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[1154] Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~ 『完結』
Name: 舞天死◆68efbbce ID:c760b461
Date: 2009/02/11 00:34
2009年2月11日 完結。


これまで応援してくださった全ての人々へ。
そしてこれから読んでくださる全ての人々へ。

ありがとうございます。

どうかこの作品をよんで、楽しんでいただければ幸いです。


(完結にあたり、序章-01のタイトルを改変していますが、内容に変化はありません。)



[1154] [序章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:35d5944b
Date: 2009/02/11 00:30
『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「序章-01」





 俺が産まれたそのとき、いや、その10年ほど前から世界はとんでもないことになっていたらしい。

 地球外の謎のセイメイタイ「BETA」が襲来し、世界中でその暴威を振るっていたというのだ。

 ……正直、ピンとこなかった。当然だ。なにせ子供の頃の話だ。両親だって理解させようとして話したわけではないだろう。

 ただ、この世界に産まれて来た、これから生きていく俺のためを思って、幼少の頃から聞かせてくれたのだろう。

 だから、わかる。理解できる。俺が産まれる以前から、今も尚続いているこの悲劇。世界中で様々な人たちが流している涙の意味を理解できるくらいには大人になった。

 はは、自分で「大人になった」とか言ってちゃ世話ないけどな。でも、見栄を張れるくらいには成長したつもりだ。

 そんな話をしていると、眼の前で中等学校の課題集を悲鳴をあげながら解いていた幼馴染が、こう、もんのすごい変な顔をしていた。

「……なんだよ、ただでさえ見れない顔なのに余計おかしなことになってるぞ」

「タケルちゃんが真面目なこと言ってる……」

「天罰!」

「ぁいたぁーっ!? タケルちゃんがぶったーっ!」

「お前が莫迦なこと言うからだろうが!」

 まったくけしからん。折角この俺が一大決心を語ってやろうというのに。出だしからこれではなんだか凹んでくる。くっ……そんなに俺は不真面目だったのか?

 眉をハの字にしてぶたれた頭部をさすっている幼馴染に、一度咳払いしてから改めて話を切り出す。

「いいか純夏、……真面目な、話だ」

「う、うん。……わかった。タケルちゃん、真剣だもん」

 からかったりはしない、という意思表示だろう。純夏は姿勢を正した。む……自分で言っておいてなんだが、こういう真面目な雰囲気は緊張するな。

 し、しかも……改めて考えれば、これはアレか? いわゆる「ぷろぽぉず」というヤツに該当するのではないだろうか。いやいや、さすがにそれはいき過ぎだ!

 しっかしろ白銀武。落ち着け、落ち着いて深呼吸――ガハッゲホッ――まずぃ、唾吸い込んじまった!

「タ、タケルちゃん?!」

「げっ、げほ、げほげほ、い、いや、大丈夫だ!」

 ふぅ、嫌な汗かいちまったぜ。ははっ、なんだかな。結局どう取り繕ったって、こいつの前だと全然格好つかねぇや。ああ、そうだ。そうだったよな。俺は、そのために決心したんだ。

「純夏」

 心配そうにこちらを見つめる幼馴染の少女を正面から見据える。う、なんで頬を染めるんだっ。こっちまで赤くなっちまうじゃねーかっ。

「す、純夏……」

「う、うん。タケルちゃん」

 ええい男だろう一気に決めろ! 覚悟は出来てるんだ。だから、今夜こうしてわざわざ純夏の部屋まで乗り込んできたんだろう?!

 もう一度深呼吸。今度はむせることもなく、静かに肺まで染み渡る。ああ、大丈夫だ。







「俺は、衛士になる」



「……え?」







 瞬間、部屋の空気が止まった。壁に掛けられた時計が無機質に秒針の音を刻む。

 しん、と静まり返った愛くるしい少女の部屋で、俺たちは向き合ったまま。

 純夏の表情は、色がない。驚いているのだろう。呆然としているのかもしれない。俺の言ったことを理解できないはずはないのに、それでも懸命に違う意味を探そうとしているのかもしれない。見開かれた瞳はこちらを向いたまま、けれど、ピクリとも動かない。

 疑問の音を発したまま固まった唇が震えているのがわかる。ノートの上に置かれた手が、いつの間にか握り締められて白くなっていることに気づいた。

 頭では理解できていない情報を、けれど純夏の身体はしっかりと理解し、反応しているらしかった。



 ――驚愕。



 きっと、それはそういう類の感情だ。

 そりゃそうだ。俺だって、純夏が衛士になるなんて言い出したら驚きを通り越して呆れるか、現実味がなさ過ぎて信じられない。

 いや、その言葉自体を、信じようとしないだろう。きっと聞き間違い。だってそんなことがあるはずない。

 そんな風に言い訳して、聞き直すんだ――今の純夏みたいに。

「や、やだなぁ、タケルちゃん。そんな冗談。あはは、あたし莫迦だから騙されちゃうところだよ~も~」

 より一層、握った拳に力が込められる。震える唇に乗せられた言葉は、哀しいくらいわなないて届いた。

 ああ、純夏。ごめんな。お前がそう言うことを、そうやって泣きそうな顔をすることをわかっていたのに。でも、俺は。

「違うんだ、純夏。俺は衛士になる。もう決めたんだ――純夏を護りたい。お前の居るこの町を護りたい。親父にお袋、純夏の両親も、この国も、世界も」

 全部全部、護りたいんだ。ああ、純夏。そんな顔をしないでくれ。ちゃんと言えたんだ。自分で考えて自分で決めたことを。他の誰でもない、俺の口で、体で、心で「お前に」言えたんだ。

 だから……さ。笑ってくれよ。笑って送り出して欲しい。タケルちゃんなら大丈夫だよって。そう言って微笑んで……、

「ず、」

「ず?」

 俯いてしまった純夏の肩が震えている。な、なんだ? 本当に泣いちまったのか?! ま、まずい! 気まずい雰囲気になることも覚悟してたけど、実際に泣かれると色々とその、こ、困るぞっ!?

「ずるいーーーーーーっっっ!! タケルちゃんだけそんなのず~る~い~っ!!」

「ハァ?!」

「あたしも衛士になるーっ! なるったらなるんだからねーっ!! 見てろ~っ、タケルちゃんより強いつよ~い衛士になってタケルちゃんを護ってやるんだから~っ!!」

「お、おまっ、何言ってんだ純夏?! 駄目だ駄目だ駄目だ! 却下! お前が衛士になれるわけないだろーがっ! というかっ、お前ちゃんと話し聞いてたのか?!」

 顔を真っ赤にして、目尻に涙を浮かべて、まるで駄々っ子のように癇癪を起こす純夏。手を振り回し、机のノートや筆記用具、課題集まで投げつけて、叫んでいる。

「いやだーっ! いやだよぅ~っっ! タケルちゃんと離れるなんてやだぁ~っ!! タケルちゃんが衛士になるならあたしも衛士になるっ! そんで、二人でBETA倒して、二人でこの町でも国でもまもればいいじゃないさ~っ!」

 遂にはベッドの上の枕やぬいぐるみまで飛んでくる。まて、目覚まし時計は流石に――ゴガッ――痛ェ!!

 あまりの痛みに悶絶していると、先ほどまでの癇癪が治まっていた。代わりに、すすり泣く声。しゃくりあげながら、両手の甲で零れてくる涙を拭っている。

「ッ……」

 ズキリ、と。心臓の横が啼いた。泣いている。泣いて、泣いて、あんなに泣いて。純夏が、大切なおんなのこが、泣いている。

 誰だ? 純夏をあんなに泣かせたのは一体何処のどいつだ!? 眼を真っ赤にして、呼吸もままならないくらいしゃくりあげて。まるでこの世で一番大切なモノを喪ってしまったように泣いている!

 ……くそっ! 俺だよ! 純夏を、コイツをこんな風に泣かせているのは誰でもなく、俺だっ!!

 俺が衛士になるなんて言ったからだろうがっ。くそっ……わかってるんだ。わかってたんだ。

 でも、







「好きだ。純夏……お前のことが好きだ。護りたい。護る力が欲しい」







「ひっ、く、ひくっ、うぇ、えぇ」

「お前を護りたいんだ。泣かれることなんてわかってた。俺だって側に居たい。だってさ、産まれた時から隣りに居たんだぜ、俺たち。お前のほうがちょっとお姉さんだけど、そんなの関係ないくらいずっと一緒に居たんだ」

「タ……ケル、ちゃ、」

「そんな俺たちだからさ。純夏、俺はお前が好きなんだ。何度でも言うぞ。好きだ、純夏。好きだ、好きだ、好きだっ! 俺はお前を護る。俺がお前を護る! そのために俺は衛士になるんだ。わかってくれ……純夏!」

「ぅ、ぅうう、うわぁあああん! わかんない! わかんないよぅ~っ! タケルちゃぁん。あたしも好きだよぅ。タケルちゃん大好きだよぅ! 側に居たいよ、側に居てよォ……。なんで衛士になるなんて言うの? 衛士になるってことは、タケルちゃん兵隊さんになるんだよ? 戦場にいっちゃうんだよ? 死んじゃうよぉ~っ! そんなのやだぁ! タケルちゃんが死んじゃうのやだよおぉお!!」

 純夏の体を抱きしめる。ぶるぶると震える肩を力いっぱいに抱き寄せる。背中に食い込むくらい縋り付いてくる純夏を、いやいやと体を揺する純夏を、必死に抱きしめる!

 泣いて、泣き叫んで。俺が死んでしまうことを想像して、滅茶苦茶に泣いている。

「ばーか。そう簡単に死ぬかよ。第一、俺は純夏を護るために戦うんだぜ? 死んじまったら護れねーじゃねぇか。だから死なない。俺は死なない。絶対生きて、ずっと純夏のことを護る!」

 本気だ。

 好きな女を護るのに、死んでもいいなんて言えない。純夏を遺して逝くくらいなら、衛士になんてなろうとすら思わないだろう。

 俺は、本気で生き残る。生き残って、純夏を護り続ける最強の衛士になってやる。そして、いつかBETAを駆逐してみせる。

「だから。泣くな。俺は死なない。純夏を護る。ちゃんと純夏のところに帰ってくるさ」

「……ほんと、に?」

 涙まじりの、酷い声だった。あ~あ、鼻水までこんなに垂らして。可愛いやつめ。

「ほんとに、タケルちゃん、死なない? ちゃんと帰ってくる?」

「おう。男に二言はないぞ」

 まるで小さな子供みたい。まぁ、子供というには確かに子供な年齢なわけだが。ともかく、純夏は納得してくれたようだった。

 きゅぅ、と。震えるだけだった腕に力が込められて、俺の体を抱きしめる。縋りつくんじゃない、それは抱擁だった。

「タケルちゃん、あったかい」

「もうすぐ春だからなぁ」

「もぉ、そういうことじゃないよ。タケルちゃんのばかばか」

「へいへい」

 小さく笑いあう。照れたように頬を染める純夏。ベッドの脇のティッシュをつまんで、豪快に鼻をかむ。乙女がはしたないとは思ったが、確かに鼻垂れのまま抱きついているのは恥ずかしいのだろう。

 いや、むしろ改めて恥ずかしそうに抱きついてくる方がもうホントに死にそうなくらい恥ずかしいんだが。

 しょうがないので、溜息をついて再び抱擁。べ、べつに下心なんてねーぞっ!







 結局その日は夜が更けるまでずっと、純夏の部屋で抱きしめあっていた。大切なおんなのこ。護りたい幼馴染。好きな人。

 ああ、これで、俺はきっとやれる。腕の中の純夏の感触を忘れない。触れた彼女の唇の温度を忘れない。俺のために泣いてくれた、好きといってくれた言葉を忘れない。

 それがあれば、俺はきっと、やり遂げる。







 寝る前にまた純夏が自分も衛士になるなんて言い出したのはナイショだ。無論速攻で却下したけどな。







 ――1998年2月。俺が帝国軍横浜基地訓練校に入校する二ヶ月前の話である。







[1154] [序章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:35d5944b
Date: 2008/02/11 16:02

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「序章-02」





 1998年4月――





「体には気をつけてね。ちゃんと好き嫌いなく食べるのよ? それから、汗をかいたらちゃんと着替えて……」

「ちょ、ちょっと、お母さんっ。私いくつよ? そんな子供じゃないってば~っ」

 柊駅前の広場。私はぶんぶんと両手を振る。見送りはいいというのに、結局お母さんはここまでついて来た。まぁ、大事な娘が軍人になろうというのだからそれは心配になるのだろう。

 その気持ちはわかる。恥ずかしいけど、少し嬉しい。……う、私今すごく赤くなってるかも……。

 でも、お母さんは少し心配性だと思う。だって、これで二回目なんだよ? 三年前から全然変わんないなぁ。

 苦笑しながら、少しだけ照れながら、私はもう一度お母さんを見つめる。とてもとても心配そうな表情。ほんの少しだけ目立ってきた口元の皺。長く、手入れの行き届いた大好きな髪。

「お母さん、大丈夫だよっ! 私、頑張るから。それに、基地にはお姉ちゃんだっているんだし。だいじょーぶっ!」

 大げさなくらいが丁度いい。私は満面の笑みを浮かべてみせる。三年前、ここでお姉ちゃんを見送ったあの日から決めていたこと。

 お母さんを独りにさせてしまうけど、それでも、やっぱり私は衛士になる。お姉ちゃんと一緒に。…………あ、あのひとと一緒に。えへへ……。

 ――はっ、いけないけないっ。今はお母さんを安心させないとっ。

 こほん。んんっ。

「涼宮茜、見事衛士になってBETAを倒して、そしてお姉ちゃんと一緒にお母さんを護ります!! ね、だから安心して、お母さんっ」

「茜……」

 言葉の終わりと同時に抱きしめられた。お父さんが死んでしまってから、随分と細くなった腕。ずっと一人で私とお姉ちゃんを育ててくれたお母さん。一生懸命育ててくれたお母さん……。





 ――大好きだよ、お母さん。





 心の中で、囁く。えへへ……ちょっと恥ずかしいけど、言えてスッキリしたかな。

 顔を上げると、お母さんは泣いていた。ああ、ほんと。変わんないなぁ……。

 三年前を思い出して、少し懐かしくなった。あの時は私も泣いちゃって、お姉ちゃん困らせたんだっけ……。

 でも、うん……すごく、愛されてるんだって、わかるよ。お母さん、ありがとう。こんなに愛してくれて、今まで護ってくれて。

 ほんとに、ありがとうっ!

「お母さん、私、いくね」

「……茜、気をつけて。頑張りなさい」

「――ッ、はい!!」

 つぅっ、と。頬を一筋流れ落ちる。ちぇ、泣いちゃった。お姉ちゃんは泣かなかったのになぁ。

 足元の荷物を取り、お母さんに背を向ける。

 これから四年間、私は帝国軍横浜基地訓練校に通い、衛士になるための訓練を受ける。

 訓練兵とはいえ、軍属になるんだ。お母さんとはこれでお別れ。家族の絆も想いもなくならないけど、私はここから一人の兵士となる。

 さぁ、行こう茜っ。大好きなお母さんとこの街を、この国を護るために。そこにはお姉ちゃんだっているんだから。

 生来のプラス思考で一歩を踏み出す。手を振るお母さんの気配を感じながら、私は横浜基地へと続く道を歩き始めた。





 そこに到る道筋は長い一本の上り坂。その坂道の両脇に植えられた桜はそれはもう見事な七分咲き。少しの涼やかさを含んだ風に気の早い花びらがちらほらと散って、淡い絨毯を織り上げている。

 素直に、綺麗だと思った。

「うわ、すごっ」

 思わず本音。こういうときにもっと風情のある台詞はでないんだろうか。

 益体もなく考えながら、半ば呆けたように桜の続く坂を見上げる。随分と高い丘の上に、少しだけ見える建物がおそらく基地なのだろう。桜並木が折り重なって、その全貌は窺えない。

 大分余裕を持って出たから、入校の手続きまでまだ時間がある……。うん、ちょっとだけならいいかなっ。

 そうと決めたら早速堪能。道の左脇に植えられた桜の根元に近づいて、もっとよく見ようとしたそのとき、私はそれに気づいた。

 男の子と女の子。

 桜の木の下で、しっかりと見詰め合っている。

 男の子の足元には大きめのバッグ。対して、女の子には荷物がない……。考えるまでもなく、その光景が意味するところは一つしかなかった。

(あー……邪魔しちゃうところだったわね)

 気づけてよかった。うんうんと頷いて、つい先ほどまで自分も同じようにお母さんと向き合っていたことを思い出して、少し赤面。う、私も他人にはあんな風に見えてたのかしら?

 だってしょうがない。こればかりはしょうがない。愛するひととの別れは辛いのだから。だからきっと、あの二人もそうなんだろう。

 女の子がなにか喋っている。一生懸命笑って、男の子が困らないように、微笑みで送ろうとしている。男の子は少し苦笑気味。なんだか、女の子の気持ち全部わかってるって感じかな……う、ちょっと羨ましいかも……。

 いいなー、私もあんな風に……って、違うでしょ茜。私は衛士になるんだから、まだその一歩も始まっていない内から何考えてるのよ、もー。

 頭を振って邪念を払う。あ、いい加減観察しててもしょうがないし、これ以上は流石にお邪魔虫よね。

 そう思って踵を返そうとした時、またも私の足は止まり、今度は目が釘付けになった。



 女の子が、少し背伸びして、胸の前で手を組んで……そして、そして、



 恥ずかしそうに頬を真っ赤に染めて、眼を……閉じて、――ごくっ、――薄桃色の、唇を…………



 ――っっっって! ここ往来だってばっ! ほら、ほらほらっ、今日は訓練校の入校の日で、私以外にもたくさんここを通るわけでっ! ていうかっ! キャーッ!

 なにこれなにこれなにこれっ??! き、きききき、きすっ?! なの!!? これっ!

 うわー、うわー、うわーっ。大胆~っ! 信じらんないけど、恋は盲目ってほんとなんだ……。うん、憶えておこう。

 男の子がもんのすごく真っ赤になってる。女の子が何を求めてるのかわかってるんだ。瞬きを何度か繰り返して、あ、しっかりと目を開いた。両手で女の子の肩を抱いて……――ゴクリ。

 だめ、駄目よ茜! ここから先は見ちゃ駄目!! ああでも、最後までみたいかも~っ。はぁはぁ、ちょっと、なんで私が興奮してるのよっ?!

 ああああ、そう言ってる間に男の子がぐっと、ぐぐっと顔を近づけて――――ッッ、キャアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!

 いま、今いまいまっっ!? ちょん、って。ちゅ、って???! したの? キスしたの??! こんな往来で? 私以外にもすごい注目されてるのに……?!

「ッ??!」

 あ、いま、男の子と眼が合った……。うわ、しかもキョロキョロして慌てて女の子から離れて、さっき以上に真っ赤になってる……。

 もしかして、観られてることに気づいてなかったとか……? あ~……なんか、そうみたい。あははすごい慌ててる。変なヤツ。

 あ、女の子も気づいたみたい。真っ赤になって俯いて……うわぁ、こっちも相当ね。あーぁ、春っていいなぁ。ゴチソウサマデシタ。



「じ、じゃあっ、俺行くからっ! 純夏ッ! 元気でなっっ」



 男の子が早口に、瞬時に荷物を持って走って行こうとする。凄い大きな声だった。多分、気が動転して混乱してるんだろう。顔、真っ赤なままだし。



「――あっ、待って! タケルちゃん! 待って!!」



 こちらも大きな声。でも、男の子と違って、とても必死な……でも、どこか哀しくて暖かな声。

 女の子が自分の髪を結っていたリボンをほどいている。鮮やかな黄色をしたそれを、数歩先に居る男の子に駆け寄って手渡した。

 ああ、そっか。――お守りだ。





 女の子が、とびっきりの笑顔で、大事そうにリボンを受け取った男の子を見つめている。

 男の子が、とびっきりの笑顔で、大事そうにリボンを受け取って女の子を見つめている。





 そして、お別れ。最後に小さく抱擁を交わして。

 男の子は坂の上へ。女の子はその背中をじっと見送って。

 ふわりと、緩やかな風が吹いた。路上に散った桜の花びらが女の子を包むように舞い上がって……。



 そして私は、女の子の横を通り過ぎ、ちょっとだけ羨ましいと思った彼女のために、その男の子の力になってあげようと、そんなことを考えていた。









 まぁ、その後入隊式を終え訓練部隊に割り振られたとき、まさか同じ隊になるなんて思わなかったのだけど。

 偶然って、怖いなぁ。





 ――それが、私こと涼宮茜と、白銀武の出逢いだった。







[1154] 復讐編:[一章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:dbb4b752
Date: 2008/02/11 16:03

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:一章-01」





 帝国軍横浜基地衛士訓練学校――。それが、これから四年間、俺が衛士となるための訓練を積む場所だ。

 通常は衛士訓練校とか、単に訓練校とか呼ぶらしい。いや、実際俺も「訓練校」と呼んでいたわけだが。

 ここでは多くの人間が心身ともに鍛え合い、成長を遂げ、人類を、世界を救うための術を身に付けるために日々鍛錬に鍛錬を重ね、精進している。

 人類の敵であるBETAを打倒するための能力と技能を磨き、一日でも早く平和な日常を取り戻すために研鑽を積む場所。

 幼馴染の純夏を護るための力を手に入れる場所……。そうだ。俺はそのためにここへ来た。覚悟は既に出来ている。ならば、後は実践あるのみ。どんなに辛い訓練だろうが耐え抜いて、自身を鍛え上げてみせる。



 と、まぁ自己に埋没するのはこれくらいにして。

 眼を開ければ興味深そうに俺の顔を覗き込んでいた赤髪の少女。純夏よりも少しオレンジや茶色に近い色合いの髪を肩の辺りで揃え、カチューシャをつけたそいつと眼が合う。――なんだ? なんで眼を逸らす??

「あ~、やっと戻ってきたねぇ。君、大丈夫?」

「なにが?」

「……なにが、って……。はぁ、まあいいや。君って面白い子だね」

 何が面白いのかよくわからないが、にへら、と笑う青髪の少女からは、その言葉遣いもそうだが、なんとなく親近感を与える印象がある。

「で、自己紹介なんだけどさ、ヒトの話、聞いてた??」

「え? あ、いや、……すまん。聞いてなかった」

 がくりと項垂れる青髪ほか数名。橙色の髪のヤツは――涼宮だったか? ――なんだかジト目で呆れたような表情をしている。

「あはは、まぁいいや。それが君の持ち味ということで。えっと、じゃあ改めてなんだけど、わたしは柏木晴子。晴子って呼んでもらえると嬉しいけど、ま、呼び易いように呼んでよ」

 しゃきしゃきとした口調で、またも親近感を抱かせる笑顔。うーん、こいつ、いい性格してるな。物怖じしないというか、初対面の面子の中でこうも一緒に居ることに違和感を感じさせないのは一種の才能なんじゃないか?

「――よろしくな、柏木」

「言ってる側から苗字なの? ま、君がいいならそれでいいけどね」

 いや、いいって言ったじゃん。……だが、確かに本人が呼びやすい呼び方が一番いいというのには賛成だ。

 一言二言、柏木が簡単に自分のプロフィールを紹介し、はいと左隣の少女へ振る。そうだ、そうだよ。入隊式も終わって、一緒に訓練を受ける分隊単位に割り振られて……教官の勧めもあって昼食の時間を利用してのコミュニケーションを図る最中だったな。

 いかんいかん。気合が入りすぎて少し周りを見失ってたみたいだ。

 これから一緒に戦っていく仲間なんだから、最初でつまづいて気まずくなんてなりたくないしな。

 と、またも自己に埋没してる間に俺の番。まずい……柏木以降聞いてなかった……。ぇっと、後でこっそり教えてもらおう……うわ、思いっきりつまずいてるよ、俺。

 ほんの少しの自己嫌悪に苛まれながら、確認するつもりで自分の左隣からぐるりと一周見回してみる。ええと、このすぐ左隣が涼宮茜、で、その隣りが築地多恵、テーブルを挟んで向かい側が柏木晴子で、……そうそう、その隣り二人を聞きそびれたんだな。で、またテーブルを挟んで俺、と。

 同年代の女の子にぐるりと囲まれると少々緊張……というか、気後れしてしまうな。

 ともあれ。

「武だ。白銀武。よろしく頼む」

「知ってる知ってる。タケルちゃんだよね」





 ――――は?





 見れば、柏木、そして隣りの涼宮がいい感じに笑みを浮かべている。柏木は相変わらずの人懐っこい笑顔だが、涼宮のは……なんていうか、「ニヤリ」って感じだ。うわぁ、すげぇ的確な表現かもしれないと思う俺が怖い。

 女の子はそんな笑い方しない方が言いと思うぞー。主に俺の精神的に。

 いや、そうでなくて。

「か、柏木……なんで、おまえ、」

 恐る恐る尋ねる。お前と俺は初対面のはずだ。間違いなく、一度たりとも、俺はお前に会ったことはないぞっ?!

 ほら、他の子たちは「なにそれ、タケルちゃん??」とか首傾げて不思議そうにしてるし。というかですね、涼宮さん? お、お前もなんでそんなイイ笑みなんだよっ?!

「あはははは、ま、あれだけ堂々と見せ付けられちゃあねえ。割と有名だよ? 桜の木の下で想い人と別れの口付け……あー、いいなぁ。わたしもそんなひとが欲しいなぁ」

「ぶーーーーーーーーーーーっっっ??!!!!」

 豪快に噴き出す。なんだとっっ?! まさか、まさかまさかまさかぁあああ??!!

 居たのか!? 見たのか!!? あの時、あの場所に!? ぎゃ、ぎゃぎゃああああーっ!? オー、ノーッ!

 まずい、まずいぞ。なにがまずいって柏木の笑顔の意味に気づいたからだが、これは些かどころか致命的にマズイッッ!!

 変なこと言いふらされる前になんとか誤魔化さねばっっ……!

「想い人と口付け…………って、ぇえええ?! 白銀君、恋人が居るの!? わ、わ、すごい。同い年なのに」

「い、いや、そう大げさな話じゃなくてな築地、」

「そうかなぁ? これでも随分曖昧に言ってるんだけど、もっと詳しく説明した方がいい?」

「お前は黙ってろっっ!?」

「じっっっと見つめ合って、少女は腕を組み眼を閉じて、少しだけ背伸びして……」

「ギャアアアア! それ以上言うな喋るな口を開くんじゃねぇええ! お願いします後生です勘弁してくださぃい!!」

 鬼だ! こいつひとの良さそうな顔してとんでもない爆弾抱えてやがるぞっ!?

 なんて女だ……侮れねぇ……。……そういえば俺、純夏以外の女子と話すのって久しぶりじゃないか? いや、むしろ初めてか?

 くっ、なんてことだ。純夏を基準に考えてたから対応を誤ったぜ。これからは注意しないとな。異性に限らず年齢も人種も関係なく、様々な人と関わりを持っていくんだから、これはいい教訓だ……。

 な、だからな? もうそろそろいい加減に俺と純夏のネタで盛り上がるのは本気で勘弁してください。

「あ、白銀泣いてる。あはははは、変な顔~」

 涼宮がさも嬉しそうに笑っている。お前、俺に恨みでもあるのかよ……。くそぅ。

「でもさ、実際、白銀は羨ましいよ」

「……あん?」

 笑顔のまま、涼宮が言う。――その笑顔は、先ほどと打って変わってどこか優しげだった。

「大切な人がいる。大切に想ってくれる人がいる。……そういうのって、すごく、大事なことだよね」

 護りたいんでしょ? にっこりと笑って。……不覚にも、見惚れてしまった。べ、別に浮気じゃないぞ。いや、浮気ってなんだよ。

 う~~ん。面と向かって言われると気恥ずかしいことこの上ないんだが、確かに、涼宮の言うとおりだ。

 俺にとって純夏は大切で、そして純夏も俺を大切に想ってくれてる。多分、それはとても大事なことだ。それが在るから、俺は戦える。そのために戦う、っていう……なんていうか、そうだな。そこが俺の拠り所ってヤツなのかもしれない。

 俺たちは衛士になるためにここにいる。それは皆、自分の大切で大事な護りたいもののために、ということだ。

 そして俺にとってのそれは鑑純夏……それは間違いなく、揺るがない。

 揺るがない……ん、だけど、さぁ。

「そしたらさぁ、白銀ってば真っ赤になって、でも、決心したみたいにキッ、と目を開いてさ!」

「そうそう、そして彼女の肩を力強く掴んでっ!」

「少しずつ近づく唇……お互いの呼吸が聞こえて……」

「どくんどくん、ああ、心臓の音まで聴こえてきそう……だめっ、恥ずかしいっ」

「うわぁぁ……すごい、すごい白銀君」

「男らし~~ッ! でも、その女の子も勇気あるなぁ! 自分からなんて、あたしにゃ無理だぜ……」

「はぅぁ~……恥ずかしいです」

「そして遂に! 二人の唇はっ……熱く、そして長い口付けを」

「お前らいい加減にしろぉおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」

 ぐぉお頭痛ぇ。俺、ひょっとしてずっとこんな扱いなのか?!

 なんだか、無事に訓練課程を終えられるのか不安になってきたな。四年だぞ、四年。ぐぁ、こんな連中と四年も一緒かよ……。

 純夏ぁ、俺、イキナリ挫けそうだ…………。





 そして、結局昼食が終わる時間まで彼女たちの桃色トークは続いた。

 恥ずかしさに耐えられず一足先に席を立とうとしたら、逃がさないとばかりに涼宮に捕まり延々からかわれたのは言うまでもない。







 ===







「随分と打ち解けたみたいだな。さすがに同年代というところか?」

 入口から、教官が現れる。全員起立して敬礼。美人で凛々しい雰囲気を醸し出している我らが教官様は少しだけ微笑みながら教壇についた。

 俺たちも自分の席につく。

「さて、これから四年間、貴様たちはこの横浜基地で衛士となるべく訓練を積むわけだが……、この中に衛士が一体どんなものか知っている者はいるか?」

 俺たち第207衛士訓練部隊の教官を務める神宮司まりも軍曹が、質問を投げる。一つの小隊には必ず専任の教官がつき、例外のない限りは卒業するまで訓練を担当することになるらしい。

 神宮司教官は俺たちと同期ではこの第207部隊を、他にも複数の先任訓練兵の小隊を受け持っているらしい。

「涼宮、答えてみろ」

「は、はいっ! 衛士とは、戦術機を駆り、BETAと戦う兵士のことです」

 涼宮がおっかなびっくり答える。いきなり当てられて慌てたんだろう。……ヒトのこと心配してる場合じゃないな。教官、ズバズバと手当たり次第に当てそうな気がする。

「そうだ。衛士とは戦術機を操縦する……いわばパイロットだ。当初、戦術機が戦場に配備された際にそのパイロットとなったのは戦闘機乗りだったというのは、貴様たちも知っているな」

「はい」

 そうだ。昔は衛士なんていうものは存在すらなかった。当時の軍人は偉大だぜ……。それまで戦闘機や戦車なんて物しかなかった状況でいきなり人型兵器だ。その操縦に戸惑いがなかったなんてことはあるわけがない。

 それでも、人類は戦術機を運用し、今現在では対BETA戦の中核を担うほどに練達したんだから、それはとても偉大ですごいことだ。

「この訓練校の最終目的は一人でも多くの衛士を送り出すことだ。中には訓練途中で退場したり衛士適性検査で撥ねられたりする者もいるにはいるが……貴様らに求められている物は唯一つ。衛士とはなにかをしっかりと理解し、意識して、そして精進を怠らないことだ。これからの生活はハッキリいって今までの日常とは比べ物にならないほど過酷だ。だが、それを当然にこなすのが軍人であり衛士であり……帝国軍人だ。この国、この世界を護り、人類に安全と秩序を取り戻すためにBETAを殲滅する。貴様らは、それを実行できるようになるために訓練を重ねる。いいな?」

「――はいっ!」

 神宮司教官の言葉に全員が強く頷く。なるほど、確かに厳しい。これまでの日常……か。そうだよな、衛士になるっていうことは、そういうことなんだ。

 純夏のためにも、俺はやり遂げなければならないんだ。ぃよしっ! 気合入れていくぜっ!

「ところで白銀、貴様には護りたいものがあるか?」

「はっ?! あ、はい! あります!!」

 ――スミカちゃんだよね――小声で柏木がナニカ言ったような気がするが無視だ。涼宮のニヤついた表情が見えた気がするが、断固無視だっっ!!

「そうか。ならば、その護りたいもののために、これからの訓練を真剣に取り組め。他の者も同じだ。まずは自分のため、そして自分の護りたいもの、大切なもの、そのために訓練に励め。最初の一年間は基礎体力の向上と軍人としての知識の詰め込みが主だ。最も地味で最も過酷でもあるこれを乗り越えるには、生半可な覚悟ではもたないからな」

 先に言っておくが、私は一切容赦しない。神宮司教官は口の端を吊り上げて獲物を見るような目で嗤った。こ、怖ぇえ。

 なるほど、確かにあんな表情されちゃ覚悟も決まる。途中で挫けないためにも、自分が何のために衛士を目指すのか、その原点を忘れるなってことだな?

「いいか、憶えておけ。訓練で汗を流したぶんだけ、戦場で血を流さずに済む――。これは私が経験してきた中で最も真実に近い。何事も経験あってのことだ。常に己を磨き、繰り返し身体に叩き込むことを忘れるな。それが、優秀な軍人となるための第一歩だ」

「はい!」

 俺たちの返事に一つ頷くと、教官は眼を閉じた。少しの黙考の後、

「よし、今日はこの横浜基地を案内してやろう。当然だがPX以外にも基地には色々と施設も設備もある。訓練兵が立ち入ることの出来ない箇所もあるが、自分たちがどんな場所に居るのかを知ることも衛士の勤めだ。ついてこい」

 言うが早いか、教官は教室を出る。慌てて後を追う俺たちだが、教官はちゃんと廊下で待ってくれていた。――当たり前か。





 そして、衛士になるための俺たちの訓練第一日目は終了した。





 晩飯の時に純夏のことをあれこれ聞かれたが、断じて話してたまるかっっ!!

 特に涼宮・柏木っ!! お前らヒトを玩具にするんじゃねぇええ!!







[1154] 復讐編:[一章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:29ee9f72
Date: 2008/02/11 16:03

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:一章-02」





 戦術機適性検査、というものがある。これは、そもそも衛士としての適性を調べるもので、この検査の時点で撥ねられてしまえばそこで衛士としての道は閉ざされるという、衛士を目指す者にとって、とても重要な検査だ。

 戦術機は巨大な機械だ。人間の動きで再現できないものはなく、それ以上にヒトとは比較するのもおこがましいほどの機動を実現するそのシステムは、曰く――揺れる。

 それはもう、酷いくらいに。

 眼の前で二つの筐体が激しく動いている。現在柏木と築地のふたりが検査中。……本当に人が乗ってるのかと疑いたくなるような人畜有害な動きに、ハッキリ言って言葉がない。

 いや、言葉がないのに言うというのは少し変だが……。それほどに予想以上だったってことだ。その心中は推して知るべし。

「これで、簡易検査なんだ……」

 少し乾いた声。涼宮が頬を引き攣らせている。……無理もない。

 本格的な戦術機特性を調べるのは、四年後の総合戦闘技術評価演習に合格した後に行われ、それは実際のシミュレーターを使用したものなのだそうだ。

 本物の戦術機の動きを再現するシミュレーターは、こんな筐体とは比べ物にならないらしい。

 検査前の教官の表情を思い出す。……うわぁ、絶対こうなることを予想してたよな、あの人。……怖いお人よ。

 ――ブシュゥウウ……。先ほどまでの激しい動きが緩やかに終わりを告げる。どうやら検査は終了のようだ。神宮司教官が通信機に向かって指示を出している。しばらくすると筐体の扉が開き、顔面蒼白になった柏木と築地がフラフラになりながら出てきた。

「…………」

「…………」

 二人とも何も言わない。検査前に渡されたエチケット袋は膨らんでいないから、最後の一線だけは守り抜いたのだろう。だが、今ここでストマックブロー……いや、ボディブローで十分か? を喰らいでもしたら……ぉぉお、想像するに恐ろしい。

 夢遊病者のように俺たちの前を通り過ぎ、長椅子に腰掛ける。どこか遠い眼をしているのがやけにリアルでこっちまで気分が悪くなってきそうだ。

 さすがの柏木も、いつもようにヘラヘラと軽口を叩く余裕すらないようだ。――しおらしい柏木ってのも、気持ち悪いな。

 そんな、本人が聞けば憤慨するだろうことを考えながら、月岡と立石の二人が生贄の祭壇に引き摺られるように筐体へと入っていくのを見送った。

「晴子、大丈夫?」

 声に振り返れば、涼宮が柏木を見つめている。築地に声を掛けないのは……たぶん、返事をしたらリバースしそうな雰囲気を感じ取ってのことだろう。うん、思いやりは大切だな。

 その分、柏木は――顔色はそれはもう悪いのだが――若干余裕が見受けられる……ような、気がする。

 重度の乗り物酔いには違いない。そっとしておいてやったほうがいいようだった。察したのだろう、涼宮も諦めてこちらへ並ぶ。苦笑しながら涼宮に手を振った柏木は、やっぱりいつもの調子には戻れないらしい。

「ね、ねぇ白銀……」

「なんだよ……」

 服の袖を涼宮が引っ張る。子供かお前は。

「大丈夫、よね?」

「俺に聞くな……」

 あはは、と乾いた笑い声。諦めろ涼宮。どう心配したところで、次が俺たちの番ということは変わらない。潔く覚悟を決めて、やってやろうじゃないか!

 と、そこでタイミングよく検査終了。やはり月岡も立石もへろへろだ。

「次、1号機に涼宮。2号機に白銀!」

 神宮司教官が俺たちを呼ぶ。――うっし! 衛士になると決めた以上、やってやるさ!

 気合を入れて、いざっ!!





 …………結論から言うと、全然、大したことなかった。

 拍子抜けして筐体から出ると顔面蒼白の涼宮。まるで平気な俺を見て、驚愕。見れば、大分顔色のよくなった柏木たちも、信じられないと言った表情でこちらを見ている。

 ――え? 俺なんかやったか??

 いや、確かに揺れたけど……でも、そんなに物凄く酷いというわけでもなかったし……あ! ひょ、ひょっとして、俺の時だけ機械が故障したとか?!

「……白銀、なんともないのか?」

 神宮司教官が尋ねてくる。その声音はどこか信じられないというか、むしろ、当てが外れてがっかり、というものだった。――なんでだ?

「は、いえ……あの、俺の時だけ故障してたわけじゃないですよね?」

「ああ、そうだ。検査装置は故障していないし、内容も皆と同じだ。……本当に、なんでもなかったようだな」

 どこか複雑そうに、手元の書類と俺を見比べている。なんだ、あの紙? ひょっとして、今の検査結果かな。

 教官は一つ咳払いして俺たちを整列させる。検査が終わったばかりでふらふらの涼宮を、こっそりと支えてやる。済まなそうな視線を向けてくるが、あえて気づかない振りをしておいた。

 ま、貸しひとつってとこかな。こんなの全然貸しでもなんでもないけど。

「さて、一通りの検査が終わったわけだが……結論から言えば、貴様たち全員合格だ。……揺れが続くと三半規管が混乱し、いわゆる乗り物酔いとなる。視覚情報や乗り物の環境、本人の健康状態によっても左右されることがあるが、しかし、これは当然の生理反応だ。気に病むことはない。それに、今回の測定値はあくまでも実際の戦術機特性を調べるための比較データ採取のためのものだ。余程の過剰反応を見せない限り、合格になる」

 全員合格という事実に涼宮たちに歓びの波が広がる。いや、涼宮に関して言えば浮かび上がった気持ちがすぐに揺り返されて沈没していたが。

 柏木なんか既に快復していてやたら笑顔が眩しい気がする。いや、俺も嬉しいんだけどさ。

「で、だ。白銀」

「はいっ」

 またも名指し。やっぱり俺、なにかやったのだろうか……。

 さっきからそれが気になってしょうがない。適性検査に合格したのに、素直に喜べないのはそのせいだ。

 一体、俺は何をやってしまったのだろう……? ただ単に筐体の中で座っていただけのはずなんだが……。ハッ?! まさか、途中、揺れがあんまりに心地いいんで眠りそうになったことかっ?! く……確かに、検査とはいえこれは大事な衛士になるための第一歩。俺の心構えに隙があったと言われてもしょうがないぜ。

 ここは、素直に叱られておこう。反省して、次に活かせばいい。さあ、教官。ビシッと言ってください!!

「お前は、本当にニンゲンか?」

「――――は?」

「……いや、いい。忘れてくれ」

「あの、教官?」

 あれ? 怒られないの?? なんで? ていうか、ニンゲンか、って……ははは。やだなぁ神宮司教官。そんな冗談。

「すまない。気分を害したならそう言ってくれ。……しかし、心拍・呼吸・精神状態……どれをとっても平常そのまま。若干の興奮がみられたが、それは誰も同じことだ。実際の戦術機とは比べ物にならないとはいえ、相当な揺れには違いないはずなんだが……ふ、まったく。興味深い男だな貴様は」

 にやり。神宮司教官の唇が歪む。うわ、なんか企んでる顔だ、あれ。

「楽しみになってきたな? これは」

 こっちは全然楽しくないです……。

「白銀、貴様の戦術機適性値は歴代の初回測定値の中でトップだ。しかも、ずば抜けて、な。今までの実績で言えば驚異的としか言いようがない。正直、今でも信じられないくらいだが……」

「は?」

 今、何とおっしゃいました??

 歴代トップ? 誰が? 俺? え? 戦術機適性の? え~……っっと?

「うそ……」

 隣りで涼宮の息を呑む声。柏木も築地も月岡も立石も、全員が目を見開いて俺と教官を行ったり来たり。

 どうやら聞き間違いじゃないらしい。本当に、俺は……?

「つまり貴様は戦術機に乗るために生まれてきたようなもの、というわけだ。だがな白銀、これはあくまでただの数値。データ上で適性値が高かったとしても、それが実戦で発揮されるとは限らない。貴様はまだ訓練兵。しかも、入隊したばかりのひよっこだ。そこをよく理解し、己の適性値に恥じない実力をみにつけてみせろ。いいな」

「――は、はいっ!!」

 思わず敬礼。教官は満足そうに敬礼を返してくれた。

「よし、ひとまず解散。午後からは基礎トレーニングを行う。各自、1230までにグラウンドに集合、昼食は済ませておけよ」

「敬礼!!」

 分隊長の涼宮が号令を掛け、全員で敬礼。さっきまでふらふらだったのに、さすが分隊長。意識が違うぜ。俺も負けてられないな。

 神宮司教官が検査室から出て行くのを見送って、俺たちも思い思いに散会する……のがいつもの常なんだが。あれ? なんで誰も動かないんだ?

「歴代一位……ねぇ。へぇー。すごいね、白銀君」

「ふーん、へー、ほー」

 なんだか満足げに頷く柏木に、思い切りジト目で見つめてくる涼宮。いつの間に復活してやがるんだお前は。

 鬱陶しいくらいの羨望(?)の眼差しから逃げるように、一足先にPXへ向かう。……戦術機適性歴代一位……か。へへ、なんだか知らないけど、衛士を目指すに当たって大きな自信になったかな。――と、いかんいかん。そうやってすぐに調子に乗るのが俺の悪い癖だな。増長するのはよくないぜ。

 ここは教官の言うとおり、自分の適性に見合った実力をみっちり身につけていかないとなっ!





 ===





 昼食をとり、207の連中と一旦別れて各自休憩。貴重な休み時間だが、腹ごなしに軽く走っておこうとグラウンドへ。

 つらつらと午後の訓練までの計画を立てながら歩いていると、ふと、誰かに呼び止められた……気がした。

 気がした、というのも、その呼び声というものがとても小さく、聞き間違いだったのではないかと思うようなものだったからだ。

 だが、間違いなく。誰かが俺を呼んでいる。いや、俺、というか……まぁ、そこに居るヤツ、ってことなんだろうが。

「なんでしょう?」

「ぉっ、やっと気づいてくれたか」

 声のほうに振り向けばそこは男子トイレの入口。なんでまたそんな所にその人は立っていて、しかも俺を呼び止めるのか。俺より頭二つ分ほど背の高い黒髪のその人は、ちょっとこっちこいとばかりに小さく手招き。

 正直、関わりたくないと思ったが、いかんせん現在自分は訓練兵。しかも入隊したばかりのひよっこ軍人だ。

 この基地に居る同期生以外の軍人は全てが敬うべき先任であり、ならば従わざるを得ないのが新人の義務だ。

「よぉ、悪いな。急に呼び止めて」

「いえ、構いません。それで、自分に何の用でしょうか?」

 それほど歳は離れていないらしいその人に、丁寧に答える。何故か苦笑を返されてしまったが、しかしその人はそれ以上気にした素振りもなく、キョロキョロ周囲を窺い始めた。

「用件というのはな、お前がここに来るまでに人にすれ違わなかったかどうかを確認したいんだ」

「……ひとと、ですか?」

「そ。しかもソイツは青髪をポニーテルにして、いかにも気の強そうで乱暴そうな怖い怖い女なんだが……見てないか?」

「は、はぁ……そのような女性とはすれ違っていませんが……ぇっと、」

 誰だよ、そんな怖い女って。思わず本音を口走りそうになるが、自粛。真剣な表情であたりを警戒するその人を見る限り、相当にヤバイお人なのだろう。

 言っては何だが、全身から「今ヤツに出逢うとマズイ」という雰囲気が発せられている。

「そうか……じゃあ、ここからが本題なんだが、――むしろ、こっちの方が色々とまずいんだが、」

 益々真剣になる表情。眉間に皺を寄せて、とてつもない気迫を漂わせている。……こ、怖ぇ……。

「長い髪でな、腰の辺まで伸ばしてるんだが、一見お嬢様風の、おっとりふんわりした空気を醸し出してる女なんだが……会ってないよな?」

「は? はぁ、いえ、会っていません」

 ど、っと全身の力を抜くその人。トイレの壁にもたれかかるようにして、深く長い溜息をついている。いや、あれは安堵の吐息か?

 しかし……よく意味がわからんが、この人にとってはいかにも気の強そうで乱暴そうな女の人よりも、一見お嬢様風でおっとりふんわりしている女の人の方が怖いらしい……どういうことだ???

 とても抽象的で、どちらも見たこともない特徴なのでイメージしか湧かないが……、なんだか関わりを持たない方が良さそうな人たちのようだ。

 なにしろ、目の前の一見精悍で鍛え上げられた肉体をしているいかにも衛士な人物がここまで過剰な反応を見せるような女性なのだ。

 余計なことに首を突っ込まない方がいいだろう。はやいとこ退散してランニングだ。

「そ、それでは、自分はこれで失礼します!」

「おーぅ。悪かったな、時間とらせて。しっかり鍛えろよ!」

 子供のような笑顔で、ばしばしと肩を叩いてくる。いて、いてて。なんて力だよこの人っ?! はぁあ、これが訓練の成果なのか?

 ……やば、ちょっとカッコイイとか思ってしまった。いや、確かに男の俺から見ても整った顔立ちをしてらっしゃる。……案外、さっきの女性たちふたりと色々揉めていて逃げている最中とかなのかもしれないな。

 そんな、本人に知れたら失礼どころじゃ済まないような想像をしながら、トイレを後にする。勿論、去る前に敬礼を忘れない。



 ――で、廊下の角を曲がったところでものすごく柔らかい物にぶつかったわけで。

 なんていうか、ふょん? っていう、そんな柔らかい未知との遭遇。

 え~~っと、ですね。さぁ、落ち着け。そう落ち着いて対処すれば何事もうまくいく。冷静に、呼吸を整えて、すーはー。

「つまりですね、俺はまだ成長期なわけでして、すぐに身長も伸びて二度とこんな真似はしませんっていうかこれは事故です!」

「……初対面でいきなり言い訳からっていうのも、珍しいわねぇ……」

 とても柔らかな未知体験から顔面を引き剥がし、一気にまくし立てるものの、底冷えのする声に思わず後悔。――まずぃ、選択を誤ったか?!

 恐々とその御尊顔を拝見するに、こめかみがひくひくと痙攣して、口元は見事に吊りあがっていらっしゃる。

 背は俺よりも頭一つ分高い。その存在を主張してやまない豊満なお胸は俺の顔面がぶつかったことなど気にしても居ないかのよう。

 そして、なにより。

 青色の髪をポニーテールにして……発するオーラからはいかにも気の強そうで乱暴そうな気配がぷんぷんと漂っている。

 ――あ、俺、やっちゃった?

 知らず、後ずさる。が、まるで読んでいたかのように距離を詰められて、

「あんた、いい度胸してるじゃない? ぶつかったことを謝りもしないどころかじっくり視姦までしてくれちゃって」

「してませんよっっ???!!」

「あら、言い訳? 言い訳男なんだ、あんた。ふーん。で? あたしの胸をたっぷりじっくり味わった感想は? きっちりきっぱり言っちゃいなさい――3、2、1、ハイ」

「すごく柔らかかったです! ――って、何言ってんだ俺ぇえええええええ!!??」

 ぎゃああ、何だこの状況は! さっきの男の人が言ってた女性は多分というか確実にこの人だ!! 確証はないけど確信したぞ?!

「あ、あの……っ、その、すいませんでしたっっ!!」

 速攻で頭を下げる。むしろこの勢いのまま土下座して許しを乞いたいくらいだ!

「あら、案外素直じゃない。狙ったように胸に飛び込んでくるから新手の変態かと思ったわよ」

「狙ってません!!! ほんとにあの、偶然でしてっ?!」

「もう、水月。いい加減にしてあげなさい。可哀想でしょ」

 にやにやと愉しげに俺をいじくるポニーテールさん(仮称)の背後から、長い髪を腰まで伸ばした一見お嬢様風のおっとりふんわりさんが現れる。

 苦笑気味にこちらへやってきて、気にしなくていいからね、とまるで弟を安心させるかのような天使の微笑み。ぉおう。思わずときめいてしまった。

「なによ遙。それじゃまるであたしが新人いびりしてるみたいじゃない」

 みたいじゃなく、そうでしょう。

「もう、水月ったら。孝之くんが見つからないからって人に当たることないでしょう?」

「あー、はいはい。まったく、遙ったら頭固いんだから。ま、いつまでもこんなので遊んでてもしょうがないし。さっさと孝之つかまえないとねー」

 こんなのですか。とほほ。

 しかし、既に二人の意識は俺にはなく、タカユキくんという人物にシフトしているようだった。話の流れ的に、さっきのトイレの人がそのタカユキくんなんだろう。

 ここは、ミツキさんの攻撃を回避するためにも点数を稼いでおくか?

「あの~、」

「あら、まだいたの?」

「ひ、ひどい……」

「水月!」

「わ、わかったわよ……で、なによ? 言っとくけど、くっだらない用件だったらその鼻へし折るわよ」

 なんて見た目どおりの人なんだ……。怖えよ。

「あのですね。さっきそこでお二人と同い年くらいの男性を見かけたんですよ。黒髪で、背の高い……」

「なんですって?! ちっ、もう外に逃げたかと思ったけど、まだここら辺をうろついてたなんて。誤算だったわ、行くわよ遙っ!」

「う、うんっ。あ、じゃあね。訓練頑張ってね」

 最後まで聞かずに既にトップスピードまで加速しているミツキさん。ふんわりと柔らかな笑顔で、初対面の俺に応援までしてくれるまるで天使のようなハルカさん。

 対照的な二人の後姿を見送って、なんだかとてつもない疲労感に襲われる。なんつーか……酷く、個性的なふたりだったな。

 さて、改めまして自己研鑽、と。廊下の向こうから聞き覚えのある声が悲鳴から絶叫に変わるのをあえて無視してグラウンドへ向かう。

 ――未熟な俺を赦してください……合掌。







 多分二度と会うことはないだろうと思っていた彼女たちとは、またばったり出くわしたり色々と面倒をみてもらったりするようになるんだが……それはまぁ、もう少し後のお話。







[1154] 復讐編:[一章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:e29f6607
Date: 2008/02/11 16:04

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:一章-03」





「モタモタするなっ! あと五分以内に完走できなかった場合はもう十周追加だっ!!」

 春の穏やかな陽射しがこの上なく鬱陶しいと思えるくらいに暑い。神宮司教官のありがたい怒号も最早霞んでしまうほどに疲労困憊。……なんだが、

 ――十周追加ぁあ?! 冗談じゃねぇぞ!!

 歯を食いしばる。思い切り顎を引く! 腕を振れ足を上げろ前へ前へ前へ前へっっ!!

「うっっぉおおおおお!」

 眼前に月岡の背中が見える。済まん月岡! これでお前は三周遅れだ!!

 そして、遂に、――ぃよっしゃあああ! グラウンド十周クリアだっ。

「ようし、白銀ェ! 元気が有り余っているようだな?! もう五周追加だ!!」

(何ィいいいいいいいいいいいいい???!?!!!!)

 勝利の余韻に浸る間もなく、俄然やる気の鬼軍曹の燃える笑顔!

 やべぇ、アレは本気の眼だ?! くっそおおおおお! こうなりゃやってやるぜぇえええ!!

 ――でも俺だけってのは納得いかーんっ。

「ぅわ……すごいね、白銀君」

「ホントに体力有り余ってんじゃないの……?」

 すれ違い様、柏木と涼宮が呆れたように呟くのが聞こえる。くそう、好き勝手言いやがって。

 お前らもなんか特別メニュー追加されればいいのによう!

 そんな、なんの意味もない悪態を心の中で盛大に叫びながら、残り四周を猛ダッシュ。

 かくして、月岡が十周走破するのと同時に計十五周走り抜いた。……どうでもいいが、月岡。お前体力なさ過ぎ。

「はぁ、はぁ、はひぃーっ」

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、つ、月岡……大丈夫か?」

 ゴールするなりぶっ倒れる月岡亮子。小柄な体格の印象どおり、どうやら体力に難ありの様子。

 先に走り終えていた涼宮ほか小隊の面々がタオルに水を差し出すが、どうやら受け取る気力さえ残っていないらしい。

「ちょっと、亮子~。あんた大丈夫??」

「あはは、まぁ、今は休ませてあげなよ。あ、白銀君、急に止まるより、何周かグラウンド歩いた方がいいよ」

「ぉ? おう。わかった」

 柏木のアドバイスに素直に応じておく。疲労した筋肉を休ませるには徐々に行うのがいいらしい。多少は知っているけど何故か柏木が言うと説得力がある。経験者は語るってやつか?

「……月岡は、まぁそっとしておくか」

 そして歩こうと足を踏み出すや否やまたも鬼軍曹の怒号。月岡の名を叫ぶその形相は本当に鬼のようだった。

「立てェ、月岡ァ!! そんなことでこれからやっていけると思っているのか?! 涼宮も柏木もそれ以上甘やかすんじゃない!」

 げ、それはちょっと厳しいんじゃないのか? それに、涼宮も柏木も甘やかそうと思ってるわけじゃないだろうに……。

 ……いや、違うか。これは学校の授業じゃないんだ。ここは衛士訓練校で、俺たちは衛士候補生だ。軍隊でやっていくには、多分これでも十分ぬるいのかも知れない。

「いいか、貴様らひよっこに十分な体力がないのは承知の上だ。だからこそここでこうして訓練を積み、相応の体力を身に付けていくんだ。だがな、そうは言っても下限はある。グラウンド十周した程度で疲れきっていて、衛士になれるなどと思うなっ?!」

 全員の表情が強張る。……確かに、こんな基礎体力の時点で限界が来ているようじゃ衛士になんてなれっこない。

 今日の訓練だってまだ始まったばかりだ。少なくとも、こんなところで足踏みしていていい状況ではない。

 ……結局のところ、本人の気力次第、か? 少し薄情な気もするけど、多分こればっかりはどうしようもない。

「よし、全員五分休憩の後、再度グラウンド十周。今度は周回遅れなんて無様を見せるなよ月岡!」

「はっ、はい!」

 怯える小動物よろしく敬礼。沈痛な面持ちで月岡を見つめる俺たちだが、どうやら本人はそれほど落ち込んでいないらしい。

 真剣な表情で、意志の消えていない眼差しで教官を見つめている。――はは、なんだ。根性あるじゃん。

「はぁ~、教官こわかったぁ~」

 神宮司教官が離れた隙に盛大に溜息をつく涼宮。いや、俺も怖かった。

「しっかし、亮子ほんとに大丈夫? マッサージしてあげよっか」

 しゃがみこみ既に足をもみ始めている柏木。なんというか手馴れてるな。

「晴子ってなんかそういうの詳しいな。白銀にもアドバイスしてたし」

 腕を組みながら立石。隣で築地も頷いている。月岡の足を揉みながら、苦笑気味に柏木が言う。

「ああ、……中等学校行ってたとき、部活でね」

「部活? 陸上でもやってたのか? ……というか、今時分部活やってる学校も珍しいよな」

「白銀君のところはやってなかったんだ? まぁ、部活って言っても、人数も少なくてカタチだけだったんだけどさ」

 柏木が言うには陸上ではなくバスケットらしい。どちらも走り回るということは共通しているため、こういうのは得意なんだとか。

「ぁ、でも、白銀くんってすごい持久力あるよね」

「確かに。追加で五周もらってるのにあたしらと殆どかわんないし」

「私は追いつかれました~……」

 築地、立石、月岡が揃って口を開く。いや、そりゃ俺も一応男だし。女には負けられないというか。

「ま、そういう安いプライドもいつまで持つか楽しみだよね~」

「お前はいつも一言多いよな涼宮」

 ニヤニヤと愉しそうな涼宮を笑顔で睨みつける。くくく、お前は今押してはいけないスイッチを押したぞ。

「なら、次の持久走、晩のおかず一品賭けるってのはどうだ?」

「へ~、白銀、自信あるんだ?」

 不敵な笑み。いい顔じゃねぇか。上等だぜ涼宮!

「貴様ら、そんな莫迦をやる気力があるのなら、二人揃ってこの装備をつけてもいいぞ」

 いつの間にやら背後に教官様の姿。ただならぬ雰囲気を醸し出しながら指差すのはケージに収められた装備一式。

 言葉をなくす俺たちをよそに既に走り出している他四名。お、お前らぁ~~っ!!





 結局、涼宮と二人装備を身に付けてグラウンド十周。時間内に走破出来るはずもなく、連帯責任で全員十周追加というありがたい仕置きをくらったわけで……。

 うん、賭けはよくないよなっ!







 ===







「で、話は変わるんだけどさ」

 唐突に話題を振るのはここ何日かで判明した立石薫の癖のような物だ。ま、ある程度今までの話に区切りがついた辺りで切り出すので特に問題ない。

 ないん……だが、油断するな白銀武。こいつが切り出す話の大半は俺に関するもの、特に純夏のことを話せと要求してくるのだ。

 女子がこの手の話題を好むというのは知っているし、実際こいつらその話になると目の色が変わる……。段々しつこく食い下がってくるようになってきたし、ここらで俺も決着をつけたい。

 すぅ――。人知れず、息を吸う。ぐっと腹に力を込めて、どんな暴言が吐き出されようとも即刻却下して今後一切の追及を拒否するのだ!!

「白銀ってさ、なんかやってた?」

「却下だ! ――って、ぁ?」

「……なにが却下なのか全然わかんねーんだけど……」

「あはははは、スミカちゃんのことでも聞かれると思ったんじゃない?」

「ああ、そうか。薫さん、いつもその話ですもんね」

「今日は外れだねぇ、白銀くん」

 ……なぜだ。どうして俺は今涙を流してるんだ……?

 予想が外れたことが悔しいのか、俺の思考パターンを既に読みつくされていることが哀しいのか……。ううっ。どうして俺の周りの女はこんなのばっかりなんだ。

 純夏ぁ~。俺、くじけないからなぁ~。

「泣いてる……気持悪っ」

「茜、それはさすがに酷いよ。あはははは」

 笑ってる時点でお前も十分ひでぇよ、柏木。

「おーい。さりげなくあたしの質問はスルーかぁ?」

 面白くなさそうな立石に、拗ねたような眼を向けてやる。う、睨み返されてしまった。なんていうか、好戦的なヤツだな。

「あ、ああ……。何かやってたか、か。……ん~~~~っ。やってなかった、と言えば嘘になるんだが。特に、本気でやってたってわけでもないしな……面白い話じゃないぞ?」

「それそれ。そういうの。面白いかどうかはあたしらが判断するんだから、白銀はさっさと話す! あと、恋人とのエピソードも交えながらねっ!」

「何でだよっっ?!」

 ぐ、やっぱり純夏を絡めてくるんじゃねーか! 油断できねぇ女だぜ。

 しかし、まぁ、確かに面白いかどうかは俺が決めることじゃない……ん、だろうけど。なんで、俺はこうもやりこめられてばっかりなのか。

 かなり凹むぞ……。も、もしかして、俺って一生こんな感じなんじゃ……? 少なくとも、四年間は……??

 う、うぁあああああああああああ!! イヤ過ぎる!! くっそぉおお! いつか、いつか見返してやるからなぁああ!

 と、とにかく。

 この問題は後に解決するとして。……いい加減話さないと本気で食いつかれそうだ。犬歯をむき出しにするのは止めろ。怖いから。

「ん、まぁ。あれだ。剣道……っつぅか、剣術、かな。ちょっとだけ」

「剣術ぅ?」

 なんでそんな意外そうな顔するんだよ。――涼宮、今似合わないって言ったろ?! 聴こえてんだよっ!!

「剣術ねぇ~。それって走ったりとか関係あるの?」

「……さぁ? どうだろうな。そういうの聞かなかったし。習ったのは素振りと基礎の型と、あとは繰り返しっていうか」

「はぁ???? なにそれ」

 言外に、面白くないという雰囲気全開の立石だが、話を振った手前疑問が残るのは嫌なんだろう。首をひねりながら尋ねてくる。

 他の面子も同じようで、俺の言った意味を掴みかねている感じだ。

「いや、だからさ。ホントにちょっと齧った程度なんだって。一応、習ったことはずっと続けてたけど、ちゃんと師事してたわけじゃないっていうか。むしろ気まぐれに剣の相手させられてたって方が正しいくらいだぞ」

 ガキの頃の話だ。近所の空き地で純夏と遊んでたらいきなり現れて俺に木刀渡して、お前には才能があるだのなんだの言っては適当なことしか教えないし。しかも俺がやる気になった次の日に幻のように消えてしまったという、俺自身意味のわからん体験だった。

 説明するのも難しいが、要するに、そういう変なオッサンに中途半端に習って……でも、純夏を護る手段の一つとして続けていただけだ。

「ま、今思えば休暇中のどっかの軍人だったのかも、ってことくらいしかわかんねぇし。……ん? なんか話の趣旨が変わってる気がするな。まぁいいか。だからって俺の体力がお前らより上回ってる理由にはなんねーよ」

 これでこの話はオシマイ。正直、これ以上聞かれても答えられることなんてない。

 立石の機嫌を損ねていないかが気がかりだが、特にご立腹と言う様子もない。むしろ、ぽかんとしている。

 周囲を見回せば他の連中も同じような表情だ。な、なんだ? また俺なんかやったのか?!

 ……ここで、すぐに自分がなにかやらかしたと思うあたり、重症のような気もするが……。

 しょうがないだろう? なんで男は俺一人なんだよぅ。くぅぅ、肩身が狭いぜ。

「お、おいおい。気になるだろ、黙るなよぉ~」

 沈黙に耐え切れず、恐る恐る話しかける。弾かれたように立石と涼宮が正気に戻り、遅れて柏木たちも頷いたりしている。

「ふーん。意外って言えば意外。……というか、すごく珍しいわね、それ」

「うん。剣術なんて、普通習わないわよ……」

「わたしも剣道やってましたけど、剣術は、ちょっと……」

 お前剣道やってたのかよ、月岡。……それなのにあの体力は……くっ(涙

「確かにね。剣術、なんていったらそれこそ実戦って感じがするし。案外、白銀君って好戦的なんだ?」

 口々に感想(?)らしき物を述べる立石以下。なんでお前は頬を染めてるんだ? 築地。

「そ、そんなに変か?? ま、まぁ、確かに俺以外にそのオッサンに習ってたやつは居ないんだが……」

「あー、いやいや。変って言うか。単に珍しいだけだって」

 なんだか落ち込んでしまいそうな俺に、涼宮がフォローを入れてくれる。なんだかんだ言ってこいつ、ちゃんと分隊長やってるよな。

 ま、普段の態度と合わせてプラスマイナスゼロなんだが。

「そういえば、聞いた話なんだけどさ。訓練の中には模擬刀を使った剣術訓練もあるんだって」

 これも涼宮。どうやらまだ俺が凹んでいると思ったらしい。

「へぇ? そんなのあるんだ。てっきり射撃とかだけだと思ってた」

「うん。剣術なんて、なんに役立つのかな?? 戦術機って、銃で戦うんでしょ?」

 続いて立石と築地。確かに、俺もそんなイメージがあったな。したり顔の涼宮に先を促してみる。

「確かに銃撃が主体になるみたいなんだけど、戦術機の基本装備には長刀に短刀もあるらしくって、弾切れしたときとか、状況によってはそっちの方が頼りになることもあるらしいんだよね」

 ほぅ。なるほど確かに。銃弾っつっても無限に在るわけじゃないだろうし。涼宮の言っていることも頷ける。しっかし、それってつまり近接格闘戦、ってことか?

 巨大戦闘機械による近接格闘……ぅおお、ちょっと感動。かっこいいとか思ってしまう俺は莫迦なんだろうか??

「でも茜、なんでそんなこと知ってるの?」

 柏木が最もな疑問をぶつける。む。確かにそうだな。別にただ単に知っていただけっていうのもあるだろうが、戦術機なんて一般人がそう眼にするものでもないだろうし。……そういえば聞いた話だって言ってたな。

「ああ、それはね。お姉ちゃんから聞いたんだ。――あ、あたしお姉ちゃんがいるんだけどさ、」

 ――涼宮に姉ぇええ??!! って、別に驚くことじゃないんだが。……なぜだ? 今、強烈な悪寒がしたぞ。





『で? あたしの胸をたっぷりじっくり味わった感想は? きっちりきっぱり言っちゃいなさい――3、2、1、ハイ』



『言っとくけど、くっだらない用件だったらその鼻へし折るわよ』





 なぜ、今、そんなことを思い出すのか……。い、いや、確かに、なんだか雰囲気が似ている気がしないでもないが。

 ハハハ。まさか、な。だ、だいいち、髪の毛の色なんて全然違うじゃないか。そうさそうに決まってる。気のせい気のせい。

「へー、お姉さんって、前話してた憧れの人と一緒の分隊なんでしょ? じゃあ、もうその人には会ったんだ?」

 柏木が朗らかに笑う。どうやら俺が自己に埋没している隙に話は進んでしまっているようだ。この癖、どうにかしないとな。

「ちょ、ちょっと晴子?! あんた何言い出すのよっ??!」

「あれ? まだ会ってないの? まあ、向こうも忙しいのかもしれないけど、ちょっと遠慮しすぎかなぁ?」

「ストップストップ、ストーーーップ!! それ以上何か言うの禁止~っ!」

 なんだなんだぁ? いきなり涼宮が慌て出したぞ? 状況から推察するに、柏木がなにやら涼宮の弱みを握っているようだが……。

 ギラリ。立石と視線が交錯する。……こういうときだけ息が合うのな、俺たち。

 アイコンタクトと言う結成して僅か数日のチームにしては上級のチームワークを発揮して、柏木に話を振る。

「憧れの人って言うのは?」

 まるでその質問がくるのをわかっていたとばかりに頷く柏木。くくく、どうだ涼宮。これがいつも俺が味わっている恐怖だ。

 …………、なんか、急に空しくなったな。

 い、いやいや! ここで落ち込んでどうする。ターゲットは涼宮なんだ。日ごろの鬱憤を晴らすいい機会だぜ!

「ああ、それはね。なんでもこの訓練校に入校したのはその人に憧れt……もごふごっ?! ふぐううううう???!!!!」

「は・る・こぉおおおお!!!? それ以上言ったらただじゃすまないわよぉおお!?」

 眼を血走らせた涼宮がテーブルの布巾を柏木の口に突っ込む! それだけで済ます気はないらしく両手で首を掴んで前後に揺する!!

 うおお、落ち着け涼宮っ?! それ以上はまずい! まずいって!!

 涼宮の身体を羽交い絞めにして、立石がすかさず柏木を救出! 慌てたように築地が俺に協力し、月岡が布巾を取り除いていた。

 ううむ、素晴らしきかなこの統率力。いや、分隊長が暴れてる状況で発揮されるチームワークって……深く考えるのはよそう。





 で、ようやく落ち着きを取り戻した涼宮を席に座らせて数分。顔を真っ赤にして自己嫌悪中の涼宮だが、その視線は恐ろしいほど険しい。

 さすがに調子に乗りすぎたか。立石、柏木と揃って素直に頭を下げておく。

 結局、涼宮の憧れの人というのはわからず仕舞いだったが、ま、俺含めて、みんなの新しい一面が見れたって言うのは、ちょっとだけ嬉しかったかな。

 なんか、少しずつ仲間になってきたっていうか……ま、そういうことだ。







 そして、一ヶ月もする頃には、なんだかんだ言ってお互いに気心知れたいい仲間ってやつが出来上がっていたわけで。

 俺が玩具にされてるってのは変わってないんだがな……ちくしょう。







[1154] 復讐編:[一章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:9e6e76fa
Date: 2008/02/11 16:05

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:一章-04」





 1998年5月――







 帝国軍横浜基地衛士訓練校に入校してから一ヶ月が経過。日々の訓練も到って順調。むしろ基礎体力作りばかりで少々辟易してきたというところ。

 ……もっとも、こんなことが教官に知られたら、その瞬間に地獄の特訓メニュー間違いなしなんだろうが。

 最近になってようやく座学のカリキュラムが組まれ出した。この戦争の歴史から軍隊という組織についての講義、兵士としての心構えに衛士の役割からなにから。

 要するに、教官も言っていたが最も地味で地道でツラ~イ、だが、重要な基礎知識。

 この時間を有意なものにするか無為なものにするかは本人次第。……つまり、寝てる暇はないってことだ。

 た、耐えろ……耐えるんだ白銀武ッ! いくら午前中の訓練でへとへとと言っても、ここで眠ってしまえば全て水泡に帰すぞ?!

「つまり、我々が戦うBETAというものはまとめると……地球外惑星を起源とする敵対的生命体であり、人類とは一切のコミュニケーションが成立せず、炭素生命系であること以外に共通するものは確認されていない……謎ばかり目立つ、しかしそれ故に厄介極まりない存在だ」

 現在BETAについての講義中。大戦の歴史から始まってまだ一時間も経っていないが、午前中の疲労とほどよい満腹感が混ざり合い、俺の意識を刈り取ろうと諸手を挙げて襲い来る。

 ま、負けてたまるかぁ……ああ、なんでもいいから、教官、当ててくれないかなぁ……そうすれば一発で眼が醒めるのに。

「次に、現在確認されているBETAの形態的特徴だが…………築地、……築地ぃいいいいい!!!!」

「!!??」

 な、なんだっ?! ――げ! 築地のヤツ、鼻提灯なんて器用な真似を……、って、そうじゃない!

「ふわぁあはいいいい??!!」

 弾けるように立ち上がり返事する築地。だが、それはあまりにも遅い……というか、誤魔化せていない。

 涎まで垂れていたらしい、机には小さな水溜り。目は焦点があってなく、意識も半覚醒と言う具合だ。

 流石にこれはフォローのしようがない。むしろ、下手をすると自分がこうなっていたかもしれないと思うと末恐ろしくて教官の顔を見ることが出来ない。

 すまん築地、不甲斐ない俺を赦してくれ……。

 と、悲観ぶったところに教官の怒号!

「いい度胸だ築地。つまり貴様はこの講義を受ける必要もなければ意義もないというわけだな? 呑気に眠っていられるほど退屈で無意味だというわけだ。ふん、いいだろう。だったら部隊の皆にBETAについて講義をお願いしようか? さぁ! BETAの形態的特徴について言ってみろっっ!!」

「はぁああ、はいいい!!? あ、ゎゎ、わぁ、」

 ――ひいいいいいい! こ、怖ぇえええ。ひょっとして、神宮司教官本気で怒ってないか?! なんていうか、今まで散々怒られてきたのが児戯に思えてくるほどの怒りっぷりだ。

 うぁ、築地のヤツ顔面蒼白になってるし。い、いや、多分俺も同じ顔をしてるはず……他の連中も、似たようなもんだ。

 ……確かに、講義は聴いてることが殆どで、身体を動かす訓練より退屈で意義を見出しにくい……。

 だが、だからって座学が不要かというとそんな訳があるはずもない。知識ってのは、どうやったって勉強しないと身につかない。繰り返すことで身体に覚えこませる体術やトレーニングとは全然違う。

 記憶し、理解し、様々な場面でそれを活かすための、これも一つの訓練なんだ。

 築地一人の問題じゃない。現に俺だって居眠りしそうになったわけだし。隊の連中だって認識が甘かったのは否めない。

 今回たまたま築地が眠ってしまったからこういう形になっているが……完全に、俺たち全員の怠慢を責められている。

 一ヶ月経って、訓練に慣れちまったからか? そんなつもりはなかったのに、いや、違う。実際に心のどこかで座学を莫迦にしている気持ちがあったから、こうなってるんじゃないか。

「どうした? 答えられないのか? 私の話を聞く必要なんかないんじゃなかったのか?」

「は、ぁ……も、申し訳ありませんっ!!」

「それはBETAの形態的特徴について答えられない、ということか? それとも、私の講義中に居眠りしたことか?」

「は、はい! 両方です……!」

 半泣き状態の築地が、喚くように答える。険しい表情をしたままの神宮司教官だが、眼を閉じるとそのまま俺たちに言い聞かせる。

「……いいか、貴様がBETAの形態的特徴について答えられないのは当然だ。BETAのことはその形状含め、多くのことが一般市民には伏せられている。これは情報を開示することによって起こるだろう民衆の不安の軽減と、心身ストレスを出来るだけ抑えるためだ」

 静かに、教官が続ける。立ったまま、築地は真剣な表情だ。無論、俺の気も引き締まっている。

「知らないことを答えられるわけがない。知らない知識は自分以外のところから学ぶしかない。そして、現在は教官と言う私が訓練兵である貴様達に講義を通して教えている。衛士が戦う相手はBETAだ。その戦うべき敵についての情報を知らずして何をどう戦うと言うのだ? 知らないのはいい。今はそういう時期だ。それを知るための講義だと言うことを忘れるな。……貴様達の小さな脳ミソに刻んでおけ! 優秀な軍人とは豊富な知識とそれを基にした経験がものを言う! 経験ばかりはそう簡単に身に付くものではないだろうが、知識は違う。学び、習得さえすればそれは身に付けられるんだ。貴様達は今、その重要な一つを学んでいるのだと知れ!」

「――はいっっ!」

 全員の声が重なる。

「返事だけは威勢がいいな。……築地、座っていいぞ。では、改めてBETAの形態的特徴について述べる。もっとも、現段階ではその一部についてに留めておくが、詳細を知りたいものは後で図書館にでも行くといい」

 神妙な面持ちで席に着く築地。……なんていうか、教官には俺達のことなんて全部お見通しなんだな。そりゃそうだよな。教官は本物の衛士で、その経験があるから俺達訓練兵の教導ができるんだ。

 そんな教官からすれば今の俺達はどこか腑抜けて見えるんだろう。衛士になる覚悟は出来てるなんて思っていたけど、実際、まだまだってことだ。

 くそっ……不甲斐ないぜ。いや、違うな。そう思うならより一層真剣に取り組めばいいだけだ。講義だろうが実技だろうが、どんなに辛い訓練だってやり遂げて早く一人前にならなくちゃな!





 そして講義は続き、休憩を挟んで再び体力トレーニングに筋トレ。どうやらこれからの数ヶ月はこの繰り返しらしい……。

 うぐ、決意したばっかりだって言うのに、思わず弱音を吐いてしまいそうだぜ。





 ===





「ぁ、あんたあの時の」

 晩飯を食い終わった後で、今日はPXで遊ぼうと言うことになり一時解散。再びPXへ向かう途中で、聞き覚えの声に呼び止められる。

 廊下の角、俺と同じようにPXへ向かう道中だったのか、青い髪をポニーテールにした強気なお姉さんが素敵に不敵な笑みを浮かべていらっしゃる。

「あ! ど、どうも。お疲れ様です」

「はいはいお疲れ。なによ、そんなに硬くならなくていいってば」

 鬱陶しいわね、とか言いながらしっしっ、と手を振る。いや、一応先任ですしそれなりに礼儀は必要なんじゃ?

 あと、しっしって、俺は犬か何かですか?

「まあそれはそうと。何? あんたもPXに行くわけ?」

「はい。これから隊の皆と遊ぼうということになりまして……」

「おーおー。若いわねぇ。結構結構。息抜きは大切よ~? 隊員との交流大いに結構! あたしも混ぜてもらおうかしら?」

 歩き出す彼女の少し後ろを歩く。振り向きながら笑顔で答える女性に、少しドギマギしてしまった。

 だ、だってしょうがないだろう?! あの時の恐ろしい雰囲気が今は少しもないんだぞ? なんか優しいっていうか、妙に子供っぽい癖に年上の余裕が垣間見えるというか。

 ――だが! 騙されることなかれ! 最早トラウマに等しい一方的陵辱(?)を思い出せ。こちらの話は一切通用しないどころか反論さえ許されない。そう、この人はそういう恐ろしい女性なのである!

「なによ、急に黙り込んじゃって。ははぁ、美人のお姉さんと一緒で緊張したのかな~? いいわよ、どんどん緊張しなさい。あ、でもあたしに惚れたって駄目よ」

「いえ、在り得ませんから」

 げぇぇ、しまった本音がっ?!

「……あんた、前も思ったけどいい度胸してるわね、ホント。……あ~っと、そういえば、名前は?」

 ぐ! ここで名前を言ってしまえばなんだかこれからの日々に要らぬスパイスが混ざりそうな気がする……んだけど、拒否権ないよなぁ。

「…………白銀武です。第207衛士訓練部隊に所属しています」

「207……ってことは、あんたの教官って神宮司軍曹?」

 女性が立ち止まる。驚いたような表情だが、それはこっちも同じだ。

「はい、そうです……けど、どうして知ってるんです?」

「ああ、あたしたちも神宮司教官の教え子だからね。教官一人で複数の訓練小隊の面倒見てるって、知らないの?」

 なるほど、そういうことか。話には聞いていたけど、実際にその小隊の人に会うのは初めてだった。

「ふーん。ってことは、あんた結構優秀なんだ? っつってもまだ一ヶ月そこらじゃ何にもわかんないか。ま、精々泣いて逃げない程度には頑張んなさい。――あたしは水月。速瀬水月よ」

「速瀬、さん」

「……? なによ、神妙な顔しちゃって」

 いや、ちょっとっていうかかなり安心しまして。そうだよなぁ、いくら印象が似てるからって、いくらなんでも涼宮とこの人が姉妹なわけがない。

 しかし、それよりも優秀ってなんのことだ? 神宮司教官が面倒を見る小隊ってのは、そういう謂れがあるもんなのか?

「あの、今日はこの間の方とは一緒じゃないんですか?」

 ……などということを聞けるわけもなく。というか、特に気になるわけでもない。優秀かどうかってのは、速瀬さんも言っていたが一ヶ月やそこらでわかるもんじゃない。第一、何を以って優秀と評するのかは、その時々によっても違うだろうし。

 なので、会話として無難なものを挙げてみる。

「あら、なによ。あたしじゃ不満なわけ? こないだはあんなに積極的に胸にしがみついてきたくせに」

「それは事実を改ざんしてますよねッッ?!」

「へー、白銀君、そんなことしたんだ」

「お前は何処から湧いてきたんだよ柏木ぃいいいいいいいいいいい!!!!!」

 愉しげに口端を吊り上げる速瀬さんに神速で突っ込みをいれるが、そんな物完全に無視して出現した柏木に最早言葉もない。

「え? 何言ってんの。ずっと後ろに居たよ。二人が楽しげに会話してるから邪魔しちゃ悪いと思って」

「だからって黙って聞いてんじゃねぇよ!? むしろそういうところだけ会話に参加してんじゃねぇええええ!!?」

「あら、あんた気づいてなかったの? そこの角であんたと会ってから、この子ずっと居たわよ?」

 莫迦な?! そんな気配はなかったはずだぞ!? 少なくとも俺には感じられなかった……。柏木、お前実は恐ろしいヤツだったんだな。……いや、わかってたんだけどさ。

 まるで悪魔のような二人は僅かに言葉を交わすと意気投合。何故か純夏のことまで知られてしまってマシンガンのように絶え間ない質問攻めに遭うこと数分。今まで隊の連中にも言わなかったことまで白状させられ、それを全て柏木に聞かれているという事実が更に俺を落ち込ませる。

 こ……これはあれか? 精神を陵辱されたとか、そういうことなのか?!

 も、もう駄目だ。この状況で涼宮たちと合流することがどれだけ恐ろしいことかっ!!

 むしろ柏木! お前こうなることわかってて純夏の話題出しやがったな?!

 ――あはは、ごめんごめん。

 アイコンタクトで会話。「ごめん」じゃねぇえええええええ!!!

 絶対に話すんじゃねぇと視線で脅し、他言無用と確約を取り付けるものの、まず間違いなく今夜中に暴露されるのは間違いない。

 とほほ……なんてこった。やっぱりこういうことになるんだな、俺って。





 で、ようやくにしてPXへ到着。実質四、五分だったはずなのに、やけに濃い時間だった気がする。

 既に到着していたらしい築地と月岡、立石がおはじきで白熱していた。待ちきれなかったのかよ、お前ら……。

 その三人と少しはなれたところに涼宮……と、もう一人……。

「あら遙。早いじゃない。レポートまとめてたんでしょ?」

「水月。うん、思ったより早く片付いちゃって……。ランニング、終わったの?」

 まーね。笑いながら、何故か俺の襟首を掴んだままその女性の前へ。見覚えのあるその顔、腰の辺りまで伸びた髪、おっとりふんわりした天使の微笑み。

 間違いなく、あの時速瀬さんと居た女性だった。

「あら、水月……この子、」

「そ、あの時あたしに抱きついてきた変態」

「だからそれ事実じゃないしッッ?!」

 ていうか何で俺速瀬さんに掴まれてるんだ?? 逃げ出そうにもすげぇ力で抑えられて動けない。……上着を脱いでも次の瞬間にはまた捕まっているような気がする……。

 猫よろしく襟首を摘まれたまま、眼前の涼宮から目を逸らす。背後では忍び笑いしてる柏木に、何事かとおはじきを中断する立石たちの気配。

「し、し、白銀……あ、あ、あああんたっっ!!?? なんでっ?!」

 ん? なんだ? 涼宮の様子がおかしい……?

「あら、茜。ははーん、そっか。白銀ぇ、あんたって茜と同じ部隊なんだ?」

「は? ええ、そうですけど……おい、涼宮、なんだよその面白いカオは」

 面白い物を見つけた、というように俺の顔を覗き込む速瀬さんに、顔を真っ赤にして見るからに狼狽している涼宮。

 状況がよく飲み込めないんだが。そんな俺の困惑を汲み取ったように、天使のような女性が柔らかく口を開いた。

「茜はね、水月に憧れているの」

 …………は?

 というか、えっと、確か、ハルカさん? 涼宮と知り合いですか……? いや、むしろ速瀬さんも涼宮を知っている風だったな。

 ――って、まさ、か?

「あのぅ。つかぬ事をお伺いしますが、貴女のお名前は? あ、自分は白銀武と言います」

「あ、ごめんなさい。自己紹介がまだだったね。涼宮遙です。茜とは三つ違いだけど、よろしくね、白銀くん」

 ゴッド。俺はあんたを信じない。

「……なによ、白銀。その顔は……」

 いや、涼宮。お前もこんな時だけ冷静になってんじゃねぇよ。……しかし、なぁ。

 改めて並んで立つ涼宮さんと涼宮を見比べる。ええいややこしいなっ?! と、ともかく、雰囲気も性格も、似ても似つかない姉妹のようだ。

「すっごく失礼なこと考えてるでしょ」

「いや、そんなことはない。お前の姉さんって遙さんだったんだな」

「ぉ、一丁前に名前で呼んでるじゃないの。あたしは苗字なのにねぇ」

「えっ?! い、いや、これは……同じ涼宮じゃわかりにくいと思って?!」

 というか、名前で呼んで欲しいんですか??!!

 いや、落ち着け。からかわれているだけだ。証拠に、遙さんがくすくす笑っている。

 ぐぁ、妙に恥ずかしいな……。なんか俺さっきから子供みたいだ。

 と、とにかく。状況は理解した。

 以前聞いた涼宮のお姉さんというのがこの遙さんで、憧れのあの人、というのがどうやら速瀬さんらしい。

 ……涼宮、お前、このヒトのどこに憧れたって言うんだ?

「しーろーがーねぇ~。あんた、今あたしのこと莫迦にしたでしょ?」

「め、滅相もございませんっっ??!」

 そんな漫才にもならないコントを続ける俺達を尻目に柏木が遙さんに突撃インタビュー。題目は涼宮の憧れの人。

 こいつ、前締め落とされそうになったの全然懲りてねぇな……。

 案の定顔を真っ赤にして暴走しそうになる涼宮だが、そこは姉の手前以前より大人しい。……と、いうより、なんか。

「そうなの。水月のことはよく手紙に書いたりしてたんだけど……入隊して初めての休暇の時にね、家に水月を連れて行ったの。茜ったら手紙ですっかり水月に憧れちゃったみたいで、手紙でしか知らない、写真でしか知らない水月を見て大泣きしちゃったの」

「お、お、お、お姉ちゃんーーーーーっっ?!」

「それにね、折角水月が話しかけても私の後ろに隠れたっきり出て来ないし、全然喋れないし……」

「お願いお願いお願いそれ以上言わないでぇっっ!!?」

 …………哀れ、涼宮。本気で恥ずかしいんだろうなぁ……あんなに顔を真っ赤にして、あーぁ、半泣きだよ。

 なるほど、そりゃあ俺達に話したくないわけだよ。三つ離れてるって言ってたから、三年前か? ま、お互いその頃はまだまだガキなんだし。気にすることでもないような……いや、気にするか、やっぱり。

 それよりも、恐ろしいのは妹がこんなに嫌がって泣いてるのにニコニコしながら話す遙さんか??

 以前タカユキさんが言っていた言葉を思い出す。真に恐ろしいのはこのお方なのかもしれない……怒らせないようにしようっと。





 あ、涼宮の名誉のために言っておくと、その後はなんとか気を取り直して(開き直ったとも言う)、憧れの速瀬さんとも打ち解けて楽しく会話していた。

 その後は言うまでもなく、先任二人を交えた交流戦。

 専らの話題は速瀬さんたちの訓練の話だったが……ああ、すごいな。知識も鍛え方も、そして衛士となる覚悟も気概も。

 なにもかも、俺達はまだ始まったばかりなのだということを痛感する。

 ……でも、二人と話せたのは悪いことじゃない。むしろいいことだらけだった。

 涼宮には悪いが、俺にも目指すべき人が出来たのだ。……べ、別に憧れたわけじゃないぞっ。……多分。





 そして話題は月末に行われると言う総戦技演習へ。

 自信に満ち溢れた速瀬さんの言葉に嘘はなかったし、分隊長でもあるという遙さんも合格できるだけの実力は在ると自負していた。

 それは自惚れなんかじゃない。日々の厳しい訓練を乗り越え身に付けてきた個々の実力、そして四年間を通して培ってきた仲間との絆の前に、障害なんてある訳がなかったのだ。

 涼宮は憧れの人と実の姉が衛士になるための最後の難関を乗り越えることを確信していたし、俺達もそうなるだろうと信じていた。



 でも、俺達は知らなかったんだ。

 勿論、速瀬さんたちはその可能性を知っていた。そういうこともあるのだと、ちゃんと理解して、理解したうえで、それでも合格できると自信を持っていたのだ。



 5月27日。訓練途中に呼び出された涼宮が、真っ青な顔をして戻ってきた時。

 俺達は、ようやくにして「実戦」というものの片鱗を知ることになる。







[1154] 復讐編:[二章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:9e6e76fa
Date: 2008/02/11 16:05

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:二章-01」





 1998年6月――







 病院の白い廊下を歩く。丁寧に磨かれているのだろう、床には蛍光灯が映りこみ、無機質な色を視界に投げかけてくる。

 時刻はもうじき正午。じわじわと暑くなりだした外気とは裏腹に、院内は清涼な空気に満たされている。

 汚濁を赦さない潔癖の白壁に、知らず、もたれかかる。数メートル先に患者用のソファが置かれていたが、そこまで歩く気力さえ湧いてこなかった。





 ――お姉ちゃん……。





 喉がひりついて、声にならなかった。

 ずるずると力なく廊下に座り込むと、先ほどから繰り返し脳裏にこだまする医師の言葉を一つ一つ拾い上げる。



 傷口から細菌が入り込み……



 壊死を起こしていたため……



 両脚を切断、



 擬似生体を移植し、





 繰り返すのは、ただ一言。

 切断――。切断、セツダン、せつだん…………?

 なんだろう、それは。……よく、わからなかった。

 わかっているのは、手術は成功して今は静養が必要だということ。リハビリも含め、三週間もすれば訓練部隊にも復帰できるだろうこと。

 ああ。どうしてあたしは、こんなに悲嘆に暮れているのだろう?

 お姉ちゃんは三週間もすれば戻ってくる。「元通り」になって、無事に帰ってくるんだ。

 ちゃんと、「自分の脚」で歩いて………………ジブンノアシ?

「――っぐ、」

 急激な吐き気に口を塞ぐ。どっと冷たい汗が噴き出して、背中をびっしょりと濡らす。

「茜――っ!?」

 ああ、向こうから誰かが走ってくる。……誰、だろう? 女の人の声……お姉ちゃん? 男の人もいる……ああ、なんだ、しろが、ね、







「おいっ! 涼宮、しっかりしろっっ??!!」

「――ッ、白銀、あまり揺さぶらないで。そっと寝かせて……」

 エレベーターを降り、最初の角を曲がってすぐ、廊下の壁にもたれていた涼宮がぶっ倒れた。

 顔は真っ白になっていて冷や汗をびっしょりかいている。慌てて抱き起こしたがぐったりしていて、……パニックに陥りそうな俺に、速瀬さんが指示を出してくれる。

 速瀬さんはすぐに意識と呼吸・心拍の有無を確認。どれも正常なことを認識すると、すぐさま涼宮を抱え上げてソファへ寝かせた。俺に医師を呼ぶように言い、取り出したハンカチで額の汗を拭ってやっている。

 ……なんというか、実に鮮やかで無駄がない。呆然としている間に全てが終わってしまって、俺はと言えば、言われたままに医師を呼び案内するのが精一杯。

 自分で自分が情けなくなるが、涼宮は無事だと言うことなのでほっとする。

 医師は貧血だろうと診断を下し、ベッドを一つ用意してくれると言う。またも涼宮を軽々と抱え上げ、速瀬さんは颯爽と歩いていく。そのときでさえ慌てて追いかけることしか出来ない自分に気づいて、先日習った救急処置なんてまるで身に付いていないのだと痛感した。

 くそっ! 莫迦か俺は!!

 たまたま空いているという個室に涼宮を運び、寝かせる。顔色は尚悪いが、すぐに眼が醒めるだろうと言うことだ。

「…………」

 速瀬さんはじっと黙って涼宮の顔を見つめている。俺も、あまりの自分の情けなさに、そしてここ数日の出来事を思い出して言葉が出ない。

 そう、あれからまだ一週間も経っていない。

 五月の終わり、訓練途中に呼び出された涼宮。

 総合戦闘技術評価演習――。四回生の訓練兵が臨む、衛士となるために越えなければならない壁。

 一介の訓練兵から、真実、衛士候補生となるための最終試練。年に二回行われる内の前期分。

 その詳細を俺は知らないが、それは――死人が出ることもあるほどの、危険で過酷なものなのだという……。

 一瞬とて気を抜けない。誰一人油断できない。個々人の能力の高さ、そしてチームとしての錬度がものを言う、正真正銘のサバイバル。

 それまで積み上げてきた訓練の結果を試す。己の能力を確信し決して過信せず的確に任務をこなし生還する。

 総戦技評価演習とはそういうものなのだと、ここに来る道中速瀬さんが教えてくれた。





 そして、速瀬さんたちは失格した。





 誰が悪かったわけでもない。――いや、確かに「悪かった」者もいるのかもしれない。

 だが、それはその個人が責められるべき問題ではなく。その結果をして、あらゆる状況を想定できなかった自らが甘かったのだと言う、ただそれだけの現実。

 涼宮の姉、遙さんは両脚を喪い、同じ分隊の仲間の多くが重傷を負い……そして、二人、死んだ。







 人が、死んだのだ。







「白銀……よく憶えときなさい。それでもこれは、実戦じゃない」

「!!?」

 心臓が跳ね上がる。

 絶句したまま速瀬さんを見れば、真剣な表情のまま、眠る涼宮を見つめていた。

 ベッドに横たわる彼女を通して、まるで親友の遙さんを見ているかのように。

「言い訳するみたいだけどさ、あたしも遙も、隊の皆も。まさかあんなことになるとは誰一人思わなかった。……違うか。少なくとも、高機動車を使おうとした何人かの中には、それを予想してしかるべき人物が必要だった」

「……」

「それが甘えだっていうのは、よくわかってるつもりだったんだけどね……。実際、こんなことになっちゃうとさ、流石にキツイわねぇ」

 可笑しそうに笑う。俺には、その横顔を見つめる以外に出来ることなんてなかった。

 ただ、無理矢理に自嘲する速瀬さんは……それでも、戦う覚悟を持ち続けているのだと気づくことは出来た。

「ん……」

 薄っすらと、涼宮が眼を開ける。どうやら気がついたらしい。速瀬さんが顔を近づけて、名前を呼ぶ。

「茜、あたしがわかる?」

「……ぇ、はやせ、さん……? ぁ、たし……」

「まったく、貧血だなんて、なーにしおらしいことしてんのよ! 全然似合わないから、さっさと元気出しなさい」

 上体を起こしながら張りのある声で笑う。ぽんと涼宮の肩を叩くその仕草が、妙に優しく見えて微笑ましい。

「……白銀?」

「なにニヤけてんのよ。気色悪い」

「何気に失礼ですよね?! ……よぅ、涼宮。どんな調子だ? いきなりぶっ倒れるからびっくりしたぜ」

 先ほどのシリアスな雰囲気は何処へやら。いつものように振舞う速瀬さんに倣い、俺もできるだけ軽く返す。

 辛くないなんてこと、あるわけがないのに。それでも強く在ろうとするその姿は、素直に尊敬できる。

 だから俺も笑った。涼宮がこれ以上気落ちしないように。或いは、少しでも支えとなれるように。

「え、ぁ……そうか、あたし、吐き気がして……」

「軽い貧血だそうよ。一応点滴は最後まで受けときなさい。……まったく、そんな調子じゃこれから先大変よ? 貧血なんて起こしてる暇ないくらい、神宮司教官の扱きが待ってるんだから」

 やれやれと溜息まで吐いて見せて、速瀬さんはニヤリと笑う。苦笑する涼宮を見て、一つ頷く。

「じゃ、あんたはそこで大人しく寝てること! 白銀、あんたは茜がベッド抜け出さないように見張ってなさい」

 悪戯っぽく言いつつ、自身は病室から出て行こうとする。ちょ、ちょっと?! 何処行くんですか!?

「あたしは遙のところ。……なによ、一人じゃ何にも出来ないとでも言いたいの? ひよっこ訓練兵の白銀くん?」

「っぐ!? わ、わかりました。呼び止めてすいませんでしたぁ!」

 完全にからかわれている。畜生、軽いパニックになってたとはいえ、やっぱりさっきのは痛いよなぁ……。

 講義を受けてる最中は簡単だと思っていたのに、何一つ出来なかった。経験に勝るものはないと教官は言った。だが、それと同様に知識も重要なのだと。

 ……全くそのとおりだ。知識がなければどうしていいかわからず、知識があっても、その経験がなければ巧くこなせない。

 そのために訓練が在るんだ。

 ちぇ、ここまできて、俺と言うやつは……。はぁ~ぁ、やめやめ! 落ち込むのは簡単だが、そんなのやっても意味ないぜ!

 それに今は涼宮のほうが問題だしな。このことはとりあえず帰ってからの課題だっ。

「で、実際どうだ? 苦しいってんならどうにかして和らげてやってもいいぞ」

「どうにかって……ちょ、何する気よっ!?」

 両手をわきわきと動かして近寄ると、思いっきり慌てて身をよじり、逃げられる。……なんつぅか、冗談だったんだがちょっとだけその気になってしまった俺が哀しい。

「ははは、ま、それだけ騒げりゃ上等だな。安心したぜ」

「あ……うん。……って? え? 何で白銀がいるのよ??」

 おいおい、大丈夫か? さっきから居ただろうがよ。

「じゃなくて! なんで? 訓練中なんじゃないの……?」

「あ? ああ、確かにそうだけど。……ぁあ、安心しろよ。ちゃんと教官の許可はもらってる。丁度速瀬さんも行くところだから、それなら一緒に行って来い、ってさ」

 そう。思い出してもゾッとする。軍用車とはいえ、公道を法規制完全無視でぶっ飛ばしてきたんだ。そりゃあもう寿命が縮まったさ。

 ……ああいう人に車を運転させちゃいけないよな。ていうか、速瀬さん……車であんなに人が変わってちゃ、戦術機に乗ったらどうなるってんだ??

「教官が……あれ、でも、白銀一人なのよね? なんで、」

「ああ。涼宮が心配だったからな」

「――――ぇ…………ぇええ!?」

 きょとん、として、絶叫。思わず上体を起こしてしまうくらいその驚きは大きいらしい。……なんだ? 俺変なこと言ったか??

 首を傾げて自問するが、別におかしなことを言った気はしない。

「ぅ、うそ……だ、だって、白銀……」

 あん? なんだ? 涼宮のヤツ視線をあちこちに彷徨わせて、段々顔が赤くなってきたぞ……??

「お、おいおい。大丈夫かよ? 顔赤いぞ。熱でも出たんじゃないのか?」

 どれ、と額に手を当てようとすると、わぁわぁ叫びながら退く。……ベッドの上だってのに、器用なヤツだ。

「だだだ、大丈夫! 大丈夫だってばぁ!!」

「……? そ、そうか? まぁ本人がそう言うなら……?」

 全然大丈夫そうに見えないんだが、ま、確かにこれだけ騒いでぶり返しがないのなら、大丈夫なんだろう。

「そ、その……し、しろがねっ」

 相変わらず顔を真っ赤にしたまま、今度はなんだかもじもじとしおらしい。……あれ? ナンダこの展開??

「…………トイレ?」

「ばっ、ばかぁ!!? ななななにいってんのよぉ?!?!」

 違ったのか? う~~ん。わからん。さっきから涼宮のやつどうしたっていうんだ??

 数少ない女性経験(むしろ純夏)の中から該当する現象を検索するが、該当なし。ううむ、女ってのはよくわからん。純夏くらいわかり易ければいいのになぁ……。

 何事かもにょもにょと呟いていた涼宮だが、ベッドのシーツをつまんだまま、上目遣いに見上げてくる。

 ――っ、ちょ、それは……っ。

 不覚にもどきどきしてしまった!? ば、ばかなっ!!

「ね、ねぇ、白銀……さっきの、あたしのこと……その、心配……って……」

 ぁ? あ? あぁあああ???!!! ま、まさか!? そういうことなのかっっっ?!!

「ちょ、ちょちょちょ! ちょっと待て涼宮!! 落ち着けそうだ落ち着こう! いいか、落ち着いて冷静になれっ!?」

「え? な、なによぅ」

「あれはだなっ! むしろ柏木がっ、というか築地がっ?! あいつら二人が涼宮が心配だから迎えに行かせて欲しいって……!!」

「…………ぇ? ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあ、なんで白銀が来てるのよ……???! っていうか、二人がって……ぇえ?」

「いや、だから、つまりだな。お前の迎えを申し出て許可を得たのは柏木と築地なんだが、何故か俺が行くことになっちまって……俺だってなんで俺なのかわかんねぇよ」

 ……むしろ、今この瞬間にその思惑がハッキリしたような気がしないでもないがっ! あいつら、帰ったら覚えてろよ!?

 ともかく、涼宮は勘違いしている。そりゃ確かに俺も心配してたけど、ま、なんつぅか……あ~……悪いかよ、ああもうっ!

 仲間なんだし、心配するだろっ?! そういうもんだろ?! くぅぅぅ、なんか言ってて恥ずかしくなってきたぞ?!

「と、ともかく…………貧血しちまうくらい、大変だったんだな……遙さん、大丈夫そうか?」

 半ば無理矢理に軌道変更。涼宮にこのことを尋ねるのは酷かと思ったが、答えたくないのならそれで構わない。

 知り合って間もない先任訓練兵。たまたま顔を知り、名前を知り、触れ合う機会があっただけで。そして、たまたま……同じ部隊に所属する涼宮の姉だったというだけの、それだけの関係だ。

 心配するしないにそういうのは関係ないだろうとは思うが……入り込んでいい領域、というものは矢張り存在するだろう。

 打って変わって沈黙する涼宮は、先ほどとは全く違う意味で視線を泳がせて……苦笑を浮かべた。

「うん……大丈夫だって。怪我はちゃんと治るし、訓練にも復帰できるって。……でも、擬似生体ってすごいよね~。あたし、本物と区別つかなかったもん!」

「……そうか。ああ、良かったな」

「うんっ」

 無理矢理に繕った笑顔で、精一杯に頷く涼宮。目尻に浮かんだ涙が、こいつの心情を痛いくらい物語っていた。

 両脚を喪った遙さんは、擬似生体を移植し、傷自体は治療できたらしい。俺は擬似生体を見たことはないが、涼宮も言うように本物の腕や脚、移植する以前のそれらと全く変わらないらしく、リハビリをこなせば日常生活や多少の運動も全く問題ないくらいに「元通り」になるそうだ。

 ……ただし、それが衛士適性にどう響くかは……わからない。

 手術が完璧でも支障をきたす人もいれば、細やかな神経結合が完全でなく、それによって適性から外れる人もいるという。

 戦場で傷ついた多くの負傷兵を救うために編み出され昇華されてきた技術だが、まだ若干の……それも、俺達衛士を目指すような者に限っての問題を抱えている。

 涼宮がぶっ倒れた理由が何となくわかった気がする。大好きで大切で護りたい人である実の姉が、自分の手の届かない場所で、自分ではどうしようもない状況で、重傷を負い、両脚を喪い……命に別状はないとはいえ、擬似生体を移植されて……。

 生きていてくれて嬉しいという思いと、無残な現実に打ちのめされて、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまったのかもしれない。

 もし……これが純夏だったならと思うと……正直、涼宮のように無理矢理でも笑える自信はなかった。

「ちゃんと、生きてる……。お姉ちゃんは、生きてるんだもん。怪我も治るし、また、頑張って衛士になれるチャンスも残ってる!」

「ああ、そうだな」

 お前は強いよ、涼宮。その強さは、どこか速瀬さんにそっくりで。……まったく、お前は凄いやつだよ。思わず尊敬しちまうじゃねーか。

 知らず、笑みを浮かべる。元気よく笑う涼宮につられて、しばらく俺達は笑っていた。





「あら、随分と元気になったじゃない。茜、もう平気?」

 笑い声が漏れていたのだろう、スライド式のドアを開けて、速瀬さんがやってくる。涼宮と俺の顔を見比べながらベッドに近づいて、

「茜ぇ、白銀になんかされなかった?」

「さらりとナニ言ってんですか貴女はあぁあああっっっ??!」

 いい加減予測済みだったその暴言にコンマのズレもなく追随。満足そうに頷く速瀬さんはとても愉しそうで、涼宮もつられて笑っている。

 いや……まぁ、なんかもう慣れてしまった自分が哀しい……。遙さんの容態を聞いてみたかったが、やめておいた方がいいだろう。

 涼宮からの話でも大体の状況は知ることが出来た。俺にとって重要なのは、遙さんは無事だということ。

 怪我も治って、元の生活にも訓練にも支障がないのなら……後は俺がどうこうしていい問題じゃない。

 それを承知しているのだろう。速瀬さんも特に遙さんについて話題にすることもなく。来た時同様、速瀬さんの運転で基地へ戻ることになった。





「水月ィ!!」

 軍病院の駐車場へ向かう途中、こちらへ走ってくる男の人が叫んだ。速瀬さんの名を呼び、あっという間に近づいてくるその人には見覚えがある。

「孝之?! あんた何やってんのよ?!」

「ああ、丁度午前の訓練が終わってな。バイクぶっ飛ばしてきた」

 そうだ。この人はタカユキさんだ。あの時、俺に速瀬さんと遙さんを見なかったか確認し、恐らくその二人から逃げていただろう先任訓練兵。

 鍛え上げられた太い腕で肩をばしばしと叩かれたことは記憶に新しい。……結構、印象強い出来事だったしなぁ。

「遙は……ぉ、よう。元気してたかひよっこ!」

 速瀬さんの後ろにいる俺に気づいて、子供みたいな笑顔を零す。一度会っただけの新兵を見覚えてくれているとは……ちょっとだけ嬉しい。

「ど、どうも。お久しぶりです」

「ああ。……なんだ? 知り合いだったのか、お前ら?」

「まーね。…………孝之、ちょっとこっち」

「あ? ああ。済まないな、二人とも。少し水月借りるぜ?」

 俺と涼宮を残して、先任二人は駐車場の隅へ。……恐らく、遙さんのことについて話している。俺達が関わっていい話ではないだろう。

「涼宮、先に車へ行ってよう」

「……う、ん」

 どことなく後ろ髪を引かれるような雰囲気で、しかし涼宮は前を向き、俺の隣を歩く。

「さっきの人、知り合いなんだ?」

「まぁ、知り合いというか。ん~~、前に偶然出会って、少し話をしただけだ。自己紹介すらしてないな、そういえば」

 ふぅん。

 呟いたきり、涼宮は口を閉ざす。何やら物思いに耽っている様子で、少し疑問に思ったが放っておくことにした。



 乗ってきた軽装甲車輌に到着し、車体にもたれかかる。まだ考え込んでいる様子の涼宮は、時折速瀬さんたちが向かった方向を振り返りながら、またも考え込む。

 いい加減気になってきたので、声を掛けてみることにした。

「おい、なに考えてるのかしらねーけど、あまり思いつめるなよ?」

 多分に的を外した気もするが、まあいい。

 案の定、呆気にとられたような顔をする涼宮だったが、苦笑しながらこちらを向き、

「ごめんごめん。……さっきの人ね、多分、鳴海さんかなーって」

「ナルミ?」

 そ。目を閉じて頷く。――鳴海孝之。その名前を呟いた時、どこか寂しげで、そして誇らしげな響きがした。

「お姉ちゃんの、好きなひと」

「…………は?」

「残念だったわね~、白銀」

 ナニガザンネンナンダ?

「お姉ちゃんからの手紙にね、よく出てくるんだ、鳴海さんのこと。速瀬さんと同じくらい。同じ部隊で、お姉ちゃんとは別の分隊の分隊長やってるんだって」

「ほう……」

 それはそれは。ま、実の姉の好きな人となれば、こいつなりに思うところがあるんだろう。

 納得したと相槌を打ち、適当な話をしながら速瀬さんを待つこと数分。

 やってきた速瀬さんが運転席に乗り込み、俺達は後部座席へ。いつもと変わらぬ速瀬さんの口撃(誤字に非ず)に悲鳴をあげながらも――どこか気落ちしたように見える速瀬さんに、少しだけ胸が痛んだ。

 ……涼宮も速瀬さんも……俺なんか比べ物にならないくらい、強い。

 多分、わかっているんだ。

 遙さんが戻ってきた時、笑顔で迎えられるように。

 喪った脚は戻らないけれど、亡くなった仲間は戻らないけれど。

 それでも、生きて、また、共に進むことの出来る喜びを。

 涙を流すのは一回でいい。

 涙を引き摺るのは、衛士にはあってはならない。

 仲間と共に在るときは笑顔で。過去を悔やむのではなく、嘆くのではなく……それさえを力に換えて、前へ。

 それは、とても、高潔で美しく、強い――。

(敵わねぇな、ははっ)

 ハンドルを握る速瀬さんの後姿に。その姿に追いつこうと実践してみせる涼宮に。

 俺は憧憬にも似た感情を抱いていた。







「そういえばさ、白銀ってどの辺りに住んでるの? 柊町なんでしょ?」

 唐突に、涼宮が切り出す。行きとは違い、速瀬さんは至極まともな運転だったためまだ基地には着いていない。……多分、来る時はこの軽く三倍は出てたな。

 しかし、どうしてまた俺の家……。まぁ、確かにここらなら近いけど……むしろ、基地まで徒歩でいけるような距離なんだけどな。

 この辺、とだけ答えるととてつもなく白けた様子の涼宮さん。……な、なんだよ? 俺が悪いのか?

「白銀ぇ。あんたわかってないわね~」

 ニヤニヤしながら振り返る速瀬さん。いやいやいや! 前見て下さいよっ?! 前!!

「……なにが、ですか?」

「は、速瀬さん!?」

「まぁったく、これだから男って。あんたって相当鈍感よねぇ」

「わー、わー、わーっっ!? 速瀬さん何言ってんですかーっ?!」

 物凄く大きな声で涼宮が喚く。お、落ち着けって。乗り出すんじゃねえよ危ねぇなっ。

 女二人で十二分に姦しい涼宮たちを眺めながら、溜息をついて視線を車の外へ。

 ……確かに、見覚えのある風景だった。訓練校に入隊して既に一ヶ月過ぎ、二ヶ月目に突入しているが、その間基地から出ることなんてなかったし、少し懐かしいなどと感じてしまう。

 と、何となく眺めていた流れる風景の中に、

 ――――少し長めの赤い髪、

 ――――いつもの黄色いリボンを結んで、

 ――――あどけない表情で、

 ――――両手で配給制の食料袋を抱えて

 ――――元気に、

 ――――笑顔で、







「純夏ァっっ!!」







「――!!?」

 振り返る。振り返る、振り返るっ――!

 名前を呼ばれて、凄く驚いた表情で、袋を落としてしまうくらいにびっくりして、でも、

「た、タケルちゃん…………っっ!!」

 凄く凄く、ああ、嬉しそうな顔で!!

「ちょ、ちょ、白銀っ?!」

「すんません、少し待ってください!!!!」

 俺の突然の叫びに驚いた速瀬さんが車輌を停める。呼び止める声も聞かず、ドアを跳ね開け、飛び出す!

 数十メートル行き過ぎただけの距離を、けれど全速力で駆ける。――ああ、畜生! 純夏、純夏、純夏ッッ!!

「純夏ぁーっ!」

「わっ、わっ、タケルちゃあ~ん??!」

 走って勢いのついたまま純夏を抱き上げる。はははっ、なんだ、随分軽く感じるな。それなりに筋力もついたってことだろうか。

 いや、いいんだそんなこと。ははは、純夏だ。純夏だ。ホントに純夏だ。

 やべぇ、俺、なんでこんなに浮かれてるんだ? たった二ヶ月。手紙だってやり取りして、お互いの近況なんかも伝え合ってるっていうのに!

「ははは、久しぶりだなぁ、純夏。ちょっと痩せたんじゃねぇか? でも、元気そうで安心したぜっ」

「ちょ、ちょ、タケルちゃ~んっ。降ろしてよ~、怖いよ~っ!」

 抱き上げたままぐるぐると廻る。悲鳴をあげる純夏が可笑しくて、調子に乗ってしまった。

 目を回す純夏をゆっくりと降ろし、両肩を支えてやる。

「はわぁ~~、目が廻ったようぅ~?! で、でも、タケルちゃんどうしたの?! なんでこんなとこいるのさ~っ?!」

 ちょっとだけ上気した頬が可愛い。いまだに驚いた様子ながら、仕草の端々に嬉しげな感情が読み取れて、こそばゆい。

 うぁ、俺、本気で惚れてるのな。

 そんな純夏の動作の一つ一つが、たまらなく愛しく思えて、気がつけば純夏を抱きしめていた。

「~~~~ッッッ!!!???」

「ああ、悪ぃ。なんか、我慢できなかった……」

 って、何言ってんだ俺。歯が浮くにも程があるぞ……。今更に恥ずかしくなって、顔が真っ赤になる。身体を離すと、それ以上に真っ赤に染まった純夏の顔。

 恥ずかしそうに不貞腐れる純夏の頭をくしゃくしゃと撫でる。

 髪を結っているリボンに気づいて、右のポケットから同色のそれを取り出した。

「あ……それ、」

「ああ、ちゃんと持ってる。大事なお守りだからな」

 嬉しそうに、けれど思い切り照れながら。ま、それはお互い様だ。

 今一度微笑み合い、ゆったりとした甘い空気が漂い出したそのとき、

「あのねぇ、いつまで付き合わせるつもりよこのエロガキ」

「…………あ」

 完全に蚊帳の外に置き去りにして存在すら忘却していた速瀬さんが、それはもう不機嫌な様子で仁王立ちしていらっしゃった。

「わ、た、タケルちゃん……」

 恐れるな純夏……、俺はもっと怖い……!

「白銀ぇ、あたし、そろそろ基地に戻りたいんだけど……?」

「す、す、すみませ……っ??!!」

 腹の底から縮み上がるような空恐ろしい速瀬さんの声に、がくがくと足が震える。――が、そんな俺の視界に映りこんだのはそれよりも更に恐ろしい涼宮の満面の笑み!!!!

 輝かんばかりのパーフェクトスマイルでこちらにやってきて、純夏が落とした食料袋を拾い上げる。

 直感が得体の知れない恐怖が迫りくることを予見し、警鐘を鳴らす! だが、凍りついたように俺の脚は、身体は、全く言うことをきかないのだ。

「はい、少し汚れちゃったね」

 いつもと全く変わらない声。明るく、はきはきとしたその口調。

「あ、ありがとうございます……ぇ、っと」

「あたしは涼宮茜。白銀とは同じ訓練部隊なんだ。――鑑純夏さん、だよね?」

「え!? ぁ、は、はいっ。鑑純夏です!?」

 突然に名前を呼ばれて狼狽する鑑純夏。な、なんだ……? 涼宮、何をする気なんだお前っっ?!

 言いようのない焦燥に汗が伝う。微塵の翳りもない笑顔のまま、涼宮が右手を差し出したっ!?

「――よろしくね、鑑さん。一度会ってみたかったんだ」

 にっこりと笑う涼宮からは、俺が感じていた壮絶な気配が消えていた。あ、あれ? 気のせいだったか??

 どっと疲労に襲われながら、ほっと胸を撫で下ろす。ナニカとてつもなく危険なことが起こるような気がしていただけに、何事もなく一安心だ。

 差し出された右手と涼宮の顔を行ったり来たりしながら、純夏は決意したように自らの右手を出して、握った。

 ――握手。

 嬉しそうに微笑む涼宮に、つられてえへらと笑う純夏。……よくわからんが、仲良くなったようで。

「はいはいそこまでー。いい加減戻るわよ~」

 ヤレヤレと全身で呆れている速瀬さんの号令に、涼宮は純夏から手を離し、

「安心して! 白銀はあたしたちがちゃんと面倒見るからさっ!!」

 そんな、聞き捨てならない台詞を残し、車へと走り去っていく。…………す、涼宮、おま……っ。

「た~け~る~ちゃ~ん?」

「な、なにかね純夏くん」

「面倒見るって……ナニ?」

「さ、さぁなぁ……涼宮のヤツ何言ってんだろうなぁははははは」

 先ほどとは違う種類の汗がダラダラと流れ出す。

 突き刺さるような純夏の視線も痛いが、それ以上に速瀬さんの視線が怖い……。ハァ、ここまでだな。

「ん、ま、純夏。元気でな。いい加減基地に戻らないとそこの恐ろしいお姉さんにぶっとばされるんだ。…………休暇がもらえたらさ、家に帰るから。また、その時になっ!」

「う、うん。……タケルちゃん! 頑張ってね!!」

 車輌へと走りながら、返事をする代わりに手を振り上げる。背後にはぶんぶんと手を振る幼馴染の気配。――多分、車が見えなくなるまでそうやって手を振り続ける、俺の好きなひと。

「ったく……恋人に会えて嬉しいのはわかるけど、少しは自重しなさいよね……」

 乗り込んだ瞬間に速瀬さんからの手痛い叱責。返す言葉もございません。

「すいません。その、つい……」

 はいはい。溜息まじりのその声にはもう恐ろしい気配はなく。なんというか、手のかかる弟につき合わされてうんざりしているようだった。

 ――え? 誰が弟??

 爆音を上げ、再びの法規制完全無視の暴走運転。名残を惜しむ間もなく、あっという間に純夏の姿は見えなくなってしまった。

 偶然とはいえ、今回純夏に会えた意味は大きい気がする。

 手紙でも想いを伝えることは出来るけど、それでも、やっぱり顔を見ながら、触れ合いながら話す方がいい。

 何て言うのかな……。十数年間ずっと隣りに居たあいつと離れて……久しぶりに会えたことでまた想いが強固になったというか。

 気恥ずかしいことこの上ないが、要するに、――前より好きになっちまった。

「うっゎ、白銀、顔緩みまくってる」

「しかも凄いニヤニヤしちゃって……茜ぇ、あんたも大変ねー」

「速瀬さんっっ!? あ、あたしは別にっっ!?」

「はいはい。暴れない暴れない。――白銀はあたしがちゃんと面倒見るからっっ」

「わーっわーっわーっ!!?? やめてくださいーーっっ! そ、それに、“あたし”じゃなくて“あたしたち”ですってば~~っ!?」







 そんなにぎやかな帰り道。

 俺達は心の底から笑い合いながら、それぞれが進むべき道を今一度見据えていた。







[1154] 復讐編:[二章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:9f32dc4a
Date: 2008/02/11 16:06

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:二章-02」





 体力・筋力トレーニングを基礎とした訓練に、近接格闘訓練、身体の構造についての講義から使用する銃器・弾薬についての基礎理論、化学・物理・生物学・薬学……それら心身頭脳を鍛え続ける日々が続く。

 ナイフや模擬刀を使用した近接戦闘訓練、拳銃の扱いにアサルトライフルによる射撃訓練も始まり、次第に衛士としての肉体と精神、頭脳を作り上げる。

 ここ数週間はそれら新しくカリキュラムに組み込まれた内容の消化吸収に重点を置き、毎日のように繰り返し反復する。専門的な知識を要求される内容が増え、訓練内容も細分化されてきたことから、部隊の中でも各々得意分野というものが見え始めてきた。



 まず、涼宮。

 コイツはどの分野においても標準以上の成績を叩き出す。訓練の目的を早々に理解し、重要なポイントを押さえ効率よくそれをこなしつつ、努力を怠らない。必要な知識は出来るだけ幅広く収集し、そこから更に自身にとって望ましい訓練法を編み出しては実践、評価、修正、そしてまた実践の繰り返し。

 その努力の量はハッキリ言って隊内でずば抜けて高い。同じ時間を過ごしているはずなのに、気づけば常に一歩も二歩も先にいる。

 頭の回転が速いこともその一端を担っているだろうが、それにしても凄まじい。……目指すべき目標の速瀬さんにはまだまだ遠く及ばないとはいえ、入隊して半年も経たない新米訓練兵としての標準は軽く超越しているに違いない。



 次に、柏木。

 こいつの凄いところはやはりその観察眼と視野の広さだろう。

 鍛えられた身体能力もさることながら、射撃の精度、多人数格闘訓練での状況判断の鋭さ、そして的確さ。こと後方からの支援攻撃においては他の者の追随を許さず、常に四方の状況を把握し、変化に合わせた柔軟な思考の切り替えができる。

 教官に言わせれば天性の才能に依るところもあるとのことだが、訓練を通してその才能を開花させたのは紛れもなく自身であり、そしてその才能を奢ることなく戦術・戦略についても深く学ぶ姿勢は大いに尊敬できる。

 背中を預けるのにこれほど安心する者は居ない。自身が埋められない穴を、確実にカバーしてくれる頼もしい存在だ。



 そして築地。

 独特の感性を持っているらしい彼女は、時折予測不能な行動を見せ相手を翻弄する。近接格闘に若干の難を見せてはいるが、それを補って余るほどの行動力・機動力に溢れ、突拍子もないその思考から繰り出される一撃を回避することは難しい。

 また、それ以上に「相手に合わせる」能力にずば抜けていて、特に涼宮との相性は抜群だ。奇抜な行動は変わらないながら、それでも相手の動きを阻害することなく確実にフォローする手腕には、目を見張るものがある。

 ただし、座学については別。そこのところは本人も十分理解し、努力しているが……まぁ、そこは追々身に付いていくことだろう。

 彼女の魅力はその特異性であり、それは隊員たちに常に刺激を与え、思考を柔軟にするためのよい訓練相手だと言える。



 さらに立石。

 はっきり言って近接格闘能力が高い。基礎体力も高いが、何よりフットワークがいい。ヒット・アンド・アウェーを基本とした戦略により着実に相手を追い詰める。

 射撃においても一角の能力を見せ、アサルトライフルを抱えたまま文字通り突撃し、的確に的に当てる。動体視力のよさは隊内一だ。

 こと身体を動かすことにおいては満遍なく秀でているが、反面、座学に弱い。本人もそれを認めており、現在築地と猛勉強中。

 楽しみながら努力するという非常に有益な才能を身に付けているため、恐らく問題ないだろう。



 で、月岡。

 剣道をやっていたと言うのは伊達ではないらしく、模擬刀での戦闘訓練ではかなりの実力を誇る。剣道の型を基本としながらも、それに囚われることなく柔軟な思考を持ち合わせている。

 最大のネックである持久力については地道な努力の積み重ねにより現在では標準の枠にはまるようになった。また、如何に体力を消耗しないで戦えるか、ということに重点を置き、編み出した戦闘術は隊の中でも共有され、全員の能力の底上げにも繋がっている。

 剣に一日の長がある代わりか、射撃が苦手らしい。柏木や涼宮に個人的に指導を求めるなど、努力は怠らない。





 最後に俺。……なんだが。

 まぁ、あれだ。

 射撃では涼宮に目をつけられ勝手にライバル視されてるし、(絶対涼宮のほうがスゲェと思うんだがなぁ……)

 近接格闘では立石に目をつけられ勝手にライバル視されてるし、(これも立石には敵わないんだが……)

 さらに剣術では涼宮と立石に目をつけられ…………、





 お、俺ナニカしたか……?

 唯一の救いは座学では誰も相手してくれないということくらいか…………あれ? それって、いいことなのか?? え?







 ===







「あら白銀、あんたも自主訓練? 毎日毎日、よくやるわね~」

 夜――、グラウンドの隅で日課になっている素振りをしていると、暗闇の向こうから呼びかけられた。

 既に馴染みになっている張りのある声。振り返るまでもなく、こんな風に声を掛けてくれる女性は一人しかいない。

「どうも、今晩は速瀬さん。……そういう速瀬さんだって、殆どいつも走ってるじゃないですか」

 ま、ね。悪戯っぽく笑う速瀬さんはいつものようにタンクトップの上にジャケットを羽織っている。

 暗くてよく見えないが、それはもう目を見張るほどのボリュームがその存在を主張していることだろう。

 べ、別に見えなくて残念なんて思ってないぞ?

「しっかし、人は見た目によらないわよねぇ……最初あんたがその模擬刀振り回してるところ見たときなんてさぁ、」

「べ、別にいいじゃないですか。似合わないのはわかってますけど……ガキの頃からの習慣というか……なんか、一日に一回は振っとかないと、落ち着かないんですよ」

 そのときを思い出したのだろう、くつくつと笑う速瀬さん。そう、この人は俺が慎ましやかにグラウンドの隅で模擬刀を振る姿を見て、あろうことか爆笑してくれたのだ。

 それはもう真剣に落ち込んだ俺に対して、詫びを入れるどころか更に「似合わない」「弱そう」「格好つけ」などと暴言の雨霰。

 再起不能に陥る寸前まで散々に扱き下ろしておいて、冗談の一言で済まそうとする辺りこの人の嗜虐性は底知れない。

 …………単なる傍若無人か??

 ともかく、発見されてからほぼ毎日、速瀬さんは俺の姿を見つけてはやってきて声を掛けてくれるようになった。密かに目標としている相手に声を掛けてもらえるというのは、その、実はかなり嬉しかったりする……。

 ちなみに、これは涼宮には言っていない。自主訓練していることなどわざわざ話すことでもないし、知れたら知れたで色々と面倒そうだ。

 更に数分速瀬さんと会話し、それでこの時間はオシマイ。

 お互いに日課となっている自主訓練を再開し、速瀬さんはいつものように一時間ほど走り抜き、基地内へと戻っていった。

「……っ、ふ!」

 気合を込めて一閃。幼い頃からずっと続けてきた基本の型を、何度も何度も繰り返す。

 習ったのはただそれだけ。そこからの応用も発展も知らず、忠実に同じ軌跡を描き続ける。

 そういえば、いつから模擬刀を使うようになっただろう? 入隊して間もない頃はそれまでと同様に木刀を振っていた。

 腕の筋力、全身の体力が向上するにつれ、木刀では木の枝を振っているような感触しかしなくなった辺りで、教官にお願いして借り受けたのだ。

 ……ははは、なんだ。結構最近だったんだな。

 それなりに鍛えられているのだという実感を得て、あと三十分ほど続けて切り上げようと決める。

 正眼に構え、深く息を吸う。剣を教えてくれたおっさんは、この剣術の名前を教えてくれなかった。直線軌道を描く剣道とは違う、常に動き続ける螺旋の剣。

 重心の位置は常時変動し、弧を描くように足を運ぶ。遠心力と慣性に身を委ね、まるで独楽のような円から、螺子に似た螺旋への回転軌道。

 例えるなら台風のそれに近い動き。一対一ではなく、恐らくは一対多、それも全方位を囲まれたような状況を想定しているのだろう。

 彼の人はこれこそが基本だと言い、そして本当にこれだけしか教えてくれなかった。

 ぼんやりと当時のことを思い出す。

 一週間だったのか、或いは一日だったのか……。幻のような思い出。幻のような、剣の師匠。

 だが、そんな短過ぎる邂逅にも関わらず、それは俺の身体に染み付いている。……否、まるで始めから知っていたかのように、馴染んでいる。

 繰り返した日々の鍛錬の賜物か。それこそ、毎日実践しないと気持ち悪くて眠れないほどの傾倒ぶり。

 いや、別に中毒ってわけじゃないぞ? ……た、たぶん。

 そんな、雑念にも似た思いをつらつらと浮かべながら剣を振り回していると、急激に意識が引き戻される――ナニカの、気配、

「――っ、はああッッ!」

 左足で思い切り土を踏み込む。右足を軸に瞬時に回転し、その勢いのまま背後に現れた何者かへ模擬刀を振り下ろす!

「!? きゃあああっ!!」

「――――!!?」

 悲鳴、それも女の。

 暗闇の中、基地から漏れる光でぼんやりとその輪郭が読み取れる。――涼宮っ?!

「っ、がっ!!!!」

 上半身を思い切り捩り、更に踏み切った左足で無理矢理地面を蹴る。滅茶苦茶にバランスを崩して、なんとか剣の軌道を逸らす!

 めしり、と。肩と胸、背筋から大腿が悲鳴をあげる。痺れるような鈍痛に思わず呼気が掠れたが、どうやら模擬刀は対象から大きく外れてくれたらしい。

 慣性を完全に無視した代償から、俺は地面に倒れこむ。なんとか受身を取れたのには我ながら驚いた。そして、続け様聞こえてくる涼宮のよくとおる声。

「し、白銀っっ!? 大丈夫?!」

「…………いてぇ」

 わ~、とか、うわ~、とか。なんか慌てているらしい涼宮が、倒れっぱなしの俺を見て衛生兵とか教官を、とかなにやら大層混乱しているのがわかる。

 本来ありえない動きを強いた筋肉がいまだズキズキと痛むが、これ以上涼宮をほうっておくのもどうかと思ったので、早々に立ち上がることにする。……っ、う。こりゃ、相当キてるな……。明日起きたら酷いことになっていそうだとげんなりしながらも、平気そうな顔で涼宮と対峙する。

「おい、落ち着け。何慌ててんだよ?」

「えっ? えっ?! だ、だって白銀、あんな凄い勢いで倒れちゃうし……っ?!」

 平気だということをアピールするために両手を広げてぴょんぴょん跳んでみせる。暫く呆然としていた涼宮だったが、それで落ち着いてくれたらしい。

 で、落ち着いたら今度は急に不機嫌そうなお顔。……あれ? 怒ってる?

「――も、もうっ! びっくりするじゃない!! いきなり斬りかかって来るなんて!!」

「あ?」

 どうやら先ほどのことを言っているらしいが、それについては俺にも言いたいことがある。

「あ、あのなぁっ! それはこっちの台詞だっ! いきなり背後に回ってくんじゃねぇよ!? しかも中途半端にコソコソしやがって、過剰に反応しちまったじゃねぇーか!!」

「んな、なによ?! あたしが悪いって言うの!」

「たりめーだ!!!」

 強めに反論すると、思わず息を呑んだような表情をする涼宮。……あ、ちょっと言い過ぎたか?

 い、いや、しかし。今回のことに関しては声もなくいきなり背後に現れたこいつが悪いわけで……、その……。

「……なによ、ちょっと驚かそうとしただけじゃない……」

 心なしか俯き気味。……ぉい、そんな泣きそうな顔するなよ……反則だろう……。

「…………っ、はぁ~~~~~~~っ。はいはい。十分驚いた。これでいいだろ? んで? 何の用だよ」

 半ば呆れながら溜息をつく。これ以上言い争ってもしょうがないし、涼宮に怪我はない。なら、それでいい。これでこの話はお終いだ。

「……」

「涼宮?」

 拗ねたような表情で、少しだけ唇を尖らせたまま、ぽつり、と。――ずるい。

 なにか、そんな言葉を呟いた気がした。

 なんだか普段と様子が違う涼宮をいぶかしみながら、しかし、わざわざこんな時間に、グラウンドの隅にまでやってきたわけだから、その用件が“俺を驚かす”ことで終わったとは思えない。

 何か別の、割と急ぎの用事でもあったんじゃないだろうか? 例えば、これから急遽夜間訓練とか……うわ、自分で考えてなんだが、それは勘弁してもらいたい。

 教官なら言い出しかねんと腕を組み唸っていると、さっきから何か言い掛けてはやめてを繰り返していた涼宮が、キッ、とこちらを見据える。

 ……あれ、また怒ってんのか? しょうがねぇなコイツは……。

 内心溜息を漏らしながら、こうなれば大人しく小言をもらっておこうと決める。まっすぐこちらを見つめてくる涼宮を、俺もじっと見つめた。

「ぅ、ちょ、ちょっと。そんなに見ないでよっ」

「はぁ?」

 意味がわからん。大いに疑問だ。……一体涼宮は何がしたいのだろう?

「……も、もう。と、とにかく、その、用件は、」

「おう。なんだ?」

 ようやく話す気になったのか。しかし今度はやけに視線を踊らせながら、チラチラとこっちの顔を見ては逸らしを繰り返し、なんというか……不審極まりない。

「え、ええと。その、そ、そう! も~! 白銀ったら、なんで部屋に居ないのよっっ!?」

「はぁあ?!」

 一転、何故か怒鳴り出す涼宮。暗くてよくわからないが、その顔は真っ赤に茹っているのではと思うほど。しゅんしゅんと湯気が噴いていて、薬缶の蓋がカタカタと鳴っていそうだ。

 ……しかし、なんだ。どうやら涼宮は俺が部屋に居らず、こんな場所で自主訓練していたことが気に喰わないらしい。……? なんで??

「ぉ、おいおい。そりゃ、俺が悪いのか?」

「悪いわよ!? だ、だって、部屋に居ないからPXでも行ったのかと思って、でも居ないし、基地内の何処かだと思って探しても全然居ないしっ!! さっき偶然速瀬さんに会って、そしたらグラウンドの隅で素振りしてるとか言うし!!?」

 段々ヒートアップしてくる涼宮。……い、いかん。この流れは危険な気がする。

 要するに、話を纏めるとこうだ。

 なにやら俺に用のあったらしい涼宮。だが当人は部屋に居らず、ならば別の場所かと延々探すも見つからず。その内に腹が立ってきた、と。そういうことか?

「……俺、全然悪くねぇじゃん」

「白銀が悪いのっっ!!!」

 ぎっ、と。兇悪な視線が突き刺さる。うぉお、なんか眼だけ光ってないか?! 怖ぇえ。

 最早何を言っても無駄無駄。一方的に腹を立て、その腹いせに驚かしてやろうと思えば斬りかかられ……。まぁ、半分くらいは俺が悪いような気がしないでもない……。

 しかし、そんな怒り心頭になってまで俺を探す用とは、一体何事か?

 そこまでするのだから、やはり重要なことなのではないのか。気になって、尚も喚いている涼宮を黙らせる。

「ったぁ~~~~!!? あ、あんた今叩いたわねっっ?!」

「うるさい黙れ。で、いい加減何の用なんだよ……」

 頭部に軽く手刀を喰らわせる。先ほどとは別の意味で睨まれたような気がするが、涼宮も本来の用件を思い出したのだろう。唇を尖らせたまま不機嫌そうに……

「…………………」

「……なんだよ?」

「え? ……ぇっと? …………あ、あれ?」

 沈黙、そして動揺、あまつさえ焦燥。

 え~~っと、まさか、お前…。

「なぁ、涼宮。ひょっとして何の用か忘れた、なんてことはないよな?(ニッコリ)」

「え??! い、いや、あははっ。まさか、そんなことあるわけない……じゃ、なぃ……」

 完全に顔を横に向けて、引き攣った笑みを浮かべる涼宮さんちの茜さん。どうやら怒りが目先に来すぎて、本来の用事を忘却してしまった様子。

 ……お、おまぇなぁ……。

 思い切り脱力する。結局、俺だけが痛い思いをし、割と理不尽な怒りをぶつけられ……あ、なんだか眼から熱いものが……泣いてなんかないやい。

「涼宮……」

「あははっ、ははっ、ははは……ご、ごめん」

 しゅんとして、頭を下げる涼宮。はぁぁ~~~~っ。なんか、すっげぇ疲れた。

「……あ~、いい。もういい。……ったく、お前らしくもない。なにやってんだかなぁ」

「う、うるさいわねっ。大体、白銀が部屋に居れば問題なかったんだってば」

 まだそれを言うか。はいはい、そりゃ俺が悪ぅございました、っと。

 模擬刀を鞘に仕舞い、服についた土を払う。鈍痛を訴えてくる筋肉をほぐしながら、基地の入口へ向かう。

 慌てたように後をついてくる涼宮に声を掛けることもなく、スタスタと歩き続けて数分。

 あと数歩で基地、というところまで来て、ようやく涼宮に振り返った。

「!」

 予想通り、驚いたように慌て出す涼宮。多分、コイツのことだからそれなりに自責の念を感じてうじうじしていたんだろう。……らしいと言えばらしいんだけどな。

「……ったく。いいか涼宮。もう気にすんな。用件なら思い出したらまた教えてくれればいいし、夜は大抵あそこで素振りしてるから」

 くしゃくしゃと涼宮の頭をかき回す。うわぅわぁわぁ、となにやら不可思議な声を上げてやられるままになっている涼宮が、ちょっとだけ可笑しくて笑ってしまう。

「ちょ、ちょ、白銀~~っ?! やめってってば~っ」

「わははは。おもしれ~っ」

 ぐるんぐるんと涼宮の頭を弄び、じゃな、と手を上げて別れる。

 一拍の後、おやすみと小さな声で呟いた涼宮に、もう一度だけ手を上げて……。

 そして、俺は部屋に戻った。







「もう……子供扱いしてさ……っ」

 背中を向けたまま、手を上げる白銀。廊下の角を曲がって見えなくなったあいつに、ちょっとだけ悪態を吐く。

 かき回された髪の毛を整えながら、どうしてか、頬が緩んでくるのをとめられない。……えへへ。

 ――っっって!!!??? “えへへ”、ってなによ!?!?

 はっとしてぶんぶんと勢いよく頭を振る。……なにやってんだろ、あたし。

 それにしても、らしくない。

 感情を幾分落ち着かせながら、先ほどまでのことを思い出す。

 怒りに我を忘れて当の用件を忘我するなんて、らしくないにも程がある。そう、そんなことは白銀に言われるまでもなく、自分が一番わかっている。

 あんなにムキになって白銀を探していたこともそうだし……一体、あたしどうしちゃったんだろ。

 ……白銀、か。

 白銀が剣を振るっている姿を見るのは、初めてじゃない。訓練中に目の当たりにしているし、打ち合ったこともある。

 でも、今日の白銀は……見たことがない。まるで別人だった。まるで見たことのない剣の軌道。足の運び。

 流れるような動作の中には一部の隙もなく……いや、実際はどうのかはわからないが、少なくともあたしにはそう見えた。

 張り詰めた空気に、凛としたその表情。動き、剣を振るう度に収縮する筋肉。見るものを惹きこむような気迫。止まることのない独楽の演武。

「…………」

 思わず、赤面。……だ、だからなんでよっ?!

 べちべちと頬を叩く。いたたっ、ちょっと強過ぎたかな。

 と、とにかく。いつもとは全然違う白銀にびっくりして、なのに、散々探し回ってようやく見つけた当人があたしの苦労なんか全然知りもしないで訓練に夢中になっているのを見て……無性に腹が立ったのだ。

 ……我ながら、少し短絡過ぎたような気がしないでは、ない。けど。

「でも、白銀が悪いんだからっ」

 と、過ぎたことを再び持ち出してしまう辺り、本当にらしくない。

 あ~っ、もう!!

