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[1066] FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆b1e6bf98
Date: 2023/02/20 20:54
 去年の秋口に投稿した作品の再投稿です。
 オリキャラ有りの再構成。原作キャラのオリキャラ化、半オリキャラ化もあります。温かい目で見守っていただける寛大で暇な方向けです。
 ではどうぞ。

 追記。
 ハーメルン様にも投稿させていただく予定です。
 よろしくお願いいたします。


 満月を映し出した大河。
 身体は失っても、魂はそこに。
 夢は破れ。
 希望は砕け散っても。
 私は、ただ貴方と共にありましょう。
 二人は世界に嫌われて。
 あらゆる悪意をさ迷い歩く。
 そして、いつの日か、同じ虹の辺へ。
 そこで、共に笑いあいましょう。
 遠い記憶の貴方。
 私の愛しい貴方。

 epilogue2 老人の日記

 3月10日

 時計の針だけでは正確な時間が分からなくなって、何年の月日が流れたのだろうか。
 おそらく今は午後の七時のはずだ。開け放たれた窓から香る、庭の草木の匂いがそれを教えてくれる。
 視界が彩度と明度を極端に失ってから、午前と午後の判別が難しくなることが多くなった。
 しかし、それも今日で終わりだろう。
 おそらく、私は明日死ぬ。
 長年連れ添ってきた妻もこの時期に死んだ。
 彼女の妹と同じ名前の花が咲く時期、その直前に彼女は息を引き取った。眠るような、本当に穏やかな最期だった。
 先に逝った人と同じ季節に死ぬのは真に想い合っていた証拠。そんな馬鹿な話を聞いたことがある。
 その話を聞いたとき、妻は鼻で笑った。
 しかし、私はその話を聞いておいて良かったと思う。なぜなら、その話のおかげで、ほんの少しだけうきうきする気分で死出の旅路につけるのだ。それ以上の幸福など、そうはあるまい。

 今、私は本当に安らかだ。
 魔術師、いや、魔術使いになってから多くのものを得て同じ量の何かを失ったが、魂の不滅を知ったことと、自分の死期を正確に計ることができたことは、己が獲得した数少ない特権だと思う。おかげで、静かな気持ちで死と向かい合うことが出来た。
 思えば長い人生だった。
 魔術などという、たった一つの命をチップにしてわずかばかりの自己満足を得る、そんな世界に身を置いてこれだけの時間を生きることが出来たのは僥倖以外の何物でもないだろう。事実、数多くの知人が若くしてこの世を去った。死徒との戦いで、実験の失敗で、協会による制裁で。数え上げればキリがあるまい。
 そう考えてみると、私の人生は少々長すぎたのかもしれない。
 死徒になったわけでもないし、他者の魂を啜るような外道もしなかったが、それでも通常の人間よりもかなり長い時間を生きた。風の噂によると、高校時代の友人の曾孫が新たに住職として寺を継いだらしい。
 私は妻との間に子を成すことが出来た。そして、子供達はたくさんの孫の顔を私に見せてくれた。
 可笑しかったのは、その全てが何らかの形で人助けに関わる道を選んだことだ。医師になった子供、警官になった子供、難民救援ボランティアの設立に尽力した子供もいた。そんなところは衛宮の姓の為せる業かと思ってしまう。
 しかし、私の子供達は、一人として魔術師の道を選ばなかった。だから、妻が受け継いだ刻印は、妻の妹の子供達に受け継がれている。

 色々なことがあった。
 辛いことも、死にそうな目にあったこともたくさんあった。
 しかし、幸せだった。そう断言できる。
 一生を賭けて愛するに足る女性を娶り、自分と妻に忠誠を誓ってくれた最高の友人を得て、暖かい、本当に暖かい人生を送ることが出来た。もし叶うなら、もう一度同じ人生を送りたい、そう思う。
 だから、胸を張って言える。
 私は、私を救ってくれた数多くの人達に恥じない一生を送ったと。
 
 今日、これが最後ということで、今まで書き溜めた日記に目を通してみた。
 驚くのは、最近になってあの二週間に関する記述が富みに増えていることだ。
 聖杯戦争。
 本当の意味で妻と出会う切欠となり、たくさんのものを失った戦い。
 既に私の中で記録と成り果てた、遠い遠い過去の話。
 あの二週間が無ければ私の人生は全く違ったものになっていただろう。
 間違いなく私の人生の中で最も灼熱とした時間だった。
 生と死の狭間でありながら、どこかに愛すべき日常の空気を纏った日々。
 思い返せば、自分の精神の青さに歯噛みし、自分の覚悟の甘さに辟易とし、自分の理想の熱さに羨望してしまう。
 もっと他にやりようがあったのではないか。
 自分以外の誰かなら、遥かに上手く戦いを収めることができたのではないか。
 あまりの悔しさに枕を噛んだ事など一度や二度ではない。
 しかし、今はあれでよかったのだと思えている。
 もちろん、全てが最善の結果を得たわけではない。考えようによっては最悪を極めた結末を選んでしまったのかもしれない。
 だが、私にとってあれが精一杯だった。少なくとも、あの当時において取りうる最善の行動をしたはずだ。それなのに自分を責めるのは、自分を含めて、あの儀式に関わった全ての人たちを侮辱しているのではないか、最近はそう思うようになってきたのだ。

 そして、彼女のことを考えることが多くなった。
 今際の際に妻以外の女性のことを考えるのはあまりに不謹慎かもしれない。
 それでも、今、私の頭を支配するのは彼女のことだ。
 小さかった彼女。
 いつも笑っていた彼女。
 今も、死に続けている彼女。
 私はついに彼女が帰ってくるまで待つことが出来なかった。その事だけが、本当に悔やまれる。
 もし彼女が帰ってきても、彼女は一人ぼっちだ。それが哀れで仕方ない。

 ああ、ついに自分の持つペンの先が見えなくなってきた。鷹の目と言われた視力も老いさらばえたものだ。
 きっと誰かがこの日記を見つけたとしても、この字を解読することなど不可能だろう。何せ、書いた本人ですら何と書いてあるか分からないのだから。
 だから、最後に私の願いを書き綴ろうと思う。
 これは、誰に当てたものでもない。書いた当人ですら読めないのだ。
 いうなれば、これは神に対して当てた嘆願書だ。

 切に願う。
 どうか彼女に与えてやって欲しい。

 あの細い肩では。
 あの小さな背中では。
 絶対に背負いきれないほど。
 大きな、大きな幸せを。

 彼女が背負ってきた苦しみを。
 覆い尽くすほど広大な安らぎを。

 どうか、どうか。


 prologue  開戦。

 時は深夜。
 場所は地下。
 一連の戦いに始点というものを求めるとするならば、それはこの時、この場所に他ならない。
 古びた洋館。人はおろか、動物すら近寄らない、いや、近寄らせない魔境。
 地上ですらそうなのだ。その地下には微細な生命の気配すら無い。あるのは、静寂と、ただただ清廉な空気。
 魔術は秘するもの。
 その大原則に従うならば、これほど相応しい状況は他に無いだろう。
 閉ざされた空間に少女の声が響く。
 虚ろな声。
 自己の奥底を覗き込むかのようなその声は、彼女が魔術師である何よりの証明だろう。
 彼女が紡ぐのは、唯の文節ではない。
 その一言一言が言霊。一言一句にすら濃密な魔力の込められたそれは、呪文と呼ばれる。
「――――告げる。
 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
 彼女はきっと絶対だった。
 今の彼女は完璧だ。
 為し得ぬことなど、ある筈も無い。
 だから、二つの声が重なったのは、きっと気のせい。
 もしくは、気のいい糞ったれな神様のせい。
「誓いを此処に。
 我は常世総ての善と成る者、
 我は常世総ての悪を敷く者。
 汝三大の言霊を纏う七天、
 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」
「姉さん、まだ一時―――!」
 だから、これは違う世界。
 存在の意味すらない、そんな世界の出来事。

 無人の学び舎。その一番空に近い場所。
 硯をひっくり返したみたいに重たい夜空。
 星々ですら、自らの存在を悟られぬように息を潜めているようだ。
 何に悟られてはいけないのか。
 決まっている、この地に息づく不安な何かだ。
「……まいったな。これ、わたしの手には負えない」
 少女が、コンクリートに刻まれた呪刻を睨み付けながら呟く。
 彼女は魔術師だ。故に、今ここにある危難が色と形を持って理解できてしまう。
 息づくように慟哭する赤紫の刻印。
 屋上の壁に刻まれたその毒々しい色は、自らの危険度を他者に知らせる警戒色だ。
 ―――近づくな。近づけば喰らうぞ。喰ろうてしまうぞ。
 身体の溶解。精神及び魂の吸収。この上ないくらいの、死。
 これが発動すれば、この学校は消滅する。たとい学び舎が無傷で存在したとしても、それを使う人間がいなくなれば、それは学校というコミュニティの消滅といって差し支えないだろう。
「アーチャー。キャスター。貴方達ってそういうモノ?」
 その声には隠し切れない侮蔑の響きがあった。
 しかし、それは彼女達の従者に向けられたものではない。
 この戦争の本質を理解しきれていなかった、己の浅薄な覚悟に向けられたものだ。
「そうね。私達の動力源は魔力。なら、それを補給するためには、第一要素を喰らうよりは第二、第三のほうが効率がいい。
 幸い私達は優れた霊脈を支配するマスターに巡り合えたからそこらへんの心配は無いけど、はずれくじを引いたサーヴァントにとって、これはなかなか優れた戦略ね」
 少女の従者ではない、しかし彼女の頼るべき戦友は、自らに関わりの無い命に対して酷く不感症だった。
「それ、癇に触るわ。二度と口にしないでキャスター」
 キャスターと呼ばれた貝紫の人影は、厚いフードの下で微笑んだ。あまりに人を知りすぎた彼女にとって、少女の苛烈なまでの率直さはむしろ好ましかったのだろう。同じように、アーチャーと呼ばれた赤い外套の人影も微笑んだ。その笑みには、キャスターの笑みには含まれない、どこか異質で、どこか切ない何かが存在した。
「同感だ。私も真似をするつもりはない」
「そうね、桜のもとにいる限り、そんな手間のかかることする必要が無いもの」
 二体のサーヴァントは、二人のマスターに向けてそう言った。
 若干の優越と隠し切れない誇りに満ちたそれらの声は、マスターへの信頼とそれ以上の何かを表すのに十分だった。
 少女は、いや、少女達はお互いを見合って頷いた。自らの引いたカードが、最優ではなくとも最良ではあったことを確信するかのように。
「姉さん、とりあえず」
 艶やかな黒髪をストレートに伸ばした少女は、もう一人の、髪をツーテールに纏めた少女に対して呟いた。
 なるほど、二人は姉妹なのだろう。カラスの羽のように深い髪の色も、生粋の日本人ではありえない瞳の色も同じだ。
「そうね、とりあえずこの見苦しい魔力を消し飛ばしましょう。嫌がらせにすぎないけどね。
 ああ、でも、嫌がらせってどうしてこんなにうきうきするのかしら」
 口の端をいっそ獰猛に持ち上げた少女は、自らの魔術刻印に魔力を通す。
 それは肉体に刻まれた魔術書。
 彼女達の、遠坂という魔道の探求に血道を捧げる一族の、悲願の結晶。
 そして、この姉妹を当主と眷属に隔てる大きな壁。
「Abzug Bedienung Mittelstnda」
 コンクリートの地面に触れた左手からは、十人並みの魔術師では考えられないほどの魔力が放たれている。
 やがて、呪刻は色を無くした。それは呪刻が一時の眠りについたことの証であり、再び目覚めんとする兆しでもある。
 『さ、じゃあ次を探しましょう』
 姉と呼ばれた少女がそう言おうとした時、彼女達の頭上から声が響いた。
「なんだよ。消しちまうのか、もったいねえ」
 その声を、なんと例えればいいだろうか。
 猛獣の唸り声。違う。
 では、気さくな友人の声か。とんでもない。
 この国の人間なら万人が知る童謡がある。暗い森の中で、少女が熊と出会う。熊はいかにも親しげに少女に話しかける。長年の友人のように。
 しかし、その口は少女の頭蓋を一噛みで砕くことの出来る凶器であり、その爪は少女の皮膚を剥ぎ、肉を骨からこそげとるのに最適だ。
 圧倒的な強者から、その間合いに入った獲物に投げかけられる無邪気な声。優越と嗜虐に満ちた声。
 彼の声は、そんな音色だった。

 給水塔の上に立つ、青身の人影。
 陽炎のように匂いたつ、濃厚な魔力。
 人の形をしたそれは、しかし人ではありえない。
「これ、貴方の仕業?」
 私の問いに、人影は嗤った。
「いいや。小細工を弄するのは魔術師の役割だ。オレ達はただ命じられたまま戦うのみ。だろう?」
 視線そのもので殺すかのように、彼は私達のサーヴァントを睨んだ。
 なるほど、こいつにはアーチャー、キャスターが見えている。
 つまり、
「はじめまして、あなた、何のクラスかは知らないけど、サーヴァントね」
「そうとも。で、それが判るお嬢ちゃんは、オレの敵ってコトでいいのかな?」
 刺すような殺気。
 全身の毛穴が開くような錯覚。
 ジワリと滲んだ冷や汗。
 しかし、ここは脅えるところじゃあない。
 にやり、と不敵な笑みを一つ。
 私に喧嘩を売るなんて、ナイス度胸。
 たっぷり後悔させてあげる。
「へえ、そっちのマスターはどちらも美人さんだねえ。こりゃあ殺すのが惜しいわ」
「そう?じゃあ今からでも私達のサーヴァントにならない?まだ席は空いてるわよ」
 くくっと、心底愉快そうに彼は笑う。
「ああ、こりゃあホントにいい女だ。
 まあ、嬉しい誘いではあるんだが遠慮しとく。
 糞みてえな奴だが、一応はマスターなんでな、そう簡単に裏切るわけにゃあいかねえし、何より」
 いつの間にか彼の手には短めの槍が握られていた。
 歩兵の持つ長大な、しかし貧弱なそれではない。
 長さは約2メートル程か。
 集団戦ではなく、個対個に適応した形状。
 これほどわかりやすいクラスも他にはありえない。
 ランサー。
 三騎士の一角。
 間違いなく、強敵。
「そこの奴らと戦えなくなっちまう」
 ふ、っとランサーの姿が掻き消えた。
 不味い。
 考えるよりも早く、横っ飛びに身をかわす。
 直後に聞こえた破壊音。引き裂かれた金属の断末魔。
 まるで障子に張られた和紙のように儚く切り裂かれたフェンス。そこは、さっきまで私が立っていた場所だ。
 全身のバネを使って跳ね起きる。
 ランサーは、既に油断無く槍を構えていた。
「いきなりマスター狙い?結構姑息ね、あんた」
「なに、ただの挨拶だ。気にするほどのことじゃあるまい?」
「多対一。卑怯とは言わせません」
 三騎士の対魔力。切り札を使うなら別段、私や桜の魔術では傷一つ付ける事は適うまい。
 だから、これは実質二対一。
 ゆらりと構えたアーチャー、キャスター。
 彼らの殺気を受けて、槍の英霊はなお哂った。
「心地いいな。さあ、始めようか」
 槍を下段に構えたランサーには一分の隙もありはしない。
 そんな難敵を見ながら、キャスターは涼しげに微笑んだ。
「そうね、でもここは相応しくないわ」
 彼女が何事かを呟くと、この身を大地に縛り付けていた重力が消失した。
 気付けば、私たちは屋上を眼下に、空を舞っていた。
 頼るべき地面を失った言葉では表せない喪失感と、それ以上の高揚感。
 神代の魔術師は伊達ではない、そう実感した。
「逃げるか、卑怯者!」
 獅子の咆哮のような声が聞こえる。魔術を嗜み、これ以上ないくらい心強い従者を引き連れた私ですら心が折れそうになる、そんな声。
 しかし、紫の魔術師と赤の弓兵の表情には露一つほどの綻びもない。
「悔しければ追ってきなさい。戦いを望んだのはあなた。それくらいの労力は惜しむものではなくてよ」
「言ったな、魔術師風情が」
 キャスターの挑発に、憎憎しげに答えたランサー。しかしその瞳は先に待つ闘争への期待に濡れていた。
「さて、桜。あそこなら私たちが少々暴れても問題はないわね?」
 キャスターが己の主に話しかける。その細い指が指し示していたのは学校のグラウンド。
 なるほど、広大に開けたフィールドは遠距離攻撃主体の二人にはもってこいだ。
「はい、あそこならかまいません」
 妹もその意図は察しているのだろう。一拍の躊躇もなく頷く。
「決まりね、口を閉じていなさい、舌を噛むわよ」
 その瞬間、視界が暗転した。
 身体に感じる強烈な横向きの重力。自分の空間座標を見失ってしまう。
 足が地面に付いたことで、やっと自分が直立していることに気付く。
 そこは見慣れたグラウンドだった。いつもと違うのは二点。人っ子一人の気配もないこと。頭の芯が痺れるほど濃密な魔力が渦巻いていること。
「―――」
 キャスターの呟きは私ですら聞き取ることが出来なかった。
 高速神言。
 神代の失われた技法にして、今代では彼女にのみ許されたスキル。
 しかし、その効果は明白だ。
 私と桜の周囲に出来た薄い膜。常人が見れば巨大なシャボン玉にしか見えないだろうそれには、信じられない程の魔力が込められている。
「『盾』の概念。古代の城壁並には堅牢よ。あなたたちはそこで待ってなさい」
 余裕すら感じられる口調で魔術師はそう言った。
「そうだな、下手に隠れたりするよりは安全だろう。君達はそこで従者の勝利を眺めていればいい」
 如何なる技法か、虚空から二振りの短剣を生み出した弓兵が笑う。
 なるほど、私如きの出る幕はないということか。
「ええ、ここであいつを倒します。アーチャー、あなたの実力を見せて頂戴」
「キャスター、死なないで」
 異なる台詞は、私達姉妹の差異を端的に示しているといっていいだろう。
 しかし、それでも意図することは同じはずだ。
 勝ってくれ。
 死なないでくれ。
 私たちに聖杯を。
 幾種類もの自己中心的な想いが渦巻く。
 そこには敵を思いやる心情など微塵もない。
 きっと、この想いこそがこの戦いを『戦争』足らしめる何よりの原因だ。古今東西を問わず、この想いこそがどんな悪意よりも多くの命を奪ってきた。
 でも、それでいい。
 この想いの強さこそが、私達魔術師の誇りだ。
 さあ、殺して、アーチャー、キャスター。
 勝って戦果を分かち合いましょう。勝利の美酒を乾かしましょう。
 でも、罪と、罰は分けてあげない。
 罪は、罰は私だけに許された特権だから。

 真紅の槍と、陰陽の剣がぶつかり合う。
 その剣戟音は、音であって音でなかった。
 音と呼べるほど単発のものではない。
 音というよりは音楽。それほどまでに間断無く、また美しい。
 しかし、その呼称にもまた違和感がある。音楽と呼ぶほど優雅ではなく、またひ弱でもない。
 例えるならば、滝壷のほとりだろうか。
 轟々と響く大質量の水音は、いつの間にか耳に同化し、耳はいつしかその音を当然のものとして享受し始める。
 それほどまでに自然。どこまでも勇壮。
 周囲を満たす金属音は、どこかそんな雰囲気があった。
 少女達は、自分の置かれた危難を忘れてその音に聞き入っていた。

「楽しいなあ、おい」
 槍兵の歓喜の声に、しかし弓兵は答えない。
 戦場においては本来ありえない軽口、そんな言葉を口にしながら、彼の槍は敵にとっての悪夢を具現化し続けている。
 戦いにおいて、射程距離やリーチといったものは限りなく重要なファクターである。たった数センチの差が勝負に明暗をつける、それも珍しいことではない。
 それを考えれば、槍兵と弓兵のリーチの差は絶望的といって差し支えない。
 弓兵が持つのは刃渡り50センチほどの短刀が二振り。
 対して、かの槍兵が持つのは、短めとはいえ、それでも2メートルには届かんとする長大な凶器。
 1メートルと50センチ。
 人一人の身長にも満たないであろうその距離はしかし、余程の実力差が無い限り勝負の趨勢を定める絶対的なアドバンテージとなる。
 ならば、実力差が無いなら。あるいは、槍を持つものが格上ならば。圧倒的な不利を背負った者はどうすればいいのか。
 決まっている。足りないものは補うしかない。刃が届かないなら、その分前進するしかないのだ。
 特攻。自らの命を危険に晒して、それでも相手の懐に飛び込む。愚行には違いない。だが、それ以外の選択肢はありえない。さもなくば、尻尾を巻いて逃げ出すかだろう。
 しかし、槍兵の突きの冴えはそんな愚行すらも許さない。
 本来、突きは最小限の動きで点を破壊するもの。故に速く、故に見切り辛い。
 彼の突きもそれと同様なのだろうか。
 違う。
 最小限の動き。それは違いない。どんな槍の名人よりも予備動作の少ないその動きは、単純な速さだけでなく、動きの先読みを妨げる上手さを兼ね備えている。
 だが、彼の突きは点の破壊を目的としたものではない。
 点が重なり線。線が並び面。
 一瞬にして全身を蜂の巣に変えるべく放たれた、さ乱る突き。そこに、飛び込むだけの隙など、ありはしない。
 それでも、かの弓兵は英雄。
 豪雨よりもなお無慈悲に襲い来る穂先、それが意味する絶望を、双剣をもって捌いてゆく。そう、彼の持つ双剣は決して貫けぬ盾と同義であった。
「はっ、面白えじゃねえか!」
 全てを貫く矛を携えた騎士が叫ぶ。
 その瞬間、槍兵が敵の懐に飛び込んだ。
 もし、その戦いを観る者がいれば、彼の不可解な行動に息を呑んだであろう。 
 在り得ざるべき愚行である。
 自らが持つ最大のアドバンテージである制空圏を捨て、得物の数、手数の差で勝る敵の懐へ。望んで死地に飛び込むが如きそれを愚行と言わず、なんと言う。
「くぬう」
 しかし、漏れた苦悶の声は、弓兵のそれであった。
 この戦いが始まってからただの一度も声を上げなかった彼が、ついに堪えきれずに声を発したのだ。
 さもありなん、槍兵の攻撃は今までのそれが霧雨と思えるほど苛烈なものに変化していた。
「そらそらそらそらそらそらそらあああ!」
 穂先と石突を併用した、全てを轢き潰す車輪のような連戟。その在り様は、槍術というよりは棒術や棍法のそれに近い。
 濡れたように妖しく輝く穂先による突き、それをかわしたと思えば、頭上から鉄槌のような石突が降ってくる。いくら刃が付いていないとはいえ、頭部に当たれば頭蓋は砕け、脳漿を撒き散らすことになるのは間違いあるまい。
 上、下、左、上、突き、上、右、左、突き、突き、下。
 頭を、喉を、背骨を、心臓を、横隔膜を、肺臓を、脾臓を、腎臓を、肝臓を、股間を。上腕部を。肘を。二の腕を。手の甲を。大腿部を。膝を。向う脛を。
 ありとあらゆる部位をほぼ同時に狙い打つ、途切れることの無い連戟。
 ことここに至ってようやく弓兵も理解した。
 槍兵は、自分と同じ舞台に立つつもりなのだと。
 リーチの差という自らの利を捨てて、手数で勝るという敵の持つ利に正面から挑むつもりなのだと。そして、完膚なきまでに叩き伏せるつもりなのだと。
 なるほど、この男は勇者だ。
 きっと名のある英雄なのだろう、自分が如き薄汚れた奴隷とは格が違う。
 いつの間にか、片頬に皮肉気な笑みが張り付いていた。そのことを自覚して、弓兵はより皮肉に嗤った。
「ああ、まさに君の言うとおりだ。とても、楽しい」
「だろ?」
 周囲を金属音で飽和させながら、彼らは会話を交わす。
 刃に篭められた殺意には微塵の衰えも無い。その一閃一閃が相手の命を絶つ必殺の意思に満ち溢れている。
 しかし、その声は気の置けない友人に話しかけるそれと同一だ。
 戦うものにしかわかるまい。
 鍛え上げられた自己。この場所に立つまでに味わった苦痛と費やした時間。それがわかるのは他ならぬ自分だけだ。
 しかし、それ以外にもわかるものがある。それは、己と戦う相手だ。
 相手が、如何程の時間を、苦痛をこの場所に立つまでに注ぎ込んできたのか。自分と立ち合うために、どれほどの苦難を乗り越えてくれたのか。
 涙が出そうになる。
 凄いぞ。
 お前は強い。
 お前は強い。
 お前は強い。
 だが、多分俺の方が強い。
 さあ、心行くまで比べ合おうじゃないか。
 互いに流した血の量と、これまで捨ててきた物の量を。
「だから、とても残念だ」
「あ?なんか言ったか?」
「いや、何でもない」
 一瞬、怪訝な表情を浮かべた槍兵は、それでも獰猛な牙をぎらつかせながら穂先を繰り出す。
 まるで巨人が振るう玄翁のように重い一撃は、今までの弓兵の堅牢さを嘲笑うように、彼の両手から盾を奪った。
 きっと彼の握力も限界を迎えていたのだろう。両手と全身の力をもって繰り出される槍の一撃を防ぐのに、片手の力しか生かせない短剣では不利がありすぎる。
「もらった!」
 歓喜が槍兵の脊髄を駆け巡る。目の前に立つのは、武器を失い、盾を失った哀れな獲物。仕損じるはずがない。
 だから、一瞬だけ彼は気付くのが遅れた。
 怯えと驚愕に満ちた表情を浮かべるはずの獲物の顔に、なお皮肉気な笑みが張り付いていたことに。
「ああ、そうだな、もらったよ」
 勝利を確信し、明らかに止めを刺しにきたやや大振りな一撃。
 弓兵はそれを、どこからか取り出した新たな双剣でいなすと、己の戦友に後の処理を任せた。
「ええ、そうね、もらったわ、ランサー」
 大きくバランスを崩した槍兵の前で、濁流のような魔力が閃いた。
「く…っ、そがああああああぁぁぁぁ!」
 槍兵の咆哮は、それを上回る轟音に掻き消されていった。

 静謐なグラウンドに出来た、塹壕のように巨大な溝。
 魔術師から放たれた魔術によって生み出されたそこには、一切の命の存在は許されていなかった。虫であろうと、微生物であろうと、そしてサーヴァントであろうと。
 おそらく、凛の持つ切り札の宝石、その半数を用いたとしてもこれだけの破壊を生み出すのは困難を極めるであろう。
 周囲を痛いほどの静寂が満たしている。硬質な衝突音に慣れた聴覚には、むしろ優しくない類の静穏である。
「卑怯と罵るかね?」
 前を見据えながら弓兵は語りかける。その両手には依然、黒と白の短剣が油断無く握られている。
「いや、全然。これは戦争、汚い手ってのはあっても、卑怯な手ってのは無いからな」
 飄々としたその声は、弓兵と魔術師の背後から発せられた。
「仕留めたと思ったのだけれど」
 残念そうな魔術師の呟き。
「ああ、今のはほんとにやばかった」
 それに返すのは、槍兵の、苦笑と自信に満ちた声。
 彼が魔術師の放った大魔術をかわしたのは、安っぽいトリックなどではない。
 純粋な、スピード。
 彼はそれだけをもって必殺のタイミングで放たれた一撃を避けたのだ。魔術師の一撃によって掻き消されているが、それが無ければ、槍兵の強烈無比な踏み込みによって作られた、クレーターの如く抉れた地面が存在したはずだ。
 弓兵、魔術師にしてみれば、それは悪夢に他ならない。あれ程までに丹念に作った隙を、槍兵は力ずくで粉砕してみせたのだ。これなら理解不能な特殊能力のほうがよっぽどましである。
 彼のクラスが最速の英霊に与えられるものであるにしても、これは更に規格外。自分達が相手にしているのは、紛れも無い怪物。
 出来ることなら勘違いであって欲しい、しかし間違いではあり得ないその認識が、弓兵と魔術師の背を冷たい汗で濡らした。
 二体が振り返る。
 予想に違わず、そこには五体満足なまま嗤う槍兵の姿があった。
 実は、この立ち位置は弓兵と魔術師にとって非常に不味い。
 弓兵は、常に自らのマスターに背を預けるような位置で戦ってきた。
 そして、今、槍兵はその背後に立ったわけだ。
 ということは、自然、凛、桜の二人と、彼らに従う二体のサーヴァントを結ぶ線分の間に、槍兵が存在することになる。
 もし、彼がその気になれば、いや、そうでなくても彼のマスターがこの場にいて冷静な判断を下すならば、凛と桜は間違いなく殺される。魔術師の作り出した『盾』がいかに鉄壁であろうと、あれだけ強力な英霊の持つ宝具に抗えるはずも無い。
「そんな顔しなさんな、心配しなくても嬢ちゃん達には手はださねえよ」
 二体の懸念を察したかのように槍兵が言う。
「こんなに楽しいんだ、どうしてこれを捨てられるか。
 さあ、続きだ。お前らだって、まだまだ隠し玉があるんだろう?」
 ならば、見せてみろ、と。
 俺は正面からそれを打ち砕く、と。
 どこまでも意思の強い、うっとりするような視線がそう叫んでいた。
 弓兵はそれを受け止めて苦笑を漏らす。
 ああ、なんと自分と在りようの違う存在か。
 彼が奉ずるのは、騎士道などという虚飾ばったものでなければ、自分のように壊れた理想でもない。
 ただ、快楽のために。そして、己の誇りのために。
 その単純な生き様が、眩しくて、同じくらい疎ましかった。

 中断されていた、金属の協奏曲が再び奏でられる。
 そして、今回はそれに爆発音のおまけ付きだ。
 踊る三体の人影。
 私達のサーヴァントは、二体でありながら、しかしランサー一体を圧倒することができない。
 怒りに満ちた感情が湧き上がる。
 間違えた。
 こういう状況において、アーチャーとキャスターの共闘は著しく相性が悪い。
 三騎士は、総じて高い魔力耐性を持つ。
 しかし、アーチャーのそれは、お世辞にも強力とは呼べない。もともと有していた対魔力でもアミュレット程度、聖骸布の加護があってもせいぜいがCランクか。
 その程度の対魔力では、キャスターの大魔術は防げない。つまり、アーチャーが前衛を勤める以上、キャスターが全力で、広範囲をカバーするような魔術を使うのは不可能ということだ。故に、小規模の、光弾のような魔術を連発することしかできない。
 もし、二人がもう少し意思の疎通を図ることが出来るならば、タイミングを見計らっての大魔術、というのも可能なのだろうが、彼らが共闘するのはこれが初めて。そこまでの要求は過酷だ。
 ならば、アーチャーとキャスターが共に遠距離からの攻撃に切り替えてはどうか。それなら、理想的な組み合わせだろう。この二人の集中砲火に晒されれば、如何に強力なサーヴァントとはいえたまったものではないはずだ。
 だが、今その戦術は使えない。
 なぜなら、私達がいるから。
 先ほどは私達にその矛先を向けなかったランサーだが、状況がどう変化するかわからない。極端な話、彼のマスターが令呪の一つでも使えば、彼の攻撃対象は容易く私達に変化するだろう。そのときに二体のサーヴァントが遠くから指を咥えて見てました、ではただの喜劇だ。
 だから、少なくともランサーを押えつける前衛の存在は不可欠だ。そして、今この場でそれを成し得るのはアーチャーしかいない。
 アーチャーの剣術では、ランサーの攻撃を防ぐことは出来ても倒すことは出来ない。キャスターの局所的な魔術では、高速で動くランサーを捉えきれない。
 手詰まり。
 遭遇戦だから仕方ないといってしまえばそれまでだ。
 でも、何か出来ることはないのか。
 このまま亀のように隠れているしかないのか。
 
「……二十七。それだけ弾き飛ばしてもまだ有るとはな」
 激闘の狭間に生じたわずかな空隙。
 激流に遊ばれる笹船のように儚い時間。
 その中で、槍兵はそう言った。
 彼の口調は憎憎しげだが、その表情は強敵の技量を讃える賞賛に満ちている。
 そもそも、彼は戦いそのものを待ち望んで召喚に応じた。
 多少の、いや、有り得べからざるほどの紆余曲折と屈辱を味わいはしたものの、それでも彼の願いの一端は叶いつつあるのだ。それを叶えてくれた相手を、どうして心底憎むことが出来ようか。
 まるで湯水の如く刀剣を生み出し、躊躇も無くそれを打ち捨てる弓兵。
 弓兵のクラスに収まりながら、双剣を操り己と互角に打ち合う弓兵。
 正体不明。しかし、この上なく強敵。
 槍兵がこの男の名を知りたがったのは、戦いに生きる者として当然の欲望といえるだろう。
「貴様、名は何という」
 弓兵の上空に漂う魔術師の姿を無視して語りかける槍兵。
 その声に、弓兵は冷笑に満ちた声で、こう返した。
「問われて答える愚か者がいるのか?そもそも、人の名を問うのであれば、まず己から名乗るのが礼儀というものだろう。
 ああ、しかし君は名乗る必要は無かったな。大体の想像はつく。
 君ほどの槍手は世界に三人といまい。加えて、獣の如き敏捷さと言えば恐らく一人」
「―――ほう。よく言ったアーチャー」
 みしり、と槍兵の身体が盛り上がる。
 しなやかな豹が如き体躯が、勇壮な雄獅子が如きそれに。
 飄々とした掴みどころの無い表情が、血が滴るような狂相に。
「―――ならば食らうか、我が必殺の一撃を」
「止めはしない。いずれ越えねばならぬ敵だ」
 周囲に満ちたマナを、紅い魔槍が貪り尽くす。
 空間と時が捻じ曲がる。
 誰しもが呼吸を止めた。
 空気が沈殿する。
 永遠ともいえる一瞬。
 テーブルから落ちて、そのふちがコンクリートの床に触れているガラスのコップのように、まさに砕けんとする、圧倒的な緊張感。
 それを打ち砕いたのは。
「やめろっ」
 いっそ間抜けとすらいえる、第三者の声だった。

 常なら、若い喧騒が支配する廊下。
 しかし、今、そこを支配するのは静寂と暗黒。
 窓ガラスを通って降り注ぐのは、いかにも頼りない月明かりと、さっきまでは息を潜めていた星明り。床には、儚い長方形の光のステージが規則正しく並んでいる。
 その隙間に、そいつは倒れていた。
 胸のおかしくなる血の香り、というのは無かった。ひょっとしたら嗅覚が麻痺しているのかもしれない。
 だから、そいつの死は酷く虚ろだった。
 まるで薄いガラス越しに見る他所の国の風景みたいで、全く現実感を伴わない。
 おそらくは、心臓を一突き。そのわりには飛散した血液の量は少ない。
「…あいつを追って、アーチャー、キャスター。
 こっちは顔を見られたのよ、あいつのマスターくらい把握しておかないと割に合わない」
 アーチャーとキャスターはすんなりとその言葉に従った。
「…姉さん、この人を弔いましょう」
 いつの間にか私の横にいた桜。その瞳は酷く酷薄に見えた。
 彼女は既にこの男の死を許容している。私にはその冷静さが羨ましい。
「…ええ、そうね。せめて看取るくらいはしてあげましょう。
 ……まったく、偽善もここに極まれり、ね」
 制服が血に汚れると面倒だから、膝を曲げてしゃがみこむ。
 スカートを手で押さえて、膝を抱えるようにして彼の顔を覗きこむ。
 月明かりにすら見放されて、闇に沈んだ男の顔が視界に入る。
 はっきりとそれを捕らえたとき、一瞬、何も考えられなくなった。
「……やめてよね。なんだって、アンタが」
 …じっとりと滲んだ汗は、彼が最後の最後まで足掻いた証拠だろう。額には一際大きな水滴が幾粒か浮かんでいる。まるで、誰かが彼の死を悼んで流した涙みたいだ。
 その表情は、今まさにこの世から消え去ろうとしていることが信じられないくらい穏やかだった。
 苦痛など感じていないのだろうか?いや、それは有り得ない。仮に苦痛を感じていなかったとしても、この表情からは死の気配など感じ取ることは出来ない。これはまるで………。
「いやあああああ!せんぱいいいいい!」
 桜が、この男の作った血溜まりの中に飛び込む。
 ぱしゃり、という水音が、ただでさえ薄かった現実感をさらに希薄にしていく。
「なんで?なんでせんぱいがここにいるんですか?ねえ、なんでですか!?」
 …キャスターを行かせるんじゃなかったな。
 桜の絶叫を聞きながら、心のどこかで冷静に考える。
 お気に入りのコートに手を突っ込む。
 指先に感じたのは硬質な物質の存在。そして、それの中に渦巻く常識外れの魔力の渦。
 さて、どうしようかな。
 そう考えて、それから苦笑した。
 これを手に取った時点で、私の考えは決まっている。ならば、これ以上の逡巡は事態を悪化させるだけだ。
「桜、どきなさい」
 半狂乱に取り乱していた妹が、顔をくしゃくしゃにして振り返る。
 ああ、私の自慢の妹をこんなに泣かしてくれちゃって。
 これで生き返らなかったら、恨むわよこのトウヘンボク。
「ねえさん、ねえさん、せんぱいが、せんぱいがぁ…」
 ああもう、私は本当に甘い。
 だって、桜がこんなに泣いているのが、こんなにも我慢ならないのだ。
 それに、ほんのちょっとだけ。
 こいつが死ぬのも、気に入らない。
「時計塔の試験の前哨戦、そう思えばちょっとはもったいなくない、かな?」
 嘘だ。
 とっても、もったいない。
 この貸しは、とってもとっても高くつくわよ、衛宮君―――!



[1066] Re:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d8c1beb4
Date: 2007/08/24 22:22


 火事があった。
 たくさんの人が死んだ。
 それだけのこと。
 一年間に一回は、世界のどこかで起きて、
 十年後には世界のどこかで、そんなこともあったね、といわれる。
 そんな出来事。
 ただ、私は死ななかった。
 ただ、それだけのこと。

 夢をみた。
 不思議な夢だった気がする。
 それ以上のことは覚えていない。
 この思考それ自体も、一時間後には失われているだろう。
 夢の記憶とはそういうもの。
 いつもはそれがありがたい。
 なぜなら、私が見る夢の大部分は悪夢といわれるものに分類されるからだ。
 原因はわかっている。
 それは常にこの身を蝕む罪悪感。

 あの子は本当に死ぬべきだったのか。
 あの子を助けることができたのは、私だけだったのに。
 ならば、死ぬべきだったのは私なのではないか。

 自分は生きる価値のある人間なのか。
 あの子を助けることができなかった、私なのに。
 ならば、私に生きる価値などないのではないか。

 この考えを聞けばほとんどの人はそれを否定するだろう。
 もしかしたら、その自分勝手な考えに怒りを覚える人もいるかもしれない。
 姉代わりだったあの人は間違いなく激怒する。
 激怒して、暴れて、説教をして、
 最後には優しく抱きしめてくれるだろう。
 私にはそれが許せない。
 もちろん、優しい姉代わりの人がではない。
 そんな甘えに満ちた妄想を心地よく思ってしまう自分が、である。

 耳を閉ざせ。
 決意が鈍る。
 目を開くな。
 惑わされるぞ。

 この身は罪の具現。
 この生は贖罪。
 穢れに満ちた人生ならば、
 せめて誰かの人生の露払いに。
 それだけが私の願い。



 episode1 日常風景


 夢を見ている。
 これは夢だ。それ以外では在り得ない。
 だって、何も聞こえない。
 建物が崩れていく音も、燃え盛る炎の音も、断末魔の悲鳴も。
 きっと、あの時の夢。
 死んでゆく街を、あても無く歩いて、やがて彼と出会う。
 俺の人生が彼と出会ったことで始まったとするならば、これは多分前世の記憶。
 空気は肺を焼き、光は目を焼いた。
 動かない体。主人を失った四肢。
 だからだろうか、感覚が酷くあやふやだ。
 まるで、自分が自分じゃないような感覚。
 夢だから仕方ない、そう言ってしまえばそれまでなのだが。
 体が動かないのに、風景だけが動いていく。
 自分の後ろから、自分を見ている、そんな感覚。
 無音声の映画のように流れていく風景の中で、一度だけ、名前を呼ばれた。
 そんな、気がした。
 多分、気のせい。

 夢を見ている。
 これは夢だ。それ以外では在り得ない。
 だって、世界が漂白されている。
 白いシーツ、白い壁紙。窓の外は白い青空、話しかけてくる白い看護婦。
 無彩色の世界の中、ただ一つ色を持った存在が語りかけてくる。
 よれよれのダークグリーンのコート。
 しわくちゃのスーツ。
 ぼさぼさの黒髪。
 ところどころ剃り残しのある無精髭面。
 誰よりも知っている、見知らぬ男が問いかける。
「やぁ、士郎君、思ってより元気そうだね、よかった」
 ああ、それは、ぼくの、なまえ。
「あらためて、はじめまして、士郎君」
 しろう?シロウ。士郎。
 ああ、そういえばそうだ。
 思い出した。
 全部、何もかも、自分の名前すら忘れてしまったのだ。
 なにせひどい火事だった。
 幼子は命の代わりに己を忘れた。
 失われた記憶。戻らぬ家族。
 その事実を思い出した。
 でも、大丈夫。
 彼が名前を呼んでくれるなら。
 そして、幼子は救われる。
 彼の言葉に救われる。
「率直に訊くけど。孤児院に預けられるのと、初めて会ったおじさんに引き取られるの、君はどっちがいいかな」
 
 夢を見ている。
 これは夢だ。それ以外では在り得ない。
 だって、目の前に切嗣がいる。
 彼は、なんだか疲れたような顔で、月を見上げている。
 彼の視線の先には満月。
 本当はどうだったのか、わからない。
「僕は正義の味方になりたかったんだ」
 知ってるよ、爺さん。
「でも、だめだった。正義の味方は期間限定で、大人になると、名乗るのが難しい」 
 そんなことはない。
 あなたは、いつだって、俺の理想だった。
 だから。
 あなたの理想は、俺が。
「ああ、安心した」
 彼は、静かに、眠るように息をひきとった。
 縁側から見上げる月。
 それは、涙で滲んで。
 酷く歪な真円だった。

ぼんやりとした思考が深い眠りから浮かびあがる。
 遠くから聞こえるカブのエンジン音。
 近くから聞こえる小鳥の囀り。
 ああ、もう朝が来たんだな。
 胡乱な意識の中で、ぼんやりと思考する。
 睡眠と覚醒の狭間の一瞬。至福のとき。
 土蔵の小さな窓から差し込む優しい曙光。
 例年に比べ暖かいとはいえ、それでもやはり身を縮こませるような空気。
 首筋に纏わりつく冷気に顔を顰め、毛布を顔までたくしあげる。
 もう少し寝てしまおうか。別に部活をやっているわけではないし、時間にはまだ余裕があるはずだ。
 ただ、何か忘れている気がする…。
 ………。 
 ……。
 …。
 あ。
 そう思った瞬間、背骨にツララを突っ込まれたような悪寒がヒュプノスの優しい手を振り払った。
 今日は桜が来る日だ。
 脳は睡眠を、体は休息を求めているようだが、これ以上寝ていると桜に起こされることになるだろう。それだけは避けなければ、冗談抜きで命にかかわる。主に精神的な。
「あの時はひどかった」
 急いで毛布を片付けながら、そうひとりごちた。

 あれは去年の春先のことだったか。
 自らの不注意で片腕に怪我をしたあの日。
 炊事、洗濯、虎の世話。
 短くはないだろう、しばらくの間の片腕生活を思って途方に暮れていたとき。
「私がお手伝いに行きます」
 そういってくれた後輩には後光が差して見えた。
 彼女が新人歓迎合宿の昼食に作ってくれたシチューは絶品であり、彼女が掃除当番の翌日の道場には塵ひとつなく、他のどの部員よりも細かいことに気がついた。
 性格は暖かく、学業の成績も上々。
 そして何より彼女は美しい。ミスパーフェクトといわれる学園一の才女と並んでもおさおさ見劣りはしないほどだ。
 しかも、それはいまだ発展途上にあり、来年にはミスパーフェクトの『非公認、穂群原学園彼女にしたいランキング』三年連続一位の快挙を阻むのではないか、と噂されている。
 桜に世話をされる幸運を男子部員の誰もが羨んだ。かくいう俺も、その時は怪我をしたことに感謝さえしたものだった。

 桜が家にやってくるまでは。

 細かい事は思い出したくない。
 簡潔に結果だけを書き記そう。
 彼女が初めて家にやってきた、その日のうちに、俺の女性に対する嗜好の詰まったパンドラの箱は暴かれ、本、DVD、その他もろもろの災厄、全てがぶちまけられた。神話との違いは唯一つ、箱の中には一片の希望も残っていなかったことだけだろう。
 ちゃぶ台の上に堆く積まれたコレクション。
 桜は、奉行所で裁きを待つ罪人よろしく正座の姿勢で固まる俺の前で、じっくりと、1ページ1ページそれらを吟味して、最後に一言。

「先輩ってかわいいんですね」

 不潔と罵られるなら耐えられた。
 気にしません、と気を使ってくれるならどれだけ有難かったか。
かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。
 頭の中で、悪魔が踊る。男としての矜持、覚悟、先輩としての誇り、威厳。それらをなんとなくなぎ倒しながら。
 ああ、神様。おれは確かに罪深い人間です。しかし、ここまでの報いを受けなければいけないほどの何かを犯してしまったのですか。
 目の前で、あくまが哂う。
 くすくす笑ってごーごー。
 そんな幻聴を耳にしながら、俺は見えない鎖が首に巻きついていることを自覚した。

「失礼します、先輩」

 まだ薄暗い朝の光とともに、優しい響きの声が土蔵の中に飛び込んできた。
「おはよう、桜」
「なんだ、もう起きてたんですね。もう少しゆっくり寝ていていいんですよ。時間にはちゃんと私が起こしてあげますから」
 最上級の笑顔を浮かべながら、桜が言った。何も知らない人が見れば天使の微笑みにしか見えないだろう。
 起きたばかりの太陽に照らされる、彼女の黒髪。俺を映し出す、青玉の瞳。
「じゃあ一つ聞くけど、あと一時間俺が起きるのが遅かったら桜は何をするつもりだったのかな」
 俺に許された最大限の抵抗である小さな皮肉に対して、うーん、と腕を組みながら、少し目線を遠くにむけて桜は考える。
「聞きたいですか」
 にやり、と。
 先ほどの天使の微笑みに、余人でもはっきりとわかる『堕』の文字を加えて桜が哂う。
 ああ、親父、俺の行動は間違いじゃなかったよ。
「いや、いいです」
 自分の死に方を好き好んで聞きたがる奴はいないからな。


「おっはよー、しろー、お姉ちゃんが朝ごはんを食べにきてあげたよー。今日のおかずはなっにかっしらー♪」

 玄関からいろんな意味でありえない叫びが聞こえる。
 朝早く、教壇に立ついい歳をした聖職者、しかも女性が、年下の男性、しかも教え子に対してこんな台詞を叩きつける家庭がここ以外日本のどこに存在するのだろう。もし存在するなら俺は心底同情する。
「うるさいぞ、藤ねえ。何時だと思ってんだ。曲がりなりにも教師だろ、模範になれとはいわないけど、反面教師になるのはどうかと思うぞ。あと、別に女性が料理を作れなければいけないとは思わないけど、年下の、しかも男が毎朝料理を作ってるのに何か思うところはないのか」
 一息でそう言いきると、うがー、と吼える虎を無視して食卓へ向かう。
 台所ではくすくすと、本当の天使の微笑みを浮かべた桜が、料理に最後の仕上げを加えている。
 なんだ、俺は今、幸せなんじゃあないか。
 胸と一緒に、手の甲がちくりと痛んだ気がした。


「最近物騒だからねー、士郎も桜ちゃんも気をつけてね」

 時間ぎりぎりまで桜と俺の合作に舌鼓を打っていた藤ねえは、そんな台詞を玄関から投げつけた。
 生活態度は無茶苦茶なところのある藤ねえだが、そんなところはしっかり教師である。だからこそ多くの生徒に慕われるのだろう。ただうるさくて面白いだけの教師に人望が集まるほどウチの学校は甘くない。
「確かに最近は何かおかしい気がするな。通り魔にガス漏れ。マスコミが騒ぎすぎって訳でもないみたいだし」
 テレビを見ながらそう呟くと、
「そうですね。部活も早く終わるように言われてます。喜んでる子もいますけど、試合が近いのに練習ができないのは、私は残念です」
 朝錬の準備をしながら桜が答える。
 自分はすでに関係者ではないが、一生懸命な元後輩をみると思わず頬が緩む。
 そんな俺を見ながら、パン、と手を顔の前で合わせて桜が一言。
「そうだ、先輩が現役復帰すればいいんですよ。
 そうすれば先輩と美綴先輩、私とあの子で地区大会くらいは圧勝できますから、夜遅くまで練習する必要はなくなります。
 どうですか、ここは可愛い後輩達の安全を守ると思って」
 さも名案、というふうに輝く視線が痛い。
「やめてくれ、何を言われても、もう弓をとるつもりはないよ。その話は昨日もしたばっかりだろ」
 手をぶんぶんと振りながらそう答える。
 桜と美綴はいまだに俺を弓道部に戻したいらしい。その気持ちは嬉しいのだが、度が過ぎると正直迷惑に思うことがある。


 こんなことがあった。
 ある朝、今日と同じように桜と俺がじゃれあっていたのだが、お互い熱くなり過ぎたのか、知らぬ間に朝錬が終わる時間になってしまっていた。しかも、大会直前のその時期、運悪く練習は全員強制参加だった。
 将来の部長候補である桜の無断欠席に怒り心頭の現部長、美綴綾子は全部員の前で桜を叱責した。
「今日は何で休んだんだ、電話の一本もいれずに。今が大会前の大事な時期だってわかってるだろ」
 俺も原因の一部である。火に油を注ぐ羽目になることは覚悟しつつも、それらを全てかぶるつもりで桜と一緒に謝りに来たのだが、美綴は俺の存在に気がつかないほど怒っていた。
「黙っててもわからないだろ。何で休んだんだ。それとも人に言えないような理由なのか」
 言いすぎだ。
 確かに無断欠席は褒められた事ではないが、ここまで言うほどのものでもないだろう。
 このままでは二人の関係が悪化する、そう考えた俺は口を開きかけたが、その時。
「衛宮先輩に、弓道部に戻ってくれるように説得してました」
と、消え入りそうな声で桜が言った。
そして、それを聞いた美綴が一言。

「そうか、なら仕方がない」

 その一言であっさり事態はカタがつき、部員は桜も含めて、唖然とする俺がいないかのように練習を再開した。
 『なら仕方がない』事件として一部の人間の間で有名になったそれは、美綴と桜の俺に対する執着を象徴する出来事として語り継がれているようだ。

 なおも俺を説得しようとする桜。口を開きかけたが、それが固まる。その顔は今の今まで微笑みを浮かべていたことが嘘のように真っ青だ。
「先輩、それ」
 桜の視線を追うと、自らの手の甲にたどり着いた。
 そこには、複雑な意匠の痣が浮かび上がっていた。

 それから桜は何も話さなかった。黙々と準備をして、いってきます、も言わないで朝錬へ向かった。
「何だったんだ」
 そう呟きながら学校へ向かう。
 アスファルトで舗装された、通いなれた通学路。
 やはり朝の空気はまだまだ冷たい。行きかう人の吐く息も自分と同様に白い。
 この空気は嫌いじゃない。
 そう思う。
 夏の身を焦がすようなそれも嫌いではないが、冬の肌を引き締める空気には及ばない。
 友人は夏は暑いから嫌いだという。冬は寒いから嫌いだという。それが俺には理解できない。
 これが暑いのか。
 あの赤い空に比べれば、それは小春日和。
 これが寒いのか。
 あの黒い雨に比べれば、それは秋の微風。
 だらだらと続く下り坂を一人単調に歩くと、くだらない思考が頭を支配した。
 こんなことではいけない。
 今の境遇に不満を抱くことなど、あってはならない。
 それはあの日、俺が救えなかった人々に対する重大な侮辱だ。
 それと同時に、現状に甘んじることも許されない。
 それはあの日、俺が見捨てた人々に対する裏切りだ。
 自分はあの日、正義の味方に救われた。
ならば自分も、みんなを救う正義の味方に。
 それだけが、俺の願い。

 校門をくぐると眩暈がした。
 学校の敷地を境にして、内と外で空気の質が違う気がする。
「疲れてるのかな」
 昨日はバイトと鍛錬で体を酷使してしまったし、今朝は桜が来るのでいつもより早かった。
 ならば、それこそ仕方ない。
 気を取り直して歩く俺の前に一人の女性の姿があった。

「おはよう、代羽シロウ 。今日は朝錬サボりか」

 眩い朝日に照らし出されたのは、濡れた黒絹のようにしなやかな、しかし光の具合によっては赤紫がかっても見える神秘的な美しい長髪。
 数少ない俺の友人、その妹は、振り返って微笑みを浮かべながらこう言った。

「今日もサボり、です。
 おはようございます、衛宮先輩。今日も能天気そうでなによりです」



[1066] Re[2]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆1a77d900
Date: 2007/05/06 01:19

 私は、今、生まれた。

 黒く、温かな液体の中を漂っている。
 浮上しているのか、沈下しているのかは解らない。
 そもそも、この空間では上下左右すら無意味だ。
 あるのは黒、黒、黒。
 光が射さないから黒いのか、液体自体が黒いのかは不分明だが、少なくとも不快ではない。それどころか、心は安らかだ。気分はいい。
 とても暖かで、とても綺麗だ。
 まるで母親の羊水に浸かっているような、そんな心地。
 もし天国という場所が存在するならば、それは此処のことをいうのだろう。
 私は長い間、此処でまどろんでいた。
 私は発生した時、此処にいた。そして、今も此処にいる。
 つまり、私という個体が認識し得る全ての時間がこの空間に刻まれているのだ。
 果たして、それが一般に長いと呼べる時間なのか、瞬きほど一瞬なのかは解らない。
 とにかく、私の主観においては永劫と呼べる時を、独り此処で過ごした。
 そのうち気付いたことがある。
 此処にいるのは私だけではない。
 息遣いは感じられないし、当然その姿は確認できないが、たくさんの同胞がいる。
 最初は私だけだった。それは間違いない。
 いつの時点で此処が共有されたのかは主であったはずの私も知らないが、特に不都合はなかった。
 伝わってくる気配。
 荒々しいモノ。落ち着いたモノ。
 頭のよさそうなモノ。キグルイとしか思えないモノ。
 暖かいモノ。冷たいモノ。
 色々なモノが私を取り巻いていた。
 それでも、私はやはり安らかだった。
 なぜなら、この世界は広い。
 その住人が少々増えたところで何の不都合があるだろう。
 むしろ、賑やかなのは歓迎だ。
 本当に安らかで、心地よい所だが、静かすぎるのには辟易していた。
 これで何か光でも見えればいうことはない。
 そんなことを考えていると、一瞬、ほんの一瞬だけ、何かがこの空間を照らしだした。
 本当に?
 私は狂喜した。
 やはり此処は天国だ。
 きっと神が私の願いを叶えてくれたのだ。
 ならば、もっと願おう。
 私は、この光がもっと見たい。



episode2 風景変換

 彼女と初めて会ったのは3年前のことだ。
 友人の家に招かれた際、妹として紹介された。
 彼に妹がいるという話は聞いていなかったので、非常に驚いたものだ。
 長い間、ヨーロッパに留学をしていて、この度帰国したらしい。
「ほら、ちゃんと挨拶しろよ。僕に恥を掻かせるな」
 いつもどおりの友人の様子に苦笑しつつ、初めて彼女と言葉を交わした。
「はじめまして、間桐マトウ  代羽シロウ です。
 衛宮先輩ですね、お話はかねがね兄から伺っております。お会いできて光栄ですわ」
 にっこりと笑った彼女は、完全無欠のお嬢様、といった風情だった。事実、慎二の家は資産家であり、その表現には聊かの誤りもない。
 彼女は俺や慎二よりも一才年下らしいのだが、その容姿には、既に完成された女性の美が存在していた。当時、俺の周りにいた女性といえば、クラスの女子か、飢えた虎くらいだったので、大変どぎまぎしたことを憶えている。
 だから、誰も俺のミスを責めることなんてできないと思うんだ。

「ああ、これからもよろしく。ええっと、シロオ・・・ ちゃん」

 その瞬間、広大な屋敷の空気が一瞬にして凍りついたのを、俺は一生忘れることができないと思う。
 俺の前には、小動物のようにがたがた震える慎二と、先ほどの表情と寸分たがわぬ完璧な笑顔のまま佇む夜叉がいた。
「あら、今のは聞き間違いかしら?
 それとも、先ほど私が自分の名前を言い間違えたのかな?ねえ、お兄様」
「いや、悪いのは衛宮だ、お前は何も間違えていない」
 脂汗を流しながら、それでも辛うじてそう答える慎二を見て、俺は彼女と出会って僅か五分で超特大の地雷を踏んでしまったらしいことを悟った。
「ええ、その通りですお兄様。私は何も間違えていません。
 私の名前は、シロウ・・・シロオ・・・などという、まるで男のような名前では在りません」
 なるほど、確かにシロオという発音だと、俺の名前と同じになってしまう。
「名前には名付け親の意思が込められるものです。
 私の名前には『時代を羽ばたく』という崇高な意味がある。
 それを、出会って僅か五分でないがしろにして下さるとは思いませんでしたわ、衛宮先輩」
 その後で、最高の笑顔を浮かべた彼女が煎れてくれた塩味のコーヒーと、この世の終わりのような紅色をした唐獅子クッキーの味も、俺は一生忘れることができないと思う。
 

「慎二、最近調子はどうなんだ」

 代羽と一緒にしばらく歩いたが会話が見つからなかったので、共通の知人である友人の話題を振ってみた。もっとも慎二は俺にとっては友人、彼女のとっては兄なのだが。
「兄の調子は兄に聞けばよいでしょう。それとも兄に聞けない理由でもあるのですか。ならば嫌々お話いたしますが」
 彼女はいつもこの調子だ。とりあえず会話の中に一刺のとげを入れるのが彼女のこだわりらしい。
 顔立ちは整っていて、個人的な感想を言わせてもらえるならあの遠坂凛に勝るとも劣らないものだと思うのだが、浮いた話はおろか、同じ弓道部の桜以外、友人の一人も見たことがない。  
 肩を竦めて歩く。
 もったいないと思う。これでもっと社交的な性格をしていれば回りがほおっておかないだろうに。
「よけいなお世話です、衛宮先輩。自分の価値観ですべての人間が計れるお思いですか。増長するのもたいがいにしなさい」
 唖然として立ち止まると、少し先を歩いていた彼女が振り返って微笑んだ。
 白皙の肌。俺よりも一回り小さい華奢な体。すんなりとした体のライン。眉の少し上でまっすぐに整えられた髪形。まるで精巧な人形のようだ、と思う。
 その勘違いを正すのが、強く自我を主張する瞳。長い睫毛に飾られたそれは、大きく、黒曜石のように黒い。女性にしては太めの眉と相俟って、彼女の意思の強さを表しているかのよう。
「人がいいのはあなたの長所でしょう。
 しかし、考えが読まれやすいのはあなたの欠点です。
 自覚しなさい、そうすれば欠点は欠点でなくなりますから」
 そう言って彼女は、燕のように軽やかに自分の教室に向かった。
 そう、彼女は性格が悪いのではない。少し表現の仕方が独特なだけ。
 彼女の言い方を借りるならば、それは欠点ではないのだろう。
 俺は苦笑しながら生徒会室に向かった。今日は何件の修理の依頼がきているのだろうか。


 冬の太陽は社長の如し。
 そのこころは、ゆっくり起きて、早く帰る。どこかでそんなくだらない冗談を聞いたな、と思う。
 太陽は既に、西の空にその残滓を微かに残すだけになっていた。空の色は赤から紫に、そして黒に近づきつつある。いくら慎二に道場の掃除を頼まれたとはいえ、さすがにこんな時間に帰っては藤ねえが怒るに違いない。
「早く帰ろう」
 誰に言うでもなくそう呟くと、少し足取りを速めた。
 今日は色々あった。中でも驚いたのは一成と遠坂の舌戦だろう。桜から猫かぶりの話は聞いていたが、その状態であれなら、その本性はいかばかりか。
 弓道場の門を閉め、校舎伝いに校門を目指す。
 事件の影響だろう、どこにも人の姿は見えなかった。子供ならばある種の怪談を思い出して足を竦ませてしまうかもしれない、そんな雰囲気だ。
 俺は魔術の世界に片足を突っ込んでいるが、幽霊がいると思ったことはない。
 存在することは知っている。だが、その存在を信じることはできない。
 もし幽霊がいるならば、俺は真っ先に呪い殺される。
 あのとき、俺は彼らを見捨てたのだ。
 言い訳なら無限にできる。
 子供だったから。自分が生きるためだから。怪我をしていたから。
 だが、そんな言い訳で死者が納得するはずがない。

『せめてこの子だけでも』

 崩れ落ちた瓦礫に下半身を押しつぶされ、血を吐きながら我が子の命を案じた母親。
 俺は、自分が生きるために母親も、その子供も見殺しにした。
 しばらく歩いた後で、背後から建物の崩れ落ちる鈍い音が聞こえたのを覚えている。きっと、あの子は無念の叫びもあげることができないまま、天に召されたのだろう。
 彼らが俺を赦すはずが無い。
 しかし、俺はのうのうと生きている。
 ならば、この世に幽霊などいない、ということになるではないか。
 いや、もしかしたら俺は幽霊がいることを望んでいるのかもしれない。
 もし、あの時の人達が化けて出たなら、俺は額を地面に擦り付けて許しを請うことができる。
 謝罪とは、贖罪とは、罪を許す存在があって初めて成り立つ行為である。殺人が古今東西をとって最も重い罪である理由の一部もそこにあるのではないか。なにしろ、罪を許す存在が既にこの世に無いのだから、その罪は永久に許されることは無い。それに比べれば呪い殺されることすら一つの救いだ。
 だから俺は永久に許されない。
 作り物の神ならば俺を許してくれるだろう。
 しかし、それは他ならぬ俺が許さない。
 軽い気持ちで懺悔をすれば、あなたの罪は許される。そんなファーストフードみたいな神様がこの世にいてたまるものか。

 危ない。
 またこの思考だ。
 この思考は俺を殺す。
 誰かが隣にいるときならまだしも、今は投影したナイフで手首を切っても止めてくれる人間は誰もいない。
 俺の命はこんなところでドブに捨てていいほど軽いものじゃあない。あれだけたくさんの人を死なせて、切嗣に救われた命なのだから。
 金属を擦り合わせるような音が聞こえたのはそんなときだった。
「何だ」
 振り返って音源を捜す。
 意識を耳に集中する。そうすると、金属音の他に何かが爆発する音が混じっていることに気がつく。
 どうやら、音はグラウンドの方から響いてくるようだ。
 心のどこかで激しく鳴らされる警鐘を無視して、俺は音源に向かった。
「なんだ、あれは」

 その時俺が見たのは三人の人間。いや、正確にいうならば人の形をした何か。
 一人は赤い外套を纏って両手に短めの剣を持っている。白と黒のそれらは二振りで一つの武器なのだろう、全く同じ形状をしていた。
 一人は血に濡れた様に赤い槍を持つ、青い皮鎧を身につけた男。その動きは三人の中でも際立って速く、明らかに人のそれの範疇を超えていた。
 一人は紫のローブを纏った人間。他の二人よりは一回り小さい体格で、もしかしたら女性なのかもしれない。宙を舞うそれの手からは、絶え間なく光弾が撃ちだされている。
 どうやら赤い外套の男と紫のローブの女性が、青い皮鎧の男と戦っているようだ。金属音は赤い男の双剣と青い男の槍が奏でる音で、爆発音は紫の人型が放つ光弾によって生みだされていた。
 しばらくの間、白痴のようにその光景を見ていた。
 おそらくは人ならぬ人型が演ずる武の宴。こと、武道に僅かな期間であっても身を置いた人間にとって、それは無視できるものではなかった。
 そのうちに気がついたことがある。
 まず一つは、2対1の不利にも関わらず、青い男は赤い男と紫の人型に対してほぼ互角の戦いができているということ。
 そしてもう一つは、先の理由にもなるのだが、赤い男と紫の人型との間に全くといっていいほど意思の疎通が図られていないことだ。
 おそらくは共闘するのが初めてはなのだろう、お互いの呼吸が絶望的にあっていない。これでは数の有利を活かしきれるはずもない。
 しばらくの間、膠着状態が続いた後、二つの陣営の間で一言か二言、言葉が交わされた。残念だが読唇の心得は無いので、果たしてどんな会話があったのか知ることはできない。
 しかし、停戦の合意がなされたのではないことだけはわかった。青の男の槍に今まで以上の禍々しい魔力がこめられたからだ。
 死ぬ。確実に死ぬ。いまからあの二人が何をしても結果は変わらない。
 赤い男か、紫の人型か。そんなことは些細な問題だ。死ぬ。俺の前で、人の、かたちを、したもの、が、しぬ。しぬ。死。

「やめろっ」

 
「馬鹿か、おれは」
 校舎内を走りながら、様々な思考が一瞬で脳内に展開される。
 あの三体に勝てるのか、俺が。
 無理、絶対に無理。
 逃げ切ることさえ難しいだろう。
 これじゃ遠回しな自殺だ。何が切嗣に救われた命だ。結局俺はこんなところで死ぬのか。
 今日の晩飯は何にしようか。挽肉が残ってたからハンバーグとサラダかな。
 俺が死んだら桜は悲しむな、出来れば死にたくない。
 考えを読まれるな、か。敵に自分の居場所を知らせた、なんて言ったら彼女はどんな言葉で俺を罵るだろう。
 駄目だ、俺は今混乱している。こんなことでは生き残れるものも生き残れない。
 息があがる。
 足がもつれる。
 体内に残された貴重な酸素を脳細胞へ。
 まず、自分に出来ることを考えろ。
 格闘技。切嗣に習った。街の不良くらいならよっぽどのことがないと負けないレベル。
 駄目だ、話にならない。
 魔術。強化と解析、手慰み程度の投影。強化はともかく、他は戦力になるレベルじゃない。なら、武器になる何かを探して、それに強化を施して、それから。
「ずいぶん遠くまで逃げてきたじゃねえか」
 耳元から薄ら寒くなる台詞が聞こえた。
 きっとこれは死神の囁きだ。
 慣性に逆らって、体を強引に敵の方へ向ける。
 それと同時に胸を冷たい何かが貫いた。

 冷たいリノリウムの床に寝転がる。
「はっ、ぐぅぅ…」
 笑えるほど無様な呻き声。
 一瞬遅れてそれが自分の唇から漏れ出したものだと気がつく。
 駄目だ、立てない。
 四肢の先から力が抜けていく。
 音が遠くなる。
 視界が狭まっていく。
 なるほど、これが死か。
 槍で心臓を一突きされた割には、驚くほど痛みは少ない。せいぜい慎二に思いっきりぶん殴られた程度だ。もしかしたらあの青い男が何かしたのかもしれない。
 出来れば、まだ死にたくない。
 せめて一人、自分を救ってくれた切嗣に報いるためにも、誰か一人を助けたかった。これでは切嗣の死が、あの尊い死に様が無駄になる。それは例えようも無い恐怖だった。
「でも………間違って…ない…」
 残された僅かな力で呟く。自分に言い聞かせるように、或いはこの場にいない誰かに伝えるように。
 事実、もしあの時人型の死を見過ごしていれば、自分は助かったかもしれない。
 しかし、その後、果たして俺は切嗣に報いる人生を送ることができただろうか。
 己を蔑み、外道として生きるか。
 自らの力の無さを嘆き、命を絶つか。
 いずれにしても今の自分が死ぬことに変わりは無い。
 ならば、あの人型を救えただけでも僥倖とするべきなのだろう。
 そんなとりとめも無いことを考えていると、遠くから足音が近づいてくるのが聞こえた。 どうやらお迎えが来たらしい。
足音は耳のすぐ傍で止まった。
 これで終わりか。
 そう考える俺の頬に触れたのは、冷たい死神の鎌ではなく、暖かい指先だった。
 死神が呟く。
 その声は、死を司る神のものとは思えないくらい穏やかで、何より弱々しかった。
「人は普通、長所によって成功し、欠点によって破滅する。
 でも、あなたは長所によっても欠点によっても死を義務付けられていた。
 それが……哀れといえば哀れ」
 どこかで聞いたことがある震える声が、朦朧とした意識の中に響く。
 額に、暖かいような冷たいような、不思議な液体の感覚が残る。
 身体の緊張が解れていく。
 これから死に行く身としては、きっと考えられないほどの贅沢だ。
「安心しなさい、衛宮士郎。あなたの呪いは私が引き継ぎます」
 その声を聞いた直後、俺の意識は闇に溶けた。
 だからその後に聞こえた声は全て夢。
 泣き叫ぶ桜の声も、それを叱咤する遠坂の声も。

 



[1066] Re[3]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆1a77d900
Date: 2007/05/12 07:46
 その子供を初めて見たのは、時計塔の近くの路地裏だった。
 本来なら、私はそんなところを通ることはないが、何か面白いものでも見つからないか、と思って気紛れを起こしてみたのだ。
 派手な格好で男を誘う女の群れを無視し、下卑た笑いを浮かべて近寄ってくる男達を叩きのめし、私は失望した。私の勘も外れることがあるらしい。
 次の角を曲がったらまっすぐ帰ろう。そう思って歩いた。
 そうして、私は彼を見つけた。
 彼は何かを食べていた。唇に紅を引き、本当に幸せそうに。
 傍らには軟骨を齧り、髄を啜った骨が堆く積まれていた。
 真っ赤に染まった両手と、死体のように青白い肌とのコントラストが毒々しい。
 死徒の類かとも思ったが、どうやら辛うじて人間のようだ。
 私は興味を持って、彼に話しかけた。
「あなたは、何故そんなものを食べているのですか」
 彼は嬉しそうに目を細めて、こう言った。

 オオキクナリタイカラ。

 なるほど、確かにたくさん食べないと人は大きくなれない。当たり前の理屈だ。私はおおむね納得した。
「邪魔してごめんなさい。どうぞごゆっくり」
 子供は嬉しそうに微笑むと、手に持った人間の頭部に噛りついた。
 変わった子供がいるものだ。
 私は自分の勘が外れなかったことに微かな満足を覚えつつ、少し遅めの帰路に着いた。

episode3 帰宅途中

 ぶん、と。
 意識のスイッチが入った。
 夢を見ていたようだ。
 果たして、どんな夢だっただろうか。
 ほら、すぐに思い出せるはずなのだ。喉の先まで出てきている。ええっと、なんだっけ…。
 ずいぶん遠くまで逃げてきたじゃねえか人は普通長所によって成功し欠点によって破滅するでもあなたは長所によっても欠点によっても死を義務付けられていたそれが哀れといえば哀れ姉さんこの人を弔いましょうええそうねせめて看取るくらいはしてあげましょうまったく偽善もここに極まれりねやめてよねなんだってアンタがいやあああああせんぱいいいいいなんでなんでせんぱいがここにいるんですかねえなんでですか桜どきなさいねえさんねえさんせんぱいがせんぱいが時計塔の試験の前哨戦そう思えばちょっとはもったいなくないかな帰るわよ桜ありがとうございます姉さん―――。
 あ、そうだ。
 ぴかん、と。
 頭の中で、漫画みたいに明かりが灯ったその瞬間。
 死ぬほどの吐き気と、猛烈な咳気が俺を襲った。
「がはっ、ごっ、げほ、ごほ、ごほっ!」
 まずい
「げほっ、げほ、げほ、げほ、げえっ!」
 こきゅうが できない
「うええぇっ、がは、がっ、が、が、ぎ…」
 さ んそ が
「………ひゅうぅぅぅ、がはっ!ごほっ、ごほっ!」
 駄目だ。
 やっとの思いで吸った気体が逃げていく。
「がっ!がはっ、ごほごほごほっ、ごほっ!」
 何を吐き出そうとしているのか、身体が尋常ではないほどの拒絶反応を示している。
「ごほ…ひゅうぅぅ、…ごほ…かはっ…」
 それでも、何とか落ち着いてくれた。
「ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ」
 喘ぐように、貪欲に酸素を取り入れる。
 普通に呼吸が出来ることにこの上ない快楽を感じる。
 健康は失って初めて大事だと気付く。
 使い古されて、既に誰にも感銘を与えることのなくなった当たり前の言葉を噛み締める。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…」
 どんな嵐よりも荒れ狂っていた呼吸が、なんとか正常に近づいていく。
 メーターを振り切っていた心拍数も、ようやくローギアへのシフトを認めてくれたようだ。
 身体の緊張が解れていく。
 知らぬ間に胎児みたいに丸まっていた身体を伸ばし、大の字に仰向けになる。
 人工的な明りの存在しない空間、無機質な天井、皮膚を切り裂く冷たい空気、背中に伝わる濡れた感触、咽返るような鉄の香り…。
 徐々に、意識を失うまでの出来事がフラッシュバックされていく。
 掃除。
 戦闘。
 制止。
 逃亡。
 急襲。
 紅い槍。
 冷たい感触。
 暖かい感触。

 死。

 ああ、そうだ。
 俺は、殺されたんだ。
 胸を貫かれて、殺された。
 そう考えると、妙に乾いた笑いが込み上げてきたが、それは頬に嫌な歪みを作っただけでその役割を終えた。
 殺されて、目が覚めたときに最初に考えたのが、さっき何の夢を見たか、か。
「くだらない」
 吐き捨てるように呟く。
 よっ、と。
 勢いをつけて起き上がり。
 そのまま、吐いた。
「おええぇぇっ!」
 吐瀉物が廊下を汚していくが、そんなこと気にしている余裕はない。
 神の前に頭を垂れる罪人の様に蹲って、胃液を吐き続ける。
「げえ、げぇえ!」
 胃酸が喉を焦がしていく。
 痛みというよりは熱さ。
 その熱が、何よりも自分の生を実感させてくれた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
 …どれくらい時間がたったのか、ようやく胃の痙攣も収まった。
 口の中に残った反吐を、唾と一緒に吐き出す。
「ちくしょう、夢じゃ…」
 ないのか。
 槍。
 紅く、濡れたように妖しく輝く穂先。
 脳に錐を打ち込まれたような、冷たい声。
 怖かった。
 そうだ。
 何よりもあの声が怖かった。
 なぜなら、あの声には何もなかったからだ。
 憤怒とともに人を殺すなら、わかる。
 嫌悪とともに人を殺すなら、まだ理解できる。
 歓喜とともに人を殺すなら、それでもそれは人の業だ。
 だが、あの声には何もなかった。
 憤怒も嫌悪も歓喜もなく。
 躊躇いも慈悲も躊躇もなく。
 己に課せられた義務を遂行する、その意志だけがあった。
 だから、あれは人じゃない。
 あれは、きっと化け物だ。
 冷え切った身体を無理やり起こす。
 ひどい立眩み。そりゃそうだ、なんてったって体に流れてるガソリンの量が絶対的に不足している。廃車寸前のボロ車、しかもガス欠寸前、そりゃあ言うことも聞いてくれないだろう。
 それでも何とか立ち上がる。
 背中が冷たい。制服に染み込んだ血液のせいだろう。なるほど、血潮が熱いのは体の中で流れているときだけか。
 あらためて周囲を見渡すと、思わず苦笑してしまうほど酷い惨状だった。流れ出た血は大きな水溜りを作り出し、鉄の錆びた匂いと反吐の饐えた臭気が相俟って、これは宛ら地獄絵図だ。
「間違いなく警察呼ばれるな…」
 警察が呼ばれたら、きっと部活は中止になるな。
 なら、桜が悲しむか。
「くそ、何やってんだ」
 掃除用具の入ったロッカーを漁りながら、俺は自身に毒づいた。

 暗いの住宅街を、まるで幽鬼のように歩く。
 人の気配がする度に、車のエンジン音が近づいてくる度に、鼠みたいに身を隠す。
 幸い、ここ最近続いた異常な事件のせいか、人通りは少ない。もし普通の神経をした人間が今の俺の姿を見たら、即座に110番をダイヤルすることは間違いないから、不幸中の幸いといえるかもしれない。
 足取りは重い。
 血液の抜けた体は、減少したはずの質量と反比例するかのように鈍重だ。
 引きずるように足を前に出し、真実後ろ足を引きずりながら体を前に運ぶ。
「はぁ、はぁ、っ…そったれ…少しは鍛えてたのにな」
 何も、役に立たなかった。
 筋力も、体力も、魔術も。
 あの青い男の前では、あらゆるものが無価値だった。
 火を噛むように歯軋りをする。
 もし、あの場に桜がいたら。藤ねえがいたら。代羽がいたら。
 俺は、彼女達を守れたか?
 否。
 絶対に、守れなかった。
 俺に出来るのは、順番を変えることくらいだろう。
 桜達を生贄にして、自分の死を僅かばかり先延ばしにするか。
 自分が生贄になって、彼女達に僅かばかりの生を謙譲するか。
 いや、そんな選択権すら与えられないかもしれない。
 そこまで考えて、再び嘔吐した。
「ぐえ」
 まるで酔っ払いのように、電柱に寄りかかりながら吐く。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、っ」
 くそ、とにかく今は家に帰ることだ。
 あの野郎に一発お返しするにしても、傷を癒してくれた誰かを探すにしても、今の状態ではままならない。
 とにかく家に帰って休まないと、話にならない。
 寒さと、疲れと、それ以上の何かに震える膝を叱咤して、無限みたいに続く細い路地をひたすら歩いた。
 どれくらい歩いたのだろうか。
 霞む視界が捕らえたのは、大仰な門構え。
 明りの点いていない侘しい玄関が、この上なく恋しい。
 手をポケットに突っ込み、感覚を失った指先で鍵を探す。
 開錠し、倒れるように扉を開ける。
「は―――ぁ」
 漏れたのは満足の溜息。
 そのまま床に腰を下ろし、ゆっくりと先ほどの記憶をなぞる。
「あれは、何だったんだ…」
 明らかに人ではなかった。
 もっと怖いものたち。
 直感的に悟る。この町の異常は、あれが引き起こしている、と。
 ガス漏れ、通り魔、そして失踪事件。
 それに、自分は関わってしまった。
 どうする?
 しばらく学校を休んでどこかに隠れるか?まさか半永久的にこの異常が続くわけでもないだろうし、そこまであの化け物も追ってこないだろう。安全を求めるなら間違いなくそうすべきだ。
 だが、それでいいのか。
 桜はどうなる?
 藤ねえはどうなる?
 一成は?慎二は?代羽は?美綴は?三枝は?氷室は?蒔寺は…まあ大丈夫か。
 とにかく。
 そんなの、決まってる。
「俺は」
 その時。
 からん、からん、と。
 招かれざる客の訪問を告げる、乾いた音が鳴り響いた。

 (あとがき)
 次回から本編と違う展開になるかと思います。そういったものに嫌悪感を抱かれる方は注意してください。



[1066] Re[4]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆1a77d900
Date: 2007/05/12 13:30
 
 赤は血の色、炎の色、私の髪の色。
 だから私は赤が嫌い。
 白は煙の色、骨の色、私の肌の色。
 だから私は白が嫌い。
 黒は雨の色、死体の色、私の瞳の色。
 だから私は黒が嫌い。
 青は水の色、空の色、私を救ってくれた人の色。
 だから私は青が大嫌い。



 episode4 宣戦布告 
 

 今日は本当に色々なことがあった。いままでの人生の中でも一、二を争う慌しさだ。
 朝早く起きて学校に行った。代羽と、嫌味とも皮肉とも取れる、つまらない会話をした。
同じく、慎二にも嫌味を言われた気がする。そして、弓道場を掃除して、帰路に着いた。
 ここまではいい。少し事が多いが、それでも日常の範囲内だ。
 問題はこれからだ。
 校庭で人外の戦闘を目撃した俺は、とんでもないヘマをやらかして、その片割れに殺された。
 間違いなく殺された。
 胸を馬鹿でかい槍で一突きにされてそれで生きてるなら、俺も人外の仲間入りだ。
 しかし、俺は生きている。そして、俺は化け物の類ではない、と思う。なら、どうして俺は生きているのだろう。
 首を捻りながら、まるで言うことを聞かない体で這うように家に帰ると、そこには例の青男が待ち構えていた。
「何の因果で同じ日に同じ人間を二度殺さなけりゃならねえんだ」
 青男はそう嘆息したが、こちらにだって一日に同じ男に二度殺される因果があるとは思えない。
 青男の攻撃をなんとか凌ぎながら、武器のあるであろう、土蔵まで逃げ込んだ。
 だが、体は既に満身創痍、武器など扱えるはずもない。結局は死ぬまでの時間を僅かに延ばしただけだったのだろうか。
「結構がんばったぜ、お前。もしかしたらお前が7人目だったのかもな」
 こちらには一つも理解できない台詞を吐くと、男は俺の胸に槍を突きつけた。
「じゃあな。恨んでくれてかまわねえよ」
 駄目だ、今度こそ死ぬ。
 大体、さっき生き残ったこと自体、奇跡のようなものなのだ。そして、奇跡はめったに起こらないからこそ奇跡といわれる。
 ならば俺は死ぬのだろう。あの槍に貫かれて。
 諦めが俺の心を侵していく。それはある意味、安息だった。なぜなら、もうあの悪夢に魘されずにすむ。
 せめて最後は穏やかに。
 そう願い始める俺の心の中で、諦観の侵食に反抗する勢力が鎌首をもたげた。 
 本当にそれでいいのか。
 お前は多くの人を見殺しにして、切嗣の理想を継いだのではなかったのか。そして、おそらくは今日も誰かに助けられたのではないか。その命、ここで諦めるのか。
 迫りくる穂先。それに対して俺は、 
「ふざけるなっ」
 全身全霊をこめて叫んでやった。
 おそらくは迫り来る濁流の前に、たった一つだけ土嚢を積むが如き行為。
 何の意味もない。そんな言葉などで槍を防ぐことなど出来るはずもない。
 しかし、それは。
「なにっ、本当に7人目だとっ」
 光の奔流が目を焼く。
 やがて、ぼやける視界に映った少女はこう言った。

「―――問おう。貴方が、私のマスターか」

 無骨な土蔵、舞台としては、それがかえって相応しかった。
 例えば、絢爛な舞踏会などは、彼女に相応しくない、そう思える。
 どんなに華美なドレスも、どんなに輝かしい宝石も、どんなに繊細なシャンデリアも、彼女の前では色褪せてしまうだろう。
 彼女は、完成している。
 ならば、外的環境は、寒々しいくらいで丁度いい。
 それほどに彼女の姿は雄雄しく、何より美しかった。

 その姿が鮮烈すぎて、それからのことはあまり覚えていない。
 今まで、見習いとはいえ魔術の修行を積んだ身で情けないと言われればその通りだが、ほとんど一般人と変わらない生活をしてきた俺にとって、脳の許容量が限界を超えてもそれは仕方のないことではないか、と思う。
 それでも、自分でセイバーと名乗った少女がランサーといわれた青男を、傷つきながらもなんとか撃退したこと。その直後彼女が玄関に向かって走ったこと。
 その彼女が向けるおそらくは剣の先に、尻餅をついた遠坂姉妹がいたことは覚えている。
 

「さて、説明してもらいましょうか」
 遠坂凛が最高の笑みを浮かべながらそう宣言する。
 一般の日本の家屋の基準からすれば決して狭くはない居間が、今は心持狭く感じる。
 それもそうだろう。現在この部屋には6人の人間がいる。
 まずは家主である俺、衛宮士郎。そして隣には、どうやら俺が召還したらしい、自らをセイバーと呼んだ少女。
 机を挟んで目の前には4人の人間が座っている。そのうちの二人は学園一の才媛姉妹といわれる遠坂姉妹。残りの二人が校庭で見かけた赤と紫の人型。俺以外の5人は、例え人数がこの半分であったとしてもこの部屋を狭く感じさせるのに十分であろう、巨大な存在感を放っていた。
「色々あってね、私、気が立ってるの。嘘とかついたら、承知しないわよ、衛宮君」
 そう、正にそれは宣言。こちらの拒否などはなっから眼中にない。もし、こちらが拒否するなら、即座に相応の手段をとる、とその目が叫んでいる。
「ちょ、ちょっと待て、遠坂。俺が知ってることを残らず話すことに依存はない。ただ、その前に教えてくれ。お前も桜も魔術師なのか」
「はあっ、何、あなた全然気付いてなかったの?」
 呆れたような視線を俺に向けた後、遠坂は桜に声をかけた。
「どういうこと、桜。彼は魔術師なんじゃないの?これじゃ、まるで只のど素人じゃない」
 ど素人。
 そりゃあ半人前だってことは自覚してるけど、おそらくは一流の魔術師であろう、遠坂に面と向かって言われると、ほんの僅かな自尊心が傷つく。
「姉さん、間違いなく先輩は魔術師です。
 それも、遠坂にも伝わっていない特殊な修練を今に伝える稀有な家系です」
 桜はそう答えた。
 これではっきりした。桜も魔術師だ。軽く眩暈を覚えたが、何故かほっとした。
 しかし、おそらくは姉ともども一流の魔術師であろう、桜が驚くような鍛錬などした覚えがないのだが。
「ちょっと待ってくれ、桜。特殊な修練ってなんだ。俺はそんな特別な鍛錬をしたことは無いぞ」
 その言葉に対して桜が噛み付いた。普段の暖かい桜の雰囲気からは考えられないような勢いで叫ぶ。
「今更嘘をつかないでください、先輩。
 私は知っています。毎晩毎晩、先輩が土蔵にこもって一から魔術回路を構築していたのを。
 普通の魔術師があんな、無駄で危険なことを敢えてするはずがありません。まして、先輩は『あの』衛宮の後継者。
 あれは衛宮に伝わる秘伝の修練なのでしょう?」
 後から思えば、強い口調は彼女が俺に対して自分を偽っていたことに対する罪の意識の表れだったのだろうが、その時俺が考えていたのは全く別のことだった。
「えっ?魔術回路って一から構築するものじゃないのか?」 
 冷たい空気が部屋を支配する。
 俺とセイバー以外の四人は異なる表情を浮かべていた。遠坂姉妹はあっけにとられたような表情を、赤い外套は苦虫を噛み潰したような表情を、紫のローブは笑いを噛み殺した表情を。
 ため息とともに、遠坂が呟く。
「はあ、なんか嘘はついてないみたいね。
 よくわかったわ、衛宮君。訂正させてもらう。
 あなたは何も知らなかった。
 そしてあなたは只のど素人じゃないわ。とんでもなく頭の悪いど素人よ」
 どうやら俺のあずかり知らぬところで、俺の評価は下がったらしい。
 なんでさ?


 今、俺たちは教会に続くなだらかな坂を上っている。
 俺の横には黄色い雨合羽を着たセイバーが、やや後ろには凛と、少し憔悴した様子の桜が歩いている。
 

 あの後は本当に酷かった。何が酷かったか、それすらもわからないくらい酷かった。
 まず、桜が泣き出した。
 大声で泣き喚く、というならまだましだった。
 彼女は糸の切れた人形みたいに動きを止めて、ただただ静かに涙を流し始めたのだ。
「ごめんなさい、先輩、私、先輩を、だましてた、それに、先輩が、毎日、毎日、死にそうに、なってたのを、かんちがいして、みすごしてた」
 消え入るように静かで、この世のものとは思えないほど虚ろな声。
 とめどなく流れる彼女の涙は、岩間から染み出す湧き水を思い起こさせた。
「ゆるして、ください、ゆるしてください、せんぱい、わたしを、ゆるして」
「大丈夫だ、俺が桜を許さないなんて、そんなことがあるものか。
 第一、無茶な鍛錬をしていたのは俺が悪いんだし、俺も魔術師だってことを桜に隠してた。お互い様じゃないか」
 そういってなだめたが、桜は一向に泣き止まない。それどころか、まるで俺の言葉が聞こえていないように謝罪の言葉を繰り返す。
「許して、許して、すてないで、ごめんなさいすてないで、すてないで」
 桜が、すがるように繰り返す。流石に、少し尋常じゃない気がする。
「桜!桜、しっかりしなさい!」
 遠坂が桜の肩を揺すりながら呼びかけるが、おそらく桜の耳には一切届いていない。
「こりゃ駄目ね」
 遠坂はそう呟くと、桜の耳元で何か呪文を唱えた。すると、さっきまでの様子が嘘のように桜はおとなしくなった。ぼんやりとした視線は相変わらずだが、その瞳からは狂気を感じさせる何かは抜け落ちている。
「おい、遠坂、桜に何をしたんだ」
「別にたいしたことじゃないわ。ちょっと強力な鎮静剤を打ったのと同じ。今は虚脱してるけど、じきに意識もはっきりするはずよ」
 ふぅ、と一息ついて、凛が言った。
「この子、昔、親に捨てられかけたことがあってね。家族を失うことを極度に恐れてるの。 あなたを監視してたこと謝るつもりは無いけど、この子を許してあげてくれないかしら」
 なるほど、それが先ほどの狂態の原因か。
「ふむ、見事な手並みだな、魔術師よ。私の生きた時代でも、これほど見事な術を施すものは多くはなかった」
 いままで黙って会話を聞いていたセイバーが口を開いた。
「しかし、そろそろ本題に入ってもいい頃合いなのではないかな。まさか、我がマスターと口喧嘩をするためにこの場を設けたのではあるまい」
 確かにその通りだ。遠坂は、話があるから家に上げろ、と言った。俺と違って、一流の魔術師の遠坂がそう言ったのだ。何か理由があるはずだ。
「あなたの言うとおりね、セイバー。まどろっこしいのは嫌いだからさくっと本題にはいるわよ。
 衛宮君、私たちと同盟を組む気はない?」


 いつ終えるとも知れない、長大な上り坂。
 それを上りきったところにその教会は建っていた。
 神の家、そう称するのに相応しい威厳と荘厳さを兼ね備えている。
 もともと外国からの移民の多い冬木の街だ、外人墓地等も含めて、こういった施設は他の都市に比べると立派なものが多い。
「一応言っとくけど、ここの神父は一筋縄じゃいかないわよ」
 凛は扉の前でそういった。
「嫌がらせを受けるのが嫌ならここで待っていてもかまわない。私だって用がなければ会いたい人間じゃないもの」
「俺がここに来たのは聖杯戦争について詳しいことを聞くためだ。俺が外で待っていてもここまで来た意味がないだろ。
 それよりも、凛。お前、ここの神父と知り合いなのか」
 凛は何かとんでもなく辛いものでも食べたかのような、微妙な表情でこう言った。
「知り合いなんてもんじゃない。
 私の兄弟子であり、師であり、後見人。
 ここまで腐れ縁が続くと、何か呪われた運命でもあるんじゃないかって、心配になるわ」
 桜、あなたはここで待っていなさい、そう言ってから凛は盛大にため息をつくと、重厚な扉に手をかけた。


「同盟?なんで遠坂がおれと同盟しなくちゃならないんだ」
 俺は、突然の遠坂の申し出に、軽く混乱しながらそう答えた。
「ふーん、そう。衛宮君はそんなに私と戦いたいんだ。よーーくわかりました、ならこの話は聞かなかったことにして頂戴」
 一息でそう言いきった遠坂は、腰を浮かせて桜の腕をつかんだ。
「ほら、帰るわよ、桜。何ぼけっとしてんの」
 いや、それは半分お前のせいだろ。
「ちょっと待ってくれ、俺の言い方が悪かった。
 俺は見ての通り素人だ。いくらセイバーがいるといっても、きっと俺は遠坂たちの足を引っ張る。なのに、なんで同盟を組むなんて申し出をしてくれるんだ?」
 俺の言葉に満足したのか、遠坂は口元に笑みを浮かべながら、浮かしかけた腰を再び落ち着けた。
「確かに衛宮君の存在はマイナス要因になり得るわ。
 でも、それを補って余りあるくらい、今の私たちにとってセイバーの存在は大きいの」
 彼女の話はこうだ。
 セイバーというクラスは基本的な能力が高く、忠実で信用が置ける。
 事実、過去に行われた聖杯戦争においてもセイバーのクラスに選ばれた英霊は高い戦果を残しているという。
 また、現在遠坂のサーヴァントであるアーチャーはセイバーの一撃で負傷しており、桜のサーヴァントである魔力以外の基本能力の低いキャスターと合わせても戦力的には心もとないらしい。
「それに、アーチャーもキャスターも、基本的には長距離からの狙撃、支援が得意だから、接近戦が得意な戦力が欲しかったのよ」
 しかも、アーチャーの対魔力は低く、彼が前衛を務めたのではキャスターが大魔術を使うことができないという。アーチャーを巻き込む恐れがあるからだ。かといって、キャスターが前線に立つのは不可能に近い。
 なるほど、だから二対一でもランサーを圧倒することが出来なかったのか。
「どうかしら、衛宮君。
 私達の同盟にはお互いメリットが大きい。私達は貴方の経験不足を補うことが出来るし、あなた達は私達の戦力不足を補うことが出来る。
 もちろん対価は支払うわ。未熟なあなたに対する聖杯戦争の知識の提供と、魔術の指導。悪くない条件だと思うけど」
 にんまりとした、チェシャ猫のような笑いを浮かべながら遠坂は言った。
 間違いない、こいつはコレクターだ。
 自分の欲しいものがあれば手に入れられずにはいられない、そんな性格に違いない。
「でも、それでいいのか」
 俺は思わず聞き返す。
「何がよ」
「いや、遠坂の話の通りに事が運んだら、ほぼ半数のサーヴァントが同盟を組むことになるだろ。ルール的にそれは問題なんじゃないのか。
 それにセイバー達は聖杯を求めて召還に応じたんだろ、聖杯を手に入れることができるのがたった一人だけなら、同盟なんてそもそも不可能だ」
 くすくすと笑いながら遠坂が答える。
「素人の魔術師さんにしては的を射た質問ね。
 まず一つ目の質問については、そんな心配をする必要はないわ。
 なんでこの儀式に戦争の文字が与えられてるかわかる?それは、どんな手段を用いても、最終的に生き残っていた者の勝ちだから。目的のためにはどんな手段も正当化される。その手段のなかには当然、同盟も裏切りも含まれるわ。
 二つ目の質問について、あなたは根本的なところで勘違いしてる。私が申し出た同盟は恒久的なものじゃない。最初から時限付のそれよ」
「時限?」
 鸚鵡返しに言葉を返す俺に、いままで見たことがないくらい真剣な顔で遠坂は答えた。
「私達の学校に外道な結界を張った馬鹿がいるわ。私はこの地のセカンドオーナーとしてそいつを許さない。
 私に手を貸しなさい、衛宮君」


 教会から出ると、俺も、隣の凛も、同時に深呼吸をした。
 あまりに清廉で、この上なく浄化された、しかし腐敗臭の漂うあの空間、その空気が肺に残っていることが耐えられない、そんな気持ち。おそらくは凛も同じだろう。
「でも、本当によかったの、士郎」
 凛が伏目がちに尋ねる。
「何がだ」
「同盟を申し込んだ私が言うのもおかしな話かもしれないけど、きっとあなたはこの戦いを生き残れないわ。私も、いざとなればあなたを捨て石くらいにはすると思う。もし戦いから降りたいなら今のうちよ」
 ああ、凛の言うことはおそらく正しい。それでも、俺は。
「正義の味方になるって決めたから」
 凛が怪訝な顔で尋ねる。
「?
 正義の味方って何よ」
 俺は凛の声とは別の方向に体を向け、何もしゃべらなかった。
 答えの返ってくる問いではないと考えたのか、凛は別のことを口にする。
「そういえば、最後に綺礼、妙なこと言ってたわね。
『お前は里親に引き取られて幸せだったか』なんて。あいつが人の幸せに興味を持つなんて、初めて見たわ」

 そうだ。あいつは最後にそう言った。
 馬鹿げた質問だ。
 あの人に引き取られて、俺は幸せだった。
 あの人の理想を継げて、俺は幸せだ。
 この気持ちに嘘偽りなどあるはずがない。

「そんなことはどうでもいいよ。とりあえず、これからもよろしくな、凛」
 あらためて手を差し出す。
「こちらこそよろしく。でも、あまりべったり私に頼るようだと、背中から蹴っ飛ばすわよ」
 俺の手を確かな力で握り返してくるそれは、驚くほど小さく、そして柔らかかった。
「しかし、名前で呼ぶのはなんか照れるな」 
 凛は少し赤くなってそっぽを向いた。
「遠坂じゃあ桜と紛らわしいから名前で、って言ったのは士郎でしょ。私だって名前で呼んでるんだからおあいこ。そっちが照れると私まで気まずくなるんだから、やめてよね」
 ああ、こいつはきっといい奴だ。その時俺は確信した。
「ねえ、お話は終わり?」 
 無邪気な、それでいてとんでもなく邪悪な、声が聞こえた。
 夜は、まだ終わってくれないらしい。

 
 異形が踊る。
 耳に聞こえぬ轟音。
 誰も気づかぬ大破壊。
 まるで、神話の一幕が、突然、現れたかのようだ。
 踊る影は四つ。

 赤い外套の射手。
 紫のローブの魔術師。
 青と銀の剣士。
 鉛色の巨人。

 そのいずれもが、人智の及ばぬ力を持っている。
 しかし、その中でも圧倒的な存在感を放っているのは鉛色の巨人だ。
 赤い外套の射手の放つ超音速の矢を無視し、
 紫のローブの魔術師の放つ神代の大魔術を歯牙にもかけず、
 青と銀の剣士を大剣で圧倒している。
 3対1の数的不利など、ものともしていない。
 このまま戦局が推移すれば、巨人の勝利は疑いあるまい。

「どうなされる、魔術師殿」
 闇夜に浮かぶ白い髑髏が、隣に立つ人影に尋ねる。
 彼のマスターは高台から戦場を見下ろして、何もしゃべらない。
「魔術師殿の許可がいただけるなら、あの場にいるマスターの二人までを討ち取ってみせよう」
 そこには、何の誇張も、少しの気負いも無かった。
 彼我の戦力、状況、それらを冷静に分析し必ず結果を残す、暗殺者の冷たい声色だけがあった。
「私は何の命令も下してはいません。出すぎたまねは止めなさい」
 暗殺者の声よりも、さらに冷たい声が響く。
「勝手に敵が潰しあってくれているのです。ここで我らが巻き込まれる必要性など、どこにもない」
 それは正論。戦術面からいえば、敵と敵を争わせておいて漁夫の利を掠め取るのは、常道であり、覇道だ。
 だから、暗殺者が不満を覚えたのは主君の命令そのものに対してではない。
 主君の意図がどこか別のところにあるのではないか、そう感じた自分自身にこそ彼は不満を覚えた。
 彼らが話している間に、戦局は決定的なものとなった。
 三人の前衛を務めていた青と銀の騎士が、凶戦士の剛剣の前に倒れたのだ。
 人であれば即死。如何にサーヴァントとはいえ、もはや戦う力は残されてはいまい。
 残りの二騎の猛攻を浴びながら悠然とした足取りで、凶戦士が青と銀の騎士に止めをささんと歩を進める。
 これで終劇か、と暗殺者は考えた。
 残りの二騎では、あの凶戦士に抗う術もないだろう。
 凶戦士は青と銀の騎士に止めをさした後、残りの二騎とそれらのマスターを葬り去る。
 ならば、私がなすべきは、あの怪物のマスター、銀色の髪をした少女の殺害。
 如何に圧倒的な戦いだったとはいえ、勝利の後には必ず気が緩むもの。
 そこを狙えば勝利は難くない。
 そこまで考えて、暗殺者は己の主君を見下ろした。
 当然、彼の考えた通りの指令が下るものと期待したのだ。
 然り、彼のマスターの口から指令が放たれる。
 しかし、それは暗殺者の期待したものとは微妙に、そして決定的に異なっていた。
「アサシン、あの化け物のマスターを殺しなさい」
 暗殺者が答える。
「承知。あの化け物が虐殺を終えた後、必ずや討ち取ってみせよう」
 暗殺者の主君が、さらに言う。
「私は、あの化け物のマスターを殺しなさい、と言ったのです。時期に制限など設けたつもりはありません。ならば、直ちに実行するのが当然でしょう」
 暗殺者は、誰にも悟られぬように驚愕した。
 おそらく、いや、間違いなく凶戦士は敵を皆殺しにする。妖艶に微笑む、あの銀髪の少女がそれを止めるとは思えない。ならば、その後で少女を葬れば、4騎の敵を一時で倒すことが叶うのだ。
 それを待たず少女を殺す理由。
 つまり彼のマスターは、この場で凶戦士に敵する何者かを救えと、そう言ったのだ。
「しかし」
「これは嘆願ではありません。命令です。聞けぬ、というのであれば令呪を使うまで」
 なかば叫ぶような声が響いたその瞬間、在りうべからざる事態が起きた。
 青と銀の騎士を助けるために、おそらくは彼の騎士のマスターであろう少年が飛び出したのだ。

 振り下ろされる豪剣。 
 突き飛ばされる騎士。
 切り裂かれる少年の体。

 助かるまい、暗殺者は自らの記憶に照らし合わせてそう結論付けた。
 辛うじて両断は免れたようだが、背骨を含む腹部のほとんどが吹き飛んでいる。
 あれで生きていられるのは、我々のような化け物か、人であることを放棄した死徒くらいのものであろう。
 彼は自らの主君を見た。
 小さな肩が震えている。もしかしたら泣いているのかもしれない。
 彼は再び戦場に目を向けた。
 そこに、鉛色の巨人と、銀色の髪の少女の姿は無かった。
 何故、確実に掴むことができた勝利を見逃したのかはわからない。相応の理由が在ったのだろう。
 それよりも彼を驚愕させたのは、死んだはずの少年だった。
 驚くべきことに、かの少年は生きていた。傷口が、時を遡るように修復していく。
 彼は考える。
 これではまるで――のようではないか。
 その時、彼の隣から、喉から搾り出したかのような、地の底から響くような声が聞こえた。
「…一晩に二度も殺される馬鹿が…どこにいるというのです」
 彼のマスターは怒っていた。どうやら、肩の震えも怒りによる硬直から生まれたものだったらしい。
「帰還します、アサシン。もはや、これ以上ここに留まる意味はありません」
 人影が踵を返す。彼もそれに従おうとした、その瞬間。
 背後から、声がした。

「何だ、もう帰っちまうのか。まだ夜は長いぜ」

 青い皮鎧、真紅の槍。
 誰が見ても、そのクラスを違えることはあるまい。
 ランサーのサーヴァントが其処に居た。
 人影は振り返って、こう言った。
「私は、いまだかつて無いくらい機嫌が悪い。今すぐ消えなさい、私の視界から」
 槍兵は皮肉げに頬を歪ませる。
「そうしたいのは山々なんだがな、人使いの荒い糞マスターが、お前らとも戦って来い、とさ。まあ諦めてくれ」
 そう言いながらも、彼は新たな強敵と矛を交えられることに、心底幸福を感じているようだ。なぜなら、闘争そのものこそが、彼が召還に応じた理由だから。
「お前らとも?」
「ああ、今日は大収穫だ。得体の知れない弓兵に、魔術師。あとは、殺しても死なない、奇妙なガキに召喚された剣士ともやりあったぜ」
 指折り数える槍兵。
 人影はその言葉に目を細めた。
 狂気な静寂に満ちた笑み。
「まずは謝罪を。先の言葉は撤回します。あなたはここに残りなさい」
 林と呼ぶには小さな藪。そこを殺意が満たしてゆく。
「次に宣告を。あなたはここで狗のように果てなさい」
 感情が欠けた様な声で、人影が言い放つ。

「さがりなさいアサシンでばんですプレディクタ」

 そう言って、人影は呪文を紡ぐ。

「Ego sum alpha et omega, primus et novissimus, principium et finis」

 青の槍兵の前で、蒼い髪が踊った。



[1066] Re[5]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:1a77d900
Date: 2007/05/14 12:13
 
 瞼を通して、微かな光が感じられる。
 どうやら、朝が来たらしい。
 それにしては、奇妙なことがある。
 どうして私は、こんなに柔らかいところで寝ているのか。
 私が眠るのは、いつも湿ったコンクリートの上なのに。
 そもそも、朝日で目を覚ます、という状況がおかしい。
 だって、私の部屋には日が差すことはありえないから。
 ゆっくりと瞼を開く。
 視界に映るのは、倒れた木々、抉れた地面。
 そうだ、私は彼を呼び出して……

「あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ………」

 浅い呼吸と、喉の奥から漏れる苦悶の響き。
 腹部を抑えて蹲る。
 駄目だ。

 おなかが、すいた。

 全身の神経が空腹を訴えている。
 胃酸が、胃そのものを溶かしていく。
 本能が感じたのは存在自体に対する危機。
 手当たり次第に、口の中に放り込む。
 土を。草を。
 石を。虫を。
 噛み砕き、飲み下す。
 口の中に広がる得体の知れない酸味と、石を噛み砕く不快感。
 足りない。
 まるで足りない。
 ぜんぜん満たされない。
 量の問題ではない。
 味の問題ではない。
 質の問題ではない。
 栄養の問題ですらない。
 存在の問題。
 私が欲しいのは、これじゃない。
「主よ」
 声がした。
 食欲が涌く。
 唾液が、押さえられない。
「馳走はここに」
 彼の指の先。
 縄で縛られた、肉の塊。
 待ちに待ったメインディッシュ。
 前菜は物足りなかったから。
 私は、一も二もなくむしゃぶりついた。
 柔らかな皮膚に喰らいつく。
 鋭い犬歯が、容易くそれを突き破る。
 あふれ出す肉汁。
 夢中で飲み下す。
 上顎と下顎の力を目一杯使って。
 筋張った肉を、食いちぎる。
 現れたのは、湯気が立つような黄色い脂肪の粒。
 白く美しい筋肉。
 色とりどりの、目に鮮やかな血管。
 その全てが、あまりに神々しくて。
 涎を垂れ流しながら咀嚼する。
 余分な感情は涌いてこない。
 今は、この原始の欲望を満たしたい。
 だから、時折聞こえる音も無視する。
 なんだろう。
 何か、聞こえている気がする。
 でも、今の私の言語野には響かない。
 そんなところ、とっくに機能は失われている。
 それに、この肉は元気がいい。
 噛み付くたびに、食いちぎるたびにぴくぴく動く。
 それが楽しくて。
 それが疎ましくて。
 我を忘れて咀嚼する。
 むしゃむしゃ。
 ぐちゃぐちゃ。
 そのうち、肉は静かになった。
 ちょっと残念。
 かなり爽快。
 さあ、落ち着いて食事をしよう。
 たくさん食べて、精をつけないと。


episode5 異常遭遇

 瞼を通して、微かな光が感じられる。
 眩しさに耐えかねて、腕で光を遮ろうとする。
 そこで、奇妙なことに気がついた。
 腕が動かない。
 なんで。
 その疑問のせいで、たゆたっていた意識が覚醒した。

 体をゆっくり起こして、周りを見渡す。
 間違いない、ここは俺の家だ。
 まだ意識に霞がかかったような感じだが、少し安心した。
「うえ」
 口の中に鉄の味が濃く残っている。寝ている間に何かあったのだろうか。
 とりあえず洗面所に行って、口を濯ごう。
 そう思って、立ち上がろうとすると、左手が動かないことに気がついた。
 はてな、と思って左を見ると、そこには俺の手を硬く握ったまま眠る桜の姿があった。
「うわっ」
 情けない声が口から漏れ出す。
 思考が混乱する。
 おーけー、まずは状況を整理しよう。
 今は朝、正確な時間はわからないが、ひょっとすると昼に近い時間かもしれない。
 つまり、今の時間に寝ている人間は、そこで夜を明かした可能性が非常に高いということだ。
 そして、桜は女、俺は男、二人とも年頃だ。
 この状況から導き出される最も自然な結論は……。
「いや、その理屈はおかしい」
 なんだかそれは、とってもまずい気がする。
 それに、不自然な点が多すぎる。
 まず、桜には毛布が掛けられている。
 これは、意図せずここで眠ってしまった桜のために、第三者が掛けたものだろう。
 それに、桜はちゃんと服を着ているようだ。
 まさか情事の後に、パジャマでもなく普段着を着て、その姿のまま眠るということもないだろう。
 おそらく、桜は何らかの理由で倒れた俺を看病していてくれたのではないか。もしそうなら、口の中の濃厚な血の味にも納得がいく。
 とりあえず、桜を起こして事情を聞くべきだろう。
「さく」
「桜、いい加減に起きなさい」
 俺の声に、聞きなれたような、初めて聞くような、不思議な声が重なる。
「なんだ、士郎の方が先に起きちゃったんだ」
「遠坂、なんで俺の家に」
 驚く俺の前で、遠坂の顔色が変わっていく。それはもう、リトマス紙の色が変わるみたいにはっきりと。
「遠坂ねえ。どうやら衛宮君は昨日のことを忘れちゃったみたいね♪」
 寒気がするくらいにこやかな笑顔。
 彼女の背後に赤い炎が見えるのは錯覚か。
 えまーじぇんしー。
 あらーと、あらーと。
 このままでは、間違いなく不吉なことが起きる。
 どのくらい不吉かというと、フライング気味の走馬灯が頭の中で大回転しているくらい。
 遠坂はどうやら、昨日のことを忘れたことに怒っているようだ。
 ならば死ぬ気で思い出せ。今思い出さないと、一分後には、考えるという、人間として当たり前の行動すら出来なくなっている可能性が高い。
 昨日は、学校に行って、修理をして、掃除をして…
「あっ」
 呆れた、という遠坂、もとい、凛の表情。
「やっと思い出したみたいね。じゃあ、私が何に対して怒っているかもわかるわね」
 先ほどの殺ス笑顔は消えたものの、あからさまに不機嫌な顔をしながら凛が言う。
「昨日のあなたの行動を私は認めない。自己犠牲も度が過ぎれば醜悪よ」
 自己犠牲?俺は昨日そんなことをしたかな……、あっ。
「凛っ、あの化物は…ぐっ」
 急に体を起こそうとすると、腹部に激痛が走った。
 そうだ、昨日俺はセイバーを助けようとしてどてっ腹を吹き飛ばされたんだ。思い出すと同時に、猛烈な吐き気が襲ってきた。
「うぐっ」
 便所まで走り抜ける。
「ぐええっ」
 便器を抱えるようにして、嘔吐を繰り返す。
 鮮血の色をした吐瀉物というのはなかなか刺激的な光景だ。
 ごほごほ、と咳き込む俺の背中を、優しい手が摩ってくれた。
「ほら、水。うがいしなさい」
 少し心配そうな凛の顔。
 ほら、やっぱりこいつはいい奴だ。

 その後、俺達は居間に集まって色々なことを話し合った。
 昨日のこと、これからのこと。
 当面の基本方針としては、積極的にこちらから攻めるのではなく、あくまで攻めてくる敵を迎撃する『待ち』の戦略が選択された。無闇に戦場を拡大させたら、一番の懸案である学校の結界が発動したときに対処しきれなくなる可能性があったからだ。
 ともあれ、こちらはほぼ半数の戦力を抱えている。昨日のバーサーカーくらい規格外な化物なら話は別だが、普通(?)のサーヴァントなら問題なく対処できるだろう。
 あまり細々としたことまで話し合っていても意味はないし、いざというときの一歩が遅れる。ということで、今日の作戦会議は一時間ほどで終了した。
 
「先輩、今日の晩ご飯はどうしますか?」
 今、この家にいる人間で俺のことを先輩と呼ぶのは一人だけ。
 サーヴァント・キャスターのマスター、遠坂桜だ。
「うーん、昨日はこんなことになるなんて考えてもいなかったからなぁ。流石に六人分の食材はないし、後で買い出しに行くよ」
 なんたって、元々この家には俺しか住んでいなかったのだ。いくら飢えた虎と、育ち盛りな後輩が兵糧攻めにやってくるとはいえ、基本的な食料は一人分しか備蓄していない。
 まあ、最近は後者の消費量が目覚しく増えてきたので二人前は常備されてるのだが。
「先輩?なにか失礼なこと考えてませんか?」
 あ、くろいだてんし。
 うふふ、と哂う桜。右手には魔術で強化された包丁が装備済み。背中に黒い影が漂って見えるのは目の錯覚と信じたい。
「そんなことないぞ、桜。桜は育ち盛りだ、なんてちっとも考えてない」
「姉さん、セイバーさん、ちょっと居間の畳の下を―――」
「すみません桜さん勘弁してください」
 ああ、わかってるさ。
 俺は一生桜には勝てないんだ。なんたって男として一番弱い部分の首根っこを押さえられてるんだから。
 ちなみに、畳の下には俺のパライソが広がってる。一昨日隠し場所を変えたばかりなのに、もう把握してるんですね、桜さん。
「あれくらいの量、普通です、まわりの子なんてもっと…」
 赤くなりながら、そんなことをぶつぶつと言う桜は本当に可愛い。よかった、どうやら今まで通りやっていけるみたいだ。


「本当にすみませんでした、先輩」
 今日の桜の第一声がそれだった。
 畳の上に座して、深々と頭を下げたその姿勢はいわゆる土下座だが、弓道部の桜がそれをすると、厳かにこそ感じられるが卑屈な雰囲気は微塵もない。
「昨日の醜態、そして今までの欺瞞、いまさら許されることではありません。
 でも、もし、もしよろしければ、贖罪の機会を頂けないでしょうか」
 今日の桜に涙はない。動揺もない。ただ、静かに自己を見つめている。
 そもそも、桜は俺に謝らなければならないようなことは何一つしていない。
 修行は俺が勝手にやっていたことだし、方法が間違っていたのも俺の責任だ。昨日の桜には驚かされたが、特に迷惑がかかったわけでもない。
 だが、桜にそれを言っても納得してもらえないことはなんとなくわかっている。理屈ではないのだ。許されることは救いだが、時には罰せられることのほうが救われることもある。俺は、そのことを痛いくらい知っているのだ。
「わかった。でも、条件がある」
 桜は軽く身を強張らせた。
「これから、俺に魔術の指導をしてくれないか。今までの修行には限界を感じてたんだ。腕のいい先生がいてくれると助かるんだけど」
 そこまで言うと、まるで厚い雲から太陽が顔を出したかのような輝いた表情で、桜が笑った。 
 返事は聞くまでもないようだ。

「頭が間抜けですか、あなたは」
 買出しに行く、そう告げたときの彼女の第一声がこれ。
「昨日、教会で何を聞いてきたのです。今、あなたは殺し殺される戦場にいるのですよ。それを呑気に買出しなど、敵に殺してくれと言っているようなものです」
 烈火のごとく怒る彼女はセイバー。
 自分の名を告げないことを許して欲しい、申し訳なさそうにそう言ったときの彼女と同一人物とは思えない。
「だって、今この家には食料がないんだから、買ってくるしかないだろう」
「む…確かに糧食の補給は戦場における最重要課題ですが…」
 彼女は顎に手をあてたまま固まってしまった。『糧食の補給』とか言うあたり、軍の指揮官か何かが彼女の正体なのかもしれない。
「無駄よ、セイバー。そこらへんのとこ、多分この男は化け物だから」
 いつの間にいたのか、後ろから凛の声が聞こえた。
「化け物って何だよ」
「化け物は化け物よ。あなた、一度自分の決めたことには異常に拘るから。買い物なんて、サーヴァントにでも任せればいいのに」
「たった一晩しか顔を合わせてないお前に言われたくないぞ」
「一晩も顔を合わせてれば十分よ。それくらい、あなたは歪なの。ちょっとは自覚しなさい」
 むっ。
 なんか引っかかるな、その言い方。
「だいたい、サーヴァントに買い物なんてできるのか」
「彼らは聖杯からその時代の基本的な知識は授けられてるの。そんなこと、出来ないわけないでしょ」
「でも、料理を作るのは俺だぞ。なら買い物にも俺が行くべきだろ」
「メモでも渡せばいいでしょ、そんなもの」
 ああ言えば、こう言う。
 こう言えば、ああ言う。
 話が前に進まない。
 昨日の顛末からか、今日の凛は少し機嫌が悪いようだ。
「わかりました、では私が同行します」
 不毛な二人の会話にうんざりしたかのように、腰に手を当て、眉根を寄せながら剣の英霊はそう言った。
「いいのか、セイバー。お前は」
 『魔力の節約のために眠らなけりゃいけないんじゃ』、そう視線に意思を篭めて問いかける。
 彼女もそれを察したのだろう、同じく意思の篭もった視線で返してくれた。
「確かに糧食の補給は大事。かといってマスター一人に行かせるなど、愚行極まりない。シロウが行くと聞かないなら、私が同行するしかないでしょう」
 
 外は、季節が冬とは思えないほど穏やかな気候だった。
 こうしてみると、コートを羽織った俺の服装よりも、冬にしては薄着にすぎるように見えるセイバーの服装のほうが相応しいように思える。
 セイバーは俺の少し前を歩いている。おそらくは、如何なる危難からもマスターを守ろうという彼女なりの覚悟だろう。
 サーヴァント。過去、或いは未来に生きた英雄達。
 そんな、絵本か寝物語の中にしかいないと思っていた存在が俺の前を歩いている、しかもアスファルトの上を、というのは奇妙な感覚だった。
「セイバー」
 特に用があったわけではないが、何となく声をかけてみる。
「なんでしょう、シロウ」
 彼女は、少し歩く速度を抑えてこちらと並ぶような位置に下がってから、そう答えた。
「お前が生きてた時代って、どんな感じだったんだ」
 酷くあやふやな質問だ。そもそも、何を問いたいのか、主題がはっきりしていない。
 おそらく、セイバーもその問いに大した意思が込められていないことは気がついていただろう、しかし、彼女は律儀にこう答えてくれた。
「おそらく、どんな時代でも、そこに生きる人々にとってみればその時代こそが絶対。
 他と比較することなど、出来ないでしょう。伝聞、あるいは伝承で比較することはできても、実感することは不可能だ」
 それはそうだろう。
 例え、古代の生活をどんなに深く研究しても、実際に経験することが出来ないのであれば、それは本人の空想、悪く言えば妄想に等しい。極端にいえば、御伽噺に出てくる架空の国となんら変わることがないはずだ。
「私は、自分が生きた時代と今の時代を実感として比べることの出来る稀有な例です。
 だからこそいえるのですが、この時代、この国には余裕がある。それは物質的な面でも、精神的な面でも。それは素晴らしい事なのではないか、と思います」
 彼女は少し遠くを見つめるような目をしながら、そう答えた。
 セイバーが生きた時代。
 彼女の正体を知らない俺には、想像も出来ない世界だ。
「それに比べると、私が生きた時代には余裕というものが無かった。人は誰しもが自分が生き残ることに精一杯だった。
 農民は今日の食料を手に入れることに命を賭け、騎士は明日、戦場で倒れないように技を磨き、貴族は明後日の酒杯に毒を盛られないために策を練った」
 静かな、遠い昔を振り返る声は、誰に対する手向けなのか。
「幸福など、人それぞれ。しかし、私の時代に生きた人々がその生きる時代を選択することができたなら、おそらくほとんどの者がこの時代を選択したでしょう」
 しばらくの間、俺もセイバーも無言で歩いた。
 さっきの質問は少し無神経だったのかもしれない。
 単なる興味以外に、この時代に生きる者としての優越感のようなものがなかったか。
 それは、自分の時代を精一杯生きた彼女に対する侮辱以外の何物でもないだろう。
 セイバーは奇跡を、聖杯を求めて俺なんかの呼びかけに応じてくれた。
 だが、果たして俺に彼女を従える資格など、あるのだろうか。
「なあ、セイバー。何か食べたいものとかあるか」
 気まずい雰囲気に耐えかねて、セイバーに尋ねてみる。
「食事ですか。先ほども申しましたとおり、我々には栄養の摂取という意味での食事は必要ありません。ですから、シロウのお好きなものを用意していただければ、それで十分です」
 うーん、料理する側としては、そういう答えが一番困るんだよな。
「じゃあ、絶対食べたくないものってあるか」
 そう聞くとセイバーは、まるでこの世の終わりみたいな顔をしてこう言った。
「……雑なものだけは勘弁してください」
 雑って。
 一体何があったんだ、セイバー。

 そうこうしているうちに、俺達は十字路に差し掛かった。
 ここを左に曲がれば、冬木の皆さんの胃袋を支える、マウント商店街にたどり着く。
 しかし、俺はそこで奇妙なものを見つけてしまった。
 それは、まっすぐに俺達のほうに向かってきた。
 いや、まっすぐに、という表現はおかしい。
 確かに俺達に近づいてきてはいるのだが、泥酔しているように足元が覚束ない様子だ。
 それだけなら別段珍しいものではないのだが、問題はそれが着ている服だ。
 顔は逆光になっていてよく見えないが、着ているものの判別くらいはできる。かなり汚れているが、あれはウチの学園の女生徒用の制服だ。
 いくら自由な校風の穂群原学園の生徒とはいえ、昼間から泥酔するような奴はいないと思う。まして、あれはおそらく女の子だ。
「シロウ」
 セイバーが少し緊張したような面持ちで前に出る。何か良くないものでも感じ取ったのかもしれない。
 俺達は立ち止まる。
 しかし、それは近づいてくる。
 よたよたと、二歩、三歩、俺達の方に歩いてきて、
 大きくバランスを崩して、
 どさり、と。
 うつ伏せに、倒れた。
 その瞬間、俺は駆け出していた。
「シロウ、待ちなさい!」
 後ろからセイバーの声が聞こえる。
 セイバーの心配もわかる。きっと、他のマスターの罠じゃないか、と疑っているのだろう。
 だが、俺の体は止まらない。
 倒れた女の子を抱き起こす。
「おい、しっかりしろ」
 そこにあったのは、自分の知ってる女の子の顔だった。
「代羽」



