<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[11484] INNOCENT~林の中の象~ 【異世界ファンタジー/転生】
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2019/11/09 11:23
・この物語は、異世界ファンタジーです。

・転生物ですが、現実→異世界ではありません。
 同一世界の過去の大魔導師(推定年齢:八百数十歳)の記憶をもった五歳児(物語スタート時点)が主人公です。

・ファンタジーの常として説明的になってしまうことがあります。
 あと、固有名詞がたくさんでてきますが、ああ、これは山の名前ねというように、区別だけつけておいていただければだいたい大丈夫です。

・区切りのいいところまで書いて校正してあげるという形になるので、投稿ペースは早かったり遅かったりバラバラになると思います。

 以上の点を気に留めていただき、大丈夫な方はどうぞおつきあい下さい。
 尚、誤字・脱字等のご指摘や感想・ご意見をいただけると嬉しいです。
(2009.09.03)

『Only is not lonly』というブログに微妙に修正かけながら同じ物を保管予定です。本人がやっている保管庫です。
(2010.11.15)

『世界の果ての本棚』というFC2ブログにリンク貼ってます。
 暫定で、いずれ移転予定です。
(2014.09.21)

『小説家になろう』にも改稿しながら掲載します。
(2019.11.09~)


【更新記録】

2009.09.01 プロローグ、第1章-1・-2更新
2009.09.02 第1章-3更新、第1章-2修正
2009.09.03 第2章-1更新、第1章-2・-3修正
2009.09.04 第2章-2更新
2009.09.05 第2章-3更新
2009.09.07 第2章-4更新
2009.09.08 第2章-5更新
2009.09.09 第3章-1更新
2009.09.10 第3章-2更新、第3章-1修正
2009.09.12 第3章-3更新
2009.09.15 第3章-4更新
2009.09.18 第3章-5更新
2009.09.22 第3章-6更新、第1章-2、第2章-1・-3・-5修正
2009.09.27 第3章-7更新
2009.09.28 第3章-6修正
2010.10.31 第3章-8更新
2010.11.04 第3章-9更新
2010.11.15 第3章-10更新、第3章-8修正 
2010.11.27 第3章-11更新
2010.12.05 第4章-1更新
2011.01.17 第4章-2更新、第3章-9修正
2011.02.14 第4章-3更新
2011.02.23 第4章-4更新
2011.03.13 第4章-5更新
2011.03.14 第2章-1修正 ご指摘ありがとうございます。
2014.09.21 第4章-6更新 更新再開します

2019.11.09 続きを書きたくなったのですが、このアカウントのパスワードを覚えていないので、すごく昔のノートパソコンをひっぱりだしました。
       ものすごい音がしてて今にも壊れそうなパソコンなので、なろうの方に移転します。
       お仕事に余裕がある時に改稿しながらのんびり続きを書いてゆきます。
       タイトルは変更するかもしれません。
       あと、気づいている方も多かったと思いますが、作者は『なんちゃってシンデレラ』を書いていた人と同じ人でした。
       このアカウントに再度入れる保証がないので、読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。
       これを書き始めたとき、すごく私生活が大変で、皆さんの感想のおかげで生き延びていました。
       よろしければ、なろうに移転しても読んでいただけると幸いです。
       あと、続きはこのパソコンが生きている限り、こちらにも投稿する予定です。(あるいはパスワードを何とかできたら)



[11484] プロローグ
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/01 10:41
プロローグ


 燃えるような夕日が空を染めていた。
 今まさに沈まんとする陽は日中のそれよりも強い光を放つ。
 霊峰ティスタ・アーヴェは燃えるような陽を受け、色とりどりの赤に染まった雲海が幻想的な光景を描き出している。

(まるで世界の終わりであるかのよう……)

 聖書にある終末の光景を連想し、女は小さく笑った。
 今まさに人生の終わりを迎えようとしているこの瞬間に、魔導師の自分が今更聖書を思い出した事がおかしかったのだ。

『……主よ』

 不思議な声が響いた。
 まるで頭に直接響くかのような声が。

「……レヴィ……」

 女は空に手を伸ばす。痩せてしまった腕……彼女を血のような赤い空から庇うように影が覆い被さる。
 指先に触れた黄金の鱗がわずかに差し込んだ夕日に照りかえり、眩しさに目を細めた。

『主よ……』

 空をふるわせる声が、限りない親愛をこめて彼女を呼ぶ。

「……リュディ……」

 わずかに視線を左に向ける。
 黒光りした鱗に陽光がこぼれていた。

「……ここで、お別れです……レヴィ、リュディ……」

 呼吸は次第に荒いものになりつつあった。
 だが不思議と苦しいという感覚はない。
 ここが硬い岩場であること、そこに薄布一枚を敷いただけで横たえられていることもまったく気にならなかった。
 視界にあるのは、赤く燃える空と彼女に忠実な二頭の竜……光と闇を纏う、その神々しいばかりの姿。

(いつか……こんな光景を夢に見たことがあった……)

 既視感に、笑みをもらす。
 あれはもしかして、予知夢だったのかもしれないとも思う。

(でも、もうそれも遠い昔の事……)

 見た目だけを言うのならば、彼女はまだ三十歳にも満たない女だ。だが、彼女が今まさに死の淵にあるのは老衰ゆえだった。
 魔導を操る者の寿命は長い。魔導……それは、魔術を越え、世界を揺り動かす事のできる力だ。魔導師とは、それほどに世界に愛されている存在だ。
 もっとも、呪われていると言う者もいるかもしれない。
 魔導師は例外なく長寿。常人の平均寿命が六十前後だとすれば、魔導師はゆうに数百年の時を生きる。
 それを羨む人間は多いが、それは、時から置いてゆかれるということで……その本当の意味は経験しなければわからなかった。
 出会うすべての人を失い、自身だけが時の果てに取り残される……それは決して幸福な事だと言い切れない。

(……でも……)

 それでも彼女は、己が幸せであったと胸を張ることができる。
 生きることに倦むこともなく、絶望する事もなく、狂う事もなかった。
 およそ八百数十年……それが、彼女の経て来た歳月だった。

『『主よ……』』

 二人の声が重なる。それはまるで妙なる調べであるかのように空気を震わせる。
 常人の耳では言葉としてとらえられないその響きだけが、彼女の心を波立たせる。
 彼らは幻獣種の頂点に立つ竜族の……その更に原種たる古代竜の最後の二頭だった。神と人とが分かたれ、世界を満たしていたマナが失われて久しい現在、幻獣も魔力を持つ人間も急速にその数を減らしつつある。

(やがて、世界は幻獣と魔法とを失うだろう……)

 それでいいのだと、彼女は思う。……強い魔力も、強大な幻獣も、この神無き世界の調和の中には必要がない。
 視界を覆い尽くす巨体の輪郭が、音も無くゆっくりと溶けた。
 一方は光に、一方は闇に。
 そして、現れたのは、二人の騎士だった。

「……その姿を見たのは……何十年ぶりかしら……」

 くすり、と笑った。

「逝かれるか……」

 波打つ豪奢な金の髪……瞳は、晴れた空の青。金色の竜は、美貌の男の姿で膝を着く。

「はい」

 小さくうなづく。
 漆黒の竜の化身たる騎士は、彼女をそっとかかえるようにして抱き起こした。
 彼女は、それに笑ってみせた。

「ありがとう」

 いろいろと言いたい事はあったはずなのに、結局、口にしたのはそれだけ。
 夕闇の紫の瞳には、澄んだ悲しみが揺れる。
 かたわらに膝をついた金の騎士は、彼女の手を両手で包み込んだ。

「主に出会えた事が、我らが生涯の喜び」
「主の僕であったことが、我らが生涯の誉れ」

 囁かれる言葉、それは睦言のような甘さと、誓約のような真摯さに彩られている。

「「我らが永遠の忠誠をあなたに捧げる……天空の歌姫、光と闇の導き手、遠き神々の愛し子たるシェスティリエ=ヴィヴェリア=ディゼル=アズール」」

 熱いものがこみあげる。

「……ありがとう、私の竜王たち」

 掠れる喉で、言葉を紡いだ。
 思い起こす事はたくさんあった。
 戦場に立ち、大陸全土に広がった戦火の中を駆け抜けた前半生
 約束された栄誉を捨て、この愛すべき竜たちと世界を回った後半生。
 魔導師はその長い寿命をもてあますというが、彼女は一度だってそんなことはなかった。
 ……誰よりも彼女に忠実な二人がいたからだ。

(……何という…生だったのだろう……)

 己ほど濃密な生を生きたものは他にいまい。それが誇らしかった。
 哀しみに揺れる二対の眼差しに微笑む。
 後悔はなかった。……何もないとは言わない。けれど、彼女は己が重ねて来た選択に胸を張ることができる。
 目を細め……そして、静かに瞑る。涙がひとしずく、頬を伝い、こぼれおちた。

「……愛しています」

 あなた達を。
 そのつぶやきは、青い闇に静かに静かに溶けた。

「シェスっ」
「……シェスティリエっ」

 閉ざされた瞳は、それきり開く事はなかった。




 2009.09.01更新



[11484] 第1章-1
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/01 10:59
第1章


 空が、燃えていた。夜の闇を染めるほど赤く、天を焦がさんばかりの勢いで。
 かなり離れたこのエシュラ山までも、灼熱の炎に苛まれた空気のあげる、ごうごうという咆吼が聞こえる。先ほどまで聞こえていた爆音はもう聞こえなかった。
 照り返す夕陽で金に縁どられた横顔……男は、ただ一言も口をきかずに燃え狂う炎を見つめていた。
 着込んだ甲冑は返り血で汚れ、腕も足も傷がないところはない。一番酷いのは右の太腿だ。ざっくりと槍の穂先が刺さり、折れたのだ。穂先はとりのぞき応急処置はしたものの骨まで達していた傷だ。だいぶ血を失ったし、既に痛みすら感じなくなっている。それはかなり危険な兆候なのだと生粋の武人である彼は知っていた。

(……もはや……)

 これまでなのか、と己自身に問い掛ける。
 戦場で命を落とすのは武人の常。だが、このように逃げ惑い、まるで獲物のように狩り立てられることは、彼の本意とするところではない。
 既に疲労はとっくに限界を越えていた。せめて立ち上がる気力があるうちに武人として敵に一矢報いてから死にたい……という誘惑が心をくすぐる。

(これが最後だとするのなら、随分とつまらん最後だな。オレらしいのかもしれないが……)

 男……イシュラード=ユリウス=ヴィ=カノーシスは、ふっと苦笑を漏らした。
 彼は、ローラッドの貧乏騎士の家に生まれた。少しでも家名をあげることを望まれて、13歳で従騎士として西方守護を任とするローラッド帝国第三師団に入団した。
 ブラウツェンベルグ王国と国境を接する西方は、常に最前線だ。幾つかの戦場を重ね、その剣の腕と運の良さで17歳の若さで騎士叙任を受けた。
 以来、彼は近衛に属していた三ヶ月をのぞいて、戦場以外に身を置いたことがない。
 ローラッド帝国第三師団ラシュガーク城砦守備隊第一部隊長……それが、彼の今の地位だった。
 尤も、ラシュガーク城砦が陥落した今となっては、もはやその肩書きにはまったく意味が無かった。

(『左の死神』の死場所にしちゃあ、つまらん場所だぜ……)

 こんな山の中で最後を迎えるのかと思うと、今更ながらに口惜しかった。
剣を振るうしか能の無い自分だったが、いや、だからこそどうせなら戦場で死にたいという思いが胸をつく。
 だが、佩いている剣は刃がボロボロでもはや何も切ることができないだろう。鞘口が血で固まり、抜けるかどうかも怪しい。
 懐の短刀も、かなり刃こぼれしていてあまり役にはたたなそうだった。今、ここで敵におそいかかられたら、彼に防ぐ術はほとんどない。
 それに……。
 足元に視線を落とす。灰色の布の塊が小さく動いていた。
 よく見れば、それは人形をしている。

「……ん……」

 もそりと布の間から小さな手がのぞく。
 周囲に気を配る事を怠らないまま、彼は膝をついた。
 それは、子供だった。年の頃は、五歳になるくらいだろうか……戦場にいるべきではない幼い子供。

「……リースレイさま」

 その名を小声で呼びかけた。起き上がった子供は、目を覚ますように、ふるふると頭を振る。
 灰色の外套からこぼれ落ちた銀の髪は、戦場に在る今は埃に汚れ、炎にあぶられたせいで毛先が焦げてもいる。そして、ぬけるように白い肌は煤け、外套も泥と血で汚れていた。

「…………ここ……どこ?」

 夜の闇の中で魔力を宿すといわれる紫の瞳を静かに開き、周囲を見回す。
 その幼さを考慮したとしても、たとえどれだけ汚れていたとしても、この幼い少女……リースレイ=シェルディアナが美貌の片鱗をあらわしていることは否定できない。
 それもそのはずだ。
 リースレイの母は、その美貌で皇帝を虜にし、ついには第四帝妃になったカザリナ=アディラインの双生の妹、リーフェルド伯爵夫人アリアナ=フェリディアだ。夫人の姿をはじめてみたとき、イシュラは女神が地上に降り立ったと思ったほどだ。彼女はその母ととてもよく似ている。

「エビモスの森です」

 イシュラは膝をつき、騎士の礼をとって答える。足がずくりと痛んだ。気を抜くと意識がもっていかれそうだった。
 少女は置かれている状況がまったくわからないようで、何度も目をしばたかせる。

「……リースレイさま?」

 ラシュガーク城砦は陥落した。駐留していた部隊もほぼ壊滅したといってもいいだろう。
 執政官だったリースレイの父、リーフェルド伯爵アーサー=ヴァニエルは死んだ。
 彼の最後の姿を見たのは、おそらくイシュラだ。妻子の保護をイシュラに依頼し、自身はかなりの深手を負った姿で炎の中に消えた。その足が地下を目指していた事と、イシュラが城砦を抜け出た後の爆音を結びつけることは容易だ。
 彼は、敵の手に落ちた城塞を破壊したのだ。敵に拠点を与えぬ為に。

「………………だいじょうぶ。ちょっと、きおくをせいりしただけ」

 五歳児とは思えぬ落ち着いた声と態度に、イシュラはわずかに違和感を覚える。だが、それをそれ以上気にすることは出来なかった。彼らはそんな状況にはなかった。

「…………ここはあんぜん?はなしができる?」

 見上げた瞳には、理知的な光が宿っている。

「いいえ」
「そう。……あなた、なまえは?」
「イシュラード=ユリウス=ヴィ=カノーシスと申します、リースレイ姫。どうぞ、イシュラとお呼びください」

 あえて姫と呼びかけた。
 リースレイは小さくうなづき、その呼びかけに自然に応じる。

「きしイシュラ、あんぜんなばしょがわかる?」
「この森の奥へ……さすれば、息つく暇も生まれましょう」

 ラシュガーク城砦がブラウツェンベルグ軍に包囲されたのは七ヶ月前のことだった。
 当初、誰もがいつものように1ヶ月もすれば再び退却するだろうと思っていた。
 ラシュガーク城砦は中規模でありながらも堅固であることがしられている。陥落せしめるには相応の被害を覚悟せねばならない。だが、五年前に、ハッシュバーグ城塞が完成している為に、ラシュガークを落としても被害に見合う成果がない、というのが現実だった。
 だが、予想を裏切り、ブラウツェンベルグは冬を過ぎ、春を過ぎても対陣を続けた。先に音をあげたのは、街道のすべてを封鎖され、包囲されたラシュガーク城砦側だった。秋の収穫の前に包囲された城砦には、三ヶ月程度の食料しか残っていなかったのだ。
 それでも、七ヶ月に及ぶ篭城戦を彼らは耐え抜いた。
 だが、三万を越える大軍で国境を越えたブラウツェンベルグが、それなりの重要拠点とはいえ、たかが城砦一つで満足していたはずが無い。周辺地域はとっくに占領下だし、ハッシュバーグ城塞もまた敵の包囲下にあることをイシュラは知っていた。
 
(全面戦争……)

 その事実から、ブラウツェンベルグはついに全面戦争に踏み切ったのだとイシュラは予測する。
 だとすれば、直接ローラッドに抜けるのはかなり困難になると予想された。

(帝国は、ラシュガークを捨てた……)

 おそらく帝国は、ラシュガークを救援して兵を疲弊させるよりも、ラシュガーク攻略で犠牲を払った遠征軍を万全の体制で迎え撃つことを選んだのだ。
 だとすれば、彼らはこのエビモスの森を逆側に抜け、フェルディアに抜けるのが得策だ。
 ブラウツェンベルグ軍とて、城砦から逃げ延びたわずかな敗残兵を狩ることよりも、次に対峙する本隊に目が向いているに違いない。……例え、追っ手を放っていたとしても、それほど大きな部隊ではないはずだ。

「では、ゆこう」

 リースレイは、すっくと力強く立ち上がる。
 まだ幼い少女は、立ち上がっても膝をついたイシュラと目を合わせるのがやっとだ。

「姫……」

 彼が助け出すまで、自害した母の遺体の脇で呆然としていた幼子とは思えなかった。イシュラの呼びかけにも応えず、その小さな身体を抱上げたらくたりと意識を失った。
 こんな風に強い意志を示せるような子供だとは夢にも思わなかった。

「……わたしは、しぬわけにはいかない」

 少しだけこわばった表情で彼女は言った。

「……はい」

 イシュラはうなづく。
 一度戦場を体験した人間は、劇的に変わることがある。いささか早すぎるにせよ、この幼子の上にもその変化があったのだと思った。

「……だいじょうぶだ。わたしはうんがいい」

 幼子は笑った。どこか力強い笑顔だった。
 父と母を失ったばかりだというのに、笑って見せる健気さにイシュラはうたれた。
 まだやっと五歳……乳母の腕の中で甘えているような年齢だ。両親に守られて幸せに過ごしていればいい子供だったのだ。
 ……だが、彼女は既に「姫」と呼びかけられることの意味がわかっていた。
本当に知っているかはわからない。けれども、彼女は自分が主であることを無意識に理解していた。

「あしがいたむであろうが、しばし、がまんしてほしい」
「これしきのこと、戦場にあればかすり傷にございます」

 イシュラは立ち上がる。本当にそう思えた。
 先ほどまで、もはやたちあがることもできぬと思っていたのが嘘のようだった。

(主、ありてこその騎士……)

 その言葉がよくわかった。
 騎士としての宣誓はしたし、剣は皇帝に捧げた。……だが、それは主を得たということではなかったのだと、今、初めてわかる。

(オレは……)

「ゆこう。わたしが、いきれば……わたしとおまえのかちだ。きしイシュラ」

 諦めかけていたはずなのに、リースレイのその覚悟にイシュラの心もまた武人としての心を取り戻した。

「……姫」

 執政官として父の赴任に同行してきただけの幼児だった。
 イシュラの見たことがある彼女の姿は、執政官が城砦に入城した際に母と共に馬車から手を振っていた……それだけだ。

(だが……)

 自分は、この幼い少女の決意に生かされたのだ。
 それがはっきりとわかっていた。
 静かに目を閉じ、そして、立ち上がる。

「参りましょう」

 イシュラは運命を見つけたのだ。




2009.09.01 更新



[11484] 第1章-2
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/22 21:32
 エビモスの森を、ブラウツェンベルグは『魔の森』、フェルシアは『迷いの森』、ローラッドでは『帰らずの森』と呼んで怖れている。
 昼なおも暗く、月の光すら差さぬと言われている。磁石はきかず、星も見えない為に方向感覚を失い、遭難者が続出するのだ。
 勿論それだけではない。この森には幻獣が未だ存在しているとも言われている。幻獣は伝説にせよ、危険な獣が多いことは確かだ。このあたりの森にはクマがいるし、ラプルという肉食のトカゲも生息しているのだ。
 森を踏破した人間がゼロとは言わないが、十人中九人までが帰らないとまで言われている。
 ……逃げるためとはいえ、イシュラが森に踏み込んだのは、彼が十人中の残る一人……この森を踏破したことがある人間だったからだ。
 ただし、それは装備をきちんと揃えた上でのこと。特に食料は二か月分も持つほどに念をいれていた。
 それを考えると今の彼らの状況は絶望的と言えた。

(食料ゼロっつーのが最悪だよな)

 このまま水と木の実だけしか口にすることが出来ない毎日が続くと、イシュラの体力もどこまでもつかわからない。
 だが、不思議なくらいイシュラは焦っていなかったし、悲観もしていなかった。

(それも、これも姫さんがいるからだな……)

 彼の背中にしがみつく少女の存在が、イシュラを救う。

「……イシュラ、うんがいいぞ、ほら」
「は?」

 背負った少女が伸ばした指先には、この森に迷い込んだ人間の慣れの果て……白骨化した遺体が転がっている。それもニ体。互いに剣を突き刺しあっているところを見るとどうやら殺し合いをして相討ちになったらしい。

「……生憎、オレにゃあ『運が良い』の意味がわかりません、姫」

 この三日で、イシュラの口調はすっかり素のものになってしまっていた。
 リースレイがまったくそれを気にしないせいもあったが、何よりも、リースレイ自身がまったくもって規格外の姫君だったからだ。

「……のうまできんにくなのだな、イシュラは」

 ほぉと口元を押さえて可愛らしく溜息をつく。扇でも手にしていれば完璧な貴族のご令嬢だ。
 ……いや、リースレイは確かに名門貴族の令嬢なのだが、いかんせん恐ろしいほど口と頭が回る。
 イシュラは、最初の半日で絶対に口ではリースレイに勝てない事を思い知った。

(……オレは金輪際、子供が無邪気で可愛いものだなんて思わない)

 リースレイは確かに規格外だ。いや、規格外でなくては困る。
 だが、リースレイが『子供』に分類されるという時点で……リースレイのような規格外がごく稀に混じる事があるというだけでもう、イシュラは『子供』というものに夢が抱けない。

「……………………愚かなあなたの騎士に理由を教えていただけませんか、姫」

 言っている事はまったく可愛くなかったので、殊更嫌みったらしい口調でイシュラは問う。いかにも騎士らしい丁寧な口調が嫌味に最適だということは、この三日で知ったことだ。イシュラの嫌味など、リースレイは鼻にもひっかけなかったが。

「しかたがない」

 ふぅと幼子はいかにもどうしようもないというような諦めの溜息をついて口を開く。

「……あのしたいはみずぶくろをもっている。つるぎももっているな。ほかにもなにかやくにたつものをもっているかもしれぬ」

 互いに突き刺しあっているのを持っていると言っていいかはわからないが、確かに剣はそこにある。

「……………遭難者の遺体から略奪かい…………」

 およそ、深窓のご令嬢とは思えない大変斬新な発想だった。戦場で生きてきたイシュラだって言われるまで気付かなかった。

「ばかもの。ししゃにはもうひつようないものを、それをひつようとしているものがゆずってもらうだけだ」

 おまえはまったくりかいしていないな、という眼差しでリースレイがイシュラを見下ろしているのがわかる。わかりたくないのにわかってしまう。

(…………ムカつくのに、可愛いと思ってしまうのが末期だな)

 己の主だと思えば、何をやってもどんな小生意気な口をきいても可愛い。
生憎、彼は幼女趣味の変態ではなかったので、リースレイを女性として意識したり性的対象と考えることはまったくなかったが。

「よいか。このもりをぬけるのには、さいていでも7かはかかる。おまえにはわたしというおにもつがいるのだから、きっともっとかかるだろう。……そうびもなくもりをぬけられるとおもうのは、あますぎる。げんきょうは、おさきまっくらのじさつこういだ」

 沢にそって歩いている今は良い。水にだけは不自由しない。
 幸いなことに、リースレイは食べられる草木や木の実などをよく知っていて、かろうじて食べ物もどうにかなっている。だが、この先もずっとそうだとはいえない。

(あー、たどたどしいこの口調でよく口が回んな……)

 イシュラは、思わず感心してしまう。

「いちばんひつようなのは、みずぶくろだな。あと、ひをおこすどうぐがあるといいな。たべものはなんとかなる。さいわいなことにふゆではないし……もりのめぐみにかんしゃするのだな」
「あー……姫さん、だいたい、なんでそんなに食える草だとか実だとかに詳しいんだ?それに野宿にも文句言わないし、こんな事態になっても泣き言一つ言わねーよな」

 イシュラはリースレイを背中から下ろし、白骨の所持品の確認に入る。

「なきごとをいってどうにかなることなら、とっくにいってる」
「……確かにそうなんだけどよ」

 だが、今の現況が、貴族として生まれ育った者にとってどれほど耐えがたいものであるかはイシュラは知っている。
 この三日、口にしたのは木の実と水……それだけだ。普通の貴族ならそれが一食出ただけでまず確実にブチ切れる。それがもう三日間続いているのだ。

(死ぬ気もないのに、こんなことなら死んだほうがマシだとか言い出すんだよな……)

 一時、部下に貴族のボンボンがたくさんいたイシュラはそれなりに貴族のことをよく知っているのだ。
 リースレイは子供としても規格外だが、貴族としても規格外だ。

「貴族らしからぬっつーか……いや、姫さんは何からも規格外な感じなんだけどよ」
「……カンがいいな、イシュラ」
「なんだ?その、おや、意外に役に立ちそうな…みたいな言い草は。グレるぞ」
「やせいのほんのうとは、すばらしいものだ」

 うんうん、とうなづく。

「おい、姫さん。オレはあんたの騎士になったんだぜ」
「わかっている。おまえはわたしをぜったいにうらぎらぬわたしのきしだ」

 にっこりとリースレイは笑う。それはそれは満面の笑みで。

「……な、なんだよ、その自信」

 そのことが嬉しく、同時に、あまりの照れくささにそっぽ向いた。残念なことに、イシュラがその笑みの裏にあるものを察するにはまだまだ経験が足りなかった。
 イシュラは白骨の手にしていた剣をあらためるフリをしながら緩む頬をひきしめようと努力する。

「そうおおくをしるわけではない。……だが、ひとはせいしのさかいにおかれたときに、いちばんそのほんしつをあらわにするという。おまえは、じぶんがいきのこるためだけだったら、わたしなどみすてるべきだった。もしくは、わたしをてきにさしだすべきだった」
「そんなことする人間はクズだ」
「わかっている。おまえはしない。……そも、わたしが、そんなにんげんのつるぎをうけるわけがなかろう」

 おまえの剣の腕は知らぬが、それなりに腕がたつことだって、おまえの身のこなしを見ていればわかる。とリースレイは続ける。

「……カンがよく、めもいい。からだもきたえている。おまえのきんにくのつきかたは、けんしとしてりそうてきだ。わたしはしらぬが、おまえはそうとうデキるきしのはずだ。ましてや、わたしをたくされたのだ。ひとりでも、てきのなかをとっぱするだけのうでがあったからだとみるのがだとうだ」

 背筋がぞくりとした。
 怖れとか畏れ……ではない。それは喜びなのだと気付いた。

「…………姫さん、あんた、ほんとにどこのお子様だよ」

 あけっぴろげな性格のせいか、イシュラはかなり顔が広い。帝都の学者にも友人がいるし、その友人を通じて、一般的に頭が良いといわれる人間とも親しいつきあいがある。天才と呼ばれる政治家にだって会ったことがある。だが、そのイシュラでさえも、リースレイほど頭の回る……頭の良い人間を知らない……そう思える。

「わたしは、ふつうのこどもではないのだ」

 仕える主が素晴らしいと思い知ることは、騎士の喜びだ。
 それを、イシュラは初めて知る。

「あー、そんなの百も承知だから。……あんたが普通の子供だったら、オレはそこらじゅうの子供に怯えて生きなきゃなんねー」
「しつれいな」

 むぅっと口を尖らせる。
 天使のように愛らしい外見を持つ少女は、どんな表情をしても可愛い。思わず頬が緩みそうになる。

「……そうだな、おまえにはおしえてもいいかもしれない」
「何を?」
「……わたしは、リーフェルドはくしゃくれいじょうリースレイ=シェルディアナだ。それはおまえもしっているな?」
「勿論」

 イシュラは、リースレイが何を言い出したのかわからなくて、側に立つ幼い少女を見上げた。
 膝をついている彼と立っている彼女は目線がほぼ同じだ。むしろ、心持ちイシュラの方が高い位置にある。だが、心理的に言うのならば間違いなくリースレイの目線の方が上である。……そう。立っているイシュラよりも。

「わたしは、リースレイ=シェルディアナとしてうまれるいぜん、『シェスティリエ』というなのまどうしだったのだ」
「……………は?」

 リースレイの告白がイシュラの脳に到達するまでにははいささかの時間を要した。

「おまえにわかりやすくいうのならば、『うまれかわり』というやつだ」

 わたしのきしがそんなこともわからぬのか、なげかわしい、と、リースレイはためいきをつく。

「………………そんなことがあるのか?」
「あるのだ。わたしもはじめてたいけんして、いろいろときょうみぶかい」

 うんうん、とリースレイはうなづく。

「リースレイのきおくもちゃんとあるぞ。もっとも、こどもの5ねんぶんのきおくなんてびびたるものだし、ぼんやりしているけどな……だが……」
「…………だが?」

 イシュラは先を促す。

「……………………じょうさいでの……ははのさいごは、このめにやきついている」

 固く結ばれた口元……その表情は、既に何かを決めた人間のものだ。

「姫……」
「ちちのさいごは、おまえがおしえてくれた。……わたしはふたりのことをぜったいにわすれないだろう」
「…………はい」
「シェスティリエは、すてごだった……だから、わたしにとって『おや』とよべるのはあのふたりだけだ。たとえ、いまのわたしのいしきが、めのまえでははをうしなったためによみがえったものだったとしても、わたしのなかには、たしかにかれらにあいされたきおくがあるのだ」
「……執政官は、オレにあんたと女房を救ってくれと頼んだんだ……命令じゃなかった」

 『命令』でなく、『依頼』だったからイシュラはそれにうなづいた。
 『ローラッドの左の死神』などという異名で呼ばれ、どれほどもてはやされたとしても、イシュラは所詮下っ端の騎士だ。貴族でない彼はただの使い捨ての駒でしかない。
 そんな駒に、建国以来続く名門伯爵家の主である男が頭を下げたのだ。それに応えねば男ではない。

「ははうえは……さいしょ、わたしをころそうとしたのだ。ほのおのなかでやけしぬはあわれ。ましてや、てきにとらわれてもてあそばれるやもしれぬ、と。だが……ころせなかった。かのじょは、かみにいのった……どうか、むすめをたすけてください、と。だいしょうに、いのちをささげると……」

 命を賭しての願いであった。と、リースレイは呟く。

「……わたしは……あのときのははのねがいでめざめたのかもしれぬな」

 生まれ変わりというものがあることを、彼女は知っている。だが、記憶を取り戻すのは極めて稀なことであり、更には、その記憶が定着するのはもっと稀なことだった。
 幼児の時は前世の記憶を持っていたとしても、だいたいの場合、それは日々増えていく現在の記憶に寝食されて消える。
 リースレイのように過去の記憶をもったまま融合する例は聞いたことが無い。

(これは、わたしがまどうしであったこととむえんではないのだろうな……)

「まあ、このようなおさないからだでは、なかみがわたしであったとしても、かなりのうりょくがわりびかれる。わたしはちえを、おまえはたいりょくをふりしぼってともにがんばることにしよう」

 さすればきっとみちはきりひらける、と小さな拳を握り締める姿に、イシュラは感動するべきか怒るべきか迷った。そして、曖昧な、ひきつった笑いを浮かべるしかなかった。




2009.09.01 更新
2009.09.02 修正
2009.09.03 修正
2009.09.22 修正



[11484] 第1章-3
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/03 11:53
 夜の中で目にする灯火には、不思議と心を暖める作用がある。
 人は本能的に闇を畏れるため、それを払う炎に安堵する。

(まあ、それも、ていどもんだいだが……)

 七日前の夜……ラシュガーク城砦を灰燼に帰した炎を、闇以上におそろしく感じた者は多かったはずだ。

「……姫さん、あとどのくらいで抜けられると思う?」

 イシュラの読みでは、あと三日というところだろうか……思っていた以上に早い。
 それというのも、リースレイが足手まといのお荷物どころか、その豊富な知識でもってイシュラを先導するからだ。しかも、この道なき森の道を知っているらしく、リースレイの指示には迷いがない。

「……3、4か、というところだな」

 小枝を使って火の中から真っ黒な塊を幾つか取り出す。中身は、大きな葉に包んだ木の根やら魚だ。蒸し焼きにしてある。これが、明日の朝と昼の食べ物になる。
 森の中で次々と遭遇する物言わぬ人々から譲り受けた品々で、今のイシュラ達はそれなりの装備を整えていた。
 特に便利なのは、古王国様式の甲冑の兜だ。
 おそらく貴族の所有物であったに違いない、鉄に銀象嵌を施した見事なもので、売ればおそろしいほどの高値がつくだろうとイシュラは思ったのだが、リースレイはこれを鍋がわりにしている。
 鍋が手に入った事により、煮沸消毒ができるし、薬草茶やスープといったものも口にすることができるようになっていて、彼らの逃亡生活の質の向上に大いに役立っていたから、イシュラに文句はなかった。
 だいたい、武具というのは使ってなんぼだとイシュラは思う。美術品と並べて飾られている時点で、それはもう武具としての命を失ったも同然だ。そんな風に飾られるくらいなら鍋として使われたほうがマシだろう。

「妥当な線だな。……この速さで森を抜けられるとはあちらも思わないだろうし」
「おもっていたいじょうに、そうびもじゅうじつしたしな」

 森に入る前、イシュラとリースレイの所持品は、「身につけていた装飾品とポケットの中に入っていたもの」だけだった。
 具体的に言えば、イシュラは「甲冑(兜なし)、抜けない剣と刃こぼれした短剣……二の腕にしていた腕輪と財布」で、リースレイは「紫水晶のピアス・金と銀の細い細工物の腕輪が二つずつ。銀のロケット・守り刀と呼ばれる宝飾品の短剣・そして外套の隠しに入っていた氷砂糖」だ。
 一番嬉しかったのは、何といっても氷砂糖だ。森に入ってだいぶ経つまでそれに気付いていなかったのだが、気付いた時は二人で思わず笑みをこぼしたものだ。
 甘いものが心を和ませるというのは本当だ。二人でそれを分ける時、柄にもなくイシュラはワクワクした気分になったものだ。
 七つあった氷砂糖を、リースレイはイシュラに四つくれた。遠慮するイシュラにリースレイは真面目な顔で、イシュラの方が身体が大きいから余分に必要だと言ってその手に握らせた。
 甘いものなど特に好まないイシュラだったが、あの氷砂糖の味は一生忘れないだろう。

「ははははは……姫さんにはかなわねーよ」

 重い甲冑は早々に捨てたし、剣や短剣も代替品が見つかった場所で捨てた。迷い込んでしまった人間や、今の彼らのような逃亡者はいざしらず、まがりなりにも森に踏み込もうという旅人はそれなりの支度を整えていた。百年以上前の食料などは当然口にできるはずもなかったが、彼らの持っていた火付け道具やら替えの服やらはばっちりいただいた。
 器用なリースレイは、手に入れた裁縫道具を使って、それらをイシュラや自分に合うように仕立てなおしてしまった。
 今のリースレイとイシュラは戦場から落ち延びた貴族の姫と騎士というよりは、長旅をしている田舎の行商人の親子といった風情だ。

「わたしはエゴイストだからな。いきるためにひつようとあらば、ししゃからさいふをごうだつすることもいとわない」

 ふふん、と胸を張る。
 実際に財布やら荷物にならない金目の宝飾品やらもばっちりいただいているので実に説得力がある。

「姫さん、それ、まるっきり悪役のセリフだから」
「せいぎのみかたとしてしぬより、あくやくとしていきのびるのがわたしのりそうだ」
「……さいですか」

 思わず頭を下げたくなる。ここまで言われるといっそ清々しい。

「さて、そろそろきょうのちりょうをしようか」
「あー、おねがいします」

 イシュラの足の怪我を、リースレイは毎日寝る前に少しづつ治療する。
 リースレイは驚くほど医術にも長けていて薬草の知識も豊富だ。治癒の術を使うからには、医術にも通じている必要がある為だという。

「いててててて……」
「おおげさにいたがるな、おとこであろう」
「痛みに男と女は関係ねえっ!もちっと優しく剥がしてくれ」

 リースレイの見立てでは、イシュラの怪我はそのままにしておいたら太腿から下を切断するほどのものだった。
 骨を傷つけていただけではなく、筋と腱をも傷つけていた。歩けていたのが不思議なくらいの重傷だったのだ。それが致命傷となって死んでいてもおかしくない。

「いたいというのは、なおってきているというたしかなあかしだ。よろこぶがいい」
「それは、そうなんだけどよ……」

 傷口を注意深く観察し、その手を傷口の上にかざす。その唇が不思議な響きの音を連ねると、リースレイの掌に青白い光が宿った。
 その光が、骨を再生し、筋や腱をつなげたのだ。
 深い傷口がわずかにもりあがり、薄いピンク色の肌となってゆく。ゆっくりと、ゆっくりと。
 真剣な眼差し……額に小さな汗の粒が浮かぶ。
 5分くらいそうしていただろうか……光が輝きを失い、ふぅ、とリースレイが汗を拭う。それが、治療の終わりの合図だった。

「ありがとな、姫さん」
「うむ。……わたしが、ちゆのじゅつをえとくしていたことをかんしゃするがよい」

 治療がおわると、幾つかの薬草を組み合わせて擂り潰したものを塗りこみ、新しい布をあてる。少ししみるが効能は確かだ。

(傷口が腐らねえし……)

 消毒薬も代わりとなる酒もなかったが、傷口は腐る事も膿むこともなかった。見た目は悪いが、薬草もなかなか侮れない。

「あー、でも、贅沢言うけどよ。毎日こんなちまちまじゃなくて、ぱぱっと治せないもんなのか?」
「できるかできないかのにたくでいうのならば、できる」
「やらないっていうことは理由があるんだよな?」
「そうだ。……すこしはかしこくなってきたな、イシュラ」

 文句を言いたかったのだが、その心底嬉しそうな笑顔に口をつぐんだ。
 つくづくイシュラは、リースレイに弱い。

「まじゅつはばんのうではない。「む」から「ゆう」をうみだすことはできない。おまえのけがをなおすのもそのほうそくにもとづいている」
「………治す為に何かを費やしている?」
「せいかいだ。このちりょうで、わたしがつかっているのは、わたしのまりょくとおまえのせいめいりょくだ」
「………………………なんか、今、さらっと怖い事言わなかったか?」
「そうか?……あのな、『ちゆ』というのは、まじゅつのなかでもいちにをあらそう、とってもきけんなじゅつなのだ」
「……教会のじじい達の得意技だぜ?っていうか、教会の人間って、ほとんどそれと魔力板の販売で食ってるようなもんだろ?なのに、そんなに危険なのか?」
「ああ」

 こくりとうなづき、言葉を継ぐ。

「ちゆのじゅつというのは、おおまかにふたつのさようによってなりたっている」

 小さな指が『2』と示す。

「まず、ケガをしたぶぶんにちりょうにひつようなちからをつっこむ。つぎに、ケガをしたぶぶんのじかんをはやまわしにすすめる。このふたつ」
「………それの何が危険なのか、オレにはさっぱりわからん」
「まず、なおすためのちからがひつようになる。いまは、さっきもいったとおり、おまえのせいめいりょくをつかっている。ただし、よくじつにかいふくするていどのぶんりょうだけな」
「もしかして、寝る前に治療するのはその為なのか?」
「そう」

 こくりとうなづいて続ける。

「……たとえば、このけがをまるまるぜんぶきれいにちりょうするようなじゅつをかける。そうすると、じゅつにせいめいりょくをすいとられて、おまえはおだぶつだ」
「……おい」

 魔術だとか魔法だとかそういったものに馴染みがないせいで、必要以上に恐ろしく聞こえる。

「……で、じかんにかんしょうするというのは、ものすごくまりょくをしょうひすることだ。わたしのこのからだのせんざいてきなまりょくはかなりのものなのだが、なんといってもこどものからだだ、ついやせるまりょくにもげんどがある」

 下手に魔力を注ぎ込みすぎると、術が破綻して魔力が暴走することもある。そうなれば、人間の身体などもろいものだ。治療とかそういった話ではなくなることだろう。

「姫さん、無理してないだろうな?」
「あんずるな。わたしもよくじつにえいきょうがないていどにしか、ついやしていない。こんなおさないからだで、ほんかくてきなじゅつをつかおうものなら、そくざにたおれる」

 倒れるくらいならまだいい。術に失敗すれば即死もありうるし、暴走させでもしたら最悪だ。

「そうなのか?」
「ああ。かつてのわたしであれば、さまざまなリスクをかいひつつ、ぱぱっとなおすこともできたのだが……こどもというのはふじゆうなものだ」

 口惜しそうな顔。

「おとなになれば、できるようになるのか?」
「それはわからぬ。ただ、おそらく、いちばんさいしょのぜんていじょうけんだけは、クリアできているとおもわれる。たゆまぬどりょくをつづけ、まんしんすることなくけんさんをつめば、なれないことはないだろう」

 知識だけがあっても、今の状態ではそのほとんどが役に立たない。特に魔術関係はかなり割り引かれる。使える術なんて1割にも満たない。
 魔力を体内にはりめぐらす魔術回路も構築できていなければ、魔力の源ともいうべき自身の真名も知らない。
 どれほど潜在的な魔力が大きかろうと、これでは、たいした術は使えない。

(5さいじだし……)

 身体も鍛えていないから体力もないし、イシュラがいなければきっとこの森を抜けることさえできないで死ぬだろう。
 知識だけあったところでどうにもならないことがたくさんある。

(5さいじだし……)

 子供というのは不自由なものだ。いろいろなことがままならない。

「あー、姫さんは、また魔導師になんの?」
「いや。まどうしはなろうとおもってなれるものでもないからな……」
「魔導師って、結局のところ何なんだ?名前だけならオレも知ってるぜ、暁の騎士に砂漠の魔人、黄昏の娘に緑の魔女に……それから、天空の歌姫に滄海の龍王。……姫さん?どうした?」

 イシュラは、リースレイが奇妙な表情をしていることに気付く。

「……いや。よくしったなまえばかりだったのでおどろいた」
「御伽噺みたいなもんだぜ?だって、人間業じゃねえだろ。竜殺しとか、砂漠に森を作るとか、ゆびならしただけで雨降らすとか、都市一つを丸々火の海に叩き込むとか……」

 聞き分けのない子供に、悪い事ばかりしていると砂漠の魔人が攫いにくるぞ、と親が脅かすのはどこの家庭でも見られる光景だ。

「……それがまどうしだ。まどうしというのは、せかいをゆりうごかすちからをもつものをいう。まじゅつしがそうなることがおおいのでごかいされがちだが、まじゅつしとはべつものだ。おそらく、もう、まどうしというそんざいがうまれることはないだろう」

 リースレイは息を深く吸った。幼い子供の口調はとてもたどたどしく、ちょっと長く話すとすぐに舌を噛みそうになる。

「なぜだ?」
「このせかいに、かみがいないからだ」
「姫さんの前世とやらの時代には、まだ、神ってのがいたのか?」
「……かろうじて」

 神というものがどういうものか、それを知るリースレイとて説明する事は難しい。
 だが、確かにそれは存在していた。
 世界には、『神』と名付けられた存在があったのだ。

「まどうしとは、かみからなをもらうか、うばうか……あるいは、かみをころしたものをいう」
「……神?」
「そう。せかいをうごかすには、かみのなをひつようとする」
「姫さん、忘れちまったの?その名前」
「……………おぼえている。だが、おぼえていればいいというものではない。「な」とは「「じゅ」であり、それそのものがちからだ。だが、すでにかみはこのせかいになく、そのちからもこのせかいにはほとんどのこっていない」

 マナ……神の息吹と呼ばれるその力こそが、魔導や魔術といったものの源だ。マナがないからこそ代わりとなるエネルギー……生命力や魔力を転換したものを使って術を行使したのだ。

「まあ、もともと、わたしはまどうしになりたくてなったわけではないのだ。まじゅつしになったのだってなりゆきだったしな」
「魔術師って成り行きでなれんもん?」
「いまのじだいはしらぬが、かつてのわたしがいきていたじだいは、まじゅつしというのはべつにそれほどとくべつなしょくぎょうではなかった」

 リースレイの場合は、年老いた魔術師が豊富な魔力を持つ彼女を弟子として引き取ったから魔術師になっただけだ。

「へえ~」
「………ふむ。いまのわたしはなににでもなれるのだな」

 ふと、何かに気付いたというようにリースレイが呟く。

「そりゃあ、姫さんはまだ子供だし……」

 オレは、今更、剣を手にしない人生なんて無理だけどな、とイシュラは笑う。

「……そうだな。こどもでよかったかもしれない。これだけおさなければ、いまからなににでもなれるじゃないか」

 しかも、リースレイには八百数十年+五年の知識と経験値がある。

「……あの~……姫さん?」

 ふふふふふ……とリースレイは笑った。

「もしもーし、姫さん?オレの声、聞こえてっか?」

 あやしく笑うリースレイは、やはりどこからどう見ても悪役にしか見えなかった。






2009.09.02更新
2009.09.03修正



[11484] 第2章-1
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2011/03/14 22:45
 ルドクは、運の悪い青年だった。

(小さい頃は別にそんな風に思わなかったから……期間限定なのかもしれないけれど……)

 生家は、地元ではそれと知られた穀物商だった。裕福な家庭で充分な教育を受けることができたのは、今でもとても有難く思っている。
 高等教育を終えたルドクは、王都の卸も兼ねている大きな穀物商で修行をすることになった。仕事の段取りや、呼吸というものを覚えたら、故郷に戻って家を継ぐことになっていた。
 だが、この修行期間中に父が亡くなってしまったのだ。
 これが、ルドクの不運の始まりだった。
 慌てて故郷に戻れば、葬式もロクにせぬまま父は葬られ、家と穀物商の鑑札は、後妻に入った義母と連れ子の弟に売り払われた後だった。
 ルドクの手元に残ったのは、故郷を出るときに父から渡された母の形見の耳飾だけ。今となっては、それが母だけでなく父の形見ともなってしまった。
 不運はまだ続いた。
 ルドクが故郷に帰っている間に、勤めていた商家がお咎めを受けたのだ。後ろ盾となっていた貴族の失脚に伴うもので、店は規模の縮小を余儀なくされ、王都に戻るなり、ルドクはクビを言い渡された。
 渡された半月分の給金は、これから苦しくなるお店からの最後の心尽くしだったから、文句を言う事はできなかった。
 そして、トドメの不運は、彼が仮住まいしていた安宿が家事で焼け落ちたことだろう。
 宿に置いておいたルドクの全財産は炎の中に消えた。ちょっとそこまで買い物に行くだけというつもりだったから、持っていたのは当面の生活費の入った財布だけ。首から下げた守り袋にいれた耳飾りが無事だったのが、せめてもの慰めだった。
 王都では基本的に、紹介状のない人間は雇い入れてもらえない。だが、お咎めを受けた商家の紹介状ではどこにも勤められなかった。皆、係わり合いを恐れたのだ。

(心機一転、運勢を変えようと思ったんだよな……)

 国境ならば保証人がなくとも勤められると聞いてやってきたこのリスタの街では、聖堂にお世話になりながら日雇いの仕事をしていた。
 大概が荷運びだ。でも、時々、臨時で聖堂の世話役をしている商人の家でパーティーの給仕なんかの仕事もさせてもらえる。パーティーの給仕は食事つきで、かえりにも何かお土産を持たせてくれるからとても割がよい。
 週に一度の外食を楽しみに、毎日、爪に火をともすようにわずかな給金を貯めているのは、いずれ行商をやりたいと思っていたからだ。
 あともう少し貯めれば、ちょっとした小商いくらいはできるだけの資金ができる。
 
(……なのに、不幸は手をつないでやってくるってほんとだな……)

 人が良いとか、お人よしとよく言われるルドクだった。怒ったことなどほとんどないし、不運が続いても誰かを恨んだ事も無い。自分のめぐり合わせをほんのちょっとだけ嘆いただけだ。
 だが、目の前で薄ら笑いを浮かべている男たちの集団を見ていると、神様というのは血も涙もないんじゃないかと思えてくる。

(毎日、ちゃんとお祈りしているし、心をこめて掃除もしてるんだけどなぁ……)

「へへへへ……」
「ここを通りたければ、通行料を置いていきな」

 決まりきったセリフに、思わず溜息がこぼれる。
 聖堂から町の中心へと至る細道の両側を、柄の悪い男たちが塞いでいた。中には刃物を手にしている男もいる。
 これみよがしで、いかにも……な様子なのだが、そうは思ってもルドクはこういった荒事がまったく苦手だった。
 ケンカもしたことがない。
 ルドクは懐の財布に手をやる。あの火事以来、全財産を必ず身につけるようになった。だから、これは今の彼の持つすべてだ。

(でも、命にはかえられないからなぁ……)

 お金は働けばまた稼げる。痛い目に遭うのは嫌だし、ケガをするのも嫌だ。どんなに抵抗しても、きっとルドク程度では痛い目に遭うだけで奪われる結果は変わらないだろう。

(でも……)

 たとえそうだったとしても、やはり何もせずに奪われるのは口惜しかった。

 その時だった。

「おい兄ちゃん、昼メシ、おごれや」

 そうしたら、こいつらシメてやんから、と、頭上からのんびりとした声がした。
 振り仰げば、道の東側の崖の上に二つの影が立っている。

「お、おごりますっ!リスタ一おいしい、名物の壷焼きシチュー!」
「へえ、壷焼きシチューが名物なのか。……三人前な!」
「は、はい!」
「よーし、決まりだ」

 何を言ってやがるとか、貴様―っとか、いかにもそれしいセリフが飛び交う。その、騒いでいたチンピラ達の上に、影が降って来た。

(……え?)

 男が飛び降りたのだと理解した時には、取り囲んでいた男たちの半数は呻き声をあげて地面に転がっていた。
 彼らにとって、その男は、文字通り天から降って来た最悪の災いとなった。

(……すごい……)

 だが、ルドクにとって、男はヒーローだった。
 剣は手にしているが、鞘から抜いていない。最小限の動きで、男たちのナイフや拳を避け、叩き伏せる。
 チンピラは、五分と経たぬ間に、一人残らず地面に倒れ伏した。



**********



「えーと……僕は、ルドクといいます。ルドク=タウ」

 ルドク青年が絶賛した店は、細い入り組んだ小路の突き当たりにあった。
 十人入ればいっぱいになってしまうような小さな飯屋で、地元の人間でなければまず来ないだろう。

「あー、オレのことはイシュラって呼んでくれ。こっちはオレの姫さん」

 イシュラは、ルドクにリースレイを紹介する。

「リースだ」

 にこりともせずにリースレイは言った。愛想はまったくない。リースレイがそんなものを期待するのが間違っている。
 エビモスの森の物言わぬ住人達から強制的に提供を受けた品々のおかげで、今のイシュラとリースレイは見た目だけは普通の旅人に見える。
 これで旅の商人のほとんどが持っている背負い箱があれば行商人に見えなくもない。
 無精ひげをはやしているイシュラは、身なりと口調のせいもあってか、一見して騎士だと思う人間がいないからだ。
 だが、それはリースレイの顔を見なければ、だ。リースレイの顔を見れば、絶対に彼女が商人の子供だとは思わない。

(あー、前髪伸ばしてもらうかな……)

 髪を伸ばし、目元を隠してもらう。それだけでもだいぶ違うはずだった。
 美しいということは必ずしも幸せなことだとは言い切れない。イシュラはそういった実例を幾つも知っている。

「イシュラさん、リース様、このたびは危ないところをお助けいただき、ありがとうございました」

(あー……リース様、ね。うん、まあ、わかるけどな)

 ルドクは意識してか無意識か、リースレイ様付けで呼ぶ。何を言ったわけでもないのだが、何か感じるものがあるのだろう。
 深々と頭をさげるルドクは、どこか人のいい……育ちのよさを感じさせる青年だった。それほど裕福な生活はしていないのだろうが、きている服はきちんと洗濯されているものだし、その振る舞いには卑しさがない。

「いやいや、姫さんが助けてやれっていうからさ」

 ひらひらと目の前で手を振る。
 別に親切心からしたというわけではなかった。

「……たんに、つうこうのじゃまだっただけだ」
「それでも、有難かったです。これ、僕の全財産ですから」

 ルドクは、服の上から懐を押さえる。

「全財産持って歩くのは、危険じゃねえ?」
「そうなんですけど、前に火事で宿に置いておいた荷物が全部焼けたことがあったから……」
「なるほど……そういうことあると、安心できねえもんな」
「ええ。……今置いてもらっている聖堂は石造りだから簡単には燃えないってわかっているんですけど……でも、聖堂の雑居房はいろいろな人が出入りしますから……」

 ちょっとした町の聖堂には、巡礼用の雑居房が必ずある。
 リスタは国境だし、関所もあるから、一つの建物をまるまる雑居房にあてていた。
 雑居房は、巡礼の人間でなくても宿泊できる。勿論、無料というわけではなくて、いくばくかの喜捨をすることが定められている。その喜捨の額で房内で割り当てられる部屋が決まるのだ。

「特に、僕は大部屋ですし……」

 二段の寝台がたくさん並んでいるだけの大部屋はいろいろな人間が宿泊する。行商人もいれば、やさぐれた雰囲気の剣士や、夜逃げをしてきた家族連れなどもいる。ルドクはもう三ヶ月の滞在になるが、何度か物やお金がなくなる騒ぎがあった。

「盗まれる心配もあるってわけだ」
「残念なことですが、そうです」

 イシュラは、アツアツの壷焼きシチューにバムと呼ばれるこの地方独特の平べったいパンを突っ込む。ちぎったバムで野菜のとろけたシチューをすくうようにして食べるのが地元の人間の食べ方だ。

「う~め~っ、確かにおまえが絶賛すんだけあるわ、これは」

 アツアツのシチューには、良く煮込んだ野菜がとろけている。肉の塊はがっつり二つ。脂身がプルプルに溶けている様子は、食べたときの幸福を予感させる。

「でしょう。しかも値段も安いんです。ここの近所に住んでいるオルじいさんに教えてもらったんですよ」
「…………だれ?それ」

 リースレイが口を挟む。

「えーと……道に座り込んでいて、歩けなくなったおじいさんです。家まで送ったんです。オルじいさんは、茶葉を行商する旅商人で、世界中を回ったそうなんですけど、ここのシチューの味は世界で十本の指に入るって」

(……それ、他人って言わね?)