 アレコレ考えるのはもうやめっっ! ふぅっ、と息をついて、自室に戻ろうと一歩を踏み出し…………

 ――わっ、こっち向いたっ?!

 ――しぃっ!! まずっ、気づかれたっ!!

 ……とてつもなく聞き覚えのある二つの声に、ぎしり、と足が止まる。

 向かう廊下の先、白銀が曲がったのとは反対の方向。見間違えでなければ、一瞬だけ確かに見えた某なにがしの顔二つ。

「うわわぁっ?! あ、茜ちゃん、怒ってるよ!!?」

「あちゃ~~、こりゃまずいね。逃げよう!」

「逃がすかぁ!! 待ちなさいっ!! 晴子ォ! 多恵ぇえ~~~~っっ!!!」

 叫ぶが早いか、全速力! 脱兎の如く逃げ出す晴子と多恵を猛追すること数分。

 何故か一本道に入り込んだ晴子たちに若干の疑問を抱きつつ、しかし構うことなく追い詰める!

「わっ、わぅっ?!」

 ひょいひょいとまるで猫のように追撃をかわす多恵に、状況観察に優れた晴子はこちらの一瞬の隙を見てひらりと避ける。

「あはははっ、茜、怒らないでってば~」

「何笑ってんのよっ!? ちょ、待ちなさいって!!」

 二人して尚も一本道を駆け進む。こ、このっ、馬鹿にして!!?

 時折こちらを振り返る二人の表情はそれはもう見事に正反対だ。多恵は酷く怯えていて半泣き。対する晴子はいつもの如くゆるい笑み。まるでこの状況を楽しんでいるというか明らかにあたしをからかって愉しんでいる!!

「こら~~~っ! 待ちなさいよ~~っ!」

 いい加減頭にきた。

 あの時、あのタイミングであんな場所に、しかもこそこそ隠れていたということは……っ! まず間違いなく! 晴子は、そして多恵は「目撃」していたのだ!!

 あたしと白銀が話しているのを!

 そして、あたしが白銀に頭を撫でられているのを!?

 その後あたしひとりでにやけたり赤面したりしていたのを!!!!?????

 ――――い、いやああああああ!!?? そ、それだけは、なんとしてもっっっ??!!

 絶対に捕まえなくてはならない。そして、その口を塞がなくてはっ!!

 現在までの晴子の所業を思い出す。

 初対面の白銀に対してのあの爆弾投下に始まり、あたしが話した速瀬さんのアレコレ……!

 それ以外にもことあるごとに本人にとって愉快であるくだりをさも愉しそうに語る柏木晴子は、それはもう歩く広告塔!!

 事実、白銀は入隊初日に同期生全てに幼馴染である鑑さんの存在を知られ、いまだにからかわれ続けているッ。

 も、もし、ここで晴子を捕まえられなかったら……??

 ごくり。

 生温い唾を飲み込んで、覚悟を決める――。

「――多恵、いい加減にしなさい……?」

「ぅひいいいっっ!? 茜ちゃん本気で怒ってるぅううう!!」

 絶対零度の眼差しを向けられた多恵が明らかに狼狽する。走りながらも恐怖に空回りする思考はしかし、背後に迫るあたしの鬼気に呑まれ、そして……、

「ねぇ多恵。あたしは別にあんたに怒ってるわけじゃないわ。……あんたはこんなことして喜ぶような腐った根性してないもの。ええ、わかってる。全部晴子が言い出したんでしょう? 多恵は悪くない」

「あ、茜ちゃ……」

 向けられた優しい微笑みに安堵の涙を零す多恵。――だが、

「でもね、これ以上逃げるって言うんなら――――赦さないわ――――」

「ひぃいいいいいっっ!!!!」

 本能が悟ったのだろう。一瞬にして顔色を真っ青にした多恵は、半歩先を逃げる晴子に向かって飛びついた!

「えぇえーーーーいっ!!」

「えっ?! うわ、ちょっとぉお!??」

 全速力で走る晴子に、同じく全速力でのタックルをかました多恵。聞くに堪えないひどい悲鳴をあげながら二人はごろごろと廊下を転げる。……正直、すごく痛そうだった。

「あいたたた……ちょ、ちょっと多恵~! なにすんのよ」

「だってだってだってだって、茜ちゃん怖かったんだもん!!」

 しかめ面で文句を垂れる晴子に、恐慌状態に陥っているのかガクガク震えている多恵。

「ちぇ、失敗したなぁ。一本道なら多恵を囮にして逃げ切れると思ったのに……」

「それって酷いよねっっ?!」

 どうやら最終的に追われることになるのは自分だという自覚はあったらしい。晴子らしいといえば、とてつもなくらしい考えに、少し呆れる。

 その二人にゆっっくりと近づいて。あ、と。晴子がこちらを向いて、バツが悪そうににへら、と……

「覚悟はいい? 晴子……」

「あ、あはは、あははは……怒ってる?」

「さぁねぇ……あんたの方がよくわかってるんじゃないの?」

「うひぃい、茜ちゃん怖いです……」

 その後、絶対に口外しないと二人共に確約させ、廊下に額を擦り付ける晴子を見て幾許か溜飲を下げる。

「……ったく。覗きなんて、趣味悪いじゃない……」

「いやぁ、つい」

 ついで覗かれたこっちはたまったもんじゃない。

「でも、茜ちゃん凄く嬉しそうだったよねっ」

「えっ」

 ようやく泣き止んだらしい多恵が、いきなりのたまう。――な、何言ってんのよ??!

「あ~、そうだよね。随分白銀君と仲良くなっちゃって」

「うんうん。やっぱりあれだね。こないだ白銀くんが迎えに行ってからだよねっ」

「そうそう。いやいや、茜も隅に置けないね。いつの間にあんなに甘々~になってたんだか」

 それはそれで大成功なんだけど、と聞き捨てならないことを言ったような気もするが、それどころではないっ。

「ちょ、ちょ、ちょ、」

「さっきもさ、茜ちゃん凄い可愛かったし~」

「うんうん。白銀君に頭撫でられてね、」

「思い出してニヤニヤしてるし」

「その後真っ赤になってたよねぇ。あはは」

 廊下に正座したまま、勝手なことを言って盛り上がる二人。既に先ほどの「口外しない」という約束が破られているような気がする。

 無責任な二人の言葉に、再び怒りがこみ上げ……それ以上に、第三者の口から語られる自分の醜態に、羞恥心が前面に押し出される。

「あ、あんたたちっっ……!!?」

「貴様らァ!!! こんな時間に何を騒いでいるっっっ!!!!!!」

 ――――!!?

 こみ上げた怒りも羞恥も、一瞬にしてなりを潜める。

 恐る恐る振り向けば腕を組みとてつもなく不機嫌そうな神宮司教官。――いや、あれは不機嫌なんてモノじゃない……!?

 背後では晴子と多恵が勢いよく立ち上がる気配。あたし含め、それはもう恐怖に支配されて動けず……。









 さて、その後どうなったかというと。…………言うまでもなく。

「涼宮ぁぁあ~! なんでこんなことになってんだヨッッ?!!!」

「う、うるさいわねっ! いいじゃない! 体力有り余ってんでしょ!!!?」

「うぇーん。ひどいですよぅ茜さ~ん」

「あはは、亮子ちゃん泣いちゃって」

「お前が笑ってんじゃない晴子っ! くっそ~、今日はゆっくり眠ろうと思ってたのに~っ」

「ご、ごめんなさいごめんなさいぃい。薫ちゃん怒んないで~っ」

 一人の責任は部隊全員の責任。……仲間って、いいわね。

「なに綺麗に結論出してんだよっっ!!?」







 怒声に悲鳴の入り混じった夜間訓練はその後、日が昇るまで続けられたとかなんとか……。

 合掌。







[1154] 復讐編:[二章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:346f6266
Date: 2008/02/11 16:07
『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:二章-03」





 1998年8月――







 それは、ここ数十年の凄惨な歴史の中でも、最も色濃く、おぞましき恐怖と共に記されるだろう。

 滴り落ちる赤いインクは、羊皮紙にじわじわと染みこみながら、けれどその字句をハッキリと辛辣に現実を指し示す……。



 ――――BETA 日本上陸。



 新疆ウイグル自治区喀什。世界で一番初めにBETAのハイヴユニットが着陸した場所であり、今も尚、世界最大級の脅威を誇る、帝国軍戦略呼称甲1号目標が存在するその場所。

 同ハイヴよりあふれ出したBETAは、1983年に西欧へ向けて西進、翌1984年には南進を開始した。そして、実に六年もの侵略の後、続く1990年には本格的な東進を開始。

 東進したBETAの向かった先は主に三つ。チベット高原を南東に抜け、ミャンマーへ向かう勢力。ゴビ砂漠、モンゴル高原を抜けて北東のソ連へ向かう勢力。

 ……そして、中国を横断し朝鮮半島へ向かう勢力……。

 当然、予想された侵攻ルート上に置かれた各国は、各々が掲げる戦力を以ってこれを迎撃、或いは防戦し、怒涛の如き侵略を阻止すべく死力を尽くした。

 文字通り、死んででも護りきる、という過酷で壮絶な道を突き進んだのだ。

 だが、その人類の抵抗をまるでもろともせず、BETAはその圧倒的な物量と破壊力で進撃し、蹂躙し、殲滅し……数々のハイヴを構築、そしてその数を増していった。

 あまりにも一方的で、あまりにも圧倒的なその侵略の前に人々は成す術なく、次々と喪われていった。

 人も、町も、都市も、文明も、歴史さえも。

 世界の地図上から多くの物が消え去り、白紙に塗り潰されていく。栄華を極めた過去の遺産も、気の遠くなるような歳月をかけて築き上げた国境の長城も、なにもかも。

 BETAは破壊し、破壊し、破壊して。立ちはだかる人間を人類を生命を。それら同様、破壊して……突き進んだ。



 そして、その火の粉は遂に、届く。

 朝鮮半島を越え、日本海を越え、九州を始めとする沿岸部に上陸し…………人類史上最低最悪の、一方的大虐殺が始まった。



 一週間。

 たったのそれだけで、日本はその全土の半分近くを喪った。

 九州・中国・四国。人口四千万を数えるそれらの地区の犠牲者はおよそ三千六百万人。――たったの一週間。それだけで、日本人口の三十パーセントが、亡くなったのだ。

 それは、その事実は、そしてそれだけのことをしてなお留まることを知らないBETAの脅威は。

 世界を、人類を、そしてなにより日本を激震させた。誰も彼もが恐怖に震え、迫り来る死に怯え、BETAの侵攻を恐れた。

 対岸の火事ではない。そんなことは言っていられない。――否、始めから誰もそんなことは思いもしない。

 BETAが宇宙より飛来してからの二十五年間。世界中の誰しもが、BETAの脅威に打ち勝つために戦ってきた。そこに最前線・後方の違いはなく、自国領土内にハイヴが存在しようがしまいが、その気持ち、目指すべき志は同じはずだった。

 そう、――はずだった、のだ。

 だが、日本は、帝国防衛軍は……この時ばかりはあまりにも恐慌に溺れていたのではないか。

 海を渡り、襲い来たBETAの大群。……大群と呼ぶのおこがましいほどの視界総てを埋め尽くすBETA、BETA、BETAッ!

 海底に設置した振動センサーがそれを察知し、或いは隣国からの情報でその動向を把握し、万全とはいかないまでも相応の準備を整え迎撃する構えを敷いていながらにッ……。

 突如に突然に唐突に、そして、あまりにも目の前に、醜悪で、劣悪で、おぞましい、吐き気を催す紛れもない異形が現れて。

 彼らは、眼前に対峙するその現実に。

 ――打ちのめされ、

 ――踏み潰され、

 ――蹂躙され、

 ――――最前線で戦った衛士も、

 ――――海上で上陸を阻止すべく爆撃の雨を降らせた艦隊も、

 ――――司令部も、通信兵も、補給大隊も、機械化歩兵部隊も、整備班も衛生兵も歩兵も訓練兵も民間人も大人も子供も男も女も赤ん坊も。

 未知こそは恐怖。

 不理解こそは恐怖。

 異質なるは恐怖を呼び起こし、異形なるは恐怖を呼び覚ます。

 それは即ち、死への階段を転がり落ちるが如くに。

 彼らは、生まれて初めての恐怖に。

 呑まれ、引き摺られ、死の淵から突き落とされたのだ。

 BETAに。それと対峙した恐怖に。絶望に。手に握る銃のトリガーすら引けず。ひりついた喉から絶叫をあげることすら出来ず。ただただ、暴虐と言う名の津波を全身に受け、木っ端の如く散って逝ったのだ。

 無論、帝国軍とて無能の集団では在り得ない。それだけは、断じてない。

 だが、それ以上に、目の当たりにした「本物のBETA」は脅威だったのだ。対応するべき策は常に後手。それも二手も三手も遅れを取り、圧倒的過ぎる戦力格差に悲鳴すらあげられず、後退に後退を重ね、掻き集めた戦力で戦線を構築し……後方から増援が来ようが気休めにもならず、次から次に戦線を押し上げられ、数の暴力に虐げられ。

 これがBETA。これがBETA。これが、これがこれがこれがこれがこれがこれがこれがっっっ!!

 これがBETA?!

 こんなものがBETA??!!

 人類の敵、人類を滅ぼす怨敵、宇宙からの侵略者!!

 斃しても斃しても一向に数が減らない、殺しても殺してもすぐに湧いて出て前よりもどんどん増えて現れて!

 殺してもコロシテもころしても!!! 潰されて吹き飛ばされて齧られて貫かれて溶かされて砕かれて食べられてっ!!!

 勝てない。

 倒せない。

 ――そんな、絶望にとりつかれたのだとして、それは一体誰が責められよう。

 誰も責められやしない。誰も責めていいわけがない。

 それは、誰もが思う最悪の想像。その惨劇を目の当たりにし、或いは耳にし、情報と言うソースを受け取った人々の全てが総じて感じた苦い思い。

 BETAには、勝てない……。

 日本の惨状は、たった一週間の大理不尽の暴虐は、一時とはいえ、世界中に影をさした。



 だが、日本は終わらなかった。

 中国地方を尚も抜けようとするBETAの大群に真っ向から対峙し、陣を敷き、戦力を集中させて何十もの防衛線を築き上げる。

 ――その先には行かせない。

 ――これ以上先に行かせはしない。

 最低最悪の絶望に憑かれながら、なぜ?

 どうして、彼らは。それほどまでの脅威に震えながら、これほどまでに奮え、その瞳に意志を宿すのか……。

 その先に在るもの。

 その先に在る、ひと。

 それは京という名の都、日本という国の象徴、政威大将軍を、さらには帝を、彼らを擁するその神聖なる場所を。

 破らせはしない。滅ぼさせはしない。

 それは、日本人と言う名の、己が魂が赦さないッ!

 恐怖がどうした、未知なる存在がどうした、醜悪で劣悪でおぞましく吐き気を催す異形、――それが、どうしたというのだッッッ!!!

 彼らは帝国軍人であり帝国斯衛軍人であり日本に仕え将軍を帝を守護するために存在する、この国を守護する誉れ高き「衛士」なのだ!

 その役割を芯に据え、魂が命ずる己が義務を果たすためならば、この国の未来を、その指導者を想うならば!

 退くことはない。

 恐れることなど在り得ない。

 恐慌に呑まれることもなく、まして、BETAを斃せないはずがない。

 全ては日本を護るため。

 眼を覆いたくなるほどの凄惨なる大虐殺を経て、しかし彼らは揺るがない。

 世界中の誰もが日本の滅亡を予見しながらに、けれど立ち向かい激戦を繰り広げる彼らに一筋の希望を見た。

 護るべきものを、ただひたすらに護るために戦うその姿に、衛士としての本懐を見た。











 だが、だからこそ。

 その結末に涙する。











 ===







 1998年11月――





 京都陥落。

 その報は、横浜基地を……否、日本という国、そのものを揺るがせた。

 BETAが日本に上陸し、怒涛の如き大暴虐で九州・中国・四国地方を蹂躙したのが八月。あまりにも一方的で強大なBETAの侵攻に対し、帝都死守を断行すべく国中の帝国軍戦術機甲部隊が集結し、斯衛を中心とした西日本を統べる総軍の一大勢力を以って帝都絶対防線戦を敷設した。

 帝国の、日本の、鍛えに鍛え抜かれた精鋭部隊による十重の防衛ライン。

 …………それなの、に。

 三ヶ月?

 たったの三ヶ月しかもたなかったって言うのかよッ?!

 基地司令の口から聞かされたその事実に、愕然とする。基地内の全設備、全衛士、全要員へ向けられた帝都崩壊の報せ。政威大将軍は経済の中心でもある東京へと無事到着し、そこを京都に変わり新たな首都にするという……。

 そうか。

 将軍は無事、なのか……。

 …………けど、それでも。――京都は、墜ちた。

 BETAに、負けた。

 既に壊滅したと言う九州・中国・四国に続き、京都……。

 じゃあ? 次は?

 BETAの東進はまだ止まらない。まだまだ続いている。

 京都を越え、そして、その次は??

 ……………………ここ、か?

 いや、そんなことはわからない。BETAの行動を予測することは不可能。それが世間一般で謳われるところの常識だ。

 突然向きを変えて大陸へ移動するかもしれなければ、そのまま日本を横断、進路を北にとり、縦断さえしてしまうかもしれない。

 だが、想定されるべき事態に備えず、手も足も出ないままにやられるわけにはいかない。

 ……だけど、それでも帝国軍は勝てなかったじゃないか。

 防衛ラインを抜かれ、全滅には到らなくとも、将軍を無事避難させたのだとしても……でも、負けたんだ。その物量に、その勢力に。力、そのものに。

 悔しい。

 悔しかった。

 同じ帝国軍人の端くれとして。衛士を目指す一人として。

 その敗北は恐ろしく、哀しく……悔しい……っ。

 あまりにも悔しくて、握り締めた拳が震える。ぎりぎりと手の平に食い込む爪の痛みが、僅かばかりに正気を保ってくれていた。

「……白銀」

 隣りで、涼宮が心配そうな顔。そっと腕に触れる涼宮に、無理矢理でもいい、平静を繕って、笑ってみせる。

「大丈夫だ。……こんなことで挫けてたまるかよ」

「……うん」

 涼宮の表情も暗い。いや、今教室にいる207部隊全員の表情は一様に、暗く沈んでいる。

 隊のムードメイカーである柏木も、流石に覇気がない。俺の視線に気づいたのか、困ったように苦笑する。……無理もない。

「くっそ……、畜生っ……!!」

 ガン、と。立石が身近な机に拳を叩きつける。ぶるぶると震える細い身体。それは俺と同じ、恐怖と悔しさからくるものだろうか。

 築地は窓の外をぼんやりと眺めている。その隣りでは月岡が、同じように壁にもたれかかって…………誰も、口を開かない。ただ、じっと黙り込んで……そして、沈み、どこか澱んだ空気の中。更に数分が過ぎた頃。

 カラカラと教室のドアがスライドする。

 現れたのは、言うまでもなく我ら207訓練部隊が教官、神宮司軍曹。

 入口から教壇へ向かう道中、反射的に姿勢を正した俺達を眺めながら、教官はどこか遠い眼をしていた。

 ……なん、だ?

 どこか、違和感が否めない。……教官もまた、帝都陥落の報に消沈しているのだろうか?

 いや、それはないだろう。…………哀しんでいない、悔しい思いをしていない、と言う意味ではない。

 ただ、恐らく教官は。俺達の前でそんな感情を見せることはないだろう。教え、導くべき訓練兵の俺達に、彼女は決して弱い自身を晒すことはない。

 常に厳しく、そして誇り高く強く在らねばならないのだから。

 ――ならば、何ゆえの違和感か。

 教壇に立つ神宮司教官を正面から見据える。教官は、じっと、一人ひとりの顔を見つめて……、

「貴様達訓練兵の転属が決定された。転属先は北海道大学札幌キャンパスに建設された帝国軍札幌基地。転属は三日後、出発は明朝0700だ。各自、荷物をまとめ明朝0630にここに集合すること」

「――――ッッ???!!!!」

 なん、だって!?

 転属?! 転属だって??!

 北海道?! 札幌!??

 ばかな、一体どうして、…………それ、って、つまり、

「…………疎開、ってこと、ですか?」

「!?」

 顔色を真っ青にして、柏木が呟く。……そうだ。京都が崩壊し、BETAが尚も東進してきている現状。そして、突然の転属命令……。

「疎開ではない。……転属だ」

 そんなの詭弁だっ! なんでだよ! 一体どうして!!? 教官、神宮司教官ッッ!! 教えてください!!!

 ……声が、出ない。

 言葉の出し方がわからない。ああ、一体俺は今までどうやって話していたんだ?! 混乱して、困惑して、驚愕に頭ばかりが焦って。何一つ声に出せない。

 そんな俺の事情を知ってか知らずか。神宮司教官が口を開く。

 俺達はただ、黙ってそれを聞くことしかできなかった。

「本日を以って当横浜基地は帝都防衛戦における第二防衛ラインの要となった。……ここ横浜と東京は目と鼻の先だ。帝都絶対防衛線は帝国斯衛軍の最精鋭部隊が固めるが、事実上、ここが日本の喉元となる」

「!!」

「わかるだろう? ここは日本で最も過酷な戦場となることが予想される。そんな中、戦術機に乗ることも出来ず、一卒の歩兵すら担えない足手まといの訓練兵の居る場所などないということだ」

「そ、……そん、な……」

 酷くかすれた涼宮の声が、何処か遠い。

 神宮司軍曹の声は冷たい。これまで一度も聞いたことのない冷え切った口調で、俺達はお荷物で邪魔者で、だからさっさと後方へ引っ込めと。

 そう、言ったのだ。

 全員が息を呑む。あまりに容赦のない教官の言葉に、誰もが訴えるべき内心を吐き出せずにいる。

 言葉をなくし、項垂れる俺達に、更に教官は言う。

「……これだけは憶えておきなさい」

 それは、先ほどまでの凍えるような冷たい声とは全く違う……暖かで、優しいものだった。

「貴方たちには未来がある。貴方たちには未来を勝ち取る権利がある。今回の転属はね、その芽を無闇に摘み取らせないための処置でもあるわ。折角ここまでやってきたんじゃない。だったら、少しでも生き延びる可能性の高い場所で、更に訓練を積んで……そして、立派な衛士になりなさい」

 もっとも、そう簡単にやられはしないけれど、と。俺達の帰る場所は必ず護ってみせるから、と。

 姉のように、母親のように。

 教官は微笑んで、確かに、そう言った。

 目から熱いものが流れ落ちる。俺は、気づかないうちに泣いていた……。哀しい、のか? 悔しいのか……?

 違う。

 無力な俺が、赦せない。

 日本が、俺達の国が、こんなにも逼迫した事態に陥っているというのに。俺は、俺達は……っ! 何一つ出来やしない!!

 共に戦場に立つことも、その支援をすることも、何一つ……ッッ。俺達がまだ、訓練兵だから……ッ!!

「気に病むことはない。悲しみに暮れることもない。今は悔しいかもしれない。けれど、なら、その悔しさを糧に、これからの日々を生きなさい。……私からはこれで全部」

 耳朶に響く優しい声が終わる。教官は静かに俺達を見つめている。涙を拭い、仲間の様子を窺う。

 涼宮も、柏木も、築地も、立石も、月岡も……皆、同じように泣いている。肩を震わせ、己の不甲斐なさに涙を流して。やがて、立石が涙を拭い、涼宮が正面を見つめ、柏木が……築地も、月岡も。

 全員が、教官を見つめる。無論、俺もだ。

「……ふふ、いい顔よ、皆。さて、今日の午後は訓練はなし。明日は早いんだから、全員、荷物を纏めておきなさい」

 柔らかな笑みを浮かべて、神宮司教官は教室を出て行った。残された俺達は、それでも、ただ、じっと。

 教官の背中を、その姿を、目に焼き付けていた。







 皆、思うところがあるのだろう。或いは、心の整理をつけたいのか。

 神宮司教官から転属命令を受けた後、特に言葉を交わすことなく、俺達はそれぞれの部屋へと戻った。

 すべきことはある。転属に向けて荷物の整理。……とは言っても、元々荷物らしい荷物もなく。……ああ、そうか。もうこの基地の人間でなくなるのなら……この模擬刀も、返したほうがいいのかもしれない。

 壁に立て掛けてあった模擬刀を手に取る。最早馴染みとなったその重量がとても確かな物に感じられて、茫漠とした意識を現実に引き戻す。

 ……何やってんだ、俺は。

 苦笑。引き攣った、硬い笑み。

 夏にBETAが日本に上陸して以来、京都陥落、転属命令と、立て続けに大事が起こったせいで、どうやら思考が停止していたらしい。

「北海道に転属、か……」

 誰にでもなく呟く。教官はああ言ってくれたが、どんなに綺麗ごとを並べても、それは矢張り疎開だろう。事実、政威大将軍の名のもとに、政府より近畿・東海地方の全住民へ避難命令が出されたという。

 俺達含め、各地方の訓練兵は、民間人の避難に先駆けて北海道へ転属となる運びらしい。

 ……そうだ、純夏は?

 関東地方へはまだ避難命令は発せられていない。……軍属である俺が、避難を始めてもいない民間人よりも先にこの地を離れるという事実に少しだけ苛立ちを覚えながらも、しかし、このままというわけにもいかない。

 俺が北海道へ転属になったこと、そして、……恐らくBETAが横浜まで迫ってくるだろうこと……。出来るならば、俺と同じ北海道へ疎開を勧める内容を手紙に書き綴る。

 集配用のボックスへ手紙を投函した時点で、BETAの件は記さない方がよかったのではと、今更ながらに気づく。

 ……だが、もう遅い。いや、伝えるべき重要性を思うなら、それでいいのだ。

 純夏へ宛てた手紙ではあるが、それは純夏の両親も、隣りに暮らす俺の両親も目を通すことは今までの手紙の内容を見ても間違いない。

 純夏だけなら少々心配にもなるが、大人が四人も揃っているのだ。きっと、俺の勧めに従ってくれるはずだ。

 そう、信じたい。いや、信じる。――だって、自分の両親なのだ。大好きな純夏の両親なのだ。……子供が哀しむような選択をするはずがない。

「……よし」

 暫くボックスの前で黙考していたが、純夏たちを信じることにして、ならば早速荷物を片付けるとしよう。

 その後はPXにでも行って……そうすれば、きっと涼宮たちがやってくるだろう。

 お互い完全に吹っ切れたわけじゃないが。それでも、多分独りで居るよりはマシなのだ。







 そして、その日の夜。

 気心の知れた仲間達と、いつもより少し大げさなくらいに騒いだ夜。

 ――それでも晴れない不安に溜息を漏らしながら。

 故郷で迎える最後の晩を、俺は眠れないまま過ごした。







[1154] 復讐編:[二章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:3615a997
Date: 2008/02/11 16:07

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:二章-04」





 1998年12月――







 札幌基地に転属となってから丸一ヶ月が過ぎたその日、自主訓練のために屋内訓練場へ向かう途中、この数ヶ月顔を合わすことのなかった速瀬さんとすれ違った。

 声を掛けようとしたが、何やら深刻な表情で考え事をしているらしく、すれ違う俺にまるで気づかない。

 ……なにか、あったのか?

 疑問に思い、何を莫迦なことを、と自身を戒める。――――あったに決まっている。

 BETAが日本へ上陸した八月には同じ訓練部隊に属していた鳴海さんが正規の軍人として任官し、帝都陥落に続く突然の転属命令の混乱によって、速瀬さん含め四回生の訓練兵全員が後期の総戦技演習を来年に延期されてしまったのだ。

 涼宮から聞いた話だが……遙さんも、酷く落ち込んでいたらしい。

 無理もない、と、小さくなる速瀬さんの背中を見つめ、思う。……それは、彼女達にとっては、あまりにもタイミングが悪い。

 遙さんの想い人である鳴海孝之少尉。それはそのまま、速瀬さんの想い人でもあったのだから。

 二人はお互いの気持ちをよく知っており、それでいて険悪になるどころか益々に仲を深め、どちらが鳴海さんを振り向かせることが出来るのか、勝負しているのだと聞いたことがある。

 一足先に任官した想い人に追いつくために、遙さんはリハビリを終え、日常生活どころか訓練にも全く問題を見せないほどに快復した。速瀬さんもまた、前回露にされた己の不甲斐なさ、甘さを克服し、心身ともに鍛え抜いてきた。

 無論、同じ訓練部隊の仲間とて。……前期の総戦技演習で亡くなった仲間の無念を背負い、自らの護りたいものを護れる力を手に入れるために。

 だからこそ、今回――日本全土が混乱に陥ったためとはいえ、或いは滅亡の危機に瀕しているとはいえ――総戦技演習が行われないという事実は、深く、精神を苛んだのだろう。

 来年に延期ということは、文字通りの意味だとするならば来年の六月に延期ということ……。本来ならば遅くとも来年の二月に任官できるはずの速瀬さんたち四回生は、実質、半年間の空白ができてしまったことになるのだ。

 莫迦な話だとは、思う。

 今は、一人でも多くの衛士が必要とされているのではないのか?!

 近畿・東海、さらに関東の衛士訓練校は軒並み閉鎖。各地の訓練兵をひとまとめに受け入れたこの北海道札幌基地に、一体どれだけの四回生が居るというのだ。

 彼らは皆、半年前の屈辱と悔しさを糧に、ここまで必死に訓練を積み重ね己を鍛え直してきたはずだ。

 それなのに。

 BETAに日本が侵されている正にこの時に! ――それでも、任官のチャンスを与えられない……この、哀しみは、憤りは……一体、どうやれば晴れるというのか。

「――速瀬さん!」

 気づけば、叫ぶように名を呼んでいた。驚いたように振り返る彼女を見て……俺は一体、何を言おうとしたのかわからなくなる。

「……白銀……」

 矢張り、どこか虚ろに聞こえる声に、言い知れぬ感情がこみ上げる。

 俺は、速瀬さんに同情しているのか……? 違う。そんなものじゃない。

「……俺、これから自主訓練するつもりなんですけど……付き合ってもらえませんか?」

 精一杯の笑顔で、出来る限り明るく。左手に携えていた模擬刀を掲げて見せて、どうです、と答えを促す。

「え? あ、ああ……。ふふ、あっはははは! なによそれ、慰めてるつもり?」

「……まさか。そんなの、俺が思いつくわけないですよ。なんですか? 俺が慰めないといけないようなこと、あったんですか?」

 一瞬怪訝そうな顔をして、さも可笑しそうに笑う。多分、俺が同情していると思ったのだろう。速瀬さんは莫迦にするなと、尚も笑う。

 だから、白々しいほどに俺は嘘をつく。全然気づいていない振りをして――それが振りであると知られていることを承知しながらも――口端を歪める。

「いいじゃないですか、付き合ってくださいよ。こっちにきてから、正直ストレス溜まってるんですよね。思い切り鬱憤を晴らしたいというか、まぁ、久々に暴れたいというか」

「ふ~ん。まぁいいわ。そういうことにしといてあげる。……そうね、私も正直、ストレス溜まりまくってるし……いいわ、先に行ってなさい」

 自分の模擬刀を取りに行くのだろう。速瀬さんは踵を返すと、力強く歩き出した。

 ……先ほどまでの彼女とはまるで別人。いや、それこそが俺の尊敬する「速瀬水月」の姿だった。

 自分でも少しは力になれたのだと知って、少しだけ嬉しく思う。弱々しい速瀬さんなんて、見たくはない。ストレスのはけ口にくらいいくらでもなってやれる。今はただ、何処にもぶつけようのない苛立ちを解消させることが大切なのだから。







 その後、一体どれだけのストレスが溜まっていたというのか……苛烈に過ぎる兇悪な速瀬さんの猛攻に、数えるのも莫迦らしいほど意識を刈り取られ続け……気づいた時には自室のベッドに寝かされていたという体たらく。

 うぉぉお、情けねぇ。

 けれど、翌日また会った速瀬さんからは翳りが消えていて、いつものように、明るく豪快でしなやかな強さを持った彼女の姿に、なぜか嬉しさが止まらなかった。







 ===







 午前中の訓練を終え、隊の仲間達とあれこれ議論を交わしながらPXへ向かう。議題は、近接格闘における武器の有効性。

 今日の訓練は二人一組で、片方は素手なのに対し、もう片方はナイフを装備して行った。

 総じて、格闘訓練というものはいずれ戦術機に搭乗し、あらゆる兵装を用いてBETAと戦うにあたっての身体感覚を養うためにあり……素手でBETAとやり合うなんて考えたくもないのだが、矢張りあらゆる状況を想定してこその訓練である。

 で、身体能力および格闘能力が拮抗している二人がそのような状況で戦った場合、明暗を分けるのは矢張り武器、という結論が出た。

 ナイフ一本あるだけで、これほどまでに戦力に差が出るという事実は、剣を振ることが日常となっている俺にとって少々新鮮だったのだ。と立石に話したところ……なぜかヤツと大して意味のない議論を交わすに至ったわけである。

 もっとも、自分が素手の状態でナイフ持った俺に一度も勝てなかったのが悔しかったからに違いないのだが……そこは敢えて触れないでおく。

 何やら熱く語り出す立石の背後で、柏木がさも可笑しそうに話を聞いている。……ああ、哀れ立石。暫くの間このネタでからかわれることになるだろう彼女に同情しながら、PXに踏み入れた時、

「ふざけんなっっっ!!?」

「こ、のっ!? 米国野郎!!!!」

「冗談じゃねぇぞ! なんてヤツラだ!! くそぉおお!!」

 それは、どういう光景か。

 PXに居る衛士、基地職員、訓練兵……その全てが、口々に怒号を叫び、怒りを顕にしている。

 一体何事かと立ち尽くす俺達だったが、涼宮が険しい表情で一点を指差す。……そこには、PXに備え付けられている報道用のテレビ。主に政府や軍の広報が日本国内はもとより、世界の情勢等を報道するために用いられている設備だが……その画面上部に、目を疑いたくなるようなテロップが流れている。

『日米安保条約、一方的破棄! 在日米軍撤退す』

 流れてくる報道官のアナウンスはさも憤慨した、という口調で、しかし淡々と語っている。

 報道の概要はこうだ。

 BETA襲撃を受け本州の半分を喪い、更に京都陥落と続いた日本の窮状に……米軍は、尻尾を巻いて逃げ出した。

 大東亜戦争終結以降、なにかと日本での主権を主張していた米軍ならびに米国だったが、ここに来て突然その態度を翻し、一方的に安保条約を破棄、自国へ撤退したのだという。

 ……なんだ、それは。

 なんなんだよっ、そりゃああ!!?

 ふざけてるのか? ふざけてんのかよっ!!?

 一体何様だよ! 状況が見えてんのか?! 理解してるのかよっっ!!

 日本が、この国が、俺達の国が! 今、こうしている正にこの瞬間にも、大勢の衛士が戦っているんだぞ!?

 BETAを斃すために、BETAから帝都を護るために、この国を護るためにッ!!

 なのに……なのに、なのに、それなのにっっ!!

 大国で国連での顔も態度もデカイあんたたちが! 貴様ら米軍が!!

 …………なんで、逃げ出したり、するんだよ……っ!???

「なによ、それ」

 涼宮がぎりぎりと奥歯を噛み締める。立石が何事か叫んでいる。月岡はショックで口も利けず、柏木と築地はただじっと画面を見続けている。

 くそったれ……クソッタレ、くそったれ、くそったれくそったれくそったれくそったれが!!!!

「誰が……ッッ、テメェらなんかを当てにしたよ!? ――ハッ、さっさと居なくなればよかったんだ!! この、クソ米軍がぁあああああ!!!」

 叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ――ッッ!!

 悔しかった。

 哀しかった。

 どうしてかわからない。

 でも、それでも、こうして頭にきて感情が爆発して叫んでしまうほど。

 俺は、俺達は…………今、日本が置かれている状況が、ただ、悔しいくらい哀しかった。

 雄叫びを上げる俺に、立石が吠えるように続く。

 涼宮が俺の背中に額を押し付けて震えてるのがわかったけれど、だからって、構ってやれるほどの余裕はなかった。

 PXは止むことのない怒号と罵詈雑言に支配され、打ちひしがれた俺達の怨嗟は……報道が終わっても尚、収まりはしなかった……。

 ――畜生。

 一体、どうしてこんなことに?!

 どうして、こんなにも日本は追い詰められているんだ……。

 八月のBETA上陸以来、何一ついいことがない。むしろ、状況は悪化するばかりだ。

 九州を、中国を、四国を喪い。人々の拠り所であった京都を喪い……多くの、多すぎる人たちの命を喪い、他国の援助を喪い……。

 じゃあ、これ以上、何を喪うって言うんだ?

 ……駄目だ。

 この思考は、駄目だ。やめよう。

 人間、辛いことがあるとどんどん思考がネガティブになっていく。後ろを向いてもいいことなんて一つもない。

 ここが正念場、踏ん張りどころだ。

 前を向け、白銀武。

 悔しければ、哀しければ、それを糧にして前に進め! 神宮司教官の言葉を思い出せっ!! 俺達は未来を勝ち取るために、今を生きるんだ!!

「――っ! しゃあ!!」

 ばん、と両手で頬をたたく。よし、気合は入った!

「……白銀?」

「白銀君……」

 涼宮と柏木がぽかんとした表情で見つめてくる。そりゃそうだ。さっきまであんなに米軍に文句垂れてたんだから、いきなり態度が変わって困惑してるんだろう。

「やめだやめだ。そもそも、米軍なんて端から当てにしてないんだしな! あんな腰抜け連中、居ない方が俺達もやり易いってもんだぜ!!」

 大げさに身振りを交え、鼻で笑う。その俺の態度を見て、察したのだろう、柏木が乗ってくる。

「ああ……そうだね。米軍が居ない方が、確かにやり易いかも。――それに、今の私たちには、そんなことに構ってるほど余裕があるわけじゃないしね」

「晴子……ん、そう、ね。うん。米軍が日本を見限った、っていうのは、確かに頭に来るし悔しいけど……それなら、より一層この国を護るためにあたしたちは強くならなくちゃいけない……!」

 目尻を濡らした涼宮が、手の甲で拭いながら呟く。賛同するように、築地が頷く。

「うん、そうだよ。わたしたち、強くならなくちゃ。BETAに奪われた土地を取り戻して、日本を元に戻さなくちゃ!」

「はっ! 上等!! なら、さっさと飯食って訓練だ!! 米軍の力なんてなくたって、この国からBETAを一掃してやるさ!」

「そ、そうです! 今は少しでも多く、長く、訓練を積んで……知識も、体力も、技術も……あらゆることを磨きましょう! BETAなんかに負けない、BETAを駆逐できる力を手にするためにっ!」

 立石の挑戦的な言葉に、珍しく熱く思いの丈をぶつける月岡。

 全員の目に、確かな光が灯り始める。

 それは、絶対に諦めないという、強い意志。

 悔しさを、哀しみを糧に、一歩を進む……小さくて大きな力だ。

 いつしか、PXを包んでいた険悪な雰囲気が薄れている。見回せば、米軍に向けて暴言を吐き続けていた全員が、俺たちの方を向いている。

 なにごとかと戸惑っていると、すぐ側に立っていた訓練兵だろう青年が、月岡に声を掛けた。

「そうだな。あんたの言うとおりだ。こんなところで、姿の見えない米軍に向かって吠えてたって、なんにもならない」

「ああ……眼が醒めたぜ、お譲ちゃん。ありがとな」

「そうとも、今は少しでも自身を向上させることが先決だ。なんてったって、相手はあのBETAだからな。米軍なんかより、よっぽど性質が悪いぜっ」

「ははは! 違いないね! さ、あたしたちも行こう! 訓練開始だよっ」

「おお! BETAなんかに負けない、BETAを駆逐する力を手にするために、な!」

 剛毅に笑いながら、彼らは次々とPXを去っていく。すれ違い様、月岡や俺達の肩、背中をばしばしと叩きながら……。な、なんだなんだぁ?!

 物凄い力で叩かれて痛いとか骨がいかれそうだとか、そんなことよりなにより、あれほど殺気立っていた全員が突然やる気に満ちて、しかも俺達に声を掛けて出て行く。お前のおかげだ、とか、お前達のおかげだよ、とか。……なんだか、よくわからんが、まぁ、よかったのか??

「な、なんだったんだよ……?」

「はぅあ~、目が回りましたぁぁ」

 月岡は小さいから、面白いように振り回されていた。……困惑しているのは皆も同じ。……立石の唖然とする顔も珍しいな。

 そんな中、妙にしたり顔の柏木と目が合った。……何故か若干嬉しげな表情の柏木が、俺の肩を叩きながら言う。

「すごいじゃん、白銀君!」

「はぁ?! 何が??」

「ま、きっかけっていうのは、本人の意識しないところで既に起こってるものだからねぇ」

「だから何の話だよ? 意味わかんねぇぞ?」

 いーのいーの、知らなくてい~の。このこのぅ、べしべし。……なんかやたら嬉しそうに絡んでくるんだが。……柏木、お前怒りのあまりどこかおかしくなったんじゃ?

 よくわからないが、まぁ、こんな場所に集まって不平不満をぶちまけているよりはましだろう。

 俺達が気づいたように、彼らも気づいたというだけの話だ。

 確かに米軍の仕打ちには腹が立つし、正直、一生赦せない気がするが。でも、今はそれよりもやるべきことが在る。

 いつかそんな米軍を見返すためにも、それ以上に、この国からBETAを駆逐するために……。

「……んじゃ、俺達も飯喰っちゃおうぜ。すっかり腹が減っちまった」

「あ、賛成。ぱっと食べちゃって、訓練訓練っ」

 弾むように食堂のおばちゃんの下へ駆ける築地。今日のメニューが合成サバ味噌定食だと知り、猫のようににゃんにゃん歓んでいる……。はしゃぎすぎだ、お前は。

 俺達も後に続き、多くの衛士たちの残した熱気の中……久々に、いつかの日々を彷彿とさせる軽口を叩きあいながら……ああ、本当に久しぶりに、俺達は。

 心の底から笑いあい、そして、進むべき道に戻ってきたのだ。

 BETAが日本に上陸して以来、俺達は自分で気づかない内に疲弊し、心が磨耗していったんだ。劣勢に次ぐ劣勢。入ってくる情報はどれもBETAの脅威を、そして自らの無力を知らしめる内容で。

 俺達はどこか、余裕をなくしていた。

 衛士としての実力など何一つ身についていない俺達が、何を焦って、絶望していたのだろう。

 日本は負けない。

 俺達は負けない。

 まだ終わったわけじゃない。これから終わるわけもない。――否、終わるのはBETAだ。俺達が必ず一匹残らず始末してやる。

 だから、俺は絶対に強くなる。――純夏をこの手で護るために。







 ===







 1999年1月――







 一日の訓練を終え、部屋へ戻る途中、教官に呼び止められた。何事かと身構えた俺に、熊と見紛う程の髭を蓄えた巨漢が豪快に笑いながら封筒を手渡してくれる。

 ……手紙だ。宛名は俺。差出人は……裏返し、そこに書かれている名前に、ハッとする。

 勢い、顔を上げればニヤニヤと悪餓鬼のような表情の熊教官。ま、まさか……中読んだわけじゃないよなァ……っ?!

「がっはははは! 貴様も隅に置けないじゃないか、白銀!」

 がはがはと尚も笑う教官に恨めしそうな視線を向けて、型どおりの謝辞を述べ、自室へ撤退。くっそぅ。誰だよ、教官に手紙預けたのは……っ。

 悪態を吐きながらも、しかし教官が本当に手紙を読んでいるわけではないということは理解している。

 見た目は兇悪なグリズリーだが、その心は北海道の大自然の如く雄大で慈悲深いのだ。正に、森の熊さんである。

 ともあれ。

 椅子に腰掛け、改めて手紙を見つめる。

 先ほどは教官のせいで頭が回らなかったが……冷静になって考えてみると、僅かに、躊躇いが生じてしまう。

 理由は、

「……純夏……、二ヶ月ぶりの、手紙……だな」

 単純な話だ。

 十一月に北海道へ転属が決まった際、純夏宛に手紙を出したのだが……転属以来返事もなく、丸二ヶ月もの間音信不通となっていたのだ。

 訓練にかまけてこちらから手紙を出さなかったことも要因の一つであるかもしれないが、元々、俺は率先して手紙を書くことがない。

 今までも純夏から送られてきた手紙に対して返事を送っていただけで……自分から書いた手紙というのは、先の一通だけ。

 愛想をつかされたのだろうかと不安に思ったこともあったが……しかし、こうして再び手紙が送られてきたのだから、特に気にすることはないのかもしれない。

 ……例えば、そう。疎開の準備で忙しく、手紙を書く暇がなかったとか。

 或いは、既に北海道へ疎開してきていて……俺を驚かそうと手紙を書いたのか。

 とりとめもなく思いながら、検閲済みの判が押されている封筒を開き、手紙を取り出す。いつものように時勢の挨拶から始まるその丸っこい文字に、思わず、頬が緩んでしまう。

 ああ、純夏。

 お前の顔が見たいよ…………。

 そんな、隊の誰かに知られようものなら一生からかわれ続けるだろう弱音を心中で漏らしつつ、いそいそと文を追う。

 ――だが、その内容は、

「……え? なん、だよ……これ?」

 目を疑う。いや、何の冗談だ? 純夏は何を言っているのか。……勘違い? ――莫迦な。俺は確かに、







『も~! タケルちゃん酷いよぉ~。北海道に転属になったなら、そう教えてくれればいいのにぃ~! あたし、知らなくてずっと横浜基地に手紙送ってたんだよ?! あ、でもその間の手紙、ちゃんと届いてるんだよね? ……返事くれないから、届いてないのかな……うう、だとしたらちょっとショックかも』

『あ! そうだ。おじさんとおばさん宛てに、軍の人から避難船の切符が送られてきたよ! タケルちゃんが軍人だから、きっと優先的に送られたんだね。……ねぇ、タケルちゃん。横浜、危ないのかな……? テレビで言ってたよ? 近畿・東海地方の住民は次々に疎開を開始してる……って。おじさんたちがうちのお父さんたちと話して、あたしとお母さんだけでも北海道に疎開したらどうか、って言うんだ……』







 既に、オカシイ。

 オカシイことだらけだ。

 俺が北海道に転属になったこと、BETAが恐らく迫ってくるだろうこと、疎開して欲しいこと……。

 全部、書いたはずだ。

 書き綴って、ちゃんと集配用のボックスへ投函したはずだ。――いや、した! 俺は確かに、ちゃんと……っ?!

「!!」

 そこで、気づく。

 まさか……そんな、莫迦な……。

「BETAのことを、書いたから……か?」

 軍関係者へ送られてくる手紙、或いは軍関係者から民間人へ送られる手紙は、当事者へ届けられるまでに必ず、基地内の郵便局でその内容の確認を含めた様々な検査が行われる。

 俺が純夏に送った手紙は……その内容に、抵触した、のか?

 否。

 正に、抵触したのだ。

 だからこそ、俺の手紙は送られていない。届けられていない。純夏は知らない。

 だから――、こそ。

「なんだって……!!!? 莫迦な!? 純夏、親父……!!? 駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だッッ!! ……なんで、だよっ?! どうして、そんな莫迦なことっっ!!」

 その文面を凝視する。何度も何度も読み直して、自分の見間違いではないかと、眼を皿にして繰り返し繰り返しそこに綴られた文字を追う!

 ああ、確かにそうだ! 何度読み返したって同じだっ!!

 莫迦な……!? どうして……!!??

 ああ、けれど、納得してしまう俺がいる。純夏や両親なら、きっと“そうしてしまう”だろうことに。







 ――――突然、ドアが乱暴に叩かれる。







 ぎょっとして部屋の入口を振り返れば、血相を変えた涼宮が、息を切らしながら立っている。

 ノックをしたが我慢できず、勢いのままドアを開いたのだろう。完全に冷静さを失っているように見える涼宮に困惑しながら、手紙を机に置いて、入口へ向かう。

「し、しろ、がねっっ……!!」

「な、なんだ? どうした!?」

 何事か。基地内に警報は出ていないから、まさかBETAが襲撃してきたというわけではないのだろう。

 しかし尚も取り乱す涼宮は決して冗談では済まされない恐慌に陥っていて、ぶるぶると震える肩に定まらない視線が、かつて遙さんが負傷した時と同じに思えた。

 まさか、誰かが怪我でもしたのだろうかと不安になったが、涼宮の背後に立っていた柏木が、ひどく真剣な表情で口を開く。

「白銀君……すぐに来て。非常召集だよ」

「非常召集?! ……わ、わかった。行こう。……涼宮?」

 冷静そうに見えた柏木も、どこか緊張感を孕んでいて、危なげに見えた。震え続ける涼宮を先へ促しながら、俺達は移動する。

 そこには、多くの訓練兵が居た。

 その部屋は集会や合同の講義、会議等に使用される小ホールで、PXに備えられているのと同程度の大型テレビが据えられている。……どうやら、どこかの基地から送られてきた戦域情報が映し出されているらしい。画面には赤い三角の勢力と、黄緑色の三角の勢力が表示されていて……言うまでもなく、BETAと帝国軍の激戦を映し出していた。

「これは……っ! BETAの襲撃?! 一体何処に……ッ」

「白銀っ!!」

 呼ぶ声に、視線を向ける。そこには速瀬さん、遙さんがいて……207の連中も居た。そこで、ようやく気づく。今、ここにいる訓練兵は皆……元横浜基地衛士訓練校に所属していたメンバーなのだと。

 その事実に困惑しながら、速瀬さんたちの方へ向かう。涼宮は姉である遙さんに抱き縋った。大丈夫だからと涼宮を宥める遙さんを横目に見ながら、一体何事なのかと問う。

「――横浜が、BETAに襲撃されたわ……」

「え――――?」

 速瀬さんは深刻な顔をして、酷く忌々しそうに吐き捨てた。

 横浜が? BETAに?

 ……じゃあ、あの映像は……やっぱり。

「あれは、横浜の……」

「そうよ。横浜基地から各基地へ発信されている戦域情報。……第一防衛ラインは既に突破されたわ。現在、残存部隊を再編しつつ、第二防衛ラインを押し上げてる」

 画面を睨みながら、速瀬さんは説明してくれた。表示されている時刻は20時08分。まさに、たった今。

 一日の仕事を終え、家族との団欒を過ごしているはずの正にその瞬間!

 日常を踏みにじるかのようなBETAの襲撃ッ!!

 画面は横浜基地周辺の広域表示へと切り替わり、赤いBETAの群れがじわじわと黄緑の戦術機甲部隊を侵食しはじめている……。と、その戦域情報表示の中に、黄色い三角で表示されたマーキングを見つけた。

 表示名称は第37歩兵大隊。迫り来るBETAとは反対方向の……恐らく港へと向けて進行しているのだろう。ヅグン、と。脳髄を殴られたような、嫌な予感が鎌首をもたげる。

 彼らは、一体何をしている?

 戦域からの撤退?

 後方支援のための移動?

 補給路の確保?

 否、否、否。そんなわけがない。

 ならば、一体何か。俺は、彼らが何をしていると思うのか。



 ――避難民の、護送。



「すみ、か……」

 その声は掠れていた。

 自分の声のはずなのに、とてもそうだとは思えない、ひりついて、渇ききって、えずくような掠れ声。

「ぇ……?」

「白銀?」

 遙さんの腕の中で震えていた涼宮が、俺の隣りで怒りに奮えていた速瀬さんが、背後の仲間達が、皆――――息を呑む音を、聞いた。

「し、白銀……いま、なんて……っ」

 涼宮が俺の腕を掴む。ぐいぐいと引っ張って、俺の顔を食い入るように見つめてくる。

 だけど……そんなの、全然構っていられない。いや、全然感じる余裕がない。さっきからなんだか耳がおかしい。呼びかける涼宮たちの声が、ひどくくぐもって聴こえにくい。

 速瀬さんが肩を揺すっている……ような気がする。

 涼宮がなにか言っている。

 柏木が、立石が……築地が、月岡が、遙さんが。

 俺の周りで、俺に向かって、なに、を……?

「やめ、ろ」

 衝いて出た言葉は、矢張り枯れていた。

 どんどん赤に染まっていく画面。その意味するところがわからない。

 残り少なくなった黄緑色は、次第に後退して……横浜基地よりも後方へ移動を開始した。

 画面が更に広域表示へと切り替わる。表示されるのは第三防衛ライン、ならびに斯衛軍で固められた帝都絶対防衛線。

 ――黄緑色のマーカーは、そこへ向かって一斉に移動を開始。

 ――赤色のマーカーは、画面上を我が物の如く蹂躙し、怒涛の勢いで、



 基地を、町を、建物を、そして、そして、そして、そして、――その先は、



「やめ、ろっ……やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめろっ……ぁぁ、ぁああああ!!! 止まれ!! 止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれッッ!! 止まれぇええええええエエエエエエエエエエエエエエエエええええエエえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!」

「!!?」

「し、白銀君!!」

「立石! 白銀を押さえなさいっ!! ……っ、この! どうしたっていうのよ、この莫迦!!」

 画面が赤く塗り潰されていく。赤色に埋め尽くされていく。黄色い光点が。その表示が。あっという間に距離を詰められて、ぷつん、と。

 消えて、

 消え……て――――

「うぅうああああああああああああああああああああああああああああああ!!!???? 純夏ッ純夏ッ、純夏純夏純夏純夏純夏純夏純夏ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!???」

「し、白銀っ!?」

「まさかっ!!?」

 身体にまとわりつく腕を振り払う。呼吸が荒い。眩暈がする。立ち塞がる人垣を押し分けて、ふらふらと画面へ近づいて……っ。

「白銀ぇ!! しっかりしてよぉ!!」

「茜ッ……っく! 立石、柏木ッ! 白銀を取り押さえるわよ!!」

「っ?! は、はい!!」

「白銀くん……そんな……」

 背後で誰かが叫んでいる。そんなの聴こえない。そんなの関係ない。

 今は、ただ、そんなことに構っていられない! いられるわけがないだろう!!??

「やめ、ろ! やめろやめろもうやめろ!! 止まれ止まれ、止まってくれぇええ!! 純夏! 純夏ァアアア!!」

 だが、画面にたどり着いた時――ブツリ、と。表示が暗転した。なんだ?! どうしたんだ!? 純夏は、純夏はどうなったんだ!!?

「……白銀、落ち着きなさい……」

「は、やせ、さ……」

 ぎちぎちと音が鳴りそうなほど硬く動かない首を回して、そちらを見る。電源ケーブルを引き抜いた速瀬さんが立っている。怒っているような、感情を押し殺しているような、そんな表情で、

「立石……はやく、白銀を連れて行きなさい。茜も……柏木たちも――――はやくっ!!」

「! はいっ!!」

 怒号。

 それは誰に宛てられた怒りか。

 呆然と立ち尽くす俺に、隊の皆が近寄ってくる。……ぉい、なんだ、よ? なんでそんな、お前ら……。

「白銀……君、行こう」

「ああ、はやく、部屋に戻ったほうがいい」

 柏木と立石が両腕を掴む。――待てよ、おいっ! 待て! 待てよ!! 待ってくれッッ!!

「なぁ、待てよ、おい! 待てって!! なんだよ、なんなんだよっっ!!? 純夏は、純夏はどうなったんだ?! なぁ!! 一体どうなったんだよっ!! 横浜は、そこにいた人たちは……っ…………純夏は……」

 誰も口を開かない。視界の端で、築地と月岡が泣いていた。

 目の前で、涼宮が大粒の涙を流していた。

 俺の疑問に、誰も答えてくれない。

 どうしたんだ、皆……? なぁ、何とか言ってくれよ。なぁ!?

「白銀……部屋に戻りなさい」

 速瀬さん、どうして貴女までそんな顔をするんだ!

 ああ、ああぁぁああ!

 それじゃあまるでっ!! まるで!!

 純夏が、横浜にいた人たちがっ――死んでしまったみたいじゃないか!! BETAの大群に、殺されてしまったみたいじゃないかよっっ!!?

「嘘だ……そんなこと……ぁぁああ、ぅぁ、ぁあ、ああああああああああああああああああっっっっ???!!!!!!」

「立石ッ!! はやくしなさいッッ!!!!」

 俯いて叫ぶ速瀬さんの姿を最後に――俺の意識はぶっ飛んで――暗黒が、目の前を覆って…………







 ===







 意識を失って倒れこんだ武を、茜たちは部屋へと運び込む。簡素なパイプ作りのベッドに寝かせて……苦しそうに表情を歪ませて眠る武を見ていられないのだろう、皆、俯いて視線を外している。

 直接武の身体を支えてきた晴子と薫の表情は暗い。日頃から訓練で鍛えているために男一人を運ぶ程度で疲れたりはしないのだが……今は、それ以上に精神が疲弊していた。一様に暗い表情の彼女達の中で、……茜は最も酷い顔をしている。

 武の部屋で、全員が沈黙したまま立ち尽くす。

 言葉はなく、恐らく何も考えられないのだろう。その表情には悲しみが色濃く、呼吸には嗚咽が混じっていた。

 BETAの襲撃。それによって横浜基地は、墜ちた…………のだろう。

 そして、そこに暮らしていた人々も。

 武の恋人の……鑑純夏も。

 全員の思考はそこに集約していた。

 突如錯乱した武。そして、狂乱した彼は明確に彼女の名を叫んでいた。

 何度も、何度も。震えながら、慄きながら、泣き叫ぶような悲痛な声で。繰り返し叫んでいたのだ。

 やめろ、と。

 止まれ、と。

 そこに、その先に、その場所に。純夏がいるのだと――。だからあんなに、必死に。

 茜は思い出していた。

 初めて見たのは入校の日。桜並木の下で、武と見詰め合っていた。お別れのキスをおねだりして、髪を結っていたリボンをお守りとして渡していた。

 二度目は六月。病院から基地へ戻る道中。武に抱き上げられて、凄く驚いていて、でも、とても嬉しそうで。

 交わした言葉は少ない。触れたのは右手だけ。

 でも――ああ、だから武は彼女のことが大好きなんだと。そう理解できるくらいに……素敵な、女の子だった。

「――っ、ぅ、」

 ツゥ、と。茜の頬を涙が零れ落ちた。ぽろぽろと溢れてきて、止まらない。立ち尽くしたまま、流れ落ちる涙を拭いもせず、茜は、子供みたいに泣いていた。じっと黙って。眼を閉じて。哀しくて、悲しくて、かなしくて泣いていた。

「……茜」

「茜ちゃん……」

 晴子と多恵が茜の肩を抱く。二人とも同じくらいぼろぼろに泣いて、そのまま、彼女達は三人でひとしきり声を殺して泣いた。

 武の眠るベッドの側には薫が立っていて、彼女は、天井を見上げて必死に流れ落ちる涙を堪えているようだった。

 ひとり、幼い子供のように泣きじゃくっていた亮子が、武の顔をまともに見ることが出来ずに視線を逸らす。――逸らしたその先に、あるものを見つけて……亮子は惹きつけられるように、それを手に取る。

 手紙だった。

 丸っこい、可愛らしい文字で綴られたそれは……正に、武がこの部屋を出る寸前まで目を通していた純夏からの手紙。

 瞬時にそれを悟り、再び涙がこみ上げて来る。

 ――ならばこれは、武の想い人である彼女の……最期の手紙ということになる。

 見てはいけないと感じながら、けれど亮子は意識せぬ内にそれを手に取り、そして――――

「……うっ、ぁ、ぅぁあ、ああっ、そ、そんなっ……そんなことっ……」

「りょう、こ?」

 がくがくと震えて、大粒の涙を零し泣き崩れる亮子を、薫が支える。そして、彼女が手にする手紙に気づき……茜たちもまた、亮子の傍に寄り、やはり手紙に気づいた。

「……なんだ? これ――、スミカちゃんの、手紙……?!」

 亮子の手から奪い取るように、薫が手紙を手にする。読んではいけないという躊躇は、最早彼女の中にはなかった。先ほどの亮子の様子は尋常ではない。今も尚、薫に支えられながらも自身の脚には力が入っておらず、癇癪を起こしたように泣きじゃくっているのだ。

「……ん、」

 茜も、薫の顔に自身の顔を近づけて、その内容を追う。――武の転属、武の両親宛に送られた避難船の切符、疎開をすべきかどうか……その、不安。

 同い年の少女が綴る、どこか淡く愛らしい歳相応の純夏の綴る文字は、とても……まぶしく見えた。記された言葉に、その行間に、武への想いが、たくさんの想いたちが込められていて。

 涙がまた、零れ落ちる。

 ああ……彼女は、こんなにも武を愛しているのだ。とてもとても、大切に、大事に、想っている。







『それでね、タケルちゃんっ。あたし、決めたんだ!』






 どこか誇らしげに、弾むように書かれたその文字。

 噛み締めるように文面を追い、どこか微笑ましい純夏の想いを汲み取りながら読んでいた茜の、或いは薫の表情が、突然に凍りつく。

 そこに書かれていた言葉に。文字に。――決意、に。

 彼女らは、そして起こってしまった惨劇に、――ココロを凍らせ、そして、亮子のように……崩れ落ちた。







『あたし、疎開なんてしないよっ! だって、タケルちゃんのこと、信じてるもん! タケルちゃんが軍にいて、同じ軍人さんが護ってくれるんだもん。心配なんてないよっ!!』

『おじさんとおばさんもタケルちゃんを信じるって、納得してくれたんだっ。せっかくもらった切符だけど……無駄になっちゃうかな?』

『あ、でも安心して! おじさんが、切符はお向かいの佐藤さんにあげようって、昨日持って行って……佐藤さん、凄く喜んでたよ。うん。お腹の中の子も、旦那さんも凄く喜んでた。ありがとう、って、何度もお礼言われちゃった。えへへ』

『……今は、なんだか日本中が大変なことになってるけど、でも、大丈夫。あたしはタケルちゃんを信じてる! タケルちゃん、昔から悪戯ばっかりであたしのことからかってたけど……でも、今でも思い出すよ。あの日、タケルちゃんが衛士になるって決めた日のこと』

『タケルちゃんがあたしのこと、大好きだって言ってくれた日だもん。護ってくれるって、そう約束してくれた日だもん……。忘れないよ。……だから、信じてる! タケルちゃん、逢えなくて寂しいけど、でも、頑張ってね!! 応援してるから! そして、いつかタケルちゃんが立派な衛士になって、あたしを護ってくれて……ちゃんと、帰ってきてくれたら……』

『えっへへ~、それは、そのときのお楽しみだよっっ!』







『じゃあね! タケルちゃん!! ――――大好きだよ!』







 それが、彼女の、

 白銀武の愛する彼女の……、

 最期の、………………………………







[1154] 復讐編:[三章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:19c7141b
Date: 2008/02/11 16:08

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:三章-01」





 眼が醒めると、見覚えのある天井――。

 まるで何十時間も眠っていたかのような鈍重な思考。目を開き、そこに映るものを捕らえてはいるが……それ以上、身体を起こすことも、寝返りをうつことも億劫なくらいに、全身が鉛のように重い……。

 ――酷い、夢だった。

 武はか細く震える吐息を漏らす。寒い。

 室内の気温のせいではない。……魂の底が、冷え切って凍えてしまったための寒さだった。

「…………ッ、」

 づぐん、と。

 心臓の横が啼いた。或いは、覚醒した脳に血流が流れ込んだ衝撃か。

 言い知れぬ「痛み」。それに合わせるようにこみ上げてきた吐き気に――その記憶に――武は、跳ね起きる。

「ゆめ……だと……っ」

 嘔吐の代わりに、掠れた言葉を吐き出す……。



 ――そんなこと、あるわけねぇだろっっ!!!!!



 否。

 アレが夢であってくれたなら、一体どれ程幸福だろう。

 部屋に備え付けられた時計を見る。――――アレから、八時間が過ぎていた。

 ……まだ、八時間しか、経っていなかった。

 脳裏にまざまざと刻まれた、赤と黄色の光点。

 画面全体が赤く染まり、その波に飲まれるように消えた……小さな、黄色のマーカー……。







 純夏が、死んだ――――?







 ぶるり、と。全身が瘧のように震える。冷たい汗が背中をぐっしょりと濡らし、戦慄悪寒に身体機能を支配され、無様に震え続けた。

 莫迦な、という思いが脳髄を駆け巡る。――そんなことあるわけない。あっていいわけがないっ!!

「はっ、はっ……ぐ、ぁ、はっぁ、はぁ、はぁっ、はぁっ…………ひ、ぎ、ぁ、ぁあ」

 心臓が狂ったように跳ね回る。

 激流となった血液が灼熱に脳を焦がす。

 呼吸がままならない。震えを止められない。――その光景だけが、ただ繰り返し、繰り返されて――ッッ。

「ぅっ、が、ああっっ!! あ、あああ、アアアあああああああああああああっっっっ!!!!!!!!」

 ベッドから転がり落ちる。受身もなく、肩を強かに打ちつけながら、けれど武はすぐさま立ち上がり、まろぶようにドアノブに手をかける。

「ああっ、あああっ!! ぅああああああ!! ――嘘だっ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だッッ!!」

 そう、何もかもが嘘だ!

 昨日見たあの戦域情報も、純夏からの手紙も、北海道に転属なんてことも、京都陥落も、本州襲撃も、まして――――

「純夏ッ、純夏、純夏純夏ァァア!!」







 ――――鑑純夏が、死んだ、なんて、ことがっっっっっ!!!!







「ぅぉおおああああああああっっ」

 ドアをぶち開け、転がるように走り出る。ただ衝動のままに悲鳴染みた叫びを上げながら、走る、走る!

 どこへ?

 何処へ行こうって言うんだ!?

 武の理性が絶叫する。恐慌に陥った精神が泣き叫ぶ。

 叫び、叫んで、泣き叫んで、我武者羅に走り続け――その先へ向かう。

 信じられるわけがない。

 あんなことが現実でいいはずがない。

 だからアレは全部自分の夢で、悪い夢で、なんて最低な想像で、絶対にあってはならないことだ。

 そうだ。そうに違いない。――そうじゃなきゃ、そうであってくれなければっっ!!

「はっ、はぁ、はぁ! はぁ! はぁ!」

 辿り着いたのは一面の雪景色。まだ日の昇らない早朝の静寂、切り裂くような冷気。

 基地を飛び出して、真っ先に視界に飛び込んだその風景は……容易く、「それが現実」なのだと知らしめていた。

「うそだ…………うそ、だろ? そんな、ばか、な」

 踏み出した足が、紛れもない雪の感触に埋もれる。昨夜のうちに降り積もったのか、新雪のように柔らかな白色は、儚く幻想的で……やっぱり、これも夢の続きではないのかと一抹の希望を覗かせる。

 ――希望? 否、それは願望だ。

 紛れもなく、白銀武自身がそう望む、願い。

 これが夢であって欲しいという、叶うはずもない愚かしいほどの哀しみだった。

「は、は、ははっ……くくく、冗談じゃ、ねぇ、ぞ……純夏、嘘だろ? ホントはお前、ちゃんと疎開してるんだろ? はは、驚かそうったって駄目だぜ。お前のことは俺が一番わかってるんだ。……お前のことでわからないことなんて、ないんだ……っ」

 気づけば、雪の中に膝をつき、力なく笑い続けていた。

 何を笑っている、何が可笑しい……自問するが、答えは出ない。

「ああ、そうか」

 フ、と。虚ろな光がその双眸に宿る。乾いた笑いを漏らし続けていた口は閉じられ、淡雪に濡れた両足で立ち上がる。

「そうだよな。俺、なにやってんだ」

 能面のような表情とは裏腹に、やけに張りのあるその声。まったく莫迦だな……そんな風に自嘲しながら、武は雪の向こうを目指して歩き始める。

「――――白銀ッ!!!!」

 悲痛な響きを持ったその叫びに、なんだろうと振り返る。

 札幌基地の入口、驚愕を顔に貼り付け、肩で息をする水月がそこに居た。

「……? 速瀬さん?」

「……?! し、白銀ッ……あんた……」

 一体どうしたのだろう。どうして水月がそこにいる? 武はぼんやりと疑問に思いながら、けれど、彼女の様子に全く気づかず、ただじっとその姿を見つめていた。

「白銀……。…………茜に、聞いたわ。様子を見に行ったら部屋に居なくて、そしたら、柏木が叫びながら走ってるあんたを見たって……」

「……はぁ。涼宮と柏木ですか? なにかあったんですか」

 水月の表情が固まる。武の口から出た言葉、それを信じられないという風に……水月は、ぎりりと奥歯を鳴らした。

「あんた……なに考えてるの……? 茜も柏木も……ほかの子たちも、皆あんたを心配してる」

 つい数分前のことだ。

 水月の脳裏に蘇るのは、その耳朶に響くのは――親友の妹の、どこか身を引き裂かれそうな泣き声。

 ――白銀が居ない……。

 武の部屋の前で、開け放たれたドアの前で……茜は膝をついて泣きじゃくっていた。そこに焦燥を顕にした柏木がやってきて、武の不在に矢張り自分が見たのは武だったのだと愕然と崩れ落ちた。

 昨夜のことを思い出すまでもなく。

 白銀武は錯乱している。そして、その武の狂態を目の当たりにした207訓練部隊の全員が…………あまりにも彼女達の知る「白銀武」とは別人のような彼に、その生々しいまでの情動に、心身ともに中てられているのは明白だった。

 故に水月は二人をそのまま武の部屋の前に残し、言葉に出来ない苛立ちを憶えながら、こうして武を探し続けていたのだ。

「なに、って……あはは、決まってるじゃないですか。純夏を迎えに行くんです」

「!?」

「あいつ、俺を驚かそうと思って北海道に来てるんですよ。……だったら、迎えにいってやらなくちゃ」

 踵を返し歩き出す武を追い、水月は駆け出す。のんびりと散歩にでも行く様子で歩く武をあっという間に追い抜き、正面に回りこんだ。

「……なん、ですか? ……はは、怖い顔ですね。何怒ってるんです? どいてくださいよ」

 水月は、ゾッとするものを感じ取った。

 武を正面から見つめる。自分の顔を見ているはずの彼は、しかし、その瞳に何一つ映していなかった……。

 曇り硝子に映りこんだ自分の顔……武の両の瞳が映し返すそれを、水月は言葉もなく見詰めるしかなかった。

「…………速瀬さん、すいません。俺、急いでますから……」

 回りこんだ水月をかわすように、武が更に歩き出す。それを、半ば反射的に遮った水月に、武は――敵意を剥き出しにした。

「なんです? 邪魔、しないで下さいよ……。どいてください。俺は純夏を迎えに行くんだ」

「白銀、あんた自分が何言ってるのかわかってるの?!」

「当たり前です。わかってますよ。わかりきってる。どいてください。俺は、純夏を、迎えに――」

「莫迦っっ!! なに現実から目を逸らしてんのよっっ!? ちゃんと目を開けて、私を見なさいっ!」

 水月が武の胸倉を掴みあげる。武は眉間に皺を寄せて、ぎりぎりと歯を鳴らしていた。その視線は水月を射殺さんばかりに、禍々しい思いが渦巻いている。

「――っ、」

 思わず、水月は息を呑む。

 無理もない。彼女は、武のこんな目を、こんな表情を見たことがなかったのだ。

 誰かに向けてのものどころか、まさか自身に向けて、こんな、「敵」を睨みつけるような……烈しい視線。

 水月は悟る。――自分はどこか自惚れていたのだと。

 初めて武と出逢ったとき、再会したとき、そしてそれからの少なくない邂逅を繰り返す度……白銀武という少年は、少なくとも自分に懐いてくれているらしいと感じていた。或いは……茜のように、憧憬を抱いてくれている、と。

 武と話す度に、そしてからかい狼狽する彼を見る度に。

 ああ、それはなんと愚かしい傲慢か。

 白銀武は、きっと自分になら心を開いてくれると勘違いしていたのだ……。

「しろ、がね、」

「手、放してくださいよ。……それ以上邪魔するって言うなら、いくら速瀬さんでも……」

 ギロリ、と。

 向けられる敵意が更に異質な物に変貌する。――否、澱み、濁ったその瞳からは明確な殺意がドロドロと込み上げて来ていた。

「――!!?」

 まずい。

 このままでは、いけない。

 水月の中の戦士の部位が警鐘を鳴らす。

 自分の身のことではない。――そんなものは、今は二の次で構わない!!

「白銀ェっ!!」

 このままでは、いけないのだ。

 思い込みだろうが、勘違いだったのだろうが…………武の本心が、一体どんなものであったのだとしても!

 今、向けられている敵意と殺意が、本当に武の……水月への思いの全てなのだとしても!

 それでもっ、ああ、それでもだっっ!!







 速瀬水月にとって、白銀武は。彼という少年は――――、



 まるで、血を分けた弟のような、そんな…………護りたいと思う、手を引いてやらなければと思う、そんな……!!







「しっかりしなさい白銀武ゥッッ!!!」

 左手で胸倉を掴んだまま、右の拳で殴りつける。――ッガ!

 武は左の頬を強かに打ち付けられ、衝撃に倒れそうになる。だが、尚も掴みあげている水月の左手がそれを許さない。

 困惑と、完全に噴き出した衝動的な殺意の炎が、武の瞳に宿る。血の混じった唾液を吐き捨て、武は自身の右拳を容赦なく水月の腹へ見舞った――が、予測済みといわんばかりに水月の右拳がそれを受け止め、――胸倉を掴んでいた手が放され――武は宙を舞った。

 ドサリ――!

 脛まで埋まるほどの深い雪の中に、背中から叩きつけられる。ダメージは大したことはないが、しかし、立ち上がる暇もなく襲い来る水月の蹴りに、僅かに身体が浮くのを感じる。

「げっ、ぁ!!!!!」

 ごろりと身体が裏返り、今度は仰向けに新雪へ埋もれる。武は最早半狂乱に近しい状態で、それでもなんとか両手をついて起き上がり――自分は一体どうしてこんな目に遭っているのかと薄ぼんやりと思考する。

「眼が醒めた? 白銀……」

「は、やせ……ごっ、ぁ、げほ……、さん? なん、で――――ぁ、ぁああっ! 俺はっっ!! っ、邪魔、しないでくださいよっっっ?!!」

 殺意に染まった瞳は、敵意すら霞ませて……先ほどと同じ、虚ろに反射するだけのそれに戻っていた。

 狂気に歪んだ表情は……痛ましいほどの哀しみに染められて。

「どいてください! 俺は、俺は迎えに行かなくちゃ……っっ!! 純夏が、待ってるはずなんだ……純夏がッッッ!!」

「鑑は居ない。北海道になんて来てない」

「?! ……じ、じゃあっ……ああ、そうだ、なら、帰らなくちゃ……!! そうだよっ! 純夏は俺を待ってるんだ!! 俺が横浜に帰るのを! 家に帰るのを……待ってるって、そう、書いてあったんだ!! 手紙に、純夏からの手紙に……俺を待ってるって、帰ってくるのを待ってるって!!!!」

 再び頬に衝撃。今度は、平手打ちだった。打たれた顔をそのままに、しかし武は尚も叫ぶ。

「帰らなきゃ! はやく……早く帰ってやらないとっっ!! ああ、そうだ、急がなきゃ、はやくしないと……BETAがっ??!」

 水月が、武の両頬を両手で包む。まっすぐと自分の方を向かせて、正面から武の瞳を見詰める。

「は、やせ……さん、どいてくだ、さ……BETAが、べーたが、はやくしないと、すみか、がっ……ぅぁ、ぁああっ」

「白銀……現実を見なさい」

「い、ぃやだっ……なにを、言って……放してくださいよ、どいてくださいよっっ!!」

「白銀ェ! いい加減にしなさい!! ――――あんたまだ生きてんでしょぉっ!!!!!!」

 唇が触れそうになるほどの近しい距離で。

 水月は吠えるように言った。

 武の顔を正面から見詰めて、怒りを顕にした顔で……哀しみを顕にした声で……。

「ぅ、ぅぁあ、あああっああ! ああああああっっ!!!!」

 虚ろだった武の瞳に、じわりと滲む透明な色。

 暖かい温度を持ったそれは、冬の冷気を溶かすほどに熱く……頬を、伝い落ちる。

「あんた、まだ……生きてるのよ……? だったら、どんなに悲しくて辛くても……生きて生きて、精一杯生きて……、そして、鑑に逢いに逝きなさい」

「うっ、ぐ、ぁ、ああぁ」

「…………泣きなさい。好きなだけ、泣けばいいわ。――だって、あんたは生きているんだもの」

 頬を包んでいた手を放し、武の身体を抱く。

「ああああああああああああああ!! ぅああああああああああああああああっっ!!」

 武は全身の力が抜けたように水月へもたれかかり……抱きとめる水月に埋もれるように……声の限り泣いた。

 子供のように、母親に縋りつくように。

 喪われた彼女を想い。

 喪われた護りたいものを想い。

 ――大好きだった。

 ――護りたかった。

 ――そのための力が欲しかった。

 ――純夏、

 ――俺は、それでも…………お前をこんなにも愛しているのに……っ!!

「あっ、あぁああっ!! 純夏、純夏、純夏ァ……ぅああああああっ! 純夏、純夏、純夏、純夏ぁああああ!!」

 どん、どん、と。握り締めた拳を水月の身体に叩きつける。

 悔しい、自分が赦せない、なぜ、どうして純夏が、俺はなんのために、BETA、どうしてっ、なんでっ、BETA、BETAァアア!!!

「くぅぁあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

「…………白銀、今は、なにも考えなくていい。私が居るから。傍にいるから。……だから、今は泣きなさい」

 抱く腕に、更に力をこめる。

 水月の言葉が届いたのか、或いは身体を伝わる彼女の優しさを感じたのか……叩きつけていた拳はだらりと下げられ、武は……肩を震わせて泣き続ける。

 哀しみに、己の無力さに打ちひしがれる少年を抱きしめ、水月はひとつ、自分の運命とも言うべきものの片鱗を感じていた。

 北海道への転属、総戦技演習の延期――空白となった半年間はきっと、このために用意されていた。

 白銀武を、救うために。

 彼と同じ訓練部隊の少女達も、それぞれが武のことを想い、励まし、支えようとするだろう。

 だが、それはまだ幼いともいえる彼女達には少々荷が重い……。辛いのは全員が同じ。感受性豊かな年頃の少女達は、どうしても生の感情に左右されてしまうだろう。

 ならば、先任である自分が導けばいい。

 武が、再び前を向いて進めるように。――少女達が、武に引き摺られることのないように。

 手を差し伸べ、引っ張り上げ、支えていく。

 この半年間は、そのための日々だ。

 強く、心に誓う。――強く、武を抱きしめる。

「白銀……強くなりなさい」

「………………………………は、ぃ」

 うん。

 優しく頷いて。

 ほんの少しだけ抱き返してきた武に、こそばゆいほどの嬉しさを感じていた――。







「……」

「薫、さん…」

 基地の入口、分厚い硝子で作られた扉の前で、白雪を踏みしめながら、薫は自身の脚で姿勢よく立っていた。背後には、寄り添うように小柄な亮子。

 薫は黙ってそれを見詰めている。

 水月に抱かれ、泣き叫ぶ武。

「…………白銀」

 呟いた言葉は小さく、けれど強い思いが込められていた。

 昨夜の彼を思い出す。

 あれほど錯乱し、狂乱し、叫び喚き泣いていた武。それを見、あんまりな哀しみに打ちひしがれた茜や晴子たち。

 ――同じように、崩れ落ちた自分。

 それでも、いや、だからこそ。自分だけでも皆の支えにならなければと、そう決心したのがつい先ほど。

 武の姿を求め、基地内を走り回ってようやく辿り着いたその場所には――水月に抱かれる武がいた。

 その場景は、ひどく心揺るがせる。

 自分では力になれないのかと、そんなことを考えてしまう。

 否、そんなことはない。あるはずが、ない……そう、思いたい。

(茜は、ここに居なくてよかったかもしれないな……)

 茫漠とそう思う。

 ……どうしてそう思ってしまったのか。或いは、考えてしまったのか。……この、胸の辺りがざわざわとする感覚はなんなのだろう。

 薫は強く強く拳を握り締めた。

「亮子……」

「なんですか、薫さん……」

 問い返す亮子も、同じ思いだろうか。少し震えるような声音に、――ああ、想いは同じなのだと、知る。

「あたしは、強くなる……白銀を支えてやれるくらいに……BETAなんて、一匹残らず全滅させてやるくらいに」

「はい……。わたしも、強くなります……っ、ぅ、」

 亮子の言葉尻は嗚咽に濡れていた。薫も眼を閉じて……泣くのはこれが最後だと、頬を伝う涙をそのままに。

 二人は、強く在ろうと、しっかりと立ち続けていた。







「落ち着いた? 茜ちゃん……」

「……ん、ありがと、多恵……」

 武の部屋の前、手渡されたハンカチで涙を拭い、茜はいつも通りであろうと笑顔を繕う。

 涙の跡が痛々しい。目は真っ赤に腫れ上がっていて、多恵は落ち込んだ表情のまま、それでも毅然とした態度を装う茜に合わせようと笑顔を見せる。

 お互いに何処か無理のある笑みだったが、しかし、それでいいのだ。

 今はまだ、哀しみに濡れる時間である。――そして、次第に立ち上がっていく時でもある。

 自分は、十分泣いたのだ。

 茜は、そして多恵は頷きあい……そして、晴子が戻ってきた。

 ひとりになりたいからと、自室へ去っていった彼女だったが……茜たちに見せる表情は晴れ晴れとして、いつもどおりの彼女を見事に演じていた。

 ……それが演技だとわかるのも、矢張り晴子の目も、赤く充血していたからだ。

 部屋で存分に泣き明かしたのだろうか。どこか吹っ切れた様子の晴子に、茜もまた、吹っ切れた表情で微笑む。

「白銀君、大丈夫かな?」

 どこか唐突なその問いかけに、多恵は過敏に反応したが、しかし、

「大丈夫。だって、速瀬さんがついてくれてるんだよ」

 逡巡も見せず答えた茜はそんなことを意にも介さないようだった。

「あはは、う~ん、確かにあの人なら心配ないだろうけど」

 笑いあう二人はそれでも、どこか己に対する力不足を嘆いている節が窺えた。

 水月にはできて、自分達にはできない――。その感情は……最も近しい言葉を用いるならば、嫉妬といえるかもしれない。

 だが、だからといって水月に対して負の感情を抱くなどありえないし……何より、それで武が立ち直ることが出来るなら言うことはない。

 ……ただ、どこか心の隅の小さな場所で、それが自分であったならと想わずにはいられない。

「あっ、でも、それだとちょっと厳しいかなぁ~」

「厳しい? なにが??」

 笑いながら、晴子がなにやら意味のわからないことを口走る。彼女なりに気持ちを切り替えようとしているのだろう。察した茜が先を促す。そんな二人を見て、多恵は――強いなぁ、と思わずにはいられなかった。

 ……いられなかった、のだが。

「いやぁ、白銀君、あれで結構胸の大きな人好きみたいだし」

「はぁ?!」

 そう。柏木晴子とは、常からこういう発言をする少女である。……多恵は唖然として晴子を見詰めた。別に、感心して損したというわけでは、断じてない。

「速瀬さんに初めて逢ったとき、自分から積極的に胸にしがみついたりとか」

「「ぇええええ?!!!」」

 思わず茜と声が重なる。

 晴子の暴言にはいいかげん慣れていた茜たちではあったが、しかしその内容は驚愕に値する。

「あははは、まぁ、なんかそれは事実を改ざんしてるらしいけど」

「えぇえ?!」

 面白いくらいに反応する茜を見て、多恵は思わず笑ってしまう。――可笑しかった。とても。目尻から涙が零れてしまうくらい。

「…………多恵?」

 驚いたような表情で、茜が多恵を見る。きょとんとした顔の晴子が、ああ、と同じように微笑んだ。

「……晴子、多恵……」

「うんっ、うんっ……えへへ、可笑しいね、茜ちゃん……晴子ちゃん。そっかぁ、白銀くんはおっぱいおっきい方がいいんだぁ。……私ぺたんこだからなぁ、残念」

 ぽろぽろと零れる涙をそのままに、けれど、とても嬉しそうに笑う多恵。

 後半の発言に過敏に反応しそうになる茜だったが、……でも、自然と自身の頬も緩んでいくのを感じる。

 そして、目元には暖かいそれが溢れていて。

 先ほどまでの、どこか身を引き裂くような涙とは違う…………暖かで、優しくて、想いに溢れたそれが、ぽろぽろと。

「あははっ、多恵ってば、なに泣いてるのよっ」

「そうそう。胸なんて、これから大きくなるって」

「ふぇーん。二人だって泣いてるくせにぃ~っ。既に大きい晴子ちゃんが言っても説得力ないよ~っ!」

「……それもそうね。あんた、一体何センチあるのよ……」

「え? あははは。ナイショ。あ、今度白銀君には教えてあげようかな」

「ええええ!?? 駄目駄目駄目! 駄目だってばっ!!」

「あれあれ、茜ちゃんが必死になってる。な~んで~かな~っ?」

「ちょっ、多恵?! ……な、なな、なによ。なんでそんなにやけてるのよっ?!」

「別に~。ただ、茜ってなんでこんなにわかり易いのかなぁ、って」

「うんうん。そうだよね。でも、そんな茜ちゃんも可愛い」

 いつの間にか、三人は互いに、心の底から笑いあい、じゃれ合うように触れ合った。

 目尻に浮かんだ涙はもう零れることはなく。

 彼女達もまた、自らの心を一歩前に進ませて。







 それは、未来を刻むための一歩。

 哀しみは、涙は、今……この場所に置いていく。

 未来に涙はいらない。――ただ、想いだけがあればいい。

 現実に打ちのめされた少年少女たちは…………それぞれが、お互いに助け合い、支えあいながら……少しずつ、前へ進み始める。







[1154] 復讐編:[三章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce
Date: 2008/02/11 16:09

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:三章-02」





 BETA横浜襲撃から一週間が過ぎた。帝都防衛は既に第三防衛ラインおよび絶対防衛線を残すのみとなり……しかし、度重なるBETAの襲撃を生き延びた正真正銘の精鋭たちの奮闘に、じりじりとではあるが、拮抗を始めていた。

 それを突破できぬと考えたのか……或いは別の目的があったのか。

 いや、恐らく始めから何らかの思惑があったと見て然るべきだろう。

 横浜を蹂躙したBETAは実に意味深な行動に出た。本州を蹂躙し、その勢いのまま東進を続けていたBETAだが、連中は帝都へ定期的に襲撃を仕掛けながら……なんと、墜としたばかりの横浜に自らの前線基地――即ちハイヴを建造し始めた。

 更に、時をほぼ同じくして朝鮮半島は光州の甲20号目標より溢れ出ていたBETA群は広大な更地と化した本州を駆け抜け、京都より北上、海岸沿いに福井・石川と破壊しながら遂には富山湾、新潟県上中沖の海底を移動し、佐渡島へ上陸。これもハイヴを建造。

 帝都死守に躍起になっていた帝国軍にとって、これは完全に予想外の出来事であり、被害地域の死傷者は数知れず……ほぼ一方的に殲滅されたといっていい結果となった。

 同じタイミングで、しかも世界各地に点在するハイヴ間の距離と照らし合わせると、これほど極めて特殊なケースは見られず……しかし、その過去からのケースもBETAの戦略思考――そもそも戦略という物が存在するのかどうか――さえハッキリしていない現在では「起こったことこそが全て」であるため、人類はその事実に翻弄されるほか術はない。

 ちなみに、国連の軍事衛星からの情報によれば、佐渡島のハイヴ建造の方が二日ほど先であり……よって、これを甲21号目標と呼称することが決定した。

 国内に同時に二つのハイヴを建造される羽目になった日本にとって、その呼称などどうでもいいことであり……重要なのは、如何にその脅威を排するかという一点のみ。ハイヴ建造のためかは定かではないが、しかし帝都を蹂躙するよりもそちらが優先されていることが確認され、ならばと帝国軍は佐渡島を放棄、新潟県および近隣の住民へ避難命令を発し、ともかくも帝都防衛を絶対のものとするため、国連へ軍事的援助を要請。

 国連本部は日本の援助要請を受理、各国の首脳と閣議を開始し、大々的な反抗作戦の計画を練るのだった。

 その根底に在るものは、一つの明確な意思。

 各々に底知れぬ思惑が在ることは間違いなかったが、それ以上に、その思惑を達するために必要不可欠な「日本」という国の存在を喪う訳にはいかなかった。

 それは、人類の希望。

 日本の中でも、或いは国連全体の中でも極一部の者にしかその存在を知らされていない極秘中の極秘計画、――オルタネイティヴ計画――。

 その第四番目の計画を完成させ、人類の勝利を勝ち取るために……日本を、その提唱者を喪うことはできない。

 国連という巨大な組織の中で蠢く多くの意思と思惑など余人の知るところではなく……反抗作戦は秘められたままに進んでいく…………。







 ===







 走る、走る、走る、走る、走る、走る、走る、走る――。

 脳味噌を空にして、思考を空にして、感情を空にして――ただ、ひたすらに走り続ける。

 装備を身に付けた状態で五キロを完走し、すぐさま突撃銃を抱えて目標へ移動。設置された的に向かって精密狙撃。移動、精密狙撃、移動、精密狙撃……。

 十分の休憩の後、完全装備での雪中行軍。叩きつける冷気に呼気を凍えさせながら、無心のまま訓練を続ける。

 それは、とても楽な作業だった。

 肉体的な疲労、特に腕と脚がこれでもかと言わんばかりに限界を訴えているが――そんなものは、まるで苦にならなかった。

 楽、だったのだ。

 白銀武は額から落ちる汗を拭うこともなく、荒い呼吸を整えながら、ただ雪の中に立っていた。

 今もまた束の間の休息の時。休むことも大事な訓練だと教えられていたので、大いに休む。――座らないのは、自身に課した制約のためだ。

 自分自身を極限まで鍛え上げる。

 それが今の武の目標であり目的であり……その制約は、自身の限界を知り、突破するための一つの手段だった。

 肉体を苛め抜けばその分効果は明白なものとなるだろう。無論、虐め過ぎて壊れないよう、それは十分に注意しているつもりのようだ。

 ……ようだ、というのは、第三者の目から見て武の状態は既に限界に達していると判断せざるを得ないからだ。

 同じ隊の茜たちは全員が揃って疲労困憊。もう一歩も動けないというくらいに疲弊し、敷設された防雪シートの上に転がっている。

 なのに、武だけが立っている。この場合、性別の違いは関係しない。男子といえど、まだまだ鍛え抜かれてはいない、いわば未熟な身体だ。

 仲間達から離れた場所で、荒い呼吸を続け、ふらつく両脚を叱咤しながら……ただ意地だけで立ち続けている。

 彼らの教官である熊のような大男は全員に本日の訓練の終了を告げ、十分な休息をとるように命ずる。教官は無慈悲で非道な鬼ではない。時に鬼となることもあろうが、今はその必要もなく、正しくそして効率的に心身を鍛え上げるカリキュラムを遂行することが重要だ。

 解散の号令が分隊長である茜の口から発せられ、全員が敬礼する。既に日は傾き始めていて――彼らは赤く燃える夕陽に目を細めながら、休息をとるべく自身の部屋へと歩き出す。

 ひとりを、除いて。

「……? 白銀?」

 連れだって歩く少女達のうち、茜が立ち止まり、振り返る。その彼女の行動に、残る全員が同じように振り返った。

 視線の先、夕陽を睨むように立ち尽くす少年――武は、茜たちからは逆光となり、その表情は窺えない。

 しばらくそうして立ち止まっていた武だったが、やがて茜たちへ振り返り、苦笑を浮かべながら歩いてくる。

「悪ぃ、ぼ~っとしてた。待たせたな」

「……ん、いいけどさ」

「あはは、気にしてないよ、白銀君」

 のんびりと歩いてくる武に茜は少しだけ心配そうな顔を浮かべる。その彼女の不安を取り除くように晴子が軽快に笑った。

 皆、一様に笑顔を浮かべる。

 そう、少女達は全員がわかっていたのだ。



 ――――まだ、一週間しか経っていない。



 立ち直れという方が無理だ。

 気にするなという方が無理だ。

 忘れろ、なんて絶対に無理だ。

 彼の中にはまだ、これからもずっと、永遠に……鑑純夏が存在し続ける。

 それはわかりきったことで、全員が承知している事実。

 愛する恋人を喪って、まだたったの一週間。武なりに色々と吹っ切ろうとしているのは知っている。訓練に異常なまでに打ち込むのも今は仕方がないだろう。時折、思い返すようにぼぅっと、遠くを見詰めているが……それをやめさせることなど出来ようはずもなかった。

 武の心中を察するからこそ、彼女達も普段どおりであろうと振舞うし、武もまた、かつての自分のように在ろうとしている。







 連れ立って廊下を歩く中、築地多恵が思いついたように声を上げる。ぱしんと両手を合わせてはしゃぐように言う彼女は歳相応の少女そのものだ。

「そうだっ! 今日はみんなで久しぶりに遊ばないっ?」

 明らかに武を気遣っての提案だったが、真っ先に賛成したのは武だった。そのことに内心で驚きながら、茜が賛同。断るものもなく、ならばPXで夕食の後、再び集合しようということになった。

「…………」

「ん? なんだよ、涼宮」

 跳ねるように自室へ戻っていく多恵を見送り、続くように晴子、薫、亮子が去っていく。

 そんな中、茜と武だけが歩き出さず……茜は、武をじっと見詰めていた。

「ん~~っ、別に、なにというわけじゃないんだけどさ……」

 どこか逡巡するように、茜は首を傾げる。武の表情や態度を見る限り、無理をしているようには見えない。――ならば、これは単なる自分の考えすぎだろうと、

「ま、いっか! あ~、楽しみだなぁ。思いっきり遊ぶのって、結構久しぶりじゃない?」

「ん、そうだな。確かに、ここ数ヶ月訓練ばっかで全然遊んでなかったしなぁ」

 軽快に笑い合う武と茜。そこに翳りはなく、故に茜は本当に楽しみだと感じていた。少なくとも今、武は笑っている。演技だろうがなんだろうが、或いは少しでも早く立ち直るための努力かもしれないが……笑っていられるくらいには、前を向いているということ。

 茜はその事実が嬉しく、咲いたような笑顔で武と別れる。

「…………ぁぁ」

 茜の姿が廊下の角を曲がったところで、武は右手で自身の目元を覆った。

 漏れる声音はどこか震えていて……

「っ、ぁ……はぁ、ぁ……はぁ、はぁ、」

 思い出すのは、先ほどの茜の笑顔。

 どうしてか、それが幼馴染の少女の笑顔と重なって――――武は、その思考を切り捨てる。

 背中を壁に預けて、握り締めた左拳をドン、と叩きつける。

「くそっ……なにやってんだ、俺はっっ……!!」

 訓練の最中はいい。頭を空っぽにして心を空っぽにして……ただ打ち込めばいい。夢中になっている間は、そのことを思い出さなくて済むのだ。

 だが、訓練は必ず終わり、そして残された時間を過ごす間…………それは、常に脳を支配し続ける。

 ――当たり前だ。

 武は自己に埋没した。忘れられるはずがない。一度だって忘れたことはない。だってずっと一緒に居たんだ。片時も離れず傍にいた。触れ合う距離に、手の届く場所に。

 常に脳を支配し続ける?

 当たり前だ。当然だ。それは武にとって絶対だ。

 忘れることなんてない。忘れることなんて出来ない。どうやったって忘れられない。

 鑑純夏――。

 彼女の、ことは――っ!

「………………っ、は、ぁ」

 ずるりと廊下に座り込む。

 決壊しそうになる感情の波はなんとか収まり、変わって、底知れぬ哀しみが打ち寄せる。それはこの一週間絶えずやってきた感情の浮き沈みであり、己の無力さにハラワタが煮えくり返るほどの怒りを孕む。

 考えまいとしても考えずにはいられない。――何故、純夏は死んでしまったのか。

「――っ、ぐ!」

 これも決まって起こることだった。

 頭では既に理解しているのに、心がそれを認めない。故に、脳髄はその情報を感情的に排除しようと痛みを引き起こす。

 人の記憶を司ることで知られる海馬を痛めつけることで、その事実を抹消しようとしてるのかもしれない。

 だが、武はそれを赦さなかった。

 記憶をなくしたほうが楽なのかもしれなかったが――彼にとっての鑑純夏は、それでも、どれ程に苦痛だろうとも。

 絶対に、絶対に、忘れたりなんてできない……。

 そして、矛盾している自分に気づく。

 茜の笑顔に純夏を重ねてしまい、それを振り払おうとした自分。

 呼び起こされる記憶に苦しみながらも、それを手放さない自分。

(違う、俺は……っ)

 座り込んだまま、武は懊悩するしかなかった。

 やがて、ふらりと立ち上がり、夕食までの数時間、素振りでもしようと……ふらふらと、自室へと戻っていった。







 屋内訓練場へ辿り着くと、そこには薫と亮子がいた。ほかにも数名、走ったりトレーニングしている訓練兵が見受けられる。

 屋外の訓練場などかくやと言わんばかりの広大な空間は、先ほどまでどこかの訓練部隊が汗を流していたのか、僅かに温度が高く感じられた。

 武は自主訓練にいそしむ彼らの邪魔にならぬよう注意しながら、模擬刀を振る薫へと声を掛けた。

「あっ、白銀くん」

 武の接近に気づいた亮子が朗らかに笑う。その声に薫も素振りを止め、武へと振り向いた。

「白銀? 珍しいじゃん、あんたが自主訓練なんて」

 玉のような汗を浮かべた薫がにやりと口端を吊り上げる。つられたように笑う亮子が、

「別に珍しいことじゃないですよ、薫さん」

「あん?」

「白銀くんはですね、夜に自主訓練してるんですよ~。そうですよね?」

「え? あ、ああ……よく知ってたな月岡」

 どこか自慢げに語る亮子に、ほぉ、と薫がさらに唇を歪める。武は特に明かしていなかった自主訓練が知られていたことに驚きながら、既に茜に知られてもいるので別にどうでもいいかと頷く。

「で? 普段は夜に自家発電してる白銀が、なんでまた今日はこんな時間に?」

「品性のカケラもねぇなお前は……まぁ、ちょっと身体を動かしたくなってさ」

 にひひと犬歯を覗かせて笑う薫に、武は脱力する。ふざけてはいるが、これも薫の立派な個性だろう。――多分、お前の親は泣いている。

 武はとりとめもなく思いながら、しかし純夏のことを思い出して鬱になっていたなどと言えるはずもなく、左手に持っていた模擬刀を見せる。

「ふぅん。あんだけキッツイ訓練の後に、よくやるねぇ」

「そりゃお互い様だろ。月岡まで引っ張り出して、お前も容赦ねぇなぁ」

 亮子のスタミナが常人のそれより劣るのは自他共に認める事実だ。体力の配分を巧くして如何に余力を残すかを研究した結果それなりの体力を得ることには成功していたが、矢張り武たちに比べてその消耗は早く、激しい。

 そんな武の気遣いに亮子は花のように微笑んで、

「大丈夫です。今日は型の復習だけですから」

「型? 剣道のか?」

「そーそー。流石のあたしも今日は動けないって。…………ただ、ちょっと目標があってさ。そのためには少しでも出来ることをやろうって……亮子とさ」

 どこか真剣な表情をする薫。そんな彼女の顔は今まで見たことがなく――ああ、なんて頼もしい顔だろうと、武は自然と微笑んでいた。

「っ!」

 薫が赤面する。ん? と怪訝そうな顔をした武だったが、しかし薫は思い切り視線を逸らして、

「さ、さぁ亮子! そ、そろそろ今日は終わりにしないかっっ!?」

「え? さっき始めたばっかr」

「そーだよなぁ、流石に今日はもう疲れたよなぁっ!? 部屋に戻ってシャワーでも浴びようぜーっ!!」

 赤い顔のまままくしたてる薫に口を塞がれ、亮子は成す術もなく引き摺られていく。

 あっという間に訓練場から出て行った二人を、武は呆然としたまま見送るほかなかった。

「……なんだ、ありゃ」

 呆けたまま呟いて、そして――けれど、幾許か心が軽くなったのを感じる。

 お互いに意識してのことではないだろう。

 けれど、向かい合い、言葉を交わすことで……間違いなく、武の心は癒されていた。

「…………、」

 癒されていた、か。

 武は自嘲気味に唇を吊り上げた。

 ならば自身は――――癒されたいと願っているのか。

 先ほどの矛盾と同じ。

 癒されるのならば、その結果、どうなるというのだろう。

 癒されようと思うならば、それは……純夏を忘れるということではないのか?

「やめよう」

 頭を振り、思考を霧散させる。

 今はただ、無心であればいい。

 ただ、強くなるために修練を積むのだ。

 ――生きている。

 模擬刀を鞘から抜き放ち、瞬間、思考を切り替える。

 ――俺は生きている。

 最初の一閃。上段から一直線に振り下ろす。

 ――生きて生きて、生き足掻いて……それから、純夏に逢いに逝く……っ。

 右足を前へ。重心を滑らかに移動しながら、弧を描くように旋回。模擬刀は絶え間なく宙を踊り……螺旋軌道の剣閃はただ大気を切り裂き続ける。

 あの日、水月の胸の中で聞いた言葉を噛み締めながら、武は無心に舞い続けた。







 ===







「久しぶりね、まりも」

 帝都東京練馬区に設けられた帝都絶対防衛線の中央司令部。帝国斯衛軍の重鎮達が帝都死守を掲げ、今現在進行形でそのために通信兵へ指示を飛ばしている。通信兵はその内容を一言の漏れもなく伝達し、スピーカを通して部隊長の了解の意が返される。……そんな、最早見慣れた司令部の光景の中に、一人、戦場には似合わない――否、戦線にいるわけがない人物の姿を見つけて――神宮司まりもは驚愕に言葉をなくす。

「ゆっ、夕呼?!」

 軍司令部より呼び出しを受け、自らの不知火を駆りやってきたその場所。

 衛士強化装備のまま司令部へ駆けつけたまりもは、そこに立つ人物にずんずんと詰め寄った。

「あら~、流石に似合ってるわねぇ。……階級は、大尉ぃ? あんたなにやってんのよ、元教導隊でしょ~? 少佐とか中佐とか、もっと権力持ちなさいよねぇ~」

 足元まである長い白衣を身に纏い、軽い口調でおどけたように笑う女性。

 その、一度見たら忘れようのない……時が経ってもまるで変わった様子のない旧友に、まりもは心底呆れたというように溜息をついた。

「夕呼、貴女いつの間に帝国軍に? ……って、なんで貴女がここにいるのか知らないけど、私急いでるから」

「急ぐぅ? 何言ってるのよ。ちゃんとあたしの前にいるじゃない。これ以上何処に行こうってのよ。だいいち、あたしは帝国軍になんか入隊した覚えはないわね」

「え?」

 白衣の女性の名は、香月夕呼。まりもの知る限りでは彼女は帝国大学に在籍する研究者であり、帝国軍横浜基地へもその研究のため出入りしていたこともある。

 その折に話す機会もあり、同じ年齢、さらに同性ということで二人はお互いに気心の知れた良き友人となっていた。

 訓練兵の教官として配属されて間もない頃だ。既に八年も前の話である。まりもの記憶が確かなら、1994年以降会っていない……実に、五年ぶりの再会だった。

 そんな夕呼の姿をしげしげと見詰め、まりもは気づいた。

 白衣の下のその制服。それは紛れもなく国連軍のそれであり、にやにやとまりもの反応を愉しんでいる表情から……自分を呼び出したのが彼女であることを。

「まさか、貴女がわたしを?」

「ご名答~。話が早くて助かるわぁ。それでまりも、早速で悪いんだけどさぁ、あんたとあんたの部隊、今からあたしの配属になったから」

「なっ?! ええ?!」

 とぼけた顔でいきなり何を言うのか。突拍子もないことを思いつきで実行し、周囲の人間を振り回すのが夕呼が夕呼である所以だが、それを理解していてるまりもでさえ、彼女が一体何を言っているのか理解できない。

 国連軍の制服を着ているということは、まず彼女は紛れもない国連所属の……研究員、ということだろう。或いは衛士、などと考えたが、夕呼の性格上それは在り得ないだろう。学生時代、陸軍予備学校にも行かず、大学へ進学している事実も、それを裏付けている。

 では、その国連軍の研究員が、一体何の権利でもって帝国軍所属の自分を、ひいてはその部隊丸ごと徴収しようというのか。

 襟元の階級章に目をやる――瞬間、息を呑んだ。



 ――――大佐。



 思わず、莫迦なと呟きそうになる。だが、それは何度見直しても変わることなく……一研究員が持つべき階級とは、冗談でも言えなかった。否、常識から言って在り得ない!!

「な、ぁ、」

「ん~っ、驚いてくれたようで何よりだわ。それでまりも、返事は?」

「……??!!」

 色々と納得がいかない。どころか、謎は深まるばかりである。

 いいだろう。ここまでは納得しよう。――香月夕呼は国連に籍を置く研究員で階級は大佐……。既に意味不明だが、そこはこの際関係ない。そして、その大佐殿が現在要求しているのは自分とその部隊。

 正直、国連軍と帝国軍の間でどのような取引が行われていたのかは定かでない。

 理由も何もなく、唐突に現れて「あんたは今からあたしの部下」などといわれて誰が納得できようか。

 ……だが、それが軍隊というものであり、そして神宮司まりもは軍人だった。

 帝国軍衛士として任官し、その実力を買われ富士の教導隊へ務めていたこともあった。次世代を担う若者を育成するために旧横浜基地へ招聘され、教官として過ごした八年もの間も、矢張り自分は帝国軍人として過ごしてきたのだ。

 そして、BETAによる京都陥落をきっかけに訓練校は閉鎖され……再びまりもは衛士として前線に身を置いている。

 十年以上のブランクなど全く見せず、与えられた大尉以上の功績を挙げ、BETA帝都侵攻を見事防ぎ続けている。――もっとも、彼女自身、そのことを誇ろうとは思わない。既に横浜を墜とされてしまっている現状に、まりもは己の力不足を感じていた。

 不足しているのなら、少しでもいい、強くなって見せる。帝都を護るため、部下を護るため、仲間達を護るため。

 嘆く暇があるなら、這いずってでもいい、みっともなくてもいい、前へ進めと。彼女は常に自分に言い聞かせている。

 そして、それこそが優秀な衛士の証でもあり……故に、まりもは上官の命令に異を唱えることはない。

 まして、その内容が不透明であろうが理不尽であろうが……意味のない命令など存在しないことを、彼女は十二分に理解していた。

「了解しました。神宮司まりも、ただいまより香月大佐の指示に従います」

「ちょっと、堅苦しいわねぇ。……敬礼は禁止、あと敬語もやめて」

 ぴらぴらと手を振り、心底嫌そうな顔をする夕呼。

 しかし、旧知の友とはいえ、階級の差は大きい。まりもはなんとなく、先ほどの夕呼の言葉を思い出す。――少佐とか中佐とか……。ひょっとするとそれは、大佐である自分との差を少しは埋められればという彼女なりの願望だったのかもしれない。

「はぁ……善処しますが、こればかりは。大佐、この度の配置転換について質問してもよろしいでしょうか?」

 姿勢を正したまま、毅然と言葉を発するまりもに最早うんざりを通り越してげんなりしている夕呼が、適当に相槌を打つ。

「はぁいはい、いいわよ~……ねぇ、ほんと、やめてくれない? それ」

「…………もぅ、しょうがないわね貴女は。……ここは人目があるから、出来れば移動したいのだけど」

「ああ、そうね。流石にこれだけ大勢の前で大佐にタメ口きいてちゃ、色んな意味で有名人になるものねぇ」

 にやりと唇を吊り上げ、夕呼は愉快気に笑う。内心で溜息をつきながら、傍若無人を絵に描いたような夕呼に、せめてその目的だけでも問い質してやろうと決めて。







 そして、世界中が注目する一大反抗作戦は、徐々にではあるがその片鱗を顕していく。

 だがそれは片鱗であるが故に誰も知らず、その裏に秘められた内情を知るものも、また、ない。

 そう、この時点ではまだ。







[1154] 復讐編:[三章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:fc8bbe51
Date: 2008/02/11 16:09

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:三章-03」





「BETAのことを教えろ……って、お前な、座学だけじゃ不足か? ……図書館だってあるだろう。なんでまた俺に聞きに来るかな」

 口の周りから顎にかけて立派過ぎる髭を蓄えた熊谷は、もさもさとその自慢の髭をさすりながら問い返す。訓練終了の後、わざわざ彼の自室にまでやってきて座学の続きを求めた武に少々の驚きを覚えると同時に、新兵にしては殊勝な心掛けだとも思う。

 熊谷は武を椅子に座らせ、自身はベッドに腰掛ける。腕を組み、ふむとひとつ頷いて、

「……察するに、お前が聞きたいのは教本や資料に書いてあるようなことではない……ということかな?」

「はい。それらは既に片っ端から読んでます。…………でも、その、……俺が知りたいことは、何処にも書いてなくて」

 訓練兵が座学で教わるBETAの情報は少ない。宇宙から飛来してきたBETAについて判明している事実があまりにも少ないこともその理由の一つだが……現在の衛士育成カリキュラムでは、正規の軍人として任官した後、つまり「衛士」となった後にその詳細を詰め込むことになっている。

 それまでの座学では、例えばBETAは炭素生命であるがコミュニケーションが不可能なこと、数種類の系統からなること、人間と同じ程度の大きさのものから戦術機を軽く越える巨大なものまでいること……等々。言ってしまえば当たり障りのない、非常に曖昧な物だ。

 無論、それらの情報だけでは抽象的なBETA像しか浮かばないかもしれないが、それらとて知らずともよい、と言えないのも確か。

 時を経て、必要な時に必要な情報を開示する。その時になるまで開示されないということは、即ちそのときまで知らずともよい……という逆説でもあるのだが……。

 熊谷は、向けられる武の視線から直感する。――この少年は、「敵」を知りたがっている。

「…………白銀、お前が知りたいのはBETAのなんだ?」

「まず一番に知りたいのは形態的特徴です。……座学でいうような抽象的なものでなく、それぞれの個体について、出来るだけ詳細に。無論、その固有名称に大きさ……あとは、戦闘時における挙動特性も併せて教えていただけると……」

 迷いなく発せられたその内容に、熊谷は事実、驚嘆する。

 彼はまだ教官という職について数年しか実績を持たないが、しかし、その間少なくとも入隊してまだ一年も経過しないうちから……それも自主的に、BETAを知ろうとする者は居なかった。個体の名称や大きさ。そんなものを知ってどうすると一蹴することも出来たが……武の瞳は真っ直ぐと熊谷を貫いていて、それも躊躇わせる。

「……戦闘挙動特性、ね。お前からそんな珍妙な言葉が出るとは思わなかったぞ」

「酷いですね。俺、これでも座学頑張ってるつもりなんですけど……」

 熊谷はくっ、と笑う。武もつられるように苦笑した。

 武がこの数週間、訓練に異常なまでの集中力を見せていることは教官である自分が一番知っているし理解している。元々苦手だったらしい座学も、独自に学習することでみるみる内に知識を修めている。

 目に見えない場所で、誰に強制されるでもなく自ら率先してそれらを実践できることの凄さを、熊谷はわかっている。

 なるほど、ならば武は優秀で、将来有望な衛士候補生ということになるだろう。

 自身を極限まで鍛え抜き、飽くことなく知識を渇望・吸収できるなら、それは極めて有能な戦士が誕生するに違いない。



 ――だが。



 熊谷は故にそれを危惧する。

 白銀武という少年の、奥底に在る原動力。

 心身を鍛え、知識を得ることに労力を厭わない。それは、ある意味当然の心掛けであり、ある意味では先のような優秀な衛士となるために必要不可欠な努力だろう。

 熊谷は、白銀武のことをまだよくは知らない。元々、彼は優秀な訓練兵だったのかもしれない。それ故に更なる知識を求め、ここにこうしてやってきたのかもしれない。

 だが、それはないだろうと熊谷は溜息をつく。

 割と有名な話だ。……何しろ、目撃者は多い。

 もうすぐ一月が経過しようとしているが、それでも、あの出来事は……多くの訓練兵の心に突き刺さった鋭利な棘だ。



 白銀武は恋人を亡くしている――



 目撃した訓練兵が見た限りでは、彼は、とても……見ていられないほどに狂乱し、絶叫し……繰り返し繰り返し、恋人の名を叫んでいたという。

 十五歳の少年が。

 故郷をBETAに襲われ……そこに残してきた恋人と死に別れたのだ。

 まともな精神状態で居られるはずがない。

 仮に発狂してしまったとしても、なんら違和感がないほどに。

 だが、熊谷の目の前に座る少年は、そこから這い上がった。――否、這い上がろうと足掻き、もがいている。

 同じ訓練部隊の仲間に支えられ。或いは、手を差し伸べた先任訓練兵によって。

 自身の在るべき姿を見出し、そのために生きようと、前へ進もうと足掻いている。

 ならば、今回のこの来訪は一体何を意味するか。

 何の迷いもなくBETAの戦い方を教えろと言った彼は、何故にそれを求めるのか。







 ヤツは、斃すべき敵を欲している――――。







「……熊谷教官」

 長い。長すぎる沈黙に遂に武が口を挟む。

 だが、その呼びかけにも、熊谷は応えない。彼は答えを出しあぐねていた。

 ここでBETAについて講義することは……可能だ。熊谷自身、衛士として訓練を積み重ねた時代があり、実戦の経験もある。先のBETA日本上陸のような、大規模な戦闘には参加したことはないが、それでもBETAと相対し……生き残った実績を持つ。

 だが、知っていて、教えられるからといって……現在、白銀武にそれを教授する必要があるのか。

 否――教えてしまえば、一体この鋭すぎる視線を向ける少年はどうなってしまうのか。

 今日までの訓練でわかっていることがある。

 白銀武は、必死に恋人の死を振り払おうと足掻いている。いや、そこに纏わりつく哀しみから抜け出そうとしているのか。

 気遣い、支えてくれる仲間のために、そして何より、自分のために。

 その姿勢、在り方はとても思春期を迎えたばかりの少年とは思えぬほど強靭で……倍を生きてきた熊谷でさえ驚嘆するほどのものだ。

 だからこそ、恐れる。

 今日という日まで、泥沼から這いずり、足掻き、それでも真っ直ぐ前を向いて歩いてきた彼が――敵を求めている事実。

 武は、ここにきて捻じ曲がっていこうとしているのではないか。

 真っ直ぐだった道から外れて、どこか歪なその道を転がり落ちようとしているのではないか。

 熊谷にはそう思えてならない。

「……教官、お願いします……俺に、BETAのことを教えてください……っ」

 搾り出すような声は、熊谷の心を揺さぶる。

「Need to Know という言葉を知っているか、白銀」

「え……?」

「そのままの意味だ。必要ならば、知らされる。…………今、知らされないということは、お前がそれを知る必要がないということだ」

 武の表情が強張る。驚愕に染まる視線。ぎしり、と奥歯を噛み鳴らす音が響く。膝の上に置かれた拳が、ぶるぶると震えていた。

 だが、それでも武は熊谷から視線を逸らさない。挑むように、睨みつけるように……まるで貴様こそが俺の敵だと言わんばかりに……。

 内心で熊谷は悲しく感じていた。

 間違いなく、白銀武という少年は優秀な衛士となっただろう。真っ直ぐな心で、純粋な想いで、この国のため、世界のため……何よりも護りたい彼女のために。

 だからこそ……哀れでならない。

 本人の気づかぬ内にその心は捩れ、純粋だった思いは歪み、国のためでもなく、世界のためでもなく……何よりも、喪った彼女のために。

 白銀武は崩壊する。

 このまま独りで走らせては、彼はいずれそう遠くない未来に、砕け、折れるだろう。

 そんなことにはさせない。そのために教官という自分があり、なによりも仲間が居る。

「白銀……お前の気持ちはわかるつもりだ。俺は、戦場でお前のようなヤツを何人か見たことがある……。そいつらは大きく分けると二種類居るんだ」

 どこか遠くを見詰める熊谷に、しかし武は獰猛な視線を外さない。熊谷に口を挟む気はないようだったが、挟まれたところで、彼は話をやめるつもりはなかった。

「哀しみさえ想いに換えて、ずっとその想いを抱えたまま戦うヤツ。哀しみを怒りに換えて、ずっと復讐のために戦うヤツ……極端だけどな、大別するとそんなもんだった。勿論、これは俺の視点からみての判断だから、全ての衛士に当てはまるとは言わん。だが、少なくとも赤の他人の俺にさえそう思えてしまうほどの違いはあった。――白銀、お前はどっちだ?」

「?!」

 そのときの武の表情は一体どういうものだったのか。

 武から視界を外し、遠くを見詰める熊谷にそれはわからない。……だが、どうか……願わずにはいられない。

 お前はまだ、これから生き続ける力を持っている。復讐に駆られずとも、哀しみの捌け口に怒りを求めずとも。

 お前は、護るためにBETAと戦えるはずだ。

 復讐のためではなく。

 守護者として――。

「きょう、かん……」

「ま。今日のところはこれまでだな。白銀、どうしてもBETAについて知りたいというなら…………そうだな、もう少しまともな顔ができるようになったら、俺のところに来い。ひょっとすると、独り言が聞こえるかもしれないぞ」

 熊谷は立ち上がり、部屋のドアを開ける。その意味を悟った武は、どこか茫洋としながらも熊谷の横を通り過ぎ、彼の部屋を出た。

「……白銀、ひとつだけいいか?」

「…………え?」

 どこか生気を失ったような表情で、武は振り返る。酷なことを言ってしまったかと熊谷は苦笑するが、それでも彼は先を行く先任として、訓練兵という武たちを導く教官として。

「お前には仲間が居る。お前は一人じゃない。頼りにならんかも知れんが、俺だっているんだ。――――だから、あまり抱え込むなよ」

 僅かに表情を歪めるだけで、武は応えない。

 深く礼をして、少年は熊谷の部屋から去っていく。……その心を、激しく波立たせながら。

 熊谷は思う。

 まだ時間は在る。まだ――立ち直る時間はあるのだ、と。

 自慢の顎鬚をこすりながら溜息をつく。しかし、その表情はどこか優しさに満ちていて、絶対に道を踏み外させたりはしないという意思が込められていた。







 ===







 普段の彼女からしてみれば、それは若干早い目覚めだった。

 起床ラッパの十分前。目覚ましが鳴る五分前。計ったように目覚め、しかも意識は非常にクリアだ。さて、どうしてだろうと首を傾げつつも、既に眠気は微塵もなく。ならばと目覚ましのスイッチを切り、訓練に備えて着替えることにした。

 ……起床ラッパまで九分。実に素早い手際である。もっとも、寝る時は下着だけのため上から服を着込むだけでいいのだ。故の素早さである。

 ぐ、と大きく伸びをして更に意識を覚醒させる。顔を洗い、水分を補給。うむ、実に爽快な目覚め。しかもまだまだ時間に余裕が在る。

 そのせいか、普段の彼女なら思いもしないことが唐突に頭に浮かんだ。

 単なる思い付きであったが、しかしその内容は実に魅力的で、且つ、面白そうなものだった。――何が魅力的だというのか、それを彼女自身気づいていないが、しかし思いついてしまった時点で既に実行を決意しているので、その疑問は脳を掠めることさえしない。

 ならば、それはとても魅力的なのだ。

 彼女にとっては。

 そして、幾許かの勇気をも必要とした。とくとくと高鳴る心臓を抑えて、しかしくすくすと忍び笑いながら、彼女は部屋を後にする。

 向かう先はすぐそこ。

 ドアノブに静かに手をかける。ノックはしない。

 顔色を喜色に染めて、しかしどくどくと激しい鼓動を繰り返す心臓に頬を紅潮させながら。

 キィ、とドアが開かれる。静かに静かに。夜明け前ということもあり、部屋は薄暗い。ベッドの上に丸まった毛布を確認して、彼女はくふくふと笑いながら部屋に侵入した。

 ――そう。侵入である。

 彼女はそろそろとベッドに歩み寄り、どきどきとハートを昂ぶらせながら、そこに眠る人物の顔を覗き込んだ。

 じっと。

 薄暗いため、その表情はよくわからない。――けれど、まるで仔犬のように眠る姿に思わず見惚れていた。

 す、と顔を近づける。もっとよく見たいという欲求が、彼女を衝き動した。

 そして、そこでようやく本来の目的を思い出す。

 いつもより早い目覚め、そのために思いついた魅力的で面白いこと。

 彼女は、うんと頷いて。ベッドで眠る少年の身体を揺さぶった。

「し~ろがね~っ、起きろ~っ」

 ゆさゆさ。満面に笑みを浮かべながら、その名を呼ぶ。ゆさゆさ。優しく揺さぶって、緩やかな目覚めをプレゼントするのだ。

「しろがね~、朝だよ~っ」

 優しく呼びかけながら、暫く揺さぶっていると、ようやく反応が見られる。さぁ、起きて。そして、自分が目の前に居ることにびっくりして慌てて恥ずかしがって……。そんな彼を、見たいと思った。

 同い年の異性に起こされることなんてそうないだろう。

 見た目どおりの初心(うぶ)な少年は、それはそれは愉しい反応を見せてくれるに違いない。

 彼女は期待に胸を躍らせた。そんな彼の反応を間近で見たいと思っていた。いや、もうすぐそれを見ることが出来るのだ。

 誰も知らない、そんな彼を。

 自分だけがこうして見ることが出来るのだ。――ああ、それはなんて愉しいのだろう、嬉しいのだろう。

 だからこそ、彼女は気づかなかった。

 無論、そのことを忘れていたわけではない。否、忘れられるはずがない。

 十分に理解していたし、日ごろから自分に言い聞かせていたことでもあった。

 では、一体何故気づけなかったのか。

 それは偶然だからとしか言いようがない。

 いつもより早く目覚めたことも、唐突に思いついてしまったことも、甘い誘惑に浮かれて……ここまで来てしまったことも。

 ゆさゆさと。毛布にくるまる少年を揺する。そして、遂に彼は口を開いた。――目を覚ましたのだ。

 そして、寝起きという無防備さゆえに、彼は「誰にも見せたことのない彼自身を晒した」。

「ん~……っ、純夏ぁ、あと五分……」

「――――ッ、?!」

 心臓が凍りつくようだった。

 昂ぶりは瞬時に覚め、胸を巡っていた甘い想いは消し飛んだ。



 ああっ、自分は一体なにをしているのかっっ?!



「あ、ぁ、」

「ん……? ぇ、純、夏、――ッ!?」

 少年が跳ねるように身を起こす。あまりにも素早いその挙動に、呆然と夢から覚めやらぬ彼女は反応すら出来ずに、

「純夏!」

 腕をつかまれ、引き寄せられる。あんまりな力にベッドに倒れこんで……ずっしりとした筋肉に包まれた。

「す、すみ…か、純夏? まさか、莫迦な……これは夢か?! 純夏、純夏ァ……ッ」

「ぁ……ぁっ」

 力いっぱいに抱きしめられる。力強いその腕に、鍛えられたその胸に。――なのに、哀しい。

 泣きながら、ぎゅうと抱きしめて。

 ああ、そうだ。彼はこれほどに愛している。……こんなにも、愛しているのだ。

 彼女のことを。幼馴染の少女、護りたいと誓った、太陽のように笑う彼女を。

 彼が彼女を喪ってから……もう一ヶ月が過ぎた。それなのに、……違う、それすらわかりきっていたことなのに。



 白銀武は鑑純夏を愛している。



 それは絶対に揺るがない。何があったとしても変わらない。

 忘れることなんてない。絶対に、武は純夏を手放さない。

「純夏…純夏、夢でもいい……夢だっていいんだ…………っ、また、こうしてお前を抱くことが出来るならっ……ぁ、ぁああっ」

「…………」

 ならば、自分は。

 武が純夏に向ける想いに割って入ろうとした無粋な邪魔者。或いは、返り討ちにあって傷ついた愚かな女か。

 ずきり。胸の横が啼いた。

 抱きしめられる力が強ければ強いほど。向けられる想いが強ければ強いほど。

 彼女の心は、ぽろぽろと涙を流すのだ。

「……白銀、いたいよ……」

「?!」

 震える声を、絞り出すように。

 けれど、それは武の耳に十分に届いていた。驚いたように身を放し、彼女の両肩を掴む。そして、そこに居たのは……ぼろぼろと大粒の涙を零し、ぐしゃぐしゃに表情を崩した――

「涼宮…………っ」

 その彼の表情が、声が…………茜にはとてもとても、辛く、哀しい……っ。

「ぅ、ぇ、ぅぁ、あぁぁあん! ぅぁあああっ……んんん!」

 肩を掴む腕を振り払う。驚愕に染まった武の顔をこれ以上見ていられず、そして、こんな自分をこれ以上見られたくなくて。

 茜は武から逃れるように部屋を走り出る。足をもつれさせながら、呼吸を荒げながら、溢れ込み上げる涙をそのままに……みっともなく、泣きじゃくりながら……。

 自身の部屋に駆け込んで、ベッドに飛びつくように縋った。

 ――惨めだ。

 ――なんて惨めなんだっ、あたしは!!

 自分の迂闊さに腹が立つ。あまりの傲慢さに恥ずかしくなる。

 そして、そう思ってしまう自分があまりに惨めで…………哀しい。

「ぅぁあああっ、ああああああ……っ」

 顔を毛布に埋めて泣き叫ぶ。

 最低だった。

 滅茶苦茶に哀しかった。

 一体自分は、武に何を期待していたのだろう?

 自分が起こしに来たことに驚いて、照れて恥ずかしがって……そんなことを期待していた? ――莫迦なッ! 彼がそんな反応を見せるはずがない!!

 幼馴染なんだ。朝起こしにきていたとしても何の不思議もない。むしろ、お互いに好き合っていたのだから、それは当然の日課だったのかもしれない。

 なにが、自分しか知らない武だ。

 そんなことを知って優越感に浸りたかったのか? ――だが、その結果見せられたのは自分さえ知らない彼の本当の姿だった。

 その思い込みに腹が立つ。どうしてそんな風に考えてしまったのか。それが哀しい!

「ぅあぁあん、ぅぁああぁ」

 幼い子供のように。

 そしてようやく。

 茜はどうして、こんなにも哀しくて惨めで寂しいと啼いてしまうのか。その奥底に眠る感情の名に気づく。







 ――ああ、そうか。



 ――あたしは、白銀が好きなんだ……。







 実らせることの出来ない想いに気づき、涙する……茜の恋は、そうして始りを迎えたのだった。







 ===







 その日は一日、朝からずっと……頭の中がおかしかった。

 訓練の最中も、食事の最中も、皆と居る時も、独りで居る時も……ずっと、そのことが頭から離れない。

 ――泣いていた、涼宮の顔――。

 薄暗い部屋の中で。

 抱きしめた自身の腕の中で。

 茜は泣いていた。

 痛いと。そう呟いて泣いたのだ。

 それは一体どういうことなのか。なぜ、どうして武の部屋に茜がいたのか。

 ……起こそうとしてくれたのだ。そんなことは既に気づいている。

 それを武は……どこか眠ったままの頭で、「いつものように」彼女が起こしに来てくれたのだと錯覚して……。まるで、幸せな夢を見ているのではないかと。感情のままにその名を呼んだ。

 自分でもどうかしていると思う。

 そんなことが在るはずがないのに。

 喪ってしまったその幻影を追い求めるほど、自分は追い詰められていたのだろうか。

 ……違う。

 それでも、武は彼女を喪いきれずにいるだけだ。

「……ッ」

 過ぎるのは、泣いていた茜の顔。

 何度も何度も、鮮明に繰り返される。

 あれは、あの顔は……哀しくて泣いていた顔だ。多分、そうだ。

 わからないのはなぜ、茜がそんな風に泣いてしまったのかということ。

 …………その理由は、「わからない」。多分、きっと、「気づいてはいけない」……。

「……ね、……ろがね、…………白銀ェエエ!!」

「おゎああああっ?!」

 鼓膜が破れそうなほどの大音量。超至近距離からの怒号に意識が覚醒する!!

「……ぁ、ぁ?! え? 速瀬さん……っ?」

「ハヤセサン、じゃないわよ。何度呼んだと思ってんのよあんた。この私が呼んでるんだから、一度で返事するのは当然、嬉し涙流して何でございましょうか水月様ッ、とか這いつくばってみなさいよ」

「いや、すごい意味不明なんですけど」

 いきなり現れて何を言い出すのか。しかし、随分と久しぶりな水月の傍若無人っぷりに、武は苦笑するほかない。

 一ヶ月という時は、少なくとも武の周囲にある日常を取り戻させるには十分な日々だったらしい。――取り残されているのは、自分だけ。

 武は小さく溜息をつく。……そんな風に思考するのはやめよう。水月は水月なりに、武のことを心配してくれているのだから。

 証拠に、彼女の左手には模擬刀が握られている。

 夕食の時間から既に数時間が過ぎている。それが、武の自主訓練の時間だった。いつもの時間。毎日の日課。あの日からより一層、のめりこむように続けていた独楽にも似た螺旋の剣。

 その日々を、彼女――水月は共に過ごしてくれている。

 頼んだわけではない。気づけば水月が共に居て、剣を合わせてくれるのだ。……毎日、飽きることもなく。

「はいはい。間抜け面してたあんたを心配してやったっていうのに、随分とまぁ可愛げのない」

「あれの何処が俺の心配してたんですか?」

 どうしてだろうか。

 水月と話していると気持ちが安らぐ。つい先ほどまで頭の中を巡り巡っていた茜のことが、すぅっと意識の奥に引いていく。

 忘れた、というわけではない。だが、この時間……ここからは、それに気を煩わせている暇などない故に。

「……あら、随分いい顔するじゃない? やる気になったってとこかしら?」

「……はい。速瀬さんさえよければ。――よろしくお願いします」

 模擬刀の鞘を投げ捨てる。対峙する水月もまた、鞘を地に置いた。

 速瀬水月は総じて強い。

 それは近接格闘や近接戦闘など、直接己の肉体を使用する肉弾戦から、射撃・狙撃といった兵器の扱いにも長じている。なによりも恐ろしく凄まじいのはその思考能力の高さと洞察力の鋭さ。相手の思考を読み、行動を予測し、観察することでその誤差をなくし……瞬時の判断でありながら常に的確、一瞬の隙も逃さず、或いは完全に力押しでこちらを捩じ伏せる。

 とてつもない身体能力の高さと、豪胆なほどの判断力、それを決行する意志の強さ。

 それが水月の強さだと武は思う。

 こと剣術において、武のそれは水月を上回っている筈なのに、この一ヶ月、一度として水月に土をつけたことがない。

 ――強すぎるのだ。

 三年という月日の差は、ここに歴然と現れ、立ち塞がっている。……まだ、この壁を越えられない。

 お互いに剣を構え、睨み合う。――武は迷うことなく一歩を踏み込んだ。裂帛の気合と共に放たれる直線の一、下がることでかわした水月に続く螺旋軌道で追撃をかける。

 回る、廻る――。

 止むことのない独楽の剣閃。水月は的確にそれを受け、流し、或いは迎撃して……数十の打ち合いの後、首を刎ねられたのは武だった。

 びたり、と止められる模擬刀の刃。空気を切り裂くほどの威力は完全に静止し、武の首の皮をちりちりと焦がすに留まった。

「…………」

 勝てない。

 これまでと同じ結末。前よりも速く、そして鋭く。武は己に言い聞かせ、事実その剣技は昨日のそれより上回っている。

 それでも尚勝てぬというなら、それはあまりにも水月が強すぎるということなのだろうか。

 歯噛みする武に、水月はあっけらかんと笑いながら言う。

「あっはははは~! な~に泣きそうな顔してんのよっ。あんたがあたしに勝てないなんて当たり前でしょぅ?! さすがにこんなひよっこに負けてあげるほど、あたしも優しくないのよねぇ」

 まだまだ未熟、と。水月は軽快に笑う。武はバツが悪そうにそっぽを向き、自身が水月に勝れない理由を考え始めた。

 剣の腕は間違いなくこちらが上。それなのに勝てないというのなら、それ以外の何かが水月に劣っているからに他ならない。

 それは何か。

「あんたはまだまだ経験が足りないわ。あとは、鍛えようかしらねぇ? あ、それと」

 武の内情を知ってから知らずが、水月がテキパキと武の問題点を指摘する。

「……あんたのその剣術、もうちょっと変幻自在とまではいかないけど、なんとかならないの?」

「え?」

「ま、ずっとずっと指導者もなく独りで続けてたからだろうけどさ……。もっとこう、状況に合わせて動きを変えるとか螺旋軌道の中に直線軌道を織り込むとか……そういう発展なしじゃ、いい加減見飽きたわよ?」

 思わず言葉をなくす。――が、確かに水月の言うとおりだった。

 毎日毎日繰り返してきた型。基本にして、全ての発展系の基となる一。

 武は幼少の頃にそれを習い……そして、それしか教わることが出来なかった。

 故にその先を知らず、繰り返すのはただそれだけ。身体に染みこんだ技能は忠実にそれを再現し、繰り返し……いつしか、武はその軌道しか行えなくなっていた。

 水月ほどの洞察力がなくとも、数度相手をすればわかる。

 武の動きは、それこそ一部の隙もないくらいに……「同じこと」を繰り返していた。

「もっと相手をよく見なさい。それと、周りのことも。ま、あんたのそのヘンテコな剣術は一度に多勢を相手取るためのもののようだから、ちゃんと周囲の状況を把握して、その状況そのものを利用して戦うってのも有効な手段ではあるわ」

 ぴしり、と。

 不敵な笑みを浮かべて、水月が剣を振る。武の独特な剣術を看破し、その問題点を指摘する。型に嵌ってしまっているなら、今からでもそれを崩せばいい。そう言って、水月は再び剣を構えた。

「ほらほら、時間は待ってくれないわよぅ? そうね、今日あんたがあたしから一本取れなかったら……」

「え? ちょっと、何する気ですかっ?!」

 嫌な汗が浮かぶ。にたり、そんな擬音が聞こえそうなほどの、悪そうな表情。あんたはどこぞの餓鬼大将か。

「ふふ~ん。決めた。あんたは明日からあたしの下僕よっ!」

「絶対勝ちますっ!!!!」

 乾坤一擲。ここで負ければ全てが終わる。

 武はそれこそ何もかもを忘れ、己の動き、そして水月の動きに没頭した…………。







「……っ、は、はぁ、はぁ! ぐ……っは、ぁああああ! よっしゃああああ!」

 打ち合うこと数時間。その日最後の試合にようやく勝利して、武はぶっ倒れながらも雄叫びを上げる。

「あっちゃぁ~……油断したわぁ。は、な~に嬉しそうはしゃいでんのよ」

 そういう水月の表情も明るい。同じように疲れているはずなのに、水月はそんな素振りも見せず、転がりながらもはしゃぐ武を見て微笑んだ。

 まったく世話の焼ける“弟”である。水月は湧き上がる嬉しさを悟られぬよう繕いながら、武に手を伸ばす。

 満面の笑みを浮かべて、武はその手を握り返した。よ、という声と共に引き起こされ、立ち上がる。

 そう。ようやくにして。

 武は、水月の差し伸べた手を掴み、立ち上がったのだ――。

「…………ふふふっ」

「? なに、笑ってるんです?」

 立ち上がり、筋肉をほぐす武に、水月はばしばしと肩を叩く。きょとんとする武だったが、それでも水月は込み上げる気持ちを抑えられなかった。

 ――ああ、ついに。遂に武は、自分の手を……差し伸べた手を……っ!

 剣を振り、或いは訓練に打ち込んでいる間。武はそれから解放される。

 ……解放されたいわけではないと、武は言うだろう。或いは、忘れたいわけではない、と。

 だから武は独りであろうとした。

 自分独りでそれと立ち向かい、何とか折り合いをつけて今日まで来た。――内心でズタボロになりながら、それを他人に見せずに。

 悪いことではないのかもしれない。けれど、いいことでもないと水月は確信している。だからこそ、自分は何度でも手を差し伸べた。自主訓練に付き合うという形で、幾度となく打ちのめすことで。自分独りで出来ることの限界を知り、周りに頼るということを思い出させようとした。

 仲間に。或いは自分のように先を行くものに。

 手は伸ばされている。後は、それに気づき、握り返すだけでいい。

 そうすれば――驚くほど簡単に、今の自分がそうしたように。武は……立ち上がることが出来るのだ。

「あっははは! あははははははっ」

 この瞬間、ようやくにして。

 白銀武は本当の意味で「ふっきった」のかもしれない。

 水月は、それが嬉しくて、何度も武の肩を、背中を……叩いて笑うのだった。







[1154] 復讐編:[三章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:690dc699
Date: 2008/02/11 16:10

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:三章-04」





 帝都絶対防衛線中央司令部――。帝都東京を守護する最終防衛の拠点である練馬仮設基地の一室、大会議室でもある広大なその部屋は現在二十二人の衛士が居並び、双方とも険しく厳しい表情で眼前の大型モニターを食い入るように見詰めている。

 会議室をぐるりと取り囲むように半円状に並んだ衛士たちは全員が日本人でありながら、しかしその内訳は実に興味深い。

 片や白を基調とした軍服に身を包む精悍な顔立ちの男女。全員が姿勢正しく、緊張感を湛えてこの場に臨んでいる。

 片や黒を基調とした軍服に身を包む覇気に満ちた女たち。ひとりだけ混ざった青年がやけに目立つ。こちらは表情こそ真剣そのもであるが思い思いに立ち並んでいる。

 共に日本という国を救うべく戦場に身を置く衛士。同じ国に生まれ、同じ国に育ち、同じ国を護るために戦っている。

 ……だが、その在り様は根本から異なっていた。

 軍服が違うだけで、これほどの差が顕になっている。そう、彼らは帝国軍に属する一個中隊と国連軍のそれ。

 同じ日本に居て所属する組織が全く異なる二十二人。

 そんな彼らが、帝都防衛の最前線であるこの場所に集い、顔を合わせている事実。

 帝国と国連という大きすぎる隔たりを難なく越えて、彼らがここに居るのには理由がある。

 モニターの前には一人の女性。傍らに秘書官らしき国連軍の女性兵士を置き、不敵に笑う白衣の美麗。

 名を、香月夕呼。

 国際連合軍に所属する大佐であり、人類存亡の希望を賭けて戦う、天才と謳われる研究者だ。

 その更に横には同じく国連軍大尉であり、特殊任務部隊A-01部隊第9中隊の中隊長を務める若き女性。

 更に並び、こちらは帝国軍大尉であり、帝国本土防衛軍マッドドッグ中隊の中隊長、神宮司まりも。

 眼前に並ぶ二十二人を前にして尚、圧倒的に過ぎるその気迫と存在感。彼女達はそれぞれが歴戦の勇士であり、スペシャリストだった。

「ふふん。皆いい面してるじゃない? さすが、まりもの部下、ってところかしらね」

 白衣を着た夕呼が帝国軍衛士たちを眺める。全員が凛々しい顔をして、全身が気力に満ち溢れている。先ごろ撤退した米国のせいで国連に対する認識も変わっているだろうに、それをおくびにも出さず平然と振舞っているのには中々に感心する。

 これもまりもの指導の賜物かと友人である彼女を見るが、当の本人はいたって堅苦しい面持ちで夕呼を見詰めていた。――余計なことはいいから、さっさと説明しなさい!