[1066] Re[6]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆1a77d900
Date: 2007/05/14 12:47
 帰してください。
 僕を、家に帰してください。

 幼い、しかし聞き覚えのある声。
 夢、だろうか。
 ふわふわとした感触が、どこかくすぐったい。

 帰ればいいではないか。
 君の村は依然あそこにある。
 帰るのは君の自由だよ。

 目の前に立つ長身の男は、嘲るような調子でそう言った。
 その男に、彼は縋りつく。
 男の服を掴んだ両手は、誰のものともわからぬ血に濡れていた。

 違います、そこではありません。
 帰してください。
 僕を、僕の家に帰してください。

 忌むべき者を見る視線ではない。
 出来のいい作品を見る視線。
 それで彼を貫きながら、男はこう言った。

 わかっている。
 次が最後だ。
 もう一人、もう一人で君はあそこに帰れるよ。

 彼は、喜んだ。
 心底、喜んだ。
 だから、忘れていたのだ。
 彼がその手を朱に染める、その前にも同じことを言われたことを。

 帰れる。
 あそこに、帰れる。
 嬉しいな、嬉しいな。

 私には、その少年が。
 羨ましくて、仕方なかった。


episode6 状況確認

「どうだ、凛」
 後ろ手に襖を閉めた凛に向かって俺は尋ねた。
「桜が看病してるけど、すぐに命に関わるような症状じゃない。その点は安心してもらっていいわ。それに、救急車も呼ぶ必要はないし、呼んでも意味はない」
 この場合、彼女の言う救急車という単語が意味するのは病院であり、いわゆる常識的な医療技術のことだというのはわかった。つまり、代羽の症状は医学では治癒できないということだ。
「凛、それは」
「ええ、あの子、魔力を吸い取られてる。今は安定してるけど、いつ死んでもおかしくないような状態だった」
 この場所、この時期、魔力という要素、ならば。
「聖杯戦争がらみか」
「おそらくね。ついでに言うと、あの子嬲られてから魔力を奪われてる。性的な暴行を受けた痕跡は無かったけど、制服がずたずたよ」
 性的暴行は受けていない、その言葉に少なからず俺は安心した。
 あの時の代羽は、それを思わせるに十分すぎる状態だったからだ。
 虚ろな視線。
 元々白皙の肌の持ち主ではあったがそれにしても白すぎる、蝋人形のような顔色。
 傷つき泥にまみれた制服。
 一体何があったのか。
「なんで代羽が襲われなくちゃならないんだ。もしかして、彼女もマスターなのか」
 怒りに声を荒げる俺の前で、首を横に振ってから凛が答えた。
「彼女はマスターじゃないわ。令呪が無かったし、そもそも彼女は魔術師じゃない。魔力回路自体が存在しないんだから。もともとあった魔力だって人並みか、すこし少ないくらいだもの。
 多分、下衆なマスターがサーヴァントの栄養にでもしたんでしょう」
 サーヴァントの栄養?どういうことだろう。
「魔力がサーヴァントの栄養分だというのは知っているでしょ。自分のサーヴァントを強化するために、一般人を襲って魔力を奪うマスターは珍しい存在じゃないわ。
 でも、そんなことをするのは三流よ」
 サーヴァントにとって魔力は燃料なのだから、それを集めること自体は間違いではない。
 しかし、人間からそれを集めるなら、多くの場合、対象となった人間は魔力を吸い尽くされて死に至る。そうでなくても、衰弱し、昏倒くらいはするだろう。何よりもそれが問題なのだ。
 人道に悖る、といった話ではない。そもそも、魔術師といわれる人種は人の道などとっくに踏み外している。
 問題なのは、己の存在を他者に知らしてしまう、ということだ。
 情報網の発達した現代社会において、人の死という情報は、他のどんな情報よりも速いスピードで社会を満たす。それが異常なものであれば、そのスピードは驚異的なものとなる。
 そして、その情報は多くの事実を敵に知らせてしまう。
 死亡時間からは活動時間帯を。死亡場所からは根拠地のおおよその範囲を。周りの状況や死因からは能力を。それらを糊塗しようとすればそれは不自然さを生み出し、さらなる情報を残すこともあるだろう。
 仮にそれらが意図的に残したものであったとしても、それに気づかれた場合、やはり多くの情報を敵に渡すことになる可能性が高い。『雄弁は銀、沈黙は金』という言葉があるように、何か隠したいことがあるときは人知れず事を成すのが至上であり、騒ぎを起こすのは下策である。
 故に、三流。凛はそういったのだ。
「でも、代羽がそれ以外の理由で襲われたっていう可能性はないのか」
 俺が疑問を呈すると、訝しそうな表情で凛が答えた。
「普通、この時期に愉快犯的に一般人を襲う馬鹿はいない。まぁ、前回はそんな馬鹿もいたみたいだけど、御他聞に漏れず早々に敗退してるし。
 もし、今回もそんなのがいたら、それは三流以下。どんなに強力なサーヴァントであっても、警戒する必要すらないわね」
 確かに、いよいよ聖杯戦争が始まったというこの時期に、不用意に、何のメリットもないのに一般人である代羽を襲う馬鹿はいないだろう。
 まして、代羽は確かに魔力を奪われているようだ。ならば、やはりサーヴァントの食事代わりに襲われた、と考えるのが妥当なのだろう。
「本当に、代羽はマスターじゃないんだな」
 繰り返す俺の問いに、凛は少し不快そうに答えた。
「くどい。
 そりゃ、彼女の家とは古い付き合いだからね、色々と調べたわよ。それに、彼女とはちょっとした因縁があってね、かなり強引な手段も使って調査したわ。
 それでも、結果は白。魔力殺しみたいな反則アイテムも無し。彼女は魔術師足り得ない、それが結論よ」

「代羽はいつ目覚めるか、わかるか」
「そうね、宝石で魔力の補給は済ませたし、夜までには目を覚ますと思うけど…」
 よし、なら代羽が目を覚ましたときに体力のつくものでも食べさせてあげよう。
 そのためにも、買出しのやり直しだな。
 なんだかセイバーの顔も険しくなってきたし、急いで行ってこよう。

 代羽が目を覚ましたのは、空が宵闇に染まった、その時間だった。
 時計の短針と長身がきっかり直線を作るその時間、ぼーん、ぼーん、という間の抜けた時報と共に彼女は目を覚ました。
「ここは…」
 微妙に焦点のあわない視線を中空に漂わせて、弱弱しい声で彼女は呟いた。
「よかった、目が覚めたのね、代羽」
「お母さん、ここは…」
 桜を母親と勘違いしているようだ。もしかしたらまだ意識がはっきりしていないのかもしれない。
「安心して、ここは衛宮先輩のお宅よ」
 枕元に座る桜に視線をやってから、代羽は縋るような目線で俺を見た。
「よかった、いきてた…」
 そう言って、俺の頬に手を伸ばすと、彼女は再び意識を手放した。



[1066] Re[7]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2d239a6e
Date: 2007/05/15 23:15
 私が私であることを自覚してから、一体どれくらいの時間が経過したのだろう。
 あの時、初めて光を見てからどれだけの光を見たのだろう。
 今や、光は私の目を焼きつくさんばかりに煌々と輝いていた。
 それは一つの映像だった。
 暗い、それでもこの空間よりは遥かに明るい部屋。
 この映像はそこで撮られているようだ。
 被写体は、いつも決まって蟲だった。
 どろどろとして、自らのカタチを保つことすらできないもの。
 うねうねとうごめき、常に何かの中に入ろうとしているもの。
 なかには男性器としか見えない奇怪な形状をした蟲もいた。
 私は理解した。
 此処が天国なら、この映像は地獄で撮られたものだ。
 映像は激しくぶれ、にたにたと嫌な笑を浮かべる老人を映したところで、ぶつんと切れた。


episode7 後輩招待

「驚いた。人間一つくらい得意なことはあるものなのですね」
 褒めることと貶すことを同時にこなすという器用な真似が、彼女の得意技。

 食卓を囲んでいるのは五人。
 この家の主である俺。ただし、最近この呼称には疑問の余地がある。
 俺が呼び出したサーヴァント、セイバー。霊体化のできない彼女は仕方なく食卓についている。そう、あくまで仕方なく、のはずだ。料理を眺める輝く視線は、きっと気のせい。
 学校一の美人姉妹、遠坂凛と、遠坂桜。何故か凛はガッツポーズ。
 ある意味学校一の有名人、間桐代羽。入学当初、告白した男子の数、数知れず。しかし、今彼女に声をかけるような骨のある男子はいないだろう。
 アーチャーとキャスターは霊体化して、姿は見えない。おそらくは二人とも周囲の警戒をしてくれているはずだ。

「これは勝ち…ぐっ、これは負けたか」
「………[こくこく]」
「うーん、先輩、今日の出汁巻、何かいつもと違うんですけど」
「衛宮先輩、主夫って知ってます?一昔前ならきっとヒモと同じ扱いでしたよね。良かったですねぇ、生きやすい時代になって」

 凛、いちいち食事に勝ち負けを持ち込まない。お前はどこかの鉄鍋料理人か。
 セイバー、どうやら喜んでくれてるのは嬉しいけど、もっと落ち着いて食べなさい。
 桜、それは秘伝のレシピ、追いすがる競争者に易々と教えてやるわけにはいかんのだよ。
 代羽、もうあなたには何も言いません。ていうか世の主夫の皆さんに謝れ。

 一部の会話を除いて、夕食は和やかに終わった。
 殺し合いの途中だが、いや、そういった極限状態の中だからこそこういった時間を設けるのは至極重要である。人間、四六時中気を張っていられるわけではないし、無理をすればいざというときに何もできなくなる。
 食後のお茶をみんなで楽しんでいるとき、一番重要なことを凛が切り出した。
「間桐さん、あなた、何であんなところで倒れてたの?」
 既に代羽には、街中で倒れた彼女を俺が助けたことは伝えている。
 手に持っていた湯飲を、ことり、とテーブルに置いて、彼女は答えた。
「申し訳ありません、それが全く憶えていないのです。昨日、少し遅くに学校から出たことまでは憶えているのですが、それから先は…」
 その返答は十分に予想されたものだった。

 代羽が一度目覚めてから再び意識を失った後、短い時間の話し合いの場が設けられた。
 議題は、代羽の記憶を除くか否か。
 俺は反対した。彼女が魔術師でもなければ、マスターでもないことははっきりしてるわけだし、仮に魔術師に襲われたのだとしたら記憶操作は必ず行われているはずだからだ。
 俺以外は、積極性に差こそあれ全員が賛成した。桜でさえ控えめながら賛同の意を表した。
 確かに、ほんの少しでも敵の情報が入れば、それは計り知れないアドバンテージになる。それは判るのだが、どうも他人の部屋を勝手に家捜しするようで気が進まない。
 凛あたりに言わせれば、そこらへんがへっぽこのへっぽこたる所以だとかなんとか。 
 ただ、魔術師なら記憶操作は必ずするはず、と言ったとき、凛と桜はなんだか地雷をふんでしまった、そんな顔をしていた。おい、君達、何か隠し事でもあるんじゃないのか。
 ともあれ、このメンバーの中では間違いなく一番凄腕の魔術師であるキャスターが代羽の記憶を除いてみたが、結果は芳しくなかったようだ。
「駄目ね、この子、昨日の記憶が消されてる。おそらくその時間に襲われたんだと思うけど、その部分がほとんどすっぽり抜け落ちてるわ」
「ほとんど、ということは残ってる記憶もあるのね」
 にやり、と笑ったキャスターが答える。
「断片的な映像だけ。闇に浮かぶ白い髑髏が見えたわ。多分、そいつがこの子を襲ったサーヴァントだと思う」
「髑髏の仮面を付けたサーヴァント…、過去の記録からすればおそらくアサシンね。やっぱり今回もハサン=サッバーハが召還されたんだ」
「なんだ、もう真名がわかったのか」
 真名がわかるということはほぼイコールで敵の弱点がわかるということだ。ならば、これはとんでもないアドバンテージを得たことになる。
「いえ、この情報だけじゃ相手の詳しい伝説なんてわからないわ」
 凛によると、ハサン=サッバーハという存在はそれ自体の伝承が極めて少なく、また同じ名を冠する存在が複数いるため、どの伝承がどのハサン=サッバーハのものなのかがはっきりしていないという。
「つまり、わかったのは前回と同じくアサシンのクラスにはハサン=サッバーハが呼ばれた、このことだけか」
 ふう、と一息ついて言う。
 だが、正面からの戦い、という条件を除けば、一番警戒すべきなのは間違いなくアサシンだ。生前培った恐るべき暗殺の技術は防ごうと思っても限界がある。
 それの外見的な特徴だけでも掴むことができたのなら、やはり一歩前進と言っていいはずだ。
 そんな俺の意見に対して、凛は苦言を呈する。
「でも、これでその髑髏がアサシンと決まったわけでもないわ。
 ありえないこととは思うけど、ハサン=サッバーハの振りをした別のサーヴァントって可能性もないわけじゃないから。
 とりあえずアサシンはハサン=サッバーハの可能性が高い、くらいに考えておきましょう」
 なるほど、確かにその可能性はある。
 これは戦争。
 戦争で一番大事なのは武器でもなければ兵力でもない。
 一番重要なのは糧食と情報である。
 現代の日本に置いて食料調達で難儀するという事態は考えにくいから前者は置いておいて、それでも後者が重要なのは間違いない。
 もしも俺達が、アサシンはハサン=サッバーハである、と妄信して、全く別の存在がアサシンであった場合、最悪それだけで全滅の憂き目を見ることもあるのだ。
 情報の中には敵が漏らした情報と、漏れた情報がある。その取捨選択は非常に難しい。
 そういう意味で、今の凛の判断は信じすぎず疑いすぎず、ちょうど良い按排なのだろう。
 その時、いままで積極的な発言をしなかったセイバーが言った。
「私も凛の考えに賛成です。少なくとも、一度も相見えていない相手を事前の情報だけで判断するのは危険でしょう。現時点では可能性の段階に止めておくのが賢明だと思います」
 どうやら結論は出たようだ。
「この子の記憶はどうするの?」
 キャスターが尋ねる。
「残りの記憶も封印しておいて。こっちの世界の記憶なんて持っててもいいことなんかこれっぽっちもないし」
 凛が言う。
 どうやら、俺達の中でリーダーは決まったようだ。もともと持っている知識の量、戦闘に対する覚悟、とっさの判断力、どれをとっても相応しいのは凛だろう。俺と桜はそれをサポートする形になりそうだ。
 もっとも、俺の場合はサポートというよりも足手纏いになる可能性のほうが高いわけで、非常に肩身が狭い。
 このままじゃあいけない。
 凛がリーダーになることにはこれっぽっちも異論はないが、それに甘えるようでは俺の理想には届かない。
 望まざる状況とはいえ、これは自分を成長させる機会であるのは間違いない。
 せっかく一流の家庭教師が二人もついてくれているのだ、十年前の悲劇を繰り返させないためにも修練に励まないと。


「そういえば、この服は遠坂先輩が貸してくださったのですか?」
 赤いハイネックに黒のミニスカート。
 日本人形みたいな代羽のイメージにはそぐわないが、それでも十分に着こなしているのは素材が素晴らしいからだろう。
「ええ、あなたの制服は泥だらけだったからクリーニングに出しておいたわ。下着も私用の新品。何か気に入らなかったかしら?」
「いえ、ここまでしていただいて不満なんてあるわけないじゃないですか。ただ、ちょっと胸のサイズが大きくて…」
 あらーと。
 これは俺が立ち入っていい会話ではない。
 これは俺を殺す会話だ。
 だって切嗣が言ってたもの、『女性の下着のサイズの話には関わらないように。きっと後悔することになるからね』ってね。
 食器を片付けるふりをして腰を浮かしかける。
 と、そのとき、俺の右肩を掴む確かな力。
 振り向くとそこにはくろいだてんし。
 くっ、桜、裏切ったか。
「うふふ、先輩、どこに行くんですか?先輩はこの家の主なんだから、もっと泰然自若としていていいんですよ?」
 食器を片して台所へ消えていく桜。
 相変わらず下着のサイズの話を続ける凛と代羽。心なしか凛は嬉しそうだ。
 セイバーは食後のお茶請けに夢中。ミカンの食べすぎで指が黄色くなっている。
 俺は溶けたアイスクリームみたいにテーブルの上にへばっていた。もう駄目です、このピンク色の空気を何とかしてください。
 ふん、だらしがないな、衛宮士郎、そんな嘲りの言葉が遠くから聞こえた気がした。


「今日はありがとうございました、遠坂先輩、桜、セイバーさん」
 気のせいか、俺の名前が呼ばれなかった気がする。
 代羽、お前はアメリカか。
「今日のところはこれでお暇させていただきます」
 そう言って立ち上がろうとする彼女。
「代羽、もう遅いし、送っていくよ」
 腰を浮かしかけた俺を制するように彼女は言った。
「結構です。あなたに守られねばならないほど私は弱くない。
 そんな暇があるなら己を高めることに使いなさい」
 ぴしっと言って立ち上がった彼女は、しかし立ちくらみでも起こしたかのように大きくバランスを崩した。
「代羽!」
 悲鳴のような声をあげて駆け寄る桜。
 凛の話によれば、死ぬ一歩手前まで魔力が吸い取られていたのだ。今までそれを感じさせないような立ち振る舞いをしていたことこそ、驚異的な精神力の賜物なのだろう。
「代羽、今日は泊まっていったらどうだ。客間なら余ってるし、内側から鍵もかけられるから」
「けっこうです。きょうはかえります」
 気丈な台詞だが、目の焦点が合っていない。
 駄目だ、この状態で帰らせるのは危険すぎる。
 そう判断した俺は、凛に目配せをしてからこう言った。
「駄目だ、今日は泊まっていけ。家には俺が連絡しとくから」
「……」
 黙ってしまった代羽を桜に任せて、俺は電話をかけるために廊下に出た。

 ぷるるるるるる、ぷるるるるるる。
 聞きなれた呼び出し音。
 最近はめっきり押すことの少なくなった慎二の家への電話番号。
 いつからだろう、慎二が変わってしまったのは。
 それとも、慎二は以前のままで、本当は俺のほうが変わってしまったのか。
 ほんの少しの寂寥感。
『はい、間桐です』
 ぼんやりとしていた意識が呼び起こされる。
「えっと、夜分遅くすみません、私は慎二君の友人で衛宮というものですけど」
『なんだ、衛宮か。どうしたんだ、こんな時間に』
 どうやら電話の相手は慎二本人だったらしい。
「こんばんは、慎二。実は代羽のことなんだけど」
『衛宮、あのバカがどこにいるか知ってるのか?』
 いきなり自分の妹をバカ呼ばわりもないものだと思うけど、いつもの慎二を知っている俺からすれば、こんなことは驚くに値しない。
「ああ、実は代羽、桜と一緒に料理合宿だとか言って昨日からウチに泊まってるんだ。昨日は電話をし忘れてたらしい。珍しく気落ちしてたよ、兄さんに怒られるって」
『ふうん、料理合宿、ねえ』
 いぶかしむような慎二の声。
「おう。ちなみに藤村先生も一緒だから、疚しいことなんて何もないぞ」
 ごめん、藤ねえ。名前を使わせてもらった。
『そう、ならいいよ。やっぱり兄としては嫁入り前のかわいい妹を傷物にされるわけにはいかないからね』
 冗談めかしたような、どこか本気のような発言。
「それは当然だな。じゃあ、あまり長電話しても悪いから、そろそろ切るぞ」
『そうだね、わざわざ連絡してくれたことには感謝するよ。ああ、そういえば衛宮』

 
『代羽はそのまま人質にするのかい?』


 ぞくり、とするような声。
 まるで、薄い和紙に包んだ真剣で喉元を撫でられたかのような感触。
「慎二、お前何を」
『やだなぁ、何本気で焦ってんのさ。ジョークだよ、ジョーク。ちなみに代羽、着替えを持っていってるの?なければ届けるけど』
 さっきの声とはうってかわって軽い調子の、いつもの声。
 なんだか今日の慎二はおかしい。妙にハイだ。
「そうしてもらえると助かる」
『ふうん、料理合宿だってのに、着替えも持たないで参加したんだ、代羽は』
 くすくす、と声を殺した笑いが電話の向こうで響く。
「あ、ああ、思ってよりそそっかしいんだな、代羽は」
『そうだね、実はそそっかしいんだ。きっと今も切り刻まれた制服しか持ってないと思うから、明日は学校を休むように言っといてよ。じゃあね、おやすみ』
 その言葉を最後に電話は切れた。
 俺はしばらくの間、馬鹿みたいに受話器を持ったままだった。



[1066] Re[8]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d07f53ca
Date: 2007/05/20 23:22
 時化た、村だった。
 山肌に立てられた、まるで廃屋のような家。
 そこで彼は産声を上げた。
 周りにあるのは同じような家々。
 時代からも人からも忘れ去られたような寒村。
 彼は、そこで生まれたのだ。

 生きていくのが、それだけで難しかった。
 岩山は、夏は空気を焼き、冬は吐息を凍らせた。
 風は身を切り裂き、疫病を運んだ。
 食うや食わずの毎日。
 ひもじさを覚えなかった夜などない。
 薄汚れた毛布に包まり、ただ朝だけを待ち続けた。

 片手の指で数え切れなかった兄弟は、皆死んだ。
 飢えで。
 寒さで。
 病で。
 事故で。
 だから、彼は悟った。
 人は死ぬのだと。
 あっけなく、なんの拘りも持たぬまま。

 御伽噺が好きだった。
 世界を救う英雄の冒険譚が。
 龍を倒す勇者の活躍が。
 王を救う忠義の物語が。
 胸を焦がすような切ない悲恋劇が。
 その全てが、彼を酔わせた。
 母が語ってくれた。
 父が教えてくれた。
 吟遊詩人が詠ってくれた。
 その瞬間だけ、彼は幸福だった。

 だから、彼は不幸だった。
 幸福があることを知ってしまったから。
 何も知らなければ、彼は人として生きていられたのだ。
 歴史から、世界から忘れられた存在として。
 しかし、彼は目指した。
 自らも、何者かになりたいと。
 誰かの心を沸き立たせる存在になりたいと。
 ここは、己のいるべき場所ではないと。
 違う世界が、あるはずだと。

 だから、彼は不幸になったのだ。

 

episode8 早朝訓練


 道場を目指して、板張りの廊下を素足で歩く。
 足の裏から伝わる痺れるような冷たさが、ダイレクトに脳に響く。
 冬の早朝、その冷気は暖かな気な木材ですら凍りつかせるようだ。

 結局、昨日の慎二のことは誰にも言わなかった。
 凛の話によれば、間桐は枯れた魔術師の家系で、もう魔術的な才能を持った子供が生まれることはないという。その例に漏れず、慎二も代羽も魔術的な才能には恵まれていないらしい。
 ならば、余計なことを言っても混乱させるだけだろう。俺はそう考えたのだ。ただ、後々慎二から事情を聞く必要はあると思う。
 ガラガラと、道場の扉を開ける。
 一瞬、濃い汗の香りが鼻を衝く。
「おはよう」
 俺が声をかけたのは、一人で黙想をしていたセイバーだ。
 昨日、セイバーの寝所について軽い一悶着があったのだが、結局は落ち着くべきところに落ち着いた。まぁ、ようするに俺の平穏は守られたわけだ。
「おはようございます、シロウ。早いのですね」
 まだあたりは払暁の時間帯。一般には目を覚まさなければいけないような時間ではない。
「いつもの癖でどうしても目が覚めちゃうんだ。セイバーは何をしてたんだ?」
「精神統一を。この空気と空間は非常に好ましい」
 確かに、冬の引き締まった空気と道場の張り詰めた雰囲気は、精神鍛錬にはもってこいだ。
 彼女は再び目を瞑った。
 さて、どうしようか。
 いつもなら一通りの柔軟運動と筋トレで済ませてしまうのだが、精霊に準ずるとまで言われる存在が目の前にいるのに、それはあまりにもったいない。
「セイバー」
 壁に立て掛けてあった竹刀を二本掴み、片方を彼女に投げ渡す。
 セイバーは、目を開けることすらなく、事も無げにそれを空中で掴み取った。 
「いつもなら一人で訓練するんだけど、もしよければ付き合ってくれないか」
 俺が隣でガチャガチャしてたら、精神統一なんてできるはずもないし。
 彼女はゆっくりと立ち上がる。
 その表情には、どこか不吉な笑みが刻まれていた。
「いいでしょう、シロウの実力を知るいい機会だ。あなたもサーヴァントというものの実力を知っておく必要がありますから」
 口調に隠しようのない不機嫌さが滲むのは、バーサーカー戦の無茶からか、それとも昨日の寝所決定の顛末からか。
 まあ、修行が厳しくなるのは望むところなので、別にかまわないんだけどね。
 
 突然だが、私、遠坂凛は朝が弱い…らしい。
 自分としては全く自覚はないのだが、長い付き合いの妹には、『恋人ができても、絶対その顔は見せちゃ駄目ですよ』などと失礼なことを言われたことがある。
 まあ、その、なんだ。
 つまり、どうやら私は、朝方は人よりほんの少しだけ機嫌が悪くなるみたいなのだ。
 でも、いいじゃないか、そんなこと。
 きっとそれは欠点に違いないが、ならば寝起きは人に会わなければいいだけのこと、別に嘆くようなことじゃあない。
 だからこそ、朝は優雅に。
 素早く起きて、牛乳を一杯。
 それで万事解決だ。
 心地よいまどろみの中で、そんなことをつらつらと思う。
 平穏な朝。
 どたーん
 ん?
 何か聞こえたかな。
 薄いカーテンを通して、陽光が目に入る。
 むー、このカーテンは気に入らないわね、私の家のを持ってこようかな。
 ばたーん
 なんか、神経に障る音が聞こえる気がする。
 まぁ、いいか。
 不快な音には耳を塞ごう。
 臭い物には蓋、うん、素晴らしきかな先人の知恵。
 ちゅんちゅんと、小鳥の鳴く声。
 その声は可憐で、心が和む。
 ぎにゃあああと、士郎の泣き叫ぶ声。
 その声は凄惨で、神経がささくれだつ。
 どたーん、ばたーん。
 たちなさい、しろう、まだあなたはさーヴぁんとのおそろしさがわかっていない。
 ぎぶ、ぎぶ、せいばー。
 ばしーん。
 ええい、もんどうむよう、これもあいのむち、いずれあなたもかんしゃするひがきます。
 まてまて、そのひがくるまえにきょうしんじまうだろ。
 ことばはぶすい、そこになおれ。
 どこのうしおとこだ、それは。てかしぬ、しんじまうから、せいばー。

 ―――ああもう、あいつら、一体なにやってんだか。
 とりあえず、後で士郎はとっちめよう。私の朝の心地よい目覚めを奪った罪は万死に値する。セイバーは…可愛いからよし。
 そして私は再び目を瞑った。
 ああ、二度寝は気持ちいいなあ。

「あ゛~、まずったわ……」
 二度寝なんて、何年ぶりだ。
 のそのそと、妹曰く『酔っ払いのティラノサウルス』みたいな足取りで台所に向かう。
 牛乳…。
 とりあえず、万事はそれからだ。
 別に他の飲み物でも構わないが、朝一番の牛乳は私のスイッチみたいなものなのだ。だから、冷たい牛乳があるならばそれに越したことは無い。
 やっと勝手の分かり始めた馬鹿みたいに広い屋敷。それを所有しながら、今の今まで管理者たる私に上納金の一つもよこさなかったあの馬鹿に、軽く殺意を覚える。
「なんとかして、これ、わたしのものにならないかしら…」
 そうすれば、即座に売っぱらって、現金に換えて、宝石を買い込んで……、ああ、バラ色の人生が。
「そっか…さくらとあいつをひっつければいいのか…あいつのものはさくらのもの、で、さくらのものはわたしのものだし、うふふ、たのしくなってきたぞ」
 この場合、私のものになるのはあくまで金銭的な価値を持つものだけであって、断じてそれ以外のものは含まれない。
「…って、なにかんがえてんだ、あさっぱらから」
 がらがらと、台所の扉を開ける。
 食欲をそそるいい香り。
 そういえば今日の当番は桜だった。
 あやふやな頭で考えながら、コップ片手に冷蔵庫を漁る。
「うふふ、ぎゅうにゅうぎゅうにゅう……」
 掌サイズの可愛らしいコップになみなみと牛乳を注ぐ。牛乳パックを傾け最後の一滴まで注ぎ込む。ちょうど最後の一杯。どうやら私は神様に愛されている。
「これもひごろのおこないがいいからよねぇ…」
 さあ、腰に手を当てて、ぐいっと一気に飲―――。
「お姉ちゃん、そんなの許さないから―――!」
 天地を揺るがす雄叫び。
 女性の声なのに雄叫びとは、これ如何に。
 だが、今の私にとって、そんなことはどうでもいい。
 問題は、ガシャン、という音と共に砕け散った可哀想なコップと。
 台所にぶちまけられた、白い液体だ。
「あ―――」
 思考がフリーズする。
「桜ちゃんに遠坂さん、間桐さんに、セイバーちゃん!
 いずれ劣らぬ美少女揃いを泊めるなんて、一体何考えてんだ、このエロ士郎―――!」
「ちょっと待て、話を聞け、藤ねえ!だから、セイバーは切嗣の知り合いで、桜と凛は家の改装が…」
 あー、牛乳がなくなっちゃったなぁ…。確か、買い置きは無かったし…。
「だいたい、何でそんなにぼろぼろなのよ、士郎!?」
「あー、これはセイバーとの訓練で……」
 神様のくそったれ…。
「なにー!?はっ、さては巷を騒がす連続辻斬り事件の下手人はセイバーちゃんと見た!神妙にお縄につけ、虎竹刀の錆にしてくれるー!」
「微妙に鋭いけど、根本的に間違えてるぞ、藤ねえ!」
「シロウ、下がって。あの女性は錯乱している、危険です」
「違います、セイバーさん、あれが藤村先生のデフォルトです」
「桜ちゃんにまで何か凄く失礼なこと言われた気がするぞ、ちくしょー!」
 ああ、こいつら―――。
 どたばた騒ぎまくる居間の住人。
 私は無言で歩いていって、静かに扉を開けた。
 そして、一言。

「おまえら、すこしだまれ。」


 後にセイバーは語る。『マーリンが本気で怒ったときと同じ空気がした』と。
 後に遠坂桜は語る。『あの人が敵でなくて本当によかった』と。
 後に衛宮士郎は語る。『角と翼と尻尾が見えた』と。
 そして、後に藤村大河は語る。『草食動物の気持ちが分かった』と。
 多くは語るまい。
 ただ、その後、藤村大河が、あたかもどこぞの漫画の女子寮の如くなった弟分の実家について語ることはなくなった。曰く、『遠坂さんがいるから大丈夫』とのこと。


 とりあえず、静かになった居間を尻目に見ながら、私は洗面所に向かった。
 ああ、なんていうか、最低な朝だ。
 

「いてて、いてて」
 歩くたびに、俺の意思を無視して、口から情けない声が漏れ出す。
 セイバーの鍛錬は実戦を想定した、いや、実戦しか想定していない極めて歪なもので、俺の身体にたいへん深い爪あとを残した。というか、あれは訓練じゃなくてイジメだろ。
「大丈夫ですか、先輩?」
 ああ、桜、君は優しい。心底楽しそうに俺を見つめるその視線さえなければ最高だ。
「情けないわね、男の子でしょ」
 そう言いながらも歩調を緩めてくれるのは凛。
 ようやく解ってきた。
 本人達に言えば全力で否定するだろうけど、二人とも、本質的なところでお人よしなのは一緒だ。
 ただ、口では優しいことを言って、実は人をからかうのが大好きなのが桜。
 口や態度は辛辣なところがあるけど、行動自体は思いやりがあるのが凛だ。
 姉妹のはずなのに、どうしてこうも性格が違うのか、時間があれば研究をしてみるのもいいかもしれない。
 まあ、命がけの作業になるのは間違いないけど。

 当面の俺達の課題。
 それは言うまでもなく、学校に張られた結界を取り除く、あるいは無効化することだ。
「残念だけど、私にも解呪はできないわ」
 神代の魔術師であるキャスターにそう言わしめるくらいなのだから、俺や凛に解呪できるような代物ではないのだろう。
「あれは魔術というよりも、宝具に近いわね。
 他者を溶解、吸収する結界型の宝具、そう考えた方が納得できる」
「とりあえず、今の俺達にできることは何なんだ?」
「方法は二つ考えられる」
 ピッと、右手の人差し指を突き出した凛が話す。
「一つはマスターを探し出して結界を解呪させる。
 もう一つは、結界を張ったサーヴァントを見つけて倒す。
 根本的な解決法はこの二つしかないわ」
 つまり、自力で結界を無力化するのは無理、ということか。
「いざとなれば校舎の破壊とか、かなり過激なことも考えなければいけないけど、今はサーヴァント、ライダーとそのマスターを探すのが先決ね」
「ライダー?あれはライダーの仕業なのか?」
「はぁ?そんなこともわからないの?」
 呆れたような凛の表情。
「先輩、こういうことです」
 桜は丁寧に説明してくれた。
 キャスターに解呪できないような結界なのだ、人間の魔術師の成した業である可能性は限りなく低い。
 ならば、やはりサーヴァントが犯人ということになるが、今回の聖杯戦争ではサーヴァントは基本の七クラスしか召還されていないらしい。
 学校の結界がサーヴァントの仕業だと仮定するなら、必ずその七騎の中に犯人がいることになる。
 この中で、セイバー、アーチャー、キャスターは除かれる。これは大前提だ。
 バーサーカーは違う。理性を無くした凶戦士が、あのように回りくどい魔術、あるいは宝具を使いこなせるとは考えにくい。それに、正面から三騎のサーヴァントを撃破する力があるのだ、わざわざこんな目立つ真似をして魔力を集める意味がない。
 ランサーも違う。あの夜、俺がランサーに襲われる前に、凛と桜は短い時間ながらランサーと会話する機会があったらしい。そこから得た感触では、結界を張って大量虐殺を行うような人格には思えなかったとのこと。また、彼の真名、クーフーリンの伝説にもそういった類の記述は見受けられない。
 アサシンは違う、とは断言できないが、そもそも闇夜に紛れた暗殺が本分のアサシンにそういった目立つ宝具、あるいは魔術の技能があるとは考えられない。
 ならば、消去法で残るのはライダー、ということになる。
 これは、そもそもがあの性悪神父の、今回召還されたのが基本クラスのみという情報に基づくものなので、そこから間違っていれば全てがご破算という砂上の楼閣のような仮説なのだが、あの男は嘘だけはつかない、と凛も桜も声を揃えた。
「ということは、やっぱりライダーが犯人なのか」
「ええ、これはかなり蓋然性の高い仮説だと思う。
 だから、当面の間は結界に嫌がらせををしながらライダーとそのマスターの出方を伺う。 いよいよっていう時期になったら、その時は学校の封鎖でも考えるわ」

 なんだ、これは。
 校門をくぐった瞬間、粘ついた空気が俺の肺を満たした。
 甘ったるく、液体化したような大気。うっすらと紅く色づいて見えるのは気のせいではないだろう。
「まずいわね、予想よりも完成が早いかもしれない」
 後ろから凛の声が聞こえるが、俺の意識はそれどころではなかった。
 最初のイメージが内臓。消化液を分泌し、細かく蠕動運動を繰り返す。
 次に浮かんだイメージは食虫植物。甘い香りを撒き散らし、誘われた虫を消化、吸収する。
 なるほど、遠坂が俺ごときの力を借りたくなる理由もよくわかる。
 これは外道の仕業だ。
 目的のために手段を選ばないのが魔術師。とはいえ、それは自身の行動が引き起こすであろう結果に対して想像力を麻痺させるという意味ではない。これを発動させれば、おそらく何百人単位で人が死ぬ。それは隠蔽工作が可能とか不可能とか、そういう域ではない。
 ならば、犯人は協会の粛清を恐れていないのか。それとも。
「先輩、大丈夫ですか?」
 桜が心配そうに覗きこんでくる。
 どうやら相当酷い顔をしていたようだ。
「ああ、ちょっと嫌な想像をしちゃっただけだ。大丈夫、ありがとう」
 崩れそうになる膝を叱咤して胸を張る。
 もしかしたら外道の魔術師が、せせら笑いながら監視しているかもしれないのだ。そんな奴に弱みなど見せてやるものか。
「ふぅん、少しだけ見直したわ。虚勢でも、それがはれる奴とはることもできない奴じゃあ命の価値からして違ってくるからね」
 この世のあらゆる悪意をはじき返すような笑みを浮べた凛が言う。
 きっとこいつは、どんなに深く魔道を極めても何度絶望を味わっても、魔術師でもなくもちろん一般人でもなく、あくまで[遠坂凛]として生きていくのだろう。
 そんな埒もないことを考えると、ほんの少しだけ肺の中がすっきりした。

 既に太陽は中天を通り、少しずつではあるがその姿を地平線に隠す準備を始めていた。
 時間は昼休み、場所は屋上。
 本来であれば一時的にとはいえ授業から開放された生徒の活気に包まれるはずの空間が、まるで無人の廃校のように静まり返っている。確かに、冬も本番といえるこの時期、屋上が人で溢れかえるということは少ないが、それでも風がなく太陽が顔を出しているなら変わり者が何人か昼食をとっているものなのだ。
 間違いなく結界の影響だ。授業中も机に突っ伏して動かない奴がいつもの倍以上いた。
本来それを注意すべき教師も、その気力すらないような、そんな虚ろな表情で淡々と授業を進めていた。
 日常が非日常に摺り返られていく。その終着駅は間違いなくあの赤い世界だ。
 そんなことは許さない。絶対に俺が阻止してみせる。

『喜べ、少年――』

 頭に涌いた悪魔の囁きに蓋をしながら結界の呪刻を探す。もちろん、それを見つけたところで半端魔術使いの俺にできることなどないのだが、どうしても自分の目で見たかったのだ。
 確か、凛はここら辺だって言ってたな…。

「何か探しものかい?」

 背後からの声に振り返る。
 そこにあった顔は、寸分違わず記憶にあるその声の持ち主の顔と一致した。
「慎二…」
 相変わらずシニカルな笑みを浮べた慎二は、給水塔の下の壁を指差した。その場所は凛に聞いた場所とぴったり一致していた。
「ほら、結界の呪刻ならそこにあるよ」
 慎二の指の先には、まるで心臓のように慌しく拍動する巨大な呪刻があった。さっきまで気付かなかったのが不思議くらい、禍々しい魔力を放っている。
 凛が消去したと聞いていたが、既に復活している。
 しかし、今問題なのはそんなことではない。
「慎二、何でお前が結界のことを…」
 凛や桜から聞いた話では、間桐の家に魔術師はいないということだった。しかし、魔術師でないなら、当然この結界に気付くはずがない。ならば―――。
「当然、僕が魔術師だからだよ。
 しかし、衛宮も魔術師だったんだ。僕に気付かせないなんて、中々やるじゃん」
 まるで昨日の電話が続いているかのように、妙にハイテンションな慎二が話す。
「この結界について詳しいことを知りたければ放課後にでもウチに来いよ。おもしろい話を聞かせてやるからさ」
 そう言って慎二は背を向けた。
「慎二、この結界はお前が張ったのか」
 慎二は振り返らなかった。



[1066] Re[9]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:d07f53ca
Date: 2007/05/20 00:12
 次にその子を見たのは査問会の席だった。
 査問の対象となっていたのはあの時の子供だった。
 なるほど、あの子は私の輩だったわけだ。
 少し意外だったが、おおむね納得した。
 査問の理由は魔術の隠匿無視。査問の理由としては最もありふれたものと言っていい。
 あれだけ派手に人を殺して、しかもそれを食べていたのだ。ばれないほうがおかしい。
 きっとあの子は有罪になり、どういう過程を辿るのかは知れないが、最終的には抹殺されるだろう。
 私は子供の顔を見た。きっと笑っていると思ったからだ。
 でも、違った。子供は泣いていた。年相応の子供のように。
 その異様に惹かれて、私はその子を引き取った。
 飼ってみよう、と思ったのだ。

episode9 夜間対話

 嗅覚というものは、視覚や聴覚と同じように、あるいはそれ以上に忘れかけていた記憶を思い出させる。街中でふ、と嗅いだ香りが、失われて戻らない何かを思い出させることなどしばしばだ。
 慎二の家の空気を肺に入れた瞬間俺の脳裏に浮かんだのは、初めて見た、輝くような代羽の笑顔と、それ以上に輝く笑顔で差し出されたしょっぱいコーヒーだ。
 顔を顰めながらも無理矢理それを飲み下す俺を、腹を抱えて笑っていた慎二も印象深い。
 ともあれ、あの頃の間桐の屋敷はもっと清々しかった覚えがある。少なくとも陰湿な雰囲気を感じさせるようなことはなかった。
 それが今はどうだろう。
 逢魔ヶ時というのもあるのだろう。しかし、纏わりつくようなこの空気は学校のそれを思い起こさせる。おそらく、その性質こそ多少の差異はあるものの、人を飲み込み排除するというベクトルそのものに違いはない。
 窓の外は夕闇に染まり、広い部屋を照らすのは頼りない燭台の灯りのみ。
 そんな異界の空気を従えるかのように慎二は楽しげだった。目は爛々と光り、動作も芝居がかったように大仰だ。その姿は夏休みを目前に控えて舞い上がった小学生を連想させた。
「とりあえず、ようこそマキリへ。歓迎するよ、衛宮」
 どっしりとした重厚なソファに腰掛けた慎二が、両手を広げてそう言った。
 ソファの後ろには奇妙な眼帯をつけた長髪の女性が控えている。
「ああ、こいつのことは気にしなくていいよ。
 こいつはライダー、僕のサーヴァントだ。なかなか凶暴な奴だけど、僕の命令がなけりゃ人を襲うことはない」
 ライダー。凛の推測が正しければ、あの結界を張った張本人。
 そうなのか、慎二。お前があの結界を張るように命じたのか。
「前置きはいい。さっさと本題に入ろう」
 そう言った俺を、少し機嫌を損ねたような顔で一瞥してから、慎二は言った。
「フン、相変わらずせっかちだな衛宮。ハヤすぎる男はもてないぜ。まぁしかし」
 ふう、と大きく息を吐き出す慎二。
「お前の言うことにも一理ある。今は戦争中だからね、無駄な会話を楽しんでいる暇はないか。
 じゃあ衛宮の言うとおり単刀直入に話そう。衛宮士郎、お前は此度の第五次聖杯戦争において、僕、マキリ慎二と手を組むつもりはないかい?」
 頭が痛くなってきた。
 なんだ、この状況は。密かに憧れていた学校一の美人と、家族のように付き合ってきた可愛い後輩と、最近めっきり疎遠になったものの貴重な数少ない友人が古ぼけた杯をめぐって殺しあうだと?全く、出来の良すぎる三流メロドラマだ。
「幾つか質問がしたい」
「当然だね。どうぞ、答えられる限りは誠実に答えさせてもらおう」
 ああ、くそ。
 俺は何をやってるんだ。
 こんなところで友人を相手に腹の探り合いか。
 なるほど、俺も含めて魔術師というのがろくでもない人種だっていうのが納得できる。
「慎二、お前は魔術師なのか。それに代羽は」
「質問は一つずつで頼むよ。…まあいい。まず、一つ目の質問の答えはイエス。僕は魔術師だ。そもそも、そうでなけりゃマスターなんかになれっこないだろう」
 上から物を見る、相変わらずの表情で慎二が言う。
「二つ目の質問に関してはノー。魔術は一子相伝。せっかくの神秘の結晶をわざわざ薄めて伝える愚かな家系なんて絶対に存在しないよ。衛宮はそんなことも知らないんだ」
 くすくす、と笑う慎二。
 なるほど、確かにその通りだ。
 神秘の密度は、それを知る人間の数に反比例するといわれる。ならば、できる限りその濃度を高めようとするのは当然だ。
 しかし、この世には例外というものが必ず存在する。そして、それは俺の身近にあるのではないか。
 遠坂。
 魔術の名門。
 五大元素を操る姉と架空元素を従える妹。
 おそらくは、奇跡のような確率で生まれた一対の至宝。
 慎二はさっき[絶対]という言葉を使った。おそらくそこには虚偽はなかった。
 ならば、凛はともかく、桜が魔術師だということを知らないのか? 
「あの結界、お前、あれについて何か知っている、そう言ってたけど、何を知っているんだ」
「誰があの結界を張ったか、だ。でも、答えは教えてやらない。僕と同盟を結ぶなら話は別だけどね」
 結界を張った犯人。
 凛達の推測が正しければ、それはライダー以外にあり得ない。
「…慎二、お前の目的は何だ。何故こんないかれたイベントに参加する」
 その言葉に慎二ははっきりとした声で答えた。
「僕は偶然マスターになってしまった。
 出来ることなら棄権したいところだけど、果たしてそれだけで他のマスターが見逃してくれるかわからない。サーヴァントを捨てたところを他のマスターに襲われる、なんてことになったら目も当てられない」
 淡々と語る慎二。その答えは、まるで予め準備しておいた回答のようで、ひどく薄っぺらな印象を受けた。
「聖杯なんて得体の知れないもの、僕は欲しくない。だが、こんなくだらないイベントのせいで日常を変えるのも気に食わない。
 衛宮、お前もそうだろう?ならば、僕達は協力できるはずだ」
「つまり、自衛以外に力は使わない。そういうことか?」
「ああ、流石は衛宮だね。その通り、僕のほうから争うつもりはない。まあ、降りかかる火の粉くらいは掃わせてもらうつもりだけどね。
 さあ、衛宮。僕と一緒にこの戦争を生き残ろうじゃないか」

 俺はその誘いを―――


「断ったのね」

 窓ガラスを挟んだ二つの世界は、文明の利器によって照らし出された光の世界と、非合理な恐怖が支配する闇の世界に分け隔たれていた。
 外は漆黒。木枯らしが吹き荒び、遠くから聞こえる自動車のエンジン音と相まって不可思議な郷愁を感じさせる。
 いつからこの部屋が作戦司令室になったのかは知らないが、昨晩と同じように俺達は居間に集まった。
 目の前には凛と桜とキャスター。隣にはセイバー。柱に身体を預け、どこかしら遠くを見つめるアーチャー。
 既に見慣れたといっていいメンバーだ。
「ああ、少なくともみんなの意見を聞くまで勝手なことはできないから」
「賢明ね。もし勝手に慎二と同盟を結んでたら、私はあなたを切り捨ててた」
 真剣な顔で凛が言う。
「まず聞かせて頂戴。あなたは今日の慎二をどう思ったの」
 理屈を抜きにした直感。凛はそれを求めている。
「…率直にいうと慎二は舞い上がってた。新しい玩具を買ってもらった子供みたいだったよ。だから、望まない戦いに巻き込まれたっていうのは嘘だと思う」
 俺は嘘は言っていない。だが、これは友人を売ってしまったことになるのではないか。
「…慎二が結界を張った可能性は?」
 決定的な問い。しかし、偽るわけにはいかない。
「……、かなり高いと思う」
 静寂。
 視線を横に向けると、そこにいたのは痛ましい顔をした桜。
 無理もない。彼女は凛と違って慎二との面識が深い。弓道部にいるときの慎二は、女性にはとことん優しかった。
「…そう。悪かったわね。辛い役回りをさせたわ」
 そう言った凛の顔には、苦渋と決意が等量で綯い交ぜになった表情が浮かんでいた。
「これで当面の方針は決定ね。明日、学校が終わったら慎二を抹殺する。異論はある?」
「ちょっと待ってくれ。まだ可能性の段階だろう?何の証拠も無いのに、抹殺するなんて無茶だ」
 あまりにも極端な凛の意見に驚く。
「ええ、そうね。まだ可能性の段階で、何の証拠も無いし、無茶かもしれない。
 でも、私はあいつを殺すわ。例え間違いでも構わない。そのときは全責任を私が背負う」
「殺人の責任なんて、どうやったって背負えるもんか」
「背負える背負えないの問題じゃない。背負うって言ってるの。
 下手をうてば何百という人が死ぬ。おそらく、その中には藤村先生や、柳洞君も含まれるわ。それでも、あなたはいつ掴めるかわからない証拠を探して、彼を野放しにするというの?」
 その言葉に、俺の口は蓋をされてしまった。
 正論。これは正論だ。無作為に人を殺し、神秘の暴露すらしかねない外道結界。
 例え未遂とはいえ、それを張った罪は重い。
 それでも、法に照らされるならその罪は極刑には至るまい。なにせ、まだ人を殺してはいないのだ。第一、法は証拠も無いのに人を罰することなど絶対に認めていない。
 しかし、慎二は自らを魔術師と名乗ったうえでこのゲームに参加した。ならば、それは自らが魔術師としての掟に裁かれても文句は言えないということだ。
 そして、魔術師である凛が下した判断は、おそらく正しい。
「…最後に、あいつと話したい。それでも駄目なら…」
「シロウ、あなたの優しさは貴重だが、今回は凛が正しい。そのような結界を張った時点でその男は一線を踏み越えている。ならば、それの説得は不可能なだけでなく、自らを危険に曝す愚行だ」
 どこまでも冷静なセイバーの声。その静けさが、俺の心を荒立たせる。
「わかってる。でも、このままじゃ納得できない」
「っ、あんたねぇ!」
「先輩!姉さん!やめて下さい!」
「やめておけ、凛。この男に何を言っても無駄だ」
 腕を組み、視線を彼方へやったまま、アーチャーが言う。
「こいつは制御の効かない機関車のような存在だ。自分の欲望のままに加速を続け、いずれは他者を巻き込んで破滅する。
 凛、君がこの戦いに勝ち残りたいならこんな愚か者とは早々に手を切るべきだ」
 淡々と語られた俺の評価。
 しかし、それは。
「我がマスターを侮辱するか、アーチャー」
 剣呑なセイバーの言葉。
「事実を言ったまでだ。君もそろそろ身の振り方を考える時期なのではないのかね?義理か人情かは知らんが、沈み行く泥舟と運命を共にしても望むものは手に入らんぞ」
「よく言った。二度とその口、訊けなくしてやろう」
「やめてくれ、セイバー」
 既に武装を完了し、一足にアーチャーに飛び掛ろうとしていたセイバーを制止する。
「シロウ」
「ごめん、セイバー。でも、多分アーチャーの言ってることは正しい」
「そんな」
 悲しそうな表情のセイバー。
 すまない、君はそんなに気高いのに、俺は、自分に、胸を張ることすらできない。
「少し頭を冷やしてくる。ありがとう、アーチャー」

 家主のいなくなった居間。
 唐突に嵐が訪れ、瞬きもせぬうちに過ぎ去ったかのようなその部屋は、一種の気だるい雰囲気に支配されていた。
「アーチャー、彼は私の同盟者よ。それを貶めるような発言は厳に慎みなさい」
 私の言葉に彼は皮肉な笑みを以って答えた。
「道を間違えようとしている主に苦言を呈するのも忠臣の条件と思っていたのだがね。なるほど、君が欲しているのが主人に追従することしか知らない家畜ならそう言ってくれたまえ。本意ではないが従おう」
 いつもと変わらない、人を小馬鹿にしたような言い回し。
 しかし、そこには確かに理がある。
 挑発するような言葉の中に、若輩を導く先達の心がある。
 しかし、さっきの士郎への言葉には、隠し切れない苛立ちがあったように思う。
 おそらく、いや、確実にアーチャーは士郎を憎んでいる。
「しかし、奴も存外意気地がない。一言も反論せず逃げ出すとはな」
 こいつ――
「アーチャー、貴様!」
 私より早く激発したのは士郎の忠実な剣。
 鎧を纏い、不可視の剣を抜き放った彼女。
 駄目だ、今度こそ止められない。
 しかし、セイバーは、何か見てはいけないものを見てしまった、そんな中途半端な表情浮べたまま固まってしまっていた。
 彼女の視線の先にあったもの。
 それは、何かを懐かしむような、いぶかしむような、そんな中途半端な表情を浮べて士郎が出て行った扉を見つめるアーチャーだった。

 縁側に座って空を見上げる。
 記憶に蘇るあの時の満月。
 あの日のように、月があればいいと思った。
 しかし、視界にあるのは分厚い雨雲。
 しとしとと、細かい霧雨が降っている。
 そういえば、あの日は、真冬なのに不思議と寒くなかった。
 今はその理由が分かる。
 隣に、彼がいたからだ。
 彼がいる、彼が笑ってくれる。
 それだけで安心することができた。
 それだけで、暖かかった。
 でも、もう彼はいない。
 俺を暖めてくれた暖炉の火は、熱を失い灰となった。
 だから、縁側は、こんなにも寒い。
 俺を導いてくれた灯台の灯火は、闇に飲まれ、今は見えない。
 だから、月は姿を隠した。
 ああ、そう考えてみると、今日の夜は、今の俺に相応しい。
 なあ、切嗣、教えてくれ。
 俺は、ほんの少しでも、あなたに近づいているのかな。

「いい夜ですね」

 背後から、声がする。
 冷たく突き放すような、優しく容認するような、そんな声。
「代羽、目が覚めたのか」
 昨日、彼女がなかば意識を失うかのように床に就いてから、ほぼ一日ぶりに聞く声。
 それは、常の代羽からは考えることができないほど優しいものだった。
「身体のほうは大丈夫か」
「ええ、だいぶ楽になりました。逆に、あまりに寝すぎて頭がボーっとします」
 苦笑しながら彼女は俺の隣に座った。
「ああ、本当にいい夜です」
「雨が降っているし、月も出ていない。そんなにいい夜かな」
 隣に座った代羽を見る。
 薄手のシャツと、ミニスカート。
 凛から借りたそれらは、外気に直接さらされる縁側ではいかにも寒々しい。
「ええ、私はそう思います。
 星の見えない夜空も、優しく濡れた空気も、とても趣がある。
 それに、今日はこんなにも暖かいわ」
 そうだろうか。
 今日は、とても寒い。
 体も、心も、震えてしまうくらいだ。
 一人では、とても耐えられない。
 でも。
 隣に代羽が座ってから。
 心の震えは、止まった気がする。
「衛宮先輩、何を考えているのですか」
 代羽の瞳が、まるで挑みかかるように俺を見つめる。
 ああ、綺麗な目だな。
 何となく、そんなことを思った。
「んー、今度提出する進路希望調査に何を書くか、かな」
 本音と冗談を織り交ぜた答えを返す。
「先輩は、何かなりたいものがあるのですか?」
 意外な反応。
 常の彼女なら、『まだはっきりとした将来像も描けていないのですか、この甲斐性なし』
くらいは言い放ちそうなものだが、今日は違った。
 どうやら、優しい夜は、人をも優しくするらしい。
「笑わないって約束するか?」
「無責任な約束はしない主義です」
 にこやかに微笑みながらも、やはり彼女は彼女だ。
 俺は苦笑して、笑われる覚悟を決めてからこう言った。
「正義の味方にね、俺はなりたいんだ」 
 さあ、きっと彼女は盛大に笑うぞ。それとも哀れむような、蔑むような視線を向けてくれるのか。
 しかし、彼女は、相変わらず優しい、でも少し寂しそうな微笑を浮べてこう言った。
「何でですか?」

 たった数文字の、単純な問い。
 しかし、それゆえに俺は逃げることができなかった。
 おそらく、優しい夜が、それを許さなかったんだと思う。

「親父とね、約束したんだ」

「親父はね、笑いながら死んだんだ。『ああ、安心した』。そう言って死んでいったよ」
「親父は言ってた。『大人になると正義の味方を名乗るのが難しい』、って」
「あのとき、親父が何を言いたかったのか分からなかった」
「でも、今はよくわかる。本当、嫌になるくらい」
「子供の時は、正義の味方になることなんて難しいことじゃなかった」
「クラスで苛められてる奴を助ければ、公園を独り占めするガキ大将を見知らぬ女の子と一緒にやっつければ、それだけで正義の味方になれた」
「でも、今は駄目だ」
「正義の味方の敵にも、そいつなりの正義が在ることを知ってしまった」
「本当に悪い奴なんて、どこにもいないことを知ってしまった」
「昔読んだ小説の一説が思い出せる。『この世に絶対善と絶対悪があれば、人はなんと単純に生きられるだろう』、こんな言葉だった」
「それでも、俺は正義の味方になりたいんだ」
「泣いてる人がいなくなるのは、みんなが笑っているのは、きっと素晴らしいことだから」
「それに、親父と約束したんだ」
「俺は親父の実の子供じゃない。でも、俺は親父に命を救われた。親父は、俺の理想だった」
「最後に、最後の瞬間に、俺が親父の理想を継ぐって言ったら、親父は言ったよ。『ああ、安心した』って」
「だから、俺は正義の味方にならなきゃいけないんだ」


 静寂が空間を満たす。
 いつの間にか、霧雨も止んだらしい。
 いつ以来だろうか、他人にここまで自分の心情を吐露するのは。
 俺は羞恥した。
 もちろん、話した内容についてではない。
 自分の心に圧し掛かった重石を、他人に預けようとしてしまった、自分の弱さを恥じたのだ。
 それでも、彼女はこう言った。
「あなたはどうして正義の味方になりたいのですか?」
 そんな彼女の言葉に俺は軽い困惑を覚えた。
「さっき話した内容がその答えだよ」
「ええ、そんなことは承知しています。
 しかし、さっきの話は『正義の味方を目指したきっかけ』であって、今あなたが正義の味方を目指す動機ではないでしょう」
「同じことだ。きっかけがそのまま目指す動機になっただけだ」
「では質問を変えましょう。
 単純に人助けがしたいなら、何も正義の味方などである必要はありません。医師でも、警察官でも、消防士でも、立派に人助けができる。
 なのに、何故正義の味方でないといけないのですか」
「―――」
「こう言い換えることができるかもしれない。
 あなたは人を助けるために正義の味方になりたいのですか?
 それとも、正義の味方になるために人を助けたいのですか?」

 何も、言えなかった。
 その質問は、俺を殺す。
 駄目だ、これ以上言うな。

 頼むから、許してくれ。

「人を助けるために正義の味方になりたいのなら、その意志はどこまでも尊い。
 しかし、正義の味方になりたいがために人を助けるというのならば、その行為はどこまでも醜悪です」
「…自己満足だからいけないってことか?」
「それは違います。自己満足でも、誰かが救われるなら、その行為自体の価値は変わりようがない。さらに言うなら、自己満足以外の満足など、そもそもこの世に存在し得ないでしょう」
「じゃあ、一体何がいけないんだ」
「単純な話です。
 正義の味方になるために弱者を助けるというのは、詰まるところ、弱者の存在を希求することにほかなりません。それは同時に、他者の平穏を乱す何かの到来を待ちわびることであり、結局は他者の不幸を待ち望むことと同義です」

 俺は―――。

「先ほどのあなたの話には、その中心に[正義の味方]という概念がまずありました。目指す動機はその概念へ到達するための舗装路のようにしか聞こえなかった。
 果たして、あなたは何を目指しているのですか」

『喜べ、少年、君の願いは―――』


「―――輩」

 遠くで、何かが聞こえる。

「―――先輩」

 ああ、もう少し放っておいてくれないか。

「しっかり―――」

 この空間は心地良い。

「仕方な―――」

 こんなに穏やかなのは、久しぶりなんだ。


 ぱあぁん。


 気持ちの覚めるような破裂音。
 それと同時に頬に微かな痛み。
 目の前にいるのは、憮然とした表情の代羽。
 ああ、なんだ、帰って来てしまったんだ。


「はっきりしましたか、衛宮先輩」

 優しく微笑む代羽。
 その表情は、いつものそれだ。
「あ、ああ。すまない、ぼおっとしてた」
 誤魔化しにもなっていない、そんな言い訳。
「いえ、謝るのは私のほうです。調子に乗りすぎました。申し訳ありません」
 そう言って彼女は頭を下げた。
 それなりに付き合いは長い方だが、こんなに殊勝な代羽は初めてだ。
 俺は少し調子に乗って、彼女に質問してみる。
「そういう代羽の夢は何なんだ?」
 彼女は呆気にとられたような表情をしたあと、少し俯きながらこう言った。
「笑わないって約束してくれますか?」
「無責任な約束はしたくないんだ」
 そう言うと、彼女は赤く頬を染めて不機嫌な顔をしたが、それでもこう答えてくれた。
「私の夢は、愛しい人と、手を繋いで歩くことです。
 皆に祝福され、高らかになる鐘の音の下、指輪を交換する。互いを慈しみ、支えあい、子を成し、育て、そして緩やかに、共に老いていく。それが私の夢」
 意外だった。
 彼女の夢は、もっと想像を絶するようなものではないかと思っていたのだ。
 なんだ、代羽も女の子なんだな、そんなことを思った。
 だから、俺はこんなことを言ってしまった。
「ああ、きっと代羽なら、叶えることができるよ」
 そういうと、彼女は烟るような笑みを浮べてこう言った。
「ええ、お世辞でもありがとうございます。ほんとうに、うれしい」


 だから。
 その笑みを見てしまったから。
 俺は一生後悔することになってしまった。
 だって、彼女は知っていたんだ。
 自分の夢は、絶対に叶うはずがないことを。


「そろそろ部屋に戻ったほうがいい。なんだかんだ言っても病み上がりなんだから、無理をするとぶり返すぞ」
 俺がそう言うと、代羽はすくっと立ち上がった。
「ええ、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきませんものね。今宵はこれでお暇することにしましょう」
 解けきる寸前の氷のような薄い笑みを残して、代羽はそう言った。
「ちょっと待て、だから今のお前は」
「一人で出歩くのは危険だ、そう言いたいのでしょう?」
 くるり、と体を一回転させて、楽しそうに彼女は笑う。
「なら、あなたが送ってくださいな。これが私にできる最大限の譲歩で、あなたにできる最大限の譲歩です。そうでしょう?」

 雨によって洗われた、清廉な空気。
 閑静な夜にそれが加わって、大気はたいそう肌に優しい。
 僅かに湿ったアスファルトからは、不思議な郷愁を感じさせる独特の匂いを感じる。
 頼りない街灯の光と、雲間から時折のぞく月明かり。
 まだそれほど遅い時間ではないが、人の気配は途絶えている。
 無人の町は、どこか幻想的だった。

 俺の前を歩いている少女はセイバー。後輩を家まで送っていくくらい俺一人で十分、そう説得したが、彼女は頑としてそれを受け入れなかった。
 俺の隣を歩いている少女は代羽。彼女の服装は、相変わらずの真っ赤なハイネックと黒いミニスカート。凛から借りたそれらの上に、ぶかぶかのダークグリーンのコートを羽織っている。彼女にとって丈が長すぎるそれの裾は、ピンで止めているにもかかわらず地面とすれすれのところまで伸びている。
「悪いな、そんなものしかなくて」
 親父の遺品、というのも大袈裟な言い方だが、であるそれは長い間箪笥の奥に眠っていたので、防虫剤の匂いが完璧に染み付いてしまっている。その匂いに生前切嗣が好んでいた煙草の香りが混ざって、よくわからない不可思議な匂いを放つ物体と化してしまっているのだ。
「外套の本来の役割は冬の寒さを遮断すること。それ以上は望みません」
 何事にも簡素さを最重要視する彼女らしい意見だ。
 考えてみれば、代羽がアクセサリの類を身につけているところなんて見たこともないし、それ以外の小物、例えばハンカチや靴下、なんかもほとんど同じものしか持っていないらしい。
 以前、桜がそのことを注意したことがあった。桜自身、普段はアクセサリなんかはあまり好まないようだが、それでも代羽の無頓着ぶりには考えるところがあったのだろう。
 女の子なんだからおしゃれに気を使うのは義務である、そう主張する桜に、代羽はこともなげにこう答えたという。
「装飾品を付けたところで私の本質に変化があるわけではない。ならばそんなもの、選ぶのにかける時間が惜しい。ハンカチも同じこと。
 靴下は特に一種類がいい。全て同じものなら、片方なくしたときに替えがきくから」
 それを聞いた桜は流石に絶句したというが、俺は爆笑してしまった。
 なんというか、あまりに代羽に相応しい、そう思えたのだ。
「しかし、この外套、あなたのものにしてはサイズが大きすぎますね。一体誰のものなのですか?」
 代羽の質問に意識を引き戻される。
 ちらり、と彼女のほうを見ると、袖が長すぎるのか、手の先まですっぽりとコートで隠れてしまっている。まるで背伸びしたがる子供が父親の服を着たときみたいで、少し微笑ましい。
「ああ、それは親父が着ていたものなんだ。サイズが合わないから箪笥の奥に眠ってたんだけどな。やっぱり代羽には大きすぎるだろ、俺のと交換しよう」
「結構です。だいたい、その話は既に結論が出ているはずだ。もしあなたが父親の品を貸したくないというなら話は別ですが、そうでなければ私は満足です」
 彼女は相変わらず視線を前に固定させたまま、嬉しそうに笑った。
 そう、彼女は尖った台詞を吐くときは必ず優しく微笑むのだ。だから本来であれば毒に満ちた言葉も、僅かなりとも中和され、優しく耳に響く。
 彼女は続ける。
「そういえば、お父様というと、先ほど先輩が話してくれた……」
「あ、ああ、そうだ。よく憶えてたな」
 頭の中で先ほどの会話が再生される。
 考えてみれば、俺はとんでもなく恥ずかしいことをしゃべっていたのではないか。もちろん、俺が目指しているものが間違っているとは思わないし、それが恥ずかしいものだなんて微塵も思わない。しかし、そういったことは本来胸の奥に秘めておくものであって、あのように痛みと共に吐き出すものではないはずだ。
 羞恥に頬が熱くなる。しかし、代羽はそんな俺に気付かぬ素振りでこう言った。

「…先輩、先輩はその方に引き取られて幸せでしたか」

 ―――その、質問は。
「代、羽、お前、何を……」
 黒い神父。それとの問答が思い出される。
「すみません、妙なことを聞きました。忘れてください」
 いつの間にか俺達は彼女の家の前まで来ていた。
「ありがとうございました、先輩、セイバーさん。
 本当は少し心細かったので、とても嬉しかった。このお返しは近いうちに必ず」
「そんなのいらないよ、じゃあまた明日、学校で」
「ええ、おやすみなさい」
 そう言って彼女は門の中に姿を消した。
 彼女の背中が屋敷の中に消えていくのを見届けてから、俺はセイバーに声をかけた。
「帰ろうか」
「ええ、そうしましょう」
 闇夜の中でなお輝く微笑みを浮かべた彼女が応じる。
 その時、屋敷の明かりがひとつ灯った。
 今までの明かりと合わせて二つ。
 ああ、慎二と代羽はこんなに大きい屋敷でたった二人なんだな。
 そう思うと、自分がいかに恵まれすぎているのかがよく分かる。
 何かを振り払うかのように踵を返す。
「行こう」
 夜のしじまには、いかなる音も響かなかった。



[1066] Re[10]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d07f53ca
Date: 2007/05/20 23:25
 
 その服はなんだ、と兄が言った。
 胸に十字のデザインの入った、真っ赤なハイネック。黒いミニスカート。
 明らかに私の服ではない。
 これは、遠坂先輩にお借りしたものです。
 そういうと、兄の顔が忌々しそうに歪んだ。
 そして、その表情が歪んだ笑いにかわり、兄はこう言った。
 後で僕の部屋に来い。もちろん、その服を着たままでだ。
 彼は私を犯すのだろう。
 それはいつものこと。
 別段、苦しくはない。
 でも、遠坂先輩に借りた服が汚されるのはつらい。
 明日、謝らないと。


episode10 不可思議

 コンクリートの冷たい地面に腰を下ろし、胡坐を組む。
 手のひらを上に向け、指を絡ませる。
 結跏趺坐。
 精神統一のための行。
 息を吸う。吐く。
 意識をそれに集中する。
 だんだんと雑念が消えていく。
 世界が、俺に向かって閉じていく、そんな感覚。
 イメージはコヨリ。
 紙をねじり、先を固く、細くしていく。
 どこまでも、どこまでも…。
 さぁ、今日も始めようか。

「まだそんな無駄なことをしているのか」
 呆れたような声が、俺を世界に連れ戻す。
「―――アーチャーか、こんな時間にどうしたんだ」
 俺は声の主に問いかけた。
「凛から聞いたはずだな、今まで貴様が行ってきた修行は無意味。貴様の努力は、苦痛は、何の実も成さなかったと」
 俺の問いかけには答えず、心底苛ついたような顔でそう言うアーチャー。
「なのに、何故続ける。貴様は被虐性愛症か」
 俺は一瞬ぽかん、としてしまったが、アーチャーの真剣な顔に吹きだした。
「…何がおかしい」
 気分を害した彼の声。
 それでも俺は笑ってしまった。
「あんた、意外と優しいんだな」
「はっ?」
 今度ぽかんとしたのはアーチャー。
「だって、わざわざ忠告しに来てくれたんだろう?」
 そう、冷たい奴は、いつだって無関心だ。
 ある偉人はこう言った。
 愛の対義語は憎しみではない、無関心であると。
 俺は全面的にその意見に賛成だ。憎しみから生まれる何かもある。しかし、無関心からは何も生まれない。それに比べれば、棘のあるアーチャーの言葉もはるかに生産的だ。
「貴様が何を言いたいのかはしらん、しかし覚えておくがいい。
 我らはたった一つの景品を求めて殺しあう仇同士だ。いらぬ情は身を滅ぼすぞ」
 なんとなくわかった。きっとこいつはいい奴だ。突き放すような、拾い上げるような感じが、どことなく凛に似ている。なるほど、確かにサーヴァントとマスターは似たもの同士になるようだ。
 依然、苦虫を噛み潰したような表情のアーチャー。
「ふん、貴様がくだらんことを吐かすから、本来の目的を忘れるところだった」
「本来の目的?」
 鸚鵡返しに問い返す。
「貴様が私達のボトルネックになっているのは自覚しているか?」
 …そんなこと、言われるまでもない。
 サーヴァントは言うに及ばず、マスターの中でも俺の実力はダントツに低い。少なくとも、凛や桜には遠く及ばないだろう。
「貴様が己の未熟ゆえに死ぬのは勝手だが、一緒にセイバーまで消えられては我らの戦力の低下は避けられん」
 聖杯戦争における定石の戦術。サーバントでなく、マスターを狙う。
 その戦術を選択された場合、狙われるのはまず間違いなく俺であり、生き残る確率は限りなく低いだろう。
「さらに言うなら、万が一貴様が生きたまま敵の虜囚にでもなれば、凛にまで害が及ぶ可能性すらある。あれは、口でいうより甘い人間だ」
 自分が役立たずで、みんなの弱点になっている。
 それらは一応自覚していることではあるが、歯に衣着せぬ言い方で指摘されると、流石にカチンとくる。
「…何が言いたいんだ?」
 俺がそう言うと、アーチャーは皮肉げに唇を歪ませた。
「なに、どうということはない。貴様を鍛えてやろうというのだ。今の貴様は只の塵芥だが、上手くいけば猫の手くらいにはなろう」
 アーチャーの言葉は、俺の想像の範疇から外れたものだった。
「…最後は敵同士だ、そう言ったのはあんただったと思うけど」
 その言葉に、やはりアーチャーは冷笑を浮かべた。
「はっ、今から鍛えたところで貴様が私や凛の敵と成りうるとでも考えているのか?だとしたら思い上がりも甚だしいな」
 …悔しいけど、何の反論も思い浮かばない。
「そもそも、そんな先の話をする余裕が貴様にあると思っているのか?
 挑む逃げるは貴様の自由だが、私の課す修練はそれなりに厳しいぞ。少なくとも、今まで貴様が己に課した修行が児戯と思えるほどにはな」
 試すような視線で俺を射抜くアーチャー。
 挑むか逃げるか。
 前に進むか、後ろに退くか。
 そんなの、答えは決まってる。だって、俺の目標は定まっているんだから。
「強くなれるなら、そんなの大歓迎だ。是非頼む、アーチャー」
 そう言って、俺は右手を差し出した。
 アーチャーは、無言で俺の手を握った。
 背筋の凍るような視線。
 そして、言った。

「のた打ち回れ、衛宮 士郎」

 その瞬間、天と地が逆転した。
 何かが、アーチャーの掌から流れ込んでくる。
 それは、とても、とても、乾いていた。
 体が内側から裏返っていくような錯覚。
 皮膚が、肉が、骨が、内臓が、くるり、と反転する。
 それは、錯覚と分かっているのに、妙にリアルな感触で俺を襲った。
 頭の中を、意味不明なノイズが埋め尽す。
 あ、あ、あ――――……。
 駄目だ、俺が消える、押し潰される、縮小していく。
 ― 体は剣で ―
 流れ込んでくる、知らない誰かの人生。
 ― 契約しよう ―
 俺じゃない誰かの記録、それが俺の記憶を蹂躪する。
 ― シロウ、あなたを ―
 それは、とても寂しい記録。

 前方は遥かな荒野。
 隣には誰もいない。
 着いて来るのは己の影のみ。
 只ひたすらに、荒地に水を撒く。
 昨日までの自分を否定しないために。
 明日の誰かが笑っているように。
 でも、結局、理想の種子は芽吹くことはなかった。
 当然、彼は朽ち果てた。
 そこに、笑顔は、なかった。
 最後に、傍らには、剣があった。
 剣だけが、あった。
 そして、そいつ自身も剣だった。
 とても、強かった。
 固く、鋭く、しかししなやかで、折れず、曲がらない。
 だから、誰にも分からなかった。
 自分にすら理解されなかった。
 本当は、その芯鉄は、硝子のように繊細だということを。

 彼は救った。
 救って救って救って。

 彼は助けた。
 助けて助けて助けて。

 彼は裏切られた。
 裏切られて裏切られて裏切られて。

 彼は傷ついた。
 傷ついて傷ついて傷ついて。

 それでも。
 それでもそれでもそれでも。

 それでも。

 生命の存在を許さぬ荒野。
 風が吹き荒び、一滴の潤いもこの世界には存在し得ない。
 しかし、その男は傲然と顔をあげ、胸を張って、一人歩く。
 付き従える、剣の群れ。
 その背中は言っていた。

 ついて、来れるか。
 
 ああ、俺にできるのか。
 俺は、彼になることができるのか。


「アーチャー、あんた何をしたの」

 名は体を表す、とはよくいう諺だが、彼女の声は、その名に正に相応しかった。
 凛とした声が、夜のしじまを破る。
 いや、それは正確ではない。
 静寂などとうに破られている。
 その元凶は、彼女の従者が背後にした土蔵の扉の奥。
 そこから耐え間ない苦悶の声が聞こえる。
「どうということはない。愚か者に軽い喝を与えただけだ」
 周囲に響く叫び声は、彼の言葉を否定している。
「アーチャー」
「アーチャー、貴様、シロウに何をした!」
 今も土蔵で苦しむ少年の従者が、風の鞘を纏った聖剣を携え現れた。
「ああ、セイバー、何をそんなに慌てているのだ?我らは所詮現世の客人に過ぎん。ならば。この世にそれほど急くことなどないだろうに」
 あくまで余裕を保った彼の声。それは剣の逆鱗を逆撫でした。
「やはり裏切ったか、アーチャー!そのよく動く舌、切り取って野犬に食わせてやろう!」 
 本日三回目の激発。
 三度目の正直という諺が正しければ、今度こそ破局は避けられぬ。

 剣士は、槍兵も恥じ入るような激烈な速度で弓兵の間合いに飛び込み、横薙ぎに剣を振るう。
 狙いは首筋。
 きっと、弓兵は己の死すら認識しえぬまま、退場を余儀なくされる。

 だがしかし、今回適用されたのは、二度あることは三度あるという、正反対の意味を持つ諺だった。
 理知的な彼女を激発させたのが彼の言葉なら、それを止めたのもまた、彼の言葉だった。
「奴が、自分で望んだのだ」
 剣が、まさに赤い弓兵の首を断たんとしたとき、絶体絶命のはずの彼は、それでも落ち着いた声で話した。
 剣は弓兵の首の薄皮を一枚破ったところで止まっていた。
「…なんだと」
 そう問う剣士に、弓兵は再び言った。
「奴が自分自身で望んだのだ。君はそれを否定するのかね?」
「世迷言を…」
「そう思うなら、その剣を振り抜くがいい。君にとって今の私を屠ることなど造作もあるまい?」
 怒りに満ちた顔、それでも彼女が動かないのは、目の前の男の言に虚がないことを理解してしまっているからだ。
「振りぬかないのか?ならばその剣は収めたまえ。そして、あの小僧の下へ行ってやれ。君と奴には不思議な縁がある。もしかすると、奴が生き残る可能性も少しは上がるかも知れん」
 彼女は悔しそうに剣を引くと、駆け足で自らの主の下へ向かった。

 
「…、どうした、何か言いたそうだな、凛」

 弓兵は己の主人に問いかけた。
 剣士は立ち去り、どうやら峠を越したのか土蔵から聞こえるうめき声も収まった。
 静穏が、再び夜を支配する。
 残されたのは二人。
 赤の魔術師と、同じく赤の弓兵。
「…別に。あなたのしたことは間違いじゃないと思う。あいつには最低限の実力はつけてもらわないと、こっちまで累が及びかねない」
 肯定の言葉。
 しかし、彼女の表情はその言葉に反していた。
「ただ、ちょっと意外だったわ。あなた、士郎を嫌ってると思ってたから」
 主の言葉に、従者は憮然とした表情を浮かべる。
「ふん、どうせ君も似たようなことを考えていたのだろう?こんな瑣末ごとにマスターの手を煩わせることも無い、そう思っただけだ。
 それに、あの小僧がどれほどの力を身につけようと、君にとって物の数ではあるまい。
 その気になればいつでも殺せる」
 その言葉に、彼女は苦笑で返した。
「ええ、その通り。確かに手間は省けたし、余分な宝石も使わずに済んだわ。でも、これからは事前にひとこと相談しなさい」
 そう言って、彼女は割り当てられた自分の寝室に向かった。
 一人残された弓兵は、表情を消して、月のない夜空を見上げた。
「そう、いつでも殺せる。さっきも殺せた。…殺せたのだ」
 その時、少しだけ風が吹いた。
 雲が千切れとび、一瞬だけ月が顔を出す。
 彼は、射抜くようにそれを見つめ、やがてその姿を虚空に消した。

 (あとがき)9話と合わせて、今までで一番感想が怖いです。それでも、忌憚の無い意見をお聞かせ願えたら、そう思います。



[1066] Re[11]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d07f53ca
Date: 2007/05/20 23:52
『子供の頃私は』とても幸せだったらしい。
『私はよく人から』多くのものを奪う。
『私の暮らし』は地下で過ごすことが多い。
『私の失敗』はあの時死ななかったこと。
『家の人は私を』必要としてくれる。
『死』という言葉は私に無関係だ。
『私の出来ないこと』を彼がしてくれる。
『私が心引かれるのは』私の存在しない世界である。
『私が思い出すのは』赤い空と黒い泥。
『私を不安にさせるのは』眠る前の静寂と眠った後の喧騒。
『自殺』は不可能だ。
『私が好きなのは』勧善懲悪の物語だ。
『罪』には相応の罰が必要である。
『大部分の時間』を無為に過ごしてしまった。
『私が忘れられないのは』空虚な掌の感触だ。

episode11 閑話自転
 
 まず不思議に思ったのは、自分が何か柔らかいものの上で寝ていること。
 昨日は確か土蔵で修行をしていたはずだ。
 だが、修行を始めた記憶はあるが終了した記憶がない。つまり、何らかの原因で失敗したのだろう。そして、死にかけて意識を失った。そんなこと、日常茶飯事だった。
 しかし、そう考えると妙なのだ。
 背中に感じる地面の感触が、不思議なほどに柔らかい。
 どうやら、俺は布団の上に寝ているようだ。
 これはどうしたことだろう。
 ひょっとすると、桜が俺を運んでくれたのか。
 そんなことを考えながら目を開けると、そこには朝日に煌く金砂の髪があった。
「起きましたか、シロウ」
 見上げる俺。
 覗き込む彼女。
 太陽の光に照らされた彼女の瞳は、世界中のどんな宝石なんかよりも美しく見えた。
 混乱した俺は、とりあえずお決まりの挨拶で返す。
「…おはよう、セイバー」
 俺がそう言うと、彼女は優しく微笑んでくれた。
「おはようございます」

 ああ、今日もいい一日でありますように。


「驚いた、もう動けるんだ」
 聞きようによってはひどく酷薄にも聞こえる姉の発言。
 しかし、姉や私も、スイッチを作った次の日は満足に動けなかった。
 それを考えれば、少し前まで素人同然だったのに、スイッチを作った昨日の今日でけろりとしている先輩はすごいと思う。
 食卓を彩る数々の料理。
 先輩と私の合作のそれらは、小鉢に盛られた浅漬けにいたるまでが珠玉の自信作だ。
 衛宮家の居間を支配する巨大な机。
 そこに座るのは、昨日よりも多い7人。

「へえ、アーチャーさんはセイバーちゃんのお兄さんで、キャスターさんはお姉さんなんだ」
 もぐもぐ。
「ええ、旅券の予約ミスがありまして妹だけが先にお邪魔することになってしまいました。ご迷惑をおかけしてすみません」
 かちゃかちゃ。
「結局、あなた達と切嗣さんってどういう関係だったの?」
 こりこり。
「我々は戦災孤児です。親と家を失い、路頭に迷っていたとき、切嗣氏に拾われました。今我々が生きているのは偏に彼のおかげなのです」
「桜、おかわりをお願いします」
「あ、はい」
 ぺたぺた。
「はい、セイバーさん」
「ありがとう。感謝を」
「ふうん、切嗣さんって世界中を回ってそんなことばかりしてたんだ。何か正義の味方みたいだね」
「少なくとも我々にとっての彼はそうでした」
「桜、ごめん、お茶をくれないか」
「あ、はい!」
 とぽとぽ。
「どうぞ、先輩」
「ありがとう」
「それにしても変わった名前よね、アーチャーさんにセイバーちゃん、キャスターさんか。なんか意味でもあるの?」
「そういう風習のある地域で生まれたのです。古い記憶なので定かではありませんが、確か魔よけの意味が込められているとか何とか」
「ごちそうさま」
「あれ、凛、もういいのか?」
「私、もともと朝は食べないほうだから。十分に満足よ。ちょっと部屋で準備することがあるから、失礼だけどお先に」
「そっか。ではお粗末様でした」
 すーっ、すーっ、ぱたん。
「ひょっとしてアーチャーさんって弓が上手いの?」
「はっ?」
「だって、セイバーちゃん、とっても剣道が強いのよう。士郎、私が鍛えてるから結構な腕前のはずなのに、せいばーちゃんにかかったらずたずたなんだもん。
 だったらアーチャーさんも弓が上手いのかなって」
「まあ、こんな名前ですから、弓に興味を引かれた時期もありました。でも、私の弓は戦いのための弓なので、あなたの言う弓とよべるかどうか」
「ねえねえ、アーチャーさん、今日暇?」
「はぁ、まあ、特に予定は入っていませんが」
「なら、放課後にウチの学校に来ない?外国の人から見れば結構珍しいものだと思うし、できれば弓道とは違う弓を部の皆に見せてあげたいの」
「いや、それは」
「いいじゃない、減るもんじゃなし。それに、あなた達はこの家に間借りしてるんだから、少しくらいは家主のお願いを聞いてくれてもいいと思うなあ」
「藤ねえ、家主は俺」
「ごちそうさまでした、シロウ、桜。昨日もそうでしたが、あなた達の料理は非常に好ましい」
「ええ、そうね。食事がここまでの娯楽だと思ったのは初めてよ」
「ありがとう、セイバー、キャスター。そこまで言ってくれると料理人冥利につきるよ。
 あ、そうだ、ちょっと珍しいお茶請けがあるんだけど、食べるか?」
「是非!」
「私は遠慮しておくわ。いくら美味しいものでも、さすがにお腹いっぱい」
「そっか、ちょっと待ってくれ、セイバー。ちゃっちゃと片付けちゃうから。藤ねえ、もう片付けちゃうぞ」
「先輩、私も手伝います」
「ああ、ありがとう、桜」
 かちゃかちゃ。
「…約束はできませんが、考えておきましょう」
「やったー、これで今日は楽ができるぞぅ!溜まりに溜まった事務仕事め、今日こそ成敗してくれるから覚悟はいいか?俺はできてる!」
「…藤ねえ、まさか部外者に指導をまかせるつもりか?」
 ふきふき。
「はい、これがサーダアンダギー、沖縄ってところのお菓子なんだ」
「ほうほう、これは変わったかたちですね」
 ぱくぱく。
「どうだ、美味しいか、セイバー」
 こくこく。
「それはよかった。どうだ、桜も」
「えっ!い、いえ、私は遠慮しておきます」
「?、そっか、じゃあ俺がもらうよ」
「ぅー、ど、どうぞ」
「じゃあ、四時に学校の弓道場で待ってるからね!」
「いや、行くと決めたわけではないのだが…」
「おいしそうね、せっかくだから、私もいただくわ」
「ああ、どうぞ、キャスター」
「…くすん」
「うん、なかなか美味い。お茶ともよく合う」
「ほんと、この時代の食べ物はどれも美味しいわね」
 ずずーっ。
「ああ、堪能しました、シロウ」
「ご馳走様、坊や」
「お粗末様。さあ、俺達も準備しようか、桜。ところで藤ねえ、時間は大丈夫か?」
「えっ?あっ、もうこんな時間?」
「いい加減、遅刻はやめてくれ。もう立派な社会人なんだから」
「そんなことしませんよーだ、私のドライビングテクニックなら、ドアトゥドアで、十分もあれば十分よ!…そういえば、士郎、私のご飯は?」
「はっ?いつまでも話し込んでたからもう片付けちゃったぞ」
「えっ、だって私まだ食べてないよ?」
「片付けるぞ、って言ったぞ、ちゃんと。それに今から食べてたらほんとに遅刻するぞ」

 ふるふる。

「うえーーーん、私のご飯がーーーーー!」


「…ねえ、士郎。あなた、何者?」

 朝食の時の雰囲気とはうってかわって、真剣な、というよりも物々しい雰囲気を纏った姉の言葉。
「確かにスイッチができてる。それはいいわ。でも、この魔術回路の数は何?」
「え?俺の魔術回路なんて、精々一本か二本だけだろ?」
 のんびりとした先輩の声。
「そうね、昨日まではそうだったわ。でも、今ちゃんと調べてみたら合計27本も魔術回路が存在してる。正常に起動してるのは数本みたいだけどね」
「27?」
 27本の魔術回路。
 その数自体は特に異常というものではない。自慢するわけではないが、私も姉もそれ以上の数の魔術回路を備えている。
 しかし、それは魔術師の、200年以上もその時間を魔道に捧げた一族の後継者だからいえることで、何の歴史も持たない家系の人間がそれだけの数の魔術回路を持つのはめったにあることではない。
「ひょっとして、あなた魔術師の血筋なんじゃないの?」
 先輩の過去を少しでも知っている人間なら、なかなか訊きにくい質問をずばずばしていく。きっと、これは信頼の表れなんだろう。
「いや、衛宮の字をもらうまでの記憶がないからそこらへんは全くわからない。ごめん」
「謝る必要はないわ。でも、本当に何も憶えていないの?もし、苗字だけでも覚えてたらかなりの手掛りになるんだけど」
 もし、先輩が魔術師の家系の生まれで、その家系の特性が分かれば、今後の修行をしていくうえで大きな指針になる。今までの歪な修行の遅れを取り戻すためにも、最短のルートを見つけておきたい。
「いや、本当、何もかも忘れたんだ。多分、これから思い出すこともないと思うよ」
 そうだ、先輩はあの火事で何もかも失ったのだ。
 家も、家族も、姓も、そして名前すらも。
「だから、今覚えているのは、本当に断片的な映像だけなんだ。建物が燃えてるところとか、人が焼け焦げていくところとか、髪の毛が燃えてる子供とか、爺さんの笑顔とか…」
「先輩、もうやめて下さいっ」
「…ごめんなさい、士郎、もういいわ」
 遠い目をして、崩れ落ちそうなほど儚い笑顔を浮べる先輩が、たまらなく痛々しくて、思わず声を荒げてしまった。
 やはり、先輩は前回の聖杯戦争が起こした惨劇を乗り越えることができないでいる。
 そして、その惨劇を引き起こした参加者のうちの一人は、私の父だった男だ。
 ひょっとしたら、私にはこの家にいる資格なんてないのかも知れない。
「…とりあえず、魔術回路の数は増えた。魔力の精製量もかなり上がったわ。すくなくとも戦力的にはかなり向上してる。これは望ましいことね」
 場を取り繕うかのように結論を述べる姉。
 私にはその強さがない。
「後は、あんたの性質にあった魔術を見つけて、それを伸ばしていくだけ。簡単な検査なら今でもできるから、ちゃっちゃとやっちゃいましょう」

「うーん、とりあえず五大元素でもなければ虚数属性でもないか…、ということはかなり偏った魔術属性の可能性が高いわね。
 となると、今ここにある計測具じゃあちょっと荷が重いわ」
 首を捻りながら額に手を当てる凛。
「先輩、先輩って何か酷く興味を引かれる対象とかってないですか?街中で見かけて思わず足が止まってしまうものとか、知らず知らず目がいってしまうものとか」
 思わず足が止まるもの…、特売とかセールとかの文字には弱いけど、そんな魔術属性は流石に無いよなあ。あっても嫌だし。
「そうだなぁ、これといって思いつくものは無いぞ」
 ていうか、普通の人間にそこまで興味のあることなんて、ないと思う。
「まっ、今のところはこんなもんでしょう。後は学校から帰ってきてからでも十分間に合うわ」
 そう、今日は学校に行かねばならない。
 そして、俺は友人を一人失う事になるかも知れないのだ。

 学校は無事に終わった。
 疲れた顔の生徒や、どこか無気力な教師達、普段なら起こるはずもないような小競り合いなど、幾つか日常とは言いがたい光景も見られたが、それでも平穏無事といって良いだろう。
 だから、俺には理解できない。
 なんで、俺達が進んで非日常を作り出さなけりゃいけないんだ?

「皆、紹介するわよ、こちらがアーチャーさん、セイバーさん。二人ともすっごく強いんだから!」
 ああ、弓道場に響く相も変わらず元気なあなたの声が、今は少しだけ恨めしい。


「セイバー達を学校に連れて行く?何でだ?」
 突然の凛の提案に、当然ながら俺は驚いた。
 霊体化して連れて行くというなら俺も驚かない。むしろそれは当然だ。
 しかし、今回凛が提案したのは実体化したアーチャーとセイバーを学校に連れて行くというものだった。
「慎二が結界を張ったかどうかは置いておくにしても、あいつがマスターなのは間違いない。なら、不用意に警戒されちまうんじゃないのか?」
 俺がそう言うと、凛は真剣な顔でこう言った。
「その質問の答えは保留。
 逆に聞くわ。ねえ、士郎。今の私達にとって考えられうる最悪は何?」
 突然の質問。
 考えられうる最悪。それは。
「もちろん、結界が発動しちまうことだ」
 あの紅い結界。人を喰らい、その魂を啜る外道の囲い。
「ええ、それはそうね。でも、それだけならまだ対処のしようがある。今の段階で結界が発動したとしてもおそらく人死はでない。もちろん、すぐに術者を倒せれば、の話だけど」
「じゃあ、凛の考える最悪の事態ってなんだ?」
 やはり真剣な顔のまま、凛は話す。
「結界が完成してから発動すること。
 こうなってしまうと術者を倒すとかそういう話ではなくなってしまう。結界の発動と同時に、中に存在する人間のほとんどが溶解、吸収される。そうなってしまえば手の打ちようがない」
 それは、あの地獄の再現。
「学校っていう限られた空間で、何百という一般人が同時に失踪、あるいは死亡となれば、如何なる手段を用いても事実の隠蔽は不可能でしょうね。前回みたいに火事っていうことでごまかそうとしても今回は無理。仮に爆弾テロか何かに見せかけても、死体の一部も残らないんだもの、絶対にとんでもない騒ぎになる。そうなれば当然こんな極東の小さな島国のイベントは中止、私と桜は管理者として相応の責任を取らされることになる」
「相応の責任?」
「管理者としての権限剥奪、財産没収、魔術協会からの永久追放くらいで済めば御の字でしょうね。
 おそらく、査問会にかけられて、死ぬまで幽閉させられるか外道な魔術の実験体にさせられるか、それくらいは覚悟しておかないと」
 そこまでのことなのか。
 いや、そこまでのことなのだ。
 あくまで親父から聞いた話だが、魔術協会というところの閉鎖体質は偏執的といってもいいほどらしい。さらに、オカルトはその性質上隠匿されることによってその力を維持できるのだから、その漏洩には考えられないほどの厳しい罰が待っているのだろう。
「あなたにとっても大切な友人、あるいは家族を失う事になる。どうかしら、これ以上の最悪はある?」
 確かに、それより悪い事態は考えにくい。いや、間違いなく最悪の事態だ。
「だから、あの結界が完成するまで慎二が家に隠れると、厄介この上ないの。魔術師の工房に攻め込むのは危険だし」
「でも、それとセイバー達を学校に連れて行くのと何の関係があるんだ?」
 普通なら、二体のサーヴァントが同盟を組んでることを知ったら、警戒して戦いを避けるようになる。そうすれば結局は本拠地で守りを固める慎二と戦う羽目になるのではないか。
「実はあなたには言わなかったけど、昨日あいつ私にも同盟を提案してきたの」
 はっ?それは初耳だ。
「『この学校にはキャスターがとんでもない結界を張っている。僕と一緒に魔女を倒そう』とか言ってた。あいつ、キャスターが桜のサーヴァントって知らないのね。口は災いのもとって、ああいうことをいうんだって実感したわ」
 凛はにやりと哂った。
 ああ、慎二。なんて運の無いやつ。
「とりあえず前向きに考えておくって言ったら、あいつ無茶苦茶嬉しそうな顔してたわ。どうやら、あいつまだ私に気があるみたいね」
 この上なく人の悪い笑みを浮べた凛。
 哀れ慎二、どうやらお前はこいつに惚れたときから避けられない運命を背負ってしまっていたようだ。
「で、もしあいつが私と士郎が同盟を結んで自分がハブされたことを知ったら、どう思うかしら?」
 どう思うか、か。
 慎二は妙にプライドの高いところがある。それに、一度思い込んでしまうと他の事に考えが行かない。
 あいつは、凛の思わせぶりな台詞に、同盟の締結は既定事項と考えてしまっているだろう。ひょっとしたら凛も自分のことを好いていてくれている、それくらいは考えているかもしれない。
 それが裏切られたら…。
「きっと、いや、ほぼ間違いなく激発するだろうな」
 これは間違いないだろう。仮に結界があいつの仕業じゃなかったとしても、これだけは間違いない。
「それが私の狙い。
 怒り狂ったあいつなら釣り上げるのはさして難しくないわ。適当な隙をこっちが見せてあげれば一も二もなく食いついてくる。
 万が一とち狂って結界を発動させたとしても、今の段階なら手の打ちようは幾らでもあるしね」

 
 ぼんやりと今朝のことを考えていた俺の意識を現実に引き戻したのは、男子のざわめきと、女子の黄色い歓声だ。
「なに、あの子、めちゃめちゃレベル高ぇ、クラスの女子なんかとは同じ人類とは思えねえ」
「セイバーちゃんだっけ?遠坂さんと並んでるとどこのアイドルグループだよ、って感じだな」
「ねえ、あの人めちゃめちゃかっこよくない?」
「ちょっと困った感じなのがすごく可愛いね」
 これらはセイバーとアーチャーの外見を評する声。
 さもありなん、ごく少数を除けば、サーヴァントはいずれもがとんでもなく美形揃いだ。
この場にはいないが、キャスターも俺が見てきたどんな女性よりも完成した色香を持っている。爪の垢を煎じて虎に飲ませてやりたいくらいだ。
 なおも鳴り止まぬ人の声。
 しかし、ここは本来は静寂をもって尊ばれる神聖な道場。
 いたずらに騒ぎ立てるのはいただけない。
「こら、なに騒いでるんだ!」
 これは現部長、美綴 綾子の声。
 根っからの武道の人である彼女にとって、この場を支配した空気は到底我慢のできるものではなかったらしい。
「藤村先生もです、先生なら道場がどういう場所かわかっているはずでしょう!」
 彼女は、間違えていると思えば、それが教師相手であっても一歩も引かない。
「ごめんね、美綴さん、まさかここまでの騒ぎになるとは思ってなかったの。セイバーちゃん達、日本が初めてらしいから、日本文化に触れさせてあげようと思ったんだ」
 素直に謝る藤ねえ。
 自分が悪いと思えば、それを糾弾しているのが例え自分の生徒であっても素直に謝ることができるのは間違いなく彼女の美点の一つだろう。
「そういうことでしたか、すみません、事情もわきまえず出すぎたことを言いました」
 深々と頭を下げる美綴。
 いつの間にか周囲の騒ぎも収まっていた。
 そんな中、アーチャーが一歩前に出てこう言った。
「すまない、我々も少し気を使うべきだった。静かにしておくから練習を見学させてもらえないだろうか」
 その言葉に美綴は、ぱっと頭を上げた。
「とんでもない、あんた達はちっとも悪くないよ。勝手に騒いだのはウチの馬鹿な部員どもだしね。ゆっくり見学していって頂戴」
 花の咲くような笑顔でそう言った彼女は、何故だかとても眩しかった。


 練習が始まった。
 弓道において、倒すべき敵は自分自身である。
 さっきの騒ぎに加わっていた部員達も、今は真剣な面持ちで自分と向かい合っている。
 この空間のどこにも、うわっついた雰囲気は残っていない。
 少し前までは自分もこの空気を形作る一員だった。それを自ら辞したことに後悔はないが、ほんの少しだけ寂寥感を憶えるのは否定できない。
「どうだい、久しぶりに弓を引きたくなってきたんじゃないか?」
 笑顔と共に、控えめな声で俺に話しかけてきたのは美綴。
「ふう、何度同じ事を言わせるんだ、お前は。俺は二度と弓を引かない、そう決めてるの」
 実は、一度くらい弓を引いてみよう、そういう気持ちが無いわけじゃない。
 でも、ここまでくるとこっちも意地だ。くだらないこととは分かってるけど、負けてやるわけにはいかないじゃないか。
「シロウ、あなたは弓が得意なのですか?」
 俺の隣に座っていたセイバーが尋ねる。
「ああ、セイバーさんは知らないんだ。凄いんだよ、こいつの弓は。まるで最初から的に当たるのが決まってたみたいに皆中するんだ。こいつが辞めてからだいぶ経つけど、代羽以外にこいつと張り合える技の持ち主はいないね」
 まるで自分の事のように自慢げに話す美綴。
 それを聞いたセイバーがさらに尋ねる。
「ほう、代羽も弓が達者なのですか」
 やはり笑顔で美綴は答える。
「ああ、こいつと代羽は桁違いだね。私や慎二、あとは桜くらいか、一応そこらの大会じゃ敵無しだと思ってるけど、それでもこいつと代羽には歯が立たない」
 美綴の表現は、俺については買いかぶり過ぎだ。実のところ、俺でも代羽には歯が立たない。確かに、俺も代羽もほとんど的を外したことは無い。しかし、そういう次元とは違うところで代羽には適わない。初めて彼女の射を見たとき俺はそう悟ってしまった。
 俺があっさりと弓を捨てた理由はそこにもある。だって、自分より才能のある奴がいるんだし、別に自分がいる必要はないだろう、そう思ったのだ。
「ああ、そういえばアーチャーさん、だっけ?あんたも弓が上手いのかい?もしよければ、どれほどのもんか見せてくれない?」
 藤ねえから話を聞いているのだろう、興味津々、といった感じで美綴が尋ねる。
 当の藤ねえはここにはいない。あの馬鹿、本当にふけやがった。
「まあ人よりは長ずるものを持っているとは思っているが、私の弓は邪道だ。とてもこういった場所で披露できるものではない」
 澄ました顔で答えるアーチャー。
 こんな台詞、こいつ以外が言ったら鼻で笑ってやるのだが、弓の英霊たるアーチャーが言うと一言も返すことができない。
 しかし、そんなことは全く知らない美綴は何の臆面もなく言い放つ。
「へえ、できる人は言うことが違うねえ。
 でも、その割には小さいことを気にするんだね。弓道に邪道なんかないよ。だいたい、今の『弓道』が形になったのだって昭和に入ってからなんだから、そこら辺は気にすることなんかないって。
 それに、いつもと違ったものを見るのもいい稽古になるからさ」
 ふむ、そう言って考え込むアーチャー。
 確かに美綴の言うとおりかもしれない。弓道が武道として成立し、正式に認知され始めたのは明治になったからだというし、今でもその射形には流行り廃りが激しい。
 ならば、自分達が行う射と違う射があることを知るのも一つの稽古にはなるのだろう。
「仕方ない、一度だけだ」
 そう言って腰を上げたアーチャー。
 ゆっくりと射場に入っていく。
 いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、射場で練習していた部員達は静かに弓を納めた。
「ああ、誰か弓を貸してくれないか?」
 アーチャーが部員に話しかけるが、すぐには手が上がらなかった。
「私の弓でよければ」
 その言葉と共に一歩前に出たのは、珍しく練習に出ていた代羽だった。
 彼女は、朝錬はもちろんのこと、放課後の練習にもほとんど顔を出すことがないらしい。
 いわゆる幽霊部員だ。
 しかし、その弓は他の誰よりも洗練されている。自然、部の中では浮いた存在になってしまっているようだ。練習はしないのに、技術は飛びぬけている。美綴や桜みたいなごく少数の例外を除いて、嫉妬しないほうがおかしい。
 アーチャーは差し出された弓を取った。
「ありがとう」
 そう言ったアーチャーの目に、一瞬だけ剣呑な色が湛えられた。

 あいつが射場に入っただけで、周囲の空気が変わった。
 ぴん、と張り詰めた。そんな言葉では到底表せないような空気。
 例えるなら、真剣の上に素足で乗ったような、身じろぎすら許されないような迫力。
 事実、部員の何人かは呼吸すら忘れてその姿に見入っている。
 静かに、静かに弓を構えるアーチャー。

 足踏み。
 胴造り。
 弓構え。
 打起し。
 引分け。
 会。
 離れ。
 残心。
 
 的など、見るまでも無い。
 あの射で当たらないなら、それは的がおかしいか、それとも世界がおかしい。
 ひりつくような空気の後に残されたのは完全な感動。
 自分達の目指す理想がここにあったのだ。求めて止まない完成形を見せ付けられたのだ。
「すごい…」
 そう呟いて固まってしまった美綴。
 あの野郎、どこが邪道だ。
 あれが邪道なら、世界中に存在する弓道全てが邪に堕するだろう。
「すまない、とんだお目汚しだ」
 照れたような笑みを浮べたアーチャー。
 にこやかな、その笑顔を見たときに、部員達の感情が爆発した。
 圧倒的な感動と、それに付随した虚脱に支配されていた感情が、行き着く先を見つけたのだ。
 ここに凄い男がいる。
 割れんばかりの歓声。
 そこには男も女も無い。
 ただただ、熱せられた感情だけがあった。
「凄いわね」
 ぼんやりと呟いたのは、俺の隣に座っていた凛。
 戦闘中ならば、アーチャーの弓技など見飽きるほど見ているであろう彼女も、射場での弓を見るのは初めてなのだろう。自らの従者の美技に酔いしれている。
「ああ、全くだ。こんな凄い射は初めて見た」
 かく言う俺も、あいつの射に完全に飲まれてしまっている。俺もそれなりの射手だとは思っているが、完全にレベルが違う。おそらくは俺より確実に上手い代羽のそれよりも、さらに遥か高みにいる。
 あたりを見回すと、我先にとアーチャーに指導を希望する部員達とは少し離れたところで、冷ややかにその様子を見つめる代羽がいた。
 彼女の口が呟くように動いた。そして、彼女は貸していた自分の弓を受け取ることもなく、袴姿のまま道場を立ち去った。
 代羽の声は、俺には聞こえなかった。
 ただ、凍えるような視線でアーチャーを眺めていたのが、記憶に焼きついた。 
 
 
「おい、これは何の騒ぎだ?」
 熱気に満ちていた弓道場に、場違いな声が響く。
 声の主に名は間桐 慎二。
 弓道部の副主将である。
 慎二は人垣の中心にいるアーチャーを胡散臭そうな目で見ると、こう言った。
「なんだ、あんたは?部外者が勝手に入っていいと思ってるのか?一体誰の許可を得てここにいるんだい?」
 周囲の狂熱が冷めていく。
 今、この空間においては自分こそが異物である、それを悟ったのか、彼は加速度的に不機嫌になっていった。
「悪いけど出て行ってくれないかな?生憎ここは部外者立ち入り禁止なんだよ」
 頬を微妙に震わせながら、慎二はそう言った。
「アーチャーさんは部外者じゃないぞ、衛宮の知り合いだ」
 アーチャーを庇うように言う綾子。
「はっ、衛宮の知り合い?衛宮はそもそも部外者なんだぜ?部外者の知り合いなんて、どこまでいっても部外者じゃないか……アーチャー?」
 今頃気付いたのか、この間抜けは。
「ええ、彼の名前はアーチャー。衛宮君の知り合いで、私の大切な友人よ」
「遠坂…なんで」
 呆気にとられたような表情の慎二。
「そして、この子が私の知り合いで、衛宮君の大切な友人のセイバー。仲良くしてあげてね」
 射竦めるようなセイバーの視線にたじろぐ慎二。
 一歩、二歩と後退りしながら、頬をひくつかせてこう言った。
「ああ、なるほど、そういうことか」
 私はその言葉に笑顔で応じる。
「ええ、そういうこと。名前を聞くまでこの二人のことに気付かない間抜けなんて、お呼びじゃないわ」
 あえてにこやかに、上品に、彼の自尊心を逆撫でするように。
 私の言葉は効果的だったようだ。彼の顔が赤くなたり青くなったり、まるで信号みたいだ。
「それにしても、選んだのが衛宮かよ。はっ、遠坂の趣味はずいぶん悪いんだな」
 彼に許された精一杯の抵抗。自尊心を守るためには、求めた対象を貶めるしかないのだろう。酸っぱい林檎というやつだ。
「そうかもしれないわね。でも、私としても最低限譲れないライン、ていうのはあるの。
 残念ね、間桐君。あなたはそのラインにも引っかからなかったわ」
 隣にいる士郎の手を取りながら私がそう言うと、怒りと屈辱に肩を震わした慎二は、踵を返しながらこう言った。
「後悔するなよ」
 内心、私はため息をついた。
 ねえ、慎二。別にあんたに多くを求めようとは思わないけど、捨て台詞くらい、もう少し独創性があっても良いんじゃない?

 日の傾きかけた放課後、道場を静かな空気が流れる。
 それは、アーチャーが神技を見せた後のような緊張に満ちたものではない。どちらかというならば、突然目の前で大事故が起きたときの目撃者とか、お笑い芸人が滑ったときの観客の雰囲気とか、そういったものに近い。
 隣には、俺の手を掴んだまま不敵な笑みを浮べた凛がいた。ああ、きっとこいつは自分が何をしたかちっともわかっちゃいない。
「どうしたの、衛宮君。鳩が豆鉄砲くらったような顔して」
 凛は不思議な顔で俺を見た。
 俺は空いているほうの手で顔を覆う。
 これから起きる事態を考えると頭が痛い。
 後ろを見ると、そこには唖然とした顔の部員達。
 その中でいち早く我を取り戻した女傑が、菩薩のような笑みを浮べた。
 美綴、先鋒はお前か。
「へぇえ、なるほどなるほど。お前ら、そういう仲だったんだ」
 心底嬉しそうなその声に、凛は不思議そうに問い返す。
「そういう仲?何のこと?」
 駄目だ、こいつまだ気付いてない。
「正直、衛宮を選ぶとは意外だったけど、慎二なんかよりはよっぽど芯が通ってるしね。うん、中々お似合いじゃないか、こりゃあ例の賭けは私の負けかな」
 美綴を見ていた凛の視線が、美綴から俺、俺から繋がれた二人の手、二人の手から中空へと移動して、そこで固定された。
 静かだった空気が、より静寂を帯びる。ただし、永久凍土の下にマグマが蓄積していくように、漲るパワーの存在を俺の第六感が感知した。
 さあ、カウントダウンを始めよう。用意はいいか?

