナトスをはじめとしてネアルコス、ペルディッカス、プトレマイオスらもエウメネスと親交を結んでいた。

のちのディアドコイ戦争の主役たちに注目され、慕われてもいたエウエネスが異国人であるというだけの理由で排斥されるのはおかしすぎる。



マケドニアは高度な軍事国家だ。

そしてその気質は荒く、剣によって解決することを男の誇りと考えている節が見受けられる。

王権をめぐる暗殺も以前から横行していたが、それが毒殺であったことはない。

全て剣によって直接になされていることは特筆に値するであろう。

まるでそれがマケドニア人のアイデンティティーとでも言うかのようであった。

すなわちエウメネスの為したメムノンの毒殺は、マケドニア軍人にとって唾棄すべき卑怯者の行いにほかならなかった。



異国人

誇りを知らぬ卑怯者

何より大王の侮蔑を受けた者

いかにその能力を重宝されていようともエウメネスの冷遇は今この瞬間に宿命づけられたといってよい。

そしてその後の悲劇的な運命もまた――――。



すまないエウメネス。

オレは親友であるお前を助けてやれるなんの力もない…………。







「陛下がおっしゃったことは事実か?エウメネス」



吐くだけで息が凍りそうな冷たい声であった。

不可視のムチで打たれたかのようにエウメネスはビクリと肩を震わせる。

先ほどからこれまで一度たりとも見たことのないエウメネスの醜態が続いていた。



エウメネス、それほどまでにお前にとってバルシネーは大切な存在だったのか――――。



「………………事実です」



断腸の思いとともにエウメネスはバルシネーに告げる。

いつかは言わなければならないことだと思っていた。

それが言いだせなかったことこそがエウメネスの本心を何より雄弁に物語っていた。

知られたくなかった。

私が卑劣な人殺しであることを―――――。



パン、と乾いた音とともにエウメネスの頬が鳴った。

目にもとまらぬ速度でバルシネーの右手が振りぬかれていた。

瞬き一つせずにバルシネーの炯炯と輝く瞳はエウメネスを射抜いたまま動かない。



「私たちに同情でもしたか?」

「…………それもあったことは間違いありません」



そう正直に告げることがバルシネーの嚇怒を買うことはわかっている。

それでもこれ以上バルシネーに対して嘘を重ねることはエウメネスには出来なかった。

誰もがうらやむ才能を持ちながら、エウメネスの人としてもっとも根本的な部分はひどく不器用で愚直な人間なのだ。



再びエウメネスの頬が鳴った。

今度の一撃はさらに強力なものであった。

エウメネスの秀麗な唇から一筋の血が流れ落ちるほどに。





「…………………私を舐めるな!」



この気持ちをなんと表現すればよいのだろう。

失望か。

あるいは憤怒か。

メムノンは誇るべき男だった。

私にとって愛するに値する夫でもあった。

この男ならばいかなる困難をも乗り越えうる最強の称号を手にすることも可能ではないか、と思ったことさえある。

それが毒殺―――――。



いや、毒殺そのものに隔意はない。

勝ったものが強いのだ。

それが武力であれ策略であれ強いものは強いとバルシネーは考えていたし、メムノン自身もそう言ってはばからなかった。

ではなぜこれほどに狂おしく胸が痛いのだ?



当たり前ではないか、愛する夫を殺されたのだ。

――――いや、本当にそうか?

戦場で倒れるのは武人の運命だとメムノンと私は納得していたはずではなかったか?

確かにメムノンが死んでしまったのは胸がつぶれるほど哀しい。

それは間違いのないことだ。

だが、同時にやはりと思っていたのも確かであった。

メムノンは有能でバルシネーが知るなかでも最上級の男だが、功をあせり生き急いでいることをバルシネーは知っていた。



――――――私たちに同情しただと?

夫の仇に同情されて喜ぶほど私は安い女ではない!



否、

私は喜んでいたのではなかったか?

鋭い感性と未知の知識を持つエウメネスとの会話にいつのまにか心奪われていたのではなかったか?

惑乱する思考に戸惑いながらバルシネーはポツリと無意識に呟いた。



「絶対に許さぬ……………貴様は私の誇りを穢した」





無意識に呟かれた言葉だからこそ、その言葉はバルシネーの心情を何よりも雄弁に物語っていた。

すなわちメムノンを殺されたから憎いのではない。

それを自分に黙っていたこと、同情で近づかれたこと、何よりそうした男に自分の心を奪われてしまったことそのものが許せなかった。



理性ではなく感性によって、アレクサンドロスもまたそれを正しく理解していた。





それはバルシネーの美しい横顔に染みのように貼りついた不快な痕跡である。

不快だと思ってもなおアレクサンドロスはバルシネーをエウメネスから奪わずにはいられなかった。

エウメネスに譲ることなど思いもよらない。

バルシネーに対するアレクサンドロスの執着は間違いなく本物であった。

ただ、運命の女と信じた女性に消すことのできない汚点を刻まれてしまったようなそんな気持ちをアレクサンドロスはぬぐい去ることが出来ずにいた。





アレクサンドロスの事跡には多くの謎がある。

そのひとつが何故バルシネーを愛妾のままにしておいたかというものである。

後にアレクサンドロスの正妃となりアレクサンドロス4世を産むロクサネよりも、バルシネーの血統は王家に近く貴重なものだ。

しかもおそらくアレクサンドロスが初めて欲した女性はバルシネーであろうし、アレクサンドロスが初めて男になったのもバルシネーであろうということは歴史家の間では通説に近い。

にもかかわらず彼女が愛妾という不安定な立場に置かれたことは古くより謎とされてきたのである。

それはアレクサンドロスがバルシネーを真実愛したと同時に、彼女を嫌悪すべき理由が存在したことにほかならなかった。







「…………私は…………私はエウメネス様に感謝しております」



小さいながらもはっきりとした妹の声にバルシネーは耳を疑った。

この気弱な妹が姉と完全に相違する意見をいったのはこれが初めてのことであった。

そしてなじるような、憎むような妹の眼差しにバルシネーは困惑を隠せずにいた。



幼いころから共にいるのが当たり前だった。

人生をともにし、同じ価値観を共有することになんの疑いも抱いていなかった。

いつしかバルシネーは妹を自分から切り離すことのできぬ半身であると考えるようになっていた。

それなのになぜ、妹の瞳に明らかな憎悪の光があるというのか――――?



わからない

わからない

わからない

どうして、どうして私をそんな目で見るのアルトニス?

この男はあなたがあんなに慕っていたメムノンの仇なのよ?



「姉さまがエウメネス様を許せないならそれでも構わない………でもこれ以上エウメネス様にひどいことをしないで」







ようやくにしてバルシネーは妹の胸中にどんな変化があったのかを知った。

同時にバルシネーはこれまでの人生に一度たりとも感じたことの無かった暗い感情が胃の奥でドロドロととぐろを巻くのを感じた。

それがいったいなんという感情であるのか、初めての経験にバルシネーはそれを規定することが出来なかった。

わかっているのはその原因がエウメネスという青年にあるということ、ただそれだけであった。







「…………………興がそがれた」



対面したばかりの時の暗い声ではなく、心底疲れ果てたかのようなしわがれた声でアレクサンドロスは払うように右手を振った。

バルシネーとアルトニスの姉妹にとってもアレクサンドロスの言葉は救いであった。

このまま感情のままにぶつかりあえば姉妹の間に決定的な亀裂が入ったであろうことは明らかであったからだ。

それでも何かを言いたげなバルシネーにアレクサンドロスは二の句を継げることを許さなかった。







「エウメネスもアルトニス殿ももう下がってよい………………だがバルシネー殿は残られよ」





死人のように悄然とした表情のままエウメネスは静かに王の前を去った。

これまで王の寵臣であるとみなされてきた異国人の筆頭書記官が王の不興を買った。

マケドニア軍の将兵がエウメネスにとってこれまで以上に侮蔑と隔意を向けてくることは確実である。

私人としても公人としても、エウメネスの前途には越えることのできない深い渓谷が大きく口をあけて待ち構えていた。






[10257] 第三十一話 王二人
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:d0968c38
Date: 2011/01/11 21:31
テュロスをめぐる攻防においてアレクサンドロスは地中海制海権の掌握を決定的なものにした、と史家は語る。
確かにテュロスの陥落はペルシャ側の海上勢力を完全に破綻させ、マケドニアの海上交通権を不動のものとした。
しかし現実はそれだけで言い表わせるほどに単純なものではなかった。

「―――――まったく、史実を知ってなければてっきり負けると思うぞ、これは」

生粋の海の民であるフェニキア人の操る火船が瞬く間にマケドニアの巨大な攻城塔をただの松明へと変えようとしていた。
もともと攻城兵器というものは海上をすばやく動き回る船を攻撃するようには出来ていない。
精鋭たるマケドニア軍も勝手の違う海上勢力との戦いにその打撃力を一向に発揮できずにいたのである。
テュロスの攻防が始まって以来、天を衝かんばかりであったマケドニア軍の士気もはかばしくない戦果にその維持が難しくなろうとしていた。




フェニキア人の城塞都市テュロスが商人らしい計算高さでマケドニアとペルシャを天秤にかけていたのはそれほど責めるべきことではない。
そうした日和見の勢力は決してテュロスばかりではなかったし、中立を保つだけでもマケドニアには十分な利点があるはずであった。
地中海最大の海上兵力が中立化してくれるなら、マケドニアの海上兵站も負担を大幅に軽減できるであろうからだ。

にもかかわらずアレクサンドロスがテュロスを完全に屈服させようと決意したのは、純粋な戦略ばかりではなく彼らの主祭神メルカルトがヘラクレスと同一視されており、
マケドニア王家の始祖とされるヘラクレスを詣でようとしたのを無碍にも断られたことにあると言う。
俗説だと思っていたレオンナトスであるが、残念なことにそれは全くの事実であった。
イッソスにおけるパルメニオンの活躍やエウメネスとバルシネーの交流がどう影響したかは想像するしかないが、このころからアレクサンドロスは自分が神によって
特別視されるということをひどく重要視するようになる。
テュロスのヘラクレス参詣はまさにその第一歩であったと言えるだろう。