 目は口ほどにものを言う。

 向けられた視線から聞こえてくる催促にやれやれと嘆息し、夕呼は背後に控えるイリーナ・ピアティフに指示を出す。夕呼の秘書官である彼女だけが、この部屋で唯一の日本外国籍を持つ。鮮やかな金色のショートヘア。凛とした瞳が印象的な女性だ。

 ピアティフは手元のラップトップのキーボードを叩き、その内容はモニターに映し出される。

 全員がモニターに注目する。

 これは作戦会議だった。

 帝国と国連、二つの異なる軍組織が共同で行うBETA侵略反抗作戦。或いは本州島奪還作戦とでも言うべき一大作戦の概要がモニターに表示された。

 そう。

 彼らはそのためにここに居る。

 来たるべきそのときに備え、己が役割を果たすために。

「じゃ、皆待ちかねているようだし、説明を始めるわ」

 不敵な表情のまま、夕呼はモニターを示す。



 ――作戦名「明星」。



 甲22号目標の攻略を始めとする本州島奪還作戦。

 未だ謎に包まれているBETAの活動拠点。前線基地、ハイヴ。その攻略。――それは、人類未踏の領域であり悲願。

 日本を護り、救い、そして対BETA戦における新たな一歩を刻むべく、その作戦は立案された。

 帝国からの援助要請を受けた国連本部が各国と閣議決定し、そして実行を確約したのがつい先日。国連から部隊を派遣し、横浜を中心として勢力を拡大しているBETAを一掃。並びに、蹂躙された本州を取り戻し、国土の安泰を確固たるものとする。

 世界各地で行われているBETA間引き作戦とはまた違う、これは人類初の本格的な掃討戦だった。

 一方的暴威に対し、ただ防戦するしかなかった人類が、初めて、その脅威に真っ向から対峙するのである。――誰だって気が引き締まる。虐げられるだけだった日々が、この作戦をきっかけに逆転するのだ。

 それを、夢見て。

 否、それを実現させるために。

 『明星作戦』は、その反撃の狼煙となる。

 ――作戦決行は八月。

 まだ半年以上も先であるが、これには理由が存在する。

 一つは、本州奪還のために必要な戦力を各国から募るために相応の期間が必要だということ。或いは、成功すれば歴史上初の快挙となる本作戦を絶対確実のものにすべく、念には念を入れた諸々の準備期間のため。

 もう一つは…………夕呼は、その理由を述べはしなかった。

 切り替わるモニターを前に、作戦の概要を説明する彼女は冷静そのもの。彼女は平然と嘘をついた。……いや、それは嘘をついたとは言わない。隠しただけだ。半年後の作戦決行。その理由は先の案件を含んだ下準備に必要な時間を確保するため。

 それは正真正銘本当のことで、嘘などひとつもない。作戦実行に当たって、国連は慎重に事を運ぶつもりなのだ。そして、その間の帝都防衛を堅実にするために夕呼たちが居る。

 夕呼が理由の一つを口にし、もう一つ隠された裏の理由を口にしなかったからといって、誰が彼女が虚偽を働いたといえるだろうか。

 ……誰も言えやしない。

 夕呼は言わなかっただけだ。そしてそれは軍隊における絶対の法則によって守られている。――Need to Know――情報漏洩を防ぐための絶対原則。

 故に、ここに集う彼らは知らされない。

 知らぬまま、帝都の目と鼻の先で、ハイヴという魔の巣窟を相手に半年も戦線を維持或いは押し上げねばならないのだ。

 やがて作戦の概要説明が終わる。

 部隊は解散となり、衛士たちは各々、シミュレータールームへ走る。会議室には夕呼、ピアティフのほかに各中隊長が残され、これからのシミュレーター訓練について軽く打ち合わせが行われる。

 帝国と国連。組織は違えど同じ衛士。とは言え、各人の技量に差はあるだろうし、互いに連携のひとつも取ったことがないのでは話にならない。これからの半年間、ともに帝都死守の要となる精鋭部隊として戦場を駆け回る仲間だ。その絆を深め、チームとして成立するために、それは必要なことだった。







「しかし、神宮司大尉の部下は恵まれています。大尉のような素晴らしい衛士が指揮を執るならば、その実力は十二分に発揮されるでしょう」

 シミュレータールームへ向かう道中、A-01部隊第9中隊……通称ヴァルキリーズの中隊長である伊隅みちるが、やや興奮気味に話しかける。

「……もう、やめてよ伊隅。あなただって大尉なんだし、れっきとした中隊長なんだから……そんな風に思ってくれるのは有り難いけど、あまり崇拝されるのも困るわ」

 みちるが向けてくる視線にやや苦笑しながら、まりもは肩を竦める。しかし、みちるはとんでもないと目を開き、こちらは完全に苦りきった笑みを浮かべた。

「神宮司大尉は、自分の目標です。――七年前から、それは変わりません。それに、自分は……大尉に昇進したとは言え……まだ三ヶ月も経っていません。間山大尉が戦死されて空いた席に押し上げられただけの、まだお飾りでしかない」

「伊隅……」

 苦い表情のまま、みちるは前を見据える。その表情は真剣そのもので、内心に渦巻く苦悩は果てしないものだろう。

 まりもは思い出していた。

 三年前自分の下から巣立っていった、教え子たちの顔を。

 その内の一人が、彼女、伊隅みちる。

 彼女は既にない旧帝国軍横浜基地衛士訓練校の出身であり、三年前の夏に衛士として任官した。まりもが教官として教導し、鍛え上げた一人である。

 任官の際、まりもは彼女達が何処に配属されるのか知らされなかった。

 みちるたちの一期前、さらには最後の教え子となった者たちでさえ、その任官先はようとして知れないまま。

 まりもが教官として横浜基地に招聘されたそのときに、自分が担当する訓練兵たちは将来日本にとってとても重要な任務に就くことが決定されているのだと聞かされたことがある。

 即ち、自分はスペシャルを作り出すために教官として呼ばれたのだ。

 そして、四年間を鍛え上げ持てる総てを叩き込んだ訓練兵たちは立派に任官し――教官にさえ配属先が知らされないほどに、重要な任務に就いているのだと誇らしくも思っていた。

 まさか、その任官先が国連であり、しかも友人である香月夕呼の直轄部隊だという事実にはさすがに驚愕したが。

 今回の『明星作戦』決行にあたり、夕呼に招聘されてからわかったことがいくつかある。

 この作戦に限らず、国連と帝国は……或いは、香月夕呼という研究者と帝国は。とても深い繋がりを持っている。わざわざ帝国軍の衛士訓練校でスペシャリストを輩出し、その向かう先が国連、しかも全員が夕呼の直属という事実。何も無いわけがない。

 先ほどまで会議室に居たA-01部隊第9中隊の全員がまりもの教え子なのだ。

 とても偶然では在り得ない。そこには必然が転がっている。

 そしてその必然を当然とばかりに操り、こうして現在の状況を作り出しているのが夕呼だ。

 一研究員でありながら大佐という地位にあり、帝国と深い繋がりを持つ…………。昔からどこか得体の知れない一面を持ち合わせている夕呼だったが、ここにきて、それは異常に過ぎるようだとまりもは思う。

 ――だが、それでもいい。

 夕呼に何らかの企みがあり、それが国連や帝国にとって重要で重大なナニカなのだとしても、まりもが安易に関わっていいものではないはずだ。大尉として、中隊を率いる者として、必要で知っていなければならない情報は既に得ている。それ以上の説明がなく、情報がないのなら、それがまりもにとっての全てだった。

 だからこそ。

 教え子であるみちるたちの部隊について詮索はしない。無論、共に戦う戦友として助け合うつもりはあるが、矢張り、それでも彼らは国連軍であり特殊任務を遂行するスペシャルチームなのだ。その存在は恐らく高度な機密レベルによって秘匿されているに違いない。今回、その作戦の性格上、たまたま……或いは単なる夕呼の気紛れかもしれないが……共に戦うということになっただけ。

 在るべき場所が違うのである。

「――自分はまだ、中隊を預かる身としては未熟です。先達に比べると、どうしてもそれを痛感してしまうのです。私は……」

 それは、部隊を預かるものとしてはあるまじき発言だった。

 だが、それも無理はないのかもしれない。

 みちるが大尉となった背景には、最早彼女より上の先達が皆戦死しているという事実がある。先のBETA日本上陸から京都陥落、果ては横浜壊滅に到るまでの激戦に次ぐ激戦。彼女らA-01部隊はそれこそ最前線を戦い抜き、そしてその数を喪っていった。

 日本各地の衛士訓練校から集められた選りすぐりの衛士で結成されたA-01部隊。香月夕呼直属の特殊任務部隊として機能するその部隊は当初、連隊規模で構成されていたという。

 度重なる過酷な任務、特にこの半年あまりの損耗は激しく、既に残すところ二中隊。第6中隊と、みちる率いる第9中隊のみとなっている。

 数多くの尊敬すべき先達を喪い、その先達をして死に至らしめるほどの過酷な戦場を、果たして自分のような者が生き抜き、或いは部下達を生き残らせることが出来るのか。

 内面に抱え込んでいた不安を、みちるはそうとは気づかぬままに漏らしている。

 久しぶりに会ったかつての教官を前に、気が緩み……無意識の内に甘えていたのかもしれない。

「泣き言を垂れ流していれば、それで隊がまとまるのか? ならば優秀な部下を持ったな伊隅。お前はただ間山の代わりなのだと愚痴を言っていればいいんだから」

「――っ、な?! 大尉! それはっ……!」

 突然のまりもの言葉に、みちるは愕然とした。あまりにも心を抉るその一言に思わず声を荒げてしまうが、しかし、まりもの言ったことは彼女の心の核心を突いていた。

 隊を率いる者、中隊長という地位にある以上、泣き言を言うことは許されない。

 自信があろうがなかろうが、その役割を与えられた以上、やるしかないのだ。そして、やるからにはその下につくもの、即ち部下の命全てを負う覚悟を持たなくてはならない。

 感情を殺し、作戦遂行のために常に最優の選択をし続け、尚且つ部隊の損耗を抑え……最大限の成果を上げなければならない。

 状況によっては部下を見捨てなければならないこともあり得るだろう。

 みちるは……若き大尉は、正にそれを危惧していた。――恐れていた。

 自分の采配如何によって、部下の命が常に左右されるという事実。目を覆いたくなるような重圧に抑圧されるような、無意識での迷い。

 既に亡き先達にできなかったことが自分に出来るはずがないという諦観。

 なるほど。ならば自分はまさに…………。

 まりもの言うとおりだった。

 自分は泣き言を口にして、自分の無能を棚に上げようとしている。

 重圧に押し潰されている自分をかつての教官に晒すことで、彼女が指揮を執ってくれればいいと、そんな風に考えていたのかもしれない。

「……失言でした。申し訳ありません」

「謝るくらいなら口にするな。――伊隅、同じ中隊を預かる立場として言わせてもらえば、戦闘中に感情に左右されるのは愚かなことだ。いや、愚かどころでは済まされない。一瞬の判断の遅れ、迷い、躊躇い、それら全ては、部隊を預かる身には赦されない。感情を無くせとは言わないが、しかし、それに翻弄されて状況を見失ってはいけない」

 今更言うことではないが、とまりもは口を閉ざす。

 みちるはその言葉を反芻しながら、そこに込められた意味を噛み締める。

 例えば、戦場で孤立した者がいるとする。たった一人、けれどその人物は隊にとって貴重な戦力であり優秀な部下であり、或いは部隊を纏める上でなくてはならないキーパーソンだったとしよう。

 その人物が孤立した状況。間にはとてつもない数のBETAの大群。まず常識的に考えて退かねばこちらも厳しいという展開。

 さて、ここで有能な指揮官とはどういう存在を指すのか。

 ――孤立した部下を救うため力の限りを振り絞って、部隊一丸となって救援を命ずる者。

 ――孤立した部下を切り捨て、全員を下がらせ一旦戦線からの離脱を命ずる者。

 そんな状況となってしまった時点でその者は無能の烙印を押されているかもしれない、だが、ならばそれ以後、一体どうするのがより最優なのか。

 想像すればいい。

 孤立した部下を救うため圧倒的物量のBETAに吶喊。残っている弾薬・噴射燃料或いはこちらの戦闘能力如何によっては、それを実行するに足る状況というものも存在するかもしれない。だが、例え救出に向かえるだけの戦力が揃っていたとして、ならばそれが間に合うか否か。もしくはそれすらもなくただ感情のままに、部下を死なせたくないと突っ込んでいくのか。救出に向かったとして、では何人犠牲になる可能性があるのか。救出に向かうことで、友軍の動きにどう影響するのか。

 ただ救えばいいというわけではない。「救う」、「救いたい」という意思の結果起こりうるあらゆる状況を考慮し、発生するリスクをたたき出し、実行するに足るメリットをも算出せねばならない。――瞬間に。

 或いは。

 孤立した部下を切り捨てることを決定し、退く。部隊の存続を最優先とし、最小限の損耗に目を瞑る。その人物を喪うことで隊にどの程度影響が出るのか。さらに、どう退くか。即座に転身、脇目も振らずに退くのか、或いはじりじりと戦線を後退させBETAの総量を僅かでも減らしながら下がるか。周囲に展開する友軍たちの動きはどうか。退くことによって戦場全体にどのような影響が出るのか。

 ただ下がればいいというわけではない。「見捨てる」、「退く」という意思の結果起こりうるあらゆる状況を考慮し、発生するリスクをたたき出し、実行するに足るメリットをも算出せねばならない。――瞬間に。

 リスクが上回ってはならない。それは絶対だ。

 そして、その片方しか考慮しないことも、あってはならない。

 救うという選択肢、見捨てるという選択肢。

 その二つが掲げられたなら、双方で起こりうる状況を総合的に比較評価検討し、よりよい一を選び抜く。――瞬間に。躊躇なく。

 それができる者を、有能な指揮官というのだ。

 そしてそれを成すためには……容易く振れる感情などあってはならない。

 無感情な人間に部隊を率いる資格はないが、しかし指揮官とは無情を迫られる立場である。

 誰よりも冷静に冷酷に、さながら精密機械のように。多角的総合的に状況を把握し、最小限の損耗で最大限の成果を得るプロセスを弾き出す。

 それができなければ、戦場で生き残ることなど出来ない。

 判断の遅れは一人を殺す。

 感情に迷えばまた一人を殺す。

 実行を躊躇えばさらに一人を殺す。

 指揮官とは、常にその極限を想定しなければならない。そして、それに対応する術を二重三重に持っていなければならない。

「能力のないものに、権限は与えられない」

「神宮司大尉…?」

 呟いたまりもに、みちるは没頭していた意識を浮上させる。

「伊隅。あなたはいい指揮官になるわ」

「…………!」

 まるで優しい姉のように微笑むまりもに。みちるは……胸が温かくなるのを感じていた。

 ああ、彼女は、やはりあの時のままだ。

 先を行く偉大なる先達の背中を追うように。みちるはまりもの教え子である自分を誇ろうと思った。







 ===







 武は強くなった。

 日を追うごとに、日々を重ねるごとに。独特の剣術は一日おきに鋭く、疾く、苛烈になっていき、そして遂に。

 彼の剣術は誰の目にも明らかなほど強烈に成長した。

「っ……、す、ご……」

 今まででも十分に対応しにくかった独特の螺旋軌道。しかしそれは、いくら鋭く疾く苛烈であろうともあるパターンを繰り返すだけの反復作業だった。

 もっとも、パターンが読めてもそれに対応できなかったわけだが……しかし現在目の当たりにしているそれは、まるで別物。

 昨日までの剣術は何処に行ったのかと目を疑いたくなる。いや、確かにその軌道は螺旋を描き、廻り続ける独楽のような静止を赦さない動きは変わらない。

 だが、一歩一歩の踏み込み、そのタイミング、距離、次の一手、次の次の一手、そしてなにより、回転の中に巧みに編みこまれた稲妻のような直線軌道、止まらない前提を覆す急制動、反転等々。相手の動きを読み、追随し、追い詰め廻り込み翻弄するようなその挙動。

 まるで別人。

 一体彼の身に何が起こったというのか。たった一日で変幻した武の剣閃に、それを目撃した全員が驚愕し、息を呑んだ。

 ――武は、「強くなった」。

 その事実。その認識。

 昨日までの彼とは何かが決定的に異なっている。

 その表情は晴れ晴れとして、新たな動きを組み入れ、想定する敵の挙動に合わせて自在に剣先を翻す。先へ、その先へ、まだ先へ、もっと先へ、先へ、先へ、先へ、先へ――ッ!

 それは自身の限界への挑戦であり、己が修練を積んだ剣の可能性を追求する行為。

 そこに翳りはなく。まして自壊するような危うさなど消えていて……。

 少女達は、彼が吹っ切れたことを、知った。

「白銀……」

 震えるように呟いたのは茜。

 胸に手を当てて、剣を振る武の姿に打ち震えている。

 その彼女を、晴子はじっと見詰めた。表情はどこか沈んでいて、眉尻は力なく垂れている。まるで胸が締め付けられているかのような仕草、感情のさざ波を、晴子は敏感に感じ取った。

 周囲を見れば立ち直った武に喜びを隠せない仲間達。多恵は跳ぶようにはしゃぎ、薫と亮子は互いに見合わせた顔を綻ばせている。

 晴子自身、どんなきっかけによるものかはさておき、武がかつてのように明るさを取り戻してくれたのは喜ばしく、嬉しい。

 だが――そんな中、彼女達の誰よりもそれを喜び、それこそ多恵のようにはしゃいでもおかしくないはずの茜だけが、どこか物悲しい雰囲気を漂わせている。

 そうだ。

 それは昨日も見た。

 茜のその表情は、様子は……昨日の朝、武を見つめていた時のもの。

 気のせいだと思っていた。或いは……アレから一月が過ぎてもまだ翳りの消えない武を哀しく思ってのことだと。

 だって茜は笑っていた。そんな僅かな引っ掛かりなどまるでなかったのだと言わんばかりに。訓練にも集中していたし、晴子たちとも笑顔で話していた。――武とは話していただろうか? ……少なくとも、自分は見ていないような気がする。しかしそれも、武を気遣ってのことではなかったのか。

 だが、現実に。

 茜は泣きそうな表情をしている。

 昨日の朝、気のせいだと思ってしまったあの表情と全く同じ。

 ――笑っていればなんでもないのか。

 ――そうやって振舞わなければならないほどのなにかがあったのではないか。

 ――辛くて辛くて、だから無理矢理にでも笑わねばならないことがあるのだと……自分は身を以って知ったはずなのに!

 気づかなかった。

 気づけなかった。

 白銀武の身を、心ばかりを案じて。

 茜のことを見ていなかった。――なぜっ!?

 晴子は自身を責めた。気づいてやれなかった自分は莫迦だと感じた。

 武が恋人の死から立ち直ってくれることだけにかまけて、同じ想いを持つ仲間を、その心の機微を見失っていた。

「茜……」

 呼びかけに、茜はびくりと反応した。反射的に晴子の方を向いた茜の表情は――――絶望に似た哀しみが色濃く影を落としていた。

「!?」

 晴子は絶句する。そんな茜の顔を見たことはない。晴子の知っている茜は、感情豊かで明るくて、そのときの感情がすぐ表情に出てしまうようなわかり易い子で。照れ屋でどこか天邪鬼で意地っ張りな努力家で……人のために涙を流せる、優しい女の子だ。

 誰よりも武のことを心配して、誰よりも武の近くにいて……誰よりも、武が立ち上がってくれることを望んでいた。

 そのはずだ。

 そのはず、なのに……では、目の前の少女は誰だというのだ?

 誰でもない。

 少女は涼宮茜。この、今にも泣きそうな哀しい表情をした彼女も、同じ茜なのだ。

 一体何故? どうして、茜は……いつから、こんな風に傷ついていたのか。

 ――昨日からだ。

 ――昨日の、朝から……っ!

 少なくとも一昨日の夜、茜と別れるまでは……いつもの彼女だった。晴子のよく知る茜だった。……そのはずだ。

 ならば彼女になにかがあったのはその後ということになる。そしてそれは、とても自分達に悟られるわけにはいかないような、そんな、茜にとってとても重大な何か。一人で抱え込み、傷つき、こんな風に酷い顔をしてしまうくらい、哀しいこと。

 武が関わっていることは明白だ。

 昨日の朝は武を見て。そして今もまた、武を見詰めて……。

 そして、武が吹っ切れて立ち直ったきっかけも昨日、だろう。

 果たしてそのことと関係があるのかはわからない。だが、直感にも似た何かが晴子を衝き動かす。

 そんな茜を、放っておくことなど出来ないっ!!

「茜、ちょっと」

「ぁ、はる、こ……」

 有無を言わさず腕を取り、その場を離れる。剣舞を続ける武はもとより、その彼に夢中になっている少女達も気づかなかった。それを薄情とは思わない。……今は多分、その方がありがたい。

 屋内訓練場を出て、雪の残る外へ。基地の外れにある枯れた林に程近いその場所で、ようやく晴子は立ち止まった。

 引かれるままについてきた茜は俯いて、何も言わない。

 見られた、気づかれた。そのことを、恥じているのかもしれない。――恥じるのは、私だ。

 晴子はそんな茜をいたたまれなく思いながらも、声を掛ける。

 ――核心を突く。

「白銀君と、なにかあった?」

「――――ッッ??!!」

 俯いていた顔を上げる。弾かれたようなその動作に、晴子はやはりと思わずに居られなかった。

 それしか可能性がないとわかっていても、ならば何故茜は傷つき、武は吹っ切れたのだろう。それを並べて考えることが既に間違いなのかもしれなかったが……それは今はわからない。

 茜から話を聞きたい。一体何があったのか。どうして、そんな風になってしまったのか。

 ……だが、晴子はそれ以上何も聞くことが出来なかった。

 ――茜は、立ったまま…………声もなく、泣いていた。

「っ、は、……ぁ、…………ぅ、く、は…………ぁ、ぁ」

 真っ白な呼気が嗚咽とともに吐き出される。

 茜は静かに、けれど見ている者の心を引き裂いてしまいそうなほどに……泣いていたのだ。

 倒れるように傾いた体を咄嗟に支え、晴子は茜を抱き寄せる。キリキリと胸が軋む。こんなに泣いている茜はいつ以来だろうか。……横浜がBETAに墜とされ…………武が最愛の恋人を喪ったとき以来、か。

 だが、そのときとも、違う。

 あの時茜は、感情のままに泣きじゃくっていた。武が可哀想で泣いていた。恋人たちが互いを想い合う故に起きた悲劇に、涙を流していた。

 ならば今回は? 今まさに声もなく泣いているのは?

 それは、茜が自身のために流す涙だ。晴子は悟った。胸を締め付ける静か過ぎる慟哭に、それがただ己のための涙なのだと。

「茜…………」

 かける言葉が見つからない。なんと言っていいかわからない。

 暫く、ずっとそうして茜を抱き、支えていた晴子の耳に、やがてぽつりぽつりとか細い声が届く。

 え、と。

 聴こえてきたその言葉に、晴子は――どうしてか、込み上げてきた熱い感情に、涙を流していた。







 ――――はるこ、あたし…………しろがねが、すき……。







 掠れるような、ひどく小さな声だった。

 茜はそれ以上何も言わず、晴子もまた、聞くことはなかった。

 二人は泣きながら、抱きしめあったまま……少しの間、そうしていた。

 そして、やがて晴子が身を離す。優しく、力強く、茜の肩を支えて――彼女は言った。涙の粒を残したまま、けれど、彼女特有の晴れ晴れとした笑顔で。

「よかったね、茜っ!」

 自分の気持ちに気づけて。

 叶わないと知ってしまっても、それでも「好き」と言えて。

 辛くて胸が締め付けられて、そんな気持ちを知ることが出来て。

「白銀君がスミカちゃんを忘れられないとわかっていても、抑えられない気持ち。茜の中にあったその気持ちに気づけて……よかったね」

 眩しいものを見るように、晴子は笑う。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、茜は更に、今度は声を上げて、泣いた。

 哀しいのか、嬉しいのか。なんだかわけがわからなくなるくらい心がぐちゃぐちゃになっていた。

 晴子は笑う。よかったね、と笑う。気づけてよかった。気づいてよかった。自分が武を好きなのだという気持ち、それを知れてよかったと。

 叶わない恋。実らない恋。なのに、それに気づけてよかったと。

 まるで幼い子供をあやすように、晴子は繰り返し言い続けた。

 それを恥じることはない。それを嘆くことはない。――大切なのは、そんなにも彼を想っているということ。

 自分の心の中に、そんなにも大きく、武が在ったのだということ。

「晴子、ぉ…………」

「おめでとう、茜っ。あんたはようやく、自分の大切な心に気づいたんだよっ……」

 ぶわりとあふれ出す涙をそのままに、茜は晴子に抱き縋った。

 それは実らない恋に哀しんで流す涙ではなく。

 その気持ち、想いは……なによりも尊く素晴らしいものだと教えてくれた友人への感謝。

 例え想いを打ち明けたとしても、きっと武は茜を選ばないだろう。

 実らないとわかっている恋。けれど、武を好きになった気持ちは……それは、とても素敵で大事で、大切で。

「あぁぁ、ぅぁああああっ」

「茜……よかったね。哀しいことなんてないじゃない。……好きでいいんだよ。白銀君のこと、好きでいいんだよ。好きなままで、ずっとずっと想っていていいんだ……」

 ――うん。

 すすり泣く声の間に。

 小さく頷いた、可愛らしい彼女の仕草を。

 晴子は、とてもとても……とても、幸せな気持ちで見詰めていた。







[1154] 復讐編:[四章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:ba673c3e
Date: 2008/02/11 16:11

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:四章-01」





 1999年8月5日――







 BETA日本上陸から約一年が経過したその日、世界中が注目し、希望を委ね、達成を夢見る人類初の反抗作戦……『明星作戦』が開始された。

 帝都東京の目前に在る甲22号目標・通称横浜ハイヴの攻略、ならびに本州島奪還を最大目的としたこの作戦は、大東亜連合軍・米軍を主力とした国連軍が主体となって運用され、渦中である日本の軍隊、帝国本土防衛軍は大東亜連合軍に編成され本州奪還に死力を尽くすこととなる。

 米軍を主勢力とした部隊は最優先目標を横浜ハイヴに設定。ハイヴ攻略を成した後、帝都周辺に残存するBETAを殲滅する。彼らは日本を見捨てたに等しい経緯を持つが、こうして作戦の主要部隊を任されている背景には、やはり自国内にハイヴが存在していない故の国力・戦力の豊富さがある。

 日本人、特に連携して作戦を行う帝国軍人からの風当たりは強いが……彼らはそれを真摯に受け止め、先の安保条約破棄に続く自国への撤退によって失った立場を取り戻すべく、躍起になっている節が見受けられた。

 強大な戦力であることは間違いない。――ハイヴ攻略を実現させるために、必要不可欠な「力」だった。

 帝国軍の大半を含む大東亜連合軍は横浜ハイヴ攻略戦の後に作戦を開始。甲20号目標ならびに甲21号目標の動向を軍事衛星によって観測した後に三重県沿岸より順次揚陸。横浜から西進する米軍と合流し、本州を西へ侵攻する。

 本州島には横浜ハイヴ以外建造されていない。本州壊滅から既に一年が経過した現在、各地に散在するBETAはその三分の二が横浜、三分の一が朝鮮の甲20号ハイヴに属していると見られている。故に、作戦進路上後方となる横浜ハイヴを先に落とし、憂いを無くした状態で陸路・海路より順次戦線を押し上げるのだ。

 初のハイヴ攻略戦ということ、或いは日本という国の存亡を賭けた作戦であるということは、あらゆる意味で世界中を騒然とさせる。BETAに対抗する全ての人々が、その作戦の成功を待ち望んでいる。

 そう、これは、この作戦は――人類は負けないという、世界に向けての宣言でもあるのだ。







 A-01部隊。香月夕呼直轄の特殊任務部隊である彼女らは本作戦では部隊を二つに分け、各々課せられた任務を遂行する。

 ひとつは第6中隊。第6中隊は米軍第54戦術機甲大隊とともに中央高速道路八王子IC跡に配備、山間部を抜けてくることが予想される各地のBETAを相手取る。

 もうひとつは第9中隊。通称ヴァルキリーズとも呼ばれる彼女らは帝国軍マッドドッグ中隊とともに帝都絶対防衛線中央司令部練馬仮設基地より横浜ハイヴへ出撃。前線での陽動を目的にハイヴより出撃してくるBETAの先鋒部隊を引き付け、南下。相模湾に展開する米軍艦隊の一斉艦砲射撃、地上のMLRS部隊による面制圧に合わせて更に突撃、光線級・重光線級の姿を発見次第これを最優先に撃破。以後は陽動を主体として二中隊編成のまま戦場を駆け回る。

 ブリーフィングを終え、ヴァルキリーズの面々は出撃の時を待つ。

 既に第6中隊は八王子に向けて出撃した。それから二時間遅れて、0900に彼女達は出撃する。

 作戦開始から一日。各部隊は初期配置を終え、横浜ハイヴ攻略戦の開始命令を待つ。――今はまだ、静けさの中。

『どうした鳴海、落ち着かなそうだな?』

「えっ?! い、いや、……落ち着いてますよ、俺は」

 出撃まで後三十分。自機の不知火の管制ユニットの中で、孝之は突然の通信に上ずった声を上げる。相手は中隊長であるみちる。いきなり回線を繋いできて落ち着かないも何も無いだろうが、みちるの表情から自分がからかわれているのだと気づくと、孝之は肩を竦めて憮然とした。

「大尉、俺は平気ですよ……。心配は要りません」

 憮然とした表情から、静かに目を瞑り。孝之は笑ってみせる。彼の名は鳴海孝之。かつて帝国軍横浜基地衛士訓練校に衛士訓練兵として在籍していた彼は、昨年の八月に任官。当然、帝国軍に配属されるものと思っていた矢先、彼を含め同じ訓練部隊だった全員は、一体どんな思惑によるものか、国連軍衛士としてこのA-01部隊に配属された。

 当時、三大隊で編成されていたA-01連隊。その内の第9中隊に所属となり、はや一年。始めこそいきなりの国連軍への配属に当惑していたが、A-01部隊の特殊性、そしてそこに掲げられた人類の希望を知るに当たり、いつしか彼は自分がこの部隊に居ることを誇りに思っていた。

 無論、孝之だけではない。A-01に籍を置く者、その全員が部隊に誇りを持ち、それを統括する香月夕呼を尊敬している。――尤も、その自由奔放な振る舞いには辟易しているのだが。

 任官された直後のBETA日本上陸、続く十一月の京都陥落。その間、孝之ら新任衛士はA-01部隊の特殊性故に過酷な訓練を続けていた。孝之の初陣となったのは横浜基地防衛戦であり……それまでの激戦に次ぐ激戦で、部隊は半数以上を喪い、四個中隊を残すのみとなっていた。

 初めての戦場がかつての日々を過ごした母校であり、孝之の故郷でもある横浜……。そして、眼前に迫るのは生まれて初めて目の当たりにする、「本物のBETA」。孝之は無我夢中で突撃砲のトリガーを引き、とにかく止まったらお仕舞いだと言う強迫観念に駆られて動きまくった。初陣の衛士としてはその判断はなかなかに正しく、そして極めて危険だった。

 無論、新任が孤立しないよう、先任を含めた4機編成での戦闘である。当時、みちるは孝之たちB小隊の小隊長――即ち、突撃前衛長を担っていた。そんな彼女の助けもあり、恐慌一歩手前でありながら、それでも孝之は「死の八分」を乗り越える。初陣の衛士の戦場における平均生存時間であるとされるそれを、孝之は突撃前衛という最も苛烈な位置にいながら乗り越え、生還したのだ。

 元々の素養もあっただろうが、孝之は、自分が生き残れたのはみちるのおかげだと思っている。我武者羅に動き続けるだけの自分に指示を飛ばし、常に呼びかけてくれ、冷静さを取り戻させてくれた。

 初陣で生き残った者は少ない。孝之の同期は多くが戦死した。いや、同期だけではない。新任の窮地を救うためにフォローに回った先任も数名戦死していた。そして孝之は知る。――これが戦場。これがBETAとの戦争なのだということを。

 横浜基地を放棄し、戦線を帝都絶対防衛線へと移した直後の戦闘で、第9中隊隊長を務めていた間山大尉が戦死。空白となった中隊長のポストには部隊のナンバー2だったみちるが抜擢され、彼女は若くして大尉となった。中隊としての機能を失っていた第2、第3中隊の生存部隊を第6、第9中隊に再編し……そして、現在に至るわけだが……。

「大尉、この作戦……絶対に成功させましょう」

 孝之はこれまでの一年間を思い出していた。

 喪った仲間達、生き延びてきた仲間達。支え、導いてくれたみちるや多くの先任たち。その全てを思い出しながら、遂に開始される人類初の大反抗作戦に気持ちを昂ぶらせる。

 不安がないと言えば嘘になる。緊張していないわけがない。

 それを落ち着かなさそうだと言われてはしょうがないのかもしれないが、笑顔を見せる孝之にみちるは意地悪そうに笑う。

『フン、当然だ。これは我々人類の、そして日本人の悲願なのだからな。好き勝手に国土を荒らしてくれたBETA共を一掃する……これはそのための一歩だ。ならば鳴海、貴様の役目はわかっているな?』

「勿論ですよ。大尉たちが進む道は俺が拓きます」

『はいはい格好つけるのもいい加減にしなって』

『なぁ~にが“俺が拓く”、よ。あんただけが突撃前衛じゃないっての!』

『いい度胸よねぇ鳴海ィ。ていうか大尉、鳴海を甘やかさないでくださいよ。こいつ軟弱なんだから、大尉に優しくされるとデレデレして使い物になりませんって』

『そうか? ふふん、鳴海。お前は私に甘やかされると腑抜けてしまうのか?』

「っちょ?! いきなりなに言い出すんですかっ!!? ……っていうか、中尉! 俺は軟弱じゃありませんしデレデレなんかしてませんよっっ!!」

 次々と回線が開かれ、ディスプレイに見慣れた彼女達の顔が並ぶ。同じ突撃前衛の面々であり、こんなじゃれ合いもいつものことだ。

『大体さぁ、鳴海は男って時点でだめなんだよなぁ~っ。代々続くヴァルキリーズの歴史にまぁ、見事に泥を塗ってくれちゃって』

「今更それを言いますかっ?!」

 中隊の通称でもあるヴァルキリーズは北欧神話に出てくる戦乙女に由来する。戦場を駆ける半神の乙女と、戦場を華々しく駆け巡る彼女達を掛け合わせたネーミングであるが、そもそも、それは偶然にも女性だけで構成されていたことが理由として大きい。

 であるというのに、ここにきて男。しかも初陣でいきなり部隊の花形でもある突撃前衛を任されたとあれば、彼女達先任も鼻持ちならぬというわけである。

 ……無論、そんなものは孝之を弄くる口実でしかないわけだが。

 ぎゃんぎゃんとけたたましくも喧しいコミュニケーションは、唐突に終わりを告げる。基地内に響く警報。

 ――BETAだ。

『CPより各リーダー』

 指揮官であるみちるに通信回線が開かれる。映し出されるのは練馬基地の司令部で戦域管制を行うイリーナ・ピアティフ。夕呼の秘書官である彼女は、作戦によってはヴァルキリーズのCPとしての役割を与えられる。凛としてよく通る、落ち着いた声のピアティフにみちるは何事か問う。

『0844、横浜ハイヴよりBETAの出撃を確認。現在米軍第75戦術機甲大隊が横須賀より上陸を開始、応戦しています。艦隊の接近を感知してのことだと思われますが、いまのところレーザー属は確認されていません。ヴァルキリーズおよびマッドドッグスは予定を十分切り上げ、ただちに戦域へ出撃、作戦を開始してください』

『ヴァルキリー1了解。――全員聞いたな? BETAは自ら進んで南下を始めている。ならば好都合だ。我々はハイヴへ向かい、連中の尻を追い立てればいいのだからな』

 にやりと笑うみちるの顔は覇気に満ちていて。ならばと孝之も、そして中隊の全員が応と頷く。

『マッドドッグ1よりヴァルキリー1、先陣は我々に任せてもらおう』

『神宮司大尉っ? しかし、この作戦は……』

『こちらの準備は既に済んでいる。……お前達が愉しそうにお話している間にな』

 ――な。

 みちるの、そしてヴァルキリーズの全員が硬直する。映し出されるマッドドッグ1、即ち孝之ら全員の元教官であるまりものその表情には見覚えがある。――あれは、いい度胸だ貴様ら、とか。なんかそんな顔だ。

 口元に笑みを浮かべているがその瞳は全く笑っておらず、むしろスゥッと細められていてとてつもない迫力を醸し出していた。

「こ、怖ぇ……やっぱり神宮司大尉こぇえょ」

 かつて四年間に及び接してきたまりもの衛士としての迫力――それはこの半年間の防衛戦を通してよくわかっていたはずだが、しかしそれでも……恐ろしいものは恐ろしい。

 孝之らヴァルキリーズにとって出撃前、或いは戦闘中での戯れ合いは最早お決まりと言っていいほど定着している。それを知らないまりもでないが、流石に今回のことに目をつぶる気はないらしい。……否、堪忍袋の緒が切れたというべきか。

 ともあれ、帝国軍カラーの黒の不知火十二機は一足先に格納庫より出撃する。号令を飛ばすみちるに従い、孝之らもそれぞれの不知火の最終チェックを終了、即座に出撃した。マッドドッグ中隊に遅れること十三秒。遠方に見える横浜ハイヴの地表構造物を睨み据え、ヴァルキリーズは戦場に躍り出る。







『B小隊、全機突撃ッ!! 正面の要撃級をやるッッ!!』

「09了解ッッ!!」

 出撃から既に一時間。当初の予定通りハイヴから出現したBETA群を南方へ追い込み、米軍艦隊による艦砲一斉射撃および第75戦術機甲大隊との共同戦でこれを殲滅。ヴァルキリーズは即時転身し更にハイヴから出現してくるBETAに陽動を仕掛けた。なるべく派手に、そして限りなく大量にBETAを相手取ることで連中の優先度を引き上げる。それをしながらに戦場を駆け回ることでより多くのBETAの動きをある程度コントロールすることが可能だ。例えば、率先してBETAの群れへ突撃するB小隊。彼女らは突撃前衛という役柄から、常に敵の正面に立ち、その相手をする。敵の眼前で手当たり次第に撃ち抜き切り捨て翻弄する。すると、一時的にその周囲のBETAたちにとって彼女達の脅威度は高まり……結果、前述のように動きを多少はコントロールできるのだ。

 そう。

 眼前に迫る突撃級をすり抜けてかわし、身を捻るようにその背後を取る。突撃級は前面はモース硬度15以上という頑強な装甲殻を持つが、反面、背後は柔らかく、36mm砲で十分通用する。そうやってかわし様に突撃級を可能な限り平らげ、続いてやってくる要撃級の接近にあわせて散開、二機連携で要撃級一体を相手にその数を減らす。

 すると、怒涛の勢いで前進を続けながらではあるが、前衛を務める突撃級は反転しようとその速度を落とす。或いは、他方面へ進撃していた連中のほんの一部がこちらへ標的を変更する、等々。

 こちらの陽動に対し、BETAはある程度の反応を見せ、対応しようとする――らしい。

 らしいというのは、BETAの全てがそうであるわけではなく、何を基準に脅威度の判定を行っているのかが判然としないからだが……しかし、こうやって微々たる効果ではあるものの通用する手段であるからには、使わない手はない。

 旋回能力の低い突撃級が、ようやく反転し突出したB小隊へと向かう。わざわざこちらにケツを向けてくれた連中に、後方で接近を開始していたA、C小隊が36mmの雨を降らせる。更には左右両翼からマッドドッグ中隊が要撃級を挟撃。隙間から溢れてくる戦車級を可能な限り掃討しながら、二十四機の青と黒の不知火は戦場を思うままに駆け巡った。

「オラオラァッ! 喰らいやがれっっ!!」

 攻撃的な言葉が口を衝く。孝之は別段ハイになっているというわけではなかったが、突撃砲のトリガーを引くたび、長刀でBETAを切り捨てるたび、何事か叫んでいる自分を自覚していた。……初陣より既に半年が過ぎた。BETAに対する恐怖感は失われていないが、だからと言って一々言葉によって己を鼓舞しなければならないほど恐れているわけではない。ならば、衝いて出る言葉は何によるものか。

 孝之は自問する。同じB小隊の先任たちから言わせればまだまだ粗の目立つ機動制御で、自機の不知火を縦横無尽に奔らせながら。

 戦闘中に叫んだり、咆哮したり、というのは特に珍しいことではない。憎き人類の怨敵であるBETAを前に、その怒りを爆発させることは当然だ。現に、孝之以外の麗しき戦乙女たちの大半も、彼同様に攻撃的な言葉を吐いている。

 己を鼓舞するため、醜悪なBETAの姿形に怯まないため、戦場の恐怖に呑まれないようにするため。かつての自分はそうだった。そのために叫び、口にすることで自身を奮い立たせていたように思う。

 ――では今は?

(知るかッ、んなことぉおおお!!)

 目前に迫る要撃級の前腕を避ける。かわしながらに120mmのトリガーを引き、更に左方から踊り来る戦車級の群れに銃口を移す。先ほどの要撃級はマッドドッグ中隊の支援砲撃によって沈黙。ならば自身は更に前に進むのみだッ!

 孝之は小隊長である相原の背中を守るように追随する。その左右を同じB小隊の面々が固め、ヴァルキリーズ突撃前衛小隊は次々に戦場を切り拓くべく突き進む。

「――ッッ!? レーザー照射警報ッ?!」

『くっ、ここに来てようやくおでましっってわけ!!』

 管制ユニット内に警報が鳴り響く。レーザー属と呼称される光線級・重光線級いずれか、或いは両方からのレーザー照射を警告するそれを、孝之は忌々しく睨みながら、網膜投影ディスプレイに映る小柄なその形を認識した。

「光線級を確認ッ!! 数は……二十五ッ?! なんで気づかなかった!!?」

『泣き言いってんなッッ! ――くるぞッ?!』

『ヴァルキリー2よりCP!! 光線級の出現を確認、至急ALMによる支援砲撃を要請ッ、場所は――』

 相原の通信が終わるよりも早く、レーザーが照射される。戦術機にプログラムされている乱数回避により辛うじてそれをかわし、その間にピアティフより支援砲撃了解の旨が伝えられる。間を置かず米軍艦隊よりALMが発射され、飛行体を最優先で撃墜する光線級の超精密レーザー射撃が空を貫く。

 光線級は一度のレーザー照射より十二秒のインターバルを必要とする。現れた二十五体の内、先ほどと今回合わせてレーザーを照射したのは何体か? 少なくとも五体以上は未照射が残っているはずだと踏んで、B小隊は光線級へ肉薄する。数秒送れてマッドドッグ中隊の突撃前衛小隊も光線級へ突撃を開始。――更に、上空を支援砲撃の雨が降る。

 ALMがレーザー照射されたことによりその弾頭が蒸発、気化した重金属粒子が大気中に充満している。故の爆撃である。光線級のレーザー照射のインターバルを考慮しても文句なしのタイミングだ。無論、ヴァルキリーズ、マッドドッグ中隊もそのことは承知している。ピアティフよりほぼ同タイミングで支援砲撃の警告がなされるが、双方の突撃前衛小隊はそんなことを気にした風もなく、空を行く砲弾に射線を向けた光線級に36mmを喰らわせる。

「ヴァルキリー09、フォックス3!!」

 不知火の右腕に握られた突撃砲が36mmの弾丸をばら撒く。かなりの距離が離れていたが、孝之は気にするでもなく居並ぶ二十五対の光線級を薙ぎ払うように撃ち抜いて行く。――が、それを庇うかのようなタイミングで太い針のような足が地面に林立した。36mmは突如出現したその巨大な脚に弾かれ、それを唾棄する間もなく空中から躍るようにしなる触手が振るわれるッ。

『要塞級!!』

 言われるまでもなく、見ればわかる!!

 叩きつけられるような触手を、相原はギリギリでかわし、後退。続く孝之は彼女を援護するように弾倉を120mmに交換し、現れた要塞級へぶちまける。暴れ回る触手を狙ったそれが幾分の効果を見せたのか、相原を執拗に追っていた触手は怯んだように下がり――――逆方向から接近していた黒の不知火をまるで不意打ちのように貫いた。

「なんだとっっ??!!」

『笹原ァア!』

 ナンバーは05。マッドドッグ中隊の突撃前衛のひとり、笹原少尉の不知火は要塞級の触手に脚部ユニットを貫かれ、振りぬかれた衝撃で玩具のように吹っ飛ぶ。落下地点には更に後方からやってきていた要撃級の一団! 狙い済ましたように繰り出されるモース硬度15を誇る前腕が、彼の不知火をぶち砕いたっ!!

『ッギ、、、ッ!』

 ざりっ――と。通信機にノイズが走る。確認するまでもなくマッドドッグ5の不知火が破壊された爆音が辺りに響き……孝之は、その寸前に聞いた何らかの音に強烈な吐き気を覚える。

(今のは……っ、ヒトの、)

 上空から支援砲撃の爆雨が降り注ぐ。込み上げる吐き気と怖気、半年も共に戦ってきた戦友の死に、言いようのない怒りが爆発した。

「うぅぅぁアアアアアアアアアアアアア!!!」

『退がれ鳴海ィ! 支援砲撃に呑まれるぞッ!!』

 みちるの怒号が耳を突く。被せるように地上に、そしてBETAに突き刺さる弾丸の雨霰。その爆音。砕かれた黒の不知火諸共に爆炎は空を焦がす。

『マッドドッグ1より中隊各機! 1時の方向、第二陣のお出ましだっ、気を抜くな!!』

 飛び込んでくるまりもの通信に戦域データリンクを見れば、横浜ハイヴから出現しているBETAの総数が跳ね上がっていた。円周上に拡がる津波のように、実に数千ものBETAが湧き出ている。その内の二千あまりが……支援砲撃の雨が止み始めたこちらへ向かって突撃してきていて……ッ。

『チィ! 大層なもてなしだ! ヴァルキリー各機、1時方向のBETA群の足を止めるッ! ついてこい!!』

「了解ッッ」

 忌々しげに吐き捨てるみちるに、孝之らも同じような表情で頷く。支援砲撃の雨を食らってもまだ健在である数十のBETAをかわしながら、二中隊は続く標的に向かって更に陽動を続ける。

 与えられた任務は陽動。

 陽動の目的は標的を自分達に絞らせ、そして、ハイヴ内のBETAを一匹でも多く引きずり出すことだ。

 この後、ハイヴ突入部隊がその役割を果たすために。周回軌道上で作戦開始まで待機している彼らが通る道を切り拓くために、孝之たちはひたすらに銃弾の雨を降らせ、長刀を煌かせる。

 先ほどの一団と同様に、前面に突撃級、その背後に要撃級、隙間を埋めるように戦車級が織りこまれ怒涛の勢いで進む分厚い壁を形成している。その前衛に守られるように光線級が控え、更に堅牢な壁を要塞級が作り上げる。巨大な要塞級の足元にはやはり戦車級の大群、更に続くように要撃級が両脇を固め、その間に……重光線級の姿が見える。

「くっそ?! 奴ら、重光線級まで持ち出してきやがった!!」

『ッ――! ちぃ、このあたりは重金属雲の濃度が十分じゃないっ、全機、1500m後退ッ! ――突撃級を抜かせるなァッ』

 叫ぶように吠えるみちる。続いて彼女はCPへ支援砲撃を要請。だが、その返答は芳しくない。展開している艦隊は、なにもヴァルキリーズたちのためだけに居るわけではない。当然だ。相模湾に展開している米軍艦隊、千葉県東方沖に展開する帝国海軍ともに、各ポイントへの支援砲撃に追われている。

『CPよりヴァルキリー1、支援砲撃まで300秒。それまでに敵レーザー属の可能な限り無効化を』

『莫迦を言うなっ! この状況で、どうやってあそこまで近づくって……ッッ!!』

『ヴァルキリー1了解ッ! 口を慎め木野下ァ! …………前方の突撃級を落とす、突き抜けるしか能のない連中だが、その分後方の要撃級と差が開いている。――マッドドッグ1、』

 無茶ともとれるピアティフの要請にC小隊の木野下少尉が喚く。ALMによる重金属粒子の濃度が低い以上、支援砲撃を確実なものとするためには光線級が限りなく邪魔だ。あの脅威としか形容しようのないレーザー照射は空を来るものに最優先で行われる。つまり、レーザー属を無効化できない限り、支援砲撃は全て着弾よりも早く上空で打ち落とされることになる。

 だが、そのレーザー属はご丁寧に突撃級、要撃級、戦車級、要塞級とBETAそろい踏みで頑強に守り抜かれたその先にいる。

 その分厚すぎる壁を突破してレーザー属を叩くためにはやはり支援砲撃は必要で……それなしに達成できると言うのなら、そもそも支援砲撃など必要ないという矛盾!

 木野下の気持ちもわかる。しかし、孝之はそれを即座に黙らせ指示を下すみちるに空恐ろしい物を感じた。

 ――そう、これが指揮官というものだ。

『こちらマッドドッグ1。伊隅大尉が言いたいことは承知している。我々は喜んでその先陣となろう』

『神宮司大尉……。では、お願いします。――作戦を説明するッ』

 作戦内容はいたって単純。突進してくる突撃級にマッドドッグ中隊が吶喊、突撃級をかわし、がら空きになった連中のケツに劣化ウラン弾を叩き込む。旋回しようとする突撃級にヴァルキリーズが襲い掛かりこれを殲滅。マッドドッグ中隊は反転、迫る要撃級を一点突破。道を拓く。開いた道にヴァルキリーズが吶喊し、光線級・重光線級をとにかく撃破。

 全くもって無謀極まりない。――だが、やらねば先はない。問題はその間、光線級共のレーザーがいつ火を噴くかわからないということ。レーザー属が味方誤射をしないということは周知の事実。混戦が予想される本作戦ではその心配はないかもしれない。……だが、忘れるな。

 何が起こるかわからないのが戦場である。

 言い換えれば、何が起こっても当たり前なのが戦場というものなのだ。

 次第にその姿を明確にしてくる突撃級。視認できるだけで実に五十を超え、網膜投影に映る連中が十を切ったそのとき、マッドドッグ中隊が吶喊した。超重量、超怒涛、その津波のような暴威に勇敢なる十一の黒の不知火が立ち向かう。突撃級は集団で迫り来るが、その密度は一定していないため個々の間に隙間が生じている。170km/hにも達する速度で迫る弩級の突撃級に対し、その僅かと錯覚してしまうほどの隙間を縫うように突き抜け……見事、マッドドッグ中隊は連中の背後を取り、トリガーを引いた。

 紫の粘液を撒き散らしながら突撃級が絶える。それを感知したのか急制動、反転しようとする突撃級の一部に孝之は躍りかかった。尚も突撃してくる個体は放置、或いは他の仲間に任せて、B小隊はとにかくその数を減らすべく36mmを撃ちまくった。

 支援砲撃開始まで残り190秒。――無理だ。

 既に要撃級へ突撃を開始したマッドドッグ中隊の背中を見ながら、トリガーを引く手を緩めないままに、孝之は臍を噛む。

 残り三分。そんな程度で光線級など落とせるはずがない。或いは、支援砲撃へ標的を定めた連中の図体目掛けて突撃砲を食らわせてやれるかもしれない。――だが、それは実に無理難題だった。

 突撃級は次第にその数を減らしているが、弾幕から逃れ、反転して突撃してくるヤツもいる。

 背後からは要撃級の群れ。一点突破しているマッドドッグ中隊が、例え散開して個別に相手をしたとしても防ぎきれるはずのない撃ち漏らし。連中の数は、二千なのだ。僅か二十三の自分達がどれだけ踏ん張ったところで、勝機などない!

 支援砲撃は無駄に終わり、後方の米軍第75戦術機甲大隊は今現在もこちらを支援してくれているが……足りないッ。ほかの地域ではどうかと一瞬だけデータリンクを睨んだ。……結果、判明したのはどのポイントでも同じような状況に陥っていると言うこと。

 BETAの脅威はその圧倒的物量に在る。

 誰の言葉だったか――――だが、それは戦場に出た衛士全員がよく知っている覆しようのない真理。

 ただでさえ数で劣る人類に対し、無限とも思える連中の数。ギリギリと奥歯を噛み締め、だからどうしたと自身に言い聞かせる。



 これは対BETAの足がかりだ。反抗作戦、本州島奪還作戦、人類の希望を乗せた……人類がBETAに打ち克つ歴史の第一歩となるのだッ。



 数で劣る? 間に合わない? 無茶、無理、無謀?! ――そんなことはわかっている!!



 それでも、確固たる確信があるからこそっ、この『明星作戦』は決行されているのだっっ!!



 だったら、その前衛を担う自分が、疑問に思っていいわけがない。勝手に諦めて、作戦を台無しにしてしまっていいはずがない。

 孝之は自身に言い聞かせる。折れそうになる戦意を振り絞るため、敢えて、敢えて盛大に雄叫びを上げた。

「うっぉぉおおおおおおおおおおおおっっ!!!」

 支援砲撃まで100秒をきった。要撃級はその壁に穴を空けられ、マッドドッグ中隊は切り拓いた道を維持すべく突撃砲を撃ちまくる。――ならば、往け! それが突撃前衛の役割だッ!!

『B小隊ッ、突っ込むわよッッ』

 相原の声に応えるまでもなく、孝之はペダルを限界まで踏み抜いた。噴射跳躍装置がけたたましく咆哮をあげ、四機の青き不知火がこじ開けられたその一点へ向かう――瞬間、







 孝之の視界を、白い煌きが過ぎる。ドンッ! という空気をぶち抜く衝撃に機体が急反転し、こちらの制御を無視した回避を見せる。――乱数回避。それはレーザー照射を出来るだけかわすために組み込まれた緊急回避プログラム。

「なにぃいっ!!?」

 ぐるぐると回転する機体の自由を何とか取り戻し、モニターを凝視する。黒の不知火によって切り拓かれた道はぽっかりと口を開けたまま。……なのに、そこに居たはずのものが無い。

 不知火が。帝国軍カラーの黒の不知火十一機。それが、―――――無い。ない。ナイ。

 感情が真っ白になった。

 呼吸を忘れる。

 そして、愕然とする中、妙に冷え切った脳味噌が冷静に状況を説明してくれた。

 光線級は味方誤射をしない。前方を守る味方は絶対に撃たない。それは、即ちそれらが居る間は、射線上にいる自分達も撃たれないということである。故に、光線級がレーザー照射を行うそのときは、道を開けるようにBETAたちが左右へ割れる。

 そう。道を開けるように。

 そして、今、まさに。「道が開いて」いた。十一機の不知火によって。要撃級は押しのけられ、その先にいる突撃級も蹴散らされて……。

「うっ、ぁ、ぁああっ?!」

 ぶるぶると震えだす身体が、言うことを聞かない。死んだ、のか? 全滅? 莫迦な、そんなはずが――っ。

 硬直する孝之の不知火に向かって要撃級が接近してくる。光線級によるレーザー照射よりまだ十秒も経っていない。だが、その十秒こそが命取りだと言わんばかりに、呆然と立ち尽くす孝之の不知火に向けてその前腕が振り上げられ――。

 同じB小隊の面々がそれに気づいた時は既に遅かった。孝之ほどではないにせよ、彼女らもまた目の前で起こった事実に脳が追いついていなかった。ただ、視界の中で孝之目掛けて殺到する要撃級と戦車級の姿に気づいた時は、もう、致命的なまでに手遅れだったのだっ!



 ――――ギャギィィイイイッ!!!



「ッッ?!」

 耳を劈く鋭い音に意識が浮上する。見れば自機の左側に超接近していた要撃級が頭部と思しき部位を汚らしく撒き散らしながら倒れこんできている。突然の出来事に面食らったが、しかし、突っ込んできていたらしい敵の勢いは衰えることなく孝之の不知火を吹き飛ばす。

 幸いにして最大の脅威であるその前腕を喰らうことはなかったが、なにぶん回避が遅すぎた。思わず庇うように差し出した左腕部がひしゃげ火花を散らす。跳ね飛ばされた衝撃で右主脚部の関節に警報が出ている。血の気が引く思いで、なんとか自機を制御し、立たせる。――と、

『しっかりしなさい鳴海ッ!!』

 叱り付けるように、その声が聞こえた。

 120mmをばら撒きながらこちらへ向かってくる黒の不知火。コールナンバーはマッドドッグ1。その機体に続くように三機の、同じく黒い不知火が滑るようにやってくる。

『神宮司大尉ッッ!!』

 驚愕を含んだその声はみちるのものだった。彼女にも見えていたのだろう。要撃級の壁をこじ開けて拓いた道。それを丁度よいと言わんばかりにレーザー照射してきた光線級。一瞬後には姿をなくしていた黒の不知火が……しかし、こうして四機、目の前で尚戦っている。

「大尉……っ」

『しっかしろ! 戦場で呆けていて、生き残れると思うのかッ?!』

 不敵に盛大に。そして覇気に満ちたその声に。孝之は知らず奮えた。それはみちるをはじめ、他のヴァルキリーズも同様のようで、皆、一様に表情を引き締める。

 生きていたのだ。――たったの四機だが、それでも、あの完全に不意打ちともいえるレーザー照射から。見事生き延びていた。

 そしてその人物がまだまだやれるとばかりに率先して前線に立っている。ああ、ああ――ッ! 矢張り、ああそれでこそっ!!

 神宮司まりも、彼女は――――教え子たちの目標なのだ!

『CPよりヴァルキリーズおよびマッドドッグス! 支援砲撃を開始! 至急戦域を離脱せよっ! 繰り返す、支援砲撃を開始――』

 ピアティフの明瞭な声が響く。光線級・重光線級ともに健在。そのことは向こうも承知のはず。であれば、恐らく最初に来るのはALMだろう。この先の状況を思えば貴重なALMだったが、背に腹は替えられない。

 そして、泥沼にも似た戦闘は続く。

 ALMは想定どおり光線級に迎撃され、重金属粒子が大気に充満する。後に続く支援砲撃の雨が手当たり次第にBETAを喰い散らかすが、それでも、尚――

『ハイヴより更にBETA群の出現を確認ッ!! 数は――ッ……??!』

 絶望の二文字が脳裏を過ぎる。

 多すぎる。

 たかがフェイズ2のハイヴ。――されど、それでもBETAの前線基地、ハイヴである。そんなことは承知だ。だからこそ半年も掛けてこの作戦は準備されてきたのだ。

 しかし、その半年間もただ無駄に過ごしたわけではない。

 帝都防衛作戦のほか、定期的な間引き作戦を実行し……微量ではあるが、その個体総数は減少しているはずなのだ。――減少して、これか……っ?!

 孝之は言い知れぬ戦慄に震えた。左腕部を失い、そして右の主脚に異常がある現状。既に後方へと配置されている彼は、この状況で更に隊の皆を窮地に晒しかねないお荷物なのだと自覚する。

 だが、そのとき。

『なん、だとっ?! 香月博士ッ! 今、なんとおっしゃったのですかっ?!!』

 突然届いた香月夕呼の声。ピアティフに代わり、通信機のマイク越しに命令を伝達した彼女の表情は全くの無表情であり……にも関わらず、とてつもない激情を内包しているようだった。

『時間が無いのよ。さっさと撤退しなさい。米軍艦隊にはあんたたちの受け入れを伝達済み。向こうも承諾しているわ』

 淡々と語る夕呼の言っている意味がわからない。この状況で、撤退?! BETAの第三波、しかもこれまで以上に膨大な数のそれが湧き出て各戦域へ殺到しているこの状況。眼前にはまだ斃しきれていない壱千近いBETAの群れ。

 それを放り出して、撤退? 一体何故!?

 作戦に変更があったのか。或いは、自分達にさえ知らされていない何らかの作戦なのか。

 だが、知る限り……少なくとも戦場でBETAと直接対峙している衛士として知りうる限り……万単位を数えるBETAを一掃出来る作戦など……それに相当、或いは上回る物量を持ってしての面制圧くらいしか思いつかない。そして、それだけの弾薬を人類は持っていないのだ。

 およそ撤退する理由が思いつかない。

 もしくは……これは考えたくないことだったが…………作戦の中止、失敗――故の撤退、なのか。

『伊隅大尉……、香月大佐の命令だ。――撤退を』

『――――了解……ッ!』

 静かに、押し殺したようなまりもの声に、みちるは苦々しくも頷いた。形容し難い沈黙が流れる中、みちるが撤退にあたっての指示を飛ばす。

 ただ下がればいいというわけではない。未だ眼前にはBETAが健在。突撃級や要撃級こそその数を減らしているが、それでも脅威に過ぎる。光線級は数十体が健在、小柄な戦車級も圧倒的に多い。戦力差は明白で、ただ背を向けて逃げ出すならば容赦なくレーザーに焼かれるだろう。

 そして、それに躊躇すれば突撃級に追いつかれ、或いは要撃級に砕かれ……足を止めれば戦車級に取り付かれ食い殺されるだろう。

 踏みとどまり戦線を維持……それに比べれば距離をとりながらの撤退戦は幾分マシのような気がするが……しかし、背後から、脅威とわかっている総勢壱千のBETAが追って来るという、その心理状況は発狂しそうなまでに恐ろしいものだ。

 逃げ切れれば生き延びられ、逃げ切れなければ――死ぬ。

 わかりやすくて涙が出そうだ。孝之はここでも間違いなく自分が足手まといになることを自覚せざるを得ない。――このままでは、いけない。

『――ッ、なんですって?! チッ、連中、いい歳こいてはしゃいでんじゃないわよっ!!』

 通信機から夕呼の苛立ちを含んだ声が聞こえてくる。それは、いつもどこか飄々としてみちるや自分達をからかっては愉快気に振舞う彼女からは想像も出来ないほどの怒り。忌々しい。そう吐き捨てると、彼女は再び通信機に向かって怒鳴りつける。

『伊隅、状況が変わったわ。すぐに下がりなさい! 追って来るBETAのことは気にしないで、形振り構わず逃げなさいッッ!』

「!?」

 なんだ? どういうことだっ? 全員に再び疑問が走る。――だが、聴こえてきた木野下少尉の声に、更に愕然とせざるを得ない。

『米軍が……全機撤退?! ばかなっ、前衛に出ている連中を残して……なんで米軍が先に下がっているんだッ?!』

 確かにデータリンクによって逐次更新されている戦域情報表示は米軍のマーカーが既に戦線を離脱していることを示していた。残っているのは彼らヴァルキリーズ・マッドドッグスのように前線にて陽動、或いは掃討を担当していた他の国連軍や帝国軍。――そう、ならばそれは自分達のように突然の撤退命令に困惑しながらもじりじりと戦線から退いているに違いない。

 同じように、米軍の動きに更に混乱しながら――

『さっさと退がれって言ってんのよっっ!! 伊隅、まりもッッ!!!!』

『『!!!』』

 切り裂くような怒号。二人の部隊長は今度こそ、全員に向けて撤退を指示。夕呼の様子はただ事ではない。あの聡明で天才とまで謳われ、常に余裕と確信を持って物事に臨んでいる彼女が、取り乱していると言っていいほどの姿を見せている。

 ならば――そう、ならば。

 それは、彼女がそれこそ形振り構わずに「逃げろ」と叫んでしまうほどの……







 ナニカ、







 が―――――――――、







『鳴海ィ! なにをしているっ、退がれッッッ!!』

 みちるの怒号が耳に痛い。――だが、それは出来ない相談だ。

 目の前には迫り来るBETAの大群。いくら敵に構わず逃げろといっても、これほどの速度、そして物量で追って来るBETAを相手に逃げ切れるわけが無い。さらに、みちるたちが撤退する先、即ち後方にもまだBETAはその数を残している。第75戦術機甲大体が既に撤退を開始していると言うなら、彼らが相手取っていたBETAがそこにいるのだ。

「自分の機体はもう駄目です。右の主脚がやられて、噴射跳躍装置もイカレちまってます。――時間稼ぎにはなるでしょう? 幸い弾薬はまだ十分残ってますし。せめて光線級の残りを片付けてやりますよ!」

『莫迦を言うなっ! この大莫迦ッッ!! 戻れ、鳴海、鳴海ィイイイイイイイ!!』

『かっこつけてんじゃないわよっ、なる……』

 通信装置のスイッチを切る。これで外部からの騒音はなくなった。孝之は震える腕で無理矢理操縦桿を握り、引き攣りそうになる呼吸をなんとか落ち着かせようと深く息を吸う。

 データリンクに目を落とす。ヴァルキリーズ・マッドドッグス共に撤退を開始。既に孝之から1000m離れている。――恐らく、まりもが下がらせたのだろう。まったく、あの人にはとことん敵わない。つい一年前まで面倒を見てもらっていた恩師に謝辞を述べながら、震えの治まった腕で、改めて握り締める。

 一秒だけ眼を閉じる。

 密やかに呟くように。孝之は懐かしい少女達の名を呼んだ。

 対照的な二人。

 活発で豪胆で、愉快なことが大好きで……きっと、自分を好きでいてくれた彼女。

 お淑やかで清純で、一生懸命に頑張って……きっと、自分を好きでいてくれた彼女。

 その二人の顔を、思い出す。――ああ、莫迦だな、俺は。

 ふっ、と苦笑する。よし。落ち着いた。ああ、大丈夫だとも。目を開ける。顔を上げる。涙なんか流さない。

 眼前にはその巨体を顕にする突撃級、要撃級、そして数えるのも莫迦らしいほどの戦車級の群れ、群れ、群れ。

 右腕に握るのは120mm砲を装填した突撃砲。火花を散らす右主脚は、派手な機動はできないものの、突撃級をかわすくらいなら出来る。自分でも驚くほどの冷静さで、迫り来る突撃級をかわし、振るわれる要撃級の腕をかわし……120mmを撃って撃って撃ちまくる。ぐちゃびちゃと紫色の血液らしき汚物が散り、醜悪なその姿を骸に変えていく。群がり来る戦車級にも容赦なく弾丸の雨を食らわせて……だが、その攻勢も長くは続かない。

「ごぁっ!!?」

 右からの要撃級の腕をかわし、着地したその地点に突撃級が突っ込んできた。回避などする暇も無く、機体が宙に舞う。べきべきという嫌な音と無慈悲な重力を全身で感じながら、仰向けに地面に叩きつけられた。衝撃に内臓が破裂しそうだ。――否、肋骨がへし折れて内臓を傷つけていた。血が、のどを駆け上る。

「っぶ、ぐぇっ……をッァ、」

 吐き出した血液が自身の顔を濡らす。カメラの半分もやられたらしい。赤く染まった視界に、ぼんやりと映る真っ赤な空。ああ、きっとそれは真っ青な雲ひとつ無い美しい空で――――、

 そして、孝之はそこに一筋の光点を見る。

 いや、既にその意識は遠のき、目は開いているだけで脳がそれを認識しなくなっていたが……それでも、そこに、まるで明けの明星のような、まばゆく輝く光を――







「なんだ……?! 再突入殻!? こんな状況で!」

 鳴海孝之の乗る不知火のマーカーが消えた。半年の実戦経験を積み、ようやく一人前の衛士としての風格を持ち始めた将来有望な若者……その一人を、また、喪った。

 彼を救う手段はいくらでもあった。機体を放棄し、他の機体へ収容することだって可能だったろう。――なのに、こともあろう、あの莫迦者は通信回線を一方的に切り、単身BETAへ吶喊していった。

 挙句が、戦死。

 いくらなんでもそれは哀しすぎる。――だが、たった一機の陽動とは言え、こちらに向かってくるBETAが一時的にその数を減らしたのは間違いなく、事実、みちるたちは壱千のBETA群を振り切り、続いて眼前に見え始めたBETA群へと突っ込んでいく。

 その、最中。

 みちるはふと空をよぎった光の筋に気づいた。

 それは再突入殻が大気圏に突入した際に発する摩擦熱が起こす発光だった。地上の光線級が一斉にそれ目掛けてレーザーを照射する。

 疑問に思う間もあればこそ、いきなりに眼前のBETAの全てが進路をこちらへ向ける。第75戦術機甲大隊を追う形で、即ちこちらに背を向ける形で走り続けていたBETAが、突然に追撃をやめ、こちらを向いた。――脅威度はこちらが上と判断したためか。

 否。

 みちるは直感的に悟る。今も尚レーザー照射を受けている再突入殻。何度確認してもたった一つしかデータリンクに反応の無いそれ。

 戦術機であるわけがない。

 そして、それこそBETAにとっての脅威なのだと言わんばかりに……BETAたちはみちるたちにすら構わず怒涛の勢いで再突入殻の落下地点――横浜ハイヴ――へと向かっていった。

『うぁ、こいつらぁああっ……ッッ!!』

『ひっ、いやァァアア!!!』

「! なっ、片桐、東條ッ!!」

 突如こちらに向けて殺到してきたBETAの挙動に対応できず、ヴァルキリーズから更に二人戦死者が出る。そして、その混乱すら嘲笑うように……レーザー照射によって破壊された再突入殻。

 それから分離された……ナニカ。

 なんだアレは。

 なんだアレは。

 なんだアレは。

 なんなんだ、アレは――――ッ!?







 空が、悲鳴を上げる。

 空間が、軋みを上げる。

 暗黒が――空を、そして、地上を…………そこにいるBETAを、現れたBETAを、散って逝った多くの衛士たちの亡骸を、逃げ遅れたたくさんの戦術機を、


 




 ギュ、ギャ、ッ――――ッ!!







 心臓を締め付けるような嫌な音。強烈に過ぎる衝撃が一瞬にして機体を吹き飛ばし、しかし、それでも、みちるは、まりもは、彼女達は、見た。

 紫の暗黒。

 その丸い球形。暗黒の球。

 それが、上空で炸裂した、たった一つのそれが――。

 地上を薙ぎ払い、出現したBETAを消し飛ばし、







 そして、『明星作戦』はその第一歩を達成した。







[1154] 復讐編:[四章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:813b2fea
Date: 2008/02/11 16:11

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:四章-02」





 雨が降っていた。

 八月の空を分厚い雷雲が覆う。果てしない入道雲は昼前から急激に黒く変色し、時々雷光を覗かせる。

 北海道の夏はあっという間に過ぎ去り、細長い静かな雨が絶え間なく降り注ぐ――まるで誰かの涙のようだ。







 ===







 訓練兵を含めた全基地職員が招集され、大講堂で基地司令からとある作戦の成功が報告された。

 ――知っている。

 七月頃だったろうか。

 どこからか誰からか。果たしてそれは広報が流した報道だったか。日本を救う、そして世界中に希望を与える大反抗作戦。本州島奪還作戦。『明星』と名づけられたその作戦。

 皆知っている。

 皆が興奮した。期待した。希望を抱いた。達成を夢見た。……どうか、どうか成功しますように。成功させてください。

 祈り、勝利を信じ、戦場へ馳せる多くの衛士に、世界中の衛士たちに……思いを託した。

 その作戦。

 『明星作戦』。

 それは、人類史上初の快挙を、ハイヴ攻略を、そして帝都防衛を成し遂げた。

 彼らはやったのだ。世界中に知らしめたのだ。BETAを滅ぼし、ハイヴを攻略し、現時点で本州島のほぼ全域を取り戻したのだ。

 火の海となり破壊し尽された京都を――。

 圧倒的超物量によって蹂躙された中国地方を。そして、四国の一部を。……さらに、九州をその手に取り戻すべく作戦は続行が計画されているという。

 それは人類の悲願達成の第一歩を刻み、日本人の誇りと歴史を奪還した。

 BETAに奪われた物は戻らない。

 けれど、まだ人間は生きている。こうして日本人である自分達が生きている。――ならば、生きている限り、その歴史、想い、意志は消えない。失われない。







 ――だが、それは、その勝利は、もたされた勝利は…………あまりに過激であり異端であり非情で非道で破壊的で……そして、圧倒的だった。







 <Fifth-dimensional effect bomb>


 日本名を『五次元効果爆弾』――通称『G弾』と呼ばれるそれは、米国が開発したこれまでに全く類を見ない新兵器であり……たった一発でハイヴ周辺を根こそぎ薙ぎ払い荒野に変えるほどの超超超破壊力を持つ。

 その『G弾』。『明星作戦』の中心を担った米国の正式発表によれば、『G弾』の運用は当反抗作戦成功のために必須であり、その決定は各国首脳閣議によって正式に行われた。『G弾』の効果・威力は開発国である米国で検証済みであり、その運用・使用による土壌・大気・生物への影響等、あらゆる観点から「問題ないこと」を表明。

 戦術核に代わる、希代の新兵器……『G弾』。環境汚染の恐れのないクリーンな超兵器。――BETAを滅ぼす黒の『明星』。

 先の日米安全保障条約一方的破棄に続く在日米軍の日本撤退……それら人としてあるまじき卑劣な行為によって日本人に刻み込まれた、米国に対する不信感、敵愾心、それら諸々の負の感情を払拭すべく、彼らは『G弾』の使用を決意した。

 結果は見ての通り。

 周回軌道上より横浜ハイヴ目掛けて投下された『G弾』は合計で二発。

 一発目は地表に出現したBETA群の一掃およびレーザー属全滅を目的とし、上空約1000mで爆発。地上を直径約2100mにおよび薙ぎ払い、ハイヴ主縦坑を最大深度約460mに渡って破壊した。

 コンマ数秒で半径約1500mに到達する超弩級の破壊兵器である。そして、その凄まじき破壊の球は更にもう一発、今度は相模湾に展開していた米軍艦隊の旗艦より発射された。一発目のそれが未だその姿を横浜の上空に晒しているにも関わらず、主縦坑中心より約1200m離れた上空約230mで爆発したそれは地上を直径2900m、主縦坑を最大深度860mと、更にとてつもない規模の破壊を生み出した。

 その威力。

 二発の『G弾』が作り上げた荒野は最大直径実に約3700m。その、事実。

 確かに『G弾』は素晴らしい戦果を上げた。たった一発で地表上のほぼ全てのBETAを掃討しただけでなく、地下茎構造の直径すら越える範囲を薙ぎ払い、続く二発目で横浜ハイヴの南方におびき寄せていた残存BETAを殲滅、更には主縦坑の二分の一を崩壊させたのだ。

 それは間違いなく、人類史上初の快挙。BETAに対する反抗作戦は大成功を収めたと言ってもいいだろう。

 実に凄まじき戦果。実に凄まじき威力。そして、実に素晴らしき兵器なのである。

 だ、が――。

 その威力。

 その破壊力。

 それによって薙ぎ払われた3700mの地表。

 確かにBETAは殲滅できただろう。横浜ハイヴの攻略は成っただろう。人類全ての悲願。その到達点。対BETA反抗作戦の開始を告げるに相応しい門出。これ以上ないくらいの圧倒的勝利。

 だが。しかし。

 それは――あまりにも日本という国をないがしろにしている。……そう、言わざるを得ない。

 『G弾』がもたらした成果は帝国を激憤させた。

 その運用に当たり米国は各国首脳の閣議により正式に決定を得たと言う。そう言うのならば、確かにそうなのだろう。だがその閣議に参加した「各国首脳」の中に日本は入っていないどころか、同じく作戦に参加した大東亜連合軍の代表国さえ参列していなかった。そもそも、『G弾』という超兵器の存在さえ公にされていなかったことは今回の米国の報道で明らかである。秘密裏に研究・完成させ、いくら環境・生物に影響がないと断言しようと、その凄まじき破壊力や『明星作戦』への投入等々、日本になにも知らされないまま、それは一方的に実行され、使用され、結果――ハイヴを攻略しましたこれは米国のおかげですどうですか日本の皆さんこれであなた方も安心でしょう――その、高慢に過ぎるおこがましい態度。

 米国は結果をして『G弾』あってこその作戦成功であると掲げ、それを不満と声高に叫び、命を賭して本作戦に参加した世界中の衛士を侮辱している日本は厚顔無恥の礼儀知らずだと吠える。

 日本は結果をして『G弾』あってこその作戦成功であるかもしれぬと掲げ、しかしその存在や威力、或いは戦線投入のタイミング……敢えて上げるならば「米国以外」の部隊に通達された作戦には『G弾』の使用など示されておらず、これは反抗作戦そのものを利用した『G弾』の実戦運用試験であり、恩着せがましくもその成果のみを押し付ける米国こそ厚顔無恥の極みであり利己的に過ぎると批判。

 二国は『G弾』の存在を巡り大いに火花を散らした。

 確かに国連へ援助を求めたのは日本だ。そして如何なる思惑があったにせよ、米国の秘密兵器である『G弾』の戦線投入によって横浜ハイヴは壊滅した。大東亜連合軍を主力とし、本州島奪還も成し遂げた。

 その成果、結果だけを見れば日本は国連に対し感謝をしてもしきれぬほどの恩を与えられたのかもしれない。

 だが、日本にしてみれば今回の、こと『G弾』に関しては全く情報を得ていなかった。否、米国によってその瞬間まで意図的に秘されていたのだ。

 自国の領土を焦土と化してまで得た勝利。それが、米国の独善的な思惑によって秘密裏に、しかも実戦検証を含めた『G弾』のお披露目のためのものだったというならば、そこにとてつもない義憤を憶えても仕方が無いことだろう。

 両者は互いに引かなかった。結果が問題なのではない。その過程こそが重要なのだという日本の訴えは確かに世界中に響いた。

 だが、実際に『G弾』は使用され……二発のそれが刻んだ破壊の痕跡は消失したBETAの骸と共に荒野となって広がっている。

 結果を覆すことは出来ない。しかし、米国のやり方に納得など出来ないし、赦すこともできない。

 米国以外の作戦参加部隊に『G弾』の使用が知らされていなかった事実。投下直前になって一方的に告げられた撤退命令。BETAに囲まれた前線にあって、如何様に戦線離脱など実現できるだろう。地上を薙ぎ払う黒紫の閃光に呑まれた戦術機は数十におよび、それと同数の衛士が貴重なその命を散らしたのだ。

 各部隊の生還者から聴き取ったことで判明したその事実。いち早く戦線を離脱した米軍の動き。――その事実ッ!

 作戦に参加し、米国の一方的な大破壊によって兵を喪った国々は、日本と共に彼らを糾弾した。

 さらには……これは公に公開されている情報ではないが、日本のとある研究者が『G弾』についての見解をこう述べている。



 『五次元効果爆弾』には核兵器のような放射汚染こそ無いが、投下された一帯は植生が回復しない可能性がある。つまり、『G弾』は健康な土壌を半永久的な重力異常地帯に変えてしまうのである。そして、それが人体に及ぼす長期的影響がどういうものかは誰にもわからない……。



 これは『G弾』開発時点で判明していた危険性であるという。しかし米国は知っていながらにそれを秘匿、使用した。対外的に堂々と『G弾』は安全であると謳いあげ、強引に過ぎる手段をもって。

 国連は米国の対BETA戦略、即ち『G弾』を主体したそれを認めないことを表明した。

 確かにその威力は凄まじく、BETA戦略としてその戦果を見るならば現状最も優れた手段であるといわざるを得ないだろう。だが、『G弾』を乱用していけばそれがもたらす重力異常によって、例えBETAを地球上から一掃出来たとしても『G弾』そのものが第二のBETAとなりかねないのだ。

 国連は世論に対して先の重力異常のことは伏せつつも、あまりにも人道を外れた米国のやり方に異を唱える形で『G弾』の使用を禁じた。日本を始めとする各国の訴えもあり、世論はそれに賛同。ここに至り、米国はこと日本における地位を永劫に失ったとみていいだろう。――だが、今回は大人しく引き下がるしかない米国だったが、それでも彼の国が世界中で最も戦力を持ち、自国にハイヴを有しない……直截的危機に見舞われていないことだけは確かだ。

 だからこそ米国は世論の風などもろともせず、今も尚国連の主導権を握っているのである。

 ……その本質は何も変わらない。変えようとしない。なぜなら、彼らにとってそれは変える必要のないことだから。

 国連が、日本が、周囲の国々が声高に批判しようとも……その彼らが自国の或いは直近のハイヴを攻略ないしBETAの侵略を防衛しようと思えば、どこかで必ず米国の恩恵を賜っているからである。

 それが、この世界の現状だった。







 ===







 1999年8月25日――







 静けさを強調するような雨音を聞く。

 ぼんやりと灰色の雲を見上げ、降り注ぐ雨粒を見詰める。一滴一滴の形、大きさ、その音を。

「白銀~っ」

「あ?」

 呼びかける声に振り向く――までもなく、腰と背中に衝撃。思わずバランスを崩しそうになるが何とか踏みとどまり、軽く息を詰まらせながらも飛びついてきた不埒な輩を睨みつける。

「なにしやがる……」

「別に意味はないよ」

 睨まれていることなどまるでお構いなしにケロリとした態度。飛びつき様彼の背に回していた腕をほどき、茜はニマニマと笑顔を浮かべる。突然にとびつかれた身としては呆れるしかないが、既に慣れた。武は溜息をつく仕草をしながら、

「ったく……。で? なんか用かよ」

「ああ、そうそう。そろそろさ、任官式終わるよ」

 茜の言葉にそうかと頷く。見れば彼女の向こうにはいつもの面子が揃っていた。第207衛士訓練部隊の仲間達。武は茜に引っ張られるように彼女達の元へ歩き、全員揃ったところで、改めて講堂へ移動する。

「しかし……早いような、長かったような…」

「実際長かったんじゃない? だって事実として半年ずれてるわけだし」

「そうだよなぁ。帝都のことがなけりゃ、今頃は任官して半年、ってことだろ?」

 呟く武に晴子と薫がそれぞれに言葉を返す。

「うん。……でも、そうしたらお姉ちゃんたちも『明星作戦』に参加してたのかな?」

「う~んん、どうなんだろ。でも、帝都防衛・本州奪還、っていう日本にとっての一大事だから……」

「参加してたんじゃないですかねぇ。……それを思うとちょっと複雑です」

 薫に頷きながら茜がもしもの話をする。それに対して多恵と亮子が難しそうな顔をして唸る。その二人が可笑しくて、知らず笑みが零れる武だったが、ばっちり晴子に見られていていることに気づかない。

 六人は、そうやっていつもどおりに歩いていく。

 向かう先は講堂。屋内訓練場の一つとして使われることもあるその場所で、今日……訓練校四回生の訓練兵たちの任官式が執り行われている。

 そう、武たちと深い付き合いのある速瀬水月、涼宮遙たちの。

 任官式自体には武たちは参列できないが、こうして式の終わる頃を見計い、出てきたところを祝福の言葉で彩ってやろうという、彼らなりの企みだった。無論、それだけではない。

 特に武は、今まで言おうとして言葉に出来なかった様々な想いを伝えようと思っていた。

 思い出すのはあの日、あの時、幼馴染の彼女を喪ったそのとき。

 錯乱し現実から逃避し、雪の中を彷徨おうとしていた自分を現実に引き戻してくれたこと。抱きしめてくれて、生きている者の成すべきことを示してくれたこと。

 自分独りで彼女への想いを振り切ろうと足掻き続けていたとき、幾度と無く手を差し伸べてくれて……引っ張り上げてくれたこと。

 今の自分が在るのは間違いなく彼女の、水月のおかげだと思う。

 それは間違いない事実で……武は、そのことを感謝してもしきれないと感じている。――だから言葉には出来なかった。

(でも、いいんだ……。小難しい理屈はいらない。ただ、一言……言えればいい)

 ひとつ、頷く。その表情はとても満足げで、彼がそのことに納得していることを示していた。自分はもう大丈夫で、これからも生きていけるということを伝えたい。それだけだった。

「あれあれ、白銀君~っ? なんだか嬉しそうな表情だね」

「ほんとだ。わわ、まさかひょっとして……」

 ひょいと武の正面に回り、晴子と多恵が意味深に含み笑う。いや、最早馴染み深いなにかよからぬことを妄想している顔というべきか。武は経験からそれを察知し、一歩引く。

「な、なんだよ……っ」

「ん~~~、べっつにぃい?」

「そうそう。べつに~?」

 ねー、と。顔を見合わせてニヤニヤと笑いあう二人。下手につつくとこちらが痛い目に遭うのは明白なので、武は敢えて放置することにした。――が、その武の判断を知りつつ、それこそ敢えて藪をつつくのが薫だ。確信犯である。

「なんだよ? 気になるじゃん」

 そういう表情には見えない。むしろ武に対する嫌がらせを心底楽しみにしている顔である。それに茜が便乗して、207唯一の良心である亮子のみが武の横で苦笑いを浮かべる。

 そう。

 こんなやりとりもいつもどおり。――半年前に取り戻した、彼らの「いつも」。

 だからこそ。彼女達全員は心に決めている。

 変わり果て、ぼろぼろになった武を救ってくれた水月に。その水月を支えてくれた遙に。二人の偉大なる先任に。

 感謝を。祝福を。――ありがとう、おめでとう。

 その言葉を、想いを。伝えよう。



 そして、講堂の前へ到着した。

 丁度タイミングよく扉が開放され……出てきたのはどうやら基地司令に教官たちのようだ。訓練兵の姿はないことから、どうやら式自体は終わったものの、彼女たちはまだ講堂の中ということだろう。……耳を済ませるまでも無く、盛大な喧騒が聞こえてくる。

「なんか、叫んでる人もいるな」

「あはは。それだけ嬉しいってことなんじゃない?」

 明らかに雄叫びを上げているだろう男性を筆頭に、口々に皆、お互いを祝福しているらしかった。姿は見えないが、その風景は容易に想像できる。……きっと、そこには様々な想いがそれこそ目一杯詰まっているに違いない。四年という訓練時代を終え、更には日本という国の存続を賭けた混乱と希望の半年を越え……そして、ようやくの任官なのだ。

 感極まって当然。嬉しくて当然。

 ああ、だからこそ。その姿が想像できてしまうからこそ。

「はは……なんか、こっちまで嬉しくなっちまうな!」

「うんっ。そうだね」

「あはははっ、白銀君泣いてる泣いてる」

「もらい泣きでずぅ~」

「いや、亮子泣きすぎだから」

「感動するね~! ……あ、出てきたよっ!」

 つい、涙腺が緩んでしまった。武は照れくさそうに目尻を拭うと、茜がハンカチを差し出してくれたのでありがたく使わせてもらう。既に涙のダムが決壊しているらしい亮子は晴子と薫の二人があやしていて……そして、多恵が指差したそこから、未だ歓声の止まぬ「新任衛士」たちがぞろぞろと出てきた。

 そこに、二人は居た。

 青い髪を後頭部でまとめ、しなやかに強靭に、勝気で強気で豪胆を地で行く水月。

 長い髪を背中まで流し、淑やかに柔らかに、温和ながらに強い意志を持つ遙。

 彼女達の姿を見つけ、武たちは気づけばその名を呼び、駆けていた。講堂までの渡り廊下。出てきたばかりの大勢の先任たちで混雑しているその場所へ。驚いている表情の二人の下へ。

「た、武ッ?! 茜……あんたたちなにやってんのよ?!」

「皆、どうしたの?」

 あんまりにも大声で名を叫ばれ、ぞろぞろと六人もの男女がやってきたのである。渡り廊下を行くほかの人々が物珍しそうに、そして興味深そうに視線を向けながら通り過ぎるのは仕方ないのかもしれない。それを水月は呆れたと溜息をつき、遙は恥ずかしそうに困惑する。

 だが、その原因である武たちは気にしないというか全然気づいていない。

 それぞれが大層嬉しそうな表情で、任官式を終えたばかりの二人をわらわらと取り囲むのだ。――嬉しくないわけがない。

「水月さんっ! 遙さんっ!! 任官おめでとうございますっっ!!」

「お姉ちゃん、速瀬さん! おめでとうっ!!」

「「「「おめでとうございま~すっっ」」」」

 口々に、それでいて一斉に。見事に言葉同士が重なってまるで意味不明だったが、しかし、それでも水月たちにはしっかりと届いていた。まるで我がことのように喜び、祝してくれる後輩に、不覚にも感動してしまう水月であり、それを誤魔化そうとしているのに気づいて微笑む遙だった。

 ごほん。一つ咳払いして、水月が口を開く。若干頬が赤くなっているが、それは言わない約束だ。……多分、晴子あたりの記憶にはいつの日か再会したときのためにきっちりとメモリーされているに違いない。

 ちらりと片目で武たちを見回し、改めて口を開く。表情は明るく、眩しいくらいの笑顔で。

「ん、ありがと」

 たった一言。短いその言葉の中にはたくさんの感情が込められていた。遙は水月の傍でやんわりと微笑み――そして二人は武たちの輪から去っていく。これから任官に当たっての伝達事項および手続きほかがあるとのことで……これで、お別れである。

 去っていく後姿を、武たちはじっと黙って見送る。

 そっと、武は息を吐いた。

 これでお別れ。自分の任官先が彼女達と同じにならない限り、滅多なことでは逢うことはないだろう。再会は戦場か、或いは――。

 その感情を、寂しいというのだろうか。武はじんわりと込み上げる感情を噛み締めた。

 尊敬する彼女達との別れは済んだ。ならば、これからは一人前の衛士になるための時間。昨日よりも前へ、高みへ。もし彼女達と再会できたそのときに……立派になった、そう認めてもらえるように。

「ほらっ、白銀、行くよ~!」

 弾けそうな笑顔。茜が手を振り、晴子たちが呼んでいる。どうやら一人だけ置いていかれていたらしい。武は慌てて追いかける。

 そして、わざわざ全速力で逃げるように走る彼女達を同じく全力で追い抜きながら……武は、水月へ肝心の礼を述べていないことに思い至る。任官した彼女を前にしていささか舞い上がっていたらしい。まったくもって情けない話だと苦笑する。

 ならば、訓練の終わった後。任官先へ赴任するのは早くても明日の朝だろうとあたりをつけ、今夜にでももう一度会いに行こうと決める。

「うし! なら、さっさと訓練終わらせないとなっ!!」

「ちょ、ちょっ!? 速いって白銀ぇ~~っ」

 あっという間に先頭を走っていた茜を抜き去る。置いていかれた本人が置いていった彼女達を置き去りに走りぬける。もはや何だかわからないこんなやりとりも……矢張り、彼らにとってはかけがえのない「いつも」のことだった。







 この北海道札幌基地に転属になって以来、自分たちの教導を担当してくれた軍曹へ最大限の礼を述べる。

 水月にとって、いや、彼女達にとって本来の「教官」は横浜基地時代に世話になった神宮司まりも軍曹だが、それでも、この十ヶ月を厳しくも優しく指導してくれた偉大なる先任には感謝してもしきれないものが在る。

 軍人としての知識・技能・体力を鍛え上げてくれたのがまりもなら、衛士としての知識・技能――即ち戦術機を操縦するための知識・技能を叩き込み、鍛え上げてくれたのは目の前で誇らしげに笑う彼女だった。

 水月は敬礼する自身の全身に、震えるほどの感動が迸っているのを感じた。

 ああ、自分には偉大なる二人の「教官」がいるのだ。自分がこうして衛士として任官できたことに対する喜び。そこに到るまでの長く長い道のりを導いてくれた恩人。

 敬礼を解く。静かで穏やかな空気が流れる中、水月の隣りで、遙は薄っすらと涙を浮かべていた。

 そして、名残を惜しむように、けれど実に爽快に。水月たちのもう一人の教官は部屋から出て行き……入れ違いにやってきたのは国連軍の制服を着た若い女性。小豆色の髪を肩の辺りでそろえた、凛々しい表情をする人物だった。

 階級は大尉。名も知らぬ国連軍大尉の出現に困惑する水月たちだったが、当の本人は全く意に介していないらしく……向けられる視線をむしろ愉しんでいるようにも見える。

 得体の知れない緊張感を孕んだ沈黙が場を支配し……つい先ほどまでの感動などなりを潜めてしまっていた。だが、それ以上に水月たちの心を支配したのは――息が詰まるほどに圧倒的なその女性の存在感だった。

 見た目は自分達と大して歳の変わらない若い女性。だが、大尉という階級が示す以上に、衛士としての器の大きさの違いがはっきりとわかる。この女性は、恐ろしく「強い」歴戦の勇士だ。

 知らず生唾を飲み込んでいた水月に、女性はニヤリと口端を吊り上げた。急に視線を合わされて、思わずギョッとしてしまう。

「ふふ、驚かせてすまない。……まぁ、帝国軍の基地にいきなり国連軍人が現れては困惑するなというほうが難しいのはわかるがな」

 開かれた口からはややハスキーな声。しかし、どこか奥深しく張りのある口調に、一瞬にして水月たちは引き込まれていた。

「まずは自己紹介をしておこう。私は国連軍横浜基地A-01部隊第9中隊隊長の伊隅みちる大尉だ」

「国連軍……横浜基地っっ?!」

 凛々しい立ち姿のまま澱みなく自らの所属を明らかにした女性に、思わず水月は叫んでいた。――横浜基地?! 国連??!!

 唖然とするのは水月だけではない。遙やほかの部隊の仲間達も同様だ。

 それもそのはず。横浜基地といえば彼女達がここ札幌基地に転属になるその直前まで所属していた場所であり……そしてその基地は今年の一月に壊滅し、つい先日の『明星作戦』で荒野と変わり果てたはずなのだから。

 なのに、目の前の女性――みちるはその横浜基地の所属だという。しかも、国連軍横浜基地、と。そう言った。

「ふふふ。益々驚いたようだな。貴様達の言いたいことはわかる。確かに帝国軍横浜基地は失われて既に八ヶ月が過ぎようとしている。更に言えば基地周辺は米国の『G弾』によってハイヴもろとも更地になってしまっている。――だが、現在こそまだ仮設本部しか存在していないが、確かに横浜基地は存在し、我々国連軍が総力を上げて基地を再建している。……極東方面最大の規模を誇り、極東防衛の要となる――国連太平洋第11方面軍横浜基地をな」

「!!」

 全員の表情が更に驚愕に染まった。

 今みちるがサラリと語ったことは、はっきり言って機密情報そのものである。そう遠くない未来に完成し、世間にお目見えするとは言え、まだその姿すら現していない軍事基地。しかもそれが極東方面最大の規模を誇るものとなると……必然的にその機密レベルは跳ね上がる。にも関わらず、初対面である水月たちに。いとも容易くべらべらと語って聞かせたみちるの目的は一体なにか。

 考えられる答えは一つしかなかった。

「前置きが長くなったな。まぁ、既に貴様達も気づいているとは思うが……貴様達の任官先がそこだ」

 衝撃が走り抜ける。ニヤリと。意地悪く笑うみちる。

 まさかという思いが現実のものとなった。水月はぱくぱくと喘ぐように口を開くことしか出来ず……帝国軍ではなく国連軍に転籍となった事実に思考が空回りしている。

「で、では……私たちは、伊隅大尉の第9中隊に配属されるのでしょうか?」

 恐る恐るといった様子で、遙が質問する。みちるは鷹揚に頷き、

「そのとおりだ涼宮少尉。帝国軍から国連軍への転籍などそうあることじゃない。……むしろ、在り得ないだろう。だが、現実として貴様達はその全員が私の部下として任官・配属が決定されている。これは、かつての帝国軍横浜基地の頃より変わりはない。もしBETAによる横浜襲撃、或いは本州島襲撃がなく、順当に訓練校を卒業したとしても、貴様達は必ず我々の下につくことになっただろう」

 初対面であるはずの遙の名をサラリと口にして、みちるは補足を付け加える。

 帝国軍基地の衛士訓練校を卒業しながらに、帝国軍ではなく国連軍に配属される……。その異常さは、とてもではないが言葉に出来ない。そんな人事があること自体、異常なのだ。――ならば、その裏には異常に足る理由が存在する。

 帝国と国連を股に掛け暗躍する双方にとっての多大なメリット。水月たちが国連に配属となることで生じるメリットとは一体何か。……考えたところで答えが出せるわけがない。だから、水月は考えるのをやめた。

 既に決定され、そして通達された事実は変わらないし覆らない。ならば自分達は紛れもなく国連軍衛士として任官するのだ。

「……速瀬少尉、いい表情だ。ほかの者も、なかなか頭の切り替えが早いようだな。――では、改めて」



 ようこそ諸君、栄えあるA-01部隊へ――。



 そのみちるの表情はどこか晴れ晴れとして、それでいて懐かしむようなものだった。







 その後、任官に当たって……特に、国連軍への配属に当たっての諸注意並びに正式配属についての手続き等についてみちるから説明を受けた。

 国連軍の制服や、先の『明星作戦』時に正式採用された最新型の99式衛士強化装備などの支給品は国連軍仮設横浜基地へ赴任してから支給される。出発は明朝0800。――尚、今回の任官……特に国連軍配属については絶対に口外しないこと。A-01部隊は存在自体が機密扱いの特殊部隊であるため、その存在を公にしてはいけないこと……等々。

 みちるはスラスラと、それでいて的確に諸注意を述べていく。そんな凄まじい特殊部隊に配属が決定された身としては、喜んでいいのか驚いていいのか、或いは、何も考えられなくなって呆れればいいのか。最早水月にはわからない。

 ただ、間違いなく。これだけは確実に言えることがある。

 何処に居ようと、自分は自分の信じた道を往くのみ。

 水月はひとり頷く。そうだ。それが己だ。

 やがてみちるからの説明が終わり、二、三の質疑応答の後、今日は解散となった。ならば早速荷物の整理でもしようかと水月は遙を伴い部屋を出ようとした。

「――ああ、速瀬、涼宮……貴様達は残れ」

「え?」

 呼び止められ、困惑する。だが、上官からの命令である。従いこそすれ、拒否権などない。遙と二人、みちるの正面に並ぶ。

 屹立する水月らに、みちるはどこか躊躇う素振りを見せ……だが、それは見間違いなのではないかと思わせる強い眼差しで、静かに口を開いた。

「鳴海孝之を――――知っているな」

 外は雨。窓を叩く雨音が、一層強くなったような気がした。







 ===







 一日の訓練が終わり、夕食も終えた。いつもなら一度自室に戻り軽い休息を取るところだが、今日は違う。武はPXからそのまま水月の部屋へ向かうべく足を向けた。

「あれ? 白銀、何処行くの?」

 武のすぐ後ろを歩いていた茜が当然の疑問を口にする。その彼女の声に先を歩いていた晴子や薫たちが振り返り、足を止める。

 武は内心でしまったと呟きながらも、別に隠す必要もないと思い直し、正直に水月の部屋を訪ねようとしていたことを説明する。

「あの時は舞い上がっちまって言うの忘れてたからな。――だから、改めてちゃんとお礼を言いたいんだ」

 少々照れくさそうに笑う武に、茜たちも同様に微笑んだ。なるほど、それならば止めはしない。

「頑張ってね、白銀君」

 バシン、と晴子が武の肩を叩く。それに応と答えて、改めて水月の部屋の方へ。その武の背中に、薫の声が掛けられる。

「白銀ーっ! ちゃんとゴム用意したのか~っ」

「だからお前は下品なんだよっっ!?」

 思考回路がまるで親父である。がっくりと肩を落としながら、思わず突っ込んでしまう自分が哀しい。

 いくら夜に女性の部屋を訪ねるといっても、無論そんな気があるわけではない。武は心底に水月に礼を言いたいのだ。会えなくなる前に、だからこそ今、その気持ちを伝えたいのだ。……決して! やましい気があるわけでは断じてないッッ!!

「ああでも、もしシャワーを使い終えた直後とかだったらどうしよう……」

 熱いシャワーを浴びて上気した肌、玉のような滴を身にまとい、その豊満で形のよい二つのたわわな実が……もふんげふん。明らかに薫の言葉に動揺している証拠だった。

「うわ、白銀サイテー」

「――ぇ?!」

 何故か傍らに茜の姿。じっとりとした視線が実に痛い。どうやら皆と別れたそのときから既に一緒に歩いていたらしい。……全然気づかなかった。武は驚くと共に焦り混乱し弁明した。

「つ、つつつまりだな、これはアレだ。一種の暗示というか罠というか! そ、そう。立石があんなこと言わなければ想像すらしなかったというかだなっ?!」

「……っぷ! あっはははは。白銀ったら、なに本気で焦ってんのよ!」

 顔を真っ赤にしてしどろもどろに身振り手振りを交えて如何に自分が無実で清廉潔白であるかを証明しようと四苦八苦する武に、茜は軽快に笑う。その彼女の様子からどうやらからかわれていただけだと知る。と同時に、一つ疑問が浮かんだ。

「…………なぁ、涼宮」

「ん? なに?」

「お前、なにしてんの??」

 至極当然の問いである。ほかの連中は皆頑張っていって来いと応援してくれた。茜も確かに応援してくれた。にも関わらず、では何故茜はこうしてついてきているのか。

 ひょっとすればついてきているというのは勘違いで、たまたま行く先が同じだけなのかもしれない。或いは茜自身も水月に、或いは遙に用があるか。――なるほど、それは十分に在り得る話だった。

「ん~~~、別に、なにってわけじゃないけど……」

「あん?」

「白銀がさ、速瀬さんを襲っちゃわないか見張ってようと思って」

 えへへと笑う茜は、多分嘘をついたのだろう。しかし、武はそうかと頷くだけで言及はしない。……時々、ふとした瞬間に思い出すことがある。

 いつか、この腕の中で泣いていた茜。

 起こそうとしてくれた彼女。まるで幼馴染の少女のように。――胸が締め付けられるような、哀しい泣き顔。

 武は未だ、あの時の茜の涙の理由を、意味を知らない。……けれど、それ以来武は茜が自身の思うままに振舞うのがいいと感じていた。泣きたいのならば泣けばいいし、笑いたいなら笑顔を見せてくれればいい。――こうして、意味もなく傍に居たいというのなら。

 それもいいと。武は思う。

「そうかよ。信用ねぇなぁ、俺」

「だって白銀って速瀬さんと初めて逢ったとき自分から胸に顔を埋めたって言うし……」

「憶えてろよ柏木ぃいいいい!!」

 からかい混じりの茜の言に、歪みきった情報源の根絶を誓う武だった。

 などと莫迦をやりあっている間に水月の部屋の前に到着する。知らず、互いの顔を見合わせた武と茜だったが、武は意を決して部屋のドアをノックする。……だが、返事がない。おや、と思いもう一度ノック。だが結果は変わらず。

「…………いない、な」

「うん……いないみたい」

 意気込んできたものの空振り。少し残念に思ったが、それも仕方ない。――面と向かって感謝の気持ちを伝えたかったが、いないのでは仕方がない。

「いいの? 白銀……」

「ま、いいもわるいもないってな」

 肩を竦める武に、茜は残念そうな表情。お前がそんな風に落ち込んでどうすると、慰めようとする武だったが、茜の頭をぐりぐりと撫で回してやろうとしたそのとき、フラフラと夢遊病者のように彷徨う水月の姿を見つけた。

「……水月さん?」

「え?」

 どうやら遙の部屋から出てきたらしい水月。どこか精彩に欠ける表情で、ふらふらと、ゆっくりと、武たちに気づかないままやってくる。

 その様子にただならぬ気配を感じ取り、すぐさま武は水月へ駆け寄った。

「水月さん!」

「…………武……?」

 正面に立った武に、ぼんやりとしたまま、呟くように。それは、武の知る水月ではなかった。

 なにかがあったことは火を見るより明らかだった。――何の理由も無く、水月程の人物がこんなにも意気消沈し、覇気を無くすなどありえない。

 そして茜は気づく。

 果たしてそれは、かつての武と全く同じだと。

「速瀬さん……ぁの、なにか、あったんですか」

 知らず、声が震えてしまう。それは、聞いてもいいことなのだろうか。いや、その問いかけ自体が更に心を抉るのではないか……。

「水月さん。……何があったのか、言いたくないなら言わなくていいですよ。……その、俺だって本当は知りたいけど、水月さんがそんな風に落ち込んで悲しんでる姿……初めてですから。……でも、だから、やっぱり理由は話してくれなくていいです」

 拳を握り締めて、武は噛み締めるように言う。その武を、茜はじっと見詰めて、水月もまた、ぼんやりと……。

 武は、振り絞るような笑顔を浮かべて、両手を広げて――、

「水月さん。俺は、俺は……貴女のおかげでここまでこれました。貴女の言葉で眼が醒めて、貴女に引っ張ってもらって、支えてもらって、そのおかげでこうやってまた、涼宮たちと笑い合える。――水月さん。俺は、水月さんに救われました」

 力強く、打ちひしがれている水月の瞳を真っ向から覗き込んで。水月によって救われた自身を、何よりも水月に見てもらいたかった。

「だから、俺は大丈夫です。きっと、これから先も、何があっても……水月さんに教わったたくさんのこと、俺は独りじゃない、支えてくれる、手を差し伸べてくれる仲間がいること。そのことを忘れません。何があっても、どんなことが起きても、俺は大丈夫です。――だから、今度は、俺の番ですよね」

「たける……」

 両手を広げたまま。真剣な表情で。しっかりとした口調で。

「水月さんは独りじゃないです。……遙さんだって、独りじゃない。けど、二人だけでもないんです……っ。俺がいます。俺達がいます。…………水月さんは、泣いていいですよ」

 その言葉は、まるで自分に言い聞かせているようでもあった。そして、かつて水月が武にしてくれたことでもあった。あの時水月は言ってくれたのだ。泣いていい、と。好きなだけ泣けばいいと。

 哀しいなら、どうしようもなく哀しいなら泣けばいい。我慢する必要なんてない。独りで抱え込むことなんてない。支えてあげるから、思う存分泣けばいい。……そうやって、抱きしめてくれたのだ。

 武にはどうして水月がこれほど傷つき憔悴しているのか、その理由はわからない。だが、それでもかつての自分に似た状況にあることは想像がついた。ならば、今の水月はまさに自分と同じ。その哀しみに翻弄され、独りで暴走した自分と同じだ。

 武は水月に救われた。

 だから今度は、自分が水月を救う番なのだ。――或いは、そのきっかけとなれればいい。支えになれればいい。そう、思う。

「……っ、ぁ、」

 ぽろぽろと。水月の両方の瞳から涙が零れ落ちる。初めて見る涙だった。初めて見る泣き顔だった。――水月は、腕を広げる武の胸に顔を埋めていた。

「ぁあっ、あああっ、ぅぅううあああ……ッ」

「………………水月、さん」

 縋りつくのではなく、ただ武の胸に顔を埋めて。武は震える水月の肩を抱いて、じっと、彼女の姿を見詰めていた。

 果たして本当にこれで水月の力になれているのか。支えられているのか……。そんなことは、わからない。ひょっとすると、水月はこんなことをしなくとも立ち直って前へ進むことが出来るのかもしれない。

 自分はいたずらに彼女の心の傷を広げているだけなのではないか。

 泣き続ける水月を見ていると、色々な不安が込み上げてくる。――あの時、水月もそう思っていたのだろうか。

 だとしたら、なんと強い精神力だろう。自分の言葉、自分の行為、それら全てがその人の心を左右する。

「白銀……」

 不安を感じてしまう自身を情けなく思いながら、けれど、傍にいた茜が武と水月を抱くように両手で包んだ。

「白銀だって、独りじゃないんだよ。……自分でそう言ってたじゃない」

「あ、ああ。そうだな。俺達は独りじゃない」

「ぅっ、ぅぁ、たか……ゆき……孝之……ぁっぁあ」

 搾り出すような嗚咽。掠れる声で呼んだその名。武と茜は、それで全てを知った。ああ――――そう、か。

 そして、暫くの間泣きはらした水月が、はぁと深く息をついて武から離れる。真っ赤に腫れた目が痛々しい。けれど、その表情はどこか晴れ晴れとしていて。

「……はは、かっこ悪いとこ見せちゃったわね……。ん、でも、少し楽になったわ。ありがとう、武、茜」

 それは、武たちのよく知る水月そのものだった。にこりと笑い、武を正面から見つめる。その柔らかな視線にドキリとしてしまう。水月は武の額に人差し指を当てて、

「…………背、伸びたわね、武。ふふ、まったく、さ」

 こつん、と。当てられた人差し指が額を突く。思わず面食らってしまう武だったが、無邪気に笑う水月に……笑ってくれた彼女に、嬉しさが止まらなかった。

 しっかりと歩き、自室へ戻る水月を見送って。武と茜は、自分達の心の中に、確かなものの存在を感じ取っていた。

 それはきっと、生きていくために必要ななにか。仲間を、大切な人を想う、暖かななにか。

 水月の身体を抱いていた時、笑顔を浮かべた彼女を見たとき。

 胸の中にじん、と染み渡った感情。――ああ、この想いは……。

「よかったね。白銀」

「…………ああ、そうだな」

 水月に与えられたたくさんのもの。そのほんの少しでも返すことが出来たのなら……。武はもう何も言うことはないと思った。そして、残りは自分が衛士となった後、再び巡り逢ったそのときに。

「……あたし、お姉ちゃんの様子見てくる。……きっと、独りで泣いてると思うから」

「ああ……そう、だな」

 じゃあね、と。茜は笑顔のまま姉の部屋へと駆けて行く。その背中を見送りながら……先ほどの水月の姿を思い出しながら…………彼女を喪った自身を振り返りながら…………。



 武は。



 なんて哀しい戦争だろう。――護りたいものを護れないままに。護りたかったものを護れないままに――。

 それは、なんて、哀しい。悲しい。かなしい……戦争。

 こんな戦争が続いていいわけがない。

 こんな戦争を引き起こすBETAがいていいわけがない。

 自分から彼女を奪い、尊敬する水月たちから彼を奪い……世界中のあらゆる国で、場所で。誰かの大切で大事なものを奪い……。

 赦せない。

 赦すことなんてできない。

 ああ……ならば、強くなろう。いつの日か、この手でその存在の一欠けらも残さず、潰してしまえるまで。







 そして、白銀武は、







[1154] 復讐編:[四章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:6f8dbc2e
Date: 2008/02/11 16:12

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:四章-03」





 国連太平洋第11方面軍横浜基地。

 それは軍事基地として極東最大の規模を誇り、極東方面防衛の要となるべく建設・設立された。

 一昨年のBETA日本襲撃を受け、日本がBETAに抜かれた場合に想定される極東方面の戦線への影響等を勘案した結果、その設立が決定された。

 付け加えるならば、日本国内に在る佐渡島ハイヴ、そして朝鮮半島の光州ハイヴと、日本は各国と比較して、最大規模の脅威に晒されていると言っても過言ではない状況にある。ハイヴの存在そのものが脅威である現状、日本は自国の戦力だけで国民を護ることは叶わない。先の『明星作戦』以降、国連との協力体制を新たに築いた日本は国連からの国連軍基地設立を受諾。極東防衛の、そして位置的に帝都防衛の要といってもいい旧横浜にその建設は進められた。

 『G弾』によって広大な廃墟と化したその場所に設立を決定した国連軍横浜基地。日本に対する配慮なのか、基地要員には日本人が多く見られ、中には帝国軍から出向してきた衛士もいるという。基地司令こそ外国籍の国連軍人であるが、構成要員の過半数を日本人が占めるという事実は日本国民にいい意味で刺激を与えた。

 無論、自国の防衛のために国連が介入することを良しと感じない者も存在しただろう。だが、これは日本政府と国連が正式に取り交わした事項である。即ち政威大将軍が設立に同意したのであるから、そこに異議を唱える余地はない。

 日本人が抱く国連についての印象は、即ち米国のそれである。だが、新設される基地の帝都防衛を兼ねる位置付け、そして構成員の過半数が日本人であるという事実……それらは共に、国連の日本に対する誠意の現れであり、日本という国の存続が如何に世界的に重視されているかを、日本国民自身に意識させる効果を持った。

 つまり、結果的に国連軍横浜基地の設立に反対はなく――『明星作戦』より僅か四ヶ月目には基地各施設の建設が完了し、更に五ヶ月目には戦術機を始めとする各種兵器・弾薬等の運搬、滑走路敷設が完了。この時点で世界各地の国連軍基地より選出された日本人を代表とする衛士たちが正式に配属され、横浜基地は運用を開始した。

 そして、更に二ヶ月が経ち……







 ===







 2000年04月――







「信じられねぇ……」

「うん……」

 広々とした講堂には総勢二十三名の訓練兵。元帝国軍札幌基地所属の訓練兵十八名と、国連軍横浜基地衛士訓練学校開設にあたり新たに軍属となった新任訓練兵五名。それらがずらりと並び、一堂に基地司令であるパウル・ラダビノッド准将の訓示を受けていた。

 その中にあって、武たち元札幌基地……否、元帝国軍横浜基地第207訓練部隊の顔ぶれは、未だに自分たちの身に起こっていることを実感できないでいた。

 札幌基地司令より直々に国連軍への転籍命令が伝達されたのが先月の中頃のこと。担当教導官であった熊谷でさえその詳細を知らされず、問答無用に等しい状態で新横浜基地への異動が決定された。札幌基地からの転籍……否、帝国軍からの転籍命令を受けた訓練兵は武たちを含む十八名。その全てが元帝国軍横浜基地衛士訓練校に属していた者であり、言い換えれば、今回の転籍は正に旧横浜基地所属の訓練兵にのみ命令されたのである。

 帝国軍から国連軍への転籍……それが一体どれ程の異常事態であるかは、武や茜、軍属に身を置いてまだそう年月の経っていない彼らにもわかる。

 ただし、前例から言えば帝国軍から国連軍への出向、或いは国連軍から帝国軍への出向、という形式での事例は存在するし、現にこの国連軍横浜基地にも帝国軍籍を持つ衛士は少なくない。

 ……だが、今回の件に関しては、各軍組織の相関関係において漠然とした知識しかなくとも、この転籍命令……ひょっとすると横浜基地設立さえ、国連と帝国の間で何らかの取引が行われた結果なのではないかと邪推できる。

 無論、それが先のBETA日本襲撃に端を発した世界情勢における日本の重要度が跳ね上がった結果と言えないこともないだろう。事実、国連軍の正式発表や帝国軍広報部からの報道では極東防衛の要衝として謳われているのだから、表向き――否、現時点で既に国連軍籍となった武たちにとっては、それこそが唯一絶対の事由である。

 如何にこの転籍に疑問を抱こうと、或いはあまりの途方も無さに実感が湧かず、信じることが出来ずとも。

 軍人で在る以上、軍に身を置く以上、それはありのままに受け入れるほかないのだ。……そして、彼らは国連軍衛士として任官し、BETAを打倒し、世界を救う。その一点は何も変わらない。帝国軍人だろうが、国連軍人だろうが……そう、米国軍人だろうが。衛士はただ人類を救うために、護るためにBETAと戦う。

 そこに諍いや軋轢が生じてしまう原因に所属する軍組織の違いがあり、国にとっての利益や考え方、積み重ねてきた歴史等があるが……今こうしてこの場に集う訓練兵たちにとって、それは関係のないことだ。

 ラダビノッドの訓示が終わり、全員で入隊宣誓を唱和する。二十三名の一糸乱れぬ唱和はこだまとなって講堂に反響し、その一言一句に込められた彼らの熱い思いを象徴するように、盛大に響いた。

「――横浜基地一同、諸君らの入隊を歓迎するッ!」

 声がまるで質量を持っているかのように。ラダビノッドの言葉は鋭く、強烈に講堂を貫いた。准将という高位階級を持ち、更に基地司令を務める彼の軍人は、正真正銘歴戦の烈士であり偉大なる先達に違いなかった。たった一言で訓練兵全員が呑まれ、びりびりと肌を通して精神を奮わせられたのだ。これが正規の軍人、そしてその更に上位に立つ者か。武は痺れるような鼓動に一筋の汗が零れるのを感じた。



 こうして国連軍横浜基地衛士訓練学校は開かれ、武たちにとっての新たな生活の始まりとなった。







 ===







 横浜に帰ってきたことに思うところはないと言えば嘘になる。

 白銀武にとってこの場所は幼少の時を過ごした故郷であり、つい一年半ほど前まで住んでいた場所だ。――思い出は、多い。

 高機動車の中から見た横浜は、お世辞にもここがかつての故郷だとは思えないほどに荒廃した廃墟だった。だが、僅かに形跡を残す建物の残骸や道路の跡、そこに人が居たのだと儚くも主張するそれらを見れば、否応なしに様々な記憶が思い出される。

 ――彼女との、想い出を。

 幼い頃ともに走り回ったその道を、両親達に手を引かれて歩いた道を、遊びに行った公園、手を繋いだ場所、ふざけあい、笑いあったその時を。

 忘れることなんてない。

 忘れることなんて出来ない――。

 それは、かつて精神的に困憊していた時期に、縋りつくように暗示をかけるように繰り返した言葉だ。

 敬愛する水月や仲間達の支えによって乗り越えたと思っていたそれは、それでも矢張り、武という存在における全てだった。

 景色を見れば思い出す。一歩を踏み出せば思い出す。例え廃墟と化そうとも、例えその景観を失おうとも……ここは、彼女と過ごした十五年にも満たないその時を、痛烈に、鮮烈に……思い描かせるのだ。

 けれど、それを哀しいとは思わない。

 色々と自分なりに振り切ってここまできた。この一年あまり、意識して彼女のことを思い出すことはなかった。なのに……ここにこうして立っているだけで、ただ、それだけで……何もかもが明瞭に思い浮かぶ。

 それは、とても嬉しいと思えることだった。

 ああ――これほどに、こんなにも、白銀武は鑑純夏を愛している。

 その笑顔を思い出すことを辛いと感じた。

 その声を思い出すことを哀しいと感じた。

 その表情を思い出せなくなることを辛いと感じた。

 その仕草を思い出せなくなることを哀しいと感じた。

 彼女の温度を忘れてしまうのではないかと怖かった。

 彼女の感触を忘れてしまうのではないかと怖かった。

 彼女の存在が喪われてしまうのではないかと怖かった。――本当に。心の底から。

 それでも、たくさんの人に支えられ、手を差し伸べられて……ようやく、前を向いて歩いていけるようになって。

 少しずつ、ほんの少しずつ……薄れ、忘れ、喪われていくかのように。そんな風に錯覚して、それを辛いと、怖いと感じないようになって……。

 それでも。

 そう、それでも。残っていた。眠っていた。

 だってこんなにも覚えている。だってこんなにも感じている。結局、武はなんにも変わっていなかった。

 彼女を愛している。純夏を愛している。

 けれど、それを哀しいとは思わない。

 絶対に。

 哀しいなんてことがあってたまるものか。

 嬉しい。嬉しいんだ。

 ――だって、これほどに。涙が出るくらいに。

「純夏……俺、お前が好きだ……はは、情けねぇなぁ……っ」

 こんなにも嬉しいことはないだろう。

 彼女の死を乗り越えて尚、この想いは少しも薄れていない。今現在この時も、武は純夏を愛しているのだから。

 ズボンの右ポケットに手を入れ、そこにある柔らかな感触を噛み締める。

 形見となったそれを丁寧に取り出して、鮮やかな黄色を、滲んだ瞳で見詰める。

「っ、は、ぁ…………」

 熱く息を吐いて。制服の袖で涙を拭う。国連軍の訓練兵用に支給された真っ白な制服に、じわりと涙の跡が染みる。それをほんの少しだけ苦笑しながら見下ろして、武は顔を上げた。

 基地の裏手にある小高い丘の上。

 そこから見下ろせる広大な廃墟をしっかりとその目に焼き付けて。







 基地内に戻ると、丁度休憩時間の終わりだった。タイミングのいいことだと、武は自分達の訓練で使用する教室へ向かう。

 国連軍横浜基地衛士訓練校に転籍になった際、武たち元207訓練部隊は全員が揃って異動したため、今後も同じ部隊の仲間としてこれからの二年を過ごすことになっている。が、今回は武たち以外にも五名、新任の訓練兵が入隊していた。

 帝国軍は徴兵制を採っているが、基本的に志願制だ。世界中でBETAが猛威を振るい、既に六十パーセント以上の人類を亡くしている現状、徴兵制を導入していない国は某大国を除き殆どない。戦場では常に多くの衛士が死亡する。その損耗は激しく、年々減少している。そんな情勢だからこそ、帝国も徴兵制を導入し、政治家やあらゆる分野のエキスパートとなるべく大学に進学するもの以外を対象に、男女ともに十七歳から徴兵の義務が課せられる。

 だが、徴兵年齢に達していなくとも、満十五歳以上であれば軍隊に志願することが出来た。武たち元207訓練部隊の面々や水月たちはその例だ。つまり、四年という訓練期間を経た後の任官では、同期の中でも最低で十八歳、最高で二十歳と年齢にバラつきがみられることもあるということだ。

 もっとも、『明星作戦』以降、著しく損耗した帝国軍の再編を図るために、現在では徴兵年齢の引き下げが行われ、十五歳から兵役の対象となっているが……。

 その点、国連軍は完全志願制であり、受け入れの対象となるのは満十七歳以上の男女とされる。そして、訓練期間は帝国軍の半分の二年間。これは、帝国軍と国連軍の衛士育成プログラムの差であり、帝国軍についていえば、日本という国の在り方……斯衛軍をはじめとする、義を知り礼を知り、精神肉体その全てを帝国に捧げるに相応しい、国と国民を護るに相応しい衛士として鍛え抜くために必要な期間として四年制が採用されているだけの違いでしかない。

 故にその訓練内容に著しい差異はなく、訓練期間が短いからといって国連軍人の質が劣るというわけではない。無論、長期間訓練に費やす帝国軍のやり方が無駄であるというわけでもない。

 それぞれが、それぞれの軍としての在り方の根底にある思想をもって、訓練期間が定められている、というだけの話なのだ。

 だからこそ、今日初めて顔を合わせることとなった五人の同期生について、武たちは優越感を抱くことはないし、今までの二年間を無意味なこととも思わない。

「あっ、白銀おそ~いっ!」

 教室に辿り着くと、丁度茜がスライド式のドアを開けて出てきた。新しい教導官がやってくる時間にはまだ若干の余裕があったのだが、流石に元分隊長。しっかりしている。

「おぉ、悪ぃ悪ぃ。そう怒鳴るな」

 くしゃくしゃと茜の頭を撫でて、抗議の視線を避けるように室内へ。とっくの昔に見慣れた晴子、多恵、薫、亮子たちに、まだ名前も知らない五人の少女たち。それぞれの視線が武に集中し、なぜか頬を紅潮させる茜に集中した。

「あっはは。白銀君遅かったね。迷子になったんじゃないかって茜が心配してたよ」

「ちょ、ちょっ、晴子~っ」

 椅子に座ったまま、いつもの調子で晴子が笑いながらに余計な一言を発する。慌ててその口を塞ごうと晴子に詰め寄る茜。その二人に混ざろうとこちらも要らぬ一言を発しながら近寄る多恵。それを愉快と微笑ましく眺めるのが薫と武であり、彼ら全員をにっこりと見守るのが亮子だった。

 そう。変わらないいつもの六人の有り様。二年間を共に過ごし、競い合い、支え合い、一緒に歩んできた彼ら。

 その彼らから取り残されたように五人の少女達は立ち竦んでいる。……どちらかと言えば突然始まった騒ぎに面食らって呆気にとられているというべきか。

「……っと、ああ、悪いな。俺達だけ騒いじまって」

 その彼女達の様子に気づいた武が、声を掛ける。半ば呆然としてた彼女達はその言葉にハッとして、

「い、いえ……仲いいのね……」

 眼鏡をかけたおさげ髪の少女がどこか困惑したように返事をする。初対面の相手を前に、緊張しているのだろうか。――或いは、疎外感を与えてしまったか。

 武はぽりぽりと頬を掻きながら、騒いでいる晴子に視線を飛ばす。その意図を汲み取った晴子は茜をからかうのを一旦止め、椅子から立ち上がると先ほどの眼鏡の少女の前に立った。

「あはは、ごめんごめん。うるさかったよね? 茜ってば白銀君のことになるといっつもさぁ……」

「晴子ッッ!!」 「え? 俺?」

 さらりと紡がれる言葉に茜は更に反応し、武は自分の名が出たことに驚く。というか、今の晴子の発言は武が求めていたようなものでは断じてないッ。

 がっくりと肩を落とす武に薫がべしべしと背中を叩き、

「ばっか白銀~。晴子がお前の思い通りに動くわけないじゃん」

「そうだな。俺が莫迦だったな」

 かつての自分達のように、晴子の持ち前の気安さで彼女達と打ち解けるきっかけを作ろうと考えていたのだが……愉快なことを求めて行動する彼女にそれを求めた時点で間違えていたのかもしれない。

 やれやれと肩を竦める薫に若干恨めし気な視線を向けるものの、相変わらず呆然とするだけの彼女達がいい加減気になってしょうがない。ここは一つ自ら行動すべきかと気を取り直した武だが、その瞬間、ガラガラとドアが開かれる。

「――まったく、貴様達は。相変わらず騒がしいな」

「……ぇ?!」

 現れたのは黒い国連軍の制服を着た女性。ウェーブの掛かった薄茶色の髪を腰元まで流し、不敵に唇の端を吊り上げて。聞き覚えのあるその声で――。

「じ、神宮司教官ッッ!?」

 叫んだのは武。だが、武以外の元207部隊の彼女達も一様に驚いた表情をして――瞬間、彼らは姿勢を正し、敬礼する。

「ん……ふふ、久しぶりだな? なかなかいい顔をするようになったじゃないか」

 身に纏う制服こそ国連のそれだが、教壇に立つ彼女は紛れもなく神宮司まりもその人だった。かつての帝国軍横浜基地で武たちの教官を務め、BETA侵攻によって教官から衛士として前線に復帰したまりもが、今度は国連軍に所属し、こうしてまた武たちの教官を担当するという。

 まるで、彼らの教官はまりも以外にありえないという誰彼かの思惑が働いているとしか思えない人事だった。

 まりもは一堂に会する元教え子と、新たな教え子たちの顔を一通り見渡す。特に、あんな形で教官の任を離れることとなった武たちに対しては人並みならぬ感情がじわりと込み上げてきたが、それを微塵にも出さず、不敵な表情のままで。

「私は国連軍衛士訓練学校の教導官を務めている神宮司まりも軍曹だ。これからの二年間、貴様達訓練兵が一人前の衛士となるために必要な知識・技能・訓練を教導する。――最初に断っておくが、これからの日々は今までの生活と全く異なるものとなる。一般人でしかなかった貴様達が戦場に出てBETAと戦う衛士となるためには、生半可な覚悟では達成できないだろう。当国連太平洋第11方面軍横浜基地が極東方面防衛の要であることは既に知っているだろうが、ここは世界情勢から見て最も重要な拠点のひとつだ。貴様達はその栄誉ある横浜基地の最初の訓練兵だ。そこに求められるものをよく考え、理解し、これからの訓練に臨め、いいな!」

「「はいっ!!」」

 まりもの言葉に寸分の遅れもなく返事をする武たちにコンマ遅れて、新任訓練兵の少女達が続く。まりもは一つ頷いて、いつかのように基地内部の案内を提示した。自分たちがどんな場所にいるのかを知ることも衛士にとって重要な務めである。そんな言葉を思い出して、武たちはほんの少しだけ微笑んだ。

 巧く言葉に出来ない感情が僅かに胸中に波を起こす。それはとても心地よい柔らかな波で……再び彼女の下で訓練できる嬉しさに、知らず、頬が緩むのだった。







 そして足早に基地内を巡ったにも関わらず午後の訓練時間は既に終了。実に五時間近くかけ、それでもまだ訓練兵が立ち入り出来ない施設も在るというのだから、その規模の大きさは半端なものではない。また、この横浜基地はどの施設も総じて地下に主要な設備を持ち、地表に出されているものなど飾りだといわんばかりである。。

 そんな大規模な基地に似合いな、これまた広々としたPXにて、武たち総勢十一人の訓練兵は夕食を採りながら互いに自己紹介を始めていた。

「……で、俺が白銀武。まぁ、何となくわかってるんじゃないかと思うんだが、俺達六人は元々帝国軍の訓練校にいてな、同期なんだ」

「成程……そなたたちの仲のよさはそういう理由からか」

「そうね。二年も前から一緒に過ごしてたんだもの……私たちが入り込めないのも無理ないわ」

 武の簡単な説明に頷いたのは紫紺の髪を後頭部で縛り、ポニーテールのように流した少女と、眼鏡をかけた三つ編みお下げの少女。

「じゃあ、今度はこちらの番ね。……私は榊千鶴。私は衛士となるために国連軍へ志願したわ。……あなたたちと同じかしら。これから二年間よろしくお願いね」

 眼鏡をかけた少女が正面に座る武に、そしてその横に並ぶ茜たちに微笑みかける。若干の硬さを感じたが、それも慣れれば気にならなくなるだろう。続いて、千鶴の左隣の紫紺の髪を持つ少女が口を開く。

「冥夜だ。御剣冥夜。苗字でも名でも、好きなほうで呼ぶがよい。――私も、衛士となるためにここに志願した口だ。そなたたち志を同じくするものと共にこれからの時を過ごせることを、嬉しく思う」

 ゆったりと腕を組み、少々硬い言い回しでの挨拶。だが、聞く者を不思議と惹きつける声音はとても凛々しく、そして似合っていて……彼女が只者でないことを示していた。

「珠瀬壬姫ですっ。えっと、が、頑張りますので、よろしくおねがいしま~すっ!」

 打って変わってこちらは大層幼く見える少女。亮子よりも背の低い壬姫は、とても特徴的な髪型をしている。まるで猫かそれに類する動物の耳にしか見えない形をしたくせっ毛がよく似合っていた。

「……彩峰慧……よろしく」

 ぼそりと呟くように。そんな口調に合わせるかのように、掲げられた右腕が若干脱力している。“よろしく”の言葉と共に上げられたことから、どうやら彼女なりの挨拶なのだろう。

「美琴です。鎧衣美琴! よろしくね、みんなっっ」

 こちらは元気よくハッキリと。ややボーイッシュに見えるショートヘアの彼女はニコニコと上機嫌だ。

 そして、これで一通り名前が判明した。ならばこれからはお互いのことを少しずつ知っていくときだ。新たに出逢った少女達は思い思いに話題を挙げては談笑し、少しずつ柔らかな雰囲気を作っていった。無論武とてその中に入っているが、彼にしてみればいきなり同期の女子が倍に増えたのである。ただでさえ癖のある少女達に振り回されてきた身としては、今後の自分の立ち位置というものをよく考えなければなるまいと密かに誓う。

 そんな風に賑やかに食事を終えて……親睦を深めるためにそのままPXで少し遊ぶことになった。

 おはじきにけん玉、将棋、お手玉と、思い思いに、むしろ手当たり次第に遊具を運び、遊びに興じる。コミュニケーションは大事だと言ったのは誰だったか。

 その中でも特に茜と千鶴は互いになにか通じるものがあったのか、いつの間にか意気投合し、共にお手玉で遊んでいる。晴子と多恵は慧、壬姫とともにおはじきで対戦中。薫に亮子、そして美琴は、美琴の手持ちのあやとりで様々な形を創作中。そして、武は冥夜が差し出した将棋盤とにらめっこしている。

 そんな折、ふと、武は冥夜の顔をじっと見詰めた。凝視する、というほどのものではない。……何となく気になって、否、そうではなく。「どこかで見たことのあるような」気がしたのだ。

「ん? ……なんだどうした。私の顔に何かついているか?」

「ぅえ?! い、いや……そういうわけじゃ……」

 盤上ではなく対戦相手の顔を凝視していたのだ。気づかないわけがないし気にならないはずもない。問われた武は一体どうしてそんな風に感じてしまったのか、内心で首を傾げる。

 日本人形のように整った顔、きりりと吊り上がった瞳は凛々しく、そこに秘められた意志を感じさせる。形のよい唇は薄っすらと桃色に色づいていてなんとも艶やかだ。

 ――ハッキリ言って、美人である。

 無論、今まで武と共に過ごしてきた茜たちも相当に器量良しであるが、それ以上に、冥夜という少女には品がある。……まるで怜悧な刃のよう。

「す、すまん。なんか、どっかで見たような顔だと思って……でも、勘違いみたいだな。どう考えても俺とお前は初対面だ」

 誤魔化すように頭を掻いて、苦笑する。だが、その武の言葉に少しだけ表情を曇らせたのを、彼は見逃さなかった。

「悪い……なんか、気を悪くさせちまったな……」

「い、いや! そなたが気にすることではない……。私の未熟さが悪いのだ」

 神妙に謝罪する武に、冥夜はかぶりを振る。最後の一言はまるで噛み締めるようで……武は興味本位で彼女の領域に踏み込んでしまったことを恥じる。

「さてっ! ここらで一丁本気を出すとするか!? さっきの負けは手加減してやったんだということを教えてやるぜっ!」

「……ほぅ……そなた、先の勝負は手を抜いたと申すのか? ふふ、ならばよい。それほど言うなら本気とやらを見せてもらおうか」

 無理矢理に話題を変えた武に、戸惑うことなく追随する冥夜。触れて欲しくない話題という武の読みは当たりらしい。――だが、この時点で武は御剣冥夜という少女のことを読み違えていた。

 否、知り合ってまだ一日と経っていないのに、それを理解しろという方が困難なのかもしれない。

 だが、武は話題を変えるためとはいえ、見事に地雷を踏んだ。

 落ち着いて冷静に彼女の表情を窺っていれば気づけたかもしれない。しかし、武は先ほどの失敗を拭うのに必死で……それに気づけなかった。――そう、その強い意志を感じさせる瞳が「ギラリ」と獰猛に輝き、艶のある唇が「ニヤリ」と不敵に吊り上がったのを。



「――王手!」

「ぎゃああああああああっっ」

「――王手、飛車とりっ!」

「ノォォォォオオオオオ!!」

「――これで王手だっ!!」

「ひぃいぃいいいっっ?!!」



 そう。彼女は手加減されることが一番嫌いだったのだ。







「酷いわね……」

「燃え尽きてる」

「真っ白だね~」

「ですね~~~」

 真っ白に燃え尽きて灰になった武が、惨憺たる有り様の将棋盤を前に鎮座している。

 小一時間にも及ぶ連戦。実に十六戦にも及ぶ勝負の全てを完敗。文句のつけようなど一切ない、手加減容赦全く無しの超一方的な戦局は、ほかの皆が注目し息を呑み開いた口が塞がらないくらい酷いものだった。

 風が吹けばどこかに飛ばされていきそうな武に、千鶴、慧、美琴、壬姫らが唖然とした表情で呟く。そんな彼女達の隣りで同じように言葉もないのは茜と亮子だ。二人とも、同情と哀れみの視線を武に向けている。

「あっははははははは! いや~、すごいすごい。見事な負けっぷりだね~白銀君!」

「流石にこれはないよなぁ。いやいや、どうやればこんなことになるんだかっ! 玉の周りに飛車・角・金・銀・桂馬に歩!!」

 しかも最終戦は開始からキッカリ五分で終了している。

 茜は最早、冥夜の圧倒的強さを恐れればいいのか武のあまりにも無策な勝負に呆れればいいのかわからない。――いや、まぁ。敗北に次ぐ敗北で、完全に冷静さを失っていた武を哀れと思えばいいのだろうか。

「御剣さんも容赦ないね~っ! こう、見てて気持ちいいくらいスッパリやっちゃってさっ」

「ぅ、そ、そのようなことはない。……こ、これはその、真剣勝負なのだっ。…………多少その、やり過ぎたやも知れぬが……」

 目尻に涙を浮かべながらに爆笑する晴子に、冥夜は若干焦ったように弁明する。

 その反応にそそるものがあったのだろう。晴子は新しい玩具を手に入れた子供のようにちくちくと冥夜を弄りはじめる。哀れ、彼女は新たな標的となってしまった。

 そんな晴子の暴走を止めるでもなく、茜と薫が武の肩を揺する。魂が抜けかけていたように見えたのは激しく気のせいだと自身に言い聞かせ、お~いと呼びかける。

「白銀~、生きてる~?」

「死んでるなら返事しろ~っ」

「いや、死んでたら返事できないわよ。第一、死んでるわけないでしょう?」

「……すごいね。死んで返事できるんだ」

「えっ? タケルってそうなの!? すごいねぇ~」

「え、えっと……にゃはは、それはさすがにないよ~」

「ははぁ、白銀くんはすごいんだねぇ」

 冗談交じりに笑う薫に千鶴が呆れたように溜息をつき、敢えてその言葉を無視して呟く慧に、どこまで本気なのかわからない美琴が感嘆し、それでもまともな思考を持ち合わせているらしい壬姫がフォローしたにも関わらずスルーするのが多恵だった。