 3,2,1―

「なんでよぉぉぉぉぉ!!」

 耳を劈く大音量。
 これがこの可憐な唇から放たれたものとは思えない。

「何で?何で私が士郎とそういう関係だと思われてるわけ?」
 慌てふためく凛。
 それを何か可愛いものでも見るかのように眺める美綴。
「さっきの会話聞いてたら誰だってそう思うさ。つまり、慎二を振って衛宮とくっついたんだろ?」
「違う!どこをどう聞いたらそういう会話に聞こえるのよ?」
 見てるこっちが恥ずかしくなるくらいに、顔を真っ赤にした凛が叫ぶ。どうやら分厚い猫の皮も、冬の空気に冬眠中らしい。
「ふうん、じゃあ衛宮と遠坂はそういう関係じゃないんだな?」
「当たり前でしょ!何で私が士郎なんかとくっつかなきゃいけないのよ!」
 ああ、哀れ凛、今の君では絶対に美綴には勝てない。
「へええ、じゃあその固く握られた手は何かな?」
「っ!」
「それに『士郎』か、知らない間にずいぶんと親密に呼ぶようになったんだねえ」
 にやにやと哂う美綴。
 真っ赤になって俯いて、プルプル震える凛。その手は相変わらず俺の手を握り締めたままだ。
「まあまあ、照れなさんな、もてない女のやっかみだよ。とりあえずおめでとう、お似合いだよ、あんた達」
 男前な台詞で上手に締めた美綴。
 それでも、凛の絶叫が道場にこだまする。
「ちっがあああああああうっ!!!!!!!!」


「酷い目にあった…」
「うう…今まで作り上げてきた私のイメージが…」
 とぼとぼと、帰り道を歩く。
 あの後はひどかった。
 男子からは本気の殺意を込めた視線と罵声を浴びせかけられるし、女子からは好奇と不可思議の綯交ぜになったような質問をぶつけられるし。
 隣では相変わらず完熟トマトみたいな顔色の凛と、生暖かい微笑を浮べた美綴が口論なのかじゃれ合いなのかよくわからない会話を繰り広げている。
 セイバーは腰に手をあてて、ため息一つ。
 アーチャーは眉を『ハ』の字型にして、冷笑を浮べる。
 このままここにいたら取り返しのつかない事態に陥る、そう考えた俺は、人垣を掻き分け、凛の腕を掴んで、ほうほうの体で道場から逃げ出したのだ。
「不甲斐ないな、衛宮士郎。あの程度の危地でうろたえてどうするか。
 凛も凛だ。あれくらいの事態で平常心を失ってはこの戦争、到底勝ち抜くことなどできないぞ」
 実体化したままのアーチャーが言う。
「面目ない…」
「ごめんなさい…」
 本来なら一言か二言くらい言い返してやるのだが、精神的な疲れからか、憎まれ口の一つも浮かばない。今日は疲れた。早く帰って夕食の支度でストレスを発散しよう。

 (あとがき)
 弓道の成立とか邪道が云々とかは、作者が調べた範囲のことです。
 一応間違えてはいないと思うのですが、なにぶん私の専門からは外れますので、もし事実と違って、それに不快感を覚えられた方がおられましたら、この場を借りて謝罪させていただきます。



[1066] Re[12]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:d07f53ca
Date: 2007/05/25 21:09
『子供の頃私は』この質問には回答が用意できない。
『私はよく人から』化物と指をさされる。
『私の暮らし』には娯楽が欠如している。
『私の失敗』が彼女を壊した。
『家の人は私を』ある程度認めているようだ。
『死』にたくない。
『私の出来ないこと』がこの世には多すぎる。
『私が心引かれるのは』彼女の笑顔である。
『私が思い出すのは』初めて見た眩い光。
『私を不安にさせるのは』彼女の笑い声。
『自殺』願望。
『私が好きなのは』敵を許すことだ。
『罪』はあくまで認識の問題でしかない。
『大部分の時間』私は眠っている。
『私が忘れられないのは』みんなの味である。

 episode12 弱者蹂躙

 夕食は平穏に終わった。
 代羽は家に帰り、藤ねえは残業で遅くなるとのことだったので、今日は六人で食卓を囲んだ。相変わらずセイバーは美味しそうに全てのおかずを平らげ、アーチャーは皮肉交じりに料理の欠点を指摘し、キャスターは静かに箸を進めた。
 食事が終わり、食器の片づけが済むと、いつも通りの作戦会議が始まった。
 居間に漂う芳しい緑茶の香り、その中で凛がにこやかに口を開く。
「桜、準備はどう?」
「万端です、姉さん」
 にっこり笑った遠坂姉妹。全く事情を知らない他人が見れば、今度の休日の予定のための準備でも済ませたのか、そう思ってしまうような柔らかい笑顔だ。
「準備って何だ?」
 そういえば、今日は桜は学校を休んでいた。おそらく、その『準備』に関係するものなのだろう。
「はい、今後の戦いを有利に進めるための準備です」
 少し勿体付けたような喋り方。きっと何かとんでもないモノを準備をしてきたのだろう。
「一体何をしたんだ、桜」
「ええ、実は―――」
「ちょっと待て、桜」
 突然会話に割り込んできたのはアーチャー。
「この男との同盟はあくまで期限付きのものだ。今後の戦いに関わる情報をわざわざ晒してやることもあるまい」
 むぅ。
 こいつ、とりあえず噛み付いてくるな。
 でも、まあ、それはもっともかもしれない。
 凛、桜との同盟はあくまで結界を張るサーヴァントを倒すまでの期限付きのもの。おそらくはそのサーヴァントとマスターが判明した今、同盟は終わりに近づいていると見るべきなのだろうか。
「アーチャー、あんたの言ってることは道理だけど、少なくとも現時点において彼は私達の同盟者よ。それに、今回桜に頼んでおいた準備は対慎二、ライダー用のもの。士郎に教えないわけにはいかないでしょ」
 アーチャーは納得しがたいような、それともこうなることを見越していたような、そんな表情で庭の方に視線をやった。
 それを合図にしたかのように、桜が話し始める。
「こほん、今回私とキャスターが準備したのは『門』です」
「門?門って何だ?」
 にこりと、まるで良く出来た手品の種明かしをするマジシャンのような表情の桜が話す。
「空間転移のための門です、先輩」
「空間転移!?それって魔法じゃないか!」
 魔法。
 全ての魔術師が求め、それでも選ばれた極々少数にしか許されない奇跡。
 現在、五つの魔法が存在するという話だが、その内容を知るものは少ない。
 当然、俺もその全てを知っているわけではない。しかし、純粋な空間転移が魔法の域にある業だというのは親父から聞いたことがある。
「へぇ、結構物知りなのね、坊や」
 淵の深い笑いを浮べたキャスター。
 親しみが込められているような、ただ単に馬鹿にされているかのような呼ばれかたにも、もう慣れた。
「純粋なそれは確かに魔法の域にあるとされるわね。
 でも、今回私達はわざわざ『門』を作った。そして、私に出来るのはその『門』と『門』を繋ぐだけ。
 確かに大魔術ではあるけど、とても魔法と呼べるものではないわ」
 ふむ、そんなものなのだろうか。
 純粋な空間転移とそうでない空間転移の違いがどこにあるのかはよく分からないが、とりあえずとんでもない仕掛けをしてきたんだということは分かった。
「一応この街の霊脈と呼べるところを中心に約20箇所。キャスターの作成した陣地、『神殿』である遠坂の敷地からなら、一瞬でそこまで移動することができます」
「何でそんなことを?」
 俺がそんな疑問を抱くのも当然だろう。
 逃走経路の確保だろうか。それとも奇襲のための布石か。いずれにせよ、何らかの意図があるはずだ。
「決まってるでしょ、これは魚を釣り上げるための仕掛け」
 不敵な笑みを浮かべた凛。
「ちなみに餌は私とあなた。覚悟は出来てる?私は済んだわ」

 静かな夜だ。
 冬木市で一番の賑わいを見せる歓楽街。コートの裾を風に遊ばせながら歩く。
 本当に静かだ。遠い昔に観た、時の止まった街を歩く、そんな映画のワンシーンを思い出す。
 普段なら仕事帰りのサラリーマンや、騒ぎたい盛りの学生で賑わうはずのこの通りも、不自然なほどの静寂を帯びている。聖杯戦争のことなんて露も知らない一般人も、ただならぬ雰囲気だけは本能で察知しているのだろうか。
 すれ違う頭の悪そうな少年達のグループが好色な視線をぶつけてくるが、一睨み効かせてやるとすごすごと道をあけた。
 衛宮邸を発ってから感じる何者かの視線はその気配をどんどん強めている。かなり高等な術式で編まれた使い魔によると思われるそれは、私に大漁の予感を抱かせるに十分だった。
「当然気付いていることと思うが、ずっと監視されているぞ」
 今は実体を持たない私の従者が背後から警鐘を鳴らす。
「当たり前でしょ。願ったりかなったり、渡りに船、鴨が葱しょってやってきた、ええと、ほかに何て言ったかしら」
 つまり、魚は餌に食いついたのだ。
 しかし、つくづくあの男は運が無い。
 私と士郎は二手に分かれて街を探索している。
 もし、彼が狙ったのが士郎の方ならば、少なくとも問答無用に殺されるということは無かったはずだ。何だかんだ言ってもあいつは甘ちゃんだ。説得くらいはしようとするだろうし、それは慎二の最後のチャンスにもなっただろう。
 しかし、慎二は私を狙った。
 私は士郎ほど穏やかじゃあない。
 士郎がなんと言っても、私は慎二を殺す。
 そこまで考えたとき、後ろから微かに笑い声が漏れた。
「ああ、やはり君には戦場がよく似合う。目前に迫った戦いを前に高揚する君ほど美しい『赤』を、寡聞にして私は知らない」
 聞きようによっては中々失礼な感想だが、私は好意的に解釈することにした。
「それは違うわ、アーチャー。私達の目の前にあるのは戦いじゃない。あるのは勝利、それだけ」
 策は練った。技は磨いた。力は満ちた。供は見つけた。
 さあ、どこに敗北の要素がある。
 来るなら来なさい、マキリ慎二。私があなたに最後の敗北を与えてあげるから。

 足の望むままに歩いていたら、いつの間にか冬木大橋の袂の海浜公園まで来てしまっていた。『門』からは少し離れている。一番近くにあるものでも、数分の距離はあるだろう。
 身を切るように冷たい海風が、火照った頬に心地よい。微かに感じる海の香りは遠い昔に遊んだ誰かを思い起こさせる。
 思わず苦笑してしまう。私はこんなに感傷的な人間だっただろうか。それとも、何時死んでもおかしくない、そんな戦場の空気が過去を美しく思わせるのか。
 なんとはなしに空を見上げた。月は出ていなかった。新月だったか、それとも雲が隠しているのか。
 その時、私の背後にあった木の影から、聞きなれた、しかし気に入らない声が聞こえた。
「やあ、遠坂、こんな時間に女の子が一人で出歩くなんて無用心だと思わないか。もしよければ家まで送っていこう」
 片頬を歪ませる独特の笑み。
 それを整った顔に貼り付けた少年が、木陰から姿を現した。
「遠慮しておくわ。どうせ送っていくのはあなたの家まででしょう?」
 その言葉にマキリ慎二は声を上げて笑った。
「ははっ、もし遠坂が望むならそうしてやってもいいぜ。何せ僕は寛大だからね、学校での非礼も許してあげるよ。どうせ衛宮に弱みでも握られてるんだろう?結界を張ったのだってあいつに決まってる。
 もう一度言うぞ、遠坂。もし君が学校の結界に心を痛めてるなら、僕と一緒に戦おう」
 右手を前に出しながらゆっくりと近づいてくる慎二。
 その笑顔には一点の曇りも無い。
 だから私は腹が立った。
 理由なんて無い。
 何となく、目の前の馬鹿を殴りたくなった。そして、私は実行力のあるほうだ。
 体の芯まで冷える、そんな夜空の下、高らかな音が響き渡る。
 響いた音はゴツッ、という、かなり固い物体同士が高速でぶつかったときに奏でる音。
 盛大に吹っ飛んだ慎二が、左頬に手を当てながらこっちを見る。唖然とした視線。何が起こったのかわからない、そんな感じ。倒れたままの姿勢といい、まるで突然夫に暴力を振るわれた女性みたいだ。
 人を思いっきり殴るのは久しぶり。思ったより気持ちいい。
「あら、御免なさい、間桐君。別にあなたが悪いわけじゃないわ。ただ、突然何かを殴りたくなっただけなの。
 でも、あなたは許してくれるわよね、だってあなたは寛大なんだもの」
 痛む右拳を軽く摩りながら、おそらくは最高の笑顔を浮べた私が言う。
「もしよろしければ右頬も殴らせてくれない?だって昔の偉い人も言ったでしょう?汝、右の頬をぶん殴られたら左の頬を差し出せって」
 空白だった彼の表情に色が生まれる。
 それは、怒りに震える、まるで泣き出す寸前の幼児みたいな表情。
 口元に血を滲ませた慎二が立ち上がる。
「ああ、そうかい、遠坂、これがお前の返事か。わかった、ならば僕も遠慮なんかしてやらない。半殺しにした後で、裸にひん剥いて僕の前にひれ伏させてやる!」
 彼は唾を吐きながら喚き散らす。この上なく滑稽だ。
「ああ、それがあなたの[地]なのね、間桐君。いいじゃない、普段の賺したあなたより遥かに素敵よ」
 意味の無い会話で慎二を挑発しながら、レイラインを通じて遠く離れた桜と連絡を取る。
『桜、聞こえる?』
『はい、姉さん』
 目の前の馬鹿が何かほざいているが、今の私の耳には入らない。
『馬鹿が釣れたわ。場所は深山町側の海浜公園。何分で来れる?』
『五分以内には』
『三分で来なさい。じゃないとあなたの活躍の場が無くなるわよ』
 そこまで伝えて私はラインを切った。

 これが、桜とキャスターにわざわざ門を作らせた理由だ。
 慎二を釣り上げること事態は難しくない。こちらがあからさまな隙を作ってやれば一も二も無く食いついてくる、それは分かっていた。更に言うなら、状況が一対一に限定されるならばどんなに不利な状況でも私には勝つ自信がある。
 しかし、もしも奴が他のマスターと手を組んでいたら?
 あの程度の器しかない凡百な男にまさか従う魔術師がいるとは思えないが、逆に慎二を傀儡にして漁夫の利を得ようとするマスターの存在は十分に注意する必要がある。まだ見ぬランサーとアサシンのマスター、それらの動向が掴めない以上、警戒するに越したことはない。
 だが、それに警戒してこちらも徒党を組むとなれば、今度は逆に猜疑心の強い慎二のこと、こちらの思惑通り餌に食いついてはくれなくなるだろう。
 こちらが隙を見せつつ、万が一、多対一の状況を作られたとしても互角以上の戦況を作り出す。そのためにはキャスターの大魔術が必要だった。士郎なんかは呆れながら『やりすぎだ』と呟いたが、小細工はこれくらい徹底するくらいでちょうどいいと思う。
 とはいうものの、どうやらそれらの作業は徒労に終わったらしい。
 アサシンのように隠密性の高いサーヴァントなら話は別になるが、今、この場に置いて慎二が引き連れるサーヴァント以外に強い魔力の気配は無い。つまり、状況は一対一。ならば私が遅れを取る道理は無い。


「しかし、僕の誘いを蹴って、手を結んだのが、まさか『あの』衛宮とはね。つくづく遠坂も見る目が無いね。あんなのただの社会不適応者じゃないか。学校であいつがなんて呼ばれてるか知ってるか?便利屋だぜ、便利屋。ははっ、まさにあいつにぴったりだ」

 気がついたら、慎二はまだ何か叫んでいた。
 目を見開いて歯を剥き出しにしたその表情は、怒り狂って檻を揺らす動物園の猿を思い起こさせる。
「だいたい最初から僕はあいつのことが気に入らなかったんだ。人から頼まれればどんな厄介ごとでもへらへら笑いながら引き受けて、なんの報酬も受け取らない。かと思えば自分はこの世の全ての不幸を背負ってます、みたいな訳知り顔をしちゃってさ。ふん、あの偽善者面には反吐が出るね」
 へえ、珍しく慎二にしては正論を吐くじゃないか。
「断言するよ、あいつは人間としてどこか壊れてる。同情するぜ、遠坂。あいつは絶対にお前の足を引っ張る。まあ、この場で僕に敗れるお前が心配することじゃないけどね」
 なるほどなるほど。
「最後の部分は置いておいて、中々わかってるじゃない、間桐君。
 その通りね、確かに士郎はどこか壊れてる。きっと私の足を引っ張ることもあるでしょうね」
「はっ?」
 唖然とした慎二の顔。
「ねえ、間桐君。あなたに質問するわ。
 あなたは傷ついた自分のサーヴァントを守るために、敵の前に胸を晒すことができる?」
「ははっ、なんでそんな馬鹿なことしなけりゃならないのさ。サーヴァントなんてただの道具、もしくは兵器だろ?だいたいマスターが死んだらサーヴァントだって現界できなくなるんだぜ、そんなの無意味じゃないか」
「理想に近づくために、毎日毎日、死ぬほどの苦痛に耐えながら魔力回路を一から生成することができる?」
「それこそ無意味だ。スイッチさえ作れば魔術回路なんて簡単に起動できるものなんだろう?どこの馬鹿がそんな無駄な真似をするのさ?」
「顔も見たことも無い他人のために、自分の命を危険に晒すことが出来る?」
「なに、ソイツ?どこの正義の味方様だよ。偽善を通り越して醜悪だぜ、それって」

 なんだ、思ったより気が合う。
 その通り、私もそう思う。
 彼の行為は無駄で、馬鹿で、醜悪だ。
 だから、慎二の言ってることは正しい。
 百点満点だ。
 非の打ち所が無いくらい正しい。
 そのはずなのに。
 何で、私はこんなに怒っているのだろう。
 思わず満面の笑みを浮べてしまうほどだ。
 彼のことを笑われると、限りなく腹立たしい。
 よし、今、決めた。
 あいつを笑っていいのは私だけだ。
 私だけが彼を笑ってやるんだ。
 だから、目の前で士郎を笑うこの男を。
 私は許さない。

「あなたには何一つできないのね」
「できないんじゃない、やろうとも思わないだけだ」
「士郎にはできるのよ」
「それはあいつが異常だからだろ」
「そうね、あいつは異常よ。でも、正常なあなたには何ができるの?」
「っ、……」
「そう、あなたは何もできないのね。なら、やっぱり士郎のほうが強いわ。
 がっかりね、間桐君。あんたのような半端者に彼を笑う資格なんて無いみたい」
 あまりの怒りに赤くなり、青ざめ、ついには蒼白な顔色になった慎二が呟くように言った。
「…どいつもこいつも衛宮、衛宮。あんな屑のどこがいいんだ。ルックスも運動神経も頭脳も人望も僕の方が優れてる。魔術の知識だってそうだ。それに僕は名門マキリの後継者だぞ、あんな下種に劣る要素なんて何一つ無いはずだ!ライダー!」
 己のマスターの声に反応した美しい紫のサーヴァントが姿を表す。
「やれ、ライダー!遠坂もあの女と同じ目に遭わせてやれ!」
 私の方に向かって疾走してくる紫色の騎乗兵。それを私の従者が阻む。
 ライダーの持った杭のような短剣と、アーチャーの持った干将・莫耶が火花を散らす。
 しかし、私の意識は先ほどの慎二の言葉に集中していた。
 あの女?誰のことだ?
 そんな私の表情を見て、得意気に慎二が笑った。
「ふん、誰のことか知りたいかい?実はここに来る前にちょっとした知り合いとばったり出くわしてね、あんまり鬱陶しいことを言うもんだから少しだけお灸を据えてやったんだ。やっぱり女の子はお淑やかなのが一番だしね」
 ちょっとした知り合い。
 慎二は女友達が多い。それだけでは誰のことか特定できない。
「は、あの女、この僕に向かってなんていったと思う?言うに事欠いて『衛宮を見習え』、だぜ。あまりにも無礼が過ぎる、そう思わないか、遠坂。だから生意気な口を二度と利けなくしてやったんだ」
 士郎と慎二の共通の知り合いで女の子、さらに慎二よりも士郎を高く評価しているとなると、私が知っているのは一人だけだ。しかも、どうやらそいつは私の友人でもあるらしい。
 軽い頭痛が、した。
「……慎二、あなた綾子に何をしたの」
 目の前の男は吐き気がするほど嫌らしい薄ら笑いを浮べた。
「犯して殺した」
 ……こいつ、今何て言った。
 おかして、ころした。
 綾子を、私の友人を、犯して、殺した。
 そう、言ったのか。
「ああ、そんな怖い顔で睨まないでくれ。ちょっとしたジョークじゃないか。
 だいたい僕はあの女に欲情するほど趣味は悪くない。ほんの少しだけ、ウチのサーヴァントに生気を分けてもらっただけだよ」
 ……今、決めた。
 もし、万に一つの可能性でこいつが学校の結界を張った犯人じゃなかったとしても、こいつは私が殺す。少なくとも、死んだほうがマシと思えるくらいの目にはあわせてやる。
「ただ、その後何しても起きてくれなかったからさぁ、僕の友人に介抱をお願いしたんだよ。そいつ、気の強い女の子を従順に変えるのが大好きな奴でね、今頃美綴の奴、どんな目にあってるんだろうなあ」
 くすくすという笑い声が聞こえる。
 私は桜とのラインを繋いだ。
『桜、聞こえる?』
 頭の中で、妹の声が響く。
『何ですか、姉さん。あと少しで着きますが』
『簡潔に言うわ、綾子が攫われた』
『……!』
『どうやら命に別状は無いみたいだけど、今も危険な状況にある。
 遠坂の当主として命じます。あなたは彼女の救出に向かいなさい』
 かすかな沈黙。
『…姉さんは甘すぎます。これは聖杯戦争ですよ、犠牲が出るのは当然じゃないですか』
 あまりにも正論な妹の意見。
『わかってる。これは心の贅肉、いえ、心の税金ね。でも、やらなければきっと後悔する。だから、お願い、桜』
『……敵は、マキリ慎二一人ですか?』
『ええ、ほかに魔力の気配は感じない』
『本当ですね?』
『私が桜に嘘を吐いたことなんてないでしょう?』
『まず一回目ですね、姉さん。
 ……わかりました。遠坂の系譜に名を連ねるものとして、当主の命令を受け入れます。だから、姉さん、死なないで』
 その言葉を聞いて、私はラインを絶った。
 この街は遠坂の管理地だ。この街で私達姉妹の目の届かないところなんて存在しない。まして妹に付き従うのはキャスター。人探しなどお手の物だろう。
打つべき手は打った。もし、これで最悪の結果が訪れたとしても、私はそれを受け入れることができる。
 だから、これはただの自己満足。自分に対しての言い訳を用意しただけ。
 やれるだけのことはやった、自分に責任は無い、そう言うためだけに、私は自分の身を危険に晒している。こんな姿、とても父さんには見せられない。
 でも、まあ、どうでもいいか。
 そもそも私が慎二に負けるなんてありえない話だ。
 桜が来ようが来まいが、結果は変わらない。
 ならば、くだらないことをグジグジ考えるのは止めだ。
 さあ、目の前の害虫を叩き潰すとしよう。
 威を正し、正面の仇敵に相対する。
「始めましょうか、間桐君。おそらくはあなたにとって最初で最後の本物の殺し合いよ。十分に渇を癒していきなさい」
 私がそう言うと、慎二はポカンとした表情を浮べて、その後笑い出した。
「ははっ、なに言ってるんだよ、遠坂。これは聖杯戦争だろ?サーヴァント同士の殺し合いだ。何で僕が戦わなくちゃいけないんだ?」
「そうね、これは聖杯戦争。サーヴァントと魔術師同士の殺し合いね」
 慎二は笑顔のまま固まった。
「サーヴァント同士が互角なら、あとは魔術師同士の戦闘で勝負が決まるわ。そして、あなたは私に喧嘩を売った。高く買ってあげるわよ、間桐君」
 私は柔らかく微笑んでやったつもりだが、どうやら彼にはそう映らなかったみたいだ。まるで鬼か悪魔と出会ったみたいに顔を引き攣らせている。
 そして、彼は自らの従者に救いを求めた。
「ライダー!何してるんだ!そんな奴さっさと片付けて僕を援護しろ!」
 無様極まる叫び。
 私は赤と紫がぶつかる戦場のほうを見た。
 騎乗兵が振るう杭と鎖が組み合わさったような奇妙な短剣を、アーチャーが二本の短剣で凌ぎ続けている。
 一見すれば騎乗兵が押しているように見えるが戦況は互角、いや、おそらくはアーチャーの方が有利だ。守りに入った彼の強さは私が一番よく知っている。彼は先日、ランサーの瀑布のような突きを捌ききるどころか、捌きながら前進すらしてのけたのだ。
 アーチャーは冷ややかな笑みを浮べながらライダーの攻撃を捌いている。さもありなん、彼は勝つ必要などないのだ。戦いを長引かせて、主が勝利するのを待てばいいのだから。騎乗兵もそのことに気付いているのだろう、しかし彼女にはどうすることもできない。
「残念ね、ライダーはあなたに手を貸せないみたい。従者が頑張っているのよ、マスターの端くれとして根性みせたら?」
 慎二は何かに助けを求めるように視線をあちこちに彷徨わせた後、泣き出す寸前みたいな表情をしてポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。
 それは、何の神秘も内包していないただの鉄の塊。そんなもので魔術師に勝負を挑むというのか、この男は。
「ひゃああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 狂人みたいな叫び声をあげて突っ込んでくる。
 私は彼に対して右手の人差し指を向けると、一呼吸も開けずにガンドを放った。
 ドン、という、まるで自動車と人がぶつかったみたいな音をたてて彼は吹き飛ぶ。どうやら呪いは彼の左大腿部に直撃したようだ。おそらく今日、明日は歩くこともできないだろう。
 彼はなんとか体を起こした。
 流石に立ち上がることはできないのか、尻餅をついたような姿勢でこちらを見る慎二。
 私がゆっくり近づくと、彼は手近に合った小石を投げながらあとずさった。
「くるな、くるなああぁぁぁぁ!」
 出鱈目に投げられた小石の一つが私のこめかみを直撃する。痺れるような痛覚に思わず顔を顰めたが、この際痛みは無視することに決めた。
 私は殊更ゆっくりと歩を進め、優しい声色で彼に語りかけた。
「あなたに最後のチャンスをあげるわ。正直に答えなさい、そうすれば命だけは助けてあげる」
 唇が震えて上手く発音できないのか、言葉と呼べない言葉を発した彼は、ブンブンと首を縦に振った。
「学校の結界を張ったのはあなたね、間桐君」
 慎二はごくり、と唾を飲んで、固まってしまった。おそらく彼の頭の中では、打算の洪水が一縷の望みを探して荒れ狂っているのだろう。
 仕方ない、ここは一つ道しるべを立ててやることにする。
「ちなみに言うとね、私の妹、遠坂桜も魔術師でマスターなの。そして彼女が従えるサーヴァントはキャスター。さて、間桐君。あなたはあの結界を誰が張ったって言ってたかしら」
 その言葉で、彼の顔は大きく驚愕に歪んだ。
「な!あの魔女のマスターは、あの男じゃあないのか?」
 …何を言ってるのかよくわからないが、少なくとも自分が致命的なミスを犯してしまっていたことに、今更ながら気付いたらしい。
 僅かな時間、彼は逡巡していたようだが、やがて意を決したように口を開いた。
「……そうだ、あの結界はライダーが張ったんだ。
 勘違いするなよ、僕は悪くない。むしろ、僕は止めたんだぜ。でも、あいつが『私達が勝ち残るためにはこの結界が必要だ』ってしつこいからさあ」
 媚び諂うようなに笑いながら彼は言った。今まで見てきた彼の笑いの中でも、最も醜悪で、最も哀れだ。
「……、あれは魔術なの、それとも宝具なの?」
「あれはライダーの宝具で、他者封印・鮮血神殿っていうんだ。その効果は結界の中の一般人の溶解、その精神、魂の吸収だ。
 なあ、遠坂、ここまで正直に言ったんだ。反省もたっぷりしてる。マスター権も放棄する。もう二度と君の前に姿は現さない。だから、君は僕を許してくれるよな?」
 彼が言ったことは、とっさに考えたにしては筋が通り過ぎている。だから、彼が外道なマスターなのは間違いあるまい。
 縋るような視線、しかし私はゆっくりと彼に人差し指を向けた。
「な、な、な、」 
『なんで、命は取らないって言ったじゃないか』、おそらくはそう言いたいのだろう。
「ごめんなさいね、間桐君。私のモットーは『やるからには徹底的に』、『汝、左の頬を打たれる前に、打つべし打つべし』なの。だから、あなたを許すつもりはないし、下手なチャンスを与えるつもりも無いわ」
 投げる小石も無くなったのだろう、彼の両手は何かを探すように滑稽に動き続けている。
「恨むなとは言わない。むしろ恨みなさい、あなたにはその資格があるから」
 彼は、涙と、鼻水と、涎を垂らしながら何かを呟いた。
 おそらくは命乞いの類だろう。聞こえなかったことにする。
「私にとって、これが最初の殺人なの。だからきっとあなたのことは忘れないと思う。さよなら、慎二」
 指先に神経を集中させる。
 命を絶つ、それも同族、さらには見知った人間の命を。
 外面には出していないつもりだが、内心は酷く動揺していた。
 それでも、これは義務だ。聖杯戦争の参加者として、この地を管理する遠坂の当主として。だから、最初から私に選択肢なんてありはしない。
 大きく息を吸い込んで、吐き出して、また吸い込む。
 さあ、笑いながら彼を殺そう。私は今日、童貞を捨てるのだ。
 そして、容易く目の前の男の命を奪えるほどに高めた魔力を放とうとした時、まさにその時、アーチャーが叫んだ。
「避けろ、凛!」
 考えるよりも早く、私の体は反応していた。
 体を投げ出すようにして横に飛ぶ。
 飛び込み前転の要領で、きれいに着地。
 振り返ると、私の立っていたその場所に、三本の短刀が突き立っていた。射線の延長線を見ると、巨木の上に白い髑髏の仮面が浮いていた。
 見覚えがある、あれは――。
「アサシン」
 私は呟いた。
 その瞬間、夜空を滑空するかのように舞い降りた白い髑髏が、私の足元に倒れた慎二を掻っ攫っていった。
 アーチャーと剣を交えていたライダーも、後方に下がり距離を取る。
 何かが、いる。
 この闇の向こうに、何かおぞましいものがいる。
 そう確信する私の前に現れたのは、二体の従者を引き連れた老人だった。記憶にあるマキリの支配者の名前が浮かび上がる。
 なるほど、戦いは今から始まるらしい。



[1066] Re[13]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:d337c219
Date: 2007/05/26 07:35
「――――告げる。
 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。
 誓いを此処に。
 我は常世総ての善と成る者、
 我は常世総ての悪を敷く者。
 汝三大の言霊を纏う七天、
 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」
 短くない時間の詠唱。
 乱舞する第六要素。
 それが収まったとき、そこには二つの影があった。
 暗く、粘ついた闇の中、なお一層暗い影。
 僅かでも明りがあるなら、その正体に気付くだろう。
 一つは、矮躯の老人。杖をつき、海老の如く曲がった背中。
 枯れかけて腐り始めた老木、その表現が相応しい。
 一つは、長身の女性。奇妙な眼帯でその美貌を隠し、まるで棒切れのように突っ立っている。
 血塗られた巫女、いや、穢された女神。
 彼らを結ぶのは一欠けらの石。遠い異国の名も無き島、そこで発掘された太古の神殿のものだ。
 だが、それ以上に彼らを結ぶ縁というものは確かに存在した。
 マスターとサーヴァントは似たもの同士が選ばれる。
 その原則に従うならば、この二人ほど似通った組み合わせも珍しい。
 かたや、理想を忘れ、理想を実現するための手段としての不死そのものが目的となった怪老。
 かたや、大切なものを守るための手段に溺れ、それをもって大切なものを飲み下してしまった怪物。
 手段が目的に堕した生き方。そして、化け物として討たれる運命。
 だから、彼らには確かに共通項は存在したのだ。
 しかし、物事の側面は常に二次元ではない。
 三次元ならばその面の数だけ、四次元ならばそれこそ無数に。
 読み解く人間の分だけ、解釈というものは存在する。
 もしかしたら、違った選択肢もあり得たのだろうか。
 例えば、堕ちた女神は、自分と同じく被害者のまま加害者として罰せられる少女の従者として召喚されることもありえたかもしれない。
 万が一、朽ちた翁は、自分と同じく永遠の存在を求める暗殺者を召喚することがあったかもしれない。
 だが、この世界、この運命においてはそれはなされなかった。
 仮定には、なんの意味も無い。
 過程など、読み上げる価値は無い。
 この世界においては、ただ、その結果のみが真実だった。
 そして、翁は満足げに頷いた。
 彼は、自分が呼び出した従者に背を向け、真っ黒な部屋を後にする。
 彼が向かうのは、地の底。
 穢れたこの家の中で、なお穢れきった蟲の巣穴。
 今夜そこで、もう一人の英雄が呼び出されるはずなのだ。
 さあ、果たしてあの男はどんな怪物を呼び出すのであろうか。
 できれば三騎士、いや、別に何でも構わないか。
 あれは完成品だ。
 ならば、サーヴァントの質は問うまい。
 しかし、あれだけ穢れた存在が呼び出すものには興味がある。
 さぞ熟成された魔が現界することだろう。
 そこまで考えて、翁は不快な声で嗤った。
 
 episode13 総力戦前

 ん…、ざん…、ざん…、ざ、
 波が、コンクリートの消波ブロックにぶつかる音が間断無く聞こえる。
 ここからでは何も見えないが、手摺から身を乗り出して黒くうねる海を覗けば、護岸と波との死闘と、その残滓である白い飛沫が見えるのだろう。
 冬木の夜景は美しい。故に、狭い海を挟んでそれが一望できるこの海浜公園は夜のデートコースとして人気が高い。
 しかし、今は私達以外、誰もいない。
「ふむ、こんな夜更けに何用かな、遠坂の娘よ」
 月は出ていない。
 僅かな星の光と、人工的な街灯の灯りに照らされたコンクリートの上で、私と老人は対峙する。
 萎びた、鉛色の皮膚。
 落ち窪んだ、奈落のような眼窩。
 消え入りそうでいて、何故か耳に残る声。
 頭部は禿げ上がり、腰は大きく曲がっている。
 老人。それも、明日にも三途川の渡しの世話になって不思議でないように思える類の老人だ。しかし、その眼光は梟のように鋭い。
 間違いない、あれは私の同胞だ。
「ただの散歩よ。あなたこそこんな時間にどうしたのかしら、マキリ臓硯」
 老人の眉が微かに動く。カマをかけてみたのだが、どうやら当たりのようだ。
「かっか、いや、儂も有名のなったものよな。まさか儂如きの顔を遠坂の当主が知っているとは思わなんだ。身に余る光栄とはこの事よ」
 痙攣するように笑いながら、なおその視線は油断なく私達を捕らえていた。
 奴の背後には二体のサーヴァント。
 紫の髪をした黒い女。
 笑い顔の仮面をつけた、黒い襤褸を纏った怪人。
 それに対して、私はアーチャーひとり。
 個々の力を均一と仮定するならば、その戦力差は笑えるほど絶望的なものだろう。
 認めざるを得ないか、私は油断していた。
『アサシンのように隠密性の高いサーヴァントなら話は別』、その思考に赤面してしまう。
 正直を言うならば、慎二と手を組む可能性のあるマスターはランサーのマスター以外あり得ない、そう踏んでいた。
 なぜなら、一昨日、代羽がアサシンに襲われているからだ。
 まさか、いくら慎二でも自分の妹を襲うようなマスターと手を組むことは無いだろう、そう考えた。
 しかし、事実は更にその斜め上を行っていたようだ。
 もし慎二がライダーのマスターだと仮定するならば、臓硯はアサシンのマスターということになる。そして、代羽を襲ったのがアサシン。つまり、あいつらは自分の肉親をすらサーヴァントの糧としか見ていなかったということだ。
 なるほど、肉親にしてそれなら、赤の他人など塵芥と変わるところは無いのだろう。何の躊躇も無くあのような外道結界を仕掛けるわけだ。
 こいつらは、完全に踏み外している。
 そんな私の思考を他所に、やっと嗤いを収めた臓硯が言い放つ。
「さて、儂も散歩のつもりだったのだがなぁ、運悪く毒の棘を持つ雌猫を見つけてしまった。
 さてさて、どうしたものか。
 このまま放置すればいつ刺されるやしれぬ、しかし殺すのも忍びない。
 もし、猫めが自ら棘を捨てるならば、いらぬ殺生は避けられるのだがなぁ」
 薄ら笑いを浮かべながら老怪が話す。
 これは脅しだ。 
 令呪を破棄して負けを認めろ。
 そうすれば今宵は見逃してやる。
 奴はそう言っているのだ。
 私に向かって。
 この遠坂凛に向かって。
 生殺与奪の権利は自分にある、と言っているのだ。
 なるほど、そうか。
 いい度胸だ。
 いい度胸じゃあないか。
 伊達に五百年生きていないらしい。
 す、と頭から血が引いていく。
 慎二の馬鹿を見たときから、少し頭に血が上っていたようだ。
 良かった。
 これで冷静になれる。
 そうだ、私は冷静だ。
 だから、逃亡とか、離脱とかは考えない。
 冷静に、執拗に、そして優雅に。
 あの化物を殺してやる。

 彼女の口の端がゆっくりと持ち上がっていく。
 三日月の形になった、美しい唇。
 微笑。
 そう、その表情に名を与えるなら、その名詞が一番近い。
 しかし、足りない。
 その表情が表す最も重要な情報が、その名詞では表せていない。
 ならば、何が抜け落ちているのか。
 彼女が浮かべているのは微笑みに違いはないのだ。
 ただ、それは恋人と語らう時の輝くようなものではなく、
 両親の愛情に包まれた時の安らいだものでもない。
 例えるなら、猫科の肉食獣。
 しかし、雄ライオンのように勇壮なそれではない。
 もっとしなやかで、何より優美。
 豹。あるいはチーター。
 彼らが、獲物の首筋に牙を突き立て、溢れ出るその血で喉の渇きを潤した時。
 或いは、哀れな贄の肉で、胃の腑を締めつける飢えを満そうとした時。
 その時に、表情を作ることが出来たとしたら、おそらく今の彼女のような笑みを浮かべるのだろう。
 美しく、完璧で、残虐な笑み。
 それほどに、今の彼女は危険な存在だった。


「アーチャー!」
 背後に生じた仄かな熱。
 数日前まで知らなかった、今は何より信頼できる熱。
「あの化物は私が仕留める。あなたはサーヴァントの足止めをして」
 私の従者は軽く肩を竦めた。
「いくら足止めとはいえ、私一人で二体のサーヴァントを相手にするのはいかにも無謀ではないかね。私はあの狂人ではないのだよ、凛」
「できないの?」
 私は知っている。彼は今もなお、あの皮肉げな笑みを湛えていることを。
「私は一言でもそんなことを言ったかね、凛。
 無理、無謀、無茶、おおいに結構。それでこそ君だ。
 なに、おそらくは地に足を付けた騎乗兵、姿を晒した暗殺者。物の数ではない。聊か急に過ぎるきらいもあるが、これはこれでいい機会だ。君の従者の最強を証明しようじゃないか」


「――――――、Anfang」

 凛の魔術回路が回転数を上げていく。
 ローからハイに、そしてハイトップに。
 一流と称してなお賞賛しきれないそれが、まだ発展途上でしかないことを私は知っている。彼女の翼は強く、なお疲れを知らない。目的地は遥かに、視線は更にその先を見据えている。
 ならば、その翼をこのような瑣末事で汚すわけにはいくまい。
と、その時。
 道化の投げた短刀が、凛を襲う。
 瞬きをするほどの時に三閃。
 眉間、喉、心臓。そのいずれもが必殺。
 しかし、そのいずれもが彼女に毛程の傷も付けることができないことを私は確信している。なぜならこの身は弓兵。例え空を舞う燕であろうと、例え狙撃手の放つ弾丸だろうと、悉く叩き落としてみせよう。
 キ、キキン―――。
 硬質な金属音が周囲の静寂を破る。
 目を閉じ、己に埋没する凛の前に転がった三対の短刀と矢。
 再び訪れた、時が止まったような静寂。
 私は短刀を拾って情報を読み取った。
 理念、骨子、歳月。
 短刀、ダークと呼ばれるそれから読み取った情報、虚ろな気配。
 奴に該当するクラスはアサシン以外ありえない。
 そして、短刀の持ち主にこう言った。
「ふむ、暗殺者よ。我がマスターを害するに、使う道具がこの薄汚れた短刀か。いささか出し惜しみが過ぎるのではないかね。吝嗇も過ぎれば非難の対象となろう」
 仮面の下の気配が微妙に変化した。
 暗殺者とは、すなわち一種の職人だ。
 自らを鍛え一つの道具となし、徹底的かつ綿密に対象を調べ上げ、天が与えたが如き最高の一瞬を選択して目的を達する。
 ならば、自らの一部といっても過言ではない仕事道具を貶されて、不快に思わないはずがない。
 私の挑発に乗ったのか、それとも排除すべき障害として認識したのか、いずれにせよ、暗殺者は私を標的としたようだ。
 あとは彼女にパーティーの招待状を送らねばなるまい。


 弾幕と弾幕が衝突する。
 少女が放つのは魔力の弾丸。
 フィンの一撃と呼ばれるものに昇華されたそれは、呪いでありながら物理的な破壊力を持つ。
 老人が放つのは蟲の弾丸。
 硬い外骨格を持つ甲虫を魔力によって強化し、更に加速して放ったそれは、さながらライフル弾のような貫通力を有する。
 互いの攻撃がぶつかり、威力を殺しあうが故に致命傷には至らないが、両者とも細かい傷を負っている。
 果たして、どちらを賞し、どちらを貶めるべきなのであろうか。
 若輩の身でありながら、齢五百を超える大魔術師と張り合う少女を褒めるべきか。
 それとも、普通の人間なら既に片手の指では足りぬほど大往生を迎えているであろう歳でありながら、眩いばかりの若き才能に立ちはだかる老人だったものを讃えるべきか。
 いずれにせよ、並みの魔術師なら既に十度は冥界の門をくぐっているであろう壮絶な戦いは、それでも開演のベルの余韻すら残した段階にすぎなかった。

 甘かった。
 私は思わず舌打ちをした。
 遠坂の魔術特性は転換。
 お世辞にも戦闘に向いた特性とは言えない。
 しかし、本来はそれでかまわないのだ。
 およそ魔術師と呼べるものにとって、究極的な目標は根源への到達。そのためには戦闘技術などは必要ない。むしろ探求に必要な特性こそが王道であり、戦闘に特化した特性は外道だ。
 だが、今、私が参加している大儀式は殺し合い。
 王道と外道が反転する。
 それでも勝てると思った。
 いくら相手が、私の十倍以上の時を魔道に捧げた先達でも、所詮は一度も聖杯戦争に参加しなかったアナグマだ。家が廃れ、血が枯れたから、穴から燻りだされたにすぎない。
 そう思っていた。
 見込みが甘かったと言わざるをえない。
 奴は正面から私のガンド打ちとやりあっている。まさかこれほどの力を持っていたとは。
 もし、最初から虎の子の宝石を使っていれば、難なく勝てたはずだ。そうでなくても戦局ははるかに優位に運べていたに違いない。
 一瞬。
 一瞬でいい。
 奴に隙ができれば、ポケットから宝石を取り出すことができるのに。
 一瞬。
 今の私には、それがとても遠い。

 ゆらり、と目の前の白い髑髏が動いた。
 決して遅い動きではない。
 だが、単純な速度だけならかの槍兵と比べるのもおこがましいものだ。
 しかし、その動きに目が追いつかない。
 いつの間にか視界から姿が消え、死角から短剣が飛んでくる。
 理由は極めて単純だ。
 奴の動きには起点がない。
 例えば、パンチを打つとき。
 人はただ単純に腕を伸ばすのではなく、必ず溜めを作る。
 足をねじり、膝を撓め、腰を回し、肩を入れ、そして腕を伸ばす。
 初心者の動作は、テレフォンと呼ばれるほどわかりやすく、上級者であればあるほど、その溜めがわかりにくい。
 奴はその溜めを、人間として可能な限り消している。
 故に先読みができない。
 奴が動き出した後に、やっと動いたという事実がわかる。
 まるで薄だ。
 風に揺られる薄。
 風がいつ吹き、いつ薄が揺れるのか。
 それを読むことのできる騎士を、私は憶えている。
 だが、私には。
 それを先読みするような才は私には無い。
 だから、いつも通りだ。
 いつも、私は自分の非才さに呆れていた。
 呆れながら、戦ってきた。
 呆れながら、いつも通り。
 いつも通り、愚直に。
 愚直に、前へ。
 前へ。


 目の前で二つの戦いが繰り広げられている。
 きっと、自分はそのいずれかに参加するべきなのだろう。
 いずれの戦闘に参加したとしても、自分なら勝利をもたらすことができるはずだ。それだけの実力は兼ね備えているはずだし、覚悟もある。
 しかし、私にはそれが許されていない。
 何故なら、令呪をもってこう命令されたからだ。
[私が指令を下すまで、自衛以外、独断で動くことを禁じる]
 ぎしり、と歯が鳴る。
 まるで木偶だ。
 私は何のためにここにいるのか。
 少なくとも、特等席で戦いを見物するためでは無かったはずだ。
 そこまで考えたとき、案山子のように突っ立っていた私の足元に一本の矢が突き刺さった。
「せっかくの夜だ。なのに、君ほどの女性が壁の花というのは申し訳ない。どうかな、私と一曲」
 始めのうちこそ暗殺者の奇妙な動きに翻弄されていた弓兵だが、今はほぼ互角、いや、明らかに暗殺者を圧倒し始めていた。だからこそ私を挑発することができたのだろう。
 もともと、暗殺者は正面きっての戦闘に向いていない。闇に住み、標的をより深い闇へ引きずり込むのが暗殺者の常道。おそらくは百戦錬磨の弓兵、彼を相手に僅かな時間だけでも優位に立っていたのが、むしろ賞賛を受けるべきだろう。
「なるほど、今代の遠坂は主従ともに死にたがりとみえる」
 枯れた声が聞こえる。
 この声は嫌いだ。
 でも。
「いいじゃろう、ライダー、戦闘を許可する。その愚か者を血祭りにあげよ」
 この言葉を待ち望んでいた。
 なるほど、それが主の意思か。
 あの老人が言うのだ、間違いあるまい。
 この身を縛っていた不可視の鎖は放たれた。
 さあ、愚かな弓兵よ。
 あなたのおかげで私は戦える。
 だから、私は優しい。
 優しくあなたの血を吸って。
 優しく殺してあげましょう。

 
 暗殺者の奇妙な動きは、始めのうちこそ戸惑ったものの、ある程度慣れてくれば心眼をもって反応できないほどのものではなかった。
 そうなれば後はこちらのものだ。攻撃も距離をとってからのダークの投擲一辺倒であり、防ぐのは難しいものではなかった。何か、英霊のシンボルとなる宝具を持っているのは確実だが、それを使う気配は無い。
 距離を詰めての接近戦では、私は奴を圧倒した。手にした武器も、剣の技量も、確実に私の方が上だった。
 故に、アサシンについては問題ない。
 しかし、それ以外は。

 二つの戦場が生まれていた。
 一つは、凛と醜悪な老魔術師との戦場。
 もう一つが、私と暗殺者との戦場。
 それはいい。それ自体に奇妙なところはない。
 奇妙なのは、敵方に、戦闘に参加していない戦力がいる点だ。
 紫の美しい髪をしたサーヴァント。
 もし、彼女が凛の戦場に参加すれば、間違いなく凛は殺される。
 奴は全身から迸るような殺気を溢れさせている。
 何故戦闘に参加しないのか疑問ではあるが、少しでも状況が変化すればすぐにでも参戦することは間違いない。
 下手に奴のことを警戒し、集中を乱しながら戦うよりは、いっそ二対一の方がマシ、私はそう判断した。
 だから、私は紫のサーヴァントに招待状を送りつけたのだ。
「せっかくの夜だ。なのに、君ほどの女性が壁の花、というのは申し訳ない。どうかな、私と一曲」
 私の送った招待状に答えたのはかの女性ではなかった。
「いいじゃろう、ライダー、戦闘を許可する。その愚か者を血祭りにあげよ」
 まるで戒めの鎖が引きちぎられたかのように、騎乗兵が疾走する。
 全サーヴァント中最も進軍速度に優れるという前評判に恥じぬスピード。
 なるほど、これが彼女の本当の姿か。
 それに向かって私は弓を引き絞る。
 一瞬の間に五射。
 適度に的をばらした、散弾銃のような射撃。
 しかし、彼女はそれをいとも容易くかわすと、私の背後に回りこんだ。
「ちいっ!」
 反射的に干将・莫耶を振り上げる。
 ギイィン
 杭と鎖を組み合わせたような武器と、干将・莫耶がぶつかり合い、鮮やかな火花が瞬間的に闇を打ち消す。
「ふぅっ!」
 干将をそのまま防御に使い、莫耶を横なぎに振るう。
 手ごたえが無い、かわされた。
 まずい、間合いをとらねば。
 バックステップ。
 しかし、それも読まれていた。
 綺麗に間合いを詰められ、
 彼女はくるりと背中を向けた。
 その瞬間、腹部を吹き飛ばされたかのような衝撃。
 後ろ蹴り。
 防御が間に合わなかった。
 体が宙に浮く。
 十メートルは吹き飛ばされた。
「がはっ!」
 呼吸が上手くできない。
 ダメージは大きい。
 試合なら、ここで一本負けだ。
 だが、これは試合ではない。
 殺し合いだ。
 ――――――蹲るな。
 立ち上がる、
 ――――――弱みを見せるな。
 両手に干将・莫耶を、
 ――――――倣岸に、不遜に。
 暗殺者と騎乗兵を睨みつけ、
 ――――――笑っていろ。


 目の前に悪夢がいた。
 水晶の瞳。しかし、その複眼は何も映さない。
 金剛石の体。ぬらぬらと光ったそれは、死蝋化した死体を思わせる。
 百足のような足。見ているだけで、怖気が走る。
 振り下ろされる一対の鎌と、襲い来る毒針。
 蟷螂と蠍を組み合わせて巨大化させ、悪意で彫り上げたかのようなフォルム。
 食物連鎖に組み込まれた生き物ではありえない。人より大きな昆虫など、通常存在するはずが無い。
 間違いなく、幻想種。
 マキリ臓硯。
 蟲使い、マキリの当主。
 最初に感じたのは嫌悪。
 次に感じたのが殺意で、その次が驚愕。
 しかし、今は畏敬すら覚える。
 人の身でこれほどの幻想種を従える魔術師が、この世にどれほどいるだろうか。
 人形師の使役する人形や、サーヴァントのような規格外に代表されるごく一部の例外を除いて、使い魔は総じて主人よりも力が弱い。そうでなくては絶対的な支配権を確立させることが不可能だからだ。
 しかし、目の前の蟲は、明らかに臓硯本人よりも高密度な魔力を備えている。
 そんな化け物相手に、私は相も変わらずガンド打ちで対抗する。
 攻撃は当たっている。
 しかし、効いていない。せいぜい、少し動きを鈍らせることができる程度。
 当たり前だ。
 いくら物理的な攻撃力を兼ね備えている呪いとはいえ、衝撃そのものは大口径の拳銃と変わらない。
 この程度の呪いでは幻想種に通用するはずもなく、この程度の威力では硬い外骨格を貫くことはかなわない。
 だが、一瞬でも弾幕を薄めれば、鎌が私の体を両断するか、毒針が私の眉間を貫くだろう。
 ジリ貧だ。
 アーチャーは複数のサーヴァントと戦っている。援護は期待できまい。
 これは私の判断ミス。
 マキリ臓硯の実力を読み違えた私の責任だ。
 歯を軋らせる。
 横から襲い来る鎌。
 頭を下げて、それをかわし。
 振り下ろされる毒針。
 横っ飛びに、それをかわす。
 息が上がる。
 本来、この程度の動きで息が上がるほど柔な鍛え方はしていないが、ガンドの多用と強烈なプレッシャーが秒単位で体力を削っていく。
 滝のように汗が流れる。
 体中に溜まった乳酸が、休息を求めて抗議の悲鳴をあげている。
「お爺様、そいつは殺さないで下さい。それは僕のものだ」
 手摺を支えに突っ立ったどこかの馬鹿が、素っ頓狂な声で叫ぶ。
 マキリのお坊ちゃまは、相も変わらず私の体に御執心らしい。
 こんな状況で性欲が優先されるなら、それはそれで凄いことなのかもしれない。
 頭のどこかで冷静に考えながら、私は早すぎる死を覚悟した。
「どうかな、ここいらで負けを認めては。令呪を放棄し、戦争が終わるまでこの街から離れることを約するならば、命まではとらぬ」
 使い魔には攻撃を命じたまま、マキリ臓硯はそう言った。
 その言葉に私は微かな違和感を憶えた。
 マキリ臓硯は、いや、普通の魔術師は自らに敵対したものに対して容赦をしない。かくいう私も『やるからには徹底的に』がモットーだ。
「お優しいことね、マキリ臓硯。でも、お生憎さま。私は勝てる戦で尻尾を丸める趣味はないの」
 無理矢理つくった笑みを浮べて私はそう言った。
 損な性分だと思う。
 でも、そんな自分が嫌いではない。
「ふむ、残念じゃの。目の眩まんばかりに輝く才能。それを摘み取らねばならんとはのう」
 その言葉を聞いた直後、私は地面と望まぬ抱擁を強制された。
 短くはない時間の激闘。それによって抉られたコンクリート。鎌をかわして飛びのいたその地点に、不運にも小さな小さなクレーターがあったのだ。

 終わった。
 戦いも、人生も。
 ごめんなさい、お父様。
 あなたの娘は親不孝でした。
 遠坂の秘宝を浪費し、聖杯を手に入れることも叶わず、まだ二十歳にも届かぬ若さであなたのもとにむかいます。
 どうか、怒らないで。
 そちらに着いたら、昔のように、暖かい背中で休ませて。


 流石にきついな。
 嵐のように襲い来る杭のような短剣と、ダークと呼ばれる短剣を、干将・莫耶で弾きながら私は心の中で舌打ちをした。
 正面からは全てをなぎ倒す爆風のような攻撃。
 それに対応しようとすると、側面、或いは後方から短剣が飛んでくる。
 まずい、この二体の相性はすこぶるいい。
 このままでは殺される。
 駄目だ。
 殺されてやるわけにはいかない。
 せっかくのチャンスなのだ。
 無限ともいえる時の中でやっと見えた光明なのだ。
 死ぬのはかまわないが、それが潰えるのは許せない。
 仕方ない、少しだけ手の内を見せるとしよう。
「――――工程完了。全投影、待機」 
 虚空に現れた多数の剣。
 その全てが、名剣・妖刀の類だ。宝具には遠く及ばないものの、サーヴァントを傷つける程度の神秘は内包している。
 驚いた暗殺者と騎乗兵が距離を取ろうとする。
 逃がすものか。
 私は、きっと冷酷な笑みを浮かべた。
「停止解凍、全投影連続層写」
 いっせいに剣の弾丸が放たれる。
 その数、約二十。
 しかし、この程度では奴らを倒すことはできないだろう。
 そんなことはわかっている。
 ドドドドンッ
 剣の着弾音が響く。
 その後に訪れる一瞬の静寂。
 そして。
 コンクリートに突き立った剣の群れの中で、やはり暗殺者と騎乗兵は傷一つ無く立っていた。
「驚きました。今のがあなたの宝具なのですか」
 静かな、聴くものを魅了するかのような声。黒い装束に身を包み、荒れ狂うが如き攻撃を加えてきたモノと同一とは思えない。
 私は自分でもわかるほど皮肉な笑みを浮べてこう答えた。
「残念だが、今のはただの手品。宝具と呼べるような上等なものではない。どちらかというと、今からお見せするものの方が、私の宝具に近いな」
 騎乗兵と暗殺者は身構える。
 私は内心ほくそえむ。
 好都合だ。
 なぜなら、次の手品の種は、哀れな観客の足元に既に仕掛けられているのだから。
「壊れた幻想」
 その言葉と同時に、奴らの周囲に突き立った我が同胞達が爆発する。
 宝具による爆発に比べれば規模は小さいものの、それでもその威力はサーヴァントにとっても無視できるようなものではない。
 これで形勢逆転だ。
 私はそう思った。
 そう思ってしまった。
 だから、一瞬の隙が生じたのだ。
 その瞬間、私の大腿部に深々と短剣が突き刺さっていた。
「ぐぅっ」
 思わず膝を突く。
 そして次の瞬間私が見たのは紫の美しい髪がこちらに向かって疾走してくる光景だった。
 そうだった。
 私にとって、譲れぬ願いがあるように。
 彼らにも、譲れぬ願いがあるはずなのだ。
 その執念を、見誤った。
 体中を血に染めながら、騎乗兵が迫ってくる。
 地に膝を突いたまま、干将・莫耶を投影する。
 騎乗兵の手から放たれた巨大な杭。
 それを、干将で弾く。
 背後から放たれた短剣。
 それを、莫耶で弾く。
 そして、私は無防備になった。
 片膝を突いた姿勢では、飛びのくこともできない。
 騎乗兵はそんな哀れな獲物の足をきれいに払った。
 あまりにきれいな足払いだったのでなんの苦痛もない。
 ただ仰向けに転がった私の視界には天に歯向かうが如く振り上げられた騎乗兵の踵が映っていた。
 ああ、あれが振り下ろされれば、私の頭は石榴のように砕け散るのだろうな。
 そう思った。



[1066] Re[14]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆7bd07287
Date: 2007/05/27 01:24
 今までの動きが嘘のように、ゆっくりとした動きで蟲が近づいてくる。
 もはや、哀れな獲物は逃げることが叶わないことを知っているのだ。
 私は来るべき衝撃に備えて拳を握った。
 人生の最後に見えるという、走馬灯は見えなかった。
 ただ、最近知り合った半人前の魔術師の顔が浮かんだのが酷く不快だった。
 迫り来る、避けようのない死。
 ゆっくりと振り上げられた鎌を、まるで他人事のように眺める。
 そして―――。
 声が聴こえた。 

Es flustert声は祈りに ―――Mein Nagel reist Hauser ab私の指は大地を削る
 
 声の主によって放たれた影の刃は、コンクリートを削り飛ばしながら蟲の横っ腹に炸裂した。
「姉さん!」
 顔など、確かめるまでもない。
 そこにいるのは、自慢の妹だ。

 episode14 総力戦中

 蟲は桜の放った魔術によって吹き飛ばされ、いまだに動けずにいる。
 少し悔しいが、桜の魔術は私のそれより強力だ。
 魔力回路の数はほぼ互角。 
 精密さにかけては、私の方が一枚も二枚も上手。
 だが、瞬間的な魔力の放出量と最大貯蔵量については、桜に軍配が上がるだろう。
 私の魔術を精密なスナイパーライフルに例えるなら、桜のそれは強力なバズーカ砲だ。
 私のガンドでは毛ほどの傷も付けられなかった蟲だが、桜の魔術ならば昏倒させることくらいはできたらしい。
 もちろん、このまま放っておけば遠からず蟲は復活する。そして、いくら桜の魔術とはいえ、あの蟲に止めを刺すのは難しいだろう。
 だが、十分だ。
 例え十秒に満たない時間でも、私にとっては十分。それは桜もわかっている。
 なぜなら、私があの蟲を倒すためにする行為は、ポケットに手を突っ込む、ただそれだけなのだから。

 まず、蟲は素早く立ち上がった。
 驚異的な回復力だ。正面から桜の魔術をくらってこの程度のダメージとは、正直信じがたい。
 次に、蟲はこちらに走ってきた。
 百足のように生え揃った多数の足が規則正しく動くさまは、生理的な嫌悪を呼び起こした。
 そして、蟲は鎌を振り上げた。
 その複眼からは何の感情も読み取れないが、おそらくは勝利を確信しているのだろう。
 最後に、蟲は鎌を振り降ろす――ことができなかった。

「くうぅっ!」
 裁きの鉄槌のように振り下ろされる踵。
 身を捩って、それをかわす。
 ちっ、と数本の髪を引きちぎる音が聞こえ、
 どごぉっ、とコンクリートを破壊する轟音が鼓膜を叩いた。
 ごろごろと地面を転がる。
 わずかばかりの距離をとってから、バネに弾かれたように立ち上がる。
 大腿部の短剣は、地面を転がったときにより深く突き刺さっていた。
 この戦闘において、機動力は失われたと見ていいだろう。
「しぶといですね」
 騎乗兵が呟く。
 その体は傷だらけで、まるで赤いペンキでも被ったかのように真っ赤だ。常人ならば、痛みによるショックか、出血性のショックによって命を失っていてもおかしくない。
 彼女の傍らに立つ暗殺者も同じような状態だ。
 それに対して、私のダメージは左足に深々と突き刺さった短剣。おそらくは、それに塗られていたであろう、暗殺者の毒による意識の混濁。騎乗兵の蹴りによって受けた、内臓の損傷。
 ダメージ自体はそう変わらない。
 ならば、手の内を見せた分、私のほうが不利になっている。
 状況は最悪。
 しかし、この身は不敗の弓兵。
 そして、この身は彼女の従者。
 いままで、幾度となく望まぬ戦いを強いられてきた。
 これまで、何度となく救えぬ殺戮を繰り返してきた。
 そんな私が、久しぶりにこの身が沸き立つような戦いを味わえているのだ。
 眠るには、いささか早すぎるな。
「虚空から武器を生み出す。そして、それを弾丸のように、或いは爆弾のように扱うことができる。それがあなたの能力ですか」
「そのとおり、実は私は弓兵ではなく奇術師なのだよ」
 核心を抉るような騎乗兵の問いに対して、私はおどけた対応をしてみせる。
 騎乗兵の表情が少しいぶかしむようなものに変わったが、到底誤魔化すことなどできていないだろう。
「まあいいでしょう。あなたが弓兵でも奇術師でも、それは些細なこと。接近戦に持ち込まれた弓兵、種のわれた手品を演じる奇術師、共に哀れなものです」
 冷酷な笑みを浮べて、彼女が近づいてくる。
「あなたの足は、既に用をなさない。せいぜい芋虫のように地を這うことができる程度でしょう」
 干将・莫耶を投影、その片割れを投擲する。
 あたらない。
「そして、あなたの魔力は尽きようとしている」
 視界がぼやける。
 本格的に毒が回ってきた。
 考えてみれば、毒と暗殺者は切っても切れないほど密接に結びついている。
 ならば、暗殺者の頂点たるハサン=サッバーハの所有する毒に何らかの概念が付与されていたとしてもおかしくはない。いや、むしろそれが当然か。
 如何に概念の付与されているとはいえ、まさかサーヴァントが毒くらいで死ぬはずも無いが体の自由くらいは奪えるらしい。
「諦めなさい。そうすれば、優しく殺してあげます」
 誘うような声で紡がれた提案は、酷く蟲惑的だった。ひょっとしたら、何か暗示のようなものが含まれていたのかもしれない。
「ああ、それは魅力的だ。君のような女性に殺されるなら本望だよ」
 私の目の前に立った騎乗兵に対してそう言ってやった。
「賢い選択です。さあ、力を抜いて、私に身を任せて」
 彼女は私を抱きしめると、首筋に顔を埋めてきた。
 ちくり、とした感触が襲ってきた。
 それと同時に力が抜けていく。
 なるほど、彼女は吸血種だったのか。
「あなたの血は美味しい」
 うっとりとした声が聴こえる。
「ああ、それはよかった」
 そう言いながら、私は今まで味わったことの無い快楽に身を委ねていた。
 気持ちいい。血を吸われることがここまでの快楽をもたらすとは思わなかった。
 ともすれば意識まで手放してしまいそうになる快楽の中で、私は彼女に呟いた。
「最後に、伝えておきたいことがある」
 彼女は私の血液を嚥下しながら、こう答えた。
「あなたにはもはや歯向かう力は残されていません。それを承知の上ならば、聞いてあげましょう」
 私は口を彼女の耳の近くに寄せて、蚊が鳴くような声で、こう囁いた。

「人の恋路の邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ」

「がはっ」
 私の胸の中で体を強張らせた騎乗兵。
 その背中には、深々と干将が刺さっていた。
「窮鼠は猫を噛むものだ。憶えておくといい」
 崩れ落ちる騎乗兵。
 普通の人間ならば間違いなく致命傷。
 しかし、彼女は生きている。
 ならば止めを。
 そこまで考えて、気づいた。
 もはや、私にその力は残されていない。
「度し難いな」
 迫り来る暗殺者の短剣。
 その切っ先を見つめながら、そう呟いた。
 
 私が手にしていたのは黒曜石。
 どんなに品質の良いものでも、せいぜい三日分の魔力も込められればいいほうだ。
 つまりは、屑石。
 宝石と呼ぶのもおこがましい。
 だが、十分。
 この程度の虫けらを屠るのに、貴重な宝石を使うわけにはいかないでしょう。
 さあ、マキリ臓硯。
 あなたの魔術は十分過ぎるほどに堪能させていただいたわ。
 だから、今度は私の番。
 遠坂の秘奥、宝石魔術の粋。
 存分に味わいなさいな。

Fixierung狙え,EileSalve一斉射撃――――! 」

 放たれたのは、一握りの黒い石。
 それ自体には、何の威力も無い。 
 子鼠一匹殺すことはできない。いや、傷つけるのも難しいだろう。
 だが、その黒い石から放たれた魔力は、巨大な蟲の体を破壊し尽くした。

「驚いた、まだ生きているなんて」
 私の放った黒曜石は、約二十。
 一年分の魔力を込めた取っておきの宝石の魔力量と比べても、さして見劣りするものではなかったはずだ。
 小さな家なら、吹き飛ばせるだけの魔力。
 それを正面から受け止めて、なお蟲は生きていた。
 水晶の瞳は破れ、金剛石の体は砕け、鎌も、毒針も跡形も無かったが、それはまだ立っていたのだ。
「なるほど、やるべきときには徹底的に、か。私のモットーを忘れていたわ」
 そう呟いて、外套の内側から取り出したのは小さな宝石。
 一年分の魔力を込めた、切り札の一つ。
「あなたの生命力に敬意を表します。これは私の切り札。もしあなたが話せるなら、冥土の土産話にでもしなさい」
 蟲は、その時初めて声を上げた。
 耳を塞ぎたくなるような甲高い声。
 蟲はこちらに向かって走ってきた。
 百足のように生えていた足も、今は半分も無い。それに比例するようにスピードも半減している。
 私は、蟲と臓硯が同一の射線上に重なるように微妙に立ち位置をずらした。
 そして、唱えた。
Sechs Ein Flus六番ein Halt冬の河)……!
 迸る冷気。
 放たれた巨大な氷柱。
 比喩ではなく、家一棟を吹き飛ばして余りある威力。
 蟲は、それを正面から受け止め、
 粉々に砕け散った。
 あれほどの嫌悪をもたらした金剛石の外骨格が、水晶の瞳が、きらきらと宙を舞う。
 街灯の淡い光に照らされたそれは、幻想的なまでに美しかった。
 そして、名も知らぬ蟲は、この世から消滅した。
 塵も残さず、まるで最初から存在しなかったかのように。..........................

 なおも威力を失わない冷気と氷柱。
 それは蟲の後ろに立っているマキリ臓硯に襲い掛かり、彼も、彼の使い魔と同じ運命を辿る。
 筈だった。



[1066] Re[15]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆7bd07287
Date: 2007/05/27 03:09
 キンッ
 硬質な音に思わず顔を顰める。
 なんだ、不粋な奴がいるものだな。
 せっかく人が気持ちよく寝ようとしているのに。
 あの刃が私に心地よい眠りを与えてくれたはずなのに。
 一言文句を言ってやろう、そう考えて目を開いた。
 そこにあったのは、彼女の横顔。
 どこまでも穏やかな聖緑の瞳。
 金砂のような髪。
 彼女を象徴する青い衣。
 ああ、君は私を褒めてくれるだろうか。
 俺は、地獄に落ちても、やっぱり君を忘れなかったんだ。

 episode15 総力戦後

 
「大丈夫ですか、アーチャー」
 鈴を転がしたような、澄み渡った声。
 私は、この声を覚えている。
 忘れることなどできるものか。彼女と私は、短くはなかった人生の中で、最も灼熱とした時間を過ごしたのだから。
 ならば、この問いに対する答えは既に定まっている。
「問題ない。君が来なくてもかたはついていた。なに、君は横で休んでいればいい。ああ、手柄を横取りしたいというならば話は別だがね」
 かすれた声で紡ぐ、他愛も無い憎まれ口。
 彼女はそれに対して苦笑で答えた後、こう言った。
「それだけ減らず口が叩けるなら大丈夫でしょう。戦況を簡潔に説明してください」
「敵は三体。うち二体はここにいるライダーとアサシン。既にライダーは無力化している。もう一体はマキリの当主、マキリ臓硯。
 凛ならば問題ないとは思う、しかし、奴はどこか得体が知れない。ここはいい、すぐに凛の援護にむかってくれ」
「落ち着いてください、アーチャー。士郎と桜、それにキャスターが凛の援護に向かっています。人の魔術師如き、あの三人の敵ではないでしょう」
 軽い恐慌を起こしかけていた私の背中は、落ち着き払った彼女の声に蹴飛ばされた。
 ああ、いつまでたっても、悠久ともいえる時を費やしても、私は君には届かない。
 それは屈辱に満ちた認識であり、歓喜に溢れた再認だった。
「ならば、」
 言葉を繋ごうとしたそのとき、暗い木々に遮られた彼方から、地を振るわせるような轟音が響き渡った。
 まさにその瞬間。
 我々の意識がほんの一瞬だけ逸れた。
 その刹那。
 大量の短剣が私目掛けて投げつけられた。
 その数およそ十五。
 一息の間に投擲されたことを考えれば驚異的とすらいえる数だ。
 この身には、反撃する力はおろか、防御する力も、かわす力も残っていない。
 だからこそ、暗殺者は私を狙ったのだ。
「危ない!」
 セイバーは私の体を抱えて、傍らの草むらに飛び込んだ。
 その隙に、暗殺者は意識の無い騎乗兵を抱え上げ、轟音のした方向へ駆け出した。
「待て!」


 空に浮かんだ白い髑髏の仮面。
 さっき見たのは、哂う髑髏。
 今見ているのは、啼く髑髏。
 啼いているはずの髑髏が哂う。
 くふ。くふふふ。
 嫌な笑い声だ。
 凛は思った。

 私が放った宝石。
 そこから生まれた、空気すら固形化させるような冷気と、膨大な質量を備えた氷柱。
 それらは、散々私を苦しめた巨大な蟲を完膚なきまでに葬り去り、さらにはその主であったマキリ臓硯をも仕留めるはずだった。
 しかし、マキリ臓硯は生きている。
 なぜなら、私の魔術は、得体の知れない泣顔の髑髏によって打ち消されたからだ。
 蒼い襤褸を纏った長身。
 髪の毛の色も蒼。
 そして、周囲を圧するほどの魔力と、エーテルで編まれた肉体。
 クラスは不明。
 しかし、あれはサーヴァントだ。
「くふ。くふふ」
 まるで頭の内側にへばりつくかのような、粘着質な笑い声。
 だが、今の私に、そんなことを気にする余裕は無かった。
「ありえないわ…」
 サーヴァントには抗魔力を備えているものが少なくない。
 それはクラスによって与えられたものであるときあれば、サーヴァント個人の資質によることもある。
 だから、生半可な魔術ではサーヴァントにダメージを負わせるのは難しい。
 それは知っている。そんなことは当たり前だ。
 だが、私が放ったのは、生半可な魔術ではない。
 少なく見積もってもBクラス。
 使い方によってはAクラスにも相当するような魔術なのだ。
 故に、あの胡散臭いサーヴァントの抗魔力は、私の魔術に及ばなかった。
 そこまではいい。
 しかし。
 何故、あのサーヴァントは生きているのだ。
 半身、しかもサーヴァントにとっても急所の一つである、心臓を含む胴体の大部分を吹き飛ばされて、なおあのサーヴァントは哂っているのだ。
 悪夢だ。
 私はそう思った。
「おうおう、よくこの老いぼれを守ってくれたの、礼を言うぞ、プレディクタ」
 プレディクタ。
 訳すれば、預言者、あるいは予言者か。
 聞き慣れないクラスだ。
 間違いなくイレギュラー。
 いや、クラスがどうこうという次元ではなく、奴はその存在自体がイレギュラーなのだ。
 なぜなら、数が合わない。
 セイバー。マスター、衛宮士郎。
 ランサー。マスター不明。しかし、既に遭遇済み。
 アーチャー。マスターは私。
 ライダー。マスター、マキリ慎二(?)
 キャスター。マスター、遠坂桜。
 アサシン。マスター、マキリ臓硯(?)
 バーサーカー。マスター、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
 これで七騎。
 ならば、あの髑髏は?
 八騎めが召還されたのか?
 いや、それはない。
 サーヴァントは七騎。
 これはルールだ。
 プレイヤーは、ルールを破ることはできる。不正を働くこともできよう。
 しかし、ルールそのものを作り変えることは絶対できない。
 ならば、あの髑髏は、何者だ?

 一陣の風が吹いた。
 辺りは戦場さながらである。
 抉れたコンクリート。捻じ曲がって、拉げた街灯。引きちぎられた柵。街路樹はなぎ倒され、ベンチは吹き飛び、海浜公園という名詞に相応しくない荒地が出来上がっている。
 それでも、今ここに集まった面子が本気で戦えば、この程度では済まされないことは容易に想像がつく。
 桜の魔術によって刻まれた深いコンクリートの亀裂。
 それを挟んで、二つの陣営が並び立つ。
 セイバー、アーチャー、キャスターの三騎を従えた遠坂凛を中心とする陣営。
 ライダー、アサシンの二騎と、蒼い髑髏を従えたマキリ臓硯の陣営。
 たった七騎のサーヴァントが戦うだけの儀式。
 しかし、それには戦争の名が冠されている。
 ならば、今まさにこの場で起きようとしているのは、まさに戦争そのものなのだろうか。

「まあ、今日はこんなところかの」
 老人の声。
 遠い昔、どこかで聞いたことがある。
 イメージは錆びた鉄。
 自らの腐敗と、周囲への腐食。
「ずいぶんと虫のいい話ね、臓硯。あなたが納得するのは勝手だけど、こちらがそれに付き合う義務はないわ」
 姉の声。
 いつも、傍で聞いている。
 イメージは冬の朝焼け。
 鮮烈なまでの冷たさと、内に秘めた熱。
「ふむ、黙って帰すつもりはないか。まぁ当然じゃな」
 なおも笑みを浮べたマキリ臓硯。
 一時とはいえ、私の祖父となった怪人。
 もしも。
 もしも私が遠坂に返されなければ、私はどうなっていたのだろう。
 背筋を羽虫に似た戦慄が走り抜ける。
 そもそも、何故彼は私を手放したのか。
「追いたいなら追ってくるがええ。さあ、いくぞ慎二」
 そう言って彼は踵を返した。ライダーを抱えたアサシンもそれに続く。
「待ってください、お爺様!このまま奴らを見逃すのですか」
 一人喚きたてるマキリ慎二。
 弓道部という限られたコミュニティでは精彩を放っていた彼だが、今、この場では他のどの存在より卑小で哀れだ。
「残りたいなら一人で残れ。今、圧倒的に有利なのは奴ら。それが判らず、猪突と勇猛の差異も判らんのならここで果てよ」
「っ……!」
 彼は血が出るほど唇を噛み締め、片足を引きずりながら老人の後を追った。
 闇に溶けるマキリの魔術師達。
 そして、戦場に残ったのは私達を除けばただ一人。
 半身を吹き飛ばされても生き残った、蒼い髑髏。
 今、姉の魔術で吹き飛ばされた胴体は既に再生し、赤黒い文様の刻まれた褐色の皮膚が姿を見せている。
「なるほど、あなたを殿にして他の全員の退路を確保する。正しい選択ね」
 姉が言う。
 確かに、あの場で戦う力が残っていたのはおそらく正体不明のこのサーヴァントだけだろう。だから、姉の言はもっともだ。
 しかし。
 私は言い知れぬ不安を感じていた。
「くふ、私が足止めか。なるほどなるほど」
 男にしては高い声。女にしては低い声。
 中性的とはいえない。あえて言うなら、人ならぬものの声。
「くふふ、戦いに前口上は不要だな。さあ、始めよう」
 
 セイバーが切りつける。
 キャスターが唱える。
 それでも、髑髏は其処に在った。

 セイバーの剣が両断した右腕は。
 キャスターの呪文で爆ぜた左足は。
 なおも、髑髏と共に在った。

 俺の目は、ただその戦いを映していた。
 思考が追いつかない。
 髑髏は、何もしていない。
 最小限の回避行動を繰り返しているだけだ。
 それに対して、セイバー達の攻撃は苛烈極まる。
 バーサーカーと相対したときよりも、その精度は上がっていると言っていい。
 事実、攻撃は命中している。
 しかし、髑髏は笑っていた。
 神経を逆なでするような、一定のリズムで。
 右腕を斬られても。左足を吹き飛ばされても。
 五体満足なまま、そこで笑っていた。
 低く、聞き取りずらい音階で、絶えることなく。
「復元呪詛…?いや、それでもここまで出鱈目な回復力は…」
 戦慄を帯びた凛の呟き。
 それもそのはずだ。
 斬られ、肉が爆ぜても。
 奴は血の一滴も流していない。
 斬られた右腕は、剣が通り抜けたその直後に接着が完了している。
 破裂した左足が時を遡るように修復した瞬間は吐き気さえ催した。
 奴には刃が届かないのではない。魔術が効かないのではない。
 ただ、その回復力が尋常ではないのだ。それを追い越すことができないのだ。
「これじゃあ埒が明かない」
 苛ついたようなキャスターの声。
「でかいのを用意します。時間を稼いで」
「承知」
 前衛を務めるセイバーが答える。その声にも心なしか焦りの色が含まれている。
 激烈な刃。
 髑髏はそれをかわしきれない。
 袈裟に斬られ、胴を薙がれ、首を両断される。
 それでも、髑髏は笑いを収めない。
「………、」
 キャスターによって紡がれる高速神言。
 神代のそれは、俺如きに聞き取れるようなものではなかった。
 その時、俺の耳にもう一つ、奇妙な旋律が飛び込んできた。
 音源はすぐに分かった。
 髑髏が、詠っている。
 そうか、これは笑い声じゃない。
 引き攣るような一定のリズム。
 笑い声に聞こえるそれは、異様なほど長い一つの呪文だ。
 不味い、奴はずっと詠唱していたのか。
「気をつけろ、セイバー!奴の呪文が完成するぞ!」
「させない!」
 もともと桁違いに高かったキャスターの魔力が爆発する。
「避けなさい、セイバー。これをくらったら、あなたでも無事にはすまない!」
 シャラン、と鳴った錫杖。
 放熱板のように広がったローブ。
 天を見上げると、夜空を祭壇に描かれた巨大な魔方陣。
 パリパリと、空気が帯電していく。
 未熟な俺にもわかる。
 これは、神の怒りだ。
「忌々しいわ。在るべきところに還りなさい、不死の化物!」

「『轟雷』」

 錫杖が振り下ろされる。
 それと同時に、耳を劈く轟音。
 瞼に焼け付く閃光。
 切り裂かれる大気、轟く大地。
 これが、人だったモノの成せる業なのか。

 神代の魔術などという安い表現では、到底この奇跡を言い表すことはできない。
 空間ごと漂白するような一撃。
 その後に残ったのは静寂。
 髑髏が立っていた場所を中心に、半径20メートルほどのクレーターができている。
 その中心にある黒焦げの塊。あの夜、嫌というほど見た物体。熱で縮こまり、幾つかのパーツに飛散したそれは、最も大きいものでも手毬くらいのサイズしかない。
「流石です、キャスター。これほどの魔術は見たことがない。確かに、これをくらえばいくら私でも無事には済まないでしょう」
 呆けたようなセイバーの呟き。
「ふん、キャスターが最弱のクラスだ、などと定義した愚か者に見せてやりたい光景だな」
 これはアーチャーの言葉。その言葉にいつもの軽さはない。
 俺と凛、桜は言葉を失っていた。
 これが魔術師か。
 人は、磨き上げられたその刃は、ここまでの存在になることができるのか。
 戦慄と、感動。
 目の前には、一つの到達点がある。
 その圧倒的な幸福を、何と名付ければいいのだろうか。
「さあ、奴らを追うわよ。まだ遠くには行ってないはず」
 キャスターの言葉で俺達は現実に帰った。
 そうだ、まだ結界は解呪されていない。問題は解決していないのだ。
 早く慎二かライダーを確保して、結界を解かせなければ。

「「「「おや、もう私の相手はしてくれないのかな」」」」

 もぞもぞと、一斉に黒い塊が動く。
 手毬ほどのサイズのそれ、野球のボールほどのサイズのそれ、小さいものはビー玉くらいのおおきさほどでしかない。
 しかし、それらは生きていた。
 それぞれ、その中心には、赤い亀裂があった。
 ああ、なるほど、あれは口だ。
 手も足も、胴体すら失った燃えカスが、口だけ持って喋っている。
 あはは、何だ、あれは。
 卵巣を取り出すためにパックリと割られた海栗。そんな外見だが、禍々しさは例えようもない。
「「「「ああ、どうやら主達は無事逃げおおせたようだ。残念だが、今日はここまでだな。私の魔術をお見せするのも又の機会だ」」」」
 凛も桜も、セイバーもキャスターも、あっけにとられている。
 そんな中、ただ一人、ぼろぼろのアーチャーが叫んだ。
「逃がすか!」
 その手には螺旋くれた不可思議な剣と、漆黒の弓。
 満身創痍でガス欠寸前のアーチャーは、まるで長年の怨敵を前にしたかのような凄まじい形相で、髑髏の残骸に向けて矢を構えた。 



[1066] Re[16]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆7d422974
Date: 2007/06/26 22:42
 interval1 IN THE DARK ROOM 1

 暗い部屋。
 単純に光度が足りないのではない。
 例えるなら、空気が人の存在を拒否してしまっているような、そんな部屋。
 その中央の座するは、矮小な老人。歳は既に百をいくつ越えているであろうか。
 しかし、深く刻まれた皺の奥の濁った瞳の色には、枯れた、という言葉を拒絶する何かが宿っていた。
「失礼します、お爺様」
 静かに襖が開く。
「本日は、申し上げたき儀ありまして、まかりこしました」
 畳に額を擦りつけながら、壮年の男が言う。仮に、相手が真実祖父ならば、その指が震えているのは何故か。
 体格でいえば、男と老人のは、倍ほどの差がある。にもかかわらず、男は老人に対して怯えを隠すことが出来ないでいる。
 老人にあるのは、目上としての威厳でも、尊属としての優越でもない。
 ただただ、恐怖であった。
「お主の言わんとしていることはわかっておる。何故遠坂の娘を無傷で返してやるのか、その事についてであろう」
 男が安心したように息をもらす。
「ご明察、恐れ入ります。
 確かに、かの子供、魔術師としては桜よりも優れておりましょう。
 しかし、胎盤としての性能は未知数。それに対して、桜は名門の娘」
 ゆえに、より良い跡継ぎを残すためには桜を胎盤とすべきではないか、と男は言った。
 カカ、と乾いた笑いを漏らしながら、老怪が答える。
「いや、お主の言うこと、いちいち尤もよな」
 その言葉に言外の嘲りを感じ取ったのは、男の神経が過敏なせいではあるまい。
「確かに、桜は名門、遠坂の娘。しかも、どうやらその属性は虚数。貴重といえばその価値は量り知れぬ」
 虚数属性。魔術師の中でもその属性を持つものは極めて少なく、希少度でいえば、五大元素に勝るとも劣らない。
 老人は続ける。
「跡継ぎに悩む魔術の家系など、掃いて捨てるほどある。それらにとって、あの胎盤は喉から手が出るほど欲しい素材であろうな。
 であるに、なぜ時臣は、マキリに桜を譲ったのだ?」
 男が答える。その質問は十分に予想されたものだったからだ。
「遠坂とマキリは古くからの盟友であります。また、魔術師に跡継ぎは一人で十分、不用品を廃棄した、その程度の認識なのでしょう」

 沈黙。
 さして広くない空間を、静寂が満たしていく。
 男にはそれが耐えられない。
 神経に鑢をかけられるがごとき一瞬。
 喉が渇く。
 額に嫌な汗が浮かぶ。
 謝ってしまえ、きっと自分が間違えたのだ。
 男がそう思った瞬間。
「例えマキリが断絶したとしても、聖杯戦争は続く。あれは既にシステムとして確立されておる」
 男には無限とも思われた、その一瞬を打ち破ったのは、やはり彼の前に鎮座する老人だった。
「盟友とは名ばかりの血で血を洗う仇敵同士、遠坂にとってマキリなど何の利用価値も無いのだ。少なくとも、敵として存在するうちはな」
 老人は続ける。
「此度、桜もかの子供も手に入れることが叶わなんだら、マキリは更なる弱体化を余儀なくされたであろう。あれほどの逸材をマキリに提供する家があるとは思えん。もし、遠坂がマキリを警戒するのであれば、今のまま放置するのが最上なのだ」
 それはそうだろう。 
 没落がはっきりとした方向を定めるようになってから、弟子の一人すら門戸を叩いたことはなかったのだ。いわんや、貴重な取引材料ともなる、才能ある子供をマキリに提供するような家があろうはずも無い。
「更に言えば、不要であることと無価値であることは同義ではない。
 あれほどの鬼才、跡継ぎに悩む名家に競わせれば、一体如何程の値がつくのであろうなぁ」
 男は恐怖によってではなく、反駁が不可能なことによって沈黙を強制された。
「そうさな、例えばこんな条件ならどうかな。
 我が子を譲る。
 その代わり、マキリという家そのものを譲れ....................
 男が初めて顔を上げた。その表情には、ありありと驚愕が浮かんでいる。
「それは、時臣が桜によってマキリののっとりを図ったということですか。有り得ませぬ。桜には如何なる術もかかっていなかった。それは、他ならぬお爺様が確認なされたではありませんか」
 男が早口で捲し立てるのを、侮蔑の視線で見守っていた老人が話す。
「確かに、儂が知る如何なる魔術もかかっていなかった。しかし、この世には儂の知らぬ魔術のほうが多いでな」
 魔術とは秘するもの。
 いかに親交の深い家系同士であっても、その奥義は必ず隠される。
 さらに言えば、遠坂とマキリは仇敵同士。
 どうして、秘伝の魔術がないと言い切れよう。
 そして、その魔術が、桜を通してマキリを屈服させるような類のものだったら。
 例えば、マキリの種を骨抜きにして、桜の言いなりにさせるような性魔術。
 例えば、マキリの次代を遠坂の言いなりにさせるような、刷り込みの暗示。
 それらが遠坂にあるならば。
 そして、あの時臣ならば。
 やる。
 必ずやる。
 なにせ、自らの娘を取引材料としか考えないような男だ。
 右手で握手を交わして、左手で毒を盛る。
 それくらいは涼しい顔でやってのける男なのだ。
 老人は、そう考えていた。
「もしあれが手に入らなければ、多少の危険は冒してでも桜を胎盤としていたであろう。ゆえに、今の状況は、かの子供を拾ってきたお主の功績でもある」
「わかりました。お爺様の深慮遠謀、私如きに測れるものではありませぬ」
 しかし、と男が続ける。
「無傷で返す必要があるのでしょうか。桜は、順調に育てば、マキリの障害となるは必定。将来の禍根は小さいうちに断っておくべきでは」
 老人の目に、僅かだが驚嘆の色が浮かんだ。
 男がここまで老人に食い下がったのは初めてのことだ。なぜなら、男にとって老人は恐怖そのものなのだから。
 男が老人に歯向かう。それは信徒が神に歯向かうことに等しい。
 老人は、これで魔術の才があれば、と誰にも気づかれずため息を放つ。
「桜と、近い将来の遠坂の当主は姉妹。今、進んで遠坂の敵意を買うのは上策ではあるまい。むしろ、桜を無傷で帰すことで、貸しを作るべきであろう。
 さらにいえば、仮に将来、桜が強大な力を持ったとしても、それが遠坂にとって有利に働くとは限らぬ。第三次のエーデルフェルトの例は、我らが倣うべき故事であろうな」
 エーデルフェルト。
 天秤の二つ名を持つ魔道の名門。
 その当主には、必ず姉妹が選ばれる。
 しかし、彼女達は姉妹ゆえに聖杯戦争に敗れた。
 属性の近しいものは往々にして反発しあう。
 蛇は蛙を喰らうのではない。
 蛇は蛇をこそ喰らうのだ。
 もし、妹と姉が反発しないなら、反目するように仕向ければよい。
 どんなに良好な関係であっても、傷の一つや二つは必ずある。ならばそれを広げるだけでよい。 

 僅かな沈黙の後に、男が再び顔を下げてこう言った。
「わかりました、この件に関して私が申し上げることはございません。どうか、お爺様の御意志のままに事を進められますよう」
 男が顔を上げる。
「その件とは別にご報告申し上げます。かの子供がもうすぐ目を覚まします。ご足労ですが、修練場まで来られますように」
 その言葉を最後に、男は老人の前から退出した。

 老人は考える。
 かの子供を胎盤とするには、あまりに未知数。
 しかし、それを補って余りある利点を備えている。
 何せ、既に完成しているのだ。
 微弱ながら、聖杯に潜むものとのパスも繋がっている。
 仮に、桜を最高の状態に改造することが叶ったとしても、ああはいくまい。
 名は何にしようか。
 あの泥を被ったのだ、記憶などは残っていようはずも無い。
 かの子供は、今まさにこの世に生を受けようとしているのだ。
 そういえばあの子供、魘されて何か呟いていたな。
 あやつにとって、失われた記憶など、前世の記憶に等しかろう。なにせ、奴は一度、劫火の中で死を経験しているのだから。
 ならば、それに基づく名ならば強力な言霊を孕むであろう。
 この身が脆弱な蛹から羽化し、永遠の命を得るための依代。
 聖杯となることを定められた子供。
 相応しいのは如何なる呪名か。
 



[1066] Re[17]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:7bd07287
Date: 2007/05/27 20:40
 くそ、くそ、くそっ!
 なんだ、あのサーヴァントは!
 てんで弱いじゃないか!
 本来、僕の使役するサーヴァントなら遠坂達のサーヴァント三匹如き簡単にぶち殺して然るべきなのに!
 やっぱり借り物のサーヴァントだからだ!僕が呼び出したサーヴァントならあんな無様なことになんてならなかったはずだ!
 屈辱だ!遠坂はおろか、あのカスの衛宮にまで馬鹿にされた!
 あの愚図め!主人が愚図なら、サーヴァントは下種しか呼べないのか!
 苛苛する!苛苛する!苛苛する!苛苛する!苛苛する!苛苛する!苛苛する!
 そういえば、あの愚図はどこに行った!僕の裁きを恐れて逃げ出したか!
 そもそも、なんで僕がこんなところに隠れなきゃいけないんだ!まるで浮浪者か何かじゃないか!
 くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!
 どうすればいい!どうすればこの屈辱を晴らし、僕の正当な評価を取り戻すことができる!?
 ………………………。
 …………………。
 ……………。
 そうだ、まだあの結界があるじゃないか。ライダーはとことん使えない下種だったが、あの結界は悪くない。
 あれを使えばお人よしの馬鹿はもちろん、上手くいけば遠坂姉妹も釣り上げることができるはずだ。いうなれば、穂村原の全ての生徒、教師が僕の庇護のもとに置かれているのと一緒なのだからな。
 素晴らしいアイデアだ。凡人ならこうはいかない。やっぱり僕は天才だ。
 なにが「遠坂を誘い出す材料にする」だ。なにが「あくまで示威。発動はさせない」だ。道具は、武器は使ってこそ意味も意義も生まれるんだ。初めから撃つつもりのない拳銃なんて、モデルガンと変わらないじゃないか。
 そうだ。何かおかしいと思ってたんだ。あいつの意見を聞いたのが間違いだったんだ。
あの愚図の顔を立てたのがそもそもの過ちだった。一応はサーヴァントを借り受けた形になってたから言う事を聞いてやってたが、ここまで使えない奴だとは思えなかった。いや、使えないだけならまだ可愛いものだ。あれは足枷だ。僕の足を引っ張る、性質の悪い雌豚だ。よし、決めた。あいつは衛宮の前で犯してやる。あいつは隠してるつもりかもしれないが、衛宮に惚れてるのはわかってるんだあの屑が射をしてたとき妙に熱い視線を送ってたからなちょっといじればすぐにはつじょうするあばずれのくせしてぼくにめいれいするなんてどれだけみのほどしらずかおもいしらせてからおかしておかしておかしておかしてなぐってなぐってなぐってなぐってなかせてなかせてなかせてなかせてこうかいさせてやるやるやるそうすればあのばかでもだれがえらくてだれにしたがうべきかわかるだろうはははははははははははハハハハハハハハハハ―――――――。よし、そうと決めたらあの下種サーヴァントの傷を治さなけりゃならない。主人と一緒で役に立たない雌だが、僕にだって慈悲の心はあるんだ。いい女とヤルことができる、そう言えばすっ飛んでくる発情猿を何人も知っている。生贄は多いほうがいい。すぐに電話しよう。三十人もいれば十分だろう。衛宮、遠坂、今は優越感に浸っていろ。明後日だ。明後日になればお前達は僕の足元に跪いているんだからな。

 episode16 悪夢と背中  

 黒い、黒い檻の中に居た。
 おそらくそれは檻で在りながら、手に触れる事すら叶わない。
 おそらくそれは黒で有りながら、目に感じる事すら在り得ない。
 檻で在って檻で無い物。
 檻という単語以外でそれを表すならば、無、辛うじてそう表現する事が出来るか否か。
 体が揺れて居る。
 振れる様に左右にでは無く、
 揺する様に上下に。
 それは荒れた野を行く荷馬車の様に。
 まるで幼子をあやす母の背中の様に。
 揺れる視界の中で、憂える世界が燃えて居る。
 赤い人、紅い人。
 黒い者、黒い物。
 俺に向かって伸ばされる手、手、手。
 それらは救いを求める様で在り、しかし仲間を求める様でも在った。

 いつもの夢だ。
 忘れるなと。
 罪を忘れるなと。
 生者は忘れても死者は憶えていると。
 俺が俺に向かって突き付ける断罪の穂先。
 解っている。
 そんな事、百も承知だ。
 俺は罪人で。
 この世界は俺に不向きだ。
 世界はもっと優しく無くて良い。
 乾いた風が良い。
 あの風ならばきっとこの生温い悪夢も吹き飛ばしてくれる。
 あの世界なら俺はやっと生きて行ける。
 だからこの世界は俺の世界じゃない。
 俺に相応しい世界じゃ無い。
 
 誰かが走っていた。
 我武者羅な足音。
 荒い吐息。
 懸命に懸命に懸命に。
 あれは凛だ。
 でもこの世界は俺に相応しく無い世界だから。
 彼処で走っている凛も俺の知らない凛だ。
 いや、そもそもあれは凛なのか。
 必死で逃げる凛では無い彼女。
 振り返り絶望し。
 前を向きなお走る。
 ああ何て滑稽な永久機関。
 そんな事をしても逃げ切れる訳が無いのに。
 それでも彼女は奔って居た。
 奔って奔って。
 何から逃げて居るのか。
 何を守ろうとして居るのか。
 その姿は嘲笑出来る位珍妙で。
 涙が出そうな位尊くて。
 そんな事をしても無駄だよ。
 だってお前が守ろうとして居る物はとびっきり無価値だ。
 路傍の石の方が幾倍も高尚だ。
 無駄だから。
 無駄なんだってば。
 なのに。
 あなたは何で。
 止めてくれ。
 涙で視界が濁る。
 檻の隙間から千切れんばかりに手を伸ばす。
 それでも。
 それでも人影の背中は遥か遠くに。
 どんどん僕から遠ざかって行く。
 あれが守ろうとして居るのは。
 お願いだから。
 十分だから。
 もう僕は大丈夫だから。
 逃げて。
 お■■■■ん。
 
 あ。
 蟲が。

 捉った。
 蟲が虫が。

 断末魔の声。
 蟲が虫が蟲が。

 齧る小さき者達。
 蟲が虫が蟲が虫が。

 全身を震わせる絶叫。
 蟲が虫が蟲が虫が蟲が。

 彼女を咀嚼する小さな口。
 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が。

 彼女を食べているのは黒い塊。
 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が。

 彼女の髪が紅い血で染まっていく。
 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が。

 体があっという間に小さく成って逝く。
 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が。

 食い千切られて噛み砕かれて飲み下されて。
 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が。

 細やかにされて微小に還されて刹那に戻されて。
 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が。

 ――――蟲が人影を食べて居る。

 晩餐は、やっと、終わった。
 どこにも、生命は、居なくなった。
 よろよろと、人影が居たところまで、歩み寄る。
 なんだ、最初から檻なんて、無かったんだ。
 そうか、あれは、俺の怯懦だったんだ。
 俺は、死ぬのが、怖かった。
 ばしゃっと、水気のある音が、足元で響く。
 食い残しの上で、人だったものの上で、蹲る。
 赤い水溜りに手を突っ込んで、何かを、掬い取ろうとする。
 赤い、赤い髪の毛が、するりと指の間から滑り落ちる。

 何も掬えない。
 誰も、救えない。
 命を、掴め、ない。
 ああ、また、置いて、いかれて、しまった。

 もう、なみだも、ながれない。

 無限の喪失感が襲って来る。
 これでまた一つ罪を犯した。
 最後に残ったのは人影の目玉。
 赤い絨毯の上、真ん丸な眼球がぱしゃりと転がって。
 錆色の瞳が優しく俺を眺めていた。


粘ついて、冷え切った汗が不快だ。
 全身を覆う重たい冷たさ。早々に着替えないとほぼ間違いなく風邪を引くことになるだろう。
 沈み込むほど柔らかい大きなベッドの上、鈍重な動きで体を起こす。
 薄く靄がかった頭を押さえる。頬を擦って眠気を追い出す。
 ぬるり、と液体の感触。
 それは汗か、それとも涙か。
 最初に感じたのは安堵。夢でよかった、心の底からそう思った。
 それでも、寝覚めは最悪だ。
 枕が変わったくらいで悪夢に魘されるほど可愛げのある神経をしているつもりはないのだが、今日のは飛び切り最悪を極めた夢だった。
 追い詰められていく焦燥感と、底なし沼に沈み込んでいくかのような無力感。誰かが、何かが自分のために消えていく、そんな喪失感。それらの一つだけでも死にたくなるのに、今日の夢は全部が揃っていた。劇薬のカクテルを飲み込んだって、こんなにダウンな気分は味わえないだろう。
 それでも、果たしてそれがどんな夢だったのかがはっきりとしない。
 漬物石みたいな頭に残っているのは、揺れる体、遠ざかる背中、赤い髪。
 視線を周囲に漂わせる。なにか面白い物でもないだろうか。この悪夢の残滓を振り払ってくれるものならなんでも大歓迎だ。
 重厚なドア。深い絨毯。歴史を感じさせる、使い込まれた机と椅子。
 カーテンの隙間から窓の外を覗く。まだ日は昇っていない。
 枕元にあった目覚まし時計を手に取る。蛍光塗料で淡く光った長針と短針は、周囲がまだ眠りの世界に身を委ねている時間であることを教えてくれた。
 それでも、再び体を横にする勇気は無い。もし、もう一度同じ夢を見たら、俺はきっと発狂する。
 だからといってドアを開けて部屋の外に出るのも憚られる。初めて来た他人の、しかも女性で魔術師の、家で真夜中にごそごそ動き回る度胸は、俺には備わっていない。
 結局のところ、俺に出来ることは何も無かった。
 天井を見上げる。
 それは衛宮の家よりも遥かに高い場所にあった。
 頭の中で、あの悪夢の再生ボタンを押す。押したくはない。それでも押してしまう。
 背中。
 襲い掛かる圧倒的な危難から俺を守るために、どんどん小さくなっていく背中。
 あの大きな背中は誰のものなのだろう。
 凛?
 いや、違う。
 もっと古い。
 藤ねえ?
 それも、違う。
 もっともっと古い。
 切嗣?
 近い。
 だが、それでもない。
 もっと、もっと、もっと。
 ああ、そうだ。あれは……。

「先輩、そろそろ起きてください」
 優しい声が俺を起こす。
 耳の奥に綿が詰まっているみたいで、ぼわぼわと、不思議な反響音が残る。
「あー…、桜…?」
 情けないほど枯れた声。
 それが自分のものであると気付くまでに数瞬の時を必要とした。
「うーん、いい感じに寝ぼけてますね。今なら襲っても憶えてないかな?」
「わかった、起きる、今すぐ起きさせていただきます」
 ちぇっ、と可愛く口を尖らせる我が後輩。
 柔らかな曙光に照らされた横顔は、聖母のそれを思い起こさせる。
「朝食の準備が出来ています。早く降りて来てください。それとも私が口移しで…」
「さー、いえっさ。了解しました、軍曹殿。今すぐ行きます」
 くすくすと、口元に手を当てながら控えめに微笑う桜。その微笑みは、彼女と同じ名を持つ花の花弁の色のように、淡く、儚い。
「あ、と、そうだ、桜、ちょっとお願いがあるんだけど」
 ドアノブを掴んで、今まさに部屋から出ようとしていた桜が、顔だけをこちらに向ける。
「はい?なんでしょうか、先輩」
「ちょっと寝汗をかいちゃって、このままじゃあ風邪を引いちまう。なにか着替えとかないかな」
 腕を広げて『ほら、こんなに』というポーズをとる。
 昨日の夜貸してもらったパジャマは、外から見てもはっきり分かるほど汗で濡れて重くなっていた。客たる身分で家主に注文するのは心苦しいが、この時期に風邪を引いてみんなに迷惑をかけるわけにはいかない。
「あ、大変。わかりました、すぐにお持ちします」
 急激に引かれたドアが、そのぞんざいな扱いに抗議の声を上げる。
 ぱたぱたと、廊下に響くスリッパの音。
 まだ眠気の残る頭でぼんやりと考える。
 結局、あれからまた眠ってしまったらしい。
 夢の内容はほとんど忘れてしまった。忘れてしまったということは、憶えておく必要がない、頭がそう判断したのだろう。
 だから、もう気にしないことにした。
 あの背中なんて、俺は知らない。



[1066] Re[18]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆40e1bba3
Date: 2007/05/30 22:29
『○月○日 素材を手に入れる』

 episode17 昨日の顛末

「ごちそうさまでした」
 空になった皿とカップを前に、手を合わせる。
「はい、お粗末さまでした」
 桜も同じく手を合わせる。
 今日の朝食は、フレンチトーストと、かりかりベーコンのサラダ、挽きたての香り高いコーヒーというお手本みたいな洋風のものだった。
 衛宮邸の朝は白いご飯と味噌汁から始まることが多いのだが、遠坂低の朝はその外見に違わず洋食から始まるものらしい。
 いつもは畳の上に直接座りながら箸を進めるので、外国の映画か何かでしか見たことがないような大きなテーブルに座って食事するのには些か緊張した。
 しかし、どうやらそれは俺だけだったようだ。
 家主である遠坂姉妹は言うに及ばず、俺達のサーヴァントであるセイバー、キャスター、アーチャーも、まるでこういった豪華なセットが当然であるかのように、物凄く絵になっている。本当に映画のワンシーンみたいだ。

「朝食はとらない主義なの」

 そう言った凛はぼんやりとコーヒーの香りを味わっている。その横に、まるでそれが当然であるかのように控えるアーチャー。二人のことを初めて見る人間なら、深窓の令嬢とその執事、そう考えても不思議ではあるまい。事実、凛はお嬢様であり、アーチャーは召使だ。もっとも、凛の場合『深窓の』なんて修飾語は間違ってもつかないし、アーチャーも、召使であってもその仕事は給仕なんて平穏なものではない。
「なによ、なんか文句でもあるの」
 じとりとした三白眼で俺を睨む凛。
 もしも学校にこんな顔をした凛が現れたら、男女を問わず卒倒する生徒が続出することだろう。
 凛が朝に弱いことは俺の家での経験から知っているが、それにしても今日の凛は辛そうだ。目の下に出来た大きな隈も、普段の彼女にはありえない物ではないか。
「えっと、大丈夫か、凛」
 俺の問いに、全身を包帯と絆創膏で着飾った彼女は、机に突っ伏した。
「大丈夫じゃない。今日は駄目」
 あはは、と乾いた笑いを漏らす桜。
 ふう、っと溜息を漏らすアーチャー。
 どうやら、彼女は本当に駄目らしい。


「逃がすか!」

 夜気を切り裂くような裂帛の叫び。
 満身創痍のアーチャーが手にした剣は、いままで彼が手にした多数の武器とは比較にならないほど巨大な魔力と深い神秘を備えていた。
 彼がまさにその剣を射放たんとしたとき、彼の主が叫んだ。
「だめアーチャー!」
 その言葉に、辛うじて赤い弓兵は手を止めた。
「あなた、消滅する気!?少し頭を冷やしなさい!」
 確かに、今のアーチャーは俺なんかにも分かるくらい激しく消耗している。もしも、彼が今からあの剣を放つなら、それは命を賭けたものにならざるを得ないだろう。
 心底悔しそうな顔をした彼は、ゆっくりと弓を納める。
「「「くふ、ありがたいありがたい、どうやら見逃していただけるようだ」」」
 挑発するような不快な声が、色々な場所から同時に聞こえる。
「「「今日はこれで終劇。
  だが、忘れるな。今宵、今晩、このことは、月が消えても忘れるな。
  我が名はヨハネ。
  我は予言者にして預言者。貴様らに絶対の死を予言し、預言し、実現する者だ」」」
 あっさりと、まるで舞台役者のように自分の名を口にした黒い塊達は、突然吹いた強い風を合図にしてその場から姿を消した。

 周囲には何の気配もない。
 狂った魔術師の気配も、圧倒的なサーヴァントの気配も、小動物の気配すらも。
 だから、本当に戦いは終わったのだろう。あくまで『今日は』という条件付だが。
「大丈夫か、凛」
 俺の声に、凛はゆっくりと振り向く。
「これが大丈夫に見えるなら、とっとと眼科に行ってきなさい」
 アーチャーを霊体に戻し、深く溜息をついた彼女。
 凛は本当にぼろぼろだ。
 全身は泥と埃と血に塗れ、お気に入りと言っていた真紅の外套は見るも無残なボロ布に成り果てている。すらりと伸びたしなやかで長い足にも、無数の擦り傷や切り傷が刻まれている。
 それでも、彼女は胸を張って立っていた。誰かの手を求めるでもなく、膝に手をついて身体を休めるでもなく、腰に手を当てて前のみを見据えていた。
「姉さん」
 凛に駆け寄る桜。
「桜、ありがとう、命拾いしたわ」
 姉さん、姉さん、姉さん、と、涙声でしゃくりあげながら何度も繰り返す桜。
 『家族を失うことを極度に恐れてる』、一昨日の凛の台詞が頭に浮かぶ。
 凛はそんな桜を抱き締め、頭を撫でてやっていた。
「大丈夫、私はどこにも行かないわ」
 慈愛に満ちた声。
 身体は傷つき、服はぼろぼろで、声だってしゃがれていたが。
 今の凛は、今までで一番綺麗だった。
「ああ、でもそろそろ駄目みたい」
 苦い笑いを浮べながら凛が言う。
「きっと私は意識を失うわ。でも、落ち着いてね、桜。私は大丈夫。ただの魔力切れだから」
 幼子をあやすように、優しい声で語りかける。
「遠坂の家まで運んで頂戴。あそこなら、アーチャーも私もすぐに回復できる。運ぶのは、そうね、セイバーか士郎にでもお願いして」
 瞼が重くなってきたのか、とろんとした表情の凛。ちらりと俺のほうを見てから、再び視線を桜に戻す。
「それじゃお願いね」
 そう言って彼女は体を桜に委ねた。どうやら本当に意識を失ったらしい。
 桜は壊れものを扱うようなたどたどしい手つきで凛を横たえた。
 胸部の上下運動からわかる規則正しい呼吸は、彼女の体の機能が正常なものであることを教えてくれる。
「俺が運ぶよ」
 一歩前に出たセイバーの肩を制してそう言った。
 声は自分でも不思議に思うくらい固い。
 セイバーは困ったみたいな表情を浮べた。
「シロウ、凛について、あなたが責任を感じるようなことなど何一つない。
 彼女は自分の意思で戦いに赴き、自分の力で生き抜いた。それに対してあなたが自分を責めるのは、凛だけでなくあなた自身をも侮辱している」
 分かっている。
 そんなことは分かっている。
 でも、自分が許せないんだ。
 俺がもっと強ければ。
 俺が慎二の凶行に気付いていれば。
 彼女が傷つき倒れることなんて無かったはずだ。
「それでも、俺が運ぶ。頼む、セイバー」 
 彼女は無言で道をあけた。
 凛の傍らで屈みこんだ桜は、縋るような赤い目をしていた。
「先輩、姉さんをお願いします」
 弱弱しいその声。
 頭では凛の状態が致命的なものではないことを理解しているのに、感情の方がそれについて行かない、そんな感じ。
「分かってる、任せてくれ、桜」
 セイバーに手伝ってもらって、彼女を背負う。
 意識の無い人間を背負うのは非常に難しいという話を聞いたことがある。背負われるほうの重心が安定しないからだ。
 しかし、それでも彼女は軽かった。全身の血を流し尽くしてしまったのではないか、そう思ってしまうほどに。
 手に液体の感触が伝わる。おそらくは彼女の汗か血液だろう。
 自分の無力さに歯噛みする。
 遠坂邸までの短くない道のりは、顔を顰めるくらいに苦かった。
 
 
「それにしても、ヨハネ、ねえ。えらくあっさりと真名を教えるものね。おそらくはくだらないミスリードなんでしょうけど…。
 でも、本当にあれがヨハネなら、納得できる点もあるのよね」
「どういうことだ、凛?」
「士郎、ヨハネっていったら何を思い浮かべる?」
「そりゃあ、黙示録のヨハネ、かなぁ」
 ヨハネの黙示録。
 最近はとっぷり聞かなくなったけど、一昔前にはテレビ番組で特集を組まれることすらあった終末思想。世紀末の訪れと共に恐怖の大王が舞い降りる、マスコミがそんな馬鹿げた書物を呷って視聴率を稼いでいた期間が、確かにあったのだ。
 その中で預言の信憑性を高めるために引き合いに出されたのが、壊滅的な原子力発電所の事故を予言していたといわれるヨハネの黙示録である。
 実際は救済の預言の性格が強いのだが、そのショッキングな内容から破滅の預言書として紹介されることが多い。
「そうね。
 でも、ヨハネっていうのはキリスト教圏ではかなりメジャーな名前だから、個人を特定するのは難しい。
 あいつ、自分のことを預言者って言ったから、まず真っ先に思い浮かぶのは『黙示録のヨハネ』だけど、もしも、あれが『十二使徒のヨハネ』ならあの不死性にも説明がつくの。まぁ、この二人は同一人物っていう解釈あるんだけどね。
 あくまで神話学の話でしかないし、異説の方が有力なんだけど、使途ヨハネはキリスト再臨のときまで決して朽ちぬ身体を与えられたっていうふうに読み取れるくだりが聖書にあるわ。この世が滅びるときにイスラエルを導く天使になったとも言われてる。だから、もしあいつが本物の『ヨハネ』なら、あの馬鹿げた再生力にも一応の説明はつくってわけ。
 でも、それってほとんど神霊なのよねぇ…。そんなもの、どうやって…」
 凛はそう呟いて黙り込んでしまった。
「なあ、それはいいんだけど、凛。それとあいつと何の関係があるんだ?」
「…? 
 あなたこそ何言ってるのよ。敵の情報を探る、戦いの基本でしょう?」
 …?
 どうも会話が噛み合わない。
 やはり、昨日の戦いで凛は疲れているのだろうか。
 改めて凛を眺める。
 マキリ臓硯の使役する使い魔との戦いで負ったのだろうか、全身のいたるところに大なり小なり傷がある。
 中でも一番痛々しいのが右頬についた大きな裂傷だ。おそらくは蟲の鎌によってつけられた傷だろう。彼女は傷の上に不思議な軟膏のようなものを塗っている。
 俺の視線に気付いたのだろうか、首を傾げて尋ねた。
「?…何よ」
「いや…傷、残っちまうかもな」
 沈んだ口調の俺の言葉に、凛は破顔した。
「馬鹿ね、あなた、そんなことであんなに暗い顔をしてたの?」
 息も絶え絶えに笑って、それから彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「確かに痕くらいは残るかもね。でも、それで影響を受けるのは私以外の人間よ。私には何一つ影響を与えない。だからこんなもの、気にするだけ無駄よ」
 出来立ての陽光を浴びながらそう言い切った彼女。
「……、ああ、そうだな。何があっても、凛は凛だ。何もお前を変えられないさ」
 鷹揚に頷く彼女は、よく見知った俺から見ても、輝くように美しかった。

 コーヒーカップをカチャリ、とソーサーに戻した凛が、今日一番真剣な視線を桜に向けた。
「桜、綾子は」
 その言葉にびくり、と体を振るわせる桜。
 そういえば、凛は昨日結局目覚めなかったから事の顛末を知らないままだ。
「……、命に別状はありませんし、暴行を受ける前に保護しました。でも…やっぱり意識はまだ…」
 
 美綴を救うことが出来たのは偏に幸運の賜物といっていいだろう。
 魔力に秀で、探索の魔術の使い手だったキャスター。
 近代から現代に至るまで、この街の管理を担い続けていた遠坂という家。
 そして、セイバーの持つ未来予知にも似た直感。
 このいずれが欠けても、彼女を救い出すことは叶わなかった。
 
 冬木の霊脈を利用してキャスターが街中に放っていた数多の使い魔達が、不審な動きをする幾つかの集団を掴んだ。
 しかし、短時間でそれらの中から美綴をさらった犯人を特定するのは流石の彼女にも困難を極めた。もちろん、ゆっくりと時間をかければそれは容易なことではあるのだろう。
 だが、今や時間は金剛石の粒より貴重だ。美綴を救う意味でも、凛を助ける意味でも。
 全てはセイバーに委ねられた。
 無茶な話だ。何の判断材料も渡されず、ただ直感のみで当たりくじを引けといわれても、そんなこと出来るはずもない。まして、賭かっているのは一人の女性の人生、そう言っても過言ではないのだから普通は躊躇する。
 それでも、彼女は眉一つ動かさずに地図の一点を指差した。
 そして、彼女の直感は完璧に的中した。

 裏路地に面した、崩れかけの廃ビル。
 潮風の影響下、錆びて朽ちかけた螺旋階段を五段飛ばしで駆け上がる。
 キャスターによって強化された筋力が、人間離れした曲芸を可能にする。
「はっ、はっ、はっ」
 それでも、翼を持たないこの身がもどかしい。
 背後から響く足音は三つ。
 俺のすぐ後ろで響くのがセイバーの足音。
 少し下から聞こえてくるのが桜とキャスターの足音だろう。
「シロウ、ここは私に任せてください」
 俺の身を案じる彼女の言葉を無視する。
 はぁ、と小さな溜息が聞こえたのは、その忠告が無駄なものと悟ったからか。
 目的地は最上階。
 地上20メートルの高さまで一気に駆け上る。
 途中、階段の踊り場でたむろしていた少年達がいた。
 顔は憶えていない。だって、すれ違いざまに叩きのめしたから。
 もしもここが目的の場所じゃなかったら、額を地面に擦り付けて謝ろう、頭の隅でそんなことを考えながらひたすらに足を動かす。
 無限に続くかのように思えた階段がついに途切れた。そのことが、自分が目的の階まで来たことを教えてくれる。
 どうせ中から施錠されているだろう、錆の浮いた、それでも重厚な非常口のドアを蹴破る。
 がん、という盛大な衝突音。
 一瞬遅れて響く、どたん、という間の抜けた音は、倒されたドアの不平の声か。
 中は思ったより広々していた。
 細かいパーテションは工事によって取り除かれているのだろうか、ワンフロアの隅々まで見渡すことが出来る。。
 漂う紫煙には、煙草以外の匂いが含まれていた
 光源は小さかった。おそらくキャンプ用のランタンか何かだろう。
 その小さな光に照らされて、二十人前後の若い男女の集団が見て取れた。彼らは訝しそうにこちらを見ている。
 数瞬の空白があって、それから彼らは一斉に笑い始めた。
 こちらの人数が少ないこと、どう見ても警察には見えないことで安堵したのかもしれない。
 人垣の中心に美綴はいた。
 意識は無いようだ。薄明かりでも分かるほど青白い顔を、がっくりと前方に傾けている。
 椅子に座らされ、後ろ手に縛り付けられていたが、着衣にはそれほど乱れがない。どうやら間に合ったようだ。
「なに、お前ら?」
 彼らなりの威嚇なのだろうか、一人の男が妙に粘ついた声を喉から絞り出しながら誰何する。
 その声と同時に幾人かの男が立ち上がる。中にはかなり体格に恵まれた者もいた。
「ああ、お前が慎二の言ってた『便利屋』クンか。なに?見物に来たの?いいぜ、ゆっくりしてけよ、そこらの無修正モノよりかは刺激的なやつを見せてやる」
 一斉に下卑た笑い声が巻き起こる。中には明らかに少女の声もあった。それが俺には信じられない。
「帰りたきゃ帰ってもいいぜ。ただし後ろの子は置いていけよ」
 後ろの子。おそらくはセイバーのことか。なるほど、魔力を感じ取ることの出来ない者にとって、獅子は子猫に映るらしい。
 交渉の余地は無いだろう。いや、こんな奴らと話している時間なんて無い。そんなの無駄な労力だ。
 ゆっくりと彼らに近づく。
 無言のそれを敵対行動とみなしたのか、誰かがビールのビンを放ってきた。
 がつん、と鈍い音をたてて、それが俺の頭に命中する。
 視界が赤く染まる。
 ちょうど良い。
 どうせ、この部屋は赤く染まるのだから。

 気がついたとき、立っているものは誰もいなかった。
 男は悉くが地に蹲り、女は怯えたように身を寄せ合って震えていた。
 手にした得物は短い鉄パイプ。それが二本。
 双剣のように握られたそれらは、ぬるりとした赤い血で彩られていた。
「シロウ、少しやりすぎでは」
「ふん、女を性欲処理のモノとしか見れないような下種どもには当然の報いよ」
 溜息と共にキャスターが言う。
「お嬢ちゃんが戦ってるのはすぐそこでしょ。ならば『門』を使うよりも直接向かった方が早いわ。先に行きなさい、私はこいつらに然るべき処置をした後ですぐに向かうから」
「頼んだ、キャスター」
 俺とセイバー、桜は扉に向けて奔った。

「そう…、なら、あなたは胸を張りなさい。あなたは確かに綾子を助けたのだから」
 その声に含まれていたのは、虚飾の励ましではない。己の分身の功績を讃える、称賛の響きだけがあった。
「でも……」
「少なくとも、慎二の馬鹿が綾子に手を出すのを防げた人間はいない。
 ならば、傷跡を最小限に抑えること、それがあなたに課せられた役割で、あなたは完璧にそれを全うした。あなたが自分を誇ることができないのならば、それは命令を下した私の責任ということになってしまうわ」
 いつもより幾分硬い口調の凛。
 それは、きっと遠坂という魔術の名門を統べるものとしての声なのだろう。
 最初は目に薄っすらと涙を浮べていた桜も、辛うじて笑顔と呼べる表情を作った。
「……、わかりました。すみません、姉さん」
 満足げな顔をした凛が、僅かに苦笑する。
「謝る必要はないわ。……でも、あなたと士郎はどこか似てるわね。不必要に責任を背負い込むところとか、自分より他人を大切にしすぎるところとか。なるほど、あなた達はお似合いかもね」
「ねっ姉さん!」
 にしし、と例のチェシャ猫笑いを浮かべた凛と、真っ赤になって何かを否定する桜。そっか、いくら桜だって俺とお似合いなんて言われたら嫌がるに決まってるよな。
「そういえば、キャスター。『然るべき処置』とか言ってたけど、あの後どうしたんだ?」 悠々と食後の紅茶を楽しんでたキャスターは、視線を彼方にやったままこう応えた。
「別に。たいしたことはしてないわよ。最低限の記憶操作と悪夢の刷り込み。『だいたいは』こんなものね」
 ふうっ、と虚ろ気な溜息を吐き出す彼女の瞳は、何かを思い出して楽しげに揺れていた。
「『だいたいは』以外のところを詳しく聞きたいな」
 彼女は今日初めて視線を俺に向け、『魔女』という形容に相応しい、あまりに相応しすぎる表情を浮かべた。
「魔女の軟膏って知ってる?」
「魔女の軟膏ってあれだろ?よく漫画とかで魔女が大釜で煮てるどろどろの」
 俺の稚拙なイメージに、彼女は苦笑する。
「そうね、概ね坊やのイメージで合ってるわ」
「士郎、あとでちょっと顔貸しなさい」
「先輩、あなた本当に魔術師ですよね?」
 俺の魔術の指導を引き受けてくれた美人姉妹が、揃いも揃って奥ゆかしい笑みで俺を射抜いた。
 ゴッド、俺、何か悪いことしましたか。
「普通の軟膏が何種類もあるみたいに、魔女の軟膏の効能も一つではないわ。
 媚薬になるものもあれば、人を操り人形に変えるものも、超人的な力を授けるものもある」
 気を取り直して、そんな感じでキャスターが続ける。
「じゃあ、今回キャスターはどんな軟膏を使ったんだ」
 にやり、と、男性ならば誰もが底冷えする、それは絶対零度の笑顔。
「ドクニンジンを主体にした、一番性質の悪いのを大奮発しておいたわ。本当は蛙にでも変えてやろうと思ったのだけど、あんな奴らを蛙に変えても可愛くないし、第一そんなあっさりした魔術じゃあ面白くない」
「ああ、なるほど。確かに下種な連中には丁度いい特効薬ね。慎二用に私も貰おうかしら」
 妙なところで不可思議な連帯感が生まれつつあるが、俺にはなんのことやらさっぱりだ。
「ドクニンジン?一体どんな効果があるんだ?」
 控えめに桜が教えてくれた。
「男性を不能に変える秘薬です、先輩」
 不能。
 この場合の不能っていうのは当然そのことだろう。
 しかも、その薬を処方したのは神代の大魔術師。その効能は折り紙付、きっと一生消え去ることはあるまい。
 つまり、あの場にいた連中は、今後死ぬまで男性として役に立たないというわけだ。
「それはまた……」
「やりすぎ、とでも言うつもりかしら?」
 そんなことはない。
 きっと、いや、確実に奴らは初犯ではあるまい。
 今回は未遂に終わったが、奴らの手馴れた手口から言って、犠牲になった女性は少なくないはずだ。
 ならば、この程度の罰では生温過ぎるのではないか、そんな気すらする。
「いや、当然の報いだと思う。むしろ足りないくらいだ」
 俺の言葉にキャスターは頷く。
「そうね、だからあいつらには飛びっきりの悪夢をプレゼントしておいたわ。自分の大切な女性が、自分達がしてきたことと同じ目に遭う、そんな悪夢。きっとやつらの内の何人かは罪悪感で自殺するでしょうね」
 こともなげな彼女の言葉に驚く。
「それはいくら何でも…」
 やり過ぎではないだろうか。
「じゃあ、ちょうどいい罰って何かしら?どうすれば奴らに汚された女性達に報いることができるの?教えて頂戴、坊や」
 それは―――。
「はいはい、この話題はこれで終わりよ。下衆な罪があって、過酷な罰があって、そして何も残らない。これはそれだけのお話。これ以上時間を割く価値なんてないわ。私達には決めないといけないことが山ほどあるんだから」
 ぱんぱんと手を鳴らした凛が言う。
 確かに、今の俺達にはもっと重要なことがある。
「そのことなんだが、凛。これからは凛達の家を本拠地にするってことでいいのか?」
 凛は真剣な面持ちで頷く。
「あなたの家の結界は優れてるけど、気配遮断のスキルをもったアサシンが正式に敵に回った以上、その意味を成さないと考えた方がいい。
 ならば、火力と守備力、そして回復力に優れた遠坂の家を本拠地に据えるのが賢明だと私は思う」
 凛の意見はもっともだ。
 遠坂の家には侵入者を生かして返さない無数のトラップが仕掛けられているという。そして、過去幾度にもわたる聖杯戦争を耐え凌いだその防御力は衛宮の家のそれとは比べ物にならない。更に言えば、ここは既にキャスターの作成した陣地、『神殿』になりつつある。遠からず衛宮の家の警報装置よりも優れたものが完成するはずだ。
 唯一の欠点は目立ちすぎることだが、それは遠坂という家系が持つ宿命のようなもので、防ぐ術はない。ならば開き直ってここを本拠地にするのが正道だろう。
「ああ、俺も凛と同じ意見だ。それに、あの『門』はまだ使えるんだろう?攻めるにせよ守るにせよ、あれは役に立つと思う」
 無拍子で彼我の距離をゼロにする。
 こと戦略をたてる上で、これほど魅力的な条件はあるまい。
 相手の位置を正確に把握することさえできれば、これ以上ないくらいに鮮やかな奇襲が成功するだろう。なにせ、相手からしたら何もない空間から突然敵が攻撃してくるのだ。防ぎようなどあるはずもない。
 それに、万が一のとき、例えばバーサーカーが攻めてきたときにもあの『門』は使える。戦局が不利になれば逃げればいいのだ。いくらあの怪物でも、空間転移に喰らいついてくることはできないはずだ。もちろん、一回使ってしまえば種は割れて、二度と使えないくらいに破壊されてしまうだろうが、それでも一度は逃げ切れる、その意味は大きい。
「じゃあ、今日からは士郎に私達の家に移ってもらう。藤村先生には適当にごまかしておいて」
 そうだ、藤ねえがいた。
 きっと、俺が遠坂の家に泊まるって言ったら、
『ばっかもーん、貴様、どこのエロゲの主人公か!桜ちゃんだけでは飽き足らず、遠坂さんにまでその毒牙をのばそうなんて、このわたしがゆるさん!
 ていうか今すぐ私専用ルートを用意しろ!』
 くらいは叫びながら大暴れするだろう。
 まあ、それはそれで構わないのだが、不必要なカロリー消費は避けたいところだ。
「ああ、わかった。何とかしてみるよ。とりあえず一度家に帰らせてもらうぞ、制服とか鞄とかも取りに行かないといけないし」
「では、私も一緒に」
 セイバーと俺が同時に腰を浮かす。
 凛と桜は笑顔でそれを見送る。
 これで今朝の作戦会議は終了。



[1066] Re[19]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆40e1bba3
Date: 2007/06/02 20:36
『…結局のところ、この戦争を勝ち抜くための重要な要素の一つとして、マスターたる魔術師の性能というものを無視することはできない。
 マキリ、遠坂、アインツベルンは言うに及ばず、外来の魔術師ですら強力な英霊に縁のある品を用意してくる。つまり、よほど飛び抜けて強力な英霊を用意するか、逆に、敵がとんでもなく貧弱な英霊を召喚するかでもしないかぎり、英霊の質のみを持ってこの戦いを楽に勝ち抜くことは叶わないということだ。
 そういう意味では、今回のアインツベルンのとった戦略は概ねの方向性として正しかったと言える。事実、あと一歩で聖杯を手にするところであった。サーヴァントをサーヴァントで押さえ、その隙に相手のマスターを電撃的に殲滅する。これがもっとも確実でもっとも効率的な戦略であると私は確信するに至ったわけだ。
 しかし、私が考えるようなことは他の者も考えているはずだ。魔術の性質そのものが絶望的に戦闘に不向きなアインツベルンを除けば、宝石魔術を操る遠坂、時計塔の派遣する屈強な魔術師等、一筋縄ではいかない相手ばかりだ。手酷い裏切りにあったアインツベルンが今回も外来の魔術師を用意するとは考えにくいが、それでも事態がどう転ぶかは、なお予断を許さない。
 つまり、通常に強力な程度のマスターでは、魔術師の性能をもって、この戦いを勝ち抜くことは困難と言わざるを得ない。それは素材の質自体がどれほど高くても同じことだ。
 十の神秘を一の結晶にして残すのが魔術師。
 ならば、一の結晶から刹那の粋を取り出すことは出来ないものか。それを身に宿した完成品ならば、烏合の魔術師程度、物の数ではあるまい。
 思索は出来ている。それは、この国に根を下ろす、退魔と呼ばれるある一族の秘儀を模したものだ。
 当然、常人に耐えられるものではない。しかし、あれは最高の素材である。肉体的にも、精神的にも。万が一精神が壊れても構わない。むしろ、その方が望ましいとすら言える。
 実験は明日から始めよう。この胸の高鳴りが、これより私が得る無限の生の予兆であることを願って止まない』

 episode18 彼女の訓練

「はっ、はっ、はっ、」
 冷たい道場の床の上、素足で竹刀を振るう。
 己のイメージはかの弓兵。倒すべき相手はかの槍兵。
 繰り出される光線のような突きを捌く。避ける。いなす。
「はっ、はっ、はっ、」 
 おそらくはオリジナルの半分以下のスピードのそれ。
 しかし、それでも今の俺には反応できる限界を超えている。
 徐々に追い詰められ、後退していく。
 そして―――。
「そこまでですね、シロウ」
 朝の張り詰めた空気の中、落ち着いた、澄んだ声色が響き渡る。
「はぁっ、はぁっ、セイ、バー、か、はぁっ」
 呼吸がなかなか整わない。
 情けない、超えるべき目標はまだまだ先なのに。
「はぁっ、はぁっ、はあぁぁ、すぅぅ、ふぅ、」
 息を一気に吐き出し、ゆっくりと吸う。
 無理矢理に呼吸を落ち着け、彼女と向かい合う。
 道場の入り口に立ち、朝日を背負った彼女は、どこか神話に登場する戦女神を思わせた。
「どうだったかな、セイバー」
「独闘の相手はランサーですか」
 やはりセイバーには分かっていたようだ。
「ああ、一応その通り。すごいな、どうして分かったんだ?」
 彼女は真剣な瞳で俺を射抜きながらこう答えた。
「シロウの剣の動きを見れば、相手の武器として長柄を想定しているのは容易にわかります。そして、おそらくは尋常でないほどの突きの速度、中でもあなたが想定する敵といえば考えられるのはかの槍兵くらいのものでしょう」
「なるほど。で、セイバーから見てどうだった?」
 彼女は無言で道場に入り、竹刀を手にした。
「学校までまだ時間はあるのでしょう?私が感想を述べるのは剣をあわせてからでも遅くはない、そう思いませんか?」
 不敵な笑みを浮べたセイバー。
 いいだろう、この前の俺とは一味違うところを見せてやる。

 いまだ夜の冷気を孕んだ道場の空気。
 対峙するは剣の英霊。
 普段は、まるで菩薩のように柔らかな彼女の笑顔。しかし、それを鑿で削れば、現れるのは数知れぬ敵を屠った羅刹の貌だ。
 一縷の隙も見逃さぬ、獅子の瞳。
 否応無く緊張に硬くなる身体。
「シロウ、これは訓練ですが、しかし同時に実戦です。気を抜けば叩き伏せます。お忘れなく」
 正眼に構えた彼女の持つ竹刀。
 その切っ先から放たれる殺気が、喉元をひりつかせる。
 周囲の空気は凍てつき、まだ微動だにしていないというのに、汗がこめかみを伝う。
 恐怖が身体を動かそうとする。
 人は死を恐れる以上に、死に至るまでの緊張を恐れるのだ。
 前に出よう、楽になろう、そう主張する身体を精神力で押えつける。
 まだだ。まだ俺は追い詰められていない。
「…いきます」
 静かな侵略宣言。
 瞬間、視界に映る彼女が大きくなった。
 分かっている、ただの錯覚だ。
 彼女の正中線が全くぶれず、頭部がほとんど上下しないまま前に出てきたから、一瞬彼女が巨大化したように見えただけ。
 しかし、それは、俺が彼女の間合いに入ってしまったことを意味していた。
 最小限の動きで、最短距離を、最高の速度をもって襲い来る刃。
 それを防ぐことが出来たのは、ただ単に勘が上手く働いてくれた、それだけのこと。
 真正面から襲ってきた、頭部を狙った打ち下ろしの一撃。
 それを、切り上げるようにして弾き返す。
 ばきぃ、と、まるで金属同士がかち合った様な凄まじい衝突音。
 痺れる両手を叱咤しつつ、追撃を避けるためにバックステップで飛び退く。
 間合いは、一足一刀のそれから、遠間に。
 セイバーは、既に油断無く正眼の構えに戻っていた。
 その表情はいつもの冷静なそれ。
 だが、その瞳の奥に、髪の毛一本分ほどの驚愕の色が湛えられていた。
「…次、行きます」
 比喩ではなく、彼女の姿が掻き消えた。
 探すな。視線を彷徨わせたら、その瞬間に命を失うぞ。
 勘で判断するな。
 知識で判断しろ。
 それ以上に、経験で判断しろ。
 経験?
 そんなもの、俺にあったか?
 無いなら、補え。
 自分に無いなら、誰かの経験を引っ張って来い。
 誰か?誰のものだ?
 決まっている、俺の内に宿った、偉大なる誰かのものだ。
 ―――下!
 飛び退く時間は無い。
 スウェーして上体を反らす。
 直前まで俺の顎があった場所を、すごい勢いで通過していく切っ先。
 地に伏せるような構えのセイバーが放った必殺の一撃。
 それが、弧を描くように宙を舞う。
 ―――まずい!
「はああぁ!」
 身体を、まるで射離す直前の弓のように撓めていた彼女が、そのエネルギーを前方に向けて解放する。
 体当たり。
 肩口が狙っているのは、俺の鳩尾。
 鳩尾への打撃。
 横隔膜の機能停止。
 呼吸の困難。
 結論。
 あれが当たれば、少なくとも一分は動けなくなる。
 一分の隙。
 確実な死。
 駄目だ。
 よけろ。
 よけろ。
 よけろ―――無理。
 なら、防げ。
 腹に力を入れて防げ。
 両手を交差させて防げ。
 膝を間に入れて防げ。
 とにかく、死にたくなければ防御しろ!
 稲妻のような思考速度。
 不純物の無い生存本能。
 次の瞬間。
 どん、と。
 自動車と衝突したかと錯覚するような、凄まじい衝撃。
 交差させた両手を貫いたそれは、僅かだが鳩尾に響いてきた。
 呼吸が停止する。
 体が吹き飛ぶ。
 だが、彼女はどこまでも無慈悲。
 既に追撃の体勢を整えている。
 次に放たれる一撃こそ、真の必殺。
 かわしようがない。
 防ぎようもない。
 ならば、どうする。
 どうする。
 決まっている、ならば攻めるのみ。
 ここだ。
 ここが、俺の精一杯の虚勢を張るときだ。
 宙に浮いた体を重力に任せる。
 自然、体は地に倒れる。
 覚悟していたので、衝撃で意識が飛ぶ、ということはない。
 寝そべるような姿勢。
 そこから、剣を横薙ぎに振るう。
 狙いは彼女の足首。
 地面と剣が描く平行線。
 当たれ。
 当たれ。
 当たれ。
 あ。
 駄目だ。
 『当たれ』では当たらない。
 それはただの希望的観測に過ぎない。
 『当たれ』では当たらない。
 『当たる』。
 その意志で放った一撃でなければ、彼女には触れ得ない。
「甘い!」
 剣先は、宙に跳ねた彼女の足が、その直前まであった場所を通過しただけ。
 振り下ろされる、彼女の剣。
 避けられるはずがない。
 ならば、受けよう。
 そこまで考えて、はたと気付いた。
 ああ、今、俺は一本しか剣を持っていない。
 駄目じゃないか、どこで忘れてきたんだろう。
 俺の剣は、もう一本―――。  

