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[10769] 龍と紅の少女たち
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2010/01/27 01:16


獣に人を喰わせてはならぬ、魔物になるから――


そんなお伽噺を昔聞いたことがあるが、それがまさか本当だとは思いもしなかった。





クロール・ロックハート
職業:鍛冶屋見習い
享年:22歳





どうやら私は、竜に喰われて死んでしまったらしい。




====




私は小さい頃から、鉱物が好きだった。

平凡な町商人の次男坊として産まれ、それなりに愛情を受けて育てられた結果、私が最も愛したものは鉱物であった。

きっかけは何だっただろう。父が交易のために仕入れた異国の宝石に魅入られた時だっただろうか。

とにかく、私は暇さえあれば一日中鉱物を眺めては過ごしていた子供だったらしい。

両親も最初はそんな私を心配していたらしいのだが、言っても聞かぬ私に次第に諦めたようで、その内に何も言われなくなった。


そんな私が15歳になった折に鍛冶屋の道に進んだのも、必然と言っていいだろう。

三軒隣に住む幼なじみのカトレアなんかはそんな私を鉱物馬鹿などと罵倒していたが、おおむね周囲の人たちからは、あいつにとっては天職だろう、と好意的に受け止められた。


以後7年間、厳しい親方のもと、私は鉱物のことだけを考えて生きてきた。

原石のままでも美しいそれらを私の手によってさらに美しく加工する。至福の時である。

それがたとえ人を殺す両刃の剣であったとしても、深々と鈍く輝く鉄の美しさの前には、倫理観などドブに捨てた方がマシである。


そんな訳で、寡黙で一日中工房に籠もっては鉱物を色々いじくっていた私は(周囲からは完膚無きまでに変人と思われていたらしいが)、親方の覚えも良く、若輩者ながらにして少しずつではあるが仕事も任せられるようになった。

だからであろうが、正に運命の日とも言えるのかもしれないが、あの日、私はストント山に出かける羽目になったのであった。


ストント山は私の故郷であるクロムフルの町から北に5里程歩いたところにある鉱山であり、私が産まれる頃くらいまでは盛況な石切場でもあったそうだが、大規模な落石事故があってからは復旧の目処が立たず、そのまま封鎖されてしまい、今では誰も近寄らない廃山となっている危険な場所でもある。


そんな場所に私が行くことになったのも、親方がお得意先の貴族から受注した飾り剣の鞘作りを任されたからであった。

手先が器用で鉱物の細工が得意であった私は、そういった煌びやかな鞘や小物作りを任されることが多く、その時も私に話が回ってきたのである。

もっとも、その時は私が頼み込んだから、というのもあったが。

しかし、お得意様の貴族相手に中途半端な仕事をする訳にもいかず、行き詰まっていた私は、気分転換とばかりにストント山にある鉱山跡地に足を伸ばしていた。


封鎖された鉱山に散歩代わりに向かう物好きは私くらいのものだろうが、しかし、根っからの鉱物好きの私にとってはそこは心落ち着くオアシスのようなものであり、人気のない深い鉱山の奥でランプを消し暗闇の中独り佇んでいると、不思議と石の声が聞こえる気がするのであった。


――あんな危ない場所に入り浸っていたら、いつか危ない目に遭うからやめなさい!――


などと私の敬愛する幼なじみであるところのカトレア嬢などは、ことあるごとにストント山に散歩に行っていた私に苦言を呈していた訳だが、彼女の忠告はまったくもって正鵠を射たものだったのである。


そんな訳で、その日も私はいつものように独り鉱山の奥にあるお気に入りのポイントへ向かうため暗い坑道を歩いていたところ、一匹の竜に出会ったのであった。


竜。


大きなトカゲと言ってしまえばそれまでであるが、3メートル近い巨躯に、人間など丸呑みにできるほどの大きな口、それに本気で走れば馬車にさえ追いつくとも言われる強靱な脚、振り抜けばそこらの岩など軽く砕くことができそうな程頑丈な尻尾、そして何よりどんなに鍛え上げた剣でさえ体内に通すことが敵わないという鉄以上の強度を持った鱗に包まれたソレは、もはやモンスターと言ってよい。

しかし、竜はあくまで動物であって、魔物ではない。

その意味が分かったのは、竜と出会い、一瞬後に目が合って、その数秒後に跡形もなく体を食い千切られて、そのまま私が絶命した後であった。



獣に人を喰わせてはならぬ、魔物になるから――



どんなに凶暴で恐ろしい動物であっても、それが賢ければ賢い程人を食べようとはしない。

それは、賢い動物が人を食べれば、それはもはや動物ではなく、魔物になるからである。

純粋であった動物の魂が、人の魂によって汚れるからだ。



そんな訳で、どうやら私は一匹の“龍”として産まれ変わったらしい。



====


職業:龍見習い
年齢:不明
名前はまだない――。



[10769] 一章・01
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2009/10/06 17:55


王国歴772年


たまに、動物の中に、人語を解し、人と同じように魔術を操り、人と同じように人を誑かし、人と同じように人を食べる動物が現れる。

それはもはや動物ではなく、人はそれを“魔物”と呼ぶ。


どういったメカニズムで魔物が産まれるのか、細かいところまでは今でもよく分かっていない。

しかし、どうやら人を食べた動物の中から一定確率の割合で、魔物が産まれるらしいことまでは判明している。


熱心な神学者などは、それは神の子である人を動物が食べることによって悪魔へと身を変えるからだ、などと説明しているが、いざ自分が魔物となったことによって、そんな訳ないということがよく分かった。


どうやら動物が人を食べると、その人の知識・記憶までも食べてしまうことがあるらしい。

今現在竜であるところの私に人間だった頃の生前の記憶が宿っていることからも、確固たる現実をもってかかる理論は実証済みである。

学会で発表すれば世紀の大発見と呼ばれるかもしれない。

しかし、私のように人格まで食べてしまったという例はかなり稀少なのではないだろうか?



今私は、私を貪り喰った竜の体から、見るも無惨な姿になった私の遺体をぼんやりと眺めている訳だが、その腐敗具合からいって、どうやら私の自我が目覚めるまで私が死んでから大分経っているようだ。


それと同時に、私はこの竜の事情も薄ぼんやりと了解するようになった。

何だってこんな廃鉱山に竜がいたのか不思議でしょうがなかったが、この竜(今では“私”であるが)、どうやら群れからはぐれた迷子の地竜のようである。


地竜は本来日光が届かない程鬱蒼と生い茂った山林の山奥などに生息する竜の一種であり、肉食でもあるが、その主食は果物や植物といった草食であって、凶暴であらゆる動物を喰い殺す火竜とは違い穏和な動物である。

元々この廃鉱山があるストント山の裏手にある山林に少数のグループで生息していたようだが、ある日山肌に見つけた鉱山への入り口に興味本位で入ったのがこの地竜の運の尽き。

ついでに私の運の尽きでもある。

地竜はそのまま迷子となって一週間鉱山内を彷徨い続けていたところ、偶然出会ったのが間抜けにものこのこ独りで鉱山を散歩していた私であったようである。


賢く気高い竜が人を喰うことなど滅多にないと聞いていたが、極限まで空腹状態になっていたのであれば、致し方ないといったところである。



などと、自分が死んだ事情なのに、冷静かつ客観的に考えることができるのは、私がこの竜に生まれ変わったから、というよりは、“私”という記憶をこの竜が受け継いだから、といった方が正しいのかもしれない。

つまり、正確にいえば、“私”は竜に生まれ変わったのではなく、私はずっと竜であったが、この記憶の持ち主たる目の前の人間を食べたことによって、私の自我が“私”になっただけであり、産まれてからずっと私は竜であったのであるから、人間の死についてそこまで感慨が持てない、のかもしれない。

まあ、私がまだ現実をうまく受け入れていない、という可能性も捨てきれないが。



しかし、これからどうしたものか、将来の見通しはなかなか暗いものではある。

今の私にはクロール・ロックハートという人間(だった)記憶がある訳だが、体が竜になってしまった以上、もはや人間の生活には戻れないだろう。


両親は私の死を悲しむだろうし、長兄は私のことを嫌っていたからざまあみろと嘲笑うかもしれないが、可愛がっていた年の離れた弟はきっとわんわん泣いてくれるはずだ。

工房の親方なら、いつもの苦虫を噛み潰したような顔をして、黙殺しつつも責任を感じてくれるかもしれない。

幼なじみのカトレアは、きっと私のことを馬鹿馬鹿いって罵倒するだろうな。


しかし、竜の体になって最も悲しいのは、もう鍛冶の仕事をすることができない、という事実である。

この世に生を受けて22年、石のことだけを考えて生きてきた訳で、それ以外の生き方など何も分からない。

人間だった頃に請け負った最後の仕事も、私にとって特別な意味を持つものだったので、それを終えずに死んでしまったのはひどく心残りではある。


まぁ、終わってしまったことを悔やんだところで始まらない。

竜になってしまったというのであれば、これから竜として生きる他ないのである。

いや、もう竜ではなく、“龍”か。



古来、あらゆるお伽噺や冒険物語、英雄譚に出てくる知恵ある竜。

この世で最も気高く、この世で最も誇り高く、この世で最も神聖な生き物。

それこそが“龍”である。


私も1匹の地竜として人間の記憶と知識を得たのであれば、地龍と名乗っても誰も咎めはしまい。



とりあえず、落ち着ける場所を探さなくてはならない。

今現在の私の体の大きさは3メートル近くあり、全身黄土色の鱗に包まれた立派なものであるが、天井が4メートルもないこの坑道内においてはいささか窮屈なものである。


クロール・ロックハートの遺体には申し訳ないが、私は私のための生きる道を探すべく、この場を去らねばならない。



こうして私は、この世に産まれた最も新しい知恵ある竜として、ストント山の鉱山の奥深くへと足を踏み入れた。



====



王国歴773年


あれから1年近く過ぎただろうか。

今私は鉱山の奥深くにある、ある広いホールのような場所で暮らしている。


そこは、3メートル近くある私の体であっても優に10体以上入れるくらいの大きさの楕円状に開けた場所であり、中央には地下水が湧き出ているとても快適な居住スペースである。

しかも、過去に起きた大規模な落石事故の名残であろうか、10メートル以上遙か上空にある天蓋には大きな穴が開いており、そこから優しい日光の光がホール全体に射し込んでいる。

そのお陰か、地下水が湧き出ることによって出来た湖の周辺には大小様々な植物が生い茂っており、まるで鉱山内にできたオアシスのようでもある。

おかげで私は水と食料にそこまで困ることなく、この鉱山内で生きていくことが可能であった。

もっとも、今や私は魔物たる龍である。食料を口にせずとも、暫くの間は身体から湧き出る魔力を媒介にして生きていくことが可能なことがこの1年間で判明した訳だが、それはともかく。

この広い廃鉱山内のオアシス。ここが今の私の居住地なのであった。


あの日、新しい住む場所を探して鉱山内の探索を開始した後、3日も経たない内に私も迷子となり、光届かない深い闇の中、複雑な迷宮と化した鉱山内を連日連夜彷徨い続けた時はさすがの私も泣くかと思ったものである。

龍の身体は夜目も利くらしく、深い暗闇の中でも何とか物を見ることは可能であったが、行けども行けども代わり映えのしない坑道を歩き続けて1週間程経った頃だったか。

人間だった頃に比べて異常に発達した私の聴覚が水の流れる音を察知した時は、天の助けだと感じた。

その音を頼りに坑道を進み続けることさらに1日近く経った頃、ついに私は光差す不思議な空間に出たのであった。

それが、このオアシスだったのである。


私はここを自らの身体にちなんで“地龍の巣”と名付け、以後ここに腰を据えることにした。


地龍の巣での暮らしを始めてから、まず私が始めたことは自らの身体に慣れることであった。

なにせあの日この身体に喰われて死ぬまでは私は人間だった訳で、人間だった頃の記憶が地龍となったこの身体との齟齬を自覚し、うまく身体を動かすことができないでいた。

坑道を彷徨っている間は、この身体には狭すぎた道をただひたすらに歩くことしかできなかったが、地龍の巣は私が一通り暴れても大丈夫な程の大きさがある。

私は彷徨い続けた鬱憤を晴らすかの如く、それからというもの地龍の巣の中で自らの身体の操縦の訓練を始めた。

大きな顎と牙での噛み砕き方、前脚についた鋭いかぎ爪での切り裂き方、強靱な後脚を利用して四足歩行の仕方、そして、身体から溢れ出る魔力の操り方である。


魔物は人間と同じく魔術を操る。

詳しい理由は不明だが、人間を食べることにより、人間の魂をその体内に取り込み、人間の魂でのみ生成可能な魂の力たる魔力をも自らの力とすることができるのでは、と一般的に言われている。

自らが魔物となった私自身にも理屈は分からないが、龍となった私の身体には大量の魔力が宿っているらしい。

しかし、元々人間だった頃の私には魔術の才能が全くなく(と言うよりも、魔術の才能がある方が元々稀少ではあったが)、その手の勉強・訓練を全く怠って生きてきたので、持て余す程の自らの魔力の扱いに困っていたのであった。

しかし、龍となった私が誰かに教えを請う訳にもいかず、私は地龍の巣にて身体訓練と並行して魔力操作訓練を行わなければならなかった。


そもそも、古来より話に伝わる“龍”は人間以上の魔術の使い手と言われており、神話の時代まで遡れば、“龍”こそが人間に魔術を教えた祖であるという説もあるくらいである。

新米とはいえ龍となった私が魔術の一つや二つ使えなくては龍の名折れである。


こうして、約1年間私は闇雲に地龍の巣の中で身体を動かし続けてきた。

それは、身体を動かしていないと気が変になりそうだったから、とも言えるが。

生き甲斐であった石いじりができなくなり、また、石さえいじっていればそれで満足であった私といえども、1年間近く誰とも話すことなく生きていくのは存外精神的につらいものがあった。

下手すれば、これから気が遠くなる間、私は独りで生きていくことになるかもしれなかった。

龍の寿命がどれくらいなのかは分からないが、お伽噺に出てくる龍達は何百歳も生きてきたと聞く。


なかなか、残酷な魂の牢獄である。



====



王国歴774年


時折、家族や友人達のことを思い出す。


両親の商売はうまくいっているだろうか。

今度、大きな交易に乗り出すと息巻いていたのだが。

兄は、独立した後うまくやれているだろうか。

やれているのだろうな。私と違い、商才に恵まれた人だったので。

弟は、少しでも泣き癖が治っているといい。

いつも泣いては私の後をついてきてばっかりだったから。

カトレアは、もう結婚したかもしれない。

彼女には、王都に住む大きな貴族の婚約者がいたはずだから。

みんな、私のことをまだ覚えているだろうか。

時折、思い出してくれたなら、嬉しいのだが。


ここ1年間何も考えずに訓練をしてきたから、身体の操縦にも慣れ、魔力の操り方も大分板についてきたようにも思う。

龍の身体のままでバク転宙返りも出来るようになったし(戯れにやった時は轟音と地響き鳴り響いてまた大規模な落盤が起きるかと真剣に心配したが)、魔力の循環による身体機能上昇、生命機能上昇、さらには他者への魔力供給による生命機能促進まで可能となった。

おかげで、植物の生長を劇的に早めることに成功し、ますます食料関係で困窮することはなくなった。


また、魔力調合による品種改良にも暇つぶしがてらに着手し、何とか不格好ながらも果物らしき物がなる木までこのオアシスに植え付けることにも成功した。

なかなか、やりがいのある仕事だった。が、改良の余地はまだまだある。

私の当面の目的は、ここを甘い香りが漂う果物園にすることである。

桃に林檎や梨、葡萄。夢は広がるばかりである。


さらに、特筆すべき変わったことと言えば、ここ1年の間に複数の人間らしき者がストント山の廃鉱山に入ってきた様子がある、ということである。

ここ地龍の巣にまで到達した者はまだいなかったが、異常に発達した聴覚と嗅覚が彼らの痕跡を感じ取ることができた。

まさか、生前の私のような暇人で変人が心のオアシスを求めて鉱山に入り込んだ訳ではあるまいし、その目的が気になるところである。

それと同時に、人恋しさに是非彼らとコミュニケーションを取りたいところではあるが、今や私は忌むべき魔物たる龍である。

コミュニケーションを取ろうものなら、あっという間に駆除対象として私に襲いかかってくることが容易に想像できてしまう。

悲しいものである。


もう一つ変わったこと。

私の背中に翼のようなものが生えてきたことである。

地竜はもともと地上に生息する穏和な竜の一種であり、空を飛ぶなどと聞いたことはなかったのだが、そこはそれ、“龍”になった私に常識は通用しないのか、なぜか背中に翼が生え始めたのである。

あるいは日々持て余すほどに沸いてくる無尽蔵の魔力が私の身体の成長に特異な影響を与えたのかもしれないが、とりあえず、来るべき日にそなえて、私は空を飛ぶ練習もする必要があるようだった。



====



王国歴775年


私の地龍の巣・果樹園化計画も順調に進み、遂に林檎(らしきもの)を作り出すことに成功した。

どうも私は石いじりの才能の他に、土いじりの才能もあったようである。

もっとも、それは私が地龍となったからかもしれないが。

また、私の背中の翼も順調に成長し、2メートル近い大きさとなり、自在に動かせるまでになった。

まだ、空を飛ぶところにまではなっていないが、それも時間の問題であろう。


さらに、翼の成長に合わせて身体も当初の頃と比べて一回り近く大きくなり、今や4メートル近い立派なドラゴンである。

これではもう狭い坑道に入っていくことはかなわず、私はこの地龍の巣で飼い殺しの憂き目にあうようであった。

いつか私はここを魂の牢獄と評したが、なかなかどうして正鵠であったといえよう。


そして、ようやく1年くらい前から何度かこの廃鉱山に入ってきていた人間達の正体が判明した。


彼らはトレンディア王国がクロムフルの町に派遣した王国兵のようであった。

その目的は――クロール・ロックハートの仇たる“私”の討伐である。

私の家族は、私が思っていた以上に、私のことを愛していてくれたようである。

事情を説明すると、次の通りである。


3年程前、私がストント山に出かけたまま行方不明になった時、最初は誰も心配しなかったそうだ。

周囲に稀代の変人と思われていた私である。また鉱山に出かけて独りで何かやっているんだろう程度にしか騒ぎにならなかった。

しかし、1週間が過ぎると、さすがに工房の親方を始め、周囲の人間は不審に思い始めたらしく、事故にでも遭ったのではと、ストント山に捜索隊を派遣した。

そして、数日に及ぶ捜索の結果、遂に鉱山内に放置されていた私の無惨な遺体を発見するに至ったのである。

明らかに凶暴な何者かに喰い殺された跡があった私の遺体を見て、町はストント山の廃鉱山には魔物が住んでいると思ったらしい。

しかし、元々廃鉱山に好きこのんで出かける阿呆は私くらいのものだったので、そのまま放置する方向で町議会にて決まりかけていた折に、私の両親が魔物の討伐を言い出したそうだ。

費用・懸賞金・国への兵士派遣の要請、全て自分たちが負担するから、と。


なお、驚くべきことに、その費用の提供は両親から独立して同じくクロムフルの町で商人をやっていた長兄も自らの資産から出してくれたらしい。

あんなに、私のことを嫌っているようなそぶりしか見せず、口を開けば商人の子であるのに石にしか興味を持たない愚鈍な奴、と悪態しかつかなかった兄が、である。

家族間の愛情はとかく、不思議なものである。


ともかく、そうしてストント山の廃鉱山に巣くう魔物の討伐隊が結成された。

その多くはクロムフルの町からの要請を受けて派遣された王国兵と、少数の懸賞金目当ての傭兵で構成されており、何度も迷宮と化しているこの廃鉱山内を探索しているそうだ。

まこと、ご苦労なことである。


何故私がそんなことを知っているかというと、今まさに私の目の前に3人の討伐隊の兵士が死体となって転がっていることが、その理由である。


その日、私は林檎もどきの木の魔力による品種改良によって桃の木の養殖に精を出していたのが、暫くして私の耳が無粋な数人の足音を捉えた。

しかも、明らかにこちらに向かってきているものだったので、ついにここを発見する者が出たか、と私も感慨深い気持ちになったものである。


彼らに会った時、私は彼らを紳士的に迎えるつもりだった。

龍に転生したとはいえ、私も生前は人間だったのだから、人間と殺し合うようなことは極力避けたかった。

しかし、彼らは地龍の巣に足を踏み入れた時、まず植物が生い茂る異様なこの空間に驚き、その奥で鎮座する私の身体を見かけて再度驚き、何かを納得した様子を見せた後に、4人揃って私に襲いかかってきた。

トレンディア王国兵の甲冑を身にまとっていたから、彼らが王国兵であることは私にもすぐに分かったのだが、私が問答無用で襲われる理由が分からない。

そこで、私はここ3年間人と出会った時に備えて研究してきた魔力の波動による念話を試みたのだが、私の声を聞くと彼らは恐れ戦き、私のことを魔物と評してさらに激しく襲いかかってきた。


今思えば自明のことであって、人語を解する竜を見つけて恐れを抱かない者がいるはずがない。

私も約3年ぶりに人と接することができて、動揺していたのだろう。

生きていた頃は冷静沈着、が信条だったのだが。


ともかく、鉄より堅い私の鱗を破れるはずもなく、しばらくは剣や斧を振りかぶり襲いかかってくる彼らをあやしていたのだが、彼らが私の果樹園にまで手を出したのがまずかった。

果樹園はたった独りこの場所で生きてきた私にとって子供同然の存在である。

それが無惨に切り倒されたのを見たとき、私の頭の中が白く弾けてしまった。

気付けば、4人の内3人を爪で切り裂いて殺してしまったらしい。


仲間の血を浴び腰を抜かして命乞いをする兵士が1人残っていたので、彼から事情を聞くことにしたのだが、これがまた難儀した。

私が念話によって話かけても怯えるばかりでまるで会話にならなかったのである。

しょうがなく小1時間かけてこちらに害意がないことを説明して、ようやく事情を聞くことができたのであった。


その後、生き残った彼には二度とこの地に足を踏み入れないよう強く言い聞かせて帰り道を教えて送り返したのだが、彼がこの迷宮のような廃鉱山を抜けて帰ることができたのかは不明である。

まあ、ここに来るまでに長い時間をかけてマップを作って来たはずだろうから、大丈夫だと思うが。


両親達に私が龍となって生きていることを伝えてもらおうかとも思ったが、やめておいた。

信じてもらえるとも思えないし、人間としての私は死んでしまった以上、私のことは早く忘れて彼らの生を生きてくれるよう祈るばかりである。


それにしても、勢いとはいえ人間を殺してしまった訳だが、何の感慨も沸かないのが不思議である。


私はもう身も心も魔物となってしまったのだろうか。





[10769] 一章・02
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2009/11/12 00:08


王国歴776年



「やっと見つけた…」

「あいつの仇……っ!」




※※※※



私の忠告は聞いてもらえなかったのか(当然と言えば当然だが)、あれから何度か王国兵達が地龍の巣に辿り着いたことがあった。

その頃には私は魔力の使い方も心得たものだったので、岩壁に直接魔力を流し込んで迷宮を改造したりしてなるべく人が近寄れないようにしていたのだが、運の良い王国兵が迷い込んでくるのである。

しかし、結果的には彼らは運が悪かったのだろう。


私の説得むなしくどいつもこいつも問答無用で襲いかかってくるので、こちらとしても反撃せざるを得ず、結局は皆殺しである。

良心の呵責も覚えることなく、手慣れてきた自分に嫌悪を覚えないでもないが、今目下私が夢中になっているのは、そんな安い自己憐憫と自己嫌悪をすることではなく、新しい魔力の使い方にあった。


果樹園作りは大分行き詰まった感があり、林檎(のようなもの)から桃(だと思う)を品種改良したまでは良かったのだが、理由はさっぱり分からないが、そこから葡萄を作ろうとしたところ、全くうまくいかなかった。

魔力を込めて改造し過ぎたのが悪かったのか、全て1週間と経たず腐り落ちてしまう始末である。

にっちもさっちもいかなくなり、ふて腐れていたところ、ふと思い立った。


私はやはり、土いじりよりかは石いじりが性に合っている。


龍になってしまった時はもう石いじりをすることも生涯ないであろうと悲観していたが、この姿でも農業が出来るのであれば、鍛冶ができない理由などないのではないか?

幸いここは閉鎖されたとはいえ、往年には王国一と唄われた程の採掘量を誇る鉱山の内部である。

岩壁を掘ればいくらでも鉱物は出てくるだろう。

その鉱物に、果物と同じ要領で魔力を込めて錬成していけば、鍛冶の真似事くらいできるようになるのでは?


この思いつきは私の龍生の見通しを明るいものにしてくれた。

魂の牢獄と評したが、たとえ牢獄であろうと、石さえいじれればそれで満足な私である。

むしろ望むところだった。


こうして私は、ここ最近ずっと鉱石に魔力を込めて、錬成する研究にかかりっきりなのであった。

それは果樹園作りよりも遙かに難しく、しかし遙かにやり甲斐のある仕事だったので、こうなると、最初は喜ばしいものであった人間達の訪問が、今度は煩わしいものになり、ついつい問答無用でこちらから襲いかかり秒殺してしまうようにもなってしまったのは反省すべきかもしれない。



そんな日々のある日のことだった。彼女がここにやってきたのは。




※※※※




「やっと…やっと見つけた…っ!」


その日、私は錬成の研究に夢中となっていて、こちらに近づく足音を聞き逃していたのだが、彼女の声を聞いただけで、目を向けるまでもなくそれが誰なのかはすぐに了解できた。


少しカールがかかった美しいブロンドの髪。

女性にしては割と長身で、背筋良く胸を張って立つその姿勢の良い立ち居振る舞い。

数年前よりもさらに磨きがかかった、その整った美しい顔立ち。

燃えるような赤みがかった瞳に、勝ち気そうな目元。

そして、そんな美しい顔を憎悪に歪めて、私を睨み付けている彼女は、それでもなお昔と何も変わっていないように見えた。


“……カトレア……”


我が麗しの幼なじみ、赤が似合う才女、カトレア・コーンフィールド。


しかし彼女は。


「お前が……。お前のせいで……」


ゆっくりと震える手を腰の剣に伸ばし。


「ああああああああああぁぁぁぁっっ!」


ホールに響き渡るような怒号と共に剣を抜き放ち、私に斬りかかってきた。


“……待てっ!”


さすがに、彼女を切り裂いて殺す訳にもいかない。


「はあぁぁっ!」


裂帛の気合いと共に振り下ろされた剣は、しかし、私の鱗を砕くことはなかった。

だが、その剣勢の鋭さは今まで私に幾度となく襲いかかってきた歴戦の王国兵のものと勝るとも劣らないものであり、それだけでも、これまで彼女が並々ならぬ努力をしてきたことが感じ取れた。


私の知る限り、剣を握ったなど一度もないお嬢様だったのに…。


「ああああぁぁっ!」


叫びながら彼女は剣を振り続けているが、彼女の剣が私に届くことはないだろう。
むしろ彼女の身体のほうが心配である。



グガアアアァァァッ!



彼女を止めるため、口を大きく広げ威嚇するように耳が潰れるほどの咆吼をあげてみる。

幸い、さすがの彼女も本能的な危険を感じ取ったのか、すぐさま距離を取って後ろに下がってくれた。


本当は先ほどの咆吼で落盤が起きないか心配でもあったのだが。

とにかく、これで彼女と落ち着いて話ができる。


“カトレア、驚くだろうが私の話を聞いてくれないか”


「っ!?」


念話を受け、警戒する様子を見せる彼女に、説得すべくさらに話しかける。


“お前とは戦いたくない。聞いてくれ。私はクロールだ”


「なん…ですって?」


“何から話したものか。そうだな。私がこの鉱山に来た日のことから話そうか…”


彼女は信じてくれるだろうか?




※※※※




長い話の間、彼女は殺気を緩めることなく私を睨みつけていた。


「それじゃあ、あんたがクロールだって、そう言うの…?」


“ああ、そうだ。こんな姿になったが、私がクロールだ”


「……」


“分かってもらえたようで良かったよ、カトレア”


む?

カトレアの様子が変だ。

さっきより殺気が増しているような…。


「お前が…」


血がにじむ程剣の柄を握りしめ。



「お前がその名を呼ぶなぁっ!!」



大上段からの一閃。


鋭く、乾いた音がホール内に鳴り響いた。

彼女の剣が私の鱗によって砕けた音である。

しかし、今まで様々な戦士達が私の身体に剣を突け立てようと何度となく攻撃を繰り出してきたが、剣が砕ける程の速さで攻撃をしてきた者はいなかった。

それだけ、彼女の怒りが大きい、ということだろうか?


「お前が、お前なんかがクロールであってたまるかっ!」


折れた剣で何度となく私の身体に切りつけようとする。


「あいつは、あいつは…。変な奴で、みんなから変人だって馬鹿にされて、それでも気にせず石ばっかりいじってるような馬鹿だったけど、私にだけは優しくて、それで…。それで…っ!」


泣いているのか、カトレア?

町のガキ大将とタイマン勝負をして顔にアザを作った時にも泣かなかったのに。

乗馬をしていて、調子に乗って馬から落ちて腕の骨を折った時にも泣かなかったのに。

大好きだった祖母が病気で死んだ時にも見栄を張って泣かなかったのに。

泣いているのか、カトレア。



「たまに笑うと笑顔が素敵な奴だったんだっ!お前のような化け物なんかじゃないっ!」




“……。すまない、カトレア”


見るに堪えかねて、私は尻尾で彼女をそっと叩いた。

そっと、といっても脆弱な人間にとってはそれだけでもかなり衝撃であろうが。

彼女の身体は横向きにはじき飛ばされた後、俯せになったまま動かなくなった。

まさか死んだ訳ではないだろうから、私の目論見通り失神してくれたようだ。


“やれやれ…”


あのまま彼女の好きに攻撃をさせていたら、彼女の身体と精神がどうなっていたことか。

まさかあそこまで、彼女が私を殺した私(というのも変な話だが)を憎んでいたとは。


私が人間だった頃、彼女はよく私を叱ってくれたものだった。

時には罵倒しながら強烈なローキックをもらったりもしたが。

しかし、それは彼女なりの愛情表現だったのだろうか。


私にとって、彼女は得難き友人だった。

変わり者扱いされていた私に、嫌な距離の立ち位置に立たずに自然に接してくれたのは彼女くらいのものだったから。


そんなカトレアが――。


「……おねがい……」


私は倒れ伏したまま動かないカトレアを慈しむように前足で抱きかかえる。

先ほどは昔と変わっていないと思ったが、こうして近くで見てみると、白磁のように美しかった彼女の肌のあちこちに傷跡が見て取れる。


「……クロ………行かないで…」


私の仇を討つために、それだけの努力をしてきたのだろうか。

私は、彼女にそこまでのことをさせるだけの人間だったであろうか。

私は――。


彼女の涙を拭くことさえ叶わない。

この鋭いかぎ爪がついた両の手では。




※※※※




いつの間にか、彼女は地龍の巣からいなくなっていた。

草の葉でベッドを作り、そこに寝かしておいたのだが。

私が錬成の研究をしている間、気付かないうちに出て行ったらしい。


私との力の差を実感して、もう彼女が来ないことを祈る。

彼女が、私のことを忘れて幸せに生きてくれることも。



====



王国歴777年


私はあれからさらに研究に没頭するようになった。

やり残した、しかしやらなければならない仕事があったことを思い出したからである。


その間、カトレアは何度も私のもとへやって来ては、私を殺そうと挑み続けていた。

彼女がしつこく執拗で頑固で諦めが悪いことは私自身、実感として知ってはいた。

いつだったか、彼女が小さい頃、町のガキ大将を気にくわない、という理由で叩きのめした時だって、彼女は相手が根を上げるまで1時間近く殴りかかっていたものだった。


私に挑んでは、傷一つ付けられずに負けて、気がつけばいなくなっているカトレア。


折れた彼女の剣が両の手で数えることができなくなった頃、私は彼女と僅かばかりのコミュニケーションを取ることに成功し始めていた。


私に対して背筋が凍る程の殺気を向けていることは依然変わっていない。

しかし、何度も戦っている内に、彼女の目的が私を殺すことだけではない気がしてきたのである。

絶対に勝てないと分かっているのに、それにも関わらず命の危険を冒してまで私に挑み続けているのは何故だろうか?


彼女は本当は――。


剣が折れ、カトレアが精根尽き果てて倒れ伏している間が、私にとっての会話チャンスである。

彼女は戦闘中は一切私の話に耳を傾けようとはしてくれないが、体力と気力が尽き、気絶するように倒れてしまってからは、無抵抗なまま私の話を聞いてくれるからだ。

彼女が倒れた後、体力が回復するまで仰向けで寝ている間、私は様々な話を彼女に念話で語り続けた。


龍になってから、どうやって生きてきたか。

植物を育てることの素晴らしさ。

今やっている研究の話。

そして、今となっては懐かしい人間だった頃の話。

カトレアとの昔話も忘れずに。


彼女はそれに口を挟まず、無表情のまま聞いていた。

体力が回復した後は、彼女は何も言わずにそのまま地龍の巣を去っていく。

そして、また新しい剣を携えて私のもとにやって来ては、戦いを挑んでくるのだった。



カトレアとの歪つな対話をする傍ら、私の研究も少しずつではあるが進捗を見せていた。

鉱石に魔力を込め、練り上げ、形を変える。

人間だった頃は、高温の炎で叩き、あるいはハンマーで削ることによってやっていた細工を、魔力を込めることで形の本質から変えていく。


急がなければならない。

早くこの仕事を終えなければ、彼女はきっと――。




※※※※




「今日こそ……お前に勝つわ」


もう何度目かはとうに忘れてしまったが、彼女が地龍の巣に現れたのは丁度満月の日であった。

そして、記念すべき日でもあった。


“カトレア、聞いてくれ。今日は――”


「問答無用!」


剣を抜き放ち、低く構えて、下段から斬り上げる。

固い、金属音がホール内に鳴り響く。


「はあぁっ!」


そのまま返す刀で、上段、横薙ぎ、突き、と連撃を加えてくる。

その鋭さ、速さは最初の頃と比べものにならない。

ここ1年間、私と数え切れない程の戦いをしてきた彼女は、驚異的なまでのスピードで、また剣の腕を上げていた。

私にとって、望ましくないことに。


“聞くんだカトレア!お前に話すことが――”


「だまれぇっ!」


両手で剣を持ち、私の身体に突き立てようと何度も突きを繰り返す。

鈍い金属音が不協和音の如く断続して鳴り続き、それは彼女の剣の寿命を少しずつ縮めていることを意味している。


何がお前をそこまで駆り立てているんだ。


「……なぜ…っ!」


彼女はきっと。


「…なぜいつも反撃しないのっ!」


私を殺すことだけでなく。


「…なぜ私をその両の爪で殺してくれないのっ!!」


私に殺されることをも望んでいる――。





※※※※




――今年の誕生日プレゼントは何が欲しい?


……。


――剣だって?何だってそんなものが欲しいんだ。


……。


――そんなことを私に言われてもな。親方に聞いてみないことには何とも言えんぞ。


……。


――ははっ。分かった。分かったよ。鞘だけは私に作らせてくれるよう、親方に頼んでみるさ。こう見えて、最近は少し仕事を任せてもらえるようになったんだ。


……。


――ああ、分かっているよ。とびっきりの奴を作ってやるから、そんな顔をするなよ。


……。


――約束だ。






※※※※






「……うぅっ…」



“気が付いたか?”


「っ!!」


私の声を聞き、カトレアは即座に起き上がろうとするが、身体の自由が効かないのか、そのまま膝から崩れて倒れ込む。


“あまり無茶をするな。私に対して1時間以上も全力で斬り続けていたんだ。いつものように体力が回復するまで大人しくしていた方がいい”


カトレアは憮然とした顔をしながら言い返す。


「……なぜ、なぜいつも私を殺さないの?」


決まっている。


“君は、私の大切な友人だからな”


「……っ!」


一瞬の内に、彼女の瞳が怒りで染まる。


「私はお前の友人なんかじゃないっ!」


“……私が化け物だからか?”


「違う!違う違うっ!私にも、本当は分かっているのよ!」


彼女はそのまま力任せに叫び続ける。


「少なくとも、あなたがクロールの記憶を持っているってことは!」


まるで泣き叫ぶように。


「生きていた頃と変わらず優しいお人好しだってことは!」


いや、実際に彼女は泣いていた。気丈なあのカトレアが。


「でも、でもっ!私はもうあなたとは友人にはなれないわ!」


泣くな、カトレア。私はお前が泣くと悲しい。



「だって…、だってあなたは私が殺したんだものっ!」



“……だから、私に殺して欲しいのか?”


「そうよ!あの日、私があなたに飾り剣が欲しいだなんてわがままを言わなければ、あなたは鉱山に行くことはなかった!そこで竜に喰い殺されることもなかったはずだもの!」


確かにあの時、私はカトレアから誕生日プレゼントに友達に自慢できるような煌びやかな飾り剣が欲しいと頼まれて、剣の本身を作ることは親方に許されていなかったので、その鞘作りに勤しんでいたのだった。

そして、鞘作りに行き詰まって、気分転換にストント山に向かったのも、また事実だった。そこで竜に殺されたのも。

しかし、私は――。


「全部私のせいだわっ!だからお願い、私を殺してよ…っ!そうでなければ私は…。私は…っ!」


まるで挑むように私を睨み続ける彼女に、私は前足を伸ばす。

そのまま彼女の細い首にかぎ爪を突きつける。


“君の首なら、簡単に落とせるぞ”


泣き笑いのような顔をして、カトレアは答える。


「それでいいのよ。あなたは知らないわよね。あなたがいなくなってから、あなたの両親がどれだけ悲しんだか。あなたのお兄さんがどれだけ怒ったか。あなたの弟がどれだけ泣いていたか。全部、私のせいだわ…」


“おまえが死んでも、誰も喜んだりはしない”


かぎ爪をさらに首に近づける。息がかかるほどに。


「そうかもしれない。でも、悲しむ人もいないわ…。知ってる?私、家を勘当されたのよ」


彼女の家はいわゆる没落貴族の一族だった。

王都を追われ、クロムフルの町にやってきた、元上級貴族。


そのためか、商売に成功して成り上がった中流の町商人達が見栄を張って立てた多くの豪邸が建ち並ぶ住宅街の一角に、彼女の住み家もあった。


彼女の家の近くに住んでいた私は、小さい頃から彼女とよく遊んだものだった。

いや、彼女のわがままによく振り回された、といった方がより正確かもしれないが。


「しょうがないじゃない…。あの頃の私は友達の作り方を知らなかったのよ。誰かに命令することでしか、コミュニケーションの取り方を知らなかったの」


彼女の両親は没落して下級貴族になったが故に、いつの日にかその地位を取り戻そうと躍起になっており、カトレアが平民たる私と遊ぶのにいい顔をしなかった。

また、王族と繋がりのある大きな貴族の子息を見つけてきて、まだ幼かった彼女の婚約者にして、彼女の怒りを買ったりもしていた。


「婚約なんて、とっくの昔に破談になったわ…」


しかし、それでも、彼女の両親は彼らなりのやり方で彼女を愛しているように私には見えた。

それが――。


「あなたが魔物に喰い殺されたと聞いた時、私の中には二つの感情が生まれたのよ。あなたの仇である魔物に対する怒りと、あなたを死地へと赴かせた自分自身への怒りよ」


表面上は落ち着いたように見えるが、焦燥した感じでカトレアは語る。


「まず、私が始めたことは、仇を討つだけの実力を備えることだった。何もせずに死ぬのはイヤだったから。町の武道場に行って、一から剣の振り方を習ったの。親は当然に反対したけどね」


“それが理由で?”


「ええ。いずれ大貴族のお坊ちゃんに嫁ぐ予定の私に剣術なんて必要なかったから。父さん達は必死に私を説得したけれど、私の決心が揺らぐことはなかったわ。だから、父さんがとうとう激怒して、家族の縁を切られたの」


“……なぜ、そこまでして”


「……知ってる?私、あなたのことが好きだったのよ。ずっと、ずっと好きだったの。だから、親不孝者だと罵られようと、私にはやるべきことがあったの」


“……それが、私を殺すことと、自分を殺すこと、か”


「ええ、あなたがいない世界を生きても、もう仕方がないもの…。でも、あなたがそんな姿になっても生きていると分かった時、あなたを殺した魔物に対する殺意は全て自分に対する殺意となって変わったわ」


カトレアは全てを諦めたかのような表情をしていた。


「だから、お願い。私を殺して。他ならぬ、あなたに、殺して欲しいの。あなたの声を聞きながら、このまま死なせて」


そのまま目を瞑り、私の爪にそっと手を乗せる。


彼女は、やるべきことがあると言った。

だからここに来たのだと。

だけど。

私にも、まだやるべきことがある。


“……だめだ”


「どうしてっ!」


“私は、まだ約束を果たしていない”


工房として改造し使っていた岩の麓から、私はそれを取り出した。

今朝、丁度完成したところだった。

ギリギリセーフだった、ということになる。


それを爪に乗せて、彼女に差し出す。


“まだまだ未熟だが、これを、君に”


「……これは…」


“少し遅れてしまったが、ハッピーバースデー、カトレア”



「……あぁ、あぁぁぁっ」



彼女の瞳が大きく開き、その縁に涙の滴が溜まり出す。

今にもこぼれ落ちてしまいそうだ。

その瞳に映っているものは、数々の煌びやかな宝石が散りばめられた、剣の鞘。

私があの日、彼女からせがまれて、親方に頼み込み、気持ちを込めて作ろうとした、飾り剣の鞘である。



「ああああぁぁぁぁぁーっ!!」



カトレアはそのまま鞘を胸に抱きかかえて、赤子のように泣き始めた。


人ならぬ身の私には、彼女を抱くことも叶わず、静かに見守ることしかできない。

その日、いつも静かな地龍の巣には、彼女の泣き声だけがいつまでも響いていた。






※※※※





「見て、クロール!」


後日、彼女は一降りの抜き身の剣を携えて私のもとにやって来ていた。


“見事な剣だが、それは?”


「あなたの訃報を聞いてからすぐに、工房の親方さんに作ってもらっていたの」


“親方が?”


「親方さんも、責任を感じていたみたい。あなたに頼んだ鞘と対になっている剣の本身を三日三晩寝ずに作って、私にくれたの。あなたの形見だからって」


“……”


「今までの私にとって、この剣は重みだった。この剣と向き合うことさえ避けてきたわ。こんな剣さえなければあなたは、って」


そう呟く彼女の表情はしかし、晴れやかなものだった。


「だけど今は違う。本当にいい剣だと思うわ。なんてたって、クロムフル一の鍛冶屋が作ってくれた剣で、あなたの気持ちが込められたものなんですもの」


そう言って彼女は、抜き身の剣を、私が先日プレゼントした鞘に納める。


「これからは、私はこの剣と共に生きる。生きて、きちんと年を取って、そして死ぬわ。もう死にたがったりはしない。この剣があることが、あなたが人間として生きていたことの確かな証だから」


“……そうか。それならば安心だ”


はっとした顔で、口元を押さえるカトレア。


「……あなたの笑顔。変わらず優しい」


“……ん、何か言ったか?”


「うん、あなたはそんな姿になっても変わらず素敵だって言ったのよ、クロール!」


“……まだ、私をクロールと呼んでくれるのか?”



「当たり前よ!たとえどんな姿になったって、あなたは私が大好きだったクロール・ロックハートだわ。私が保証してあげる!」



そう言って、彼女は私が好きだったとびっきりの笑顔を見せる。


“……そうか、ならばその名は君にだけにあげよう。私のことをクロールと呼ぶ人間は、君以外にもういない。君が生きることが、私がクロールだったことの証明だ!”



そうして、私は再び咆吼をあげる。




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職業:地龍
年齢:5歳(今そう決めた)
名前は、もうない――。


1章・おしまい




[10769] 二章・01
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2009/09/15 17:16


遠く険しい道程ならば、せめて共に歩む友が欲しいと願うことは、贅沢なのであろうか。




※※※※




王国歴780年



私の研究は行き詰まっていた。

どん詰まり、である。


どうにか鉄を錬成して不格好ながらも剣を精製することには成功した。

したが、いかんせん、人の手で作られた剣よりも遙かに強度が脆いのである。

いともたやすく、簡単に、折れてしまう。

理由は分からない。

しかし、同じようなスランプに以前出会ったことはあった。

果樹園作りが行き詰まり、葡萄の養殖に失敗した時である。


あの時も、作れども作れどもすぐに腐り落ちてしまう貧弱な果物しか作れなくなってしまい、行き詰まってしまって、研究を中止していた。


それと、同じ感じが、今回もするのであった。





「ちょっと、私の話を聞いているの?」



眼下から声が聞こえ、私は思索の海から我に返った。


「もうっ。せっかく私が、ノッドラートの土産話を聞かせてあげてるのに」


そう言って、カトレアは拗ねた様子を見せる。


彼女は確か私の一つ年下だったから(にも関わらず昔からお姉さんぶってはいたが)、もういい加減いい歳になっているはずなのだが、彼女の美しさは衰えるばかりかますます増しているようにも思える。

というのは、いささか贔屓目が過ぎるのかもしれないが。


「ほら、見て!これなんて、とても綺麗でしょう。中が透けて見えて透き通るようなブルーが見えるのよ!」


そう言って彼女は私に一つの宝石を見せてくれる。


“…ほう。確かに美しい石だ。しかしそれでいて繊細そうな作りで出来ている。錬成すれば面白い物が作れそうだな”


「でしょう?あなたが気に入ると思って、わざわざ行商人に譲ってもらったんだから。感謝なさい!」


そう言って、勝ち気そうな目元を緩めて笑顔を見せるカトレア。



彼女は現在、冒険者を生業にしている、らしい。

渡り鳥のように勝手気ままに世界を旅して回っては、こうして私に各地の珍品をお土産として持って帰ってきてくれるのだ。

身体が大きくなりすぎて(現在ではそろそろ5メートルに届こうか、という程である)、この地龍の巣から出ることが叶わない私にとっては、外の世界の話を持ってきてくれる彼女の存在はとても有り難いものだった。


もっとも、彼女は数ヶ月ここでゴロゴロしていたかと思えば、気がつけばいなくなっており、そのまま数ヶ月音信不通になることも珍しくなかったので、私にとって彼女は渡り鳥というよりは気まぐれでわがままな猫、といったところかもしれない。


“それで、今回はどの辺りまで足を伸ばしていたんだ?”


「んー、そうねー。ノッドラートを北上して本当はゴドランド帝国の方にも行ってみたかったのだけどね。さすがに冬期にノーザリン山脈を越えるのは厳しそうだったので、そこで諦めて帰ってきちゃった」


残念そうな顔をしているが、あの挑戦的な目つきはきっといつか踏破してやると思っていることだろう。


“…やれやれ。君の剣の腕は知っているとはいえ、女性の独り身で危険な地域に行くのはあまり感心しないがな”


「あら?大丈夫よ。何てったって、私には龍のご加護が付いているもの!」


不敵そうに笑いながら、彼女は胸元のペンダントをそっと握りしめた。


あのペンダントは、私の鱗を魔力によって溶かし、ここで採掘した宝石と混ぜ合わせて作った限定非売品のオリジナルの一品である。


ご加護があるかどうかは知らないが、龍が作ったペンダントなんて聞いたことがないので、稀少価値があることだけは間違いないだろう。


「お伽噺にもあるじゃない。龍こそはこの世で最も神聖な生き物。その龍のご加護を受けた者は、あらゆる苦難から解放されるだろう、って」


“私にご加護などというものが仮にあるとしても、そんな大層なものだとは思えないのだが…”


「そうでもないわよ。私にとっては、天上神の加護よりも安心できるものだもの」


そう言って笑う彼女は、年を感じさせず昔のままのお転婆な少女のようでもあった。



しかし、彼女もいつまでも少女のままである筈がない。

こんなに美しいカトレアも、人間である以上、いつかは老いていくだろう。

そして、確実に、私より先に、死ぬのだ。




※※※※




その晩は、丁度満月の夜だった。


崩れた天蓋から眺めることができる満月は、赤く輝いており、その月の光は地龍の巣全体に赤いベールをかけてくれて、現実離れした幻想的な風景だった。


年に一度、冬の日なのに、張りつめるかのように空気が乾く日には、こうした赤い月が見ることができた。


そして、私はこの月が好きだった。


赤は、もっとも私が好きな色だったから。


その月の赤色は、私が今まで数多く見てきた中でも、一番美しいと思う赤色だったから。


しかし、私はその晩、その赤い月よりもさらに鮮烈で美しい赤色を見ることになる。





「こんばんは。最も新しき知恵ある竜にして、この世で最後の知恵ある竜」


私はその少女がいつその場に現れたのか、全く感知することができなかった。

常人よりも遙かに発達した龍の聴覚・嗅覚をもってしても、である。


“……君は、何者だ?”


彼女の第一印象は、“赤”だった。

まず、目に付いたのは、この世のありとあらゆる血液を凝縮して撹拌したかのような、溶けるようなワインレッドの瞳である。

彼女の素肌が、病的なまでに白いことも瞳の赤色を際立てていた。

それでいて、唇だけは濡れた血液のように艶めかしく赤く染まっている。

また、素肌だけでなく、髪の毛までもが見事な白一色で、絹のように透き通って見えた。

編み込んだまま左右に二つお下げにしている髪型は、その小さな身体と相まって彼女の年齢を幼く感じさせたが、しかし、彼女から感じる雰囲気はどこか老成したものだ。

そして、黒一色で染めてフリルをたくさん縫い込んだドレスを着込んだ姿で、彼女はいつの間にか私の目の前に立っていたのであった。

赤い月の光を浴びながら。



「あたくしの名前は、マリー。マリー・ブラッドベルよ。以後お見知りおきを」



そう言って、ドレスの端をつまんでちょこんとお辞儀をする彼女の口元から、犬歯にしてはやけに鋭い八重歯が覗く。


“…君から感じる気配は人間のものではないな。魔物か?”


「あら?あたくしのようなか弱い少女に向かって魔物だなんて、存外マナーがなってないですわね」


“しかし、少なくとも人間ではない”


「なぜ、そう思われるの?」


人間ならば、このような禍々しい魔力を全身から発したりはすまい。


“……聞いたことがある。いつの時代、どの場所においても、日が暮れてからの時間は、彼らのものなのだと。血で血を濯ぐ者。夜の支配者。日の下を歩かざる者。永遠の不死者”


まるで三日月のように目を歪めて笑う彼女は――。



“そうか。君はヴァンパイアか”



「ご明察ぅ。と言いたいところだけれど、これだけお膳立てしたのだもの。気付いて当然かしらね?」


その場でクルクル回りながらまるで童女のように笑う。


“君たちヴァンパイアは魔物でもない。人でもない。しかし、どこにも属さない者だからこそ、人の傍に寄り添い、人と共に生きてきたと聞く。人の歴史のあらゆる裏側には君たちが関与してきたとも”


「んふふふ」


“そんなヴァンパイアのレディが、こんな辺鄙な場所に何の用だね?”


「貴方に用があって来たに決まっているじゃないの。最も新しき知恵ある竜にして、最後の知恵ある竜」


なるほど。

こうして月の光の中楽しそうに踊る彼女を見ていると、お伽噺に聞く主人公達が妖艶なヴァンパイア達に誑かされてしまうのも納得できるというものだ。

が、しかし。


“…その最後の知恵ある竜とは何だ?最も新しき知恵ある竜というのはまだ理解できるのだが”


彼女は変わらずクルクルと踊りながら楽しそうに答える。


「そのままの意味よ。今この世で、生存が確認できている龍は貴方だけなの。ついこの間、確認できていた最後の1匹である水龍が、命を落としたから」



“龍”。

知恵ある竜にして、この世で最も気高く、最も誇り高く、最も神聖な生き物。

その存在は神話の時代にまで遡らなければ確認することは難しく、王国の各地の古い村などのお伽噺の中で僅かに確認することができるのみである。

いわく、トレンディアの始祖王が火山に住む獰猛な火龍を倒した、だとか、今世に伝わる魔術体系を確立した偉大な魔術師が深い洞窟の奥に住む地龍から魔術の極意を教わった、だとか。

それらは全てお話の中のものであり、目撃例となると、現在においてはほぼ皆無、と言っていいだろう。


しかし、その水龍の話であれば、私も町にいた頃聞いたことがあった。

トレンディア王国をさらに東に進んで、ノッドラート国との国境にある深い深い森の中にある大きな湖には、何百年も前からそこに生息している水龍がいるのだ、と。

現地では、それこそ神格化され、神の如く扱われていると聞く。

しかし。



“水龍が死んだ?”


「ええ。正確には、殺された、のだけれど」


そこで初めて彼女は踊るのを止めて、ここに来てからずっと見せていたあの蠱惑的な微笑を表情から消した。


「ノッドラートの魔法兵の連中に、なぶり殺しにされたそうよ。何でも、古い因習を断ち切るのだとか。笑わせるわよね」


先ほどまでの蠱惑的な微笑ではなく、皮肉げにマリーは笑った。


“いや、しかし…。そこまで年経た龍であれば、そう安々と人間に殺されはしないと思うのだが”


「そうね。だけど、“彼女”は、年を取りすぎて、独りで生き過ぎて、生きることに飽いていたのよ。死に場所を探していたのね。魔法兵どもに襲われた際、ほとんど抵抗しなかったと聞くわ」


“……君の知り合いだったのか?”


「…ええ、昔のね。でも、貴方も注意することね。いつか貴方も百年後、数百年後、気の遠くなるほどの年を経た時に、“彼女”のように死に場所を探し始めるかもしれないわよ?」


それはまるで自分に言い聞かせているかのようでもあった。

その時のマリーは様々な感情が入り交じった表情で、嬉しいのか、悲しいのか、悔しいのか、若輩者たる私には到底判別できそうにもなかった。


“……肝に銘じておくよ”


「そうしなさいな。それでね、その水龍こそがこの間死ぬまでここ中原周辺諸国で確認できる最後の龍だったの。貴方が産まれるまでは、ね」


“なるほど、それで最後の知恵ある竜、か。しかし、どうして私がここにいると分かった?”


「それは分かるわよ。だって、貴方、一時期派手にここの王国兵を殺し回っていたじゃない。ここ最近はそうでもないみたいだけれど」


“いや、別に殺し回った訳ではないのだが…”




そうなのである。

数年前までは、相も変わらず私を討伐しようと、王国兵がプライドとメンツをかけて懲りずに討伐隊を派遣し続けた結果、私は、この迷宮に入り込み運悪く地龍の巣に辿り着いた兵士達をかたっぱしから殺していたのであった。皆殺しである。

おかげで、麓のクロムフルの町では私は世にも恐ろしい化け物として恐れられているらしい。


しかし、かかる憂うべき事態を改善してくれたのが、我が麗しの幼なじみ、カトレア嬢である。

私がクロールの生まれ変わりであると了承してくれた彼女は、何とか私にかけられた討伐願いを取り下げようと、私の家族と掛け合ってくれたらしい。

私の両親や兄はなかなか説得に応じようとはしなかったらしいが、私と一番仲の良かった友人であるカトレアに諭され続けた結果、私の仇を取るために新たな犠牲者を増やし続けたのでは天国にいる私も喜ばないだろうと(天国にはいないが、確かに私は喜ばない)、討伐願いを取り下げることを決意。

おかげで、王都から王国兵が派遣されることもなくなり、今では、ごくたまに腕試しに訪れた物好きがやってくる以外、平穏そのものである。




「それから、ストント山の廃鉱山には、人食い龍が住む、なんて噂が王都にまで流れてきていたのよ。それで、あたくしの耳にも入ったという訳」


“なるほど”


因果応報、こここれに極まれり、という訳か。


“それで、私に用というのは、一体何だね?”


「それなのだけれど、貴方の鱗を数枚分けてもらえないかしら?」


上を向き、上空にある私の顔を怯えることなく見つめながら、楽しそうに言う。


“私の?”


「ええ、貴方の逞しい身体にびっしり生え揃っている、その美しい鱗を、ね」



龍の鱗。

それは鉄よりも堅く、どんな高温の炎でも熱を伝えず、あらゆる魔力すら遮断すると言われている、知る限りこの世で最も強固な物質である。

市場に出回れば家が一軒買えるどころの騒ぎではない値段で取引されるらしいが。

とは言え。


“まあ、しかし、私にとっては毎年生え替わるものだからな。数枚欲しいと言うのであれば、くれてやるのはやぶさかではないが”


「太っ腹ぁ。こんな辺境の地にまで足を運んだ甲斐がありましたわ」


嬉しそうにピョンと跳びはねるマリーの様子は、年相応の少女に見えなくもない。


“だが、一体何に使うのか聞いてもいいかね?まさかヴァンパイアが商売をする訳でもあるまい”


「んふふふっ」


犬歯をむき出しにして楽しそうに笑う。


「実はそのまさか、なの。王都で最も大きいと言われている商会の名前をご存知かしら?」


ふむ。私も人間であった頃は一端の鍛冶職人でもあったので、作った製品を卸売りするいくつかの商会の名前も知ってはいるが…。


“確か…。ん、待てよ?あの商会は…、ああ、そういうことか?”


「ええ、“ブラッドベル商会”。あたくし、マリー・ブラッドベルは、ブラッドベル商会の会長なのよ」


得意げに胸を反らして答えるマリー。

しかし、まあ、何というか。


“…ヴァンパイアが国の中枢で交易に手を出すとは。世も末だな”


「あら、言うわね若造が。あたくし達ヴァンパイアはいかに人の世界に融け込み、人と共に生きていけるかを苦心して生きてきたのだわ。それこそ、貴方が産まれるより遙か前から」


“それは失敬。だが、私の鱗を交易に出すつもりか?”


話に聞いた龍の鱗のふざけた値段設定が本当だとしたら、それを簡単に仕入れることができればボロ儲けである。


「悪いかしら?いつの時代、どこの国でも、権力を持った人間というのは、物の価値さえ分からない癖に、稀少な物を手元に置きたがるの。あたくしにとってはいい上客なのだけれどもね」


“ふむ。それについては同感だが、しかし、まあ、ようやく話が見えてきたよ。つまり、先ほど君が言っていた、昔なじみの水龍というのは”


「今度こそご明察、ね」


マリーは嬉しそうに身体の前で両手を合わせて喜びを表現した。

目をあの三日月のように歪めながら。


「“彼女”は、私にとって友人でもありながら、大事な商品の供給元でもあったのよ。龍というのは、貴方も含めて、自身の鱗についてそんなに頓着しないから。頼めばいくらでもくれたものだわ」


“それを聞くと、何だか簡単にはあげたくなくなってくるなぁ。その水龍が死んだから、今度は私という訳か?”


「あら、商人として、商品の供給ルートを確保すべく色んな場所に顔を出してコネクションを作っておくことは常道手段なのよ。それに、そんな器の小さいことを言わないでちょうだいな。お里が知れちゃうわ」


むう。ニコニコと笑う彼女を前にすると、まあいいか、という気がしてくるのが不思議である。

これが世に言うヴァンパイアのチャーム、という訳でもあるまいが、あの小悪魔然とした笑顔にはそれと同等の効力があるのかもしれないな。

しかし、このまま彼女の言うなりになるのも、癪ではある。


「ねえ、いいでしょう?」


“うーむ。…いや、待てよ”




いい考えが浮かんだかもしれない。

聞くところによると、ヴァンパイアの最も恐ろしいところと言えば、人の生き血を啜るその両の牙でも、闇夜を永遠に生きるその不死性でもなく、龍ですら及ばないと言われる程魔力の扱いに長けたところにあるらしい。

おかげで、彼らは人知れず闇と同化したり、霧へと変化したり、コウモリ達を自在に操ったりとあらゆる魔術を使いこなすができると聞くが、そうであるなら――。


“交換条件を出してもいいかね?”


「この世は全てギブアンドテイク、ということかしら?でも、よろしくてよ。それが商人の鉄則だものね。貴方の鱗と見合う対価であれば、支払いましょう」


そう言って、マリーはさらに笑みを深くした。


「何でしたら、この身体で支払ってもあたくしは構いませんのよ?龍とはいえ、オスなのだから色々大変なのではなくて」


“……”


彼女の小さな身体では、その、壊れてしまうのでは?


いや。そうではなくて。


“……なかなか魅力的な提案だが、遠慮しておこう。取引相手に必要以上の情を持つことはなるべく避けたいところではあるし”


それに、そんな事になったら約1名、激怒しそうな人物の顔が浮かんだことだし。


大体、龍と人で、そういった行為は可能なのか?

まあ、マリーはヴァンパイアだが。


「あら、つれないわね。あたくしは、貴方とはこれからビジネスパートナーとしてだけではなく、友人としても付き合いたいと思っているのだけれど」


“それは光栄だが、君に頼みたいということは他でもない。私に、魔術を教えてもらえないだろうか?”


「魔術?」


ポカンとした顔で聞き返すマリーは、先ほどまでの蠱惑的な雰囲気が消え去り、さながら童女のようでもある。


“ああ。情けないことに、龍とはいえ私は新米の龍でね。有り余るほどの魔力を持ってはいるが、その扱いに長けているとは到底言えないのだ”


人間だった頃は、石をいじることだけを考えて生きてきた訳だし。


“それに、今私は魔力を使ってある研究をしているのだがね。最近それも行き詰まってきて、どうも、スランプになったようなのだ。ここは、一つ、その道のスペシャリストにご教授願いたいと思ったのさ”


「んふふふっ。貴方って、初めて見た時から思っていたのだけれども、本当に変わった龍ねえ」


マリーはクスクスと楽しそうに笑う。


「そもそも、龍がこんな甘い香り漂う果樹園に住んでいること自体、初めはどうしたことかと思ったものだわ。それが今度は、魔力を使った研究をしているだなんて。まるで人間のようね、貴方ったら」


“違いない。それで、どうだろうか?”


一応本気であることをアピールするために、私は寝そべって座っていた岩から身を乗り出して彼女に顔を近づける。

それだけでも、常人なら恐怖の余り逃げ出すかもしれないが、彼女はさらに嬉しそうに笑みを強くしたのだった。


「もちろん、よろしくてよ。あたくしで良ければ、貴方に魔術の全てを教えてあげましょう。この世の理を。この世の成り立ちを。その全てを。でも、その代わりに」


“ああ、君が欲しい時、好きなだけ、私の鱗を持って行くといい。それくらい、お安いご用だ”


「商談成立、ね」


やった、と手を叩いてその場でピョンと飛び上がるマリーは、とてもじゃないが王都一大きい商会の会長とは思えない。

いや、そもそもにして彼女は――。



“そう言えば、君はそもそも何歳なんだ?何百歳も生きている水龍と昔ながらの知り合いというくらいだから、少なくと見積もっても…”


見たところ彼女の容姿は小さい背丈もあって、13歳くらいの少女にしか見えないが、外見通りの年齢な訳はいくらなんでもあるまい。


「あら、レディに年齢のことを聞くだなんて。貴方は分をわきまえた紳士だと思っていたのだけれども、私の勘違いだったのかしら?」


“む、いや、すまない。失言だった”


危ない危ない。顔は笑ってはいたが、あれは目が本気と書いてマジだった。

口は災いの元を地でいくところだったようだ。

いや、彼女がさらに目を細めてこちらに笑いかけているところを見ると、ひょっとしてもう手遅れかもしれない。


「んふっ。そんなにあたくしの年齢が気になるのなら、試してみてはどうかしら?」


“い、いや、何をだね?”


近づけた私の顔にしなだれかかってくるように身を寄せるマリー。

龍は汗をかかない筈だが、私には心の汗が顔を流れているのが分かる。


「あたくし、このような姿をしているのだけれど、それなりに人生経験の豊富な大人な女性だと自負しておりますの」


慈しむように私の顔の鱗を撫でるのはやめてくれ。

何かこう、得たいの知れない何かが…。


「試してみれば、きっと貴方も気に入ってくれると思いますの」


小さな口からまるで別の生き物のように赤い舌を出して、チロリと唇を舐める。


“いやいやいや、だから何をだっ?”


息を吹きかけるのもやめてくれ!


「あら、女に言わせる気かしら?それともそういうプレイなの?」


“いやいやいやいやいや”




いかん。いかんですよ。

そもそも私は龍になってから生きることに忙しくよくよく考えたらそっち方面のことに気を回すことをしなかったのだが龍であっても生き物である以上そういう機能はあるはずであってそこら辺どうなっているのか今まで気にもしなかったのだけれど今正に今私の中に産まれつつあるこの内なる情動がそれなのでは―――!




「うっるさーーーいっっ!!」




“っ!?”


「っ!?」


急に怒声が聞こえて、思わず後ろを振り返る私とマリー。


あ。

そう言えば、彼女の存在をすっかり失念していた。


「さっきから何を1人でギャアギャア騒いでいるのよっ!うるさくて目が覚めちゃったじゃないっ!」


寝癖で文字通り怒髪天を衝くカトレアが、プリプリと怒りながらこちらに向かってくる。



昼に土産話を持ってきた彼女は、まだまだ話すことはたくさんあるから、と今日はお泊まりなのであった。


と言うよりも、彼女は頻繁にここにやって来ては時には何ヶ月もダラダラと過ごしていくので、地龍の巣には彼女の専用スペースとして居住区まで、実はあるのである(作:働く地龍さんこと私)。

泣く泣く切り倒した果樹園の樹で作った質素な掘っ立て小屋ではあるが、彼女は存外気に入ってくれたらしい。


「大体寝不足はお肌の天敵なんだから、クロールもその辺ちゃんと気をつけて…もらわない……と…」


途中で苦情を言うのを止めて、立ち止まるカトレア。

こちらに近づくにつれて、私の顔に寄り添っているマリーの存在に気付いたようだ。

当のマリーはまだびっくりしているらしく、あの可愛らしいポカン顔を見せたままフリーズしている。

カトレアも私とマリーの様子を見て同じく口を開けたままフリーズしている。なかなかにキュートだ。

しかし、何と言うか、やましいところは一切何もない筈なのに、こう、強烈に感じる嫌な予感はなんだろうか?


“えーと、すまない、カトレア。君を起こすつもりはなかったのだが……”



「………………………………………う」



“う?”


「う、う、う、浮気者ぉっ!!」


“ええっ!?”


急に烈火の如く怒り出したカトレアは、この姿で初めて会った頃に味わったあの強烈な殺気を私に向け始めた。

しかし、その、浮気者という評価は、どうなのだ?


「誰よっ、その女は!!」


ビシっ、とマリーめがけて指を差しながら詰問する。


“いや、彼女は…”


「マリー。あたくしはマリー・ブラッドベルよ」


ようやく再起動が始まったのか、マリーは再びあの蠱惑的で小悪魔的な微笑を浮かべながら、挑戦的に名乗り始めた。

のはいいのだが、私の鱗を撫でながら話すのは、その、やめてもらいたい。


「あ、あんた一体、クロールに何してんのよっ!」


「あら、丁度今彼と“契り”を交わしたところなの。邪魔しないでほしいわね」


「ちっ!?」


“契約っ!そう、契って約する、商取引だっ!紛らわしい言い方はやめてくれ、マリー!”


何てことを言いだすんだ、この女。


「そ、そんなのダメーっっ!!」


カトレアは私の話が聞こえていないのか、爆発したように怒鳴り始める。


と言うか契り、って。そんな訳ないだろう!


“とにかく、落ち着いて話を…”


「なんで、なんでよっ!私が毎晩あなたのところに泊まるたびにどれだけ覚悟していたと思っているのよっ!ちゃんとスケスケのネグリジェを着たり、胸元のボタンを開けたりして誘惑してたのにっ!」


“いやいやいやいやいや”


何を言い出すんだ、カトレア!

動転し過ぎだろう!


「なんで私には手を出さずに、そんなペチャパイ娘には手を出してるのよぉっ!このロリコン!犯罪者!浮気者ぉっ!」


「ペ、ペチャ?」


“何てことを言うんだ、カトレア!と言うか何もかも間違っているぞ!”


「ちょっと、誰がペチャパイ娘ですって?」


カトレアの台詞の一部分に反応して、マリーが急に怒りの色を強め始めた。

これ以上ややこしくするのはやめてもらいたい。

このままでは人間とヴァンパイアの修羅場に巻き込まれた史上初の龍という汚名を受けることになってしまうではないか。


「あんたのことよ、このちんちくりん!」


「ちっ…!?」


あー、マリーがワナワナと怒りに身を震わせ出した。

これは非常に嫌な予感がする。


“ちょっと、二人とも少し落ち着いて…”


「ふんっ。女はね、少女の姿が完成型なの。第二次性徴が始まったばかりの時の姿が最も美しい美の結晶なのよ。15歳を過ぎた女なんて、みんな廃棄品同然のおばさんなのだわ」


ひぃっ。

何て恐ろしいことを言うんだ、マリー!


「お、おばっ…!?」


「そう、貴女のことよ、お・ば・さ・ん」


「よ、よ、よくもよくもよくも、よくも言ったわね!最近年を数えるのが辛くなってきたこの私に、最も言ってはいけないことを言ったわねっ!」


あー、やっぱり気にしていたのか。

結婚適齢期とっくの前に過ぎてしまったものな。


「殺してやる、この泥棒猫!」


カトレアは傍に置いてあった私の習作の抜き身の剣を拾って構えを取る。


「殺す、ですって?それはこちらの台詞なのだわ。あたくしが夜の世界で“ブラッディマリー”と恐れられている意味を、とくと教えてあげるわよ」


マリーはそのワインレッドの瞳の赤を色濃くし始め、それに伴って彼女の身体から寒気がするような鋭い魔力が迸り始めた。


「私だって、最近冒険者仲間から“疾風の龍姫”って呼ばれているんだから!後悔してももう遅いわよ!」


“いやいやいやいやいやいやいやいや”


と言うか、何だその恥ずかしい二つ名は?一体いつの間にそんなことに…。


などと言っている間に、カトレアがマリーに対し目にも留まらぬ速さで斬りかかり、それを紙一重で避けつつカトレアの首筋に爪を突き立てようと腕を伸ばしているマリーの姿が私の目には見える訳だが、ひょっとして、ひょっとしなくても、これ、私が止めるのか?


「死ねぇっ!!」


「シャアァッ!!」


あーあー。私の丹誠込めて作り上げた果樹園が…。林檎の木が…。桃の木が…。


“……やれやれ”



まあ、何はともあれ。

こうして、私には少し、ではなく大分変わった友人ができたらしい。



しかし、それでも、賑やかになることは、悪くない。





[10769] 二章・02
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2009/09/15 17:17



王国歴790年



マリーとの修行の成果か、私の研究はほぼ完成の域に達しかけている、と言っても過言ではなかった。


魔力による錬成であの頃の親方に勝るとも劣らない武具を作り出すことにも成功していた。

全てはマリーのおかげである。

彼女には感謝してもし切れない。

まぁ、その分彼女はやってくる度にトラブルをまき散らしてはいたが。




――いいですこと?人間たちなどは、魔力を生成できるのは神の子らである自分たちの魂だけだ、などど嘯いていますけれど、あたくしたちからすればちゃんちゃらおかしいですわね。



彼女はよくそう言っていた。



――魔力、というのが魂の力であることは間違ってはいないのですけれど、それが自分たちにしか使いこなせないだなんて思い上がるのはとんだ僧上慢なのだわ。




彼女いわく、この世に存在する全て物には魂があり、魂の力たる魔力を宿している。

しかし、その魔力を練り込んで“術”としてまで昇華させるためには、少なくとも人間程度の知能が必要なのだという。

そして、その存在密度が高ければ高いほど魂が生成する魔力の量も多くなるのだそうだ。


どうりで、龍となったこの身体には溢れんばかりの魔力が宿っているはずだ。



私のミス。

それは、私が魔力を与えて錬成しようとした物にも、魂が宿っており、魔力がある、ということを計算に入れていなかったことにある。


遠く海の向こうにある国では、全ての物には神が宿っているなどと信仰している国もあるらしいが、その思想性に近く、あらゆる物にも歴史があり、歴史に見合うだけの魂があるのである。

その魂を無視してこちらから一方的に魔力を流すだけでは、いずれ反発が起き、存在そのものたる魂が崩壊してしまい、腐り、崩れてしまう。

そのことに、私は気付いていなかったのだ。




――だから、貴方の試みはとても興味深いものではあるのだけれど、もしこれ以上の領域に進みたいのであれば、相手側の魔力にも考慮することですわ。相手を気遣わない一方的な愛撫ではとてもじゃないけれど愛を感じませんもの。




私は彼女の忠告を忠実に守り、繊細な魔力のコントロールを要求される新しい錬成に着手した。



そして10年。



私は魔力操作のコツを掴み、とうとう当初の目標たる自らの剣を錬成することに成功したのだった。


マリーなんかは、身体が大きい割に細かい作業が得意ですのね、などと笑っていたが。


しかし。


しかし私は、この研究が完成してしまったのであれば、何を糧にして生きていけばいいのだろうか?



この、いつ終わるとも知れない、魂の牢獄で。




※※※※




ここ1年近く、カトレアの姿を見ていない。


数ヶ月連絡がなかったことなら過去何度もあったのだが、1年近くも音沙汰がないのは初めてかも知れない。


心配である。

彼女の身に何か起きたのでなければいいのだが。





“…む?”




飽きもせず、剣の錬成に取りかかっていた私の耳は、今正に思いを巡らしていたカトレアの足音を捉えた。

迷宮をまっすぐにこちらへ向かって来ているようだ。


“無事だったのか…。しかし、これは?”


よく聞いてみると、彼女の足音ともう一つ、聞き慣れない足音が彼女と共にこちらへと向かって来ているのが分かる。


誰であろうか。

この場所を訪れる客など、彼女を除いては力試しに来る武芸者か、他にはマリーくらいのものだったが、マリーであるならば私に接近を感じさせるようなヘマをしないであろうし、カトレアが武芸者と共に来るとも考えにくい。


と、いうことは。


“やれやれ。今度のお土産は今までにも増して珍品中の珍品らしいな”


などという私の予測はしかし、全くもって甘いものだったのである。






「やっほー、クロール!久しぶりー!」



そんな快活な挨拶と共に現れたのは、いつもと変わらず、しかし以前と比べて年を感じさせる程度には老いてしまったカトレアであった。

もっとも、彼女の美しさはそれによってくすむことはなかったが。

相変わらず、ぱっと見は年齢不詳に見えるのだから恐ろしい。


“久しぶり、ではないよ、カトレア。私がこの1年間どれだけ心配したと思っているんだ?”


「ごめんごめん。ちょっと大きなヤマに巻き込まれちゃっててね。連絡を取ろうとも思っていたんだけど、ほら、あなたのところって手紙も届かないじゃない」


“む、まぁ、それはそうだが…”


カトレアの言葉に、ばつが悪そうに応える。


「ふふっ。なあに、クロールったら。そんなに私がいなくて寂しかったの?」


嬉しそうに笑い出すカトレアに誤魔化すべく、私は話題を変えた。


“んんっ、まぁそれはともかく。先ほどから気になっていたのだが、君の後ろにいるその子供は誰だ?”


「ああ、これ?」


そう言って、カトレアは彼女の後ろに隠れていた子供を前に出す。


黒いローブを顔が見えない程すっぽりと被り、俯いているその子供は、恐らく先ほど私が感知したもう一つの足音の持ち主なのだろうが。


「ほら、何をしているの。きちんと挨拶なさい」


促すように子供の頭に手を乗せた。


カトレアに促されてか、その子供は私の方へとチラリと目線を向けて。


「……これが、お母様が仰っていた龍なのですか?」


微かに聞こえる程度に、ポツリと呟いた。

その声は澄んだ綺麗なソプラノであったが、いや、しかし、そんなことはともかく。



“………………お母様、だって?”



私は子供の方に向けていた目線をゆっくりとカトレアの方に向ける。



“………カトレアさん?”



「ふっふっふ。さすがのクロールも驚いたでしょう?この子はね、私の娘よ!」


カトレアは何故か自慢げに胸を張ってそう宣言した。



“………な、え、ああ?”