だがテュロスはアレクサンドロスの想像を超えて頑強な抵抗を貫いた。
海という天然の防壁を前にさしものマケドニア軍も大苦戦を強いられることになったのである。
アレクサンドロスは海上にそびえるテュロスの島まで突堤を築くことで陸上兵力の活用を図ろうと考えていた。
しかし工兵能力の高いマケドニア軍といえども戦闘行動中に作業をすることは困難を極めた。
事実マケドニア軍は数度に渡ってテュロス側の軍船によって、せっかく築いた突堤を崩壊させられ、また攻城塔を燃やされるという無様をさらしていた。
それでも攻城を継続できたのはアレクサンドロスの高いカリスマと、エウメネスとアンティゴノスがかろうじて後方連絡線を繋ぎとめていたからだ。
もしも後方を差配する武将がアンティゴノスでなく、兵站の構築と再配分をエウメネスが適切に処理できなければそれだけでマケドニアは敗北していたことであろう。
武将としての能力以上に、政治家としての能力に長けるアンティゴノスは早くもフリギュア一帯に強固な人脈を築き始めていた。
敵地を支配下に組み込む作業は今も昔も実際の戦い以上に困難なものだ。
それをこの短期間に成し遂げようとしているアンティゴノスはやはり古今稀に見る名将であった。
そのおかげで今のところはマケドニア軍も後方を気にすることなく攻城に専念していられるが、ここで万が一アンティゴノスが裏切ったらマケドニア軍は万事休する。
レオンナトスがダレイオス王であれば一も二もなくアンティゴノスを調略するはずであった。
少なくとも自立の気配があると風聞を流すくらいはしてしかるべきである。
なんならペルシャの後押しで仮にアンティゴノスをマケドニア王に就けたとしてもペルシャにとってはなんら惜しいところはないのだ。


怒号と喧騒のなかにマケドニア兵士の幾人かが燃える柱となって海中に飛び込んでいく。
転舵して逃げにかかるテュロス軍船に散発的に矢が射掛けられるがそれほどの成果があがったとも思えなかった。
燃えつきた攻城塔を再びくみ上げるのにどれほどの時間と犠牲を必要とするだろうか。
戦況はもはや劣悪であると言ってよかった。
とりわけテュロス側の士気が一向に衰えない現状ではマケドニアが勝利するのはひどく困難なものに思われるのは当然のことであった。

「……………………これも運なのかね」

そういって皮肉気に口をゆがめるだけの余裕があるのはレオンナトスが史実を知っているからだ。
もうじきアンティゴノスの卓越した占領行政によって着実に支配の手を広げていくマケドニア軍に恐れをなしたペルシャ側の海上勢力が寝返り始める。
寝返ったキプロスを初めとしてビブロス・アラドスなどの連合軍の派遣した軍船は実に約三百隻に達した。
この時点ですでにテュロスの敗北は確定したかのように思われていたのだが、実は彼らにはもうひとつの光明が残されていた。
マケドニアとの開戦前にカルタゴの使者が明言していった援軍が現れれば形勢が逆転するのは確実であるからだ。。
今はマケドニア側に寝返った海上勢力も、形勢が逆転すれば再びマケドニアを敵とする可能性は高い。
カルタゴの援軍を一日千秋の思いで待ち焦がれながら、テュロスは抵抗を続ける。
その歴史が終わる最後の日まで……………。

ぬるまった水で喉を潤しながらレオンナトスはひとりごちた。
もしフリュギアの総督が老練な名将アンティゴノスでなければ、
もしキプロスほかの海上勢力があと1年ほど日和見を続けていたとすれば、
もしカルタゴが総力をあげて援軍に駆けつけていたら、
歴史にIFはないが、マケドニア軍は異郷の土と化す運命を免れなかったであろう。

レオンナトスがアレクサンドロスを素直に評価できない理由がそこにある。
カルタゴに使者を送り外交手段によってその出撃を封じ込めていたというのならよい。
しかしそうでない以上カルタゴが出征しなかったのはただの偶然の結果というほかはなかった。
アレクサンドロスやその部下がキプロスやビブロスに調略の手を伸ばしたという情報も聞かなかった。
テュロスの攻防はレオンナトスの見るところただアレクサンドロスの不屈の闘志と強運によって勝利したものに思われたのである。

「…………こんなところにいたのかい?レオンナトス」

「エウメネスか………」

まるで機械のように的確に物資を配分しながら縦横に活躍するエウメネスを諸将の見る目は冷たい。
エウメネス自身はそれを当然のこととして受け止めているようだが、以前の闊達な空気は失われてしまっていた。
レオンナトスですらエウメネスと親しく口を聞くことに諸将の批判の目があることを自覚していた。

「不思議だな君は……………これだけ劣勢だというのにまるで悲観する様子がない」

「あまり都合の悪いことは考えないようにしているのさ」

やはり違う――――とレオンナトスは思う。
どうしてそんな気楽にいられるのか………意地悪そうに微笑んでレオンナトスの秘密を探ろうとするのがかつてのエウメネスの反応であったはずだ。
好奇心を抑えつけて寂しげに笑うエウメネスの変わりようが胸に痛い。

先日以来バルシネーはアレクサンドロスの愛妾として陣中に侍るようになっていた。
アレクサンドロスは嫉妬しているという卑小な自分を認めたくないからエウメネスに正面から当たるようなことはなかったが、それでも対応が冷たくなることは避けられなかった。
能力だけを求められる便利屋としてエウメネスはこきつかわれ続けていたが、その功績を評価しようとするものは少なくとも表面上には存在しない。
それでも何かに憑りつかれたかのようにエウメネスは働き続けていた。
レオンナトスにはそれがまるで罪びとの贖罪のように見えて仕方がなかった。
償うべき罪をエウメネスが犯したとは認めたくはなかったが。

「……………そういえばダレイオス王から陛下に遣いが参っていたようですが……………」

エウメネスの言葉にレオンナトスの記憶の一部がよみがえる。
そういえばテュロス攻防の途中でダレイオス王から和平の提案があったはずであった。
後にして思えばこのテュロス攻防とエジプト遠征時がペルシャにとってもっとも勝機の高い期間であったように思われる。
それでもここでダレイオスが和平に舵を切ったのはペルシャの軍制がマケドニアのそれに比べてひどく劣っていることを認めないわけにはいかなかったからだ。
国力というものを正しく知るダレイオスは同質の兵力がぶつかれば多数の軍が勝つことを知り尽くしていた。
ならばペルシャ軍の質をマケドニア並みに高めればよい。
そのためにはマケドニアにしばしの時間を与えることも許されるはずであった。

しかしそれはアレクサンドロスの果断さとカリスマや謀将アンティゴノスの手腕を正しく評価したものとは言えない。
どこまでいってもダレイオスの予測は秀才の常識から踏み出すことが出来ずにいたのである。





ほとんど現状のマケドニア支配地域を無条件に譲るに等しい望外の講和条件にアレクサンドロスの幕僚たちも騒然としていた。
テュロスを下す見通しは依然としてつかない。
戦傷者は増えるばかりであり、自慢の工兵にすら事欠く有様になりつつある。
補給事情は幾分か改善しているものの、やはり本国から遠く離れていることの不安感は拭えなかった。
しかもかつての貧しいマケドニアでは考えつかぬほどの莫大な財宝を彼らはすでに手に入れている。
ここで本国に凱旋してもなんら恥じるところはない、というのが諸将の偽らざる本音であった。
せっかく富と名誉を手に入れたからには生きて故郷に戻りたいと考えるのはむしろ人間の本能のようなものであったのである。

「今一度申してみよ…………」

そんななかでポツリと一言漏らされた老将の言葉はアレクサンドロスの心臓に深い楔を打ち込むには十分であった。
地の底を這うような低い声音でもう一度アレクサンドロスは吠えた。

「余はもう一度申せと言ったぞ!パルメニオン!」

表情に深い苦渋をにじませた老将は、野太い首を持ち上げてアレクサンドロスの眼光をものともせずに決然と答えた。

「お受けなさりませ陛下。この講和、フィリッポス様であれば必ずやお受けあそばされたでしょう」




[10257] 第三十二話 王二人その2
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:24433f12
Date: 2011/10/30 22:21
ついに言ってしまったとパルメニオンは抑えきれなかった自分の激情を嗤った。

こんな言葉をぶつければアレクサンドロスが激発し、決して自分を許さないであろうことをパルメニオンは気づいていた。

しかし同時にそれでもなお言わねばならないとも思っていた。



テュロスの攻防はマケドニアに有利に風向きが変わり始めているが、そのために失われた貴重な時間は二度と戻らない。

本国のアンティパトロスからはスパルタの不穏な敵対行動が報告されており、続く激戦にマケドニアの精兵からも厭戦の声が漏れ始めていた。

そもそもこれほど長い遠征をおこなうこと自体が前代未聞なのだ。

確かにアレクサンドロスは奇跡的な幸運の将だが、幸運とは永久に続かぬがゆえに幸運と呼ぶのである。

たった一度の敗北がマケドニアの滅亡につながる事態をパルメニオンはこれ以上看過できなかった。



「パルメニオンよ。貴様は王を知らぬ」



そうしたパルメニオンの思考を、アレクサンドロスはついに生涯理解することはなかった。

彼ら家臣はいつだって現状維持を肯定する。

今、自分の才能は世界に羽ばたこうとしているのに彼らはマケドニアのような田舎が恋しくてならないのだ。

ペルシャの圧倒的な財力と、眩いばかりの文化洗練度を見せつけられてなお、彼らは現状から変わることをよしとしない。

その頑迷さがアレクサンドロスにはあまりに泥臭く矮小なものに感じられてならなかった。



「いいえ、先王陛下はおっしゃられました。国王のもっとも大事な役割は国を無事に次代へとつなげることなのだと」



フィリッポスの親友であったパルメニオンだからこそ断言できる話であった。

王国は決して国王の欲しいままにできるものではない。

傍目には好きなように王国を切りまわしているように見えてもそこには未来へ国の命脈を繋げていくという確固とした戦略が存在する。

国王の戦死、暗殺、イリュリアの侵攻とフィリッポスが即位した当時のマケドニアは滅亡の寸前まで追い詰められていた。

だからこそフィリッポスは取りうるかぎりの権謀術数を用いて国内を整備し、ヘラスの分裂を誘い、辺境を征服して国力の増進に努めてきた。

フィリッポスほどの英雄が後世に梟雄と呼ばれ決して人気が高いとはいえないのはなりふり構わぬこの頃の権謀術数に負うところが大きいのである。



しかしアレクサンドロスが物ごころついたころにはマケドニアはすでにヘラスのリーダーシップを取るほどに強大な軍事国家になりおおせていた。

ヘラス最高の頭脳とまで呼ばれたアリストテレスまで招聘したアレクサンドロスの英才教育によって、アレクサンドロスは幼くして世界の大きさを知り、その逆に祖国に対する思い入れというものを失っていった。