「気がつきましたか、シロウ」
 ぼやける視界に映し出されたのは心配そうに顔を顰めた彼女。
 ああ、やっぱりセイバーには敵わなかったんだ。 
 苦痛に顔を歪めながら、ゆっくりと体を起こす。
「あちゃ、また負けたか。今回は結構いいところまでいけると思ったんだけど」
 彼女は顔を顰めたまま、しかし心配とは違う感情を込めてこう言った。
「シロウ、以前私が言ったことをもう忘れたのですか。サーヴァントは人に有らざる者。人たるあなたが敵しようなど片腹痛い」
 言葉とは裏腹に、慈愛に満ちた彼女の声。
 なんとなく一言くらい言い返してやりたい気もするが、彼女の言の正しさを実証された後ではぐうの音も出ない。
「ちょっとは強くなった気がしてたんだけど、やっぱり一日や二日でそんなに変わるはずがないよな」
 がっくりと肩を落とした俺を見ながら、セイバーは言った。
「気付いていないのですか?あなたは一昨日とは比べ物にならないほど強くなっている」
「はっ?」
 慰めの言葉かとも思ったが、彼女の瞳はどこまでも真剣だ。それに、下手に実力を勘違いさせるような危険な嘘を彼女がつくはずがない。
「少し悔しいが、アーチャーの特訓は確かにあなたの糧になったようだ。彼には感謝しなければいけませんね」
 アーチャーとの特訓?なんだ、それは。
「アーチャーがどうしたんだ?俺はアーチャーに稽古をつけてもらった記憶なんてないんだけど」
「憶えていないのですか?」
 びっくりしたような顔をしたセイバーは、少し考え込んでから静かにこう言った。
「……まあいいでしょう。大事なのは結果ですから」
「なあ、セイバー。実際のところ、今の俺の力はどれくらいなんだ?」
「防御に限れば、一般人というカテゴリに含まれる中では最も堅牢と呼べるレベルに達していると言っていいでしょう。
 その動き、そして咄嗟の判断力、一昨日のあなたと同一人物とは思えない。悪い夢を見ているような気すらします」
 一昨日。
 ああ、今思い出した。
 俺が止めてくれ、って言ってるのに、血に餓えた獅子は許してくれなかったんだ。
 うふふ。
 自分でも、最高の笑みを浮かべていることが分かる。
 しかも、言うに事欠いて悪い夢か。
 言ってくれるのう、セイバー。
「あーっと、守備に徹したその動き、戦術面ではアーチャーに酷似している。よっぽど彼の訓練があなたに合っていたと思っていたのですが…」
 視線を明後日の方向に向け、ばつの悪そうな表情をした彼女が続ける。
「キャスターによる身体強化を受け、戦術を防衛に限定し、あくまで限られた時間稼ぎを目的として戦うならば、サーヴァント相手でも辛うじて生き残ることができるかもしれない、今のあなたはそれくらいのレベルです」
「…それって、要するに『ずるして逃げ回ればなんとか生き残れるかも』ってくらいだろ?喜んでいいのか落ち込んだ方がいいのか」
「何を言っているのです、以前のあなたならば間違いなく出会い頭に殺される、そんな相手をして生き残る可能性が生まれたのですよ。間違いなく喜んでいいことです」
 そう言われると、それはそうかも、と思えてしまうあたり俺は現金な性格をしているのだろう。
「ただ、サーヴァントはサーヴァントでしか打倒し得ない。これは絶対の真理。間違えても一人でサーヴァントと立ち会うことなどないように」
 …まぁ、なんにせよやはり今の俺ではサーヴァントと互角に戦おうなど夢のまた夢ということか。



[1066] Re[20]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆40e1bba3
Date: 2007/06/03 02:38
 落としたものを探しています。
 どなたか、見つけられた方は、連絡してください。
 とても大切なものなのです。
 何よりも大切なものなのです。
 全てを失った私に、唯一残ったものなのです。
 どうか、どうか、私と一緒に探してください。
 え?
 何を落としたのか、ですか。
 そんなことは、とっくの昔に。
 忘れてしまいました。


 episode19 神父との問答


 道場での朝錬を終えた俺は、通学路で、桜と彼女に従う霊体化したキャスターと合流した。セイバーは今頃遠坂邸で、凛の護衛兼お守りをしているはずだ。 
「今日はどうするんだ」
 目的語を省略した曖昧な問い。
 そんなもの、はっきりしすぎている。
 結界。
 人知れず成長を続ける、人喰らいで大喰らいの厄介者。
 それを追い払うには、方法は限定されている。
 サーヴァントを倒すか、それとも…。
「今日は保留です」
 制服に身を包み、なお悠然と歩く桜が答える。
「一応キャスターに頼んで町中に探索用の使い魔を放ってますが、間桐慎二らしき気配は掴めていません。十中八九、本拠地である間桐邸に立て篭もっているはずです」
 そう話す桜の表情からはどういった感情も読み取れない。ただ、慎二に対する呼称からは先輩の文字が消えた。おそらくそれは桜の中で、あいつが倒すべき敵として認識された証左なのだろう。
「魔術師の工房に攻め入るとなれば、間違いなく総力戦。でも、姉さんもアーチャーも戦える状態ではありません。急いて仕損じるよりは、落ち着いて確実な勝利を、それが姉さんの方針です」
 通学路で交わす会話ではないな、そう考えて少しだけ苦笑する。
 昨日の戦力がマキリの全てだとするならば、俺達と同数の戦力を保有していることになる。そして、こちらはアーチャーが、あちらはライダーが戦える状態ではなかったはずだ。
 ならば戦力はほぼ互角、いや、地の利のある分マキリが有利ということになってしまう。
 それに、他のマスターの動きも気になる。
 暴力の象徴のようなサーヴァントを引き連れた純白の少女。
 いまだ姿を見せないランサーのマスター。
 そのことも勘案するならば、戦力の無闇な投入は愚策に他ならないだろう。
「私とキャスターは結界の呪刻の消去を行うつもりです。嫌がらせに過ぎませんが、それでも万が一の時のことを考えると捨て置けることではありませんから。
 先輩はどうしますか?」
「俺が役に立つとは思えないけど、手伝わせてくれると嬉しい。
 でも、桜。思ったんだけど、学校の封鎖とかって出来ないのかな?インフルエンザの流行とか、いくらでも理由は付けられると思うんだけど」
「………もちろん、私も姉さんも、真っ先にそのことを考えました。
 しかし、そういう目立った行動に関する権限は、悉くが監督者たる言峰神父に属しているのです。脅威そのものが顕現化していない今、彼に助力を求めるのはルールに反しますので…中々それは難しいでしょう」
 脅威の顕現化がなされていないだって?
 あの結界は、既に十分な殺傷能力を有する段階に入っているはずだ。ただ、発動の瞬間に中の人間が全滅する、その段階に至っていないだけ。
 なんて悠長な。
「先輩の仰りたいことはわかっているつもりです。
 本来であれば、既に監督者の権限が発動されるべき段階に達しているのは間違いありません。聖杯戦争という、この大儀式そのものの危機が迫っているのですから。
 でも、あの人間に一般的な判断力や良識というものを求めても、それは徒労に終わるでしょう。彼は魔術師である私や姉から見ても、更にどこか踏み外しています」
 どこか悲しげな桜の声。
 あの夜、あいつと初めて顔を合わせたあの夜を思い出す。

「さらばだ、衛宮士郎。
 最後の忠告になるが、帰り道には気をつけたまえ。
 これより君の世界は一変する。
 君は殺し、殺される側の人間になった。その身は既にマスターなのだからな」
 言いたいことを、言いたいだけ言いきった黒い神父。
 その吐息の混じった空気、それ自体が俺の存在を否定する。
 憎いから逃げるのではない。
 嫌いだから逃げるのではない。
 ただ単に、居た堪れなくなっただけ。
 それは、要するに、この男の言葉が正しすぎるからだ。
『――――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う』
 何を言ってるんだ?
『正義の味方には倒すべき悪が必要だ』
 そんなこと、当たり前じゃないか。
『なに、取り繕う事はない。君の葛藤は、人間としてとても正しい』
 ああ、知っている。
 俺は、衛宮士郎は、この男以上に、ひたすらに―――。
「待て、少年」
 何かを振り切るように扉に向かいかけた身体を、奴の一言が押し留める。
「…何だ。まだ説教したりないのか?」
「そう邪険にすることもないだろう。
 神父などという役職についているものの、私は唯の凡夫に過ぎない。己の価値観に合わぬ言など、笑って聞き流すがよいだろうに」
 それができないから、腹の底まで気分が悪いってんだ。
「…用件があるなら手短に頼む」
「了承した。
 君に一つだけ聞きたいことがあるのだ。
 散々君達の質問には答えてやった。それくらいは罰があたらんと思うのだが」
 …意外だった。
 この男でも、他人に答えを求めることがあるのだろうか。
「…俺に答えられることなら」
「君にしか答えられないことなのだよ。
 衛宮士郎、あっと、君の義父の名は何と言ったかな?ああ、ちなみに、これは私の聞きたいことではないぞ」
「…衛宮切嗣、だ」
「―――そう、衛宮切嗣だ。思い出した」
 目を閉じ、恍惚とした表情を浮かべる、敬虔なる神の使徒。
 何か、大事なものが汚された、そんな気が、した。
「あんた、切嗣を知っているのか?」
「君は自分の存在が如何に特異か知らないと見える。
 あの火事で生き残った人間が何人いたか知っているのか?
 私は第四回聖杯戦争が終結した時点で次回の監督役たる責を負っていたからな、片手の指で数えられるほどの災害孤児の事後処理、ある程度は把握しているつもりだ。
 しかし、その詳細まで把握しているわけでは無い。私が知りたいのは、まさにその一点なのだよ」
 なんだ。
 このおとこは、なにがいいたい。
「…回りくどいのは好きじゃない。それほど頭もいいほうじゃない。聞きたいことがあるなら、手早く言ってくれ。ついでに言うと、気も長い方じゃないんだ」
「そうだな。手短に、そういう条件がついていたのを失念していた。
 では問おう、衛宮士郎。
 君は、衛宮切嗣に引き取られて幸福だったかね?」
 …、気が、抜けた。
 はは、この男、何言ってんだか。
 そうか、そんな質問なら大歓迎だ。
 一滴の濁りも無く、言い切ることが出来るさ。
「―――ああ、間違いなく、幸せだった」
「―――そうか」
 神父は、瞑目したまま、今度こそ動かなくなった。
 問答は終わったのだろう、俺がここにいる理由は既に失われた。
 踵を返し、先に扉のところで待つ凛のところへ。
「悪い、待たせた」
「別にそんなに待ってないわ。さ、行きましょう」
 扉に手をかける。
 まさにその時、空虚な神の部屋に、少し大きめの声がした。
「衛宮士郎」
 誰の声かは分かりきっている。
 俺は振り向かない。きっと、あいつだってそれを望んでなんかいない。
「これが正真、最後の忠告になろう。
 不幸とは己の業の深さが呼び寄せるものだが、幸福とはただ神の御業に過ぎぬ。それが降りかかったことについて、君が恥じ入ることなど何一つ無い。
 むしろ誇るがいい、君は神に愛されている」
 問い詰めても、例え拷問にかけられても、あの男の己の真意を告げることはないだろう。
 俺はゆっくりと扉に力を込めた。
 背中には、誰の視線も感じなかった。
 きっと、あいつはまだ目を瞑ったままだ。
 
 学校を、紅い直方体が覆っていた。
 校門をくぐる生徒が、まるで嬉々として断頭台に登る殉教者に見える。
 これでも、あの男は動かないのか。
 これが、危機ではないと、言うつもりか。
「おかしい…昨日はもっと…」
 隣の桜の呟きが、まるで壊れたラジオの音声のように聞こえる。
 妙なノイズ。
 これは、この結界のせいなのだろうか。
「先輩、大丈夫ですか?」
 一昨日と全く同じ台詞を桜に言わせてしまった。
 情けない。
 これでは立場が反対じゃあないか。
「ああ、問題ない。一昨日と違って、元気も気合も魔力も十分だ」
 少しおどけて言うと、彼女は穏やかに笑ってくれた。
「ええ、虚勢でもそれだけ言えるなら大丈夫ですね。
 ふふ、これは姉さんの台詞だったかしら」
 口に手を当てながら控えめに笑う桜。
 なんとなく分かった。
 きっと、彼女は無理をしていたのだと思う。
 無邪気で、小悪魔みたいで、それでいて世話焼きな彼女。
 それよりも、控えめに、全てを包み込むように笑う彼女の方が、より彼女の本質に近い。
 漠然と、そんな気がした。

 時間は10時40分。
 二限目の授業が終わり、本来ならお決まりのチャイムが聞こえる時間だ。
 きーんこーんかーんこーん、と、聞きようによっては間抜け極まるようなその音階は、しかし、この場所を支配する性質の悪い拍動音に掻き消されていた。
 どくん、どくん、と、まるで聴診器を無理矢理押し付けられたかのように耳の奥で不快な音が響く。
「これが結界の本体です」
 隣に居るはずの桜の声が遠い。
 空気は、まるでチョコレートを溶かしたみたいに真っ赤で、舌を痺れさせるくらいに甘ったるい。
 固体化したみたいな酸素のせいで、呼吸が上手く出来ない。
「よりにもよって、こんなところに仕掛けられてたのか」
 本来ならば、呟くような俺の独り言ですら朗々と響く静謐な空間。
 弓道場に、結界の本体は仕掛けられていた。
「慎二の奴、一体何を考えているんだ……」
 自分の知人ですら、サーヴァントの食料としか見ることができないのか。そこまで捻じ曲がってしまったのか。
「…正直、今の段階でここまで魔力を溜め込んでいるとは思わなかったわ。まずいわね」
「キャスター、これの解呪は…」
「出来るわけないでしょ。
 あの小物の言うことが正しければ、これは魔術じゃなくて宝具。宝具みたいに具現化した神秘、魔術如きじゃあ歯が立たないわ」
 唇に人差し指を当てながら、悔しそうにキャスターが言う。
「とりあえず、魔力の集中を阻害させる結界くらいは張っておくけど…。気休め、でしょうね。いずれ呪刻のほうが、それを食い破るわ」
 彼女が呟く、現代ではあり得ない言語。
 巨大な呪刻の周りを、透明な薄い膜が覆う。
 少しだけ、空気が軽くなった。
「さあ、本体に出来るのはこれが限界。あとは派生した呪刻を叩き潰すだけね。さっさと探しましょう」
「ああ、それなら俺に任せてくれ。っていうか、俺に出来ることはそれくらいしかないしな」
 意識を集中する。
 右の掌を、ゆっくりと地面に付ける。
 いくらなんでも、敷地全体の構造把握をするのは無茶だ。とりあえず、本体の仕掛けられたこの弓道場の探索から始めよう。
「――――同調、開始」
 頭に、この建物の設計図を描く。
『なんて無駄な才能だ』、切嗣にはそう嘆かれた。きっと、その言葉は正しい。
 でも、今、この力が誰かの役に立っている。
 それが、とても誇らしい。
「―――よし」
 設計図は描けた。
 あとは、空間を歪ませている異常を探すだけ―――。
「あれ?」
 何も、見つからない。
 というよりも、設計図そのものが上手く読み取れない。
「はは、おかしいな…」
 もう一度。
 そう考えて、呪文を唱えようとしたとき。
 ふらり、と身体が崩れた。
「先輩!」
 ふらついた体を、桜に抱き止められる。
 ひんやりとした掌が、どこか心地いい。
「大丈夫ですか、先輩…って凄い熱じゃないですか!」
 そう、なのだろうか。
 全く自覚はない。
 体だって驚くくらい軽いし、気分も爽快だ。
「大丈夫だから。今度こそ上手くいく。ちょっと待っててくれ」
「駄目、先輩!」
「―――Ατλασ―――」
 その言葉を聞いたとき、俺の口はその機能の大半を失った。
「全く…あなた、魔術の危険性を本当に理解しているの?理解せずにそれなら頭の足りない愚か者だし、理解してそれなら救いようのない愚か者だわ」
「………」
 呪文はおろか、言葉を発することすらできない。まるで咽頭部の機能が根こそぎ奪われてしまったみたいだ。
 呼吸が、出来ない。
 苦しい。
 酸素が、足りない。
「キャスター、止めて!」
「………、ふう、桜の頼みじゃあ仕方無いわね」
 ふ、っと。
 俺を縛っていた強い力が、消えた。
「かっ、かはっごほっごほっごほっ!」
 呼吸をすると同時に咳き込む。
 そんな俺を、キャスターは冷たい視線で射抜いた。
「あなた、魔術をなめてるの?それとも自殺願望でもあるのかしら?まあ、どちらにしても、死にたいなら違う死に方を選びなさい。そんな死に方をされたんじゃあ、魔術に身を捧げたものとして、あまりに不快よ」
 耳道をそのまま貫く、氷柱のように、冷たく尖った声。
 でも、俺は屈するわけにはいかない。
「ごほ、大丈夫だ。おれはやれる」
 そんな俺を見下ろしながら、やはり霜の降りたように冷たくキャスターは語りかけてくる。
「言葉にしないと分からないようなら、言ってあげる。はっきり言って今のあなたは邪魔よ」
「…先輩、私もキャスターの言うとおりだと思います。今の先輩に魔術を行使させるのは危険すぎます」
 確かに、魔術の行使は常に死と隣り合わせであり、それを回避するためには何よりも集中力が重要だ。一流の魔術師であってもそうなのだから、まだまだ『見習い』と名乗るにも憚られるようなレベルの俺が風邪引きの状態で魔術を行使するなど、愚行を通り越して自殺行為と言ってもいいのかもしれない。
 そんなことは分かっている。
 分かっているけど、でも。
「坊や、今あなたがしなければならないことは体を休めることよ。体調を崩したマスターなんかじゃあセイバーだって本領を発揮できるはずもないし、あなただって戦えないでしょう?今日はお嬢ちゃんと一緒に仲良く寝てなさい」
 さっきとはうってかわって穏やかで優しい声。なによりも、その柔和な視線が頑なになりかけた俺の心を溶かしていく。
「…わかった、ありがとうキャスター。お言葉に甘えさせてもらうよ」
「ええ、そうなさい。結界の呪刻を探すのには、あなたの空間異常の把握能力は正直欲しいんだけどね」
 苦そうに目を細めながらキャスターが言う。お世辞ではないだろうその言葉が、俺には何より嬉しかった。
「じゃあ俺は遠坂の家に帰るから。あまり無理はしないでくれよ。あと、危なくなったらいつでも呼んでくれ」
「先輩、もしかして一人で帰るつもりですか?」
「…ああ、そのつもりだけど」
「駄目です!先輩、あなたは今がどういう時期か―――」
「分かってるつもりだ。
 今一番重要なのは、俺の安全なんかより、この結界の完成を少しでも遅らせる事だ。そのためには桜とキャスターに余計な手間をかけさせるわけにはいかない」
 俺の言葉に、桜は悲しげに俯いた。
「…先輩。あなたは、自分の命よりも、この結界の完成を阻止するほうが大事だ、そう言うつもりですか?」
「つもりじゃあない。そう言ってるんだ。だって、この結界が完成したら、何百人っていう人が死ぬんだ。そんなの、俺一人の命なんかとは比べ物にならないじゃあないか」
「…なるほど、自分の命を他人のものと同一に見るなら、その意見は極めて正しいわね。
 でも、普通の人間はそうは考えない。
 ねえ、坊や。あなた、自分の言ってることがどれだけ捻じ曲がってるか、自覚してる?」
「ああ、それくらい、分かってる」
 キャスターは、諦めるように、少しだけ微笑んだ。
「そう。なら、私も言うことはないわ。桜、ここは私達が折れましょう。きっと、この男に何を言っても無駄よ」
「キャスター…」
「ありがとう、助かる」
 そのまま踵を返そうとした俺に、どこから取り出したのか、キャスターは小さな鞄を投げてよこした。
「キャスター、これは…」
「私が坊や用に作成した道具。材料が揃わなかったから大した物は作れなかったけど、何かの足しにはなるでしょう。持って行きなさい」
 何かの魔術だろうか、その取っ手を掴んだ瞬間に、中に入っている物と、その使い方が頭に流れ込んでくる。
「ああ、ありがとう、キャスター。恩に着るよ」
「一応忠告しておくけど、それらを十全に使ってもサーヴァントには歯が立たないわ。それらは、ただ生き残るために使うこと。いいわね?」
「ああ、わかってる。じゃあ、また後で」

 歩きなれた帰り道。
 しかし、平日の、こうも陽の高い時間にここを歩くのは初めてだ。時間は昼前、太陽は中天に達してすらいない。
 見慣れたいつもの町並みも、心なしか今日は違った表情を見せているように思える。頬を撫でる風の感触すら新鮮だ。ちょっとぶらぶら歩いてみようか、そんな悪戯心がむくむくと生まれてきた。
 でもまあ、今日はやめておこう。後が怖い。風邪引きの身で遊びまわってたことがばれたら、間違いなく桜は怒る。そして、真剣に怒った桜は誰よりも怖いのだ。
 結局、真っ直ぐに遠坂邸までの道を歩いていく。
 思考を支配するのは今までのことと、これからのこと。
 戦いはどれも激烈だった。死にかけたことなど一度や二度ではない。昨日も凛が危険な目に遭った。
 怖いと思う。自分が死ぬのがではない。誰かが死ぬのが怖い。自分の掌から零れ落ちるのが怖い。
 強さが欲しい。みんなを守れる強さが。自身を誇れるだけの強さが。
「衛宮先輩」
 突然、後ろから声をかけられた。
 冷たく響くその声は、火照った耳朶に心地よく響いた。
「代羽。どうしたんだ、こんな時間にこんなところで」
 今日は平日、時間は昼前。
 学校とは全く関係のない街中で、顔を見知った学生同士が顔をあわせる可能性なんてどれくらいのものなのだろうか。
「その台詞、そっくりそのままお返しします。私は早退、遅刻の常習者ですから、ここにいても何ら不思議はない」
 全く自慢できるようなことではないはずなのだが、代羽は妙に誇らしげに自分を語った。
「衛宮先輩、優等生のはずのあなたがここにいるのはどういった理由からなのですか?」
「ちょっと風邪気味でね、今日は家でゆっくりすることに決めたんだ」
 俺がそう言うと、代羽は嬉しそうに手を合わせた。
「ちょうどよかった。実は以前先輩の家にお世話になったときにうっかり忘れていったものがあるのです。もしよろしければ今から取りに言ってもかまいませんか?」
 ああ、家でゆっくりするって言ったら普通は自分の家のことを言ってるものだと思うよなあ。まさか凛の家でゆっくりするつもりだとは思わないだろう。
 どうしようか。代羽の提案を断って真っ直ぐ凛の家に向かうか、それとも自分の家に向かうか。
 少しの間迷ったが、俺も取りに帰りたいものがあるので一度自宅に帰ることにした。
「ああ、いいぞ。今から来るか?」
「ええ、是非」
 



[1066] Re[21]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆40e1bba3
Date: 2007/06/03 02:54
 やはり、この映像は地獄から配信されている。
 私が確信したのは、映像に音声が付加された時だった。
 泣きわめく少女の声。
 昔はこんな声ではなかった。
 そして、今やそれは人の声ですらない。
 獣の叫び声だ。
 最初は意味のある単語で許しを乞うていたが、
 今、その喉から発せられるのは意味をなさない絶叫だけ。
 あああ、とか、ギイイ、とか、
 まるでその苦痛を吐き出そうとするかのように叫び狂っている。
 それはまだいい。
 痛がってくれるほうが、苦しんでくれる方が、救われる。
 しかし、そのうち少女は哂うのだ。
 喉が裂け、それでも叫び、ようやく血を吐き出したときに、
 少女は声にならぬ声で哂うのだ。
 その声を聞いたとき、私は初めて神を呪った。
 自分に腕がついていないことを呪った。
 耳が塞げない。
 私は己の存在が自覚できる全ての時間を、少女の狂笑とともにあらねばならない。
 それは耐えがたい苦痛だった。
 なぜなら、それは私が望んだモノだったからだ。
 私がいたずらに娯楽を欲しがったから、少女は苦しんでいる。
 その事実に気付いたとき、この空間は天国から地獄へと堕落した。
 長い、永い贖罪の時が始まった。


 episode20 彼女の看病

「ただいまー」
 誰もいない空間に向かって帰宅の挨拶をする。特に意味はないが、体に染み付いた習慣というものは中々抜けないものなのだ。
「お邪魔します」
 後ろから聞こえのは、代羽の声。いつもの彼女の声よりかは幾分柔らかいそれは、無機質な玄関に優しく響いた。
 靴を脱いで下駄箱に入れる。
 とりあえず居間で落ち着いてそれからお茶でもいれようか、そう考えながら廊下を歩く。
 歩きなれたはずの廊下が、今日は不思議と長く感じる。
 あれ?
 そう考えた瞬間、膝から力が抜けてよろめいてしまった。
「先輩、大丈夫ですか」
 あいも変わらず冷静な代羽の声が、どこか遠くのほうから聞こえる。
 ふわふわしたような、それでいて重く縛り付けられたようなこの感覚は久しぶりだ。どうやら本格的に風邪をひいてしまったらしい。
「大丈夫大丈夫、ちょっとふらついただけだから」
 自分の声すらどこか遠くに感じながら、家に帰って気が抜けたのかな、などと取りとめもないことを考える。鼻風邪程度ならともかく、足がふらつくような風邪を引くなんて何年ぶりだろう。
 壁にもたれかかって少し休んでいたら、壁とは反対側の手をぐいっと引かれた。
「よいしょっと」
 あれだけ重かった体がふいに軽くなる。代羽が肩を貸してくれたようだ。
「いいよ、重たいだろ」
 鼻腔をくすぐるいい香り。香水などのような人工的な香りではありえないそれは、どこかに蟲惑的な雰囲気があった。
「心配は無用。これでもそれなりに鍛えていますから」
 そう言った彼女の背中は、女性ということを勘案しても小さく、そして細かった。
 
 とん、とん、とん、というリズミカルな音が聞こえる。
 これは味噌だろうか、郷愁を誘う香り。
 ―――代羽、料理ができたんだ。
 布団に体を横たえながら、ぼんやりと濁った頭で考える。
 何時以来だろうか、こんなふうに他人に看病されるのは。
 切嗣はとても優しかったけど、こんなふうに料理を作ってくれることはなかった。俺が風邪で倒れたときは、たいそう心配そうな瞳で俺を一晩中見守ってくれていた。
 ひょっとしたらこんなふうに看病されるのは初めてのことなのかもしれない。
 ただ、この感情はひどく懐かしい気がした。

「失礼します」
 襖の開く音と静かな声。
 彼女と一緒に部屋に入ってきたのは食欲をそそるいい匂いだった。
「体を起こせますか?」
 枕元に座った代羽が尋ねる。
「ああ、大丈夫。よいしょっと」
 声を出しながらでないと持ち上がらない身体が恨めしい。
 代羽はそんな俺の背中を支えながら、湯気の立つ小さな土鍋を載せたお盆を差し出した。
「手早く作れるものということで味噌仕立ての牡蠣雑炊を作ってみました。お口に合えばいいのですけど」
 消化にいい雑炊。浅葱を散らして仕上げたそれは目にも鮮やかだ。
「口のほうを合わせるよ。ありがとう」
 お盆に乗せられたレンゲを使って、雑炊を掬う。
 もうもうと湯気が立つそれに息を吹きかけて冷まし、ぱくりと一口。
 ……美味い。
 味噌仕立ての雑炊は下手をすると味が濃すぎたり、しつこくなりすぎて食べれたものではなくなることがあるが、これは絶妙のバランスで限界を見極めている。細かく刻んだ野菜と、ふっくらと煮られた牡蠣の相性も最高だ。
 ひょっとしたら、代羽は俺よりも料理が上手いのだろうか。ほんの少しだけ、驚いた。
 身体が求めるままに箸を進めていたら、いつの間にか土鍋は空になっていた。
「ごちそうさま、凄く美味しかった」
 まだ料理の感想すら言ってなかったことに気付く。だから、自然と漏れた感想は何よりも正直だ。
「ええ、あれだけ美味しそうに食べていただけると私も作った甲斐があるというものです」
 心底嬉しそうな笑みを浮べた代羽。
 こんなに嬉しそうな彼女を見るのは初めてかもしれない。
 普段の彼女は人を寄せ付けない冷たい雰囲気を身に纏っているし、その笑みにもどこか影がある。言葉にするのが難しいが、ここではないどこかに自分を置いている、そんな感じがしてしまうのだ。
 だから、初めて見る彼女の笑顔に見惚れてしまった。
「どうかしましたか、ぼうっとして」
 気がつくと、吐息が感じられるほど間近に彼女の顔があった。
 驚いて、動けない。
 心臓が、跳ね上がる。
 自分でわかるほど、真っ赤になっていく顔。
「あれ、また熱が上がりましたか。どれどれ」
 さっきよりも近くから聞こえる声。
 こつん、と額に何かが当たった。
 そこに感じるひんやりとした彼女の体温。
 片手で前髪をかきあげて、目線を真っ直ぐにした彼女。
 黒い瞳。黒真珠みたいにまんまる。ブラックホールみたいにまっくろ。
 こんな瞳に見つめられたら、神様だって恋に落ちるはず。
「あ…、う…」
 間の抜けた自分の声。
 ぱくぱくと、陸に上げられた金魚みたいに口を動かす。
 酸素が欲しいんじゃない、欲しいのは心の平衡。
 一番の特効薬は、あなたとの距離。
 どのくらいそうしていただろう、額に感じる温度が俺の体温と等しく感じられるようになったとき、やがて彼女は怪訝そうな表情で俺から離れた。
 不思議そうに眉をひそめた代羽が、やがて納得したように苦笑した。
「……ああ、そういえばあなたには恥ずかしがる理由があるのでしたね」
 よくわからないことを呟いて、彼女は今までと同じ、寂しそうな微笑を浮べた。
「汗をかいたでしょう、着替えて眠ればいい。栄養と睡眠、それが何よりの薬です」
 そう言ってから、代羽は着替えと蒸らした温タオルを持ってきてくれた。
「手伝いましょう。さあ、服を脱いで」
 それがさも当然というふうに、何気ない口調。
「い、いい。じぶんでする」
 機械みたいに固い体と、その何倍も硬い声。針で一突きしたら、粉々に砕け散ってしまいそうだ。
「恥ずかしがる必要はないでしょう。あなたは病人で看護を受ける権利がある。
 ……それに、私は、男性の裸など、兄のそれで見飽きていますから」
 ほんの少しだけ翳った声。理由は、わからない。
「それとも、私のような女に看護を任せるのが嫌なのですか。ならばはっきりそう言ってください」
 真剣な瞳で俺を見る。真一文字に結んだ唇がひどく愛らしい。
「い、いや、そういうわけじゃ…」
「ならば話は早い。そういえば以前のお礼もまだでしたね。さあ、とっとと服を脱ぎなさい」
 にんまりと、最高の笑み。
 ああ、神様。
 何故代羽と桜が親友なのかがわかりました。
 朱に交われば、赤くなる。
 朱が染めあって、真っ赤になる。
 そんな埒もない言葉が、不思議なくらいすとんと俺の胸に収まった。

「意外と筋肉質なのですね」
「まだ生えていないのですか」
「へえ、兄さんより大きい……」

 汗のふき取りは完了。清潔な下着に着替えも完了。
 さっぱりとした体と、いまだふわふわとした思考。それでも納得のいかない感情。
 一通りの精神的陵辱を受けた俺は、代羽の言葉を聞き流していた。
 もうお嫁にいけない。
 そんな大昔の台詞が思い起こされる。
 俺で遊ぶのに飽きたのか、やがて彼女は鞄の中から歪な五角形の薬包紙を取り出した。
「我が家秘伝の風邪薬です。これを飲んで一眠りすれば、嘘みたいに体調が回復します」
 誇らしげに薄い胸をそらせた彼女は、押し付けるようにその包みを俺に手渡した。
 おそるおそる包みを開けると、そこには金魚鉢にへばりついた苔を乾燥させたような、グロテスクな緑色の粉末があった。
 鼻を突く刺激臭。
 生臭いような、ケミカルちっくな。
 臭いの奥に、大鎌を携えた死神の映像が浮かんだ気がした。
「代羽、これ……」
「製造方法は秘密です。もっとも、模造品を防ぐためではなく、治験者の精神衛生のためですけども」
 真剣な表情の代羽。普通そこは笑うところなんじゃないのデスカ?
「飲む飲まないはあなたの自由。今のあなたに病床に伏せる暇があるならば、ゆったりと身体を治すのも一つの選択肢でしょう」
 ぐりぐりと包みを俺の額に押し付けながら彼女が言う。
「さあ、どうしますか、衛宮先輩」
 そうだ、俺にはぐずぐず眠りこけている暇なんてない。俺にはしなければならないことが山ほどあるのだ。この程度の試練、乗り越えられなくて何が正義の味方か。俺を止めたければこの三倍は持って来い―――!

 駄目でした。
 すみません、生意気言いました。
 心の中で緑色の悪魔に土下座をしながら思う。
 舌が痺れる。
 手が震える。
 ああ、意識が、意識が……。
 これが、この世で最後の思考。

「驚いた。本当に飲むなんて」
 目を見開いて、手を口に当てた彼女が言う。
「ですが、安心してください、衛宮先輩。効き目は本物ですから」
 当たり前だ。
 これで効き目がなかったら、いくらお前が女だからってこの衛宮士郎容赦せん。
「でも、本当は飲んで欲しくなかったんですけどね。まあ体調を崩したまま戦うよりはましでしょうから」
 苦笑と共に、代羽の声が、どんどん沈んでいく。
 おかしい。何で彼女が悲しんでいるのか。
 嘲笑ってくれ、いつもみたいに。
 君が悲しいと、俺まで悲しくなるじゃないか。
「あなたは、きっと前にしか進めない人だから」
 代羽、君は何を。
「無駄です、先輩。目覚めれば、あなたは今のことを何一つ覚えてはいない」
 嫌だ。
「わがままを言わないで」
 嫌だ。
「眠りなさい」
 いや。
「おやすみ」
 お■■ちゃん。



[1066] Re[22]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆b0be4431
Date: 2007/06/09 01:23
 おいで。
 おいで。
 こっちにおいで。
 友達がいっぱい。
 暖かい毛布をあげよう。
 おいしいお菓子もあるよ。
 不思議な魔法も見せてあげよう。
 こっちは天国だよ。

 君の村はどうだい?
 昨日のご飯はどうだった?
 お腹いっぱい食べれたかな?
 そうじゃないならこっちにおいで。
 こっちは天国だよ。

 怖いお父さんはいない。
 うるさいお母さんもいない。
 いばりんぼなお兄さんもいない。
 みんなみんな優しいよ。
 だからこっちにおいで。
 こっちは天国だよ。

 そうだ、こっちだ。
 ああ、いい子だ。
 神よ、神よ、山の神よ。
 この幼子の輝く瞳に。
 あなたの加護が、ありますように。


episode21 嘘吐きな彼女

 腹部に不思議な重量を感じる。呼吸が阻害される、微かな不快感。
 何かが聞こえる。規則的に聞こえるそれが、自分以外の誰かの寝息だと気付くまでに多少の時間を必要とした。
 障子の薄い壁を突破して部屋に侵入した陽光は、まだまだ明るい。きっとそれほど遅い時間ではないだろう。
 しかし、年頃の男女が同じ部屋で眠るのは、やはり憚られる。
 少し悪いと思ったが、俺のお腹を枕にして眠りこける人影に声をかけた。
「起きてくれ、代羽。朝だぞ」
 あと五分、そんな可愛いらしい声が聞こえたことは、墓場まで持っていく俺だけの秘密だ。

 また少し汗を掻いていたので、下着を替えた。本当なら布団も干したいところだが、今干してしまってもいつ取り込めるのか分からないので、渋々そのまま押入れにしまう。
 代羽はその間、ぼぅ、と焦点の合わない瞳で明後日の方向を見つめていた。ひょっとしたら寝起きが弱いのかもしれない。
「大丈夫か、代羽」
 先ほどまで立つこともままならなかった病人の言う台詞ではないが、少なくとも今は代羽のほうが調子が悪そうだ。
「だいじょうぶです…、ほんとうはねおきはいいほうなのですが、さいきんはよふかしすることがおおくて……」
 かくかくと頭を前後に、そして左右に揺らしながら、辛うじて彼女は返事を返した。
 なんと言うか、凛の寝起きを冬眠から覚めた熊とでも表現するならば、彼女のそれは発条の切れかけたからくり人形みたいだ。今にも切れそうな動力で、やっとのことで動いている、そんな感じ。
 それに対して、俺の体調はすこぶるいい。まるで風邪を引く前のそれに戻ったような、いや、それ以上に体が軽い。
「凄いな、本当にあの薬は効くんだ」
 死神を従えた緑色の悪魔だったモノが、今は聖緑の瞳の天使に思える。
「あたりまえです。まきりのいがくやくがくはせかいいちぃ…」
 そう言って代羽は机に突っ伏した。
 ……なんだかよくわからないが、まあよしとしよう。
 時計で正確な時間を確かめる。
 午後二時。
 どうやら、二時間ほど眠っていたらしい。
 今から荷物を纏めて一時間。
 凛の家に着く頃には四時か。
 なら、部活を休んで帰ってくる桜と合流するのにちょうどいい頃合だろう。
 さあ、とびっきり苦いコーヒーをいれよう。香りだけでこの寝ぼすけが目を覚ますくらい、悪魔みたいに黒く、地獄みたいに熱いコーヒーを。


「醜態を晒しました……」

 俺の隣を俯き加減で歩く代羽。時折ぎりぎりと低い音が響くのは、彼女が歯を軋らせているからか。
「先輩、約束してください、今日のことは誰にも話さないと」
 今まで見たこともないくらい真剣な光を瞳に灯して、悲壮な顔で彼女が言う。
 きっと必死なのだろう、しかしその表情は、常の大人びたそれとは違って年齢相応の幼いものに見える。
 俺にはそれが愉快で、ついつい軽く返してしまう。
「さて、どうしようかな。ああ、今日代羽が俺にしたことを桜に黙ってくれるなら、考えないでもないぞ」
「くっ……なんと卑劣な…」
 本気で悔しそうな代羽。やっぱりお前、桜に話すつもりだったな。
「私はあなたを看病してあげたではないですか。そのことと私の醜態を黙っておくこと、これで取引は成立するはずだ」
「この前、夜道を送っていってあげたことは?」
「そ、それは、別に私が望んだことでは……」
「看病だって、してくれって頼んだ憶えはないぞ」
 悔しそうに黙ってしまった代羽。本当は、彼女に看病されたのはとても嬉しかったので以前のことなどどうでもいいのだが、彼女との掛け合いが楽しくて、ついつい調子に乗ってしまう。
「……、わかりました。憶えておきなさい、衛宮士郎。この借りはきっと返して差し上げますから」
「ああ、覚悟しておくよ」
 きっと高くつくだろう。倍返し、いや、三倍返しくらいは覚悟しておいたほうがいいのかもしれない。それでも俺は、それが楽しみだった。

「そうですか、桜の家に」
「ああ、改修工事も終わったらしくてさ、この前のお礼にぜひどうぞって」
「なるほど、ついにあなたも男になる時が来たのですね!相手は桜ですか、それとも遠坂先輩?」
「君はもっと女性らしくなりなさい」

 時間は午後の三時。だいたい予定通りの時間に、代羽と二人で商店街を歩く。
 テレビなんかでは、大型のショッピングセンターに押されて寂れた商店街の話などをよく耳にするが、その例はここには当てはまらない。多種多様な店と、それに比例するほど魅力のある店の主人によって、かなりの活況を呈している。
 俺の家から一番近い食料調達ポイントであるここには、昔馴染みの顔が多い。だから、代羽と一緒に歩いていると様々な人から声をかけられる。
「お、士郎君、その子はカノジョかい?」
 これは八百屋のおじさん。
 少し慌てながら否定する。
「違います、この子は俺の後輩で……」
「婚約者の間桐代羽です」
 はっ?
 唖然として隣を見ると、満面の笑みの我が後輩。
 視線は八百屋の親父さんに向けられていたが、何故か彼女の冷たい視線を感じた。
『カクゴハデキテルカ?シテオクッテイッタヨナ?』
 ぴしり、と。
 何かがひび割れる音が、聞こえた気がした。
「は、はは、そうなんだ、士郎君もすみにおけないなあ。こいつ、これで結構やんちゃなとこがあるから、シロウちゃんも大変だろう?」
 硬い硬い親父さんの声。
 それに答える彼女は、やはり天使の微笑み。
「ええ、もう、彼ったらいつも強引で…。さっきも一緒の布団で寝てたんですけど、汗やらナニやらで布団がぐしゃぐしゃになってしまいました」
 アノ、シロウサン?
 タシカニオナジフトンデネテタケド、アナタハフトンノウエデネテマシタヨネ?
 タシカニアセデフトンハシメッチャッタケド、ソレハボクノネアセデスヨネ?
「そそそ、そうなのかい?い、いやあ、さいきんのわかものはすすんでるなあぁ、ははは」
 オジサンノカワイタワライゴエ。
 アハハハ、オレノココロニヒビクノモ、オナジヨウナワライゴエ。
「ええ、そうなんです。ところで、おじさん、そこの山芋もらえないかしら」
「や、やまいもですか?」
「ええ、彼にはたっぷり精をつけてもらわないと、今日の夜も大変ですもの。
 ねえ、あなた?」
 シロウノウデガ、ボクノウデニカラミツク。
 ミチユクヒトビトノツメタイシセンモ、ボクノカラダニカラミツク。
 キョウクン。
 オンナノコハ、テイチョウニアツカウベシ。
 オコラセルコト、マカリナラン。
 キリツグ、アナタハタダシカッタ。マル。
 
「ああ、かわいそうな衛宮先輩、これでしばらくあの商店街には近寄れませんねえ」
 心底心配そうな代羽。
 …とりあえず、嘘が上手いのも才能の一つだと思う。
 お前のせいだろ、そう突っ込む気力も俺には残されていない。
 どうやら俺は公園のベンチに座っているようだが、どこをどう通ってここに辿り着いたのか全く記憶にない。っていうか、ここはどこだ?
「ねえ、お姉ちゃん、お兄ちゃんっていつもこんな感じなの?なんか川に落っこちたナマケモノみたい」
 なんだ、その感想は。普段より生き生きしてるとでも言いたいのか。
「私の知る限り、この人はいつもこんな感じですね。生きてるのか死んでるのか、良く分かりません」
 代羽、君はどれだけ失礼なんだ。
 ん?
 今、変な声が聞こえなかったか?
「なんか可哀相だね、お兄ちゃん」
「ええ、可哀相な人ですよ、この人は」
 哀れむように突き刺さる二組の視線。
 黒い瞳と、赤い瞳。
 小柄な少女と、それより更に小さな子供。
 そこには、あの夜出遭った、鉛の巨人のマスターがいた。

(あとがき)
 んー、コミカルなのは難しいですね。上手に書ける人を尊敬します。
 



[1066] Re[23]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d8c1beb4
Date: 2007/08/23 20:36
「あなたは、祈らないのですか」
「対象が、見つかりません」
「そんなもの、なんでもいい。石ころでも、花でも、土産物屋で買ったキーホルダーでも、それこそ神様でもかまわない。それを見つけるだけで、人は救われます」
「私は、何にも救われなかった。だから、祈りません」
「そうですか。でも、きっとあなたも祈ることがあるでしょう。自分のためだけではない。あるいは、名前も知らない誰かのために。そうなれば、きっと幸せでしょうね」
「はい。そう思います。きっと、奇跡みたいに、幸せ」

episode22 少女と少女
 
 小さな公園。
 まだ明るい日差しの下、母親に見守られながら無邪気に遊ぶ子供達。さんざめくような歓声が耳に心地いい。
 この上ないくらいに、平和な日常風景。
 しかし、俺の心臓は所有者の意志を無視しながら早鐘を刻んでいた。
 どくん、どくん、と。
 己の心臓が刻むリズム、それが耳に響く。
 脇の下を嫌な汗が濡らす。
 目の前に立つ、銀髪の少女。
 あの夜、絶対の死の気配を背負いながら、妖艶に微笑んだ美しい妖精。
 名前は確か…。
「イリヤ…」
 俺の言葉に、彼女は少し不機嫌そうに応じる。
「勝手に人の名前を略すなんて、少し失礼じゃない?…別にいいけどね」
 頬を膨らませ唇を尖らせたその表情からは、あの夜の無慈悲な笑顔など、想像もできない。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
 バーサーカー・ヘラクレスを支配する、最強のマスター。
 出会ったら、殺しあうのが戦争の大原則。
 ならば、ここで戦うしかないのか。
 しかし、彼女は本当に嬉しそうに笑った。
「安心して、お兄ちゃん。今日はバーサーカーはいないから」
「えっ?」
「だって、私たちに相応しいのは夜でしょう?こんなに明るいのに殺しあうなんて、つまらないじゃない」
 言われてみれば、今この場には、あの大気すら歪ませるような殺気の磁場がない。あの感覚、例えバーサーカーが霊体化していたとしても、見逃せるようなものではないはずだ。
 つまり、今彼女を守る存在は本当にいないということか。
 彼女は一人で街を歩いていたのか。
 殺し、殺される、この非常識の世界の中を。
 そう考えると、安堵感と共に、なぜだか妙な怒りが沸々と涌いてくる。
「駄目じゃないか、イリヤ!」
 突然の怒声に驚いたのだろう、彼女はびくりと肩を震わせた。
「えっ、わたし何か悪いこと、した?」
「当たり前だ!イリヤみたいに小さな子がこの時期に一人で出歩くなんて、何考えてんだ!そんなの、襲ってくれって言ってるようなもんじゃないか!」
 脅えたような表情から、ぽかんとした感情の抜け落ちた表情に。この子はころころと表情が変わる。まるで万華鏡みたいだ。
「お兄ちゃん、もしかして、わたしのこと心配してくれてるの?」
「当たり前だ。別に戦おうとか言ってるわけじゃないけど、それでもバーサーカーは連れて歩いた方がいい。そうじゃないと―――」 
 まだ言葉を繋げようとしていた俺の口は、一足早い春の到来を思わせる、暖かな笑顔に遮られた。
 くすくすと、嬉しそうにイリヤが笑う。
「うん、合格。本当のことを言うとね、お兄ちゃん、わたし、あなたがどんな人なのか見に来たの。わたしが想像していたよりも、あなたは面白いわ。
 ねぇ、お兄ちゃん、お名前教えて?」
「…衛宮、士郎、だ」
「エミヤシロ?」
「違う。それじゃあ、笑み、社だ。衛宮が名字、えっとファミリーネームっていうんだっけ?で、士郎が名前、こっちはファーストネームかな?」
 くそ、こんなことなら藤ねえの授業をもっと真面目に受けとくんだった。
「ふうん、じゃあシロウだね。うん、中々いい名前ね。少し孤高な感じがするけど、お兄ちゃんにぴったりだね」

 何故だろう。
 心臓が、どきり、と、不協和音を奏でた。
 士郎、と。
 イリヤに、その名前を呼ばれたとき。
 何故だが、自分がここにいてはいけない人間のような、そんな感じがした。
 足元の地面が崩れ落ちるような。
 階段を踏み外したような。
 墜落する夢を見たときのような。
 世界に、拒絶されたような。
 あるべきものが存在しない、そんな虚無感。
 ああ、違う、違う、違う、俺は、俺は―――。

「先輩、この子は誰なのですか?先ほどから妙に物騒な単語が飛び交っていましたが」
 隣から聞こえた、冷静な後輩の声。それが俺を現実に引き戻す。
「そうね、シロウ、この女は誰なの?」
 これはイリヤの声。
 ざっきの俺に対する評価は妙に息が合っていたが、当然と言えば当然、この二人はお互いを知らないはずだ。
 じゃあ、俺が二人を紹介するべきなのだろう。
 そこまで考えると、頭の奥のよく分からない不快感は自然と消えていった。
「あ、ああ、イリヤ、こっちは俺の後輩で間桐代羽っていうんだ。一応言っておくが、マスターじゃないぞ」
 後半は囁くように言う。
「代羽、こいつはイリヤスフィール=フォン=アインツベルン、イリヤだ。まぁ、一応年の離れた友人、かな?」
 二人の紹介を終える。しかし、そこにはさっきまでの和やかな雰囲気は無かった。
 無言でお互いを見つめる二人。その視線は心なしか険しいものになっている。
 空気が帯電するかのように、刺々しいものに変化していく。
 いい加減俺がその重たい沈黙に耐えられなくなって口を開こうとしたとき、イリヤが言った。 
「握手しましょう、代羽。だって、私達は初対面なのだから、その必要があるわ」
 代羽はにこやかに応じる。
「ええ、そうですね、イリヤ。私もそう思ってたところです」
 口ではそう言いながら、二人とも視線は剣呑だ。男同士なら、握手からそのまま握力勝負になだれ込む、そんな雰囲気。
「お、おいおい」
 そんな俺の心配をよそに、がっちりと握られた二人の小さな手。
 それはしばらく続いたが、やがて、より小さな手をした少女が呟くように言った。
「……驚いた、本当に違うのね、お姉ちゃんは」
 その言葉と共に、イリヤはその手を離した。
 違う?何が違うというのだろうか。
「よかった、もしもあなたが穢れた蟲なら、今すぐにでもバーサーカーを呼ばなくちゃいけなかったから。そしたらお兄ちゃんに嘘を吐くことになっちゃうし」
 ぎりぎりのイリヤの言葉に、代羽は首を傾げつつ応じる。
「はて……まあ、いいでしょう。とりあえずお気に召したようで幸いです」
 自分より明らかに年下のイリヤにもいつも通りの固い口調で話しかける代羽。ひょっとしたら、いつか彼女に子供が出来ても、やはり今みたいな口調で接するのだろうか。
 そうこうしてるうちに、二人の間からよそよそしさの分厚い壁は取っ払われていた。
 そこには気さくに話しかけるイリヤと、硬い口調で楽しそうに応える代羽がいた。
「シロウって、お兄ちゃんと同じ名前なんだね」
「ええ、いつも言われます」
「それって普通男の子につける名前なの?それとも女の子につける名前なの?」
「一般的には男性に用いられることが多い名前ですね、不本意ながら」
「ふーん、それじゃあお兄ちゃんと区別がつかないから困るね。じゃあお姉ちゃんのことは何て呼ぼうかな」
「好きに呼んでいただいて構いません。名前如きで怒る私ではない」
「じゃあシロ!シロって呼んでいい?」
「……犬みたいな名前ですね」
「……嫌?」
「構いません。名前など、所詮記号に過ぎない。個人の識別が可能なら、それ以上の機能は望むべくも無い」
 
 …そういえば、代羽の名前を呼び間違えただけで、酷い目に合わされたことがあったなあ。
 そんなことを考えながら、冷たい冬の空気を味わう。
 白い吐息が大気に溶けていく。
 ぼんやりと思う。
 この白さは一体どこに行くのだろうか。
 溶けて無くなってしまうのか、それともどこかに隠れているだけなのか。
 無くなったとすれば、そこに意味はあったのか。憶えている人がいれば、そこには意味があったのだろうか。
「先輩、それでは私はそろそろ…」
 気がつけば二人の視線は俺に集まっていた。
「あ、ああ、わかった」
「イリヤは先輩に用があるのでしょう?では私は帰ります。ちなみに、送迎は結構ですからそのつもりで」
 確かに、いくら冬とはいえまだまだ陽は高い。こんな時間ならわざわざ送っていく必要はあるまい。
「それでは、イリヤ、また近いうちに」
「うん、ばいばい、シロ」
「あ、代羽!一つだけいいか?」
「はい?」
「実は、桜が代羽も家に呼びたがってたんだ。もし予定が空いてるなら、今日とかどうかな?」
「はぁ、そうですか」
 代羽は視線を遠くにやって考え込む。
 実は、これは真っ赤な嘘だ。
 きっと遠坂の家はこれから戦場になる。だから、本来なら一般人である彼女がいるべき場所ではない。
 しかし、マキリ邸にいるのは彼女を肉親とは思わないような外道ばかり。そこにいるよりは、まだ遠坂の家の方が安全だろう。
 かといって、無理矢理彼女を連れて行くわけにはいかない。彼女がどうしても嫌だと言ってしまえばそれまでだ。
「…分かりました。せっかくのお誘い、無碍に断っては失礼ですね。とりあえず家に帰って荷物を纏めてから伺うと、桜にそう伝えてください」
 俺は、ほっと、安堵の吐息をつく。最悪、これで俺達がマキリ邸に攻め込むときでも彼女が傷つくことはなくなった訳だ。
「ああ、確かに伝えておくよ。じゃあ、また後で。
 …っとそういえば代羽、俺の家に忘れてたものって、見つかったのか?」
 公園の入り口で、彼女はくるりと振り返る。
 少し声を張り上げて、彼女が答える。
「さあ、そんなこともありましたか。すみません、憶えていません」
 母親みたいな笑顔を残して、彼女の姿は曲がり角に消えた。

「イリヤ、さっきの『違う』って何だ?」
 イリヤは代羽が消えた曲がり角に視線を固定させたまま、こう言った。
「彼女、マキリなのに本当に魔術師じゃあないんだな、そう思って驚いただけ。
 だって、まともな魔術回路の一本も無いんだもの。あれじゃあ魔術は使えないわ。噂では聞いてたけど、本当に没落しちゃったんだね、マキリは」
 なるほど、握手する振りをして代羽の魔術回路の探査をしてたのか。
「だから言ったろ、あいつはマスターじゃないって。魔術回路も無ければ令呪も無いんだから」
 そう言うと、イリヤは妖艶に笑った。
「あら、魔術回路も令呪も無いマスターだっていないわけじゃないわ。例えば、野良サーヴァントを拾った一般人がマスターになることだってありえないことじゃないから」
「じゃあ、魔力はどうするんだ。代羽みたいに魔力が少ない人間がマスターになったら、すぐに魔力を吸い取られて死んじまうぞ」
「本気で言ってるの、お兄ちゃん?」
 呆れた顔のイリヤ。
「足りないものは他所から持ってくるのが魔術師。そうでなくても、普通はそうするわ。だから、そういった契約をしたサーヴァントはほとんど例外なく魂喰いになる」
 魂喰い。
 赤い結界。
 慎二。
 そうだ。それを防ぐために俺達は走り回っているんじゃないか。
「まあ、どうでもいいんだけど。穢れた蟲が何を使役したところで、私のバーサーカーには勝てないから」
 この話はこれで終わり、そう言いたげな表情で彼女は言った。
「そういえば、イリヤ。何か俺に用か?俺を探してたみたいだけど」
「えっ?用が無ければ会いに来ちゃいけないの?」
 悲しそうな瞳。
「いや、そんなことはない。戦い以外なら、俺だってイリヤと一緒にいると楽しい」
「ほんとに!?」
「ああ、ほんとだ」
「よかった!」
 まるで機嫌の良い猫のようにじゃれ付いてくるイリヤ。その姿からはあの夜の凄惨な雰囲気は微塵も感じられない。
 駄目だ。やっぱりこの子には聖杯戦争なんか似合わない。
「なあ、イリヤ…」
「ねえ、お兄ちゃん。あれ、何?」
 イリヤは不思議そうに首を傾げた。
 彼女が指差す先にあったのは小さな屋台。そこから食欲を刺激する甘い香りが漂ってくる。
「ああ、あれは……、よし、ちょっと待ってろ」
 小走りで馴染みの屋台へと向かう。
 ポケットに手をつっこんで財布の存在を確認。確か今月はまだ余裕があったはずだ。
「いらっしゃい…おや、珍しいね、こんな時間に学生さんか」
「こんにちは、えっと、粒アンのタイヤキ二つお願いします」
「あいよ、ちょっと待っとくれ、焼き立てを用意するからね」
 気のいい親父さんとの会話を楽しみながら、タイヤキが焼きあがるのを待つ。
「はいよ、粒アンのタイヤキ二つ、ついでにこれはサービスだ」
 もうもうと湯気の立つ袋の中には、注文した品の他に中身のよくわからないタイヤキが二つ入っていた。
「ウチの新製品。今度来た時、感想を聞かしておくれ」
「わかりました、ありがとうございます」
「まいど」
 過剰気味とも思えるサービスに恐縮し頭を下げてから、店の傍らにあった自動販売機に小銭を投入する。
 今日も比較的暖かいが、それでも息は白くなるくらいの気温。まだまだ暖かい飲み物が美味しい季節である。
 外国人のイリヤには紅茶なんかがいいかとも思ったが、ここは日本、『郷に入りては郷に従え』、イリヤにも従ってもらうとしよう。和菓子には日本茶が一番だ。
 片手にはタイヤキの入った紙袋を抱え、もう片方の手には暖かい緑茶のペットボトルを二本掴んでイリヤのところまで走って帰る。
 彼女は少し不機嫌そうな顔をして待っていた。しまった、置いていったのは不味かったか。
「お兄ちゃん、レディを一人で置いていくなんて最低よ」
「ごめんごめん、こういうことには慣れてないからさ、これで許してくれないか?」
「なに、それ?」
 甘い匂いから何かのお菓子であることはわかるのだろう、隠し切れない興味を浮べてイリヤが尋ねる。
「ああ、それはタイヤキ。中には餡が入ってるんだ」
「アン?…、ああ、アズキビーンズで作ったクリームね」
 んー、多分間違ってないんだろうけど、そういうふうに表現すると何か違う食べ物に聞こえてしまうから不思議だ。
「ああ、ここのタイヤキは結構美味いんだ。えっと……、そこのベンチで食おうか」
 
「なにこれ!甘いよ、それにさくさくして美味しいよ!」
 彼女の手には、小さな歯型の残ったタイヤキ。
 大事そうに両手で持っている。
「そうだろ。焼きたてだしな」
 これが家に持って帰った後とかだとこうはいかない。紙袋の中で湿ってしまうからだ。
 焼きたてのクリスピーな皮の部分と、ふんわりと焼き上げられた生地、比喩ではなく尻尾まで詰められた上品な甘さの餡、その全てがタイヤキというオーケストラのハーモニーを構成している。
 というのは言いすぎだろう。なんだかんだ言っても一つ百円の庶民の味、小難しい理屈は抜きにして美味ければそれでいい。
「ああ、イリヤが気に入ってくれてよかった」
 何となく空を見上げる。
 太陽が出ているとはいえ、冬の青空はどこか儚い。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?なんだ?」
 隣を見ると、イリヤも空を見上げていた。
「お話して欲しいな」
「何を?」
「お兄ちゃんのこと。何でもいいわ、だって私はお兄ちゃんのこと、何も知らないんだもの」
 俺のこと。
 そんなこと、俺だって何一つ知らない。
「きっと退屈だぞ」
「知らないことは何だって面白いわ。だから、外の世界はこんなにも面白い」
 そんなものだろうか。
 彼女は相も変わらず空を見上げていた。
 だから、俺も空を見上げた。
 ひょっとしたら、あの人の笑顔が映るのではないか、そう思ったのだ。

「俺はね、一度死んだんだ」
 彼は空を見上げながらそう言った。
 その視線の先にあったのは、一面の青空の中に浮かんだ、たった一つのはぐれ雲。ひょっとしたら別の何かを見ているのかもしれない。
「それって前の晩のこと?」
「いや、違う。もっとずっと前に、俺は命を失った。きっと、生まれ変わったんだと思う」
「ふうん」
 興味が無いふりを装っているのがばれてしまうのではないか、そう恐怖してしまうくらいみえみえの声。
「何もかも失って、家族も名字も名前さえも失って、でも俺は生き残った。そして、親父に拾われたんだ」
 親父。
 キリツグ。
 私にとっても父だった人。
 あなたが奪った、私の宝石。
「ほんとに駄目な人でさ、まだ小学生の俺を残してふらっと世界中を放浪するし、家事は全く出来ないし、きっと親としては落第点だったんだろうなぁ」
 彼の表情は鉄のように固い。そこには何の感情も浮かんでいなかった。
 しかし、きっと彼は懐かしんでいる。自分の思い出を美しいものだと感じている。私には、それがとても忌々しかった。
 そして、なにより忌々しかったのが。
 私からキリツグを奪ったこの男が。
 ちっとも、幸せそうに見えなかったことだ。

「あ、バーサーカーが起きちゃった」
 突然、目が覚めたような表情で、雪の少女はそう言った。
「ごめんね、お兄ちゃん。私帰るわ」
「ああ、またな」
 彼女はパタパタと可愛らしく駆けて、公園の入り口のところで振り返って、こう言った。
「今度は私の城で会いましょう。招待するから」
「ああ、きっと遊びに行くよ」
 音符みたいな空気を残して、彼女は姿を消した。
「さてと、そろそろ行きますか」
 すっかり冷めてしまったペットボトルのお茶を飲み干し、屑篭に入れる。
 寒さで固まってしまった身体に喝をいれ、腰を上げる。
 そういえば、城の場所を聞いていなかったな、そんなことを考えながらゆっくりと歩き始める。
 空は相変わらずの晴天。
 日差しの眩しさに顔を顰めながらも、太陽を見上げる。
 その輝きは、夢で見たあの剣にどこか似ていた。

(あとがき)
 次話、ある意味、言峰が外道です。彼のイメージを大切にされたい方は注意してください。



[1066] Re[24]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆f3fb0ffe
Date: 2007/06/26 22:43
 interval2 IN THE DARK ROOM 2

 静かな、そして圧迫感を感じるほどに狭い部屋。
 寒い。
 彼と別れてまだそれほど時間はたっていないはずだ。
 ならば、外はまだ太陽の照りつける時間帯なのだろう。
 しかし、この部屋は凍えるように寒い。
 外からの熱は、周囲の石造りの壁に吸収されてしまうのだろうか。
 悴んだ掌に息をかけて解す。
 じんわりと、指先に血の巡る感覚が、何故だか嬉しい。
 小さな椅子に腰掛けると、目の前にある格子状に編まれた衝立と、そこに開いた小さな穴が目についた。
 静寂。
 ぎしり、と、自分が椅子に腰掛けた音以外、何の音もしない。
 神の家、その表現に相応しい空気だ。
 荘厳で、誇大で、独り善がりで、そして何よりも不快。
 ため息を放つ。
 きっと、こんなものの中に絶対者を見出すことができる人間ならば、その人生は華に満ちたものになるのだろう。
 信じれる者は、幸せだ。
 そんなことを考えながらしばらく待っていると、やがて衝立の向こうから、がちゃり、と扉の開く音が聞こえた。
 かつ、かつ、と、誰かが近づいてくる。
 そして、ぎしり、と重量感のある音が聞こえた。誰かが私の向かいに座ったのだろう。
「さて、当然私はあなたのことなど、何一つ知らない」
 重々しい声。
 先ほどまでの静寂と相俟って、それは必要以上に心を侵してくる。
「だが、ここにあなたが来たのは神のお導きだろう。罪があると自覚するならば、告白すればいい。神はきっとあなたを許されるだろうから」
 思わず漏れそうになった笑いを堪える。
 この男も神父なのだ、この男に真剣に懺悔をする人間がいるのだと思うと、暗い笑いを堪えきれない。
 それでも、くすくすと漏れ出した声を聞いたのだろうか、衝立の向こうから少し不機嫌な声がした。
「…ここは神のみに許された『ゆるしの秘蹟』を行う尊ばれるべき空間である。真面目に告解を行うつもりがないならば、早々に帰りたまえ」
 再び聞こえたぎしり、という音。きっと彼が立ち上がったのだ。
 このまま彼を帰らせるのも面白いが、それではここに来た目的を果たせない。
 私の喉が、枯れたような音を搾り出す。
「神父様、私の罪を聞いてくださいますか?」
 ぴたりと、遠ざかりつつあった気配が止まった。
 再び、静寂。
 ひんやりとした石造りの部屋の空気が、更に重たい何かを孕んでいく。
「…神は寛大である。例え君が天に唾吐くような愚か者であったとしても、神は君を見捨てない。
 …しかし、よもや私を最初に頼ってくるのが君とは思わなかった。正直、意外だ」
 がちゃり、と衝立が取り払われる。
 告解の最中に衝立を外すなど、本来許されることではあるまい。
 しかし、これから行われるのは告解などではありえない以上、その行為に批判されるべき事情は存在しない。
 薄暗い室内。
 そこに現れた人影。
 均整の取れた長身。
 巌のように、がっしりとした肩。
 身に纏うのが法衣でなければ、彼を神父と認識する人間などいまい。
 人を見下ろすその視線。
 精神の深奥を抉るような説教。
 立ち聳えるその姿は、どんな神よりも、人の神に相応しい。
「私も再び貴方を頼る日が来るとは思いませんでした。しかし、それが思ったよりも不快ではありません」
 私の言葉に、彼は苦笑で返した。
 彼が笑っているのを見るなんて、いつ以来だろうか。
 そう考えて、はたと気付く。
 そういえば、彼はいつも笑っていた。
 私を見るたびに、神の奇跡を目撃した信徒のように、感動の笑みを浮かべていた。
 ならば、それだけ長い間、彼と会っていなかっただけのことか。
「ああ、君とこうして話すのはいつ以来だろうか。
 …そうだ、君がロンドンに発つ前だ。君は、毎日ここに来て、声が枯れるまで泣き続けた」
 遠い目の彼。そこには微塵の嘲りの色も感じられない。
「はい。本当に懐かしい。あの頃の私にとって、世界はあまりにも辛かった。だから、ここは私の救いでした」
 辛かった。
 そう、ただ辛いと言えば、本当に辛かったのだ。
 周囲のもたらす全ての苦痛が己にとって救いであると。
 そう、感じるほどには。
「正直に言うと、君はあのままシスターか何かにでもなるものだと思っていたのだ。それほどまでに、あのときの君は神に餓えていた」
 そう、なのか。
 いや、そうなのだろう。
 私は、確かに餓えていた。
 しかし、それは神にではない。
 いや、一面では神に餓えていたのかもしれないが、そうではない。
「私は、いまだかつて神になど餓えたことはありません。存在しないもの、それに対する飢えなど、錯覚以外の何物でもないしょう」
 彼は苦笑する。
「神の家でそのような暴言を、何の気負いもなく吐くことができるのは君くらいのものだろうな。
 しかし、それはそれで興味深い。あの頃の君は、家では蟲の齎す肉体的な苦痛で涙を流した。ここでは私の切開による精神的な苦痛で涙を流した。
 あの頃の君は一体何に餓えていたのだね?」
 何に餓えていたのか。
 餓えなのか。
 そうではない。どちらかといえば、そう、乾いていたのだと思う。
 飢えというよりは、乾きといったほうがより漸近だろう。
 この感覚は、私と同じ思いをした人間でなくては分かるまい。
 目の前で、愛した人間を、見捨てた、痛み。
 己を恐れ、自分が離分していく感覚。
 ただ、存在していることが許せない。
 世界が、あの子には優しくなかった世界が、私にだけ優しい。
 そこに私は悪意を見出した。
 故に、世界は私に優しくなかった。
 そう、私は、ただ罰に乾いていた。
「罪には相応の罰が必要です。
 私は、貴方のもたらす傷の切開が心地よかった。
 貴方の前でなら、私は唯の罪人として頭を垂れることが出来た。それが、本当に救いだったのです。
 何故なら、何より辛いのは、忘れることだから。
 貴方が私の傷口を抉るうちは、私はその痛みを忘れずに済む。だから、そう、私は貴方に餓えていたのでしょう」
 忘れれば、楽だろう。
 逃げれば、軽くなるだろう。
 しかし、罪は、消えてくれない。
 いつかは思い出し、いつかは追い付かれる。
 それが、なにより恐ろしかった。
 だから、私は罪を愛そうとした。ゆえに、罰を求めたのだ。
「それは光栄だ。君ほどの女性にそこまで評価されるなら、私も嬉しい
 そうそう、君には言っていなかったと思うが、私には、実の娘がいてね。
 こういった感情を抱くのは僭越にすぎると我ながら呆れるのだが、私は君を娘のように思っていた。そんな君がここまで芳醇に育ってくれるとは、私は神の存在を信じざるを得ない」
 慈愛に満ちた声。
 その声は、相変わらず私を安心させてくれる。
 なぜなら、私以上に壊れた人間の声だからだ。
 一度だけ、聞いたことがある。
 彼は、幸福を幸福と感じることが出来ない。
 美よりも醜に心を引かれ、喜劇よりも悲劇に笑う。
 彼の在り様は、ある意味では私のそれに非常に近い。
 それは、私に安心感を与えてくれる。
 そう言う意味では、私はこの男に依存しているのだろう。
「そうですか。私も、あなたの中に父親を見出したことがあります」
 父親。
 一度は失い、幸運にして再び得た存在。
 そして、今はどこにもいない、存在。
「なるほど、君が私の中に見出したのは父性の具現か。ということは、あれは君にとって近親相姦を意味していたわけだな。エディプスコンプレックスか、ふん、くだらない」
 そうだ。
 いつだったか、私はこの男に抱かれたことがある。
 私がロンドンに渡る前だったから、おそらく私はまだ両手で数えることの出来る年齢だったはずだ。しかし、その時において私の身体は既に男を受け入れることの出来る、成熟した女のそれになり果てていたのだ。
 私は全てを打ち明けて、その上でこの男に抱かれた。
 彼は私を拒絶しなかった。嫌悪もしなかった。
 彼は、ただ優しかった。
 だから、私は襲われたのではない。
 私がこの男の前で股を開いた、それだけのこと。 
「後悔しているのですか、私を抱いたことを」
 既に確定している返答を期待しながら、質問する。
「私は神の僕だ。迷える者が救いを欲するならば、あらゆる手段をもってそれに応えよう。そのことについて、私は微塵の後悔も抱かない」
「その行為を、神が禁じていたとしてでも、ですか」
 彼は目を閉じ、幸せそうに哂った。
 きっと、彼の心には確固たる神が鎮座ましましているのだろう。
「神の愛は無限だ。
 そして、神が望むのは、ただ哀れな咎人の救済のみ。故に、私がしたことは神の御意志に叶っている。今も私はそう確信しているよ」
 その時、私は初めて目の前の男に脅威を感じた。
 この男は後悔しない。
 そして、この男は何も求めない。
 この男に、私は、勝てない―――。

「さて、昔話はこれくらいにしようか。機会があるならば神の血でも用意しながら語り明かしたいところだが、時期が時期である。このような会合は短いものの方が尊ばれるな」
 その表情に快楽の余韻は無い。
 厳然と微笑む、審判者としての彼がそこにいた。
「教会を頼るということは、聖杯戦争における棄権を意味する。私には君がそこまで追い詰められているとは思えない。本当にいいのかね?」
「私が頼りたいのは教会の末端としてのあなたではありません。言峰綺礼という個人に頼りたいのです」
「詭弁だ。神の僕としての私は、私という個を作るうえで必要不可欠な要素として固定化されている。それを排除して私個人に頼ろうなど、虫が良すぎると思うが」
 問答の最中も、彼は笑みを絶やさない。
 その視線は、とても柔らか。
 まるで愛しい宝物を愛撫するかのように、慈愛に満ちている。
「貴方は教会の末端ではなく、ただ神の徒である、昔そう言っていたのを覚えています。ならば、ここに迷える子羊がいる以上、それに手を差し伸べるのは貴方の義務だ。そこに教会という組織の概念など、刺し挟む余地は無いでしょう」
「君は二重の意味で錯誤している。
 まず、私がただ神の僕であることは事実だが、しかし私がここにいるのは神を崇め奉る機関の一員としてである。君を助けるのは吝かではないが、それは私がここにいる意味そのものを否定する行為だ。意味が失われるということは、存在が失われると言うことと同義。存在しないものが君を助けることなど出来はしない。
 そして、君は自分を迷える子羊だと称したが、私の見たところ、今回の参加者のうち、君ほど自我を確固としているものはいない。あの凛ですら、その点においては君の後塵を拝さねばなるまい。その君が救いを求めたところで、私が動くことは出来ないな」
 まるで豪雨のように叩きつけられる言葉の銃弾。
 昔を思い起こさせるそれらに、奇妙なほどの快楽を感じる。
 変わらぬものがあった。
 それを確認できただけで、ここに来た価値があるというものだろう。
「…そうですね。情理をもって貴方を説き伏すなど、真なる神でもなければ不可能なことでした。
 では、これならいかがでしょうか。
 私はあなたに娯楽を提供しましょう。代わりに、あなたは私の言うとおりに動いてください」
「なるほど、等価交換、というわけか。
 そうなると、問題は娯楽の質だな。私はこれでも神に仕える身。低俗な享楽に身を委ねるなど、偉大なる父が許しはすまい。
 さて、君は私に何を求め、何を与えるつもりなのだ?」
 私は懐から小さな包みを取り出し、興味深そうに私を眺める彼に、それを放り投げた。
 彼は視線を露ほども動かさずにそれを掴み取ると、無言で中のものを取り出す。
「これは…!」
 私は内心でほくそ笑んだ。
 彼の鉄面皮を驚愕で歪めるなど、一体何者に叶おうか。例え私が突然ナイフで首を掻き切っても、彼は眉一つ動かさないだろうから。
「…確かに驚きである。師から一度だけ見せてもらった覚えがあるが、これは間違いなく遠坂の秘宝。何故君がこれを持っているのかね?」
 おそらく、手品の種を明かす幼児や、犯人を弾劾する探偵などなら、今の私の暗い喜びを理解してくれるだろうか。
 これは、誰も幸せにしない。
 おそらく、全てを不幸にする。
 それを分かって、私は彼に助力を求めるのだ。
「…あなたが、ランサーに衛宮士郎を襲わせた現場、そこに落ちていました。おそらく、遠坂姉妹はこれに込められた魔力をもって彼を蘇生させたのでしょう」
「…ほう、私がランサーのマスターと。何故、君はそのことを知っているのだ」
 彼の声に僅かな殺気が篭もる。
 それが、とても愉快。
「協会から派遣された魔術師の死体を見つけました。その死体には、左腕が無かった。令呪ごと、持ち去られたのでしょう。彼女の名前はバゼット・フラガ・マクレミッツ。封印指定の執行者。単体でもサーヴァントクラスの戦闘力を持つ化け物。そんな彼女が気を許す存在を、不幸にして私は知っていた、それだけのことです」
 彼は漏れ出していた殺気を恥じるように掻き消す、遠い過去を思い出すように視線を彼方にやった。
「…そういえば、彼女のことを君に話したことがあったか」
「ええ、寝物語で」
 たった一度だけの交わり。
 そこでかわされた、睦言といえぬ睦言。
 幼い私を抱きながら、同じベッドの中で違う女のことを語る。
 その姿があまりにも滑稽で、その名は強く記憶に焼きついた。
 だから、はっきりと覚えていたのだ。
「しかし、解せん。なぜ、彼女がバゼットだとわかった。身分証明は偽造されていたはずだ。まさか、子供のように持ち物に名前を書いていたわけでもあるまい?」
「私の知己に、時計塔の支配階級の人間がいます。その方から、今回派遣される魔術師の名前を聞いてましたから」
 時計塔の支配階級。
 ロード。
 彼女の名前は何と言ったか。
 そんなことも、あやふやだ。
 私を救ってくれた彼女。
 彼を救ってくれた彼女。
 彼女は優しかった。
 厳しく、激しく、時に恐ろしかったが。
 まるで本当の姉のように、ただ、優しかった。
「もともと彼女がランサーのマスターだと分かったのは、単なる消去法。少なくとも私の知る限り、マスターの知れないサーヴァントは彼だけでした」
「そして、バゼットから令呪を奪えるような人間は私だけ、そういうことか」
「ええ。半ばは鎌を掛けただけですが、あなたは嘘を吐けない人ですから」
「ふん、妙なところで信頼されているものだな」
 彼は私の頭に手を置いて、ぐりぐりと撫で回した。まるで、父親が成長した娘を褒め称えるかのように。
 きっと私は飼い猫のように目を細めていたと思う。
「で、君は私をどうするのかな?
 ランサーが衛宮士郎を襲ったと知ったときの君の表情、奴の視界を通じて写ったそれは、今思い出しても震えが襲ってくるほど美しかったが」
 離れていく大きな手が、なんだかとっても名残惜しい。
「あなたに利用価値があるうちは殺しません。せいぜい励みなさい、私に殺されないように」
「なるほど、私に拒否権などそもそも無かったというわけか。
 いいだろう、で、君は私に何を求めるのだ?それをまだ聞いていなかったと思うのだが」
 口では私を恐れながらも、彼は私に恐怖など感じていない。
 いや、そもそも彼に何かを強制させることができる人間など存在しないだろう。
 彼には大切なものはない。自分も含めて、悉くが無価値だ。
 ならば、脅迫など、彼にはその用をなさない。 
 それに、おそらく彼にはまだ隠し玉が存在する。
 彼が早々にランサーを動かした、その一点だけでその事実は確定的だ。もしもランサーが彼の鬼札ならば、最終局面までひたすら隠し通すだろうから。
 だから、これは単に彼の食指が動いた、それだけのことなのだろう。
「…私が望むのは、遠坂陣営の弱体化。
 そのためには手段は問いません。私はこれから彼女達の虎口に飛び込む。当然、いくらかの情報も手にするでしょう。それらは逐一あなたに報告します。それらをもって、もっとも貴方好みに課題を達成してくれればいい」
「…なるほど、了解した。
 実を言うと、この気だるい展開には聊か辟易としていたところだ。
 脅されて仕方なくならば、神もきっと許されるだろう。あくまで私が動くのは仕方なく、なのだから」
 隠し切れない喜悦に頬を歪めながら、敬虔な神の使徒は静かに宣言した。
 これからは、私も参加者となるのだ、と。
 分かっている。
 きっと、彼は私にもその研ぎ澄まされた牙を向けるだろう。
 だが、どうでもいいのだ。
 彼に殺されるなら、きっと私は天国に行ける。
 いや、そもそも私が殺されるということ自体、容易に想定し難いのだが。
「話は終わりです。お騒がせしました」
 私は静かに椅子から立ち上がる。
 私が立ち上がっても、相変わらず彼の視線は私の遥か上から突き刺さる。
「待て。幾つか確認しておきたい」
 立ち去ろうと、懺悔室の扉のノブを掴んだ私に、彼が後ろから声を掛ける。
「君は衛宮士郎を愛している。その感情が男女のそれなのか、それともそれ以外のものなのかは私の知ったところではないが、その事実に間違いはあるまい。
 遠坂姉妹は、過程はどうあれ結果としてランサーに殺されかけた彼を助けた。いわば、彼にとっての恩人だ。
 君は、彼女達を本当に殺せるのか?」
 遠坂凛。
 遠坂桜。
 彼女達を殺せば、きっと彼は私を憎むだろう。私を軽蔑するだろう。
 でも、私は。
「構いません。私にはそれだけの目的がある。立ちはだかる者には容赦しない。例えそれが肉親であったとしても、私は噛み殺してみせましょう」
「ほう、君がそれほど強く望むこと、実に興味深い。よければ話してくれないか?」
「話しません。
 願いは、意志は、それが響きを持った瞬間にただの言葉に堕する。意志は、ただ心に秘める物。違いますか?」
 沈黙は肯定だろう。
 私は静かにドアノブを回す。
 開けた空間。
 眩しいほどの陽光に照らされたそこには、十字架にかけられた神の偶像が奉ってあった。
「ならば、祈るといい。例え君が神を信じていなくても、神は君を守り給うだろう」
 薄ら笑いを浮かべた彼の声が、神の御前にて反響する。
 祈れだと?
 私に、祈れというのか。
 この薄汚れた偶像に、祈れというのか。
 ふざけるな。
 こいつが、私に何をしてくれたというのだ。
 こいつが、彼に何をしてくれたというのだ。
 おぞましい。
 万の蟲に身体を弄られるよりも、遥かに不快だ。
 こいつに祈るくらいなら、私は舌を噛んで死んでやる。
 激した感情、それを表す声高な足音。
 己の未熟の表れであるそれを忌々しく聞きながら、私はこの空間からの脱出口に向かう。
 しかし、私は足を止めた。
 一つだけ、気になったのだ。
「どうした、まだ何か用かね?それとも、本当に神に祈るつもりになったか?」
「…最後に一つだけ。
 貴方は先ほど言いましたね。私を娘のように思っている、と」
「ああ、確かにそう言った。それがどうかしたか?」
 振り返ると、彼は祭壇の前で跪いていた。まるで、己の罪を悔いるかのように。
「貴方は実の娘がいるとも言った。
 その子は、今、どこで何をしているのですか?」
「知らん。路傍で野垂れ死んだか、それとも娼婦に身を窶したか。案外、修道女にでもなっていたら、それはそれで愉快だな」
 彼の声に悔いは無い。
 ならば、彼は誰のために祈っているのだろうか。
 もう、いない誰かのためか。
 いま、苦しんでいる誰かのためか。
 それとも、これから生まれてくる不幸な定めを背負った誰かのためか。
「逆に問おうか。君は私の中に父親を見出したと言ったな。
 君の父親はどうしている?ご壮健かな?」
 きっと、私の頬は、この上なく醜く歪んだはずだ。
「一人は、火事の中で狂い死にました」
「一人は、ということは他にもいるわけか。ならばその方はどうされた?」
「食べました」
 そうか、と。
 彼の言葉には感情は無かった。
 それが、自分の罪を責めたてる様で。
 何故だか、酷く安心した。
 彼は、その声のまま私を問い責める。
「美味だったかね?」
「ええ、とっても」
 そうか、と。
 今度こそ、彼は納得したようだ。
 もう、ここに来ることもあるまい。
 ならば、彼をこの光景で見るのも最後か。
 だから、私はそれを強く心に焼き付けた。
 彼は、相変わらず神の前に頭を垂れていた。
 結局、彼は振り返ってくれなかった。
 残酷だな、私は最後にそう思った。

 



[1066] Re[25]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:59a899ab
Date: 2007/06/10 04:51
 針の筵という表現がある。
 一時も心休まらない辛い心境を表す言葉だ。
 しかし、今の俺にはそんな言葉は生温い。
 例えるならば、鉄の処女にでもかけられている気持ち。
 だって、三人の魔術師から殺気をこめた視線で睨まれているのだ。
 なんでさ? 

 episode23 魔女達の宴  
 

「一体どこに行ってたんですか、先輩♪」  
 遠坂邸の門をくぐって、一番最初にかけられた言葉がこれだ。
 玄関にて仁王立ちする桜。
 声こそにこやかに響いたが、がっちり組まれた腕と、『へ』の字に曲げられた唇、硬質な瞳の輝きは、見紛うことなくこう言っている。
 『私、怒ってます』、と。
「いや、その、実は家に帰ってたんだ。着替えとか持ってこなきゃいけなかったし」
「そんなの、アーチャーさんにでも任せればいいでしょ!」
 その一言で、この家の中にヒエラルキーのどの辺にアーチャがいるのかがよくわかる。哀れ、とは言うまい。
「大体、先輩は今体調が……って、あれ?ずいぶん顔色がよくなってますね。どれどれ」
 桜は片手を俺の額に当てて、もう片方の手を自分の額に当てた。
 ひんやりとした感触が、代羽の額を思い出させる。なんとなく気恥ずかしい。
「ふむ、ずいぶん熱が下がってますね。何かお薬でも飲みましたか?」
 さも不思議、というふうに首をかしげる彼女。少しコミカルな仕草がひどく愛らしい。
「ああ、実は……」
 『代羽に薬をもらったんだ』、そう言おうとして、緊急ブレーキ。
 桜はとんでもなく勘がいい。ここで代羽の話をしたら、きっと一から十まで話さなければならなくなる。と、いうことは、代羽から受けた精神的陵辱のことまで話さなければならなくなる可能性が濃厚だ。
 それはまずい。なんだかきっと、とんでもなくまずい気がする。
「…実は、家にとってもよく効く風邪薬があってね、それを飲んだんだ」
 嘘は言っていない。あの薬は、代羽が俺の家に持ってきてた物なんだから、『家にあった』、そう言っても語弊はないはずだ。
 こういう時に上手に嘘を吐くコツは、真実を嘘の中に混ぜ込むことだ。それによって罪悪感が減るし、なにより下手なボロが出にくくなる。
 藤ねえなんかからは『嘘を言っても、自分からばらしちゃう』とか言われる俺だが、それなりの処世術は身に着けている。
 あまり嘘はつきたくないが、これは仕方が無い。ただでさえ桜には強烈な弱みを握られているのだ。これ以上立場を弱くすれば、冗談抜きで頭が上がらなくなってしまう。
「むー、そうですか。なんか騙されてる気がしますけど。とりあえず、こんなことは今回だけにして下さいね。姉さんも、セイバーさんも心配してたんですから」
「ああ、ごめんな、桜。みんなにも謝っとくよ」
 ぱたぱたと、遠ざかる桜の背中を見ながら、ほんの少しだけ罪悪感。
 すると、桜が笑顔を浮かべて振り返った。
「おかえりなさい、先輩」
 『おかえりなさい』。
 『いらっしゃい』、じゃなくて『おかえりなさい』。
 なら、返す言葉も決まっている。
 精一杯の感謝を込めよう。
「ああ、ただいま、桜」

 とりあえず、自分に割り当てられた部屋に荷物を置いてから、映画のセットみたいな家具の揃った例の居間に向かった。
 そこにあったのは、薫り高く淹れられた紅茶の香りと、黄金色に輝く西日に照らされた色とりどりの頭髪、そして、射抜くように俺を睨みつける二組の視線。
「あら、衛宮君、ずいぶんと遅いお帰りね。桜には午前中に学校を出た、そう聞いてたんだけど」
 既に治療が終わっているのか、頬の湿布以外はいつも通りの格好に戻った凛が、百点満点の笑顔で言う。
「リン、そういうことは言うものではありません。きっと賢明なる我がマスターのこと、これからの戦いに備えた深慮遠謀あってのことに違いありませんから」
 黄金色の斜陽の光の中、なお一層輝く金砂の髪を持った剣の英霊が、これまた百点満点の笑顔を浮かべて言う。
 うふふ、あはは、と笑みを浮かべる二人だが、こめかみの辺りがひくついてるのと、背後に猛獣が如きオーラを背負っているのはご愛嬌だろうか。
 ちなみに凛が背負った猛獣は豹で、セイバーのそれは鬣も雄雄しい獅子だ。
「う、あ」
 思考よりも先に身体が反応した。
 まずい。くわれる。
 逃亡ではなく転進。
 退却ではなく戦略的撤退。
 逃げよう、全ては時が解決してくれる―――!
 くるりと身体を翻し、一目散に玄関へ!
「うふふ、どこに行くんですか、先輩」
 しかし、まわりこまれた!
 だいまおうからはにげられない!
「うふふ、どこに行く気かしら、衛宮君?」
「くす、シロウ、敵前逃亡は死罪だ、それくらいは知っているでしょう?」
 背後からは寒気のする声が響く。
 まさしく前門の虎、後門の狼―――!
 逃げ場は無い、ならば―――!

「すみませんでした、もうしません」
 フローリングの床に額を擦り付けて許しを請う。
 これぞ敗北のベストオブベスト、土下座!
 もっとも、その上には『土下寝』というものがあるが、わかってくれる人以外には火に油を注ぐ羽目になるので素人にはお勧めできない。
 俺の命の手綱を握った二人の女傑は、ソファーに鎮座して、俺を見下ろしながら、心底嬉しそうにこう言った。
「私から一本とるまでエンドレス組み手」
「強化連続成功百回」
 つまりワタクシメに死ねとおっしゃいますか。
 どうやら、らぶりーさーヴぁんとさまとあかいあくまさまは、にこやかに死刑を言い渡されたようです。
「姉さんもセイバーさんも、それくらいにしてあげたら…先輩も反省してますし…」
 桜が、あの桜が冷や汗を流しながら仲裁してくれている。
 どうやら、俺が現在置かれている状況は非常に不味いものらしい。
 津波のように危機感が押し寄せてくる。
 ああ、俺の聖杯戦争はここで終わりか…。親父、今からそっちに行くよ…代羽に限らず、やっぱり女の子は怒らすととても危険だった…。
「はぁ、今回限りよ、士郎」
「なっ、リン、この程度で許すのですか?夕食までは散々甚振る、そう言っていたあなたはどこに!」
 凛、お前そんな不吉なことを言ってたのか。
「仕方ないでしょ、セイバー。私達にはするべきことが山ほどあるんだから、ここで士郎をからかって遊んでる暇はないわ」
 私、一応は死も覚悟したんですけど、遊びですか、さいですか。
「士郎、でもこういうことは本当に今回限りにしてよ。
 予定外の行動を取るなら、せめて電話の一本でも入れること。念話ができないのはあなただけなんだから、私達から安全の確認のしようがないの。心配させないで」
「う、ごめん、本当に悪かった。もうしない、約束するよ」
 真剣な、それでいて困ったような表情で諭されると、下手な怒声よりも堪える。
「うん、じゃあこの話はこれでお終い。さ、それじゃ始めよっか」
 軽く身体を伸ばしながら、凛が言う。
「始める?何を?」
「決まってるでしょ、あなたの魔術の修行。学校から帰ってきたら始める、そう言ってなかった?」
 あ。
 そういえば、そんなことを言ってたような言ってなかったような…
「衛宮君?」
「も、もちろん覚えてたよ!いやぁ、楽しみだなぁ!」
 冷や汗を掻きながら、強引に会話を打ち切る。
 ため息を吐いた凛の背中を追って、彼女の部屋に。
 しっかりとした魔術の講義を受けるのはこれが初めて。
 見放されないように、なんとか頑張らないと。

「はあ…」
 これで何回目だろうか、桜の可憐な口からため息が漏れるのは。
 視線は彼女の姉の部屋の方向に。
 指は絶えずテーブルを叩いている。
「そんなにあの二人のことが気になるの?」
「な、何言ってるのかしら、キャスターさん!」
 弾かれたように顔をこちらに向ける桜。あまりにも微笑ましくて、つい苛めたくなってしまう。
「そんなに気になるなら、一緒に指導したらいいのに」
 思わず漏れたクスクスという私の笑い声に、桜は顔を真っ赤にした。
「そんなんじゃあ…ないから…」
 消え入りそうな彼女の声。
 私が無くしてしまった、きっと大切なもの。
「だって、私、もう汚れてるから…きっと先輩に相応しくない…」
 俯いて、一押しで崩れてしまいそうな程儚い笑みを浮かべる彼女。
「そうね、きっと相応しくないわ。
 あなたが処女じゃないから、それを汚れていると考える。
 あの坊やがそんなにつまらない男なら、そんな男、桜に相応しくない。
 ねえ、桜。あなたが惚れたのは、そんなにつまらない男なの?」
「それとこれとは…話が違うわ…」
「いいえ、多分違わない。
 要はあなたの意識の問題よ。
 あなたが自分を汚れてるって思うのは勝手だけど、この場合、きっとそれを判断するのはあなたじゃなくてあの坊や。そして、彼はそんなこと思わないと思うけど」
「………」
 桜は黙ってしまった。
 きっと私が言ったことくらい、彼女だってわかっている。
 それでも、人の理性というものは数学や魔術ほど割り切れるものではない。
 きっとお節介に違いないだろう、それでも口を開きかけた私の耳に、とんでもない轟音が飛び込んできた。
「ふざけんな、このへっぽこがーーー!」
 ―――。
 えっと、この声はあのお嬢ちゃんの声よね。
 あの子、こんなキャラだったかしら?
 そんな私の疑問を他所に、ズンズン、と明らかに不機嫌な足音が近づいてくる。
 バン、と力任せに開けられたドア。
 そこにいたのは、今まさに縄張り争いの真っ最中だ文句あるかこんにゃろめ、てな顔をした桜の姉。
「ど、どうかしましたか、リン」
 ふーっ、ふーっ、と、盛りのついた猫みたいに息を荒げて彼女はこう言った。
「ごめん、セイバー、私、あいつの指導、降りるわ」
「な、なぜ、でしょうか?」
 音に聞こえた剣の英霊も、心なしか腰が引けている。
「なぜ、ですって?」
 あ、きれた。
「あいつ!自分が使えるのは強化の魔術だけだとか言っといて!その初歩の初歩!、私なら四歳の時に出来たガラスの強化も出来ないのよ!そんなの!要するに何にも出来ないってことと一緒じゃない!あいつにまともな魔術覚えさせるくらいなら!年明け三年生偏差値30台の奴に東大合格させる方がなんぼか可能性があるわよ!ていうか!セイバー!あなた、私の召喚に応じないであんなへっぽこ大王に呼ばれるなんて!一体全体どんな了見よ!返答しだいでは即殴ッ血KILLわよ!」
 セイバーの服の襟を握り締めながら、前後に激しく揺さぶるお嬢ちゃん。声が心なしか涙声になっているのは気のせいだろうか。
「はあ、仕方ないわね、桜」
「え、は、はい!」
 自らの姉の、あまりの狂態に茫然自失していた桜は、私の呼びかけに意識を取り戻した。
「あのお嬢ちゃんが匙を投げたんだもの、私たちが教えるのは仕方の無いことよね、あの坊やのためにも」
 軽くウインクしてやると、桜は弾かれたように立ち上がった。
「は、はい!」
 聖杯戦争という、血塗られた儀式の最中とは思えないほど日常に塗れた一幕。本来なら忌むべきそれを、私は甘受している。それが、思ったほど嫌ではない。
 さて、お嬢ちゃんが匙を投げるほどのだめっぷり。一体どれほどなのかしら。魔術回路が無いとかなら手に負えないけど、そうじゃなければかえって燃える。ちぐはぐなパーツから一つの作品を完成させる、それは困難であればあるほど面白い。
 見せてもらいましょうか、坊やのへっぽこっぷりを。

 わかっている、今私はとっても不機嫌だ。
 だって、アーチャーが淹れてくれた極上の紅茶がそれほど美味しくないんだもの。
「凛、いい加減機嫌を直したまえ。あの男が使い物にならないことくらい、再三私が忠告していたことだろうが」
 すっかり冷えてしまった紅茶を新しいものに淹れなおしながら、私の忠実な給仕が話しかけてくる。
「わかってるわよ、そんなこと。今私が怒ってるのは全く別のこと」
 テーブルに肘を突いて、顎をそこに乗せる。
「なるほど、差し詰め、奴の無能っぷりを予想しながらもあまりの酷さに我慢の限界を超えてしまった自分の短気さに嫌気が差した、そんなところかな?」
 背中から響く余裕たっぷりの声が、ただでさえささくれ立った私の神経を逆撫でする。
 文句の一つでも言ってやろう、そう言って振り返った私の目に映ったのは、満面の笑みを浮かべたアーチャー。こいつ、何がそんなに嬉しいのか。私の毒気はすっかり抜かれてしまった。
「………なにわらってんのよ」
「おっと、これは失礼した。決して先ほどの君の狂態を思い出して笑っているわけではないぞ」
 …我慢我慢。
 こんな言葉にいちいち目くじら立ててたら、こいつと付き合っていくなんて不可能に近い。無視を決め込むのが何よりだ。
「率直な自己批判は即ち成長に繋がる。
 失敗を糧にする、ありきたりな言葉ではあるが、それを実行するのは困難を極める。私のマスターが、それが可能な人間だとわかって素直に嬉しいのだよ」
 …はぁ、こいつと付き合うとホント疲れるわ。散々落としてから持ち上げるなっての。どんな顔で答えたらいいかわからないじゃない。
「アーチャ…」
「ふざけてんの、このへっぽこがーーー!」
 ―――。
 …とりあえずカップを落っことさなかったことだけでも、今の私は賞賛に値するはずだ。
「…ねえ、アーチャー。私の勘違いかもしれないけど、今の声ってキャスターの声よね」
「…ああ、凛。私もひょっとしたら勘違いかもしれないが、今の声はおそらく神代の大魔術師のものに聞こえような気がしたな」
 そんな私達の葛藤を他所に、ズンズン、と明らかに不機嫌な足音が近づいてくる。
 バン、と力任せに開けられたドア。
 そこにいたのは、今まさに縄張り争いの真っ最中だ文句あるかこの駄犬が、てな顔をした桜とその従者。
「ど、どうかしましたか、サクラ、キャスター」
 神代の大魔術師は、肩をわなわなと震わせてこう言った。
「ごめんなさい、セイバー、私、あの坊やの指導、降りさせてもらうわ」
「ええ、私も。これ以上、先輩には、ついていけない」
「な、なぜ、でしょうか?」
 音に聞こえた剣の英霊も、心なしか腰が引けている。
「なぜ、ですって?」
 あ、きれた。
 っていうか、このやりとり、どっかで見たわね。
「これを見なさい、セイバー!あの坊や!これを投影だって言ったのよ!投影よ、投影!しかも!あの子の家の土蔵には!何年間も実在し続けてる投影品がごろごろしてるって言うし!しかも!これが強化の片手間だっていうし!そんな投影、聞いたことも無い!ああ、衝動的にあの子をホルマリン漬けにしなかっただけでも!今の私は賞賛に値するわ!」
 彼女の手から無造作に零れ落ちたのは一本のナイフ。
 からりと床に転がったそれは、顕在化してから既に数分は経過しているだろうに、今だ何の綻びも見せないまま存在し続けている。
 通常の投影ならばもって数分、下手をすれば顕在化した瞬間に、世界の修正力に負けて霧散するはずなのに。
 要するに、これは異常だ。投影が異常なのか、それとも彼の魔術そのものが異常なのかは定かでないが、あまりに異質すぎる。
 投影であって投影でない魔術。
 戦慄に似た寒気が私の背骨を走りぬけた。
「あの、なんていうか、その、ごめんなさい…」
 さも申し訳なさそうに現れたへっぽこ、いや、へっぽこ大王。私の目を見ると、何かにぶん殴られたみたいに後ろに倒れた。
「と…おさ……か……」
 ぱくぱくと、金魚みたいに口を動かす士郎。その様はいたって滑稽だが、今の私にはそれを笑う余裕は無い。
「ああ、御免なさい、衛宮君。今、本気で貴方に殺意を覚えたわ」
 うふふ、この馬鹿、どうしてやろうかしら。
 投影であって投影で無い魔術。
 世界の侵食を受けない模造品、いや、世界すら騙しとおす模造品。
 それは、とりもなおさず真作だ。
 真作を、無限に生み出すことが出来る、ならばそれは魔法の域にあるのではないか。
 いいじゃないか、へっぽこの分際で、なんとなくこの私を凌駕するか。
 この怒り、どうしてくれよう。これはこの世に存在する全ての魔術師の怒りだ。
 脳髄はホルマリン漬けに。
 脊髄は引きずり出して、投影専用の魔杖に。
 神経と一体化した魔術回路、これも研究の余地がある。
 肉は魔術の触媒だろうか。
 なんだ、この男、思ったより利用価値が高いじゃあないか。
 くすくすくすくす…。
「ね、姉さん、限りなく邪悪な笑みが……」
 妹の声が聞こえた気がしたが、多分気のせいだ。
「……脳はホルマリン……脊髄は杖に……」
 キャスターがぶつぶつ何か言ってる。
 どうやら大体同じことを考えているらしい。駄目よ、キャスター、こいつは私のものなんだから。
「冗談はそれくらいにしておけ、凛。そこの男、下手すればストレスで死ぬぞ」
 背後から呆れたような声が聞こえた。
「それとも、まさか本気か?
 別に構わないが、結界の解呪もままならぬのに、そこの騎士と戦うのは聊か私も気が重い」
 ちらりと横を見ると、さすがに不機嫌そうにこちらを見るセイバーがいた。
 そういえば、この子の存在を忘れていたわね。
 ちぇっ、と心の中で舌打ち一つ。
「ふん、冗談よ、冗談。
 でも、これで分かったわ、士郎。あなたの魔術の本質は投影よ。少なくとも、強化や変化なんかよりはそちらの方が近い場所にあるわ。今からは投影の修行を中心に行いなさい」
 実は結構残念に思いながらも、話を建設的な方向に持っていく。
 私は見た事が無いから知らないのだが、桜によると、彼は弓が達者らしい。
 弓矢は、古来より破魔の呪具としての性格が強い。もちろん、サーヴァント相手にそれが通用するとは思えないが、対マスターに限定するならかなり有効な武具になる。
 そして、矢を投影で用意することが出来れば、弾切れの心配が無い。もちろん、魔力切れの心配が出てくるが、全ての魔術回路が覚醒して以来、彼の魔力精製量は中々のもの、そう簡単にガス欠は起こさないだろう。
「あ、ああ、わかった、ありがとう、凛」
 蒼白な顔色で、それでも立ち上がった士郎。
 ふん、情けないわね、あれくらいのプレッシャーで参るなんて、やっぱりまだまだへっぽこだ。
「さ、とりあえずあなたの魔術の特性はわかったわ。あとは属性ね。計測用の魔具もこの家なら事欠かないし、今から始めましょう」
 士郎を伴って地下へ降りる。
 彼の隣には、少し剣呑な空気を漂わせる剣の英霊。
 失礼な、私が彼を襲うとでも思っているんだろうか。
 ああ、でも、さっきのアイデア、惜しいなあ。



[1066] Re[27]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆7d422974
Date: 2007/06/23 19:44
 俺の魔術性質の測定には思いのほか長い時間を要した。
 ああでもない、こうでもない、凛と桜、そしてキャスターが喧々諤々の議論を戦わせた後、最終的に判明した性質が『剣』。
 凛は『は?そんな性質あったの?』となかば本気で驚き、桜は『うーん、なんとなくらしいです』と微妙に失礼な感想を述べ、キャスターは表情を消して黙り込んだ。
 本来、『根源に至る』という魔術師の悲願からすれば微妙にベクトルのずれた性質、しかし、こと戦いにおいてはこれほど向いた性質も他にはあるまい。
「んー、士郎が魔術師としての道を目指すなら、お世辞にも褒められたもんじゃないけど、今、この時期に状況を限定するならこれは素晴らしい性質ね」
 微妙に判別に困る表情をした凛が言う。
 確かに、普通はそうなのだろう。凛の五大元素や桜の虚数属性は言うに及ばず、例えば水や火といった単一の属性なんかよりも研究には向いていない属性だろう。
 でも、俺は自分の魔術の性質を聞いて、飛び上がりそうなほど嬉しかった。
 なぜなら、俺が目指すのは魔術師ではなく正義の味方。
 求めるのは真理ではなくみんなの笑ってる顔。
 それを目指すためには、どうしても戦う力がいる。少なくとも、自分と、自分に近しい人達を守れるくらいの力は必要だ。
 だから、この性質はうってつけ。
 顔も忘れてしまった本当の両親に、少しだけ感謝した。

 episode24 彼女の傷口

 ぴんぽーん、と来客を告げるチャイムが鳴る。
「はーい、ちょっと待ってくださーい」
 まだ、少し目の赤い桜が床から立ち上がり、ぱたぱたと玄関までかけて行く。
 時間は既に午後の7時。ビジネスライクな冬の太陽は既にその仕事を終えている。
 こんな時間の来客、しかも時期が時期だ、本来ならばそれなりの不信感を覚えて然るべきなのだろう。第一、明確な目的を持たない客など、この家に張られた人払いの結界が排除する。
 しかし、俺達の間には特に緊張感のようなものは無かった。なぜなら、時間外れの訪問者の正体を、既に全員が知っているからだ。
 彼女の来訪は、事後承諾ではあったものの、既に了承を取り付けてある。凛などは少し渋ったが、マキリという家系の異常性を考えればやむを得ない処理だと考えたのだろう、最後には快く認めてくれた。
 ぱたぱたと、廊下から足音が近づいてくる。
 行きは一つだったものが、帰りは二つに。少しだけ楽しげな声も聞こえてくる。
 がちゃ、と扉が開く。
 そこにいたには、二人の美しい少女。
 桜と、代羽が、笑っていた。
「お邪魔します、遠坂先輩」
 台所で鍋を振るう凛が、にこやかに応じる。
「いらっしゃい、代羽」


 魔術の属性の検査が終わった後、俺は代羽を招いたことを凛達に告げた。
「また勝手なことを…」
 ソファに腰掛けた凛は、そう唸ってから両手で顔を覆ったが、
「いいじゃないですか、姉さん」
 と、桜は少し嬉しそうだった。彼女と代羽は大変仲がいい。ちょっとしたお泊り会、そんな感覚もあるのかもしれない。
 間桐代羽。
 俺や凛の後輩で、桜の親友。
 彼女の置かれた立場は非常に微妙なものだ。
 魔道の家系に生まれながら、魔術回路を持たない。
 本来庇護されるべき立場でありながら、家族にはサーヴァントの食料として襲われる。
 そして、家族の敵である俺達に、その身を保護される。
 どうにも、あやふやで、何かがずれている、そんな錯覚を覚える。
「しかし、代羽も可哀相だよな」
 なんとなく呟いた俺の言葉に、不機嫌そうに凛が応じる。
「それ、絶対本人の前では言わないこと。普通の人間なら、侮辱されたって感じるわよ」
「分かってるよ。
 でも、もしあいつが生まれたのが間桐なんて家じゃなかったら、こんな厄介事に巻き込まれなかったのに、そう思ったんだ」
「あれ、士郎、言ってなかった?代羽は間桐の実子じゃないわよ」
 えっ?
 そんな話、聞いたこと無いぞ。
「…初耳だ。そんな話、どこで聞いたんだ?」

 我ながら固い声。何故だか知らないが、両手を硬く握り締めている。
 身体が、震える。まるで何かを拒絶しているみたいだ。
 何で?
 耳――――せ。
 何で?
 ―を、閉ざせ。
 何で?
 耳を、閉ざ―。
 何で?
 聞けば、呪わ――ぞ。
 何で?
 悪夢―、魘されるぞ。
 何で?
 知らなくてもいい。
 お前だけは、知ってはならない。
 お前は、それでも。

「誰にも聞いてないわ。幾つかの資料による推測ね。
 それに、そう考えないと辻褄が合わないの。1+1は2でしょ?1-1はゼロ。Xから1を引いて1を残すためには、Xは2以上の数でないといけない。でも、Xは最初は間違いなくゼロだった。だから、途中で増えたとしか思えないのよ」
 …?
 よく、分からない。
 凛の話が難しいのか、ぐるぐると黒いものが渦巻く俺の脳味噌がスカスカなのかは知らないが、少なくとも俺は凛の意図するところが分からない。
 だから、ここが徳俵だ。
 残っても、きっと苦しいことだけ。
 下がれば、楽になれる。
 なのに、なんで俺は。
「…凛、もう少し詳しく説明してくれるとありがたい。最近、訳のわからないことばかりで、すこし混乱してる」
「わからない?つまりね―――」
 そこまで言ってから、凛の視線が俺から逸れた。
 彼女が見たのは、俺の隣に座っていた自分の妹。
 桜を見た後で、凛は、後悔に顔を歪めた。
「………ごめんなさい、衛宮君。さっきの話は忘れて。少なくとも、これからの私達の戦いに影響を与えるようなものじゃないと思うから」
 その異常に、俺も桜を見る。
 彼女は、震えていた。
 まるでおこりを患ったみたいに、がたがたと。
 顔色は真っ青で、その見開いた瞳は僅かながら涙に濡れていた。
「さくら―――」
「ごめん、士郎、今は何も聞かないで。
 桜、御免なさい。許して、なんて言えないけど本当に―――」
「大丈夫です、姉さん、私は大丈夫」
 震える体を叱咤するように、少し強い声を出した桜は、無理矢理作った笑顔で微笑んだ。
 しかし、やはり身体を襲う震えは収まっていなかったし、その顔色は死人のそれに近い。
「そろそろ、話すべきなんだと思っていました。先輩が魔術の世界に足を踏み入れた以上、黙っていてもいずれはばれることですから、きっといい機会なのでしょう」
「止めなさい、桜!あなたには、まだ早い!」
「いいえ、姉さん。今しかないのです。今が、いいんです!」
 その言葉が表すのは、激情。
 そして、しばしの沈黙。
 誰も、何も話さない。
 ただ、キャスターだけが、母親みたいに優しい表情で自らの主を見つめていた。
 やがて、桜は口を開いた。
 まるで、飲み下した毒の棘を吐き出すかのように、重々しく口を開いた。
 その表情は、僅かな笑みと、それを凌駕する悲しみで彩られていた。
「先輩、私はね、もう、処女じゃないんです」


 殺したくなる。
 自分を、殺したくなる。
 うっかり、では済まされない。
 そんな言葉で、許されることではない。
 妹の、私の妹の、おそらくは一番脆い箇所。
 脆くて、そして、間違いなく一番痛い場所。
 そこを、ハンマーでぶん殴っておいて、うっかりでした、なんかで済むものか。
 呪いだと?
 遺伝だと?
 そんな言葉、ただの甘えだ。
 人は、原因ではなく、ただ結果にのみ責任を負うべき生き物だ。自由意志を持つという建前がある以上、それは間違いない。
 なら、私に背負えるのか?
 愛しい人間の前で、一番見せたくない傷を、暴いてしまった。
 この上なく、妹を傷つけた。
 その罪を、背負えるのか?
 許されるか?
 許されない。
 許して欲しい。
 許されてはならない。
 許されるべきでは、ない。
 後悔。
 私には、珍しい感情だと思う。
 いつもなら、起きたことは仕方ないと、無理矢理にでも思考を切り替える。
 後悔から、反省に。
 でも、今は不可能だ。
 こんなこと、反省のしようが無い。
 ああ、この一事をもって、地獄の門番は、私のために特等席を用意したことだろう。
「さくら、なにを…」
 呆然とした、士郎の声。
 それは悲痛というよりは、むしろ間抜けな響きをもって部屋に響いた。
 きっと、こいつはまだ事態が飲み込めていないのだと思う。
 飲み込んだら、きっとこの男は激怒するから。
 誰よりも、彼自身に対して。
「私は、昔、親に捨てられました。いらない子だということで、養子に出されたんです」
 いつしか、桜の震えは収まっていた。顔色は相変わらず土気色と言っていいほど真っ青だが、その視線には僅かな力が感じられる。
「今では、詳しいことは覚えていません。きっと、遠坂に帰される時に記憶を全て奪われたんだと思います。覚えているのは、私をもののように扱う冷たい視線と、帰っていい、と言われたときの安堵だけ。
 でも、きっとそれは幸せなことなんだと思います。きっと、あの家でのことを覚えていたら、私は私で無くなる」
 私は、ぎり、と、唇を噛んだ。
 微かな痛みと共に、口の中を鉄の味が満たす。
「でもね、先輩、私は魔術師だから、自分の身体のことは、誰よりの自分がよく分かるの。だから、分かるんです。私の身体は、既に男性を受け入れた事がある、と」
 拳を、握り締める。
 必要以上に力を込めたからだろう、ばきり、と爪が割れた。
「ときどき、夢を見るんです。どろどろとした、うねうねとした、なんだかよくわからないモノに犯される夢。きっと、あの家で私が体験したこと、なんでしょうね」
 それが、まるで自分の罪であるかのように。
 桜は、厳かに、頭を垂れた。

「…桜、お前がその家に貰われたのは、いつだ」
 士郎が、やっとの声を、搾り出す。
「…多分、五歳の時です」
 桜が、やっとの声で、そう応える。
「…桜、お前が遠坂に帰ってきたのは、いつだ」
 士郎が、自分で傷を、作り出す。
「…多分、六歳の時です」
 桜が、自分の傷口を、抉り出す。

 私は、何も、言えない。
 言う、資格が、無いから。
 だから、ただ、願う。
 この男が、桜の、救いになるように。
 お願い、士郎。
 桜を、助けて。
 私達を、助けて。

 天使が踊るみたいな沈黙。
 時計の針の音だけが、意地悪に響く。
 やがて、彼は桜を抱きしめた、
 優しい外見からは想像もつかないほど、逞しい両手と、分厚い胸板で。
 彼は、無言。
 何も、話さない。
 言葉は無力だ、まるでそう理解しているかのように。
 多分、それは正しい。
 言葉なんて、本当に、無力。
 だって、神が最初に作ったのが、言葉だから。
 役立たずな神様が作ったんだもの、役に立つはずが無い。
 人を救うのは、きっと、そんなものじゃない。
「先輩…?」
 桜は呟く。まるで、父親に甘える幼子みたいに。
 だから、きっとそれは桜にとって初めての経験なのだろう。
 桜は、父に抱きしめられたことなんて、ないはずだから。
「何も、言わなくていい」
 その声は、本当に。
 父親みたいに、優しかった。
「ねえ、先輩。ひとつ、お願いがあります」
「…いいぞ、オッケーだ」
「…ふふ、私、まだ、どんなお願いするか、言ってませんよ?」
「ああ、知ってる。でも、オッケーだ」
 ああ、わかった。
 こいつは、魔法使いだ。
 誰にも出来ない奇跡を叶えるのが、魔法使いの定義。
 なら、こいつは今、魔法を唱えた。
 だって、桜が笑ったもの。
 他の誰が、どんなに長い時間をかけても、どんなにお金をかけても、きっと出来ないこと。
 それを、あっさり実現したんだもの。
 だから、こいつはきっと魔法使いだ。
 他の誰が否定しても、私は彼を認めよう。
 そう、誓った。
「私は、きっと立ち直れます。でも、今は駄目。ほんの少しだけ、泣きたい。先輩、シャツを汚してしまうかも知れません、いいですか?」
 士郎は何も答えない。
 だって、あいつは桜に白紙委任状をきっているから。
 そんなこと、とっくに既定事項だ。
 ただ、桜を抱きしめる右手に、僅かに力を込めた。
 桜は、心地よさそうに頬を緩めて。
 気持ちよさそうに、泣き始めた。
「―――っひ、ぐっ、うええ、うえええええぇぇぇぇ…」
 しっかりと桜を抱きしめる士郎と。
 士郎の胸に縋って泣く桜。
 その姿は、まるで一枚の聖画のように、私の心に消えない軌跡を残した。

 およそ十分ほど泣き続けただろうか、桜はやがて眠りに落ちた。
 俺は桜を抱き上げると、ソファに寝かしつけた。
「ありがとう、士郎」
 凛は自分の手をじっと見つめながら、そう言った。
 その手には、微かに血が滲んでいる。よほど強い力で握り締めたのだろう。
「…俺は、何もしてないよ」
「…知ってる。でも、ありがとう」
「そうね、お嬢ちゃん、あなたは坊やに感謝する必要があるわ。もし、桜が笑わなかったら、私がお嬢ちゃんを殺していたもの」
 キャスターはそう言って笑った。
 その声には一点の曇りも無かったが、それゆえに彼女が一点の曇りもなく本気なのだということが分かる。
「ええ、そうね。殺されても仕方ないことを私はしたわ。でも、私を殺さないで、キャスター。貴方が私を殺したら、きっとあの子が苦しむから」
 きっと、凛も本気だ。
 自分は殺されても仕方ないほどの罪を犯した、そう考えているに違いない。
 でも、それは。
「凛、あの少女は、君が罪悪感に苦しむ様など、望んではいないはずだ」
 部屋の片隅、今では彼の指定の立ち位置になったそこで、相も変わらず視線を明後日にやりながら、彼女の忠実なサーヴァントはそう言った。
「…わかってる」
「わかっているなら、速やかに実行しろ。それが魔術師たる君ではなかったか」
 喉元まで出掛かった怒声を、俺は飲み込んだ。
 この二人の間に、俺が口を挟む余地など無い、そんな簡単なことに気がついたからだ。
 厳しい口調は信頼の表れ。
 睨み付ける視線は、感謝の代わり。
「…ありがとう、アーチャー。あなた、いっぺん地獄に落ちなさい」
「ふん、君と一緒でなければ大歓迎だ」
 刺し殺すような凛の視線を涼やかに受け止めたアーチャーは、視線を明後日の方向に戻してから皮肉な笑みを浮かべた。
 凛は大きく溜息を吐いてから、俺の方に向き直った。
「さて、まだ聞きたいことはある?多分、一番くそったれな部分は終わったから、後は爽やかな話しかないけどね」
 当然だ。
 これで遠慮したら、俺は桜に合わす顔が無くなってしまう。
「…桜が貰われた家って言うのは」
「気付いてるでしょう?間桐、いえ、マキリという家系よ」
 マキリ。
 思い出すのは、あの夜。
 枯れた声で笑う翁と、粘りつくような不快な声で嗤う髑髏。
 白い髑髏のサーヴァントと、紫の長髪のサーヴァント。
 あいつらが。
 あいつらが、桜を泣かせたか。
「前も話したと思うけど、あそこは堕ちた家系でね、もう魔術の才のある子供は生まれない。そういう家は、どうすると思う?」
「…足りないものは、別の場所から補うのが魔術師、か」
「そういうこと。そして、あの家に養子をやったのは、古くから盟友関係にある家で、その名は遠坂。それだけのことよ」
 それだけのこと。
 それだけのことのために、桜は苦しんでるのか。
「父が何で桜を養子に出したのかはわからない。ただ、不用品を処分しただけなのかもしれないし、それ以外の意図があったのかもしれない。結果としては、桜は養子に出され、しばらくしてから帰された。それだけよ」
「魔術師が養子を取る理由って…」
「大きく分けて二つ。正統な後継者にする場合と、後継者を生むための子種、もしくは胎盤として必要な場合。政略結婚を原色ばりばりにどぎつくした奴って言えばわかりやすいかな。
 でも、よっぽどのことが無い限り養子を正統な後継者に挿げることはないわ。だって、魔術刻印が継げないんだから。
 だから、多分桜も胎盤として利用するつもりで貰われたんだと思う」
 胎盤、だと。
 人格なんて無視して、ただ子供を生むための道具として育てるってことか。
 なんて、ことを―――。
「ストップ。
 だいたいあんたの考えてることはわかるけど、こんなのまだマシな方よ。普通は長子以外は魔術の知識のない一般人として育てられることが多いんだけど、実際、魔術師に後継者は二人は要らないわけだし、極端な家系だと二人目からは魔術の実験動物として育てるケースもあるんだから」
 怒りで、気が遠くなる。
 ただ、この怒りが誰に向けられたものなのかが、わからない。
 こんなことを事も無げに説明する凛に向けられたものか?
 違う。
 では、そんな外道を当たり前のように行う顔も知らない魔術師達に、か?
 それも違う。顔も知らない奴らを真剣に憎めるほど、俺は器用じゃない。
 だから、これは自分に対して向けられた怒りだ。
 自分の無知。そんな世界があることを知らず、日々を安穏と過ごしていた自分に対する怒りなのだと思う。
「…とにかく、桜は胎盤としてマキリに引き取られた。そこまではわかったよ。でも、じゃあ何で桜はこの家に帰ることが出来たんだ?結局あの爺のお眼鏡に適わなかったってことか?」
「…ありえないことじゃないけど、その可能性は低いわ。あの子、才能だけなら私以上よ。私も天才だけど、あの子は鬼才ね。だって、魔術刻印を継承していないのに、ほとんど私と同じだけの性能を誇ってるんだもの。異常よ、それって。
 少なくとも、堕ちたマキリ如きが食わず嫌いしていいような素材じゃない。
 だから、私はこう思ってるの。そもそも不要だったんじゃなくて、後から不要になったんじゃないか、って」
「状況が変化した、そういうことか」
 もともと、喉から手が出るほど欲しかったものを、あっさりと捨て去る。よっぽど趣向が合わない等の特殊な状況を除けば、その理由は限られてくる。
 例えば、マキリという家が魔道を捨て去った場合などはこれに当たるだろう。もしそうなれば、後継者を生み出す胎盤など無用の長物だし、その魔術的才能はかえって煩わしいものになるかもしれない。ならば、それをもとあった場所に帰すという選択肢もあり得る。
 しかし、現にマキリは魔道を受け継いでいる。ならば考えられる理由は、唯一つ―――。
「多分、もっと性能のいい胎盤が見つかった、それが理由でしょうね」
 まるで俺の思考を読んだみたいに、凛が言った。
 性能のいい胎盤。
 そんな女性がマキリにいるのか?
「最初は、代羽がそれだと思ったわ」

 がつん、と。
 後頭部を、堅い何かで殴られたみたいに、眩暈が、した。
 年端もいかない幼子を、犯すような家系。
 魔術師である桜が、今も魘されるような悪夢。
 代羽が、それを味わったというのか。
 今も、味わっていると、いうのか。
 代羽が、俺の■■さん、が―――。

「士郎、士郎、しっかりして!」
「シロウ、気をしっかり持って下さい!」
 気付いたら、目の前に、凛とセイバーがいて。
 なんだか、酷く安心した。
「ああ、俺は大丈夫、話を切れさせて悪かった。続けてくれ、凛」
「…止めるって言っても聞かないでしょうね、あなたは。
 とりあえず、最初に疑ったのは代羽がマキリの後継者なんじゃないかってこと。
 彼女、少なくとも桜が養子に出された時点ではマキリにはいなかった。父さんの日記にも彼女の記述は無いし、契約時に受け取った家系図なんかにも彼女の名前は無い。これは確実だと思うの。でも、今彼女は確かに間桐の姓を受け継いでる。疑うのが当然でしょ?」
「それが、さっき言ってた『途中で増えた』っていうことか」
「そういうこと。マキリの胎盤は、最低一人は存在しないといけない。でも、桜は遠坂に帰されたし、もともとその適正のある子供はいないはず。せいぜい慎二くらいね、いたのは。
 だから、桜が帰された時点で後継者か胎盤か、少なくとも一人はいないと説明がつかないのよ」
「じゃあ、じゃあ、代羽は―――」

 駄目だ。
 眩暈が、襲ってくる。
 眩暈が。『では問おう、衛宮士郎。』
 眩暈が。『君は、衛宮切嗣に引き取られて』
 眩暈が。『幸福だったかね?』
 眩暈が。『―――そうか』
 眩暈が。『衛宮士郎、これが正真、』
 眩暈が。『最後の忠告になろう』
 眩暈が。『不幸とは己の業の深さ』
 眩暈が。『が呼び寄せるものだが、幸福』
 眩暈が。『とはただ神の御業に過ぎぬ。』
 眩暈が。『それが降りかか』
 眩暈が。『ったことについて、君』
 眩暈が。『が恥じ入ることなど何一』
 眩暈が。『つ無い。』
 眩暈が。『むしろ誇るがいい』
 眩暈が。『君は神に愛されている』
 眩暈が。『君は神に愛されている』
 眩暈が。『君は神に愛されている』
 眩暈が。『君は神に愛されているが、』
 眩暈が。『君は神に愛されているが、しかし、』

『神が愛し忘れた者も、確かに存在するのだよ』

「違うわ、彼女は胎盤でも後継者でもない」
 縋るように、凛を見る。
 今、彼女が自分の言葉を翻して、実は代羽が、なんて言い始めたら。
 俺は、俺でいる自信が、ない。
「前に言ったでしょ?『彼女とはちょっとした因縁がある』って。これがその因縁。桜と入れ替わりに養子としてもらわれた子供。嫌疑は十分よ、そんなもの。
 だから、調べたわ。それこそ、身体の隅から隅まで徹底的に。でも、彼女は魔術師でもないし、マスターでもない。おそらく、虐待なんかも受けてないと思う」
 妙に自信に満ちた、凛の笑み。
「…どうして、そんなことが、断言できる…?」
 ああ、わかってるんだ。
 俺には、わかってしまった。
 きっと、彼女は。
 あの神父の言ってることは―――。
「前に、代羽があなたの家に担ぎ込まれた時のこと、覚えてる?」

 ふらふらと、幽鬼のような足取りで、近づいてくる彼女。

「あの時、『性的な暴行を受けた痕跡は無かった』って言ったでしょ」

 助けて、助けて、助けて、■■■―――。

「彼女、まだ処女なの」

 助けて、■■■―――。



[1066] Re[28]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:54722139
Date: 2007/06/14 20:46
「落ち着いた?」
 中国製の可愛らしい茶器。そこから香るジャスミンの香り。
 情けない話だが、どうやら俺は少しの間意識を失っていたらしい。
 頭がガンガンする。
 何か、物凄く大事なことを考えていたはずなのだ。
 それに手が掛かりかけたはずなのだ。
 それが、まるで虹のように、手が届かない。
 蜃気楼を追いかける旅人というのは、きっとこんな気持ちなのだろうか。
「ああ、大丈夫……、桜は?」
 俺の隣のソファで眠っていたはずの桜がいない。
「あの子、今シャワーを使ってる」
「…そうか」
 桜があんな辛い記憶を抱えていたなんて、全く知らなかった。
 考えてみれば、俺は桜にどれだけ救われたのだろう。
 バイトが終わって家に帰ったとき、灯りのついた玄関で出迎えてくれた。
 無機質な電子音じゃなくて、優しい声で起してくれた。
 あの、無闇に広かった家が、ほんの少しだけ狭くなった。
 そして、とても暖かくなった。
 なのに。
 なのに、俺は桜に何かをしてあげたことがあるんだろうか。
 俺は。
「士郎。難しいと思うけど、あの子に気を使おうとしないで。きっと、それは何よりも辛いと思うから。出来るだけ今までどおりに接してあげて」
 凛は、その端整な顔に隠しきれない後悔の色を浮かべながらそう呟いた。
 わかっている。
 それが、桜にとって最も望ましいことだというのはわかっている。
 しかし、人間はそれほど単純ではない。
 痛い場所に触られれば涙を流すし、壊れそうな場所には上手に触れられない。
 だから、きっと、俺は、桜を…。
「…ん?」
 どたどたと、なんか凄い音が聞こえた。
 その音は明らかに近づいてきている。
 これもドップラー効果というのだろうか、音が少しずつ不吉なものに聞こえてくる。
 …何か、嫌な予感がする。

「せんぱいいいい―――っ!」

 バン、と。
 本来、有り得ないほどの勢いで、扉が開く。
 きっと、あの扉に挟まれたら、漫画みたいにぺらぺらになってしまうのではないか、そんな勢い。
 声の主は、桜。
 ゆったりとした部屋着に着替え、長い髪の毛はポニーテールの要領で一つに括られている。
 風呂上りだからだろうか、少し朱の差した頬が妙に色っぽい。
 普段と違うその姿に、心ならずもドキリとしてしまう。
 でも。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ」
 扉を開けたまま固まった彼女。
 両手を広げて、まるで通せんぼするみたいな姿勢。
 きっと全力疾走してきたのだろう。
 風呂場と居間とは、およそ二十メートル。余程の勢いで走らなければ息の切れるような距離ではない。
 だから、桜は余程の勢いで走ってきたのだと思う。
「ど、どうしたの、桜?」
 流石の凛も、少し及び腰だ。
 それもそのはず、桜の赤く泣き腫らした目には、俺なんかでもそれとわかる欲望の光が灯っている。
「せ、せんぱい、さ、さっきの、むーどは、まだ、きげん、ぎれじゃ、ありませんよね?」
 ぜえぜえと喘ぎながら、息も絶え絶えにそう言った桜。
 さっきの約束。

『ねえ、先輩。ひとつ、お願いがあります』
『…いいぞ、オッケーだ』
『…ふふ、私、まだ、どんなお願いするか、言ってませんよ?』
『ああ、知ってる。でも、オッケーだ』

 短い会話と、そこに込めた愛情。
 ああ、我ながらよくやったと思うよ。
 だから桜、その何かを期待したぎらついた瞳、止めてくんない?