 店に出入りする人間達は、何やかやと皆、ルドクに声をかけていく。ルドクはその一人一人に丁寧に言葉を返していた。
 ルドクは人好きのする性分らしい。単に常連客同士の親密さであるというだけでない何かが、そこにはある。

「へえ……」
「イシュラさん、食べ方上手いですね。前にも来たことが?」
「いんや。でも、ギスタっつー、古王国アルマイディスのシチューみたいなのも、バムみたいな平べったいパンで食うからな」
「……ギスタはえびいりのからいのがすきだ」

 ぼそり、とリースレイが言う。

「おっ、姫さんは海鮮ギスタか。オレはやっぱり肉がっつり入ってるのだな。薄いスープみたいなのはダメだ。ドロドロの濃いのじゃねえと!」

 イシュラはあっという間に最初の一壺目を空にする。

「さすが名物だな。……姫さん、熱いのか?」
「ん」

 リースは、壺から小さな器に取り分け、更に木匙にふーふーと息を吹きかけて冷ましながら食べている。
 ルドクの目には無表情にしか見えないかもしれないが、イシュラにはわかる。これでかなりのご機嫌状態だ。その証拠に話をちゃんと聞いているし、ちゃんと会話にも参加している。

「このとろーっとした肉も最高だけど、野菜の味のしっかりしたシチューの味が絶品だな。絶妙なとろ味加減が最高だ!」
「でしょう。壷焼きシチューの店はたくさんあるんですが、その中でもここが一番だと僕は思ってるんです。イシュラさん、結構、食いしん坊ですね」
「おうよ。ぜ……楽しみは食いもんくらいしかなかったからな」

 前線での楽しみは食い物だけ、と言おうとした言葉を飲み込んで言い直す。
 運ばれて来た二壺目は、一壺目より盛りが良かった。
 台所の方を見ると、頑固そうな親父は無言で鍋をかきまぜていた。その背中には、料理人としての誇りがにじみでている。

「姫さん、足りない荷物を買い揃えたいから、今日はリスタに泊まらないか」
「かまわないぞ。ならば、せいどうにしゅくはくしよう」
「聖堂にですか?」
「そうだ。やどでもよいが、しさいとはなしがしたい」
「司祭さまと?」

 ルドクが軽く目を見開く。

「べつに、じょさいでもかまわない。れきしやちりのはなしがききたいんだ」

 いつの世も、聖職者はインテリ層に属する。手っ取り早く広範な情報を集めたいと思ったら、聖職者を訪ねるのが一番だ。

「えーと……イシュラさんとリース様はいったいどういう方なんですか?」
「わたしはぼつらくきぞくのむすめで、イシュラはわたしにつかえるきしだ」

 さらりとリースレイは言った。

「ああ……そうなんですか」

 ルドクは納得した。思わずイシュラもうなづく。
 リースレイの説明は、なかなか絶妙だった。
 イシュラがリースレイに仕える騎士であることは確か だし、リースレイが貴族の姫であることも確かだ。
 強いて言うならばまだ没落はしていないが、両親を失った現況だけを言えば、そう言っても間違いではない。
 それに、没落したと言えばなかなかそれ以上は突っ込みにくいものだ。幼い子供相手では尚更に。
 ルドクは、リースレイが幼いとは思っていてもまさか五歳だとは思っていないだろう。

(あれ……なんか大事なこと忘れてる気がすんぞ……)

 イシュラはクビを傾げる。リースレイの家というか、そういった関係の事で何か大事なことを聞いたことがあるような気がした。
 だが、元々、イシュラは貴族とか政治とかそういうことにさっぱり興味がない。

(まあ、いっか……)

 イシュラは、思い出すことを諦め、シチュー壺の底を綺麗にぬぐったバムを頬張った。





2009.09.03更新
2009.09.22修正
2010.03.14修正



[11484] 第2章-2
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/04 08:07

 ルドクの案内で買い物を済ませ、聖堂に落ち着いたのは昼過ぎだった。
 司祭に相場よりやや多めの喜捨を渡し、司祭の好みの葡萄酒を一本握らせると、司祭は快く寝台が二つある小部屋を提供してくれた。イシュラはそういう世情に通じている。
 リースレイは大部屋でも良いと言ったのだが、それではイシュラがおちおち寝ていられない。いかにイシュラが腕に自信があれど、数にはかなわないことがある。

「ここの司祭さまは歴史のお話についてはあまりご興味がないようですから、書庫で本を見せてもらったらどうでしょうか?聖堂の書庫には、歴史や地理の本は一通り備え付けてあるはずですから」

 別口で書物費という名目の寄付をすれば簡単に書庫に出入りする許可が得られるだろうと教えてくれたのはルドクだ。ルドクは、ただ人がよいだけの若者ではない。



「悪ぃな、ルドク、案内までしてもらって」

 司祭はあっさりと書庫への出入りの許可をくれた、そればかりか、持ち出し禁止本の棚の鍵まで渡してくれた。

「いえいえ。……リースさま?どうかしましたか?」

 天井まで続く本棚が幾つも設置されている書庫は、書庫の常としてややカビくさい。小さな窓をあけて換気するが、カビとインク臭が混じった書庫独特のこの匂いばかりはどうにもならないだろう。

「……すごい」

 目を輝かせたリースレイは、しきりに感嘆の溜息をついている。

「お役に立てそうですか?」
「うん。ありがとう、ルドク」
「いえ」
「……イシュラ、おまえはそこでひるねでもしているがよい」
「へいへい」
「へんじはいっかいだ」
「へい」

 リースレイの意識は既に目の前の本達に奪われている。嬉しそうに背表紙を撫でている姿にイシュラは目を細めた。

「……本が、お好きなんですか?」
「……みたいだな」

 二人はリースレイの邪魔にならない入り口脇の作業台と椅子のあるコーナーに腰を落ち着ける。

「イシュラさんは、本は苦手ですか?」
「読めねえってわけじゃないんだけど……ま、オレには剣を振り回してる方が性に合ってるな」

 イシュラは壁に寄りかかり、長剣を抱いたままリースレイの姿を視界にいれておく。
 脚立の上にちょこんと座ったままで、リースレイは読書に没頭していた。
 イシュラにはパラパラとめくっているだけのようにしか見えないのだが、それで充分読んでいるらしい。

「……リースさまは、頭が良いのですね」
「……ああ。姫さんの頭はピカイチだ」

 即座に肯定した。
 リースレイが褒められることは、イシュラには我が事以上に嬉しいことだ。いくらでも自慢したくなってしまう。

(……ちょっと自重しねえと……主バカの騎士を笑えねえ……)

 主もちの騎士が主一途なことを、イシュラ達のような叩きあげの騎士達は、『主バカ』と言ってさんざんバカにしていた。主もちの騎士が貴族であることがほとんどだったせいもある。
 なのに、今ではイシュラもその仲間入り寸前だ。

「イシュラさんはリース様が、ほんっとに好きですね」

 ルドクは半ばからかうような口調だった。

「…………たぶん、好きとか、嫌いとかじゃねえな」

 からかわれていることはわかったが、イシュラは小さく笑う。
 リースレイに関してだけは、冗談でも否定する気にはなれなかった。

「何なんです?」

 ルドクは、期待感たっぷりな眼差しでイシュラを見上げる。

「…………ひみつだ」
「えーっ、そんな……」

(……『運命』だなんてこっぱずかしいこと、素面で言えるか)

 イシュラは自分がとっくに主バカである自覚がなかった。



 書庫の中で時間の進みは常よりも遅く感じられた。
 イシュラが何もすることがないせいかもしれない。
 おしゃべりにつきあってくれていたルドクも、夕食の手伝いとかで席を外している。

「……なあ、姫さん、そのままでいいから聞いてくれ」
「…………ん?」
「この先のことだ」
「……さきのこと?」

 リースレイは、本から顔をあげた。
 作業台の上には持ち出し禁止の大判の地図がついた本が広げられている。

「ああ。オレは、リスタに数日滞在してもいいかと思ってるんだが……」

 今の感じだとおそらく追っ手はいない、とイシュラはみている。
 ならば、少しくらい腰を落ち着けるのも悪くはない。リースレイはなにやら調べものをしているようだし、国境にあるこの街は、情報を集めるのにも適している。

(とりあえずは、戦のその後だな……)

 街の噂は、なかなか侮れない。
 リスタに入ってから、イシュラは心がけてブラウツェンベルグの情報を集めていた。
 街の噂を総合すると、ブラウツェンベルグはラシュガークを落としたが、ハッシュバーグ城塞を包囲していた本隊と合流後、救援に来た第三師団の本隊と要塞守備隊に挟撃され、敗北を喫したらしい。
 だが、帰国したという話を聞かないところをみると、ブラウンツェンベルグ軍はまだ帝国の国内にいるようだ。
 それは、未だ戦が終わっていないということだ。

(別働隊にとってラシュガークに七ヶ月も足止めされたことは、計算外だったに違いない……)

 今こうしてあの時の状況を考えれば、ラシュガーク城砦を包囲したブラウツェンベルグの
 別働隊に、逃げ出した敗残兵を気にする余裕などなかったのではないか、とイシュラは考える。
 それはローラッド側も同じで、城砦から落ち延びた彼らが生きているなどとは思っていないだろう。

「しらべたいことがあるから、たいざいするのはかまわない」
「戦の中をわざわざ戻ることはないと思うんだよな」

 戦が終わるまで安全な場所にいるというのも一つの選択だ。
 今のイシュラにはリースレイがいる。わざわざ戦場に戻ろうとは思えない。

「………そうだな。……ちょうどいいきかいだ。このさきのことをちゃんとはなそうか」
「姫さん?」

 イシュラは怪訝な表情でその先をうながす。

「……おもうのだが、べつに、ていこくにもどるひつようはないとおもわないか?」
「は?姫さんは、伯爵家の世継ぎだろう?」

 イシュラはぎょっとした。
 伯爵夫妻に子供は一人……リースレイだけのはずだ。
 貴族にとって、家を……家名を守る事は何よりも大切なことのはずだった。

「……イシュラ、ていこくは、ラシュガークをすてたときに、わがリーフェルドはくしゃくけをもすてたのだ。いまさら、よつぎもなにもないとおもわないか?」

 リースレイは、広げていた本をぱたんと閉じ、まっすぐと視線を向けてくる。

「それは……」

 イシュラをまっすぐと見る紫水晶の瞳……それは、確かな意志の力を宿している。

「わたしのていこくへのちゅうせいなど、ラシュガークをやいたほのおのなかで、かけらものこらずはいになった」

 その言葉は、すとんとイシュラの心の中におさまる。それは、イシュラの中にも同じ気持ちがあったからだ。
 リースレイから、強い圧力を感じる。……その存在の持つ、力。それは、こんな子供の持つ者とは思えないほど。

「わたしは、ていこくをすてる」

 殊更、宣言するという口調ではなかった。けれど、その言葉には力があった。
 おまえはどうするのだ、とリースレイは視線で言う。

「……オレはあんたの騎士だよ、姫さん」
「ああ」
「だから、あんたと行くさ」

 イシュラは笑って付け加えた。

「……どこへでも」
「うん」

 リースレイは、口元に小さな笑みが浮かべた。
 嘲笑するでもなく、作り笑いでもない……リースレイの素の微笑み。それが、イシュラが手に入れた報酬だった。




2009.09.04更新



[11484] 第2章-3
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/22 21:39
「あ~、姫さん、メシ食ったらまた書庫か?」
「もちろんだ。……いろいろとショックなことがあってな……」

 そこで、リースレイは深い深いため息をつく。

「何がだ?」

 イシュラの眼差しに、リースレイが躊躇いがちに口を開く。

「………まえのわたしがしんでから、500ねんいじょうもたっているんだ……」
「………………へえ」
「500ねんだぞ!」

 何がそんなにも落ち込む原因なのか不明だが、しょんぼりとしているのが気になった。

「姫さん、なんか問題あんの?」
「………ちしきに500ねんもくうはくがあるのだぞ?いまのわたしは、あまりにもむちだ」
「子供だからいいんじゃねえ?」

 そのリースレイより物を知らない自分はどうすればいいのだろうと思いつつ、イシュラは指摘する。

「…………………ふむ」

 リースレイはその紫の瞳を軽く見開いた。

「知ることがいっぱいあって楽しいんじゃねえの?姫さん」
「…………そうかもしれない」

 素直にこくりとうなづく。知らないことを知るということがリースレイは好きだった。
 だからこそ、かつての彼女にとって『魔術師』は天職であり、やがて、『魔導師』にまでなったのだ。
 その性質は今でもあまり変わっていないらしい。

「じゃあ、それでいいだろ」

 苦笑にも見える笑い。

「………イシュラはたんじゅんだな」

 ふぅと息をつく。そして、言葉を継いだ。

「だが、それこそがしんりをしめす。……おまえは、ときどき、1000ねんをいきるけんじゃのようなことばをくちにする」
「別に、そんなんじゃねえよ」
「……おまえが、わたしのきしになってよかった」

 リースレイはにっこりと笑った。満面の微笑だった。

(反則技だっての……)

 どうしていいかわからなくなって、ぐりぐりとその頭を撫でるとぺしっと容赦なく叩き落とされる。

「わたしは、あたまをなでられるのがだいきらいだ!」
「……あー、そりゃあ、すいませんでした」

 ふんっと、仁王立ちしている少女はとても可愛らしい。

「わたしは、たしかにからだは5さいじだが、なかみはちがうのだからな」
それをよく心得ておけ!と言い放つ。
「……………あのよ。姫さんの精神年齢って何歳なんだ?」

 ふと、イシュラは疑問に思った。

「そんなものないしょにきまってる!おとめごころのわからないおとこだな!」

 氷の眼差しで睨まれた。……なかなかに凄味がある。

「……………………」
(あー……ちっこくても、女だなぁ……)

 思わず生ぬるい笑みを浮かべてしまうのは、イシュラがそれなりに女性とのお付き合いというものを重ね、酸いも甘いも一通り経験したことがあるからだろう。ちょっとやそっとの女性特有の理不尽さは、可愛いわがままのうちで処理できる。

「……そもそも、そういうイシュラは、なんさいなのだ」
「あー、オレ?オレはたぶん、次の冬がくれば28だったか……いや、29だったかな?まあ、そこらへんだ」
「ふむ。いい年齢だな」
「……あれ、聞かねえの?どっちなのか」
「1さいや2さいちがったところで、おまえのなかみがかわるわけではない」
「はははは……姫さんらしいや」

 廊下をずんずん歩くリースレイの後を、一歩さがってついていく。そこが、イシュラの定位置だ。

「なぁ、姫さん、あとどんくらいリスタにいる予定?」
「なぜだ?」
「いやぁ、まだ滞在すんなら、また街で新鮮な果物でも買ってこようかと」
「……みっかごにはしゅっぱつするから、そのよていで、かいものをするがよい」
「へいへい」
「へんじはいっかいだといってるのに……」
「へーい」

 ふざけた返事に怒ったリースレイは、イシュラの足を全体重を込めて踏みにじった。




「けっこう、ひとがふえてきたな」

 食堂は、いつも以上に賑やかだ。その半分以上が、巡礼者である。
 巡礼者は、黒の地にティシリア聖教の聖句『イシュトリ・ヴァルダグ・セルダス(未だ生を知らず)』を飾り文字に図案化し、銀糸で縫いとった聖帯をタスキがけにしているから一目で区別がつく。

「あー、団体がいるみたいだからな」

 今は、緑月のはじめ……暑くもなく、寒くもない。旅には適した季節だったから、巡礼の数も多いのだろう。

「だんたい?」
「巡礼団だよ。聖地巡礼なんざ、半ば娯楽も兼ねてたりするんだが、個人で行くより団体で行った方がいろいろ便利だし、旅費も安くあがる」
「ふむ。こじんはいないのか?」
「いや。んなこともねーけど……何?姫さん、巡礼しようとか考えてる?」
「うん」

 こくりとうなづく。

「……なんでまたそんな物好きな」
「しんじつじゅんれいしゃになるわけではない。ただ、いろいろとしさいたちにはなしをきいたのだが、あのおびはいろいろとべんりだ」
聖帯は、聖堂にて巡礼の誓願をたて幾ばくかの喜捨をすることでもらえる。
「……ただメシが食えるからか?」

 帯を持つ巡礼者は、各地の聖堂においていろいろな便宜をはかってもらえる。
 例えば、雑居房に宿泊させてもらう際の喜捨も、巡礼者は奉仕活動で代用することができるし、食堂では朝夕に巡礼者用の簡単な食事が無料で振舞われている。
 聖堂ばかりではない。巡礼者は、ティシリア聖教の信徒からのさまざまな奉仕を受けられる。
 『奉仕』――――― それこそが、ティシリア聖教の根幹をなす精神だ。
 信者は、巡礼者に自分達のできる範囲で便宜をはかる。それはささやかなことでいいのだと司祭は説く。
 例えば、道行く巡礼に収穫したリンゴを一つ差し出す事、あるいは、足にマメができて困っている巡礼に薬草を教えてやる事……そんなことでいい。そういった奉仕を重ねる事で、人は自身の徳を高める。
 巡礼者は聖堂でなくとも、信者の家に一夜の宿を求める事ができるし、食事の喜捨を願うこともできる。

「それだけではないぞ。……イシュラ、あれは、みぶんしょうめいになるのだ」
「………………なるほど」

 イシュラはすぐにリースレイの言いたい事がわかった。
 旅人は、旅券を持って旅するのが普通だ。旅券というのは、出身地の役所で発行してもらう身分証明書のことで、国境では必ず、旅券の改めがある。
 当然のことだが、イシュラとリースレイはその旅券を持たない。
 リスタへの入国は関所のない場所だったから良いのだが、この先、毎回それというわけにもいかないだろう。関所破りというのは、どこの国でもそれなりの罪になる。
 だが………旅券がなくても許される旅人がいる。
 それが、巡礼だ。
 ティシリア神聖皇国の皇都アル・メイダ・オルカダールへの巡礼は、ティシリア聖教の信者にとってある種の神聖な義務であるとされている。その神聖な義務に対し、役所の許可など必要ないというのが、聖堂の言い分だ。
 事実、ティシリア聖教を国教とする国々では、巡礼の聖帯を持つ者に対する旅券の改めがない。国教としない国であっても、大陸最大の宗教に対する気遣いから、旅券がなくとも巡礼であることが証明できれば通行を許される。

「リドじいが、わたしがせいちにきょうみをもっているといったら、よろこんであのおびをくれるといっていた。それから、ほんざんのしりびとにしょうかいじょうもかいてくれるそうだ」
「……すっかり、リド司祭を誑しこんだよな、姫さん」
「たらしこんだなどとは、ひとぎきがわるい。ただ、なかよしになっただけだ」
「……あー、物は言いようだよな」

 ちょっと言葉遣いにさえ気をつければ、リースレイは天使のように可愛らしいお子様である。七十を越えるワイン好きの司祭には、理想の孫か何かに見えているのだろう。
 リースレイの歓心を買うために、お菓子やら果物やらをもってよく書庫にやってきていた。
 生憎、リースレイはいつも通りでまったく愛想はないのだが、それがいいらしい。

「それに、わたしにはしらねばならぬことがある」

 リースレイがわずかに目を伏せる。
 『知りたいこと』ではなく、『知らねばならぬこと』……それは、過去に絡む何かなのだとイシュラには確信がある。
 痛みに耐えるようなリースレイの表情に、イシュラはそれ以上問う言葉を持たない。
 怒らせるのを覚悟の上で、頭に手を伸ばそうとしたその時に、上から声がした。

「イシュラさん、リース様……隣、良いですか?」

 ルドクだった。イシュラはほっと肩の力を抜く。
 久しぶりにルドクの声を聞いた気がした。ちらちらと姿を見かけてはいたが、イシュラ達はほとんど書庫に詰めっきりだったし、ルドクはルドクで忙しそうだったのだ。
 外での仕事が多かったのだろう。肌はこんがりと小麦色に焼け、とても健康的だ。。

「かまわない」

 リースレイのうなづきに、イシュラもうなづいた。

「久しぶりだな。五日ぶりか?ずいぶん、日焼けしてんな」
「街道工事の人足の仕事をさせてもらっていたので……」
「なるほど」

 混雑し始めた食堂では、相席は基本だ。ぽつぽつと空いていた席は次々と埋まってゆく。

「これ、橋のところの屋台で売れ残りをもらったんです。よければどうぞ。イモ揚げです」
「お、ありがたく」

 売り物にならない小さなジャガイモを丸いままからっと揚げて、塩をふっただけの素朴なイモ揚げは、このあたりでは一般的な屋台食だ。おやつにするだけでなく、軽食として利用する人間も多い。

「……さめても、おいしいいもだな」
「そうなんです。このあたりのイモは、あまみがあるっていわれてます。さめると甘さが増す気がするんですよね」
「あぶらっぽくないのがいいな」
「おばちゃんのこだわりで、ナダっていう植物の油を使ってるそうです。それ使うとカラッと揚がるそうです」
「ふ~ん」

 リースレイは二つ目をつまんだ。

「……僕の故郷のイモ揚げは、揚げた後、塩じゃなくてバターをかけて食べるんですよ」
「へえ、それもうまそうだな」
「ええ。揚げたては格別です」
「北の……ザールの方では、揚げたイモにチーズをかけて食べるんだぜ」
「それも、おいしそうですねぇ」

 互いに食いしん坊を自認するルドクとイシュラの話は、いつも互いに食べた事のあるものの話になる。
 今食べているのは薄いスープが一皿とバムが一枚だったが、うまい食べ物の話をしていると何となく心が慰められる。

「このたいりくに、イモは500しゅるいいじょうある。そのうち、たべられるのは300ていど。いっぱんてきに、みなみのちいきほどあまいものができる。アディラウル……いや、いまは、アディルこうこくだな。アディルこうこくには、りんごよりもあまいイモがある」
「へえ~」
「それは、食べてみたいですね」
「だよな」
「……しかし、ざんねんだが、アディルはとおらない」
「あー、ティシリアはその手前か」

 残念そうなイシュラに、ルドクが怪訝そうな眼差しを向けた。

「…………もしかして、出発が決まったんですか?」
「ああ。姫さんが、聖地巡礼をするって言うんでな」
「アル・メイダ・オルカダールへ?」
「そう」
「……失礼ですが、お二人はローラッドの方でしたよね?」
「ああ、そうだ」
「なのに、聖地巡礼ですか?」

 ルドクが不思議そうなのは、ローラッド帝国はティシリア聖教を国教としていない国だからだ。迫害こそないが、どちらかというと避けられているかもしれない。だから、ローラッドに聖教徒はあまりいないのだ。

「わたしのもくてきは、『としょかん』と『とう』と『しと』だ。アル・メイダ・オルカダールは、たいりくでゆいいつ、ほろんだことのないとしだからな」
「『永遠不滅の円環皇都』ですね」

 リースレイの言葉に、ルドクは笑いながら言った。

「そうだ」
「なんだ?その永遠不滅の円環皇都って」
「アル・メイダ・オルカダールの別名です」

 ティシリア聖教の本山にして、ティシリア神聖皇国の皇都……それが、聖地アル・メイダ・オルカダールだ。

「アル・メイダ・オルカダールは、ティシリア神聖皇国の皇都となる以前、小さなオアシス都市でした……ですが、そのはるか以前は、古代の魔導王国の都であったとも言われています。魔導王国については、どんな記録も残されていませんが、その名残が、アル・メイダ・オルカダールの十二の塔です。この十二の塔には、かつて魔導王国の王によって封じられた十二の精霊がいて、彼らを十二使徒と呼びます。十二使徒が存在する限り、十二の塔をぐるりと結んだ円環の内側……つまり、アル・メイダ・オルカダールは戦火に焼かれることがないそうです」
「へえー。……詳しいな、ルドク」

 イシュラは、心底感心した。ルドクは、かつてかなりの高等教育を受けた事があるのかもしれない。

「イシュラさん、知らないんですか?レクターナの歌。その中に出てきますよ。吟遊詩人達の定番だと思うんですけど」
「レクターナの歌?」
「レクターナは、しょだいローラッドこうていアスガールのきさきのなだ」
「ああ……大地の女神の娘だったっていう」
「え、レクターナは、十二使徒と契約した最初の法皇ファラザスの妹ですよね?」

 二人の疑問に、リースレイは答えない。代わりに、ルドクが当たり前のように知っていることを、イシュラがなぜ知らないかを教えてくれる。

「ローラッドでは、レクターナのうたをうたうことはきんしされている。レクターナがなにものであるかは、もうだれもわからないだろう。1000ねんいじょうもまえのはなしだからな」
「そうなんですか」
「ああ」

(……何か知ってるな、姫さん)

 リースレイは二つの記憶をもつからこそ、慎重だった。

(……昔の姫さんが生きてた時代に重なってるのかも……)

 そういったことは、リースレイから話してくれることを待つべきだろう。

(しかし……こいつもどうしたんだか……)

 ルドクの何かをかなり深く考え込んでいる様子が、イシュラは少しだけ気になっていた。




2009.09.05更新
2009.09.22修正



[11484] 第2章-4
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/07 01:10
「イシュラ殿、よろしいかな」

 その日、昼前に書庫を訪れたのは、このリスタ聖堂を預かるリド司祭だった。

「リド司祭……あ、はい……」

 イシュラがめくっていたのは、この書庫の本ではない。
 食堂で出会った巡礼帰りの中年男と桃と物々交換した本だ。表紙が青一色であることから青本と呼ばれるこの薄い冊子は、聖堂が発行しているものである。
 イシュラの青本は、聖地の簡単な絵地図と繁華街の詳細図、有名な店の情報、また、聖地での決まりなどについて書かれているちょっとした観光ガイド本だ。

「おお、本山の観光ガイドですな」
「ええ。……オレはローラッドの辺境で生まれた田舎者で……聖教のことも、聖地のこともほとんど知らない。姫さんと違って、難しい本だとよくわからんので、まずは簡単なきまりだけでもおさえておこうかと思いまして……」

 イシュラは頭をかく。
 自分だけの事なら別にかまわない。だが、イシュラの振る舞いは、すべてリースレイの名にかかるのだ。自分の無知で、リースレイに恥をかかせるようなことだけはしてはならない。

「ふむ。……それでは、私が聖教について簡単にお話しましょうかな」
「ぜひ、お願いします」

 にわか弟子となったイシュラは、姿勢を正してリド司祭に頭を下げた。
まがりなりにも、騎士叙任を受け、正規の軍人として生きて来たイシュラだ。その気になれば、作法通りの所作で丁寧な言葉遣いもできる。

「まず、ティシリア聖教は、およそ1800年くらい前には現在の原型が成立していたと言われておりますのじゃ。元となっておるのは、魔導王国の国教であるとも言われておりますが、なにぶん、魔導王国の時代というのは記録がありませぬでな……今よりも優れた文明国家であったとも言われておりますのに、一切の記録が無いのは不思議で仕方がありませぬ」
「はあ」

(……じいさん、なんかしょっぱなから脱線してねーか?)

「聖教の教えは聖典にまとめられております。これは、正典が13巻。外典が7巻。一般的に聖書と呼ばれておるのは、この正典の有名な説話を抜書きしたものですのじゃ。俗に新約聖書と呼ばれておるものがこれですな。……そして、聖職者でなければ読まない旧約聖書というのが、母なる神の事績を抜き書いたものです。……イシュラ殿は聖書をお読みになったことがおありかな?」
「……何度かめくったことはあります」

 18歳の時、戦で死んだ男の遺品として聖書をもらった。熱心な聖教徒でいつも聖書をめくっている男だった。

(……聖書の最後のページには、あいつの家族の絵姿がはさまってたっけ)

 神聖皇国で聖騎士になるのが夢だと、いつも言っていた。
 転属するたびに持ち歩いていたその聖書も、ラシュガールの炎の中に消えた。

「そうですか。……新約聖書は、初代から17代の歴代の教皇倪下にまつわる幾つかの説話を記したものですのじゃ。これは、倪下方の慈悲深い行いを通じ、『奉仕』と『愛』について知ってもらうためのもの。皇国の精神の源といっても過言ではありませぬ」
「なぜ、17代目までなんですか?」
「聖書を13冊の正典として編んだのが、18代目教皇……いえ、初代法皇のファラザスである為でしょうな。彼の時代に、ティシリア聖教は驚くほどの発展を遂げたのです」

 彼が生きていた時代から既に1200年が過ぎている。司教はこんな風に実在の人物のように話しているが、彼に関する事績は未だ謎も多い。
 イシュラにとってもそうだが、世間一般からすれば、ファラザスはおとぎ話の中の……あるいは、伝説の中の人物だ。

(剣持つ法皇……リェス=ファラザス・ザーランド)

 戦乱の大陸の中、異端扱いされ、迫害されていたティシリア聖教教団を砂漠の中の小さなオアシス都市であったアル・メイダ・オルカダールに導いた男。
 アル・メイダ・オルカダールを聖地と定め、ティシリア神聖皇国の建国を宣言し、彼は、剣を手に戦った。祈るだけの聖職者ではなかった。
 彼が戦ったからこそ、今のティシリア神聖皇国がある。そのため、歴代の教皇・法皇の中でも、特別な尊崇を集めている。
 イシュラの思うファラザスは、聖職者としてより、武人としてのイメージが強い。肖像などでも、火竜ザーリンガムを従え、左の手に十字架、右の手に剣を持った姿で描かれることが多い。
 ティシリア神聖皇国の紋章が火を吹く竜であり、教皇の座が火竜の玉座とも呼ばれるのは、ファラザスの死後も彼の僕たる火竜ザーリンガムが聖地を守ったからだと言われる。

「ファラザスの功績は、ティシリア神聖皇国の建国・教皇権の確立・教典の整備であるとされております。ですがな、それ以上に評価されていいのは、現在に至る法術体系の基礎を築いたことではないかと、私などは思っておりますのじゃ」
「法術?」
「……神聖魔術とも言いますな。広く知られている治癒術や魔力板の練成などは法術の中の一分野に過ぎぬのです」
「へえ」
「わしなどが、曲がりなりにも司祭として恥ずかしくない治癒の術が使えますのも、ファラザスの編み出した法術のおかげですのじゃ」

 リド司祭は、己の白い髭を伸ばすようにひっぱる。どうやらそれが司祭のクセらしい。

「……ですが、リースさまは、そのわし以上の力をお持ちじゃ」
「へ……はぁ?」

 へえ、と相槌をうとうとして、思わずすっとんきょうな声をあげる。
(うえ、じいさん、いきなり何だよ!!)

「イシュラ殿、リース様には、類い稀な魔力をお持ちなのじゃ」

 リド司祭はまるで睨みつけるような真剣な顔でイシュラを見る。

(……知ってますって)

「……かの方が、どなた様であるかはお聞きすまい。ですが、リース様の御身が危険であるというのであれば……ぜひとも、聖地にお逃れ下され」

 熱心な様子で、リド司祭は身を乗り出す。

「はあ?」

(いや、確かに逃げてきたわけだけど……じいさん、何か勘違いしてねえか?)

「隠された青き薔薇の流れの御身とお見受けいたす……いやいや、深くは問いませぬ。我らは母なる神の使徒でございますのじゃ。尊き御身をお託しいただければ、必ずや守って見せましょう」

(……じーさんが何言ってるかさっぱりわかんねー)

 台に手をつき、更に身を乗り出してくる姿には何かこう奇妙な迫力がある。

「……リドじい、なにかかんちがいしているのではないか?」

 舌足らずな甘い声がして、イシュラはほっと安堵した。
 何か盛大に勘違いされているようなのだが、それが何なのかイシュラにはまったくわからなかった。リースレイならば、あの謎の暗号のような言葉もきっとわかるに違いない。

「リースさま。このジジイめにお話できないのはわかりまする。じゃが、もし、御身の助けになることができるのであれば……そして、御身が、教団に身を投じてくださるのであれば、教団は……いえ、皇国は、国をあげて御身の安全をお守りいたしましょう」
「だから、それがかんちがいだというておる。わたしはべつにいのちをねらわれてはおらぬし、にげねばならぬわけもない」
「……本当でございますか?」
「ほんとうだ。……まあ、いくさばからにげてきたのではあるが、それはいくさばであるのだからとうぜんであろう。わたしのみはイシュラがまもるゆえ、べつにほかのだれかにまもられるひつようはない」

 イシュラは思わず頬が緩みそうになるのを引き締める。

「……………では、リース様は、ローラッド帝室の方ではないので?」

 イシュラはその言葉にぎくりとした。
 リースレイはただの伯爵令嬢だが、リースレイの母の双子の姉は、皇帝の妃だ。

「ちがう」

 はっきりきっぱりとリースレイは言い切る。

「なぜ、そのようなごかいを?」
「リース様からは確かな魔力を感じますのじゃ。魔力は血に宿りまする。リース様が内包する力は常人とは思えぬ強いものでありえぬものですゆえ、てっきり帝室のどなかの隠し子であられるのかと……」

(あー、姫さんの中身、『魔導師』だもんな……。そういうのって聖職者にはわかるんだ)

 へぇ、とイシュラは感心する。
 どうやら、彼が思っていた以上にリド司祭は聖職者として優秀なのかもしれない。勘違いはしているが。

「たしかにわがやは、だいだいつづくきぞくのいえで、わたしはそのひとりむすめだ。だがわたしのいえには、それとわかるようなこい『ち』は、ながれてはおらぬはずだ……わたしはとつぜんへんい……いや、かくせいいでんなのだとおもうぞ。きぞくであるからして、まったく、ていしつのちがまじっておらぬ、というわけではないのだし……」
「左様でございますか。それはとんだ勘違いを……」

 おはずかしいと笑うリド司祭に、リースレイも笑みを見せる。

(っつーか、姫さんが、あんまりにもえらそうだから、それも誤解の種になったんじゃねえの?)

 リースレイは別に威張っているというわけではない。変にプライドを振りかざしているわけでもなく、ただ、ごく自然にえらそうなのである。

(口調も、話す内容も、まったく子供らしくねえしな……)

 やや舌足らずなこの声で長々と難しい話をする。時々、舌を噛みそうになっているのだが、イシュラは気付かないフリをしている。噴き出しでもした日には、足を踏みにじるくらいでは怒りをおさめてくれないだろう。

「……魔力は血に宿ると、さきほど司祭はおっしゃいましたが、王家や皇家に生まれれば必ず強い魔力をもつんですか?」
「高い確率でそうなることは事実ですのじゃ。彼らはその血の濃さを失わぬ為……その血の宿す魔力を失わないような婚姻を繰り返しているのですからな。その為の政略結婚でありますのでしょう」

(……ん……?)

 何かが頭の端を掠めた。思い出せそうで思い出せないもどかしさが生まれて、もやもやした。

「お二人の国……ローラッドでそれはもっとも顕著でありますまいか?ローラッドの皇家は神の末裔を名乗り、皇帝は自らを現人神と称します。その為、皇族は特別な尊崇を受け、皇帝の第一の妃は必ず皇族から選ばれると聞きます。それはすべて、初代皇帝アスガールの血を伝える為にございましょう」

(……あ!!……)

 イシュラの脳裏に白い光が閃く。
 思い出したのは、五年前のある日。皇宮中に……いや皇都中にローラッドの薔薇の紋章が掲げられたその光景だ。

(あれは……)

 皇帝の第五皇子の生誕を祝っての事だった。
 第五皇子アーサー=ジョサイアを産んだのは、皇帝の最愛の帝妃カザリナ=アディライン……リースレイの母の双子の姉だ。
 アーサー皇子とリースレイは、同じ日に生まれた。
 その偶然を祝い、カザリナの希望で、二人は生後一週間とたたぬうちに婚約が成立したはずだ。
 皇宮中がその話で持ちきりだった。

「…………イシュラ、どうかしたか?」
「あ、いや……」

 皇帝の寵愛を一身に受けているカザリナ妃の産んだ第五皇子が、名門とはいえさほど勢力があるとはいえぬ伯爵家の令嬢を妃とすることは、継承順位が上の兄弟やその母、それからその後援者の大貴族達からも歓迎された。それは、母であるカザリナ妃が、次の帝位に対する野心はないこと示したとされたからだ。

(……もしや、ただの伯爵家の姫ならいざしらず、皇子の婚約者だったら、本国も行方を探すんじゃねえの?)

 突如降ってわいた可能性に軽く眉をしかめる。

(いやいやいや、あの城砦の様子で生きていると思う方がおかしいだろ……)

 あのラシュガークの最後を知れば、五歳の女の子が生き延びられたと考える者はいないだろう。
 イシュラの煩悶をリースレイは黙殺する。何を思い悩んでいるかは知らないが、その百面相をしているような表情を見る限りたいしたことはあるまい。

「……それにしても、リドじいは、めずらしいちからをもつのだな」
「自分ではそれほどとも思わぬのですが、存外珍しいもののようでしてな。とはいえ、私めは、魔力の強弱を光として感じる程度……フィリ・エーダであれば、もっと明確におわかりになるでしょう」
「エーダだいしきょう?」

 フィリという称号が意味するのは大司教位だ。

「はい。古王国アルマディアスの第三王子であられた方にございます」
「なるほどな……」
「聖職に俗世の地位は関係ないといえど、我らとて霞を食って生きているわけではござませぬのでな……実際のところ、充分な法力もお持ちでもらっしゃいます。末はラヴァスかとも言われていらっしゃる御方ですよ」

 司祭は人の良さそうな好々爺の顔で笑う。

(……意外に辛辣だな、じーさん)

「ラヴァスというのは『きょうこう』のいみであったな?」
「はい。リース様はよくご存知で……」
「ここのれきししょをよんでいて、ぎもんにおもった。きょうだんのさいこうしどうしゃをさすしょうごうに、『ラヴァス』と『リェス』があるのはなぜだろう、と」

(あー、姫さんとじいさんがこの手の話を始めるとなげーんだよな……)

 リド司祭は、かつて本山の神学校で教鞭をとっていたことがあるという。そのせいか、教え好きだ。ことに自分の専門分野であるこの手のことになると饒舌になる。
 元はイシュラに対する『かんたん!ティシリア聖教のまとめ』だったはずが、何やら深く突っ込んだ話になりつつあり、イシュラはこっそりあくびを噛み殺した。
「おお、さすがリース様は賢くいらっしゃる……『ラヴァス』とは『教皇』、『リェス』とは『法皇』を意味します。敬称はどちらも『聖下』とお呼びし、最高指導者を指す称号でありますが、同時に立たれることはございませぬ」
「なぜ?」
「選出方法の違いもありますが……『法皇選定』により定められた者が現れた場合、その時点で『教皇』の座にある者は退位することになっておるからです」

 終身制である教皇が退位する唯一の事例ですな、とリド司教は髭を伸ばした。

「では、きょうこうとほうおうのせんていほうほうのちがいとは?」
「『教皇』とは、12名の枢機卿による『教皇選出会議』によって選出された者を言い、『法皇』とは、『法皇選定』によって定められた者をいいますのじゃ。『法皇』を選定するのは、12使徒であると言われており、これまでの歴史上、『法皇』となったのは……」
「つるぎのほうおうファラザス、しらゆりのせいじょリュシエンヌ、せいてんのしゅごしゃギルネスト……みっかほうおうのサヴォイアもはいるのか?」
「……なんと!幻の法皇サヴォイアまでご存知か」

 リースレイは答える代わりに小さく笑った。
 イシュラのみたところ、リースレイはティシリア聖教についてそれなりの知識を持っている。リド司祭と話をするのは、曖昧な部分を明確にする確認作業にすぎない。

(ってことは……)

 ティシリア神聖皇国での滞在は長期化する、とイシュラは推測する。

(これだけいろいろ知ってる姫さんが知りたいこと……その答えは滅多なところにはねえだろうな)

 おそらく、この書庫にその回答はなかったのだ。だからこそ、聖地にある大陸最高の蔵書を誇るという『ファラザスの大図書館』に行く必要があるのだろう。

「…………リースさま。リースさまは、いずれ御家のご再興をとをお考えでございますか?」
「いいや。まったく」

 あっさりとリースレイは首を横に振った。

(姫さんがローラッドの没落貴族の娘っていったのを、このじいさんも信じてるってわけだ)

 おそるおそる尋ねたリド司祭は、その回答にやや驚きをみせる。それも当然だ。
 貴族であれば家名第一。その子女は、家名を高める為に努力するのだと教えられて育つ。通常ならば、没落した貴族は、家名再興を何よりもの望みとするはずだった。

(本当に没落貴族ならばな……しかし……)

 リースレイは違う。そんなもの縛られることはない。

「わたしは、ていこくをすてた。……にどと、ていこくにかえるきはないのだ」
「それは…………」

 リド司祭はごくりと唾を飲む。
 彼の希望は、リースレイに洗礼を受けてもらい、ティシリアの聖職者になってもらうことだ。そして、今、その希望に実現の可能性があることを知った。
 聖教団では、常に魔力を持つ子を集めている。母なる神のおかげで、わずかな魔力でも鍛えればそれなりの術の使い手になるが、もとより魔力が強いにこしたことはない。
 とはいえ、それとわかるほどの魔力の持ち主は今やとても貴重だ。王族・皇族などの血を引かぬ限り、中級程度の術がやっとなのだ。
だが……。
 だが、リースレイほどの強い魔力を持つ子供であれば、将来、どこまで伸びるかわからない。スカウトが成功すれば、教団の者達がどれだけ喜ぶかもしれない。

「……わたしは、わたしのゆくみちをじゆうにえらべるということだ。……そう。せんれいをうけることもできる」

 リースレイが笑った。
 この年齢の子供とは思えぬ、妖艶な……とさえ言える微笑みに、意識を奪われる。

(……やべ……)

 背筋がぞくりと震えた。
 性的な興奮にも似た、何か。
戦場で命のやりとりをする瞬間にも似た、何か。
イシュラは、リースレイが時折垣間見せるそれに、囚われている。

「リースさま……」

 ぼんやりとした老人の眼差し……熱を帯びたその眼に何が写っているのかイシュラは知らない。
 わかっているのは、この老人もまたリースレイのものだということだ。

「おまえののぞみをかなえよう」

 それはまた、私の願いでもある、とリースレイは静かに告げる。
 司祭は、大きく目を見開き……そして、歓喜に身を震わせた。

「なをすて、けつぞくをすて、このみのもつすべてをすてて……えらべるのはひとつだけ」

 そうであったな、と、紫水晶の瞳が笑みをたたえて問い掛ける。

「……はい」

 何かに操られるように……あるいは魅入られたように、老人はうなづいた。

「では、すぐにしたくをするがよい。わたしはあすにはしゅっぱつするゆえ、こんやじゅうのほうがよい」

(姫さんの聖職者……うわ、似合わねぇ……)

 見た目は似合うかもしれない。何といってもとても整った顔立ちをしている。ティシリア聖教の白の聖衣はさぞかし似合うに違いない。
 だが……。

(死体から財布強奪する聖職者……やべえだろ……)

「とんでもございません!洗礼をおうけあそばすのでしたら、このような田舎の聖堂ではなく、ぜひ本山でしかるべき教父をたてて……」

 だが、リースレイは、ゆるゆると首を横に振る。
 ただ、そのしぐさでリド司祭は、押し黙る。……黙らざるをえない。
 目の前の、この少女の意志に反する事をしてはならない……そういう気にさ
せられる。

「そなたがきょうふとなり、せんれいをとりおこなってくれればそれでよい」

 愛らしい笑み。
 先ほどの艶やかなものではない……年齢相応の無邪気さすら感じさせる笑み。

「リースさま……私などが教父では、御身が苦労をいたしましょう」
「かまわぬよ。わたしは、べつにたかいちいにのぼりたいわけではないのだ。ただ、しりたいことがある……。そして、つたえたいことがあるのだ」

 その言葉に、リド司祭は感激の涙を流す。

(じいさん、その言葉には恐るべき意味が隠されてるから。俺にもわかんねえけど、絶対に言葉どおりの意味じゃねえから……)

 きっと、真実が明らかになった時、リド司祭は別の意味で涙を流すに違いなかった。
 だが、リースレイは天使もかくやという、清らかな笑みを浮かべてみせる。
 慈愛の微笑み……それだけを見ているのならば、うっとりと見惚れたくなるような麗しさだ。
 だが……リースレイは、イシュラを見て、わずかに口角をあげる。

(……………ほらな)

 背筋を駆け抜けた快さを、イシュラは奥歯を噛み締めてやりすごす。

(……なんかこう……天使っつーより、悪魔の微笑に見えるのはオレだけかね……)

 なぜいきなり、洗礼だとか、教父だとかという話になったのだと思わないでもないが、どうやらこれはリースレイの計算のうちのようだ。
 そして……。

(たぶん……姫さんは、最初からそのつもりだった……)

 宿ではなく、聖堂に泊まると言った時から、きっと何かがあったに違いない。
 おそらく、リド司祭は、リースレイの望む何らかの条件を満たしていたのだ。だから、いろいろな話をしながら観察していた。
 そして、さまざまな計算の結果、こうすることが一番都合が良かったに違いない。

(じゃなきゃ、姫さんがいかにも親しげに『リドじい』なんて呼ぶはずがないもんな……)

 まだ出会ってそれほどでもないが、リースレイの騎士であるイシュラだからこそ知っている。
 リースレイには、やや人嫌いの傾向がある。
 それが、ラシュガークから今に至るまでの出来事のせいなのか、あるいは、過去の記憶のせいなのかはわからない。
 だが、リースレイは自分から積極的に他者と関わろうとしない。向こうから関わって来た場合でも、自分がそれを必要とする理由が無い限り、見事なまでにスルーしてのける。

「さいわいなことに、こんやはまんげつだ。とくべつなしゅくふくがあろう。すみやかにじゅんびをするがよい」
「はい」

 司祭は深々と頭を下げ、しずしずと書庫を出た。

パタンと目の前で扉が閉められる。
「ユースタ、ユースタ、どこじゃーーーーーっ」

 一拍置いて、助祭を呼ぶ大声が響きわたった。
 リースレイとイシュラは顔を見合わせる。
 どたどたどたという足音が遠ざかり、途中で途切れると、びたんと奇妙な音がした。

「………………………」
「………………………ぶっ、あの音は転んだぜ」

 イシュラは耐え切れずに噴き出した。リースレイも笑っていた。

「ユースタ、ユースタ、いそげーーーーーっ」

 ややして、再び助祭の名を呼びながら、どたどたどたと走ってゆく。

「………なあ、姫さん、なんで皇子の婚約者じゃなく、聖職者?」

 イシュラは目元をぬぐいながら、リースレイに向き直った。

「……しっていたのか。ゆうめいなのか?」

 帝国では、子供は七歳までは人の子ならずと言われている。七歳までは一人前に扱われないのだ。
ゆえに、リースレイの婚約はごく内輪のものだった。

「いや。……姫さんが生まれた時、ちょうど、皇宮にいたもんでね」
「なるほど……」

 納得したというようにうなづく。

「りゆうは、おおきくわけてふたつある」

 小さな指をニ本立て、すぐに人差し指をおった。

「ひとつには、ラシュガークのかんらくだ。ていこくはわたしたちをすてた。とりでにいたぜんへいしを、わたしのちちを、ははを……そして、わたしをすてた。ならば、わたしがていこくを、おばを、おうじをすててももんくをいわれるすじあいはあるまい」
「恨んでいるのか……?」
「うらむ……?いや、べつにのろいをかけるつもりもないし、おとしいれてしゃかいてきまっさつしようともおもわないし、らくなしにかたをさせぬようどりょくをするつもりもないぞ」

(……姫さんの恨みの定義って……)

「……ただ、わたしが、このさき、ていこくのみかたになることはない。てきになることはあってもだ。……わたしはラシュガークをけっしてわすれない」
「……姫さんが、ラシュガークを背負って生きてくれるって?」

 チャカした口調になるのは、こみあげてくる熱いものを隠すためだ。

「とうぜんだ」

 当たり前だと胸を張る。

「それが、いきのこったわたしたちのぎむであり、おまえのあるじであるわたしのせきむだ」

 唇を噛み締める。

「わたしは……ぶじんであるおまえに、めいよあるしをあたえなかった。なかまをみすててにげだすことはくちおしかったであろう、イシュラ。……だが、わたしは、けっしてそれをわすれぬ。いきのびれば、わたしたちのかちだといったな。わたしたちはいきのびた。いずれ、あれらにおもいしらせてくれよう」

 穏やかな口調が、その言葉の確かさを、その重みを、はっきりと伝える。
 リースレイは心底本気だった。

「充分、恨んでるじゃん」

 報われている、と思う。
 その言葉だけで充分だとさえ、思う。あの城砦で死んだ部下や同僚達に聞かせてやりたかった。

「うらんでなどいないぞ。ただ、わたしは、いっぱつなぐられたらひゃっぱつなぐりかえすしゅぎなんだ!」

 可愛らしく口を尖らせて、かなり不穏なことを主張する。

「……………なあ、姫さん、聖職者になるつもりなんだよな?」
「そうだぞ」
「…………………」

 何かが、ものすごく間違ってる気がする。
 どうやって思い知らせるつもりなのかを聞こうかと思い、やめた。
 イシュラごときが何を言おうと、リースレイを変えられる気はまったくしなかった。聖職者になろうが、他の何かになろうが、リースレイはリースレイであり、彼の主だった。

 それから、リースレイは、真面目な顔で二本目の指をおる。

「ふたつめは、『ファラザスのだいとしょかん』にはいることができるのは、せいしょくしゃだけだということだ」

 ここの書庫で目的が果させなかった場合は、遅かれ早かれ、大図書館に入るために洗礼を受けるつもりだった、とリースレイは言う。

「『ファラザスのだいとしょかん』はたいりくすべてのえいちがあつまっているという。ここでなら、わたしのしりたいことがわかるのではないかとおもう。いや、もうそこにしかない、と、よそくしているといったほうがただしい」
「……もし、それでみつけられなかったら?」
「……そうだな……そうしたら、さいごのしゅだんだな」
「さいごのしゅだん?」
「そのときは、なぜ、アル・メイダ・オルカダールがせいちであるのか、そのりゆうをおしえてやろう」
「…………………知りたいような、知りたくないような……」

 知らない方が幸せでいられる予感がありありとしている。

「なにをいう、わがきしイシュラ。おまえは、どこまでもわたしについてくるのだろう?」

 軽く小首をかしげるようにして問われた。答えなど最初から決まっている。
 だが、口にする事が大切だった。だから、同じ言葉を何度も繰り返す―――まるで決まり文句のように。
 言葉には、魂があるのだとリースレイはよく知っている。

「当然だろ……オレは姫さんの騎士なんだから」

 『我が騎士』―――――リースレイの口からそう聞くたびに、あるいは、自身が彼女の騎士であることを口にするたびに、イシュラの中で生まれるものがある。
 剣士としての誇りも、軍人としての名誉も、男の矜持も……何もかも捨ててかまわなかった。
 己に残るのは、主だけでいい。
 リースレイが在れば、それだけでいい。

「うん」

 リースレイの満足げな笑みに、イシュラも笑った。



2009.09.07更新



[11484] 第2章-5
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/22 21:41
 夜が明けたばかり……まだ朝もやが残る時間帯だった。
 聖堂は朝が早いが、それでも常に比べても更に早かった。

「おはようございます、イシュラさん」

 ルドクの明るい声が響く。
 
「おう。おはよ……なんだ、おまえも出立か?」
「はい。……あの、途中までご一緒させていただいてよろしいですか?」
「あー、それは姫さんに聞かねえとオレの一存では……ちょっと、待ってろ、今、来るから」

 リド司祭とユースタ助祭に囲まれたリースレイがやってくる。

「え、あ、お……な、なんで……?」

 ルドクは目を丸くして、法衣姿のリースレイを見た。
 聖職者だけが着用できるデザインの優美な外套姿……胸元には丁寧な細工のされた銀の十字架がさがっている。

(よく、こんな小さなサイズのものが昨日の今日で準備できたよな)

 外套の下の法衣は淡いグレイ。仕立てのよさがわかる美しい仕上がりだった。それも、中古品というわけではなく、まっさらの新品だ。
 この他にも、聖職者の正装にあたる純白の聖衣一式、それから年代物の古い聖書を一冊がイシュラの背負う葛篭<つづら>に入っている。すべてが、リースレイの教父となったリド司祭の心尽くしだった。
 ティシリア聖教における『教父』とは、教団内における保護者であり、かつまた、師であり、後援者である。これが女性であると『教母』と呼ばれる。
 教父ないし教母との絆は強いもので、生涯に渡り固く結ばれるのだという。血族の絆を捨てる聖職者にとって、教父や教母との関係こそがそれ以上の……強い絆になるのだ。

「あー、いろいろあって、姫さんが聖職者に……」
「いろいろ……」
「そう、いろいろ」

 イシュラはにやりと笑い、ルドクも笑った。
 きっといろいろの内容をイシュラが知らないことを察したのだろう。
 ルドクはそのままリースレイに向き直る。

「お祝いを申し上げます、ファナ」

 両手を組み合わせ、軽く目礼。信徒が聖職者に対する時の礼だ。

「ありがとう」

 ファナとは、洗礼後、未だ叙階していない聖職者への敬称だ。叙階した聖職者は武官であれば腕章を、文官であれば肩衣でその階位がわかるようになっている。それがないので叙階していないということがわかるのだ。
 さすがにフェルシア国民だけあって、ルドクは聖職者に対する礼儀や決まりごとををちゃんと知っている。
 フェルシア王国はティシリア聖教を国教としており、布教活動も熱心に行われている国だ。隣国ということもあってか、高位聖職者を輩出することも多い。ルドクのように特に熱心ではないという信者だって、十字架や聖書を必ず持っている。
 フェルシア王国に生まれた子供に対する一番最初の贈り物は金ないし銀製の十字架で、富裕な家では、毎年それを一回り大きなものに交換してゆく。ルドクのそれはごく小さなもの。18歳まで父親が毎年大きくしてくれた十字架は、その父親の葬式と墓の費用となった。今もっている銀の十字架は、自分で買ったものだ。常に身につけている。

「ところで、新しいお名前は、何と言われるんですか?」
「……シェスティリエだ」

 やや含みがありげな様子でリースレイが口を開く。その新しい名を聞いた瞬間、ルドクの目がきらりと輝いた。
 聖職者の洗礼を受けた……つまり、聖職の誓いを立てた者は、それまで所有していたすべてを神に捧げる。
 象徴的に『名を捧げる』と表現されることが多いが、実際には、名……家名とそれに伴う身分、その家名につながっていた血族との関わりのすべて、さらには己自身といってもいい個人名とその名が所有していたものすべてを神に捧げる。
 そして、代わりに神より新たな名を与えられるとされる……それこそが、神名だ。
 神名……それは、魂に刻まれている呪だ。聖教の聖職者は、その神名を得る事で、法術を操る事ができるようになるのだ。

「素晴らしいお名前ですね!!」

 ルドクの言葉には不思議な熱がある。

「……そうか?シェスとよぶがいい」
「天空の歌姫のお名前です」
「まあ、そうだな。……わるくはない」

 リースレイ……いや、シェスティリエは、いつものそっけなさだった。やや憮然としている理由を、イシュラだけが知っている。
 聖職者になることで一番大きな変化は名が変わることなのだが、新しい名であるはずなのに、教父であるリド司祭が彼女に告げた新たな名……シェスティリエという名は、かつての彼女の名そのものだった。

(リドじいのちからは、ほんとうにめずらしい)

 魔力を感じる力があると言っていたが、それはすなわち、魔力の源である真名を感じるという事、なるほど読み解く力にも優れているはずだ。

(かこのなを、よみとるとは……)
 
 だが、わかったことがある。彼女の魂には、ちゃんと過去の己が刻印されているということだ。
 それは、今ここにいる彼女と過去の彼女がつながっているということだ。

(まあ、まったくなじみのないなよりはよかったかもしれない……)

 リースレイと呼ばれようが、シェスティリエと呼ばれようが、彼女にはまったく変わりがない。
 いや、かつての名で呼ばれることは、何だか少しむずがゆかった。
 だが、彼女は良かったかもしれないと思ったことをかなり後悔することになる。

「わるくはない、じゃないですよ!素晴らしいお名前です!」

 シェスティリエは何かに猛烈に感動しているルドクを不思議なものを見るような眼差しで見た。ルドクのその熱意が何によるものなのかまったくわからない。

「そっか、シェスティリエって天空の歌姫の名か……」
「そうですよ、イシュラさん。シェスティリエ=ヴィヴェリア=ディゼル=アズール……シェスティリエというのが元々のお名前で、ヴィヴェリアというのが魔術師としてのお名前、ディゼルが光の竜王と交換した名で、アズールが闇の竜王と交換したお名前です」
「くっわしいなー」

 イシュラはへえ、と感心する。
 天空の歌姫はイシュラだって知っている。彼女ののこしたさまざまな逸話は、吟遊詩人達に歌い継がれ、女性の間では、彼女が竜王達と出会う『二頭の竜王の歌』が、男性の間では伝説の天空の城を冒険する『ノーラッドの天空城の歌』が、今でも一、二を争う人気なのだ。
 伝説に残る魔導師は何人かいるが、天空の歌姫……あるいは、光と闇の導き手、世界の守護者などと複数の異名で呼ばれるほどの大魔導師は他にいない。

「ファンなんです!」

 その瞬間のシェスティリエの心情は、50%の羞恥と39%の絶望、残る10%強が悲しみと哀しみとで構成され、喜びにも似た何かは1%にはるかに満たなかった。

「天空の歌姫は、光と闇を従えし、世界の守護者ですよ!あの『大崩壊』の時に、一人でそれを食い止めた大魔導師なんですよ!そのお名前なんですから、最高に良いお名前ですよ!」

 ルドクは、シェスティリエの手を握り、力説する。

「そ、そうか……」

 シェスティリエは後ずさった。ルドクのその勢いがこわい。

(……どうして、そのなにしたんだ、リドじい)

 他にも浮かんでくる名はあったはずだ、と自分の名がちょっとだけ疎ましく思える。

「はは、すごいぞ、ルドク。姫さんが気圧されてら……」

 イシュラが、心底おかしいという顔でばしばしとルドクの肩を叩いた。

「あ、すいません。つい……」

 はにかんで手を離すルドクに、シェスティリエはかろうじて、ひきつった笑いを返す。

(……いったい、なんのしゅうちプレイだ……)

「でも、天空の歌姫の名と一緒ってのは、聖職者にもいいんじゃねえの?何たって世界の守護者だぜ。すごいだろう?」

(……イシュラめ、よけいなことを!)