いや、確かに、彼女は美しい女性なのであるから外の男どもが放っておかないだろうし、それにもう妙齢なのだから、結婚もして、子供がいてもおかしくない訳で、事実私は何度かこんなところでブラブラ遊んでいないで結婚相手でも見つけたらどうだと苦言を呈したこともあるが、それにしたって、子供だって?



“……えっと、いや、この場合、おめでとう?でいいのか?…いや、しかし、だって、ええ?”


と言うか私は何故こんなにもショックを受けているのだ?


“その、ち、父親は誰なんだ?私が人となりを見極めてやるから、ここに連れて来なさい!”


とうとうどこぞの頑固親父のようなことまで口走ってしまう始末である。

我ながら何を言っているのやら。


「んふっ、さーて、誰でしょう?少なくともあなたじゃあないわよねぇ」


“ぐ、いや、それはそうだろうが…”


「んふふふっ、ねえ、クロール。妬ける?妬けるわよね?と言うか妬いているんでしょう!」


わーい、と何故か喜び出すカトレア。

確かに、私は妬いているのかもしれないし、何だか非常に面白くもなかったが、このままカトレアに言い負かされっ放しなのも癪である。


“………あー、カトレアさん。その笑い方は直した方がいいと思うぞ。何だか最近マリーに感化されたのか、似てきているから”



ピキッ。

そんな音が聞こえそうなくらい、カトレアの笑顔が止まる。

効果は抜群だ。


「なんですってぇっ!私の方が遙かに気品溢れる淑女臭が出まくりで、あんのエセ貴婦人気取りのエロ娘と似ている訳ないじゃないっ!」


さっきまでの上機嫌はどこへやら、あっという間に噴火して怒鳴り始めるカトレアであった。

最近年を取って少し落ち着きが見えてきたかな、などと思っていたのだが、そんなことはなく、相も変わらず沸点が低い奴だ。

まあ、そこが可愛いところなのだが。

と言うか淑女臭って何だ?


「まったくもうっ。…まぁ、いいわよ。確かに私も冗談が過ぎたようだし」


嘆息して息を落ち着ける。

その間くだんの子供は私たちの様子を興味深そうに眺めていた。


「そんなに心配しなくても、この子は私の娘だけど、別に私が産んだ訳じゃないわよ。と言うかぶっちゃけ、私は……その、まだ、……しょ………だし」


後半は顔を真っ赤にして小さくモゴモゴ言っていたのでよく聞き取れなかったが、しかし、そうか、本当の娘という訳ではないのか。

よくよく考えれば当たり前の話で、カトレアは去年までは変わらずここに脳天気な顔をしながら入り浸っていた訳だし、隠し子、ということでもない限りこんな大きな子供が急に出来る訳がないのであった。


“だがしかし、だとするとその子は君の養子にでもしたのか?”


「んー、まぁ、そのようなものなのだけれど、最初に事情を説明するよりは、まずは見てもらったほうが早いわね」


そう言って、カトレアは子供にフードを取るように促した。


「…お母様?」


子供は心配そうにカトレアを見つめ返すが、彼女が力強く頷いたのを見て、決心したのか、小さな手を握りしめた後、おもむろにそのフードを取り払った。



フードの下から出てきた顔は、10歳くらいの小さな女の子の顔だったが、その顔立ちは恐ろしいまでに整ったものであり、深い青色の瞳と、短く切り揃えられた空色の髪が印象的だった。

しかし、彼女の顔で、最も目を引いたのは、その肌の所々にまるで爬虫類のような鱗が生えていた点にあった。



“……これは……”



私の不躾な視線を受けて、子供は嫌がるようにカトレアの後ろに隠れる。


「大丈夫よ。怖がることなんてないわ。クロールはあそこの連中とは違って優しいもの」


子供の頭を優しく撫でた後、私に向かって言う。


「この子はね、“ドラゴンハーフ”って、呼ばれていたの」


“ドラゴンハーフ?”


そんな単語は全く聞いたことがないが、しかし。


「トレンディアとノッドラートの国境線沿いにある、深い森の中の湖に住む水龍の話は知ってる?」


“ああ、知っている。10年以上も前に、殺されたと聞いたが…”


「この子はね、その水龍の子供なのよ」


“!?”


そう言って子供の頭を撫でるカトレアは、何故か悲しそうな表情をした。




※※※※




――ここ最近、ノッドラートの魔法兵が各地の村に現れては、誘拐や略奪を繰り返しているって話をギルドで聞いてね。その調査に参加していたのよ、私。


――トレンディアの政府は、ノッドラートとの外交に軋轢が生じるのが嫌なのか、それとも辺境の村で起きた小さな事件には興味がなかったのか、調査自体に乗り気じゃなくてね。私だとか古参の冒険者達で作ったチームで村を巡っては話を聞いて回ったの。


――それでね、どうもノッドラートの連中はここトレンディアだけでなく、大陸各地の古い伝承を収集しているらしいってことが判明した訳。その目的までは分からなかったけれど。


――どうもきな臭い匂いを感じたから、私たちはノッドラートの首都にまで行って、そこで情報収集をしていたんだけれど、そんな中ノッドラートの王立魔導院なんて胡散臭い機関の存在を突き止めてね。どうやらそこが主導となって各地での伝承集めを行っているらしいってことが分かったのよ。


――その後は、まあ、色々と何やかんやとあって、私の輝かしき武勇伝は後でたっぷりと聞かせるとしても、その魔導院とやらに潜入した私たちは、そこで彼らが非道な人体実験を行っている様子を見たの。各地で攫ってきた人たちはこのために使われていたのね。


――その中でも、最も吐き気を催す実験をされていたのが、この子なのよ。死んだ水龍の組織から採取した体細胞を、まだ母親の胎内から産まれていない胎児と魔力を通じて錬成する。つまり、人と龍のハーフを人工的に作ったらしいのよ、彼らは。


――そうして産まれたこの子は、以後10年間近く、その魔導院で監禁されたまま色んな人体実験に使われていたらしいわ。それでね、私頭に来ちゃって。そこで色々暴れ回ったあげく、彼女を連れて逃げて来たって訳なの。





※※※※




などと、カトレアは冒険活劇調にこの子供の事情を語ってくれた訳だが、その口調に似合わないなかなかにヘビーな事情であった。

と言うか色々暴れたって、何をしてきたんだ、カトレア。


「いやー、あははは。そのせいか、私、ノッドラートでは懸賞金付きの指名手配犯になっちゃってさー」


“なんですと!?”


笑い話ではない。


「向こうも向こうでこの子を取り返そうとしつこく追っ手を出してくるし、私も私でお尋ね者だしね、このままじゃ危ないと思って、ここに連れて来たの」


“連れて来たの、ってそんな明るい顔で言われてもだな、カトレア”


「だって、ここなら実質王国一安全な場所でしょう?それに、あなたがいるもの」


そう言って笑いながら話す彼女に、私は今まで逆らえたことがない。


“……ふぅっ、仕方ないな。その子をここで匿えと言うんだろう?”


「その通りよ、クロール」


私が断るとは微塵も疑っていない笑顔で頷く。


「それに私、これから色々後始末で忙しくなりそうなのよね。さすがにその子を連れたままドンパチやる訳にもいかないじゃない」


カトレアはその場でしゃがみ込み、その子の目線に合わせて話しかける。


「ねえ、お母様はちょっとこれから行くところがあるから、ここで大人しく留守番しているのよ」


お母様、って、絶対そう呼ばせたのはカトレア本人に違いない。


「はい。分かりました、お母様」


子供は彼女の言葉に素直に頷いた。


「それに、ここにいればお父様があなたのことを守ってくれるから安心よ」



“……誰がお父様だ、誰が”



「あら、あなたに決まっているじゃない、クロール!」


何がどう決まっているのやら。


「さて、と。私はそろそろ行かなくっちゃ」


そう言って立ち上がり、カトレアは名残惜しそうに子供を一瞬抱きしめた。

それから、私の顔に近づき、同じように私の鼻先を抱きしめて、固い鱗にキスをする。



“なんだ、もう行くのか?せわしないことだな”


「私だって、1年ぶりにあなたに会ったんだもの。もっとイチャついていたかったわよ、そりゃ。でも、色々と忙しいのは、悲しいことに本当なのよねぇ」


私の顔からそっと離れて、イヤだイヤだと頭を振る。


“そうか。何か私に手伝えることがあればいいのだが”


「あははっ、大丈夫。私がいない間にその子の面倒を見てくれれば、それで充分よ」


まあ、確かに私はこの地龍の巣から一歩も出られない身だからな…。


「あ、そうそう。その子にはまだ名前を付けてないのよ。向こうじゃ嫌な実験番号でしか呼ばれていなかったし」


今、思い出した、とこちらを向く。


“そうなのか?君のことだから、さっさと付けているものだが思っていたが”


「だって、やっぱり父親の意見も聞きたいじゃない?」


いや、その理屈はおかしい。


“……私は別にその子の父親ではないが、しかし、私が付けてもいいのか?”


「ええ、あなたとの最初の子供の名前はあなたに付けてもらおうって決めていたから」


幸せそうに笑って言っているが、だから私の子供ではないからな、カトレア。

と言うか勝手にそんなことを決めていたのか。



“……まぁ、付けろというのなら、考えてみるが”



何かヒントでもないものかと子供に目を向けたところ、露骨に目を反らされた。

微妙にショックである。

しかし、特徴的なのはやはり彼女の青色の瞳だろうか。

だったら、青にちなんでサファイアとか…。いや、しかし、ありきたりすぎて面白味に欠けるか?



“うーむ”



いこごち悪そうに立っている彼女の横で、何が嬉しいのかカトレアはニコニコ笑っている。

しかし。

そうか、この子は彼女の娘だったな。

だったら…。


“…よし、ならば、ルビー、というのはどうだろうか?”


「ルビー?」


“ああ、私が最も好きな宝石の一つで、君に最も似合う宝石の一つだ”


赤が似合う麗しの才女、カトレア。


「そうねー。…青い瞳のルビーちゃんか。うん、悪くないわね」


うん決まり、と一つ頷いて再び子供の頭に手を乗せる。


「それじゃあ、ルビー。いい子でお留守番しているのよ。お母様は少しでかけてくるから」


「お気をつけて行ってらっしゃいませ、お母様」


無表情のまま、ペコリとお辞儀をするルビーを、優しく見つめるカトレア。



こうして見ると、なるほど確かに、二人は母娘に見えるから不思議であった。





※※※※




“やれやれ、いくつになっても嵐のようにやって来ては嵐のように去っていくやつだ”


カトレアが去った後、地龍の巣に残されたのは私と目の前で無表情に佇むルビーだけである。

その深い海のように澄んだ瞳からは彼女が何を考えているのか全く読み取れない。

が、ここで一緒に生活していく以上、このまま放置しておく訳にもいくまい。


“……さて、と。とりあえず、ルビー、こちらにおいで。ここの案内をしてやろう”


カトレアのために作った居住スペースは日々進化を遂げており、なかなかの快適空間へとなっていたのであった。

と言うかむしろ、彼女はもうここに住んでいる、と言っても過言ではなかった。


住所:ストント山の廃鉱山内にある地龍の巣。


なかなかにシュールである。


などと益体もないことを考えていた私に対し、ルビーはちらりと目線を向けた後、無表情のままで言い放った。


「………気安く私に話しかけないでください。あなたのことが大嫌いです」


“…ぐっ”


私は別に人付き合いに頓着する方ではないのだが、それにしても可憐な少女に冷たい声でこうも言われるとそれなりに傷付くのであった。


“…なぜだ、私が何かしたかね?”


「………私は龍が嫌いです。大嫌いです。人間も同じく嫌いです。大嫌いです。だからあなたも嫌いです。大嫌いです」


こうも嫌い嫌いと言われ続けると、嫌いという言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうだ…。


「だけど、お母様は好きです。お母様だけは大好きです」


“………ふむ”


彼女のこの極端な考え方はその生い立ちが関係していそうではあるが、まあ、現時点でズカズカと私が立ち入るような事情でもあるまい。


「お母様がここにいなさいと仰ったから、ここにいます。だけどあなたは私に話しかけないでください。不愉快です。嫌いです」



しかし、まあ。


“好きにするといい。ここは既にお前の家だ。ここにいる限りお前の身の安全は保証しよう”


時間はいくらでもある。

私は、人の問題を時間が解決してくれることもある、ということを知っている。

それに、彼女がカトレアの娘であるというのなら。

私にとって彼女は――。






こうして私とルビーの奇妙な共同生活が始まった。

最初に宣言した通り、彼女は私がいくら話しかけてもほとんど反応することなく黙殺し、しつこく話しかけるとたまに、あの「嫌いです」を無表情に言い放つのみであった。


そんな彼女が日がな何をしているかというと、一日中地龍の巣の中央にある地下水でできた泉をぼーっと眺めているのみであった。

時折、カトレアが恋しいのか地龍の巣の入り口付近をフラフラしていることもあったが。


そういう私は、研究もほとんど完成してしまい、さらなる練達を目指して魔術錬成の腕を磨く、という気分にもなれなかったので、戯れに実用性皆無な変梃な武具を錬成したり、不思議な香りを漂わせる奇妙な果実を錬成したりしていた。


そんな私を、ルビーはたまに興味深そうな瞳で観察していることもあったが、私がそちらに目を向けると急いで目を反らし、またあの無表情に戻るのであった。


そうして1週間が過ぎ、数週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎても、カトレアは戻ることはなく、数ヶ月が過ぎた頃にはルビーはますます口数が減り、中央の泉を眺めている時間が増えていった。

そんな様子を見ていると。

彼女は、やはり――。





“そうやって一日中泉を眺めて、何か面白いものでも見えるのか?”


ある日、変わらず泉のほとりでしゃがみ込んで水面を眺めているルビーに、私は話しかけていた。


「………」


“そうやって水面をずっと眺めていると、しまいには水の中に吸い込まれてしまうぞ。などと、私の小さい頃は大人に脅されたりしたもんだがね”


彼女の瞳の青色は、泉の青より深く、逆に吸い込んでしまいそうだった。


“しかし、まあ、ここの水は綺麗だからな。綺麗過ぎて生き物が住めないくらいだから、そうして眺め続けていたくなる気持ちも分かるがね”


「………話しかけないでください。あなたが嫌いです」


無表情のまま、ポツリ、と呟く。


“ふむ。いつもより声に鋭さがないじゃないか。元気がないようにも見えるが、何か心配事でもあるのか?”


私は一歩彼女に近づく。それだけで、大きな私の巨体が泉の澄んだ水面いっぱいに映り込み、それまで水面に映っていた彼女の消沈した顔はかき消えてしまった。


「あなたには関係ありません。あなたが嫌いです」


その嫌いです、というのは実は新しい語尾が何かなのか、ひょっとして。


“ふむ。まぁ、お前が何を考えているのか、私には大体分かるがね。こう見えても私は龍だ。龍は古来より賢者として伝えられてきたのだ”


「………」


うむ、反応なし。しかし、まあ、ルビーはきっと。


“大方、ひょっとしてカトレアに捨てられてしまったのでは、などとつまらんことを気にしているんだろう?”


「っ」


そこで初めて、彼女はこちらを見て、あの無表情以外の表情を見せた。

存外、ルビーと名付けたのは正しかったのかもしれない。

その深い青色の瞳から感じるのは、静謐、ではなく、燃えるような怒りだ。

怒った時のカトレアと同じように。


「………お母様は私を見捨てたりはしない。私はお母様が大好き。でもあなたは嫌い。龍も嫌い。人間も嫌い」


挑むように言うルビー。


“そうだとも。分かっているじゃないか、ルビー。カトレアは君を見捨てたりはしないさ。する筈がない。あれは、ああ見えて情が深い女なんだ。執念深い、と言ってもいいかもしれないがね”


「お母様は、私を置いて行ったりはしない」


“しないだろうさ。しかし、それなのに何故お前はそんなに不安そうなのだ?”


「っ!」


怯えるように、私から目を反らす。

それは恐怖からではなく――。


“私は、カトレアがお前を見捨てることなどないと確信している。だから、彼女が数ヶ月音沙汰なかったとしても、それで心配することはない。身体の心配ならするかもしれないが、不安になることはないな”


「私だって…っ」


俯いたまま再び水面へと目線を移す。

そんなルビーに対し、私は顔を近づける。

それこそ、息がかかる程に。


“いや、お前は心のどこかでカトレアのことを信用し切れていないのではないかね?”


「そんなことはないっ。私はお母様が好き。あなたは嫌い。嫌い。嫌い」


そのまま、嫌い、嫌いと水面に向かって呟き続ける。


“それだ。お前はことあるごとにお母様が好き、私が嫌いと口に出しているが、そうやって言葉に出して確認していないと、信じ切れないからじゃないのかね?”


「違うっ。嫌い。嫌い。嫌い嫌い嫌い」


“悪夢のような実験所から救い出してくれたカトレアのことを好きになりたい。だけど、彼女もいつかあの連中と同じようにひどいことをしてくるかもしれない。裏切るかもしれない。信じ切れない。心の奥底では、そう思っているんだろう?”


何も読み取ることができなかった彼女の深い瞳からは、様々な感情が読み取れるようになっていた。

まるで凪いでいた海が嵐になったかのように。


“私や人間をことあるごとに嫌いだと言うのも、好きになると、いつまたその相手に傷つけられるか怖くてしょうがないからじゃないのか?初めから嫌いになっていれば、少なくとも裏切られることはない。だが――”



「嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い!お前なんか大っ嫌いだ!」



彼女は最後に泣き叫ぶと、そのまま走り去っていってしまった。


“………やれやれ”


少し、大人気なかったかもしれないな。

しかし、まあ、荒療治が必要だったことは確かだし、これで、私にたとえそれがマイナスの感情でも無関心以外の感情を向けてくれるようになったのであれば、そこからならいくらでも仲良くなりようはある。

よく言われる話だが、好きの反対は嫌いではなく無関心だからな。



ルビーはそのまま地龍の巣から出て行ってしまったようだが、外の迷宮全てに私は魔力の網を巡らせてある。

彼女が迷子になることもないだろう。


“さて、彼女がお腹を空かせて帰ってきた時に備えて、とっておきのフルーツデザートでも作っておいてやるか”



などと、私の予測は全く持ってそのデザートよりも甘いものだったことをこの後すぐに知ることになる。





※※※※





「おい、お前さんがこの廃鉱山の主だな?」


あー、えーと。

私が人間であった頃ならば、きっと大量の汗を流していることだろう。

この展開は全く予想していなかった。

確かに、最近ここにやって来る者が激減して油断していたとは言え。



私は今、地龍の巣にて、5人の武装した荒くれ者達に囲まれていた。

見る限り、なかなか歴戦の戦士のようであり、少なくとも人間の世界で彼らに勝てる者を探すのは苦労することだろう。

だが、所詮は人間である。龍である私にとっては、たとえ歴戦の戦士が5人集まろうと苦戦することなどはない。

むしろそれよりも何よりも問題は、彼らの1人がルビーを後ろ手に縛って捕まえていることであった。

ルビーはぴくりとも動くことなく、彼らに従っている。


「この気味悪ぃガキは、お前さんの関係者なんだろう?迷宮を1人うろついていたのを見たとき、初めは魔物と間違えて斬り殺してしまうところだったぜ」



命拾いしたな。斬り殺していればその場でお前の命はなかったことだろう。

もっとも、どの道生きてここから帰す気はないが。



“いかにも私がここの主だが、お前たちの目的はなんだ?”


「ふん、当然お前さんをぶっ殺すことよ」


5人の内リーダー格らしき禿頭の男が答える。


“仮に私を殺したとしても、お前たちにそれに見合うだけの見返りがあるとは思えないが”


「そうでもないぜ。廃鉱山に巣くう人喰い龍を殺したとなれば、俺たちの名声も上がるってもんだし、あんたの身体に生えているその鱗。それを全部売り捌けばあっという間に俺たちは億万長者さ」


リーダーの声に同調して、周りの男達もニヤニヤと笑い始める。


“やれやれ。そんなことのために命を落とすのは存外つまらないとは思わないか?”


「んなこたぁねぇよ。たとえここで死ぬとしても、俺たちは戦場を戦場から渡り歩く傭兵団だ。いつだって命の保証なんざねぇんだよ。それでも、金と名声のためなら何だってやるのさ」


まぁ、確かに、私を前にして全く怯えの色を見せないのは大したものだが。

5人が5人ともそうなのだから、さぞかし屈強の傭兵団なのだろう。


「しかし、まぁ、何も俺たちは死にたい訳じゃあねぇんだ。命の保証ができればそれにこしたことはねぇ。そうだろう?」


そう言って、彼は脇に捕まえていたルビーを押し出すように前に出す。

そして彼女の首筋に剣を突きつける。



“………貴様”



「おっと、何かに使えれば儲けもんだと思っていたが、こいつぁビンゴかな?」


ニヤニヤと笑いながら首に当てた剣をゆらゆらと揺らす。

ルビーはそれに全く意に介さず、ここに初めて来た頃のように完全な無表情を浮かべている。

彼女の瞳の海は、嵐が去り凪いでいるらしい。

しかし、あれは――。


全てに諦めた顔だ。

私はあの顔をここで前にも見たことがある。

ルビーがここに来るよりずっと昔に。



“……それで、私にどうしろと言うんだ?”


「何もするな。何もせずに、俺たちになぶり殺されろ」


先程までの、人を小馬鹿にしたようにヘラヘラ笑いを止めて、静かな、それでいて良く通る声で男は言った。


“そんな要求に従うと思うか?”


「そうすりゃあ、このガキは生きてここから帰れる。俺たちも富と名誉の全てを得てここから帰れる。クロムフルの町を脅かしていた人喰い龍は死んで、町の人々も喜ぶ。万々歳だろ?」


“なるほど。なかなか素敵なハッピーエンドだな”


そして向こうに都合が良すぎて涙が出そうだ。


「…で?」


どうする、と言わんばかりに剣をさらに首へと近づける。



“分かった。好きにしろ”



「っ!」



そこで、初めて、ルビーが顔を上げてこちらを見た。

無表情ではなく、驚きの表情を見せて。


「話が分かるぜ、大将」


“だが、約束は守ってもらうぞ”


「ああ、俺たちは別に殺しがしたい訳じゃねぇ。こちらもプロだからな。目的が達成できれば、それでいい。このガキには手を出さねぇよ」


なるほど。その男の顔を見れば、確かに嘘を言っているようには見えない。

善人では決してないだろうが、別に悪人という訳でもないらしい。悪党ではあるようだが。


“いいだろう。だが私の鱗は固いぞ。抵抗しないとは言ったが、私を殺しきれずに無様に敗退などという結末は滑稽だぞ?”


「分かっているさ。おい、野郎ども」


リーダーの声を聞いて、男たちが各々の武器を構え始める。


なるほど。

確かに見事な武器だが、しかし、これは…。



“むう”



魔力付与武器、か。

通常の武具の精製時に、腕の良い魔術師に魔力を流し込めてもらいながら作ることによって、魔力を封じ込めた武具を作ることができるそうだ。

その調整には熟練どころの騒ぎではない腕とコンビネーションが必要だと聞く。

そうして作れた武具は、通常よりも優れた強度を発揮し、その威力は通常の武具をも遙かに上回ると聞いたことがある、が。


親方なんかは、邪道の武具だ、男なら自分の腕一本でいい武具を作れ、などと言っていたな、そう言えば。


しかし。

鉄よりも堅い強度を誇る私の鱗と言えども、同等かそれ以上の強度を誇る武具によって攻撃を加え続けられれば、耐えられるかどうかは不明である。


なるほど、確かに、向こうもプロだ。別に死にに来た訳ではないというのは本当らしいな。



「……どうして…?」



不思議でしょうがない、といった顔でルビーはこちらを見つめている。

だが、まぁ、理由なんて言わなくても分かってくれるものだと思っていたが、やはりまだコミュニケーションが足りなかったか。


ここ数ヶ月、頑張って話しかけたのになぁ。



“心配するな、ルビー。お前だけは必ず助けるとも”



「……私……は」



まあ、最後に彼女の笑顔を見ることが叶わなかったのは、心残りではあるが。

実は、密かな野望としていたのである。

きっと花が咲いたように可憐な笑顔であろう。




「おい、神に召される準備は済んだか?そろそろ行くぜ」



男は、捕らえていたルビーを隣の男に預けると、私に死刑を宣告するかの如くその剣をこちらに向けた。


“私に神などいないが、まぁ、好きにしろ”


「オオラアァッ!」


私の言葉を合図に、ルビーに剣を向けている男を除き彼らは各々の武器を奔らせながら私に襲いかかってきた。


“むぅっ!”


鈍い金属音が断続的に鳴り響くが、それと同時に、私はこの姿になってから久しく感じていなかった“痛み”を覚えた。



「おい、血だ!やれるぞ、俺たちっ!」


リーダーとは別の、髭を顎一杯に生やした戦士が喜びの声を上げる。


見ると、私の首の付け根にあった鱗の数枚に傷が入っており、そこからうっすらと血がにじみ出ていた。


やはり、相応の強度を持った武具を練達の戦士が扱えば、私の鱗を破ることも可能なのか。

一つ勉強になった。

出来ることなら、今後の課題にしたいところではあるが。

だが、まあ、それも。


「一気に押せぇっ!」


そのまま彼らは各自の武器を私の身体へ向けて振り下ろし始める。


“ぐ…む…っ”


痛みを堪えるべく、私は身体を縮め、翼で身体を覆うようにしてそのまましゃがみ込んだ。



彼らを殺すだけならば、私は瞬く間にそれをすることができた。

しかし、私の大きな牙は、鋭い爪は、ルビーだけを傷付けずにそれをやってのける程繊細ではなかったのである。


耐える他、ない。


まるである種の不気味な楽団の如く、鈍い金属音に男たちの怒声、そして血が飛び出る音のハーモニーが鳴り響く中、ルビーはただひたすらにこちらを見つめていた。


まるで不可解な出来事を目にしたかのように。

あの諦めの表情を見せながら。



いつだったか、ここに来て、私に殺して欲しいと頼んだカトレアを思い出す。

あの時の彼女と同じ、自分が救われるなんて、自分を救ってくれる人がいるなんて、まるで信じていない諦めた表情でこちらを見つめていた。

だけど――。



「……ど、どうして、ですか?あなたなら、こんな連中を倒すことぐらい…」



本当は、理由なんてお前にも分かっているんだろう、ルビー?



「どうして、私を助けたのですか…?私なんか放っておけば…」



分かっているはずだ。



「だって、私は…。私は、龍が嫌いです。人間も嫌いです。だから、あなただって…、あなただって…」



顔を俯け、力ない声で呟き始める。



“だって、なあ、ルビー。仕方ないだろう?私は、お前のことが好きだからな”



「っ!?」



信じられない、といった表情で顔をこちらに向ける。

ああ、そうしていれば、年相応に見えるぞ、ルビー。可愛いじゃないか。



“だって、お前はカトレアの娘な訳だし…”



それに。



“それに、私の娘だからな、ルビー”



「あぁっ…」



だから。なあ?



「ああああぁっ」



泣き止んで、笑っておくれ。




「あああああアアアアアアァァァッ!」




ルビーの叫びに呼応するかのように、瞬間、泉の水がまるで噴水のように沸き上がり水柱を作り上げた。


「な、なんだっ!?」


休まず私に攻撃をしてきていた男たちは、一瞬その手を止める。

そして、ルビーに剣を向けていた男も。


“おいおい、気を抜くなよ、戦士たち。その子は最後の水龍の血を引いて、この世で最も苛烈な冒険者の魂を受け継ぎ、そして、この私の娘なのだ。目を離すと、死ぬぞ”


「なぁっ!」


男が気付いた時にはもう遅かった。

再びルビーの首に剣を向けるより早く、沸き上がった水柱がまるで鋭い槍の如く細く連なり男に向かって幾重にも伸び始める!


「ぐはぁっ!」


水流は男を飲み込んで、そのまま土壁に叩き付けた。

流れ出た水しぶきがルビーに付き従う妖精のように、彼女の周りを浮遊している。

その様子は、さながらお伽噺に出てくる水の精霊ウィンディネである。


ルビー、お前は水龍の子だものな。

水の扱いはお手のものという訳か。



「な…ん、だとぉ?」



武器を私に向けるのを止め、ルビーの方を向く戦士たち。

しかし。


“私は、気を抜くなと言ったはずだが?”


「しまっ」


遅い。彼らが振り向くより先に、岩をも砕く私の尻尾を横殴りに彼らに叩き付ける。


そのまま4人それぞれを弾き飛ばし、私は咆吼をあげた。



“欲深き人間どもよ。神に召される準備はいいか?”



地面に倒れ伏して、絶望的な顔をしながらも、それでもまだ誰1人戦意を失っている様子がないのは、大したものだ。

しかし、残念ながら、滅殺である。

私の牙が、爪が、どれだけ容易く人間の身体を砕くことができるのか、思い知らせてくれよう!



「くそったれ…め。化け物が2匹もいやがったとは…、ついてねぇぜ」



よろめきながら立ち上がり、悪態を吐くリーダー。だが。



“化け物ではないさ、私の自慢の娘だ”





※※※※





「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」



あの後、戦士たちを皆殺しにしてから、ルビーを気遣おうと近づいた途端、大泣きされてしまった。

私は彼女の笑顔が見たくて頑張った訳だが、いやはや、全く。


“分かったから、そう泣いてくれるな。私は女の泣き顔にどうも弱いのだ”


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、嫌いだなんて言ってごめんなさいっ」


泣きじゃくりながら謝罪を続けるルビー。

彼女の綺麗な青色の瞳が、涙で充血して赤くなっているじゃないか。


“分かっている、分かっているとも。私は何も気にしていないから、泣き止んでくれ。どうしたら泣き止んでくれるのだ”


まさか龍になってまで、小さい女の子をあやすことになろうとは思いもしなかった。


「うぅっ…、ひっく…、ぐずぐずっ。ごめんなさい…っ」


“大丈夫、大丈夫だから。怖いおじちゃんたちはみんなもう二度と帰ってこれない程遠くに行ってもういないから、な?”


「ひっくっ…、ぐずっ…」


“どうしたらいい?何かしてほしいことはあるかね?何でも言ってくれ、ルビー”


ほーらほら、と私は彼女の顔の近くまで顔を近づける。

私としては笑ったつもりなのだが、客観的に見ると牙を剥き出しにして少々恐ろしい面相だったかもしれない。

しかし、彼女は私の瞳を真っ直ぐに見つめ、もう反らしたりはしなかった。


「ぐずっ…、ひっく…、じゃあ、ひっく、あの、お願いがあるのですけど…」


“なんだい、なんでも言ってごらん”



「…………あの、お父様、って呼んでもよろしいでしょうか?」



私は一瞬目を丸くし、それから大きく口を開けて答えた。



“もちろんだとも!”



それを聞き、ぱあっと顔を輝かせるルビー。



「嬉しいです!私、私、お父様のことが大好きですっ!」



そう言って笑う彼女の笑顔は、思った通りの素敵なものだった。





※※※※





後日談。



「グッドイブニーング。お元気かしら?久しぶりに遊びに…来た……わ…よ」


“ん?マリーじゃないか。久しぶりだな。しかし、そんなところで固まってどうしたんだ?”


いつものゴスロリ衣装に身を固めて音もなく現れたマリーはしかし、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてフリーズしていた。



「…………………………………そ」



“そ?”



「そのガキは、な、何なのかしら?」


そう言ってマリーは、震える指を私の尻尾へと向けた。


そこには、すっかり私に懐いてくれたルビーが甘えるように尻尾をベッドにして寝転がっていたのだが、自分が指差されていると知ると、ルビーはぴょこんと尻尾から飛び降りて、あの冷たい無表情をマリーに対して向けた。


「あなたこそ誰ですか?気安く私のお父様に話しかけないでください。あなたのことが嫌いです」


「おっ、お父様、ですってぇ…!?」


ルビーの言葉を聞き、なぜかおののいた様子のマリーは、そのまま驚愕の表情を作る。


“ああ、紹介しようか。この子はルビーと言って――“


「誰との子なのかしらっ!あたくしがずーっとアプローチをしてものらくりくらりと誤魔化してばっかりでしたのに!あたくしよりも他の女を選んだということですのっ!?」


“いや、そうじゃなくて、この子は――”


「はっ!まさか、カトレア、カトレアですのね!あの小娘、抜け駆けは禁止するよう協定を結んでおいたはずなのに、所詮は誓約も守れない下賤な犬畜生なのですわ!」


人の話を聞かず自己完結的に怒り出し、しまいには地団駄まで踏み始めて怒りを表現するマリーの姿は、とても長い年月を生きてきた麗しきヴァンパイア・レディには到底見えない。


「お母様に対する侮辱は許しません。排除してもよろしいでしょうか、お父様?」


“いや、ダメだって”


「お母様ぁ!?やっぱり、やっぱりでしたのね!あの小娘、月夜のない晩には必ず××して○○して△△△してやりますわど畜生!」


ルビーも無表情なまま火に油を注ぐのはやめてくれ。

それに、マリー。もう完全に口調がおかしくなってるからな。


「お母様に対して危害を加えることはこの私が許しません。私、あなたのことが大嫌いです!」


「上等ですわ!あなたを亡き者にしたあと、全てをなかったことにして今度こそは私の両手に可愛いスイートベイビーを抱きしめてあげますのよ!」


“いや、だから二人とも私の話を――”



結局誰も私の話を聞いてくれない運命にあるのか?



「あなたを排除します!」


「やってごらんなさいな、まだおしめも取れていない小便臭い小娘の分際で!」


ルビーが操る水流のナイフがあちこちを飛び回り、それを避けつつマリーが魔力によって発生させた念動波を四方八方に飛ばして土龍の巣に破壊の渦を巻き起こしている訳だが、ひょっとして、ひょっとしなくても、やっぱりこれは私が止めるのか?


あーあーあーあー。私が丹誠込めて完璧に作り上げた果樹園が…。林檎の木が…。桃の木が…。梨の木が…。葡萄の木が…。


おお、かわいいさくらんぼたちよ!




“……やれやれ”


まあ、何はともあれ。


こうして、私には少し、ではなく大分変わった娘ができたらしい。


しかし、それでも、賑やかになることは、悪くない。






追伸

頼むから早く帰ってきてくれ、カトレア。

私たちの娘はやんちゃ過ぎて私一人の手には余るかもしれない。





[10769] 二章・03
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2009/09/15 17:17



王国歴802年



それは、とても麗らかな春の日の午後であった。


私はお気に入りの岩の上に寝そべって、砕けた天蓋から降り注ぐ春の日差しを浴びながら、自慢の翼を広げて虫干ししていた。


眼下には、とても廃鉱山の迷宮奥深くにある場所とは思えないくらい、様々な木々や花々が咲き誇っており、花の蜜の香りに果物の芳醇な香りが辺りに漂い、とても甘く眠気を誘うのだった。


その果樹園の中央には、豪奢なテーブルが置いてあり、そこでは二人の女性が優雅にお茶を飲みながら談笑している。


「それでお母様、その王子様はどうなさなったのですか?」


「ふふっ。どうしたと思う?なんと次の日には、花束を持って彼女のところへプロポーズをしに行ったのよ!」


「プロポーズ…ですか?それはなんとも、ロマンのあるお話ですね」


「でしょう?あーあ、私も誰かさんにプロポーズされてみたいものだわ」


そう言って、意味ありげにこちらにチラリと目線を向けた。


「お母様は、お父様からプロポーズをお受けになったことはないのですか?」


「そうねぇ。クロールとはもう長い付き合いになるのに、不思議とそんな素敵な申し出を受けた記憶はないわねぇ」


嘆息し、そのまま紅茶に口を付ける。


“あー、カトレア。あまりルビーに変な話をしないように。そうでなくても、マリーが余計な話ばかりを吹き込んだせいか、おかしな知識ばかり増えて困っているんだ”


「あら、別に変な話でもないでしょう?素敵な、愛の話だわ」


「愛、ですか?」


見目麗しい女性に育ったルビーだが、しかし彼女はこの地龍の巣からほとんど出ることなく育ったため、その知識には偏りがあるのであった。


「そうよ、ルビー。あなたは、なぜ、私が人間の男と結婚もせず他に子供を作ったりもせずにこの歳まで生きてきたか、分かる?」


「……お母様が私のお母様であり、お父様が私のお父様だからでしょうか?」


少し考えた後、ルビーはそう答えた。


「あははっ。あなたって子は、面白い答えを言うわね。でも、そうね、あながち間違ってはいないのかも」


ルビーの答えを聞いて嬉しそうに微笑む。


「あなたなら当然分かるわよね、クロール?」


こちらに顔を向け、昔と変わらない挑戦的な目つきでカトレアは聞いてきた。


“さて、君が人間の男にまったくモテず、振られっぱなしだから、という理由ではないことだけは確かだろうがね”


「もうっ。こう見えて、私にお付き合いを申し込んでくる男性は未だに後を絶たないのよ?」


拗ねた顔を見せるが、あれは本当に拗ねている訳ではなくポーズだろう。


“それはすごい。まあ、君は昔から美人だったからな”


「お母様は確かに昔からお美しいです」


隣でルビーが何度も頷く。


「あなたはいい子ね、ルビー。でも、そうね」


もう背丈も大分大きくなったというのに、それでもカトレアは身を乗り出してルビーの頭を撫でた。


「私が人間の男と結婚したり、他に子供を作ったりもしないのは、私がしつこく執拗で頑固で諦めが悪く、そして一途な乙女だから、よ」


大事な告白をするかのように、そう言って微笑む。


“なるほど。しかし君こそ知っていたかね?私がこの穴ぐらに留まったまま他の場所に行こうとしないのは、私がしつこく執拗で頑固で諦めが悪く、そして一途な男だからだ、ということを”


「あら、そんなこととっくの前から知っていたわよ?」


カトレアは、こちらを見ながら得意げな顔をして答えた。


“なるほど。確かに、これは、愛の話、かもしれないな。しかしロマンはあるかね?”


「あるわよ。このホールが一杯になるくらい、ね!」


そう言って、両手を一杯に広げて、いつものあの笑顔を見せる。


「なるほど。確かにロマンがあります、お母様」


うんうん、と頷きながらカトレアに追従する娘。


仲睦まじい彼女たちの姿を見ると、私はそれだけで幸せになれるのだった。






「何をこんな真っ昼間から恥ずかしい話をしているのかしらね、貴方たちは」


うんざりした顔で、そうぼやきながら音もなく現れたのは、出会った頃とまるで変わらない少女のままの姿のマリーだった。


“おや、マリー。君が昼間に姿を見せるのは珍しいじゃないか”


「そうかしら?それに、夜に来ると、貴方との逢瀬を邪魔する不届きな輩が現れるのですもの」


手に持っていた日傘をその場でクルクルと回しながら答える。


「それは誰のことを仰っているのでしょうか、マリー様。お帰りの出口でしたらあちらにありますが、マリー様。早く帰って美容健康のために早寝早起きでもしていたらいかかでしょうか、マリー様」


ルビーはそう言って、憎々しげな目つきでマリーを見つめる。


「貴女はいつまで経ってもあたくしに懐こうとはしませんわね。まるで番犬みたいですわ」


「そうよ。ダメよ、ルビー。何度も言っているじゃない、こんな性悪女の相手をしちゃダメだって」


たしなめるように言っているが、言っている内容は火に油を注ぐようなものである。

しかし君たち二人も、いつまで経っても憎まれ口を叩くのをやめようとはしないな。


「言ってくれますわね?でも、いいのかしら。あたくし、知っているのよ」


「何をよ?」


不敵な顔をして微笑むマリーに、怪訝そうな顔でカトレアは聞き返した。


「貴女、最近人間の冒険者たちから“グランマ”って呼ばれているそうじゃない」


「わあぁーーっ!それを言うなぁぁーっ!」


立ち上がり、聞きたくないとばかりに耳を塞ぐ。


そんなカトレアの豹変ぶりに、ルビーも目を丸くしていた。


「“グランマ”、ですって?貴女の年を考えたら似つかわしい呼び名ですわね?」


「あーーーあーーー聞きたくない聞きたくない聞きたくなーいーー!」


耳を塞いだまま、大声で叫び始めた。


“まぁ、落ち着け、カトレア。そんなに気にしなくても君は今でも十分美しいままだと思うぞ”


「そうよねっ!そう思うわよねっ!私だってちゃんと肌年齢とか気をつけて生きてきたんだもの!」


と言うか、美しい、という単語だけは聞き取れるのだな。


「ですが、お母様はこちらにいらっしゃる間はいつも食べては寝て食べては寝てゴロゴロしているだけなのですが…」


「あなたが見たお母様は幻よ、ルビー。そう、幻なの。本当の私じゃないのよ」


ルビーの両肩を掴み、洗脳するかのように呟き続ける。


「大体、あなたたち卑怯なのよ!マリーもルビーも!ヴァンパイアだかドラゴンハーフだか知らないけれど、女ならちゃんと年を取って勝負しなさいよ!」


マリーとルビーを指差し、ついには訳の分からないことまで言い出してしまった。


「そう言われましても、お母様」


「そうよ、そんなことあたくしに言われてもねぇ」


こればっかりは、しょうがないのである。



永遠を生きる不死者たるマリーは当然のこと、龍とのハーフであるルビーも、一定期間までは身体も成長していたのだが、それを過ぎると全く身体の成長をストップさせ、そこからほとんど年を取らなくなってしまったかのように見えるのであった。

これも龍の血の影響だろうか?

今現在、ルビーの外見年齢は大体18歳前後である。



「はあっ。こうして私だけ老いていって、一人寂しく死ぬんだわ…」


しくしくしく、と泣き真似まで始めてしまった。


「ふんっ。そうやって泣き真似なんかしても、誰も同情しませんわよ?」


テーブルに突っ伏したカトレアを冷たく見ながら、悪態を吐くマリー。

しかし。


“そうは言っているが、本当は寂しいんだろう、マリー?”


「んなっ!?」


びっくりした様子でこちらを振り返る。

カトレアも、泣き真似を止めてこちらを見ていた。


“この間、昔と比べてカトレアの力が老いたのか、本気の喧嘩ができなくなって面白くない、と私にぼやいていたではないか。せっかくできた喧嘩友達だったのに、と”


「そ、そ、それはっ!内緒のお話だと言ったじゃありませんの!それを本人の前でバラすだなんて!」


アワアワと慌てた様子で日傘を振り回しているが、そのままじゃ日光が当たるぞ?


「へーえぇ。そうなんだぁ」


獲物を見つけた猫のように目を細めて、カトレアがマリーに抱きついた。


「ちょっとっ!」


「んもう、マリーちゃんてば。寂しいのなら寂しいとちゃんと言ってくれればいいのに。素直じゃないんだからぁ」


「~~~~~っ!」


顔を真っ赤にし、カトレアを振りほどこうと、マリーはますます日傘を振り回し始める。


しかし、なかなか新鮮な絵面だ。

いつもはカトレアがマリーにからかわれてばっかりいるものな。



などと、何かの魔物のようにマリーに抱きついて離れようとはしないカトレアに、それを振りほどこうと必死になって身体を動かしているマリーの微笑ましい様子を見ていると、ルビーがこちらに静かに近づいてきた。


「お父様」


“ん、なんだね?”


「何者かが迷宮をこちらに近づいて来ています」


“ふむ”


ドラゴンハーフであるルビーも、龍と同じく常人離れした聴覚を持っているのだが、しかし。


“大丈夫。私も気付いているさ。それに、ルビー。お前もまだまだ修行が足りないな”


「何がでしょう?」


首を傾げて、私を見つめてくる。


“足音を聞いて、それが誰のものなのか判別できるようにまでならないと、まだまだ一人前とは言えないなぁ”


岩から顔を少し乗り出し、私は愉快そうに笑う。


「お父様は分かるのでしょうか?」


“もちろんだとも。ほら、カトレアのお迎えが来たようだ”




「師匠っ!やっぱりここで油を売っていたんですね!」


そう言って地龍の巣に入ってきたのは、まだ若い人間の青年であった。

長身に見合わない少し童顔めいた甘いマスクの持ち主で、さぞかし女性にモテることだろう。

と言うか、聞くところによると実際にモテるらしいが。


「おが?」


「はら?」


いつの間にか木陰で取っ組み合いの喧嘩を始めていたカトレアとマリーは、二人して相手の口を両手で一杯に引っ張っていたので、変な声を上げるのだった。


「まったく…。今日は夜に定例会議があるからちゃんと午後にはギルドに来てくださいよと、あれだけ姉さんにきつく叱られていたじゃないですか」


ため息を吐きつつ、こちらに歩いてくる好青年。


「あー、いやー、ごめんごめん。だって、私、あんなつまらなくて堅苦しい会議になんて出たくないのよねー」


ばつが悪そうに、カトレアは頭をかきながら弁明する。


「師匠…、そのサボり癖は直してください」



嘆息するその様子も様になっているこの好青年の名前は、ウィル・レッドライトという。

彼は別にカトレアの若いツバメ、という訳ではなく、彼女の一番弟子なのである。

外の世界で何をしてきたのか知らないが、カトレアは今や冒険者ギルドの大幹部の一人なのだそうで、そんな彼女に弟子入りしたいと願う若い冒険者たちが後を絶たないらしい。

しかし、当の本人は、イヤよそんなめんどくさいこと、と断り続けてきたらしいが、そんなカトレアに初めて弟子入りを認めさせたのが、このウィル君なのである。


何でも彼は、昔幼い頃に姉弟揃ってカトレアの世話になったことがあったらしく、それ以来カトレアに憧れていて、彼自身が冒険者になった後もずっとカトレアに弟子にしてくださいと付きまとい続けたのだそうだ。

最初は断っていたカトレアも、ウィル君のしつこさについに折れて、晴れて一番弟子になったという訳である。



「あのー、いつもすみません。師匠がご迷惑をかけて」


ウィルはこちらを向いて非礼を詫びる。

私の姿を見ても全く驚かないのは彼がもう何度もここに来たことがあるからなのだが、しかし、最初に私の姿を見た時にも彼は驚くことはなく、そればかりかすっげーと興奮した様子を見せていたので逆にこちらが驚いたりもしたのだった。


“なに、気にすることはない。彼女とは君が産まれるよりも前からの付き合いなのだからね”


「ちょっとー。今誰か私の歳の話をしなかった?」


まだ先程の話を引き摺っているのか、目を細めてこちらを睨むカトレア。


「い、いえっ。そんな命知らずなことはしてないっス」


両手を胸の前でぶんぶんと振って否定を表しているが、ウィル君、その返事は墓穴だ。


「ちょっと、それは一体どういう意味よ?」


「いやっ、別に深い意味ではなくっ」


「その深い意味がどういった意味なのか詳しく教えてもらいたいものだわ」


うふふふ、と笑いながらウィル君ににじり寄る。


しかし、まあ、ここらで助け船を出してやるか。


“落ち着け、カトレア。ウィル君は迎えに来てくれたんだろう?大人なら、ちゃんと仕事をしなさい”


「そ、そうですっ。お願いしますよ、師匠。ウチの姉さんが師匠がいなくてカンカンでして」


「あー、しょーがないわねー。ミーちゃん、怒ると怖いからなー」


顔を緩めて、やれやれと頭をかくカトレア。

そんな彼女を見て、ウィル君は露骨にほっとした様子を見せていた。



普段、どんな弟子の教育方針なのか是非聞きたくなるような光景である。



「もう行かれるのですか、お母様?まだ、私が栽培したとっておきの茶葉を試されてはいないのですが…」


ルビーは、少し寂しそうな顔をする。


「私だって、あなたが作ってくれたお茶を飲みながらもっとお話をしていたかったわ。だけど、クロールが言う通り、大人だから仕事をしなくちゃならないのよね」


「普段サボってばっかりの癖に、よく言いますわね」


カトレアとの取っ組み合いで乱れた髪を直しながら、マリーが茶々を入れる。


「そこ、余計なこと言わない!」


「ふんっ」


露骨に目を反らすマリーだったが、何だかんだ言って、この二人はこう見えて仲が良いのだろう、きっと。



「師匠、本当にもう時間が…」


ウィル君が申し訳なさそうにカトレアに話しかける。


「分かってる。また今度すぐに来るから、その時にあなたのとっておきの紅茶を楽しませてちょうだい」


ね?とルビーに向かってウィンクをして、微笑みかけた。


「はい。お待ちしております、お母様」


高級レストランの給仕のように、ルビーは綺麗なお辞儀をして別れの挨拶をする。


「それじゃあ、私はもう行くけど、私がいないからって変なことしないでよね、マリー」


「くだらないこと言っていないで、さっさとお行きなさいな」


しっしっと手を振りながら、マリーは応じた。


「もうっ。…それと、クロール、ありがとう。あなたが作ってくれたお茶も美味しかったわ」


カトレアは岩肌に寝そべっている私を見上げて、言った。


“気に入ってくれたようで何よりだ。しかし、あれは、煎れてくれたのはルビーだよ。葉を作ったのは確かに私だがね”


「分かっているわよ。それじゃあ、行ってくるわ」


まるで自分の家から出かけるような気軽さで、カトレアは手を振った。

幸せそうな笑みを浮かべながら。



「バイバイ」




====




王国歴817年




私は地龍の巣の入り口の岩壁に魔力を流し込み、内部構造を操作する。

私の魔力によって壁の内部の岩や砂が蠢き回るのが感じ取れ、そして――。


轟音と共に、岩肌が崩れ、入り口は土砂によって完全に埋もれてしまった。


“これでよし、と”


これでもう、この地龍の巣に誰かが入ってくることもないだろう。

永遠に。



「お父様」



声に振り返ると、そこには一人の少女が佇んでいた。


空色の髪に、海色の瞳。冷たさを感じる程に整った顔立ちをしていて、男性よりも高いのではないかと思われる長身。

そして、その素肌に所々生えている、綺麗な鱗。

私の自慢の娘、ルビーである。


“ああ、こっちは終わったよ。そっちはどうかね?”


龍の血の影響か、彼女の外見年齢は18歳前後で止まったままであり、長い年月が過ぎてもそれ以上成長することはなかった。

彼女の寿命は我々龍と近いものなのかもしれない。


「こちらも終わりました」


そう答えるルビーの背後に見えるのは、まるでこの世の楽園のような風景である。

透き通るように澄んだ水が流れ出る泉の周辺には、様々な甘い香りを漂わせる果物の木々が立ち並んでおり、それらを囲うように色とりどりの美しい花々が咲き誇っていた。

ここには一切の諍いも、争いも、暴力もなく、平和そのものである。



そんな楽園の中心には、一つの石碑が建っている。

黒曜石で加工されて出来たその石碑は、黒光りする地肌に傷一つなく、また、未来永劫傷付くこともないかのようであった。



私は、その石碑に近づいて、小さく呟く。


“………これでもう、私のことをクロールと呼んでくれる者は一人もいなくなってしまったよ”


その石碑にはこう書かれていた。





――我が生涯で最愛の人、カトレア・コーンフィールド。
  クロール・ロックハートの魂と共に、ここに永遠に眠る――




水が流れる音、木々の葉がさざめく音を聞きながら、私は長い間その石碑を見つめていた。




「………お父様」



そっと、誰かが私の背に小さな手の平を置く。


「ルビーは、ずっと、ずっとお父様のお側におります。だから…」




“ああ、分かっている。分かっているとも”





そう言って、私は目を瞑る。




そうすれば、瞳の奥にあの輝かしい青春の日々が目まぐるしく映し出される。





私を叱っているカトレア。


私に怒っているカトレア。


私に笑っているカトレア。





私の青春は常にカトレアと共にあった。

カトレアがいなくなった今こそ、あの騒がしく輝かしい青春の日々は終わってしまったのだ。




“分かっている。分かっているよ、カトレア”




私は生きなくてはならない。



君が居なくなったこの世界でも。



私は生き続けるのだ。






“――――――――~~~~~っ!!”






私は廃鉱山が崩れ落ちるほどの大音量で咆吼をあげた。


そして、今では私の体長よりも遙かに大きくなった翼を力一杯広げて、羽ばたかせる。



“さあ、乗れ、ルビー!この魂の牢獄から出発するぞ!”



「はいっ、お父様!」



満面の笑みで、ルビーはぴょんと私の背に飛び乗る。




上を見上げる。




崩れた天蓋からは、雲一つない青い青い空が見えている。

私はいつもそこから天を見上げるばかりであった。

まるでこの地に縛り止められていたように、私はずっとこの深い穴ぐらで過ごしてきた。



しかし、私には。



蒼穹の空へと飛び立つ力強い両の翼がある!



翼の羽ばたきを徐々に大きくしていく。

これが初フライトだ。




“ルビー、今度はどんなところに住みたいかい?”




私は笑いながら大声で尋ねる。




「はい、お父様!いつも空を見上げてばかりいたので、今度は空から見下ろせる程高い場所がいいです!」




ルビーも何が楽しいのか、笑いながら大声で答える。





“いいだろう!行くぞっ!”







そうして私は空へと飛び立つ。



懐かしくも甘く切ないあの日々をここに置き去りにして。



彼女との思い出なら、いつもいつまででも、私の胸の中にある。



そして、決して消えることはないだろう。




二章・おしまい







====


読む必要のないあとがき


ここで終わりにしても良かったのですが、一応、この後の話もあるにはあります。

なので、途中で飽きたりしない限り、以後、不定期掲載、予定。


掲示板にて指摘のあった誤字は直しておきました。
多謝。


あと、設定が分かりにくいとの指摘がありました。
今後この手の世界設定等を作中で説明する予定はないので、蛇足だとは思いますが、こちらで補足説明しておきます。興味ない人は読み飛ばし推奨。

指摘のあった、土竜→モグラと読めることは狙って書いたのですが(主人公が鉱山の奥深くに住む予定だったので)、確かに紛らわしかったかな、とは思いますので、今後ひょっとしたらアドバイス通り地竜に直すかもしれません。未定。

あと魔物についてなのですが、人を食べた動物が必ず魔物になる訳ではなく、人を食べた獣の中から極々稀に魔物が産まれることがある、という設定です。

そして、人を食べて魔物となった場合、通常“魔物側”の自我が産まれるのであって、“人間側”の自我が産まれることはほとんどありません。

と言うのも、作中でも少し触れましたが、あくまで人の知識を吸収して魔物化するのであって、人間の人格まで吸収する例というのは全くないからです。

まあ、主人公の例は主人公補正ということでご勘弁を。

以上のことから、あえて自分の身体を動物に食べさせて魔物に転生を図ろうなどと奇特なことを考える人はまずいない、という訳です。

それと、賢い動物であればあるほど本能的に人を食べてしまうと自分が魔物になってしまうかもしれなことを知っているので、この世界においてはそれらの動物は滅多に人を食べようとはしない、という設定です。

なので、火竜は確かに獰猛ではありますが、人を食べて殺すことはしません。引き裂いて殺すことはあったとしても。

そして、龍の神格化についてなのですが、竜は賢い動物で、人を食べることは滅多にしないことから(竜は食物連鎖の上位に存在する動物なので、そもそも飢えること自体珍しいのです)、ただでさえ人を食べたとしても魔物化する確率が低いのに、さらに竜が魔物化して龍へと変化する確率は極端に低い、と言えます。

だから、そもそも龍はその個体数が絶対的に少ないのです。

せいぜい昔話に出てくるくらいでして、初めは魔物扱いだったものが、その強大さから恐れられるようになり、お伽噺として何世代も伝えられてきた結果、いつしか畏怖の対象から畏敬の対象にまでなった、という訳です。

が、そもそも龍は個体数が極端に少ないので、実際に見たことがある者は少なく、お伽噺で聞いたことはあるけれど、見たこともないものを恐れるのもなー、という人も多く、龍が尊ばれているといっても、それはある種の土着宗教みたいなものでして、信仰しない人にとってはあまり尊ばれない、という設定でした。
以上。

こういった設定を作中で違和感なく説明できていれば良かったのですが、全くの力不足でした。

申し訳ない。

では、読了多謝。





[10769] 三章・01
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:bb271083
Date: 2010/01/27 01:14

王国歴931年




「どうして私の転属願いが認められなかったのですか、隊長!」


私の大声に、隊舎の食堂にいたほとんどの者がこちらを向いた中、ディエナ・フロウアーツ隊長だけは、ただ黙々と食事を続けていた。

しかも食べているものは、特大のアップルパイだ。

プラチナブロンドの髪を短く刈り込んで、男のような凛々しい容姿をしているディエナ隊長がただひたすらにアップルパイを口に運んでいる光景は悪目立ちするものだと言えたが、その点については私も人のことを言えた義理ではなかった。


王国内においては珍しい黒髪に、ノッドラートの人間であることを示す褐色の肌。

女性の隊士しかいないここロイヤルガードの中でも、私はその容姿のせいで色んな意味で悪目立ちをしてきたと言える。

だから、今まで極力人の好奇の目で見られることから避けて隊の中でも過ごしてきた。

しかし、今の私はそんな過去の努力のことなどすっかり忘れてしまうくらいに頭に来ていたのだ。


「私の話を聞いてください、隊長!」


一向にこちらを向こうとはしないディエナ隊長に業を煮やし、テーブルを強く叩いてもう一度大声を上げる。

おかげで、さらに注目を浴びることになったが、もう知ったことか。


「……食堂では静かにしろ。ロゼッタ」


口にパイを運ぼうとした手を止めて、ディエナ隊長はようやく目線をこちらに向けてくれた。

普段なら、この怜悧な目線を向けられただけで弁明する気力もなくなるところだけど、今日はそんなことを言っている場合ではない。

ともすれば、震えだしそうな両足に力を入れて、こちらも負けじと睨み返す。


「ですが、理由だけでも教えてください。なぜ私の転属願いが認められなかったのですか?理由を聞かなければ納得できません!」


転属。ここロイヤルガードからの。それは私の長年の悲願だと言える。

いや、悲願への第一歩だと言ったほうが適切かもしれないが。



ロイヤルガードは、王国内に十ある騎士団の中でも極めて特殊な騎士団であり、その正式名称を百華騎士団という。任務は、王族の護衛である。

それだけ聞けば重要な任務を遂行する騎士団にも思えるが、実際の役目は王族のお守りである。

しかも、王女限定、の。


代々、トレンディア王国の王族には女性の血が強く、女の子供が産まれることが多かったと聞く。

だから、そうして産まれた王女達を他国に嫁がせることによって、外交的にここ中原諸国のパワーバランスを調整してきた。

そんな王国の宝とも言える王女達を守るために結成されたのが、百華騎士団、通称ロイヤルガードだった。

しかし、王国自身が武力を持つにつれて、王女達の重要性も低下し、それに伴ってロイヤルガードの地位も低下。

今では貴族の子女達が王族との繋がりを求めて志願する名目的なお飾り部隊となってしまった。

十騎士団の内、その人数も質も他と比べて低いことから、唯一“団”ではなく“隊”とまで呼ばれる始末である。


そして、私はこんなお飾り部隊で一生を過ごすつもりはない。

やらなければいけないことがある。


「……今年で何歳になる、ロゼッタ?」


暫く黙ったままこちらを見つめていたディエナ隊長は、ポツリと小さくしかしよく通る声で呟いた。


「18歳になります。しかし、私がまだ若く女だから、という理由で転属願いが認められなかったのでしょうか?」


あり得る話だ。ここ王国騎士団内においては、女性の地位は著しく低い。

女性の身でありながら騎士を目指す者は、たとえ実力があったとしても、みなやっかい者扱いされて、結局はここロイヤルガードに飛ばされてしまうのだ。

私のように。

しかし、私は――。


「勘違いするな。早とちりが過ぎるのがお前の悪い癖だ」


静かに私の質問を否定するディエナ隊長。

そのまま皿に戻したパイの一切れを再び口へと運ぶ。


「だったら…、だったら…、私がノッドラート人だから、でしょうか?」


黒い髪に、褐色の肌。

子供の頃には疎んだりもしたが、今では私が私である証であり、私の誇り。

母上からもらった大切な、大切な宝。

だけど、それはここ王国内においては――。

私は下唇を咬み、両手を握りしめる。


「……そうではない。早とちりするなと言った筈だ」


ディエナ隊長の静かな声を聞いても、私の脳裏に過ぎるのはこれでまで受けてきた偏見の数々。


「王国がノッドラートを併合してから40年以上経つ。市井においてはともかく、ここ騎士団内においてその種の偏見を持つ者はもういないだろう」


ディエナ隊長はそう言うが、しかし私は実感として知っている。

騎士団内においても、貴族の子弟が多い騎士団内だからこそ、未だにノッドラートの血に対して偏見を持つ者が多いことを。

そうでなければ、どうして母上があんな目に遭わなければならなかったんだ。

どうして私が謂れの無い苦労をしなければならなかったんだ。

隊長の言うことが本当なら、私は――。


「そんな顔をして睨むな。お前の言いたい事は大体分かる。が、お前の転属願いが認められなかったのはお前の年齢が原因でも血筋が原因でもない。純粋に、お前の力不足だ」


隊長は私を静かに見つめて、そう告げた。


「お言葉ですが、隊長!私は――」


「確かにお前には才能があるし、お前が日々努力していることも知っている。王族とのコネ作りのためにここにやってきている馬鹿娘どもでは束になっても太刀打ちできないだろう」


私の声を遮って、隊長は淡々と言葉を紡ぐ。

いつもそうだ。

あの瞳で見つめられると、言葉を続けられなくなってしまう。


「しかし、お前はまだ18歳だ。根本的に言って、経験がまるで足りていない。尾羽も生え揃っていないひよこが転属願いを出すなど、百年早い。そういうことだ」


これで話は終わりだとばかりに、私から目線を外して再びアップルパイを切り分ける作業に移り出した。

だけど、経験、だって?

経験を積みたいからこそ、転属願いを出したんじゃないか。

こんな、わがままな王女達のお守りしかさしてもらえない部隊にいてどうやって経験を積めと言うんだ!


「なんだ?不服そうな顔だな、ロゼッタ」


一瞬だけこちらをチラリと見た後、そう呟く。


「ええ、不服です。経験が足りないだなんて抽象的で一般的な指摘をされても納得できません。具体的に私に何が足りないのか仰ってください」


そうでなければ納得できない。

私は、もっと上に行かなければならないんだ。

あの連中を見返すためにも。


「口だけは一人前だな。お前には自分に何が足りていないかくらい自分で分かる程度には分別があるものだと思っていたが、買いかぶりだったか」


「ええ、分かりません!」


私は敢えて自信満々に答える。

考えるより先に足を前に出す、それが幼い頃から私の信条だ。


「ふん。だったら、かの大師父アルバート卿でも見習って“武龍の試練”にでも挑戦してみたらどうだ?そうすればお前の実家もお前の実力を認めざるをえなくなるだろうさ」


「なっ!曽祖父のことは関係ないでしょうっ!」


私は力の限り両手でテーブルを叩きながら怒鳴った。

その音が食堂中に響き渡り、再び周りの隊士からの注目を浴びることになったが、しかしそんなことは関係ない。


「私は、ロゼッタ・オールデーズはただ一人の騎士としてここにいます。曽祖父のことは尊敬していますが、そうだとしてもコーンフィールド家と私は一切関係ありません!」


曽祖父。偉大なる英雄。武龍の試練を制覇した史上初の龍騎士。大師父。

アルバート・コーンフィールド。

あの家において、唯一私と母上を色眼鏡で見ずに、普通に接してくれた人。

私は偉大なる曽祖父に感謝しても仕切れないくらいの恩義を感じてはいるが、そうだとしても、あの家のことだけは別だった。

あの家のことを持ち出されると、私は抑制がきかなくなってしまう。

そんな私の怒りを知ってか知らずか、隊長は黙々とアップルパイを片付けながら、私に告げた。


「冗談だ。それに大師父の名前を出した途端にその過剰な反応か?そういうところが経験が足りないところだと知れ」


「なっ!?私は――!」


「す、すすすす、すみませんっ隊長っ!」


と、急に私と隊長との間に大きな影が割って入った。

しかし、誰何をするまでもなく、この体の大きさの割りに繊細そうな小さな声の持ち主は――。


「フィー!私の邪魔をすムググーッ!」


フィーに対する私の抗議の声はしかし、口を押さえられて封じ込められてしまった。


「すみませんすみません、隊長。うちのルームメイトが本当にすみませんっ!」


「ムググッ、フムムーッ!」


勝手に謝ったりするなーっ!


「ほら、行くよ、ロゼ!」


「フムムムッ!」


もうこちらに興味を失ったのか、アップルパイを黙々と食べ続けている隊長を尻目に、私はフィーによって押さえ込まれたまま食堂から連れ出されてしまうのだった。








「あーもう、お前は何でそんな性格に似ず馬鹿力なんだ?」


廊下に連れ出された後、ようやく開放された私は目の前の少女に愚痴っていた。


「ご、ごめん、ロゼ」


この、身長だけならば私の1,3倍くらいありそうな長身のくせに(もっとも、私は女性だということを差し引いても小柄な方だけれど)、その大きな背を猫背にして申し訳なさそうに私に謝っている少女の名を、フィーメラルダ・グリンウッドとという。

女性の隊士しかいないここロイヤルガードの中で、私の数少ない友人の一人であり、ルームメイトでもある。


「だけど…、ロゼは家のことを持ち出されるとすぐ周りが見えなくなるから…」


目が隠れる程伸ばした前髪からわずかに覗く瞳からは、先ほど私を有無を言わさず食堂から連れ出した人物だとは思えないくらい気弱そうな気配しか感じ取れない。

直情径行を地で行く私とは正反対のおっとりした性格の持ち主ではあるが、どうしてかフィーと私は気が合って、すぐに友人となれた。

彼女も私と同じで、実家に問題を抱えていることも影響しているのかもしれない。


グリンウッド家は、我が忌まわしきコーンフィールド家と同じく王国内での大貴族の一つであり、軍人の家系でもある。

フィーの上には三人の兄がおり、全て王国騎士団に入団している上に、その父も騎士団の重鎮の一人でもある、生粋の軍人一族だ。

だから、末っ子のフィーにとっても、女の身でありながら騎士団に入団しないという道はなかったのだそうだ。

彼女自身は、読書が好きで、将来は図書館の書士になりたかったと、よく私に話してくれた。

しかし、グリンウッドの血というものは、彼女にそんな選択を許すことはなかった。

私自身を顧みても、まさに血というものは脈々と受け継がれる呪いそのものだ。


「いくらここがお飾り部隊のロイヤルガードだと言っても、軍属は軍属なんだから、その、上司に逆らうのはマズいと思うよ…?」


ますます申し訳なさそうに縮こまって、私に忠告をするフィー。


「むー、私だってそれくらい分かっている、つもりなんだが」


「ホントに分かってる?ロゼを見てると、時々何も考えていないんじゃないかって、思うことあるよ?」


「そ、そんなことはないぞっ。私だって、ちゃんと考えて行動をすることだって、あるにはある」


ばつが悪くなり、微妙にフィーから目をそらしつつ弁明する。

フィーは普段大人しく、自分の意見を言うことはあまりないのだが、いざ言う段になると申し訳なさそうにしながらも、絶対に自分の意見を曲げようとはしない厄介な質なのだった。


「もうっ、心配する私の身にもなってよ。それに、ロゼの転属願いが認められなくて、少しだけ、私、ホッとしてるんだ…」


そう言って、申し訳なさそうに目を伏せる。


「なぜだ?フィーは私の家の事情は知っているだろう」


憮然として聞き返すと、益々恐縮して地面に穴が開くのではと思う程目線を下に向けるフィー。


「だ、だって…。ロゼがいなくなっちゃうと、私…、ここでの友達がいなくなっちゃうから…」


そう、小さい声で呟く。

だけど、その小さい声には余りあるほどの、寂しさもまた、含まれているように聴こえた。


「………まだ、ギィがいるじゃないか」


「それはそうだけど、やっぱり、ロゼがいないと、寂しいよ」


「……」


私だって。

私だって、フィーがいなくなると思うと、寂しい。

だけど、私にはやらなければならないことがあるんだ。

それは、フィーだって、知っているだろう?


「それに、ロゼはこんなにも小っちゃくて可愛い女の子なんだから、やっぱり、他の団に行くのは心配だよ」


そう言って、私を見下ろす形でようやくフィーは目線を上げた。

しかし。


「ち、ちっちゃいとか言うなー!それに、私は可愛くもないぞっ!そんなものは私には不要なんだ!」


「ご、ごめん、ロゼ」


私に怒られて、結局そのまま俯いてしまうフィーの方が、よっぽど女の子らしくて可愛いと思う。

私なんて、がさつで、怒りっぽくて、口調も男っぽいしで、可愛いなんてことは断じて、ない!


「そうだ!私は剣の道に生きるんだ!そして出世して、あいつらを見返してやるんだ!」


拳を握り、力強く宣言する。

あの、母上を家畜のように扱ったあいつらを見返すまで、そのためには私は女すら捨ててやる!


「だけど…、これからどうするの、ロゼ?ディエナ隊長は一度決めたことは、絶対に曲げたりしないと思うけど…」


「むー、問題はそこなんだが…」


あの分からんちんの隊長殿は、フィーの言う通りここ数年の間で私の転属願いを認めることはまずないだろう。

だけど、それまでこんなお飾り部隊で飼い殺しなんて御免だ!

何としても上に昇ってやる!

コーンフィールド家を再興した大師父アルバート卿のように!


……アルバート卿?


王国内の全騎士が憧れる、偉大なる我が曾御祖父様。

この世で初めて、龍騎士の称号を授かった救国の英雄。


そうだ…、隊長自身言っていたじゃないか…。




――だったら、かの大師父アルバート卿でも見習って“武龍の試練”にでも挑戦してみたらどうだ?――




「ど、どうしたの?と言うかロゼがそんな顔して急に黙り込むと嫌な予感しかしないんだけど…」


「………武龍の試練だ」


「えっ?」


「武龍の試練に挑戦しに行くぞ!」


「…………………ぇぇええええっ!?」


私の決意表明に対し、フィーは何故かその長い前髪の間からでもよく見えるくらい大きく眼を見開いたまま固まっている。


「曾御祖父様だって、武龍の試練に挑戦したのは20代になる前だと聞いた。ならば、私にだって出来ないことはない筈だ!」


そうとも。それに、曾御祖父様だって仰っていたじゃないか。私が一族の中で一番若い頃の曾御祖父様に似ている、って。


「む、無茶だよぅ。武龍の試練なんて、もう20年以上も制覇者が出ていないのに、できっこないよぅ」


フィーが涙目で訴えてくるが、そんな心持だから出来ることも出来なくなってしまうんだ。


「出来る!私なら」


「そ、その根拠のない自信はどこから出るのっ?」


「私“たち”なら出来る、に言い直してもいいぞ、フィー」


「へえぇっ!?私も行くの?」


「当然だろう?私たちはチームじゃないか」


驚きの声まで小さいフィーは、驚きのポーズまで縮こまっており、そのまま口をあんぐりと開けている。


「よし!思い立ったら吉日だ。すぐ出発しよう!幸い私には今まで取ってなかった分の休暇がたくさん残っているし」


今まで、騎士団に入団して以来休む暇もなく努力し続けてきたから――。


「それに、王女様も1週間くらい前からお忍びでどこかに遊覧に出かけていて、私達の仕事も暫くはお休みだしなっ」


そうと決まれば、やらなければいけない準備がたくさんある。

さあ、忙しくなるぞ!


「ちょ、ちょっとロゼ!あー、もうっ、やっぱり何にも考えていないんだからっ」


「失礼な、ちゃんと考えているよ。ギィはどうした?あいつも一緒に連れて行こう!」


「知らないよぅ。どうせまたどこかで昼寝でもしているんじゃないの?」


大股で歩き出した私に、置いていかれないように必死についてくるフィー。

私よりはるかに図体がでかいのにどうして歩幅は私のほうが大きいんだ?


「よし、だったらさっさと叩き起こして出発の準備だ!」


「ちょっと、待ってよ、ロゼ!」


考えるより先に足を前に出す。

歩き出さなければ結局、どこにも進めやしないんだ。

守りたいものを守ることさえ。


だから。


だから、私を甘く見たことを後悔させてやるぞ!

とりあえず、あの家の連中より先に、まずはディエナ隊長のあのすかした無表情を驚きの顔に変えてやる!

私に経験が足りない、だって?

そんなことは私自身よーく知っている。

だけど、小さな経験をコツコツと積み重ねていく程私は悠長じゃないし、時間もないんだ。

それこそ、武龍の試練を制覇する、くらいのことをしなければ私の望むものは手に入りはしない。


だから。


どうか私のことを見守っていてください。

曾御祖父様。

そして、母上。







※※※※







武龍の試練。

いつの頃からか、百年以上も昔、王都の北に聳えるノーザリン山脈の片隅にある、古城に1匹の龍が住み着いた。

その龍は龍にしては珍しく、人に親和的であり、また無意味な殺戮もしようとはしなかった。

かの龍を訪れた者の内、礼儀を重んじた者については丁重なもてなしをしてそのまま無事に人里に帰し、礼を失した者については容赦なく虐殺した。

そして、力試しのために訪れた者については、不思議な対応をしたと言う。

それは、その者にある試練を与え、見事龍の試練を制覇した者には自身の武具を分け与えたそうだ。

その武具は、この世で最も強固な物質と言われる龍の鱗、それを溶かして練成することで精製された武具であり、この世に存在するありとあらゆる武具よりも性能が上だった。

龍鱗の武具、と呼ばれたその武具を持つ者は、例外なく人の世において善・悪問わず偉業を達成し、英雄視された。

いつからか、龍の試練を制覇した者は龍騎士と呼ばれるようになり、その龍も武の神様として崇められ、武龍と呼ばれるようになった。

龍が棲む古城の名前をとって、“武龍アインハート”。

そして、その試練こそが、武龍の試練である。








「そんなこといちいち説明されなくても知ってるよっ!」


「ん、そうか?」


私の懇切丁寧な説明に対し、目の前に憮然として座っている少女は心底心外だと言わんばかりに怒り出した。


「ボクが聞きたいのはさ、どーしてボクがロゼとフィーの心中旅行につき合わされなくちゃならないのかってこと!」


そう言って、すぐにでも馬車から飛び降りて王都へとんぼ返りしそうな雰囲気を見せているが、そうもいかない。

彼女の右手を私がしっかりと握っているからだ。


「何故って、そんなことは決まっているぞ、ギィ。私達はチームだからな!」


私の素晴らしい答えに対し、目の前の少女・ギィは心底嫌そうな顔をして反論した。


「チームって、ボクは君達と一緒に居ていっっっっつも余計なトラブルにばっかり巻き込まれて迷惑かけられっぱなしなんだけどー!」


「ご、ごめんね、ギィ。私がどんくさいから…」


フィーは大きな体を折りたたむように縮こまって謝罪する。

私よりも小さい背丈のギィよりも、さらに小さくなって見える。


「フィーはいいよ。まだ、さ。悪いのはいっつもいっつもロゼのバカだ」


悪態を吐きながら、こっちに向かって思いっきり舌を出すギィ。

彼女がやると幼い容姿も相まって可愛らしく見えるけど(もっとも、容姿に関しては私も人のことを言えた義理ではない)、しかし。


「曾御祖父様が言っていた。人間はむしろ他人からバカと言われるくらいのほうが丁度いいって」


「そーゆー意味で言ったんじゃないよ、バーカ!」


「むー、じゃあどういう意味なんだ?」


「ふんっ。お前になんか教えてやるもんか」


そのままふてくされたようにそっぽを向く少女の名を、シャギィ・クラフトマンという。

まるで幼等学校の児童にしか見えないくらい小さい背丈をしていて、オレンジ色の髪を腰にまで届くくらい長い三つ編みにしている。

瞳の色はダークブランで、顔にはそばかすがあり、それがまた彼女の容姿を幼く見せることに一役買っている。

そんな彼女だが、私達3人の内じゃ最年長の20歳で(精神年齢はきっと半分くらいに違いない)、優秀な魔術士でもある。


王国内における、騎士の活動は全て原則的にスリーマンセルが基本となっている。

すなわち。

近接戦闘が得意な騎士。

遠距離攻撃と後方支援が役目の魔術士。

近接戦闘に弱い魔術師をカバーする防御に優れた衛士。

この三人でチームを作り、常に行動を共にすることを騎士団では徹底させている。

大戦争時代に編み出されたこの陣形は、チームの連携が取れていれば非常に強力であり、ここ何十年かで王国が戦争において負けなしなのもそのおかげであるとも言われている。


私が騎士で、フィーが衛士、ギィが魔術士。

このチームこそがロイヤルガードの新人の中でももっとも強い、と私は自負している。

のだが。


「大体卑怯だよっ。人が気持ちよく昼寝をしている間に馬車に連れ込むなんて。犯罪だよ犯罪。誘拐だ!」


私と目線を合わせようともせずぶつぶつ文句を言っているギィ。

彼女こそが、私達のチームのトラブルメイカーでもある。


魔術院始まって以来の天才とか騒がれているくせに、その才能に反比例するかの如く彼女は怠け者であり、享楽的で、快楽主義者。

暇さえあればいつも寝てばかりいて、何事にもやる気を見せず、サボるためには何でもするといったダメ人間。

それが、シャギィ・クラフトマンだった。


「そう文句を言わないでよ。私達にはお前の力が必要なんだ」


「ふんっ。そもそも、武龍の試練だって?そんなカビの生えてそうな古臭い伝説に挑戦する奴がまだいたなんて、そっちの方がボクには驚きだよ」


ようやく少しは私と話をしてくれる気になったのか、ギィはこちらに向き直った。


「もう何十年も制覇者が出ていないんだろ?行くだけ無駄だよ無駄。無駄無駄」


「そんなことはないっ!やってもいない内から、無駄だなんてことはない!」


偉大な大師父と比べるのもおこがましいのかもしれないけれど、曾御祖父様にだって出来たのだから、同じ血を引く私にだって出来ないことはないはずだ。

それに、もう馬車は武龍の棲む場所、ノーザリン山脈へと向けて歩き始めている訳だし。


「確か、最後に龍騎士が出たのって、20年位前のウェザリンド様の時だった筈だよ」


不毛な言い争いをしていた私達に向けて、やっぱり申し訳なさそうな小さな声でフィーが呟いた。


「あー、あの首狩り将軍のこと?あんな化け物でも制覇するまで何年もかかったって噂だし、いよいよもってへっぽこ見習い騎士のロゼには無理だねー」


「むむむー、そんなことないもん!」


「ないもん、って、地が出てるぞ、地が。ロゼッタちゃん」


意地悪そうな顔して言う。どうして人の嫌がることにだけは嬉々としているんだ、こいつは!