「ねえ、先輩。もうひとつ、お願いがあります」
「…駄目。断る」
「…あの、私、まだ、どんなお願いするか、言ってませんよ?」
「ああ、知ってる。でも、アウト」

 がっくりと、桜は地に伏せた。
 まるで、KOパンチを喰らったボクサーみたいに、そりゃあもうがっくりと。
「うふ、うふふ、私の馬鹿…あんな美味しいシチュエーションで、何であんなにつまらない約束を…」
 ぶつぶつと呟く桜。
 恋人とか、結婚とか、奴隷とか、サーヴァントとか、いやんな台詞が聞こえてきたのは気のせいったら気のせいだ。
 これは、桜なりの努力に違いない。
 俺との間に不自然な継ぎ目を作らないために、わざわざ無理をしているのだ。
 そうに決まっている、俺にはわかるぞ、桜。
 俺にはわかってるから。
 くすくす笑いながら影を広げるのは止めなさい。
「大丈夫よ、桜、チャンスはまだまだあるわ」
 崩れ落ちた桜に優しく語り掛けるキャスター。
「男なんて単純だもの、いくらでも落としようはある。この私が付いてるのよ、アルゴー船に乗ったつもりでまかせなさい」
「キャスター…」
 きらきらとした瞳で見つめあい、手を硬く握りかわした主従。
 美しい光景だと思う。
 ただ、俺が当事者でなければ。
 そんな、馬鹿げた、でも優しい会話をしていたら、ぴんぽーんとチャイムが鳴ったのだ。
「はーい、ちょっと待ってくださーい」 
 桜はすっくと立ち上がった。
 来客は誰か、予想はついている。
 きっと、代羽だ。
 そう考えてから。
 やっぱり、少しだけ、頭が痛くなった。

 episode25 Scissorman
 
 今日の夕食は凛が作った。
 彼女が負傷したのは昨日の今日だったので、いかに当番制とはいえ交代を申し出たのだが、『これ以上負けてられるか』という気合の篭もった一言で俺の思いやりは封殺された。
 凛が作ったのは中華料理。
 本格中華料理店も顔負けの超強力な火力で作られたそれは、びっくりするほど美味しかった。そして、食卓を彩る多彩な料理が全て食べごろの温度で出されたのには、脅威すら覚えた。
「ああ、満足です……」
 蕩けるような忘我の表情を浮かべたセイバー。
「むぅ……この味、オレを凌駕するか…」
 俺の料理にはいちいち批評を忘れないアーチャーも、どうやらぐうの音も出ないらしい。
「うーん、これはポイント高いわね…。桜を鍛えないと…」
 ぶつぶつとよく分からないことを呟くキャスター。なにかよくない予感がした。
 代羽はただ無言。
 でも、時々思い出したように溜息をしたり、驚きに目を見開くのは、きっと降参のサインだと思う。
 うんうんと頷く凛。その表情は勝者のそれだ。
 とりあえず、俺の表情は敗者のそれだったと思う。

 風呂から上がり、楽しそうな声に誘われて居間に戻ると、そこにはパラダイスが広がっていた。
 テーブルは取り払われ、かなり広いスペースが確保されている。
 そこに引かれたタオルケットと、その上に並べられたお菓子と紙コップと酒瓶。
 それらを囲むのは色取り取りの美しい花々。
 凛、桜、代羽、セイバー、キャスター。
「あ、士郎、もうお風呂はいいの?」
 普段はツーテールに纏めた髪を下ろし、猫柄プリントのパジャマを着た凛。
「先輩は早いですよ、カラスの行水です」
 酒精に頬を赤らめ、緩んだ顔の桜。
「へえ、そんなことまではやいのですか、あなたは」
 腰まで届く長髪を結い上げ、灰色の地味なスウェットの上下を着た代羽。
「ほうほう、これがブリテンのエールですか、中々味わい深い…」
 代羽とは逆に、普段は結い上げた髪を下ろしたセイバー。いつもの凛々しさはどこへやら、妙に幼く見える。
「んー、もう少し強いのはないのかしら?こんなジュースじゃ酔えないわ」
 普段はぶ厚いローブに隠した大人の色香漂う素顔を衆目に晒し、ネグリジェを纏った完全武装のキャスター。
 所狭しと並べられた酒。
 見たことのあるラベルもあれば、初めて見るものもある。
 コンビニで売っているような缶ビールから、如何にも高級酒ですと言わんばかりに凝った造りの酒瓶まで、より取り見取りだ。
 パジャマパーティーまではわかるが、なんで酒盛りを始めてんだ、君達は。
「衛宮先輩、一杯いかがですか?」
 しなだれかかるように酒を勧めてきたのは代羽。
 ほんのり赤くなった頬が、結い上げられた項とあいまって、とんでもなく色っぽい。
「へえ、代羽、それカミュのナポレオン?結構いいの持ってきたわね」
 にやりと笑った代羽。
「お爺様の秘蔵の一品です。せいぜい盛大に飲んでやりましょう」
「そりゃあいいわ。寄越しなさい、鯨みたいに飲んでやる」
 まるで敵を見るような目つきで酒瓶を傾けた凛は、コップになみなみと注がれたブランデーを一気に乾かした。
「流石、遠坂先輩、最高の飲みっぷりです」
「当たり前でしょ、怪奇バグ爺さんがなんぼのもんだってのよ!」
「ええ、全くです!お爺様のコレクション、全て空にしてやりましょう!」
「乗った、代羽!」
 …駄目だ。完璧に出来上がってる。
 いくら快楽主義者を自称する凛でも、この時期にここまで飲むのはどうかと思うぞ。今は戦争中、なんて言っても聞かないだろうなあ。
 アルコールに弱い俺は、そんなことを考えながらワインをジュースで割ったものをちびちびと飲んでいる。こんなの、今の凛に見つかったらなんて言われるかわかったもんじゃない。
 そういえば、凛の従者は何をしているのだろうか。
 ちらりと周りを見る。
 アーチャーは喧騒の輪から一歩引いたところで静かにコップを傾けていた。その姿は嫉妬すら覚えないくらい様になっているが、その表情が妙に緩んでいるのは男の性だろう。
 だって、ここにいるのは揃いも揃って絶世の美女。しかも、酒にやられて隙だらけの姿を見せているのだ。
 ああ、サーヴァントだって男だもんな、そんなことを考えていると、奴と目が合った。
 奴は、その鷹のように鋭い瞳に、圧倒的な意志を込めて語りかけてくる。
『衛宮士郎、これが我らのアヴァロンだ』
『オーケー、把握した』
 びっ、と親指を立てる。
 あいつはそれを見て少し笑った後。
 紙コップを握ったその手で、ほんの少しだけ親指を立てた。
 ああ、この想いは、間違いなんかじゃない。
「…あんた達、何目と目で通じ合ってんのよ、気持ち悪い」
「先輩、同性愛なんて非生産的な真似、私が許しません!」
「あら、私は祝福しますよ、先輩」
「むう、シロウ、私よりもアーチャーを選ぶというのですか、あなたは」
「ふふ、私達の時代なら男同士なんて珍しいものじゃなかったわ。いいじゃない、醜くて」
 …女が三人寄れば姦しいとはよく言う言葉だが、五人集まると収拾のつけようが無い。
 ぎゃあぎゃあと喚く美しい花達。
 俺とアーチャーは、それに食べられる哀れな虫。
 合掌。


 宴もたけなわ。
 乱立する空の酒瓶、食い散らかされたお菓子。
 既に桜は眠りの国の住人となっている。これは単純にお酒に弱いのではなく、度数の高い酒を飲みすぎたせいだ。
 そろそろお開きだろうか、そんな時、今までほとんど口を開かなかったアーチャーが、代羽に話しかけた。
「そういえば、以前の礼を言っていなかったな」
「以前とは?」 
 桜と同じくらいは飲んだはずなのに全く顔色を変えないアーチャーと、俺に似てあまり酒が強くないのか、ほとんど飲んでいないはずなのに顔が真っ赤な代羽。
「私が君達の学校を訪れた際、君の弓を借りただろう。その礼を言ってなかったはずだ。ありがとう」
 ああ、と機嫌のいい猫みたいな表情で頷いた代羽。
「礼を言われるほどのことではありません。あれは本当に素晴らしかった。あんなに純粋な射を、私は見たことがない。本来、私の方こそ礼を言わなければならないところです」
「そうか、それは光栄だ。なるほど、君は私を認めてくれるわけだ」
 皮肉げな笑みを浮かべたアーチャー。
「しかし、そうすると少し妙ではあるな。少々気になっていることがあるのだが、答えてくれるかね?」
「どうぞ、私に答えられることでしたら何でも」
 空気が、色を変えた。
 何だろう。
 にこやかに会話する二人が、奇妙なほど歪んで見える。
「私には少し変わった特技があってね。人よりも視力がいいせいか、読唇術の心得がある」
「…それが、どうかしましたか?」
 二人の間に奇妙な緊張感が生まれていく。
 もやもやとして、それでいて触れたら弾けるガラスの繊維のような空気。
 俺も凛も、セイバーやキャスターですらその雰囲気に飲まれていくようだ。

「あの時、君はこう言ったな。『なんて醜い』と」

 あの時。
 歓声に沸きかえる道場。
 賞賛の渦。
 その端から、アーチャーを眺める代羽。
 その口は、微かに動き。
 その視線は、限りなく冷たかった。
『なんて、醜い』
 彼女は、そう言っていたのか。
「…そんなこと、言ったかしら」
「ああ、間違いなく。しかし、今君は私の射が純粋であると褒めてくれた。どうも納得がいかないのだ。説明がもらえるとありがたい」
 罪を暴くようなアーチャーの言葉。
 その言葉に。
 しかし代羽は、破顔した。
 本当に愉快そうに、お腹を抱えながら笑った。
「ええ、ええ、確かに私はそう言いました。聞こえないように言ったつもりだったのに。認めましょう、私は嘘吐きです。あなたの射を素晴らしいとは思いません。でも、ああ、あなたは本当に意地が悪いわ」
 息も絶え絶えに笑う彼女。
 あはは、と笑い。
 うふふ、と微笑み。
 いひひ、と嗤う。
 その様は。
 手を叩き、髪を振り乱しながら哂う、その姿は。
「…何がそんなにおかしい?」
「ああ、わかりませんか?」
 目の端に浮かんだ涙を、ギリシャ彫刻のように美しい指で拭い取ると、なおも笑みを浮かべながら彼女は言った。
「私の言が気に入らないなら、最初からそう言えばいい。それを、わざわざ言質をとった上で、さも鬼の首でも取ったかのように言うあなたが可笑しかったのです。
 アーチャーさん、あなたは意外とかわいらしいのですね」
「…光栄だよ、心からな」
 剣呑な雰囲気に、しかし代羽は笑みを絶やさない。
「でも、私が嘘を吐いたのは『本当に素晴らしかった』と言った部分だけです。あなたの射が純粋だと思ったのは事実ですよ」
 その言葉とは裏腹に、彼女の顔色から侮蔑の色は消えない。むしろ、その臭気を強めているとさえ言える。
「あなたの射は確かに純粋。しかし、純粋であることなど、この世界においては何の価値も無い。純粋であればあるほど、汚れ、傷つき、磨耗していく。この世の真理は混和。故にあなたの射など、私は認めない」
 アーチャーの眉が、ピクリ、と動いた。
 その時、一瞬だけ。
 背筋が凍るほどの殺気が溢れたのを。
 俺は見逃さなかった。
「…貴様」
「世界は純粋を嫌います。増大し続けるエントロピーは、いずれ逆転するにしても、その時はあまりに遠い。少なくとも、この世界やあなたや私には遠すぎる。老いた赤子が子宮に帰り、そこで死を迎えるとき、私は初めてあなたの弓を評価しましょう」
 その言葉にアーチャーは眉根を寄せて、冷笑を浮かべた。
「たかが射如きに、貴様の言はいちいち誇大なのだ。聞いていて疲れる」
「ええ、私もそう思います。きっと飲みなれないお酒のせい。子供の戯言、笑って忘れてくださいな」
 す、と代羽は立ち上げり、一度だけ頭を下げると、笑顔のまま部屋から出て行った。
 俺も含めて、みんな呆然として彼女を見送った。
 ただ一人、それを憎憎しげに見送ったアーチャーが呟いた。
「…ふん、私も大人気なかったか。
 しかし、凛。あの女に気を許すな。あれは、おそらく蛇蝎の類だ」
 凛は何も答えない。
 残されたのは静寂。
 すやすやと眠る、桜の寝息だけが響いた。
 
 代羽の部屋は俺に割り当てられた部屋の斜め向かいになる。
 普段では考えられない彼女の様子。
 流石に少し心配になったので、一応様子を確かめようと、彼女の部屋の前に立つ。
 扉をノックしようとした俺の手は、しかしその寸前で動きを止めた。
 歌が、聞こえたからだ。
 調子は少しずれている。
 日本で言えば童謡のような、イギリスで言えばマザーグースのような、懐かしいメロディ。まるで胸の奥に刺さった棘を優しく溶かすかのようなそれは、聞くだけで涙が溢れそうだ。
 ほんの少しだけ安定しないメロディは、それが機械から奏でられたものでないことを教えてくれる。しかし、今まで聞いたどんな歌声よりも、美しかった。

―――A kind father plays with a little John. Clip,clip,clip,he dumps his name,name,name.

    A grandfather plays with a little John.Snip,snip,snip,he loses his flail,flail,flail.

    Little John plays with kind father. Munch,munch,munch, gets tall,tall,tall.

    Little John plays with grandfather. Chomp chomp chomp,lets play doll,doll,doll―――

 …全く意味はわからない。英語だというのが辛うじてわかる程度。
 繰り返し刻まれる同じフレーズ。

    A kind father plays with a little John. Clip,clip,clip,he dumps his name,name,name.

    A grandfather plays with a little John. Snip,snip,snip,he loses his flail,flail,flail.

 繰り返し、繰り返し。

    Little John plays with kind father. Munch,munch,munch, gets tall,tall,tall.

    Little John plays with grandfather. Chomp chomp chomp,lets play doll,doll,doll.

 でも、俺は立ち尽くした。
 扉を叩くことは、出来なかった。
 それが、許されない罪を犯しているみたいで。
 居た堪れなくなって、自分の部屋に帰った。

 夜。
 梟の鳴かない、しかし、梟の鳴き声が相応しい深夜。
 古びれた洋館の二階、その片隅のドアがぎしりと鳴いた。
「…?誰ですか?」
 誰何の声は柔らかい。
 さもありなん、この家は元々からして要塞、今は神殿だ。外敵の侵入など許すはずが無い。
 故に、今扉を開けたのは自分の家族でしかあり得ない。ならば、何故神経を昂ぶらせる必要があるだろうか。
「桜、私よ」
 答える声には、どこか緊張の色があった。
「キャスター、どうしたの?」
「本当は話すかどうか迷ったのだけれど…」
 再び、扉はぎしりと鳴いて、二つの人影を飲み込んだ。
 その後、屋敷には完全な静寂が訪れた。

(あとがき)
 桜が好きな人、ごめんなさい。



[1066] Re[29]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆b5b8b273
Date: 2007/06/16 12:48
 四方をコンクリートに囲まれた、小さな部屋。
 狭くて、暗くて、何より寒い。
 気休めのように取り付けられた、小さな窓。
 そこからは、月さえ見ることはできない。
 それでも、私の瞳はこの部屋の仔細を見渡している。
 以前は、こんなに夜目が効いただろうか。
 暗い、星明りのみに照らされる部屋。
 そこにあるのは、乱雑に詰め込まれた使用用途の知れない器具。
 元々は白かったのだろうか、汗と埃で黄ばんだマット。
 大きな籠に詰め込まれた、様々な大きさの球体。
 部屋の片隅に堆く詰まれた、生贄の、群れ。
 照明設備は整っているようだが、それは使ってはならない。
 身を潜めるものにとって、灯りこそが大敵だ。
 そうして、私達はここで二日目の夜を迎えている。
 でも、戯れに灯りを点けたくなる。
 知識では知っているが、自分が使ったことがないからだ。
 便利な道具だ。
 火を熾すこともなく、暗がりを追い払うことが出来るなんて。
 闇は、非合理で理不尽だ。
 人を無理矢理に呼びよせ、唐突に違う世界へと案内する。
 私は、闇が嫌いだった。
 きっと、二人の姉もそうだったんだと思う。
 だから、私達は肩を寄せ合って、寒い闇に耐えていたのだ。

『ねぇ、メデューサ、私が脅えているわ。何か歌を歌いなさい』
『ああ、メデューサ、あなたの歌声がうるさくて小鳥が逃げてしまったじゃないの』
『ほんと、駄目な妹』
『ほんと、愚かな妹』
『ねえ、私。私達は、本当に苦労するわね』
『そうね、私。私達がいないと、この子は寒さで死んでしまうわ』

 そう言って震える二人の姉の背中を。
 あやして眠った夜が、幾度あったのだろうか。
 優しい悪夢だ。
 こうしているだけで、幸せになれる。
 ああ、上姉さま、下姉さま。
 ご馳走様でした。
 あなた達は、とても優しくて。
 本当に、美味しかった。
 二人の甘美な味に想いを馳せながら、目の前の獲物を貪る。
 ごくり、ごくり、と。
 熱い液体が、喉を潤す。
 熱くて、甘い。
 甘くて、官能的。
 どろりとした舌触り。
 焼け付くようだと、意味の無い感想を抱く。
 それでも、私は満たされない。
 微かに鼻をつく臭気。
 饐えた埃の匂いと、染み付いた汗の匂い。
 それがどうにも許せなくて。
 鉄の匂いで、塗りつぶす。

 止めてくれ。
 まだ、間に合う。
 もう、これ以上は死んでしまう。
 殺さないで。
 お願いだから。
 許して。許して。許して。

 声が、聞こえる。
 哀れを誘う、無様な声で。
 私には、それが可笑しくって。
 それを止めるために、喉を鳴らす。
 からからと、まるで蛇のように。
「や…めて、ください…」
 泣き笑いの表情で、目の前の獲物が笑った。
 目からは、涙を。
 鼻からは、鼻水を。
 口からは、涎を。
 体中から、脂汗を。
 尿道からは、小便を
 肛門からは、大便を。
 あらゆる穴から、あらゆる汚物を。
 撒き散らしながらの命乞い。
 ああ、なんて滑稽。
 なんて、愉快。
 命が、目の前で消えていく。
 儚くて、涙が出そうだ。
 大丈夫。
 あなたの命は。
 あなたの命は。
 私の中で、生きるから。
 さあ、共にありましょう。

 止めてくれ。
 まだ、間に合う。
 もう、これ以上は死んでしまう。
 殺さないで。
 お願いだから。
 許して。許して。許して。

 また、聞こえる。
 不快な、命乞い。
 もう、いいって。
 もう、わかったから。

 やがて、それの命は消え去った。
 ああ、ごちそうさま。
 本当に、おいしかったです。
 首筋から、ゆっくりと牙を抜く。
 それを拘束していた両腕から、力を抜く。
 とさり、と。
 まるで紙で出来た人形みたいに、軽い音で。
 それは地面に倒れ伏した。
 土埃が舞い上がる。
 埃っぽくて、また喉が乾く。
 さあ、次はだれにしよう。
 私のめをみて動けなくなったえ物たち。
 がたがた震えル、かわいいこうさギ。
 かわいい、かわいい、獲ものたち。
 あんなにタクサんいたのに、いまはかタてのゆびでかぞえラレるクラい。
「はは、いいぞ、ライダー!凄い食欲だ!らしくなってきたじゃあないか、おい!このペースなら、あと二十人、全員喰えそうじゃん!」
 しょうねんの、声、がスる。
 あア、これは、誰ノこえだ?
 食べ物じゃなくて、タベモノジャナクテ。
 ―――あなたは、かれにシタガイナサイ―――
 ああ、イツダッタカ、遠いサイキンにキイた、最後のメイレい。
 ―――ワタしはあなたを謀りマシた。私HAアナたを騙しマシタ―――
 おもいだせない、ダレカノコエ―――。
 ―――しかし、私は貴方に謝罪しません。恨みなさい、貴方にはその資格がある―――
 あやまらないで、あやまらないで。
 だって、わたしはこんなにしあわせ。

 止めてくれ。
 まだ、間に合う。
 もう、これ以上は死んでしまう。
 殺さないで。
 お願いだから。
 許して。許して。許して。

 こんなにおいしくて、こんなにあたたかい。
 だから、わたしはしあわせ。
「ほら、もっと喰えよ、化け物。明日はアイツを殺さなきゃならないんだからさ」
 そう。
 もっともっとたべないと。
 たべてたべてたべて。
 もっともっとおおきくなって。
 それで、どうするんだろう。
 わたしは、なにがほしかったんだろう。
 だれとだれに、あいたかったんだろう。
 そこまでかんがえたとき。
 わたしのなかからきこえていた、ちいさなちいさないのちごいは。
 ついに、きこえなくなった。
 ちょっとだけ、さみしくて。
 わたしは、ぱかり、とわらった。

 episode26 鮮血校舎・前

 夢を見ている。
 最近、そう考えることが多くなった。
 覚醒夢、明晰夢とでも言うのだろうか。
 自分か夢の世界にいる、そのことを自覚できることが多くなったのだ。
 理由は分からない。
 緊張の連続による精神の疲労が理由かもしれないし、最近できた魔術のスイッチが理由かもしれない。
 理由はわからないが、最近そういう夢を見ることが多くなった。

 二つの人影が歩いていた。
 時間は午前だろうか、それとも午後だろうか。
 煌煌と照らし出されたのは、森の中を行く二つの影。
 ひどく明るい。
 あくまで森の中にしては、という条件付きではあるが。
 きっと、昼間なのだろう。
 たおやかな光が光沢のある木の葉に反射して、蛍のように周囲を照らす。

 二人は、ただ無言で歩いていた。
 片方は、長身の青年。
 顔は分からない。
 身長の割りに、肩幅は狭い。
 ひょろりとして、どこか薄を思い起こさせる。
 少したどたどしい手つきで、少女の肩を抱き寄せている。
 片方は、小柄な少女。
 顔は分からない。
 降り注ぐ光にその真っ赤な長髪を弄らせながら、隣の青年に身を寄せている。
 不安定な足場、しかし少女は夢見るように目を瞑り、青年に自らを委ねている。
 二人は、ただ無言。
 しかし、その手は確かに握られて。
 本当に、幸せそうだった。

 わかっている。
 これは、夢だ。
 今までに起こったことではない。
 今、起こっていることでもない。
 おそらく、これから起こることですらないだろう。
 
 ただ、思った。
 本当に、こんなことが起こりうるなら。
 この世界も、捨てたものじゃあない、と。

 少し体が冷えていたので、シャワーを借りることにした。
 遠坂の家に泊まるのもこれで二日目。まだまだ慣れないことが多いが、それでもなんとなく勝手は掴めてきた。
 敷地そのものは俺の家よりも狭いようだが、母屋の部屋の数だけを比べるならばこちらの方が遥かに多い。その中で絶対に立ち入ってはいけない部屋は三つ。
 凛の部屋。
 桜の部屋。
 そして二人の工房である地下室だ。
 昨日、酒の席で聞いてみた。
 もし、無断でそれらに入ったらどうなるか。
 凛曰く、『どんな死に方が死体、いや、したい?』とのこと。
 桜曰く、『責任取ってくださいね、先輩』とのこと。
 だから、その三つの部屋の場所は間違いなく把握している。
 逆に言えば、それら以外はある程度自由に使っても大丈夫、そういうことらしい。
 当然、セイバーやキャスターの部屋に入るなんてことは許可されても出来ないが、とりあえずそういった部屋に足を踏み入れることは無いだろう。
 ぱたぱたと、フローリングの廊下を、スリッパを履いて歩く。
 突き当たりにある小さな窓、そこから見える外の世界はまだまだ暗い。
 階段を降りて、洗面所に向かう。
 ぎい、と、木製のドアを開ける。
 かなり広い脱衣所に、大き目の姿見。最新式の洗濯機を使っているのはもっぱら桜だと思う。
 昨日もそうだったが、どうもこの空間の空気は慣れない。ここにいるだけで、酷くいけないことをしている、そんな錯覚を覚えてしまうのだ。
 朝っぱらから何を考えてるんだか、そう苦笑してから服を脱ぐ。冬の、肌を責めるような空気が心地いい。
 シャワーの温度はかなり高めに設定した。痺れるような湯音。思わず声を上げそうになったが、これはこれで気持ちいいのだ。
 肌が赤くなるような湯音に慣れたら、こんどはツマミをお湯から水に切り替える。
 シャワーのノズルから出てくるのは身を切るような冷水。呼吸のリズムが変わっていしまうほど冷たい。
 それを数度繰り返すと、アルコールの残滓であやふやだった思考がはっきりした。サーヴァントならこんな無様はないだろうし、凛や桜も魔術師、二日酔いなんてことはないだろう。
 ぎゅっと、硬く蛇口を閉める。
 ぽたぽたと、髪の毛から水滴が滴る。
 昨日の桜の言葉が思い出される。
 今日が、リミット。
 阻止限界点だ、と。

「結界の成長速度が早まった?」
 真剣な瞳で、桜はこくりと頷いた。
 時は深夜。
 集まったのは、マスターとサーヴァント三組。
 代羽は既に深い眠りの中にいる。
 凛と桜に、先ほどまでの乱痴気騒ぎの残り香は無い。如何なる魔術か、体内のアルコールは既に一掃されてしまっているらしい。
「昨日までの成長速度とは段違いです。今日は私とキャスターで呪刻の消却処理をしましたが、それでも結界の成長の方が早い。このままいけば、おそらく明後日には完成するものと思われます」
「何でだ?今までと何が違うんだ?」
「……ライダーが負った傷……が原因ではないでしょうか」
「?どういうこと、セイバー」
「あくまで推測にしか過ぎませんが…あの結界は獲物を捕食するための、攻撃型の結界宝具。そして、宝具の効力は持ち主の身体的な、或いは精神的な状態に大きく影響を受けます」
 宝具とは、いわば英霊の切り札。その英霊そのものといっても過言ではない。故に、その存在は英霊自身の身体的、あるいは精神的な状態を如実に反映する。
「彼女は大きな傷を負っていた。我々のように魔力の補給の可能なマスターがいるなら別段、彼女にはそういった存在はいない」
 彼女のマスター。おそらくは慎二。あいつは自分を魔術師だと名乗ったが、凛によれば魔術回路は存在せず、魔力量も人並みのようだ。ならば、あいつがライダーを自力で回復させることは不可能に近い。
「…手負いの獣が、牙を剥いてる、そういうことね」
「はい。おそらく彼女はなによりも魔力に餓えている。非常に危険な状態だと思います」
「でも、おかしくないか?あいつはアーチャーにやられてボロボロだったぞ。結界の強化に回すだけの魔力なんてそもそも無いような気がするけど」
「それは―――」
「彼女は吸血種だ」
 凛の後ろに控えていたアーチャーが口を開いた。
「彼女は当座の魔力を補給するだけならば、なんの労力も必要ない。夜道を行く獲物を狩る、それだけで魔力の補給は可能なのだ」
「つまり、それで結界用の魔力を補充して、あとで一気に馬鹿食いしよう、っていう腹づもりなわけね」
 凛が忌々しそうに人指指を噛む。
「必要最低限の魔力さえ確保できるならば、今のライダーにとってあの結界を完成させるのは如何にも容易いでしょうね。食欲とか性欲とか、自己保存に根差した欲求は他の何よりも魔術との結び付きが強い。
 彼女が元来どういった存在なのかは知らないけど、今はあの結界が顕すとおり、血に餓えた野獣より危険だと思うわ」
「しかも、その手綱を握るのが、よりにもよってあの馬鹿か…」
 キャスターの意見に、凛は苦々しく口を歪めた。
 慎二が変貌してしまったことについては、もはや疑いようが無い。現に、あいつは美綴を襲ってライダーの食事としている。
 おそらく、慎二は躊躇わない。道を踏み外したまま、その身が崖から転げ落ちるまで突き進むはずだ。
「姉さん、言峰神父は……」
「駄目。あいつ、薄ら笑いを浮かべながらこう言っていたわ。『凛、それは教会を頼るということかな』ってね。よくもまあ、あれで監督役を名乗れるものね」
 凛達の話によれば、あの似非神父はこの聖杯戦争の監督役を任されているらしい。
 監督役の権限は非常に大きい。神秘の漏洩という、教会にとっても協会にとってもありがたくない事態が起ころうとしたとき、その犯人に懸賞金をかけて他の参加者を嗾けたりもする。
 そもそも、本来であれば人の目を避けるはずの魔術戦を、昼夜を問わず街中で行うというのだ。ゲームマスターがいなければ早々に破綻するのは目に見えている。それを阻止するための監督役なのだ。
 その原則に照らすならば、今回学校に設置された結界型宝具は、忌むべき神秘の漏洩に直結する鬼子である。どういった形にせよ、神父が動くのは当然に思える。
 以前、凛は言っていた。あの結界が発動すれば、自分や桜は抹殺される、と。それは当然監督役にも当てはまることなのではないか。むしろ、事態の推移を知りながら何の手も打たず、座して状況を楽しんでいた、となれば余計に罪は重い気がする。
「凛、あいつだってきっと責任を問われる立場なんだから、きちんと話を通せば―――」
「無理。絶対、無理。あいつにとって最大の娯楽は人が悩み苦しむ様を観察することよ。そのためなら、自分の身を危険に晒すくらい、何とも思ってないはずだから」
 それはなんとも…。
 とりあえず、奴に対する愚痴は飲み込もう。
 今、重要なのは何をするか、だ。
「桜、キャスター。慎二とライダーの気配は掴めないのね」
 桜は、少し申し訳なさそうに俯く。
「…はい。マキリ邸の周囲には百を超える使い魔を放っていますが、依然マキリ慎二が出入りした形跡はありません。街中に放った使い魔からも目立った報告は無しです」
「やっぱり屋敷に篭もってるのか…。そもそも、あいつ魔術師じゃないから追跡が難しいのね。
 もう、魔術回路の一本くらい持ってから生まれて来いっての」
 本人が聞けば激怒して笑い出すかもしれない台詞を事も無げに呟くと、凛は黙り込んでしまった。
「とりあえず、明日どうするか、それが問題だな」
 当たり前すぎる言葉は、口から出た瞬間に重苦しい空気となって場を満たした。
 結界を警戒するならば、学校に戦力を集中すべきだ。
 キャスターによれば、あのタイプの結界は術者が内部にいないと発動できないものらしい。魔力を喰らうための結界なのだ、それを喰らうものがいなければそれ自体に意味が生まれない。
 ならば、結界が発動したときには、ライダーと、おそらく慎二は学校にいることになる。それを叩くならば、最初から学校にいなければ出遅れる。
 慎二が屋敷に篭もっていると仮定するならば、こちらから攻め込むのも一つの選択肢だ。マキリにもかなり纏まった戦力があり、地の利はあちらにあることになるが、それでも贅沢を言っていられるような状況ではないだろう。
「…マキリに攻め込むっていう選択肢は出来れば遠慮したいわね。私もアーチャーもまだ万全とはいえない。そんな状態で魔術師の工房に攻め込むのは自殺行為。むしろこれは誘いなんじゃないか、そんな気すらするし」
「でも、あっちだってライダーは負傷している。条件は一緒なんじゃないのか」
 凛は呆れたような視線を寄越した。
「ライダーは既に外道に堕ちている可能性が高いわ。一体何人の命を喰らっているのか想像もつかないけど、最悪、結界の力を借りなくても既に傷は完治しているかも知れない。そうすると、かなり戦力差は縮まる。その程度の戦力差なら、地の利でひっくり返されかねない」
「じゃあ、明日はどうするつもりだ」
 凛は苦しそうに呟く。
「…私とアーチャーはこの場所から動くことはできない。まず傷を癒すことが第一課題だから。それに、他のマスターの動向も気になる。特に、バーサーカー。あの化け物が攻めてきたとき、各人がばらばらに動いてたんじゃあ間違いなく殺されるわ」
「でも、今はそんなことを言っている場合じゃあないだろう」
「いいえ、こういう状況だからこそ、足元から固めておかないと痛い目を見るの。
 …でも、確かにそんなこと、言ってられる状況でもないわね」
 両肘をテーブルに付き、組んだ両の手で口元を隠しながら、彼女が発するのは決意に満ちた声。
「決めたわ。
 明日の午後、一番陽の高い時間にマキリ邸を急襲します。キャスター、認知阻害の結界、準備よろしく」
「ええ、わかったわ。らしくなってきたじゃない、お嬢ちゃん」
「アーチャー、まさか、まだ動けない、そんな情けないこと言わないわよね?」
「そうだな、そろそろ体が鈍って動けなくなってしまうところだった。リハビリ代わりにはちょうどいい運動だ」
「と、いうことよ。
 各自、今日はゆっくり休んで明日に備えること。特に士郎、二日酔いで参加できない、そんな無様、認めないからそのつもりで」
「学校の結界はどうするんだ」
「完成前なら問題ないわ。大体、あれは内部に術者がいることが必須。校舎に出入りする人間と、マキリ邸周辺の監視は十分すぎるほどしているから、慎二が私達に気付かれずに校舎にはいるのは不可能よ。校内には『門』も設置している。万が一の場合にも、対処は可能なはず」
 まるで人形に生気が吹き込まれたかのように炯々と輝く彼女の瞳。
 そうだ、凛に待ちの戦略なんて似合わない。
 敵が要塞に篭もるなら、要塞ごと破壊する。
 罠があるなら食い破る。
 待ち伏せなど、意に介しない。
 それでこそ、遠坂凛だ。
 きっと俺の口元に浮かんだのは、苦笑の類ではなくて、感嘆の笑みだったと思う。


 電話が、鳴った。

 代羽は既に学校に向かった。
 『行ってきます』という元気な声が、妙に寒々しかったのを覚えている。
 俺達は、今日起こるであろう戦いに備えて学校に病欠の旨を伝えた。
 そうして、朝食を終え、俺は居間で寛ぎ、凛と桜は今日の準備のために工房に篭もっているとき。
 電話が、神経に触るけたたましい音で、鳴ったのだ。
 仕方ないので、俺が出ることにする。
 人は、何か不吉なことが起きるとき、その前兆を感じることがあるという。いわゆる虫の知らせ、というやつだ。しかし、そのときの俺にはそういった便利なものは働かなかった。後から思えば赤面してしまうほどのんびりと、受話器を手にしたのだ。
「はい、衛、いや、遠坂ですけど」
 無言。
 微かな息遣いが響くが、電話の向こうからは如何なる言語も聞こえない。
 さすがに、手に汗が浮かんできた。
「…もしもし…、まさか、慎二か?」
 くっく、というくぐもった笑いが聞こえてきて。
 俺の疑問は、確信に変わった。
「慎二、今どこにいる」
『それを聞いてどうするんだい、『正義の味方』クン?』
 その声には隠し切れない狂気が存在した。
 腹の中を黒くてグルグルしたものが渦巻いている。
 吐きそうだ。
 いや、吐いて楽になるならむしろ大歓迎。
「まだ遅くない。結界を解呪しろ。凛達は必ず俺が説得する」
『はははっ、さっすが偽善者、言うことが違う。百点満点プラス特別ボーナスだ!ご褒美に出血大サービス、クイズに正解したら豪華商品をやるよ。
 さて、この声は誰の声でしょう、か?』
 『か?』の部分を強調した妙なイントネーション。クイズ番組の司会者か何かの真似なのだろうか。
 しばらく受話器からは何も聞こえてこなかった。
 不吉な沈黙。
 不安な静寂。
 やがて、それを打ち破る微かな呻き声が聞こえた。
『…………』
 駄目だ、聞こえない。
 どこかで聞いたことのある声の気がするのだが。
『さて、今のは誰の声か分かったかな?今正解したら結界の解呪を考えてやるよ!』
 全く真剣みの無いうわっついた声。
 嘘だと分かっている、しかし、一縷の望みを託して本気で悔しくなるのは俺の未熟ゆえか。
 しばしの沈黙。
 その間も、ちっちっちっち、と、時計替わりの慎二の声が聞こえる。
『あー、残念。時間切れ。これで結界を撤去するわけにはいかなくなっちゃったね。お前のせいだぜ、衛宮。
 残念賞だ、答えを教えてやる』
 ごつん、と。
 何か、硬いものが硬いものにぶつかる音が聞こえた。
 それと同時に、微かな悲鳴。
 この声は。
『…やめて下さい、兄さん。私は何をされても構いませんから、その服は汚さないで。
 遠坂先輩が、借してくださったのです』
 その直後聞こえた、びりびりという布地を引き裂く高い音と。
 ああ、という、絶望の声。
『ひひっ、今度はその空っぽの脳みそでも聞き取れたかな?さて、もう一度問題だ。さて、この声は誰の声でしょう、か?』
 奴がそう言っている間も、彼女の、代羽の悲鳴が聞こえる。
 しかし、悲鳴はやがて嬌声に変わっていった。
 その声がどういった行為を表すのか、性に疎い俺でもはっきりとわかる。
「…止めろ、慎二」
『はあ?何命令してんの、お前。今、どっちが優位にあるか分かってないみたいだね』
「俺は止めろ、と言ったんだぞ、慎二」
 胸の奥、内臓のさらに深奥に、真赤な色をした感情が堆積していく。
 しばらくしてから、この不吉な熱さが何者なのか気付いた。
 怒り。
 純粋な、殺意。
 それは、慎二に対するものであると同時に、何の疑いも無く代羽を学校に送り出した自分自身に対するものだ。
 考えてみれば、自分にここまでの怒りを覚えるのは初めてかもしれない。
『止めたけりゃ止めてみせろよ、正義の味方。僕は今学校にいる』
「学校だな」
 いつの間にか、代羽の声は聞こえなくなっていた。
『ただし、来るなら一人で来いよ。もし、お前以外に誰かいたら、僕も余計なことまで考えなけりゃあいけないからね。出来れば酷いことはしたくない。僕は平和主義者なんだ』
 どの口でほざきやがるか。
「二十分で行く。首を洗って待ってろ」
『ああ、いいね、ぞくぞくするよ』
 ぶつり、と、電話は切れた。
 視界が赤く染まる。
 まるで、美綴を助けたあの夜みたいだ。
 違うのは、あの時視界を赤く染めたのは眼球に付着した血液のせいだったが、今視界を赤く染めているのは脳髄で暴れまわる原初の感情だということ。
 玄関まで走り抜ける。
 途中、昨日キャスターに貰った鞄を引っ掴む。
 戦略なんて、はなから無い。
 戦術なんて、くそ喰らえだ。
 今はただ、慎二を、殺したい。



[1066] Re[30]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆7d422974
Date: 2007/06/24 01:17
「士郎、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 居間の扉を開ける。
 窓ガラスを透過した陽光が、きらきらと室内を照らす。
 私の好きな、この屋敷の表情。
 そこに、思い描いた男の顔は無かった。
 どこに行ったのだろうか。
 今日、マキリを襲撃するという話は間違いなく伝えてある。学校に行ったなんてことはありえない。
 トイレ、だろうか。
 それとも朝風呂。
 もしかしたら、私達の部屋で、いけないこと。
 頭の片隅でなる警報を意図的に無視しながら、楽観的な思考に縋る。
「士郎?」
 とんとん、とトイレのドアをノックして尋ねる。
 人の気配は無い。
 当然、返事は、無い。
「おーい、馬鹿しろうー、どこにいったー?」
 少し大きめの声で、呼びかける。
 地下を除けば、この家のどこにいても十分に聞こえるだけの音量であるはずだ。
 しかし、無言。
 やっぱり、返事は、無い。
 心臓が、どくん、と不規則なリズムを刻む。
 喉が、渇いた。
「姉さん!」
 その時、血相を変えた桜が私の視界に飛び込んできた。
「キャスターが先輩に渡した鞄が見当たりません!それに、先輩の靴も!」
 どくん、どくん。
 音が、遠い。
 光が、暗い。
 思考が、加速する。
 今、あいつが向かう場所。
 しかも、キャスターの魔具を持って。
 そんなの、一箇所しかないじゃないか。
 何故だ。
 何を、見落とした。
 どこで、見落とした。
「桜、使い魔からの報告は」
「ありません。依然、マキリ邸には変化無し、です。学校の周囲にも、マキリ慎二らしき気配はありません」
 しかし、士郎がいない。
 なら、向かった先は、どこだ?
 何故、私達に一言も言わずに姿を消した?
「―――ちっ。
 お嬢ちゃん、最悪の報告。
 結界が、発動してる」
 そんな、馬鹿な。
 慎二は、屋敷から出ていない。
 校門をくぐった形跡も無い。
 なのに、何故慎二が校内にいるのだ?
 何を、見落とした。
 きっと、致命的な何かを、見落としていたはずだ。
 考えろ。
 あの結界を発動させるためには、その中に術者がいることが必須条件。
 つまり、今ライダーと慎二は、あの校舎の中にいる。
 これは、絶対条件。
 しかし、使い魔は、慎二とライダーが校舎に入るのを確認していない。
 もちろん、マキリ邸から何者かが出入りしたことも有り得ない。
 これも、間違いない。
 つまり。
 つまりつまりつまり。

 慎二と、ライダーは、最初からあの校舎の中に潜んでいた。
 それが、結論だ。

「キャスター、今すぐに『門』を発動!場所は校舎内!急いで!」
 しまった。
 魔術師は、苦境に陥れば、己の工房に篭もるもの。
 その思い込みが、強すぎた。
 確かに、工房は魔術師にとっての要塞である。
 一般に、力ずくで城を攻め落とすには、防御側の三倍の兵力が必要とされる。
 故に、地の利は計り知れない。
 だから、それ以外の箇所の監視を怠った。
 もちろん、全くしなかったわけではない。
 校舎の探索は、かなり初期の段階で終わらせている。
 それでも、内部の探索よりも、出入り口付近の監視に重きを置いてしまったのは否めない。
 当然だろう、だって、慎二は工房に引き篭もっているはずだったのだから。
 だが。
 考えてみれば、あの校舎ほど彼らが身を隠すのに適した場所は他に無いのではないだろうか。
 いまだ完成に至っていなかったとはいえ、視認できるほど濃密な魔力の渦巻く異界。しかも、その魔力はライダー自身の魔力である。ならば、彼女の存在をカモフラージュするのにこれほど都合の良い目晦ましはあるまい。
 そして、言うに及ばず慎二は魔力を持たない。
 ゆえに、あの結界の中で二人を探そうと思えば、当然肉視に頼らざるを得なくなる。いくらキャスターの操る使い魔が膨大とはいえ、探索に放ったのはその一部、校舎を探索させたのはさらに一握りだ。遮蔽物の多い校舎内ならば、見落としがあっても仕方ない。
 だが、まだ間に合う。
 結界は完成していないはずだ。
 まだ―――。
「だめ、お嬢ちゃん!『門』が発動できない!」
「―――セイバー、アーチャー、先行して!」
 頭よりも先に、体が現実に沿った指示を出す。
「承知!」
「まかせておけ」
 二人の声を遠くで聞きながら、重い後悔を味わう。
 くそ。
 悪いときには、悪いことが重なるものだ。
 あまりの怒りに、眩暈がした。
「しまった、あれは結界だった…。こんな簡単なことを見落とすなんて」
「どういうこと、キャスター?」
「桜、結界の定義は?」
「結界の定義…?―――っあ」
 結界。
 聖域を守る境界線。
 それは、内と外を分ける、世界の継ぎ目。
 ならば、そこを境に、空間は捻じ曲がる。
 それが防御型の結界でも、攻撃型の結界でも、同じこと。
 魔法の域に至らない、不完全な空間転移、その程度で、宝具の作った世界の継ぎ目は越えられない―――!
「キャスター、桜、私達も!」
「はい!」
「うっかりなんて、私のキャラじゃないわ。…もう、誰の悪癖が感染したのかしら」
 ぶちぶちと不平を垂れるキャスター。
 それは、私も同じ意見。
 この遺伝を残したご先祖様を、殴りたくなる。
 もし、私が時間旅行の魔法を極めたら、必ず実行に移そう。
 そんなことを考えながら、私は玄関に向けて走った。
 
 episode27 鮮血校舎・中 
 
 その光景を、どのように表現すればいいのだろうか。
 赤い霧に囲われた校舎。
 その表現では、その光景を表すのには幾許かの不足があるだろう。
 どちらかと言うならば、巨大な紅い寒天で固められた、忌まわしいものの神殿。その表現の方がしっくりくる。
 つまり、なんだ。
 結界が、発動してたんだ。
「…あの、バカ野郎………!」
 最後の望みは、断たれた。
 分かっていたことだ。
 分かっていたことだが、それでも俺は期待していたんだと思う。
 そんなこと、何の意味も無い。
 こっちが一方的に懸想して、一方的に振られただけのこと。
 この件について、慎二には一切責任は無い。
 だって、あいつは最初から最後まで、外道だった。
 そのことについては、首尾一貫していた。
 だから、これは誰のせいでもない。
 ただ、あいつが自分の死刑執行書にサインした、それだけのことだと思う。
 いや、俺はどこかで喜んでいないか。
 心のどこかで、喝采をあげていないか。

 よくやった、慎二。
 いいぞ、慎二。
 これで、俺は。
 これで俺は、何の気兼ねも無く。
 純粋に、お前を。
 お前を■せる。

 だって、もし、あいつが結界を解呪して。
 代羽と美綴に、土下座でもして謝ったら。
 俺には、無くなってしまう。
 何がだ?
 俺が、あいつを■す、資格が、だ。
 さて、資格というのは不正確か。
 なぜなら、そんなものなくても、俺はあいつを■すからだ。
 だから、なくなるのは機会。
 それがなくなるのが、怖い。
 俺の口元を歪に変形させた、こわい笑み。
 それを指摘する奴が隣にいないこと、それが少し嬉しかった。
 
 
 一歩、学校の敷地に入ると、酷い眩暈が襲ってきた。
 ああ、これはまずい。
 本能的に、魔術回路に火を入れる。
 がちり、と下りる撃鉄。
 雷管に、衝撃が走り抜ける。
 撃ちだされるのは、決意と殺意。
 必ず殺す、必殺の意志。
 キャスターから貰った鞄をひっくり返す。
 がらがらと溢れる、神代の魔女の鬼子達。
 色取り取りの、試験管。
 小さな、獣の牙のような物。
 そして、二振りの、短刀。
『いいこと?この世の全ては等価交換。その理からは、何者も逃れることは出来ない。私も一緒。材料が揃ってるならちゃんとした物を揃えられるけど、これらは間に合わせで作った出来損ない。故に、その対価は使用者から搾り取る。覚悟して使いなさい。最悪、一生寝たきりの生活を送ることだって有り得るんだから』
 頭にダイレクトに響く、彼女の忠告。
 俺はそれを有難く拝聴してから。
 一番どぎつい薬を、手にした。
 試験管の中で揺れる、虹色に輝く液体。
 蓋を外して、一気に呷る。
 口に含んだ瞬間、鼻腔に抜ける異臭で、吐きそうになる。
 両手で鼻と口を抑えて、なんとか踏み止まる。
 そして、嫌がる身体を押えつけて、強制的に嚥下終了。
 これで準備は完了。
 凛達に何も言わずに家を出たのは流石に不味かった気がするが。
 今は、そんなこと考えている場合じゃない。
 まるで、目の前に紅い布を突きつけられた闘牛だ。
 ただ、突っ込むだけ。
 なら、華麗な闘牛士が慎二で。
 そのサーベルが、ライダーか。
 いいじゃないか。
 闘牛士と闘牛の戦績が如何程傾いているかは知らないが。
 闘牛士を惨殺した闘牛だって、確かに存在するのだ。
 ならば、俺は牛でいい。
 勝率が1パーセントでもあれば、十分だ。
 だいたい、あんな声を聞かされて頭に来ない奴はいない。
 例え獣だって、自分の肉親が目の前で甚振られたら、捨て身の反撃に出るだろう。
 代羽が、汚された。
 慎二に、汚された。
 俺の■が、汚された。
 慎二如きに、汚された。
 汚されたのだ。
 怒り。
 憤怒。
 原初の、罪。
 いいぞ。
 俺に、うってつけだ。
 それが大罪というなら。
 喜んで、地獄に落ちよう。
 あいつを許して。
 へらへらと安穏に過ごすくらいなら。
 灼熱の溶鉱炉の方が、きっと心地よい。
 きっと、あいつは教室にいる。
 待ってろ、慎二。
 すぐに、行く。
 そして、あっという間に、お前を。

 校舎の三階。
 斜陽に照らされたみたいに、紅い廊下。
 その中心。
 倒れ伏した顔も見えない生徒。
 それを、まるでブリキの王座みたいにして。
 慎二が、座っていた。
「ああ、二十分で来るって言ったのに、二十一分もかかるもんだからさ、退屈で結界を発動させちゃった。お前のせいだぜ、衛宮。お前が来るのがもっと早けりゃ、こんなことにはならなかったんだ」
「ああ、そうだな。すまない」
 信じられないほど、落ち着いた声。
 きっと、決意というものはこういう所に反映されるのだろう。
「…気に入らないな。何余裕ぶってんだよ。ほら、もっと慌てて懇願したらどうだい?『慎二、結界を止めろ』とか『今なら間に合う』とかさ。ひょっとしたら気が変わって、反省するかもしれないぜ?」
「ああ、そうかもしれないな」
 器用だなと、我ながら不思議に思う。
 視界を変色させるほどの怒り。
 殺意で塗りつぶされた思考。
 それでも、人間のような会話が出来るのだ。
 これも慣れと言ってよいものなのだろうか。

「僕は、お前が気に入らない」
「そうか、悪かった」

 いつだっただろうか、慎二と知り合ったのは。
『お前、馬鹿だろ。あんなの黙ってればいいのにさ』

「親無しの、魔術師の家系でもないくせに、サーヴァントを召喚しやがった」
「ああ、その通りだ」

 覚えている。中学二年生の文化祭のときだ。
『いいように使われてるって分かってる?』

「僕は、名門マキリの後継者だ。お前なんかとは違う、選ばれた人間だ」
「凄いな、知らなかったよ」

 いらない苦労を背負った俺を罵倒して。
『アタマの足りない三年も、さっきまで礼を言ってた一年もさ』 

「その僕が、この二日間、どこで寝泊りしてたか知っているか、衛宮。体育倉庫だ。まるで学校に忍び込んだ浮浪者か何かみたいに、あの埃臭い部屋で、膝を抱えて隠れていたんだ。くそ、お爺様の言いつけじゃなけりゃ、誰があんな所に」
「ひょっとして俺のせいかな」

 一人で夜通し作業を続ける俺を、つまらなそうに眺めて。
『とっくに帰って忘れてるって言うのにさ』

「物音がするたびに、跳ね起きるんだ。遠坂に見つかったんじゃないか、あの女が、あの笑顔で背後に立っているんじゃないかって。白状するとね、昨日、十年振りくらいに寝小便をしちまった。はは、自分の小便まみれのズボンを洗うのは、凄く情けなかったよ」
「可哀相にな、慎二」

 でも、最後にこう言ってくれたんだ。
『ふうん。お前馬鹿だけどさ、いい仕事するじゃん』

「だから、僕はお前を殺す。絶対だ。絶対に殺すぞ、衛宮」
「ああ、知ってる。知ってるよ、慎二。だから」

 殴ってやる。
 その言葉は、殴られてもいい、という意思表示だ。
 何をしてもいい。
 その言葉は、こちらも何でもするよ、という意思表示だ。
 慎二、お前は、俺を殺す、と言ったな。
 なら、俺はお前を殺していいという事になる。
 殺す、殺す、殺す。
 はは、まるで小学生の口喧嘩だ。
 自分の吐いた台詞がどんな意味を持つのか知らない、無知な存在だけが口にする言葉だ。
 いつ読んだ漫画だっただろう。
 ギャングの漫画だ。
 昔の、ギャングが主人公の、安っぽい漫画だ。
 その敵役が、自分の弟分を諌めた言葉だ。
『ブッ殺す、と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!』
 ああ、その通りだと思う。
 それが一番美しい。
 大言壮語もいいだろう。
 しかし、行動がそれに伴わないのは、如何にも見苦しい。
 だから、行動と思考が一致するのは美しい。
 だから、殺す、と口にするのは美しくない。
 でも、それは一面正しいが、一面では間違えている。
 なぜなら、人は言葉でコミュニケーションを取る生き物だからだ。
 獣は牙を剥く。
 それは戦闘開始の合図であると同時に、戦闘を未然に防ぐための最後の希望だ。
『引いてくれ。お前が引かなければ、俺達は殺し合いをしなければならない。そんなの、嫌だ。俺はお前と戦いたくない。だから、こんなにも怖い顔で、唸り声をあげるんだ。お願いだ、引いてくれ』
 人は、牙を剥く代わりに、言葉を吐く。
 殺す、きれた、やってやる、許さない。
 それらの言葉は、最後通牒だ。
 もちろん、そうでない場合もある。
 しかし、その言葉で相手が引いてくれたら。
 すみませんでした、ごめんなさい、もうしません。
 そう言って、尻尾を巻いて逃げ出してくれたら。
 そう期待する思考が、どこかに存在しないか。
 それは、優れたコミュニケーションだ。
 争いを未然に防ぐための、最高の手段だ。
 だから、俺は口にしないぞ、慎二。
 さっきから、心を埋め尽くす、たった一つの単語を、絶対に口にしないぞ。
 顔だって、優しいはずだ。
 だって、怖い顔をして、お前に逃げられたら困るから。
 無言。
 本当の意志は、絶対に表に出さない。
 顔だって、にこやかに。
 笑って、優しく。
 お前を、殺してやるんだ。
 
 慎二は、にっこりと笑った俺を、まるで化け物か何かを見るようにして一歩下がり、そしてこう言った。
「…でも、お前を殺すのはいいけどさ、ただやりあうのもつまらないだろ? 僕は魔術師じゃないから不公平だし、ただのケンカじゃ僕が勝つのは判りきってる。だからここは公平を期して、お前にはこいつの相手をしてもらう事にしたんだ」
 じわりと。
 空間を侵食するように現れた、紫色の影。
 一度見たことのある人影だ。
 しかし、一度も見たことのない人影だ。
 斜陽に照らし出された、マキリの家。
 鷹揚に、ソファに踏ん反り返った慎二の後ろ。
 そこに、彼女はいたはずだ。
 だらん、と下げられた両の手。
 生気のかけらも無い表情。
 しかし、まるで宝石のように美しい紫の髪。
 血塗れの巫女。
 そんな印象だった。
 だが、今は。
 だらん、と下げられた両の手。
 それは、変わらない。
 だが、その表情は、獲物を前にした喜悦に歪み。
 その髪は、濁った血の色に犯され。
 全身を、乾かぬ鮮血で飾っている。
 血塗れの巫女というよりも、勇者の返り血に笑う魔王。
 そんな、幼稚なイメージが浮かんだ。
 あの夜、アーチャーにやられた傷はある程度は癒えているものと見える。
 ならば、この俺にどの程度の勝率があるのか。
『サーヴァントは人に有らざる者。人たるあなたが敵しようなど片腹痛い』
 彼女の忠言が、耳に痛い。
『一応忠告しておくけど、それらを十全に使ってもサーヴァントには歯が立たないわ。それらは、ただ生き残るために使うこと。いいわね?』
 ごめん、キャスター。
 俺は、あなたの作ってれた魔具の使い方を、多分間違える。
 でも、今なんだ。
 今、意地を張らないと、きっと、俺は駄目になる。
 ここが、最後の一線だ。
 ここで引いたら、後は下がり続けるだけになってしまう。
 二本の短刀を、ゆるりと構える。
 日本刀というよりは、むしろ鉈やマチェトに近い形状。
 先端に重心のある、ものを断ち切るに優れた形状。
 もちろん、込められた魔力も並ではない。
 それでも、目の前の相手の前では、ロケット花火よりも頼りない。
「は、ははは、何だ、衛宮、お前本気でサーヴァントを相手にするつもりかい?いいじゃん、せいぜい足掻いてみろよ。最後は屑みたいに殺してやるからさ!」
 耳に障る慎二の笑い声。
 それで、思い出した。
 一番大事なことを、忘れていた。
「…慎二、最後に聞きたい」
「へえ、最後のお願いなら聞いてあげないといけないね。助けてください、以外なら聞いてやるぜ」
 …ひどい勘違いだ。
 俺が叶えて貰う最後の願いなんじゃなくて。
 お前が叶える事が出来る、最後の願いなのに。
「代羽は、どこだ」
 代羽は。
 俺の■さんは。
 お前が、汚した、俺の、■さん、は。
「はは、なんだ、そんなことか。いいぜ、教えてやる」
 慎二は、ごそごそと、制服のポケットに手を突っ込み、そこから小さな機械を取り出した。
「最近のオーディオプレイヤーって便利だね。録音再生機能まで付いてる。買うときはこんな機能いらないって思ったけど、思わぬところで役立つもんだね、これって」
 奴が、その小さなボタンを押す。
 スピーカーは付いていないのだろう、しかし、イヤホンから微かな音声が漏れる。
『…やめて下さい、兄さん。私は何をされても構いませんから、その服は汚さないで。
 遠坂先輩が、借してくださったのです』
 その声は、あの電話の。
「わかった?お前は釣り上げられたの。代羽はここにはいないよ。僕だって、本当はここに連れて来たかったさ。ずたずたにしたお前の前で、あいつを犯してやったら、どんな声で啼くか、楽しみだったしね」
「…そうか」
 何故だか、ほっとした。
「これを録音したのは、お前んちでやった『料理合宿』から帰ってきた日だよ。あいつ、いつもはマグロみたいに何にも反応しないのに、この日は珍しく嫌がったんだ。その理由が、遠坂の服を汚されたからだってさ。健気だね、全く」
 あの日。
 あの日か。
 雨に洗われた、夜の坂道。
 セイバーと代羽と一緒に、歩いたんだ。
 あいつは、笑って、ありがとうございます、と言ったんだ。
 きっと、自分が家に帰れば、どんな目に合うか、知っていたはずなのに。
 それでも、代羽は、笑ってたんだ。
「あいつ、無表情で気味が悪いけど、具合だけは最高だからさ。残念だね、衛宮。お前も僕に従っていれば、一回ぐらいやらせてやったのに。そうそう、知ってるか、衛宮。あいつ、実は化け物なんだぜ。あいつ、何回やっても―――」
「―――黙れ」
 声が、硬い。
 駄目じゃないか。
 隠さないと。
 怒りは隠して。
 敵意は隠して。
 殺意は隠して。
 あくまでも、友好的に。
 あいつを、殺さないと、いけないのに。
「―――衛宮、僕が喋っているんだぞ。お前、自分の立場が―――」
「慎二、俺が黙れと言ったんだ。お前は屠殺場の豚みたいに黙ってりゃいいんだ」
 未熟だと思う。
 あの弓兵が見れば、鼻で笑うくらい、未熟だ。
 でも、構わない。
 これ以上、あいつの薄汚い口で、彼女が汚されるくらいなら。
 俺は、未熟だろうが、構わない。
「…分かった。要するに、早いとこ死にたいんだ、衛宮は。いいよ、そんなに死にたけりゃ殺してやる」
 ああ、もう。
 殺すとか、死ぬとか、五月蝿い。
 早くしろ。
 こんなに、俺はうずうずしてるんだ。
 戦いたくて、うずうずしてるんだ。
 お前の、喉笛を、掻き切りたくて、うずうずしてるんだ。
「やれ、ライダー!その馬鹿を、叩き殺せ!」
 疾走してくる、濁った静脈血色の、魔王。
 迎え撃つのは、きっと旅の宿から出たばかりのたまねぎ剣士だ。
 それでもいい。
 俺は、敵に向かって、右の短刀を、振り下ろした。
 



[1066] Re[31]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆7d422974
Date: 2007/06/24 01:18
「では、手筈通りに」
 冷たく響いた主の声。
 この世界に召喚されて以来、おそらく一番数多く聞いた、彼女の声。
 平静で、冷静で、閑静。
 しかし、それは未だに私の平穏を打ち壊して止まない。
「承知。魔術師殿は戦場に。私はこの屋敷にて情報収集。それで間違いないな」
「はい。私と彼は、校舎に向かいます。きっと学校は戦場になる。故に、情報収集は可能な限り手早く終え、こちらに急行すること。いいですね」
 私は頷く。
「破壊工作は慎んで下さい。今の段階で、貴方と私の関係を勘繰られるのは避けねばなりません」
 再び、私は頷く。
「さて、おそらく今日は暑くなるでしょう。ふふ、水浴びの一つでもしたいところですね」
 そう言って、彼女は私に背中を向けた。
 季節は冬。
 冷たい水は、水浴びに相応しくない。
 ならば、生暖かい液体くらいが調度いい按配だろう。
 彼女は、さぞ盛大に水を浴びるのだろうと思う。
 しかし、それは赤黒く濁った、鉄臭い水だ。
 そうだ。
 彼女は、いつだってそうだった。
 私が召喚された時も。
 心臓を穿たれた、かの少年の前に跪いた時も。
 あの槍兵と戦った時も。
 いつだって、己と己以外の者の血に塗れていた。
 私には、それが。
 その姿が。
 例えようも無く。
「アサシン」
 忘我の表情は、仮面が隠してくれたはずだ。
 ほんの少しだけ早鐘を打つ心臓をどやしつけ、努めて平静を装った声を出す。
「…なんだろうか、主よ」
「…貴方は、私に不信を抱かないのですか」
 その声は、常の主の声ではなかった。
 どこか、虚ろ。
 どこか、後ろ向き。
 己の罪を恥じ入るような、何かを悔いるような、声。
「説明を求めたい」
 ほんの少しだけ躊躇して、彼女は消え入りそうな、か細い声で、こう答えた。
「…貴方は英霊だ。この上なく、気高い存在だ。本来、私などが使役していい存在ではない。それを、華々しい戦場には赴かせず、命じたのは、こそ泥のような家捜しだけ。不信を抱いても、当然でしょう」
 俯き加減の、彼女。
 おそらくは求めているであろう、私の返答。
 しかし、私は何も答えない。
「…それに、私はライダーを切り捨てた。いや、切り捨てた方がまだマシ。私は、彼女の存在そのものを汚そうとしている。全て、私の欲望のために。その事実に、貴方はどういった感想を抱くのでしょうか」
 神に縋りつくような、おぼろげな声。
 ああ、きっと彼女は恐れているのだろう。
 唯只管に、己の道を歩くことを、恐れているのだ。
 誰一人前を歩かない、未開の荒野。
 そこを、唯一人、歩く。
 恐れを抱かぬ人間など、それこそ恐ろしい。
 彼女は、頼りたいのだと思う。
 誰かに、正しい、と。
 お前のしていることは、間違えていない、と。
 そう、言って欲しいのだ。
 そして、私は頼られた。
 ならば、嘘偽り無く、自身の見解を述べようと思う。
「―――醜悪だ」
 びくり、と彼女の背中が震えた。
 俯き加減だった頭が、より深い角度を作る。
 まるで、誰かに詫びるように。
「しかし、首尾は一貫している。その点には、一種の美々しさを覚えるな」
「…ありがとう、ございます」
 弱弱しい、声。
「私を斥候として使役することは、及第点だろう。要塞のように罠だらけのこの家、ここを捜索するのに、気配遮断のスキルは、この上なく相応しい」
 戦いとは、戦場で剣を打ち交わすことだけではない。むしろ、そこに至る過程においてこそ、真の勝敗は決まる。
 故に、彼女の視野の広さは好ましい。強力なサーヴァントをもって敵を粉砕することだけが戦闘だと思い込んでいる猪よりは、遥かに。
「彼女を堕落させたこともそうだな。我々はあくまで戦闘のための道具に過ぎない。より役立つ用途があるのならば、迷わずにそちらで使うべきだ」
 ライダー。
 私が、この世界で初めて出会ったサーヴァント。
 彼女の真名など、知らない。
 しかし、今、彼女が変質しつつあることは、理解出来る。
 おそらく、彼女は戻りつつあるのだ。
 なにか、より彼女の本質に近いモノに。
 しかし、その一事をもって、ライダーが彼女を非難する資格はない。
 我々は、目的を持って召喚に応じた。
 その中に、三つの令呪という概念も確かに存在するのだ。
 自らの意に沿わぬ行いを強制される、そんなことは既定事項だ。
 そんな覚悟も無しに召喚に応じたのだとしたら、それこそ非難されるべき無知だろう。
「…ならば、貴方は何をもって私を醜悪と蔑みますか」
 何かに震える声。
 怒りか、それとも悲しみか。
 戸惑いか、それとも決意か。
「…私が醜悪と感じるのは、貴方の弱さについて、だ。
 さっき、貴方は私にどんな返答を期待した?貴方は間違えていない、と。そう言えば、満足だったか?ふん、くだらぬ。己の従者に媚びる主など、この上なく醜悪だ。貴様がその程度の存在ならば―――」
 その心臓、ぐびりと、喰ろうてやろうか―――。
「…そうでしたね。貴方は、いつだって己の欲望に忠実でした。いつだって、『貴方の家』に帰るために、その手を朱に染めてきた」
 何かを嘲るような、声。
 彼女は、何を言っているのだろうか。
 霞がかった、遠い記憶。
「…しかし、おそらく、貴方の言は、正しいのでしょう」
 いつの間にか、彼女の背筋は、ピンと伸びていた。
「では、後ほど」
 そう言って、彼女はドアを閉めた。
 ややあって、玄関から『行ってきます』という、決意に満ちた声が聞こえた。
 彼女は、淡々と己に課せられた義務を遂行するのだろう。
 ならば、私は己に課せられた義務を遂行するだけだ。
 やがて、人とサーヴァントの気配の絶えた家の中で。
 私は、一人静かに、哂った。

 episode28 鮮血校舎・後 

 いきなり、吹っ飛ばされた。
 何を喰らったのか、全く分からない。
 身体に穴は開いていないみたいだから、あの短剣で突かれたんじゃないと思う。
 だから多分、前蹴りを喰らったか、拳をまともに喰らったか。
 ただ、一撃。
 それで、俺の身体は廊下の端まで吹っ飛んだ。
 途中、何かが背中に当たった気がするが、そんなことは意識の埒外にある。
 断線した意識と身体。
 それを繋ぎ直すのに、精一杯だ。
「はは、すごいぞ、衛宮!まるでボウリングの玉じゃないか!あと少しでストライクだったのにな!」
 慎二の哄笑。
 なるほど。
 俺がボウリングの玉で。
 倒れ伏した生徒が、ピンか。
 確かに、そっくりだったかもしれない。
「さあ、来いよ、衛宮。あれだけの大口を叩いたんだ、まさかこれで終わりじゃないよな?」
 身体の各部に、異常は無い。
 強化した学生服が救ってくれたのか。
 それとも、本質的に俺の身体は頑丈なのか。
 まあ、どうでもいいか。
 とりあえず、まだ戦えるらしい。
 ならば、十分だ。
 ゆっくりと立ち上がる。
 ライダーは、相変わらず慎二の前に佇みながら、好戦的な笑みを浮かべている。
 どうやら、一思いに殺すつもりは無いと見える。
 好都合だ。
 今、脳天をあの巨大な杭で貫かれてたら、それで勝負は決まっていた。
 ある意味、慎二の嗜虐性が俺を救ったと言えるのかもしれない。
「よし、そうだ。まだまだ楽しませてくれよ、衛宮!」
 両の肘を、それぞれの逆の手で握る、妙に気障ったらしい立ち方。
 気に食わない。
 その立ち方が気に食わないんじゃない。
 今は、慎二の為す事全てが癪に障る。
 例えば、今あいつが道端で震えている子犬を拾ったとしても、俺は唾を吐きたくなるだろう。
 思考回路を切り替える。。
 今の一撃は有難かった。
 身体と意識が断線したせいだろうか、妙に頭がクリアだ。
 さっきまで怒りで真っ赤だった視界が、心持ち色を緩やかにした。
 今、景色が赤いのは、きっと結界だけのせいだろう。
 むしろ、不思議と青みがかって見える。
 そう言う意味では、さっきの一撃は俺を救ったと言える。
 あのまま、怒りに身を任せたまま突っ込んでいたら、俺は間違いなく殺されていた。
 ほんの少しだけ、冷静になれた。
 為すべきこと。
 俺が、今為すべきこと。
 それは、この結界を解呪することだ。
 その為には、何をすべきか。
 選択肢は少ない。

 1、ライダーを倒す。

 不可能。
 さっきの一撃で分かる。
 一撃喰らえば十分だ。
 あれは、俺の手に負える相手じゃあない。
 
 2、結界そのものを破壊する。
 
 これも、無理。
 キャスターをして不可能と言わしめたのだ。俺如きに何が出来るか。

 3、マスターを、殺す。

 そうすれば、サーヴァントは一時的に制御を失うはず。
 確実に解呪が成るとは断言できないが、かなり高い確率で、結界は消え失せるはず。
 ならば。

 4、マスターを説得、或いは強制して結界を解かせる。

 却下。

 ならば、俺の採りうる選択肢。

 3、マスターを、殺す。
 3、マスターを、殺す。
 3、マスターを、殺す。

 3、マスターを、殺す。


 あれ、おかしいぞ。
 火は、消えたはずなのに。
 赤く染まった視界。それを染色していたはずの、燃え盛る炎。
 それは、さっきの一撃で、鎮火したはずなのに。
 何かが、ちろちろと燃えている。
 とろとろと、鉄を溶かすような炎だ。
 青く、鮮やかな、炎。
 見た目には涼やかな、しかし、赤い炎よりも、遥かに高熱な。
 触れるもの全てを溶かすような、火。
 それが、燃えている。
 視界の奥、水晶体の裏側。
 脳と視神経を繋ぐ、ちょうどその箇所で。
 ちろちろと、舐めるように、燃えている。
 これは、怒りの炎じゃあない。
 目的を遂行する意志。
 それを種にして燃え盛る、より醜い炎だ。
 ああ、そうか。
 要するに、何も変わっちゃあいない。
 むしろ、堅固になっただけか。
 怒りに任せた殺人よりも、目的の為に犯す殺人の方が、一般的に罪は重い。
 ならば、俺の罪はより重くなっただけだ。
 それだけ。
 それだけの、こと。
 さぁ、行こうか。
 方向性は、定まった。
 視界は良好。
 今は、余計なことを考えるな。
 考えなしに突っ込むんじゃあないぞ。
 それは、足りない脳味噌を振り絞って考えなけりゃあいけない。
 でも、その後のことは考えるな。
 今は、あいつを如何にして殺すか。
 それだけを、考えろ。
 
 じゃらり、という鎖が擦れる音と、『点』が飛んできたのは、ほぼ同一の拍子だった。
 まったくもって、点としか言いようのないもの。
 よく分からないが、この上なく危険な物。
 本能的に、身をかわす。
 髪の毛ほどの一瞬の間があって、かつん、という乾いた音が響く。
 寸前まで俺の左肩のあった場所。
 そのすぐ後ろの壁に、巨大な杭がめり込んでいた。
 硬質なコンクリートの壁。
 そこに、ライダーの釘剣が、深々と突き刺さっていたのだ。
 ごぼり、という不気味な音と共に、引き抜かれる杭。
 あっという間に所有者の手に戻った。
「あれ…はずれた?」
 甚振るような声。
 どこか知性を置き去りにしたような、無邪気な声。
 まるで、無垢な子供。
 笑顔のまま虫の足を引き千切る、それくらい無垢な子供。
 彼らだけに許された、輝くような笑顔だ。
 理解した。
 あれは、俺を楽に殺すつもりは無い。
 甚振って甚振って。
 手足を一本ずつ捥ぎ取って。
 芋虫みたいになった俺の首を、やはり哂いながら捻じ切るのだろう。
 それは真実の双子みたいな確信だった。
 だから、俺は安堵した。
 少なくとも、一瞬で殺されることは無い。
 以前の彼女には、そんな雰囲気は無かった。
 人間というよりは人形。
 生き物というよりは機械。
 最短距離を、最小限の労力を持って走破するランナー。
 そんな冷徹なイメージが、確かにあった。
 あのときの彼女なら、一切の躊躇いを見せずにこの首を削ぎ落としていただろう。
 しかし、今の彼女は生々しく、それ以上に毒々しい。
 冷血な蛇の目と、獲物を甚振る鯱の口を併せ持っている。
 余裕、なのだろう。
 そもそも、人間相手におたつくサーヴァントっていうのもお笑い草だ。
 だが、余裕とは隙の別称だ。
 ならば、付け入る隙があるということだ。
 そこに、活路を見出せ。
 
 周囲の状況を覚える。
 意識して覚えるのではない。
 脳が、勝手に認識していく。
 あそこに、柱―――。
 あそこに、消火器―――。
 あそこに、扉―――。
 倒れ伏した生徒の位置。
 己の立ち位置と、敵との距離。
 火のついたガソリンのような思考速度。
 泡立つように煮え滾る全身の筋肉。
 握った拳が、そのまま拉げてしまいそうなほど、熱い。
 いいぞ。
 俺は、こんなにも強かったか。
 もちろん、これは錯覚だ。
 キャスターの薬によって得られた、偽りの強さだ。
 しかし、構わない。
 ドーピングを罰する規律は、今この場において存在しない。
 殺せば、勝ちだ。
 殺せば、勝ちなのだ。
 だから、いくぞ。
 いつものやりかただ。
 いつも、朱に染まった戦場を、渡り歩いてきた、あのやりかたで。
 
 再び、杭が飛んできた。
 さっきよりも、疾い。
 影すら出来ないような、そんな速度。
 反射的に剣を振り上げるが、間に合わない。
 ひゅ、っという擦過音。
 焼け付くような、右耳の熱さ。
 ぽたぽたと、何かが垂れる音が、不思議なほど大きく聞こえる。
「はは、衛宮、どうしたんだ、その耳は?鼠にでも齧られたか!」
 なるほど、俺の右耳は未来の猫型ロボットみたいになってるのか。
 サンキュー、慎二。
 丁寧なご解説、どうもありがとうございます。
 あとでお前も同じ目にあわせてやるから、覚悟してろ。
 俺の耳を削り取った杭を無視して、ライダーの懐に飛び込む。
「はっ―――」
 爪先に力を集中する。
 小指の骨が軋みをあげるほどの踏み込み。
 一息でこの間合いをゼロに出来るのではないか、そんな錯覚。
 でも、かの槍兵でもなければそんな芸当は不可能だろう。
 当然、俺に出来ることではない。
 だから、走った。
 景色が、凄い勢いで流れていく。
 普段の自分では到底適わない速度。
 しかし、視界は不思議なほどクリアで、倒れ伏している人影の詳細までも見て取ることが出来る。
 あの髪型は、氷室だろうか。
 あの制服の着こなしは、おそらく後藤。
 あの栗色の髪の毛は藤ねえ。
 ここは俺達の学校。
 見知った顔ばかりが目に付くのは仕方ないが、それが納得できるわけではない。
 そうだ。
 早いとこ結界を解呪しないと、彼らは二度と目を覚まさない。
 それは、衛宮士郎にとって受け入れられる限界を超えている。
 歯を軋らせる。
 よし。
 これで、目的がまた一つ。
 いいぞ。
 青い炎が、少しずつその火勢を強めていく。
 ぶちぶちと、筋肉が沸騰していく。
 これなら、勝てる。
 これなら、勝ち得る。
 要するに、これは我慢比べだ。
 目の前に、蛇のような、ぱかりと裂けた笑み。
 いくぞ。
 0.1秒だけ、驚いてろ。

「っしゃああぁぁぁ!」
 開いた喉を迸る、気合の声。
 それと共に放った、必殺の一撃。
 右から放つ、袈裟切り。
 鉄すら両断するような、必殺の一撃。
 しかし、目の前の化け物は、薄ら笑いを浮かべたまま、難なく受け流す。
 構わない。
 手数の多さが、双剣の身上だ。
 今度は左手で、首を狙った横薙ぎの一閃。
 奴はスウェーでかわす。
 構わない。
 右、刺突。
 左、逆袈裟。
 右、切り上げ。
 左、逆風。
 当たらない。
 防がれる。
 悉く。
「うん、がんばったね。じゃあ、もういっかいがんばって」
 意味不明な呟き。
 瞬間、右顎にとんでもない衝撃。
 ―――――――。
 ――――――。
 ―――――。
 ――――。
 ―――。
 ――。
 ―。
 あ。
 ここは、どこだ。
 俺は、何を―――。
 とりあえず、起き上がらないと駄目だ。
「顔が変形してるじゃないか、ひゃはは、お前誰だよ?」
 不快な声。
 ああ、慎二。
 思い出した。
 お前の声のおかげで、はっきりした。
 今、俺は戦闘中だったんだ。
 そして、ライダーにぶん殴られた。
 少しの間、意識を失っていたらしい。
 舌で下顎の骨を押すと、動く。
 なるほど、顎の骨が砕けたか。
 視界に映る慎二の顔は、不思議と小さい。
 ああ、どうやらまた吹き飛ばされたらしい。
 ということは、また―――。
 精神ではない。
 思考ではない。
 反応し得たのは、身体の意志。
 咄嗟に廊下を転がる。
 かつん、と。
 やはり、俺が倒れていたその場所に、散々見覚えのある杭が突き立っていた。
「すごいね、きみ」
 賞賛の言葉はしかし、攻撃の手を緩める慈悲を含まない。
 杭を投げ、それを手元に戻す。
 その動作が抜け落ちたような、連射。
 かん、かん、かん、かん、と。
 廊下と壁が、蜂の巣みたいになっていく。
 這うように、無様にそれをかわす。
「いいぞ、衛宮!もっと僕を楽しませてくれ!」
 何か聞こえた気がするが、そんなの意識の埒外だ。
 何とか、立ち上がる。
 目前に迫ってきた杭を、ダッキングでかわす。
 いい加減、馬鹿でも慣れてきた。
 予備動作さえ見逃さなければ、もうあれには当たらない。
 再び、疾走。
 間合いを、ゼロに。
 突然、後頭部に衝撃。
 新手か。
 そう考えながら、前のめりにバランスを崩す。
「ゆだんたいてきだね」
 哂う怪物、その手にはやはり杭。
 ああ、なるほど。
 あの杭を手元に戻すとき。
 その動作の中で、俺の後頭部を狙ったのか。
 近づいてくる地面。
 しかし、足を出して踏ん張る。
 じくじくと、頭が痛い。
 ぬるりとした首筋の感触は、垂れ落ちる血液のものだろう。
 ぐらんぐらんと、視界が歪む。
 まるで大時化の海にいるようだ。
 それでも、もう倒れない。
 俺の身のうちに宿る、偉大な誰かの経験に誓って。
 俺の身のうちに宿る、偉大な誰かの遺物に誓って。
 走れ、走れ、走れ。



[1066] Re[32]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆7d422974
Date: 2007/06/24 01:40
 体が、重たい。
 まるで体重が倍になったみたいだ。
 私は太らない体質だと思ってたけど、一気にツケが回ってきたのだろうか。
 だって、仕方ないじゃないか。
 士郎のご飯は美味しいし、桜ちゃんのご飯も美味しい。
 なにより、あの家は暖かくて、どんなものでも一層美味しくしてしまう魔法の空間なのだ。
 でも、それにしてもおかしい。
 景色が、真っ赤だ。
 多分今は朝のはずだから、夕焼けに照らされてるってわけでもないと思う。
 それに、なんだか気分が悪い。
 まるでインフルエンザか何かに罹ったみたいだ。
 つまり、いきなり体重が増えた上に、性質の悪い風邪をひいてしまったのか。
 なるほど、なら、立ち上がれないのも納得だ。
 
 誰かが、走っていた。
 視界のほとんどは廊下に占拠されてるから、当然顔なんて見えない。
 それでも、時々映る運動靴が、記憶の琴線を刺激する。
 ああ、どこかで見たスニーカーだ。
 毎日、見てるスニーカーだ。
 全身の力を総動員して、顔を起こす。
 ああ、やっぱり士郎だ。
 士郎が、いた。

『藤ねえ、俺、しばらく遠坂の家に泊まるから』
 なんで?
『ごめん、理由は言えない。きっと、いつか話せると思う』
 私にも言えないような、理由なの?
『ああ。でも、多分藤ねえを泣かせるようなことは、しないから』
 うん、じゃあ仕方ないね。

 いつの間にか、男の子から、男性になっていた弟の表情。
 覚悟に彩られた、硬い声。
 ほんの少しだけ寂しかったけど、でも、同じくらい嬉しかったんだ。
 なのに。
 なんで、あなたはそんな顔をしてるの?
 泣きそうなくらい必死で。
 呆れるくらい、ひたすらで。
 でも、それ以上に、禍々しい。
 血塗れで、青痣だらけで、粘土細工みたいにぼこぼこで。
 でも、まるで、人殺しみたいな、笑いを浮かべて。
 士郎。
 駄目だよ。
 あなたが何をしようとしているのか分からないけど。
 絶対に、駄目。
 あなたがそんな顔したら、お姉ちゃん、悲しくなる。
 きっと、泣いてしまう。
 士郎。
 あなたは嘘吐きじゃあないでしょう。
 だから、止めて。
 お願いだから、止めて。

 episode29 外道転落 

 走った。
 吹き飛ばされた。
 走った。
 吹き飛ばされた。
 走った。
 吹き飛ばされた。
 走った。
 吹き飛ばされた。 
 走った。
 吹き飛ばされた。
 殴られて、蹴られて、投げ飛ばされて。
 何度も何度も、壁に叩きつけられた。
 一体、幾度意識を失ったのか。
 時間の経過が分からない。
 一時間か。
 それとも、気付いていないだけで一昼夜は戦い続けているのか。
 そろそろ休みたくなってきた。
 布団に寝転がって、『ああ、今日も一日疲れたな』、そう言ってみたい。
 それは、何と甘い妄想か。
「衛宮、五分たったぜ。すごいな、サーヴァント相手に五分も戦えるなんて、予想外だ。インスタントラーメンよりは粘ったぜ、お前」
 五分。
 何が五分だと言うのだ、慎二。
 まさか、俺が戦い始めてから、五分しかたっていないとでも言うのか。
 これだけの疲労。
 これだけの苦痛。
 それでも、まだ五分か。
 それとも、もう五分か。
 くそ、やはり歯が立たない。
 セイバーの言ったとおりだ。
 人は、絶対にサーヴァントに勝てっこない。
「でも、そろそろ飽きてきちゃったな。ライダー、そいつの手足を折っちゃえよ。後で殺すけど、そいつは遠坂達を釣り上げる餌だからさ、今は殺しちゃ駄目だぜ」
 慎二の表情は、いかにも退屈です、と言わんばかりだ。
 ライダーも頑丈すぎる獲物に聊か辟易としているらしい。
 好都合。
 次が、勝負だ。
 いつも通り飛んできた杭。
 これがゲームの始まりだ。
 これをかわしてライダーのもとまで辿り着けば、ご褒美が貰える。
 約五秒間、こちらの好きに攻めさせてもらえる。
 逆に言えば、五秒後には確実に攻撃を喰らう。
 いかにも嗜虐性に満ちた甚振り方。
 らしいといえば、この上なく、らしい。
 だが、今の俺にはこの上なく好都合だ。
 杭を避け、ライダーに向けて走る。
 流石に、スピードは落ちてきた。
 血も流しすぎたし、疲労も溜まっている。
 だが、これが最後になるだろう。
 最後に、してみせる。
 再び飛んできた杭。
 ざくり、と、右の太腿に突き立つ。
 気にするか、こんなもの。
 痛みで折れるほど、柔な心は持ち合わせちゃあいない。
 今重要なのは、痛みじゃないからだ。
 生き死にですらない。
 目的を達すること。
 その意志だけが、この身体を動かす原動機だ。
 言うことの聞かない足を、叱り付ける。
 折れそうになる膝を叱咤する。
 まだだ。
 まだ、頑張ってくれ。
 やっとのことで、ライダーの間合いに。
 『またおなじこと?』
 うんざりした彼女の表情。
 構わず、切りつける。

 一秒。

 それでも、当たらない。

 二秒。

 まるで、子供の喧嘩みたいだ。

 三秒。

 ただ、手を振り回すだけ。

 四秒。

 でも、ここだ。
 彼女が、攻撃の回避と、反撃の準備、その両方に気を取られる、この瞬間。
 さぁ、ここが勝負。
 おそらく、これが彼女が許す、最後の攻撃。
 右の短刀を、左肩から振り下ろすように振るう。
 やや中途半端な一撃。
 当然、彼女には掠り傷ひとつつけることは叶わない。
 それでいい。
 この一撃は、彼女を倒すことを目的にしたものじゃあないから。
 目標は、この短刀の先。
 すっぽ抜けたように飛んでいく短刀、それが突き刺さったもの。
 赤くて、細長い、筒状の物体。
 学校の廊下なら、必ず二、三は設置されている。
 消火器。
 これが、俺の狙い。

 これで、五秒。

 直後、ぼん、という、どこか間の抜けた音をたてて、消火器が破裂した。
 轟音と共に、白い薬剤があたりを満たす。
 それを、俺は予想していた。
 予想して、期待していた。
 さて、目の前の化け物はどうか。
 予想していたはずが無い。
 ならば、一瞬でいい、意識が逸れるはずだ。
 頼む。
 逸れろ。
 逸れてくれ。
 一瞬、奴の顔に、不審の色が浮かんで。
 そして、その視線が、逸れた。
 死ぬ思いで作り上げた、0,1秒の隙。
 見逃すか、馬鹿。
 過負荷ともいえる魔力を、四肢に込める。
 燃やせ。
 体力か、魔力か。
 憤怒か、歓喜か。
 私憤か、義憤か。
 そんなものは、どうだっていい。
 俺の中にある、あらゆるものを、燃やし尽くせ。
 何だっていいのだ。
 切嗣との思い出でも、藤ねえに怒られたことでも、魔術の修行で死掛けたことだっていい。
 今、この瞬間は、あらゆる思い出が等価だ。
 等価に、尊い。
 全てが、愛おしい。
 しかし、何かが欠けている。
 何だろう。
 何かが違う。
 何かが、ずれている。
『―――だなぁ、―――は』
 唐突に浮かんだイメージ。
 赤い髪。
 輝くような笑顔。
 でも、その顔は煤みたいに真っ黒だ。
 貴方は、誰だ。
 俺に、何の用だ。
 懐かしい、声。
 思い出す、熱さ。
 身を焦がす炎よりも熱い、掌。
 俺のことだけを守ってくれた、優しい掌。
 あ。
 体が、燃え上がる。
 赤い炎だか、青い炎だか、分からないが。
 何かが、燃えている。
 いいぞ。
 いくぞ。
 燃料は満タンだ。
 それを、一気に注ぎ込む。
 跳べ。
 反復横跳びみたいに、足の裏の内側面で、床を蹴る。
 一息で、壁まで跳躍。
 今度はそれを蹴って、ライダーの背後に戻る。
 まるで、サッカーのキーパーみたいに三角跳び。
 目の前には、呆けた顔の慎二。
 消化剤の白い霧の中、ボケたみたいに突っ立っている。
 こいつ、戦場にいるっていうのに、戦う準備すら出来ていなかったのか。
 幸せなやつだ。
 苦痛を感じる暇すら、与えてやるつもりは無い。
 死ね、慎二。
 俺は、手に残った一本の短刀を突き出す。
 ぞぶり、と。
 肉を貫く感覚が、この上なく心地良かった。



[1066] Re[33]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆7d422974
Date: 2007/06/24 11:01
 ずん、と、衝撃がお腹を貫く。
 剣道の試合で、何度か味わった感覚に似ている。
 似ているが、しかし、非なるもの。
 まず、その実在感。
 衝撃だけでなく、刃そのものが皮膚の下にめり込むというのは中々珍しい感覚だ。
 次に、冷たさ。
 痛点と冷点がその対応を間違えているのか、不思議なくらい痛みは無く、不思議なくらい冷たい。
 最後に、恐怖。
 これは、この感覚は、そのまま死に直結するもの。そう体が知っている。体中から噴出す脂汗は、何よりの証拠だと思う。
 でも、後悔なんて、無い。
 あのまま寝てたら、もっと痛かった。
 士郎が間桐君を殺す瞬間を見るなんて、もっと辛かった。

 もしかしたら、間桐君が悪いのかな、と思う。
 士郎がこんなに怒ってるんだもん、きっとそうだよね。
 でも、殺しちゃ駄目。
 殺したら、笑えなくなる。
 そんな人、お爺様の知り合いに、何人もいたから。
 それとも、もう笑うことしか出来なくなるか。
 笑いながら人を殺すことしか、出来なくなるか。
 私は許さないぞ、士郎。
 あなたがそんな人間になるなんて、絶対に許さない。
 きっとこれは望んだ結末。
 私が全身全霊で望んだ、結末。
 だから士郎。
 そんなに悲しそうな顔をしないで。
 あなたが悪いんじゃないから。
 あなたが責任を背負わなければいけないのは、間桐君を殺そうとしたこと。
 そのことは、一生をかけて償ってください。
 でも、私を傷つけたことは、あなたのせいじゃない。
 私があなたの前に飛び出した。
 誰もそんなこと、予測できないよね。
 あなたの狙う的の前に、ふらふらと自分の意志で飛び出した、お姉ちゃんが馬鹿なだけだから。
 お願い、あなたは笑っていてください。
 多分、しばらくは無理だと思うけど。
 それでも、殺しさえしなければ、いつかは笑えるよ。
 大丈夫、私は絶対に死なないから。
 士郎の剣なんかで、絶対に死んでやらないから。
 だって、私が死んだら、きっと士郎は立ち直れない。
 それくらい、自惚れじゃなくて確信してる。
 なんたって、私はあなたのお姉ちゃんなんだぞ。
 お姉ちゃんは絶対に死なないのです。
 お姉ちゃんは強いから。
 安心して、士郎。
 少し、眠るだけ。
 起きたら、全力で殴ってあげる。
 殴って、暴れて、喚いて。
 最後に、ぎゅうって抱きしめてあげるから。
 楽しみに待っててね、しろう―――。

 episode30 絶望
 
 あ。
「うん、間に合った」
 あ、あ。
「士郎、駄目だぞ、そんな危ないもの振り回しちゃ」
 あ、あ、あ。
「本当、怖い顔してたけど…」
 あ、あ、あ、あ。
「よかった、いつものしろうにもどった…」
 なんで。
 なんで、あなたが。
 なんで、わたしは。
 なんで、あなたが、ここにいるのですか。
 なんで、わたしは、あなたをきずつけているのですか。
 なんで、あなたは、そんなにちをながしているのですか。
 なんで、わたしは、あなたを―――。
 殺してしまったのですか。
「藤ねえ―――――――――!」
 笑顔を浮かべたまま、ふわりと倒れる彼女。
 神様よりも早く動いて、なんとか抱き止める。
 ほとんど、反射に近い。
「何で!」
 慎二が、悪いんだ。 
「何で!」
 みんなを苦しめてるから。
「何で!」
 代羽を、犯したから。 
「何で!」
 何で。 
「何で!」 
 あなたが、あんな奴を、庇うんだ。
 あいつは死んで当然のことをしたんだ。
 殺さなきゃいけないんだ。
 罪には罰を。
 行いには報いを。
 因果には、応報を。
 俺は、正義の味方だから。
 悪い奴は、やっつけないと。
 皆を苦しめる奴は、排除しないと。
 なのに。
 何で、あなたが―――。
「ゆるしてあげて、しろう」
 蚊が鳴くような、小さな囁き。
「まとうくんを、ゆるしてあげて」
 なにを、いまさら―――。
「ふふ、しろうはがんこだねぇ…」
 だって、あいつは、あいつは。
「じゃあ、せめてじぶんを、ゆるしてあげて。そんなに、じぶんを、いじめ、ないで……」
 嫌だ。
 俺は、絶対に許せない。
 正義の味方なのに。
 切嗣から、理想を受け継いだのに。
 こんなの、嘘だ。
 こんなこと、認められない。
 こんなのは、正義の味方じゃあ、ない。
「くそ、血が出てる、痛い、痛いぞ、ちくしょう!」
 慎二が、叫んでる。
「病院だ、こんなに血が出てる、役立たずの藤村め、教師としては欠陥品なんだから、せめて生徒の盾くらいにはなれってんだ!」
 藤ねえの身体を貫通した刃が、ほんのちょっぴり慎二を傷つけたらしい。
「こいつ、僕を殺そうとしやがった!くそ、ライダー!こいつを殺せ、今すぐだ!」
「慎二」
 自分でも、不思議に思うほど、心は穏やかだった。
 嵐の中心は晴天、それに近いのかもしれない。
「頼む、藤ねえを助けてくれ」
 藤ねえをそっと横たえる。
 剣は抜かない。
 抜けば、一気に出血量が増えて、ショック状態に陥ると聞いたことがあるからだ。
「頼む、慎二、藤ねえを助けてくれ」
「はぁ?何で僕がそんな役立たずを助けなけりゃいけないんだよ!だいたい、お前は今から死ぬんだから、そんな心配はしなくていいんだ!」
 俺は、深く深く、頭を下げる。
「この通りだ、慎二。俺は殺されても構わない。ライダーの養分にでもしてくれ。だから、慎二、藤ねえを、皆を、助けてやってくれ」
 ややあって。
 へえ、と。
 優越に満ちた声が、聞こえた。
 数分前なら、吐き気が収まらなかっただろう、嫌な声。
 しかし、今の俺にそんなことを考える余裕は無い。
「…しおらしくなったじゃあないか、衛宮。でも、人にものを頼むときって、そんな態度じゃあ不味いんじゃないの?」
 一瞬の迷いも無く、廊下に膝を突く。
 手をついて、額も擦り付ける。
 土下座。
「お願いします。藤ねえを助けてください。皆を助けてください。お願いします。お願いします。お願いします」
 ははは、と、嗜虐に満ちた笑い声が、静寂な廊下に響く。
「いいぞ、そうだ、その姿が見たかったんだ!最初からそうしてれば、こんなことにはならなかったのにな!お前が悪いんだぜ、衛宮!」
 狂笑は止まらない。
 それでも、いい。
 何十分の一か、何百分の一か。
 どんなに僅かな可能性でもいい。
 慎二が、ほんのちょっぴりの気紛れを起こして、彼女達を助けてくれれば。
 それは、今から俺が素手でライダーを倒すよりも、遥かに高い可能性だろう。
 そのためなら、このカボチャみたいな頭くらい、いくらでも下げてやる。
「お願いします」
「うんうん、やっぱり人間、分相応に生きないとね」
「お願いします」
「今のお前は悪くないぜ、衛宮、ああ、いい気分だ」
「お願いします」
「うーん、どうしようかなぁ」
 ぐいっと、後頭部の髪を掴まれた。
 顔を引き起こされて、そこにあったのは、醜く歪んだ慎二の顔。
 人はここまで醜く笑うことが出来るのか、その生きた標本だ。
「でも、だぁぁめ。ちょっと遅かったね、衛宮。心配するなよ、一人で逝かせるなんて、残酷な真似はしないからさ。赤信号、皆で渡れば怖くない、って言うじゃん。だから、怖いことなんて何一つないぜ?」
 舌を卑猥に動かす慎二。
 嘲るような調子で、続ける。
「遠坂達もすぐに送ってやるよ。まぁ、たっぷり楽しんだ後になるから、いつになるかはわからないけどね」
 駄目か。
 やっぱり、無駄だったか。
 仕方ないか、慎二。
 お前は、きっと俺が無手だと思っているだろう。
 ある意味では、それは正しい。
 しかし、それは根本的に間違えている。
 俺は、無手になるということは絶対に無い。
 いつだって、この手に武器を握ることが可能だ。
 今、そのにやつく口元を、もっと大きくしてやることだって出来るんだ。
 でも、それはしたくない。
 藤ねえが、泣くからだ。
 きっと、お前を殺せば、藤ねえは泣く。
 それは、とても嫌な事だ。
 だから、我慢した。
 ちろり。
 だから、お前に頭を下げた。
 ちろり。
 でも、お前は、止まってくれなかった。
 ちろり、ちろり。
 だから、火をつけたのは、お前だ、慎二。
 一旦は、完全に鎮火した、業火。
 その、燻る火種に、再び着火したのは、お前だぞ、慎二。
 ちろり、ちろり、と。
 舐めるように、炎が、広がっていく。
 もう、収まらない。
 誰も、止められない。
 藤ねえは、泣くだろうし、悲しむだろう。
 でも、死ぬよりはマシだ。
 目の前で、大事な人を失うなんて、一度あれば十分だ。
 だから、慎二。
 俺は。
「さあ、ライダー、もう飽きちゃったからさ、こいつ殺してよ」
「投影、開―――」
「やだ」
 ―――。
 たった二文字の、絶対的な拒絶。
 あまりにも幼い返答は、周囲の張り詰めた空気を弛緩させた。
「…もう一度言うぞ、ライダー。こいつを、殺せ」
「やだ。ころさないんじゃなくて、ころせないから、やだ」
 …どういう意味だ。
 慎二は、ライダーのマスターなんじゃないのか。
「お前、僕の命令には従う、そう言ったじゃないか!」
「でも、そのめいれいは、さいしょにうけためいれいとむじゅんするから。だから、したがえないの」
「はぁ?そんなこと、聞いてないぞ!お前が僕に絶対服従するって言うから、『偽臣の書』を作らせなかったんだ!約束が、違う!」
「そんなの、しらない。でも、わたしはさいしょにめいれいされたから。『えみやしろうをころすな』って」
 命令された?
 誰に、だ?
「そんなの知ったことか!だいたい、新しい命令は古い命令より優先されるんだ!殺せったら殺せ!」
 癇癪を起こした幼児みたいに喚く慎二。
 それを、おそらくは冷ややかに見つめるライダー。
「うん。ふつうなら、そうだよね。でも、このめいれいは、れいじゅをつかっためいれいだから。だから、やぶることはできないの」
 令呪を使った?
 たった三つのコマンドスペル。
 空間転移などの、奇跡すらも可能にする切り札。
 戦術ではなく、戦略面においてすら影響を及ぼす、兵器。
 それを使って、俺を殺すなと、そう命じたのか。
 一体、誰が。
「―――そんなこと、知るか!よし、分かった。お前がやらないなら、僕がやる!」
 慎二は、ポケットから、折りたたみ式のナイフを取り出した。
 しゃこん、と刃が飛び出る。
「そうだ、どうせ殺すなら直接殺したほうが気持ちいい!どうせ爺の指示だろう!あいつが自分から令呪を使うなんて、そんな自由認められてるはずが無い!なら、爺に感謝しないとね!」
 慎二は、ナイフを振りかざす。
 かわすことは出来ない。
 かわせば、藤ねえに当たる。
「死んじゃえよ、衛宮!」
 俺は藤ねえの上に覆いかぶさって、強く、目を閉じた。
「ああ、そういえば、そのめいれいにはつづきがあってね」
 呆けたような、ライダーの声。
 その直後聞こえた、かつん、という、妙に硬質な響き。
 例えるなら、皿を猛スピードの銃弾が貫通したら、こんな音が鳴るのではないか、そんな音。
 構えた衝撃は、いつまでたっても訪れない。
 不審に思って、慎二を見上げる。
 刹那、ぱしゃり、と暖かい液体が降りかかってきた。
 妙に粘ついて、鉄臭い。
 あれ、慎二。
 お前、何してんだ?
 お前の顔、いつからそんなに平坦になっちゃったんだ。
 まっ平らで、でも、真っ赤。
 まるで、CTスキャンか何かで撮った、人体の断面図みたいじゃないか。
 いや、それよりももっとリアルだ。
 だって、物凄く、派手だ。
 黄色い脂肪の粒。
 極彩色の血管。
 白い、骨。
 乳白色の、脳味噌。
 そして、未だ拍動を続ける心臓と共に溢れ出す、赤い血液。
 そんなに見せて、恥ずかしくないのか、慎二。
 脳味噌なんか、今にも零れ落ちそうじゃあないか。
 慎二、慎二。
 お前。
「『えみやしろうをころすな、そして、かれをころそうとするものを、ぜったいてきにはいじょしろ』だってさ」
 ぺろり、と。
 哂いながら、爪に張り付いた慎二の肉片を舐め取るライダー。
 ぐらり、と。
 崩れ落ちる、間桐慎二だったもの。
 そして、天井には。
 唖然とした、慎二の顔が張り付いていて。
 ぎょろり、と動いた目玉が。
 悲しそうに、俺を映した。



[1066] Re[34]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆f3fb0ffe
Date: 2007/06/29 04:26
 びちゃり、と。
 粘着質な音が、辺りを満たす。 
 落ちてきたのがスライムの類なら、B級のホラーだ。
 でも、落ちてきたのは、俺の友人だった男のデスマスクで。
 これが、くそったれな現実だってことを、再認識させてくれる。
 白い薬剤に塗れた廊下。
 其処に咲いた、真っ赤で大きな花が一輪。
 それは、人の命を喰らって咲く、醜悪な花だ。
 甘い蜜の香りではなく、鉄臭い血の香りで。
 虫ではなく、死神を狂喜させる。
 あれを育てたのは、ライダーだ。
 慎二を殺したのは、ライダーだ。
 でも、俺はあいつを殺そうとした。
 殺意を持って、排除しようとした。
 そして、嘘か本当かは知らないが、彼女がその手を汚したのは、どうやら俺を守るためらしい。
 ならば、慎二を殺したのは、ほとんど俺だ。
 誰が否定しても、これは事実だと思う。
 じゃあ、俺はどうしたらいいんだろう。
 慎二に詫びるか?
 許してくれと。
 俺もいずれ地獄に堕ちるから、気が済むまで殴れと。
 いやいや、流石の俺も、そこまで恥知らずじゃあない。
 詫びるくらいなら、殺さない。
 そもそも、俺はかけらも悪いと思ってない。
 あいつは殺されて当然のことをした。
 だから、だから―――。
 ああ、もう。
 そんなことは、どうでもいい。
 後悔も、歓喜も、後で、全て、後でいい。
 今、重要なことは、唯一つだ。
 慎二は、死んだ。
 しかし、ライダーは健在で。
 やはり、結界は解呪されない。
 なんだ、そんなことか。
 万策尽きた、そういうことだな。
 簡単な、ことじゃあないか。

 episode31 Don Quixote


「うん、うるさいやつもいなくなったし、はじめよっか」
 にっこりと笑ったライダー。
 その表情からは、微塵の敵意も読み取れない。
 彼女は何を言っているのだろうか。
 ぐるぐるになった脳味噌は、満足のいく回答なんて、導き出してくれるはずが無い。
 でも。
 ぐらぐらと、茹る何かが在る。
 どくり、と一際大きな鼓動が、響く。
 頭ではない。
 精神ですらない。
 身体。
 細胞に刻まれた、被捕食者の記憶が、雄弁に己の置かれた状況を解説する。
 背筋に、ドライアイス染みた冷気が走り抜ける。

 何を呆けているのだ。
 逃げろ。
 間違いなく、食われるぞ。

「ぬわっ!」
 悲鳴が、漏れた。
 大穴の開いた足で、無理矢理飛び退く。
 空の消火器に刺さっていた短刀を、震える指先で引っこ抜く。
 涙が浮かぶ。
 がちがちと、歯が鳴る。
 膝が、震える。
 ライダーは、先ほどの表情のまま、動かない。
 思わず笑えるほど震える刃先、その向こうで、華が咲いたみたいに、笑っている。
 怖い、笑みだ。
 肉食獣が、獲物を捕らえる間際、その瞬間に浮かべる笑みだ。
 まるで、蛇に睨まれた蛙。
 いや、そんな程度の力の差ではありえない。
 突然涌いたイメージは、何故か、白魚の踊り食い。
 まだ、ぴちぴちと跳ねる、透き通った白魚を、噛み砕かずに、飲み込む。
 生きたままの白魚を、胃の腑に収める。
 『ああ、胃の中で飛び跳ねている』
 その感触を、味わうのだ。
 ゆっくりと、己の中で消えていく命を、慈しむのだ。
 その、喜び。
 自分が絶対的な超越者である、確信。
 彼女は、それを、楽しんでいる。
 そして、俺が、白魚だ。
 ぴちぴちと、胃酸の海で、飛び跳ねる。
 逃げ道は無い。
 ただ、死にたくなくて、飛び跳ねる。
 飛び跳ねながら、溶けていく。
 皮と肉は溶け、やがて、骨になる。
 なるほど、彼女は、俺を慈しんでいるのだろう。
 きっと、堪らなく愛おしいのだ。

「ころさなければ、いいんだよ」

 感極まったような、声。
「ころさなければ、いいんだよ」
 舌なめずりするように、言葉を紡ぐ。
「だいじょうぶだからね、きっと、すごくたのしいから」
 にんまりとした笑みが、鋭角な、ぱかりとした笑みに。
 裂けるような、その口。
 蛇だ。
 蛇が、哂った。
「にんげんってね、けっこうしねないんだよ。じょうずにすれば、てあしをぜんぶもぎとっても、しねないの」
 夢を見るように、掌を合わせる。
「かんせつをごきりとはずしてね、かわにざっくりつめをたててね、きんにくをぶちぶちひきちぎってね、けっかんがすこしずつのびていってね、ぷち、ってちぎれてね、おいしいちがあふれだすの」
 口の端に、泡立つ涎が。
「だいじょうぶだよ、いっぱいいっぱいためしたからね。さいしょはどんどんしんじゃったけど、いまはぜったいにしねないからね」
 髪の毛が、ざわざわと、蠢く。
「つめもはごうね。はもむしろうね。みみとはなはそいで、まぶたはぬいつけて、したはひきぬこうね。きっと、きっと、たのしいからね」
 ゆるり、と彼女が歩を進めた。
 薬剤で濡れた廊下、そこに、ぬちゃり、と、非現実的な音が響く。
 彼女は、純粋だ。
 子供のように、純粋だ。
 だから、嘘は吐かない。
 俺は、生きたまま、解体される。
 俺は、剣を構えたまま、固まった。
 そう、ただ固まっただけ。
 形が構えの態なだけで、戦う意志など、欠片も残っちゃあいない。
 恐怖で、動けないだけ。
 これなら、這いずって逃げる輩のほうがまだ上等だ。
「あああああ…」
 情けない悲鳴が口から漏れる。
 きーんという、耳鳴りが聞こえる。
 これが収まったとき、俺は正気を失うだろう。
 そんな直感。

 ―――助けてくれ。

 声にならない悲鳴。

 ―――誰か、俺を助けてくれ。

 誰かの手を期待して、視線を彷徨わせる。

 ―――まだ、死にたくない。

 廊下に張り付いた、未だ中空を見つめる慎二の濁った瞳。

 ―――俺は、まだあの人に、言わなければならないことが、ある。

 藤ねえの、死人みたいな、顔色。

 ―――ありがとう、と、言わなければ、いけないんだ。

 だから。

 だから、俺は、逃げ出した。


 彼は、逃げ出した。
 脇目も振らず、逃げ出した。
 涙を流し、鼻水と涎を垂らし、情けない声をあげ、ひょっとしたら小便も漏らしながら、逃げ出した。
 彼は、逃げ出したのだ。
 何者が、彼を侮蔑し得るか。
 彼の目の前にいるのは、紛れも無い死神。
 彼の魂の紐を切るために現れた、無慈悲な死の使者。
 堅固な意志をもってそれに立ち向かう。
 聞こえはいいが、それは迂遠な自殺であり、それを行いうるのは狂人のみだ。
 彼は、そこまで狂っていなかった。
 それが、彼にとって幸福なのか、不幸なのか、彼自身にも、分かるまい。
 ただ、彼は、逃げ出したのだ。
 硬く握り締められたその手に、短刀を収めたまま。
 がくがくと震える足で。
 逃げたのだ。

 前に。

 ただ、前に。
 敵に、向かって。
 己の命を刈り取る、神の農夫に向かって。
 まるで、戦士の鬨の声のような悲鳴を上げながら。
 泣き喚きながら両手を振り回す、駄々っ子のように。
 目の前の脅威に向かって、逃げ出した。
 まるで、風車に戦いを挑む、アロンソ・キハーナのように。
 ある人がそれを見れば、抱腹絶倒の笑いに身を捩っただろう。
 ある人がそれを見れば、その不屈の精神に輝きを見つけるだろう。
 ある人がそれを見れば、その悲壮な声に涙を誘われただろう。
 つまるところ、その行為は無価値なのだ。
 故に、多面体的な解釈が存在しうる、それだけのこと。
 ただ、その行為は美しかった。
 少なくとも、その行為を見つめる、唯一人の男にとっては。
 無謀で、無茶で、無鉄砲で、どこまでも無価値なその逃避が。
 ただただ、美しかったのだ。



[1066] Re[35]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d65dd4f1
Date: 2007/07/01 09:38
 くそっ。
 どうしてこうなった?
 なんで、あの化け物との距離が縮まっている?
 自分の思考経路が、全く追えない。
 逃げないと、いけないんだ。
 俺は、逃げないといけないんだ。
 なのに、足が、俺の意志を裏切った。
 足だけじゃない。
 髪の毛が。
 額が。
 脳味噌が。
 鼓膜が。
 千切れかけた、耳が。
 目が。
 鼻が。
 唇が。
 喉仏が。
 鎖骨が。
 肺が。
 心臓が。
 横隔膜が。
 臍が。
 太腿が。
 膝が。
 脹脛が。
 爪先が。
 その全てが、俺の意志を裏切った。
 許さない、と。
 お前が逃げるのは構わないが、敵に背を向けるのは許さない、と。
 自分の命を愛でるのは構わないが、名も知らぬ誰かの命よりもいとおしむのは許さない、と。
 内なる声。
 自分ではない、誰かの声。
 自分という個以上に大きな、何かの声。
 いつから俺の中に宿ったのか。
 一体、いつから。
  
 結局のところ、怖かっただけなのだ。
 何よりも、怖かった。
 死ぬのは、怖い。
 死を許されない苦痛の泥濘でのた打ち回るのは、もっと怖い。
 だが、藤ねえが、そして皆が死んで、俺だけ生き残るのは、それよりも遥かに恐怖だった。
 
 俺だけが生きて。
 また、俺だけが生き残って。
 廃墟の中で、一人、生を謳歌して。
 

 大事なものを、見捨てて。


 許されるか。
 許されるか。
 そんなの、許されるか、馬鹿野郎。

 何かが、ある。
 あの時、全てを燃やし尽くしたと思った。
 あの一瞬。
 あの一瞬の跳躍に、全てを注ぎ込んだ。
 だから、今の俺は空だ。
 空っぽだ。
 そう思っていた。
 なのに、何かがある。
 濡れ濡れとした、何かだ。
 皮を剥いた枇杷のように、芳しく瑞々しい何かだ。
 砥ぎ水に濡れた刃のように、妖しく輝く何かだ。
 名前は、分からない。
 名付けようもない。
 だが、それは在る。
 そして、それが在るうちは、負けない。 
 負けて、やらない。
 行くぞ、ライダー。
 お前、さっき言ったな。
 俺を殺せないって。
 甚振ることは出来ても、殺すことは出来ないって。
 なら、俺は止まらないぞ。
 俺を止めたければ、一発目の弾丸を、頭か心臓にぶちこめ。
 それができないなら―――。
 この俺を止められるなんて、ゆめ、思うな―――!

 episode32 FAKE PILAYS WITH SNAKE. ;THE FIRST

 
「ごおおおおおおおおおおお!」
 迸る咆哮。
 勝利の確信。
 狙いは、首筋。
 そこを断てば、いくら蛇でも、死なざるを得ない。
 ぶん、と。
 横薙ぎの一閃。
 吸い込まれるように、刃が奔る。
 敵は、相変わらず裂けた笑みを浮かべたまま。
 勝ったか。
 歓喜。
 勝った。
 俺の、勝ちだ!