マケドニアのさらなる国際化のためにフィリッポスはあえてそれを問題視はしなかったが、やはり危機感は抱いたのだろう。

アレクサンドロスの側近として生粋の国粋主義者であるクレイトスとクラテロスを手配している。



フィリッポスがどれほどマケドニアを想い、どれほどの努力をしてきたか盟友たるパルメニオンは余すところなく知っていた。

若き日、いつ滅亡するかヘラスのポリスたちに嘲笑とともに賭けの対象となっていた貧弱な祖国をいつかヘラスを導く大国にして見せる。

そう二人で誓いあったのは愛するマケドニアを未来に繋げていくためであったはずだ。

決して個人的な虚栄の投機に賭けさせるためではない。

マケドニア国王はマケドニアあってこその国王であり、国を守護する義務がある。

現代風に言うならばフィリッポスの考え方は近代型の啓蒙君主であったプロイセンのフリードリヒ大王に近いものと言えるかもしれない。







偉大な父をもつ者の常であろうか。

即位する以前からアレクサンドロスは父のやり方には批判的であった。

生まれときから貴種として大事に育てられてきたアレクサンドロスはフィリッポスのように生死が隣り合わせの人質生活を送ったりはしていない。

与えられたものをどう活用して自らの生に意義を見出すか。

母譲りの感受性の強さで教師から神話と歴史を学んだアレクサンドロスにとってフィリッポスの清濁を合わせのむ泥臭い手法はその有効性を認めつつも英雄としての品を欠くものと感じていた。

英雄たるの生き方にはそこに美学が存在しなければならないはずであった。

もしもそうフィリッポスに問うたとすれば、マケドニアの戦略的勝利こそが何よりも優先されるというのが美学であると答えたかもしれない。

しかし少なくともアレクサンドロスにとって、なりふり構わず汚れ仕事も平気でこなす父の姿は王者に相応しくない堕弱な在り方に思われていたのである。



「人が生まれて必ず死ぬように国家もまた永遠ではありえない。しかし人が成長し大きくなっていくように国家もまた成長していくことが可能だ。あるいは歴史に永遠に名を遺すということも」

「それは賢者の言であって王の吐くべき言ではない!」



パルメニオンは血を吐く思いで絶叫した。

もしかしたらいつかはこの若者にもわかってもらえるのではないか、と期待していた。

国王の重責を担い、国を経営すればフリッポスの苦労と理想を理解してくれるのではないか、と。

だがそれが永久に不可能であることをパルメニオンはアレクサンドロスの断固とした主張のなかに卒然として悟らざるをえなかった。

現実を生きる民を背負った為政者は後世の歴史の風評などを気にするべきではない。

たとえ悪逆無道をそしられようと国を豊かに、安全を長く保障していくことこそが全てで誇りや美名などというものは統治するための方便として利用できるというだけの不純物にすぎぬ。

少なくともフリッポスという男はそうした王であった。



しかしアレクサンドロスという男の意思はマケドニアという国家の枠には留まらない。

実際にアレクサンドロスはペルシャを征服した暁にはマケドニアという殻を脱ぎ捨てペルシャ世界を中心とした新たな王朝を建設することを視野に入れていた。

その結果マケドニアと言う国家が地図上から消滅してもなんらの感慨も覚えなかったであろう。

歴代の覇者を鑑みるにアレクサンドロスの考え方はむしろ正しい。

ただそれはマケドニアをほとんど一から強国に育て上げたパルメニオンにとって許容できる思考でないこともまた確かであった。



「パルメニオン殿!陛下に対してなんという言い草かっ!」



側近のペルディッカスとヘファイスティオンが顔を真っ赤に染めて今にも斬りかからんばかりに吠えた。

ヘファイスティオンはともかくペルディッカスは虎の威を借るなんとやらだ。

自分が至高と信じ、また同時に自らの権力の源泉となる王を軽く扱われて思わず激発した、というのが正直なところであろう。

アレクサンドロスを模倣し、自らももう一人のアレクサンドロスたらんとしている点においてペルディッカスの右にでるものはいない。

臣下として明らかに行き過ぎたパルメニオンの発言には穏健なプトレマイオスすらもしぶい表情を隠さずにいた。



それをアレクサンドロスは軽く右手を振るだけで一掃した。





「余がパルメニオンであればあるいはペルシャの申し出を受けたやも知れぬ。しかし余はパルメニオンではなく、パルメニオンもまた余ではない。ただはっきりとしていることはパルメニオンよ。いかに勇猛で聡明なお前でも王に仕える臣下であるということだ。王の言葉を、理想を、臣下のみ身でこれ以上語るでない。先王よりの功績に免じて今日の無礼な見逃してやる」





「…………ご厚情に………感謝いたします………」





パルメニオンは項垂れたまま天幕を後にした。

どうしようもない無力感がパルメニオンの年老いた身体を容赦なく貫く。

パルメニオンが想定していたレベルを遥かに上回るレベルまで拡大した戦火を治めるには今しかないはずであった。

しかしアレクサンドロスは誰が止めようともあくなく勝利を手にするまで戦争を続けるだろう。

あるいは彼の天運をもってすればペルシャを倒し、新たに王の中の王に成り変わることさえ可能かもしれない。



――――――だがそれは本当にマケドニアにとって良いことなのか?



広大なペルシャの地を支配するためにはヘラスよりも進んだペルシャの官僚機構に頼らざるをえまい。

人口比率を考えても宮廷にペルシャ貴族の割合が高くなることもわかりきっている。

それによって最終的には王がマケドニア人になっただけで、マケドニアはペルシャ人に支配されてしまうのではないか?

もしそうなら我々はなんのために戦っているのだ?





「―――――何故………私を置いて逝かれたのです。フィリッポス陛下―――――」



(とうとうオレたちもここまで来たぞ!パルメニオン!)

(この先ヘラスはそれほど旨みのある土地ではなくなる………これからはペルシャだ!)

(いつの間にか年をとったものだな、オレもお前も――――)



パルメニオンにとってマケドニア王国こそは生きてきた証。

長年の親友との絆そのものであった。

忘れ形見であるアレクサンドロスを盛りたててマケドニア王国に繁栄をもたらしたい気持ちは確かにある。

だが、王国のためにアクレサンドロスが邪魔になったそのときには―――――。



今はだめだ。

アレクサンドロスを失えばマケドニアが滅ぶ。

言語障害を患ったアリダイオスではアレクサンドロス亡きあとのマケドニアをペルシャの侵攻から守り抜くことは不可能であった。

だがこのままアレクサンドロスに任せておけばいつかマケドニアはアレクサンドロスが生まれた場所というだけの西方の片田舎におとしめられてしまうだろう。

哀惜とも憎悪ともつかぬ凶暴な感情がパルメニオンを支配した。





「…………すまぬ。………フィリッポス、すまぬ…………!」





自分のしようとしていることはもしかしたら世界帝国に羽ばたこうとしているマケドニアを掣肘するものであるかもしれない。

だが、どうしてもパルメニオンには許容できなかった。

彼がフィリッポスとともに築き上げてきたマケドニアという故郷は子供のような英雄願望の供物にするべきものではないはずであった。

たとえこの戦争で得られた占領地を全て失うことになろうとも、しかるべきとき、ペルシャ戦での勝利が確定したそのとき、アレクサンドロスには死んでもらう。

幸い兵たちの間で長期の遠征を危ぶむ声は大きい。

アレクサンドロスの幸運も戦場を離れてしまえば常人のそれと変わるところがないことも大きかった。

これまで漠然とアレクサンドロスに対する危機感を抱いてきたパルメニオンがはっきりと謀反を決意した瞬間であった。









「い、一大事でございます!」



風塵に全身を汚れさせた使者が駆けこんできたのはそのときだった。

ようやく落ち着きを取り戻しつつあったアレクサンドロスがテュロス攻略の詰めを議論しようと諸将を並べた軍議の席に、息せききった使者はあいさつもそこそこにアレクサンドロスに向かって絶叫した。



「ペルシャ軍が大挙してダマスカスへ侵攻!その数およそ6万!!」



思いもよらぬ大軍勢にアレクサンドロスでさえが息を呑む。

ここでアンティゴノスが敗れるようなことがあればせっかく優位に立ったテュロスの攻防も大逆転だ。

いや、それどころか退路を断たれたマケドニア軍を、降伏して味方についたフェニキア海軍が見限らないとも限らない。

そうなればマケドニア軍の全滅は必至であった。







そんな使者の報告を瞳孔を見開いて冷や汗で全身を濡らしたレオンナトスが聞いていた。



いやいやいやいやいやいやいやいや!聞いてない!そんな史実は聞いてませんよ?オレはっ!!