「んんっ。そ、そんなことはない!私達ならどんな苦難だって乗り越えられる筈だ!」


「何を根拠にそんなこと言っているんだよ、まったく。本当にバカなんだから。バカだバカ。バカバカバカバカ」


そのままバカバカ言い続けるギィだったが、最初の頃にあった逃げ出そうという気配がなくなっているので、何だかんだ言って私に付き合ってくれる気になったみたいだ。

良かった。

私はそっとギィの右手を離して、呟いた。


「ありがとう。いつも感謝しているよ」


「ばっ、ばっかじゃないのっ!別にお礼を言われるようなことはしてませんー!やってらんないよ、まったく!」


思いっきりそっぽを向いて悪態を吐いてはいるが、その耳は真っ赤に染まっている。

こういう可愛いところがあるから、私はギィのことを憎めないのであった。


「ふんっ。君達バカとノロマのコンビじゃ龍にパクッと喰われて終わっちゃうだろうから、しょーがないからこの大大大天才のボクが付いて行ってあげるよ」


耳を真っ赤にしたままそっぽを向いて、もごもごと呟く。


「まったく、本当に世話が焼けるったらないよ…」


そんなギィの様子を見ながら、私とフィーは二人してクスクスと笑うのだった。








王都を出発して5日。

途中ギィが退屈のあまりやっぱり帰る!とかごね出したり、山登りのきつさにフィーが音を上げそうになったりもしながらも、私達はようやく到着した。

今、私の目の前には白い岩壁で作られた古い城が聳え立っている。


アインハート城。


今でこそは武龍の棲む古城として知られているが、元々は王都を追放された貴族の持ち物だったらしい。

錬金術に凝っていたその貴族は、秘法とされていた禁術に手を出して王都を追われたらしいのだが、その追われた先のこの城においても、彼は実験をくり返した。

そして、ある日、作ってはいけないものを練成してしまったらしい。

それが何であったのかは今でも記録に残っていないのだけど、そのせいで気が触れてしまった貴族は城内の召使達を皆殺しにした後、一人寂しくこの城において狂死した。

それ以来、このアインハート城は不吉な場所だとして誰もよりつかず、忘れ去られてしまった。

百年以上前に1匹の龍が棲み付くまでは。


「ふぁー、すっごいねー」


隣で、フィーが驚嘆の声を上げている。

それもそのはず。

私の目から見ても、目の前の古城はそんな忌まわしい場所とは思えないくらいとても美しく整った城に見えた。

岩壁を見事なまでに白一色に染めて、もし雪でも降ればそのまま一緒に溶けて消えてしまいそうだ。

城の中央には、辺り一体を簡単に見渡せるくらいの高い塔が建っており、その頂上に伝説の武龍がいるのだろう、きっと。

塔の天辺には、ドーム型の巨大な建造物が建っており、いかにも、といった感じの雰囲気を醸し出していたから。


「門番とか、誰もいそうにないけど、勝手に通っちゃっていいのかねー」


ギィが用心深そうに辺りを見渡しながら、目の前の城門まで歩く。

長い年月の間開いたことがなさそうな重厚な門扉はしかし、錠前はかかってなさそうに見える。


「………行こう」


私の言葉に、フィーとギィは頷く。


その外見とは裏腹に、門扉に手をかけると、不思議と力を入れずとも簡単に動き出した。




ギ ギ ギ ギ




大きな歪んだ音を立てながら。


「……えっ?」


「……あれ?」


む?


城内に入ると、これまた長い間忘れ去られた古城だとは思えないくらい綺麗に掃除が行き届いており、目の前には豪奢な絨毯が敷き詰められていた。

しかし、それよりも気になるのは――。


「甘い、匂いがする?」


フィーの呟きの通り、城内に入ると、どこかからとても上品な甘い甘い香りが漂ってきた。

花や、果物の、蜜の香り。


「まさか、龍がお菓子作りでもしてるんじゃないよね?」


ギィが冗談めかして言うが、龍が棲むと言われる古城に何故か漂う甘い蜜の香り。

そのアンバランスさが私にはえもいわれぬ不吉な予感をさせた。


「この匂いは…、上から漂ってきているみたいだ」


私達の目の前にはホールの先に長い階段が連なっており、ここを昇っていけば構造上先ほど外から見たあの中央の塔に辿り着くはずである。

辺りを見渡すが、生き物の気配は全くなく、静寂そのものだ。


「さて、鬼が出るか蛇が出るか」


「いや、出るのは龍だろ」


私の呟きに突っ込みを入れるギィの声にも、隠し切れない不安がにじんでいるように聞こえる。


「ね、ねぇ、ロゼ」


フィーが私の衣服を引っ張りながら心細そうに言うので、私は彼女の手を握り返した。

反対の手では、曾御祖父様から貰った長剣の柄を握り締める。


「大丈夫…、行こう!」


階段を上ると再び広い広いホール(元々はダンスホールだったのかもしれない)に出たが、私達の目的はもっと先だ。


高級そうな様々な家具が並んでいるホールを抜けて、通路を走り去り、その先にまた存在していた扉を開けると、そこには。


広い空間の壁沿いに螺旋状の階段が遥か上まで伸びていた。

ここが、先ほど見た塔の内部に違いないだろう。

上を見上げても、階段の終わりが遥かに遠く、見えないくらいである。


「この上から、甘い匂いが漂ってきている…」


私達は互いに顔を見合すと、慎重に階段を上り始めた。

階段を上れば上るほど、あの甘い匂いは色濃くなり、私達の決意を惑わすかのようだった。


そして――。


「おいっ」


「うん、見えたっ」


いつ終わるとも知れない人生のような螺旋階段を抜けた先には――。


まず、眼に入ったのは、頭上に広がる蒼穹の青空である。

塔の天辺にあったドーム上の建造物の上半分をくりぬいた形で天蓋が跡形もなくなっており、そこから雲一つない青空が見えていた。

目線を下に戻すと、階段を抜けた先にあるホールの中央には広大な果樹園が広がっている。

様々な花々が咲き誇り、目まぐるしくも鮮やかな花壇に囲まれる形で、季節外れの果物も含んだ果樹が辺りを生い茂っており、それこそがあの甘い匂いの正体であることは明白だった。

その果樹園へと導く形で、象牙で出来た白柱が連なって並んでいて、まるで楽園の入り口だと見紛うかのようだ。

ここは、神話に出てくる天上の空中庭園そのものだった。


「これは…?」


「ここに、龍がいるの?」


呆然と呟く私と同じく、フィーは警戒するのも忘れて立ち竦んでいた。

果樹園から漂ってくるこの甘い匂いを嗅いでいると、何もかも忘れてこのまま寝転がってしまいたくなる。


だけど――。


「おいっ、いつまでもこうしてる訳にもいかないだろ!」


ギィが茫然自失となっていた私達に声をかける。


そうだ。考えるより先に足を前に出せ。


「うん、分かっている。行こう!」


私はフィーとギィを促して、果樹園へと向けて一歩足を踏み出し――。



「そこで止まれ、人間」


「っ!?」


凍える程冷たい声と共に、凄まじい殺気が全身を襲う。


足が地面に縫い付けられたかのように、地面から一歩も動かせない。


こんなことって――!


私の知る限り、ディエナ隊長はお飾り部隊のロイヤルガードにおいても、なお他の騎士団と比べて遜色のない実力を持つ騎士なのだが(普段は絶対にそんなことは言わないけど)、そんなディエナ隊長の扱きを受ける時、彼女に殺気を向けられることがある。

実践訓練という名目で、私達はそうして実戦における気概を身につける訳だけど。

だけど。

今私が感じている殺気はそんなディエナ隊長のものとは比べ物にならないほど鋭く冷たいものだった。

文字通り、背筋が凍りつくほどに。


すうぅっと、その女性は象牙の白柱の裏から姿を現した。

いつから彼女がそこにいたのか、私には全く気配を感じ取れなかった。


短く刈り込んで丁寧に整えられている空色の髪。

何一つ感情を読み取ることができない深い海色の瞳。

怖いくらいに整ったその美しくも怜悧な顔。

その顔には、何故かとても綺麗な鱗が所々生えているのがここからでも見て取れる。

そして、女でありながら、何故か執事服を着込み、こちらを静かに見つめている彼女こそが、この殺気の持ち主に間違いなかった。


「ロ、ロゼぇ…」


フィーが泣きそうな声で私を呼ぶが、実際泣き出したい気持ちは私も同じだった。

ただ私にできるのは、ともすれば崩れ落ちそうな両足に力を入れて、何とか執事服の女性を見つめ返すことだけ。


「ここにはお前達の望む物は何一つとしてない。疾く、去れ」


そう静かに呟いて、話は終わりだとばかりにその場を去ろうとする。


「ちょ、ちょっと待ってください!もし、非礼があったのであれば詫びます。ここには、私の望む物があるはずなのです」


縫い付けられたかのように動かなかった口を、気合でこじ開けて、女性に向けて叫ぶ。

女性はチラリとこちらに目線を向けて、つまらなさそうに答える。


「なんだ。富か、名誉か。どちらにせよ、それらのものをお前達が得て帰ることはないだろう。去れ」


「富でも、名誉でもありません。私は、私は武龍の試練に挑戦したいのです!」


「武龍の試練、だと?」


そこで初めて女性は表情を動かした。それから感じ取れるのは、微かな苛立ち?


「くだらん。実にくだらない。彼我の実力差も読み取れないような未熟者めが。私はお前のような人間がもっとも嫌いだ」


そう言って、こちらを向き直る。


「ひっ」


それだけで、先ほどから感じている殺気が増したようにも感じる。


「おい、ロゼっ。これはやばそうだよ、逃げようっ!」


後ろでギィが失神しそうなフィーを支えながら話しかけてくる。


だけど。


「なぜなら、お前のような人間は決まってお父様の手を煩わせる。そうなる前に」


「おいっ、ロゼっ!聞こえてんのかっ?」


聞こえているよ、ギィ。

だ、だけど。ここまで来て逃げ帰るなんてこと――。



「排除することこそ、私の役目」



あの冷たい海色の瞳をスっと細めて、一歩こちらに踏み出した。


こ、これは、ダメかもっ。

もうやるしか――。


私は先ほどから意識が飛ばないように必死に掴んでいた長剣の柄を血が出るほどに握り締める。


その時。



“やめろ、ルビー。せっかく尋ねてくれた可愛らしい客人をそう怯えさせるものではない”



私の頭の中に、深い落ち着きのあるバリトンの声が響き渡った。


「お父様…」


執事服の女性は悪戯が見つかった子どものように顔を少し歪めて、上空を眺めた。


そこには――。


「ひぅっ」


「あ、おいっ」


その姿を見て、今度こそフィーが失神してしまったようだ。


慌ててフィーを抱きかかえているギィの姿を横目に捉えながら、私自身失神したいくらいだった。

この空中庭園の上空には、いつの間にか、大きな翼を広げて、尻尾も合わせれば全長10メートル以上もあろうかという大きな龍の姿があった。


「お帰りなさいませ、お父様」


執事服の女性は、上空の龍に向けて恭しく頭を下げる。


“ああ、今戻ったよ”


そのまま龍は大きな翼を羽ばたかせながら、果樹園の手前に降り立った。


着地の際に生じた風で花壇の花びらが舞い上がり、それが降り注ぐ中翼を折りたたむ龍の姿は、まるで物語の中の光景のようだ。


これが、武龍アインハート。


その全身は白い鱗に覆われており、おかげで武龍が元々は何の龍だったのか判明することを困難にしていた。

そして、黄金色に輝く縦長の瞳にはこの世の成り立ちを全て見てきたかのように、知性の炎が宿っている。


“さて、すまないね、客人。少し空中散歩に出ていたものでね、留守にしていたのだ。娘のルビーには尋ねてくる者があっても追い返すようなことはしないように言っておいたのだがね”


龍はその知性溢れる瞳をこちらに向けた後、(驚くべきことに!)本当に申し訳なさそうな表情を見せた。


「お言葉ですが、お父様。20年前のこともあります。人間達にはもっとお気をつけになった方が」


執事服の女性は、龍の言葉を受けて、先ほど私達に凍るような殺気を向けていた人物とは思えないくらい、親に叱られた娘のような様子で喋っていた。


どういった関係なんだろう。

娘、とか言っていたけれど。そんな、まさか――。


「お父様の強さは信頼しております。しかし、万が一のことがあっては…」


本当に心配そうな声色で龍に話しかけている。


“お前はいつまで経っても心配性が治らないな、ルビー。この世の中のどれくらいの人間が私に傷一つでも付けることができる?そんな者を探すだけで、人間の短い一生は終わってしまうだろうな”


「ですが…」


“それに、お前がいるだろう、ルビー?”


なんと龍は執事服の女性にウィンクまでして見せた。

武龍というのは、私が思っていたような龍ではないみたいだ…。


「……分かりました。申し訳ありません、お父様。差し出がましい真似をしました」


“なに、構わないよ。いつだって、お前が私のためを思って行動していることは知っているからな”


謝る女性に対し、龍は優しい声色で話しかけた。


しかし、目の前にいるこの龍は、本当に武の神様とまで言われた武龍アインハートなのだろうか?


「あ、あのー」


決死の思いで話しかけた私に対し、龍と女性は存在を忘れていたと言わんばかりにこちらに目を向けた。


“おっと、すまない。客人のことをほったらかしにしてしまっては、ホストの面目が立たないな”


「申し訳ありません。お父様が認めた以上、あなた様方は、ここ空中庭園のお客様です。先ほどの非礼はお詫びします」


そのまま、深々と頭を下げる執事服の女性。

だけど。


「い、いえっ。こちらこそ、そのごめんなさいっ」


「何がだよ、まったく…」


隣でギィが何か呟いているが、ああも頭を下げられるとこちらが恐縮してしまうのだった。


「私の名前はルビー。ここ空中庭園は私とお父様が腕によりをかけて作り上げたこの世で最も美しい庭園であると自負しております。どうぞごゆるりとご歓談の程を」


「いえっ、そのっ、ありがとうございますっ」


「それでは」


最後にもう一度頭を下げて、ルビーさんは現れた時と同じように音もなくその場を去っていった。


“私に怒られて、少し拗ねていたな、あれは。いつまで経っても、子供のままで困る”


言葉の割に、どこか嬉しそうな色が滲んでいた。


「あの、貴殿が、かの武龍アインハート殿なのでしょうか?」


今までの言動の数々から、どうしても信じられなかった私は、つい、龍に向けて聞いてしまっていた。


“いかにもそうだが、その名は人間達が勝手に付けた名だ。私のことを呼ぶ時は好きなように呼ぶといい”


「で、では、アインハート殿、と」


“ふむ、堅苦しいお嬢さんだな。それで、君達は何の用でここまで来たのかね?もし、私を倒して名声を上げたいなどと思っているのなら、悪いことは言わん、さっさと山を降りたが方が身のためだぞ”


どうしてか、愉快そうにアインハート殿はそう言った後、牙を剥き出しにして笑う。


こ、怖い…。


良かった、フィーが気絶していて。もし起きていたら、また失神するところだったろう。


「も、申し遅れましたが、私の名は、ロゼッタ。ロゼッタ・オールデーズと申します。これでも、トレンディア王国で騎士をしております」


“ふむ、それで?”


「こちらの二人は、私の友人で、信頼できる仲間のフィーメラルダとシャギィです」


私の言葉に合わせるように、ギィが一応目礼をした。

珍しいことに。

騎士団においては目上の者に対しても全く敬意を払おうとはしないのに。


「私は、あなたを倒すためではなく、武龍の試練に挑戦するためにここを訪れたのです」


“武龍の試練?”


アインハート殿はそのまま眼を丸くする。


“なんとまぁ、懐かしいことを言い出したものだが、しかし、あれは人間達が勝手にそう呼んでいるだけで、私は試練など与えた覚えなどない”


「ええっ、そうなのですか?」


まさか、武龍本人からその試練を否定されるなんて。


“私は武具作りが趣味でね。元々は、私が趣味で作った龍鱗の剣を気に入った人間の小僧にくれてやったのが始まりだ”


「しゅ、趣味…?」


“うむ。趣味だ。それを人間達が何を勘違いしたのか、私の与える試練を乗り越えれば龍鱗の武具をもらえるなどと言い出して、ここに腕試しの者がたくさんやって来て困ったものだったよ”


伝説の武龍の試練がそんなものだったなんて。

隣を見れば、ギィも同じく口を開けて驚いていた。


“煩わしいからほとんどの者は追い返したがね。まぁ。中には面白い奴も混じっていて、気に入った奴がいれば龍鱗で出来た武具を分け与えはしたが。製作者として、やはりせっかく作った武具は誰かに使ってもらいたいものだからな”


それでは、私の敬愛する曾御祖父様は…。


“それを人間達は龍騎士などと呼んでいるそうだが、私の知ったことではないな。君も、そんなくだらない噂に振り回されて、ご苦労なことだ”


やれやれ、と首を振るアインハート殿。

そんな仕草も、どこか人間臭さを感じさせた。


「そ、それでは、私に龍鱗の武具をくださることは…」


“うん?君は確かに面白そうな人間ではあるが、私の武具を扱う者は、それに見合うだけの技量を持った者であって欲しいものだ。君に私を納得させるだけの何かがあるのかね?”


そう言って、あの深い黄金色の瞳で見つめてくる。

あの瞳で見つめられると、何かも打ち明けて、さらけ出してしまいそうになる。

しかし、私には――。


「わ、私は…」




――尾羽も生え揃っていないひよこが転属願いを出すなど、百年早い――




私にあるものはなんだ。

経験なんて、ある訳がない。

武龍を唸らせるだけの技量も。

私は――。



“龍騎士の称号が欲しければ、私を楽しませてみろ、人間のお嬢さん。初めて私が武具をくれてやった人間の小僧などは、技量もない未熟者だったが、それはそれは面白い奴だったぞ”


最初の、龍騎士。


「そ、それはアルバート卿のことでしょうか?」


“そう言えばそんな名前だったな。私に負けるとすぐに泣き出すのでこっちも困ったものだったよ”


「そんな…、あの曾御祖父様が、勝負に負けて泣く?」


あの、曾御祖父様が?

王国中の騎士の誰よりも強く、気高く、誇り高かった、騎士の中の騎士。

そんな曾御祖父様が?


“アル坊が私のもとに来たのは君よりもまだ若い頃だったからな。負けず嫌いで、泣き虫で、そして諦めの悪いきかん坊だったよ、あいつは。しかし、曾御祖父様、ということは、君はあいつの血縁者なのかね?”


昔を振り返るように一瞬遠くを見た後、アインハート殿はそう聞いてきた。


「は、はいっ。アルバート・コーンフィールド卿は私の曽祖父に当たります」




“………そうか。君はコーンフィールド家の者か”




私の言葉を聞いて、アインハート殿は何故か先ほどよりもさらに遠くを見つめた。


その瞳に一瞬、複雑な様々な感情が過ぎったかに見えたが、私よりも遥かに長い年月を生きてきたはずの龍の感情を読み取ることなど、私に出来るはずもなかった。


“それで、アル坊はまだ元気かね?あいつは人間にしては長生きをしていたかと思うが”


私の脳裏に一瞬曾御祖父様の快活な笑みが過ぎる。


「いえ、3年前にお亡くなりになりました。家の者も、大往生だったと」


あの家に来て、唯一私にとって嬉しいことがあったとすれば、それは、曾御祖父様と出会えたことだった。

曾御祖父様だけが、私と母上の唯一の味方だったから。


“そうか、死んだか…。人間にしてはなかなか愉快な奴だったが、惜しいことをした。あいつがここに居た期間は実質1年間くらいのものだったが、その間私にとってもルビーにとっても充実した毎日だったと思う”


「そう言ってくだされば、曽祖父も喜ぶでしょう…」


私に、寝物語で武龍との決闘の日々を語ってくれた曾御祖父様。

その話しぶりからも、曾御祖父様が武龍のことを深く尊敬していることが感じ取れたものだった。

もっとも、曾御祖父様の話では武龍に負ける度に悔し泣きをしていたなんてことは出てこなかったが。


“それが原因かね?君がその若さで武龍の試練などと言い出したのは。アル坊を除けば、私のもとを訪れた者の内、君が一番若い”


「い、いえっ。曽祖父のことは関係ありません。私が龍鱗の武具を求めるのは、違う理由です」


“ふむ。それは、ひょっとして君がアル坊の曾孫なのにもかかわらず、コーンフィールド姓を名乗っていないことにも関係しているのかね?”


「っ!?そ、それは…」


ダメだ。声よ、震えるな。

私の理性よ、弾けるな。

私は。私の名は――。


「おい、ロゼ…」


ギィがそっと私の背中に手を当ててくれる。

鎧越しでは、その体温は伝わらないけれど、彼女の気持ちは伝わった。


「大丈夫、大丈夫だよ、ギィ」


そう、私は大丈夫なはずだ。


“………まぁ、いい。君が話したくないことを無理に聞く気はない。君が話したくなったなら、別だがね”


「あ、ありがとうございます」


“さて、君に私の武具を譲ることは出来ないにしても、君達は私の客人だ。ここでゆっくり旅の疲れを癒していくといい。そちらのお嬢さんを寝かせる場所も必要だろう?”


そう言って、アインハート殿は、鋭いかぎ爪をぐったりと気を失っているフィーへと向けた。


「あ、かたじけない。そうしてもらえると、助かります」


「話が分かるじゃんか、龍のおっさん」


などと、軽くアインハート殿に話しかけているのは、確かめるまでもなく我がチームのトラブルメイカー、ギィである。


「おいっ、失礼だろう!すみません、アインハート殿!」


“ふはははっ。元気の良いお嬢さんだ”


アインハート殿は気にしていないのか、口を大きく開けて笑っている。

しかし、こちらとしては、気が気でない。


「ボクはシャギィ・クラフトマンっていうんだ。ギィって呼んでいいよ。でも、気に入った奴にしかそう呼ばせていないんだから、光栄に思ってよね」

何故か得意げに、ない胸を張ってそう告げるギィ。

しかし、アインハート殿が怒り出したらどうする気なんだ、全く。


“ふ、ふ、ふ。面白いお嬢さん達だ”


「本当にすみませんっ。後できつく叱っておきますから」


「なんだよ、おいっ。お姉さん面すんなっ。ボクの方が年上なんだからなっ!」


「いいからもう黙ってよ、ギィ!」


“気にすることはない。さて、ここ空中庭園の両隣には客人のための客間が用意してある。今夜はそこに泊まるといい”


アインハート殿の言葉に促されて果樹園の左右を見ると、確かに宮殿のような建築物が二つ、それぞれ左右に建っていた。


その二つの宮殿を繋ぐようにして、中央には綺麗な小川が流れている。


“向かって左側の建物、私などは新月の間などと呼んでいるが、そこは少し理由があってね。なるべく近寄らないでもらいたい。そこ以外であれば、この城内全て好きに見てもらっても構わんよ”


そう言うと、アインハート殿は翼を一度大きく羽ばたかせた。

それによって生じた風圧で、辺りの木々がさざめく。


「分かりました。お心遣い、感謝します」


“さて、私は拗ねてしまった娘のご機嫌取りでもしてくるか”


そのまま、大きく翼を羽ばたかせて、現れた時と同じように、あっという間に大空へと飛び去っていってしまった。

後に残されたのは、ポカンと上空を眺める他ない私に、気絶してしまってギィの腕の中ですやすや眠りこけているフィーに、なぜか楽しそうに空へ向けて手を振っているギィの三人だけである。



「………………………………は、はは」



「ん、どうした、ロゼ?」


ギィの疑問に答える間もなく、私はその場に膝から崩れ落ちる。


「お、おいっ」


「……………………………こ」


「こ?」


「こわかったよーーっ!」


そして、今まで我慢していた涙が両目から止め処なく流れ始める。


「うわっ、と。よしよし、いい子だから泣くなよ、もうっ」


今になって、両手と両足がガクガクと震え出す。

あの時、アインハート殿が帰ってくるのが少しでも遅ければ、私はルビーさんにあっさり殺されていただろうし、何かの気紛れでアインハート殿が私達を煩わしく思ったのなら瞬きをする間に私達は噛み殺されていただろう。

そう思うと、急に安堵が押し寄せてきて、感情が制御できなくなってしまった。

こうやって声を上げて泣くのは、一体何年ぶりだろう?

それは、きっと。


「う、うぅーっ、うっく」


「よしよし」


顔をくしゃくしゃにしてそのまま涙を流す私を、いつまでもギィは頭を撫でてくれるのだった。







※※※※







何かの夢を見た気がする。

それが何の夢だったのか、もう思い出せない。

だけど、母上と、曾御祖父様が夢に出てきたような気がした。

懐かしくも、甘い、夢。

そんな夢だった気がする。



ふと目を覚ますと、私は寝ながら涙を流していたのか、頬が水に濡れていた。


曾御祖父様が死んで、母上が死んだあの3年前から、私は泣くことを忘れたかのようにがむしゃらに頑張ってきた。

もう、泣かないと、心に決めていた。


なのに、この城に来てから、私は今までの分を取り戻すかのように泣いているような気がする。

アインハート殿は、曾御祖父様もよく泣いていたと言っていた。

私も、泣いていいのだろうか?

泣いても、強くなれるのだろうか?


辺りを見渡すと、キングサイズのベッドに寝ている私の両隣に、フィーとギィが一緒に眠っていた。

フィーは何か怖い夢でも見ているのか、時々うなされているが、ギィは気持ちよさそうにすやすやと眠っている。

寝相は変だが。


あの後――。


ギィの前で大泣きしてしまった私は、気恥ずかしさからいつもの喧嘩をギィとして、その後気絶したフィーを抱えて空中庭園の客間へと運び込んだ。


そこは、護衛の際に覗いたことのある王国の王女達の部屋にも勝るとも劣らない絢爛豪華な造りになっていて、その家具全てがどうやら手作りのようでもあった。

まさか、アインハート殿が全て作ったのではないだろうな?

ともかく、客間の中にあった寝室にフィーを運び込んだ後、客間に戻ると、いつの間に運び込まれたのか、テーブルの上には豪勢な料理が並んでいた。

それをギィと二人で平らげた後、休んでいると昼間の疲れがどっと来たのか、そのままベッドに倒れこんで、眠ってしまったらしい。


寝室を出て、そのまま空中庭園に出ると、満天の星空が天上に見える。

月と、星々の光が淡く降り注ぐこの果樹園は、なるほど、この世の楽園のようである。


この星空の下、この空中庭園よりも遥かに下の地上には、王都があり、私が住む隊舎があり、そしてあの家があるのだろう。

ここからでは、遠くて見ることさえ叶わないけれど。


「……ん?」


果樹園の中心から、微かに誰かの話し声が聞こえてきた。

その一つは、あの心地よいバリトンだった気がしたが、もう一つ聞こえてきたのは――。


私は耳を頼りに、その声が聞こえた方に向かって歩いてみる。


林檎に桃、葡萄に梨。

季節関係なく実を付けている様々な果物の木々達を抜けて奥へと進むと、そこには丸い大きな岩が鎮座していた。


そして、その上には――。


“こんばんは、お嬢さん。こんな夜更けに散歩かね?”


その大きな体を岩の上に広げて寝そべっている、白い鱗を持つ年経た龍が居た。


「これは、アインハート殿。夜分申し訳ありません。こんなところで何をしているのです?」


“ふむ。ごらん、星が綺麗だろう?ここは王国内において最も天に近い場所、と言っても過言ではないからね。ここから眺める夜空はいつまで経っても飽きることはない”


「確かに、見事な星空だとは思いますが…」


私は彼の言葉に賛同しつつも、辺りを伺った。


「あの、不躾な質問で恐縮なのですが、ここに、もう一人誰かいませんでしたか?」


私は、先ほど聞いたもう一つの声が気になっていた。

どこかで聞いたことがある声だったような、そんな気がしてならなかった。


“ふむ、まぁ、気にすることはない。月夜の化身でもひょっとしたら居たのかもしれないな”


「はぁ…」


どうやらアインハート殿は、本当のことを教えてくれる気はないらしい。

しかし、私は。


「あの…、ご迷惑でなければ、ご一緒してもよろしいでしょうか?」


“構わないとも。今日は稀に見る見事な夜空だ。君のような可憐な女性と楽しむのも悪くない”


「あ、ありがとうございますっ」


彼のお世辞に照れながら、私はその大きな岩を背にその場に座り込んだ。

そして上空を眺める。


「確かに、地上と比べて空が近く感じられます。手を伸ばせば、星も掴めそう…」


そう言って、実際に私は空へと向けて手を伸ばす。

しかし、その手は虚空を掴むばかりだ。


“そうだろう?ここに住むことを決めたのも、実はそれが理由なのだよ。以前私が住んでいた場所は空が遠く、押しつぶされそうに狭い場所だったからね。今度は広く空が近い場所に住もうと決めていたのだ”


「そうなのですか?」


それはきっと、私が生まれるよりも遥かに昔の出来事なのだろう。

そうやって、この龍は様々な場所で様々な人間の一生を眺めながら生きて来たに違いない。


「私が………、私が以前住んでいた場所は、まるで牢獄のような場所でした」


気が付けば、私は口を開いていた。

あの家のことを話す時、いつも私の心の内には全身を燃やしつくような憎悪と痛みが駆け巡っていた。

フィーやギィに、私の家のことを話した時にも、そうだった。


だけど。

だけど、今私の心の内にあるのは、穏やかな静謐だけだ。

あの静かで深い黄金色の瞳を心に思い浮かべるだけで、私の激情は霧散してしまったかのように感じる。

それとも、あの時。

ギィの前で大泣きしてしまった時に、私の憎しみも一緒に流れ出てしまったのだろうか。


あの黄金色の瞳で見つめながら、年経た白い龍は私が続きを話すのを静かに待っていた。





――私は、トレンディア人の父と、ノッドラート人の母との間に産まれました。

ノッドラートがトレンディアとの戦争に負けて40年近く経ちますが、今でも、王国内ではノッドラート人に対する偏見が根強く残っています。

母は元々は、血筋を辿ればノッドラートの豪族の娘なのだそうです。

そんな母を、父が目をつけて半ば奪い去るように妾にしたのも、必然だったのかもしれません。

父は、コーンフィールド家の嫡男でした。

コーンフィールド家は元々、没落貴族の一族だったそうですが、そんな一族を復興させたのが曽祖父でした。

ノッドラートとの大戦において獅子奮迅の活躍を見せた曽祖父は、救国の英雄と持て囃されました。

そして、あっという間に、コーンフィールド家はかつての地位を取り戻したのです。

いえ、曽祖父が引退し、祖父から父へと代替わりした時には、曽祖父でさえ思いもよらぬほどの力と地位を王国内において得ていたのです。

父は暴君でした。

謀略によって祖父を当主の座から引き摺り下ろした後、コーンフィールド家において父に逆らえる者は誰もいなくなっていました。

曽祖父ですか?

ええ、英雄と謳われた曽祖父でさえ、そうでした。

そんな父のもとに愛人として引き取られた母が産んだ子が、私です。

父はそんな私をコーンフィールドの一員だとは、決して認めようとはしませんでした。

だから、私は、未だにコーンフィールドを名乗ることを許されてはいません。

もっとも、私は、母の名前であるオールデーズ以外名乗るつもりもありませんが。

話が逸れました。

文字通りコーンフィールドの家で飼われていた私と母は、家畜同然の扱いを受けながら日々を過ごしました。

私の上には兄が一人と姉が二人、父が正妻に生ませた子がいますが、彼らも私を人間扱いすることはありませんでした。

あの家の中で、私と母を一人の人間として扱ってくれたのは、曽祖父だけです。

父が私たちを厄介者だとしてあの家から放逐しなかったのも、曽祖父がいたからかもしれません。

だけど、そんな曽祖父も一線を退いてからは老いが激しく、父を押さえ込み私達をあそこから助け出してくれるほどの力はもう、なかったようです。

そんな曽祖父が3年前老衰で死んでからは、父はとうとう私達への興味の一切を失ったようでした。

文字通り、私達への一切の干渉をやめて、コーンフィールド家の広大な敷地内にある小さなあばら屋に私達を押し込めて、そこから出ることを禁じたのです。

母は。

母は儚くも美しい人でした。

そして、優しい人でした。

私は、母が誰かに対して恨み言を言っているのを聞いたことがありません。

あの地獄のような場所でさえ、です。

私は、そんな母が衰弱し、命の灯火を弱めていくのをただじっと眺めることしかできませんでした。

半年間。

半年間もの間私達はそのあばら家に閉じ込められたまま過ごしました。

その間、私は母以外の誰とも口を聞くこともなく、母が死の色を強めていく様子をただただ眺めていました。

私は、無力でした。

私は、母が笑ってくれればそれで満足だったんです。

それなのに。

ある日、母は眠ったまま目を覚まさず、もう二度と私に笑いかけてくれることはありませんでした。

母が死んで、私は誓いました。

いつかきっと、この狂った家に報いを受けさせてやる、と。

剣一本で没落したコーンフィールド家を再興した曽祖父のように、私も軍に入り、力と地位を得ることを望みました。

父は外務卿の地位に就いていましたし、政界の場においては絶大な影響力を持っていましたが、軍属になれば、そう簡単とこちらに手を出すことはできませんから。

もっとも、父は私のことなど子虫程度にしか気にかけていないのかもしれまんせんが。

ともかく、私は、騎士団の中で出世して、出世して出世して、いつか、父に対抗できるほどの力を得ることができたなら。

コーンフィールド家を取り潰すことが夢なんです。

汚いこともたくさんしてきた父でしょうから、叩けば埃なんていくらでも出るはずです。

そして。

そして、あの家を取り潰したのなら。

あの広大な敷地内に、春になると様々な花が咲き乱れるお花畑に、母のお墓を作ることが私の夢なんです。

たった、一つの、私の夢。

そのためだけに、私は生きている――。







長い私の身の上話を、アインハート殿は静かに聞いてくれていた。

話し終わった後、気がつけば、私の両目から涙が零れていた。


「あれっ?お、おかしいな。フィーやギィに話した時にも、涙なんか流さなかったのに…。な、なんで…」




――お母様。目を覚ましてください、お母様。お願いです、目を開けて私に笑いかけてください――




あの時、私の涙は涸れ果てたはずだったのに。


「あは、あははっ、すみません…。みっともないところを…、お見せして…」


それなのに、止まることなく、涙が流れ出る。


“なに、気にすることはない。君の敬愛する曽祖父、アル坊も君と同じくらい泣いていたもんさ。いや、君よりももっとかな”


とても、優しい声色。曾御祖父様も、私が何かの拍子に泣いた時は、こんな風に優しく声をかけてくれた。


“そうして泣いている姿を見ていると、確かに、君はあいつの曾孫だな。泣いている顔がそっくりだ”


涙で滲んだ私の眼に、龍に挑んでは負けて半べそをかく負けん気の強そうな少年剣士の姿が幻のように浮かんでは、消えていった。








私が泣きやむまでの暫くの間、アインハート殿はやっぱり静かに待っていてくれた。


「すみません、本当にみっともないところをお見せして…」


“たまには泣いてみるのもいいものだ。心に溜め込みすぎると、体に毒だからな。もっとも、私はもう泣くことはできないがね”


そう言って、茶目っ気たっぷりに笑う。


「ふふっ。私、あなたのことを誤解していました。武龍、なんて名前が付いているので、どんなに恐ろしい龍なんだろうと、本当はここに来るまで不安で一杯だったんです」


道中、そんな不安をフィーやギィの前で見せることはしなかったけれど。

この旅は、私が言い出したことだから。


“幻滅したかね?他の龍はどうか知らないが、私は昔からこの世で最も人間臭い龍だなどと友人達からも評判なのだよ”


「いえっ、幻滅だなんて。想像してたのよりもよっぽど素敵でした」


私は両手を振って否定の意を表す。

そんな私の姿を見て、アインハート殿は嬉しそうに笑う。

初めは、彼が笑うと鋭い牙が見えて恐ろしかったりもしたのだけれど、今では不思議と愛嬌のある顔に見えた。


“君のような素敵なお嬢さんにそう言ってもらえると、嬉しい限りだ”


笑いながら、月を仰ぎ見る。

私も同じように、夜空を眺める。


“それに、君なら大丈夫だろう。私の娘と相対しても一歩も退こうとはしなかった勇敢な仲間もいることだし”


「フィーとギィ、ですか?ええ、私の大切な友人です」


私は夜空から地上へと目線を戻し、そのまま二人がまだ寝ている筈の客間のほうへと眼を向けた。


“だから、武龍の試練、などと焦る必要もないと思うがね。君達なら、きっといつか上へと昇ることができるだろう”


「それなら、いいのですが…」


私の脳裏を過ぎるのは、生意気な顔をした一人の少女の姿。


“何か憂慮すべきことでも?”


「いえ、その、私は騎士、と言っても見習い騎士みたいなものでして…。私が所属している部隊は通称ロイヤルガードと言って、王族の護衛を主な任務としているのです」


“ほう、王族の護衛とは、重要な任務ではないのかね?”


アインハート殿は何故か、王族の護衛、というところで愉快そうな顔を一瞬見せた。


「ですが…、その実態は言うなればわがままな王女達のお守りです。彼女達は滅多に後宮から出てくることもありませんから、護衛、と言ってもそれは建前だけなのです」


“それが、君にとっては不満だと?”


「ええ…。特に私のチームが担当しているルージュ姫のお守りは、これがまた、大変でして…」


“ほほう、ルージュ姫の?”


アインハート殿は、理由は分からないがさらに愉快そうな表情を強める。

何だろう?


「えーと、ご存知ですか?巷では、王国始まって以来のおてんば姫としても有名なのですが」


“ふむ。その姫のおてんばっぷりはそんなにすごいのかね?”


「ええ、それはもう!私もよく友人から行動する前にちゃんと考えろとか言われますが、あの姫様の考えなしっぷりは私をも遥かに上回ります!」


あー、思い出したらムカついてきた。


「ちっちゃい身なりの割に、尊大な口調で人をあごで扱き使って、それはもうひどいものですよ!あんなのじゃ、嫁の貰い手なんてあるはずがありません!いつだったか、急に下町が見たいなんて言い出して、私達がどれだけ走り回るはめになったか。とんでもないお姫様です!」


“はっはっはっ。眼に浮かぶようだ。君達がその姫に振り回されている姿がね”


「私にだって眼に浮かびますよっ。彼女がいつもの尊大な口調で私に文句を言っている姿が」


きっと、こうやって両手を腰にあてて、ふんぞり返った姿勢で人を見下すように見つめながら――。






「ほっほーう。そなたがわらわのことを普段どう思っていたのか、よーく分かったぞ」






「へっ?」


今、後ろから聞こえてきたのは、普段私が聞きなれている護衛対象の――。


ギギギ、と音がしそうなくらい固まったままゆっくりと私が振り返ったそこには。


私の想像通り両手を腰に当てて。尊大そうにふんぞり返り。勝気そうな目を吊り上げて。

光り輝きそうなくらいツルツルと綺麗なおでこに、絹のような細いブロンドの髪を腰まで伸ばし。

その頭の上に、様々な宝石が散りばめられた黄金のティアラがちょこんと乗っている。

御年12歳。トレンディア王国第三王女。ルージュ・ファラ・トレンディア。





「ひ、ひ、姫様ーっ!?どうしてここにーっ!?」





私の叫びの背後から、アインハート殿が爆笑する声がこだましていた。






[10769] 三章・02
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2009/08/22 23:00


現在、確認できている中で、武龍の試練を制覇して龍騎士の称号を持つ者は六人存在する。




“大師父”、“グランドマスター”、アルバート・コーンフィールド。

騎士の中の騎士であり、ノッドラートとの大戦時における救国の英雄。故人。

所持する龍鱗の武具は、龍鱗の剣“アイアンハート”。


“聖騎士”、“アイアンメイデン”、アナスタシア・ソードレス。

龍騎士の中でも唯一トレンディア出身ではなく、法王府の神殿騎士団団長を務めていた。

大戦の終結に多大な貢献をしたと言われる。故人。

所持する龍鱗の武具は、龍鱗の細剣“クライングエメラルド”。


“深緑の魔女”、ルールールー・ムーンリバー。

魔術師における最高の位階、“極者”の称号を持つ者。

現在トレンディア王立魔術院の二代目総院長を務めている。

所持する龍鱗の武具は、龍鱗の盾“ゴールドレイン”。


“破戒者”、“アノニマス”、本名不詳。

大陸史上最悪の犯罪者。確認できているだけでも、百人以上の教会関係者を虐殺している。

現在、終身刑の者のみを収監している牢獄“ステュクスの沼”にて投獄中。

所持する龍鱗の武具は、龍鱗の籠手“シルバーイーター”。


“首狩り将軍”、ジャンジャック・ウェザリンド。

戦場にて最も多くの戦士を殺し、最も多くの戦果を上げた、元傭兵。

現在、王国の十騎士団を統括する四将軍の内の一人であり、アルバート卿亡き今王国内にて最強の騎士だと言われている。

所持する龍鱗の武具は、龍鱗の斧“ダークサイド・オブ・ザ・ムーンストーン”。




彼ら全て善悪問わず歴史に名を残す大業を成した者達であり、今なお吟遊詩人の唄にて謡われる英雄達だ。

しかし、龍騎士の中で、最も有名であり、最も多く名が挙がるのは、最初の龍騎士アルバート卿でも、首狩り将軍ウェザリンドでもない。


それは、長い王国の歴史の中でも、唯一龍を手懐け、龍を味方に付けることに成功し、ノッドラートとの大戦を勝利に導いた王。


“武龍王”、トレンディア王国第15代国王、オルフィオ・フォウ・トレンディア。

所持する龍鱗の武具は、龍鱗の鎧“ダイアモンドスカイ”。



元々、オルフィオ王は穏和で戦いを好まず、平和をこよなく愛する王だったと言う。

しかし、彼の治世においてノッドラートとの外交問題に軋轢が生じ、王国歴883年、かの国との戦争が勃発した。

その際、最愛の妻でもあるノッドラート出身の王妃が何者かに殺される事件が起きたことをきっかけに、王は人が変わったかのようになったと言う。

ノッドラートとの戦争は次第に激化し、泥沼化し、双方犠牲が増える一方だった。

そんな中、硬直した戦局を打破するため、オルフィオ王は一人アインハート城に赴き、武龍に援軍を要請した。

かの龍はそんな王に対し、武龍の試練を与えたが、王は見事それを制覇。

王の偉大さに感服した武龍は、王に龍鱗の武具を与え、王との盟約に従い一度だけノッドラートとの戦場に姿を現したと言う。

龍をも味方につけた王国は硬直していた戦局をひっくり返し、それから多くの戦場で勝利の数を増やし続けた。

そして、王国歴893年、法王府の介入により、ノッドラートは遂に降伏を承諾。

後に十年戦争と呼ばれることになるノッドラートとの大戦はこうして終結した。


以後、オルフィオ王の命により王国は龍を守護神獣とし、王が亡くなった今でも、盟友たる武龍のもとには大戦の終戦記念日に勝利を祝って王宮からの贈り物が届けられると言う。



かように、トレンディア王家と武龍との関係は近年においても近しいものだと言われている。



のだが。







「ひ、ひ、姫様―っ!?どうしてここにーっ!?」


庭園中に私の叫びがこだまする中、姫様は小さい背丈を精一杯伸ばしこちらを睥睨するかのように見つめている。

口元はにんまりと弧を描いているが、目は全く笑っていない。


「わらわは悲しい。そなたには何かにつけて目をかけてきたが、まさかそのように悪し様に思われていたとはのう。飼い犬に手を噛まれるとはまさにこのことじゃ」


ふっ、と目を伏せて、悲しそうな声色で呟く。


「い、いえっ、その…、先ほどのは、あの、変な意味ではなくてですねっ。姫様は大変元気がよろしいというのを龍殿に分かってもらうためにですねっ」


私は目線をあちこちに彷徨わせながら訳の分からない弁明を始める。

それが演技だと分かっていても、すまじきものは宮仕え、ではないが、王女たる身の姫様にそのような仕草をされると、どうしたって、慌ててしまうのが騎士たる者の性である。


「わらわは…、わらわはそなたことを本当の姉のように思っておったのに、そなたにとってわらわは生意気な小娘でしかなかったのじゃな…」


言いながら、一歩こちらに近づく。

姫様の矮躯から言いしれぬ圧力を感じ、私はそのまま後ろに下がろうとしたが、背には岩があって、これ以上下がることはできない。

絶体絶命のピンチである。

助けて、フィー、ギィ!


「いえ、あの、わ、私も姫様のことは普段から敬愛しておりますが、敬愛が高じての忠言と申しますか、その」


ああ、背中に嫌な汗が流れているのを感じる。

まだ年若い姫様は、年齢の割に知慮に長けたところもあるが、その分無邪気なまでの残酷さも併せ持っており、気に入らない者には容赦しない。

姫様の気に障ったというだけで、見るも無惨な仕打ちを受けた者たちを私は護衛者として間近に見てきたのだけれど。

その記憶が今、走馬燈のようにフラッシュバックする。


い、イヤだ。下着だけで城内一周マラソンなんか私はしたくない――!

そんなことになったら、お嫁にいけなくなってしまう!


「そもそも、そなたに無理難題を言うのも、それだけそなたを信用し信頼して甘えていたことの裏返しじゃったのに。それなのに、うぅっ」


口元に手を当て、わざとらしく目頭を押さえる。

しかし私は見た。

その一瞬、姫様の目が獲物を狩る獣のようキュピーンと光ったのを!


「ああ、その、ど、どうすれば…」


だ、誰か助けて――。

私が絶望感から神にでも祈ろうかと思ったとき。



“ルージュ姫。君の気持ちも分かるが、そこら辺にしておきなさい。あまり部下を困らせるものではないよ”



私の頭上から深いバリトンの声が響いた。

その声を聞き、姫様は泣き真似を止め、最初の尊大なポーズに戻って口を膨らませる。


「むうっ。わらわの気はまだ晴れてはおらぬが、おじ様がそう言うのであれば、いぢめるのはこの辺で勘弁してやるかのう」


た、助かった――。

私は胸を撫で下ろし、嘆息する。

しかし。


おじ様?


「あ、あのー。姫様とアインハート殿はどういったご関係なのでしょうか?と言うかそもそもどうして姫様がここにおられるのかも教えてもらえると有り難いのですけど…」


これ以上姫様のご機嫌を損ねないように、平身低頭して尋ねる。


「ふむ。わらわと武龍殿はな、家族の契りを交わした仲じゃっ!」


姫様は長年の秘密をばらすかのように得意げに胸を張って答えた。

んふー、と鼻息が荒い。

しかし、家族の契りって何だ?


私が頭上に疑問符を多く浮かべていると、アインハート殿が見かねてフォローを入れてくれた。


“その説明ではロゼッタ嬢が困っているではないか。言葉が多すぎるのも困りものだが、言葉が足りないのもまた同じことだと教わらなかったかね、姫?”


「む、そうかの?」


姫様は不思議そうにキョトンとアインハート殿に聞き返す。

そんな姫様とは対照的に、思慮深い瞳をこちらに向けて、龍殿はそのまま説明を始めた。


“まぁ、家族の契り、と言ってもごっこ遊びみたいなものでね。ここにいる間は、私が彼女の保護者代わりを務めているのだよ”


「はぁ…」


“そもそも、私はトレンディアの王家に大きな借りがあってね。いや、正確にはトレンディアという国そのものに、かな。ともかく、王族たちからの頼み事にはなかなか断りづらいのだよ”


一瞬だけ目を伏せて、そう話すアインハート殿の口ぶりにはわずかな後悔が含まれていたように感じた。

昔、トレンディア王家との間に何かあったのだろうか?

王家と武龍との接点と言えば、40年以上経った今でも語り継がれる武龍王の英雄譚が頭を過ぎる。


“ルージュ姫は、ある事情があってね、初めて彼女がここに来たのは半年くらい前だったかな。突然やって来ては、小さな可愛らしいお姫様が私の姿を見ても怯えることなく遠慮なしに、ここで匿ってくれと頼んできたので、こちらも驚いたものだ”


そう言って、愉快そうに笑う。


「あの時は、話に聞く武龍に会えるというので、わらわも楽しみにしておったのじゃ」


アインハート殿の話を受けて、姫様は少し恥ずかしそうにはにかんで同じく笑った。


“それからかな、彼女がここにちょくちょく遊びに来るようになったのは。今回も同じく、3日くらい前に突然遊びに来てね。そのままここに滞在していたという訳だ”


「ええっ!?」


さっきから全く初耳な話ばかりである。

半年前というと、丁度私がルージュ姫の専属に付いた頃だけど、姫様が武龍のもとに遊びに行っていたなんて全く知らなかった。


“まぁ、しかし、ルージュ姫がここにいることを君に知らせなかったのは少し悪戯が過ぎたかもしれないな。すまなかった”


少し頭を下げて、アインハート殿は謝罪したが、先ほど私が驚くのを見て爆笑していた様子を思い返せば、きっと楽しんでいたに違いない。


“それに、一応、姫がここに来ていることはトップシークレットなのでね。君が王国の騎士だと言っても、そう簡単に知らせることもできなかったのだよ”


私の非難げな目線を受けたからか、弁明するようにそう付け加えた。

しかし、まぁ。何というか。

私は姫様の方を向き直り、尋ねた。


「まぁ、大体事情は分かりましたが、このことを隊長は知っているんですか?」


あの厳格で規律に煩いディエナ隊長が、こんな危険な旅行を許すとも思えないけど。

しかし、私のそんな予想は。


「うん?ディエナなら知っておるぞ。と言うかわらわにここに行くように勧めたのもディエナ自身じゃし」


「えーっ!?隊長が?」


姫様の言葉によって簡単に崩れ去った。

一体全体どういうことなんだろう?


「王宮内で、わらわがここに来ていることを知っているのは、エル姉様とディエナに、あとはディエナの子飼いの騎士数名だけじゃな」


姫様は指を折りながら答える。

が、ちょっと待て。

今、姫様の発言の中に聞き捨てならない箇所があったような。


「あのー、エルターザ姫も、ひょっとして関与しているのでしょうか?」


トレンディア王国第二王女、エルターザ姫。

おてんばなルージュ姫と違い、清楚で慎み深く、母性溢れる美しい女性なので、市井の人気も高い。

ディエナ隊長のチームが専属で護衛をしている王女でもあるのだけれど――。


「うむ。元々の発案者は、エル姉様とディエナじゃ。そもそも、おじ様と知り合いだったのも、わらわではなくその二人じゃったからな」


何が嬉しいのか、楽しそうに語る姫様。

しかし、エルターザ姫とディエナ隊長がアインハート殿と知り合い?

何が何やら訳が分からなくなってきた私は、世に賢者と名高い龍に救いを求めて目線を向けて説明を促した。

アインハート殿は、私の目線に気付き、穏やかな声で話し始める。


“なに、簡単な話だ。エルターザ姫が初めてここにやって来たのはもう5年以上も前になるが、彼女は王家に伝わる伝説の武龍に一目会ってみたかったのだそうだ。当時は彼女もルージュ姫に負けず劣らずおてんばだったのだよ”


「エルターザ姫が、ですか?」


ロイヤルガードの一員として、姫に会ったことのある私には、にわかには想像できない話だけれど。

いつもニコニコと笑みを絶やさず、優しく穏やか女性で、エルターザ姫が声を荒げているところを私は見たことがなかった。


“うむ。その時、彼女の護衛として付いていたのがディエナだった、というただそれだけの話だよ。もっとも、彼女も彼女で、昔一時期アル坊に師事していたことがあったらしく、あいつの真似をして私に何度も挑んできたのには参ったがね”


「そんなことが…」


ディエナ隊長の過去にそんなことがあったなんて…。

だからだろうか?

上ばかり見て焦る私に、隊長らしくもなく武龍の試練の話などしたのは。

私は、隊長が昔、曾御祖父様に師事していたことさえ、知らなかった。


“さすがに最近はここに来ることも滅多になくなったがね。彼女も忙しいのだろう。もっとも、その代わりに、彼女の妹が来るようになるとはさすがの私も思っていなかったが”


愉快そうに笑う。


「はぁ…」


「騎士団の中にはエル姉様のことを女神のように崇拝している者もいるようじゃが、姉様は姉様で一癖も二癖もある女じゃぞ?なんてったって、わらわの姉じゃからな!」


満面の笑みで言う姫様だったが、と言うか、それを自分で言いますか。

私は気付かれないように嘆息した後、チラリとアインハート殿に目線を向けると、彼もこちらを見た後、茶目っ気たっぷりにウィンクをした。

本当に、人間っぽい仕草が様になっている龍だなぁ。


「ん?どうかしたのか?」


私たちの無言のやり取りに気付かなかった姫様は一人、不思議そうにしている。

しかし、まぁ、そもそも。


「そう言えば、姫様はどうして武龍に会おうと思ったのですか?」


エルターザ姫と同じく、好奇心から会いにでも来たのだろうか?

私の疑問に対し、しかし姫は今まで見せていた楽しそうな笑みを消し、初めて本当に憂う様子で目を伏せた。


「それは…じゃな」


姫様はそのままチラリと問いかけるようにアインハート殿を見る。

何だろう?

何か聞いてはいけないことでも聞いたのだろうか。


そう言えば。

先ほど、アインハート殿は、匿ってくれと頼まれた、と言っていた。

どういう事だ?


“姫。彼女にならば話しても良いのではないかね?まだ少ししか彼女と話してはいないが、その人となりは信頼できるものだろう”


おずおずと何かを躊躇っている様子の姫様に対し、アインハート殿は諭すように優しく話しかける。


「…うむ。それはわらわも分かってはいるのじゃが…」


そう言って、こちらを覗き見た後、目を合わせるのを怖がるかのようにすぐに逸らした。

こんな殊勝な様子の姫様は珍しいけれど、私には話すことができない事情なのだろうか?


そんな私たちの様子を見て、アインハート殿はあの黄金色の瞳を細めて、少し笑う。


“…そうか。姫は、彼女を巻き込むことになるのが嫌なのだろう?なかなかどうして、部下思いなところもあるものだな”


「そ、それは…っ」


龍の言葉に、何か反論しようとするが、そのまま続きの言葉はかき消えたかのように、姫様の口からは出てくることはなかった。


「どういう事なのでしょうか、姫様?私に話せない事情なのであれば、別に無理にお聞きするつもりはなかったのですけれど」


見かねて私が話しかけると、びくっと身体を反応させた後、何かを諦めたかのように嘆息した。

そして、さっきまでの弱々しい様子とうって変わって、強い意志を感じさせる瞳で私と目線を合わせた。


「…ふう。まぁ、そなたにも知っておいてもらった方が良いか。そなたは、わらわの護衛者でもある訳じゃしな」


「ええ。何か事情があるのであれば、私も知っていた方が護衛がしやすいのは確かです」


私が頷いてみせると、姫様も同じく頷き、決意した様子で話し出した。



「半年前にわらわがここに来ることになったのも、何者かに命を狙われておるからなのじゃ」



「へえっ!?」


護衛者として、聞き捨てならない話を聞いた気がする。


彼女の瞳を見返すと、決して冗談を言っている風ではなかった。


「それは…、どういう事でしょうか?まさか、帝国の連中が?」


40年前のノッドラートとの大戦以来、王国は今までの外交政策とうって変わって、侵略主義に転換し、その後多くの国との戦争を繰り返した。

そして、そのほとんどに勝利してきたと言ってもいい。

そんな中、現在王国との戦争の火種が最も燻っているのが、ゴドランド帝国である。


元々、その強大な軍事力から大陸の北部のほとんどを支配していた帝国にとって、ここ何十年かで中原周辺諸国を急速に併合し始めた王国の存在は、目障りなものだったに違いなく、過去何度も両国の間で小競り合いが発生していた。

しかし、それが大きな戦争へと発展しなかったのは、両国とも、戦争になった場合、大陸史上過去に類を見ない大戦になってしまうことが容易に予想できたためだろう。

そのため、両国においても、開戦派と和睦派との間で分裂し、長い間多くの議論がなされてきた。

そして、姫様は、王国内における和睦派の御輿として中心的地位にいる人物であり、帝国内の開戦派においても邪魔な存在であることは確かだった。

しかし。


「いや、そうではないのじゃ。もし帝国の連中に命を狙われているのであれば、わざわざ暗殺の機会を増やすような遠出をしたりはせぬ」


私の疑問を、正論をもって否定する。

それは、確かにその通りだけど、じゃあ、一体?



「わらわの命を狙っているのは…、それは………、王国内の連中じゃ」



姫様は少し言い淀んだ後、しかしはっきりとそう告げた。


「そんな馬鹿なっ。なぜ姫様が同じ国の民に命をっ!?」


「王国とて一枚岩ではない。王宮の中に、どうしても帝国との間で戦争を起こしたい者がいる、ということじゃ」


「っ!」


そ、それは――。

私は、それを知っている。

だって、それは――。


「わらわを殺すことによって和睦派を黙らせるのか。あるいは、もっと直裁的に、帝国に罪をなすりつけて、開戦の火種とするのか。それは分からぬが、理由はどうであれ、戦争というものは一度始まってしまえば後は業火の如く国を焼き尽くすだけじゃ。止めることは、非常に難しい」


「そ、そんな…」


確かに、もし王国内に帝国との間での戦争を望む者がいるのであれば、何だっていい、開戦の口実さえ作れば後はそれを正当化するべく戦争の火を燃やせばいいだけだ。

だけど、それは――。


「じゃからな。後宮に籠もっているのはわらわにとってむしろ安全ではなかったのじゃ。わらわに必要だったのは、王宮よりも安全で、それでいて王宮の息がかかっていない場所じゃった」


「だから、ですか?」


「うむ。姉様に相談したところ、ここならば世界で一番安全な場所だろう、と教えてもらったのじゃ」


憂いの影を誤魔化すかのように、少し微笑んでみせる。

だけど、どこか歪で、痛々しい笑顔だった。

姫様は、まだ12歳なのに。


「王族専用の湯治場へ出かけるという名目で、何度かここに匿ってもらい、その間にディエナに内部調査を頼んでいたのじゃ。誰がわらわの命を狙っているのか」


姫様の命を狙っている者。

戦争を心から望んでいる者。

それは。

私は下唇を咬み、拳を握りしめ、俯く。

そんな私の様子を勘違いしたのか、姫様は申し訳なさそうに話しかけてきた。


「誰が信用できるのかまだ分からなかったからのう。護衛者であるそなたにも話せなかったのじゃが、許してくれ。やはりそなたには話しておくべきじゃった」


違う。違うんです。


「姫様が…、姫様が謝る必要はありません。むしろ、謝らなければいけないのは、私の方です」


「なんじゃと?」


俯いたままの私を不審に思ったのか、不思議そうに声をかける。

私は顔を上げ、己の罪を告白するかの如く、姫様に告げた。



「姫様の命を狙っている者。帝国との開戦を望んでいる者。それは……、それはきっと、私の父でしょう」



父は今や王国内における大貴族たるコーンフィールド家の現当主であり、王宮における外務卿の地位に就いている。

自らの利益と地位のためであれば、どんな汚いことだってやるだろう。

セラスト・コーンフィールド。

私の父。

母を殺した人。


「戦争を裏から操り、戦争によって力と地位を得てきたあの人なら、あの人なら姫様を殺してでも開戦の口実を作るくらい、やってのけるでしょう」


「そ、それは違う。違うぞロゼッタっ」


私の言葉を聞き、何故か慌てた様子で否定してくる。

そうか。

姫様は、先ほどアインハート殿に話した私の生い立ちを影で聞いていたのか。

しかし私は、あの家で母上と過ごしていた間、あの人がいかに人の死によって利益を受けてきたかを見てきた。

自ら戦争の火種を作り、それを外交的に解決することによって、自身の手柄とする。

王国がここ数十年で勝利してきた数多くの戦場で、父がその発端を作ったものがいくつあるだろう。

父の策謀によって死へと追いやられた人たちがどれくらいいるだろうか?

戦争によって母は生まれ故郷を追われ、その人生さえも奪い取られたけど、父は母と同じ運命の人をさらに多く作り出そうとしている。

私は、それをあの家でずっと見てきた。


「いいのです、姫様。あの人の罪は、私の罪でもあるのでしょう。私は…、私は姫様の護衛者として―――失格です」


「~~~っ!」


そう言って項垂れる私に対し、姫様は顔を真っ赤にして近づいてきた。

そして――。



「こんの大馬鹿もんがーっ!!」



「あいたっ!?」


小さい背丈を精一杯背伸びして、そのまま私の頭にチョップをしてきた。


“はっはっはっはっ”


後ろからは、アインハート殿の笑い声が聞こえてくる。


「な、何をするんですか、姫様っ」


頭をさすりながら抗議する。

と言うか、本当に痛かった。とても12歳の女の子が繰り出したチョップとは思えないくらいに。


「そなたが自責の念から塞ぎ込むのは勝手じゃがなっ。未熟なりにも、そなたはわらわの護衛者なのじゃろうっ?そんな様子で、今後わらわを守りきることができるのか!」


いつもの尊大なポーズをし、広く可愛らしいおでこを月の光で輝かせながら、姫様は私を叱りつけた。


「姫様…」


「そなたを護衛者に選んだのはわらわ自身じゃ。わらわの目が節穴ではなかったことを、そなたには証明してもらわないと困るぞっ!」


「いえ、その…、すみません」


あの家のことになると感情の抑制がきかなくなるのが私の悪い癖だが、姫様の罵声を聞いていると不思議と心にかかっていた暗雲は晴れたかのように感じる。


“ロゼッタ。君が何か一つでも姫に対して悪いと思うことがあるのならば、逃げずに立ち向かいなさい。それこそが、責任を取る、ということだろう?”


頭上からアインハート殿の声が聞こえてくる。

言葉とは裏腹に、その声色はとても優しいものだった。


「その通りじゃっ。そなたにはこれからわらわの命を狙う不届き者から守ってもらわねばならぬ。そんな体たらくでどうするのじゃっ」


姫様の瞳はまるで燃えるように輝いている。

その瞳の炎が私にまで燃え移ったかのように身体が熱い。

そうだ。

考えるより先に足を前に出せ。

進まなければ。一歩でも多く。私は前に進まなければ。

そうでなければ。

望む場所にはいつまで経っても行きつくことはできない!


「そなたは、わらわを守ってくれるのじゃろう?」


「……はい。はいっ、姫様。この命に代えましても、あなたをお守りします」


私は膝を折り、その場に跪いて臣下の礼を示す。


「うむっ。そなたには期待しておるぞ!」


そう言って、満面の笑顔で笑う。


普段は生意気な小さな女の子だけれど、こうして笑うととても魅力的な笑顔だった。


だけど。一瞬、姫様の瞳に翳りが映る。


「…それに、そなたが今回のことで悪く思うことは、本当にないのじゃ」


そう呟いて、満面の笑みを少し歪めた姫様の表情は、まるで泣いているようにも見えた。

笑いながら。


「…姫様?」


「何でもない、気にするな」


私の呟きに対し、姫様がそれ以上答えを返してくれることはなかった。


一瞬垣間見えた翳りは、もう姫様の瞳には映っていない。


いつもの、自信満々で、尊大で、偉そうな笑顔に戻っている。

だけど、私にはそれが――。



見つめ合う私たちを、夜空の月と、年経た白い龍だけがただ静かに見つめていた。





※※※※





「………おい、ロゼ。ボクの目がイカれたんじゃなければ、目の前に姫様の姿が見えるんだけど、どういうこと?」


翌朝。果樹園の中心にあるスペースに大きなテーブルを置いて、私たちは朝日が降り注ぐ中果物の香りに囲まれながら朝食を取っていた。


「いや、お前の目がイカれた訳ではないと思うぞ」


姫様の姿を見て、信じたくないといった声色で呟いたギィに対し、私は答える。


「ふふん。わらわがわらわに見えなければ、何に見えると言うのじゃ、この愚か者め」


ちょこんと椅子に座り、テーブルの上に用意されていた焼きたてのパンにバターを塗りながら、やはり偉そうに答える姫様。


「ちっこい生意気そうなガキ」


そんな姫様に対しギィは敬意など全く払っていない様子で呟く。


「そなたにだけは言われたくないわっ。12歳のわらわとそう大して変わらない背丈の癖に」


「なんだとーっ。ボクは成長期がまだまだこれからなんだっ。これからグングン背だって伸びるんだからなっ」


「ふっ。そなたはもう20歳じゃろう?わらわは12歳。果たしてどちらの方に可能性があるかのう?」


「んだとこのおでこツルピカリンがーっ!」


「なんじゃとっ!?わらわの高貴なおでこを馬鹿にする気かっ!」


などと、ギャイギャイ朝っぱらから元気に喚き回る二人。

と言うか、曲がりなりにも王族相手にその口調はどうなんだ、ギィ。

それに、12歳児と同レベルで張り合うのもどうなんだ。


「あの…、ギィ。マズいよ、姫様相手にそんな事言っちゃ…」


真面目なフィーはそんな二人を止めようと必死に話しかけているが、しかしこの二人は大体いつもこんな感じなのであった。










「ふーん。王宮の中から命を狙われている、ねぇ。お姫様ってのも、案外大変なんだなー」


パンをモグモグと咀嚼しながら、まるで他人事のようにギィは呟いた。



あの後、騒ぎを聞きつけてアインハート殿が現れたことによって諍いが止んだので(もっとも、龍の姿を見たフィーがまた失神しかけたりもしたけれど)、興奮する二人を宥めてみんなで朝食を取りながら、姫様がどうしてここにいたのかを二人に説明した。

のはいいけれど。


「おい、ギィ。まるで自分は関係ないみたいな口調で言っているけど、姫様を護衛するのは私たちなんだからな。ちゃんと分かっているのか?」


「ふーん。ボクは別にそこのお姫様がどうなろうと知ったことじゃないしー」


私の注意に対しても、まるで聞く耳を持とうとはしない。


「ダメだよ、ギィ。そんなこと言っちゃ…」


同じくギィを諫めるフィーだったけど、その声はいつもにも増して小さくか細いものだった。

それもその筈、彼女が座っている椅子のすぐ隣に、畏まった様子でルビーさんが微動だにせず目を伏せたまま立っていた。


きっと、彼女から無言の圧力を感じて萎縮しているのだろう。


昨日のルビーさんは、ホント怖かったしなぁ…。


「別にわらわもそなたに守ってもらおうとは思っておらぬわ。好きにするが良い」


姫様も、意固地になっているのか、ツーンとギィから目線を外したまま、そう答える。


「ほら、本人もそう言ってるじゃんか。ほっときゃいいんだよ、もー」


「ギィ!いい加減にしないと、ルー先生に言いつけるぞ」


「げっ!そ、それは卑怯だぞ、ロゼ!先生は関係ないじゃないかっ」


恩師の名前を出されると弱いのか、慌てた様子でテーブルに乗り出す。


「いーや。お前の行状が目に余るようならちゃんと報告するようにルー先生から言いつかっているんだ」


「くっ、あのババア。一体いつの間に…」


悔しそうに拳を握って、震えながら下を向く。

そして、そのまま。


「もうっ、分かったよ!好きにすればいいじゃんか、好きにすればっ」


諦めたように両手を上げて叫んだ後、果物を搾って作られた新鮮なジュースをゴクゴクと飲み出した。


“は、は、は。見てて飽きないお嬢さんたちだな、君たちは”


そんな私たちの様子を見て、ルビーさんのすぐ後ろで寝転がっていたアインハート殿は、楽しそうに笑う。


「ふんっ。笑い事じゃないよ、全く」


ジュースを一気に飲み終えた後、面倒くさそうに嘆息するギィ。


「しかし、姫様。これからどうするおつもりなのでしょうか?」


「うん?何がじゃ?」


小さな口を大きく開けて、ハムハムとベーコンを口に入れていた姫様は、私の声を受けてこちらを向いた。


「姫様のお命を狙う者が王宮にいるとなると、これからどこにいたとしても完全に安全な場所はない、ということになります」


「いえ、ロゼッタ様。こちらにおられれば絶対に安全です」


私の言葉に、今までずっと黙っていたルビーさんが静かに口を挟む。


「あー、その、ここは別だとしても、です。それに、いつまでもここにいる訳にはいかないでしょう?」


「まぁ、それは、そうじゃな。ここに来たのも、湯治のために来ているというのが名目じゃからなぁ。あと3日もしない内にわらわも王宮へ向けて出発せねばならぬ」


腕組みをして、困った、といった様子で呟く。

ここノーザリン山脈の麓には、トレンディアの王宮が管理している王族専用の湯治場があるらしく、姫様は温泉好きも相まって、ここに来る時はいつもそれを理由としているらしい。


「でしょう?しかし、それでは結局のところ根本的な解決にはなりません」


龍のお膝元で一時の安全を得られたとしても、結局また魑魅魍魎渦巻く王宮へと姫様は戻らなければならない。

あの場所では、信用できるのはエルターザ姫に、ディエナ隊長くらいだと言う。

それでは、私たちも何を敵として誰から姫様を守ればいいのか、分からない。


「ふむ。そなたの言うことはまことその通りじゃな」


私の言葉を受けて思案げに俯くが、しかし私は見た。

その一瞬、姫様の瞳が悪戯を思いついた時のように輝いたのを。


「あのー、姫様は、何かお考えでもあるのですか?」


フィーが、そんな姫様に対しておずおずと聞く。

手元を見ると、食事が口を通らないのか、ほとんど料理が手つかずのままだ。

もっとも、普段から彼女は食が細い方だったけど。

それでいて、どうしてあんなにでっかく育ったのかは永遠の謎だ。


「ふふん。まぁ、あるにはあるな」


何かとびっきりの悪戯でも思いついたのかのように、顔を上げた姫様の顔は満面の笑みだ。

そして、んふー、と鼻息が荒い。


「どうせ、ロクなアイディアじゃないよ」


隣でギィが憎まれ口を叩いていたが、今回ばかりは私も同意見だった。

姫様があの笑顔をする時は、決まってとんでもないことを言い出すのである。


“面白そうだな。それは一体、どういうアイディアなのだね?”