 なんてな。
 知ってるさ。
 こいつは、こんなちんけな刃物じゃあ、倒せない。


 がちん、と硬質な音がして。
 体が、短刀を握った右手を支点に、宙を舞った。

 びき、と嫌な音が、手首から響く。
 高速で流れていく風景と、重力による制御を失った身体が、咄嗟の思考を奪う。
 背中に衝撃。
 どうやら、地面に叩きつけられたらしい。
 跳ね起きるように立ち上がる。
 ゆらつく視界。
 其処に映ったライダー。
 彼女は、一歩も動いていなかった。
 彼女は、さも嬉しそうに、俺の短刀を咥えて、其処にゆらりと立っていた。
 全霊の一撃。
 それを、顎の力だけで、受け止めたというのか。
 刹那、ばきばきと、凄い音がした。
 アルミ缶を握り潰した時に聞こえる破砕音を、何倍も忌々しくした音だ。
 それが、明らかに彼女の口から、聞こえた。
 もぐもぐと動く、彼女の唇。
 からからと毀れる、金属片。
 キャスターの魔力によって強化された、強固な金属。
 彼女は、それを煎餅か何かみたいに噛み砕いたのだ。
 彼女は、やはり、ぱかりとした笑みを浮かべる。
 口の端からは、砕かれ、捻じ曲げられた金属片が、零れ落ちた。
「これで、ぶきはなくなったね。じゃあ、つぎはわたしのばんだから。たっぷりひめいをあげてね。かわいいかわいいひめいをきかせてね」
 残像じみた一撃。
 中段蹴り。
 咄嗟に肘を折り曲げてガードする。
 ぐしゃ、と肉のひしゃげる音。
 衝撃が腹を突き抜ける。
 おかしいな。
 蹴られたのは左側なのに、右側、肝臓が締め付けるられる様に痛い。
 しかも、ガードの上からだぞ。
 思わず笑みが浮かんでしまう。
 なんだ、これは。
 かは、と熱い呼気を吐き出す。
 体が『く』の字に折れ曲がる。
 効いた。
 効いた。
 たった一発だ。
 しかも、完全に読み通り、受けも完璧。
 これ以上無いくらいダメージを減らして、この威力か。
 凝縮された思考。
 一秒が、まるで永遠。
 静止した、苦痛に満ちた時間。
 それを割り裂いて、何かがすっ飛んで来る。
 背中の産毛が総毛立つ。

「ぬわっ!」

 海老のように丸まった背中を、無理矢理弓反らす。
 鼻先を掠める、肉の形をした弾丸。
 膝。
 あれを食らえば、鼻骨骨折くらいじゃ済まない。
 死。
 それすら、許容の範囲内だ。
 しかし、今か。
 おそらくは必殺の一撃。
 ならば、それをかわした今が、チャンスか。
 そこまで考えたとき、がつん、と後頭部に凄まじい衝撃。
 一瞬だけ意識を弾き飛ばされた。
 暗転した視界。
 無明の世界で理解する。
 多分、あれは、蹴り足の変化だ。
 俺がかわした膝は、中空でその方向を変え、たわめられた足を、まるで白鳥の翼のように羽ばたかせたのだ。
 そして、その足が、執念深い蛇のように、俺の後頭部に噛み付いた。
 飛燕の変化。
 現代において発達した格闘技、その中でも特上の足技。
 達人のそれは、突如足が消えたような錯覚に陥るというが、今のはまさにそれだ。
 これが、英霊。
 如何なる修練をも経ずして、あらゆる人種を凌駕する。
 それが、英霊の最低限必要なラインなのかも知れない。
 戦闘中とは思えないほど落ち着いた思考。
 自分でも、少し不思議だ。
 色を取り戻した視界の中で、そんなことを考える。
 近づいてくる、廊下。
 ああ、なるほど、俺は前に倒れていくのか。
 きっと、楽だろう。
 今、楽々と大の字に寝転がることが出来たら、これからの人生のあらゆる楽しみを引き換えにしても惜しくない。
 そんな傾いた考えさえ浮かんでしまう。
 しかし、現実はそんな妄想すら許してはくれない。
 まただ。
 また、何かが俺に向かってすっ飛んでくるのだ。
 黒いもの。
 黒くて、先が僅かに尖っている。
 ああ、あれは靴だな。
 彼女が履いている、靴だな。
 つまり、あれは彼女の爪先か。
 あれで、俺の顔面をぶち抜こうという訳だな。
 サッカーボールキック。
 お前、本当に俺を殺さないつもりか。
 さっきから、明らかに殺気を込めた攻撃が続いているじゃないか。
 この、嘘吐きめ。
 心の中で、毒づく。
 毒づきながら、顔面の前で、両手をクロスさせる。
 爪先を受け止めるのではない。
 そんなことそしたら、良くて骨折、最悪両手が千切れ飛ぶ。
 だから、その僅かに上。
 ちょうど、足の甲と向う脛の継ぎ目。
 そこが当たるように、両手でガード。
 それでも、その衝撃は止められない。
 身体が、宙に浮く。
 白まった脳味噌。
 シナプスが、断線している。
 背中が、何かにぶつかった。
 そして、顔面が何かに打ち付けられた。
 熱を持って腫上がった頭部に、ひんやりとした廊下の温度が心地いい。
 おそらく、俺はピンボールみたいに天井に蹴り上げられて、潰れた蛙みたいに、廊下に張り付いたのだ。
 多分、俺の攻撃から、十秒もたっちゃあいない。
 なのに、この有様か。
「どうしたの。はやくたたかわないと、みんなしんじゃうよ」
 嗜虐に満ちた声。 
 しかし、その内容は真実だ。
 俺が慎二を対面してから果たしてどれだけの時間が経過したのかは知らないが、そろそろ限界だろう。
 特に、藤ねえ。
 俺が刺した傷口からはどくどくと血が流れ、生命力はちゅうちゅうと吸われている。
 あと、何分持ち堪えてくれるか。
 それとも、あと何秒の世界なのか。
 
 くそ。
 どうしたらいい。
 どうしたら、この化け物に勝てる?
 いや、そもそも勝てるのか?
 俺に?
 そんなの、最初の一撃で、結論は出ているじゃあないか。
 結論。
 俺には、衛宮士郎には、この化け物を倒す力は、備わっていない。
 ちくしょう。
 歯を軋らせる。
 悔しい。
 こんな理不尽な暴力に抗えない自分が、悔しい。
 この様で、恥ずかしげもなく『正義の味方を目指す』、などと言えたものだ。
 厚顔無恥にも程が在る。
 ならば。
 正義の味方ならば、どうするのだ。
 彼ならば。

『―――いいか。おまえは戦う者ではなく、生み出す者にすぎん』

 誰の、声だ。

『―――忘れるな。イメージするものは常に最強の自分だ。外敵など要らぬ。おまえにとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない』

 誰の、声だ。

『―――現実では敵わない相手ならば、想像の中で勝て。自身が勝てないのなら、勝てるモノを幻想しろ』

 誰の、声だ。

『―――所詮。おまえに出来る事など、それぐらいしかないのだから』

 そうだ。
 知っていた。
 俺は、知っていた。
 俺に出来るのは、これだけだ。
 極めて限られた、この技術。
 これだけが、胸を張れる、唯一。
 ならば、これで勝負しなくてどうするか。

 いくぞ。
 イメージは、守るもの。
 皆の命を、守るもの。
 なら、相応しいのはかの短剣。
 二振りで一組。
 作られたのは、古代中国、呉の国。
 戦乱。
 荒れ果てた大地。
 生まれた意味を、考えることすら許されずに死んでいく人々。
 王の命令。
 優れた剣。
 戦さを終わらせるため、己にしか出来ぬ、天命。
 交じり合わぬ、神鉄。
 それを溶かすための材料、自らの妻。
 最愛の人が飛び込んだ、灼熱の炉。
 最愛の人だったものを孕んだ、一握りの純鉄。
 其の鉄を打つ、鍛冶師の心中、いかばかりか。

 かーん、かーん、かーん。

 飛び散る火の粉。
 妻の、命。
 流す涙は、紅色。
 赤く滾る剣の赤子、それを握るのは、からの手。
 じゅうじゅうと、肉を焦がす匂い。
 それでも、妻の苦痛に届かない。
 それが悔しくて、ただ、悔しくて、鉄を打つ。
 己の身体の代わりに、鉄を打つ。

 かーん、かーん、かーん。

 己の命を捨てて、たった二振りの剣を完成させようとした妻の愚行。
『この身は鍛冶師の妻なれば、剣のために身を捧げるのは当然でございましょう』
 その言葉を期待し、珠玉の神剣を打つ、その栄光に身を震わせた夫の鬼畜。
『よく言った。ならば、其の方を、最高の剣にしてやろう』
 ありがとう、あなたのおかげだ。あなたのおかげで、けんはできる。
 ゆるしておくれ、ごめんなさい。わたしから、はなれていかないで。

 かーん、かーん、かーん。

 乾いた音をたてて、鬼が、鉄を打つ。
 血の涙を流し、鉄を打つ。
 三日三晩、鉄を打つ。
 糞小便を垂れ流しながら、鉄を打つ。

 かーん、かーん、かーん。

 生れ落ちた、二振りの短剣。
 鍛冶師はそれに、自らと、妻の名前を与えた。
 分かたれて、戻れない、自分達。
 それが認められなくて、その名前をつけたのだ。
 戦乱を終わらせるために。
 みんなが、涙を流さない、世界を創るために。
 夫婦剣。
 干将・莫耶。
 この二本は、決して、分かたれない。
 奪うためではない、守るための剣。
 だから、他のどんな輝かしい聖剣よりも、ただただ彼に相応しい―――!

「があああああああああ!」
 身体中を、苦痛が這い回る。
 脳の奥が、苦痛で点滅を繰り返す。
 これは、許されざる罪を犯した、その証拠だ。
 あれは、奇跡。
 始まりの夜に見た、彼の短剣。
 あの技は、奇跡だ。
 到底、俺などに辿り着ける代物ではない。
 そんなこと、分かってる。
 ああ、分かってるさ。
 でも、意地を張るなら、今しかないだろう?
 虚勢を張って、大言壮語を吐いて、己すらも偽るなら。
 それは、今しか、ないだろう。
 そうじゃあないか、なぁ、衛宮士郎―――?

(あとがき)
 狂ったライダーさんが格闘家仕様なのは、完全に趣味です。笑って許してやってください。



[1066] Re[36]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:d07f53ca
Date: 2007/07/01 09:46
「は、ぐうぅぅ、ギ―――」
 焼けた火箸で脳味噌を掻き回される様な、痛み。
 いや、痛みではない。
 既にその領分を超えている。
 感じることが出来るのは、不快感と、恐怖。
 己の存在が、全く別のものに摩り替えられるような、危機感。
『魔術師っていうのはね、自滅さえ覚悟なら限界なんて簡単に超えられる。魔術回路を焼き切らせて、神経をズタズタにして、それでも魔力を回転させていけば奇蹟に手は届くわ』
 誰の声だ、これは。
 凛、か?
 そうだ、凛だ。
 でも、俺は凛にこんなことを言われたのだろうか。
 俺が魔術師としての凛を知ったのは、つい最近のこと。
 なら、この言葉を聴いたのも、つい最近のことか。
 覚えていないな。
 散々頭をぶん殴られたからかな。
 パンチドランカーってやつだ。
 ふわふわして、記憶がどこか頼りない。
 それとも、これを聞いたのは、俺以外の誰かか。
 きっと、そうなのだ。
 なるほど、ならば、きっとそいつは、生き残ったのだ。
 限界を超えて、それで、奇跡を手にしたのだ。
 奇跡。
 奇跡を手にして。
 果たして、その男は。
 幸せに、なれたのか?

 episode33 FAKE PILAYS WITH SNAKE. ;THE SECOND

 起きる。
 起きる。
 とりあえず、全てはそれからだ。
 戦うにしても、逃げるにしても。
 攻めるにせよ、守るにせよ。
 まずは、立ち上がれ。
『もう二度と倒れない』
 そう誓ったのは、何分前のことかしらん。
 前言撤回、朝令暮改。
 あまりに無様。
 しかし、二度と立ち上がらない、それよりはマシだ。
 守るべき人達を見捨てて、安穏とした別の世界に旅立つ。
 そんな身勝手、許されるか。
 右手に、 干将。
 左手に、 莫耶。
 絶世の名剣、それを罰当たりにも、杖代わりにして立ち上がる。
 それとも、俺如きが作った贋作、それくらいの扱いが相当か。
「…へえ、きみも、そのけんを、つくるんだぁ…」
 ぞくり、とした。
 彼我の距離、約5メートル。
 佇むライダー。
 さっきまでの、笑いが無い。
 無表情。
 その無表情が、堪らなく怖い。
「…そのけん、きらいだな。だって、とてもいたいんだもの」
 そういえば、あの夜、ライダーはアーチャーと戦っていた。
 ひょっとしたら、アーチャーはこの剣で彼女に痛撃を加えたのか。
「ああ、いらいらするよう。どうしようかなぁ…」
 髪をばりばりと掻き毟る彼女。
 ばりばり、ばりばり。
 髪の毛を、ばりばり、ばりばり。
 いつしか、額から紅い血が流れ始めても。
 彼女は、無表情のまま、頭を掻き毟り続けた。
 やがて、ぴたりと動きを止めて。
 そして、呟いた。

 ころそうか

 喉もとまで出掛かった悲鳴を、無理矢理に飲み下す。
 男が一度戦うと決めたのだ。
 漏らしていいのは、歓喜の声と、勝鬨くらいのものだろう。
 腰を落とす。
 考えるな。
 己が何かを為せると思うな。
 お前は、戦うものではない。
 生み出すものだ。
 ならば、己が生み出したものに全てを賭けろ。
 どうせ、たいしたチップは残っちゃいない。
 有り金全部、ここでレイズだ。
「そうだね、きめた、ころそう」
 無表情の彼女が、そう宣言する。
 それと同時に、ばちばちと、火花のようなものが、彼女を包んだ。
 なんだ、これは。
 とんでもない魔力の渦。
 じゅうじゅうと、肉の焦げる嫌な匂い。
 それでも、彼女は少し煩わしそうにしただけで。
 その無表情を、崩さない。
「ああ、もう、うっとうしいなあ」
 きっと、これが令呪の束縛だ。
 何者かが彼女に課した制約。
『衛宮士郎を、殺すな』
 それを、自ら破ろうとしている彼女。
 それに対して、令呪が責め苛んでいるのだ。
 だが。
 彼女は、苦痛すら意に介さない。
 痛覚を、忘れてしまったのだろうか。
 それとも、この程度の束縛では、今の彼女を縛ることは出来ないのか。
 もしくは、既に彼女が、令呪によって縛られる対象では無くなってしまったのか。
「うん、ざんねんだけどね、そのけんはだいきらいだから、きみもきらいだよ」
 蛇のように、ぺろり、と舌なめずり。
「だからね」
 僅かに、体を撓める。
「しんじゃえ」
 ごぼり、と。
 リノリウムの床が、彼女の踏み込みによって削られる。
 音が、遅れてきた。
 おそらくは、錯覚。
 しかし、先に衝撃があった。
 少なくとも、俺の実感としてはそうだ。
 顔面の前で交差させた双剣。
 あろうことか、その刃に、ライダーは直接拳を打ち込んできたのだ。
 いくら贋作とはいえ、これは宝具。
 よしんば英霊とはいえ、生身の拳をその刃に打ち込めば、拳は裂け、石榴の実のように弾けるだろう。
 その、淡い期待。
 それは、視覚と聴覚によって裏切られた。
 耳に響いたのは、廊下を満たす、硬質な金属音。肉が裂け、骨とぶつかった、そんな音ではありえない。
 瞳に映ったのは、彼女の白く美しい肌、それを犯す、黒い鱗。魚類か、爬虫類のみが持ち得る、硬化した皮膚。贋作の宝具如きでは、貫けない。
 思わず、たたらを踏む。
 そして、追撃。
 まるで、足枷を放たれた獣。
 連打。
 悲鳴のような叫び声。
「あひゃあ!」
 拳が。
 蹴りが。
 肘が。
 膝が。
 あらゆる攻撃が、あらゆる角度から。
 永久機関のように、叩き込まれる。
 かわす。
 いなす。
 ふせぐ。
 うける。
 あらゆる防御を駆使して、守る。
 スウェー。
 ダッキング。
 パリング。
 当然、それらの隙間に、剣を振るう。
 なんとか、手傷を負わせることは出来るのだ。
 赤い糸屑くらいの、掠り傷ならば。
 しかし、その下に、硬質な何かがある。
 皮膚は裂けても、その下にある何かを切り裂くことが出来ない。
 こんなはずは、ない。
 この剣ならば、貫けるはずだ。
 本当の、この剣ならば、間違いなく、貫ける。
 ならば、この剣は。
 所詮は。
 拳。
 まっすぐ。
 狙いは、俺の顎。
 剣で受ける。
 パリンと。
 砕け散った。
 砕けたのは、 干将か、それとも莫耶か。
 どちらでも、同じこと。
 なぜなら、片方が砕け散ったその瞬間、もう片方の剣も、後を追うように姿を消したから。
 無手。
 圧倒的な隙。
「あらぁぁ!」
 返しの拳。
 防げない。
 左胸に、突き刺さる。
「が、はぁっ…」
 めき、と。
 肋骨の拉げる、不快な音。
 吹き飛ばされる。
 今までなら、彼女は優しく俺を待っていたけれども。
 きっと、今は追撃の体制にあるはずだ。
 ならば、今しかない。
 この刹那。
 ここで、新たな剣を打て。
 でないと、死ぬぞ。

 さっきの剣は駄目だった。
 あれは、ライダーに砕かれたように見えて、実はそうではない。
 俺の中での矛盾が大きくなりすぎて、消え失せた、それだけのことだ。
 なら、何が甘かった?
 骨子の想定か?
 技術の模倣か?
 年月の再現か?
 どれでもない。
 どれでもないが、そのどれもだ。
 全てが甘い。
 あいつの剣と比べて、似通っているのはその外観のみ。
 それ以外は、比較するのもおこがましいほどの、劣化品だ。
 ならば、目指すのはあの剣。
 真紅の槍を受け切った、あの双剣。
 あれを、目指せ。


 だめだ。

 ―――声だ。
 
 ふかのうだ。

 ―――また、声だ。

 そんなもの、おまえにはすぎたものだ。

 ―――これは、知っている。

 やめろ。

 ―――この声は、聞いたことがあるぞ。

 とめろ。

 ―――いつも、聞いている。

 ゆるされない。

 ―――これは、俺の声だ。

 みのほどをわきまえろ。 

 ―――俺の中に住んでいる、俺の声だ。

 そんなもの、えみやしろうにはすぎたものだ。

 ―――俺よりも俺を知っている、俺の声だ。
 
 おまえにできることは、がんさくのがんさくの、そのまたがんさくをつくることくらいだ。 

 ―――こいつは、知っている。

 おまえが、あのひとのまねをするだと。 
 
 ―――不可能だと、知っている。

 ぞうちょうするにも、ほどがある。 

 ―――俺が、なれないと、知っている。

 この、フェイクが。 

 ―――俺は、あいつに届かないと、知っている。
 
 きせきでもおきないかぎり、おまえは、あのひとには、なれない。


 パリン。

 パリン。

 パリン。

 パリン。

 何度、砕け散った?
 三回目までは覚えているんだ。
 そこから先は、覚えていない。
 覚えていることといったら、最初はここまで歪じゃなかったことくらいかな。
 最初は、剣の形をしていたから。
 それが、だんだん曲がってきて。
 刃先が、丸まってきて。
 くねくね、ぐにゃぐにゃ。
 もう、今は誰もこれを剣と呼ばないだろう。
 それを、投影し続けている。
 それで、斬りかかっている。
 いや、殴りかかる、そう言ったほうが正しい。
 だって、すでに刃は付いていない。
 そんなこと、今の俺には出来なくなっている。

 やられ放題だった。
 やられ放題だった。 
 やられ放題だった。
 やられ放題だった。 
 やられ放題だった。 
 やられ放題だった。

 殴られ放題だった。
 蹴られ放題だった。
 サンドバックだった。
 いや、そのほうがまだましだ。
 俺がサンドバックなら、諦められる。
 でも、俺には反撃するための手足があるのに。
 まるで、蓑虫みたいに、何も出来ないのだ。
 そんなの、サンドバックに失礼じゃあないか。

 まだ、生きている。
 辛うじて、生きている。
 ただ、生きている。
 生きている、だけ。

 さっきまで生きていられたのは、ライダーに不可思議な命令を下した誰かのおかげ。
 彼女の動きがやっと見えるのは、キャスターにもらった薬のおかげ。
 今、致命傷を避けているのは、この身に宿った誰かの経験のおかげ。
 身体が頑丈なのは、この身に埋めこまれた何かのおかげ。

 そのどこにも、俺がいない。
 俺が、いないんだ。

 悔しい。
 歯が軋む
 まだ、俺は負けていない。
 戦う意志なら、腐るほど残っている。
 誰かが言っていた。
 勝利は、神が与えるものだと。
 しかし、敗北は自らが与えるものだと。
 真の敗北は、誰かが認めるものではない。
 ただ、己の心が折れたとき、自分が自分に与えるものだと。
 ならば、俺は負けていない。
 小学生が帰り道に戯れに蹴って遊ぶ石ころ。
 それくらいに、何の反撃も出来なくても。
 それでも、俺の心は折れていない。
 戦う意志なら満タンだ。
 なのに、武器が無い。
 物質的な意味じゃあないぞ。
 相手を倒すための何か、そう言う意味での武器だ。
 それが、無い。
 例えば、今、俺が、完璧にあの双剣を投影できたとしても。
 例えば、今、俺が、この化け物の目を抉り出すことができたとしても。
 それでも、この結界は解呪されないだろう。
 この闘いにおける敗北は、俺の死なんかではない。
 藤ねえ。
 霞んだ視界に映る、大事な人。
 血を吐き出し、白目を剥いて、痙攣する、あなた。
 ああ、死んでしまう。
 また、守れない。
 また、守られた。
 嫌だ。
 そんなの耐えられない。
 誰か。
 誰か、助けてくれ。
 誰か。
 そうだ。
 何で忘れてたんだ。
『危ないことがあれば、令呪を使って私を呼ぶように』
 セイバー。
 彼女なら。
 彼女なら、何とかしてくれるか。
 出し惜しみなんて、出来ない。
 なら、今。
 彼女を、呼び出して―――!
「…こ、い……セ、イ―――げふっ」
 喉を、掴まれた。
 そのまま、吊り上げられる。
 足が地面から離れる。
 息が、出来ない―――。
「サーヴァントは、よばせない」
 無表情の、ライダー。
「だれも、たすからない」
 爪が、皮膚を食い破る。
「おまえは、ここで、しね」
 彼女の手は、俺の気管を握り潰す。
 それで、終幕。
 どんなに丈夫な体でも、呼吸が出来なくなればお終いだ。
 ぎちゅり、と。
 肉は爆ぜて。
 血が溢れ出して。
 そして、俺は、死ぬ。
 はずだった。

 どごん、と、耳元で大砲をぶっ放したみたいな音が聞こえた。
 吹き飛んでいくのは、ライダー。
 彼女と一緒に、わずかばかりの俺の首肉も千切れ飛んだが、ほとんど気にならない。
 支えを失った俺の体は、廊下に倒れ伏す。
 もう、立ち上がる力すら残っていないらしい。
 かつかつ、と、硬質な音が聞こえた。
 靴の音。
 妙に、寒々しい、音。
 近づいてくる。
 誰だろう。
 思考が、鈍磨だ。 
 たいしたことが考えられない。
 痛みと疲労の区別のつかない身体。
 それに、精神も引きずられているのだろう。
「愚か者が。主命を忘れるとは、その罪、万死に値するぞ」
 あれ?
 この声、誰の声だ
 最近、聞いた声だ。
 でも、セイバーの声じゃあない。
 だって、これは男の声だ。
 そして、アーチャーの声でもない。
 似ているけど、何か、違う。
「サーヴァントが、二体、いや、三体接近している。さっさとこの結界を解け。こんなもの、サーヴァントには何の役にもたつまい」
「…………!」
 何か、よく分からない言葉が聞こえて。
 景色が、赤くなくなった。
 体が、ほんの少しだけ、軽くなる。
 顔を、起こす。
 きっと、俺と皆を助けてくれた人物。
 その顔が、どうしても見たかった。
 少しずつ上を映し出す視界。
 そこに映ったのは。
 長身。
 襤褸のような外套。
 猫背気味の姿勢。
 蒼い、逆立った髪。
 そして、泣き顔の、仮面。
 ああ、思い出した。
 こいつ、あの晩の。
 確か、名前が。

 ヨハネ。



[1066] Re[37]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d07f53ca
Date: 2007/07/01 21:31
 この目は、彼女に貰ったもの。
 最初に写したのは、貴女を嬲る、醜い蟲。
 この耳は、彼女に貰ったもの。
 最初に聞いたのは、劈くような貴女の悲鳴。
 この口は、彼女に貰ったもの。
 ならば、最初の誓いは、貴女のために。
 この命は、彼女に貰ったもの。
 だから、貴女をこう呼んでもいいですか。
 お母さん。


 episode34 戦士交代

 こつこつと、乾いた音が、廊下に響く。
 ゆっくりとした歩調。
 ちょっとそこのコンビニまで。
 そんな、歩き方。
「ライダー、貴様は先に屋上で待っていろ。そこで、奴らを迎え撃つ」
 一切の静寂を破ることなく、彼女の禍々しい気配は消えた。
 こいつは、何者だ。
 あの化け物の手綱を、完璧に握っている。
 そして、俺は完全にスクラップ。
 霞む視界。
 呼吸が、荒い。
 一定のリズムを刻めない。
 はぁはぁと、まるで変質者みたい。
「さて」
 足音は、俺のすぐ傍で止まった。
 うつ伏せの姿勢のまま、顔だけ起こす。
 たったそれだけのために、残された全身の力を総動員しなければならない。
 そこには、俺の顔を覗き込む、泣き顔の仮面。
 醜く歪められた、人間の表情。
 叫び。
 その名前の名画に、少し近いかもしれない。
「君が、彼女の言っていた正義の味方か」
 何の感情も篭もっていない声。
 いや、そうではないか。
 あるのは、興味。
 好奇心。
「お…ま、え…」
 震える声。
 しかし、何故だろう。
 何故か、安心する。
 こいつの声を聞くと、心が休まる。
 何故だ。
 そのことが、そのことが。
 一番、恐ろしい。
「しゃべるな。君は、今、死に掛けたのだ。無理をすれば、本当に死ぬぞ」
 そっと、肩に手を置かれた。
 ひどく、優しく。
 愚かな弟を諌める、兄のように。
「…な、…にも、の…」
 ふう、と、まるで諦めたかのような溜息。
「仕方ないか、それが君の呪いなのだから。全く、名前というものは、かくも方向性に沿っていくものなのか」
 何だ。
 こいつ、何を言ってやがる。
「まあいい。君はそこで休んでいたまえ。今日の君の仕事は終わったのだ、そうだろう?」
 俺の仕事。
 皆を、助ける、それが俺の仕事。
 なら、俺は出来なかった。
 何も、出来なかった。
「認めることが出来ないか。ならば、それはそれでいいだろう。ただ、君の勇姿は美しかった。賞賛に値する。そうだ、少し手を見せてくれないか?」
 突拍子も無い要求。
 しかし、何故だか従ってしまう。
 そもそも、そんな力は残っていないはずなのに。
 どうして。
「ふむ。私はこれでも予言者。手相くらいは見ることが出来る。君の相は中々いい。きっと、君は幸せになれる」
 手相?
 こいつ、間抜けか?
 そんな俺の考えなどどこ吹く風、手相占いの歴史などを語り始めた。
「手相学が生まれたのは紀元前2000年、古代インドのアーリア人によってだと言われているな。そもそも、人は天体や天候、果ては生年月日や動物の骨、石ころの形にまで己の運命を見出そうとした。ならば、己に刻まれたその兆し、それに着目したのは当然の流れだろう」
 戦場に響く、朗々たる講釈。
 妙に弛緩した空気が流れる。
「そして、それらが中国やエジプト、ギリシャ等に伝わり、今の形になったわけだ。近年日本で行われる手相見というのは易学、つまり中国からの影響が強いと思われがちではあるが、明治以降の手相学はその実ヨーロッパからの影響が強い。生命線や運命線などという呼び名もその影響だし、中にはソロモンの環などという相も存在することからもそれは明白だ」
 理解したかな、と、問いかけてくる髑髏。
 俺は、とっさの反応を返すことが出来なかった。
「ああ、よかった、理解して頂けたようだ。やはり、如何に優れた相とはいえ、その由来を知るのと知らぬのではありがたみが違うだろうからな。さて、私が言うのだ、君は間違いなく幸せになれるし、もう他の誰に占って貰う必要も無い」

 ぞくり。

「ならば」

 今までの、喋り方、そのままで。
 
「その手は」
 
 何の気負いもなく、こう、言った。 

「もう必要あるまい?」

 ぢょぎん。

 何で切られたのか、分からない。
 感じたのは、寒気。
 痛みなどは、もう感じることは出来ない。
 それでも、叫び声が漏れる。
「ああああああああああああああ!」
 どこにこんな体力が残っていたのか。
 肺腑を搾り出して、叫び声を上げる。
 手が、
 俺の、手が、 
 ちぎれて、しまった―――。

「古来より戦場で最も厄介なことは、傷病兵の処理だ。回復は事実上不可能に近く、看病には人手を取られる。かといって、それを無慈悲に見捨てれば、指揮官の求心力の低下は免れない。この二律背反の命題が多くの名将を苦しめてきたが、さて、遠坂の当主はどういった解答を導き出すのだろうな?」
 
 手が、手が。
 血が、溢れてくる―――。

「我らは今、戦力的に君達よりも数が少ない。そうだな、魔術師あたりが君の回復のために戦線を離脱してくれると言うことはないのだが」

 こいつ、この野郎―――。

「安心しろ。きっと、彼女達は君を見捨てない。しかし、見捨てられたときは、そうだな、私が彼女に怒られるか」

 ああ、意識が、遠くなる―――。

「美しい彼女のことだ。怒りに満ちた顔も美しかろう。しかし、聊か残念なのは、私にはそれを見ることができないことだな」

 ―――。 


 夢。
 また、夢。
 今朝も見たんだ。
 そして、今も見ている。

 こども。
 ふたりの、こども。
 ひとりは、おれにそっくりだ。
 あかいかみ。
 さびいろのひとみ。
 まるで、かがみをみているみたい。
 もうひとりは、かおがみえない。
 くろいかお。
 すすけたみたいに、まっくろ。
 でも、わらっている。
 かわいいこえで、たえることなく。
 ほんとうに、しあわせそうに。
 ああ、なんとなく、わかった。
 ふたりは、きょうだいなんだ。
 きっと、ふたご。
 だって、そっくりだ。
 あのかおは、きっとそっくりだ。
 ひとりのかおはわからないけど。
 それでも、ふたりはそっくりだ。
 でも、おかしいな。
 なんで、おれにそんなことがわかるんだろう。
 

 右手が、むず痒くて、目を覚ました。
 おかしい。
 俺の、右手は、あいつに、ヨハネに―――。
「気がついた、坊や?」
 優しい、母親を思い起こさせる声。
 首を、必死に横に向ける。
「…キャ…スター………」
「喋らないで。今のあなた、生きてるのが不思議なくらいぼろぼろなのよ」
 そう、なのか。
 きっと、そうなのだろう。
 こんなに必死な彼女は、初めて見る。
「…おれは…い…いから……ふじねえ…を……」
「応急処置は済ませたわ。でも、勘違いしないで。今、一番危ないのは間違いなくあなたよ。何十箇所内臓が破裂して、何十本骨が折れてるか、聞きたい?多分、無事な方から数えたほうが早いわよ」
 ああ、それは派手だ。
 だいたい、骨ってそんなに折れるものなのかな。
「治ったら覚悟しておきなさい。あなた、私の忠告を何一つ聞かなかったでしょう。本当、桜がいなければ今にも縊り殺したいところだわ」
 そうか、そういえば、何か忠告されてた気がするな。
 なんか、遠い昔のことみたいだ。
「…う…ん、…ご…めん……なさい……」
「―――はあ、もういいわよ、全く」
 溜息と、諦めの声。
 それと同時に、もう一つ、声が、した。
「謝罪の言葉、私も頂いてよろしいでしょうか、シロウ」
 凛々しい声。
 でも、今の俺の耳には、ちょっとだけ優しさが足りない。
「……セ…イバー……」
「何故、こんなにボロボロになるまで私を呼ばなかったのですか。貴方ではサーヴァントに勝てない、それこそ時計の針が時を刻む回数ほどには繰り返し諭したはずだ」
 相変わらず、厳しい彼女の声。
 きっと、怒ってる。
 悪いこと、したな。
「…うん…、ごめ……ん…な…さい……」
 きっと、自惚れていたんだと思う。
 怒りで我を失った、そんなの、詭弁だ。
 きっと、俺は勝てると思ってたんだ。
 力をつけたと、セイバーに褒められたから。
 凛に、己が異端であると教えられたから。
 自分の魔術をキャスターに必要とされたから。
 天狗になって、舞い上がってたんだ。
 だが、現実はどうだ。
 せっかくキャスターに貰った剣は砕け。
 神経の焼き切れるような苦痛を味わって生み出した模造品は否定され。
 手も足も出ず、ズタ袋のように甚振られ。
 結局、誰も守れなかった。
「いい様だな、衛宮士郎」
 落ち着いて、どこか悲痛な声。
 何故だろう、ひどく安心する。
「…アー…チャー……」
「凛と桜はご立腹だ。貴様、ひょっとしたら彼女達に殺されるぞ」
 そうか。
 彼女達には、何も言わずに家を飛び出してしまったんだった。
 さぞ、心配をかけてしまっただろう。
「…う…ん、……ご…め…ん、アー…チャー」
「…私に謝るな。私は、貴様が死のうが消え失せようが、どうでもいいのだからな」
 そうだ、どうでもいいんだろう。
 だって、俺には何も出来なかった。
 俺は、こいつみたいに、頑張れなかった。
「…なあ…、アー…チャー、お…れには…、できな…かったよ……」
 はは、なんだ、この声は。
 蚊が鳴くよりも、遥かに弱弱しくて。
 誰かの哀れを誘うくらい、弱弱しくて。
 俺は、そんなに、弱かったか。
 弱い、人間だったか。
「なにも…なにも、できなかった…」
 力を失った拳に、目一杯の力を込めて、床に叩きつける。
 ほんの一センチ、ほんの一センチだけ持ち上がったそれは、僅かな音もたてずに、廊下に舞い降りた。
 それを、眺めるように見た後で、彼は、言った。
「何を勘違いしているのだ。貴様は無力な人間に過ぎん。目の前の女も守れぬ、弱い人間だ」
 何も、言えない。
 同意も、抗議すらもできない。
 口を開けば、あらゆる言霊が言い訳に堕する。
 だから、歯を噛む。軋らせる。
 もう一度、拳を打ち付ける。
 今度は、二センチ、持ち上がって。
 とす、と優しい音が、鳴った。
 もちろん、血は出ないし、痛みも無い。
 それが、何より悔しい。
「貴様は、よくやった」
 いつの間にか背を向けていたアーチャーが、そんなことを言った。
「……ば…かにす…るの…か、アー…チャー……」
「貴様は死ななかった。それだけでも、貴様は英雄だ」
 俺が死ななかっただと。
 そんなことが、何の慰めになる。
 俺は何も出来なかった。
 みんな、苦しんでいた。
 藤ねえは死にかけた。
 慎二は、もうこの世にいない。
 これで、俺が英雄だというのか。
「貴様が何を考えているのかは大体想像がつく。それでも、だ。貴様は生き残ったのだ。胸を張れ。貴様にはその資格がある」
「…へたな…なぐ……さめは…、やめて…くれ。よ…けいに、つ…らい…」
「ああ、なるほど、それは愉快だ」
 笑いと共に、かつかつと、奴のブーツの音が遠ざかる。
 無言のまま、こつこつと、彼女の軍靴の音が遠ざかる。
 奴は、続ける。
「貴様が死ねば、悲しむものがいるだろう。ならば、貴様は生き残ったことでそれらの人間を救ったのだ。それとも、そこに横たわる女性は、命を捨ててまで貴様を守ろうとしたその女は、貴様にとってその程度の価値しかないのか」
 セイバーは言った。
「アーチャーの言うとおりです。あなたはよくやった。後は任せて欲しい。…ここから先は、私の戦場です」
 その言葉を聴いたとき。
 堰を切ったように、涙が溢れだした。
 それを隠すために、握りつぶすように、くっ付いた右手で顔を覆う。
 でも、そんなことで涙は止まってくれない。
「―――っひっ……ぐっ……ふぅう……」
 熱い液体が、掌を濡らす。
 羞恥は覚えない。
 ひたすら、己の、無力さが情けない。
 視界は涙で歪み、失われた。
 触覚は体中を覆う熱と痛みで、失われた。
 しかし、最後に残った聴覚が、彼の言葉を認識させる。
「その狂った脳髄で、覚えておけるならば覚えておくがいい、衛宮士郎。
 苦しみとは、痛みとは。
 吐き出すものでもなければ、忘れるものでもない。
 ただただ、噛み締めるためにあるものと知れ。
 それを忘れなければ、貴様はまだ強くなれる」  
 嗚咽は、やっとの思いで飲み込んだ。
 きっと何より無様な声で、それでも彼らに呼びかける。
「―――た゛…の゛む゛…」
 彼らは歩みを止めなかった。
 一言の返事もしなかった。
 ただ、涙で滲んだその背中はこう言っていた。
 まかせろ、と。


 彼女は怒っていた。
 これ以上無い、それくらい怒っていた。
 マスター。
 此度の聖杯戦争で彼女に割り当てられた、脆弱で、未熟で、お人よしのマスター。
 魔術を知らず、戦いを知らず、まっすぐで、しかし誰よりも捻じ曲がった彼女の主。
 最初は絶望した。
 今回は、完全に自分の力のみで戦わねばならぬ、そう覚悟した。
 次に、呆れた。
 自分を普通の女性と同列に扱い、自分を助けるために確定的な死の前に飛び込む無謀さ。
 そして、危惧した。
 無謀ではなく、確かな価値観のもとに彼は従者の死よりも己の死を選んだ、そう確信したとき、その在り様に恐怖すら覚えた。
 それでも。
 それでも、彼は暖かかった。
 認めよう。
 私は彼に惹かれている。
 愛情ではあるまい。
 しかし、確かな好意を抱いている。
 餌付けされたか。
 そう思わないこともない。
 だが、彼の料理は温かく、彼の纏う空気は限りなく優しかった。
 だから、私は彼を憎からず思っている。
 彼女は、そう考えていた。
 そんな彼が、泣いていた。
 僅かにしか嗚咽の声は漏れなかったが、それでも泣いていた。
 己の無力さに絶望し、なおそれに抗い、だから、泣いていた。
 ならば、彼を泣かしたのはどこのどいつだ。
 千に引きちぎり、万に切り刻み、地獄の最下層にぶちまけてやる。
 彼女は、そう思っていた。


 しかし、彼女はそれ以上に猛っていた。
 冷静な彼女の理性、それを沸き立たせるほどの怒り。
 だが、それを遥かに凌駕する高揚感が彼女を包んでいた。
 なぜなら、彼女は任されたのだ。
 主が、 脆弱で未熟でお人よしの主が、比喩ではなく死ぬ思いで作り上げた戦場を、彼女は任されたのだ。
 彼は、言った。
 弱弱しく、今にも途切れそうな声で。
 嗚咽に震える、無様な声で。

 たのむ、と。

 彼女の主は、己も連れて行けと、言わなかった。
 あの男が、だ。
 己の死を価値観の天秤に乗せない、乗せることすら知らない、そんな男が、己を連れて行けと言わなかった。己が戦場にいる必要はないと、言外にそう言った。
 それは、彼が彼女を信頼していたからだ。
 己の剣の勝利を微塵も疑っていない。故に、己が戦場にいなくても問題は無い。自分は傷ついた身体を休めていよう、そう考えて、彼は戦場を彼女に委ねたのだ。
 全幅の信頼と、揺ぎ無い覚悟。
 剣にとって、それ以上の賛辞があるだろうか。
 何かが、自分の中で逸っている。
 それが、己の内で猛り狂っている。
 何がだ。
 獣が、だ。
 己の中にいる、凶暴な獣だ。
 それが、走り回っている。暴れ回っている。
 私は知っているぞ。
 この獣の名前を、知っている。
 これの名前は、誇りだ。
 魂、と言い換えてもいいかもしれない。
 私の中にある、何よりも熱いもの。
 騎士として、王として生きることを選んだ私の、無くてはならないパーツ。
 それに、真っ赤な溶鋼が注ぎ込まれる。
 その熱が嬉しくて、獣が狂喜しているのだ。
 そして、その狂喜が私に伝染する。
 熱い。
 身を内側から焦がされているかのように、ひたすら熱い。
 その熱さに、狂いそうになる。
 いいぞ、狂ってしまえ。
 そもそも英雄など、狂人の蔑称なのだ。
 狂うくらいで調度いい。
 狂った主くらいで調度いい。
 ならば、私達は似合いの主従。
 その主に任された戦場。
 これは、私だけの戦いだ。
 彼女の端正な顔に浮かんだ凄烈な微笑み。その内に秘められた喜悦。
 それを知る弓兵が、微かに笑った。


「アーチャー、あなたは手を出すな」
 かつ、かつ、と。
 彼らは一歩ずつ階段を昇る。
 数人、倒れ伏した生徒が彼らの視界を掠めたが、彼らの意識を盗むことは叶わなかった。
「分かっている。私もそこまで無粋ではない」
 彼らが本気を出せば、一息のうちに敵の待つ屋上まで辿り着くことが可能だ。
 しかし、彼らは唯人のように、殊更ゆっくりと歩を進めた。
 既に結界は解除されている。
 おそらく、結界に回す魔力を、何か別の宝具に集中させるためだろう。
 穢れた騎乗兵は、準備を万端に整えて迎撃の体制にある。
 ならば、そこは死地。
 しかし、彼らの表情には微塵の怯えもない。
「だが、露払いくらいは構うまい?おそらく、鬱陶しい蠅くらいはいるだろうからな」
 彼らは階段を昇りきり、鋼鉄の扉の前で歩みを止めた。
「アーチャー、あなたに感謝を」
 弓兵は相も変わらず皮肉げに片頬を歪ませる。
「なに、かまわんさ。君がライダーを許せないように、私も」
 バン、と、鋼鉄の扉が吹き飛ぶ。
 開けた視界。
 青く、那由他に広がる空、その下。
 そして、彼らにとってはあまりに脆いコンクリートの舞台、その上。
 そこにあったのは二つの人影。
 鮮血で紅を引いた、濁った静脈血色の髪をした女怪と。
 泣き顔の仮面をつけた、長身の髑髏。
「あの仮面が、どうにも気に入らないのだ」



[1066] Re[38]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:d07f53ca
Date: 2007/07/02 23:37
「傷は、癒えたか?」
「………」
「既に、言葉も紡げぬほど狂ったか。それとも、その沈黙は肯定か」
「………あなた、おいしそう」
「…もはや、哀れとは言うまい。
 私が貴様を殺すのは純粋なる私怨だ。恨みたくば恨め。罵倒したければ気の済むまですればいい」
「…たべて、いい?」
「この戦場は主の作った戦場。故に、この剣は主の剣と思え。今から貴様を叩き潰すこの剣だ」
「…いいのね?」
「好きにしろ。思う存分喰らうがいい。ただし―――」
「…いただきま―――す」
「貴様が喰らうのは、騎士王たる我が怒り、彼の従者たる我が誇り。さぞかし胃に靠れよう、心して喰らえ―――!」

「くふ、久方ぶりだな」
「二日前にあったばかりだ」
「神は一週間で世界を創りたもうた。ならば二日、悠久と言って差し支えあるまい」
「ふん、『戦いに前口上は不要』、誰の言葉だったかな」
「ああ、これはすまない。柄にも無く高揚しているようだ。なにせ、既に君の死に様が見えてしまっているのだからいけない」
「ほう、人の死に様を視るだけで興奮する予言者か。不幸だな。そんなもの、人ごみを歩くだけで天に召されよう」
「くふふ、心配なく。私に興味があるのは、君の死に様だけだ。あとのものは高尚すぎて、私の趣味に合わない」
「予言は勝手にすればいい。実現はさせん」
「………貴様は彼女にとって有害だ。この場で殺す」
「そうだな、害虫駆除は早ければ早いほどいい。なんだ、気が合うじゃあないか」
「まったくだ、私と貴様は気が合う」
「ふざけるな、虫唾が走る」
「くふ、本当に気が合うな、我々は」

 episode35 saber.archer,rider.predictor

 星。
 恒星、惑星、衛星、彗星、流れ星。
 夜空を彩る数々の星の呼び名。中にはただの塵が人の記憶に軌跡を残すものもある。
 押し並べて、星とは夜空に輝くもの。
 それらを、人々はただ見上げるのみ。
 ならば。
 今、地上に咲く星を、誰が見上げるのか。
 青く澄んだ白色矮星と、赤黒く濁った赤色巨星。
 ぶつかり合うそれらは、いっそ不快なほど澄んだ蒼天のもと、他の何よりも輝いていた。
 交錯し、衝突し、弾かれ、なお交錯する。
 まるで、お互いが生み出す重力に惹かれ合うかのように。
 地上より見上げるものは、誰もいない。
 ただ、星々が、天空よりその光景を見上げていた。

「はあぁぁ!」
 無機物ですら圧するような気合。
 振り下ろされるのは、剣という範疇に含まれる万物の中で最も高位、人々の想念の具現、『こうあれかし』、その理想の結晶。故に、切れぬものはこの世にあらじ。
 ただ、悲しきかな、それはただ、剣。物理法則には逆らえぬ。なぞれば切れる、触れれば貫く。ならば、なぞらねば切れず、触れねば貫けぬ。
 一撃必殺。
 その一撃が、彼女には思いのほか、遠い。
 しかし、そのことをもって彼女を非難するのは愚昧に過ぎよう。
 彼女は疾い。
 彼女は聡い。
 彼女は上手く、何より強い。
 剣の英霊、その二つ名に恥じぬほどには。
 ただ、相手が悪かった。
 身体中を朱に染め、血を滴らせる堕ちた女神。
 彼女は聡くなかった。
 彼女は上手くなかった。
 しかし、何者よりも疾く。
 ひたすらに、強かったのだ。

 これほどか。
 私は脅威を覚えた。
 敵の頑強さに対してではない。
 この存在に対して、生を勝ち取った我がマスターに対してだ。
 これが。
 これが、彼女の本当の姿か。
 強い。
 疾い。
 まるで、あの狂戦士に届くのではないか、それほどの戦闘能力。
 低く地に伏せる、まるでとぐろを巻いた蛇の如き姿勢。
 身に纏うのは黒い装束。
 病的に白い肌。
 赤黒く、心臓のように拍動する長髪。
 溢れ出す様な魔力、それはこの学校で青春を謳歌していた若者達の生命だ。
 奇妙な眼帯の下、おそらくは瞳があるであろうそこからは、絶え間なく紅い涙が流れている。
 おそらく、泣いているのだろう。
 何が悲しいのか、分からない。
 ただ、頬を流れる真紅の雫が、こう言っている気がした。
 『殺してくれ』、と。
 しかし、彼女は微笑んだ。
 ぱかり、と鋭角に口を開けて、どこか爬虫類じみた、冷血な笑みで。
「あなた…よわいね」
 その言葉に偽りは無い。
 認めよう、今この場において、彼女は私よりも強い。
 化け物じみたスピードに、あの貧弱な釘剣で私の聖剣を押し戻す怪力。
 いや、そもそもあのような無銘の短剣を私の剣が両断できないなど、本来あり得ないことだ。
 考えられるのは、唯一つ。
 彼女の存在それ自体が、強化された。
 英霊の装備はその服飾に至るまでが自身の格に影響される。故に、あの短剣も存在自体が強化されたのだろう。
 英霊の格は召喚された地における知名度に影響されると言うが、それが突然変化するなどあり得ない。
 おそらく、彼女は本当の姿に戻りつつあるのだ。
 だから、あの涙は仮初の彼女の哀願なのだろう。
 殺してくれ。
 私を、殺してくれ。
 私が、私であるうちに、私を殺してくれ。
 そう泣き叫ぶ声が、聞こえた気がした。


「vae」
 奴がそう呟くと、昼間でもそうと分かるほど光輝く物体が姿を現した。
 その数、約十。
 ふわふわと、風に弄ばれる綿毛のように、所在無く宙を舞っている。
 ずいぶんと短い詠唱だ。あの夜、やたらと長い時間をかけて詠唱していた魔術とは別物か。
「ふん、『禍いなるかな』、か。貴様が呼び出すのは何色の馬だ、それともラッパ吹きの天使でも呼び出すつもりか」
「ほう、なかなか博識。だが、いずれにしても違いはあるまい?私は貴様を殺す。それとも、貴様は私を殺す。過程に差こそあれ、結論は変わらないのだ。ならば、そこに論じる価値など生まれようがないだろう」
 ゆらり、と。
 朽ちた巨木が己の質量に耐え切れず、めしめしと、倒れる瞬間のように。
 蒼い髑髏が、動いた。
 相変わらず猫背気味の姿勢。ゆえに私が見下ろす形になっているが、きちんと背を正せば、私と同じくらいの背丈なのかもしれない。
 その動きは鈍重。
 青の槍兵となど比べるべくもない。
 白い髑髏の暗殺者と比べても、際立って遅い。
 常人よりも多少速いか、その程度。
 奴が一歩を踏み出し、それを降ろし終えるまでに。
 私は五本の矢を放った。
 眉間、人中、喉、心臓、肝臓。
 皆中。
 何の音もなく、まるで吸い込まれるように矢が当たる。
 しかし、奴は歩を止めない。
「くふ、痛いな、痛いな、痛くて死にそうだ」
 矢を放つ。
 矢が当たる。
 矢を放つ。
 矢が当たる。
 矢を放つ。
 矢が当たる。
 矢を放つ。
 矢が当たる。
 矢は全て当たる。
 悉く、外れ矢など、存在しない。
 しかし、奴は歩を止めない。
 まるで、ヤマアラシか何かのような外見になった奴は、それでもなお悠然と歩いてくる。
「ああ、痛い、痛い、痛い。君は酷い奴だ。ああ、憎いな、憎いな」
 分かっていたことだ。
 キャスターの、神の怒りそのものといっていいような大魔術を喰らって、この男はなお嗤っていたのだ。私の放つ、何の変哲もない矢如きで倒せる相手ではないことくらいは分かっていた。
「ああ、決めたぞ。君は殺そう、今決めた。
 君は僕が殺すぞ。俺が殺すぞ。我が殺すぞ。私が殺すぞ。儂が殺すぞ。我輩が殺すぞ。愚生が殺すぞ。
 殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。
 我々が、貴様を、殺すぞ」
 色々な声が聞こえた。
 色々な口調が、響いた。
 それらの全てが、例えようもなく。
 ただ、おぞましかった。



[1066] Re[39]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d07f53ca
Date: 2007/07/07 21:16
「はっ―――はっ―――はっ」

 乱れて整わない呼吸。
 重装騎兵を背負って戦場を駆ける軍馬よりも、なお吐息が荒い。
 生温い何かが、頬を伝い落ちていく。
 そのこそばゆい感触に、頬を拭いたくなる欲望に駆られる。
 しかし、それは紛れも無い隙だ。この敵は、それを見逃さない。
 
「はっ―――はっ―――はっ」

 ぽたり、ぽたり、と、赤い液体が髪を伝って流れ落ちる。
 血液が眼球に滑り落ちないのは、とんでもない僥倖だろう。
 一瞬でも視界が奪われれば、私は殺される。
 あの杭のような短剣で脳天を串刺しにされるか、それともあの怪力で首を捻じ切られるか、それは定かではないが、終着点に変更は効かないだろう。
 
「はっ―――はっ―――はっ」

 千人の敵と切り結んでも、これほど消耗することはあるまい。
 事実、私は数え切れないほどの大軍を相手にしても、敗北の帰路を飾ったことは無い。
 常勝にして、不敗。
 それが、我が軍旗の負った宿命であり、自負であった。
 しかし、この敵は。
 千人よりも。
 強い。

episode36 BLADE PLAYS WITH SNAKE. ;THE FIRST

「あは、もう、おわり?」
 相変わらず、ぱかり、と、口を鋭角に裂いた女、いや、女だったもの。
 紅く濡れた、まるで恐竜か何かのような鋭い爪。
 人のそれではありえない。
 黒光りし、先端は釣り針のように湾曲している。
 皮膚を切り裂き、肉をこそげ取るのに、最適化した形状。
 その爪にこびりついたのは、滴る血液と、私の肉片だ。
 彼女は、その肉片を、ゆっくりと口に運び、ちろり、と真っ赤な舌で舐め取った。
「やっぱり、おいしいね」
 歓喜にその身を震わせながら、彼女はそう呟く。
 奴は、自然立ち。
 如何なる力みも無い。
 ただ、棒のように突っ立っただけの姿勢。
 隙だらけ。
「はぁっ!」
 気合の声と共に、飛び込む。
 共に、斬撃。
 大上段からの、必殺の一撃。
 しかし、当たらない。
 一歩踏み込んで、返しの切り上げ。
 やはり、当たらない。
 不可視の剣。
 間合いはわからないはずだ。
 だが、それが剣であるということは既に看破されているのだろうか、剣線上から僅かに身をそらす絶妙な見切り。
 ふわりと身をかわしたライダーは、ぱかりと笑った。
「かわったけんだけど、あたらないねぇ」
 にやついた声。
 そして、衝撃。
 がつん、と殴られた。
 鼻頭を、殴られた。
 視界が、黒く染色される。
 その上に散りばめられた、無数の星。
 私の頭の中だけで輝く、星。
 それでも、後ろに跳躍して体制を立て直す。
 意図せずに、涙が溢れる。鼻を痛撃された人間の反射のようなものだろう。
 口中に鉄の味。きっと、溢れた鼻血が逆流したのだ。
 これは、鼻骨がイったのかもしれない。
 そんな、瞬時の思考。
 そして、再び彩度を取り戻した視界。
 そこに映った、ライダーの視線。
 上からの視線。
 小さきものを睨目下ろす、強者の視線。 
 捕食者から見た獲物。
 そのような視線を向けられるのは初めてだ。
 畏怖の視線なら、飽きるほどに向けられた。
 畏敬の視線なら、浴びるほどに向けられた。
 軽蔑の視線なら、撫でるほどに向けられた。
 恐怖の視線なら、愛でるほどに向けられた。

 だからこそ。

 親愛の視線を私にくれた、彼を。
 慈愛の視線を私にくれた、彼を。
 彼を、傷つけた、この女を。
 私は、絶対に。


 神話に語られる数多くの英雄譚。
 それを彩る、数多くの偉業。
 悪龍を殺した勇者。
 暴虐な巨人を誡める賢者。
 醜怪な老魔術師を懲らしめる若人。
 それらに共通すること。

 人は、怪物を打倒し得る。

 如何に相手が強大で、如何に老獪であろうとも。
 最後に勝利を飾るのは、人以外有り得ない。
 それが、神話の公約数。
 それに従うならば、この闘いの結末は決まっている。
 眉目麗しい剣士が、堕ちた女神を打倒する。
 剣は己の矜持を全うし、怪物は己の愚行を悔いるのみ。
 それが、唯一許された結論だろう。
 ならば。
 ならば、目の前の光景はどういうことだ。
 剣を杖に、膝を折る少女。
 息は乱れ、血化粧がその秀麗な容姿に凄烈な美を加えている。
 金砂の髪から滴る紅玉。彼女を構成する、命そのもの。
 彼女を象徴する白銀の鎧には、見るも無惨な傷が無数に刻まれている。それらは全てが彼女の目の前で踊る、騎乗兵によって作られたものだ。爪に削られ、拳に押し潰され、蹴りで拉げられ、牙によって穿たれた。
 有り得ることではない。
 確かに、彼女の魔力によって編まれたその鎧、伝説に名高い彼女の宝具に比べれば如何にも見劣りはしよう。それでも、幾つもの戦場を乗り越え、幾十の死地を凌ぎ、幾百の刃を弾き返し、幾千の敵の無念を飲み込んだ鎧である。それが、所詮は無手の敵に破壊されて良い筈が無い。

 要するに、相手がおかしいのだ。
 あの狂戦士を暴虐の化身とでも表現するならば、この女怪は嗜虐の現身。敵を甚振り、嬲り殺すために生を受けたもの。
 正しく、蛇。
 毒の牙と、愉悦に歪む唇を持った、辛うじて人の形をした、蛇だ。
 蛇の毒には、二種類ある。
 己の身を守るための、護身としての毒。この種の毒を持つ蛇は、総じて派手な体色を持つ。己が如何に危険で、それを襲うことが如何に無益かを教えるためだ。
 もう一つは、敵を速やかに殺す、狩の道具としての毒。この種の蛇は、目立たぬ体色を持ち、己の存在を敵に悟られぬように進化した。
 ならば、彼女の牙に宿った毒は。
 そのいずれでもあるまい。
 彼女の体色は、如何にも派手だ。
 男を蟲惑する、扇情的な衣装。
 美の女神を嫉妬させる、美しい長髪。
 しかし、彼女のそれは、争いを避けるための警戒色ではない。例え昔がそうだったとしても、今はその真逆である。
 それは、哀れな贄を呼び寄せるための餌。
 ふらふらと漂う闇夜の虫を呼び寄せる、誘蛾灯。
 彼女は、それを待つ。
 蛇でありながら、蜘蛛の巣を張り、舌なめずりをしながら獲物を待つ。
 その牙を、獲物の血で湿らせながら、次の獲物を待つのだ。
 ならば、その牙に宿るべき毒は、現実の蛇が持つ、如何なる毒も相応しくない。
 ならば、こんな毒はどうか。
 一度噛まれれば、獲物は二度と動けない。
 許しを請うことも、侮蔑の叫びを投げつけることも、断末魔の悲鳴を上げることもできない。
 痛覚はそのままに、ただ、動けない。
 しかし、生きている。
 生きているから、苦しい。
 なぜなら、彼女はそれを齧るから。
 爪先から、かりかりと。
 頭の先まで、かりかりと。
 血は、出ない。
 だから、失神することも出来ない。
 獲物は、喰われていく己を、冷たい視線で認識することのみ許される。
 石のように固まった自分の身体。それを、爪先から咀嚼されていく。
 今はどこか。
 太腿まで、喰われたか。
 それとも、やっと胸まで喰ってくれたか。
 ついに、首まで喰ってくれたか。
 もっと喰ってくれ。
 早く、この苦痛から、私を解放してくれ。
 明瞭な意識のもと、狂うことすら許されず、ただ己の命の灯が消え去るのを、只管に希う。
 そんな、毒。
 そんな毒なら、この上なく彼女に相応しい。
 今は、無い。
 今の彼女の牙には、そんな毒は備わっていない。
 しかし、それは今だけだ。
 時を置かずして、彼女の牙にはその毒が備わるだろう。
 彼女の牙。
 彼女の、魔眼。
 眼帯の下に隠された、恐らくは鮫のように冷たい、小さな瞳。
 それに映った可憐な少女は、今だ衰えぬ不屈の闘志を、その聖緑の瞳に滾らせていた。

 鼓動が、煩い。
 耳鳴りが、する。
 きーん、と。
 何か、薄いセロファンを振るわせたような、耳障りな音。
 視界が歪む。
 殴られ過ぎたせいか、それとも血を流し過ぎたか。
 ここまでとは、思わなかった。
 対峙した瞬間から、敵の力量くらいはある程度測れるものだ。
 それにしても、ここまでとは。
 疾い。
 ひたすらに、疾い。
 剣が、触れ得ない。
 それは、私に攻撃の手段が無いことを意味する。
 それは、私に勝機が無いことを意味する。
「あなた、つまらない。あのこのほうが、たのしかった」
 あの子。
 貴様が散々甚振った、我がマスター。
 ほざくな。
 貴様が、その穢れた口で、彼のことを語るな。
「あああぁぁぁ!」
 魔力を上乗せした、突撃。
 狙いは、薄ら笑いを浮かべたその面。
 必殺の拍子。
 しかし、剣が彼女の額に触れる瞬間。
 正にその瞬間に、彼女の姿は掻き消える。
 空しく宙を切り裂く聖剣。
 そして、刹那に叩き込まれる幾十の打撃。
 拳か。
 それとも、脚か。
 それすらわからない、衝撃の奔流。
 私はそれに遊ばれる、笹船のようなものかもしれない。
 危機感。
 このままでは、殴り殺される。その確定した事実に対する危機感。
 とりあえず、目標も定めずに、剣を振るう。
 錯乱した女子供が、闇雲に棒切れを振り回すのと変わらない。
 それでも敵は退く。
 理由は分からない。
 私の直感が敵の攻撃を凌いでくれているのかもしれないし、奴が遊んでいるだけなのかもしれない。どちらかといえば、有力なのは後者だろう。
 理解した。
 いや、とっくに理解していたのだ。
 この敵は、強い。
 とてつもなく、強い。
 少なくとも、今の私が出し惜しみを許されるような、そんな程度の難敵ではない。
 しかし、聖剣を解放したとして、この敵にそれが当たるとは思えない。
 真名の解放、その瞬間に、この敵は私の背後を取ることが出来る。
 駄目だ。
 あれは、使えない。
 ならば、どうする?
 私に、何ができる?
 どうすれば、主の無念を晴らすことができる?
 考えろ。
 考えろ。
 ………………。
 ……一手。
 …二手。
 ………三手。
 ……まだ、足りないか。
 幾分、賭けの要素が強い。
 失敗すれば、後は無い。
 ならば、例えばキャスターが到着するまで戦線を膠着させるのも一つの策ではある。
 しかし、それが叶うか?
 いや、彼からこの戦場を預けられて、なお他人の力をあてにするというのか、私は。
 そこまで誇りを失ったか。
「ねえ、もう、あきらめたら?」
 ライダーは、溜息と共に言い放つ。
 なるほど、敵にすら愛想を尽かされるほどに今の私は不甲斐無いか。
 それはそうだろう。
 最優の英霊を誇りながら、未だ打ち倒した敵は無し。
 主君を危険に晒し、未だ怨敵に一太刀も浴びせられず。
 こんな愚物、生きる価値も無い。
 死ね。
 死んでしまえ。
 死ぬ気で、奴を殺せ。
 今のお前に許された選択肢は、それだけだ。
 なるほど。
 これは、目の前の敵に感謝しなければならないか。
 聊か日和っていたらしい。
 自らを危険に晒さずに、勝利を掴めると、心のどこかで慢心していたか。
 ふざけるな。
 そんなはずがないだろう。
 そんな弱敵に、シロウが負けるはずがないだろう。
 なら、死ぬ気で奴を倒せ。
 首を断たれても、宙を飛んで、奴の喉笛に喰らいつけ。
 四の五の言わずに、勝て。
 お前が自らの存在を立証したいなら、とにかく、勝て。



[1066] Re[40]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d07f53ca
Date: 2007/07/08 14:23
 
 深呼吸。
 大きく吸って、大きく吐く。
 肺腑を満たす新鮮な空気が心地よい。
 胸が大きく膨らんで、また萎んでいく。
 身体の各部に痛みが戻ってきた。
 熱い。
 痛みと疲労の区別がつかないほどには、全身が熱い。
 なんだ、ここまで私は平常心を無くしていたか。
 そう考えて、苦笑する。
 手には、風の鞘を纏った聖剣。
 傷ついて見る影も無いが、それでも私を守ってくれた鎧。
 魔力は未だ健在。不安は無い。
 不安なのは、己の怯懦のみ。
 行くぞ。
 恐れるな。
 闘え。

episode37 BLADE PLAYS WITH SNAKE. ;THE SECOND
 
「認めよう、貴様は強い」
 今の私が口にするには、幾分滑稽な台詞だろう。
 それは、強者から弱者に対して向けられるべき台詞だ。
 強者が、己を苦しめる弱者に向かって、その健闘を讃える台詞。
 断じて、地に膝をついた私が吐いていい台詞などでは無いはずだ。
 しかし、構うまい。
 私は強い、他の誰よりも。
 それは、自負であると共に覚悟だ。
 その覚悟が無ければ、英霊となど、闘えない。
 他者より弱いとなど、誰が認めてやるものか。
 一点、この一点においては他者の後塵を拝するわけにはいかないのだ。 
「この一撃、これをかわせば貴様の勝ちだ」
 ゆらりと立ち上がる。
 目の前には、やはり裂ける様な笑みを浮かべたライダー。
 その表情にあるのは、勝利の確信と快楽の予感のみ。
 おそらく、理性など一片たりとも残されていないだろう。
 それが、勝機といえば勝機か。
 それでも、奴は強い。
 その身のこなし、単純な速度で言えば、あの夜、始まりの夜に矛を交えた槍兵、あの夜の彼をすら凌駕するだろう。
 要するに、私が今相手にしているのは、獣とか化け物とかの類だ。
 躊躇するな。
 迷うな。
 一瞬の迷い、それが私を殺すぞ。


 ちりちりと、熱を帯びた風が、狂える騎乗兵の肌を焦がす。
 この戦闘において、彼女は初めて身構えた。
 先ほどの台詞と、今、彼女が目にする規格外の魔力の渦。
 これから剣士の放つ一撃、決して油断していいものではない、流石の彼女もそう悟ったのだろう。
「しゃあああああああああぁぁぁぁ!」
 剣士の口から迸る気合の声。
 それと共に、なお膨れ上がる、濃厚な魔力。
 彼女はそれを、唯一点、己の脚部に叩き込む。
 本来許された許容量は、容易く凌駕している。
 魔力の噴射によるブースト、しかしこれはやり過ぎだ。
 過負荷。
 明らかな過負荷。
 魔力に炙られた細胞が、ぶちぶちと悲鳴を上げる。
 鎧の下に着込んだ戦衣装が、噴出した血によって紅く染められていく。
 それでも、彼女は魔力の充填を止めない。
 まだだ。
 まだ足りない。
 まだ、この敵を倒すためには、燃料が不足している。
 血に濡れて、紅く輝く視線が、そう叫んでいた。
 それでも、やがて風は収まった。
 無風。
 凪。
 だが、それはこれからの晴天を約束するものではない。
 むしろ、これから到来する嵐をこそ予感させる類のものだった。

「―――いくぞ」
 
 小さな小さな呟き声。
 おそらく、それを発した者以外の鼓膜を震わすことは無かっただろう。
 つまり、それは唯の決意表明だ。
 そして、彼女の身体は、見事なほどに掻き消えた。
 コンクリートが爆ぜる。
 風が、悲鳴を上げる。
 それほどの速度。
 それほどの一撃。
 しかし、どれほど速かろうが、それはただの突進。
 相手がかの蛇でなかろうと、それをかわすのはさして難しいことではない。
 然り、蛇は悠々と身をかわす。
 剣士が舞い起こす微風、それを心地よいと言わんばかりに。
 彼女は勝ちを確信した。
 その退化した理性の中で、確信した。
 己の遥か前方、そこでたたらを踏む剣士の背中を見て、勝ちを確信したのだ。
 剣士の後ろ足からは血が吹き出ている。
 明らかに、先ほどの突撃が彼女の器量を超えていた証拠だ。
 つまり、この獲物が如何に足掻こうと、あれ以上の攻撃は不可能。
 ならば、己が敗れる道理は無い。
 あの程度の一撃ならば、私には届かない。
 ぎりぎり、届かない。
 そこまで考えて、彼女は、ぱかり、と口を開けて笑った。

 
 ああ、あんなにむぼうびな、せなかが。
 せなかが、わたしをよんでる。
 ころしてって。
 ちをすってって。
 わたしを、さそっている。
 ああ、いいこだ。
 いいこ、いいこ。
 いいこには、ごほうびをあげないと。
 なにがいいかしらん。
 いしにかえて、さくさくたべて、あげようか。
 くさりでしばって、ひきちぎって、あげようか。
 おっきなじどうしゃで、おしつぶして、あげようか。
 ううむ、まよったぞ。
 どうしよう、どうしよう。
 そうだ、このこはゆっくり、ころしてあげよう。
 そうしよう、そうしよう。
 くびすじから、ちをすうなんて、こわいことはしない。
 ゆっくり、つめで、なぞって。
 したたるちを、なめとってあげよう。
 ちろり、ちろり、と。
 ああ、きっと、このこはよろこぶぞ。
 ころしてくれ、と、なきごえをあげるぞ。
 うふふ、うふふ。
 ああ、わたしはやさしいな、やさしいな。


 かわされた。
 今の私に許された、最大出力の突進。
 ライダーは、それを難なくかわした。
 常なら剣先に吐息が触れるほどに見切りながらかわすのに、彼女は大きく間合いを開けてかわした。
 そして、背後に迫る、血塗られた彼女の気配。
 よし。
 これでいい。
 まさか、こんな単純な攻撃で彼女を斃せるなんて、思っちゃいない。
 これで一手。
 これは、ただの布石。
 問題は、私の足だ。
 もう一度。
 もう一度でいい。
 さっきと同じだけの機動力を見せてくれ。
 今だ。
 今でないと駄目なのだ。
 今、あなたが動いてくれないと、私はマスターに顔向けできなくなる。
 それは、死ぬよりも辛いことだ。
 だから、頼む。
 もう一度だけ、動いてくれ。


 万軍を蹴散らすような、剣士の突進。
 自らを砲弾と化したかのような一撃は、所詮、蛇の嘲りを買っただけであった。
 彼女は、一応警戒していたのだ。
 自分と同じ存在の少女。
 それが、最後に残しておいたとっておき。
 それは、油断してよいものではない、と。
 しかし、蓋を開けてみればどうだろう。
 確かに、その勢いは激烈。その威力は強力無比。
 だが、それはただの突進。
 そんなものが、最優と呼ばれたサーヴァントの切り札か。
 そう考えて、堕ちた女神は嗤った。
 故に、剣士の背中に襲い掛かる彼女の頭にあるのは、戦闘のことではない。
 既に彼女の退化した知性を支配するのは食事のこと。
 如何に美味しくこの獲物を頂くか。
 如何に惨たらしくこの獲物を犯すか。
 そのことしか、彼女の思考には残らなかった。
 それが、本来の、いや、『仮初』の彼女であればそんなことはなかっただろう。
 常に冷静に戦況を判断し、敵が息絶えるまで、毛の先ほどの油断もしなかったはずだ。
 この世を支配する、等価交換の理。
 おそらく、彼女もそれには抗えなかったのだ。
 彼女は強き力を手に入れた。
 彼女は疾き足を手に入れた。
 それと引き換えに、彼女は、人としての知性を、理性を失った。
 だから、彼女は気付かなかった。
 獲物、本来であれば脅えて許しを請うはずの獲物の背中。
 そこから陽炎の如く立ち上がる、消えざる戦意を。
 そして、剣士は振り返る。
 その手には、やはり不可視の聖剣。
 それを振り向く方向のまま、横薙ぎに振りぬく。
 だが、彼我の距離、約二十メートル。
 間違えても、剣の届く間合いではない。
 ならば、剣士は狂ったか。
 その恐怖に負け、ついに理性を手放したか。
 否。
 彼女の瞳に恐怖はない。
 彼女の吐息に、諦めの色など、誰が見出すことが叶おうか。
 その視線は堅牢。
 その意志は、ひたすらに勇壮。
 ただ、前に。
 そうして彼女は言葉を打ち出す。
 その言霊は、間違いなく万軍を圧する、鬨の声。
 そう、彼女はどこまでも王であり、それ以上に騎士であった。

風王鉄槌ストライク.エア!」

 その刹那、不可視の剣に、光が宿る。
 それは、この聖剣から鞘が取り払われた証であり、その鞘が敵に牙を剥いた証左でもある。
 風王鉄槌。
 風王結界の、最も攻撃的な使用方法。
 圧縮した大気の塊を、そのまま敵に叩きつける。
 固体と見紛う程の質量を持った空気の塊を、尋常ではないほどの速度でもって叩きつける。
 それは正しく破城槌。
 堅牢なる古代の城壁を、一撃にて廃墟に変える、風神の怒り。
 これが、彼女の次の一手。
 油断し切った騎乗兵、その目の前に衝き付けられた死神の鎌。
 それが彼女の命を刈り取る。
 その戦いを見下ろす神々は、きっとそう思ったに違いない。


 なにかがくるよう。
 わたしがむかう、そのさきから。
 こわい、こわい、なにかがくるよう。
 あれは、いけないもの。
 あれは、いたいもの。
 なんとなく、わかったよ。
 あれがこのこの、とっておきなんだ。
 じゃあ、あれにさわっちゃいけない。
 あれにさわったら、きっとひどいめにあう。
 だから、かわさないと。
 だいじょうぶ。
 わたしなら、かわせるよ。
 だって、こんなにも、からだが、かるい。
 あのこにのらなくても、そらがとべそう。
 そらが、あんなにもちかい。 
 つばさが、はえてるみたい。
 だから、わたしはかわせる。
 かわして、このこをがっかりさせよう。
 がっかりさせて、なぐさめてあげよう。
 このこは、なくかな、わらうかな。
 どっちでもいいな。
 だって、どっちでも、きっとすごくおいしいから。


 薄ら笑いを浮かべる怪物。
 ぱかり、と耳まで裂けたかのような笑み。
 こいつはきっとこう思っているに違いない。
 これをかわせば、私の勝ちだ、と。
 いいぞ、そのとおりだ。
 これをかわせば、貴様の勝ち。
 そう思え。
 せいぜい、驕れ。
 そうすれば、私の勝ちだ。
 既に、脚部への魔力の再充填は完了している。
 筋肉は断裂寸前、僅かに動かすだけで気絶しそうな痛みが走るが。
 それでも、その痛みが肉体の実在感を高めてくれる。
 状況は最高だ。
 これで敗北するなら、納得できる。
 いや、それは違うか。
 納得できる敗北など、この世に存在しない。
 存在するとすれば、それは諦めたときだ。
 ああ、こいつには勝てない。
 ああ、わたしには出来ない。
 そう考えて、歩みを止めたとき。
 きっと、人は笑って敗北を受け入れることが出来るのだろう。
 ならば、私は笑えない。
 納得など、出来るはずもない。
 ひたすら、足掻くだろう。
 そういう意味では、この策が失敗しようと成功しようと、私には関係ない。
 勝ち負けの上では、この上なく重要だ。
 これに成功すれば、私は勝つだろう。
 そして、失敗しれば、おそらく私は敗れるだろう。
 しかし、私自身には何一つ影響を与えない。
 するべきことは決まっている。
 倒すのだ。
 奴を、倒すのだ。
 敬愛すべき我がマスターを泣かせて。
 今も笑っているこの怪物を。
 騎士の誓いにかけて、倒すのだ。
 あの夜に交わされた契約に誓って、倒すのだ。
 後ろ指を指されようと。
 餓鬼道に堕とされようと。
 この誓いは、変わらない。
 そうだ。
 私は、こいつを、叩き潰す。


 タイミングは、完璧だった。
 襲い来る蛇神に対して放たれた風の鉄槌。
 同一の空間座標を、引かれ合うように走り抜けるベクトル。
 回避不能。
 そうとしか思えないほど、絶対のタイミングで放たれたカウンター。
 騎士王が丹念に作り上げたその死機を、しかし、蛇神は薄ら笑いを浮かべながら脱した。
 がりがりと、コンクリートの地面に爪を立てて急ブレーキ。
 そして、風の鉄槌が彼女を捕らえようとした、まさにその時。
 コンクリートの地面を爆ぜさせながら、彼女は横っ飛びに身をかわした。
 寸前まで彼女がいた場所を貫く風王鉄槌。
 しかし、それは彼女の髪の毛一本を奪い去ることも出来なかった。
 蛇神の体を掠めながら、風は虚しく通り過ぎる。
 彼女の美しく、そして穢れた長髪が舞い上がる。
 ただ、それだけ。
 これにて、この剣劇は終幕。
 あとは、怪物が聖なる乙女を甚振るだけの、無惨劇。
 そうなるはずであった。
 だが、この必殺の一撃すら、彼女の布石。
 剣劇の幕、まだ下ろすことなど許可した覚えはない。
 それを雄弁に語るのは、彼女の聖緑の瞳。
 泥に汚れ、血に塗れても、なお輝きを失わない彼女の象徴。
 彼女は待っていた。
 このときを待って、ひたすらに力を溜めていた。
 さあ、今こそそれを解放するときだろう。
 彼女を前に進めるのは、彼女の意志。
 彼女の背中を守るのは、風の加護。
 そして、彼女の背中を後押しする、風の友軍。
 風王鉄槌が作り出した大気の歪み。
 そこに流れ込む、大量の空気。
 その流れに、彼女は飛び込んだ。
 先の突進を激流に例えるならば、風を纏った此度のそれは、正しく閃光。
 瞬間的であれ、その速度は槍兵の全力をすら凌駕した。
 ゆえに、蛇は恐怖した。
 初めて彼女の表情が恐怖に歪む。
 その視線の先には彼女の右手。
 そこに握られた不可視の聖剣。
 存在し得ないそれを、彼女は幻視した。


 あれあれ。
 おかしいぞ。
 いつからだ。
 いつから、おかしくなった。
 あっとうてきに、わたしがゆういだったはずだ。
 わたしは、かろやかな、はやぶさで。
 あれは、どんじゅうな、いのししだ。
 あれは、わたしにふれえない。
 だから、わたしのかち。
 すこしずつにくをついばんで。
 ゆっくり、ころしてやるつもりだったのだ。
 なのに、なぜわたしがおびえないといけない。
 このくちからほとばしる、ぶざまなひめいは、だれのものだ。
 りふじんだ。
 おかしい。
 こんなの、なっとくできない。
 でも、あれのぶきは、あいもかわらず、みえないけんだ。
 あれなら、かわせる。
 ぎりぎり、かわせる。
 あれのみぎてににぎる、みえないぶきをかわせば、こんどこそわたしのかちだ。
 でも、かわせなければ、わたしのまけだ。
 きっと、あのいちげきは、わたしのたんけんを、りょうだんする。
 だから、うけることはできない。
 かわせ。
 しぬきでかわせ。
 じゃないと、ほんとうにしぬ。
 えものに、くいころされる。
 しねば、ごみだ。
 わたしがほふってきた、いしくれとおなじだ。
 ゆっくりとくさっていく、ただのにくのかたまりだ。
 それは、ゆるさない。
 わたしのなかでいきつづける、だれかのためにもゆるさない。
 だから、かわすぞ。
 じっとみろ。
 あれのうごきを。
 そして、あれがみぎてににぎった、みえないけんを。
 みろ、みろ、みろ。
 きた。
 よこなぎのいっせん。
 ねらいは、わたしのくびすじ。
 よし。
 そこなら、かわせる。
 どうたいをねらわれたら、たしょうのてきずは、かくごしなきゃいけなかったけど。
 そこなら、むきずでかわせる。
 でも、かみのけは、きられてしまうか。
 あのひとたちとおなじ、きれいな、かみだから、もったいないけど。
 あのひとたちにほめられた、かずすくない、わたしのいちぶだから、くやしいけど。
 それでも、わたしはいきのこる。
 ごめんなさい、わたしのかみのけたち。
 あなたたちのかたきは、きっとわたしがとるから。
 だから、あんしんして、ねむりなさい。
 わたしが、あれを、ころすから。
 わたしは、からだをしずめる。
 ふかく、ふかく。
 あれのみぎてが、わたしのうえを、とおりすぎる。
 かんき。
 かんきが、せぼねをはしりぬける。
 ああ、わたしのかちだ。
 

 景色が、凄い勢いで流れていく。
 明らかに許容量を超えたスピード。
 急激な加速による重圧で、意識が吹き飛びそうになる。
「お お お お おお おおお おおおおお!」
 口から漏れるのは、気合の声ではない。
 どちらかといえば、悲鳴に近いかもしれない。
 それは、感覚を手放さないための、細い細い命綱。
 それでも、意識が漂白されていく。
 白く、白く。
 それを繋ぎ止める、赤黒い痛覚。
 ずくん、ずくんと、そこに心臓が出来たかのように痛む両足が、今はこの上なく愛おしい。
 ありがとう。
 あなたは、最高の働きを見せてくれた。
 もう、休んでいい。
 あとは、私が引き受ける。
 この右腕と、左腕。
 そして、この意志が。
 あいつを生かしておかない。
 右腕を振りかぶる。
 狙いは、ライダーの首筋。
 そこを目掛けて横薙ぎに振るう。
 ここが、最後の賭けだ。
 もし、彼女が短剣で受け止めようとしたならば。
 それは、私の敗北だ。
 もし、彼女が身を沈めてかわすなら。
 それは、私の勝ちだ。
 視界に広がる、風で吹き上げられた、忌まわしい髪。
 さあ、かわせ。
 かわせ、かわせ、かわせ。
 そして、彼女は。
 その身を。
 深く。

 沈めた。

 歓喜。
 背骨を、歓喜が満たす。
 私の、勝ちだ。
 私は、しっかりと掴んだ。
 から..の右手で、彼女の美しい髪の毛の一房を。
 未だ止まらぬ身体。
 その勢いのままに、敵を引き摺る。
 目の前には、コンクリートの壁。
 給水タンク、その下。
 そこに。
 私は。
 彼女を。
 思いっきり、叩きつけた。
 ごしゃ。



[1066] Re[41]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d07f53ca
Date: 2007/07/08 14:18
 勝敗は、決した。
 彼女の、勝ちだ。

episode38 BLADE PLAYS WITH SNAKE. ;THE THIRD

 激烈な勢いでの突進。
 これが一手。
 それをかわし、隙を突いて飛び込んできた敵に合わせる風の鉄槌。
 これで二手。
 寸前でそれをかわした敵になおも襲い掛かる、風を纏った神速の一撃。
 それで、三手。
 通常なら、そこで終わり。
 それは、蛇神に痛烈な痛手を強いたであろう。
 しかし、それで終わり。
 それだけでは、蛇は死なぬ。
 蛇は再生の象徴。
 しぶとく、生き汚いが、蛇の信条。
 故に、彼女は四手目を用意した。
 特別なことではない。
 極めて単純だ。
 彼女がしたことといえば、その聖剣を、持ち替えただけ。
 右手から、左手に。
 そして、左手に握った剣を、敵の視線から隠れるように巧みに持ち替えた。
 難しいことではない。
 ただ、左手を背中に回しただけ。
 それだけのこと。
 それだけのことで、一度その姿を現した聖剣は、再びその姿を隠したのだ。
 今度は、安っぽいトリックによって。
 しかし、蛇神は、騎士王の右手に剣を幻視した。
 それも致し方あるまい。
 なぜなら、一度聖剣が姿を現したとき、彼女には風王鉄槌という圧倒的な危機が迫っていた。
 ゆえに、その視界には聖剣が映っていたが彼女の脳がそれを認識し得なかったのだ。
 そして、騎乗兵が風王鉄槌をかわしたときには、既に剣は左手に持ち替えられていた。
 つまり、騎士王の右手には何も握られていない。
 から..、だったのだ。
 それに騎乗兵は気付かない。
 いや、騎士王が気付かせなかった。
 そして、風を纏った神速の突進。
 横薙ぎに振るわれる、からの右手。
 己の中で作り出した剣の幻想に脅えた騎乗兵は、それをかわさざるを得なかった。
 首筋を狙って振るわれた偽りの剣を、彼女は身を沈めてかわそうとする。
 もしも、本当に騎士王の右手に聖剣が握られていたならば、その一撃は騎乗兵の髪を刈り取るだけで、空しく宙を舞ったであっただろう。
 しかし、彼女の右手には何も握られていない。
 故に可能なのだ。
 新たに何かを握ることが。
 最初から、騎士王の狙いは騎乗兵の首などではない。
 最終的な目的がそれでも、今は違う。

 彼女の狙いは、騎乗兵の髪の毛。
 美しく、そしてしなやかで、おそらく簡単には千切れない。
 それを、掴み取ること。
 それが、彼女の目的。

 普通、激烈なスピードの中で常人の髪を掴めば、即座に千切れ飛ぶか、それとも頭皮ごと引き千切るか、そのいずれかだろう。
 しかし、この騎乗兵に限ればそれは有り得ない。
 なぜなら、その髪は、魔眼と並んで彼女の象徴といえるものなのだから。
 髪の毛を蛇に変えた、呪われた女神。
 それこそが彼女の伝説。
 ならば、その髪が容易く千切れるはずは無い。
 だが、剣士がそれを知り得たはずもないのだ。
 彼女が知っていたのは、そして信頼していたのは、全く別のもの。
 彼女が知っていたもの、それは己の能力であり、彼女が信頼したのもまた、己の能力のみ。
 騎士王のみに許されたスキル、未来予知じみた直感によってもたらされた感覚。
 それを信じて、敵を縛る手綱を掴み取ること。
 それだけが、騎士王の狙いであり、それは完全に成功した。
 そして、彼女は勢いにまかせて、騎乗兵を思いっきりコンクリートの壁に叩きつけた。

 凄い音だった。

 ごしゃ、とか、ぐちゃ、とか。
 肉が、潰れる音。
 骨が、拉げる音。
 そして、コンクリートが粉微塵になった音。
 濛々と、細かく砕かれたコンクリートが、煙のように舞い上がる。
 砕けたコンクリート、その破片に塗れた灰被りの蛇。
 力を失って崩れ落ちかけるそれを、髪を掴んだ片手で引き摺り起しながら、騎士王は初めて嗤った。
 戦局、ここにいたって、初めて立場は逆転した。
 今や、捕食者は小さき少女であり、哀れな贄こそが蛇だった。
 騎士王は、歓喜と共に呟いた。
「捕まえたぞ」、と。
 騎乗兵は、絶望と共に聞いた。
「捕まえたぞ」、と。


「捕まえたぞ」
 私は呟いた。

「捕まえたぞ」
 かのじょはつぶやいた。


 彼女は、無言でその爪を振りかざした。

 わたしは、がむしゃらにつめをふりかざした。


 彼女の爪が、頭部を掠める。

 わたしのつめが、かのじょのひたいをかすめる。


 力は無い。きっと、意識が朦朧としているのだろう。
 
 ちからがでない。あたまがふらふらだ。


 私は、無言で、彼女の髪の毛を手繰り寄せる。

 かのじょは、よろこびながら、わたしのかみのけをひっぱる。


 左手に握った聖剣を振るう。

 かのじょのけんが、わたしにきばをむく。


 狙いは、彼女の右足。

 ねらいは、きっとわたしのみぎあし。


 彼女がかわそうともがく。

 わたしはかわそうとあがいた。


 右手で彼女を御する。

 かのじょのみぎてが、わたしをしばりつける。


 ざくっと。

 ざくっと。


 彼女の右足が、宙を舞う。

 わたしのみぎあしが、なくなる。


 彼女が鳴く。

 わたしはなきごえを、あげた。


「ひいいいいいぃぃぃぃぃ!」

 騎乗兵の泣き声が響く。
 彼女の足は、膝から下が綺麗に失われていた。
 ばしゃばしゃと、濁った血が舞い散る。
 まるで壊れた噴水のようだ。
 それでも、騎士王はその右手を離さない。
 崩れ落ちる騎乗兵を、無理矢理引き起こす。
「ああ、その悲鳴を聞きたかった」
 今は、かけらの喜悦も、その表情に浮かばない。
 彼女は、ただ無表情。
 無表情のまま剣を構え。
 無表情のまま、それを振り下ろす。
 頭部を両断すべく放たれた剣線は、とっさに身を捩った騎乗兵の左肩から先を切り飛ばした。
「あああああぁぁぁぁ!いたいいいいいいぃぃぃぃぃ!」
「…足掻くな」
 どさり、と騎乗兵は地に伏せた。
 騎士王の右手は、既に騎乗兵の髪を放している。
 なぜなら、既にその必要が無くなったから。
 彼女の前にいるのは、既に人の形をしていない哀れな贄。
 片腕を根元から失い。
 足の長さは不揃いになった。
 髪を振り乱しながら、己の血溜りの中で悶え狂うその姿。
 それは、断末魔にのたうつ大蛇を思い起こさせる。
「ひいいぃ、ひいいぃぃぃぃっ!」
 息も絶え絶えに、騎乗兵は這いずり逃げる。
 そこに英霊の誇りなど、微塵もありはしない。
「…見苦しいといえばこの上ないが、その在り様には敬意を表する」
 かつかつと。
 手負いの騎乗兵を追い詰める、乾いた足音。
 騎乗兵は振り返る。
 己を断罪する死神を目に焼き付けん、そう言わんばかりに。
「いいいいいぃぃぃひひひひひひひっ!いたい、いたいよおぉ!ひひ、いたいひひひ!」
 嗤う。
 死に物狂いで、嗤う。
 衝かれたように、憑かれたように、嗤い狂う。
「いひ、いひひひ、ひひひ、ひどいよぉぉぉ!てが、あしが、なくなっちゃったよぉぉぉ!」
 しかし、騎士王は無言。
 無言で、足を進める。
 その胸中にあるのは、哀れみ。
 許すつもりのない敗者に哀れみを向ける、それが如何に非道なことか知っていながら、彼女は目の前の仇敵を哀れまずにいられない。

 おそらく、違う。
 この敵は、こんな存在では無かったはずだ。
 もっと誇り高く、もっと神々しい存在だったはずだ。
 ならば、誰が。
 誰が、彼女を堕としたのだ。
 一体、誰が。
 
 先ほどとは趣の異なる怒りによって、彼女の胸中は飽和していた。
 だから、彼女は剣を構えた。
 風の鞘を脱ぎ払い、その姿を見せた、名高い神剣を。
 最早、一時たりとも彼女を生かしておいてはいけない。
 それが、彼女なりの慈悲だった。
「きらいだ、あなたなんか、だいっきらいだぁぁぁ!」
 失われた手足を、振り乱す。
 残された右手で、近くに落ちていた小石を放り投げる。
 その様は、奇しくも彼女の仮初のマスターであった少年の狂態に酷似していた。
 それでも、騎士王の歩は止まらない。
 ゆっくりと、ゆっくりと、歩み寄る。
 不可避の死。
 それに抗うように、蛇は狂う。
 狂い、踊る。
 血が、血が、舞い散る。
 血が。
「だから、だから、だから、だから、だから、だから、だから、だから、だから、だからぁぁぁ!」
 血が。
 舞い散る血が。
 舞い散る濁った血が。
 舞い散る濁った血が、魔方陣を、形作った。

「しんじゃえぇぇぇぇ!」

 何かが、その中から飛び出した。
 騎士王の直感、それが全身に危機感を響かせるほどの何かだ。
 彼女は、先ほどまで持っていた身の程知らずな感情を振り捨てて、横っ飛びに飛び退く。
 千切れかけた脚部の筋肉、それでこれだけの反応を示せたのは奇跡と言うほか在るまい。
 それでも、逃げ遅れた彼女の一部、軍靴の踵が、じゅ、と嫌な音をたてて蒸発した。
 地に倒れ伏した彼女は、火で炙られたように痛む右足の踵に顔を顰めながら、身体を起こす。
 そして、見た。
 天に羽ばたく、その姿。
 漆黒の威容。
 その優美な翼は、まるで天に君臨する猛禽のよう。
 赤い目と、尖った牙は、本来のその種の持つ器官では有り得ない。
 いや、そもそも、宙で嘶く汗馬など、存在し得ないではないか。
 だが、神話の中でなら、それは存在する。
 天馬。
 ペガソス。
 呪われた女神、メデューサの血液から生まれた、幻獣。
 しかし、伝説のそれは、処女雪のような純白の姿ではなかったか。
 ならば、あれは。
 なるほど。
 穢れが、伝染したのか。
 それに、しがみつく様に跨る騎乗兵。
 片手は根元から失われ、片足は膝から下を失った。
 それでも、彼女は騎乗兵なのだ。
 その手に黄金の手綱を握り締め。
 失われた片手の代わりに、口で手綱を噛み締め。
 狂い嘶く天馬を、御している。

「―――見事」

 騎士王の口を衝いた一言は、純粋なる感嘆の言葉。
 彼女は、初めてこの敵を尊敬した。
 あそこまで狂い、手の施しようが無いほど堕ちても、彼女は騎乗兵だった。
 その事実に、騎士王は鐙を外す想いだったのだ。
「その天馬が貴様の宝具か。…いや、微妙に違うな。しかし、本質としては変わるまい」
 騎士王は、ゆっくりとその聖剣を肩に担いだ。
「敵に敬意を表するとは、些か偽善的ではあるが…、たまにはいいだろう」
 天馬が、漆黒の天馬が、蒼天を大きく旋回する。きっと、その全力をもって彼女を叩き潰すつもりなのだろう。
「我が名はアルトリア。ブリテンの王にして、騎士王の二つ名を頂く者。名も知れぬ騎乗兵よ、冥府でこの名を思い出せ」
 襲い来る天馬。
 まるで、主神の放った一本の矢。
 その眩しさに目を細めつつ、彼女は端麗なくちびるを開く。
 その聖剣の、真名を解放するために。
 戦いを、終わらせるために。

騎英のベルレ―――」
約束されたエクス―――」

 二つの声が、重なる。
 二つの極光が、重なる。
 それは神話の再現でありながら、如何なる神話をも凌駕する激突。
 神々をすら駆逐する、力と力の衝突。
 誰にもその戦いを知る資格は、無い。
 天より覗き見る、傲慢な神々にも、だ。
 あるとすれば。
 辛うじて、それでもあるとするならば。

手綱フォーン!」
勝利の剣カリバー!」

 そう、己の命をかけて、この戦いに生きると決めた、地を這う矮小な者にこそ、その資格はあるのかもしれなかった。



[1066] Re[42]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d07f53ca
Date: 2007/07/22 23:32
 壁に背を預けたまま、ぼんやりと、天井を見上げた。
 直接廊下に座っているからだろうか、いつもよりもそれが遠くに感じる。
 それを、ぼんやりと、見つめる。

 薄汚れたタイル。1対2の長方形。それに描かれた、意味不明の模様。まるでアメーバの群れみたいだ。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 あれは、全て同じ模様なのだろうか。一つ、特徴的な模様を見つけて、他のタイルと照らし合わせてみよう。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。 

 …どうやら、同じものらしい。つまり、あれは何かの芸術的な意味があるのではないということだ。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 なら、始めから白一色の素直なものにすれば良いのに。そうすれば、純粋で、綺麗だ。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 でも、白一色だったら、汚れたら一発で分かる。そうしたら、いちいち掃除しなけりゃいけない。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 そんなの、手間だもんな。ならいっそ、最初から汚れてる方がマシだ。なるほど、よく出来てる。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 純粋なものは、排除される。純粋なものは、傷つき汚れる。誰が言ったんだ、そんな当たり前のこと。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 ああ、そうか。彼女だ。きっと、誰よりも、純粋な彼女だ。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 なら、彼女は、今まで。
 一体、どれくらい。
 傷ついて、きたのだろう。

 そんなことを考えながら、薄汚れた天井を、ぼんやりと、見つめていた。

episode39 静かな廊下の柱の影から

 どのくらいそうしていたんだろうか。
 天使が針の上でダンスを踊る、その一曲分くらいは呆けていたのかもしれない。
 穏やかな時間だった。
 さっきまでの喧騒が嘘みたいだ。
 時折、ずしん、と音が響く。
 きっと、屋上では凄惨な戦いが繰り広げられているのだろう。
 まるで、遠い世界の出来事みたいだ。
 いやいや、俺は何を言ってるんだ。
 セイバーが、アーチャーが戦っているんだぞ。
 なら、俺も行かないと。
 多分、何の役にも立てないけれど。
 それでも、行かないと。
 なのに、この腰は。
 どうして、こんなに。
 こんなにも、重いのか。

「坊や、私は行くわ。あなたはどうするの?」
 声が、聞こえる。
 痴呆みたいに上を向けたままの顔を、少しだけ下に傾ける。
 分厚いローブ。
 端整な唇。
 キャスター。
 ああ、こんにちは。
 ご機嫌麗しゅう、大魔術師さん。
「このままここで桜達を待つ?それとも、私と一緒に来る?」
 あなたと一緒に?
 そんなことをして、何になる?
 だって俺、何の役にも立たないぜ?
 見てくれよ、こんなにぼろぼろだ。
 手足の骨だって砕けてるし、頭だってがんがんする。
 重病人だ。
 それを戦場に連れて行こうってのかい?
 あんた、酷い奴だな。
 旧日本軍だって、怪我人や病人は徴兵しなかったんだぜ。
 だから、見逃してよ、ほんと。
「…そう、ここに残るのね。ちょっとだけ賢くなったじゃない」
 そう、ぼくは賢くなりまちた。
 だから、褒めて褒めて。
 笑って頭をなでてちょーだいな。
 だからさ。
 お願い、だからさ。

 そんなに、嫌そうな顔、しないでよ。

「賢くなったけど、魅力的じゃなくなったわね。さっきまでの貴方の方が女にもてたわ、きっと」
 勝手なこと、言わないで。
 無茶をしたら怒ってさ。
 賢くなったら怒ってさ。
 一体俺はどうすりゃいいのよ。
 これでも一応頑張ったんだぜ?
 そりゃあ、何の成果も残せなかったけどさ。
 誰も、救えなかったけどさ。
 それでも、一応は頑張ったんだ。
 頑張っただけだけどさ。
 それでも、頑張ったつもりなんだ。
 やっぱり、そんなの、なんの意味もないのかな?
「念のために言っとくわ。貴方の傷、もう完治してるのよ」
 そう言って、彼女は駆けて行った。
 ことさらゆっくり。
 まるで、誰かが追いかけてくるのを期待するみたいに。
 悪いね、俺は期待に添えないぜ。
 だって、こんなにも足が痛い。
 だって、こんなにも腕が苦しい。
 だって、こんなにも頭が重くて。

 なにより、むねが、からっぽだ。

 もう、何も残っちゃいない。
 もう、何も残っちゃいない。
 もう、何も残っちゃいない。

 なのに。
 どうして、こんなに、苦しい?
 苦しい。
 苦しいんだ。
 空っぽなのに。
 空っぽの、はずなのに。
 
 空っぽなら、軽いだろう?
 空っぽなら、爽快だろう?

 なのに、重たいんだ。
 ちっとも、爽快じゃない。
 そして、苦しいんだ。
 何がこんなに苦しいのか、分からない。
 でも、でも、でも。
 苦しくて、堪らない。
 ほら、身体だって、こんなに震えてる。
 校舎ごと震えているんじゃないか、そう錯覚するくらいに、震えている。
 抱きしめてくれないか。
 誰でもいい。
 誰でも。
 でも、そうだ、あの人がいいな。
 優しくて、暖かくて、朗らかで。
 誰だったかな。
 最近、よく夢で見るんだ。
 顔だって、思い出せる。
 赤い髪。
 錆び色の瞳
 よく笑う、その唇。
 その唇で、歌を歌って欲しい。
 童謡がいい。
 最近、聞いたんだ。
 何だったかな。
 懐かしいリズム。
 Clip,clip,clip~♪
 …だったかな。
 何だったかな。
 よく、思い出せないなあ。


「いい様ね、衛宮君」
 ふっと顔を上げる。
 ぼんやりと滲む視界、そこに凛がいた。
 頬の辺りにむず痒さを感じる。
 ひょっとしたら、眠りながら泣いていたのかもしれない。
「凛、キャスターは」
「もう戦場に向かったわ。あなたを置いて、ね」
「しまった、俺も行かないと―――」
 とっさに腰を上げようとする。
 刹那、とんでもない激痛が全身を駆け巡った。
「ギ、ギ、ギ―――」
 声にならない苦悶の声。
 脂汗が噴出す。
「グ、ハァー、ハァー、ハァー…」
 なかなか収まらない苦痛。
 指一本、動かせない。
「そうそう、キャスターからの伝言。『あなたの傷はまだ完治していない。特に、私の魔術薬の後遺症が致命的。絶対安静、指一本動かさないこと』、だってさ」
 痛みでぐるぐるの頭の中に響く、凛の声。
 傷が完治してない?
 じゃあ、あの会話は、夢、だったのだろうか。
 そんなことを考えていたら、キシシ、という、凛のチェシャ猫笑いが聞こえてきた。
「たっぷり痛かった?とりあえず、今ので今回の無茶は勘弁してあげる。反省しなさい、この子、さっきまで泣き出す寸前だったんだから」
 ギシギシ鳴る首の関節を、無理矢理上に向ける。
 そこには、如何にも不機嫌な桜がいた。
「…桜」
「私、怒ってます」
「ごめん」
「許しません」
「…悪かった。本当に、御免なさい」
「…嘘吐き。もう心配させないって言ったのに」
 彼女の大きな瞳から、なお大きな涙の雫が零れ落ちる。
 無限の罪悪感が襲って来る。
 なるほど、俺の命は俺だけのものじゃないってことか。
『貴様が死ねば、悲しむものがいるだろう。ならば、貴様は生き残ったことでそれらの人間を救ったのだ。』
 これは、アーチャーの台詞だったかな。
 なるほど、先達の意見はそれなりに耳を傾ける必要があるということか。
「で、どうするの、衛宮君。あなた、私と一緒に来る?それともここで待ってる?」
 凛の問い。
 どこかで聞いた。
 そんなの、答えは決まってる。
 俺は―――。
「ギ、イアァ」
 答えようと瞬間、やはり弾けるような激痛が俺を襲った。
「姉さん!先輩がどういう状態か、キャスターに聞いたでしょう?なのに、なのに…!」
 桜の声が、聞こえる。
 でも、凛の声は聞こえない。
 感じるのは、視線だけ。
 刺すように冷たい、凛の、視線だけ。
「…そう、ここに残るのね。ちょっとだけ賢くなったじゃない」
 その台詞は。
 その台詞は。
「賢くなったけど、魅力的じゃなくなったわね。さっきまでの貴方の方が女にもてたわ、きっと」
「姉さん、ひどい………」
 その言葉を残して、凛は俺に背中を向けた。
 桜は、そっと俺の背中を摩ってくれた。
 そして、俺は。
 俺は、凛を、黙って、見送った。


 苛々する。
 誰が、誰に対して苛々しているのか。
 そんなの、はっきりしている。
 私だ。
 両方、私だ。
 私が、私に対して苛々しているのだ。
 心も体もぼろぼろになるまで戦って、やっとのことで生き残った士郎。
 彼に対して暴言を吐いてしまった、自分に対して苛々しているのだ。
 しょうがなかった。
 全く、押さえが利かなかった。
 ただ、我慢ならなかった。
 へたり込んでいる彼が。
 疲れた表情を浮かべている彼が。
 歩みを止めてしまった、彼が。
 どうしても、我慢できなかったのだ。
 士郎じゃあ、ない。
 こんなの、衛宮士郎じゃあない。
 そう、思ってしまった。
 これで、わかった。
 私は、駄目だ。
 私は、彼と一緒にいてはいけない。
 私は、土壇場で、彼の背中を後押ししてしまう。
 彼が何よりブレーキを欲している、その瞬間に、私は彼の背中を後押ししてしまうだろう。
 唯でさえ、彼のブレーキは効きが悪い。
 なら、それを後押しするような人間は、彼に乗っちゃあいけない。
 桜が、相応しいだろう。
 あの子は、臆病で、この上なく傷つきやすい。
 だから、彼女のブレーキは、私の知る誰のものよりも強烈だ。
 彼女なら、彼を止められるだろう。
 底なしの崖に向かって突撃する彼の背中を、それこそ死に物狂いで引き止めるだろう。
 だから、彼の隣には、誰よりも桜が相応しい。
 祝福しよう。
 彼らは、お似合いだ。
 彼らは、お互いの足りないところを補い合える。
 本当の意味で、伴侶として相応しい。
 だから、私は諦めよう。
 ほんの少し、辛いけど。
 ほんの少し、苦いけど。
 でも、諦めよう。
 悪いことばかりじゃあない。
 きっと、彼らをちくちく苛めるのは楽しいだろう。
 きっと、彼らと一緒に歩くのは楽しいだろう。
 でも、それ以上に、辛いだろう。
 駆ける足。
 弾む鼓動。
 滲む汗。
 僅かに乱れる呼吸。
 そして。
 そして、そして。
 ほんの少しだけ、流れた、涙。
 それを力ずくで拭って、私は階段を駆け上がる。
 終着点が見えた。
 屋上への入り口。
 長方形の青空。
 そこに、私は飛び込む。
 その瞬間。
 私は、聞いた。
 かつんと、何か硬いものが、コンクリートの地面を叩く音を。
 そして、見た。
 仮面の下に隠されていた、奴の顔を。

 それは。
 その顔は。
 泣き顔の仮面、その下にあったのは。
 見るも無残な焼け爛れた顔でもなく。
 この世のものとも思えぬ醜男でもない。

 端正な顔立ち。
 鷹のように鋭い目つき。
 すっきりと通った鼻筋。
 形の整った唇。
 そこには紛れもない美が存在した。

 しかし。

 その瞳は極端に小さく、貌は四白眼の狂相。
 唇の両端が持ち上がっているのは皮肉からではなく、嘲笑ゆえに。
 背筋は曲がり、猫背気味の姿勢。
 睨目上げるその視線は肌に纏わりつくようで酷く不快だ。
 そして、何より不快なのは、その顔が私の知っている奴によく似ていたからだ。
 私は思わず呟いた。



[1066] Re[43]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:d07f53ca
Date: 2007/07/26 21:20
 びーん、と、薄いセロファンを震わせたような音が響く。
 耳鳴り、だろうか。
 しかし、どうもそうではないようだ。
 何かが実際に震えている。
 細かい、何かだ。
 薄い、何かだ。
 それが、震えている。
 時折小さくなり、また、大きくなる。
 私はその間隔に一つの法則性を見出した。
 小さな、光。
 ふわふわと、まるで蛍か何かのように輝く、光。
 奴のごく短い詠唱、それによって現れた、光。
 それが近づくと、大きくなる。
 それが遠ざかると、小さくなる。
 つまり、この音はあの光体が発しているわけか。
 明らかな害意を持って襲い掛かる、忌まわしい何か。
 それを避けながらも栓の無い思考をしている自分が、どこか滑稽だった。


 体に意識を通していく。
 本来であれば、戦闘中にするべき作業ではないだろう。
 少なくとも、戦闘が開始される前には終わらせておくべき作業である。
 そう、これは作業だ。
 己の体が、どれほどの性能を発揮し得るか、それを確認するための作業。
 自分の体を道具として再認識するための儀式と言い換えることも出来るだろう。
 ゆっくりと、体に意識を通していく。
 まずは、先日の戦闘におけるダメージの確認。

 腹部。内臓。挫傷。
 ライダーの後ろ蹴りで与えられたダメージ。
 問題無い。
 完治している。
 
 脚部。刺傷。毒。
 アサシンのダークによって与えられたダメージ。
 やや、引き攣るか。
 やはり、毒に蝕まれた傷は治りが遅いと見える。

 魔力の量は?
 満タンとは言えまい。
 消滅の一歩手前まで酷使してしまったのだ。
 一日やそこらの休息では、荷が勝ち過ぎる。

 なるほど、万端には程遠い、それが作業の帰結であるか。
 凛にはああ言ったものの、やはりもう一日の休息が欲しかったというのが本音だ。
 そこまで考えて苦笑する。
 女々しい。
 そう、考えたからだ。
 結局、戦いなど己の思い通りにはならぬものである。
 その帰趨もそうなら、その始点もそう。
 試合ではないのだ。
 時と場所を指定され、始まりの号砲を鳴らす審判がいる。
 そんな恵まれた状況の実戦がどこに存在するか。
 自分の望んだ状況と時間で、万全のコンディションの状態で戦える。
 そんな幸運は、少なくとも私には備わっていない。
 ならば、与えられた状況と、足りぬ武器で、十全の結果を残すしかない。
 なんだ、いつものことではないか。
 生前も、死後も、私にはそんな戦いしか許されていなかった。
 そして、不敗。
 それが私の矜持だ。
 だから、負けるわけにはいかない。
 目の前に立つ髑髏。
 この程度の相手に、仮にも英霊の端くれである私が負けるわけにはいかない。
 なにせ、奴は、あの怪物相手に生き残った。
 生を、勝ち取った。
 ここで私が敗れれば、嘲笑の的となるのは必定。
 それでも、所詮は道化染みた人生である。
 笑われることなど、慣れたものだ。
 しかし、奴にだけは笑われる訳にはいかない。
 何故かは分からない。
 何故かは分からないが、その想いだけが、かえしのついた釣り針を飲み込んだみたいに、私の心奥に鎮座していた。

episode40 まぶしいほど青い空の真下で 

 硝煙と硫黄の香りが、濃厚に匂い立つような戦場であった。
 ちりちりと、項を焼くような、空気。
 きーん、と遠くで耳鳴りのような高い音が響く。
 きっと口を開ければ、舌に唐獅子の刺激を味わうことが出来るだろう。
 そんな、戦場。
 コンクリートは抉れ、金属製のフェンスは既に見る影も無い。
 濛々と立ち込める、砂煙、のようなもの。
 それは微細に還されたコンクリートの破片か、霧散した二人の魔力の断末魔か。
 ところどころに突き立つ短剣。
 黒と白のそれらは危険を示す標識か何かに見える。
 場違いである。
 少なくとも、この場所、この時が、その舞台として相応しいとは思えない。
 真昼間、校舎の屋上、青空の下、そこで人外の殺し合いが行われるなど、唯の喜劇だ。
 夜、ならば相応しかったのだろうか。
 夜は死んだ月の光が支配する、死者どもの世界だ。
 死者が唄い、死者が踊ろうと、それを咎める閻羅王は眠りについている。
 だが、今、空を支配しているのは地球から最も近くに輝く恒星であり、その下を歩く資格があるのは生者だけである。
 ならば、この二人は生者なのか。
 いや、そうではあるまい。
 一人は、過去に死に、未来に死に、そして現在に仮初の生を受けた者。
 一人は、厳密な意味でいえば、神よりその生を祝福すらされていない者。
 赤い外套を纏った、鷹の目をした男。
 燃え盛る炎のような髪の色は燃え尽きて灰色となり、肌は人の闇に染められ、瞳は己の無力を映し出す鏡と成り果てた、男。
 その手には、黒と白の双剣。常の彼の武装ではあるが、その背にささくれ立ったような棘が突起が無数に生えかけているのは、隠し切れない彼の苛立ちを表したものだろうか。
 襤褸のような外套を纏った、泣き顔の仮面。
 本来持ちえた運命を、叩き壊され、捻じ曲げられ、しかし、己が自身に与えられた義務を淡々と実行する、男。
 彼が唱えるのは、己と同じ名を持つ、古代の書物の一節。本来、呪文などではありえないそれは、他のどんな文節よりも彼に深い自己陶酔を与える。
 そんな、二人。
 そんな、たった二人の化け物が戦った傷跡。
 一片の火薬も使用されていない。
 しかし、その光景を見れば、誰しもが火薬の匂いに眉を顰めるであろう。
 幻臭。
 本来あり得ない感覚を、脳が作り出す。
 それすら、止むを得まい。
 それほどの、破壊。
 それほどの、戦い。
 二人が生み出したのは、比喩などではなく、唯、戦場であった。

Et pax ab eo, qui est, et qui erat, et qui venturus est, et a septem spiritibusかつて在るもの、現に在るもの、先に在るもの、偉大なるもの、それに従う七つの英霊Et pax ab eo, qui est, et qui erat, et qui venturus est, et a septem spiritibus」

 初めは、唯の光体だった。
 実在感も薄く、その動きも単調そのもの。
 しかし、髑髏の詠唱が長くなるにつれ、光体は何かを形作っていく。
 もやもやとした輪郭が少しずつ収斂され、その動きは何かの意思を持ったかのように。
 何かが、見える。
 弓兵の際立った視覚は、光体の中に、はっきりとしない何かが在ることを映し出していた。
 昼間でも、なお光り輝く不吉な何か。その中に、何かが、見えるのだ。
 顔だ。
 人の、顔。
 それも、女。
 女の顔。
 髪が、長い。
 にこやかに、笑っている。
 苦悶の叫びを、あげている。
 しかし、それは人ではありえない。
 吊り上った口の端、そこから覗く牙は、まるで獅子のよう。
 目は、まるで彫刻刀で掘り込んだ切れ込みのようで、とろりと鈍重な印象を与える。
 能の面、万媚と呼ばれるそれに般若の面を足して更にどろどろした感情を加えれば、あれに近しいものに成るのかもしれない。
 弓兵は理解した。
 つまり、あの光は、繭なのだ。
 脆弱で、ひ弱な蛹を保護するための、美しい繭。
 それが、あの光だ。
 ならば、いすれあの繭は取り払われる。
 いずれ、中からあの女の顔を持った何かが生まれるのだろう。
 それは、きっと呪わしい何かだ。
 遊んでいるのか。
 あの髑髏は、英霊である自分を甚振って遊んでいるのか。
 そう自問した弓兵は、心中で頭を振った。
 そうではあるまい。
 奴から伝わる気配は、正に必死。
 一片の手加減すらしていないだろう。
 事実、あれらはまだ私に敵し得ない。
 つまり、これが奴の全力だ。
 少なくとも、今の段階においては。
 弓兵が己の思考に埋没している間にも、乱舞する光体は彼を襲い続ける。
 明らかな害意に満ちたそれは、まるで生命を持ったかのように彼を襲う。
 右から、左から。
 前から、後ろから。
 上から、下から。
 可変性に飛んだその動きは敵を翻弄し、遠からず食い殺す。
 通常ならば、だ。
 しかし、弓兵は英雄。
 虚実入り混じった光体の動きから致命的なものを見抜き、それをかわす。
 かわし、いなし、受け止め、そして叩き切る。
 背後からの攻撃も同じく。
 そもそも、背後から狙われただけでその対応に苦慮するというのであれば、彼はここにいない。
 弓兵は、生前に戦場を生きた。
 比喩ではなく、戦場を生き抜いた。
 銃弾飛び交い、背後の味方が十分後には敵に裏返っている煉獄を生き抜いた。
 そして、英霊などというわけの分からぬものに成り果てた。
 ならば、そこに死角は無い。
 鷹の目に、死角など無い。
 たかが十やそこらの敵など、脅威と数えるにも値しない。
 陰陽の双剣。生前も、そして死後も彼の従者であり続けるその双剣を縦横に振るい、気色悪い女の顔をした光体を切り裂き続ける。
 響く断末魔。
 甲高いそれは、やはり女の悲鳴に似ている。
 弓兵は、嫌というほど聞きなれたその悲鳴を、まるで久しく聞いたもののように眉を顰めながら、只管にその両手を振るい続けた。
 只管にその両手を振るいながら、追う。
 逃げ続ける髑髏を、追う。追い続ける。
 髑髏は逃げる。
 己の不死を忘れたかのように、逃げる。逃げ続ける。
 屋上はそれ程広くない。
 直線に逃げていては、あっという間に追い詰められる。
 故に、髑髏の描く軌道は円。
 そして、それを追う弓兵の軌道も円。
 唯、単純に追いかける。
 蒼い髑髏の動きは、決して速くない。むしろ、鈍重といっていい。
 足で勝る弓兵がそれに追いつけないのは、偏に髑髏が生み出し続ける奇怪な光体のおかげだ。
 ふわふわと、弓兵の周囲を漂う。
 そして、思い出したかのように攻撃してくる。これではその足も時折は止まらざるを得ない。
 しかし、弓兵も、ただ追うだけではない。
 その手に持った短刀を、投擲する。
 あの暗殺者には及びもつかないが、それでも恐るべき速さと正確さで、敵を襲う。
 軌道は弧。
 上空へと舞い上がり、急激な弧を描いて、敵を急襲する。
 その様は、まるで天空より得物を襲う猛禽のよう。
 予言者はそれをかわす。
 時折軽い手傷を負うが、その程度は彼にとって何の痛痒も感じるものではない。
 短刀は地に突き立ち、獲物を仕留めるには至らない。
 逃げる髑髏と、追う男。
 その光景は、凄惨な戦場に似合わず、どこか馬鹿馬鹿しかった。

 
「…君は弓兵だと聞いていたのだが、私の記憶違いだろうか」

 のんびりとした予言者の声。
 しかし、その声には隠し切れない驚愕と、それを上回る苛立ちの響きがある。
 それも当然だろう。
 髑髏は、魔術を使う。
 弓兵は弓を使う。
 ならば、生まれるのは飛び道具を主体とした遠距離戦。
 少なくとも、髑髏はそう予想をたてていたのだ。
 確かに、最初はその通りだった。
 弓兵は、黒塗りの弓をもって髑髏を貫き、彼の生み出した光体を貫く。
 そして髑髏は薄ら笑いを浮かべ、光体を生み出し続ける。
 決め手に欠ける。
 髑髏の魔術は弓兵を傷つけるに至らず。
 弓兵の射撃は予言者を絶命させることは出来ない。
 千日手とも思える戦局。
 それを望んだのは、髑髏だった。
 彼は、少なくともこの戦で弓兵を仕留めるつもりは無い。
 邪魔さえされなければいい。
 後でいいのだ。
 完成さえされれば、後はこちらの思うがまま。
 それまでは雌伏の時だろう。
 そう、考えていた。
 しかし、いつしか弓兵は自身に満ちた顔つきで、自らの呼称のもととなった武具を消した。
 その代わりに彼が手にしたのは、明らかに接近戦にしか役立たない二振りの短剣。
 黒と白。
 陰と陽。
 夫と婦。
 鏡に映したかのように形状の同一な、双剣。
 それを、握り締めていた。
 それをもって、光体を切り払い始めた。
 その意図するところは唯一つだろう。
 弓兵は、接近戦をこそ望んでいる。
 ならば、そこには何らかの意図が有る筈だ。
 髑髏はそう考えて、僅かに身構えた。

「…くく、召喚されて、まさか二度もこの台詞を吐くことになるとは思わなかったな。
 いいか、世間知らずの預言者よ。『英雄とは剣術、魔術に長けた者を指す。アーチャーだからといって弓しか使えないと思うのは勝手だが』、それを普遍のものと思わないことだな。まあ、君がそう思い込んでくれる分には、私は一向に構わないのだがね」

 仮面の下の表情は、やはり動かない。
 疑問を嘲笑によって報われた預言者は、しかし一片の不機嫌もその言の葉に乗せなかった。煮え滾る内心が如何であったとしても、だ。

「…なるほど、生粋の英霊は言うことが違う。私のような無芸非才の身には、正に羨望の対象だよ、君は」

 謡うような響き。
 その声に、弓兵は、僅かに、ほんの僅かに己の耳を疑った。
 目の前に立つ、蒼い怪人。
 今の今まで、嘲弄に塗れた言葉しか吐き出さなかったそれの口から、初めて真実の一端を感じることが出来たからだ。

「貴様―――」
「さあ、始めようか。如何にも前振りが長すぎたのだ。喜劇は始まりと終わりが肝要というが、中弛みのするものもまた名作とは言えまい。終わりが既に定まっているとしても、だ。
 Sacramentum septem stellarum, quas vidisti in dextera mea, et septem candelabra aurea右手には七つの星の奥義の紋章、七つの金の燈台の奥義の紋章
 Septem stellae, angeli sunt septem Ecclesiarum, et candelabra septem, septem Ecclesiae sunt七つの星は七教会の天使、七つの燈台は七教会の導

 その呪文を合図にして、再び現れた光体。
 その中には、やはり女の顔。
 先ほどよりも、さらに輪郭がはっきりとしている。
 けたけたと嗤っている。
 きちきちと、歯を鳴らしている。
 早く出しておくれ。
 ここから、出しておくれ、と。
 彼女達は、懇願の表情のままが弓兵を襲う。まるで、死に魂か何かのように。
 瞬間、先ほど弓兵の頭を過ぎった塵のように役に立たない思考は、闘争という濃密な思考に押し出されるようにして、その役目を終えた。

「そうだな、終わりなら、既に定まっている。もう、完成しているのだから」
「何?」

 怪訝な、髑髏の声。
 その声と重なるように、もう一つの声が響く。
 淡々と、軽い響きで。

「壊れた幻想」


 地が轟いた。
 地震。
 少なくとも、蒼い髑髏はそう感じた。
 だが、彼の仇敵はそう感じなかったのだろうか。
 悠然と、彼目掛けて飛び込んでくる。
 それは今までとは比べ物にならない速度。
 まるで、隼。
 脅威を感じたのは、髑髏。
 飛び退いてかわそうとする、髑髏。
 光体に迎撃を命じようとする、髑髏。

 しかし、そのいずれもが叶わなかった。

 なぜなら、彼の足元には頼るべき地面が無かったからだ。
 故に、飛び退けない。
 故に、迎撃を命じる余裕が無い。
 一瞬。
 固体のように凝縮された時間の中、弓兵の作り出した一瞬の空白。
 それは、髑髏にとって、如何にも致命的であった。
 当然、弓兵はそれを見逃さない。
 見逃すはずが無い。
 彼の手には、常の双剣は無かった。
 代わりに取り出したのは、槍、のようなもの。

 奇妙な武器であった。
 いや、そもそも武器と呼べるのものなのかどうかが怪しい。
 それを、何と表現すればよいだろうか。
 長柄の先に、大きく湾曲した刀身が付いている。しかし、あまりに極端な反りによって刃先は大きく内側に隠れ、刺突という機能は完全に失われているといっていい。
 そして、何より奇妙だったのは、その刃が湾曲した内側にしか付いていない点だろう。刃が外側に付いているならば相手を撫で切る際に有効であるのだが、この武器ではそういった使用方法は期待できまい。
 鎌。
 槍の穂先、その代わり農夫の使う鎌を取り付けた。
 外見からは、そのようにしか判断できない、そんな武器だった。
 或いは、ある種の拷問道具の中にこういった形状のものがあったかもしれない。
 扱い辛い。
 武器の扱いに慣れた者ならば、おそらく誰もがそう思うだろう。
 長柄の得物の最大の利点はそのリーチだが、逆に言えばその懐の深さは弱点にも成り得る。長柄の武器は、一般的にその先端部にしか殺傷力が備わっていないため、一度間合いを侵されると圧倒的な不利に陥るからだ。
 鋼鉄の柄による薙ぎ払いこそが長柄の真価、そういう意見もあるだろうが、薙ぎ払いはその予備動作の大きさと打ち終わりの隙の大きさから、間合いさえ掴めてしまえばそれ程脅威のある攻撃方法ではない。少なくとも、攻撃方法がそれしかないと分かっていれば防御するのも回避するのも容易である。
 故に、刺突という機能が必要になってくるのだ。最小限の動きで点を破壊するというその機能は、他のどんな攻撃方法よりも機能的で致命的だ。その上、打ち終わりの隙も少なく、他の攻撃への連携も繋げやすい。これは間合いを侵そうとする敵にとって、この上なく厄介な攻撃方法である。また、単純に攻撃方法の選択肢を多くするという意味で相手にかかるプレッシャーもあるだろう。
 だが、この武器は。
 刺突という機能は、先も言ったとおり失われている。斬るという意味でも、その機能性はお世辞にも高いとは言えない。強いて言うならば、その湾曲した先端部で、引っかくように相手を搔き切る、それくらいだろうか。それとも、棍棒か鉄パイプのように殴りつける。それくらいの用途しかないように思われる。
 なんにしても、扱い辛い。
 それは、異形の武器であった。