[10257] 第三十三話 ダマスカスの攻防その1
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:ffdc0844
Date: 2011/12/14 23:12
イッソスの戦いに敗れたとはいえまだまだ余力のあったペルシャ王国がテュロスという天然の要塞を相手に苦闘するマケドニア軍を放置していたことは長年戦史上の謎とされてきた。
東征記にはアンティゴノスが散発的なペルシャの小競り合いに勝利して地盤を固めたことが短く記されているのみである。
しかしペルシャに勝機があるとするならば、それはガウガメラの戦いを待つまでもなくこのテュロス、あるいはエジプトへの遠征中にアンティゴノスが陣を敷くダマスカスを奪回してマケドニア軍の連絡線を断つことにあったはずであった。
息も絶え絶えな伝令の叫びにマケドニア軍の本営は騒然となった。
ペルシャ軍の実数が本当に6万であるとすれば(イッソスの戦いでの戦死者数は少なくこの時点でペルシャにはこの程度の動員の余裕は十分にあった)アンティゴノス率いるダマスカス方面軍が勝利する可能性は限りなく低いものと
思われたからである。
いかにパルメニオンとならぶ歴戦の宿将といえど彼が保有する兵力はわずか五千程度のマケドニア兵と、忠誠心に疑いの残る現地の旧ペルシャ軍五千の計一万では戦力に差がありすぎた。

かといってここで全軍がテュロスから反転すればようやくにして攻略に成功しようとしているテュロスが息を吹き返してしまうのも確かなことであった。
大規模土木工事によって海岸から島に向かって延びた突堤が破壊されてしまえば、基本的に陸上戦力であるマケドニア軍はこの半年の犠牲と労力を無駄にして一からやりなおすことを免れない。
何にもまして問題なのはマケドニア軍の無敗という実情を超える風評が、テュロスの攻略失敗によって覆されてしまうということだ。
フェニキア人たちがペルシャからマケドニアに寝返ったのは彼らがマケドニアの勝利に賭けたからにほかならない。
ひとたび常勝の化けの皮がはがされれば、まだまだ国力において隔絶した力をもつ大ペルシャに彼らが再び寝返る可能性は高かった。

しかしここでアンティゴノスが敗北し、ダマスカスを奪回されてしまうのはさらに危険であった。
というよりも、もしそんなことになればもはやマケドニア王国は滅亡の運命を免れることはできないだろう。
戦略策源地であるダマスカスを失うということは、ようやく解決したマケドニアの戦争財政が破綻するということであり、帰国する陸路が断たれるということでもある。
そんな状態のマケドニア軍に、降伏した旧ペルシャ貴族やフェニキア人たちが従うはずもなかった。
退路を断たれ、海上を封鎖され、潜在的な敵対者を味方に抱え込んだマケドニアが無惨に敗れるのは誰の目にも明らかだった。
ゆえにこそ、テュロスで苦戦中のアレクサンドロスの背後をペルシャが脅かさなかったのは長く謎とされていたのである。

(…………記録に残っていなかっただけで、やはりペルシャもやることはやっていた、というわけか………)

一瞬神のいたずらを呪いたくなったが帰還のスイッチに反応がないところをみるとまだ歴史は変わってはいないらしい。
大きく息を吐いて安堵とともに冷や汗を拭うと、幕僚たちが思い思いに声を張り上げて論争を開始していた。

「一刻も早くテュロスを落とすべきです!テュロスさえ落ちればペルシャ軍も我らに怖れをなして退くことでしょう!」

声高々と主戦論を主張するのはヘファイスティオンである。
まあ、なんというか……ぶれない男だ。
ペルディッカスやクラテロスもこの考えに同調しているらしく、しきりに攻撃の続行を求めていた。

「退くという根拠がどこにある!それにテュロスが強攻では落ちぬことはこれまでの戦いが証明しているではないか!」

理路整然と反対するのはプトレマイオスだ。
素人ながらもこちらのほうが理にかなっているとは思う。
ただ問題なのは………

「それではここまで追い詰めたテュロスを放棄しろというのか!?」

そうだ、そうなるよな。
ぶっちゃけこのテュロス攻防はアレクサンドロスのプライドのためだけに発生した本来戦わなくてよかったはずの戦いなのである。
テュロスからの撤退も影響は大きいが、もっとも大きな打撃を受けるのが王のプライドだということが大問題だった。
ヘファイスティオンたちがテュロスを優先するのも基本的には国王第一という考えに沿ったものなのだ。
いったいここからどうやってダマスカスを守ったんだろう?
アンティゴノスの親父なら力技でなんとかしそうな気もするが、さすがに寡兵で6万を撃退すれば歴史に功績が残らぬのはおかしい。


「……………レオンナトス、お前に兵5千を預ける。アンティゴノスと協力してダマスカスを死守しろ」

「はっ????」

不覚にも間抜けな声で問い返してしまうようなどうか空耳と思いたい言葉を確かにこの耳が捉えた。

―――――――な、なんですとおおおおおおおおおおおおおお!!??





アレクサンドロスは困難な決断を強いられていた。
撤退か、それとも自爆覚悟の特攻か。祖神であるヘラクレスを祭った要塞都市テュロスを陥落させることは自分に託された神意であるとアレクサンドロスは根拠もなく確信していた。
つまりテュロスを落とす、という方針は変わらない。変えようがない。
かといっていかにアレクサンドロスの直感は、アンティゴノスでも後背定かならぬ足手まといを含めてようやく1万程度の軍勢でペルシャ軍6万を相手にするのは難しいであろうと感じている。
確かにアンティゴノスはマケドニアを代表する良将だが、彼の持ち味は政治力を含めた戦略家としての手腕であって、戦術的な前線指揮官としてはパルメニオンよりは見劣りすると言わざるをえなかった。
さすがに彼が撃ち破られダマスカスを奪還されてはたとえテュロスの攻防がマケドニアの勝利に終わろうとも結果的にマケドニア軍の敗北は避けられないだろう。

――――――それもまたよし、か。

アレクサンドロスの内心は望みの少ない投機的な賭けに出る方向に傾きつつあった。
幼いころから培われた英雄願望によって、難局に直面したときにはむしろ成功確率が低い行動に賭ける傾向がアレクサンドロスには拭いがたく存在する。
それを常軌を逸した幸運がまるでそれが英雄の運命であるかのように補完していた。
アンティゴノスが持ちこたえているうちにテュロスを落とす。
そしてとってかえしてペルシャ軍を撃滅する。
そんな決断をしかけたアレクサンドロスの視界になんとはなしに映り込んだ奇妙な光景があった。
レオンナトスが顔面を蒼白にして喧々諤々の論争を繰り広げている僚友を尻目に、まるでペルシャ軍が6万程度の人数でよかった、とでも言いたげに安堵のため息を漏らしていたのである。

血筋がいいボンボンの割にはエウメネスやネアルコスのような異国人とも親しく、陽気で野心家のような毒の少ないレオンナトスはアレクサンドロスにとっても安心して会話のできる数少ない友人の一人だった。
ヘファイスティオンはアレクサンドロスを神聖視する傾向が強すぎ、ペルディッカスなどは言葉の裏にちらほら見え隠れする野心が鼻についてしまうのだ。
フィロータスやプトレマイオスは年が離れすぎており、レオンナトスはそういう意味でも心理的にアレクサンドロスに近い存在であった。
しかしながら戦場でのレオンナトスは残念ながらいたってごく平凡な将であり、遠征が始まって以来この気の置けない友人と接する機会はめっきりと減っていた。

――――――おもしろい。

アレクサンドロスの直感が告げていた。
この男は化ける。
絶望的にも思えるマケドニア軍に救いをもたらしてくれる何かを、レオンナトスは間違いなく所有している。
これまでの人生でしばしばそうしてきたように、アレクサンドロスは理性ではなく直感によってレオンナトスに命令を下した――――――。

「頼むぞ。アンティゴノスを犬死させるな」





たった5千の兵でこの凡人を絵に描いたようなオレが6万のペルシャ軍相手に何をしろと?何それ?馬鹿なの?死ぬの?
顔をひきつらせて固まったままオレは絶賛硬直中であった。
ありえないありえないありえないありえないありえないありえなったらありえない!
援軍に送るならヘファイスティオンとかペルディッカスとかいくらでももっとましな候補がいるだろう。
どうして今更なんの戦功もないオレが絶体絶命の死地に赴かなきゃならんのよ?それとも何か?オレなら失っても惜しくないとか…………うわっありえそうで怖い………鬱だ、死のう……………。

「確かに5千ならなんとか攻城戦には差し支えなく済むでしょうが………しかし………レオンナトスでよろしいのですか?」

あからさまに人選に難あり、と困惑の色を隠さずにアレクサンドロスに問うたのは誰あろう我らがヘファイスティオンくんである。
頭つきの恨みを今でも忘れない粘着質のいやな男だ。
お前がエクバタナで病気になってもオレは全力で見捨てるからな!

「ヘファイスティオンの申すとおりレオンナトスではいささか心もとないと存じます…………陛下、よろしければ騎兵2百をエウメネスにつけてはもらえませぬか?」
「なっ……文官の書記官に兵を預けるなど……正気か?プトレマイオス!?」

自分と同じ意見かと思えば憎き異国人であるエウメネスを騎兵指揮官として登用しようとするプトレマイオスの言葉にヘファイスティオンは目を剥いて吠えかかった。
あんな卑怯な異国人とともに軍を指揮するなどヘファイスティオンにとっては侮辱以外の何物でもなかったからである。

「書記官殿の武勇と識見は私もよく知るところだ。彼ならレオンナトスをよく補佐するだろう」

正直同数の軍を率いればエウメネスに自分は及ばないかもしれないという予感がプトレマイオスにはある。
レオンナトスには百回やって一度たりとも負けないであろうが。
はたから見れば死んでこいと言われるがごとき過酷な任務にペルディッカスやクラテロス、クレイトスたちも先を争うようにプトレマイオスの主張を支持した。
自分たちにお鉢が回ってきてはたまらないからだ。
生還の難しい防衛線より勝利を目前にしたテュロス攻防戦のほうが誰だっていいに決まっているのである。


―――――心理的にはエウメネスに軍を預けることに拭いがたい抵抗がある。
しかしアレクサンドロスはどこまでも直感の人であった。
彼の直感はレオンナトスの起用と………エウメネスが非常に優れた戦術指揮官であることを告げていた。
ここで直感に従わないのはアレクサンドロスの主義に反することであった。

「エウメネスに騎兵2百を与える………以後は書記官の任と兼務せよ」
「御意」


アレクサンドロス大王の東征記において、いつのまにかエウメネスが書記官という文官から騎兵指揮官として前線で戦ったという記述が現れる。
ペルシャ征服以降の後半で姿を現すことの多くなる優秀な騎兵指揮官としてのエウメネスであるが、いつどこで彼が武官に起用されたのかは謎とされていた。
どうやら彼が武官に起用されたのはこのテュロス攻防戦を端緒とするらしい。

(これは死ぬ………未来に帰るとかいう以前に死んでしまう………というか死んだら帰れなくなる………死ぬのはいやあああああああああ!!)