アインハート殿は、他人事だと思っているのか、気軽に姫様に尋ねているが、その声色には隠しきれない稚気が混じっていた。



「それはじゃな。こちらから逆に奴らを誘き寄せるのじゃ!」



両手を腰に当て、胸を張って答える。


「それは…、どういう事でしょうか?」


「うむ。再来月には年が明けるが、今年の新年は帝国の石の都にて開かれる祝賀パーティにわらわも国賓として呼ばれておるのじゃ」


現在王国と帝国は冷戦状態に陥っていると言っても過言ではなかったが、だからこそ、表面的には両国は友好な外交状態を装っており、こうして何かの節目にはそれぞれの王族たちをパーティに呼んだりもしていた。

のだけれど。


「まさか、とは思いますが…、姫様?」


「そこにわらわがのこのこと出かけていけば、開戦派の奴らにとってはまたとないチャンスじゃろうな。きっと何か仕掛けてくることじゃろう!」


何故か嬉しそうにそう宣言する姫様。

しかし。


「私は反対です!いくら何でも危険過ぎます。帝国の地で姫様の身に何かが起きれば、それだけで開戦の口実を作ってしまいます。国賓を守りきれなかった、という理由で」


「そうじゃろうな。例えば、かの地でゴドランド人を装った野盗にでもわらわを襲わせれば、帝国が王国の王女を襲った、と簡単に戦争の火種が作れる」


私の言葉を聞いてもなお、動揺した様子も見せずに答える。


「分かっているのでしたら、尚更です。護衛者として、敢えて危険な場所に向かうことは容認できません」


私は強く姫様を見つめ返すが、彼女の瞳は一切揺らがない。

そしてその表情は、とてもまだ12歳の女の子がする表情だとは思えなかった。

まるで、自分の運命を全て受け入れているような、そんな表情だ。


「ロゼの言う通りですよ、姫様。私も反対です。帝国に国賓として招待されているのだって、断ることはできるんですよね?」


フィーも私に同調しながら、姫様を説得するよう話しかける。


「断ることは出来るじゃろう。帝国にとっても、所詮建前だけの招待じゃからな」


「でしたらっ」


「しかし、しかしじゃ。ロゼッタにフィーメラルダ。わらわは若輩者なれど、それでも王族の一員なのじゃよ。この国を統治する一族の末裔なのじゃ。貴族には貴族の責務と義務があるように、王族にも王族としての義務と責任があり、それから逃れることは許されぬ」


そう話す姫様の瞳に、一瞬何かの感情が過ぎる。

それが何だったのか。

私には、分からない。貴族ですらない、私には。


「確かに逃げることは可能じゃろう。しかし、逃げて何とするのじゃ?逃げても、わらわはずっとわらわの死を望む者から逃げ続けることになるだけじゃ。それこそ、何か他の別の理由によって帝国との戦争が始まりでもしない限り」


「それは…」


「しかし、わらわは戦争が嫌いじゃ。大っ嫌いじゃ。お父様は国のため、という名目で各地に軍隊を送り多くの戦果を上げてきておる。じゃが、わらわには多くの血と悲しみの上に成り立つ平和というものを信じ切ることはできぬ」


血と悲しみの上に成り立つ平和。

それは、私の父が築こうとしているもの。

圧倒的な暴力で他者を完膚無きまでに隷属させれば、支配者に立ち向かおうとする者は存在しなくなり、争いは起きることなく、最終的には平和な状態となる。

あの家の中で、誰も父に逆らえなかったように。

だけど、そんな平和なんて――。


「一方で、わらわがそんな平和の恩恵を受けることで、日々生活できていることもまた、確かなのじゃ。そうじゃと言うのに、わらわだけが、血と暴力の連鎖から逃げることは許されぬじゃろう?」


そう告げた姫様の顔は、何故か晴れ晴れとしたものだった。

いつもの悪戯っ子のような年相応の顔ではなく、年齢よりも遙かに大人びた顔に見えた。


「姫様…」


「それに、何もわらわは死にに行く訳でもないぞ。わらわには、優秀な護衛者殿が付いておるからのう」


そう言って、私たちに向けて微笑む。


「たまには良いこと言うじゃんか、お姫様。その通りだよ。さっきから二人してお通夜みたいな顔をしてるけどさ。ロゼ、フィー。ボクたちが付いているんだ!百万の軍隊が来たってへっちゃらさ!」


「ギィ…。百万の軍隊はさすがに無理だと思うぞ」


でも、そうだな。

私たちより遙かに年下の姫様がこうして覚悟しているのに、私たちが彼女を守りきる覚悟をしなくてどうするんだ。


「…ふぅ。分かりました、姫様。私は護衛者ですからね。姫様が行くと言うのであれば、例えそこが地獄であろうと、付いていきますとも」


私は嘆息しつつ、それでも口元を緩ませながら宣言した。

そんな私に対し。


「ロゼ…。そうだよね。私たちは護衛することが仕事だもんね」


フィーも頷きながら同調してくれる。


「うむっ。期待しておるぞ!」


そんな私たちに、姫様はやはり尊大に頷いたのだった。



“ふ、ふ、ふ”



と、後ろからアインハート殿の笑い声が聞こえてくる。


「お父様?」


突然笑い出した龍に対し、ルビーさんが不思議そうに顔を向ける。


“いや、なに。こんなに愉快な気分になったのも久しぶりだったからな”


失敬、と笑い声を止め、目を瞑りながら喋り始める。


“しかし、まぁ、私も王族とは浅からぬ縁があるからな。姫が戦場に向かうというのに、私一人だけ傍観している、という訳にもいくまい”


「はぁ…」


“ルビー。お前がその祝賀パーティとやらに付いていってあげなさい。お前が付いていれば、何が相手であろうと、滅多なことは起きないだろう”


「「「「えっ?」」」」


突然の提案に、姫様も含めた私たち四人は驚きながら龍と彼に寄り添うように立っている執事服の女性を見た。


「お父様、しかし…」


ルビーさんは、少し不服そうにしている。


“私のことを心配しているのは分かるが、それこそ無用の心配というものだよ。そちらのお嬢さんではないが、例え百万の軍勢が攻めてきたとしても、私を殺すことなどできぬ”


そう言うアインハート殿の瞳はとても穏やかで、冗談を言っているような様子ではなかった。

だからこそ、確信する。彼を倒すのに、本当に百万の軍勢なんかじゃ足りない、ということを。


「お父様」


“それに、お前ももう少し親離れをした方が良い。いつまでも私にべったり、ではな”


「………分かりました。お父様の仰せのままに」


長い沈黙の後、ルビーさんはそう呟いて静かに頭を下げた。

そして、こちらを振り向く。


「ルージュ様。その祝賀パーティはいつどこで開かれるのでしょうか?」


「う、うむ。新年明けてすぐに、帝国側のノーザリン山脈の麓にある古都、石の都の宮殿にて開かれる予定じゃ」


ルビーさんの疑問に対し、姫様は少し慌てたように答える。


「そうですか。では、年の暮れには、私も山を下りて王都へと向かいますので、ディエナにもそうお伝えしておいてください」


「うむ。そう伝えておこう」


姫様は鷹揚に頷く。そんな二人を見ながら、アインハート殿は思案げに呟いた。


“まぁ、ルビーがいればそれで十分だとは思うが、念のため保険もかけておくかね”


「保険、ですか?」


ルビーさんが聞き返す。


“ああ。本当は私が行ければ良かったのだがね。この身体だ。そうもいくまい”


そのまま大きな顔を少し上げ、翼を一度はためかせながら笑う。


「確かに、お父様が人里に降りれば、それだけで騒ぎになりましょう」


そう言って、ルビーさんは初めて美しい笑顔を見せた。



こうして見る限り、ルビーさんは顔に鱗が生えているということを除いては、すごい美人の長身の女性にしか見えないが、そもそも彼女は何者なのだろう?

アインハート殿とルビーさんの会話を聞く限り、二人は親子、ということらしいが、そんなことがあるのだろうか?


“さて。何はともあれ、まずは腹ごしらえをしなくてはな。お嬢さんたちが喜びそうな、とっておきのフルーツデザートが実はあるのだが、朝食の後にでも食べるかね?”


そんな私の疑問を知ってか知らずか、アインハート殿は茶目っ気たっぷりにそう言った後、私たちに向けてウィンクをした。




もちろん、私たちがその提案を断ることはなかった。






[10769] 三章・03
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2010/01/27 01:15


王国歴932年





その都は、単に“石の都”とだけ呼ばれた。


大陸北部と大陸中原を分断する形で東西に長く連なるノーザリン山脈の、ゴドランド帝国側でもある北の麓に、その都はある。

大陸中の都市の中で最も古い歴史を持ち、それにも関わらず歴史上決まった固有名詞で呼ばれることはなかった。

それは、過去あらゆる時代においてもこの都市が政治的に中立だったことに由来している。

ゴドランド帝国の支配下に置かれている現在においてでもそうであり、この地における武力闘争は国際的な慣行として禁止されてきた。

ノーザリン山脈から切り取った石灰岩を加工して造られた石畳が都全土を覆い、ありとあらゆる建築物が石によって造られたその都市の中央部には、大理石のみで造られた見事な宮殿が建立している。

“石英宮殿”と呼ばれるその宮殿では、折に触れ様々な会談が開かれており、世界で最も美しい宮殿だとも噂されるほど、見事な宮殿なのだと言う。





そんな宮殿内部の、ダンスホールである大広間に、現在私はいた。


「ふぁー、すごいよねー」


隣で、フィーが感嘆の声を上げている。

声の方を向くと、フィーが口を開けたまま、物珍しそうにホール中を眺めていた。

出来ることなら私もそうしたかったが、しかし私達は任務中なのであった。


「おい、フィー。だらしないぞ。他の国の連中に見くびられないようにピシっとしないか」


私の注意に対し、フィーは恨めしそうにこちらを見る。


「そんなこと言ったってぇ。キラキラ光ってすごい綺麗なんだもん」


フィーの言う通り、その大広間は世界一美しいと言われる宮殿にふさわしく、訪問客の目を飽きさせない絢爛豪華な造りとなっていた。


様々な宝石が散りばめられた煌びやかなシャンデリア。

滑らかに光り輝く大理石の床。

異国の風情溢れる見事な絨毯に、上品な意匠で整えられた数々の調度品。

そんなホール内では、色とりどりのドレスを着た貴婦人に豊かな髭を蓄えた紳士達が穏やかに談笑している。

世界各国から招待された要人達だろう。


その中の一人に、我らが姫君、ルージュ姫も混ざっていた。


「あーしてお偉いさん達とにこやかに話しているのを見ると、姫様はやっぱり王女様なんだなー、って思うよね」


隣で呟くフィーの声が聞こえる。

確かに、大人達に囲まれても物怖じせずに談笑している姫様を見ていると、普段悪戯ばっかりしている姫様とは別人のように見える。

ホールの隅の壁際に立ち、所在なく突っ立っている私達とは、まるで住む世界が別のように感じる。

いや、王族たる彼女と私達とでは、実際に住む世界が違うのだけれど。

しかし、普段の彼女と接していると、そのことをつい忘れてしまうのだ。

生意気そうな笑顔を見せる姫様の顔が、一瞬頭に浮かぶ。

その笑顔は、今大人達と話している姫様の微笑とは全く重ならない。


「よくよく考えれば、姫様の公事に付いてきたのって、今回が初めてだしな」


私の呟きに、フィーが頷く。



新年を祝う祝賀パーティ。

それが現在、ここ石の都の石英宮殿にて開かれていた。

姫様は饗応役の帝国側から国賓として招かれており、私達はその護衛としてノーザリン山脈を越え、はるばるここ石の都にまで付いてきていた。


「ほら、見てよ、ロゼ。あそこにいるのって、モールデン公国の公女様じゃないかな。大鷲に剣が二本の紋章が髪飾りに縫い込んであるし。あっ、あっちにいるのって連合の宰相様かな?」


「フィー。はしゃぐ気持ちは分かるけど、遊びで来ているんじゃないんだからな。ちゃんと姫様を見ておけ」


「ご、ごめん。ロゼ」


しゅんとするフィーを尻目に見ながら、姫様の言葉が頭を過ぎる。



――わらわの命を狙っているのは、それは、王国内の連中じゃ。



姫様はそう言ったが、私は帝国の連中だって姫様の命を狙っている可能性を捨てきれないでいた。

王国内よりもむしろ、帝国内においてこそ戦争を望む者が多いと聞く。

まさか公の場で何かをしてくることもないだろうが、油断は出来ない。


窓の外を見ると、星一つ見えない暗黒のような夜空が見える。


あの二人は、うまくやっているんだろうか。


姫様に付いてホールで待機している護衛は、私とフィーに、あとは隊長の部下数名だけである。

他の者達は、宮殿外で待機しており、帝国の兵と合同して宮殿の警護にあたっていた。

その中に、ギィとルビーさんも含まれていた。



二ヶ月前のあの空中庭園で宣言した通り、ルビーさんは年の暮れになるとフラっとロイヤルガードの宿舎を訪れてきた。

その際、珍しく(本当に珍しいことに)隊長が声を弾ませて喜んでいたことが印象的だった。

ルビーさんのことをお姉様、とか呼んでいたし。

ルビーさんの方はクールに隊長のことをディエナと呼び捨てにしていたが。

あの二人、一体どういう関係なんだろう。

周りの隊士はそんな二人の様子を見て色んな意味でキャーキャー言って騒ぎにもなったし、あの日は大変な一日だった(長身で凛々しい容姿をしている二人が並ぶとそれはそれはとても絵になるのだった)。

もっとも、ルビーさんは顔の鱗については、どうやったのか隠していたが。

後で聞いたところによると、幻惑魔術を使って普通の肌に見えるように細工をしていたらしい。

本人は、性悪な泥棒猫に昔習った、と言っていたが、なかなか多才な人である。


ともかく、ルビーさんも含めて、ディエナ隊長率いるロイヤルガードで姫様の護衛にあたることになったのであった。


ギィは貴族様がたくさん集まるところなんて堅苦しくてやってられないよ、と自ら城外警備を言い出していたが、ホール内での護衛については世界一美しいと言われる宮殿に入れる、と言うことでロイヤルガードの中でも希望が多かった。

しかし、事情を知っている私とフィーを姫様が指名して、同じく事情を知っていた隊長の部下が護衛として選ばれることになった。


だから、なかなか責任重大なのである。

姫様の期待に応えるためにも、気を引き締めねば!


などと、私が決意を新たにしていると。


「ねえ、ロゼ。あそこにいるすっごい美人の女の人、誰かな?」


隣でフィーが肘でつつきながら小さな声で話しかけてきた。


「フィー。いいから任務に集中しなって」


「う、うん。でもほら、びっくりするくらい美人だよ?」


「むー?」


誘惑に負けて、フィーが目線を向けている先を見ると、そこには確かに一人の女性を中心とした人だかりが出来ていた。

その中心にいる女性は、プラチナブロンドの髪を結い上げ、眼鏡を掛けた怜悧で知的な印象を感じる女性だった。

一人、招待客の中でも女性でありながらドレスを着ずに、ダークグレーのスーツを着ており、それでいて、凛々しい、と言うよりも、美しさを際立てせていた。

確かに、フィーの言うとおり、すごい美人さんである。


「どこかの国のお姫様、といった感じじゃないな」


「でしょう?だから、すごく気になっちゃって」


と、二人してそのミステリアスな女性を眺めながら思案していると。



「何が気になるのじゃ?」



隣から姫様の声が聞こえてきた。


「ひ、姫様っ」


私とフィーは慌てて居ずまいを正して、声がした方を向く。

そこには、いつの間にか、腕組みをして仁王立ちした姫様が立っていた。


「そなたらはわらわの護衛じゃというのに、暇そうで何よりじゃな」


小さな右足でトントンと床を叩きながら、ジト目でこちらを見つめてくる。


「い、いえ、そのっ。申し訳ありません」


「ありません」


二人して姫様に頭を下げる。

その様子を見て、姫様はへの字にしていた口の端を上げて、悪戯っ子のようにニンマリと笑った。


「よいよい。別に怒ってなどおらぬ。こんな衆人環視の場所で滅多なことなど起こりはせんじゃろう。そなたらもパーティを楽しむが良い」


「そ、それはそうですが、我ら騎士の面目が…」


「そんなことより、何を見ておったのじゃ?」


私の弁明を軽く無視して、姫様は私の身体からひょいと顔を出してあの女性の方を向いた。


「おー。ソニアではないか。あやつが来るとは珍しいこともあったもんじゃ」


「あの人のこと、知っているのですか?」


フィーがおっとりとした口調で姫様に尋ねる。

よほどあの女性のことが気になっていたらしい。


「うむ。王家とは昵懇の仲じゃからな。と言うかそなたらも名前だけなら知っておるのではないか?」


そう言われても、姫様が仰った名前にはあまり聞き覚えがない。

私とフィーは、二人して顔を見合わせた。

フィーも同じく、心当たりはない、といった顔をしている。


「ふむ。名字まで聞けば分かるじゃろう。あやつはソニア。ソニア・ブラッドベル。ブラッドベル商会の現会長じゃ」


「「えーっ?」」


その名を聞いて、私とフィーは同じく驚きの声を上げる。


「ブラッドベル商会の会長って、女の人だったんですか?」


「し、しかもまだ若くて美人の…」



ブラッドベル商会。

それは、二百年以上もの歴史を持つ、王国内において最も規模が大きい商会の名前である。

そして、王国内だけでなく、大陸全土において最も広大な交易網を持つ商会だと言っても良い。

北は帝国から西は公国、南は連合国と中原諸国のみならず大陸各地にその交易の網を伸ばし、また、龍の鱗を初めとする通常の商会では取り扱うことは難しい稀少な商品までも扱っていることから、各国の王侯貴族との間にも取引があるのだと言う。

そんな大商会の会長が、あんな美人の女の人だったなんて…。


「前会長の孫じゃったらしいがな。五年ほど前に商会の幹部会において満場一致で後を引き継いだそうじゃ。それほど、優秀な女性だそうじゃぞ」


「へー」


姫様の言葉を聞いて、もう一度その女性の方を向く。

確かに、スーツ姿の彼女からは溢れんばかりの魅力と才気が感じられるような気がした。

だからこそ、誘蛾灯のように辺りの紳士達を集めて人だかりを作っているのだろう。


「それに、あやつは見た目ほど若くもないはずじゃ。わらわと同い年の娘がおるからのう」


「えっ?お子さんがいるのですか?」


「み、見えない…」


その言葉で、私は再び姫様の方を向き直り、フィーは呆然とした様子で女性の方を見つめていた。


「うむ。その娘がまた面白い奴でのう。わらわの友達なんじゃが…」


と、姫様が言いかけると、くだんの女性は私達の目線に気付いたのか、周りの紳士淑女に一言何かを言って頭を下げた後、こちらに向かって優雅に歩いてきた。

そして、姫様の目の前で立ち止まると、綺麗なお辞儀をして話しかけてきた。


「姫様。いらしていたのでしたら、真っ先にご挨拶にお伺いしましたのに」


「なに、気にすることはない。そなたも各国の狸達との商談で忙しいじゃろう?」


「まぁ。姫様ったら」


クスクスと笑うソニアさんは、遠くから見た時は気付かなかったが、綺麗なワインレッドの瞳をしていた。

その瞳を三日月のように細めて笑う様子は、女である私も見とれるほど艶やかなものだった。


「しかし事実じゃろう?それに、大陸各地を飛び回っているそなたがパーティに顔を出すとは、珍しいのう」


「ええ、まぁ。大切な取引先のお方から頼まれ事がありまして。それでしょうがなく、と言ったところです」


顎に手を当てて、片目を瞑って言う。

私とフィーは、姫様の後ろから畏まった様子で二人の会話を聞いていた。


「ふん?まぁ、いいじゃろう。それより、そなたの娘は来ておらぬのか?」


「あの子でしたら、連れてきていますよ。さっきまで、その辺をちょろちょろしていたのですけれど」


そう言って、ソニアさんは辺りをキョロキョロと見渡す。

と、ホールの窓際に一人の少女を見つけて目を止めた。


「ああ、あんなところにいましたわ」


そこには、ワインを優雅に飲みながら、窓の外の夕闇を眺めている一人の少女が佇んでいた。


「マリア、こちらにいらっしゃい」


ソニアさんが少し声を上げて呼びかけると、その少女はこちらを振り向き、蠱惑的な微笑を浮かべて頷いた。

そのままテクテクと歩いてくるその少女は、黒を基調としたゴッシクドレスを着込み、絹のように透けて輝く白い髪を左右で三つ編みにして、ソニアさんと同じく美しいワインレッドの瞳を持つ、とても美しい少女だった。


「何ですか、お母様?」


ソニアさんのもとに辿り着くと、首をちょこんと掲げて可愛らしく尋ねた。

そんな様子も、どこか蠱惑的な雰囲気を漂わせる、不思議な少女だった。


「ルージュ姫様がいらしていますよ。ご挨拶なさい」


「うむ。久しぶりじゃのう、マリア!」


姫様が彼女に向けて元気よく手を上げる。

それを見て、マリアと呼ばれた少女は嬉しそうに瞳を細めて微笑をさらに強くした。


「あら、姫様。ご機嫌麗しゅう。今夜は、いい夜ですわね?」


「む、そうか?雲が強く、星空が全く見えんぞ」


「ええ。でもきっと、月は美しく赤く輝いているはずですから」


そう言って、クスクスと笑う。


「むう。相も変わらず、よく分からんことを言う奴じゃな」


姫様は、困ったように眉をひそめて、腕組みをする。


「それで、姫様。後ろの可愛らしいお姉様方はどなたですの?」


マリアはこちらチラリと見て、可愛らしいソプラノで姫様に聞いていた。


「そう言えば紹介がまだじゃったのう。後ろの二人はわらわの護衛じゃ」


姫様はそう言って、私達に手を向ける。


「トレンディア王国百華騎士団所属の三等騎士、ロゼッタ・オールデーズです」


「同じく百華騎士団所属の三等衛士、フィーメラルダ・グリンウッドです」


姫様の紹介を受け、私とフィーは右手を握って胸に手を当てるという、トレンディア式の敬礼をした。


「んふふっ。あたくしはマリア・ブラッドベルと言いますの。よろしくお願いします、騎士様」


マリアは私達にニコっと笑いかけた後、ドレスの両端をつまんでちょこんとお辞儀した。

それだけで、私の心臓が一つドキンと脈を打つ。

彼女の笑みには、少女のものとは思えない、吸い込まれそうな色気があったからだ。

自分の頬が熱くなっているのを感じる。

隣を見ると、フィーも顔を赤くしていた。


「護衛、ということは、守護騎士をお選びになられたのですか、姫様?」


マリアの隣では、そんな私達の様子に気付かずにソニアさんと姫様が話をしていた。


「む、いや、そうではない。今回はちょっと事情があってな。護衛を増やしておいただけじゃ」



守護騎士、と言うのは、王国の古い伝統の一つでもある。

王国の十ある騎士団の内、八つまではそれぞれ四将軍が統括しているが、残りの二つの騎士団は将軍ではなく王族直轄の騎士団となる。

その内の一つが百華騎士団、通称ロイヤルガードなのだが、それはあくまで建前であって、基本的には将軍がロイヤルガードにおいても指揮権を握っていると言っても過言ではない。

しかし、騎士の中には、例外的に一定限度の状況において完全に将軍の指揮下から外れる者も存在する。

それが守護騎士である。

王族が自ら任命し、直属の騎士として指名することで選任される守護騎士は、今後自身の主人の命令でのみ動き、主人の身を守るためだけに行動することが許されている。

もっとも、それは現在古い伝統としてのみ騎士団内において残っているだけであり、本当に将軍の指揮権から外れて行動することが許されるのかどうか分からない上に、王族の中においても、守護騎士を選任する者はほとんどいない。

現在エルターザ姫が唯一、王族内において守護騎士を選任しているが、それは過去数十年においても珍しい例外的な出来事だと言える。

ちなみに、その守護騎士はディエナ隊長である。


「それに、今でさえ護衛としてこうして何人もの騎士がわらわに付いておるのじゃ。これ以上、守護騎士などと暑苦しそうなものはいらぬわ」


心底嫌そうな顔をして手の平をヒラヒラと振る姫様。

その様子を見て、ソニアさんは愉快そうに笑った。


「まぁ、姫様ったら。そんなことを仰っては、こうして護衛している彼女達に悪いですよ」


「そうですわ。こんなにも健気に貴女を守っているじゃありませんの」


ソニアさんの言葉に、マリアも同調して答える。


「む、冗談じゃ。二人してそんな風に言うでない」


膨れっ面になって、憮然とした様子で言う。

そんな姫様の様子を見て、ソニアさんとマリアの親娘はクスクスと笑った。


「さて、申し訳ありませんが、姫様。商談の途中で無理を言って抜けてきましたので、私は少し席を外させて頂きますわ」


ソニアさんが申し訳なさそうに姫様に話しかける。

事実、先ほど彼女が抜けたグループが待ち遠しそうにこちらをチラチラと見つめていた。

もっとも、それは大事な商談だから、と言うよりは、美人の女性が抜けてしまったから、といった理由の方が強そうではあったが。


「良い良い。気にするな。そなたが商会で稼げば稼ぐ程、我が国にも利益がある訳じゃしな。たんと他の国から儲け話を持ってくるがよい」


カラカラと笑う。

そんな姫様を見て、何故かソニアさんではなくマリアが愉快そうに目を細めた。


「そう言って頂けると、私も仕事のやり甲斐があります。では、マリア。姫様に粗相のないように」


「分かっております、お母様」


ソニアさんの言葉に、マリアは微笑みながら頷く。


「姫様に、それに可愛らしい騎士様方も、また後ほどお伺いします」


こちらを見て、優雅にお辞儀をした後、ソニアさんは人だかりの中へと戻っていった。


「間近で見ても、美人だったねー」


「ああ、確かに」


隣から、フィーが小さい声で私に話しかけてくる。

確かに、姫様と同い年の娘がいるとは思えないくらい、若く精力的で美しい女性だった。


「そうじゃ、マリア。今度そなたに会った時は話しておきたいことがあったのじゃ!」


私達がコソコソと話している傍では、姫様が喜色満面でマリアに話しかけている。


「あら?何かしら、そんなに嬉しそうになさって。素敵なお話ですの?」


「うむ!聞いて驚くな。わらわは何と、伝説の武龍と友達になったのじゃ!」


腰に両手をあてて、胸を張って答える。

鼻息が荒くなっているのは、興奮している証だ。


「伝説の武龍、ですか?」


マリアはそれを聞いてキョトンとした顔をした後、それから嬉しそうに瞳を細めて笑い出した。


「んふふふっ。姫様ったら、それは本当ですの?」


「本当じゃぞ!武龍から直接家族のように思って良いと言われたからのう!」


まぁ、確かに、あの空中庭園での出来事を思い返せば、アインハート殿と姫様はやんちゃな孫娘と優しい祖父といった感じだった。


「それは羨ましいですわね。伝説の武龍はどういった方でしたの?」


「それがのう。武龍と言うからにはもっと豪傑な御仁かと思っておったのじゃが、実際に会ってみると正反対にとても穏やかでジェントルな龍じゃったな。まるで人間のようじゃったのう」


腕組みをして、両目を瞑ってしみじみと言う。

それを聞き、マリアは楽しそうに笑う。


「まあ。人間のような龍だなんて。あたくしも一度会ってみたいですわね」


「うむ。今度王都に戻ったときには、そなたにもおじ様を紹介してやろう!」


「約束ですわよ?」


仲睦まじく小指を合わせて約束のおまじないをしている二人の少女を見ながら、私とフィーは顔を見合わせた。



――今度王都に戻ったら。



二人の約束が守られるためには、私達が姫様を無事王国へと送り届ける必要がある。

姫様のお命を狙う不届き者。

それが、例え私の父であったとしても、今度こそは守りきるんだ。

私は父が棲むあの家に全てを奪われてしまった。

母も、家も、人生さえも。

だから、これ以上奪われる訳にはいかない。

私の騎士としての名誉と誇りにかけても。


私が強く頷いたのに対し、フィーも同じく頷いてくれた。


あの時とは違う。

母上を死なせてしまったあの時とは。

今の私には、信頼できる友と仲間がいる。

だから――。






※※※※








「雪が降り出しそうな天気ですわね?」


「そうじゃのう。馬車の中でも寒さが伝わってくる程じゃ。外はとても冷えているじゃろうな」


二人の少女が肩を寄せ合いながら、馬車の窓から見える流れる景色を眺めながら談笑している。


姫様とマリアである。


そんな二人を見て、未だに不服そうに顔を見せながら私の隣でギィが文句を言っていた。


「姫様はともかく、他の二人は別の馬車で帰ってもらった方が良いに決まってるのにさー。何で一緒に乗せちゃったんだよ」


恨めしそうにこちらを見つめてくるが、その意見については私も甚だ同感だった。

チラリと、姫様とマリアを微笑ましそうに見つめているソニアさんの方に目を向ける。

彼女もまた、この馬車の便乗者なのであった。



一昨日、石英宮殿での新年祝賀パーティはつつがなく終了し、各国の招待客は各々の国へと戻っていくことになった。

もちろん、我々も姫様を無事王国へと送り届けるために、護衛の人員を四台の馬車に分けて、冬の寒空の中王都へと向けて石の都を後にした。

のはいいのだが。

なんと、同じ王都へと戻るソニアさん親娘が姫様の馬車への同乗を申し出てきたので話がややこしくなった。

王国の開戦派から命を狙われている姫様にとって、帝国からの帰り道は最も襲撃の危険があると言える。

なぜなら、雪が降り積もる前に王都へと帰るためにも、ノーザリン山脈を越えて最短距離で戻る必要があるのだが、その山道は人里から遠く離れており、途中に旅宿が点在するくらいで、人影は全くないと言っても過言ではなかったからである。

いつ何時、何が起きても不思議ではない旅路なのだ。

そういう訳で、彼女らの安全のためにも別々の道で帰った方が良かったのだけれど。

当のマリアが何故か強硬に一緒に帰るように主張して、結局、なし崩し的に同行することになったのだった。

彼女のワインレッドの瞳で見つめられながらお願いされると、どうしてだか、素直に聞いてしまいたくなってしまうのが不思議だった。

最初は強く反対していた姫様でさえ、そうだったのだから、驚きである。


「まだ言っておるのか、シャギィ?こうして同行してしまった以上、文句を言っても仕方あるまい。それとも、そなたらの護衛に自信でもないのかのう?」


馬車が揺れる音が響いている中、ギィの呟きを聞き取った姫様が窓から向き直ってギィに話しかける。


「別に、自信がない訳じゃないけどさー。ボク達が付いていれば何が来たって平気だけど、それとこれとは別の問題だよっ」


膨れっ面で反論する。

この馬車には御者を除いて姫様に私とフィー、ギィ、それにソニアさんとマリアの親娘だけが乗っている。

しかし、この馬車を守る形で前方にはディエナ隊長のチームにルビーさん(何故か隊長がルビーさんと同乗することにこだわった結果、そうなった)が乗った馬車が走っているし、後方には荷物が積んだ荷馬車と他の護衛のチームが乗っている馬車が走っているので、ギィの言う通りよっぽどのことがない限り大丈夫な布陣だと言える。


「姫様、わがままを言ったのはあたくしですわ。お叱りになられるのであれば、あたくしになさってください」


マリアも窓から目を離して、姫様とギィの会話に参加していた。

あのワインレッドの瞳を細めて、ニッコリと姫様に笑いかける。

それだけで、姫様も困ったようにわたわたとし始めた。


「む、いや、別に叱っておる訳ではないぞ。ただ、余りにシャギィがぶちぶちと文句を言っておったので…」


「そもそも“叱る”って何だよ!ボクがお姫様に叱られる謂われなんてないぞっ」


「いや、姫様は一応私達の直属の上司ということになるんだけど…」


子供のような癇癪を起こすギィを諫めるようにフィーが話しかけているが、彼女の言う通り、ロイヤルガードの指揮権は建前上王族に帰属することになっているので、姫様が私達の直属の上司ということになっているのだった。

もっとも、王族の中でも私達を顎で使うのは姫様くらいのものだったけれど。


「ふんっ。別にボクは騎士団に所属しているつもりなんてないよ。ただ単にルー先生が煩いから席を置いているだけだし、姫様に気を遣う義理もないね」


そっぽを向きながら、悪態を付くギィに対し、姫様も両ほほを引っ張って舌を出しながら応戦する。


「いーっだ!」


「ひ、姫様。はしたないですよぅ」


そんな姫様に対し、フィーが窘めているが、姫様のそんな子供っぽい様子を見ていると、何故か安心した。

あのパーティで見せた大人っぽい愛想笑いをしている姫様よりも、遙かに生き生きとして見えたから。

出来るなら、姫様にはまだ子供のままでいて欲しかった。

それが私のわがままだとしても。

例えどんなに生意気で悪戯ばっかりしたとしても、姫様はまだ12歳で、私よりも遙かに年下の女の子だ。


だから、私は――。



だけど、現実は私達をいつまでも子供のままではいさせてくれないのだ。



「………おかしいですわね」



姫様とギィの微笑ましい喧嘩を笑いながら見ていたマリアが、急にぽつりと呟いた。

それと同時に、隣のソニアさんが何かに気付いた風に、顔を引き締める。


「ん、何がじゃ?」


姫様がマリアの方を向き直って、聞く。

それに対し、耳をすませるように目を瞑った後、マリアが呟く。


「後ろの馬車の音が、聞こえてきません」


「っ!」


私はすぐに馬車の窓を開け放ち、そこから身を乗り出して後方を見た。



「……っ!すぐに馬車を止めろっ!」



そしてそのまま御者に向かって私は叫ぶ。


「ど、どうしたの、ロゼっ」


そんな私に向けて、フィーが不安そうな声で話しかけてくる。

何てことだ…。

私は振り返って、馬車の中のみんなに叫んだ。


「後ろの馬車が付いて来ていないっ!」


「なんじゃとっ!」


姫様の声と同時に、ギィとフィーが同時に立ち上がった。

その時。



轟音。



「「「っ!?」」」


辺り一帯を揺るがすような地響きと共に、馬の嘶きが聞こえて、馬車が急停止した。


「な、なんだっ?」


ギィが素早く馬車から降りるのを見て、私は姫様とソニアさん達に声を掛ける。


「決して馬車から降りることのないよう、ここにいてください!」


「う、うむ」


姫様が頷くのを確認して、私はフィーに目線で合図しながら馬車から降りる。



こ、これは――!



前方の山道が崖崩れによって土砂で埋まってしまっている。

どうしたって、通れそうになかった。


「おい、何があったっ!?」


周囲を確認しながら、私は御者に駆け寄って、事態を尋ねた。


「わ、分かりません。急に崖の上から土砂が崩れてきて…」


山道の上を見上げるが、そんな急に土砂が崩れてきそうな山肌には見えない。

これは――。



「罠か!」



「ロゼ、後ろの馬車二台が追いついてくる様子はないみたいだ」


先に降りて周囲を魔力によって索敵していたギィが私に話しかける。


「これだと、前方にいた隊長達とは…」


私の傍に駆け寄り、フィーが話しかけてくる。


前方の道を見ても、土砂の向こう側がどうなっているのか確認できそうになかった。

土砂に巻き込まれたのでなければ、向こうで立ち往生している筈だが…!


「お前は馬を落ち着かせて、ここで大人しくしているんだ。いいなっ!」


私は怯えた様子で事態を眺めていた御者に話しかける。


「は、はいっ」


御者の返事を聞いた後、ギィの傍に近づき、確認する。

これが姫様の命を狙う者の罠であれば、きっと。


「ギィ!」


「ああ、分かっている。やっこさん、来たみたいだよ。5人、10人、いやもっとだ」


ギィが目を瞑ったまま、そう答える。

魔力の索敵に引っかかった生体反応の数だ。

だけど――。


「10人、だって!?」


「もっとだって。どんどん増えている」


ギィの答えを聞いて、私は辺りを見渡す。


「ロ、ロゼっ!」


フィーが慌てた様子で私に叫ぶ。


「上を見てっ!」


フィーの言葉の通り、崖の上を見ると、そこには――。

10人を超える数の兵士達が立ち止まった馬車を囲むような形で見下ろしていた。


「囲まれた…っ」


「あの紋章…、帝国兵だよ、この人達っ」


二本の剣による逆十字の紋章。兵士達はゴドランド帝国の紋章を付けた鎧を着込んでいた。

だけど。


「そんなの、分かるもんか。お姫様の命を狙っているのは王国の連中かもしれないんだろっ。だったら、そいつらの偽装かもね」


フィーの言葉に、ギィが応える。

それはそうかもしれない。

しかし、今はそんなことより。


「フィー、ギィ!」


私は腰の剣を抜き放つ。

そして、そのまま中段に構える。


「来るぞっ!」


崖の上に陣取っていた兵士達は、そのまま弓を番えて私達に標準を合わせる。

私達に向けられる十を優に超える殺意。

それらが一本の矢となって放たれようとしていた。


「おいおい、飛び道具は反則だろっ。騎士なら降りて勝負しろっ!」


ギィが焦ったように言うが、しかし。


「そんなこと言っている場合かっ。何か魔術でバリアー、とかないのっ!?」


「そんな便利なものあってたまるか!」


「ロゼ、どうするの!」


私達は三人背中合わせになって馬車の前に集まる。

一、二本の矢であれば剣で切り落とすこともできるけど、この数だと防ぎ切れない!


キリキリキリ、と音が聞こえてきそうな程、兵士達が矢を番えた弦を引き絞り始めた。


「や、やばいよっ!」


ど、どうすれば――!


「と、とにかく自分の前に飛んできた矢は責任持って自分で落とすんだっ!」


「そんなことできる訳ないだろっ!」


「そ、そうだよ、ロゼ!無理だよぅ!」


私の言葉にギィとフィーが泣き叫ぶ。

が、泣きたいのは私の方だ!


「や、やらなきゃ死ぬぞっ!」


私の叫びに呼応する形で、矢が放たれようとした瞬間、私達の上空に一陣の突風が吹き荒れた。


否。


突風のように感じる程素早い動きで一人の人間が舞い踊っていた。


そして、粉々に砕かれた無数の矢が雪のように地面に降り注ぐ。

そんな中、静かに馬車の上に降り立ったのは――。



「お怪我はありませんか、ロゼッタ様」



美しい鱗を顔に持つ、執事服の女性。



「「「ルビーさん!」」」



薄く透き通るような赤色の槍を手に持った、ルビーさんがそこにはいた。


「ど、どうやってここにっ!?」


「あの程度の崖、私にとってはないも同然です」


ニコリともせずに、静かな口調で語る。

まさか崖の上を駆け上がってきたのか?


「土砂の向こうでも無礼な人間共が襲って来ましたので、ディエナに任せておきました。彼女なら大丈夫でしょう」


そう言って、華麗に馬車の上から降りてくる。


「ロゼッタ様達を守ることが、お父様から言い付かった私の使命です。故に、あなた様方の命を狙う者は、お父様の命を狙う不届き者同然」


冷たく呟きながら、長身のルビーさんと同じくらいの長さの槍を両手で構える。


「よって、排除します」


瞬間、あの空中庭園で味わった、あの冷たく重い殺意がルビーさんを中心として急激に膨れ上がった。


「お父様から授かった龍鱗の槍。銘は“トゥルールビー”」


そして、海色の瞳を細く歪める。


「愚かな人間達には過ぎた武器ですが、自らの愚かさを噛みしめながら、死ね」


そのまま突風のように崖の上を駆け上がり、崖上で二本目の矢を番えようとしていた兵士達に切り込んでいった。


「す、すごい…」


「と言うか人間じゃないだろ、あれ」


「感嘆している場合じゃないだろ!来るぞ!」


惚けた様子でルビーさんの獅子奮迅の活躍を眺めているフィーとギィに声を掛ける。

反対側の崖から、兵士達が武器を構えて滑り降りて来ていた。


「全部ルビーさんにやってもらう、って訳にはいかないよな、やっぱり」


「当たり前だろっ!」


面倒臭そうに喋るギィに対し、怒鳴り返す。


「しょうがないなー。全く、もうっ!」


こちらに向かって剣を構えたまま走ってきていた兵士に対し、ギィが両手を向ける。


「頼んだよ、ロゼ、フィー!」


ギィが叫ぶのと同時に、辺りに突風が巻き起こり、そのままするどいカマイタチとなって兵士達に降り注ぐ。

ギィが得意としている、風の魔術である。

魔力によって、周囲の大気を操り相手に攻撃を加えることが可能となる。


カマイタチを全身に浴びた兵士達は、鎧を着込んでいるおかげで切り刻まれることはなかったが、しかし体勢を崩してその場によろめき倒れる。

即座に、体勢を直して立ち上がろうとするが。


「遅いっ!」


一気に距離を詰め、下段から斬り上げて兵士の武器を弾く。

そして。


「ごめんなさーいっ!」


そのままフィーが手に持っていた斧で兵士を横殴りに斬りつけて弾き飛ばす。

吹き飛んだ兵士は後続の兵士達に激突し、みんなまとめて倒していた。


相も変わらず、性格に似合わない馬鹿力だ。


「よしっ!」


ギィの魔術に続く今の連撃を得意技として、私達は部隊での模擬戦で同期相手に無敗を誇っていた。

しかし。



「おいおい、嘘だろ?」



ギィの驚きの声を聞きながら、私自身目を見張る。


あの攻撃を食らって、なお立ち上がってくる?


いくら鎧を着ていたとは言え、フィーの渾身の一撃を食らって無事な訳がない。

少なくともあばらが数本折れている筈なのに!

兵士達は何事もなかったかのように、そのまま立ち上がり、再び武器を構える。


「こ、この人達、何か変だよ!」


フィーが叫ぶが、そう言えば、現れてから彼らは一言も言葉を発していない。

ルビーさんが現れて超人的な活躍を見せた時でさえ、そうだった。

それに、兵士達はどこか虚ろな目をしてこちらを見つめている。

とても、戦闘中の兵士の目とは思えない。


「何なんだ、こいつら?」


その兵士達の虚ろな瞳は、血のように赤く赤く輝いていた。


「こ、これは―――」



「ヴァンパイアのチャームをかけられていますわね」



私の呟きに対し、後方から声がかかる。

後ろを振り向くと、そこには――。


「マリアっ!どうして出てきたんだ!危ないからすぐに馬車に戻るんだ!」


私の叫びに対し、マリアはしかし蠱惑的な微笑を浮かべたまま首を左右に振った。


「どうやら、あの方(、、、)が危惧していたように少し面倒なことになっているようですわね」


そう言って、クスクスと笑う。


「マ、マリアちゃん?」


余りに場違いなマリアの様子に、怪訝な声でフィーが話しかける。


「おい、バカ、危ないぞっ!」


と、ギィが声を上げる。



「っ!?」



しまった――!



兵士達の後方に待機していた弓兵が、いつの間にか弓を構えていた。

その番えた、矢が狙っているのは――!


「くっ!」


「ロゼっ!」


放たれた矢がマリアに刺さる前に、せめて盾になろうと前に飛ぶ。

しかし――。


その矢は、私にも、マリアにも刺さることはなかった。

目を開けた私の目の前で、いつの間にか現れたソニアさんが素手で矢を掴んでいた。



「……え?」



驚く私を無視し、ソニアさんはそのままマリアに近づき、その場に膝を付いた。


「“マリー”様。あの者達の言う通りです。危険ですので、馬車にお戻りを」


「あら、ソニア。あたくしが、あの程度の連中にどうにかされるとでも思っているのかしら?」


馬車の中で優しくマリアに話しかけていたソニアさんとは別人のように、畏まった様子でマリアに話しかけている。

それに対し、マリアは、楽しそうに答えていた。


「あたくしのことは心配いらないから、貴女はお姫様のお守りをしてなさいな」


「しかし、万が一ということもあります。あなた様に何かあっては…」


頭を下げ、マリアに話しかけているソニアさんはまるで王に仕える忠臣のようだ。


「あたくしは下がれ、と言ったのよ。ソニア」


微笑を止め、マリアが目を細めてそう呟いた瞬間、辺りの気温が数度下がったかのように感じた。

ルビーさんに匹敵するかのようなプレッシャー。

その圧力に押されてか、周りの兵士達も数歩後ろに下がっているのが気配で確認出来る。


「は、はいっ。申し訳ありませんでした」


そのままソニアさんは頭を深く下げ、後ろに下がる。

しかし――。



「あ、あなた達は一体…?」



私の問いかけに対し、マリアは口元に浮かべていた笑みをさらに深くした。


「んふふふっ。貴女達を助けるように頼まれた正義の味方、でしたら良かったのですけれどね。まぁ、趣味と実益を兼ねたボランティア、といった所かしらね?」


そう言って笑う彼女の口元には、鋭い八重歯が。

深いワインレッドの瞳を三日月のように歪めて。

笑う。

その様子を見て、何かに気が付いたかのように口元を押さえてギィが呟く。



「お前、まさか、ヴァンパイアか!」



「「えっ!?」」


ギィの呟きを聞いて、もう一度マリアをよく見る。

小悪魔然とした微笑を浮かべる赤い瞳の美少女。


「人間にしては不思議な魔力の波動を感じるとは思っていたけど、それが――」



「やはりあなたでしたか、マリー様」



と、ギィの声に応じるように、反対側の崖からルビーさんが降りてきた。

崖の上からは、もう生きた人間の気配を感じない。

この短時間で、崖の上にいた十数人の兵士達を皆殺しに――?


「やっほー、ルビー。久しぶりだわねぇ」


敵意の籠もった目つきで睨むルビーさんに対し、マリアは楽しそうに手を振って話しかける。


「お父様が保険をかけると仰っていたので、まさかとは思っていたのですが」


「そんなに怒らなくても良いじゃないの。愛しのお父様が、自分一人に任してくれなかったことがそんなにショックだったのかしら?」


「いえ、別に。そんなことはありません」


マリアの言葉についっと目線を外すルビーさんだったが、その仕草は先ほどまでの様子と打って変わってどこか子供らしさを感じさせた。

しかしこの二人、旧知の仲なんだろうか。


「マリー…、マリーだって?」


ルビーさんが口にした名を聞いて、ギィが驚きを露わにしている。


「そんなまさか…、こいつは…」



「“ブラッディマリー”。よもやそなたがそうだったとはのう。まんまと騙されておったわ」



「姫様っ!?」


ギィの呟きに答える形で声を出したのは、馬車から降りてきた姫様だった。

不敵な笑みを浮かべながらマリアを見つめている。


「あら、お姫様。つれないことを仰いますわね。あたくしの正体はともかく、貴女とは嘘偽りなく友人のつもりでしたのに」


そんな姫様に対し、艶やかな笑みを返すマリア(いや、マリーか)。

しかし、それはともかく。


「姫様、いけません。危険ですので、早く馬車の中にお戻りになってください!」


周りの兵士達が警戒したまま今のところこちらに襲いかかってくる様子がないことを確認しながら、私は姫様のもとに駆けつける。


「良い、ロゼッタ。かのヴァンパイアクランの四貴族の一人がここにおるのじゃ。もはや、我らに危険などなかろう」


しかし姫様は、駆け寄った私に手をかざして制しながら、目線はずっとマリーから外さずに彼女を見つめていた。



ブラッディマリー。

確かにその名は、私にも聞き覚えがあった。

人の歴史の影に暗躍してきた永遠の不死者達、ヴァンパイア。

大陸全土に影響を及ぼす彼らが仲間同士のコミュニティとして作り上げた組織は、単に“クラン”とだけ呼ばれている。

そのクランを統括する四人の大幹部たるヴァンパイアが存在する。

その四人をいつからか、人は“四貴族”と呼んできたが、その内の一人の名が“ブラッディマリー”だった。

彼女の名前だけは少なくとも百年以上も昔から歴史の闇の中で囁かれてきたのだけれど、その正体がまさか、こんな少女だったなんて。

にわかには信じられない話だった。


「さて、安心するのはまだ早いと思いますわよ。どうもこの事件の裏にはあたくしの同類が絡んでいるようですし」


ヴァンパイア達の大幹部の一人とは思えない、可愛らしい仕草で首を傾げながら人差し指を顎に当てて、鈴を転がすような声色で呟く。


「まぁ、だからあたくしがわざわざ出てきたのですけれどね」


そう言って、私達に向けてウィンクをして微笑む。


「マリー様。無駄話はそれくらいに」


そんなマリーに対し、ルビーさんが兵士達の方を向いたまま冷たい声で話しかける。


「あら、出番を取られて拗ねているのかしら?」


「マリー様」


さらに冷たい声色で呟く。


「分かってますわよ。あたくしだって、愛しのあの方に嫌われたくはありませんもの」


やれやれ、といった様子で首を一度左右に振った後、後ろでずっと控えていたソニアさんに告げた。


「ソニア。あの無礼者達を土に帰してあげなさい。ただし、一人は生かしておくこと。糸を引いている者が誰なのか確認する必要があるから」


「はっ。仰せのままに」


右手で眼鏡の蔓に触った後、ソニアさんは音もなく両手にナイフを持って構える。

どこから出したのか、私の目には全く見えなかった。


そんな二人の様子をチラリと目線だけ後ろに向けて確認したルビーさんは、一瞬後、手に持った長槍を片手に構えて疾風の如く敵陣へと駆けて行った。


その後ろを、ソニアさんが重心を低くしたまま同じく風のように走り込んでいく。



「………これ、ボク達もういらないんじゃない?」



ギィが呆れた様子で呟いているが、確かに、私の目にはとても片手で扱えるとは思えない長槍を棒きれのように片手で振り回しながら瞬く間に敵兵達を斬り伏せていくルビーさんに、音もなく忍び寄って流れるような動作で敵兵の大動脈を切り裂いていくソニアさんの姿が見えている訳だけど。


「も、文字通り人間業じゃないよね、あれ」


少し恐怖を滲ませた声でフィーも同じく呟いている。


これを機会に、姫様を守り通した手柄だとして出世を狙えないかとも思っていたけれど、そんなことを言っている場合でもないようだ。


「あのー、姫様?」


どうしたものかと後ろを振り返り姫様に尋ねると。


「うむ。どうやらわらわには、頼もしいヴァンパイアの友人が出来た、ということらしいのう」


両手を腰に当てるいつものポーズで、全くもってとんちんかんなことを言っていた。


そんな姫様に対し、マリーはあの蠱惑的な微笑を浮かべながら笑いかけていた。


「んふふっ」


………まぁ、ともかく、ギィの言う通り私達の出番がないことだけは確からしい。

そう思ったのだが、それはやはり甘い予測だったのだろう。




この後、私は地獄を見ることになる。





[10769] 三章・04
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2009/09/15 17:17


「………あ、雪だ」


ギィが上空を眺めて、ポツリと呟く。


同じく上を見てみると、冬の寒空には厚い雲が覆っており、そこから雪が降ってきていた。


「本当だ。道理で寒いと思ったよ」


ノーザリン山脈は冬期になると深い雪山となることで有名だった。

もっとも、今年は異常気象のせいか、冬になっても雪がほとんど降ることなく、山道のほとんどが閉鎖されず通ることができた訳だけど。

これは、早いところ山を越えないと雪が積もって立ち往生になるかもなぁ。


「「あっはっは」」


ギィと二人で顔を見合わせて笑い合う。

と言うか。


「二人とも、黄昏れていないで現実に目を向けようよ」


「いや、だってさー」


フィーの言葉に呆れたようにギィが呟く。

しかし、まぁ、目の前の光景を見れば、だってさー、なのであった。


ほんの数分。


時間にすればそんなところだろう。

なのに、ルビーさんとソニアさんが敵陣に斬り込んで行ってから、わずかその時間で十数人いた敵兵達はたった一人を除いて皆殺しになっていたのだから、驚嘆すべき事実だった。

敵兵の血で出来た血塗れの地面の上に、二人は静かに構えを解いて佇んでいた。


「まぁ、確かに些か現実離れした光景ではあったかのう」


姫様が気丈にそんなことを言っているが、口の端が微妙に引きつっているのが見える。


「お二人とも、ご苦労様。ちゃんと一人残しておいてくれたのね?」


「はい、ここに」


あれだけ激しく動き回ったのに全く返り血を浴びていない二人に向かって、マリーがにこやかに話しかけている。

ルビーさんはチラリと彼女の方に目を向けたが、すぐに目線を外して黙殺し、ソニアさんは恭しく一礼して答えていた。


「この者です」


ソニアさんが細腕にあるまじき膂力で死体の山から一人の兵士を片手で持ち上げる。

まだ微かに息があるのか、苦しそうに顔を歪めているが、それでもなお呻き声一つ上げようとはしなかった。

そんな兵士のもとに、マリーがテクテクと近づき、ひょいと顔を覗き込む。


「ふーん。なるほどねぇ」


血のように赤く輝く敵兵の瞳を覗き込んで、面白そうに呟く。


「どうかしたのかの?」


姫様がマリーに近づき(しかし、血溜まりを嫌がって途中で足を止めた)、私の隣から声を掛けた。


私の軽鎧の端をちょこんと摘んでいる様子からも、姫様は人の死体を見て平気という訳ではないようだ。

手が僅かに震えているのが感じられる。


「なかなか強力なチャームがかけられているわね、この子」


姫様の疑問に対し、マリーは唄うように答える。


「恐らく、死ぬまで正気に戻ることはないと思いますわ」


マリーの言葉の通り、その兵士は瀕死の状態にもかかわらず、瞳は血のように赤く輝いたままだ。


「マリー様」


「分かっているわ、ソニア」


ソニアさんが声を掛けると、マリーはそこで蠱惑的な微笑を止め、次いで獲物を見つけた猫のように口の端をつり上げて、酷薄そうに笑った。


「これはきっと、あの男(、、、)の仕業ね。ノッドラートが戦争に負けてから40年。王国内へ逃げ込んだ筈だと思っていたけれど、やっと尻尾を掴んだわ」


一瞬、肌が粟立つ。

その時のマリーの笑顔には、なるほど、闇夜を生きる不死者達を束ねるヴァンパイアの長に相応しい、ひどく人間離れした美しさを秘めていた。


「…何の話だ?」


私が問いかけると、マリーは先程までの凄絶な笑顔を消し、あのいつもの小悪魔的な微笑を浮かべながら、こちらを向く。


「貴女達には関係のない、つまらない身内の話ですわ」


そう言って、ニッコリと笑う。


「さて、それでは、この子に誰が裏で糸を引いていたのか聞いてみましょうか」


そう呟いて、再びソニアさんに頭を捕まれて、持ち上げられたままの兵士の方を向く。


その瞬間、姫様の身体が一瞬震えたのを、鎧を掴んだ手を通じて私は感じた。


「………姫様?」


まるで、必死に後回しにしていたいつか来るはずの終わりが、遂に訪れてしまったかのような表情を姫様はしていた。

それでもなお、目線を逸らさずマリー達の方を向いている。


「チャームがかけられているそいつから聞き出せるの?」


ギィが物怖じせずにマリー達の方に近づいて、尋ねている声が聞こえる。


「んふふっ。あたくしを誰だと思っているのかしら?強力なチャームをかけられた人間には、より強力なチャームをかけ直せばいいだけのことだわ」


そう言って、笑みを強くする。


「もっとも、かけられた側の精神の保証まではできないのだけれど、ね」


「うへぇ。だからヴァンパイアって奴は好きになれないんだよなぁ」


嫌そうにギィは呟く。


「んふっ。さて、それじゃあ、始めてみましょうか」


マリーは兵士の虚ろな瞳を覗き込み、自身のワインレッドの瞳をさらに赤く赤く色濃く強め始めた。


「………あ………あぁ……っ」


それに伴い、兵士の身体はびくびくと痙攣し始める。

その虚ろな瞳の瞳孔は極限まで広がり始めている。


「さあ、貴方はどこの兵士なのか、教えてくださるかしら?」


キスするように顔を近づけ、兵士の耳元で睦言のように囁く。

兵士の痙攣が激しくなり、見開かれた瞳から血の涙が一筋流れる。


「………あぁ………あ、……トレンディア王国……百銀騎士団…所属……」


「っ!」


「百銀騎士団だって!?」


兵士の血を吐くような言葉に、私とギィは驚きを露わにした。

だって、百銀騎士団は――。


「本当に、王国の人が姫様を…」


フィーが呆然と呟くのが背後から聞こえる。


姫様は――。

姫様の顔を見ることができない。

だけど、鎧を掴む手をさらに強く握りしめていることが感じられる。


百銀騎士団は、ロイヤルガードたる百華騎士団と並んで、王国内に十ある騎士団の内で例外的に四将軍の指揮権から外れることになる二つの騎士団の一つであり、ロイヤルガードが王族の盾だとすれば、剣の役割を果たす近衛騎士団である。

そして、その指揮権は、軍を離れトレンディアの王家にある。

それはつまり――。


「良い子ね。でも、もう少し頑張って教えて頂戴」


マリーが壊れた人形のように震えだした兵士の身体に身を寄せて、その白磁のような白い手を彼の顔に這わせながら愛おしそうに呟く。


血のように赤く濡れた兵士の瞳を見つめ、微笑みながら、告げる。


「貴方に、姫様を殺すように命じたのは、誰?」


「………がっ、ああっ…」


口から赤い泡を吹き出し、目から血の涙が流れ出る。

それでもなお、兵士は震える口を開け、最後にその名を呟いた。



「………………トレンディアの国王、オラフ・フォウ・トレンディア」



「「「っ!?」」」


馬鹿なっ!


「嘘だ、そんな訳あるかっ!」


私は兵士に向かって叫ぶ。


「くだらない嘘を吐いてないで、本当のことを言えっ!」


しかし、兵士は、口から血が混じった唾液を垂れ流しながら、もうピクリとも動こうとはしなかった。


「………よく頑張ったわね。ゆっくりお休みなさい」


マリーが兵士の額に慈しむように口づけをして、そっと兵士の瞼を降ろした。

そして、ソニアさんはそのまま兵士を地面に降ろし、横たえさせた。


「もう、死んでいるわ。それに、私のチャームに抗うことは何人にも無理よ」


「っ!」


だったら、それじゃあ――!


「本当に国王が姫様の命を狙っていたと言うのかっ!」


そんな事ある筈ないっ!

だって、姫様の命を狙っていたのは、私の父の筈じゃ…っ。


「あたくしに怒鳴らないで頂戴。あの子がそう言ったからには、あの子にとってはそれが真実だったのよ」


「だったら、そいつが騙されていたんだ。そうに決まっている!そうじゃないと――」



「もう良い。良いのじゃ、ロゼッタ」



叫ぶ私に、背後から姫様が静かな声で話しかける。

いつの間にか、姫様の手は私の鎧から離れていた。

傍らに感じていた姫様の体温は、もう感じない。


「…姫様?」


振り返った私が見たのは、とても美しい笑みを浮かべながら敵兵の死体に囲まれて佇んでいる姫様の姿だった。

その笑みは、まるで泣こうとして失敗し、それでいて歪んだ形がこの上なく儚さを感じさせて美しかった。


「わらわは、わらわはな。父様がわらわの命を狙っておったことなど、初めから知っていたのじゃ」


「っ!?」


姫様の言葉に、ギィとフィーが目を見開いて驚く。

私は。

子を殺す父親。

私は、それを知っている。


「父様は、父様は最初からわらわのことを愛してくれたことなどなかった」


空からは雪が降り、血に濡れた地面に落ちては、溶けていく。

そんな中、姫様は微笑みながら語り続ける。


「わらわの知る限り、父様は戦争に取り憑かれた人じゃった。否、戦争そのものじゃと言っても良い。わらわが物心付いた頃から、父様はいかにして戦争を起こし、どうやって戦争を継続し、どのように戦争に勝つか、ただそれだけのために生きているように見えた」


富国強兵。

ノッドラートを併合した、先代“武龍王”オルフィオ王の後を継いだオラフ王は、先王以上の強行的な領土拡大を断行し、中原諸国との戦争に明け暮れるようになった。

何が王をそこまで駆り立てたのか、それは誰にも分からない。

しかし、国が強く大きくなれば、それだけ国も豊かになる。

だから、市井の者達にとっては、オラフ王は善王なのかもしれなかった。

勝てば官軍、オラフ王は戦において負けることはなかったから。

だけど。


「だから、父様にとって、戦争を忌み嫌い、帝国との和睦を重臣共と一緒になって唱えるわらわの存在は疎ましいものに違いなかったのじゃろう。わらわは、父様に微笑みかけてもらったことさえ、ない」


言葉とは裏腹に、姫様の声は清々しささえ感じさせた。

微笑みながら。


「いつしか、疎ましさは嫌悪に変わり、嫌悪は憎悪へと成長し、遂には憎悪は父様を食らい尽くして、父様はわらわを排除するように考え出したのじゃ」


「それじゃあ、本当に、王が?」


呆然と呟く私に、姫様は精一杯の笑顔で頷く。


「うむ。すまんかったのう!確認するまでもなく、父様がわらわの命を狙っておることぐらい、ずっと、ずっと前から知っておったのじゃ。じゃが…」


姫様は、そこで、一瞬、泣きそうに顔を歪めて、だけど笑顔に戻り、晴れやかに言った。


「じゃがな、やっぱりどうしても信じたくなかったのじゃ。いや、父様のことを信じたかったのじゃ。この目で見、この耳で聞くまでは」


「………姫様」


「じゃから、そなたらには、わらわのわがままに付き合わせてしまった。すまなかった。いつかの夜にそなたに言った通りに、謝るべきはわらわなのじゃ」


そう言って、姫様は深々とその場で頭を下げる。

あの、プライドの高い姫様が。


「そ、そんなこと――!」


「じゃからな。そなたの父、外務卿は今回の件には関与していない筈じゃ。そなたがわらわに対して負い目を感じる事など、ないのじゃ」


頭を上げて、私を励ますように微笑みながら告げる。

どうして。

どうしてそんな風に笑って――!


「わ、私は――」


言葉が出ない。

何を。

何を言えばいい?

私は何を言うべきなんだ?

私に何が言えるというんだ?


父。

父王。

戦争を、糧に。

どうして。


「………許せません」


私の背後から、静かに怒りに満ちた声が聞こえてきた。

その声のあまりの凄絶さに、私は我に返って、後ろを振り向く。

そこには、常にクールなポーカーフェイスを貫いていたルビーさんが、初めて感情も露わに、怒りに顔を歪めながら、立っていた。


「あら。貴女がそんな風に怒るだなんて。珍しいこともあったものだわ」


マリーがそんなルビーさんにからかうように話しかけている。


「父親が娘に手を掛けるだなんて、言語道断です!父親というものは、娘を愛し、娘だけを愛し、娘だけを愛し続けなければいけないものなんです!それをあろうことか愛すべき娘を殺そうだなどと――っ!」


怒りに震えながら、まるで宣言するかのように呟くルビーさん。

そんなルビーさんに、マリーが呆れたように話しかける。


「それは、貴女の私情が多分に入っていませんこと?」


「いいえ!世界の真実です!」


断言した。

だけど、本当にそうならどれだけ良かっただろうか。

そうであれば、姫様は。

後ろ目に見える姫様は、先程と変わらず全てを受け入れたかのような笑顔を浮かべていた。

だけど、そんな笑顔は、姫様には。


「まぁ、そんなことより、今は土砂の向こうにいる方達と合流する方が先決ですわね」


やれやれ、と首を左右に振った後、マリーが話す。

それに。


「あっ、そうでした。隊長達は…!」


フィーが今気が付いたと言わんばかりに、声を上げた。


「ディエナなら、大丈夫だとは思いますが」


ルビーさんが土砂の向こうを見つめながら言う。

隊長達も、敵兵に襲われたとルビーさんは言っていたけれど。

それに、未だ追いついては来ない後続の馬車のみんなの安否も気になる。


「んじゃ、ちょっとボクが索敵してみるよ」


ギィが、その場で目を瞑り、魔力の波動を辺りに広げ始めた。

まだ戦闘中であるようなら、崖を越えられるルビーさんだけでも援軍に向かって欲しいところだけど。



「………そんなっ。おいおい、冗談だろ……っ!?」



と、目を瞑ったまま索敵していたギィが、驚嘆の表情で呟いた。


「どうした、ギィ?」


まさか、隊長達に何かが…?


「生体反応が、増えている!」


「えっ?」


「十や二十どころじゃない。五十、六十、いやもっとだ。何かがどんどんボクらの周りに近づいてきているっ!」


「っ!?」


ギィの声を聞いた途端、みんなが辺りを眺めて確認する。


何だ…?


周囲の山には何かがいるようには見えない。

だけど、何か、得体の知れない何かが近づいてきている?


「そんなっ。総勢百体以上!こんなことってっ」


「百!?どこにいるんだそんなにっ!」


「ボクらの周りだよっ!どんどん近づいてる!」


慌てて辺りを見渡すが、やはり何も見えない。

いったい…?


「山が、ざわついている」


ルビーさんがそう呟いた瞬間。



咆吼。



周囲の崖の奥の山肌から大量の獣の遠吠えが聞こえてくる。


「な、なんだっ!?」


「み、耳がおかしくなりそうっ!」


鼓膜が破れそうな程の獣の遠吠えが聞こえてくる中、フィーが耳を押さえてその場に蹲りそうになっている。


そうだ。


「姫様っ!早くこちらに!」


不安そうな顔で周囲を見渡していた姫様に近づき、その小さな手を握りしめる。


「決して、私の傍から離れませんように」


「う、うむ」


姫様も私の手を握り返してくる。

その体温が、私にも伝わってくる。


瞬間。


「………や、止んだ?」


けたたましいまでに響いていた大量の遠吠えがピタリと止んだ。

不気味にも。


「………来ますわね」


マリーが山の奥を見つめながら呟く。


今度は、遠吠えの代わりに獣の息づかいが聞こえてくる。

血と肉を求めた、獰猛な獣の。


そして、草木を掻き分け、周囲の崖の上に現れたのは――。


全身が黒い毛に覆われて、体長は1メートルもあろうかという程。

頭部にはなぜか毛が生えておらず、奇妙にひしゃげた顔には、顎先まで裂けた口に、するどい牙。

首元まで届きそうな長いとがった耳を垂れ降ろし、こちらに向かって息づかいも荒く口を開けて濁った目を向けている。

獣にしか見えない身体には何も身につけておらず、さりとて、太く折れ曲がった足で二足歩行をしている事から、それが獣ではないことは明白だった。

そして、各々が、樹を削って作った不格好な武具を手にして、崖の上に佇んでいた。

その奇っ怪な獣こそ。


「コボルトっ!?」


コボルト。野犬が人を喰うことによって魔物と化したものの総称。

その知能は魔物の中でも低く、人を襲って喰うこともあるが、普段は山奥に住み着き、集団で暮らしているため、人里まで降りてくることはあまりない。

しかし、山道を通る行商人などがコボルトの集団に襲われる例は王国各地で昔から報告されており、単体での危険度はともかく、集団での襲撃に気を付けるべき低級の魔物だと言われているが。


「そ、そんなっ。これ全部がっ!?」


周りを見渡す限り、百体を優に超える数のコボルト達が、崖の上から私達を見下ろしていた。


「こんなことって…。“魔王”が百年前に死んでから、魔物達の活動も弱まっていた筈なのに」


ギィが呆然とした様子で呟いている。

フィーは、震えながら何とか立っているが、今にも失神しそうだ。



“………ニ、ニク。…ニクニク!”


“…ニク、クワセロ!オンナノニクダ!”


“ソウダ!……ニク!ニクッ!”



不快な粘ついた声で、眼上のコボルト達は輪唱するかのように叫び始める。

先程聞いた遠吠えよりも、とても嫌な響きで辺りを満たし始めた。


「ひぅっ」


「バカっ!しっかりしろ、フィー!」


隣で、気絶しそうなフィーをギィが支えている。

いつかの空中庭園とは違って、フィーに失神してもらっては、貴重な戦力が減ってしまう。

私も、ともすれば震えだしそうな身体に力を入れるために、左手に握った姫様の小さな手を強く握り締める。

姫様はこちらを見て、それでも気丈に強く頷いてくれた。


「やれやれ。醜いですわねぇ。見るに堪えないですわ」


マリーは、そんな私達とは対照的に、心底嫌そうにコボルト達を見つめて呟いていた。

その後ろに控えているソニアさんも、顔色一つ変えていない。

ルビーさんに至っては、今にもコボルトの群れに飛び込んで皆殺しにしそうな勢いで槍を構えていた。


そんな彼女達を見ていると、百体以上のコボルトに囲まれていても、絶望的な状況ではないように思えてくるから不思議だ。


「しかし、妙ですわね。いくら低級のコボルトとは言え、こんな大量の数が一つの山に棲息している筈は――」


思案するようにマリーが右手の人差し指を血に濡れたような赤い唇に持ってきた、瞬間。


「マリー様っ!!」


ソニアさんが叫び声を上げてマリーの前に飛び出し、その場に血飛沫が上がった。


「っ!?」


マリーの目の前で屈むように身を折り曲げているソニアさんの右手には、銀色に鈍く輝くナイフが。

心臓に突き刺さる一歩手前で、止めていた。

深く彼女の右手を切り裂きながら。


一体、どこからナイフが!?

飛んでくるところさえ、私には全く見えなかった。


「お怪我は、マリー様…っ」


痛みに僅かに顔をしかめた後、ソニアさんはナイフを投げ捨ててマリーに話しかけた。


「大丈夫よ、ソニア。でも、こんな無茶はしないで頂戴。あたくしなら、あの程度簡単に避けられたのだから」


そう言って、ソニアさんの右手を取って、傷口に唇を当て、流れ出る血をチロリと舐めた。


「い、いけません。マリー様。こんなところで…っ」


「んふっ。貴女の血はいつ舐めても美味しいわねぇ」


蠱惑的に笑った後、そのまま右側の崖上を睨み付けるように見つめた。



「それに引き替え、舐めた真似してくれるじゃないの」



そこには――。



「ハッハーッ!あんたの血ならいくらでも舐めてやりたいもんだなーッ!」



マリーが睨み付けたその先には、コボルト達に周りを囲まれながら、いつの間にか二人の人物が立っていた。


赤色の短髪を天を衝くかのように立たせており、燃えるように赤く輝く瞳をギラつかせ、不敵に笑う口の端からは鋭い八重歯が覗き、上半身裸の身体には無数の傷跡と、極限まで引き締まった肉体が見て取れる、長身の男。

その隣には、顔まですっぽりと隠れる黒いローブを全身着込んでいる小柄な人物が立っていた。


「久しぶりだなぁ、ババア!」


「次に、あたくしのことをそう呼んだら、殺すと言わなかったかしら?」


嬉しそうに叫び声を上げた長身の男に対し、マリーは憎々しげに呟く。


「ガートルード!貴様、マリー様に向かってよくも!」


「ハッ!相も変わらずマリーの番犬をしてやがるのか、ソニア。そいつの影武者まで務めて、ご苦労なこったぜ」


「――っ!」


長身の男の言葉に対し、激昂した様子で駆け出しそうになったソニアさんに対し、マリーは手をかざして制した。


「止めなさい、ソニア。そこの坊やにはまだ聞くことがあるから」


そしてそのまま、男を見つめながら口を開いた。


「貴方がここにいる、ということは、その背後には、あの男(、、、)がいるのね?」

「さて、それはどうかな――、と言いたいところだが、まぁ、隠しても意味がないからぶっちゃけるが、あの人(、、、)がいることは確かだな」


男はおどけるように笑いながら言う。


「しかしまぁ、あの人(、、、)の言う通り、念のためコボルト共を連れて来たのはいいけどよ。まさかあんたまでこんなところにいるとはちと予想外だったな」


「まさか――。この大量のコボルト達は…」


何かに気付いた様子で、マリーがハッとした顔をする。


「その通り。“闇の落とし子達”。純粋培養して産まれた魔物達さ」


純粋培養?

何だ。何を言っているんだ、この男は。

そもそもにして、この男は何者なんだ?


「………そう。あの男(、、、)はとうとう踏み入れてはいけない領域にまで手を出したのね」


マリーは目を伏せて、何故か哀れむように呟いた。


「ハッ!オレ達ヴァンパイアという存在自体がそもそも人の世の理から外れた存在なんだぜ?今更何に気を遣う必要があると言うんだ!」


両手を広げ、嘲笑うかのように宣言する。

愉快そうに笑う口元には、鋭い牙。そして赤い瞳をギラつかせている。

ヴァンパイア。

この男も、永遠の不死者なのか?


“………ニク、ニククワセロッ!”


“ニクダ!ニクニクニクッ!”


男の笑い声に合わせるかのように、周囲の百を超えるコボルト達が再び叫び声を上げ始める。


「………この子達、もう限界。これ以上は抑えられない」


ガートルードと呼ばれた男の隣に佇んでいたローブの人物が、コボルト達の大合唱が響く中、ポツリと呟く。

その声は、可憐な少女の声に聞こえた。


「ああ、いいぜ!解き放ちなッ!そこの姫様を殺せさえすれば、後はどうなったって構いやしねえ!」


赤く輝く瞳を姫様に向けて、獰猛に笑う。

やはり、狙いは姫様か!

男の視線から守るように、私は身体を動かして姫様の前に立った。


しかし、どういうことだ?

王が姫様の命を狙っていた筈では?

と言うことは、王はヴァンパイアと繋がっているのだろうか?


思索の海に浸かりかけた私の意識は、私の手を姫様が強く握り締めたことで現実世界へと戻ってきた。


姫様の顔を向いて、強く頷く。

そして、姫様の手をゆっくりと離して、再び剣を構える。

お腹に力を入れて、叫ぶ。


「フィー、ギィ、来るぞ!」


フィーとギィもこちらを向いて、強く頷く。

フィーは両手にその斧を。ギィは胸の前で手を合わせて、精神を集中する。


「ハッハーッ!」


そんな私達を見ながら、愉快そうな笑い声を男が上げる。


「………行け」


ローブの人物がそう呟いた瞬間、辺りの空気が爆発したかのように膨れ上がったのを感じた。


百を超える血に塗れた死を望む怒声!


獣じみた荒い息づかいをこだまさせながら、コボルト達が崖を駆け下りて来てこちら向かって来る!


「貴女達はコボルトだけを相手にしてなさいっ。あの男は貴女達の手には負えませんわ!」


コボルト達の叫び声が響く中、マリーの声が聞こえてくる。

元より承知。

赤毛の男がヴァンパイアであるならば、現状では手が出せない。


「人間共の心配している場合かよ、ババア!」


男が咆吼を上げ、姿が霞む程の速度で崖上から駆けた。

一足飛びでマリーの眼前まで飛び、しかし間に割って入った人物によって弾き飛ばされる。


「あなたの相手は私です」


「ソニアか!てめえじゃ役者不足だ、コラァ!」


ソニアさんが両手にナイフを構え、男から距離を取る。

マリーから数十歩の距離まで飛ばされた男は、口の端を吊り上げ、忌々しげに吠える。


その間にも、コボルト達は崖を駆け下りて、すぐ傍まで迫ってきていた。


「き、来たよっ」


「いくらなんでも、数が多すぎるだろ、これ!」


フィーとギィの叫び声が聞こえる。


と、そこに。


「私にお任せを」


ルビーさんが片手に槍を持ち替え、コボルト達の前まで一瞬に駆け、そのまま横薙ぎに払う。


“ギィッ!”


“ギャウンッ!”


それだけで、数匹のコボルトが胴体を引き千切られて、血飛沫を上げながら弾け飛んだ。

ルビーさんにただならぬ気配を感じたのか、コボルト達の大群はその場で立ち止まり、こちらを警戒しながら周囲の輪を縮め始める。

しかし――。


「………」


崖上で事態を静観していたローブの人物が凄まじい速度で崖を駆け下り、コボルト達を掻き分けてルビーさんに肉迫する。


「――っ」


そのままフードをはためかせて、二人の間に何かが煌めいた。

私の目に見えたのは、ローブの人物が両手をルビーさんの首筋へと伸ばし、それをルビーさんが槍で押さえ込んでいる姿だ。


「………やっと会えた、姉様」


ローブの人物が嬉しそうに呟く。


「っ」


ルビーさんはそのまま強引に槍を回転させ、相手のローブを切り裂きながら投げ飛ばした。

周囲に切り裂かれたローブの布きれが舞い散り。

ローブの下から出てきたその姿は――。


「な、何だ、あれ?」


数歩離れた地点に事もなく着地したその人物は、15、6歳くらいの少女の姿に見えた。

ただし、その頭には獣のような耳が生え、その両腕には白い体毛が覆っており、人間離れした鋭い爪を掻き鳴らし、切り裂くような牙が口元から覗く。

髪の毛もその体毛と同じく真っ白で、腰辺りにまで長く伸ばしていた。

そして、腰の後ろからは同じく白い体毛に覆われた立派な尻尾が揺れているのが見える。

獣のように腰を低くして、喉を鳴らしてルビーさんを見つめているその姿は、まるで狼のようだ。

しかし。


「魔物……か?いや、あんな人型を保った魔物なんて見たことがない」


ギィが呟く通り、通常魔物は元の獣をベースとした異形の姿となるのであって(今私達の周りを囲んでいるコボルト達のように)、人間に近い姿をするものなんて私は知らない。

じゃあ、目の前の人狼の少女は一体――?



「………………………姉様」



ふと、少女が呟く。

恍惚とした表情を浮かべながら。


「姉様姉様姉様姉様姉様姉様姉様姉様姉様」


壊れたオルゴールのように呟き続ける。

そんな少女を見つめながら、ルビーさんは無表情のまま槍を構える。

だけど。


「やっと会えた、姉様。見つけ出すまでに、百年以上もかかった。だけど、もう誰にも渡さない。“九番(ノイン)”姉様」


「お前――!?」


少女が口に出した名前を聞いた途端、初めてルビーさんが驚愕の表情を浮かべた。

一瞬。構えを緩める。


その隙に。


「あはっ!」


距離を詰め、ルビーさんの目の前に。


「っ」


そのまま身体をねじり、空中で半回転しながら強烈な後ろ回し蹴りをルビーさんの横腹に叩き込んだ。


「――っ!」


何かが砕ける鈍い音を響かせながら、ルビーさんはそのまま弾き飛ばされ、後方の馬車に激突した。


「ルビーさんっ!」


馬鹿な。人間の脚力じゃない!


“イイゾ!サスガオレタチノ、ハハオヤ(、、、、)ダ!”


“………ジャマモノ、キエタ!”


“ニクダ!ニクダ!ニクダ!”


即座に、コボルト達があの不快な粘ついた声で騒ぎ始める。


「っ!」


一瞬、長身の男と対峙していたソニアさんがこちらに気を取られる。

その僅かの間に。


「ハハッ!遅えッ!」


渾身の右ストレート。それを、何とか反応して両手を交差して防御するが、そのまま数歩後ろへと弾き飛ばされていた。


「くっ!」


「ハハハーハッ!足りねえぞ、ソニアぁ!」


赤毛のヴァンパイアの吼える声が聞こえる。


「ボヤっとしていないで、貴女達も動きなさい!」


マリーがこちらを見て叫びながら、右手を左から右へと薙ぐ。


それだけで、辺りに突風が起きて正面のコボルト達が数匹切り裂かれながら絶命する。


“……ニク!ニク!ニク!”


しかし、今度はコボルト達は怯むことなく、こちらへと武器を振りかざしながら駆けてきた。


「フィー、ギィ!」


「うんっ」


「あいよ!」


震えながら事態を眺める姫様を囲むように、三人で周囲を固める。

そして。


「はぁっ!」


正面に現れたコボルトを上段から剣を振り下ろし、斬り付ける。

剣先に嫌な感触が伝わり、そのまま血飛沫を上げてコボルトは倒れた。

だけど。


“………ニクダ!クワセロ!”