 そのやり取りを見て、茜は頬を引き攣らせるほかない。

 ただでさえ個性派が揃っていた自分達だったが、この五人……特に慧と美琴の二人は、とてつもなく……そう、それこそ晴子の悪い癖が数倍もマシに思えるほどに、曲者のようだ。

 それも個性と言ってもいいものか。否、そんな簡単な物じゃない。

 どうやら慧は率先して常識から外れることを好み、……美琴は、あれはもう天然なのではないだろうか。

 無論、多恵も負けてはいないことを付け加えておく。

「だ、だからっ! 私はっっ!!」

「あははは、いいっていいって。御剣さんのこと、よぉ~っくわかったから」

「か、柏木ぃ~っ」

 そして未だにじゃれあう二人。茜はハ、と少し疲れたような溜息をついて。意識がどこかにとんだままの武の肩に手を置く。

「白銀~、起きてってば~っ。も~、こんな状況、あたし一人でどうしろっていうのよ~~っ」

 ゆすゆすゆさゆさ。何度揺すっても武の魂は戻らない。

 そして、既に混沌としたものになりつつあった彼女達の懇親企画は、消灯時間まで延々続いたという。







 そしてようやく自室のベッドに横になったとき。

 美琴が何気に武のことを下の名で呼び捨てにしていたことに気づく茜だった。







[1154] 復讐編:[四章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:95f33094
Date: 2008/02/11 16:12

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:四章-04」





「さて、今日から貴様達は本格的に訓練を開始するわけだが……その前に隊を二つに分割する。多人数が集い行動する中、如何に統率を乱さず一つの目標に向かって進むか。そのためには隊を総括する人物、つまり貴様達で言えば分隊長だが……これが必要だということはわかるな」

 まりもは教壇から席に着く十一名を見渡しながらに説明する。内容はいたって簡単。この中から誰か隊を纏める人物を選出する。ただし、現在彼らは十一名。一人の訓練兵が同じ訓練兵を、自分以外に十名も統率しなければならない。基本的に隊員――つまり訓練兵だが、彼らの精神的・肉体的なケアは教導官が行う。だが、教官とて常に彼らの状態を把握できているわけではないし、場合によっては同じ歳の同期生の方が向いていることもある。――なにより、いずれ衛士として任官し、戦場に身を置くことになればいずれ部下を持つことにもなろう。ならば、訓練兵の段階から少しでもその役割をこなすことで経験を積んだなら、これも立派な訓練の一つというわけだ。

 武たちでいえばそれは茜の役割だった。訓練部隊は六名で編成され、彼女はこれまでの二年間を分隊長として務めた実績を持つ。

 しかし今回横浜基地訓練校に入隊した彼らは十一名。如何に分隊長の経験を持とうとも、或いは初めてその任を与えられようとも……同時に十名の状態を把握することは難しいだろう。逆に、そのことが分隊長の負担となる可能性もある。

 故に教導官であるまりもは部隊をA分隊、B分隊の二つに分け、それぞれに分隊長を一人選出することを説明した。

 ちなみに、余談ではあるが、彼ら帝国軍横浜基地衛士訓練校第一回生十一名は第207衛士訓練部隊に所属している。武たちにしてみれば馴染み深いその名称だが、そこに入隊時にも感じたなんらかの思惑を感じずにはいられない。

 ……帝国軍に訓練兵として志願入隊したそのときから、まるでこうなることが決まっていたような……誰かの敷いたレールの上を走らされているような気がするのだった。――無論、そんなことを感じたところで口にすることも無く。

「では、各分隊のメンバーを発表する」

 全員の顔に納得の二文字が浮かんだことを確認し、まりもは手元のクリップボードを見ながらA分隊のメンバーから読み上げた。

「まずA分隊。涼宮、柏木、築地、立石、月岡……以上五名。分隊長は涼宮」

「!?」

「えっ?」

 驚いたのは武と茜。前者は当然最後に呼ばれるだろうと思っていたのが外れたことに。後者は、彼と離れるなどと思いもしていなかった故に。

 晴子や多恵たちも声には出さずとも相当に驚いているらしい。驚愕と困惑の視線が武とまりもを行き来し、しかし教官の決定に異を唱えることも出来ず……まして、反論する理由すら思いつかなかったのだから、なんだかもやもやした気持ちを持て余したまま、残りのB分隊の発表へ移る。

「次にB分隊。榊、御剣、彩峰、珠瀬、鎧衣……白銀、以上六名。分隊長は榊」

「は、はいっ」

 矢張りというか当たり前というか。A分隊で呼ばれなかった以上、武はその時点でB分隊ということが確定している。だが、本人も茜たちもなんだか奇妙な感覚に、お互い顔を見合わせては首を捻った。

 そこに、207B分隊を任された千鶴が、おずおずと手を挙げる。まりもが許可し、千鶴は矢張り困惑した表情で武たちの思いを代弁した。

「あの、今回の部隊編成にあたって……なにか、選出の基準などはあったのでしょうか?」

「……なんだ、分隊の編成が気に入らないか?」

「い、いえっ! そういうわけでは……」

 からかうようなまりもの言葉に千鶴は思わず縮みこむ。その千鶴の様子を無視して、まりもは武に視線を向けた。いきなり視線を合わされた武としては狼狽するほかなく、続けて発せられるだろうまりもの言葉に身を固くする。

「榊、貴様が言いたいのは、つまり白銀たち元帝国軍訓練校出身の者達はそのまま一纏めにしたほうがいいのではないかと、そういうことだな?」

「は……はい。彼女達は今までの二年間を共に過ごしてきたのだと聞きました。それに、……彼女達を見ていると既にチームとして確立されていて結束も固く、分隊単位で隊を分けるなら、そのほうが効率がよいと思います……」

 少々怯みながらも、自分の考えを口にする千鶴。隣りに座る冥夜も同じように頷き、まりもの反応を窺っている。武は千鶴の意見に賛成だ。今まで同じ部隊でうまくやってきたのだし、――なにより、武が立ち直れたのは彼女達がいつも傍で支えてくれたからだ。その恩もあるし、それ故に思い入れが強い。ここで隊が分けられたからといってあっさりと切れてしまう関係ではないが、それでも、同じ時を過ごしたいという想いは在る。

「ならば逆に聞くが、貴様達は任官した後もそうやって仲良しグループで行動するつもりか?」

「「!?」」

 まりもの瞳が細く鋭いものに変わる。任官した後……つまり、国連軍衛士として各部隊へ所属が決定した後。その時々の情勢にも依るかも知れないが、基本的に同期の訓練兵が全員揃って同じ部隊に配属されることは少ない。つまり、周り全てが知らぬ者、初対面の先任衛士たちの中に放り込まれるのである。そんな中、かつての同期のことばかりを思い或いは比較し、新しき仲間となった人々と距離を置き……チームとして行動できないのではまるで話にならない。

 確かにチームとして、或いは深く通じ合った仲間として完成するには時間が掛かるだろうし、既にそれが築かれているのであればそのままで十分にお互いの力を発揮できるだろう。

 だが、事実としてゼロからの関係を築き上げていかなければならない時がくるのだ。

 自分のことを知らない、自分も彼らのことを知らない……そんな、ある意味当たり前の状況を如何に巧く乗り越え、いち早く仲間として溶け込むか。

 これはそんな人間関係を模索するための訓練とも言える。――もっとも、まりもからしてみればこんなものは訓練でもなんでもなく、人と付き合う上で極々当然のことであり、彼らとてそれに気づいていないはずはないのだ。

「確かに白銀たちはこの二年間同じ部隊で訓練を行ってきた。私自身、約半年とはいえ面倒を見てきたんだからな。それはよく理解している。だが、そろそろ貴様達も次のステップに進むべきだろう。榊たちには悪いが、この部隊編成にはそういった意味もある」

 次のステップ――。武はどきりとした。

 自分の瞳を真っ直ぐに見詰めてくるまりもに、心の底が見透かされているような錯覚を覚えたためだ。

 武自身、茜たちと離れることに抵抗がないわけではない。否、むしろ共にありたいと感じた。

 それは先の通り、幼馴染の彼女を喪った自身を支えてくれ、手を差し伸べてくれたことが理由として大きい。……だが、まりもは「次のステップ」と言った。

 ひょっとすると彼女は、北海道での一連の出来事を承知しているのではないだろうか。

 その時の武を知り、茜たちを知っているのであれば、その言葉の意味するところも――理解できる。

 つまり、武自身には精神的な強さを。

 支えられ、差し伸べられた手を掴むことは決して悪いことではない。所詮人間独りでできることなど限界があるし、独りで抱え込むことに利点など一つもありはしない。

 だが、いくらそれが自身にとってプラスの要素を持とうとも、それに縋り、或いは頼りきり……自己の精進をやめたとき、その人間は堕落する。支えられることに慣れ、引っ張られることに慣れてしまい、自ら動くことができなくなってしまう。……最悪、独りで居ることに耐えられなくなる不安定な精神状態になる危険性も孕むのだ。

 無論、それらは相当に重度の状態であるが、周囲の人間に頼る癖がついてしまうとそれをなかなか乗り越えられないのも事実。

 ならばここらで一度自身の状態をリセットし、もう一度自分の足で歩き始めるのもいいだろう。

 まりもはそういうことを言っているのだと、武は解釈し、納得した。

 また、茜たちにとっても、まりもの指摘する部分は的を射ている。

 彼女たちの場合は武とは逆に、手を差し伸べること、支えとなることに慣れ過ぎてしまう可能性がある。

 仲間を思い、大切にしたいという気持ち、それはいたって健全で、そして実に美しい感情だろう。苦しみ、喘いでいる仲間がいるなら自分がそれを支えて力になりたいという感情。人間として至極当然の感情からくるものだが、矢張りこれもそのことに慣れすぎると悪い面も出てくる。

 つまり、仲間にかまけるあまり、自身が疎かになってしまう可能性。そして、深く接するあまりその人物の状態に引き摺られる可能性。

 確かに仲間は大切だろう。それが特別親しいものならばな尚更だ。だが、その人を支えるためにはまず第一に自身の状態が万全とまではいかずとも、それなりに安定していて然るべきだ。そうでなくては力になどなれない。

 それともう一つ、これは先の例と共通する面もあるが、手を差し伸べるあまり、その人物が自ら歩む道を刈り取ってしまう可能性。例え仲間のためとはいえ、その人物が自身に頼りきりとなってしまうのでは意味がない。

 要するにバランスが大切なのだ。何事も行き過ぎはよくないというわけである。

 そんなつもりはないと思っていても、しかし事実として……少なくとも茜にはいつまでも武の傍で支えとなってあげたいという感情があった。

 まりもはそれを危惧しているのだと理解する。

「……質問はないようだな? ならば、今日より貴様達はそれぞれ207A分隊、同B分隊として訓練を行う。……今更だが、特に別々に訓練を行うこともないし、どちらか一方だけ特殊な訓練内容となることもない」

 それはそうだと武は頷く。教官はまりも一人なのだし、部隊が二つに分かれたとはいえ別々に訓練していたのでは効率が悪い。

 あくまでも分隊長の負担軽減、そして新メンバーでのチームとして成長すること……後は、付随効果として今までの関係を惰性で続けてしまわないようにという配慮。その結果である。

「では、今から十分後にグラウンドへ集合するように」

「敬礼!」

 茜の号令で一斉に敬礼。答礼すると、まりもは颯爽と教室を後にした。

「…………」

 訓練のために着替えなければならないが、武は何となくまりもが立っていた教壇を眺めた。

 立ったままぼんやりしている彼に茜が、そして晴子たちが寄ってきて、

「どうしたの? 白銀」

「ぁ、ああ……いや、別に」

「別に、ってことはないよねぇ」

「うん……あ、ひょっとして茜ちゃんと離ればなれなのがショックなのかな?」

「た、たた多恵!?」  「ぶっ! んなわけねーだろっっ!」

 腕を組み神妙な面持ちで唸る多恵に、顔を真っ赤にした茜の手が伸びる。しかしそれはあっさりとかわされたり回避されたりにゃんにゃんと避けられたりして一向に多恵を捕らえるに至らない。

 同時に、思わず噴き出してしまった武は晴子と薫の餌食となっていた。

「あっははは、珍しいね、白銀君がそんな反応するなんて」

「あ~、知らなかったぜ。白銀は割りと寂しがりやだったんだな」

「ち、ちち違うぞ、断じて違うッッ! そ、そりゃちょっとは驚いたりしたけど、神宮司教官の言うことは尤もだろ」

 からかう素振りを見せた晴子と薫、そして彼女達の背後にいた亮子も、武の言葉に苦笑する。――確かに。そう、心中で頷いているようだった。

「……別に、俺はお前らにべったり甘えてるつもりはないけどさ……やっぱり、どこかでそのことに対して安心していた部分も在るんじゃないかって、そう思った」

「うん」

「お前らにはホント感謝しても仕切れないんだけどさ。……ま、それはそれとして。一人前の衛士になったらバッチリお返しするってことでさっ」

「あはは、そうだね。私も内心痛いところを突かれた、って思うんだよね」

「……そうだな。流石に教官なんてやってないよ、こっちの状態なんて完全に把握してるんだろうし」

「そうですね。白銀くんもわたしたちも、より一層成長するためには、必要なことかもしれませんし……」

 武の言葉に嬉しくも少し寂しく、けれど亮子の言うとおり、或いはまりもが言外に込めたとおり。彼らは、ここで一つ上の段階へ成長すべきなのだ。

 武は彼女達から離れることで。

 彼女達は武から離れることで。

 別々に過ごすわけでも、お互いの立場を違えるわけでもなかったが……このことは、十分に「きっかけ」として効果を発揮する。

 互いに先へ進み、より成長するために。なにより、新しい仲間達と共に進むために。

 少年少女たちは互いに頷いて、笑顔を見せた。

 そして、なんだか穏やかで暖かい空気が流れ、ゆったりとした雰囲気の中、

「んののののっっ!? 茜ちゃんがぶったぁあ!? いたいいたいっっ、ごめん、ごめんね茜ちゃん~~っ!!」

「今日という今日は赦さないわよ多恵ぇええ! いっつもいっつも、あんたは一言余計なのっっ!!」

 実に、ぶち壊しだった。

「………………さて、いい加減着替えてグラウンドに行くか。――あ、お前らアレどうにかしろよ? 分隊長が就任直後に遅刻なんて、洒落にならん」

 武の言葉に晴子の表情がハッとしたものに変わる。見れば既に教室にはB分隊の面子は居らず、そして武も足早に去ってしまった。

 ならば今ここに残るはA分隊のみ。更に悪いことに後五分で集合時間。薫と顔を見合わせるまでもなく、彼女達は怒れる我らが分隊長を宥めすかすべく奮闘するのだった。







 ===







 矢張りというべきか否か。

 基礎体力向上のためのグラウンド十周を終えたその時点で既に、207A分隊と207B分隊には差が見られていた。

 いや、同じB分隊の中でも武と他の少女達の間で、その差はもっと顕著なものとなって現れている。二年間の基礎体力作りができている茜たちA分隊並びに武は全く疲労を見せることなく。自身で鍛錬でも積んでいたのだろう冥夜、慧の二人は程よく息を弾ませている。膝を折るように息を整えるのが残る千鶴と美琴、壬姫の三人だった。

 同年代の男女で比較した場合、統計的にも男子の方が体力・筋力共に優れてはいる。武と茜たちを比較してもその差は僅かにだが現れているため、彼と冥夜たちを比較するのは妥当ではないかもしれない。しかし、ならば茜たちA分隊と冥夜たちB分隊の女子を比較した際、こうして目に見えている差は、矢張り単純に鍛えようの差、ということになるだろう。

 十五歳からの二年間。成長期でもあるその時期、にそれこそ毎日のように訓練に明け暮れていたのだ。同じ時を、例え自主的に鍛錬を積んでいたのだとしても、明確な目標に向かって、専門の教官の指導の下で訓練していた者と同列に並ぶのにはいささか至らない。むしろ、この時点で同等であるならば、それはあまりにも茜たちにとって衝撃だったに違いない。

 故にA分隊の彼女達は内心で安堵するし、同時にそんな風に考えてしまった自分達を恥じ……反省したなら、より自身を磨くのみ。

 同じく、B分隊の面々も二年間の差を痛感し、それを知った上で追いついて見せると意気込む。

 お互いに強い意志を持つ少女達である。いい意味での刺激が、その表情の中には窺えた。

 だが、武が驚くのはその少女達の気概ではない。――御剣冥夜、そして彩峰慧。

 この二人。それなりに疲労しているようだが、十周を走り終えるそのときまで決して武から遅れることがなかった。別段、武が特に足が速いというわけでも、彼が自惚れているわけでもない。そこには、かつての訓練の日々で茜や薫といった体力的に恵まれている彼女達でさえ五メートル近い差を埋められないでいた事実がある。

 それなのに、冥夜と慧はまだまだ余力を残したように見えながら、武と数秒も違わずにゴールしていた。

 ハッキリ言って、脅威だ。

 男のプライドなどではなく。純粋に、この二人はとてつもないものを秘めているのではないかと想像してしまう。

「よぅし! 休憩は終わりだ! 全員、再度グラウンド十周ッ。先ほどのタイムより遅れた者には追加五周だッ!!」

 懐かしいなどと思わず感じてしまった武。この容赦の無さは、札幌にいた頃の教官……熊谷にはないものだった。彼はどちらかといえば大らかに、ゆっくりと、それでいて効果的な訓練を心掛けていたように思う。……別に、まりもの訓練がスパルタだというわけでは断じてない。

「よ、っと。んじゃ、さっくり走るとしますかッ」

「……ぬ、そなた、随分と余裕だな」

「…………余裕余裕」

 一人ごちた武に冥夜と慧がそれぞれ反応する。ん、と武は彼女達に振り向く。先発はA分隊なので、彼女達が一周するまでの間、若干ではあるが間が空いた。

「別に余裕ってわけじゃないけどな」

「しかしそなた、全く息が乱れておらんではないか。……矢張り二年間という時間は大きいということか。私もまだまだ精進が足りぬ」

「おいおい。そんな大層なもんじゃねぇだろ。第一、訓練初日でいきなりグラウンド十周なんて、俺達全員揃ってへばってたんだぜ? それに比べりゃ、お前ら全員、断然俺たちよりすげーって」

 神妙な顔をする冥夜に、武は本気で首を傾げながら言う。その言葉に千鶴が苦笑し、

「白銀の言いたいことはわかるけど、……それでも、現に私たちは貴方たちに及ばないのも事実でしょ」

「だからぁ、そんなのしょうがないだろ? というかだな、そのために訓練があるんだから、どっちが上だの下だの、及ぶ及ばないなんて話が出る時点でおかしいんだって。――ほれ、さっさと俺達も行くぞ」

 目の前を茜を先頭に薫、晴子、多恵、亮子が走り過ぎる。最後尾の亮子に並ぶように武が列に合流し、あ、と慌てた様子で冥夜、千鶴が続き、先ほどと打って変わって急にマイペースになった慧、疲労を残した状態の美琴、壬姫と続く。

 二回連続の持久走である。体力のない者にはいささか辛い。身体も小さく、見るからに体力に恵まれていない壬姫と美琴の両名を、武は四周目にして追い抜いた。そのとき、かつての亮子を思い出して――ああ、それでも矢張り自分達はこの二年間で成長しているのだと実感する。

 二年間という時間は大きいと冥夜は言った。

 確かにそのとおりだと武は頷く。帝国軍と国連軍の訓練期間の差でもある、実に七百日以上の日々。そこには絶対に埋まらない何かがあり、それが差として現れる。

 だが、だからといってそれだけに着目して優劣を決めるのは些か早計だろうし、衛士としての差にはなり得ない。

 第一、訓練はまだ始まったばかりなのである。その時点で二年というアドバンテージを持つ武たちに劣るのはある意味当然で仕方がないことでもある。だが、それを悔しいと思うなら、これから鍛えればいいのだ。十六、ないし十七歳という年齢は、成人となる前に爆発的に心身組織が成長する時期でもある。その期間を、優秀な教導官の下で限界まで鍛えぬいたなら……恐らく半年と掛からずに、彼女達は武たちに追いつくのではないだろうか。

 それ以外にも、人には得手不得手がある。今行っているのは言ってしまえばマラソンだ。地を蹴って走るだけである。無論、その中には全身体力の強化や脚力増強といった目的があるわけだが、それを無視したならばただ走るだけである。

 走ることが苦手でも、例えば射撃が巧かったり、或いは様々な知識を有していたりと、それぞれ得意分野があるだろう。

 ならば、まずはそこを基点として自身を形成し、その上で自身の劣ると思われる点を鍛えていけばいい。

 つらつらとそんな毒にも薬にもならないようなことを考えていると、不意に背後から規則正しい呼吸音が聞こえてきた。

 ちらりと振り返れば冥夜が先ほど以上に距離を詰め、正に武を抜き去ろうとしている。大した体力だと、真剣に武は感嘆した。

 先ほども感じた脅威。冥夜に……スタート時点では確かに出遅れていたはずの慧も、殆ど密着した状態で走っている。武は、少しだけ彼女達の本気を見てみたいと思った。

 まりものやり方から言って、この後まず間違いなく突撃装備での五キロ、ないし十キロ行軍があるだろう。若しくはひたすら走り続けるか。

 それを知っている武だが、ほんの少しだけ、悪戯心にも似た興味が湧く。残り五周。その間に、彼女達二人の本気を引きずり出す……つまり、後先考えない全力疾走だ。

(問題は御剣たちが乗ってくるかだが……)

 だが、その点は心配要らない。武は昨日の一件で冥夜という人物が実に好戦的であると理解している。……無論、それが全てではないのだろうが、武からしてみれば冗談交じりの手加減で燃え尽きて灰になってしまうほどに叩きのめされたのである。つまり、彼女は舐められることを嫌うということだ。

 気がかりなのは慧だろうか。どこか不思議な雰囲気を持つ彼女。物静かで感情をあまり表に出さないよう見えるが……しかし、淡々としつつそれでいて冥夜と競り合っているあたりに実は負けず嫌いな印象を受ける。

 ならば、やってみるかと武は頬を吊り上げた。ニッとした表情で首だけを振り向かせて、

「なぁ、御剣、彩峰」

「……ッ、なんだ?」 「?」

 息を弾ませながら返事をする冥夜に、ん、と眉を寄せる慧。ほぼ横並びに走る彼女らに、武は続けて、

「実は俺はまだまだ余力を残してるんだが……それはお前達も同じだろ? ……なら、残り五周、本気で走ってみないか?」

「…ッ、なにを言い出すかと、思えば……ッ、そなた、訓練は遊びでは、ッ、ないぞ……」

「本気……余裕だね、白銀」

「おう。余裕だぜ。そして遊びじゃないことも承知してる。……単純にさ、興味あるんだよ。……お前ら、ここに来るまでも相当鍛えてただろ? 隠しても無駄だぜ。見りゃわかる。……だからさ、この二年間真面目に訓練やってた俺と、自主的なのか誰かの指導の下なのか鍛錬を積んでたお前らと……どの程度違いがあるのか知りたいんだ」

 ザクザクと地を蹴り飛ばしながら、スピードを緩めることなく走る。その間に一周を終え、残りは四周。全く息を乱さずに走る武に、冥夜も慧も、彼が余力を残していることは嘘ではないと気づいている。

 そして、それを踏まえたうえで先ほどの武の言葉の意味を噛み砕く。興味がある。衛士となるために軍隊に入隊し、鍛え上げた現在の武。同じく衛士となるために、しかしこちらは軍隊ではない場所で鍛えてきた冥夜、慧。

 それを比べるものではないと断言していたのは他の誰でもなく武自身なのだが……それでも矢張り気になるものは気になるということか。

 更に、その興味の根底には少なくとも自身が男子であることも絡んでいるのだろうと冥夜は推察する。ふふっ、と知らず笑みが零れる。――成程、わかり易い男だ。

「なんだよ。いきなり笑い出して」

「いや、すまぬ。……ッ、そうだな……そなたの実力とやらも、後のために見ておきたいものだ」

「勝ったらなにかあるの?」

 冥夜の笑みに思わず口を尖らせる武だが、彼女はどうやら同意してくれたらしい。続く慧の言葉には、適当に答えておく。

「勝者は敗者の晩飯から好きなおかずを取れる、ってのはどうだ?」

「「…………」」

「そ、そこで黙るなよ……」

「白銀、セコイね」



 ――グサァァアッ!!



 慧の言葉に、なにか得体の知れない衝撃が胸に突き刺さる。心底どうでも良さそうに言う慧に、思わず泣きそうになってしまう武だった。

「ええい、やかましいっ!! とにかく俺はお前らの本気を……ぉ?」

 言葉の途中で、ビュン、と冥夜が武を追い抜く。そのスタイルは短距離走のそれであり、次の瞬間には慧が一陣の風となっていた。

 ははは……なんだ、やる気じゃん。武は内心で呆気にとられながら、むくむくと湧き上がる意欲に、自身もギアを上げた。

「ぅっぉおおおおおおおおお!!」

 抜かれ様に抜き返し、三人が横に並ぶ。突然背後からありえないスピードで走ってくる武たちに驚き、前方を走っていた亮子は思わず道を譲ってしまう。困惑する彼女を尻目に、続いて多恵と晴子を抜き、先頭を行く茜、薫の二人さえ追い抜いて…………千鶴を周回遅れに、そして美琴、壬姫を更に追い抜いて……それでも三人は止まらない。

 はっきり言って莫迦丸出しである。

 グラウンドに設けられたトラックは一周400メートル。それを四周、つまり1600メートルを全力疾走しようというのだ。普通に考えて二周もしないうちにへばるだろう。……が、武はこれまでの二年間でそんな普通を既に超えているために。そして冥夜に慧は……全くペースの衰えを見せない武に、次第に冷静さを失って完全に乗せられていた。

 無茶無謀ともとれる果てしない全力疾走も終わり、武は盛大に叫びながらゴールした。

「っしゃああああああ!」

「くっ…………ハァ、ハァッ、ぁ、は……しろ、がね、そなた……ッ、ッぅ、」

「…………けっこう、…………キツイね…………」

 全身から汗を噴き出したまま、武は勝利を噛み締める。純粋に勝てて嬉しいという気持ちと、矢張りこの二年間は無駄ではなかったという確信、そして――彼女達の秘められた能力と実力に、知らず、興奮が止まらない。

(すげぇっ、すげぇよ御剣、彩峰ッッ!)

 武には尊敬すべき人たちが多く存在する。筆頭は紛れもなく水月であるが、同じ部隊の茜たち、教官であるまりもに熊谷……。だが、その彼女達のどれとも違う凄さを、この二人からは感じた。

 衛士となるために国連軍へ志願し、それまでにも自身の力で肉体を、精神を鍛え抜いている……その事実、凄さ。

 武は実感としてそれを知る。最後まで武に遅れることなく全力で走りきった彼女達を、よくわからない感情が「凄い」と讃えている。

 その努力と意志は――間違いなく、尊敬に値する。

「ははっ、すげぇ、すげぇよお前らっっ!」

 破顔する武に、冥夜は息を荒げながらも小さく笑い返し、慧はそっぽを向いて静かに微笑んでいた。

 春の強い風が吹いて、熱のこもる身体を冷ましてくれる。呼吸を整えた武が、何気に足を震わせている慧に気づき、晴子直伝のマッサージでもしてやろうかと口を開いたとき、視界の隅にいた冥夜の表情が真っ青に染まるのに気づいた。



 ――あ、ヤバ。



 その意味するところは一つ。そう、たった一つ。

 武は忘れていた。浮かれて感動して完全に忘却していた。

 二年前、これと似たようなことがあったことを。そして、彼女はそういうことを微笑ましく見守ってはくれないのだということを。

「随分と楽しそうだなぁ白銀……」

「は、はは……ははは、」

「あれだけ思い切り走れば、さぞ気持ちよかったんだろうな?」

「え、ええ…………それは、もう」

「後先考えずに全力疾走……それは若者特有の衝動のなせる業か?」

「そ、そうなんですよっ! これはもう、今しか出来ない汗と涙のッ、」



「莫迦者ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッ!!!!!」

「やっぱりいぃいいい!!」







 その後、何故か武だけ特別メニューが組まれ…………夕食の時間になっても、その姿を見たものは居ないという。







 ===







「だからっ、なんで俺だけなんだよぉおおおっっっ!! つぅか腹減ったぁああああああああッッッッ!!」

「つべこべ言わずに走れ走れ走れ走れェエエエ!!」

 既に陽が沈んだ宵闇のグラウンドに、悲痛な叫びを上げる少年と、鬼のような形相で吠える女性の姿があった。

 言うまでもなく、居残り中の武と、慈悲のカケラもないまりもである。

 訓練を終えてから既に二時間。延々走ったり装備を抱えて行軍したり走ったり筋トレしたり走ったり走ったり……。いかに鍛えられているとはいえ、それでも限界はある。

 なけなしの根性とヤケクソな気概だけで走り続ける武を、それでもまりもは容赦ない視線で睨みつけている。

 そんなまりもの横に、白いカチューシャをつけた橙色のショートヘアの少女がやってきて、

「白銀~~っ。白銀のご飯、おばちゃんに頼んで包んでもらってるから、心配しなくていいよ~っ」

「んなにぃいいっ?!! よくやった涼宮ッ! お前サイコーだ!!」

 暗闇の向こうから、武の叫び声が聞こえてくる。その言葉にえへへと頬を緩めるのは茜。胸にはたくさんのおにぎりが詰まった容器と、合成宇治茶の入った水筒。さらにはよく冷やしたタオルまで準備して、居残りという名の罰が終わるのを待っているようだった。

「……涼宮、何をしている?」

「えっ?! あ、そ、その…………だ、駄目ですか?」

 横目に睨んでくるまりもに、怯みながらも上目遣いで尋ねる茜。

 まりもの特別メニューで心身を酷使していながらに、更に追加で二時間以上の訓練。まりもとてこれ以上武を苛めても何の効果も得られないことはわかっている。どうして武があんな莫迦な真似をしたのかについても理解しているのだが……冥夜と慧がなにか言いたそうにしていたのを敢えて黙らせてまで武のみ特別メニューを強いたのは、実のところ彼女の中で武がどれほど成長しているのか興味があったからだ。

 ……いや、単純に興味本位で訓練を滅茶苦茶にした武への仕置きと、それ以上に次々に下される訓練メニューをなんだかんだと言いながら着実にこなす武に、思わず興が乗ってしまったというのが本音だろうか。

 そして、あまりにも中途半端な状態で教官の任を離れ……再びその教導を担当できる喜びが強く、まりもを衝き動かしていた。

 約半年。たったそれだけの期間しか鍛えることの出来なかったヒヨッコが、自分の知らぬ間に随分成長したものだ、と。内心でクスクスと笑っていたりする。――無論、そんな感情を表情に出すことなどなく。

「……まぁいい。そろそろ切り上げようと思っていたところだ。…………しかし涼宮、随分と白銀に優しいじゃないか?」

「ぅぇっっ!!?? い、いやっ、それはそのっ……ぶ、分隊長としてっ隊員の様子を見るのは当然のっ……!?」

 意地悪く口端を吊り上げるまりもに、面白いように慌てふためく茜。しかもその言い訳は苦しい。

「白銀はB分隊なんだがな。…………ふふふ、まぁいい。……しかし、一年会わない間に、貴様達も随分変わったものだ」

「……神宮司教官……」

 微笑むような、寂しいような……、そんな微妙な表情を浮かべて武を見るまりもに、茜は少しだけ胸が痛くなるのを感じた。まりもの下を、横浜を離れて一年以上が過ぎた。その間まりもは常に前線に立ち、一人の衛士として数々の戦場を渡ってきたのだろう。

 護ると言った横浜を護れず、……それでも諦めずに取り戻したこの地に再び教官として赴任して……。一体、その胸中にはどれほどの想いが溢れているのだろうか。

 茜にはとても想像もつかない。

「済まないな。他意はないんだ。――ただ、…………いや、なんでもない」

 ゆるゆると頭を振り、まりもは顔を上げる。眼前には食べ損ねた夕食の存命にはしゃぐように走る武の姿。いい加減、疲労が限界を突破してハイになっているらしかった。……その武にやれやれと苦笑し、――――ほんの一瞬だけ、前任教官の熊谷からのレポートに記されていた事項を思い出す。







 ――白銀武は斃すべき敵を欲している――







 まりもは熊谷という人物を知らない。だが、彼の纏めた丁寧なレポートや、今こうして再会した武たちの成長を見れば、彼が優秀な人物なのだということはわかる。

 故に、そこに記された言葉の意味を、まりもはまだ実感できずにいた。

 一月のBETA横浜侵攻に端を発する武の狂態、或いは精神的に追い詰められ、感情に振り回され、懊悩する様。

 それらから必死に立ち直ろうと、或いは立ち直らせようと足掻き、支え、手を差し伸べて。熊谷のレポートには丁寧に、忠実に、少年と少女達の成長が記されていた。

 一見すると、武は既にかつての哀しみや苦しみを克服し、立ち直っているように見える。

 ……だからこそ、最後に記された熊谷のその言葉は……無視できないものだ。

 白銀武は斃すべき敵を欲している。

 まりもにはまだ、実感できない。だが、何の根拠もなしに、ヒトの内面を記しはしないだろう。……だからこそ、それは忘れてはならない、重要な事項なのだ。

 いくら、目の前で、以前と変わらぬようで確実に成長しているように――そう、見えたのだとしても。

「白銀ェッ! 今日はここまでだっ、あがれ!!」

「えっ!? ……は、はははっ……ぉ、ゎっ、た……」

 まりもの声にその場でぶっ倒れる武。慌てて走り寄るのは茜で、わーわー言いながら抱き起こしてタオルを当てたり水筒のお茶を飲ませたりと実に甲斐甲斐しい。

 不意に思い出された熊谷のその言葉に、言葉に出来ない苦さを感じながら……まりもは、それでも。

「白銀……大切な人を喪った哀しみから立ち直ったあなたなら、きっと、最後まで生きていけるはずよ」

 ぽつりと。

 本当に小さく呟かれたその声を、まりも自身気づいてはいなかった。







[1154] 復讐編:[五章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:7b2206a7
Date: 2008/02/11 16:13

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:五章-01」





 国連軍横浜基地に衛士訓練兵として入隊して一週間が過ぎた。今日までの一週間……それは、私にとってとても充実したものだった。

 志を同じくする仲間、共に歩み、進んでいく友……。彼女たちとともに在ること……ただそれだけのことが、なんともこそばゆく、心地よい。

 思えばこれまでの十六年と少し。私は「外」に出るということはなかった。

 生来からの仕来り……否、この国の未来のために、私は常に表舞台に立つことを許されることはなかった。自分でもそのことの意味は承知していたし、何よりそれが彼の御方のためとなるならば、自ら望んでそれを享受した。

 それでも……影となり闇となり、光届かぬその場所でも、きっとなにか力になることが出来るはずと、日々精進を重ね、ひたすらに剣の腕を磨いた。

 この世界を取り巻く数々の悲劇、惨劇……外宇宙より襲来したBETAの脅威。それら人類を、日本という国を、そこに暮らす民を脅かす存在を……いつしか私は駆逐して見せると心に誓った。

 そう。

 衛士となり、一人でも多くの日本の民を救うこと。――それが、私の目標となった。

 そしてそれが……あの御方の執り行う国造りの礎となるならば……本望だと思う。

 本当はもっと早くに衛士として志願したかったのだが……家の事情もあって帝国軍に入隊するわけにはいかなかった。……いや、本当のところ、こうして国連軍に入隊できたことさえ奇跡に等しいくらい、私の立場は微妙なものだったろう。

 しかし、今こうしてここに訓練兵として在ることの意味。

 …………恐らくは何らかの政治的取引による人質として。或いは、………………いや、不要な勘繰りはよそう。

 どうしたところで、とりあえずこの現状は変わるまい。まして、今もこうして彼女達が私の警護についている以上、矢張り私の立場に表向き変化はないのだ。







「冥夜様、お久しぶりでございます……国連軍への駐在にあたり手続きが難航してしまい……一週間もの間お傍を離れたこと、申し訳ありません。また、遅ればせながら衛士訓練校入隊、おめでとうございます」

「…………月詠中尉、顔をお上げください。私はただの新任訓練兵です。中尉がそのように気になさる必要はありません」

 冥夜の目の前で頭を下げる女性は、ゆっくりと面を上げる。端正な顔を僅かに歪めるその表情には、どこか哀しげな色が浮かんでいて……形のよい小さな唇がきゅっ、と引き締められる。

「冥夜様ッ……お願いでございます。そのようなお言葉遣い、おやめくださいませ。階級など関係ございません。私は……」

「月詠、お願いだ……」

 どこか悲哀の篭った声で、紅い帝国軍服を身に纏う女性は詰め寄る。しかし、それ以上に噛み締めた声音で、冥夜はその女性を遮った。

 現在彼女がいるのは国連軍横浜基地内にある居住フロアの一画。地下四階にあるそこで、冥夜に面会に訪れた女性とばったり遭遇したのだった。

 すらりと背の高い女性は真っ直ぐに伸びた薄碧の髪を腰下まで流していて、同色の瞳は凛として鋭い。身に纏う真紅の軍服は帝国斯衛軍のそれ。襟元の階級章は先の冥夜の言の通り中尉を示し……およそこの場を目撃した物が在るならば、何故に斯衛の衛士が訓練兵に頭を垂れるのか、理解に苦しむだろう。

 否、常識で考えてありえない。

 ならば、そこには常識外の事情が存在するのではないか。

 月詠と呼ばれた斯衛軍衛士は語気強く遮った冥夜に、尚も哀しげな視線を向けるも、一度視線を伏して、

「……冥夜様、我々斯衛軍第19独立警護小隊は帝国本土防衛軍からの正式な命令を受け、ここ国連太平洋第11方面軍横浜基地に派遣されています。――冥夜様の身は、私たちが全力で御守りします。そしてそれは、彼の御方の……」

「…………月詠……そなたたちの立場もわかるし、感謝もしている……。しかし、ここでの私は一介の訓練兵に過ぎぬ……。隊の者達に余計な気を遣わせたくもない。……済まぬが、そっとしておいてくれ」

「わかりました。冥夜様がそう仰るならば」

 再び深い礼をして。女性はその場を去る。ピンと背筋を伸ばし、一分の隙もなく颯爽と歩くその後姿を、矢張り冥夜はどこか辛そうに見送った。

「……で? そなたたち、いつまでそうしているつもりだ?」

「――げっ!?」 「ぅわあゎあ!?」

 一転、苦笑しながらに振り返る冥夜に、廊下の影から覗き見ていたらしい男女が慌てふためく。何者かに見られていることは感じていた。しかもそれが最早馴染みとなった気配の持ち主であるということも気づいていた。

 故に冥夜は「困ったやつだ」と笑いながら言い、狼狽する二人に不敵な視線を向ける。

「み、御剣ッ、その、黙って見ていたことは謝るッッ!!」

「ご、ごごごめんっ!! その、本当は覗くつもりなんてなかったんだけど……」

「ふふっ、よい。気にするでない。見られたくないのなら、こんな場所で立ち話などしなければよかったのだ。私にも責任はある」

 冷や汗を滲ませながら謝罪するのは冥夜と同じ部隊の武に茜。言葉の通り、覗こうと思って覗いたわけではない。二人で廊下を歩いていたら、偶然視界に入ったのである。しかも、冥夜と話しているのは帝国軍の現役衛士。それだけでも要らぬ興味が湧くというのに、それが頭まで下げたのだ。気にならないという方が無理がある。

 冥夜もそれを承知しているのだろう。見られてしまったのものは仕方がない。第一、隠し立てしたところで、いずれこうして知られることになっただろうから。

「御剣……その、」

「よい。白銀、涼宮も……そなたたちが気にすることではない。そなた達も大体察しが着いているのだろう?」

 どこか吹っ切ったように話す冥夜に、武たちは顔を見合わせ、困惑した表情を向ける。

「…………先ほどの女性は帝国斯衛軍に属していてな」

 斯衛軍――武と茜は息を呑む。ああ、そうだろう。それだけで、二人は冥夜の素性を察したのだ。

 帝国軍には大きく二つの軍事組織が存在する。一つは、言わずもがな、帝国本土防衛軍。日本という国を、そして日本国民を護るために存在し、そのために戦う日本人衛士で構成される部隊だ。

 そしてもう一つ。

 帝国斯衛軍。帝都守護のための中心となるべく、厳しい審査によって選抜された最精鋭部隊。いわば帝国軍内におけるエリート部隊だが、彼らの役割は単純に精鋭部隊としての国土防衛任務にとどまらない。いや、結果として彼らは日本国を護るために戦うが、……斯衛軍には大前提として「将軍家縁のものの守護」が課せられる。

 帝国議会の上位執政機関である元枢府の長であり、皇帝陛下に任命される国事全権総代――政威大将軍。そして元枢府を構成する五摂家。それら日本の中枢であり日本という国の存在そのものと言っても過言ではない一族を守護するために設立され、存在する機関。それが斯衛である。

 その斯衛である女性が、冥夜と接し、あまつさえ頭を垂れた事実。

 その意味するところは……最早確認するまでもない。彼女、御剣冥夜は――将軍家に縁のある、いずれかの一族の一員なのだ。

「そ、そりゃまた……なんとも、」

 間抜けな声を出す武に、少しだけ冥夜は胸を痛める。武の隣りでぱくぱくと口を開いたり閉じたりしている茜も、彼と同じく衝撃を受けているらしかった。

「……なに、将軍家に縁が在るといっても、分家も分家、その更に末席というだけだ。別に、私個人に何らかの権利があるわけでもないし…………私は、今はただの一訓練兵だ」

 腕を組み、まるで自分に言い聞かせるように。そして武や茜に懇願するように。

 その冥夜の胸中を悟ったのだろう。茜はハッとして、

「そ、そうだよねっ。御剣は御剣だもんっ! さすがにちょ~っと驚いちゃったけど、全然関係ないしッ、気にしてないからっっ」

「な、なんだぁ? いきなり。さっきはあれだけ騒いでたくせ、――うぐェ!!」

 突然に大声で気にしてないと言い張る茜に、廊下の影から覗いていた時の彼女の様子を思い出し首を捻る武だが、最後まで言うことなく脇腹に肘鉄を喰らう。

 廊下の壁にもたれるように、ぴくぴくと震えながら鈍痛を訴える脇腹を押さえ、武は言葉にならない呻き声を上げ悶絶する。

「す、ずみ、ゃ、おまっ……」

「わー、わーっ!? ごめん、白銀ッ!」

 自分でやっておいて何だが、茜はそれでも咄嗟に殴ってしまったことを謝罪し、武の指の上から脇腹を撫でる。そうやって武に密着しながら、茜は彼の耳元に少々切羽詰った様子で囁いた。

(バカッ、白銀! 御剣の気持ちも考えなさいよっ。彼女が今まであたしたちに黙ってたってことは、知られたくなかったからでしょ?!)

(!?)

(きっと……知られたら、今のあたしたちみたいに驚かれるってわかってたのよ。……それで、距離を置かれちゃうんじゃないかって……だから、あたしたちは何も聞いてないし、聞いたとしても……昨日までと何も変わらない。OK?)

(お、おーけー)

 よしっ、とばかりに茜は武の背中を叩き、身を離す。武としては茜に言われるまでもなくそのつもりだったのだが……驚愕のあまり全くそう出来ていなかったのも事実。だからといって喰らった肘鉄の痛みが消えるわけでもない……。

「白銀、そなた大丈夫か?」

「あ~まぁ、もう慣れたっつぅか。平気平気。……俺らこそ、悪かったな。言いにくいこと言わせちまって」

 心配げに眉を寄せる冥夜に、武は笑ってみせる。そして、茜と一度だけ視線を交わして……

「心配すんな。別に言いふらすつもりもないし。さっき涼宮が言ったろ? お前が何者だろうと、全然関係ないし気にしねー。お前は俺達と同じ訓練兵だ。同じ部隊の仲間だろ? なら、それでいいじゃん」

 無意識に茜の頭をポンポンと叩きながら、武は笑顔のままで言う。しっかりと冥夜の目を見詰めて言いきったその言葉は、彼女の心に染み渡る。

 冥夜は驚いたような表情を浮かべた後に、静かに微笑み……、

「白銀、涼宮。そなたたちに感謝を――」

 その時の冥夜の言葉は、とても暖かな色に包まれていて、思わず二人とも見惚れてしまう。ぼんやりとする武たちを不思議に思いながら、冥夜はそういえばと話題を変える。

「そなたたち、揃って何処へいくつもりだったのだ? 今日は訓練はもう終わりのはずだが……」

「えっっ!!??」

 別段、問い詰めるという風でもなかったのだが、茜のその反応は過敏だった。全身をびくんと跳ねさせ驚く彼女に、問うた冥夜の方が驚いてしまう。無論、横にいる武もだ。

「な、なんだ……大きな声を出しおって。――――あ、いや、そうか。済まぬ。私の配慮が足りなかったようだな……どうも私はこういうことに疎いのだ。許すがよい」

 ぽかんとする冥夜だが、何かに気づいたのか、突然頬を染め早口に謝罪する。その言葉に茜は悲鳴に似た声を上げ、冥夜に負けず劣らず、真っ赤に顔を染めた。

 そんな二人の様子を、激しく首を傾げながら見ているのが武だ。――彼には、冥夜の言った意味も茜の狼狽振りもさっぱりわけがわからない。

「ちちち、違う違うちーがーうーっっ! ほんと、全然ッ! そんなんじゃないからっ??!!」

「む、そうなのか? ……しかし、そなたたちを見る限り、てっきり付き合っ」

「わーわーわーっっ!! ストップストップそれ以上言っちゃ駄目ぇええ!!」

 喚き叫び何かを否定する茜に、冥夜は真剣に悩む。そして今日までの一週間で多少なりとも掴めて来た部隊の仲間達の人間関係を思い出しながら、そこから導き出した自身の結論を口にする……のだが、これまた盛大に慌てふためく茜に遮られる。

 茜の顔は赤い。真っ赤に染まって熟れている。目尻に涙を浮かべて冥夜の口を塞ぎ、お願いだからと凄みを利かせて詰め寄ってくる。

 その、様々な感情が入り乱れている様子に、冥夜は息を呑み驚嘆する。――成程、自分と同い年の……普通の少女は、このように感情を発露させるのか、と。

 自分の感情を素直に表面に出すことのできる茜を内心で羨ましく思いながら……冥夜は、口を塞がれたままだったので首肯して了解の意を示す。もう余計な口出しはしない、という意思表示だったのだが。いかんせん、茜は興奮冷めやらず、その目はぐるぐると渦を巻いていた。

「べ、べつに今日は訓練が早く終わって時間があるから、白銀とちょっと散歩しようとかただそれだけでっっ! そこに深い意味はないって言うかっ、ああもう~っ!!」

「もが、……ぷぁっ、落ち着け涼宮ッ! そなたの言いたいことは理解した。だから落ち着け!」

 茜の手を振りほどき、その腕を掴む冥夜。暴走する彼女の目を正面から見詰め、しっかりとした口調で呼びかける。

「そなたたちのことを邪推してすまなかった。許すがよい」

「――へ? ぁ、いやっ、その~……」

 謝られてもなぁ……。茜は先とは違う意味で赤面する。

 冥夜の言葉に勝手に暴走したのは茜であり、それを彼女が謝罪する道理はない。……のだが、なにやら真剣なご様子の冥夜には、照れたように笑って誤魔化すしかなかった。

「あ、あはははっ、あたしの方こそ、ごめん……」

「いや。気にするでない。……そうか、散歩か。それもいいかもしれぬな」

 落ち着きを取り戻した茜に、うんうんと頷く冥夜。しっかりと目的がばれていることに再び赤面する彼女だが、続く冥夜の言葉に一瞬にして凍りつく。

「して、そなたたちも一緒に行くのか? なにやら大勢だが、差し支えなければ私も同行させてもらうとしよう」



 ――は?



 思考が停止する。

 そなたたちと冥夜は言う。この場に彼女と茜と武しかいないのに、そして茜と武が散歩に行くのだと承知しているのに。

 まるで、そこにまだ誰かが……しかも複数人いるかのように、そう問うたのだ。

「あちゃ~、なんでばれてるのかなぁ」

「侮れないねぇ、御剣……」

「あゎゎゎ……なんかこのあとの展開が読めちゃったんだけどなぁ~」

「すごいなぁ冥夜さん。ボクだってそれなりに気配消してたのに……」

「鎧衣以外バレバレ……」

「あなたが堂々と姿晒してるからでしょうっ!?」

「……えっ?」

「気づいてなかったんですか…?」

「にゃはは、慧さんおかし~っ」

 …………頭痛い。

 膝をつき思わず崩れ落ちる茜。その目からはなんだか疲れ果てた涙が流れていたとか何とか。







 余談ではあるが、訓練終了後の茜の態度を見て「なにかある」ことに気づかなかったのは武と冥夜だけだったという。まる。







 ===







 体力面でも、そして座学での成績を見ても……白銀武という少年は凄まじいものがあると思える。

 無論、実質自分達よりも二年間先に軍に入隊し、訓練を受けているわけだから……それはある意味当然なのかもしれない。

 つまり、まだ自分がそれだけ鍛えられているわけではないというだけ。例えば彼と同じ期間訓練を受けていたのだとしたら、――無論、遅れをとるつもりはないが――否、それでも、彼と肩を並べられているかどうか怪しい。

 訓練初日の彼を見てもわかるし、それ以後の訓練・座学等を見ても、その凄さは知れる。

 特に体力面。

 あの莫迦みたいな全力疾走に続き日が暮れても尚続けられた特別メニュー。それらをこなし、心身ともに疲労困憊であるはずなのに翌日の訓練にはその疲れを全く見せず、隊の誰よりも果敢に、そして真剣に訓練に打ち込んでいた。……同じく全力疾走した冥夜と慧が、表には見せないまでも確実に疲労を残していたと言うのにだ。

 まるで底無しのような体力。鍛えられた筋肉は悲鳴を上げることなく、彼の意のままに肉体を動かす。鋼のような肉体は、それでもしなやかさを保ち……思わず目で追ってしまうほど。

 座学においても彼は凄まじい集中力を発揮している。それは訓練に疲れて眠りそうになる自分が恥ずかしくなるほどで、その日習った内容はすぐさま理解・吸収しようと躍起になっている。……本人曰く座学は苦手とのことだが、それを承知で尚、欠点を克服しようと言う姿勢は尊敬に値するものがある。

 総じて、今日までの印象だけで言うなら……彼は素晴らしい人物に思える。見習うべき、目標とすべき立派な人物だ。

 訓練以外でも彼は常に隊の皆のことを気に掛け、コミュニケーションをとろうと振舞っている。部隊のムードメーカーであろうとしているのか……或いは、隊内で唯一の男子である自分に遠慮しないようにと考えてか。

 そして、そんな彼とともに二年間を過ごしたA分隊の彼女達もまた、彼と同じく比類なき能力を秘めている。

 彼らを見ていると、ともに過ごしていると……どうしてか、自分の中から熱い思いが込み上げてくる。

 いや、湧き上がってくると言ったほうが正しいのかもしれない。

 彼らには何か、明確な意思が在る。何のために衛士となり、戦うのか。――その目標とする一点……戦う理由、護りたいもの、成し遂げたいこと。

 そういうものが、ハッキリと。

 …………それに気づいたのはつい最近だが、間違いなくその意志が、或いは目標が。彼らの「凄さ」の一端を担っているのだろう。

 ならば、自分も衛士となるための理由をしっかりと胸に刻んで進めばいい。彼らを尊敬するならば、自分もそれに倣って……自分が掲げる目標に向かって邁進すればいいのだ。

 と、そう考えたところで……そこで一体自分は何故衛士を目指すのかが、一瞬わからなくなる。

 何を莫迦な。

 衛士となり、BETAと戦う。BETAを斃し、日本を、世界に平和を取り戻す。

 そのために今、こうして訓練を積んでいるんじゃないか。――言い聞かせるように、頭を振る。

 ………………。

 なにか、釈然としない。

 理由としてはそれで十分だ。だから自分は徴兵免除を蹴ってまで、こうしてここにやってきたのだ。

 父の反対を押し切り、半ば家を飛び出すような形で……。

 BETAを斃し、日本に平和を。

 その想いは嘘じゃない。本当にそう出来ればいいと思っている。……いや、そうするために訓練を積み、優秀な衛士となるのだ。

 けれど、なんだか……そう、彼らとともに在り、湧き上がる熱い思いが、「それだけではないだろう」と、問いかけるのだ。

 その答えはまだ得ていない。きっとそれがわかった時、自分は初めて、彼らと同じ位置に立つことが出来るのだろう……。だから、今はまだその背中を追いかける。いずれ肩を並べ、対等となるために。

「――ふふっ、彼は全然そんなこと気にしてないんでしょうけど……」

 シャワーを浴び終え、バスタオルで丁寧に滴を拭う。机の上においていた眼鏡を取る。硬質な長い髪の毛を乾かしながら、鏡に映った自身の顔をじっと見詰めた。

 そして、そのまま視線を下へ。そこに見える双丘に思わず眉をひそめながら――千鶴は、夕食の時の話題を思い出す。

「別に、そんなに小さいとは思わないんだけど……」

 むに。

 思わず自身で触って確認。うん。そんなに問題じゃないはず……多分。

「――って! なにやってるのよ私っ!!」

 ばっと手を放し、慌てたようにバスタオルで身体をくるむ。どうやら熱いシャワーで茹っているのかもしれない。千鶴は手早く体を拭いて、服に袖を通す。

 つい先ほどまでつらつらと考えていた内容とあまりにも乖離した思考と行動に、思わず溜息が出る。

 武に、A分隊の彼女達。彼らを凄いと感じ、尊敬の念を抱くなら、それこそ自分も頑張ればいい――――そんな彼女なりに真面目なことを考えていたはずなのに、鏡で自分の裸を見た途端、あんな莫迦なことを思い出してしまった。

「べ、べつに、白銀の好みがなんだろうと、私に関係ないじゃないっ」

 ブツブツと呟きながら、千鶴は髪を編む。二房にわけ、三つ編みに。いつもどおりの彼女のスタイル。呼吸を落ち着け、熱を冷ましてこようと、千鶴は部屋を出た。



 そもそも、夕食時の話題というのは、美琴が興味津々に尋ねた帝国軍訓練校時代の彼らの話である。

 千鶴は思わず美琴を制しようと口を開くも、それ以上に早く……彼女の内心の配慮など不要であると言わんばかりに、武が口を開いた。

 彼はにこやかに、そして表情豊かに、身振り手振りを交えながらかつての日々を語る。その彼に合わせるように茜や晴子たちも相槌を打ち、語り……。そこには千鶴が危惧したような暗さや辛さというものは微塵もなかった。

 彼らは元帝国軍横浜基地に所属していた。つまり、現在のこの場所、である。

 横浜に居た彼らが訓練校の閉鎖に伴い、北海道札幌基地へと転属したことは知っている。そして、昨年の一月、彼らの……そして自分の故郷でもある横浜は壊滅した。

 当時のことを思い出すと背筋に冷たいものが流れ落ちる。――父の命令で安全な場所へと避難していた自分。たくさんの人たちが亡くなった。大勢の衛士が戦死した。――その恐怖を、思い出した。

 だから、彼らも……幼い頃を過ごし、数ヶ月前まではそこに居たのに、それが自分の全く手の届かないところで無情にも蹂躙されたことを思い出し、苦い思いをするのではないかと思った。

 そんな辛いことは思い出す必要はないと、美琴を制しようとしたのだが……。

「それで結局関係ない俺達まで連帯責任取らされてさ」

「いやぁ~、あれは失敗だったねぇ。神宮司軍曹、ホント冗談通じないからさぁ~っ」

「そのせいであたしら全員徹夜で訓練させられてさ……」

「あれは辛かったですねぇ……」

「茜ちゃんが追いかけてくるからだよ。もぅ」

「どの口がそういうこと言うのよッ?! 多恵ぇええ!?」

 出てくるのはなんだか聞いているだけで莫迦らしく思えてくる冗談みたいな話ばかり。まだBETAが日本に上陸する前の、穏やかな訓練の日々。そして、話は彼らが出逢った先任訓練兵のものへと移る。

 既に任官しているというその人物の一人は茜の姉であり、もう一人は武と茜が目標にする素晴らしい人物なのだとか。

「いやぁ、水月さんはホントにすげぇんだよ! 俺なんか全然足元にも及ばないし、っていうか一生頭あがんねぇんだけどさ」

「あはは、白銀はそうかもね。…………一杯、お世話になったし」

「まぁな。……でも、今頃どうしてるかなぁ水月さん」

 ふ、と。先ほどまでの騒いでいた雰囲気が静まり返る。思い出すように、懐かしむように……そんな、今まで見せたこともないような表情で静かに眼を閉じる武に、思わず千鶴は見惚れてしまった。

「ふむ。聞くだに、その速瀬殿は素晴らしい人物のようだが……白銀ほどの人物がそれほど傾倒するという女性とは、一体どのような御仁なのだ?」

「あ、わたしも聞きたいです~っ」

 冥夜の言葉に自分はそんなに大したものじゃないと手を振る武だが、彼女と壬姫、口にはしないが美琴、慧……無論千鶴も、その「速瀬水月」なる女性を知りたいと思った。

 密かに自分が目標としている彼らを導いてきた偉大なる先任。その人物のことを知ることは、必ず自分にとってプラスとなるだろう。

 思わず緊張に息を呑む千鶴たち。

 先ほどとはまた違う沈黙を唐突に引き裂いたのは晴子で……その一言がつまり、思い出すのも莫迦莫迦しいほどのアレな話題だったわけだが。

「速瀬さんってすっごい胸が大きいんだよね~っ。で、白銀はその胸に夢中でさぁ」





「        (沈黙)        」





 けらけらと笑う晴子以外、動いている者はいない。あれ~どうしたの~? と首を傾げる晴子に、いち早く現実に復帰した冥夜が更に尋ねた。

「む、むね……か?」

「そうそう。女のあたしから見てもすごい大きくてさぁ。多分脱いでも凄いと思うんだ。……あ~、大きさ的には彩峰くらいかも。でさ、白銀ってば初対面で速瀬さんの胸を狙ったように揉みしだいて……」

「ちょっと待て柏木ィィィィいぃぃぃぃぃぃぃいいぃ!!!! てめーあることないこと織り交ぜてリアルに嘘ついてんじゃねぇええ!!」

「は? 嘘? え?」

「胸…………」

「う~~ん。胸かぁ……ボク、頑張ってるのに大きくならないんだ……ごめんね、タケル」

「お前は何言ってるんだッ!!?」

「はぅぁ~、で、でも、男の子だし、しょうがないのかなぁ」

「しょうがなくないしっ!? ていうか、珠瀬ッ、俺は何にもしてないぞっ?! ホントだぞっ?!」

「でもこれ速瀬さんから聞いた話だし」

「それが嘘だってその時に言ったろうがぁあアア!!!」

「……白銀、揉む?」

「サラリと言ってんじゃねぇええええ!!」



 …………と、まぁ。そんな話題だったわけである。

 会話が始まるまで真剣に武たちの心中を慮った自分が思わず莫迦だったのではないかと真剣に後悔したくなるようなどんちゃん騒ぎ。

 そのおかげで彼らに抱いていた認識がほんのちょっぴり修正されたのは言うまでもない。……いや、間違いなく晴子に対する認識はマイナス方向に、大いに修正されたッ!

 げんなりと溜息をつき、夜のグラウンドへ。まだ若干の寒さを残した春の夜風が、ふわりと千鶴のお下げを揺らす。と、前方に見知った背中を見つけて、千鶴は声を掛けた。

「御剣、なにしてるの?」

「……榊か。……いや、実は今日から自主訓練のために走ろうと思ったのだが……」

 言葉の途中で再びグラウンドへ視線を移す冥夜に疑問を抱き、自身もそちらを見やる。――と、そこには暗闇の中、基地からの灯かりでぼんやりと浮かび上がるヒトの影。

 否。

 それは、なんと言う凄まじき演舞か。

 キラリと、時折白く光るのは電光を反射する模擬刀の刃。両手でそれを握り、振り降ろし、薙ぎ払い……一瞬たりとも足を止めることなく、体を休めることなく、動き、動き、動き続けて。

 その挙動はまるで独楽のような回転を見せ、或いは稲妻のように苛烈に走り、螺旋の機動を描きながら延々に続けられている。

 彼我の距離は数十メートル。それだけを離れていて、尚、見るものを惹きつけて離さないその剣舞。裂帛の気合を込めて、絶対の意志を秘めて、大地を舞うのは誰でもない、武。

 日ごろの訓練でさえ見せたことのない表情をして、叫ぶように、吠えるように呼気を振り絞り――鬼気迫る表情で。

「すごい……」

 思わず口を衝いて出た言葉に、冥夜が頷く。

「ああ、凄い。私も剣術を嗜んでいるが……このような独特な剣術を使う者は一人しか知らぬ」

「――ぇ?」

 呟いた冥夜の言葉に、千鶴は驚愕する。武が剣を使うということさえ知らなかった千鶴だが、そもそも彼女は剣術というモノに疎い。先の世界大戦から今日、兵器というものは格段の進歩を見せた。銃の台頭に伴ってその姿を消していった刀剣だが、しかし日本人にとってそれは切っても切れない、特別な意味を持つ。

 それ故に現在でも剣術の流派は数多く残っているらしく、冥夜の言に依れば彼女もまたその一つを習得しているのだとか。そして、剣術に関しては全くの素人である自分が見ても、異端にしか思えぬ武のその挙動を……しかし冥夜は知っているという。

「ほかにも、あんな剣術を使う人が居るの?」

「ん? ……ああ。正確には二人居たのだが……内一人は既に亡くなられている」

 どこか遠くを見詰めるような冥夜が、続けてもう一人について語ろうとしたとき……千鶴たちの脇を一つの影が走り抜いていった。

「白銀ッッ!! 駄目っ!!」

「――なっ?!」 「あ、茜ッ?」

 逼迫した声で叫び、剣を振るい続ける武に向かって走る茜の姿に、思わず冥夜と千鶴も追いかけていた。

 近づけば近づくほどに、武の動きの凄まじさが知れる。大気を裂く模擬刀の刃。それは刃を潰しているにも関わらず、触れたものを片端から切り裂いてしまうような錯覚を抱かせる。

 絶え間ない円軌道。猛烈に過ぎるその独楽の舞に、しかし茜は臆した様子もなく……それ以上に、何らかの衝動に駆られているようだった。

「涼宮ッ! 危ない、もどれっ!!」

 冥夜は叫ぶ。……ここに来て彼女もことの異常さに気づいていた。

 武は剣術を身に付けている。ざっと見た限りだが、その腕は中々のもので、冥夜自身と比較してもそれほど差はないのではないかと思わせるほどに。つまるところそれは、剣士としての素質を持ち、戦闘者としての素質を備えているということだ。

 まして、今日までの訓練で武の能力の高さは周知のものである。――なのに、そんな彼が、名を呼ばれ、ひた走り近づいてくる自分達に……茜に気づかない。

 その意味するところは一体何か?

 一瞬だけ見えたその表情。基地の灯かりに映し出されたその貌は、全く見たことのない――――深い、怒りと哀しみだった。

「茜っ! 戻って!!」

「白銀ッ、白銀ぇええーーーっっ!!!」

 ブォゥ! と。身の毛もよだつほどの一閃が虚空を裂く。その後の一瞬の硬直に合わせて、茜は武を突き飛ばすように飛びつき、

「んなぁっー!!!??」

 ずしぃん。とぶっ倒れた。

「…………ぇ?」

「な、なんだ?」

 飛びついてきた茜の体を咄嗟に抱きとめ、自らをクッションにすることで彼女にはダメージの一つもない。瞬間でそれだけのことを成し遂げていながら、倒れる瞬間の驚愕したあの表情、声……それらからは、一瞬前に見せたあの凶相など何処にもなく。

 発する雰囲気、というもの。

 それは全くに彼女達の知る武そのものであり……本当にあの剣を振るっていた人物と彼は同一人物なのかと疑いたくなる。

「白銀、白銀、白銀っ、白銀ぇえ~~っ」

「な、なんだっ?! 涼宮?! ぉ、おい、なんだよ、どうしたんだよっ??」

 武に抱きついたまま泣き崩れる茜に、彼は困惑するしかない。そして、すぐ傍に冥夜と千鶴の姿を見つけ、助けを求める。

「ぉ、お~い、お前ら。一体何が起こってるんだ?! ていうか助けてくれっ」

「ぅわあああ~ん、白銀の莫迦ぁあ!! なんでまた独りで抱え込むのよぉ! そうやって、独りで、またッ……ぅ、ぅうっ!」

「!!」 「!??」

 武の表情が驚愕に染まる。そして、冥夜と千鶴もまた、茜の言葉に言葉をなくした。

「折角……折角、元に、戻ったのに……ちゃんと立ち直ったじゃない……なのに、どうして……」

「涼宮…………」

「やっぱり、横浜に帰ってきたから……? 忘れられないのは知ってるよ……でも、それでも、思い出して辛いなら、苦しいなら……あたしに言ってよッ! 白銀のこと、ちゃんと支えさせてよぉっっ!」

「涼宮……ッ」

「速瀬さんじゃないと駄目なの? あたしじゃ力になれないの……っ? 鑑さんのこと……っ、」

「涼宮ァアアアアアアアア!!」



 ――――!?



 武の咆哮に、びくりと身を震わせる。涙で頬を濡らした茜はぐしゃぐしゃの顔を上げて……武は、そんな彼女の涙を優しく拭ってやった。

「しろ、がね……」

「ああ。悪ぃ。またやっちまうところだった。――そうだよな。俺は独りじゃないってわかってたのに。……ははは、こんなんじゃいつまで経ってもアイツを安心させることなんてできねぇな」

 倒れていた身体を起こし、長座のまま、茜の身体を抱きしめた。

「悪かった……。それから、ありがとう。でも、俺は大丈夫だ。大丈夫なんだ……。今回はたまたま、ちょっと色々思い出しちまってさ……」

 静かに、くしゃくしゃと茜の髪を撫でながら。

 その武に甘えるように茜もまた腕を回し…………、

「……んっ、んんんっっ!!」

「ごほんっ、んぅっ!」

 わざとらしい咳払いが二つ。弾かれたように離れる武と茜の前に、心なしか頬を引き攣らせこめかみを痙攣させてるような冥夜と千鶴が居た。

「お取り込みのところ悪いんだけど……」

「一体ドウイウコトなのか説明してくれもよかろう……?」

 何やらさっぱり事情がわからない上に、目の前でメロドラマである。何故か知らないが無性に腹が立った。

 それはもう盛大に。むしろ事情なんかこの際どうでもいいんじゃないかと思うほどに。

「ぉ、ぉちつきたまえ、きみたち……」

「黙れ」 「黙りなさい」

 ――ゴッド、俺何か悪いことしましたか。

 そんなフレーズが武の脳裏を過ぎる。

 いつの間にか武から距離をとり姿を消していた茜に気づくも時既に遅し。どうしてか怒り心頭の冥夜と千鶴に日本男児としての在るべき姿という物を延々説教される武だった。







「まったく……白銀ったら。あ、あんな風に茜の身体を抱きしめて、いやらしいわっ。不潔よ不潔!」

「……ははは、まぁそうむくれるな榊。そなたも気づいているのだろう? あの二人は、」

「それでもよっ!! ……私たちはまだ訓練兵なのよ。べ、別にヒトの色恋にまで口出ししようとは思わないけど、もうちょっと周りに気を遣うべきよっ」

 ぷんすかと肩を怒らせて基地内へ戻る千鶴に、冥夜は苦笑しながらついて歩く。今でこそ平然としている冥夜だが、つい先ほどまで千鶴と一緒になって武をメタメタにしていたのである。しかし当の本人はそんなことをすっかり忘れた様子で、

「まぁ、今日のことはあまり他人に話すようなことでもあるまいし……ここは一つ、我らの胸の内に秘めておくということでどうだ?」

「えっ……? ええ、まぁ。そうね。そのほうがいいのかも」

 冥夜の言葉に、先刻の武の様子を思い出す。そして、泣き叫んだ茜を。

 武の剣舞。鬼気迫る表情に、周囲の声や気配さえ遮断してしまうほどにのめり込んでいた事実。まるで何者かを“殺そうと”しているかのような恐るべき意志。――きっと、それは普段の武がひた隠しにしている負の一面。

 或いはそれは茜が零した言葉達の断片が示しているのかもしれない。

「立ち直った……か」

「うむ、そして、横浜に帰ってきたから、忘れられないのは知っている……とも言っていたな」

 千鶴は立ち止まり、冥夜もそれに倣う。周囲に人の気配がないのを確認して、千鶴は真剣な表情で口を開く。

「これって……つまり、白銀には横浜で何かがあった、ってことよね……?」

「ああ、そうだろうな。……そして、それは恐らく……あの者にとって深く傷を残している。…………涼宮は恐らく、その時の白銀と先ほどのあの者が重なって見えたのだろう」

「――つまり、あんな風に変貌してしまった彼、を?」

 冥夜は答えない。だが、その沈黙は千鶴の問いに是と答えているようなものだった。

 言いようのない沈黙が二人を包む。

 武、或いは茜たちについて……まだまだ知らないことは多々あるのだと知った。そしてそれは、決して興味本位で深入りしていいものではないのだろうということも。

「……きっと、夕食の時の話題がいけなかったのよね……」

 こんなことになるのならば、あの時、無理矢理にでも止めておけばよかったと、千鶴は臍を噛む。だが、冥夜はそれに反論する。

「そうなのかも知れぬ。……だが、あのことは白銀自身が話し始めたことだ。もしそれが今回の一件の引き金となっているのなら――それは、白銀自身の問題だろう。そなたが悔やむことではない」

 確かに、と千鶴は視線を伏せる。

 武は茜に大丈夫だと言った。今回はたまたま色々思い出したせいだと。

 きっと、この二年間のことを語っている最中も思い出していたのだろう。ただ、そのことを口に出さず、表情に出さなかっただけで……。

 自分はちゃんと立ち直っている、或いは乗り越え、克服している。そんな風に思っていたのかもしれない。

 どれだけ考えたところで、武自身の心の裡がわかるわけではない。

 冥夜のその言葉はどこか突き放すような響きを持っていたが……結局、千鶴はその言葉に頷いた。

 二人はその場で別れ、冥夜は自室へ向かって歩き出す。千鶴は、もう一度外に出て頭を冷やそうと思った。

 そうして再びやってきたグラウンドには、まだ武が残っていた。隣には、茜の姿。寄り添うように立つ二人の背中に、胸が少しだけ痛んだ。

「本当に、心配したんだから……」

「ぁあ、すまん。でも、大丈夫だから。これはホントだ」

 風に乗って届いてくる二人の言葉を、聞いてはいけないと知りつつも、どうしてか耳を澄ましてしまう。

「教官も言ってただろ? ……俺は、もう大丈夫なんだよ。だから、このままお前達に甘えるわけにはいかない。……正直、お前の気持ちは嬉しいよ。水月さんにも、お前にも……感謝してもしきれない」

「うん……。でもね、白銀……。辛い時は、本当に辛い時、は…………今日みたいに、突然、哀しくなった時は……さ」

「ああ…………ちゃんとお前に言うよ。いや、お前ら、かな。涼宮こそ、俺のこと心配しすぎて独りで抱え込むなんてやめろよ?」

「わ、わかってるわょ! 別に独り占めしようなんて思ってないってば」

「……? 独り占めってなんだよ??」

「あ~、もう! 白銀はそういうこと気にしなくていいのっ! どうせ鈍感なんだからッッ!!」

 ふん、と唇と尖らせながら、茜が振り返る。その拍子に千鶴と彼女の目が合って、何故か千鶴はドキリとしてしまった。――これでは覗きだ。そんな羞恥心が千鶴の胸中を満たし、慌てて走り去ろうとしたとき、

「あっ千鶴~~ッ!」

「あん? 榊?」

 全く何にも気にしていないかのような二人の声に、思わず腰の力が抜ける。逃げようとした体勢からへなへなと座り込み、千鶴は何だか可笑しくて笑った。

「ちょ、ちょっと、千鶴?! なにしてるのよっ?」

「おいおい、大丈夫か?」

 本気で心配した様子で二人が近づいてくる。――あははははっ。なんだか可笑しい。可笑しくてしょうがない。

 なんだかなぁ…………。

 千鶴は本気で可笑しかった。まったく、この二人は……彼らは、なんて大きいのだろう。

 あんなになるほど、辛く悲しいことがあったはずなのに……それを乗り越えてしっかりと前を向いて進んでいる。

 千鶴に、そして冥夜にそれを目撃されていながら、少しも揺るがないその精神力。まして、本気の本気でこちらを心配してくれている……その、優しさ。

 ああ、まったく。本当に。

 目標とすべき、尊敬に値する彼ら。――千鶴は、そんな彼らと「仲間」になれたことを誇らしく思うのだった。







[1154] 復讐編:[五章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:483fbe6a
Date: 2008/02/11 16:14

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:五章-02」





 その小さな身体にはお世辞にも似合っていると言えないアサルトライフルを持ち、おもむろに少女は地に伏せる。右の膝を曲げるプローン、スコープを覗き、数秒の照準。く、と。少女の小さな喉が鳴った瞬間――銃口から放たれた一発の弾丸は、あまりにも呆気なく彼方の目標を撃ち抜いていた。

「…………嘘だろ?」

 双眼鏡を覗き、600メートルと表示された位置にある目標を確認すると、ど真ん中に穴が空いている。何度確認しても同じ。珠瀬壬姫の放った5.56mmの弾頭は見事隊内狙撃記録の新記録を樹立した。

「すご……」

「にゃはは~っ、そ、そんなことないよ~っ」

 武から双眼鏡を受け取り、確認する茜。思わず漏れる本音は呆れたような信じられないような、そんな響きを持っている。武、茜の言葉に赤面して照れながら謙遜する壬姫。だが、いかに謙遜しようと、結果は変わらない。

「あちゃ~~っ、ついに抜かれちゃったかぁ」

「残念だったなぁ晴子ぉ。しっかし、珠瀬のそのちっこい身体で、よくもまぁあんな遠くの的を撃てるもんだぜ」

「薫さん、この際身長は関係ないと思うけど……」

 全然悔しさを感じさせない実に爽快な笑顔で、晴子は頭を掻く。実のところ、今日この瞬間まで207部隊の中の最長狙撃記録保持者は彼女だった。その記録、実に580m。アサルトライフルの小口径弾は弾頭部が軽いため200メートルも離れると風や木の葉に当たっただけで弾道が変わってしまう。完全無風でも300メートルが限界だろうと言われているのだが……さっぱりと自身の敗北を認める彼女も、相当な腕前である。

 晴子が微塵にも悔しく思っていないことを知っている薫は、腕を組み、立ち上がった壬姫をしげしげと見つめる。……主に、頭の上から足の先までを行ったり来たり。何度見てもちっこい。実際口に出してもいたが、彼女は本気で実感が湧かないようだった。別に身体が小さいからと言って如何なる能力にも劣っているという道理はない。それは理解しているのだが……やっぱり、赤面して照れまくっている壬姫を見れば、首を傾げたくなるのだった。

 そんな薫に苦笑しながら、亮子は、真剣な表情で壬姫を見た。――凄い。そんな感嘆を漏らしてしまいそうになる。別に、口にすることを憚る類の感情ではないが……しかし、亮子にとって壬姫の狙撃はそんな安易な言葉で表していいようなものではないと感じられた。確かに凄い。今まで隊の中で誰も成し得なかったアサルトライフルでの長距離狙撃、それを、たった一発でクリアしたのだ。凄くないわけがない。……なのに、亮子には「それだけじゃない」と思えてしまう。彼女には、まだまだ秘められた才能があるのではないか……これは、その片鱗に過ぎないのではないか、と。

 亮子は幼い頃より剣道を習っていた。生来の体力のなさから、あまり芳しい技能を持つにはいたらないが、それでも……秀でているものを見抜く力だけは備わっているように思う。

 剣で言えば武……そして恐らくは冥夜。

 体術で言えば薫、慧。

 そして、狙撃……或いは射撃で言えば晴子、壬姫。

 他の者が劣っているという比較ではなく、それぞれ突出した――亮子の感覚から言えばその道に秀でている、云わば「才能」、「天賦の才」というものを秘めていると思われる者。

 先週から訓練のカリキュラムに加えられた射撃訓練。今まで亮子同様に体力面に難を示していた壬姫にとって、それは今後の訓練における寄る辺となるに違いない。……何か一つ。それだけでいいのだ。一つだけでいい、自身の全てを以って「これだけは誰にも負けない」と断言できる何か。ありとあらゆる分野に秀で、何もかもを完璧にこなせれば言うことはない。だが、如何なる努力の前にもそれを実現することは叶わない。故に、できるだけ幅広く、可能な限り深く、ありとあらゆる知識・技能を修得しながらも、自分の中のスペシャルを見つけ、磨き抜いたなら……その人物は、間違いなく優秀な軍人となるだろう。

 そして、日々の訓練の中でそれを見つけること。

 自分の中で確信を持って「これだ」と言えるそれと出逢うこと。

 恐らく壬姫はそれに出逢ったに違いない。――それが、亮子には羨ましい。

「…………」

 亮子は別に、自分にはなんの才能もないと嘆いているわけではない。……ただ、彼女の周りには優れた能力を持つ仲間が多かった。明らかに隊内でずば抜けた能力を持つ武、晴子、薫。何時如何なるときも自身を磨くことを忘れない茜。際立った個性を活かし独特の戦闘技術を持つ多恵。

 皆、それぞれが他の誰にもないただ一点の「才」を磨いている。それを素晴らしいと思い、憧れ……いつしか自分も彼らのように仲間たちのように、己だけの「才」を開花させるのだと日々精進している。

 だが。

 亮子はまだそれを見つけていない。壬姫のように出逢っていない。――出逢えないまま、二年が過ぎた。

 新しく仲間となったB分隊の彼女達。

 まだまだ未知数を秘めていながら、既にそれぞれが己の「才」に気づき、磨き始めている。

 自分だけが、まだ……。

 そんな想いが知らず込み上げてきて。――なにが、嘆いているわけではない、だ――亮子は初めて、そんな自分が嫌になった。

「亮子ちゃん……??」

「?!」

 呼びかける声に意識が浮上する。目の前には不思議そうな表情の壬姫。つぶらな瞳が二つ、まっすぐに亮子を貫いている。

「ぁ、ぁの……っ、」

 どうしてか、亮子は狼狽してしまう。――知られてしまった。才能に恵まれた彼らを羨み、何の才能も目覚めていない自身を嘆いていたことを。

「亮子……?」

 すぐ隣りの薫が声を掛けてくれる。変わらずに壬姫が見つめてくる。その後ろで、武が、茜が……いつの間にか周囲には慧、冥夜、千鶴、晴子、多恵、美琴たちも居て……。

 皆が、一様に亮子を見つめている。背の低い彼女を、見下ろしている。――才能を持たない彼女を、見下し…………

(そんなことっ、ないじゃないッッ!!!)

 そうだ。そんなことはない。そんなのはただの思い込みだ被害妄想だ自己嫌悪が流れ着いたただの嫉妬だ!

 だから、亮子は眼を閉じ、耳を塞いだ。爆発しそうな心に蓋をして、いつもどおりの彼女を表に用意する。

「すごいですねっ、珠瀬さんッ!」

「――えっ?! ぇぇっと……亮子ちゃん?」

「はい、なんですか?」

「…………?!」

 いつもどおりの笑顔。いつもどおりの亮子。壬姫の技量を凄いと讃え、先ほどまでの様子など見間違いであるかのように。

 だから、壬姫は、彼女達は困惑する。壬姫の技量に色めき立ち、輪を作り騒ぐその外側に、ただひとりポツンと取り残されていた亮子の様に。

 茫漠とした色のない表情で。抜け殻のように立ち尽くしていた亮子。――なのに、彼女は笑っている。まるで貼り付けたような笑み。

「月岡、」 「――亮子ッ!」

 一歩近づこうとした武よりも早く、薫が亮子の肩を掴んだ。ぼんやりと彼女を見上げる亮子に構わず、薫は亮子の腕を引いて射撃場を後にする。去り際、武に向けた視線から、彼は薫の考えを察し、後方に控えていたまりもへ二人の早退を告げるのだった。

 そんな武たちの様子に、壬姫はなんだか哀しい気持ちになった。

 一体亮子になにがあったのか。壬姫にとっての亮子は、いつもふんわりと柔らかで優しい雰囲気を持った可愛い女の子だった。自分より僅かに背が高いだけの小さな身体で、でも、どこかその精神には芯が一本通っていて……。凛とした心根を持つ、そんな少女だった。

 そして、間違いなく昨日まで……或いは今、この瞬間までは。

 彼女は、壬姫の知る彼女のままだったのだ。そのはずだ……。

 出逢い、知り合って……まだたったの一ヶ月。そんな短い期間でなにがわかるものかと言われるかもしれない。

 それでも、その一ヶ月で十分すぎるほど亮子の魅力は理解していた。

 だからこそ彼女は、亮子のあの、何者からかも見放されたかのような表情を理解できない。薫に手を引かれるままにフラフラと去っていった彼女を信じられない。

 ……それでは、それではまるで。

 なにか嫌なことがあってそれから目を逸らして泣いている、そんな…………。

 そして、きっとそれは自分の狙撃のせいなのだ。多分、それが亮子の中の糸を切った。スイッチを押した。最後の一押しをした。――そうじゃなきゃ、説明がつかない。

「亮子ちゃん……」

「……珠瀬、そなたが気にすることはない。……あの者も、なにか思うところがあったのだろう」

 冥夜の言葉はとても鋭い。きっと彼女は、壬姫が察するよりもはやく、明確に……亮子の心中を悟っていたことだろう。

「亮子さん……大丈夫かな」

「うん。……あんな亮子、初めて見た……」

 美琴の物憂げな声に茜が頷く。残る部隊の面々も、どこか沈痛な表情で、基地内へ消えた二人の背中を見送っていた。







 屋上に出るとグラウンドとその奥の射撃訓練場、廃墟となった柊町が一望できた。……どうやら射撃訓練は終了したらしい。207隊の姿は見えない。座学にでもなったか、或いは自主訓練にでも変更されたか……。どちらにせよ、後でまりもから小言を喰らうのは間違いなさそうだと、薫は苦笑する。

 振り返れば俯いたままの亮子。小さな身体が更に小さく見えるほど、今の彼女は何かに抑圧されていた。

 ……予想は出来る。薫はよく亮子と一緒に居ることが多かった。だから、というわけではないが、それでも、一番彼女の傍にいたという自負が、友人としての自覚が……亮子の心の裡にある負の感情を感じ取る。

「亮子、何悩んでるか、当ててやろうか?」

「ッ、」

 びくり、と亮子の身体が揺れる。薫は何処か涼しげな表情のまま、フェンスにもたれて空を見上げる。五月晴れ。緩やかに雲が流れ、これからの季節を予感させる。いい天気だ。まるで今の亮子と大違い。

 そうやって視線を亮子から離したまま、薫は笑いながら言った。

「いや、ホント。珠瀬って凄いよなァ。600だぜ600。ろっぴゃくめーとる。信じられねぇ。いやまぁ晴子も十分信じられなかったわけだけどさ。あの子も相当のもんだよな。天才かッつーの。……なぁ? 亮子もそう思うだろ」

 広い屋上の真ん中で、しかし亮子は俯いたまま言葉を発しない。ただ、ほんの少しだけ。薫の言葉に身体を揺らすだけだ。――まるで、聞きたくない言葉を拒絶するかのように。

「あれはもう一種の才能だよな。珠瀬に晴子。細かい分野は違うのかもしれないけど、あいつらは間違いなく天才だ」

「…………」

 薫は亮子を見ない。亮子は薫を見ない。

 視線を交わさないまま、顔を向けないまま。……亮子は、薫が一体何を言いたいのかがわからない。壬姫の才能? ――そんなもの、聞かされなくともわかっている。ついさっきまでそのことを考えていた。……だから、だから自分はッ。

「才能といえばさ、亮子、白銀の剣術のこと、どう思う?」

「――ぇ、」

 あまりに唐突に、薫は話題を変えた。そして、彼の名前が出てくるなんて思ってもいなかった亮子は思わず声を漏らし、顔を上げる。

 そこには待ち構えていたように不敵に笑う薫の顔があって……亮子は、自分が釣られたことに気づく。…………気づくが、そうやって目が合い、顔を向けてしまった以上、無視することは出来ない。せめてもの抵抗か、視線だけを逸らして、亮子は問いに答える。

「し、白銀くんは……確かに凄いです。あの剣術は独特すぎてわたしには理解できませんし……きっと真似できない。幼い頃に型だけ習って、後は独学で……しかもそれを十年以上も続けるなんてこと……並大抵のことじゃないと思います」

「何でアイツはそんなことができるんだろうな? やっぱこれも才能か?」

「……ッ、それは、そうかもしれないけど……。でも、そこにはハッキリとした目標があって、それをやり遂げる強い意思がないと……」

 とてもではないが、出来るわけがない。亮子は言葉を飲み込んだ。武がかつて言っていたことを思い出す。幼い頃の剣の師匠。ほんの少しだけ習った基本を忠実にひたすらに繰り返した日々。――それは全て彼が護りたいと願った彼女のためであり、そこに込められた意志は強く、純粋だ。故に――武は強い。才能も確かにあっただろう。だが、それを補って余りある強い意志と不動の精神が、彼を今の形に押し上げている。

「ふぅん。……じゃあさ、茜はどう思う? あいつもなんだかんだ言ってスゲェよな。体力もあるし、頭もいい。近接戦闘も射撃も、なんでもできる。オマケに努力の達人だ。……なぁ、これもある種の才能ってヤツかな?」

「…………確かに、茜さんも凄いけど……」

 薫自身も言っている。それは、紛れもなく茜の努力の結果だ。確かに元々の能力に目を見張るものがあることは間違いないだろう。彼女の凄いところは、それに満足することなく、常に己の限界に挑戦し続けることだ。座学で習った知識だけでなく、それに付随する知識さえ独学で吸収、補完する。或いは肉体を鍛える訓練でも、武や晴子、薫といったそれぞれのエキスパートと競うことで自身に足りない点を見つけ出し、それを集中的に繰り返し鍛えることで身に付けていく。……そういうことを努力の天才というなら、それもある種の才能なのかという薫はあながち間違ってはいないだろう。だが、それも矢張り突き詰めて言えば茜自身の不屈の精神の顕れ、常に上を目指す向上心の結果だ。彼女は努力を惜しまない。周囲のものが自分より秀でているのなら、自らもその位置へ到ろうと常に前を向いて進んでいる。

「茜さんは、きっと才能とか、そういうんじゃなくて……自分に真剣なんだと思う。だから、あんなに頑張れるのよ……」

「そっか。んじゃ、多恵は? あいつは色んな意味で特殊だよな。頭ン中どうなってんだ~とか、時々思うけどさ」

 さっきから、一体何なのだろう。亮子は怪訝に思った。一体薫は、なにが言いたいのか。才能のある者。才能を秘めている者。そう思える彼女達、一人ひとりについて漠然と問いかける。薫の思惑が知れない。……一体、彼女は自分に何を求めているのか。

「……多恵ちゃんは、確かに変わってるけど……でも、自分でもそれをわかってて、それでも自分はそれでいいんだ、って。そうやって自分を認められることは、凄いことだと思う」

 何かが人と違うということは、時に酷く恐ろしい気持ちにさせる。自分だけにあって周りにない。周りにはあって自分にはない。……多恵の独特の価値観や思考、行動は、恐らくそういう類のものではないだろうか。無論亮子自身、だからといって多恵の特殊性を疎ましいとは感じないし、彼女を除け者にしようとは思わない。隊の仲間も同様だ。――けれど、これはそういう話ではなくて……そう、言うなれば多恵自身の心の強さ、そういうものだ。周囲に気兼ねすることなく、ありのままの自分を受け入れる。そして、ありのままの自分を放ちながらに、他者との和を乱さない。その協調性、自己と他者との共存。それを実現できることは矢張りそういう才能なのかもしれないが……それでも、多恵自身の心の強さに依るものだろう。

「……実はさ、ここ最近この屋上で彩峰と稽古してるんだけどさ。これがまた彩峰ってば強いんだよなァ。なんていうの? 待ち、っていうか投げ技得意っていうか。だからって何もしないと向こうから殴る蹴る掴みに来るで手も足もでないっつーか。軽く凹んだりしてるんだけど、これってどうよ? あたしより彩峰の方が格闘の才能に恵まれてるってことなのか?」

「それはっ…………その、そう、なのかも、知れないけど……」

 段々と、薫の言いたいことがわかってきた。多分彼女は、こうやって最後の一人になるまで問い続けるのだろう。「才能」とは何か。それは一体どういうものを指す言葉なのか。

「彩峰さんと薫さんは……全然違うじゃないですか」

「違うって何が? あたしも彩峰もインファイターだぜ?」

「でも、薫さんの基本はボクシングだし……彩峰さんは、多分、総合的な格闘術を習ってたんじゃないかって思うし……。彩峰さん、ここに来るまでもずっと鍛えてたみたいだし、」

 先の武と同じだ。きっと彼女も、明確な目標とそれを達成するための強い意思を秘めているのだろう。一心不乱にそれを目指し、遥か高みへと到るために鍛錬を積む。それが総合的に薫を上回るというなら、矢張りそこには格闘に関するセンス……薫がいうところの「才能」の違いが存在するのだろうか。けれど、慧自身それに頼っているのかどうか。多分、違う。そう思える。

「彩峰さんを見てればわかります……。彼女は凄く我武者羅に自分を鍛えてきたんだと思います。それはきっととても困難で辛い日々だったと思います……でも、決して諦めなかったからこそ、そんな風に強くなれるんですよ……」

「そっか。ん~~、じゃあ、御剣は? アイツも相当腕が立つんじゃないかと睨んでるんだが」

 その問いは今までのものとは少し趣が違うと思えた。今まで才能について問いかけていた薫が、今度は漠然と、不明確な質問を投げかける。

「…………御剣さんは、どちらかというと剣術に秀でていると思います。……剣を使っているところを見たことはないけど……でも、筋肉のつき方とか、重心の移動の仕方とかでわかります。……御剣さんは、」

 それこそ、「天才」の域に在るのではないか。声には出さず、亮子は内心で呟く。実際に目の当たりにしたわけではない。剣を構える姿を見たわけでもない。……本当に剣を使うのかどうか、それすらも聞いて確認したことはない。だが、自身も剣道を修めた身。剣を習ったことのある者とそうでない者の見分けくらいはつく。

 そこから推測する感覚的なものと、今日までの冥夜の能力を見れば、自ずと答えは導かれる。――彼女は、強い。そして強烈で苛烈で、壮烈な剣士だ。剣の天才。きっと、そんな高みに居る。だが、十六歳という若さにしてそれほどの高みに到ることは……並大抵の努力では無理だろう。否、それこそ血反吐を吐き骨肉を削るほどの修練を積んだはずだ。閃く才能はあったに違いない。だが、それを開花させ、極めるための努力を彼女は惜しまず、率先して精進にあたる。きっと、冥夜とはそれが出来る人物だ。彼女の性格を見てもわかる。将軍家縁の存在でありながら決して尊大な態度をとらず、他者の気持ちを慮る優しさを持ち、己の発言や行動のもたらす結果に責任を持つ強さを兼ね備えている。故に総じて「強い」となるわけだが、それほど自分に対して厳しくあるためには、一体どれ程の精神力が必要なのだろう。こればかりは才能には依るまい。彼女の人間性の問題だからだ。ならば、不断の努力と精進の積み重ね。それが彼女の今を形作っている。

「へぇ、御剣って剣を使うのか……。ははは、名前のとおりだな」

「御剣さんは、才能に恵まれていると思います……けど、彼女はそれを驕らず、常に自身を律しているんだと思います。負けず嫌いな面も在るみたいですし……きっと肉弾戦でも、彩峰さんに匹敵するんじゃないですか?」

「げ、そうかぁ~……こりゃ油断できないなぁ。まぁいいや。じゃ、鎧衣は?」

「鎧衣さん……?」

 既に質問ですらない。矢張り冥夜の辺りから次第にこの問答は変化している。なんなのだろう。薫の求める物が見えない。……本当に、彼女は亮子に何を求めているのか。なんの目的があるというのか。この、不毛な問いに。

 だが、亮子は視線を自身の足先へ向けて、訥々と言葉を綴る。薫の質問の意図は読めずとも、きっと、彼女は全員についてのなにがしかを問うだろう。……ならば、残るは二人。美琴の後に待つのは恐らく千鶴と――彼女のことに違いなかった。

「鎧衣さんは、とても不思議な世界をもっていると思います。多恵ちゃんと同じようで、でも違う……。とても気さくで人と触れ合うことに恐れを抱かない。……時々ヒトの話を聞いていないような気もしますけど……」

 それも彼女の魅力だろう。未だに若干の固さを見せるA分隊とB分隊の少女達の中で、唯一美琴だけがその僅かなしこりを突破しているように思う。顔を合わせたその日から全員を下の名で呼び、実に気さくに話しかけてくる。感情を誤魔化さず、そして、他者の感情の機微に聡い。たまに見せる深い雑学の知識や主にサバイバルに関する知識や実力など、どこか特異な能力も備えているが…………先までの話の流れから言うならば、それもある種の才能ということだろうか。確かに、先日の山間での訓練ではその比類なき知識を大いに披露し、隊の皆を助けた。知識だけではない。巧妙に仕掛けられたトラップを見抜く能力……危機感知能力とでもいうべきか、それら極限状態において美琴は驚異的な才能を発揮するのかもしれない。第六感、直感という類のそれ。鍛えようとして鍛えられるものではないだろう。ならば、これこそ本当の才能だろうか。だが、それを踏まえたうえでも、矢張り鎧衣美琴という少女を評するならば、矢張り彼女は気さくで明るい少女なのだ。それは彼女の冴え渡る直感とは関係なく、美琴の人となりそのものだろう。

「ふぅん。……じゃあさ、榊はどうだ? アイツ、結構茜と似てるような気がするんだけど」

 ほら、みろ。

 やっぱり千鶴の事を聞いてきた。ああ――確信した。冥夜の辺りからなにかズレているように感じられたこの問答も。ようやくにして合点がいく。207訓練部隊は、皆なにがしかの「才能」を持ち、相応の能力を有している。

 だが、そこには彼女達の「才能」だけでなく、それに見合った努力、或いは精神力……そこに掲げた目標、そういった様々な要因が絡んで成り立っている。きっと薫は、そういうことを言いたいのではないか。未だ、なんの「才能」にも出逢えていないと嘆く亮子に、才能なんて所詮努力の果てに在るものだと……そうやって慰めようと、或いは立ち直らせようとしているのではないか。

 いや、そうに違いなかった。確信したのだから、そうだ。

 ふ、と。視線を下に向けたまま……亮子は頬を歪める。――言われなくても、わかってるよ……そんなこと。

「榊さんは、やっぱり茜さんと似てると思います。何事にも真剣で一生懸命で……努力を厭わない。知識を得ることもそうだし、自身を鍛えることにも精力的だと思います。……努力の達人、でしたっけ? 多分、榊さんもそういうことが出来る人です」

 そして、突き詰めて言えば矢張りそれも才能だけに依るものではない。茜と似ている……同質であるというなら、そうなる。なるほど、本質とか根底にあるもの、そういった箇所が似ているのだろう。気が合うはずだ。お互いに精神的に近いものを感じたのだろう。矢張り千鶴も総じて努力の上に成っている。座学を修めることに関しても、肉体を鍛えることに関しても。彼女は他者にも厳しいが、それ以上に自己に対して最も厳しい。分隊を任される立場上、責任と能力を求められることもしばしばあるが、彼女はそれをこなす力を身に付けるために常日頃から心掛けている。それ以外にも常に隊内の様子に気を遣う優しさを持ち、皆を統率するに足る品格も備えている。……努力一つでここまでのことができるなら、それも立派な「才能」だ。

 だが、これまでの問答が繰り返し繰り返したように。千鶴のそれも矢張り……努力なくして成立しない。

 亮子は一旦口を閉ざすと、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。

 ああ……薫は、彼女はどんな表情をしてるだろう。どんな顔で、自分を見ているだろう。亮子は自虐的に笑う。下を向いたまま、その視線を地に落としたまま。

 薫の気遣いは嬉しい。自己嫌悪に陥り、自分の情けなさに歯痒い思いをし、それだけに収まらず嫉妬に駆られた自分を、薫はこんなにも気遣ってくれている。なんて優しい。ありがとう薫さん。そんな風にお礼を言えばいいのだろうか。

 いや、感謝して欲しいわけではないのだろう。ただ純粋に、自分の身を案じてくれている。落ち込んだ亮子を引っ張り上げようと手を差し伸べてくれている。

 ――ああ。

 一体どうして自分は、そんな薫の優しさを、素直に受け取ることが出来ないのか。…………今はただ、疎ましいとさえ思ってしまう自分が、何よりも疎ましい。嫌らしい女。こんな後ろ暗い感情が、自分の中に眠っている。亮子は怖くなった。怖くなって、負の感情から抜けられない。

 だから、薫がフェンスから身を離したとき……怯むように後ずさった。

 怖かった。こんな話をする薫が。そんな風に考えてしまう自分が。これほどまでに追い詰められていたのかという、自己に対する絶望。大切な友人の手さえ握れない。そんな弱虫の自分。

「なあ、亮子…………」

 薫が口を開く。一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる。ほんの数歩の距離。それなのに、とても遠い。

「珠瀬のあの射撃の腕はさ、やっぱり才能なのかな?」

 ついに、きた。――最後の一人。

 一番最初に問うておきながら、最後までその答えを求めなかった彼女。亮子の中で眠っていた劣等感という名の弱い心。それに気づかせた天才。

 B分隊の少女達の中で一番最初に仲良くなった少女。花のように笑う、小さな身体の中に大きな心を持った少女。とても身近に感じていた。体力的にも身体的にも近しい彼女。……だからこそ、彼女が…………こんなにも、早く――自身の才能と出逢ったことに嫉妬した。

「ぁ、ぁ、」

「珠瀬は、天才だと思うか? あれはアイツの才能に依るものだ、って」

 ――そんなことはない。

 そう言えばいいのだろうか? 今までの問いに対する答えのように。壬姫の射撃の能力も、それは……彼女の不断の努力と高みを目指す意志の顕現だと。そう答えればよいのか。

「――――ぁ、」

 言葉に出来なかった。口にすることが恐ろしかった。

 もし、それを認めてしまえば……一体自分は、何に嫉妬し、何にショックを受けていたのか。

 自分には何もない。何の「才能」も備わっていない。そう思った。だから……辛いと感じた。持っている壬姫を羨ましい……妬ましいと感じた。でも、その壬姫でさえ、たしかに……確かに、射撃に対する「才能」はあっただろうが、それでも、そこには他の皆と同様に比類なき努力が存在していただろう。

 だとしたら、一体自分は何をしているのだろう。自身には何もないなどとのたまっておきながら、何かを持っている彼女達を妬む。だが、その彼女達の「何か」は、そこに掲げられた目標に向かって努力する過程で出逢い、気づき、育んで来たものであって…………決して、最初から、自身の「才能」を知っていたわけではない。

 誰だってそれを模索する。自分にしかないなにかを求めるだろう。

 ……壬姫たちは、それを得るに相応しい努力を果たし、今も尚それに慢心することなく精進を続けている。

 ああ、ようやく理解する。薫の言葉にこれほどまでにうろたえた自分の底の浅さ。亮子は――己の努力が足りないことに気づくのが怖かった。それを認めることが怖かった。

 これまでの二年間、それを真っ向から否定されることが、怖かったのだ。

 楽しいことだけじゃなかった。辛いこともたくさんあった。苦しいこと、哀しいこと……それでもやっぱり、この二年間は楽しかった。

 厳しい訓練を乗り越えて、自分も少しは成長したと思っていた。それが、ここにきて同い年であるにも関わらず、自分以上に、まして亮子にとっての高位に在った武や薫たちに匹敵、或いは凌駕するほどの能力を持ち合わせた彼女達が現れて…………きっと、その時から。亮子は、自身のこれまでを……楽しかった日々を、嘆かわしく思ってしまったのだ。

 なんと言うことはない。

 ただ、亮子が弱かっただけだ。嘆くのではなく、彼女達のように、それでも――尚更に、高みを目指すべきだったのだ。そうすれば、遠からず自身だけの「才能」にだって出逢えたかもしれない。

 ――いや、まだまだ、十分に。それは間に合うはずだった。

「薫さん……私は、」

「それじゃ。最後の質問。――亮子、お前の才能はなんだと思う?」

 小さな亮子の声を遮るように、きっぱりとはっきりと。薫は問う。それは今までのどこか遠まわしなそれではなく、真正面からぶつかってくるような、そんな気迫があった。

 ゆっくりと亮子は顔を上げる。うん……もう、大丈夫だよ。優しい友人を安心させるように、瞳に涙を浮かべたまま、にっこりと微笑んで。

「私は、それを探す努力をします。これから、たくさんたくさん、皆に負けないくらい、頑張って。そうして、いつか自分だけのそれに出逢ったとき……きっともっと頑張れるように」

 はにかむように笑う亮子の表情は、綺麗だった。

 同じように満面の笑みを浮かべる薫が、悪戯っぽく犬歯を覗かせる。

「――ああ、やっぱり気づいてなかったんだな。亮子」

 悪戯気に笑ったまま、薫が言う。その言葉に、亮子はきょとん、として。

「亮子さ、皆のことよく見てるよな。あたしらのことも、珠瀬たちのことも。知り合ってまだたったの一ヶ月だってのに、それでも凄く……よく見てる」

「え……?」

「気づいてないだろ? あたしはさ、まだ御剣や鎧衣、榊のことは実際のところよくわからない。なんか凄そうなヤツ、くらいには思ってるけど、訓練だってまだそんなに多岐にわたってるわけじゃないし、誰が何が得意で、どういう考えを持っているのかなんて、全然さっぱりわかりゃしねぇ」

 ヤレヤレと身振りを交えて、薫は尚笑う。笑いながら、おどけるように亮子を見る。

「亮子はみんなのことをよく見てる。外面的なものだけじゃなくて、その内面……皆の心の奥深く、その考えやそこにある想いとか……そういうの、さ。ホント、凄くよく見てる。――モノの本質、っていうのかな? そういうのさ」

 言われて、亮子はハッとする。先ほどまでの薫との問答。冥夜の辺りから感じられていた違和感やズレ……その正体が今、薫自身の口から語られていた。なるほど、薫自身が彼女たちのことをよく知らないのであれば、そこに秘められた才能……努力の上に成り立っているそれを問うに当たり、曖昧に、或いは漠然とした不明確な問いとなってしまうのは当然だった。

 二年間を共に過ごし、よく知っている武や茜たちと違い、薫にとってまだまだ冥夜たちとは本当の意味で打ち解けられていない、ということだろう。

「なのに亮子は、あたしが知らない皆を知ってる。御剣が剣を使うなんて、ホントに全然知らなかったんだぜ? 彩峰のことにしたってそうだ。あいつの強さの裏にある想いを……例え予測まじりだとしても、そんな風に考えて本質に近づける亮子は凄い。……それが、多分亮子の“才能”だよ」

 ふっ、と。心が軽くなるのを感じた。

 じん、と。胸が熱くなるのを感じた。

 ああ……そうか。そうだったのか。それはなんだか、およそ軍人らしくない「才能」だったけれど。確かにこうして自分の中に存在していて…………知らない内に、花開いていたのか。

「亮子は、その人を知ることが出来る、凄い才能を持ってるよ。それはその人を深く理解しようと思わないとできないだろ? ……亮子は、誰に対しても表面だけの付き合いなんてしたくないんだ。同じ目標に向かって共に進む仲間のこと、深く深く知りたいって思って、その人のいいところをこんなにもたくさん気づいて知って、理解して。すごいよ。……すごいじゃん。亮子。お前は凄く優しいやつだ。凄く、素敵だよ」

「……ぅ、っ、あ……ッ」

 ポロポロと涙が零れる。立ったまま、くしゃくしゃの顔を晒したまま。亮子はぐずぐずと泣いて、薫の胸に飛び込んだ。

「ぅゎあああああっ」

「亮子はちゃんと、自分だけの素敵な才能を持ってるよ。だからさ、何にも負い目に感じることなんてない。だってこんなにも、あいつらを想ってるんだから」

 それは目に見える才能ではなかった。秀でた剣術や優れた格闘能力、膨大な知識や卓越した射撃技能……そんな風に何かに対してプラスに働くようなものでもなかった。

 ただ、その人の本質を見抜く才能。その人の心のあり方を理解する才能。

 自分ですら気づかなかったそんな小さな花を、薫は見つけてくれたのだ。知っていてくれたのだ。――ああ、それは、なんて暖かくて、嬉しいことだろう。

 亮子は泣いた。嬉しくて暖かくて恥ずかしくて泣いた。

 薫の胸の中で、よしよしと頭を撫でてくれるまるで姉のような彼女に抱かれて。

「……ぐすっ、……ふふっ、うふふふっ」

「ぉ? 泣き止んだか? はははっ」

 鼻をすすり、涙を拭うと笑いが出た。薫も笑っている。思い切り泣いたらスッキリした。ついさっきまでのモヤモヤとした醜い嫉妬も、自身に対する不毛な劣等感も。全部。綺麗さっぱり流れて消えた。

「ありがとぅ、薫さん。……私はもう、大丈夫です」

「ん。そっか。――だってさ、皆?」

 薫の顔を見上げて、頬を染めながら亮子は笑う。恥ずかしげな彼女を見て、薫は、それが本心からのものであることを理解する。だから安心した。安心して――扉の向こうにいた彼女達に声を掛けた。

「――ぇ?」

 呆けたように亮子が振り返る。キィ、と開けられた屋上のドアからは若干頬を赤らめた少女達。亮子と目が合うと慌てたように視線を泳がせて、……なんだか、物凄く照れているように見える。

「そ、その……っ、べ、別に私は、努力の達人とか、そういうのじゃなくてっ……」

「あははっ、ボクってそんなに気さくかなぁ? 気にしたことなかったんだけど、なんだか照れるね」

「うむ……月岡の言葉はじんと胸に響くな。自身のことをこのように理解してくれる者がいるということは、とても嬉しいことだ」

「…………ぽ、」

「はぅぁうあ~っ。す、すっごく恥ずかしいですぅ~」

「わはははは。お前らすげぇ真っ赤だぞ」

「そういう白銀も思いっきり照れてるけどね」

「茜も十分赤いけどねぇ」

「平然としてるのは晴子ちゃんだけだよぉ~」

 そろいも揃って顔が赤い。驚く亮子とは裏腹に、薫はとても愉しそうだ。

「亮子~、こいつら、ずっと全部聞いてたんだぜ?」

 ずっと? ずっととはドウイウコトだろう? どうしてここに居るのかとか、そんなことも理解できないのに……。訓練はどうしたのかとか、そもそも何で顔が赤いのかとか。混乱して頭が働かない。

「ずっと……って、そ、そんな……ッ?!」

「そういうこと」

 つまり亮子は本人が聞いていることを知らぬまま、彼ら一人ひとりの魅力を存分に語っていたのである。亮子自身の精神状態が普段とは異なっていたとはいえ、それでも自分以外の者から自身をある意味褒めちぎられたのだ。照れない筈がない。

「わっ、わっ、わぁああ~~っ??!!」

「うわぁ、亮子が壊れたッ!!?」

 ぼふん、と大きな音を立てて亮子の耳から煙が出る。白い肌はかわいそうなくらい真っ赤に染まり、目はぐるぐると回っている。

「あっはははは! 珍しいね~、亮子がこんな風になるなんて」

 晴子が笑い、皆も笑う。十一人の、それぞれに魅力を持ち、優れたものを持つ仲間達が。揃って、心の底から笑った。







 そして、彼らは多分このときようやく。

 互いに心根の知れた……「仲間」になったのだ。







[1154] 復讐編:[五章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:048cdece
Date: 2008/02/11 16:14

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:五章-03」





 横浜基地は小高い台地の上に建っている。基地の入口までには延々と続く長い曲がりくねった坂道があり、道の両脇にはずらりと桜の木が植えられている。これは、元々の……つまり、帝国軍横浜基地時代の様相と酷似していて、当時を知る者は全員が口を揃えてまるであの時に戻ったようだと漏らしたという。

 桜の木に限らず、横浜基地内には多くの植物が植樹されているが、梅雨を過ぎ、緑が最も鮮やかに強かに成長する七月に入っても、その枝先に緑をつけるものは少なかった。

 観葉目的で植樹された木々はそうでもないのだが、先の桜然り、或いは……BETAと『G弾』によって壊滅した横浜の町然り。

 ここには、およそ緑と呼べるものが皆無に等しかった。

 事情を知る者は敢えてそれを口にせず、事情を知らぬ者も、その意味をそれなりに予測している。

 即ち、――『G弾』。

 横浜ハイヴ攻略においてその驚異的な破壊力を見せつけた二発の超兵器。米軍が開発した対BETA戦略における現在の最高峰。

 本州島各地で、或いは世界各国でBETAに蹂躙された土地は多い。連中の通った跡は根こそぎ何もかもが失われる、というのはもはや常識だが、しかしそれらの土地に緑が戻っていないという事例は少ない。元々植物の植生しない土地柄というならともかく、ここまで見事に植生が回復しないというのは珍しい。

 …………否。

 珍しいというよりは、むしろ……。

 未知なる超兵器の洗礼を受けた横浜。そこに建設された国連軍横浜基地。植樹された桜、木々、観葉植物……。

 その育成に弊害を与えているもの。新たに緑が芽吹かない理由。

 公にはされていない『G弾』の一つの効果。……いや、効果というにはあまりにおこがましい。

 それは『G弾』を使用するならば必ず憑いて回る災厄のようなものだ。――重力異常。『G弾』を使用した土地に引き起こされるそれは、この横浜の地に半永久的に影響するといわれている。

 横浜基地の植物の育成状況はその重力異常の影響度合いを計る目安であり貴重なデータとして国連の研究所へ報告される。そのデータを元に『G弾』の引き起こす重力異常の脅威を研究することで、国連は米軍に対して今後一切の『G弾』使用を禁止すべく動いているのだ。

 そして、そこで暮らし、戦い、訓練に明け暮れる彼らもまた……『G弾』が人体に与える影響を研究するための生きたデータを提供している。――無論、本人達の知らぬまま。

 そのことを知る者は少ない。……知っている者は、それを承知で尚、この基地に留まり任務をこなす。日々を生き、『G弾』の脅威を証明するために、帝都に程近いこの地を護るために、極東方面防衛の要となるために。未知の兵器が振り撒いた未知の重力異常に晒されながら、それでも……。







 ===







 速瀬水月は基地入口の正門を護る衛兵に部隊章と外出許可証を見せ、敬礼を向けてくる伍長に答礼しながら颯爽と門を出る。向かう先はそう遠くない。延々と続く曲がりくねった坂道……その脇に植えられた葉のない桜の木々。その一本に歩み寄り、根元に置かれたコップに目をやる。

「ふふっ……相原中尉、こんなところでも飲んでるんですか? 飲み過ぎて、前みたいに暴れないでくださいよ~」

 きっと、木野下少尉の仕業だろう。透明な硝子のコップは二つ置かれていて、片方は空に、残りにはなみなみと液体が注がれていた。数ヶ月前に一度だけ、彼女の部屋で口にした純正の日本酒。任官した際に父親から贈られたのだというそれは今では貴重品となった本物で、大層酔いが回ったことを思い出す。

「あの時は大尉にこっぴどく叱られて、あっはははっ、木野下少尉なんて土下座までしてましたっけ!」

 その時を思い出したのだろう。水月はケタケタと笑う。まるで枯れ木のような桜の根元、……そこに誰かが居て、その人と思い出を語り合うように。



 特殊任務部隊A-01――水月が所属する、横浜基地副司令直轄の特殊部隊。

 常に激戦の渦中に身を置き、過酷に過ぎる任務に従事することの多いA-01部隊は、つい先日まで山口に居た。

 甲20号目標から流れ出たBETAの大半は海底を進み佐賀県沿岸部に上陸する。対馬に展開する帝国軍艦隊や奪還した山口県に再建した帝国軍各基地の戦術機甲部隊らが結束し、それら進出してくるBETAの本州上陸を防ぐために日夜最高基準の警戒を敷き、防衛ラインを構築している。

 数ヶ月に一度の頻度で侵攻してくるBETAに対し、彼らは幾度となく防衛戦を繰り返してきた。……数ヶ月に一度であるとはいえ、その損耗は莫迦にならない。戦闘を一度行えば必ずといっていいほど戦死者が出、戦術機を失い、武器・弾薬、ありとあらゆる物資を消費する。特に衛士は替えがきかず、最前線である下関基地には実に二個師団規模の部隊が集結しているにも関わらず、その損耗は尚増加し、各地方へ増援を要請しているという。

 無論、過剰防衛というわけではない。

 朝鮮半島と目と鼻の先である九州北部・山口西部。先の本州島侵攻において真っ先に壊滅したそれら……本州島の玄関口とも言えるその箇所を守護・防衛することは理にかなっているし、なにより、日本人に植えつけられたBETAの脅威を払拭するためには、そこは絶対に守りぬかねばならぬ境界線なのだ。

 そして、その防衛作戦にA-01部隊は参加していた。

 『明星作戦』において二中隊からその数を減らし、今や第9中隊一つを残すのみとなったA-01。伊隅みちる率いる第9中隊は元帝国軍横浜基地衛士訓練校出身の総勢十二名、内一名は戦域管制を行うCP将校で構成され、その苛烈なる戦績と部隊員が全員女性であることから、戦乙女の二つ名を以って呼称される。即ち、伊隅ヴァルキリーズ。

 若き女性大尉が中隊長を務め、部隊全員の錬度も高い。堅実で確実な実力を有し、どんな過酷な任務にも臆することなく果敢に成果を上げるヴァルキリーズは国連軍に所属する。『明星作戦』では帝国軍と共同作戦を展開したりもしたが、通常であれば帝国軍と共に作戦行動を取ることはない。

 ならば今回の山口派遣は一体何のためか。

 帝国軍からの要請というわけではない。『明星作戦』以降、帝国は国連に全面的に援助を求めることをしなくなったためである。

 無論、国連との繋がりを断った訳ではないが、窮地から脱した現状、国連軍の好意に甘えること、それに縋ることをよしとせず、先の教訓を生かした防衛体制を構築するためには必要な措置だった。

 国連軍もそれを重々承知し、しかし世界情勢を見た限りでの甲21号ハイヴの脅威に備えるために、横浜に極東方面防衛の要となるべく一大基地を建設したわけである。

 そして、この度の山口戦線。甲20号目標より溢れ出たBETAが海底より九州へ上陸、これまでと同様に福岡を北上し、関門海峡を越えて山口へと侵攻した。ある意味で、いつも通り。彼らの認識からすれば実にセオリー通りのBETA侵攻だったのだが、今回は少々事情が違った。

 数が多いのである――。

 BETAを前にして多いも少ないもないのだが……それでも、「多い」。戦略衛星で補足したBETAの総数はおよそ一万二千。横浜ハイヴ攻略の際に地上部隊が相手取ったBETAの総数に匹敵する物量である。下関基地に展開する戦術機甲師団は大いに泡を食った。甲20号目標、即ち光州ハイヴは、その分類上フェイズ4とされる。フェイズ4ハイヴの推測BETA総数はおよそ数万から十数万。実に幅広く曖昧に過ぎる数値だが、実際にその中に潜る以外に観測し総量を計る手段がない現状、それもやむを得ないのかもしれない。だが、それでも、二個師団の精鋭が整然と防衛ラインを構築しているとはいえ、一万二千の超物量を前に、「それで十分」などと言える保障もなく。

 光州ハイヴよりそれら圧倒的物量のBETAの出現が観測されたとき、既にA-01は山口へ向けて出撃を開始していた。

 先の通り、帝国軍からの要請ではなく、彼女達は彼女達の役割を果たすため、直属の上司である横浜基地副司令香月夕呼の命令により自ら戦場へ赴いたのである。


 山口西部の防衛線を抜かれるわけにはいかない。ようやく取り戻した本州を再び失うわけにはいかない。……幸いにして、佐渡島に存在する甲21号目標は沈黙したままであり、それは新潟から波状に展開する帝国軍第12師団をはじめとする三重の防衛ラインにより固められている。故にA-01は北関東の情勢を気にすることなく、今現在の脅威に対抗すべく進撃した。 彼女達が山口の戦線に突入した時には既に前線は下関を越え、瀬戸内海沿いに小野田まで押されていた。流石これまでのBETA侵攻を防いできたことのある帝国軍は、それでも少なくない損害を出しながらによく奮闘していた。A-01とてそんな彼らに負けられぬ、或いはそんな彼らを死なせないために、率先してBETAの前に姿を晒し、陽動を引き受ける。

 突然のA-01の乱入にも関わらず、帝国軍衛士はよく連携した。BETAの陽動を買って出る彼女らの動きを実に巧く利用し、ひたすらに前進を繰り返すBETA共を血祭りにあげる。――だが、それでも矢張りBETAはBETAでしかなく……その脅威は、殺しても殺しても一向に減らないその数にある。

 実に四時間を超える長期戦。各基地に備蓄していた補給物資の三分の二を使いきり、戦死者は数百を数えた……。小破を含む戦術機の損害は実に1500体を超え、二個師団のおよそ七割におよんだ。

 そして……無論、A-01とて無傷とはいかなかった。

 かつての第6、第9中隊を併合しての十二名で編成された彼女達の部隊からは半数を超える七名が死亡し、その戦力は激減した。…………それほど過酷な戦場だったということだろう。だが、あまりにも多い。

 戦死した七名の内、これが初陣だった衛士は四人。この二月に任官したばかりの、経験の無い少女達。初陣に出た衛士の平均生存時間は八分。「死の八分」と称されるそれを、しかし彼女達は辛くも乗り越えてみせた。…………ただ、経験が足りなかっただけだ。それを乗り越えて尚、平常心を保ち、周囲を、そして何より己を把握することが出来ずに。

 一人、また一人と……緩やかにその数を減らしていったのだ。――たった一度の防衛戦で。

 初陣を見事切り抜けた新米衛士はたったの一人。同期任官した仲間の全てを喪って……それでも彼女は、涙を流すことなく、戦場に散った戦友に微塵の迷いもない最敬礼を送っていた……。



 それが、つい先日までの顛末である。

 桜の木の下で、水月は静かに語り続けた。山口の地に散った相原。水月を突撃前衛として引き抜いてくれた小隊長。かつて孝之と共に戦場を駆けた女性。……今頃は孝之をからかって笑っているのだろうか。

「……決して無駄死にするな、かぁ……。相原中尉、貴女は…………」

 水月はそれ以上口にすることをやめた。

 同じB小隊だった水月の同期生。主脚に損傷を負い、補給のために一旦後退する部隊から離れ、単機で時間稼ぎをしようとした山崎。――相原は、それを認めなかった。そんなことは赦さない。それで死ぬことは絶対に赦さない。そう叫んで、相原はその彼女の下へ舞い戻った。

 制止するみちるの声も聞かず……「もうあんなことはごめんだ」と、まるで泣いているように叫ぶ相原は…………結局、殺到するBETAの前に、山崎共々逝ってしまった。

 それは無駄死にだったのか否か。

 みちるは吠えて、嘆いた。――莫迦野郎、と。苦りきった表情で、感情を噛み殺して。ただ、一度だけそう言った。

 その言葉の意味を。相原の行動の意味を。水月はまだ理解できていない。……ただ、相原は決して、無駄死にをしたのではないのだと信じていた。

 結局のところ、それを無駄死にと断ずるのは本人の心だ。自分自身、唯一無二の、絶対に他人に覗くことのできないその心が、自分は無駄死になんかじゃないと意思高らかに咆哮するならば、それは、周囲の者がどう感じたところで、決して無駄死にではない。

 だから、相原は……。

「水月、ここにいたんだ……」

「遙……」

 黒を基調とした国連軍の士官服を着た遙が、水月のすぐ後ろに立っていた。柔らかに微笑む親友に、水月も微笑を返す。やってきた遙は水月と同じように桜の木の下に立ち、そこにあるコップに気づいた。

「あは、木野下少尉ったら。……相原中尉、今頃お酒飲んでるのかな」

「飲んでる飲んでる。山崎も野々宮もいるし……きっと小林も竜堂も藤井も武内も、み~んなで大宴会でも開いてるんじゃないの? なんてったって本物の吟醸があるわけだしさぁ」

「うん。そうだね。……孝之君も、一緒かな……」

 遙の表情は柔らかく、落ち着いている。目許は赤くじんわりと腫れているが、そんな哀しみを微塵も感じさせない様子で……。それでも、その名を口にしたときだけは……どこか翳りの色を見せる。

 水月は静かに笑う。遙の言葉に頷くように、じっと眼を閉じる。

 今回の作戦で、本当に多くの仲間が逝った。訓練兵時代を共にした同期たち、自分達に半年遅れて任官した一期下の彼女達……。水月が入隊する以前からヴァルキリーズに居た古参は既にみちると木野下の二人だけ。未来溢れる有望な若き衛士は、その大半が散ってしまった。

 それは哀しい。本当に哀しい。ついこの間まで共に訓練をし、共に作戦に参加し、戦ったのだ。

 一人ひとりの名を、顔を、声を。覚えている。鮮明に思い出せる。――なのに、彼女達はもういない。

 それは鳴海孝之という彼も同じ。

 何も言わない水月に、遙はごめんと小さく舌を出した。謝ることなんてないと水月は首を振る。遙が言ったことは自分だって考えたことなのだ。――ならばきっと、あの莫迦もやってきた相原に苦笑しながら、差し出される酒を巧そうに煽っているに違いない。

「相原中尉、アイツのことお気に入りだったみたいだし? 絶対飲まされてるわ。断言する」

「あはは……。水月ったら」

 小さく笑いあう。A-01への任官が決定したその日から……もうじき一年が経とうとしている。つまり、彼女達の想い人であった彼がこの世を去ってから……。

 水月は思い出す。みちるの口から告げられた孝之の最期。……相原は、山崎の姿に孝之の背中を重ね見たのだろうか。

 そして同時に、あの日、自身の肩を抱いてくれた少年を思い出す。

「…………ふふっ、」

「水月?」

 泣いていいと言ってくれた。今度は自分が支える番だと言ってくれた。……あの、危なっかしい、目の離せない――まるで弟のように想っていた少年。

 今現在この横浜基地で国連軍訓練兵として訓練を続ける彼を、思い出す。

 どうしてだろうか。

 改めて思い出すまでもなく、水月は彼を忘れたことなどなかった。何時如何なるときも水月の頭の片隅には彼が居て、挫けそうな時や……今回だって、その言葉が、その手の温もりが……支えてくれた。

 ああ、どうしてだろう。

 孝之のことは今でも好きだと、胸を張って言える。……なのに、心のどこかでは、常にあいつのことを考えている自分が居る。

 まったくどうかしている。なのに、こうして思い出せば、じんわりと胸が温かくなる。

「……水月、ひょっとしなくても白銀君のこと考えてるでしょ?」

「んなっっ!!??」

 うふふふふ、と。まるで天使のような微笑を浮かべる遙に、水月は思わず叫んでしまう。心の底から満面の笑みを浮かべる遙のその表情は、長年の付き合いから、彼女がとてもとても愉しんでいるのだと知らせてくれる。――主に、自分の親しい者が恥ずかしがる様を見て歓ぶときの顔だ。

 妹の茜を可愛がる(?)時に見せることの多いエンジェルスマイルを、惜しげもなく水月に向けて。遙はちくちくと水月を弄くり出した。

「そうだよね。白銀君かっこいいし。水月も白銀君のこと大好きだし。なんとなく孝之君に似てるしね。あ、でも、それだと水月……茜とライバルになっちゃうのかな。う~ん、複雑。姉としては妹の幸せを願ってあげたいけど……でも水月は親友だし……。あ、でも、水月と白銀君ってすっごくお似合いだと思うな。だとしたら姉さん女房だねっ」

「だぁあああ~~っ!!? ストップストォオオップ!! ちょ、ちょっと遙?! あんた何言い出すのよっ!!」

 うふふふふふふ……。神々しいまでの天使の微笑み。なのにちょっぴりダーク風味。水月は真っ赤になって、聞き捨てならない遙の言に異を唱える。あいつは弟! 恋愛対象なんかじゃないし、第一年下に惚れるなんてことが云々。しかしその水月の必死の抵抗も遙の前にはまるで通じず、

「わかってる。水月ってホントに照れ屋さんなんだから~」

「ぜんっぜんわかってなぁあ~~いっ!!」

「そうですか。速瀬少尉には年下の恋人が居るんですね。……しかもウチの訓練兵。涼宮少尉の妹さんと三角関係……と。ふふっ、その少年、一度見てみたいですね」

 うふふスマイルでのらりくらりとかわす遙に喚き叫ぶ水月。その背後で、唐突に第三者の声がする。

「宗像っ?! あ、あんたいつの間に……」

「つい先ほど。……しかし、タイミングがよかった。まさか速瀬少尉の知られざる性癖を知ることが出来るとは……」

「ぶっ!! せ、性癖ってあんた……」

「いえいえ、私は全然気にしてません。恋愛に基準も制限もありませんよ。……まぁ、私の場合は気持ちよければなんでもいいんですが」

 宗像美冴は不敵でニヒルな笑みを浮かべ、水月の険しい視線など何処吹く風といわんばかりに平然としている。たった一人だけ初陣を生き延びた才覚溢れる新任衛士。大人びた印象を受けるその風貌に似合いな、どこか謎めいた思考の持ち主である彼女を、水月は少々苦手としていた。

 とにかくこの女は油断がならない。それが水月の美冴に対する認識である。別段嫌っているということはないが、それでもこちらをまるで玩具かなにかのように考えているのではないかと思わせる言動には……結構かなり随分と、思うところは……大いに在る。

「誰もあんたの性癖なんて聞いてないわよっ!? ていうかなに!? 気持ちよければ何でもって……!!」

「ふふ、試してみますか?」

「試さないわよっ!! 遙もなんか言ってやんなさい!」

「痛いのはやだなぁ……」

「そんな話してないでしょっ!!??」

 んがぁ~っ、と水月は髪を掻き毟り、飄々とした美冴に腹を立てること自体が空しいことなのかもしれないと悟る。遙のアレは単なる悪ふざけだろう。……天然ゆえ、どこまで本気かわからないのが恐ろしいが。

 しかし、改めて美冴を見る限り、矢張り彼女の目元も赤く腫れている。クールを気取る彼女のことだ。誰も居ない部屋でひっそりと泣きはらしたのだろう。

 水月は、たったひとりで戦場に向かって最敬礼する美冴の背中を思い出していた。厳しく苦しい訓練を共に乗り越え、A-01に配属された仲間達の死。初めての戦場で唯一人生き残り、彼女は一体何を想っただろう。

「……宗像、私は基地に戻るわ。…………気が済むまで、ここに居てもいいわよ。大尉には私から伝えておくから」

 その水月の言葉に、美冴は少しだけ目を見開いて……噛み締めるように朗らかに、笑った。

「いいんですよ。ここには挨拶に寄っただけですから。……でも、そうですね。だったら少し…………少しだけ、お言葉に甘えさせていただきます」

 実に爽やかな笑顔だった。水月と遙はそれに頷いて、桜の木を後にする。

 見上げれば夏の青い空。あと一月もすれば、また新しい新任衛士が配属されてくるだろう。

 A-01部隊を編成する衛士を養成するためだけに設けられた横浜基地衛士訓練校。それはかつて帝国軍であった頃からなんら変わらない。ならばきっと、今回もさぞ優秀で才能溢れるヒヨッコ共がやってくることだろう。

 ……そして翌年には。

「あ、茜だ。あはは、神宮司軍曹に怒鳴られてる」

 基地のゲートを抜け、格納庫へ向かおうとした水月は、遙のその声に足を止める。屋外訓練場で格闘訓練を行っている第207部隊の姿が、遠巻きながらに窺えた。

 無論、遙が気づいたからといって茜たちが気づくはずもなく。

「……遙、茜に会いたい?」

「うん。そりゃあ、ね。……でも、任務だから、しょうがないかな」

 いずれ彼らが任官したならば共にA-01の一員として任務に当たることになるだろう。――だが、今はまだ一訓練兵に過ぎないが故に。

「そ。肉親にも秘密、っていうのは、なんだか堅っ苦しいけどね」

 水月の言葉に、遙は静かに笑った。それが、A-01という副司令直轄の特殊任務部隊の役回りだ。携わる任務の特殊性故に、彼女達はその存在を公にすることは許されていない。例え血の繋がった家族だろうと、恋人だろうと。自らが属するその部隊について口外することは一切出来ない。

 堅苦しいと水月は言うが、彼女とて本心からそう言っているわけではない。ただ、目の前に居ながらに、自分がここにいることさえ伝えられないもどかしさが……少しだけ漏れてしまっただけのことだった。

「ふふふ。水月ってば、ホントは自分が白銀君に会いたいだけのクセに」

「遙ァア!!?」

 そうして二人は、まるでじゃれ合うように基地内へと戻っていった。水月は格納庫へ。遙は司令室へ。衛士とCP将校という、それぞれの役割を果たすために。







 ===







 七月に入ってもまだ剣術の訓練が行われないことに、武は若干の不満と違和感を感じていた。

 二年前を思い出す。帝国軍の訓練兵として過ごしていたあの頃は……確か六月頃には既に剣術の訓練が行われていたはずだった。教官は同じ神宮司まりも。彼女の一存で訓練メニューが定められていないというなら、これが帝国軍と国連軍の衛士育成プログラムの毛色の違い、という物なのかもしれなかった。

 即ち、何に重点を置くのか。

 衛士は戦術機を操縦する。戦術機を動かし、BETAと戦うために必要な技術を学び、身に付け、それを実行する。

 戦術機とはいわば肉体の延長だ。自分の肉体で行えることで、戦術機で再現不能なものはないと言われるほど高度な性能を持っている。故に、訓練兵時代は軍人にとって必要な肉体・精神・知識を鍛えるのは勿論、将来戦術機に乗ってBETAと戦うことを前提とした諸々の訓練が存在する。

 即ち、射撃に近接格闘訓練。一軍人として身に付けて当然の技能であるが、実際にBETAと対峙して戦う衛士にはそれらの技能は必要不可欠なものだ。

 戦術機はBETAと戦う。――では、何を以ってBETAと争うのか。

 独学で調べてみた限り、戦術機の兵装は大きく分けて二種類ある。突撃砲と呼ばれる遠距離戦闘兵器と、長刀や短刀と言った近接戦闘兵器である。

 武は、その装備を知り、そして国連軍と帝国軍のそれぞれの特色を想像を交えながら比較し……辿り着いた結論が、先のものである。

 つまり、それは国連軍という組織と帝国軍という組織の根底に流れる思想の違い、ということになるのだろう。

 なるほど、確かに今現在武たちの訓練カリキュラムを見る限り、射撃を主とした構成で組まれているようだった。つまりそれが、後々戦術機に搭乗した際の、国連軍の基本戦法ということなのだろう。

 迫り来るBETAに対して、距離という優位性を確保しつつ、一斉掃射、或いは精密射撃や遠距離狙撃によって得られる戦果を期待しての戦法。弾薬は消費するものの、衛士や戦術機が直接晒される危険を極力下げるスタイルだ。

 ならば、帝国軍はどのような戦法に重きをおいているだろう。

 言うまでもない。日本には武士の時代より積み重ねられてきた刀の歴史が在る。即ち、長刀を使用しての近接戦闘。残弾数に関係なく、目標を無効化できる長刀は長期戦などでは大いに重宝され、効果を発揮するという。他にもハイヴ突入を想定した戦術では長刀・短刀は非常に有効であるとか。武はその資料に目を通した際、そりゃそうだろうと納得した。

 納得し、自らも剣を扱う身であるから尚更に、帝国軍の考えはよくわかる。

 日本という国が辿ってきた歴史、文化的背景、刀に篭めた魂の鼓動……。刀を抜くという行為、刀を振るうという行為、そこに秘められた精神・肉体の真髄を鍛えぬく所業。

 帝国を護り、政威大将軍を護り、民を護る帝国軍は正に、日本そのものを体現する集団である。だからこそ、刀を用いての近接格闘訓練に重点を置き……恐らくは、戦術機操縦訓練においても、それを重視するのではないだろうか。

「ま、別に毎日振り回してるわけだから、別に関係ねぇんだけどな」

「ほほぅ、そんなに射撃訓練は退屈か? なら白銀……貴様には特別メニューを与えてやろう」

 どうしてかいつの間にか背後に立っていたまりもに、武は硬直する。別段、声に出していたわけではないのだが……考えに没頭しすぎて手元が疎かになっていたらしい。

「き、ききき、教官、その、これは、ですねっ」

「問答無用だ莫迦者ォォオ!! 白銀はこの場で腕立て二百回! その後は完全装備でグラウンド二十周だ!!」

「完全装備!? …………ぁあ、俺の莫迦! 畜生ぉおお!!」

 武は手に持つ突撃銃を地面に置き、即座に腕立てを開始する。口では悪態をついたりもしたが、ハッキリ言ってこの件は自業自得なので素直に従う。周囲の者もそんな武に苦笑するだけで、特に何も言わない。……というよりむしろ、A分隊の少女達は訓練に模擬刀を使用しての近接格闘訓練が加わらないことに、武が不満を感じていたことを知っていた。

 毎日毎日あれだけ長時間模擬刀を振り回しているのだから、今更訓練で改めて鍛えることもないだろうに、と、A分隊の少女達は少しだけ呆れもした。だが、剣道を修めた亮子から、自己鍛錬と一人ひとり実力も考え方も戦闘スタイルも異なる相手と訓練するのでは全く違うということを説明され、なるほど、もっともだと頷く。ならば自分が武の自主訓練の相手をしてやれればいいのだろうが……如何せん、彼女達は武の技量に匹敵しない。

 武のあの独特な挙動、剣閃に振り回されるばかりで、およそ訓練にはならないだろう。そればかりか、武の邪魔になりかねない。

 無論、名乗り出れば武は拒まないだろうし、邪魔などと思いはしないだろう。彼はそういう優しさを持つ人間である。

 ……だが、それでも。武の剣に込める真剣な想いを知っているが故に、彼女達は武の自主訓練に関わらないのだ。

「あーぁ、水月さんみたいにあたしも強ければなぁ……」

「あれれ、茜ちゃんがなんだか落ち込んでる」

「あはははっ! 茜は十分強いって。剣術だって亮子に頼んで見てもらってるんでしょ?」

「白銀に教えてもらえばいいのにさ。二人っきりで」

「ふ、ふふふ二人きりっ!? だ、大胆です……茜さん……」

 思わずポツリと零せばこれである。小休止になったのを見計らって、A分隊のメンバーが茜の周囲にやってきた。ぞろぞろといつもの顔ぶれが揃い、各々好き勝手に言ってくれる。茜はジト目でそんな彼女達を睨むと、やがて諦めたように溜息をつき、既に百回を越えた武へ視線を向ける。

 茜にしてみればとてつもないハイペースで腕立てを続ける彼は、体中に汗を浮かべて、それでも微塵もペースを落とすことなく着々とこなしていく。そんな彼の周囲にはいつの間にやらB分隊の少女達が集まっていて、特別メニューを受けた彼にあれやこれやと言葉を投げかけていた。

「まったく、訓練中に考え事なんて。あなた、少し気が緩んでるんじゃない?」

「……そうだな。榊の言うことも尤もだ。最近のそなたは少し訓練に身が入っておらぬのではないか?」

「え? そうかな。ボクはタケル、頑張ってたと思うけど」

「この暑さですからね~。白銀さんじゃなくても訓練に身が入らなくなるのかも……」

「未熟未熟……」

「お前らっ、……、ひとの横でっ、……、好き勝手っ、……、言ってんじゃぁ、ねぇえええ!」

 バッ、と。腕をピンと伸ばし顔を上げる。玉のような汗を浮かべた武は上体を腕で支えたまま、言いたい放題言ってくれる少女達を睨みつける。

「こらぁ~っ! 白銀ぇ~っ、最後まで休むなァ!!」

「~~~~~~っ、はいぃい!!!」

 叫ぶまりもの声。武はそれでも千鶴を筆頭としたギャラリー共に一言申し立てたかったが、結局まりもの怒りの視線に負けて腕立てを続行する。再開と同時、ぼそりと呟いた慧の根性なしという言葉には、後で憶えてろよと腹の中に収めておく。

 そうして他のものが射撃訓練を続けている間中、武は炎天下のグラウンドを何時間も走り続けることとなった。まる。







 陽が沈み、夕食から既に二時間。それは、武にとってのいつもの時間。丁度よく腹もこなれ、気温も下がっていることで実に過ごしやすい時間帯。

 もっとも、夏に限っては気温云々のメリットはないのだが、それでも毎日繰り返し行ってきた日課でもあるために、別段苦とは思わない。

 左手に持つ模擬刀を抜き放つ。鞘は地面に投げ置いて、月光を反射する刃を正眼に構える。

 武は内心で、今日一日で溜まった鬱憤を晴らすつもりであった。自分の不注意……敢えて言えば怠慢の結果なので仕方ないが、だからこそそんな自分を情けないとも思う。

 ならば、一日の中で最も集中力の高まるこの自主訓練を通じて、己を鍛え直せばいい。未熟者め。口の中で呟いて、ドン、と踏み込んだ右足に全体重を乗せる。――一閃。

 ただそれだけで武の心は研ぎ澄まされる。否、剣を握り、鞘から引き抜いた時点で、既になんらかのスイッチは押されている。戦闘者としての思考は即座に肉体・精神を切り替え、最早武は剣を振るうひとつの機械といっても過言ではない。

 だが、その挙動、剣閃、螺旋を描く独楽の剣舞。とても機械などには再現不能の美しくさえある壮烈な動き。

 日々繰り返し、模索し、鍛え続けたことで一段と成長した彼のそれは、最早、最初の頃の原型を留めていない。即ち、基本の型。彼が幼い頃に習った唯一つのそれ。

 しかしそれでも、武は基礎を疎かにしているつもりはない。基本の型が残っていないというだけで、そこに込められた意味は十二分に現在の動きの中に織り込まれている。ならばそれは基本を元に、武が独自に発展させた進化形。ひとつの完成形と言っても過言ではないのかもしれなかった。

「っ、ハァァ! ……ゼッ、ぁあああ!!」

 漏れる呼気に乗せて、武の意志が敵を切り裂く。迸る叫びは徐々に大きくなり、架空の適性体にぶつける剣戟も鋭く苛烈になっていく。

 だが、そこに以前のような危機感はない。かつて冥夜と千鶴が目撃した夜のような、何かにとり憑かれたような、そんな空恐ろしさは微塵もなく。ただ、純粋に多数の強敵と切り結んでいる。そのように窺えた。

 一心不乱に剣を振り続ける武に、研ぎ澄まされた彼自身にそうと気づかせぬままに近寄る人影が在る。

 縦横無尽に動き回る彼の剣閃に少しも怯むことなく、まるで予想のつかない彼の動きを、しかし全て読みつくしているような流麗さで、人影は武に接近する。

 武は気づかない。――完全に気配を消していた。或いは、武が未熟なだけか。

 そのどちらとも答えの出ぬまま、人影は遂に武の背後を取り――――弾けるように、武が旋回する。両手に握られた模擬刀が空気を圧迫するほどの強烈さで振りぬかれた! 背後に立たれた瞬間に気づいたのか……だが、それでも驚異的な反応速度で放たれた一撃は、半ば反射的なものだったがために手加減一切無しの、本気のそれだった。

 武は実際に刀を使ってモノを斬ったことがないのでわからないが、しかし、模擬刀のそれでも、これほどの一撃が人体に直撃した際の破壊力は予測できる。当たった部位にもよるだろうが……腕の一本や二本、完全に破壊する自信はあった。

 その一撃が、人影に迫る。コンマ数秒。そんな刹那の時。

 だが、反射的に剣を振りぬいた武の耳に届いたのは肉を骨を砕く重厚な音ではなく、キィイイイン、という……実に澄んだ音色だった。

 その、あまりにも想像とは異なる音色に、武はようやく正気を取り戻す。

 唐突に背後を取られたことで、極限まで研ぎ澄まされていた意識が暴走した結果だったのだが……瞬時に落ち着いた彼が目にしたのは、豪奢な鞘から十センチほど抜かれた銀色の刃に止められた自身の模擬刀。

 ゆっくりと視線をずらす。刀を握るのは白く細い指。華奢な印象を受けるが、しかし武はそれを鵜呑みにはしない。そして、身に纏う真紅の衣服。

 それが帝国軍の軍服であると悟った瞬間、武は激しい動揺と驚愕に顔を上げる。――碧色の長い髪。不敵に笑う口は小さく艶やかで、切れ長の瞳は興味深そうに武を覗いている。

「あ、なた……はっ、」

「ふふ。なかなかいい反応をするな、貴様」

 間違いない。というか、一度見たら忘れられない。真紅の帝国軍服、美しい相貌……冥夜の守護のために横浜基地に駐留する、帝国斯衛軍の女性衛士……ッ。

 武はその事実にぱくぱくと口を開閉させるだけで何も言うことができない。イキナリに感じた気配に思わず反応してしまえば、そこに立っていたのは斯衛の彼女。しかも脊髄反射にも似た意識外の一撃だったにも関わらず、それは見事に防がれていて。――これが、斯衛の衛士か。思わず、呼吸さえ忘れてしまう。

 月の光に照らされる女性はどこか圧倒的で、それでいて荘厳だった。微塵の隙も感じさせず、相対する武から全く目を逸らさない。

「っ、ぁ、」

「ん? どうした。珍妙な顔をしおって」

 いや、それはあなたのせいでしょう。武は内心で呟くも、矢張り巧く言葉に出せない。完全に呑まれていたのだ。目の前の女性衛士に。武など足元にも及ばない本物の強者の風格に。

「ほら、シャキッとしろ! 貴様それでも日本男児か!?」

「は、はいっ!!?」

 急に険しい表情になった女性が渇を入れる。武はびくりと身体を硬直させて……今の今まで剣を振りぬいたままだったことに気づく。慌てて模擬刀を降ろし、直立不動の姿勢で女性を見つめた。

 身長はほぼ同じ。若干武の方が高いようだが、それでも平均的な女性と比べて、彼女は長身の部類に入るだろう。姿勢を正した武に満足げな表情を向けて、女性は自身も刀を鞘に納める。

「ふふ、驚かす気はなかったのだが。すまんな。つい、興味が湧いてしまったのだ」

「は?」

 一転、緩やかな口調で話し出す女性に、武は困惑する。十分に驚いたとか相当なショックを受けたとか、なにが済まないというのかとか、興味って何でしょうとかそれはもう色々と。一見落ち着いたようで全然冷静になれていない武に、しかし女性は気づかない。

「先ほどの貴様の剣舞……中々に興味深かった。まさか私以外にアレを使う者がいるとは思わなかったのでな」

 眼を閉じ、ふふ、と微笑む女性。武を置いてきぼりにしたまま、――しかし彼女は聞き捨てならないことを口にした。

「ッ!??? ちょ、ちょっと待ってくださいっ!!? い、いいい、いま、なんて言ったんですかっっっ??!!」

「なんだ、突然大声を出して。いいか、武人たるもの常に平静を保ち……」

 武人?! 武は大いに混乱する。さっきからなんだかこの女性と会話が成り立っていない気がする。前半は武が喋れなかっただけだが、今回に関しては割りとハッキリと伝わっているはずである。……にも関わらず、目の前の女性は武を修める者の気構えを説き、どうやら武にはそれが足りないなどと仰っている。

 武はそんな女性に困惑しながらも頷き、首肯し、大声で返事しながら、再度、改めて質問する。

「そ、それであの、中尉殿……。先ほど仰ったことなんですけど……」

「なんだ?」

「その、俺が使ってた剣術…………中尉殿も、その……」

 口にして、武はなんだかどう言っていいのかわからなくなる。だが、確かに言った。この真紅の衣裳を纏う女性衛士は間違いなく言ったのだ。



 ――私以外にアレを使う者が――



 つまるところ、それは……。

「ああ、そうだ。アレは我が父が編み出した名もなき剣。言うなれば我が一族にのみ伝わる秘中の剣だが……ふふ、なるほど、貴様の言いたいことがわかったぞ」

 ニヤリ。そう言って女性は口端を吊り上げた。

 武は思わず……本能的に「しまった」と感じてしまう。あの表情、何処かで見たことのあるそれ。獲物を見つけたときの水月によく似た、不敵で無敵で逆らえないその笑み。

「貴様、アレを誰に習った?」

「は、子供の頃に……その、通りすがりのおっさんに……」

 おっさん…………心なしか女性の口調が冷え冷えとしたものを孕む。まずい――武は自分が大いに失敗したことに気づく。

「まぁいい。では、そのものは貴様に基本の型しか教えなかったのではないか?」

「――えっ?! な、なんでわかるんですかっっ!!??」

 気を取り直したらしい女性の次の言葉に、武は、今までも散々に驚いてきたが……それ以上に、愕然としてしまう。目の前に立つこの女性は一体何者なのか。まさかヒトの心が読めるわけではないだろう。……しかし、ならば何故、武の深層を見抜くのか。

「ふふ、そう驚くこともない。単にその“おっさん”が私の父だというだけのことだ」

「えええええええええええええええええええ!!!!!!!!?????」

 殊更に「おっさん」を強調して言った女性の表情は悪戯気でそれでいて涼しげで、不敵な印象は変わらないままにしてやったりという達成感らしきものも窺えた。……の、だが。最早武は頭がパンク寸前だった。

 女性の言っている意味が全くもってさっぱりわからない。父? 秘中の剣? なんだって? 誰の、父親? え、え?