 それを携えて、弓兵は予言者の懐に飛び込む。
 髑髏は、それに対応することが出来ない。

 弓兵は、その武器を横薙ぎに振るう。
 髑髏は、それをかわすことさえ出来ない。

 弓兵の放った一閃は、予言者の喉笛を掻き切る。
 髑髏の、半ば断ち切られた首から、間欠泉のような血液が舞い散る。
 
 その武器の名は、ハルペー。

 かの女怪、メデューサの首を断ち切った、首狩の鎌剣。

 不死者、かの武具をもってつけられた傷、治癒させること、能わじ。



[1066] Re[44]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d07f53ca
Date: 2007/07/26 21:44
 悪い冗談みたいな光景だった。
 男が立っている。
 まるで、長い歴史、風雨に晒された石像のように、厳然と、立っている。
 しかし、その石像には、首が無い。
 その男には、首が無いのだ。
 そして、首が無い男の後ろで、何かが揺れている。
 何か。
 球に近い。
 それが、揺れている。
 それが転げ落ちないのは、辛うじて繋がった皮、一枚のおかげ。
 ぶらぶらと、揺れている。
 それは、風に遊ばれる巨大な果実、そのように見えないこともない。
 ぶらぶら、ぶらぶら。

 揺れているのは、人間の頭部。

 私が放った斬撃によって半ば断たれたそれは、まるで大きく後方を覗くかのように仰け反り、その極彩色の切断面を露にしている。もし、今、奴に意識があるならば、上下逆さまになった自分の背後の風景を見るという、中々に得難い体験をしているはずだ。
 皮一枚をもって胴体と繋がったその様は、前後が逆であることを除けば、古来の切腹の作法である『抱き首』の状態に近いといえるだろう。
 胴体側の切断面より舞い散る血飛沫。それは、瞬時に大気と交わり、胸の悪くなるような血臭を周囲に撒き散らす。その臭気も、雲ひとつ無い晴天のもとでは、どこか良く出来た芝居めいた非現実感を醸し出すにすぎないのだが。
 どれくらいの間があったのだろうか。少なくとも、間欠泉のようなその墳血の勢いが、ゆったりと染み出す湧き水のそれになる位の時間はたったはずだ。
 やがて、石像のように確固と直立していた奴の体は、ゆっくりと崩れ落ちた。
 前後に倒れたのではない。
 跪くように、下に。
 力無く、だらりと下げられた両の手はそのままに、まずは膝がコンクリートとぶつかる。ごん、という乾いた音が響き、そして、奴はゆっくりとうつ伏せに、前方に向かって地面に伏した。
 自然、奴の仮面が見えた。
 ぼう、と上空を見上げる、生首。
 泣き顔の、恨めしそうな、顔。
 それは、当然のことではあるが、奴の生前と何ら変わることはない。
 ただ、無機質で、道化染みている。
 勢いを失った墳血が、じわじわとコンクリートを紅く染めていく。それはやがて私のブーツを濡らしたが、私はそれをじっ、と見つめただけだった。
 別に、敗者に黙祷を捧げていたわけではない。
 ただ、驚いていたのだ。 

 呆気なかった。

 意外を覚えるほどに、呆気なかった。
 拍子抜けと言ってもいい。
 あの夜、キャスターの大魔術をまともに喰らって、なお嗤っていた化け物と同一とは、とても思えない。
 或いは傀儡かとも思ったが、どうもそうではない。この魔力の色と質は、確かにあの夜感じたそれらと同一である。
 確かに、奴の首を断ち切った武具、ハルペーの持つ効力は奴にとって天敵であるだろう。また、そういった武具を相手によって使い分けられることが、私が持つ一番大きなアドバンテージであることも間違いない。
 屈折延命。
 自然治癒以外の如何なる再生能力も無に帰すこの鎌剣の効力は、不死を武器とする死徒のような類には効果覿面である。もちろん、私はそれを承知の上でこの扱い辛い武具を用意したわけではあるが、こうもあっさりと勝負がつくとは思っていなかった。

「―――驚いたな」

 我知らず口を割って出た呟き。
 それは、何よりも端的に私の心情を表していたのだろう。
 しかし、いつまでも呆けてはいられない。
 ライダー。
 あの夜とは、比較にならぬほどの重圧感。
 如何にセイバーでも、苦戦は必至だろう。
 手を出すな、とは言われたが、まさか彼女が殺されるのを、指を銜えて見ていられるほど私も正直者ではない。
 これは戦争。
 いかなる手段もその目的のもとに正当化される。
 ならば、例え彼女に蔑まれることになろうと、私はライダーを討とう。卑怯者と謗られようと、背後よりライダーを射抜こう。
 そこまで考えて、私は足を上げた。
 いや、上げようとした。
 だが、足は上がらなかった。
 何かが、足首を、掴んでいた。
 がっちりと。
 生者を海底へと引きずり込む、亡者の手のように。
 ぞくり、と、冷たい何かが脊髄を駆け上る。
 驚愕と、一握りの得心を持って、地面に目を向ける。
 そこには。

「ぐぶ、私も、驚いだよ」

 首を断たれたまま、ごぼごぼと血泡を吐き出し嗤う、泣き顔の髑髏が、居た。

episode41 遊ぼう、まずはそれから

 髑髏の背中が、沸き上がる。
 ごぽごぽと、沸騰する熱湯のように。
 襤褸のような外套、その下で何かが湧き上がっている。

「その武器は何だ?いま一つ、傷の治りが悪い。差し詰め、対不死者用に特化した武具といったところかな?」

 相も変わらず、彼の首は断たれたまま。
 うつ伏せに寝転がった身体で、首だけが仰向けに弓兵を見つめる。
 呼吸器官など存在しない、首だけの髑髏が、和やかに語りかける。
 ぼこぼこと変質を続ける髑髏の背中。
 徹底的に現実感を欠いたその光景が、弓兵から咄嗟の判断力を奪った。
 髑髏の握力など、たいしたことは無い。少なくとも、英霊の末席である弓兵が振り払えないほどのものではない。
 しかし、彼は動こうとしなかった。
 いや、動けなかった、と言ったほうが正しい。
 今、彼の思考を支配しているのは、たった一つの疑問である。

『何故』

 この一つの、しかし根源的な問いが、彼から行動を奪った。
 何故。
 何故、髑髏は生きているのだ。
 確実に、奴の急所を破壊した。
 しかも、その得物はハルペー。
 例え、伝説に名高いかの女怪でも、死ぬ。
 死なざるを得ない。
 なのに、何故。

「しかし、中々小細工をしてくれるものだな。床丸ごとを落とすことで私の足止めをするとは。階下の人間などどうなってもいい、そういうことかな?」

 それは、この異形の髑髏の言うとおりである。
 円を描くように逃げ続けた髑髏。
 それを追う弓兵は、彼に向かって短刀を投擲し続けた。
 そして、地面に突き立つ短刀。
 それらの描く地上絵も、当然、円を描く。
 弓兵は、地に突き立ったそれらを、頃合を見て爆破した。
 全く同一のタイミングで爆発する剣の形をした爆弾は、二人の戦闘によって劣化した地面を破壊する。
 例えば、缶詰の蓋のように、綺麗に抜け落ちるならよし。
 或いは、粉微塵になって崩れ落ちるなら、それもまたよし。
 いずれにしても、致命的な隙を作ることが出来る。
 弓兵はそう考えていた。
 現実には、屋上の地面となっていたコンクリートは、爆発によって作られた断面を境に僅か数十センチ陥没したに過ぎなかった。それでも、弓兵はその隙を見逃さなかったわけではあるが。
 つまり、おそらくは階下で失神している生徒達に被害は出なかった訳だ。崩れ落ちたコンクリートの破片で傷ついた者くらいはいたかもしれないが。
 だが、それはあくまで結果論である。万が一、コンクリートの床が丸ごと崩落し、階下の生徒が下敷きになる可能性は存在した。
 弓兵は、あえてそれを無視した。
 確かに、彼はその解析能力と空間把握によって、こうなることを見越した場所を戦場にすべく、敵を巧みに誘導した。
 しかし、それだけだ。
 もし、万が一の事態が起きたら。
 万が一、階下の人間が、死ぬことがあれば。

 運が無かったのだろうさ。

 そう割り切るだけの非情さを、彼は兼ね備えていた
 時と場合によっては、目的のために自らのマスターすら切り捨てる強さ。
 荒れ果てた荒野を、ただ一人突き進むことの出来る、覚悟。
 それは、紛れも無く彼の強さであり、彼の歩んできた道程の苛烈さを物語る。
 その彼が、例え一瞬とはいえ、戦場において思考を奪われた。
 一瞬。
 だが、致命的、そう呼べる隙。
 その瞬間に、髑髏は、変貌を遂げていた。
 辛うじて人と呼べるものから。
 明らかに、人とは異なるものに。
 結論から言えば、彼は誤った。
 弓兵は、武器の選択を誤ったのだ。
 この人ならぬ人型を倒すために彼が手にすべき得物は、屈折延命を持つハルペーなどではなかったのだ。
 彼が手にすべきだった得物は、かの大英雄の、斧剣。
 そして、それの繰り出す絶技。
 斬っても斬っても、無限に増え続けるヒュドラ、その頭の全てを同時に射抜いたとされる大英雄の射を模した、剣の技。
 射殺す百頭。
 増え続けるものを、殺しきる。
 その剣が、そして技こそが、相応しかった。

 つまり、単純なことだ。
 一匹の巨象を倒すよりも。
 同じ質量の蟻の群れを、殺し尽くすほうが、遥かに難しい。
 それだけのこと、だった。
 

 ばしゃあ、と、液体の零れる音。
 同時に、びびび、と、繊維の裂ける音。
 ぶちぶちと、肉の千切れる音。
 同時に、きちきち、と、何かの軋る音。 
 神経に触る音の、大合奏だ。
 その指揮者、目の前の髑髏は、嗤っていた。
 くふくふと、さも楽しげに。

「接近戦を挑んだのは、他ならぬ君だ。
 ―――よもや、卑怯とは言うまいね」
 
 奴の背中から、何かが、生えていた。
 宙そのものを掴み取ろうとするかのように、ばらばらに蠢く何か。
 先端は、尖っている。表面には性質の悪い悪膿のような突起が付着しており、フジツボのへばり付いた鯨の頭部を思い起こさせる。黒光りのするそれらは、金属質の光沢と、訳のわからぬ粘液に濡れ、如何にも不快なイメージを叩き込む。
 先端以外の部分には、それ自体が凶器じみた、凶悪に太い繊維が生え揃っている。
 そして、それらが幾つかの節に分かれ、ぎちぎちと、蠢いている。
 脚。
 それも、蜘蛛。
 タランチュラ。
 それの持つ脚部を凶悪にすれば、こういったフォルムになるのだろうか。
 しかし、このサイズは。
 かの槍兵が持つ、真紅の槍。
 それよりも、長い。
 その節を伸ばせば、一本が三メートルには届くだろうか。
 長大な、脚。
 それが、髑髏の背中から、生えていた。
 その光景、例えアラクノフォビアで無かろうが、常人であれば卒倒することは間違いあるまい。
 そんな、姿。
 スキュラ。
 伝説上の、幻獣。
 下半身を、醜い六頭の猛犬に変えられた、悲劇の美女。
 何故か、そんなイメージが、浮かんだ。
 断たれたままの奴の首。
 それが、嗤う。
 嗤い続ける。

「君は英雄だ。八対二。常識的な数字で安心したかね?」

 どうやら今日は、厄日らしい。
 私は大きく溜息を吐いた。



[1066] Re[45]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d07f53ca
Date: 2007/07/28 23:23
 金属と金属のぶつかる音。
 火花が舞い散り、硬質な擦過音が神経に鑢をかける。
 それらに、時折液体をぶちまける音が混じる。
 周囲をそれらの音で飽和させながら、二人は戦う。
 いや、二人、という表現が果たして正しいかどうか。
 少なくとも、片方は人の姿をしていない。
 背中より化け蜘蛛の脚を生やし。
 あっさりと、まるで模型か何かのように、一度は泣き別れになった頭部を嵌め込んだその姿。
 それを、人と呼ぶには、一抹の抵抗がある。
 あれを人となど、呼べるものか。
 人ならば、自らの誇りにかけて、そう思うに違いない。
 あれは、人では無い。
 人では、無い。

 戦局は、先ほどと正反対になった。
 髑髏は前進する。
 弓兵は後退する。 
 弓兵が、飛び退く。
 髑髏が、間合いを詰める。
 接近戦を嫌がっているのは、明らかに弓兵。
 彼のクラスの持つ特性からすればそれは当然のことと言えるのだが、先ほどまで執拗に接近戦を挑んでいた彼の戦い方を考えれば、些か弱腰との謗りを免れまい。
 ならば、賞賛を受けるべきは彼を後退させた預言者か。
 しかし、それもまた抵抗がある。
 けたけたと嗤いながら、人外の武器を持って英雄を追い詰めるその姿。明らかに、英雄に討たれるべき、醜怪な化け物。例えその実がいかんであっても、人は視覚にこそ真実を求める生き物。ならば、彼を手放しで賞賛するのは不可能だ。
 いずれにせよ、追う預言者と、退く弓兵。
 その構図に間違いは無い。
 何故、そのような構図が出来上がったか。
 それは、機先を制したのが預言者であったからだ。
 タイミングの上でもそうであるし、精神的にもそうだ。
 本来の弓兵ならば、いくら如何に相手の手数が多かろうが、その程度のことで後退することなどあり得ない。彼は機関銃の一斉掃射の如き槍兵の攻撃と互角に打ち合ったのだから。
 だが、預言者の身体の奇怪性が、弓兵の攻撃から積極性を奪った。
 この八本の脚だけならば、何の問題も無い。現に、襲い来るそれらを、捌き、いなし、そして斬り飛ばしている。つまり、押す退くという駆け引きを除けば、依然優位にあるのは弓兵なのだ。
 然るに、弓兵が敵の懐に飛び込めないのは、再生し続ける蜘蛛の脚と、それ以上に預言者の隠し玉を恐れるからだ。
 まだ、何か隠しているのではないか。
 まさか、これだけではないだろう。
 その、思考。
 彼の長年に亘る闘争の歴史、それが告げる警告。
 それらは、まさに正しい。
 その事は、遠からず実証される。

episode42 君の名を呼ぶ

「…貴様、本当に、人か?」

 またしても、唇を裂いて出た、呟くような疑問。
 このような状況においては、それは無意味どころか罪悪ですらあるだろう。
 しかし、目の前の髑髏は、やはり嗤いながらそれに答える。

「くふ、私は人だよ。少なくとも、貴様よりは人に近い。
 なぜなら、私はまだ人を殺したことが無い。なるほど、そう言う意味では、君は英雄だ。一人殺せば殺人者、百人殺せば英雄か、名言だな、これは」

 嘲る口調。
 しかし、奴の攻撃の苛烈さは一向に衰えない。
 脚。
 先端を凶器と化した、現実にはあり得ない蜘蛛の脚。
 それが、絶え間なく私を襲い続ける。
 上から、振り下ろすように。
 横から、降りぬくように。
 下から、掬い上げるように。
 絶え間なく、ほぼ同一のタイミングで。
 ぎちぎちと、不快な音をたてながら。
 それと、打ち合う。
 下がりながら、打ち合う。
 がりがりと、剣戟の音を立てながら。
 干将・莫耶。
 両手に握った双剣で、それらと打ち合う。
 金属質な先端部は、流石に硬い。
 故に、狙いは節。
 そこなら、比較的簡単に切断することが出来るからだ。
 それだけ。
 それだけのこと。
 斬り飛ばせば、生え変わる。
 無限めいた再生力。
 たったそれだけのことだ。
 たいしたことは無い。
 これならば、あの夜の槍兵のほうが、遥かに脅威である。
 しかし、私の足は、前に出ることを知らない。
 下がり続ける。
 このまま奴と打ち合えば取り返しのつかないことになる、まるでそう言うかのように。
 その時、妙に間の抜けた声が、聞こえた。
 本当に、間の抜けた。

「おやあ?」

 それは、目の前の髑髏から。

「おやおやぁぁぁ?」

 今まで聞いたことのないくらい、神経に触る声で。

「おやおやおやぁぁぁぁぁぁ?」

 奴は、笑い始めた。

「くはッ!」
 笑いながら、前に出てくる。

「あはははははははは!」
 奴の腹部が、盛り上がった。

「ふっはははははははははは!」
 そこから、何かが飛び出てきた。

「ヒヒヒヒひひひひひひひひひひひ!」
 私の眉間を狙ったそれを、辛うじてかわす。

「やめてやめてやめて!」
 それは、鎌だった。

「しぬしぬしぬしぬしぬしぬ!」
 ぬらぬらと、まるで死蝋化した死体のように濡れた、金剛石の、鎌。

「なるほどなるほどなるほどなるほど!」
 そのとき、上から何かが降ってきた。

「そうかそうかそうかそうかそうかそうかそうか!」
 それは、針。

「かわいそうにかわいそうにかわいそうにかわいそうにかわいそうに、かわいそうになあ!」
 鎌と同じく、てらてらと光った、腐った金剛石の、蠍の持つ、毒針。

 横っ飛びに、かわす。
 がしゃ、と、コンクリートに何かが刺さる音。
 体から、明らかに己の質量を超える虫の器官を生やした醜悪な預言者は、それに喰らいついてくる。

「―――何が、そんなにおかしい」

 私の手には、 干将・莫耶 。
 しかし、それは短刀と呼べるようなサイズではない。
 まるで、ささくれ立った私の心情を吐露するかのように、凶悪なフォルム。
 かの大英雄の岩剣、それに届かんとする刃渡り。
 背には、猛禽類の持つ、初列風切羽根のような、棘。
 なるほど、これは名剣である。
 使い手の欲しい形状を、ここまで如実に読み取ってくれる。
 オーバーエッジ。

「ふんっ!」

 干将を、横薙ぎ。
 莫耶を、上段から振り下ろす。
 それらを、同時に。
 必殺のタイミング。
 然り、髑髏は反応すら出来ない。
 胴は真っ二つに切り裂かれ。
 肩から腰骨まで、一文字に裂けた。
 金剛石の鎌は折れ。
 同じく、金剛石の毒針は千切れ。
 鋼鉄の蜘蛛の脚、その半ばを断たれても。
 やはり、髑髏は、笑っていた。

Equus albus白い馬,Equus rufus紅い馬,Equus niger黒い馬 , Equus pallidus蒼い馬!」
 千切れた上半身、それが過たず、下半身と癒着する。

Ephesoエフェゾ, Smyrnaeスミルナ, Pergamoベルガモ, Thyatiraeチアチラ, Sardisサルジス, Philadelphiaeフィラデルフィア, Laodiciaeラオディケア!」
 奴は、大きく後ろに飛び退いた。

 現れた光体は、三桁に届かんとする、大群。
 それらは、やはり、きちきちと歯を鳴らし、私を慈しむように包囲した。
 同時に、奴の体から、ぶちぶちと、無数の突起が飛び出た。
 それは、脚であり、角であり、鋏であり、鍵爪であり、触脚であり、毒針であり、鎌であり、牙であった。
 ありとあらゆる虫の、最も攻撃的なパーツ、それが奴の体から生え揃っていた。
 悪夢。
 悪夢が、嗤っていた。

「八対二ではなかったのか」
「くふ、預言者とは嘘吐きの別称である、そうは思わないかね?」
「ふん、違いない」

 間合いは、一足一刀よりやや広いか。
 固有結界の詠唱には、時が足りない。
 周囲には、鼠の子一匹這い出る隙間も無い。
 そして、全方位を同時に攻撃する武器は、無い。
 ローアイアスでも、背後、上空からの攻撃をかわすのには厳しいか。
 なるほど、これは『詰み』に嵌った、そういうことか。
 己の置かれた状況に、苦笑が漏れた。
 それでも、最後まで為すべきことは為さなければなるまい。

「――――工程完了。全投影、待機」 
「君は、初めから全力で来るべきだった。そうすれば、私如き一溜りも無かっただろう」

 ―――確かに。
 私は、全力のつもりだった。
 全力で弓を絞り、剣を振るった。
 しかし。
 しかし、固有結界の展開を含めた、本当の全力にはほど遠かった。
 勝てる。
 戦力を温存したまま、勝てると。
 この敵は、所詮そこまでではないと。
 そう、思い込んでいた。
 少なくとも、ハルペーが奴に通じなかった時点で、早々に戦術を切り替えるべきだったのだ。
 慢心。
 そう、言ってもいいだろうか。
 
「…貴様、さっきまで手を抜いていたか」
「いやあ、どうも君と打ち合っていると興が乗ってきてね。少し、無茶をしてみた。しかし、何とかなるものだね、意外と」

 仮面の下の奴の顔が、おそらくは喜悦に歪んだ。
 確かに、私は追い詰められている。
 しかし、この程度の窮状、生前に幾つも切り抜けた。
 鷹の目、そして心眼。
 ならば、此度も切り抜けてみせる。

「停止解凍、全投影連続層写―――!」
「させるか―――」
 
 その二つの声。
 それに、もう一つの声が、重なった。

「―――Ατλασ―――」

 時が、止まる。
 原子が、その運動を止める。
 声も出ない。
 ただ、光のみが、己の置かれた状況を認識させる。
 周囲は、静寂に満ちていた。
 静寂の中で、静止していたのだ。
 異形の預言者も。
 奴の生み出した、女の顔をした、何かも。
 そして、私も。
 あらゆるものが、静止していた。

「貴方も英霊の端くれでしょう。その程度、自分で何とかしてみなさい」

 そんな、彼女の声。
 無茶を言ってくれる。
 神代の大魔術師、その魔術を、この脆弱な身をもって打ち破れと。
 しかも、それが味方と呼べる女性の言なのだから、始末が悪い。
 ここで私が尻尾を巻けば、彼女から永遠に嘲笑されるは必定。
 ならば、あの愚か者ではないにせよ、虚勢を張らねばなるまい。
 精一杯の、虚勢を。
 
「―――なるほど、君はいい女だ」
「やっと気付いた?」

 ぱりん、と、音を立てて砕け散った何か。
 それを無視して、私は疾走する。
 目標は、かの髑髏。
 私の手には、干将・莫耶―――。

「駄目!」

 彼女の声が、響く。

「投影するなら、あの化け物の斧剣にしなさい!」

 ―――。
 事の仔細を考えている余裕は、無い。
 今は、彼女の言葉こそが絶対だ。

「I am the bone of my sword.」

 虚空から、絶大な重量感。
 ずっしりとした、節くれ立った感触。
 それを、握り締める。
 なるほど、これが正解だ。
 なんの根拠も無く、確信した。

「ちいいいぃぃぃぃっ!」

 私とほぼ同時に、奴も戒めから解き放たれていた。
 当然だ。
 奴と私は同一の魔術によって固定化され、それを私が打ち破ったのだから。
 しかし、私のほうが、疾い。
 私のほうが、最初の一歩が、早い。
 だから、貴様には、かわし得ない。

「それがどうした!私には、これが―――!」

 襲い来る、忌まわしい何か。
 無数の、それら。
 だが。

「―――Αερο―――」

 それらは、その数を上回る、魔女の光弾によって、打ち消された。

「ねえ、坊や。これ、ひょっとして、魔術のつもり?」
「おんなぁぁぁぁぁぁ!」
「脆すぎるわ。もう少し、勉強なさい」

 奴は飛び退く。
 私は、その分前進する。
 戦局は、再び逆転した。
 そして、三度逆転させるつもりは、毛頭無い。
 ここで、決める。
 必殺の意思。
 それを込めた、大上段からの一撃。

「ちいいいいぃぃぃぃぃ!」

 奴は、体から生やした無数の脚を、牙を、角を、鋏を。
 全て、防御に回した。
 折りたたまれた、黒い塊。
 硬い外骨格。
 攻めれば、全てを貫く矛。
 守れば、全てを弾く盾。
 まるで、黒い、壁。
 しかし、この剣は、それらの概念全てを叩き伏せる、神の仔の怒り。
 小汚い虫程度に、防げるものではない。
 構わず、振り下ろす。
 割り箸を折るように、軽い感触。
 ばきばきと、小枝を折るような、小気味のいい音。
 そして、紙の如く切り裂かれる、外骨格。
 不潔な粘液が、飛び散る。
 それは、コンクリートの地面に付着すると、じゅ、と奇妙な音を立てた。
 剣は、全ての盾を両断した。
 ぶすぶすと、辺りを焦げ臭い幻臭で圧しながら、振り切られた一撃。
 そして、奴は―――。

 無傷で、そこに立っていた。
 全ての虫の器官を切り離し、奴はそこに立っていた。
 なるほど、あれは囮。
 堆く積まれた外骨格を囮にして、奴は逃げ出していたか。
 蜥蜴の尻尾きり。
 ほんの少しだけ、感心した。
 そして、奴は無傷。、
 今までと、同じ。
 しかし、今までとは様子が違う。
 そこに、一片の余裕も無い。
 ただ、必死に、己の不死を忘れたかのように、荒く呼吸を繰り返す。
 あたかも、寸でのところで断頭台から生還した、死刑囚のように。
 ぜえぜえと、見苦しく。
 まるで、生き物みたいに。

「…私如きに、英雄二人掛りか」
「まさか、卑怯なんて言わないわよねえ。二対一。常識的な数字でしょう?」
「―――ふん、身に余る光栄だよ」

 肩を激しく動かしながら、奴は喘ぐように、言った。
 己から生え出した、忌まわしい虫によって切り裂かれた襤褸の外套。
 その隙間から覗く、褐色の皮膚。
 そして。
 
 辛うじてかわした、私の剣線。
 それが両断した、奴の仮面。
 かつん、と乾いた音が、今更のように響いた。

 そこに在ったのは。
 泣き顔の仮面、その下に在ったのは。
 見るも無残な焼け爛れた顔でもなく、この世のものとも思えぬ醜男でもない。
 端正な顔立ち。
 鷹のように鋭い目つき。
 すっきりと通った鼻筋。
 形の整った唇。

 しかし。
 その瞳は極端に小さく、貌は四白眼の狂相。
 唇の両端が持ち上がっているのは皮肉からではなく、嘲笑ゆえに。
 背筋は曲がり、猫背気味の姿勢。
 睨目上げるその視線は肌に纏わりつくようで酷く不快だ。
 そして、何より不快なのは、その顔が私の知っている奴によく似ていたからだ。

 この上なく知っている、その顔。

「アーチャー………」

 凛の呟き声が、聞こえた。
 



[1066] Re[46]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆87533e0e
Date: 2007/08/04 17:47
interval3 IN THE DARK ROOM 3


 闇が、身体の輪郭を暈している。
 この部屋に入るときは、いつもそうだ。自分が、果たして自分という個を維持しているのかどうかが怪しい。まるで、私の中にある濁ったモノが外界と融合して、私の外殻を塗り潰しているのではないか、そんな妄想すら抱いてしまう。
 周囲を見渡すが、壁らしきものは見当たらない。
 暗い空間に、ぽつん、と一人。
 くらい、へやだ。
 その他には、いかなる形容詞も相応しくないと思える。
 寒くもないし、熱くもないし、快適でも、不快でも、ない。
 それでも、辛うじて探すならば、『広い』という形容は出来るかもしれない。
 そう、きっと、広い部屋。
 ひょっとしたら無限に広がるほど広いのかもしれないし、もしかしたら手を伸ばせば壁に触れられる程狭い部屋なのかもしれない。
 しかし、それはたいした差異を持たないだろう。無限とは、人の認識を超越するものの総称である。底の無い沼など存在しないが、人を飲み込むほど深い沼ならば、それは間違いなく底無し沼と呼ばれるのだ。
 故に、はっきりとした広さが分からないならば、それが分かるまでは無限に広いのと同義。そして、私自身にこの部屋を調べるつもりがない以上、そのことは永遠に変わらない。
 だから、この部屋は、きっと広いのだろう。
 ふ、と後ろを見る。
 そこには、小さな木製の椅子があった。
 暗闇に照らされたこの部屋で、唯一視認できる、唯の椅子。
 何の外飾も無い、座り心地の悪そうな、木製の椅子。元はさぞ豪奢なものだったのだろう、しかし、今は時の流れの残酷さの生き証人としての価値以外は、如何なるそれも残っていないようだ。
 クッションなどという、高尚なものは備え付けられていない。背もたれだって、半分以上朽ちている。四つ在る足のうち、二つの長さが不揃いで、座るたびにがたがたと、不要なストレスを与えてくれる。
 足と地面の間に雑誌でも噛ませれば、幾分マシになるのだろうか。ただ、それは適わぬ願いだということは、この私が誰よりも知っている。
 結局、立ちんぼが嫌になったら渋々座る、それ以上の建設的な機能は持っていない。むしろ、直接地べたに座った方がひょっとしたら楽なのかもしれない。
 それでも、私は偶にあの椅子に座るのだが。
 そして、今、そこには私以外の何かが座っていた。
 それは、黒いもやもやしたもの。
 どう見ても人に見えない、異形の影が、そこには在った。

「主よ」

 もやもやから、声が、した。
 それの、おそらくは口にあたる部分が、風に遊ばれるように開閉する。
 彼が話している、のだろうか。
 一度、軽く目を擦る。
 それでも、声のした方向は、やはり暗色。粘つくような黒が、声の主を、覆い隠している。
 彼は椅子に座っている。
 私は彼を見下ろしている。
 きっと、彼から見るならば、私も黒いもやもやに見えるのだと思う。この空間では、あらゆる存在自体が曖昧であやふやで、きっと無遠慮だ。
 そもそも、本当に声の主はいるのだろうか。幾度も、本当に嫌になるくらい幾度も聞いた声だというのに、私はいつも己の正気を疑うことから始めなければならない。それは、一種の儀式じみた空虚さをしか、私に与えてくれない。

「お久しぶり、そう言ったほうが良いのでしょうか」
「そうだな、貴方と会うのは二日ぶりか。ならば、その挨拶が相応しかろう」

 きっと、彼も同じ気持ちのはずだ。
 人の五感は、そのほとんどが視覚から得られる情報に頼っている。ならば、それを完全に封じられた状態で外界を認識するなど、よほど訓練された他の感覚を持たない限り、霞を喰らう様な儚さを伴わざるを得ないのだろう。
 しかし、それは興味深い命題だと思う。
 さて、彼は私の実在を信じているのだろうか。
 私は彼を見たことが無い。
 ならば、彼も私を見たことは無いはずだ。
 彼と私は、交わらない。
 それでも、私と彼はマキリに必要とされた。
 きっと、それは幸福と呼べる領域に存在する出来事なのだと思う。少なくとも、幸福を知らぬことよりは、より幸福に近い。
 だが、私と彼は、全く異なる存在として、マキリに必要とされた。
 私は、後継者を孕むための胎盤として。
 彼は…どうなのだろうか。
 ともかく、その方向性は違えど、本質は一緒である。
 だから、彼が私を主と呼ぶのは、ただ単に、私がこの部屋の先住者であったからに過ぎない。それが一体どれほどの価値を持つことなのかは彼にしか分からないだろう。一度戯れに聞いてみたが、笑ってはぐらかされてしまった。

「彼女は、そろそろ完成する」

 思考の海の底に沈んでいた私は、彼の穏やかな声によって浮上を余儀無くされた。
 糸屑ほどの羞恥を覚えつつ、胡乱な答えを返す。

「完成しますか」
「ああ、完成する。今だ至らぬが、方向性は定まった。彼女の理性はそれに抗うことなど適うまい。完成に至るまでに一体幾人の命を捧げなければならないのか想像もつかないが、それでも彼女は完成するだろう。あの凡人も、それなりの役目を果たしたらしい」

 凡人と呼ばれた男。
 私の兄。
 彼の死は、その詳細に亘るまで、私の知覚に記憶されている。
 無惨な、最期だった。
 彼は、それなりの罪を犯したのだろう。しかし、あれほど無惨な死を強制されるほど、罪深かったとは思えない。
 きっと、私が殺したのだ。
 それは、真実よりも、事実に近い。

「―――結局のところ、駒は使いようだということでしょう。あらゆる局面で、飛車角が歩よりも優れるわけではない、そういうことです」
「なるほど、偶像を汚すのには、何人よりも凡人こそが相応しい、そういうことか」

 彼が、にんまりと笑った気配が伝わってきた。
 何だかんだ言って付き合いの長い私達だ。一度も彼の顔など見たことも無いが、それでも私は間違えていないと思う。

「しかし、これほどまでに事が上手く運ぶとは思わなかった。あの盆暗に貴重な戦力を貸し与える、如何にも愚考としか思えなかったが、今となっては己の蒙昧を恥じ入るのみだな。あとは怪物同士、せいぜい派手に喰らいあってもらおうではないか」

 興奮しているのだろうか、いつもより饒舌な彼。
 私は冷ややかにそれを見つめる。

「あれさえいなくなれば、あとは未熟な小娘に率いられた有象無象の群れ。君にとって物の数ではあるまい?くふ、これも神の思し召しか」
「黙りなさい」

 硬い声。
 己でもそれと分かるくらい、嫌悪に溢れた、声。

「その単語を私の前で使うことは許可しません。私は、まだそれほどに病み疲れてはいない。それに、此度の最大の敵は、間違いなくそれの僕である彼なのだから」

 そうだ。
 そんなこと、事が始まる前から分かりきっていた。

 彼は、強い。

 あらゆる意味で。
 その肉体が。
 その技術が。
 その覚悟が。
 その精神が。
 その思考が。

 そして、その存在そのものが。

 だから、私は勝てない。
 私では、絶対に彼に勝てない。
 それは、先日の邂逅にて確定した。
 ならば、どうするか。
 簡単なことだ。
 私以外のものに、彼を倒させればいい。

「ほう、ならば、主の狙いは」
「ええ。早い時点において言峰神父の戦力を引き摺り出すこと。そして、その弱体化。遠坂陣営の弱体化など、二の次、三の次です。彼らを食い合わせることが叶えば、言うことはありませんが、流石にそれは高望みでしょう」

 くつくつと嗤いながら、彼はゆっくりと立ち上がった。
 彼を包む靄が、僅かにぶれる。
 その意図は何となく分かった。
 彼は、休みたいのだろう。

 一通りの報告を終えると、彼は言った。
「些か疲れた。今日は休ませてもらう」
「貴方ほどの人が、消耗させられましたか」
「ああ、なるほど英雄、伊達ではなかったよ」

 彼は苦笑した。
 その表情には、厚い靄をもってしても隠しきれない疲労が強く滲んでいた。

「勝てませんか」
「勝ち得る。しかし、今だ満ちぬ。酒精の注がれぬ酒盃など、如何に贅を尽くそうが唯の置物と変わるところが無い。中身があってこそ、興も、その本質も生まれよう」

 その言葉に、虚栄や恐れは無かった。
 確信。
 己の存在に対する確信が、あった。

「ならば、安心してください。次に貴方が目覚めるときには、なみなみとした神酒を用意しておきます故」
「ああ、期待しているよ」

 彼はそう言って虚空に姿を消した。
 空間が、再び静寂を帯びる。
 針の落ちた音ですら反響するような、無限の闇。
 そして、目の前には古びた椅子。
 私は、きょろきょろと雑誌を探した。
 いつも通り、それはどこにも見当たらなかった。



[1066] Re[47]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:87533e0e
Date: 2007/07/31 23:12
『…つまり、名前と言うものが持つ魔術的な意味というものはかくも大きなものなのだ。
 名前には、通常名付け親たる者の、何らかの意志が込められることが多い。健やかに育って欲しい、こうあるべきだ、そういった想いは徹底的なまでに言霊を帯び、それらは呪いとして機能する。
 卑近なる例を見れば、我が一族の隠し名も多聞に漏れず魔術的な意味を持っている。唯の言葉遊びに過ぎぬように見えるそれとて、決して軽視できるものではない。
 故に、素材につける名には、それなりの呪術的な意味合いが必要になるであろう。あれは胎盤というよりは道具であり、より細分化すれば容器の類だ。ならば、そぐわぬ名によって迷うことがあってはならない。
 候補はいくつかあるが、中でも最も道化じみたものがいい。あれが己の名を誇るようにするべきだ。愉快で、滑稽で、無様な名前。それがあれには相応しかろう』
 
episode43 Those long thoughts after the end.
  
 暗い空間に、一人で座っていた。
 ここはどこなのだろうか。
 全身を、酷い倦怠感が覆っている。
 立ち上がることも、周囲を見渡すことも億劫だ。
 ただ、自分の実在が薄れていく、そんな感覚だけがあった。
 拡散していく。
 粒子が、散々になっていく。
 ああ、俺がいなくなる。
 そんな妄想が、現実感を伴って押し寄せる。
 だから、歯を強く合わせた。
 そうしないと、何かがずれてしまいそうだったから。
 強く、歯を合わせる。
 歯を、噛む。
 軋らせる。
 そうすると、ぎちり、と肉の中で音がした。
 歯茎の、肉だ。
 その中で、音がした。
 そして、むず痒い。
 瘡蓋が固まって傷口が治癒しかけた時の痒さ、そう言えば分かりやすいだろうか。
 掻痒感に駆られて、口中に指を突っ込む。
 かりかりと、引っ掻く。
 何が痒いのか分からないが、それでも、引っ掻いた。
 まるで硬い外骨格の上から患部を掻き毟るような切なさ。
 それでも、諦めずに引っ掻き続ける。

 もどかしくって、かりかり。
 まどろっこしくって、かりかり。

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 原因は、そのうちに分かった。
 歯が、抜けかけていたのだ。
 犬歯。
 左側上部の犬歯だ。
 それを指で突くと、ぐらぐらと安定しない。
 そして、むずむずと、痒い。
 その感覚が、どこか心地いい。
 楽しくなってくる。
 ぐらぐら。
 むずむず。
 犬歯を指で前後に動かす。
 だんだんとその刺激に慣れてきて。
 もっと大きな刺激が欲しくなって。
 もっと、ぐらぐら動かす。
 歯茎の内の肉と、ざりざりとした犬歯の表面が、擦れ合う。
 その痒さが、この上なく心地いい。
 だから、もっともっとと動かすのだ。
 馬鹿みたいに、只管に。
 すると、ぎちり、何かが千切れる音がして。
 ずるり、と歯が抜けた。
 長さは、約三センチ程か。
 それを、握り締める。
 喪失感。
 そして、口中を満たす、濃厚な鉄の味。
 いまだむず痒い血の源泉を、舌で愛撫する。
 ぽっかりと開いた傷口。
 そこを、ちろりと舐め取る。
 その中に、何か異物感。
 尖った何かが、ある。
 何だろう。
 再び指を突っ込む。
 爪で引っかくように探ると、そこには抜け落ちた犬歯の残骸があった。
 こんなもの、残していても仕方ない。
 血溜りのような口中で、それを摘む。
 そして、一気に引き抜く。
 ずるり、と、また歯が抜けた。
 その感覚が、心地いい。
 やはり約三センチ。
 なんだ、また生えてきたんだ。
 不思議と、納得できた。
 また、舌でそこを舐める。
 やはり、そこには異物感。
 嬉しくなって、また、指を突っ込む。
 突っ込んで、引っかく。
 引っかいて、摘む。
 摘んで、引き抜く。
 ずるり。
 また、舌でそこを舐める。
 やはり、そこには異物感。
 嬉しくなって、また、指を突っ込む。
 突っ込んで、引っかく。
 引っかいて、摘む。
 摘んで、引き抜く。
 ずるり。
 指を突っ込む。
 突っ込んで、引っかく。
 引っかいて、摘む。
 摘んで、引き抜く。
 ずるり。
 指を突っ込む。
 摘んで、引き抜く。
 ずるり。
 指を突っ込む。
 ずるり。
 摘んで、引き抜く。
 ずるり。
 ずるり。
 ずるり。
 いつしか、抜け落ちた歯は、片手では掴めないほどの量になっていた。
 小山のようになったそれ。
 まるで、小人の骨のようなそれ。
 それを、強く握った。


 暗闇が恐ろしくて、目が覚めた。
 黒い、夢だった。
 黒くて、痒い、夢だった。
 息が荒い。
 額や頬を何かが伝っていく。冬場の冷気に冷やされたそれらは、細やかな蟲が皮膚を這い回るような掻痒感を味あわせてくれる。
 我知らず、息が荒い。貪るようにガス交換を行う。
 心臓が、全力疾走を終えた後みたいに、早鐘を打ち続ける。
 徹底的に口中に水分が不足しているのか、口蓋に舌が張り付く。
 べりべりと、それを無理矢理剥がすと、形容し難い不快な味が味蕾を犯した。
 反射的に唾を吐き出したくなる。
 それを踏みとどまったのは、ここが一体どこなのか分からなかったから。
 そもそも、口の中に、吐き出せるような水分なんて、残っていなかったから。
 寝起きとはいえ、自分の思考の鈍磨さに呆れる。
 とりあえず、舌で犬歯の存在を確認する。
 ざり、と舌の表面を削る、鋭い感触。
 犬歯は、そこにあった。
 安堵の溜息。
 ゆっくりと、瞼を開ける。
 何も、見えない。
 そこで、ようやく気付いた。
 暗闇に追い立てられるように夢の世界から這い出てみれば、この部屋だって暗いじゃないか。
 ひっ、と、情けない悲鳴。
 ごくり、と、存在しない水分を飲み込む。それが、安寧を得るための儀式みたいに。
 がちがちと、歯が鳴る。
 筋肉が、収縮していく。
 寒い。
 この空間は、寒すぎる。
 温もりはいらない。
 そんな贅沢は、言わないから。
 とりあえず、灯りが欲しい。

 暗闇は、いけない。この世界は、俺が安心できる世界じゃない。だって、どこに何があるか分からない。分からないなら、何でもあるってことだ。あらゆる可能性が等価ってことだ。蓋を開けるまで、猫は生きているか死んでいるか分からない。蓋を開けるまで、そこに何があるかは不鮮明だ。そこに何がいても可笑しくは無い。ほら、そこにだって何かがいるぞ。乾いた瞳で俺を見ているぞ。瞼の下、眼球との間に瞬膜を持つ生き物だ。水平に開閉する、カーテンみたいな膜だ。それを動かしながら、俺を見ているぞ。ちろちろと、舌で空気を嗅ぎながら、俺を覗いているぞ。しゅうしゅうと、とぐろを巻きながら、今にも飛び掛ろうとしているぞ。

 駄目だ。駄目だ。
 不安だ。
 暗闇は、不安だ。
 灯りが欲しい。
 灯りが欲しい。
 視線は、暗闇に。
 泣きそうに、ただ、じっと。
 手だけを、彷徨わせる。
 枕横に置いてある電気スタンド、それを点けようとして、手を彷徨わせる。
 ここにあったはずだ。
 無い。
 それとも、あそこだったか。
 無い。
 あ、ここにあったはず。
 無い。

 無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」
 無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。

 無い。
 どこにも無い。
 見つからない。
 灯りが、見つからない。
 暗闇が、膨張し続ける。

「―――っ、ひぃっ」

 暗闇が、俺の中に入ってくる。
 眼球の隙間から。耳の穴から。鼻の穴から。食い縛った、歯の隙間から。
 ああ、死ぬ。
 狂う。
 汗が、止まらない。
 息が。
 汗が。
 拍動が。
 灯りが。
 何で。
 ここは。
 俺は。
 蛇が。
 ぱかり。
 と裂けた。
 笑みが。

 こ
 ろ
 そ
 う
 か
 。

 やめて。
 ああ。
 僕、は。

「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 ばん。
 扉が。
 何かが、入ってきた。

「士郎!」

 やめて、やめて、やめて。

「士郎、何があったの!」

 許して、許して、許して。

「士郎、しっかりして、士郎!」

 御免なさい、御免なさい、御免なさい。

「大丈夫だから、ここには貴方を傷つけるモノはいないから!」

 勘弁してください、勘弁してください、勘弁してください。

「大丈夫だから、ここは大丈夫だから!」

 殺さないで、殺さないで、殺さないで。

「私が、守るから!」

 何かが。
 何かが、覆い被さってきた。
 生暖かい、何か。
 生暖かくて、不快なほどに柔らかい。
 化け物。
 化け物が、俺を殺しに来た。
 
「いいいいぃぃぃぃぃっ!」

 思いっきり、押し退ける。
 それは、容易く吹っ飛んだ。
 がしゃん、と、何かがぶつかる音。
 意外なほど、軽い。
 それでも油断なんて、出来ない。
 この、白一色に満たされた空間は、きっとこいつの領分だ。
 蜘蛛の、巣だ。
 蛇の、巣だ。
 逃げないと。
 逃げないと。
 這ってでも、逃げ出さないと。

「ひっ、ひっ、ひっ、」

 足が、震える。
 手が、震える。
 それでも、前に。
 這いずりながら、前に。
 視界が、滲む。
 涙が。
 涙が。
 涙が。
 背中に、感触。
 捕まった。

「ひいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ!」

 反射的に。
 腕を。
 振り回して。
 ごつん、て。
 何かが、ぶつかって。
 それでも、
 この手は、
 はなして、くれなくて。

 拘束される。
 動けない。
 喰われる。
 噛み千切られる。

 いや。
 嫌だ。
 死にたくない。
 助けて。

「はひっ、はひっ、はひっ、はひっ!」

 涙が。
 涎が。
 鼻水が。

 動けない。
 動けない。
 動けない。
 
 手を、振り回す。
 足を、ばたつかせる。
 暴れまわる。
 全身を、跳ね回らせる。

 引っかく。
 噛み付く。
 殴る。
 蹴る。

 それでも。
 それでも、離してくれなくて。
 俺は。
 俺は、俺は、俺は。

「………、落ち着いた?」

 ―――。
 声。
 が。
 顔を。
 上げると、
 そこには、
 聖母がいた。
 清んだ、蒼玉の瞳。
 柔らかそうな、髪の毛。
 柔和な、唇。
 力が、抜けていく。
 虚脱感。
 安心感。
 涙が。
 やっぱり、涙が。
 ああ、何だ。
 ここは、安全だ。
 世界で一番、安全だ。
 よかった。

「…眠りなさい。まだ、疲れてるのよ」

 うん。
 ありがとう。
 ほんとうに、ありがとう。
 
 俺は、今度こそ泥のように、眠った。
 夢は、見なかった。
 
 
 痺れるような疲労に全身を撓ませながら、俺は目覚めた。
 瞼の奥が、すっきりしない。
 水晶体の裏に、何かが焼き付いているようだ。
 目を開ける。
 飛び込んできたのは、光。既に太陽が昇っているのかとも思ったが、淡いオレンジ色の光は、太陽のそれに比べて遥かに目に優しい。
 どうやら、灯りをつけっ放しにして眠っていたようだ。ひょっとしたら、不思議なくらい頭が重いのはそのせいだろうか。
 カーテンを開ける。
 外は、まだ暗かった。
 時間はいつ頃なのだろうか。
 じっと、外の暗闇を見つめる。

 どくり。
 心臓が、一度だけ、悲鳴を上げた。

 それが居た堪れなくて、俺はカーテンを閉めた。
 深呼吸。
 のそり、と体を起こす。
 その瞬間、神経そのものに針を突き刺したような痛みが全身を襲った。
「つうぅっ!」
 信じられないような筋肉痛。
 思わず声が漏れる。
 たとえ鉄人マラソンを完走したってこんな痛みはあり得ない。
 何だろう。
 俺は、何をしていた。
 いや、そもそも、ここはどこだ。
 何で俺はこんなところで寝ている。
 周囲を見渡す。
 洋風の調度。
 歴史を感じさせる家具。
 高い天井。
「そっか、ここ、遠坂の家だ…」
 少しずつ意識がはっきりしてくる。
 そうだ、今日は学校で。
 赤い世界。
 赤い視界。
 赤い、殺意。
 慎二。
 ライダー。
 藤ねえ。
 干将・莫耶。
 砕かれて。
 嬲られて。
 手も足も、出なくて。
 誰も、守れなくて。
 俺、は。
「―――はっ、なんて」
 ―――格好悪い。


 扉の向こうには、甘い香りが広がっていた。
 脳の奥を痺れさせるような、濃厚な香り。
 花畑のような、しかし炭を焦がしたようなその香りがアルコールのそれであると気付くまでには幾許かの時を必要とした。
「起きたんだ」
 目の前でソファにしな垂れかかる女性。
 猫みたいだ、と、埒もない感想を抱く。
 どうやら俺は疲れているらしい。そう自覚して、少しだけ笑う。
「ああ、お蔭様で、な」
「それ、皮肉?」
 彼女の手には、複雑な意匠を施したカットグラス。淡い人工の光が琥珀色の液体に飲み込まれ、彼女の手の中で複雑に揺れる。
 単純に、美しいと思った。
「酒、好きなのか」
 無粋な質問に、彼女は眉を顰めた。
 からり、と、乾いた、心地いい音が響く。
「何よ、人をアル中みたいに」
「違うのか?」
 ほんの少しだけ不機嫌そうに眉を顰めた彼女は、やや間を置いてから、自嘲気味に頬を歪めた。 
「これは唯の寝酒だけど…。似たようなもんね。欲しくなったら我慢ができないんだもの、何だって」
「俺も一杯もらえるかな」
 俺の、本当に何気ない一言に、彼女は心底驚いた顔を浮かべた。
「…やめときなさい。美味しいものじゃないわ、これ。それに、あなた頭を打ってるでしょう」
「ああ、それでも、飲みたい」
 そう、と呆れながら呟いて、凛はサイドテーブルに置かれた洋酒のボトルに手を伸ばした。
 グラスは一つだけ。今、彼女の手に収まったそれだけで全てだ。
 凛は、それに琥珀色の液体と透明色の歪な固体を放り込み、人差し指でからからと掻き混ぜる。
 怪訝な俺の視線に気付いたのか、彼女は苦笑した。
「癖なのよ。気持ち悪かったら、飲まなくてもいいわ」
 彼女は、グラスからゆっくりと人差し指を引き抜くと、艶やかに濡れたそれを、丁寧に舐め取った。
「どうぞ。ちなみに、水割りなんて軟派な真似は認めないから、そのつもりで」
 ことり、と置かれたグラス。
 揺れる、琥珀色の液体。
 手に取って鼻に寄せると、濃厚なアルコールの匂いに、それだけで酔いそうになる。
「ウイスキーはね、色を味わって、香りを味わって、舌で味わって、熱を味わうんだって。たった一口で四度も楽しめるんだもの、お得よね」
 少し躊躇している俺の様子が可笑しかったのか、彼女はさも愉快そうに俺を眺めている。
 おそるおそる口をつける。
 少し粘性のある液体を口に含むと、鼻に抜けるアルコールの香りで咽そうになった。
 それでも、無理矢理に嚥下する。
 喉を、そして食道を焼くアルコールの刺激が、からからに乾いた体には優しくなかった。
 少しだけ、咽た。
「ふふ、だから言ったじゃない、美味しいものじゃないって」

 全くだ。
 こんなに、美味しくない。
 なのに。
 なあ、凛。
 お前、なんでこんなものを飲んでるんだ。
 飲まないと、寝れない夜が、お前にもあるのか。
 お前は、そんなにも。

「…強いのになあ」
 彼女は、引っ手繰るように俺の手からグラスを奪った。
「でしょ?こんなに強い酒、今の貴方には優しくないわ。今夜は止めときなさい。いずれ、嫌っていうほど付き合ってもらうから」
 彼女は鼻に皺を寄せ、噛み付くような笑みを浮かべた。それは獰猛な肉食獣みたいな笑みで、でも、しなやかな猫が笑ったみたいだった。
 彼女は、俺から奪ったグラスを傾ける。
 彼女の、折れそうなくらいに細くて、陶磁器みたいに滑らかな白い喉が、ぐびり、と動く。その光景は、堪らなく扇情的だった。
 ここは気の利いたバーじゃないから、優しいジャズなんて流れてない。聞こえるのは、からりと崩れる氷の音と、かちかち忙しない秒針の溜息くらい。
 どれくらいの時間がたったのだろうか。
 俺の、乾いた喉が、霞んだ声を絞り出す。
「俺は、一体―――」
「桜の話だと、あの後、私と話したすぐ後に気絶したって」
 霞がかった記憶が、ほんの少しずつ晴れていく。
 そうだ。
 遠ざかっていく凛の背中。
 動かない身体、そして鈍間な意思。
 桜の声。
 そして。
「なあ、凛。学校はどうなった。教えてくれ」
「人死には出なかった。たったの一人もね」

 たった一人も?
 でも、それじゃあ。

「慎二は―――」
「それは、唯の失踪として処理されるわ。魔術師の死はいつもそう。私達は、死をすら隠さなければいけない」
 片頬を自嘲気味に歪めると、凛はグラスに残ったウイスキーを一気に口に含んだ。栗鼠みたいに頬を膨らまし、ごくり、とそれを飲み下して、酒精に塗れた熱い吐息を吐き出す。
「あいつ、魔術師に憧れてたみたいだから。最後は魔術師として処理された、彼の望みは叶ったのよ。ハッピーエンドよね、これって」
 凛は、自分ですら欠片も騙せないような嘘を吐いた。
 それが、俺には、堪らなく。
 痛くて、ただ、痛かった。

『僕は、お前が気に入らない』
 慎二は、そう言った。

『親無しの、魔術師の家系でもないくせに、サーヴァントを召喚しやがった』
 今にも泣き出しそうな、そんな張り詰めた声で。

『僕は、名門マキリの後継者だ。お前なんかとは違う、選ばれた人間だ』
 それだけが、あいつの支えだったんだろうか。

 人は、鈍感な生き物だから。
 相手の痛みなんて、分からない。
 せいぜい、分かった気になれるくらい。
 それだけでも、かなり高いハードルだ。
 慎二は、苦しんでいたのだろうか。
 きっと、俺があいつに殺意を覚えたのと同じ理由で。

 大事なものを、汚されたから。

 魔術師であることを宿命付けられた唯人からすれば、偶然、魔術師としての素養をもって生まれた唯人など、偶像を犯す侵略者にしか見えないのではないか。
 あいつは、きっと俺を憎んでいた。
 俺は、間違いなくあいつを憎んでいた。
 そして、俺は生き残ってあいつは死んだ。
 それだけ、なんだろう。
 それ以上は、侮辱だ。
 それ以上の思考は、侮辱だ。
 いいとか悪いとか。
 すべきだったとか、すべきでなかったとか。
 達成感とか、後悔とか。
 それらは、悉くが侮辱だ。
 何に対する侮辱なのかは良く分からないが。
 それでも、考えてしまう。
 あいつは、満足だったんだろうか。
 たとえ僅かでも、魔術師として生きて。
 そして、魔術師として死んで。
 満足、だったんだろうか。

『よけいなお世話です、衛宮先輩。自分の価値観ですべての人間が計れるとお思いですか。増長するのもたいがいにしなさい』

 どこかで聞いた、そんな台詞が、聞こえた気がした。


「俺が、殺したんだ」
 彼は、目の下に大きな隈を作った彼は、夢を見るように呟いた。
「俺が、慎二を殺したんだ」
 私の目の前には、ガラスのテーブル、そして、ソファに腰掛けた士郎。
 彼は、項垂れたりしなかった。
 ただ、轟然と前を見て、事実だけを口にしていた。
「そう。私もよ。私も、慎二を殺したわ」
 彼は頭を振った。
 揺れる艶やかな赤毛が、まるで燃え盛る炎みたいだと思った。
「違う、俺が、殺したんだ」
 まるで駄々っ子だ。
 目の前にある愉快な玩具、それの所有権を主張する駄々っ子、今の彼はそんな感じ。
 だから、こんなにも簡単な勘違いをしている。
「士郎、それこそ違うわ。人の死は、その責任は一人が背負えば全てが終わるものじゃあない。一人が一人を殺してもね、百人が一人を殺してもね、結局、個々人が負わなければならない責任の量は変わらないのよ。嬉しいことは二倍に、苦しいことは半分こ、なんて甘ったれたこと、許されないの」
 私も士郎も慎二を殺そうとした。
 そして、結果的に慎二は死んだ。
 誰が殺したのか、私は知らない。士郎も、語らないだろう。
 だから、慎二を殺したのは、私であり士郎。
 共犯、そういうことになるのだろうか。
「でもね、士郎。私は彼を殺した責任は負うつもりだけど、罪悪感はこれっぽっちも抱いてない。私は彼を殺したけど、彼も私を殺そうとした。要するに戦争なのよ、これは。そして、私が勝って彼は負けた。死人に口無し。あいつがどんな恨み言を吐こうと、私の耳には届かないわ」 
 やや、間があって。
 彼は、その手を、白くなるくらいに強く握り締めて。
 そして、言った。

「…凛は、強いな」

 彼が、やっとの思いで紡ぎだした、一欠けらの糖分も含まない、一欠けらの言霊。
 ブラックのコーヒーよりも、苦くて、酸っぱい。
 賛辞であり、侮蔑の言葉。
「…そうね。それが、魔術師の強さよ、きっと。あなたも、魔術の世界に身を置くつもりなら―――」

 強くなりなさい、と。

 何故、私は言えなかったのか。

「まだ、頭が重い。詳しい話は明日教えてくれ」
「そうね、私もそのつもりだった」
 彼はゆっくりと立ち上がった。
 思ったよりも、大きかった。
 ほんの少し、身長が伸びたのだろうか。
「そういえば、どうしたんだ、その傷」
 思い出したかのように、彼が呟く。
 そういえば、今の私は傷だらけだった。
 さっき鏡で見たら、青痣だらけの酷い顔だった。
 そんなことも忘れて舞い上がっていたのだろうか。
 我ながら馬鹿馬鹿しくて、笑えた。
「野良犬を抱き上げようとしたら暴れられてね。性に合わないことをすると駄目ね、ホント」
 ふうん、と、彼は意外そうに声を出した。
「そうか、気をつけろよ」
 彼はゆっくりと後ろを向いて、ドアの方に歩いていった。
 私は、じっと、その背中を見つめる。
 彼はドアノブに手を掛けると、思い出したように振り向いて、そしてこう言った。

「でも、ずいぶん暴れたんだな、その犬」 

 その惚けた表情が可笑しくて、私は笑いを堪えるのに苦労した。
「そうね、酷く脅えてたの。でも、可愛かったわよ」 
 ふうん、と彼は呟いて。
 やがて、廊下にその姿を消した。
「―――本当に、可愛かったんだから」
 私の呟きは、誰も聞かなかったと思う。
 静かな夜に、そう願った。



[1066] Re[48]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆87533e0e
Date: 2007/08/04 20:21
 interval4 Mr and Miss

 私は、椅子の上で目を覚ました。
 かっちかっちと、古臭い置時計の秒針の音が聞こえる。 
 いつも、私の安眠を妨げる、音だ。
 それを奏でる無神経な古時計が、私は好きではない。
 ―――こんなもの、早く捨ててしまえばいいのに。
 夢現の心地の中、そんなことを考える。
 如何に古く、如何に価値があろうと、私自身がその価値を認めていないのだ。
 好事家など、いくらでもいる。彼らに譲り渡したほうが、時計のためであり、世の為であり、何より私自身のためだ。
 それでも捨てないのは、父のためである。正確に言うならば、父との思い出のためか。
 父は、遠い異国で生まれたらしい。そして、この古時計は父の生家から持ちだした数少ない思い出の品、とのこと。これを見上げるときの、彼の優しい瞳、常の彼からは在り得ないそれを、今でも悠々と思い出すことが出来る。
 かっちかっちと、針が進む。
 早く起きろと、私を急かす。
 早く生きろと、私を急かす。
 そして、早く死ねと、私を急かすのだ。
 私は、苦笑した。
 そんなに急かさなくても、人は死ぬ。
 どんなに頑張っても、人は死ぬ。
 あっさりと。
 何億の財産を築こうが、何百年生きようが、どれほど深く魔道を極めようが、人は死ぬ。
 それは変わらない。
 人は、死ぬのだ。
 そんなことに気付くまでに、これほど長い時間を費やしてしまったことが、我ながら信じ難い。
 それでも、気付かずに死ぬるよりは、遥かにましであろうか。
 そんな、起きぬけの思考。
 もやもやとした、不快な思考。
 それを振り払いながら、ゆっくりと目を開ける。
 薄暗い部屋だった。
 窓の外はまだ暗いが、それは太陽の進軍を予感させる類の暗さである。
 おそらく、朝なのだろう。
 首が痛い。
 不自然な姿勢のまま寝てしまったからだろうか。
 じくじくと痛むそこに、手を当てる。
 汗に濡れた髪が、冷たい。
 体を僅かに身動ぎさせると、背もたれに張り付いた衣服が、べりべりと剥がれた。
 胡乱な意識。
 しかし、不思議と、身を切り裂くような空腹は感じない。
 なるほど、どうやらこの目覚めは一度目ではないようだ。
 辺りには、濃厚な鉄の香り。
 方向性を定めて考えてみれば、口中にも痺れるような生肉の残滓がある。
 それを舐め取りながら、自分に呆れた。
 つまり、食事を終えた後に二度寝をしてしまったという訳か。
 しかも、わざわざ椅子の上で。
 そういったことは初めてではないにせよ、自己嫌悪は避けられない。
 はあぁぁ、と溜息を吐いてから。
 もしやと慌てて、口の辺りを拭う。
 制服のブラウス、その白い袖には、紅く着色された涎が、べったりと染み付いた。
 再び溜息を吐く。
 唯一の救いは、こんな無様を誰にも見られていないことだろうか。
「主よ」
 そんな私の、唯一にしてささやかな望みは、爽やかな朝の目覚めには優しくない、白い仮面の髑髏によって破られた。
 しばらく、見つめあう。
 彼は、中腰。
 私は、椅子に座って固まったまま。
 それでも、彼の視線のほうが遥かに高い。
 その視線。
 そして、無言。
 その空気が。
 なんていうか、もう。

「…見ましたか」

 硬い硬い、私の声。
 それでも、彼の纏った空気は変わらない。
 やがて、申し訳ないように声を滑り出させる。
「…すまない、しばらく前から私はここにいた。それだけは伝えておこう」
 なるほど、婉曲な言い方だが、要するに見たわけだな。
 涎を垂れ流す無様な寝顔を、こいつは眺めていたわけだな。
 顔に血が集まっていくのが分かる。
 心臓が、ばくばく鳴っている。
 とりあえず、為すべきことは一つ。
 大きく腕を振りかぶって。
 
 高らかな音が、暗い屋敷に響いた。


「…主殿は、武術家であらせられるか」
 不躾な質問には、不躾な対応を。
 無言で、着替える。
 汗が、凄い。
 下着が、水浴びをしたみたいにぐちゃぐちゃだ。
 衣服だけでなく、椅子に備え付けられたクッションまでもが重く湿り気を含んでいる。
 まるで悪夢に魘されたかのようである。
 そこまで考えて、私の頬は、自嘲気味に歪んだ。
 悪夢、か。
 懐かしい響きだ。
 幼い頃の私の、唯一にして無二の友。
 それが私の眠りを邪魔しないようになってから、一体幾年の月日が流れたのだろうか。
 切欠は容易に思い出すことが出来る。
 彼と再会してからだ。
 つまり、約三年の月日が流れた計算になるか。なんにしても、現金なことだ。
 悪夢は、そしてそれを齎す夢魔は、かつて私の友だった。もっとも、あちらがどのように捉えていたのかは知りようが無いのだが。
 少なくとも、彼らは私の枕をその住処に定めてはいたようだ。
 枕。
 それが濡れなかった夜など、無かった。
 汗で、涙で、そして吐瀉物で。
 目覚めれば、常に私の枕は濡れていた。
 故に、子供の頃の私に与えられたピローケースとシーツは、黒く分厚いゴミ袋だった。毎朝、げろに塗れた汚物を洗濯する手間を考えると、当然の選択と言えるかも知れない。
 そして、目覚めれば、口の端に乾いた胃液を張り付かしたまま、私は教会に走ったのだ。涙を流しながら、それでも悪夢の内容を彼に聞いてもらうために、必死で走ったのだ。
 己の罪を懺悔するために。 
 彼は、優しくそれを聞いてくれた。
 涙で声を詰まらせ、しゃくりあげながら話す私を急かしたことなど一度たりとも無い。
 優しく、静かに私の話を聴き、そして容赦なく私を弾劾した。
 笑顔のまま、私がいかに罪深く、どれだけ地獄に堕ちるに相応しいかを訥々と語った。
 地獄で亡者が如何様に遇されるかを高らかに語り、その魂の苦痛の程を幼子にも分かる優れた比喩を用いて説き聞かせた。
 そして、彼の説法を聞いた後で。
 ようやく、私は恥知らずにも安心するのだ。

 なんだ。
 私が毎日家で受けている教育に比べれば。
 地獄とは、なんとも優しい世界なのだな。
 と。
 
「主殿」
 気付けば、彼の顔が目の前にあった。
 私の身長を考えれば、それでも彼は中腰だ。
「一体どうされた。昨日の戦の疲れが出たか」
 おどろおどろしい仮面を付けたまま、軽く首を傾げたそのしぐさが、ひどくユーモラスで。
 私は、笑いを堪えるのに苦労した。
 それでも彼には私の感情が伝わったのだろうか、幾分不機嫌な声が、した。
「…私は貴方を勝ち上がらせるために、無能非才の身ながら微力を尽くしている。それが不満であるというのならば、それは私の不徳の致すところ。しかし、それでも相応の働きには、相応の敬意が払われるべき、そうではないか、我が主よ」
 …こんなの、笑うなと言う方が無茶な話だ。
 私は、笑った。
 久しぶりに、腹の底から。
 彼がおかしかったのか、それとも自分がおかしかったのかは不分明であるが、それでもおかしかった。
 本当に、はち切れそうなくらい、笑った。
 最初のうちは不機嫌そうに私を睨みつけていた彼だが、そのうち諦めたのか、溜息と共に床に腰を下ろした。
 そうすると、流石に視線は私のほうが高くなる。だからどうということもないが、彼のつるりとした頭を撫でたくなる衝動と、私は戦わなくてはならなくなった。
「…満足であるか」
 やはり不機嫌そうな、しかし達観したかのような声。彼の生前の経歴、そして英霊としての現在を考えるならば、小娘に腹を抱えて笑われた経験など、初めてであろう。
 しかし、乙女の寝顔を無粋にも盗み見をしたのだ。これくらいは我慢してもらおうではないか。
 後から後から涌いてくる笑いの衝動。
 それを必死の思いで押し殺し、私は言った。
「…相応の働きには相応の敬意が払われるべき。その言、至極もっとも。ならば、相応の罪には相応の罰があるべき、そうは思いませんか?」
 くすくすと笑いながら、そう言った私を。
 彼は、さも不満だ、そういうふうに、見つめていた。
「…なるほど、主殿の寝姿を許可無く覗いた罪の報い、というわけか。しかし、先ほどの振り打ち、常人であれば歯の二、三本は砕けているぞ。やや罰が勝ちすぎる、そうではないか?」
「そうですね、ですから私は優しい、そう思いませんか?」
 質問に質問で返す、優しい会話。
 そして、私の言葉に。
 彼は、苦笑した。
「なるほど、全くだ」
 彼が笑ったところは、初めて見た。
 なるほど。
「貴方も、笑うのですね」
 彼は、答えなかった。


「で、収穫はどうですか」
 これが、もっとも大事なところだ。
 彼は、結局戦場に現れなかった。
 私が下した指示は『情報収集は可能な限り手早く終え、戦場に急行すること』。
 少なくとも、そのうちの一つは達成されていない。
 ならば、もう一つの戦果はどうであるか。
 例え私でなくとも、気になるところであるはずだ。
「…先ほど大口を叩いておいて汗顔の至りではあるが、それほど目立ったものは見つけられなかった。怪しい箇所は幾つも存在したが、それらには悉く魔術的な施錠が為されていた。すまないが、気配遮断のスキルのみで誤魔化せるような、そんな代物ではなかったのだ」
 …予想はしていたことだが、それが実現することを望んでいたわけではない。
 だが、このことをもって彼を糾弾することはできまい。
 もし、彼以外の何者かに為させれば遥かに上手い結果を残すことが出来た、そういう事情があれば別段、彼以外の何者にも為せなかったであろうことについて、彼を糾弾することは出来ない。
 彼に責任は無い。少なくとも、私のそれよりは遥かに少ない。
「…仕方ありませんね。万事が上手く運ぶはずも無い。これは私のミスです。貴方が恥じ入ることなど、何一つ無い」
 その言葉に、彼の長身は不思議なほど縮んで見えた。
「重ねて、すまぬ。魔術的な価値のある、しかもめぼしい物といえば、あったのはせいぜいこれくらいのものか」
 そう言って、彼は懐から小さな包みを取り出した。
 彼の手にはすっぽりと収まる、しかし私の掌には少し大きすぎる程のサイズ。
 どこかで、しかもつい最近、その大きさの包みを、私も持ったことがある、そんな気がした。

 どくり、と心臓が鳴った。

 引っ手繰るように、その包みを受け取る。
 震える手で、中身を弄る。
 それは。
 その中に入っていたのは。
「…確認します。アサシン、貴方がこれを見つけたのは、昨日、遠坂の家で、ということで間違いありませんね」
「それ以外、どこがある。私が探索したのは遠坂邸のみだ。そこ以外にこれが存在し得るのか?まさか、同じ世界に同じものが二つも存在するはずがあるまい?」
 頬に、奇妙な力が入っていた。
 指を、そこにもっていく。
 そこには、割れるような、深い笑みが、刻まれていた。
 なるほど、私は笑っていたか。
 笑うしか、ないか。

 彼からの報告。

 そして、彼が齎した、この遺物。

 線は、一つに繋がった。

 なんとも、滑稽で、無様で、乾いた嗤いしか齎さない結論ではあるが。

 つまり、原因と結果が入れ替わった、そういうことか。

 初めから、全てが、ずれていたか。

 これが、真実か。

「…これが、縁、というものでしょうかねぇ…」
 呟くような、私の言葉。
 それに、彼が反応する。
「…何か、言ったか」
「いいえ、何も」
 私は、それを握り締めた。
 血が出るのも構わずに、強く、強く。
「アサシン、貴方は最高の働きを見せてくれた。これは、戦略上重要なだけでなく、直接的に私を救う、そういう類の物です」
 どろりとした、私の濁った血液。
 それに濡れたその石は、なおも赤い輝きを放ち続けていた。



[1066] Re[49]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆87533e0e
Date: 2007/08/13 23:57
 次の瞬間、とんでもない魔力の奔流が、その場にいた全員の意識を強奪した。
 それは、もちろん私も、アーチャーも、キャスターも。
 アーチャーと同じ顔をした、正体不明のサーヴァントも。
 天から射殺す、漆黒の極光。
 地より迎え撃つ、純白の聖光。
 そのいずれもが、明らかな規格外。
 しかし、それでも、その優劣は明らかだ。
「ちっ、不味いな」
 声。
 焼け付いた喉で、辛うじて声帯を震わせた、そんな人外の、声。
 アーチャーと同じ顔をした、呪われた男の、声。
 そして、二つの光が衝突し。
 白が、黒を塗り潰す。
 そう見えた瞬間に、枯れた薄が風で擦れあったような、そんな薄ら寒い声が聞こえた。
「消えて戻れ、ライダー!」
 そんな、声。
 同時に、巨大な魔力の発動。
 これは、覚えがある。
 覚えがあるだけでなく、何度か私も使った。
 これは。
「令呪の発動…」
 視線を、音源に。
 給水塔の、すぐ下。
 始まりの夜、青い槍兵が立っていた、その場所。
 そこに、太陽の下にはこの上なく似つかわしく無い、妖怪がいた。
 落ち窪んだ眼孔は、陽光すらも飲み込み。
 萎びた鉛色の皮膚は、屍食鬼の腐りかけたそれよりも不吉で。
 禿頭が表すのは賢者の知性ではなく、歴史による魂の磨耗。
「カカッ、これはこれは、遠坂のもの、一族郎党皆集いて、なにごとかのう?」
「…マキリ、臓硯」
 奴が、いた。

episode44 事後処理的な話。

 ふうわりと、まるで体重の無い者のように、奴は屋上に舞い降りる。
 その様は、幽。
 しかし、着地した際、奴の脚部から、ぐちゃり、と何かの潰れる音がした。
 何が潰れたか、想像もしたくなかった。
「ふむ、しかし、桜がおらんか。いずこにいったかな?これでも、一時とはいえあれの親となった身、挨拶くらいはしておこうと思ったのじゃが」
 …一瞬、怒りで思考が漂白された。
 それが奴の狙いだということは百も承知だが、それを全く避けることはできなかった。奴の薄ら笑いを浮かべる口元を、耳から耳まで引き裂いてやりたかった。
「…どの、くちで、そんなことがほざけるの、マキリ臓硯」
 貴様のおかげで、あの子がどれほど苦しんでいるか。
 貴様の所業が、あの子の人生をどれほど狂わしたか。
「おや、それは恨み言か?ふん、間違うなよ、遠坂の。別に、我らはアレを拐かしたわけでも、強奪したわけでもない。そちらが手放したのだ。そちらが、自由にせよと、そう言ってきたのだ。ならば、それを如何に扱おうが、少なくとも貴様らに非難する資格は無かろうて」
 …何も、言えない。
 非の打ち所の無い、正論。
 確かに、桜を養子に出したのは父であり、その契約に、例えば『桜を人として扱うこと』などといった条項は設けられなかったのだろう。いや、例え設けられたとしても、その結果が変わったとは思えないが。
「むしろ、感謝して欲しいくらいじゃな。たとい一年という短期であったとはいえ、我らはアレに最高の魔術的な訓練を施した。その作品を、一切の対価を要求せずに返したのだ、それに恨み辛みをぶつけては、些か忘恩との謗りを受けることも止むを得まいよ」
 …訓練?
 訓練といったか?
 貴様、アレを、訓練と、いうのか?
 髪の毛の色、瞳の色、そういった遺伝的要素をすら塗り替える程の、肉体改造。
 本来ならば、一生変化することの無い魔術属性、しかも、彼女に与えられた、虚数という奇跡。その宝石が、後天的に『水』というマキリの属性に擦り変えられようとしていた。
 それが、どれほどの苦痛を齎したか。どれほどの屈辱を齎したか。それらを洗い流すために、彼女がどれほどの努力と苦痛を必要としたか。
 それよりなにより、桜の瞳だ。
 あの日。
 桜が、遠坂に返された、あの日。
 付き添いも無く。
 着の身着のままで遠坂の玄関に立ち尽くしていた、桜の、瞳。
 濁っていたのではない。
 もちろん、澄み切っていたはずがない。
 あれは、穴だった。
 何も映さず、全ての光を飲み込む、穴だった。
 そして、体は、真実、穴だらけだった。
 もちろん、外傷があったわけではない。しかし、魔術的に見れば、体のあちこちに不自然で歪な穴が開いていた。それこそ、後一歩で桜の命を奪いかねないほどに。
 今なら分かる。
 あれは、蟲の巣穴だ。
 おそらく、蟲を体内に強制的に植え付け、桜自体が不要となった際に、それらを一気に引き抜いたのだ。被寄生者の肉体的な苦痛は全く無視して。
 マキリの魔術の一端を悟られないためならば当然の措置だろう。しかし、だからといって、それが納得できる所業になるわけではない。少なくとも、その穴を埋めるための処置を施すことは可能だったはずだ。
 だが、それは為されなかった。
 桜自身の魔術的な才、例えば強靭な魔術回路や豊富な魔力、そういったものが無ければ、もしくは蟲がもう少し深く根付いていたなら、彼女は間違いなくあの世に旅立っていた。
 桜はそういう状態で遠坂に返されたのだ。高度な心霊医術の素養を持った言峰綺礼の治療が無ければ、桜は今も肉体的な苦痛に苛まれていたことだろう。
 そして。
 あの子が、何を言ったと思う。
 驚き、しかし喜び勇んで玄関を開けた私に、なんていったと思う。

 ごめんなさい、と。

 できるだけ、いたくしないでください、と。

 震えもしない、一切の抑揚を失った声で、そう言ったのだ。
 姉である私に。
 一年前までは、共に笑いあい、励ましあい、たまに喧嘩した、その私に。
『ごめんなさい』と言ったのだ。
『できるだけ、いたくしないでください』と言ったのだ。
 その時、私は誓った。
 この子を、絶対に幸せにする、と。
 そして、この子の幸せを奪った外道どもに、裁きの鉄槌を下す、と。
 マキリ臓硯、知っているか。
 彼女は、桜は、今でも生の食材をほとんど食べることが出来ないのだ。
 生魚や生肉など、致命傷だ。
 サラダに入っていたサーモンの刺身の切れ端ですら、彼女は嘔吐する。
 今ですら、そうなのだ。
 貴様らの罪が、地獄の業火にどれほど相応しいか、わかるか、マキリ臓硯。
 私は、教えてやるぞ。
 ガンドで、少しずつ、その身を削り取って。
 楽になど、死なせてやるものか。
 小さきものに、少しずつ、その身を齧られていく痛みを。
 貴様の、腐りきった脳髄に、叩き込んでやる。
 だから、あの晩。
 貴様を初めて目にしたとき、私がどれほどの歓喜に包まれたか、分かるか、マキリ臓硯。
 この頬に、なぜあれほど深い笑みが刻まれたか、分かるか、マキリ臓硯。
 魔術師としての貴様は、尊敬に値するかもしれない。あれほどの幻想種、主よりも強力な使い魔を手懐ける術式。それは、私ですら想像も出来ない。
 しかし、人としての貴様は、こうして視界に収めるのも、許し難い。
「…そうですね、今代の遠坂の当主として、マキリの当主たる貴方に礼を言わねばなりませんね。どうも、ありがとうございます」
 私は、自分の平坦な声を、興味の薄いラジオ放送みたいにぼんやりと聴きながら、ゆっくりと奴に右手の人差し指を向けた。
 桜がいなくてよかったと、心からそう思った。
「カカカ、よいよい、人として当然のことをしたまでよ。愛し合う姉妹、離れ離れにするには、この爺、流石に心が痛んだわ!」

 ぷちり、と。

 それほど弾力的とはいえない、私の理性、その何か大切なパーツが、千切れ飛んだ。

「ああああああああああっ!」

 一番驚いたのは、多分私だった。
 この、優雅でもない、華麗でもない、いや、そもそも人の声とは思えない叫び声が、自分の喉から迸っていることに、私は何よりも驚いた。
 狂っていた。
 狂いながら、ガンドを連射していた。
 まるで、マシンガン、いや、ガトリングガンよりも、猛っていた。
 それを、後頭部から見下ろすように眺める冷静な自分が、苦笑の瞳で見守っていた。
「貴様が、貴様がいうなああああっ!」
 ガンドが、乱れ飛ぶ。
 黒い、ソフトボールよりも少し大きいくらいの球体。
 それが、マキリ臓硯の喉笛を狙って、悶え狂う。
 しかし、届かない。
 奴が、まるで結界のように張り巡らしたのは、蟲の群。
 翅刃蟲。
 それが、ガンドとぶつかり合って、相殺していく。
 汚らしい液体が、飛び散る。
 砕けた外骨格が、宙を舞う。
 それが、楽しかった。
 もっと砕けろと、思った。
 魔術回路が、黒々とうねっていた。
 回転数が、天井知らずに上がる気がした。
 魔法にだって届くんじゃあないか、そんな馬鹿な妄想が、現実味を帯びて圧し掛かってきた。
 それが、酷く快楽だった。
「ぬうッ」
 奴の右手が、千切れ飛んだ。
 奴の左肩が、大きく陥没した。
 当たり前だ、貴様が使役する蟲如きで、私の怒りが止められるものか。
 死ね、マキリ臓硯。
 死ね。
 死ね。
 死―――

「落ち着け、凛!」

 頬を叩かれて、正気に戻った。
 叩いてくれたのは、赤い外套を羽織った騎士だった。
「アー…チャー?」
「落ち着いて奴を見ろ、凛」
 そこには、四肢の大半を失い、しかしぐずぐずと蠢く、醜い肉塊が、いた。
「…蟲?」
「ああ、あれは蟲の集合体だ。単純な打撃や呪い程度では、あれを滅しつくすことは叶うまい。そもそも、この場に本体がいるかどうか怪しいものだ」
 突然、疲労が襲ってきた。
 ぐらり、と視界が歪んだ。
 いくらなんでも、無茶をした。ガンドそれ自体の消費量は大したことはないが、それにしても連射しすぎた。貧血に近い。
「カカカ、もうお仕舞か?今代の遠坂の当主、体力に難あり、かの。これでは、前回で儂が殺した時臣のほうが、幾分か優れた魔術師じゃったかのう」
 奴は、痙攣するように笑った。
「…くだらない嘘。臓硯。貴方はお父様を殺してなんか、いないんでしょう?」
「…ほう、何故、分かる?」
 思わず、苦笑が漏れた。
 この怪物、長生きし過ぎて脳の回路が焼き切れてしまったのだろうか。
「単純な話よ。貴方、お父様より弱いもの。貴方程度にお父様が殺されるはずはないし、貴方程度に殺されるなら、それは私のお父様じゃあ無かったってことね」
 私がそう言い切ると、五体不満足の臓硯は、まるで火がついたかの様に笑った。狂笑、その単語が、この上なく似合っていた。
「カカカカカ、言いよる言いよる、中々の胆力、ということは、桜のことがよほど腹に据え兼ねておったか、哀れ、哀れよな、その程度のことに囚われるとは、宝石翁も後継者に恵まれぬわ!」
 意識が赤く染まりかけた瞬間、肩に大きな手が置かれた。
 ―――冷静になれ。
 言葉を伴わずにそう語りかけてくる忠実な従者が、この上なく頼もしかった。
「臓硯、貴方―――」
 私が語りかけようとした瞬間。
 まさにその瞬間、得体の知れない不快な匂いが、私の鼻腔を刺激した。
 原因は、すぐに分かった。
 マキリ臓硯、その傍らに控えるヨハネ。
 彼の腕の中に、黒焦げの芋虫、みたいなモノが、いた。
「カカ、ライダーよ、ずいぶん手酷くやられたものよなあ」
「けひ、けひ、けひ」
 あれが、ライダー、か?
 あの夜見た神々しさなど、一欠けらも見当たらない。
 片腕は根元からばっさりと断たれている。
 足は、片方を膝下から失っている。
 この二つは恐らく刃傷。セイバーの剣によって負った傷だろう。
 そして、全身を覆う、重度の火傷。
 四肢の末端は、完全に炭化している。あの美しかった髪の毛のほとんどが焦げて抜け落ちてしまっているのは、おそらく同じ女性として思わず目を背けたくなった。
 それでも、それは、生きていた。
 そのことが、ちっとも救いであるとは、思えなかった。
「ああ、これは酷い。痛かったじゃろうなあ、ライダー」
「けひ、けひ、けひ」
 呼吸も、既に満足ではないのか。
 恐らく、肺をはじめとした呼吸器にまで火傷が及んでいるのだろう。サーヴァントは酸素を必要とするわけではないが、しかしその様は痛々しいを通り越して憐憫を覚える。
 臓硯は、辛うじて残った自身の左手に、先の尖った鋭利な杖を持ち、ライダーの傷口をその先端で抉った。
 ライダーは、脊髄反射のように、びくり、と跳ねたが、苦痛の声はあげなかった。あげることすら、出来ないのかもしれない。
「なら、恨まんといかんなあ。お前にここまで手酷い手傷を与えた連中を。そして、お前の子孫の悉くを殺し尽くして、それを功績と誇る、あの似非英雄を」
「けひ、けひ、けひ」
 それは、まるで呪文のように。
 それ以上に、呪いのように。
「恨めよ、ライダー。恨めば恨むほど、強くなれる。お前にはまだまだ働いてもらわないと困るのでなあ」
「けひ、けひ、けひ」
 薄ら笑いを浮かべながら、そう吹き込む、臓硯。
 呪われた台詞を、さも嬉しそうに。
 そして、その隣で、耳まで裂けた様な、深い笑みを浮かべるヨハネ。
 胸糞が、悪い。
 笑うな。
 お前は、笑うな。
 私の肩に手を置いてくれた、この信頼に値する戦友と同じ顔で、笑うんじゃあない。
 その顔で、その嫌らしい笑みを、浮かべるな。
「どうでもいいが、貴様らがここから生きて帰れると思っているのか?」
 アーチャーの呟きは、マスターである私の鼓膜にすら針のような鋭さを持って響いた。
 彼の手には、あの夜、狂戦士が携えていた破壊の斧剣。
 どういった経緯で今、それが彼の手にあるのかは定かではないが、相応の理由があるのだと思う。
 そして、錫杖を構えたキャスター。常は冷静に微笑を湛えた彼女の表情にも、心なしか険しい何かが存在している。彼女と桜の間にどれほどの絆が構築されているのかは定かではないが、今の彼女がこの上なく不機嫌なのは、何となくわかった。
「ああ、さっきまでだったら中々に難しかったがね」
 ヨハネが、そう言った。
 突然、めきめきと音をたてて、奴の胸が大きく膨らんだ。
 直径は50センチ位か。
 まるで、破裂する寸前の風船、みたいに。
「今なら、問題無い。そうだろう、遠坂の」
 視線が、私に。
 拙い。
 狙いは、私か。

「ごばあっ!」

 吐き出されたのは、黒い霧。
 それが、私の方に、飛んで来る。
 あれは、虫。
 甲虫。
 黒光りしている。
 本で見たことがある。
 スカラベだ。
 しかし、それは古代エジプトにおいて太陽神と同一視された聖甲虫ではない。
 それと同じ姿をしながら、呪われたもの。
 屍肉を喰らうスカベンジャーであり、生肉を喰らうプレデター。
 それの、群だ。
 しまった。
 迎撃体制に無い。
「凛!」
 アーチャー。
 私の前に。
 駄目。
 あなたでも、全ては打ち落とせない。
 きっと、サーヴァントには、ただの羽虫。
 でも、きっと、人間には、致命的。
 私は、ここで。

「―――Μαρδοξ―――!」

 喰われる。
 そう思った瞬間、私と虫の群の間に、何かが生まれた。
 濃密な魔力によって編まれた、何か。
 べしゃべしゃ、と、汚らしい音をあげて、その透明な何かに、虫がへばりついていく。
 これは、キャスターの魔術。
 盾の概念。
「助かったわ、キャスター」
「ええ、でも」
 言いたいことは、分かっている。
 逃したか。
 この隙を見逃すほど、敵は愚かではないだろう。
 豪雨のように叩きつけられる虫の群。
 そして、同じ数のそれが、『盾』と衝突して拉げていく。
 不潔な粘液が飛び散る。
 そして、それが終わったとき。
 屋上には、私達以外、誰もいなかった。
「逃したか…」
 忌々げなアーチャーの声。
 そして。
 声が、聞こえた。
 カカカ、という、怪老の笑い声と共に。
 意外なほど若々しい、しかし、聞くものの不快感を掻きたてざるを得ない、そんな声。
「今日は、ありがとう」
 風に揺れるそれは、どこで発生したものなのかがわからない。
 既に戦機は逸している。
 追い詰めることは、叶うまい。
「君たちのおかげで、彼女は完成するよ。礼を言っておく。ああ、それと」
 声が、狂悦に、歪む。
「くふ、決着は、また後日だな、世界の奴隷よ」
 その言葉に、アーチャーの表情が一変した。
 まるで、凪。
 なにも、浮かんでいない、空白の感情。
 私には、それが怒り狂った彼の表情であることが、何となく分かった。
「くふふ、今度は一対一を希望するよ、正義の味方の残骸」
 その言葉が、最後。
 本当の静寂。
 しかし、彼の表情は変わらない。
「アーチャー…」
「凛」
 彼はその表情のまま、呟いた。
「何も聞かないで欲しい。だが、約束する。アレは私が、殺す。必ずだ。必ず殺す」
 彼の呟き。
 今まで私の聞いた中で、一番恐ろしい台詞。
 しかし、その声を無視したかのように、キャスターが呟いた。
「…ねえ、この中で、あの老人の存在に気付けた人、いる?」
 僅かな戦慄を含んだ、その呟き。
「私は、気付けなかった。あの瞬間、彼が令呪を発動するまで、わたしはアレの存在に気付けなかったわ」
 確かに、そうだ。私も、そしておそらくはアーチャーも、マキリ臓硯の存在に気付いていなかった。
 何故。
「それに、あの男、おそらくは吸血鬼か屍食鬼の類でしょう?なんで日光の下を堂々と歩けるの?」
 私は、神代の大魔術師の質問に、満足のいく回答を用意することが出来なかった。
 その時、びょう、と。
 生暖かい、不吉な風が、吹いた。


「だいたいこんなもんね、あんたが気絶した後の顛末は」
 凛は静かに口を閉ざした。
 外はまだ薄暗く、朝といっても時間はまだ早い。今家を出れば、部活の早朝練習に参加する生徒とも顔を合わせることなく校舎にたどり着くことが出来るだろう。
 しかし、それは今日に限っていうならば、いくら時間が遅くても同じこと。少なくとも、今日登校する穂群原学園の生徒はいないはずだからだ。
 穂群原学園を襲った集団昏睡事件。昨日学校にいた生徒及び教師、その全てが何らかの被害にあっている。ほとんどが、貧血に似た症状で、早々に退院が可能らしい。
 しかし、中にはかなり重症の者もいて、場合によっては今後一生重いハンデを負って暮らしていかなくてはならないかも知れない、とのこと。
 ガス漏れ。テロ。集団ヒステリー。
 テレビをつければ、どんなチャンネルだってそんな単語が飛び交っている。いずれ、一番もっともらしい結論が後付されて、この事件は解決したことになっていくのだろう。当然、たった一人の行方不明者は忘れられたまま。
「藤ねえは…」
「大丈夫。一時はかなり危険な状態にあったらしいけど、持ち直したって。一、二週間もすれば退院できるそうよ」

 その言葉に、目頭が熱くなった。
 我知らず、上を向いて瞑目する。
 心の中で、何か偉大な存在に感謝の言葉を捧げる。
 そして、この人にも感謝を。

「本当に、本当にありがとう、キャスター」

「…感謝なら桜にしなさい。私は貴方達を見捨てても敵を倒すべきだと主張したわ。恨まれる筋こそ在れ、感謝されるなんて筋違いもいいとこなんだから」
 神代の大魔術師は、頬を赤くしながらそっぽを向いてしまった。どうやら、感謝されるのに慣れていないのかもしれない。
「それでも、だ。俺が生き延びたのも、藤ねえが助かったのも、貴方の、それにみんなのおかげだ。本当に感謝してる。それと、ごめんなさい。とんでもなく迷惑をかけた」
 そうだ。
 俺は、何も出来なかった。
 俺が、そして藤ねえ達が生き残ったのは、ここにいるみんなのおかげなんだ。
 そう考えると、自分の不甲斐なさに腹が立つ。
 結局、俺がしたことといえば、頭に血を昇らせて猪突し、みんなに迷惑をかけただけ。少なくとも、あの電話があった時点で冷静に対応することが出来ていたら、もっと違った結果があったはずだ。
 もしかしたら―――。
「…何考えてるか知らないけど、それくらいにしておきなさい。後悔なんて、何の役にも立たないわ。失敗したと思うなら、反省してこれからの糧にすること。とりあえず、今あなたのするべきことはそれね」
「…ああ、分かった。努力は、するよ」
 凛は俺をじろりとした目線で射抜くと、諦めた様にため息を吐いた。
 俺は、ゆっくりとみんなの顔を見渡す。
 そこには、いつも通りのメンバー。
 凛。
 桜。
 アーチャー。
 キャスター。
 そして―――。
「あれ、セイバーは?」
 そうだ。
 さっきから、何かが欠けているような違和感があった。
 食事を終えた後でその不在にやっと気付くとは失礼な話であるが、食事中の彼女はその健啖ぶりを発揮して目の前に料理の制圧にその全てを投入するため、会話をする余裕がほとんど無い。
 故に、彼女が会話に参加するのは食事も終盤、彼女の前に並べられた皿がその白さを露にし始めたときである。それを言い訳にするつもりなど微塵も無いが、とにかく、彼女の姿が無いことに気付けなかった。
「なあ、遠坂、セイバーはどうしたんだ?」
 後から考えれば、あまりにも呑気なその声。
「セイバーは……」
「そこからは私が話そうか」
 自分で淹れた極上の紅茶、それの入ったカップを音も無くソーサに戻して、凛の従者である赤い騎士がゆっくりと口を開いた。
「彼女は宝具を使った。それがどういうことか分かっているはずだな、衛宮士郎」
 その目は、鷹の目では無く、どこまでも人の目。込められたのは、殺意でもなく、嗜虐でもなく、唯、非難ともう一つの感情。
 それが、怖かった。
 鷹よりも、もしかしたら蛇よりも。
 そんなこと、分かりきっている。
 人が、一番、怖いんだ。
 人さえいなくなれば、怖いものなんて、何一つありはしない。
 当たり前のことじゃあないか。
 人が、何よりも、恐ろしい。
「どうした、何故答えない。
 貴様の未熟によって、彼女には正常な魔力の補給は為されていない。その彼女が全力で宝具を解放したのだ。それが、どういうことか、分かっているのかと。そう聞いているのだ、衛宮士郎」
 声は、あくまでも穏やか。怒号の色など、微塵も感じない。
 しかし、それ以外の音がする。
 みしり、と。
 アーチャーの纏った皮鎧、その軋む音だ。
 本来、頑強を誇るはずの英霊の威装、それを、何かが軋ませているのだ。
 怒りだ。
 怒りによって膨れ上がった彼の筋肉が、本来それを守るべき守護者に悲鳴を上げさせているのだ。
 自らの敵とその従者。
 その不甲斐なさに、彼は怒っていた。
 そうだ。
 彼女は、俺の不完全な召喚のせいで霊体化もできず、満足な魔力の補給すらされない状態だった。それを補うために、本来は必要ない眠りすら強いられていた。
 その彼女が、宝具を使った。
 宝具の使用には、当然莫大な魔力が必要となる。
 蛇口の閉められた湯船。そこの栓を抜けばどうなるか。
 水は、無くなる。
 どんどん、減っていく。
 そして、空になる。
 彼女は、空になる。
「そんな…」
「貴様の猪突、そして貴様の驕り、何よりも貴様の歪みきった理想…!その為に、彼女は必要の無い苦痛を強いられている…!その責任を、貴様はどう感じているのか、そう聞いているのだ、衛宮士郎…!」
 その声は、まるで自分の恋人を傷つけられた戦士のように。
 その声は、まるで己の子供を奪われた、父親のように。
 その声は、まるで自らの傷口を抉り出す、茨の冠を頂いた罪人のように。
 それ程に、彼は怒っていた。
 自らの言葉に、怒りを蓄えていく。
 自らが吐き出した火が、己を炙る業火を、更に燃え上がらせる。
 要するに、彼は何よりも、自分に対して怒っていた。
 その理由は、分からない。おそらく、己の戦友を徒に疲弊させた、その程度の怒りではあるまい。
 一体、こいつとセイバーの間に何があったのか。
 俺が、彼の怒りの前に身を竦ませていた時、穏やかな、しかし弱弱しい声が聞こえた。

「貴方の怒りは筋違いだ、そうでしょう、アーチャー」

 大きく開いたドアの前に立つ彼女の姿。
 本来は美々しく、何よりも雄々しいその姿は、端整な顔に浮いた隠しきれない疲労の影によって著しく汚されていた。人工の灯りに照らされた金砂の髪は、太陽の下にいるときよりも、細く、病的な印象を与える。
 聖緑の瞳、その下には大きな隈ができており、その吐息も心なしか荒い。
「セイバー…」
 それは、俺の罪。
 彼女が苦しんでいるのは、俺の罪。
 そうだ、全ては、俺の―――。
「それも違う、シロウ」
 片手を壁に寄せて体を支えながら、それでも芯の強い声で彼女はそう言った。
「私は己の意志で戦った。己の命と、誇りを賭けて戦った。その果実は貴方に帰する。それは当然だ。しかし、痛みは、苦しみは私だけのものだ。いくら貴方がマスターであるとはいえ、それらまで収奪しようというのは、如何にも暴虐に過ぎるのではありませんか?」
 力無く笑った彼女。彼女はその疲れ、やつれた表情のまま。
「でも―――」
「私は貴方の剣になると誓った。剣は、美しく飾られる装飾にあらず。戦場にて振るわれ、使われ、使い古され、最後は折れ砕けるが本望。そこを誤解なさらぬように」
 その美しい笑顔のまま、そんなことを言いやがった。
「虚勢でも、それだけ吐けるなら大丈夫ね」
 俺の隣から声がした。
「ええ、リン。貴方のそういうところは、非常に好ましい。シロウにも見習っていただきたい程だ」
 水滴で曇った窓ガラス、そこから感じられる曙光。
 それに照らし出された、二人の笑み。
 美しく、不敵で、誇り高く、侵し難い。
 その笑顔が。
 その、美が。
 己の矮小さを映し出すようで。
 俺は、知らずに目を逸らしていた。
「じゃあ、今日、行くわ。覚悟は出来てる?」
「愚問です。覚悟というなら、食事中でも、睡眠中でも、異性を抱いている時でも」
「そうこなくちゃね。じゃあ、予定通りに」
「ちょっと待ってくれ、予定って一体…」
「決まってるでしょ、昨日こなせなかった予定は、出来るだけ早いうちにこなさないと、どんどん腰が重くなってしまうわ」
 昨日こなせなかった予定?
 それってまさか…。

「鈍いわね。今からマキリに攻め込む、そう言ってるのよ」

 ―――。
 一瞬、頭が真っ白になった。
 今から、マキリに、攻め込む?
 それは―――。
「ちょっと待ってくれ、いくらなんでも、無茶だ」
「へえ、衛宮君にはしちゃ慎重な意見ね。一応、理由を聞いとくわ。なんで無茶なの?」
 凛はにやり、と不吉に笑って、正面から俺を見据えた。
 ぎっ、と椅子を引いて、セイバーが凛の隣に座る。
 俺は、二人の色の異なる瞳を等分に見据えた。
「昨日の戦いで、セイバーはこの上なく疲弊してる。アーチャーだって、二日続けて戦うのはきついはずだ。それに、学校の結界はもう存在しない。それほど急く必要があるのか?」
「だ、そうよ。どうなの、アーチャー?」
 真剣な凛の視線、それを真っ向から受け止めたアーチャーは事も無げに言った。
「問題ない。少なくとも、そこの未熟者に心配されるほど堕ちてはいないさ」
「そう。セイバー、貴方はどう?戦える?」
 セイバーは、少しの間、己の体と対話するかのように目を閉じ、やがてこう言った。
「…ライダーの宝具、あれとの衝突がもう少し長引けば消耗は致命的なものになっていたでしょうが、幸か不幸か、あれを完全に滅する前に逃げられた。故に、今の私は、即座に消滅云々という段階ではない。しかし、風王結界を含めて宝具の解放は難しいでしょう」
 じゃあ、と俺が口を開きかけたが、彼女は俺に発言権を認めてくれなかった。
「しかし、直感や魔力放出といったスキルは失われていないし、対魔力を備えたこの体は盾として相応しい。戦力としては十分かと思います」
「だってさ、士郎」
 俺は、絶句した。
 彼女は、俺なんか及びもつかないくらい、強い。
 それこそ、俺が一生血を吐くような鍛錬を続けても、彼女の足元にすら辿り着けるかどうか、そういうレベルだろう。
 しかし、それとこれとは話が違う。
 彼女は、自分のことを、盾だ、と言った。
 そんなの―――間違えてる。
「士郎、あんたの言いたいことは分かってるつもりだけど、この作戦にセイバーの存在は欠かせないわ。魔術師の要塞である工房に攻め込むんだもの、一番気をつけなければならないのは魔術的なトラップ。それを未然に回避するためにも、発動してしまったそれを防ぐためにも、彼女とキャスターの存在は必要不可欠よ」
 彼女は、正論を持って俺を説得しようとしてくれた。
 正論。
 それは、どうしてこうも神経を逆撫でするのだろうか。
 そんなこと、分かってる。
 分かってることを、一々繰り返すな。
 そんな、感情。
「今回の作戦には、桜が参加できない。多分、猛烈なトラウマをフラッシュバックするのがオチだからね。人数が足りないのよ、分かるでしょう?」
 桜は、申し訳なさそうに俯いた。
「…すみません、先輩。今日は私、お留守番です」
 力の無い笑みでやっと笑った桜は、やはり力なく肩を落とした。
「それに、士郎、さっき『そんなに急ぐ必要があるのか』って言ったけど、事態は昨日より切迫してる、それは間違いないわよ」
 冗談とは思えない、凛の真剣な瞳。
 じとり、と、脇の下を、冷たい汗が濡らした。
「…どういうこと、だ?」
「ライダーは生きていた。それはさっき話したでしょう?一昨日、あの結界の成長が突然早まった、その理由をライダー自身の生存本能だと仮定すれば、かつて無いくらい魔力に餓えている今の彼女は、この上なく危険よ。メルトダウン寸前の原発みたいなもんかしらね、きっと。何しでかすか分かったもんじゃないわ」
「それだけではありません。彼女は吸血によって単純に魔力の回復が可能ですが、おそらく、私はそこまで急激に魔力を回復させることは出来ない。彼女が完全に回復すれば、今の私では到底敵し得ないでしょう。それに―――」
「それに?」
「これはあくまで推測の域を出ませんが―――。彼女の異様なパワーとスピード、その理由を考えてみたのです。あれは、おそらく『怪力』のスキルによるものと思われます」
 怪力?
「『怪力』は、一時的に自らのパワー値をワンランクアップさせる、魔獣や魔物だけが持ちうるスキルです。しかし、元々の彼女にそういった雰囲気は極めて薄かった。それが、昨日の彼女にはかなり色濃く滲んでいた。おそらく、彼女は、何か、忌まわしいものに変貌を遂げようとしています。早いうちに仕留めるのが、彼女のためであり、何より我々のためでしょう」
 沈黙が、流れた。
 静寂ではない。
 心臓の、不吉な拍動が、あったからだ。
「あらためて材料を並べると、絶望的で呆れるわね。時間も戦況も、基本的にはマキリの味方ってわけ、か。で、士郎。あんたの意見は?」
 俺の、意見?
 俺は、どうしたい?
 決まってる。
 やるべきことは、決まってる。
 倒さなきゃ、いけない。
 皆を苦しめてるものは、苦しめようとしているものは、倒さなきゃいけない。
 なのに、この喉は。
 何故、応、と、言ってくれないのか。
「重症だな、これは」
 その時、アーチャーが、そんなことを言った。
「凛、間桐邸に攻め込むのは何時の予定だ?」
「え…と、キャスター、認識阻害の結界は?」
「出来れば二時くらいまでは待って欲しいっていうのが本音ね」
「だ、そうよ、アーチャー。それがどうしたの?」
「なに、大したことはないさ」
 奴が、俺を、その鷹の目で、射抜いた。
「そこの臆病者に、軽い喝を入れてやろうと、そう思っただけだ。セイバー、君も来るか?私とその男を二人にさせるのは不安なのだろう?なら、君も来るといい」



[1066] Re[50]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆e6dabb25
Date: 2007/08/16 10:33
 たんちょうな歩調でたんちょうな色彩のまちを歩く。
 あしどりは重い。
 まるで体重が倍かそれいじょうになったみたいだ。
 みみに聞こえるのもたんちょうな音だけ。
 ちかくで何かがはぜる音。
 とおくで何かがはぜる音。
 それらに時々いおんが混ざる。
 それはすくいを求めるひとの声。
 あるいは人だったものの声。
 それらをむししてぼくは歩く。
 だってぼくは子供だから。
 手だってこんなに小さいから。
 重たいにもつも背負っているから。
 あなた達をたすけてあげられない。
 ごめんなさい、ごめんなさい。


episode45 局地的で意味の無い戦い

 板の間。
 そう呼ぶのが、果たして正しいのか。
 道場だ。
 広さは…正確には分からない。三十畳ほど、だろうか。ひょっとしたらもっと広い気もする。少なくとも、これだけの規模の道場を所有している個人というのは、かなり珍しい部類に入るのは間違いないだろう。いや、そもそも、どれほど規模が小さくとも道場というものを所有している個人というのは、珍しい存在だ。
 よく磨かれた、艶やかな床。それでも、微かに残った汗の残滓が、ほんの少しだけ鼻につく。
 傍らには、竹刀が数本立て掛けられている。柄をくるんだ鹿の皮が、程よく使い込まれている。握れば、この上なくはっきりと馴染むのだろう。
 広い、道場。
 だからといって、例えば空手や剣道の指導に使われているわけではない。
 あくまで個人の趣味で建てられた、極めて生産性の薄い空間だ。もっぱら使うのは俺一人、たまに藤ねえに剣道の稽古をつけてもらう以外、他の人間がここを使うことは少ない。
 それでも、例えば、学校のような公共のスペースでもこれだけ立派なものはそうそう見かけるものではない。それは、自慢というよりは、こんな酔狂なものを自宅に作った切嗣に対する呆れからくる気持ちが強い。
 木の板で出来た、静謐な空間。
 しかし、曙光、そう呼ぶにはやや勢力が強くなりすぎたか、とにかく太陽の光だ、それに照らし出されたその風景に、どこか違和感を覚える。何と表現したらいいか迷うが、そう、曇っている、辛うじてそのように表現出来るかも知れない。たった二、三日手入れを怠っただけなのに、どこかに寂れた雰囲気があるのだ。人の住まない家屋はその劣化が激しいというが、なるほど、と感心した。
 その、ほぼ中央部に、俺とアーチャーは立っている。
 何をする訳でもない。
 ただ、立っていた。
 風景に変化は無く、会話も無い。
 そうすると、自然と感覚が鋭くなってくる。
 視界が、鮮明に。
 聴覚が、明敏に。
 触覚が、ひりつくほどに。
 そして、それらが捉える人の気配は、三。
 俺。
 アーチャー。
 そして、入り口で佇む、セイバーだ。
 誰もが、無言。
 しかし、やがて、その中の一人が、ゆっくりと口を開いた。


「来い」
 その言葉からは、あらゆる要素が省かれていた。
 主語が省かれていた。目的語が省かれていた。修飾語が省かれていた。
 文法だけでなかった。
 感情が省かれていた。タイミングが省かれていた。儀礼が省かれていた。
 そして、意志だけが、あった。
 来い、と。
 かかって来い、と。
 今から、俺とお前は戦うのだ、と。
 無手のまま、自然体で立つ目の前の男は、そう言ったのだ。
 一瞬、何を言っているのか分からなかった。
 目の前の男は狂ったのかと、そう思った。
 考えてみれば、分かることだ。
 今は、午前の十時くらいか。陽は徐々に天頂へと昇り、時計の針はその動きに同調するかのように歩を進めているはずだ。
 作戦の開始時刻は、午後二時。それほど余裕がある訳ではない。
 そして、やらねばならないことは山ほどある。こちらから攻め込むのだ、入念な打ち合わせは必ず必要になるだろうし、道具の調達等、物質的な意味での準備にだって時間はかかる。体力や魔力だって回復させなきゃいけない。

『そこの臆病者に、軽い喝を入れてやろうと、そう思っただけだ』

 その言葉を聞いたとき、俺はアーチャーに説教でもされるのかと思った。なんで衛宮邸に移動するのかよくわからなかったが、この場所に辿り着いても、俺は確かにそう思っていたのだ。
 しかし、これは違う。
 今から交わされるのは、会話などでは断じてない。
 会話が交わされるのだとしても、それは音を用いた会話ではない。
 痛み。或いは、もっと原始的なもの。
 それを介した会話が行われようとしているのだろう。
「来い」
 アーチャーが、焦れたように、再び同じ言葉を口にした。
 だが、俺は動けない。
 ただ、『来い』と言われても、果たして何をしたらいいのか、分からない。
 本当に、ただ近づけばいいだけなのか?
 それとも、殴りかかればいいのか?
 まさか、真剣で斬りかかって来い、そういう意味ではあるまい。
 そう考え出すと、体が動かなくなった。
 口を開こう、そう思った。
 分からないことは聞けばいい、と。
 その時、目の前の男が笑った。
「鈍いな」
 低い、声。
 明らかな蔑みが、ワイシャツに飛び散った墨汁のように滲んでいた。
「敵の前でも、そうなのか?愚図め、何故わからん…!」
 微笑いながら、怒っていた。
 彼の怒りが、彼自身の怒りを炙っていた。
 炙られた怒りが、なお一層、彼の怒りを燃え立たせるようであった。
 そうして燃え上がった火炎が、彼の内で渦巻いているみたいだった。
 先ほど開けなかった口を、再び開こうとした。彼の意図を、問いただそうとしたのだ。
 その瞬間、頬を叩かれていた。
 彼我の距離は、それ程近かったわけではない。少なくとも、手の届くような距離ではなかったはずだ。
 一瞬で間合いを詰められていた。
 そして、掌底で頬を殴られていた。
 容赦無い一撃だった。
 それだけで、体が泳いで、地に伏せた。
 歯を食い縛っていなかったせいで、頬の内側が犬歯とぶつかって、ざっくりと裂けた。
 蹲るように床についた手、その横に、ぼたぼたと、赤い血溜りができていた。
「これでもまだわからんか?なら、次はその指をへし折ってやろうか?それとも、藤村と言ったか、あの女の手首でも切り取ってくれば、貴様は本気になるのか?」
 どくり、と。心臓が大きく脈打った。
 血が、全身を駆け巡る。
 どくどくと、何かが体を煮た立たせる。
 アドレナリン、ドーパミン、よくわからない脳内物質。
 それが、痛みを忘れさせ、体を立ち上がらせる。
 奴は、無表情で、突っ立っていた。
 自然体。
 塵ほどの余分な力も含まれない、理想的な立ち方。
 それを、睨みつける。
「ほう、先ほどとはまるで別人だな。やはり、近しい者の危機こそが、貴様をもっとも奮い立たせるか」
「てめえ、なんのつもりだ」
 痩せ蛙のような殺気を込めて、奴を睨む。
 しかし、奴の表情は、いっそ涼やかに変わっていった。
「それで、どうするのだ?立ち上がるだけであれば、起き上がり小法師と同じだろうが。貴様は、何をするために起上がったのだ?」
 拳を、強く握り締める。
 足を、やや内股に。
 腰を落として、腕を上げる。
 握り拳で、頭部を挟むように。
 右足をやや引き、左足を前に出す。
「ふん、形だけは中々」
「っしゃああ!」
 左の拳を、まっすぐ奴の顔面に。
 奴は、事も無げにそれをかわす。
 次は、返しの右ストレート。
 左のジャブで溜めを作った、体重の乗った一撃。
 しかし、それも奴に届かない。
「ふむ…」
 アーチャーはそう呟いた。
 その呟きを聞いた直後、俺の視界は激しく乱れた。
 そして、背中に衝撃。
「ごはぁ!」
 熱い呼気が漏れる。
 漏れるだけ。
 吐き出した分の空気を、肺に吸い込むことが出来ない。
 横隔膜が、己の作業を放棄している。
 何が起きたのか。
 痛みと苦しみに身を捩る。
 ちかちかと意味の無い点滅を繰り返す視界の中に、見下ろすように俺を眺めるアーチャーがいた。
 無表情。
 奴は、無表情。
 無表情のまま、俺の鳩尾を、思いっきり踏み抜いた。
「げぼっ!」
 衝撃が、背骨をすら貫く。
 肺腑に残っていた、極僅かな酸素、その1ccまでも、残らずに吐き出す羽目になった。
 そして、反吐が出た。
 朝食に食べた、コーヒーと、トーストと、ソーセージと、胃液の臭いがした。
 こんなにも、胃の中に物が詰まっていたのかと驚いた。
 そして、反吐で溺れるか、そう思った。
「げ…ひゅ…ひゅ…ひゅ…」
 激しく咳き込むなんて、許されない。
 鼠みたいに、細くて早い呼吸のみ、許される。
 地獄の苦しみ。
 涙が、我知らずに溢れてきた。
「セイバー」
 声が、聞こえた。
 直後、からり、と何かが転がってきた。
 細長い、と思った。
 それが何なのか、しばらく分からなかった。
「休め。次は、それを持ってかかって来い」
 柄をくるんだ鹿の皮、程よく使い込まれた竹刀の柄から染みこんだ汗の匂いが漂ってきた。


 十分後。
 再び、俺とアーチャーは道場の中央で向かい合っていた。
 俺の手には、使い込まれた竹刀。
 奴の手には、何も無い。
 俺の構えは、正眼。
 切っ先の延長線上には、奴の目。
 剣をそのまま突き出せば、奴の目をこの剣先が抉る。
 そういう構えだ。
 だが、奴は構えすらしない。
 ただ、さっきと同じように、自然立ち。
 もしかしたら、その立ち姿自体が構えなのかも知れないが、少なくとも特別な姿勢を取る事はしていない。
 視線は、あくまで穏やかに。
 しかし、俺の後ろにある何か、俺そのものよりも重要な何かを見つめるかのように。
「来い」
 奴がそう言った瞬間、俺は飛び掛ろうとした。
 いや、それは正しくない。
 俺が問答無用で飛び掛ろうとした、まさにその瞬簡に、まるでその拍子が分かっていたかのように、奴が言ったのだ。
『来い』と、事も無げに。
 その言葉で、俺の出足は阻まれてしまった。
 読まれている、そう思った。
 喉が、スポンジで水分を拭き取ったみたいに、からからだった。
 体中から、ぬるぬるした嫌な汗が噴き出した。
 飲まれている、そう思った。
 動けない。
 動けば、読まれる。
 読まれれば、かわされる。
 かわされれば、またさっきの地獄を味わう羽目になる。
 それは、紛れも無く―――。
「来い」
 アーチャーが、再び言った。
 これが、最後通告だと。
 その瞳が、そう言っていた。
「せいやあああ!」
 声が、出た。
 声だけが、出た。
 悲鳴みたいな声だった。
 藤ねえに教えてもらった。
 怖いから、声を出すのだ、と。
 目の前の相手が恐ろしくて堪らないから、それを倒すために声を振り絞るのだと。
 恐怖で萎縮した身体、それを前に進ませるものが、声だと。
 しかし、出るのは声だけだった。
 足は、一歩も前に出てくれなかった。
「来ないのか」
 奴の体が、軽く前方に傾いた。
 それだけで、俺の身体は容易く後方に飛んでいた。
 まるで、空気の壁に弾き返されたみたいに。
 間合いが、広がる。
 奴は、無表情のまま、広がった間合いを、広がった分だけ詰めた。
「貴様の敵はどこにいる。貴様の目はどこについている」
 やはり、怒っていた。
 何に怒っているのかは不明だが、しかし奴は怒っていた。
 逃げよう、そう思った。
 この手に握った、如何にも頼りない棒切れを放り出して、一目散に逃げようと。
 逃げなければ、殺される、と。
「逃げるなよ」
「―――」
「逃げれば、殺す」
 その言葉で、たった一つの希望は断たれた。
 つまり、こういうことだ。
 呆れるくらい、分かりやすい答え。
 つまり。
「貴様がこの道場から無事に出たければ、俺を倒すしかない、そういうことだ」
 なんと、シンプルな。
 しかし、なんと無茶な。
 人間が、サーヴァントを倒すなんて、不可能だ。
 昨日、それを嫌というほどに味あわされた。
 何をしても通用しなかったのだ。
 だが、相手の全てが、俺には通用したのだ。
 大人と子供、その程度の力の差ではない。
 植物と動物、それくらい離れていると思った。
 そして、事実はそれ以上だったはずだ。
 だから、俺は目の前の男に勝てない。
 勝ち得るはずが無い。
「いい加減わかっただろう、己の置かれた状況が」
 分かった。
 ああ、分かってるさ。
 これだけお膳立てされれば、流石に分かる。
 あんたを倒さなければ、俺は酷い目に合う、そういうことだろう。
 そうだ。
 倒すしかない。
 選択肢は、初めから無かった。
 話し合いとか、逃亡とかは、初めから許されてなかった。
 なら、単純な話だ。
 前に出るしかない。
 前に出て、この竹刀を振るうしかない。
 よし。
 そう考えたら、身体が軽くなった。
 肩の力が抜けた。
 そして、驚いた。
 肩が、あまりに力みすぎたせいで、痺れるくらいに重くなっていた。
 これじゃあ前に出ることなんてできるものか。
 そう考えて、少し苦笑した。
「…大したものだ」
 アーチャーが、吐き捨てるように呟いた。
 前に出る、そう決めたら、再び選択肢が増えた。
 如何に攻めるか、そう言う意味での選択肢は無限だ。
 唐竹に振り下ろすか、逆胴を薙ぐか。
 相手が攻めてこない以上、引き技や抜き技は使えない。
 一番得意なのは、小手面だ。
 藤ねえにも、何度か褒められた。
 しかし、今は駄目だ。
 そんなもの、こいつには通じない。
 ならば、全霊の一撃を。
 振りかぶって、振り下ろす。
 それが一番相応しい、そう思えた。
 だから、踏み込んだ。
 前に出ようと、そう思った瞬間に身体が反応していた。
 反応して、飛び込んでいた。
 飛び込みながら、剣を振り上げていた。
 振り上げながら、振り下ろしていた。
 しかし、切っ先は空しく宙を切るだけだった。
 奴は、やはり一歩後ろに、身をかわしていた。
「…ふむ」
 その呟きを無視して、切り返すように股間を狙った。
 奴は、それを半歩身体をずらして、かわす。
 それでも俺は止まらない。
 藤ねえに教えてもらった剣道の基本、それを全て忘れてしまった。
 無茶苦茶に攻めた。
 技術というよりは、本能だった。
 それが、奴には蚊ほどの傷も付けることが叶わなかった。
 そして、いつの間にか、天井を見上げていた。
 仰向けに、倒れていた。
 冷たい木の床が、火照った身体に、ひんやりとして心地よかった。
 何をされたのか、全く分からなかった。
 ただ、さっきに比べれば、ずいぶんと楽なものだと、何となく思った。
「しばらくそのまま休め。それと、前歯が折れているはずだ。元あった場所に差し込んでおけ。一分もすれば接着する」
 口の中を、舌で舐めまわした。
 ねっとりと、濃厚な鉄の味を舌先に感じることが出来た。
 そして、ころりとした小石みたいなものが、転がっていた。
「次はそれを持ってかかって来い」
 ごつり、と音がした
 そこには、白と黒の短剣が、無造作に転がっていた。


 震えた。
 恐怖にではない。
 歓喜だ。
 この背を貫いて、なお身体を震わせる感情は、紛れも無く歓喜だ。
 これほどか、と思った。
 あの日、自分が作った紛い物とは、比べるべくも無かった。
 そんなの、これに失礼だと思った。
 比較すること、それ自体が天に唾吐く行為だと思った。
 天井知らずだ。
 これほどの贋作がこの世にあることが信じられなかった。
 これに比べれば、俺の投影した干将・莫耶は、まるで風船だ。
 形が膨らんだだけで、中身をちっとも伴っちゃあいない。
 不躾に背伸びした子供、それくらいにみっともなかった。
「来い」
 その、双剣。
 自らの作り出した奇跡。
 それを手にした俺を見て、やはり奴はそう言った。
 一切の感情を排した、その瞳で俺を見た。
 だが、俺は動けなかった。
 先ほどとは違う感情だ。
 恐怖。
 恐怖で、俺は動けなかった。
「来い」
 奴は、さっきまでと同じく、再びその言葉を口にした。
 しかし、俺の身体は動けない。
 今にも、震えだしそうだった。
 歯がみっともなくガチガチと鳴りそうなのを、押し留めるだけで精一杯だった。
「くうぅっ」
 怖かった。
 何よりも、この剣が怖かった。
 何でも切れる、そう思った。
 この剣なら、あの化け物も倒せたのではないか。
 そう勘違いしそうな自分が怖かった。
 この剣に酔いそうになる自分が怖かった。
 血を、それ自体を目的にして戦いそうになる自分が、何よりも怖かった。
「ふざけるな」
 奴が、言った。
 その声に、やはり何の感情も込めないまま。
「今まで、貴様の攻撃が一度として、俺に届いたか」
 静かな声。
 しかし、この広い空間を圧してあまりある、戦士の声。
 そういえば、セイバーはどうしたのだろう。
 俺の後ろにいてくれているのだろうか。
 それとも、あまりに不甲斐ない俺を見て、呆れて帰ってしまったか
 それとも―――。
「余裕だな」

 べちん。

 太腿を、太い蛇が走り抜けた。
 痛みで身体を構成した、黒く、太い、蛇だった。
 それが、牙を立てながら、俺の太腿を犯していった。
「ぎ、あああ!」
 膝が、何の抵抗も出来ないまま、かくん、と崩れ落ちた。
 苦笑いすら、漏れなかった。
 いっそ、見事なほどだった。
 見事なまでに、股関節から下の感覚が、無くなっていた。
 麻酔注射。
 それよりも強烈で、それよりも即効性。
 ただ一発の、蹴り。
 それで、この足が、断たれた。
「来い」
 蹲った俺を、蔑視することも無く、初めて三度、奴はそう言った。
 動きたくなければ、それでもいい。
 二度と、動けなくしてやる。
 そう、言外に言っていた。
「が…あ、あ、あ!」
 いくら声を上げても、片足には力が入らなかった。
 だから、もう片方の足だけで、無理矢理に立ち上がった。
 痛いのが嫌だからじゃあない。
 殺されるのが怖いからじゃあない。
 目の前の男に、見限られるのが、怖かった。
 それだけは、嫌だと。
 この男には馬鹿にされたくないと。
 ただ、認めて欲しい、と。
 そう、思った。
「よし」
 初めて、褒めてくれた。
 歓喜。
 涙が出そうだった。
「来い」
 もう、待たせたくなかった
 一秒だって、この男を待たせたくなかった。
 まるで、恋人との待ち合わせ場所に走る中学生だ。
 それが、失恋に繋がると、脅えている。
 見放されると、恐怖している。
 だから、振り回した。
 この剣、この名剣には、如何にも不相応な剣技。
 木の枝を剣に見立てて振り回す、チャンバラごっこに興じる子供と、何ら変わるところが無い。
 感性のまま、振り回した。
 胴薙ぎ。
 奴は、下がる。
 その空間を詰めつつ、突き。
 奴は、半歩身をかわす。
 回りこみつつ、切り上げ。
 奴は、一歩後ろに引く。
 身体を沈めて、足を狙う。
 それも、かわされる。
 どんなに攻めても、かわされた。
 いなされることも、弾かれることも無い。
 ただ、かわされ続けた。