次から次へとコボルト達がこちらへと殺到する。


「えいっ!」


フィーが横殴りに斧を振り抜き、数匹コボルトを叩きつぶす。

それでも、勢いは止まらない。


「ちっ!」


ギィが両手をかざし、辺りにつむじ風を巻き起こして、コボルト達は全身を切り刻まれて血を流しながら体勢を崩す。

それでも、それでも雪崩のように怒声を上げながら駆け込んでくる!


「くそっ!」


「数が多すぎるよっ!」


斬っても斬っても。

次から次へと獲物を求めて躙り寄ってくる獣達。

と。


「鬱陶しいですわよっ!」


マリーがコボルト達の群れに飛び込み、その中心で両手を振り回しながら優雅に舞い踊った。

それだけで。

周りの数匹と居たコボルト達がバラバラと細切れの肉片となって崩れ落ちる。

彼女の両手には、人間にしては鋭い爪が伸びている。

まさか、あの爪をもって目に見えない程の速度でコボルト達を引き裂いたのか?


「まったく。美しくないですわね」


コボルト達の血溜まりの中、凄絶な笑みを浮かべながら嘆息する。


「ルビー!だらしないですわよ。いつまでおねんねしていますの?」


「……言われるまでもありません」


マリーの叫び声に対し、砕けた馬車の残骸から、何事もなかったかのようにルビーさんが立ち上がる。

そして、人狼の少女に向かって、呟いた。


「………生きていたのですね、“十番(ツェーン)”」


ルビーさんの言葉に対し。


「ああっ。姉様姉様、姉様!あたしの名前を覚えていてくれた!」


両手で身体を掻き抱き、震えながら身悶えするように少女は叫ぶ。


「あたしは姉様だけを求めて生きてきた!十年、五十年、百年!でも、もうそれも終わり」


その両の爪で自身の身体を引き裂きながら、狂ったような笑みを浮かべて嗤う。


「あの地獄のような、ガラスケース(、、、、、、)の中で、姉様とだけ過ごしてきたように。もう誰にも姉様を渡したりするものか」


そこで言葉を切り、少女は笑みを消して、憎々しげに呟いた。


「あの薄汚い人間の売女に姉様を奪われたりしなければ、今でもあたしは姉様と一緒に居られたのに!」



「―――」



瞬間。


ルビーさんの周りに降り注いでいた雪が時間を止められたかのように空中で動きを止め、そのまま、まるでその一粒一粒が高速の指弾となったかのように少女に向かって弾け飛んだ。


「ギャンッ!」


超高速の雪粒の弾丸を全身に浴びた少女は、全身から血を流しながら後方へと吹き飛ぶ。


今のは、水を操る魔術?


「お母様のことを侮辱する者は、例え誰であろうと、殺す」


降り積もる雪が凍り付きそうなくらい、ルビーさんは冷たく呟いた。


「マリー様。あなたも遊んでいないで、その汚らわしい獣共を早く片付けて頂けませんか?」


そのままこちらを見て、ニコリともせずに言う。


「言ってくれますわね。夜にさえなれば、それこそ文字通り瞬く間にこの子達を血の海に沈めることができるのですけれど、ね」


言い、マリーは上空を数秒眺めた。


上空には、雪を降らせる分厚い雲が覆っているが、幸いにして太陽は出ていない。

しかし、昼間に活動するには、ヴァンパイアたるマリーにとって本調子とはいかないのだろう。


私達の遙か前方で、コボルト達を薙ぎ倒しながら、息もつかせぬ攻防を繰り広げているソニアさんと赤毛の男も、きっとそうなのだろう。



「姉様あアァァァ――ッ!」



血塗れのまま、人狼の少女はその場で跳ね上がり、両の爪を伸ばしてルビーさんに向けて駆ける。


「――っ!」


ルビーさんはその場で槍を回転させて両手の手に持ち替え、少女へ応戦していた。

それを見届け、マリーはその場で嘆息する。


「やれやれ。しょうがないですわね。肉弾戦は趣味ではないのですけれど」


ぞろぞろとこちらへ向けてにじり寄ってくるコボルト達に、マリーは掴み掛かり無造作にその身体を引き千切っていた。


人間離れした、尋常じゃない膂力。

周囲の雪が赤く染まる中、蠱惑的な微笑を浮かべながらコボルト達を引き裂いていく彼女の姿は、まさしく、ヴァンパイア達の王だ。


「ロゼっ!」


フィーの叫び声。


「くっ!」


咄嗟に身をよじる。

私のすぐ横をコボルトの投げた石斧が飛んでいく。

危なかった。


「ボケっとしてんなよっ!」


ギィの叫びに頷きつつ、近寄ってきたコボルト達を斬る。斬る。斬る。

上段。中段。下段。

剣を縦横無尽に振り抜き。


すぐ隣では、同じくフィーが、同じくギィが、その斧で、その魔術で、コボルト達を倒していく姿が見える。


ソニアさんがあの赤毛のヴァンパイアに、ルビーさんがあの人狼の少女に抑えられている今、マリーの他私達だけで百体を超える血に飢えたコボルト達から姫様を守り抜かなければいけない。


「はぁっ!」


剣を股下から斬り上げ、相手の棍棒ごと切り裂く。

血を浴びる。

あと、何体斬り殺せば――。






………。





………。





………。






「はぁっ。はぁっ。はぁっ」


息づかい。

血に濡れた匂い。

腕が重い。

喉が焼け付く。

雪が降り、発汗した身体に濡れて、溶けていく。


「ああぁっ!」


斬る。また一体。

どれだけ斬った?

どれだけ殺した?

全身が焼けるように熱い。

無数の傷跡。湧き出る血。


「はぁっ。はぁっ。はぁっ」


隣から、フィーが斧でコボルトを叩き割る音が聞こえてくる。


“………ニクッ!ニクダッ!”


コボルト達の粘ついた怒声。


ギィが風の魔術でコボルトを切り裂く音。


遠くには、赤く血に濡れて、まるで死に神のように黒いドレスをさらに黒く染め、コボルト達を磨り潰していくマリーの姿が見える。

さらにその遠くには、ソニアさんが赤毛のヴァンパイアと切り合う姿が。

ルビーさんが人狼の少女と斬り合う姿が。


「あああぁっ!」


斬る。また一体。

周りを見る。まだ。まだまだ地獄の底から沸いて出てくるように、無数のコボルト達が。

いくら。何でも。多すぎる。


「………ちぃっ。自分独りならともかく、貴女達を守りながらでは」


マリーが両手を振り上げ。


「数が多すぎますわねっ!」


そのまま振り下ろす。その衝撃波だけで、数匹のコボルト達がひしゃげて潰死する。


その光景をどこか現実離れしたもののように見つめる。

私は、一体、ここで、何を――?


腕が、重い。



「もう良い」



後ろから、声が聞こえる。

後ろ?

後ろには、誰もいない筈。

いや、違う。

守るべき。姫様が。

姫様の声。



「もう良い。ロゼッタ、フィーメラルダ、シャギィ!そなた達だけでも逃げろっ!」



泣くような声。叫び声。姫様が、泣くところを私は、そう言えば、見たことがない。



「頼むから、逃げてくれ!もう十分じゃっ!」



「ど……う、して?」



喉がひり付いて、うまく声が出ない。


姫様の声を聞きながら、意識に反して私の身体は動き続ける。

コボルト達を。



「わらわのために、そなたらが死ぬことはない!もう良い、もう良いから!」



逃げる?

そんなこと。できる訳が。

だって。



「姫、様は、どうして逃げないの…ですか?」



そうだ。姫様は初めから王が自分の命を狙っていることを知っていたと、言っていた。

王から命を狙われる。

それはつまり、国から命を狙われるのと同じだ。

だったら、姫様は何もかもを捨てて逃げるべきだったんだ。

助かるためには。

なのに、姫様は逃げなかった。

どうして?

あの優しい龍がいる古城にでも、逃げ込めば良かったのに。

なのに、どうして、姫様は、逃げずに立ち向かったんだ?



「どう、して、何もかも捨てて、逃げなかったのですか?」



「………それは」



私の問いに、姫様は言い淀む。

それでも、息を吸い込み、全て吐き出すかのように。



「――それは、わらわが父様を愛しておるからじゃ!」



泣き叫ぶ。



「わらわは、ずっと、ずっと父様に愛して欲しかった!」



あの気丈な姫様が。



「戦争なぞ放っておいて、わらわの頭を撫でて欲しかった!抱きしめて欲しかった!」



コボルト達を斬り殺す音が響く中、姫様の叫び声だけが切り取られたかのように静かに聞こえる。



「なのに、なのに父様は戦争のためにわらわを憎み、戦争のためにわらわを殺そうとする!」



後ろに、姫様の体温を感じる。



「わらわは、ただ一言、ただ一言でも、父様に愛していると言って欲しかっただけなのに!」



だから。



「なのに、何故なのですか、父様!なぜ、わらわを、殺そうとするのですか!わらわは――!」



そのまま、堰を切ったように泣き叫ぶ。

だから。逃げなかったの、だろうか。

姫様は。ただ、愛して欲しくて。たとえ、父王が自分を疎んでいたとしても。いつか自分を愛してくれると信じて。

戦争を止めようとするのも、戦争が止まれば、いつか自分を抱きしめてくれると信じて。

それだけのために。

姫様は。



一瞬、私の脳裏に、昔の、ずっと昔の光景が過ぎる。



あれは、まだ母上が生きていた頃。

まだ曾御祖父様が生きていた頃。

まだ、私が母上のことをお母様と呼んでいた頃。

まだ、私がこの世の成り立ちの残酷さに気付いていなかった頃。


一度だけ、父が私の頭を撫でてくれたことがある。


その日、私と母はコーンフィールド家の広大な敷地内にある、お花畑で遊んでいた。

母は、そこで私に花かんむりを作ってくれ、私に被せてくれた。

私は笑い、母も笑っていたと思う。

そこに、父が前触れもなく現れた。

母が萎縮した様子で佇んでいたのを覚えている。

だけど、父は、いつもなら怒り出すところを、ただそっと私の頭に手を置いて、数秒撫でてくれた。

そして、そのまま何も言わずに去っていってしまった。

次の日には、父はもういつもの暴君に戻っていたけれど。



どうして今、そんなことを思い出したのだろう?



私は、戦いの最中だと言うのに、何かに引き寄せられるかのように後ろを向いて、姫様の顔を見た。



涙でくしゃくしゃに歪めて、小さな子供のように大声で泣いている。



私は、ここで、一体、何をしているんだ?



――尾羽も生え揃っていないひよこが転属願いを出すなど、百年早い。



隊長の声がふと耳に蘇る。

ロイヤルガードにいては経験が積めない?

経験を積むためには他の隊に行く必要がある?

私は、何を見てきたのだろう。

私は、今までここで何をしてきたんだ?

何のために強くなろうとしていたんだ?

父を。

母を殺した。

私は。


目の前の、悲しみから泣き叫ぶ一人の女の子さえ、守ってやれない。



私は――!



「ロゼっ!」



「――えっ?」



急に横から吹き飛ばされる。

左肩に、鋭い痛みが走り、苦痛に顔を歪めながら倒れ込む。


「ロゼ、フィー!」


ギィの叫び声が聞こえる。

眼を明け、先程まで私がいた場所を見ると。

そこには。



「フィーっ!」



腹部に矢を受け、血を流しながら倒れ込んでいるフィーの姿が。

鎧は、長い戦いの影響からか、砕けている。

その隙間を縫うように、矢が深く刺さっていた。

見る限り、貫通している。


立ち上がり、駆け寄ろうとすると、左肩に激痛が走る。

見ると、私の左肩にも矢が一本刺さっていた。


フィーが、庇ってくれたのか?


「バカっ!どうしてっ!」


痛みを無視して、フィーに駆け寄る。

すぐ傍では、涙で濡れた顔を真っ青にしながら、震えながらフィーを見下ろす姫様の姿が。


周囲からは、コボルト達の下卑た笑い声が聞こえる。


「邪魔ですわよっ!」


異変に気付き、マリーが周りのコボルト達を薙ぎ倒しながら、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。


「うっ、…ロゼは、大丈夫だった?」


「バカっ、バカ!どうして、フィー!」


苦痛に顔を歪めながら、それでも穏やかな顔で笑いながら言う。


「ふふっ。……私は、衛士だもん。仲間を、守るのが、仕事」


つっかえながら、それでもはっきりと、そう言った。


「フィー!」


腹部から、血が止めどなく流れている。

ああ。このままでは。


「私は、鈍くさいから、…これくらいしか、ロゼ達の役に立てない、から」


「そんなこと――!」


「おどきなさいっ!」


マリーがフィーに駆け寄り、傷口を見る。


「不味いですわね。内臓まで傷つけている可能性がありますわ」


「そんな、それじゃフィーは!?」


「あたくしに任せなさい」


マリーはフィーの横腹に刺さった矢を掴み、優しく語りかける。


「少し、痛みますわよ?」


フィーが頷くのを確認してから、マリーは手刀で矢を切り落とす。

そして、鏃が付いている方を押さえ込み、貫通している背面から矢を抜き放った。


「ああああぁぁっ――っ!」


それだけで、苦痛からフィーは叫び声を上げ、そのままぐったりしたまま動かなくなった。


「フィーっ!しっかりしろ!」


「大丈夫ですわよ。気絶しただけですわ」


そう言って、マリーは傷口に両手をあてがい、そのまま押さえ込んだ。

すると、傷口から流れ出る血が止まる。


「あたくしの魔力を流し込んで、身体の自然治癒能力を高めていますけれど、所詮その場しのぎに過ぎませんわよ。すぐにでも、ちゃんとした治療を受けさせなければ」


そんな!

治療を受けさせると言ったって、こんな場所のどこで!



「よくも、よくもフィーをやったなぁーっ!」



事態を見ていたギィが、怒りに震えながら叫び声を上げる。

そしてそのまま両手を振りかざす。


ギィの身体から溢れ出る魔力が周囲の大気を収束させ、触れる者全てを切り裂く竜巻を生み出す。

竜巻に巻き込まれたコボルト達は切り刻まれながら辺りに血を撒き散らした。


しかし、コボルト達の動きは止まらない。


マリーがフィーの治療のため動けないのを勝機と見たのか、そのまま雪崩の如くこちらに押し寄せてくる。



「お願いじゃ!頼むからもう逃げてくれ!」



背後から姫様が泣き叫ぶ声が聞こえてくる。


だけど。



「あああああぁぁぁぁ――っ!」



私は叫び声を上げ、無我夢中に剣を振り回し、近寄ってきたコボルト達を次々に斬り殺していく。



まだ。まだ身体は動く!

まだ私はやれる筈だ!



「ロゼッタ!もう良いのじゃっ!はやく逃げろっ!」



嫌だ。

もう、逃げたくない。

ああ。

力が。

力が欲しい。

力が欲しい!

私は何て無力なんだ!

力が、力が欲しい!

父を見返すためでもない。

あの家に復讐するためでもない。

大切な人を守る力が欲しい!

大切な人達の笑顔を守る力が欲しい!


私と姫様は同じだった。

同じ傷を持っていた。

だから、どれだけ姫様が生意気で、時には憎たらしく思えても、それでも近くに居続けたんだ。

子を憎む親。

親を憎む子。

血と憎しみの連鎖。
だけど。



「ロゼッタっ!」



姫様の泣き声が聞こえる。

姫様の涙は初めて見たけれど、あの綺麗な滴こそがこの世で最も綺麗な宝石だとさえ思う。

だけど、あの美しい宝石が最も綺麗に輝くのは、こんな血なまぐさい戦場でなんかじゃない!

断じて、ないんだ!

だから、姫様の涙を止めるためには、私は――!




「私が!私が、姫様を守る!守ってみせる!これから、ありとあらゆる苦しみから、悲しみから、憎しみから、あなたの父に代わって、あなたの父の分まで、あなたの父以上に!」




だから。




「かかって来るがいい、魂なき獣共!私が居る限り、姫様には指一本触れさせるものか!私は、私の名は、ロゼッタ・オールデーズだっ!」




宣言するように、剣を上段からコボルト達に叩き付ける。

考えるより先に足を前に出せ!

望む場所に辿り着くために!みんなと共に!


ギィがこちらを驚くように見て、それからニヤリと笑う。

マリーが、フィーの治療をしながら強く頷いてくれる。


姫様は。

姫様は、きっと私の後ろで、いつものあの尊大そうな笑みで笑ってくれている筈だ!



姫様が私の後ろにいる限り、私は何者にも負ける気がしない――!




“よくぞ吼えた、ロゼッタ!”




上空から、叫び声が聞こえる。

ああ、この落ち着くような深いバリトンは。


「お父様っ」


ルビーさんが遠くで声を上げているのが聞こえる。


「やれやれ、遅いですわよ。まるで狙ったようなタイミングですわね?」


マリーが苦笑いしながら、それでも嬉しそうに呟く声が聞こえる。



ああ。上空から大きな翼を羽ばたかせる音が聞こえる。

それは。



「アインハート殿っ!」


「おじ様っ!」



雪が降り注ぐ上空には、黄金色の瞳を持った、あの白い龍が翼を羽ばたかせながら浮かんでいた。







[10769] 三章・05
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2009/10/08 00:44

雪が降り注ぐ中、その大きな両翼を力強く羽ばたかせながら浮いている龍の姿は、どこか幻想的で、まるで物語の中の一コマのようだった。


そのまま、翼を一度はためかせた後、私達の眼前に白い龍は優雅に降り立った。


黄金色の瞳を、何とか立っている傷だらけの私達に向けた後、力強く頷いてくれる。

そして、コボルト達の方に顔を向けて、その瞳を細めた。


“人の庭先で、よくもまぁ、好き勝手にやってくれたものだな”


そう呟いた瞬間、辺りの気温が急激に上がったかのように感じた。

龍を包むその白い鱗がギラつくように輝いたのが見える。

それだけで、周囲にまだ数十匹と残っていたコボルト達が、怯えたように数歩後ずさった。

ああ、それは本能的な恐怖だ。生物としての。圧倒的な存在感。


しかし、私にとっては、彼の姿を見ていると、畏怖を覚えるのと同時に、身体の芯から温まるような、不思議な安らぎを覚えるのだった。


「――っ」


アインハート殿の姿を見て安心したのか、急に足に力が入らなくなって、その場によろけそうになる。


そんな私に気付き、姫様が駆け寄り、腕を取って支えてくれる。

涙目になりながら、それでも気丈に私を睨み付けている姫様は、やっぱり、とても可愛い小さな女の子だった。


………そうか。

ここはまだ帝国側の国境を越えてはいないとは言え、ノーザリン山脈の中腹までは来ていたのか。

人間の足なら王国まで何日もかかる山道でも、龍の身にとっては山脈全体が自身の庭同然、と言う訳か…。


私は姫様の腕を血に濡れた手で握り締めながら、安堵の息を吐き、そして目の前で勇壮な姿を見せている龍を見つめた。


「ハッ!こいつは、ちと予想外だったな。まさか武龍の大将が直々におでまし、とは」


ソニアさんと相対していた赤毛のヴァンパイアは、龍を警戒するように、大きく距離を取って後方へと跳んだ。


「………お前が。お前さえいなければ、姉様は」


人狼の少女も、ルビーさんから距離を取って、憎々しげに目を細めて、龍に向けて唸り声を上げていた。


“さて、君達が何者なのか私には皆目見当が付かないが、それはそれとして、友人達を傷付けられて黙っていられるほど、私は温厚ではないつもりだがね”


そう言って、その鋭い爪を研ぐように地面に突き立てる。

それだけで、周囲のコボルト達はさらに怯えた様子を見せながら後方へと下がった。


その様子を見て、人狼の少女が怒りに目を染めて、獣耳をぴんと立て牙を剥きながら怒鳴りつけた。


「何している!怯えていないで、あの龍の喉元に食らい付け!」


叫び声に呼応するように、数匹のコボルト達が恐れを振り切るようにその場を駆けた。


しかし。



ガアアアアアアァァァァァッ!



アインハート殿はその場で大きく口を開けて、耳が潰れるほどの大音量で咆吼を上げた。

傍にいた私達の身体にびりびりと衝撃が伝わってくるほどの声!

大きく開けた龍の口の中は、全てを塗り潰すほどに真っ赤で、その鋭い牙は全てを切り裂くように獲物を求めて輝いていた。


咆吼を目の前で受けたコボルト達は、完全に恐慌状態に陥って、武器をその場に捨てながら叫び声を上げ、一目散に崖の上へと駆け上がっていった。

それが合図だったかのように、残りのコボルト達にも恐怖が伝染したのか、数十匹が集団で怯えた唸り声を上げながら山の奥へと逃げ出し始めた。


「に、逃げるな!何をしている!お前達、あたしの言うことを聞け!」


山へと走り去っていくコボルト達を引き留めようと、人狼の少女が必死に叫び声を上げているが、コボルト達は彼女に見向きもせずに駆けていく。


“ふむ。獣とは言え、獣だからこそ、引き際だけは知っていたようだな”


逃げていくコボルト達を見ながら、感心したようにアインハート殿が呟く。


“それで、君達は引き際くらい知っているのだろうな?”


「――――ウウゥッ!」


龍の言葉に、人狼の少女は唸り声を上げて睨み付ける。


「よくも、よくもよくもよくもよくもよくもよくも!あたしの子供達を!」


そのまま飛び掛かるように姿勢を低く、牙を剥いて、爪を突き立て、憎しみの声を上げる人狼の少女。


そんな彼女の視線を遮るように、ルビーさんがアインハート殿の前に出て、槍を両手に構える。


「姉様!そこをどいて!そいつさえいなければッ!」


「お父様を傷付けることは、何人たりとも許しません」


ルビーさんの声を聞いて、人狼の少女は怒りを爆発させた。


「姉様ァッ!!」


地面に倒れ込む程前傾姿勢になり、その両足に少女が力を入れた、瞬間。

隣に立っていた赤毛の男が人狼の少女の肩を掴んで、彼女が駆けるのを止めた。


「離せぇッ!」


「馬鹿野郎が、止めておけ。コボルト共がいなくなった今、さすがにこの戦力差じゃ勝ち目はないぜ」


「―――~~ッ!」


悔しそうに唸る。

そんな少女の肩を掴んだまま、男はマリーと彼女の傍で構えたまま立っているソニアさんを静かに見つめた。


「あら。せっかく久しぶりに会えたというのに、このままおめおめと逃げ帰るのかしら、坊や(、、)


「ちっ。うるせえ、ババア。いつまでもオレを子供扱いしてるんじゃねぇ」


忌々しげにマリーに向かって吐き捨てる。


「んふっ。昔は女の子みたいに可愛い坊やだったのに、どこでどう間違ってこんな不良になってしまったのかしら。教育を間違ったかしらね?」


楽しげに笑って、マリーは隣のソニアさんに話しかける。


「あんたに育てられた覚えなんざねえよ!」


「ガートルード。一族の忌み子である貴様を、拾って育てられたマリー様のご恩を忘れたと言うのか」


厳しい目つきで長身の男を睨み付けるソニアさんに対し、赤毛の男は一瞬遠くを見つめて、それから口元歪めて、笑った。


「ハッ!くっだらねぇぜ。そんな大昔のことは忘れちまったよ。今のオレはあの人(、、、)のためだけに行動してるんでな」


「所詮、下賎な半端者か。動物の如く恩を忘れたばかりか、“伯爵”に毒されるとは」


蔑むようにソニアさんは呟いたが、さりとて、マリーの傍からは離れようとはしなかった。

マリーは、いつもの軽口を叩こうとはせずに、何故か悲しそうに赤毛の男を見つめるだけだった。


赤毛の男は、マリーのその視線を敢えて無視するように彼女から目線を外して、威風堂々と佇む龍へと目を向けた。


「古城に籠もりきりで、俗世の出来事になんか興味がないって専らの噂だったんだがな、大将」


“人の庭先で大暴れをしておいて、よく言う”


男の言葉に、アインハート殿は牙を剥いて笑った。


「ちっ。この場は退くがね。一つ忠告しておいてやらぁ」


“ほう、何かね?”


「あんた、うちのボスに大層恨まれてるぜ。何をしたのか知らないけどよ」


“ふむ。身に覚えがありすぎて、残念ながら分からないな”


右腕を器用に顎に当て、思案するように呟く。


「うちのボスは陰険でしつこいからよ。まぁ、精々寝首をかかれないように気を付けるこったな」


“ご忠告、痛み入る。覚えておこう”


まるで歯牙にも掛けていないかのように、言う。

そんなアインハート殿に対し、終始唸り声を上げながら人狼の少女が睨み付けていた。


「おい、逃げられるとでも思ってんのかよっ!」


赤毛の男に向かって、ギィが叫び声を上げる。

あれだけ戦った後だと言うのに、彼女の身体からはまだ魔力の波動が迸っていた。

魔術院始まって以来の天才と言われるだけあって、ギィの魔力の総量だけは院長にも匹敵すると言われているのだが、しかし。


「威勢の良い嬢ちゃんだな、おい。しかし、まぁ――」


言い、身を屈めて。


「思ってるけどなァ!」


そのまま男は風のように山へと駆けていった。


「あ、おい、待てっ!」


傍にいた人狼の少女も、もう一度唸り声を上げて龍を睨み、次いでルビーさんを数秒見つめた後、やはり疾風の如く崖を駆け上がっていった。


「待てーっ!こんの野郎ーっ!」


ギィが二人を追いかけるように走り出す。

が。


「お止めなさい。今はそれより、この子の治療の方が先決ですわ」


フィーの横腹に手を当てて、魔力を流し込みながら手当をしていたマリーが呟く。


「うっ、うん、……分かったよ」


若干不服そうな顔を見せたが、苦しそうな顔をして気絶しているフィーの顔を見て、ギィは走り出すのを止めた。


辺りを見る。

あんなに、まるで無限に沸いて出るように思えたくらいの、大量のコボルト達は今では影も形もなく、この場に残っているのは血の海に沈む数え切れない獣達の死骸のみ。



お、終わったのか?



そう思った瞬間、今度こそ全身から力が抜ける。


「ロ、ロゼっ!」


身体を支えてくれていた姫様が、急に倒れ込みそうになった私を両手で押さえる。


「だ、大丈夫です、姫様。ちょっと疲れただけで…」


「し、しかし、そなたも早く手当をしなければ」


自分の身体を見ると、あちこち獣の血で濡れて、真っ黒になっていた。

そして、素肌の部分には多くの切り傷が。

あーあ。これじゃあ、もうお嫁には行けなくなっちゃったかな…。

ふふっ。

そんなこと、考えたこともなかったのに。


瞼が重くなる。


目を開けているのが億劫だ。


身体が泥のように、重い。



「お父様」


“ああ、分かっている。みんな私の背に乗せなさい。私が麓の町まで運んでやろう。あそこになら、腕の良い医者の知り合いがいる”


遠くで、ルビーさんとアインハート殿が話している声が聞こえる。


「なあ、あんたが町まで飛んでいって大丈夫なの?」


ギィが無邪気に尋ねる声。


「お父様は空中散歩と称して山脈中を飛び回っていますから、今更町に降り立ったところで、さほどパニックにはならないでしょう」


「貴方、普段から何をしてらっしゃいますの?」


“はっはっは。まぁ、いいではないか。そんなことより、そこのお嬢さんは危険な状態だろう?早く私の背に乗せたまえ”


朧気に、マリーがフィーを抱えて、屈んだ龍の背に丁寧に運び乗せている姿が見える。


「ロゼ、ロゼ?しっかりするのじゃ。今から、おじ様に町まで連れて行ってもらうからな」


姫様の声が遠くから聞こえる。

ああ、心地よい。

とても良い気分だ。

私は、やり遂げたのだろうか。

今度は、ちゃんと守り切れたのだろうか。


私の身体が今、どうなっているのか、もうよく分からない。

姫様の傍に立っているような気もするし、どこかに寝かされているような気もする。


「ソニア、貴女は土砂の向こうにいる人間達に姫様のことを伝えておきなさい。心配して捜索されても困りますし」


「はい、仰せのままに」


「まぁ、コボルト共はみんな逃げ去ったようですし、危険はないと思いますけれど、ね」


そうだ。隊長達…。

みんな、無事だといいな。

馬を連れて逃げるように言った御者も。後方にいた馬車のみんなも。

みんな、無事だといい。そうなら、最高だ。



「ロゼ?ロゼっ!」



姫様の叫び声。

また、泣いているのですか、姫様?

大丈夫です、姫様。

これからは、私が、あなたを守りますから。


だから、泣かないで、姫様。


“早く彼女も乗せなさい。急いで飛び立とう”


「おおー。すっげー。これが龍の背中かぁ」


「あら、ルビー。何を不服そうな顔をしているのかしら?」


「別に。何でもありません」


「んふふっ。今までは、貴女だけの特等席だったものねぇ。拗ねているのかしらぁ?」


「ロゼ、今から飛び立つからのう。しっかりするのじゃぞ!」


「それでは、マリー様。お気をつけて」


みんなの声が聞こえる。

ああ、良かった。

私はきっと、やり遂げたんだ。

そうでなければ、こんなに心安らかになったりするものか。

ずっと、ずっと、母上が死んでからずっと。

私の心が本当の意味で安らかになったことなんてなかったのに。

父。

家。

だけど、今はこんなにいい気持ちだ。

ああ。


曾御祖父様。

お母様。


ロゼッタは、ちゃんとやり遂げました。


だから、今度は、私を――。







………。






………。






………。







声が聞こえる。

風の音に混じって、人の声が。


「やれやれ、一時はどうなるかと思いましたわ」


“すまないな、マリー。無理を言って”


「いーえー。愛しの貴方の頼み事ですもの。これくらい何ともありませんわ。ですけれど、これでまた、貴方への貸しが一つ増えましたわね?」


“………まだ、あの時のことを根に持っているのか”


「当然。一生忘れませんわよ。だから、貴方が借りを返してくれるまで、一生付きまとってあげますから、覚悟しておくことですわ」


「マリー様。しつこい女は男性に嫌われるらしいですから、少し自重なさっては」


「うるさいですわよ、ルビー」


“お前達はいつまで経っても姦しいままだな。そんなに騒いでは、彼女達が起きるぞ”


「あら、四人揃って可愛い寝顔ですわね。お腹に矢を受けたこの子はともかく、他の子達は疲れて寝てしまったのかしら」


“寄り添うように固まって寝ている姿を見ると、まるで四姉妹のようだな”


「お父様、ちゃんと前を向いて飛んでください」


“なに、ここら辺の上空は私の庭のようなものだ。心配することはない”


「っと。今頃になって晴れてきたようですわね。雲の合間から陽の光が」


「晴れるのがもう少し早ければ、少し危なかったかもしれません」


「まぁ、そうかもしれませんわね。私とソニアはともかく、あの子は陽の光を浴びても平気な身体ですし」


“ふむ、ごらん。血と泥に濡れて汚れた姿でも、陽の光を浴びながら安らかに眠っている彼女達の姿は、なかなか神々しいものだと思わないかね?”


「確かに。まるで一枚の絵画のようです」


「………貴女に芸術が分かるとは思えませんけれど、ルビー。大体貴女は彼の言葉なら何でも肯定するだけじゃないですの」


「そんなことはありません。最近の私は反抗期なのです」


「………どこでそんな言葉を覚えたのかしら、この子」


“陽の光の中、龍の背に眠る、紅の少女達、か”


「あら、詩人ですわね?」


「素晴らしい詩才です、お父様。ルビーは感服致しました」


「………どこが反抗期なのよ、貴女」


“はっはっは。さて、町もすぐそこだ。飛ばすぞ!”



風を切る音が強くなる。

それに伴って、私の意識も深く沈んでいく。


ああ。


おやすみなさい。









====









上空の青空は雲一つなく晴れており、蒼穹の空がどこまでも広がっていた。

春の淡い陽射しが空中庭園に注ぎ込み、木々や花々が陽に照り返って輝く。

むせ返るような甘い匂いが漂い、中央に流れる小川からは水のせせらぎが聞こえる。


空中庭園の中央には、二人の少女がいた。

白い純白のドレスを着て、頭に黄金のティアラを乗せて、尊大そうに佇んでいる少女。

そんな彼女の眼前で、白銀の鎧を身に着込み、片膝を立てて跪き、騎士剣を差し出している黒髪の少女。

ルージュ姫に、ロゼッタ嬢だ。


私は、そんな二人の様子を、少し離れた場所から眺めていた。

龍として巨躯の私が近くに居れば、二人の神聖なる晴れ舞台が台無しだろうと思っての、配慮である。

私の傍には、いつものように、娘のルビーが執事服を着て控えていた。


姫と騎士の後ろには、フィーメラルダ嬢とシャギィ嬢が、王国式の敬礼をしながら同じく控えている。

みな、礼装をしていた。



あれから。

あの山道でコボルト達に襲われてから、もう数ヶ月経っていた。

幸い、フィーメラルダ嬢の怪我も初期治療が適切だったのか、致命傷になることはなく、長いリハビリを経て今も元気な姿を見せている。

他のみんなも同様で、全身に大小様々の怪我を負っていたが、今では全快していた。

山道の向こうに置き去りにされたディエナ達も、王国兵とコボルト達に襲われはしたが、彼女の卓抜した指揮のお陰か、死人を出すこともなく、みな無事だったと聞く。


一度だけ、彼女がエルターザ姫を連れてお礼を言いに来たことがあった。

ディエナからは彼女の部下を守ってくれたことを。

エルターザ姫からは彼女の妹を守ってくれたことを。

それぞれお礼を言われたが、実際、私にとっても乗りかかった船のようなもので、そこまで大したことをした訳でもなかったので、恐縮ではあった。


まぁ、私などは、最後に美味しいところだけを奪っていったようなものだしなぁ。

頑張ったルビーやマリーに申し訳ないことである。


ルージュ姫は、結局、どうしようもなく、父王と和解することはなかった。

彼女の父が命を狙っていることが確固たる事実として判明した後でも、それでも、彼女は逃げずに王宮に留まることに決めたそうだ。

彼女はまだ、自分の父を信じているのだろうか。

いや、そうではない。

彼女は、自分の大切な友人達を信じることに決めたのだ。

きっと、自分を守ってくれる、と。



「たとえ我が剣砕け、心折れようとも。たとえ我が盾砕け、心挫けようとも。たとえ我が槍砕け、心蝕まれようとも。我、汝がために戦わん。汝がために血を流さん。汝がために立ち上がらん。我、常に汝と共に在り、汝の意志に従い、汝の剣となることを、ここに誓わん」



ロゼッタが騎士の誓いの成句を唱え、刃を逆に、ルージュ姫に剣を捧げる。

姫は剣を受け取り、力強く頷いた後、剣の刃をロゼッタの肩にそっと当てる。

そして、誓いの言葉を唱える。



「天上神の名にかけて、汝の剣を、ここに受け取ろう」



守護騎士の、誓い。

ルージュ姫が王宮に残ることを決めた際に、護衛騎士であるロゼッタは一つの条件を出した。

それは、自身を守護騎士に任命してもらうことだった。

彼女もまた、姫と同じく覚悟を決めたのだろう。

未来永劫、二人の鼓動が止まるまで、姫の命を守り続ける、と。

守護騎士となれば、彼女は騎士団の指揮下から離れ、姫を守るためだけに行動することが許される。

もっとも、ディエナがエルターザ姫の守護騎士を務めながら、ロイヤルガードの隊長をしているように、守護騎士となったからと言って騎士団から籍を外さなければいけない訳ではないらしいが。


神聖なる誓いの儀式の立ち会いを頼まれた私は、二つ返事でここ空中庭園を使うことを快諾した。

王国内で、最も天に近い場所。

ここであれば、彼女達の誓いが真実であることが、天上にいると言われる神にも伝わっただろうから。


「これで、そなたはわらわの物じゃっ!もう、今後勝手な行動は許さんから、その旨覚悟するが良いぞっ!」


ルージュ姫が自慢げに叫ぶ声が聞こえる。

それに対し。


「姫様こそ、私が守護騎士となったからには、今までのように悪戯ばっかりすることが許されると思わないでくださいね」


ロゼッタが不敵そうに返していた。

後ろで、フィーメラルダとギィが笑う声が聞こえる。


ああ。

彼女達ならば、大丈夫かもしれない。

彼女達ならば、これからの王国を任せてもいいのかもしれないな。



この国をこのように変えてしまったのは、私だった。

姫が真実憎む相手がいるとするならば、それは戦争に明け暮れる父王ではなく、私であるべきだったのだ。


私の知る限り、トレンディア王国は戦争とは縁遠く、大陸の中央に位置する立地を活かして、外交と交易とで周辺諸国との併存を図ってきた国であった。

少なくとも、私がまだ武龍と呼ばれるより前の時代では、そのような国であった。


それが、鉄と剣の国に変わってしまったのは、あの哀れな王が私の元を訪れたことが切っ掛けだったのだろう。


武龍王。オルフィオ・フォウ・トレンディア。

ノッドラートとの戦に巻き込まれ、妻を亡くし、悲嘆にくれた孤独の王。

戦火が激化する中、彼は私の居城を訪れて、虚ろな瞳で援軍を要請してきた。

たとえ龍の身であったとしても、同じトレンディアの国土に住む者同士、ノッドラートと共に戦ってくれないか、と。

初めて彼に会った時、あの王は、今では伝説に唄われるような武勇誇る勇壮な王ではなかった。

最愛の者を失い、終わることのない戦いに疲弊し、この世の全てに絶望した一人の疲れた人間の男だった。


最初、私は彼の頼みを聞くつもりは一切なかった。

彼に手を貸す義理もなければ、人の歴史に関与するつもりもまた、全くなかったから。

しかし、それは。

彼が私のことをある名前で呼ぶまでは、の話である。

彼は、私のことを名前で呼んだのだ。


クロール(、、、、)ロックハート(、、、、、、)、と。


その名前を、王は彼の祖父から教わったと言っていた。

オルフィオ王の祖父。彼はきっと、彼女(、、)から私のことを聞いたのだろう。

彼女(、、)は一時、王族と懇意にしており、王の祖父がまだ若く少年であった頃、後に妻となる女性にプロポーズする場面に居合わせたこともあったという。

それほど、彼女(、、)は王族と、特にオルフィオ王の祖父と懇意にしていた。

その頃に、王の祖父は、暗い鉱山の迷宮奥深くに棲む、一匹の龍のことを話に聞いたに違いなかった。

そして、祖父から孫へと、龍の話を受け継いでいったのだろう。


クロール(、、、、)ロックハート(、、、、、、)


その名を聞いて、私は一気に遠く遠く昔へと意識を舞い戻された。

その名を軽やかに呟きながら、私に向かって楽しそうに笑いかける彼女(、、)


ああ。人間の寿命はどうしてこうも、短いのだろうか。

龍の寿命はどうしてこうも、気が遠くなるほど長いのだろうか。


私は、王の頼みを受け入れることにした。

ルビーは大層反対していたが、私は私の名を知る人間の男をどうしても助けてやりたくなったのだ。

それを人は、感傷と呼ぶのだろう。

だけど、感傷に浸って思い出に拘泥し、在りし日の幻を追い続けても、過ぎ去った日々は二度と戻ることはない。

そんなことくらい、私は知っていた筈だったのだ。

けれど、私は、人生に疲れた孤独な王に手を貸してやりたくなったのだった。


その結果、私の感傷は王を巻き込み、この国を妄執に取り込んで腐り落としてしまった。

王は私という心強い味方を得た結果、自身の心の穴を埋める欠片を戦争に見い出したようだった。


そこにはもう、心優しく、気の弱い小心の男の姿はなかった。

ノッドラートとの戦争に勝利した後も、妄執に取り憑かれた王の心は正気に戻ることはなく、恐らく死ぬまで王は永遠に戻ることのない失った日々を追い求め続けたことだろう。

戦争を起こし、戦争に明け暮れ、戦争に勝利し、また戦争を起こす。

そうして、過ぎ去ってしまった甘く切ない日々を取り戻そうとするかのように、オルフィオ王は戦い続けた。


その姿を見て育った彼の子らは、どういった影響を受けただろうか。

どのように歪んだ心を育んだだろうか。

戦争に取り憑かれ、自分を省みない父。

そんな父を見て育ち、無くした日々を取り戻すかのように父と同じく戦争に明け暮れる子。

その子はいつしか子供を産み、子供は同じく父に恋い焦がれ、憎み、妄執に取り憑かれ、在りもしなかった幸せな日々を追い求め続けるのだ。


血と憎しみの連鎖。


その連鎖を生み出したのは、私だった。

私の感傷が、王を妄執に取り憑かせ、王の妄執は彼の一族全てを取り込んで呪いとなってしまった。


私は王に手を貸すべきではなかったのだ。


私がするべきことは、私のかつての名を知る唯一の人間の男と、共に悲しんでやることだったのだ。

政事に追われ、妻を亡くしたことを悲しむ暇さえなく、彼を追いつめるかのように日々荒れ狂う戦乱の嵐。

そんな中で、悲しむことを、人の心を忘れてしまった孤独な王。

私は彼と共に悲しんでやれば良かったのだ。

あの王が人の心を無くしてしまう前に。


私は、それに気付かなかった。


私の罪。


私がかの王を変え、王族を呪い、この国を歪めてしまった。


償おうにも償い切れない、大きな罪であり、私の長い龍生の中において、今なお後悔していることの一つである。


しかし。

私の眼前で楽しそうに笑い合う彼女達なら。

彼女達ならば、この歪んでしまった国を元に戻せるのかもしれない。

王家にかけられた呪いを、血と憎しみの連鎖を断ち切ることが、出来るのかもしれない。


私はそれを期待している。



“では、祝いの品として、君にこれを授けよう”



ルージュ姫の前で恭しく佇んでいたロゼッタに対し、私は青く輝く短剣を爪に乗せて差し出した。


「これは――」


それを見て、ロゼッタは目を見開く。


私の身体の鱗とマリーに仕入れてもらった極上の青玉とを錬成して精製した、龍鱗の武具。


“龍鱗の短剣。銘は、イノセントサファイア”


ロゼッタは震える手で私の大きな爪から、その短剣を手に取った。


そして、鞘から抜き放ち、陽の光にかざす。


刀身が青色に鈍く輝き、辺りを照らした。


「きれい…」


ロゼッタが見とれるように呟く。

それに合わせて、他の三人も騒ぎ出した。


「すげーじゃん、ロゼ!」


「ロゼ、すごいよっ!」


「これでそなたも龍騎士ということじゃのう!」


周囲の声を聞き、呆然とロゼッタは言葉を出す。

目を青い刀身に向けたまま。


「私が………龍、騎士?」


“ああ、その短剣を持っている限り、君が龍騎士を名乗っても誰も咎めはしないだろう。どうするね?”


私の言葉に、彼女はハッとした様子を見せて、短剣から私の瞳へと目を向けた。

そのまま数瞬、私と彼女は見つめ合った。

その僅かの間に、惚けていた彼女の瞳が、燃えるように輝きだしたのが感じ取れた。


「―――いえ、私は龍騎士の称号を名乗るつもりはありません」


「どうしてさ、ロゼっ?」


「そうだよ!」


隣に立っていたシャギィとフィーメラルダがロゼッタに詰め寄る。

しかし、ロゼッタは何かを決意した顔のまま、私の瞳から目線を外さず彼女達の顔を見ようとはしなかった。

ルージュ姫だけは、騒がずに静かにロゼッタの横顔を見つめている。


「私は、私が龍騎士の称号を追い求めたのも、ただ父を、あの家を見返すために、復讐するために、追い求めただけでした。だけど、そんなちっぽけなことのためだけにこの短剣を振るうには、この剣の刀身は美しすぎます」


ロゼッタは、まるで宣言するかのように短剣を頭上に持ち上げて、そのまま鞘へと収めた。


「私は先刻、この場で天上神に誓いました。今後、私は姫様のためだけに剣を振るう、と。だから、私は、私には、それ以外のために振るう剣はもう、必要ないのです」


そう語る彼女の表情は、とても穏やかなものだった。

それでいて、強い決意を感じさせる声色だった。


「だから、この剣が、今後この蒼穹のように美しい青い輝きを失わないように、いつまでも無垢な刃でいられるように、私は二度とこの短剣を抜くことはないでしょう」


「………ロゼ」


「だから、私には、龍騎士の称号は、もう、必要ないのです」


そう言って、彼女は鮮やかな笑顔を見せた。


“そうか。それが君の決断であれば、私からは言うことはあるまい。ただ、せっかく君のために作った短剣だ。お守り代わりにそれは持って行くと良い”


「………よろしいのですか?」


こちらを伺うかのように話しかけてくる。


“ああ、構わないさ。その短剣とて、倉庫に仕舞われるよりかは、君に持っていてもらった方が嬉しいだろう”


「あ、ありがとうございますっ!」


そのまま、ロゼッタは短剣を握り締めて深く頭を下げた。


「ちぇっ。せっかくのチャンスだったのに。もったいないなー」


「ふふっ。でも、ロゼらしいよね?」


「うむっ。それでこそ、わらわの守護騎士じゃ!」


シャギィが、フィーメラルダが、ルージュ姫が、ロゼッタの決意を祝福するかのように笑い出す。


彼女達の笑い声を聞いていると、自然と私も笑い出したくなるのだった。

隣を見ると、ルビーも口の端を少し持ち上げ、優しく微笑んでいた。



だから、私は人間が好きなのだ。


人間を好きでい続けてきたのだ。



たとえ、大きな過ちを犯そうとも、深い後悔に押しつぶされそうになっても、それでも、私は人と共に生き、人と共に生き続けようと思うのだ。


彼女(、、)がそうだったように。


我が愛すべき愚かな人間達。



どうか。



彼女達が生きる“生”に、とびっきりの、幸せがありますように。





三章・おしまい






====


読む必要のないあとがき


三章は三話くらいで終わる予定だったのが、何をどう間違ったのか、五話にまで伸びてしまった。

反省。


あと、掲示板でいくつか指摘があったので、補足。

ガートルードに関しては、彼が何故女性名なのかは一応理由がありますので、その内語られることがあるかもしれません。覚えていれば。

別に、女性名であることに気付かず適当に付けたら間違っていた、なんて理由じゃありませんよ、ええ。

本当ですよ。そんな単純ミスをする訳がないじゃないですか。たぶん。



それと、土竜に関してなんですが、やっぱりモグラと読んでしまう人が多そうなので、アドバイス通りに地竜に直すことにしました。

そっちの方が響きも良さそうなので。

ついでに、それに伴って全編に渡って誤字脱字を修正しておきました。

指摘については、多謝。


四章については、一応構想はあるにはあるのですが、まだ何も手を付けていないので、少し遅れるかもしれません。

もっとも、空白の百年を埋める形での外伝的な話も書こうかなーとも思っていますので、次の更新はそっちになるのかもしれません。


それでは。
読了、多謝。




[10769] 間章Ⅰ
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2009/10/08 00:45
間章Ⅰ  龍と小さな魔女




王国歴832年




“ふむ、なかなか良い場所ではないか”


私は眼下に広がる巨大な白亜の城を見つめながら呟いた。

その城の周囲には寒々しい山々の岩壁が見え、険しい岩肌の下には遙か彼方の地上が見える。


「そうですね、お父様。バルファス様には後でお礼の言葉を贈っておきましょう」


私の言葉に、私の背に行儀良く座っていたルビーが答える。


“そうだな。あの道化も、たまには役に立つものだ”


安住の地を探していた私は、古い友人の魔術師からこの白亜の城について教えてもらったのだった。


翼を大きく動かし、人の手を離れて何十年も経ったであろう古い城を見つめながら、私はこの地に来るまでの様々な出来事を思い返す。



地龍の巣を離れて約15年。

私とルビーは長年狭い穴蔵に押し込められていた鬱憤を晴らすかの如く、大陸各地へと飛び回って旅をして過ごしてきた。

大陸北部の帝国で数年暮らしたこともあるし、大陸西部の公国に行ったこともあった。

もっとも、公国は法王府のお膝元にある“神の番犬”を自称する国であり、龍たる身の私にとってはなかなか住み辛い土地ではあったが。

また、南部の連合国に赴いたこともあった。

広大な砂漠の中で、せめて砂に飲み込まれないようにと団結し合って暮らしている砂漠の国々。

彼らの逞しさには私も学ぶところがあったが、あのうだるような暑さには参ったものだった。


そうして、大陸各地を飛び回り、安住の地を探し続けて過ごした旅の日々は、私達にとって有意義なものでもあっただろう。

しかし、そろそろ腰を落ち着けて一つの場所でゆったりと暮らす日々が懐かしくなったのも事実であった。


そうして、私とルビーは、二人で暮らす場所を求めて、この古い白亜の城に辿り着いたのだった。


トレンディア王国北部の、ゴドランド帝国との国境線沿いにあるノーザリン山脈の麓に人里離れて建っている、古い棄てられた廃城。


麓の町の人の話によると、この城は元々王国貴族の物だったらしいのだが、今から40年ほど前にその貴族が錬金術の禁術に手を出して失敗し、気が触れてしまったその貴族は城内の者を皆殺しにした後、自らも狂死してしまったという逸話が残っているのだそうだ。


それ以来、この城に寄りつく人は絶えてしまい、静かに朽ち果てるのをここで待っているだけだという。


まぁ、もっとも、そんな昔話が当てにならないことを私はよく知っているのだが。


ともかく、私はこの城の話を聞いた時に、ここに住もうと決めたのだった。



アインハート城。



古い言葉で“鉄の心”を意味する名を持つこの城は、“石の心”の名を持つ地龍たる私に相応しいものだと言えるだろう。


私は城の周りを一回旋回して空中で眺めた後、そのまま城内の中庭に静かに降り立った。

ルビーが私の背中からピョンと飛び降りる。


「これはまた………、掃除しがいがありそうです」


ルビーは中庭から辺りを見渡して、そう呟いた。

彼女の言葉の通り、何十年も人が住んでいないという噂話を体現するかの如く、城の外壁には草木が生え揃い、あらゆる調度品が朽ち果ててしまっていた。


“そうだな。この城に住むのであれば、とりあえず、外壁からでも手を掛けていかないとな”


言いつつ、私は城の中央に聳え立つ高い塔を見つめた。


“最終的には、あの塔の天辺に広いドームを建設して、そこに庭園を造ろうと思っているのだが、どうだ?”


私は興味深そうに辺りを見渡していたルビーにそう話しかける。


「あの塔の頂上に、ですか?それは素敵です、お父様」


微笑みながら、そう肯定してくれる。


“だろう?地底奥深くに繋がれていた私が、今度は神話に出てくるような天空の空中庭園に住む。カトレアなら喜びそうなロマンのある話じゃないか”


「ええ。お母様ならきっと喜んだでしょう」


夢のある話が好きだったものな、彼女は。


“さて、そうと決まれば早速取り掛かるとするか。この白亜の城を、大陸一美しい城に改造するんだ。なかなか骨のある仕事になるぞ”


あの地龍の巣を改造するのもなかなか大変だったのだが、今度はさらに大きな仕事となるだろう。


「はいっ、お父様」


ルビーの力強い返事を聞きながら、私は天を衝くかのようなその塔を眺めて一人微笑むのだった。





====





王国歴836年



城の工事も順調に進み、とりあえず何とか外装だけでも整えることが出来た頃に、私の城に初めての訪問者が訪れたのだった。



「ふぁー、すっごーい」



ある晴れた日の午後、私とルビーが中庭にて塔の頂上に作る空中庭園の設計について議論していた折りに、背後から幼い人間の女の子の声が聞こえてきた。


「でっかーい、おっきーい、かっこいーい」


口をポカンと開けて、目をキラキラと輝かせながらその小さな女の子は私達のもとへとトコトコと歩いてきた。

オレンジ色の髪を後ろで三つ編みにし、薄紅色の洋服を着ているその女の子は、少しませた様子の、良家のお嬢さんのように見えた。


「ねーえ、あなたがうわさの龍さん?」


私を見ても怖がる様子を一切見せず、嬉しそうに笑いながら話しかけてくる。


“いかにも、私がこの城の主の龍だが、どうやってここに来たのかね、小さなお嬢さん?”


私は城を改造するための材料集めと趣味の散歩のために城の周辺を定期的に飛び回ったりしていたので、ノーザリン山脈の麓にある町では、山脈の中腹にある古い城に龍が住み着いたと専らの噂になっているのだそうだ。

しかし、この城に辿り着くためには大人の足でも半日以上かかる険しい山道を越えなければならない。


小さな女の子が一人で来られる道程とは思えなかったのだが。


「んーとねー、空を飛んでやって来たのー」


そう言って、女の子は手に持っていた古ぼけた箒を自慢するように掲げた。


「―――まさか、浮遊術を?」


私の隣に控えていたルビーが、驚きの声を上げて私を見る。


風の上位魔術に、周囲の大気を操り空に浮くことのできる術がある。

しかし、その術の操作には練達の技術が必要な上に、大気を操り宙に浮くためには膨大な量の魔力を消費するため、熟練の魔術師でも数刻と空に浮かんでいられないらしいのだが、それにしても。


「うんっ、こうやって飛ぶのー」


その女の子は満面の笑みを浮かべると、箒に跨り、そのまま無造作に宙に浮いて見せた。


「―――なっ」


“はっはっは、これは凄い!長生きはするものだな、ルビー!”


ルビーが驚きの声を上げるところなど、何十年ぶりのことか。


女の子は箒に跨ったまま、器用に中庭の上空を旋回しながらこちらに向けて手を振ってくる。


私はこの言葉があまりに好きではないのだが、しかし、彼女のような者を人はこう呼ぶのだろう。天才、と。


“小さなお嬢さん!良ければ君の名を教えてくれないか?”


最大限の敬意を払って、空中で優雅に飛び回る小さな女の子に私は声を掛けた。


「あたちの名前はアップル!アップル・ロックハート、5歳ーっ!」


私の言葉に対し、女の子は楽しそうに笑いながら答える。

しかし。


“―――ロックハート(、、、、、、)、だって?”


今度は、私が驚きの言葉を上げる番であった。


「うんっ!」


アップルは大きく頷いた後、そのままクルクルと回って再び私達の目の前に降り立った。


“………アップル、君のご両親は何をしている人なんだ?”


「にゃ?んーとねー、町で物をいっぱい売ったり買ったりしてるよー」


“―――まさか”


ノーザリン山脈の麓の町、グリニンドは比較的王都から近い距離にある町で、山脈を通じて、帝国への交易路の入り口の町として商売が盛んな町でもある。

そのため、多くの商人達が身を寄せる町なのだが。


“はは、はっはっはっはっは!”


「お父様?」


突然笑い出した私にルビーが怪訝な声を掛ける。

しかし、これが笑わずにいられるものか。


私は遠い昔に無くしてしまった古い無くし物を突然見つけたような気持ちになっていた。



彼女はひょっとして、兄の子孫だろうか。それとも、泣き虫だった弟の子孫かもしれない。

どちらにせよ、もう二度と会うこともないと思っていた、彼ら(、、)に再び私は会うことができたのだ。



これほど、嬉しいことはない。



「きゃははっ。それで、龍さんは何て言うお名前なのー?」


“うん?私か、私は―――、そう言えば、もう名前はなかったのだったな”


私の笑い声に合わせて楽しそうに笑っていたアップルは、私に名前を尋ねてきたが、名前、そんな物は、もう私にはなかった。

遠い昔に、無くしてしまったままだ。


「お名前、ないの?」


“ああ、だから私のことは好きに呼ぶと良い”


「んーと、じゃーねー」


そこでアップルは初めて、少し恥ずかしそうに目を伏せて、私に言った。


「龍さんのこと、ししょーって呼んでもいい?」


“ししょー?ああ、師匠のことか?”


「うん、それー」


“別に構わないが、何でまた?”


「えっとねー。ここには空を飛んできたのだけどね、ほんとは飛んじゃダメなのよ、あたち」


そのまま恥ずかしそうにモジモジと俯く。


「お母しゃまが危ないからあたちに飛んじゃダメって。でも、あたちはやっぱりお空を飛びたいのよー。だから、あたち考えたの!」


顔を上げ、キラキラした瞳で私を見つめながら、言う。


「もっとお勉強して、いっぱいお勉強すれば、お母しゃまもあたちにお空を飛んでいいって言ってくれるかなー、って!」


“――ああ、師匠って、私に魔術について教えて欲しい、ということかね?”


「うんっ!お父しゃまに読んでもらったご本に龍さんはこの世で一番賢いって、そう書いてあったの!」


両手を顔の前で握り締めて、鼻息荒く興奮した様子で私の顔に近づく。


「だから龍さんにお勉強教えてもらえれば、もっともっとお空を飛べるようになるかなーって、そう思うの!」


“なるほど。しかし、まぁ…”


そんなことのためにわざわざ麓の町から箒に乗ってこの城まで飛んできた、という訳か。

なかなか大したお嬢さんだ。


「だめかなー?」


不安そうな顔をして、私の瞳を見つめるアップル。


しかし、そんな顔をしなくても、元より私は――。


“なに、構わんよ。魔術を教えて欲しければ、いくらでも教えてあげよう”


「ほんとっ!?」


お前は私にとって――。


“ああ。好きな時にここにやって来ると良い。私は大抵この城に居るからな”


家族のようなものだからな。


「わーいっ!」


その場で箒を振り回しながら嬉しそうに踊るアップルを見ながら、私は遠い昔を思い返していた。


私に嫌みを言う兄。私に泣きついてくる弟。

彼らはもうこの世のどこにもにいないけれど。

彼らが残したものなら、まだこの世に存在するのだ。


それだけで、十分だ。





====





王国歴837年



「ししょー」


アップルが遠くから私を呼ぶ声が聞こえる。


彼女が私の弟子となってから、一年近く経過していた。

幼い人間の子供にとって、たったの一年でも成長著しく、彼女はぐんぐん身体を大きくし、魔力の操り方も目を見張る速度で上達していっていた。


もっとも、その暢気な性格と舌足らずに私のことをししょーと呼ぶ癖は直っていなかったが。

しかし、私は彼女が私のことをそう呼ぶのを嫌いではなかった。


“呼んだかい?”


満面の笑みで私のもとへ駆け寄ってくるアップルに対し、私は声を返した。


その日、私はルビーと二人で塔の頂上に作り上げたドームに、果樹園を植えようと土を耕し種を植えている最中であった。


「ししょーに、お客さんだよーっ」


私の鼻先に抱きつき、嬉しそうに話す。


“私に客?さて、珍しいこともあったものだが…”


私はそのままアップルがやって来た空中庭園の入り口に目を向け――。



「やっと、見つけましたわ………っ!」



そこには、一人の鬼が立っていた。



“―――あー、マ、マリーじゃないか。久しぶりだな”


美しい白色の髪を逆立たせ、夜色の魔力を全身に纏いながら、私を射抜くように睨み付けている、黒色のゴシックドレスを着た、血色の瞳を持つ少女。

夜の体現者。陽の下を歩けぬ者。永遠の不死者達の美しき王。


マリー・ブラッドベル。


その人である。


「ふ ふ ふ」


マリーは血色の瞳を殺気でギラつかせながら、獲物を見つけた猫のように獰猛な笑みを浮かべて、笑う。


「私に何の連絡もせずフラっと居なくなったと思ったら、こんな田舎に隠遁していたなんて。探すのに十年以上もかかりましたわ……っ」


笑い、そのままフラフラとこちらににじり寄って来る。


“あー、マリー。と、とりあえず、落ち着け”


「ええ、あたくしは落ち着いていますわよ。完璧に冷静ですわ。貴方に別れも告げられず置いていかれたことなんて、これっぽっちも根に持っていませんわよ?」


言いながら、こちらに近づいてくる彼女の全身から寒気がするほどの殺気が。

こ、これはマズい。


“ち、違うのだ、マリー。連絡を取ろうとは思ったのだが、その、何だ。いつもは君が勝手に地龍の巣に来ては、勝手に去って行っていたものだから、君の連絡先を私は知らなくてね。連絡をしようにもできなかったのだ。本当だぞ”


「ええ、ええ。あたくしが全部悪いのですわ。カトレアが死んで暫くは一人になりたいだろうと、気を遣って遊びに行くのを少し自重していたら、そのまま二十年近く放置プレイをされたのも、ぜーんぶあたくしが悪いのですわよね」


暗い声で呟きながら、マリーは私の眼前に俯いたまま、立った。

得体の知れない威圧感を彼女の矮躯から感じて、彼女の顔をまともに見ることができない。

そんな私達を、傍に立っていたアップルが興味深そうに見ていた。

いかん。このままでは生命の危機が――。


“い、いや、その、何だ。悪気はなかったのだ。本当だ。別に忘れていた訳でもないぞ。ただ、色々と忙しくて――“


「――――――――――――――――ばか」


“だから、その、私は…………む?”


「ばかばかばかばかばかばかっ!この薄情者っ!」


そのままマリーは泣きながら私の顔に抱きつき、その小さな手で私の固い鱗を叩き始めた。


しかし、その、この反応はかなり予想外だった。


「ずっと、ずっと探していたのに!貴方ときたら何の連絡もせずっ!………寂しかった。寂しかったんだからっ!」


「あー、ししょーっ!女の人泣かしたらダメでしょー!」


私の顔に抱きついたまま泣きじゃくるマリーを見て、アップルが両手を腰に当てて怒り出す。


“む、いや、その、す、すまん”


これは困った。私は女の涙には弱いのだ。


助けを求めるようにルビーに目を向けたところ、困ったよう顔をしながら自然とそのまま目線を外されてしまった。

マリーに対しては厳しい態度を取るルビーであっても、さすがに泣いている彼女には対処に困るようだった。


「ばか、ばかばかばかばかばかっ」


結局その日は、私に抱きついたまま罵声を浴びせるマリーの泣き声と、そんな私に対して説教をするアップルの声がいつまでも塔の頂上に響いていたのだった。




後日、マリーとは専属的かつ永続的な取引関係を結ぶことを条件として、何とか許してもらうことになった。

これで、何というか、首に大きな首輪を付けられた気分だった。

が、私としても、趣味の錬成に使う高価で稀少な鉱石を私の鱗と引き替えに供給してくれる彼女の存在は有り難いものだったので、悪くはない取引だったのだけれど。

それに、彼女は永遠に近い刻を生きる私にとって、大切なビジネスパートナーとしてだけではなく、得難い友人でもあったのだから。





====





王国歴850年




アップルが私の魔術の弟子になってから、十年以上の時が流れた。

初めて会った時は、小さなおませな女の子だった彼女も、今では町で見かけたならば誰もが振り返るような美しい女性に成長した。

のだが、よく笑いよく泣くお日様のような暖かい性格は今でも変わらず、いつも楽しそうにニコニコ笑っては、腰に届くほどの長さにまで伸びた美しいオレンジ色の髪を翻しては城内を駆け回ったりしていたのだった。


アインハート城の改築もほとんど終了し、塔の頂上に作った空中庭園では、様々な季節の花々や果物が年中咲き誇り、実をつけて、とても甘い香りを漂わせている。


そんな中、私の目下の目標は、新しい武具の錬成にあった。

通常の鉱石を使用した武具の錬成にあっては、百年近い長い修練の成果か、ほとんど極めたと言って良く、古のお伽噺に出てくる伝説の武具にも勝るとも劣らない精度の武具を造り出すことにも成功していた。

しかし、それで私は満足していた訳ではない。


今現在、私は龍の鱗を用いた武具の錬成に励んでいるのだった。

この世に存在するあらゆる物質よりも強固と言われている龍の鱗。

これを使って武具を作ることができたのなら、今までの既成概念を覆すような素晴らしい武具を作り出すことができるだろう。

幸いにして、龍たる私にとっては龍の鱗の調達に困ることはない訳だし。


そんな訳で、私は今日も今日とて天空の空中庭園に作った専用の工房にて、龍鱗の武具の錬成に挑戦していたのだが――。



「お前がこの城に巣くう龍だなっ!」



その日、そんな私のもとに一人の少年が訪れてきた。


ややもすれば女の子に見えるような可愛らしい顔つきに、意志の強さをはっきりと感じさせる碧色の瞳。美しいプラチナブロンドの髪を肩口まで伸ばし、明らかに同じ年の少年の平均身長よりも低いと思われる小さな背丈。

そんな矮躯に似合わない、大の男でも扱いに苦慮するような長剣を背中に吊るして、こちらを睨み付けている。


“ふむ?見かけない顔だが、君は誰だね?”


私の誰何に対し、少年は綺麗なソプラノの声で私にその名を告げた。


「僕の名前は、アルバート。アルバート・コーンフィールドだ!」


“なんだって―――コーンフィールド(、、、、、、、、)?”


その家名は―――。


「今日この日、コーンフィールド家の名はこの世で最も有名な勇敢で勇猛な一族の名として後生に残ることだろう。龍殺しの英雄を産んだ一族として!」


少年は私の困惑した様子に気付く様子も見せず、器用に背中の長剣を抜き放ち、私に剣先を向けた。


“少し待ちたまえ。君のその名は―――”


「問答無用!行くぞ、龍っ!」


そのまま彼はその場を駆けた。



“っ!”



速い!



疾風の如く広場を駆け抜け、一足飛びで私の眼前まで迫ると、少年は手に持つ長剣を空気を切り裂くような速度で振るい、横薙ぎに私の身体に斬り付けた。


鋭い金属音が辺りに鳴り響く。


しかし―――。


「なっ―――!!」


彼の長剣はそのまま綺麗に折れて、砕けた切っ先が回転しながらその場に落ちる。


「そ、そんな………。僕の剣が………」


折れた剣を見つめて、少年は呆然としたまま呟く。


“悲観することはない。私の身体に斬りつけてそこまで綺麗に剣が折れたのも、君の剣のスピードが常人離れしていたことの証だ”


事実、彼の剣速の鋭さは、私の長い龍生の中でも、五指に入るほどのものだった。

見たところ、まだ若い人間の少年のようだが、なかなか前途有望な少年である。

しかし、今はそんなことよりも―――。


“ともかく、もう一度君の名を教えてくれないか?”


未だに茫然自失としている少年に向かって、私は優しく語りかけた。

ひょっとすると、彼は―――。


「――――――う」


“う?”


「う、うううぅっ。ううっ」



なんか泣き出した!



“お、おい。何も泣くことはないと思うのだが………”


震えながら半べそをかくその様子は、彼のその可憐な容姿も相まって、何だか悪いことをしてしまったかのような気分にさせられてしまった。

いきなり斬りかかって来られて、困っているのは私の方なのだが。


「ううぅっ。よ、よくも僕の剣をっ!」


そのまま涙目で私の瞳を睨み付ける。


“い、いや、そのー、すまなかった”


「くっ」


何だかいたたまれなくなっててとりあえず謝ってみると、何故だか少年はさらに傷付いた様子を見せた。


「お、覚えてろーっ!」


少年はそのまま泣きながら疾風の如く空中庭園を走り去っていってしまった。


“………何だったんだ?”


一体何しに来たのだ、あの少年は。

それに。


“今日は珍しく、やけに大人しかったじゃないか”


先程のやり取りの最中、終始無言で私の傍らに立っていたルビーに対し、私は声を掛けた。

ああいった不届き者が私に襲いかかってくることは過去に何度もあったが、その手の勘違いした人間には悉くルビーが語るのも恐ろしい制裁を加えていたものだったのだが。


「………………ぃぃ」


“………ん?”


ぽつりと、ルビーが何かを呟いた。

いつもの無表情とは少し違う様子でじっと少年が走り去った方向をルビーが見つめている。


“ど、どうしたルビー?”


心なしか、彼女の頬が薄く紅色に染まっているような気がする。


「………かわいい」


“………ルビーさん?”


恍惚とした表情を浮かべながらうっとりと呟くルビーの様子に、何かとても嫌な予感がするのだが。


「………あぁっ」


そのまま、胸に手をあてて切なそうに溜息を呟くルビー。

見目麗しいルビーがそのような仕草をすると、とても艶やかに見えるのだが、しかし。


彼女が今まで私以外の男性に一切の興味を持たなかったのは、ひょっとして、ひょっとしなくても、そういった趣味だからなのか!?


私は親としてどういった反応をすればいいんだ!


「ししょーっ!」


と、私が龍として史上初めてであろう悩みに煩悶としていたところに、アップルの元気な声が聞こえてきた。

城内に作った図書室で、魔術の勉強でもしていたのだろう。

淡い藍色のワンピースを着た彼女はしかし、急いだ様子でこちらに歩いてきた。


「さっきアル君にばったり会ったら泣いていたんだけど、何したの?」


いつもと同じニコニコ笑顔で私に話しかけるアップルだったが、少し目が笑っていないことからして、珍しく彼女は怒っているようだった。

と言うか。


“アル君、って、彼はお前の知り合いなのか?”


「そうだよ。だから泣かしちゃダメなんだからね!」


両手を腰にあてて、めっ、と私に叱ってくる。

世界広しと言えども、龍の私にこうやって叱ってくれる人間は彼女くらいのものだろう。


“それはすまなかったな。いきなり斬りかかって来られたものでね”


「もうっ。アル君たらまーた無茶をして」


口を膨らませて、不満そうに呟く。

アップルのそういった幼い仕草を見ると、美しい女性に成長した今でも、彼女の子供の頃の様子を簡単に思い出すことができる。


怪訝そうな顔をしている私に気付いたのか、アップルはそのまま私に目を向けて説明をしてくれた。


「えっとねー。アル君はグリニンドの町の友達なの。私より5歳年下のかぁーいー男の子なんだけど、いわゆる幼なじみって奴なのかなー。彼がずっと小さかった頃から知っているんだー」


と、嬉しそうにアップルは二人の関係を語る。


「昔は王都の南にあるクロムフルって町に住んでいたんだって。だけど、親の都合でこの町に引っ越してきたみたい」


“ふむ。彼はコーンフィールドだと名乗っていたのだが?”


「うんっ。アルバート・コーンフィールド。あー見えて、貴族様なんだよ、アル君。元々はえらーい貴族様の一族なんだって」


コーンフィールド。元上流貴族。クロムフルの町。


“ふふっ。はっはっはっはっは!はーはっはっはっはっは!”


私はそのまま口を大きく開けて、大声で笑い出す。

何て良い日なのだろう、今日は。


「ん、どうしたの、ししょー?」


“これが笑わずにいられるものか。ロックハートにコーンフィールドか!お前達はきっと最高のカップルになれるぞ!”


「そう思う?えへへ、実はあたしもそう思うんだーっ!」


「私もそう思います、お父様、アップル様」


私は笑い、アップルも同じく笑い、ルビーまでも珍しく微笑む。



人の世の因果とは不思議なものだな。

人は皆すぐに老い、死ぬ。


だけど、遠い時を越えて―――。





※※※※





アル坊があの日私のもとに来てから約一年間、それから私達は騒々しくも賑やかな毎日を過ごすことになった。





火の月



「ううっ、ちくしょーっ!」


“はっはっは。いい加減私に負ける度に泣くその癖は直した方がいいぞ”


あれから、アル坊はことある事に空中庭園を訪れては、新しい長剣にて私に勝負を挑んで、結局負けて泣きながら帰るようになった。

何故私に挑戦するのか、その理由を語ってくれることはなかったが。


「う、ううぅ、うるさいっ!」


今日もまた、アル坊は私に負けて半べそをかいていた。


「こらーっ!ししょーっ!アル君をいじめちゃダメじゃないっ!」


と、アル坊が私との勝負に負けて泣き出すと、大体いつもこうやって魔術の修行もそっちのけでアップルが飛んでくるのだった。


「プ、プル姉っ!別にいじめられてなんかないよっ!」


アップルの姿を見ると、アル坊はそのまま急いで目元の涙を拭いて、気丈に平気な様子を見せる。


「でもアル君、こうやって泣いているじゃないっ。もう、ししょー、ししょーはこんなにおっきくて強いんだから、ちゃんと手加減しなくちゃダメでしょー?」


“………だ、そうだが?”


そのまま私の足下でへたり込んでいるアル坊に目を向けると。


「こ、これは男と男の勝負なんだ!だから手加減なんかしたら許さないからなっ!」


「もうっ。アル君は意地っ張りなんだから」


そのまま憤慨した様子で怒り出すアル坊に、アップルが呆れた様子で溜息を吐くのだった。


「そうですよ、アルバート様。お怪我は大丈夫ですか?」


と、私との勝負の間ハラハラとした様子でアル坊を(、、、、)見守っていたルビーが、そっとアル坊に近づいて、優しく肩に手を掛けている。


「い、いえっ、あの、そのっ、だ、大丈夫ですっ!」


顔を真っ赤にして、慌てて両手を顔の前で振るアル坊。


「………あぁっ」


そんなアル坊の様子を見て、ルビーが何かに耐えるように目を背けた。


「むー」


そして、アップルが膨れっ面で、顔を真っ赤にしているアル坊をジト目で睨み付けるのだった。


なかなか愉快な人間模様だな。





地の月



「ううううううぅぅっ!」


“やっぱり今日も負けると泣くのか”


結局自身の長剣を折られて、その場に倒れ込んだアル坊はそのまま悔し涙を流し始めた。


“お前は人間にしてはなかなか強い方ではあるし、才能も有るのだが、いかんせん経験がまるで足りてないな。今のままではいつまで経っても私に勝つことなどできんぞ”


「う、うるさいっ!絶対にいつかお前を倒してやるからなっ!」


涙目で私に向かって叫び返すが、足に力が入らないのか、立ち上がることができずにその場にへたり込む。


“やれやれ。どうしてそう私に勝ちたがるのだ?”


「そんなことお前には関係ないだろっ。それに元々コーンフィールド家は龍嫌いの一族で有名なんだ」


“ほう?龍を信仰する土着宗教が多い王国で、珍しいな”


と言うかカトレアからはそんな話を聞いたことはなかったのだが。


「僕のお祖母様の、これまたお祖母様の妹にあたる人が、クロムフルの町の近くの鉱山に住む地龍に攫われたことがあるんだ!」


なんですと!?


「とても綺麗な人だったらしく、龍に攫われてから家族みんなでとても悲しんだそうだ。結局、コーンフィールド家はその人のお姉さんが婿養子を取って継いだそうだけど、それから、僕の一族には龍には気を付けろって、家訓があるんだよ!」


“あー、それは何と言うのか………”


それはひょっとして、ひょっとしなくても、彼女のことではなかろうか。

と言うかまさかそんな風にコーンフィールドの家に伝わっていたとは。

まぁ、彼女は晩年は地龍の巣にほとんど住んでいたようなものだったから、龍に攫われたというのもあながち間違ってはいないのだろうけど。


「だから、一族の雪辱は僕が絶対に晴らしてやる!」


“そ、そうか。まぁ、頑張れ”


伝言ゲームの恐ろしさを深く味わってしまった。





風の月



「うううぅっ!また負けたっ!」


折られた剣を眺めながら、悔しそうに呟く。

そんなアル坊の背後から――。


「あらあら。男の子はそんな風に泣くものではないですわよ?まぁ、貴方なら可愛くて許せてしまいますけれど」


マリーが絡みつくように両手を首に回して、ぴったりと密着するように抱きついた。


「あっ、あのっ、あのあのっ」


顔を真っ赤にして、慌てた声を出しながらアル坊は恥ずかしそうにその場に硬直した。

どうも、ルビーやマリーとの接し方を見ていると、アル坊はアップル以外の女性に対しては全く免疫がないみたいだな。


「んふふっ。綺麗な顔を真っ赤にして、とても美味しそうですわねぇ」


アル坊の顔に白魚のような細い指を這わせながら、耳に息を吹きかけるようにマリーが背後から呟く。


「~~~~~~っ!」


熟れた林檎のように顔を真っ赤にするアル坊。そんな二人に対して――。


「コラーっ!アル君を誘惑しちゃダメって言ったじゃないですか、マリーさんっ!」


アップルが背後から凄まじい剣幕で怒鳴り声を上げた。


「あら、アル坊やは別に貴女のものという訳でもないのでしょう?だったら、あたくしが誘惑しても何の問題もないのではなくて?」


膨れっ面で抗議をするアップルに対し、目を三日月のように歪め、蠱惑的な笑みを浮かべながらマリーが答える。


「問題大ありです。さっさとその薄汚れた手を離してください、マリー様」


と、アル坊にまとわりついたままのマリーの手を背後から音もなく忍び寄ったルビーが力任せに剥ぎ取った。


「大丈夫ですか、アルバート様。あの女は男と見ると誰にでも色目を使う色情狂なのです。野良猫にでも噛まれたと思って気をしっかり持ってください」


「えっ、いや、あの、そのっ」


そのままアル坊の両手を握り、顔をくっつけるように近づけて真面目な顔をしながら無茶なことを言うルビー。


「ちょっと、それはどういう意味かしら、ルビー?」


当然後ろからマリーが不服そうに抗議の声を上げるが。


「もうっ!マリーさんもルビーさんもアル君に近づき過ぎだよっ!」


アップルが二人の間に割って入るようにアル坊を庇うのだった。


“と言うか、アル坊が来てから私の存在が薄くなっているような気がするのだが気のせいか?”