「なっ、ななっ、んなぁああ?! そ、それじゃあ! ちゅ、中尉のお父上が俺の師匠であんないい加減に放り出して消えたあのおっさんだって言うんですかっ!? ていうか娘!!??」

 混乱ここに極まり。

 最早武は自分が何を言っているのかさえわからない。驚きすぎて滅茶苦茶に喚く武を、女性はしかめ面をして、唾を飛ばす彼を睨み据える。

「――っ、ひ!!?」

 無言の超圧力。その怜悧な視線に貫かれただけで寿命が縮んだ。同時、沸騰していた脳ミソも落ち着きを取り戻す。

 そうすると……不思議なことに、先ほどからの女性の態度や……幼い頃に出逢った剣の師匠のこと、独特に過ぎる自分の剣に抱いたこともあった疑問等、様々なことが腑に落ちる。

 斯衛軍に在籍する一流の女性衛士。彼女の父は一代で独自の剣術を編み出し、名前さえつけなかったそれは彼女の一族にのみ伝えられた。一部の斯衛は世襲であると聞いたことが在る。ならばそれは、斯衛としての役割を果たすために編み出された剣術であり、彼女の一族の誇りであるのかもしれない。……それが何故、編み出した張本人から直々に武はその基本を教え込まれたのか。

 新たに湧いた疑問を口にするよりも早く、女性がその回答を口にする。

「……父が言っていた。旅先で出逢った少年……希代の才能を秘めたそのものに、思わず我らが剣技を伝授したと」

「……っ、」

 それが、自分のことなのだろうか。武には、わからない。……だが、あまりにも独特な自身の剣。そして、それを見て自分もそれを使うという女性を見れば……ならば、それが真相かと理解せざるを得ない。

 斯衛の赤。それの意味するところを知らないわけではない。ならば当然、彼女の父――即ち武の剣の師匠も、同等、或いはそれ以上の地位にいたのではないかと予想できる。そんな立派な人物に目を掛けられていたのだと知ればなんだかこそばゆい気もするが、同時に、そんな人物がどうしてわざわざ柊町なんていうごく普通の町に訪れるのかと少々疑問に感じたりもする。

 が、現にこうして武はその人物から基礎を教わり、彼の見込んだとおりであったかは定かでないが、毎日のように繰り返し、自分なりの進化を果たした。

 ならば、その話を父から聞き及び、そして目の当たりにした彼女が武に興味を持ったとしても、それは不自然ではないだろう。

 武はようやく、目の前の女性のことが少しだけ理解できた。

「ふ、どうやら貴様は父の見込んだとおりの才能を持ち合わせているらしいな。……そして、自分なりに創意工夫もしている……」

「……」

 視線を鋭くして、女性は武を射抜くように見る。武は知らず、顎を引き、腹に力を入れ、両脚をしっかりと構えた。

「精神面に懸念が残るが……ふ、まぁいい。訓練兵にしてはなかなかいい目をしている。だが、迷いも在る。――強くなりたいか?」

「――ッ!」

 女性の言葉に、武の心臓が跳ねる。どぐどぐと血流が巡り、こめかみを圧迫する。……強く。その言葉は、どうしてか武を酷く揺さぶった。

「貴様はまだまだ強くなれる。……貴様が望むのであれば、その剣、更に高みへ引き上げることも出来るだろう」

 まるで脳ミソが濁った樹脂の中に沈められた気分。酷く蒙昧で、濃厚な感情がじわじわと溢れ出す。――もっと、強く。

「俺……、は、」

 気づかぬ間に背後をとられた。無意識の一撃をあっさりと止められた。放たれる気迫は呼吸さえ忘れさせ、射抜く視線は心臓を凍らせる。――――もっと強く、なれるのか?

 目の前の女性は真剣な表情だ。斯衛という超一流の衛士であり、日本の重鎮を守護する最強の一翼を担う彼女。その彼女が、ただの訓練兵に過ぎない自分に問う。

 強く……なりたい。

 当たり前だ。強くなりたい。力が欲しい。アイツを護れる力が欲しい。そのために衛士になると決めた。衛士になって、アイツを護ると誓った。

 それなのにアイツはいなくなってしまって、どうしてそんなことになったのかわからなくて、なんで、俺だけ生きているのかわからなくなって…………生きているのだから生き続けろと励まされて、ならば少しでも強くなろうと足掻いてもがいて…………あれ?



「俺は、」



 ――どぐん。



「俺は、、」



 ――どぐ、ん。



「おれ、は、、、」



 ――ど、ぐ、ん。



 脳が白熱する。感情が明滅する。意識が暗転する。――俺は、俺は、俺は、俺は。




 


 それでも俺は、強くなりたい。

 だって、強くならなきゃ――――――――







「強く、なりたいです……」

「そうか」

 どこか満足げに、女性は口端を吊り上げる。こちらの言いたいことなど完全に見抜いているだろうに、女性は何も言わず、視線で促してくる。はは、なんだか子供みたいなところの在るひとだな。武は苦笑しつつも、しかし真剣な表情で。

「俺に、剣を教えてください」

「いいだろう。ならば早速今からにでも、貴様に我が一族の剣、叩き込んでくれる」

 まるで果たし合うように。月詠真那と名乗った女性と武は――鏡に映ったように全く同じ、正眼の構えを取った。







[1154] 復讐編:[五章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:da4d5757
Date: 2008/02/11 16:15

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:五章-04」





 眼が醒めると自室のベッドだった。――あれ?

 急激に覚醒する意識。武は跳ねるように上体を起こし――――全身に走る激痛に悶絶する。

「ぅっっ……ぁ、がぁ、ぁ、ぁああああっっ!!??」

 筋肉という筋肉の全てが絶叫する。噴き出す脂汗を拭うことさえできず、武はベッドを転がり落ち、尚悲鳴を上げる肉体を抱くようにしながら、ごろごろと部屋の中を転がった。

「いっっっっっって、ぇ」

 絞り出すような声。それが精一杯だった。床に大の字になって転がったまま、昨夜のことを思い出す。

 美しい月の夜。

 出逢った彼女のことを…………。







 螺旋の軌道を描きながら、二つの人影は踊るようにステップを刻む。硬質で透き通った音色の剣戟を舞曲に、月光に碧を浮かばせる真紅の衣服を着た女性と、闇に似た黒髪をした同色のアンダーシャツを着込んだ少年が舞う。

 手にするは銀色の刃。模擬刀を振るう少年に、真剣で相手する女性。

「踏み込みの思い切りの良さはなかなかいい! 真剣に臆することなく立ち向かってくる度胸は褒めてやろう!」

「くっ……! ぅぉおおおお!!」

 口端を吊り上げた真那の握る刀は刃を返していない。毎日手入れを欠かさない、研ぎ澄まされた銀色の刃は隙あらば武の肉を切り裂き、その血を啜るだろう。

 その真那に真っ直ぐに向かう武を、彼女は「その意気やよし」と頷くのだが、当の武にしてみれば怯んだが最後、それで一巻の終わりだと本能が叫んでいるための突撃だった。

 武は休むことなく斬撃を繰り返す。毎日繰り返してきた己の剣。この剣に静止という間はない。踏み込み、切り抜き、次の一撃を、次の一撃を、次の、次の次の次の次の、その次の一撃を。絶え間ない攻撃を繰り返すための螺旋の軌道、螺子の挙動、まるで台風を想像させる剣の嵐。

 既にこの身に馴染んで久しい剣閃を、武は忠実に、そして時に自身が身に付けた独創性を交えながら、必死の思いで振りぬいた。

「ふっ、矢張り、相当な腕前のようだな。……だが、まだまだ甘いッッ!!」

「!?」

 なのに、一撃も当たらない。振るう剣閃はその度にかわされ、受けられ、いなされて。まるで自分の動きを完全に見切っているような、そんな真那の動きに翻弄される。

 真那はただ避けているだけだ。逃げる彼女を武は追い、追随しながらに繰り出す攻撃は悉く防がれる。――なぜ!?

 そして、そんな武の困惑をよそに、遂に真那が攻勢に出た。心臓が跳ね上がる。血液が逆流する。

 つい先ほどまでとは逆の構図。真那の剣閃をかわすのに必死で、武は次第に後退し始める。絶え間ない彼女の剣閃。踏み込み。描く螺旋機動。その一挙一足。何もかもが。まるで悪夢のように迫り来るッ!

 全く同じ。自分と全く同じ剣術。――なのに、それは全然自分のそれとは異なっていて。

 一撃一撃が、重い。

 一歩一歩の踏み込みが、速い、深い!

 旋回の速度が、振りぬく速度が、先を読む速度が、それを成す身体の反応が――須らく、

「うっっ、げぇえっ、ぇあっ!!??」

 胴を真っ二つにされたような衝撃。身体を「く」の字にしながら数メートルほど吹っ飛ばされ、転がる。込み上げてきたものを制する間もなく、武は文字通り血反吐を吐いた。

「っ、ご、ぉ、ごほっ、ごほっ……!」

「ふん。防御が全然なっていないな。……まぁ、ずっと独りで続けていたというなら、それも仕方あるまい」

 言いながら、面白い物を見るような表情で真那がやってくる。握る刀に血がついていないことと、自身の胴が繋がったままであることから――ああ、峰打ちか――武はゆるゆると身を起こす。

「ぅおっ……?!」

 立ち上がり様、腹部に走った激痛によろめく。何とか踏みとどまり倒れることは避けたが、それを見た真那に可笑しそうに笑われてしまった。

「ぅ、そんな笑わないでくださいよ」

「ふふ…いい面だ白銀。その程度ではまだ満足していないようだな」

 その程度、と言われて武は改めて自身の現状を見る。シャツを着ているため見えないが、多分喰らった腹は内出血くらい起こしているだろう。内臓を伝わった衝撃で血を吐いたのがいい証拠だ。……どこかの臓器が破裂してるんじゃないだろうか。思った瞬間、武は狼狽する。……が、こうして無事立っていることからそれほど気にすることはないだろうと頷く。

 足元には吐き出したばかりの鮮血が跡を残していたが――こんなもの、彼女に剣を教わると決めた瞬間に覚悟していた。

「はい。お願いします」

「よし。ならば来い」

 真剣な表情で剣を構える武に、矢張り不敵な表情のまま、真那も自身の刀を構える。

 そうして再び剣舞が始まった。

 武はこれまでの自身を、全身全霊で真那にぶつけた。同じ剣術を使う彼女。その彼女の父が編み出した名も無き剣術。幼少のころにそれを教わり今日まで続けてきた自分。

 ――その全てを、だからこそ彼女にぶつける。

 強くなるために。強さを得るために。先ほどの結果を見れば明らかだ。真那は、強い。果てしなく強い。とてつもなく強い!

 そんな彼女のように、武も強くなると決めた。――真那はそのように導いてくれると言った。武の強さを引き上げてやると言った! ならば、そのために自分の全てを曝け出そう。今の自分を全部ぶつけて、彼女に自分を知ってもらおう。

 それが多分、強くなるために最も必要なことだと思うから。

 そして、武は再び宙を舞った。強かに右腕を撃ちつけられ、取り落とした模擬刀に気をとられた一瞬に、真那の蹴りが炸裂したのだった。

「――ぉ、ぐ。……ぐへっ、ぇあっ……!!」

「莫迦者。剣だけに気を取られすぎだ」

 ご尤も。ズキズキと鈍痛を訴える腹を撫でながら、武は立ち上がる。どうでもいいが、真那の履いている軍靴は踵が一段と分厚くなっている。コンクリートのブロックを叩きつけられたような衝撃だったが、原因はそれか。武は口に残った反吐を吐き捨てて、今一度剣を構える。

 だが、真那は不敵な笑みを浮かべたまま……構えようとしない。疑問に思った武が声を掛けようと思ったそのとき、真那がニコリと微笑んだ。

「ふふっ。まったく……意地っ張りなヤツだ。……少し休憩しよう」

 言うが早いか、つかつかと武の目の前にやってきて、びし、と武の腹部に手刀を入れる。

「ぎゃあああああああっっっ!!???」

「やせ我慢もほどほどにしろ。まぁ、その心意気は買うがな」

 ごろごろと地を転がる武を呆れたように見下ろしながら、真那は含み笑う。涙を浮かべながら腹を押さえて転がる武の横に腰掛け、真那は尚も転がり続ける彼の額に拳を喰らわせる。

「やかましいっ! 男がそのくらいの傷で情けない声を出すなっっ!」

「ちゅ、ちゅうい……さっきと言ってることが、ちが……」

 拳がめり込んだままの武に、ふ、と真那は嘆息する。色々な意味で沈黙した武から目を離し、彼女は月の灯る夜空を見上げた。

「白銀…………貴様はこの剣を、極めたいと思うか?」

「ぇ……?」

 飛びそうな意識に、どこか儚げな真那の声が届く。彼女が何を言っているのか一瞬わからなかったが、しかし、

「はい。俺が強くなるためには、この剣が必要です」

 躊躇なく、ハッキリと。自身も夜空を見上げたまま、武はそう口にした。

 真那は何も言わない。武からは月を見上げる真那のうなじしか見えなかったが……彼女は微笑んでいるのだろうと思った。

「そうか。そう言ってもらえて、父も本望だろう」

「中尉?」

 その響きにどこか寂しさを感じ取り、武は上体を起こす。真那と同じように地面に座り、見上げたままの真那の横顔を見る。

「白銀……この剣術は、私の父が現役の衛士だった頃に実戦の中で編み出した……BETAと戦うための剣だ。戦場では常に多くのBETAを相手にする。無尽に湧き、殺到するBETAを如何に効率よく、そして確実に斃しきるか……それを念頭において研鑽された末に生まれた」

「……!」

「武士の家系というものには、須らくその家に伝わる剣術……流派といってもいいのかもしれんな。……そういうものが存在する。無論、我が家にもそれが在った。在ったのだが……父は、代々受け継がれてきたその剣を捨て、自らが編み出した実戦に活かせる剣に没頭したのだ。そして、数々の戦果を挙げ、己の剣の有効さを知らしめた」

「月詠中尉……」

 武は、真那が一体何を話そうとしているのかわからなかった。けれど、淡々と話す真那の邪魔をする気にもなれず、静かに黙って耳を傾ける。

「父は強かった。そしてその剣は、なによりも苛烈で壮烈で、美しかった。戦場から帰った父は、一族の者にそれを披露し、伝授しようと躍起になった。先祖より代々受け継がれてきた剣よりも、己の生み出した剣術を遺すべく。――だが、その剣はあまりに特異で独特で……皆の理解を得るには到らなかった」

「え……?」

「親族の中には伝統ある月詠の剣を辱める行為だとして、父を糾弾する声もあった。父の剣の真髄は、そこに込められた意志は、届かなかった。BETAと戦うための剣。今こうして、現実にBETAという脅威が存在するにも関わらず、それに対抗する有効な手段よりも……一族の皆は、伝統を、仕来りを、過去より積み重ねられてきた歴史を優先した。…………父の想いなど、誰も気にかけなかった」

 言葉も、ない。

 まるで吐き出すように。真那は月を見上げたまま語る。一体どんな想いで、その言葉を口にするのか。

 どくり、と。武は鼓動が大きく鳴るのを感じた。目元に強い意志を秘めた真那の横顔。月明かりに照らされたその美しい相貌に――

「失意のままに、父は戦場を離れた。……十年前だ。そして、全国を行脚しようと旅に出て最期に立ち寄ったその町で…………貴様に出逢った」

「!!」

 真っ直ぐに、真那は武を見た。彼女を見つめていた武の瞳を、柔らかで、それでいて凛とした双眸が見つめる。

 武は呼吸を忘れた。ただ、心臓だけが狂ったように暴れている。

「今際の際に、父は言っていた。……あの少年ならば必ず自身の剣を受け継いでくれる、と。そして私に、いつか少年と出逢う日が来たならば、その者を教え、導いて欲しい……と」

「っ、つくよみ、ちゅう、い」

「白銀。父は、貴様に最後まで剣を教えてやれなかったことを悔いていたよ。……父は身体を壊していたんだ。文字通り、ぼろぼろに、な。戦場を去り、一族中から蔑まれて、酒に溺れるようになって……自業自得だ。自棄になるくらいならいっそ…………。いや。なんでもない。…………白銀、貴様に出逢えたことで、父は救われた。最後の最期に、貴様という希望を得て、父は幸せだったのだ。――礼を言う」







 ありがとう







 真那は深く頭を垂れた。武は、そんな真那に……彼女の話に、何も言うことができない。言葉に出来ない感情が込み上げて、胸が詰まる。

 最早顔さえ思い出せない剣の師匠。何処から持ち出したのか、突然木刀を投げて寄越して、ろくな説明もないまま剣を教えてくれた、変なおっさん。

 いつも笑っていた。快活に、豪快に、そして……暖かく、優しげに。

 こっちがやる気になってわくわくしながらいつもの場所に向かった時、突然姿を消した……たった数日間だけの、日々。

「ああ…………ぁ、ぁあ、」

「白銀……、」

「ぅぁあっ、あっ、ぁああ……っ」

 なんでだろう。どうしてだろう。――涙が、止まらない。

 ぼろぼろと零れてくる。情けないくらい、熱い涙が……溢れて溢れて、とまらない。

「白銀……いいんだ。貴様は、こうして今まで……父の思いを継いでくれていた。……こうして貴様と出逢えて、私は嬉しく思う。私は遂に、父との約束を果たすことが出来るのだから」

「ぅ、っく、月詠、中尉……」

 微笑んだまま、真那は静かに頷いた。武は涙を拭い、感情を落ち着かせる。

 運命というものが在るのなら、これがそうなのかもしれないと、武は思う。

 ああ、ならばそうなのだろう。これが運命。こうして真那と出逢うのが運命。――ならば、武は更に強くなる。絶対に強くなる。

 なぜならば、それが運命なのだから。そう定められたのが武なのだから。



 ――――何故、それが、もっと早く…………彼女が居なくなってしまうその前に、訪れなかったのか…………。



 それも運命? あれも運命?



 わからない。武には、わからない。幼馴染の彼女を護りたいと願い、それを現実のものとするためのきっかけをくれたこの剣。数日間だけの師匠と出逢い、その娘である真那と出逢い。ようやく、武は彼女を護るに相応しい力を手に入れようとしているのに。……何処を探しても彼女の姿は無く。もはやこの世に護るべきものなど、なく。

 武は静かに頭を振った。……そうじゃ、ない。

 護るもの、護りたいものは……これからまた、探せばいい。あいつのことは忘れない。絶対に忘れないし、この想いは消えない。

 あいつを護るために始めた剣だけど、それでも、そこに込められた人々の想いを知り、託された想いを知れば……武は、ここに誓う。

「俺は、絶対に強くなります。強くなって、この剣を極めて…………師匠の想いを、必ず受け継いで見せます」

「ああ。当然だ。ふふ、私が鍛えるんだ。いくら貴様が泣き叫んで慈悲を求めようとも、一切容赦せず、徹底的に鍛え、必ず、貴様を強くして見せる」

 毅然とし、強い決意を込めた武の表情に、真那は挑むように、似合いな不敵な笑みを浮かべる。告げられた内容に若干背筋が寒くなるのを感じた武だが、威勢よく立ち上がり、剣を構える。

「中尉! お願いしますっ!!」

「無論だ。五体満足でいられると思うなよ」

 ――ははっ。

 真那の冗談とも本気ともとれない言葉に、知らず、笑みが零れる。真那はゆっくりと立ち上がり、三度、彼らは剣を構えた。

 そして、この世に唯一の剣術、そのたった二人の使い手は……月の夜、踊るように、舞うように、鋭く、苛烈で、壮烈で、鮮烈なまでに美しい剣舞を続けた。







「…………で、今に到る、と」

 自室の床に転がったまま、武は溜息をついた。修行が終わった際の記憶がないことから、十中八九、気を失い、真那の手によって部屋まで運ばれたのだろう。

 情けないことこの上ない。――が、そう思うならもっと鍛えればいい。武はギシギシとあり得ない音を立てる筋肉に声なき悲鳴を上げながら、着替えようとシャツを脱ぎ捨てる。

「げ」

 目に見える範囲だけで数え切れない青あざ。腕は勿論のこと、特に腹や胸が酷い。なんだか嫌な予感がして、下着まで全部脱ぎ捨てて鏡の前へ。そこには目も当てられないくらいボコボコにやられた跡が刻まれていた。

「ホントに……容赦ねぇなぁ……」

 恐るべき姉弟子の徹底振りに薄ら寒い戦慄が過ぎる。同時、やれやれという苦笑も漏れる。とんでもないひとに弟子入りしてしまった。そう零す武の表情は、しかし何処か晴れ晴れとしていて……。

「ちょっと白銀~っ!? もうすぐ点呼のじか……んっ」

「え?」

 ガチャリ、というドアを開ける音と共に、聞きなれた少女の声。とても見覚えのある橙の髪に白いカチューシャ、猫科を思わせる吊り目が似合いな、A分隊の隊長殿。

「す、ず、み……」

「きゃああああああああああ!!!?? な、なななん、なな、なんて格好、してるのよぉ~~!! ばかばかばか変態~~っ!!?」

 バァン! 盛大な音を立ててドアが閉じられる。しばし呆然としてしまう。ドアの向こうからは何事か叫んでいる茜の声。

 え? いま、え?

「ぎ、ぎゃぎゃあああああっっ!! なんてことしやがるんだ涼宮ァァアアア!!? もうお嫁にいけないぃいい!!」

『し、知らない知らない知らないっ!! あたし、なんにも見てな~~~ぃ!!』

 ドア一枚を隔ててのその不毛なやり取りは、点呼が始まるまで続けられたという……。







 ===







「で? で? 白銀君のってどんなだったの?」

「ど、どんな……って、その、一瞬だし暗かったし……よくわかんなかっ……」

「テメェは朝っぱらからナニを聞いてるんだぁああ!!」

 朝のPX。テーブルを挟んで目の前に座る茜に、晴子は箸を握ったまま嬉々として顔を寄せる。その質問に顔を真っ赤に染めながらももごもごと答えようとする茜を遮り、武は身を乗り出して晴子の頭を叩いた。

「いっっ、たぁああ~っ?! 白銀君、ひどいよぉ~」

「やかましいっ!」

 涙目で訴えてくる晴子を、若干の羞恥を浮かべた表情で、武は両断する。そんな彼らのやり取りを、事情をよく知らないほかの面子が問い質す。

「ぇ……っと、話がよく見えないんだけど」

「ふむ、白銀、少し落ち着くがよい。それと柏木、箸を持ったまま会話をするのは行儀が悪いぞ」

 苦笑する千鶴。叩かれた頭をさする晴子に、冥夜が少し的外れなことを言う。

「で? 白銀のナニがどうだって?」

「んののっ!? 白銀くんのナニとはっっ!!??」

「わっ、わっ、ナニって、なんでしょう~???」

 “なに”の発音がどこかオカシイ薫の言葉に多恵が盛大に頬を染め、亮子が同じく顔を赤く染める。この耳年増どもめ……武はがっくりと肩を降ろし、しおしおと椅子に座る。その武の隣りで茜は彼の顔と下の方をちろちろと見比べては更に頬を染めている。

「白銀……朝から元気」

「え? タケルはいっつも元気じゃない」

「はぅあぅあ~、慧さ~ん、どこ見て言ってるの~??」

 茜の様子から何かを感じ取ったらしい慧がボソッと呟く。ほんのりと染められた頬が、実にいらぬ誤解を招きそうで嫌だ。そして美琴はその慧の言葉をどう解釈したのか、いつものようにニコニコと的外れのようでその真意の知れない発言をかます。そんな二人に挟まれた壬姫は可哀想なくらい真っ赤になっていて。

「? なんだ、皆。白銀がどうかしたのか??」

 ひとりだけ事情を察することの出来なかったらしい冥夜だけが、不満げにみんなを見回していた。

「涼宮……憶えてろよ」

「あたしのせいじゃないじゃんっ。だ、第一、あたしだって被害者なのにっ……」

「被害者ァア?! どこがだよっ。見られたのは俺だろう!? ノックもなしによう。年頃の女の子がよう」

「わーっ、わーっ!! あ、あたしだってまさか白銀があんな格好でいるなんて思わなかったんだってば!!」

 両者の言い分は共にもっともなものだった。だから……まぁ、お互い運が悪かったとしかいいようがないのだろう。

 顔を赤く染めたまま、けれど最終的には茜が謝罪することでこの場は丸く収まった。細かい事情はわからないながらも、冥夜を除く全員がそれぞれに納得し、その後は実に穏やかな朝食となった。

「でもさ、白銀君。なんでまた部屋の中で裸になってたの? そういう趣味でもあるの??」

「ブーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!??」

 …………穏やかな、朝食は……。

「ちょっと! 汚いじゃない!!」

「お、落ち着け榊! 鎧衣、布巾を!」

「う、うんっ。待ってて」

 晴子の言葉に合成宇治茶を豪快に噴き出した武。若干ぬるくなったそれは晴子の隣に座っていた千鶴の顔面にぶちまけられ、彼女は透明なはずの眼鏡が白く光って見えるくらいに憤り立ち上がった。

「す、すまんっ榊!! というか、今のはっ、絶対に柏木が悪いぞッッ!?」

「うるさいっ!!」

 ギャーギャーと騒ぎ出す千鶴と武をそれぞれ冥夜と茜が取り押さえ、美琴が取って来た布巾で千鶴は顔を拭う。怒り心頭な千鶴と、その千鶴に睨まれて怯む武を見比べて、晴子は失敗失敗と苦笑する。

「柏木……てめぇ……」

「い、いや~~、ゴメンごめん。ちょっと調子に乗りすぎちゃったね」

 底冷えのする武の眼光に、視線を逸らす晴子。憮然とした表情の武だったが、やがて深い溜息をついてもういいと手を振る。

 そんな武に目線でもう一度謝りながら、しかし晴子は、今度は割りと真剣な表情で質問する。

「それで? 服脱いで鏡の前に立って……なにしてたの? それ、痣だよね? ひょっとして全身にあるんじゃない?」

「えっ?!」

 晴子の言葉に、どきりとする。見れば、彼女は武の右腕を見ていて――腕まくりしているそこには、真那の一撃によってつけられた青痣があった。

 言葉を詰まらせる武に、周りの皆もハッとする。毎日の厳しい訓練、特に近接格闘訓練などをやった際には、身体に多数の打撲傷が残ることもある。そして昨日の午前中は確かに近接格闘訓練を行っていた。

 茜たちはそのときの痣だろうと思っていたのだが……よくよく見れば、それは打撃を受けてできるようなものではなく……細く鋭いなにかに打ち据えられたような……そんな痣だった。

「ふむ……。白銀、それは刀の跡か?」

「うぇっ?!」

 目を細め、真剣な表情をする冥夜。ズバリその通りの問いに、武はなぜか動揺してしまう。

「刀……って、なに、どうしたの?! 白銀ッ」

 ぐいっ、と茜が武の左腕を掴み……掴んだその場所にもある痣に、絶句する。驚愕に染まる瞳を武の顔に向ければ、彼は酷くうろたえた様子で、視線をあちこちに彷徨わせている。

 そんな折――

 方々へ彷徨わせていた視線が、彼女を捕らえる。碧色の長い髪、真紅の軍服。見間違えようのない、新たなる剣の師匠。

 ふっ、と。口端を緩めて微笑んだ真那と視線が合って、知らず、武は紅潮した。真那はその後武から視線を離し――恐らくは冥夜を見ていたのだろう――踵を返すと、PXの入口から去っていった。

 その後姿をぼ~っと見送る武の様子に、茜をはじめとする207部隊の少女達の視線が、段々と鋭く冷たいものに変化していく。

「白銀…………」

「誰? 今のひと…………」

「――ハッ、え、あれ?!」

 いつの間にかじっとりと睨まれていることに気づいた武。すぐ隣りの茜や、正面の千鶴の視線が痛い痛い怖い冷たい。

「白銀……まさかそなた、月詠と……」

 何故か冥夜まで不穏な気配を立ち上らせて武を睨む。脊髄反射でぶんぶんと首を横に振るが、それで誰が納得してくれるわけでもなかった。

「? ツクヨミさんって?」

 その中で唯一……とは言うものの他の皆と同じくらい威圧的な視線を向けていた晴子が、冥夜の言葉に質問する。聞きなれぬ名が出てきたことに、何か感じ取ったのかもしれない。鋭い勘である。

「ん……いや、月詠真那中尉といってな。斯衛軍の士官なのだが…………なるほど、白銀、そなた、中尉に稽古をつけてもらったのだな?」

「ぅっ…………ああ。そうだ」

 眼を閉じて吟味するように述べる冥夜の言葉に、武は引き攣った表情のまま頷いた。瞬間、ざわっ、という驚愕とも愕然とも知れぬ感情の波が隊内に伝播する。

 皆のその反応に武は困惑するしかない。そして、その後より一層厳しくなった視線に辟易する。

「な、なんだよ……」

「別に」

「別にってことはねぇだろ……?」

「別にっ!!」

 左腕を掴んだまま、ひどくご立腹な様子の茜に、武は本気で首をかしげた。ここまで感情剥き出しの彼女も珍しいだろう。

 困惑する武に、晴子と薫が口を揃えて言う。

「白銀君って、実は年上好き?」

「しかもあの人もかなりスタイルよかったよなぁ……」

 ――んな、

 武は絶句する。最早言葉もない。あぁあぁそうかいそういうことかい。

 要するに、彼女達は…………なんでか知らないけれど、真那に嫉妬している……ということ、か? だが、何でどうして一体何故、真那に剣を習うことが嫉妬に繋がるのか、武には全然さっぱりわからない。

 彼の使う剣術を修めている人物が真那以外にいない現状、彼女以外に師事することなどありえないというのに。

「年上云々は関係ないけどな……」

「か、関係なく……あのひとがいいのっ!!??」

「……ナニイッテルンダ? 涼宮」

「知らないっ!! 白銀のっ、莫迦ッッッ!!」

 ごちん。

 見事なアッパーカットを食らわせて。茜はぷりぷりと怒ったまま自分のトレイを片付けに行く。涙目で顎をさする武を尻目に、他の皆も席を立つ。

「あ、あれ? お~い、お前ら……どうしたんだよ??」

「べっつにぃ~。白銀はお茶でも飲んでれば?」

「あはは、白銀君、ほんっと鈍いよねぇ」

「茜ちゃんが可哀想ですっ」

「その鈍感さも白銀くんのいいところですけどね……」

「今回ばかりはそうも言ってられないでしょ?」

「白銀……そなたはもう少し女心というものを学ぶべきだ」

「まだまだ小者ですよ」

「あははははっ、タケル、頑張ってね~」

「にゃはは……ぁ、でもでも、怪我だけは気をつけてくださいね?」

 それぞれ、なんだかよくわからないことを口にして去っていく面々。カウンターでは既に片づけを終えた茜に、ダッシュした多恵が突撃してトレイをぶちまけたりしていた。

 なにやってんだあいつら、と肩を竦めながら……それでもやっぱり、どうして殴られたのかわからない。そんな武の朝だった。







 ===







「そう…………それで? 彼女はなんていってるの?」

「よく、わかりません……たくさんの感情が混ざっていて、読み取ることが出来ません……」

 白衣を纏う女性は椅子に深く腰掛ける。顎に指を当てて、執務室のソファに座る少女の言葉を反芻する。

 国連軍横浜基地、B19フロア。地下十九階というその場所にある執務室。特別なセキュリティによって部外者の一切の侵入を許さないその場所。それが、この横浜基地副司令――香月夕呼の執務室だった。

 部屋の奥には国連軍の軍旗が飾られ、広々とした室内には乱雑に資料が山積みにされている。夕呼が座る椅子の前には木製の事務机。その上に置かれた大型のコンピュータ端末の画面を睨みながら、彼女は視線を少女に向ける。

「なんでもいいわ。他に、なにか気づいたことはない?」

 真っ直ぐに射抜くように。その視線は正真正銘科学者のそれであり、副司令という地位にありながら、夕呼が軍人ではないことを悟らせる。虚偽を許さないその視線を受けながら、ソファに座る少女はゆっくりと首を振り、

「……わかりません。ですが、今日も……一つだけ。ずっと、繰り返していました」

「…………“会いたい”…………か。そう。わかったわ。休みなさい、社」

 掛けられた言葉に、少女は静かに立ち上がる。少女が身にまとうのは国連軍の士官服を多少アレンジしたような黒い服。肩章には国連軍の意匠が施されているが、そこには「YOKOHAMA BASE」ではなく「ALTERNATIVE」と書かれていた。

 長い銀色のツインテール。まるで兎の耳を連想させるような機械をつけて……社と呼ばれた少女は執務室を後にする。

「ああ、社。彼女が会いたいっていう彼だけどね…………この基地にいる、って言ったら、どうする?」

「!!」

 スライドするドアを前に、少女はビクリと反応した。だが、反応するだけで、振り返ることはない。

 その少女の様子をじっと見つめて、

「へんなこと聞いちゃったわね。いいわ、下がりなさい」

「…………失礼します」

 ドアが閉まり、少女の姿が見えなくなる。夕呼は思わず嘆息する。まったく、らしくない。

 先の『明星作戦』で手に入れた数々の情報を元に、計画は大凡順調に進んでいる。むしろ、手に入れたモノだけを見るならば、計画の進展にこれ以上ない程の適性を持った素材を手に入れたといっていい。

 ……だが、それを手に入れてからもうじき一年が経とうとしている。まだたったの一年。されど、計画が動き始めてから既に五年が経過した。

 今すぐに計画がどうこうなることはないだろうが……既に米国は『G弾』を使用した。かつて第四計画を決定する際に彼らが提示したその驚異的な威力を、連中は強引な手段で以って世界中に知らしめている。

 今はまだ国連本部が『G弾』を封じようと躍起になっているが……それもこの第四計画が然るべき成果を出さねば意味がない。

「オルタネイティブ4……人類の希望…………世界を救う、最後の希望、か」

 かつて自身が提唱したそれを、彼女は今も尚、信じている。それを完成させ、達成し、世界を、人類を救ってみせる。

 ふ、と。夕呼は唇を吊り上げる。感傷に浸る暇はない。目標は揺るがないのだから、それを目指して今できる最善を積み重ねるのだ。

 端末に向かうと、先ほどの少女の報告内容と今までに得られたデータを比較する。

 毎日のように、絶え間なく繰り返される言葉。あの場所にいた彼女が、唯一ハッキリと、その意思を宿す言葉。

「ふふっ。面白いじゃない。白銀武――今度会わせてみようかしら」

 会いたいと、彼女は言う。

 だったら、会わせてみれば…………そしてそれを、あの子を使って伝えてみれば…………なにか、興味深い反応を示すかもしれない。

 単なる思い付きではあったが、現状のままでは埒が明かないことも確か。夕呼は頷き、ならば明日にでもと自身のスケジュールを調整する。

「さぁて、どんなヤツかしらね……白銀武……ふふっ」

 昼も夜もない地下室で。

 ひとり、謎多き科学者はほくそ笑む。







 そして、その出逢いこそが…………彼の運命を大いに狂わせる、その引き金となるのだった。







[1154] 復讐編:[六章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:24dba3a6
Date: 2008/02/11 16:16

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:六章-01」





 武の肉体はそれなりに鍛え抜かれている。前線に立つ衛士と比較しても遜色ない程度には、既に完成された肉体を持つ。まだまだ成長期であることを鑑みれば、今後の鍛錬次第で更に強靭なものとすることも可能だ。

 無論、骨肉の成長に合わせて鍛錬の方法も随時見直す必要があるだろうが、既に昨年からの一年間で身長が大いに伸びている武は、自身の身体状況を把握する術を習得していたため特に問題はない。

 ――が、この二日あまりで彼の事情は激変している。

 日々の訓練、そして訓練後の自主訓練。日々を重ねていく途上で少しずつ内容が濃く、厳しいものへと変遷するそれらは、真那と出逢い彼女に師事したことにより、これまでにないほどの激しい内容となった。

 訓練はいい。教導官であるまりもの指導の下、国連軍の衛士育成プログラムに沿った内容で行われるからだ。

 問題はその後である。

 毎日繰り返していた自主訓練……鍛錬とも言っていいだろうそれは、現役斯衛軍衛士の背筋も凍る血反吐撒き散る阿鼻叫喚の鬼修行と化した。……ハッキリ言って、容赦ない。加減がない。とてもシンドイのである。あと痛い。

 まだ二日。たったの二日、二晩打ち合っただけだ。

 にも関わらず、武の肉体は限界を迎えていた。――指先一つ動かそうものなら腕が、立ち上がろうと膝を曲げようものなら脚が、上体を起こそうとするならば腹が、胸が、背中が。盛大に、凄絶に――絶叫する。

 ぱくぱくと喘ぐように口を開閉しても、あまりの痛みに息が止まる。呼吸さえ困難なほどの苦痛。鈍痛。筋肉痛。これで骨や内臓に異常がないというのだから恐ろしい。

 昨夜の記憶をまさぐる武。確か、意識がぶっ飛ぶ寸前に、「防御が全然なっていない」と叱られたような気がする。……ああ、ならばこの痛みはその代償か。それにしても酷い痛みだ。全身痣だらけ……そんなもので済んでいればいいが。

「ぐ、…………あ~~~~、がっ、ぁ」

 昨日よりも酷い、ギチギチと軋む肉体を無理矢理に起こす。まるで油の切れた機械のようだ。筋肉と関節をつなぐ腱が断裂しているような痛み。ずっしりと重いのは垂れ下がるだけの腕。背筋を伸ばそうものなら盛大に背筋と腹筋が喚き散らした。

「これは……ちょっと、」

 相当に酷い。かなりマズイ。

 訓練に支障がでるどころではない。これでは、日常生活すらままならない。――なんてことだ。

 筋力を向上させるためのトレーニングには、必ず酷使した筋肉を休ませるための休息期間が必要になる。いわゆる超回復というヤツだが……真那の訓練にはその概念はないようだった。否、この修行の目的は筋力トレーニングでなく、彼女と武が修める名もなき剣術を極めるためであるため、毎日極限まで鍛えぬくことこそ効率がよいのかもしれない……。

 が、結果的に武は過度の筋肉痛と疲労に襲われている。

 今までの彼の鍛えようが足りない、というわけでは決してない。単純に、真那が強すぎるだけのことだ。……或いは、彼女が指摘したように武の防御法が向上すればこのようなことにはならないのかもしれない。

「……そりゃ、そうか。喰らわないなら、痛みはないわけだし……」

 真那の身体を思い浮かべる。あの細い肉体に武以上の筋肉があるなどとは思えない。むしろ筋肉量を比較するなら圧倒的に武が勝るだろう。

 要はテクニックということか。武は己の未熟を反省しながら、気合を入れてベッドから立ち上がる。

「って、そういえば俺、二日連続で運ばれてるのかよ……ぁああ~、情けねぇええ!!」

 頭をガシガシと掻きながら吠える。顔から火が出そうなくらい赤面しているのは、真那に自身の無様を晒したことを恥じるからだ。これが男性だったならこれほど恥とは思うまい。……だが、残念なことに真那は女性。しかも武が今までに出逢った誰よりも美麗で勇壮なのだ。男としてのほんの僅かなプライドが、それを恥と叫ぶのである。

 やがて溜息と共にがっくりと項垂れる。もそもそと服を脱ぎ、訓練用の軍装に身を包む。相変わらず動くたびに全身から断末魔にも似た絶叫が聞こえてくるが、思い切り奥歯を噛んで耐える。これしきで根を上げて、なにが衛士か。……いや、まだ衛士になったわけではないのだが。武は苦笑して、顔を洗う。冷たい水は意識をハッキリとさせてくれて……ふと見た鏡に映ったその顔は……

「なっ、なんじゃこりゃああああっっ!!??」

 額と両頬に書かれた黒い文字。水で落ちなかったことから恐らく油性と思われる――は、実に達筆で、



『いい気になるな』 『真那様に色目を使うな』 『雑魚はすっこんでろですわ』



 と書かれていた。

「だっ、誰が……こんな…………うぉおおおおおおっ!! 許さぁぁぁぁあんん!!」

 武はこめかみを痙攣させる。どこの誰か知らないが、いい度胸だ。むしろ生きて帰さん。どんな手を使ってでも必ず見つけ出し、地獄の如き責め苦を味わわせてやる……ッ!!?

 思わず握り締めたタオルを引き裂きそうになる。いい感じに白熱した脳髄を、しかし深く息を吸い、鎮める。

 落ち着け武。クールになれ。冷静になって犯人を特定しようじゃないか。

 とは言うものの、こんなことをするヤツに、……正直心当たりはない。真那は勿論のこと、207部隊の皆もこんなことをするとは思えない。というかする意味がない。

 第一、“真那様”という文句が気になる。なにか彼女に関わりの在る人物なのかもしれない。また、よくよく見れば達筆な字にもそれぞれ特徴があり……一文ごとに書いた人物が異なるようだった。つまり、三人。

 真那に関わりの在る三人の誰か、ということになるだろうか。そして、その人物達は真那と武が夜遅くまで修行していることを快く思っていないらしい。……むしろ、あからさまに敵視しているような気がする。

「いい気になるな、って……別に俺はそんなつもりはないんだけどな……」

 何気にグサリと刺さる言葉である。特に“雑魚はすっこんでろ”という部分。…………溜息しか出ない。

 初日で既に、真那との立ち位置の違いは嫌というほど思い知らされている。どこの誰かは知らないが、こんな風に誹られる必要もなく、武自身が己の未熟を痛感している。

「くそっ……好き勝手言いやがって……」

 だが、これを書いた人物達は、そんな未熟で弱い、“雑魚”に等しい武が、真那と修行していることがとても気に喰わないのだろう。ああ、そうか。

 きっと、この三人も、真那をとても尊敬し……目標としているのだろう。ある意味で武と同じなのに、この二日間で武がそれ以上に特別扱いされていると感じたのかもしれない。故の嫉妬。

「ガキじゃあるまいし……まぁ、誰なのかは知らんが……」

 ヤレヤレと嘆息して、石鹸を掴む。点呼まであと数分。武はかつてないほどに精神を集中し、一心不乱に顔を洗うのだった。







 午前中は座学だったので、武は正直助かったと、安堵の息をつく。これで近接格闘訓練やマラソンなどやらされた日には、鬼軍曹殿の暖かい愛情が降り注ぐ羽目になるところだ。――ああ、午後からの訓練が恐ろしいなぁ。

 どこか遠くを見つめる武を不思議に思いながら、隣席の茜が首を傾げる。壇上でテキストを読み上げるまりもはどうやら武のその腑抜けた様子に気づいていないようだが、それも時間の問題だろう。

「ちょっと、白銀。あんたなにボーっとしてるのよ」

 小声でボソボソと。肘で軽く武の脇腹をつつく。まりもに気づかれないようにと配慮した茜だったが、今の武にとってその肘撃ちは致命傷に等しい。ほんの軽くつついただけのそれでさえ、ズタボロに痛めつけられた今の彼には酷い激痛を誘発した。

「ぅぐぅ!?」

「――ぇえっ!?」

「ん? なんだ白銀、涼宮。騒がしいぞっ」

 テキストから顔を上げたまりもは盛大に眉を顰めるが、脇腹を押さえてプルプルと震えている武と、それを見て慌てる茜の様子に、ただ事ではない気配を感じ取る。

 周囲の皆も同じように浮き足立ったが、そこはさすがに教官である。騒ぐ彼女達を一喝して黙らせると、素早く武へ近づき、大分落ち着きを取り戻していた彼に呼びかける。

「白銀、どうした? ……どこか痛めているのか?」

「ぁ、い、いえ! なんでもありませんっ! 大丈夫です!!」

 まりもの問いに武は咄嗟に嘘をつく。庇うように置いていた手を脇腹から離し、背筋を正して真っ直ぐにまりもを見つめる。――その表情は、どこか強張っていた。なにかを必死で我慢しているような、そんな顔である。

 無論そんな下手な嘘に騙されるまりもではなく。

「白銀……正直に話せ。どこか怪我をしているのではないのか?」

「はっ、全身どこにも怪我はありませんッ! ご心配ありがとうございます軍曹殿!!」

「……………………」

 明らかに嘘である。ホントは全身打撲なんて生易しいものじゃない。打たれた部位は腫れ上がり、前日の青痣は紫に変色している。内出血だらけだ。

 普段捲くっている長袖を今日に限ってキチンと手首まで伸ばしているのが更に怪しい。じっとりとしたまりもの視線に、武の背筋に冷たい汗が流れ落ちる。

 その睨み合いはたったの数秒だったが、武にはとてつもなく長く感じられた。やがて眼を閉じ溜息をついたまりもは、呆れたように武を見つめ、

「貴様がそう言うならそういうことにしておいてやる……が、今後も訓練に支障が出るようなら、そのときは……わかっているな?」

「はい!」

 この意地っ張りが。

 言外にそういわれたような気がする武は、内心でまりもに深く頭を下げる。己の都合で身体を痛めて、それで訓練に参加できない……或いは部隊の皆に迷惑をかけてしまうのではまるで話にならない。教官という立場に居るまりもは、本来ならば強制的にも武の状態を把握し、必要によっては休ませる等の処置をとらなければならないのだが……少年期に特有の意地を張りたい時期なのだろうと嘆息し、見逃してやることにしたのだ。

 無論、これがより重度に、そして訓練中の事故に繋がるようなものならば放ってなどおかない。即座に然るべき処置を取る。それが、彼らの健全な肉体と魂を鍛え上げる教官としての役割だ。

 が、それとは別に……こと武については色々と注意が必要だとも思っている。前任の熊谷の言葉を忘れたわけではない。

 見たところ何がしか負傷しているようだが、重傷というわけでもなく、骨にも異常はなさそうだった。やせ我慢できる程度ならば、したいようにさせてやる。まりもは教壇に戻ると、テキストの続きを読み始めた。

 そのまりもの態度に幾許か困惑を抱きながら……けれど207隊の少女達もまた、講義の内容に耳を傾ける。武が心配なのは確かだったが、それとこれとは矢張り同一視していいものではない故に。

 勿論、休憩になった瞬間に怒涛の如く問い詰める腹積もりである。

 誰一人の例外なくそう決めているというのも、彼女達のチームワークのなせる業なのかもしれなかった。







 ===







 午後からの訓練のためにグラウンドへ移動する。相も変わらず激痛を訴える身体を叱咤しながら歩く武の後姿に、隠そうともしない不機嫌を押し出した茜が、

「白銀って、ほんっっと意地っ張りよね。そんなになるまで訓練続けるなんて……。ばっかじゃないの?」

「……」

 ぷっくりと頬を膨らませて不満顔。そんな茜に振り向きもせず、武はだんまりを決め込む。昼食時に皆から散々莫迦だの阿呆だの意地っ張りだの言われ続けたのだ。いい加減、落ち込むのを通り越して苛立ちに変わりつつある。

 そんな彼の心情を知りながらも、それでも不機嫌にならざるを得ない茜。想い人である武がそんなにボロボロになってまで真那との鍛錬を続ける理由を、武は口にしない。ただ、自分の剣の師匠が真那の父親であったことと、彼女も同じ剣術を使うことから師事しているとしか皆には答えていない。

 真那の父が、そして真那自身が武に託した想いについて、彼は語らなかった。

 おいそれと口にするような事柄でもないし……なにより、これは武自身が胸の内に秘め、忘れずに抱えていけばいい想いである。託された者はただ、黙ってそれを目指せばいい。武はそう思っている。

 故に彼の本当の心は茜に伝わらない。彼女は武を理解しようと懸命に想像をめぐらせるが、多くを語ろうとしない武に……そしてなにより、真那という、現在の自分ではどう足掻いても太刀打ちできそうにない年上の女性の出現に激しく動揺している。

 茜自身が憧れ、目標とする水月でさえ敵わないような、圧倒的存在。

 戦士としては勿論、女性としても両手を挙げて白旗を振る以外にないような、そんな超絶に過ぎる相手。

 恋する乙女としては、それはそれは気が気でないのである。

「まぁまぁ、茜。白銀君も色々思うところがあるってことでしょ? それくらいにしてあげなよ」

「晴子……」

 親友の言葉に不貞腐れたように唇をとがらせる茜。茜の恋心を知り、武の心情もそれなりに理解しているつもりの晴子は、それ以上二人が険悪にならないようにと心を配る。普段、場を引っ掻き回すことに生き甲斐を感じている晴子だが、それ以上に部隊内の和を取り持つことも忘れない。実に素晴らしい部隊の潤滑油だった。

 その晴子に同意するように、冥夜が腕を組んで神妙に言う。

「そうだな。白銀は己の剣を極めるために中尉に師事しているのだ。その想いは確かなもののようだし、それを我々第三者が止めようとしても、迷惑になりこそすれ、白銀のためにはならぬだろう。……だがな、白銀。そなたもわかっていよう? 涼宮だけではないぞ。柏木も、他の者も……無論、私も。皆そなたが心配なのだ。……昨日に引き続き、そのように傷だらけな姿を見れば、誰だって不安に思うだろう。そなたの決意を止めはせぬ。だが、そなたを案じる者がいるということだけは、忘れるでない」

「…………ああ。そうだな」

 冥夜の言葉に、武は足を止め振り向く。すぐ後ろを歩いていた茜は、そんな彼にぶつかりそうになるが……向けられた表情はなんだか照れくさそうに苦笑していて……茜はどきりとして足を止める。

「悪ぃ涼宮。それから皆。……俺、ちょっと熱くなってたみたいだ。冥夜の言うとおりだぜ……すまん。……すまん、が。だけど、俺もこればかりは止めるつもりはないんだ」

 ぽん、と。茜の頭に手を置いて、くしゃくしゃと撫で回す。されるがままの茜は、どこかぽぅっとした表情で頬を染める。

 そんな彼女の様子に更に苦笑して、武は一旦眼を閉じ、そしてしっかりと開きながらに言った。

「俺は強くなる。この剣術を極めて、師匠の遺志を継ぐ。月詠中尉もそれを望んでくれた。俺は…………ようやく、ちゃんと前に進めるきっかけを見つけたんだ。だから……」

「しろ、がね……」

「白銀くん……」

 どこか哀しげに、そして誇らしげに。その武の表情は、言葉は……A分隊の少女達の胸を打った。

 ようやくと言った。

 ちゃんと前に進めると言った。

 それは紛れもなく、彼女――――白銀武にとって永劫に忘れることのない、愛する幼馴染――――を指している。

 かつての危うさは見えない。

 一年以上の歳月を経て、武は本当の意味で彼女の死を乗り越えたのかもしれない。或いは、受け入れることが出来たのか……。

 じわりと、茜の瞳には涙が浮かんでいた。晴子も同じだ。多恵も、薫も、亮子も。

 水月が、遙がいたならば同じように涙を浮かべただろう。或いは、喜びに笑顔を見せてくれるかもしれない。

 かつての武を、そして乗り越えようと我武者羅に足掻き続けた彼を知っているからこその涙だった。…………ああ、ならば、こんなに暖かい涙はないだろう。少女達は皆、武の言葉に、彼の本心を感じていた。

 彼女を忘れるのではなく、その想いを抱いていく――。

 そのための強さを。

 そのために強くなる。

 ああ、ならば。どうしてそれを止められるだろう。嫉妬に駆られた自身が酷く恥ずかしい。茜は、そんな自分の未熟さに苦笑した。

「ははっ、そんな顔すんなよ。今回のことは、まぁ俺が悪かった」

「ううん。いいよ、もう。あたしだって、白銀のことよく考えなくて、ごめん」

 微笑みあう武と茜。もう一度ぐりぐりと少女の頭を撫でて、武は歩き出す。そんな彼の態度に、照れているのだと悟った茜は、これみよがしに武の前面へと回り込み、恥ずかしさに頬を染める彼の顔を堪能しながら後ろ向きに歩くのだった。

 その二人にそれぞれが微笑みを浮かべながら続く晴子たち。

 なんだか和やかで温もりのある雰囲気の元帝国軍所属の彼らを……どこか困惑しながら、そして寂しげに見送るB分隊の少女達。

 彼女達には、先ほどの武の言葉の意味するところがよく理解できないでいた。

 そして、その後の茜たちの見せた反応も。

 前に進めるようになったと武は言った。それは――どういう意味だろうか。

 彼女達にとっての白銀武とは、常に自分に厳しく、そして向上心を忘れない非常に優秀な訓練兵だ。独特の剣技を修め、毎日研鑽を積むことで日々精進を怠らない。鍛えられた肉体は現役衛士と比べても劣ることなく、心身ともに鍛え抜かれた一目置く存在だ。

 それだけでなく隊内のムードメイカーとしてもその存在は大きく、どこまで本気なのかわからない言動も多々あるが、それも日常と訓練との切り替えをきっちりと行っている証拠である。仲間を大切に想い、チームの和を誰よりも大事にしているようも感じる。

 ……そんな彼が、武が、なにをいうのだろう。



 ようやく。

 ちゃんと。

 前に進めるように……。



 では、以前の彼はそうでなかったというのだろうか。

 自分達の知らない彼が、彼女達だけが知る彼が…………居るのだろうか。――否、存在するのだ。

 自分達の知らない、帝国軍時代の彼。

 いつだったか冗談交じりに話してくれた昔話。千鶴は、そして冥夜は思い出す。その日のことを。夜、何かに憑かれたように剣を振るっていた武の姿を。泣いていた茜の姿を。その、どこか空恐ろしい焦燥を。

 思い出して、理解する。

 ああ、自分達は何も知らない。武について、その武と共にいた彼女たちについて……まだ、何も。その深い位置に在る心、想い……決して表に出すことのない、哀しみを。

「……なんだか、置いてきぼりになっちゃったね」

 ポツリと呟かれた美琴の言葉は、冥夜と千鶴の胸に小さな棘を残した。沈黙が場を満たす。普段飄々としている慧ですら、目の当たりにした武と茜たちの心の繋がりの深さに、自身の知らぬ彼らの過去に沈黙している。

 五人の表情は皆、どこか重苦しく、悔しげだった。

「……別に、今知らないなら、これから知っていけばいい。白銀は仲間なんだし……私たちにだって、隠してることはあるしね」

「彩峰……そなた、」

 噛み締めるように、慧は言った。最後は自嘲するように。けれど、そこには強い意志が込められていた。

 その言葉に冥夜は驚きの相を見せるが……静かに頷いて、毅然と顔を上げる。

「そのとおりだ。我らは仲間なのだからな。あの者達が二年間かけて築き上げた絆に、現在の我らが立ち入る隙はないのかも知れぬ。……だが、それでも我らは仲間だ。知らぬのならば、知っていけばいい」

「御剣……」

「冥夜さん、慧さん……」

「そうですね……。白銀さんたちのこと、もっともっと知りたいですから」

 うん。

 頷きあって、少女達は晴れ晴れと顔を上げる。ほんの少しだけ気恥ずかしげに笑い合いながら、先へ行った彼らを追う。

 グランドへ続く扉の前には、遅れてきた彼女達に「なにやってんだよ」と笑い掛ける武たちの姿。――ああ、本当に。本当に。

 彼らと本当の意味で深く、分かり合いたいと思った。その想いを、分かち合いたいと、願う。







 ===







 まりもの正面に横一列に整列し、敬礼。午後からの訓練にあたり、まりもの口から訓練内容の説明がある。厳しい表情のまりもに、それを聞く武たちもまた真剣な顔をする。

 だが、そのどこか緊張に満ちた空気を、それはもう盛大にぶち壊す、のんびりとしたその声は……あろうことか、彼らにとっての鬼軍曹を呼び捨てにし、更に、お世辞にも軍隊とは思えないような言葉遣いをした。要するに、

「ま~りも~~っ、ちょっと邪魔するわよ~」

 その、あまりにも抜けた口調と声に、武たちは盛大に困惑する。それはまりもも同じだったようだが……しかし、彼女の様子は彼らを軽く超越している。なんというか、その表情は引き攣っていて……何かを必死に耐えているようだった。

「香月博士……今は訓練中なのですが……」

「なによぅ。まだ始まってないじゃない。……ま、始まってたところで関係ないんだけど」

 ひくひくと頬を引き攣らせるまりもの表情はハッキリ言って怖い。だが、そんな彼女の心情など知った風ではないという様子の白衣を纏った女性は、鬱陶しいとばかりにまりもの視線を払う。

 どこか尊大で不遜とも思える態度。切れ長の鋭い目は、しかし愉悦に弧を描いていて……なるほど、彼女はまりもをからかっているのだと悟る。

 悟ったところで、それはそれは凄まじく命知らずなことだとも思うのだが……。

「…………っ、それで、香月博士。一体なんの用でしょうか?」

「あら、随分とそっけないじゃない。わざわざ私が出向いたってのに」

「博士のお考えがわかりかねますが、至急ということでないようでしたら、また時間を改めて私からお伺いいたします」

 一向に来訪の目的を言わない謎の女性に、いい加減まりもも我慢の限界らしい。……どうやら二人は知り合いらしいが、まりもの言葉遣いから察するに、相当地位が高いひとなのだろうか。武たちはまじまじと白衣の女性を見る。大層整った顔をした美人さんであった。

「――あ、」

 千鶴が思わずと言った様子で声を上げる。同時、他の者も何かに気づいたらしく、一様に目を丸くする。

「副司令……ッ!!?」

 思わずどころか大いに口にしたのは武である。驚きのあまり声が裏返り気味だったのはナイショだ。

 ともあれ。

 香月夕呼。当横浜基地の副司令を務める女性。こうして間近に見るのは初めてだったが、その顔は記憶に残っている。自分の所属する基地の司令・副司令の名前と顔は知っていて当然の部類に入る。無論、その他にも知っておいて当然の要職に就く人物は大勢居たが……副司令という要職中の要職である夕呼を目の当たりにして、訓練兵である彼らは大いに混乱した。

「け、敬礼ッッ!!?」

「――ッ!!」

 狼狽する茜の号令に、直立不動で皆が敬礼する。緊張に身を硬くする少女達を睥睨して、しかし当の夕呼はとてつもなく嫌そうな……面倒くさそうな顔をする。

「ちょっとやめてよね~。私にそんなモノは不要よ。堅っ苦しいったらないわ。やめて頂戴」

「は、はぁ……」

 ぴしゃりと言い放たれ、茜は困惑する。上官に対する礼儀であるはずなのだが……しかし副司令直々の言葉である。聞かないわけにもいかない……のだが。

 どうしたものかと皆の視線がまりもに集中する。こうなることが内心でわかっていたまりもは盛大に溜息を吐きながら、しかし自身が模範を示すように、夕呼に再度質問する。

「香月博士。そろそろ訓練を開始したいのですが……何か御用がおありになったのでしょうか?」

「相変わらず堅いわね~まりも。そんなだから未だに独身なのよ」

「それとこれとは関係ないでしょうッ?! 大体あんただってまだ独身じゃない!!」

 ニヤリと笑う夕呼に、思い切り食って掛かるまりも。すぐにハッとして教え子達を見るが、向けられた視線は困惑と驚愕……そして哀れみだった。

(そうか……教官、独身なんだな……)

(あんなに美人なのに……やっぱりあの性格が……)

(う~ん、凄いひとだとは思うんだけどね~)

 口に出していないはずのそれらの言葉が、どうしてかまりもには聞こえたような気がする。ギロリと殺気を込めてひと睨み。不埒な妄言を抱いた何人かは視線を逸らして姿勢を正した。――バレバレである。

 そんなまりもを呆気なく無視して、夕呼が武の前に立つ。ぎょっとして彼女の顔を見つめる武に、

「ふぅん。あんたが白銀武?」

「――っ、は、はい! 自分は白銀武訓練兵であります!!」

 唐突に名を呼ばれ、武は全身を緊張させる。痛む身体のことなど今は忘れた。天と地ほどの階級差のある上官も上官の夕呼に、肉体に染み付いた軍人としての性が再び敬礼を取る。

「だ~から~、敬礼はいいって言ってるでしょ~?」

「はっ、はぁ……すいません。つい……」

 心底うんざりした顔と口調で言われ、武は困る。そうは言うが、立場上それは仕方ないのではなかろうか。まして自分はただの訓練兵である。副司令に対して礼を尽くすのは当然だった……のだが、どうやらこの女性にそれは通用しないらしい。というか、どう見ても軍人には見えない立ち居振る舞い、言動に……彼女は軍というものを嫌っているような印象を受ける。

 無論それは武が勝手に感じた印象なので、初対面の副司令殿の本心など知らない。

 それよりも、問題は別にある。

 副司令は武の名を呼んだ。わざわざ目の前にやってきて、だ。今も尚興味深そうに武の全身を眺めてはニヤリと唇を吊り上げている。――どうしてか、寒気がした。

 ああ、この顔は何か企んでる貌だ。初対面であるのに、そうと知れる愉しげな笑み。そこに一体どんな思惑があるのかは皆目不明だが……武は知らぬ内に腹に力を込めていた。

「ふん、結構いい面してるじゃない。ただの訓練兵にしとくのは勿体無いわね」

「こ、香月博士!? 一体なにを……」

「まりも、ちょっとこいつ借りるわよ。ついてきなさい、白銀」

「「ハァっ?!」」

 言うが早いか、さっさと背を向けて歩き出す夕呼。まりもも武も、そして他の者も。あまりに唐突でいきなりで、そして意味不明なその言葉に硬直する。

 しかし……唖然としながらも、いち早く気を取り直したまりもが「行け」と促し、武はよくわからないながらも夕呼の後を追うのだった。

 グラウンドから二人の姿が消える。困惑に沈黙する207部隊の少女達に、まりもは気を取り直したように声を掛ける。

「ほら、貴様達! 気合を入れろッ。午後からの訓練を開始するッ」

「「「は、はいっ!!」」」

 突然の夕呼の乱入で大いに掻き乱されたが、まりもは既に思考を切り替えている。長い付き合いからくる慣れと諦めがそこにはあった。同時に、夕呼が武を呼び出す用件というものにまるで心当たりがなく……それだけが懸念される。

 夕呼の、そしてこの横浜基地の、知られざる人類の希望を賭けた一大計画。その概要を掻い摘む程度には承知しているまりもだが……彼女の知りうる限り、“現時点で”それと武を結ぶ線はみつからない。

 どこか漠然とした不安を覚えながら……まりもは訓練に集中した。

 Need to Know 。知らされないのなら、それを知る必要はない。――それが、軍人というものだ。まりもは今は武のことを忘れることにした。







 案内された執務室は、地下十九階にあった。横浜基地の設備が、地上よりも地下にその大半を置いているということは武も知っていたが、まさかこんな地中深くにまで基地施設があるとは思いもしなかった。

 普段武たちが使用するエレベーターとは別の、ドアの横にID認証機が設置された専用のエレベーターを利用してここまで降りてきたのだが、筐体内のボタンは更にB27というものまであった。どれだけの規模の地下施設があるというのか。武には想像もつかない。

 そしてそんな武の反応を愉しむように、夕呼は自分の椅子に深く腰掛ける。武はコンピュータ端末の置かれた事務机の正面に直立不動で立ち、夕呼の言葉を待つ。

 ただついて来いと言われるがままにここまで来たが、どう考えても普通じゃない。副司令と一対一で話すことさえありえないというのに、それがその執務室……しかもここに来るまで一体どれだけのセキュリティを越えてきたというのか。それほど厳重に管理された、いわば機密の塊のようなこの部屋。横浜基地の片翼を担う副司令の思惑など、武には一切予測できない。

「なんで呼ばれたのか全然わからないって顔ね?」

「…………はい」

 心情が顔に出るのは未熟な証拠と指摘され、武はやや顔をしかめる。そうは言っても、この状況で平静を保てというほうが無理だ。

 そんな武の葛藤を知ってか知らずか、夕呼はおもむろに書類を取り出し、それを武に差し出した。反射的に受け取ってしまう武だが――その内容に、思わず目を疑う。



 戦術機適性検査結果:判定「S」



 一番上にそうアウトプットされた数枚の書類。その下には見慣れた男の顔写真が印刷されていて、以下、測定時の各種データが綴られていた。

 二年前、帝国軍横浜基地に入隊してすぐに行われた簡易的な戦術機適性検査の結果だった。誰の、というものではない。紛れもなく武自身の結果だった。

 しかし、武は思わず「なんだこれ」と呟かずにはいられない。

 ああ、そうだ。記憶が確かなら、あの時まりもは、武の成績は歴代一位だといった。過去に例を見ない、戦術機に乗るために生まれたようなものだと。

 しかし……しかしだ。戦術機適性「S」。「S」判定、だって? かつて読み漁った資料の中には判定は最も高いもので「A」ランク。以下「A-」、「B」、「B-」……と、最低で「E-」までの十段階評価のはずだ。それと、適性外の「F」。

 武は思わず首を傾げる。何度見ても、どうやってもそこに記された「S」という字句は変わらず……しかもそれはわざわざ表示されている「A」を二重線で消して赤ペンで「S」と訂正されているのだ。あり得ない。

「そのあり得ない適性をもってるのが、白銀武なのよねぇ」

「!?」

 まるで武の思考を読んだように夕呼は言う。相変わらずの愉しそうな表情。自身の知られざる評価を目の当たりにして狼狽する武を、大いにからかっているようだった。

「あの、これって……つまり、」

「歴代一位の適性、って……聞かなかった?」

 つまりはそういうことだ。かつてない適性値。わざわざ手書き修正してまで新たにランクを設定せずにはいられないほど、武のたたき出した数値は異常だということだ。……そして、見るからに科学者然としているこの副司令殿は、そんな武に興味を抱いたのだろう。

「ふふん。そう怖い顔をする必要はないわ。簡易的な検査とはいえ、概ねその検査結果と実際にシミュレーターで行う検査との値の差は殆どない。つまり、過去の例を見る限り、あんたは恐らく史上初の“S”ランクの適性値を持った衛士になるってことよ」

「…………」

「私の言いたいことがわかるかしら? あんたは戦術機の操縦に関して、数値だけを見るならばかつてない才能を秘めている可能性が高い。こんな前例過去にないもの、いやがうえにも興味が湧くわ」

 その目は、まるでモルモットか何かを見るものだと思った。顎に指を当てて不敵に笑う夕呼に、武は言葉がない。

「本当なら今すぐにでもシミュレーターでデータを採りたいところだけど……流石に総戦技演習も終えてないような訓練兵に使わせることもできなくてね。だからあんたにはそれ以外で採れるだけのデータ収集に付き合ってもらうわ。なるべく普段の訓練と重複しないように配慮はしてあげる。どう?」

 どう、と聞かれた所で武に拒否権はない。「S」ランクの適性値を持つ衛士候補生。その肉体に秘められたナニカを知るために、夕呼は自分を何らかの実験台にしようとしているらしい。――なんてことだ。

 武は思わずにはいられない。

 この目の前の女科学者は、なにかとてつもない裏を抱えているのではないか。自分はそれに巻き込まれようとしているのではないだろうか。

 言い知れぬ悪寒。そして戦慄。……だが、副司令の「命令」には逆らえない。拒むことなどできない。

 夕呼は形式上武の確認を取ってはいるが……そんなもの、武が拒否できない以上単なる事実確認に過ぎない。夕呼にどのような思惑があろうとも、そしてそれを武がどう思おうとも、それは彼女が口にした時点で既に……決定されているのだ。

「ま、すぐにどうこうするってわけじゃないけど、度々呼び出すことになると思うわ。あんたのID情報は書き換え済み。私からの呼び出しがあれば即時ここに出頭すること。いいわね?」

「は!」

 愉しげに、それでいてほんの少しだけ真剣に。夕呼の言葉に思わず敬礼してしまうが……案の定、彼女はとてもうざったそうな表情だった。

「いい加減、慣れなさいよね」

「ぜ、善処します……」

 なんだかよくわからない女性だと、武は内心で呟く。ルールに縛られない自由人のようでいて、科学者としての一面も強く持ち合わせている……そんな解釈が、今の彼には精一杯だった。

「じゃ、今日のところは下がっていいわよ」

 追いやるように手を払われて、武はよくわからないままに執務室を後にした。

 ただ……これからの日々が更に過酷なものになるという予感だけがある。多分それは間違いなく。

 溜息を吐いて前を向く。地下十九階。エレベーターから降りて突き当たりのこの部屋。ふと、すぐ隣りにあるドアに目が行く。執務室があるくらいだ、そこもなにか特別な施設なのだろう。大層な造りのドアに何気なく手を伸ばしてみれば――シュッと、スライドする。

「っ、あ!?」

 素直に驚いた。なるほど、ID情報を書き換えたというのはこういうことか。武の持つIDのセキュリティはこのフロアを行き来するための権限を付与されたということだろうが、即ちそれは、そのIDで立ち入りできる場所には入ってもいいということでもある。

 夕呼からはそれ以上のことは何も言われていないが、武は今までの経験から……特にかつての教官熊谷に言われたことを思い出しながら、そのように解釈する。

 行けるのだから、行っていいのだ。副司令という立場にいる以上、夕呼もそれは承知の上だろう。

 まして、同じB19フロアに在る施設とはいえ、武の侵入を許さない場所で在るならばIDにそのセキュリティを開く権限を与えないだろう。単純に夕呼の部屋と、その道程のセキュリティを通過できればいいのだから。……武は先ほど夕呼に味わわされたなんともいえない複雑な感情を落ち着かせるため、そして否定できない興味のため、開かれたそのドアから室内に踏み入れる。

「…………」

 なんだかひどく頑丈な造りをした通路だった。照明は薄暗く、ゴウゴウとボイラー室のような音がする。妙に自分の足音が響くのを聞きながら、突き当たりにもう一つドアを見つけた。試しに手を触れてみれば、矢張りそのドアも開く。

 踏み入れた一歩。先の通路と同じように薄暗い。雑然とコード類が敷設され、なんだか薄気味が悪い印象を受ける。入口付近でぼんやりと室内の様子を窺ったが――その視界に、青白い光を放つ筒のようなものが映る。

「なんだ……?」

 部屋の中央。二メートル以上はありそうな筒状のなにか。それは硝子でできた長尺のカプセルのようで……ぼんやりと青白く光っている。敷設されたコードはどうやらその筒に繋がっているらしく…………その中に浮かぶそれを見て、思考が停止した。

「え…………」

 なんだ。これ。

 青白い光は、どうやらカプセル内に満たされた液体のようなものが発光しているようだった。こぽこぽと音を立てて、液体らしきものが循環している。

 なんだ。これ。

 そしてその発光する液体の中に、浮かんでいる一つのもの。丸っぽい塊……手の平大の大きさの塊から、なにか節ばった長いものが垂れている。

 なんだ。これ。







「ひっ」







 それは、脳ミソだった。脳に繋がった脊髄だった。――――え? なんだって…………!!??

「な、ぁ……なん、だ?」

 冷や汗が吹き出る。心臓がどくどくと痛いほど鳴り響く。視覚を通して得た情報を、にわかには信じられない。否、それを理解したくないと身体が拒否反応を起こしている。

 だが、目の前のカプセルに浮かぶそれは……間違いなく、標本や医学書にあるとおりの「脳」と「脊髄」で……。

 武は知らず、口元を押さえていた。すっぱいものが込み上げてくる。辛うじてそれを飲み込むが、しかし武の精神は混乱していた。

 一体なんだ、これは。

 脳ミソ。ああ、何度見ても脳ミソだ。――誰の? 一体、何のために??

 なんだかとてつもなく、見てはいけないもの……そういうものを見た気分だった。興味本位で足を向けたことを呪う。ここは、来てはいけない場所だった。

「――ッ、く」

 武は踵を返す。シュッと音を立ててスライドするドアを抜け、自分の足音が響く通路を抜けて…………そこに夕呼が立っていた。

 まるで武が出てくるのを待ち構えていたように。

「!!!!!!!!」

「あら、何してるのかしら? 白銀」

 その口調は責めるようなものではなく……むしろ、

「で? どうだった?」

「……っ、なに、が、ですか……っ」

「見たんでしょ? アレ。どう思った?」

 どうもこうも…………ッッ!!!!

 思わずぶちまけそうになる武だが、何とか感情を抑えこむ。副司令を前にそんな無様は許されない。例え武がこの部屋に入り、先ほどの脳を目撃することが夕呼の望みだったのだとしても……今のこんな最低な気分を、ぶつけていいとは思えなかった。

 IDにかこつけて立ち入ったのは自分。その中であんなものを見てしまって、最悪な気分になっているのは間違いなく自分のせいだ。

 夕呼の思惑の内だったのだとしても、それでも、行動したのは武の意思だ。故に武は……胸の内で混乱と驚愕と言い知れぬ恐怖を覚えながらも、

「あれも……なにかの研究ですか? 自分も……あんな風になにかのサンプルにされるんですか……?」

 僅かな震えを止められない。自分でも莫迦なことを言っているとは思うが……アレを見た後では、そして少なからず知れた夕呼の科学者としての一面から、武はそれは恐ろしい想像をしてしまう。

「はぁ? あっははははは! いいわねぇ。“S”ランク適性を持ったニンゲンの脳ミソなんて、滅多にお目にかかれないかも」

「~~~~~っ!?」

 さぞかし武の様子が可笑しかったのだろう。夕呼はどこまで本気なのかわからない表情で笑う。そんな風に笑われることが少しだけ悔しく、恥ずかしかったが……武は夕呼に一礼して、駆けるようにエレベーターへ向かう。

「白銀、アレのことだけどね」

「――ッ、!?」

 静かな声に、思わず足を止める。振り返らないのは、せめてもの抵抗だった。

「……そう怖がるもんじゃないわ。あんたのデータを採る時は、あの部屋で測定するんだから。男の癖にびびってんじゃないわよ~」

「んなっ!!?」

 聞き捨てならない台詞を残して、夕呼は執務室へ戻っていく。

 ああ、なんてことだ。武は目元を手で覆って立ち尽くす。

 何がしかの研究サンプルとされる自分、そして、謎の脳ミソ。……特にあの脳に関しては軍という組織の暗部を見せ付けられたようで…………武は呻きながら頭を振る。

「くそっ――! それが、どうしたっっ!!」

 何の意味もなく、しかも副司令という立場にある人物が、あんなものを置いておくはずがないだろう。自分にしてもそうだ。「S」ランク適性を持つ武を調べることでなにか戦場で戦う衛士にとってプラスとなることが見つかるかもしれないじゃないか。

 どこか言い聞かせるように、武は精神を落ち着かせる。

 真那が言っていた。精神面に懸念――なるほど、正に今の状態をみればそのとおりだ。武は大きく息を吸う。体内に渦巻く様々な感情を、呼気とともに吐き出して……訓練に戻るべく、エレベーターのボタンを押した。

 B19フロアのセキュリティを鑑みれば、今日この場所で見聞きしたことは全て機密とみていいだろう。ならば、武のデータ採取についても極秘扱いとなるはずだ。まりもにも言ってはいけないのだろうかとぼんやりと考えながら……どうせ茜あたりが問い質してくるんだろうなぁと頭を抱える。

「ああくそ。どうやって誤魔化せばいいんだ??」

 機密だから話せない。ただその一言を思いつけない武だった。







[1154] 復讐編:[六章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:67afa968
Date: 2008/02/11 16:16

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:六章-02」





「なんか元気ないね。どうかしたの? 白銀君」

 夕食。いつものように十一人がずらりと並ぶPXのテーブルにはそれぞれのトレイが並べられ、和気あいあいと食事が進められていた。

 その中で、武の斜め正面に座る晴子が、味噌汁を飲み終えた後にそう問いかける。問うた自分でさえどこかしら違和感を覚えているような表情だが、彼女の勘は冴え渡っていた。

「……ッ、」

「白銀……?」

 晴子に問われ、思わず息を呑む武。つい先ほどまで楽しそうに談笑していたのに……その一瞬で、彼は被っていた面を剥がされてしまう。

 その武の動揺から、彼がなにか自分の感情を誤魔化して、隠していたのだと気づく面々。特に、すぐ隣にいた茜は一際ショックを受けたらしく、気づけば武の腕を握っていた。

「あ~~、いや……その、なんつぅか……」

「……なにかあったの?」

 視線を泳がせて、歯切れ悪く何かを口にしようとする武に、誤魔化しは許さないと、晴子は真剣な表情をする。一変した場の空気に、皆が沈黙する。武の様子は普通じゃない。何かを隠しているのは最早明らかだ。

 気取られないように誤魔化さなければならない何かがあったのだ。――では、一体何が?

「白銀……あたしにも話せないこと……?」

「涼宮、」

 強く武の腕を握る。茜の瞳はどこか悲しい色をしていた。武はその彼女の視線に苦い想いを感じる。以前彼女に言われた言葉を思い出す。辛い時は、本当に辛い時は……。そう言って、傍で支えてくれた茜。いつだってそうやって武の身を案じてくれて、心配してくれて……たくさんたくさん、泣いてくれた茜。

 ――ああ、なんて愚かな自分。

 武はまた、自分が過ちを犯していることを悟る。自分独りで抱え込んで、周りの皆に心配をさせている。なんて情けない。なんて、莫迦なことだろう。

 なんでもかんでも口にして、相談して、明け透けであればいいというものでもない。だが、それを自身の内に秘するのならば、それは決して周囲の者に悟らせてはならないのだ。

 中途半端な演技で誤魔化そうとした自分を恥じる。そんな程度のことしかできないくらい不安定になっているのなら、いっそ口にして…………だが、物事には得てして制約があるものだ。

「すまん…………ちょっと、昼間のことを思い出してた。……副司令に呼ばれて、色々あったからさ……。詳しいことは話せないけど……ごめん。お前らに心配掛けるつもりはなかったんだ」

 素直に頭を下げる。察してくれた晴子に。案じてくれた茜に。皆に。

 謝罪する武に、茜たちも口を噤むしかない。副司令――夕呼の直々の呼び出しによって訓練を一時的に抜けることになった武。その間の出来事を知ることは許されない。どのような会話をしたのか、何を見たのか。訓練兵に過ぎない彼女達が知っていいものは何一つ存在しない。

 それを十分に理解しているために、皆は悔しげに唇を噛む。武がなにか落ち込んでいるらしいのに、その理由を知ることは許されない。その歯痒さが、悔しい。

「あーっ、と。その。ほらッ、飯食おうぜ! せっかくおばちゃんが用意してくれたのに、冷めちまったら勿体無いぜ!?」

 一際大きな声で、武は笑顔を浮かべて言う。自分のせいでなんだか暗く静まり返ってしまった雰囲気を、どうにか払拭しようと、自分の合成竜田揚げ定食をガツガツと勢いよく掻き込む。

 そのわざとらしいくらいな武の仕草に、晴子は困ったように笑って……そして、彼女も同じように皿に盛られた料理にかぶりついた。どこかしら武よりも口に入れる速度が速い。その晴子を横目に、薫がニヤリと頬を歪める。

 ガッ、と合成中華丼の盛られたどんぶりを掴み、とても花も恥らう乙女とは思えない豪快さで掻っ込む。呑んでいるんじゃないかというくらい、見事な早食いだった。

「ちょっと、ちゃんと噛みなさいよっ、三人とも!」

「いつの間にか早食い大会になってますね~」

「あはっ、タケル~、頑張れ~っ」

「薫さん、ファイトです!」

「そなたたち、行儀が悪いぞ……ふふっ、まったく」

「んののっ、負けてられないよ! 茜ちゃん!!」

「ええっ!? あたしも?!」

「涼宮はだめ。ヤキソバは味わって食べる」

 突然始まった早食い競争に千鶴が呆れたように注意を飛ばすが、武も晴子も薫も全然聞きやしない。楽しげに微笑んで声援を送る美琴と壬姫、亮子。そんな彼らの様子をどこか苦笑しながら見守る冥夜。

 完全に出遅れているにも関わらず、茜に向かって参戦を促す多恵。呆然と成り行きを見ていた茜はその多恵に驚き、しかし、どこかひどく真剣な表情と声音の慧の指摘に怯む。

 結局、三人はほぼ同時に食事を終えた。実に数十秒。皿を叩きつけるようにテーブルに置いて、三者ともが湯飲みに手を伸ばし、これも一息で飲み乾すとまたもテーブルに叩きつける。

「ぷぁっ! くっそ~~、やるじゃねぇかてめーら!」

「あはははっ、こんな程度じゃ負けないって」

「っていうか晴子って案外早飯食いなんだな。意外っつぅかなんていうか」

 それぞれがお互いを讃えあう。いい勝負だった――グッと親指を立てて分かり合う三人。実に莫迦丸出しだ。

 ヤレヤレと千鶴は苦笑する。さっきまでのどこか沈んだ空気は完全にどこかへ行ってしまった。

 それが出来るのが武だ。そしてそんな武の意図を察して即応できる晴子も凄い。無論、薫も同様に。まったく……切り替えが早いというか後腐れを気にしないというか。

 あんな暗い雰囲気を引き摺ってもしょうがないというのはわかるが、それでも、もう少し健全な手段はないものか。苦笑しながら、千鶴は……だから自分はお堅いのだと、更に苦笑するしかない。

「お? なんだよ榊。喰わないんなら俺がもらうぜっ」

「ばかっ。ちゃんと食べるわよッ」

 冗談半分に箸を伸ばしてくる武の手を容赦なく打ち据え、千鶴はガルガルと牙をむく。

「餓えた狼……」

「なんですって!?」

 ぼそりと。目を線にしてのほほんと呟く慧を睨む。口にした張本人は飄々とそれをかわし、自身のヤキソバをとても幸せそうに啜っている。

 そんなやり取りを、皆が皆、苦笑しながら、微笑みながら…………武は、そんな仲間達に支えられている自分を贅沢者だと感じた。これほどの素晴らしい仲間が自分を支え、案じてくれる。そのことの、なんと嬉しいことか。

 だからこそ、自分の都合で彼女達に心配をかけてはならないし……泣かせることなどあってはいけないと痛感する。

 支えられるだけが男じゃない。――なら、自分も皆を支えられるくらい、鍛えぬく。

 肉体を、業を、精神を、心を。

「な、なによぅ。じっと見て……」

「いや、別に」

 隣りに座る茜を見つめる。その武の表情はとても穏やかで、ハッキリとした意志が窺えて……見つめられた茜はドギマギとして頬を染めるしかない。なんだかいつになく優しい表情の武に、心拍数が跳ね上がる。

 そんな彼女の心情など知らず、けれど武は……特に茜に対して、深い感情を抱いていた。

 思えば茜とは色々あった。彼女との再会のとき、一度だけ起こしにきてくれたとき……横浜に戻ってすぐの、あのとき。

 ほかのA分隊の少女達にも深く想う感情は在るが……それでも、茜に対するそれは……どこか、一層、深い。

 なんだか、「仲間」という枠に一括りに出来ない想いが…………武は苦笑する。よく、わからなくなった。

 ただ……一番多く武のために泣いてくれただろう茜を、二度と泣かせはしない。同じように泣いてくれる晴子たちを泣かせはしない。知り合って、仲間になってまだ半年も経たないのに……それでもこんなに案じてくれる冥夜たちを泣かせはしない。

「ははっ、そりゃかっこつけ過ぎだなっ」

「えっ? ぇっ?! ちょ、っと。白銀~~っ?!」

 照れくさそうに頬を染めて。武は誤魔化すように茜の頭を撫で回す。いつもの武の癖。くしゃくしゃと髪を掻き回されて、面白いように顔を赤く染める茜に、晴子は、そして薫は大いに笑い。調子に乗って多恵が茜に抱きつく。それを一歩引いたところで微笑ましく見守る亮子。

 いつもの彼らの構図。その暖かな雰囲気に、B分隊の少女達はヤレヤレと苦笑するしかない。もう何度も見てきた、彼らのやり取り。いつか、そう遠くないいつか。自分達も自然に、その中に溶け込めるように……。



 こうして穏やかな空気のまま夕食の時間は終わり。

 武は後に控える修行のために身体を休めるべく自室へ向かう。全身傷だらけの彼を視線だけで案じて……茜たちもまた、部屋へと戻る。

 個人の時間。許された休息の時。

 武は、せめて今だけは何もかも忘れようとベッドに倒れこんだ。大切な仲間達への想い。昼間見たあの脳ミソ。「S」ランク適性の自分。夕呼の企み。……なにもかも。今は、忘れて。







 ===







 特に開始時間というものは定めていなかったはずだが……グラウンドのいつもの場所には、どこか不機嫌そうな表情の真那が待っていた。武は瞬時に悟る。師を待たせる弟子がどこにいるッ――! 内心で青ざめながら本気で走る。どんな怒声を浴びせられるかと冷や冷やしながら真那の下へ。

「すっ、すいません中尉!! 遅れました!!」

 真那の目の前で急停止、姿勢を正し、敬礼する。わざとらしいくらいの仕草だったが、やがて真那は苦笑し、莫迦者、と呟く。

「貴様は私をなんだと思っているのだ? そんなに怖がらなくても、別に叱りはしない」

「は、はぁ……でも、待たせてしまったことは、やっぱり……」

「別に時間を定めていたわけではないだろう。目上の者を待たせまいとする配慮は買うが……」

 まあいい。真那は言い置いて武の目を見据える。ぐ、と気を引き締めてその真那の視線に真っ向から立ち向かう。身体はボロボロだったが、気合で負けるわけには行かない。

 その武の意思を感じ取り、真那はいつものように口端を吊り上げる。

「相変わらず眼光だけは立派だな貴様は。瞳を見ればその者の心情は知れる。ふふ、本当のところ、実は貴様は根を上げるのではないかと思っていたぞ」

「なっ、中尉、そりゃ酷いですよっ……」

 くつくつと意地悪く笑う真那に、武は顔を顰める。どうやら昨日、一昨日の容赦ない仕打ちに武が逃げ出すと思っていたらしい。無論冗談だとは言ってくれたが、半分は本気だったに違いない。……まぁ、ただ単純に剣を習おうという程度の者であれば、二日といわず、初日で根を上げることは間違いないだろうが……。

 それほど容赦と加減のない過酷な内容だということは、真那も十分理解しているらしかった。内心で、実は嗜虐趣味でもあるのではないかとほんのちょっぴりだけ考えていた武は、そんな自分を誤魔化すように頭を掻いて苦笑する。

「さて……白銀。この二日で散々思い知ったとは思うが……貴様はこと防戦、防御に関しては全くなっていない。一旦攻勢に出ればかなりの使い手だが……それでは私ほどでないにせよ、腕に憶えのあるもの相手にまともに戦うことなどできん」

「はい」

 そのことは嫌というほど思い知らされている。朝、ベッドから起き上がることさえ困難なほどのダメージを負った自分。ズタボロに打ち据えられ、全身内出血だらけの肉体。真那の絶妙な力加減と、鍛え上げていた頑丈な肉体があったからこそ無事でいるが……これが、例えば鍛えようが足りなければ骨の五、六本は折れているに違いない。

 まして、打ち据える瞬間に真那が刃を返していなければ……武はこうしてこの場所に存在していない。

「貴様の場合、相手が常に架空の存在だったというのが一番の原因だな。日ごろの訓練の中で近接格闘などを行う際も、殆ど防御になど気を払っていなかったのだろう?」

 仰るとおり。

 武は恥ずかしそうに笑うしかない。真那の手によって叩きのめされ、指摘されるまで全然そのことに気づけないでいたのだ。最大の原因は、それでも武はそれなりに強かったことがある。

 207部隊の皆と比較すれば、武はかなりの実力者に入るためだ。勿論、薫や慧といった格闘のエキスパートを相手にすれば全く敵わないのだが、その時も矢張り武は、どこか防御がおざなりになっている。全く防がない、というわけではなく……攻撃ほど重視していないというか、どうも武の意識がそちらに向いていないための結果だった。

 それを看破した真那は、そんな武の甘さを知らしめ、考えを改めさせようと問答無用に打ち据え、ぼこぼこに叩きのめし、痛めつけた。

 結果は見てのとおり。確かに武の身体は酷い有り様となっているようだが、しかし、彼は自分に足りないものを理解し、それを修めようと意識を改めている。

「では、今日からは防御法について鍛えるとしよう。……白銀、今日貴様はただ逃げ回っていればいい。刀で受けるだけが防御ではない。その軌道を見切り、かわすのも立派な防御となる」

「はい――!」

 ハッキリと返事を返す武に頷いて……しかし真那は剣を抜かず、背を向けてしまった。え、と武が疑問符を漏らせば、真那は何者かに呼びかける。

「神代、巴、戎!」

「「「はい!」」」

 暗闇に声を掛ける真那。返ってくるのは重なり合った少女達の声。す、っと。宵闇の向こうから白い帝国軍服を身に纏った少女が三人、こちらへやって来る。

 武はその三人をまじまじと見た。真那の着ているそれと全く同じ造りの、色違いの軍服。斯衛軍に所属していることを示す部隊章に、襟元の階級章は少尉――明らかに自分より年下にしか見えないのに……その少女達は紛れもなく斯衛の士官だった。

「……ぁ、ぇ?」

「ふふ、そう驚くことはない。この者たちは我が帝国斯衛軍第19独立警護小隊に所属する……即ち私の部下だ。年齢は貴様より下だが、実戦経験も在る優秀な衛士だ。舐めてかかると痛い目を見るぞ?」

 唖然とする武に、どこか愉快気に笑う真那。どうも、真那はひとを驚かせて愉しむ癖があるような気がする。初対面の時といい、今といい……師の新たな側面を知って、武はなんともいえない感情を抱く。

 そして改めて三人の少尉を見つめる。壬姫と同じくらいの背丈だろうか。その顔にはまだ幼さが残っている。……だが、その瞳、表情、発せられる気迫、佇まい。なにもかもが、訓練兵である彼女達と、そして自分と異なっている。

 実戦経験も在ると真那は言った。実際に戦場に出て、BETAと戦い……そして生き抜いている。それゆえの存在感が、確かにそこにはあった。

「右から神代巽少尉。巴雪乃少尉。戎美凪少尉だ。今日からはこの者達にも訓練に参加してもらう」

「――はっ! よろしくお願いします!!」

 年下とはいえ歴戦の勇士。しかも斯衛の白だ。それぞれに名のある武家の娘なのだろう。大気を伝わる闘気が、既に武を威圧している。

 武はなんとも恵まれていると思った。自身の使う剣術の使い手である真那に師事できただけでも幸運なのに、ここにきて彼女の部下までもが修行に協力してくれるという。くどいようだが、真那は斯衛だ。そしてその部下である巽、雪乃、美凪も同じく。

 将軍家縁の――つまり冥夜を護ることを任務とし、この横浜基地に駐留している彼女達が、その任務に全く関係ない武のために自らの時間を割いてまで、こうして面倒を見てくれる……。ハッキリ言って、ありえない光景だ。

 破格の待遇といっていい。巽たちの上官である真那が率先して武を鍛えているため、結果的に彼女達もそれに付き合う形になっているのだろうか。

 だが、だからといって……それだけでたかが訓練兵の相手をするというのは矢張り……やり過ぎだろうと思う。真那には悪いが、これでは他の人間に示しがつかないのではないだろうか。国連軍の衛士訓練兵が、帝国軍、しかも斯衛の衛士四人に訓練をみてもらう……常識で考えて、あり得ない。

 確かに恵まれている。或いは、それだけ真那が武に目を掛けてくれているのか。

 真那の好意は嬉しく思う。託されている想いの大きさに改めて気づく。その想いに応えられるようにと気概も湧くが……彼女達の立場を思えば、甘んじて受けることも出来ない。

「あの、中尉……」

「言わずともよい。貴様の考えなどわかっている。……わかっていて、承知していて、この者たちもここにいる。貴様がとやかく言うことではない」

 武の言葉を遮って、真那はぴしゃりと言い放つ。武を特別扱いしているつもりでなくとも、第三者が見ればそう捕らえる者の方が多いだろう。それによって自身の立場が不利になることもあるかもしれないのに……真那は武がそれを案じることさえ許さなかった。

 そこには、たかが訓練兵風情に気を回される必要などないという自尊心と、言いたがる者には言わせておけばいいという強さが窺えた。

 これには武も苦笑するほかない。こちらから頭を下げて修行させてもらっているというのに……全て任せておけと言わんばかりの真那の表情に、これでは一体どちらが望んで今の形にあるのかわからない。

 果たして、武が望んだからこうなったのか。

 或いは、真那が望んだからこうなったのか。

「気にすることはない。むしろ、そんなことを考えている余裕などないぞ。……貴様はただ、今日を生き延びて無事眠れることを目標に逃げ惑えばいい」

 腕を組み、不敵に笑う真那。ほんの少しだけ頬が薄く染まっているように見えたのは、気のせいということにしておく。照れてる……思わず口に出しそうなその言葉を何とか飲み込んで、武は、正面から三人の少尉に向き合った。

 三人が三人とも、腰に質実剛健というに相応しい刀を帯びている。真那のように鞘に豪奢な意匠は施されていないようだが、それぞれ、価値のある名刀なのだろう。剣気ともいうべきなにかが、凛と感じ取れる。

「神代、巴、戎。お前達は手加減無しで白銀を叩きのめせ。最悪骨くらい折れても構わん。そのつもりでいけ」

「「「はい、真那様!」」」

 なんだって――?! 真那の言葉に愕然とする。骨折OK。……つまり、真那のように絶妙な力加減は無しということでしょうか。武は知らず冷や汗を掻く。真那に向かって声高に返事をする三人組は、殊更に攻撃的な視線を武に浴びせてくる。

 なんというか、瞳がギラギラと滾っているような……。――ん? “真那様”?

 身も凍るようなとてつもない殺気染みたものを全身で受け止めながら、武はなんだか覚えのあるそのフレーズに首を傾げる。

 少尉たちが口を揃えて言ったそれ。真那……のことなのだろう。上官である彼女の名に様をつけることで尊敬と忠誠を示しているのか。いや、そうではなく。

 武は今朝の出来事を思い出す。

 顔を洗ったそのとき、鏡に映った自分の顔。達者な字で書かれた三つの文字。

「覚悟しろ、白銀武!」

「真那様の弟子とはいえ、容赦しないよっ!」

「身の程を思い知らせてさしあげますわ~っ」

 あ、なんか確信。特に最後の美凪の辺りで。

 屈辱的な記憶と怒りが蘇る。少尉という立場であるため、否応なしに上官だが……それでも彼女達はまだ子供といっても差し支えない年齢だ。

 なるほど、真那の部下というなら理解も早い。自分の上官が、衛士でもなんでもないただの訓練兵に、直に剣の稽古をつけている事実。予想したとおりに、彼女達はそれが気に喰わなかったのだろう。相応の反応といえば、そうなのだ。

 が、斯衛としてはいかがなものか。

 単純に幼さゆえの衝動的なものなのか……。しかし、斯衛となるためには数々の厳しい審査に合格し、衛士としての資質は勿論のこと、教養や品性といったものも兼ね備えてなければいけないはずだ。

 それを考えれば……もし本当に巽たちの仕業だったとして、なんとも斯衛らしからぬ行為である。

 そう思えるのだが…………それでもやっぱり、他に誰某が思い当たらない。結局、本当のところは本人達にしかわからないのである。武が疑ったところで、彼女達が否定すればそれで終わりだ。なにせ相手は少尉。軍人にとって上官の言葉は絶対なのだから。

「……お願いします……っ」

 更に言えば、そんな瑣末なことに気を回せるほどの余裕もなかった。巽たちは既に刀を鞘から抜き放ち、刃を返している。それに倣うように武も模擬刀を抜いた。構えると同時、武の正面には巽だけが残り……巴は武に対して左、戎は右に展開する。どうやら三方から武を囲むつもりらしい。――させるかッ。

 真那は逃げるだけでいいと言ったが、それを言葉通り受け取るほど武は莫迦ではない。

 三方向から同時に攻められたのでは、とてもではないが数分ともたない。まして防御が未熟な武である。彼には腕二本、武器一つという状況でそれを凌ぎきる力量はない。

 ならば、囲まれるよりも早く行動する必要がある。そして……出来得る限り一対一の状況を作り出さなければならない。

 三人は執拗に武を囲もうと追うだろう。だが、それに捕らわれては終わりだ。……なるほど、真那の言うとおり。これは本気で逃げて逃げて逃げて、あらゆる方向からの攻撃をかわし切らねば生き延びる道はないだろう。一人を正面から相手している隙に背後からは二人が襲い来る。なんとも過酷な条件だ。武は全身に気を巡らせる。――怯めば、それで終わりだ!

「ぅぉおおおお!!」

「やぁああ!!」

 正面の巽が武目掛けて真っ直ぐに突っ込んでくる。横凪の一閃を模擬刀の腹で受け、力任せに押しのける。しかし押した刀は何の抵抗もなく……するりと、まるで抜けるように巽の第二撃が眼前に迫っていた。

「――ッッ??!!」

 ゾッ、と悪寒が走りぬける。前転の要領でそれをかわし、その勢いのまま前方へ走り距離をとる。いつの間に刀を翻したというのか。武には巽の二撃目が全く見えなかった。――と、背後に二つ気配を感じて振り返る。追随してきたのは巽と雪乃。示し合わせたように左右に分かれ……武は瞬時に停止して、右へ反転する。雪乃を正面に捕らえて、巽との距離を稼ぎつつ彼女に肉薄する。当然とばかりに唇を歪め、雪乃は下段の構えから逆袈裟に剣を振り上げた。ギイッ! 模擬刀に火花が走る。小さな身体から発せられたとは思えないとんでもない膂力だった。想像以上に重い一撃に、武の足が止まる。受けるので精一杯――ために、すぐ背後から迫っていた巽の剣閃は、地面に倒れるように転がることでしか回避できなかった。

「ぐぁっ!」

「ッチィ!!」

「逃がさん!」

 転がり様、すぐに体制を立て直……そうとした瞬間に、いつの間にか正面に美凪が居て、正眼から豪速の一閃が振り下ろされた! 辛くも差し上げた剣で防ぐが、膝をついたこの状況で、上から刀を押さえつけられてはどうしようもない。

「今ですわ!」

「はぁああああ!」 「でやぁあああ!!」

「うわぁあああ!!??」

 どかごかぼきばきぃぃいい――ッッ!!

 聞くに堪えない殴打の音に混ざって、ぐぇ、だの、ぉごっ、だの……哀れな悲鳴が漏れ聴こえる。

「そこまで! …………白銀、貴様ふざけているのか?」

 ぼっこぼこにのされて地面に転がる武に、真那は心底呆れたような顔で声を掛ける。彼を、それはもう盛大に痛めつけた三人は真那の後方に下がり、静観する。……心なしかその表情が晴れ晴れとしているような気がするのは……多分気のせいだろう。

「月詠、中尉……」

「まったく。そこまで莫迦とは思わなかったが……はぁ……白銀、確かに私は“逃げろ”と言ったが…………貴様、自分が一体何を以って戦うのか、最早忘れたわけではあるまいな」

「……ぇ?」

 途中溜息をついて、真那は言い聞かせるように問う。その真那に疑問符を浮かべる武だが、あ、と。何かに気づいたのか、跳ね起きる。

「そうかっ――俺、なにやってんだ?」

 ぽん。と手を叩き、転がったままの模擬刀を握る。そうかと何度も頷いて、しっかりと真那を見た。その武の様子に真那も満足そうに頷いて、彼女は再び部下に呼びかける。

「神代、巴、戎。もう一度だ」

「「「はいっ」」」

 武は静かに模擬刀を構える。先ほどと同様に巽、雪乃、美凪の三人は武の正面、右後方、左後方に展開し……じりじりと距離を詰めてくる。どうやら、武が何がしかに気づいたことを察し、策を警戒しているのだろう。三人掛かりという優位にありながら、決して武の力を侮っていない……実に優秀な剣士だと思えた。その武の思考は間違っていない。確かに年齢は武よりも下であるが、伊達に真那の部下ではない。まして、斯衛軍に所属するほどの力量。なにごとにも驕らず手を抜かず、決して楽観はしない。そこには、実戦を潜り抜けた衛士の姿があった。

 ぴたりと巽たちの動きが止まる。――くる。感じ取った瞬間、背後の二人が猛然と間合いを詰める。巽は動かない。……若干早いのは、美凪だッ――!

「ッ、」

 武は左足を軸に思い切り地を蹴った。ざりぃっ、とグラウンドの土を巻き上げて旋回、美凪の一撃を模擬刀で受ける。そして地に着いた右足を軸に、今度は美凪を回り込むように旋回、反転……振り抜かれた彼女の二撃目を受けつつ、更に武は変則的な軌道を見せる。

「えっ!?」

 美凪は目を疑った。たった今まで正面にいたはずの武が横に、そして自分を回り込んで背後に居る。即座に身を翻し横凪ぎに払うが、それよりも早く武は移動していて……既に美凪ではなく雪乃へと向かっている。――そんな莫迦な。

「なっ、コノォ!!」

「うぅぉおお!!」

 ドギィイッ! 凄まじい胆力と膂力によって生み出された重厚な一撃。まともに受けたのでは先のように身体が硬直してしまうだろう。武は裂帛の気合と共にそれを辛うじていなすことに成功し、ほんの僅かに揺らいだ雪乃へ肉薄する。ぐ、と表情を歪める雪乃。だが、流石に斯衛である。即座に刀を返し、迫る武を迎撃する――が、そこで武は、彼女からすればありえない挙動を見せた。

 剣を振るう雪乃に対し、あろうことか背を向けたのだ。思わず怪訝に思ってしまって――急旋回する武が放った抜き胴に、呼気を振り絞りながら受け止める。先の一撃のおかえしだと言わんばかりに重い武の反撃。くっ、と忌々しげに舌を鳴らす雪乃だが、既に次の行動に移っている武を追い、走るように距離を詰める。

 一人、それを目撃した巽は唖然としていた。

 まるで独楽のようなその動き。美凪の周囲をぐるぐると回りながら一周し、螺旋のような軌道を描きながら雪乃へと迫る。旋回は遠心力を生み、加速されたその一撃は凄まじく、速い。まるで出鱈目のような異端の剣。対峙する相手を翻弄し、多対一でありながら一対一を繰り返す戦法。常に動き、そして常に戦う相手を変えることで、武は“常に一対一”を実現させている。

 その挙動。独楽のような、螺旋を描く軌道。その剣術。

 巽も、雪乃も、無論美凪も。よく見知ったそれ。隊長である真那が使う、名もなき剣閃。怒涛の数で迫り来るBETAに対抗するために編み出された技術。ならば、それは複数人を相手取るのに、これほど相応しい剣術はなく……。

「くっ……」

 まるで先ほどと比べ物にならない武の動き。逃げることと防御に躍起になるあまり、彼は自身が使う剣術の本質を捕らえ損ねていたのだ。戦う相手は常に多数。それも両手でも足りないほどの圧倒的多数。BETAと戦うということはそういうことであり、常に同時にそれらは迫り来る。個々がありとあらゆる動きで殺到してくる中で、如何に効率よく、そして自身への脅威を低減させながらに屠るか。

 一つの標的にばかりかまけていれば瞬時に他からの攻撃が自身を亡き者にする。故に止まることは許されず、例え一撃で葬ることが出来ずとも、次の敵、次の次の敵、そして次の次の次の次の敵へと相手取り、そして少しずつ削っていくのだ。蓄積させたダメージはいずれ致死量に達し、するとそこからドミノ倒しの如く敵は瓦解する。旋回する一歩は即座に次の相手へと転身するための踏み込みであり、静止を許さない螺旋機動は攻撃と回避を同時にこなす。

 そう、それこそが。武の……真那の使う剣術であり、彼女の父が実戦で磨きぬいた対BETA戦術である。

「ぁあぁあああ!!」

 だが、そんなことでは怯まない。確かに己の剣術の本質に思い至った武の、その動きは凄まじい。決して未熟とは言えない確かな力量。――だが、それでも矢張り、まだまだ甘い。その動きは真那に比べて無駄が多く、不必要な踏み込みや回避も目立つ。真に相手の行動を見切るには到らず、目に見える範囲の状況だけを捉えて判断している節がある。

 ――それでは、とても負けてやる気にはなれない。

 確かに武は優れている。だが、実戦の経験の無さ、或いはつい最近までこうして自分以上の実力を持った相手と接する機会がなかったために。……彼は、まだまだ達人には程遠いのだった。

「っ、ぐぉお!?」

「ぁぁああああ!!」

 猛然と襲い来る巽に、瞬時に武は身を翻し、反応する。下げられた左足に気づいている巽は、武の旋回よりも早く距離を詰め、彼の行動を無効化する。驚愕に目を見開く武は、しかしバックステップで身を離し……そこに打ち込まれた雪乃の一撃を咄嗟にかわすと、そこには狙ったように美凪が居て――!

 武は自身の動きが完全に読まれていることを悟った。ならば予測などできないように更に変則的な動きを織り込んでみせるが、それでも三人の攻撃は次第に武を捕らえていく。じりじりと囲みを狭められて、武は行動を封じられる。動き続けることで本領を発揮する彼の剣術は完全に無効化され、最早防戦一方となってしまった。

 こうなってしまっては武に勝ち目はない。純粋な剣の腕は巽たちが圧倒的に上回り、そして三方からの同時斬撃をかわしきることなどできず……哀れ、武は再び容赦なく叩きのめされた。

「よし、そこまでだ。下がれ!」

 真那の声に三人は武から離れる。悔しげに地に倒れる武に、真那は実に不敵な笑みを浮かべて見せた。

「どうした白銀? もうお仕舞いか?」

「……まだまだ、ですよ。やっとわかってきたんです……お願いします」

「ふふん。いいだろう。もう一度だ」

 そして三度目。先ほどよりも明らかに動きのキレが増している武は、実に十数分を逃げ延び……最後にはまたも打ちのめされ横臥したが、それでも尚立ち上がり更に稽古を望む。

 繰り返すたびに、武は何かを修得している。今まで自分に足りなかった様々なモノを、巽、雪乃、美凪の三人から学んでいる。そして、少しずつ、着実に、それらを自身のものとしているのがわかった。

 正直、巽たちはその武の異常なまでの成長の早さに舌を巻いている。自分達もまだまだ本気を見せてはいないが、それでも一秒を重ねるごとに強くなっているように思える武は……どこか空恐ろしくさえあった。

 だからだろうか。

 そのとき、武の放った一撃――完全に美凪の死角を取ったそれに、彼女の衛士としての本能が脊髄反射に似た反応を示す。……恐怖にも似た戦慄に衝き動かされて繰り出したそれは、武の剣閃より刹那に速く、彼の胴を打ち抜いた。

 正に鬼人の如き一閃。衝動は美凪から一切の手加減を奪い去り、本能のままの攻撃を受けて、武は吹っ飛んで気絶する。

 盛大に地面を転がった武は血の混じった吐瀉物を吐き出して……美凪は青ざめる。――しまった!?

「た、大変ですわぁあ~っ?!」

「美凪ッ、やり過ぎだって!!」

「し、死んじゃったかな…ッ?」

 三者三様。実に慌しく気絶する武に駆け寄って、口の中に残った汚物が喉に詰まって呼吸が停止してしまわないように、掻き出す。完全に白目を剥いた彼を介抱しながら、咄嗟のこととはいえ無体なことをしたと美凪は己の未熟を恥じる。そんな彼女に巽も雪乃も神妙な表情を見せるが、……それほどあの一瞬の武は凄まじかったのだ。

 そして、真那がやってくる。真剣な表情で武を見守る三人の下へ。美凪が申し訳なさそうに真那を見れば、しかし彼女はふっと微笑を浮かべて。

「三人ともご苦労だった。……今日はここまでにしよう」

「真那様……」

 しゅんと項垂れる美凪に、しかし真那は微笑を向けるだけだ。巽と雪乃も、そんな真那になにも言うべき言葉が思い浮かばず……。

「ふふ、そんな顔をするな。お前達は十分に役割を果たしてくれた。……今日はもう休むがいい」

「はい……」

 優しく掛けられた言葉に首肯する。三人は立ち上がり、真那へ敬礼して基地内へ戻っていく。どこかしら落ち込んだ様子の彼女達の背中に、ヤレヤレと真那は苦笑する。

(あの者たちも、まだまだ幼い……)

 幼少の頃より斯衛となるべく厳しく躾けられ、鍛えられてきた少女達。十の時に専門の練成学校に入学し、四年の修練を積んで任官した彼女達は、ありふれた少女時代というものを持っていない。周り中を自分と全く同じような境遇の者に囲まれて、ただひたすらに自己を磨き、鍛え、一日でも早く斯衛となることを目標に日々を過ごす。

 無論、練成期間中に娯楽の類が全くないわけではない。だが、それもあくまで厳しい斯衛の規律に従った上での娯楽であり……純粋に、何に気兼ねすることもなく感情を発露させることはなかった。

 任官し、真那の下に来てからまだ僅かに二年。……しかし、その間に少女達はかつて見せることのなかった様々な……歳相応の感情を見せるようになった。真那の人となりもあったのかもしれない。彼女達本来の性格もあっただろう。まるで、過ごすことを許されなかった少女としての日々を今に感じているかのように。

 任務以外の、プライベートな時間。彼女達は少しだけ幼い頃を思い出しながら、その時に出来なかったことを、大切に積み重ねるようにはしゃぐ。時に感情に揺さぶられ、時に情動に衝き動かされ。

 多感な時期を練成に充て、「斯衛」として成長した少女達は、今、ようやくにして「少女」として成長を遂げようとしているのだ。

 真那にはそれが嬉しく思える。そして、そんな少女らしい感情が爆発したのが今回の件だった。

 武の身体を抱え、グラウンドの縁にある木の根元へ運ぶ。自身はその木にもたれるように座り、膝の上に武を寝かせる。汚れた口元を拭ってやり、汗を拭って、髪を梳くように。

「ふふっ……子供のような顔をしおって……」

 どちらもまだまだ幼い子供だ。真那は微笑む。

 武に修行をつけた日の晩のことだ。物陰から見ていたらしい巽たちが突然現れて、武に対して怒りを見せた。どうして真那が武のような者に剣を教えるのか、と。確かにそうだ。通常であれば、斯衛が訓練兵……まして国連軍の者に自ら手ほどきすることなどありえない。

 しかもそれは、武の希望によって……という形式をとってはいるが、半ば以上真那の想いから成立した師弟関係だった。だからこそ、それが余計に許せなかったのだろう。彼女達は殊更に武を敵視し、真那が止めなければ本当に斬りかかろうとするほどに。真那は自分の考えを正直に話し、結果、彼女達は納得してくれた。

 それはある意味で軍人として失格で、人として当然の葛藤だったに違いない。

 上官である真那が決めた事項に口を挟む権利など持たないのに、感情でそれを実行した巽たち。どうしてか、真那はそれを咎める気になれず……矢張り、そういう感情を見せてくれることが嬉しかった。

「手のかかる子ほど可愛いとは言うが……ふふふ、あの者たちも成長しているということだな」

 武の髪を梳きながら、真那は呟くように笑う。まるで壮年であるような口ぶりだが、実際のところ武とそんなに歳が離れているわけでもなく。

 そうしてしばらく武の寝顔を眺めて……。

「まったく貴様は……いい加減目を覚ませ、白銀……っ」

 膝の上、緩やかに揺する。そんな真那の仕草に僅かな反応を見せる彼を、微笑んだまま見つめて。真那は柔らかく笑うのだった。













「ぁ~、あ~っ、あぁ~~っ!! 何で、何で?? どうしてよぉお~~っ??!!」

「お、落ち着け涼宮ッ。中尉に気づかれる……ッ」

 グラウンドの隅、真那たちがもたれる木から数十メートル離れたその場所。なんでかそこには茜と冥夜の姿があって……二人は押し殺すような声で騒いでいる。

「ぁあああ!! もうっ、白銀のバカぁ~~!!」

「だから落ち着けというにっ!」

 武の様子が気になって仕方がなかった茜は自主訓練を終えた冥夜と出くわし、二人はそのまま武たちの修行を見守っていたのである。わざわざ木陰に隠れて。こっそり覗くように。……結果、真那の行動に茜の精神状態は振り切れている! それはもう冥夜なんかにはとめられないくらいにっ!!

「ッッッ!!? い、ィいいい今ッ!? “ぷに”って、白銀のほっぺた“ぷに”ってぇえ!!」

 どうやら武の頬をつついているらしい真那に、茜は涙目で混乱する。最早成す術もない。冥夜は嘆息して諦めることにした。明日の朝、それはもう恐ろしい光景を目にすることになるだろう。哀れ武……されど、多分武が悪い。絶対に悪い。

「まったく……白銀め、月詠までも手篭めにするとは……男として……ブツブツ……だらしない……ブツブツ……」

 なんだかんだ言って自身もご立腹の様子。冥夜は腕を組んでブツブツと不機嫌そうだ。

「ふ、ふふふふ、うふはははははっ。白銀ぇ~~憶えてなさいよぉ……」

 不吉な笑みを漏らす茜に、もう冥夜は何も言わない。恋する乙女は嫉妬深いのである。くわばら。







[1154] 復讐編:[六章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:8fece05a
Date: 2008/02/11 16:17

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:六章-03」





 興味本位でB27のボタンを押してみる。……何の反応もない。なるほど、どうやらこのエレベーターのセキュリティは矢張り搭乗前のID認証機で全て管理されているらしい。IDカードを通すことで、そのIDを持つ者に付与された権限を判定し、押されたボタンとの整合性をチェックしているのだろう。

 武はふむと頷いて、本来の目的階であるB19を押す。他にも各階に停止できるようだが、恐らく結果は同じだろう。



 香月夕呼の呼び出しを受けたのは昼食前。午前の訓練の終わり頃だった。夕呼の秘書官だというブロンドヘアの中尉から食事の後でいいから顔を出すようにと言付かった。

 それだけであの「脳ミソ」のことを思い出してしまい、顰めた表情に茜や晴子が目聡く気づく。口には出さなかったが、武が何のために呼ばれているのか、矢張り気になるのだろう。……気にするなというほうが無理だ。たかが訓練兵。しかも国連軍横浜基地での実績で言えばまだ半年も訓練を経ていない新兵に等しい武を、わざわざ名指しで呼び出す理由。

 武自身、夕呼のその呼び出し理由に納得しているわけではないし、“それだけ”であるはずがないと目算をつけている。聡い彼女達がそのナニカに気づかないはずもなく……だが、結局は同じ訓練兵であるために。茜も晴子も、他の皆も。黙って武を見送るほかないのだ。

 ほんの少しだけその感情を引き摺っての昼食を終え、何も心配は要らないと言い置いて、武は夕呼の元へ向かう。居住フロアへ続くエレベーターとは違う、別区画に設置されているそれの前に立ち、認証機へカードを通す。スッと空気が擦過するような音を立てスライドするエレベーターに乗り込み……先ほどのような得に意味もない興味本位を試してみた。

「さて……何の用、って……まぁ、検査とかなにかなんだろうけど」

 階数表示がスゥウッと流れていく。目的地まで直行するらしく、そのスピードはやや速めに感じられる。途中で他の人間が乗り降りしないのだろうかと思ったが、どうせ他の区画にもエレベーターが在るに違いない。護る手段としてそこに到る道筋が一つ、というのは常套だが、それでは効率が悪い。……しかし、先日の記憶が確かならB19フロアにはエレベーターは一つしかなく……というか、B19フロア自体殆ど一本道の廊下に複数の施設が点在している状態だったのでそれでいいのだろう。ならばこれは直通というわけだ。

 腕を組んで壁にもたれ、残りの十数秒を待つ。極僅かの揺れを残して、停止したエレベーターのドアが開く。静かなものだ。同じ基地のエレベーターとは思えない。……いや、別に居住フロアへ通じるそれが古いとか揺れるとか言うわけではない。

 ただ、流石に高位の者が使用するだけあって、色々と金が掛かっているらしいと邪推しただけだ。

 エレベーターを降り、左右に伸びる廊下に立って……どっちに行けばいいのかわからなくなる。前回は唐突の副司令の呼び出しに緊張と混乱で周りをよく見る余裕がなかったし、帰りは帰りで目撃した「脳ミソ」のことで頭がぐちゃぐちゃになっていて、矢張り周囲を気にする余裕がなかった。

「……ま、いいか。どうせ一本の通路なんだし」

 呟いて、そういえばエレベーターから降りて左右に廊下が伸びているのなら、決して一本道とは限らないことに気づく。阿呆か。

 いや、副司令の執務室までは一本道だったのだと、強く言い聞かせるように頷いて。武は自分の迂闊さに凹みながら、とりあえず足を踏み出した。







「あら、遅かったじゃない。なに? 迷った?」

 結果から言えば、盛大に間違えた。それはもう見事なくらいに正反対の方向へ向かっていたのである。

 武は莫迦にするような夕呼の視線に乾いた笑みを漏らすしかない。白々しく笑ってとぼける彼に夕呼は口端を歪めて、少し待っていろとばかりに視線を投げ、自身はコンピュータ端末に向かう。しばらく、夕呼のキーボードを叩く音だけが響いて……武は次第に緊張してきた自分に気づく。

 かなりの広さを持つこの部屋。相変わらず書類やファイルが乱立しているが、それでもひと一人が執務に使うには、広すぎるきらいがある。夕呼の後ろの壁には国連軍旗が飾られ、観葉植物も見える。設置された書類棚には矢張り乱雑に資料が積まれ、あとは武の立つ入口付近に置かれたソファと小テーブルくらいか。その奥に隣室へ続くらしいドアを見つけ、寝室かなにかでもあるのかとぼんやりと考える。

 どちらにせよ、広い部屋だった。そして、その広さに相反して物が少ない。……もっとも、この部屋の現状を見れば、この広さも書類を積み上げるのに必要なスペースだということになるのかもしれない。それほどに多い紙の束。ちょっとぶつかればそれはもう目も当てられないような事態に直結するに違いない。武は気をつけようと頷いた。

「……待たせたわね」

 端末から目を離し、夕呼が武を呼ぶ。事務机の前まで移動し、反射的に敬礼しそうになったが……眇められた夕呼の視線に、目礼だけに留める。ん、と満足そうに頷く夕呼に、知らず、苦笑が漏れた。副司令の癖に、軍隊の規律を嫌うなんておかしな話だ。

 夕呼が差し出した書類を受け取り、視線で許可を求めると「さっさと読め」と睨まれてしまう。武は慌てて書類に目を落とし、ぺらぺらとめくっていく。速読という技術を身に付けているわけではないが、色々な資料を漁ったことも在る武はポイントと思われる箇所だけに目を通し、他は殆どすっ飛ばした。――どうやら、武の「S」ランク適性の秘密を探るための諸々の検査項目と内容、測定方法などが記されているようだ。予想通りといえば予想通りである。無論、夕呼はそのために武を呼び出したことになっているので、それは当然だ。

 だが、と武は思う。

 確かにこれも彼女の目的の一つに違いない。……それによって一体どのようなデータが得られ、どのようなことに活かされるのかは知らないし想像もつかないが、少なくとも全く無意味な興味本位からの行動ではないはずだ。副司令とはいえ好き勝手をやっていいわけではない。権利を持つ人間には相応の責任がついて回るものだ。行動するからには、その結果起こる全ての事柄に責任を果たさなければならない。武の戦術機適性について検査するというなら、その検査結果は須らくナニカに活かされるのだろう。

 それはそれとして、しかし夕呼は絶対にナニカを企んでいる。むしろこの検査内容など単なるブラフ、武をここに不自然なく呼び出すための口実ではないのだろうか。

 そう思うのは、矢張りあの「脳ミソ」の存在が大きい。武があの部屋に入ったのは……偶然だが、それでもどこか意図的なものを感じてしまう。今になって思えば、というだけの話だが……それでも、あの部屋へと続く通路から出たとき、まるで待ち構えていたような夕呼を見れば…………そしてなにより、「どうだった?」などと問いかけられれば……誰だって、それが本題なのではないかと疑いたくなる。

 無論、もしそれがそうなのだとして、……それが何の意味を持つのかはわからない。単純に武が疑心暗鬼に駆られているだけで、夕呼は科学者として純粋な意見を求めていたのかも知れない。武に与えたID権限であの部屋に入れることは間違いなく承知していただろう。それは見られても構わないという意図の顕れだが、別に夕呼自身、その部屋の存在を仄めかしたわけでもない。

 結局、夕呼が何も言わない限りは武の妄想に過ぎない。

 科学者然とした副司令の見せる思わせぶりな態度と、あの「脳ミソ」の不気味さを繋げようとして……そうであるはずだと思い込もうとしているのかもしれなかった。

「ま、読んでわかったと思うけど、これといって派手なものはないのよね。身体機能検査とか三半規管の検査とか、適性検査試験装置も用意してるから……まぁ唯一それが派手といえば派手ね。今日のところはあんたを測定器に繋いで、身体構造のデータでも採りましょうか」

「はっ、了解しました!」

 素っ気無く口にする夕呼に、敬礼はなしで了解の意を示す。ついてきなさい、そう言って立ち上がった夕呼に続き、執務室を出る。前を行く夕呼はおもむろにすぐ隣りのドアに手をかざして――矢張り、あの部屋へ行くのか。武は、自身の身体が強張るのを感じていた。

 ゴゥゴゥと低音の響く通路を歩く。二人分の足音がやけに反響して、薄暗い通路の不気味さを増す。なにより……この先に待ち構えているだろう「脳ミソ」の存在が、否応なしに武に圧し掛かっていた。

「あら、ひょっとして怖いの?」

「なっ?!」

 言葉なくついて来る武に、夕呼がからかうように呟く。年上で上官とはいえ、女性にそんな風に言われては立つ瀬がない。武はそんなことはないと否定の意を示し、先ほどまでの不安を振り払うように胸を張った。

 ス、ッと通路の奥のドアがスライドする。薄暗いその部屋。たくさんのコードが敷設されたその部屋。中央には大型のカプセルが設置されていて……硝子の部分から青白い光が漏れている。

「!」

 思わず、武は足を止めた。ぎょっとして、目を見開く。

 そこに居たのだ。

 カプセルの前。青白い光を放つそれの前。――――「脳ミソ」の前に、小さな少女が立っていた。

「お待たせ社。早速だけど、準備お願い」

「…………はい」

 やしろ、と呼ばれた少女は銀色の長いツインテールをふわりと揺らしながら、コツコツと歩く。病的なほど白い肌。髪と同じ銀色の瞳。身にまとうのは国連軍の制服をアレンジした、まるでドレスのような服。黒色をした、兎の耳のような髪留めがとてつもなく似合っている。

 年の頃は巽たちよりも更に下だろう。十二か十三。そのくらい小さく、幼い印象を受ける少女だった。

 夕呼とその少女は何やら寝台のような機械にコードを繋いでいく。この部屋に敷設されているコードは全てあのカプセルに繋がっているのだと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。聴こえるのはカチャカチャとコードを繋ぐ音だけ。夕呼と少女に会話はなかった。

「……さ、始めるわ。白銀」

「はい」

 呼ばれ、寝台へ向かう。上着を脱ぐように言われたので、その通りにジャケットを脱ぐ。アンダーシャツの袖を捲くり、両手首と額、頚動脈の上あたりに測定器らしいセンサーをつけられる。ぺたりと貼りつくようなセンサーには細いコードが繋がっていて、どうやらそれがこの寝台に接続されているらしい。つまり、寝台そのものが測定機械なのだろう。

 横になり、視線はまっすぐ……つまり、天井を向く。視界の隅にはこちらをじっと見つめるような少女の姿。気になってそちらへ視線を動かすと、少女は無表情に、しかしどこか真剣に……武を見つめていた。

「ぇっ、と……」

 一体この少女は何者だろう。どう贔屓目に見てもとても軍人には見えない。かといって夕呼のような科学者というわけでもなく。先刻出会った秘書官のような、文官という雰囲気でもない。

 ただの少女だ。少しだけ無表情な、外国人の子供。身に纏うそれが国連軍の制服でなければ、一体誰が彼女を軍関係者だと思うだろう。

 しかし、それでもこの少女はここに居る。副司令である夕呼の執務室の隣りに在るこの部屋に。B19フロア。エレベーターに乗り込むだけでもID認証が必要で、それを降りた後も複数のセキュリティチェックが設けられている。まして、この部屋に入るためにも同等のセキュリティが必要なのだ。夕呼の特別な計らいがあってこそ武は行き来できているが、通常、ただの下士官レベルが立ち入りできる場所ではない。

 ならば、この一見してただの少女にしか見えない彼女も……例えば武のように、何がしかの「特別」なものを持っていて……それが夕呼の目に留まったのだろうか。

 しばらく少女と見詰め合っていると、夕呼の声が聞こえる。ハッとして視線をそちらに向けると、なんでかニヤニヤした表情の夕呼と目が合った。

「白銀ぇ~、あんたってそういう趣味?」

「……違いますよっ!」

 へぇ~、と。なんだか愉快そうに笑う夕呼。武はその夕呼の表情から、そういえばこういう人だったのだとゲンナリする。

 そう、忘れもしない初対面のそのとき。彼女は武たちの目の前で、教官であるまりもを弄び翻弄し、哀れ独り身であることまで曝したのだった。色々な意味で恐ろしい。

 自身の身の潔白を主張するが、そんなことには興味ないとばかりに夕呼は手をやり、大小のモニタを見つめる。……自分から振ってきておいて……武は嘆息し、再び天井を見つめる。時折機械を操作する夕呼の仕草がチラチラと見えたが、それ以外何もない。実に静かで、退屈で……だからこそ、尚も武を見つめ続ける少女の存在が気に掛かる。

 武は今一度少女を見た。じっと黙って、少女も武の瞳を覗く。銀色のその瞳はくっきりと大きく、長い睫はよくできた人形を思わせる。日本人とは異なる顔のつくりも、どこか人形染みていて可愛らしい。このまま成長するならばさぞかし美少女になるに違いない。――そんな折、少女は、ぽ、と薄く頬を染めた。……なんだ?

「……白銀、別に話しててもいいのよ?」

「えっ?!」

 バッと首を夕呼の方へ向けると、またも彼女はニヤニヤと笑っていた。ぐ、まずい。その顔はどう見ても何かよからぬことを企んでいる顔だ。

 夕呼の想像しているようなことなどないはずなのに、このまま彼女を放っておけば、その想像こそが真実として流布しかねない。武は慌てて弁明するが、夕呼はそれを無視して、

「社、白銀と話でもしてなさい。測定にはもう少し時間が掛かるし、その間することもないしねぇ」

「……はい」

 寝台に横になる武を挟んで、夕呼と少女は会話する。少女は眼を閉じて頷くと、一歩、武へと近づいた。三度、少女と見詰め合う。先ほどより若干近しいその距離で、少女は自らの名を口にした。

「社霞です。よろしくお願いします」

「ぁ、ああ……武だ。白銀武…………社って呼べばいいのか? 日本人、なのか?」

 正規軍の制服らしきものを着てはいるが、襟元に階級章がない。軍人ではないが軍関係者。それもこの場所に居られるほどの「特別」な存在。外国人にしか思えない風貌と髪や瞳の色に、けれど似合いな和風の名。

 霞は、武の言葉に頷いて、首を振る。呼び方に対する了解と、日本人ではないという意思表示だった。……実に、わかりにくい。

 初見での印象どおり、無表情で、感情の変化に乏しい。呟くような声も、少女らしいといえばらしいが……それでも、ぼそぼそとして聴き取りづらいものだった。このくらいの年齢の少女は、得てしてこういうものだったろうか? 武は自身の記憶を辿るが……思い出されるのはいつも隣にいた彼女のことばかり。降って湧いた苦い想いと哀愁に、武は沈黙する。

「…………白銀さんは、訓練兵なんですよね」

「えっ、あ、ああ」

 どこか困った様子で霞が口を開く。黙り込んでしまった武に、自分がなにか余計なことをいったのだと感じたのかもしれない。そんな少女の葛藤など武にはわからないが、それでも、初対面の年上の男に緊張しているらしいというのはわかった。

 彼女くらいの年齢ならば、年上の人間に萎縮してしまうのも無理はないだろう。しかも相手は異性で、訓練兵とはいえ軍人だ。

 少女自身、なにがしかの軍関係者なのだろうが、それでも「軍人」ではないために、そういう遠慮が顕著なのかもしれなかった。

 武はなるべく穏やかに、少女が気安いように心掛ける。意味のない回想に浸っていたところを呼びかけられ、少し驚きはしたが、それでも武は笑顔を見せた。

「訓練は……大変ですか?」

「……ん、まぁ、なぁ。大変といえば大変だが…………それでも、こればっかりはどうしようもないしな。訓練が大変だからって手を抜いて、後で困るのは自分だし……なにより、俺が足を引っ張ったせいで他の連中に迷惑が掛かるのは最悪だからな」

 たどたどしくも話題を口にする霞に、武は割りと真剣に答えた。問い掛けの内容が内容だけに、適当なことは言えなかった。……別に、夕呼が側に居るからではない。これは武だけでなく、他の訓練兵全員が考えていることだろうし、軍人として当たり前の意識だ。

 教官である神宮司まりもは、訓練で流した汗の分だけ戦場で血を流さなくて済むと言った。――その通りだと思う。それだけの説得力が、ある。

 鍛えれば鍛えるだけの実力が身につき、その身についた分だけ周りに対する余裕が生まれる。自分だけで手一杯だったのが、辛い訓練の果てにいつしか、周囲の者をフォローすることだってできるようになるのだ。

 武は霞の銀色の瞳を見つめて、そのような意味合いの話をした。口にして、自分自身、改めてそう思う。この測定検査が終わったらすぐに訓練に戻ろう。そして、今の自身の言葉を実践するのだ――これまで以上に。

「……白銀さんは、すごいですね」

「ははっ、ありがとうな。…………でも、なにも凄いことなんてないんだぜ? こんなの、当たり前のことだ。誰だって考えてるし、実行してる。……それに、俺は、」

 なにひとつ、凄いことなんてない。



 初対面の少女だから、だろうか。武は、その後もポツポツと発せられる霞の問いに、これまで誰にも喋ったことのないような己の考えを口にしていく。心の中に秘めていた様々な……軍人としての自身の在り方を、訥々と語る。

 どうしてだろう。武自身、不思議に思う。

 社霞。名前以外何も知らない幼い少女。どうしてここにいるのか、一体何をやっているのか、夕呼との関係は? ……頭に浮かんでは消えていく疑問を、しかし意識しないように流す。それは、知らなくていいことだ。

 そんな、ある意味謎だらけの彼女に、どうしてこんなことを話しているのだろう。

 問われたから、ということもあるだろう。今まで誰にも話さなかったのは……単に、誰にも問われなかったからだ。自分から語ることでもないだろう。なるほど、武は合点がいったと一人頷いた。

 更に言えば、今更隊の皆にそんなことを問われたとして、あまりにも真面目くさったその内容を真剣な表情で語る自身、というのも妙に気恥ずかしい。問うた本人はそんなことを一向に気にしないだろうし、誰も似合わないなどと莫迦にしたりはしないだろう。共に戦場を渡る身、仲間のことを知ろうとして、揶揄する者はいまい。

 ただ、そうとわかっていても……まだ、武には若干の少年らしい気恥ずかしさというものがある。そういうことだ。

 ならば霞に対しても同じようなものなのだろうが……ここで、初対面でしかも年下、という条件が効果を表している。身も知らぬ他人に等しい彼女だからこそ、こんな風に胸の内を語れている。

 妙な気分だ。武は苦笑する。

「ははは、何だか恥ずかしいな。……こんな風に話すのって初めてだからさ。……社が聞き上手だからかな?」

「私は……聞き上手ではありません……」

 微妙に照れているらしい。ほんの少し俯いて、霞は眉尻を下げる。ふむ。武は頷いた。少しは緊張も解けたらしかった。ならば今度はこちらから、霞のことを尋ねてみよう。勿論、機密には触れない程度に。例え触れたとしても、機密は機密と断られるだろうし……なにより、機密の塊の夕呼が居るのだ。霞が逡巡したとしても、彼女がスッパリと線を引くだろう。

 そう思い、武が口を開こうとした瞬間――――どこか思いつめたような、意を決した表情で、霞が武を見た。

 思わず、口を噤んでしまう。どこか戸惑いながらも、武はその真剣な様子に息を潜める。じっと武を見つめ、若干の逡巡を見せながら……霞は、湧いてくる感情を振り払うかのように小さく首を振り、問うた。

「白銀さんは……どうして衛士になろうと思ったんですか……」













 ――どぐ、ん。













「――ぇ、……ぁ?」

 なん、だって?