「そうです!すごいですよね、神名が天空の歌姫と一緒だなんて」
「昨夜は満月。きっと、満月の素晴らしい祝福に違いないですのじゃ」

 満足げなリド司祭までもが口を挟んでくる。

「そうですよ。神名がかの大魔導師と一緒だということは、あなたは、かの大魔導師の遺した魔術、遺した魔導を使えるかもしれないのです!何てうらやましい」

 いつも無口なユータス助祭ですら、ぼそぼそっと羨望を口にした。

「…………………」

(がまんだ、わたし。これは、にんたいりょくを、ためされているんだ)

 シェスティリエは、今にも逃げ出したくなるのを必死で我慢していた。

「うわぁ、じゃあ、天空城とかにも入れるんじゃないんですか?!そうですよね?」

(………あんなところ、もういきたくないから!)

 すごいなぁ、シェスさま、とルドクはさかんに感心してる。

「ルドク、そこまでファンかよ」
「はいっ。素晴らしい方です!僕、特に『大崩壊』を食い止めるとき、命を削ると制止する光の竜王に命じる時の言葉が好きなんです」
「何て言ったんだ?」
「『例え我が命果て、我が身が消えうせても、世界が残ろう。私は、私一人が残る世界よりも、私以外のすべてが残る世界を選ぶ』です!」

(いってない!そんなこと、いってないから!!なんだ、これ……なんのばつゲームだ!)

 シェスティリエは、もはや、涙目だった。

「……姫さん?どうかした?」
「…………………………なきたい」
「は?」

 たとえ、誰よりも忠実な彼女の騎士といえども、その言葉の意味はわからなかった。




「あ、シェス様。お願いがあるのですが……」
「なんだ?」
「皇国まで、ご一緒させていただきたいのですが、よろしいですか?」

 以前からその傾向はあったが、ルドクの口調はことさら丁寧だった。聖職者に対するごく自然な敬意……例え、相手が幼く、つい昨日成り立てほやほやの聖職者でも、かわらないらしい。

「べつにかまわぬ」
「ありがとうございます。ティシリアを抜けてアディラウルまで行こうと思っているんです。あ、一応、いろいろ便利なので聖地巡礼という体裁にはしているんですけど」
「イモでもたべにゆくのか?」
「はい」

 大真面目な顔でルドクはうなづいた。

「別にそれだけというわけではないんですけど、それを一番の目標にしようかと……」
「なんでまた急に?」

 この間考え込んでいたのはそれなのかもしれない、とイシュラは思い出す。

「ずっと、このままじゃいけない気がしてたんです。……けど、どうしていいかわからなかった。紹介状がないから、毎日、賃仕事しかできなくて……ただ生きているだけで精一杯だった」

 けれど……と一息つき、そして続ける。

「お二人に助けていただいて……それまで、自分が不運だと思っていたのが案外そうじゃないかもって思えました。お二人が来てから、良い事がたくさんあったから」
「良い事?」

 イシュラは何かあったか?と記憶を探る。

「ええ。ささいな事なんですけどね。売れ残りの食べ物をもらえたりとか、手間賃を多めにもらえたりとか……でも、それくらいならこれまでもあったんです。ただ、僕がそう思っていなかっただけで……ようは、気持ちの持ちようなんですよね」

 シェスティリエは何も口をはさまない。ルドクは別に同意や何らかの意見を必要としているわけではなかったからだ。

「……それで、お二人が出発するっていうお話を聞いた時に、思ったんです。あ、僕も出発しようって」
「どこに?っつーか、何のために?」

 イシュラは思わず突っ込む。

「僕、商売やりたいんですよ。まだ、何を売るって決めてるわけじゃないんですけど、最終的になりたいものは決まってるんですけど」
「……なにになるのだ?」
「穀物商です。穀物は、人の命を支えるものですから」

 きっぱりとルドクは言った。その顔に、確かな決意が浮かぶ。

「……だから、できるだけいろいろな国を回りたいと考えていたんです。どこで何が作られているのか、どんな風に食べられているのか……イシュラさんと話していて知りました。同じ作物でも、他国ではまったく違う食べ方をしていたりするんですよね。僕は、そういうことがたくさん知りたいです。……だから、とりあえずは、シェス様のおっしゃっていたイモを食べにアディラウルまで行こうと思うんです」

 決して思いつきではないのだと、ルドクは告げる。

「皇国までは楽するために、ちゃんと聖帯をいただいていますし、これはって思うものがあったら行商をしながら旅してもいいかなって……」

(無謀ってほどじゃねえし……旅してりゃあ、ちっとは鍛えられるだろうし……)

 やや危うさを感じないわけでもないが、希望と熱意に満ちている。その熱意に水を差すことはあるまいとイシュラは考える。

「……では、せいちまでは、とくべつにわたしのじしゃとしてやろう」

 巡礼者はさまざまな便宜を受けられる。だが、旅をする聖職者は、更にそれを上回る便宜を受けられるものだ。当然、聖従者や侍者と呼ばれる使用人もそれに準ずる。

「シェスさま……ありがとうございます!」
「れいは、アディラウルの『あまいも』でよい」
「……必ず」

 ルドクはしっかりとうなづいた。




 陽の光が、聖堂の尖塔の十字架をきらめかせる。ニワトリの声が裏庭の方から聞こえていた。
 雑居坊の巡礼の団体が目覚めたのだろう。人の声もきれぎれに聞こえてくる。

「……名残は惜しいんですが、そろそろ出立しませんと……」

 イシュラは、シェスティリエを促した。

「そうだな。……では、そろそろまいろうか」

 リド司祭もそれにうなづく。

「シェスティリエさま、よろしいですかな。……本山に参りましたら受付においてこの書類を提出して下さい。わしは一介の修道司祭なれど、わしの教え子の中には、大司教になった者が数名おりますのじゃ。その中で最も頼りになる者に、御身のことは頼んでありますからな」

 リド司祭は、愛しげに目を細めた。

「わかった。リドじい……いや、リドしさいさま」
「じいで結構でございますよ。シェスさまがこのじいなど及びもつかない魔力をお持ちである事は、洗礼時によくわかりもうした。その御名も表層を読み取っただけ。その表層ですら天空の歌姫と同じ御名なのです。シェス様はいずれ、幾つもの神名を得ることになるでしょう」

 魂に刻まれた名は一つではない。高位聖職者になればなるほど多くの神名を持つ。

「ことほぎにかんしゃする」

 リド司祭は、いつものように髭をのばし、そして、姿勢を正す。

「あなた様の行く道が光輝くものでありますように」

 左手を胸にあて、右手の指が空に聖印を描く。それはシェスやイシュラ、そして、ルドクの頭上に光を振りまいて消えゆく。

「わがちちにして、わがしよ。そなたのうえにさいわいがありますように」

 小さな白い指が呪文を描き出す。その呪を、リド司祭は知らない。
だが、それが祈りであることはわかった。降り注ぐ光の優しさの意味を間違えるはずも無い。

「イシュラ殿、シェスティリエ様のこと、どうかくれぐれも……」
「リド司祭、ご安心を。オ……私は、どこまでもご一緒いたしますから」

 いつもとは違うイシュラの言葉遣いにルドクは小さく笑った。かなり違和感があるからだ。

「そんなの、じいがたのむまでもない。イシュラは、わがきしにして、わがせいじゅうしゃなのだからな」
「申し訳ございませぬ。心配でございましてな。そう。イシュラ殿は聖従者でございますものな」

 聖職者に対して剣を捧げている騎士を特別に『聖従者』と称する。リド司祭は、イシュラにも洗礼を受けることを薦めたのだが、イシュラは自身の剣を神に捧げる気は無いと一言の元に拒絶した。例え方便だとしても……例え対象が神であったとしても、他のものに剣を捧げる気はさらさらないのだ。

「そう。だからあんずるな」

 その声が、わずかに自慢げだと思うのは、イシュラの願望のせいかもしれない。

「はい」

 リド司祭は深くうなづく。

「ルドク、母なる神の導きによって旅する子よ。そなたの旅の無事を祈っておるぞ」
「ありがとうございます、司祭様」

 ルドクも笑みを浮かべる。

「道中、ご無事で」
 いつも陰気なユータス助祭だが、今日は若干だが晴れやかな表情をしているように見える。

「ありがとう」
「ありがとう。いろいろと世話になりました」
「ありがとうございます。助祭様もお元気で」

 ルドクは何度も振り返った。
 二つの影はいつまでもそこに立ち続け……そして、やがて見えなくなった。




2009.09.08更新
2009.09.22修正



[11484] 第3章-1
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/10 14:07
 フェルシアの王都ルティウスは、別名を宝石の都という。
 王都の内とその周辺に七つの湖があり、それらの湖が異なる美しい色彩をしているためだ。
 その中でも最大の面積を誇るのが、王都の入り口……関所の前にある翡翠湖で、その名のとおり美しい翠をしている。

「悪いな、姫さん。遠回りさせちまって」
「かまわない。……おうとにもきょうみがある」
「あー、そう言っていただけると助かるけどよ。……ルドクも、良かったのか?最短で行くなら、ブラウツェンベルグに出て、ブラウツェンベルグの国内を突っ切った方が早かったんだぜ?」

 リスタからティシリア神聖皇国の聖都に行き着くためには、大きく分けて三つのルートがある。

 一つ目が、ブラウツェンベルグ公国に出て、その国内を縦断するルート。
 二つ目が、ローラッド帝国に出て、国境近くの港町エルバから海路をとるルート
 三つ目が、リスタから王都ルティウスを経由し隣国アルネラバに出て海路をとるルートだ。

 彼らが選んだのはこの三つ目で、一番遠回りになってしまうルートだった。

「言ったじゃないですか、いろいろな国が見たいって。最終的にたどり着ければルートにはこだわってませんし……あ、イシュラさん、荷物、僕が持ちますよ」

 ルドクの荷物は、肩掛けしている布製の大きなバッグだけ。シェスティリエとイシュラの荷物は、イシュラが背負っている葛篭に入っている。
 ルサザ竹という丈夫な竹を編んだこの葛篭は、軽い上に丈夫、しかも通気性が良いために商人に好まれている。イシュラが背負っているのは、その籠を更に漆で塗った品だ。リスタ滞在中に、シェスティリエの命でイシュラが塗った。少々の水も弾くしカビ防止にもなるそうだ。

「いや、大丈夫だ。ま、いつものようなことがあったら、また頼む」
「はい。……でも、そんなにいつもあってもらっても困るんですけど」

 ルドクは苦笑した。
 リスタを出て既に6日が過ぎている。途中、乗り合い馬車を使ったりもしたが、基本は徒歩だ。山道では、追いはぎにあったり、町のはずれではチンピラに絡まれたりもした。
 そういった時、荷物の死守はルドクの役目だ。退治するのは当然イシュラで、シェスティリエはイシュラの背にかばわれているか、守られている。

「まあ、仕方ねえだろ。ああいうのが出るってのは、国に問題があるんだよ。……食い詰めたヤツがすることだからな。国が正常に機能してれば、ああいうのはなかなか出にくい。例え出てもすぐに退治される」
「なるほど……すごく納得できました。……でも、僕が言うのも何ですが、あんまり強くありませんでしたね」

 イシュラの強さは圧倒的だった。
 1対十数人ということもあったのに、イシュラが弱いものいじめをしているようにしか見えなかった。

「イシュラがつよすぎるだけだ」
「姫さんの聖従者ですから」

 自慢げに言ってみたものの、つい半月前まで正規の軍人として最前線で生き抜いてきたイシュラだ。食い詰めた傭兵くずれや、ちょっとした力自慢の乱暴者などに負ける気はさらさらない。
 そもそも、あの手の輩はすぐにシェスティリエを質にとろうとするところが赦せない。

「イシュラさん、シェスさまを狙ったヤツは念入りでボコるよね」
「当然だろ」
「おんなこどもをねらおうとするやからなど、てかげんするひつようはない」
「勿論ですとも」

 シェスティリエの答えに、我が意を得たりとばかりにうなづく。

(いや、イシュラさんの場合、そういう話じゃないですから)

「イシュラ、あれがひすいこなのだな?」
「そうです。……姫さんは知らないんで?」

 いかにも珍しいというような口調でイシュラが言う。
 ルドクはそれが不思議だった。
 彼の見たところ、シェスティリエは身体がかなり小さいものの10歳前後だろう。確かに、信じられないくらいに色々なことを知っているし、相当頭も良いが、知らないことがあってもおかしくないと思う。

「ひすいこをはじめとするななつのみずうみは、380ねんまえのかざんのふんかでできたのだ、と、ほんでよんだ」
「あー、なるほど。空白の時代なんですね」
「そう」
「空白の時代ってなんです?」
「わたしのべんきょうが、まだあまりすすんでいないじだいだ」

 今ちょうど勉強しているのだ、とシェスティリエは言う。

「そうなんですか」
「うん」

 うなづくシェスティリエは、とても可愛らしい。
 道中、どこかに立ち寄るたびに、シェスティリエはいろいろな人々からさまざまな喜捨を受けていた。こんなにも幼く可愛らしい聖職者が旅をしているのは、とても健気に見えるのだろう。見た目が可愛らしいというのはとても得だと、ルドクはつくづく思ったものだ。

(シェスさまの場合、性格は、なかなかイイんだけどね)

 なまじな男では太刀打ちできないと思われる。ちなみにルドクはまったく自分では無理だと判断している。イシュラはメロメロなので論外だ。
 一週間、この主従と一緒に旅をしてわかったが、騎士と主の関係というのはとても不思議なものだった。

(親子というわけでもなく、兄と妹というのも違う……)

 共に暮らした者だけが持つ遠慮のなさや、血のつながりがもつ重苦しい親密さというものはない。

「そろそろ疲れてきたんじゃないんですか?」
「まだ、あるく。たいりょくをつけねばならないからな」

(だからといって、恋人とか伴侶ってのは全然違う……)

 恋人や伴侶といった関係にありがちなベタベタとした甘さも無い。だからといって甘さが全然ないかといえば、そうでもない。
 騎士でないルドクには一生判らない感覚なのかもしれない、と思うと少しだけ口惜しいような気がする。

「シェスさまは、神官様になられるんですよね?体力なんて必要なんですか?」

 ティシリア聖教の聖職者は、文官と武官とに分かれている。文官は『神官』と呼ばれ、武官は『聖騎士』とも呼ばれる。
 総対比から言うと文官が6割、武官が4割。ただし、文官が武官を、武官が文官を兼ねる場合もある為、一概に文官が多いとは言えない。

「まじゅつ……いや、このばあいは、ほうじゅつだな。ほうじゅつをつかうにはたいりょくがいる」

 この小さな身体では使える術など限られている、と口惜しげに言う。

「リドじいのあのくちぶりだと、ほうじゅつは、こうりつがいいらしいから、きたいしているのだ」

 わたしは魔術は知っているが、法術はほとんど知らないからな、と言う。

「あれ?あの治癒は?」
「ちがう。あれは、ただのまじゅつ。まじゅつというのはひとによってちがう。てでいんをむすぶものもいれば、じゅもんをえがきだすもの、かみやほうせきなどにふうじるもの……けいとうは、さまざまだ」

 だが、それらは基本的には個人のものだ。大概は、その術を編み出した本人が死ぬと失われる、とシェスティリエは淡々と説明する。
 ルドクにはちょっとわからない主従だけの会話も混じっているが、そういう時はおとなしく聞いている事にしていた。いちいち突っ込んでいたら、話が進まない。

「弟子とかいねえの?」
「でしでは、すべてをつたえきれない。まりょくのさやしつといったもので、つかえるじゅつというのは、かなりさゆうされる」

 師より三代後の弟子には、最初の師の術はほとんど残らないだろう、とシェスティリエは言う。
 
「では、魔術書というのは何なんですか?術を使う方法が書かれているのでは?」
「『まじゅつしょ』として、いまにのこされているのは、かんがえかたのきほんや、りろんがほとんどだ」

 魔術には、法則性、あるいは規則性といったルールがある。それを発見し、組み立て、あるいは組み合わせ、術を発動させる。

「ルールをこうちくするためのりろんをまなぶことで、そのまじゅつをみいだすみちすじをしる、というところだろうか」
「よくわかんねーよ、姫さん」
「たとえていうなら、まじゅつしょには、『かいとう』がかいてあるわけじゃない。『もんだいのときかた』がのってるだけだ」
「なるほど」
「そのてん、ほうじゅつは、『ティシリアせいきょうきょうだん』という、そしきにつたえられた。そのことが、げんざいまで『ファラザスのじゅつ』を、げんけいにちかいかたちでつたえている、いちばんおおきなよういんだ」
「ああ……そうですよね、ファラザスの術になるんですね」

(かみなきせかいにのこされたじゅつ……)

 かつて、彼女は術を遺すということをまったく考えなかった。それでも、術を教えたものは何人もいたし、ユータス助祭の口ぶりでは、今でも残っているものはあるのだろう。
 だが、それは彼女の意図したことではない。
 しかし、ファラザスは、確実に意図していたのだろうと思う。

(……ファラザスは、なにをおもってほうじゅつをのこしたのだろうか……)

 シェスティリエは、それを知りたいと思っていた。




 翡翠湖を横目で見ながら、一行は、王都に入るための門に差し掛かる。
 国境以外であっても、王都やちょっとした大都市には関所が設けられている。彼らが、フェルシア国内を抜け、アルネラバに出るルートを選んだ最大の理由はそれだった。
 イシュラがいなければ、一番近いブラウツェンベルグ・ルートを選んだのだが、生憎、常に対ブラウツェンベルグの最前線にいたイシュラの顔は、ブラウツェンベルグでも有名だった。
 ローラッド・ルートも同様の理由だ。『ローラッドの左の死神』の異名をもつイシュラは国内でよく知られていたからだ。
 結果として、イシュラが同行する限り、他に選択肢はなかった。

「待て」

 これまでの都市と同じように普通に通り過ぎようとしていたら、上の高楼から声がかかった。二人の衛士の手にある斧が目の前で交差して、通り抜けを禁じる。

「はい?」
「なにか?」
「へ?」

 三人で立ち止まった。

「……本当にこのような幼い身で聖職者なのか?」

 彼らを呼び止めたのは、フェルシア王家の色である緑の騎士服姿の男だった。王家の色を身につけているということは、おそらく近衛だろう。
 その視線は、シェスティリエに注がれている。
 イシュラは軽く顔を顰めた。主に対する無遠慮な眼差しというのも、イシュラが嫌うものの一つだ。

「しょうめいが、ひつようか?」

 だが、イシュラには、シェスティリエがわくわくしているのがわかった。
 何でも聞いてくれ!という表情をしている。

(あー、勉強している成果を試したいんですね、姫さん)

 聖職者や巡礼に偽装する人間は後をたたない。それだけ優遇されるからだ。だから、関所では、偽物をあばくために証明を求められることがある。
 聖書は暗号の宝庫だと言って、毎晩楽しく読んでいるシェスティリエだ。きっと自信があるのだろう。
 前回の関所で、目の前の巡礼がそれを求められて聖書の一節を暗誦させられていたのを羨ましそうに見ていたのを、イシュラは知っていた。

「いや……こんなに幼い身で自ら聖職者になる者は珍しい。ファナ、よろしければ、今宵は王都の私の屋敷にお泊りにならぬか?」

 ぜひ、いろいろとお話を聞きたい、と男は言った。

「……よろこんで」

 シェスティリエは、必要とあらば愛想笑いもできる。だが、笑っている時ほど要注意だ。

(……姫さんは、こいつに何の利用価値を見出したんだろう……)

 とっさにそう考えるくらい、イシュラはシェスティリエの思考に染まりつつある。

「私の名は、リュガルト=シュリエール=ヴィ=ガーナ。お名前をお伺いしてもよろしいだろうか、ファナ」
「シェスティリエだ。これは、聖従者のイシュラと侍者のルドク」
「ほお……聖従者ということは、騎士位にあられると?」

 イシュラに目線を向ける。

(女だったら良かったのによ)

 思わず心の中で口笛を吹いてしまったほどの美形だった。
 目の前の翡翠湖とよく似た翠の瞳に赤みを帯びた金の髪。顔立ちも極めて整っている。女性であれば、さぞかし佳人と称えられたことだろう。
 男性としてはやや線が細いが、その右腕の筋肉のつき方をみれば、相当、剣の修行をしていることがわかる。

(だが……)

 戦場を知らない。それは、決定的な差だ。
 それは、人を斬ったことの有る無しではない。
 ただ、あの狂気を乗り越えたか否かだ。
 イシュラは、戦を知らぬ者に負ける気はしない。

「ああ」
「確かに見事に鍛えておられる」

 のうまできんにくだ、という呟きを聞きとめたルドクは、爆笑の発作をおさえるのに苦労した。

「とりあえず、まだはやいので、おうとをみまわるよていだ。……せいどうにもたちよっておきたい。ゆうこくにおうかがいすることにしたいが、いかがであろう?」
「勿論、構いません。我が家は、城山地区の大通り……青湖に面しております。『青湖のガーナ屋敷』と申さば、王都で知らぬ者はありません」
「あ、僕、わかります。白壁のとても美しいお屋敷です」

 ルドクが手を上げる。

「ああ……そうか、ルドクは、おうとにずっといたのだものな?」
「はい。五年ほど」
「そうなのか。……では、ぜひ、夕刻には我が家をご訪問ください。ファナ・シェスティリエ」

 リュガルトはシェスティリエに向き直ると、完璧なまでの騎士の礼で恭しく腰を折る。
 シェスティリエはそれに目礼で応えた。





「美人でしたねー、ガーナ伯爵」
「いくら美人でも、ヤローにゃ、興味ねーよ、オレは」
「そうなんですけど……あの方には、姉君がいらっしゃいまして……。『青のエリザベータ』と歌われる、そりゃあ、美しい方だったんですよ」

 吟遊詩人がこぞって歌を捧げ、絵描きがその肖像を競って描いたっていう絶世の美女だったらしいです、というルドクの言葉に、イシュラがうなづく。

「あー、あの兄ちゃんの姉さんなら、相当期待できんだろ」
「ええ。でも、その姉君は、15年前に父親が不明の子供を産んで死亡されたんですけどね」
「なーんだ、つまらん」

 イシュラはすぐに興味をなくす。どんなに美人だろうと、イシュラは血の通った、生きている女にしか興味が無い。絵姿に恋する趣味もなければ、彫像を愛する趣味もない。

「当時、王都ではものすごい醜聞だったそうです。深窓のご令嬢が父親の名を明かさずに子供を産んだって」
「だろうな。貴族には、未婚の母なんざ、あっちゃなんねーことだろ」
「それが、三年前、父親が名乗り出たんです」
「……なぜ、そんなころになって?」

 シェスティリエが不思議そうに問う。名乗り出るなら、もっと早くに名乗り出るべきだった。それは、ひどく中途半端な印象を受ける。

「三年前、王都中にひどい熱病が流行ったんです。特に子供への流行がすごくて……王家では、当時、10歳の第二王子フレド殿下が亡くなり、次に、15歳の第一王女フェリシア殿下がお亡くなりになりました。その上、王太子のレイモンド殿下、第二王女のアリアナ殿下までもがその熱病に倒れたんです」
「…………つまり、こくおうのこどもだったんだな?」
「ええ。さすが、シェスさま。……わかりました?」
「そのはなしのながれからいえば、それしかないだろう」
「国王陛下は、ご自身にもう一人ご息女がいることを明らかにされ、お手元に引き取られました。それが、第三王女として迎えられたアルフィナ姫です」
「スペアだな」

 イシュラは、そこで首を傾げた。

「でも、フェルシアの国王って、婿養子じゃねえ?」
「そうなのか?」

 シェスティリエは、目をぱちくりとさせる。 

「あ、よくご存知ですね。はい。そうなんです。……幸いな事に、王太子殿下と第二王女殿下は回復されました。……それで、アルフィナ姫のお立場はちょっと困ったものになったんです」
「そりゃあ、そうだな。王家の血を引いているのは王妃だろ?それが、いきなり、隠し子引き取ったとか言われたら……」
「さいあくのパターンだ。ほうっておいてやれば、そのひめもしあわせだっただろうに。みがってなおとこだ」
「国王なんざ、そんなもんだろ?」
「……あー、お二人とも、ガーナ伯爵家でその手の発言はしないように気をつけて下さいね」

 つい、いらぬ心配をしてしまう。

「あんずるな。ときとばしょはわきまえている」
「そうそう」

 息の合った主従だが、その二人のよく似た表情にルドクはいささか不安が拭いきれない。

「だいたい、おうけのちをひかぬおうじょというのは、ひさんなものだ」
「悲惨?」
「おうぞくのかちのひとつは、まずはそのちだ。つぎに、おういけいしょうけん。そのひめは、どちらももっていない。おうぞくとしては、まったくかちをみとめられないといっていい」
「価値を認められない……」
「おうぞくとしてだぞ。おうぞくじゃなければいい。じぶんのかちを、じぶんでつくればよい。……そもそも、こくおうがおろかすぎるのだ」

 その語調はやや険しいものになりつつある。話しているうちに腹が立って来たのだろう。

「さいしょにだまっていたのならば、しょうがい、だまりとおすべきだろう。……おもいつきで、ろくでもないことをするから、みながふこうになる。」

 辛辣な口調に、イシュラとルドクは顔を見合わせて力ない苦笑いを浮かべた。

「べつにおまえたちのことを、いったわけじゃないぞ」
「いや、不出来な同性の愚行を責められると……こう、自分が責められている気になるっていうか……いたたまれないんだよ。……な、ルドク」
「ええ……」
「まあよい。ほかに、ガーナはくしゃくけについてしっておくことはある?」

 シェスティリエは気持ちを切り替えて問うた。

「いいえ。お話の上で、ガーナ伯爵の姉君のこと、それからアルフィナ姫のことに触れなければ大丈夫だと思います。……あ、そういえば、伯爵家の庭は、名人と言われたヨーウッドが設計したものですよ。素晴らしいものなんだそうです」
「へえ」
「実はちょっと楽しみなんですよね。『青湖のガーナ屋敷』は王都で1、2を争そうほど美しい屋敷だと聞いていたんです。……中に入れるなんて、思ってもいませんでしたし、ましてや泊まらせてもらえるなんて……」

 これもシェスティリエの侍者にならねば叶わなかったことだろう。

「オレは別に屋敷とかは、どうでもいいけどな」

 イシュラは、美しい庭にも屋敷にもたいして興味がない。

「あ、でも、イシュラさんも食事は楽しみでしょう?貴族の人って常日頃、どんなごはんを食べてるんですかね?」
「メシってのは、家によるんだよ。……金つかうとこは、すごいけどな。毎日豚の丸焼きとかするとこもあるんだぜ」
「ちょっと、すごいですね」
「ああ。……けど、あの兄ちゃんの雰囲気からいって、常識範囲だろ。まあ、わざわざご招待ってことは、それなりにご馳走がでるだろうけど」
「楽しみですねぇ」
「肉、食いたいな、肉。がっつりと」

 聖堂で振舞われる食事は質素だ。だが、聖職者とその共であるというだけでその質はランクアップした。
 多少の肉類が食卓に上るようになったことと、おかわりが自由なことは大変に有難い。
 薄いスープや野菜粥一杯だった時と比べるとえらい違いで、そのあまりの違いっぷりにルドクとイシュラは目を見張ったものだ。
 道中、退屈したイシュラが狩をしながら歩くようになってからは、ウサギやら山鳥やらを獲ってゆくことが多くなった。肉食の禁のないティシリア聖教では、聖職者も肉を食べる。肉を持っていくと皆に喜ばれた。

「……きのうも、あんなにたべたくせに」

 半ばうんざりとした声音。
 昨夜は、野宿だった。この時期は、野宿もかなり楽だ。雨もほとんどないし、何よりも追っ手を気にしながらの道中ではなかったから、堂々と一晩中火を焚いておける。
 ちょっとした罠をしかけたら、ウサギが三匹もかかってしまい、結果、その大半がイシュラとルドクの腹の中におさまった。シェスティリエは元々食べる量が少ないのだが、肉や魚になると更にその量が減る。
 嫌いというわけではないのだが、そう多くは食べられないのだという。

「そうだけどよ、昨日は昨日でもう消化ずみだからな。……しっかし、あの、姫さんが焼いてくれた串焼きはほんとにうまかった。皮はパリパリで肉はジューシーで……塩加減がいいんだよな」

 思い出すと、ちょっとうっとりしてしまうイシュラだ。

「クミのみとサパのみとしおのおかげだ」

 シェスティリエはそっけない。

「スープもすごくおいしかったです。たくさん、煮込んだわけじゃないのに、肉も柔らかくて……ちょっとぴりっとした味が良かったですよね」

 ルドクも思い出して、二人でうなづきあう。

「クミのみは、つぶすとにくをやわらかくするこうそ……そういうせいぶんが、はっせいする。しかも、にくのくさみをけしてくれる」
「へえ~。じゃあ、サパのみにはどういう効果があるんですか?」
「サパのみはややぴりっとしたあじがする。そのままだとたべられないが、りょうりにつかうとあじのアクセントになる」
「へえ……ほんと、シェスさまは物知りですね」
「……なあ、とりあえず何か軽く食わないか?食い物の話してたら腹が減った」

 昼時を少し外しているが、王都に早く入る事を優先した彼らはまだ昼食をとっていなかった。

「あ、おいしい焼き飯の屋台があるんですよ」
「焼き飯?」
「はい。ごはんを野菜と一緒に鉄板でいためたものなんです、それに甘辛く煮た肉の薄切りがのるんです」
「それでいいか?姫さん」
「かまわない」

 こくりとうなづく。これまで、シェスティリエが食事に文句をつけることはほとんどなかった。
 リスタにつくまでの迷いの森では水と木の実だけの事もあったし、聖堂でふるまわれる食事は薄粥一杯という事もあったのだが、何も言わなかった。
 別に味にこだわりがないというわけではない。おいしいものを食べれば上機嫌になるし、まずいものだと不機嫌になる。料理の知識は玄人並で、イシュラとルドクはよくその恩恵に預かっている。
 一度、理由を聞いたら、餓えないで食べられるのに味に文句を言ったらバチがあたると言っていた。

(これは、貴族の姫さんってより、捨て子だったっていう昔の姫さんの体験があるからなんだろうな)

「じゃあ、行きましょうか」

 ルドクは先頭にたって歩き始めた。





2009.09.09 更新
2009.09.10 修正



[11484] 第3章-2
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/10 18:17
 ルティウスの聖堂は、白大理石で建てられたとても美しい建築物だった。

「やはり、かねのあるなしはおおきいのだな」
「何の話だ?姫さん」
「リスタのせいどうと、せっけいはほとんどかわらぬのに、ざいりょうがだいりせきというだけで、ゆうびにみえる」
「え、リスタと同じなんですか?」
「おなじだぞ。とうのかたち、せいどうほんたいのかたち、それから、にわのつくりかたもな。ちがうのは、にわのそとがわにたつ、たてもののかずだ。ここは、おうとだからかずがおおいのだろう。リスタでは、ざっきょぼうはひとつだったが、ここにはみっつもある。おおきなうまやもあるし、あのたてものは、このせいどうにいるせいしょくしゃたちのしゅくしゃだろうな」

 すでに聖堂の敷地のはずなのに、まだ建物にはたどりつかない。
 イシュラの背の葛篭の上に座り、高い目線から周囲を見回しているシェスティリエはご機嫌だ。

「驚きました。ただの石造りか、白大理石かだけでこんなに違って見えるんですね」
「まあ、確かに金のあるなしだな……しかし、聖堂の建物自体はなぜ大きくしないんだ?こんなんで信者をすべて収容できるのか?休日礼拝とか、人があふれるんじゃねえの?」
「あ、王都には、地区ごとに全部で七つの聖堂があるんです。でも、礼拝は外でありますから」
「あめのひは、どうする?」
「えーと……司祭様方が法術で雨を遮ってくださいます。こう、目に見えない屋根のようなものでですね、風か何かで空を覆って下さっているのだと思うんですが」
「ふむ……」

 シェスティリエは何やら考えこむ。術の構成が、とか、風と時を組み合わせればよいのか、とかぶつぶつと言っているところを見ると、どういう法術なのかを類推しようとしているのだろう。
 イシュラが思うに、シェスティリエにはやや魔術オタクの気がある。何にでもなれると高笑いしていたこともあるが、その選択は、魔術を学ぶ事が前提であったに違いない。
 今だって、聖職者になることを選びはしたが、別に神の教えを広めるとかそういったことは頭にまったくないだろう。聖職者になったのは、目的に対する手段だと言ってはばからない中で、法術には特別な興味を示している。

(……結局、たいして魔術から離れてないっていうか……)

 天職なのだろう。世の中そういう人間がいるのだ。
 イシュラが結局はその剣を捨てられなかったように。
 あるいは、ルドクが穀物商になることを志すように。
 それに、聖職者になっても、他の職業を選択する自由がなくなったわけではない。シェスティリエの場合、別に神子になったわけではないので、その気になれば還俗もできる。
 だが、禁則事項の少ないティシリア聖教の聖職者は、わざわざ還俗する必要はほとんどない。婚姻も許されているし、肉食も許されている。単に在家となれば良いだけだ。

「ここが中央聖堂なんですよ。ただ聖堂ってシェスさまがおっしゃったので、中央でいいだろうな、と思って」
「それはかまわない。おうとのせいどうで、れいはいしておこうとおもっただけだからな。イシュラ、おりるぞ」

 声をかけたシェスティリエは、ひょいっと葛篭の上から飛び降りる。平均より頭一つ背が高いイシュラだから、なりの高さになるのだが、まったく怖がる素振りがない。
 見るたびにドキドキしていたルドクも、今ではほとんど気にならなくなっていた。
 シェスティリエは、身体は小さいが、動きはとても俊敏だ。たぶん、運動神経も良いほうなのだろう。体力をつけるといってよく歩くし、最近では、夜にイシュラに剣術を習っている。ルドクも一緒になって習っているのだが、シェスティリエの方が明らかに筋が良い。

「リスタできづいたのだが、せいどうのにわの、はなやきは、すべてくすりになるものなのだ」
「ああ……。それで、いつもユータス助祭とごちゃごちゃやってたんで?」
「ユータスのせんもんはやくがくで、にわのていれは、ユータスがたんとうしているときいたからな」

 いろいろと話を聞くことができて有意義だった、とうなづく。

「やくそうをわけてもらったのだ。かわりに、わたしのやくそうもわけた」
「森で採ってたヤツですか?」
「そうだ。あのもりはやくそうのほうこだったな。ひとのあまりはいらないばしょでないと、そだたないようなやくそうもあるのだ。あのひどくしみるマァムとか」

 イシュラは苦虫を潰した表情になる。

「あれはもう勘弁してくれ。さすがのオレも悲鳴をあげるかと思った」
「でも、はやくなおっただろう」
「イシュラさん、ケガをしてたんですか?」
「そ。ちょっと足をな。姫さんがいなきゃ、足切るくらいの大怪我」

 肩を竦める。口では軽く言っているが、実際のところは下手したら命を落としかねない重傷だった。イシュラは、夜にわずかな傷跡しかのこっていない足を見るたびに、自分の幸運を思う。

「気をつけて下さいね。イシュラさんは、騎士だからそういうこともあるんでしょうけど……」
「昔の話だ」

 まだ一月と経たない話なのに、昔と言うのがしっくり来るくらい、遠いことのように思える。

「それなら、いいんですけど……あ」

 ルドクは、庭に知り人の姿を見つけて駆け寄る。

「ラナ司祭さま、お久しぶりです」
「……あら、ルドク。いつ王都へ?……まあ、巡礼するの?」

 ルドクが頭を下げたのは、ふっくらとした、笑顔が優しげな女性の司祭だった。
 ティシリア聖教では聖職に就くのに、男女差はない。強いて言えば、神官は女性が多く、武官は男性が多い。だが、全体比からすればほぼ同数だ。最も、女性の聖職者は出世欲に欠けるのか、大司教以上の高位聖職者ということになると男女比は5:1程度にまで下がってしまう。

「はい。こちらのファナの侍者としてお連れいただけることになりまして……。シェスさま、こちら、この聖堂のラナ司祭さまです」
「まあ……こんなにもお小さいのに、ファナに?なんて素晴らしい。……はじめまして、私は、エーダ・ラナ。よろしければ、お茶でもいかが?」
「よろんで、エーダ・ラナ。わたしは、シェスティリエともうします」

(うわ、シェスさまが、ふつうにしゃべってる!!!)
(……姫さんが、普通の口調でしゃべってる!!!)

 ルドクとイシュラは内心ぎょっとしたのだが、それを表に表す愚はおかさなかった。

「まあ。天空の歌姫と同じお名前ね。何て素晴らしい!」

 表情をぴくりとも変えなかったが、シェスティリエの機嫌が急降下したことをイシュラは感じていた。





「どうぞ、入って」

 案内されたのは、聖堂の礼拝室の裏にある小部屋の一つだ。信者と話し合いをしたり、聖職者が打ち合わせに使ったりするようになっていて、狭苦しさを感じないように窓が大きくとられている。
 ラナ司祭は、十歳前後とおぼしき少年にティセットをのせたワゴンを押させてやってくる。

「ありがとう、イリ。あなたも、ここでご一緒させていただきなさい」

 少年は、こくりとうなづいた。
 生成りの簡素なシャツと黒の膝丈のズボン。その上に、神子と呼ばれる子供達に特有のケープのような長めの肩衣をつけている。
 手馴れた様子で、イリはお茶をいれた。
 白いティーポッドに金属製の長細い筒状の容器から、お湯を注ぐ。香草茶なのだろう、さわやかな匂いがふわりと鼻をくすぐった。

「あ、魔法瓶ですね。シヴィラ商会のものですか?」
「ええ、そうなんです。ルティウスの魔法具販売はシヴィラ商会が七割を占めておりますから……これは、ご喜捨いただいたんですのよ」
「さすがシヴィラ商会ですね、太っ腹だ」

 配られた香草茶は薄いグリーン。この爽やかな香りにはミントを加えているだろう。
 聖堂で飲まれる茶は、だいたいが自家製の香草茶か薬茶だ。紅茶や緑茶といったお茶は高級嗜好品で、気軽に飲めるものではないからだ。

「ええ。魔法具の販売で儲けることができるのは、聖堂が安定して魔力板を供給してくれるおかげだといつも多額のご喜捨をいただいて……この中央聖堂だけでなく、支店のある東聖堂や南聖堂にもいただいているようです。大司教様がいつも感激なさってますの」

 『あのいつもの調子で』と、ラナ司祭は笑う。
 ルドクも笑った。大司教の顔が思い浮かぶ。

「……あれ、シェスさま、どうかしましたか?」
「はじめてみた」

 魔法瓶を手にして、蓋を開けたり閉めたり、熱心にいじくりまわしている。
 イリは、そんなシェスティリエをじっと見ていた。

(あー、たぶん、500年前にはないもんな、この手の魔法具……)

「ローラッドは、魔法具があまり流通してないんでしたっけ?」
「聖堂が少ないからな……魔力板が供給されないから、便利なことはわかっていてもあまり流行らない」

 ローラッドは、基本的には信教の自由を掲げている。だが、国民の大半は、国教会の信徒だ。国教会では、その祭壇に歴代皇帝を祀る。
 当然ながら、聖堂の勢力はそれほど大きくない。だから、魔力板を使った魔法具と呼ばれる道具は、ローラッド国内にはほとんど流通していない。

「あら、ローラッドのお生まれですの?」
「イシュラさんとシェスさまは、ローラッドのご出身なんです。シェスさまは貴族の生まれだったそうなんです」
「まあ……だからでしょうね、威厳と気品がおありですわ」
「威厳と気品……」

 ものは言いようだな、と、イシュラはラナ司祭のうまい言葉の使い方に感心した。

「どうぎんのさんじゅうこうぞうで、それぞれのすきまに、まりょくをとおすぎんさをみたしている……そこのまりょくいたとつながっているのだな……」
「細かくはわかりませんが、中に満たした銀砂の純度の違いを利用して、中は熱く、表面は手で持てるようにしているそうですわ」
「いたをこおりにいれかえると、ほれいができるのですね?」

 ラナ司祭が相手だからなのだろう。シェスティリエは心がけて丁寧な言葉遣いをしている。

(さっきのは、僕の聞き違いじゃなかったんだ……)
(普通の言葉遣いもできんだな、姫さん……)

 内心の声を聞かれなかったことは、二人にとって幸いなことだったろう。

「ええ、そうなんです。とても便利なんですのよ。開発には、うちの助祭達も協力しております」

 魔力板というのは、薄いカード状の金属板だ。水や氷、炎といった魔術を封じてあるもので、基本的には、魔法具はその板に封じている魔術を動力源としている。
 たとえば、台所のストーヴやオーブンには炎の魔力板が必要だし、冷蔵庫には氷と水の魔力板が必要だ。魔法板に封じられた術は、おおよその消耗期限があり、それは板の材質によって違う。

「エーダ・ラナ、あとでからのいたを、すうまいゆずっていただけますか?どうぎんのものでかまいません」
「あ、ええ。それくらいでしたら、何枚でも」

 術が封じられていない空白の板は、ただの金属片にすぎない。勿論、新たな術をこめればいいので再利用は可能だ。一般的な銅銀の板ならば、極めて安価なものでもある。
 ラナ司祭の視線にイリが出てゆく。板を取りに行ったのだろう。

「申し訳ございません、ファナ・シェスティリエ。イリが随分と貴女様に興味をお持ちのようで……不躾な視線を……」
「かまいません」

 在室中、イリはただひたすらシェスティリエを見つめていた。
 シェスティリエの一挙手一投足を逃すまいとでもいうように、じっと見つめる黒い瞳は、不思議なくらい澄んでいた。
 確かに不躾な視線ではあったが、イシュラの神経には障らなかった。きっとそこに邪気やそれに類する負の感情がいっさいなかったせいだろう。元より、シェスティリエは他者の視線を気にするようなタイプではない。

(あの金髪美人なにーちゃんは、何かすげえムカついたんだけどな……)

 少年の細い手足には、ところどころに青アサがあり、もしかしたら、見えない場所にはもっと多くの傷があるかもしれないと思った。
 イシュラはそれを見た時に、すぐに虐待を疑ったくらいだ。勿論、目の前のラナ司祭だとは思わない。もし、そうであれば、この少年がラナ司祭のすぐ隣……手の届く距離に座る事は無いだろう。

「あの子はイリと言います、ご覧のとおりの神子ですわ。もうすぐ11歳になります。5歳の時にこの聖堂に来ましたの」
「……もしや、こえが?」
「ああ、そうです。ファナ・シェスティリエ、すぐにおわかりに?」
「……ええ、まあ」

 外傷はまったくない。ただ座っているだけでは、物静かな少年にしか見えない。

「………エーダ・ラナ。イリを、リスタのエーダ・リドとあわせたことはありますか?」
「エーダ・リド……ああ、本山の神学校で治癒術と神学を教えてらっしゃった?」
「ええ、そうです」
「いいえ。残念ながら私はエーダ・リドに教わりませんでしたし……エーダ・リドはリスタからほとんどお出にならないので……。勿論、この子もお会いした事はございません」
「そうですか……」

 わずかに考え込む表情。

「イリが何か?」
「いえ……こえがでないというのは、にちじょうせいかつに、さぞふじゆうがあるとおもいまして……」
「もしや、エーダ・リドの御力なら治すことが?」
「いえ、そうではないのですけれど……」

 シェスティリエは、更に考えている。

「……身内の恥を晒すようですが……あの子は、この聖堂で虐めを受けているようなのです」

 ラナ司祭は苦しげな表情で、口を開いた。シェスティリエたちが気付いていることがわかっていたのだろう。

「……………………」
「私の目の届く範囲では、決して行われません。ですが、私はあの子とずっといてあげることはできない」
「……………………」
「何よりも、私は、あの子だけを特別扱いするわけにはいかないのです」
「………………なぜですか?」

 あっさりとシェスティリエは問う。

「私はこの中央聖堂の司祭です。あの子に障害があろうとも、他の神子たちと平等に扱わねばなりません」

 平等に愛を注がねば不公平になります、と目を伏せる。
 シェスティリエは何も言わなかった。彼女には、ラナ司祭とはまったく違った見解があったが、言ってもどうしようもないことだ。

「………こちらのせいどうの、きょかがいただけるのなら、わたしがつれていってもいいです」
「え?」
「ほんにんのいしもありますが、わたしのじしゃとしてもいい、ということです。つまり、わたしが『しさい』いじょうのかいいをうけたら、かれはわたしのじさいになる」

 侍者とは、聖職者の身の回りの世話をする者を言う。これは、今、ルドクがそうなっているように、信者であれば誰でもなれる。
 だが、神子を侍者とするのは、それとはまったく意味を異にする。
 神子は聖堂で育てられた子供であるから、洗礼を受けた後、聖堂で奉仕することを義務づけられている。奉仕期間は、洗礼を受けるまで聖堂で育てられていた期間とされている。
 神子の洗礼は15歳までに行うとされていて、だいたいの場合、15歳ぎりぎりで洗礼を執り行う事が多い。これは、なるべく長く聖堂に奉仕させる為だ。
 奉仕期間を短くする方法の一つは、誰か聖職者の侍者となることだ。ただし、侍者となるには、その神子を侍者とした者がそれに見合う喜捨を行わなければならない。大概の場合、教父(教母)が、能力のある子を侍者にすることが多い。
 もっともこれは、奉仕する相手が、聖堂でなく侍者としてくれた聖職者個人になるだけで、実質には何も変わりがないとも言われている。
 だが、侍者となるということは、その聖職者の庇護下に入ったことを意味する。
 今のイリに必要なのは、その庇護だ。いや、とラナ司祭は内心首を横に振る。庇護以前に、ここから連れ出してくれればそれでいいとさえ思う。

「よろしいのですか……?あの子は声が出ないのですよ?」

 声が出ない……それは、ほとんどの法術が使えないということだ。それは、神官としての出世の道がないということと同意だった。かといって、彼が剣術や体術に優れているかは未知数だ。今の細い身体を見る限り、武官として大成することはかなり困難に見受けられる。
 そんな神子を侍者とする……それは、シェスティリエにとっては厄介ごとを抱えるという意味でしかない。

「かまわない。……わたしはごらんのとおりのむらさきのひとみだから、もともとまじゅつのこころえがあります。イリにもつかえるほうじゅつをさがすこともできるでしょう」
「私には願ってもないことです。ですが、保護者の方は……」

 眼差しはイシュラに向いている。ラナ司祭は、シェスティリエの幼さに、イシュラを聖都にまで送り届ける保護者だと思ったらしい。

「主が望むのであれば、別に異論はありません。……エーダ・ラナ、オレはファナ・シェスティリエの聖従者です」

 ぶっとルドクは噴き出しそうになるのを無理やり飲み込み、軽くむせる。

(べ、別人だよ、イシュラさん……)

 騎士らしいそぶりもたびたび見てはいたのだが、これはもうまったくの別人だ。
 いったい、何の陰謀かといいたくなるような見事な変わりっぷりだ。

「まあ……そうなんですの?」
「はい」

 シェスティリエはうなづく。
 聖従者を持つ者は少ない。聖従者は、聖職者に剣を捧げた騎士を言うのだが、聖職者に剣を捧げた聖騎士は聖従者とは呼ばれないからだ。

「ああ、でも、ファナのこの幼さでは、当然ともいえますわね」

 幼いシェスティリエを守る為に、親がつけたのだろうとラナ司祭は思ったようだった。

 コンコンという小さなノックとともに、イリが戻ってくる。
 手には十数枚の魔力板が握られていた。

「まあ、イリ……頬をどうしたの?いらっしゃい」

 目の下に青いアザを増やしたイリは、ふるふると首を横に振る。

「大丈夫よ、治すだけよ」

 だがイリは、ぱたぱたと駆け寄ると魔力板をシェスティリエに差し出す。

「ありがとう、イリ」

 ぱあっと笑顔がひらいた。
 その瞳がきらきらと輝いている。

(えーと……一目惚れ、とかなのかな……いや、何か違うような)

 ルドクは首を傾げる。
 シェスティリエが何かした様子はまったくなかった。さっきまで、ほとんど視線すら交わしていなかっただろう。
 そして、一目惚れというには、イリの目の中には甘い熱がない。
 
「ファナ、どうやら、イリは貴女と行くことが幸せになれる道のようです。私の方で手配いたしますので、明日、大司教様がお戻りになったらお話をしていただけますか?」
「はい。……では、あす、またうかがうようにいたします」
「今日は、こちらに滞在なのでは?」
「………さきほど、ガーナはくしゃくから、ごしょうたいをいただきましたので」
「ガーナ伯爵から……ガーナのお屋敷に?」
「はい」

 ラナ司祭の表情が曇る。

「……伯爵家で何か?」

 尋ねたのは、イシュラだ。

「いえ、特に何というわけでもありません。ただ、伯爵家は第三王女の件でいろいろと大変なようですから……」
「……訪れない方がいいと?」
「そうとまでは申しませんが……先日も第三王女様を狙って、襲撃されたとも聞きます。どうか、くれぐれもお気をつけ下さい」
「ええ、もちろんです」

(……そんな物騒なのかよ)

 イシュラは腰の剣の柄頭をとん、とん、と叩く。久しぶりに出番があるのかもしれない。
 シェスティリエは、例の冷ややかな笑みを浮かべていた。物騒なことを最初から承知だったらしい。
 ラナ司祭はルドクと挨拶をしていて気づいていないが、イリはじーっとその表情を見ている。シェスティリエは、その冷ややかさをまったく隠そうとしていなかった。
 だが、イリはことさら驚いた様子もなく、飽きもせずに見つめつづけている。
 くるりとシェスティリエがイリの方を向いた。そして、イリに小さな柔らかい笑みを見せる。

「また、あしたね、イリ」

 シェスティリエの言葉に首を傾げ、意味がわかった瞬間にその表情がぱあっと明るく綻ぶ。そして、こくこくと首を振った。
 誰が見ても、一目で好意があるのだとわかる。

 イリは、イシュラとシェスティリエの姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。




「……姫さん、あの子に何をした?」

 二人は、後から追いかけてくるだろうルドクを待ちながら、ゆっくりゆっくりと足を進める。

「なにも。でも、イリにはみえるのだろう」
「何が?」
「まりょく。みえるにんげんには、いまのわたしは、おひさまじょうたいだ」
「…………は?」
「『まりょくかいろ』がこうちくできてないから、ほうしゅつしっぱなしだ。たぶん、キラキラしてみえる」
「……魔力回路ってなんだっけ?」