もちろん、私の疑問に答えてくれる者は誰も居なかった。





水の月



「ち、ちくしょうーっ!覚えてろーっ!」


相も変わらず私に負けて悔し涙を流していたアル坊は、これまたいつもの如く捨て台詞を吐きながら空中庭園を去っていった。


「あーあ、まーたアル君帰っちゃった」


アル坊が去っていた入り口を眺めがら、アップルが残念そうに呟く。


しかし、それにしても。


“アル坊の奴は麓の町で剣術でも習っているのか?才能もあるのだろうが、いくら何でもあの若さであの剣速は速すぎる。人間業とは思えんな”


事実、最初の頃に比べてアル坊の剣先の鋭さはかなり上昇していた。

私とずっと戦い続けているせいというのもあるのだろうが、それにしても、異常である。

ただの武具での剣撃で私の鱗にキズを付けるとは。

もっとも、彼の攻撃のスピードに武器がついていけていないのか、大抵は何度か私に攻撃を当てるだけで剣は砕けてしまっていたが。


「えっとねー。グリニンドの町に住むパン屋のお爺さんに剣を習っているって言ってたよ」


私の質問に対し、相も変わらずほわほわとした様子で暢気な声で答えるアップル。

しかし。


“パン屋?何だってそんな者に剣を…。その者は元武芸者だったのか?”


「んー、よく知らないけれど、元々は冒険者さんだったんだって。それで、仲間の女の人と結婚したので、この町に引っ越して来て引退してパン屋をやっているって言ってたよ。でも、アル君はすごいすごいって言ってたから、有名な冒険者さんなのかなー?」


“ふむ”



元冒険者のパン屋?思い当たる知り合いが一人いるが、まさかな――。



「とにかく、あんまりアル君をいじめちゃダメだからね、ししょー!」


“ああ、分かっているよ、我が弟子よ”


まぁ、もっとも、勝負を挑んでくるのはあいつの方なのだがな。





雷の月



「ううっ、…うっく、くそうっ!」


“やれやれ。懲りもせずによくもまぁ何度も私に挑んでこれるものだな”


今日も今日とて私に負けて泣きべそをかいているアル坊に向けて、私は優しく声をかけた。


「う、うるさいっ!いつか絶対にお前を負かしてやるからなっ!」


“強情なことだな。しかし、今のままやってても私に勝つことができるとは思えないがね”


私は溜息を吐きながら、折れたアル坊の長剣を見つめながら言う。


“そもそも、身体も大きくないお前にとって、長剣を武器に選ぶことは良い選択とも思えないが。長所のスピードが生かし切れていないだろう?”


「………べ、別にいいじゃないか。僕の勝手だろう」


拗ねた様子で、明後日の方向を見ながら小さい声で弁明する。


“まぁ、それはそうなのだがね”


と、私がふて腐れて座り込んだアル坊に呟くと。


「えっとねー、ししょー。それはアル君が勇者様に憧れているからなんだよー」


隣からアップルが楽しそうに答えた。


「プ、プル姉っ!余計なことを言うなよっ!」


「えへへ、ごめーん」


顔を赤くして、恥ずかしそうに声を上げるアル坊に、アップルは舌を出しながら謝る。


“ほう、勇者にねぇ”


長剣を手にして、仲間と共に魔王を打ち倒した英雄。


「べ、別にいいだろう。勇者ウィル・レッドライトも元々は一介の冒険者に過ぎなかったのに、それでも、四十年前に仲間達と力を合わせて魔王を倒して、英雄として有名になったんだ。だったら、僕だって、この剣一本で同じく成り上がって、落ちぶれてしまったコーンフィールド家をいつの日にか再興してみせるんだっ!」


拳を握り締めながら、野望に燃える瞳を輝かせる少年。


勇者と魔王の伝説は、四十年近く経った今でも大陸中の子供達の間で噂される人気のお伽噺の一つだ。

アル坊も、勇者の伝説を聞きながら育ったに違いなかった。


“ふむ。しかし、まぁ、勇者の話であれば、一つ面白い話があるのだが―――”


そう言って、私はルビーの方に目を向けた。

しかし、ルビーは心底困った様子で首を激しく左右に振っていた。


「な、なんだよ?勇者のことを何か知っているのか?」


怪訝な声でアル坊が私に尋ねてくる。

が。


“いや、どうも当事者が嫌そうにしているのでな。この話はまたいつか別の機会にと言うことにしておいてくれ”


「??う、うん、分かった」


不思議そうな顔をしながらも、素直にアル坊は頷いた。

チラリと横を見ると、ルビーがホッとした様子で息を吐いているのが見えた。


「んー、何の話だったんだろうね、アル君?」


目線を戻すと、そんなルビーの様子に気付くこともなく、アップルが元気にアル坊に話しかけていた。

身体が触れるくらいに近づいて話すアップルに少し困った様子を見せながらも、アル坊は答える。


「う、うん。でもまぁ、きっと大した話じゃないんだよ。そんなことより、僕はもっともっと強くならなくっちゃ」


決意を秘めた瞳で握り締めた拳を見つめながら、呟く。


魔王を倒した勇者ウィル・レッドライトのように、か。


頑張る少年はいつの時代も大変なものだ。





闇の月



「うううぅっ、ど、どうしてっ。どうして勝てないんだっ!」


“………ふむ”


悔しそうに折れた剣を握り締めながら、アル坊は涙を地面に落とす。


確かに彼の剣の腕は人間だということを鑑みても一流の域にあったし、私の鱗にキズを付けるその剣速もそこいらの騎士達よりも遙かに鋭いものであった。

しかし、それだけなのだ。

どうしようもなく、アル坊は人間であり、人間である以上、龍である私を倒すには、人間以上の存在になる必要があるのであった。


超えられない壁。


たとえアル坊が百年に一人の天才であるとしても、今のままでは私に勝つことはできないだろう。

彼の有り余る才能に、技術、経験、そして武器までもがついてきていないのだ。



「アル君、もう諦めようよ。これ以上やってもししょーには勝てないよ」


その場にへたり込んで涙を流すアル坊を見かねてか、アップルが彼に近づいて、優しく肩に手を掛ける。


「これ以上やっていたら、アル君の身体が……」


確かに、小さな身体に見合わない速度と威力で剣を振るうアル坊は、絶対的に体力が足りないのか、私と戦った後はいつも暫くは疲労によって動けなくなるのだった。

だけど。


「………う、うるさいっ!」


アル坊は、肩に掛けられたアップルの手を払いのける。


「……アル君?」


手を払われて、驚きの表情をアップルは見せた。


「プル姉はいつもいつも僕を子供扱いしてっ!僕だってもうすぐ14歳になるんだ。いつまでも子供じゃないんだよっ!」


激昂した様子で叫び声を上げる。


「………ご、ごめんね。アル君。あたし、鈍くさくて他人の気持ちがよく分からなくて。別にアル君を子供扱いしているつもりはなかったんだけど…」


払われた手を握り締めながら、おずおずとした様子でアル坊に話しかける。

いつもニコニコして笑顔しか見せないアップルにしては珍しく、不安で心配そうな表情だった。

今にも泣き出しそうな。


「――――う、うううぅっ!」


彼女の表情を見て、アル坊は、一瞬何かを口に出そうとしたが、結局言い出せず、そのまま逃げ去るように走り去っていってしまった。


「ア、アル君っ!」


アル坊を追ってアップルは走り出そうとしたが、その肩を無表情で成り行きを見守っていたルビーが掴んで、制止した。


「アルバート様も混乱していたのでしょう。今は独りにしておいたほうが良いと思います」


「で、でもっ!」


アップルは続けて何かを言葉にしようとしたが、しかし、そのまま口をつぐんで俯いてしまった。


“………ふむ”



何やら、嵐の予感である。

しかし、まぁ、人間の一生は短いようで長いものだ。

なるようにはなるだろうし、所詮なるようにしかならないのだ。





光の月



「今日こそお前を倒すぞ、龍」


その日、あの日から姿を見せなかったアル坊が、再び新しい長剣を携えて私のもとに訪れた。


「アル君っ!今までどこに行っていたのっ!」


私の隣で魔術の講義を受けていたアップルが、アル坊の姿を見て声を上げる。

あの日、アインハート城から逃げ去ったアル坊は、グリニンドの町にも帰らずにそのままどこかへと消えてしまったらしい。

彼の両親には修行の旅に出る、という連絡が入っていたらしいのだが、アップルは大層彼のことを心配して、ここ一ヶ月近く何をするにしても身に入らない様子であった。


「………プル姉」


アップルの姿を見て、口を開きかけたが、結局アル坊は彼女に声をかけることもなく、目線を私に向け直した。


“ふむ。一ヶ月の修行の成果を見せてくれる、という訳か”


「ああ。僕だって、今まで遊んで暮らしてきた訳じゃない」


下級とはいえ、貴族の嫡男だけあって、アル坊はいつも小綺麗な格好をしているのだが、今日は薄汚れた旅衣装に身を包んでいた。

しかし、一ヶ月前とは違ってどこか精悍な様子を感じさせる顔立ちになっていた。


アル坊は背中に吊した長剣を片手で抜き放ち、そのまま両手で握り、顔の横に上段で構える。

そして、そのまま目を瞑り、精神集中させながら呼吸を整える。

数瞬後、目を開き、全ての気を込めた瞳で私の全身を射抜いた。


「………この一撃に、僕の全てをかける」


静かな声で宣言する。


“いいだろう。受けて立とう、誇り高き若き獅子よ”


私の言葉に、アルバートは力強く頷く。



「………いざ」



“尋常に”



「“勝負!!”」



瞬間、アルバートの身体がその場からブレるように消え去り――。

次の瞬間には、一足飛びで私の眼前まで肉迫し、その場で地面に口を付けるように低く低く身体を屈めて、長剣を下段に構えていた。


辛うじて、眼で、追えた、か――っ!


あまりのアルバートのスピードに肝を冷やしながら、私は彼の超下段からの攻撃に合わせるように頭を下へと振り抜く。


当てるなら、額――っ!


アルバートは空間ごと切り裂くかのような速度で、地面スレスレから私の顔に目がけて長剣を斬り上げて―――。


一閃。


静寂、後、辺りに響いたのは乾いた金属音。



“―――見事!”



粉々に砕けた彼の長剣が、まるで粉雪のように辺りに降り注ぐ。

並の速度であれば、剣は曲がるか折れるかしただろうに、まさか粉々に砕けるとは。

そして、私の額を中心として広がる痛痒。


“ふふっ。まさか人間の身で、通常の武具を用いて、私の鱗を砕く者がいようとは、な”


血を流すのもどれくらいぶりのことか。



「………………でも、僕の、負けだ」



砕けた剣を見つめて、先程まで裂帛の気合いを見せていた少年と同一人物とは思えないくらい、か細い声で呟く。


“やれやれ、強情な奴だな。これ以上何を望むと言うのだ?”


私の言葉に、アル坊は顔を上げ、涙で濡れた瞳で私を睨み付けながら、怒鳴った。


「う、うるさいっ!全部お前のせいだっ!お前さえ倒せれば―――」


我を忘れた様子で、大きく叫び。


「プル姉が帰ってくると思ったのにっ!!」


そして、しまった、といった様子でアル坊は口を押さえるのだった。


「へ、あたし?」


急に自分の名前を呼ばれて、ハラハラしながら様子を眺めていたアップルが、場違いな間抜けな声を出す。


“ああ、そう言うことか。まぁ、口に出して言われるまでもなく気付いてはいたがね”


普段の態度を見ていれば、一目瞭然である。

しかし、まぁ、想いというものは、言葉にしないと伝わらない時もあるものだ。


“要するに、アップルが私の城に入り浸っているのがただ単に気に入らなかっただけだ、と”


嫉妬。それに、寂しかったというのもあったのだろうが。


アップルにアルバート。彼らが二人でどんな幼少時代を過ごしてきたのか私は知らないが、仲睦まじいものではあったのだろう。


「~~~~~っ、そうだよっ!悪いかっ!」


顔を真っ赤にして、開き直った様子でアル坊は叫び始めた。


「プル姉は何かある度にししょーししょーってお前の城に飛んで行ってさ、一人残された僕の気持ちも考えてくれよっ!」


そして、そのまま、目を瞑り勢いに任せて。



「僕が一番プル姉を好きなんだっ!お前なんかに渡すもんかーっ!」



泣きながら何とも泥臭い愛の告白をアル坊はするのであった。



“………だ、そうだが?”



眼を丸くして事態を眺めていた、不肖の弟子に声を掛けると。



「…………………ほんとう?」



ぽかんとした表情のまま、ポツリと小さく呟いた。



「~~~~~~~っ!」



アル坊はアップルの顔を見られないのか、真っ赤な顔のまま、必死に顔を背けていた。

そんなアル坊の様子を見て、アップルの顔が次第に満面の笑みへと変わっていく。

そして、満点の太陽のように晴れやかな笑顔を浮かべると。


「うれしいっ!!」


嬉し涙を流しながら、アル坊に力一杯抱きつくのだった。


「わぷっ」


アル坊よりアップルの方が背が高いことから必然的に、アル坊の顔は彼女の豊満な胸に埋もれてしまった。


「あたしも、あたしもアル君が大好きっ!」


「むぐぐぐ、ぐむっ」


顔を真っ赤にしながら、アップルの胸元で苦しそうに声を出す。


「あたしをお嫁さんにしてくれる?」


ぎゅーっとアル坊を抱きしめながら、うっとりとした表情でアップルがアル坊に話しかける。

お気に入りの人形のように抱きしめられながら、アル坊は真っ赤な顔で確かに一度頷くのだった。



“やれやれ。まぁ、なるようになった、ということかな”


私の呟きに、隣に静かに控えていたルビーが、同意を示すように頷く。


「はい。良かったです、お二人が幸せそうで」


その顔には、本当に嬉しそうな微笑みが。


“お前は良かったのかね?何やらアル坊のことを大層気に入っていたようだが”


問いかけに、ルビーは少しの間考えるように眼を瞑ったが、しかし、はっきりと答えた。


「いえ、いいのです。私はアルバート様のことを、弟のように想っていましたので」


“ふむ。弟か”


「はい。今までお父様にも言ったことがなかったのですが、私には一人、妹がいたことがあったのです」


ルビーは幸せそうに抱き合っている恋人達を見つめながら、それでいて遠くを見るような瞳で語り出した。


「お母様や、お父様に出会う前の、研究所にいた頃の話です。そこで、私は一人の少女と義姉妹の契りを交わしました。だけど、それは親愛の情からではありませんでした」


ノッドラート王立魔導院。人間達が、どれだけ残酷かつ無邪気になれるかを実践した、狂気の掃き溜め。そして、ルビーが産まれた場所。


「あそこでは、私達は家畜以下の扱いしか受けませんでしたから、脆弱な精神を守るためにも、誰かと、自分ではない他者との間に依存関係を結ばないと、生きてはいけなかったのです」


そう語るルビーの表情は、完璧なまでの無表情だ。


「だけど、そんな歪つな家族関係がいつまでも保つ筈もなく、必然的な破滅を私と妹は迎えました。それから、私はお母様に出会い、お母様に救われて、お父様に出会ったのです」


父と母、それに娘。私達は血は繋がっていなかったけれど、それでも、家族だった筈だ。今でも家族だと、そう私は思っている。


「それでも、今でもたまに思い返すことがあるのです。私の妹だったあの子は、今どこで何をしているのだろうか、と。もっとうまくやっていれば、私達は今でも姉妹だったのではないか、と」


“………ふむ”


「だからかもしれません。アルバート様と姉弟のようになれれば、昔失ってしまった何かを取り戻せるような気がして………。変でしょうか?」


そう言って、ルビーは初めてこちらを向いた。

瞳には、わずかな後悔と、ほんのひとかけらの不安。


“いや、変ではないさ。人は皆、失ってしまった何かを求めて、他者と付き合っていくのだ。そして、新しい何かを得ることもある。龍たる身の私でさえ、そうなのだ”


私は微笑み、自慢の娘に向けて、優しく語りかけた。


“それに、私は嬉しくもあったのだ。お前がいつまでも私にべったりでは、少々心配だったからな”


「………お父様」


“さて、では、私も新しい友人と新しい関係を結ぶこととするかな”


言い、私は彼のために用意していたそれを手にして、いつまでも抱き合っている恋人達に近づく。


“仲睦まじいのは結構だがね。ここにはまだ、私とルビーがいることを忘れないでくれ”


「わひゃっ」


「うわっ」


二人は顔を真っ赤にして、飛び退くように抱擁を解いた。

申し訳なさそうな、それでいて幸せが溢れんばかりの笑顔を見せながら、こちらを見上げるアップル。

気まずそうな、それでいて嬉しくてしょうがないといった様子でだらしのない笑顔を見せている、アルバート。


私は、そんな二人に向けて、一本の剣を差し出した。


“婚約祝い、と言ったら気が早いのかもしれないが、これをお前にやろう”


「こ、これは―――」


アル坊が恐る恐るその剣を手にして、鞘から抜き放つ。


傷一つない美しい刀身が、陽の光を照り返して、銀色に輝く。


「まさか―――」


“私の鱗と鋼を錬成して作った、龍鱗の剣だ。銘は、アイアンハート”


ここ一年、アップルの魔術の修行を見ながら、アル坊との決闘の傍ら、私はずっと龍鱗の武具の錬成に精を出していた。

それは、ずっと気にかかっていることがあったからだ。


“この剣ならば、きっとお前の力量に付いてきてくれる筈だ。ずっと、自分に合う剣を探していたのだろう?”


「っ!………それは」


あまりの剣速に、使う武器を悉く破壊してしまう。

彼は、強くなれば強くなる程、使える武器が減ってしまうことのジレンマにずっと悩まされていた筈だ。


“だから、この剣を友情の証として受け取ってはくれないか?君を一人の信頼できる友人と認めたからこそ、この剣を授けるのだ”


呆然としていた表情を見せていたが、私の言葉を聞き、みるみる瞳に力が入っていくのが見て取れる。


“それに、不肖の弟子を任せなくてはならないからな。彼女は脳天気でドジで気が抜けた子供みたいな女だが、しかし、とびっきり可愛くて美人で気だての良い女性なのだ。泣かすようなことがあっては困る”


「お前に言われなくても知っているさ。それに、僕がプル姉を泣かしたりするものかっ!」


挑むような目線で、私を睨み付ける。

アップルが、そっとアルバートの腕に手を掛けて、寄り添うように近づく。


“本当かね?”


「うん。この剣と、この世で最も気高く、誇り高く、そして優しい龍である貴方に、誓う」


そう宣言し、アルバートは龍鱗の剣を掲げるように天高く持ち上げ、そのまま鞘に仕舞った。


“そうか。それならば良かった。アルバート・コーンフィールド。この世で最も気高く、誇り高く、そして泣き虫の騎士よ。お前ならきっと、落ちぶれてしまったコーンフィールド家を再興することもできるだろう。私が保証しよう”


私の言葉に、アルバートとアップルは、二人して、幸せそうに頷くのだった。





====





王国歴860年




「ししょーっ」


その日、私は空中庭園でルビーと二人で美しい花々に囲まれながら、午後の紅茶を楽しんでいた(もっとも、龍である私にとっては、紅茶を楽しむのにも至難の業だったが)。


そんな中、あの懐かしい舌っ足らずな発音で私を呼ぶ声が聞こえてきた


声が聞こえた方を向くと、一人の美しい妙齢の女性が、その手に赤ん坊を抱きかかえながら、こちらに歩いてきていた。


“アップルではないか。もう身体のほうは良いのかね?”


私の気遣いに対し、アップルは元気よく笑いながら答える。


「うんっ。この子もようやく落ち着いてきたみたいだし、ししょーに見せに来たの」


そう言って、腕の中の赤ん坊を私に見えるように少し持ち上げる。

赤ん坊は、気持ちよさそうにスヤスヤと眠っていた。


“ふむ。この状況で気持ちよさそうに眠っているとは、これは間違いなくお前の子だな”


「えへへっ。でしょー?」


別に褒めた訳ではないのだが、な。


「この子は男の子ですか?」


ルビーが何やら感心した様子で、赤ん坊の顔を覗き込んでいる。


「うん。アル君は女の子が欲しかったって言っていたけど、あたしは男の子ほうが嬉しいかなー。アル君みたいに可愛い男の子に成長するかもしれないし」


「そうなったら是非私に見せてください」


ルビーが真剣な表情をしてアップルに頼み込む。


“その旦那は今日はどうしたんだ?一緒には来なかったのかね?”


「うーん。アル君は騎士団の方で抜けられない会議があるんだって。久しぶりにししょーと手合わせをしたいって言っていたんだけどねー。ざんねん」


少し寂しそうな顔をして、呟く。

まぁ、この夫婦は周りの人からも呆れるようなバカップルだと評判の二人だから、年がら年中一緒にいるので、たまには離れるのもいいだろう。


「アル君たらねー。最近じゃ騎士団の中では“龍騎士”なんて呼ばれているんだよ」


“龍騎士?”


「うん。アインハート城に棲む龍を倒して剣を奪い取った英雄だって。王都の方じゃ、ししょーを倒すと龍鱗の武具がもらえるって噂になってたよ」


アップルの話を聞いて、私は頭を抱えたくなった。


“それでか…。最近武芸者が私の城に訪れては勝負を挑んでいくことが多いなとは思っていたが”


「ししょーは強いんだから、別にいいじゃない」


“そういう問題ではないのだ”


私は溜息を吐きながら、隣で熱心に赤ん坊を見つめているルビーを見る。

武芸者達は大抵ズカズカと私の城に入ってきては、城内を荒らしていくので、ルビーが烈火の如く怒ってしまい、彼女を止めるのに私がいつも苦労するのである。



本当に、困ったものだ。



「あっ、そうだ。忘れるところだった」


と、アップルが何かを思い出したかのように声を出して、私の顔を見上げた。


「今日はねー。ししょーに紹介したい子がいて連れて来てたんだった」


“ほう?”


それは珍しいこともあったものだが。


「えーと、どこ行ったのかなー。さっきまで、そこら辺の果物を勝手に食べていたんだけど…」


アップルは赤ん坊を抱えたまま辺りをキョロキョロと見渡す。


「おーい、ルーちゃーんっ!」


「………なに?」


「わっ。びっくりしたっ」


アップルの叫び声に反応するように、彼女の横の林檎の木の枝から一人の少女が両手一杯に林檎を持って降ってきた。


「もうっ。驚かせないでよ。そんなところで何していたの?」


「林檎、食べてた」


そう言って、少女は手に持った林檎をそのままムシャムシャと食べ始める。

夜を凝縮したような鴉の濡れ羽色の髪を無造作に腰辺りにまで伸ばし、少し痩せすぎに見えるがそれでいて整った容姿を持つ、幼い少女。


「えっとね、この子はルーちゃんって言って、あたしの弟子なんだ、一応」


アップルは林檎を夢中で食べ始めた少女に手を向けて、彼女を紹介する。


“ほう。ついこの間まで小さかったお前に、弟子が出来るとはな”


月日の経つのは早いものだ。


「この子はすごいんだよー。まだ9歳くらいなんだけど、あたしより魔術の才能があるかもしれないんだ」


“お前より、か。それは確かにすごいかもしれないな”


私と初めて会った時、アップルは5歳にして浮遊術を完璧にマスターしていたものだが。

それよりも才能がある、と?


私は林檎を食べている少女に眼を向けた。

すると、私の視線に気付いてか、林檎を食べるのを止めて、トコトコとこちらに歩いてくる。


「お前が噂の龍か。なるほど、でっかいな」


無表情のまま、ガラス玉のような瞳で私の全身を眺める。

何というか、変わった人間の娘だな。


「わたしの名前はルールールー・ムーンリバーだ。今にこの世界の全ての人間が覚えることになる、偉大な名前だ。覚えておけ」


不遜な言い回しでそう告げると、もう私に興味をなくしたのか、また林檎を食べ始めた。


「ね、面白い子でしょう?」


“まぁ、確かに面白い子ではあるようだが”


しかし、あまりルビーを刺激するようなことを言わないでもらいたい。

私に対する口の利き方が気に入らなかったのか、微妙にルビーが殺気を出し始めているのが、少し怖い。


「この子を連れてね、今度あたし、王都に学校を作ろうと思っているんだ」


そんなルビーの反応に全く気付いていないのか、楽しそうな口調でアップルが話し始める。


“学校?”


「うん。お隣のノッドラートには、王立魔導院なんて研究所があるみたいだけど、それを真似して、トレンディア王立魔術院ってのを作ろうと思っているの」


魔導院の名を聞いてルビーが少し眉を動かしたが、しかし、それ以上の反応を示さなかった。


“そこでは何をするんだ?”


「だから、学校だよ。魔術のことについてみんなに教えるの」


優しい笑顔で、腕の中の赤ん坊を見つめながら、アップルは語る。


「王国騎士団ってね、魔術師の地位がとっても低いの。それは、魔術を教えてくれる場所が少ないってのもあるんだけど、やっぱり、ちゃんとした組織がないからだって思うんだよね」


魔術師はどうしても後方支援が主な役目となってしまうので、騎士団においては、前線で身を挺して戦う騎士や衛士に比べるとどうしてもその地位が低く扱われるのだと聞く。


“だから、学校を作る、と?”


「うんっ。アル君も協力してくれるって言ってくれてるし。あたしが初代院長でー、ルーちゃんが第一号生徒なんだよー」


「うむ」


嬉しそうにキラキラした瞳で語るアップルに、林檎を食べながら隣のルールールーが無表情で頷く。


“そうか。それは確かに、面白い試みかもしれないな”


私はある種の感慨を覚えて、そう呟く。


「でしょっ!ししょーならそう言ってくれると思ったんだーっ」


喜びながら、赤ん坊を両手に抱いてその場でクルクルと回るアップル。

赤ん坊は相も変わらず気持ちよさそうに眠ったままだ。



繋がり。

私が思ったのは、そのような言葉だった。


誰かが、血は脈々と受け継がれる呪いそのものだ、と言ったそうだが、しかし、今この場には私の家族であるロックハートの血を継ぐ女性がいて、コーンフィールドの血をも受け継ぐ子が幸せそうに眠っている。

彼らに再び出会えたのも、血が脈々と受け継がれたからだ。

呪いとなることがあるとしても、また逆に、祝福になることもあるのだ。


アルバートは騎士団内において着々と地位を固めていると聞く。

あの高潔で誇り高い騎士ならば、王国の騎士団を良い方向へと導いてくれるだろう。


アップルが作るという魔術院。

この試みが成功したのならば、王国内に住む魔術師達もより住みやすくなるだろう。

そうやって作り上げた繋がりが、また未来へと受け継がれ、騎士団から新しい騎士が、魔術院から新しい魔術師が出てきて、新しい時代を紡いでいくに違いない。


アップル・ロックハートにアルバート・コーンフィールド。

彼らは私の大切な友人だが、しかし、彼らは人間なのだ。

恐らく、私より先に、あっけなく、死んでいくだろう。


だけど、私はそれを悲しんだりはしない。

なぜなら、今、アップルが両手に抱いている赤ん坊がいるように、彼らの血を受け継ぐ者達が、またいつの日にか私の目の前に現れてくれるだろうから。

そして、彼らの中で、私は居なくなってしまったアップルやアルバートに出会うことができるのだ。



私は、それをいつまでも楽しみにしている。




間章Ⅰ おしまい





[10769] 間章Ⅱ・前
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2010/01/28 01:07
間章Ⅱ 龍と名も無き狩人




王国歴885年




俺は暗殺者である。名前はまだない。


産まれてこの方、固有名詞で呼ばれたことはないし、実の産みの親でさえそうだってんだから、名前はないと言い切ったっていいだろう。


もっとも、俺のことを不吉な二つ名で呼ぶ奴も多いが、それはまぁ、職業柄しょうがないといったところかもしれない。

と言うのも、一応自慢ではないが、俺は今まで仕事をミスったことはない。

狙った獲物は外さない、ではないが、俺に狙われて命があった奴は今まで一人もいなかった。


そんな訳で、俺のことをやれ死神だとか黄泉路への水先案内人だとか呼ぶ奴もいるが、しかし、そんな名前はこっちから御免被りたいところだ。



だが、俺の依頼達成率100パーセントの輝かしい記録も、今日限りで終わってしまったのだろう。


今現在、俺ってば、絶体絶命のピンチなのであった。



思い返せば、今回の仕事は初めから気が進まなかった。

いわゆる、嫌な予感がする、って奴だ。


相手こそ俺の標的条件をクリアしてはいたが、いかんせん大物過ぎた上に、俺のお得意先である依頼主からの説明にも、どこか違和感を感じたのだ。


嘘は言っていないが、しかし真実を話している訳でもない、と。


しかしまぁ、暗殺者ってのは悲しいかな潰しがきかない職業で、一度依頼者との信頼って奴を失ってしまうと、裏家業であるが故の宿命か、あっという間に身の置き所がなくなってしまい、気が付けば首をくくってることになりかねないのである。


そんな因果な職業に身をやつした自身の不明を嘆くべきかもしれないが。



そんな訳で、俺は調子に乗ってホイホイと依頼を受けた末、ノコノコと相手に住む場所に出かけていき、まんまと反撃を喰らって、半死半生命からがら負け犬よろしく逃げ出したのであった。


腹部に槍による貫通傷に、脇腹と右肩に矢が突き刺さり、おまけに左足の骨を粉砕されるという笑うしか他ない重傷を負った俺は、街を離れて付近の森へと逃げ込み、そこで狼共の餌にでもなって新たな魔物の誕生にでも貢献する運命だったことは間違いない。



しかしまぁ、どこのどいつがその運命をねじ曲げやがったのか。



俺は気が付けば、見知らぬ部屋の古ぼけたベッドの上に寝かされていたのであった。


しかも、ご丁寧に傷の手当てまでされてある。


「かははっ。俺にまだ生きろってか」


全く、笑う他ない。

一命は取り留めたようだが、しかし、一体どこのどいつが瀕死の俺を助けたのやら。

これが俺の背後事情を探りたい官憲の手によるものであれば、俺の人生はここでジ・エンドである。

絶対絶命のピンチだ。


まぁ、大して惜しくもない人生だが。


生まれてからこれまで、他人を殺すことで生計を立ててきたろくでなしである。

気がかりがあるとすれば、遠い昔に別れた義理の弟の安否くらいのものだが…。


などと、俺が辞世の句でも考えようかしらんと頭を悩ませていると、部屋の扉が開いて、一人の人物が中へと入ってきた。


「よいしょっ」


小さな掛け声と共に、手に持っていたお盆を落とさないようにしながら何とかもう片方の手で開けた扉を閉めようとしている。


それは、小さな女の子であった。


くすんだ灰色の髪をボサボサのまま肩口辺りまで伸ばし、ボロ切れのような布の服を身に纏った、幼い少女。


しかし何より目を引いたのは、そんな薄汚れた格好をしているにもかかわらず、何が楽しいのか、その顔には見る者を皆和ませるかのような輝かしい笑顔が浮かんでいることだった。


………俺がもっとも苦手とする人種である。

あの手の笑顔を浮かべる人間は、決まって楽天的で無駄に前向きなのだ。

現実的で無駄に後ろ向きな俺とは合う筈もない。


「あっ、気が付いたの?」


そんな少女は、どうにか扉を閉め終わると、うんざりした様子で眺めていた俺の様子に気付き、やはり何が楽しいのか嬉しそうな声を上げて俺に話しかけてきた。


「ああ、今気が付かずに天に召された方がマシだったかもしれないと思っていたところさ」


「えっ?」


「何でもねえよ。そんで、おちびちゃん。ここは一体どこで俺はどうしてここにいるのか、ちゃんと説明してくれるんだろうな?」


俺の軽口に、口をポカンと開けて不思議そうにこちらを見ている少女に、俺はそのままの口調で話しかけた。


「えっとね、お兄ちゃんは二日前に森の中で倒れていたの。それを私が見つけて、ひどい傷を負っていたから家の中に運んだんだよ」


「お前がか?」


目の前の少女は発育不良なのか、同世代の子供よりも明らかに小さな身体をしていたし、とてもじゃないが俺の身体を運べるだけの力があるとは思えなかったのだが。


「うんっ。とっても重かったんだから。でも、ルーイにも手伝ってもらったから、何とか大丈夫だった」


「ふうん。ルーイってのは、お友達かい?」


「うん。私の一番の友達で、たったの一人の家族なの」


そう言って笑う少女の笑顔には、一点の曇りもない。


しかし二日前、か。俺としたことが、随分と長い間気を失っていたらしい。

まぁ、それだけ傷が深かった、ということなんだろうが。


「たった一人ってことは、おちびちゃん。そいつとお前だけでこの家に住んでんのかい?」


「そうだよ。あっ、だめだよっ。まだ動いちゃだめっ!」


話を聞いて、何とかベッドから上半身だけでも起き上がろうとした俺に対し、少女が慌てた様子で近寄ってくる。


「いつつつっ。やれやれ。久しぶりに手ひどくやられたが、しかし、まぁ、心配すんな、おちびちゃん。俺の身体は少々特別でね。傷の治りも早いのさ」


そう嘯くが、少女は信じていないのか、やはり心配そうな様子で俺をベッドの上に寝かそうと手を伸ばしてきた。


「大丈夫だっての。それより、そのお盆の上に乗っている美味そうな物は俺にくれないのか?」


「えっ?ああ、これ。お兄ちゃんが起きてたらあげようと思って作ったシチュー。いる?」


少女は今のいままで手に持っていたお盆の存在を忘れていたらしく、俺の声でようやくその手のお盆を俺に見えるよう差し出してきた。


「金はないが、くれるってんならもらうぜ。身体を治すには、飯を食うのが一番だからな」


そう言って、お盆の上から木で作られた質素なお椀を手に取る。

そして、そのままその中身を口に入れるが。


「なんだい、こりゃ。シチューってより、芋の煮出し汁かなんかか?」


単に芋を煮詰めて、そのままお椀に移しただけのような料理だった。


「お、おいしくなかった?」


俺の言葉を聞いて、急に不安そうな顔になって少女が尋ねてくる。


「いんや、結構イケるぜ。なかなか大したもんさ」


「本当っ!?」


嬉しそうな様子で、俺に詰め寄ってくるが、お前の手が乗っている俺の腹は、まだ傷が治ってないんだがな…。


「いてて、ああ、嘘はつかねぇから安心しろよ。それより、お礼がまだだったな。どうもお前さんとそのお友達に命を助けられたみたいだし、ありがとうよ」


くそったれみたいな人生だったが、しかしさりとて、俺は別段今すぐに死にたい訳でもない。


それに、どうせ死ぬならあの連中を一人でも多く道連れにしなけりゃ俺の気が済まないしな。


「えへへへっ」


礼を言われて照れているのか、少女は薄汚れた顔をだらしなく崩して喜んでいた。


「そういや、お前さんの名前もまだ聞いていなかったな、おちびちゃん。何て名前なんだ?」


名前。名を持たぬ俺にとって、相手の名前を覚えることは、中々に嬉しい出来事である。

しかし少女は、俺の質問に対し恥ずかしそうにモジモジしながら答えるのだった。


「私?私はその…、名前がないの」


「名前が、ない?」


「うん、私親に捨てられた子なの。私を拾ってくれた爺ちゃんも、私に名前を付けてくれなかった。いつも、おい、とか、お前、とか呼ぶんだもん」


名を持たぬ子供。

薄汚れた衣服。

親に捨てられた。


嫌な記憶がフラッシュバックする。


「その爺ちゃんとやらが、さっき言ってたお友達か?」


「ううん。爺ちゃんは一年前に死んじゃった。ルーイは、また別の友達だよ」


首を横に振りつつ、しかし悲しそうな素振りも見せずに語る少女。


「はぁん。しかし、名前がない、とは…」


「やっぱり、変、かな?」


表情を曇らせて少女が尋ねてくるが、しかし。


「かははっ」


お笑い草である。


「気にすんな、おちびちゃん。名前なんて俺にもねえよ。しかし、これまでちゃんと生きて来れたぜ。立派じゃないにしても、な」


「えっ、お兄ちゃんにも名前がないのっ!?」


「ああ、お互いろくでもない親の元に産まれてきたらしいな。名前がないっつーのは、なんつかーか、こう、自分の存在理由ってのを疑いたくなるよなぁ」


「え、えっと…」


俺の言葉に少女は賛同するでもなく、曖昧に笑うだけだった。


「俺はよ、自分に名前がない代わりに、相手の名前を覚えるのが好きな訳よ。相手の名前を覚えるってことは、相手の存在をいつまでも覚えていられるってことだ。相手の存在を覚えていれば、いつだって、自分はこの世界でたった一人じゃないって思えるだろ?どうだい、素敵でロマンチックな考えだろう」


「うんっ。私もそう思う!」


今度は賛同してくれるらしく、満面の笑みを浮かべて笑いかけてくる。


しかし、俺の本心は今言ったことと全くの真逆であった。


他人の名前を覚えること。それは、俺にとって、殺す相手の名前を覚えることだ。

相手の名前を覚えることで、また一人、俺の周囲から人が消えることを意味した。


なのに、その時の俺は一度死にかけて九死に一生を得たせいか、それとも少女の笑顔に昔垣間見たあの人の顔を思い出したのか、どうしてか、らしくもないことを次の瞬間には口に出していたのだ。


「よし、じゃあ俺がお前に名前を付けてやろう。命の恩人に、俺からなけなしのプレゼントだ」


「えっ、本当っ!?」


身を乗り出して、驚きの声を上げる。


その瞳は無邪気に輝いている。


「ああ、お前さんを拾ったっていう爺様じゃあないが、命の恩人に対して、おい、だの、お前、だのいつまでも呼ぶ訳にもいかんしな」


「じゃあ、どんな名前をくれるの?」


キラキラした瞳で俺に尋ねてくる。

そんな期待された顔をされると、逆に変な名前を付けてやろうかという気になるのが俺のひねくれたところではあるが…。


「そうさな、名前がないから“ナナシ”ってのは、いくらなんでも安直過ぎるか?お前さん、一応女の子だしな。もっと可愛いのがいいかい?」


「ううんっ。それでいい。それがいいっ!」


え、マジか。洒落のつもりで提案したんだが、了承されるとは思わなかったぜ。


もっと可愛い名前を先に挙げるべきだったか、こりゃ。


しかし、少女は俺の煩悶に気付くこともなく、何度も言葉に出しては嬉しそうに確認していた。


「ナナシ…ナナシ…。これが私の名前なんだ。私は今日からナナシだよ!わーいっ」


嬉しそうに笑いながら、その場でくるくると踊り出す。


まぁ、本人が嬉しそうなら、それでいいか。


「やれやれ…」


まぁ、たまにはこういうのもいいものだ。


いつまでも殺し殺されってのも、うんざりするものだからな。



こうして、俺とナナシとの夏の間だけの奇妙な共同生活が始まったのである。まる。




※※※※




その日の夜。


俺は小屋の外に人の気配を感じて自然と目を覚ました。


いくら重傷を負って寝込んでいるとはいえ、そこはそれ、腐っても依頼達成率100パーセント(だった)自称凄腕の暗殺者こと、俺である。


剣の鍔鳴りの音や鎧の軋む音には敏感なのだ。


いつでも対応できるように、ベッドから身体を起こし、部屋の扉へと近づく。


ナナシは今この部屋にはいない。

居間でルーイとやらと一緒に寝ているのだという。


暫くすると、小屋の玄関をノックする音が響きだした。


外には、少なくとも帯刀した男達、3名は存在している。

しかし、警戒心は感じ取れるが、殺気までは感じない。

そういった気配は、足音、身動ぎの音、呼吸の間などから感じ取れるものだ。


少なくとも、物盗りの類ではなさそうだが…。


「はぁ…い…」


ノックで目を覚ましたのか、ナナシが声を掛けて扉を開ける音が聞こえる。


「夜分済みません。我々は、怪しい者ではありません。ウィーグランの街の自警団の者です」


耳を当てている扉の向こうから、男が何かを見せる動作の気配が感じ取れる。


ウィーグランの街。

いよいよもって、嫌な予感がしてきたな、これは。

あの街から来たってことは…。


「はぁ。それで何の用でしょうか?」


「その前に、この家には君以外誰も居ないのか?」


「うん。居るのは私とルーイだけです」


「わうわうっ」


ナナシの言葉に応えるように、犬の鳴き声が聞こえる。


つーか、ルーイって犬だったのかよ。


犬をたった一人の家族とか言ってたのか、あのおちびちゃん。何とまぁ、悲しい奴よ。


「ふむ、そうか。まぁ、いいだろう。実は、三日前の晩に、バレンシア公爵様の館に、賊が忍び込んだのだ」


「えっ!?」


ナナシが驚く声が聞こえる。


レジナルド・バレンシア。

王国の元老院の重鎮で、引退した後も、政財界に強い影響力を持つ貴族の中の貴族。

また、熱心な教団信徒としても知られ、数々の功績から枢機卿の称号までも法王府から与えられた、大物である。


引退した後は、王都を離れて、北半分を森に囲まれた緑豊かな街、ウィーグランに館を構えて隠棲しているとの話だったが…。


「公爵様はご無事だったんでしょうか?」


「ああ、幸い公爵様はご無事だ。恐らく賊の狙いは公爵様のお命だったのだろうが、あの方の屋敷には屈強な警備兵が揃っているからな。賊は公爵様の元に辿り着くこともできず、手傷を負って街外れの森へと逃げ込んだらしい」


ふん。別に屈強な警備兵とやらにやられた訳じゃねーけどな。

まさかあの連中が公爵の館に居たとは思わなかっただけだ。

あの忌々しい十字狂い(、、、、)、め。


「森へ…」


「うむ。目撃情報によれば、その者は横腹と肩に矢傷を負っている筈だ。相当の深手を負ったらしいのでな。逃げ去ることもできずに、まだこの森のどこかに潜んでいると我々は踏んでいるのだが、君はそれらしい者を見なかったかね?」


「………」


やれやれ。

どうやらここまで、かね。

この傷じゃ、まだそう暴れることもできそうにないしなぁ。


俺みたいな悪党に、そうそう奇跡って奴がある訳ねーか、やっぱ。


教会の連中もたくさん殺したしなぁ。神様に嫌われて当然っちゃ、当然だけどな。


「いえ、見ませんでした。それに私、森は危ないのであまり奥までは入らないんです」


って、おいおい神様。

この展開は予想してなかったぜ。

今際の台詞まで考えていた俺の立場ってもんがねーじゃねーか。


「……そうですか。では、見かけたらすぐに街の自警団の者にお知らせください。間違っても、話しかけたりすることのないように。賊は、随分と凶暴な者のようなので」


「分かりました。そうします」


「では、ご協力感謝します」


自警団の男達は、そう言って小屋から去っていった。


男達の足音が聞こえなくなってから、暫く経った後に。


「はぁ~~っ」


ナナシの大きな溜息が聞こえてきた。


「くぅーん」


ついでにルーイとやらの心配そうな鳴き声も。


「あぁ~、怖かったよー、ルーイっ」


言葉の通り、ナナシの声には若干震えと涙が混じっているように聞こえた。


そんなに怖かったのなら、俺のことなんてさっさと売ってしまえば良かったのに。


変な奴だ。


ナナシがこちらに向かってくる足音が聞こえてきたので、俺は気配を消してさっさとベッドの中へと潜り込んだ。


寝たふりをしていると、耳に届いたのは扉が開く微かな音と、こちらへ近づいてくる小さな足音。


静寂、後、誰かが俺の顔を覗き込んでいる気配がする。


ここで、いきなりナイフでぶすり、なんて展開なら面白かったのに、当然、そんなことはなく、そのままの状態が暫く続いた。


「ナナシ…、か。えへへへっ」


そして、小さな呟き声で、嬉しそうな笑い声が聞こえてくるのだった。




※※※




結局、負った傷が完全に回復するまで一週間近くかかってしまった。

俺の身体の特殊性から鑑みると、むしろ治るのが遅かったと言うべきかもしれないが。


その間、俺はナナシと会話することで日がな一日過ごしていた。


話をしていて分かったことは、この小屋はウィーグランの街外れにある森の中にあり、ナナシは森に生えている薬草や食べられる茸などを採って街へ売りに行き、それによって生計を立てていること。

森の中に捨てられていた幼いナナシを拾ったのがこの小屋の元々の持ち主だった猟師の爺様で、爺様が一年前に老衰で死んでからは、この小屋でルーイと共に暮らしていること。

ルーイは、爺様が飼っていた猟犬だったこと。

等々…、である。


ノッドラートとの戦争も始まったこのご時世、小さな女の子一人で生きていくことの過酷さは論を待たないところではあるが、自らの境遇を語るナナシの口調はその過酷さに反し、存外無駄に明るく楽しげなものであった。


いや、ナナシは、いつだって楽しそうに笑っており、その表情を曇らすことは滅多になかった。


まるで、笑っていないと、生きていけないかのように。


それが何とも、俺を苛つかせるのだった。


「あっ、お兄ちゃんもう起きても大丈夫なの?」


ようやく傷も塞がり、体力も回復しただろうと踏んで、ベッドから起き上がり、固まってしまった関節をほぐすように柔軟体操をしていた俺に、ナナシが朝の挨拶もそっちのけで話しかけてきた。


「おう。この一週間、色々と世話をかけたな」


「ううんっ。新しい家族ができたみたいで、楽しかったもん。ねぇ、ルーイ?」


「バウっ」


やっぱり楽しげな表情で笑うナナシ。


新しい家族、ねぇ。


それはさておき。


「何とか身体を動かすこともできるようになったし、リハビリも兼ねて身体を少し動かしときたいんでね。何か手伝えることがあるんなら何でもするぜ?」


「えっ、本当?」


「おう。何なら王様を殺して来いってのでもいいぜ。だけど、神様だけは勘弁な」


「もうっ。そんなこと頼まないよっ」


「かははっ」


頬を丸めて膨れっ面をしていたナナシも、俺の笑い声に合わせてすぐにだらしのない笑顔に戻る。


「それじゃあ、今日朝ご飯を食べたら街に行こうと思っていたんだけど、手伝ってくれる?」


「街へ?ああ、行商にでも行くのか」


森で採った薬草とかを売りに行くって言ってたな、そういえば。


「うん。二週間に一回、街の薬屋さんと酒場の人が、薬草と食べられる山菜とかを引き取ってくれるんだ」


「へぇ。そりゃ結構なことだが、付き合えってんなら、付き合うぜ。荷物持ちでも何でも言ってくださいよ、お姫さん」


「ありがとう、お兄ちゃん。いつもはルーイに手伝ってもらってるんだけど、二週間分の食料とかもついでに買って帰るから、家に帰るまで色々と大変なの」


まぁ、その小さな身体じゃ大変だろうよ、そりゃ。


「嬉しいなぁ。お兄ちゃんと初めてのお出かけだっ」


「かっ。そんなに喜ぶようなことかねぇ」


嫌がられるよりは、いいかもしれんがね。




森の中の小屋から街までは、片道一時間かかる道のりだった。

大人の足であれば、もう少し早く着くこともできるだろうが、いかんせん、ちっこい背丈のナナシの足では、どうしてもそれくらいかかるのである。


ウィーグランの街。

王都から南東に馬車で三日程走ったところに位置する、中規模の街である。

この街の特徴と言えばなんと言っても、街の北半分が森に囲まれていることであり、この森をずっとずっと東へと辿っていくと、ノッドラートの国境沿いにある大森林が見えてくる。

二年前にノッドラートとの戦争が始まった今では、国境沿いの道は騎士団によって閉鎖されているらしいが、森に囲まれたこの街には、未だ戦火の炎は届いてはいなかった。

平和そのものである。


「やれやれ。そんで、その薬屋と酒場とやらはどこにあるんだ?」


「えっとねー、もっと街の中心部にあるんだよ」


平和ボケしてそうな街の住人達が行き交う路地で、ナナシに尋ねると、ナナシはニコニコしながら道の先を指差した。


「そうかい。んじゃとっとと行きますかね」


「うんっ」


薬草や山菜が詰まった籠を背負い直すと、ナナシとルーイを先に歩かせながら、俺は再びその後ろを付いて歩く。


未だに俺を追っているのか、街の端々に自警団の連中が目に付いた。

が、俺の面は一応割れてはいない筈である。いきなり道端でとっ捕まるようなことはないだろう。



事実、俺の予測の通り店に着くまで何事もなかった訳だが…。



――あら、また来たのかい。あんたの爺さんには世話になったから一応は相手をしてあげるけど、本当ならそんなことする必要もないってことちゃんと分かっているんだろうね?いつも脳天気な顔をしてるけどさ。




――チッ。名無しのガキが。ほら、これで買ってやるからさっさと商品をよこしな。あぁ?少なすぎるだぁ?何様のつもりなんだ、お前は。買ってやるだけでも、有り難いと思えよ、図々しい。ったく。




「えへへっ。今日も何とか買ってもらえました。良かったです」


薬屋の店主や、酒場のマスターから明らかに歓迎されているとは思えない扱いを受けてもなお、ナナシは楽しそうな笑顔を見せていた。


毎日危険な森に行ってコツコツ集めてきた薬草や山菜を二束三文で買い叩かれても、まるで気にもしていないような顔をしながら。


俺はその様子を、ただじっと後ろから眺めていた。


よくある話だ。


森に捨てられていたような小さなガキを真面目に相手にするような大人は、まぁそういないだろう。

だから、彼らの対応は別段責められるようなものではない。

むしろ、ちゃんとした対応をするような奴が変人ってだけだ。


「………そんで、これから食材とか日用品を買いに行くんだろう?帰りもちゃんと荷物持ちをやってやるから、さっさと行くぞ、ほら」


「うんっ」


ナナシの元気のいい返事を聞きながら、酒場の裏口がある路地から表通りに出ようとすると――。


急にルーイが唸り声を上げて前を睨み始めた。


「ど、どうしたのルーイ?」


「どうやらお前にお客さんらしい」


路地の奥から、ニヤついた笑みを浮かべた小汚い風体の男が二人、こちらを見ていた。


「よう。今日もちゃんと売りに来たのか、偉い偉い」


「偉い嬢ちゃんのことだから分かっているとは思うが、俺たちに渡すべきものも忘れていないだろうなぁ?」


そう言いながら、二人はこちらへ近づいてくる。


「あん?」


事情を問いただすべく、ナナシに目を向けると。


ナナシは、笑顔を浮かべながら、それでも眉をひそめて恐怖を顔に滲ませていた。


そしてその笑顔は何とも歪んで―――醜かった。


「あっ、あの、今日は、お兄ちゃんと、夜にたくさんご飯を食べる予定なんです…っ。だから…きゃあっ」


ナナシが言い終わるのを待たず、男はナナシのくすんだ灰色の髪を無造作に掴んで乱暴に投げ捨てる。


「そんな話は聞いてねぇよ、ガキが。俺たちが酒場のマスターを紹介してやったんだろ?だったら、きちんと仲介料ってものを支払ってもらわねぇとな。それが大人の仁義ってもんだぜ」


倒れ伏したナナシを見つめながら、酷薄に笑う。


傍にいたルーイがそれに反応して男たちに噛み付こうとするが、もう一人の男に蹴り返されて跳ね飛ばされた。


それでも気丈に唸り声を上げながら、再び立ち上がろうとするが…。


「だ、だめっ、ルーイ…、大人しくして」


ナナシが倒れたまま、首を振ってルーイに否定の意を示していた。


「初めっから、そうしとけばいいんだよ、ったく」


いらただしげに、舌打ちをする男たち。


弱き者が、さらに弱き者を叩く、か。なんともはや、くだらないことだ。


笑う男たちに、倒れたままのナナシ。

その口元には、まだ、歪んだ笑みが見て取れる。


それがどうにも、俺を苛つかせるのだった。


「おい」


だから、傍観するつもりだったのに、ついつい声をかけてしまった。


「あぁ?誰だ、お前」


頭の悪そうなチンピラがこちらを睨み付けてくるが、そんなものは無視だ。


「ナナシ、助けて欲しいか?」


「………えっ?」


驚いた様子でこちらを見つめ返す。


「いや、この期に及んでまだ笑ってやがるからよ。真性ドMなのかと思ったんだが、助けて欲しいのなら声に出して言えよ。じゃなきゃ、誰にも届かねぇ」


「お前、何訳わかんねぇこと言ってんだ、おい!」


チンピラ達がこちらに近づいて、恫喝してくる。

が、俺の目線は倒れているナナシに向けられたままだ。


「声に…出す…」


自分を助けてくれる人なんているはずないとでも思っているのか?

まるで考えもしなかったような提案を聞かされたみたいに、ポカンとした表情を見せていた。


「で、どうなんだ?」


頭を掻きながら、心底どうでもいいような口調で問い返す俺に、ナナシは数瞬迷った様子を見せ、それから――。


「た、助けて…、助けてお兄ちゃんっ!」


目を瞑り、あの笑みを止めて、声高らかに助けを求めた。


「あいよ」


「おい、お前、何勝手なこと――ぶげぇっ」


後ろを振り返り、ナナシに再び暴行を加えようとした男の側頭部を、力任せに蹴り飛ばした。


ただそれだけで、まるで壊れた人形のように跳ね飛んで路地の壁に激突し、沈黙。


「てめぇっ!」


隣の男が、すぐに反撃に移ろうとするが――。


殴りかかってきたのをヒョイと横に避けて、そのまま足を払う。


「だぁっ!?」


無様にその場で転んだのを見届けた後、俺は足下に転がっている男の顔面を無造作に踏みつぶした。


「ぐえぁっ!」


何かが潰れる音と、蛙の鳴くような男の悲鳴が聞こえた後、この場に動いている者は誰もいなくなった。


「やれやれ。リハビリにもならなかったな」


嘆息し、倒れたままこちらを見ているナナシの方に目を向ける。

傍には、申し訳なさそうな顔をしながら、頭を垂れてナナシの顔を舐めているルーイ。


「大丈夫だったか、おい」


ナナシの目の前に近づき、しゃがんで目線を合わせてやると。


「………ふえぇっ…」


ナナシは半泣き半笑いみたいな変な表情を見せながら、やっぱり変な呻き声をあげるのだった。





「すごいっ。すごく強いんだねぇ、お兄ちゃんっ。かっこよかったよっ!」


帰り道。

ナナシは俺に助けてもらったのが嬉しかったのか、いつもの倍のテンションでずっと俺を褒めそやしていた。


「だろう?今度からは、何かあったら俺に言えよ。お前は命の恩人だからな。困ったことがあったら助けてやる」


空になった籠を担ぎながら、調子の良いことを言う俺。

しかし、依頼に失敗してしまった今、俺は暫くはそうしてナナシの面倒を見てやってもいい気分にはなっていたのだった。


「ほんとう?嬉しいなぁ。嬉しいなぁ」


ピョンピョンとステップしながら山道を歩く。

今にもこけそうで、危なっかしくて見てられないのだが。


「でも、お兄ちゃん。本当に強かったねぇ。何か武術とかやっていたの?」


「あん?まぁ、そうだなぁ。暗殺術を、ひとつ嗜んでいまして」


「あんさつじゅつ?」


何やら間延びした言い方で聞き返してくる。


「いんや。何でもねぇよ。お兄ちゃんは産まれた時から超強かったのさ。いわゆる一つの天才ってやつだな。すげえだろ」


「うんっ。すごいっ。じゃあ、勇者様より強いの?」


無邪気な顔して尋ねてくる。子供のような稚気にまみれた質問だな。

勇者ウィル・レッドライト。約七十年前に魔王を討伐した英雄。


「そうだなぁ。もう生きちゃいねぇだろうが…、戦ったら俺が勝つね」


目をキラキラさせて話を聞いてくるナナシの様子が面白くなって、適当なことをとりあえず言ってみる。


「すごい!じゃあ、龍騎士様となら?」


「龍騎士、ねぇ」


“武龍の試練”を制覇した英雄達。

王国最強の騎士アルバート・コーンフィールド。

聖騎士アナスタシア・ソードレス。

深緑の魔女ルールールー・ムーンリバー。


どいつもこいつも化け物じみて強いって噂だが…。


「まぁ、六対四で俺が勝つだろうな」


根拠は一切ない。

会ったことすらねぇしな。


「わぁー。それじゃあ、武龍様とだったら?」


「そいつぁ、やってみなくちゃ分からないなぁ」


武龍。

王都の北にある、ノーザリン山脈の山中にある古城に棲むと言われる、伝説の龍。

武の神様とまで讃えられ、幾人もの武芸者達が戦いを挑んでは、誰も勝つことができなかったと言われている。


まぁ、コソコソと暗殺するしか能のない俺に勝てるような相手じゃないだろうが…。


「きっと、お兄ちゃんなら勝てるよっ!」


それでも、ナナシは俺の勝利を疑っていないようだった。


「かははっ。そんときゃ、俺も龍騎士様だな」


「お兄ちゃんならきっとなれるよっ!そうなったら、私毎日ご飯作ってあげるね」


「そりゃ嬉しいね。そんじゃ、いつかお前のために武龍に挑んでちょっくら英雄様になってきてやるよ」


「わーいっ。約束だよっ!」


「バウっ」


ナナシの笑い声に合わせて、隣のルーイも鳴き声をあげる。


「かははっ」


苛つかせるだけだったナナシの脳天気な笑顔を見て、けれども何故だが俺も嬉しくなって、一緒に笑い声をあげるのだった。




※※※※




それから。

それから俺は、自分でも意外なことだが、数ヶ月の間ナナシと普通の家族のような生活をした。


朝起きておはようを言い、笑いながら朝食を食べ、昼には森へ薬草や山菜を採りに出かける。

日の光を浴びながら、静謐な空気が漂う森の中で昼食を食べ、そのまま木陰で仲良く昼寝をする。

夕方にはちょっとしたことで喧嘩をして、けれども夕飯時にはお互い相手の好物を譲り合いながら仲直りをする。

寝る前には星の光を浴びながら王国各地のお伽噺を話してやって、虫の鳴き声を子守歌に古ぼけたベッドで闇を避けるように一緒になって眠る。


そんな一日を繰り返し、繰り返すことに疑問を持たず、己の出自さえ忘れて、身を焦がす信念さえも置き去りに、共に笑い、共に怒り、まるで人間のように暮らす。


そんなことが出来るような人間だっただろうか、俺は。


俺の手は血に塗れ、俺の耳は断末魔の悲鳴が断続的に鳴り響き、俺の目には死しか映っていなかったはずだ。


産まれてからずっと、そうだったはずだ。


けれども俺は、確かにその数ヶ月間、夏が終わるまでは、あの森の中で、ナナシとルーイと共に、まるで人間のように、まるで人間らしく、まるで人間そのものの暮らしをすることができた。


それだけは、確かだったのだ。


そして俺はそのことを、それからの気が狂う程長い長い間、忘れることなく覚えていることになった。




終わりは唐突にやって来た。

一通の手紙という形をとって、夏の終わりと共にやって来たのだった。



「今日もいっぱい採れたねぇ、茸」


「ああ。だけど、こんなに採ってどうすんだ?誰が食べるんだよ、これ」


その日、森に茸取りに出かけていた俺たちは、籠一杯の茸を採って、家への帰り道を歩いていた。


「もちろんお兄ちゃんだよっ。私、たくさん茸料理作ってあげるね」


「そりゃ嬉しいが…、って、何だこりゃ」


小屋へと辿り着くと、入り口の扉に一通の手紙が挟まっていた。


「わっ、お手紙だっ。誰がこんなところまで持ってきたんだろう?」


はしゃぐナナシを尻目に、とりあえずその手紙を取ってみる。


豪奢な羊皮紙に包まれており、立派な封蝋が押されてある。


そして、この紋章は―――。


「二つ首の蛇に、獅子の紋章……っ」


「どうしたの、お兄ちゃん?」


ノッドラート王家の紋章!

何だってそんなものが押された手紙が、ここに――。


「………ナナシ、お前確か字が読めないんだよな」


「えっ、う、うん…」


「じゃあ、俺が先に読むぞ」


ナナシの返事も聞かずに、俺は封印を破り中の手紙を取り出して、読む。


そこに書かれていることは――。


「………………かはははっ」


「ねぇ、お兄ちゃん。何が書かれてあるの?」


こいつぁ、何と言うか、予想外の展開だが…。



「この手紙、どうやらお前の母親からのものらしいぜ」


「………えっ?」


キョトンとした顔をして、こちらを眺めてくる。


「おかあ、さん?」


「ああ。この手紙によるとだな、お前の母親はノッドラート王家のさる高貴な血筋の持ち主らしいが、訳あってお前を育てることが出来ず、断腸の思いでお前を捨てたらしい。が、それは不本意な出来事であって、今までずっとお前の消息を探していたところ、今になってようやくこの森で暮らしていることが判明したので、もし良ければ三日後の夜にこの小屋で会いたいそうだ」


「えっ。えっと……、ふぇ?」


急に捲し立てられて、混乱した様子で間抜けな声を出しているが、無理もねぇか。


「よーするにだ。お前の母親がお前に会いたいんだとさ。どうするよ?」


「………おかあさん。私の、おかあさん」


確認するように、何度も呟く。


「ああ。お前は会いたいか?会いたいんなら、俺も付き合ってやるよ。だけど、もし、会いたくないんなら、俺が追い払ってやる」


俺の話を理解したらしく、弛緩していた顔が赤く染まり出し、瞳には生気が。


「私、私…、会いたいっ。おかあさんに会いたいっ!」


「そうかい。んじゃ、三日後にこの小屋にいりゃ会えるさ。お前の母親にな」


「三日後っ!わわわっ、大変だっ。急いで掃除しないとっ。あっ、あとご馳走も用意しないと!」


急に慌ただしい様子でルーイと共に家に入り、中でドタバタに動き回る気配が聞こえてくる。


「………おかあさん、ねぇ」


しかし俺は、手放しには喜べないでいた。

ノッドラート王家の紋章。

それがどうにも俺に不吉な予感を感じさせた。

俺が今まで暗殺者として生きて来られたのも、ここぞという時に直感が冴え渡っていたことにある。


今回失敗した依頼も、話を聞いた時から嫌な予感がしていたのだ。

そして俺は死にかける程の傷を負い、無様に仕事に失敗した。

その時と、同じ嫌な予感がするのだった。



喜びから有頂天になって家を動き回るナナシに付き合っている内に、瞬く間にその三日後がやって来た。


その日ナナシは朝から落ち着かない様子で家の中をウロウロ歩き回り、ことある事に俺におかあさんはどんな人なのかと聞いたりしていたが、夕方になり、夜が近づくにつれて、段々口数も減り、何かを考え込むように静かに椅子の上に座っているようになった。


俺はそんなナナシの様子を、ただじっと静かに眺めていた。


その日の夜は、秋の始まりを感じさせる、見事な満月の夜だった。


「………夜分、失礼する」


ナナシが気合いを入れて作った料理が冷めてきた頃、ノックの音と共に手紙の主はやって来た。


「っ!は、はいっ!開いてますっ」


ナナシが慌てた様子で外に声をかける。


扉を開けて、入ってきたのは――。


「っ!」


これは…、嫌な予感が当たったようだな、おい。何の冗談なんだ?


入ってきたのは、三人の人物。

一人は、ノッドラートの騎士鎧を身に纏った、屈強な様子の男性騎士。

一人は、頭からフードを被って顔を隠している、小柄な人物。

そして、最後の一人は、十の十字架が彩られた純白の鎧を着た、精悍な顔立ちの女性騎士。


あの鎧は―――法王府の“十十字軍”!

何だってこんなところに十字狂いの連中が!?


「あ、あなたが私のおかあさん、ですか?」


俺の狼狽に気付くことなく、ナナシは純白の女性騎士に話しかけている。


「いえ、違います。…さあ、王妃殿下」


毅然とした様子で返答した女性騎士は、そのまま後ろに控えていたローブの人物に目を向ける。


「はい」


そのままローブを後ろに取ると――。

絹のような美しい白銀の髪を腰まで伸ばし、褐色の肌に栗色の瞳。

美しい顔立ちをそのままに、ナナシに向かって微笑みかけている妙齢の女性。


「―――まさか」


俺があげた小さな驚きの声は、しかしその場にいた他の誰も気にすることなく、事態はまさにナナシと生き別れの母親との感動のご対面へと移っていた。


「この方は、ネフェリアル王妃殿下。トレンディア国王のお后様です」


第15代トレンディア国王、オルフィオ・フォウ・トレンディアの正妻!

トレンディアとノッドラート、両国の和平のためにトレンディア王に嫁いだノッドラート王の王弟の娘。

そして―――敬虔な教会の信徒。


そんな、そんな馬鹿な…っ!


何でこんなことに…?


これは一体誰が描いたシナリオなんだ…?


なぜ、なぜ今になってここに王妃が現れるんだ…っ!


「あぁっ…っ。一目で、一目見て分かりました。貴女は、間違いなく私の娘です」


俺の目の前では、ナナシの姿を見て感極まった様子で涙を流す王妃の姿が。


しかし、俺にはそれがどこか現実離れした寸劇のように見える。


「私と同じ白銀の髪に、あの人と同じ藍色の瞳。それに何より、顔立ちがあの人そっくりだわ…っ」


いつもはくすんだ灰色の髪をしているが、今日は母親に会えるかもしれないということで、ナナシはその髪を隅々まで洗い、俺が丁寧に櫛を通して整えてやっていた。

だから、今ではナナシの髪は美しい銀色に見える。


「あ、あのっ…」


ナナシはおずおずとした様子で王妃に手を伸ばそうとするが、途中で何かに迷うにように手を止めて元に戻した。


「………そうですね、私は貴女に許してくれと言える身分ではありません。許して欲しいとも。だけど、貴女には聞いてもらいたいのです。なぜ、私が貴女を育てることができなかったのかを」


それから王妃が語った物語は、実にありふれていて、陳腐で、一山いくらの、くだらない三文話だった。


しかし、だからこそ、その物語には虚偽はなく、全てが真実だったのかもしれなかった。




――今更言うまでもないことかもしれませんが、私の名前はネフェリアルと言います。

今でこそこの国の王、オルフィオの正妻ですが、それ以前はノッドラート現国王の王弟の娘でした。

そして、私の産まれてきた意味は、私が産まれるより遙か前に私の知らないところで決定されていました。

すなわち、幾度となく戦火の火花を散らしてきた、トレンディアとノッドラートとの和睦のため。

ただそのための道具として産まれたのが、私です。

当然、産まれた時から今後トレンディアを継ぐであろう若き王、オルフィオの妻になることが決まっていました。

それ以外の人生は一切用意されていませんでした。

しかし…、しかし私は恋をしたのです。

15歳の時に。

私は今の夫のことを深く愛していますが、けれど、恋をしたのはあの時が最初で最後だったのかもしれません。

その相手こそ、貴女のお父様です。

彼は、私の住む後宮の警護に当たっていた中級騎士の一人でした。

後宮の中に入ることを許される身分ではありませんでしたが、それでも、私と彼は人目を盗んで逢瀬を重ねるようになり、深く、愛情を育んでいくようになったのです。

あの頃の私にとって、話したことすらない隣国の王に嫁ぐよりも、彼と添い遂げることだけが自らの生きる意味だと信じ切っていたのです。

そして、彼もそう思ってくれているはずだと信じていました。

けれど、蜜月の時はそう長くは続きませんでした。

私達の仲を知っていたのは、私の専属の侍女であった女性と、彼女の父である騎士だけでした。

そこに無口で無骨そうな騎士が立っているでしょう?

そう、その人です。彼が侍女の父親だった騎士です。

私がオルフィオに嫁いだ後も、ずっと影ながら私を守ってくれているのです。

こんな所にまで付いてきてくれて、感謝しようにもしきれないくらい、恩があるのですけれど…。

あら、珍しく照れていますわね。うふふっ。

………話が少しそれました。

私の知る限り、その二人だけが私達の仲を知っているはずでした。

しかし、それは子供らしい浅はかな思いこみだったのでしょう。

半年も経たない内に、私達の仲は城の高官達に発覚してしまい、私達は引き離されてしまいました。

彼は………、彼は私の知らないところで、秘密裏に殺されてしまったのだと、後で聞かされました。

私は何度も彼の後を追うことを考えましたが、けれど、それをすることは私にはできなかったのです。

その時にはもう、貴女が私のお腹の中にいたからですよ。

彼らが気付いた時には、お腹の中の赤ちゃんは殺して取り上げることが不可能な程に大きくなっていました。

だから、彼らは貴女を産むことを見逃してくれたのです。

産まれたその場で赤ちゃんを殺すこともできたのでしょうが、彼らは何故だがそれをしませんでした。

風の噂で、私の父が、赤ん坊を殺すことだけは止めたのだと聞きました。

父にとって、貴女は初めて孫にあたるから、と。

けれど、真相は分かりません。

その父ももう亡くなってしまいましたから…。

ともかく、どこの馬の骨とも知れない男の子供を産んだ私の商品価値は、売り物にならないほど落ちたことは確かです。

本来であれば、私は生まれたての赤ん坊と共に、用済みになる筈でした。

けれど、事が公にならないように、と貴女は私の手の届かない所に連れ去られてしまったのです。

ノッドラートから国境を越え、遠くトレンディアの地に捨てられたと聞いた時の絶望を、私は今でも覚えています。

私の、私達の、大切な赤ちゃんを…。

侍女や、彼女の父親は秘密裏に何度も貴女を捜して各地を回ったそうですが、貴女の消息は全く掴めませんでした。

そして、驚くべきことに、私もまた、そのままトレンディアの若き獅子、オルフィオ王のもとに嫁ぐことになったのです。

しかも、王は事情を全て知っていたのです!

なのに、優しい王は、全てを承知の上で、私を受け入れると言ってくれました。

例え君がその男のことを忘れられないのだとしても、私はずっと君の傍で待っていよう、と。

私は…、私は貴女の父以外の人を愛することになるなんて、夢にも思っていませんでした。

けれど、王はその言葉の通り、私が彼に心を開くまでの何年もの間、本当にただひたすら待っていてくれたのです。

この国で最も力を持っている男が、その力を使わず、ただじっと…。

私は次第に王に心を寄せるようになっていきました。

それは、貴女の父親に感じた激しく流れるような愛情とは別の、穏やかで静かな愛情でした。

王を愛せるようになり、幸せな日々をトレンディアの王宮で過ごせるようなっても、それでも私はずっと一つのことを忘れることはありませんでした。

それは、貴女のことです。

貴女のことだけは、ただそれだけは忘れることなく、私にとって唯一の気がかりだったのです。

私は貴女の父親が死んでからは、天上の神に救いを求めて教会の信徒になっていましたから、教会のネットワークを頼って貴女の行方をずっと捜していたのです。

それこそ、何年も、何年も、何年も。

そして、遂に貴女のことを見つけることができたのです!

それも、バレンシア枢機卿猊下のご協力があったからなのですが、ノッドラートとの国境付近の森に貴女が捨てられたという情報を得た私達は、王には内緒で、この近辺の捨て子を調べていたのです。

バレンシア枢機卿猊下が丁度孤児院を経営していて、ウィーグラン周辺の捨て子の事情に詳しかったのも行幸でした。

猊下のご協力のもと、私達は何度もこの地を訪れては、探してきたのです。

私と、彼の血を引く子供を。彼が生きて、確かに私と愛し合ったことの唯一の証。

それが、それこそが――。




「貴女なのですよ」


王妃は、目尻に涙を浮かべながら、感極まった様子でナナシに話しかけていた。

ナナシは王妃の話を信じ切れないのか、それとも信じて良いのか悩んでいるのか、嬉しいような、悲しいような、色んな感情が混ざり合った不思議な泣き笑いの表情を浮かべながら王妃をただ黙って見つめていた。


王妃の隣に佇んでいる、侍女の父親だとかいう壮年の騎士も、長年の宿願がようやく叶ったといった様子で、深く頷いていた。

十字狂いの女騎士だけは、無表情で王妃の隣に立っているだけだったが。


この女が王妃に協力しているのも、バレンシア枢機卿繋がりで、法王府から何らかの打診があったせいなのだろうか?


ともかく、これでようやく疑問の一つが解消された訳だ。


なぜ。


なぜあの時、あの晩に、あの館に、バレンシア公爵の居城に、十字狂いの連中が居たのか、ずっと疑問だったのだが、あれは俺を張っていた訳ではなく――。


この、頭の中まで蜂蜜で出来てそうな幸せな王妃様を守るためだった訳、か。


「今すぐ、とは言いません。私は何年も何年も待ったのですから。けれど、いつか、そう遠くない未来に、私と一緒に暮らしませんか?」


王妃は一歩ナナシに近づいて、手を伸ばしながら話しかける。

ナナシは後ろに一歩後ずさろうとし、けれど踏みとどまって、オドオドした様子で問い返した。


「だ、だけど………、私なんかが、一緒じゃ、迷惑なんじゃ……」


「そんなことはありませんよ。私がこの日をどれだけ待ち望んでいたか。夫も、貴女を王宮に連れ帰ることに了承してくれています」


「………王宮…」


「ええ。貴女の弟もいるのですよ。父親は違いますが、可愛い男の子です」


この間産まれた、第一王子のオラフのことか。


「ねぇ、私と一緒に帰りましょう?」


そう言って、ナナシに微笑みかける。


帰る。王妃はそう言った。帰る場所。ナナシの。


しかし、それは――。


「わ、私、私は………」


「きっとみんな歓迎してくれるはずです。そうなれば、貴女も王女様です。もう、こんな暮らしをしなくても良くなるのですよ!」


古ぼけた小屋を見渡しながら、まるで謡うように言葉を紡ぐ王妃。

確かに、ナナシにとってここでの暮らしは決して楽なものではなかったろう。


ナナシの隣で大人しく座っていたルーイは、王妃の言葉に少し反応してナナシの顔を見上げるように上を向く。


それでも、ナナシは何かを迷うに、何かを捨てきれないかのように、顔を小さく横に振りながら、答えを出そうとしていた。


ナナシは、王妃の話が始まってから、ずっと俺の顔を見ようとはしていなかった。


それはきっと――。


「そうだ!街の者に聞きました。貴女は名前すら付けられずに暮らしてきたのだと。かわいそうなことに」


「お、おかあさん。わ、わたし。私は…」


ナナシはその時確かに、王妃の伸ばした手を掴もうとしていた。

王妃の手を掴み、そして答えを出そうとしていたのだ。



けれど、彼女があの時王妃の提案にどう答えるつもりだったのかは、永久に分からずじまいとなってしまった。



「でも、もう大丈夫ですよ。貴女の名前なら、ちゃんとあるのです。あの人と、私とで決めた名前が」


王妃もナナシの答えに応えるように、彼女の小さな手を掴もうと手を伸ばし――。


「貴女の、本当の名前は――」


だけど、もう限界だった。



「かはっ。かははははっ。かははははは は は は  は  は   は   は   は  !」



「えっ?」


「お、お兄…ちゃん?」


突然爆笑を始めた俺に向けて、その場にいた全ての人間が目を向けた。


「そう言えば、貴方は…」


まだ笑い続ける俺に対し、不審そうに見つめながら王妃がナナシに尋ねている。


後ろの二人の騎士は、何かを感じ取ったのか、剣の柄に手を当ててこちらを見つめている。


「あ、あのねっ。この人は私のお兄ちゃんで――」


「かははははっ。これは何の茶番なんだ?誰が描いた喜劇だ!デウスエクスマキナはいつ現れるんだ!?」


笑い声を止めて、俺は天に向けて大声で叫ぶ。


「人は運命を変えられないのか?罪を償うことは?業を克服することはできないのか?」


「お、お兄ちゃん、どう…したの?」


ナナシは俺に声をかけようとし、けれども初めて表情に怯えの色を見せた。


その時の俺は、きっと牙を剥いて酷薄そうに笑っていたに違いなかった。


「あんたはどう思う、王妃様。あんたの運命は変わったのか?あんたが犯した罪は償われたか?あんたが負うべき業は克服されたと思うか?」


ああ。血の匂いがする。

数ヶ月ぶりに嗅ぐ芳しい香りだ。

俺にだけに香る、俺のためだけの原罪だ。


「な、何を――、貴方は一体?」


「今!ここで!俺が教えてやろう、王妃様。あんたの運命は変わることはなく、あんたが犯した罪も償われず、あんたが負うべき業さえも克服されることはない。永遠にな」


なぜなら。


「なぜなら――」


この部屋の中で一番早く異変に気付いたのは、ナナシの隣に寝そべっていたルーイだった。


俺の瞳の変化に気付き、敵意も露わに俺に向けて唸り声を上げ始めた。


「ル、ルーイっ?」


「き、貴様――っ!」


ルーイに続いて、後ろの十字狂いが気付くが、遅すぎる。

何て怠慢だ。許し難い程に。


今、俺の瞳は爛々と輝いている筈だ。



血よりも鈍く、錆色より鮮烈に、赤く!