 霞の顔を見る。銀色の瞳を見つめる。なんだって? 今、この少女はなんと言った?

 ナニカを問われたはずだ。それはナンダ? ほら、ちゃんと聞いたはずだろう。思い出せよ。たったの一言だ。それだけのことを問うのに、あんなに小さな子が……泣きそうなくらい、感情を押し殺しているんだぞ?

 ……なんだ、それ。

 問われたナニカより、そんな風に思いつめてまで問う理由がわからない。先ほどまでの彼女からは想像も出来ないくらい、わかり易い葛藤。彼女は、問うた自分を責めている。問うべきかどうかさえ迷い、口にするためには決意が必要で…………そして、後悔している。

 問うべきではなかった。口にするべきではなかった。

 そんな表情。まるでそんな自身が全て悪いのだと言わんばかりの、苦しそうな顔。

 なぁ、霞。君はいったい……何て言ったんだい? ――武は、声にならないコエで、問い掛けた。弾けるように霞が肩を揺らす。武の心中の問い掛けに反応しているかのように。

「ぁ……あの、」

「…………」

 どこか怯えるような霞の表情。――まいったな。武は思い悩む。霞の問いが一体どういうものだったのか、確かに聞いたはずなのにさっぱり思い出せない。つい数秒前の出来事なのに。こんなに近い距離での言葉なのに。まるでそれだけがすり抜けて落下したように、全然意識に残っていない。

 ならば、その一瞬だけ武は気を失っていたのだろうか。……莫迦な。武は雑念を払う。

 しかし、それでは霞が可哀想だ。後悔してしまうほどの、あれだけの決意を必要とするほどの問いかけだったのに、肝心の武がそれを聞き逃し、彼女を困らせている。一体どんな内容だったのだろう。どうしてそれを、聞き逃したりなんかしたのか。

 もう一度、聞きなおしてみるのはどうだろう。…………駄目だ。既に発言自体を後悔してしまっている霞に、再度それを口にさせることには抵抗が在る。なにより、彼女自身がどうしても知りたいことであるなら、如何に後悔しようともそれを問うだろう。答えない武に対し、そのようなアクションがないということは……霞もまた、この質問自体をなかったことにしたいのだ。

「…………ごめん、なさい。軽々しく聞いていい話ではありませんでした……」

「ぃ、いや……社が謝ることじゃ、ない……」

 だというのに、霞は詫びるように頭を下げる。武は逆に困惑してしまって……申し訳なさと情けなさから、視線を逸らしてしまう。

 一体何をやっているのか。こんな小さな子を追い詰めるようなことをして……。別に気を抜いていたつもりはない。むしろ霞の様子に、こちらも真剣に聞こうと意識を傾けていたのに……どうして自分は、その問いを聞き逃したりしたのか。

 ………………本当に、聞き逃したのか?

 頭の中で、どこか遠い声がする。

 ………………本当はちゃんと聞いてたんだろ?

 その声はなんだか不透明で、ハッキリとしない。

 ………………聞かれたくないことだったんじゃないのか? だから、聞こえなかった振りをして、誤魔化してる。

 声は、男の物らしかった。少しずつ、まるで背後から近づいてくるみたいに。

 ………………そうだろ? 認めろよ。オマエは、それを聞かれたくなかったんだ。

 なんだ。この声はなんだ。一体何を言っている……。

 ………………口では大丈夫だと言っても、立ち直った気でいても……なぁ、そうだろ? オマエはまだ、全然、

 やめろ。黙れ。誰だお前。何を言って……ッ!

 ………………なにが、俺はもう大丈夫、だ。何が託された想いだ。ははっ? ははははははっ!? 笑わせるぜッ! オマエは何も変わっちゃいない! アレからどれだけ経った? 一年と六ヶ月か? ハッ! たったそれだけで……いいや、例えどれだけの時が過ぎようと、オマエは絶対に変われやしないさ。だって、居ないんだ。側にいない隣りにいない声が聞こえない触れられない!! もう、何をやっても、どうしようともっ!! オマエはずっとずっと、そのままだ!! オマエを取り巻く環境がどれだけ変わろうとッ、それによってオマエがどう思おうと、感じようと……ッ! それでもオマエは、永遠に、絶対に、アイツが死んだことを受け入れられる日なんか来ない!! ナァ、そうだろうっ!? そうだろうがよッッ! しろがねたけるゥウウウウ!!!!







「うぅうううオおぉォアアアアアアアアあああっっっっ!!!????」







「!?」 「なにっ!?」

 突然の絶叫に夕呼は面食らう。確認するまでもなく、目の前で武が、まるで発狂したように悶え叫んでいる。頭を押さえ、海老反るように寝台の上を転がり――ガシャン、と盛大に音を立てて夕呼の側へと転落する。慌てて武を取り押さえようとする夕呼だったが、流石に鍛え上げた訓練兵である。狂乱する武の繰り出した手の平に打たれ、腰から倒れこむ。

「いっったぁ……ッ!? なによ一体! 社ッ?!」

 盛大に打ち付けた腰をさすりながら、夕呼は一部始終を見ていたであろう霞に目を向ける。尚狂ったように叫んでいる武はこの際放置だ。彼のバイタルデータは現在も取り付けたセンサーが観測している。この突然の狂態も、後の研究に役立つかもしれない。

 科学者としての一面で冷静にそう思いつつも、このまま暴れられて高価な機材を壊されても敵わない。非力な自分に取り押さえる術がないことは先刻証明されたが、このまま静観するわけにも行かない。せめて事情がわかればと見やった霞だが、彼女は彼女で大層恐慌しているようだった。

「社? ……社ッ、しっかりしなさい!」

 近づき、少女の細い肩を揺する。夕呼の顔を見て、ようやく霞は正気を取り戻す。――だが、哀しげなその瞳は武を見つめて、震える口はただ謝罪の言葉を述べるだけだった。

「社! ……質問に答えなさい。白銀に、何があったの?」

「ゎ、私……博士の指示通りに、話をしていたんです」

「知ってるわ。……あんたまさか、」

 夕呼は口を噤む。声に出さず、彼女は思いついた仮説を少女に問い掛ける。……霞は、何も口にしていない夕呼の問いに首肯し、己の罪科を責めた。

「……そう。今回のことはわたしに責任があるわ。あんたが気にすることじゃない。いいわね?」

「…………はぃ」

 ヤレヤレと溜息をつき、改めて武を振り返る。どうやら発狂は一時的なものだったらしく――暴れ疲れたのか、糸の切れた人形のように、倒れて気を失っている。測定器は正常。バイタルを見れば生命活動に支障はないようだ。

 突然の狂乱には正直驚いたが……それも無理からぬことと、夕呼は自虐的に笑む。

「まったく……自分で思いついて実行しておいて、我ながら都合のいい感傷だわ」

 まるで自分自身を蔑むような口調に、霞は狼狽する。だが、少女は目を伏せるだけで何もいわない。――言えなかった。

 嘆息し、夕呼は眼を閉じる。思わず零れた本音に、そんなことを言う暇が在るのなら一日でも早く成果をあげろと、自身を戒める。愚痴り出したらキリがない。それこそ一生をかけて懺悔しても足りないくらいの罪業を背負っている自身。夕呼は今更赦されたいなどと思わなかった。

「少し急ぎすぎたかしらね……。いや、白銀の根幹に喰い込んだ楔を、甘く見ていたってところかしら」

 どこか機械的に結論を下す夕呼を、矢張り霞は沈黙で以って見つめた。

 さて、と夕呼は部屋の隅へ向かう。そこには固定式の内線が設置されていた。短縮ボタンを押すと、一秒と経たず聞きなれた秘書官の声がする。

「ああ、ピアティフ? 済まないけど伊隅を呼んで頂戴」

 了解しました――そう返事する秘書官に頷いて通話を切る。さて、この面倒な精神構造をした訓練兵をどうしてくれようか。

「男ならもっとシャキッとしなさいよねぇ。いつまでも居なくなった女のことで女々しいッたらないわ」

「……」

 吐き捨てるような夕呼の言葉。だが、霞はじっと黙っている。

 少女は知っている。彼女の心の葛藤を。表面でどれだけ強がって不遜な態度を取り続けても……それでも、矢張り彼女もまた、ニンゲンなのだということを。



 しばらくして夕呼直属の伊隅みちる大尉がやって来る。初めて訪れるわけではないだろうに、部屋の中央に在る「脳ミソ」にやや眉を顰める。みちるは倒れている少年に気づくと、声に出さないながらに驚愕した。

「こ、香月博士ッ……これは一体……」

「前に話したでしょ? ちょっとやり過ぎちゃってね。申し訳ないんだけど、上まで運んでくれると助かるわ」

「……! では、この少年が……。――了解しました。白銀訓練兵を上まで運んでまいります」

 夕呼の言葉にみちるは過度な反応を示す。戦術機適性「S」ランクを持つ天才衛士候補生。副司令であり、特に物理学、生物学を専攻しているという夕呼直々にその特異な体質を調査しようとしていることは聞かされていた。その名も、いずれは彼女のA-01に配属される訓練兵であることも。

 だが、その調査……様々な検査や実験を行うとは聞いていたが……それは厳しい訓練で鍛え上げられた訓練兵、しかも男であるにも関わらず……気絶してしまうほどの過酷なものだったのだろうか。

 やり過ぎたと夕呼は言う。冗談交じりなのか本気なのか……夕呼の下に四年近く就いているみちるにさえ、判断は出来ない。

 だが、彼女のやることに遠慮や躊躇、ましてや容赦などありはしないのだということを誰よりも知っているために。みちるはぐったりと倒れる武の身体を肩に担ぎ、まるで重さなど感じさせない足取りで部屋を出て行く。

 鍛えられた衛士にとって、男の一人や二人、抱えて運ぶことに何の支障もない。

 去っていくみちるを暫く見つめて、夕呼はおもむろに視線を移す。その先は、「脳ミソ」の浮かんだカプセル。夕呼はシリンダーと呼んでいるそれを睨むように見て、

「社、彼女に何か反応は?」

「…………わかりません。ですが、少しだけ……ほんの一瞬だけ、白銀さんと……繋がりました」

「…………そ。いいわ。成果は上々と言ったところね。――実験は続けるわ。例え白銀が発狂しようが精神崩壊しようが、ね」

 重要なのは結果なのだと言い切った夕呼に。霞は消え入りそうな声で「はい」と呟くことしかできなかった。







 ===







 夢を見た。

 それが夢だと、一瞬で悟ってしまえるくらい……それは完璧なまでに幸福な夢だった。

 目の前で少女が笑っている。

 ニコニコと笑って、不貞腐れたように頬を膨らませて、いじけたように唇を尖らせて、驚いた顔をして、叩かれた頭を痛そうにさすって、怒ったように歯軋りして、照れたように頬を染めて、嬉しそうに微笑んで。

 目の前で。すぐ隣りで。くるくる、ころころ、表情豊かに。

 少女の腕に触れる。少女の頭を撫でる。暖かい、柔らかい。ああ――、生きているんだ。そう思うと、涙が出た。

 涙が出て、抱きしめた体温さえ感じて――――だからこそ、これが夢なのだと知ってしまう。

 それでもいい。夢だっていい。

 こうして逢えた。また、こうして抱くことが出来た……。ああ、純夏。俺は、お前を愛しているよ。ずっとこうして、お前を護ってやりたかったんだ。

 恥ずかしそうに、こそばゆそうに。少女は頬を染めてこちらを見上げる。見つめてくる瞳は潤んでいて、小さくて柔らかそうな唇が言葉を紡ぐ。

「え?」

 その言葉が、聞こえない。

 触れて、体温や彼女の匂いまで感じられているのに、声だけが、聞こえない。

 少女は何度も繰り返し囁いている。幸せそうな表情で、甘えるような瞳で。何度も何度も、繰り返し繰り返し。――その声が、どうしても聞こえない。

 やがて少女は身を離し、困ったように笑いながら……すぅっと、消えていく。見えなくなっていく。それが嫌で、それが哀しくて、怖くて――――――







「待ってくれッッ!! 純夏ァァァアアア!!!」

 伸ばした腕は確かな感触を伝えてくる。絶対に放すものか! 握った手に力を込めて、思い切り引き寄せる。ふわ、っとした感触が胸の中に広がって、確かな存在の重みを知らせてくれる。ああ、掴まえた。もう、放すものか。

 抱きしめるように、もたれてきた彼女の背に手を回す。ぎゅぅ、と抱き、その感触に、香りに、体温に……狂おしいくらいの愛情が湧く。

「し、し、し・ろ・が・ねぇええ~~っっ!!」

「あ?」

 すぐ耳元でとても聞き慣れた声。思わず顔を上げればそこには握り締められた拳が迫っていて――ッ

「ぶぁがッッ!!?」

「死ねッ、色魔!! ばかっっ!!!」

 顔面に受けた衝撃と、壁にでも叩きつけられたか、後頭部に走った鈍痛に視界が明滅する。あまりの痛みに出てきた涙で滲んだ視界に、ぷりぷりと肩を怒らせて立ち去っていく茜の姿を見た。

「ぁ、あれ? 涼宮? え?」

「……白銀、貴様、いつまでそうしているつもりだ……?」

「ぇっ?!」

 突然茜に殴られてなにがなんだかわからない武だが、それに追い討ちをかけるように……腕の中から、声がする。こちらも、つい最近よく聞くようになった声だった。

「つ、つつつつ月詠中尉ィィィイイイイイ!!!??????」

 驚愕を通り越して慄然とする武は、脊髄反射よりも疾く速く、どうしてか思い切り抱きしめていた両腕を放す。だが、そんな程度で収まるはずもないびっくりどっきりな事態に最早武は冷静さなど微塵もなく、跳び退るようにベッドから転がり落ちて――ぇ、ベッド? ――手を放したとはいえ密着したままだった真那を巻き添えにがしゃごろと盛大な音を立てる。

「うわぁあああ!?」 「――ば、莫迦者ッ!」

 派手な音を立てて転がった二人。目を開ければ眼前には真那の美しい顔。背中を打ちつけた痛みに表情を顰めているが、それでも彼女の美しさは微塵も衰えたりはしない。いや、そうではなく。

「何事だっ!? しろが、ね……」

「「「真那様、大丈夫ですか……ぁ」」」

「あ、」

 先ほど茜が去っていったカーテンの向こうから飛び込んできたのは冥夜に、巽、雪乃、美凪の三名。室内には入っていないが、その向こうから更に数人の話し声が聞こえる。どれも聞き覚えの在る声だった。確かめるまでもない。207部隊の連中だ。

「白銀……そなた、」

「ついに本性を現したな……」 「この場で刀の錆に……」 「ふ、ふ、不潔ですわ~~~っ!」

「だぁあああ~~っ、落ち着け!! 俺はなんにもしてないぞっっ! そうですよね月詠中尉ッッ」

「……あれほど強く抱きしめておいて、その言い分はなかろう。男らしく、責任を取れ」

「責任ってなんですかぁあああああああああああああああ!!!?」

 拗ねたように頬を染めて言う真那に、それが彼女なりの冗談なのだということにさえ気づけない武。むしろ気づいたところで……この状況でその発言は明らかに狙ったものとしか思えない。月詠真那。侮れない女性である。

 その後207の少女達全員に真那の部下である巽たちを交えての混戦が繰り広げられ……全員まとめて衛生兵に叱られたのは言うまでもない。ちなみに、蛙の髪留めをしたその衛生兵がやってくるより早く斯衛の皆様は撤退していたという。







「なんだかなぁ……」

「あっははははは! ひー、おなかいたい。あっはははははははは!!」

 ようやく落ち着きを取り戻した医療棟の一室。ベッドの隣りに座る晴子からの説明で、武は事の次第を知った。

 どうやら夕呼の行っていた検査中に気を失ったらしい武は、医療室へと運ばれ……こうして医療棟の一室で寝かされていた。別段、これという症状もなく、呼吸や脈拍も正常だったために、本当にただ寝かされていただけなのだが……まりもの口からそれを聞いた少女達は肝心なそこを聞き飛ばし、競うように見舞いに来たのだとか。

 ケラケラと笑いながらそのときの様子を話す晴子は実に愉しそうで羨ましい。ここまで自分に素直な性格だと、それはもう色々と幸福だろう。武はそんな彼女に辟易しながら、先を促す。

「で? それがなんで月詠中尉までやってきたんだ?」

「ああ、それは……まぁ、斯衛の情報網を甘く見るなってことだよね。だって私たちより先に居たんだもん」

 は? 思わず武は素っ頓狂な声を上げる。その声と表情がまた面白かったのだろう。晴子はくつくつと愉快気に笑む。

「だからさ、私らが来た時には、もう月詠中尉はここに座って、白銀を見舞ってたの。あはははは、そのときの中尉の顔ったら……ッ」

 目尻に涙まで浮かべて笑う晴子。余程可笑しいのだろう。なんだかツボに嵌っているらしい彼女は、恐れ多くも斯衛の赤である真那に対して盛大に笑っている。武はこっそりと晴子に向かって合掌した。お前の末路は今決まった。夜道にはくれぐれも気をつけろよ。内心で忠告する武に気づかず、晴子は笑いながら色々と口にする。

 それに頷いたり呆れたりしながら、段々と武は頬が熱くなるのを感じた。

 晴子が語る彼女達の様子は……なんだか、当事者としてはとても気恥ずかしいことこの上ない。仲間とはいえ、同じ歳の少女達にこれほど案じられている自分というのが、どうしても実感できない。……が、現にこうして晴子の口から語られている以上、それは事実で。故に武は赤面するのである。十人近い美少女達に心配されて、嬉しくないわけがない。

 ないのだが……それ以上に女性に対して免疫のない武は、嬉しさよりも照れが勝る。そんな武だから、晴子もまた盛大に笑うのだった。

「ひぃ、ひっ、はははっ、白銀ッ、照れてる……ぷ、くく、可愛い~~っっ、あっはははははっ」

「てめぇはいい加減笑いやめっっ!!」

 ドンドンとベッドをに拳を打ち付けて苦しげに笑う晴子に、武は真っ赤になった顔で怒鳴る。

 救いを求めるように晴子の隣りに座る茜を見るが、彼女も彼女で真っ赤になってそっぽをむいていて当てに出来そうもない。だが、ここでこれ以上この莫迦者を黙らせるのに、武一人では些か戦力不足だった。

「ぉい、涼宮。この莫迦を黙らせろ」

「無理。こうなったら止まんないの、白銀だって知ってるでしょ?」

 フン、とそっけなく答える茜にがっくりと肩を落とす。何を怒っているのか……は、多分、寝惚けていたとはいえ真那を抱きしめたせいなのだろうと見当をつけている。だからといってそこまで不機嫌になることはあるまい。

 しかもグーで殴られたのだ。グーで。壁に叩きつけられるくらい鋭い一発だった。アレは効いた。今更ながらに茜の実力に感心する武である。心なしか水月に益々似てきたような気がする。言動や仕草、そういった諸々が。意識してのことではないのだろうが……血の繋がった実の姉よりも憧れの女性に似るというのも、なんだか妙な話だ。

「……む。なに笑ってるのよっ」

「別に……」

 赤面したまま睨んでくる茜が可笑しくて、武も小さく笑う。水月に茜。なんだか久しぶりに二人の並んだ姿を見たいと思ってしまった。

 む~~っ、と声に出して唸る茜を晴子がまた引っ掻き回して…………だから、誰も気づかなかった。

 この部屋に居る三人とも。晴子も、茜も、武自身も。



 一体どうして彼がこの部屋に運ばれることになったのか。

 その、気を失うほどのナニカを――武自身、まるで覚えていないことに。







[1154] 復讐編:[六章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:620be403
Date: 2008/02/11 16:18

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:六章-04」





「まったく……白銀め。中尉相手にあのような不埒な行為を……」

「そうね、彼には後でよっっく言い聞かせる必要があるわね」

「白銀……ケダモノ」

「ま~ま~、タケルだってわざとじゃないみたいだし……」

「そそそ、そうですよ~。白銀さんは、そんなにだらしない人じゃないと思いますぅ……」

 医療棟からの帰り際、夕食には少し早いがPXで時間を潰すことになった207B分隊の面々。いつもの席に座り、仏頂面でブチブチと不満を口にしているのは冥夜、千鶴、慧の三人。三人が三人とも見事に眉尻を吊り上げ、端から見ても不機嫌全開だ。そんな彼女達の間でオロオロとフォローするのは美琴に壬姫。冥夜たちの憤りっぷりに些か苦笑しながら、しかし内心では「わからないではない」とちょっぴり不満に思ってはいる。

 彼女達の話題はつい先ほどまでいた医療棟の一室に運ばれたという、同じ部隊の仲間、武のことだった。香月副司令の呼び出しを受け、彼女からの特殊任務に従事することになった武は、今日はその初任務ということらしかった。

 任務とは言うが……訓練兵である彼女達は、当然その内容を知らされていない。当事者以外には関係ないことだし、なにより、副司令直々の、という時点で機密レベルが高過ぎて…その内容を勘繰ることさえ許されない。教導官であるまりもには簡単な説明がされているらしいが、それが説明されることもないし、質問することも出来ない。例え尋ねたとしても、教えてくれるわけがなかった。

 だからこそ、彼女達は表面には出さないながらも、武のことを案じていた。

 日々の訓練に加え、斯衛の衛士である真那からの剣の修行。たった数日で全身を傷だらけにしてボロボロになった彼を見れば、心配するなという方が無理だった。……それに加えての副司令からの特殊任務である。否応にも不安は募った。

 そして、そんな彼女達の不安が的中したかのように……武は気を失って倒れた。

 一体何が原因でのことなのかは知らされなかった。命に別状はなく、これという危険な兆候も見られず……単に意識を失っただけという容態に安堵したのも束の間。矢張り彼は心身ともに疲弊しているのではないかと新たに不安の種が生まれる。

 少し過剰すぎるのではないかと、彼女たち自身も思ってはいるが……どうしても武の身を案じてしまうのである。その根底に在るであろう想いを、まだ彼女達は自覚していない。

「ふん……少しは私たちのことも考えて欲しいものだ……」

「そうよね……いくら私たちの姿が見えなかったとはいえ……あんな風に、月詠中尉に……っ」

「男はみんな狼……」

「み、みんなぁ~」

「あわわわ、お、落ち着いてくださ~ぃ」

 だからこそ、腹が立つ。

 自分達がこんなにも彼のことを心配しているというのに、当の本人はそんなことを露ほども知らず、あろうことか彼女達の目の前で真那を押し倒していたのだ。

 カーテンで仕切られた病室。少し大きめのベッドが一つ。麗しく美しい女性を押し倒した彼。――ああッ、もうッッ!!

 ……と、まぁそんなわけで現在彼女達はご立腹なわけである。美少女が五人も揃っていればそれは華やかな雰囲気になるものだが、内三名の形相というか発せられるオーラというか……を見たものたちはそそくさとその場を離れ、或いは目を逸らし……夕食のために席を確保しようとやってきた基地職員達は皆、少女達から数メートル以上離れて席に着いたという。







「でもさ、正直な話……タケル、どうして倒れちゃったのかな……?」

 夕食を採っている最中、躊躇いがちに美琴が口を開く。

 テーブルに着いているのは変わらぬ五人。A分隊の少女達は皆、武が戻ってくるのを待つらしく、まだ姿を見せていない。その辺り、帝国軍時代の絆というものが窺えて若干気後れしている彼女達だが、それはそれとして腹が立ったこともあり、そのまま五人で食事をしている。

 武本人がいないからこそ発せられただろう美琴の問いに、皆一様に箸を止める。それは、彼女達にしても気になってしょうがないことだった。いくら機密で知ることが許されていないとはいえ、そういう理屈とは別の次元で、それを知りたいと思ってしまうのだ。だが――、

「鎧衣、それを知ることは許されないわ」

 だからこそ、そんな子供の我儘のような理由から知ろうとすることは許されない。人一倍規律に厳しく、軍人であろうとする千鶴が、ぴしゃりと言い放つ。……断言する彼女自身、本心ではそれを知りたいということは他の少女達も承知している。

「でも……」

「鎧衣、珠瀬。ここは榊の言うことが正しい。我らは軍人だ。軍人で在る以上……軍規には従わねばならぬ。知らされぬことは、知らずともよいのではなく……知る必要がないのだ」

 至極まっとうな意見だった。冥夜自身、まるで自分に言い聞かせるような口調でのその言に、美琴と壬姫はしゅんと俯く。

 アレコレと詮索することは許されない。武とて、自ら話して聞かせるようなことは絶対にないだろう。今日までの武を見れば、彼が何よりも己に厳しい「軍人」であることがわかる。そして、彼女達から見ても矢張り優秀な「軍人」である彼は、機密をベラベラと漏らすような男では在るまい。

 むしろ、こちらから問うてしまうことで、彼を困らせることになりはしないか。優しい武のことだ、機密だから話せないと断るだけのことに、何らかの負い目を感じてもおかしくはないだろう。

 そういう意味合いを込めて、冥夜は続ける。

「白銀とて、自身に課せられた任務に誠心誠意、取り組んだ結果のことだろう。……それが如何様に過酷で困難なものだとしても、それを我らが軽率に割って入っていいものではない。……とはいえ、白銀は我らの仲間であることもまた事実。案ずるな、とは言わぬ。……見守ってやろう」

「うん……そうだね」

 真摯な表情で言う冥夜に、慧が頷く。心なしか満足げに見えるのは、恐らく彼女の内心が冥夜と同じだったからだろう。普段あまり口を開くことのない慧だけに、同じ想いを語ってくれた冥夜に少しだけ感謝しているらしい。

「そうね、白銀を心配することと、軍人としての対応さえ混同してしまわなければいいのよね。……ごめんなさい、少し強く言い過ぎたわ」

「そ、そんなっ。わたしこそ、公私混同しちゃって……ごめんなさい」

 静かに、少しだけ朗らかな表情で言う千鶴に、壬姫が慌てたように頭を下げる。

 五人は少しだけ穏やかに笑った後、食事を再開した。今日のメニューは武が好きだという合成竜田揚げ定食。他にも丼物や鯖ミソ定食などもあったが……どうしてかこの日は全員同じものを食べている。別段示し合わせたわけではないのに、変なところで似ている少女達だった。

「それにしてもさー、茜さん凄かったねぇ」

「ん? どうした鎧衣」

 またしても唐突に口を開いたのは美琴。今度は先ほどのような躊躇いは微塵もなく、その表情も明るい。というよりもむしろ、思い出し笑いを堪えられない様子だ。その彼女の表情があまりにも奇妙に映り、冥夜は少しだけ身を引く。

「茜……って、ああ……。確かに、アレは凄いわね」

「にゃはは、笑っちゃ悪いですよぉ」

 美琴の言葉に思い当たったのか、千鶴は苦笑し、壬姫はにこやかに笑う。笑っては悪いと言いながらしっかり笑っているあたり、それが口だけだということがよくわかる。そんな壬姫をヤレヤレと思いつつも、彼女達の話題の内容に気づき、冥夜も苦笑する。慧もまた、無言ながらに笑っていた。

「いいパンチだった……」

「うんっ。アレは凄いよ~! 腰の入れ具合といい、腕の伸ばしといいっ! なによりその後の回し蹴りなんか……!」

 顎に指を当てうんうんと頷く慧に、興奮気味に美琴が回想する。

 武が真那を押し倒した後の話だ。渦中の人物である茜は、その以前に肩を怒らせて病室を出たのだが……その後の悶着を聞きつけたのか再度舞い戻り、美琴や慧が絶賛するほどの技の冴えを見せてくれた。……既に病室を去った茜にそれを伝えたのは間違いなく晴子の仕業ということは、全員が承知している暗黙の了解というやつだった。

 ともあれ。

「流石茜さんだよ。いくらタケルが無防備だったとはいえ、あんな狭い空間の中であれだけの技を繰り出せるなんてっ。ボク、感動だよ~っ」

「あまり褒めてるようには聞こえないのはどうしてかしらね……」

「いや、そうでもあるまい。現にあの時の涼宮は神懸っていた。抉りこむストレートに続く、流れるような左回し蹴り……。あの者も相当な鍛錬を積んでいるのだろう。次の訓練が楽しみだな」

 興奮冷めやらぬ美琴に千鶴が冷静な判断を下すが、それとは若干ズレた感動を見せるのが冥夜だ。千鶴は笑うしかない。彼女にとって茜は親友と言ってもいい貴重な友人だ。そんな彼女の想いにはとっくに気づいているが、時折、彼女は武に対して過激に過ぎる気がする。嫉妬か照れ隠しか、様々な感情が入り乱れて到った末の行動なのだろうが、微笑ましいほどにわかり易い性格だと思う。……そして、呆れるくらい行動派だった。

「でも、涼宮さんももう少し女の子らしくした方が、白銀さんも喜ぶんじゃないかなぁ……」

「珠瀬……あなた結構言うわね……」

 笑顔のままサラリと毒を吐く壬姫に、千鶴は頬を引き攣らせる。茜本人がいないことをいいことに、特に美琴と壬姫は好き放題言っている。これが例えば晴子あたりに知られたならば、二人とも、それは酷い目に遭うのだろう。……茜の放ったストレートの威力を思い出し、思わず身震いする。

「白銀は平気……男の子だから」

「何の根拠もないが……概ね同意だ。あの者もあれで涼宮のそういうところを気に入っている節があるようだし……」

 ニヤリと唇を吊り上げて自信満々に言い切る慧に、納得したように頷く冥夜。こちらも好きなことを言っている。……が、それら彼女達が言うことも、あながち的外れというわけではない。

 少なくとも彼女達にそう見えるということは、茜も武も、それなりにその要素を含んだ行動を見せているということだ。

 本当に微笑ましい二人だと思う。茜はどうやら隠したいらしいが、誰が見たってバレバレだ。晴子や多恵の言に依れば帝国軍時代からのことで、それはもう見ているこちらが思わずからかいたくなるくらい可愛らしい恋心だったらしい。……なんとなく理解できる。千鶴はうんと頷いた。

 そんな茜が自身の気持ちに気づいたのは一年ほど前だとか。その時のことを晴子は実に嬉しそうに説明してくれたのだが……千鶴はその晴子の笑顔に、本当に茜のことを想っているのだと思わず感心してしまった。そして、同時に羨ましくも思う。それほど他人のことを想える晴子を、凄いと思った。

 そして、そんな誰も彼もが気づいている茜の想いに全く気づいていないらしい……のが武だった。

 常々思うのだが、どうも武はそういう感情に疎いというか鈍いというか全く以って自分の魅力に気づいていないというか……ゴホン、千鶴は自らの思考に一時蓋をする。と、ともかく、武は女心というものを全然理解していないらしかった。

 あれほど身近で茜が想いを顕しているのに、当の本人が気づかないのでは意味がない……の、だが。

「そうね。白銀も白銀で、茜のことちゃんと考えてるみたいだし」

 そう。

 武は茜の想いに関係なく、彼自身の何らかの感情によって、彼女を想っているらしいのだ。

 それが茜と同じ感情なのか、仲間に対する思いやりなのかはわからない。基本的に武は誰に対しても優しく、思いやりのある態度で接している。隊の仲間に対してそれは顕著だが、その中でも茜に対するそれは少々別格のような気がするのだ。

 ……なんというか、そう。例えば武は度々茜の頭を撫でるのだが……その時の彼の表情はとても穏やかで柔らかく、楽しそうなのだ。武本人に確認したところ、それはある種の癖のようなものだということだったが……残念ながら茜以外にその癖が発動しているのを見たことはない。……何が残念というのか。

「確かに。あの二人を見ているとどうしてか心が落ち着く。……まぁ、多少は人目を憚ってほしいものだが……」

「恋は盲目……怖いね」

 知らずは本人ばかりとはこのことだろうか。茜も武も、単にじゃれ合っているだけなのかもしれないが、時折目のやり場に困るくらい「いい雰囲気」を醸し出す。晴子や多恵はその度に水を得た魚のように活き活きとするが、まっとうな思考の持ち主ならそれはもう恥ずかしいくらいに見ていられない。

 千鶴や冥夜を筆頭に咳払いや棘のある視線を向ければ気づいてくれるのだが、放っておくといつまでも二人きりの世界に浸っていそうなほど。……微笑ましいと思う反面、どこかやっぱり納得いかない。

 例えば今回の真那に対するようなあからさまな憤りは感じないが、それでも矢張り、ムッとしてしまうのも確か。

 乙女心は複雑なのである。

「羨ましいです~。私も恋人……とまではいかないけど、そんな風に想えるひとに出逢いたいなぁ……」

 若干熱い吐息を零しつつ、壬姫。頬が薄っすら染まっているのは、そんな理想の男性を思い描いているからだろうか。……それがどうしてか武にそっくりなのは彼女だけの秘密だ。

 が、そんな恋に憧れる壬姫の思考を遮るように、慧がぽつりと呟いた。

「でも、あの二人はまだ恋人同士じゃないよ……」

「ぇ? そうなんですか?」

「立石が言ってた。涼宮の気持ちは間違いないけど、まだ告白したわけじゃないって……」

 その言葉に皆はポカンとするも、しかし成程と納得する。どこからどう見ても恋人同士にしか見えない二人だが、よくよく考えるまでもなく、武は茜の想いに気づいていないらしいのだった。つまり、茜はまだ武に自身の想いを打ち明けていないのである。……いくら鈍いとはいえ、正面から告白されれば誰だってわかる。武が未だにそれに気づかないということは、そういうことだった。

 だがそれも時間の問題だろう。そう遠くない未来、茜と武はお互いに想い合う、それは素敵な恋人同士となるだろう……。そんな千鶴の考えに、今度は美琴が水を差す。

 しかもそれは、全く予想もしていなかった方向から。







「そっか……じゃぁ、やっぱりスミカさんって人が……タケルの恋人なのかな…………」







「――え?」

 果たして、それは千鶴の声だったか。正面を見れば同じように表情を凍らせる冥夜。戸惑いに眉を寄せる慧に、困惑する壬姫。

 皆、美琴が何を言ったのかわからない様子だった。ただひとり、美琴だけが難しい顔をして唸っている。……一体どうして、彼女がそんな風に真剣に悩んでいるのかがわからない。いや、そうではなく。

「鎧衣……そなた、今、なんと言ったのだ?」

「誰……って、言ったの?」

 少しだけ重い声。冥夜は確かめるように問い、千鶴もまたそれに追随する。ぇ? と美琴は驚いたような顔をして、皆の様子に少しだけ怯んだようだった。

「ぇ……と。だから、スミカさん、だよ。あれ? 違ったかな…?」

「それだ。先ほども言ったな。その、スミカという女性はだれのことだ?」

 再び口にしたその名に、冥夜が詰め寄る。鋭い視線に圧されて、美琴はうろたえるように身を引いた。が、

「誰って……ボクだって知らないけど…………でも、タケル、あの時叫んでたじゃない。スミカー……って」

「「「「!!??」」」」

 ようやくにして、美琴の言っていることを理解する。

 そうだ。確かに、そうだ。

 あの時、病室の外で武を見舞うために待っていたあの時。

 確かに言った。確かに聞いた。それは紛れもなく武の声で……どこか、悲哀を感じさせるような逼迫した叫びだった。縋りつくような、二度と手放したくないような……そんな感情が篭められた叫びではなかったか。

 あの時は、茜が怒り心頭で部屋から出てきたり、その後の騒動のせいですっかり忘れていたが……今にして思えば、それはとても……彼女達の心を震わせるくらいには衝撃的だった。

 どうして気づかなかったのか。どうして思い至らなかったのか。

 武が茜の想いに気づかない……気づけないのは、彼に意中の人物がいるからなのだと。

 そしてそれは果たしてスミカという名の女性なのか……。そんなことが、彼女達にわかるはずもなく……。

「……でも、そんな名前いままで聞いたこともない」

「……それは、まぁ、そうだな。……白銀の恋人、或いは想い人、ということであれば……我々はともかく、涼宮たちが知らないというのも妙だ」

「茜が告白をしていないっていうの……その人を知ってるからじゃないかしら」

「あっ、そうですよ、きっと……。白銀さんの気持ちを知ってるから……涼宮さん、想いを伝えられないのかも……」

 唸る面々。想像は所詮想像に過ぎず、確証に到る情報はない。例えばスミカという女性が実在し、武の恋人なのだとしたら……彼女の存在が武の口から明かされないのは妙だと思える。そういう話題を好む晴子が口にしないというのなら……それが茜への思いやりと理解できなくもないのだが……。

「恋人自慢、をするようには見えないけれど……」

「でも、白銀さんって思ったことがすぐ口に出てますよ……」

「そうだね。白銀は単純だから、恋人が居るならすぐにばれてる」

 千鶴、壬姫、慧と口々に自身の推測を述べる。そんな風に武の仮想恋人についてアレコレ思案する彼女達を、しかし冥夜が鋭く遮った。

「……そなたたち。あまり他人の詮索をするでない。気持ちはわからんではないが……白銀が口にせず、涼宮たちもまた口にしないというなら……そこにはそれなりの理由が在るのだろう……」

「ぁ……」

 確かにそのとおりだ。単なる興味本位で他人の心に土足で踏み入って言い訳ではない。まして、それがこんな下世話な想像では……少女達は自分達の軽率さを恥じる。美琴もまた、自分が変なことを言い出したせいだと詫びたが、これに関しては皆が一様に軽率だった。

 この話はこれでオシマイ、という雰囲気になったところで――しかし冥夜は、思い出してしまった。

 ハッとして、今しがた自分がこの口で言ったばかりだというのに……恥知らずにも、彼女はそのことを口にしてしまう。

「榊……覚えているか?」

「え?」

 それは絞るように小さな声だった。喧騒に包まれたPXだったが、千鶴たちの耳にはやけに透って聞こえる。

「皆、許すがよい。たった今自分で言ったばかりだが……私もまだまだ未熟だな。自身の想像を抑えることが出来なかった……」

「ぇ? いや、それはいいんだけど……」

「ちょっと御剣、なんなのよ?」

 千鶴に問いかけておいて突然謝罪する冥夜に肩透かしを食らう。真面目な彼女の性格はわかっていたが、今はなんだかもったいぶっているようにしか思えない。興味本位の詮索はよろしくないということは重々承知している彼女が、しかしそれでも抑えられないというソレに、知らずつばを飲み込んでしまう。何やら逡巡する様子の冥夜に、少女達は耳を澄ました。

「その……これは私と榊しか知らぬことだとは思うのだが……榊、白銀の剣を初めて見た夜を覚えているか?」

「え? ……あ、ああ……。ええ、覚えているわ」

 問われ、千鶴は少しの間の後に、頷く。いつだったか……そう、あれはまだ訓練校に入隊して間もない頃だ。まだ数ヶ月しか経っていない。今日のように突然話題を振った美琴に、武たちが冗談交じりに答えて……そう、アレは確か彼らが帝国軍に属していた頃の話をねだったのではなかったか。

 そうだ。

 そしてその日の夜、千鶴は、冥夜は見た。どこか鬼気迫るその表情。殺気に似た恐ろしいまでの気迫。大気を裂く剣閃は止まることを知らず……宵闇に、狂気を孕む螺旋軌道の独楽の舞。

 その気迫に呑まれ立ち尽くした自分達の間を縫って、飛び出したのは茜。武に飛びついて、彼に正気を取り戻させて、泣いていた茜。

「その時の、涼宮の言葉を覚えているか?」

「茜の……?」

 武に抱きつくように、泣きながら、叫んでいた。悔しそうに、哀しそうに、たくさんたくさん、感情を爆発させて……泣いて。







 ――白銀の莫迦ぁあ!! なんでまた独りで抱え込むのよぉ!

 ――やっぱり、横浜に帰ってきたから……? 忘れられないのは知ってるよ……

 ――思い出して辛いなら、苦しいなら……あたしに言ってよッ!



 ――速瀬さんじゃないと駄目なの? あたしじゃ力になれないの……っ? 鑑さんのこと……っ、







「カガミ…………」

 呆然と呟いたその千鶴の声に、冥夜はああと頷く。何のことかわからないといった表情をする慧たちに、冥夜は事の次第を掻い摘んで説明する。当時は軽々しく口にするような話題でもないだろうと千鶴と二人、胸に秘めておいたのだが……。

 武の恋人云々ということでなく、今日、確かに病室で聞いたあの武の声から感じられた感情が……本当にそうなのだとしたら、それはとても重要なことのように思えたのだ。

「じゃ、じゃぁ……そのカガミさんが、スミカさん……?」

「わからぬ。所詮これも推測でしかない。そのカガミという人物のことも、あの者たちになにがあったのかも……私も榊も確認していない」

 噛み締めるように問う美琴に、冥夜は首を振る。確認していないと冥夜は言うが、それこそ軽々しく尋ねていいものでもないだろう。いつか時が来ればと考えていたが……まさかこんな風に思いを巡らせることになるとは予想もしなかった。

 だが、冥夜の言が仮に本当なのだとしたら……これは、とても哀しいことだ。

 とてもではないが、先ほどまでのように浮かれた様子で話すことなんてできやしない。

 今日までの日々で、いくつかわかっていることが在る。それは、元帝国軍横浜基地訓練校出身の彼らは、BETA横浜襲撃の際に北海道へ転属になっていたということ。BETAと『G弾』によって壊滅した横浜は彼らにとっての故郷だということ……。武はなにかから立ち直ったということ。そんな彼を茜たちは支えてきたのだということ。

 不鮮明だったそれらが、カガミ・スミカという存在に集約する。



 武には恋人がいた。武の故郷は横浜なので、その恋人も横浜に住んでいたのだろう。

 BETAの接近に備え、訓練校自体が閉鎖となり武は軍の命令で北海道へ転属する。……それに遅れて、十二月頃だろうか、関東地区に避難勧告がなされた。もし、その時に……武の恋人――カガミ・スミカ――が避難していなかったとしたら?

 翌一月、横浜はBETAの襲撃を受け、壊滅。

 壊滅。

 壊滅、したのだ。

 ならば、その恋人はどうなっただろう? 襲い来るBETAの大群を前に……どう、なったのだろう……?

 ……考えるまでもない。考えたくもない。

 最低最悪の想像だと、冥夜は己を罵倒する。こみあげる吐き気に己の浅慮を嘲り、しかしそれならば納得がいくのだと……その想像を是としてしまう。

 武は、恐らく……スミカという名の恋人を喪っている。その哀しみはどれ程のものだったろう。その絶望は、どんなものだったのか……。茜は、晴子は、多恵は、薫は、亮子は……そして、武の目標なのだという速瀬水月は、そんな哀しみと絶望の坩堝に陥った彼を支え、立ち上がろうとする彼に手を伸ばし…………。

 ――ああ、そうか。

 彼らの絆の深さは、そういうことだったのだ。

 絶望を垣間見、そこから這い上がった武と、その彼を見守り続けた彼女達。二年間という月日を掛けて育んできた彼らの絆に、出逢ってまだ半年も経っていない自分達が割って入る隙など初めからなかったのだ。

 そして、だからこそ……武は茜の想いに気づけず、茜もまた自身の想いを口にしない。

 武の中で、まだ彼の恋人は生きているのだ。……恋人への想いが、というべきだろうか。それを知る茜だからこそ、彼女は何も言わない。何も、言えない。……言えるわけがない。

 自身の想い人を喪うというのは、どれだけの哀しみをもたらすのだろう。冥夜は――彼女にとって命以上に大切な存在のことを思い浮かべる。……もし、自分があのお方を喪ったならば…………なにも考えられなかった。ソレが一体どういうものなのか、想像することも出来ない。武は、そんな絶望をあじわったのだろうか。

「…………すまぬ。確証もなく、していい話ではなかった。許すがよい」

 口にして、何を今更と冥夜は己を罵る。謝るくらいなら口にしなければいい。言葉にしてしまったのは……単に己が弱いからだ。美琴たちのことは言えない。自分こそが興味本位に最低な想像をめぐらせて、武の内面を詮索しようとする劣悪な存在に思える。

 だが、そんな冥夜を責める者はいなかった。むしろ、彼女達は冥夜に感謝している。

 武の負の一面を知らぬ慧たちにしてみれば、その冥夜の語った内容はとても衝撃だった。なにかあったのだろうということは気づいていたが、それが、これほどに凄絶なものだとは想像もしていなかった。……無論、冥夜の言に確証がないことは承知している。だが、彼女達にとって重要なのは、あの武が正気を失うほどの何かがあり、そこにはカガミという名の……恋人が関わっているのだという事実だ。それがスミカという人物と繋がるかどうかは不明だが、最早確認するまでもあるまい。

 そうでもなければ、信じられない。実際に目の当たりにしたわけではないが、それでも冥夜が、千鶴が言うのだ。「あんな白銀は見たことがない」と。そしてそんな彼を見たのはソレだけだと。ならば、それは彼がひた隠しにしているなにがしかに直結しているはずであり……つまり、その理由となり得るものは冥夜の想像したそれであり……そういう可能性もあるのだと気づかせてくれた彼女に感謝するのである。

 千鶴は己の迂闊さを恥じる。冥夜と同じくそれを目撃し、耳にしていながら……全く気づくことの出来なかった自分。隊の皆のメンタルや体調を把握して然るべき分隊長という立場の自分がこれでは、なんとも名ばかりのお飾りではないか、と。同時に、武に対する真剣さ、というものでも冥夜に感心するほかない。冥夜が気づかせてくれたそれらと共に、親友だと自負している茜の想いの強さを痛感する。武を襲った悲劇に言葉に出来ない感情が込み上げるが、それ以上に、そんな武を傍で支え続けた茜に……どうしようもなく、哀しみと憧れの想いが募る。

 茜は強い。なんて強い心だろう。武は立ち直ったのだという。きっと、茜たちの支えなくして彼は立ち直ることはできなかったのではないだろうか。哀しみを乗り越え、その最中に気づいてしまった自身の感情を抑えて……それでも想う、彼を支えた茜……。ああ、どうしてだろうか。彼女達と出逢ったこの数ヶ月の間。どうして茜は、武は、あんなにも自然に……笑い合えているのだろう。それほどの哀しみ、想像も出来ない絶望のどん底に居て。それなのに、ああ、それなのに……っ。彼女達は今、笑えているのだ。

「…………御剣、あなたが謝ることはないわ……。確かに、これは確証も何もないただの想像だけど……でも、重要なのはそこじゃない」

「榊……?」

「確かに、白銀や茜が口にしないことだから、っていうのもあるけれど。……多分、私たちはそれに甘えていたのね。……誰にだって口にしたくない過去や秘密は在るでしょう。そして、それはなるべくなら知られたくないと思う……詮索されたくないと思うものかもしれない。でも、だからってそれで終わりにしてはいけないんだわ……。確かに彼らは私たちに何も言わない。私たちも、そんな彼らの事情を察した振りをして、何も聞かない。でも、それじゃだめなのよ。それに甘えて……知らなくてもいいんだ、って、胡坐をかいてちゃいけないんだわ」

 一言一言、思うままに語る千鶴に、皆、真剣な表情を向ける。そんな彼女達の様子に気づいたのか、少し照れたように、

「白銀たちが何も言わないのは、確かに言いたくない……触れられたくないから、っていうのも在ると思うの。いつかは彼らの方から話してくれることかもしれないけど……そうじゃなくて、その。……巧い言葉が見つからないのだけど、そんな彼らのことを……例え推測まじりの勝手な想像だとしても、それでも、真剣に考えて、理解しようと思うこと……自分なりに、そうやって考えることっていうのは、とても大切なことだと思うわ。いいえ。仲間として、本当に仲間として彼らを想うなら、それはしなければならないんだわ」

 まとまりがない、と千鶴は苦笑する。でも、それが彼女の本心だった。果たして自分の想いが伝わったかどうか……千鶴はこちらを見つめる仲間達を見るが……どうやらそれは杞憂だったらしい。

「そうだな。そなたの言うとおりだ。真に必要なのは仲間を想い、その者の心を考えること、か。しかし、それも推測に過ぎぬ、という前提を履き違えてはいかぬ……難しいものだ。だが、難しいからこそ、やり甲斐もあろう」

「うん。そうだね。あはっ、なんだか大変だなぁ。……でも、凄く大切なことだと思うな、千鶴さん」

「そうですね。ん~……なんだか、亮子ちゃんみたいですね~。亮子ちゃん、ずっとこんな風に私たちのこと考えてくれてるんですよねぇ……」

「ん。月岡は凄い。…………榊は、少しかっこつけすぎ」

「なんですってぇ!?」

 皆の言葉に赤面していた千鶴が、最後の慧の一言で爆発する。無論照れ隠しだ。

 そうやって、なんだか気づけば長い間話し込んでいたようで、料理はすっかり冷めてしまっていた。五人はお互いに恥ずかしそうに笑みを交わしながら、それでもどこか心温かく、食事を再開する。







 そんな風に五人だけで語り合うのは初めてだったのだと、夜になって千鶴は気づく。……気づき、そして、あまりの気恥ずかしさに頬を染める。なんだかむず痒いような、困ったような……そんな表情をして。

 彼女達も同じような思いだろうかと、少しだけ想像して微笑む。

 ――同じであればいい。

 そう願い、そう確信して。

 少女達は夜を過ごす。ベッドに横になり、眼を閉じる。仲間を想うということが、これほどに、こんなにも。……心を満たしてくれるのだということを知った、そんな日だった。







[1154] 復讐編:[六章-05]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:b0bd4367
Date: 2008/02/11 16:18

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:六章-05」





 社霞には、他者にはない『能力』が在る。

 それは生来のものであり、ある意味「そうできるように」組み込まれた『能力』。或いは『異能』とでも言うべきそれ。

 人類の希望というお題目で飾られた美辞麗句の末の果て。それが霞であり、彼女の『能力』。故に、彼女の持つそれは格別に優秀で有能で、だからこそこうして、香月夕呼の下に就いていられる。

 霞自身はこの『能力』を疎ましいとも望ましいとも感じていない。産まれたその瞬間から既に身に備わっていたのだ。最早それは彼女にとっての当然であり、自然であり…………だからこそ、それが他者にとっての不自然で脅威で畏怖の対象となり得るのだと知ったとき。彼女は初めて己の『能力』を呪った。

 だが、いくら「呪わしい」と嘆いたところで、ではそれ以外に自分に何か他者より秀でているモノが在るかといえばそんなモノは無く……。

 そして、今尚その『能力』こそを必要とされこの場に居る自分……ああ、それが運命なのだと自身を納得させても……それでも、矢張り胸が痛む。苦しく、哀しい。

「白銀さん…………」

 思い出すのは二日前。夕呼の研究のために呼び出された少年。あの人にとっての特別な存在。「S」ランクの戦術機適性を持つ、衛士訓練兵。――白銀武。

 彼を思うと、ズキリと心臓の横が啼く。あの人を思うと、ズキリズキリと心臓の横が啼く。

 どうしてだろう。ただ、哀しいと感じてしまう。あの人の心を覗くたび……彼の心を覗いたとき。その深い暗黒に、ただ、涙が零れてしまう。

 できるならば、もう二度とそんなことはしたくない。だが、それが夕呼の命令であり、そしてそれを実行するのが霞の存在意義である以上、……彼女は拒むことなど出来ないし、実行しないという選択肢など消失する。

 霞は目の前のシリンダーをじっと見つめた。

 青白い光を放つ円筒形のシリンダー。こぽこぽと小さな音を立てて循環する液体の輝きに照らされて、銀と黒を纏う少女は静かに口を開いた。

「今日も、また、会えますね……。今日は、たくさん、お話……したいです」

 話しかける。シリンダーに。そこに浮かぶ「脳ミソ」に。脊髄がくっついているだけのそれに。まるで標本のようなそれに――話しかける。

 まるで、ソレが「生きている」とでも言うかのように。

 何度も、繰り返し、話しかける。……無表情に、けれど、どこか哀しげに。

「…………会いたいですか……? 会えますよ。もうすぐです。……今は、香月博士のところです。すぐ、ここにやって来ます……」

 話しかける。「脳ミソ」に話しかける。霞はじっと見つめたまま、何度も何度も。

 無論、「脳ミソ」から返事が在るはずが無い。当たり前だ。それは「脳ミソ」であって口ではなく、舌も喉も無い。もし仮に、例えばその「脳ミソ」が「生きている」のだとしても……霞の声が聞こえるわけでも、それに対して返答できるわけでもない。或いは、目の前に立つ霞すら見えることもない。「脳ミソ」と脊髄。ただそれだけなのだ。

 見えず、聞こえず、喋れず……。そんな「脳ミソ」に。けれど霞は話しかける。その声を聴く。――会話するように。何度も。何度も。

 ――それこそが、霞の『能力』だ。

 与えられた『能力』は二つ。リーディングとプロジェクション。それは相手の思考を読み取り或いは投影する『異能』。

 霞はソレを使う。使うことを義務付けられている。他者の思考を「イメージ」として、感情を「色」として読み取る『能力』――リーディング――に依って「脳ミソ」の思考を読み取り、理解する。それが彼女に与えられた任務であり、至上命令。彼女がここに居る理由。

 つまり。

 そう、つまり。この「脳ミソ」は比喩でもなんでもなく……「生きている」、のだ。

 思考を持ち、感情を持ち……。生きて、「会いたい」と願っている。

 霞が読み取れていることはただそれだけ。この「脳ミソ」と出逢ってからもうすぐ一年が経過する。……毎日、それこそ四六時中傍にいて、話しかけて声を聴いて……わかったのはその願いと名前だけ。それ以外の感情は、思考は、全てがぐちゃぐちゃで混沌と混じり合っていて、ひどく寒気のする哀しい暗黒。意味在る言葉は拾うことが出来ず、ただ混沌の渦が巻いている。

 埒が明かない。夕呼はそう言った。「脳ミソ」の記憶が欲しい。この「脳ミソ」の持ち主が見て、聴いて、体験したことを知りたいのに……それを、それ以外の事象すら、読み取ることが出来ていない。だから、――埒が明かない。

 そんな折だ。この横浜基地に彼が現れた。――否、それは最初から仕組まれていたことだ。その仕組まれたレールの上に、偶々、本当に偶然に、彼がいたのだ。夕呼は驚喜しただろう。こんな偶然、恐らく他にない。

 そして霞には新たな任務が与えられた。

 彼の記憶に在るあの人のイメージをリーディングで読み取り、それを「脳ミソ」にプロジェクションで投影する。「脳ミソ」は与えられたイメージを認識し、恐らくは自身という存在を認識し、思い出し……そこから記憶を読み取る。

 やることは変わらない。

 ただ、そのための手段が一つ増えたというだけだ。

 霞は他者にない『能力』を以って武の記憶を覗き見る。

 霞は他者にない『異能』を以って「脳ミソ」の記憶を覗き見る。

 ――それが、哀しい。

 自分にしか出来ず、そしてそれは人類にとってとても有益で必要で重要なことなのだとわかっていても。それでも、矢張り心が痛む。心臓の横が啼き声を上げるのだ。――痛い/哀しい。

「……わたしは、とても酷いことをしていますね……白銀さんを、あんな風に苦しめてしまって…………」

 眼前で発狂した武。

 自分の『能力』が引き起こしたそれに、霞は自責の念に駆られている。

 リーディングという『能力』は、その者の表層意識に在るものこそを読み取りやすい。対象のその時の感情や思考、そういったものほどより明確に、そして簡単に読み取り、理解することができるのだ。

 故に霞は、武の記憶からあの人のイメージを読み取るために、色々な質問をした。彼があの人のことを思い浮かべるような話題を探して、話して……聞いて。そして、霞自身が知りうるあの人のイメージをプロジェクションによって投影し、強制的にその記憶を読み取ろうとした。――してしまった。

 結果は酷いものだった。

 確かに彼は、あの人のことを思い浮かべた。否、それは明確にはあの人のことだけでなく、信じられないほどの黒い感情に塗り潰された自身の慟哭。己に対する罵倒と嘲笑、諦めと絶望の坩堝の端々に、あの人の姿が見えた。

 霞はその小さな断片のイメージを即座にリーディングし、リアルタイムに「脳ミソ」へプロジェクションした。……それによって、「脳ミソ」に何らかの反応があると期待して、確信して、そう願って。

 結果は、酷いものだった。

 …………とても、酷いものだったのだ。

 あの人は、「脳ミソ」は。劇的な反応を見せた。ただの一瞬。刹那の時間。武と霞と「脳ミソ」と。リアルタイムに情報のやり取りをするために接続していた意識の束。それが直結されていたその瞬間の、本当に、ただそれだけの時間。







 ――タケルちゃん!!!!!!!







 その思考が、イメージが、叫びが、懇願が、絶叫が、悲鳴が、歓喜が、恐怖が、祈りが、願いが、絶望が、怒りが、嗚咽が、憎悪が、涙が、悦びが――――全部全部、ぐちゃぐちゃの滅茶苦茶の、そんなものが。

 霞自身、意識を持っていかれそうになった。全くに予想していないその超反応に、彼女は心身が一瞬だけ凍結してしまって……故に、それを投影してしまっていた。武に。繋いだままの彼に。

 霞の『能力』を介して、「脳ミソ」と武は繋がった。繋がってしまった。――イメージが奔流する。

 武の精神は砕けた。

 それは一時的なものだったけれど。もし、もしも……あの人の思考がそれに留まらず更なる混沌を吐き出していたなら。或いは、彼の精神構造がほんの少しでも脆かったならば。

 それを考えると恐ろしい。恐怖が、霞を襲う。縛る。もう嫌だと弱音を吐かせる。

 結果は、酷いものだった。

 あの人はまた意味のない混沌の思考を繰り返し。その中で矢張り「会いたい」とだけ願い続けている。

 武は……幸いにして精神や肉体に支障はないものの……この実験を続ける限り、いつ精神崩壊を起こし、狂い死ぬかわからない。

 だが、夕呼は言った。言ってのけた。

 成果は上々――例え発狂しようが精神崩壊しようが――そう、言ったのだ。

 確かにそうなのかもしれない。ただの一瞬とはいえ、あの人は反応を見せたのだ。これまでにない反応を。壊れんばかりの想いを。叫びに叫んだのだ。

 ならば、この実験は続ける価値が在る。否、続ける以外に選択肢はない。

 そのために武という存在が必要で、霞にしかそれが出来ないというなら。……矢張り、少女はそれを成す以外に道を知らない。それしかない。

 プシュゥ、と軽い音を立ててドアが開く。見ればそこには白衣を着た夕呼と、青いジャケット姿の武。

 ――さぁ、始めましょう。

 結果は見えている。多分、きっと。今日も。

 ごめんなさい。ごめんなさい。わたしはきっと、とても酷い女です。だから、ごめんなさい。…………でも、決してわたしを赦さないでください。

 霞は眼を閉じて、まるでおまじないを唱えるように心中で謝罪する。

 目を開き、まっすぐに武を見る。――貴方を、あの人に会わせてあげます。

 それが、自分に課せられた運命というのなら。







 ===







 二度目の呼び出しを伊隅みちるは受けていた。前回も、そして今回も。偶々隊内の訓練が終わり、自由な時間を過ごしていたからいいものの、これが例えば訓練の最中であったり任務の最中であったりしたならば…………いや、矢張りそういう類に依らず、みちるは溜息を吐かずにはいられない。

 自分は便利な運搬屋か――?

 ふと思いついた揶揄に皮肉な笑みが漏れそうになるが、しかしみちるは表面上はいつもの彼女のとおりに通信を終える。こんなことを、ピアティフに言っても仕方がないし、意味がない。なにより、直属の上司である夕呼からの呼び出しなのだ。本来ならば何をおいてもそれを優先するのが当然であり軍人としての義務である。訓練中だろうが任務中だろうが、夕呼がそれが必要と判断し、来いと命じるならば、行かねばならない。

 自機の不知火の調整について整備班長と打ち合わせていたがそれを打ち切り、班長には後日改めて、と謝罪する。いかにも技術者といった風体の老人は快活に笑い、あんたみたいな美人ならいつだって歓迎だと軽口を吐く。みちるはそんな彼に苦笑して、格納庫を後にした。

 向かう先はB19フロアに直結するエレベーター。居住フロアやブリーフィングルームの連なる階層へと繋がる通常のエレベーターとは異なる、高度なセキュリティで守られたそれ。入口にあるID認証機に慣れた手つきで自身のカードを通す。

 コォォ、というごく小さなワイヤの擦過音を聞きながら、みちるはさて、と考える。

 今回の呼び出しはどういう内容だろうか。恐らくは前と同様に、あの部屋で少年が倒れているのではないか。否、そうに決まっていた。

 呼び出し方も同じなら呼び出す場所も同じ。夕呼の執務室の隣りに在る「脳ミソ」シリンダーのあの部屋。……ならば、またそこで特殊な検査、或いは実験・研究というべきものが行われ…………検体である「S」ランク適性を持つ彼の訓練兵が意識を失って倒れているのだろう。

 正直に言って、みちるにはいい迷惑だ。

 夕呼の下に就いて既に四年。その間に天才と名高い夕呼の性格は十分に承知しているつもりだ。基本的に傍若無人。不遜で尊大で圧倒的。みちるの中で、夕呼という存在を端的に表すならばそういう人物になる。あながち間違ってはいないだろう。みちるは二度目の溜息をつく。

 要するに、彼女は他人を振り回すのが好きなのだ。自分の手の平の上で他者を転がすのが何よりも楽しく愉快で、それに多くの者を巻き込むことを望む。

 無論、単なる娯楽家というわけではない。

 まがりなりにも副司令。物理学者、科学者として大成し、軍人でないにも関わらず極東最大の国連軍基地の副司令を任されている。それは、この基地の存在そのものが彼女の研究のために用意されたに等しいという裏の事情によるところも大きいが、それ以上に、香月夕呼という存在は、矢張り凄まじいほどに優秀なのだという証明だ。

 仕えるに相応しい。少なくともみちるにとってはそう思わせる人物なのである。

 だからこそ、こうして溜息を吐きつつも、命令だからと納得しながらも、それでもやっぱり今後もちょくちょく呼び出されるようなことになれば……遣り切れない感情にがくりと肩を落としたくもなる。

 これが例えば部下の木野下や速瀬あたりに任せられるなら、みちるの苦労もなくなるのだが。

 そんなことを思いつくも、そもそも「S」ランク適性を持つ衛士の存在自体が現状においてかなり高位な機密情報であるために、矢張り自分が行くしかないという結論にたどり着く。実に不毛な思考だった。

 そうこうしている内にエレベーターは停止し、ドアがスライドする。歩きなれた廊下を行き、そしてみちるは、再びその光景を目にした。

 青いジャケットを着た訓練兵が、少年が、うつぶせに倒れている。前と同じだ。一体どれ程過酷な実験が行われたというのだろう。みちるは少しだけ眉を寄せて、自分が考えることではないと首を振る――振った先に、前回とは違う光景を見つけた。

 倒れている。

 白銀武訓練兵ではない。――少女だ。社霞。夕呼の下で彼女の研究をサポートする……夕呼をして「特別な存在」と言わしめる少女。

「社ッ?!」

 思わず、声に出して駆け寄っていた。蹲るように倒れている少女に寄り、ざっと全身に眼を通す。主だった外傷はない。頭部を強く打ったのか、軽い脳震盪を起こしているらしい。呼吸は正常。脈拍にも異常は見られない……みちるはほっと息をつく。さて、一体これはどういうことだろうか。

 疑問に思ったみちるは周囲を観察する。部屋の中央辺りに倒れている訓練兵。壁際に倒れていた霞。……どうやら検査に使っていたと思しき機器からは火花が散っている。夕呼の姿がない。それに気づいた時、みちるの脳裏にテロリズムによる暗殺という想像が巡る。

 まさか! そう思い立ち上がった瞬間に、ドアがスライドする。鍛え上げてきた衛士としての本能が脊髄反射を起こし、そこから現れた人影に飛び掛る――銃を持ってこなかった――己の怠慢に毒づきながら、しかし彼女は獰猛な黒豹の如き俊敏さで人影の腕を取り、捩じ伏せようと――、

「ぇっ?! ちょ、伊隅ッッ!!??」 「――――はぁああ! …………ぁ?!」

 ぐるん。

 掴んだ腕を支点に、人影が回転する。完全に極まっていた。だが、その寸前にみちるは見た。そして聞いた。

 現れた人物は香月夕呼その人であり、彼女は暗殺されたわけでもなければテロリストが侵入したわけでもなく――ッ。







「も、申し訳ありませんっ、香月博士ッッ!!」

「…………べつにぃ、もう全然気にしてないんだけどねぇ……まぁ、生まれて初めて世界が回転する気分を味わったわけだし。これはこれで貴重な体験よねぇ…………」

 執務室、いつもの椅子に腰掛けた夕呼はとてつもなく不機嫌そうな顔で、しかし如何にも「気にしていない」と言いたげな口調で言う。事務机を挟んで夕呼と対峙するのはひたすらに頭を下げるしかないみちる。彼女らしからぬ早合点の結果だった。

「……ま、それだけあんたが私のことを気に掛けてくれてるってことよね。でもまぁ、らしくないわね伊隅。いくらなんでも、いきなりテロはないんじゃない?」

「は、返す言葉もありません。香月博士……本当に、申し訳ありませんでした」

 一転、からかうように頬を歪める夕呼に、しかしみちるはどこまでも真面目な顔だ。当たり前である。勘違いの挙句に副司令を投げ飛ばしたのだ。技をかける瞬間にそれが夕呼だと気づいたからこそ威力を殺すことも出来たが、これが例えば全くに気づかなかったならば、恐らく夕呼は今頃ベッドの上だ。

 熟練衛士の手加減無しの一撃を受けて、無事でいられるほど夕呼は鍛えてなどいない。今彼女がこうして自身の椅子に座り、部下であるみちるを弄くることができるのも、みちるの手加減があったこそだ。もっとも、だからどうしたということでもなく。

 事実として副司令を投げ飛ばしてしまったみちるは、今日ほど己の迂闊さを恥じたことはない。普段の彼女ならばこんな短絡的な思考に到ることはないだろう。状況をろくに確認しないまま、ごく僅かな情報でことを判断するなど愚の骨頂。――ならば、何ゆえにみちるは愚かしくもその行動に到ったか。

 理由としては、恐らくはあの部屋だ。

 内容も何も知らされていない実験。倒れていた訓練兵。傷ついていた霞。姿のない夕呼。――ただそこに在る、「脳ミソ」。

 いつもとは異なる条件が揃っていた。得体の知れないもの、理解の及ばないもの、というものは得てして混乱を、そして恐怖を呼び起こす。今回のみちるにとってのそれらはつまり武であり知らされない実験内容であり「脳ミソ」だ。だが、それだけならば彼女も狼狽しないだろう。前に一度見ている。前はこんなことにはなっていない。

 ならば、それに付随する条件として気を失った霞と、姿のない夕呼――が大きく影響していた。

 夕呼自身、そんなみちるの心情は理解している。部下の思考など読めて当然。夕呼はそういう面でも天才的だ。……だからこそ、わかっていて敢えて弄くるのが愉しいのである。また、堅物で通っているみちるのこのような失態は珍しい。これはいい話の種になるだろう。今度みちるの部下にも聞かせてやろう。夕呼は益々口端を吊り上げた。

 そんな夕呼の暗黒的思考に気づいているみちるは、苦々しい表情をしながらも全面的に自分が悪いので何も言えない。人間、諦めが肝心とは誰の言葉か。今日このときほどその言葉の重みを感じたことはあるまい。みちるは盛大に溜息を吐いた。

「ま、それはもういいわ。……で、伊隅」

「ハッ! 白銀訓練兵を上へ運んでまいります」

 そうして頂戴。夕呼は言い、椅子から立ち上がる。直立不動のみちるの横を通り過ぎ、奥に通じるドアを開け――そこは寝室になっている――ぱたりと閉じるドアの音がして、夕呼は見えなくなった。

 霞の様子を看るのだろう。軽い脳震盪を起こしていた彼女は、現在夕呼の寝室で休んでいる。別段これといった怪我もなかったためだが……頭部を強く打っているのだ、みちるとしては彼女も医療棟へ運んだ方がいいように思えるのだが……。

「……それが出来れば苦労はしない、か」

 言ってしまえば、彼女は「歩く機密」だった。そんな存在を連れて基地内を歩き回るわけにも行かず……それに、夕呼も少なからず医療の心得があるとか。確か姉が医者なのだと言っていたような気もする。

 そんな取りとめもない思考を一旦中断し、己に与えられた任務を果たすべく部屋の端に置かれたソファを見やる。

 気絶した少年。前回はまるで寝ているように穏やかな様子だったが……今回は少々事情が違うようだった。時折苦しそうに呻き、全身から冷たい汗を流している。――まるで悪夢にうなされているよう。右の拳には包帯が巻かれ、そこから赤色が滲んでいる。損壊した機器の火花は、つまりそういうことだった。

 みちるは真剣な表情で少年の身体を抱える。両腕を身体の前に回して、背負うように。

 両肩に、ずっしりとした重さを感じて。背中に、鍛え上げられた逞しい筋肉の感触を感じて。――これほどの者が、こんなにも。

 以前にも感じた、戦慄に似た思考がみちるの体内を巡る。

 知ることなど許されていないと承知しながらに……けれど矢張り、その思考は止められない。「S」ランクの適性値。その驚異的な数値の正体。秘められた可能性。興味は尽きない。……そして、その尽きることのない興味こそが、恐らく彼をこれほどに苦しめている。

 ひょっとすると自分は、そして夕呼は……。検査と称する人体実験の果てに、この有望なる衛士候補生の光を潰してしまうのではないか。

 その想像を、振り払う。――そんなわけがない。夕呼がそのような無体をするはずがない。これは、人類の希望を、悲願を達成するための任務なのだ。その一つなのだ。みちるは自身に言い聞かせるようにして、執務室を出る。

 向かう先は医療棟。先日と同様に医療班へ引き渡し、その後に彼の教導官である神宮司まりもに連絡を入れる。

 まりものことを思い浮かべて、またもみちるは苦々しい思いを抱く。夕呼が武に対して何らかの実験を行っていることはまりもも無論承知している。だが、それは恐らくただ「承知している」だけで、本心から納得しているわけではないだろう。まりもをよく知るみちるだからこそ、彼女の優しさを知る自分だからこそ、それが容易に想像できる。

 かつての教官であり同じ戦場を共に駆けた戦友である彼女に……みちるは申し訳ない思いとそうせざるを得ない自分達の立場を、少しだけ、哀しいと感じてしまった。

「莫迦なことを……ッ」

 くだらない感傷だ。つまらない同情だ。これは戦争で、戦争を終わらせるためにはどんな小さな可能性でも拾い上げ、磨きぬかねばならない。武の持つ異常なまでの戦術機適性の真実が解明されたならば、きっと人類にとって、衛士にとってプラスになるだろう。

 顔を上げ、前を向く。

 そこには戦士の顔があった。







 速瀬水月は走っていた。それは息を切らせるような疾走というわけではなかったが、どこか様子がおかしい。まろぶように足を出し、目はどこか踊っている。混乱と困惑と、微かな焦燥が、そこにはあった。

 水月はみちるを探している。

 格納庫で整備班長と話していたはずだとそこへ向かえば、腕も良ければ口も巧い初老の男に副司令からの呼び出しで出て行ったと言われた。ならばとこうしてエレベーターへと向かっているのだが……。

 水月の所属するA-01部隊は副司令直轄。夕呼お抱えの特殊任務部隊で在るがために、部隊員は全員がB19へのセキュリティ権限を付与されている。無論、だからといって気軽にB19フロアへ行っていいというわけではなく、あくまで緊急を要する事態に備えての処置である。

 それを重々承知していながらに、しかし水月は初めて、自らの意思でそのエレベーターの前に立った。隊長であるみちるに付き従ってB19フロアを訪れたことは何度かある。しかし自分独りで、となるとどういうわけかこれが緊張してしまう。IDカードを握る手に汗までかいていた。

「――っ、なっさけないわねぇ私も」

 うへぇ、と小心者の自分に辟易しながら、認証機へカードを通す――までもなく、ポン、と電子音がしてエレベーターがこの階に到着したことを知らせる。

 なんとタイミングのいいことか。水月は一旦入口から離れ、恐らくは出てくるだろうみちるを待ち構えるように姿勢を正した。できるだけ平静を装う。みちるは驚くかもしれないが、しかしこっちだって相当の覚悟を持っている。

 そもそも、どうして水月がみちるを探しているかといえば、これは十数分ほど時間を遡るのだが……要するに、木野下中尉が思わず零した軽口に起因する。

 来月には補充される新任衛士たち。今現在当横浜基地で戦術機操縦訓練課程をこなしている十二名の訓練兵。例によって水月たち同様に元は帝国軍横浜基地衛士訓練校、つまるところのA-01部隊専門の養成部隊に所属していた少女達。彼女達が訓練校を卒業し、任官するのはいい。そしてその先がA-01部隊だということも承知している。

 だが、問題はそこではなく。

 ――たしか次の小隊長はお前だって言ってたぜ。頑張れよ、“中尉”殿。

 木野下はそう言った。まだ少尉階級の自分に、あろうことか副隊長の彼女が、笑いながらそう言ったのだ。

 水月にはそれが信じられなかった。またいつもの木野下の冗談だと思っていた。――なのに、口調こそいつもの軽口だが、その瞳は真剣なものだった。

 ならば、水月は中尉へと昇進し、配属された新任衛士共をまとめる小隊隊長となるのだろうか。……かつての相原のように、突撃前衛長という栄誉ある一角を任されるのだろうか。

 ……それを誇らしく思うよりも先に、水月は不安を覚えた。

 もし、それが本当なのだとして……ならば自分は、果たして相原のように、彼女のように在ることが出来るのか。

 知らぬ間に、水月は駆けていた。

 いつもの自分とはどこかズレている感覚を感じながら、まろぶように駆けていた。

 そして、目の前には今まさに開こうとしているエレベーターのドア。みちるが出てくる。スライドしたドアの向こうに、彼女の顔を見た。

 ――どぐん。

 水月は息を詰まらせる。

 言いようのない焦燥と混乱が彼女を縛り付けた。――あれ? なんで自分はここにいるんだ?

 そんな空隙が水月を襲い、それ故に混乱は拡大し、不安だけが増長した。

「ん? 速瀬か。なにをしている?」

「た、大尉……ッ、わ、たし、はっ……」

 声が上ずる。果たして、何を言えばいいのか。――本当に自分が小隊長に?

 みちるの口から聞いたわけでもないそれを、口に出来るわけがない。否、それを聞いたみちるが是と答えるのが怖いのだ。――怖い? どうして?

(だって…………相原中尉はッ…………!!)

 ギチリ、と水月は心臓が鳴るのを感じた。全身に緊張が走る。不自然なまでに揺れる瞳はみちるを見ておらず、ただ内面に向けられて。

 ここに来てようやく、水月は自身が一体どんな衝動に駆られていたのかを知る。

 かつての自分の上官。A-01部隊の副隊長。突撃前衛長にしてB小隊の小隊長。自身の憧れであり尊敬する先達であり……目標だったその人。水月の想い人であった鳴海孝之を導き、彼の死に誰よりも己の無力さを嘆いていた彼女。絶対に部下を死なせはしないと壮絶なまでの覚悟の果てに散った、英霊。

 その最期を、その背中を、思い出した。

 思い出して、怒涛に迫るBETAの群れに消えたその姿を思い出して、通信が切れた瞬間の音を、反応が消えた瞬間の冷たい感覚を、込み上げた恐怖を、哀しみを、――思い出していた。



 もうあんなことはごめんだ



 最期に聴いた相原の声。まるで泣いているように叫んでいたその声。

 思い出す。思い出して、理解する。

 ああ……自分は、怖いのだ。相原のように死ぬことが。彼女のように絶えることが。誰かを護り、誰かのために逝くことが。

 否、そうじゃない。

 自分の手の平から、指先から……誰かが零れて喪われることが、怖い。

 小隊長になってしまえば必ず部下がつく。その部下を、自分は果たして護りきることができるのか。喪ったそのとき、一体自分はどうなってしまうのか。――孝之は死んだ。なら、相原はどう思った?

 自分の部下の死に、その幻影を払うことが出来ず……相原は彼女の心情に従って部下諸共に散った。その決断が、自分に出来るのか。

「……? 速瀬?」

「――ッ、ぅ」

 心臓が大きく跳ねる。目の前にはみちる。心配そうにこちらを見つめている。――ああ、大尉っ。

 怖い。恐ろしい。想像するだけでこんなにも辛い。

 実戦を経験して、そして生き延びたからこそわかる。――これが、戦場の恐怖なのだ。

 自分が戦って死ぬことよりも何倍も何十倍も、自分の目の前で誰かが喪われることの方が怖い! しかもそれが、自分の部下だとしたら? それは、果たしてソレは一体どんな恐怖と絶望だというのだ。

「ぁ、ぁ、」

 言葉に出来ない恐怖が、水月の喉を震わせる。救いを求めるようにみちるの目を見て、けれどそんな弱い自分を晒すことが怖くて……逸らした視線の先に、それを、見た。

「――――――ッ」

 思考が白熱する。木野下から聞かされた話も、全身を縛っていた恐怖も、瞬間に何もかも掻き消えてなくなった。

 驚愕。

 その感情のみが、水月を支配する。

「たけ……るッ」

「なに?」

 当惑するみちるなどまるで意識に入っていない。水月は弾けるようにみちるに背負われた少年を奪い取り、自身の腕に抱いた。

「武ッ、武ゥッッ!!??」

「なっ、おい、速瀬っ」

 混乱する。困惑する。なんで、どうして、そんな思いが水月の思考を凍らせる。

 意識を失っている。こんなにもたくさん汗をかいて……苦しそうに、うなされている。何があった? 何があった? 一体武に、何が――?!

「ぉ、落ち着け速瀬! この、何だというんだまったくっ!」

 耳元で叫んだみちるの声に、ハッと我に返る。見ればどこか不機嫌そうな表情の隊長殿。少し赤くなった手の甲をさすり、じっとりと水月を睨んでいる。――ぇ?

「わっ、わぁ! 大尉、どうしたんですかその手!!?」

「…………貴様が引っ掻いたんだろうが。まったく……」

 嘆息しながら水月の正面へと座るみちる。水月の腕に抱かれた武を見下ろして、じぃ~~っと水月を見据えている。

 その視線には「どういうことか説明しろコラァ」とか、なんだかそういう類のねちっこい意思が込められていた。

「ぁ、ぁは、あはははは~! すいません、大尉……。…………って、そうじゃなくてっ!!??」

「なっ、なんだ今度はっ」

「なんだじゃないですよっ、大尉! なんで武がここにいるんです!? しかも、こんな……気を失って……このエレベーター、大尉に背負われて、なんて……」

 問い詰める口調は次第に小さくなり、まるで泣いてしまいそうなのを堪えるように沈んだものとなる。そのあまりにも儚げな様子に、みちるは一つのことに思い至った。

 水月は少年の名を呼んだ。武――と。そうか、彼が、そうなのだ。

「そうか……貴様に年下の恋人が居るとは聞いていたが……そうか、この者が……」

「――――は?」

「済まない。私にも詳しいことは聞かされていないんだ。ただ、香月博士の研究のために、彼が必要なのだとしか言うことができない」

「え、いや、ちょっと大尉?」

「……まさかこんな形で恋人と再会することになるとはな。……まったく、これも運命の皮肉というヤツか。……しかし速瀬、案ずることはないぞ。この程度の困難があった方が、愛情も燃え上がるものだ」

「愛情って……ちょっとちょっと待ってくださいよ大尉ィ!!?」

「…………なんださっきから喧しいヤツだな。……ふむ、そうだな。折角の再会を邪魔するのも悪い。速瀬、白銀を医療棟まで運んでやれ。どうせならそのまま看病してやってもいいぞ。今日の訓練はもう終わりだからな」

 そう言って、みちるはスタスタと去っていく。後にはどこか放心した様子の水月が、あれぇ、とか、ちょっとー、とか。何事か呟いていたが……みちるにはそれは聞こえない。

「……ぇ? あれ? 結局どういうわけ?」

 呆然と。ただ腕の中でうなされる武を抱いたまま。

 小隊長となる不安も、部下を喪ってしまうのではという恐怖も、どうして武がここに居て気絶しているのかも、そもそも年下の恋人って誰に聞いたんだとか……諸々の疑問は一切解消されることなく。

 けれど武を早いところ医者に診せた方がいいというのもまた事実。混乱する頭と迷走する感情をそのままに、水月は、実に一年ぶりに感じる武の体温に、胸が熱くなるのを感じていた。







 容態は落ち着いている。ただ、眠るように気を失い、悪夢にうなされるように苦しんでいるだけだ。

 外傷は右拳に裂傷と軽度の火傷が見られたのみ。なにか鉄のようなものを殴りつけたような跡もあったが、骨にも異常はないということで、処置はあっという間に済んだ。

 今は、ベッドに寝かされている。武をベッドまで運んでくれた女性の衛生兵は、彼を見てぎょっとしたようだった。不審に思い尋ねたところ、つい二日前にも同じように気を失って運ばれたのだという。――みちるの手によって。

 水月はその言葉に息を呑む。二日前。みちるの手で。気を失って?

 香月博士の研究のため――みちるの言葉が思い出される。ああ、ならばそういうことだ。武は、何らかの思惑によって……訓練兵でありながら、既にA-01部隊の一員としての任務に就いている。夕呼の研究。その全貌を水月は知りはしないが、任官したその時に聞かされていることでも在る。

 人類の希望、悲願の達成。この研究は、その計画は、ただそれだけのために遂行され、実行される。そしてA-01部隊は、それを提唱し、研究する夕呼のためにある。

「武……あんた一体、何やってんのよ……」

 うなされて、時折身悶える少年を見る。額に浮かぶ汗を拭いながら、そんな風に苦しむ彼を見たくないと思った。

 眼が覚めたならば、彼が一体どんな研究――恐らくは人体実験だろうか――を受けているのかを問い質してやろうか。……できるわけもないことを夢想しながら、けれど胸にわだかまりを残す感情に、水月は奥歯を噛む。

 どのような悪夢を見ているのか。

 武は一向に眼を覚まさない。ただ、苦しげに呻き、喘ぐように呼吸を繰り返し、悶える。その様子が、その様が、……まるであの時のようで、水月は哀しくなった。

 折角立ち直ったのに。やっと前を向いて歩き出せたのに。自分が任官するそのとき、あんなにも嬉しそうに笑ってくれていたのに。――孝之の死に打ちひしがれたそのとき、優しく肩を抱いてくれて…………ッ!

「武……ッ、武、眼を、覚ましなさいよ……武ぅぅう、」

 ぎゅう、と。武の左手を握る。握った彼の腕に顔を埋めるように。水月は静かに震えて泣いた。

 思い出してしまう。

 思い出してしまった。

 彼女を喪ったその時を。その時の武を。

 叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで――泣いて、狂って、壊れようとしていた姿を。

 周り全てが敵だと。何よりも護りたかった彼女を喪って、ただ崩壊していくだけの姿を。憎しみに捕らわれ、転がり落ちようとする様を。

 雪の積もった朝。

 柔らかな新雪の白い平原の中で。

 初めて抱いた、抱きしめた、あの震えていた身体を。

 ――もう、そんな風にはさせない。

 こんな風に泣かせたりしない。こんな風に歪ませたりしない。自分が武を支えるのだと決めたそのとき。それが己の運命だと感じたそのとき。

 思い出して、泣いてしまう。

 差し伸べた手を掴み、立ち上がった武。

 照れたように笑って、拗ねたように唇を尖らせる年下の少年。――まるで弟のよう。愛しい、愛しい弟。



「貴様――何をしている」

「…………?」

 ほんの一瞬、眠っていたらしい。気配も何もなく唐突に、背後に誰かが立っていた。かけられた声はお世辞にも穏やかとは言い難く、故に水月は身構えるように振り向いた。

 背後を取られている時点で既に決着はついていたようなものだが、しかし、その人物は厳しい視線を向けるだけで――腰に提げている豪奢な刀を抜くことはなかった。もっとも、今から抜かないという保証はないが。

「斯衛の……ッ、どうして……」

「立て。質問をしたのは私が先だ。答えてもらおう、貴様は何者でここで何をしている?」

 威圧的な視線と存在感。赤い帝国軍の軍服を纏った長髪の女性は、有無を言わさぬ様子で水月に命令する。思わず目をやってしまった階級章には中尉のそれ。逆らう道理もなく、水月は困惑を表情に浮かべたまま椅子から立ち上がる。

「速瀬水月少尉であります。所属は…………A-01部隊です」

「A-01だと? ……そうか、そういうことか。……ッ、」

 横浜基地内においてもその存在はある程度秘匿されているA-01部隊。故に、水月は目の前の斯衛に対して所属を言うのを躊躇った。が、よくよく思い出してみれば現在横浜基地に駐留している斯衛軍といえば斯衛軍第19独立警護小隊のみ。要人警護の任に就く彼女達は帝国城内省から逐次情報を収集し、下手をすれば水月よりも遥かにこの基地の情勢に詳しいかもしれない。

 そういう考えから、結局水月は所属を名乗り、そしてA-01の名を聞いた斯衛の女性士官は想像通りになにがしかの納得を見せた。

 だが、その表情は酷く苦々しい。――と、女性は先ほどよりも更に鋭い視線を向ける。その突き刺さるような視線に思わず怯みそうになるが、こちらも実戦を乗り越えてきた衛士である。如何に上官でしかも帝国軍のエリートとはいえ、視線如きで負けてやるつもりもなかった。――なにより、その高圧的な態度が気に喰わない。まして武の様子が気がかりなこの時に、まるで因縁でも吹っかけるかのような詰問だ。

「私は彼の看病をしています……。機密に触れますので詳細は申し上げることは出来ませんが……任務中に倒れ、意識を失った彼をここに運び、傷の手当ほか必要な処置を済ませたところです」

「…………怪我、だと」

 ハッ、と。女性は武の右拳に目をやり……包帯の巻かれたそこをじっと見て、チラリと水月に視線を送る。

「右拳に軽度の裂傷と火傷が見られましたが、現在は異常ありません。傷も既に塞がっています……ほかに何か聞きたいことはありますか?」

「…………」

 挑むような水月の言葉に、斯衛の女性は黙って彼女を睨みつける。一体なんなのだ。水月は次第にムカムカと膨れ上がる苛立ちを抑えきれなくなっていた。

 この目の前に立つ斯衛の赤はなんだ? 偉そうに高圧的な態度を取って、しかも自分はまだ名乗ってすらいない! こっちは今それどころじゃないというのに!!

「……事情はわかった。ご苦労だったな。後は私に任せて、貴様は任務に戻るがいい」

「――――ハァ?!」

 何かが、切れる音を聞いた。

 突然現れて、突然因縁染みた視線を投げてきて、そして突然、何を言うのかっ。誰が聞いても露骨にわかるほどの苛立ちが、そこにはあった。

「……A-01部隊の特殊性は私とて承知している。故に任務の内容まで問おうとは思わん。だから、貴様もその特殊部隊の一員なら、ここで時間を潰している暇もないだろう。後は私に任せて、部署に戻れ。…………何か言いたそうな目だな?」

「ご心配ありがとうございます中尉殿。しかし、中尉殿に気をかけていただかなくとも、本日の任務は終了しており、既に中隊は待機命令が下されています。……中尉こそ、斯衛としての大変重要な任務がおありなのではないでしょうか? このような些事、私に任せてくれて結構ですので、どうぞお戻りください」

 眼を閉じ、含み聞かせるような斯衛の赤の言葉に、しかし水月は引きつった笑みを浮かべて、それはもう恐ろしい殺気染みた気配を醸し出しながらに反論する。

「ほほぅ? 貴様なかなか面白いことを言うな。些事、か。成程、確かに些事だな。たかが訓練兵がひとり倒れた程度。貴様にとっては些事やも知れぬ。だが――」

「ええええ些事でございますとも。そもそもですね、このような場所に斯衛の、しかも赤服を召していらっしゃる中尉殿ともあろう御方が、一体どうして訓練兵ひとりのためにこんな場所までわざわざやってきてこれみよがしに私に喧嘩を吹っかけてくるのかまったく理解できませんねぇっ」

 ぴきり。

 びきり。

 それは如何なる幻想か。この場に果たして第三者が存在したならば、そのものは見たであろう。

 こめかみに青筋を浮かべた美女二人が、それでも表面上は笑顔を取り繕いにこやかに睨みあうその背後に……水月の背後にはその獰猛な牙をこれでもかと見せびらかす黄色に黒の縞模様。対する斯衛の女性の背後にはうねる荒波を幾条も立ち上らせた空を舞う赤い鱗。

 竜虎相見える――。

 冗談でもなんでもなく、そこには伝説上の光景が描かれていた。

「ふ、ふふふふふ」 「あはははははは」

 ゴゴゴゴゴゴ……まるで地を震わせるような恐ろしいまでの闘気、そして怒気。一触即発なその空気を霧散させたのは――傍らに眠る少年が漏らした、掠れ声だった。

「すみ、か……ぁ、ァ、がっ、すみか、ぁ、」

「!!??」 「白銀……?」

 バッ、と。水月は弾けるように武へ振り向く。斯衛の女性はその武の様子に、そして何よりも水月の動きに困惑しているようだ。

「武? 武……っ」

「ぁ、あぁぁっ、が、ぁ、ぁあああ! やめ、ろ、やめろ、やめてくれっ、ぅっぁ、ぁあ、すみか、すみかがっ、ぁぁあああああ、おや、じ、かぁ、さんっ、ああ、あああ、うぅああああ、――――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ、うぅうおオアアアアアアアアアアアあっッッ!? 純夏ッ、純夏ァァアア!! やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめてくれぇぇぇぇえええええッッ!!」

 バタバタと、ベッドの上で武はのた打ち回る。眼を閉じたまま、口角に泡を撒き散らしながら。腕を、脚を振り回し、酷い汗を浮かべて、絶叫し、身悶える。

「武ッ! 武、武ゥッ、武、武!! 大丈夫だから、私がいるからっ、もう大丈夫だから、何も怖くなんかない。怖いことなんてない! 大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫だから……私が、いるからッッ、武ッッ!!」

 暴れ狂う武を、その身体を、殴られ、蹴られながらも。水月は強く抱きしめる。尚も叫び狂ったように絶叫する武。どうしてこれで眼を覚まさないのかと恐ろしく思えるほどの狂気がそこにあった。

 水月は武を抱きしめる。強く強く抱きしめる。

 いくら殴られてもいい。どれだけ蹴られたっていい。武は、自分が護るのだ。自分が支えて、傍にいるのだ。――だから、どうなってもいい。

 ああ、武。武。武。お願いだから、眼を開けて。落ち着いて。大丈夫だよ。大丈夫だから。だって、あんたはちゃんと立ち直ったじゃない。あんたはちゃんと前を向いて歩けたじゃない。……ね、そうでしょう武。

「っ、ぅ、あ、あっ、……ぁ、……………………」

「武…………」

 やがて、まるで嵐のような狂乱は鎮まった。水月は安堵する。相変わらず武は眼を覚まさないが、それでも……浮かんでいた汗は止まり、穏やかな寝息が聞こえてきた。もう、大丈夫だろう。

 ふ、と小さく笑って……その笑みが、どうしてか涙を堪えているように見えて……斯衛の女性――真那は、口を開く。

「貴様は、白銀を知っているのか……」

「…………ええ。多分、中尉よりは」

「……どこまでも張り合う気か貴様は。まぁいい。……そうか。しかし、ならばいい。…………そういえばまだ名乗っていなかったな。私は月詠真那。――白銀は私の大事な弟子だ。くれぐれも頼むぞ」

 え? 水月が振り向いた時には、既に真那はいなかった。ただ、ゆらりと揺れるカーテンの端が、彼女の名残を知らせてくれる。

「――は、あははっ。弟子、ね。あははははっ」

 成程。そういうことならわかる。要するに、彼女と自分は同じだったのだ。

 大切に思う少年を案じて、ここまでやってきたのだ。ははは、悪くない。こんな気分も、悪くなかった。

「武……あんた、しっかりしなさいよね。いつまでも昔のこと、ウジウジ引き摺ってんじゃないわよ……」

 囁いて、もう一度だけ武の身体を抱きしめて。



 そして水月は決意する。もう一度、かつてよりも強い想いを胸に秘めて。

 白銀武を、支えてみせる。折れそうになる彼を、その心を、誰よりも傍で。誰よりも近い場所で。――そう、誓う。







「スミカ、か。…………確か、前にも同じ名を呼んでいたな……」

 病室を出て、白い天井を見上げて呟く。耳に残る絶叫。狂ったように、叫んでいた。やめろ、と。もうやめてくれ、と。繰り返し叫び、呼んだその名。スミカ。

「貴様の心は、まだまだ見えぬ……か。私も未熟だな」

 真那は眼を閉じて――そして、誓う。

 深く息を吸い、ゆっくりと目を開いて。宣誓する。それは彼女の魂からの声だった。

「白銀。貴様を強くしてやる。何よりも、誰よりも。貴様を強く、鍛え上げてみせる。……貴様がどれほどの業を抱え、どれほどの過去を抱えていようとも、それに潰され、歪まされることのないくらい……私の全てを以って、貴様を導いてみせる」

 強い、瞳だった。

 真那は自身の言葉を噛み締めるように胸に仕舞い……近づいてくる気配に視線をやる。そこには先日のように慌てふためいた様子の207訓練部隊の少女達。敬愛する冥夜の姿もそこに在る。――だが、

「そこで止まれ」

「「「!??」」」 「月詠ッ……中尉、」

 毅然と言われ、怯んだような少女達。当惑する冥夜の視線が心苦しい。けれど。今、中には水月がいる。……恐らくは、自分と同じ想いを抱いているだろう彼女。それを邪魔するつもりはなかった。

 困ったような笑顔を浮かべる真那に、茜たちはどきりとする。大人の魅力の中に浮かんだ子供のような、どこか嬉しがっている様子。その微笑みに、そこに秘められた想いに……誰も声を発することが出来なかった。



 2000年7月7日――







 その日、彼女達の運命が、巡る。







[1154] 復讐編:[七章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:f0c19a34
Date: 2008/02/11 16:19

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:七章-01」





 2001年05月――







「何やってんだあいつらッッ!?」

「白銀ッ、ここはもう駄目だッ、撤退する!」

「――チッ! B05ッ、聞こえるか珠瀬ッッ」

『こちらB05ッ! ――白銀さん、そこはもう囲まれてますッ、援護しますから早く退避してください!!』

「ああ、そのつもりだっ! タイミングはそっちに任せるッ、――行くぞ、御剣ィ!!」 「了解だッ」

 咆哮するような武の声に、応と冥夜が頷く。這うように駆け出した冥夜を援護するために武は突撃銃を建物の影から突き出して出鱈目にトリガーを引く。つい数秒前まで猛攻に火を噴いていた威嚇射撃がなりを潜めた瞬間をついて、冥夜が隣りの建物へと飛び込み、すぐさま武の援護のために突撃銃を構える。武はそれを確認するまでもなく走り出した。その彼を仕留めるべく遠方の障害物から身を乗り出した多恵の姿に、言いようのない戦慄を覚えるも、しかし後方の壬姫の援護を信じていた彼は迷うことなく走りぬいた。

 どんっ、と壁に背中を叩きつけるように建物へ飛び込む。先に退避した冥夜は硝子の割れた窓から銃口を突き出して牽制のための射撃を続けている。武を追い姿を現した多恵が迫ってくる様子もない。恐らくは壬姫の射撃に追撃を諦めたのだろう。――武は、ほんの一瞬だけ息をつく。

「……くそっ、流石にいい連携しやがるぜ……ッ」

「確かに。前回よりも更に凄まじいな……。涼宮の采配にはつくづく思い知らされる……」

 荒廃した建物の中を素早く駆け抜けながら、武と冥夜は忌々しげに、しかしどこか感嘆と口にする。A分隊の分隊長、涼宮茜。彼女の指揮官としての優秀さはこの一ヶ月あまりで厭というほど思い知らされている。

「とにかく、一旦体勢を立て直すぞ。……こちら06、05、聞こえるか?」

『こちらB05! 二人とも無事ですかッ?』

「――ああ。現在御剣と共に後退中だ。…………榊と鎧衣がやられた。そっちで彩峰は確認できたか?」

『……いいえ、無線で呼びかけてるんですけど…………』

 やられたか。或いは、答えられるような状況にない、か。武は舌打つ。今度こそ本当に、忌々しげに。そんな武の様子に冥夜は沈黙し、しかし二人ともとにかく後方へ移動しようと足を速める。

 こうしている間にもA分隊の連中は追ってきている。先頭に多恵を配置しているということは両脇を固めるのは晴子と亮子に違いあるまい。単独行動で薫、後方指揮に茜、といった具合か。そして、武たちを追うのが多恵なら、彼女達の戦力の半分がこちらに向いていると考えていい。

「榊に彩峰……あいつら、なに考えてんだよ……ッ」

 毒づきながらも、武は警戒を怠らない。扉の前に立ち、周辺警戒。金属製のドアに罠は仕掛けられていないようだ。一気に押し開け、踏み入る。瞬間で状況を確認し――視界の右に映りこんだ刃の煌きに思い切り身をよじるッ。

「――ッッ!?」 「ッ、……ぉぉおお!」

 押し開けたままの扉に背中をぶつけながら、繰り出されたナイフを回避する。迫ってきたのは薫だった。避けられた彼女は右手に握るナイフを牽制に投げつけてきて、自身は突撃銃の引き金に指をかけている。――くそがっっ!

 右足で床を蹴り飛ばす。側面へと跳躍しながら投げられたナイフをかわし、射線上から身を引き離す。ほぼ同時に銃口が火を噴き、逃げる武の動きに合わせてほぼ零距離で薫の容赦ない射撃が襲い来るッッ!

 タイミングで言えば完全に“詰み”だった。これほどの至近距離で銃弾より速く動けるわけもなく、武はコンマの後には炸裂する弾丸に赤色に染め上げられるだろう。――だが、そうはならない。武は一人ではなかった。

 眼前で起こった突然の出来事にも冥夜は冷静だった。いきなりに跳躍してナイフを回避した武を見とめた時点で、迷うことなくアサルトライフルの引き金を引く! 開かれたドアから半身を乗り出して、投げられたナイフの軌道から敵の位置を推測し――そして銃弾は見事薫の手を、脚を、胸を腹を撃ち抜いた。

「――あっっ!!」 「……ッッ、白銀ッ、無事か!?」

 ベシャベシャと液体の散る音。苦悶の声を上げて倒れる薫に構わず、冥夜は床に伏せる武に叫ぶ。

「…………はは、さすがに今のはやられたかと思ったぜ……。助かった」

 肝が冷えたと冗談交じりに立ち上がる武。軽口を叩いているが、しかし冥夜は彼の反射神経に驚愕している。扉の向こうに敵がいることを警戒してはいたのだろう。だが、奇襲を仕掛けてきた薫の初撃をかわしただけでなく、迷うことなく戦法を切り替えた彼女に対して、武はそれをも回避して見せた。……最後の射撃こそ回避不可能な距離とタイミングのもので、冥夜の援護なくして彼の存命はなかっただろう。しかし、それでも、彼自身の凄まじい反射神経とそれを実行して見せた鍛えられた肉体があってこその存命だ。

 それがなければ、彼は最初のナイフの時点で屍と化している。

「しっかし……まさかここで立石が来るとはな……ってことは、やっぱり彩峰もやられたか?」

「……そう考えるしかあるまい。白銀、珠瀬が心配だ。すぐに戻ろう」

 頷く武に、今度は冥夜が前を行く。後方支援を担当している壬姫の装備は遠距離狙撃用のライフルに、近接戦闘用のナイフのみ。これは各自が装備を選択する上で決められていた条件の一つだ。即ち、遠距離戦闘に突撃銃かライフルの二択。近距離戦闘についてはナイフのみ。

 A分隊の中で随一の実力を持つ薫をここで戦闘不能に出来たことが幸いといえば幸いだが……先ほどまで多恵が健在であった以上楽観は出来ない。まして薫がここにいるということは、追撃部隊であった多恵たちが後方の壬姫を抑えるべく動き出している可能性も在るのだった。

 壬姫の射撃能力の高さは十分に理解している二人だったが、反面、彼女が近接戦闘を苦手としていることもよく知っている。無論、それはA分隊の面々も承知だ。特に、前面に出てくるだろう多恵。彼女と壬姫の相性は最悪といっていい。

「築地のヤツ……さっきの射撃で仕留められてなかったら厄介だぞ……」

「確かに。築地のあの動き……何らかの思考のもとに成り立っているのだろうが……」

 その思考が読めないのである。あまりにもトリッキーなその挙動にはこれまでも散々煮え湯を飲まされてきている。思考が読めない以上、多恵に対しては彼女の動きに合わせるほかに対処のしようがなく……どうしても後手に回ってしまう。近接戦闘に持ち込まれた場合、しかも多恵に対する支援が残っている状況で……壬姫が生き延びることの出来る確立は限りなく低い。

 ならば一秒でも早く合流しなければ。その思いが二人の足を急がせるが……恐らく茜もそんな自分達の心理状態を察知しているだろう。壬姫も、自分が狙われるであろう事は承知のはず。……焦りは、禁物だ。

 建物の中を駆け抜け、外に通じるドアが眼に入る。裏口だったのだろうそこには外を窺う窓もなく……仕方なく、再び武がドアノブに手をかける。先ほどのような奇襲は懲り懲りだったので、武はドアを開く前に冥夜に合図を送り、開け放つ瞬間、自身は這い蹲るように身を伏せ――冥夜が襲い来る敵を警戒して突撃銃を構える。

「……よし、居ないな」

「ああ、そのようだ」

 安堵の息をつくも気を緩めたりはしない。冥夜は引き続き突撃銃で周囲を警戒。武もまた身を起こしながらに辺りを見回して――迫り来る悪寒に頭上を見上げる。

 そこには、四階建てのその建物から跳び下りる多恵の姿があった。――な、にっ! 完全に硬直した武目掛けて、ナイフを手にした多恵が降ってくる。――――莫迦な、ありえねぇッッ!?

 だが、そのあり得ない行動こそが多恵の真骨頂であり、八メートル以上ある高さから身を躍らせて無事着地できるほどの敏捷さを有している彼女なればこその攻撃だった。

 回避しようにも見上げてしまったことで行動が一秒遅れてしまっている。落下という自然現象を利用してのその攻撃を避けうる手段など武にはなく、せめてもの抵抗として引き抜いたナイフを――振り上げようとした瞬間に、決着がついた。

「ぐがっっ!!!!」

 ドゴォオッ――。およそ感じたことのないとてつもない衝撃に潰される。硬い軍靴に肩を背中を踏み潰され、衝撃に地に崩れ落ちる。完全に上をとられた状態で、武は首筋にナイフの冷たい感触を覚えて――――。

「ぬぁっ!? …………無念だ、」

 何者かの銃弾に倒れた冥夜を見た。頭上からは「やった!」と快哉を叫ぶ多恵の声。その彼女に応えるように前方の建物から晴子と亮子が姿を見せる。冥夜が撃たれた方向から察するに、どうやら晴子が彼女を仕留めたらしい。

「…………くっそ、これで五連敗かよ……」

「あっはははは、残念だったね~白銀君っ」

「やったやったよぅ! 今日は白銀くんに勝ったもんねッ」

「おめでとうございます多恵ちゃんっ」

 悔しげに地に顔を埋める武に、彼の上に乗っかったまま多恵が嬉しげにはしゃぎ、亮子が朗らかに言う。くすくすと楽しそうに笑う晴子はペイント弾で汚れた冥夜へと歩み寄る。

「あちゃ、少しやり過ぎたかな……ごめんね御剣ぃ」

「……いや、いい。顔面を撃たれなかっただけマシだ。……しかし柏木、相変わらずそなたの射撃は凄まじいな。近距離とはいえ、こうもあっさりと急所を撃ち抜かれては、流石に私も落ち込みたくなるぞ」

 両胸に腹……腹部にいたっては肝臓まで撃たれている。全くに容赦がない。悔しげに唇を尖らせる冥夜に、晴子は持ち前の明るさでからからと笑った。

「ちぇ~っ、結局ウチでやられたのってあたしだけかよ~。くっそ~~、あそこで白銀がちょこまか逃げなけりゃさ」

 武と冥夜が出てきたドアから、冥夜同様にペイントまみれになった薫が姿を見せる。こちらも冥夜に劣らず、それはもう酷い有り様だった。

『こちら20700、模擬戦闘演習を終了する――。全員、所定のポイントへ集合せよ』

 ザッ、というノイズの後、教官であるまりもからの連絡が入る。六人はお互いに顔を見合わせ、駆け足で集合ポイントへと移動する。

「あ~、白銀く~ん。身体変になったりとかしてない??」

「あ? ……ああ、なんか少しだけ肩がイカレたような気もしたけど、……大丈夫みたいだな。ま、念のため後で医療室行って来るわ」

 ごめんねぇ。と項垂れる多恵に、そんな顔をするくらいならあんなことすんなよと突っ込みたくなる武である。名付けて人間爆弾。喰らったのが軍靴でなく彼女のお尻だったら少しは威力も違ったのかもしれない……何の威力だ?



 集合ポイントには既に千鶴、慧、美琴、の三人が揃っていた。武たちに若干遅れて、茜と壬姫が現れる。――なるほど、武と冥夜、高い近接戦闘能力を持つ彼らを確実に仕留めるために、茜単独で壬姫を抑えたのだろう。しゅんと落ち込んだ様子の壬姫を見れば、恐らく一瞬のうちにやられてしまったのではないかと思われる。

「よし、これで全員揃ったな」

 各隊整列し、教官の前に並ぶ。全員を見回して……特に敗北したB分隊の面々をじっくりと見つめて、まりもは口を開く。

「それでは、これより本演習の評価を行う。まずA分隊――」

 今年度に入ってカリキュラムの中心となった模擬戦闘演習。文字通りの模擬戦だが、これはA分隊とB分隊の二チームに分かれ、それぞれに設定された戦場でペイント弾と模擬短刀を用い、実戦形式で行われる。本日の演習内容で言えば戦場は荒廃したビル群。武装条件は銃ひとつに模擬短刀一本。勝利条件は相手戦力の無力化……即ち、演習とはいえ仲間であった彼らを斃すのである。否応にも真剣になる。

 更に言えば、恐らくはこの後に控えているだろう「総合戦闘技術評価演習」に向けての予備訓練という側面も持つこの演習は、しかしA分隊の全勝――即ちB分隊の完全敗北という戦績を収めている。

 既に何度も聞いたようなまりもの演習評価に、武はひどく真剣な表情で聞き入ってはいるが……誰の眼にも明らかなほど怒りに燃えていた。その武の隣りで、冥夜は、そして壬姫、美琴は重く沈黙している。

 武の発する負のオーラに気圧されて、A分隊の少女達は若干距離を置き気味だ。理由は簡単。これに関しては彼女達が口を出す問題ではないからだ。

「――――以上だ。次に、B分隊…………白銀、貴様にも言いたいことも在るだろうから、今日の演習評価は貴様達で行え。榊は評価内容をレポートにまとめて提出すること。いいな」

「……はい」 「…………はい…………」

 少しの沈黙の後に武。……長い沈黙の後に、千鶴が頷く。彼女の声は酷く落ち込んでいて、その表情も重く、冴えない。

 まりもの号令で模擬演習は終了。本日の訓練もこれで終わりである。去っていくまりもの背中を見送り、茜が口を開いた。

「さって、あたしたちも行こうっ。……そうね、夕食まで時間が在るし……教官に言われたことを踏まえて、これからみんなで検証するのはどうかな?」

「あ、賛成。なんで薫がやられちゃったのかとか聞きたいし」

「あのなぁっ!? そういう苛めみたいのはやめないっ?!」

「晴子ちゃんもひどいねぇ。折角みんな黙ってたのに。……うぷぷ、でも、薫ちゃんのあの悔しそうな顔……ッッ」

「多恵ちゃんも十分ひどいですよ……。か、薫さん、冗談ですから、ねっ?」

 軽やかに笑いあい軽口を叩きあいながら、A分隊の少女達は演習場を後にする。B分隊の彼女達に気を遣ったのだということは明らかだった。……だが、今の彼女達にはその気遣いがありがたい。下手に同情されでもすれば、それこそ話はこじれてややこしくなる。これは、B分隊の問題だった。

「…………さて、」

 ざり。小さく土を鳴らしながら、武が口を開く。無表情にも見える貌で、鋭い視線をそこに立つ二人の少女に向ける。――それは、とてつもなく鋭利な怒りと失望の念だった。

「――ッ、?!」 「――っ、……ッ、」

 その冷たく鋭い視線に射竦められ、千鶴と慧の二人は表情を歪める。武にそんな感情をぶつけられることがショックなのか……それとも、彼の怒りの理由を十分すぎるほどわかっているからか……。

「榊、彩峰…………お前ら、なに考えてんだ?」

 二人を睨み据えたまま、武は問う。あまりに怒りが強すぎて思わず叫びそうになるが、しかしギリギリの所で彼は自身を抑えていた。――抑えていたが、もう限界だった。限界に達したからこその、この問いかけで在る。

「今日までに四度……今日を入れて五度目か? 最初は、単に連携が取れてないだけだと思ってたよ。当然だ、チーム戦なんて今までやったことなかったんだからな。……でも、これまでの訓練で各個がどんな能力を思考を持ち、戦場においてどう動くか……なんてことはある程度把握できていると思ってたんだがな。結果は惨敗だ。涼宮の作戦にあいつらの連携。同じ条件で戦って――しかも向こうは一人少ないにも関わらず……。それを見たとき、俺達はまだまだチームとして、部隊として未熟なんだって痛感したよ」

「「……」」

「それからは俺達、こと在るごとに六人で過ごして、少しでも連携を取りやすいように、お互いをもっと身近に感じられるように……て、そうやって訓練以外にも努力してきたよな。流石に三年以上一緒に居るあいつらに対抗するにはそんじょそこらの努力じゃな足りない。――榊、お前そう言ったよな? ………………それがなんだよ。このザマは。お前と彩峰の気が合わない、ってのは……何となく感じてたよ。それでも精々軽口の応酬程度、特に問題はないって思ってたんだが、な――」

 武は言葉を切る。無表情に感情を押さえ込んだまま、しかしその眼だけは相変わらず鋭く、強烈に冷たい。……誰もが沈黙した。冥夜は眼を閉じて静かに。壬姫は視線を落として困ったように。美琴はなにか真剣に考えているように。

 千鶴は、武から視線を逸らし、己を責めるように。

 慧は、武から視線を逸らし、どこか悔しがるように。

「お前ら、なに考えてんだ? ――俺にはさっぱりわかんねぇよ。本当に気が合わないだけなのか、それとも仲間として信用できないのか……。少なくとも、今のオマエタチを信じることは、俺には出来ない。お前らみたいに明らかに互いの足を引っ張り合ってるような連中に、俺の背中は預けられない。…………今日お前らなにやってた? あ? 口論か? 戦場で、だぞ……ッ。敵が迫っているその中で、指揮官と部下がなに揉めてんだよ……ッ。命令無視して単独行動に出るわ、感情に支配されて敵の接近に気づかずに美琴諸共やられるわ……ッッ!」







 ――ふざけてんのかよっっ!!? アァ??!!!







「「「「「!!?」」」」」

 それは、誰もが初めて聞く咆哮だった。直接向けられた二人も、武の周囲にいた三人も、その、あまりの声量と感情の爆発に愕然とする。

 ギリギリと拳を握り締めて、大地を強く踏みつけた武の表情は、先ほどと打って変わり正に仁王の如く。こめかみが痙攣して、憤怒の気が発せられている。……完全なる、怒気。

「なにか言えよ。なんであの時あの場所で口論なんて始めたのか――言ってみろよッ!? お前らナニ考えてんだよッッ!!? 俺にはわかんねぇ! 戦場で、敵のど真ん中でッッ! お前らこれが訓練だからって舐めてんじゃねぇだろうなっっっ!!??」

 驚愕に眼を見開いて硬直する少女達を尻目に、武はずんずんと千鶴たちの前に立つ。眼前の武に見下ろされて、千鶴は、慧は、息を呑んだ。――それしかできなかった。

「お前らには失望した…………。いい仲間になれると思ってたんだけどな…………」

 二人の顔を睨みつけたまま、ぼそりと、そう告げる。

 告げて、踵を返す武に……千鶴は、慧は思わず手を伸ばしそうになる。「待って」。その言葉が、出ない。言えない。引き止められない。――武の言っていることは、事実だから。

 強く強く土を踏みしめて歩いていく武の背中に、しかし誰も言葉がない。少女達は沈黙したまま、武を見送るしか出来ず……。

 しかし、冥夜の横を通り過ぎたそのとき、武は立ち止まり、背中を向けたまま――言った。

「一つ言っとく。……総戦技評価演習は人が死ぬ場合も在るんだ。……人が、仲間が死ぬんだ。誰かのミスで、誰かのせいで、――それを止められない皆のせいで、な。……俺は衛士になる。こんなところで足踏みするつもりはないんだ。…………もし、お前たちにその気がないのなら、さっさと軍人なんて辞めちまえ」

「「――――ッ、ッッ!!」」

 それ以上の言葉はなかった。

 武は背を向けたまま――少女達を置き去りにしたまま、独り基地へと戻る。

 残されたのは五人の少女。気まずく、重く……遣り切れない沈黙がその場を支配する。変わったのは武が居ないことと、その彼が吐いた言葉の意味をそれぞれが噛み締めているところか。

 ふぅ、と小さな溜息。すぐ傍で聞こえたそれに視線をやれば、ひどく真面目な顔をした冥夜がそこにいた。

「榊、彩峰――」

「「…………」」

「私も、白銀と同意見だ」

「冥夜さん――っ?!」 「み、御剣さんっ!」

 鋭く、しかし武と違い怒りには染まっていない声で。静かに冥夜は言い放つ。

「そなたたちが互いに反りが合わんということは知っている。……知っているが、それはこれほどに酷いものではなかったはずだ。そこにはそなたたちにしかわからぬ確執があるのかも知れぬ。――だがな、白銀も言ったが、これは戦争だ。如何に模擬演習という題目があろうと、弾頭にペイント弾、模擬短刀を使用しようとも、これは矢張りれっきとした戦争だ。戦うのは独りだけではない。仲間が居る。背中を預け、背中を護ってくれる者が居る。……我らは部隊として戦っているのだ。決して、個人の感情で戦っているのではない。……ゆめゆめ、それを忘れてくれるな」

 そして冥夜も去っていく。壬姫は、そして美琴は辛そうな表情のまま冥夜を追う。千鶴と慧に掛ける言葉はなかった。……なんと言っていいのか、わからなかったのだ。

 やがて、皆の姿が見えなくなった。

 演習場に残されたのは千鶴と慧の二人。模擬戦闘演習、その最中において武の言うとおりに口論を始めてしまい、自分達が戦場に居るのだということを失念してしまった事実。彼女達は、言われるまでもなく自分たちの不甲斐なさを噛み締めていた。

 否、言われて初めて――武の怒りを目の当たりにしてはじめて――ようやく、自分達のしでかしたことの重大さに気づいたのだ。



 だが、と千鶴は思う。

 確かにこんな状態ではチームとして、部隊としてあり続けることはできないだろうことは承知している。武や冥夜の言い分はもっともだ。だが、だからこそ……戦場において指揮官である自分の命令を聞かずに単独行動に出た慧が許せない。これが戦争だというなら、指揮官の命令は絶対のはずだ。――それを、こともあろうに、慧はッッ!

 誰よりも規律に厳しく、そしてその重要性を理解している千鶴だからこそ、慧の行動を容認できない。……確かに、そんな自由気ままに身勝手を行う慧に対して感情的に過ぎた部分も在る。今日の敗北は正にそれが原因だった。怒りに我を忘れ、戦場であるということを忘れ、美琴を巻き込んでしまった。……自身も、無駄死にとしか思えない醜態を晒した。――屈辱である。そして、だからこそ悔しい。

 ならば、それは一体何が悪かったのか。命令を聞かない慧か。それを止められず感情に支配された自分か。



 だが、と慧は思う。

 戦場の真っ只中で仲間と、それも指揮官である千鶴と揉めることなど愚の骨頂だということは承知している。武や冥夜の言い分はもっともだ。だが、だからこそ……無能な指揮官の下す命令には従えない。指揮官には常に最善が、最良が求められる。その判断一つで部隊全員の運命が決まるといってもいい。――それを、こともあろうに、千鶴はッッ!

 誰よりも作戦の遂行を至上とする慧だからこそ、千鶴の命令を承諾できない。戦場では常に臨機応変が求められる。追い詰められようとしている局面で、いつまでも保守的な命令を下す千鶴には従えない。今日の敗北は正にそれが原因だった。もっと早くに行動を開始できていれば……或いは千鶴がもっと違う作戦を立案したならば。――屈辱である。そして、だからこそ悔しい。

 ならば、それは一体何が悪かったのか。戦況を打開できない作戦しか口にしない千鶴か。それに従わず、最善と思われる行動を取った自分か。



 だが、結果は出ている。

 敗北。敗北。敗北、だ。五度にわたる模擬戦闘演習。その全てが、敗北。どれもこれも、千鶴と慧の諍いを発端に……部隊のまとまりが崩れ、ひび割れる亀裂に個々が分断されて仕留められた。

 一概に二人だけを責められるものではないのかもしれない。……だが、それでもその根底に在る問題は、彼女達本人のものだ。

 千鶴は、慧は、ただそれだけを自覚しながら……問題の本質に気づけないままに。







 ===







「白銀、少しいいか」

 呼び止める声に振り返る。確認するまでもなく、冥夜がそこに立っていた。

 演習場から基地内へ戻り、自室でシャワーでも浴びて気を鎮めようと思っていた武にとって、今話しかけられるのはあまり好ましくない。それに、一応医療棟で医師に肩を診て貰っておこうとも思っていた。……武は少しの逡巡の後、冥夜の真剣な様子に半ば以上諦めた様子で、

「……ああ、少しなら、な」

「うん。時間はとらせない」

 廊下の端に寄り、武は壁に背中を預ける。冥夜は武の隣りで真っ直ぐに立っていた。……しばしの沈黙。明らかに機嫌が直っていない武。どうも先ほどのことを気にしている様子で居心地が悪そうにしている。冥夜は無理もないと苦笑する。いくら頭にきていたとはいえ、全員の見ている前でアレはなかった――武はそう思っているのだろう。

「そなたは優しいな」

「――あ?」

 なんでもない。ゆるゆると首を振り、しかし冥夜は真面目な顔をする。壁にもたれかかる武を正面から見つめて、彼女は言った。

「白銀……先ほどのそなたの言葉について、今更どうこう言う気はない。それに、そなたの意見には私も賛成だ。あの者達が不真面目だとは思わぬが……互いに悪影響しか及ぼさず、それが隊を危険に晒すというなら、早急に対策を取るべきだとも思う」

「…………」

「そなたの言であの者達がそれに気づいてくれればいいのだが……些か時間が掛かりそうだな」

「……なにが言いたい?」

 投げやりな武の声に、冥夜はふむと頷く。どうやら今の言葉が本題ではないと踏んだ武の読みは当たっていたらしく……冥夜は更に表情を鋭くする。

「……そなた、衛士になると言ったな。こんなところで足踏みするつもりもない、とも言った」

「……それがなんだよ? ……俺は衛士になる。そのために……ここまで来たんだ。お前だってそうだろうがよ」

 うん。頷いて、冥夜は続けた。

「そなたの想いを聞いておきたいと思ったのだ。……そなたが、一体どのような想いを持って衛士を目指すのか。その理由を……聞かせてはもらえないだろうか」

 何を今更、と武は思った。イラついている精神状態のせいで、まともな思考が浮かんでこない。今は頭を冷やすためにそっとしておいて欲しいのだが……しかし冥夜の表情はどこまでも真剣で。だから、武は観念したというように溜息をついて――、

「護るためだ」

 ……………………………………ぃゃ、違うな。護るためだった。内心で、武は吐き捨てるように。

「それは何を、と聞いてもよいか?」

 勘弁してくれ――。果たしてそれは誰の言葉か。

 いつぞやの問答を思い出す。無数のコードが敷設された部屋。薄暗く、雑然とした無機質の部屋。中央にはシリンダー。青白く輝くそれには「脳ミソ」と脊髄が浮かんでいて……。

 銀色の髪の少女。銀色の瞳の少女。黒い改造軍服を纏った少女。







 ――白銀さんは……どうして衛士になろうと思ったんですか……







 ……やめて、くれ。

 思い出させないでくれ。

 ああ、今ならハッキリ思い出せる。もう十ヶ月も前のこと。副司令の呼び出しを受け、彼女の研究のために装置に繋がれて。そこで出会った少女。社霞。その小さな口から発せられた問い。

 気づけば医療棟のベッドの上。心身に異常はなく、なんの症状も見られない……ただ気を失って倒れた。それだけの、こと。

 ああ。今ならハッキリ思い出せる。

 もう十ヶ月も前のこと。けれど、その後も呼び出される度に気を失い、倒れ、ベッドの上に寝かされて。――何度も何度も、繰り返し繰り返し……十数回に及ぶそれ。ずっと。あの霞という少女と関わった日は、全部。

 そして気づいた。

 否。ようやく認める気になった。――あの時の、声。



 頭の中で、どこか遠い声がする。その声はなんだか不透明で、ハッキリとしない。声は、男の物らしかった。少しずつ、まるで背後から近づいてくるみたいに。



 それは、紛れもなく、シロガネタケルの声。

 無意識に深奥の更に奥、精神という名の意識階層の最深度。心のどん底に押し込めて鍵をして鎖で縛って杭を打ちつけて。二度と浮上することのないように、二度ととり憑かれることのないように……本当に無意識に、封印した感情。

 白銀武の護りたいもの。護りたかったもの。

 彼女。幼馴染。隣に住んでいた。あの、少女。赤い髪の、元気に笑う、太陽のような、そんな。

 ――その笑顔を護りたかった。

 ――その笑顔を喪ってしまった。

「……ッ、ゥ、」

 ヂリッ、と。武の脳髄に焼けるような痛みが走る。懐かしいなどと感じてしまうその痛み。いつだったか……そう、あれは茜の笑顔に彼女のそれを重ねてしまった時にも感じた痛みだ。

 忘れたかったのだ。本当は。

 乗り越えた振りをして、その裏で必死に忘れようとしていたのだ。

 水月に与えられた目標に縋るように。真那に託された想いに縋るように。必死になって、思い出してしまわないように。前を向いて……決して後ろを振り向かないで、そうやって、自己の深層心理から眼をそらして。

 ああ……思い出した/思い出してしまった。

 そうだ。武は忘れられない。忘れられてなんかいない。忘れることなんて出来ない。忘れられるはずがない。……そんなこと、できるわけがない。

 彼女を喪って哀しい。

 彼女が居ないことが哀しい。側にいない、隣りにいない、声が聞こえない、触れられない…………それが、哀しい。

 もう、何をやっても。どうしようとも。――――絶対に、彼女が死んだことを受け入れられる日なんて来ない。

 ああ、そうだとも。

 だから戦うんだ。だから衛士になるんだ。死んでない。死んでなんかない。…………そうじゃなきゃ、生きていけない。

「……白銀? ッ、だ、大丈夫か?! 白銀ッッ!!」

 冥夜の声。武はぼんやりと眼を開けて彼女を見る。どうしてかひどく切迫した表情で、何度も彼の名を呼んでいる。

 なんでもないよ。大丈夫。

 武はそう言ったつもりだったが、どうしてか言葉は出ず、ただ、遮るように手を振っただけ。それを拒絶の意と取ったのか……冥夜はひどく哀しそうな顔をして……しかし武に触れようとはしなかった。

「白銀……そなた、気分が悪いのなら……っ」

 口にして、冥夜は何を莫迦なと舌打つ。目の前の武は尋常ではない。千鶴や慧のことで苛立っているのではない。明らかにそれとは違う。

 顔色を真っ青にして、呼吸も荒い。額に浮かんだ汗を拭っているが、それでも発汗はやまず……冥夜は、次第に見ていられなくなった。今すぐその身体を抱えて医療室へ運びたい衝動に駆られるが、その彼女を遮るように振られた手が、踏み出す一歩を押し留める。

 拒絶だ。

 冥夜はどうしてかひどく泣きたくなった。武は、己の領域に冥夜を入れることを拒んだのだ。――それが、哀しい。

「だい……じょうぶ、だ。俺は。…………少し、放っておいて、くれない、……か」

「あ、ああ……すまない。許すがよい。白銀……ッ」

 枯れがれに言う武に、冥夜は俯いて頷くしかできなかった。壁に手をついて、ふらふらとまるで夢遊病者のように歩いていく彼の背中は……なんだかとてつもなく弱々しく見える。

 冥夜は自身を罵倒する。

「私はっ、何をやっているのだっ!」

 ギュウと握り締められた拳を壁に叩きつけて……冥夜はこんなつもりではなかったのにと頭を振る。……少し、冷静さが欲しかった。

 そう、こんなつもりではなかった。

 武をあんなに苦しめるつもりはなかった。

 千鶴と慧。B分隊にとって重要な問題が浮かび上がった現在、彼女達にとって最も重要なのはその改善だ。もっとも望ましいことは二人の和解、或いは信頼関係の構築だが……これはいくら他者が騒いだところであまり意味がない。彼女達自身が自らの問題に気づき、それを改善する意志を持ち、行動しなければ何の進展もなく同じことを繰り返すだけだ。

 しかし、それについては既に武によって問題提起がなされ、冥夜もまた、自身の考えを述べている。ならば残るは千鶴と慧、二人の心の問題だ。

 そして、その時の武の言葉に……彼のあまりな怒りように……冥夜は一つの疑問、否、興味を持った。……持ってしまった。

 誰よりも真剣に、そして果敢に訓練に臨む武は凄いと思った。彼には明確なる目標があり、揺らぐことのないそれに向かって、己の持てる全てをぶつけ、更に上を目指し、精進を怠らない。

 その意思に、行動に、素直に感動した。尊敬に値する。……そう思った。だから、武は冥夜にとっての目標の一つとなった。

 そんな彼だからこそ、今回のようなことが許せないのだとわかる。千鶴と慧。戦場に在りながらお互いの存在を許容できずに諍いを起こす二人。

 武の怒りを目の当たりにしたのは初めてだった。あんなにも感情を顕にした彼を見るのは初めてだった。

 だから、だ。

 知りたくなった。もっともっと知りたくなった。新しい彼の一面を、もっと知りたいと思った。――あれほどの怒りを見せずにはいられないほどの……彼の、その「理由」を知りたいと思った。

 思ってしまったのだ。

 誰よりも真剣に、果敢に、自己の精進を怠らず。真那という優秀な衛士に弟子入りすることで更なる力を手に入れて尚、上を目指し高みを目指し、貫こうとするその意志。

 …………けれど、それは、間違っていた……のか。

 否。

 受け入れてくれなかっただけだ。冥夜を。彼女の想いを。

 武は、己のもっとも深い領域に、彼女が踏み入ることを拒絶した。拒んだ、のだ。――或いは、なんらかの傷を抉られることを恐れてか。

「カガミ・スミカ…………」

 無意識の呟きだった。いつか……そう、確かあれは昨年の七月のことだ。美琴が零したその名。武の恋人……なのだろう女性の名。

 彼が背負っているらしい、深い業。絶望。哀しみ。

 ああ、自分は今、それを垣間見たのだろうか。――ならば、それはなんて、酷く、恐ろしい……。

 見たこともない。あんな武は見たこともない。……あんな武は、見たくない。

 自分は聞いてはいけないことを聞いてしまった。触れてはいけない部分に触れてしまったのだ。……冥夜は後悔する。己の迂闊さを呪う。……だが、もうそれは手遅れでどうしようもなく。

 冥夜は一度、強く眼を閉じた。腹にためるように息を吸い、…………全身に巡らせるように、深く吐き出す。

 起きてしまったことは覆せない。言ってしまった言葉は取り消せない。……傷つけてしまった心は、簡単には治らない。

 ならばどうする。――決まっていた。自分のとった行動の結果は、自分が責任を持って対処する。

 冥夜の不用意な好奇心が武を傷つけたのなら……その傷を、癒したいと思う。――いや、癒すのだ。彼を、支える。

 自分に言い聞かせるように頷いて、顔を上げる。――と、そこには見慣れた少女が立っていた。橙色の髪の毛に白いカチューシャを乗せた、強気で溌剌とした少女。

 茜。

 いつからそこに、と問おうとした冥夜はしかし、その彼女から発せられる気配に口を閉じる。――なにか、おかしい。

「あんた、今、なんて言ったの……?」

「――えっ」

 その声は、その表情は…………、一体、どういう感情のそれか。

「今、なんて……誰の名前を言ったのよッッ!!?」

「なっ?!」

 グイィ、と胸倉を掴まれる。僅かに背の低い茜が、鬼気迫る表情で冥夜を締めるように力を込める。――これは怒りだ。冥夜は悟る。無意識に呟いていたその名。武の根幹に抵触するだろう、彼女の名。

「す、涼宮……っ、落ち着いてくれっ」

「あんた、どうしてその名を知ってるの?! なんでッ、鑑さんのこと知ってるのよッッ!!?」

「ぐっ、涼宮ッ、ァ、」

「まさか、まさかあんた! 白銀にそのこと言ったんじゃないでしょうね!? アイツに、鑑さんのこと聞いたりしたんじゃッ……!!」

 ギリギリと力が込められる。茜は完全に冷静さを欠いていた。尋常ではない。――武も、茜も。カガミ・スミカ。その名を持つ、人物。女性。少女。……武の、恋人。

 ああ――これほどに、これほどまでに。

 今日ほど、己の軽率さを悔いたことはない。――だが、それでも、悔いてばかりはいられないのだ。

 そう決意して茜に何事か言おうと口を開けたとき…………それは、形容し難い殺気と共に放たれた。

「――キサマァ!! 冥夜様に何をするッッ!!」

 冥夜は見た。茜もまた、見た。

 廊下の向こう、全身に殺気を漲らせた赤服。斯衛の赤。碧の髪をそのスピードに躍らせて――月詠真那が、飛ぶように迫り来るッ!

「今すぐにその手を放せッ、下郎が!!」

「なっ――ぅあっ?!」

「やめよっ、月詠っっ!!」

 一瞬にして間合いを詰めた真那は拳で払うように茜を突き飛ばし、掴まれていた冥夜を解放する。そしてそのまま冥夜を背後に庇い立ち、冷え冷えとした能面のような形相で、茜を睨み据える。

「貴様……よくも冥夜様に手を挙げたな。その蛮行、赦し難い……ッ」

「ッッ??!!」

 あまりにも強烈な真那の殺気に、茜は全身が震えるのを感じた。そして、……そして、あまりにも、彼女の知る真那とかけ離れたその様子に……武のよき剣の師匠としての側面しか知らない彼女は……これが斯衛なのだと理解し、愕然とする。

「ぁ、は、あははっ、はははっ……」

「……何が可笑しい」

「やめてくれ、月詠……涼宮は何も悪くない。悪いのは……私だ……」

 項垂れて、掠れた笑い声を漏らす茜。いつも武の側にいる少女のその様子に、真那は眉をひそめる。少なからず知っているその少女は、果たしてこのような笑い方をしただろうか。

「……あははははっ! ………………あはは、ごめんね、御剣。……ちょっと、驚いちゃってさ。どうして御剣が、鑑さんのこと知ってるんだろう、って。あはは、莫迦みたい。……調べれば、わかることなのに」

「――なに?」

 茜は表情を歪ませて、冥夜を、真那を見る。……それは、どこか敵意さえ窺える酷い眼だった。そんな眼で見据えられ、冥夜は心臓の横が啼くように痛むのを感じた。

「白銀を苦しめるようなことは……赦さない。いくら城内省でも、斯衛でも、将軍家縁の存在でも…………白銀を、哀しませることなんて、絶対に赦さないっ! あたしが白銀を護るッ、白銀は、あたしが側で支えてみせるッッ!!」

「「!?」」

 その眼には涙が浮かんでいた。その表情には裏切られた哀しみが浮かんでいた。

 ――違うッ!

 冥夜は叫びたかった。そうではない。そうではないのだと。

 恐らく茜は、冥夜が真那を使って城内省のデータベースから何らかの――カガミ・スミカ――の情報を得たのだと推測したのだ。武の周辺を調べるために。或いはそれ以外のために……とにかく、理由はどうあれ、冥夜がそういう手段を用いて彼女を探ったのだと。そう、思い込んだのだ。

 正に思い込みだ。……だが、冥夜はそれを説明できなかった。それは誤解だと言う事が出来なかった。

 過程はどうあれ――彼女は武を傷つけ、抉った。その事実は変わらない。茜の言葉を借りるなら……ならば既に自分は赦される存在ではない。

 涙を振り切って、悔しげに冥夜を睨んで。

 茜はその場を後にする。後には……遣り切れない哀しみに覆われた冥夜と、少女達の武を巡る想いに気づいた真那が残された。







 総合戦闘技術評価演習まであと数週間。

 乗り越えるべき壁は、多い。







[1154] 復讐編:[七章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:e0be2ed2
Date: 2008/02/11 16:20

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:七章-02」





 部屋のドアをノックする音で眼が覚める。半覚醒の意識のまま机に置いた時計を見れば、既に夕食の時間を指していた。む、と眉根を寄せて身を起こす。

 冥夜と別れた後自室に戻り、シャワーを浴びた。

 千鶴と慧の不和。冥夜に問われた「護りたいもの」。それら――暗澹たる想いを吐き出しそうになる感情に辟易して、少し頭を冷やそうと横になったのが四十分程前。

「……ふぅ、」

 たかが四十分の睡眠だが、少しはマシになったようだった。相変わらず千鶴と慧に対して苛立ちは残るが……それこそ、いつまでも引き摺るものじゃない。かなり最悪なことをしでかした気もするが、アレは紛れもなく自身の本心だった。……ならば、後は当人の問題だ。武は自分の想いを伝えた。怒りという形を通してだが、それは彼女達にも届いたはずである。

 ならば――あの二人を信じよう。

 今日まで、これまで共に厳しい訓練を過ごしてきた仲間だ。絶え間ない努力と揺ぎ無い強い意志の元に自身を鍛えぬいた彼女達だから……そう信じようと思える。

「失望させてくれるなよ…………」

 呟いて、既に失望したと言ってしまっていることに気づく。ぐぁ、と顔面を手で覆い、あまりの短絡な行動に嫌気が差した。

「何やってんだ俺…………情けねぇ……」

 感情に支配されて暴走したのはどっちだ――あまりにも餓鬼のような己の行動に、武は恥ずかしくなる。……だが、同じように餓鬼だったのだ。千鶴も、慧も。それを止められなかった美琴も。二人の不和を承知していながらに静観していた冥夜も、壬姫も。

 皆が皆、餓鬼だった。幼稚だった。

「それで俺だけ頭にきて……はぁああぁあ、ほんと、何やってんだ俺は……」

 溜息しか出ない。が、いいかげん後悔はしない。如何に感情の暴走ゆえの激怒とはいえ、それはもう覆せないし戻らない。武は問うた。ふざけているのかと。…………ならば、それに対する返答はいずれあるだろう。それが言葉によるものか、或いは今後の行動を以ってかはそうなってみないとわからない。

 けれど、心のどこかで確信している。

 ――あいつらは、ちゃんと向かい合える。

 仲間として、友人として。背中を預ける戦友として。きっと。

「――――――、」

 そう結論付け、自身の胸の内を整理すると……途端に浮き上がったのは冥夜の顔だった。当面の問題である千鶴と慧について整理がついたなら、それは当然の繰り上がりだろう。――むしろ、そちらの方が重要で重大で重圧だった。

 だからこそ後回しにして先に彼女達の問題を片付けたかったというのもある。

 これは、こればかりは……簡単には片付けられる問題じゃない。そして、完全に自分自身にしか解決できないものであるがために……。

「ごめん、涼宮……水月さん……」

 手を差し伸べてくれた。傍で支えてくれた。大切なひとたち。彼女達を想えば胸が熱くなる。痛いくらいに胸が締め付けられて……気を抜けば、縋りついてしまいたい衝動に駆られる。

 あの時のように、傍にいて欲しいと望んでしまう。啼きついて、慰めて欲しいと望んでしまう。――駄目だ、それはできない。

 ずっと騙していた。

 彼女達を、そして自分自身さえ。

 1999年1月。鑑純夏を喪ったそのとき。札幌基地で見た横浜の戦域情報。悪夢のような赤いBETAのマーキングが飲み乾した小さな黄色いマーカー。避難民を護送していただろう歩兵大隊。……そこにいたはずの彼女。最愛の、彼女。

 護りたかった。この手で。

 護るための力が欲しかった。この手に。

 だから、――だから自分は、衛士になると決めたのに。

 ……あれから既に二年以上が過ぎた。今月末には総戦技評価演習が行われるだろう。それに合格し、戦術機操縦過程を修了しさえすれば…………遂に自分は、衛士となる。護るための力を手に入れる。これで、ようやく――彼女を、純夏を護ることができる。………………の、にッッ!