 前に聞いたような聞かないような、と首を傾げる。

「からだのなかの、まりょくをじゅんかんさせる、みちすじのことだ。まだ、おさないからだゆえに、かいろをこうちくできない」

 無理に作ると成長の妨げになる、と不満げだ。

「イリは、ふつうよりまりょくりょうがおおい。そのうえ、かんかくがするどい。だから、つよいまりょくをもつわたしがすきなのだろう」
「なぜ?」
「あんしんするから」
「……………腕っぷしの強いヤツといれば安心、とかそういう感覚か?」

 イシュラは魔力の話になるとよくわからないことが多い。だが、理解はしておきたいと思う。そういう問いかけに、シェスティリエは面倒がらずに丁寧に回答してくれる。

「そうだな」
「でも、普通より魔力多いんだろ?あの子供。なのに、なんでだ?」
「だからわかるのだ。じぶんのよわさが。……そうだな。くらやみのなかで、ずーっとひとりきりだったところに、たいようがさしたらどうおもう?」
「そりゃあ、安心すんだろうな」
「そう。いま、そういうじょうたい」
「なるほど……」

 そりゃあ、あの懐きようも無理ないか、と思う。
 暗闇の中に射した一筋の光……そして、その光をもたらした相手が手を差し伸べてくれたとしたら……明日のイリの喜びが目に見えるようだと思う。

(……それに……それは、オレだ)

 あの子供は、イリは、自分と同じだとイシュラは思う。

「……オレは、姫さんしか守んねーぞ」

 守るのは一つだけ。
 そうでなくては、守りきれない。

「……かまわない。だが、つよくなるのに、ちからをかせ」

 シェスティリエが艶を滲ませた笑みをこぼす。
 イシュラは、この笑みが好きだ。
 どこまでも清華な慈愛の微笑よりも、このどこか妖しさを帯びた笑みがいい。

「ああ」

 うなづいた。シェスティリエの周囲に人が増えることは嫌なことではない。むしろ、盾が増えるか程度にイシュラは考えている。

「……そうだ、姫さん、聞きたかったんだけどな」
「……なんだ?」
「なんで、天空の歌姫と同じ名前って言われるのが嫌なんだ?ルドクが来る前に聞いておこうと思ってよ」

 どこへ行っても言われるから、とかそういう理由ではあるまい。まだ、そんなに言うほど多くの場所で言われたわけではない。

「それは……」

 珍しく即答を躊躇う。

「……つまりだな……それは、私が……」

 シェスティリエが、躊躇ったすえに口を開きかけた瞬間だった。

「シェスさま、イシュラさん、お待たせしました!」

 タイミング悪くルドクが戻ってくる。

「あれ?どうしました?二人とも」

 沈黙が不自然だった。

「いや……何でもない」
「なんでもない」
「????????」

 何でもないというわりには、表情が苦い。だが、ルドクにまったく思い当たる節は無かったので気にしない事にした。

「……あの子の身代金は『お志』程度でいいそうですよ、シェスさま」

 身代金、と言うのは、ルドクのブラックジョークだ。イリを引き取るために必要な喜捨のことを言っている。
 神子を引き取ると一口に言うが、聖堂とてこれまで育てて来た子供を無償で手離すようなことはしない。聖堂はそんなことは絶対に認めないだろうが、それは、奉仕で返さないのなら、金で返せということだ。
 もっとも、イリのように厄介者にされて持て余されていれば、それは形だけのもので、だからこそ『お志』……幾らでもいいというようなことになる。

「……おまえ、んな交渉してたの?」
「ええ。だって、シェスさまが、聞けって」

 知らないところで指示があったらしい。

「わたしがきくわけにはいかない。……そうだな、ファラザスきんか1まいでしはらおう」

 ファラザス金貨は、ファラザスが法皇として在位していた期間の、晩年の十年間だけ鋳造されていた金貨だ。額面の百倍とも二百倍とも言われるプレミアがついている。
 ことに神聖皇国では、その価値以上に尊ばれる金貨だ。

「………………そりゃあ、法外な」
「よい。イリとて、じしんのきしゃがやすいのはふかいにおもうであろう。そのかわり、いろいろとほしいものがある……」
「……さっきの魔法瓶とか?」
「そう、まほうびんとか」

 にっこりと笑う。ルドクもだんだんとシェスティリエの気質や好みが呑み込めて来たらしい。

(ファラザス金貨か……。大量にもってたんもんな、あの白骨……)

 迷いの森に全財産をもって逃げ込んだらしい人間の慣れの果てから、ファラザス金貨ばかり200枚近くと小さいながら良質な……シェスティリエがそう言った……宝石がつまった皮袋をいただいてある。もしもの時の貯蓄はばっちりだとシェスティリエは言っていたが、あの時はどれどころじゃなかった。
 金や宝石は、文明社会だからこそ意味があるのであって、サバイバル中の森の中では無用の長物だ。戻ってこれた今だからこそ、その価値をすごいと感心することができる。
 森の中で手に入れた財産は、すべて、二重底にしてある葛篭の中だ。封印の呪文がかけられているので、他者には開封できないというシェスティリエの御墨付きである。

「ほういとか、せいいはなんまいあってもこまらない……あ、イリのぶんもいただくように」
「はい。法衣も聖衣もちゃんといただきましょう。交渉はお任せください」

 ルドクは、しっかりとした商人の顔をする。

「うん。たよりにするぞ、ルドク」
「はい」

 ルドクは誇らしげな顔で深々と頭を下げた。

(……とうとう、こいつまで姫さんの信者に……)

 いずれそうなるだろうとは思っていたが、思っていた以上に早かったらしい。
 イシュラは、この先、どれだけ自分の主の信者が増えていくのかを思って、小さな溜息をついた。




2009.09.10更新・修正




[11484] 第3章-3
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/12 20:41
 ガーナ伯爵邸は、青湖のほとりに建つ瀟洒な邸宅である。
 規模としては中程度だが、白大理石の壁が、青い湖に映りゆらめいている様子はたとえようもなく美しい。
 また、青湖をうまく利用して作られた庭は、高名な作庭師によるもの。王都で一、二と言われるほど美しい邸であったが、そこに住む住人は更に美しいとも囁かれていた。

「……うつくしいが、このせいじゃくは、まるでゆうれいやしきだな」

 通されたのは、まるで主の居室かと見紛うばかりの豪奢な室だった。
 客室とは思えない美しく豪奢な調度品の数々は、ガーナ伯爵家の財力を如実に現している。
 だが、シェスティリエの言葉どおり、邸はしん…と静まり返っていた。普通、貴族の邸ともなれば、使用人たちが忙しく立ち働いていて、もっといろいろな生活の音が聞こえてくるものだ。

「ほんとうにでます?これ」

 ルドクは幽霊の真似をしてみせる。

「さあな。でも、あんずるひつようはない。ゆうれいというのは、くうかんにやきついたつよい『しねん』にすぎぬ。きまったこうどういがいはできないのだ。いしのあるものではないからな」
「え、幽霊話の幽霊は、普通にしゃべるじゃないですか」
「それは、ほんにんのたましいのいちぶだろう」
「……………それを幽霊というのでは?」
「そうなのか?」
「ええ、たぶん。…………シェスさまは、幽霊を怖いなんて思わないんですね」

 ルドクは小さな溜息をついた。自分が人より臆病だと言う自覚はあるが、シェスティリエの幽霊を幽霊とも思っていないようなその様子と比べるとあまりにも情けない気がしたのだ。

「ぐもんだな、ルドク」
「あー、その質問は聞くだけ無駄だろ。……そもそも、それは、姫さんにも怖いものがある前提だろ」
「しつれいなおとこだな、イシュラ」
「いえいえ、我が主が、何かを怖れる姿など想像できないだけですよ」
「……シェスさまもイシュラさんも、同類ですから!」

 ほんのちょっとでいいから、その豪胆さを分けて欲しいと思う。

「余裕ですよね、シェスさまもイシュラさんも」
「なにがでるかはしらぬが……むきずのイシュラがいて、わたしがおきているのなら、たいがいのことは、きりぬけられるよ、ルドク」

 イシュラもそのとおりだと言うように大きくうなづいている。

「…………そうですね」

 大陸有数の剣士と、おそらくは世界最高ランクの頭脳の持ち主だ。それこそ、無敵のコンビだろう。

「……ところで、参考までに聞くんだが、姫さんが切り抜けられないことって何です?」

 ふと、思いついたようにイシュラが問うた。

「そうだな……たとえば、おとしあなにおちたら、ぼうそうしたりゅうのむれのうえについらくしたり……。あとは、いえのドアをあけたら、どこかのみずうみのそこだったり……。それから、まいごになってとほうにくれてたら、あたまにごくらくちょうのはねをさしたうさんくさいオカマにプロポーズされたり……とかだ」

 何を思い出したのかシェスティリエの表情が、だんだんと暗くなりはじめる。

「それ、例として正しくない気がします……」
「…………………姫さん、それ、どんだけ特殊事例だよ」
「し、しかたないだろう。わたしだって、そういうことがあったらパニックになるし、とほうにくれる」

(もしかして、実体験?いやいや、それはありえないし!だって、竜なんて、深い山の奥地にしかいないし!)

「……シェスさま、竜はそこらにはいませんし、家は水の底に勝手に移転はしません。それに頭に極楽鳥の羽つけたおかまって、そんな人が普通に歩いてたりとかしませんから。……え、なんです?イシュラさん」

 イシュラの物言いたげな表情がルドクは気になった。

「……あのな、ルドク。その極楽鳥、ローラッドの第二皇子だから」
「へー、第二皇子……皇子?え……イシュラさん、知ってるんですか?」
「ああ、まあ、ちょっと……」

 過去の思い出したくない記憶の中に、それは封印されている。
 シェスティリエとイシュラは互いに目を見合わせ、互いの精神衛生上の為にそれを再封印する事を無言で了解しあった。

「……シェスさまとイシュラさんのそういうとこ、仲良すぎですよ!目線で会話して」
「なにをいう。ルドクだってわかるだろう?わたしがきけってめでいったのを、ちゃんとなにをきくのか、わかってたじゃないか」
「あ、ああ……あれはだって、あの流れなら当然じゃないですか」
「イシュラにはわからなかったぞ、ぜったいに。だから、べつにおまえがわからないことがあってもおかしくない」
「なーんだ、ルドク、嫉妬か、生意気に」
「そーいうんじゃないです!」
「ばーか、そういうのだよ。オレに嫉妬しても無駄、無駄。オレは姫さんに剣を捧げてんだから」

 イシュラはぐしゃぐしゃとルドクの頭を引っ掻き回す。

「頭かき混ぜるのやめてくださいってば……」
「おまえは、おまえにしかできないことをすりゃあいいんだよ」

 はははは、とイシュラは笑う。

「僕にしかできないこと……?」
「そうだ。……姫さんだって、一人で何でもできるわけじゃないしな」
「そのとおりだ。……まあ、いろいろとやってもらいたいことはあるのだが……」
「な……」

 何を、と問おうとした時、こんこんと控えめにノックの音がした。
 気配が、変わる。
 警戒――――― ぴんと空気が張り詰める感覚がある。
 イシュラの横顔がどこか鋭さを増した。
 こういう時、イシュラが武人であることを……剣を持つ人間である事を、ルドクは強く思い知らされる。

「どうぞ」

 失礼致します、の声と共に入って来たのは、少女だった。

「皆様、こちらにお揃いでございましたか、お待たせして申し訳ございません。お食事の用意が整いましたので、どうぞ、食堂においでくださいませ」

 淡いグレイのワンピースに白のカフス、白のヘッドドレス、そして、レースの飾りのついた白のエプロンが、ガーナ伯爵家の女性使用人のお仕着せらしい。スカートの裾をふわりと揺らして、十七、八歳のおとなしげな少女は深々と一礼する。

「はい」

 シェスティリエは、にっこりと笑みを浮かべた。
 珍しい天使の微笑の大安売りだ。

(……今度は一体、何があるんだろう……)

 シェスティリエがこんな風に笑うのには、絶対に何か意味がある。シェスティリエは無駄なことはしないし、彼女はそうそう笑顔を見せる方ではない。

(女王様笑いはよくするけど……)

 こっそり、『女王様笑い』とルドクが名付けたのは、シェスティリエがよくやる、口元だけにひややかな笑みを浮かべるアレだ。
 どちらかというと、アレがシェスティリエの普通の笑いである。
 だから、そういう笑いなら、ルドクは別に驚かないし警戒心もあまりわかない。

(……何も知らなければ、うっとりと見惚れられるんだけどなぁ……)

 うっとりするには、ルドクはシェスティリエの性格を知りすぎている。
 彼女が笑っている時は要注意だということは、イシュラと何度も確認した重要事項なのだ。

(まあ、何があっても、とりあえず慌てないようにしよう……お二人の邪魔にならないように)

 ルドクができることはあまり多くはない。だから、せめて邪魔をしないようにしたいと常々思っている。最近では山賊が出たくらいではまったく慌てなくなっている。少しは頑張っている成果が出ているのかもしれない。

「ご案内させていただきます」

 前に立つ彼女の表情がどこか強張ってみえるのは、ルドクの気の回しすぎだろうか?

「……ルドク、せっかくのしょくじだから、えんりょなくいただくのだぞ」
「はい」
「腹壊しても姫さんが何とかしてくれるから」
「もちろんだ。あ、これをさきにのんでおくがよい」

 シェスティリエになにやら黒い丸薬を渡される。

「なんですか?これ」
「ふつかよいよぼうやく」
「……へー、そんなのあるんですね」

 ルドクはあっさりとその丸薬を口にいれる。

「うわ、苦っ」

 舌先が痺れるほどの苦味に顔をしかめた。

「薬だからな」
「りょうやくはくちににがし、というではないか」
「そうですけどね」

 法衣の飾り帯を整えているシェスティリエを、イシュラはひょいと抱え上げる。

「……あれ?シェスさま、お疲れなんですか?」
「ん、きょうはだいぶあるいたからな」

 イシュラが何も言わずに抱き上げることとか、シェスティリエがそれを当然のことだと思っていることを、ルドクは口惜しいと思う。思い起こせば、この二人は出会ったときからそんな感じだった。
 
(なのに、それが気になるようになったっていうのは、僕が変わったからなんだろう……)

 シェスティリエの無条件の信頼を受けているイシュラが羨ましいと思ってしまうのだ。 

「ルドク、エーダ・ラナはなにがおすきだろう?あす、ゆくときにかっていきたい」
「え、ラナ司祭ですか?」

 唐突な言葉に首を傾げる。
 ビクッと前を歩く少女の背が震えたのがルドクにもわかった。
 目線をあげて、イシュラを見る。イシュラは知らぬフリをしていろと目で言う。小さくうなづいた。

「えーと、ラナ司祭は、甘いものがお好きですね。水飴とかお喜びになると思いますよ」
「そうか」

 先に立って案内する背中……ドアノブにかけた手が、小さく震えている。
 この唐突な言葉のやりとりに何の意味があったのか、ルドクにはさっぱりわからない。

(後で聞いてみよう……)

 少女は気を取り直すかのように息を吸って、それから大きな扉を押し開く。

「ど、どうぞ……」

 ルドクには聞き取れなかったものの、すれちがいざま、シェスティリエが何かを囁いた。
 びくり、と大きく身体を震わせ、凍りついたかのように硬直した。
 呆然とした表情……よほどショックなことを言われたのだろう。
ルドクが振り返ると、閉まる扉の向こうに立ち尽くした少女の表情は、怯えではなく恐怖に彩られていた。




「……くらい」

 光源は、テーブルに置かれた燭台でゆらめく蝋燭の光だけだった。
 燭台はいたるところに置かれているのだが、どうしてもその灯は魔法具の光ほど明るくはない。

「申し訳ございません、ファナ。魔法具がちょっと故障しましてね……ですが、たまには燭台の光も趣があるものです」

 入り口で出迎えたのはガーナ伯爵……リュガルトだった。騎士服から黒と灰色の室内着に着替えている。
 その金の髪は蝋燭のぼんやりとした光の中であっても豪奢な色を誇り、翡翠の瞳は穏やかな光を帯びている……いかにも貴公子然としており、王都の若い女性がこぞってあこがれているというのも無理はない。

「ランプは利用されていないのですか?」

 イシュラが静かに問うた。
 平坦な声音……ルドクはいつもと違う様子に、少しだけ気をひきしめる。

「ええ、まあ……家中の照明がすべて魔法具なものですから……」

 シェスティリエは、イシュラの腕の中から、興味深そうに天井のシャンデリアを見上げている。繊細なカッティングがほどこされた硝子を贅沢に使ったシャンデリアは、蝋燭のわずかな灯にもきらきらと美しい輝きを放っている。

「では、このシャンデリアもまほうぐなのですね」

(……あ、シェスさまが、お姫様モードだ)

 ラナ司祭の時もそうだったが、いかにも貴族の姫らしい口調だ。更にお姫様度がアップしている。
 関所では、いつもの口調だったが、それほど多く会話をしていないから、リュガルトにはきっと違いが判っていないだろう。

「はい。……珍しいですか?」

 魔法具で最も広く使われているのが照明だ。
 貴族の家はもちろんのこと、王都では一般住宅でも魔法具の照明を備えている。リュガルトには、意識するほどもなく当たり前の品物なのだろう。

「ローラッドのうまれなものですから」
「ああ、ローラッドではフェルシアほど魔法具は使われておりませんでしたね。……御家名をお伺いしても?」
「はくしゃく、せいしょくしゃにかつてのなをとうことは、マナーいはんです」

 やんわりとそれを断る
 そういえば、自分もそれは聞いたことがない、とルドクは気付いた。

「失礼いたしました。つい……ファナの瞳が珍しい紫ゆえに、遺伝なのかと思いまして」
「……とつぜんへんいのようです。ちちもははもむらさきではありませんでしたから」
「そうですか。……どうぞ、おかけください、ファナ」
 立ち上がった伯爵は、椅子を引いて促す。
「ありがとう」

 イシュラはふわりと椅子の上に座らせる。そして、いかにも騎士らしいしぐさで一礼した。

「お供のお二人も、どうぞ」

 当然のように、イシュラはシェスティリエの隣の席に就いた。シェスティリエの騎士であるイシュラには元々その権利がある。彼女が聖職者となり、聖従者と呼ばれるようになってもそれは変わらない。
 そして、シェスティリエの侍者であるルドクも、主がそれを望めば今は同じテーブルに就くことができる。だが、だいたいは侍者は別のテーブルで食べさせられることが多いものだ。同じテーブルに席があるのは、このディナーに同席する人間があまりにも少ないからだろう。
 招待主であるリュガルトを含めても四人。二十人以上が同時に食事をとれる食堂はがらんとしていてうら寂しい。照明が蝋燭なことも、その寂しさに輪をかけているかもしれない。

「では、はじめましょうか」

 その声を合図に、給仕がワインの瓶をもって現われる。さすがに伯爵家の使用人だけあって、動作に無駄がなくきびきびとしている。

「当家の領地で作っているワインになります。去年のものですが、最高の出来だったのですよ。ぜひ、ご賞味いただきたい」
「……もうしわけありませんが、わたくしとイシュラはごえんりょさせてください」

 シェスティリエは心の底からすまなそうな表情で軽く頭を下げ、ルドクを見て付け加える。

「ルドク、わたしたちのぶんもいただきなさいね」
「えっ、あ、はい。喜んで」

 ごくり、と思わず唾を飲み込んだのは、シェスティリエのその言葉遣いに大変違和感を覚えているというのに、いただきなさいね、なんて笑顔つきで促されてしまったからだ。

(これは、自分達の分も飲めっていうことだよな……えーと……毒見?いや、二人は飲むつもりがないんだよな……あれ?まあ、いいんだけど)

 チラリとイシュラに視線をやると、笑いを噛み殺すような表情をしている。

「ワインはお嫌いですか?」

 ワインは水代わりだ。年齢が幼いものには、あまりアルコール度数の高くない……ジュースのような軽いものが出されることが多いが、それもワインの範疇だ。

「いいえ……せっかくのおこころづかいですが、わたくしとイシュラは、やくそくをしたものですから」
「約束?」
「……………わたくしのりょうしんが、せんじつ、いくさでなくなりました。でも、わたくしはせいしょくしゃだから、もにふくすることができない。だから、かわりにイシュラがもにふくしてくれているのです」

 イシュラが軽く一礼する。
(イシュラさんも、普通の騎士らしくすると、ほんと別人だ……)

「・・・…今回の戦でご両親がお亡くなりに?」

 ローラッド帝国とブラウツェンベルグ公国、どちらとも国境を接しているフェルシアだ。
 今回の戦の行方には多大な興味を持っているといってもいい。リュガルトの元にもそれなりに情報は入ってきているのだろう。

「……ええ」

 シェスティリエは、軽く目を伏せる。その様子はとても儚げで……思わずルドクですら見惚れてしまう。

「……それは痛ましい事ですね。……お悔やみを申し上げます」
「ありがとうございます」

(……違和感を気にしないと、シェスさまが普通の貴族のお姫様に見えるから不思議だ)

 違和感がなくなったわけではない。ただ、それを無視しているだけだ。
ルドクは、給仕がグラスに注いでくれた、やや甘めだが豊かな味わいのロゼを口にした。
 シェスティリエにもイシュラにも大いに飲み食いするように言われている。あの口ぶりだと、万が一、何か入っていてもちゃんと助けるぞ、と言ってくれているのだろう。

(……何がはじまるんだろう)

 何かあるのだとはわかっている。でも、それが何なのか、ルドクにはまったくわかっていなくて、それがもどかしい。

(仲間はずれみたいな気がする……)

 それが、ちょっと口惜しい。

「……お身内の方は他には?」

 シェスティリエは首を横に振る。だが、それはいないという意味ではない。

「わたくしは、せいしょくしゃになったのだから、たちきったぞくせのことをかんがえるのは、あまりよくないことです」

 静かな言葉。それは、シェスティリエの本音なのだろう。事実、ルドクはシェスティリエの口から、一度も親族の話を聞いたことがない。ただ、両親が戦で死んだということだけは旅の初日に、ぽつりと話してくれた。

「ですが、血のつながりというのは強いものです……それを断ち切ることは神にもできないことだと思いませんか?」

(……あれ、なんか、ちょっと眠いかも……)

 さすがに食卓で寝るのはまずいだろう。ルドクは自分の腿をぎゅっとつねる。ワイン一杯ぐらいで眠気を感じるなんて、思っていた以上に疲れているのかもしれない。

「ちのつながりになど、たいしたいみはありません。じぶんがなにをえらぶかです、はくしゃく」

 シェスティリエは、その瞳をまっすぐとリュガルトに向ける。
 室内が薄暗いせいか、紫の瞳は昼間に見るよりも色濃さを増してみえた。
 深みを帯びた紫水晶の瞳……それは、心の底を見通すかのようだ。

「………ファナは、ご自身の意思で聖職者に?」

 リュガルトが、わずかに目線を逸らし、違う問いを口にした。

(ちょっと……まずいかも……)

 ルドクの目には、リュガルトの白い横顔がぼやけて見えていた。

「ええ。……ひつようだったものですから」

 何だか、聞こえてくるシェスティリエの声がひどく遠いと感じる。

「失礼ですが……何に必要だったのでしょう?ファナのような幼い姫君が、聖職者になると言うのは生半可なお覚悟ではできないことと思いますが」

(寝たらだめだ、寝たらダメだ、寝たら駄目だ……)

 腿をつねる指に力をこめる。だが、まったく感触を感じない。
 もしかしたら、つねることも出来ていないのかもしれない。

「しりたいことがあります。それから、つたえたいことが……」

 それに……と言葉を切ったシェスティリエの表情が覚悟を帯びる。

「それに……わたくしのいのちは、わたくしだけのものではない」

(シェスさまの声には……力がある……)

 宿る強い意志、そして、決意。
 その言葉は、声は、迷うことなく自らの道を示す。
 薄れる意識の中で、ルドクは、シェスティリエが自分に微笑んだような気がしていた。






2009.09.12 更新



[11484] 第3章-4
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/15 23:56
 耳障りな音をたてて、皿が床に落ちる。
 ルドクが白いテーブルクロスを乱して倒れこんでも、イシュラも……そして、シェスティリエも動かなかった。ただ、ほんのわずかに視線を動かしただけ。

「………予測しておられたか?」

 どこか、興味深そうな様子で、リュガルトは静かに問う。

「ええ」

 シェスティリエは、小さくうなづいた。
 予測通りでつまらない、というような表情だ。

「………いつから?」

 手にしていたグラスをテーブルに置き、リュガルトは足を組む。食卓でするには無作法な仕草だが、既に食事を続けるつもりはないのだろう。

「………たぶん、はじめから」

 食事を続けるつもりがないのはシェスティリエも同じだった。細い指先が、首もとのナプキンをはずし、テーブルの上に置かれた。
 イシュラは、シェスティリエの椅子の背後に立つ。

「初めから、か……最初から、私が何をしようとしているか知っていたと?」
「……すくなくとも、あなたがこころからわたくしたちに『ほうし』してくださるつもりがあるとは、おもっていませんでした」

 シェスティリエははっきりとうなづく。イシュラは薄々何かを感じていただろう。……もしかしたら、ルドクも。
 でも、それは彼が何かしたからというよりは、シェスティリエの態度からに違いなかった。それほど長い時間を共に過ごしたわけではないが、二人はシェスティリエという人間をよく見ている。
 だから、彼女がいつもと違うことをすれば、それぞれに心構えをする。
 そういう回転の良いところが、シェスティリエが二人を気に入っている理由の一つだ。

(それに、ふたりとも、おどろくほどじゅうなんせいがたかい……)

 イシュラなど、シェスティリエが過去の人間の生まれ変わりだと言う言葉を信じて、受け入れているほどだ。

「なぜ?」
「……あなたのめは、『わたくし』というこじんをみていませんでした。さいしょは、わたくしのおさなさにおどろいたのでしょう。もしかしたら、そのときだけは、じゅんすいに『ほうし』をかんがえてくださっていたかもしれない……でも……」
「でも……?」

 リュガルトは、どこか倣岸さを感じさせる表情でシェスティリエを見る。

「それは、わたくしのかおをみたしゅんかんに、かわった……」

 いつもより、ワントーン低い声でシェスティリエは言葉を紡ぐ。

「ははははは……私が、幼い少女に興味を示すと?いくら貴女が類い稀な美貌を持つとはいえ、初潮もまだの子供に食指は動かぬよ」

 嘲りを含んだ言葉……乾いた笑いががらんとした食堂に響く。
 剣の柄に手をかけたイシュラを、シェスティリエが目線で止めた。
 そのような空虚な言葉は、シェスティリエを傷つけることなどできやしない。

「あなたがきょうみをしめしたのは、わたしのかおではなく、わたしのめでしょう、ガーナはくしゃく」

 ぴたりとどこかつくられた笑い声が止まった。
 その目に浮かぶのは、純粋な驚き。

「まりょくをやどすといわれるむらさきのひとみ……そう。おそらくは、だいさんおうじょもむらさきのひとみなのでしょう?」
「どうして……」

 驚きは驚愕へと変わる。シェスティリエは薄く微笑むだけでその問いには答えない。

「ずっとかくしてそだててきたひめに、あなたは、それなりにあいじょうをもっている。だから、さんねんまえのできごとは、あなたにはせいてんのへきれきで……そして、そのために、あなたのたちばはとてもくるしいものになった……」

 だって、王妃が姫の存在を許せるはずがないのですもの。

「おうひは、あなたにひめをころせといったの?」

 小さく首をかしげる。
 無邪気なしぐさだったが、シェスティリエは、無邪気さとはほど遠い存在だ。
 図星だったのだろう。リュガルトは大きく目を見開く。

「それとも……」

 シェスティリエはその言葉の響きを楽しむように、そこで区切り……そして嗤う。

「……それとも、むらさきのめを、しょうことしてもってこいとでもいわれた?」

 驚愕は……一瞬にして、恐怖へと変わった。
 背筋を走る悪寒を押し殺し、蒼白な表情でリュガルトは目の前の少女を見る。
 まっすぐと彼を見据える紫の瞳……それは、夕闇を映した紫であり、深みを帯びた紫水晶の色だ。

「でも、あなたはおうじょをころせない。ときおり、にくしみをおぼえることはあっても、あいするあねのわすれがたみだから……」

 イシュラは、冷ややかな眼差しでリュガルトを見ていた。
 シェスティリエの言葉通りなのだろう。いまや、彼の顔色は蒼白だ。自身の内心を言い当てられて、平然としていられるほど豪胆な性格ではないらしい。

「めいもんであるということは、おうけとえんをもつということ。ガーナはくしゃくけもまた、そのれいにもれない。ゆえに、あなたはじじつをしったとき、おどろき、かなしみ、そして、いかりをおぼえた………こくおうにたいして」

 それは当然よね、とシェスティリエは続ける。

「……おうけのおうじょをつまにしただけのおとこのくせに」

 その言葉にうたれたかのように、びくっとリュガルトの肩が大きく震えた。

「あいするあねのなをけがし、かのじょがしんだときもけっしてなのりでなかったひきょうもの!……そのうえ、あなたをぬきさしならぬたちばにまでおいこんだ……」

 目を逸らしつづけていた真実……考えないようにしていたはずだった。
 だが、三年前、事実を知ったその時から、それは頭の奥から決して離れる事がなかった。
 椅子の肘掛を握り締めた手が、小さく震えている。

「ほんらいだったら、こくおうをこそころしてしまいたい……ちがって?」

 心の奥底を言い当てられた。
 くすくすと小さな笑いが響く。

「……姫さん、ここでそういう風に笑うのは悪役だから」

 やや場違いなほどに能天気な声で、イシュラは言う。

「あら、あくやくでかまわないのよ、わたくしは」

 なんどもいってるでしょ。いい人で死んじゃったら、むいみだわ、と付け加える。

「………あなたは……」

 ……掠れた、声音。

「………あなた…は、何者だ?」

 やっとのことで搾り出した、言葉。
 リュガルトは、自分の目の前にいる少女が、見ている通りの存在でないのだとはっきりと理解していた。
 何か、まったく別の……自分を遥かに超越した存在なのだと、おぼろげに思った。
 その顔に先ほどまでの倣岸さはまるで見られない。椅子がなければ、床にへたりこんでいただろう。

「わたくしは、ただのせいしょくしゃだわ」

 軽く肩を竦める様子は可愛らしいものだ。
 だが、今のリュガルトにはまったく違って見える。
 その幼さも、その美貌も、その子供らしい舌足らずな声音も……すべてが、彼女の真の姿を隠すための仮面であるように思えた。

「………なあに、イシュラ。いいたいことがあるなら、いいなさい」

 シェスティリエは、頭上のもの言いたげな視線に微笑を見せる。

「いいえ……ただの聖職者というのは、いささかそぐわないな、と思っただけですよ、我が姫」

 取り澄ました顔をしているが、実際のところ、イシュラは今にも笑い出しそうな気分だった。
 イシュラは、シェスティリエの言葉に今更驚いたりしない。
 彼女が何を知っていたとしても、イシュラは驚かない。
 目の前で、内心を言い当てられ、半ば放心しているリュガルトを見下ろして、皮肉げな笑みを浮かべる。

「まあ、まだちかいをたてたばかりの、みならいのようなものだけれど」
「そういう意味じゃありませんよ……その気になれば姫ならば、枢機卿にだってなれるでしょう」

 何になったって、かまわない。イシュラは共に行くだけだ。
 それが例えどのような道であってもだ。

「んー……とりあえず、しさいになれればいいわ」
「なぜです?」
「しさいになれれば、だいとしょかんにはいれるもの……あら、きたみたい」

 顔をあげたシェスティリエは、大きな樫の扉の方に視線をやる。
 
「来た……?」

 勢い良く開かれた扉から、まばゆいばかりの金の光がこぼれた。





「叔父様っ」

 飛び込んできたのは、少女だった。
 華美ではないシンプルなドレス姿であっても、その美貌は明らかだった。

(……へえ……こりゃあ、美人だ)

「叔父様……ああ……よかった……」

 これがアルフィナなのだと、誰に聞かずともイシュラにもわかった。

「アルフィナ……」

 リュガルトはのろのろと顔をあげる。

「エレノアから聞きました。叔父様が、旅の聖職者様を私の身替わりにしようとしてるって」

(察するに、あのメイドのねーちゃんがエレノアか……)

 アルフィナは、シェスティリエを見て、目を見張った。
 菫色の瞳が大きく見開かれる。大概の人間と同様に、その幼さにまず驚いたのだろう。いつもそばにいるイシュラやルドクはついその幼さを忘れがちだが。

「……ファナ……叔父様のこと、申し訳ございませんでした」

 膝をつき、両手を組んで深々と頭を下げる。

「謝って許されることではございませんが、どうぞ、叔父様の暴挙をお許しください」
「ころされて、めをくりぬかれるところだったことをゆるせ、といわれましても……」

 静かにシェスティリエは微笑む。
 その言葉に、表情が大きく歪む。だが、それが事実であることを、アルフィナも承知していたのだろう。否定はしなかった。

(ま、そんなこと、させるわけねーけど)

 イシュラは、自分がいる限り、シェスティリエに傷を負わせるつもりはまったくない。

「それは……それは、すべて私ゆえのこと。……罰は、私が代わってお受けします」

 やや青ざめた顔色ながらも、アルフィナはきっぱりと言う。
 聖職者に対する障害の罪は通常よりも重い。それが、ティシリア聖教を国教とするフェルシアの法の基本原則だ。

「アルフィナ。罰ならば私が受けるのが道理だ」
「いえ、違います。私が……」
「ファナ、あなたを狙ったのは私だ。アルフィナには関係が無い」
「いいえ、私が紫の瞳だからこそ、叔父様はファナを狙ったのです。ですから、責は私に。どうか叔父様には慈悲を賜りたく……どうか……」

 かん、とそれほど大きくない音が響く。
 互いに自分に罪を、と言い争そっていた二人は、ぴたりと動きを止めた。

「うるさい。かってにありもしないつみをかぶりあうな」

 シェスティリエは軽く眉を顰める。

「ファナ……?」
「あの……」

 リュガルトとアルフィナは、シェスティリエの変貌に目をしばたかせる。

「……あー、姫さん、言葉遣い、言葉遣い」
「おひめさまぶりっこは、もうおわりだ。とっくにじかんぎれだ。……よいか、リュガルト=シュリエール=ヴィ=ガーナ。おまえのたくらみなど、さいしょからきづいていたといっただろう。それにつきあってやったのは、おまえにりようかちがあるからだ」
「……は?利用価値?」

 言われた当人は、あまりの言葉に目を白黒させる。かたわらの、リュガルトに縋っているアルフィナも同様だ。

「姫さん、正直すぎ、正直すぎ」
「こんなことをことばをかざってどうする。………そなた、おちゃはいれられるか?」
「は?はい」

 こくこく、とアルフィナはうなづいた。この子供に逆らってはならない、と本能が告げていた。

「なにか、ほかにとくぎは?」
「えーと……えーと……」
「……なにもないのか?」

 シェスティリエは、やや嫌そうな顔になる。

「えーと……あ、あります!フォルテール流拳法の免許皆伝です!」

 アルフィナは笑顔満面で言いきる。
 その隣で、リュガルトはああ~っと力ない奇声を発し、がっくりと肩を落とした。

「は?」

 イシュラは思わず疑問を発してしまう。

(けんぽう?けんぽうって拳法?貴族の……いや、王族か?まあ、いいや。この、お姫さんが?)

 目の前のアルフィナは、特にむきむきまっちょというわけではない。ガリガリというわけでもなく、とくに太っているというわけでもない。普通に健康的な少女だ。しかも、平均を遥かにこえる美貌の持ち主だ。
 シェスティリエと並べれば、さながら、柔らかな春の陽光と冴え凍る冬の夜の月光といった風情で、まったくもって目の保養になる。

「免許皆伝といっても……フォルテール流ですから、試合をしたりしたことはないのですけれど……」

 恥ずかしそうにアルフィナは言う。
 フォルテール流は古い拳法の一派だ。評価の基準は技や型をどれだけ美しく演じることができるかで、直接に拳を交わすことがない。試合の代わりとなるのは演舞で、互いに型を披露しあう。
 貴族階級の人間が好むのは、武術という形でありながら、ケガをする要素がない為だといわれている。確かに実践的ではないだろう。

(あー、確かにお貴族さま御用達っつーか、お決まりだけど……)

 それでも、れっきとした貴族の姫君が特技とするにはそぐわない。……いや、正直に言って、貴族のご令嬢の特技に、武術は………ダメだろう。だからこそ、リュガルトはこんなにも悲壮な表情で肩を落としているに違いない。

「……いや、いい。それはすばらしいとくぎだ」

 だが、意外にもシェスティリエには好評だった。

「え?そうでしょうか?」
「ああ。……ところで、そなた、このさきどうするつもりだ」
「え?」
「………そなたは、おうぞくとしてはかちがない。きぞくのむすめとしては……おうひのにくしみをかっているじてんで、どんぞこをえぐるくらいマイナスだ」

(どん底を抉るってどんんだけマイナスだよ……)

 まあ確かに、婿養子の夫が浮気をして作った娘を憎まないでいられる妻がいるとは思えない。
 生まれた子供には罪はありませんから、と微笑み、その裏でいろいろと画策するよりは、最初から、おまえなど許すものかという態度でいてくれるほうが大分マシに違いない。
 が、その妻が、一介の商家のおかみなどではなく、れっきとした一国の王妃……それも、王家の血を引き、『陛下』の称号で呼ばれる共同統治者である場合、それはとても恐ろしい事態を招く。
 目の前の少女は、その恐ろしい事態の、まさにその渦中のど真ん中にいるわけだ。

「どん底……」

 あまりに率直過ぎる言葉に、アルフィナは目を大きく見開く。

「そうだ。……ロクデナシのちちおやをたよろうなどとは、おもわぬほうがよいぞ」
「……父だなどと、思ったことはありません」

 その静かな声音には、不思議なほど感情がこもっていなかった。怒りも、悲しみも、そして、憎しみさえもなかった。

「それはよいこころがけだ」

 うん、うん、とシェスティリエはうなづく。
 それから、アルフィナの前に立って、まっすぐと見下ろした。

「……たしかにどんぞこのマイナスだがな、それはべつにそなたのせいではない」
「………ファナ……」
「そなたは、そなたじしんのちからでゼロからはじめることもできるのだ」

 アルフィナの瞳が、信じられないと言いたげな光を帯びる。

「わたしははくしゃくけのちゃくしだ。そなたとちがい、くににはきぞくのひめとしてのさいこうのしあわせ……とやらもそんざいしていた」

(皇子の婚約者だもんな……いや、もう『元』か……)

「良家とのご婚約が整っておられた?」
「ああ。……いくさがなければ、きっとそのまま、わたしはあたえられたしあわせのなかでいきていっただろうとおもう。なにもおもいだすこともなく、そして、りょうしんをうしなうこともなく……」
「戦に……巻き込まれたのですか?」
「そうだ。わたしじしんのいのちもあやうかった……イシュラがおらねば、きっといまのわたしはなかっただろう」

 それはイシュラも同じだ。
 シェスティリエがいなければ、今のイシュラはない。

「……わたしは、あのときのいくさをけっしてわすれないだろう」
「だから、聖職者におなりに?」
「………それも、りゆうのひとつだな。だからといって、ごかいしないでほしい。いくさをなくすためにとか、いくさのむえきさをおもいしって、かみのおしえにめざめたとかというわけではない。……ただ、せいしょくしゃになることが、わたしのもくてきをたっするのに、いちばんごうりてきだったにすぎぬ」

 アルフィナは小さく笑った。
 目の前の幼い少女は、やや舌足らずな甘い声音で淡々と己の思うところを語る。そして、聖職者でありながら、そうなったことを手段だと言い切る。その潔さに、羨望を覚えた。

「……そなたにも、わるくないせんたくだとおもうぞ」
「私、ですか?」

 アルフィナは虚をつかれたような顔をした。

「そうだ。ティシリアせいきょうのせいしょくしゃになるということは、かこのすべてをたちきることができる。……そう。ちちおやとのかんけいをたちきることもできるのだ。……つまり、そなたは、マイナスからではなくゼロからはじめられる」
 アルフィナは、そして、リュガルトは、はっとしたような顔をした。

「…………………なんだ?まさか、そんなかんたんなことにきづいていなかったのか?」
「え、ええ……だって、私は特に信仰が篤いわけではありませんから……聖職者になろうだなんて……」
「……なんのために、わたしのじつれいをかたったとおもっているのだ」
「申し訳ありません。ですが、ファナのように手段と言い切るには……。私は、これでも信徒でございますから……」
「……では、かみのあたえてくれたおんちょうとおもうがよい」
「神の恩寵……」
「そうだ。まず、ろくでなしのちちおやとのえんがきれる。それから、おうひのにくしみからのがれることができる……これはおおきなポイントだ。まんがいち、うらみをわすれずとも、せいしょくしゃにたいしては、おうひもてをだすことができない。ティシリアというこっかが、そなたをまもるだろう」

 ティシリアにとっては、そなたにはそれだけの価値がある。と、シェスティリエは告げる。

「……ファナ、もし、アルフィナが決意したとしても、このフェルシア国内に、アルフィナの教父、ないし、教母となってくださる聖職者はおりますまい」

 一度は顔を輝かせたものの、リュガルトは諦めた表情で首を横に振った。聖職者になる為には、最低でも司祭以上の階位を持つ人間に『教父(教母)』になってもらい、洗礼を受け、誓願を立てねばならない。

「リスタのリドしさいならば、おうけくださるだろう。……が、ぐずぐずこくないにとどまっていてはきけんであろうな。せいちにおるものにたのめばよい」
「……残念ながら、例え皇国でのことであったとしても、わが国の王妃陛下を敵に回してまでアルフィナを庇護して下さる方の心当たりが私にはございませぬ」
「あんずるな。わたしにはその心当たりがある」

(あー、会ったこともない心当たりですけどね)

 リド司祭の紹介状を思い出しながら、イシュラは内心で苦笑をもらした。
行き当たりばったりなのか、それとも、恐ろしいほど緻密な計算の上でのことなのかわからぬが、大概の物事は、シェスティリエの思う方向に進むように思える。

「ですが……この子を連れてでは、王都の関所を抜けることは難しいでしょう」
「なぜだ?」
「旅券が出ません」
「じゅんれいになればよいではないか」
「王都の聖堂では、聖帯をいただくことも難しいでしょう。……万が一、いただけたとしても、その後、その方にどれだけの迷惑がかかることか……」
「こまかいことにうるさいおとこだな……そなた、どうする?そなたのけついひとつだ。そなたがのぞみさえすれば、このくにのせきしょはわたしがとおしてやる」

 シェスティリエは、アルフィナに向き直り、冷ややかとも言える眼差しで見下ろす。

「私、聖職者になります」

アルフィナはその瞳をまっすぐと見上げた。
その瞳には確かな光が宿る。
シェスティリエは、了承したしるしに小さくうなづいた。

「アルフィナっ」
「だって、ファナのおっしゃるとおりなんです、叔父様。……このままだったら、私は死ぬまでこの邸の奥深くで、ひっそりと息を潜めて暮らさねばなりません。王妃様の刺客に怯えながら……叔父様にも迷惑をかけて……」
「そのようなことは気にする事は無い」
「ですが、このままでは、伯爵家はさまざまな理由をつけて取り潰されることでしょう。もし、何か事態が変わったとしても、良い方に変わることはありません。……けれど、私が聖職者になることで、私とこのガーナ伯爵家との縁は切れます。さすればきっと王妃陛下のお心も宥められるに違いありません」

 アルフィナはにっこりと笑う。シェスティリエと違って、裏に何の思惑もない、柔らかな少女の笑みだ。

(可愛いんだけど、物足りないとおもっちまうんだよな……)

 つくづく、自分はシェスティリエに毒されているのだとイシュラは思う。

「いや……そなたが聖職者になったとて、王妃陛下の怒りが解けるとは限らぬ」
「いいえ。私がこの国を出て、二度と戻らねば良いのです。皇国で洗礼を受ける事さえできれば、私の身の安全は、ティシリアという国が守って下さいます。……そうですよね?ファナ」
「ああ、そうだ」

 シェスティリエは満足そうに笑う。アルフィナが想像以上に頭の巡りが良い事が嬉しかったのだろう。

「……神聖国家を名乗るとて、俗世に介入しないわけではない。そなたの生まれを利用することがあるかもしれぬ」
「でも、それは、マイナスじゃありません」
「……………?」

 リュガルトはわけがわからないというように顔を顰めている。

「そなたより、そのむすめのほうがずっとそうめいだな」

 皮肉げな呟き。

「……叔父様、私に利用価値があるということは、私もその分を利用できるということなのだと思います」

 リュガルトは、まだ子供だとばかり思っていた姪の言葉に驚きを覚えた。

「ですから、叔父様。私は、ファナとご一緒に皇国へ参ります」

 まっすぐに彼を見上げる菫色の瞳は、晴れやかだ。

「皇国へ行って、何とする。聖職者になってどうするのだ」
「それは……行ってから、考えます」

 ぺろっと小さく舌をだす。幼いしぐさだ。三年前までは良く見ていた屈託の無い表情に、リュガルトは苦笑をこぼす。
 アルフィナの決意を変えることはもうできないだろう。
 そして、アルフィナは、シェスティリエの前に膝をついて頭を垂れた。

「ファナ、どうか、私をファナの侍者としてご一緒にお連れ下さい」
「アルフィナっ」
「良いのです、叔父様。……私は、ファナが侍者にして下さらなければ、おそらくこの国を抜けることが出来ないでしょう。それほどに、王妃陛下に憎まれております」
「だが、ガーナ伯爵家の姫が侍者になどと……」

 侍者などと……と顔を伏せるリュガルトとて、それが一番良い方法なのだということがわかっていた。
 国外に出るには、聖職者に侍者として連れて行ってもらうしか方法は無く、一歩外に出れば、いつ襲われるかもわからない娘を同行してくれるような聖職者は他にいようはずもない。

「良いのです。どうせ聖職者になれば、伯爵家の姫であったことも関係なくなりますわ」

 アルフィナはすっきりとした表情で告げる。

「……そなた、おもいきりがいいな」

 どこかおもしろがるような響きだった。

「これまで、いろいろ鬱屈してましたから」

 ファナのおかげで吹っ切れました、とアルフィナは笑う。

「わたし?」
「はい」

 シェスティリエはイシュラを振り向いて、何か言っただろうか?というように、軽く首を傾ける。
 イシュラは肩を竦めて、まったくわかりませんと首を横に振った。

(良くも、悪くも、ここにも姫に毒された人間がまた一人……か……)

 前菜のオレンジソースを頬につけたまま、幸せそうな表情で眠っているルドクが目覚めたなら、この事態をさぞ驚くに違いなかった。





2009.09.15 更新



[11484] 第3章-5
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/18 06:24
「……リスタを出たときには、3人だったはずだったんですけど」

 カラカラと軽快な車輪の音が響いている。
 馬車こそ、何の変哲も無い荷馬車ではあったが、馬は上物だ。見た目はやや無骨であるが、乗り合い馬車のような疲れた老馬ではない。軍馬として調教されていた血統の良い馬だ。

「気にするな。いいじゃないか。馬車も手に入ったことだし……足が速ければ、それだけ賊に襲われる事も少なくなる」

 この馬車は、ガーナ伯爵リュガルトの姪に対する密かな愛情の賜物だ。
 アルフィナの旅立ちがいつ王妃の耳に届くかはわからない。だが、そこから人を動かすにしても多少の時間はかかるだろうという読みの元、少しでも距離を稼ぐために馬車を仕立ててくれたのだ。
とはいえ、最初にリュガルトが用意した馬車はシェスティリエに速攻で拒否され……伯爵家の使う馬車は使用人が利用するものでも少々高級すぎた……今、彼らが乗っているこの馬車は、ルドクがリュガルトの出資の元、聖堂近くの農家から買い取ってきたものだ。
 外見は普通の荷馬車だったが、中にはふかふかのクッションやら、絨毯が敷かれていて、なかなか快適なしつらえになっている。行商人の馬車の程度の良いものだと思えばよいかも知れない。

「今度の賊は、いつもとちがって正規の軍人さんってこともあるんですよね?」
「どうだろうな……俺としては、追いつかないと読んでる。……たぶん姫さんもな」

 一段高くなった御者台から、後ろを見る。
 御者台の後ろに詰まれた長持ちの向こう側に、色違いの三つの頭が並んで見えた。
 左側から、金・銀・黒で、すなわち、アルフィナ・シェスティリエ・イリの順だ。
シェスティリエは、外套を毛布代わりに昼寝をしているのだが、イリとアルフィナは、シェスティリエのすることを真似する傾向にある。今も一緒になって転がっている。当初は寝ているシェスティリエを挟み、二人でなにやら牽制しあっていたのだが、いつの間にか二人とも眠ってしまったらしい。
 常にゆれ続ける馬車で眠るのには、かなり根性がいるのだが、慣れというのはなかなかすごいものだ。

「だから、ここのところいつも寝てるんですかね?」
「ああ。……ついでに、万が一に備えて、魔力を溜めてるとも言ってたな」

 体力がそれほどないシェスティリエだったが、それでもこれまではこんな風に寝ていたことはなく、当初、イシュラはかなり心配したものだ。

「魔力?へー、魔力って溜められるものなんですね」
「そうなんだろ。姫さんがそう言うからには……」

 イシュラは、聖職者や魔術師をそれほど詳しく知らない。ルドクは、聖職者はそれなりに身近だったが、せいぜい治癒の術を使うところと魔力板を作るところくらいしか見たことがない。
 最も身近な魔力を持つ人間が、シェスティリエなのだ。彼らは、シェスティリエが凡例にならないことにまだあまり気づいていない。

「あ、でも、できるのかな……。銀月のグラーダスの古詩を知っていますか?」

 それは伝説の騎士王の古いサーガだ。吟遊詩人に歌われるだけでなく、ちょっとした町の祭などでは、芝居に仕立てられて上演されることも多い有名なもので子供たちの人気も高い。

「ああ、知ってる。子供の頃に、芝居かなんかで見た気がする……ほら、騎士王の悪竜退治とか」
「ええ。僕もそうです。町のお祭りで見ました。僕、その手の話、すごい好きなんですよ」
「だろうな」

 ファンだという天空の歌姫の事だけではなく、伝説の英雄とか、魔術師とかに異常に詳しい。

「確か、その中で、グラーダスは月長石に十年の魔力を溜め続け、ついには、その月長石は命を持つに至ったっていう説明がありましたよ」
「覚えがねえなぁ」
「それで、その月長石を柄にはめこんだのが、銀月の騎士王グラーダスの愛剣『ディヴェヌ』なんです」
「……『闇を斬り、空をも切り裂くディヴェヌ』か……」
「ええ、そうです」
「確か、ディヴェヌはグラーダスの墓標代わりになってるって古詩の最後にあったよな?」
「ああ、そうです。……えーと、騎士王の最後は、誰も知らぬ辺境の泉のほとり、妖精に見守られながら息をひきとり、妖精達が彼を葬ったはずです。それで、剣を墓標としたって……。もし、騎士王が実在の人物だったなら、剣はそのまま残ってるってことですよね?他の剣なら朽ち果ててしまうでしょうが、命ある宝石が埋め込まれてるんですから」

 売り飛ばしたらさぞかし高く売れますよね……などと、いかにも商人らしいことを言う。

「どうなんだろうな……でも、眉唾だろ。グラーダスのしたこと全部並べると、少なくともグラーダスは二百年は生きていたことになるじゃんか」
「あ、それは実在を疑う根拠にはなりません。グラーダスは、魔導師だったんですから」

 ルドクは当然といった口調で告げる。

「……え?そうなのか?」
「ええ、そうです。魔導師が平均的に長寿なのは、イシュラさんもご存知ですよね?」
「ああ」
「僕の好きな天空の歌姫は、八百歳を越えたはずです。……でも、彼女は本来なら、もっと寿命が長かったはずなんです」
「八百歳越えててか?」
「ええ。……彼女は、大崩壊でその寿命の大半を削ったといわれてますから」
「へえ……」

 ちらりとイシュラは後ろに視線をやる。
 どうやら、シェスティリエは聞いていないらしいので安心した。

「……そういう魔導師だったら、きっと、僕らがこうしている距離も一瞬で移動できるんでしょうね」
「かもしれねえな……でも、魔術とか魔導とか、それほど便利なもんでもなさそうだぜ」
「……そうなんですか?」
「ああ。姫さん見てるとそう思う。……姫さんは魔力はあるけど、まだ子供だろ。だから、術を使うにもいろいろ制限あって大変らしい」
「へえ……まあ、とりあえず、早いところ国境を抜けたいですね」
「そうだな。国境を抜ければ、野営しなくてもいいしな」
「せめて、聖堂に泊りたいですよ。水浴びにはそろそろ寒い季節です」
「確かにな。……姫さんはともかく、アルフィナ嬢がよく我慢してる」

 本来、巡礼の旅は各地の聖堂を巡る旅でもある。だが今は、追っ手のことを考えて聖堂には立ち寄らない。馬をこまめに休ませるために小刻みに水場で休憩をとり、夜は野営することにしているのだ。
 時折立ち寄るのは、街道沿いにあるちょっとした雑貨屋や大きな農家くらいのもので、リスタから王都に来た時の倍近くの速さで距離を稼いでいるだろう。
 かなり厳しい強行軍でありながらも、イリはもちろんのこと、アルフィナも決して文句を言わない。

(まあ、アルフィナさんは、自分の命の問題だしな……)

 それでも、弱音一つ吐かないところは、なかなか好ましいとルドクは思う。

「でも、お荷物の僕が言うのも何ですが、万が一、追いつかれたらかなりやばいですよね」
「別に。どうせ、俺が守るのは姫さんだけだ」

 はははは…、とイシュラが豪快に笑う。

「シェスさまが、庇うかもしれないじゃないですか」
「まあ、そうかもしれないっつーか、たぶん、そうするだろうけどな……。最終的には姫さんはちゃんと一線を見極められる人なんだよ」
「一線を見極めるって?」
「本当に危険なときに選ぶものを、姫さんなら間違えない。………もし、それでも姫さんが守るっていうなら、危険を侵してもそいつらが必要だってことだ」

 なら、オレはそれに従うだけだ、とこともなげに言う。

「イシュラさん、ほんっとにシェスさま馬鹿ですよね」
「だから、主持ちの騎士ってのはそういうもんだって」
「……イシュラさんみたいな人ばっかりなのかと思うと、騎士の見る目が変わりそうです、僕」
「はははは……でも、どっちかっていうと、オレは例外だろうな」
「なんでです?」
「オレほど、主に恵まれている騎士は他にいないからだ」