口から白いエクトプラズムを吐きだしたまま呆然と臨死するオレの肩を、どこかふっきれたように爽快に笑ったエウメネスが容赦なくガクガクと揺らした。



「そんなわけでよろしく頼むよ、レオンナトス」




オレはよろしくしたくねえええええええええええええええええ!!



[10257] 第三十四話 ダマスカスの攻防その2
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:ffdc0844
Date: 2012/02/22 23:24
バルシネーがエウメネスたちの出征を知ったのは軍議が終わってまもなくのことであった。
軍神アレクサンドロスならばともかく、エウメネスや、ましてレオンナトスが6万にも及ぼうとするペルシャ軍に挑もうとするのはいかにも無謀な試みに思われた。
まともに考えればわずか5200人で救援に向かうのは正しく自殺行為である。
いくらマケドニア軍が精鋭といえども服属したばかりの現地兵と合わせて4倍の兵力差を覆すにはアレクサンドロスのような奇蹟的な幸運を必要とするであろう。
それにしてもなぜこれほどに胸がざわめくのか。
夫の仇であり、誇りを傷つけたエウメネスがこの機会に無様に死んでくれるならばそれはバルシネーにとっても幸いであるはずだった。
あの日の告白以来、エウメネスという存在はバルシネーの心に抜けることのない棘を刺し続けている。

憎い憎い憎い――――――。

あの優しそうな笑顔の影で私の愛するメムノンを毒殺した。
虫も殺せないような綺麗な顔をしてあれほどの武人を無惨にも戦場の外でだまし討ちにした。
そして何よりも許せないのは、薄汚い罪悪感にかられてこの私を憐れんだこと………。

ああ、許せない許せない許せない―――――!

どす黒い感情で胸が張り裂けそうな錯覚にとらわれる。
こうした負の感情に支配されるのはバルシネーにとっても生まれて初めての経験で制御するのは不可能であった。

そうだ。
あの男には名誉ある戦死など相応しくはない。
もっと、口にするのもはばかられるような不名誉で死ぬまで長く続く拷問のような生こそが相応しいのだ…………。

「姉さん!エウメネス様がダマスカスに出征されるというのは本当なの?」

アルトニスが血相を変えて現れたのはそのときだった。
妹がエウメネスに惹かれているであろうことをバルシネーは知っていた。
夫の仇だというのに、しかも王家に連なる誇り高い私たちを侮辱した最低な男だというのに………。
そう思うとバルシネーの心臓のあたりがチリチリと甘痒い痛みを訴えるのだった。

「そうらしいわね。今度こそあの男の悪運も終わりかしら」
「そんな………!」

サッと顔を青ざめさせるアルトニスを見ると何故か胸のもやもやが治まるような感じがした。
そう私は何も間違っていない。
大事な妹があんな卑劣な男に惹かれていいはずがないのだから。

「ペルシャ軍6万に対してたった1万5千の兵でいったい何が出来るのかしらね」

ことさらエウメネスの命運が尽きたかのように振舞って見せたもののバルシネー自身がそうなることを望んではいない。
それでも言わざるをえない不可思議な衝動がバルシネーを突き動かしていた。

「どこにいくの………?」

咄嗟に身をひるがえして部屋を出て行こうとするアルトニスを鋭いバルシネーの声が引きとめた。
底意地の悪い笑みを浮かべてバルシネーはアルトニスを牽制する。
それに今さらいったところで出征の準備で忙しいエウメネスにはどうせ会えはしないに違いなかった。

「姉さんはそれでいいの―――――?」

ズキリと心臓から血が流れ出すような痛みが走った。
どういう意味なの?とアルトニスに問いただすべきなのかもしれなかったがなぜか言葉が出ない。
死んでしまえばいい。
いや、ここで死んでしまってはメムノンの恨みは晴らすことが出来ない。
私はエウメネスに生きて帰ってきて欲しいのか?
いったい私は何を求めているのか―――。

「…………どうせあの卑劣な男のことだから生き汚く戻ってくるに違いないわ………」

かろうじてバルシネーはそう呟いた。
エウメネスならば勝てないまでも生きて帰ってこれるのではないか?
漠然とそうした期待を抱いていることもまた事実であった。


「どんな理由でもいい……………生きて帰ってくださればそれ以上は望まないわ…………」

祈るように胸の前で両手を組むアルトニスの姿は、同性のバルシネーが見ても惚れ惚れするほど美しかった。
これまで控え目な性格に隠れて目立たなかった大輪の華が、恋を知って咲きこぼれるように花弁を開いたような光景であった。
妹に初めて恋を教えたのがメムノンではなくエウメネスであったということにバルシネーは再びエウメネスへの怨念の炎が燃え盛るのを自覚した。


―――――――――帰ってきなさい、エウメネス。あなたに復讐する権利があるのは私だけ。あなたを地獄に突き落としていいのは私だけ――――――――。





「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!オレが死ぬオレが死ぬ!死ぬのはいやっ!死ぬのはいやあああああ!」
「そろそろ落ち着きなさいレオンナトス」

ゴメス!!

一瞬目の前で火花が散ったかと思うと猛烈な頭頂部への痛みにオレはようやく正気を取り戻した。
あまりの激痛に反射的にうずくまって頭を抱える。
こいつ本陣を離れた途端遠慮がなくなりやがったな。

それにしてもひでえ話だ。
プトレマイオスの奴もペルディッカスの奴も貧乏くじを引きたくないものだから、王の気持ちが変わらないうちにオレとエウメネスを叩きだしやがった。
たった5千程度でどうしろと?自慢じゃないけどオレは弱いですよ?

「アンティゴノスの手腕からすればしばらくは現地兵を繋ぎとめておけるでしょうが、それでも限界があります。早く助けにいってやらないとダマスカス周辺で服属した兵がみんな寝返って壊滅しますよ」
「やっぱりおっさんだけじゃ勝てないか?」
「陛下じゃあるまいし、あなたはアンティゴノスにどんな期待をしているのですか?」
「いや、あの親父が負けるとこあまり想像できないし………」

長身と美貌と隻眼と下手な国王よりよっぽど迫力あるからな。
しゃべってみると気のいいおっちゃんなのだが、………もっとも外面だけなので油断できんけどなぜか憎めない親父なんだよな。

「確かにあの人が簡単に敗北を認めるとは思いませんが…………だからこそ性質が悪いのですよ」
「まあ煮ても焼いても食えない親父だけどな」
「そういう意味ではありません……まあ否定もしませんがここで問題なのはあの人は損得を考えて利があれば平気でマケドニアを裏切ってペルシャに味方する可能性もあるのですよ」
「はあああ??」

エウメネスに言われて初めて気づいたが確かに野心家のアンティゴノスにとって彼の望みを叶えてくれるならそれはダレイオスであっても構わないだろう。
いかにアレクサンドロスが天才でもアンティゴノスほどの宿将が裏切れば連鎖的にマケドニア軍は崩壊することは疑いない。
冷や汗がタラリとこめかみから頬を伝って顎へと落ちていく。

「つまりオレたちはアンティゴノスがペルシャに投降しないうちに救援しなければいけないわけだ」
「ようやくわかっていただけましたか。というわけであまりアンティゴノスを待たせるという選択肢はありません」
「無茶ぶりだろっ?!それ!」

あわよくばアンティゴノスに頑張ってもらってペルシャ軍が疲労したところを奇襲しようと思っていたオレの思惑はあっけなく砕け散った。
確かにあの親父ならありうる。
このままアレクサンドロスについているより利益があると判断すればあの親父は顔色ひとつ変えずに味方を裏切る。
もっともダレイオスの下について親父の野心が叶えられるとも思えないので、よほど追い込まれない限り裏切ることはないだろうが………。

「じゃ、じゃあ夜襲というのは……?」
「だめですね。グラニコスの夜戦を思い出してください。ペルシャ軍は決して夜戦に弱いというわけではありません」
「一点突破でアンティゴノスと合流する…………」
「せっかくの援軍がたった五千程度では味方の士気が下がるほうが早いと思いますよ」
「それじゃどうしろってんだ!?」

次々と作戦を駄目だしされてさすがのオレもキレた。
そもそもオレはアレクサンドロスやエウメネスのような英雄ではない。
ただの血筋がいいだけのボンボンだ。
自分が戦いというステージで活躍するには何か決定的なものが不足しているということは誰よりもよく承知していた。

「――――私に頼るのをやめなさい、レオンナトス。今回の主将は貴方であり私は補佐役にすぎないのです。助言はしますが最終的な判断は貴方がしなくてはなりません」

アレクサンドロスが救援軍を率いるのを指名したのはあくまでもレオンナトスであり、エウメネスではない。
マケドニア人としては例外なことにレオンナトスは自分が凡人であることを理解していて、才能あるものに敬意を払うのを当たり前のように考えているが、そうでないもののほうが遥かに多いのだ。
ここでエウメネスが自分の思うままに軍の采配を振るったりしては逆に二人とも処罰の対象になりかねなかった。
それに―――――――。

「この戦いはまともな考えでは勝負にすらなりません。そうした意味で私は貴方がたまに見せる常識外な発想に期待しているのです。おそらくは陛下もそれを直感的に察したのでしょう」

良くも悪くもアレクサンドロスは直感の武将である。
こと戦に関するかぎりその彼の閃きがはずれることはほぼありえないと言ってよい。
ならばアレクサンドロスの直感に応えるだけのものが、きっとレオンナトスには秘められている。
これまでの付き合いを考えてもそれは十二分にあり得ることだとエウメネスは確信していた。