「ッッッ、ハ、ァァアアッッ……」

 やめろ。

 その考えはやめろ。

 呪わしい――ヤメロ。

 憎らしい――ヤメロ。

 おぞましい――ヤメロヤメロ。

 BETA――ヤメロヤメロヤメロ。

 殺してやるッッッッ――ヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロッッ!!?

「…………………………ッッッ!!!!!!」

 ベッドの上に立ち上がる。乱れた呼吸を必死に整える。狂いそうな感情に蓋をする。――駄目だ。やめろ。この感情は、駄目だ。

 ――コンコン、

「!!?」

 小さく、そして控えめなその音。……そうだ、誰かがドアをノックしている。その音で眼が覚めたというのに、一体自分は何をやっているのだろう。最早溜息しか出ない。これほどまでに簡単に狂いそうになる己の精神力の弱さに憔悴しながらも、しかし……決して茜には見せてたまるものかと喝を入れる。

 彼女には、見せられない。

 誰よりも傍にいてくれて、誰よりも支えてくれた彼女には……同じように、この数年を支えてくれたA分隊の少女達には……こんな姿、見られたくはなかった。

 もし、彼女達が今の武を見たらどう思うだろう?

 水月に、そして茜に……彼女達に支えられて、ようやく立ち直り、前へ進み始めた自分。

 それが、それこそが、己さえ知らぬ間に用意された仮面だったなどと…………。

 打ちのめされたりはしない。

 呑まれたりはしない。

 かつて熊谷教官が言った。――お前はどっちだ?

 その答えは、まだ……でない。わからない。だが……。

「俺は、護りたい…………」

 復讐に濡れる悪鬼にはなりたくないと思った。純夏を想う心こそを、護りたいと思った。傍で支えてくれた水月を、茜を、彼女達を護りたいと思った。そして、導いてくれる真那を。

 ふ、と小さく息をついて。

 ようやく武はドアノブに手をかけ、開ける。――――呼吸が出来なくなった。

「な……ん、で……ッ」

 そこには、確かにいた。

 小さく控えめにドアをノックして、ずっとドアが開かれるのを待っていた。

 少女。

 銀色の髪。銀色の瞳。ドレスのような軍服。肩章に「ALTERNATIVE」と記された……。



 社霞が、そこにいた。







 ===







 冥夜は当惑していた。夕食のためにPXを訪れてみれば、その場にいたのはA分隊の皆と、美琴と壬姫の二人だけ。千鶴に慧がいないだろうことは半ば予想していたが、何故にそこに武が居ないのか。

 その彼女の様子を見て悟ったのだろう。晴子が苦笑しながらに首を振る。……つまり、この場に居る全員が、武が不在の理由を知らないということだった。

 ――茜さえも。

「…………涼宮、その……」

「……なにやってんのよ、御剣。はやく座れば?」

 つい数十分前のやり取りを思い出して口ごもる冥夜に、しかし茜は普段と何も変わらぬ様子で笑う。トレイを手にしたまま立ち竦んでいた冥夜に座るよう促して…………ほんの僅かだけ、視線を外した。

 ああ、これは相当に嫌われたようだ。

 冥夜は内面でそう嘆いた。自らが招いた行動の結果とはいえ……この一年間を共に過ごし、よき仲間と感じていた彼女の信頼を喪ってしまったことは、相当に辛い。誤解を解くことはできる。……だが、それでは冥夜の気が済まなかった。己の好奇心を優先して大切な仲間達の心を抉ったのだ。それしきで赦されようとは思わない。そのことは、その場にいた真那にもしっかりと伝えている。

 己の不始末は己でつける。これは人間として当然の責任だ。だから、いくら彼女の身を護るために在る斯衛とはいえ、手を借りることはない。第一、国連軍に身を置いたその時点で、既に自分は一兵士。そこには将軍家の恩恵もなにも関係ない。冥夜は、ただ冥夜として在るのだから。

 三人を除き勢ぞろいしていた面々に遅れたことをゆるりと謝罪しながら、そして夕食は始められた。話題は専ら今日の訓練について。千鶴と慧のことは今更彼女達が言い合ってもしようがないことなので、その話題を避けつつ、少女達は各々に評価を口にする。

 既にA分隊内では評価会は済んでいたようで、ならばとB分隊から見たA分隊の、そしてA分隊から見たB分隊の評価へと移っていった。



 茜は、自身でも驚くくらいに平静を保てていることに、内心で安堵する。遅れてきた冥夜を見たとき、確かに心にざわざわとした波が起こった。……だが、その波はひっそりとなりを潜め、今は落ち着いている。

 あれから部屋へ戻り……かつてないほどに荒れ狂った感情を必死になって鎮めた。熱いシャワーを浴びて、込み上げる悔しさに涙して。どうしてこんなにも悔しいと、哀しいと感じてしまうのかをただ考えた。

 御剣冥夜。将軍家縁の存在。城内省に所属する斯衛の警護小隊を侍らせる特殊な少女。……だが、彼女はいつだって、誰に対しても「冥夜」という一個の人間だった。

 確かに月詠真那という斯衛の中尉は冥夜に忠義を尽くし、いつも側に控えているような印象を受ける。だが、それは四六時中べったりと貼りついている訳でもなければ、冥夜が訓練兵として自身を磨いている様を暖かく見守っているような、そういうどこか間接的なものだ。

 国連軍への所属は、恐らくは冥夜自身の望みだろう。守護される立場に甘んじるのではなく、自らの意思で、自らの理想のために立ち上がる。……きっと、冥夜はそういうことが出来る人物だ。だから、真那もそれを止めはしない。ただ、斯衛の役割として、そして真那自身の忠義として……彼女は冥夜を傷つける者を断じて赦さない。

 ……ならば、そんな冥夜が、真那が…………例え城内省のデータベースから調べることの出来る立場に在ったとしても、果たしてそれをするだろうか。

 したとして、それは一体何のために?

 武のことを知りたいと思うのならば、……いくらかの決意と配慮が必要だろうが、本人に聞けばいい。なにせ、同じ訓練兵、同じ部隊なのだから。

 それをしない理由は何か。――或いは、出来ない理由とは?

 例えば、要人警護に当たっての身辺調査。……確かに可能性は高い。むしろ、真那の立場からすれば当然だろう。恐らくは当人の素性から家族構成等、瑣末なことから個人情報のありとあらゆる情報を把握していると予想できる。

 ……だが、それを冥夜が知っている、という可能性は……ない、と、そう思える。そういう情報は、守護する側が承知していればいい。つまり真那が、彼女の部下が承知していれば事足りる情報を、冥夜が知る必要はない。そこには真那が冥夜に教える、という式も成り立たない。

 ならば一体どういうことだろう。

 冥夜自身が、真那に命じて城内省のデータを調べさせた…………理由が見つからない以上、なんだかそれこそが誤りのようにも思える。

 だが、それでも、冥夜はその名を口にしたのだ。

 逢ったことなどあるはずもない彼女の名を。武の全てとも言ってもいい彼女の名を。――何らかの確信を以って、零すように呟いたのだ。

 それが何故なのかがわからない。

 冥夜が真那に命じたのか。真那が冥夜に教えたのか。……いや、そもそも真那は彼女のことを知っているのだろうか。

 わからない。わからない。なにひとつ、わからない。

 …………だから、わからないままに冥夜を嫌うのは間違っているような気がした。

 だが、謝りはしない。それは、本当の理由がわかってから判断すればいいことだ。

 そして、あのとき冥夜に……吐き捨てるように言った言葉は、紛れもない己の本心で在るから。

 知ってくれていればいいと思った。だから、無意味に……少なくとも今の時点で、冥夜を嫌うことはやめようと頷いて。

 そして茜は長いシャワーを終える。少しだけスッキリした。昂ぶっていた感情はどうにか収まり――こんなにも武のことを想っている自身に赤面する。

 冥夜に言ったことは間違いない茜の本心だったのだが……いかんせん、それは聞きようによっては自身の想いを暴露しているようなものだった。

 そのことに気づいた茜はバスタオルで顔面をくるんでベッドの上で身悶える。恥ずかしいにも程があった。

 だから、こして冥夜と面を合わせても落ち着いていられたことに安堵する。

 彼女を傷つけたことは間違いないだろう。普段からは想像もつかないくらい動揺した表情を向ける冥夜に、茜は少しだけ申し訳なく思い……目をそらしてしまう。

 多分、それがまた一層に冥夜を傷つけただろうことを自覚しながらに。

 そして夕食は開始された。互いにそれぞれを評価し合う中、けれど茜の心中は揺れている。

 冥夜のことではない。

 ……誰も口に出さないけれど、皆が思っているだろうこと。――武がいない。

 如何していない? 何で誰も知らない? その答えを知る者は、矢張り誰も居なかった。……だから、誰も口にしない。気にかけつつも、声に出さない。



 少しだけ、いつもよりもほんの少しだけ騒がしく。少女達は話を続ける。

 千鶴と慧。茜と冥夜。――そして武。

 いつもとは違うそれらを極力意識しないように。……意識してしまわないように。







 ===







 連れて行かれたそこは、矢張りというか当然の如くに、香月夕呼の執務室だった。

 武は自身の心臓がひりひりと締め付けられる感覚を覚える。――今更、何の用だ。

 痺れるような緊張感が、彼の全身を包む。かつて、夕呼自らの研究のためにこの場所に呼び出されたこともあった。その研究……或いは実験は、しかし一ヶ月も経たずに突然に終了した。

 夕呼は必要なデータを収集し終えたからだと説明してくれたが……しかし武にはたかが十数回の検査(夕呼はそう言っていた)で取り得るデータなど知れているのではないかと思う。だが、彼は研究者ではなく、そして専門的な知識も持たないために……結局のところは物理学の権威でもあるという天才の言葉に頷くほかなく。

 そしてそれから十ヶ月が過ぎた今。武は霞に連れられて再びこの場所に居る。

 ――一体何故。何のために。

 だが、それを口にすることは許されないだろう。かつての研究が有無を言わさぬ物であったように。だから武は覚悟を決めた。碌な印象のないその執務室の中で、未だ姿を見せぬ副司令のあの厭らしい笑みを想像して。

 そして、部屋の片隅にあったドアが開かれる。現れたのは、言うまでもなく当基地の副司令である夕呼。いつもの白衣姿で、相変わらずの颯爽とした振る舞い。愉しげにこちらの表情をねめつけながら、夕呼は自身の椅子に腰掛けた。

「わざわざ来てもらって済まないわね」

「いえ、副司令が御気になさる必要はございません」

 微塵もそう思っていないだろう夕呼の言に、彼女が嫌がることを承知でわざと堅苦しく返答する。武の予想通りに眉を寄せて詰まらなそうな顔をする夕呼だが、それこそ武の知ったことではない。

 夕呼が一体何を企み、或いは目論んでいるのかは知らないが……武にとっての彼女、そして霞、……あの「脳ミソ」の部屋は一貫して敬遠したい存在だった。出来得るならば、もう二度と関わりたいとは思えない。そういう類の存在。

 隣りの霞が少しだけ寂しげに俯くのが見えた。……だが、武は視線を夕呼に真っ直ぐ向けて、それは見ようによっては睨みつけているようにもとれるほど、烈しい感情が込められている。

 夕呼はさも面白くないと鼻を鳴らし、しかし次の瞬間には悠然と笑みを浮かべる。どうやら武の態度の真意を悟ったようだった。その、なにもかもお見通しといった副司令の艶然とした微笑に、最早自分が彼女の手の平から逃れることなど出来ないのだと、知る。

「社、ご苦労様。下がっていいわよ」

 武から視線を外した夕呼は、霞に向けて優しく言う。少女は小さく返答すると、やがて執務室から去っていった。

 少女の後姿さえ見送ることなく、武は夕呼をじっと見つめる。特段、彼女を嫌っているということではない。……が、武の脳裏には彼女の問いかけがいつまでもこだましているのだ。――どうして、衛士になろうと思ったのか。

 己が仮面を被った道化であることを気づかせ、自分の中の純夏が未だに生き続けていることを知らしめるきっかけとなったあの問い。そして、その後十数回繰り返された研究。気を失い、医療室へ運ばれて。……恐らくは、感情が焼ききれるほどに発狂したのだろう。かつてのように。

 霞は、彼女は……どうしてもそれを思い起こさせる。

 霞自身になんら非はないというのに。なのに、それがわかっていて尚……武は彼女を受け入れることが出来なかった。

 同様に、夕呼も。そしてあの部屋も。

 純夏を振り切ることの出来ない己の未熟さ、或いは愚かさ……そうと知りながら、純夏を手放すことなんて絶対に出来ない狂おしいまでの感情。

 水月や茜、支えてくれた彼女達の全てを無駄の一言で押し流してしまいそうな、紛れもない武の深層意識に気づかせたその全て。

 憎いとは思わない。恨めしいとは思わない。――ただ、疎ましかった。

 だが、同時に少しだけ感謝もしている。

 もし霞のあの問いかけがなければ……自身はまだ、「俺は大丈夫」などという薄っぺらな仮面を貼り付けたままだったのだから。

 だから、そのことだけは――感謝している。

 その結果が、どうあろうとも。

「……さて、白銀。あんたを呼んだ用件なんだけど」

 武は姿勢を正す。微塵も乱れていなかったのだが、雑念を振り払うという意味で、改めて背筋を伸ばした。向けられる夕呼の視線は鋭く……しかし、どこか愉快気な色を見せる。いつものことだ。香月夕呼という人物は常にどこか娯楽性を求めている節があるらしい。天才といわれる所以など知りはしないが、そういうどこか科学者らしからぬ一面は……ある意味では好ましいと言えるのかもしれない。

 これが完全なる鉄面皮、或いは機械の如きクールさだけの人物だったならば、武は間違いなく彼女を嫌悪していただろう。副司令という立場とは関係なく、人間としてその存在を受け入れ難いと思ってしまうだろうことは想像に難くない。

 時折見せる霞への優しげな表情と、子供染みた一面が、辛うじて武に「夕呼」という人物を良心的に見せていた。

 もっとも、だから平気と言うこともなく。――許されるならば二度と関わりたくないという感情は、本当に心の底からの本心で在るが故に。

「あんたには明日から、総合戦闘技術評価演習を受けてもらうわ」

「――――――――は?」

 言い切った夕呼に、頭が真っ白になる。

 一言一句淀みなく。いともあっさりと夕呼は言った。総合戦闘技術評価演習――衛士訓練校の前期訓練課程の修了試験であり、後期訓練課程……即ち戦術機操縦課程へと進むための、訓練兵にとって最も大きな意味を持つそれ。

 それを、なんだって?

 明日から? 受けてもらう……? ――誰が。

「なに呆けた顔してんのよ。面白いわね」

「――えっ?! って、ハァア?!!」

 副司令相手だというのに、大層な狼狽ぶりである。だが無理もない。教官であるまりもからはそのような通達は一切なく、今度は一体どんな得体の知れない研究につき合わされるのかと緊張していた矢先に。

 総戦技評価演習への参加。莫迦な。在り得ない。武はどうにか混乱する頭を落ち着けようと息を整えるが、しかし思考は空回るばかりで一向に収まらない。――これはなにかの冗談だろうか。

 否。

 確かにこの副司令はなにかと物事を面白おかしく捉えている面があるようだが、こと「副司令」としての彼女にはそういう虚偽やからかいは一切ない。かつての研究においても――その結果得られたデータがどう使われたのだとしても――彼女は微塵の妥協も見せずに臨んでいたように思う。

 ならば、今彼女が言い放ったそれは冗談でも在り得ないことでもなんでもなく。ただ言葉通りに……武は明日から総戦技評価演習を受けるのだ。

「……なぜ、と聞いてもよろしいでしょうか」

「どっち道説明するつもりだったし。いいわよ」

 ニヤリと口端を吊り上げる夕呼。とても愉快気で満足げなその表情に、武はげんなりとする。こういう人だよ……内心で様々な感情が織り交ざった溜息をついて、しかし武は真剣に向き直る。

「まず、本来ならあんたは今月末に予定されていた総戦技評価演習に207部隊の連中と参加するはずだった。ま、これまでの訓練の成果を見ればそれは順当で、むしろこの段階でまだそこまでに達していなければそっちの方が問題なんだけどね。……それはいいとして。白銀。前にあんたの戦術機適性値について検査したことは覚えてるわよね?」

「はい。昨年の七月から八月にかけて十数回にかけて行われた検査・研究のことです」

「堅いわね……まぁいいわ。そう。正確には十六回なんだけど、その検査の結果を元に基地司令が下した判断が、これ」

 言って、ぴらりと一枚の紙を差し出す。矢鱈上質なその紙を受け取り……その内容に、愕然とする。

「基地司令が決定した正式な書面よ。ま、推薦は私ってことになってるけど。要するにあんたみたいな才能を持ってるヤツをこのまま呑気に訓練させてるのは勿体無い、って話。どう? たかが訓練兵に大した懸想じゃない?」

 在り得ない。――それこそ、在り得ない話だった。

 こんな特別扱いがまかり通っていいわけがない。否。軍隊という組織において、そんな横暴が許されていいわけがない。

 たかが一介の訓練兵。月末に総戦技評価演習を控えている身でありながら、ここに来てこんな待遇……或いは処遇とでも言うべき事態は、ハッキリ言って無意味とさえ思える。

「こ、こんなこと……なんなんですかっ?! この、総戦技評価演習合格後の訓練課程…………ッ!! 任官は通常なら八月でしょう?! な、なのに、なんで……こんなっ、」

「ハイハイ落ち着きなさいよ。言ったでしょ、あんたには恐ろしい才能があって、基地司令はそれに期待した。無論、私も。悪い話じゃないでしょ~? ま、自分が特別扱いされることに謙虚なのはいいけど、あんたやあんたの周りの人間の感情を慮ってられるほど、今の人類に余裕はないのよ」

 ――!?

 愉快気に。どこまでも愉快気に。しかし夕呼は言ってのける。感情を慮る余裕などない。

 一訓練兵を副司令、そして基地司令までもが特別な待遇を以って受け入れようとしている事実。それは……恐らくは相当な機密によって隠されることなのだろうが、しかし周囲に居る身近な者は気づくだろう。そして、今の今まで同じ条件、同じ待遇の下訓練にいそしんでいた中で、たった一人だけが格別な待遇を受けたという事実を知ったとき、そこにはどんな波紋が起こるだろう。

 単純に言えば、嫉妬。207隊の彼女達がそんな感情に駆られることはないと思いたいが、しかし人間の内面は知れない。かつての亮子を思い出す。あれほど温和で優しい少女さえ、かつては周囲の者の才能を羨み、嫉妬した。

 ならば、一概に何事も起きないとは言えないのではないだろうか。

 そして、それ以上に。

 こうして面と向かって「お前は特別だ」とそう言われて……果たして武自身が増長しないとは言い切れない。戦術機適性「S」。史上例を見ない破格の適性値を持った特別な人間。かつてまりもは戦術機に乗るために生まれてきたようなものだと笑い、そして夕呼はその謎を解くべく研究を行った。

 確かに、これまでにも度々自分の才能……というものを突きつけられてきたわけだが、しかし幸いなことに武は己に傲慢になることはなかった。……だが、それがこれから先に起きないとはいえない。

 手渡された書面を見つめる。そこに記された今後の武の訓練課程、或いは任官スケジュールは……全て、何事においても順当に進めば、という前提はつくものの、早ければ六月中旬には任官することになる。戦術機操縦訓練がおよそ一ヶ月しかない日程だ。

 そのあまりにも迅速なスケジュールも在り得なければ、それを当の本人に知らしめるということ自体が在り得ないッ。

 通常、訓練兵が軍人として相応しい技術・知識・能力・肉体・精神を身に付けたかどうかは教官、最終的には基地司令の判断によって決定され、その後任官という運びになる。

 無論、訓練兵にはそのことは知らされず、彼らはその決定がなされた後に自らの任官を知るのである。

 それが、だ。

 こともあろうに、その訓練兵で在る自分に。こうして任官までのスケジュールを突きつけるという事実。

 つまり、これは――

「理解できたようね? あんたに拒否権は一切ない。そして、あんたにはそこに書かれていること以上のものが期待されている。ま、報告されてるあんたの訓練成果を見ても申し分ないし、むしろ優秀な部類に入るわね。……そして、極めつけに“S”ランクの適性値。ハッキリ言って今までに例を見ない待遇なのは承知しているわ。そして、それが正式な手段を経て決定されているということは……あんたには、常に結果が求められる」

「――ッッ!」

「当たり前でしょ? あんたには才能があって皆それに期待した。だからあんたは今ここでその書類に眼を通している。本来ならあんたに見せるべきものじゃないんだけど、それで餓鬼みたいな勘違いされても困るでしょう?」

 ニタリ、という表現が相応しい笑みだった。

 なるほど、そういう効果も狙っていたのかと武は眼を閉じる。確かに、こんなものを見せられては気を引き締めないわけにも行かず、そして、そこに込められた「期待」という重圧に潰されそうにもなる。

 衛士独りが出来ることなどたかが知れている。けれど、夕呼は、そして横浜基地司令パウル・ラダビノッド准将は、その“たかが”こそを欲したのだ。

 ぶるり、と全身が奮えた。

 言い知れぬ感情が込み上げる。――ああ、俺は……。

 戦え、という啓示だと思えた。

 純夏のために戦え。誰かが、そう叫んでいるのだと感じた。

 だから、運命は廻るのだ。その道を指し示すのだ。武の前に、その運命が用意されたのだ。

 戦え。

 力を手に入れろ。

 衛士となって戦え。

 BETAと戦え。

 お前は、お前は、お前は、お前は――特別なのだから。

 その特別な力を才能を以って。

「……いい顔するじゃない。ま、精々頑張りなさい」

 そう言って夕呼は手を払う。退出を促されているのだと気づいて、武は書類を返却し、踵を返す。

 書類の文末にはこう記されていた。







 ――7)前項一の総合戦闘技術評価演習の実施に伴い白銀武訓練兵の所属を第207衛士訓練部隊よりA-01衛士訓練部隊へ異動するものとする。

 ――  補足として、A-01衛士訓練部隊の所属は上訓練兵のみであり、教導官にはA-01第9中隊長伊隅みちる大尉が同隊長職と兼任することを記す。







[1154] 復讐編:[七章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:75ac8cab
Date: 2008/02/11 16:20

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:七章-03」





 それは混乱。そして惑い。

 茜はただひた走る。その姿を求めて。その影を求めて。――彼を求めて。ただ。走る。







 最初に気づいたのは壬姫だった。

 起床ラッパはとうに過ぎ、常ならば点呼の五分前には自室の前に立っているはずの武の姿が、しかし今日に限って見られない。彼の部屋の斜め前に位置する壬姫だからこそ、気づけたともいえる。だから、ひょっとして寝過ごしているのかもと心配になった彼女は武の部屋をノックし……何の返事もないことに少々気後れしながらも、控えめにドアを押し開いたのだ。

 ――無人。

 そこにあったのはただがらんとした部屋。スチール製のベッドには丁寧に畳まれた寝具。備え付けの時計が置かれただけの机。灯かりなど点いているわけもなく、ただ空洞と化した室内には、微塵にもヒトの気配がなかった。

 故に無人。

 その部屋に、昨日までそこに居たはずの彼の姿はどこにも無く。

 壬姫は、その後自分がどのような行動を取ったのかよく覚えていない。ただ、気づけば我武者羅に基地内を走り、武の姿を探していた。

 あらかじめ決めていた合流ポイントに向かえばそこには美琴、慧、亮子の姿。同じように武を探して駆け回っていた彼女達の表情は一様に暗く、焦燥を浮かべている。……ならば、彼女達もまた自分と同じく、彼を見つけられなかったのだ。

「壬姫さんっ、タケル、居た?!」

「――ううん。どこにも。……白銀さん、どこに行っちゃったんだろう……?」

 弱々しく首を振る壬姫に、亮子が寄り添う。

「……大丈夫です。すぐに見つかりますよ。……きっと、ちょっとだけ散歩に出かけたくなったとか、そんな理由です、よ」

 まるで自身に言い聞かせるような亮子の言葉に、壬姫は、美琴は頷いた。

「…………もう一度、探してくる」

「慧さんっ」

 神妙な表情で呟いて身を翻す慧。止める間もなく駆け出した彼女は……しかし、正面からやってきた千鶴に足を止める。慧の後方で三人もまた、ごくりと喉を鳴らす。向けられた四対の視線に弱々しく笑って、千鶴は……

「駄目。こっちも居なかったわ…………」

 零すように、そう言った。







 一体、何が起こっているのか。

 それは混乱。そして惑い。

 茜は走っていた。目指す先はグラウンド。どこか懇願に近い感情を抱きながら、ただその姿を求めて走る。

 ――武がいない。

 呆然と皆にそのことを告げた壬姫は哀れなほどに狼狽していた。あまりの壬姫の様子に誰もが困惑し、そして少女達は見た。壬姫が見たのと同じそれを。もぬけとなったその部屋。武が、確かに昨日まで居たはずだったその部屋を。

 次の瞬間、茜は……そしてA分隊の少女達は駆け出していた。

 あまりにも、酷似していた。

 かつてのあの時。雪の舞う札幌の早朝。狂乱の一夜を明けたその日。――部屋からいなくなった彼。

 確かあの時は……晴子が走り去った彼を目撃したのだったか。そしてその彼が向かったのはグラウンド。基地の外へ通じる門にも繋がっているその場所。ならば、今回も同じように……そこにいるのではないか。いや、きっと居る。そこにいる。――いて、お願いッ!!

「ッ、はっ、はぁっ、ハ、ァッ…………!」

 普段の彼女ならば決して息が上がることなどないはずの距離。全速力で疾走し、たどり着いたその場所は……早朝の涼やかな空気と朝日に照らされるだけで、何も無く、誰も居なかった。

「しろ、がね……」

 足の力が抜ける。愕然と膝をつく。――居ない。どうして、という疑問が巡る。何故、という困惑が巡る。

 一体如何なる理由が在って、武は居なくなってしまったのか?

 思い当たる事象がない。思いつく理由が無い。

 茜が知る限り、およそ彼が基地内から居なくなる道理はなかった。……ならば、自分が探しにやってきたこのグラウンド以外の場所に居るのだろうか。

 きっと、そうだ。

 ぐ、と拳を握る。眼を閉じて、気を抜けば暴れ狂いそうな感情を抑制して……茜はやってきた道を駆け戻る。

 そこにはきっと……誰かに連れ戻されて、例えば千鶴や冥夜の小言に苦笑し、晴子や多恵のからかいに憮然としている彼がいるに違いない。

 心配かけてごめん。

 そう言って微笑んでくれる彼がいるに違いない。

 そう。

 きっとそのはずだ。

 自分が少し見当違いの場所を探しに来たというだけで。…………彼がいなくなったなんてことが、自分の知らぬ間に、自分の知らないところへ行ってしまったなんてことが……あるはずが、ないのだから。



 だが、皆のところに戻ってきた茜が目にしたものは……暗く沈んだ表情の彼女達。懸命に表情を取り繕い、心配はない、きっと大丈夫だと励ましあうその姿。

 ――きっと茜が見つけてくるから。

 そう言って笑って。泣き出しそうな亮子を慰める晴子の言葉が、妙に鋭く突き刺さる。――嘘だ。

「あっ、………………茜?」

 近づいてくる気配に、晴子は弾かれたように、心からの期待を込めて振り向いた。茜が戻ってきた……! ならばきっと、その隣りには武がいるはずで…………そう思って、彼女の名を、呼ぼうとした。

 だが、その姿に、弾むようだった声は引き攣って凍りつく。――そんなばかな。

 茜は一人だった。隣りには、或いは背後には……誰もいなかった。

 そしてそんな晴子の……先に戻っていた彼女達の心を代弁するかのように、茜もまた、呟いていたのだ。

 なぜ、と。

 ぐらり。茜が崩れ落ちる。壁にもたれるように倒れた彼女はそのままずるずると膝をついてリノリウムの床に座り込んだ。全身の力が抜けて、呆然と視線が揺れている。晴子は駆け出した。

「茜ッ、茜、しっかりしてっ!」

「ぁ、ぁ、うそ……よ。だって、しろがね……っ」

「茜ちゃんっ!!」

 脱力した茜の肩を揺する。何度も名を呼び、気を確かに持てと叫ぶ晴子に、多恵に、しかし茜は反応らしい反応を見せない。ある種のショック状態に陥っているのだと気づき、しかし呼びかける以外に方法を知らぬ彼女達を押しのけて、薫が茜の頬を張った。

「……ッッ?!」

「しっかりしろっ、莫迦ッッ!」

 あまりにも強引な薫の手段に顔を引きつらせた晴子と多恵、そして亮子だったが……しかしその荒療治は功を奏し、茜の視線は真っ直ぐに薫を向いていた。

「…………落ち着きましたか? 茜さん……」

「ぇ、ぁ、うん」

 薄っすらと涙を浮かべたまま、しかし亮子は小さく微笑む。茜は少しだけ冷静さを取り戻した頭で薫に視線で礼を言い、立ち上がる。

 見れば、B分隊の彼女達も皆が茜を案じているようだった。……武を探してこれだけの人数が奔走していたというのに、自分だけ呆けてしまったのではあまりにも情けない。恥ずかしげに苦笑する彼女の姿に、千鶴は、冥夜はほっと息をついた。

 ……だが、問題は何も解決していない。

 確認するまでもなく、茜は武を見つけられなかったのだ。自分達と同じく。つまり、この場に居る十人全員が……それこそPXや座学で使用する訓練棟の教室から校舎裏の丘まで。それぞれに手分けして駆け回ったわけだが、武の姿を見つけることは出来なかった。

 横浜基地は広い。極東最大の規模を誇るというのは伊達ではない。だから、厳密にはまだ探していない部分は多々存在するのだが、訓練兵である彼女達が行動できる範囲をくまなく探して見つけられなかったのなら……武は、彼女達の手の及ばないところにいるのではないだろうか。

「香月副司令……」

 呟いたのは冥夜だった。全員の表情に緊張が走る。

 まさか、という思いと……それならばあり得るという確信が戦慄のように駆け巡る。

 かつて……そう、それは昨年の夏。なんらかの特別な任務のために、武は副司令直々に呼び出しを受けたのだ。一度や二度ではない。約二ヶ月に渡り十数回。……その理由や任務の詳細などは全く知らされず知ることさえ許されなかったわけだが、しかし彼女達は知っている。

 彼は、その特殊任務の度に気を失い、倒れ、医療棟のベッドの上で眠っていたのだ。

 心労や疲労のためではないという。……ただ、何の症状もなく眠るように意識を失って……。

 教官であるまりもの元へ連絡が入るたび、彼女の口から武が倒れたことを知らされるたびに……彼女達は不安を募らせた。当然だ。当時の彼は日頃の訓練に加えて斯衛の真那から剣術の修行を受け、全身に酷い怪我と疲労を抱えていた。そこに副司令からの特殊任務が加わって、突然に意識を失ったと知らされれば……そしてそれが十数回も繰り返されたならば。

 だから、彼が呼び出されることがなくなってからは、口には出さずとも誰もが安堵していた。

 ああ、これでもう彼が倒れることはないのだと、本当に安心していた。……任務の内容なんて関係なかった。ただ、知ることが許されない任務に打ちのめされるように倒れる彼を見なくて済むのだという安堵だけがあった。

 故に、その冥夜の呟きはまるで稲妻の如き衝撃をもたらした。彼女自身半信半疑なのだろう。……だが、前例があり、彼女たちにとって突然で唐突に過ぎる今回の事態は……正にそのことを示しているように思えてならない。

 そして、それを裏付けるかのように……或いはただ点呼のために、神宮司まりもがやってきた。……そこには武の姿などなく、少女達は最後の望みさえ潰えたことを知る。

「……小隊整列っ」

 反射的に、千鶴が号令を掛ける。内心で激しい動揺と狼狽、相変わらずの困惑を抱いたままに、十人の少女達は整列する。一糸乱れぬ敬礼を受けて、まりももまた答礼し……そして彼女は言った。

「全員揃っているな……」

「――ッ、」

 皆が、息を呑む。――全員? 武がいないのに? 全員、だって?!

 だが、誰もそのことを口にはしなかった。まりもは「全員」と言った。揃っていると言った。……ならば彼女は知っているのだ。武がいないことを。その理由を。

 だから、それを待つ。説明を待つ。自分達が知ることの出来る……知ることを許された限りの、その、理由を。

 二十の視線を受けて、しかしまりもは微塵も怯むことなく。むしろそんな少女達の感情を嘲笑うかのように平然と口を開いた。

「貴様達に伝えておくことが在る」

 ――。

 しん、と静寂が更に静まり返る。全員が呼吸さえ潜め、紡がれるまりもの声に耳を澄ませる。

「本日0400を以って白銀武訓練兵はA-01衛士訓練部隊へ転属となった。これを受けて貴様達第207衛士訓練部隊B分隊は白銀訓練兵を除く五人編成に変更、総勢で十名へ変更された」

 誰も、何も、言えなかった。

 否。

 誰も、理解できなかったのだ。――その言葉を。

 転属? 異動? 誰が。武が。……莫迦な。なんだ、それは……っっ。

 驚愕、そして動転。まりもの言葉が繰り返し脳内で再生されるが、その意味するところを理解できない。

 皆一様に目を見開き、愕然と口を開く。

 脳内で理解できずとも、彼女達の身体は……理解し、感情に忠実に反応していた。



 白銀武はもういない。

 どこにもいない。――いない、のだ。



 それは果たして夕呼の指示なのか否か。まりもはそれ以上のことを言わない。ただじっと黙って、厳しい表情のままに茜たちを見つめいていた。

 ……だから。茜は問うてしまった。

 点呼を終え通達を終え……なのに彼女達の前から立ち去ろうともしないまりもに、尊敬する教官に、優しい彼女に。問うてしまう。縋ってしまう。口に、してしまう――。

「どう、して……、どうして、なんですかっ……白銀、は、っ」

「茜……」 「茜ちゃん……っ」

 か細く震える茜の肩を、晴子と多恵が抱きとめる。半歩踏み出してまりもに詰め寄ろうとする彼女を、今にも泣きそうな表情の彼女を、全く同じように泣き崩れそうな二人が抑える。

「教官ッッ! 神宮司教官ッッ!! 白銀はっ、武はッッ?! なんで、どうしてっっ!! ――何処に行ったんですかァッッッ!!??」

 絶叫に近しいほどの嗚咽。茜のその慟哭は、その場にいた少女達の心を震わせた。

 武がいない。彼がいない。側にいない、隣りにいない、触れられない、声が聞こえない――ッッ!

 茜は盛大に涙を零す。両目をしっかりと開いたまま、彼女は泣いていた。泣いて、問うていた。……だが、まりもは応えない。

「…………っ、ぅ!!」

 唇を噛む。視線を落とす。がくりと全身の力が抜けて……肩を抱いて支えてくれる晴子と多恵に甘えるように。茜は打ちひしがれて項垂れた。

 ――茜。囁く晴子が抱いてくれる。多恵もまた、しっかりと彼女の身体を抱きとめた。

 言いようのない沈黙がその場を支配する。誰もが茜を見た。困惑と哀愁と疑問。……そして、大きな驚きを。

 冥夜は、千鶴は、慧は、美琴は、壬姫は…………B分隊の少女達は、そうしてようやく本当に、知った。

 茜の心底からの想いを。

 その想いの本質を。強さを。――愛執に近しいほどの、情を。

 冥夜は戦慄する。茜の想いに背筋を怖気させる。昨日の彼女。武の心を揺るがすキーワード。「カガミ・スミカ」――ああ、それは、その名は。

 武にとって深い傷を抉る女性の名であると同時に……茜の愛執を強固にする呪いのようなものだったのだ。



 涼宮茜は白銀武を愛している。



 狂おしいほどに。彼がなくては生きていけないほどに。

 想い、焦がれ、愛している――。

 憧憬や尊敬、好意。そんなものとはまるで異なる次元で、魂の奥底から――彼を求め、彼を愛し……彼の愛を欲していたのだ。

 否。

 それは報われない想いだと知っている。誰あろう、茜自身がそのことを深く理解し、承知している。

 彼からの愛を与えられなくともいい。彼の愛情を受けなくとも構わない。この身は、ただ彼の側で彼の支えとなれるだけで満たされるのだから。――なのに、武はいなくなってしまった。

 側にいたいと願う茜を置いて。

 支えとなりたいと願う茜を置いて。

 彼を愛している。それだけで満たされて充たされる茜を置いて。告げられない彼女の想いを置いて。ただ、独り……手の届かない場所に行ってしまった、のだ。

「涼宮……」

 呼びかけたのはまりも。涙を零し続ける茜に、静かに……少しだけの慈愛を込めた声で。

「安心しなさい。確かに白銀はいなくなってしまったけれど……別に貴女たちの手の届かないところに行ってしまったわけではないわ。所属する部隊こそ違ってしまったけれど、彼だって横浜基地に所属する同じ仲間よ。……今の貴女たちには教えることは出来ないけれど、でもね、白銀は今、彼にしか出来ないことを懸命に頑張ろうとしているの。その力の全てを以って、人類のため、なにより彼自身の願いのために挑んでいる。……勿論、貴女たちのためにも、ね」

 穏やかに、小さな微笑さえ浮かべて。まるで優しい姉のように。

「ほら、そんなに泣かないの。……今の貴女を見たら、白銀はどう思うかしら? そんな風に泣かれたら……きっと彼は進むことを躊躇ってしまう。貴女の、貴女たちの涙は、彼の行く道を狭めてしまうかもしれない。彼の可能性を閉じてしまうかもしれない。……それは貴女の望むことではないでしょう? ――だったら、顔を上げて、胸を張りなさい。彼が安心して行けるように。新しい道を選び取ろうとしている彼を、祝福してあげなさい」

「――――、」

 まるで聖母のように。にっこりと微笑むまりもに、茜は強く心打たれる。――ああ、なんて……なんて凄い。

 この人は、彼女は、まりもという女性は。なんて、なんて強くて大きいのだろう。

 そうだ。そうだった……。忘れていたのだ。自分は。

 かつて、横浜を離れることになったその日。生きろと言ってくれた彼女の言葉を思い出す。立派な衛士になれと言ってくれた、その言葉を思い出す。

 そうだ。まりもはいつだって、優しかった。誰よりも教え子たちの、その心を慮ってくれた。……だから、彼女の言葉は、こんなにも胸に染み渡る。

 茜は涙を拭った。顔を上げて、胸を張って――笑顔を見せた。

 武を困らせるようなことだけは、しない。彼が前へ進むと決めたのなら、その足手まといになんて絶対にならない。……彼が自分を置いていくことを選択したことは哀しいが、でも、それが何よりも彼のためになるというのなら。

「取り乱してしまって申し訳ありません、教官。――あたしは、大丈夫です」

 恥ずかしそうに笑う茜を見て、まりもは頷く。最後まで優しげに微笑んだまま、彼女は背を向ける。

「――全員、顔を洗って来い。酷い顔だぞ、まったく……ふふっ」

 背中を向けたままそう言って。まりもは去っていった。

 その彼女の言葉に、少女達は互いの顔を見合わせ――皆が皆、同じように目元を腫らしていた。

「ぅゎ、皆涙もろいのね……」

「……うーん。茜に言われたくはないよね」

「茜ちゃ~んっ、寂しかったらいつでも私が慰めてあげるからねぇ~っ」

「べ、別にあたしは泣いてなんか……って、亮子、なんだよその顔はっ」

「えへへへ。薫さん照れてます」

「……うぅぅ……神宮司教官、優しいですぅ……」

「うん。あんな優しい笑顔、初めてだね」

「ああ……叶うならばあのような女性になりたいものだ」

「……いいね、それ」

「まぁ、それはともかく。本当に皆酷い顔ね……」

 照れくさそうに、頬を染める。

 あまりにも突然で唐突な武の異動。彼がいなくなってしまったという事実に矢張り、拭いようのない寂しさと哀しみが込み上げてくる。……だが、もう茜は涙を流さない。

 少なくとも、彼が側にいないという理由で泣くようなことは、しない。

 だってそれは、彼を喪ったわけではないのだから。彼は生きて、同じ横浜基地にいる。これから先の日々、任官してから後……彼に再会できるかどうかはわからないが、それでも、彼は「いる」。

 まりもは言った。武は武にしか出来ないことをするのだと。そのための道を進むのだと。――だったら、誰よりも彼を愛している茜は。

「さ! 皆顔洗って食事食事ッ。総戦技評価演習まで二週間しかないのよっ? さっさと気合入れて、今日も訓練頑張るわよ~っ!」

「あははは。一番落ち込んでたくせになんか言ってる」

「そこォ! 細かいことはいいのっ!!」

 じゃれ合うような茜と晴子。そこに多恵が加わって、薫が混ぜ返し亮子がついて歩く。いつもの風景。いつもの彼女達。武と共に歩み、武と共に成長してきた彼女達。

 その結束は、強く、堅く、なによりも深い絆で繋がっている。

 それを、羨ましいと。

 だから、敵わないと。

 故に、そう在りたいと。

「――我々も、行こう」

 冥夜が柔らかな声で促す。武を傷つけてしまったままに別れることとなった彼女だが、しかし、その心は晴々と清々しい風が吹いている。

 彼女は今、嬉しくて仕方がなかったのだ。

 武の心の裡の片鱗を知れたこと。茜の想いの強さを知れたこと。武と共に在り、強い絆で結ばれた彼女達の強さを知れたこと。

 そんな彼女達と同じ時を過ごせていることを。

 そんな彼女達と仲間となれたことを。

 誇らしく思うと同時、その事実が――嬉しい。

 だから、もう迷うことはない。誰に遠慮することもない。羨ましいと想い、敵わないと想い、そう在りたいと想うのならば――そうすればいい。

 彼女達のように、独り進んだ武のように。

 強く、深い絆を育めばいい。自分達も。誰でもない、自分自身の手で。

 壬姫を見る。美琴を見る。千鶴を、慧を。

 まだどこかに遠慮や躊躇いがある彼女達との関係を。今まで何度となく想い、そのように在れたらいいと夢想していたそのことを、今度こそ本当に。

「ええ、白銀だって頑張っているんだもの。……私も、前へ進むわ」

 強く。本心からの想いを。

 千鶴は微笑む。

 己の不甲斐なさを知らしめてくれた武。己に足りない物を気づかせてくれた武。その彼の、真剣な思いに。――応えてみせる。

 昨日一晩考えて考えて、だからこそ思い知った甘ったれな自分。子供染みた諍いはもうしない。慧の考えが、行動が理解できず、受け入れられないのなら……どれだけの時間を掛けようとも、彼女を理解してみせる。

 皆にも護りたいものが在る。それを護れるかどうかは、皆の自覚と結束にかかっている。

 自分と慧の仲違いによって任務が失敗して……そして失うものは自分ひとりのものだけじゃない。…………それを、ようやくに気づくことが出来たのだ。

 だから、本当は今日、武に正面から謝罪したかったのだけれど……でも、それでも千鶴は決意する。

 前へ進む。もっと前へ。怒り、諭してくれた彼に応えるべく。

 その意思を込めて慧を見れば、少しだけ頬を染めた彼女が不敵に笑っていた。

 ――あんただけに格好つけさせないよ。

 そんな言葉が聞こえた気がした。――ふふ、言っていればいい。

 苦笑したつもりの千鶴だったが、笑いあう彼女と慧は……どこか、柔らかく見えた。

 壬姫は、美琴は、そんな彼女達の姿に、咲いたように笑う。

「ねぇねぇっ! ボクたちも行こうよ!」

「そうですよ~っ、今日こそ涼宮さんたちをギャフンと言わせちゃいましょう!」

 冥夜が頷き、千鶴と慧が首肯する。

 五人揃って歩き出して……少しだけ先にいるA分隊の彼女達を見つめる。今はまだ追いつけない彼女達。……だが、いつか必ず、それは例えば今日にでも。

 追いついて、追い越して――彼女達に振り返ってみせる。

 自分達だって負けていないのだと。そう、示してみせる。……武のためにも。あんなにも真剣な感情を見せてくれた、彼のためにも。







 そして、十人の少女達は歩き出す。

 それぞれの思いを胸に。それぞれの決意を確かに抱いて。







「どうでもいいけど。珠瀬、古いね」

「ギャフン!」







 ===







 風間梼子は恐怖に凍りついた。

 茹だるような熱気。粘りつくような湿気。濃密な緑に覆われた密林のその中で――まるで獣のように迫り来るアレはなんだ。

 総合戦闘技術評価演習。

 たった一人の訓練兵のために行われているそれ。

 戦術機からの離脱を余儀なくされ、強化外骨格さえ使用不可能という状況で、小型種BETAの蔓延る戦場をただ逃げ惑うことしか許されない……そんな条件を与えられた彼は。しかし、仮想的として追撃を開始した梼子を、或いは梼子と同じく追撃していた彼女を――。

 確かに、彼は、「可能ならば」という前置きをされた上で追撃部隊の無力化……即ち仮想敵である自分達への攻撃を許可されていはいた。

 だが、仮にもこちらは小型種BETAを想定して追跡している。優れた対人探知能力を有する小型種は、ある程度の接近が必要とはいえ、物陰に潜むニンゲンさえ感知して襲い掛かってくる。故に、その脅威ともいえる探知能力の代わりに用意されたレーダー。半径十メートルという制限は在るものの、しかしその存在は、追われる彼にとって致命的となる。

 更に言えば、彼には小型種からの攻撃判定に途轍もない制約を課せられていた。具体的なBETAの種類や特徴を知らされていない彼だが、兵士級と呼称される個体が持つ「腕」から繰り出される攻撃は、容易く人間の骨を砕き肉を抉るのである。故に、仮想的の攻撃はそれと同等の破壊力を有する物として扱われ――一撃を喰らえば戦死するものとされた。

 つまるところ、彼には“逃げる”以外の選択肢などありはしないのである。

 交戦は許されているが、その戦闘では模擬短刀以外の装備を許されていない彼にとってそれはあまりにも無謀。レーダーを持つ七人の追っ手から、ただひたすらに逃げ続けるほかないはずなのだ。

 その、はずなのに。

 目の前で、梼子と同じ追撃部隊の一人が崩れ落ちる。

 追撃を振り切れず応戦に転じた彼の……得体の知れない身のこなしに翻弄され、攻撃という攻撃をかわされ、死角から死角へと移ろうように舞い踊るその挙動に――全身を捻る旋回運動、螺旋を描く攻撃軌道、その、短刀を振るう剣閃に。

 息を呑んだ。

 今、彼は何をしたのだ? ――模擬短刀を振るった。一撃を喉に。二撃を胸に。腕を掴み脚を払いトドメとばかりに腹に突き立てて。

 凍り付いてしまった梼子に構わず、再び彼は逃走を開始した。――莫迦な!

「いっっったぁあ…………ッ」

「――亜季さんっ、大丈夫ですか?!」

 ゲホゴホと喉をさすりながら身を起こす亜季に、我に返った梼子は駆け寄る。強かに打ちつけられたのだろう。喉には細く赤い筋が残っていて、更には胸、腹と涙目でさする彼女の様子に狼狽する。

「くっそう……あいつめ、本気で殴りやがってぇ……」

 骨に異常はないようだったが、相当な痛みらしく、亜季はひぃひぃと転げる。些か大げさなその仕草に、いつもの彼女なりの冗談なのだと気づいて……梼子は少し唇を尖らせる。

「亜季さん。私とても心配したんですけど」

「いやぁ悪い。――でも、あいつ強いよ。わたしにゃ手に負えない」

 両肩を竦めて降参と手を挙げる彼女に、梼子は溜息をつきながらも――概ねにおいて同意する。

 元々が接近戦を不得手とする亜季に、狙撃に比べると矢張り芳しい実力を持たない自分にとって……彼の、あの戦闘能力は驚異的だ。

 無論、こちらの攻撃が一度でも当たれば彼は戦死扱いとなるわけだが……現実に亜季の攻撃は当たらず、そして自分も同様の結果となるだろう。――あの動きには、追随できない。

「なんだっけ、シロガネとか言ったっけ? 香月博士が特別扱いする理由、ちょっとわかった気がする」

「……そうですね。今回の総戦技評価演習……、こんな条件で合格できるわけないと思ってたんですけど」

 追撃部隊、仮想的として本演習に参加することを命じられたのは、夕呼直属の特殊任務部隊に属する任官二年目の衛士七名。昨年の四月に帝国軍札幌基地より国連軍横浜基地へと転属した――ある意味で彼と同じ境遇の梼子たち。

 既に数度の実戦を経験し……その度に同期だった仲間を喪い……。十二人いた彼女達の中で生き残ったのはたったの七人。「死の八分」を乗り越え、実戦を潜り抜けた梼子には、そして当然亜季にも、その自負が在る。

 にも関わらず、未だ訓練兵でしかない彼に敵わなかったという事実。あまりにも獰猛な戦闘術に呑まれ、亜季の援護をすることさえ出来なかった己の未熟さに、梼子は悔しげに拳を握り締めた。

「私、彼を追います――」

「うん。わたしは動けないから、行ってらっしゃい」

 ぴらぴらと力なく手を振る亜季を置いて、梼子は追撃を開始する。演習終了まで残り八時間二十七分――。追撃部隊に用意された無線機で、彼の逃走経路を伝達する。

 追撃部隊は残り六。八時間も必要ない。一切の手加減なく、微塵の容赦もなく。今はただ先任としての意地を賭けて。或いは、先に逝った仲間達に笑われないように。

 梼子は走る。

 彼のために用意された彼女達は走る。

 その、特別とされる訓練兵の、特別たる所以を知るために。――全力で。







 ===







「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ…………!!」

 叩きつけられた地面に転がったまま、彼は荒い呼吸を繰り返す。相変わらずな熱気と湿気に汗が噴き出す。――ついに、決着はついた。

 梼子は己の首筋に手を当てる。鈍い痛みが残るそこを撫で付けて……亜季は冗談でもなんでもなく、本当に痛かったのだとぼんやりと思う。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハッ……くそっ、畜生ッッッ!!!」

 倒れたまま、空に向かって咆哮するその声。悔しげな、苛立たしげな少年のその叫び。その彼の鋭い双眸は、立ち尽くし肩で息を切らす一人の女性に向けられていた。

「はっ、ぁ、くそっ……やったぞ! この野郎ッッ!!」

 ぜぇぜぇと喘ぐように呼気を乱す彼女は、引き攣った笑みを浮かべながら負けじと叫んだ。上川志乃。仮想敵の一人であり――彼女達の最後の生き残りである。

 結局、七人いた仮想敵は……志乃を除き全滅。梼子の執拗な追撃が功を奏し、最初に無力化された亜季以外の六人がかりで彼を追い詰めたのが三十分前。完全なる詰みだと確信した。どう逃げようと足掻いても無駄。先任衛士六人の包囲を突破できるはずもなく、彼は即座に敗北するだろうと思われた。

 ――なのに。

 梼子は愕然とした。或いは彼女だけではなかったかもしれない。彼と相対した六人全員が、その在り得ないまでの挙動に舌を巻いた。攻撃が当たらない……だけでなく、多数に囲まれているというのに気づけば一人ひとりを相手にしている彼。独特の旋回運動、対する相手の死角へと潜り込む螺旋軌道。正面から側面へ、側面から背面へ……そして次の相手へ。ひたすらに回避のためだけに繰り返されるその動きは、梼子たちを大いに困惑させ、翻弄した。

 これでは亜季の二の舞だ。息を吐く間もない連続攻撃を仕掛けたかと思えば、短刀を振り抜いた慣性そのままに旋回し……繰り出される攻撃をかわしたかと思えばその回避こそが違う相手への攻撃となっていて。

 彼の戦術は、とにかく常識から外れていた。一撃を喰らえば「死ぬ」という条件下にありながら、ただの一撃も受けることなく。囲む六人を翻弄するその挙動。

 まるで“多数を相手にすることに特化している”かのような彼の戦闘術。こちらの攻撃は当たらず、彼もこちらを無力化するに値するダメージを与えられない。戦闘は膠着した。その場にいる全員が絶え間なく動き続けていたというのに、拮抗し、膠着したのである。

 六対一でありながら。

 圧倒的戦力差でありながら。

 包囲する梼子たちを相手に、彼は単独で逃げ続け……そして、最初に梼子が打ち倒された。

 次第に見慣れ始めた螺旋軌道。そのパターンというべきものを見極めたと思った瞬間に、背中を向けたままこちらへバックステップしてきた彼の姿が掻き消えた。――否。バックステップの最中に既に半身を捻り、軸足が地に着いた瞬間、まるで回転する独楽のように――梼子の身体を中心にぐるりと回りこんで――彼女は延髄に強烈な一撃を受け、膝をついた。彼に対するハンディキャップとして、急所に攻撃を受けた場合は行動不能、つまるところ無力化されたとみなされる。

 一瞬にしてやられてしまった梼子は、そのまま愕然と戦況を見守って……自分と同じように次々と倒されていく仲間の姿を目の当たりにした。

 そんな莫迦な。

 たった独り。単独で。模擬短刀ひとつだけしか武器はなく。六人に追われ、追い詰められて……どうしてそんなことができる?

 確かにその顔を見れば精神的にも肉体的にも極限まで疲弊していることがわかる。必殺に等しい攻撃はかわす以外に方法はなく、逃げようと走っても一度補足された以上レーダーから逃げ切ることは困難で。

 文字通り追い詰められている。完全に詰み。――だからこそ、抗うほかに術はなく。戦いを挑む以外に道はなく。

 そして、彼にはそれができる技術が存在したのだ。

 梼子は知らない。彼女達は知らない。



 ――実(げ)に恐ろしきはその物量、故に我が剣はそれに対する究極と知れ――



 彼に師が在ったことを。名も無きそれこそ、圧倒的多数で迫り来るBETAを駆逐するために編み出された剣術であることを。

 彼が、その後継で在ることを。

 極限まで追い詰められ……形振り構ってなどいられない状況に追い詰められ……そうして爆発した彼の才能に。ひとり、またひとりと倒れていく。――そして志乃だけが残った。

 彼にとって不運だったのは、梼子たちの中で最も優れた近接格闘能力を有する彼女を最後の最後に残してしまった点だろう。……否、優れているからこそ、志乃は残ったのだ。ならば、それは必然というべきかも知れない。

 対して、演習開始から六時間以上を逃げ続け、常に追われ続けているという状況に精神をすり減らし、あまつさえ今この瞬間まで六人と対峙し、内五人を連続で仕留めたのである。――最早、彼は限界を超えていた。

 彼を追い詰めてからの三十分。六人の間を駆け抜け続け一秒たりとも静止することなく動き続けていた彼のスタミナは当に切れていたらしい。……志乃の正面に立つ彼は、微動だにしない。或いは、その瞬間だけ……立ったまま気を失っていたのかもしれない。

 あと一人。どこか頭の片隅でそれを認識した瞬間に、全身の緊張の糸が切れて……消耗した精神と肉体が活動を停止してしまったのか。

 志乃はそれを見逃さなかった。刹那に意識を取り戻したらしい彼だったが、回避しようとした瞬間に腕をとられ――ぐるん、と縦に回転した。

 そして決着はついた。

 彼――白銀武訓練兵は仮想敵六人を無力化するも敗北。「死んだ」のである。

「……こちら上川……目標を制圧。繰り返す、……ッ、目標を制圧」

『…………伊隅だ。現時刻をもって総戦技評価演習を終了する。各自、所定のポイントへ集合せよ――』

 志乃が絶え絶えに報告する。彼女達の指揮官であり、武の教導官を兼任することとなったみちるによって終了が告げられる。

「……ほら、立てよ。シロガネ」

 倒れたまま起き上がらない武に、志乃が苦笑を浮かべて手を差し伸べる。悔しげな表情の武は……しかしその手を掴むことはなかった。

「俺、負けたんですよね……」

「そうだな。……ま、だからといって失格かどうかはまだわかんないけどな。ホラ、急げよ」

 眼を閉じて吐き出すように武は言う。そんな彼に益々志乃は苦笑して……転がる彼を置いたまま、他の仲間達と共に移動を開始する。

 去っていった彼女達の姿が見えなくなったのを確認して、武は起き上がった。

「俺……負けたんだな………………すいません、月詠中尉。…………まだまだみたいです、俺、」

 最後の最後で気を抜いてしまった己の未熟さを噛み締める。

 たかが六人を相手に敗北した自身の弱さを噛み締める。

 きっと真那ならば、こんな無様を晒しはしない。……或いは、彼女の部下である巽、雪乃、美凪とて。

 ――落ち込んでばかりもいられない。今は、立ち止まる時ではないのだ。

 武は極度の疲労で震える脚を叱咤しながら、集合ポイントへと向かう。総合戦闘技術評価演習は終了した。果たして合格か否か。現時点での己を全て出し切った。ならば……今はただ、審判を待つ。







[1154] 復讐編:[七章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:c3618111
Date: 2008/02/11 16:21

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:七章-04」





 透き通る蒼い海が黄昏に染まる頃、ようやく武は合流ポイントまで辿り着いた。仮想敵であった名も知らぬ女性衛士に投げ飛ばされた場所からここまで、実に三時間半。……六時間以上に渡り広大な無人島を疾走したのと合わせても半日足らず。

 結局、それだけの時間しか生き延びることが出来なかった。

 十四時間逃げ切ればいい……という実に単純明快なそれは、半分にも満たない時間で捕らえられ…………こうして疲労を引き摺りながらに全力で走り戻ったところで、落ち込んだ感情が浮上するわけもなく。

「戻ったな。――白銀訓練兵、ここへ」

「……はい」

 名を呼ばれ、武は小豆色の髪をした女性大尉の正面に向かう。本日0400付けで武の新しい教導官となった伊隅みちる大尉だ。彼女の背後には仮想敵として演習に参加した先任衛士七名の姿も在る。……全員が武に注目し、鋭い緯線を向けていた。

 ぐ、と。口を閉じ、拳を握り……武は覚悟を決めた。

 作戦は失敗。生還かなわず戦死したのだ。……多分、失格だろうと武は予想し、悔しさと情けなさに拳が震える。



 ――何が、特別だ。



 そう言ったのは夕呼だった。武の特別な才能が秘めた可能性を開花させ、伸ばすためにこのような特例措置を実現してくれた副司令。

 彼女は更に、武には常に結果が求められるとも言っていた。――当然だ。特別を許されたものは、それゆえの相応しい結果を出さなければならない。

 できると思っていた。

 確かに過酷で悲惨な演習内容だったが、それでも逃げ切れると……或いは倒しきれるという自信があった。

 だが、結果を見ればわかる。……それは、なんと言う自惚れか。

 追い詰められて焦り、我を忘れて逃げ惑い、極限状態に追い込まれて…………「殺された」。

 一撃を喰らえば終わり。そういう条件だった。……だが、それでも相手は素手で、こちらには模擬短刀の装備を認められていた。加えて、こちらの攻撃は急所に当たりさえすれば“一撃必殺”に相当する。

 ……改めて考えると、こちらに有利すぎる条件だ。

 七対一。仮想敵には追跡用のレーダー。追撃部隊間の通信端末。必殺の攻撃判定。……BETA小型種を想定して、ということではあったが……しかし、彼女達はニンゲンだ。

 同じニンゲン。移動速度も、攻撃速度も、思考も、感情も、身体構造も、精神構造も、呼吸も、鼓動も、同じニンゲンだったのだ――BETAなどではなく。

「……………………」

 そのニンゲンに追い詰められ、そして生き残ることが出来なかった。自分には、そんな力さえなかったのだ。

 武器を持っていながらに。真那という師の教えがありながらに。

 演習が終わって、冷静になった頭で考えればよくわかる。――逃げ切れて当然。或いは、倒せて当然。ならば武は………………。

「それでは、これより本総合戦闘技術評価演習の評価を開始する。――白銀、本作戦の第一優先目標はなんだ?」

「……戦闘区域内で、救助部隊到達までの十四時間以上の生存です」

「そうだ。だが、貴様は作戦開始より七時間十二分でBETA小型種に捕捉されKIAと認定された。つまり、作戦失敗。――失敗の原因はなんだ?」

「……は、……敵の索敵範囲に入ってしまったことと、その追跡を振り切れなかったことです。加えていえば、……最初の二体と遭遇した際に、その両方を無力化せず、片方を仕留めたことに安堵して逃走してしまったことです」

 そう。あの時、こちらの姿を捉え追撃してきた二人。「追われる」というプレッシャーに耐え切れずに攻撃を仕掛け、無力化した片方。当然、もう一方も襲ってくると思っていた。……だが、実際はそうならず、その女性衛士は呆然と立ち尽くしていた。

 理由は知らない。ただ、チャンスだと思った。……この隙に逃げ切れば、などと考えてしまった。

 そもそもそれが間違いだった。――チャンスだったのだ。その場でもう一人を倒してさえいれば……あれほど執拗な追撃を受けずに済み、或いは、残る五人を振り切れていたかもしれない。

 己の判断の甘さに反吐が出る。

「なるほど。ならば貴様はその時に二体のBETAを倒すべきだったと、そういうわけだな」

「――はい。あの時逃走してしまったせいで、他の敵への連絡を許してしまい……しかもその追撃を振り切れなかった…………。状況判断を誤り、最も避けるべき最悪の事態に陥りました」

 ふむ、とみちるは頷く。武の言うところの最悪――つまり、仮想敵六人に包囲され、乱戦になったことを思い浮かべているのだろう。みちるは島の中での出来事を直接目にしては居ないが、仮想敵である彼女達が持つ無線は、当然みちるも傍受していた。また、先に帰還した彼女達からの報告も受けている。故に、みちるは武がとった一連の行動を承知している。

 教導官として総戦技評価演習の作戦評価をしようというのだから当然だ。……そして、その合否判定も教官の仕事なのである。

 作戦の目的を考えれば、あまりにも最悪。――見つかったその時点で、武は失敗していたのだ。

「白銀、貴様は今“逃げてしまったことが間違いだった”……そう言ったな? そしてそのために“最悪の事態に陥った”と。……莫迦者、貴様は作戦の意図を全く理解していない」

「……え?」

 みちるの言葉に、武は怪訝な表情を向ける。眉を寄せ、厳しい表情のみちる。出来の悪い生徒を叱るように、彼女は言う。

「いいか。本作戦の第一優先目標は救助部隊到達までの生存だ。生存……即ち生き延びることが目的で在る以上、不必要な戦闘は避けるのが道理だ。確かに敵に捕捉され、その追撃を振り切ることがかなわない状況ともなれば応戦に転じることもやむを得まい。……だがな、白銀。貴様は勘違いしているぞ。貴様を追いつめたのは何だ? 貴様が振り切れず攻撃を仕掛けたのは何だ? ――BETA、だ。ニンゲンではない」

「――!!??」

「貴様は運よくも追撃してきたBETAの内一体を撃退することに成功した。そして、理由はさておき、もう一体のBETAは微動だにせず襲ってこない。ならばどうする。どうするのが最良だ? ――考えるまでもない。そもそも、短刀一つでBETAに挑むという選択肢自体在り得ない。何よりもただ生き延びるために、貴様はその場から逃走して当たり前だ。その判断は、正しい」

 武は絶句する。そんな莫迦な、という思いと……己の認識との誤差に混乱する。

 つまり、……どういうことだ?

 みちるは言った。確かに言った。逃げて当然。それが最良。――ならば、あの時点で武は間違っていなかった?

 …………だが、それでは話がおかしい。追って来ていたのがあくまでBETA……即ちニンゲンである仮想敵ではないのだと想定するならば……一人目を、一体目を無力化することが出来たこと自体が、矛盾する。

 相手がニンゲンだったから倒すことが出来た。相手がBETAだから逃げることが最良だった。

 仮想敵の定義があまりにも曖昧だ。みちるの言わんとすることもわかるが……しかし、それでは……つまるところ、一体どういうことになるのか。

「ふふ、混乱しているようだな。……確かに、貴様が戦い、倒した相手は、BETAでもなんでもないただのニンゲンだ。貴様と同じ、生身のそれだ。だからこそ倒すことが出来た。……だがな白銀。私が問うているのは“ニンゲン”か“BETA”かではない。――生き延びるという最大目標を実現するために、如何にその場の状況を判断し、行動するか。ただその一点のみ」

「……ッ!」

 そうか、そういうことか! 武は驚きに目を見開く。不敵に笑うみちるの視線に、勘違い甚だしい自分の浅はかさを恥じる。

 つまりはこういうことだ。

 作戦の第一優先目標は「生存」。追撃してくる敵から生き延びること。

 ただひたすらに逃げようとも、果敢にも挑み倒そうとも。

 生き延びればそれで作戦は成功。目標は達成されるのだ。――そこにBETA/ニンゲンの区別はない。

 ただ、今回の演習に用意された追撃部隊……仮想敵が小型種BETAという設定だっただけで――故に様々な戦闘時の条件が付随したわけだが――例えばそれがニンゲンによる追撃だったとしても同じことだ。

 生き延びるためにどうするか。

 相手はBETAだという。喰らえばそれだけで戦死する攻撃。こちらの動向を把握するレーダー。意思疎通のための通信端末。……それらを持つ敵を相手に、どうすれば生き延びることが出来るのか。

 見つからないように逃げる。攻撃されないように逃げる。――そんなことは、当たり前で当然だった。

 いくら隙があったのだとしても。あの時、あの状況で、相手が本当に本物のBETAだったなら――本当に運よく、最初の一体を無力化出来たのだとしても――逃げるべきだ。

 二体の追撃を振り切れないためにやむを得ず応戦したことについて、みちるは生き延びる可能性を高めるためとはいえ、半ば自殺行為に等しいと断じた。応戦に転じるのであれば、せめて一対一に持ち込める状況を作り上げる努力をすべきだったと。

 そして運よく一体を無力化した後の逃走については、武にその意識はなかったものの、最良の判断だったと評する。

「だが、追跡を振り切れなかった点は痛いな。そもそも小型種というものは80km/hで襲ってくるモノもいるわけだが、出せて20km/hの追撃をかわせなかったことは貴様の未熟さが原因だ。それゆえに貴様が言うところの最悪の事態に陥り、六体の敵に包囲された……」

 スラスラと下される評価に、最早言葉がない。みちるの評価は実に明快だ。零か一か。良いか悪いか。その場その場の状況判断、その結果。それら一つずつを評価し、武自身に知らしめる。

 そして、最後の評価が下される。

「六体の敵に完全に包囲された状況での転戦……そこまで追い詰められていながらに戦闘の意思を捨てず、生き延びようという姿勢は兵士として高く評価できる。また、六体を同時に相手しながら、内五体を無力化したことは貴様の高い戦闘能力を否応なく示しているだろう。……ただし、最後の最後で気が緩み、貴様はミスを犯した。心身ともに限界だったとはいえ、そのために貴様は生存に失敗した……」

「…………」

 沈黙が降りる。みちるは目を閉じて、それ以上を口にしなかった。

 ああ……矢張り。武もまた、眼を閉じて……顔を伏せる。

 みちるの評価を聞いてわかったことがある。作戦の本質を見抜き、その目標を達成するために最大限可能な限りの手段を用いて任務に就く。その大切さ。重大さ。

 ただひたすらに目標達成のための最良を模索し、実行し続けること。――その困難さを、身を以って知ることが出来た。

 確かに武は作戦の本質を見抜けず、都度の判断を誤り、最終的に失敗した。

 だが、この失敗は……今日の演習で得た経験は、必ず自身にとって力となるだろう。――否、力とするのだ。

 より強く在るために。より優秀であるために。衛士として、完成するために。その力を手に入れるために。

 ならば、落ち込んでいる暇はない。面伏せ、未熟さを嘆いている暇はない。

 武は失敗した。だから、そこから失敗した以上の知識を技能を経験を――力を手に入れる。己のものとする。みちるの言葉を、刻むのだ。

 顔を上げる。みちるが強い瞳でこちらを見ていた。……だから、武も負けじと見据える。

 自分は、これで折れる男ではないと。そう、教官となった彼女に知らしめたかった。

「……さて、今回の総合戦闘技術評価演習の結果だが…………」

 覚悟は出来ている。

 作戦失敗。救助部隊の到着まで生存できず、KIAと認定された。評価では良い点も悪い点もあったが、全体的に見ればミスの方が目立つ。……失敗を糧に前へ進むと決めたばかりだが、それでも矢張り緊張してしまう。

 だが、それでも覚悟は出来た。……次のチャンスが与えられるのがいつになるのかは知らないが、それが、例え明日であったのだとしても、今日のような失敗は在り得ない。教訓は、活かす。それが武の覚悟だ。

 たっぷりと三秒の空白の後。みちるが不敵に口端を吊り上げながらに、――言った。







「合格だ、白銀」







「――――――――――――――――――は?」







 なにを言われたのかわからなかった。

 間の抜けた表情と声で疑問符を浮かばせた武に、みちるはさも意地悪そうにニヤリと笑う。

「なかなか面白い顔だぞ白銀」

「――ぇ? って、ぇええ!? な、なんでっ、ですかっ!?」

「……なんだ。折角の合格が嬉しくないのか?」

 そんなわけがない。が、意味が全くわからない。

 武は任務に失敗したのだ。例えその途上でとてつもなく優れた功績を果たそうとも……失敗し、戦死してしまった以上、合格にはなり得ないのではないだろうか。合格する道理がない。……そう、思えるの……だが。

「ふふふっ、貴様が混乱するのも無理はない。……確かに作戦の第一優先目標は十四時間以上の生存だ。しかしな、実は貴様には知らせていなかったのだが……合格可否についてはそれとは全く関係ないところで評価されていたんだよ」

「……え? あ???」

 哀れなくらい混乱する武を愉快気に見ながら、みちるは事の次第を説明する。

「つまり、作戦に成功しようが失敗だろうが、それは直接合否判定には関わらないということだ。無論、作戦を成功させた方が高い評価が得られるだろう。……だがな、白銀。こと今回の演習ではどんな手段を使ってでも生存することが作戦の本質だった。或いは、単純に生き延びただけでも作戦は成功ということになる」

「…………ぁ、」

「気づいたか? つまりだ。例えば貴様のように常に移動し続けて追撃部隊を避けようとも、じっと一点に留まって隠れていようとも、作戦成功のみに重点を置けばその評価は変わらないということだ。最悪、運よく敵に遭遇しなかった場合でさえ、合格ということになるな」

 なるほど。確かにそのとおりだ。武にとっては「追ってくるから逃げる」という選択も、人によっては「追撃部隊から隠れる」という選択もあり得るということだ。そして、結果として生き残ることが出来たなら、それはどちらも作戦成功と一括りにされるのである。

「だが、総合戦闘技術評価演習とは、訓練兵が衛士として必要な精神・肉体・知識・技術・戦闘能力を身に付けているかを判断するために行われる前期訓練課程の修了試験のようなものだ。その総戦技評価演習の合否を判定する上で、ただじっと隠れて運よく見つからなかっただけの者と、貴様のように追い詰められながらも諦めなかった者とを、一体どうやって一括りにできる? ――つまり、この演習で評価すべき内容に限って言えば、白銀……貴様は十二分に衛士として相応しい能力を有しているということだ」

「…………ッ、」

 言葉が、ない。みちるの口から告げられたその言葉に、武は何も言うことが出来なかった。

 ただ、感情だけが迸る。疲弊した足先から、悔しさに震えた拳から……ぶるり、と。全身を奮わせた――ッ!

「ぁ、は……っ、」

「白銀。特に貴様の近接格闘能力には目を見張るものが在る。実戦経験のある衛士七人を相手に、六人を打倒した貴様の実力。更には緊張と緊迫に締め付けられ、追い詰められた極限状況にあって、尚強い精神力と諦めない意思。多人数に囲まれながらに着実に一人ずつ仕留める冷静さと優れた判断力。……追撃の手を逃れられず、最終的には気の緩みから敗北したとはいえ、ふふっ、まったくとんでもないヤツだよ貴様は」

 ニコリと。みちるは笑って……



「おめでとう、白銀訓練兵。貴様は文句なしに合格だ」



「――は、はははっ、――――――――――ゃった、!! やったぞぉおおお!!! うぅぅぅぉおおおおおおおっっ!!!!」



 武は吠えた。嬉しくて奮えて、こみ上げた感情に咆哮した!

 合格。総戦技評価演習の合格――ッ。ああ、ならばこれで、ようやくにして、ついに……ッ!

「ふふ、大袈裟なやつめ。まぁいいだろう。今は好きなだけ歓んでおけ」

「はいっ!! ありがとうございます、伊隅教官ッッ!!」

 満面に歓喜を貼り付けて、漲る闘志を秘めて、武はみちるに敬礼する。ん、と頷くように答礼して、みちるは七人の女性衛士と共に去っていった。

 恐らくは気を遣ってくれたのだろう彼女達の姿が見えなくなってから、武は今一度、天に向かって盛大に叫んだ。

 やったのだ。やったのだ。自分はやったのだ!

 これで、ついに戦術機操縦課程へと進むことが出来る。戦術機に乗るのだ。衛士として成るために。その力の象徴を手に入れるッ!

 湧き上がる強烈な感情があった。

 合格した歓喜さえ塗り潰すほどの、彼にとってなにものにも代え難い烈しい感情が立ち上る――。

「俺は……ついに……ッッ」

 夕呼にこの道を示された時、これが運命なのだと感じた。

 それが己の進むべき道なのだと確信した。

 力を手に入れる。特別であるというならば、その特別たる力を持って突き進むのだと決めた。

 衛士になる。

 彼女を護る。

 その力を手に入れる。

 その力で――BETAをコ■スッ!!

 あああ、ついに。そしてようやく。彼女を喪ってから二年と四ヶ月。――その、永い時間を経て、ようやく。

 そのための一歩を、踏み越えた。

 戦術機に、乗るのだ。衛士としての真価を発揮する力の象徴を手にするのだ。

 喪った彼女への想いを護るために。支え、手を差し伸べてくれた茜や水月たちを護るために。教え、導いてくれた真那を護るために。

「…………純夏、純夏ッ、純夏ァアア! やったぞ、俺は、やってやる!! 俺は衛士になるッ! 衛士になって、お前を……お前をッッッ」

 昂ぶった感情に涙が零れる。武はそれを拭いもせずに、ただ……彼女を………………喪ってしまった彼女を想う。







 総合戦闘技術評価演習――終了。白銀武訓練兵の合格を認める。







 ===







 総戦技評価演習を実施した南国の無人島から六時間掛け、横浜基地へ帰還したのは深夜三時。

 交替制で詰めている部署、或いは待機任務の衛士以外には、誰も起きている者などいないだろうその時間。だが、帰還したばかりのその足で、みちるは夕呼の執務室のドアを叩いていた。

 スッ、と小さな音を立ててスライドするドアを潜り、事務机に置かれたコンピューター端末を操作している夕呼の元へ進む。

「香月博士、総戦技評価演習の報告書を持ってまいりました」

「…………はいはい、ご苦労様。……白銀は?」

 差し出された報告書をぞんざいに受け取りながら、夕呼は端末からみちるへと目を向ける。やがてゆっくりと椅子に背中を預け、体全体でみちるの方を向いて。

「白銀は休ませました。流石に南の島のジャングルでの持久戦は堪えたようです」

 苦笑するみちるに、夕呼は詰まらなそうに唇を尖らせる。……が、そんな子供染みた仕草もすぐになりを潜め、夕呼は割りと真剣な表情で問うた。

「……で、どう? アイツはあんたの目から見て――」 「――彼は優れた衛士となるでしょう。……いえ、私がそうさせてみせます」

 夕呼の言葉を遮るように、みちるは自信満々に言い放った。ほ、と夕呼は驚いたように目を丸くする。みちるにしては珍しいその様子に、彼女はふぅん、と目を細めて。

「そう。あんたがそう言うんなら、間違いないんでしょうね……。いいわ。訓練自体はあんたに任せるほかないもの。……なら、伊隅。白銀の戦術機操縦訓練、徹底的にやりなさい」

「無論です。生身では十二分に衛士としての素養を身に付けていますし、なにより、白銀には高い戦術機適性がある。その才能を私に預けていただけるのなら、必ずやご期待に沿って見せます!」

 生真面目に、そして挑むように。どこか昂揚したみちるに、夕呼は笑い、苦笑する。――相変わらず、堅いわねぇ。

 任官したばかりの彼女を思い出す。

 A-01部隊自体が発足してまだ二年目のその時期。まりもの手によって鍛えられ、見事優秀な成績を修めて任官した彼女。その当初から類稀な高い能力の片鱗を伺わせていた……真面目で、堅物で、融通の利かない頑固者。

 若くして大尉となり、今やA-01部隊で唯一つの中隊を纏める歴戦の勇士。衛士としての鑑であり、規範。

 その彼女が、これほどに昂揚している。

 白銀武という存在に。戦術機適性「S」という事実に。その、素晴らしい戦士としての素質に。

 ああ――ならば武は強くなるだろう。恐らくは夕呼の睨んだとおりに。ゆくゆくはA-01部隊に任官し、優秀な彼女の部下として成長するだろう。

 そうであってくれなければ困る。

 だが、内心の夕呼の懸念など、正に懸念でしかない。

 なぜならば、武は神宮司まりもの教えを受け、その彼女に鍛え抜かれ、今や生粋の衛士として完成した伊隅みちるの教えを受けるのだ。

 それが優秀でないはずがない。

 だから何の心配も要らないのだ。みちるに任せておけば問題ない。……現時点では特殊任務部隊であるA-01を動かす必要もないし、そちらは当分の間副隊長の木野下に任せておけばいい。

「わざわざ遅くに悪かったわね。……下がっていいわ。休みなさい」

「はい。……香月博士も、あまり無理なさらないでください……」

 目礼して、みちるは背を向ける。掛けられた優しい言葉に、矢張り最後まで苦笑するしかない夕呼だった。







 エレベーターの前には霞が立っていた。

 みちるは驚いたように立ち止まり……子供がいつまでも起きている時間ではない、と少々的外れな思考を巡らせる。夕呼の研究を補佐している霞のことだ。任務によっては深夜に及ぶこともあるのだろう。

 ひとり頷いて、彼女は柔らかな微笑を向ける。一見無表情に見える霞だが、みちるには少女の小さな感情の変化を悟ることが出来た。

「……こんばんは」

「ああ。こんばんは。……どうした社、眠れないのか?」

 勿論冗談である。からかうように言ったみちるに、霞は僅かに眉を寄せる。

「……違います。まだ、起きていました……」

「そうか。…………それで? 私に何か用か?」

「………………」

 みちるは常日頃から「堅い」と言われている。夕呼を筆頭に、自身の部下からさえそう評される彼女は、本人にそのつもりがなくとも知らぬ間に他人を威圧していることも珍しくない。……ために、できるだけ優しい声になるように心掛けて、目の前の少女に問い掛ける。

「……白銀さんは、…………どうなりましたか?」

「白銀? ……総戦技評価演習のことか? ……ふむ、」

 ほんの少し。僅かに。力強く問う霞に、しかしみちるは即答しない。同じ国連軍に所属し、夕呼の直属として存在する霞。ある意味でみちると対等、或いはそれ以上の地位に在る少女。

 夕呼自身に「歩く機密」と言わしめるほどの特殊な立場に在る彼女ならば、武が異動になったことや単独で総戦技評価演習に参加したことを知っていて当然なのかもしれない。なにせ、研究という名の、恐らくは人体実験だったのだろう武の戦術機適性検査には彼女も関わっていたのだ。

 ならば問題はない。……夕呼に直截尋ねない理由が知れなかったが、しかし彼女にも色々と思うところがあるのだろうと判断して、みちるは武が合格した旨を伝える。

「――――――そう、ですか……」

「?」

 それは、なんと言う感情か。

 少なくとも、喜びでは――ない。そのような、明るい色合いを持ったものではないと思えた。

 ならば、何か。……諦観、後悔、消沈、悲哀、憐憫……なにか、それらに近しい感情。或いはそれら全てか。――何故?

「……おやすみなさい」

 無表情を取り繕って、霞はみちるの横を通り過ぎる。無言でその少女を見送ることしか出来ないみちるは……一体何故、彼女がそのような感情を抱いたのかを理解できないまま…………。







 ===







 ほんの一瞬。だが、間違いなく絶句したその表情は……何と言うべきか、愉快だった。



 戦術機の操縦マニュアルを受け取った武は、そのあまりにあんまりな分厚さに言葉をなくしたようで……しかし即座に何事もなかったかのように振舞うものの、みちるが含み笑っていることに気づいて、ぐ、と表情を顰める。

「そんな面白い顔をしたところで、マニュアルは薄くならないぞ。……白銀、衛士となる上で最低限必要な知識がそこには記されている。一言一句丸暗記しろとは言わんが、少なくともその内容は常時把握しておけ」

「……はい」

 無論そのつもりだとでも言うかのように、武は強い視線をみちるに向けた。確かに一瞬、冗談だろう、と思ってしまったのことは事実だが……戦術機とは言わば人類史上最高峰の技術の結晶である。そんな凄まじい技術と知識の宝庫でありながら、マニュアルが一冊に纏まっていることにむしろ感謝したいくらいだった。

 総戦技評価演習に合格し、明けて早朝よりA-01訓練部隊……即ち武は小さなブリーフィングルームを使用しているのだが、今日はそのまま今までの座学の内容をざっと復習することから始まった。一連の、特に戦術機の運用や各機体の特徴、管制ユニット、強化外骨格についてのおさらいを終えた後に渡されたのが先のマニュアルであり……これから更衣室へ移動して99式衛士強化装備の調整に移るのである。

 支給された99式衛士強化装備は白を基調とした訓練兵用のもの。任官した暁には正規兵の証とも言うべき黒が与えられるのだが……ともかく武は着替えることにした。

「ぅお…………っ」

 思わず、引く。

 胸部から腹部、腰部にかけて薄い肌色をしていて……ハッキリ言って裸を晒しているように見えた。みちるの言に依れば、戦場では男も女も関係なく、シャワーもトイレも寝所も箱詰め状態。一々異性の目を意識しているようでは用も足せず、羞恥心を捨て去ることに慣れる意味で、敢えてこのようなデザインとなっている……らしい。

 なるほど、これは確かに恥ずかしく……けれどこれに慣れてしまえば、先のような状況でも動じないで済むのだろう。

「む……」

 ふと一瞬。馴染み深い彼女達の姿を思い浮かべる。男性用でこれなのだ。女性用だと一体それはどんな………………。

「ぶっ! 莫迦ッ、ナニ考えてんだ俺ッッ!!?」

 思わず想像してしまった茜のあられもない姿を振り払う。下腹部を見れば反応寸前で治まっていたことに安堵し、多少ドギマギとしながらも武はロッカーを閉め、みちるの元へ向かった。

「――遅いッ!! たかが着替えになにをやっている!?」

「す、すいませんッッ?!」

 怒鳴られた。時間にして数分しか経過していないのだが……一分一秒を争う状況で「数分」を浪費することの意味を考えろと怒鳴られて、武は己の誤りを悟る。

「……まぁ、貴様の気持ちもわからないではない。なに、すぐに慣れる」

「はい」

 どうも着替える最中に煩悶とした武の心中はお見通しだったようで、みちるは苦笑するように言った。若干頬を染めながら応える武に、みちるは衛士強化装備の説明を始めた。

 強化装備を通して操縦者の意思を統計的に数値化、更新を繰り返すことで戦術機ならびに強化外骨格の基本動作に反映するという。さらには蓄積されたデータは操縦者にフィードバックされ、文字通り体の一部のように扱えるようにもなる……一体どれほどのテクノロジーが詰まっているというのか。しかし、その技術あってこその戦術機であり、だからこそ対BETAの主戦力となり得るのだ。

 戦域情報データリンク端末としての機能を持つヘッドセットには網膜投影方式ディスプレイも内蔵されている。管制ユニット内で同時に複数表示される戦域データや各種表示は操縦者の見易いように配置を換えることが可能で、更には表示される映像の透明度を調整することで複数の情報表示を重ねて映し出すことも出来るという。

「……以上が衛士強化装備についての概要だが、なにか質問はあるか?」

「いえ……実際にシミュレーターに乗ってみないことには、現時点ではなんとも…………」

 いきなり殴られて耐衝撃性を証明されたりもしたが、概ね理解は出来た。理屈がわかったのなら実践あるのみだ。武の言葉にそれもそうだろうと頷いて、みちるが言う。

「よし。それではこれからシミュレーター訓練を開始する。……本来ならば先に戦術機適性検査を行うところだが、……貴様の場合もともとの適性値が適性値だ。適性検査を省略するわけではないが、今回はそれを兼ねて動作教習課程を行う」

「はい!」

「まず先に言っておくが、従来であれば戦術機操縦課程はおよそ三ヶ月間。貴様の場合、その三分の一の期間で一人前になろうというのだから、並大抵の努力では到底足りない。いいか、貴様が特別扱いを受けていることには理由が在る。そしてそれが許されているからには常に結果が求められている。貴様はスペシャルにならなければならない――泣き言は一切許さん。それを肝に銘じておけ!」

「――はいッッ!!」

 向けられた鋭い視線に応えるべく、武自身も強く声高に返事する。覚悟は当に決まっている。誰でもなく、己の意思でその道を行くと決めたのだ。――ならば、そこに、己に対する甘えなどありはしない。

 そのために足掻いてきたのだ。そのために鍛えてきたのだ。……そのためだけに、今日まで来たのだ。

 ただそれを実現するために。その力を手にするために。衛士となり、彼女を護るそのためだけに――。

 故に、武が泣き言を零すことなどありえない。途中で投げ出すことなどありえない。……結果を出せない、なんて無様は晒さない。用意された運命に胡坐をかくだけでは終わらない。



 ――これは、始まりの一に過ぎないのだから。







 そして、この日より。

 戦術機史上前例のない「S」ランク適性を持つ武の――狂気と才能は。

 少しずつ。

 ゆっくりと。

 廻り、巡り、開花する。……その時に向けて。







[1154] 復讐編:[八章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:8e422d10
Date: 2008/02/11 16:21

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:八章-01」





 それは機械造りの胎内ともいうべきか……或いは、精密機械の棺桶。

 戦場において最も過酷で苛烈で壮絶な状況にありながら、しかし最も安全で命の保障がされたその場所。――管制ユニット。

 ひんやりとした空気に満たされたシミュレーターの中で、武は網膜に映し出された光景に息を呑む。

 その全ては機械が映し出した仮想現実。実機を使用せず、まるで実戦そのものを再現し、衛士を、そして衛士が装備する強化装備を鍛え上げ成長させることができるマシーン。

 網膜投影ディスプレイが映す廃墟のビル群は、しかしそれが映像なのだと感じさせない精緻さとリアリティでそこに在り、武はその脅威のテクノロジーに感嘆する。

 乗る機体は練習機として1997年に正式配備された吹雪。実機訓練はまだまだ先だが、一足先にシミュレーターで応用課程までの操縦訓練を行うのである。

『白銀、聞こえるか――これより基本操作について説明する……』

 小さな長方形のウィンドウに表示されたみちるが、まずは「歩く」・「走る」といった単純な操作を説明する。シミュレーターに乗る前にマニュアルのそれらの項目に眼を通してはいたが、実際に動かすとなると慣れるまでは時間を要する。

 もっとも、それほど複雑な操作は必要なく――瞬時の判断と応動が求められる戦場で、複雑極まりない操作など無意味だ――武は一歩を踏み出した。

 ……ず、ぐん。

 管制ユニットがふわりと浮いたように感じて、差し出された足が地面に着くのと同時に押し付けるような振動が響く。若干の重力と蠕動を感じながら、武は吹雪を進ませた。

 左右の足を交互に前へ出して、数百メートルを歩く。バランスはオートで取っているというから、武がすることといえば本当に「歩く」ために必要な操作を行うだけだった。

「……なるほど、空気抵抗や地面との接地、変動するバランスは全て機械任せ……か。確かに、これなら衛士は戦闘に集中するだけでいい」

『よし、問題ないようだな。……ならば、走ってみろ。そうだな……前方五百メートルにある交差点まで直進、交差点を左折し、即座に全速力へ移行』

「はい――」

 みちるの指示にしたがって、走る。グン、と操縦桿を傾け、フットペダルを踏み込む。跳躍ユニットは使用しない、純粋に脚部出力だけの走破だ。

「――っ、」

 やや前傾するように姿勢を変え、吹雪が走り出す。踏み出し、地面を蹴り進むたびに管制ユニット内がまるで冗談のように揺れた。かつて戦術機適性検査を行った際に乗り込んだ筐体を思い出す。……あの時、まりもは言った。実際のシミュレーターはこんなものではない、と。

 成程、確かに相当な振動……振動というのもおこがましいくらいの上下運動に苦笑しながら、しかし武は一向に堪えた様子もなく。

 操縦桿を左へ向ける。右手でコンソールパネルを叩き、指示を出す――送られたコマンドに従って機体が左へ傾く。交差点に到達した右脚部、そのままに、地を、蹴る――ッ。

「!」

 ガグン! という衝撃。上下に揺れるだけだったユニット内が左から右に向けての重圧に一瞬だけ変わり……武はしかし目一杯にペダルを踏み込んだ。

 全速。

 最大戦闘速度、というわけではないそれだが、それでもどんな高機動車も装甲車も出せないような速度で廃墟の町を駆け抜ける。乱立するビル群の中を走るのだ。気を抜けばすぐに眼前にビルが聳え、武はその度に向きを変え道路を縦横無尽に走り続けた。

『――よし、いいだろう。そのまま全速を維持、次の突き当たりで急停止。いいな?』

「はいっ!」

 歩くのと同様に、走ることにも問題はない。確かに振動は凄まじい物があるようだったが、そこはどうやら三半規管が常人より優れているらしい武である。初めてシミュレーターに乗り込んだ訓練兵の多くが歩く機動だけでも乗り物酔いになり、顔面を蒼白にさせるというのに……武は十数分全速機動を続けていながら、ケロリとしていた。

 ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ダン――――ッッ!

 突き当たりのビルまで残り二百メートル。操縦桿を手前に思い切り引いて、制動をかける。戦術機の制動距離など知らないが、網膜投影の隅に表示された速度を見るに、むしろ遅かったかもしれない。機体が転ばないように、オートマチックで姿勢制御しながら、アスファルトの地面を抉り滑走する。

 ガギィイイイイ!!!!

「ふぅっ……」

 機体は見事ビルの手前丁度に停止。慣性を相殺するために相当な横荷重が働いたが、それも時間にして数秒の話だ。表示される機体の情報をチェックして、どこにも異常がないことを確認する。……当たり前だ。この程度で異常など出るはずがない。

「こりゃ……確かに凄いな……っ」

 ただ歩き、走っただけだというのに、その恐ろしいまでの技術に感嘆と感動の連続だ。――これが戦術機。これが、人類がBETAと戦うために生み出した技術。その、力の具現なのか……。

 武は知らず、口端を吊り上げていた。

 これほどの技術があれば……この戦術機があれば、自分は…………BETAを…………ッ、

『なにをにやけている。……白銀、次は跳躍ユニットを使用して匍匐飛行だ』

「!」

 顰め面のみちるの顔が表示される。子供染みた興奮に浸っていたのを見られたらしい。武は羞恥に頬を染めるが、即座に匍匐飛行の操作を行う。管制ユニット内に小さな高音と振動が伝わってくる。……微々たるものだが、それが腰部等に装備された跳躍ユニットに火が入ったことを知らせてくれる。

 みちるの指示に従って操縦桿を起こす。ぐん、と地を蹴るような振動があって…………徐々に、機体が前進していくのがわかる。

『随分控えめだな? もっと思い切りスロットルを開け!』

「えっ? は、はいっ!!」

 怒鳴るように言われて、武は思い切りフットペダルを踏み込んだ。――途端、全身を押し潰すような重力荷重が圧し掛かる!

「うぉっ?!!」

 どん、という衝撃と共に機体は前方へ投げ出されるように飛び出した。ぐんぐん暴力的に加速する風景を半ば呆然と見ながら、自分が今、空を飛んでいるのだと漠然と理解する。サブカメラが映す後方の映像をチラリと見る。先ほどまで立っていたビルが凄まじい速度で小さくなっていた…………というか、次第に高度が上がっている。これでは匍匐飛行ではなく噴射跳躍だ。

『莫迦者ッ! スロットルを全開にするのは最初だけでいいんだ!』

 ご尤も――。武はそりゃあそうだと苦笑しながら、ならばとフットペダルから足を離す。とにかくこのまま飛びっ放しという状態をどうにかしたかったのだが……推力がなくなれば落下する。重力が在るのだ。当たり前だった。

「どぁあぁあぁあああっっっ!!??」

『……なにをしているんだ、貴様は…………』

 視界がグルグルと回る! 最大で噴出されていた推進剤が、武の操作に従ってピタリと停止する。発生した慣性によって錐揉みになりながら、吹雪は途轍もない速度で地面に向かっていた。

「ぅわぁああああっっ!!??」

 ようやく自分が莫迦をしでかしたのだと気づき、なんとか体制を立て直そうと試みるも…………こんな状態で一体どんな操作をすれば元通りの姿勢に戻れるのかがサッパリわからない! 迫る地面、回転・落下する機体――必死になって操縦桿を握り、両脚をジタバタと動かすも、それが本当に正しい指示を出しているのか否かっ……。

「ええいっ、クソがぁあああ!!!」

 叫ぶ。……が、結局なんの解決にもならぬまま、武の操縦する吹雪は地面に激突した。







『いいか莫迦者。あのような状況でパニックに陥ることこそ、衛士として一番あってはならないことだ。どのような状況下であろうとも瞬時に自身の置かれた状況を判断し、的確な動作を行う。……衛士にとって最低限必要な心構えだぞ』

「……はぃ」

 とはいうが、みちるは内心で苦笑していた。誰だって最初はあんなものだ。いくらマニュアルを読破し、暗記したところで実際に動かしてみないことには何もわからないし身に付かない。こと戦術機の操縦に関して言えば、身体で覚えてなんぼ、である。要するに慣れだ。一々頭の中で行動のロジックを組み立て、操作手順を思い浮かべていたのでは遅い。即座の判断を即時実行する。そのためには思考する時間などロス以外のなにものでもないからだ。

 故に訓練するのである。

 まずは操縦に慣れるため。戦術機の機動に慣れるため。想定した状況下でのミッションを通して、複合した操作に慣れるため。そしてそれらを須らく身に付けるために。

『……と、いうわけで、だ。どうも貴様は実戦タイプらしいからな、こんな物を用意した』

 ふふん、とモニタの向こうで笑うみちるに、なんだか嫌な予感がびんびんである。

 網膜投影に映し出された表示には動作応用課程Aとある。……要するに、取り敢えずの基礎操作を終了し、次のステップへ進むということらしかった。わざわざもったいぶった言い方をするみちるに苦笑しながら、しかし武は気を引き締める。

 先ほどの無様な自分を思い出す。正直に言って、情けないとさえ思う。

 戦術機適性「S」――その意味するところが果たしてどういうものなのか、武自身が把握していない。

 夕呼は何らかの確信を持っているのだろうし、恐らくみちるもそれに従って訓練のカリキュラムを組んでいるのだろう。

 だがそれは、例えば戦術機の操縦が特別巧いというものでもなければ、諸々の操作を完全に把握できる、というようなものでもなかった。

 既にシミュレーター訓練を開始して一時間が経過しようとしているが……未だに表示される各種データの把握に翻弄され、或いは複雑な動作をしようとする度に重なり合う操作に混乱し、挙句の果てには跳躍ユニットの出力に振り回されている。

 戦術機操縦の素人が、たかが一時間で何を言う、とみちるは思うだろうが、しかし……武にすれば、ならば自分の戦術機適性とは一体如何なるものなのか……という不安に駆られてしまう。

 自分が期待されている人間だという認識。

 夕呼はそれを忘れるなと言い、結果を出せとも言った。……無論、それに応える覚悟は在る。だが、一方的に向けられた期待と……或いは信頼と言っていいのかもしれない思いに、若干の焦りを感じていた。

「まだ一時間だろ……なにを、焦ってるって言うんだっ……」

 ヴゥ……ン……。

 管制ユニット内にシミュレーターの駆動音が響く。動作応用課程A――みちるより伝えられる作戦内容を要約すれば、戦域上に複数存在する目標からの攻撃をひたすらかわし続けるというものだった。

 機体は武装されておらず、唯一の武器というべきは跳躍ユニット。……文字通り、逃げるが勝ちというやつだった。なるほど、回避行動の中で戦術機の操縦を覚え、遮蔽物を利用しながらにレーダーや戦域データリンクによって目標の位置を把握したりと……つまりは“戦術機に慣れる”ためのプログラムらしかった。

 続けてみちるから「これは基礎中の基礎」だと知らされ、ならば見事プログラムをクリアして見せようと意気込む。時間制限無し。やられれば終わりという至極単純明快なルールに苦笑する。しかも逃げおおせた時間に比例して目標の数が増えていくというオマケつきだ。

 逃げれば逃げるだけ敵が増え、戦域は敵に埋め尽くされる。……成程、レーダーや熱源探知センサー等を活用するに相応しい訓練だといえよう。

 メインカメラが映す光景は先ほどと同じような廃墟のビル群。図ったように十字路のど真ん中に配置されていた――眼前には、暗赤色の球体が浮遊している――「敵」だ。

「いきなりかよっっ!!??」

 前方六百メートル。ホログラフィで描かれた球体から36mm弾が発射されるのを目撃したのと同時、武は右主脚で路面を蹴り、跳躍ユニットを噴かせることで回避する――被弾箇所、なし。

 咄嗟の操作だったがなんとかかわしたことに安堵し、このプログラムがかなり性質の悪いものだと理解する。レーダーの反応は先の目標のほかに五時方向へ一つ。熱源探知センサーの索敵範囲にはその一体のみが存在している。

「索敵範囲を考慮しつつ……敵の位置を把握、と…………」

 そして目標たる敵も同様のシステムを備えているという設定である。つまり、敵もまたそれらを駆使して武を追ってくるのだ。

 武は即座に前進を開始する。網膜投影に各種センサーを表示し、それらの配置を思考制御で換えながら透明度を調整する。とりあえずとはいえ矢鱈と表示させすぎな気もしたが、不必要と判断した時点で消せばいい。――今は、なによりもシステムに慣れることが肝要なのだ。

「…………、」

 前方より敵が迫ってきている。このままでは出会い頭に射撃される可能性が高い……が、武は進路を変更せず、敢えてスピードを上げた。

「いくぞ……ッッ」

 この訓練課程が求めているのはセンサー類のシステムを使いこなすこと。そして、戦術機の操縦に慣れること。回避行動を取るに当たっての操作はその時の状況によって異なり……つまり、追い込まれた状況の数だけ違った操作を行わなければならないということだ。操縦に一刻も早く慣れるためには、ならば、数多くの“回避しなければならない状況”を作り出せばいいわけである。

 今の武のように。

 敵の眼前に姿を晒すことで、その攻撃を回避する――ビルの陰から機体が飛び出す寸前、地面を敵の36mmが抉るッ。

「――ッぉお!!」

 同時、機体に急制動をかけ、旋回するように左主腕を振り回し遠心力によって機体を反転させる。ガリガリと路面を削りながら、後方へ滑るように機体が流れる。僅かのタイムラグに目標からの銃撃が止み、武は更に腕を振り回し、同時に突き出した左主脚を軸として右主脚でアスファルトを蹴り上げる。――跳躍ユニット始動、二秒間の全力噴射!

 …………ッ、ドン!!

 旋回によって発生した横荷重を無理矢理に捩じ伏せて転身――即ち再び正面を向いてビルとビルの間を滑り抜ける。敵に攻撃のタイミングを外させるために、武は普段生身で行っている剣術の動きを再現しようとしたのだ。

 結果としてそれは成功。……しかし、ひとつひとつの機動はひどく大きく、歪だった。戦術機という巨大な機械を相手に、武は己のイメージと実際の機動の差異に愕然とする。だが、ならばそれこそ慣れるだけだと、飛び込んだビルを盾に敵の後方へ廻りこむべく移動を開始する。

 描く螺旋軌道は全て敵を相手にしながらに移動し続けるための必然である。前進するのではなく、転進。敵を切り伏せた慣性そのままに旋回し次敵への攻撃に移り、更に旋回し次の敵へ。それを繰り返し続けることで常に攻撃し、移動し、敵を変え相手を変え……己を一箇所に留め置かずただひたすらに迫り来る軍勢を相手取る。

 その軌道。その挙動。

 全てはBETAと戦うための究極の業。真那の父、そして武の剣術の師匠が実戦の最中で編み出したその戦術は――即ち戦術機で行えなければ意味がない。

 十分に承知していたことである。……故に武は挑むのだ。己の身に浸透したあの剣術を。真那との修行の中で更に進化したその剣術を。生身で在り、剣を握るならば、武はどこまでも強く在ることが出来る。無論、真那に言わせればまだまだ未熟な面も残るだろう。けれど、その真那をして頷かせるほどに武は成長している。

 ……ならば、その動きを戦術機に反映させるのだ。

 真に真那の、師の剣術を窮めるにはそれは必須であり絶対。だからこそ、挑む。回避運動の全てをその機動で行う。

 まずは一対一。次に二対一、さらに三、四……と敵が増す度に、それは真価を発揮するだろう。――そのために、今は動き続ける。

「ぁぁぁあああっ!!」

 操縦者の思考を統計的に数値化し、機体の動きに反映させるという。そして、機体は得られたデータを操縦者にフィードバックすることでより操縦者の動きを再現できるという。

 今はまだなんの蓄積もない。だからこそ、白紙の上により多くのデータを書き込むために。どれだけ不恰好だろうが、大袈裟で無駄が多く、機体に負荷が掛かろうとも……不完全なその機動を我武者羅に繰り返した。







『――作戦終了、白銀機の撃墜を確認…………白銀、無事か?』

「はっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、ぁ、ぜぇ、ぜっ、は、ハァ、ハァッ…………」

 暗くなった管制ユニットの中で、操縦桿を握り締めたままに顔を伏せる。零れ落ちる汗が膝に当たって玉のように跳ねた。全身を包むのは、肉体を駆使するのとは全く違う疲労感であり、苛立ち。

 作戦時間:一時間二十五分四十二秒。果たして長いのか短いのか……。だが、その間、武は六体の目標を相手に逃げに逃げた。――奇しくも総戦技評価演習で相手取った数と同じである。またしても六体の敵に討たれたことに自嘲するも、それで気が晴れることもなく。

『白銀、返事をしろ。………………二十分の休憩だ。降りて来い』

「はっ、はぁっ、ハァ、ハァ、…………了、解……っ、ハァ、ハァ、」

 通信画面の向こうのみちるの表情はわからなかった。……荒い呼吸を続けたまま、武は俯いた顔を上げ、ただ肩を上下させる。

「ハァ、ハァッ……くっ、そ…………ッ!」

 なんて難しい――。思わず表情を顰めてしまう。

 この身に染み付いているはずのあの動きが……戦術機ではまるで再現できない。制御コマンドを送る、というプロセスに翻弄され、思うままに動けていないというのが現実だった。……結局、この一時間半をかけて、ただの一度も己が満足する機動を行うことが出来ないでいる。

 頭でわかっているのに、鮮明に明確にイメージできるのに……それを再現できない。操縦に反映しきれない。

 まだまだこれからだということも十二分に承知しているが…………これほどまでに手応えというものがない状態には些か気落ちする。悔しげに強く眼を閉じて――頬を張る。

「っしゃあ!! 今は休憩だッ!」

 頭を切り替えろ。自身に強く言い聞かせて、武は管制ユニット――シミュレーターから外に出る。上気した身体を、ひんやりとした空気が出迎えてくれる。ずっしりと圧し掛かるような気だるさにも似た疲労さえなければ、それはなんと涼やかで心地よいのだろうか。

 流れる汗を拭いながらタラップを降りると、そこには腕を組んだみちるが立っていた。……どうやら武が降りてくるまで待っていたらしい。

「教官……」

「何を呆けている? さっさと降りて来い」

 呼びかけるみちるの表情は微笑を浮かべているように見えた。否、事実笑っている。……なんというか、“しょうがない奴め”というような、そういう表情だ。首をかしげながらにみちるの元まで進み、敬礼する。

「ん。……どうだ? 初めて戦術機に乗った感想は」

 正面に立った途端、先ほどまでとは打って変わり、口端を吊り上げてのからかうような口調。武の未熟すぎる機動をたっぷりと見物しておいて、敢えてそう聞いてくるのだから悪質だ。武は苦笑するしかない。

「これほど操縦が難しいなんて……正直、想像もしてませんでした。……あんまりに情けなくて、落ち込みそう……ってのが本音ですね」

 苦笑したまま言う武に、みちるはさも可笑しそうに笑う。

「ははははっ。操縦訓練開始から僅か二時間で応用課程Aまでクリアした奴が何を言う。言っておくがな、白銀。通常であれば応用課程Aまでに五時間以上の基礎操縦訓練、応用課程Aを一時間以上逃げ延びることについては平均して三回から四回の訓練が必要だ。それをなんだ? 自分が情けない、だと? ……ふふふっ、まったく、謙虚なのもいいがもっと自分を認めてやれ」

「…………は?」

 そんな話は聞いてない。というか、五時間の基礎操縦訓練とは何だ。武は思わず顔面を手で覆った。――まただよ、このひと。

 つまり、またもみちるに嵌められたのだと気づく。昨日の総戦技評価演習といい、今回のこのことといい……どうもみちるは他者をからかう性癖でもあるのではないかと思える。本人にしてみればほんの茶目っ気なのかもしれないが、至極真面目な顔でそれを実践される身にもなって欲しい。愉快気に笑うみちるに、武は暫く何も言えないまま、がっくりと肩を落とした。

「…………ん、まぁ、……済まん。冗談が過ぎたな」

(ぃぇ……なんとなく、教官のことがわかってきました)

 眼を閉じ、真面目な声でみちるは言う。内心で乾いた笑いを浮かべながら、しかし武は姿勢を正す。冗談交じりとはいえ、みちるが言った内容に、二、三確認したいことがあった。

「教官、質問してもよろしいでしょうか」

「うん? なんだ?」

「ハッ……先ほど教官が仰った、基礎操縦訓練のことですが……」

 通常であれば五時間。それを武はたったの一時間しか行っていない。跳躍ユニットをまともに扱えないままに、訓練を次のステップに進めたことに対して疑問を覚えたのである。問いかけた武に対して、みちるはあっさりと言ってのけた。

「貴様の戦術機操縦訓練に宛てられている期間は知っているな?」

「はい。六月中旬までの約一ヶ月間です。……それまでに、必要最低限以上の技能・技術を身につける必要があります」

「そのとおりだ。通常ならば三ヶ月かかる訓練を一ヶ月で行う。……全く同じ訓練内容を行うことなど当然不可能。ならば省くべきところは省き、より重要な内容に多くの時間を充てるのは当然だな。確かに基礎操縦技能は戦術機を動かす上で必要不可欠なものだろう。だがな、基礎は往々にしてありとあらゆる行動について回るものだ。……貴様の場合、単純に時間がないという事実と、高い戦術機適性から一時間あれば十分だと判断した。実際、基礎操縦訓練中に扱えなかった跳躍ユニットを、応用課程Aでは見事使って見せていただろう? それが答えだ」

 成程。思わず頷いてしまう。どうやら自分は知らぬ間に一般の平均というものを超えてしまっていたらしい。……まるで実感が湧かないが、取りあえず納得することとする。ならばと続けての質問に、みちるは少し考える仕草をして、

「そうだな……詳しいことは私も知らされていないが……貴様の戦術機適性、つまり“S”ランクという規定外のそれについてだが…………戦術機適性とは文字通り“戦術機に乗るための適性”を指す。貴様の場合、最も顕著なのは振動に対する肉体的素養だな。香月博士の検査によって、貴様の三半規管は他人に比べて発達していることが判明している。無論それだけで適性が決まるわけではないが……振動に強い、酔いに対して耐性が強い、ということは、要するにそれだけ長い時間戦術機に乗っていることが出来て、激しい機動にも耐えられるということに繋がる。言うまでもないが、戦術機が行う機動で振動を伴わないものはないし、まして立体的機動を実現するために開発された兵器だからな……三次元的に作用するGにも耐えねばならん。わかるか? つまり貴様の身体構造はこれ以上ないくらい“戦術機の機動に適している”んだ」

「はぁ……そう、なんですか??」

「まぁ、それが全てではないがな……。白銀、通常の者と比較して……例えばある者は一時間しか連続して戦術機に乗れないとしよう。そして貴様は連続五時間乗ることが可能だ。一度の搭乗の度に一時間休憩を挟むとして、では貴様とその者が二十時間の訓練課程を終えるためには何時間必要だ?」

「ぇ……っと、自分が二十四時間、もう一人は四十時間、です」

 ははぁ、と武は頷く。みちるが言わんとすることが理解できた。つまり、同じ訓練をするにも、こと振動に耐性がある自分はより有効に時間を使えるということだ。

「今の例えは極端だが、要するに貴様はそれだけ他人に対して差をつけられるということだ。同じ四十時間の間に、貴様は次のステップに進むことも、より深くその訓練を続けることも出来る。……戦術機の操縦はとにかく日々の積み重ね、訓練の繰り返しがものを言う。説明したが、戦術機とは訓練を重ねれば重ねるほどにその性能を向上させる。操縦者一人ひとりに合わせた進化を遂げることが出来る。自らの技術を磨けば磨くほど、己も、戦術機も成長することができる。体質面で優れた適性を持つ貴様は、他者と比較して、よりその効果を期待できるわけだ」

 みちるの言うことはもっともだ。成程、確かに現在二時間連続して訓練を行ったわけであり、慣れぬ操縦に疲労してはいるが、吐き気や乗り物酔いという類のものはまるでない。すぐにまたシミュレーターに乗れ、と言われても問題なく訓練に臨めるだろう。

 体質的に恵まれているという点では、確かに他者より有利だと思えた。

「それとな、貴様はハッキリ言って異常だ。まぁ、現在単独で訓練に臨んでいるわけだから、比較対象がなくて実感もわかないのだろうが……事実として、たった一度の挑戦で動作応用課程Aを一時間以上逃げ延びた者はいない。勿論、先も説明した五時間の基礎操縦訓練を終えた者で、だ。……どうも、貴様は自身の操縦に不満のようだが、そう悲観するものでもない。……尤も、貴様の場合はその結果こそ当然として訓練課程が組まれているわけだから、確かに不満に感じるくらいで丁度いいだろうが……だからと言って、最初から何もかも気負い過ぎるのもよくない。まずは慣れろ。それだけを重点に置け。――シミュレーター訓練だからな。好きなだけやられて、存分に戦術機に慣れればいい」

 最後には不敵に笑って。みちるはいつものように唇を吊り上げた。大尉であり実戦を潜り抜けた彼女の口から褒められて、少しだけ……いや、相当に嬉しい気持ちになる。戦術機適性「S」。武自身にとってあまりにも漠然としていたそれを……一部分とはいえ、こうして説明され、さらには僅かな訓練の間にもその適性に相応しい能力を発揮できていたと言うのなら――武は安堵する。

 知らず知らずのうちに募っていた焦燥が、ようやくにして晴れる思いだった。

 だが、安心してばかりもいられない。みちるは言った。それさえも想定の内だと。

 香月夕呼の研究によって、恐らくは解明されたのだろう「S」ランク足る事由。それを踏まえての特例措置。単独の異動に続く総戦技評価演習の実行、短期間に強行される戦術機操縦訓練。そして任官までのスケジュール。

 その全てにおいて、求められるレベルは水準以上。否、それを超越していなければならない。遥かに、強烈に。「S」ランクに足る実力を以って。

 だからこそ、それはある意味で「当然」の結果なのだ。

 口にはせず、みちるは思う。明らかに常人の域を超える才能を秘めた武。その才能を開花させ、より高みへと引き上げるために用意された諸々の待遇と措置。――そして、それ故に求められる高次元の実力。特別であるがための、相応の結果。

 ――酷な話だ。そして、辛く、厳しい……。

 だが、とも思う。目の前に立つ訓練兵。優秀な成績を収め、卓越した戦闘技能を持ち、的確な状況判断に伴う即断力や大胆さ。或いは「S」ランクと言う驚異的な才能。

 彼は…………だからこそ乗り越えるのだろう、と。

 僅かに二時間。まだまだ戦術機の機動に振り回され、操縦に追われ、未熟者もいいところだろう。……だが、確かにその能力は高く、飲み込みもはやい。応用課程Aでは、拙いながらも独創的な機動を以って敵の攻撃を回避し続けていた。

 実に、先が楽しみだった。これほど鍛え甲斐がある者が他にいるだろうか。……そうは居まい。「S」ランクという適性値さえ世界初なのだ。未だにどの軍事組織にも存在さえ知らされていない規格外の戦術機適性値。

 教導官としての役割は確かに経験がないが、しかしみちるには偉大なる恩師の教えが在る。ならばその教えに従い、そして自身のこれまでの経験に従い……将来有望な才能満ち溢れる彼を、持てる全てを以って鍛え上げて見せよう。

 みちるは挑むように笑い、武もまた、負けじと真剣な眼差しを向けた。



 休憩が終わり――そして、訓練は続けられる。

 武は繰り返し、繰り返し、自己の強さの全てである剣術の機動を追い求める。秘められているという才能を一秒でも早く開花させるために。なにより……それによってより強く在るために。







 ===







 あれから更に数時間。途中幾度かの休憩を挟みながらも、ほぼぶっ続けでシミュレーターに乗りっ放しだった武は、ヘロヘロになりながら、ようやくにしてPXにたどり着いていた。

 A-01衛士訓練部隊に配属なってから、彼は第207衛士訓練部隊の少女達とは完全に別行動となっている。宿舎も別棟の建物なら、使用するPXも全く別だ。……故に、訓練校に入隊以来、初めて一人きりの食事を過ごすこととなる。心なしか寂しい気もしたが、しかしこれも全て自身が選んだ道である。泣き言を言っても始まらないし、なにより、同じように頑張っている彼女達を思えば寂しさなど吹き飛ぼうと言うものだった。

「別に誤魔化してなんかないぜ……っ」

 ふっ、と誰にでもなく呟く。全くもって説得力のない言葉だった。

 ともあれ。

 慣れないことをするとどうしてこうも疲労が溜まるのか。椅子に腰掛けた途端、ずっしりと全身に疲れが圧し掛かる。更に言えば如何に振動……或いは乗り物に対する酔いに耐性があるといっても、あれだけ滅茶苦茶な螺旋機動を続けていれば流石に気分も悪くなる。管制ユニット内に常備されていたスコポラミン――加速度病対策に服用する、いわゆる酔い止めの薬だが、それを呑んだおかげか、こうして夕食を前にしても取りあえず吐き気は抑えられている。

「中尉とやり合ってる時は全然気持ち悪くなったりしないのになぁ……」

 それが人間と戦術機の差だろう。あれだけ大きな機体……実際にはシミュレーターでの再現なわけだが、それでも凄まじい横荷重の連続、ひいては遠心力と生み出される慣性の強烈さ。どれをとっても生身では実現不可能な速度と重量の暴力さ故に、全身を襲う疲労はとてつもないものがある。

 身体的負荷としては矢張り内臓系に作用するものが大きいようだった。普段感じることのない部位に溜まった疲労が、余計に全身を重く感じさせるのである。

 強化装備にデータが蓄積されることでそれら諸々の状態は改善されていくとのことだが……当分の間は我慢しなければならないようだった。武は、これも真剣に訓練に打ち込んだ結果だと自身を納得させることにして、食事に取り掛かる。

 軍人にとって食事と風呂、トイレは早ければ早いほどいいという。要するに、いつ何時、如何なることがおきようとも素早く行動できるための必須条件ということらしいのだが……流石に今日は早飯食いをする気にもなれず、もそもそと箸を進める。

(……………………なんか、すっげぇ静かだな……………………)

 ふと視線を上げて周囲を見回せば、実に利用人口が少ない。偶々今の時間帯がそうなのか、或いは元々こちらのPXを利用する職員が少ないのか……。武にはそれらは判然としなかったが、矢張りそう感じてしまう一番の理由は、姦しくも喧しく、賑やかで楽しい彼女達の会話がないことだと気づく。

 思えば、この三年間、こと食事に関しては寂しい思いをしたことがない。同じ目標に向かい、同じように努力し、互いに切磋琢磨して歩んできた仲間達。いつも側にいることが当たり前だと感じていたその存在がなくなって……殊更に、「寂しい」と感じさせるのか……。

「……、」

 大切に想う人が、側にいない。

 いつもいつも武の隣りで笑ってくれていた彼女がいない……。

「――――――ッッ、ゥ、」

 それは、果たして、一体誰の…………







 決まっている / 本当にそうか?

 赤色の髪の / 橙色の髪の







 彼女の、ことを。







「………………は、ぁ、」

 一瞬だけ意識がブレた。まさかスコポラミンの副作用ではあるまい。武は頭を振り、過ぎった思考を振り払う。

 寂しさに唆されて、どこか気持ちが暗くなっているのかもしれなかった。

 確かに、寂しい。それは最早誤魔化しようもない。茜、晴子、多恵、薫、亮子……そして冥夜、千鶴、慧、美琴、壬姫。彼女達。……そういえば内何人かとは非常に気まずいまま別れてしまったのだと思い出す。

「はぁぁああ~~~~っ、なにやってんだ俺…………」

 勝手に寂しがって勝手に思い出して勝手に落ち込んでいる。

 全くどうしようもなく、独り相撲だった。そんな自身に苦笑する。これほど寂しがり屋だとは思わなかった。或いは、それだけ彼女達の存在が大きかったと言うことだろうか。――否、正にそのとおりだ。

「……涼宮のヤツ、どうしてるかな……」

 そして冥夜。千鶴に慧。…………いや、武が心配することはない。冥夜については少々気掛かりなのは確かだが、その件に関してはどちらかと言えば武の問題なので、案外心配するほどのことではないかもしれない。そして、千鶴と慧の二人のことも。

 まして茜たちのことを案じる必要などまるでないだろう。

 武は彼女達の強さを知っている。涼宮茜の強さを知っている。――だから、何も心配することはない。

 頷いて、少しだけ気が晴れて……武は手早く食事を終わらせることにした。

 夕食の後も厳しい訓練が待っている。三ヶ月の行程を一ヶ月に濃縮して行うために、彼の訓練は朝から晩まで、文字通り一日中通して行われることとなっている。

 それだけの時間を付きっ切りで教導してくれるみちるのためにも、そして、何よりも自分自身のために。

 剣術と同じだ。何度も何度も、絶え間なく繰り返し試行錯誤を重ね、身に付け、更に磨きぬく。鍛えて鍛えて、鍛えぬいたその先に、さらに上の段階は存在する。そこにたどり着き、到達し、踏み越えてより高みへ……それは果てしなく終わりない精進と言う名の練磨。

 不断の努力と不動の意思。この十数年をかけて培われたその精神は、尚も武の中に息づいている。真那の教えを受けたこの十ヶ月で、それはより強固なものとなり、確かに宿っているのだ。

 ならば戦術機の操縦とて同じこと。当面の目標が戦術機機動での己が剣術の再現である以上、尚のこと真剣になるというものだった。

「よし! 行くかッッ!」

 訓練再開まで一時間近くある。とりあえずは強化装備に着替え、身体を休めるとしよう。深夜にまで及ぶだろう訓練に、しかし微塵も怯んだ様子もなく。

 武は立ち上がり、トレイを片付ける。

 脳内で戦術機の操縦法をシミュレートしながらに移動しようと、一歩を進めたその場所に――――







 月詠真那が、立っていた。







[1154] 復讐編:[八章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:22

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:八章-02」





 スラリと長い薄碧の髪。腰下で流れるように揺れる毛先のひとつひとつが艶やかに色を魅せ、対照的に過ぎる鮮烈な赤が、その存在をこれ以上なく主張する。

 腰に提げた豪奢な刀。丁寧に細工された朱塗りの鞘と、もう一つ。黒塗りに銀であしらった紋様のそれらは凛々しくもあり、繊細な印象さえ抱かせる一級のそれ。

 整った相貌は見る者を惹きつけ、エメラルドを連想させる碧の双眸は鋭くもたおやかな輝きに満ちて。

 ――圧倒的存在感。

 何度見ても変わらない。まるで心臓を締め付けられるような圧迫感……ふとした拍子に気づかされるのだ。



 そう、月詠真那は美しい――。



「…………ぁ、っ、」

 PXの入口に佇む真那。赤い帝国軍服を身にまとい、いつものように完璧なまでの立ち姿。全身から凄まじい存在感を放ちながらに腕を組むその様は、ひとけの少ないPXの中にあって、余計でも際立って見えた。

 即ち、

「ちゅ、中尉っ?! なんでここにっ!?」

「……………………」

 思わず声が裏返ってしまうほど、武は真那の登場に驚愕していた。言葉通りに。どうして彼女がここに居るのかわからない。

 が、その武の驚愕など一瞬に吹き飛ばしてしまうほどに、真那の様相は急変した。

 具体的に言うと細く形の整った眉は眉間に皺がよるほど眇められ、宝石のような瞳はギロリと不可視の攻撃的なナニカを放ち、艶やかで柔らかそうな唇はそれはもう見事な「へ」の字を描く。

 紛れもなく、……怒っている。それもかなり。むしろかつてないくらい。

「………………ぇ、っと、あの~~、」

「………………………………………………」

(怖ええぇぇぇぇっ!!)

 沈黙が痛い。視線が痛い。発せられるオーラが怖い怖い怖い怖いっ!

 全身から「怒ってます」と言わんばかりの脅威が立ち上っている。無意識の内に武は一歩退いた。真那の怒り顔は正直に言って恐ろしい。元が端正な顔だけに、歪められたその表情は凄まじい効果を発している。

 無条件に土下座して泣きながら謝りたい気分になる。というか、むしろそうしてしまおうかと恐慌に混乱した武の脳は決断を下し――――、真那が、一歩踏み出した。

「ひぃいっ??!!」

「……………………………………………………………………」

 情けない声を出して怖気づく武に、真那は無言のままズンズンと迫り来る。ただ歩いているだけでこれ程までに恐怖を感じさせる女性が他にいるだろうか。いや、いない。斯衛の赤、歴戦の烈士、武の中で最強の衛士として認識されていることも相まって、最早武は硬直して立ち尽くすことしか出来なかった。

 ぬっ、と。

 右手が伸ばされて武の顔面に迫る。目一杯に広げられた真那の掌を揺れる視線で見つめながら、武はぱくぱくと口を開閉させることしかできない。呼吸さえひりついてままならず、金縛りにあったかのような緊張感。そして、彼女の右手に顔面を掴まれて……

「……来い」

「ちょっ、ちょっ! 月詠中尉ぃぃいいい!!??????? ――いだだだだだッッ!?」

 真那は歩き出す。武の顔面をギリギリと掴んだまま、半ば引き摺るようにしてズンズカと歩く。

 向かう先はつい先ほどまで武が座っていた席。まばらながらも、慎ましやかに夕食を採っていた基地職員の何人かが、突然現れた斯衛の凶行と凄まじいオーラに悲鳴をあげる。ある者は彼女が向かう席から逃げるように離れ、ある者は彼女の進む道を遮ることのないよう後ずさった。

 そんな困惑と混乱と恐怖の視線が突き刺さる中、しかし真那は微塵の躊躇もなく――むしろ、それらの視線に気づいているのかさえ怪しいくらい――堂々と突き進み、もがくようについてきた武を椅子に押し付けて、ようやくに掴んでいた手を放す。

「っっだぁ!? な、何するんですか中尉ッ!?」

「――黙れ」

「ハイ!! スイマセンデシタ!!!」

 脊髄反射で謝罪する。敬礼付きでビシリと姿勢を正した武は、恐る恐る真那の顔色を窺った。

 一体どれ程の力が込められていたと言うのか……。武の顔面にはくっきりと五指の跡がつき、骨にめり込んでいたんじゃないだろうかと、思わず両手で顔を撫で回す。

 武を椅子に座らせた真那は自身も椅子に腰掛け、武と向き合う。変わらぬ鋭い視線と怒りの形相に、再び息を呑む。

 武は混乱していた。一体何故、真那がここにいるのか。そして、どうしてこれほどに怒っているのか…………考えて、思いつくことは一つしかなかった。

「……あのぅ、ひょっとして中尉…………」

「貴様が特殊な任務についていることは知っている。私が貴様と出逢ってすぐ、貴様がそのための任に就いたこともな」

 武の言葉を遮るように、真那は言った。感情を押し殺し、吐き出すような声音のそれは、武をどきりとさせる。

「今思えば……いずれこうなることはわかっていたのかも知れぬ。……貴様が私に黙っていたこと、それは軍と言う組織に属する者として当然だ。機密をべらべらと喋って散らすような者に、軍人は務まらぬ」

 真那がいう特殊な任務とは、ひょっとすると昨年の七月に行われた夕呼の実験のことだろうか。流石にその内容までは知らしめていないようだが……そこには斯衛と言う存在の恐ろしさが垣間見えた気がする。武の剣術の師匠としての面を持つ傍ら……否、彼女の本来の任務は御剣冥夜の守護であった。ならば、彼女の近辺に関する情報は常に最新の、そして高度なものを持っていただろう。

 武は言葉をなくす。真那にそのことを知られていたと言う事実に……言葉にならない感情がよぎった。

 軍人としての義務以前に、自身の根幹を抉るような感情から逃れたいがために語らなかった武。

 斯衛の任務として情報を得ていながら、軍人として尋ねることをしなかった真那。

 よぎる感情は……師に隠し事をしていたという負い目と、真那が十二分に武のことを考えていてくれたことに気づけなかった後悔。

 しかし、ならば真那は何に怒っているのか。これほど感情を顕にした彼女は見たことがない。軍機を報せなかったことは軍人として当然であると言いながら……しかし彼女のその感情の原因は間違いなく、今回の転属が発端だろうと推測できる。

 そう。

 武は異動に際し、誰にも告げることなく独り密やかに行動した。

 207部隊の少女達はもとより、剣術の師匠として尊敬している真那にさえ一言もなく……彼女達にしてみれば、それこそ忽然と姿を消したのだ。

 無論、教導官であったまりもには夕呼より通達があっただろうから、誰も彼もが武の行方を知らぬ、というわけではないだろう。が、事実として通常の訓練兵にとって在りえない処遇を受け、訓練に臨むこととなった武の存在は非常に秘匿性の高いものである。だからこそ、誰にも話すことも……別れを告げることも出来ぬままにここまで来たのだ。

 強く鋭い視線。ともすればそれだけで四肢を引き裂かれそうなほど強烈な瞳に息を呑む。

 理屈ではないのかも知れない。真那の怒りは――軍人としてではなく、武という弟子を案じる師としてのそれだと思えた。

「私個人の感情で腹を立てても仕方ないのだろうが…………いや、いい。口にすまい。貴様を困らせるためにやってきたのではないのだ」

「中尉…………」

 眼を閉じ、頭を振る真那に胸が痛む。副司令、ひいては基地司令直々の転属命令とはいえ……現実としてそのことで真那を……そして茜達を傷つけてしまったことに、今更に気づく。

 武は申し訳ない気持ちで一杯だった。気を鎮めようと呼吸する真那をまともに見られない。敬愛する剣の師匠。彼女の指南と導きがあったからこそ、今の武が在るのだ。感謝してもし切れないほどに、武は真那を信愛している。

「……ふぅ、……済まないな。本当はこんなつもりはなかったのだが……ふふっ、貴様の顔を見た途端我慢ならなくなった。…………私もまだまだ未熟、か」

 冷静で、凛々しくも柔らかな、いつもの真那がそこに居た。武の顔を見て薄く微笑む様は、まるで姉のように温かい印象を受ける。

 向けられた視線に武は頬を染める。ぐ、と先ほどとは違う意味で息を詰まらせ、言葉を失う。真那の怒りは、そしてその微笑みは……否応なしに武を赤面させるものだった。師から与えられた愛情と思いやりを知ってしまえば、少年である武は気恥ずかしさで一杯になってしまうのだ。

 そわそわと視線を外し、あ~、とか、え~、と言葉を濁し、決して真那を見ないように。赤面してうろたえる武が面白いのだろう。真那は悪戯気に小さく笑う。

「白銀……ともかくも、総戦技評価演習の合格……おめでとう」

「え……っ、月詠、中尉…………」

 穏やかな声。温かな視線。小さく笑ったまま祝してくれる真那に……じん、と、胸が熱くなる。面と向かって言われて、少し照れくさい気もしたが……しかし、武は頷いた。

「はい……。ありがとうございます。月詠中尉」

 笑顔を向ける。

 貴女のお蔭だと。貴女と、そして貴女の父の……月詠の剣術のお蔭だと。

 武を強くしてくれた真那と彼女の父に、二人の師に、込み上げるほどの感謝を。晴々とした笑顔を。――きっとそれが、なによりも真那を喜ばせることが出来るだろうから。

 礼を述べる武に、真那はほんの僅かにうなずく。それで先ほどの怒りは帳消しだと、真那はおどけるように言った。

「……でも、実際なんで中尉がここにいるんです? ……その、斯衛の情報網っていうのが一体どういうものか知らないわけですけど…………多分、俺の転属先とか、かなり高度に隠されてるんじゃないかと思うんですけど……」

 そして、ようやくにして最初の疑問を口にする。あまりにも照れくさい空気をどうにかしたかったと言うのもあるが、事実として気になっていたことでもある。

 普通に考えて、真那が武の行方……即ちA-01衛士訓練部隊を知る可能性は低いのではないだろうか。例えば冥夜の守護のために必要な情報を手に入れるのだとしても……今回の武の転属に関して言えば、それは全く冥夜に関係しないことから、真那の耳に入ることはまずないだろう。まして、夕呼が秘密裏に事を運び、十ヶ月近い協議と準備があったとはいえ、それでも十二分に秘匿された計画であったことは想像に難くない。

 それ故に、一体如何なる理由から真那が武の転属を知ったのか……そのことに興味が湧いた。

 或いは単純に消え失せた武に腹を立て、怒りのあまり調べてしまったら辿り着いた、という可能性もないわけでは、ない……が。

 それを想像するに、とてつもなく精神衛生上よろしくない映像が垣間見えたため、武はその考えを削除した。敢えて言うなら先ほどの真那を二割り増しに凶悪にしたような……そんな彼女。おもわず肩が震える。な、なんて恐ろしい……!