「――あんたはここで死ぬからさ」



言葉よりも早く、花を摘むよりも軽く、俺は王妃様の細い細い頸に手を掛けて、そのまま力任せにねじ折った。


「―――え?」


骨が砕ける音が、鈍く辺りに響く。言葉もなく。


一瞬。静寂。後に――。


「貴様アアァァッ!」


十字狂いの女騎士が即座に腰の剣を抜き放ち俺に斬りかかろうとするが。


遅い遅い遅い!


一瞬で間を詰めて、抱擁するように彼女の身体に肉迫する。

愛を身体で語らうのだ。


「かはははっ!」


「――………そ、そん、な…?」


純白の銀の鎧を貫いて、自身の腹部を貫通している俺の腕を奇妙なもののように見つめている。


ああ。暖かい。

彼女の鼓動を感じるね。

血の滴る音さえ心地よい。


そのまま無造作に腕を引き抜いて、行動不能に陥っている女性騎士をそのまま後ろで惚けた様子でこちらを見ている壮年の騎士に投げつける。


「姫…様…?」


俺の後ろで倒れ伏して身動き一つしなくなった王妃様の姿がよほどショックだったらしい。


まぁ、どうでもいい。


女性騎士を受け止めつつも、こちらを向こうとはしない騎士にお別れの挨拶をすることにした。


「さようなら」


拳を握り、顔面に向けて右ストレート。

それだけで、瑞々しい何かが砕けたような嫌な音が辺りに鳴り響いた。


身体を痙攣させながら、そのまま騎士は物も言わずにその場に倒れ伏す。


そして、ようやく、静かになった。


後は、後ろで俺に向けて未だに唸り声を上げ続けているルーイだけが、この小屋の中で音を発し続けていた。


「なぁ、ルーイ。俺はお前を殺したくはないんだよ。だから、分かるよな、お前なら」


優しく微笑み掛けて、全てを迎え入れるように両手を広げる。


両手共に、真っ赤に血に塗れていた。


そして、俺の瞳を見たのか。

ルーイは、それっきり、唸り声を上げるのを止めて、ただただナナシを守ろうとするかのように、彼女の前に出た。


ナナシは。


ナナシはただじっと、目を見開いて動かなくなった王妃を見つめていた。

そこには、もうあの脳天気な笑みは見られなかった。


「ナナシ」


「っ!」


俺が声をかけると、まるで夢から覚めたかのようにびくっと身体を震わせて、そのままこちらへとゆっくり振り向いた。


「……あ、……あぁ…」


唇を振るわせ、焦点の合っていない瞳で。


「実はずっとお前に言ってなかったことがあったんだけどよ。俺ってば実は、“ダンピール”なんだよなぁ。知ってた?」


「……あぁぁ………」


意味をなさない呻き声を上げるナナシを無視して、俺は話を一人で進める。


「ダンピールって、知ってるか?女しかいないヴァンパイアと、運の悪い人間の男との間に極めつきに運が悪く産まれてくる子供のことを、そう言うんだけどな」


「………」


今、俺の瞳は自身が永遠の不死者共の血を引いていることを示すかのように、血の色に赤く輝いている筈だ。


「両方の特性を中途半端に受け継いでいるから、ヴァンパイア共みたいに不老不死って訳でもない。ちゃんと歳は取るのさ。人間の何分の一以下の速度だけどよ」


「………」


俺ももう、自分が今何歳なのか忘れてしまった。

まだ百年も生きてはいないはずだけど。


「けれど、人間って訳でもない。普段は陽の光の下を歩いても平気だし、力を出さなければ普通の人間と同じだが、一度力を覚醒させれば、ほら、この通り」


「………」


首が反対方向に折れ曲がった王妃。腹の真ん中に穴を開けて血を流し続ける女騎士。顔面を陥没させて痙攣している壮年の騎士。

どれもこれも、もう何かを喋ることもないだろう。


ヴァンパイアハンターを生業にしている十字狂い共、“十十字軍”の女騎士が俺のことに気付かなかったのも、俺が普段は人間と全く変わらない中途半端なヴァンパイアのなり損ない、ダンピールだったからだろう。


「そんでもって、こんな力を持って産まれてきたからさ、まぁ、真っ当な人生を送ることは難しくってなぁ。気が付けば暗殺業なんかを生業にしているって訳だ。笑えるだろ?かははっ!」


「………」


俺のことをゴミを見るような目で見ていた母親。俺のことを怪物を見るような目で見ていた父親。

そのどちらももういないけれど。

全く持って、お笑い草だった。

ヴァンパイアと人間とのラブロマンスの果てが、地獄のようなバッドエンドだなんて、俺の人生の始まりに似つかわしくって最高じゃないか!


「まぁ、それでよ、何ともくだらないことに、今回も俺は暗殺を頼まれていたって訳だ。いや、まぁ、嫌な予感はしてたんだよなぁ。無様に失敗して死にかけるしさ。まぁ、でも、そんなこんなで、今回の俺のターゲットってさ、そこに転がっている王妃様だった訳よ」


「………」


数ヶ月前、バレンシア公爵の館に王妃がお忍びで滞在しているという情報を裏からゲットした俺は、意気揚々と館に忍び込んで、そんでもって見事に返り討ちに遭ったのであった。


しかしまぁ、お忍びで滞在している理由については疑問だったが、まさかそれが生き別れの子供捜しだったとは、ね。


「んー、まぁ、ほら、この間トレンディアとノッドラートとの間で戦が始まっただろ?まぁ、戦自体、小さいのを両国共に過去に何度もやって来ているからな。お隣さんだし。今回もそんな小さな戦争で終わる筈だったんだよ。オルフィオ王は和睦推進派だし、王妃様はノッドラート出身だしよ。でも、戦争が簡単に終わってもらっちゃ困る人がいたんだよな、これが、困ったことに」


「………」


オルフィオ王はこの秋に向けて、ノッドラートとの間で和睦案を打診する腹づもりだったらしい。

当然、王妃もそれを知っていたはずだ。

だからこそ、戦争中にもかかわらず、国境沿いのこの街までわざわざお忍びで来られる余裕があった訳だ。


「戦争、戦争、大戦争!ってのが、今回の依頼主のご希望らしくてさ。まぁ、両国の架け橋とも言うべき王妃様がこんな国境沿いの街で死んでしまえば、王の和睦案なんてパーだろうしな。俺は戦争なんざどうでもいいが、しかし、残念なことに王妃は教会信者だしなぁ」


「………」


教会信者だけは絶対に殺す。

それが俺が暗殺者になると決めた際に、ただ一つ自身に課したルールだった。


「っとゆー訳で。一度は諦めた王妃暗殺が、まさかこんな形で実現するなんて夢にも思っていなかったぜ。いやはや、人生万事が塞翁が馬だな、こりゃ。かははははははっ!」


「………」


無反応。ただ、呆然と俺の顔を見ているだけ。

ナナシは。

ナナシは――。


「ははははは、はは、は、はぁーあ」


乾いた笑いを止めて、うんざりするような溜息を吐く。

事実、俺はうんざりしていた。

運命のくだらなさに。

何だって、俺はナナシに拾われたりしたんだ?

俺はあそこでくたばってしまってもいいと思っていたのに。

何だって、ナナシは俺なんかを助けたりしたんだ?

そして、何だってナナシの母親を名乗り出たのがよりにもよって王妃様で、それがわざわざ俺の目の前に現れたりしたんだ?

俺は本当に、もう、王妃暗殺なんてどうでもいいと思っていたのに。

どうでもいいと思えるようになっていたのに。

何でなんだ?

誰か俺の問いに答えてくれる奴はいないのか?


本当に、くだらない。


本当は、本当は――。


「本当は、よ。俺も実は――、いや、まぁ、いいか」


あまりにうんざりして、俺は言わなくても良いことを言いそうになってしまった。


依頼内容をベラベラ喋ったのも、本当に、言わなくても良いことを言いそうになっていたからだ。


本当は俺だって、ずっとこの生活を続けていたかった、なんて。


くだらねぇ。


「んじゃ、まぁ、そういう訳で――」



「………あぁ、………ああぁあぁああぁ」



俺が片手を上げて、颯爽とこの場を去ろうとすると、ナナシはそこで初めて反応を示した。


顔をくしゃくしゃに歪めて。

その大きな目一杯に涙を浮かべて。

両手を握り締めて。

小さな身体を震わせながら。



「ああああああぁあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」



そのまま、大声を上げながら泣き叫んだ。


ああ。

俺はずっと。ずっとナナシの泣き顔が見たかったのだ。

笑い顔ではなく。

こんな風に顔をくしゃくしゃにして泣き叫ぶナナシの顔が見たかったのだ。



「いやだああああぁぁっ!行かないでぇぇっ!お兄ちゃあぁん!!」



まるで、まるで俺がたった今目の前で三人の人間を殺したことなんてもう忘れてしまったかのように。

俺がナナシの母親かもしれない女性を目の前で殺したことなんてもう忘れてしまったかのように。

追いすがるように、大声で泣き叫びながら、俺の足にしがみつこうとナナシは一歩足を前に出したので。


その泣き顔がとっても、かわいく思えてしまって。

それだけで俺は何だかとても満足したので。



「お兄ちゃ――」



「じゃあな」



別れの言葉も簡潔に、玄関の扉を開けて外に出て――。

そのまま無造作に扉を閉めた。



もう、ナナシの声は聞こえない。



大丈夫。きっとまた前へ向けて歩き出せるさ。


俺はもうお前を守ってやれないが。



「かはははっ!」



さーて、依頼達成までに数ヶ月も経ってしまったからな。

一応、依頼達成の報告でもしに王都にでも行きますかねぇ。

つっても、“伯爵”も俺のことなんざ忘れちまっているんじゃねぇかな。


だけど、まぁ。





俺は暗殺者である。名前は――、きっと今後もないだろう。





[10769] 間章Ⅱ・後
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2010/01/28 01:05




王国歴892年




その年の夏の間中、私の機嫌はひどく悪かった。


それこそ、うっかり私の居城を訪れた人間を殺してしまいそうになるくらいに。



――理由。



大きく分けて、理由は二つあった。


一つは、ここ数年の間で私がある種の失望を人間に覚えていたことが原因である。

来る日も来る日も飽きることなく戦争を繰り返し、もう十年目にもなろうというのに、終わる気配すら見せないトレンディアとノッドラートとの大戦。


両国の国土は見る間に疲弊していき、土地は枯れ果て、国民は希望を無くしていった。

私はそれをこの天上の空中庭園から、眺め続けてきた。

彼らは、他にすることがないのだろうか?


人間とは、かくも愚かであっただろうか。

私が彼らに望んでいたものは、決してそのような愚鈍さではなかったはずだ。

止むことなく断続的に届けられる戦果の報。

それがどうしようもなく、私をうんざりさせるのだった。


もう一つは、自身の行いに大きな悔いを感じていたことが、私の不機嫌の原因であった。


オルフィオ・フォウ・トレンディア。

トレンディア王国の現国王で、下界では最近“武龍王”などと呼ばれているらしい。

しかしそれも、私が彼に手を貸したことが原因だった。

約二年前。王は私の居城を訪れて、私に戦争への助力を要請してきた。

最愛の妻を亡くし、止むことのない隣国との戦乱に疲弊していた若き王。


私のことを本名で呼んだ王の要請に対し、感傷に引き摺られて私は手を貸した。


龍鱗とダイヤで錬成して作った龍鱗の鎧を王に分け与え、彼の望むがまま戦地に赴き何百人もの敵兵を薙ぎ殺してきた。


だが、その結果はどうだろう?


確かに、膠着していた戦局はトレンディアに有利になったに違いない。


けれども、そのまま泥沼の総力戦に突入した結果、未だに両国は雌雄を決するために戦い続けている。

多くの死を撒き散らしながら。


私のしたことは、徒に戦局を拡大し、戦争を終わらせるどころかより一層ひどくしたに過ぎなかった。


軽挙妄動も甚だしい限りである。


お陰で、それからというもの、私は人間に会うのも嫌になってしまい、自らの居城に籠もりっきりとなり、誰かに会うのも拒否し続けていた。


そんな中、その年の夏の終わりに、懐かしい友人と珍しい客人が私の居城を訪れてきたのだった。





“何の用だ、リチャード。今日の私は虫の居所が悪い。特に用がないのなら、さっさと帰った方が身のためだぞ”


空中庭園の中央にある、お気に入りの岩の上に寝そべりながら、私は気怠くその男に声をかけた。


「これは失礼を。しかし、今日は、というよりここ数年貴方の虫の居所はずっと悪いままですね。困ったものです」


目の前の壮年の男は、そう飄々と返す。

機嫌悪く睨み付ける私の目線にも気にとめた様子はなく、微笑を浮かべている。


“それが分かっているのなら、尚更何しに来た。まさか、不肖の馬鹿弟子の訃報を伝えに来た訳でもあるまい?”


「ええ、今のところお袋の容態も安定していますよ。けれど、いつまた発作を起こすか、分かったものではないのですけれど」


困った様子で苦笑いをしながら、上品な形に蓄えた口元の髭を撫でる。


リチャード・コーンフィールド。

端正な顔立ちをしているが、柔和な様子でいつも微笑を浮かべていることから、優しげな印象を万人に与える目の前の美丈夫は、アップルとアルバートの一人息子である。


両親から魔術の才能も剣術の才能も遺伝しなかったのか、武と術の方面には全くその才能を発揮しなかったが、反面、目端が利き口が上手く捉え所のない性格が幸いしてから、商業、あるいは政治的方面での手腕には光る物があり、王国最強と名高い父が立てた武勲を利用してコーンフィールド家の家名を立て直した立役者の一人でもある。


「お袋が病に倒れてから、親父の機嫌が悪くて困っているんですよ。なのに、貴方の機嫌まで直らないままとなると、ますます困ったことになりましたねぇ」


言葉とは裏腹に、柔和な笑みを崩すことなく深めていく。

この男は昔から、こうして絶えず微笑を浮かべることによって表情を消して、他人に感情や思考を読まれないようにすることに長けていた。


まだ40歳も過ぎてはいない歳だったはずだが、口元に髭を蓄えて年齢不詳に見せているその風貌もまた、彼の感情を消すことに一役買っていた。


“御託はいい。それで何の用だ?”


リチャードの仮面としての微笑に僅かな苛立ちを感じた私は、言葉短く先を促す。


「ええ。貴方に会いたいという奇特な方がいましてね。ここ最近貴方は人間に会いたがっていないという噂でしたので、とうとう私に白羽の矢が立ったのですよ」


“分かっているのなら話は早い。その人間を連れてとっととこの城から去れ”


私の知覚は、リチャードの後ろに気配を消して潜んでいる一人の人間の存在を捕らえていた。

しかし、気配を殺して人の家に入り込むような輩には、大抵ロクな奴がいないものだ。


「そういう訳にもいかないのですよ。これは私個人ではなく、コーンフィールド家の面目としての問題でもありましてね。それに、断るにも断れない方でして」


そう言って、リチャードは後ろを向いて目線を送る。

初めから、私の意向を聞くつもりなどないように。


リチャードの合図に応じて、彼の後ろの果樹園から現れたのは、一人の女騎士であった。


また年若く、十の十字架が彩られた純白の鎧を身に纏い、肩口で切り揃えられた髪さえも溶けるように白い。

一人の、少女である。

少女はそのまま音もなく私が鎮座していた岩の前まで進み出て――。


「無理を言って申し訳ありません。私のコードネームは“ヴァーミリオン”。法王府特別異端審問騎士団“十十字軍”の、第八軍を務めております」


透き通るようなソプラノで、そう名乗りを上げた。

静謐を感じさせる、静かな瞳。

しかし、私はその瞳に映る色をどこかで見たことがあった。

嫌な色だ。

それは色彩としてではなく、感情の色として――。


“…ほう”


誰であろうと、問答無用で追い返すつもりであったが、私は少女の名乗りを聞いて僅かな興味を引かれた。


十十字軍。

法王府の異端審問機関としては異例中の異例である、殺害すら許容される武力を認められた特別な騎士団であり、たった十人で構成されているにもかかわらず、“軍”の異名を持つ特異な異端審問騎士団。

それは、彼らが一人でも一軍に匹敵するほどの実力を持つことに由来する。


その目的は――ただ一つ。


ヴァンパイアの滅殺。


そのためだけの機関である。


昔、マリーから教えてもらったことがあった。

教会はヴァンパイア達を神敵だとして目の敵にしているが、特に中でも、特別異端審問騎士団“十十字軍”のしつこさは常軌を逸している、と。


末席ではあるが、その八番目に在籍するという目の前の少女からは、そのような噂に比肩しうるほどの実力を読み取ることはできなかった。


しかし、十字狂いと呼ばれて忌み嫌われる十十字軍に所属する彼女の実力が、見た目通りである筈もないことは、確かだろう。


少女はその矮躯の背中に十字架を模した巨大な十字槍を背負っていた。

とても少女の細腕で使える代物には見えない。

しかし、まさか自身が使えない得物を持ち歩く筈もないだろうから、彼女はきっとその十字槍を扱うことができるのだろう。


「ほら、面白い客でしょう?そんな訳で、私としましても、貴方が会いたがらないからという理由だけで、追い返す訳にもいかなかったのですよ」


おどけた様子で、両手を軽く上げて弁明をするが、真実そう思っていた訳でもないだろう。


つくづく、真意の読みにくい男である。

しかし、まぁ。


“ふん。まぁいい。暇つぶしくらいにはなるかもしれぬ”


「そうなれば重畳。私も何年かぶりにここ来た甲斐があったというものです」


リチャードの言葉に対し、ヴァーミリオンと名乗った少女は、全くの無表情で言葉を返す。


「コーンフィールド様。急な願いを聞き届けて頂いて、有り難うございました」


その硬質な声からは、感謝の意を読み取ることは困難であったが。


「なに、構いませんよ。家に居ても、仕事は親父に任せきりで特にやることもありませんので」


まるで気にしていない様子で、リチャードは少女に応じていた。


「そうですか。それはそうとして、ここからは――」


「ああ、はい。分かっておりますとも。私が聞くことは叶わない話を龍殿とするというのでしょう?末席とはいえ、十十字軍の騎士が極秘裏に私を訪ねてきた時点で、心得ていますよ」


やはりおどけた様子で、微笑を止めることなく右手をヒラヒラさせながら、後腐れなく帰る準備をその場で始める。


「話が早くて助かります。後日、法王府の方から謝礼を届けさせたいと思いますので、ご容赦を」


「気にしなくてもいいんですけどねぇ。――あぁ、そう言えば」


そのままその場を立ち去ろうとしたリチャードは、しかし何かを思い出したかのように、再びこちらへ向けて振り返った。


「ルビーさんはどうしたんです?あの人が貴方の傍にいないとは、珍しいこともあったものですが」


まったく。言いたくないことを、聞いてくる奴だ。


“………ルビーとは、喧嘩中だ。城のどこかでふて腐れているのだろう”


「おや、それは青天の霹靂。原因はやはり、例の武龍王のことですか?」


さして驚いた様子も見せず、リチャードは驚きの言葉を上げる。


“それもある。が、それだけでもないがな。まぁ、いい。大した話でもない”


ルビーは、ずっと私がオルフィオ王に手を貸して戦争に赴くことに頑なに反対していた。

何がそんなに彼女を意固地にさせたのか、想像すればいくつもの理由は思いつくが、しかし、それは想像に過ぎない。

事実としてルビーは私に反対し、私は彼女の反対を振り切って戦争に荷担した、ただそれだけのことだ。

その結果、それからずっとルビーは私に対して拗ねているのだった。

長い年月を生きてきた私達なので、だからこそと言うべきか、その親子喧嘩のスパンも人に比べると長期間に及ぶのだった。


「そうですか?まぁ、私もずっと親父とは喧嘩中なので、人様の家庭事情に口を出せる身分でもないのですけれどね」


清廉潔白、何よりも道義を重んじるアルバートに、飄々とした様子でどこか快楽主義的なところのあるリチャードでは、単純に性格が合わないというのもあるのだろうが、それだけが二人の不和の理由でもないのだろう。


彼らには彼らの歴史があり、それぞれの譲れない理由があるものだ。


「では、私はこれで失礼します。ルビーさんにもよろしくお伝えください」


そう私に告げると、リチャードはやはりあの微笑を浮かべながら颯爽と空中庭園を去っていった。


“相も変わらずよく分からない奴だが……”


呟き、私は眼下に佇む一人の少女騎士に目を向ける。


“それで?お嬢さんは一体何の用なんだ。退屈している私を楽しませてくれるような話題なのだろうな?”


脅迫するように、牙を剥く。

しかし、それに怯えた様子も見せず、ヴァーミリオンは私に向けて滔々と語り始めた。


「お時間は取らせません。武龍殿に聞きたいことはただ一つです。ある男の情報を教えて頂きたいのです」


“ある男?”


私が聞き返すと、少女の瞳には様々な感情が嵐のように表出した。

今までの無表情を僅かに崩し、少し震える声で呟いたその名は――。


「通称“銀喰い”、“破戒者”、最近では“アノニマス”とも呼ばれている、一人のダンピールのことを」


銀喰い。

私は確かにそう呼ばれている男のことを知っていた。


「我々“十十字軍”はずっと彼の足跡を追ってきました。それこそ、何年も。しかし――」


十十字軍が追うべき対象として探し続けていることの意味。

それは、つまり。


「彼の消息は半年前に確認されて以後、途切れています。その半年前に確認された場所こそ」


燃えるような赤い髪をボサボサに伸ばし、ひょろひょろとした縦に細長い長身に、どこか人を喰ったような笑みを浮かべて嗤う、ダンピールの男。


「ここです、武龍の住まう場所。彼が、ここで武龍の試練を制覇して、龍鱗の武具を手にしたという聞き捨てならない情報が当局には入ってきています。そして、それを最後に一切の情報がなくなりました」


唇を僅かに噛みしめ、真白い肌を青ざめさせて語る口調は、しかしどこか嬉しそうにも聞こえた。

彼女の瞳に映っているのは紛れもない憎悪であるのに。


“確かに、そう名乗る男が一人、半年前に来た。そして、私が彼に龍鱗の武具を分け与えたことも、事実だ”


龍鱗の篭手、シルバーイーター。

それが彼に与えた武具の銘。そして、名は体を表していた。


「………なんて事。これで、あの男も龍騎士の称号で呼ばれる英雄として、市井の間で持て囃されることになるでしょう」


“そんなことは、私の知ったことではないな”


私の投げやりな口調に、ヴァーミリオンは目線に怒気を込めてこちらを睨み付ける。


「貴方は、貴方はあの男が何者なのか知っていて龍鱗の武具を渡したのですか?」


“さて。あの男が何者だったかなど、私は知らんよ。私に身の上話はしていったがね。けれども、それであいつが何者かなどと、私の感知するところではない”


一晩。

一晩かけて私とあの男は話し合ったのだった。

彼は自身の身の上話を。私は、彼の特異な人生観に興味を覚えて、何度か彼に忠告したのだった。


いつか、お前は自分で自分の首を絞める時が来るだろう、と。


「あの男は、薄汚い暗殺者です。暗殺を生業として闇の世界で生き抜いてきて、法王府の異端審問機関においては特級神敵犯罪者として広域指名手配の対象にもなっています」


暗殺者。確かに彼は私にそう告げた。

けれど、彼の本質は、本性はそこにはない。


「いえ、彼は暗殺者ですらない。この世で最も醜悪な、血に飢えた殺人鬼です。なぜなら彼は――」


あの男が自身に課した、ただ一つのルール。


“教会関係者のみを殺すからか?”


「っ。そうです、あの男が殺した教会関係者は、優に百人を越えるでしょう」


並々ならぬ教会信徒に対する執着。


それだけが、あの男を動かしている原動力とも言って良かった。

あの男の精神性、それは――。


「まさに、神をも恐れぬ所行です。それ故に、あの男だけは法王府の、いえ、ヴァンパイアのみを狩るために組織された我々、十十字軍の名にかけて、捕らえて神罰を下さなければならないのです」


挑むような目つきで私を睨みながら、目の前の少女はそう断言した。


神罰。

少女はそう言ったが、しかしあの男に罪があるとするならば、それは人間に対するものであるはずだった。

そして、罰を加える者にとっても。


「それなのに、何故貴方はあの男を助けるような真似をしたのでしょうか?何故あの男に龍鱗の武具を授けたのですか?彼は、彼こそは邪悪そのものです!」


彼女の瞳に宿るのは、憎しみ、それだけだろうか?

まるでそう思い込もうとするかのように、私に対して言い募る彼女の様子は、どこか鬼気迫る様子であった。


最初に彼女に感じた静謐な印象は、もうない。


“初めに言っただろう?そんなことは私の知ったことではない、と”


私は彼女の視線を浴びても身動ぎもせずに、気怠く答える。

夏の暑い陽射しが、岩の上で寝そべっている私の身体を熱く灼いていたが、しかし、私の心はそれとは逆に、冷たく、深く沈んでいくのを感じていた。


「貴方は――っ!」


“邪悪、とお前は言うが、何にとって邪悪なのだ?あの男が教会の司祭を一人殺すとして、それが邪悪だとでも?殺された人物の家族にとっては邪悪かもしれない。では、その人物に恨みを抱いている者にとっては?その者を邪魔だと思っている者にとっては?私にとって?それとも、お前にとってか?”


熱く灼けた岩の上から、私は睥睨するように少女を見つめる。


“邪悪だと?実にくだらない!お前達が作った勝手な尺度で私を語るのか?私を非難するのかね?私に文句があるのなら、自分の言葉で語るがいい、人間の娘よ”


「な、何を――」


“無表情を装っているが、お前があの男を邪悪だとは思っていないことは、瞳を見ればよく分かる。お前は、あの男のことを憎んではいないはずだ”


「わ、私は…」


私の言葉を聞いて、ひどく動揺した様子で少女は初めて目線を私から外した。


彼女の瞳に映っているのは燃えるような憎悪。

しかし、それだけではなかった。

使命感?騎士としての義務感か?

否、それだけではない。

もっと複雑な、解きほぐしようのない絡み合った感情を、彼女の瞳の底に私は見たのだった。


“私があの男に龍鱗の武具をくれてやったのは、簡単な理由だよ。私があの男を気に入ったからだ。それ以上でも、それ以外でもない。ただ、それだけだ”


そう、私はあの男が気に入ったのだった。

ここ数年間人間に会うことすら避けていた私が、この城を初めて訪れた奇妙なダンピールの男を、拒むことなく迎え入れたのも、それだけが理由だった。


“あの男は得難い精神性を有していた。あの男は希有なことに、両義的な相反する二つの極に自らを置きつつ、それでいて自己を破綻させないで確立させていた珍しい男だった。私はそこを、気に入ったのだ”


「どういう、ことでしょうか?」


外していた目線を再び戻した少女の瞳は、相も変わらず不思議な感情を淀ませていた。

まるで濁りのように。


“私はこの城を訪れてきたあの男と一晩話し合った時に、あの男が抱えている危うさに気付いたのだ。すなわち、あの男は愛情と憎悪、親しみと殺意、好感と嫌悪、希望と絶望、相反する感情を矛盾することなく受け入れて消化することのできる、捩れた精神構造の持ち主だということに”


「………それは」


私は、目の前の少女にあの日の出来事を語ってやることにした。

あの男が私に話して聞かせた、自身の生い立ちについても。

何故だか、少女はそれを知りたがっているようにも思えたから。


あの日も、目の前の少女のように、あの男はここで寝そべっている私の前にやって来て、語り出したのだった。


“あの男は――”




――あの男は、半年前のあの日に私の城を訪れて、武龍の試練に挑戦したいと言い出した。

それが、大切な約束だからだ、とも。

もっとも、私はそれに付き合うつもりはなかったがね。

すぐにでも追い返すつもりだった。

現にそうしようとした。が、あの男も大したもので、下界で“銀喰い”、“破戒者”などと呼ばれているだけはあった。

本気ではなかったとは言え、私の攻撃を一時間以上も捌き続けたのだから。

それに何より、徒手空拳で私の鱗を砕くとは!

私も長い隠遁生活でストレスが溜まっていたのだろう。

あの男を相手に存分に暴れることができて、少しは気が晴れたのかもしれなかった。

私は彼の技量に免じて、追い出すことを止めて、代わりに彼の話を聞いてやることにした。

あの男は私に語ってくれたよ。自身の生い立ちについて。

彼は、ヴァンパイアの母と、人間の父との間に奇跡的に、奇跡のように運悪く産まれた子供だった。

母と父との間にどんな経緯があったのか、それは彼自身も知らないと言っていた。

しかし、望まれて産まれた子供ではなかったことだけは確かだったそうだ。

彼は、産まれてからすぐ、父が住む家の地下室に閉じこめられて、そこから一歩も出されることなく過ごしたと言っていたよ。

彼の母も時折父の家を訪れて、彼の顔を見ていくことはあったそうだが、そこに一片もの愛情も見つけ出すことはできなかったそうだ。

そして、それは父も同じであった、と。

ともあれ、彼はそのまま陽の光が差さない地下室で生活し、成長し、生きてきたそうだ。

私が両親のことについて聞くと、彼は殺したい程に憎んでいたと言っていた。

けれど、本当にそうだったのだろうか?

私はそこに、もう一つの感情を見出した。

すなわち、彼は自分の両親について深く憎む一方で、深く愛していたのではないか、と。

彼の今後の行動を鑑みるに、恐らく正しいのだろうと私は思うがね。

彼は否定していたが。

ともかく、彼の地下室での暮らしは、何年、何十年続いたのだろうか?

それは本人にも分からないらしい。

何せ、人の何倍も成長スピードが遅いダンピールだったからな、彼は。

不死者たる母に尋ねてもしょうがなく、人間であった父にそれを尋ねようにも、父はある日死んでしまったらしい。

ヴァンパイアの母と共に。

殺したのは、お前のお仲間だそうだ。吸血鬼狩りの専門家。それのみに特化した人間兵器の集団。十字狂いの異名を受ける、十十字軍の騎士に、二人仲良く殺されてしまったらしい。

地下室に居た彼の存在に騎士達は気付くことはなく、彼だけは一命を取り留めたものの、こうして彼は唯一の家族を失うことになった。

それから、両親が居なくなることによって自身の揺りかごだった地下室から脱け出して、外の世界へと旅立った。

地下室に気が遠くなるほど閉じこめられていたその男が外の世界に出るにあたって、何を望んだと思う?

彼は言った。自分の両親を殺した教会の連中を皆殺しにしたい、と。

神が法王府の連中にヴァンパイア狩りをさせて、それで両親が死んだというのなら、神こそが俺の敵だ、と。

しかし彼は両親のことを殺してやりたい程に憎んでもいたのだ。

それでいて、彼は両親のことを狂おしく愛してもいた。

憎悪と愛情、狭い地下室で生きてきた彼にとって、両親の存在こそが世界の全てであり、両親が死ぬことで彼の世界はそこで一度崩壊したのだろう。

相反する二つの感情。相容れないはずの感情を両立させ、それでも彼が破綻しないで行動できているのも、彼にはもはや自分が所属するべき世界がないからだ。

彼にはもはや、自己と他人を分かつための世界が存在しないのだ。

そして――。





“――そこが、彼の精神の中で私が最も気に入った点だった”


「………」


私の語りを黙って聞いていたヴァーミリオンは、何故だかひどく悲しそうな色の感情を瞳に映していた。

それは同情ではなく――。


“彼にとって家族とは世界そのものであり、そして世界はいずれ壊される予定調和のもとにあるのだ。彼はきっと今後自分の手で家族を手に入れることになっても、いずれ自分の手でそれを壊したくなる欲求に耐えられなくなるだろう。彼が両親を殺したい程に憎んでいたように”


彼は地下室から出た後、ある場所で出会った同じ赤毛のダンピールの少年と義兄弟の契りを交わしたとも言っていた。

しかし、その弟のことも彼はどれくらい家族だと思っていただろうか?

あるいは、破壊の対象として捉えていたのではないだろうか?


矛盾を矛盾として許容できる、希有な精神性。

それこそが、あの男の本質だ。


“そして、それこそが、あの男の最も危うい点でもある。私は彼に忠告したよ。いつかお前は、自分が家族を壊したいと思うのと同じように、家族によって壊されたいと思うようになるだろう、と”


「………」


目の前の少女は、やはりひどく悲しそうな色を瞳に映し続けていた。


“そこを私は気に入ったのだがね。だからこそ、私は彼に龍鱗の武具を分け与えたのだ。彼は今後私の武具を使って、さらに多くの死を世界に撒き散らすかもしれない。だが果たして、彼が自己の抱える矛盾に飲み込まれてしまうのと、どちらが早いだろうか?私には分からなかった”


あの男が地下室から出た後、どういった経緯で暗殺者になったのかは、私は聞かなかったし、彼も話さなかった。

けれど、彼が暗殺者で有り続けることは、いつか無理が来るのではないかとも、私には感じられたのだった。


彼は邪悪だっただろうか?

神ならぬ身の私にとって、分かろう筈もない。

善悪の彼岸など、龍となり人を多く殺してきた私には、存在しえないものだ。

ただ、私にとって、あの男は私の武具を扱うに足りる技量を持った、愉快な男だった。


それだけのことだったのだ。


“お前達があの男を追うと言うのであれば、私にはそれを止める義理もなければ、理由もない。必要さえも”


「私は――」


“お前は彼を追うのだろう。追い続けるはずだ。そういう目の色をしているからな。しかし、それは彼が邪悪だからなのか?”


違うはずだ。

彼女の瞳を見た時から、私はずっと既視感を感じていた。

とても、嫌な瞳の色。

それは、二年前に、ここを訪れて私に助力を要請した哀れな王と同じ瞳の色。


すなわち、妄執が瞳の奥に渦巻いている。


憎悪なのか、悲しみなのか、愛情か、絶望か、始まりは何にせよ、それが義務感であるはずがない。ましてや、使命感であることも。


少女は、自身が十十字軍の騎士だから、あの男を追っている訳ではないはずだ。

彼が邪悪だから、抹殺すべきだ、などと――。


“あの男はよく言っていたよ。人は自身の運命を変えることができるのか、と。変えられないのならば、運命が自分に追いついてくるのを、ずっと待っている、と”


ヴァンパイアでもない、人間でもない、中途半端なダンピールとして産まれたからこそ、自分が何のために産まれて、何のために生きるべきか、彼は悩んだに違いなかった。


人として産まれて、龍として生まれ変わった私のように。


“お前が、彼にとっての運命なのか。それは私には分からないが、彼を追うのだと言うのであれば、その理由を自分の言葉で私に聞かせてくれ”


それこそが、もはやこの世界で生きることはないあの男への手向けになるだろうから。


「私は…、私は――」


少女は言い淀み、俯いた数瞬後、妙に澄み切った瞳をしながら、私に自身の名を告げた。

コードネームではなく。家族によって名付けられた名前を。


「私は十十字軍第八軍、コードネーム、ヴァーミリオン。ですが――」


高らかに、謡うように。


「私の名前は――ナナシ(、、、)というのです。それ以外の名は、持っていません」


そう言い切った後、少女は静かに瞑目した。

誰かの魂を弔うかのように。


ナナシ。変わった名前だ。名を持たないと言ったあの男と同じく。


「あの男は、彼は――、私の母を殺した人であり、私の家族です」


瞑っていた目を開き、少女は語り続ける。


家族。あの男にとって、世界そのもの。

いつか壊れるもの。壊すはずのもの。


“それが、お前があの男を追う理由かね?”


「いえ、いいえ、違います。違うのです!私が――、私が彼を追うのは、それは、私が、私のせいで、終わるはずだった戦争が終わることなくいつまでも続くことになってしまったからです」


終わるはずだった戦争。


“それは、ノッドラートとの戦争のことか?”


私が、終わらせるはずだった戦争。


王国歴883年に、ちょっとした外交上の軋轢を理由として勃発したトレンディア・ノッドラート両国の戦争は、当初の見通しに反して、数年経っても終わることはなく、泥沼化していつ終わるとも知れず現在も続いている。

それというのも、七年前に――。


「私が、私があの日あの森で彼を助けなければ!そうすれば彼はあの森で人知れず死んでいたはずです。そうすれば、王妃様はあの夏の終わりにウィーグランの街で彼に殺されることもなく、王妃様さえ死ななければ、オルフィオ王もノッドラートへの和睦案を取り下げることなく、両国は和平への道へ向かったはずなのです!」


叫ぶ。まるで自分に対して断罪するかのように。

後悔と共に、彼女の瞳にはそれだけではなく――。


「そうすれば、そうすれば戦争は終結し、それから数年間、数え切れないほどの多くの人々が死ぬこともなかった。攻め込まれ敵兵に無惨にも殺された人、土地が枯れ食糧難から飢えて死んだ人、徴兵されて異国の地で戦って死んだ人、みんな、みんな、みんな!」


十十字軍の鎧を着てはいるが、彼女の年齢はとても若いものだろう。

少なくとも、二十歳を越えてはいないはずだ。

そんな少女が、末席とはいえ、十十字軍に所属できる程の実力を手に入れるために、どれだけのものを犠牲にしてきたのか。

どれだけの時間を費やしたのか。

私には計り知れない。

しかし、少女は実際にやってのけたのだろう。

ただ一つのためだけに。


「彼は、お兄ちゃん(、、、、、)は、私のお兄ちゃんは邪悪なんかじゃないっ!でも、だけど、だからこそ、私がお兄ちゃんを、お兄ちゃんを―――止めなければ。例え殺してでも!」


自らの罪を贖うために。


それが少女の行動原理なのだろう。


しかしそれは、果たして罪なのだろうか?


戦争は確かに終わらなかった。

今なお、終わることなく続いている。


けれど、彼女が自身の罪だと思っていること、それはあの男を助けたことではなく、そうではなくて、彼のことを――。


今もって愛していることではないだろうか?


そして、それこそが――。


“――それこそが、お前があの男を追う理由か?”


私の問いに、今度は力強く頷く。


「………はい。誰にも、誰にも譲るものか。お兄ちゃんは、私が、私だけの――」


その続きの言葉を少女が口に出すことはなかった。

家族、なのか、それとも獲物だろうか。

目の前の少女は、清廉潔白な騎士でも、復讐に燃える戦士でもない。


愛に狂った狩人だ。


この少女こそが、あの男にとっての運命の牙なのだろう。

彼が長い間待ち望んだように、ようやく運命のあぎとが彼を喰らうべく牙を剥いたのだ。


“………そうか。それが理由か”


私は呟き、気付かれないように静かに嘆息する。

目の前の少女を見て、それから目を瞑り、あの男との対話を思い返す。

あの男は何を望んでいただろうか?


あの晩何度も聞いた人を喰ったような笑い声が私の耳の奥にこだました。


そして、私は少女に告げることを決意した。


“お前が知りたいのは、あの男の消息だったな”


「はい。私は彼を追い続けます。例え、何年かかってでも」


妄執に取り込まれた瞳をして、こちらを射抜くように見つめてくる。

今では武龍王などと呼ばれているあの哀れな王と、同じ瞳をしていた。


“あの男なら、この城を出て行く際に、仕事で南の連合国へ向かうと言っていたよ。信じる信じないはお前の勝手だがな”


あの砂漠だらけの不毛の地で、今でもあの男は私の授けた龍鱗の籠手を使って多くの死をばらまいているのだろうか。


「いえ、信じます。ご協力、感謝します」


ここに来たときと同じように、静謐を感じさせる無表情に戻った少女は、折り目正しく頭を下げて私に礼を述べた。

まるで、罪を懺悔し終わったかのように。


“こちらも、思っていたよりは暇つぶしになった。お前は追い続けるがいい。いつかお前の牙があの男に届くまで”


「ありがとうございます。ちなみに、捨て子だった私を拾ってくれた人は、森の狩人だったのですよ。その人から、獲物の追い詰め方はじっくりと習いました。だから、追い続けるのは得意なのです」


そう言って、少女は初めて笑顔を見せた。

その笑顔は彼女に感じた印象とは違い、とても華やかなものだった。

見ているだけで、元気が出るような。

少女があの男と暮らしていたであろう間も、きっと彼女はそうやって笑っていたに違いなかった。


「それでは、私はこれで。もう、会うこともないと思いますが、貴方と会えたのは、私にとっては良かったのかもしれません。兄にとっても、きっとそうだったでしょう」


少女は笑顔のままそう言って。


「さようなら」


別れの言葉を置き去りに、空中庭園を去っていた。


残ったのは、岩の上にふて腐れて寝そべっている、年経た白い龍のみである。


何とも、みっともない話だが。


オルフィオ王に手を貸したことを今でも後悔しているように、王と同じ瞳をした少女にあの男の行き先を教えたことを後悔することになる日がいつか来るのだろうか?


少女とあの男が再び出会った時、誰も幸せにならない悲劇のみが起こる可能性だって、誰にも否定することはできないだろう。


けれど、あの男が常々言っていたように。

あの少女が彼にとっての運命ならば――。


いずれ、遠くない未来に少女はあの男と巡り会うことになるだろう。


そこで、たった二人の家族水入らずで、殺し愛を繰り広げるに違いない。


それこそが、彼らにとっての家族の在り方なのだろう。




だから、私は数ヶ月ぶりに、岩の上から起き上がり、娘との仲直りを打診する気になったのだった。


きっと娘も、最初は渋りながらも、最終的には仲直りに応じてくれるだろう。




それが私達の家族の在り方だから。




====




ノッドラートとの大戦が終結したのはそれからすぐの一年後。

聖騎士アナスタシア・ソードレス率いる神殿騎士団、引いては法王府の介入によって、遂にノッドラートは降伏を受諾し、十年の長きに渡る戦争は終結した。


そして――。

“銀喰い”、“破戒者”、“アノニマス”の名で呼ばれるダンピールの暗殺者が、名も無き一人の女騎士によって捕らえられたというニュースが私の耳に入ってきたのは、それからさらに十年後の、903年の頃である。



あの男は今でも、終身刑の者のみを収監している監獄“ステュクスの沼”の最深部にて投獄されているのだという。



彼は再び、光の差さない彼だけの地下室へと、舞い戻ったのだ。




間章Ⅱ おしまい










====



読む必要のないあとがき



次は、地龍さんが八面六臂の大活躍をして、いたいけな少女とキャッキャウフフする明るい話(になる予定)です



[10769] 間章Ⅲ・前
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2010/02/26 00:16
間章Ⅲ  龍と剣の巫女




王国歴904年




空が見たい――。


私がそう思うようになったのは、いつからでしょうか。


もしも一つだけでも願いが叶うのであれば、私はこの目で空を眺めてみたかった。



私の目は、産まれた時から光を失っていました。


私の人生は、暗闇から始まったのです。

けれど、持たざる者として生を受けた時、人はそれを苦痛とは感じないものです。


持っていたものを無くすときには、あんなにも苦痛を伴うのに。


ともかく、光なき者として産まれ、闇の中で生きる術を身につけていた私にとって、目が見えないことは、何ら不便なものではありませんでした。


五感、などと言いますが、目が見えなくとも、人には耳が、鼻が、口が、肌があるのです。

それだけでも、十分なほど、人は世界の輪郭を掴むことができるのです。


物心付いた頃には、私は目で物を見る代わりに、耳で、鼻で、口で、肌で物を見る術を身につけていました。

誰に習った訳でもなく。


そうして成長していくにつれ、私はただただ不思議に思うようになりました。


みんなが言う、“色”とは一体何なのでしょうか?


私にとって、世界とは闇に包まれているものです。

もっとも、闇、という概念自体目が見える者にとってのものなのでしょうが。


ともかく、人の形、空気、気配、感情、あらゆるものを目以外の感覚によって見ることを覚えた私にとっても、色だけは見ることは叶いませんでした。


赤い、青い、黄色い、黒い、白い――。


世界は様々な色に満ちあふれ、目まぐるしいばかりの華やかさを有していると言います。

ただそれだけが、目の見えない私にとっては不思議でしょうがなかったのです。


けれど、それでも私は目が見えるようになりたい、色を感じるようになりたい、とは思わなかったのです。


当然でしょう。愛を知らぬ者にとって、愛を望むことができないのと同じように、色を知らない私にとって、好奇心の対象とはなっても、さりとて希求の対象とはなりえなかったのです。


けれど。


いつからでしょうか。


私が空を見たいと思うようになったのは。


世界を覆い尽くすような、透き通るような蒼穹の青を見たいと思うようになったのは。


それは、きっと――。





「何を見ているですか、お祖母様?」


跳ねがあって飛ぶような軽やかな声が後ろから聞こえる。


この暖かな声は、私の可愛い孫の――。


「空が見えないかしら、そう思って天を眺めていたのよ、フラウ」


フラウディア。

数多くいる私の孫の中で、一番元気で一番やんちゃで、一番優しい女の子。


「お祖母様の目には、いつも何が見えているんだろうって、私気になって気になって、仕方がないですよ」


フラウはそう言って、私が腰掛けていたチェアーの横に立って、大きく伸びをする。


「貴女も目を瞑ってごらんなさい?そうして静かに耳を傾けるの。そうすれば、世界はもっとクリアになるはずですよ」


「うーん。真っ暗で何も見えないです、お祖母様」


困ったように笑うフラウの気配を感じる。


盲いた私の目では彼女がどんな顔をしているのかは分かりません。


けれど、目で見なくとも、人の形というものは知ることができるのです。


例えば、聞こえてくる声の位置で身長が分かりますし、身体の発する音でその輪郭を知ることができます。


彼女の声の響きで、フラウが笑っているであろうことは私には分かりました。


そして、彼女の笑顔がとびっきりキュートであろうことも。


「ここでは風が当たって身体が冷えるですよ?中に入ってお休みになられた方が良いと思います」


フラウは気遣うように私の細く衰えてしまった腕を優しく掴んでくれます。


街から少し離れた湖の傍にあるこの屋敷では、テラスに出るととても気持ちのいい風が山の背から吹いてきて、私のお気に入りの場所でもあるのですけれど。


でも、フラウにとっては私の身体が心配なようです。


「大丈夫ですよ、フラウ。風が冷たくて丁度いい案配ですし。それに、私の命がそう長くは持たないことは、私自身がよく分かっています」


「そんな――っ!」


「仕方がないのです。それが我が一族の宿業なのですから。私の母も、お祖母様も、そのお祖母様も、みな同じように死んでいきました。それに比べれば、私はまだ長生きをした方です」


「お祖母様……」


フラウが悲しそうに呟くが、我が呪われしきソードレス家は、みな短命の一族なのです。


特に、“託宣の姫巫女”と“剣の巫女”に選ばれた忌まわしき双子にとっては、それは宿業と言えるのでしょう。


だから、貴女が気にすることはないのですよ、フラウ。


私は、貴女の笑い声がとても好きなのですから。


フラウが少し沈んだ様子で私の傍で佇んでいるのを痛ましく感じましたので、私は話題を変えることにしました。


「それで?本当は何をしに来たのですか、フラウ」


私が優しく問いかけると、フラウはちょっと困った様子で笑って、テラスの柵にもたれかかりました。


「………やっぱり、お祖母様には隠し事ができないです」


「いつも言っているでしょう?私は目が見えない代わりに、人よりも多くのものを見ることができるのですよ」


その一方で、私には他の人が当然に見えるものが見えないのですけれど。


「お祖母様はすごいです。――――その、またルー先生と喧嘩しちゃって…」


「あら。貴女達も飽きませんね。この間仲直りをしたばっかりでしょう?」


この子ったら、いつになったらルールールーさんと仲良くやれるようになるのでしょうか?


いえ、これはこれで仲が良いのかも知れません。


「それで、今度は一体何が原因なのですか?」


「ルー先生は分からんちんなのです。私はもう一人前です。だから、戦場に出て、実戦を経験したいのです。でも、先生は私にはまだ早いって反対するですよ」


拗ねた声で呟くフラウの声が聞こえます。


いくらフラウが我が一族の中でも卓抜した才能を持っているとは言っても、まだ13歳の幼い少女です。


いずれ戦場に赴く運命にあるとは言っても、やはり心配になりますし、それに…。


「ルールールーさんは長いこと戦場に出て実際に戦ってきた経験の持ち主ですから、その彼女が言うからには、本当にまだ早いのだと思いますよ。それに、私も、そう思います」


「ですが、ルー先生は私の歳の頃にはもう戦場に立っていたって。お祖母様だって、初陣を飾ったのは15歳の頃だと聞いたです。だったら――」


納得のいかない様子で私に言い募るフラウでしたが、でもそれは――。


「ねえ、フラウ。それは私がその年に“剣の巫女”に選ばれたからなのですよ。本音を言えば、私は戦場になど立ちたくなかったのです。これはみんなには内緒ですけれど」


私は彼女に微笑みかけながら、内緒話を打ち明けるように語りかけます。


「お祖母様がですか?」


「ええ。もっとも、そのことに気付いたのはずっと後になってからでしたけれど、ね」


あの頃の私は、一族の使命感と義務感のみで行動していましたから、そのようなことを考える余裕すら、ありませんでした。


「だから、貴女もそんなに焦る必要はありませんよ。もっとゆっくりと確実に実力を付けてからでも遅くはありません」


「ですが――」


「それに、ルールールーさんだって研究でお忙しい中、無理を言って毎年この時期だけでも貴女の修行に付き合ってもらっているのですから、先生の言うことはきちんと聞かないとダメですよ」


ただでさえ、あの人は気難しい性格をしていることですし。


「………分かりました。お祖母様がそうまで言うのなら、諦めるです」


渋々、といった感じでフラウは私の言うことを了承してくれました。


本当は、彼女には戦場に立つことさえなければいいと私は思うのです。

けれど、それは彼女の立場上許されないことなのかもしれませんし、彼女自身がそれを望まないのかもしれませんね。


「ええ。そうしなさい。人と争わずにすむのなら、それに越したことはありませんよ」


「うー。近頃、各地の戦場で“首狩鬼”っていう異名を持つ凄腕の傭兵が活躍しているって噂を聞いたので、それが見たかったのですけど、仕方ないです」


残念そうに呟く。


この子は私の子供達の中で一番剣の腕が立つのですけれど、また一番血の気が多いのが困りものですね。


「貴女は将来神殿騎士団を率いる立場に立つのかもしれないのですから、軽挙妄動は慎むようにくれぐれも気をつけなさい」


「お祖母様はわくわくしないですか?剣を振るう者として、私は、やっぱり強い相手と戦いたいです。そういう、胸を焦がすような激情を感じたりしないですか?」


熱っぽく言い募ってくる彼女の声色には若干の不安も覚えますけれど、それでも、自慢の孫ですからね、彼女は。


ちゃんと道を誤ることなく歩いていけるとは思いますが…。


「ふふっ。私だって、若かった頃には、持て余すような情熱を胸に抱いたこともありますよ」


私はフラウに微笑みかけながら、肌身離さず常に持ち歩くことにしている細剣に手を添えました。


冷たく硬質な肌触りから、しかしあの方(、、、)の温もりが感じられるように思うのです。


「お祖母様が、ですか?」


「ええ」


不思議そうなフラウの問いかけに肯定の意を示しますが、確かに、神殿騎士団を率いる理想的な“剣の巫女”として今まで生きてきた私が、激情に胸を焦がすなどということはいささか信じがたいものがあるのかもしれませんね。


「それも、貴女のように剣戟の美しさに魅入られた訳ではありませんよ。私は――恋をしたのです。それも、狂おしい程に情熱的に」


私は、あの日の感情が胸の内から蘇ったかのように、胸を振るわせながらフラウに告げました。


今思えば、このことを誰か他の人に告白したのは、初めてかもしれません。


それが自分の孫にともなると、少し気恥ずかしく感じますけれど。


「それはすごいですっ!いつどこで誰に恋をしたですかっ!是非聞きたいですっ!」


興奮した様子でフラウが私に詰め寄ってきますが、いつの時代でも、恋の話は乙女の心を揺さぶるものなのかもしれません。


「では、誰にも内緒ですよ?」


「はいっ!」


あの日生きながらえた私の命の炎は、きっともうすぐ消えてしまうことでしょう。


だからかもしれませんね。


今まで誰にも話す気にならなかった、あの方との甘く切ない日々の思い出をフラウに語ってあげたくなったのは。


それはきっと、私がいなくなってしまっても、それでも誰かに私とあの方との短い物語を覚えていてもらいたいと思ったからなのでしょう。


座っているロッキングチェアの傍に立てかけてあった細剣を手に取ると、慈しむように私の膝の上に置きました。


龍の鱗と緑玉とを錬成して造ったとされる、龍鱗の細剣、“クライングエメラルド”。


「これは、私があの方と出会い、そしてこの剣を授かるまでの、短くも儚い恋の物語なのです」


そうして、私は静かに語り始めました。


私の物語を。


「あれはまだ、私が二十歳になる前の、ほんの小娘だった頃の話です。あの頃の私は――」




====




王国歴866年




その年の秋の始まりと共に、ゴドランド帝国とタルメニア王国との戦争が勃発した。


タルメニア王国は、その国土の大半が肥沃な大地に覆われており、大量の上質な穀物を生産しては周辺国へと輸出してきたことから、古くから大陸中原の食料庫と呼ばれてきた。


その食料庫を我が物とすべく歴史上多くの国々がタルメニア王国に進軍しようとしたが、王国は周囲をノーザリン山脈に囲まれた盆地に存在していたことから、一度守りに入ってしまうと攻め崩すには非常にやっかいであり、また、穀物の輸入をタルメニアに頼っている国であれば、その輸出を止められてしまうことによって戦争を長期的に維持することが困難となり、結果的に失敗に終わってしまうことが常であった。


今回の、ゴドランド帝国による進軍も同じ歴史を繰り返すだけであろうと思われていた。


しかし、大方の予想に反し、足の速い騎兵を大量に投入し、横に長いタルメニアの防衛線を一カ所から崩していく帝国の戦略によって、戦線の雲行きは怪しくなってきていた。


広大な国土を有する帝国が、その食糧事情をタルメニアの穀物に多く頼っていなかったことも原因の一つに考えられるだろう。


守りに入れば強いタルメニアであっても、短期決戦を狙う帝国の執拗な攻撃に次第に防衛線が崩れはじめ、首都が陥落するのも間近と考えられはじめた今になって、大陸の調停役を自称する法王府が重い腰を上げたのだった――……。




「アナスタシア様。だめです。これ以上この雪の中で進軍するのは不可能かと思われます」


山頂から途切れることなく聞こえてくる風の音に耳をすませていた私は、ユリアンの言葉に我に返った。


目が見えず、聴力に特化している私と言えども、風の音を聞いて山の天気を読むのは無理らしい。


こんなことなら、風水士でも連れてくるべきだったかもしれない。


目が見えなくとも、鎧越しに感じる吹雪の感触と、足で踏みしめる地面に降り積もった深雪の感触とで、雪が止むどころが、一刻前よりも激しくなりつつあることを私は感じていた。


「ここらでいったん進軍を止めて、雪が止むのを待つべきかと」


何も言わずに佇む私に、ユリアンはさらに言葉を続ける。


副官たるユリアンの言葉の通り、この雪では軍の足も止まり、強行軍するには危険を伴うかもしれなかった。


しかし、我々にはそう簡単に進軍を諦められない理由があることも、また事実であり、副官たるユリアンもそれを重々承知している筈であった。


法王府神殿騎士団。


この大陸で唯一にして無比に天上神の代弁者たりうることを許されている法王府。その法王府が有する三本の剣の内の一本。


それが神殿騎士団であった。


主な任務は法王府の象徴たる預言を司る姫巫女が住まう“水晶宮”の警護にある。


そして、その団長は代々年若い乙女が務めてきていた。

それも、呪われしきソードレス家の双子の片割れが。


アナスタシア・ソードレス。


それが私の名前であり、役割であり、人生であり、運命であり、私を縛り止める鎖そのものだった。



神殿騎士団の主な役目は“水晶宮”の警護の他に、もう一つある。

それは、大陸の調停役を自称する法王府の剣となるべく、他国の戦争に和平のため軍事介入をすることであった。


天上神は争いを肯定する。


それが正しいものであれば、両者の魂の高潔さを高めるからだ。

しかし一方で、無意味な殺戮と暴虐は否定する。


それが正しいものであれ、両者の魂を堕落せしめるからだ。


だからこそ、対等な立場による戦争であれば、法王府は基本的には介入することはない。


しかしそれはあくまで建前であり、法王府がこの大陸において神聖不可侵で有り続けることも、大陸に存在する多くの国々の信仰と政治的な助力に依るところが大きい。


だから、法王府と密な関係を持つ国が戦争に巻き込まれた場合、あるいは政治的、軍事的配慮から介入を頼まれた時、法王府がそれを神のご意志のみを理由として拒むことは困難である。


今回の帝国とタルメニア王国の戦争についても、タルメニアと同盟を結んでいるトレンディア王国との密談が重ねられ、そうした泥臭い政治的配慮から神殿騎士団による軍事的介入が決定された。


年端のいかない少女であろうとも、私はそうした神殿騎士団の団長である以上、高官達の決定に逆らうことは許されず、こうして冬期のノーザリン山脈の中腹を雪が降り積もる中、帝国に攻め込まれて籠城しているであろうタルメニアの首都を目指し、大勢の騎士達を引き連れて行軍しているのだった。



「アルバート卿。貴方はどう思われますか?」


ここまで吹雪いた状態での雪山の行軍を経験していない私にとって、ユリアンの提言に賛成すべきかどうかの判断が付かず、助言を求めて私の隣で私と同じく雪山を睨んでいるであろう年若いトレンディアの騎士に尋ねた。


「そう、ですね。このまま雪が止まないのであるならば、貴女の副官殿の言う通りここでいったん行軍を停止すべきだと思いますが…」


男性が発したとは思えないような、とても澄んで落ち着いた声が隣から聞こえる。


盟友たるタルメニアを助けるべく、トレンディア王国は神殿騎士団の軍事介入に対し、援軍として騎士団を一軍同行させていた。


トレンディア王国百竜騎士団。その団長のアルバート・コーンフィールド卿はまだ三十歳にも届かない年若い騎士なのだという。


しかし、王国においては“龍騎士”の二つ名で呼ばれる有能な騎士なのだそうで、その容姿も美丈夫であり、市井の人気も高いと聞く。


私の部下の女性騎士が、アルバート卿の姿を見て黄色い声を上げていたのを聞いたことがある。


しかし、目の見えぬ私にとって、人の容姿の美醜などどうでもいいことであった。


「ルールールー。お前はどう思う?」


そのアルバート卿が、彼の隣に佇んでいる一人の少女に声をかける。


「だめ。少なくとも後二日は雪は止まないと考えるべき」


鈴を転がしたような、とても美しい声色で少女は答える。


しかし、その声には抑揚がなく、とても平坦で、まるで人間ではなく人形が発したように私には聞こえた。


ルールールー・ムーンリバーという名のその少女は、アルバート卿の副官なのだそうだ。


その年齢は、驚くべきことに私よりもさらに若いのだそうだが、そんな彼女が祖国で出世が確約されているエリート騎士の副官を務めているのも、彼女が比類なき優秀な魔術師だからだと聞く。


しかも、その容姿は目を見張るほど可憐であり、見目麗しいアルバート卿と並んで佇む二人の様子には、男ならず女性までも目を奪われてしまうと部下が話していた。


しかし、私は彼女がどうにも苦手であった。


目が見えず、彼女のその美貌を目にすることがないことも原因の一つかもしれないが、それ以上、彼女のその抑揚のない平坦な声を聞いていると、どこか不気味に不吉な予感を感じさせるのだ。


そして、その声から感じられるのは、どんなことがあろうと心の水を揺らすことがないかのような、まるで植物のような静謐な精神性。


彼女はあるいは、人間の形をした植物の精なのかもしれない。

そんな印象を私に抱かせるのだった。



「そうか。――ルールールーは風水士ではありませんが、しかし彼女の言葉は信用できます。私が保証しましょう。やはり、ユリアン殿の言う通り、ここで暫くキャンプを張った方がよろしいかと」


少女の言葉を聞き、それを吟味した後、アルバート卿はそう私に提案してきた。


「―――分かりました。雪が止むまでは、ここで暫くは様子を見ることにしましょう」


元より判断の材料を持たない私にとって、自慢の副官たるユリアンと、王国の新進気鋭の騎士二人にそう提案されるのであれば、断る理由もなかった。


「ユリアン。そうと決まれば、風よけができる岩肌に天幕を張る準備をするよう、すぐに騎士達に指示を。あと、何日ここで足止めをされるかも分かりませんから、今後の行軍のスケジュールも調整しておくように」


「はっ。仰せのままに」


ユリアンの小気味の良い返事を聞きながら、アルバート卿にも同じ意味を込めて振り返る。


「我々も同じようにするよう、指示しておきましょう。それでは、聖女様。後ほど夜半の会議にて」


アルバート卿はやはり男性にしては若干高めの澄んだ声でそう答えると、傍に佇んでいた魔術師の少女を引き連れてそのまま騎士団のもとへと去っていた。


聖女。


私はそう呼ばれるのが好きではなかった。


そう呼ばれてしかるべきは、“託宣の姫巫女”たる私の双子の妹であるべきだった。


“剣の巫女”たる私は、聖女などではない。


法王府によって操られている、ただの着せ替え人形の内の一人だ。





「ムーンリバー殿の言葉が正しいことを前提としても、このままではタルメニアに辿り着くのはどうしても三日ほど遅れることになりそうです」


火を灯す魔道具にて暖を取っている天幕の中で、私とユリアンは顔を付け合わせて今後のスケジュールを確認していた。


天幕の外からは、今なお止むことなく吹雪いている音が聞こえてくる。


「しかし、それでは間に合わない可能性があります。山中では吹雪であっても、タルメニアの首都では雪が既に止んでいるかもしれないのでしょう?」


「おそらくは。それに、足の速い騎兵を多く連れた帝国にとって、短期決戦こそが狙い。ここで進軍を止める理由がありません」


ユリアンの言葉を聞き、思案するように私は口元を手で押さえる。

考え事をするときの、私の癖だった。


「十十字軍の手を借りることはできませんか?確か、タルメニアに第三軍と第七軍が潜り込んでいたはずです」


吸血鬼狩りの専門家。しかし、その戦闘力は一個騎士団にも勝るとも劣らない人間兵器の集団。


私は彼らのことを余り好いてはいなかったが、しかし、状況はそのような私事にかまけていることを許してくれそうにもなかった。


「いえ、おそらく駄目でしょう。今タルメニアには、彼らが追っている“銀喰い”が潜伏しているとの情報が入ってきていますので、審問特例で騎士団の配下に就けることはできません」


私の提案に対し、ユリアンは即断する。私の倍以上生きてきて、私よりも遙かに多くの経験を積んできたであろうこの壮年の男性騎士が、私のような小娘の副官に甘んじていることの理由について、私は多くは知らない。


「“銀喰い”………。ここ十年近くで急に名を上げ始めたダンピールの暗殺者、ですか」


「ええ。既に多くの教会関係者が犠牲になっています。異端審問部は、特級神敵犯罪者に指定することも検討しているそうですが」


「ともかく、分かりました。彼らの手を借りることもできない状況、ということですね」


嘆息し、もう一度頭の中でタルメニアが持ちこたえるであろう日数で、帝国が戦線を維持し続けることができるであろう日数とを計算する。


このまま、ここで雪が止むのを待っていてもいいのだろうか?


そんな疑問が心の内から沸いて出る。


任務に失敗した時、私の処遇はどうなるであろうか。


神殿騎士団を束ねる、年若き少女騎士。ソードレス家の呪われしき双子の片割れ。剣の巫女。


そのどれも、おそらく変わることはないだろう。そして私への評価も。


所詮、私はお飾りで団長に収まっているだけの、一人の小娘なのだ。


法王府の意向に逆らうこともできず、彼らに飼われているだけの。


「―――ユリアン。貴方は自身の出自に誇りを持っていますか?」


そんな益体もないことを考えていたせいだろうか。

私はつい、そう目の前の壮年の騎士に尋ねてしまっていた。


騎士団の長である私が、かかる有事にそんなことを聞いている場合でもないのに…。


「貴方は貴方の叔父上様を尊敬しているのでしょう。その血筋を、重たく感じたことはないのでしょうか?」


私は目を伏せ、そのまま恥じ入るような声で彼に尋ね続ける。


私が十五歳の時に“剣の巫女”に選ばれ、神殿騎士団団長に就任してから常に感じていたことは、それは凍えるような孤独であった。


私は、誰かに慰めて欲しかったのかもしれなかった。


「アナスタシア様。私は叔父上のことを深く尊敬しておりますし、そんな叔父上と同じ一族であることについても、煩わしいと感じたことはありませぬ。いえ、重さを感じることはありますが、それはおそらくアナスタシア様がお尋ねになった重さとは違う種類の物でしょう」


ユリアンは迷うことなく、朗々と私の疑問に応えた。


しかし、それは逆に私にさらなる孤独を感じさせた。


ユリアン・ローゼンクランツ。彼の叔父である、ギルベルト・ローゼンクランツは勇者の旅に随行し、魔王を倒した英雄の一人だ。


“薔薇十字”の異名を持つ英雄ギルベルト・ローゼンクランツが戦死してから十年以上の年月が経つが、今でも彼のことをモールデン公国を代表する騎士の中の騎士だと讃える者は法王府の中でも多い。


ユリアンは、そんな叔父に憧れ、彼のような騎士になるために神殿騎士団に入団したのだと昔聞いたことがあった。


そんな彼だからこそ、私の悩みも分かってくれるのではないか、そんな風に私は思ったのだろうか。


「そう、ですか。いえ、詰まらぬことを聞きました。忘れてください」


私は迷いを振り切るように、話を打ち切る。


血筋。家名。宿業。


そのどれも、私を冷たい鳥籠へと閉じこめる厭うべき要素に過ぎない。





ソードレス家の始まりは、法王府の誕生にまで遡られる。


約千年前に法王府の前身たる教会の土台を作り上げた、始まりの聖人に付き従った九人の使徒の内の一人がソードレス家の始祖であると言われている。


しかし、ソードレス家の始まりは、かかる祝福だけに留まらず、呪いをも包含するものであった。


裏切りの使徒が始まりの聖人が神託を受けた聖地において、魔王の軍勢を呼び込んだ際に、剣を持たず、己の身体のみで聖人を守ったと言われる使徒。


後にソードレスの聖女と讃えられるその使徒は聖人を守りきった代償として、魔王に呪いをかけられたと伝えられている。


すなわち、一族の血がすぐに絶えるようにと聖女の一族として産まれた者はみな全て短命となり、人が生きる今この時を見ることができないようにと必ず一族の中から未来視の能力を持つ双子の女児が産まれてくるようになった。


聖人と、九人の使徒の内最後まで聖人に付き従った三人の使徒が神託の教えを広めるべく作り上げた教会の中において、未来視の能力を持つ聖女の一族は重宝され、秘匿され、守られ続けている内に、その双子はいつしか教会の、引いては法王府の象徴とまでなるようになっていた。


双子の内、未来視の能力を持って産まれた一方の少女を“託宣の姫巫女”として法王府のトップに擁立し、未来視の能力を持たずに産まれた一方の少女を姫巫女を守るための象徴として神殿騎士団の団長“剣の巫女”に据える。


そうして繰り返し呪われしきソードレス家の双子は法王府の中で飼い殺され、代替わりをし、変わることなく延々と預言とその守護を行ってきたのだった。


私も、その一人。


アナスタシア・ソードレス。


ソードレス家の呪われしき双子の一人。未来視を持たず、剣によって姫巫女を守る神殿騎士団の団長として、法王府という巨大な鳥籠に飼われている、血の通わぬ人形の一人。


今でも、あの一切の火が灯らない冷たい水晶でのみ造られた“水晶宮”にて、私の妹は教会の高官達のために預言を行っているのだろうか。


自身の能力で垣間見た未来の出来事を、神に託された預言だと偽って。


私は――。




――――その時。




「「っ!?」」


私が深く心の内に沈みかけた瞬間、山の奥から雪崩が起きたかのような轟音と地響きが鳴り響いた。


「ユリアンっ!」


「分かっております!」


私は傍らに置いてあった剣を手に取ると、すぐさま立ち上がりユリアンに声をかけた。


今は、くだらないことを考えている場合では、ない。


鳴り響いた轟音の正体を確かめるべく、私とユリアンは連れだって天幕から出て、雪が降り積もる外に出ると――。



ウゥゥゥオオオオオオオォォォォォンンンッ!



耳が潰れるような獣の咆吼が聞こえてきた。


「っ!」


目が見えぬ代わりに、人よりも聴覚が優れている私にとって、その咆吼は身体の芯を凍らせるような迫力を帯びていた。


冷たい空気が暖められた身体の体温を瞬く間に奪っていく中、私は咆吼が聞こえた方角へと顔を向けると。


「なん…だとっ!あれは―――“三本角”ベルギエール!」


驚きから戦くユリアンの震える声が隣から聞こえてくる。


冷静沈着な彼がそんな恐怖に滲ませた声を上げるなんて。


咆吼が聞こえた先から感じるのは、とても大きな、灼けるような魔力を伴った何かの巨大な生き物の存在。


目の見えぬ私に感じ取れたのはそれだけだった。

しかし――。


“不愉快な匂いを辿ってきてみれば、下らぬ人間共の群れがいるだけとは。実に詰まらぬ”


膝から崩れ落ちそうになるような重みを感じる声が、前方に感じる巨大な生き物から発せられた。


しかし、これは肉声ではなく、魔力を利用した通話術。


それはつまり、目の前にいる生き物は。


「魔物だーッ!みんな、はやく迎撃態勢を取れ!」


遠くから、トレンディアの騎士が叫ぶのが聞こえてくる。


だけど。


「駄目です、アナスタシア様。このまま戦っても全滅するだけです。王国騎士団と協力して、彼奴から逃げる準備を!」


ユリアンは焦った様子で、そのように告げてきた。


“三本角”ベルギエール。

その名前であれば、私も聞いたことがあった。

魔王の軍勢の中でも、最も多く名前が挙がる最強かつ最凶の魔物。


山に棲む熊が人を食べたことによって突然変異を起こし、強靱な肉体と、獰猛な爪や牙で人を襲って食する魔物、オーガー族の長。


全身は闇を身に纏ったかのように鋼鉄をも通さぬ固い黒色の毛皮に包まれ、二階建ての建物よりも優に大きいとされるその強大な体躯に、人間の何倍もの量を有していると言われる魔力のシンボルたる螺旋状の角を額に三本生やし。


神話の時代から、魔王に仕える配下として何百年も生きてきたと伝えられる、伝説の魔物。


それが――。


「ベルギエール!魔王が勇者達に倒された後、“死の森”のどこかに消えたと伝えられているのに、どうしてこんなところに――っ!」


「ユリアン!貴方はすぐに退路の確保を!それから重騎士を数名選んで私の護衛に付けなさい。私があいつの気を引きつけます!」


目の前に感じるその圧倒的な存在感によって、ともすれば意識を持って行かれそうになるが、私は自身に活を入れるべく、丹田に力を込めて隣のユリアンに怒鳴りつけた。


お伽噺に聞く“三本角”の強さが本物であれば、私達が敵う相手ではない。

それに、こんなところで貴重な戦力を魔物相手に使い潰す訳にもいかない!


「だ、駄目です、アナスタシア様!貴女様に何かあっては師父連に申し訳が――!」


「黙りなさいっ!私を誰だと思っているのです!私こそがこの神殿騎士団の団長です。貴方ははやく私の命令を実行しなさい!」


「っ、分かりました。アナスタシア様。どうか無茶だけはなさいませんように」


一瞬戸惑う様子を見せながらも、けれどもユリアンはそのまま私の傍を離れて混乱の極みにある騎士達のもとへと駆けていった。


それを確認しつつ、腰の剣を抜き放ち、目の前で圧倒的な存在感を発しているオーガー族の長、“三本角”ベルギエールへと身体を向けると。


「微力ながら、私もお手伝い致しましょう。アナスタシア様」


隣から、あの男性にしては澄み切っている落ち着いた声が聞こえてきた。


「アルバート卿!よろしいのですか?」


「ええ。私の部下は皆優秀な者達なので、私がこうして魔物相手に遊んでいても、統率は乱れないのですよ」


まるで恐れを感じさせない静かな声色でそう告げた後、そのまま背中の長剣を抜き放つ音が聞こえてくる。


鋼の剣とも違う、不思議な音色を響かせていた。


「私の剣は特殊製でしてね。鋼鉄をも弾き返すと言われる“三本角”の毛皮と言えども、貫くことができるでしょう」


そうして、彼が上段で剣を構える気配が感じられる。


「それに、貴女のような美しい女性にだけ魔物と戦わせるというのは、男の沽券に関わりますからね」


恐ろしい死闘を前にしても、アルバート卿はそんな歯の浮くような台詞を口にした。


「浮気だめ。アップルに告げ口するぞ」


そんな彼の後ろから、伝説の魔物を前にしても変わることのない平坦な呟き声が聞こえてきた。


「ルールールー。勘違いするな、別に浮気じゃない。女性を褒めるのは男の甲斐性ってやつだ」


ばつが悪そうに、彼は後ろの少女に弁明するが。


「甲斐性だと?アルバートは昔はそんなんじゃなかったって、アップルが言ってた。所詮、色を知れば男なんてそんなもんだ」


少女は冷たい声で一蹴した。


「お前な――。あぁ、いや、失礼、アナスタシア様。ルールールーはこんな奴ですが、それでも戦いとなれば頼りになります。ご安心を」


「安心しろ、女。わたしが居れば龍にだって勝てるぞ」


そんな二人のやり取りを聞いていると、不思議と私の恐れまでぬぐい去ってくれるような気がするから、不思議だった。


“ハ ハ ハ ハ。脆弱な人間共が儂と戦うつもりか?哀れを通り越して滑稽ですらあるな”


前方から、重く冷たい声が聞こえてくる。


目の見えない私には、闇色の毛皮を纏うと言われるベルギエールの威容を見ることはできず、熱く強大な物体が雪の中に鎮座しているようにしか感じ取れないが、しかし、それでも、目が見えない代わりに、私には私にしかできない戦い方がある!


「あまり人間を甘く見るなよ、化け物。人間にだって、その気になれば龍の鱗を砕くことだって、出来る!」


「蜂蜜大好きな熊の分際で、わたしを睥睨するとは良い度胸だ。剥製にして家に飾ってやる」


アルバート卿に、ルールールーの二人が怯えるどころか、大胆不敵にも伝説の魔物を挑発する声が聞こえてくる。


“面白い。そこまで言うのであれば、儂を楽しませてみるがいい、人間共。そうでなければ、お前達は数瞬後に細切れの肉片になるだけだ!”