間違いなくレオンナトスは凡人である。
政治的センスも軍事的センスも本当に王家に連なる人間かと思えるほどにひどく歪つで危うい。
にもかかわらず数字計算に長け、人の心の機微に敏く、驚くほどの情報通であったりもする。
ヒエロニュモスにも探らせているがレオンナトスの情報源はいまだに全くその入手経路が不明なままであった。
独自の諜報網を持ち、時に協力、時に敵対するアンティゴノスとは好対照である。
そう考えるとエウメネスは生来生まれ持った知的好奇心が沸々と胸の奥から湧きあがるのを感じた。

レオンナトス、君はいったい何を隠しているのだ?
呆れるほど庶民的な凡人の君が、どうしてマケドニアの武人らしからぬ学識を手に入れたのだ?
君はいったい何者なのだ――――――?
さあ、早く私を驚かせてくれ。
陛下も認めた君の異能を早く私に見せてくれ。

エウメネスの内心はともかくとしてレオンナトスはようやく落ち着きを取り戻したようであった。



本当にひどい無茶ぶりだがエウメネスの言わんとするところはわかった。
まともには戦えないからまともでない戦いかたをしろ、と。
そしてそこで必要なのはレオンナトスではなく、どうやらブカレスト大学史学生ヴラドであるということらしい。


……………まぁ多少は戦史上の戦術やエピソードには詳しいとは思うが…………

それが机上の空論であるということをオレは知っている。
軍という組織は命令を伝達することにすら将の力量を必要とする非常に複雑で鈍重な生き物なのだ。
紙の上で知っている知識を現実に再現することは至難であるし、あまり時代を先取りした戦法は歴史を歪めることにもなりかねない。

……………とはいえここでオレが死んだらそれだけで歴史が変わるんだよな。

ふと、このところしばらく思い出さなかった恋人シャーロッテの顔が思い浮かんだ。
それはいつもの強がりな表情ではなく、幼なじみであった昔のさびしがり屋な少女のような表情だった。

……………そんな泣きそうな顔をするなよ。

大丈夫、必ず生きて帰ってみせるから。
早く戻って強気で前向きなお前でいられるように傍にいてあげるから。
ここの気候なら使えそうな策もないわけじゃない。

「エウメネス、ひとつ考えがあるにはあるんだが………………」


そのときなぜか、必死に泣くのをこらえているようなシャーロッテの顔が、どこかアルトニスに似ているような、そんな気がした。





[10257] 第三十五話 ダマスカスの攻防その3
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:53b8a5f2
Date: 2012/02/22 23:24
「おれはダレイオスを見損なっていたかもしれんな………」

アンティゴノスとしては予想外のダレイオスの果断に舌うちを禁じ得ない。
イッソスで完敗した以上、ダレイオスは王の権威を保つために絶対に勝てるだけの戦力を整え自らの手でアレクサンドロスと雌雄を決しようと考えるはずだと考えていた。
もともとダレイオスの王権はそれほど強固はものではない。
むしろ宮廷内の陰謀で正統な王位継承者があいついで病没、あるいは暗殺されるという瀬戸際から即位した傍系王族であるダレイオスはその治世の大半を王権の強化のために費やしたともいえる。
そうした逆境を乗り越え、王の王としての権威を取り戻したダレイオスは為政者としては卓越した政治手腕を所有していた。
しかしどうやら致命的なほどに戦運がない。

――――――なるほど、それで心が揺らいだか―――――

おそらくダレイオス自身は自分の手で勝利を決定づけたかったに違いなかった。
しかしイッソスでの戦いでダレイオスは戦場での勝敗が決して机上の計算の通りにはならぬことを思い知らされたのだ。
ならば極力そうした不確定要素を省きたいと願ったとしてもなんらおかしいところはない。
そしてもっともリスクが少なくマケドニアに勝利できるのは今この瞬間であるということもまた確かなことであった。

―――――といっても落第点しかやれんな。これではとうてい俺の身を託すには足りん。

あるいはこのままペルシャに投降するという選択肢も考えたアンティゴノスではあったが、ダレイオスの戦勘の鈍さを考えればその選択はありえなかった。
ダレイオスは今この瞬間に稼働できる全兵力をもってアンティゴノスを攻めるべきなのだ。
アンティゴノスにはアレクサンドロスのような人智を超えた天運はないのだから。
いくらイッソスの敗戦以来準備不足であろうとも後先を考えずにダマスカスを攻略することだけを考えるなら十万の兵を動員することも可能であったろう。
さらに王の直卒となればまだまだ兵の士気も高いものに維持できたはずであった。
さすがのアンティゴノスもそうなれば迷わずにダレイオスに降伏してダマスカスを差し出したに違いなかった。
自分が出る以上万全を期したいという慎重な姿勢と、あわよくば自分が戦場に出ずに決着をつけたいという願望があまりにもアンバランスである。
もしもこのダマスカスの攻防がマケドニアの勝利に終わればダレイオスが再び攻勢に転じるには相当の時間が必要となるはずである。
その時間的猶予はマケドニア軍にエジプト遠征の貴重な時間を与えてしまう。

―――――本来エジプトは政略によってくだすべき勢力なのだがアレクサンドロスの坊やは自分の手でエジプトを征伐せずにはいられまい。それはマケドニアにとって致命傷になる可能性があったが
よけいな勇み足で好機を棒に振ったな。


とはいえ危機は危機だ。
アンティゴノスが掌握している兵力はペルシャ軍の四分の一にすぎず、兵としての質も大きく劣っていると言わざるをえない。
そうした劣勢での戦功と自らの安全を天秤にかけて不敵に笑うだけの余裕がアンティゴノスにはある。
幸いにしてペルシャ軍の攻城兵器はマケドニアほどに進んではいない。
味方の裏切りにだけ気をつけていれば援軍がくるまで耐え抜くだけの勝算は十分であるようにアンティゴノスには思えた。

「期待に背かんでくれよ?二人とも…………」

間諜からもたらされた援軍の指揮官はいまごろどんな会話をしていることだろうか。
その漫才のような様子を想像してアンティゴノスは思わず失笑する。
敵とするには恐ろしい男たちだが同時に不思議と憎めない男たちでもあった。
むしろ彼らには好意さえ抱いているほどなのだが、自らの野心のためには容赦なく犠牲にするだけの割り切りがアンティゴノスには存在する。
それがアンティゴノスとレオンナトスやエウメネスとの差であるのかもしれなかった。
熱気と砂塵でかすむ地平線を見つめたまま隻眼を細めてアンティゴノスはあの二人がおよそマケドニア人には想像もつかぬ何かをしでかしてくれることを確信していた。




「さすがはマケドニアの双壁と言われる老人だ。一筋縄ではいかんか」

圧倒的な兵力差にもかかわらずダマスカスを守備するアンティゴノスの堅陣は小揺るぎもしない。
しかし表面張力で保っていた水面がたった一滴の水で溢れるように、今は素直に従っている周辺部族の兵たちも遠くない将来消耗に耐えられなくなることは確実である。
マルコシアスとしては絶え間ない消耗を強いることによってその瞬間が訪れるのを出来る限り早くさせるだけでよかった。
確かにアンティゴノスは天下に名だたる名将だが、兵数に劣り、忠誠心の定かでない周辺部族を抱えて長期戦を戦いぬけるほどの天才ではありえない。
見た目は鮮やかとは言い難くむしろ泥臭い手法であるにしても、兵数に物を言わせた消耗戦は時間と補給さえ許すならば必勝に近い戦術であるのだった。
もしもダマスカスが陥落すれば………とマルコシアスは夢想する。
マケドニア軍にとってダマスカスは補給の要衝であるばかりでなく、ようやく手に入れたペルシャの富の貯蔵庫でもある。
イッソスの戦いのためにダレイオスが集めた膨大な物資と財宝はまだかなりの部分がダマスカスに収められているはずであり、彼の都市を陥としたものがその富の分配にあずかれるのは想像に難くない。
さらにマケドニアに服属した裏切りものを討伐すればそこに残るのは莫大というほかない無主の領地だ。
ダレイオス王も一敗地にまみれた自分を救い、マケドニアの喉元ともいうべき要地を奪い返した自分達を無碍には扱えないであろう。
もともとペルシャは地方の太守による自治権が強い傾向がある。
それは中央集権化を進めるダレイオス王の統治下といえども例外ではない。
ダレイオスは王の王ではあるが、自分は今や王となる機会が与えられているのだということにマルコシアスは沸々と胸で滾るものを感じずにはいられなかった。
マルコシアスの予想ではアレクサンドロスは陥落を目前に控えたテュロスを放置してダマスカスの援軍に駆けつけるという決断は難しいはずであった。
戦略的にはテュロスなどよりダマスカスのほうが何倍も、何十倍も重要なはずなのだがアレクサンドロスは部下ならばともかく自身の敗北を受け入れるだけの度量がない。
自身を神話の英雄になぞらえているあの若僧はテュロスを陥落させ、とって返してダマスカスを救援する、そんな奇跡のような絵図面を描いているに違いなかった。
もちろんマルコシアスはアレクサンドロスと正面から雌雄を決しようなどとは露ほどにも考えていない。
それほどにアレクサンドロスの戦運はほとんど軍神に等しき怖れを敵であるペルシャ将兵に抱かせつつあった。
いかにして直接アレクサンドロスと戦わずにすませられるか。
それだけがマルコシアスにとっては懸念材料であると言ってもよかった。

大丈夫、大丈夫なはずだ………それに全軍で引き返すには少なからぬ日数が必要になる……そうなればダマスカスの陥落には間に合わぬ………。

そんなマルコシアスの夢想を断ち切って哨戒の兵が駆けこんできたのはそのときだった。


「い、一大事でございます!南よりおよそ三万は優に超えようかという大軍が接近しております!!」




「ゲホッ!ゲホッ!この土埃はどうにもならんな………まあ、土埃があがらんことには話にならんのだが………」

もうもうと立ち上る土埃にむせかえるオレを心配そうにヒエロニュモスが見つめていた。
本当にこんな子供だましでペルシャ軍が騙されるものか不安なのだろう。
といってもこれくらいしかオレには考えつく策はない。
砂漠の狐、ことエルヴィン・ロンメル元帥にならって騎馬部隊に枯木を引かせて五千の兵を三万にみせかける。
それがオレが苦心のすえにたどりついた答えであった。