 イシュラがあまりにも真顔で言うので、ルドクはどこにも突っ込む事ができなかった。




 

 夜の森は、虫の大合唱の中にある。

(まるで、音の洪水だわ)

 夜の庭にも確かに虫はいた。けれど、こんなにも多種多様な……溢れんばかりのたくさんの虫の音を、アルフィナは聞いた事がない。

「あまりおくにゆかぬようにな、アルフィナ」
「はい」
「なるべくかわいているものをひろうのだぞ。そのほうが、けむりがでない」
「……そうなんですか」
「ああ。なまきだと、けむりがでてよくない」
「はい」

 シェスティリエの言葉の一つ一つをきちんと聞き留める。
アルフィナは、この旅の一行で自分が最も役立たずであることを自覚している。隠されていたとはいえ、名門貴族の娘として育ったアルフィナは、侍女や乳母に仕えられることになれきっている。
 シェスティリエの侍者となり、自分が仕える立場になった今、あまりにも何もできないことに気づいて愕然とした。
シェスティリエはこの幼さで既にかなり旅慣れていたし、ルドクやイシュラは言うに及ばない。ほぼ同時期にこの一行に加わったイリも、聖堂では下働きをしていたとかで、何をやらせてもすんなりとこなす。アルフィナ一人が、言われなければ何もできなかった。
 口惜しいと思う以前の問題だった。

(だから……)

 まず、身近なところから頑張った。
 手伝えそうなことは積極的に手伝い、何が手伝える事があるかどうかをたずねる。
 最初は何も言いつけてもらえなかった。イシュラとルドクは、貴族の娘は何もできないと思っていたからだ。
 でも、旅に出て五日目の今、水汲みはアルフィナの仕事だ。
 最初は、馬を洗っている下流で水を汲んだりする失敗もあったが、今はもうそんな失敗はしない。

(飲み水は、できるだけ水源に近いところから取る事。川の場合は、浅瀬の……イトギがいるところをさがすこと。池の場合は、ミルラが生えているところをさがすこと……)


 イトギという魚は、綺麗な水を好む川魚。ミルラというのは水辺に生える植物で、やはり綺麗な水でしか育たない。どちらも、シェスティリエの教えてくれた事だ。
 知らない事があることは恥ずかしいことではない。知らない事を知ろうとしない事の方が恥ずかしい事なのだと、言われた。
 だからアルフィナは、なぜそうなのか、なぜそれを選ぶのかを尋ねるようになった。最近では、皆、自然に説明してくれる。

「イリ、アルフィナのひろったえだをよりわけてやれ。わたしは、やえいちにもどる。……ふたりとも、しゅういにちゅういして、ほどほどにな」
「はい」
 こくりとイリは、返事の代わりにうなづいた。

 アルフィナは、イリがしゃべっているのを聞いた事がなかった。よほど自分を気に入らないのかと思って少しだけ腹をたてていたのだが、昨日、ルドクにイリがしゃべれないことを教えられて驚いた。
 と、いうのも、アルフィナのみるところ、シェスティリエとイリはまったく意思の疎通に不自由している様子がなかったし、イシュラやルドクもそうだったからだ。

(私も……イリのことが、わかるようになりたい)

 イリと意思の疎通が図れなかったとしても、さほど不自由を覚えるわけではない。極端な事を言えば、アルフィナはイリと関わらなくてもまったく困らない。たぶん、イリだってそうだ。そもそも、イリはシェスティリエ以外にほとんど関心がない。

(……でも)

 それでも、アルフィナはイリと何とかして意思を通じあわせたかった。

(ライバルだし……)

 互いにシェスティリエの関心をひきたくて……、自分を見て欲しくて……、張り合う。
 暇さえあればいつもそばにくっついているし、どこかに行くときはいつも後をついてゆく。
 寝る時はいつもアルフィナはシェスティリエの左側で、イリが右側。
 一度、イリと二人で張り合って抱きついていたらそのうちに寝てしまい、互いの寝相の悪さでシェスティリエを潰しかけ、イシュラにさんざん怒られた。
 以来、寝るときは抱きつくことも、手をつなぐことも禁止になった。手をつないでいるとシェスティリエが寝返りがうてないからだ。

(もっと、知りたい)

 シェスティリエを挟んだ時だけ、イリはアルフィナを見る。
 アルフィナを邪魔だと思っているような視線で、子供が大事にしているものをとられまいと警戒するようなそんな態度をとる。
 アルフィナとしては、別にイリから奪うつもりはないのだが、自分にも関心を払って欲しいと思っているので、ついつい張り合うようなところがある。

(でも、そういうのじゃなく、『私』のことを、ちゃんと認めてほしい……)

 シェスティリエを奪う邪魔者としてではなく、同じシェスティリエの侍者として……普通にいろいろなことを話してみたかった。
 アルフィナは、年の近い子供と接した経験がない。普通なら乳母の子がいて一緒に育つものだが、アルフィナの乳母は、子供を死産した未亡人だった。
 それに、その出生のせいで、外出の機会も極端に少なかった。
 他の使用人の子供達とは言葉を交わす事が許されていなかったし、たとえ、許されていたとしても、結局のところ、お嬢様と使用人としてだっただろう。
 でも、イリとは違う。イリはアルフィナに仕える人間ではないのだ。

(イリと、友達になりたい……)

 実のところ、それが、アルフィナのひそかなる野望だった。
 その為にはもっとイリのことが知りたいし、自分の事も知って欲しいのだ。
 ルドクはいろいろなことをよく知っている。たぶん、アルフィナが問えば、差し支えない範囲でイリのことも教えてくれるだろう。
 けれど、アルフィナが知りたいのは、イリの過去や、これまでしてきたことなどではない。
 イリが何を考え、どういう風に感じるのか……

(イリという人を知りたい……)

 それは、少しづつ強い欲求になりつつあった。
 足元の小枝を集めながら、アルフィナは立ち尽くしているイリに目をやる。
イリは、シェスティリエが戻る後姿を、見えなくなるまで目で追っていた。

(シェス様のこと、本当に大好きなんだよね)

 それは、イシュラもルドクも一緒だし、自分だって大好きだ。
 でも、二人の『好き』と自分たちの『好き』はちょっと違う気がしていて、アルフィナとイリのそれは似ている気がする。

(シェス様が、私を救ってくれた)

 『そなたのせいじゃない』

 その一言が、アルフィナの心を解き放ってくれたのだ。
 きっと、シェスティリエはそんなことはまったく知らないだろう。

(でも、それでいい)

 シェスティリエは、何かと自分は聖職者にはあまり向いていないというようなことを口にするが、そんなことはないと思う。
 聖堂の偉い司祭達は、『これも神の試練なのです』と説くだけで、何もしてくれなかった。叔父がどれだけ苦悩していたか、アルフィナは知っている。
 アルフィナだって、何もできない自分を、存在しているだけで罪のように感じていた。

(優しい慰めも、慈しみの微笑みもいらない)

 そんなものは、何の救いにもならなかったし、何の役にも立たなかった。
 アルフィナを……叔父を救ったのは、シェスティリエの歯に衣を着せぬ物言いであり、利用価値があると言い放つその正直な態度だった。

(シェス様が、道を示してくれた……)

 その道が正しいかなんてわからない。けれど、アルフィナにとってはたった一つの希望だ。

(だから、私は、後悔したりしない)

 どんな結果になるのであれ、今こうしている自分を悔いることはきっとない。

「……イリ、早く拾って戻ろう。きっと、シェスさまも待ってる」

 イリは、アルフィナにしゃべりかけられたことに少しだけ驚いたような顔をし、それから、こくりとうなづいた。
 シェスティリエにしか関心がないように見えるイリだったが、こちらから話しかける分には、無視したりすることはないらしい。

 真面目にやれば、10分もすると抱えるくらいの量の小枝を集める事ができる。それを抱えて籠にいれようとすると、くいっくいっと外套の袖がひかれた。

「なに?」

 イリは、上の方に混ざっている枝を抜いて、首を横に振る。

「……え、この枝は、ダメなの?」

 こくり。

「どうして?」

 イリは、火打石をつけるマネをして、鼻をつまんだ。

「あ、わかった。火をつけると匂いがすごいんだ。……そうでしょ?」

 そうだ、というように、イリはこくっとうなづく。

「そっか。……教えてくれてありがとう」

 ふるふるふると首を横に振る。「どういたしまして」ということなんだろうとアルフィナは解釈した。

(どうしたらもっと話せるんだろう……)

 身振り手振りでは限界があるし、アルフィナの解釈が間違うことだってあるだろう。
 イリはアルフィナに誤解されたところで何とも思わないだろうが、アルフィナはそうはいかない。

(筆談ができないか、シェス様に相談してみよう)

 いつがどうとは正確には言えなかったが、たぶん、この夜が、アルフィナの野望実現への第一歩だった。






 ぱちぱちと木のはぜる音がする。
 イリは拾ってきた木の枝を小さな鉈で整え、束にして丈夫な麻糸でくくり、馬車の片隅に積んでおく。古いものから使うので、毎日拾わなくてもいいが、野営する場所によっては拾えない場所もあるから予備は必要だ。
 多く拾いすぎてもまったく困らない。余剰分は、農家などで野菜などと交換してもらえたりもするし、シェスティリエの好きな果物と交換できれば、イリはもっと嬉しかった。
 聖堂にいるときと違って干しておく事ができないので、最初から枯れた枝を選ばなければいけないが、落ちている枝はだいたいが枯れているから、それほど問題はなかった。
 鉈を道具箱に片付け、地面に落ちている払った小枝を、燃えている火の中に投じると、ぼおっと火の勢いが強くなる。

(あたたかな、火……)

 焚き火の炎は、とても優しい炎だとイリは思う。以前、聖堂の納屋が焼けたときにはものすごく恐ろしく感じられたのに、こうして眺める炎には安らぎを感じる。
 石を積んでつくった簡単なかまどには、いい匂いをさせながらグツグツと煮立っている鍋がかかっていて、匂いを嗅ぐだけでワクワクした。

「きょうは、やまどりのスープだ」

 のぞきこむイリに、シェスティリエが教えてくれる。
 嬉しくなって笑った。

「これでときどき、かきまぜておいてくれ。そこがこげつかないように」

 大きな木ベらを渡されて、こくこくとうなづく。自分がシェスティリエの役に立てることが、イリにはうれしくてならない。

(…………ひかり)

 イリにとって、シェスティリエは光だ。
 夜になるといっそうくっきりと見える銀色の光。シェスティリエは、昼間の太陽の下でも常に光に包まれて見える。
 この数日は尚更強く、今はもうまぶしく感じられるほど。

(生きている、月……)

 シェスティリエは、まるで月そのものだ。まっすぐと流れる銀の髪、夕闇を映した紫の瞳……そして、その冴え凍る美貌。それはまるで、吟遊詩人が歌う天空の歌姫そのもののようだとイリは思う。

(目の色が、ちがうけど……)

「シェスさま、何かできることありますか?」

 アルフィナが水を汲んだバケツをもってやってくる。イリにとって、この自分より少しだけ背の高い少女は、謎の存在だ。
 シェスティリエを取られそうな気がして嫌なのだが、これまでの聖堂にいた他の子供のように叩いたり、つねったりというようなことはしないから嫌いだというわけではない。
 だからといって、「どうでもいい」と思って無視するには、あまりにもいつも近くに居すぎる。
 結果として、イリはアルフィナにどう接していいのかがまったくわからない。
 ルドクやイシュラのような大人ならばまだいい。用がなければ別に声をかけてくることもないし、放っておいてくれる。でも、アルフィナはイリに話しかけてくるし、問われても、声を発する事ができないイリは困ってしまう。

「じゃあ、イシュラとルドクにこえをかけてきてくれ」
「はい」

 今日の野営地は、小さな小川が流れている森の入り口だ。
 目印になるような大きな楠の木の下に馬をつないで馬車の車体を寄せている。これだけ大きな木だと外に寝ても雨にぬれる事はほとんどない。

「お、うまそうなにおい」
「さっきおまえがとったやまどりだ。いいだしがでてる」
「へえ」
「シェスさま、残念ながら、釣果はゼロです」
「きたいはしていない。このじき、よるにかわづりはむずかしいからな」

 もう少し日が経てば、場所によっては鮭が遡上する川もあるだろうけどな、とシェスティリエはつぶやく。

「鮭!いいですねぇ、やっぱ、粕汁でしょう」
「粕汁って何ですか?ルドクさん」
「アルフィナさんは粕汁を知らないんですか?もったいない!水酒と言われる、米で作られた酒を造ったあとに出る粕をつかった汁物です」

 身体があったまるんですよ~と、ルドクは言葉を続ける。

「北のほうの名物なんです。僕の故郷の町から更に北に水酒を特産にしている村があったので、時々食べる事がありましてね……寒くなると食べたくなるんですよね」
「へえ……地方によっていろいろと食べ方は違うんですね。私の家ではムニエルとか……香草焼きばっかりでした。あ、でも、叔父様は燻製にしたものをお酒のおつまみにしていたようです」
「ローラッドでは焼く事が多いな。燻製もある、ある。……姫さん、食った事ある?」
「わたしはくんせいはあまりこのまない。シンプルにしおやきがいちばんだ」
(ぼくもやいたのが、すき)
「ほう。……イリもやいたのがすきか」

 イリはこくりとうなづく。
 シャスティリエは、不思議なくらいイリの言いたい事をわかってくれる。まるで、イリの心の声が聞こえているんじゃないかと思う。

(とくに骨)

 時々、臨時でまかないに来る近所のおばちゃんが、切り身にした後のサケの骨をこんがり焼いて、おやつがわりにくれた。しょうゆを塗って、ゴマをふってくれたものは本当においしかった。だから、イリは身よりも骨の方が好きかもしれない。

「ほねをたべるとほねがじょうぶになるぞ。……まあ、サケはまたこんどだ。きょうはやまどりだぞ。ちょっとひみつへいきをつかったからかわまでとろとろだ」
「秘密兵器って、鍋の底の魔力板ですか?」

 白濁したスープの底のほうににぶく光る板が沈んでいる。

「そうだ。まりょくいたには、じゅつをふうじることができるのだから、アイデアしだいでこういうこともできるのだ」

 術を封じるなんて、昔は質のよい宝石などでないと難しかったのにな、と苦笑する。

「なあ。姫さん。……鳥のスープ煮込むために、魔力を使うってどうなんだ?」
「いいじゃないか、へいわりようで。けがれたこころのへんたいをぶっとばすよりも、よっぽどたのしいし、ゆうこうりようだぞ」
「………そうだな」

 お互い何を連想したかには触れない。それが、日々を平穏無事に過ごすコツだ。
 焼きたてのバムをもらって、イリは自分の皿にのせる。熱いバムをふーふーと冷ましさましながら食べるのは、聖堂を出てからイリが初めて知った楽しみだった。
 今日のバムには干したブドウが入っていて、ちぎって口に入れるとふんわりと甘い。噛むと、そのあまずっぱさが口の中いっぱいに広がって、イリは幸せな気分になった。

(また明日ね、は世界で一番うれしいことば……)

 シェスティリエがそう言って帰ったあの日、イリは、シェスティリエの侍者になったのだとラナ司祭から告げられた。
 難しいことはよくわからなかったが、司祭は、これからは、シェスティリエの言う事だけを聞いて、シェスティリエの為に毎日働くのだと教えてくれた。

 ―――――― あの瞬間の喜びを、イリは一生忘れないだろう。

(それは、とてもとても幸せなこと)

 ティシリア皇国に行くのだと言われ、半月以上も旅をしなければいけないと言われたけれど、全然平気だった。
 シェスティリエがいるのなら、どこに言ってもイリには天国だ。

(だって、神さまのいるはずの聖堂よりも、ここのほうが、ずっとずっと温かい)

 隣にはシェスティリエがいて、イシュラやルドクやアルフィナがいる。
 イリは、基本的にはシェスティリエさえいればいいのだが、食事の時は、皆が一緒なのがいい。
 皆で暖かな火を囲み、いろいろとおしゃべりをしながら、こんな風に温かいスープを飲む……それは、まるで夢みたいだと思う。
 イリは声がでないが、シェスティリエがいればイリもみんなのおしゃべりの輪にいれてもらえる。そのことがとても楽しい。

「イリ、熱いですから気をつけてくださいね」

 こくっとイリはうなづく。
 アルフィナは、いつもイリに一番最初によそってくれる。

「本当に皮までとろっとろですね」
「姫さん、料理の天才!」
「ざいりょうがよいのだ。あとは、てまをおしまぬことだな」

 白濁したスープは薄い塩味だ。口に運ぶ瞬間、生姜の香りが鼻をくすぐるのが食欲をそそる。

「すっごく、おいしいです。私、こんなおいしいスープ、初めて!」

 イリもそう思ったので、こくこくとうなづいた。

「ですよね。不思議ですね。家のほうが豪華な材料使ってたはずなんですけど」

 こっちのがずっとずっとおいしい、とアルフィナはつぶやく。

「『おいしい』とかんじるのが、みかくだけでかんじるものではないからだろう」

 一緒に食べる人間、その場所の雰囲気なども大事な要素だからな、とシェスティリエはいう。

「ほい、姫さん」

 たっぷり食べてくれよ、と、いつのまにかアルフィナからおたまをとりあげたイシュラが、シェスティリエの木椀にたっぷりとスープをよそう。
 具は山鳥の肉だけではない。ジャガイモやニンジンたまねぎもたっぷり入っていてボリューム満点だ。

「そんなにたべられるか!わたしのいは、おまえほどおおきくない!」
「食わないと大きくなれねえぞ、姫さん」

 人の悪そうなにやにや笑いにシェスティリエは顔をしかめる。王都を出てからひげを剃らないから、ちょっと見たところ、イシュラは山賊に間違えられそうなほど人相が悪くなっている。

「わかってる。だが、たべられるりょうにはげんかいがあるんだ!」
「ダイエットにはまだ早いだろ?」
「ダイエットなどするか!」
「イリやアルフィナを見ろよ。ちゃんと食ってるじゃねえか」
「わたしのからだのおおきさをかんがえろ、ばかもの!」

 だんだんと足を踏み鳴らす様子は、とても可愛い。

(ふつうのちっちゃい子みたいだ)

 でも、全然違う事をイリははちゃんと知っている。
 シェスティリエ普通の子じゃないし、ただの小さな子供でもない。

(イシュラは、シェスさまにかまってほしいだけ)

 ニヤニヤ笑っているイシュラは、絶対にわかってやっている。確信犯なのだ。
 イシュラは、イリの視線に気づいて、黙ってろ、というように口の端を持ち上げる。イリも余計なことを言うつもりはない。シェスティリエにかまって欲しいのはイリも一緒で、そこには大人も子供もないと思うからだ。

「ええい、はんぶんはおまえがたべればいいんだ」

 私の分もおまえが大きくなればいい!などと無茶を言いながら、イシュラのお椀に肉の塊をよける。
 そんな様子を、ルドクは笑いながら見ていて、アルフィナはちょっと目を丸くしている。アルフィナには主従でありながらここまで気安いのが珍しいのだろう。

「はいはい、食べますけどね。……姫さん、ここんとこ、まともに肉食ってないでしょう」
「ひつようりょうはたべている。べつにすききらいじゃないぞ」
「まあ、オレとしては姫さんがいつまでもちっこいまんまのが、抱き上げやすくていいんですけどね」
「わたしだって、15になったら、アルフィナくらいにはなるよていだ」
「肉食べないと育たないですよ。……予定は未定っていうでしょう」

 そう言うイシュラの視線が向かったのは、アルフィナの胸元だ。といっても、特別に巨乳というわけではない。アルフィナは肉感的な体形というわけではないし、まだ15歳で、育つのはこれからだ。

「あ、あの、わたし、別に胸が大きいってわけじゃあ……」
「あ、それはわかってる。単に姫さんが平均以下になりそうだなーってだけで」

 はははは、とイシュラが笑い、ルドクは苦笑気味に気にしない、気にしないというように顔の前で手を振る。

「お二人とも、身体的なことをあげつらうなんて失礼です。まだまだ、先の話ですのに!」

 深窓の令嬢として育ってきたアルフィナは、話題が話題であるために、頬をほんのりあかく染めて抗議する。
 シェスティリエはうつむいて押し黙ったままだ。

「いや、それにしてもだ。姫さんは、肉も魚もあんまり食べないから、そこまで栄養行き届かないと思うんだよね」
「シェスさまの場合、頭使ってるから、そっちで栄養を全部消費しそうですよね」
「違いない」

 そのとおりだというようにイシュラは大きくうなづく。

「……おまえたち」

 ややトーンの低い声が夜の静寂を震わせる。
 握りしめた拳ふるふると震えた。

「……いいか、おぼえておけ。じゅうねんご、わたしのきょういがへいきんをこえていたら、どげざしてしゃざいさせるからな」

 冷ややかな声音だったが、言っている内容が内容なのでまったくいつもの凄みがなかった。

「はい、はい、それを楽しみにしてますから、もう一つ肉食ってくださいね、姫さん」

 結局、肉の塊はシェスティリエの器に戻り、不機嫌そうなその口に入る事になった。



2009.09.17 更新
2009.09.18 修正



[11484] 第3章-6
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/28 07:10
「ファナ・シェスティリエと、侍者が三人に、聖従者様がお一人ですね……えーと、こちらがファナでいらっしゃいますか?」

 国境の関所の係官は、荷台のアルフィナの上に視線をさまよわせ、そして、御者台のシェスティリエに目を留める。

「そうだ」

 関所では、常にシェスティリエの幼さを驚かれる。だが、法衣をまとうシェスティリエの姿は、いかにも聖職者らしく見えるのだろう。不思議な事に、係官は例外なくすぐに納得する。
 今回も確認の為のチェックはすぐに済んだ。まったく疑われもしなかった。

「御身の上に、神の導きの光があらんことを」
「そなたのうえに、さいわいがありますように」

 決まり文句の挨拶を交わし、シェスティリエが聖印を切る。
 係官は、少しだけ嬉しそうな顔をした。
 聖職者に聖印をいただくというのは、祈祷を受けたと同じとされる。聖印を受ければ受けただけ、神の加護を受けられると考えられていて、だからこそ、人々は休日礼拝に熱心に通うのだ。

「また、なにもためされなかった」

 ちょっとだけがっかりしているのも、最早おなじみの光景だ。
 シェスティリエの場合、その幼さが珍しい為に、逆に一度も偽者だと疑われた事がない。

「偽聖職者をでっちあげるにしても、わざわざシェスさまのような幼い子供にやらせないですからね……」

 荷台からその様子を見ていたルドクが苦笑する。

「なぜですか?」

 アルフィナは首を傾げた。イリはシェスティリエの隣で御者台に座っている。
 手綱を握るイシュラの隣がシェスティリエでその隣にイリが座っているというわけだ。スペース的な問題で、さすがにアルフィナまでが御者台に行く事はできなかった。

「シェスさまのサイズでは、法衣も外套もすべてオーダーメイドになります。服屋ではまず買えないサイズですから……コストとして割高です」
「服屋……お店で服が売ってるんですか?」

 アルフィナは軽く目を見開く。

「ええ、そうです。アルフィナさんは知らないでしょうけど、服屋っていうのは中古の服を売買しているんです。サイズが合わなかったり着られなくなったり、もういらない服を買い取ってくれて、それを洗濯して、いろいろサイズごとにならべて売っています。店によっては手を加えて最新のデザインに近づけたりしているところもあります」
「誰かがいらなくなった服を、サイズが合う人が買って着るんですね?」
「はい。簡単なサイズなおしならその場でやってくれますよ。服屋とか洋服店と言ったら、普通はそういう店をさします。オーダーメイドができる人は、仕立て屋に行きますから」

 自分で服地を買って簡単に仕立てる人もいますけどね、とルドクは説明してくれる。
 アルフィナにとって、ルドクは日常生活の先生だ。シェスティリエとイシュラはまったく例にならず、イリはシェスティリエしか目に入らない為、必然的にそうなった。

「初めて知りました」

 アルフィナは素直に感心する。彼女の場合、洋服とは仕立てるものだった。
好きな生地を選び、仕立て屋とデザインの打ち合わせをし、手持ちの宝飾品と合わせることを考えながら、いろいろと工夫するのが楽しみだった。

「服屋には、聖職者の法衣は必ず何枚かあるものなんです」
「なぜですか?」
「正式に御役についている聖職者の方は、毎年、法衣が支給されますから……数が多くなれば、古いのは売るということでしょうね」

 デザインに規定があるから、流行とかありませんし、とルドクは笑う。

「そうなんですね。……勉強になります」

 ありがとう、ルドクさん、と礼を言ったら、ルドクは、どういたしまして、と照れくさそうに笑った。

(毎日、いろいろなことを教えられる……)

 一つ一つ知るたびに、新たな驚きと小さな感動がある。
 それは、アルフィナにとって、自分が確かに成長しているのだと言う実感だ。
 もう、己を卑下して何もできないでいた自分ではない。ちゃんと、前に進んでいるのだと思える。……そのことが、何よりも嬉しい。

(このまま何事もなく皇国へ着けますように……)

 祈るように、アルフィナはそう思っていた。






 係官の簡単なチェックが終わると、そのまますぐに門に案内された。
  リスタのように、関所はあるものの、迷いの森に接している為に壁が無いような場所とは違って、高い壁がぐるりとそびえ立っている。門は、巻き上げ式の巨大なものだった。
 表面になされた浮き彫りは、フェルシア王国の建国の起源である一角獣と乙女との物語をつづったものらしい。

「どうぞ、道中、お気をつけください、ファナ」
「旅のご無事をお祈りします、ファナ」

 門衛の兵士達からも声がかかる。

「ありがとう」

 シェスティリエは、口元にわずかに笑みを浮かべ、軽く手を振った。

(おお、姫さん、ネコかぶりモード発動中だな)

 ルドクとイシュラの間では、シェスティリエの状態は素のまま以外に『ネコかぶりモード(ご令嬢モード)』と『お姫様モード』と『女王様モード』の三種類があると確認されている。
 ネコかぶりモードというのがやや丁寧口調な時で、それの最上級がお姫様モードだ。そして、女王様モードというのが、あの悪役笑いをする時である。素に一番近いのは女王様モードだろう。
 シェスティリエは、それらをごく自然に使い分けている。本人に言わせれば、敬意をはらわねばならない相手ならおのずと丁寧な口調になるものだというが、イシュラはあやしいと思っている。

「……アルフィナ、よくみておくがよい」

 御者台から、振り返る。

「はい」

荷台から、小さな声がする。

「とうぶん、かえることのない、そなたのそこくのけしきだ」

 目に焼き付けておくが良い、と告げられた言葉に、アルフィナはうなづいた。

「はい」

 一生帰ることはない、と言わなかったのはシェスティリエの優しさなのだろう。

(……王妃とやらが生きている限り、難しいからな)

 だが、王妃が死んでも、その子供達がいる限り無理かもしれない、とイシュラは考える。

(まあ、オレにはあんまり関係ねえな)

 からからと音を立てて、馬車は国境の門を抜ける。

 イシュラは安堵の息を吐き、ちらりと荷台を振り返った。
 ルドクはほっと息を吐き何やら神妙そうな表情をし、アルフィナは何だか少しだけ笑いたいような……、それでいて、泣きたいような……両者の入り混じった奇妙な顔をしていた。

(ああ、そうか……)

 この二人はフェルシアで生まれ育ったのだ、と気付いた。
 祖国を離れる感傷……それがどういうものかをイシュラは知らない。単純にわからないのだ。
 ローラッドに生まれたイシュラだったが、特別に何かを感じた事はなかったし、国を捨てた今もどうということもない。

「……わたしとおまえは、たぶんれいがいだよ、イシュラ」

 まるでイシュラの心の中を読んだかのように、シェスティリエが言う。
 私達の中には、たぶん『祖国』という概念があまり根付いていないのだろう、といつもとあわらぬ調子で続けた。

「そうですかね?」

 自然、頬が綻ぶ。

「たぶん」

 そんな些細な会話が、イシュラを簡単に有頂天にさせる。
 良くも悪くも、イシュラの世界はシェスティリエを中心に回っている。

「あー……たぶん、イリもですね」

 無言のままのイリは、シェスティリエの服の裾をぎゅっとにぎりしめて、ぼんやりと空を眺めていた。そして、時折、鳥が飛んでいたりすると嬉しそうに目を輝かせる。

「……そうだな。だがそうすると、たすうけつにしたがえば、ここでのれいがいはアルフィナとルドクということになるな」

 シェスティリエはおかしげに笑った。






 荷台の幌があいている後部から、ゆっくりと遠ざかる関所を眺める。
 張り巡らされた高い壁、門の両脇に立つ門衛達が手にする長い斧の刃が、陽光を浴びてギラリときらめいた
 書類を片手に馬車や人々の間を回っている係官以外は、全員武装した兵士であるところが、王都の関所との違いだろう。
 友好国であるアルネラバとの境であるとはいえ、国境は国境だ。

「思っていた以上に、簡単なものなんですね、国境を越えるのって」
「せいしょくしゃのいっこうだからな」

 御者台を降りてきたシェスティリエとイリは、それぞれ自分の場所に座る。イリは甲斐甲斐しく、クッションを集めてシェスティリエが座りやすいように場所をしつらえたり、お茶をすすめたりと甲斐甲斐しい。シェスティリエが相手である限り、イリは侍者として申し分ない気配りを見せた。

「何かあっさりしすぎていて、ちょっと拍子抜けですけど」

 これで安心して、聖堂に泊まれますね、とルドクは笑う。

「そうだな。……こんやはむりでも、あすは、ひさしぶりに、やねとかべのあるばしょで、まともなふろにはいりたい」
「最近は寒いですからね」
「でも、野宿でもお風呂に入れるのは嬉しいです」
「ふろというか、まりょくせいぎょのれんしゅうだ」

 川べりで、うまく地形を生かしたり、石を積んだりして風呂桶らしきものを作り。そこにシェスティリエが魔力で作った火の玉を叩き込んで水をお湯に変えると、風呂のできあがりだ。天然温泉ではないが、ちょっとした露天風呂気分が味わえる。
 風呂好きのシェスティリエは、ほぼ毎日のように風呂を作ることを要求するので、野営続きであっても一行はかなり清潔だった。

「石を積んで囲うのも結構大変なんですよ。シェスさま、火の玉でぶち壊すし……」
「もくそくをあやまったのだ。……そもそも、せいどにかけるから、れんしゅうしているんじゃないか」
「……火の玉、水に叩き込むのが練習ですか?」
「ああ」
「……僕の前髪が焦げたこともありましたよね」
「あんなところにいるとはおもわなかったんだ。くらかったからな。……だいたい、ほんらいあれは、ひとにあのかきゅうをぶつけるこうげきまじゅつなんだぞ」

 人に当てるものなんだ、と言い募る。

「え、そうなんですか?」
「危なくないんですか?」
「ルドク、アルフィナ、こうげきまじゅつというのは、きほんてきには、ひとをさっしょうするためのじゅつだ。ふろをわかすまじゅつではない」

 ふぅと溜息をつく。

「………もしかして、人を殺すこともできるんですか?」
「あてどころにもよるな」

 シェスティリエは、暗に可能であることを示唆する。

「そんな」

 アルフィナが口元を両手で押さえた。ルドクの表情もやや非難の色を帯びている。
 シェスティリエは、二人の表情をゆっくりと見回し、それから隣でくっついているイリを見る。
 イリは首をかしげて尋ねた。

(まじゅつで殺すのは、だめなの?)

 イリは純粋に疑問だった。
 剣で殺すのは良くて、魔術ではいけないのだろうか?

「べつに、だめじゃない。まじゅつもけんもいっしょだ。つかいかたしだいで、ひとをきずつけることも、ひとをたすけることもできる」

 ようは、使い手次第ということだな、と口元だけで笑う。

(じゃあ、何がいけないの?)

 シェスティリエは唇を読むことができる、ということに気付いてから、イリは積極的に話かけるようになっていた。
 言いたい事を理解してもらえるということは、イリにとって初めての経験だ。ラナ司祭はイリに優しかったが、ただ優しいだけで、声にすることできないイリの言葉をわかってくれるわけではなかったからだ。
 その点、言葉が通じるシェスティリエはまったく違う。イリをちゃんと言葉の通じる一個人として扱ってくれる。

「さあ……わたしにはわからないな」

 シェスティリエは、軽く首を傾げた。

「……すいません、過剰に反応しました」
「シェスさまが、人に当てると言った訳ではないのに」

 二人のやりとりに、ルドクとアルフィナははっとしてすぐに謝罪した。確かにシェスティリエの言う通り、剣も魔術も使い方一つだ。

「いや、しゃざいはいらない。たしかに、ひとにあてるためにれんしゅうしているのだから」
「……………え」

 アルフィナは凍りつく。

「あたりまえだろう。わたしはこのおさなさだ。けんなどもてぬし、それほどとくいでもない。せいじんしたおとなにかなうはずがない。だが、まじゅつには、ちょっとばかりさいのうがあるとおもっている。だったら、とくいをのばすひつようがあるじゃないか」
「……人を殺す為に?」

 問う声が震えた。

「だれもかれもころしてまわるというわけではない。じえいのためだ。さいていでもじぶんのみをまもれねば、ただのおにもつだ」
「ですが、撃退すれば……」
「このさいだからはっきりさせておくがな、アルフィナ。そなたのおっては、そなたをころしにくるのだ。それをげきたいだけですませる?それは、ただのねごとだ」

 彼らはそなただけでなく、私達をも生かしておくつもりはないだろうし、そもそも、撃退したところでまた追ってくるだけだ、と、告げる。

「でも……」
「アルフィナも、ルドクも、ころせないならころせないでもよかろう。そのぎりょうがないことをせめることはしない。だが、わたしはボランティアじゃない。できるかぎりのことはするが、じぶんのいのちをきけんにさらしてまで、おまえたちをまもることはしない。……イシュラとておなじだ。イシュラはわたしのきしなのだからな」

 ルドクが視線を向けたイシュラはそのとおりだと言うように笑みを浮かべてうなづく。

「おのれにやいばをむけるものに、じしんでやいばをむけることができないというのは、そのいのちをむだにくれてやるとおなじことだ。それをたにんにまもれというのはむしがよすぎるというものだ」

 まっすぐと二人を見据える眼差しには、強い光が宿る。
 その光こそが、シェスティリエをシェスティリエたらしめる……彼女がただの子供ではないのだと思い知らされる最大の特徴といえる。

「シェス様……」
「……シェスさま」
「おまえたちがじぶんのいのちをまもるために、てきにたちむかうのならば、それをたすけることにふふくはない」

  だが、人を傷つける事はできないとか、人を殺す事は出来ない、とかというどっかのエセ人道主義者みたいな理由で何もしないで突っ立ってるようだったら、さっさと見捨てる、と、シェスティリエは告げた。

「わたしは、おまえたちのためにいのちをかけるわけにはいかぬ。このみは、すでにおおくのいのちをおっているのだ」

 口調はあくまでも静かだ。基本的に、シェスティリエは、あまり激昂するということがない。

(けれど……)

  ルドクは思う。

(シェスさまには、揺ぎない意志がある……)

 耳に優しいことは言わないし、こういうこともまったく言葉を飾らない。
だがそれは、相手がルドクやアルフィナだからだ。

(信頼、されているのだ……)

 ちゃんと、ルドクやアルフィナに向き合ってくれているのだと思う。もし、どうでもいいと思えば、きっとシェスティリエは何も言わないだろう。
 ルドクは、見切りをつけられて何も言われなくなる事の方が恐ろしい。

「シェス様……」

 アルフィナはややショックをうけたような表情をしている。

「むけられたやいばにはたちむかえ、じぶんのいのちがかかっているときにためらうなというだけなのだがな……」

 んなに難しいことなのかな、と首を傾げる。

「なっとくするひつようはべつにない。わたしは、わたしのしゅちょうをおしつけるつもりはないから。……ただ、そなたたちにどのようないいぶんがあっても、それをしゅちょうしたいなら、わたしにはかんけいないところでやるのだな」

 私の庇護下にある以上、私の方針に文句を言われても困る、とシェスティリエは真面目な顔で言う。

「わたしは、わたしにむけられるやいばにたいし、ためらうことはいっさいない」

 だから、せめて一緒に旅をしている間は、最低限、自分の命を守る努力はするようにとシェスティリエは二人に告げた。

「それは勿論です」
「……はい」

 アルフィナはどこか強張った表情でうなづいた。

(イシュラさんの言うとおりだ……)

 ルドクは、何とはなしにいつぞやのイシュラとの会話を思い出していた。
つまるところ、イシュラが一番良くシェスティリエの性格を呑みこんでいるということなのだろう。
 正直なところ、ルドクは人を殺すということについてそれほど禁忌を感じているわけではない。心情的には、シェスティリエの言い分はとてもよくわかる。ただ、自分にそれだけの技量がないだけで。
 実際に、イシュラが剣の一振りで山賊の首を落したところも見たことがある。だからといって、同情を覚えたことはなかった。自分を殺そうと襲って来た相手が逆に殺されたからといって同情するほどルドクはお人よしではない。
 シェスティリエもそれは、ちゃんとわかっているはずだ。

(……だから、おそらく、さっきの話を実際に聞かせたかったのは、アルフィナさんだ……)

 ルドクがショックだったのは、シェスティリエに人を殺させてしまうかもしれない、という可能性だった。
 そう。中身はどうあれ未だ幼い……しかも、聖職者であるシェスティリエに。

(僕も護身術くらいは覚えなくてはいけないかもしれない……)

 深く溜息をつくルドクの横で、イリがくいくいとシェスティリエの外套の袖をひく。

「なに?」
(……ぼくも、攻撃魔術、覚えられる?)
「イリにそのきがあるのなら、おしえるが……」
(おしえてください。お願いします)

 その言葉は聞こえなかったが、ルドクとアルフィナにも、手を合わせているイリがシェスティリエに何を頼んだかわかった。
 でも、アルフィナは、どうしていいかわからなかった。
 本当だったら、自分もここで自分にも教えてくれるように頼むべきなのだろう。けれど……アルフィナには、人を殺すということがどうにも納得ができない。
 自分が助かるために他者の命を奪う、そんなことは許されるのだろうか……。

(……しかも、聖職者になろうという身でありながら……)

 
 答えは、すぐには出そうにもなかった。





2009.09.22 更新
2009.09.28 修正



[11484] 第3章-7
Name: 南果◆92736a0a ID:1d9741d0
Date: 2009/09/27 23:03
 からからから……。
 からからから……。

 規則正しい車輪の音は、順調に港町シェルギスへの道程を踏破している証拠だ。
 だが、国境を越えて五日目。目に入るのは、ごつごつした岩肌か赤茶けた地肌に大小さまざまな小石が転がる細い道ばかりだった。背の低い潅木や岩苔が時折見られるものの、緑らしい緑はほとんどない。
 アルネラバ王国において、耕作に適した土地は国土の一割にも満たない。残る半分は峻険な山岳地帯が占めており、残りは今まさに目の前に広がっている不毛の大地だ。

「イリ、何、見てるの?」

 アルフィナの問いに、イリは空を指差す。

(……空。もうすぐ、冬)

 冬に近づくほどに、空の色は白くなるような気がする。

「冬になる前に、ティシリアに着くさ」

 イシュラが笑う。イリが積極的に話すようになってからわかったことだが、シェスティリエだけではなく、イシュラもまた唇を読む。長く戦場にある者にとって、唇を読むことはそれほど難しい事ではないのだとイシュラは言った。戦陣においては、諜者に対する備えとして、声を出さずに会話することもあるそうだ。
 イリがシェスティリエにしか通じないと思っていたこともちゃっかり知っていて、ずっと黙っていたらしい。
 自分の言葉が通じないのはいつものことだったが、実は通じていたというのは初めてのことで、それを知ったときは何だか気恥ずかしかった

「あと、どのくらいで着くんですか?」
「船が出るシェルギスには、そうだな……あと三日ってとこだろ。そこから船で丸一日だな」
(船にのるの?)
「ああ。アルネラバの船は、風がなくても海を走る。自走船だ」
「海を走るじそうせん?」

 耳慣れない単語にアルフィナは首を傾げる。

「ああ。……もちろん帆はある。でも、人力で漕ぐわけじゃない。魔法具の仕組みを使った特殊な船だ。アルネラバの自走船、グラウザスの飛空船……どちらも有名だろう?」
(しってる。『シエルナの魔法の船』!絵本でよんだ!)
「そうそう。俺も読んだ」

 シェスティリエにしか自分の言葉は伝わらないものだと思い込んでいたけれど、今はそれが誤りであることをイリは知っている。
 だから、イリは臆さずに口を開くようになった。
 唇を読めないルドクやアルフィナも、まっすぐ向き合ってわかりやすく話せば、簡単な単語なら伝えられるようになった。

「私も読みました。……すごいです。魔法の船に乗れるんですね!乗ってみたいと思っていたんです」
(僕もそう思った!)
「ですよね、ですよね」

 二人は手を取り合う。ここが外だったら、きっと二人でぴょんぴょん飛び跳ねていただろう。
 はしゃぐ二人に、イシュラが唇の前で指を立て静かにするように促す。

(あ…………)
「す、すいません……」

 視線の先には、背にクッションを入れ、長持ちに寄りかかるようにして眠っているシェスティリエの姿がある。

「あんまり音たてるなよ」
「はい」
(はい)

 アルフィナとイリは顔を見合わせ、互いにうなづく。
 イリは少しだけ笑った。こんな風にアルフィナと接している自分が不思議で、何だかおかしかった。

「どうかした?」

 何でもない、というように首を振る。

(伝えようという気持ちが大事……)

 伝えたいという気持ちと受け取ろうとする気持ちがあれば、言葉は音にならなくとも伝わる。
 それがわかったことが、イリにとっては収穫だ。
 自分の世界だけに閉じこもっていたイリに新しい世界をくれたのはシェスティリエだったが、今は更に広い世界をイリは歩いている。
 シェスティリエに出会う前のことを、イリはもうあまり思い出せない。

「……ねえ、字の練習しようか?」

 アルフィナが持ち出してきたのは、小さな石版だ。
 途中で拾った平べったい石をルドクが綺麗に磨いてくれたものだ。売り物の石板は長方形に切られて木箱に入っているそうだが、イリの石版は台形のような形をしている。それでもこれはイリだけの物で……それが、イリには嬉しかった。

(うん)

 この石板にインクがわりに水を、山鳥の尾の羽をペンにして字を練習する。水が乾けば何度でも書き直す事ができて、文字の練習にはとても便利だ。ルドクも、一番最初、文字を習い始めたばかりの時は、こういう風に石版を使って授業を受けたという。

「じゃあ、今日は聖書のカーハンの福音書の十八章から……」

 お手本に聖書を使うのことは、シェスティリエのアイデアだ。
 イリは、一般的に日曜礼拝で使われるシュラール版の『新約聖書』なら、意味がわからない部分もあるが、全文を諳んじることができるからだ。それは、5年間の聖堂生活で得た、思いもよらぬ副産物だった。

「……あのね」

 お手本の単語を書きながら、アルフィナはどこか思いつめたような表情で口を開く。
 アルフィナが何を聞きたいのか、イリには何となくわかっていた。
 数日前からずっとアルフィナが悩んでいるからだ。

(何?)
「…………イリは、魔術の練習してるでしょ」
(うん)
「……こわく、ないの?」

 なんでもない風を装って聞いてきているが、それは、アルフィナがよくよく考えた上で問いかけていることだとわかっていた。

(どうしてこわいの?)

 イリはまっすぐとアルフィナを見る。
 まっすぐと向き合わなければ、音を持たぬイリの言葉はうまく伝わらない。

「…………私達は、聖職者になるんだよ?なのに、なんで、人を殺す術をわざわざ覚えようとするの?」
(魔術は人を殺す術じゃないよ。間違えないで)

 イリは首を横に振る。この件に関して、イリには自分なりの考えがある。だから、自分から積極的にシェスティリエに教えを請うた。

「でも……」
(人を殺せるだけで、人を殺す術じゃない。……それに、聖職者が人を殺さないと思ってるの?)

 アルフィナは首を傾げていてイリを見ていなかった。自分の中に没頭しているのだ。
 だから、イリの言葉は届いていない。最も、イリに向き合っていたとしても、唇を読めないアルフィナに細かいニュアンスまで伝わったかはわからない。
 伝わっていなかった……伝わらないものだと思っていたときは、何とも思わなかったのに、こうして自分から向かい合うことを決めると、伝わらない事に苛立ちを覚えてしまう。

「聖職者は、困っている人を助けるのが仕事だわ。病気の人や怪我の人を治したり、困っている人の相談にのってあげたり、諍いを仲裁してあげたり……治癒の術は必要なものだと思うけど……」

 攻撃魔術はいらないと思う、とアルフィナは口の中で呟く。
 イリは、アルフィナの服の袖をくいくいと引っぱった。

「なぁに」
(ちゃんと、こっち見て)

 僕の言葉を聞いて。
 歯がゆさで少し苛ついたが、それを飲み込む。イリが伝える事をあきらめたら、言葉は通じない。

「……剣と魔術は一緒だってシェス様は言ったわ。使い方次第だっていうのは、確かにそのとおりだと思う。……でも、魔術は特別なものよ?その力をどうして、人を傷つけるものとして使う練習をするの?治癒の術だけでいいと思う」
(……治癒の術でだって、人は殺せる!)

 叫びにも近い激しさで、イリは言った。
 それは、音にならなくともアルフィナに伝わったらしい。

「そんなこと……」

 アルフィナは、その菫色の瞳を大きく目を見開いた。

(できるよ。……ようは、使い方なんだから)

 イリは、魔術の基礎を、それも座学で学びはじめたばかりに過ぎない。
今は魔術の禁止事項や注意事項を一つ一つ説明されているところだった。その中での、治癒の術について禁止事項や注意事項は多岐に渡る。
 それだけを聞いていると、イリには攻撃魔術などよりも治癒の術の方がよほど危険に思える。
 イリの言葉がわからないアルフィナに示すように、たどたどしい文字で、『使い方』と石板に書く。

「使い方次第だっていうのはわかるけれど……」
(あのね、アルフィナがどう思ってもいいけど……。でも、僕に強制しないで)

 イリの表情から、その不快感を感じ取ったのだろう、アルフィナは「ごめんなさい」と謝罪する。

(……お荷物でいたくない)

 唇の端を噛む。
 イリは、自分が何もできないことを知っている。
 これまでは、それでも良かった。
 望みなんて別になかったし、やりたいこともなかった。将来のことなんて考えたこともなかった。
 ただ、誰かに殴られたり、蹴られたりしないで、毎日、ちゃんとごはんが食べられればそれで良かった。
 けれど、今は違う。

(僕は、力が欲しい)

 イリは、手元の石版に『大切なもの』『守る』と書いた。

「大切なものを守りたいから、攻撃魔術を学ぶの?」
(うん)

 こくりとうなづく。
 本当はそんな単純なものでなかったが、細かいニュアンスまではアルフィナには伝えられない。
 目線でシェスティリエを示す。側には、剣を抱えたイシュラがいた。
 目を瞑ってはいるが、イシュラの神経が研ぎ澄まされている事をイリは感じ取っている。
 だからこそ、シェスティリエはこんな風に安心して眠っているのだ。

(シェスさまを守りたい)

 『守る』と石版にもう一回大きく書いた。
 自分の大切なものを、自分の手で守る為の力が欲しかった。
 守られるだけでなく、守りたい……そう、イシュラのように。

「……守るための力……」

 アルフィナは、その言葉を口の中で何度も繰り返して呟いていた。





 からからから……。
 からからから……。

 来る日も来る日も、見える景色も、聞こえてくる音も、さほど変わり映えが市内。軽やかな音だけがどこまでも続く。
 このあたりは、大陸を東西に縦断する白い街道の一部に当たる。白い街道の名の由来は、今では旧街道と呼ばれている元々の街道が、白芭石という石が敷き詰められていた為につけられたものだが、このアルネラバの街道は灰茶けた色の石が敷かれている。
 かつては多く産出した白芭石も、今では希少なものとなりつつあり、現在の街道は、その地域で一番良くとれる石によってつくられているのだ。

 からからから……。
 からからから……ごつっ……からからから……。

「っ……………………」
「………ひ、姫さん?」

 荷台に緊張感が漂った。

「……え?何かありました?」

 手綱を握っていたルドクが振り返る。
 眠っていたはずのシェスティリエが、半分涙目でおでこを両手でおさえている姿が目に入った。

「あ~……今、ちょっと、路面に石が転がってまして……」
「……………………こいでないことは、わかっている」

 故意だったら許さぬ、と口では凄みながらも、くーっと衝撃をこらえてるらしい姿が妙にかわいくて、イシュラは口元を押さえた。思わず笑ってしまいそうだった。

「……す、すいません」

 ルドクも笑いたそうな表情をしている。
 だが、ここでルドクが笑えば大惨事だろう。

「いや……」

 イリとアルフィナは、目覚める様子が無い。馬車に乗っているだけでも、長時間となると疲れるものだ。

「……さっき、イリとアルフィナがおもしろいことをはなしていたな」

 笑いをこらえているイシュラに、シェスティリエが冷ややかな眼差しを向ける。

「起きてたんですか?」
「……はんぶんくらい。イリのさけびに、いしきだけ、たたきおこされた」
「叫び?」
「ちゆのじゅつでもひとをころせる!ってやつだ」
「ああ……」

 その情景を思い出しながらうなづき、そこで、イシュラはふと気付いた。

「姫さん、唇読んでるんじゃなくイリの声が聞こえてんですか?もしや」
「イリのあれは、おとにならないだけでふつうにしゃべっている。それに、はっきりとしたつよい『しこう』というのも、わたしのようなにんげんには『こえ』としてにんしきされるんだ」

 普通の人間の耳に聞こえる音ではないが、感応力の強い魔術師……あるいは、聖職者ならば、聞こえるだろうだろうとあっさりと告げる。

「ただし、そのレベルにたっするにんげんのかずは、かなりすくなそうだ」

 そして、あれだけの聖職者を抱える王都ルティウスの聖堂で一人もいなかったのだからな、と溜息を漏らした。
 かつて『魔導師』だったという、シェスティリエ的には、今の世の中における魔術師の数の少なさや、聖職者のレベルに思うところがあるのだろう。

「じゃあ、唇は読んでない?」
「いや。もちろんくちびるもよんでいる。『おと』としてはっしたことがないせいで、イリはじぶんでもじぶんのこえをきいたことがないから、ききとりにくいところがある」
「ああ……耳の不自由なやつみたいなもんですね」
「そうだ。……でも、ちゃんとむきあっていれば、まったくもんだいない」

 シェスティリエは、イリとの会話にまったく不自由を覚えていない。そもそも、イリはかなり強い魔力を持つ。紫の瞳を持つアルフィナよりもだ。
 魔力というのは、いろいろな意味で使える力だ。イリが、己の魔力を伸ばし、使い方を覚えれば、声に代わる能力を手に入れることも不可能ではないだろう。

「……イリとアルフィナの話の何がおもしろかったんです?」
「いや、それぞれのかんがえかたのちがいが、おもしろいとおもってきいていた」
「……俺に言わせれば、おじょーちゃんは、いかにも貴族のお姫様的だと思いますよ」

 いつからか、イシュラはアルフィナを『おじょーちゃん』と呼ぶようになった。『姫さん』との差別化をはかっているという。

「どういうところが?」
「お貴族様御用達とはいえ、フォルテール流拳法は、仮にも武術なわけですよ。おじょーちゃんは、それの免許皆伝だってのにまったく心構えがないじゃないですか」
「……フォルテールりゅうけんぽうには、しあいがないからな」

 人を殴った事もないだろうな。とシェスティリエは笑う。

「オレに言わせりゃあ、あれは武術にいれる気はないんですがね。それでも、心を鍛えるって点では有りかと思ってたんです」

 ハズレでしたね、とあっさりとイシュラは言った。

「アルフィナにてんがからいな、イシュラ」
「あまりにも甘ちゃんすぎて、ちょっと……。いや、貴族のお姫様にしてはマシな部類だとは思いますが」

 イシュラは軽く肩をすくめる。

「わたしは、べつによいとおもっているんだがな」
「そりゃあまた、なぜです?」

 イシュラは、そういう意味で、シェスティリエが甘いとはまったく思わない。常に言っている通り、シェスティリエは自分に刃を向ける人間を殺す事を躊躇わないだろうと確信している。
 中身がどんなであっても、シェスティリエは肉体的には幼児にすぎない。一瞬のその躊躇が命取りになる。それを本人が自覚している。

(姫さんは、自分の命の重さをちゃんと知っている)

 シェスティリエの命は、もはや、シェスティリエだけのものではない。あの時に死んだすべての命とイシュラの忠誠を負っている。

「アルフィナがくちにするあまさやきれいごとを、わたしはきらいじゃない」
いささか、感情に走りすぎであるのと、聖職者を神聖視しすぎているがな。と、そのやや舌足らずな響きを帯びた声は付け加える。
「そういうばめんにちょくめんし、それでも、ころさないというせんたくしをえらびつづけられるのならば、それはそれでよいとおもう」

 私は、殺す覚悟を持つことを求めたが、それが、殺さぬ覚悟であってもいいのだとシェスティリエは静かに言った。

「その殺さぬ覚悟ってのは、その場合、自分が殺されてもいい覚悟って意味なんですかね?」
「イシュラはしんらつだな。……わたしりゅうにいえば、ころさなかったことによっておこるすべてのできごとをうけいれるかくごだ」

 そこには自分が殺されることも勿論含まれている、とシェスティリエは小さくうなづく。

「……もう何度も言ってますが、オレは、姫さん以外を守る気ありませんよ」

 盾や囮にはしますが、と真面目な顔で告げる。

「かまわない。それに、あんしんしていい。わたしもちゃんとじぶんをまもるから」

 自分を捨ててまで守ったりしない、とシェスティリエは言う。
 イシュラが事あるごとに何度も繰り返すのは、そうやって何度でもシェスティリエからその言葉を引き出したいからだ。

(言霊……)

 言葉には、魂が宿るのだと、昔誰かが言っていた。ならば、魔導師だというシェスティリエの言葉になら、尚更、魂が宿っているに違いない。
 そうやってシェスティリエが何度もその言葉を口に出すことで、それが揺るぎない事実となってしまえばいいとイシュラは思う。