 致命傷だ。
 なるほど、弓兵の目は伊達ではない。
 私は、彼に深く感謝の念を抱いた。
 これでは、駄目だ。
 この状態の彼を戦場に連れて行けば、間違いなく死ぬ。
 理屈ではない。
 経験だ。
 嗅覚、そう言ったほうが正しいかもしれない。
 戦場に生きたもの、それだけが持ち得る、嗅覚。
 死神。
 その嗜好を嗅ぎ分けることの出来る、嗅覚。
 それからすると、今の彼は大好物だ。
 死神が、舌舐めずりをしている。
 その大鎌を、今か今かと砥いでいる。
 それ程に、今のシロウは致命的だった。
 その剣技は、美しかった。
 流れるようで、無駄が無い。
 一つの動作が、そのまま次の攻撃のための布石として機能している。
 双剣の一番の利点、変幻自在の、流れるような連撃。
 その極意の入り口、彼はそこに立っているのかもしれない、それ程の攻撃だった。
 あくまで一般人に限れば、今の彼を打倒し得る者は、ほとんど存在しないだろう。
 しかし、一番重要なものが、欠けていた。
 今の彼では、猫の子一匹殺すことはできない。
 おそらく、無意識だろう。
 しかし、怖くない。
 彼の攻撃は、怖くない。
 その意志は、勇猛。
 剣筋は、致命的。
 しかし、怖くない。
 理由は明白だ。
 浅い。
 それでも、一歩。いや、半歩か。
 浅い。
 攻撃が、届いていない。
 白打のときも。
 竹刀のときも。
 そして、あの双剣を手にした今も。
 悉く、半歩、浅い。
 だから、届かない。
 どうしても、アーチャーの回避に追いつかない。
 そもそも、アーチャーは本気でかわしていない。
 本気でかわせば、シロウの攻撃がアーチャーに当たる筈が無い。
 だから、アーチャはシロウのレベル以下に己の動きを抑えている。
 だからこそ、哀れなのだ。
 一般人程度に抑えた彼の動き、しかし、シロウはそれを捕らえることが出来ていない。
 半歩、浅い。
 原因は、分かっている。
 腰が引けてしまっているのだ。
 端的に言えば、いつでも逃げられる状態に己を置いている、そう言っていい。
 だから、極微量の地点で、重心が崩れている。
 前に進もうとする身体を、無理矢理後方に繋ぎ止めているのだ。バランスが崩れないほうがどうかしている。
 故に、踏み出しが上手くない。
 故に、半歩浅い。
 故に、攻撃が、届かない。
 理由は、はっきりしている。
 そんなもの、彼の瞳を見れば、馬鹿でも分かる。
 泣き出しそうな、瞳。
 敵を睨みながら、しかし誰かの救いを求めるような、瞳。
 恐怖。
 今の彼は、恐怖に囚われていた。
 それが、一番不味い。
 戦場では、その感情が、一番死神に好まれる。
 命を捨てることの出来ないものは、結果的に命を捨てる羽目になる。
 勇猛と猪突は同義ではないように、慎重と臆病も同義ではない。
 しかし、その意味を同じと誤謬した者は、間違いなく死ぬ。
 戦場とは、そういう場所であり、今の彼は、臆病に支配されていた。
 だから、私は弓兵に、感謝した。


「もういい」
 奴は、そう言った。
 瞳に、深い感情を湛えさせながら。
 俺には、その感情の種類が分からなかった。
 失望、だと思った。
 失望させてしまったと。
「まだだ、まだ―――」
「もういい、そう言った」
 奴は、くるりと後ろを向いた。
 そして、事も無げに歩き出した。
 もう、俺のことなんか、忘れてしまったみたいに。
 出口のところに、セイバーがいた。
「分かったか」
「ええ、貴方に感謝を」
 アーチャーとセイバーは、そんな、短い会話をかわした。
 何がなにやら、分からなかった。
 ただ、見限られたと。
 そう思って、涙が溢れた。
 悔しかった。
 情けなった。
 格好悪いと、そう思った。
「責任として、忠告しておく。今の貴様は、恐怖に捕らわれている」
 背中を向けたまま、奴はそう言った。
「違う!たまたまだ!」
 情けない声が、毀れた。
 嗚咽に、震えていた。
 自分さえ騙せていない、声だった。
 それを、俺が笑っていた。
 全身を震わせて。
 恐怖と、安堵と、それ以外のどろどろした感情で、身を震わせながら、俺が俺を笑っていた。
「何度やってもかわらんさ。貴様は、一度恐怖に屈したのだろう?そういう男は、もう二度と使い物にならん。そういうものだ」
 奴は、出口の所で振り返った。
 嗤っていると思った。
 嘲笑っていると。
 この、情けない男を、嗤っている、そう思った。 
 だが、違った。
 確かに、彼は笑っていた。
 でも、そこに込められた感情は、嘲りなんかではなかった。
 優しい、瞳。
 慈しむような、瞳。

「恐怖とは、執着だ」

 その声は、父親みたいに。
 ただ、優しく、この耳に響いた。

「執着とは、即ち生そのもの」

 その声は、兄みたいに。
 ただ、染み入るように、胸に収まった。

 そして、最後に彼は言ったのだ。
 優しさと、慈しみと、ほんの一握りの、羨望を込めて。

「喜べ、衛宮士郎。お前は人として生きることが出来るよ」

 その声が。
 この耳道を貫いたその声が、あまりにも哀れで。
 これなら、嘲笑ってくれればよかったのに。
 そんなことを、思った。
 
 



[1066] Re[51]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e6dabb25
Date: 2007/08/16 20:15
『…以上の観点から、その症例は非常に興味深い。しかし、その症例そのものは、古来より広く認知されてきた。地域差、死生観、或いは宗教的なタブー等によってその呼びかたや受け止められかたは様々だったが、一様に言えることは、その症状そのものが大して珍しいものでは無いということだろう。
 我々魔術師がその症例に対して、一面的なアプローチしか試みてこなかった点は、まさに恥ずべき汚点であると言えるのかもしれない。つまり、魔術的な要素が絡んでいるか、否かである。それがあれば、実験体として迎え、無ければ抹殺、或いは放置する。その応対は如何にも短絡的であった。科学の進歩を魔術が追いかける、それは認容し難い現実ではあるが、精神的な、いわば魔術にもっとも縁の深い分野でさえ同様であるというのは、怠慢との謗りをかわすことは出来まい。
 その点、この国の退魔の一族は、慧眼であったと言えるだろう。一つの器に異なる酒を満たす、そのことの困難を知りながら、弛まぬ努力と夥しい犠牲の末、一つの到達点を見つけたその技量は、方向性の異なる生き方を定められた私の心をすら、強く揺さぶらずにはおかない。
 条件は、揃っている。幸い、我が系譜の魔術の習得には、その症例の発症条件の一部を満たす要素がある。ならば、使う必要のある薬物等は限られてくるはずだ。そして、アレの持つ特異性。アレの起源を調べたとき、この老骨にも衝撃が走った。あのように特異な起源、他に見たことがない。あれならば、器として申し分は無い。
 問題は、条件を満たす個体の選別である。そればかりは手探りで進めていく必要があるだろう。だが、私は悲観をしている訳ではない。むしろ、高揚している。これほどの高揚感がこの身を包むのは、果たして幾世紀ぶりであろうか。
 努力が必要になる。困難も待ち受けていよう。だが、私は乗り越えてみせる。そして、あの子もそれに良く応じてくれるはずだ。なぜなら、私と彼には共通の目的がある。ならば、如何なる苦痛にも耐えてくれるだろう。それこそ、あの出来損ないならば発狂するほどの苦しみにでも』

episode46 彼の罪、彼女の罪
 
 トボトボと歩くのは、嫌だった。
 手痛く負けたとき。
 赤面ものの失敗をしたとき。
 そんなときこそ、胸を張って。
 そんなときだけは、胸を張って。
 だから、まっすぐ前を見て、歩いた。
 歩いている、つもりだった。
 それでも、いつしか背中が丸まるのは、我慢できなかった。
 背を丸めて、下を向いて歩いていた。
 傷が痛いわけでは、なかった。
 痛いのは、他のものだった。
『ごめん、一人にしてくれないか』
 セイバーには、そう言った。
 彼女は、無言でそれに応じてくれた。
 昨日までの俺の無茶を考えれば、それがどれほどの慈悲に満ちたものなのか、考えるまでも無い。
 思わずこみ上げそうになる嗚咽に、無理矢理蓋をした。
 ぎしり、と歯を噛み、その痛みで蓋をした。
 それでも、背は丸まってきた。
 何かに脅えるように。
 何かから、身を隠すように。
 きっと、寒さのせいだ。
 頬を切る北風が、冷たすぎるのだ。
 だから、首を竦めて、背を丸めている。
 それだけの、話だ。
 そう、自分に言い聞かせて、歩いた。
 歩いた。
 しばらく、歩いて、そして、気付いた。
 いつしか、隣に人の気配があった。
 無視して、歩いた。
 それでも、隣に人の気配があった。
 ちらり、と横を見た。
 そこには、背を丸めた俺よりも、更に小さな人影が、あった。

 代羽が、いた。

 彼女は、何も話さなかった。
 気付いていない、そんなことはないだろう。
 気付いているはずだ。
 それでも、彼女は無言だった。
 お互い何も話さずに、挨拶すら、そして視線をすら交わさずに、歩いた。
 歩いて、しばらく歩いて、人のいないバス停を見つけたので、なんとなくそこで立ち止まった。
 彼女が、そのまま通り過ぎてくれればいいと思った。
 でも、俺を追い越していく人影は、無かった。
 無言。
 時折通り過ぎる、車のエンジン音と、タイヤと地面との擦過音だけが、響いた。
 いつしか、新都行きのバスが到着していた。
 乗れよ、と言わんばかりに開いた自動ドア。
 仕方ないから、乗り込んだ。
 後ろでもう一人、誰かが乗った気配が、あった。
 振り返って確かめようとは思わなかった。
 車内では、吊革を持ったまま突っ立った。
 席は、空いていた。
 でも、今は座りたくなかった。
 座ったら、二度と立ち上がれない、そんな気がした。

 適当な場所で、降りた。
 別に目的があって乗ったバスじゃあないから、どこでもよかった。
 小銭を料金箱に入れてステップを降りると、後ろから「両替はどうやってするのですか?」という、女性の声が聞こえた。
 それも気にせず、歩いた。
 小走りで駆けてくる軽い足音が、俺のすぐ後ろで止まった。
 足音が、一つから、一つと一つに増えたけど、それでも歩いた。
 大通りに差し掛かったとき、時代に取り残された電話ボックスを、見つけた。
 俺は彼女を無視して、そこに入った。
 彼女の姿が消えるならよし。
 俺を待っているのなら、それもよし。
 そう思って、後ろを見た。
 そこには、明後日の方角を見たまま俺を待つ代羽が、いた。
 その姿を確認してから、俺は馴染みの深い電話番号をプッシュする。
 呼び出し音が、二、三回。
『はい、遠坂です』
 一瞬、凛か桜か分からなかった。
 多分、凛だ。
「…ごめん、飯、外で食べるから」
 それだけを、伝えた。
 少しだけ、彼女は何も話さなかった。
「ごめんな、我侭言って」
『…別に、今に始まったことじゃないでしょ、あんたが自分勝手なのは』
 呆れた、声。
 アーチャーから事情は聞いているのかもしれない。
『予定を変えるつもりはないわよ。二時までに帰ってこなければ、私達だけで攻め込むから』
「ああ、分かってる」
『じゃあね、切るわよ』
「ああ。…ありがとう、凛」
 その言葉を伝えきる前に、電話はぷっつりと切れてしまった。
 ほんの少しの落胆を覚えながら、電話ボックスのドアを開けた。
 そこには、やはり、代羽がいた。
 明後日に向けられたままの視線は、彼女には珍しく、少し不機嫌だ。
 俺は、黙ったまま歩く。
 彼女は、黙ったまま俺の後をついてくる。
 最初に見つけた店で、食べようと思った。
 彼女が一緒に入ってくるなら、奢ってもいいかもしれない。
 入ってこなければ―――。
 少し侘しいけど、一人で食べよう。

 最初に見つけたのが、世界で一番有名な、ジャンクフードの店だった。
 自動ドアが開くと、軽く胸焼けするような、濃厚な肉の香りが漂ってきた。
 日本全国、いや、全世界のどこの店でもこの匂いがするのかと思うと、少しだけうんざりした。
 後ろを見ると、誰もいない。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
 店員が、最高の笑顔を作りながら、そう尋ねてくる。
 この笑顔の指導のために、いくらの人件費がさかれているのだろうか。
 そう考えると、この世にただのものなど無いと、思い知る。
「えっと…」
 考えるのも億劫なので、最初に目に付いたセットメニューを二つ注文する。
「お飲み物は何にしましょうか?」
 飲み物。
 きっと、外で食べることになるだろう。
 暖かいものがいい。
「じゃあ、ポタージュで」
「コーンポタージュお二つでよろしいですか?」
「はい、それでお願いします」
「先に会計の方、よろしいでしょうか?」
 なるほど、どこかの笑い話にあったけど、この店で食い逃げするのは不可能だ。
 どうでもいい、不能な思考に苦笑する。
 ポケットから、財布を取り出す。
 少し懐が寂しかったことを思い出してひやりとしたが、なんとか足りた。
 時間は、まだ昼前。
 もう少しすれば事情は違うのだろうが、今は閑散としている店内。
 観葉植物が、王様みたいにスペースを取っていた。
 そして、王様みたいに、除け者にされていた。
 大して時を置かずに、やはり笑顔の店員が注文した品を持ってくる。
 おざなりに礼を言って、店から出た。
「ありがとうございましたー!」 
 その声に対応する余裕はさすがにないし、向こうもそれを望んでいるとは思えない。
 それに、俺の前には、代羽が、いる。
 少し拗ねたような、そんな表情で、仁王立ちしている。
 腰に手を当てて、男前な格好で。
 俺は、手に持ったビニール袋を軽く掲げる。
「…食うか?」
 彼女は、厳しい表情のまま、首を縦に振る。
「…食べます」
 交わした言葉は、それだけ。
 また、俺は歩いた。
 彼女も、歩いた。
 一人一人でしばらく歩いて。
 公園の前で、立ち止まった。
 冬木中央公園。
 俺が、一度死んだ場所だった。
「ここで、食うか?」
「…どこでも、いいです」
 代羽は嫌々そう言った。
 …本当に、珍しい。
 不機嫌そうな代羽が、珍しかった。
 いつの間にか、背中が、少しだけ、伸びていた。


 昼時だというのに、その公園に人影は少なかった。
 いつものことだ。
 ここは、あの火災の、中心だった場所だ。
 あの夜、一番多くの人が、焼け死んだ場所だ。
 十年前の災害。
 冬木に住み続けている人間ならば、あの火事を忘れた者など、それこそ片手で数えるくらいしかいないだろう。
 それでも、その恐れを日常に抱き続けるには、十年という歳月は長すぎる。街の整備は進み、昔とは違った形で調和の取れた都市が形成されている。そこに、恐れや不安といった感情など、見出すことは叶わない。
 だが、ほんの一瞬。
 日常に紛れた、微かな瞬間。
 真新しいコンクリートから漏れ出した、微量の空気。
 そういったものに、人は過去を思い出してしまう。
 炎。
 悲鳴。
 そして、その中に消えていった、大切な人達。
 それは、きっと救いだ。
 その、心を切り裂くような痛みこそが、救いだ。
 忘れることに比べれば、身を切り裂く苦痛の何と甘露なことか。
 それでも、苦痛は苦痛だ。
 人は、穢れを遠ざけようとする。
 日常からは、出来るだけ切り離そうとする。
 しかし、どこかに苦痛の象徴が必要になる。
 この公園は、きっと、そういう類のものだ。
 ふ、としたある日。
 残された人は、決意と共に、日常から離れる。
 そして、ここを、歩く。
 痛みと共に、歩く。
 ここに、あの人の家があった。
 彼は、ここで蹲ったまま、見つかった。
 熱かったのだろう、寒かったのだろう、苦しかったのだろう。
 私は、覚えているから。
 貴方達のことを、忘れていないから。
 そう、確認するための、場所。
 ここは、きっとそういう場所だった。


「どうやって食べればいいのですか、これ」

 俺達は、ベンチに座って昼食をとっていた。
 ハンバーガーと、フライドポテト、それにコーンスープ。
 手軽といえば、この上ない食事。
 しかし、俺の隣に座った少女は、フレンチのフルコースを食べるときよりも悪戦苦闘していた。
 彼女の小さな手には、すこし大きすぎる物体。青と白の包装紙にくるまれたそれを前にして、代羽は心底困った表情を浮かべている。
「ハンバーガー、知らないのか?」
「知識としては知っています。しかし、食べたことはありません」
 憮然とした彼女。
「だいたい分かるだろ、こんなもの。こうやって包み紙を外して、そのまま齧りつくんだよ」
 百聞は一見に如かず。
 ビニール袋から全く同一の物体を取り出して、包み紙を外して齧りつく。
 味は期待通りのもので、それ以上でもそれ以下でもない。
 雑といえば雑、完成されているといえば、この上なく完成されている。
 一応、美味いと言っていいのだと思う。ただ、食べ終わってしまうと、胸焼けと共に不思議な後悔が襲ってくる、そんな類の味だ。
「…だいたいなら、分かっていました。ええ、分かっていましたとも。それでも、これが初めてなのです。慎重さがあって然るべき、そうは思いませんか?」
 彼女はごにょごにょと何かを呟いて、その小さな口でぱくりとかじりついた。
 しばらく、無言でハンバーガーを食べる。
 時折、ポテトを摘む。
 喉が渇いたら、スープを啜る。
 他愛ない、どうということもない、日常。
 聞きたいことは、山ほどある。
 話したいことも、山ほどある。
 それでも、この空気で聞くのはあまりにも残酷な気がして、何もしゃべることができなかった。

「―――うぇ」

 微かな声がして、俺は首を横に向けた。
 そこには、顔を顰めて、紙コップを睨む代羽がいた。
「―――これ、なんですか?」
「コーンポタージュだよ、飲んだこと無かったか?」
「…こういうものをコーンポタージュと呼ぶのならば、私は初めて飲みました」
「不味いか?」
 彼女は紙コップを傍らに避けて、苦笑しながらこう言った。
「不味いわけではありませんが…、こう、どろりとした飲み物は、あまり好きではないのです。ちゃんとスープ皿に入れて出してくれれば、また違うのかもしれませんけど」
「そっか、俺は結構好きなんだけどな。じゃあ、何か別の飲み物買ってくるよ。お茶でいいか?」
「梅昆布茶以外でお願いします」
 薄っぺらい財布、そこに残された頼りないゼロの数を思い出しながら、俺はベンチを立った。


 うららかな日差しが木々の緑に反射する。
 私の記憶にある冬とは全く違う、まるで常春の国のような空気。
 閑散とした公園、その中のベンチで主は昼食を食べている。
「アサシン、あなたもいかがですか」
 のんびりとした、気の置けない友人と話すときのようなのんびりとした口調で私に話しかける主殿。この人は、私が生前、そして今も暗殺者であることを忘れているのだろうか。
「不要。第五要素で編まれたこの体、生者の取るような栄養など必要とせぬ」
 主殿は挽肉の塊をパンで挟んだ料理を一口。
「そうですか。衛宮士郎のサーヴァントは美味しそうに食べていましたよ」
 ごそごそと、袋の中から取り出したのは細切りにしたジャガイモの素揚げ。それをぱくりと一口。
「あのような稀有な例を基準にされては困る。あくまで我々は戦闘のための道具であり、助言者。そう考えてもらわねば立ち行かぬ」
「そうですか、こんなに不味いのに」
 主は残念そうに最後の一口を食べ終えると、ごみを屑篭に投げ込んだ。
 セイバーのマスターである少年は、少し前に姿を消した。
 遠からず戻ってくるだろう、だのに私に話しかけるとは、剛胆なのか、無神経なのか。
 辺りは、とても静かだった。
 少しだけ、風が吹いていた。
 柔かい、とても冬とは思えぬ風にその絹髪をなぶらせて、彼女はぼんやりとした視線を彼方に彷徨わせる。何か失ったものを懐かしむようなその視線は、とても暖かでありながら、同時に背筋を薄ら寒くさせるに十分だった。

「ここは私達が死んだ場所なのです」

 彼女は目を閉じた。
「私はここで死んで、全てを失い、幸いにして再び生を得ました。だから、為すべきことを為さないといけない」
「主殿の望みとは?」
 彼女は何も答えない。
 己の時間を止めてしまったかのように動かない彼女。
 もしかしたら眠ってしまったのだろうか。
 私がそう考え始めたとき、彼女の口が動いた。
「私が殺してしまった人を、幸せにしたいのです」
 苦痛に満ちた独白。
 まるで飲み下した針を吐き出そうとするかのようなその声は、後悔と怨嗟で彩られていた。
「つまり、死者の蘇生を願うということか?」
「いいえ、死者は既に蘇りました。しかし、それは生者ではなかった。それが、とても嫌なのです」
 眉根を寄せながら、なおも目を閉じたままの彼女は、大きく溜息をついた。
「アサシン、あなたの望みは何なのですか」
 そういえば私は彼女に自分の願いを話していなかった。
 なんだ、我々はそんな基本的なことも知らぬまま共に戦ってきたのか。そう考えると、久しぶりに苦笑が漏れかけた。
「私の望みは名前。私は名前が欲しい。永劫とも言える歴史の中で燦然と輝く、己だけの名前が欲しい」
 名前。
 もちろん、英霊たる私には名前がある。
 ハサン=サッバーハ。
 中世において恐怖の代名詞ともなり、現在、私が被っているクラスの語源ともなった組織、暗殺教団の主、[山の翁]。
 しかし、その名を継ぐものは一人ではない。歴代の山の翁は、悉くその名を名乗ってきた。故に、ハサンを名乗るものは私一人ではない。
 私にはそれが許せない。
 人々がハサンの名を口にするとき、それが指すのが果たして私のことなのか、それとも数多の、集合体としてのハサンのことなのかが分からない。
 ならば、私という存在は一体何者なのだ?
 名前を持ち、しかしその名前が表すのは自分の事ではなく。
 顔を持ち、しかしその顔は既に個人を識別することのできるものではなくなっている。
 それでも、私は英霊などという訳の分からぬものに祀り上げられてしまった。
 どこの誰かも分からぬ英霊。
 自分の名前すら忘れた英霊。
 そんなもの、嘲笑の対象でしかないではないか。
 ならば、私は永遠に道化を演じねばならぬのか。
 嫌だ。
 蔑まれるのはかまわない。
 恨まれるのは望むところ。
 しかし、笑われるのは、同情されるのだけは許せない。
 だから、私は[私]という個を確固とさせる何かが欲しい。
 名前。
 私は、名前が、欲しい。
「そう、あなたも名前を奪われてしまったのね」
 朦朧とした、心ここにあらずといった感のある声で、主は答えた。
「私も一緒。私も名前を奪われた。
 マスターとサーヴァントは似たもの同士が選ばれるというけど、なるほど、私と、あなたは、似ているわ…」
 そう言った彼女は、やがて寝息をたて始めた。
 すぅ、すぅ、と、まるで赤子が眠るような安らかな呼吸。
 この世の如何なる悪意も知らぬ、そんな無垢な寝顔。
 私は彼女にそっと外套をかけた。
 薄汚れた襤褸だが、ないよりはマシだ。それに、いくら暖かとはいえ眠りに委ねた体に冬の風は毒。ならば風除けの加護の付されたこの外套は、北風からの攻撃を退ける城壁として相応しかろう。
 そこまで考えて、私はふと思った。
 こんなふうに人と接するのは何時以来だ?
 彼女の体を案ずるのは当然だ。マスターの体調は私が勝ち残る可能性に直接的に関わってくるのだから。
 ならば、すぐに彼女を起こし、もっと暖かな場所まで連れて行けばよい。
 いや、そもそもこんな開けた場所で眠神に体を任すなど、戦争中とは思えぬ愚行。それに、時を置かず敵サーヴァントのマスターが帰ってくる。
 一刻も早く、やめさせるべきだ。
 それなのに、私は彼女の眠りを妨げるのが、たまらなく嫌だった。
 安らかな寝顔を、もっと見ていたかった。
 あれ、なんだろう、この感情は?
 私はしばらくの間考えて、それが特に重要なものではないと判断した。
 ただ、彼女を起こすことだけはしなかった。
 久しぶりに感じる風の冷たさを味わいながら、彼女の寝顔を守っていた。

 
 小脇に緑茶のペットボトルを抱えてベンチに戻ると、代羽は寝息をたてていた。
 すぅ、すぅ、と、本当に心地良さそうに。
 ベンチの傍らの屑篭には、おそらく彼女の分と思われる、ハンバーガーの包み紙やら何やらが捨てられていた。
 人を買出しに行かせておいて、自分はさっさと食事を終え、あまつさえ午睡を取る。おそらくは失礼な話なのだろうが、不思議と不快感は感じなかった。
 それよりも、彼女の寝顔を見て、懐かしい、と思ったのが意外だった。
「代羽、こんなところで寝てると、風邪ひくぞ」
 囁くようにそう言ってから、気付いた。
 細い彼女の肩、それを守るように掛けられた、漆黒の外套。
 所々擦り切れ、色落ちしているものの、作り自体は頑丈そのものだ。
 何より、どこかで同じものを見たことがなかったか。
 つい、最近だ。
 それに、この外套からは、一種の神秘に近い雰囲気を感じる。もちろん、セイバーの鎧やアーチャーの短剣等には及ぶべくもないが。
 これは―――。

「う、ん―――」

 そんなことを考えていたら、彼女は少し魘されて、寝返りを打とうとした。
 ベッドや布団ならばともかく、ここはただのベンチ。上手に寝返りが打てるはずがない。
 自然、彼女の体は背もたれからずり落ちていき、そしてそこには―――。
「まずい…!」
 俺の食べかけのハンバーガーが、あった。
 このままでは、彼女の髪の毛がケチャップ塗れになってしまう。そんなの後で何言われるか分かったもんじゃないし、それよりなにより、彼女の綺麗な髪の毛がそんなもので汚れるのは、許せなかった。
 だから、咄嗟に手を伸ばした。命題は、彼女の眠りの邪魔をしないこと、そして彼女をケチャップ塗れにしないこと。
 両の掌に、微かな重み。そして、なお途切れることのない、優しい寝息。恐る恐るベンチの上を見てみると、俺のハンバーガーが彼女の髪の毛に襲い掛かった形跡は見当たらない。
 俺は、深く深く安堵の溜息を吐いた。
 しかし、これからが問題だ。
 俺の掌の上で眠る彼女を、どうしようか。
 このまま、下手したら何時間も同じ姿勢でいるわけにもいかないし、俺にだって用事がある。
 仕方ない、とりあえず彼女の下で舌舐めずりをしているハンバーガーをどうにかしよう。
 片手を彼女の頭から離して、髪の毛が落ちることがないように注意しつつ、ハンバーガーを脇に避ける。ハンバーガーが地面に転げ落ちそうになったが、一応は上手に成功したと思う。
 再び安堵の溜息を吐いた俺は、片手でポケットからハンカチを取り出してベンチに広げ、その上に彼女の頭を寝かしつけた。
「何してんだろ、俺…」
 夢の世界の住人となった代羽、その隣で俺は空を見上げた。
 そこには、太陽が、あった。
 燦燦と輝く、冬場にしては力強い陽光。
 少し眩しくて、思わず手を翳してしまう。
 太陽というと、日本の子供は赤い絵の具を使って表すことが多いが、世界的に見ると黄色い絵の具を使うほうが一般的らしい。
 普通に考えれば、黄色の方が正解な気がするが、赤い太陽というのも中々情熱的だ。
 でも、世界のどこを探しても、黒い絵の具で太陽を描く子供はいないだろう。いるとしたら、よっぽどの捻くれ者か、太陽というものを誤解しているか、それとも俺と同じものを見てしまったか、だ。

 そうだ。

 あれは、黒い太陽だった。
 もしくは、孔。
 夜空という空間にぽっかり開いた、孔。
 何かを飲み込むための孔なのか、それとも吐き出すための孔なのか。
 多分、吐き出すための孔だ。
 だって、俺は知っている。
 何かがあの中から溢れてきたのを。
 黒くて、うねうねしてて、冷たそうなもの。
 それの一筋が、俺のほうに向かってきて。
 誰かが、俺を、突き飛ばして。
 そして―――。

「…おはよう、ございまふ…」
 
 彼女は目を擦りながら体を起こした。
 髪の毛が、風に遊ばれて乱れている。言ってしまえば、ぼさぼさだった。
 口元には、白い涎の跡。
 なんというか、これぞ寝起き、そう言わんばかりのその様子が、いっそ天晴れだった。
 しばらく、無言。
 じっと、見つめ合う。
 その間も、彼女の視線の焦点は、あっちにふらふら、こっちにふらふら。
 やがて、決心がついたかのように、荘厳に口を開く。
 まあ、何を言うかはだいたい想像がつくのだが。
「…ごかいしないでください、ほんとうはねおきはいいほうなのですが、さいきんは―――」
「夜更かしすることが多くて、だろ。前も聞いたよ。はい、すっかり冷えちまったけど、お茶。これ飲んで、顔でも洗って来い」
 彼女は虚ろな目つきのままペットボトルのキャップを開けると、こくり、と一口だけ緑茶を飲んだ。
 そして、枕代わりにしていた俺のハンカチをひっ掴むと、ふらふらした足取りで水飲み場に向かった。
 なんと言うか、あいつには慎みとか、そういう感情が破滅的に欠落してる気がする。付き合いの薄い人間は、表面的な冷たい態度とその美貌に騙されて気付くことはないだろうが、彼女の本質は女性というよりは、むしろ男性よりだ。ひょっとしたら、身体の手入れはボディソープだけで済ましてます、みたいな体育会的なことを言い始めるかもしれない。
 その点、実は女性らしいのが藤ねえだったりする。普段は『虎』なので気付かないが、正月の振袖姿なんかを見てると、そう思う。

 藤ねえ。

『じゃあ、せめてじぶんを、ゆるしてあげて。そんなに、じぶんを、いじめ、ないで……』

 あの時。
 自分の身を省みずに、俺を守ってくれた、藤ねえ。
 俺がもっと強ければ、あの人をあんな目に合わせることなんて、無かった。
 俺が、もっと強ければ。

『恐怖とは、執着だ』
 うるさい。
『執着とは、即ち生そのもの』
 うるさい。
『喜べ、衛宮士郎。お前は人として生きることが出来るよ』
 うるさい。

 俺は、そんなこと望んでいるんじゃない。
 俺の、俺の望みは、唯一つ―――。

「お待たせしました」
 そこには、一部の隙も無い、いつもの代羽がいた。
 長い、カラスの羽のように艶やかな黒髪には綺麗に櫛が入れられ、涎の跡はすっかり無くなっている。
 そして、しずしずと俺の隣に腰を下ろす。
 何気ないその仕草も、先ほどの彼女を見ている俺にとっては笑いを掻きたてる厄介者でしかない。
 彼女は、そんな俺を疎ましげに見つめると、ゆっくりと口を開いてこう言った。

 背筋に、冷たい衝撃が突き刺さった。

「…このことは、他言無用。もし、万が一にもその約定を破れば…わかって、いますよ、ね?」
 にんまりとした笑みに、熱など感じられない。
 それは、絶対零度。
 キャスターの笑みよりも、なお冷たい。
 人を殺せる微笑がこの世にあるならば、それはこれを進化させたものに他あるまい。
 俺は、馬鹿みたいに首を縦に振った。
 抗弁など、出来ない。
 そんな勇気、身を滅ぼすだけだ。
 そんな俺を見て、彼女は満足気に頷いた。
 きらり、と怪しく輝く彼女の双眸。
「よろしい。ふふっ、私も無用な殺生をすることが無くなって、幸いです」
 俺には、その言葉が欠片も冗談とは思えなかった。

 代羽と二人で、話した。
 色んなことを、話した。
 色んなくだらないことを、話した。
 それは、二学期の期末考査の点数のことであり、最近のスポーツの話題であり、彼女のご近所さんの飼い犬が産んだ可愛らしい子犬のことであり、テレビのお笑い番組のことであり、調理道具に対する拘りだった。
 彼女は、笑った。
 彼女は怒った。
 彼女は拗ねて、悲しんで、疑って。
 そして、やはり笑った。
 俺も、楽しかった。
 思わず笑みが漏れそうなくらい、楽しかった。
 それでも、俺は笑えなかった。
 彼女が笑うたびに、どこかに痛ましさが涌いてきたから。

 慎二。
『…やめて下さい、兄さん。私は何をされても構いませんから、その服は汚さないで。
 遠坂先輩が、借してくださったのです』

 あいつが、お前に何をしたんだ。

『あいつ、無表情で気味が悪いけど、具合だけは最高だからさ』

 お前は、それをどんな想いで耐えてきたんだ。

『そうそう、知ってるか、衛宮。あいつ、実は化け物なんだぜ。あいつ、何回やっても―――』

 家族に、化け物といわれて、そして、犯されて。

 俺は、それに気付いてやれなかった。
 一言。
 一言言ってくれれば、俺は慎二を生かしておかなかった筈だ。
 即座に飛んでいって、あいつの首をへし折ってやれたはずだ。
 一言。
 一言、何で、俺に助けを求めてくれなかったんだ。
 何で。

「衛宮先輩」
 代羽の視線が、俺の横っ面に突き刺さる。
 でも、俺は彼女の顔を見ることが、出来なかった。
 それは、きっと俺の弱さだ。
 彼女は、何も言わなかった。
 もしかしたら、俺の内心なんて、とっくにお見通しなのかも知れない。
 その上で、俺を恨んでいるのかもしれない。
 なんで、助けてくれなかったのか、と。
 どうして、助けてくれなかったのか、と。
 そう思われても、仕方ない。
 それが、俺の罪だ。
「なぁ、代羽」
「ねぇ、衛宮先輩」
 不意に声が交差した。
 何となく、気まずい空気が流れる。
「お先にどうぞ」
「いや、大した話じゃないから、代羽から頼むよ」
 彼女は苦笑して、それでもおずおずと、口を開いた。
「では、遠慮なく。衛宮先輩、あの夜、私が言ったこと、覚えてますか?」



[1066] Re[52]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆e6dabb25
Date: 2007/08/17 07:32
 自分だけでも生き残りたい。
 彼を捨てても生き残りたい。
 そう思ったわけではない。
 ただ、どうでもよくなっただけ。

 死ぬ。
 確実に死ぬ。
 今死ななくても、十分後には死ぬ。
 十分後に死ななくても、次の朝日を拝むことは叶うまい。
 そう思った。
 だから、せめて楽になりたいと。
 そう思ったのだ。

 この手を離せば彼は死ぬ。
 呼吸するたびに空気が肺を焦がす。
 そんな異界で、幼子が生き延びる術などない。

 でも。

 この手を繋いだままでも彼は死ぬ。
 足を進めるたびに熱風が肌を焼く。
 そんな地獄で、幼子達が生き残る術などない。

 だから。

 私はこう思った。
 人は一人で生まれてくる。
 ならば、
 死ぬときも一人が相応しい。
 そう、思ったのだ。

 そして、彼はいなくなった。
 今となってはわからない。
 手が離れたのか、手を離したのか。
 それは私の選択。
 だが。
 その選択は、罪ではない。

 本当の罪は。
 私だけが、生き残ったこと。

 
「ほら、ちゃんと挨拶しろよ。僕に恥を掻かせるな」
 兄の言葉は、ほとんど聞き取ることが出来なかった。

 目の前に立つ少年。
 くせのある赤毛。意志の強そうな瞳。
 誰が否定しても、私は確信した。
 ああ、彼が生きていたのだ。

 彼の存在は私の原罪。
 私の罪は彼から生まれ、
 私の中に沈殿し、
 そして、どこにもいかない。

 だから、私は恐怖した。
 彼に、許されることに恐怖した。
 この罪が無くなれば、私は私でなくなる。
 私が、殺される。

 故に、私は微笑んだ。
 恐怖を隠すために、微笑んだ。
 怯えを隠すために、微笑んだ。
 涙を、隠すために、微笑んだ。

「はじめまして、間桐 代羽です」

 この出会いは、奇跡などではない。

 本当の奇跡は。
 私の声が、歓喜に震えなかったこと。


episode47 彼の罰、彼女の罰

「では、遠慮なく。衛宮先輩、あの夜、私が言ったこと、覚えてますか?」
 突然、だ。
 あまりに突然の、台詞。
 あの夜?
 一体いつのことだろう。
「セイバーさんと先輩に、家まで送っていただいた、あの夜のことです」

『これを録音したのは、お前んちでやった『料理合宿』から帰ってきた日だよ。あいつ、いつもはマグロみたいに何にも反応しないのに、この日は珍しく嫌がったんだ。その理由が、遠坂の服を汚されたからだってさ。健気だね、全く』

 ああ、あの夜のことか。
 優しい驟雨の降る、暖かい夜のことか。
 俺とセイバーと代羽と、三人で人気の無い夜道を歩いた夜のことか。
 お前が、慎二に、犯された、あの、夜の、ことか。

「あの夜、先輩のお宅の縁側で、私が言ったこと、覚えてますか?」
 お前が何を言ったか?
 そんなこと、忘れるほど耄碌しちゃあいないつもりだ。
「…『あなたはどうして正義の味方になりたいのですか?』、確か、こう言ったよな?」
「良く出来ました、大正解です」
 彼女はアシカを褒めるみたいに、にっこりと笑った。
「貴方はまだ、正義の味方などという、お化けみたいなものを目指しているのですか?」
「…その言い方、少し気に障るけど、そのとおりだ」
「では、貴方の目指す正義の味方とは、一体、どんなものなのでしょうか」
 正義の味方。
 それは、少なくとも俺にとっては一般名詞ではない。
 固有名詞。
 ただ一人の人物を差すものだ。
 親父。
 衛宮切嗣。
 彼の目指したもの。
 彼の目指した理想。
 争いのない世界。
 あらゆる悪のない世界。
 誰も、涙を流すことのない、世界。
「…泣いている人を助けるのが、正義の味方だと思う。誰もが幸せであってほしいと、そう願って、そう願い続けて―――」
 それが、彼の姿ではなかったか。
 義父の、そして、彼の―――。
「愚答です。それでは、質問の趣旨に答えていない。その定義では、この世の大半の人間が正義の味方ということになってしまう。結局のところ、人は、人の幸せを願う者ですよ、衛宮士郎」
 その視線は、その微笑みは、俺の深奥を射抜くように。
「じゃあ、代羽、お前はどう思うんだ」
「正義の味方の定義、ですか?」
「ああ、それでもいい。お前の考えを聞かせて欲しい」
 そうですねえ、と彼女は顎に手を当てた。
 退けない。
 何かのために、退けない。
 ここで退くわけには、いかない。
 しかし、己の思考を整理するように、彼女は目を閉じた。
 そして、目を閉じたまま、言った。

「―――他者に対する重度のペシミストで度を過ぎた努力主義者。かつ、己に対する致命的なヒロイックナルシズムと誇大妄想的な強迫性障害を併発した精神病患者」

 そんなところでしょうか、と。
 目を閉じ、口元に笑いを含みながら、そんなことを、言った。
 口元は笑っていたが、言葉は笑っていなかった。
 その言葉に、熱は無かった。
 熱は無かったが、火傷しそうだった。
 冷たすぎて熱い、ドライアイスみたいな言葉だった。
 そして、彼女は言った。
 鬱屈した思念を吐き出すように、話し続けた。


「『正義の味方』という言葉には、必ず『救う』という概念が対になる。しかし、金策に困った個人を救う正義の味方など、あまりに卑小。まぁ、世間では一番ありがたがられるかもしれませんがね。ならば、救う対象は大きければ大きいほど相応しい。その最たる例が、人類とか世界とかでしょうか」

「観念的に言えば、人はその内面に一つの世界を有しているといっていい。『人一人の命は地球よりも重い』、そう言ってテロリストに屈服した国がどこかにありましたが、それはある意味においては極めて正しい見解だ」

「しかし、少なくとも、質量という観点で見たとき、人一人という存在は、世界という基準をもってすればあまりに小さい。小さ過ぎる。砂浜という概念は砂という粒子によって構成されているが、砂浜という単語の持つイメージの中に、厳密な意味での砂の一粒は含まれていない」

「近視眼的に考えれば、砂粒が影響を与えることができるのはその周囲の砂粒だけであり、それ以外に影響を及ぼすには彼らの手は短すぎる。そして、彼我を囲む環境はあまりに苛酷だ。風も、雨も、波も、全てが砂粒にとって、人智を超越している。しかし、それはある種、救いであるかもしれない。彼はその周りの砂粒だけは確かに救うことができるのだから」

「俯瞰して考えれば、九を助けるために一を切り捨てるとか、矛盾を承知の上で十を丸ごと助けるとか、一体そのどちらが正しい解答なのかとか、そういった煩悶それ自体が意味を持たない思考だということが良く分かる。砂の一粒がその身をダイヤモンドに変えたところで、あるいはその周囲の砂粒を砂金に変えたところで、それは砂浜にとって何の意味も持たない。十粒の砂金も、九粒の砂金も、砂浜にとっては同義だ」

「どちらでも構わない。どちらに視点を置くかは個人の責任だ。しかし、砂粒に視点を置けば、砂浜を救うことは明らかにその器量を超えた絶事であり、砂浜に視点を置けば、あらゆる砂粒が矮小すぎて、その全てを救うのは不可能だ。砂浜と砂粒の両の視点を抱くというのは、人の身に許された領域を超えているでしょうね」

「結局のところ、世界という物差しに対して人の身は矮小すぎるのです。いや、世界が重過ぎると言ったほうが正確でしょう。それが、この議論の帰結。卵が先か鶏が先か、その議論に意味が無いのと同じ。どういう過程を経ようと、結論は変わらない」

「しかし、彼らは違う。彼らは、己が何かを為せると考えている。己という砂粒が砂浜に影響を与えうると。もしくは、己という砂浜が卑小な砂粒の全てを認識することが叶うと。そう、考えている。そして、その限界を知らない。弁えようとしない。まるで、それが一つの美徳みたいに。さらに、彼らは常に脅えている。自分のせいで誰かが助からなかったんじゃあないか、と。自分の掌から何かが毀れてしまったのではないか、と。それは己に対する過信であると共に、他者に対する侮蔑だ。人は自分の人生に責任さえ持てれば、それで十分。他人のそれの責任まで負おうとするのは、弱者に対する蔑視に他なりません」

「良し悪しは置いておけば、世界は完成されている。それはシステムと言い換えることができるでしょう。衛宮士郎、システムというものの定義はね、『運用する個人の性質が変わろうとも、事物の結末が変わらない』、そういうことです。つまり、一個人が如何に奮戦しようとも、世界は明日も回り続けます」

「その中で、たった一人の個人が何かを為せると勘違いするのは、己に対する過大評価というだけでなく、己以外の他人悉くに対する挑発だ。特に、あくせくしながら日々の糧を得るために奔走している名も無き人々、もっとも正義の味方が救うべき対象をこそ、彼らはもっとも痛烈に蔑視している。ある種の選民思想に共通する類の臭気を感じざるを得ない」

「更に言うならば、この世に本当の意味の悪など、極一握りしか存在し得ない。純粋なそれが存在し得るのは、神話や御伽噺の世界だけです。この世に溢れるのは、他者と異なる正義の辞書のみ。その厚さの違い、或いはそこに書かれた言語の違いこそが、人の涙を生むのです」

「世界は正義に満ち溢れていますよ、衛宮士郎。貴方は、正義の味方として、その世界で何を為したいのですか?何を為そうというのですか?どの正義に対して味方をするつもりですか?それとも、己の辞書の厚さを自慢したいですか?己の辞書の正しさを広めたいですか?それならば、私は―――」


 貴方を軽蔑します、と。


 彼女はそう言って、その口を休めた。
 少し、風が吹いた。
 冬場には珍しく、暖かい、頬が緩むような風だった。
 彼女は、傍らに置いていたペットボトルを取ると、それを一口飲んで、ほう、と溜息を吐いた。
 憎々しい、そうは思わなかったが、ほんの少し、疎ましかった。
「お前の言いたいことは分かるけど、代羽、じゃあ、苦しんでいる人がいても、仕方ないと諦めるのか?泣いている人がいても、当然だと見捨てるのか?それがあるべき姿だと悟った振りをして、偉そうに踏ん反り返るのが正しいって言うのか?それは違う。それは、絶対に違う。そんなの、認められない」
 彼女は、さも嬉しそうに頷いた。
「ええ、私もそう思います。いつだって、時代を変革するのは弁舌家ではなく革命家、賢明なる求道者ではなく愚昧なる行動者です。だから、貴方の言っていることは極めて正しい。私が言っているのは、そういうことではないのですよ、衛宮士郎」
 知らぬ間に、彼女は俺をフルネームで呼んでいた。
「分を弁えろと、極論すればそういうことです。己に何が出来るか、そして何が出来ないか、行動する前にとことん考えろ、そういうことです。貴方は砂粒ですが、きっと優しい砂粒です。周りに助けを求める砂粒があれば、それを助けることは十分に可能なはずだ。しかし、己を砂浜であると勘違いして全ての砂粒を助けようとすれば、そこには認識の齟齬が生じる。それを理想とか、正義とか、訳のわからないイメージで誤魔化すな、そういうことです」

「貴方の主義主張の出自は問いません。それを借り物だとか、偽善だとか、言いたい人間がいるならば言わせておけばいい。偽善者、その言葉を使って他者を否定する人間は、己が真なる善人だと信じて疑わない恥知らずです。自己満足、その言葉を使って他者を否定する人間は、真に自己を満足させたことの無い咎人です。そんな者の言に惑わされる必要など、一切無い」

「他者を頼りなさい、衛宮士郎。己の手が短いことを自覚するべきです。貴方の手の届かないところで苦しむ砂粒は、手の届くところにいる砂粒が助ければいい。そして、己を鍛えなさい。その手を長くするように、修練を積みなさい。羽撃くこともできない雛鳥が大空を目指しても、地上で舌なめずりする蛇を喜ばせるだけですよ」

「…つまり、こういうことか?『自分に出来る範囲のことだけをしろ』と」
「ええ、そういうことです。己の限界を知らないのは無知ですが、それを知ろうともしないのは、もはや罪悪の域にある。貴方は、罪人ではないでしょう?」
 彼女は、我が意を得たり、というふうに、にっこりと微笑んだ。
 俺は、痛みと共に彼女から視線を外した。
 分かっている。
 彼女が言っていることがある種の正しさを持っていることくらい、分かっている。
 それでも、彼女が正しいことを言っていないことくらい分かっている。
 切嗣は、そんなものを目指したんじゃあない。
 そんな、世界のどこにでも転がっている一般論を求めたんじゃあない。
 もっと、本質的で、普遍的で、決定的なものを目指していたはずなんだ。
 例えば、この世から全ての悪を根絶する、そんな夢物語みたいなことを。
 それがどうなったのか、俺は知らない。
 きっと失敗したんだろう。だから、あの晩、あんなにも、寂しそうだったんだ。
『爺さんの夢は俺が、ちゃんと形にしてやっから』
 もし成功していたら、幼い俺の、何の抵当もついていない無責任な言葉、それを聞いてあんなにも嬉しそうにするはずが、ない。
 それでも、俺は助けられたんだ。
 切嗣に、助けられた。
 それがどんなに嬉しかったか。
 あの地獄の中で、見上げた視界に彼の顔が映りこんだとき、どれほどの安堵がこの身を包んだか。
 あの感情の前では、千の言葉だって役に立たない。
 救われる事は、何よりも救いなんだ。
 それは、俺が誰よりも知っている。
 そして、救うことだって、きっと救いなんだ。
 だから、あのときの切嗣は、あんなにも嬉しそうだった。
 ただ、嬉しそうだった。
 だから、俺は思ったんだ。
 俺も、彼みたいになれば、きっと救われるんじゃないか。
 誰かを救えば、きっと、あんな笑顔を浮かべることが、出来るんじゃないか―――。

「それは、違いますよ」

 どきり、とした。
 聞いたことの無い、声だった。
 針で鼓膜を貫かれたか、そう思わせる声だった。
 彼女の表情を伺うこと、それをすら不可能にさせる、そんな声だった。
 そこには温度なんて無い。
 冷たいとか熱いとか、そういう概念が無かった。

「あれは、人を救うことのできた者の浮かべる笑みではありませんよ」

 あったのは、怒り。
 純粋な怒りだけが、あった。
 つまり、彼女は怒っていた。
 決意を込めて、俺は彼女の顔を、見た。
 初めて見た彼女の怒った顔は、しかし、息を呑むくらいに、美しかった。

「あれは、罪人の笑みです」

「代羽、何を―――」
 そして、彼女は、嗤って、いた。
 瞳を、圧倒的な怒りの色で焼き付かせながら、口元だけが、にんまり、と。

「茨の冠を頂き、磔の十字架を背負い、ゴルゴタの丘を登る罪人が、己の犯した罪のほんの一部、それが冤罪であったことを証明できたときに浮かべる、恥知らずな笑みですよ」

「はは、代羽、お前、何を言ってるんだ?」

「聞こえませんでしたか?私はこう言ったのです」


 衛宮切嗣は、恥知らずの、罪人だ、と。


 代羽の姿が、消えた。
 音が、消えた。
 視界が、消えた。
 俺が、消えた。
 黒くなって、赤くなって、また黒くなって。
 体だけがあった。
 筋肉だけが、あった。
 それが、嫌に熱かった。
 熱くて、妙に汗ばんでいた。
 手が、痛い。
 何かを、握り締めていた。
 それでも、考えることはただ一つ。
 代羽は、間違えている。
 重大な勘違いをしている。
 おやじは、衛宮切嗣は、罪人なんかじゃあない。
 だって、俺を助けてくれたんだ。
 俺を助けてくれたってことは、一番偉いってことだ。少なくとも、俺の世界の中では、一番偉いんだ。一番偉いってことは、罪人なんかじゃあないってことだ。そんなこと、お前にだってわかるだろう?
 それとも、そんな簡単なことも分からないのか?
 だから、そんなに苦しそうな顔をしているのか?
 その手は誰の手だ、代羽。
 お前の襟を取って、首を絞めるように捩じ上げている、その手だ。
 ああ、ひょっとしたら、慎二か。
 また性懲りも無く、慎二がお前を虐めているのか。
 全く、しょうがない奴だな、慎二は。
 あとでちゃんと懲らしめてやるから、安心しろよ、代羽。
 だから、そんなに口を動かさなくてもいいぞ、代羽。
 まるで陸に揚げられた魚じゃあないか。
 そんなに口をパクパクさせても、酸素は喉を通らないぞ。
 だって、この手がお前の喉を、こんなにも強い力で締め上げてるんだから。
 この手?
 あれ?
 この手が代羽を?
 そういえば、なんで彼女は俺の目の前で苦しんでるんだ?
 これじゃあ、まるで俺が彼女の首を絞めているみたいじゃあないか。
 これじゃあ、まるで俺が慎二みたいじゃあないか。
 代羽、代羽。
 お前を苦しめているのは、誰なんだ?
『ぜ……ば…い…』
 蚊の泣くような声が聞こえて。
 俺が戻って。
 視界が戻って。
 音が戻って。
 代羽が戻って。
 そして、俺の手が、彼女の首を、万力みたいな力で、締め上げていた。


「うわっ」

 思わず、手を離した。

「うわっ」

 彼女が、すとんと、ベンチの上に落っこちた。

「うわっ」

 ごほごほと、咳き込む彼女。

「うわっ」

 俺の手に、生々しい彼女の体温が残っていた。

「うわっ」

 ぺたん、と、尻に軽い衝撃があった。どうやら、どこかに尻餅をついたらしい。

「うわっ」

 手が、手が。

 慎二。
 なんで、お前がここにいるんだ。
 なんで、お前の手がここにあるんだ。
 なんなんだ、これは。
 なんで、こんなところに。
 だめだ。
 この手は、許せない。
 だって、代羽を傷つけた。
 俺の、■さんを、傷つけた。
 こんなもの、ここにあっちゃあいけない。
 この世にあっちゃあいけない。
 切り離さないと。
 切り離さないと。
 刃物が必要だ。
 刃物が必要だ。
 鋸がいい。
 できるだけ歪な傷口を作らないと、こいつはまた引っ付いてしまう。
 そうだ、あの時、切り取られていたんだ。
 あのままで、よかったんだ。
 なんで引っ付けたんだ、俺の馬鹿。
 いらない。
 こんなもの、いらない。
 刃物が欲しい。
 欲しいなら、引っ張って来い。
 俺の中から。

「投影、開―――」
「だ、ばりなざ、い、ごぼっ」

 陽光が、遮られた。
 何かが、俺の前に立っていた。
 そして、俺はその何かに、抱きしめられていた。
 何だろう。

「ごぼ、ず、びばぜんでじだ…ごぼ、ごぼ」

 暖かくて、心地よかった。

「ごほ、あなだの、いちばん、いたいとごろに、ごほ、どそくで、あがりこみました」

 なんだか、懐かしかった。

「げほ、ゆる、げほ、ゆるしてください、また、あなたをみすてるところでした」

 なんで、あなたがあやまっているんだ。

「私も、なのです、えみやしろう」

 あやまらないといけないのは、おれじゃあないか。

「私も、笑ったことがあるのです」

「ご…めん」

「私も、己が見捨てた者の前で、恥知らずにも、笑ったことがあるのです」

「ごめん、なさい」

「死んだと思っていた、その者が生きていたことを知ったとき、恥知らずにも笑ったのです」

「これじゃあ、しんじといっしょだ。あなたを、きずつけた」

「己の罪が許されたと、そう思ったのです。ほんの一瞬だけ、神に感謝してしまったのです」

「ごめん、ゆるしてください…」

「許します。貴方の罪は、全て私が許します。誰が許さなくても、絶対に私だけは許します。ですから―――」


 ―――どうか、しばらくのあいだ、このままで。


 彼女は、立ち上がって、スカートの裾を直していた。
 俺はその後姿をじっと見つめた。 
 何も、話せない。
 俺は、彼女を傷つけた。
 彼女がそれを許しても、俺が許せない。
 こんなの、慎二と一緒だ。
 違いがあるとすれば、そこに理性があったかどうか。
 いや、もしかしたら、慎二だって最初はこうだったんじゃあないか。
 何か、大事なものを汚されて、侮辱されて、自分を見失って。
 彼女を、汚してしまったのでは、ないだろうか。
 ならば、俺は、慎二と同類だ。
 あれほど憎み、あれほど蔑んだ慎二と、同類だ。
 俺は、最低、だ。
「許せませんか、衛宮先輩」
 彼女は振り返らずに、そんなことを、言った。
 ぱんぱんと、スカートのお尻のところを両手で叩きながら、それでも振り返らずに。
「自分が、許せませんか、衛宮先輩」
「…ああ、許せない」
「私もです。私も貴方が許せない」
 冷たい声だった。
 心のどこかに残っていた甘い期待を、端から端まで両断する、そんな声だった。
「絶対に許しませんよ、覚悟しておいてください」
「…ああ、なんでも、言ってくれ」
 彼女は、振り返った。
 きっと振り返ってくれないと思ったから、少し嬉しかった。
「全く、女性を食事に誘っておいて、食べさせたのがあんな貧疎なハンバーガー一つですか。恥を知りなさい、衛宮士郎。私は、絶対に許せない」
「…はっ?」
 彼女は、ベンチに腰かけたまま項垂れ、しかし唖然とした、そんな俺を見下ろしながら、くすくすと、本当に楽しそうに微笑った。
「償いはして頂きます。せいぜいバイトに励みなさい。私の胃袋は、貴方の想像するよりもずっと大きい。そうですね、とりあえずフルールのベリーベリーベリーとラフレシアアンブレラの予約は忘れないように」
「…飯は、お前が勝手についてきただけだろう?勝手についてきて、勝手に食って、それで、文句言うか、普通」
 彼女は、今度こそ、にっこりと、笑った。
 この公園にだけ、一足先に春が来た、そんな笑みだった。
「それでも、貴方は私を誘いました。ならば、後の責任は全てが男性に帰する。そうは思いませんか?」
 …はっ。
 こりゃあ、勝てない。
 きっと、凛にだって、桜にだって、藤ねえにだって、俺は一生勝てないけど。
 きっと、こいつには、輪を掛けて、勝利の女神はえこひいきをかましてくれるだろう。
 それもいいさ。
 えこひいき万歳。
 ホームタウンデシジョン、大いに結構。
 だって、この件については、アウェイ側に、全くやる気が無い。
 両手を挙げて、全面降伏している。白旗だって、千切れそうなくらい振り回してやる。
 審判も、勝利の女神だって、勝負の結果を変えるのは不可能だ。最初っからこっちが負けを望んでいるんだから。
 それでいいさ。
 それが、多分正解だ。
「ああ、ほんと、そうだな。ごめん、許してくれ」
「ふふ、分かっていただけたようで幸いです」
 彼女は黒い外套を丁寧に畳んで、脇に抱えた。
 その様子を眺めながら、決意のための深呼吸を一回。
 …、よし。
 正しいかどうかは分からないけど、言うべきことは言わないと。
「それと、今まで、ごめん。俺は、気付いて、やれなかった」
 慎二が、お前にしてきたことを。
 一つも、気付いてやれなかった。
 気付かずに、へらへらしてた。
 もう少し愛想良くすればいいのにとか、あまりに自分勝手なことを言っていた。
 だから。
「許して欲しい。本当に、ごめ―――」

「…貴方は、何を言っているのですか?」

 彼女は、怪訝そうに、俺を見た。
 顰められた眉、しかし、その容姿には、些かの曇りも無い。
「慎二が、お前にしてきたことだ。俺は、あいつとお前の一番傍にいたのに、何も気付けなかった。そんなの、共犯と一緒だ」
「…確かに、躁鬱の気の激しい人でしたから、殴られたり蹴られたりは日常茶飯事でしたが…そんなこと、私だって黙っていない。相応の復讐は欠かしませんでしたから、別に貴方に謝れられる筋のものではありませんが…」

 えッ?

 でも、あいつは確かに…
「それに、殴られた蹴られた程度、子供の兄妹喧嘩と一緒でしょう?誰かが責任を感じなければならないほど、重いことではないと思いますが、違いますか?」
 じゃあ、あの声はなんだ?
 慎二が持っていた小さな機械から聞こえた、お前の声はなんだったんだ?
「じゃあ、あの晩遠坂に借りた服は…」
「クリーニングに出している最中です。まさか、家の洗濯機で洗って、はいどうぞ、という訳にもいかないでしょう?」
 そんな、馬鹿な…。
 じゃあ、慎二は何を言っていたんだ?
 慎二が嘘を吐いていたのか?
 それとも、代羽が嘘を吐いているのか?
 何のために?
「…それとも、まさか私がそれ以上に下劣なことを兄に強要されていた、そんなことは言いませんよね?」
 びくり、と。
 我知らず、肩が震えた。
 なんて正直者だ。
 吐き気が、する。
「…本当ですか?…全く、貴方という人は…」
 彼女はゆっくりと頭を振った。
「きっと、ここは怒るべきところなのでしょうが、貴方に免じて許してあげます。一応言っておきますが、私は今だかつて男性と閨を共にしたことは一度もない。下種な言い方が許されるならば、処女、そういうことです。もし、私の純潔を疑うなら―――」
 彼女の小さな顔が、妖艶に微笑んだ。
 そして、その表情のまま、ゆっくりと近づいてきて。
 耳元で、囁くように、こう言った。

「あなたが、ためしてみますか?」

 こそばゆい吐息と共に、そんな言葉が耳道に注ぎ込まれた。
 頭が、真っ白になった。
 何も、考えられなくなった。
 血液が、沸騰しているみたいに、顔に集まっていくのが、わかった。

「かわいいひと」

 ちろり、と、耳道の入り口が何かに舐められた。
 彼女は微笑みながら、俺を眺めたまま一歩後ろに下がった。
 その表情で、俺はからかわれているのだと、悟った。
「代羽、お前―――!」
「ふふ、失礼はお互い様。これでおあいこ、そういうことにしておきましょう?」
 そして、代羽は、公園の出口のほうにくるりと向き直って、背中を俺に向けたまま、こう言った。
「フルールの件、忘れないで下さい。これでも、結構楽しみにしているのですから」
「…ああ、分かったよ」
「約束、しましたよ」
 遠ざかっていく彼女の背中。
 その時、俺は気付けなかった。
 慎二を評する彼女の言葉、そこに過去形の動詞が使われていたことに。
 そして、これが、間桐代羽という女性の姿を見る、最後の機会であったということに。



[1066] Re[53]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e6dabb25
Date: 2007/08/18 08:31
interval5 IN THE BACK ALLEY

 少女が、歩いていた。
 大通りである。
 それにしては、人通りが多いとはいえない。
 地方都市の冬木市であるが、人口自体は数十万を数える。
 その中心部、決して人そのものが少ないわけではない。
 少ないのは、外出する人間の数だけ。
 異様な雰囲気に支配され、神隠しとしか思えないような失踪事件の多発している街。
 思い起こされるのは、十年前の悪夢。

 慮外の事件の数多。
 ホテルの倒壊。
 幼子の失踪。
 夜を切り裂く、化け物の威容。
 そして、あの火事。
 冬木が死んだ、夜。

 どれほど楽観的な人間でも、一抹の不安を抱くのは仕方あるまい。
 ならば、周囲に人影が少ないのも当然か。
 しかし、それでも大通りである。
 仕事に追われる類の人間は、言い知れぬ不安や根拠の無い噂程度で家に篭もれるほど幸せな人種ではない。
 彼らは、歩く。
 己の、そして家族の生活の糧を得るために、歩かざるを得ない。
 結局、たいした用事を持たない者、外部から冬木に訪れる酔狂な者がいなくなり、どうしてもここを歩かねばならない人間だけが残った。
 そして、人通りが疎らになったのだ。
 自然、ぴりぴりとした空気が、街全体を支配している。
 時間は昼過ぎ。
 太陽の息吹が、夜に冷えた空気を暖め、ようやく吐息の白さが薄れてきた、そんな時間である。
 彼女は、嗤っていた。
 美しい、その表現を許された、数少ない本当に美しい、少女である。
 髪は、長い。
 少し眉が太めであることが目を引くが、それ以上に目鼻立ちは整っている。
 上背はそれほどでもない。むしろ、同年代の少年少女の中では、かなり低い部類に属するはずだ。
 その少女が、嗤っていた。
 人塵の中、一人、嗤っていた。
 微笑んでいたのではない。
 声を上げて、嗤っていた。
 周囲には、誰もいない。
 人そのものがいないのではない。
 人は、いる。
 なにせ、大通りである。
 そこから人影が全く途絶える、そんなことは深夜でも中々あることではない。
 いないのは、あくまで彼女の周囲のみ。
 声を上げて一人狂笑する少女の周り。
 そこにのみ、人影が、全く無い。
 当然である。
 元々が美しいその少女。
 しかし、目を見開き、辺りを憚らずに声を上げて嗤い転げる様は、余人の理解を超えていた。
 もとがなまじ美しいだけに、その崩壊した様子は致命的なまでに凶。
 近寄れない。
 近寄り難い。
 周囲の人間は、一様に眉を潜めながら、彼女の立った場所、そこの外周を通り過ぎる。
 腫れ物を避けるように。
 忌まわしいものから目を逸らすように。
 そして、通り過ぎた後で。声量を抑えてこう囁きあうのだ。
 あの女、おかしいんじゃないか、と。


「見つけました!」
 我が主は、そう叫んだ。
 人通りの途絶えた、薄暗い路地。
 そこを見つけてから私に声をかけたのは、彼女に許された最後の自制心だろうか。
 彼女は嗤いながら歩き、いつしか嗤いながら走り出した。
 息を切らし、舌を出すように喘ぎ、それでも嗤い続けたのだ。
 そして、今は、生ごみの腐臭の残滓の濃い、薄暗い路地にいる。
 暗殺者である私には、ある意味なじみの深い場所である。
「やっと、やっと見つけました!」
 膝に手をつき、その乱れた呼吸を整えようとする彼女。
 しかし、その表情は、狂おしいまでに輝いている。
 目は炯炯と輝き、口元にはうっとりするような笑みが浮かんでいる。
 その一つ一つは、英霊である私の目をすら奪わんばかりに、美しい。
 しかし、その全てを目に入れると、暗殺者である私すら目を背けたくなるほどに、醜い。
 その彼女が、私に話しかけてくる。
「なるほど、確かに貴方の言うとおりです!」
 突然、視線を向けられた。
 そこにあったのは、歓喜。
 信徒が天啓を授かった、その瞬間でも、ここまで輝かしい瞳を浮かべ得るのだろうか。
 前髪は、汗で額に張り付いている。
 鼻腔は大きく膨らみ、青紫色の唇と相俟って、彼女が酸欠寸前であることを私に教えてくれる。
 それでも、彼女は嗤っていた。
 その視線が、あまりに重過ぎて。
 私は、思わず後ずさった。
「…何が、言うとおりなのだ?」
「私は醜かった!」
 彼女はそう言い切った。
 その声を歓喜で震わせ、しかし、それ以外の何かも振り撒きながら、そう言い切ったのだ。
「なるほど、貴方の言ったとおりだ!従者に救いを求める主、そんなもの、醜悪以外の何物でもない!」
 それは、昨日の朝、私が言った言葉か。
 『己の従者に媚びる主など、この上なく醜悪だ』、確かに、私はそう言った。
 あの時、彼女は震えていた。
 その小さな肩を己の罪を恐れるかのように、細かく震わしていた。
 しかし、今はどうだろう。
 いつの間にか、彼女は体を起こしていた。
 呼吸のペースは、通常のそれに戻っている。
 背筋はぴん、と伸び、轟然と胸を反らしている。
 そして、なによりその瞳。
 そこには、罪の意識など、一片も無い。
 ただ、決意と、歓喜と、そして、やはりそれら以外の何かが、そこには在った。
「…では、貴方はいったい何を見つけたというのだ?」
 彼女の呼気は、極めて冷静。
 太陽の差さぬ、うらびれた路地裏。
 その冷たい空気の中でも、彼女の吐息が白くなることは無い。
 なんと言うことは無い。
 彼女の吐息に、熱が無い、それだけのことだ。

「―――敵を」

 にこやかな表情、それ自体はそのままに、彼女はそう言い切った。
 そこに、狂熱は、無い。
 圧倒的なまでに、冷たく。
 そして、その声に隠し切れない一つの感情を孕ませながら。
「やっと、見つけました。私の倒すべき、敵を」
 その感情。
 先ほどまでは、辛うじてその姿を隠し得ていた、感情。
 しかし、先ほどまでの彼女が振り撒いていた、歓喜、決意、狂気、それらを遥かに凌駕する、感情。

 憤怒。

 それが、その冷たい声の中に、含まれていた。
 いや、その表現は正しくない。
 その声の冷たさそのものが、彼女の怒りだ。
 触れれば火傷する、液体窒素のように。
 彼女の怒りに触れるものは、地獄の苦しみを味わうことになるのだろうか。

「殺しましょう、アサシン」

 その単語は、私にとって、あまりに耳に優しい。
 生前も、そして死後も、私の存在理由である、その単語。
 彼女の口からそれを聞いたのは、これが幾度目だろうか。
「殺しましょう、アサシン」
 彼女は、己の感情の機微を噛み締めるかのように、繰り返してそう言った。
 その瞳には、ほんの僅かな驚きが含まれていた。
 ひょっとしたら、そんな単語を吐きだした自分が、どこかで信じられないのかも知れない。
「遠坂凛を殺しましょう。遠坂桜を殺しましょう。藤村大河を殺しましょう。イリヤスフィール=フォン=アインツベルンを殺しましょう。言峰綺礼を殺しましょう。セイバーを殺しましょう。アーチャーを殺しましょう。キャスターを殺しましょう。ランサーを殺しましょう。バーサーカーを殺しましょう。金色の男を殺しましょう。立ちはだかる者、罪深き者、その悉く、その全てを、躊躇無く殺しましょう」
 その言葉を聞いて。
 思わず、仮面の下に苦笑が漏れた。
 この人は、なんと可愛いらしいことを言うのだろうか。
 なんと、微笑ましい人なのだろうか。
 そんな、簡単なこと。
 そんな、簡単な真理。

 坊主に会えば、坊主を殺し。
 親に会えば、親を殺し。
 仏に会えば、仏を殺す。

 それが、この世の真理ではないか。
 彼女は、そんなことも、知らなかったのか。
 そんなことも知らずに、苦しんでいたのか。
「私は、最早恐れません。そして、とても幸せ。目的の定まることが、ここまでの幸福を齎すとは、夢にも思いませんでした。『人の歩みを止めるのは絶望ではなく諦観、その背を押すのは希望ではなく意志』、その言葉の意味が、今はとてもよく分かる」
 にこりと、まるで天使のように微笑った彼女は、獰猛な肉食獣のように牙を剥いた。
 年端も行かぬ少女には、あまりに似つかわしくないその表情。
 いや、それは違うか。
 聖画に描かれる天使の翼は、実は猛禽類のそれと同一である。
 ならば、天使の笑みと猛獣の笑みは、同じ空間に存在しうる、ということだ。
 彼女は、その両方なのだと思う。
 どちらが本当の彼女、などという感想は笑止なものだが、その歪な捻れが彼女の本質なのは間違いあるまい。
 そして、私は思うのだ。
 痛々しさと、一抹の憐憫。
 それを噛み締めながら、私は思うのだ。
 美しいものを汚していく、破滅的な快楽とともに、私は思うのだ。
 ああ、愛おしい、と。

「恐れぬか」
「恐れません」
「脅えぬか」
「脅えてなるものですか」
「殺すか」
「笑いながら」
「地獄に、堕ちるか」
「それが、私の望みです」

 私は、彼女の前に跪いた。
 おそらく、これが二度目だ。
 しかし、これは必要な儀式だ。
 我々が本当の意味で主従となる、そのために必要な儀式。
 私は彼女を見据える。
 彼女は、私を見据える。
 凛と立つ彼女。
 その眼前に跪く、私。
 その視線の高さは、同一。
 まるで、それが初めてのことのように、私と彼女は見つめあった。
 腐臭の香る路地裏が、永遠の契約の聖地となる。
 そう、この時は、永遠だ。
 たとい、世界が我々を忘れたとしても。
 私が、覚えている。
 そして、しばしの沈黙。
 やがて、彼女はその手を差し出す。
 白く、いかなる不純物も含まれぬ、手。
 痣も、黒子も、そして契約の文様も描かれぬ、純白の肌。
 私は、そっとその手を取った。
 おそらくは、壊れ物を扱うような、辿々しい手付きで。
 それでも、或いは、だからこそ、彼女は微笑いながら、それに応じてくれた。

「ですが、地獄に堕ちても貴方は私と共にありなさい。私から離れるなんて、絶対に許さない」

 私は、陶磁器も恥らう程滑らかなその手の甲に、そっと口付ける。
 仮面を介して、その感触が、私が自らの手で削げ落とした唇に伝わる。
 その感触の、なんと甘美なことか。

「ここに再び誓う。この身は、主殿の生ある限り、その影と共に。そして―――」

 私は、最後に、こう言った。
 哀れみと、それ以上の喜びを込めて。

「ようこそ、修羅道へ」



[1066] Re[54]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e6dabb25
Date: 2007/08/19 01:55
「確かに、渡したぞ」
「ああ、確かに受け取った。君と、君の主に礼を言う」
 目の前の男は、恭しく頭を下げた。
 直接この男を見るのは初めてだが、彼の身に付けた法衣には、失われた記憶を刺激する何かがあった。
 そうだ、私は殺した。
 私の神の御名のもと、彼と同じ宗派に属する僧侶を、戦士を、王族を、それこそ数え切れないほどに。
「どうかな、英雄を労うというにはささやかだが、酒宴の席を設けてある。君の信奉する神の血ではないが、中々に芳醇な酒だ。それほど急ぎという訳でもあるまい?」
「…私の神と、貴様の神は、些か仲がよろしくないらしい。折角だが、遠慮しておこう。それに―――」
「それに?」
「…主が心配だ」
 私がそう言うと、彼は微笑った。
 何か、喜ばしいものを見るかのように。
「ふむ、君は知らなかったのか?アレは、君よりも強い。精神的は意味ではない。物質的に、単純な火力として、君を凌いでいる」
「…百も、承知だ」
「ならば、何故君は帰るのだ?彼女の身を滅ぼすほどの危難があれば、君では役に立たない。彼女が凌げる程度の危難であれば、君がいる必要はない。ほら、君が急ぐ必要性など、どこにも無いのだよ」
 その言葉に、言外の嘲りは、無かった。
 ただ、単純な興味として、目の前の神父は私の真意を知りたいらしかった。
「…知らん。しかし、主を守るのが、サーヴァントの務めである。私は、私の存在意義を全うするために、急ぎ帰らねばならぬ、それだけの話だ」
 私は振り返り、扉の方へ向けて歩き出した。
 背中から、嗤い声が、聞こえた。
 隠し切れない愉悦と、深奥を抉るような静謐さに満ちた、矛盾した嗤い声だった。
「なるほど、君は気付けていないわけか。英雄とはいえ、己のことには疎いものだな。何故君が彼女のもとへ急ぐか、教えてやろうか?単純な話だ、君は彼女に―――」
「今、遠坂邸には、遠坂桜しかいない。接触を図るなら、今が好機だ」
 しばらく、如何なる音も、響かなかった。
 ステンドグラスを通じて降り注ぐ陽光が、奇跡みたいにきらきらと輝いていた。
「…了承した。貴重な情報だ。君は、或いは前回のアサシンよりも、優れているかも知れんな」
 思わず、振り返った。
 そこには、深い微笑を湛えて、まるで歳月を経た巨木のように、堂々と直立する、黒い神父が、いた。
「貴様―――」
「あれも、今思えば中々滑稽な道化だったよ。たかが、己の名前を欲しがるために、聖杯という奇跡を必要とするとはな。いや、人間味に溢れていた、そう言うべきか」
「貴様、前回のアサシンのマスター…」
「まさか、君もそうなのかね?名前が欲しいか?ならば、私はそれを与える事が可能だ。君が、その宗派替えを承知するならば、私は君を祝福することが出来る。洗礼名とはいえ、それは君だけに与えられた、神を讃える御名だ。どうかな、前回の我が従者に与えられなかった救済、君は受け取ってくれるだろうか?」
 思わず、殺気が漏れ出した。
 こんなこと、初めてだ。
 私が暗殺者として碌を食むようになってから、初めて感じた、抑えがたい怒り。
 それをもたらしたのが、憎むべきハサン=サッバーハという存在全体に対する侮辱であったとは、想像だにしなかった。
 そして、それを与えたのが、かつて己の神の敵であった偶像を祭る神、その僕であったことも。
「覚えておけ。貴様は、私が殺す」
「くく、暗殺者の頂点たる君に命を狙われるとは、恐怖を通り越して、光栄だな、これは」
 私は、今度こそ出口に向かった。
 しかし、さっき、奴は何を言いかけたのだろうか。
 私が、我が主に対して、何を―――。
 いや、やめておこう。
 この思考は、必要ない。
 ならば、今は一刻も早く、主のもとに戻るべきだ。
 そう考えた私の耳に、二つの音が、聞こえた。
 一つは、奴の不快な笑い声。
 そして、おそらくは奴の手にした二つの赤い宝石、それが擦れあう、チャラリ、という硬い金属音。
 そのいずれもが、他者を不幸にさせるであろう、芳醇な予感によって彩られていた。

episode48 深奥にて

 かつん、かつん。

 乾いた音が、響く。
 その音は、私達の足元から生まれる。

 かつん、かつん。

 乾いた、音だ。
 階段の鉄板と、硬い靴底が奏でる、乾いた音。
 それが、無限ともいえる闇に、吸い込まれていく。
 吸い込まれて、拡散して、やがて消えていく。
 ここは、そういう空間。
 あらゆる光が、吸い込まれ、拡散して、そして消えていく。

 かつん、かつん。

 あらゆるものが、消えていく。
 常識、救済、慈悲。
 人を人足らしめる、温かい何か。
 人が救いと思うような、心地よい何か。
 それが、悉く、消えていく。
 闇が深くなる度に。
 闇が、私の心に、侵食してくる。
 光が、遠くなる。
 ここは、きっとそういう場所だ。
 安っぽい例えが許されるなら、ここは、そう、地獄だ。
 その言葉が、何より相応しい。
 立ち上る、腐臭。
 それは、この身を腐らせるような大気の流れを作り、下から上へ、何かから逃れるように上昇していく。
 その微細な粒子は、一体何から作られた物なのだろう。
 一体、何の身体を構成していた物なのだろう。
 一瞬、蛍を幻視した。
 まるで、失われた遠い誰かの魂、そんなふうに、儚く揺れる、蛍の光。
 それが、星空に向かって立ち上っていく様を、ふ、と幻視した。
 何故、こんな胸焼けのする、吐き気と怖気を同時に引き起こすような空気に、そんな光景を思い浮かべたのか。
 しばらく考えて、納得した。
 これは、きっと魂だ。
 この腐臭は、この下に閉じ込められていた者の、魂なのだろう。
 それが、歓喜しているのだ、そう思った。
 地獄から、本物の地獄よりなお苦しい地獄から、開放されたことに。
 唄が、聞こえた気がした。
 歓喜の、唄だ。
 そして、感謝の唄だった。

    ありがとう、ありがとう。
    私達を、楽にしてくれて。
    私達は、これから天に昇ります。
    もう二度と、地上になんて、降りてくるものか。
    それでも、お願いします。
    貴方にだけ、お願いします。
    倒してください、ここにいる、悪い魔術師を。
    もう二度と、私達のような魂が作られないように。
    お願いします、お願いします。

 そんな唄が、聞こえた気がした。
 そして、自分も悪い魔術師の一人なのだということを自覚して。
 私は、ほんの少しだけ、嘔吐いた。 


 地獄という言葉を思い出す。
 螺旋階段はせいぜい数階分。
 地の獄というにはあまりに太陽に近い距離。
 しかし、そこは紛れもなく地獄だった。
 広い、あまりに広い暗闇。その広さが自分と闇との境をあやふやにする。
 漂う臭気は胸を焼き、吐き気と怖気を同時に引き摺り出す。
 時折聴こえる湿った音。何かが這いずり、そして何かを食らう音。
 結論。
 ここは人の立ち入る場所ではない。
 ここに住むのは、人以外の何かだ。
「何よ、これ…」
 俺の後ろにいる凛が呻く。
 俺は魔術的な素養に疎いが、それでもこの空間の異常さはわかる。いや、この空間の異常さがわからない人間がいるとしたら、そいつは間違いなくどこかが壊れていると断言できる。
 でも、何だろう。
 俺は、何も感じない。
 異常さは、分かる。
 理解ができる。
 しかし、感情が、伴わない。
 何も、感じない。 
「これが、こんなモノがマキリの修練場なの…?」
 凛の声が、どこか遠くに感じる。
 俺と彼女の距離は僅か数十センチ。
 ならば、その間に挟まれた闇が、空間を捻じ曲げているのだろう。
「凛、これが、魔術師の工房、なのか…?」
「ええ、その通り。でもこれは魔術師の工房じゃない。マキリの工房よ」
 肯定と否定が相混ざった返答。きっと、この空間は凛が有する魔術師としての最後の一線、それを容易く踏み越えてしまったものなのだろう。
 目が慣れてくると、この空間の全体が辛うじて把握できた。
 広い。おそらくは地上の屋敷がすっぽり入るのではないか。
 俺達は歩を進める。
 ぴちゃり、と湿った音が響く。
「シロウ、凛、あれを」
 最前列を守りながら歩いていたセイバーが、壁の一点を指し示した。
 其処にあったのは、壁にあいた穴。
 地面に対して水平にあいた穴は、カプセルホテルの安ベッドを思い起こさせた。
 そこにあったのは白い何か。
 俺は知っている。あれが何か知っている。あの赤い異界の中で、腐るほど見たものだ。
 なるほど、あれはベッドではなくて墓穴だったのか。
「あれは餌だな、いや、正確に言うならその食残しか。今日日の蟲は好き嫌いが激しいらしい」
 アーチャーの軽口も、この空間では重苦しく響き渡る。きっとこの部屋の重力のせいだろう。
 あらためて周囲を見渡す。
 地獄だ。
 何にとっての地獄なのか、分からない。
 ひょっとしたら、この場に閉じ込められた蟲達にとってこそ、本当の地獄だったのかもしれない。
 それでも、ここは地獄だ。
 なのに、なんの感情も涌かなかった。
 ここに閉じ込められて、ここでその生涯を終えた人達に対しても。
 ここに閉じ込められて、ただ、闇を這いずることしか出来なかった蟲達に対しても。
 ここを修練場として、その身を蟲に陵辱され続けた、マキリの魔術師達に対しても。
 哀れみも、蔑みも、怒りも。
 何の感情も、涌かなかった。
 ただ、思った。
 安心した。
 代羽が、ここにいなくて、よかった。
 そう、深く深く、思った。


 焼き払う価値もない。
 小一時間かけて入念な探索をした結論がそれ。
 敵は、既にこの場にいない。
 マキリ臓硯も、彼に付き従うサーヴァントも。
 在ったのは、いずれかのサーヴァントの召喚に使ったであろう、機能を失った魔法陣のみ。
 そして、この空間それ自体には、興味すら涌かない。
 只管に嫌悪の対象である。あの子が、桜が例え一時でも、この空間の慰み者であったと思うと、意識の白むような怒りを覚える。
 更に言うならば、この空間は常識の範疇からは外れすぎていて、魔術的には雑すぎる。
 何か、敵のアドバンテージになるようなものでもあるなら話は別だが、今この空間にあるのは濃く汚れた空気と、さらに穢れた蟲が数えるほどだ。
 そう、蟲が数えるほどしかいない。
 考えてみればこれは異常だった。
 あの戦闘からわかるように、マキリの魔術は蟲を使役してそれを成す。ならば、その修練場は本来蟲をもって覆いつくされていなければならない。
 しかし、現にここには数えるほどの蟲しかおらず、さらに言えば、その数少ない蟲が共食いをしているようだ。
 放棄されたコロニー。見捨てられた家畜小屋。
 そんなもの、焼き払うだけ無駄な労力。
「凛、あれを見ろ」
 アーチャーの言葉。
 彼の指の先には壁。しかし、よく目を凝らせば不自然な継ぎ目がある。
 壁に手をあてて解析。あのへっぽこには及ばないが、それでも私は遠坂の魔術師、平均以上の解析能力は兼ね備えている。
 ―――なるほど、隠し部屋。
 私でもアーチャーの指摘がなければ見逃していたに違いない。
 そもそも、この部屋自体が他者から秘されるように作っているのだ。さらに隠し部屋を作る必要性がどこにあるのか。
 開錠の呪を紡ぐ必要はなかった。はじめからそんなもの存在しないのか、それとも部屋の主が、施錠もできないような事態に追い込まれているのか。
 僅かな窪みに手をかけて、用心しながらそれを引く。
 そこにあったのは静謐な空間。
 畳六畳分ほどの、さして広くないスペースに、洋風の机と埋め込み式の本棚。
 書斎、という言葉が真っ先に浮かんだ。
 正常で、日常の空間。しかし、蟲倉という異常な空間の中のそれは、裏返した歪な異常さを醸し出す。
 罠の存在に注意しながら、室内を探索する。
「凛、何か見つかったか」
 小さな声が後ろから聴こえる。まるで、内緒で父親の部屋を探検する子供みたいだ。
 声は小さく。呼吸も浅く。見つかるな。見つかれば怖いお仕置きが待っている。
「ええ、きっと大物」
 本棚に並んだ古めかしい書物。
 聞き覚えのあるものもあればそうでないものもあるが、私の知っているものだけでも相当な価値のあるものが並んでいる。おそらく、この本棚をまるごと売り払えばこの家と土地を倍の規模に増築することができるのではないか。
 しかし、私が手に取ったのは、今まで目にすることもできなかった貴重な古文書ではなく、背表紙もついていない、比較的新しいただのノートだった。
 ぱらり、と表紙をめくる。

『○年○月○日 鶴野が子供を拾ってくる。少なくとも、肉体的な素質は申し分ない。計画の変更を決定。』
 …この日付には覚えがある。たしか前回の聖杯戦争の終結日ではなかったか。
 ぱらり、とページをめくる。


『○年○月○日 素材が目を覚ます。命名も完了。経過は順調。』
 素材?後継者や胎盤という表現ではない。一体何のことだろう。
 ぱらり、とページをめくる。

『○年○月○日 桜を遠坂に返却する。素材をマキリの胎盤とするための調整を開始。淫蟲は使用できないため、他の蟲にて代用。経過は順調。』
 確かに、この日は覚えている。間違いなく、桜が玄関に立っていたあの日だ。紙の痛み具合や字の擦れ具合等から考えても、この日記が虚偽のものであるという可能性は著しく低いか。
 気になるのは、素材が胎盤となる、という記述だ。つまり、『素材』とやらは、初めのうちは胎盤として機能するような存在ではなかったということか?
 ぱらり、とページをめくる。

『○年○月○日 分裂を確認。現在約三十程。選別が難しい。経過はおおむね順調。』
 この部分は、全く意味不明。解明を要する。
 ぱらり、とページをめくる。

『○年○月○日 調整完了。これより淫蟲を用いた調教を開始する。経過は順調。』
 調整とは、前述の『素材をマキリの胎盤とするための調整』のことだろうか。淫蟲が、父の研究日誌に見られるものと同一の存在であると仮定すれば、『素材』は女性であるという可能性が高い。いずれにせよ、おぞましい。
 ぱらり、とページをめくる。

『○年○月○日 クロルプロマジンやメタンフェミン等よりも、古来の方法によってダチュラを精製した薬物の方が、効果が高いことを確認。如何にも手探りな状態。それでも、素材の素質ゆえか、実験そのものは順調に推移。』
 クロルプロマジン?何のことだろう。メタンフェミンは、確か覚せい剤のことだったはずだ。ダチュラ、朝鮮朝顔も精製すれば媚薬や麻酔薬になる、我々には馴染みの深い植物。それほど珍しいものではないが、それを何に使っていたのか。
 ぱらり、とページをめくる。

『○年○月○日 順調に分裂。千を超えた症例は、おそらく初めてではないだろうか。泡沫的なものが多いものの、それでも素材は己を失っていない。驚異的な精神力。経過は順調。』
 まただ。また、分裂という表現。分裂というからには、何かを分けたのだろう。一体何を。思い浮かぶのは、プラナリアや蛸の足の分裂だが、まさかそのようなものではあるまい。
 ぱらり、とページをめくる。

『○年○月○日 分裂が停止。いや、停止というよりも、分裂を凌ぐ勢いで統合が始まっている。詳細は不明。今は静観が必要か。』
 殴り書きに近い字。『経過は順調』の文字で末尾が括られていない、稀有なケース。よっぽどの想定外の事態だったと思われる。
 ぱらり、とページをめくる。

『○年○月○日 尋常ではない勢いで、統合が始まった。理由が、全く分からない。この日の器に問いただすと、『喰われる。恐ろしい』とのみ言い残して、反応が無くなった。おそらく、明日には存在しないものと思われる。』
 この日の器?日によって器が変わる、そういうことか?そもそも、『器』とは何だ?この表現からすると、一個の人格を備えているようだが、前後の記述との整合性に著しく欠ける。詳細は不明。
 ぱらり、とページをめくる。

『○年○月○日 異常の原因となった器を発見。命名完了。時系列に従って、あくまで臨時的に1388号と呼ぶことにする。恐るべき才能。計画の修正に迫られる。』
 珍しく、字が震えている。歓喜か、それとも恐怖だろうか。それにしても『器』という言葉が指し示す意味がわからない。素材がイコールで胎盤だとすれば、器とは何者か。全くの第三者か、それとも。
 ぱらり、とページをめくる。

『○年○月○日 器に本体を移す。これで奴は逆らえぬ。そもそも、器には極めて積極性が少ない。従順、それとも無気力。しかし、その才は脅威の一言。蟲の統率、支配、使役。全てにおいて、歴代の当主を上回る予兆。これを後継者とすることを決定。経過は極めて順調。』
 まただ。また、『器』という表現だ。そして、この頃になると、胎盤に関する記述がめっきり減ってきた。つまり、著者の興味が胎盤から器に移っていったことがわかる。そして、『後継者』という表現。その字からは、隠しきれない恐悦を感じることができる。
 間違いなく、マキリ臓硯は、このとき、喜んだのだ。
 ぱらり、とページをめくる。

 そして、これからは、全く同じ表現が続く。ページをどれだけめくっても、全く同じ文字の洪水だ。

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』
『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』
『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』
『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』
『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』
『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』
『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』
『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』
『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』
『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』 

 几帳面に毎日付けられた日誌に並ぶ『○年○月○日 経過は順調。』の文字。私にはそれが怪物の成長記録にしか思えなかった。
 意図せず震える手を叱咤して、ページをめくる。
 数年分は相も変わらずの文字が洪水のように溢れかえっていたが、最初の日付から四年ほどたったある日、久しぶりに異なった記述が現れた。

『○年○月○日 経過は順調。素材への胎盤としての調整及び器への術の承継は終了。これより戦闘技術の修行のため二人を時計塔へ留学させることを決定』 
 時計塔へ?そして、胎盤と器、初めて『二人』という表現が現れた。つまり、マキリにはまだ見ぬ魔術師が二人も存在するということか?
 代羽がそのいずれかかとも考えられるが、淫蟲を用いた調教が行われているならば、処女膜の存在する彼女は胎盤足り得ない。また、魔術回路の存在しない彼女は、後継者に選ばれることは、間違えてもないだろう。ならば、これは一体。

『○年○月○日 凶報。二人が、時計塔の管理執行部に捕縛された旨。詳細は不明。計画の中断を迫られるか。桜を返したことが、今更ながらに悔やまれる。』
 時計塔の管理執行部に捕縛?それは、つまり神秘の漏洩ということか?ならば、今までの記述と現在の状況が符合する。もう、その二人はこの世に存在しないということだ。

『○年○月○日 吉報。捨てる神あれば拾う神あり。望外の幸運。これにより、二人は時計塔中枢へのパスポートを手に入れたも同然。なにせあの□□□□□□家に向かい入れられたのだ。計画は大きく前進』
 『家』の前が、意味不明の文字。暗号か?そうして隠さなければならないほどの家?しかし、それは―――。

「凛」
 ぽん、と肩に手を置かれた。
 思わず、体が硬直する。
「読み進めるのは、家でも構うまい。この場に敵は存在しなかった。必要なものだけ奪って、早々に立ち去るべきだ」
 聞きなれたアーチャーの声に、恐怖の汗が滝のように流れる。それほどまでに、驚いた。
「…ええ、そうね。さっさと引き上げましょう」
 万が一、時限式の爆弾等がセットしていた場合等を考えると、この場所に留まることは百害あって一理なしだ。自らの工房を吹き飛ばす馬鹿はいないと思うが、それでも追い詰められた鼠は何をするかわからない。
「キャスター、トラップの敷設、終わった?」
「ええ、もし誰かがここに帰ってきたら、悪霊と竜牙兵の群が襲い掛かるわ。そして、その情報は逐一私に伝わる。急ごしらえの物なら、これで十分でしょう」
 私はその返答に満足の頷きで返すと、空洞の中央部に佇んでいた士郎に声をかけた。
「士郎、もうここには用は無いわ。さあ、帰りましょう」
 彼は、振り向いた。
 その表情は、闇と臭気に隠れて分からない。
 ただ、妙に震えた声が、した。

「なあ、凛。代羽は、ここにいなかったんだよな?こんなところに入ったことなんて、無いはずだよな?代羽は、幸せに生きてきたはずだよな?なあ、凛。そうだよな?」

 嗚咽の混じらない、しかし、嗚咽に塗れた声よりも、なお悲痛なその声。
 私は、その声に何も答える事が、出来なかった。
 

「―――そうかな?」

「うん、言われてみれば、そうかも」

「ちょっと、退屈しちゃったよね」

「そういえば、お兄ちゃんとの約束もあったし」

「手紙なんて、失礼だもん。直接迎えにいかないと」

「ついでに、遠坂の羽虫も、叩き潰そっか」

「マキリを殺すか、遠坂を殺すか、迷ったけど」

「そうだね、まずは遠坂を、殺そう」

「そして、お兄ちゃんを、私だけのサーヴァントにするの」

「一緒に行こっか」

「だって、貴方を連れて行かないと、お兄ちゃんに怒られちゃう」

「そうでしょう、ねえ、バーサーカー?」

 ■■■■■■■■■■■■■■■―――――!



[1066] Re[55]:FATE/IN THE DARK FOREST
Name: SHELLFISH◆d8c1beb4
Date: 2007/08/26 15:32
 ひんやりとした、無機質な廊下。
 私は、彼らと共にそこを歩く。
 薄暗い。時折、忘れた頃に姿を見せる燭台の灯りが、ゆらゆらと影を作る程度の光量。
 霧の都を照らし出す無慈悲な太陽も、鼠の籠もる洞穴までは照らし出さない。
 だから、ここはこんなにもひんやりで、薄暗い。
 肌が、軽くちじこまる。
 吐息に微塵の白さを感じて、流石に苦笑した。
 それでも、歩く。
 果ての知れない、廊下。
 そこを飾る、様々な遺物。
 石像があり、標本があり、杯があり、そして剣があった。
 ここは、博物館。
 決して人の目に触れえぬ物ばかりを集めた、博物館としての意味を持た無い博物館。
 ここに入る資格を持ったものは、協会でも一握り、その最奥部まで立ち入ることを許されたのは更に極少数。
 私は、そこを、彼らと共に歩いている。
 特に、会話と呼べる会話は無い。それでも、その空気に緊張と呼べるものが無いのは、我々がそれなりの信頼関係を築いている証だろうか。
 彼らはその幾つかに僅かばかりの興味を向けるものの、ほとんどは無視した。本来ならば一生目にすることすら叶わない至上の遺物を目にしても、だ。
「徹底していますね」
 応えるように、後ろから微かな笑い声が聞こえた。
 単一のそれに、私の聴覚は異なる二つの笑い声を感じた。
 きっと、その表情は、鉛みたいに堅牢だ。
 堅牢なまま、笑っている。
 そう考えると、嬉しくなった。
「それが、貴方の望みでしょう?」
 違いない、そう心の中で答えてから、私は歩く速度を心持ち速めた。
 だんだんと、鼻をつく臭気が漂ってきた。
 もちろん、気のせいだ。
 厚さ三センチの特殊ガラスは、固体はもちろん、液体、気体だって通すはずが無い。
 だから、その中に何があろうと、臭いなど漏れるはずが無いのだ。
 だのに、私の嗅覚は、紛れも無く不快を訴えている。
 恐ろしいわけではない。
 あの円筒状の透明な折の中に、例え何が閉じ込められていようと、私は恐れない。
 そもそも、あれらは私よりも弱い。
 生物として、何故己よりも力の劣る個体に恐れを抱かなくてはならないか。
 例え、あれらの全てが息を吹き返しその身を縛る牢獄を破壊しえたとしても、私の前に三分と立つことは叶うまい。
 それほどまでに、力の差は在る。
 だから、私が抱いているのは、不快感のみ。
 もし、彼らの懇願がなければ、私は二度とこんな場所に来ることはなかっただろう。
 そんなことを考えながら、歩く。
 こつこつ。
 こつこつ。
 二つの足音が、長大な廊下に反響する。
 やがて、目の前に大きな扉が現れた。
「ここですか」
 期待に濡れた、声。
 その声に背中を押されるように、私は錠前を開錠する。
 観音開きのドアを開くと、やはり耐え難いほどの臭気が溢れ出した。
 黴の臭い。
 埃の臭い。
 それは、この空間が誰からも見向きもされない、無為の空間だということを示している。
 その中に、彼らは嬉々として飛び込んだ。
 そして、食い入るように見つめた。
 ホルマリンに漬けられた、異形の者共の、残骸を。
 まるで、己の中に、獲り入れるかのように。
 目を見開き、鼻を膨らませ、忘我の涎を滴らせながら。
 時をおかず、彼女は倒れた。
 鼻と耳から、細く血を流しながら。
 しかし、その表情は恍惚としていて、まるで神と出会ったかのようだった。
 
episode49 人造両儀1 考察
 
 こっち、こっち、こっち。
 時計の音が、鳴っていた。

 こっち、こっち、こっち。 
 部屋にいるのは、俺一人だ。

 こっち、こっち、こっち。
 凛とキャスターは、工房に篭もって、例のノートの解読に忙しい。

 こっち、こっち、こっち。
 桜は、いなかった。帰ってきたとき、この家は無人で、魔術的な施錠がされた状態だった。どこにいったのかは、わからない。
 
 こっち、こっち、こっち。
 セイバーは、仮眠を取っている。少しでも魔力の消費を抑えるため、止むを得ない措置らしい。

 こっち、こっち、こっち。
 アーチャーは、厨房でその腕を振るっている。散々、俺を馬鹿にしてくれたのだ。中途半端なものなら、認めるわけにはいかない。

 こっち、こっち、こっち。
 一人、部屋にいる。

 こっち、こっち、こっち。
 何をするわけでもない。時代遅れのブラウン管、その真っ黒の画面を、じっと見ている。

 こっち、こっち、こっち。
 身体を包み込むように柔らかなソファ。

 こっち、こっち、こっち。
 ゆっくりと、目を閉じる。

 こっち、こっち、こっち。
 今日は、疲れた。

 こっち、こっち、こっち。
 少しだけ、休みたい。

 こっち、こっち、こっち。
 そんなことを考えながら、目を閉じている。

 こっち、こっち、こっち。
 目を閉じて、つらつらと、考える。

 こっち、こっち、こっち。
 自分の不甲斐なさについて、脳細胞を酷使させる。

 弱くなった。
 そう、思う。
 俺は、弱くなったと。
 何度震えた?
 何度泣いた?
 何度慰められた?
 そう、ならば、きっと俺は弱くなったんだ。
 でも、おそらくは、只の自惚れ。
 それを、認めたくないだけ。
 なぜなら、俺はもともと強かったわけではない。
 きっと、根本的に弱かった。
 存在そのものが、弱かった。
 己よりも他者を愛するその思考、それは自我を認める勇気が無いだけのこと。
 自画像を描けない、似顔絵画家のようなものか。
 他者を如何に正確に写し取ろうと、己の本質は見えていない。
 他者は、如何様にも誤魔化せる。
 それでも、自分だけは、どうやら誤魔化せなかった。
 そして、俺は俺に絶望した。
 それは、弱さだ。
 それは、弱さに他ならない。
 ならば、その弱さが露呈した、それだけの話だ。
 さて、誰に露呈したのだろうか。
 決まっている、俺自身だ。
 俺自身が、やっとのことで俺の実態に追いついたのだ。
 追いついて、そして絶望している。
 こんなものか。
 これが、衛宮士郎か。
 そうだ、お前はこの程度なのだ。
 誰も、救えない。
 誰も、認めてくれない。
 誰も、必要としてくれない。
 それでも、お前は歩けるのか。
 あの、荒野を。
 赤く、血に染まったように赤く、鮮血をすら乾き飛ばしてしまう、あの遥かな道程を。
 一人、誰一人声も掛けてくれない、無人の喧騒の中を、俺は一人で、歩けるのか。
 正義の味方としてではない。
 ただ、ひととして。
 無為に苦しみを背負う、唯、人として。
 出来ない。
 俺には、出来ない。
 意志があれば、出来るかもしれない。
 目的は、それを可能にしてくれるか。
 それでも、意志も目的も、さらに理想も砕けたなら。
 俺に、あの旅路は、長すぎる。
 息苦しすぎて、重たすぎて、空気が薄い。
 まるで海底だ。
 冷たい水の中を、身体を押し留める重たい水圧の中を、手探りで歩く、それに近い。
 酸素はどんどん減っていき、光なんてもともと無い。雪のように積もっていく生物の死骸が、辛うじて見える程度。
 肺しか呼吸器の無いこの身には、その世界は辛すぎる。
 そして、あまりにも静寂だ。
 俺は、もっと騒がしくていいのに。
 もっと、人の声が聞きたいのに。
 なんで、こんな道を歩いているんだ。
 笑っているじゃあないか。
 周囲の、異形の魚達が、蟹達が、海蛇達が、腹を抱えて笑っている。
 存在しない指をこちらに向けて、体中の鱗を震わせながら、笑っている。
『お前は、ここにいるべきではない。』
 リュウグウノツカイが、そう言った。
『ここに来る資格など、最初から無かった。』
 メガマウスザメが、そう言った。
『何故、ここに来た?』
 ヨミノアシロが、そう言った。
『ここに来るべき人間を差し置いて。』
 シンカイクサウオが、そう言った。
『それとも、己にこそこの世界は相応しいと勘違いしたか?』
 オニボウズギスが、そう言った。
『自惚れ、舞い上がり、己はどこでも生きていけると、そう勘違いしたか?』
 フクロウナギが、そう言った。
『ならば、それは正解だ。』
 テンガンムネエソが、そう言った。
『貴様は、あらゆる環境に適応が可能だ。』
 カイロウドウケツが、そう言った。
『さあ、そこでしばらく身体を休めるがいい。』
 ドウケツエビが、そう言った。
『いずれ、その肺は失われ、新たな呼吸器が備わるだろう。』
 スケイリーフットが、そう言った。
『手足は萎びて、この砂底を這い回るに相応しい、みすぼらしい腹ビレが生え揃うだろう。』
 カイコウオオソコエビが、そう言った。
『それまで、待っていろ。』
 トゲヒラタエビが、そう言った。
『それが、お前の望みだろう?』
 フクレツノナシオハラエビが、そう言った。
『人を救うために、人以外のものになりたいのではないのか?』
 ダイオウイカが、そう言った。
『人の身では人を救えないから、人以外の人になりたいのではなかったか?』
 ニュウドウカジカが、そう言った。
『それだけが、貴様の望みなのではなかったか?』
 ホンフサアンコウが、そう言った。
『ほら、お前も笑いたいんだろう?』
 タウマティクチスが、そう言った。
『あの男のように、心の底から、笑いたいのだろう?』
 デメニギスが、そう言った。
『そうではないか、エミヤシロウ。』
 デメエソが、そう言った。
『それとも、見えないふりをしているのか、○ミヤシろウ。』
 ボウエンギョが、そう言った。
『お前は、気付いているはずだ、エ○○やシロ。』
 ワニトカゲギスが、そう言った。
『あれは、あの透明すぎる笑みは、既に人のそれではないと。』
  カブトウオが、そう言った。
『あれは、人をやめてしまったものの笑みだ、と。』
  シーラカンスが、そう言った。
『自分には、一生あの笑みを浮かべることなど、出来ない、と。』
 エゾイバラガニが、そう言った。
『いやいや、その実、そうではない。』
 ヒドロクラゲが、そう言った。
『お前にだって可能だ。』
 シロウリガイが、そう言った。
『簡単な話だ、お前も人を止めてしまえばいいのさ。』
 サツマハオリムシが、そう言った。
『人を辞めれば、お前にも笑う資格が出来る。』
 ウリクラゲが、そう言った。
『あの笑みを浮かべる資格が、貴様にも出来る。』
 ムラサキカムリクラゲが、そう言った。
『それは、何と幸せか。』
 コウモリダコが、そう言った。
『さあさあ、覚悟を決めろ、○やシ○。』
 センジュナマコが、そう言った。
『何より、誰より、お前が望んだことだろう?』
 オウムガイが、そう言った。
『人を助けたいと、そう望んだのだろう?』
 ミツクリザメが、そう言った。
『そんなこと、なんの苦もないぞ。』
 オニキンメが、そう言った。
『あの女も、言っていたではないか、全てを救うのは、人の身に許された奇跡ではない、と。』
 ザラピクニンが、そう言った。
『ならば、話は早い。』
 見たことも無い魚達が、ぐるぐる回っていた。
『人など、止めてしまえ。』
 ぐるぐる。
『人を辞めて、人を救え。』
 やめろ、目が回る。
『それが、貴様に許された、唯一の道。』
 溶けて、バターになっちまう。
『さあ、私は待っているぞ。』
 どろどろ。
『ここで、深海よりもなお深い、この深奥で、貴様を待っている。』
 魚が、生き物が、海が、どろどろになって。
『君が、奇跡を望む、その瞬間を待ち望んでいる。』
 どろどろが、びちゃびちゃ、一つになって。
『私は優しいぞ、○○○。』
 うねうねと、黒々としたものになって。
『必ず貴方の声に答えよう。』
 それが、朗々と言うのだ。
『さあ、人を救え、○○○。』
 なんなんだ、お前は。
『歩くが如く救え。』
 体が、沈んでいく。
『喰らうが如く救え。』
 深海よりも、更に深いところへ。
『呼吸をするが如く、救え。』
 固体すらもすり抜けて、更に深い、その深奥へ。
『救って救って救い続けろ。』
 俺の意識をすらすり抜けて、更に大きなものの胎内へ。
『そうすれば、貴様は永遠に人を救うことが出来る。』
 そこは、何と、心地いい。
『死後も、救い続けることが出来る。』
 お前は、何者だ。
『それは、何と有意義な存在ではないか?』
 俺であって、俺で無いもの。
『泡沫として生まれた貴様にとって、それは無上の救いだろう?』
 何者でもあって、何者でもないもの。
『そうではないか、この世の誰よりも、意味ある生を生きぬ者よ』
 ああ、お前は、蔵識か。


「先輩」
 肩を揺すられて、目が覚めた。
 頭の奥に、つんとするような気怠さが残っている。
「…代、羽?」
「…桜です、先輩」
 不機嫌に拗ねた声が、聞こえた。
 ソファに沈み込んだ体が、重たい。まるで、海岸に打ち上げられたクジラみたいだ。
 脂肪が、重い。筋肉が重い。内蔵が、重い。
 己の重さで、死にそうになる。
 ああ、わかった。
 この世界は、重過ぎる。
 生きていくには、重過ぎる。
 誰か、引き上げて欲しい。
 この手を掴んで、この重さを、分かち合って欲しい。
 肩を、貸して欲しいんだ。
 この身体は、重過ぎる。
 この存在が、重過ぎる。
 救いを求めるように、手を差し出した。
 誰も、それを握ってくれる人間は、いなかった。
 それでも、感じたのは、深い海から浮上したことによる、深い深い安堵だった。


「あ゛ー。つかれたー」
 凛が工房から出てきたのは、午後九時を回った頃合だった。
 よほど集中していたのだろう、目の下には大きな隈が出来ている。
 彼女の後ろに立つキャスターの表情にも、心なしか深い疲れが刻まれているように見える。
「さくらー、何か食べるものちょーだーい…」
 凛は、そう言ってテーブルに突っ伏した。
 マキリ邸から帰って、約四半日、ノンストップで脳細胞を働かせ続ければ、そりゃあ糖分だって尽きてくるだろう。
 人間、ある程度は気合で何とかなる生き物だが、気合以外のものでないと補えない部分は確かにあるのだ。貧乏性の凛のこと、その空隙を魔力で補うなんてしないだろうし。
「はい、アーチャーさんが、夜食にって」
 桜が差し出したのは、乾燥防止のラップで覆われたサンドイッチ。バスケットに入れられたそれらは、色とりどりで、目にも鮮やかだ。
「あー、ありがとー、アーチャー…って、あいつ、どこいったのー?」
 いい感じに蕩けている凛。間延びした声が、何故だか妙に相応しい。
「アーチャーさんなら、今、お茶を淹れてくれてます」
「ああ、さすが、アーチャーね、アーチャーの名前は伊達じゃないわ。あいつ、給仕として名を成して、英霊になったんじゃないでしょうね?」
 優雅に、しかし手早くサンドイッチをぱくつく凛。そして、その後ろから控えめに伸ばされた手は、キャスターのものだ。
「んー、おいし。あー、私も、これくらい気の効く従者がいればねえ…」
「そんなもの、お得意の魔術で生み出せばよかろうが」
 がちゃり、とドアが開いた。
 そこにいたのは、室内だというのに赤い外套を纏った騎士。
 そして、彼と共に、芳しい紅茶の香りが部屋に入ってきた。
「竜牙兵の給仕ってのも雅に欠けるし、ホムンクルスは鋳造に時間がかかるしねぇ。ねえ、あなた、私のサーヴァントにならない?今より上質の待遇を約束するわよ?」
「私が貴様のサーヴァントになるなど、それこそ天地がひっくり返ってもありえんよ。茶くらいならいつでも淹れてやる、それで我慢しろ」
 ことり、とソーサーがテーブルに置かれた。まるで、其処にあるのが当然、そう言わんばかりに大きい顔をしているティーセットに、よくわからない嫉妬を感じてしまう。
「ちょっと、キャスター、マスターの前で人のサーヴァントスカウトするの、やめてくれる?あんたが言うと、マジで洒落になんないから」
「あら、なら裏でこそこそ動かれるほうがお好きなの?」
「それはもっと止めて…」
 …何故かよくわからんが、この二人、妙に仲良くなってないか?まぁ、二人とも魔術師だし、あれだけ長い間同じ部屋で共同作業してれば少しは仲良くなるものなのかもしれないが。
 しばらく、そういうたわいの無い会話が続いた。
 剃刀の刃の上に軽く指を走らせるような、そんな緊張感を無視しながらの会話だった。
 それでも、籠の中の夜食を綺麗に平らげ琥珀色の紅茶で喉を潤していた二人に、セイバーが意を決したかのように問いかけた。
「…ところで、何かわかりましたか、リン、キャスター」
 凛はその言葉に、一瞬だけ眼光を強めると、静かにカップをソーサーに戻した。
「重要なところは完璧に暗号化されてたから、一昼夜やそこらで解読するのは不可能ね。ひょっとしたら乱数表か何かが必要になってくるかもしれない。でも、研究の趣旨とか、大まかな概要くらいは掴めたわ」
 一同に、緊張が走った。

「マキリ臓硯が目指したのは、聖杯戦争を独力で戦い得る強力なマスターの製造。おそらくはそれよ」

 凛は真正面から俺を見ながら、数枚のプリントをテーブルに広げた。
 一枚には、こんなことが書いてあった。

《『子供の頃私は』この質問には回答が用意できない。
 『私はよく人から』化物と指をさされる。
 『私の暮らし』には娯楽が欠如している。
 『私の失敗』が彼女を壊した。
 『家の人は私を』ある程度認めているようだ。
 『死』にたくない。
 『私の出来ないこと』がこの世には多すぎる。
 『私が心引かれるのは』彼女の笑顔である。
 『私が思い出すのは』初めて見た眩い光。
 『私を不安にさせるのは』彼女の笑い声。
 『自殺』願望。
 『私が好きなのは』敵を許すことだ。
 『罪』はあくまで認識の問題でしかない。
 『大部分の時間』私は眠っている。
 『私が忘れられないのは』みんなの味である。》

 そして、もう一枚には、こんなことが書いてあった。

《『子供の頃私は』とても幸せだったらしい。
 『私はよく人から』多くのものを奪う。
 『私の暮らし』は地下で過ごすことが多い。
 『私の失敗』はあの時死ななかったこと。
 『家の人は私を』必要としてくれる。
 『死』という言葉は私に無関係だ。
 『私の出来ないこと』を彼がしてくれる。
 『私が心引かれるのは』私の存在しない世界である。
 『私が思い出すのは』赤い空と黒い泥。
 『私を不安にさせるのは』眠る前の静寂と眠った後の喧騒。
 『自殺』は不可能だ。
 『私が好きなのは』勧善懲悪の物語だ。
 『罪』には相応の罰が必要である。
 『大部分の時間』を無為に過ごしてしまった。
 『私が忘れられないのは』空虚な掌の感触だ。》

 その他の紙にも、似たようなものがある。或いは、よくわからない文字で書かれた研究レポートのようなもの、大きな木を描いたスケッチ。多種多様で、何の統一性も無いように思える。
「何だ、これ?」
「文章完成テストに、バウムテスト、その他もろもろ。これだけ傍証があれば、白も黒になるわよね」
 …?
 一体、どういう意味だ

「士郎、解離性同一性障害って聞いたことがある?」

 解離性同一性障害?
 そんな単語聞いた覚え…ある、か?
 確かあれは、テレビのドキュメンタリーで…。
「解離性同一性障害って、確か二重人格のことじゃあないのか?」
 俺の言葉に、凛は緊張した面持ちで頷いた。
「その解釈は近い、でもおそらく間違い。私も専門分野じゃないからあまり詳しくはわからないんだけど、そもそも人格っていうのはそれほど確固としたものじゃないの。だから、それを単一でしか持ってないほうが稀よ。結局、人格は人と人とのコミュニケーションを円滑に行うためのプログラムみたいなものだからね、同一の個人が上司と部下によってその対応が違うなんて、普通でしょう?人格を表す英単語personalityの語源が、仮面を表すラテン語personaであることは、中々の慧眼だと思わない?」
 それはそうだろう。
 あらゆる人間に対して全く同じ応対をする人間なんているはずもないし、時と場合によって性格が豹変したように見える奴なんて、特筆すべき存在でもなんでもない。第一、目の前の凛の猫かぶりだって、見方を変えれば似たようなものだろう。
「…何よ。何か言いたそうね」
「いや、何でもない。続けてくれ」
 じろり、と俺を睨んだ凛は、こほん、と一拍置いてから話し始めた。
「解離性同一性障害、Dissociative Identity Disorderっていうのはね、明確に自我の異なる複数の人格の存在だけじゃなくて、その交代による患者の肉体支配、人格交代による記憶の欠乏、それに伴う社会への不適応なんかが症例として挙げられる。特異なケースだと、患者の外観にまで相当の変貌が表れることもあるらしいわ。臓硯の研究日誌には、その症状に関する考察がかなりの分量を占めてた。相当興味があったみたいね。この病気が日本で有名になったのはダニエル・キイスの著作なんかが切欠だと思うけど、もとを辿れば、それほど珍しいものじゃあない。『狐憑き』とか『悪魔憑き』なんかは実は別人格が引き起こしてたって話もあるし、ある意味私達魔術師に縁の深い症例ではあるわけね」
「…それはわかったけど、凛、なんで臓硯はそんな病気を研究してたんだ?」
 声が、不思議なくらいに擦れていた。
 何かを、否定したいみたいだった。
 喉が、渇いた。
 時計の秒針が、煩い。
 お前ら、少し黙れ。
「…断片的な情報からの推測になるけど、臓硯は解離性同一性障害のもたらす、人格ごとに現れる能力の偏りに興味を持っていたみたいね。例えば、ダニエル・キイスの著作のモデルになったビリー・ミリガンには23人の人格があったらしいけど、人格それぞれのIQには大きな差異がみられたし、中には空手の達人で驚異的な筋力を誇る人格、なんてのもいたらしいわね。つまり、ケースによっては、分裂した人格は、分裂前、或いは統合後の基本人格よりも極地的に優れた才能を発揮することがある、そこに注目したんでしょ」
「でも、それは…」
「ええ、もちろん詐病の可能性は捨てきれないし、フィクションの占める割合も大きいとは思うけど、全てを笑い飛ばすのも不可能よ。実際、この国の退魔の一族の中には、人格をソフトウェア化して万能の天才を作ることに血道を捧げた一族ってのもいるみたいだから」
「つまり、臓硯は…」
「分裂した人格の中から魔術的な才に優れた人格をピックアップして、それを後継者、或いは聖杯戦争におけるマスターにしようとした、そんなところじゃないかしら。マキリの魔術の継承はほとんど拷問みたいなものらしいから、幼少時の性的虐待っていう解離性同一性障害の発病条件の一つは満たしてる。所々で出てきたダチュラ、クロルプロマジン、メタンフェミンなんかの薬物も、悉く精神に強い作用をもたらすものばかりだし、人工的な多重人格を作り出そうとしてたのは間違いないと思うわ」
 凛の隣に座っていた桜が、少しだけ俯いた。
 凛が、桜の手を、そっと握った。
「交代人格はね、大本を辿れば、絶望的なまでに強い肉体的な苦痛や精神的外傷が引き金になって生み出されるの。『虐待を受けているのは自分じゃあない、自分以外の誰かだ』、その思いが、苦痛を引き受ける『器』としての他人を生み出すのね。そして、最終的に基本人格のコントロールを失って独り歩きし始めたもの、それが分裂人格のもとになる。症例によっては百を超える人格が確認されることもあるみたいね」
 それは、聞いたことがある。
 それを聞いて、思ったんだ。
 それは、つまり自殺なんじゃあないか。
 精神が、この先のあらゆる楽しみを放棄しても、目の前にある苦痛を排したい、そう考えたからこその別人格の創出。
 それは、遠まわしな自殺なんじゃあないか、そう、思ったんだ。
「でも、このケースはその例からは外れてるでしょうね。精神の防衛機能としての解離じゃなくて、人格を創出するための手段として解離を使ってたんだから。想像に過ぎないけど、精神を生きたまま喰いちぎられていく、そんな感じなのかしらね。知ってる?人格が分裂する原因の一つに『どんなに苦痛な仕打ちを受けても、家族や周囲の成人への愛着を断ち切ることができないという構造』が挙げられるらしいから。つまりね、信じ難いけどこの子、きっとマキリ臓硯を愛してたのよ」
 …絶句した。
 何も、話せなかった。
 何と、救いの無い。
 憎むことも、無かったということか。
 どうやっても受け止められないほどの苦痛を与えられて、それでも、憎まなかったのか。
「…そんなの、無茶苦茶だ。成功するはずが無い。それに、いくら能力が高くても、そんな不安定な人間が魔術師としてやっていけるのか?魔術の発動中に人格交代なんかしたら、冗談抜きで死にかねない」
「…ええ、私もその点は疑問だった。でも、日記を読み進めると、精神が破壊されても肉体さえ無事ならそれでいい、そう読み取れるのよ。失敗して元々、そういうつもりだったのかもしれないわ」
 失敗して元々?
 そんな、実験用のマウスを扱うみたいに、いや、それよりも酷い、粘土か何かをこねくり回すみたいにして、人の精神を破壊していったというのか。
 怒りで、気が遠くなりかけた。
「…で、成功したのか?」
「…ええ、成功した、んでしょうね。ごく最近の分の日記が見当たらなかったからわからないけど、そう思わせる記述はそこかしこに見られたし…」
 そうか。
 ほっとした。
 よかった。
 ああ、それはよかった。
 失敗しなくて、よかった。
 成功して、よかった。
 なら、認められたってことだろう。
 彼女は、きっと認められたんだ。
 何に?
 何か、よくわからない、くそったれなものだ。
 それに、認められた。
 よかった。
 認められて、よかった。
 そうだろう?
 そうじゃないと、かなしすぎる。
 かなしすぎるじゃあないか。
「………!」
 何かを、話している。
「…?………!」
 何かを、聞いている。
 それでも、俺は、何も話していないし、何も聞いていない。
 器用だ。
 何も考えていないのに、何で他人と会話が出来るのだろう。
 慎二のときも、そう思った。
 俺は、なんて器用なんだろう。
 声だ。
 声が、聞こえる。
 心を錬鉄するような、鉄槌のように硬い声だ。
 どこかで聞いた、台詞だ。

『では問おう衛宮士郎君は衛宮切嗣に引き取られて幸福だったかね―――そうか衛宮士郎これが正真最後の忠告になろう不幸とは己の業の深さが呼び寄せるものだが幸福とはただ神の御業に過ぎぬそれが降りかかったことについて君が恥じ入ることなど何一つ無いむしろ誇るがいい君は神に愛されている君は神に愛されている君は神に愛されている君は神に愛されているが君は神に愛されているがしかし神が愛し忘れた者も確かに存在するのだよ』

 神が愛し忘れた者。
 神が愛し忘れた者。
 神が愛し忘れた者。

 貴方は、違いますよね。
 貴方は、違いますよね。
 貴方は、幸せに生きてきた、そうですよね。
 何故、答えてくれないのですか、■さん―――。

「…だから、マキリにもう一人、臓硯以外の魔術師がいる、それは間違いないわ。きっと、そいつもマスターに選ばれたんでしょうね」
 ああ、そうだ。
 きっと、マキリにはもう一人魔術師が―――。

 えっ?

「…凛、何を言ってるんだ?」
「…?
 だから、マキリには臓硯以外に魔術師が最低一人はいる、そう言ってんのよ。何かおかしいこと言った?」
 いや、それはおかしいもなにも。
 何を、今更・・・・・
 そんなこと、わかりきっていたじゃないか。
「…凛、お前、何を―――」

「静かに!」

 びくり、と肩が震えた。
 それほどまでに、鋭い声だった。
 その場にいた全員、声を発した人物以外の全員が、彼女を注視した。
 彼女は、キャスターは、自らの意識を集中させるかのように虚空を睨んでいた。
「…何か…来る」
 心臓が、早鐘を打つ。
 呼吸が、速くなる。
 手に汗が、滲む。
 体が、意識よりも早く準備を終えていた。
 何の?
 決まっている。
 戦闘の、準備だ。
「…速い。あと…三分?これは…」
 キャスターの手が、小刻みに震え始めた。
 それは、恐怖による緊張が齎す物だったのだろう。
 彼女の端整な顔が、青褪めていた。
「間違いない…。バーサーカー…」


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