先行するエウメネス率いる騎兵五百の後ろに控えるおよそ五千弱の兵、その後方に立ち上る数万の兵のものと思しき土煙。
遠目には確かにマケドニア軍が大挙して反撃に転じたように見えるに違いない。
この手の欺瞞行為はロンメル元帥の例をあげるまでもなく人類の長い戦史上で数多くあまたの将によって実践され、そして大きな戦果を遺してきた。
だがここで最大の問題は歴史に残された戦いの記録のなかで、この時代までこうした兵の実数を偽るための欺瞞工作が行われた記録はないという事実である。
先例があれば優秀な戦術指揮官であれば策を見破ることもあるかもしれない。
しかしこれまで誰も実践したことがないとすればこれを疑うことすら難しいに違いなかった。

「あっ!敵が動きます!でも………全然統制がとれていませんね………」

ダマスカスを半円上に包囲していたおよそ三つの兵団が大きくその形を乱すのがオレにも見て取れた。
兵数において勝っているとはいえペルシャ軍にとって不利な材料は出揃っており、よほど果断な指揮官でもないかぎり戦意を保つのは難しいはずだ。
なんといってもペルシャ軍は連日の攻城戦で疲弊しており、地理的は挟撃される立場にいる。
そして何より、これほどの大軍勢で援軍に駆けつけた以上マケドニア軍のなかにアレクサンドロスがいると考えるのは当然であった。
まさか何の実績もないマケドニア軍のはみだしものがたった五千の兵で向かってきたとは夢にも考えまい。
幸いなことにオレの予想は現実とそれほど差のないところにいた。


「馬鹿な!こんな早くあれほどの軍勢がとって返せるはずがない!マケドニア軍は妖術でもつかうのか………!」

突如現れたマケドニア軍の姿にたちまちペルシャ軍は惑乱した。
天高くたちのぼった砂塵の量はマケドニア軍の数が三万かそれ以上であることを明瞭に告げている。
あるいは敵がマケドニア軍でなければマルコシアスも多少は疑ってかかることが可能であったかもしれない。
しかし彼らはマケドニア軍の、というよりアレクサンドロスのあまりに常識はずれな蛮勇を見過ぎていた。
普通であればありえないと思われることが、もしかしたらアレクサンドロスならばありうるのではないか、という潜在的な恐怖が彼らに正常な判断を許さなかった。
だがまだこの時点でマルコシアスの戦意は失われてはいなかった。
確かに不利な状況に陥りはしたが、まだまだ兵力的に優位に立っているのはペルシャ軍である。
あの軍勢のなかにアレクサンドロスさえいなければ十分に勝機はある。
ダマスカス一帯の肥沃な領土を奪い、この地の王となる夢と自分の命を天秤にかけマルコシアスはかろうじて屈服しかける心を踏みとどまらせていた。

「逃げるな!踏みとどまれ!」

マルコシアスが直卒する部隊はなんとか統制を維持したまま戦場に留まる事が出来たが、ダマスカスを包囲するため指揮を分割した他の兵団はマルコシアスほど純粋な戦意を保つことが出来ずにいた。
守りを固めようとする者、戦場から逃亡しようとする者、友軍に合流しようとするもの。
混在した複数の意志によって複雑にからまった糸のようにペルシャ軍の陣内に生じた陰影に向かって風のように飛び出した者がいた。
―――――エウメネス率いるわずか五百の騎兵である。

「東の兵団と中央の兵団の結節点から戦場の裏まで一気に抜けるぞ。ほかのものには目もくれるな」

誰もがそれほどの脅威にも感じなかった騎兵の突出は、その実ペルシャ軍が軍として機能するための急所の一穴を完膚なきまでに破砕した。
凡人には到底理解することのできぬ戦場力学的な、ここしかないという急所をエウメネスは見逃さなかった。
ほとんど剣を交えることすらなく、ただエウメネス率いる騎兵が駆け抜けただけでペルシャ軍はもはや軍とは名ばかりの烏合の衆に解体されていた。
自分達でもそれとわからぬうちに彼らは脳と手足を結ぶ神経を切断されていたのである。
指揮官の命令を兵士に届けることができなくなった兵団はむしろ数が多いほどに崩れやすい。
きつく結ばれた糸が解きほぐされるように、兵士たちが思い思いに勝手な行動を取り始めたかと思うとペルシャ軍はまるで悪夢でも見たかのようにバラバラに崩れ去ったのである。



「…………まるでカイロネイアのアレクサンドロス陛下を見るようだ………エウメネスめ。やはり天才か………」

勝敗はすでに決していたがこれほどの好機を黙って見逃すアンティゴノスではない。
現地の部族に守備兵を任せて追撃のためにダマスカスの城門を開く。
マケドニア以来アンティゴノスにつき従ってきた数千の飢狼が、弓を離れた矢のようにペルシャ軍に向かって解き放たれた。



壮大な戦場絵巻を目の前にしてオレもまた興奮の極みにあった。
今回は功を奏したとはいえペルシャ軍は本来圧倒的に兵数でマケドニア軍を上回っているのである。
ここで完全に叩いておかなくては後日、軍を再編して反撃されないとも限らない。

「うおおおおお!オレに続けえええええええ!」

昂揚する戦意の命じるままに雄たけびをあげ馬に駆け足を命じたオレは迂闊にも馬に引きずらせていた枯木を切り離すのを忘れた。
枯木のハンディを抱えたままギャロップを命じられた馬は容易くバランスを失い、何かに躓いたように崩れ落ちる。
あっと叫んだときにはオレは宙に投げ出されて背中から地面に叩きつけられていた。
その間にも部下達は枯木を切り離して次々に突撃していく。
危うく味方に挽き殺されそうになりながら砂塵の渦巻く大地にたった一人ポツンと取り残されたオレがいた。

「しょ、しょんな……………」





「それに引き換えあいつは何をやっとるんだ…………」

レオンナトスが勝手に暴走して落馬する様子をアンティゴノスの隻眼は捉えていた。
すでにペルシャ軍は潰走に近い状態だから問題にはなっていないが、もしペルシャ軍にカリスマ的な指揮官がいてマケドニア軍が実は張り子の虎であることを知られれば逆に反撃に転じられる恐れすらある。
下手に追撃に加わるよりレオンナトスは土埃の手品の種を明かさずにペルシャ軍の退路を断つよう見せかけるべきであった。
そうすれば万が一にも反撃を恐れるような心配はせずに済む。
どうやらひどく頭を打ったらしくもがくようにして悶絶しているレオンナトスの姿には思わず嘆息を禁じ得ない。
しかし同時に、そんな恥をさらしている道化だが彼が今回の手品を考え出したであろうことをアンティゴノスは確信している。

「全く…………」

右手で逃げまどうペルシャ兵を背中から斬り倒しながら楽しそうにアンティゴノスは目を細めた。
己の野心の階段を駆け上がるのは何にも代えがたい愉悦だが、それとはまったく別質のこれまで味わったことのない楽しさであった。
たとえるならば自分の予想が良い意味で裏切られたときの爽快な意外さがもっとも近い感情のように思われる。
口元をほころばせアンティゴノスは呟く。

「……………読めぬ男よ」



「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!割れる!割れる!頭が割れるうううううううう!!!」




[10257] 第三十六話 ダマスカスの攻防その4
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:27379d7b
Date: 2012/04/17 23:15
「二人とも世話になったな」

アンティゴノスは莞爾と笑ってレオンナトスとエウメネスの二人を迎え入れた。
もともと兵力で圧倒的に劣っていたマケドニア軍は早々に追撃を打ち切っている。
とはいえはるばる派遣された六万のペルシャ軍は四分五裂して軍としての体をなしていない有様であり、軍を再編して再び挑んでくる可能性は皆無に等しいと言えた。

「放っておくには貴方は危険すぎますからね」
「おいおい、もう少し老人は労わるものだぞ、エウメネス」

放っておけば裏切るから、と言外にエウメネスに宣告されたにもかかわらず豪放にアンティゴノスは笑い飛ばした。
むしろ堂々と釘をさしてくるエウメネスに敬意さえ覚える。
そもそもアンティゴノスはエウメネスに不利な工作をたびたび行っているのだ。
普通であれば背後から刺されても不思議ではない。
そんなお互いを警戒し、敵対し、そして利用しあう関係でありながらなお惹きあうものが二人にはあった。
往々にして英雄というものは頼りない味方よりも手ごわい敵に友情に近い感情を抱くことがあるが、あるいは二人の間に行きかう感情もそれに類するものなのかもしれなかった。

「…………そんなことより俺の治療早くして………」
「馬鹿が。似合わぬ英雄を気どるからそういう目に会うのだ」
「全くですね。いい加減分というものをわきまえてくださいよ」
「俺の評価低っっ!!」

まるで漫画のようなたんこぶをつくって頭を抱える俺がいた。
下手をすれば史実以上に無意味な死にかたをする可能性があっただけに笑えない。
マケドニアの武将レオンナトス、落馬してダマスカスの戦いで死す、そして歴史は変わった……ゲームオーバーとかマジ笑えない。
それにしても今回の戦いは予想以上の大勝利となったにもかかわらず歴史に対する影響はなかったようだ。
テュロス攻防の終盤、マケドニアの虚を衝くようなペルシャ軍の大攻勢。
4倍の兵力を揃えながら寡兵のマケドニア軍に散々に討ち破られ失われた兵力の数はおそらくイッソスの戦いに匹敵したであろう。
その影響は正直グラニコス川の夜戦よりも遥かに大きいものに思われたのだが。

(まあおかげで助かったけど………)

アンティゴノスが負けたら歴史が変わると思うあまり柄にもなく積極的に戦いすぎた。
先頭をきって騎馬で突撃とか、あのとき自分はどうかしていたとしか思えない。
その結果が落馬による後頭部痛打。
生き残れただけ見っけモンと言わねばなるまい。