叫び声と共に、ベルギエールは爆発したかのような速度でその場から駆け抜けた。


そのまま恐ろしいスピードで雪を掻き分けながらこちらへ猛追しているのを感じ取れる。


隣のアルバート卿と少女が急いで回避行動を取ろうとしているのも。


しかし私には――。


「ハァァァッ!」


そのまま数歩身体を横にずらして、ベルギエールによって弾きとばされた雪が身体に当たるのを感じながら、手に持つ剣を横薙ぎに斬り抜いた。


確かな手応え――!


自分の周りに流れる時間がコマ送りになっているように感じられる。


そして数瞬後。


私が元いた場所に、まるで特大の破壊魔法が炸裂したかのような衝撃が巻き起こり、その勢いに巻き込まれないように私は即座にその場を離れるべく後ろに飛んで逃げた。


おそらく、私達がいた地点をベルギエールがその豪腕で穿いたのであろうが、それにしても、何て威力!


衝撃を殺しつつ後ろに下がると、二人が傍に駆け寄ってくる気配を感じ取れた。


「アナスタシア様!何て無茶を――。お怪我はありませんか?」


「大丈夫です。私は目が見えませんから、相手の先手を取ることは非常に困難です。けれど、その代わりに、相手の後の先を取ってからの反撃にならば、誰よりも早く速く対応できる自信があります」


そう言って、私はアルバート卿に微笑みかける。


それが、目の見えぬ私の基本戦術だった。


幼い頃から神殿騎士団を継ぐ身として強くなることを義務づけられていた私にとって、目が見えぬことがハンデとならぬよう、血反吐を吐くような修練の末に、身につけた戦法だった。


“ほう。人間にしてはなかなか素早い動きをするようだが、所詮ちょろちょろと動き回るだけの小虫よ。よもや、その程度の攻撃で儂の身体に傷を付けられるつもりではあるまいな?”


ベルギエールが愉快そうに嗤いながら、こちらへ向けて語りかける。


「アルバート卿、先程の一撃で奴の身体に傷は付いているでしょうか?」


目が見えず、確認することのできない私は代わりにアルバート卿に尋ねる。


「………いえ、残念ながら、傷一つ付いていません」


「そう、ですか」


確かな手応えと共に、奴の右脚を確かに斬りつけた筈だった。


けれど、傷一つ付けられない。


それもそのはず。私は神殿騎士団の団長として、人間相手であれば誰が相手であろうとそうそう負ける気はしなかった。


しかし、私の戦い方はあくまで人間相手のものであり、人智を凌駕する強靱な肉体を持つ魔物相手のものではなかった。


「ならば、攻撃はお二人にお任せします。私が、奴の後の先を取って相手の動きを撹乱しますので、隙を衝いて奴に一撃を。お伽噺が本当であれば、奴の弱点は額の三本の角の筈です」


「よろしいのですか?その役割分担では、貴女が一番危険なのですよ」


アルバート卿は気遣うように私に話しかけるが。


「気遣いは無用です。避けることに関しては、例え誰が相手であろうと、遅れを取るつもりはありませんから」


「そう、ですか。分かりました。私の龍鱗の剣であれば、彼奴の身体とて、傷付けられましょう。攻撃役は確かに、任されました」


隣で力強く頷く気配を感じる。


「案ずるな、女。アルバートは人外相手に慣れているからな。森の熊さん程度にやられはせん」


少女の声は、こんな時であっても抑揚がなく、平坦であった。まるで深い森のように。


「あいつが本当に森の熊さん程度なら、困りはしないがな」


ぼやくようにアルバート卿が呟く声と同時に。


“どうした?かかっては来ぬのか、脆弱な人間共よ!もっと儂を楽しませろ!”


辺り一面を燃やし尽くすかのような熱を帯びた咆吼がベルギエールから響き渡った。


「言われなくとも!」


アルバート卿の叫び声と共に私達は同時に駆けだした。


それに合わせてベルギエールが鋭い爪を滾らせながらその豪腕をこちらへと振り抜く気配を感じるが――。


遅い――っ!


私はそれを紙一重で避けつつ、風圧で吹き飛ばされそうになるのを足を踏みしめて堪えながら、剣を奴の右腕に突き立てる!


「くっ!」


しかし、剣は奴の鋼鉄より固いと言われる毛皮を貫くことなく、何かとてつもなく堅い巨岩に斬りつけたかのような鈍い感触が手の平を中心として全身に広がった。


一瞬後、ベルギエールがその豪腕で地面を穿いた衝撃が私を襲い、吹き飛ばされることのないよう、雪が降り積もる地面を蹴ってその場を離れる。


その私の後ろから――。


「ハアァァァァ――ッ!」


アルバート卿が風を置いていくかのような速度で駆け抜け、奴の右腕を踏み台にして空高く舞い上がる気配を感じる。


そしてそのまま――。


「アアアァッ!!」


長剣を振り抜き、獣の肉が爆ぜる音が聞こえる。


“ぬうぅッ!?”


そのままアルバート卿は渾身の力で斬りつけた奴の右肩を蹴って、中空へと身を躍らせる。


「ルールールーっ!」


「任せろ」


私の後ろから少女の声が聞こえるのと同時に、周囲の雪が全て蒸発するかのような巨大な熱量を感じた。


振り向くと、少女の姿を中心として膨大な魔力が高温を発しながら渦巻いているのが分かる。

まるで、彼女自身が太陽になったかのような。


炎術――!?


それにしても、何てでたらめな熱量!


“儂の身体を傷付けるとは、人間の癖にやりおるわ。しかし、貴様の剣からは嫌な匂いがするぞ。あぁ、とても嫌な匂いだ!”


忌々しげに声を荒げるベルギエール。


私の人より優れた耳が、奴の右肩から幾ばくかの出血をする音を聞き取り、それでアルバート卿の剣が奴の毛皮を破ったらしいことが私にも分かった。


“人間、その剣は一体誰に――”


「射てェッ!」


ベルギエールが言い募ろうとした瞬間、私の後方からユリアンの叫び声が聞こえてきた。

それと同時に、まるで雨のように凄まじい数の矢が闇色の毛皮を纏う魔物へと向けて放たれたのも感じる。


ようやく、退路を確保しつつトレンディアの騎士達と陣形を組むことができたのか、ユリアン。


しかし。


“小賢しいわァッ!”


雨の如く降り注ぐ無数の矢全てが奴の毛皮によって弾かれる音が聞こえてくる。


だけど、一瞬。奴の注意は私達ではなく後方のユリアン達に向けられた。


そして、それで十分だった。


「燃え尽きろ、熊」


私の後ろから、少女が冷たく呟く声が聞こえる。

それと同時に、彼女がその上空に作り上げた小型の太陽が奴に向けて放たれた。


ベルギエールはそれを避けることもできず、奴の身体に触れた瞬間。


“グヌォォーッ!!”


ベルギエールが苦悶の声を上げながら、奴の周囲全てが炎に包まれたかのように、獣を中心として火柱が上がったのを私は感じた。


すごい――!


私達に止むことなく降り続けている吹雪全てがその膨大な熱量によってこの場で溶けていく。


「よし、今ここで奴を無理に倒す必要はない。ルールールー、すぐに騎士団を連れて後退するよう――」


離れた場所から隙を窺っていたアルバート卿が、こちらへと駆けながらルールールーに話しかけようとした、が。


“グ、グ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ッ !温い!温すぎるわッ!この儂を燃やし尽くしたいのであれば、地獄の業火を持ってくるがいいッ!”


鼓膜が破れそうな程の咆吼を上げ、身を炎に包まれながらベルギエールがその場で地面にその強大な両の爪を突き立てる。


「な――っ!」


「っ」


アルバート卿が驚愕の声を上げるのが聞こえる。あの深い森のような少女でさえも。


そんな。人間なら触れるだけで灰になりそうな炎を身に纏っても、それでも、まだ動く――!?


“ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ッ!”


爪を突き立て、哄笑を上げながら、闇の獣は身に纏う炎を魔力に変換し、その全てを荒れ狂う嵐のように自身の額に生えた三本の角へと集め始めた。


奴の額から帯電した凄まじい圧力の魔力を感じる――!


それに伴って周囲の空気が乾き、弾かれていくのが分かる。


「いけないっ!みんな、すぐにこの場を離れなさいっ!!」


異変を感じ取り、私はすぐさまその場で騎士達に向けて大声を上げて退避を促した。


古から伝わるお伽噺が本当であるならば、“三本角”ベルギエールが得意とするのは雷の魔術。常に周囲に帯電した魔力を纏わせ、自身の名を顕す額の三本の角から放たれる巨大な落雷は、全てを吹き飛ばすという。


まさか、奴はこのまま――!


「くっ!ならば――っ!」


このままだとみんな、やられてしまう!


「っ!駄目です、アナスタシア様ッ!」


すぐ傍から聞こえるアルバート卿の忠告を無視して、私はその場を駆ける。

せめて奴の魔術行使を妨害しようと、額の三本の角目がけて剣を投げつけるべく、剣を握り締めたまま両手を振りかぶり。


“ハ ― ッ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ッ !”


獣の額を中心として、周囲の空間全てが砕け散った。


「きゃあぁっ!」


凄まじい轟音。感覚全てを溶かすかのような熱。それら全てが私に向けて放たれて。


全身の神経全てが焼き切られたような痺れが私の身体を覆い、そのまま凄まじい衝撃に飲み込まれて私の身体が後方遙か遠くへと吹き飛ばされているのが感じられる。


「アナスタ――」


「―――逃げ」


「早く―――防ぐ――」


ミキサー状に撹拌された私の脳がどこか遠くから響く断片的な叫び声をキャッチした。


けれど、その意味までは分からなかった。


目の見えない私にとって、耳を潰されてしまえば世界は完全な無に包まれる。


まるで暖かい泥の中をたゆたうような気怠い感覚と共に、私の意識は深く深く泥の底へと沈み込んでいった。


その時私が感じたことは、死への恐怖でも、人生の終着に対する諦観でもない。


どこかホッとした、不思議な安堵感だった。


これで、やっと、私は――。


―――………。


………。


…。








[10769] 間章Ⅲ・後
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2010/02/26 00:15


魔王が約五十年前に勇者によって倒された時、ソードレス家にかけられた忌まわしき呪いも解ける筈だった。


しかし、それはソードレス家の価値を無に帰すことをも意味していた。

託宣の姫巫女が行う未来視に基づく預言は、もはや法王府にとってなくてはならない物となっていたからだ。


魔王討伐の報を受けて、喜ぶでもなく恐れを感じたのは、広大な大陸中全ての国においても、恐らく法王府の高官達だけだったのではないだろうか。


けれど、魔王にかけられた呪いが解かれることはなかった。


私の双子の妹が、こうしてあの冷たい“水晶宮”に幽閉されていることからしても、今なおソードレス家に生まれる双子は呪われたままだ。


一族の者はみな短命で、現在を見ることなく遠い未来だけを見続ける双子。


魔王が倒され、未来視の能力が喪われるかもしれない恐怖を一度味わったからだろうか。

それとも、魔王が倒された当時の姫巫女オフィーリア・ソードレスが、勇者の旅路に随行して魔王と戦い、死闘の末に戦死してしまったからだろうか。


それ以後、法王府は今までにも増して託宣の姫巫女を自分達の鳥籠へと仕舞うべく、その管理を厳重とした。

それに伴い、姫巫女を守る役目を負う“剣の巫女”の育成にもより一層の力を入れ始めた。

彼らにとって、姫巫女を喪うことは絶対にあってはならない事態であり、そのための守護役たる剣の巫女は、神殿騎士団団長という役割を与えられた、法王府という一つの巨大なシステムの歯車の一つに過ぎなかった。


託宣の姫巫女は、“現在”を見ることができない代わりに、“未来”の出来事を垣間見ることができる。

しかし、出来損ないの双子の姉である私は、未来を見ることができないばかりか、この現し世の姿さえ産まれた時から見ることが叶わなかった。


光を持たない眼。


法王府の高官達にとって、私の利用価値はどれほどであったろうか。


周囲からは、産まれ持ったハンデにも負けず、それでも気丈に神殿騎士団団長という重責をこなす立派な少女に見えたかもしれない。


けれど、私は所詮そうなるよう幼い頃から条件付けられた、ただの操り人形だ。

彼らの好きなように着せ替えられ、彼らの望がままに回転するだけの、一つの歪つな歯車。


それが私だった。


常軌を逸した修練に一言でも文句を言わず、ただただ無心にこなし続けたのも、それは私が現状に何の希望も持っていなかっただけに過ぎない。


“水晶宮”に幽閉された託宣の姫巫女たる双子の妹と、法王府という巨大な鳥籠の内に取り込まれて自分を見失った私とでは、どちらがより不幸なのだろうか。


分からない。私には分からなかった。


私はただ、温もりが欲しかっただけだ。


冷たい孤独な鳥籠から大空へと救い出してくれる、たった一欠片でもいい、人間的な心の暖かみを感じることができたなら、私はそれを救いにこれからも人として生きていくことができただろう。

血の通わない操り人形としてではなく。


けれど、私の周囲は鉄鎖で出来た冷たい檻で囲まれ、良識ある大人達は私に聖なる乙女、“剣の巫女”たる洗練潔白な少女人形であることを要求し続けるのだ。


だから、私は、この鳥籠から抜け出すことができるのであれば、それが悠久の死であっても、今よりは、幾ばくかでも、なお救いがあるだろうと考えて。


それで。


それで――、いつ死んでしまってもいいなどと、考えていたのだろうか?





※※※※





「………う、うぅ、ん」


全身を包み込む不思議な暖かみを覚えて、私は冷たく沈み込むような沼の底から、意識を浮上させた。


意識が覚醒し、自分が死んではおらず、未だ生きていることを知った時、私は安堵感ではなく、深い失望を覚えた。


私は、目覚めたくはなかった。

私を冷たく取り囲み続けるだけの現実の世界には。


「………ここ、は?」


盲目の私では、自分が今どこに居るのかを視覚情報によって捉えることは叶わなかったが、それでも、空気の流れに空間の湿度・温度の差を把握することによって、私がどこか洞窟のような、周囲を岩肌に囲まれた空間に居ることを知った。


私の身体は、豊かな柔らかさと、包み込むような暖かさを感じさせる上質な毛布に包まれて、土の上に寝かされているらしい。


「つぅっ!」


身体を動かそうとすると、全身を鈍い痛みが襲い、痺れたように四肢を動かすことができなかった。


私は――?


そうだ。ベルギエール。落雷。雷の魔術。伝説の魔物。闇の毛皮を纏った獣。王国の若い騎士。ユリアン。深い森の少女。吹雪。行軍。


痛みによって意識がはっきりしてくると、私が気を失う前の状況が流れるような情報となって目まぐるしく私の頭を駆け巡る。


そうだ。こんなところで寝ている場合では。みんなは無事だろうか?あれから何がどうなって――!


「くっ、う、うぅ、んっ」


痛みを堪えながら、私は何とか上半身を起こす。


その時。


“目が覚めたのなら、まだ動かない方がいい。君は大怪我をしていたのだから”


「っ」


空間の前方から、とても深い落ち着きのあるバリトンの声が響いてきた。


「だ、誰っ!?」


なぜ、気が付かなかったのだろう!目が見えなくとも、私の五感全てが前方の空間に、何かとても巨大な生き物が鎮座しているのを知覚させていた。


けれど、その生き物はベルギエールに匹敵するほどの存在感を私に感じさせながら、それはあの闇の獣が発していたような重く冷たいものではなく、まるで全身を包み込むような暖かさを感じさせるものであった。


“君を拾って手当をした者だよ。君はこの鉱道の外の雪の中に、一人で倒れていたのだ”


私の誰何に対し、目の前の何者かは、やはり落ち着いた声色で応えた。


“全身にひどい火傷を負っていたのでね、何とか治療をしてみたのだが、一命を取り留めたようで何よりだ。しかし、そんな怪我を負うとは、この大雪の中で落雷にでもあったのかね?”


「いえ、その…。ともかく、貴方が私を助けてくれたのであれば、お礼を申し上げます。ありがとうございました」


“なに、構わんよ。昔友人に習った回復魔術を使う機会が来るとは思わなかったが。それにしても、私に対して何者か(、、、)と聞くとは、君はひょっとして、目が見えないのか?”


思案するような口ぶりで、私に対して尋ねてくる。けれど。


「え、ええ。私の目は生まれつき、光を灯さないのです。別に、この怪我のせいで見えなくなった訳ではありませんが、それが、どうかしたでしょうか?」


“ふむ。いや、何、気にすることはない。私が何者か、と問われれば、そうさな、しがない一人の鍛冶屋、とでも答えておこうか”


目の前の何者かは、何故か愉快そうにそう答えた。

声から感じるとても思慮深い知性とは裏腹に、どこか稚気に富んだ声色だった。


「鍛冶屋、ですか?」


“うむ。ここはノーザリン山脈の北東にある隠れた鉱山の一つでね。良質の緑柱石が採れるので、暇を見てはわざわざ自ら採掘に来ているのだよ”


「そう、ですか」


鉱山――。


洞窟のように感じたのも、私が寝かされているここが鉱道のどこか休憩所のような開けた場所だからだろうか。

雪が降り積もる外より暖かいのも、山の奥から湧き出る温水のお陰なのかもしれなかった。


しかし、鍛冶屋、というには、目の前の生物から感じる圧力は尋常ではなく、とても人間とは思えなかった。けれど、彼から感じる気配は、魔物とも思えない。


「鉱山に棲む鍛冶屋…。貴方はひょっとして、伝説にいうギガース族なのでしょうか?」


ギガース族。宝石が多く採れる鉱山に棲み、鍛冶の神様とも謡われる、神話の時代に生きていたとされる伝説の巨人族。


今ではもう、この大陸のどこにも存在せず、ただただ古いお伽噺にのみその名前が出てくるだけだけど。


“はっはっは。ギガース族か。それは良いな。私も鍛冶を志す者として、憧れる種族だな”


「………では、違うのですか?」


“ふ ふ ふ。まぁ、私が何者かなど、目の見えない君にとって、瑣事でしかなかろう。君が私をギガース族だと思うのであれば、それが君にとっての真実だ”


笑いながら、私の質問ははぐらかされてしまった。

どこか子供扱いをされたようで、私は少し拗ねてしまう。


「そうですか。それでは、これから貴方のことは鍛冶屋さんとお呼びします。よろしいですね」


“好きにするといい。名前など、物の本質とは関わりのないものだ”


「………っ」


名前。私を意味付けるもの。彼が言う通り、名前に意味などないのであれば、私はなぜアナスタシア・ソードレスとしてこの世に生を受け、他の生き方さえも許されずに神殿騎士団の団長を務めているのだろうか。


それは、私の名前が私を形取っているからではないのか。


私は下を向き、拳を軽く握って下唇を強く噛んだ。

全身を痛みが熱く灼いていたが、その熱が私に休まず生きろと急かし立てていた。


“時にお嬢さん。そうやって美しい憂い顔を見せてくれるのは眼福なのだがね、年頃の娘なのだから、せめて前が見えないように毛布を巻いた方が良いと思うが”


思いに耽っていた私は、鍛冶屋の声に我に返り。


「えっ?――きゃあっ!」


悲鳴を上げ、はだけていた毛布で身体をくるみ、屈んで前を隠した。


私の上半身には服が着せられておらず、包帯が何重にも巻かれていただけだったが、これじゃあ、胸の形とかが――!


「あ、あ、貴方が!」


“いや、すまない。事後承諾になってしまうかもしれないが、治療のためには仕方なくね。上半身も含めて全身まんべんなく大なり小なりの火傷を負っていたので、どうしても、服を脱がさず治すことができなかったのだよ”


まるで悪びれた様子もなく、鍛冶屋はそう笑いながら私に告げた。


「う、うぅーっ!」


私は恥ずかしさから、唸り声を上げて前方にいるであろう彼を睨み付けることしかできない。


“なに、気にすることはない。恥じることのない、まるで白磁のように美しい肌だったし、それに、ちゃんと火傷の跡が残らないように丁寧に治療もしておいたから、心配することはないぞ”


「そ、そういう問題ではありませんっ!―――ぁっつつぅ!」


目の縁に涙を浮かべながら、抗議の声を上げると、彼が言っていた火傷の傷が疼いたのか、再び全身を熱い疼痛が駆け巡り、苦痛から私は身体をくの字に曲げて身を捩った。


“ああ、ほら。興奮すると傷に響くぞ。もう命に別状はないとは言え、下手をすればそのまま死んでいてもおかしくはない怪我だったのだ”


「だ、誰のせいですか、誰の……っ!」


恨めしげに彼を睨みながら、息も絶え絶えに言う。


“抗議は後でちゃんと聞くから、今は安静にして寝ておきなさい。君は二日間も気を失っていたのだから、まだ体力も回復していないだろう”


「っ!」


二日――っ!?


そんな。私はそんな長い間気を失って――!


「だったら、尚更ここで寝ている訳には。私にはやらなければならないことがあるのです……っ!」


痛みを無視して、その場で立ち上がろうとする。

そんな私に対して、鍛冶屋は慌てる様子もなく、静かに告げる。


“何が君をそんなに駆り立てているのか知らないが、仮に君の健康状態が良く元気に歩き回れていたとしても、どの道この鉱道から出て行くことは叶わないよ”


「な、何故ですか!」


“一昨日から外の雪の勢いが増してね。今では凄まじいまでの豪雪だ。吹雪なんて言葉では表現し切れないくらいの、大雪だよ。こんな天候で外に出れば、瞬く間に視界を雪に奪われて、遭難すること間違いないな”


「そ、そんな――っ」


それでは、騎士団のみんなは…。帝国に侵略されようとしているタルメニアの民達は…。


“とにかく、今は身体を休めることだ。何をするにしても、その身体では、満足に歩くこともできまい”


項垂れて、意気消沈の様子の私に対して、鍛冶屋は優しく声を掛けてくれた。


「すみません。助けていただいて、本当にありがとうございます。名乗るのが遅れましたが、私の名は、アナスタシア・ソードレスと言います。必ず、このご恩はいつかお返しします」


“ソードレス――?いや、まぁ、いい。君もそんなに気にすることはない。今はゆっくり眠っておくことだ。私は奥の広場で鍛冶の研究をしているから、何かあったら呼びなさい”


深い落ち着きのある彼の声を聞いていると、不思議と眠気を誘われて、実際に瞼が重くなってくるのを感じた。


歯車の一部品として、私はあの鳥籠の中で父様からも優しく扱われたことはなかったが、しかし、一般的にいう父親の優しさというのは、このようなものなのだろうか。


「はい…、ありがとうございます」


私はそんな想像をしながら、そっと目を閉じて、身体が望むままに意識を闇へと手放した。




それから、熱と痛みにうなされて、浅い眠りにしかつくことができず、断続的に目を覚まして苦痛に身を捩る私に対して、鍛冶屋は甲斐甲斐しく世話をしてくれた。


何故だか、彼は決して私の身体に触れようとはしなかったが。


私は、彼の世話になりながら、気恥ずかしい思いをするのと同時に、次第に騎士団のことや任務のことを忘れつつあった。


怪我で身動きができない。外では大雪が降っている。仲間と連絡が取れない。


言い訳だけなら様々に思い付く。ここで彼の世話になっていれば、私はあの鳥籠に戻らなくてもすむ。

だから、今だけは、私は“剣の巫女”たらんと気を付けなくても良いんだ。

同じ年頃の少女のように振る舞っても、許される筈だ。


そんなことを、熱に浮かされた頭でぼんやりと考えていたのだった。




“ほう。それではその闇色の獣に襲われた、と?”


「はい。伝説に唄われるだけあって、恐ろしい魔物でした。ひょっとしたら、まだこの近辺に潜んでいるかもしれません。周囲に気を付けた方が良いと思いますが」


彼が作ってくれた猪の肉を煮詰めて出汁を取ったというスープを飲みながら、私は大怪我を負って外で倒れていた経緯を彼に説明していた。


“ふむ。まぁ、案ずることはないだろう”


しかし、彼はベルギエールの存在を聞いても、焦ることなく鷹揚にそう答えた。


「そんな、奴は本当に恐ろしい力を持っていました。警戒するに越したことは――」


“落ち着きなさい。そんな魔物が本当に辺りをうろついているのであれば、私とてそれなりの対応をするが、大丈夫だ。周囲にそのような強大な魔物の気配は感じないよ”


「え…?」


興奮した私を落ち着かせるよう、鍛冶屋はとても静かに語りかける。


“私は魔力の波動を周囲に飛ばして、ソナーのように索敵するのが得意でね。周囲の生体反応を探ってみたが、この近辺に私の索敵にひっかかるような魔物は存在しなかったから、安心するといい”


「本当、ですか?」


“ああ、それに丁度君を見つける直前にだが、鉱山の近くの山肌で大規模な雪崩が起きてね。それを確かめに外に出て、倒れていた君をたまたま見つけたのだが、ともかく、その雪崩を起こしたのがその魔物かどうかは分からないが、ひょっとしたら雪崩に巻き込まれてそのまま山の下腹まで流れていったのかもしれないな”


「………雪崩」


あの魔物がそんな間抜けな真似をするとは思えなかったが、さりとて、目の前の鍛冶屋の言葉に嘘が含まれているとも思えなかったので、本当に、あの恐ろしい“三本角”はこの近辺にもう存在していないらしい。


奴との戦いは微量のトラウマを私の心に植え付けていたのか、私は鍛冶屋に気付かれないよう安堵から静かに嘆息をこぼした。


しかし、大きな雪崩が起きたと言うが、騎士団のみんなはそれに巻き込まれたのだろうか。

無事だと良いのだが。


アルバート卿や、あの少女が付いているし、それに私よりも遙かに経験豊かなユリアンが緊急時には騎士団を率いることになっているので、大丈夫だとは思うけれど。


“………それにしても、ベルギエール、か。ひょっとして、私を追ってきたのか?いや、まさか、な”


私がみんなの安否を案じて俯いて考え事をしていると、目の前の鍛冶屋が小さな声で何かを呟いた。


「何か言いましたか?」


“いや、大したことではない。君は仲間の安否よりも、まずは自分の身体を治すことを優先しなくては、な”


そう言って、私に猪肉のスープを飲むよう促してくるが。


「わ、分かっています。いますが、その…」


私は迷いながらお椀を口に付けようとし、けれどそのまま、まごつきながら彼を仰ぎ見た。


“何だ。猪肉は嫌いかね?”


「え、ええ。その、肉の臭みに独特の風味があると言いますか、どうしてもこの匂いが…」


“けれど、栄養は満点だ。我慢して食べなさい。わがままばっかり言っていては、ちゃんと大きくなれないぞ”


「いえ、私の成長期はもう終わっていると思いますけど…」


“そうだとしても、好き嫌いをするのは良くないな。栄養状態に偏りがあると、心身共に大きな影響を与えるのだ”


彼が聞き分けのない子供に言い聞かせるように語ってくる。


「ですが、この匂いだけは、やっぱり、ちょっと…」


ぼやきながら、けれども彼の口調にどこか嬉しさを覚えて私は微笑を浮かべた。


私をこんな風に年相応の子供扱いをしてくれる大人は、あの冷たい鳥籠の中には一人もいなかった。


誰もが、私を神殿騎士団を率いる聖なる乙女たる“剣の巫女”として扱い、かくあるように導き続けた。


それがいかに私の心から温もりを奪っていくかも知らずに。


だから、私にとって、鍛冶屋の対応は、とても心温まるものだったのだ。


それこそ、涙が出てくる程に。


“ど、どうした?傷が痛むのか?よし、身体を見せなさい。私が痛み止めの魔術をかけてあげよう”


笑いながら、両目の縁に涙を浮かべた私を見て、鍛冶屋は初めて狼狽した様子で声を発した。

その様子がどこか滑稽で、おかしくて、嬉しくて、私はさらに笑いながら涙を流した。


ああ。私が欲しかったのは、何でもない、こういうやり取りだ。


普通の家庭に生まれて、普通の親子がするであろう、普通のやり取り。

それこそが、私がずっと望んでいたものだった。


だから、私は――。


「ふふっ、うふふっ。あ、貴方もそんな風に焦った声を出すのですね。おかしいです」


泣きながら笑って、彼に話しかける。


“む、いや、私は女の涙に弱いのだ。それが、可憐な少女の涙ともなれば、どうすることもできん”


「うふふふっ、私の裸を見ても動じなかった癖に、変な人」


声を上げて笑うと、まだ治ってない私の身体は鈍い痛みを全身に広げたが、痛みに伴う熱が全身を駆けめぐる感触を、私はどうしてだか、不思議と心地良く感じていた。


初めて、冷えた私の身体が熱を持ったかのように。




それからさらに一日が過ぎ、彼が煎じてくれた薬の効き目が素晴らしいのか、彼の回復魔術の腕が素晴らしいのか、生死を彷徨う程の大怪我を負っていた筈の私も、どうにか床から起き上がり、歩き回れる程度には回復していた。


けれども、外の天候は回復することはなく、勢いは少し弱まりつつあるものの、未だに全てを覆い隠すかのような吹雪が続いていた。


騎士団の仲間を探して、鉱道の外に出ることも叶わない。


しかし私は、心のどこかで、このまま雪が止まなければいいのに、とも考えるようになっていた。


かつての私なら考えも付かないことだが。


雪が止まなければ、私はこのまま、この暖かい場所で――。




「何をしてらっしゃるんですか?」


その日、ようやく歩き回れるようになったものの、まだ激しい動作をする程には回復しておらず、さりとて、鉱道の外に出ることも叶わなかったので、暇を持て余した私は鉱道の広場にて鍛冶の研究をしているという彼に声をかけた。


“うむ。龍の鱗と緑柱石とを混ぜ合わせて、武具を錬成しているのだ”


「錬成?」


目の見えない私には、彼が広場で何をしているのか分からなかったが、彼の手元から鋼を強く弾いた時に鳴り響く乾いた金属音が、メロディを奏でるように連続して聞こえてきた。


それと共に、とても繊細にコントロールされた魔力が渦を巻きながら、彼の手元にある鋼を細く細く研ぎ澄ませいく様子が感じ取れる。


“ああ。私は鍛冶屋と言いつつ、普通の鍛冶をすることのできない身でね。こうして火力の代わりに魔力を練り合わせて鉱石を錬磨していくのだよ”


止むことなく、彼の声に合わせて美しい金属音が広間一杯に反響しながら鳴り響く。


「とても、綺麗な音…。何を作っているのですか?」


“ああ、剣だよ”


事もなく彼は答えるが。


「………剣」


私は勝手ながらも、何故だか、心の内でどこかしらに僅かな失望を感じていた。


この心優しい鍛冶屋に、私は人を殺すであろう武具を作っていて欲しくなかったのかもしれない。

硬質で暖かみを感じさせない鋭い刃は、私にあの冷たい鳥籠を思い出させるから。

剣の巫女。


私は、世界中の刃の象徴だ。


“そんなに悲しそうな顔をするな。この細剣は、普通の剣とは少し違う武具でね”


沈んだ様子の私の顔を見たのか、彼は気遣うような声色で私に続きを語った。


「どう、違うのですか?」


“さて、実際に触ってごらん”


彼は鉱石に送り込んでいた魔力の渦を止め、あの美しく鳴り響いていた金属音の楽曲を中断して、私に促した。


「よろしい、のでしょうか?」


“ああ。少し熱を持っているから、火傷しないように気を付けて”


「は、はい」


彼の声に導かれるまま、彼の手元に置かれている造りかけの剣へと私は手を掛けた。


生きているように、とても暖かい。

そして、これは――。


「そんな。これでは、刃が…!」


剣の刃に触れた瞬間、彼が言っていたことの意味に気付いて私は驚きの声を上げた。

そんな私の様子を見て、満足そうに彼が頭上から話しかける。


“そう。とても人が斬れるとは思えないくらいに、薄いだろう?恐らく、書物の紙一枚よりも細い筈だ”


自慢げな彼の言葉の通り、その剣の刃は私の力でも折り曲げれば簡単に折れてしまいそうなくらいに、薄く研ぎ澄まされていた。


“ここまで来るのに長い時間を費やしたがね。普通の鋼を用いて作れば、恐らく形を成すまでもなく折れてしまうだろうが、そこを世界一堅いと言われる龍の鱗を使うことによって実現させたのだよ”


「龍の、鱗」


この世に存在するあらゆる物質よりも堅いと言われる、龍の鱗。


“君の目が見えないのが非常に残念だな。極限まで薄くすることに成功したこの剣の刃は、混ぜ合わせた緑柱石の美しい緑色を透かして映して、反対側の景色を淡く緑色に彩りながら表すほどに、研ぎ澄まされているのだ。その美しさは、きっと王都の好事家全てを唸らせるだろうと、自画自賛ながらも自負しているのだがね”


彼の言葉を聞きながら、私はその極薄の刃に指を滑らせる。


とても滑らかな肌触りに、人の体温ほどの暖かみを感じる。


「でも、これでは、とてもじゃないですけど、実用に耐えないのでは?」


“その通り。この細剣は、世界一役に立たない剣なのだ。それでいて、世界一美しく、世界一安全な剣だ”


私の指摘に対し、彼は何故だがやはり嬉しそうな声色で語り続ける。よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに。


“けれども、それは並の使い手が使った場合、だがね”


「と言いますと?」


“並の使い手が使えば、相手に斬りかかった瞬間、この剣は何らの手応えを感じさせる間もなく簡単に折れてしまうだろう。けれど、もし、相手の動きを全て把握出来るほど機を読むことに長じた使い手で、針の穴ほどの相手の肉の隙間に無理なく剣を滑り込ませる事が出来るほどの剣速の持ち主でもあり、この剣を人殺しのためではなく、誰かを守るために使うことができる人物であれば、この美しい刀身を折ることなく使いこなすことできるだろう”


彼はそう言って、何故だか私を静かに見つめているような気がした。

私は答えることができず、ただただ彼が世界一美しいと言った刀身に指を這わせ続けた。


“そうなれば、この剣に斬れない物は、この世に存在しない。触れただけで折れる程の薄さ、ということは逆に言えば、あらゆる物質に干渉することなく、この剣はその刃をその内部へと通すことができるのだ”


「私は――」


“別に君がそれほどの使い手である、などと期待はしていないがね。けれども、私はそのような使い手が現れてくれることを信じてこの剣を造っているのだ。まだ、未完成だが”


彼の言葉を聞きながら、けれども、私は彼の期待に応えたくなっていた。

この剣をこの場で振ってみたくなっていた。


否。この剣でなくても良い。例えどんな剣であっても。


私は、“剣の巫女”。剣を振るうためだけに生きてきて、剣を振るうことこそが私の生きる意味。剣は私の身体の一部。


「何か、剣を貸して頂けないでしょうか。いえ、この剣でなくても良いのです。何でも良い。今は、無性に剣を振ってみたくなったのです」


私の提案に対し、鍛冶屋は思案するように一瞬間を置いたが。


“ふむ。まだ激しい動きが出来るほどには回復していないだろうが、しかし、リハビリには良いかもしれないな。いいだろう。この鉱道には私が暇つぶしで造った試作品が山のようにある。好きなのを貸してあげよう”


「ありがとうございます」


彼の了承を得て、私は借りた剣を手に持ち、そのまま何もない空間へと向けて無心で剣を振り始めた。


上段から、中段、下段、そのまま突き。


流れるように。止まることなく。舞うように。踊るように。


子供の頃、目の見えぬ私をせめて使い物になるようにと、厳しく鍛え上げた師父達の言葉を思い出す。


相手の攻撃を待ち、考えてから行動を起こしているようでは下の下。

考えなくても、身体がかくあるべしと自然に動くようになって、ようやく一人前になるのだ、と。


今私は、何も考えることなく身体の感じるままに剣を振っていた。


今の私は、あの頃の師父達が認めるような一人前となれただろうか。


冷たい鳥籠に飼われ、そこから抜け出すことを夢想するような夢見がちな少女を、彼らは認めてくれるだろうか。


そんな私の懸念をよそに。


“素晴らしいじゃないか、アナスタシア。そこまで美しく剣を振るうことのできる人物に、私は初めて会ったよ”


目の前の名も無き鍛冶屋は、本当に嬉しそうに私を褒めてくれるのだった。

嘘偽りもなく。心からの敬意を込めて。


それが嬉しくて。恥ずかしくて。


「い、いえ。私などは、まだまだです」


赤くなった顔を見られたくなくて、そっぽを向きながら早口で私は答えるのだった。


“謙遜することはない。まるで剣の精のようだった。本調子ではないだろうに、大したものだ”


「そ、そんな…。盲目の私にとって、誇れるものはこれくらいしかなくて、幼い頃から剣ばかり振っていましたので、そんな大層なものではないのです」


“ふむ?そうやって恥ずかしがって顔を真っ赤にしていると、とてもチャーミングだな、君は”


「そっ、そんな――っ」


彼の世辞に耐えられなくなって、私はわたわたと手に持っていた剣を身体の前で振り回す。

普段信徒から言われ慣れている筈の私の容姿に対する世辞であっても、彼が口に出すと、何故だが血が逆流するかのような恥ずかしさを覚えるのだった。


「そ、そんなことより、貴方はどうしてこんな場所で鍛冶屋などをしているのですか?」


話題を変えるべく、私は彼の身の上話を聞いたことがないなと思い、そんなことを尋ねていた。


“私かね?そうだな、目の見えない君にならば、感じ取れるかもしれないな”


「?」


彼の言葉に、疑問を顔に浮かべると、彼はこちらに近づき、私にそっと話しかける。


“今、この鉱道の広場に明かりは灯っていると思うかね?”


「それは――私には分かりません」


目の見えない私には。


“そうだろうな。それこそが、目の見える者の限界なのだよ。彼らは光が見えるから、光から全ての情報を得ようとする。目に映る物だけが全てだと信じてね。しかし、君は違う。違うはずだ”


彼の静かな声を聞きながら、私は辺りに耳を澄ませる。

いつもそうやって、世界の輪郭を掴んできたように。


“目に見えなくとも、この世に存在する全ての鉱石は、私達に語りかけてくれているのだ。色んな表情を見せながらね。私は君のように目が見えない訳ではない。しかし、こうして深い鉱道の奥で光を消して、岩々に囲まれながら静かに佇んでいると、彼らの声が聞こえる気がするのだ”


私も心落ち着かせて、呼吸を整え、辺りの空気に、それを越えて、土を通り抜け、その中で息づいている筈の鉱石達の存在に思いを致す。


“その時の彼らの声はとても色取り取りで、表情豊かで、それが私は好きなのだよ。そんな彼らを掘り出して、自らの手によって様々な姿へと形を変えていく。ただそれだけが、たったそれだけのことが、私は好きなのだ。昔から、遠い遠い昔から、ね”


どこか遠くで水滴が地面に落ちる音が聞こえる。空気の流れる音。土の中を水が流れる音。そんな中で、深い深い土の中から響くとても小さな乾いた金属音が、私にも聞こえた気がした。


その音はどこか寂しげな音色で、それでいて、辺りに余韻を響かせながらまるで誰かが応えてくれるのを待っているかのようであった。


だから。


「私も、私にも、聞こえる気がします。いえ、私にも聞こえました、石の声が!」


私は嬉しくなって、興奮した様子で鍛冶屋に話しかけた。

まるで何も知らない幼い少女のように、その場で跳びはねながら。


“そうか。君にも聞こえた、ということは、今まで私にも聞こえていた石の声は、別段私の寂しい心が産んだ幻聴ということでもないらしいな”


笑いながら、彼はそんな冗談を言う。


「もうっ。私は本気で言っているのです!確かに私にも聞こえたんですから」


“はっはっは。分かっているさ。別に君を疑っている訳ではないよ。君にも石の声が聞こえたのなら、彼ら(、、)の悠久の孤独も少しは癒えるといいが”


そう言って、彼が巨大なその体躯を起き上がらせる気配を感じ取った。


“さて、夕飯にしよう。この雪ではいつ食料が尽きてしまうか分からないから、質素なものしか出せなくて申し訳ないがね”


「いえっ、そんなことはありません。私、こんな風に誰かとお喋りをしながら夕餉を食べるのは、初めてなんです」


“そうかね。しかし、まぁ、みんなと笑いながら食べた方がご飯の味も美味しく感じられるだろう?マナーは悪いかも知れないが、私にとっては味の善し悪しの方が大事だ”


「それで、今日のお夕飯は何ですか?」


私は彼の言葉に嬉しくなって、笑いながら尋ねる。


“君には悪いが猪肉のシチュー、いや、冗談だ。そんな恨めしそうな顔をして睨まないでくれ。可愛い顔が台無しだぞ”


「そんなことを言っても駄目です!」


栄養を付ける、という名目で私は寝込んでいる間猪肉ばっかりを食べさせられたお陰で、すっかり猪肉が嫌いになってしまい、あの匂いを嗅いだだけでも駄目になってしまっていた。


けれども、何故だが私にはそれが少し楽しかった。

誰かと、嫌いな食べ物の話をするなんて。夢にも思っていなかった。


“さて、それじゃあ、鹿の肉、というのもあるのだがね。干したやつだが”


「うーん。その、申し訳ないのですけれど、獣の肉、という発想から離れることは…」


“ふむ。だったら、虫の丸焼きというのもあるぞ。ここらの地面を掘れば、たまに芋虫が捕れるからな”


意地悪そうに彼が笑いながら言うが。


「ぜ、絶対に嫌です!何と言われようとも、そんな物を私は食べませんからね!」


想像しただけで、鳥肌が立ちそうだった。


“はっはっは。悪い悪い。君を見ていると、家に残してきた娘のことを思い出してしまってね。ついついからかってしまうのだ”


「えっ――。ご息女が、いらっしゃるの、ですか」


彼の言葉を聞いて、何故だが私の心臓は大きく一つ脈を打った。そのまま、脈動は止まることなく私の心を急かし立てる。


“ああ。君と同じ青い髪をした娘でね。だからかな、君の怒った顔が娘の怒った顔と重なるような気がしたのだ”


彼の声色に、ここにはいない誰かを思い浮かべた様子が混じる。

それがどうしてか、私の胸を切なく痛めた。


「ご結婚、されていたのですか」


私は声の震えを誤魔化すように、低い小さな声で彼に問いかける。


けれど。


“結婚?はっはっはっは。面白いことを言うお嬢さんだな、君は。一体私を何だと思っているのだね?残念ながら、と言っていいのかどうか分からないが、結婚をしたことなど生涯ただ一度たりともないよ”


私の呟きを聞いて、鍛冶屋は声を大きく呵々大笑した。

彼の笑い声を聞きながら、自分でもおかしな質問をしたと思い、耳まで真っ赤になっていくのを感じる。


彼があまりにも人間くさい様子で私に接してくるものだから、彼が人外の存在であることを、つい忘れてしまっていたのだ。


私が目が見えず、彼の姿を見ることが出来ないことも、その理由の一つに挙げることができるだろう。


「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃありませんか。つい、聞いてみただけです」


“いや、失敬。だが、私が結婚、ねぇ。っくっくっく”


そのまま声を殺して笑い続ける彼の声には、どこか、遠い昔を思い返しているようでもあった。


遠い昔にあった愉快な出来事を思い返して、それでつい笑っているような。


けれど、こんなに笑われて、私にとって不愉快なことであることには間違いなかった。


「もうっ。知りませんっ!」


だから、私はつい彼に怒鳴り声を浴びせて、そのまま大股で広場を出て行くのだった。


私の後ろからは、それでも止むことなく彼の笑い声が聞こえ続けていた。




雪で閉ざされた暖かい鉱道で過ごす時間は、まるで外界から切り離されて悠久に続いているかのように感じられた。


私は、鉱道で一日を過ごす間、あの冷たい鳥籠の中では決してさせてもらえなかった様々な物事を体験した。


火を起こし、食材を切り刻んで、料理を作る手伝いもした。


そこで分かったことは、私が自分が思っていたよりも遙かに不器用だということだった。

けれど、指を何度も傷付けながら作ったシチューを、彼は美味しいと言って褒めてくれた。

そんな時、私は彼に頭を撫でて欲しいとさえ思った。まるで童女のように。


彼が武具を錬成している間、ずっと傍で彼が奏でる美しい金属音のメロディを静かに聴いていたりもした。


そんな時には、彼は私に何も話しかけず、また、私も彼に話しかけることなく、ずっと二人で無言のまま広場に座っていた。

そんな私達について、土の奥深くに埋め込まれた鉱石達が、噂話をしているような気が私にはするのだった。

だから、不思議と寂しくなく、それどころか賑やかな楽団が奏でられているような気さえしたのだった。


岩肌を掘って、鉱石を掘る手伝いもした。


私達だけに聞こえる石の声を頼りに、彼が趣味で造ったというやけに重たいマトックを使って、土を掘り進めるのは思っていたよりも重労働で、彼は私の傷が開いたりしないかを終始心配していて、それがやけにおかしかった。


汗に濡れた身体を洗い、傷の治りにもいいからと、鉱道奥深くに湧き出る天然の温泉に入ったりもした。


当然、私が湯に浸かっている間、決してこちらに近づかないように言いくるめてはいたけれど、彼はそれを忠実に守って、私が入浴していることに全く興味のない素振りをしていたことが、何故だか私には少し悔しく感じられたりもした。


そして、夜には外から響く風の音で寝付けない私のために、彼は子守歌を唄ってもくれた。


あんなに聞き惚れるような良いバリトンの声をしている癖に、彼の歌は何度も音程が外れ、リズムも全く合っていなかったが、それでも、彼がとても楽しそうに唄うものだから、それが私にはとても心地よかった。


そんなことが、私には身が震えるほどに嬉しくて。嬉しくて。


まるで、産まれてからずっとこの鉱道の中で彼と暮らしてきたかのように感じられて。


その時間が終わってしまうことを自分が死んでしまうことよりも深く恐れて。


それで、私は眠りに就く前に、欠かさず行っていた天上神への祈りに、初めて形だけではなくて心を込めて祈ったのだった。


どうか、私からこの暖かい日溜まりを奪わないでください。どうか、雪が止むこともなく、いつまでも私を彼と共にこの鉱道に居させてください。


どうか。お願いします。神様。


それが、決して叶わない願いであることを、私は知っていた筈だったのに。
それでも、願わずにはいられなかった。


私は。アナスタシア・ソードレスは、あの日、あの雪の中で、闇色の獣に襲われて、死んだのだ。


ここにいる私はもう、神殿騎士団の団長でも、剣の巫女ですらない。

そんな役割を、薄く氷で固められた書き割りの中で、演じ続けなくても良いんだ。


だから。神様。お願いです。どうか――。





※※※※





私があの鉱道の中で、彼と共に過ごした日数は、僅か三日間だった。

けれども、その三日間は、私がこれから過ごすであろう何十年もの人生と匹敵するだけの価値があったと私は思う。


終わりは唐突にやって来て、淡い日溜まりの中で見る夢はいつしか覚めるものだ。


四日目の朝に、全てを覆い隠すような雪は止み、久しぶりに空に太陽が見えたのだった。




“うむ、今日は良い天気だ。雲一つない青空が広がっていて、積もりに積もった雪が陽の光を照り返し、辺り一面光り輝いているかのようだな”


鉱道の入り口から外の景色を眺めながら、彼はそう呟いた。


私は彼の言葉を聞きながら、俯いて黙ったままだった。

盲目の私には、彼の言う景色を見ることはできない。雲一つないという、素晴らしい青空さえも。


“私も長いこと生きてきたが、あれほどまでに降り続けた大雪は初めてかもしれないな。後世に残る程だった”


そんな私の様子に気付いていないのか、それとも気付いてはいるものの敢えて気にしていないのか、彼はさらに言葉を続ける。


“しかし、稀に見る大雪だったからこそ、こうして晴れた時の爽快感は格別だな。君もそう思わないかね?”


「私は――」


私は、ここに来てから、以前よりも遙かに弱くなってしまった。

あれほど望んでいた筈の人の温もりが、私が纏っていた冷たい氷の鎧を全て溶かしてしまって、私の心を触れれば砕けてしまう程に弱くしてしまったのだ。


だから。最初は大雪が降っていようと外に飛び出してまで仲間達を探しに行きたかったのに。

それなのに。


「私は――、雪が止んで欲しくはなかった。晴れて欲しくなど、ありませんでした」


ぽつりと、下を向いたまま、私は吐き出すかのように呟く。


“しかし、君には、君の帰りを待っている仲間達がいるのではないか?安否を憂慮していた仲間達がいるのだろう?”


「いえ。いいえ。きっと、誰も、私の帰りなど、待ってはいないと思います」


私の脳裏に浮かぶのは、年若く何の経験もない少女である私に対して、敬語を使って勝手に崇め立てる周囲の大人達。“剣の巫女”として私を見つめて、都合の良い人形であるように私を操り続ける周囲の人間達の群れだ。


誰も。私を神殿騎士団団長ではなく。ただ一人のアナスタシア・ソードレスとして扱ってくれた者はいなかった。


私は、あの場所でたった一人だった。孤独だった。孤独の寒さに耐えきれず、いつしか自分を偽ることも忘れて、希望も持たず、意志すらも丁寧に閉じこめて、ただただ彼らが望むがままの聖少女として生きてきた。


だから。


「私でなくたって、別にいいんです。代わりなら、きっと他にいますから。あそこに私の居場所など、なかった。私が私である必要などなかったんです」


神殿騎士団の団長なら、下らない伝統なんかに囚われず、ユリアンが務めればいい。

彼なら、私よりも遙かに多くの経験を積んできた筈の彼ならば、私よりももっと立派に団長の勤めを果たしてくれる筈だ。


「だから、私は、私は、この場所で――」


手を握り締め、震える声を誤魔化そうともせず。


“ずっとこの場所にいたいと?しかし、それで君はどうするんだ。どうやって生活するつもりだね?”


「貴方の手伝いでも、何だってします。出来ないことでも、これからきっと覚えます。もう、冷たい剣を握って、人と戦い続けるのは嫌なんです。もう、嫌です」


“そう言うが、私とて、いつまでもこの場所に居る訳にはいかない。いつか、近い内に家に帰られなければ”


駄々をこねる私に対し、彼は幼い聞き分けのない子供に言い聞かすように、優しく諭すように語りかける。


だけど、だけど――!


「だったら、だったら私も連れて行ってくださいっ!あの冷たい鳥籠の中じゃなければ、どこだっていい。陽の暖かさが感じられる空にでも、私を連れて行って!」


私は、傍に居るはずの彼に対して、叫びかける。


そして、決して触れさせようとしなかった彼の身体に、私はそのまま寄り添うように手を回した。


初めて触れた彼の身体は、予想に反してとても硬質で、ゴツゴツとしていて、けれど、予想通りにとても暖かく、堅い皮膚の下から彼の鼓動が感じられるようだった。


「お、お願いです。私をここから連れて行ってください」


泣きながら、彼に懇願する。目の見えない私には、彼が今どのような表情をしているのか分からない。だから、彼に想いが届くように、私は彼の心へと向けて言葉を発し続ける。


「貴方は笑うかもしれません。けれど、けれど私は、私は貴方をお慕いしております」


たった三日間一緒に過ごしただけで、私が彼の何を知っているのだろう。

彼が私の何を知っただろうか。

勘違いかもしれない。初めて優しくされて、舞い上がっているだけかもしれない。

そうだとしても、そうだったしても、それでも確かに、私は彼のことを好いていた。

どうしようもなく、彼との別れを考えるだけで胸が張り裂けそうになるほどに!


「本当です。嘘じゃありません。貴方が、貴方が好きです。貴方が私のことをただの面倒な小娘だと思っていたとしても、それでも私は、貴方のことが好きです。だから」


だから――。


「どうか、お願いします。私も一緒に連れて行ってください!」


私の人生初の愛の告白に、彼は暫くの間黙ったまま、彼の身体に添えた私の手を除けるでもなく、身動ぎもせず佇んでいた。


雪が止んだ世界は、何一つ物音がせず、まるで世界で私達二人だけになったかのようだった。


耳が痛くなるほどの、無音。


そんな静かな世界の中で、私はこのまま時が止まればいいと願っていた。

彼の身体に手を回したまま。雪に埋もれて。永遠に。


“―――それが、君の本当の望みであれば、私は君をこの青い青い空へと連れ去って行こう。だけど、君は本当にそんなことを望んでいるのかね?”


永遠と同じくらい長い時間が過ぎた後、彼はそう私に告げた。あの静かな深いバリトンの声で。


「本当ですっ。嘘じゃありません。もう、あの場所には帰りたくないんです!」


私は彼の言葉に反発して、声を荒げて言い募る。彼の硬質な肌に手を這わせながら。


“では、どうして彼らは君のことをあんなに必死に探しているのだね?”


「えっ?」


“聞いてごらん”


彼は私の身体に顔を近づけ、私の耳にそっと息を吹きかける。


それだけで、私の聴覚が何倍にも押し伸ばされたかのように広大な世界へと風に乗って広がっていって。



――アナスタシア様ーっ!ご無事ですかーっ!どうかご返事をーっ!


――駄目です、この近辺には反応がありません。


――お願いします、神様。どうかアナスタシア様を。


――もっと遠くまで捜索範囲を広げろ!何としてもアナスタシア様を見つけ出すんだ!


――きっと、生きている筈だ。死なせるものか。



どこか遠い遠い場所で、部下達が私の安否を憂慮して私を捜す声が聞こえてきた。


「み、みんな…」


その中には、もちろん私の副官のユリアンの声も含まれていた。


無事だったんだ。良かった。

だけど、みんな――。


“君は自分のことを待っている人間などいないと言ったが、君のことを必死になって探す彼らの気持ちは本物ではないのかね?”


「みんな、どうして、私を――」


ああ、そうだ。

私は口元を抑えて、嗚咽を漏らさないように歯を噛みしめた。


“君だって、本当は分かっているのだろう?君はどこか遠くに連れて行って欲しいと願ったが、逃げ出した先に君が求める安らぎや、暖かみは存在しないよ。逃げ出した先でも、君は君を取り囲む全てから逃げ続けることになるだけだ”


そうだ。私は本当は分かっていた。

私は周囲の大人達が嫌いだった。私に対して人形であり続けるように望み続ける大人達。

彼らは私を人間として扱おうとはせず、巨大なシステムの歯車の一部として扱い続けた。

いや。扱い続けたと思い込みたかっただけだ。


本当は、彼らを人間として扱っていなかったのは私の方だ。


誰も私のことなど分かってくれないと勝手に決めつけて、彼らに心を開かず、自ら彼らが望む人形であり続けようと感情を押し殺し。


“水晶宮”に幽閉された妹や、ユリアン、それに私の大勢の部下達。

彼らが一言でも、私に対して神殿騎士団の団長であるように私に望んだだろうか?


彼らが私にそう望んでいるだろうと勝手に考えて、そのように振る舞っていただけに過ぎない。


私は傲慢で、独りよがりで、孤独な振りをした、ただの寂しがり屋だった。


“君はただ、そっと身を休める場所が欲しかっただけだろう?だったら大丈夫。もう十分に休んだ筈だ。君なら、また歩き出せるさ。無理に空へと飛び立たなくとも”


彼が優しく声を掛ける。その優しさが私の胸を裂くように痛める。


だけど。彼の言う通りに。その痛みさえも。


「………貴方の言う通り、私は、また歩き出さなければいけないのですね。例え一人でも」


“一人ではないだろう?”


「ええ。共に歩く仲間がいるのなら、私は、また歩き出せる気がします」


でも。


「貴方が好きだと言った気持ちに、嘘はなかったんですよ。私は、本当に」


貴方のことが。


たった三日間だったとしても。それだけで、もう十分。

私は、十分に、心を温めもらった。


“そうか。ならば、もし、君が今後の人生において君自身の道を歩き続けて、立ち止まることなく、君のすべき事をやり遂げたのなら”


「その時には、貴方を呼びます。だから、その時には私を」


“ああ。その時には、誰に気兼ねすることもなく、君を青空へと攫いに行こう!”


彼が天上神にも聞こえるような大声で、空へ向けて叫ぶ。


私はそれがとても嬉しくて。涙を拭って。彼の身体にそっと口づけをして。


「約束ですよ?」


彼が叫んだ同じ空の下、彼に向かって微笑む。

そして、彼の身体からそっと手の平を離す。


彼の体温をもう感じることはできないけれど、彼がくれた温もりがまだ手の中に残っている。

だから、もう大丈夫。


“ああ。約束だ”


そう力強く告げた後、彼は私に向けて何かを差し出す。


“誓いの証として、これを君にあげよう”


「これは――」


私はそれを手に取り、そっと握り締めた。

とても細く、力を入れれば簡単に折れてしまいそうなほどに軽い、一本の剣。

彼が鉱道で私に見せてくれた、世界で一番美しい、あの剣だった。


“龍の鱗と緑柱石を混ぜ合わせて錬成した、龍鱗の細剣。銘はクライングエメラルド”


彼の言葉に合わせて、私の腕の中の剣が脈動するかのように一瞬熱を持った気がした。


“その剣には、私の魔力を込めておいた。その剣を持っている限り、君がどこにいても私には居場所が分かる。だから、疲れた時には、いつでも私を呼ぶと良い。いつだって、君のために駆けつけよう”


「その時には、また、あの子守歌を唄ってくださいね」


“ああ、いくらでも唄ってあげるさ”


彼はそう言って、楽しそうに笑った。

私も、同じように微笑む。


でも、私は、この剣を使って彼を呼ぶことはないだろうと思っていた。

もう十分、私は彼の腕の中で休ませてもらったから。


だから、もし、私が彼を呼ぶことがあるとすれば。

それはきっと。


「別れの際に、こんなことを言うのは何だか気恥ずかしいのですけれど、だけどやっぱり、言葉にして伝えておきます」


私は胸の痛みを抑えるかのように、彼から授かった龍鱗の細剣を胸に掻き抱いて、彼へと告げる。


「私は、貴方を愛しています。きっと、これからもずっと」


“ふ、ふ、ふ。そうか。ならば、今度また会う時まで、君の気持ちが変わっていないか楽しみだな”


私の愛の告白に対し、彼はからかうような口調で笑いながら言う。


「きっと、変わっていませんよ。賭けますか?」


“いや、止めておこう。一度心に決めたら執念深い女を一人知っていたのでね。君もそのタイプかもしれん”


「まぁ。ひどい言いぐさですね」


私は笑い、彼に気付かれないようにそっと、最後に一筋だけ涙を流して。


そして。


「それでは、またいつか会いましょう!」


元気よく、彼が褒めた素晴らしい青空の下で、別れを告げた。


“ああ。またいつか会おう”


彼の別れの言葉を噛みしめて、そして私は歩き出す。


私のことを必死になって探してくれているであろう仲間達のもとへ。


決して振り返ることなく。


彼からもらった温もりを胸に抱きながら。


彼の言う通り、私はこれからも歩いて行ける筈だ。

立ち止まることなく。あの冷たい鳥籠の中であっても。

仲間達と共に。


だって、いつかきっと、また彼に会うことができるから!


その時を楽しみにして、私は生きていくのだ。


これからも、ずっと。





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王国歴904年




「そ、それで。それからどうなったですか?お祖母様はその鍛冶屋さんと再会できたですか!?」


私の長い長い昔話を聞き終わり、フラウは鼻息も荒く急かす仕草で私に話しかけてきます。


けれど。


「ふぅっ。長いこと話していたので、疲れてしまいましたね。少し休ませてください」


「むー、続きが気になるですけど、仕方ないです」


「うふふっ、ありがとう、フラウ」


フラウに微笑みかけながら、私は嘆息して深く椅子にもたれ掛かかりました。


そのまま目を瞑りながら、あの日から起きた様々な出来事を思い返します。

あれから何十年もの時が過ぎ去りましたが、本当に色んな出来事がありました。


あの後。私が雪で鉱道の中に足止めされている間、大雪はタルメニアの首都でも猛威を振るったらしく、進軍を中止せざるを得なかったのは帝国軍も同じだったのです。


お陰で、鉱道を出てユリアン達と合流した私は、そのままタルメニアへと向けて雪道を出発し、何とか帝国とタルメニアとの首都決戦までには間に合ったのでした。


そして、タルメニアが帝国の傘下に加わることを防ぐことができたのですけれど、そのタルメニアが今ではトレンディアの属国になっているというのも、皮肉な話です。


そうそう。あの闇の獣については、私が落雷によって吹き飛ばされた後、怒ったルールールーさんが魔術で雪崩を起こして、何とか逃げることができたそうです。

アルバート卿は、とんでもないことを予告もなくする奴だ、って怒っていましたけれど。


雪崩に巻き込まれた闇の獣が、その後どこに行ったのかは分かりませんでした。

誰かに討伐されたという話もその後聞きませんでしたから、今でもどこかの山奥で強敵を求めて徘徊しているのかもしれません。


帝国とタルメニアとの戦争が終結して。

目まぐるしくも忙しい日々を法王府で過ごして。時にはあの方との思い出を思い返しながら。


私がいつしか少女ではなくなり、名実共に神殿騎士団の団長として認められるようになった頃に、妹が子供を産み、出産に耐えきれずに死んでしまったのも、私にとって大きな事件でした。


産まれてきた子が、私達と同じく呪わしきソードレス家の双子だったことも。


そして、双子を自分の子供として引き取り、母親として彼女らを育ててきたそれからの長い年月は、私にとって新たな戦いの日々となりました。


トレンディアとノッドラートが大戦を起こし、その終結に大きく関与したことも、もう十年近くも前のことなのに、私の記憶には新しいままです。


あんなに苦手だったルールールーさんとも友達になって、私の孫の家庭教師を頼むようになるとは、あの頃の私には想像も付かなかったことでしょう。


法王府が何十年もかけて追い続けて、それでも捕縛することができなかった“銀喰い”が、つい昨年、十十字軍の第三軍の女性騎士によって捕まえられたというニュースも、私を大いに驚かせたりもしました。


本当に。本当に様々な出来事があれから起きたのでした。


けれども。私はあれから一度たりとも、あの方を呼ぶことはありませんでした。


あの時の思い出は、私の胸の中で、色褪せることなく輝いているままです。


その輝かしい思い出を抱いて、私はそれからの長い年月を戦い続けて来ました。


戦って。戦って。戦い続け、歩き続け。


私の子供達が大きく成長し、また子供を産み。多くの孫ができて。


いつしか、“聖騎士”などと呼ばれるようになり。


それでも、足を止めることなく。


私は歩き続けて来たのです。


だからかもしれません。さすがの私も、少し疲れてしまったようです。


あの時、あの恐ろしい魔物、“三本角”ベルギエールが放った落雷をこの身に受けた時と同じような、暖かい泥の中に沈み込む感覚を再び私は感じていました。


あぁ。


それがどこか心地よく。


まるで、あの頃の私に戻ったかのように感じるのです。


「お祖母様?眠ってしまったですか?」


フラウが傍で気遣うように声をかけてくれますが、大丈夫ですよ。フラウ。

私はちゃんと起きています。そして、今、とても良い気分なのです。


「お祖母様?お祖母様っ!」


フラウが私の顔を覗き込む気配を感じ、それからとても焦った様子で声を荒げます。

けれど、そんな風に大声を出さなくても、ちゃんと聞こえていますよ。


「お、お祖母様っ!しっかりするですっ!だ、誰か!お祖母様がっ!」


泣きそうな声で叫びながら、フラウが誰かを呼びにテラスから走り去っていきました。


やれやれ。あの子は、いつまで経っても慌てん坊で、困ったものです。

もう少し、落ち着きというものを身につけてくれたら助かるのですけれど。


私は、フラウが去って、たった一人残されたテラスで風を浴びながら、耳を澄ませていました。


とても気分が良く、こんなに安らかな気持ちになったのはいつ以来でしょうか。


だから。だから、私は、遠く山の風に混じって、何か巨大な生物が羽ばたく音を聞き取ったのです。

その羽ばたく音が次第に大きくなり、こちらへと近づいて来るに連れて、私の心臓の鼓動が大きく鳴り始めました。


ある種の予感と共に。


その生き物が纏う空気に、私は覚えがありました。


それと同時に、私の膝の上に乗ってあった龍鱗の細剣が、脈動するかのように熱を持ったのを感じました。


羽ばたく風が私の髪を揺らし。剣が放つ熱をこの身に受けつつ、私が上空を眺めた時。


“やあ、アナスタシア。約束通り、君を攫いに来たよ”


いつも夢で聞く、あの子守歌と同じ深いバリトンが。

風の音に混じって。私の耳朶を打つのです。


あぁ。あぁ、この声は。


“随分遅くなってしまったが、君こそちゃんと私のことを覚えていてくれたかね?”


もちろん、もちろんです!貴方のことを忘れたことなど、片時もありませんでした。


“そうか。やっぱり、あの時賭けをしなくて良かったようだ”


だから言ったじゃありませんか。私はずっと、貴方のことを愛している、と。


“やれやれ。君も大概執念深い女らしいな”


彼が困ったように、けれども笑いながら私に話しかけてくれます。

それだけで、私はこれまでの人生全てが報われるような気がするのです。


けれど。あぁ。貴方が迎えに来るのが遅すぎて、私はすっかりお婆ちゃんになってしまいました。


彼とあの鉱道で出会った日から、もう何十年もの時が流れていました。


目が見えなくとも、私の身体が醜く衰えてしまったことが私にも分かります。


“ふ、ふ、ふ。何を言っているんだ?君は今でも美しいままだ”


彼はそう言って、私に向けて、そっと熱い息を吹きかけました。


それだけで、まるで私の全身が燃えるように熱を帯びたのが分かりました。


“さあ、ごらん。目を開けて、自分の姿を見てみるんだ”


彼の言葉に従い、私はゆっくりと閉じていた目を開けます。


すると。


あぁ。あぁ!見える!私にも世界が見えます!


何ということでしょう。光を灯す筈のない私の目が、世界を映し出していたのです。


木々の緑。太陽の光。雲の白。そして、ずっと、ずっと見たいと願っていた、空の青!


これが世界!


その青の中で、悠々自適に翼をはためかせながら、宙に浮いている彼の威容を私の目が捉えました。


“私の姿を見て、幻滅したかね?”


そう言って微笑む彼の姿は、全身白い鱗に覆われて、全長十メートル以上もあろうかという、巨大な龍!


いいえ、いいえ!想像していた以上に、素敵です!


姿形だけなら、書物を読んでもらい、人の話を聞いて知っていました。

その情報をもとに、私は何度も頭の中で彼の姿を描いてきました。


けれど、それよりもずっと、彼の姿は私の心を熱く打つのでした。


そして、私はそのまま自分の姿へと目を移しました。


そこには、しわくちゃのお婆ちゃんになっている筈の私の姿ではなく、まるで十代のあの頃の、彼と出会った頃の私がしていたであろう、若かりしままの姿があったのです。


“ほら、君は今でも美しいままだろう?”


驚きのあまり、涙を目から零す私に向けて、彼はそうからかうように告げました。


こんな、こんなことって。あぁ、まるで夢みたい。いいえ。きっと夢なのです。でも、夢でもいい。夢でもいいから、どうかお願い。覚めないで。


私は涙を零しながら、そう呟き続ける。


泣きじゃくる私に向かって、やはり彼は微笑みながら優しく声をかけてくれました。


“夢ではないさ。君は、私の言う通り、あれからずっと休むことなく、立ち止まることもなく、戦い続け、歩き続けてきたんだ。だから、今度こそ、君に尋ねよう”


一瞬、間を置いて。私の瞳を見つめながら。


“君は本当に、私にどこか遠くへ連れて行って欲しいと願っているのかい?”


ええ、ええ!本当です!だから、どうか、今度こそ私を空へと連れて行って!


“いいだろう!さあ、私の背に乗りたまえ。君が長い間待ちこがれた青い空へ、君を攫って行こう!”


はい、はいっ!


私は嬉しさから声を震わせながら、彼の背にぴょんと飛び乗りました。


身体が、まるで何十年も若返ったかのように軽いのです。

今なら、何だって出来るような気がします。


だから、さあ、空へ!


“空へ!”


彼の言葉と共に、私達は空へと飛び立ちました。

あっという間に、静養のために訪れた湖畔の屋敷を離れて、ぐんぐん青空へと近づいていきます。


そこには、見渡す限りの無限の青!


これが、人々が、口々に出していた、空の美しさなのでしょう。


私はそんな青に包まれながら、彼に大声で話しかけます。


私、あれから猪肉も食べられるようになったんですよ?それに、料理も上手くなりました。だから、今度は私が貴方のご飯を作ってあげます!


“それは楽しみだな。どんな料理を作ってくれるのだね?”


いっぱい、いっぱいあります。貴方に作ってあげたい物が。それから、それから――。


“なぁに、慌てることはない。これから、時間はいくらでもあるのだから”


はいっ!


彼の言葉に元気よく返事をしながら、彼にしてあげたかった様々なことを背の上から彼に語りかけました。


彼は、私の言葉に律儀に返事を返してくれます。時には笑いながら。時には私をからかいながら。


そんなやり取りを、私達は空の上で繰り返すのでした。


いつまでも、飽きることなく。


私達の姿が空の青に溶けるまで。


ずっと。ずっと――。





====





生涯独身を貫いたことから、“アイアンメイデン”と呼ばれた龍騎士、アナスタシア・ソードレスは、王国歴904年の初秋、静養地の屋敷にて、五十六年に渡るその生涯に幕を下ろした。


晩年彼女がお気に入りとしていた屋敷のテラスにて、椅子に座ったまま眠るように息を引き取ったという。


彼女の遺体の傍には、何故か、白い龍の鱗が一枚、陽の光を青く照り返しながら落ちていたと伝えられている。




間章Ⅲ おしまい













====



読む必要のないあとがき


予定はあくまで予定なのです。


次の更新は、時代を未来に戻して、四章の話になるか、それとも、後一話くらい間章の話をするかもしれません。未定。


それでは。

読了多謝。



[10769] 年表・人物表
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac
Date: 2010/02/26 00:35
年表・人物表 ※現在、間章Ⅲまでの出来事に対応




あらすじとかもう忘れちゃった人用の簡易年表&人物表

更新に伴って随時改訂(予定)



当然の如く若干のネタバレを含んでいるので、未読の人は注意

なるべく、全話読んだ人が忘れた頃に読むのが吉




====




◇年表(王国歴)




772年 クロール、龍となる

777年 龍、カトレアと和解する

780年 マリー登場 龍と契約を結ぶ

790年 ルビー登場 龍の娘となる

810年 ウィル・レッドライト、魔王討伐す

817年 カトレア没 龍の旅立ち

832年 龍、古城に住み着く

836年 アップル登場 龍の弟子となる

850年 アルバート登場 最初の龍騎士となる

860年 ルールールー登場 アップル子供を産む 魔術院創立

866年 帝国・タルメニア戦役 アナスタシア、龍と出会う

883年 トレンディア・ノッドラート十年戦争勃発

885年 銀喰い、ナナシと出会う 王妃暗殺事件

892年 ヴァーミリオン、龍と出会う

893年 十年戦争、終結

903年 銀喰い、捕縛される

904年 アナスタシア没

928年 アルバート没

931年 ロゼッタ登場 龍と出会う

932年 ロゼッタ、ルージュ姫の守護騎士となる




◇人物表




「龍」(772年~)
元クロール・ロックハート。
鍛冶と果樹栽培が趣味の、地龍。
長い年月を経て、武龍として恐れ敬われるようになった。


「カトレア・コーンフィールド」(752年~817年:享年65歳)
クロールの幼馴染み。
元貴族の娘だが、晩年は冒険者として名を馳せた。


「マリー・ブラッドベル」(???~)
ヴァンパイアの少女。
ヴァンパイアクランの“四貴族”の内の一人。
龍とは友人関係にあり、ビジネスパートナーでもある。


「ルビー」(???~)
水龍と人間のハーフ。
龍とカトレアの娘であり、二人のことを敬愛している。


「ウィル・レッドライト」(785年~???)
カトレアの一番弟子。
後に魔王を倒して、勇者となる。


「アップル・ロックハート」(831年~???)
クロールの家族の子孫。
魔術に関して龍に弟子入りする。
後にアルバートと結婚し、子をもうける。


「アルバート・コーンフィールド」(836年~928年:享年92歳)
“大師父”、“グランドマスター”
カトレアの家族の子孫。
龍から龍鱗の剣を授かり、最初の龍騎士となる。


「ルールールー・ムーンリバー」(???~)
“深緑の魔女”
アップルの弟子。
龍から龍鱗の盾を授かり、龍騎士となる。
現在、トレンディア王立魔術院二代目総院長を務めている。


「ロゼッタ・オールデーズ」(913年~)
アルバートの曾孫。
トレンディア王国の騎士。
ルージュ姫と、守護騎士の誓いを交わす。


「ディエナ・フロウアーツ」(???~)
トレンディア王国の騎士。
ロイヤルガードの隊長を務める。
エルターザ姫の守護騎士。


「ルージュ・ファラ・トレンディア」(919年~)
トレンディア王国第三王女。
ロゼッタと、守護騎士の誓いを交わす。


「フィーメラルダ・グリンウッド」(913年~)
トレンディア王国の衛士。
ロゼッタの友人。


「シャギィ・クラフトマン」(911年~)
トレンディア王国の魔術士。
ルールールーの弟子。
ロゼッタの友人。


「ソニア・ブラッドベル」(???~)
マリーの影武者を務めるヴァンパイア。


「ガートルード」(???~)
マリーと敵対する赤毛の男。


「“十番(ツェーン)”」(???~)
ルビーを姉と呼び慕う、人狼の少女。


「本名不詳」(???~)
“破戒者”、“アノニマス”、そして“銀喰い”
暗殺者を生業とするダンピールの男。
龍から龍鱗の籠手を授かり、龍騎士となる。
大陸史上最悪の犯罪者として悪名を轟かせていたが、現在監獄にて投獄中。


「ナナシ」(???~)
ウィーグランの街外れの森に捨てられていた少女。
銀喰いを兄と呼び慕い、追い続ける。
後に、十十字軍第八軍、ヴァーミリオンを名乗る。


「ネフェリアル王妃」(???~885年)
オルフィオ王の正妻。
ノッドラート国王の王弟の娘。
銀喰いによって暗殺される。


「リチャード・コーンフィールド」(860年~)
アルバートの息子。
現在は息子のセラストに家督を譲り、引退している。


「アナスタシア・ソードレス」(848年~904年:享年56歳)
“聖騎士”、“アイアンメイデン”
法王府神殿騎士団団長を務めていた。
龍から龍鱗の細剣を授かり、龍騎士となる。


「フラウディア・ソードレス」(891年~)
アナスタシアの孫。
神殿騎士団を継ぐ身として、アナスタシアとルールールー二人の師事を受けていた。


「ユリアン・ローゼンクランツ」(816年~880年:享年64歳)
アナスタシアの副官。
叔父に、勇者と共に魔王を倒した英雄ギルベルト・ローゼンクランツを持つ。


「ベルギエール」(???~)
“三本角”
巨大な熊の魔物、オーガー族の長。




◇地名




「トレンディア王国」
大陸中央部に存在する国。
大戦以後、侵略主義へと転換し、多くの国と戦争を繰り広げている。


「ノッドラート王国」
大陸東部に存在していた国。
トレンディアとの戦争に敗れ併合された。


「タルメニア王国」
大陸北東部に存在する国。
肥沃な大地と周囲を山脈によって囲まれた国で、中原諸国の食料庫と呼ばれた。
現在は、トレンディアの属国となっている。


「ゴドランド帝国」
大陸北部を支配する強大な帝国。
トレンディアとは冷戦状態にある。


「クロムフルの街」
クロール達が住んでいた街。
鍛冶が盛んで、職人達が多く住んでいる。


「グリニンドの街」
帝国と王国を分かつノーザリン山脈の麓にある街。
交易が盛ん。龍が住む古城が近くにある。


「ウィーグランの街」
ノッドラートの国境沿いへと続く森に囲まれた街。
王妃暗殺の舞台となったことで有名。



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