「あのね、イシュラ。そもそも、みんながみんなおなじかんがえというのは、きもちわるいことなんだよ……」

 私は、別に私に同調する人間を求めているわけではないのだ、と溜息混じりにこぼす。

「じしんにおもうところがあり、それでおなじかんがえにいたるのならかまわないが……。だから、アルフィナがちゃんとじぶんのいけんをくちにできることは、よいことだとおもう」

 だいたい、よってたかって人を殺すことに納得しろなんて押し付けるとしたら、それも相当おそろしいことではないのか?とシェスティリエは問い掛ける。

「そりゃあそうですけどね。でも、そもそもがあのおじょーちゃんに対して放たれている刺客なわけですよ?本来、俺たちには関係ない。それをどのくらいわかってるんですかね?あまりにも甘すぎるでしょうが。たとえ、それが正論だったとしてもです」

 いや、頭でっかちな正論だからこそ、腹が立つのだろう、とイシュラは頭の片隅で考える。

(……これまで受けた襲撃で巻き込まれて死んだ人間の遺族の前でも同じ事がいえるのなら、ちっとは認めてやるけどな)

 だが、アルフィナはそういう人間がいることを考えたことがないのだ。

(お貴族様ってのは、使用人や召使を自分と同列と思ってないから……)

 だから、無意識の領域で認識していない。いや、言われなければ意識することがない。
 その事実を指摘すれば、すぐに心を痛めて悲しげな顔をし、反省することはわかっていたが、イシュラはあえてそれをしなかった。

「どんなにあまいかんがえでも、それをしんそこしんじて、そういいつづけることができるのなら、それはひょうかにあたいするものだ」
 違うか?イシュラ。
「そういうにんげんがひとりくらいいてもいいじゃないか」
「……わかってんですよ、それなりには。実際問題、おじょーちゃんを論破するのなんざ、オレには簡単だ。納得させることもさほど難しくもない。…………でも、それをしないのは、姫さんが、おじょーちゃんに期待してるからだ」

 そのイシュラの言葉に、シェスティリエは笑った。
 感心したというように軽く目を見開いている。

「オレだっていつまでも脳に筋肉ばっかり詰めてませんよ」
「……こういうことはな、さんじゅつのように、せいかいがただひとつしかないわけじゃない」

 世の中、いろいろな考え方があるものだ、と静かな語調で言う。

「アルフィナはまちがってるわけじゃない。あれのいうことは、あるいみ、しんじつだ。『りそう』といってもいい。わたしは、アルフィナが、その『りそう』のはてにどういうこたえをえるのかをしりたい」

 アルフィナは、遠い過去のシェスティリエだ。さまざまな出来事と、経験との果てに、今のシェスティリエは存在している。
 その自分を後悔しているわけではないし、間違っていると思ったこともない。
 だが、アルフィナだったら、どういう答えを得るのだろうか。
 彼女がどこまで理想を貫けるのか……。
 どんな風に考え、どういう道を選ぶのか……。
 そして、辿り付く答えはどういうものなのか……。
 シェスティリエは、今の自身とは違う答えにたどり着く事をアルフィナに期待している。

「いろいろとなやんではいるが、アルフィナは、まだまだ、あたまでしかわかっていない。だから、しばらくようすをみてやれ」

 それが、年長者の度量というものだ、とシェスティリエはイシュラに言い諭す。

「…………姫さん、あなた、5歳じゃなかったですかね?」
「そうだが、それがなにか?」

 日常の大部分で皆がきれいさっぱり忘れていることではあるが、シェスティリエは世間一般ではまだまだ子供……むしろ、幼児といっていい年齢だ。

「いいえ、何でもありませんがね……」

(5歳の子供に年長者の度量とか言われるってのは……)

 その奇妙さに、シェスティリエの忠実な騎士は、苦笑を漏らした。





 2009.09.27 更新


 すいません。第3章終わりませんでした。
 どうしても第3章にいれたいエピソードがあるので、あと1つか2つ続きます。



[11484] 第3章-8
Name: 南果◆92736a0a ID:408fb562
Date: 2010/11/15 01:41
 港町であるシェルギスに到着したのは、すでに日が暮れ、青い闇があたりを包み始めたころだった。
 陽のあるうちには辿りつけなかったので、もちろん、街壁の大門は固く閉ざされている。
 なので、街壁から少し離れた木陰に馬車をつなぎ、いつものように野営をしていた。周囲では他にも何人もの旅人が同じようにテントを張ったり、馬車の中でくつろいだりしている。
 時間が時間であるためか、そこここで煮炊きをしている為、おいしそうな匂いが漂っていてアルフィナは軽い空腹を覚えた。
 シェルギスはかなり大きな街らしく、旅人をあてこんでの屋台もたくさん出ている。特に多いのは食べ物や飲み物を商う屋台だった。

(スープとかをどうやって売るのかしら?スープ皿ごと?ううん、それじゃあ皿が足りなくなちゃうわ)

 よく見ているとスープの屋台に近づく旅人は自身の木のボウルを手にしていたり、鍋を手にしている。

(なるほど、お鍋とかを自分で持っていくんだ)

 城壁の外にはちょっとした小さな町ができていて、アルフィナには見るもの聞くものすべてが珍しい。思わずじーっと見つめてしまうこともしばしばだ。



「にぎやかですね」
「そうか?少し数が減ってるように思えるぞ」

 イシュラが、野営の準備をする手を止めてぐるりと周囲を見回す。以前は関所の壁に沿ってぎっしりあった屋台だが、端の方はまばらになっている。

「せんそうのえいきょうがあるのだろう。……たしょうはなれていようとも、けっきょくはすべておなじたいりくでのことだからな」
「そうですね」

 道中に聞いた話では、イシュラとシェスティリエの祖国である帝国は、未だ戦の最中にある。

「当分続くだろうな」
「……おそらくブラウツェンベルグがほろぶまでな」
「ブラウツェンベルグが負けるんですか?」

 ルドクが驚きの声をあげる。

「……ま、最後に勝つのは帝国だろうな」

 イシュラはシェスティリエの言葉にうなづいた。
 別にシェスティリエの言葉だから、というわけではない。ちゃんとイシュラにはうなづくだけの根拠がある。

「どうしてですか?お二人の祖国であることはお聞きしましたが……」

 アルフィナもあまりにも自信たっぷりにうなづくイシュラに疑問を覚えた。

「帝国にはまだ切り札がある」
「切り札?」
「……『帝国の剣』」

 言葉少なくイシュラは言うのを、シェスティリエはそうだというようにうなづく。

「わかりやすく言うのなら、帝国の皇子と彼らが率いる騎士団のことだ。ゴクラクチョウのバカ皇子はどうしょうもねえが、あそこは副官が帝国有数の騎士だし、騎士団としては特に問題ない」

 帝国はまだ一本もその剣を抜いていない、とイシュラは言う。

「確か、皇子様は五人ですよね?」

 屋敷の奥深くで暮らしていたとはいえ、アルフィナは貴族の娘だ。周辺国家の帝室の家系図くらいはさっと頭の中に描ける。

「そうだ。でも、第三皇子は婿にいってるから数に入らない。で、第五皇子はまだ幼児だ。騎士団が結成されるのは皇子が成人する15歳前後だから、今あるのは三団だな。どの騎士団も強いが……何といっても、王太子ラスティア=レーディスと黒騎士団の強さは大陸最強といってもいいだろう」

 帝国の武人だったからこそ、末席とはいえ軍籍に身を置いていたイシュラだからこそ、その強さを知っている。そして、だからこそラシュガークが救援されなかったことが腹だたしい。

「そもそものこくりょくがちがうのだ。たかだか200ねんていどしかへておらぬくにと、1000ねんていこくとよばれるていこくとでは、そこぢからがちがう。まあ、その1000ねんていこくもふはいがすすんでおるが……ブラウツェンベルグにまけるほどではない」

 シェスティリエは言う。それは別に愛国心からというわけではない。ただの事実だった。

「いくさがあと2ねんつづいたら、ブラウツェンベルグはおわりだ」
「どうしてですか?」
「戦争っつーのは金がかかるのさ。ブラウツェンベルグに2年も戦争をし続けるだけの金はないな」

 イシュラは口の端だけで笑ってみせる。その笑みにはどこか冷ややかさがあるとルドクは思う。
 基本的に貴族やら国の偉い人間やら、彼らが為すことというものをイシュラは嫌っている。だからこの手の話になるとその語調にはごく自然に皮肉げな響きが混じる。

「帝国には……」
「ある。帝国は豊かな国だからな」

 イシュラはきっぱりと言い切った。

「『とみ』のちくせきがだんちがいなのだ」

 国が長く続くということはそういうことだ、と幼い声は付け加えた。

「だからこそ、ブラウツェンベルグは帝国を……正確には、帝国の西方領土の一部を欲して事を起したのだろう。帝国有数の穀倉地帯であるエゾールか、それがダメでも国境の商業都市フェルシアくらいはってとこだろうな」
「でも、それはかなわない?」
「無論だ。帝国が帝国として成立してより、その領土を割譲したことは一度もない」
「え、でも、ファース銅山は、スティフィア大公国に譲渡されたのでは?」

 思わずアルフィナは口を挟んだ。外に出られなかった分、アルフィナは同年代の貴族の少女に比べて知識が豊富だ。彼女の叔父は彼女にいろいろなことを教えてくれていた。
 特に、周辺国家の近代の歴史については、伯爵家が外交に携わる家柄だった為にかなり詳しい。
 これまでは役に立つと思ったことなど一度もなかったが、こうして話しているとそれも決して無駄なことではなかったのだと思える。

「違うな。あれは、大公妃となられたフェルレイナ皇女の化粧料だ。皇女が生きている間はスティフィアのものだが、皇女が死んだら帝国領に戻る。帝国は、他国に婿や嫁に出す皇子、皇女の化粧料をつけるが、その子供たちに相続は認めない。割譲というよりは貸与というべきだろう」
「……そうなんですか」

 話に加わっていないイリは、まったく興味がないのだろう。彼らの話に耳を傾ける様子もなく、シェスティリエの座りやすいようにクッションを並べ、いそいそとシェスティリエの好きなお茶の準備をはじめる。
 イリにとって、シェスティリエに関わらないことはすべてどうでもいいことに分類される。お茶の準備のほうがよほど大事だった。
 途中でそれに気づいたアルフィナも準備を手伝って、湿っ気ないように厳重にしまっていたクッキーを皿に並べる。
 そして、お茶の準備が整っていることに気づいたシェスティリエは、当たり前のようにしつらえられた自分の席に座った。
 基本、シェスティリエは何でも自分でできるが、仕えられることにも慣れている。

「それが原因で戦になったこともあったんじゃねえの?」
「そうだな。……むしろ、すぐにへんかんしないことをりゆうにいくさをふっかけて、いつもていこくがじこくのりょうどをふやしていたな」
「……美人局?」
「にたようなものだ」

 イリは、魔法瓶のお湯を使って柔らかなトゥーラという白い小さな花の香りのするお茶を1人分だけいれた。清々しいまでにシェスティリエ中心だった。
 その後をついで、アルフィナがイリや自分の分も含めた四人分をいれる。

「あー、茶くらいじゃ足らねえだろ。ルドク、何かメシになりそうなんもん調達してきてくれや」
「あ、そうですね。その間はお茶で我慢していてくださいね」

 いつものことながら苦笑を禁じえないイシュラが、ルドクに言う。
 この一行の財布を預かっているのはルドクだ。よく気がつき、交渉に慣れているルドクは買い物が上手い。この旅の道中に更にその能力には磨きがかかったようだった。
 シェスティリエは一度任せてしまうとほとんど文句を言わない。それがルドクにはやりにくくもあり、信用されているようでうれしかった。



「これがザワル……薄焼きパンでいろいろな具を巻いたものです。僕のお勧めはこの仔羊の肉と玉ねぎを焼いたものですね。あ、このチーズがとろけているハムのものも捨てがたいです。それから、これがファスカ……この地方にいるドワル鳥のシチューです。多めに買ってきましたから……。あとデザートは少し時期が早いですが冬苺です」

 簡易な卓の上に次々と並べられるザワルは10個以上ある。
 鍋にたっぷり買ってきたシチューは、イリが暖めなおして簡素な木椀によそう。さすがのイリも食事の時間だけはちゃんと人数分用意する。
 そして、目を引くのはつややかな赤い果実だ。まるで紅玉のような鮮やかな赤は食卓を華やかにしてくれる。
 シェスティリエは食べ物に不満を漏らすことはないが、果実はかなり好んでいるのをルドクは知っていたので、可能な限り用意するようにしていた。
 シェスティリエの表情がほんの少し緩んでいるのを目にすると、ルドクは任務を見事遂行したような満足感と達成感を覚えることができるのだ。

「お、うーまそ。ほい、姫さん」
「ん」

 イシュラはシェスティリエが最も好むだろうチーズとハムのものを手渡す。それから、イリとアルフィナが自分の食べたいものを食べたいだけ手にし、ルドクが選ぶ。その残りがイシュラのものだ。

(おいしい)
「ほんと、おいしいです。このちょっと甘いソースが好きです」
「たべやすくてべんりだな」
「喜んでもらえると嬉しいです。いや~、ちょっと目うつりしちゃったんですけど、ザワルの屋台のおじさんがもう店じまいだからまとめて買ってくれるんなら安くしてくれるっていうんで……」

 その笑顔はどこまでもにこやかだ。

「……いくら負けさせたんだ?」
「全部まとめて、半額に」
(ルドクさん、すごいんだよ。シチューは鍋一杯なのに3人前で買ったんだって)
「お買い物上手なんですね」
「いやいや、本当は時間があればもう一声お願いしたいところだったんですけどね。あんまりお待たせしてもわるいので」

 でも、お得な買い物をすると幸せな気分になれますよね!とルドクはたいそう上機嫌に言った。

「……屋台のおっさんには別の意見がありそうだよな」
「はい?」

 何かいいましたか?というように、ルドクは軽く首をかしげる。
それが天然なのか故意なのかイシュラには判別がつかなかった。出会ったばかりのルドクであれば間違いなく前者であるといえたが、旅を続けてきてイシュラやシェスティリエに程よく染まってしまったルドクでは判別が微妙だった。

「いいや、なんでもねぇ」

 イシュラは軽く肩をすくめた。結局のところ、それはイシュラにとってたいした問題となりえない。
 イシュラにとって大切なのは、シェスティリエがおいしそうに食べていることだった。そして、そういう意味ではイシュラは決してイリを笑えない。本人に自覚はまったくなかったが。

「ここで今夜一晩過ごしたら、明日は船ですね」
(じそうせん!!)
「あー、どうだろうな。正式な国境だし、船にのればそのまま皇国だ。そのまえにいろいろ手続きとか厄介なことがあるだろうな」
「手続き?」

 アルフィナの表情が曇る。
 これまでは見咎められることなどまったくなかった。けれど、アルフィナは自分の身がとても厄介である自覚があるので、つい不安になる。

「安心して大丈夫ですよ。屋台の人たちにもいろいろ聞きましたが、切符が買えれば、手続き自体はそれほどかからないそうです。旅券の改めと簡単な聞き取りで、巡礼は聞き取りだけらしいですから」
「何を聞かれるんですか?」
「皇国へ渡る目的と現在の健康状況とかそういうのです。まあ、馬車を売ったりとかしなければならないので多少時間はかかると思いますが、急ぐのであれば明日の夕方の便には乗れると思います」
(ばしゃ、うるの?)

 馬車を売るということは馬も売ってしまうのだろう。旅の間、馬の世話を熱心にしていたイリにはちょっとだけ辛い。

「ええ。それで、向こうでまた買います。もしくは、馬車を雇うか……それは到着してからの話ですね。馬車ごと渡すことも可能ですけど、それだと高くつくんです」
(にもつはどうするの?)
「身の回りのもの以外は、信頼できる荷運びに大聖堂まで運んでもらいます」
「なくなったりしないんですか?」
「にもつにかんしてはあんずるひつようはない」

 『呪』をかけておくからな、と当たり前のように言う。

「たいしたりょうでもない。ふういんして、めじるしをつけておけばいい」
「よくわからねーんですが、それで盗まれないっつーこと?」
「ぬすまれてもあけられないし、とりもどせるということだ」
「なら、いいですね」

 姫さんのもんが、誰かの手に渡らなければそれでいい、とイシュラはつぶやく。
 
「おまえは、わたしちゅうしんにかんがえすぎだ」
「俺は姫さんの騎士ですから」

 当たり前だという口調に、ルドクたちも同調するようにうなづく。

(なんか、わたしのまわりは、こういうにんげんばかりなきがする)
 
 現在も、過去も。
 そういう星回りの下に生まれたのかもしれないとシェスティリエは小さく溜息をついた。






********************

2010.10.31 初出
2010.11.15 手直し


13ヶ月ぶりになります。お久しぶりです。
また、読んでいただけると幸いです。
少し短いですが、ここで一区切り。
続きは1週間以内に更新予定です。



[11484] 第3章-9
Name: 南果◆92736a0a ID:408fb562
Date: 2011/01/17 23:46
 夜半過ぎ、さらりという衣擦れの音をわずかにたてただけで、シェスティリエは寝床を抜け出した。
 グレイの聖衣をかぶりながら着て聖帯をかけると、少し考えて髪を高い位置で二つに分けて結んだ。いつもは髪を整えるのはイリかアルフィナがやる。自分では複雑なことはできないが、動きやすければ用は足りる。
 身支度を終えると、目を閉じて周囲の気配を探ってみた。

(……30、いや、もう少しいるか……)

 不特定の人間の気配をとらえることは難しい。自然、数もやや大雑把な感じでしかわからない。
 けれど、彼女はまったく不安を覚えていなかった。

(イシュラがいるし……)

 己の騎士であるイシュラの気配は鮮明だ。たぶん、目が見えなくなったとしても、シェスティリエはイシュラを見失うことはない。
 自分の左側に寝ていたアルフィナを踏まぬように気をつけながら、馬車の後ろにかけていた布をあげて外に出ると、火の番をしていたイシュラが顔をあげた。

「……なんだ、姫さん、起きちまったのか」
「こんななかで、ふつうにねていられるほうがおかしい」
「はは、大概の人間は姫さんほど鋭くはねーよ。寝てんだし」

 まあ、俺にはさっきから、ちらちらと気配がうるさすぎるけどな、と小さくぼやく。

「どうすんかね」
「むこうのでかたしだいだな。てをださぬならよし、てだしするのなら100ばいがえしだ」
「……姫さんの仕返しのレートって何気にたけぇよな」
「きほんレートだ」

 まじめな顔であっさりと言うのがどこかおかしくて、イシュラは思わず頬をほころばせる。

「基本レートが100倍って暴利だろ」
「いいんだ。わたしのしゅみだ」
「俺の趣味は、先手必勝なんですがね」
「ときとばあいによるな」
「数、多すぎるでしょう」
「だいじょうぶだ。せいぎょがややあまいが、はんぶんくらいにわたしがへらしてやる」

 そのために昼寝をしてずっと魔力を貯めてきたんだ。と、シェスティリエは天使もかくやという笑みをみせた。
 それは、こういう場合じゃなければうっとりと見惚れたいほどで、イシュラは小さく溜息をつく。

(かなわねえ)

 ルドクがイシュラの内心の声を聞いていたら、かなうはずがないと笑うだろう。
 いや、ルドクだけではない。イリやアルフィナだって言うはずだ。
 そもそもの前提条件が間違っている。イシュラは最初からシェスティリエにまったくかなってなんかいないじゃないか、と。
 どこまでわかっているのかは知らない。だが、シェスティリエにとって先ほどからこの馬車を遠巻きに囲む襲撃者たちの存在は完全に想定内だったらしい。

(それも、随分と前から)

 昼寝をしはじめたのは昨日今日のことではない。
 イシュラとルドクは追いつかないと見ていたが、シェスティリエは今日のあることを予測していた。
 中身はどうあれ身体は幼い子供のこと。魔力を貯めているという発言もそれほど深く気にしていなかったが、こうなってみると深謀遠慮であったと思えるから不思議だ。

「イシュラ、ひざまづいてめをつぶれ」
「はい?」
「いいからさっさとめをつぶれ」
「へいへい」
「へんじは1かいだ、ばかもの」

 小さな足がイシュラの足を容赦なく踏みつける。
 体重がほとんどないので鍛えているイシュラにはあまり痛みを感じないのだが、痛そうな顔をしてみせる。
 そうでないと、本当に痛い目に遭うので要注意だ。

 イシュラは大柄な身体でありながらそれを感じさせないなめらかさで膝まづいた。
 イシュラとて騎士の端くれであれば、一通りの作法は修めている。
 軽く顎をひき、ゆっくりと目を閉じる。

 月の明るい夜の中に、甘くやや舌足らずな声が響いた。

「そのみは、わがつるぎ」

 流れ出た音の連なりが、どこの国のどういう言葉なのか、イシュラには想像もつかなかった。
 それは、彼の知るどんな言葉とも似ていなかったし、少しも意味のある音には聞こえていなかった。
 だが、それは、まるで美しい音楽のようにイシュラには聞こえた。

「そのこころこそが、やいば」

 そして、不思議なことに、その意味だけはイシュラにもわかった。
 音を言葉として捉えることは出来ないのに、意味としては理解ができる。

「わがいのりここにありて」

 それに気づいて、思い出す。

(……神聖言語)

 さまざまな戦場を渡り歩いたイシュラは、話にだけは聞いたことがあった。
 古の魔術師たちの使っていたという『力ある言葉』……あるいは、『はじまりの言葉』。
 すべての生あるものに通じるというその言葉のことを。

「なんじにぜったいのしゅごをあたえる」

 澄んだ声の四言詠唱。
 軍に魔術師は皆無ではない。だが、これほどまでに短い詠唱を聞いたのは初めてだった。
 簡略化された神聖言語の呪。
 それがどんなにも稀有なものであるのか、イシュラは知っている。

(本当に、魔導師なんだな)

 神聖言語を研究している人間はいるだろう。
 各種の学術機関や魔法王国と言われるローデシアの魔法院や、それこそ教会にだっているに違いない。
 だが、それを使う人間は……おそらくは、いない。少なくともイシュラは聞いたことがない。

 空気が震えていた。

 普通の人間だったら気づかないかもしれない。だが、イシュラは剣で身をたててきた人間の常として、気配を読むことに長けている。
 その感覚を持つからこそ、わかるのだ……シェスティリエの唇から紡ぎだされた言葉が、まぎれもなく力を持ち、世界をゆり動かしているのだと。

 目を瞑っているイシュラには見えていなかったが、シェスティリエの右手は空中に古い……今となっては彼女以外には知らないだろう呪を描き出していた。
 青白く発光する神聖言語の呪は、その唇から紡ぎ出た詠唱の呪と交わり、イシュラの身体をまわるようにして螺旋を描く。
 シェスティリエはそれを満足げに眺め、そして、限りない祈りと与う限りの慈しみとをこめて、静かに呪の終わりを結んだ。
 それは、どこか神聖なものを感じさせる光景だった。
 そこは聖堂でもなく、立ち会う神官もおらず、何の儀式もなかったけれど。






(空気が変わった……)

 びりっとするような空気が、ふわりと和らぐ……それは、まるでそっと抱きしめられるかのような柔らかさでもってイシュラを包む。
 そして、背伸びをした小さな腕がイシュラの頭を抱き、そっと額に唇が触れた。
 その瞬間、目裏でまばゆい光がはじけた。
 全身を軽く電流が流れるような感覚……ふつふつと何かが湧き上がるような……身体の中の細胞の一つ一つを活性化するようなその感じにむずがゆさを覚える。

「何、したんです?」
「しゅごのじゅつだ」

 答えは簡潔だった。目を見開いたイシュラに、シェスティリエは上機嫌の笑みを向ける。

「それはわかったんですけどね。何かこう、普通の術とは違うような……」
「わたしはさいきんのじゅつをしらないから、ちがいはわからない」
「えーと、戦場で魔術師がかけるのよりも強力っぽい感じがするっつーか」
「しゅごのじゅつは、かけたにんげんのりきりょうがそのままはんえいする。よっぽどよわいまじゅつししかしらないのだろう、イシュラ」

 唇だけで笑う。それは幼児には不釣合いな艶を感じさせる笑みだったが、シェスティリエにはまったく違和感がなかった。

「……それを言ったらおしまいなんですけどね」

 軍に所属していた魔術師が弱いとは思わない。
 だが、おそらくシェスティリエが特別だ。
 生前の彼女がどれほどの力量を持っていたのかは知らないが、当時は相当に名の知れた魔術師……いや、魔導師だったに違いない。

(……あれ?)

 イシュラの記憶の片隅を何かがかすめる。
 何かがひっかかっている感覚……何か大事なことが、ほんのすぐそこまで迫っているのに思い出せない。

「……どういう術なんで?」

 もどかしさから逃れるように、別のことを問うた。

「わたしよりつよいじゅつしゃでないかぎり、まじゅつてきにはおまえをきずつけることができない。どうじに、わたしのじゅつをきるくらいつよいやいばじゃないかぎり、ぶきでもおまえをきずつけることができない……これを『ぜったいしゅご』という」
「魔術って切れるんですかね?」
「きる、というひょうげんがただしいかはわからぬが、けんのたつじんがそうおうのぶぐをつかえばきれる。……だが、わたしのじゅつをきれたにんげんはかぞえるほどだ」
「……それってほぼ無敵?」
「にんげんがあいてならな」
「なら、姫さんが一人いりゃあ無敵の軍隊ができるってわけだ」
「いや」

 シェスティリエは首を横に振る。

「『ぜったいしゅご』は、ほんらい、『つるぎのせいやく』とついになるじゅつだ。おまえがわたしとせいやくしているからこそ、そこまでのこうかがある」
「へえ」
「それに、そもそも『ぜったいしゅご』はかなりまりょくをしょうひするじゅつなんだ。たにんにそんなものかけるくらいなら、そのぶん、こうげきまじゅつにしてたたきこんだほうがラクだ」
「そうなんですか?」
「そうとも。……さいじょうきゅうのしゅごのじゅつだぞ。ふつうのまじゅつしならば、じゅつとしてはつどうしない。かろうじてはつどうしてもまりょくをすいとられて……」
「……姫さん?」

 そんな危険な術を行使したのかとイシュラの目がつりあがる。

「あんずるな。わたしのばあいはたいしたもんだいではない。たんにおさないせいで、まりょくをためないとつかえないじゅつなだけで」

 ぱらりとシェスティリエが地面に落としたのは、くすんだ灰色に色を変えた金属片だ。

「魔力板ですか?」
「そうだ。ぎんのさいじょうきゅうのいただったが、これはもうやくにたたないな」

 懐の隠しに手をいれて、新しい魔力板を取り出す。

「それに魔力を貯めていた?」
「そうだ。ぎんのいたをつかうと、かなりこうりつよくためられる」

 だから危ないことなんてまったくないのだ、とシェスティリエは言う。

「なら、いいですがね」
「わたしがまりょくぎれのような、しょしんしゃじみたヘマをするか」

 ふん、とあごを軽くあげて睨みつける姿はとても傲慢で、ごく自然に自信家で、そしてひどく魅力的だった。
 これでこそシェスティリエだという気がする。

「……姫さんは、聖職者っつーより、どこの女王様だよって感じだな」
「へんたいはおことわりだ」
「あー、姫さん、意外に下世話なこと知ってんな」

 普通だったらこの年齢の幼い子供にイシュラの言う女王様の意味はわからないし、わかってほしくもない。

「なかみはせいじんをとっくにすぎてるからな」
「昔っからそんな感じだった?」
「ひつようならばいくらでもおひめさまぶりっこできるが、わたしをそだてたのはへんくつなろうじんで、そのせいでおとこことばがきほんなんだ。だから、ついぶっきらぼうになる。それがエラそうにきこえるらしい」
「……なるほど」

 彼らがのんびりとそんな会話を交わしている間にも周囲の気配は徐々にその距離を縮めてくる。
 だが、イシュラは不思議なくらい気持ちが静かだった。

「よのなか、バカばっかりだな」

 シェスティリエにいたっては、呆れた顔で溜息をつくほど。

「普通、待ってるなんて思いませんって」
「まあ、いい。どうやらあちらにひくきはないようだ。イシュラ、えんりょはいらぬ」

 すべて殺せ、と幼い声は言った。

「……いいんですか?」
「いい。にどとあれをねらおうとかんがえぬくらい、てっていてきにやれ」

 シェスティリエとて、殺せと命じることに躊躇わないわけではない。
 だが、躊躇うのはほんの一瞬だけだ。一瞬でどうするかの計算がたってしまう。

(どちらがより良いか……)

 この場合、より良いとは、最終的に被害が少ないことだ。
 そして、シェスティリエの決断は、『これ以上の被害を出さぬよう。また、後に多くを殺さない為に、ここでそれ以下であるだろう犠牲を出す』こと。勿論、この場合の犠牲というのは襲撃者たちをさす。

「ちゅうとはんぱはひがいをおおきくするだけだ。ひとりものこすなよ」

 単に、生き残ったものは更にまた襲撃してくるだろうから殺す、というだけではない。襲撃は回数を重ねるごとに規模を大きくするだろう。襲撃者の数とて、撃退するたびに増えていくのが道理だ。
 そうなった時、いつか襲撃が成功してしまうかもしれないし、そうでなかったとしても、周囲の人間だって巻き込まれる。彼女たちはまだいい。アルフィナの事情を知っているから心の準備もしている。だが、まったく無関係な人間に被害が出る可能性だってある。

(何よりも、このさきは私が守ってやれるわけではないのだし……)

 皇国に着けば、それぞれ道が分かれる。
 イリはともかくとして、ルドクは旅を続けるし、アルフィナは洗礼を受け、教父あるいは教母となった者に導かれ自身の道を探すことになるだろう。
 アルフィナの美貌、そして、その生い立ちゆえの価値から、おそらく彼女には聖堂から守護騎士がつけられるに違いない。
 だが、彼らの腕のほどをシェスティリエは知らないし、守りきれるかもわからない。
 だとするならば、今、出来る限りのことをしておくべきだった。

「一人くらい残さないと、どうなったかを知る人間がいないんじゃねえ?」
「こういうしごとには、みとどけやくやつなぎやくがいるはずだ。それに、だれひとりとしてかえってこなければ、しっぱいしたことはわかるだろう?」
「まあ、そうですね」

 徹底的にやってみせつけることで、アルフィナの命を狙うことを諦めればよし、そうでなくとも、それだけやっておけばしばらくは他国へ襲撃者を送り込むこともできまい。
 シェスティリエはそう判断し、この一行を率いる者として最も安全な道を選んだ。そして、選んだからには迷いを見せるべきではない。主の迷いは剣を鈍らせる。

「おじょーちゃんは非難するでしょうね」
「かまわない。まもりたいとおもうのなんて、しょせん、わたしのじこまんぞくだ。それよりも、なんどもしゅうげきされるほうがきけんだ。しくじるなよ、イシュラ」
「もちろんです。姫」

 イシュラが恭しく一礼してみせると、シェスティリエは当たり前だというようにうなづいた。





 2010.11.04 初出
 2011.01.17 手直し


******************


コメントありがとうございます。
待っていたと言ってもらえることは書き手冥利につきると思います。
ありがとうございます。とても嬉しかったです。




[11484] 第3章-10
Name: 南果◆92736a0a ID:408fb562
Date: 2010/11/15 02:13
「……イシュラさ~ん?交代しますよ~?」

 どこか間の抜けた声がした。
 眠たげに目をこすりながらルドクが起きてくる。

「あれ?……なんでシェスさまが起きてるんですか?」

 ルドクはそこにシェスティリエがいることに気づき、疑問を覚えた。少なくとも、彼が眠るまでは、馬車の奥のほうでイリとアルフィナに挟まれて眠っていたはずだった。
 シェスティリエはそれには答えずに深々と溜息をつく。

「まのわるいにんげんというのはいるものだな」
「そうですねぇ」

 気の合う主従は顔を見合わせ、シェスティリエは溜息をつき、イシュラは苦笑する。

「……えっと……」

 ルドクは頬を引き攣らせる。どうやら、自分は何かやらかしてしまったらしい。

「いや、別に何もしてねーから。まあ、起きてきたことが間違いなんだけどな」
「イシュラさん?」
「……イシュラ、くるぞ」

 バラバラと目の前に走り出たのは、黒装束の男たちだった。

「えっ、え?」

 面布で顔を覆っている人間の集団が怪しくないわけがない。
 そして、それが何者であるかは知らなかったが、手にある刃をみれば襲撃者であることは寝起きのルドクにとっても一目瞭然だった。

「ルドク、わたしのうしろにいるがよい」

 私の後ろは安全圏だ、とシェスティリエは静かに言った。

「はい。シェスさま」
「ねていればよかったのに」
「……すいません」

 ルドクは、言われるままにシェスティリエの後ろに隠れた。傍目から見れば、10歳にもならないだろう幼い女の子の背に隠れるという言語道断の弱虫だが、実際にはシェスティリエは圧倒的に強者に分類するのが正しい。

(なんで誰も起きてこないんだろう)

 事ここにいたっても、イリとアルフィナは眠っている。
 二人だけではない。この異様な状態を周囲は誰一人として騒ぎたてない。それどころか気づいてすらいないようだ。

「……ねむりぐさをつかったようだな」

 まるで心の中を読んだかのようにシェスティリエがルドクの疑問に答えた。

「え、え……あの、僕、声に出してました?」
「おまえはわかりやすい。かおをみれば、だいたいわかる」

 ルドクは溜息をつく。それなりに鍛えられたと思ってたのだが、内心が顔に出ているようではまだまだだ。自分が一人前になるには、更に多くのものが必要らしい。

「……ねむりぐさってなんですか?」
「ねむりをさそうせいぶんのあるくさだ。おおかた、どこかのたきびにでもつっこんだんだろう」

 あれはその成分を嗅いだだけでも効き目があるからな、とシェスティリエは言う。

「じゃあ、僕はなぜ……」
「あまりそのせいぶんをすわなかったか、あるいは、わたしのようにききにくいか……」
「……効きにくい?」
「たいしつもあるし、まりょくのつよいにんげんは、そういうものにえいきょうされにくい」
「便利ですね」
「そうでもないぞ。……ちりょうのためのくすりもききにくいからな」
「え?」

 口元にうっすら浮かんだ笑みにルドクはそれ以上の言葉を失った。それはとんでもないことのように思えたし、何と言っていいかわからなかった。
 だが、シェスティリエはルドクの様子をそれほど気に留めることなく、口の中で幾つかの単語を唱える。
 その白く小さな手の上に見慣れない光がともった。

(赤い光は何度も見たけれど……)

 赤は風呂をつくるときによく使っていた火の玉を作り出す術だ。だとするならば、今その手に灯る青白い光は何を作り出そうとしているのだろう、と単純に疑問を覚える。

 シェスティリエは、その光灯す手を空へと伸ばす。
 すると、空を金色の光が走った。

「……光?」
「いかづちだ」

 ぐうっとか、ぎゃっとかというくぐもった悲鳴がそこここであがる。
 刃を手に距離を縮めてきていた襲撃者が、前触れもなく突然地面に崩れた。
 シェスティリエは、それを何の感情も含まぬ眼差しで見下ろしている。
 
「……12,3にんというところか……イシュラ」

 応えはない。
 既にその姿は残る襲撃者たちの集団の中に在る。

 イシュラさえ討てば、シェスティリエやルドクはどうとでもなると思ったのだろう。仲間が突然地に倒れ伏した動揺を押し殺し、襲撃者たちは唯一人剣を持つイシュラを押し包むように取り囲んでいる。

「シェスさま、イシュラさんが……」
「だいじょうぶだ。あんずるほどのてきではない」
「はい」

 その確かな言葉に、ルドクはうなづく。
 革鎧すらつけぬその身にまとうのは青白い光。
 イシュラは周囲を見回し、そしてふっと笑った。
 襲撃者たちが、息を呑む。
 それは強者の余裕のようであり、彼らを嘲るもののように思えた。

「名乗れとまでは言わねえが、顔も晒せない臆病者どもが相手ってのもつまんねえな」
「なっ」
「その上、あの世間知らずのお嬢ちゃん一人にこの人数とは」
「貴様っ、われらを愚弄するか」
「愚弄も何も、事実だろ」

 イシュラの表情が、冷ややかな色を帯びる。
 それはほんのわずかな変貌のように見えた。

「たかが亭主の隠し子一人、無視してりゃあいいんだよ。なのに、余計な手を出すからこういうことになる」

 その声が、いつもより低く響いたのを彼らは知らなかった。
 一瞬の後、イシュラの姿は襲撃者達の間に在った。
 囲まれていたはずのイシュラは、男達の間を縫うように走り、剣を抜き放つ。

 それが目には見えぬ力を生んだ。
 剣を抜く。ただそれだけの動作で、三人が吹き飛んでゆく。

「……出鱈目だろ、これ」

 イシュラは思わずつぶやいた。
 だが、それがシェスティリエの言っていた『絶対守護』とやらの影響によるものなのだと、イシュラは疑っていなかった。
 彼に魔法や魔術を使う技術はまったくない。だとすれば、これは先ほどシェスティリエが彼に与えたものに他ならない。

(なあ姫さん、守護じゃなくて攻撃の間違いじゃねえの?)

 まあ多少の違いあれど、主が彼の為にしてくれたことにケチをつける気はまったくない。
 それでイシュラが困ることなど何一つないのだ。
 ゆえに、イシュラの結論はあっさりとしていた。

「ま、こまけえことは、どうでもいいや」

 抜き放った剣を右手で持ち直す。

「行くぜ」

 死神と呼ばれた男が、不敵に嘲った。






 視界の端を吹き飛ばされていく人間がいる。

「今のは?」
「……ぜったいしゅごのこうかだ」

 シェスティリエは、内心の本音を押し殺して、たいして気にしていない風を装って答えた。

(……しかし、こういう作用があるとは知らなかったぞ)

 『絶対守護』を他者にかけたことは何度もある。
 だが、真の意味での『絶対守護』……『剣の誓約』を伴った相手にかけたのは、実のところ、彼女も初めてだった。

「守護、ですか?」

 守護という言葉の意味を考えたルドクは首をひねる。

「……そうだ。しんたいのうりょくをあげ、まじゅつてきなけっかいをそのみにあたえる」
「それだけですか?」
「……ぶきに、まりょくをふよするようだな」

(『誓約』した相手に『絶対守護』を使うと、武器に魔力が付与される……これは、帝国における守護騎士契約に似ている。こんな場合じゃなければもっといろいろ確認したいのだが……)

「マリョクヲフヨ?」
「イシュラのもつのはただのつるぎだが、まりょくがふよされているから、ああいうことになる」

 まるでバターを切るかのように、イシュラの剣が敵の胴をずぷりと薙いだ。
 相手の男は何をされたかわからず、そしてその後、自身の腰のあたりから生える刃を見、そこから上半身と下半身がずれたことで絶叫した。

「イシュラさんの腕もありますよね?」
「もちろんだ。……イシュラは、けんぎにてんよのさいをもつようだ」
「テンヨノサイ?」

 天が与えた才能ということだ、とシェスティリエはそのままの説明をした。
 魔力付与の武具というのは強力な力を発揮する反面、扱いが難しい。ちょっと加減を間違えれば自分も巻き込まれる。
 だが、イシュラはまったく危なげがなかった。
 襲撃者たちがシェスティリエに近づこうとするのを牽制しながらも、おもしろそうにいろいろ試している節がある。

(あれは、戦場に在る為に生まれてきた男なのだな)

 そういう人間をシェスティリエは他にも知っていた。戦場の狂気に晒され続け、どこか壊れているような人間が多かったように思う。
 だが、イシュラはそういったところがあまり見られない。……己の騎士に対する贔屓目だからなのかもしれないが。

 時折、風に乗って肉の焦げた臭いがしてくる。
 そんなことが気になるのは、余裕があるせいだろう。気をひきしめなければと思いながらも、シェスティリエは軽く眉根をひそめる。

(雷撃は失敗だったな……)

 シェスティリエは、この臭いが嫌いだった。
 あの城砦の陥落を思い出すし、それ以前に、これまで見てきた戦場の……最も嫌な記憶を思い出すからだ。
 だから焦がさないようにわざわざ火球ではなく雷撃にしたのに、威力が強すぎたせいで結果としてはあまり変わらなかった。
 記憶にひきずられぬよう、目の前のイシュラの姿を凝視する。

「……いきいきとしているな」
「ほんと、そうですね」
「まあ、せんじょうにあってこそのしにがみだからな」
「死神、ですか?随分と物騒ですね」
「イシュラのあだなだ。『ひだりのしにがみ』。……『みぎのきじん』とならぶ、ていこくのそうへきだ」

 かつてのイシュラは、『右の鬼人』と呼ばれるオズワルド=クレッティアと並ぶ帝国の西の守りだった。
 帝国の双璧と呼ばれ、彼ら二人が揃っている限り、西から帝国を侵すのは不可能だろうとまで言われていた。
 ラシュガークが陥落する一年以上前に、オズワルドはイシュラの代わりに王都に召喚されて近衛に属している。個人の勇に国境が左右されるとまでは思わないが、実際問題として、彼の不在があの戦の時に大きく戦況を左右するものであったことは確かだった。

「なぜ、ひだりなんです?」
「ききてが、ひだりだからだ」
「……右手で持ってますけど?」
「ききてのひだりでは、やりすぎになるからだろう」

 剣が見えない刃を生み、剣の届かぬ場所の敵を切り刻む。
 イシュラはあっという間にその武器での闘い方を覚えてしまったらしい。
 相手は正規の軍人であるとイシュラは言っていたが、山賊を相手にしているのとたいして違うようには思えない。

「すごいんですね。シェスさまの魔法」
「……ちょっとこうかがありすぎたがな」

 さりげない風に言ったが、実際のところ、シェスティリエは心底、その効果に驚いていたのだ。
 魔力を貯めたとはいえ幼い子供の身体で行使する程度のもの。しかも、かつてのように世界はマナに満ちているわけではない。
 で、あるからして、それほどの威力はなかろうと思っていたのに、これはどうも計算違いすぎた。
 
(そのうち、大きな術も少し確かめておかねばならないな……)

 魔力板を使えば使える術もそうだし、神聖言語であった場合の効果の違いも実験しなければならないだろう。
 シェスティリエがそんなことを考えていると、ちらりとルドクが馬車の方に視線をやる。

「どうした?」

 イリとアルフィナが目覚めた気配はしなかった。
 この一帯は、まだ薬草による眠りに支配されている。

「いえ……その……」

 ルドクは首を横に振り、だが、思い直したように口を開いた。

「……あの、アルフィナさんは知るべきじゃないでしょうか?これが彼女ゆえにおきていることを」

 今、この瞬間にも、彼らは危険に晒されている。
 イシュラがいなければ、こんな風に見ていることなどできやしない。

「……おこすのがめんどうだ」

 シェスティリエが口に出したのはそんな言葉だった。
 けれど、そればかりではないのだとルドクは知っていた。

「シェスさまはお優しいのですね」
「べつにやさしいわけじゃない……ほんとうにめんどうなのだ。くすりをつかってわざわざおこしてもやくにはたたぬし、なにをしでかすかわからないからじゃまだし」

 知るべきだとは思うが、目覚めさせておいて何か突拍子もないことをはじめられてもこまる、とシェスティリエはつぶやくように言う。

「突拍子もないこと?」
「ころさないでくださいとかいって、てきをかばおうとされたりしたらめもあてられない」
「……そんなこと……」
「ないとはいえない。……あいてはアルフィナではないが、けいけんしたことがある」
「……そうですか」
「アルフィナがあのものとおなじであるとはおもわない。だが、にたようなこうどうをとりそうでこわい」
「……まあ、確かに」
「イシュラによけいなてまをかけさせたくはないのだ」

 
 二人の視線の先、イシュラと対峙する襲撃者の影は、もうたった一つしか残っていなかった。





*********************

2010.11.15 初出
どこで切っていいかわからなくてこんな感じに。
皇子の数は間違いです。直します。教えてくださってありがとうございます。



[11484] 第3章-11
Name: 南果◆92736a0a ID:408fb562
Date: 2011/01/18 00:04
「言い残すことがあるなら聞いてやるぜ」
「……貴様、何者だ」
「顔隠して女襲うような賊に、名乗る名はねえんだよ」

 イシュラは嗤ってみせる。
 騎士の正式な立会いというのは、名乗りをあげて行う。イシュラがいた最前線においては、そんな悠長なことはしていなかったが、それでも、その力量を認めた敵の名を問うことはあったし、問われて名乗ることもあった。
 かつてほど神聖な意味を持たぬとはいえ、『名を名乗る』という行為は特別な意味がある。
 礼を重んじる騎士ならば尚更だ。
 だが、顔も隠しているような相手に名乗るほどイシュラは物好きではない。

(俺は姫さんの騎士だからな……)

 最早イシュラの名はイシュラ一人のものではない。
 だからイシュラは男に名乗るほどの価値はないと言い放つ。
 それをあからさまな挑発ととったのか、あるいは、名乗るに名乗れぬ我が身の腑甲斐無さを嘆いたのか、男はギリと唇を噛んだ。

(なんだ、まだ牙はあるじゃねーか)

 イシュラはニヤリと笑った。
 不謹慎だったが心が浮き立った。

 目の前の男が、腕の立つ人間だということは一目見たときからわかっていた。
 だが、躊躇いながらふるわれるその剣にはキレがなく、精彩に欠けていた。気迫がないといってもいい。

(そんな鈍らな剣が、俺に届くわけがない)

 剣の鋭さは、すなわち心の鋭さだ。
 その心に屈託があるようでは切れ味が鈍るのは当たり前だ。

(足りねえんだよ)

 イシュラが上段から思いっきり叩きつけた剣を、男はかろうじて受け止める。
 打ち合わせた刃から、火の粉が飛ぶように光が散った。

 イシュラの剣は悪いものではないが、目の前の男のそれに比べると数段劣る数うちの量産品だ。シェスティリエの加護がなければ、とうに折れていてもおかしくない。
 対する男の剣は、イシュラがほれぼれするような逸品だった。それこそ、どこぞの貴族が家宝にしていてもおかしくないような品である。
 おそらく、目の前の男は王家にかなり近い身であるのだろうとイシュラは推測した。この剣をちゃんと見せれば、もしかしたらシェスティリエならその家名を探し当てることも可能かもしれない。
 だが、イシュラにとってそんなことは意味が無い。

(くだらねえ雑念持ち込むんじゃねえ)

 何をどう選んでもかまわない。それが誰の命令によるどんな理由でも構わない。
 だが、ここで今こうして向き合っているのは……殺しあっているのは、イシュラと目の前の男だった。
 そこに他者の思惑が介入することをイシュラは良としない。
 所詮、彼らがしているのは殺し合いだ。
 目の前に相対したら、互いにその剣に命を賭ける……ただそれだけのはずだ。
 なのに、余計なことに気を取られているから、イシュラの刃が簡単に通る。
 それがイシュラには、余所見をされているような……真剣に対されていないような気がして腹立たしかった。

 横薙ぎに払ったイシュラの剣を男は飛びすさることで避けたが、魔力を帯びたイシュラの剣は、その切っ先が実際に見えているものよりも長い。
 浅くその肌を切った感触が手に伝わる。
 男の表情が険しさを増した。

(殺し合いは、もっと真剣にやらねえとダメだろう)

 イシュラは、男に笑いかける。
 楽しかった。
 こう言うと誤解を招くかもしれないが、ワクワクしていた。

 戦場で暮らしてきたイシュラは、感情が麻痺しているようなところがある。麻痺させなければ生きてこられなかったのだと、まだ少年だった頃のイシュラを診た医者が言ったが実際にはよくわからない。
 そんなこと意識したことがなかったし、イシュラにしてみればどうでも良いことだったからだ。
 麻痺していようがしていまいが、はたまた、それが鈍かろうが、敵と対峙すれば心が浮き立つし、強い敵であればあるほど嬉しくなった。

 男の鋭い突きが、自分の前髪を掠めてゾクリとした。

(もっと、だ)

 イシュラは心の中で念じる。

(もっと…もっと…)

 もっと、本気で来い、と祈りにも似た真摯さで、ただそれだけを願う。

 今、この瞬間、イシュラは自分が生きているということを何よりも実感できる。
 
 ずっとそれだけがイシュラの全てだった。

 他のありとあらゆることは、イシュラにとっておまけにすぎなかった。
 酒を酌み交わし大騒ぎをすることも。
 声をかけてきた女を抱くことも。
 それこそ、食事をすることや訓練する事さえも、イシュラにとっては等しくおまけだった。
 戦場に立つためだけに、他のすべてをこなしていた。
 逆を言えば、戦場に在る為にイシュラは彼にできるすべての努力を費やしていたと言ってもいい。
 だからイシュラは、戦場において本気で相対さない者を腹立たしく思う。

 互いに剣をふるい、刃を交え、あるいは、打ちあい……火花が散るたびに、余計なものが削ぎ落とされていく。

 目の前の相手が自分を殺す為に、ただ自分だけを望む……その瞬間が、イシュラはたまらなく好きだった。
 ゾクゾクと背筋を駆け上がる愉悦……それは、どんな快楽にも勝った。
 この一瞬の為に自分は生きているのだとさえ思う。

(いやいや、でも、俺は姫さんの騎士だから、自重しねーと)

 イシュラは、戦いに陶酔しそうな自分を押しとどめる。
 
 かつて、イシュラは死神だった。
 ただただ愉悦と戦いの陶酔の中で命を狩り続ける死神だった。
 だが、今のイシュラは違うのだ。

 シェスティリエの騎士である事……それこそが、イシュラの誇りであり、存在意義である。
 それを思うと、イシュラの頬はついつい緩む。
 それが、目の前の男の目には余裕と映ったらしい。 
 向けられる視線にこめられた強い殺気に、ゾクゾクした。

「来いよ」

 まるで遊びにでも誘うかのように言った。
 イシュラにとってそれは遊びと変わらなかった。戯れという意味ではない。イシュラにとって楽しい行為であるという意味でだ。

「……参る」

 男は短く告げ、そして、男の持てる全てでもってイシュラに立ち向かった。




「楽しそうですねぇ」
「そうだな」

 視線の先には、刃を交わす二つの影。最初はじりじりと動かずに互いに様子を見ていたが、ある一線を越えた瞬間、激しい打ち合いに突入した。

(介入しても良かったんだが……)

 予想以上に魔力の消費が少なかったので、まだだいぶ余力はあった。
 だが、シェスティリエはそれ以上の魔術の行使をやめて、軽く自分とルドクの周囲に守護の結界を張るだけにとどめる。

(守られることも仕事のうちだからな)

 己の騎士が、己の為に戦っているのを見守ることもまた主の義務だ、と一人うなづく。
 まあ、えらそうな理屈をこねてみたものの、つまるところ、イシュラが楽しそうにしているものを自分が介入して台無しにしてしまったら可哀想だろう、というのがシェスティリエの素直な心境だった。

「なんか、綺麗ですね」

 どちらもその技量が並外れているだろうことが、見ているだけの二人にもわかる。
 彼らが刃を打ち合わせるたびに、火花が散る。
 夜の闇の中で、それは何だかとても美しく見えていた。

「あれは、ことなるまりょくどうしがぶつかってとびちっているんだ」
「イシュラさんって、魔力があるんですか?」
「ちがう。イシュラのつるぎはわたしのまりょくをおびていて、もういっぽうのつるぎは、つるぎじたいがまけんなんだ」
「魔剣?そんなこともわかるんですか?」
「まりょくのしつでわかる。……しかし……」
「何か?」

 イシュラと対峙している男こそが、いまや最後の一人である。他の襲撃者の脅威がないせいでルドクも彼らの戦いを見守る余裕があった。

「いや……イシュラは……あれではもうあそびといっしょだとおもってな」

 その声音にやや呆れた響きが入り混じっているのを、ルドクは敏感に聞き取った。
 少し離れた場所で打ち合っている二人は、舞っているかのように無駄な動きがなく、その刃はどこまでも研ぎ澄まされていた。

「遊び、ですか?」
「そう。……ごかいするなよ。なぶっているわけではない。むしろ、イシュラはしんけんだ。あいてがどんなによわくともイシュラはしんけんにたいするだろうし、つよければさらにしんけんになるだろう」

 それが戦いを選んだ者の誇りであるだろうから、とシェスティリエは言う。

「戦いを選ぶというのはどういう意味ですか?」
「『せんし』というべきなのか、『ぶじん』というべきなのかはわからぬが……イシュラは、せんじょうでしかいきられないおとこだということだ」
「……一流の剣士だとは思いますけど」

 旅の間に、その技量を何度も間近で見せ付けられた。
 正直、同じ男として憧れを覚えた。
 剣をふるうイシュラは、幼い頃、ルドクが夢見た英雄そのものだった。

「そう。けんにいきるものだ。……で、あるからして、イシュラはあんのんとしたへいわのなかではいきられまい。やすらぎやおだやかさ……そういったもののなかでは、きっとたいくつしすぎて、じしんがあらそいのたねになるだろう」
「……えっと……」

 何かその様子を簡単に想像できてしまったルドクは、言葉に詰まる。

「イシュラがわたしといることがここちよいのは、わたしのしゅういがやすらぎやおだやかさとはむえんだからだ」
「そんなことは……」
「あるんだよ、ルドク。……べつにそれについてわたしはとくにもうしのべることはない。たんにじじつにすぎないからな」
「でも、シェスさまは別に何か問題をおこすようには……」
「わたしはイシュラとはちがうぞ」

 むっとした表情で咎める。

「す、すいません」
「よい。……あのな、ルドク。わたしはそもそもそんざいじだいが『いしつ』なのだ」
「異質、ですか?」
「そう。『いしつ』であるから、そこにいるだけでしゅういになみかぜをたてる……たとえば、わたしはこのねんれいにはふにあいなちしきやはんだんりょくをもつ。わたしにとってそれはもはやふつうだが、それをふつうとおもわぬものはおおい」

 人というのは、普通でないモノや自分とは違うモノを排除したがる習性があるんだよ、と続ける声音に、ルドクは言葉がなかった。
 ルドクには思い当たることが幾つかあったし、想像をすることもたやすかった。
 何よりも、シェスティリエは確かに異質な存在だった。
 見た目はまったく普通の幼い少女のように見えるのだが、中身がまったく違っていた。
 そして、その差異はこれからどんどん大きくなるんだろうと思えた。

「イシュラは、そんなわたしがみをまもるためのつるぎだ」

 いささか切れ味が良すぎるようだがな、とつぶやいた視線の先には、崩れ落ちる黒ずくめの襲撃者の姿があった。




 ********************
 2010.11.27 更新
 2011.01.17 修正

 感想他、ありがとうございます。
 とっても励みになっています。
 漢字、かなの表記揺れはいずれまとめて訂正させていただきます。

 内容があんまり進まなかったので、次の更新は1週間以内に。



[11484] 第4章-1
Name: 南果◆92736a0a ID:7b8e0c5d
Date: 2010/12/05 01:51

(……何があったの?)