「それにしても今回の戦功、テュロス陥落にも匹敵する大功となろう。武人として羨望を禁じ得ぬな」
「はたしてそううまくいきますかね……?」

エウメネスは寂しそうに苦笑した。
レオンアトスには悪いが陛下は私が功績をあげるのを喜ぶまい。
それに目の前の老人がうかうかとレオンナトスと自分の栄達を許すとも思われなかった。


――――気のいい男である。
嫉妬や憎しみで足を引っ張るようなヘファイスティオンたちとは異なる。
相手の実力を認め、正しく評価し、使いこなすだけの度量がアンティゴノスにはある。
しかしどんなに親しく、あるいは濃い血縁に結ばれていようとも、自身の野望のためには何のためらいもなく切り捨てる冷酷さを彼は併せ持っていた。
ただの友人であればいい男だが、マケドニアの中枢を担う同僚としては危険極まりない男であった。

だがそんなアンティゴノスをエウメネスは憎みきれない。
むしろ彼のように心の赴くままに生きることに憧れ、それができない自分を卑下するような気持ちがエウメネスの内心には根強く巣食っている。
もし自分がどんな犠牲を払っても成し遂げたいことがあるとすれば――――――。
エウメネスの脳裏を屈託のない爽やかな笑顔がよぎった。
まだ何のわだかまりもないころの、華が咲くように甘く美しい笑顔が。
埒もない………。
苦笑したままエウメネスは頭を振った。
そんな夢想が現実になるはずがない――――傲岸不遜に笑う長身のアンティゴノスを眩しそうに見上げてエウメネスは自嘲気味に嗤った。
―――――――現実になるはずがないのだ。





一人の使者がアレクサンドロスの天幕に駆けこんできたのはテュロスの攻防が終局に達しようとしていたときであった。
頼みの援軍は現れず、遂に城壁までマケドニアの建築する突堤の接近を許したテュロスは断末魔に喘ぎ落城寸前の状態にあったのである。
しかし海岸にそそり立った城壁の防御力は侮れず、いまだ最前線ではペルディッカスが攻城塔をめぐってテュロス軍と激しい戦闘を繰り広げていた。

「ダマスカスに向かったレオンナトス様はアンティゴノス様と連携し存分に敵を討ち破られたよし!」
「おおっ!!」

4倍近い敵を相手に完勝したという一報はマケドニア軍の本陣を沸きかえらせた。
思っていた以上に長引くテュロスの攻城に誰もがダマスカスの攻防の結果を気にせずにはいられなかったのだ。
まして派遣されたのがこれといって実績のないレオンナトスと本来文官であるエウメネスなのだからなおさらであった。
かろうじてパルメニオンとプトレマイオスら一部の武将は正しくレオンナトスたちを評価していたが、それでもなお勝率は五割に届くまいと考えていた。

それにしてもあのレオンナトスがいったいどんな手をつかって圧倒的に不利な戦局をひっくり返したのか。
はたまた全てはアンティゴノスの策略なのか?
そんな予想が脳裏を渦巻くなか使者の報告は進んでいく。

「レオンナトス様は騎馬に枯れ木をひかせることで軍の数を多く見せかけることに成功し、敵の動揺を誘いました。しかしなんといっても戦功の第一等は敵の急所にわずか五百の兵で一瞬の躊躇もなく
吶喊しこれを粉砕したエウメネスにあるものかと。まるでカイロネイアの陛下の活躍を見る思いであったと我が主アンティゴノス様よりの報告であります」

「……………なんだと?」

アレクサンドロスの凍るような声に戦勝に沸いていた武将たちは静まりかえった。
深く、深く、底の知れない深淵のように深くアレクサンドロスが激怒していることに気づいたからだ。
ひとときは陥落目前と思われたテュロスだが、高い城壁に拠って今なお抗戦を継続しており、陥落までにはまだしばらくの時間が必要そうである。
そうした意味でレオンナトスやエウメネスはまさにマケドニア軍を救ったに等しい。
それを知るからこそアレクサンドロスもかろうじて理性の鎖で激情を解放することを自制した。

だがこの拭いがたい不快感はなんだ?
まるで顔面に汚泥を塗りたくられたがごときこの憤りは――――――。

アレクサンドロスの心の冷めた部分はレオンナトスたちが成し遂げた功績を正しく評価している。
まして彼を抜擢したのはアレクサンドロスなのだ。
むしろ彼らを褒めたたえ自らの炯眼を誇るのが正しい姿なのだろう。
それでもなお耐えきれぬやるせなさにアレクサンドロスは傍らにあった杯を叩きつけた。

「汚い騙し討ちの次は余の猿真似か―――――!!」

まさにアレクサンドロスの心に琴線を揺らしたのは使者のカイロネイアのアレクサンドロスを見る思いであったという一点にあった。
かつて王太子であった日のこと。
テーバイの最精鋭部隊である神聖隊の威容を前にしたときに昂揚をアレクサンドロスは昨日のことのように覚えていた。



カイロネイアの戦いとは、マケドニアのヘラス支配を決定づけたテーバイ・アテネ連合軍対マケドニア軍の決戦である。
後の世にフリードリヒ大王が参考にしたとまで言われる斜線陣の見本ともいうべき戦争芸術であり、後退によって急激な方向転換のできないヘラスの重装歩兵の突出を誘いアテネとテーバイ軍との間にできた間隙を
まさに神がかり的なタイミングで衝いたのがアレクサンドロスであった。
ある程度以上の数が集まった軍というものは絶えず運動する力が働いており、その運動の支柱となるべき部分を破壊されてしまえば統制を失って分裂する。
その支柱となる急所をアレクサンドロスは勘によって、エウメネスは理性によって看破した。
互いに天才でありながらアレクサンドロスとエウメネスの将としての質は正反対と言えるほどに違う。
ゆえにこそアレクサンドロスはエウメネスという稀代の将を絶対に受け入れることができないのかもしれなかった。

アレクサンドロスの思考を正確にトレースしたであろうヘファイスティオンも憤然として立ちあがった。

「勝てばよいというものではない!所詮異国人にはマケドニアの誇りはわからぬか!」

負けて国が滅亡しては元も子もないではないか、と理性的な将は内心では思ったかもしれないがそれを口に出すような無謀な者はいなかった。
そんなことを口にすれば下手をすればこの場で殺されても文句は言えないだけの常軌を逸した鬼気が天幕に充満していたからである。
唯一アレクサンドロスに諫言することのできるパルメニオンはちょうど前線でペルディッカスの支援に当たっていた。
レオンナトスたちの戦功はこうして黙殺されることが確定した。


この屈辱をいかにして拭うべきであろうか。
屈辱に倍する勝利の栄光によって拭う以外に方法はあるまい。
卒然として立ちあがるとアレクサンドロスはそう決意した。


「――――――今日中にテュロスを陥とす!続けヘファイスティオン!」
「陛下に続け!歴史に名を残す時は今ぞ!」

抜剣して駆けだすアレクサンドロスの後に国王の親衛部隊が続く。
こうなったアレクサンドロスを誰も止められないことをマケドニア軍の武将は経験的に知っていた。
そして国王の狂熱が乗り移ったかのようにマケドニア軍は驀進を開始した。


倒れても倒れても仲間の死体を乗り越えて迫ってくるマケドニア軍の常軌を逸した勢いにテュロス兵は惑乱した。
彼らには死の恐怖というものがないのか?
逃げ場のないテュロス兵は恐怖にかられつつもなんとか戦いを継続していたが、このままでは押し切られるのは時間の問題だった。

「進め!進め!ヘラクレスの加護は我らにこそあるのだ!」

豪奢な鎧を身に纏った小柄な男が大音声を張り上げて天に向かって剣を掲げている。
その男がアレクサンドロスであることは遠目にも明らかであったし、その命こそはテュロスに残された唯一の勝機でもあった。

「殺せ!あの馬鹿を射殺してしまえ!!」

城壁に並べられた弓兵が一斉にアレクサンドロスに向かって弓を引き絞った。
天から雨が降り注ぐかのように数百の矢が滝の奔流のようにアレクサンドロスに向かって降り注ぐ。
にもかかわらず全ての矢はアレクサンドロスにかすり傷ひとつつけることはできなかった。
まるでそうなることを運命づけられていたかのように、豪雨のような矢はすべてアレクサンドロスを逸れてむなしく大地を穿っただけに終わった。

「神の天命を受けた人間は死なぬ――――――!」

人智を超えたかのような常識外の光景に遂にテュロス軍の一角が崩れた。
ペルディッカスの率いる重装歩兵がアレクサンドロスに気をとられていた隙に東壁の兵を突き崩したのだ。
歩兵としての練度に劣るテュロスにとって、一角とはいえ城壁の占拠を許すということは破滅以外の何物でもなかった。

「敵は崩れたぞ!我がマケドニアの勝利だ!」
「勝利!」
「勝利!」

マケドニア軍が勝利に沸きかえるのと反比例するようにテュロス軍は崩壊の坂を真っ逆さまに転がり落ちて行った。
各所で城内へのマケドニア軍の侵入を許すとこれまで善戦していたのが嘘のようにテュロス軍は哀れな獲物に成り下がった。
古来より敗戦のなかでこそもっとも兵の命は失われるのである。
組織だった抵抗と士気を喪失した弱兵が生き延びる術などあるはずがなかった。

「殺せ!殺せ!奴らは神の天意に背いた反逆者だ!」


やはり余は天に選ばれている。
アレクサンドロスは自分に与えられた英雄としての使命を確信しつつあった。
生存率の低い最前線で剣を振るいながらその身にはただひとつの怪我すらない。
そもそもテュロスに祭られた守護神メルカルトは我がマケドニアの祖神ヘラクレスというではないか。
神がどちらを守護するかなど最初からわかりきった話である。


「余が……余だけが神に使命を与えられている―――――誰も余に並ぶことは許さぬ」


狂気のような衝動に駆られてアレクサンドロスは血しぶきを撒き散らし続けた。
積み上げられる勝利と殺戮こそがアレクサンドロスの英雄譚の何より確かな実感であった。

自分より強き者を
自分より賢き者を
自分より人気のある者を
そして自分より愛される者を――――――――
アレクサンドロスは遂に生涯認めることはなかったのである。



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