 イリが目を覚ました時、馬車にいたのはイリと同じように目を覚ましたばかりのアルフィナだけだった。

「わからないわ」

 二人は慌てて外套をかぶり、聖帯をかけて身支度を整える。
 あわてて出た馬車の外にはたくさんの人が居た。
 彼らと同じような外套姿の旅の商人や巡礼たち……ばかりではない。灰色やこげ茶色の目立たぬ色合いの外套姿の中に、黒衣の人々の姿が目についた。
 彼らが誰であるのか、アルフィナもイリも知っている。

(聖騎士!!)

 立衿の黒の長衣には銀色の刺繍が施され、身体を覆うマントの裏打ちは鮮やかな緋色……それは、聖堂に剣を捧げた神官騎士達の制服だ。

「なんで……」

 彼らに混じるようにして、普通の灰色の外套姿の神官たちの姿も見える。
 ティシリア聖教においては、法術をもって神に仕える者を法官と呼び、剣をもって神に仕える者を武官と呼ぶ。前者は聖神官、後者は聖騎士と呼ばれるのが一般的だ。
 聖堂ではないこんな場所で、これほど多くの神官や聖騎士の姿を見ることは極めて稀なことだった。

 アルフィナは何がどうなっているのかわからなくて立ち尽くす。
 マイペースなイリは、それを見ても特にどうとも思わなかった。
 大事なのは今、シェスティリエがどこにいるかだ。そして、イリにはシェスティリエのいる場所はだいたい感じ取れる。

 目を閉じる。
 暗闇の中にたくさんの人の気配がしていた。その中から、その特別な存在を探す。

(……光)

 シェスティリエを探すのはそう難しくない。
 探すのは、闇の中でひときわ輝く光だからだ。
 黄金の……この世界で最も美しいとイリが感じる光。

(……居た)

 それほど遠くではないようだった。近くにはイシュラとルドクの気配もある。
 イシュラと一緒ならば、大丈夫だろうと判断する。イシュラがシェスティリエを守りきれない事態などあるはずがないからだ。
 元々それほど心配はしていなかったが、確認したことでほっとした。



「あら、目が覚めたのね」

 二人に声をかけたのは、騎士服の女性だった。
 女性の神官は珍しくはないが、聖騎士となるとかなり珍しい。
 ティシリア聖教においては性別による差別は特にないのだが、力で劣る女性が圧倒的に男ばかりの騎士達の中で対等に互していくことは難しい。
 女性は男よりも魔力が強い傾向にあり、ことに治癒の法術系の法術は女性の神官の方が圧倒的に優れた能力を発揮する。となると、必然的に女性は神官を志すことが多くなるものだった。
 そんな中で、女の身で聖騎士であるというからには、かなりの実力者であるとみていい。
 柔らかに微笑みながらも、どこか凛然とした印象がある女性だった。

 向けられた視線に、イリが怯えたようにびくりと身体を震わせる。
 アルフィナはごく自然にイリをかばうようにその前に立った。

「……どなたですか?」
「ああ、驚かせてごめんなさいね。私はフィシス。ティシリア聖教教団ヴェスタ・ディセルタ所属の武官よ」
「……ヴェスタ・ディセルタ?」
「聖都の聖堂に所属する聖官は、全員必ず十二あるどこかの塔に所属するになっていて、私はそのうちのヴェスタ・ディセルタ……赤の塔に所属しているの」
「そうですか……」

 言っていることはよくわからない部分もあったが、聖教徒であるアルフィナは、聖都の塔に所属する武官……聖騎士であるのだと言われて安心した。
 世の中には素行の悪い不良騎士もいるようだが、自己を律することを修行の一つとしている聖騎士はそういった人間が少ない。
 アルフィナの知る聖騎士たちは皆、人当たりが良く、礼儀正しい者ばかりだった。
 まだ身体を強張らせているイリを宥めるように笑みを浮かべて、大丈夫だよ、と声をかけたが、イリはまったく警戒を解かなかった。
 名門貴族の令嬢として丁重に扱われてきたアルフィナと違い、聖堂で余されものの神子として育ったイリは、聖騎士とてただ人にすぎないことを知っている。肩書きや身分でその性が矯正できるわけではない。

「大丈夫よ。何もしないわ。むしろ、私たちはあなた方を守る為に派遣されてきたのよ」

 フィシスは心の底からの言葉で親身になって言ってくれたのだが、イリの態度はあまり変わらなかった。イリにとって、信じるに値する人間はまだそれほど多くはない。

「すいません。イリは人見知りするので」
「そうみたいね」

 気にしていないわというようにフィシスは笑ったのでアルフィナはほっとした。

「あなた達のファナには、今、私たちの隊長が話を聞いているの。そのお話が終わるまでの間、あなた達の安全は私が守るわ」

 臨時の護衛だと思ってね、というように人懐こくフィシスは笑った。
 年のころは、25になるかならないか……茶色い髪に、深い緑の瞳をしている。ずばぬけた美貌の持ち主というわけではないが、大人の落ち着きと独特の雰囲気にアルフィナは惹かれた。

「お話、ですか?」
「そう。昨夜、旅人や巡礼団を襲った賊がいたの。どうやら、ファナを拐わかそうとしたらしいのよ」
「シェス様をかどわかす?そんなことできるはずが……」

 できるはずがないと笑いかけて、アルフィナは気づいた。

(……違う)

 シェスティリエもアルフィナに負けず劣らず複雑な事情のある身の上のようだったが、狙われる理由は……たぶん、ない。
 むしろ、狙われる理由をもっているのは自分だ。

「ええ。賊はファナの騎士であるイシュラード殿に切り捨てられたそうよ。けれど……随分と計画的で、被害も大きかったの」
「計画的といいますと?」
「あなた達、これだけの騒ぎになっていて、自分たちが起きなかったことが不思議だと思わない?」
「言われてみればそうですが……」

 だが、旅続きの上に疲労もたまりがちだ。寝入ってしまってもおかしくはないとアルフィナは考える。

「賊は眠り草を使ってこのあたりで野営していた人間をみんな眠らせたの。……その上で拉致しようとしたのよ。彼らはそこまでしても、あなたたちのファナを攫おうとしていたの」
「それは……随分と大掛かりですね」

(王妃陛下は、そんなにも私を……)

 憎まれているのだとは知っていた。
 けれど、それがこれほどまでに強いものだとは思っていなかった。
 
(ずっと、叔父上に守られていたから……)

 そして、今またシェスティリエとイシュラに守られているのだ、と思う。

「ええ。眠り草の成分がかなり濃くて、まだ目覚めていない人もたくさんいるわ。……あなたたちはどこも気分は悪くない?」
「……はい、大丈夫です」

 イリを振り返ると、イリも大丈夫だというようにこくりとうなづく。

「なら良かったわ。具合が悪くなったら言って頂戴。治癒が得意な法官もきてるから」
「ありがとうございます」

 アルフィナは淑やかに頭を下げた。
 
(いつか、叔父上やシェス様やイシュラさんにこの感謝をお返しできるようになりたい)

 それが、アルフィナの中に、ささやかな目標が生まれた瞬間だった。





「あれ、アルフィナさん、イリ、目が覚めたんですね」
「ルドクさん……」

 おはようございます、とのんびりした様子でやってきたのはルドクだった。

「どうぞ、朝食ですよ」

 紙袋を抱えて戻ってきたルドクは、にこやかに笑う。

「買い物に行っていたんですか?」
「ええ」

 こんな時でも、しっかりと朝食を調達してきたらしい。
 手渡されたビスケットは焼き立てなのかほのかなぬくもりをもっていた。香ばしい香りが食欲をそそり、おなかの虫が控えめに空腹を知らせる。

(やだ。恥ずかしい……)

 思っていた以上に自分がおなかがすいていたことにアルフィナは気づいた。同時に、誰にもその音が聞こえてないか恥ずかしくなる。

「よろしければ、聖騎士さまもどうぞ」
「ありがたくいただくわ」

 フィシスは嬉しそうに受け取り、そのまま遠慮ない様子で口に運んだ。
 ティシリア聖教においては、こういった些細なことも奉仕の一環として考えられている。
 そして、基本、聖職者は奉仕を断ることはない。それを受け、奉仕者に徳を積ませてやることも聖職者の役目の一つだからだ。
 アルフィナも同じ様にビスケットに噛り付く。
 素朴な小麦とバターの味が口の中に広がった。

(おいしい……)

 屋敷にいたころであれば、きっと、こんなシンプルなビスケットを口にすることはなかっただろう。ましてや、こんな風に外で立ち食いなんてありえなかった。
 けれども、旅の空では別に珍しくない。
 屋敷の奥深くで礼儀作法は厳しくしつけられてきたアルフィナは未だに気後れするのだが、テーブルマナーに悩まされることもなく、シンプルでおいしいものをおいしいうちに食べることができるのはとても嬉しかった。

「はい。ミルクもありますよ」

 ルドクは大きな皮袋から、ブリキのカップにミルクを注いでくれる。
 アルフィナは慌ててそれを手伝い、フィシスにもミルクのカップを渡した。
 イリはビスケットを齧りながらもどこか上の空だった。
 最も、上の空でなかったとしても手伝ってくれたかどうかは怪しい。最近はそれでも随分マシになったのだが、基本的にイリはシェスティリエにしか関心がない。

「どこまで行ってきたんですか?」
「ちょっとそこまで、ですよ。門の中から行商の人がちゃんと来てましたから。……まあ、みんなそれどころじゃないようなので今日は商売にならないってボヤいてましたが」
「どうして?」
「今回のこの事件のせいです。……アルネラバは港町ですからあちらこちらに船を出していますが、最大のお客様はティシリア皇国への……聖都への巡礼です。その聖都へ向かうティシリアの聖職者を浚おうとした賊がいたことは、アルネラバという都市の治安問題となるんです」
「門の外でも?」
「大陸法では、ここは中と同じとみなされるんですよ。だから、ここで事件があれば都市と同じ法律で裁かれます」
「……ルドクさん、詳しいんですね」
「その法律ができた原因が、行商人が被害にあった事件で……王都にいた時にいろいろ話を聞いたことがあったんです。たまたまですけどね」

 ルドクはニコニコと笑って教えてくれる。元穀物商の息子だと聞いた。王都で奉公していたのだとも。
 だが、きっとそれだけではない。ルドクはかなり高い教育を受けているのではないかと思われる節がある。

(ルドクさんは、大学とか行ってたんじゃないかしら)

 大陸法なんて、一般人があまり聞くことのない単語だ。

「……ラナ、少々お伺いしてもよろしいですか?」
「かまわないわよ。何?」
「……どうしてこんなにたくさんの聖騎士の方や聖職者の方がいらっしゃるんですか?聖都に向かう途中のファナが一人拐かされそうになったというだけでは、ここまで大事になるとは思えないのですが」

 ルドクは、フィシスにラナと呼びかける。ラナとは司祭のことだ。
 ティシリア聖教の聖職者は、聖神官であれば肩衣で、聖騎士であれば腕章でその階級がわかるようになっている。他にも、かけている聖帯や剣帯の色などにも細かな規定があるらしい。
 マントの下の腕章は見えないのに、ルドクは彼女が武司祭であるとわかったらしい。
 いかにも商人らしい如才なさだった。おっとりしているようでルドクはきちんと押さえるところは押さえている。

「確かにファナが誘拐されかかったというだけではそうね。……でも、そのファナを狙ったのが三十人以上から成る正体不明の……明らかに訓練を受けている賊で、更には、その賊が一人残らず返り討ちにあったとあれば、聖都が興味を示すのも当然じゃない?」
「それはおかしいです。これが明日ならばわかりますけれど……まだ、昼になってないですよ?情報がそんなに早く伝わるとは思えません。……そこまでのことはこちらに来られてからお知りになられたのでは?」
「……ええ。実はそう」

 少し困ったなというような表情でフィシスは笑う。

「いろいろ理由をつけてるけれど、ほんとのところは単なる偶然なのよ」
「偶然、ですか?」
「ええ。……たまたま、聖都のさる高位の御方がアルネラバに滞在していらっしゃったの。私たちはその護衛なの」

(さる高位の御方……?)

アルフィナは首を傾げたが、ルドクには心当たりがあるらしい。

「では、あのシェス様にいろいろ問いただしていらっしゃった方が、ラナが警護してらっしゃる方なんですね」
「そうよ。あの方が、幼いファナが攫われかかったというのをお聞きになり、事件の解明の為とアルネラバの安全の為にご自身の護衛と部下を派遣されたの」

 ルドクは、彼らの隊長である司教位にある武官が殊更丁寧に接していた男を思い出す。
 年はイシュラとそう変わらないくらいだろうか。法衣を纏っていなかったし名乗りもしなかったが高位の聖職者なのだろうことは一目でわかった。
 淡い色合いの金の髪に紅茶色の瞳をした男は、独特の雰囲気を持ち、どこか命令することになれきっている様子だった。

(たぶん、元は貴族……あるいは、王族か何かが聖職者になったパターンだろうな)

 ティシリア神聖皇国において、聖職者はその出自を問われない。洗礼を受けた者は等しくティシリアの民であるとされる。
 ゆえに、他国の出身であっても才覚次第で高位を得ることが可能だ。
 その為、皇国においては、他国の大貴族や王族の子供が、普通にたいした身分でもない聖職者としてそのあたりに存在していたりもする。
 大司教以上の高位聖職者のうち、ティシリアで生まれた者の割合は約半数程度であると言われている。ティシリアで生まれた者は、生まれたときからごく自然に女神の恩恵に触れ、ごく自然にティシリア教と接してきている為に、あえて聖職の道を選ぶ者が少ないらしい。
 聖教の頂点に立つ教皇ですらここ3代は他国の出身者が続いているほどだったが、皇国の民は特にそれにこだわりを持たなかった。
 むしろ、教皇の出身国の方がそれを気にする風潮が強い。
 暗黙の了解であったが、ティシリア生まれではない者が教皇位についた時、自国から教皇を出した国は就任祝いとして教皇領を寄進することになっている。
 それだけではない。皇国のさまざまな祭事のたびに莫大な寄進を行うのが慣例となっていて、同じ国から二代続けて教皇を出すと国家予算が破綻するという笑い話がささやかれるほどだった。

「この時期に外にいらっしゃったのには、何か理由でも?」

 新年を迎えようとするこの時期、皇国では大きな儀式が幾つもある。高位聖職者になればなるほど、聖都を出ることはあまりしないものだ。

「ご生母が危篤ということで、生国にお帰りになっていたのよ……お名前は許してね。本来、この時期にこんなところにいていい方ではないから」
「大丈夫です。別に詮索するつもりはあまりないです」

 これ以上、シェス様に関わりさえしなければ名前を知ることもないと思います、と心の中でルドクはつぶやく。

「……あの、あの方が何か?」

 フィシスが何かを懸念するような表情で問いかける。
 だが、ルドクが口を開く前に、アルフィナが控えめな声で呼びかけた。

「……あの、ルドクさん」
「何?」

 振り返ったルドクに、アルフィナは躊躇いがちに告げた。

「……イリが、いません」

 真剣に話していた二人の邪魔をしないよう話を聞いていたアルフィナだったが、ふと気づくといつの間にか隣に居たはずのイリの姿がなくなっていた。

「……………」
「……………」

 声を持たぬ少年は、伝言を残すとか、断ってから移動するとかという発想がない。あれこれ言葉を尽くす前にさっさと行動に移す無言実行の体現者だ。
 二人は顔を見合わせ、そして慌てるよりも先に、同時によく似た表情で溜息をついた。




 **************************

 2010.12.5 更新 


 予告しておきながら、ちょっと遅刻しました。すいません。
 第4章で第一部完です。もう少しお付き合いください。      



[11484] 第4章-2
Name: 南果◆92736a0a ID:bff098dc
Date: 2011/01/18 01:08
(うわ、カオス……)

 ルドクがアルフィナに数歩遅れて天幕に入ったとき、そこはもはや手のつけられない状況に陥っていた。
 視線の先には、シェスティリエの腕を抱え込むように抱きついているイリがいて、イリは、シェスティリエににこやかに話しかける青年にあからさまな警戒心を向けていた。
 いや、それは警戒心を通り越して既に敵意に近いかもしれない。
 だが、青年はまったくイリをスルーしてしきりにシェスティリエに話しかけ、傍らの護衛の聖騎士が顔を真っ赤にして怒鳴っている。

(あー、怒鳴ってないで、止めましょうよ、その人を)

 思わず心の中でつぶやくが、声には出せない。
 それがルドクの性格だ。
 シェスティリエに関わらない限りこれ以上彼に近づくつもりもなかったのだが、どうやらルドクが思っていたようにはいかないらしい。

 視線を移動させれば、シェスティリエが笑っているのが目に入った。

(……笑ってる……)

 思わずぼーっと見惚れかけ、そしてハッとした。

(いやいやそんな場合じゃないから)

 だが、その表情はルドクが見たこともないくらいにこやかで、思わずどきりとした。
 ルドクは高鳴る鼓動を沈めるように深呼吸を一つする。そして、少し早口でたずねた。

「イシュラさん、なんであんなことになってるんですか?」
「あ~、あれな……」

 ルドクの問いにイシュラは生温い笑みを浮かべた。

「あのバカぎみ……じゃねえ、えーと、若君がだ、話してるうちに姫さんに膝まづいて求婚しやがったんだよ。そこにちょうどイリがきてな……想像つくだろ?」
「あ~、はい。……何となく、わかりました」

 その説明だけで、ルドクには目の前の光景に納得がいった。

(シェス様が世界の全てなイリだもんな……)

 シェティリエはイリにとって、『主』であるという以上に、イリの『世界』である。
 そんなシェスティリエの前に急に現れた得体の知れない相手に、イリが敵意を抱かずにいられるはずがない。

「……止めなくて良いのですか?」

 アルフィナが不安げな表情で二人を振り返る。
 イシュラとルドクはお互いに横目で互いの顔を見合った。
 仕方なく口を開いたのはイシュラだった。

「誰を?」

 イシュラは生温い笑みにも似た表情のまま、軽く首を傾げる。
 この軽く首を傾げるしぐさというのはシェスティリエがよくやるもので、いつの間にか、一緒に旅する全員にうつっていた。

「えーと……イリを……」

 そう口にしたアルフィナ自身、その答えに自信がなかった。
 イリを止めたところで、既にこの騒ぎがおさまるようには見えなかった。

「イリの主は姫さんで、姫さんが止めないからいいだろ」
「でも、イリがあの身分の高い聖職者の方に咎められたら……」
「大司教だってよ。本人がそう言った」
「フィリですか……」
「そう。あのバ……若君が、従者であるイリを咎めるとしたら、それは姫さんを咎めることなわけだ。でも、あのバカ……じゃね、若君は、姫さんに求婚してるわけで、常識的に考えて姫さんを咎めることはないだろ。そもそも、あいつのバカバカしい求婚が、イリのあの態度の原因なわけだから止めようがないと思わねえ?」
「でも……」
「まあ、俺が止めるとしたらあのバカ君だな」
「ですよね」
「だろ」

 二人は互いに強くうなづきあう。アルフィナにはさっぱりわからなかった。
 イリを注意したほうがいいのかと思いつつも、あの中に割り込む勇気はアルフィナにはない。

「イシュラさん、バカ君って……聞かれたらまずいでしょ」
「あー、それ一応秘密な。でも事実だろ。あんなちびっこい姫さんに求婚するなんて……誰だって正気を疑うだろ」

 イシュラは「バカなことはおっしゃらないで下さい!」とか「ご身分をお考え下さい!」とか「目を覚ましてください」等と怒鳴っている聖騎士を目で示す。

「いや~、シェス様は類い稀な美貌の持ち主ですし……」
「けどよ、膝まづくにはあと5年……いや、10年は早いだろ?」
「イシュラさん、世の中青田買いってものがありましてね……」

 イシュラはため息を一つつき、改めてルドクに向き直り、ぽん、と肩に手をやる。

「あのな、どう言葉を取り繕うとも、本当に求婚してるんだったらただのロリコンだっての。いや、ロリコン通り越して変質者でもいいかもしれん」
「……たぶん、彼は、次期枢機卿に一番近いと言われる大司教様ですよ?」

 商人にとって情報はある意味、金にも等しい価値を持つ。
 ルドクもその端くれとして、あらゆる情報に通じていられるよう常にアンテナははりめぐらせているつもりだ。
 彼はこれまで得られた情報を整理して、すでに彼の名前も身分もあたりをつけていた。
 『赤の塔』『王族か貴族出身』『大司教』『生母の見舞い』『アルネラバを経由』という情報を組み合わせれば、おのずと答えは導かれる。

(古王国アルマディアスの王弟であるエーダ大司教閣下)

 おそらく、それが『彼』だ。

「ルドク、聖職者だからロリコンにならねえって保障はねえ」
「それはそうですが……」
「ま、イリがあんだけくっついてりゃ、大丈夫だろ。……姫さんも滅多なことはしねーよ」
「……心配するのは、やっぱりそっちなんですね」

 小さく笑う。
 普通は逆かもしれないが、相手が誰であれシェスティリエがおとなしく何かされるとは到底思えない。
むしろ、何かしようとした相手が殺される……あるいは死にそうな目に遭わされる……ほうが、ルドクにはたやすく想像できる。

「あったりめえだろ。大司教様だか何だかしらねえけどな、姫さんがそんなことで手加減してくれると思ったら大間違いだっての」

 うちの姫さんは公平だからな、とイシュラはどこかおかしな自慢をする。
 それがものすごく得意気なのが、ほほえましく思える。
 イシュラのような男をほほえましいと思ってしまうような自分の感性にイマイチ自信がなかったりもするが、それはそれである。

(でも、それってつまり、身分問わず公平にぶちのめすってことですよね)

 シェスティリエの気性というのは鮮やかだ。
 わかりにくい部分も多々あるが、基本的にはわかりやすい。
 その判断はきっちり一本芯が通っていて、それは身分や家名やそういったものではまったく変わらないのである。

(世間一般の正義とは違うかもしれないけれど)

 でも、ルドクは納得できるし、それを好ましいとも思う。

「……シェス様ご自身は、本当のところどうなんです?さっきは随分と大司教様と話がはずんでいたようでしたし、見たことないような笑顔なんですけど……」
「あれをはずんでたと表現するとは、おまえも相当イイ感性してるよ」
「違うんですか?」
「まったくもって。……だいたい、姫さんは本気にしてないだろ……求婚については」
「でも、本気にしてないにせよ、悪い気はしてないんじゃないんですか?大司教様は顔もいいですし、お血筋も悪くないですよ」
「ルドク、うちの姫さんが本当にそんなもんに興味を持つと?」
「………すいません。ありえないことを言いました」

 ルドクは即座に認識を改め、謝罪の意で軽く頭を下げる。イシュラはそうだろうというように小さくうなづいた。

「だから、あれはそろそろ限界だろ」

 見たこともないくらいの満面の笑み……それは、酷く美しく感じられるものだった。
 見れば見るほど、何だかドキドキしてくる。
 これは自分がときめいているのか、それとも、まったく別の何かなのか……判別はつきにくい。
 だが、ルドクは、これまでの経験上後者を選ぶ。
 そう。たぶん、どちらかというとこれは危険信号だ。

「あのな、ルドク。姫さんの場合、見たこともないような笑顔ってのは、見たこともないくらい機嫌が悪いだと思っていいぜ、たぶん」

 ルドクよりもずっと縁の深いイシュラも断言する。
 シェスティリエは、騒がしいことはあまり好まないし、べたべたされることも好きではない。その上、構われるのも大嫌いだ。
 イリには通常よりもだいぶ甘いので良いとしても、あの青年大司教の幼い子供の機嫌をとるような話し方はかなりマズいだろう。
 シェスティリエは子ども扱いされることが大っ嫌いなのだ。
 もちろん、教えてやるつもりはないが。




「あー、イリ、そろそろ姫さん離せや」

 姫さん、昼寝の時間だぜ、とニヤリと笑ったイシュラが声をかける。
 シェスティリエはむっとした表情をイシュラに向けた。
 助けようという心がけは良いが、もうちょっと違う呼びかけがあるだろうと思う。
 見た目は子供だが、中身はまったく別物であるシェスティリエは、仕方ないとは思いつつも、子供扱いされることに不快感を覚える。
 イシュラはそれをよくわかっていて、こうやって構うのだ。

「もうしわけありませんが、ここでしつれいします、だいしきょうさま」

 不快な気持ちを押し殺しながら、シェスティリエは左手を胸にあてそっと頭を下げる。
 自分から手を離したイリを連れて戻ろうとするところを強引に腕をつかまれた。

「まだ、なにか?」
「そのような冷たいことをおっしゃらないで下さい、ファナ」

 柔らかな金の神の青年は、古代の英雄の彫刻のように美しい顔立ちをしている。シェスティリエが普通の子供であれば、そんな青年に求婚され、特別に扱われればうっとりしていたかもしれない。

(だが、私の中身は子供ではないから!)

 それを口に出して言えたらどんなに良いだろうかと思う。
 だが、中身が伝説の魔導師の生まれ変わりだと宣言するエラそうな態度の五歳児……これはもう間違いなく笑い者だ。笑い者になるくらいならまだマシで、下手したら頭がおかしい子扱いだろう。
 そんな扱いは、彼女のプライドが許さない。
 そして、そんなシェスティリエの目から見て、この青年は非情に胡散臭い。

(なんていうか……本格的に狙われてる気がする)

 性愛の対象という意味ではない。たぶん、彼はロリコンではないだろう。
 だが、彼女がまだ5歳の幼さでなければ、目の前の男は自分の美貌をエサにベッドまで持ち込み、抜き差しならない事態にまで彼女を追い込んだに違いない、と思える。それくらい、彼は自分を望んでいる。
だが、彼の目的がわからない。
 彼が自分の何を狙っているのかがわからないのだ。

(幼女趣味とも思えないし……私が帝国貴族の娘であることを知ってるとも思えないし……)

 知っていたとしても、それが彼の狙いであるとは到底思えない。
目の前の青年は王族、あるいはそれに匹敵する貴族の生まれだ。彼は、幾つかの単語で、そういう階級の人間しかしない発音をする。
 そんな人間が、彼女が受け継ぐかもしれなかった領地や爵位についてどうこう考えるとも思えない。

「おはなしください」

 やんわりとその手を振り解いた。

「わたくしは、ちょうしょくもいただきたいですし、すこしねむりたいですし、ふねのてはいもありますから」
「朝食はぜひご一緒に。それに、どうぞ私どもの船に一緒にご乗船を。ファナが眠っている間に、すぐに皇国に着くことでしょう」
「……おことばはありがたくちょうだいいたしますが、どうかこのままで。とくべつあつかいはこのみませんし、なによりもわたくしたちはじゅんれいでもあるのですから」

 だから自分たちで行くと告げる。正直、眠さも限界だったし、うっとおしかった。いろいろ丁寧口調で話すのも面倒くさいものだ。

「私に奉仕させてくださらないのですか?」
「ファナにほうしするフィリなどきいたことがありません」

 まだ何の位もない聖職者である『ファナ』。これからすべての位の可能性があるということで、ある意味特別な扱いをされる地位ではあるが、大司教位である『フィリ』とでは比べることすらおこがましい。

「いいえ、ファナ。あなたは特別だ。私の目にはそれが見えます。私の求婚を冗談とお思いにならないで下さい。私は本気です。本気であなたに求婚しています。求婚している者が奉仕することについては誰も咎めることは出来ません」
「……ほんきなら、わたしもほんきでいいます」

 シェスティリエはその瞳をまっすぐと見つめる。

(どう見ても、惚れたって言う目ではないと思う)

 確かに真剣ではあるが、そこに熱はない。
 前の世において、そちらの方面には大変鈍いとの太鼓判をおされていたシェスティリエではあったが、それでも目の前の相手が自分に本気で惚れているかどうかくらいはわかる……たぶん。

「すっごく、めいわくです」

 だから、はっきりきっぱりと告げた。
 こういうことははっきりと告げたほうが良い、と経験上わかっている。
 曖昧に告げると、脳内で勝手に補完されて自分勝手に勘違いをされかねない。
 だが、あまりにもはっきりすぎたのか、場が凍りついた。

(あれ?何か間違っただろうか?)

「……あー、姫さん、もうちっと言葉を選ぼうや」
「おまえにいわれたくない」

 不機嫌さを隠さずに言い放つ。

「私の何がお心に添いませんか?ファナ」
「ぜんぶ」

 気温が氷点下に下がった、と、この時この場にいた人々は後に語った。

「あの、シェス様……少し好みではなかったとしても、多少は目をつぶってさしあげるべきです。人間、完璧に好みに合うなんてことありえませんから」

 フォローのつもりでアルフィナは口にしたようだったが、それがフォローになっていたかは疑問だった。
 むしろ、胸に手をあててよろめいていた青年をみれば、逆にダメージを与えていたのかもしれない。

「あー、シェスティリエさま、どこが気に入らないんですか?」

 ルドクが人のよさそうな表情で尋ねる。
 だが、これは善意からというよりは、トドメをさすためのものだとイシュラはちゃんと知っていた。

「いちいちあまったるいこえではなしかけられるのもイヤだし、それに、おなかがへっているのにまったくそういうきづかいができないのもダメだし、じゅつをつかったからねむいのに、どうでもいいことをごちゃごちゃうるさいんです。ぜんぶイヤ」

 最後の一線までブチ切れていない証拠に、言葉遣いだけはちゃんと丁寧だ。
 だが、言葉使いが丁寧であるからといって口にしている中身の辛辣さが緩和されるわけではない。
 むしろ邪気のない子供を装っているからこそ、その言葉は余計に辛辣さを増しているとも言える。

「こ、この小娘っ!こともあろうに大司教閣下に向かって、何たる無礼っ!」
「フィリの身分を盾にファナを脅されますか?そうであるのならば、僕は、本山に訴える用意があります」

 すかさずルドクが追い討ちをかける。

「いや、そんなことはしないよ。やめろ、ベルノ」
「しかしっ、閣下がお甘いのを良いことに、この小娘はっ……」

 またしても手のつけられない騒ぎに再突入である。
 

 


 だが、それはそれほど長くは続かなかった。

「……姫さん」

 イシュラの声に遮られ、みなの視線がシェルティリエに向かう。
 ぎゅっとひきしめた口元、握り締めた拳、そして、その目元にもりあがった雫……。
 泣き出す前の一瞬の表情に、そこにいた全員が見惚れた。
 そして次の瞬間、シェスティリエは広げられたイシュラの腕の中に飛び込んでその胸に顔をうずめる。
 誰もの胸の中に罪悪感が込み上げた。
 シェスティリエの表情はあまりにも稚く頼りなげで、それを目にしただけで、自分が何だかとてもひどいことをしたような気にさせられた。

「ひどいです、幼いシェス様を脅すような真似をして」

 アルフィナが非難をこめた眼差しを向け、イリにいたっては、視線だけで相手を射殺しそうなほど。

「い、いや、私は……何も脅すつもりなど……」
「幼い子供には大きな声を出すだけで恐ろしく感じるんですよ」

 アルフィナはきっぱりと言い切る。

「もういい。話は終わりだ。……そこの護衛隊長、おまえは二度と俺の姫の前に顔を出すんじゃねーぞ。姫の前に現れたら、問答無用で俺は抜くからな」

 イシュラは、宥めるようにそっとシェスティリエの背をなでる。カチャリとその腰に下げた剣が何かに触れて小さな音をたてた。

「イシュラード殿……」

 大司教である青年は、イシュラの本気に、困惑した表情を向けた。
 シェスティリエを泣かせてしまったことは申し訳ないと思うのだが、イシュラに問答無用で剣を抜くと言われたら、おそらく彼の護衛の中で最も腕のたつベルノであってもまったく歯がたたないだろう。
 イシュラが切り殺した多くの襲撃者達の遺体を見たベルノが、報告の時に自分で申告したのだから事実だ。

「大司教だか何だか知らないが、あんたとも顔を合わせたくない。うちのこのちびっこい姫さんに求婚?何の冗談だって誰でも思うだろうよ。年齢だけのことじゃねえ。姫さんは、ファナになる時にすべてを捨てた。その中には婚約者ってのも入ってるんだ。当分、そんなのはお呼びじゃねーんだよ」
「すまない、イシュラード殿」

 抑えた語調ではあるが、イシュラの言葉の一つ一つが怒りを帯びている。

「いいか、どんなにしっかり見えても、姫さんは幼い子供なんだ。その幼い子供を捕まえてあんたらは何だ。グダグダグダグダと夜を徹してしつこく問いただした挙句、いきなり正気を疑うような求婚?その側近はそれを止めないばかりか、姫さんが悪いようなことをぬかす。……それともあれか?さんざん尋問して判断力が低下したところを狙って求婚にうなづいてもらおうって魂胆なのか?」
「いや、そんなつもりはまったくない。ただ、私はファナの魔力が類稀であるから……」
「姫さんに魔力があるからって、何で即座に求婚なんだよ」

 呆れたようなイシュラの言葉に、慌てた声で答える。

「ファナほどの魔力の持ち主は、私の知る限り独りもいない。それほどの魔力だ」
「あんたらそんなに魔力が大事かよ」
「当然だ」

 はっきりきっぱりと青年は言う。

「いいか、私たち聖職者は魔力がすべてだ。そりゃあ、地位も血筋も多少は影響するかもしれぬ。だが、結局のところ、聖職者としての価値は魔力で決まるのだ」

 熱を帯びた口調。求婚したときよりもよほど気合が入っている。

「だからって、姫さんはまだこんなちびっこいんだぞ」

 イシュラの腕の中のシェスティリエはまったく反応していない。おそらく既に寝入っているのだろう。わりと禁句である『ちび』を連発してもまるっきり反応がないのだから、本気で意識が落ちている。
 術の行使と徹夜は幼い身体によほど堪えたに違いない。
 先ほどのあの表情も、おそらくは眠さをこらえていただけで、別に本気で泣きそうだったわけではない。ただ、そう見えただけだ。
 イシュラはわかっていて訂正しなかったし、おそらくルドクもわかっていただろう。

「何を言う、魔力の有無に年齢が関係あろうか。魔力というのは、成長と共に増えることこそあれど減ることなどありやしない」
「……そうなのか?」
「そうだ。ファナの魔力はこれから増えることこそあれ、減ることなどない。そして、ファナの魔力は我らにとって、とても魅力的なものなのだ」
「5歳児に求婚するくらいに?」
「そう。……は?5歳」

 うなづきかけた大司教は、信じられない単語に首をかしげた。

「ああ。姫さんは、まだ生まれて5年だ」

 イシュラは自信を持ってそれを断言できる。
 たとえ、世間一般の五歳児とかけ離れていても、常日頃はそんなことを忘れ去っていてもだ。

「いや、さすがにそれは……」
「……じゃあ、どんだけ自分が正気を失ったことしてたか理解したか?」
「理解しました」

 改まった表情で青年はうなづいた。

「姫さんが、これから何を選ぶのであれ、あんたの求婚は邪魔だ。本気で求婚するほど姫さんが欲しいなら、もうちっと頭使えや」
「……ですが、イシュラード殿」
「言っとくが、俺は味方なんかしねーからな」

 ふん、とイシュラは鼻をならす。

「そうだな、姫さんに求婚するなら、まず俺を倒してからだな」

 イシュラはそれがいいと、一人うなづく。

「イシュラさん、それはちょっと……」

 ルドクは控えめに反対意見を述べる。

「なんでだよ。俺より弱っちいヤツに渡せるわけねえだろ」
「……自分の強さがどれだけ化け物じみてるか考えましょうよ」
「いいや、男ならそれくらい乗り越えるべきだろ!」

 大司教の縋るような眼差しに、護衛隊長のベルノは絶望の表情で首を横に振る。

「いやいやいや、無理です!絶対無理!イシュラさんに対抗できる人間なんて思い当たりません!」
「俺だって無敵じゃねーよ。……ま、これから姫さんが年頃になるにつれてどんどん敵が増えてくるだろ。俺も怠りなく修行するからな」
「敵って違うでしょう。っていうか、ちょっとは手を抜きましょうよ」
「バカ言うな。俺は姫さんの騎士なんだぞ」
「イシュラさん、どこのバカ父だよって感じになってるんですけど!」
「俺は、姫さんの親父からも姫さんを守るように頼まれたんだよ」

 だから、これは俺の正当な権利だ!と言い切る。

(イシュラさん、僕も協力する)

「よし、イリ、えらいぞ。おまえには俺が稽古をつけてやるからな」

(はい)

 こくんとイリは素直にうなづいた。熱意は一倍だ。おそらく上達も早いだろうとルドクは眩暈を覚える。

「ダメだこの人達……」


 この日、本人のまったく預かり知らぬところで、シェスティリエが嫁かず後家になることが決定していたのだが、寝入っているシェスティリエがそれを知ることはなかった。





****************************

2011.01.17 更新

あけましておめでとうございます。
新年最初の更新。遅筆な自分が憎い。。。



[11484] 第4章-3
Name: 南果◆92736a0a ID:bff098dc
Date: 2011/02/14 23:43
 アルネラバの誇る自走船が、まるで翼でもあるかのように凪いだ海面の上を滑るように渡っていく。
 青い海面に描かれる白い軌跡は、一瞬だけ光を帯びて水に消えた。
 この光は魔力によるもので、『アルネラバの船は光の道を行く』と吟遊詩人が歌うのはその光景からきている。

「自走船ってのはすごいんですね。ほとんどゆれません……こうやって潮風を浴びてるんじゃなきゃ、海の上だなんて信じられませんよ」

 一行が乗ったのは比較的小型の『真紅の竜姫』号という名の船だった。
 船は小型なほど揺れるはずなのだが、ルドクの言葉どおりほとんど揺れなど感じなかった。
 彼ら以外にも十数人の乗客がいて、中には優雅にもティパーティを開いているグループなどもある。

「じそうせんは、ほんのすこしだがまりょくでういている。そのせいでみずのていこうがすくないからゆれにくいのだ」
「浮いているんですか?」

 アルフィナとイリが驚きに目を軽く見開く。

「そうだ。みなとにはいったら、うごいているほかのふねをみてみるといい。よくわかる」

「はい」
(はい)

 二人は良く似た表情でうなづく。まったく異なる環境に在りながらも、どこか箱入りなところがこの二人はよく似ていた。
 船に乗るのは初めて、かつ、それが自走船であることも手伝って、興味深々らしい。今も、きょろきょろとよく似た仕草で周囲を見回していて、シェスティリエにはとても微笑ましい。

「ふたりでなら、みてまわってきてよいぞ」

 苦笑気味に告げる。
 イリとアルフィナは互いに顔を見合わせ、そしてうなづきあった。

「じゃあ、二人でみてきます」
(探検してきます)

 アルフィナは元々好奇心が強い性質で物怖じをしない一面がある。
 それにつられてか、自分の希望というものをあまり外に出すことのないイリまで一緒になっていろいろと積極的だ。
 また、アルフィナはイリを気遣うことによって、いろいろと考えて行動するようになっているようだった。
 二人で一緒に過ごすことは、どちらにとっても良い影響を与えているようで、シェスティリエは見ていて嬉しく思う。

「じゃあ、僕も保護者として、行って来ますね」
 
 ルドクがちょっと照れたように笑って告げる。

「ん」
「おう」

 二人の保護者と口にはするものの、ルドクとて自走船には興味深々なのだろう。
 追ってゆく足取りがとても軽やかで、シェスティリエは更に笑みを重ねた。
 イシュラはそれを見ているだけで満足した満ち足りた気持ちになった。

「あー、姫さん、まだ眠いんじゃねーの?」
「ん。まだ、すこしねむいな」
「寝るか?」
「……いや、おきていよう。なにかあるとこまる」

 シェスティリエは、眠たげな表情で小さくあくびをかみころした。

「何かって、まだ?」
「いや、あれだけてっていてきにやったんだ。それはないだろう」
「まあ、そうだろうな」
「だいじょうぶだ。じょうきゃくのなかに、へんなにんげんはまじっていない」

 周囲の人々は、彼らと同じく巡礼の人間がほとんどだ。船を下りればそこが目的地であるせいか、皆の表情は一様に明るい。

「姫さんの魔法は、そんなことまでわかるんで?」
「そういうのではない。ちかくに、さついをはなつにんげんがいたら、おまえだってわかるだろう?それとおなじだ」
「あー、そういうことなら、俺にもわかりますね」
「つよいいしや、かんじょうというのは、わかりやすいものだ」

 そもそも私達はそういうモノに敏感なのだ、とシェスティリエは言う。

「そういうもんなんですか」

(『私達』ね……)

 シェスティリエが自分と同一ないし、それに等しいと思っている相手にイシュラは興味があったが、あえて問うことはなかった。
 自身が嫉妬のようなものを抱いていることに気づいていたせいもあったし、自身の過去……前世を語ることについて、シェスティリエはとても慎重だったからだ。

「めったなことはないだろうが、イリとアルフィナがしんぱいだからな」
「ルドクがついてってますよ」
「わかってはいるのだがな」

 彼らの姿の消えた先に視線を向ける。

「甘いっすね」
「あれらはまだこどもだし、まだまだせけんしらずだから」
「……………」
「なんだ?」
「いえ」

(見た目、一番ガキんちょな姫さんの口から聞くとすっげー笑えるんだけどな)

 だが、多少は学習能力がつきつつあるイシュラは、口に出さないように、そして決して笑わないように、小さな咳払いをしてごまかした。




 船内をぐるりと一周しても、それほど大きくないこの『真紅の竜姫号』を見て回るのには10分もあれば用が足りる。
 イシュラが用意したチケットは二等船室のものだったので、二等船室とそれに付随する食堂や洗面室などの施設を見て周り、機関室や操舵室を遠目で眺め、甲板に出ることにした。
 
「……この下は何があるんですか?」

 途中立ち止まったアルフィナが、細く急な階段を見下ろす。

「ああ……貨物室と三等船室があります」
「船底に?」
「ええ。三等船室の乗客は、船が目的地につくまでの間、部屋から外に出ることができないんですよ」
「息苦しくないですか?」
「すごく狭いですし、息苦しいですよ。……冗談ですが、このまま棺桶になるんじゃないかって言ったりする人もいましたね」

 ルドクにはそれほど多くはないが、旅の経験がある。
主人や差配の人と商用の旅をしたこともあれば、幼い頃に父親の商用の旅に同行したこともあった。
 自走船に乗ることこそはじめてだったが、船には乗ったことがあるのだ。
 
「ルドクさんは、船に乗ったことがあるんですね」
「ええ。……だから、僕らにまで二等のチケットを買ってくれるとは思いませんでした」
「どういうことですか?」
「従者にまで二等のチケットを買う主は、あんまりいませんよ。わかりませんか?」

 ルドクは、甲板をぐるりと見回す。
 巡礼船であるからそれほど華美ではないものの、甲板にいる人々は皆、服装が整っている。あからさまではないが、明らかに富裕層に属する人々ばかりだ。

(お金持ちばっかだね)
「ええ」

 自身が貴族の娘であるアルフィナはまったくわからないかもしれないが、イリやルドクにはわかる。
 彼らはさっと値踏みするようにイリとルドクを見て、アルフィナを見ると得心したように視線をはずす。おそらくは、アルフィナの従者だと思い、それではじめて彼らがここにいることを納得しているのだ。

「アルフィナさんは、ついこの間まで伯爵家のお姫様でしたからわからないと思いますが、船の二等船室というのは、かなり船賃が高いんですよ。巡礼船ならば尚更です」
「なぜですか?」
「三等の運賃というのは、どんな船も安いです。それは、法律上、貨物と同じ扱いだからなんです。
 だから、限られたスペースにぎっちり積み込まれる。……それに比べて、二等は、部屋の広さに対する定員が決まっています。かなりゆったりと空間がとられているんです」
「天井は少し低かったですけど、普通の家の部屋にいるみたいでした」
「ええ。だから、船賃は三等とは比べ物になりません。……例えば、この船の二等の一人分の船代は、僕が都の穀物問屋で働いていたときの1カ月分の賃金とほとんど変わらないんです」
「はい」

 うなづいたものの、アルフィナにはピンとこなかった。
 ルドクの賃金がどのくらいのものかというのがわからない上に、そもそも、貨幣の価値というものがアルフィナにはよくわからない。

「イシュラさんは、シェス様の体調を案じて二等船室のチケットを手配しました。僕は、てっきり二等に乗るのはイシュラさんとシェス様だけだと思ってました」

 見回す周囲に、従者や召使らしい人々の姿は無い。
 だが、イシュラは当たり前のように彼らのチケットに金を払った。
 そして、シェスティリエはそのことに疑問すら持っている様子がなかった。
 アルフィナと違い、シェスティリエは知らないわけではない。いろいろなことを充分飲み込んだ上での待遇だったから嬉しかった。

 すいません、といったルドクに、イシュラはいつもの人を食ったような笑みを浮かべて言ったのだ。
 『遠慮なんてすんな。おまえも姫さんの従者だろ』と。
 それがどんなに嬉しい言葉だったかなんて、イシュラはきっと知らない。ルドクだって言うつもりもない。

「巡礼船では、三等船室は無料なんですよ」

 たぶん、この気持ちはアルフィナにはわからないだろうと思い、ルドクは話を変える。

「え?」
「三等船室の船賃は、一等と二等に乗る人の船賃に上乗せされています。……一等と二等に乗った人の喜捨を受けて、三等の人々は船に乗ることができたっていうことなんです」
「そういう決まりなんですか?」
「まあ、そうですね。……きっと元は優しい気持ちからでたことなんだと思いますけど」
(優しい気持ち?)
「ええ。……信者にとって、聖地巡礼は生涯をかけた夢の一つです。それが、お金がないからと妨げられるのはどうか、と考えた人がいたんですよ」

 結構初期の頃のえらい聖職者の人だったんですが。

「だから、一人一人が自分のできる限りのことをし合えば良い、と。
 彼の考えが、聖教の『奉仕』という基本理念の基となりました。
 この場合は、船賃はある人が出せばいい。ということです。
 そして、それが女神への奉仕へとつながる……出した人も、出してもらった人も、ある意味、どちらも得するというか、お互い気持ちが良いといううまい方法です。
 僕は、ティシリア聖教のそういう『奉仕』というのはとても素晴らしいものだと思うんですよね。一方的な関係ではなく両方向にベクトルが向き合ってる」

 本当によくできている良い循環なんです、と、ルドクは心底感心した風なつぶやきをもらす。

(ねえ、ルドクさん、あれは誰?)

 イリが指差したのは、船首に掲げられたヘッドフィギュアだ。
 鎧を纏い、剣を手にした美しい戦乙女がそこにいる。

「『真紅の竜姫』号という名前ですからね、きっと火竜ザーリンガムでしょう」
(竜なのに、人間の姿なの?)
「竜は人の姿になれるらしいですよ。いろいろな伝説や、物語ではよく人の姿をした竜のエピソードが出てきますし」
(ふーん)

 何かを考えていたらしいアルフィナが、意を決したように顔をあげ、ルドクを見上げた。

「ルドクさん」
「はい?」
「……ティシリア神聖皇国というのは、どういう国なんでしょう?」

 サァッと少し強い風が二人の間を通り過ぎた。

「どういう国、というと?」

 アルフィナの問いにルドクは首を傾げる。
 ルドクは確かに聖教の信徒であるが、アルフィナもまた同じ様に信徒であるはずだ。
 聖書にも慣れ親しんでいるだろうし、何よりも外交を専門とする貴族の家に生まれているとも聞いた。ルドクなどよりよほど詳しいように思えた。

「ティシリア聖教の総本山であるということは承知しています。皇国で一番えらいのが教皇様で、その下に枢機卿が12人いらっしゃって、12ある塔をそれぞれ管理されているということも。でも、よく考えると、ほかの事は全然知らないんです、私」
「僕が知っているのは、教会で聞いたことの他は学校で勉強したことだけですよ?それに私見が混じりますから……」
「ルドクさんから見た皇国のことで良いです。……よろしければ教えてください」

 ルドクは目を伏せ、自分の記憶を辿る。

「神聖皇国について知るには、ティシリア聖教という宗教を知らねばならないと思うんですが、アルフィナさんは信徒ですし、イリはそもそも御子ですから……だいたいはご存知だと思うので簡単にまとめますね」

 御子であるイリは教会で育っている。なので、一部についてはもちろんルドクよりも詳しい。
 だが、同時に、自己防衛の為に自分の殻に閉じこもることが常だったイリには、たくさん知らないことがあった。
 アルフィナも同じだ。
 屋敷の奥深くで大切に護られていた身でありながら、自分の不幸を嘆き、知ろうともしなかったことがたくさんあった。

「はい」
(うん)

 二人はまじめな顔でうなづく。

「ティシリア聖教は古代よりあった女神信仰が母体となっています。すべての母たる女神ティシリアを敬い、その教えを守り、世界を安寧に導くというのが聖教の第一教義です」
「第一教義?」
(第一ってことは、第二もあるの?)

 リは心がけてか、口を大きく動かして話すようになった。
 そうすると、ルドクやアルフィナもイリの言いたいことがだいぶわかる。

「第二教義というのは、聖教の聖職者だけに明かされるものなので、僕らは知りません。アルフィナさんや、イリはこれから学ぶことになるんだと思いますよ」
「……そうなんですか」
(へえ)

「そして、第三教義は教皇猊下だけが知ることができるそうです。……それらを定めたのが、皇国の建国者にして初代法王たるファラザスです」
「ファラザス……」
「彼は、『剣の法皇』と呼ばれています。武人としての側面を強く持ちながらも、現代にまで続く法術の基礎を築いた魔導師でもあります」

 ルドクの声はかすかな熱を帯びている。
 ファラザスもまた、ルドクの好きな英雄の一人なのだろう。

「ティシリア聖教は、その成立当初から、神官と武官とが存在していました。彼はそのどちらにおいても類稀な才を発揮したと言われています。
 動乱の時代と言われる皇歴前……ファラザスの前に教皇と定められている人々は、ただの集団の指導者でしかありませんでした」
「集団の指導者というのはどういう意味ですか?」

 アルフィナにしてみれば『教皇猊下』は大陸中の信徒の頂点に立つ人物だ。集団の指導者と言われてもイメージできない。

「えーとですね、皇暦以前の教皇とされる人々は、故郷を同じくする異能を持つ一氏族の長であった人たちなんですよ。
 もちろん、当時は『教皇猊下』と呼ばれてなどいませんでした。ティシリア聖教は今でこそ世界的な……大陸最大の信徒を抱える宗教ですが、当時は一氏族が奉じる……ごく局地的な宗教にすぎませんでしたから」

(イノウって何?)

 聞きなれない言葉に、イリが首を傾げる。

「異能というのは、一般の人が持たない力です。
 彼らは、その異能と女神への信仰ゆえに故郷を失い、迫害を受け、そして、流浪する間に同じ様に異能を持ち迫害されてきた多くの人々をその集団の中に受け入れるようになりました」

 皇国の民には異能を持っていた民の血が流れています。だから、皇国の民には魔力を持つ者が多いといわれています、とルドクは優しく教える。

(僕もイノウ?)
「さあ、それはわかりません。でも、イリには強い魔力があるのだとシェス様はおっしゃっていました。
 魔力もまた今の世では異能とされるのかもしれません。……皇国ではこの上なく尊ばれる力であるようですが」
(あのバカ君が言ってたもんね)

 イリが思いっきり顔をしかめる。

「あー、イリ、イシュラさんの真似はやめておいたほうがいいです。きっとシェス様もそう言います」
(でも、あいつ、嫌い)

 シェス様を狙ってる!とイリは口を尖らせる。

「あー、確かに狙ってます。狙ってますけど、相手にされてませんから」
(でも、ベタベタしようとする)
「どうせイシュラさんに阻まれます」
(嫌いなものは嫌いなの!)

 イリがこんなにも頑固に意思を示すことがあるのかと感心したくなる反面、厄介なことになりそうでルドクは軽い頭痛を覚える。

「あのですね、イリ。あの人はシェス様にまったく相手にされてない可哀想な人ですから、僕らはもう少し慈愛の気持ちで接してあげなきゃダメですよ」

 哀想な人なんです、とルドクは言い諭す。だが、そういうルドクの表情もにこやかな笑顔だ。
 ルドクはいつも笑みを浮かべていることが多いのだが、何というか……晴れやかなのだ。

「……ルドクさん、表情が裏切ってます」
「いや~、だってほら、僕だっていくら大司教様とはいえ、シェスさまに邪な思いを抱いているような方は気に入りませんから」

 ざまーみろと思うんですよ。ルドクは、ニヤリとイシュラに影響されたような人をくったような笑みを重ねた。

「まあ、そう思う反面、小心なので少し機嫌をとっておかなきゃいけないかなとか思って日和見な行動をとったりするんですがね。
 ……僕は、シェス様の将来がすごく不安にもなります。イシュラさんにあそこまで徹底的に阻まれたら、シェス様の周囲にはどんな虫もいっさい入り込めませんよ」
「…………そうですね」
「適度に虫は必要だと思うんですよね。ほら、言葉は悪いですが、シェス様には顎で使える下僕だって必要だと思うんですよね」

 それには少しくらい隙がないとうまくできないと思うんですよね、と溜め息をつく。

「……下僕だなんて、言葉が悪すぎます、ルドクさん」
「あー、失礼。言い直しますね」

 こほん、とルドクは咳払いを一つして、真面目な顔で言い直す。

「シェス様には、崇拝者くらいいてもいいと思うんですよ。むしろ、シェス様だったらそういうのをうまくあしらってちゃんと思い通りに扱うというか……」
「……ルドクさんの言う意味だと、ちょっと嫌な感じがします」

 潔癖な年頃の少女らしく、アルフィナは顔をしかめた。

「でも、あの美貌は武器だと思いますよ。『幼いこと』と『美しいこと』、この二つは、今のシェス様の最強の武器です」

 もちろん、それはシェス様のあの中身があってこそですが。とルドクは言い、そして、親身な様子でアルフィナに言った。

「だから、アルフィナさんは充分注意するんですよ」

 アルフィナは軽く目を見開く。

「私、ですか?」
「ええ。アルフィナさんはとても美しい年頃の少女です。その上、シェス様のように自分の身を守る力もありません」
「……はい」

 自分が無力であることならば、アルフィナはよく知っている。
 これまでの旅の間でだってさんざん思い知ったのだから。

「それを知ってるということは大事です。アルフィナさんにとって、その美貌とちょうどいい年頃であるということは武器にもなります」
「はい」

 アルフィナにあるのは、この身だけだ。知識豊かとはいえぬし、お嬢様育ちでできることも少ない。
 でも、国を捨てた今、この身一つが、アルフィナの全てだ。

「だが、同時に狙われやすくもある。いいですか、何かあったら誰かに助けてもらうことを躊躇ってはだめですよ。頼りすぎてもいけませんけど、頼らなすぎることもダメです」
「どこらへんが境界かよくわからないです」
「……具体的に言うと、貞操や命がかかってるときに躊躇ったらダメです」
「わかりました」
「そういう時はなりふりなんてかまわなくていい、とにかく逃げなさい。逃げて誰かに助けを求めるんです。美しい女の子に頼られて嬉しくない男なんていません。あなたが必死で縋れば、大概の男が喜んで助けてくれます」
「……ほんとですか?」

 アルフィナは疑わしげな視線を向ける。

「ええ」

 ルドクはうなづいた。
 アルフィナは、本当に美しい少女なのだ。傍らにシェスティリエという強烈な光がなければ、もっとずっと人目を惹く事だろう。

「……でも、イリとイシュラさんを除く、ですよね」
「アルフィナさん、それを大概の男の中に入れてはいけません」

 ルドクは首を横に振り、嘆かわしげに言った。
 



 ******************************
 2011.02.14 更新

 いつも読んでくれてありがとうございます。
 あと、感想もありがとうございます。とても励みになっています。
 
 今日、明日はちょこちょこ修正かけるかもしれません。
 今月はもう一回更新します。
  



[11484] 第4章-4
Name: 南果◆92736a0a ID:bff098dc
Date: 2011/02/23 21:18
「……いったい、あれらはどこにいったのだろう?」

 イシュラを供にし、機関室を目指して歩きながらシェスティリエは怪訝そうに首を傾げる。

「別に騒ぎの起こっている気配もなし。大丈夫じゃねえの?」
「そうなのだが……」

 巡礼ばかりの船内で、シェスティリエはちょっとした有名人だった。
 その幼さで洗礼を受け、更にはこうして本国へ巡礼の旅をしてきたというだけで、どういうわけか人は脳内で勝手にドラマティックなストーリーを展開するらしい。
 しかも、イシュラのような騎士も従者についている。……とはいえ、イシュラは確かに叙任こそされてはいたが、最前線で野放しにされていた不良騎士なので、正直に言えば、一般の人々が思う『礼儀正しく、規律を遵守する立派な騎士』からはだいぶはずれている。
黙ってシェスティリエの供をしているだけならそれなりに見られるので、実は、野性味があってちょっと素敵!なんて声だってあったりするのだ。生憎、イシュラは化粧くさい貴族娘は好みじゃないので何とも思わなかったが。

 アルネラバでの一件は、既に噂になりはじめているらしく、シェスティリエとイシュラはなにやら興味ありげな視線を向けられこともしばしばだった。シェスティリエがまったく気にも留めなかったので、イシュラとしては普通に護衛として警戒する程度に留めている。
 こうして船長からの招待を受けているのも、おそらくはアルネラバの一件と無関係ではないだろう。
 船長から招待を受けるというのは、ある種の特別な客という扱いをされているということであり、名誉なことでもある。シェスティリエは名誉など気にしないだろうが、こういう招待に応じることもまた聖職者にとっては仕事の一環だった。

(けど、これはたぶん、あのバカ君が何か手を回したんだろうけどな……)

 お坊ちゃん育ちの大司教様は、あれだけ言われてもへこたれることなく港にまで着いてきた。既に乗船券が売り切れていた為に同じ船に乗ることは諦めたようだったが、この船の船長を動かすことくらいはわけなかっただろう。
 
(一応、大司教サマだし)

 ティシリア聖教の大司教というのが、実のところどれくらいの地位なのかイシュラにはよくわからない。

 帝国における国教はシュリアーゼ教で、これは母女神の十三人の子を崇める多神教だ。
 その十三人の御子の中でも、末子であるローラッドを最高神と定めており、帝国の建国神話によればこのローラッドこそが帝国の始祖であり、代々の皇帝はその血をひいているとされている。
 その為、帝国では過去の皇帝は神格化されていて、笑い話にもよくされるのだが、帝都では100歩歩けば神殿にあたると言われるほどに神殿が多い。
 当然、聖職者の数も多く、『大司教』と言われたところでイシュラにはあまりピンと来ない。
 ルドクの口ぶりから何かエラそうだと思っているが、信仰心のかけらも持ち合わていないから、崇めるとか尊ぶとかという態度からはほど遠い。ようは、エラそうな聖職者だからそれなりの権力はもってるだろう程度の認識だ。

 おそらく、その大司教がわざわざ見送りに来た……傍目にはそう見える……ことも、噂に拍車をかけているだろう。

(まあ実際に姫さんの境遇はドラマティックだから、ネタになりやすいんだけどな)

 『戦火の中で両親を失った幼い美貌の姫が、己の騎士と二人、敵地を突破して聖堂に辿りつき、洗礼を受ける』というだけでも何だか物語のようだが、洗礼を受けた姫君が数々の苦難に遭遇しながらも聖地を目指して旅をする……となると、更に話が劇的だ。

「今、他の者にファナのお連れの方々を呼びにやらせておりますので、ご安心を」
「ありがとう」

 シェスティリエの礼の言葉に、彼らの先に立つ案内の男はかすかに笑った。
 笑うと左顔面を斜めに走る大きな傷がゆがむ。それは無残な傷は刀傷で、子供が目にしたら泣き出しそうなほど酷いものだったが、シェスティリエに気にした風は無い。

(まあ、うちの姫さんは肝座ってんから……)

 男の年のころは四十歳前後だろうか。おそらく水夫の頭か何かなのだろう。先ほどからすれ違う船員達が軽く頭をさげていく。肌は日に焼けて浅黒く、鍛えていることが一目でわかる筋骨たくましい体格をしている。

(でも、残念なことに、剣を持つ手じゃあねえんだよな……)

 闘うことにこだわるイシュラは、つい、相手をはかるときに剣の腕ではかってしまうようなところがある。イシュラは、強い人間と戦うことを好んでいるが、やはり他の武器よりも剣を持つ者と闘うのが理想だ。

(何の刺青だろうな……)

 男の骨ばってがっちりとした手の甲に、青黒い文様が描かれているのが目をひく。
 水夫に刺青があること自体は別段珍しいことではない。大概が、海神や海神に関わりのある紋章や聖句だが、愛人や恋人の名をいれる人間も居るという。

(けど、手の甲にいれるってのは珍しいな)
 
 イシュラ的には、剣を持つ手にそんなことするのは言語道断だ。少なくとも紋が定着するまでの間、まともに剣が握れなくなる。それは、イシュラには食事を抜くよりも辛いことだ。 

(こいつ、剣もなかなか使いそうなんだけどな)

 海の男は船を守る為に剣をとることも多く、また、我流が多いとはいえ、かなりの使い手も多い。
 まったく剣が使えないという人間は船員として一人前ではないし、海賊が横行する昨今、彼らはある意味、常時前線にいるようなものだ。常に実戦で鍛えられている。
 だが、おそらく目の前の男の獲物は……少なくとも最も得意なのは、剣ではあるまい。その指には剣を持つ者とは違うタコがある。

(たぶん、斧だな)

 イシュラはあたりをつける。
 よほどの技量がなければ戦場でそれを使う者はいない。斧を振り回すのは相当のスタミナが必要だし、それを使いこなすには剣以上に修行が必要となる。
 両手斧であれ、片手斧であれ、斧は剣以上に扱いが難しい武器だ。ましてや、船上の狭いスペースでの戦闘だ。よほど扱いに気をつけねば、同士討ち……というよりか、誤って仲間を巻き込む恐れもある。

(そういや、斧を使うヤツとはあんまり闘ったことねぇな)

 それに気づいたら、最近使わない利き手の左がうずいた。

「……ダメだからな」

 じろり、と紫の瞳がイシュラを睨んだ。毎度のことながら、下から見上げられているのにも関わらず見下ろされているような気がしてしまう。

「あー、何のことです?」
「しとう(私闘)はまかりならぬ、といっているのだ」
「ほんのちょっと手合わせ願おうかな、とチラッと思っただけですがね」
「それをダメだといってる」

 ちっと舌うちするイシュラに、シェスティリエは冷ややかな視線を向ける。

「しばらくめだつことはきんしだ。のうのきんにくにしっかりいいきかせておけ」
「へい」

 イシュラのふざけた返事に、シェスティリエの眦はつりあがったが何も言わなかった。言うだけムダだと思ったに違いなかった。




「おまねきをありがとうございます、せんちょう」

 シェスティリエが案内されたのは操舵室だった。勿論、通常ならば関係者以外が足を踏み入れることなどありえない。
 自走船の操舵室は、ある意味、アルネラバの最大の秘密である。
 何らかの理由があるにせよ、その操舵室に入れてくれるというのだから、アルネラバの聖職者に対する優遇……乃至、気遣いというのは相当なものだった。

(あのバカが言っただけじゃなくて、襲撃事件の謝罪の意味もあんのかもな)

 例の一件において、シェスティリエは狙われた被害者ということになっている。
 皇国の機嫌を損ねるわけにはいかないアルネラバがそういう気遣いをしてもまったくおかしくない。

「いえいえ。私のほうこそお呼びたてをして申し訳ありません、ファナ。私はこの真紅の竜姫号の船長のロッゾ、こいつは操舵長のライと言います」

 船長であると名乗ったロッゾは、ライとさほど年齢が変わらないように見える四十がらみの男だった。
 水夫と混じっていてもおかしくないようなよく鍛えた体をしているが、濃紺の上着と白い手袋が、彼が船長であることを示す。

「わたくしは、シェスティリエ。このものは、わたくしのきしでイシュラードです」
「お二人の御名は既に有名ですよ。アルネラバでのご活躍は聞きました。何でも、ファナを攫おうとした盗賊団をお二人で壊滅させたとか」
「…………そうなのですか?わたくしたちは、ただひっしでおそってくるあいてにたちむかっていただけです」

 イシュラが守ってくれたのです、とシェスティリエはわずかに笑みを浮かべて言う。
 彼らの語る内容は、イシュラの知る事実からはかけ離れていただが、それを否定することはなかった。どのように噂されようとも真実が明らかになることはないだろう。

「恐ろしくはありませんでしたか?」
「おそろしかったですけれど、イシュラがいましたから」

 シェスティリエはわずかに振り返って、イシュラに笑みを向ける。それは、幼い少女が己の騎士にいかにも頼りきっている様子に見えて微笑ましかった。
 ロッゾもライも可愛らしいというように笑みを浮かべている。が、中身を知っているイシュラはなかなかに複雑な気分である。

(いやいや、姫さんは一人でもぜってーあれを壊滅できるから)

 それに、鼻歌でも歌いだしそうな気楽さだったはずだ。
 だが、たとえそれを知っていても、その様子がポーズだとわかっていても、頼られる様子を見せられると嬉しいと思ってしまうのが男の性だ。
 イシュラもその例外ではない。むしろ、単純な方だったのですぐに機嫌がよくなってしまう。

「ファナは魔術の使い手でいらっしゃるとお聞きしました。それで、自走船には興味があるのではないかと思い、お招きした次第です」」
「はい。まじゅつをつかうものとしては、じそうせんのしくみはとてもきょうみぶかいです。そうだしつをみせていただけるということで、たのしみにしてきました」

 シェスティリエは自身が魔術の使い手であることを隠さない。隠すことは無意味だからだ。
 かつてのようマナに満ちていた世界であるならまだしも、今のそういった要素の薄い世界においては、その力は他の何かにまぎれようもない。
 しかも、少しづつ循環させることができるようになってきているとはいえ、今のシェスティリエは魔力がだだ漏れ状態だ。
 
「生国で魔術師に習っていたのですか?」

 シェスティリエは、それにははっきりと応えないで微笑む。
 習っていたと答えることも、そうでないと答えることもなかった。
 かつてもその傾向はあったが、魔術というのは秘匿されることの多いものだ。シェスティリエが答えなくとも、船長はそれ以上問いただすことはしなかった。

「……どうぞ、操舵室はこちらになります」

 ロッゾが二人を誘ったのは、操舵室の中央だ。中央は一段床が高くなっていて金属色の鈍い光を放っていた。
 イシュラのような素人が見ても、それは何らかの魔力を帯びていることがわかる。
 床に彫りこまれた細密な文様が、青白い光を帯びて浮かび上がっていた。

(魔方陣か……)

 シェスティリエが目を輝かせている。
 おそらく、彼女の知らないものであるのだろう。
 シェスティリエは知識欲が旺盛だ。特にそれが『魔術』に関するものであれば、尚更だ。
 それが可愛らしくもあり、危険でもあるとイシュラは思う。

 一段高くなっている床の中央には、シェスティリエの身長よりも頭一つ分くらい高い円柱が据えられ、その上には、不思議な色合いの光の球が浮いていた。
 光球は不思議な色合いをしていてぐるぐると回転している。同時に、忙しない点滅を繰り返してもいて、見ていると何だかひどく不安がかきたてられた。

「私共はこれを虹球(こうきゅう)と呼んでます。これが、自走船のすべての要となっています」
「……イシュラ」

 シェスティリエはイシュラに向かって手を伸ばし、抱き上げるように要求する。シェスティリエの身長では、よく見えないのだ。イシュラは当たり前のようにその小さな身体を抱き上げた。
 いつものことながら、小さな身体はおそろしく華奢で軽い。
 目をきらきらと輝かせ、身を乗り出して虹球を見る様子に、イシュラはシェスティリエがまるで普通の子供であるかのようなありえない錯覚を覚えて苦笑をもらした。

「……どうりょくには、まりょくいたをつかっているのですね」
「良くおわかりに」
「ゆかにぎん。ほりこまれたまほうじん。そして、そのてのもん……」

 シェスティリエはライの手に視線を向ける。

「せんちょうがてぶくろをしているのも、そのてにおなじものがあるからでは?」

 軽くクビをかしげて問うた。

「驚きました。おっしゃるとおりです、ファナ」
「そのもんが、『こうきゅう』をうごかす『かぎ』なのですね?」
「そこまでわかるものなのですか?」
「ええ、まあ……」

 シェスティリエの言葉に、ロッゾとライは心底驚いた表情を見せている。

「昔は風の精霊と契約してその力で海を渡っていたと聞きます。私たちの祖父の時代はそうだったのだと」
「しっています。でも、せいれいはもうこのせかいではいきていけないですから……」

 それは、シェスティリエがこの世界で目覚めてすぐにわかったことだった。
 神なき世界で、その眷属たる精霊が生きていけるはずがない。神の眷属ではない大精霊もいることはいたが、彼らとてマナのない世界では生きにくかったはずだ。あれから五百年以上を経た今、彼らがまだ存在しているかは不明だ。
 もはや、自分の声を聞く精霊も、力を貸してくれる精霊もいないのだろう、と思うと淋しい気持ちがした。

「そうです。理由はわかりません。魔術師達も、精霊が姿を消したのは、マナが枯渇した事が原因ということはわかりましたが、なぜマナが枯渇したかまではわからなかった……ですが、私達は、精霊たちがいなくなったからといって、海を渡ることを諦めるわけにはいかなかったのですよ」

 アルネラバは海運を国家の柱に据えている都市だ。
 船が動かないなどということは到底認められなかったし、だからこそ、精霊に代わり船を動かす術を見つけることは都市をあげての大事業だった。

「まあ、アルネラバでは、精霊を使わずに海を渡る術を元々研究してはいたのですが……幸いなことに、精霊たちがまったくいなくなる前に、それを完成させることができました。それが、この虹球です。虹球のおかげで、マナがなくとも船は動くのです」」
「こうきゅう……」

 溜め息にも似た声音でつぶやく。
 確かに、それは虹色に輝く球だ。
 もっと近くに、というようにシェスティリエはぎゅっとイシュラの服の胸元を掴む。イシュラは心持ち近づいて、見やすいように身体を傾けてやった。

「にじいろにかがやくということは、4げんそすべてのまじゅつしきがつかわれているということだから……」

 シェスティリエは球を覗き込み、何やらぶつぶつと呟きはじめる。
 その右手が時々空中に何かの文字を描き、それは一蹴だけ光の粒子を放って消える。
 そんな不思議な光景も、シェスティリエと旅をしていれば見慣れたものになる。

「もうよいです、イシュラ」
「なあ、姫さん、さっきから話に出てる『まな』ってのは、何なんだ?」

 床に下ろしながら、イシュラは先ほどから疑問に思っていることをたずねた。

「『かみのいぶき(神の息吹)』とか『かみがみのおんちょう(神々の恩寵)』とか『ばんぶつのこんげん(万物の根源)』と、いわれているものです。わかりやすくいうなら、まりょく……エネルギーのかたまりというのがいちばんちかいかもしれない。せいれいたちのえいようにもなるものとかんがえればよいです」

 おそらく専門的には違うのだろうが、シェスティリエはイシュラにわかりやすいように説明してくれる。その語尾がお姫様モードなのがちょっとむず痒く感じられた。

「あー、魔術の元になんのか?」
「んー、そういうまじゅつもあります。でも、いまとなってはマナをつかうじゅつはムリでしょう。いまいるまじゅつしたちはみな、じしんのまりょくをしょうひしてじゅつをつかっているにちがいありません」
「姫さんのように?」
「そうです」

 こくんとうなづく。

「マナはなくても、まりょくのもととなるもの……しょくばいは、いろいろあります。しょくばいをつかえば、まりょくはちょっとですみます。これは、りゅうのほねをしょくばいに、え-と、ぜんぶで88のまじゅつしきをかさねてつくられています」

 指折り数えている仕草が、幼さを感じさせる。
 イシュラが横目で見たロッゾとライの目は、驚きを通り越し、驚愕に見開かれていた。

「……姫さん、くわしいなぁ、さすが」
「たぶん、かず、あってるはずだけど……」

 目を凝らして、再度指折り数えている。
 うん、88だ。とつぶやき、うなづいている仕草に、イシュラは思わず微笑を誘われる。

「……でも、これをつくったひとはてんさいですね。すごい」

 わずかに頬を染め、きらきらと目を輝かせて振り返る。

「虹球を最初に作ったのは、ジルベリウス=ダーエ……後に、皇国で赤の塔の長となったラグフィア枢機卿です」
「まだいきてらっしゃいますか?」
「あー、お亡くなりになってます」

 思いっきりその表情が曇り、肩が落ちた。
 見るからにがっかり、といった様子に、ロッゾは彼が悪いわけでもないのに思わず罪悪感を抱いてしまう。

「その……100年以上前の方ですので……」
「姫さん、そりゃあムリな話だって。普通の人間は百年なんて生きられねえよ」
「でも、すうききょうということは、ほうじゅつがつかえるんだし、ほうじゅつはまじゅつの一けいとうなんだから、ながいきでもおかしくないはず!」
「……そうか?聖職者は、能力が高いほど長生きしないって聞くぜ?」

 イシュラの言葉に賛同するようにロッゾとライがうなづく。

「ながいきしない……?」

 シェスティリエはしばし考えて、それで軽く眉を顰める。

「……そうね……そうなのかもしれません」

 考えながら自分なりの結論が出たのか、納得したような表情で一人うなづく。

「姫さん?」
「ざんねんだわ。いきていたら、ぜったい、でしにしていただいたのに……」
「そんなに凄いのか?」
「すごいです!つかわれているじゅつのなんいどじたいはさほどではないけれど、はっそうとこうせいがすごいの!」
「ふーん」

 イシュラには何が凄いのかまったくわからなかったが、シェスティリエは小さな拳を握り締めて、何度もすごいと繰り返す。
 手放しの褒めように、ロッゾとライは嬉しそうにうなづいている。
 アルネラバの技術力の高さを褒められるのは彼らにも嬉しいことなのだろう。

「そのてのもんとこれは、どのようにはんのうするのですか?」
「これはですね……」

 三人は和気藹々と専門的な話をはじめる。
 熱心に話しこんでいるシェスティリエたちを横目で見ながら、イシュラは周囲を見回した。
 操舵室には、扉が一つしかない。
 出入り口が一つというのは、襲撃する側よりも守備側に不利な条件だ。襲撃してくる敵を正面から突破しなければ逃げられないというのは、それなりの犠牲を覚悟しなければならないということで、守る側であるイシュラとしてはあまり有り難くない。

(俺だったら、まず出入り口を確保するだろ)

 守ることを考えるというのは、襲撃する事を考えるのと同じだ。
 イシュラは、まず自分ならどうやって襲撃をするかを考え、それに対処するにはどうしたらよいかに思いをめぐらす。

(で、複数を相手どらないようにして各個撃破だな)

 普通ならば、真っ先に狙うのはシェスティリエだ。子供な上に、人質としても使える。
 だが……。

(中身知ってるからなぁ……)

 まっさきにシェスティリエを捕まえて人質にするとする……。

(ムリ、ムリ。ありえねえ)

 シェスティリエが簡単に人質になってくれるとは思えない。むしろ、触れようとした瞬間に吹っ飛ばされそうだ。

(かといって、姫さんに刃を向けるってのも……)

 シェスティリエと対峙した自分というものを想像しようとして、イシュラは諦めた。
 自分が主に剣を向けられないという以前に、シェスティリエには勝てる気がまったくしなかった。



 ******************************

 2011.02.23 更新

 何も起こらないけれど必要な回。



[11484] 第4章-5
Name: 南果◆92736a0a ID:bff098dc
Date: 2011/03/13 23:36
 皇国だ、と誰かが声をあげた。

「……あ」

 遠く見える陸の影。幾つもの高い尖塔が立ち並んでいるのが見てとれる。

(あれが、聖都?)

「いえ。聖都……アル・メイダ・オルカダールは、もう少し内陸にあります。あれは、聖都への玄関口。皇国の誇る自由貿易都市アル・ダーフルでしょう」
「アル・ダーフル……」
「自由貿易都市って何ですか?」

 アルフィナは軽く首を傾げる。
『自由貿易』という単語が気になった。

「どこの国の誰であっても、許可さえ受ければ自由に商売ができる都市だからそう言われています。他国の商人であっても制限はありません。商売をする為に許可を受けなければなりませんが、その手続きも一律です」
(意味、わかんない)
「普通はですね、自分の国の商人を優遇します。他国の商人の扱う品とは関税の税率が違っていたり……あー、税率ったってわからないですかね。えーと、国が取る手数料のようなものが、自分の国以外の商人だとすごく高かったりするんですよ。でも、アル・ダーフルでは同じなんですね」
「……そうすると、何がいいんですか?」
「簡単に言えば、商業活動が盛んになります。純粋に商品だけで勝負できるということですから。アル・ダーフルはたぶん大陸一、二を争う貿易都市でしょう。ティシリア皇国は元々治安の良さで知られていますが、聖都のお膝元であるせいで尚更です。更に税金が安く、アルネラバとの良好な関係もあって交通の便も良く、港も整備されているとくれば栄えないはずがありません」
「……ようは、栄えるための条件が揃ってるんですね?」
「この上なく」

 ルドクはきっぱりと言い切り、そして、わずかに笑んで付け加えた。

「アル・ダーフルで成功することが、商人の究極の野望といっても過言ではありません。それは、大陸随一の商人であるという証明のようなものですから」

 ルドクはどこか別人のようだ、とアルフィナは感じ、そして、イリは初めて出会う人を見るような表情でルドクを見ていた。

「どうしました?」
「いえ……何か、ルドクさんがいつもと違って見えて」
「ああ……もうすぐお別れですから、少し感傷的になっているのかもしれませんね」
「お別れ……」

 ズキリと胸の奥が痛んだ。
 わかっていたはずなのに、その言葉を聞くとどうしても胸が痛む。

「ええ。聖都についたらお別れです」
(どうして?)

 イリは大きく目を見開く。
 出会った頃のことを考えると、格段に表情豊かになっている。ルドクはそのことが少し嬉しかった。

「イリは別としても、アルフィナさんは聖都でできるだけ位の高い人を教母、ないし、教父にして洗礼を受け、すぐにでも聖職者にならなければならないんです」
(シェス様ではダメなの?)
「シェス様は、まだファナですから」
(そうだけど……)
「純粋に位だけで言うならば、シェス様にアルフィナさんを守ることはできません。今、シェス様がアルフィナさんを庇護しているのは、物理的にシェス様に力があるからです」
(ぶつりてき?)
「あー、単純に、襲ってきた人間を撃退できる力があるってことです」

 その言葉にイリは深く納得した。
 
「……やっぱり、一緒にはいられないでしょうか?」

 アルフィナは躊躇いがちに問いを口にする。
 これまでの道中をシェスティリエの庇護下で過ごしてきたアルフィナは、その状態の居心地のよさに慣れてしまっていた。
 イリがいて、シェスティリエが居て……そして、自分が守るのはシェスティリエだけだと言いながらも、イシュラが守ってくれて……旅を続けるルドクは別だとしても、そうやってずっと皆の中に居たいといつしか思うようになっていた。
 そう。一緒にいられるのであれば、シェスティリエの従者のままで良いとさえ思っている。

「アルフィナさんがどうしてもご一緒にいさせて欲しいとお願いすれば、シェス様はダメとは言わないかもしれません。シェス様のことです。何か方策を考えてくれるでしょう。……でも、それではいつまでたっても貴女は変われない」
「それは……」
「……アルフィナさんは、ちゃんと、最初に考えていた道を歩むべきでしょう。そうでなければ、あのお屋敷を出て、皇国を目指した意味がないのではありませんか?」
「でも……」

 アルフィナは躊躇う。
 一度、あんなにもはっきりと決意したことなのに、迷わずにはいられない。
 自分の弱さを知りながらも、それを思い切ることができない。

「守られるだけが嫌だったのでしょう?」
「……はい」
「皇国で聖職者となり、ちゃんと自分の道が見つけられれば、いつか、あなたはあなたの力で誰かを守ることのできる人になれます」

 ルドクは優しく言い諭すようにアルフィナに言う。
 その言葉は、迷うアルフィナの心に突き刺さる。

「私が、守る……」
「そうです。……そして、そういう人になることが、シェス様の役に立つ日がいつか来るかもしれない」
「……私に、なれるでしょうか?」

 アルフィナの問いに、ルドクははっきりとうなづく。

「なれます。……僕だって、そうなるつもりですから」

 アルフィナは何だか胸の奥が熱くなるのを感じて、どうしていいかわからなくなった。
 なぜか涙が出そうで、それを無理やりこらえるようにして問う。

「ルドクさんは何になるんですか?」
「皇国一の穀物商になる予定です」

 ルドクはサラリと言った。
 アルフィナもイリも笑わなかった。
 それがどれほどのことかを正確に予想できなかったせいもあるが、何となく、ルドクならなれそうな気がしたからだ。

「……諦めなければなれると思うんですよ」

 ルドクは少し恥ずかしそうに付け加える。
 それは、アルフィナたちのよく知っているいつものルドクの表情で、何となくアルフィナはほっとした。

(……僕もなれるかな……?)
 イリがそのまっすぐな瞳で、ルドクを見上げた。
 混じりけなしの純粋さ……それは純粋であるからこそ危うかったが、同時に比べようのない強さをも持つ。

「イリは何になりたいんですか?」

 聞かずともその答えをルドクは知っていた。だが、あえて問う。
 大概のことをどうでもいいと思っているイリには、『自分の意思を表す』ということが必要だからだ。

(シェス様を守りたい)
「なれますよ。だって、イシュラさんの弟子になるんでしょう?」
(うん)
「……イシュラさんは、帝国でも有数の剣士です。……何か言ったらいけないような気がして本人には言いませんでしたが、『左の死神』……ローラッドになんて一度も行ったことのない僕ですらその異名を知っていたほどの人です。だから、イリも諦めないで修行をすればきっとなれます」
(いっぱい、強くなりたい)
「大丈夫ですよ、きっと」

 だが、イリが守りたいというシェスティリエより強くなるのはかなり困難ではなかろうかとルドクは思った。
 ルドクの中での最強はシェスティリだ。それは、おそらくそうそう間違いは無いだろう。勿論、それを口に出さないだけの分別はある。

「……みんなで、約束をしませんか?」
「約束、ですか?」

 二人の視線がルドクに向かう。

「はい。大事な約束です」

 ルドクはそれにはっきりとうなづいてみせた。

(何の約束?)

 イリがクビを傾げる。

「……諦めないことを」

 何を、と問う必要は無かった。

「はい」
(はい)

 二人も当たり前のようにうなづく。

「……いつか、シェス様の役に立つ人間になること」
「はい」
(もちろん)

「絶対に諦めないこと」
「はい」
(う……はい)

 うん、とうなづきかけ、イリはアルフィナを真似して「はい」と返事をする。

「僕もですが、きっと、二人にも辛いことがたくさんあります。世界はそれほど優しくできていない。でもね、僕らはシェス様に出会った……それは、きっととても幸運なことなんです」
「それは、本当にそうだと思います!」
(僕もそう思う)

「それを忘れそうになることもあるかもしれない。……だから、約束しましょう。僕は絶対に自分の道を諦めない。だから、二人も諦めないで下さい」
「……はい」
(はい)

 二人の神妙な表情にルドクは小さく笑う。

「……まあ、こうやって二人と約束することで自分に言い聞かせているんですけどね」
(?????)
「僕のほうが少し年上ですからね、君たちにいいとこ見せたいっていう見栄っ張りな気持ちが、原動力になるんですよ」

 諦めたら恥ずかしいってね。

(ルドクさんは、大丈夫だよ!)

 根拠も何もないのに、イリは絶対に平気と言い切る。
 そして、それを心から信じて疑わない。

「私もそう思います」

 そして、アルフィナもまた、まったく疑問ももたずに笑みを浮かべて賛同する。

「ありがとう」

 ルドクは笑った。
 きっと、どんなときでも、今この時を思い出すことができれば自分は大丈夫だと思える。
 自分を信じる人間がいるということは、ただそれだけで自分を支えてくれるのだ。
 何をしてくれなくてもいい。ただその存在だけで力になる。

「僕も二人を信じてます。……絶対に大丈夫だと」
「……はい」
(うん)

 何か思うところがあったのだろう。真剣な表情で二人はうなづいた。




「……何か、ルドクさん、家庭教師の先生に似てます」

 アルフィナは小さく笑う。

「そうですか?大学時代、頼まれてちょっとだけしたことはありますけど」
「やっぱり」

 得心したようにうなづくアルフィナにルドクは不思議そうな顔を向ける。

「何がです?」
「ルドクさんはいろいろなことをよく知っているから……たぶん、大学に行っていたんじゃないかなって思っていました」

 各国に一つずつしかない『大学』は、どの国においても最高学府だ。
 入学することは難しく、卒業することは更に難しい。
 定められた歳月をただ勉強すれば卒業できるというわけではなく、卒業するに足る資格を有すると認められねば卒業することができない。

「……実は、あんまり成績良くなかったんですよ。すぐ趣味に走ってしまうので。……本当は研究とかしたいとも思っていたんですけど、僕は一人息子だったので、家を継ぐ為に普通に卒業して、奉公したんです」
「でも、卒業できるだけでもすごいと思います」
「実際には大学を卒業しただけでは商売には何も役に立ちません……僕が学んだのは歴史でしたから尚更です」

 ルドクは苦笑する。

「ああ……でも……。いいえ。だから、いろんな古詩とかにも詳しいんですね」
「そうです」
「歴史の中でも。専門は天空の歌姫に関係することだった?」
「よくわかりましたね」

 アルフィナの言葉にルドクは驚いていたが、アルフィナにしてみればわからないほうがおかしいというものだ。
 イりだって予想はついていたのだろう。わかるというようにうなづいている。

「僕は、天空の歌姫の事跡について三人の仲間で研究していました。一人は大学にまだいるんじゃないかな……一人は貴族の若君で、やっぱり僕と同じ頃に家を継ぐ為に国に戻りました」
「どういう勉強をされていたんですか?」
「天空の歌姫だけじゃなく、魔法使いとか魔導師、伝説の英雄や、妖精や幻獣や、そういうものが出てくる古詩やお伽話を集めてましたね」
「集める?」
「大図書館の蔵にある古い書物を修復しながら解読したり、何人もの吟遊詩人の詩を書き集めたり、古い聖堂に残された古文書や石碑を写させてもらったり……それを自分なりの解釈を交えながら、資料にまとめていました」
(それで何がわかるの?)

 イリの問いに、ルドクはちょっとだけ苦笑をのぞかせる。

「そういうものは、往々にして歴史の欠片なんです」
「歴史の欠片?」
「そう。例えば……皇国の北に広がるニカネイア大草原はかつて広大な森だったと言います。でも、竜王の怒りに触れ、その怒りで焼き払われた、と」
「『ニカネイアの光の歌』ですね」

 それは、アルフィナやイリですら知っている有名な歌だ。

「そうです。吟遊詩人たちは『かつてニカネイアを治めていた領主が自らの地位を驕り、竜王の領域を侵してその怒りをかい、森はほんの一時で灰燼に帰した』と歌います。
僕も大学の時に参加したんですけど、ニカネイア大草原の古い地層には炭化した……広範囲に燃えた層があることが発見されています。
それが本当に竜王の怒りによるものかはわかりませんが、調査隊の学者の一人は言いました。
『通常ではありえないほどの高温の炎』に焼かれている、と。
……元が何だったかまではわかりませんが、発掘された石の上に金属が液化し蒸発した痕跡があるんだそうです」

 ルドクは活き活きとした表情で熱心に語る。
 アルフィナはともかく、イリまでもが真面目に聞いていることで余計に熱が入っているのだろう。

「蒸発?」
「金属は高温に熱せられると形を変える……でも、あまりに高温に熱せられると蒸発するんだそうです」
「魔術師が生み出す炎ではないんですか?」

 魔術師の生み出す炎は、普通に得る火よりもずっと勢いが強い。特に攻撃魔術の火力というのは、術者の魔力によって桁外れのものになることもある。

「かつての魔術師は今いる魔術師達よりもずっと力があったといいますが、そんなものではおいつかない熱なんだそうですよ……だから、彼は言っていました。ニカネイアは本当に竜王の怒りを受けたのだろうってね」
(竜の吐く息?)
「ええ、たぶん」

『竜の吐く息』と呼ばれるそれは、一つの都市を1時間もたたずに焼き払うと言われる。
 彼らは竜を直接見たことが無かったがが、その実在を疑うことはなかった。
 竜は数こそ少ないけれども、未だ実在する生き物である。北の大国ラーディスは別名を龍の王国と言われていて、そこには翼竜とその騎乗者で構成された竜騎士団があるくらいだ。

「……真実は時の彼方にしかありませんが、そうやって状況証拠を積み重ねていくことで、より真実に近づくことはできます。僕はそういう勉強をしていたんです」
「なんか、おもしろいですね」
「そうなんです。……僕らは、吟遊詩人の歌や、その土地に伝わる古詩などでしか知りませんが、白の聖騎士アスガールは後にローラッドの皇帝になったし、青の魔導師と呼ばれたファラザスは確かに存在していて皇国をつくりました。それは歴史が証明しています。だから、戦神カブールの申し子たるジラードの剣は魔神を貫き、天空の歌姫がもたらした数々の奇跡を僕らは疑いません」
(だって、その結果が今もあるから)
「ええ、そうです。……『伝説』や『お伽話』とされていることは、歴史書には載らない……過去の真実の欠片なんです。僕はそれを知るのが好きでした。
彼らが同じ大陸で生き、そして、彼らがいたからこそ、僕らもまたここで生きている……そのことがとても不思議で何だか嬉してならなかった」
「……ルドクさんは、研究して学者様になれば良かったと思います」

 本当に好きで仕方が無いという様子に、アルフィナは笑う。

「そうなりたいと思ったこともあったんですけどね……」

 でも、そうはならないのだとアルフィナにもイリにもわかる。ルドクの中には、確固たる意思があるからだ。

「大学を卒業した後、役人になる道もありましたが、僕は家の仕事が嫌いじゃなかったんです。だから、何だかんだ言いながらも奉公先から飛び出すこともなく務めていました。まあ、家の仕事が嫌いじゃないっていうのも、後からわかったことなんですけどね」

 ルドクはふと遠くを見やった。それは過去を振り返ったのかもしれないし、あるいは、点のように見える海鳥を見たのかもしれない。
 まだ人生経験なんて言えるほどの時間をすごしていないアルフィナとイリに、それを推しはかる術はない。

 しばらくの沈黙。

 けれど、その沈黙を苦痛とは思わなかった。
 むしろ、心地の良いひと時だっただろう。

「きっと、今度会うときは、二人とも叙階されているでしょうね」

 ぽつりとルドクがつぶやく。

「……そうでしょうか?」
「ええ。……たぶん、2、3年は余裕でかかると思うんですよ、僕の旅」
(2年?それとも、3年?)
「さあ……もしかしたら、10年とかかるかも」
(……………)

 イリの冷ややかな視線が突き刺さる。

「あー、手紙書きますよ。イリもアルフィナさんから教えてもらって字を覚えたでしょう?」
(うん)
「それに、必ず皇国に帰ってくることだけは約束します」
(……わかった)

 納得はしていないものの、イりはしぶしぶとうなづいた。
 自分がどうこうできることではないことはわかっているのだ。

「私も、お手紙、楽しみに待ってますね」

 アルフィナは、この先、自分が皇国から出ることはまずないだろうと予想している。
 だからこそ、外から届く便りは貴重なものになるだろう。

「はい。二人も手紙下さいね。……シェス様やイシュラさんに頼んでも絶対無理だと思うので」
(わかった)
「シェス様情報は、私達に任せて下さい」

 ルドクの言葉に二人は勿論だというように大きくうなづく。
 ここに、後々までに続く三者間の情報ルートが成立した。
 勿論、当初、彼らにその自覚はまったくなかった。というよりは、後々であっても、彼らにそれが情報ルートである自覚はなかったかもしれない。
 それは彼らにとってごく私的な近況を交す為のものでしかなかったし、彼らはそれを積極的に利用しようとは決してしなかった。


「あと、お二人がどうしているかもちゃんと教えてくださいね」
「はい。ルドクさんもですよ」
(わかった)
「ええ、勿論」


 彼らの絆は、時を経ようとも、三人がどれほど立場を変えようとも決して途絶えることはなかった。



 ********************************

 2011.03.13 更新
 直しました(^_^;)



[11484] 第4章-6
Name: 南果◆92736a0a ID:3dd63f76
Date: 2014/09/21 13:44
 聖都巡礼は、信者にとって一生に一度は成し遂げたい夢であると言われる。
 たとえ信者でなかったとしても、神聖皇国を……聖都アル・メイダ・オルカダールを訪れることは誰もが夢見ることの一つだ。
 12の尖塔を持つ大陸で最も美しい都、それがアル・メイダ・オルカダールだ。
 そして、自由貿易都市とか商都と呼ばれるアル・ダーハルは、聖都アル・メイダ・オルカダールを訪れる巡礼や観光客の大半が最初に降り立つ地だった。

「……なあ、姫さん、あれ、どうにかしちまっていいか?」
「どうにかって、どうするのだ」
「ちーっと見えないところに行ってもらおうかと」
「さわぎをおこすのもどうかとおもうぞ」
「さわぎになるまえに、あのバカ王子を海に叩き込む」
「いや、たたきこんだじてんでおおさわぎだろうが」

 主従の間に交される不穏な会話にルドクは生ぬるく微笑んだ。
 活気ある賑わい─────あとさほどの時間もたたずに船が接岸される岸壁は、出迎えや物売りの人々で一杯だったが、その中に白と黒の一際目立つ一団がいる。

「あー、すごいお出迎えですねー、大司教様。よっぽど、シェス様にご執心なんですね。あそこまではっきり言われたのに」
「変態だろ」
「いやいやいや、シェス様の美貌じゃなくて、魔力にご執心なんですから」
「それにしても執心がすぎるっての。あんだけ言われたくせに」
「まあ、そうですよね」

 はっきりきっぱり言われたくせに、一日もたたずしてもう復活しているのだから感心してしまう。

「たぶん、あんまりよくわかってないんじゃないでしょうか。上つ御方は何事も自分に都合よく解釈なさいますし」

 アルフィナは言葉を選んだ。だが、どれだけ吟味しても、内容はたいして変わりようがなかっただろう。

「いやー、シェス様ははっきりおっしゃってましたよ」
「いえ、こう、脳内で何か都合よく変換されてるとか……」
「お嬢ちゃんも、言うようになったなぁ」
(きっと、馬鹿には言葉が通じないんだよ)

 にこやかにイリが笑った。

「……イリ、強くなりましたねぇ」
(シェス様を守るためだもん!)
「そうですね」
(うん……でも、これだけじゃだめなんだよね)

 イリはそう呟き、己の思考に沈む。
 アルフィナは首を傾げた。
 ルドクとイシュラも視線を交わし、互いに軽く首を横に振る。

(シェス様を守りたい……)

 それは誰かに宣言したわけではなく、イリの心からこぼれたたった一つの望みだった。
 だから、まだあまりイリの唇を読むことになれていないアルフィナにもわかった。
 俯いたイリは何事かを考え込みながらぐっと力強く拳を握り締めた。




 アル・ダーハルから聖都は、馬車で約一日の距離にある。
 だいたいの巡礼者はアル・ダーハルで一泊し、翌日はほぼ中間地点にある温泉地レグダで一泊して身の汚れを清め、アル・メイダ・オルカダールを目指す。
 アル・ダーハルや途中のレグダで数日を過ごす者も少なくない。
 シェスティリエらの一行は、もう大丈夫だとは思ってはいたものの、アルシェナの事情もあるために、アル・ダーハルでの宿泊をせずにそのままレグダに向かった。
 レグダで一泊して身を清め、そのままアル・メイダ・オルカダールに向かう予定である。
 乗合馬車の中は、シェスティリエらの一行五人と飛び入りゲストとその護衛三人の合計九人が詰め込まれている。
 いや、詰め込まれているという言い方は正しくないかもしれない。
 通常定員が十五人程度の大きな馬車の中は、空間的にはかなり余裕があるのだ。

(でも、この息苦しさは何なんだろう……)

 アルフィナはちょっとだけ溜息をつきたくなる。
 それはたぶん、飛び入りゲストがイシュラやイリと繰り広げている有形無形の戦いが、アルフィナには耐えられないせいだろう。

「ファナ、今、ちらっとあちらに塔の先端が見えましたよ」

 アルフィナのストレスを無視した能天気な声が響く。

「そうですね」

 シェスティリエは無表情で答えた。

(見ればわかるとか思われていそうだわ)

 シェスティリエがなかなかの毒舌家であることをアルフィナは知っている。
 最近、ちょっとだけ自分もその影響を受けているような気がする。

「ファナ、もう少しお楽になさっては?」

 どうぞこちらへ、とさし招く白の聖衣姿の大司教の言葉に、イシュラが不敵な笑いを浮かべ、滑らかな動作で剣を抜くと躊躇いもなく馬車の床に突き刺した。
 
「大司教サマ、それ以上、うちの姫さんに近づかないでもらおうか」

 アルフィナは知らないが、その細身の剣は、先般の襲撃者から強制的に喜捨を受けた魔剣だ。
 わずかに燐光を帯びた刀身は、剣のことなどまるで詳しくない者でもひきつけられるような不思議な美しさを帯びていた。

「イシュラード殿、私はファナに決して危害など加えない、絶対にだ。だから、この剣をしまってくれないだろうか」
「いんや。ダメだ。たとえ正式に誓約してもらったところで、あんたは聖職者だ。いくらだって誓約を反故にするだろ」

 イシュラの中には聖職者に対する根強い不信感があるらしい。

「……あなたの聖職者の概念はどうなってるんだろう。普通、聖職者というのは誓いを破らないものだ。それは己に跳ね返るのだぞ」
「どうだろうな。俺が知ってるのは聖教の聖職者じゃないってこともあるかもしれんが、聖職者ってのは基本、胡散臭いんだよ」
「あなたのファナも?」
「バーカ、姫さんを一緒にすんな。姫さんは姫さんだ。聖職者なんかじゃねえ」
「私も私だ、イシュラード殿。『大司教』ではなく、私個人としてみてもらえないだろうか?」
「おまえを個人として見るほど知っちゃいねえよ」

 同乗している護衛は決して口を出さないように言い含められているのだろう。さっきから怒鳴りだしそうな自分を抑えるのに必死だ。

(イシュラさんは、ほんと過保護だわ)

「だいしきょう、わたくしにあまりかまわないでください。わたくしはかまわれるのがすきではありません」
「ファナ……」
「だいしきょうにはだいしきょうのふるまい、というものがあるとおもいます。とくべつあつかいはめいわくです」

 こくこくとイリが大きくうなづいている。

 だいたい、これはただの乗合馬車なのだ。
 定員通り詰め込まれ、いっぱいにならなければ出発しないのが普通なのに、定員に満たぬ人数で走っているのは、大司教のせいである。
 ほかの人間が畏れ多いと乗らなかったのだ。
 彼らも畏れおおいを理由に馬車から降りようとしたのだが、生憎そうはいかなかった。何しろ、大司教の目当てはシェスティリエだ。オルカダールについた瞬間より目の届く範囲から離れようとしない。

「ファナ、私には他意はございません。本当です。ただ、貴女のお傍に侍りたいだけです」
「めいわくです」
「どうか、私を頼っていただけませんか?悪いようにはいたしません」
「いやです」

 シェスティリエは簡潔に切り捨てる。
 イシュラはざまーみろとでも言うような勝ち誇った表情をした。
 だが、大司教はどうやら不屈の根性の持ち主だったらしい。

「なぜですか?紹介状をお持ちということは聞きました。ですが、見ず知らずの紹介状の相手よりも、私のほうがよっぽどお役に立てるはずです」
「……あなたはやくにたつとおもいますが、かげんをしらなそうなのでいやです」

 イシュラとルドクは噴き出しそうになり、それをこらえてむぐっと変な音をたてる。護衛たちはギリギリと歯軋りの音をさせていた。

「ファナの御心に沿わぬことなどいたしませんとも」

 しかし、大司教は大変強い心の持ち主だった。
 ここまで言われてもめげないのだ。
 この根性だけは素晴らしいとアルフィナは思う。

(……不屈の精神の持ち主だわ)

 ここまで断られていてもそれでも諦めないでいるというのはある種の才能かもしれない。

(でも……)

 顔は良いし、身分だって高い。生まれも良い。
 出会ってさほども経ってはいないが、おそらく性格だってそれほど悪くはないだろう。

(でも、鬱陶しいと思う)

 それは、シェスティリエには致命的だと思うのだ。

「……わたくしは、いまはあなたをひつようとしていません」

 シェスティリエが呆れたような眼差しを向ける。

「ファナ」
「だいしきょうというみぶんあるかたにそのようにかまわれることは、わたしのみをきけんにさらします」

 向けられた絶対零度の眼差しと、その冷ややかな声音に、怒鳴りだしそうだった護衛すら凍りついた。
 それほどに、それは冷たい声だった。
 そこにあるのは冷ややかな怒りだ。そして、静かであるからこそより恐ろしい。

「あ~、姫さん、こんなとこで術をぶっぱなしたりしねえよな」
「するわけがない。……だいしきょう、なんどもいいますが、めいわくなのです。このみがちからもつことにはりゆうがあります。あなたがひつようとなればこちらからおねがいにあがりますから、それまではほうっておいてください」
「……本当ですか?」

 あまりの怒りに一緒に凍り付いていた大司教だが、シェスティリエの言葉に顔を輝かせる。ただし、護衛の方は苦い顔だ。

(シェス様、すごい正直すぎる)

 だが、大司教はそれでもいいらしい。

「はい」

 真顔でうなづくシェスティリエに安堵の表情をみせ、それで赦されたとばかりにいそいそと側近くへと座る。
 ふと、随分と静かなイリに視線をやった。
 シェスティリエの周辺にお邪魔虫がいるというのに、何事かを考え込んでいる。
 船を下りてからのイリは考え込むことが多かったが、これは異常事態だとアルフィナは思う。

(物語の中みたいに、恋しちゃったのかな?イリ)

 屋敷の中に閉じこもりきりだったアルフィナは本の虫でもあった。
 叔父はさまざまな本を彼女に買ってくれたし、彼女の蔵書はなかなかのものだった。こと

に、恋愛小説の分野においてはかなり自慢できる品揃えだっただろう。
 その中には、少年と王子や、敵国の王子同士という同性愛的な組み合わせのものもあったのだ。
 帝国の国教と違い、聖教においては同性愛は特に禁じられていない。禁じられていないだけで別に認められているわけでもないのだが。
 おそらく叔父は出入りの本屋に薦められるままに購入しただけで内容については知らないだろう。顔はいいのに、実は、うっかりしているところがある。
 読むことを禁じられる類の本だと薄々わかっていたので、アルフィナはそれを叔父の目の届かないところにしまい、こっそりと大事に読んだものだ。
 その本のいろいろな場面とひきくらべて考えると、気になるからこそケンカするのであり、チラチラと気にしているのは、自覚症状の芽生えであるような気がする。

(でも、現実は本のようにはならないからなぁ)

 そんな簡単に恋に落ちるようなことがあるわけがないとアルフィナは思いなおす。

「イリ、どうかしたのですか?」

 ルドクが優しく問うた。
 これはおそらく、イリが大司教を牽制するのを狙っての事だ。
 身分というものを弁え、それなりの年齢でもあるルドクには、大司教とシェスティリエの間に割って入る事はできない。
 目の前にはあいもかわらず美しい刀身を見せる魔剣が突き刺さっているのだが、大司教はそれを気にしないことにしたらしい。
 
(……いいこと、思いついた)

「え?何を?」

 顔を上げたイリは今までに見たことがない、強気な笑顔を見せる。

(ねえ)
「はい?」

 イリの声なき声を聞くかのように、大司教はイリに顔を向ける。
 ほお、と小さくシェスティリエが感心というように口元をほころばせるのを、アルフィナは見逃さない。

(いま、シェス様、笑ったわ)

 おもしろがるような表情に気付いたイシュラも目を見張っている。

(あんたは、僕の声が聞こえるんだね)
「ええ。……ああ、もしかして、君は声が出ないのか?」
(そう。喉が焼かれているから)
「え?」
(そのことはどうでもいい。あのね、僕の教父をさせてあげる)
「は?」

 大司教は首をかしげる。

「おい、イリ?」

 唇を読んだらしいイシュラードが目をしばたかせている。困惑しているようだった。

(僕はシェス様の従者だ。そして、一生、シェス様のモノでもある。僕はいずれ洗礼を受けるから、その僕の教父をさせてあげる)

「それは……すごいステキな申し出ですね。よろしいですか?ファナ」
「かまわぬよ。……イリ、よく考えて決めたのだな」
(うん。教会に入って、シェス様にお仕えするのは変わらないし。シェス様に教母になってもらうことはできないし)
「……そうなのか?」
(そう)

 話がわからないルドクは不思議そうにイリに問うているイシュラの服の裾を何度か引く。

「ああ、イリが、シェス様に教母になってもらうことができない、と言うから」
「あ、それはそうですね。イリよりもシェス様の方が入信が遅いですから」

 教会の子であったイリは教会にひきとられたその時点から入信したとみなされる。

「教母、教父というのは、母、父になる……教え導くということから、わずかでも入信が早い者にしかなれないのです。年齢の上下ではないのですね。つまり、ファナは入信が遅くていらっしゃる?」

 大司教の穏やかな声が説明をする。

「五歳なら充分早ぇだろ」
「……そうですね。失礼いたしました」

 つい年齢を失念します、と溜息をつくが、イリの申し出がよほど嬉しかったのだろう。目に見えてウキウキしている。
 シェスティリエの従者であるイリの教父という立場は、シェスティリエと目に見えてわかる絆をもてるという意味ではなかなか良いものだ。

「では、大司教、イリを頼みます」
「はい。頼まれました。……嬉しいです。これで、私がファナにいろいろさせていただいても構わないですね」
(調子に乗るなよ)
「イリ、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」
(教会についたら位のせいであんたに言いたいことを言えなくなると思ったから、こうするんだ)
「イリ?」
(シェス様のただの従者が大司教に暴言はいたらシェス様がとがめられるかもしれない。でも、たわけたことを言う教父になら何言っても、場合によっては多少手を出しても大概大目に見られるから)

 教会生活の長いイリには、具体例が思い浮かんでいるらしい。

「そうなのか?」
(うん)
「え、イリ……あのですね。私は一応、あなたの教父になるんですよ」
(わかってる。でも僕は何よりもまずシェス様の従者だから、たとえ教父といえど、シェス様の御為にならないことは排除する。シェス様に何かする時は僕を通してからで)
「ああ、それはいいな。イリ、たのんだぞ」

 にこやかに……それは、心からの笑みを浮かべてシェスティリエが笑うので、それは決定事項となった。

「なるほど、イリ、考えましたね」
(うん)

 その表情は晴れやかだ。
 吹っ切れたような、迷いのない表情でいるイリにアルフィナの心は揺らぐ。
 どうしよう、と自分で迷うばかりの自分に比べて、既に心を定めてしまったイリのその確かさが羨ましい。

「アルフィナ、そなたのきょうふはもうきめているからあんしんするがよい」
「……姫さん?」
「え、そうなのですか?」
「うん。わたくしのちちは、きょうかいでのみぶんはたかくないが、なかなかかおがひろいのだ。しょうかいじょうをいただいているかたにおねがいしようとおもっている」

 おかしげに笑うその表情にアルフィナはほっと安堵する。アルフィナは、シェスティリエの教父が誰かは知らなかったが、アルフィナの事情をよくわかっているシェスティリエがアルフィナに悪いようにするはずがない。

(シェス様はお優しいから)

 それは気まぐれのようなものなのかもしれない。
 アルフィナがシェスティリエに返せるものなど、現時点では何もないのだ。

「失礼ですが、その紹介状の宛先が誰かを聞いても構いませんか?」
「かまわぬが、きくからには、めんかいのやくそくをとりつけてもらうぞ」
「構いません」

 自信たっぷりにうなづいた大司教にシェスティリエは言った。

「現教皇ユベリウス7世」

 車内の空気はシンと静まりかえり、ごとごとと馬車の車輪が回る音だけが響いていた。





 ********************************

 2014.09.21 更新
 すごくすごく久しぶりですが、続き書きます。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.12833189964294