「うん? ……ああ、そのことか。なに、神宮司軍曹が教えてくれたまでだ」

「ハ?」

 噛み締めるように頷き言う真那に、武はポカンとしてしまう。いや、正直に驚いていた。

「神宮司教官が……ですかっ?」

「そうだ。あの方は……国連軍人でない帝国軍人の私に、わざわざその足で知らせに来てくださったのだ」

 莫迦な。それこそ在り得ないだろう。真那自身が言っている。国連軍人であるまりもが、一体どうして帝国軍人の真那に、国連内部の人事について知らせる必要が在る? ――そんなものは、微塵たりとも存在しない。

 むしろ、まりもがそれを伝えてしまうこと自体在り得ない。武の知りうる限り、神宮司まりもという女性は衛士として、なにより軍人として果てしなく優秀だったらしい。風聞によれば教導官としての任に就くまでは富士の教導隊に属していたともいう。一年半前の『明星作戦』にも参加し、部隊を率いて戦い抜いたのだと、基地内の誰かが話していたのを聞いたこともある。

 そんな……優秀な軍人であるまりもが、どうして真那に? 武は若干の混乱を見せながら、真那の言葉の続きを待つ。

「あの方は素晴らしい方だ。衛士として、軍人として……。なにより、女性として。尊敬に値する、目標とすべき優れた人物だ」

 現在の階級こそ真那の方が上だが、まりもが戦線に復帰したと仮定するならば、最低でも大尉階級……或いは佐官クラスでもおかしくないのかもしれない。少なくとも真那の中ではそれに相当するくらいには、まりもの存在は大きいということらしかった。

 意外と言えば意外である。武にしてみれば真那とまりもが知り合いだということも驚きだ。無論、顔と名前くらいはお互い承知していただろうが……なにせ、将軍家縁者を守護する警護小隊長と、その守護対象を指導する教導官である。互いに知らぬ存ぜぬでは色々と不都合もあるだろう。

 その武の疑問をお見通しと言わんばかりに、真那は懐かしむように微笑んで、

「あの方と初めてお会いしたのは……そうだな。私がこの横浜基地に駐留することになった翌日だ。冥夜様の入隊から一週間遅れて横浜基地入りした私に、あの方は一番に尋ねてきてな、」



 ――御剣訓練兵の扱いについては、他の訓練兵と同様に扱います。彼女は国連軍に自らの意思によって志願し、入隊した、即ち国連軍人です。そこには如何なる出自も血筋も介在する余地はありません。

 ――ですが、斯衛としての中尉殿の任務も承知しております。……ですから、どうか中尉殿には御剣訓練兵を温かく見守っていただき、彼女が道を誤ろうとし、かつ私自身が誤った教導を行ってしまったならば……即座に斯衛としての任務を果たしていただきたく存じます。



 真那の部屋を訪れたまりもはそのようなことを言ったのだという。

 それは、まりもなりの誠意と覚悟の表明だったのだろう。国連軍人としてではなく、一人の衛士を育てる指導者として、或いは人間として……冥夜と接し、教え、鍛え上げる。

 それは宣誓であり、真那に対し“斯衛の役割を果たせ”と言うからには……最悪、真那の手に掛かることさえ覚悟の上ということでもあった。

 指導者として、教導官としての誇り。そして、己の能力に対する絶対の信頼……それ故の、覚悟だ。真那はそのまりもの言葉に声をなくした。――虚を突かれた、と言ってもいいだろう。

 まさか国連軍の教導官が、わざわざ挨拶にやってきたことも驚きなら、面と向かってそのような覚悟を示されようとは思ってもみなかった。彼女の言葉は強く、耳朶を震わせる。言葉の裏の深い想いに、真那は打ち震えた。

 ああ――この方ならば、何の心配もない。

 だから真那は目礼する。冥夜を任せるに値する人物だという確信が、確かに胸に宿った。

 …………それが、彼女とまりもの出逢いであり、その後は例えば基地内ですれ違う度に言葉を交わし、交流を深めたのだという。どちらかといえば、真那が目指す境地の一端を備えているまりもに教えを乞うような邂逅だったそうだが、しかしまりもは厭な顔一つ見せず、一軍人として、そして多くの経験を持つ優秀な衛士として、……母性に満ちた女性として、真那に接した。

「はぁ……なんというか、さすが神宮司教官…………」

「ああ。あの方こそ正に模範とすべき衛士の姿だ。上に立つ人物とは、彼女のような方を指すのだろう」

 武にとっての理想像でもある真那がそれほどに心酔しているという事実。直接の教導を受けた身としては、自身の恩師がそのように褒め称えられることはこそばゆくも嬉しい。まして、それを語るのが真那なのだ。面映い感覚に、武はくつくつと笑う。

 小さく笑う武に気づいた真那が、目を丸くする。何が可笑しいのかまるでわかっていない表情だったが……何となく、自身が笑われているのだと察して片方の眉を吊り上げる。

「白銀……貴様何を笑っている」

「ぷっ……くっくっ…………ぃ、いぇ、すいません……中尉……くく……ぶはっ……っっ……」

 口を手で押さえ、小刻みに肩を震わせる。不貞腐れたように唇を尖らせる真那が、余計でも可笑しかった。耐え切れず笑い出した武に、真那の拳がめり込む。どむんっっ、という鈍い音を立てて、武はテーブルの上に突っ伏す。内臓を抉るようなストマックブロー。ぴくぴくと痙攣する武を見下ろして、真那は不快だと言わんばかりに腕を組み、嘆息した。

「す……すぃ、ません……中尉……」

「わかればいい。……まったく。人が真面目な話をしていると言うのに……ぶつぶつ……」

 いや、真面目にまりものことを語る真那の表情が、非常に可愛らしかったからなのだが…………それを言うと次は命がないと悟り、武は口を噤む。

 自分が尊敬し、目標とする人物のことを語る時、ひとはそういう……すごく“いい”表情をするのだと知った。……ひょっとすると、かつての自分が水月のことを冥夜たちに語って聞かせたときも同じような顔をしていたのかもしれない。

 そう思うと、恥ずかしさが込み上げるが……それでも、なんとも心地よい感情である。

 真那もどうやらそれに気づいたらしい。若干の不機嫌を装っているが、薄っすらと頬が染まっている。知られざる師の一面に再び微笑ましく思ってしまったが、同じことを延々繰り返すはめになりそうだったので、改めて問うことにした。

「それで……神宮司教官が、俺の転属のことを……?」

 穏やかな表情の裏で真那のことを可愛らしいと思いながらの彼の言葉に、む、と真那は表情を引き締める。どうやら自分達がどういう話をしていたのか忘れていたらしい。

「あ、ああ…………そうだ。知ったのはつい先ほどだがな。訓練を終えた神宮司軍曹が、知らせてくれた」

 そう言ってPX内の時計の方へ目を向ける。訓練終了後、というなら……本当についさっきのことだったらしい。……そして、突然に知らされた真那はなんだか色々な感情の縺れ合いに衝き動かされ、こうしてやってきたというわけらしい。

「神宮司軍曹は私が貴様の剣術の指南をしていることを承知されていてな……恐らくはそのことで気を遣ってくれたのだろう。貴様が転属となり、事実として特殊任務に就くというのなら……私との修行も打ち切りということになる。優しい方なのだ、軍曹は……」

「……ぁ、」

 そうか。

 そういう、ことだったのか。

 いくら真那とまりもの間に武の知らない親交があったのだとして、けれどそれでも二人は帝国軍人であり国連軍人だった。例え志す先が同じであろうとも、属する組織が違い、立つべき場所も違うのである。……そこには、私情を差し挟む余地はない。優秀な軍人で在るならば尚更だった。

 だが、それでもまりもは真那に伝え、知らせた。武の転属を。武が進む道を。――機密に抵触しない範囲ではあるが、情報を漏らしたのだ。

 何故か。………………真那が、武の師匠だから、だ。

 それこそ私情、或いは私心と言われてもしょうがないくらいに……深い思いやりだった。よき友人としての真那に。そして……一年半を教え導いた武に対して。

 弟子と離れなければならない師に。

 師と離れなければならない弟子に。

 なんとも、胸が熱くなる……。それが、まりもの優しさか。武はじんわりと滲む涙に気づいて、慌ててそれを拭った。

「……ふ、涙腺の緩い男だ。……だが、貴様のことは言えぬな。……私も、これほどに嬉しいことはなかった」

 昨日の夜。武が誰にも何も言わず、姿を消したその夜。……真那は、いつものようにグラウンドに立っていた。ここ数ヶ月で更なる高みに手を届かせようとしていた武に、今日は一体どれほどの成長を見せてくれるのかと人知れず心待ちにしていた。その、夜。

 或いは巽、雪乃、美凪もまた。互いに刺激し合い高め合う武との修行をどこか楽しみにしていた。………………その、夜。

 武は来なかった。

 武は現れなかった。

 ……別段、時間を定めているわけでも、日を決めているわけでもなかった。けれど、この十ヶ月、それこそ毎日のように続けられていたひとときの剣舞。修行。その、逢瀬にも似た時間――。

 どうしてか、真那は動揺した。数十分を待ち、一時間を待ち……ああ、武は来ないのだと理解した時。彼女はかつてなく、動揺し……そうした己に困惑した。

 どうしてだろう。

 その理由は……わからない。そして、だからこそ不安に思った。或いは、そんなはずはないと打ち消したその思考。

 かつて、武の深奥に潜む闇を垣間見たそのとき。彼がそれに潰され、歪まされることのないよう、打ち克てるように……強く在れるよう、鍛え導くと誓ったそのとき。

 心乱す動揺は、瞬間によぎった不安は……どうしてかそれを思い起こさせた。

 まさか武の身になにか起こったのではないか。…………だが、結局、真那はその感情に蓋をし、浮かんだ不安を打ち消した。

 武にも、なにか理由が在るのだ。

 月末には総合戦闘技術評価演習を控えた身である。色々と思うところもあるだろう。……それを真那に明かしてくれないというなら、それもまた寂しくもあったが……真那は頭を振り、そんな風に感じてしまう自身を未熟と笑った。――泣いているような、笑顔だった。

 そして翌日になり、知る。

 訓練に励む207訓練部隊の少女達の中に、武の姿がないことを。昼食になっても、午後からの訓練にも……武はいなかった。そう。前日の晩から。彼は、「居なかった」のだ。

 その事実に気づき、動転し、再びに巡った不安――感情に、真那は今度こそ息を呑む。

 教え、導くべき愛弟子。父の剣術を受け継いだ、自身以外に唯一、その剣を振るう者。白銀武。――これほどに、大きく……ッ。

 気づかなかった己の内面に、困惑する。どくどくと鼓動を打つ心臓が熱を持つ。言葉に出来ない感情に揺れていたそのときに…………まりもがやってきて、そして知らせてくれた。

 ああ。

 よかった。

 そうか。武は転属したのか。

 そう、安心できた。涙が出るくらいに。よかった、と。そう、微笑むことが出来るくらいに。

 知らせてくれたまりもには感謝しても仕切れないだろう。異なる組織に属していながらに、彼女はどこまでも純粋に、指導者として優しかった。教えることが出来るのはただ転属したという事実のみ。だが、それがどれほどに真那の心を救ってくれたのか、彼女は知りはしないだろう。

 ……そして、最早衝動を抑え切れなかった。いや、抑えようとは努力した。

 A-01という部隊名には覚えが在り、それに見当をつけてやってきたPX。居た。居た。居た。……武が居た。そこに、その場所に。

 ああ、安心した。ほっとした。よかった。

 だから、だろう。安心した途端、腹が立った。沸々と怒りが込み上げた。軍人としての規範を知りながら、この場所に到る道中に抑え、納得させようとした理屈は吹っ飛んだ。

 真那の気など微塵も知らず、勝手にいなくなった莫迦弟子――。自身をこれほどに心乱させた不埒者に、思い知らせてやろうと思った。



 その感情を噛み締めるように。

 真那は微笑んだ。

 武はまりもの心遣いに涙を浮かべた。自分と同じ気持ちを抱いてくれていたのだと知って、真那もまた、胸が熱くなるのを感じた。

 涙を拭い、照れくさそうに笑う武に、真那はもう一度微笑む。

「白銀…………貴様は強くなれる。まだまだこれから、誰よりも強くなれるだろう。貴様には類稀なる才能と、それを枯れさせない強い意志が在る。……胸を張れ、己を信じろ。限界などない。――忘れるな。貴様は我が父の遺志を継ぎ、我が剣を継ぐ男だ。私が認めた剣士だ。…………強く在れ、武」

「――――――ッ、」

 その声は力強く、温かで、心奮わせた。

 微笑を湛えたまま、しっかりと武を見詰めての真那の言葉に……ひとつ、大きく心臓が鳴る。

 血が巡る。

 熱い血流が巡る。

 沸騰するように、それ自体が燃えているように――熱く、滾る。

 ぞわりとした感触があった。つい昨日に味わったそれとよく似た感情。足元から上り来るような痺れ。奮え。脳が覚醒するように感情がはち切れる。

「――――…………ッ、は、い……っっ!!!!」

 ぎゅう、と眼を閉じた。ぎゅう、と拳を握った。奮える身体を抑えこむように、全身に力を漲らせる。

「――はい…………ッ!」

 二度。

 強く、頷いた。

 真那は静かに眼を閉じて、ふ、と頬を緩める。――ああ、成長したな。どうしてかそう感じられて、真那は立ち上がる。

「ではな……武。次に逢うのは貴様が任官した後か、或いは…………ふふっ。そんな顔をするな莫迦者」

 まるでこれが今生の別れとでも言わんばかりの様子の武に、真那は可笑しげに笑った。武もまた椅子から立ち、真那と向き合う。

 僅かばかり背の低い真那。切れ長の瞳は少しの迷いもなく。変わらぬ強い眼差しに、武は苦笑する。――ああ、敵わない。

 だからこそ、武も強く見詰め返した。彼女は言ったのだ。強く在れ、と。そして、強くなれると。



 ……胸を張れ、己を信じろ。限界などない。



 ああ、そうだ。そうだとも。彼女の父の遺志を継いだのだから。なによりも――彼女の弟子なのだから。

 互いに言葉はなく。ともすればほんの数瞬だったのかもしれない時間。

 最後に、真那は己の腰に提げた二振りの刀のうち、黒塗りのそれを手に取った。

 ん、と武は首を傾げる。いつもの朱塗りの刀とは違う。真那の愛刀に寄り添うように提げられていたその刀は、初めて見るものだった。……それが、武の目の前に差し出される。

「え……中尉、これ、」

「本当は貴様が任官した時に渡すつもりだったのだがな……」

 差し出されたそれを、両手に戴く。

 黒塗りの鞘には銀の紋様。視線で促され、刀身を引き抜く――――ぴぃん、、と。空気が鳴り、武の精神が、奮えた。

「こ、れ…………っ、」

 美しい銀の鋼。水に濡れたように、ひやりと滴った刃に映る雅やかな刃紋。触れただけで何者をも切り裂くだろう鋭利な刃。研ぎ澄まされた、侍の剣。

「私の父が使っていたものだ。…………お前に、もらって欲しい」

「!!」

 ど、ぐん。

 脳髄を焦がす脈動。心臓を殴りつける鼓動。――真那の言葉が、想いが、響く。

「受け取ってくれるか。武……」

「…………はい!」

 うん。

 それは今までに見たどんな笑顔よりも眩しく。愛情を抱かせるほどに……美しかった。

 だから、武は誓う。

 この先どんなことがあろうとも。決して挫けたりはしない。諦めたりしない。

 強くなる。何よりも、誰よりも強くなる。

 喪った鑑純夏のために。彼女を想う心のために。

 支えてくれた茜や水月、彼女達を護るために。

 教え、導いてくれた真那を――彼女が、心から託してくれたその想いを、護るために。

 刀身を鞘に仕舞う。両手で、強く強く握り締めた。

 薄れ掛けた幼い頃の記憶が蘇る。武に剣術を教えてくれたおっさん……師の、想いを。託してくれた真那の想いを。胸に刻む。

「……っ、ハッァ…………ッッ!」

 堪えることなんてできなかった。だから、武は涙を流す。ああ、そうだ。そうだった。いつか……真那と出逢ったその日も、同じように。託された想いに涙した。

 既に託されていた想い。すでに受け継いでいた遺志。――それでも。

 師が愛用していた刀には、それ以上の想いが込められていた。

 それは真那の心だった。父親が亡くなる前に聞かせてくれたもう一人の弟子のこと。父の剣術を受け継いだもう一人の存在のこと。きっと……そのときから。真那は決めていた。もしその人物が、真に相応しい人物で在るならば。

 この刀を託そう。

 父の全てが詰まった、父のあらゆる想いが込められたこの刀を、託そう。

 そう決めて、心に秘めて。だからきっと……いつか出逢えるそのときのために。ずっと傍らに置いていたのだ。そして――そのときは来た。

 武という弟子に。これほどに大きく、強く、真那の心に存在する彼に。

「…………武。強くなれ。…………もし、それでも迷う時があるならば、きっとその刀がお前を助けてくれるだろう。父が、そして私が……お前を護る。強くなれ。強く在れ」

「はい……」

 しっかりと笑って。そしてお別れ。

 真那は満足そうに頷くと踵を返し、いつものように凛とした姿勢で去っていく。その背中を、その姿を、目に焼き付ける。

 やがて真那の姿が見えなくなっても……それでも武は、もう少しだけ、と刀を握り締めた。そこに真那の残滓を求めるように。強く――。







 ===







(これでは出歯亀だな……)

 赤い帝国軍服を纏った女性がPXから立ち去ったのとは反対側の廊下に、みちるは立っていた。晩からの訓練のために自身も夕食を採るべく足を向けたPXで、彼女は図らずもそれを目撃してしまったのである。

 彼女の教え子となった武に刀を託した斯衛の女性。……恐らくは斯衛軍第19独立警護小隊の小隊長。月詠、という名の中尉だったと記憶している。

 そんな、ある意味横浜基地では特異な存在である彼女と、一訓練兵に過ぎない――無論、最早“一訓練兵”などと括れぬ存在ではあるが――武との接点が思いつかず。更にはあまりにも二人の雰囲気がただならぬものだったので迂闊に近づくことさえ出来ないまま……。

 PXの入口で立ち往生してしまい、さてどうしたものかと思案しているところに彼女が立ち去るべくやってきたのだ。……別に隠れる必要はなかったのかもしれないが、気づけば逃げるように身を隠していたわけである。

 何を子供染みた真似をしているのかと自分で呆れもするが、それほどに武とその女性は、他者が立ち入るべきではない空気を孕んでいた。

 さて、とみちるは腕を組み思案する。

 白銀武。戦術機適性「S」を持ち、夕呼自らが推すほどの類稀な才能を秘めた衛士候補生。午後からの訓練で、既に従来の訓練兵の記録を塗り潰し、在り得ない速度で操縦技術を身に付けている。優秀な軍人だという評価はまりもがまとめたレポートを見てもわかるし、事実、目の当たりにしている。

 みちるが現在知り得ている彼の情報とはその程度のものだったが、……まさかそれが斯衛の中尉と「知り合い」という言葉では説明できないほどの仲だったとは素直に驚きである。

「ふむ……これは、些か問題だな…………」

 やや表情を顰めながら、思い出すのは自身の部下。

 溌剌とし、勝気で強気な様相を呈していながらに、その裏では繊細で優しい心も持ち合わせている突撃前衛長。昨年中尉に昇進し、突撃前衛小隊を任せるに到ったその彼女。

「任務のためとはいえ……しかし、まさか逢えないでいる間にこんなことになっていると知ったら…………」

 みちるは真剣に悩む。部下のメンタルケアも隊長である自分の仕事だ。現在のところ、武の訓練が終了するまではA-01部隊を離れているみちるだが、しかし、それでも彼女が中隊長という地位に在ることは変わらない。有事の際には即時原隊復帰するのだから、教導官としての任務の傍ら、副隊長である木野下から逐次報告を受けている。

 約一年前、年下の恋人と再会した時の彼女を思い出す。夕呼の実験によって意識を失った武を見て、かつてないほどに取り乱した彼女。それほど、真剣に武を想っていたのだろう。……そしてその日から更に、彼女は強く、厳しく己を律していたように思う。

 まるで、再会したことでより想いが強固なものとなったように。或いは、いずれ再び逢うその日のために、自身を鍛え抜こうというかのように。

 そんな彼女を見てきたからこそ、今回の逢瀬は厄介だと思えた。

「あれは強敵だぞ、速瀬……」

 ヤレヤレと溜息をつく。この場に水月がいなくてよかったと心底に思うみちるだった。







[1154] 復讐編:[八章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:23

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:八章-03」





 やってきた彼女達を見れば、なんだか凄いことになっていた。







 ===







 朝食を採りにやってきたPX。いつもの席にはいつもの顔ぶれが揃っていて、茜はいつもどおりに晴子の正面の席に座る。左隣の多恵がにこやかにおはよーと笑い、茜もそれに笑顔で返した。

 薫と亮子はまだ来ていない。これもいつもどおり。おおかた、癖ッ毛の薫が、ぴんぴんと跳ねる髪の毛と格闘しているのだろう。毎朝毎朝大変なんだぜ、と顰め面して笑う薫に、亮子は飽きもせず付き合っている。跳ねる薫の髪を梳くのが楽しいと言っていたので、特に問題はない。

 あと数分もすれば二人も来るだろう。茜は少しぼんやりと時計を見詰めて……なにやら軽口を叩き合う晴子と多恵の会話を、聞くとはなしに聞いていた。

「よっ、おはよー」 「おはようございます」

 軽快な挨拶。元気よく跳ねた髪の毛を揺らしながら、薫がやってくる。その斜め後ろには亮子。こちらは薫と違い実に真っ直ぐで美しい黒髪をしている。毎日訓練で土埃にまみれ、手入れも大変だろうに……。茜は、亮子のそういう女性らしさを心底羨ましいと感じていた。

 そして、二人が朝食のトレイを持ってきて席に着く……これが、いつもの彼女達のあり方だった。

 いや、「いつも」と言うには少々語弊がある。

 本来なら、“六人”。或いは、B分隊の彼女達を合わせると十一人。……しかし現在は五人しかいない。“六人目”もいなければ彼女達の姿もない。

 ほんの少しだけ。茜は右隣の椅子を見た。誰も座っていないその席。いつも隣りにいた彼がいない。

 白銀武。

 たった一人で転属していった、彼女達にとって忘れられない少年。

 仲間であり……想い人。その彼が、いない。

 既に五日が経った。転属を知った時こそ取り乱しもしたが、今ではそのようなこともない。……ただ、時々思い出しては、寂しく感じてしまうだけだ。

 この三年と少し……茜は、彼女達はいつだって武の側にいた。同じ訓練部隊で、共に鍛え合い、共に笑い合い、同じ道を進んできた。いずれ任官するそのときまで……ずっと一緒にいるのだと感じていた。

 けれど武は行ってしまった。自らの道を。茜達とは違う道を。

 行き着く先は同じなのかもしれない。……同じだと信じたい。いつかまた再会する日が来るのだと。そう、信じていたい。

 だから、武がいないことを寂しいとは感じても、涙を見せることはない。いつか逢える。そう信じるからこそ、泣いている暇はないのだ。

「……じゃ、先に食べちゃおっか」

「あはははは。そうだね。待ってたらいつまでも食べらんない」

 時計を見て、苦笑しながら茜が言う。彼女の苦笑の意味を悟ったのだろう、晴子が愉快そうに笑った。

「今日もやってるのかな??」

「そりゃ、やってるだろ。つぅかむしろやって欲しい。目の前で。リアルタイムで観戦したい」

「確かに……見てる分には面白いんですけどね……」

 何かを期待するように尋ねた多恵に、薫が腕を組んで首肯する。にこやかに緩んだ口元が実に楽しそうである。そんな二人を横目に、亮子は茜同様苦笑した。

 未だ空白の五つの席。全員がそこを見つめ、今日もまた騒がしい朝になるだろうと想像する。

 亮子は言った。

 ――見てる分には面白い。

 確かにそうだ。それは間違いない。あれだけ強い個性を持った五人が揃って、騒がしくないわけがないし、面白くないわけがない。

 ただし、そこにはある前提が必要だ。

 ……そう。

 巻き込まれなければ、面白いのだ。



「あーっっ、もう!! あんたがいつまでもトイレから出ないからッッ!!」

「……洗面台を最後まで使ってたのはあんた……」

「いや、そもそも一緒にシャワーを使うと言うのが……」

「えー? でもぉ、シャワー使うとすっきり起きれるんですよ~。それに一緒に入れば時間が短縮できるしっ」

「お腹すいたーっ。今日のご飯何かな~っ?」



 ドタドタという盛大な足音。それに混じって聞こえてくるのは喧々と姦しい少女達の声。

 ああ、来た来た。茜達は揃って顔をそちらに向け、数秒後にはPXに飛び込んでくるだろう彼女達を待ち構える。――主に、観戦するために。

 やってきた彼女達を見れば、なんだか凄いことになっていた。

 先頭にはどこか髪の毛を跳ねさせた千鶴。自慢の三つ編みお下げはなんだかおざなりで中途半端。まるで大勢の人間にもみくちゃにされたように、毛先がほつれていた。

 千鶴と並行して現れたのは慧。のほほんとした表情は非常にマイペースで、すぐ隣りでキャンキャン吠える千鶴のことなどまるで無視しているようだ。

 その二人の後ろには頬を薄く染めて神妙な顔をする冥夜。その彼女を見上げて、こちらも若干顔が赤い壬姫。

 最後尾には朝食の献立に思いを馳せているらしい美琴。見事なまでに、前方の少女達のやり取りから浮いている。

「……今日はそんなに派手じゃないな……」

「いや、十分でしょ」

 少し残念そうに言う薫に、思わず突っ込んでしまう茜。

 耳を傾けるまでもなく、喧しいくらいに騒いでいる彼女達の会話は筒抜けて聞こえていた。一方的に慧に吠える千鶴に、馬耳東風と言わんばかりの慧。大きな胸がどうこうと羨ましそうに語る壬姫に、おろおろと慌てふためく冥夜。相変わらず回りの空気など全く無視して我が道を行く美琴。

 ハッキリ言って、異様だ。

 そしてこの上なく「見ている分には面白い」。

 五人はぞろぞろと喧しいままにカウンターへ向かい朝食を受け取る。そしてまた喧しいままに席に着き……そこでようやく、茜達に声を掛ける余裕を取り戻していた。

「……おはよぅ。………………なによ、なんか言いたいことでもあるの?!」

「あはははははっ。榊ってば神経質になってる」

「そうだぜ~。別に何も言ってないだろ~?」

 席に着いて早々、千鶴が晴子と薫を睨みつける。どうやら何を言っても効果のない慧に対する苛立ちが、そちらに流れていったようだ。

 が、その千鶴が可笑しくてしょうがないとばかりにニヤニヤと笑う晴子と薫は、自分達の態度が余計に千鶴の神経を逆なですると知りつつ、敢えて実行するのだから性質が悪い。

 ギリギリと歯を鳴らす千鶴が哀れに思えて、茜は乾いた笑いを漏らすしかなかった。

「ねねね、さっきの胸の話ってなに??」

「えっとね~。今日は冥夜さんと一緒にシャワー使ったんだけど~」

「たたたた珠瀬ッッ??!!」

 興味津々と多恵が質問を投げかければ、顔を赤く染めたままの壬姫が真剣に語ろうとし……慌てた冥夜がその口を塞ぐ。口を塞がれたままもぐもぐと何事か言う壬姫が可愛らしい。それを見て亮子はとても癒されたような顔をしていた。

「……御剣はすごいよ。……それはもう色々と」

「彩峰ぇええええ!!??」

「あ~~っ、この合成鮭美味し~っ! 流石おばちゃんだよ~~っ」

 ……実に、喧しい。

 茜は少しだけ頬を引き攣らせながら、しかし折角なのだからと楽しむことにする。聞いているだけで楽しいのなら、会話に加わればもっと楽しいに違いない。

 更に言えば、今日は拳が飛び交うようなこともなさそうなので、実に健全である。

 一人だけがっくりと憔悴している千鶴には悪いが、いずれ諦めることだろうと放っておく。

 そう。

 そもそも、一体何が起こっているのかというと……それは武がいなくなったその日、つまり五日前の訓練にまで遡る。







 ===







 その日の模擬演習もまた、A分隊の勝利で幕を閉じた。敗因は昨日と同じ。千鶴と慧の仲違いに端を発し、部隊としての機能を失ったことによるものだった。

 全員が一堂に会し、まりもの口から演習評価が行われている最中……しかし二人はとてつもなく悔しげに俯いていた。拳を握り、必死に湧き上がる感情を堪えているようだった。

 確か昨日は……武が怒れていた。茜は思い出す。恐ろしいほどに沈黙し、冷ややかな怒りを湛えていたその姿。今まで彼が怒ったところを見たことがなかったために、それは新鮮で……しかし、彼の心情を思えば当然と頷けるものだった。

 だから、訓練が終わり、教官が立ち去ったとき。茜達もまた、彼の、彼らの邪魔をしないように気を利かせた。

 故にその後のことは知らず、そして武を怒らせた当人達の心の裡というものも、矢張り茜達は知りはしない。

 ……きっと、武は怒ったのだろう。

 そのことでB分隊の彼女達が一体何を感じ、何を考えたのか……茜はそれを知らない。ただ、何となく確信はあった。――きっと、彼女達は武の気持ちに応えてくれる。

 確かに武は頭にきて我慢できなくて、感情的に怒りを爆発させたのだろう。でも、それは裏返せば、彼がそれほど真剣に彼女達のことを考えているからこその感情だった。

 人間、心底にどうでもよいと思うことには無関心になる。即ち、感情の発露さえない完全なる無視ということだが……武は、ちゃんと千鶴と慧に怒りを見せたのだ。

 だから、気づくだろう。武の怒りは、彼女達を真剣に思えばこそなのだと。一年間を共に過ごしてきたのだ。彼女達が聡明であることは理解しているし、知っている。……ならば、ちゃんと考えて、気づくはずだ。

 そして迎えた翌日。

 突然の武の転属に激しい動揺を見せはしたが、教官であるまりもの優しさに励まされ、それぞれが己の決意を新たにし、訓練は行われた。

 模擬戦闘演習。総合戦闘技術評価演習を想定したその訓練。

 茜は驚きに目を見開き、そして同時に“そうこなくては”と不敵に笑った。それは、晴子たちも同様に。

 言うなれば意気込み。気合。

 B分隊の少女達全員が――千鶴と慧、彼女達が。まるで昨日とは別人のように違って見えた。互いが互いを助け合うように。個としてではなく、部隊として動くように。

 初めて見る変化だった。今までの五度の模擬演習。その中で一度も見せたことのないような連携を取ろうと、彼女達は必死になっていた。

 その彼女達の在りように……茜は少し嬉しく感じた。……ちゃんと、武の気持ちは届いていたのだと。そう知ることが出来て。

 だから、一切の手加減はしないと決める。もちろん最初から手を抜くつもりなどまるでないのだが……しかし、そこには強敵を相手にするような緊張感と昂揚、戦闘意欲というものが沸々と湧いている。

 多分、その日の訓練はかつてないほどに苛烈だった。元々個人の素養がずば抜けて高いB分隊である。その彼女達が一糸乱れずに呼吸を合わせ思考を合わせ、作戦を展開するならば、それは途轍もない脅威となりえただろう。

 そう――それが実現できさえすれば……。

 演習開始から数時間が経過した頃、膠着状態となり、互いに次の一手を攻めあぐねていた。流石に覚悟を決めた相手は手強いと、疲労を滲ませた表情で戦況を窺っていた茜は、ふとした拍子にそれに気づいた。

 …………なにか、妙だ。

 距離もあり、お互い障害物に身を潜めているために、姿も見えず声もハッキリと届かないというのに……一体なにが妙だというのか。しかし、茜は眉を寄せて真剣に様子を窺う。前方の大きな障害物。その向こうに身を潜めているだろう何人か。……確認できている限りでは、千鶴、慧、壬姫の三人。

 険しい表情のまま、茜は薫と亮子に向き直り、彼女達にも確認する。――なにかおかしい。妙だ。言葉に出来ない違和感だったが……どうやら亮子も似たようなものを感じていたらしかった。

 声が届く距離ではない。姿が見えたわけでもない。……ただ、漠然と感じられるだけ。

 妙に、騒がしい。

 或いは…………それは口論にも似て、

 ボリュームを最小に絞っていた無線が鳴る。押し殺したような晴子の声。斥候に向かっていた彼女からの報告に、茜は軽い失意を覚えてしまう。

 ――またやってる。

 ただ一言。それだけで理解した。…………だから、茜の行動は迅速だった。

 敵は仲違いを起こし、部隊内に亀裂が走っている。今がチャンス。そう、断じた。故に。

 そこからは、本当にあっという間だった。まるで昨日までの焼き直しのよう。

 斥候に出ていた晴子の狙撃にタイミングを合わせ、同じく斥候に出ていた多恵が狙撃とは反対方向から突撃を掛ける。同時、茜と亮子、薫は二手に分かれて障害物から飛び出し、矢張りB分隊へと突撃したのだ。

 部隊としての統率を失ったそのときに奇襲染みた狙撃を受け、浮き足立った瞬間を突いての三方向からの襲撃だ。そこには全員がいた――なまじ一箇所に潜んでいたからこそ、全滅も早かった……。

 一体何が原因だったのだろうか。千鶴と慧はまりもの評価が終わるまで、ただじっと悔しさと怒りに震えていた。冥夜、壬姫、美琴の三人もそれぞれに表情を歪め、同じように何かを堪えているようだった。

 それはきっと、己に対する怒り……。

 彼女達は、どうして自分がこれほどまでに怒りを覚えるのかを理解している。――あまりにも、不甲斐ない。

 自分達に不足しているもの……それに気づき、なんとか乗り越えようと努力はしたものの……けれど、それは上っ面だけの成果しか出せず。

 千鶴は己の不甲斐なさに唇を噛む。自分と慧の不仲が隊の足を引っ張っている。そのことは十分に理解し、対策が必要だとわかった。けれど、どうすればいいのかわからない。協力しようと努力はした。慧が動き易いような作戦も立案した。……なのに、どうしてまた、慧は千鶴を見限るように独断専行しようとしたのか。――慧のことが、わからない。彼女の行動が理解できない。

 慧は己の不甲斐なさに拳を握る。自分と千鶴の不仲が隊の足を引っ張っている。そのことは十分に理解し、対策が必要だとわかった。けれど、どうすればいいのかわからない。協力しようと努力はした。千鶴が下す命令に従うようにもした。……なのに、どうしてまた、千鶴は最初の作戦にだけ拘るのか。――千鶴のことが、わからない。彼女の思考が理解できない。

 冥夜は、壬姫は、美琴は……己の不甲斐なさに沈黙する。千鶴と慧の不仲が隊の足を引っ張っている。そのことは十分に理解し、対策が必要だとわかった。けれど、どうすればいいのかわからない。二人の仲が険悪にならぬよう努力はした。……なのに、どうしてまた、彼女達は争うように互いを誹りあうのか。――彼女達のことが、わからない。それぞれの言い分は理解できるのに、なぜそれを、双方とも受け入れることが出来ないのか。

 だから、彼女達は黙り込み、悔しさに俯く。

 部隊に必要なもの。指揮官。それを支える副官。指揮官が下す作戦に従う兵員。

 指揮官の命令を速やかに執行するための迅速な体制。「命令には従う」。その当たり前のシステムが、機能できていない現実。

 ならば、それは慧一人の我儘ということなのか。……否。彼女の言もまた、正しい。

 慧は言う。戦場において最も重要視されるのは現場の判断だと。絶えず変動する戦場において、作戦開始前に立てられた作戦など意味を持たない。確かに作戦は大切だ。それを達成するための命令には従える。自分はそれを実行するための兵士であり、何よりも作戦の遂行を至上とするために。

 だからこそ。刻々と変化する状況に合わせて、柔軟に、臨機応変に作戦内容も変化するべきなのだ。最初から最後まで、始終一貫してガチガチに固められたそれに拘り、作戦が失敗してしまうのではまるで無意味だ。

 慧が求める作戦とは、ゴールさえ変わらなければそれでいい。その中身は、戦場に出てみないとわからないのだから。常々に、最善を模索し、行動すればいい。――それができない指揮官に、慧は従うつもりはない。……だから、千鶴に腹が立つ。いつまでも最初の作戦にこだわりを持ち、移り変わる戦況に対処しきれない指揮官。だからせめて単独で動くことに許可を求めれば、勝手は許さない、命令に従え、作戦をなんだと思っている……などと。

 確かに一理あるのだ。千鶴だって、それがわからないわけではない。

 だが、指揮官の命令は絶対だと言う大原則が守れない慧を認めるわけにはいかない。独断専行を許しては、部隊そのものが機能しなくなる。部下を従えられない指揮官に、それを全うする資格はなく……なにより作戦そのものが無意味となる。だから、独断専行は許さないし、許せない。

 戦場は常に変化しているということは、言われるまでもなくわかっている。だからこそ、移り変わる状況に流されないよう、一貫した作戦の遂行が求められるのだ。臨機応変とは言うが、状況に合わせて度々に行動を変えるならば、それは戦況に翻弄されていることとなんら変わらない。最終的に作戦が遂行できたのだとして、それが果たして最良と呼べるのか。

 作戦とは、予想される戦況を網羅し、想定し、その中で最善、最良と思われるものを積み上げて立案される。……確かに戦場によっては作戦変更もやむをえない場面、というものは存在するだろう。だが、それは一兵員が声高に独断専行を唱えていい理由にはならない。変更するその作戦もまた、指揮官が下さなければならない。

 最終決定こそ指揮官の仕事だが、千鶴は己の独断でそれを成すつもりはない。当然として部隊員の意見も取り入れ、考慮する。逼迫している事態にあっては熟考している暇もないだろうが……だからといって隊員を無視することもまた、許されない。

 そう。

 千鶴も慧も、そこに気づかない。

 各々の考え方の相違。それに差異があることは、知っている。それが問題なのだと言うこともまた、十分に理解している。

 だが、彼女達は間違えていることに気づかない。

 やり方を間違えている。自分達の考え方が違うのだと理解していながら、双方共に、互いの考えの根底を理解しようとしない。それぞれに言い分はあるだろう。ならば、それを存分に曝け出せばいいのだ。曝け出してぶつかり合って、そして理解していけばいい。

 ――そのことに、気づかない。その考えに、至らない。だから、また失敗したのだ。……五人とも、そのことに気づかない。

 その彼女達の葛藤を、懊悩を、A分隊の少女達はじっと見守っていた。

 B分隊に不足しているものは、お互いの信頼だ。

 命令を下す指揮官への信頼。行動を共にする仲間への信頼。……だから、A分隊は部隊として完成している。全員が一つの意思の下にまとまり、統率を取り、遂行するだけの下地が在る。

 過ごした時間は関係なく。……単純に、B分隊にはそれらが絶対的に不足しているのだ。

 ……ならば、そう指摘するべきだろうか。いや、それはあまりにも意味を成さない行為だろう。自分で、自分達で気づき、実行しなければ意味がない。そうでなければ、それは信頼と言う名のついたただの上っ面だけの結束だ。

 正に今回の彼女達のように。それは脆く薄っぺらで…………容易く崩れ去る。

 茜はやるせなさに息をつき、千鶴たちから視線を外した。そして、評価を終えたまりもを見れば…………ひどく真面目な表情の彼女に、おや、と首を傾げる。

 じ、っとB分隊の少女達を見詰めるまりも。そこには有無を言わさぬ迫力が漂っていて……。一体何事だろうと身構えれば、まりもはこのようなことを口にした。



 ――榊以下B分隊の全員は、今日から同じ部屋で過ごすように。



 ……正直、意味がわからなかった。

 全員が豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くして呆然とする。一番に立ち直ったのは千鶴だった。途轍もなく驚いたように、困惑を浮かべて理由を尋ねる。

 曰く、B分隊の統率を図るため……だとか。

 そう。まりもは当然気づいていたのだった。B分隊の全員に足りないもの。お互いの信頼……そして、それぞれの内面というもの。

 表立って目立つ千鶴と慧の仲違いも、そしてそれを止めることの出来ない冥夜、壬姫、美琴も。全ては相互の不理解に起因する。ならば、その彼女達をひとつところに押し込めて生活させ、無理矢理にでも相互理解を深めようという腹積もりらしかった。

 なんて無茶な。……だが、まりもは無茶でもなんでも、それで彼女達に信頼関係……とまではいかずとも、現状を打破できるだけの成長を求めたのだ。

 月末には総戦技評価演習が控えている。今のままではB分隊の失格は目に見えている。だからこそ――今の日本に、世界に、互いに足を引っ張り合い、部隊として完成できないような甘ったれを養う余裕などないからこそ。

 期間は一週間。その後の模擬戦闘演習でA分隊に勝利できなかったならば、B分隊は解散。即ち、彼女達は衛士訓練校から退学させられることとなる。……或いは、別の兵科への転属か。

 千鶴は、慧は、冥夜は、壬姫は、美琴は――息を呑み、言葉を失った。

 まりもが冗談を言っているのではないと知り、そして……自分達が置かれている状況を再認識して……。

 そして、その日の晩から、共同生活が始まった。

 訓練兵に宛がわれている部屋は一人部屋のためさして広い造りとはいえない。……その中に五人。年頃の少女が五人、押し込められるのである。

 問題が起きないわけがない。平静でいられるわけがない。ベッドが一つなら洗面台も一つ。トイレも、浴室も、一つしかないその部屋に五人。

 それはそれは賑やかで騒がしく、時に拳が飛び、時に罵詈雑言が舞い…………。

 翌朝、茜達が見た彼女達は……あまりにもボロボロで、その壮絶さを悟らせるには十分だった。全員が露骨なまでに不機嫌全開で、ぴりぴりと神経質になっているらしく……迂闊に声も掛けられない。

 これで本当に効果があるのかと不安に思った茜だが……一日、また一日と経過するうちに、険悪なだけだった彼女達にも若干変化が見られだした。

 口やかましく言い争う千鶴と慧。時には冥夜さえ交えての口論。どちらかといえば成り行きを見守っていただけの壬姫や美琴も、口喧嘩染みたそれに混ざり、感情をぶつけ合う。

 それは……驚嘆に値する光景だった。

 晴子や多恵、薫こそそれを「面白い光景だ」と笑うが……しかし、彼女達だってわかっているだろう。

 今まで、そんなことは一度もなかったのだ。彼女達が喧嘩をすることも、互いに罵りあうことも、或いは感情を曝け出すことも。

 いつだって、互いにどこか線を引いていた彼女達が。

 決して、その線を踏み越えようとしなかった彼女達が。

 目の前で、盛大に、存分に――それを踏み越え、互いをぶつけ合っているその光景。

 ああ。と納得した。

 まりもが求めたことは「これ」なのだと理解できた。

 そして相変わらずに姦しいくらいに喧しく。呆れるくらいに騒がしい共同生活は続く。毎朝、まるで戦場さながらに。喧々囂々と。彼女達は日々を重ね……そして五日。







「――と、まぁ回想はこのくらいにして」

「ハ?」

 突然わけのわからないことを呟いた晴子に、茜は眉を寄せる。いーのいーの気にしない、と晴子は軽やかに笑った。

 茜としてはなにがなんだサッパリだが、晴子の考えていることが碌なものだった試しもなく、深く追求するのはやめておいたほうが良さそうだと判断する。

「それで? 実際どうなのさ、共同生活は」

「……最悪よ。見てわからないの……?」

 自身のトレイを空にした薫が、合成宇治茶を啜りながらに問えば、心底うんざりとした千鶴が皮肉気に笑って応える。末期だなぁ……と晴子が苦笑し、おろおろと亮子が慌てる。――が、

「え~? そうかなぁ。……最初はちょっと戸惑ったけど、ボクは楽しいけどなぁ。合宿みたいで」

「あ、私もそう思いますっ。やっぱり皆一緒に居ると楽しいですよ~~」

 呑気に答えるのは美琴と壬姫。B分隊において比較的温和な性格をしている二人にはこれという実害はないらしい。のほほんとして、互いに笑い合い頷き合っている。

「ふむ。……確かに色々と面倒ごとはあるが……………………しかし、朝はもう少しゆっくりとしたいものだな」

 しみじみと頷きながら冥夜。起床ラッパが鳴り、点呼を終えてからが酷いのだと、彼女は嘆くように語る。

 冥夜と壬姫、千鶴は朝にシャワーを使用する。トイレと洗面台は当然ながら全員が使用する。素直に順番待ちが出来れば苦労はしない。とにかく、朝は時間が少ないのである。点呼の後に朝食。そして訓練。定められたスケジュールに間に合わせるためには、朝食までの十分が勝負だ。

 その十分が、戦場なのである。

「あははははははっ。それで、今日は御剣と珠瀬が一緒にお風呂入ったんだ」

「そうだよー。それでね、御剣さんのおっぱ」 「珠瀬、その可愛らしい唇を縫い付けてやろうか?」

 にっこりと煌くほどに微笑んだ冥夜に、壬姫が硬直する。小刻みに小さく震える彼女を見て、悶えるように晴子は笑った。間違いなく確信犯である。……あと亮子。そんな風に必死に堪えなくても、もう素直に笑っていいんじゃないだろうか。

「ん~、でも、イチバンおっぱいでっかいのはやっぱり彩峰ちゃんだよねぇ……。いいな~。私もやっとおっきくなったのに、全然敵わないもん」

「多恵…………あんたねぇ…………」

「御剣は色がきれい」 「んなっっ、あ、彩峰ェ!!??」

 なんのことだ――。茜は頬を引き攣らせる。ここ数日、特に武がいなくなってからというもの、なんだか話の内容に制限がなくなってきたように思う。

 女ばかりが十人も揃えば、必然的にそうなってしまうのかもしれないが…………だからといって、朝から大真面目にするような話でもなく。

 視線を向ければ深く大きな溜息をつく千鶴。彼女の気苦労に同情しながらも、それでも矢張り、どこか成長しているのだとわかる。

(いつもなら、とっくに怒ってるわよね……)

 だから、それが心地よい。この空気。喧しくも賑やかなこのひととき。彼女達五人の仲は……確実に、変わってきていた。

(安心していいよ、白銀……。あたしたちは、ちゃんとやってる)

「え? なんか言った、茜?」

「なーんにも」

 ん、と首を傾げる晴子に、にっこりと晴れやかな笑みを向けて。

 さあ、今日もまた一日が始まる。自分達が今できる精一杯を、全力でぶつけよう。いつか、武と再会できるその日のために。







 ===







「甲20号目標の間引き作戦……ねぇ……」

「作戦の中核は大東亜連合軍が担うようですが、矢面には中国・韓国の混成部隊が立つようですな」

「ま、自分達の膝元に在るんだから、当然でしょ。……それで? わざわざこんなところまでそんなどうでもいい話しに来たわけ?」

 ぎ、と椅子の背もたれを軋ませながらに、香月夕呼はどうでも良さそうに呟く。肩を竦め、城内省も意外に暇ねぇ、と嫌味を口にする。

 夕呼と事務机を挟んで対峙するのはロングコートを羽織ったスーツ姿の中年男性。年季の入った帽子がこの上なく似合い、その着こなしは実に様になっている。

 男は薄く笑みを浮かべたようで、夕呼は自身の嫌味などまるで堪えていないのだと知る。――当然だ。この程度、嫌味にもなりはしない。

「はっはっはっ。美人に嫌味を言われるのも、なかなか愉快なものですなぁ」

「――あっそ。用が済んだなら帰って頂戴。私はまだ仕事が残ってるの」

 抑揚なく笑う男に、夕呼は眉をひそめ、不機嫌そうに口にする。飄々とした男。優秀な人材だが、扱いにくいことこの上ない。

「では、本題を。――香月博士、今回の間引き作戦に参加する部隊名に興味深いものを見つけまして……」

 ――ちっ。

 忌々しげに、夕呼は舌打つ。それはとても小さなもので、表面上では、夕呼の表情は微塵たりとも変化していない。

 だが、男はそんな彼女の内面を知ってか知らずか……掴んだ情報を口にする。

「国連太平洋第11方面軍横浜基地第9戦術機甲中隊……………………日本防衛の要としてこの横浜基地に配置されたかの戦乙女の部隊が、はてさて、一体どうしてこの作戦に参加するのか……」

「…………なにが言いたいわけ?」

「なにも。私はただ興味深いと申しただけです。……それとも、外部に知られるとまずいことでも在るのですかな? わざわざ秘密裏に大東亜連合を介さず、直接中国軍に部隊の参加を承諾させ、」

「黙りなさい」

 饒舌に語る男に向けて、まるで射殺すような視線を向ける。とても女性が発するような殺気ではない。細い神経しか持たぬものならば、それだけで全身が怖気に震えるほどに。

 ……だが、男は小さく肩を竦めただけで、まるで気にした風もなく。

「おお、怖い怖い。そんなに眉を寄せては皺になりますよ。香月博士も若々しいとはいえ、いつまでも二十代の気分でいたのでは……」

 ぬけぬけと語る男に、夕呼は疲労ばかり募らせる。いいかげんにして欲しかった。

 喋るだけ喋ってスッキリしたのか、城内省の飼い犬はようやくに立ち去る素振りを見せた。

「……おお、そういえば」

「なによ、まだなんかあるわけ……」

 背中を向けた男は振り返らぬままに、まるで今思い出しましたと言わんばかりの仕草を見せる。最早まともに相手する気にもならない……。

「風の噂ですが……なんでも、この世には今までの戦術機適性を覆す者もいるとか……いやはや、適性評価“A”を手書き修正するほどの才能とは、一体どのようなものなのか…………そういえば、この基地の訓練部隊から一人、突然に転属した訓練兵が居ましたな」

 ――この男は、本当に忌々しいッッ……。

「なんでもその訓練兵は早ければ六月には任官するそうで……おお、六月といえば、間引き作戦が実行されるのも六月末……」

「……………………」

「……どうやらお喋りが過ぎたようで。そろそろお暇しますよ」

「そうね。喋りすぎよ。自制の利かない犬はどうやって躾けるか……知ってる?」

 さて、どうやるのですかな? 顔だけで振り向いた男が、愉快そうに尋ねる。







 ――決まってるじゃない。去勢するのよ。







「はっはっは。それは堪らない。……では、せいぜいちょん切られないように注意しましょう」

「いい心掛けね。……あまり八方美人が過ぎると、長くないわよ」

 あくまでも飄々と。そして悠然と。男は部屋を後にする。高度なセキュリティで守られた夕呼の執務室に、いつの間にやら忍び込み、そして堂々と去っていく。

 姿が見えなくなってもまだ、夕呼は男が立っていたその場所を睨みつける。

 情報が漏れている。……今回のことは大した情報ではないが…………

(いや、あいつの存在が知られているのは少し厄介だわ……)

 これは彼なりの忠告だろう。一体情報の出所がどこなのかは知らないが、城内省が調べられる程度には、どこかしら流れているということだ。

 横浜基地がその運用を開始してから早三年。極東防衛の要にあり、帝国とも国連とも近しい立場に在るこの基地。或いは軍事力を商売にする大国との取引を望む輩が存在しているのか……。

「……下らない。地球が置かれている状況を想像もできないような愚図が、この基地にいるって? ……ふん、面白くないわ」

 それが人間というものだと。そう知っていながらに。

 夕呼は憤然と椅子に深く身体を預ける。ぎぃぎぃと軋む音を耳にしながら……それでも、自身は己の信ずる道を行くのだと。

 手を伸ばし、通信機の受話器を取る。一秒とあけずにピアティフの明瞭な声。

「外部に内通しているヤツがいるわ。至急調べて頂戴。……ええ、わざわざ鎖の長い飼い犬が知らせてくれたわ。……えぇ、そう。そうして頂戴」

 邪魔するものは――赦さない。

 それが、夕呼のやり方だった。







[1154] 復讐編:[八章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:23

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:八章-04」





『前方500――光線級! 来ますッッ!!』

 叫んだのは誰だったか。確認する暇もなく、機体が捩れるように回転する。――乱数回避。光線級の発するレーザーを如何にして回避するか、を念頭に設計されプログラミングされた戦術機の強制制御プログラム。

 一般的に、光線級のレーザーの照射範囲にあり、その照射を視認した場合、衛士の力量、或いは光線級との距離も関係するだろうが……その大半において回避不能。まして完全に狙いを付けられた状態であれば、自力で回避することなど不可能に等しい。

 故の自動制御である。

 レーザー照射範囲におけるレーザー照射を如何に回避するか。センサーがレーザー照射を感知した瞬間……正確には光線級・重光線級といったレーザー属がその照射態勢をとった瞬間にランダムに回避を行う。自動制御中の衛士による操作は一切受け付けず、一定時間のランダム回避運動を終えるまで、とにかく無作為に戦場を飛び回るのだ。

 ――今のように。

「……っぐ、ぁッッ!!」

 呼吸が詰まる。変動する重力荷重に脳が揺れる。蓄積された衛士強化装備のデータのおかげで肉体には左程の負荷は感じられないが、矢張り意図せぬ機動が引き起こすGは通常のそれよりも遥かに酷だ。

 レーザーの回避成功率を上げるためとはいえ、連続して複数の光線級からの照射を受けたならば……恐らく、レーザーを喰らうその前に意識が飛んでしまうのではないか。

 風間梼子は、ぐるぐると不規則に回転する機体の中で、埒もなく思う。……何を莫迦な。そんな状況に陥ってしまえば、恐らく十秒と生きていられまい。

 回避成功率を上げると言うが……確かに、衛士自身の判断と操縦で回避するよりは幾分かマシであるにせよ、結局はその程度でしかない。……まして、自動制御のシーケンスが終わるまでは一切の操作を受け付けないと言うのだから。例えば回避する最中に、その軌道上に要撃級や突撃級が待ち構えていたならば、それを回避することさえ出来ない。

 BETAは同士討ちをしない。というのは連中との闘争の歴史の中で証明されているが、レーザー照射範囲に光線級以外のBETAが存在しない道理はない。

 レーザーを受けないというだけで、連中は確かにそこに居るのだ。

 そう。――今のように。目の前にッ。

「っ、あ、アアアアッッ!!?」

 左手で殴りつけるようにボタンを叩く! 乱数回避の強制解除。乱数回避プログラムを、唯一強制的に、衛士自身の判断で終了させることの出来るコマンド。

 当たり前だ。常に回避運動を続けるだけのシステムなど愚の骨頂。回避中に一切の操作を受け付けない、ということ自体はシステム上仕方のないことだと目を瞑っても、それだけで生きていられるほど戦場は甘くない。だから、そのボタンはそのために用意されていた。

 無論、乱数回避を解除した以上、再び自らの意思でシステムをオンにしない限りは――梼子は自身の操縦のみでレーザーを回避しなければならない。

「ぐっっ、はぁァァアアッッ!」

 そんなことを気にしている余裕はなかった。乱数回避によって発生した慣性と遠心力に振り回されながら、それでも懸命に機体を制御する。制御しなければならないッ! 背部パイロンから突撃銃を取り、引き金を引くッ。照準も何もなくばら撒かれた120mm砲が、出鱈目に大地を穿ち……そして幸いにも軌道上に存在した要撃級の頭部らしき部位を弾け飛ばすッ。

 更にはその後方にもう二体。梼子は覚悟を決める。いつまでも噴射跳躍を続けていたのでは光線級のいい的である。先ほどレーザー照射した個体とは別のそれが、既に照射態勢に入っているらしかった。

 二体の要撃級。その間に割り込むように、内心で絶叫しながらに機体を捩じ込ませる。空を焼く閃光は自分には向いてこなかった――やっ、た……――だが、安堵してはいられない。BETAを盾にすべく着地したその場所だが、その二枚の盾は近接で相手取るにこの上なく厄介なのだから。

 悪いことに、梼子はここに来るまでに長刀を失くしていた。思考する暇もない。ぶるりと震える全身を黙らせて――右腕の突撃砲が火を噴いた。唯一残された武器の内、要撃級にとって最も効果の高いそれを、あらん限りに放つ! 制圧支援というポジションにいる自分が、二体のBETAに接近戦を挑む……笑えない冗談だと、漠然と死を覚悟したそのとき――

『死ィねぇぇぇぇえええええっッッ!!』

 通信機越しに飛び込んできた咆哮に……梼子は操縦桿を握る腕に力を込めた。――来てくれた。ならば、今はとにかく目の前の一体を斃す!

『――梼子ッ、無事か!?』

「美冴さんっ……!」

 網膜投影ディスプレイには険しい表情ながらにこちらの身を案じてくれる先任少尉の顔。同じA小隊の強襲前衛を務める宗像美冴に、梼子は精一杯に強がって頷いてみせる。

 その梼子に、いつものようにニヒルな笑みを浮かべて、美冴は単機で突撃していった本田真紀を追い、二体の要撃級を沈黙させる。

『トーコッ、生きてるかッ?』

「生きてますよ。……ありがとう、真紀さん、美冴さん」

 女性らしからぬ咆哮と共に現れ、梼子の窮地を救ってくれた同期に、心底から礼を述べる。突撃前衛――即ちB小隊のナンバースリーである彼女は、こと突進力だけで比較するならば小隊内で随一の実力を誇る。先ほどのレーザー照射で分断された中、一番近くにいた美冴と合流し、梼子の窮地を察してくれ、救援に来てくれたのだった。

『よし――真紀、梼子。一度後退する。どうやら木野下中尉も残りの連中と共に下がっているようだからな』

 合流し、態勢を立て直す。少尉階級である三人の中では、一期上とはいえ、先任である美冴が権限を持つ。彼女の能力を信頼している梼子と真紀は了解の意を告げ、三機の不知火は全速で後退を開始した。

 いつまた光線級のレーザー照射があるかわからないのだ。支援砲撃が望めない現状、とにかく今は逃げるしかない。







 そうして、静寂と化した管制ユニットから外へ出ると、全身を包んでいた熱気が霧散するのを感じた。

 額に浮かぶ汗を拭う。強化装備によって体温調節されていると言っても、それでも火照る身体はどうしようもない。こと戦闘中は精神からして昂揚しているのだ。肉体がそれに従うのは道理だった。

 ズラリと並ぶシミュレーターから、同じように現れては、矢張り同様に大気の涼しさに表情を緩める女性たち。かけがえのない仲間。A-01中隊のメンバーの姿がそこに在った。

「中隊集合!」

 呼ぶ声に気を引き締める。副隊長の木野下中尉は既にシミュレーターから降りていて、戦域管制官である涼宮遙と共に立っていた。

 駆けるようにタラップを降り、木野下の前に整列する。この場で訓練内容の評価を行い、続けての訓練に反映するのだ。本来ならば中隊長である伊隅大尉の役割だが、副司令直々の特殊任務に就いている彼女に代わり、木野下が臨時に指揮を執っているのである。

 A-01第9中隊。CPである涼宮中尉を合わせて現在12名で編成されるその部隊。構成する衛士が偶然にも女性だけであったことから、通称をヴァルキリーズとも言う。

 ずらりと居並ぶ十名の視線を前に、木野下は実に勇壮に見えた。通常、副隊長とは即ち部隊のナンバーツー……衛士としての実力、判断力、指揮統率力を兼ね備え、隊長に次ぐ階級を持つものが就く。それに倣うならば、確かに木野下は名実共に部隊のナンバーツーであり、口は軽く冗談も言うが、信頼できる上官であった。

 だが、通常であれば突撃前衛長も兼ねる立場にあって、しかし木野下はB小隊ではなくC小隊の指揮を執る。それは、昨年、部隊を編成するに当たって決められたものらしく……木野下本人が近接格闘能力、技能において“彼女”に劣るのだからと正式に辞退を申し出たのだとか。

 ――速瀬水月中尉。

 部隊内で飛びぬけた近接格闘能力を持ち、その豪胆なまでの判断力、不遜なほどの実行力。男性顔負けの胆力と精神力を持つ、それはそれは恐ろしいくらいの覇気に満ちた人物である。

 CP将校の涼宮中尉とは同期であるとか。彼女の戦域管制能力もずば抜けて高い。共に信頼でき、尊敬すべき先達である。



 やがてブリーフィングも終わり、訓練が再開される。各自シミュレーターへと走り、疲労の抜けきらぬ身体を叱咤しながら、再び戦場へと舞い戻るのだ。

 来月末日から翌七月にかけて行われるハイヴ内BETA間引き作戦。甲20号目標を対象に実行されるその作戦に、彼女達は参加することが決まっている。

 副司令直属の特殊任務部隊である彼女達は、香月夕呼の思惑一つでありとあらゆる作戦に参加し、彼女の求める成果を上げなければならない。だが、その任務が容易であったためしはなく、また、今回の作戦も「間引き」作戦ではあるが、恐らく、最前線に近いその場所を駆け巡ることになるのだろう。

 ハイヴに近い場所ほどBETAの物量は極端に跳ね上がる。だからこそ、シミュレーターはその対物量戦を想定した設定で行われる。先の戦闘では戦死五名。作戦時間内に目標殲滅数に到達することは出来ずに作戦失敗。

 ――失敗は絶対に活かす。

 そのための訓練だ。機体も人員も損失することなく行えるシミュレーター訓練だからこそ実現できる反復訓練に、だからこそ実戦そのものとして挑むのだった。







 ===







 A-01部隊がPXを使用する時間帯は、PX内に他の部隊員および基地職員は存在しない。これは単純にPXの混雑を避けるべく、部隊ごとに使用時間が定められているためだが、こと彼女達が使用するその時間帯は、一切の他者が排されている。

 彼女達はその存在を秘匿されている。

 A-01という名の部隊……即ちA-01第9戦術機甲中隊という部隊自体は公式に横浜基地所属の戦術機甲部隊として登録されており、基地内で職務に励む者たちの中で、その名を全くに知らない、という者はいないだろう。……だが、それはあくまで“そのような部隊が存在する”ということを知識として知っているだけであり、例えばその部隊が副司令直属の特殊任務部隊であることやその任務内容について把握している、ということではない。

 或いは、戦場で彼女達と共に戦ったことのある者はヴァルキリーズの通称を口にするだろう。……だが、その彼らとて、矢張り彼女達の存在の本質を知ることはない。

 部隊を構成する人物の名前に代表される個人情報から軍人としての経歴等は、全てにおいて秘匿され、機密扱いとなっていた。また、基地職員の中で彼女達の存在を知るものでも、その者は自分が知っている彼女がA-01部隊に所属しているということを知ることはないのだ。

 例えば、こうしてPXで料理を作り職員に振舞ってくれる“食堂のおばちゃん”たちは、彼女達の名前も顔も好き嫌いも知っているが……彼女達が一体どの部隊に属する衛士で、どのような任務に就いているのかは全く知らないのである。

「おばちゃ~~んっ、勘弁してよぉ~~。前から言ってるじゃん、アタシ合成人参だけはだめなんだってばぁあ~っ」

「やっかましい! あんたそんなこと言っているからいつまで経ってもお通じが悪いんだよ。ホラ、今日だって特別に細~く切ってやってるんだから、さっさと喰っちまいな!」

 故に、このようにお構い無しなのだった。

 尤も、この横浜基地において食堂のおばちゃんに勝てるものなど存在せず……そもそも、毎日の厳しい訓練・任務を乗り越えるために必要不可欠な栄養と食の娯楽を提供してくれる彼女達に、頭の上がる者など居ようはずもなく。ために、本田真紀はがっくりと項垂れながらも泣く泣く今日の食事を受け取るのだった。

「うぇえ、見ろよこのオレンジ色……。いくらなんでも盛り過ぎだって……」

「ぶつくさ文句言ってんじゃないよっ。あんた衛士だろ?!」

 思い切り眉をひそめてげんなりと漏らす真紀の背中に、ばしり、とおばちゃんの平手が決まる。げほごほと咽るように、真紀はしぶしぶ自席に着いた。そこには既に席に着いていた同期の姿。最後までおばちゃんに抗議し続けていた真紀だけが遅れてやってきたのだった。

「真紀、いい加減好き嫌いなくしなよ……」

「そうですよ。……このご時勢、日に三度の食事を欠かすことなく食べられること自体、感謝しなくてはならないのに……」

「腹いっぱい喰うのも、軍人としての義務、ってな」

 ともすれば涙混じりに溜息をつく真紀に、毛先が内側にカールしている高梨旭が嗜めるように言う。旭に頷きながらの梼子の言葉に、上川志乃がニヤニヤと笑いながら諭す。

 隣接する三人からほぼ同時に「いいから喰え」とまでに見詰められ、真紀はしおしおと合成人参に箸をのばす。口に入れた途端、言葉にならない声をあげて悶える彼女を見て、少女達六人は大いに笑った。

「ひ、ひでーよぅ。なんだよ~、みんなしてさぁ。ケーコだってアキだって嫌いなもんくらいあるだろーっ?!」

 涙目で叫ぶように真紀。この場にいるメンバーの中で特に大笑いしていた二人に向かって箸を突きつけ……行儀が悪いと梼子に手を叩かれていた。が、そんなことでめげた様子もなく、ぬぬぬ、と鼻息も荒く件の人物達を睨みつけること数秒。

「あら。一体私が嫌いな食べ物とはなんのことでしょう? お魚からお野菜、果てはお肉にいたるまで……一切何一つとして苦手なものなんてございませんわよ」

 ほほほ、と口元に手を添えて微笑するのは古河慶子。日本人形よろしく前髪を切りそろえ、真っ直ぐに伸びた黒髪が艶やかだ。普通に座っている分には完全なるお嬢様なのだが、口を開けば誰にでも知れる似非お嬢様である。

「んー、まぁ慶子の場合納豆が駄目だよね。納豆。匂いがネバネバがぁ~っってこないだ叫んでたじゃん」

「亜季さんっ!? う、裏切りですわよっ!?」

 真紀に対し高飛車に笑っていた慶子だが、すぐ隣りの岡野亜季の指摘にぎょっと反応する。しかも“こないだ”とは三年以上前の話なのだが、当時を思い出した面々は「ああ」と頷いてはにまにまと笑い、真紀もまた、ほらみろとばかりに偉そうに腰に手を当てている。

 ……だからといって真紀が人参を食べなくてもいいという理由にはならないのだが……案の定、ふんぞり返っていた彼女は梼子によって、口の中に強制的に詰め込まれることとなった。

「まあそれはともかく。いいかげん検証に入ろうじゃない」

 ごちそうさま、と箸を揃えるのは篠山藍子。目元にあるほくろが特徴的で、下がった目尻と相まって柔和で艶美的な印象を受ける。周りの六人全員がまだ半分も食べていないというのに既に完食し、ナプキンで口元を拭っていた。

 相変わらずの早食いに、彼女に次いで食べ終わるのが早い梼子も、思わず言葉をなくす。二人共に外見に似合わぬ食べっぷりなのだが、こと藍子においては異常なまでのスピードだ。……呑んでいるとしか思えない。

「……おまえさ、少しは噛んで喰えよ……」

「失礼ね。ちゃんと噛んでるわよ」

 志乃が“うぇえ”と眉をひそめるが、藍子は、む、と表情を顰めるだけだ。場に流れた微妙な空気を振り払うように、彼女達のリーダー的存在でもある旭が一つ咳払い。

「ん、じゃ、まぁ……とりあえず食べながらでもいいからさ。始めよっか」

 苦笑しつつ、旭が言う。藍子以外の面々もしょうがないとばかりに首肯し、彼女達による検証会は始められた。

 題目は本日の訓練について。

 甲20号目標における間引き作戦を想定したシミュレーター訓練の内容自体は都度行われた訓練評価でそれぞれに課題が明確となっているが、それはあくまで部隊としての評価である。つまり、彼女達は未だ先任の足を引っ張っている感のある自分達一人ひとりの技術面や状況判断について検証を行おうというのである。

 ……本来なら食事を終えた時点で、ということだったのだが……それもまたよし、と七人の少女達は各々思うところを口にする。

「やっぱり、支援砲撃なしでBETAを殲滅することが辛いな……。突撃級だけの先発群だけならまだやりようはあるんだけど、そこに要撃級や戦車級が混ざり出すと……」

「あ。それ同感。ハヤセ中尉が問答無用で吶喊してるからヤケクソでついていってるけどさ……あれ、正直かなりしんどいんだよなぁ……」

 真っ先に口を開いたのはB小隊の二人。腕を組んで唸るように言う志乃に、真紀が同意する。

 訓練において、支援砲撃が間に合わないという状況を想定しての戦闘も数回行われた。実際の戦場でも一部隊専用の支援砲撃などあるはずもなく、戦況によっては矢張り支援砲撃なしで戦わなければならないことも十二分に在り得る。更に言えば、今回はハイヴに接近しての間引き作戦だ。大部隊を導入しての作戦となることは必至であり、十分な面制圧を成すために大東亜連合艦隊もそれなりの展開を見せるだろう。……だが、それでも混戦となることは想像に難くなく……故に、支援砲撃を受けられない可能性は高い。

 無論、A-01部隊に限った話ではないが、常に最悪の状況を想定し、それに対応する思考を持ち合わせることもまた重要な訓練といえる。

 まして、実際の戦闘でそのような状況に陥った時、訓練でそれを切り抜けられなくて、一体どうして実戦で切り抜けることができるというのか。……だからこそ、今日の訓練で行われたそれを完璧にこなせないでいた志乃と真紀は難しい顔をするのである。

「別に、速瀬中尉は問答無用ってわけじゃないと思いますけど……。あの方は一見して豪放で豪胆で豪快ですけれど、後ろから見ていると実に合理的に戦況を判断していると思いますわ」

「言うねぇ慶子……。ん~、でも。確かにそう思うな。わたしも今日見てて感じたけど、あの人が突っ込んでる場所って、巧い具合にBETA同士の死角を取ってるっていうかさ……」

「ああ、言われるとそうですね……。要撃級の群れに飛び込んだとしても、ちゃんと退避する場所は確保してますし……混戦になっても的確な状況判断を下していると思います」

 投げやりに言う真紀に、慶子が呆れたように訂正する。この場に水月がいないのをいいことに言いたい放題な彼女達に亜季は苦笑しながら、自身も中衛としての意見を述べる。それに続く形で梼子も頷き……突撃前衛長である水月は一見なにも考えていないようで実はよく考えている、という酷く乱暴な結論に達する。

「……なんで中尉の評価になってんだ?」

「真紀がへんなこと言うからでしょう……」

 志乃が真剣に首をかしげ、藍子が溜息をつく。照れたように笑う真紀に慶子が白けた視線を投げて、旭が再び咳払いを一つ。

「あのね。話し進んでないから。……志乃と真紀は速瀬中尉の動きを参考にしてみればいいかもね」

「うん、そうだな。……正直中尉についていくのがやっとだけど……あの人が切り拓いた道、っていうのは実際に凄く動き易いし戦い易いんだ。……周囲の状況を把握して、瞬時にそれらを取捨選択することで最善を導き出す、って感じか?」

「うげぇ、アタシ考えるの苦手なんだよ……」

「そんなのわかってますわよ。単細胞なんだから、深く考えずに身体で覚えなさいな」

 まとめを簡潔に述べる旭に、志乃が首肯する。既に脳内では今日の訓練内容がシミュレートされているらしく、腕を組んだまま眼を閉じ、うんうん唸っている。

 正面で志乃が難しい表情を浮かべているのを見て、真紀はげんなりと肩を落とす。落ち込むような彼女に、冷ややかに慶子が笑い、「なにおう」と真紀は立ち上がった。

「はいはい喧嘩しない。身体で覚える、ってのは賛成だよ。混戦の中で一々頭で考えてちゃ行動に追いつかないし、常時冷静な思考が出来る保証もないわけでしょ? なら、ひたすらに身体に覚えさせるしかないよ」

「……そうですね。少し話は変わりますけど……光線級の集団にレーザーの一斉照射をされた時は、思考する暇なんてなかったですから……」

 憮然とする真紀を宥めつつ、亜季は慶子に同意する。その言を受けて、梼子は今日の訓練の中で最も緊張を強いられた瞬間を思い出す。

 苦々しく呟いた梼子に、全員が同じような表情をする。一瞬流れた沈黙が、彼女達の内情を物語っていた。

「確かに……あの光線級にはやられたわね。乱数回避があるといっても、万全ではないし……」

「レーザーはどうしようもないな……喰らったら終わり、回避も難しい……。ALMにも限りはあるし、なにより……接近するためには間に立ち塞がる脅威を取り除かないといけない……」

 忌々しいとばかりに藍子も呟き、旭も難しい顔をする。

 制圧支援である藍子は基本装備である92式多目的自立誘導弾システムの弾頭をALMに換装して訓練に臨んでいた。支援砲撃が望めない可能性を考慮した結果である。同じ制圧支援である梼子は通常の自律制御型多目的ミサイルを選択し、作戦に幅を持たせていた。

 戦術機が搭載できるALMだけでは十分な重金属雲の発生が望めず、あくまでもそれは「ないよりはマシ」という程度。後方からの援護を受けつつ吶喊する突撃前衛や、旭のように強襲前衛として隊内の中堅を任されている者にとって非常にシビアな状況といえる。

 無論、脅威は光線級だけではない。だが、戦場において光線級が存在するのとしないのとでは、比較するのも莫迦らしく思えるほどに状況の困難さは増す。

「でも、トーコは乱数回避切っただろ? 回避方向にいた要撃級二体の間に滑り込むなんて、相当な冷静さがいるんじゃない?」

 珍しく真面目に真紀が切り出す。梼子が言う思考する暇もなかった場面に居合わせた真紀としては、あの時の梼子の判断はとても優れていると感じられるのだ。光線級のレーザー照射から逃れるため、なにより回避軌道上に存在した要撃級を避けるために乱数回避を解除する。その判断を下し、行動に移すためには相応の冷静さと集中力が必要とされるだろう。

 その指摘を受けて梼子は考えるようにそのときを思い出すが……如何せん、記憶にあるのはとにかく必死だったという感覚のみ。どのような思考的プロセスを経て乱数回避を解除するに到ったのかは、彼女自身わからなかった。

「ふぅん……それこそ、身体が動いた、ってやつかな」

「センスがいいということかしら? 確かに、梼子さんは私たちの中でも高い適性値をお持ちですもの」

 志乃が顎に手を添えて頷く。慶子も小さく首を傾げながら納得したというように。

 優秀な衛士としての直感が、反射的に梼子にその判断をさせたのだという解釈だ。梼子自身にその実感はないが、どうやら周囲の彼女達から見れば、そういうことになるらしかった。

「光線級も厄介だけど……それでもやっぱり厄介なのは、数でしょ」

「ん~…………まぁ、そうだよなぁ」

 顰め面をして言うのは亜季。つられたように真紀も顔を顰める。その二人に旭はふむと頷いて、志乃も梼子も同意を示す。

 先ほどの光線級の一群をどうにかやり過ごした後のことだ。その局面では光線級の前方には他種のBETAは数えるほどしか存在せず……故に光線級の独壇場とばかりにレーザー照射が雨のように撃たれまくったわけだが、それでも、エネルギー切れを待つという手段をしてなんとか仕留めることも出来た。

 無論のこと、一人も欠けることなく、というわけにはいかなかったのだが……亜季が言うのはその後に遭遇した数千規模の大群のことである。

「……へぇ、そんなことがあったんだ」

「残念ながらその時は私も藍子さんも、レーザに焼かれてしまいましたから……」

 光線級を殲滅するにあたり、前衛ではなく後方に位置していた二人がやられている、というのが実に印象的だった。真っ先に撃墜されそうな突撃前衛小隊はその卓越した操縦技術で、乱数回避に振り回されながらもどうにか光線級に接近することに成功していたし、同じC小隊の旭は数え切れないほどの冷や汗を掻きはしたが、どうにか無事でいられた。

 周囲のものと比較して、どうやら藍子と慶子の二人は足が遅いようだというのが、木野下からの評価でわかっている。部隊が密集した状態、或いは小隊単位で行動する場合には大した欠点ではないのだが、今回のように開けた場所で各自散開した状況において、それは致命的だということが判明したのである。ために、二人は制圧支援、打撃支援というポジションながらも、強襲前衛、或いは強襲掃討並みの機動を実現することを課題とした。

 無論、彼女達の間に目に余るほどの格差はない。……だが、ほんの僅かなそれによって、正に生死が別れたのだ。二人とも、いい教訓だと考えているし、次の訓練では務めて機敏に動いてもいた。

 さて、そうした彼女達の戦死の後に遭遇したBETA群だが……これが実に圧倒的だった。

 単純に突撃級だけを見ても一度に殲滅することは難しく、その大半をやり過ごして、後方に続く要撃級・戦車級をとにかく手当たり次第に討ち取るしかなかった。戦闘開始からかなりの時間が経過していたことも相まって、弾薬が尽きた者もいれば長刀の耐久度が限界に達した者もいた。また、物量で押されているためにどうしても後退しながらの戦闘となる。更にはやり過ごした突撃級の一部が旋回して突っ込んできたり……と、実に不毛で不利な状況に陥ったのだ。

「あれで光線級が健在だったらと思うと、……ゾッとするな」

「ゾッとするだけで済まないって。仕舞いには要塞級まで出てきたじゃん」

 怖いことを言う志乃に真紀は肩を竦め、自身が撃墜されることとなった恐ろしき要塞級の衝角を思い出す。喰らったのは脚部だが、吹き飛ばされた機体をどうすることもできず、要撃級に叩き潰されたのである。ただでさえ密集したBETAの集団の中で逃げ回ることは困難だというのに、要撃級や戦車級の動きに関係なく……そして実に厭らしい連携をみせる要塞級は手に負えない。

 現在の真紀にはその攻撃を避ける術はなく、例え回避に成功しても、それは単純に運の問題だと自身は考えていた。同じB小隊で、同期の中では一番の機動力を見せる志乃でさえ要塞級が出現した途端、動きにキレがなくなっている。刷り込みに近い苦手意識、或いは恐怖が染み付いているのだ。支援砲撃の有無に関係なく、彼女達は更なるレベルアップが望まれている。

「補給さえままならない状況というのは……矢張り生きた心地がしませんね。気ばかり焦ってしまって、まともに戦えませんでした……」

「逃げるのが精一杯、っていうのが本音だったし。……木野下中尉と速瀬中尉がいなかったら、離脱すら出来なかっただろうね……」

 消沈したように呟くのは梼子。光線級のレーザー照射を回避する最中に長刀を失い、以後は突撃砲と短刀のみで戦っていた彼女だが、弾丸が尽き、接近戦を余儀なくされた時点で思考が後ろ向きなものとなり……結果として、要撃級数体の包囲網を突破できずに潰されてしまったのだ。

 旭が慰めるように言うが、彼女自身梼子の気持ちはよくわかっている。亀裂の入った長刀一本に短刀二本。残弾数が減るにしたがって精神的な余裕がなくなり、不必要に回避運動が大きなものとなっていた。周囲を囲まれた状況で、大きな回避運動を取れば……当然として、どこに行っても敵にぶつかる。その窮地を救ってくれた木野下や、退避路を開いてくれた水月に一期上の宗像美冴少尉がいなければ、間違いなく旭も戦死していただろう。

「わたしはそれで安心しちゃったなぁ……。そんなつもりはなかったのに、気づいたら要塞級に踏まれてたし……。何が起こったのか理解したのは、やられた後だった」

 乾いた笑いを浮かべて、亜季。水月と美冴が開いた退避路に安堵し、ほんの一瞬、「これで助かる」と思ってしまった瞬間のことだった。その光景を目撃してしまった志乃が悔しげに表情を曇らせるが、亜季は彼女に首を振る。

「志乃っちのせいじゃないって。あれは完全にわたしのミス。真紀がやられたの、見てたはずなのに……どうしてか気が抜けちゃってさ」

 そんなつもりはなかった、と亜季は言った。だが、事実として彼女は緊張の糸が緩んでしまい、自身が置かれている状況を見失ってしまったのだ。これもまた、一瞬の油断が命取りとなるという戦場の鉄則を彷彿とさせるものだった。

 総合的に評価して、全員が少なくない問題点を抱えているということになる。

 木野下の評価と大した違いはないが、四年の訓練期間を共に過ごした同期だからこそ見えたものもある。

 彼女達が任官してもうじき一年が経過しようとしていた。十二名だった同期も、既に五人喪っている。……先に散って逝った仲間達のためにも、生き延びた彼女達は精一杯に、そして我武者羅に。戦い、生き続けなければならない。

「……よし、それじゃ各自の課題もより明確になったところで、」

「ぅあ?! 飯喰ってないよメシ!!」

「…………ぁー……そういえば、そうだったな」

 ぱん、と旭が手を叩いて締めようとしたそのとき、真紀がハッとして自身の目の前に並んだ皿を覗き込む。志乃もまた、しまったというように眉をひそめ、すっかり冷めてしまった合成カレーをつつく。

 食事しながら、ということだったはずだが……どうやら検証に夢中で食べることを失念していた様子である。

「……なんで梼子の皿は空になってんの?」

「…………聞かないほうがよろしいのではなくて?」

「なっ……?! わ、私は別にッ……」

 亜季が隣りの梼子の皿を見て呟く。わざわざ尋ねることもあるまい、と慶子が首を横に振り……梼子は、薄っすらと頬を染めてうろたえる。

「料理は美味しい内に食べるのが礼儀でしょ。梼子はなんにも気にすることないわよ」

「藍子が言うと説得力ないねぇ……はぁ~あ。んじゃ、さくっと食べちゃって、解散ということで」

 満足げに、そして同胞を讃えるような藍子に、旭は溜息をつきながらも、かつての分隊長としての役割を果たす。

 その言葉に残る四人が同意して、全員が食事を終えた後、彼女達はそれぞれ自室に戻っていった。

 未だ経験の無い大規模な作戦を前にして、少女達は緊張と、同等の意欲を以って臨む。

 残り一ヶ月。決して余裕があるわけではない。……だからこそ、日々の訓練で得たものを確実に自身のものとするために努力を重ねる。出来ることをやる。

 それが衛士としての義務だと。彼女達は知っているために……。







 ===







「……と、まあ。実に可愛らしいことをやっていたわけですが、」

「ですが、って。宗像……なによその顔は……」

「いえいえ。別に何も。速瀬中尉が部下達にどう思われているかがわかって愉快だなんて、決して思っていませんから」

「しれっと言ってんじゃないわよっ!」

 PXの出入り口はひとつというわけではない。ぞろぞろと連れ立って出て行った少女達とは別のその場所に、隠れるように立っていた三人の内、美冴がにやりと口端を吊り上げる。

 その美冴の言葉にこめかみをひくつかせて吠えるのは水月。真紀をして問答無用と言わしめ、慶子をして豪放で豪胆で豪快と言わしめる御方である。突撃前衛長というポジションにいる以上、常に部隊を引っ張っていく立場にあり、最も過酷な状況に立たされる頻度も高い。ならばこそ余計でも強気であらねばならず、どのような場面でも自信に満ち溢れていなければならないのだが……。

 それが可愛い部下から、彼女自身がそう見せているためとはいえ、正にそのとおりを言われてしまうといい意味で腹が立つのである。まして、美冴はそれを承知でからかっているから性質が悪い。

「まぁまぁ、水月はそれだけ人気者ってことだよ。それに、古河少尉も岡野少尉も、ちゃんと水月のこと見ててくれてるじゃない」

「ん~~~っ、それはそれで、なんかムカツク」

 美冴に掴みかからんばかりの水月を、同期であり、親友でもある遙が宥める。どうどうと背中を撫でられて、一体自分は猛獣か何かなのかと埒もなく考えてしまった水月だが、遙に言われるまでもなく、彼女達が……まだまだ必死な面もあるとはいえ、戦場における視野に広がりを見せはじめていることや、技術的な面でも成長を見せていることは承知している。

 曲がりなりにも小隊長を任されている身分である。部下を持った当初こそ、その命を負うことにプレッシャーを感じ、押し潰されそうになったこともあったが、今ではそれはよい経験だと考えるようにしている。

 事実、水月は部下を二人喪っていた。当時はCP将校である遙を除いて十六名の変則三小隊編成だったA-01部隊。A小隊からは一名、C小隊から二名の戦死者を出し……そして、残された七人。残された自分達。

 己の力があと少し足りていれば……あと少しだけ高みに届いていれば……。

 そう後悔したことは果たして幾度あっただろうか。水月だけではない。既に同期の全員を喪っている美冴とて、己の無力に嘆いたこともあった。

 だが、彼女達は繰り返される戦場で知ったのだ。後悔は何も生みはしない。嘆くだけではどうにもならない。

 生き延びた者の責任。意味。義務。……それらを考えた時、彼女達は蹲ることをやめた。しっかりと立ち上がり、前へ進む。

 足りない、届かない点は徹底的に洗い出し、訓練を繰り返す。乗り越える。ただひたすらに自身を鍛え上げ、一人でも多くの仲間を救うために、一分一秒でも長く行き続けるために。

 そうやって自身が成長してきたように……彼女達もまた、成長しているのだとわかる。

 わかる……の、だが。

「しかし中尉、事実として……特に古河にああまで言われているわけですから、もう少しお淑やかさを表面に出しては如何です?」

「宗像ァ……あんたは、どうしてそう余計なことばかり言うのかしらねぇ……」

「余計だなんてとんでもない。私はただ、男勝りな中尉の今後を心配して……ああ、そういえば中尉には年下の恋人がいるんでしたね」

 梼子たちより一足先に成長を遂げたはずの美冴を見れば溜息の一つもつきたくなるし……なにより、彼女は口が減らない。任官してからずっと続けられ、最早ライフワークと化している“水月いじり”には正直呆れるほどだ。

 一々反応していたのではきりがないのだが、どうしてか水月の心理を巧みに突いて来る美冴に、今日もまた乗せられてしまうのである。

「宗像ァア!?」

 ぴゅう、と逃げる美冴を追撃すべく、水月も駆ける。

「水月ー、宗像少尉ー。ご飯はもらっておくから、ほどほどにねー」

 のほほんとそう言って。カウンターには軽快に笑うおばちゃんの姿。元気なことはいいことだと笑う彼女に遙も同意する。

 無人のPXを駆け回る二人を、まるで仲の良い姉妹のようだと……遙は微笑んで見守るのだった。







[1154] 復讐編:[九章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:24

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:九章-01」





 右手には黄色いリボン。

 軍隊に入隊し、衛士となると決めたその日。彼女が託してくれた物……。



 “御守り”



 いつもはズボンの右ポケットに入れていたそれを、丁寧に取り出す。片時も離したことのない御守り。彼女の髪を結っていた鮮やかな黄色。まるで太陽のように笑う彼女の、その笑顔を思い出す。

 衛士強化装備を身に纏う際は、どうしようもなかったので軍装と共にロッカーに収めていたのだが、矢張りいつも傍らに置いておきたいし、触れられる場所にあって欲しい。

 だってそれは彼女がくれた大切な御守りで…………武が持つ、唯一の形見なのだから。

「……純夏……」

 その名を呟いて、僅かにしんみりとしてしまう。どぐん、とブレるように心臓が蠢いたが……今は、そんな感情に揺さぶられている時ではない。

 今はただ、訓練に打ち込む時。己を鍛え抜き、衛士として完成する時である。

 或いは……BETAを斃す力を手に入れるための……。

 チキ、と。左の腰に提げた『弧月』が鳴る。剣術を教えてくれた師匠の、その遺志が込められた名刀。姉弟子でありもう一人の師である真那が託してくれた、彼女と彼女の父の想い。その具現。

「………………ッ、」

 まるで武の葛藤を察してくれているかのようだと思えた。

 道を踏み外そうとする彼を、まるで手を伸ばして引き止めてくれるかのよう……。ああ、それは、“彼女達”の温かさを思い出させる。

 腰に巻いた下緒を解き、ぐ、と弧月を握る。傍らから離したくないという意味では、これも同様に。

 故に武は一つ頷くと、漆塗りに鮮やかな銀の意匠が施された鞘に、躊躇なく鮮烈な黄色を巻きつけた。ぐるぐるぐるぐる。下緒に重ならないように、丁寧に巻きつけて、結ぶ。

「ん。これでよし」

 目の前に掲げて、うんと頷く。豪奢な装飾の施された拵が、見事なまでにアンバランスな色合いを見せているが、当の本人は全く気にした様子もなく。むしろ鼻歌混じりに服を脱ぎ捨て、強化装備に着替えるのだった。







(……なんだ? 鞘が変わって……?)

 シミュレーターの前に駆け足で向かってきた武を見て、みちるは思わず首を傾げる。

 強化装備の上に日本刀を提げるという大層ふざけた格好の武を初めて見たときは、それはもう怒ることさえ億劫に感じるくらい呆れたものだった。今から一週間前の夜のことである。月詠という名の斯衛から一振りの刀を託された武を目撃していた彼女は、彼が腰に提げる刀こそ、それなのだと気づいていた。

 ……なるほど。確かに衛士の中でも、特に武家出身の者では肌身離さず刀を持ち歩く者も存在する。件の斯衛の衛士がそうであるし、その他にも、みちるは帝国軍衛士の中で数人、見掛けたことがある。

 得てしてその者たちは、傍らに置く刀に“自己”を見出しており、己の分身、命とさえ考えている場合が多いのだと、みちるは聞き知っていた。或いは……武のように何者かに託された想いを貫き通すために。受け継いだ遺志を貫き通すために。

 そのような人々のことを見知っていたから、武が刀を身に付けること自体には呆れこそすれ、特に指摘しなかった。無論、管制ユニットの中で刀を提げたまま、ということにはいかないため、ユニット内に持ち込むのならきちんと固定し、操縦の邪魔にならないようにする等の指示は出した。

 常時身に付け、或いは傍らに置いておきたいと想うほどの刀なのだ。それが例えば戦闘中に管制ユニット内を転がったり、或いは衝撃でぶつかったりすれば、……考えたくはないが、そちらに気をとられてしまい、そのことで命を落としかねない。

 無論、武がその程度の器だとは思っていないが……それでも、こと、刀に想いを寄せる者というのは度し難いのである。

 その刀に込められた様々な想い、感情、歴史……そしてそれを想う自身の心、精神、魂。――それらは、一切の他者を廃絶する。彼らが刀に込める想いは、それこそ他者の立ち入る隙などなく。

 だからこそ、例えばみちるが想像するような事態に陥る可能性もある。そんな莫迦なことがあるか、と一笑に伏すこともできたが……その他者の思考が及ばない可能性もまた、確かに存在しているのだった。

 そして、そんな思考を巡らせたその時より一週間。既に見慣れた武の白い衛士装備に、黒塗りに銀色の意匠が施されたその刀。当初こそ呆れの方が強かったが、それでも、思わず感嘆の声を上げたくなるほどに、武にその刀は似合っていた。

 国連軍でなく、そのまま帝国軍に進んでいた方が彼には合っていたのではないかと、埒もなく夢想しながら……その、あまりにも眼を引く鮮烈な黄色にぎょっとする。

 一見して相当に名高い名刀なのだろうと知れる拵が、それはもうその黄色い帯のおかげで台無しだった。あまりにも場違い。刀に関する知識を多く持ち合わせないみちるにさえ妙だと感じさせるほどのアンバランス。

 首を傾げ、顰め面をするみちるに、しかし武は気づいた様子もなく。さっさとシミュレーターに乗り込んでは着座調整を終了する。

「…………わからん」

 別に武の全てを知っているわけではない。例えば彼が衛士を目指した動機、戦う理由、思惑、感情、過去……。それら白銀武を構成する諸々を、みちるは何一つとして知りはしない。

 故に、例えばあの黄色い帯――まるで少女がつけるリボンのようだ――が、武という存在を形作る上で必要不可欠な物であるというのなら、……それはそれでいいのだと納得する。

 みちるに与えられた任務は唯一つ。

 武を衛士として成長させること。A-01部隊における優秀な人材として育て上げること。香月夕呼が唱える第四計画を達成するための、有能な手駒の一つとして鍛え上げること。

 そしてまた、自身もそれを望むがために。

「――よぅし、白銀。今日は昨日に引き続き、小隊単位での作戦行動を行う。制限時間内に仮想敵を無力化することが最大目標だ」

 通信画面に向かい、みちるは指示を飛ばす。モニタの向こうで了解と首肯する武は、いつになく覇気に満ちて見えた。……それが、あの鞘に巻かれた黄色いリボンの効果なのかどうかは……矢張り、みちるにはわからなかった。







 ===







 ――これが、自分の身体なのだと。







 例えば、人間が歩くとき、走るとき、立ち上がるとき、座るとき、手を伸ばすとき、腕を曲げるとき。

 それら、肉体を動かそうとする際に、そのプロセスを一々手順を追って思考するものはいない。

 足を踏み出す方法を、加速のために地面を蹴る方法を、膝を曲げる方法を、腕を上げる方法を……一々に考え、模索し、実行に移すものはいない。

 なぜか。

 それは知っているからだ。身体に染み付いているからだ。行動しようとしたその瞬間に、無意識下で既にそれらのプロセスは実行されている。

 考える間などないし、考える必要もない。

 だから誰も自分が行動するために必要なありとあらゆるプロセスを苦とも感じず、またそのためのシーケンスに混乱は生じない。無駄な処理は一切なく、蓄積された自身の経験に則り、行動として刹那に反映される。

 ……ならば、戦術機を操縦するということは……どうか。

 操縦者、衛士の意思を統計的に数値化し、更新を繰り返し……データを蓄積する。蓄積され、更新されたデータは戦術機の基本動作に反映され、操縦者へもフィードバックされる。

 その意味するところは一体何か。

 伊隅みちるは武にこう説明した。

 ――文字通り体の一部のように扱えるようになる。

 その意味するところ。行動するため、操縦するために必要なプロセスの一端を、戦術機は担うことができるということ。

 ならばそれは、人間と同じということ。この巨大なヒトガタは、搭乗する衛士そのものということになる。

 衛士は戦術機を操縦する。当然だ。機械は操作なくして動かない。

 だから衛士は操縦するための知識を得、身に付け、腕を磨く。歩く方法を、走る方法を、立ち上がる方法を、座る方法を、手を伸ばす方法を、腕を曲げる方法を……思考し、操作し、実行に移す。

 戦術機は機械だから。

 搭乗する衛士がそのプロセスを順を追って思考し、操作する。――戦術機が機械だから。

 否。

 それでは体の一部とは呼ばないし、言えない。

 人間が自身の体を動かす際、一体誰がその方法を、プロセスを、思考し、制御するというのか。そんな者はいない。そんな思考は必要ない。意識して行う必要がないのだから。

 そのために必要なものすべてが、無意識の中に詰まっている。経験により積み重ねられた膨大莫大なデータを元に、無意識が制御を行うのだから。

 ……ならば。その意思を読み取り、データを蓄積し、基本動作に反映し、更には衛士にフィードバックするそのシステム。

 戦術機を操縦するという行程。

 衛士が思考し、操作するというその行程。それが無意識下に収まってはじめて。戦術機は己の一部となる。

 即ち――これが、自分の身体なのだと。

 そう認識し、操縦するためのありとあらゆる知識を肉体に刻み、無意識に支配すること。考える間もなく、考える必要さえなく、それが既に無意識で実行されていること。

 それが実現できてようやく、戦術機は自身となる……自身とすることが出来る。

 自分の体のように。自分の体を動かすように。そしてそれ以上に。決して生身では実現できない機動さえ、己そのものとして扱うことが出来るのだ。

 戦術機操縦訓練とは、つまりそのためにある。

 戦術機を操縦するための方法を、肉体に脳に刻み込み、反復して実行することでデータを蓄積し、操縦そのものを無意識のものとする。

 自身が歩く方法を考えないように、戦術機を歩かせる方法を考えない。考えるまでもなく既に歩いている。そうできるように。

 繰り返し、繰り返し、繰り返して……これが自分の身体なのだと、そう認識し、そしてその通りとする。

 武がそのことに気づき、そして実現できたのは、操縦訓練を開始してから、実に六日後のことだった。

 一日に十四時間の訓練を重ね……八十時間以上を費やして、ようやくそれを実感することができたのだ。

 これが、自分の身体なのだと。

 そして、戦術機もまた、その蓄積されたデータを以って衛士に応えるのである。無意識に発せられた脳からの指令を、矢張り無意識の内に応動する肉体の如く。

 そのために必要な処理――重心移動、バランス制御、予備動作、筋組織の収縮、関節の稼動――を、衛士の思考と統計的データから推測し、瞬時に行うのである。

 衛士の無意識下の操縦に、最も適した応動によって機動を実現する。繰り返され、積み重ねられることでその齟齬は限りなく小さなものとなり……やがては、本当にもう一人の自分と成ることが出来るのだ。

 そして、戦術機を自身と成すことが出来たなら。

 当然の如く、自身が体得している技術・技能もまた、戦術機に反映できるのである。

 無論、そこには基本動作と同様に膨大なデータの蓄積が必要となるだろう。だが、既に戦術機を自身として扱えるならば、そこに左程の困難さはない。

 己の身に刻まれたそれを、もう一人の己に刻み込むだけでいい。

 動かすために必要なプロセスは全て無意識の内に。或いは、それを実現するために必要な、新たに加わる操作さえ無意識に行えるよう。

 繰り返す。

 繰り返して、そしてまた戦術機と自身をひとつとする。これは自分の身体なのだ。自身が出来ることで戦術機に出来ないことはないのだから。

 それが実現できるだけのシステムが、この巨大なヒトガタには与えられている。

 何よりも人間として在るために。

 従来兵器の悉くを粉砕し撃砕し蹂躙したBETAと戦うために。想定されるあらゆる状況に対応するために。

 戦術機は人間でなければならないのだ。



 振り払う剣戟が生み出す慣性に従って、旋回。軸足を中心に捻転しながらに、一閃。地を踏みしめた脚は次なる機動のための軸に。地を蹴った脚は更なる回転を生み出す動力に。制動はなく、停止はなく、ただひたすらに、螺旋を描く。

 旋回するたびに長刀は翻り。翻すたびに回転し。滑るように弧をかたちどる脚は絶え間なくその螺旋を続け、振るわれる長刀は絶え間なく剣閃の帯を引く。

 手にするは一刀。

 武は、今正に戦術機を己自身として扱って見せていた。

 脳裏に描くとおりの機動。十年以上を積み重ね、真那の教えにより昇華された究極の技を。

 戦術機を操縦するのではなく。身に付けたそれを、刻まれたそれを、ただ、繰り返す。

 ……いや、それは未だに完全ではない。確かに基本動作は完全に己のモノとした。肉体に脳に刻みつけ、無意識の内に操縦を行い、戦術機もまた応じてくれるようになった。六日間……八十時間以上の積み重ねと繰り返しが、それを実現させた。

 だが、その下地があって尚、新しい動作……月詠の名もなき剣術を実現するには、まだ些かに不足している。

 蓄積されたデータ。独特な動きを強要する操作手順。人間よりも遥かに巨大な機体に働く慣性に遠心力。筋肉に支えられていない関節。

 己の肉体でさえ反吐が出るほどに繰り返し積み重ねたそれを、機械の身体で行おうというのだ。一朝一夕で実現できるとはそもそも思っていないし、相応の時間を要するだろうとは想像していた。

 けれどそれも、いずれは己と同等、同様に扱えるようになるはずだ。今はまだデータの蓄積が十分でないだけ。或いは、武自身が戦術機の巨大さを掌握し切れていないだけ。

「……、……っ?! くそっ、またかッッ……!!」

 アラート。

 機体の損傷をその部位ごとに色分けして表示する画面が、警報と共に表示される。網膜投影の片隅に映し出されたそれは、膝関節に過度の負荷が生じていることを示していた。コードイエロー。繰り返される遠心運動に、機械の関節が磨耗し、金属疲労を起こしている。

 武は盛大に顔を顰めた。口をつく悪態は、否応なしに戦術機と自身の差を自覚させる。

 なぜだ、という苛立ちに、臍を噛む。……それこそ、武がまだ完全に戦術機を御することが出来ていない証明だった。

 如何に己の身体として扱うことが出来ようとも、矢張り機械は機械でしかない。稼動する構造・部品というものは、酷使するごとに疲労を重ね、耐久度が低下し、いずれ破損する。特に各関節を構成するパーツはその消耗が速い。

 自身の肉体では起こり得ないような弊害が、機械では当たり前のように発生する。

 熟練の衛士は、機体にかける負荷を限りなく殺しているという。機械はどうしても消耗するのだということを踏まえ、繰り返す訓練の中、潜り抜けた実戦の中、最も効率的で負担の少ない操縦方法を身に付ける。感覚として、或いは実態として。

 ならば武にはそれらが足りていないということになるだろう。

 月詠の剣術を再現しようとして膝関節にアラートが出るということは、完全に己自身として扱えるようでいて、実際のところ基本動作においても各関節に少なからず負担を強いているということを示唆している。

 その事実が、武を苛立たせ……そして落胆させ。同時に、更なる衝動を生み出させた。

 己はまだまだ未熟であることをまざまざと見せ付けてくれる機体損傷の表示に、ならばこそ、絶対にそんな表示を出させない動きを実現させてやる。

 イメージは真那。武にとっての究極であり、目指すべき理想。

 彼女の動きを、そして彼女と共に鍛えぬいた己の動きを――戦術機でなぞる。

 機体に負荷が掛かるのは得てして膝。そして長刀を振り回す腕だ。一体どうすれば生じる負荷を最小限に抑えられるのか。……とにかく今は動きまくるしかない。動いて、動いて、それを繰り返すことで機体が訴える疲労を感覚として掴む。

 だが、我武者羅に機体を振り回して得られたものは……とにかく、今のままでは到底実戦に活かすことなど出来はしないという現実だった。

『白銀、いいかげんにしろ。明日もあるんだ……今日はこのくらいにしておけ』

「…………了解」

 教導官のみちるの顰め面が表示される。通信機越しの彼女は、口に出さないが“しょうのないやつだ”と呆れているらしかった。

 己の未熟さを噛み締めながらに、機体を格納庫へ移動させる。消沈したまま管制ユニットから這い出ると、足がもつれた。夢中になっていて気づかなかったが、どうやら肉体には相当な疲労が蓄積されていたらしい。身体は警報を表示しない……莫迦な話だと、武は苦笑した。

「まったく……実機訓練に移って早々、無茶をして……」

「すいません。伊隅教官……」

 一昨日の朝に搬入された練習機、吹雪。機体の整備・調整を終えた本日の午後から、武は実機を使用しての操縦訓練課程に移っていた。シミュレーターで身に付けた諸動作、応用課程までを実機で行い、本物の戦術機でも問題なく機動が実現できることを確認。そして……以降、武はひたすら剣を振っていた。

 とにかく自由に動かしてみろ、というみちるの言葉に従い……武はその剣術を戦術機で行った。対BETA専用の剣技。圧倒的物量で迫り来るBETA群を相手に、真っ向から立ち向かうそれ。

 師匠が、真那が体得し、そして武に託した究極の技。

 いずれは戦場に立つ身。ならば、それを扱えずしてなにが月詠の後継か。故に武は訓練終了までの数時間を、ひたすらに繰り返した。

 結果は……なんとも言えない。

 実機を通してわかったこともあるし、シミュレーターで再現できないGも幾分か味わった。繰り返すたびに機動は肉体との相違をなくし、反応も速く、正確になった。……そして、己の力量の未熟さを、知らしめてくれた。

 シミュレーター訓練でもわかっていたことだ。

 機体の膝に負担が掛かっていること。あの回転機動、螺旋の剣閃を実現するためには過度の負荷が生じること。……けれど、武が武自身の肉体を以ってその軌道を描く際、彼の膝にそれほど深刻な異常が発生するかというとそうではない。

 己の肉体に出来て戦術機に出来ないことはない。

 その事実がありながらに、機体に損傷が出ているという結果。……結局のところ、経験を重ねるほかにそれを解決する手段はないのだった。

「わかっちゃいるが……クソ、」

 落ち込んでしまう。たかが数時間。たったそれだけの実機訓練でイエローの警報が出る。シミュレーター訓練でもそうだった。ならば、こと月詠の剣術において武は、微塵たりとも成長を見せていないことになる。

 戦術機操縦の中で、最も昇華すべきそれが、現段階では最も劣っている。その結果に、武は辟易としてしまう。

 わかっている。わかっているのだ。いきなりに何もかもが巧くいくはずがない。

 そもそもの最初は、シミュレーターでさえまともに動けなかったのだ。……それが、八十時間をかけて、ようやく無意識でも行えるようになった。

 ならばこれも同じこと。機体に負荷をかけない操縦法というものを研究する必要性はあるだろうが、時間を重ね、回数をこなすことでクリアできるはずなのだ。

 ネガティブな方向に転がり始めた思考を、強制的に排除する。左手で『弧月』の鞘……そこに巻かれた黄色のリボンを握り締める。ギュゥ、と。求めるように。

 言葉を発することのないそれらが、まるで武を励ますかのように確かな存在感を返してくれる。

 武は静かに息を吐いた。時刻は二十三時。夕食のための休憩を除き、六時間近く剣を振っていたことになる。なるほど、疲れるはずだ。指折り数えた時間によって、全身を包む倦怠感が増した気がする。

 更に言えば出鱈目に発生した遠心力と慣性で、相当気分が悪い。強化装備にもそれなりにデータが蓄積されていたため、当初に比較すると随分とマシだったが、それでも横荷重と縦荷重の入り乱れた機動によって内臓が悲鳴を上げている。

「ぐ……ヤバ、飯が…………」

 思わず口を押さえる。衝動的にこみあげた吐き気を飲み込んで、早々に横になることを決める。

 明日は朝一番に整備班の下へ行き、機体の……特に膝関節の構造について尋ねてみようと指針を定めて。武はロッカーへと向かった。







 そして翌日。起床ラッパの五分前に目を覚まし、手早く洗顔、着替えを終わらせる。純夏のリボンを巻いた弧月を手に取り、スラリと鞘から引き抜いた。

 緩やかに弧を描く刀身。美しい刃紋が電灯の光に泳ぐ。両手で柄を握り、全身の筋肉を覚醒させる。ぎし、と骨が軋む。全神経を鋭敏にし、精神を引き絞るように高める。

 一閃。

 ヒュ、というかすかな音を残して。

「――ふ、ぅ」

 ほ、と息を吐く。真那にこの弧月を託された翌日からはじまった日課のようなもの。戦術機操縦訓練が始まってからというもの、まともに剣を振る時間がなくなってしまった。刀を振る感覚を忘れないように、せめて一閃だけでもと行うようになったそれ。

 儀式といっても過言ではないのかもしれない。

 ただの一振り。……だが、それにはこの十年と十ヶ月が収斂されている。いわば、己が剣術の集大成。

 その一閃に全てを賭け、だからこそ一振りで足りる。

 毎日のように繰り返し研鑽した技の全てをその一刀に凝縮し、全身全霊を以って臨む。……本当は思う存分に弧月を振り回し、月詠の剣術を体現したいのだが……如何せん、既に点呼の時間である。

「やべ、やべっ」

 慌てて鞘に戻し、下緒を結わう。ただの一閃でじわりと汗の浮かんだ額を拭いながら、武は部屋から飛び出した。



 朝食を終え、昨夜寝る前に決めたとおりに格納庫へ走る。ハンガーにずらりと並べられた戦術機たちは、それはもう壮観であったし、今でも思わず見惚れてしまうほどに凄まじい圧迫感を与えてくれる。

 自身の練習機が運び込まれたときなどは朝食も採らない内から格納庫に駆けつけて、興奮に身を焦がしていたのだ。――これが、自分の力となる。

 任官すれば練習機の吹雪ではなく、不知火という機体が宛がわれるとのことだったが……それでも、これから自分が乗ることになる機体なのだ。興奮しないほうがどうかしている。

 当時の感情を思い出しながらに、通い慣れた道を駆ける。自身の吹雪が格納されているハンガーに到着し、昨日と変わりなくそこに存在する「もう一人の自分」を見上げて、知らず、拳を握っていた。タラップを駆け下りる。吹雪一体のほかにはがらんと空いているハンガー。……恐らくは、いずれ207訓練部隊の吹雪たちが納められるのだろうそのスペース。

 武は、吹雪の足元で作業していた整備班の人間に声を掛ける。二十代後半といったところだろう。顎に生えた無精ひげがいい具合に技術者としての趣を出していた。

「よぉ、白銀訓練兵殿。おはよーさん」

「おはようございます」

 だらしない口調とは裏腹に、ビシリとした敬礼を向けられる。武は苦笑しながら答礼し、機械油に汚れた作業服姿の彼に並ぶ。どうやら昨日の訓練が終了した後に整備作業は行われていたらしく、既に機体はピカピカだった。武の未熟な操縦で損耗した関節部も交換されているらしく、驚きが隠せない。

「これ……ひょっとして、」

「お? わかるか? まぁ、普通はさ、訓練兵が使う練習機なんてのは大抵実戦で損傷した機体の使い回しだったりするもんだが……。どうもお前さんは待遇が違う。回ってきた機体が新品なら、パーツ交換まで一晩の内だ。ありえねぇだろ」

 わははは、と肩を揺らして笑う彼だが、武は到底笑うことなど出来ない。

 確かに昨日の訓練……初めての実機訓練の内に膝関節にイエローの警報が出た。装甲の損傷と違い、関節部の損傷は機体の挙動にダイレクトに影響するために、毎回の点検は欠かせないし、軽度ならば即修理、重度のものは交換することが基本だという。

 だが、それはあくまで前線で戦う衛士の機体に関して……だ。たかが一介の訓練兵が扱う練習機。操縦技能も未熟で、機体を傷つけて当たり前の訓練兵のために回される修理交換用のパーツなどたかが知れているし、なにより、一々に修理していたのではとてもではないが物資が足りない。

 優先されるべきはあくまで前線である。無論、練習機の整備や修理を怠っているわけではない。戦術機は機械で在るがために、矢張り定期的に整備しなくては機能しなくなる。……ただ、その頻度や修理の程度が、前線で戦う衛士たちと比較して優先されないというだけだ。

「……副司令の、指示、ですか……?」

 だからこそ、これは異例だろう。確かに機体の膝関節部を損耗させたのは武だ。己の未熟な操縦が機体に無理を強い、過度の負荷によって軋みを上げさせた。

 戦術機の機動において最も重要な部位である脚部の要の損傷を放っておけるほど日和見ではないということかもしれなかったが……しかし、現に彼はこう言っている。――ありえねぇだろ。

 まさにそのとおり。あり得ていいわけがない。

 一晩の内に膝関節部が新品に交換されている。損耗したパーツは当然修理され、交換パーツとして保管されるとのことだが……しかしそれは、どう考えても前線に出る衛士に対する待遇だった。

 ただ機体を動かし、操縦訓練するだけならば、まだまだ昨日のままの状態でも数日は耐えられるはずなのだ。武がもっと巧く操縦すれば、その技能を磨けば、パーツの寿命は延びるのである。……それを、一晩の内に。

「さぁな。偉い人の指示があったのかどうか、んなことは知らん。チーフがやれというから俺達はやった。それだけだな。まぁ、ありえんけど」

「………………」

 ふふん、とどこか意地悪く腕を組んで笑う。自分の仕事に誇りを持っていることは確からしい。そして、今回のことは交換が必要だから交換した。それ以上でもなければそれ以下でもないのだと……軍人としての納得も混じっているようだ。武は頷く。そう。例えこのことに香月夕呼の思惑が絡んでいるのだとしても、どうせ既に彼女の手の平の上で踊っているのだ。ならば精々、望むとおりに踊りきってやろう。……それこそが、己が進むと決めた道なのだから。

「んで? 朝っぱらから何しに来たんだ? まさか自分の機体が気になって眠れなかったわけじゃねぇだろう?」

 そうだった。尋ねられるまで失念していた。……まったくどうかしている。そのために、訓練が始まる前の僅かな時間を縫ってここまでやってきたというのに。

「ええ、教えて欲しいことがあって……。戦術機の構造……特に、関節部の構造と稼動原理なんですけど……」

 武は、自分が行おうとしている機動について説明し、それを戦術機で行うにあたり、膝関節に多大な負荷が発生している旨を伝えた。それをどうにか解消する手段を構築するために、手始めに戦術機そのものを知ろうと思ったのである。ものの造りがわかれば、そこから自身の肉体との違いを導き出せる。単純に大きさや各部の重量の問題もあるのかもしれなかったが、それらも含めて、まずは情報収集が肝要だ。

 身振りを交えた武の説明と質問に、男はふむと腕を組み、

「……やっぱ、お前変わってるな」

「ハ?」

「いや、なんでもねぇ。……いい心掛けだぜ、訓練兵殿。まずは機体のことを知る。ああ、実にいい心掛けだッ! 安心しな、この佐久間修一、膝関節といわず機体構成から制御システム、OSにOBL、副腕の構造から突撃砲パイロンの応用法、果てはメンテナンスまでなんでもござれだっ! バッチリみっちりあますことなく伝授してやるぜッ!!」

 びっしぃいい! と人差し指を突きつけられ、武は呆然とする。――今、このひとなんて言った?

「ぃゃ、ぁの、」

 引き攣ってしまう頬をそのままに、おずおずと口を開く。が、

「オーケーオーケー皆まで言うなっ! 我が弟子よッッ!」

「誰が弟子ッッ?!」

 最早何を言っても無駄。偶々尋ねた相手が悪かったのか……それとも整備班とはこういう人物が集まっているのか……。ともあれ、このことで武の唯一といっていい食事後の休憩時間は、佐久間センセイの戦術機講座に挿げ替えられたのだった。







 ===







「甲20号目標間引き作戦の正式な日程が決まったわ。作戦名は“伏龍”……三国志からの引用ね。別に大した意味があるわけでもないでしょうけど。作戦開始は6月30日のヒトキューゼロゼロ……、って言うんだっけ? ともかく、19時に大東亜連合より作戦開始が宣言され、各隊は前線基地、および洋上に順次集結。翌7月1日0900に甲20号目標への攻撃を開始。陽動部隊を前面に押し出して、一定数を引きずり出したら艦砲射撃による面制圧。以後は光線級を最優先に逐次撃破……。大体はこんなところね」

「……一ヶ月先のこととはいえ、随分と大雑把ですね」

「別に、詳細は後でもいいでしょ? 今知らなくて問題ないことを知って、脳のキャパシティを消費することはないわ。時期が来たら、いずれ伝えるわよ」

 ハ、と。みちるは姿勢を正す。

 この一週間の武の訓練結果をまとめ、報告を終えた後に、夕呼から来月の作戦についての簡単な説明を受けた。『伏龍作戦』と銘打たれたそれは、数十万のBETAを内包する甲20号ハイヴより一定数以上のBETAを殲滅することを目的に行われる。

 BETAは、その個体数がある一定量を超えるとハイヴより進出し、新たなハイヴを構築するといわれている。ために、定期的に間引きを行い、BETAの前線基地であるハイヴをこれ以上増殖させないよう、対処しなくてはならない。

 大東亜連合を中心に、中国・韓国の混成部隊によって敢行され……そして、みちる率いるA-01部隊も、この作戦に参加することが決まっていた。

 目的は、BETAの間引き。……当然といえば当然である。作戦自体が間引きを目的としているのだから、それはそのとおりだった。

 だが、それは名目だった。夕呼は、A-01の参戦を大東亜連合ではなく、中国へ直接交渉……ごり押ししている。

 その意図は何か。みちるにさえその真意を話そうとしない夕呼には、問うだけ無駄だろう。彼女が何も言わないというならば、少なくとも今は、みちるは何も知らなくてよいのだ。

 脳のキャパシティ……か。なるほど、夕呼らしい言い回しだと、みちるは小さく苦笑する。

「ああそうそう。白銀だけど……ま、この報告書を見る限り問題なそうね」

「……はい。このままいけば、当初の計画通りに任官させられるかと。自分も多くの衛士を見てきましたが……ハッキリ言って、彼の成長振りは驚異的です。凄絶に過ぎます」

 率直なみちるの言葉に、夕呼はニヤリと唇を吊り上げる。どうやら、自分の思惑通りにことが運び、ご満悦と言ったところだろうか。

 彼女がここまで感情を表すのも珍しい。……そもそも、副司令という立場柄、或いはオルタネイティブ計画の責任者という役柄、彼女はとてつもない発言力と権力を有し、そしてみちるなど想像も及ばぬ世界での戦いを強いられている。

 人を化かす狐がいるが、香月夕呼とはそういう類の化生ではないだろうか。故に、彼女の真意は読みにくく、その感情もまた、安直に解釈していいものではない。

 ……だが、今目の前で愉快そうに笑う彼女はどうだ。見るからに愉悦に唇を歪めている。

 それが白銀武という手駒を得ることが出来ることに依るものなのかどうかはわからないし、きっと、みちるが知る必要はないのだろう。今はただ、A-01の隊長として、そして武の教導官としての任務を全うするのみである。

 そして、これは完全にみちるの推測だが……しかし、全くに的外れというものではあるまい。



 その作戦……『伏龍作戦』に、白銀武を動員する。



 すべてはそのために仕組まれているのではないだろうか。武の異動に始まった総戦技評価演習の繰上げ実施。戦術機操縦訓練期間の短縮。図ったような任官時期。一日に十四時間という過密スケジュールを強制し、まがりなりにも前線でいくつもの死地を潜り抜けてきた中隊長直々に教導するという破格の待遇。

 基地司令の承認を得るために十ヶ月という時間を要したとは言うが、実のところ、今回の間引き作戦の実行に間に合わせるために押し通したのではないか。

 つまり、一刻も早く武を前線に出し、実戦を経験させる。ただそのために。

 或いは……みちるには想像もつかないが、この作戦にA-01が参加することで得られるメリットが在るのかもしれない。

 なんにせよ、全ては夕呼の思惑の内。考えても詮無いことには違いない。

 みちるは無意味な思考を打ち払い、夕呼の部屋から退出すべく背を向ける。……と、その背中に、

「伊隅。私はね、たかが衛士一人で戦場がひっくり返るとは思わない」

 足を止めて、振り返る。そこには、椅子にもたれたままどこか遠くを見ているような夕呼の姿。ぼんやりとしているようで……どこかしら、儚い。

 眼を閉じるように、夕呼は続ける。

「数百、数千という衛士の中でたった一人。数千、数万と迫るBETAの中でたった一人。……そんなヤツ独りに、一体何ができるのかしらねぇ……」

「香月博士……?」

 まるで独り言のようだ。夕呼はみちるを呼び止めてはいたが、実際、単に思いつくままを零しているだけに見える。

 だが、みちるの目を悪戯気に、からかうように見詰めてくるその視線は……雄弁に物語っていた。

 戦術機適性「S」。

 脅威の成長を見せる武。凄絶なまでの機動を見せる武。未完成ながら、粗が目立ちながらに……それでも驚愕するほかないあの剣術。

「……一騎当千、って知ってる?」

「――博士、お言葉ながら、それは……」

 思わず口を開いたみちるに、しかし夕呼は薄く笑い。――単なる例え話よ。

 そう言って、彼女はコンピュータに向かった。キーボードを叩く音がする。みちるはどこか噛み合わない思考を弄びながらに、執務室を後にする。

 プシッ、と閉まるドアに背を預け……眉を寄せたままに呟く。

「一騎当千…………莫迦な」

 そんなものが現実に在り得るはずがない。それとも、何かの喩えなのだろうか……。が、夕呼の真意はどうあれ、これで確定した。

 矢張り、武は『伏龍作戦』までに任官し、みちるの部下としてA-01に配属されるだろう。

 正式にそう通達されたわけではないが……最早明言したも同然である。ならば、明日からの訓練はそれを見越したものとしたほうがよいだろう。六月に任官して、作戦までに訓練に参加できるのは多く見積もっても一週間と数日だろう。

 そんな短い期間で隊員との連携など取れるはずもない。とすれば、武は任官直後から即訓練に参加させることが望ましい。

 通常、任官したばかりの新任衛士は、少なくとも三ヶ月程度の座学と訓練を経て実戦に出る。いくら任官したとはいえ、そこは矢張り成りたての新人である。いきなりに戦場に出して、それで生き残れるものなど…………居たのだとしたら、それは相当の化け物だろう。

 要するに、その三ヶ月という期間は敵を知るための期間として必要なのだ。任官するまでは情報開示されないBETAについての知識を……武には詰め込まねばならない。

 時間がない。期間が短い。あまりにも、過密すぎるスケジュール。……そもそも、それに応えられる力量を持つものなどそうはいまい。

 だが、夕呼はそれを当然とばかりに要求し。そしてまた、武もそれに応えられる才能と実力を秘めていた。

 みちるはそれを知った。――だから、やる。

 決心して……すぐに苦笑する。

 ああ、これでまた、眠る時間が減るな――。戦術機の操縦訓練を十四時間。その後に、座学である。ハード過ぎることは目に見えていた。……果たして、先に音をあげるのはどちらが先か。

 他愛なく想像しながら、みちるは自室へ戻っていった。







[1154] 復讐編:[九章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:24

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:九章-02」





 死ぬ。

 死んでしまう。……というより、コロサレル。

 ブリーフィングルーム。壁にはめ込まれたホワイトボード。スクリーンには戦術機の戦略的運用についての考察が映し出され、教鞭を揮うは大尉にして教導官の才女。

 机上に積まれた各種資料を次から次に消化し、弾丸の如く繰り出される講義に全神経を傾ける。

 一言一句聞き逃すな。一字一句見逃すな。

 わかったかと問われればハイと答え、質問はと問われれば疑問を須らく解消しろ。

 これは戦争だ。

 時刻は既に二十四時を回っている。あのう日付変わってるんですけどなんて思考は折りたたんで捨ててしまえ。

 例えコロサレルなんて愚昧が脳裏を巡ったのだとしても、けれどこれも全ては自身のため。

 辛いのは彼女も同じはず……だと、思いたい。

 十四時間のシミュレーターと実機による戦術機操縦訓練。休憩時間を整備班の佐久間の講義に費やし、ようやく解放されると着替えを済ませてみれば、待っていたのは夜間講義の準備を終えた伊隅みちる。

 ――鬼だ。

 それはもう、武は心底からそう痛感した。

 己の行動の結果とはいえ、貴重な休憩時間というものが失われてしまった武にとって、この突然の座学は寝耳に水に等しい。

 スケジュールが押しているわけではない……と、武は考えている。以前夕呼に見せられた予定が、そのとおりに進んでいるのなら……ではあるが、しかし、任官まではまだ三週間ほどあるはずだ。戦術機の操縦だけを考えるならば、今のペースでも十分に間に合うのではないかと思われる。

 自惚れではなく、これはみちる自身が昨日武に言ったことだった。

 ……ならば、どうして唐突に……恐らく予定にはなかったはずの座学が組み込まれたのか。――無論、必要だからに決まっている。

 武が把握しているのはあくまで任官予定である六月中旬までに戦術機操縦訓練課程を終えることのみ。具体的なその訓練内容については一切承知していないし、それは訓練兵があれこれ考えるものでもない。

 担当する教導官こそが必要なカリキュラムを組む。武はそれをこなし、己にとって、そして軍にとって最良の結果を得るために、努力し、精進するのみである。

 故に、こうして前触れもなく始まった夜間講義については……正直に言えば、疲労困憊で勘弁して欲しいというふざけた甘えが浮かんでいるわけだが……それでも、みちるが武にとって必要と判断し、実行しているのだ。

 武にはそれに応える義務があり……結果を出す責任が在る。

 夕呼が推薦し、夕呼が強行し、夕呼が直々に知らしめたのだ。――お前は特別だ。

 だからこそ、懸命にみちるの講義を聴く。ハッキリ言って尋常ではないペースで進んでいく座学。これまでの座学とは全く違う……衛士の役割を戦場で十二分に発揮するために必要な諸々の知識。或いは戦術機の各世代における特徴や設計思想……特に第三世代機と呼ばれる機体についての知識等々。ただし、戦術機についての薀蓄は既に昼・晩と佐久間によって、それこそ一方的にではあるが聞かされ、知識として吸収していた。みちるにその旨を伝えると、彼女は少し驚いたような表情をして、ニヤリと意地悪く笑う。

「……ほぅ。なかなか殊勝な心掛けだな。いいだろう。私も技術的な分野においては至らない点もあろう。戦術機の専門家からその知識を享受できるなら、そのほうがいいだろう。……よし、では以後の戦術機における座学は省略する」

 ほっ、と。武は無意識に安堵の息をついていた。ぴくりと吊り上がったみちるの眉に気づいて、あたふたと体裁を整えるが、既に遅し。険しい視線を向けてくる教官に冷や汗を浮かべつつ……しかし、みちるの叱責はなかった。

 恐る恐る視線を向ければ、どこか苦笑するみちるの顔。壁に掛けられた時計を見て、やれやれと溜息をついていた。

「…………少し熱を入れすぎたな。今日はここまでにしよう」

「はい」

 つられて時計を見る。日付変わって深夜二時十二分。朝から晩まで……文字通りに訓練漬けだった一日が終わる。というか、三時間後にはまた始まるのだが……。

「き、教官……ひょっとして、これ、毎日続くんですか……?」

「当たり前だろう。貴様は戦術機操縦訓練にしても、任官後に必要な座学・訓練にしても、与えられた期間があまりにも短いんだ。言ったはずだぞ。泣き言は一切許さん」

 莫迦なことを聞いてしまったと、武は反省する。どこまでも真剣なみちるの視線を受けて、彼は姿勢よく敬礼した。







 PXに寄って合成宇治茶でも飲もうと、足を向ける。深夜ではあるが、PXは待機任務中の者のために一応開放されている。本来なら既に消灯時刻を過ぎている身であり、あまり基地内をうろつくのはよろしくないのだが……。積み重なった疲労と詰め込まれた知識に氾濫しそうな頭蓋を休ませるために、少し落ち着きたいと思った。

 小さく嘆息しながらに、PXを目指す。道中、あまりにも濃密だった今日を振り返り…………整備班の佐久間に聞かされた話を思い出す。

 ――お前はとにかく脚で動きすぎなんだよ。

 機体を整備するにあたり、整備班はその機体を扱う者――即ち衛士の機動を研究するのだそうだ。いや、研究というほど緻密で高尚なものではなく、単純に、その者の癖を知るために戦術機の操縦ログを解析するのだとか。

 そして、武の吹雪を整備している佐久間たち班員は口を揃えて言ったのである。脚で動きすぎている、と。

 一体どういうことかと頭を捻る。

 戦術機が動くためには……というか、ヒトガタが動くためにはどうしても足を動かさなければならないはずだ。そして、武が扱う月詠の剣術もまた、慣性や遠心力を存分に利用するものの、基本となるのは足捌きであり足運びだ。全身をスムーズに捻転、旋回させるためには特に膝の動きは重要で、それによって重心を滑らかに移動させることが可能となる。戦術機においては、まだその巨大さに振り回されている感が否めない。……故の膝関節部の損傷だろうと武は考えていたのだが……。

 佐久間は、そして彼の同僚や部下達はニヤニヤと笑みを浮かべた。戦術機に乗ったばかりの新人を相手に、自身らの知識を披露することが楽しいのだろう。

 或いは――これほど真剣に“戦術機について”考える新兵の存在が嬉しく、喜ばしいのか……。それは、武には想像もつかない感情だった。

 ともかくも、佐久間は言った。

 戦術機はそもそも人間と比べて重心が高い位置にくるよう設計されている。戦術機の機動性に直結する機体総重量の多くが肩部装甲シールドが占めているためだが、これはそもそも、敵の攻撃からセンサーや管制ユニット等の最重要部を防護するために分厚い装甲が必要であり、主腕および上半身の運動に対するカウンターウェイト、若しくはバランサーとしての機能として……そして、重心位置を高くすることで機体の静安性を打ち消し、運動性を高めるためである。

 つまり、戦術機は高機動を得るために「倒れやすく」設計されているのだ。実際の機動においては、その倒れやすさを電子装備で無理矢理安定させているのである。

 佐久間は、その倒れやすさを巧く使えという。初速を得るため、或いは旋回機動において、この倒れやすさは活用できるのではないか、と。

 武は手渡された自身の操縦ログを必死に読み取り、確かにどの動作においても、常に両脚部を思い切りに酷使していることに気づいた。機体を旋回させるためには、当然として慣性を、遠心力を利用する。長刀を振り抜いた際に発生したそれらと、機体の高重心を組み合わせれば、格段に膝の負担を減らすことが可能となる。

 つまり、こと月詠の剣術を再現する場合においては、武は常に倒れ続けることこそが肝要だということだ。

 地面と平行しての平面機動ではなく、若干の傾斜がついた……それこそ独楽のような斜面機動。その際、脚部は進行方向を制御するために地面を蹴るだけでいい。武が必死になって操作していたような、膝を酷使する捻転機動は必要ないということだ。

 なるほど、と頷かされるものがあった。そして同時に、戦術機で自分自身を再現することに固執していた武には思いつかない発想だった。

 人間と戦術機の重心位置の違い。そのことに気づけなかったことは衛士を目指すものとして少々恥ずかしいものであったが、ここは素直に、アイディアを提示してくれた佐久間たち整備班に礼を述べるべきだろう。

 そして、自身の操縦ログを解析するということも、衛士にとっては重要な意味を持つのだと知った。客観的視点で自身の操縦を考察できるのだ。これは非常に有効なツールだと思えた。

 また、武が希望し、それが受理されたならば、手に入る範囲……ということにはなるが、他の衛士の操縦ログも参照できるのだという。このとき、真っ先に思い浮かんだのは真那だった。月詠の剣術。それは、元々が戦術機で圧倒的物量のBETAを屠るために考案されたものである。ならば当然、彼女はそれを、「戦術機での月詠の剣術」を体得しているはずだ。

 それを知ることが出来たなら――或いは教わることが出来たなら――こうして頭を悩ませることもないのかもしれない。

 埒もない。武は頭を振り、ログについてはみちるにお願いしてみようと片隅に留め置く。ともかくは実践だと意識を切り替えて、脳裏に新たな機動方法を描く。基本は変わらない。既にこの身に染み付いたその剣術の螺旋機動をなぞる。

 振りぬいて、機体に働いた遠心力を利用して旋回――この時に、遠心力の働くまま進行方向へ機体を限界まで傾ける――捻転を終える寸前に地を蹴り、軸脚を置いて一閃。……軸足を置く時点で、また機体を傾けるべきだろうか。イメージは傾いたまま回転し、突き進む独楽。傾斜は常に進む先を向き……脚部が行う動作は、それこそ地を蹴って跳ねるが如く。倒れ続け、旋回し続け、そして螺旋を描き続ける。回転軸を地面とほぼ平行に置き……跳躍ユニットを併用して推進力にするのも面白いかもしれない。

 腕を組んで想像を巡らせる武に、佐久間が手刀を食らわせる。

 なにをするのかと非難めいた視線を向ければ、スパナやレンチ、ドライバー等々が収められた工具箱を突き出してくる。更にはよれよれの作業服。一体何事かと顔を顰めれば、整備研修という名のメンテナンス講座が始まった。尚、油まみれになりながらの研修(?)中、ずっと佐久間が戦術機の構造について語り続けていたのは言うまでもない。

「…………あのオッサン……俺を整備班の要員にする気だな……」

 PXに着いて、げんなりと呟く。

 思い出しただけでも疲労が募る。佐久間たち整備班の人間と話せたことは、確かにメリットの方が多かったのだが……慣れるまでは相当に苦労しそうだった。

 取り敢えずはこれからの生活リズムに身体を合わせることこそが重要。

 実機の操縦訓練中にバランス制御が巧くいかず転倒しまくったことや、旋回中にあらぬ方向へ突き進んだこと……それら数々の失敗など今は気にしてもしょうがない。

 大事なことはその失敗を次に活かすこと。佐久間のアドヴァイスは的を射ていると思える。足りないのは、武の実力だ。そしてそれは繰り返す訓練の中でしか成長しない。

「さて、と」

 ともかく、身体を休めよう。これが食事の時間ならおばちゃんに頼めば済むのだが、如何せん時刻が時刻である。無論、食事以外の時間にもPXは開放され、利用が認められているために、合成製品のお茶やコーヒー等は自由に飲むことができる。……唯一の難点は、不慣れな者が自主的に行うと大抵濃すぎるか薄すぎるかのどちらかになるということだろうか。

 熱いお茶を飲んで脳をリフレッシュさせたいだけだったので、武は薄めに合成宇治茶を淹れる。あまり濃くして眠れなくなっても困る。たった三時間の睡眠時間だが……徹夜するより遥かにマシだ。

 心身の休息は大事だ。休める時に全力で休むことも、優秀な衛士に求められることである。

 いつも座る席に着き、一口啜る。全身に染み渡るような温かさに、ほぅ、と息をつき…………椅子の背もたれに体重を預けて眼を閉じる。

「…………」

 誰も居ない薄暗いPXに、ただ、小さな寝息だけが響いた。







 ===







 茜は目を覚ました。何の前触れもなく覚醒し、机の上の置時計を見れば深夜の二時前。む、と眉を寄せて布団を手繰り寄せる。起床するにはあまりにも早すぎた。

 だが、寝直そうと眼を閉じるものの、どうしてか眠気がやってこない。もぞもぞと寝返りを打ち、落ち着く体勢を探るものの効果なし。ん~~~っ、と唸った後に身を起こし、こんな時間に眠気が失せた自身を呪う。

「ちょっと……まさかこのまま眠れないなんてうそよね……」

 かなり洒落にならない。訓練でへとへとだったはずなのに、どうしてこんな時間に目が覚めてしまうのか。事実、身体は若干の疲労を訴えている。床についてまだ数時間しか経っていないのだから当然だ。今日の訓練は厳しかった。

 教官であるまりもがB分隊へ提示した一週間という期間。

 彼女達の信頼関係を築かせるために一つ部屋に押し込めてから一週間が過ぎ、そして今日、B分隊にとって負けられない模擬戦闘演習が行われた。

 一向に眠くならないまま、茜はぼんやりと訓練内容を振り返った。千鶴と慧。B分隊の中にあって一番の問題点であった彼女達のチームワーク。或いはコンビネーション。

「あれは反則よね……」

 お互いに誹り合い、足を引っ張り合っていた二人だったが……一体どういうわけか、その彼女達が見事に連携し、茜達を……対峙した多恵と薫を翻弄し、撃退したのである。

 呼吸が合っている、なんてものじゃない。

 互いに背中を預け――雑言のようなものを叫び合いながらも――それぞれを認め、信じ、相手の心理を、行動を知り尽くしていると言わんばかりの連携を見せたのである。

 そう。確かこういっていた。

 ――あなたは一秒早いのよっ!

 ――そういうあんたは一秒遅い……っ!

 そうやって、双方の感覚から見たお互いのズレを認識して、次の瞬間、その次の瞬間と、挙動の一つ一つで齟齬を修正し……最終的には多恵、薫ともに神懸かったコンビネーションに仕留められた。

 薫は「ありゃあ反則だ」と笑い、多恵は慧に太刀打ちできずに落ち込んでいた。なるほど、元々の実力が隊内でずば抜けて高い慧であり、そして亮子をして努力の天才と謳われる千鶴のコンビである。一筋縄ではいかないのは当然だった。

 ……そして、その二人のコンビネーションが完璧だったからこそ、以前のように互いの足を引っ張り合うようなことがなかったからこそ、薫たちは敵わなかったのである。

 二人だけではない。

 冥夜も、美琴も、壬姫も……千鶴と慧がA分隊の主力を引き受けている間に、実に巧妙に動いていた。

 B分隊における“穴”だったはずの千鶴、慧が予想外の威力を見せたことに茜は驚愕し、作戦を変更せざるを得ない状況に陥った。

 多恵も薫も健在だった時点の話だ。苦戦は必至と覚悟していたものの、これほどまでにかつてない戦力に化けるとは想像していなかったのだ。……否。どこかでB分隊の彼女達を侮っていた。

 今までただの一度もチームプレイを完成させたことのない彼女達。それぞれがそれなりの努力と歩み寄りを見せてはいたが、それも表面だけに過ぎず身を結んでいなかった彼女達。

 まりもはその問題を改善するために共同生活を強いたのだが……どこかで、茜はそれでも駄目なのではないかと考えていたらしい。

 らしい、というのは……千鶴と慧の連携を目の当たりにしたその瞬間まで、自身の中にそのような恥知らずな感情があったことに気づかなかったからだが……瞬間、茜は己の卑しさに怒りを覚えた。

 知らず知らずの内に彼女達を見下し、卑下していた自分。変わりつつある彼女達を見て、喜ばしいことだと……そう感じていた自分。そのどちらもが己なのだという事実に、吐き気がした。

 偽善者め――。

 だが、その感情さえ刹那の内に深奥に押し込み、ともかくも茜は行動した。後方に控える晴子に無線で指示を飛ばし、晴子を護衛する亮子には全周警戒を促す。圧倒的実力を誇る慧を無力化すべく晴子が狙撃を行うが……失敗。――瞬間、舌打った茜の耳に銃声が届く。

 晴子のものではない。精密射撃に失敗した晴子は動き続ける的に再び照準を合わせている最中のはずだ。少なくとも、あと数秒の時間を要するはず――なのに、その銃声は間髪入れずに響いた。立て続けに、二発。

 厭な直感が電撃のように走り抜ける。そして、前方の林の向こうでは、今正に慧と千鶴に倒された薫と多恵……。

 茜は転進した。身を翻して逃走した。あのコンビネーションを前に、単身で敵うとは思えない。そして、先の二発の銃声だ。恐らくは壬姫。さっきから呼び出している晴子に亮子。ともに返事がない。狙撃に集中しているというのなら、何故亮子までもが沈黙を貫くのか。……気ばかりが焦る。

 なるほど、これが追い詰められた者の感情か。

 茜は精神的余裕を失っている自身を自覚した。とにかく身を隠せる場所まで駆け抜ける。乱れた呼吸のリズムを整えることだけに集中し――横合いから飛び込んできた美琴に押さえられ、冥夜の模擬短刀に倒れた。

 完敗である。

 見事B分隊はA分隊を無力化、勝利をあげた。まりもの提示した条件をクリアしたのである。そして、茜たちが太刀打ちできないほどに、チームとしての成長を見せた。

 やられた瞬間に、茜は可笑しくなった。心のどこかでB分隊を見下していた卑しい自分に、ざまぁみろと盛大に笑ってやりたかった。……そして、そんな後ろ暗い感情を吹き飛ばしてしまいたかった。

 ああ、彼女達はこんなにも素晴らしい。ああ、彼女達はこんなにも凄まじい。

 ならば自分達も負けてはいられない。彼女達がたった一週間でこれほどの成長を遂げたというのなら、自分達だって成長してみせる。今よりももっと、もっともっと高みへ。

 それは彼が見せてくれた姿勢だった。

 彼が貫いていた意志だった。

 常に前へ。前へ前へ突き進み、あらゆる努力を惜しまず、絶えず高みを目指す。手を伸ばし、掴んだなら上り詰めて、踏み越えて、次の高みへと手を伸ばす。その繰り返し。――刺激は、強いほうがいいに決まっている。

 茜は、晴子は、多恵は、薫は、亮子は頷いた。皆が皆、茜と同じ気持ちだった。そして、B分隊の彼女達も。

 ……そして、午後から行われたその日二度目の模擬戦闘演習は……時間一杯まで決着がつかず、結局引き分けに終わった。

 訓練終了時のまりもの表情を思い出す。決して言葉には出さなかったが、向けられた優しい眼差しが、彼女の心理をなによりも物語っていた。ならば……そう、ならば、それだけで報われよう。

 B分隊の彼女達は本当の意味での仲間の大切さを知り……信頼関係を築くことが出来た。

 A分隊の自分達は知らぬ間に自惚れていた自身に気づき……驕ることの愚かさと、絶えず精進することの大切さを思い出すことが出来た。

 得るものが多い一日だった。

 ――だから、というわけではないだろうが。ひょっとすると身体はまだ興奮していて……ゆえに目覚めたのだろうか。

 別段、尿意を催しているわけでもなく。ひりつくほどに喉が渇いているわけでもない。第六感的なものかと息を潜めてみたが……これといって警報が鳴ることもなく。では、虫の知らせというやつだろうか?

 それこそ、眉唾であろう。

 茜はベッドから抜け出る。下着のまま立ち上がり、鏡の前に立った。薄っすらと汗が浮いている。部屋の入口に備えられた常夜灯がほんのりと輪郭を映し出していた。洗面台の蛇口を捻り、顔を洗う。

「…………」

 とにかく、気を鎮めよう。リラックスすれば、また自然に眠ることも出来るだろう。

 寝よう、寝ようと意識すればするほどに眠れないものである。……ならばいっそのこと、気分転換でもしてやろうかと茜は服を羽織る。

 夜の散歩というのも悪くない。無論、警備の兵に見つからなければ、だが……。

 普段行かないような場所……別棟の訓練施設や基地の裏側にある丘に登ってみるとか……つらつらと行き先を考えながら、部屋を出る。まるで探検気分だ。万が一まりもの耳に入ったなら、それこそ不眠不休の訓練が強行されるだろうことを理解しながらに……しかし今は、眠れない不満を行動にぶつけるのである。

 正直に言って頭が回転していないらしかった。

 眠気がこない覚醒状態にありながら、それでも矢張り眠いのだろう。茜は常にない昂揚した精神状態で暗く静まり返った廊下を歩く。

 そして、常であれば右に曲がるだけの三叉路を、左に曲がる。訓練のためにグラウンドや教室へ移動するならばここから右に行ったところにあるエレベーターを利用する。PXに行く場合もそうだ。

 なので、茜はこの道を左に行く必要がなかった。無論、その先に何があるのかは把握しているが、実際に足を向けたことがないために、あてのない散歩にはもってこいだと、根拠なく頷いて。

 既に、彼女の中では「眠れないから気分転換に散歩する」のではなく、「基地内で行ったことのない場所に行ってみよう」に目的が変更されている。勿論、きちんと睡眠をとらないと明日自分がつらいだけだということは承知しているため、一時間もしない内に自室へ戻ろうとは考えていたが。

 もっとも、自室に戻ったところで眠れる保証もないのだが……こうしてブラブラと歩くことでほどよく身体が温まり、睡魔を誘ってくれるかもしれない。

 思考が支離滅裂だ。自身でそうわかってしまい、茜は苦笑した。――年甲斐もなく、浮かれている。

 小等部の学校へ通っていた頃だろうか。よくある話だ。夜の学校には…………出る。

 幼い頃に友人達と集まってそんな話をしていたことを思い出す。そして、子供達だけで肝試しを実行しようとしたことも。……無論、計画はあっさりとばれて、茜は姉の遙にしっかりと叱られた。

 そんな、幼稚だった頃の感情に近いのかもしれない。消灯された廊下は、壁と床の間に点々と備えられた常夜灯だけが薄く灯り……微かな不気味さと美しさを見せていた。

 コツコツと靴が鳴る音だけが響く。辿り着いた先は、自分達の部屋とよく似た景観。――当たり前だ。ここはただ単に、彼女達衛士訓練兵が使うのとは別棟の宿舎である。

 同じ造りの部屋が並ぶだけのそのフロア。渡り廊下の役目を果たす先ほどの一本道がここと茜達がいる部屋とを結ぶだけで、同じB4フロアなのだから。

 なにをやっているんだか――小さく嘆息しながら、しかし改めて考えるととてつもない地下施設なのだと思い至る。

 極東最大の規模を誇る横浜基地。以前いなくなった武を探して走り回った際にも感じたことだが……こうしてのんびり歩いてみても、その広大さには呆れるばかりだ。

 しかも、茜はまだ行ったことはないが、この遥か地下にも、基地施設は続いているのだ。セキュリティの問題もあり、当然行くことなど出来ないが……しかし、とても想像がつかない規模である。

「ん、」

 そろそろ部屋に戻ろうかと思い直したとき、視界にエレベーターが入る。どうやらこちら側のPXや訓練施設に続いているらしい。

 恐らくもなにも、この部屋たちと同様に全く同じ造りをしているのだろうPX。……だが、せっかくここまで来たのだからと最後に覗いてみようとひとり頷く。

 上昇するエレベーターの中で、ふと気づく。そういえば、PXは夜間も開放されていたはず。待機任務中の兵士が休息に使っているかもしれない……。

「うゎ、まず……」

 もし見つかれば――茜が今着ているのは正規軍でも使用している訓練用の軍装である。ぱっと見ならばれないかも知れないが、部隊章を見られるとまずい。今更にまりもの恐ろしい形相が脳裏に浮かぶ。

 思い出すのは、三年前の夜間訓練。アレは晴子と多恵が大いに悪いが、乗せられた茜も茜である。……まして、今回は完全に彼女の単独行動だ。

 これで連帯責任など取らされようものなら…………ゾッとする。

 A分隊だけで済むならともかく……もしB分隊まで一緒に責任を取らされるようなことになれば――ッッ!?

 眼鏡を白く光らせた千鶴、静かに不敵に笑う慧、見たこともない刀を抜き放とうとする冥夜。……想像するに恐ろしい。今日の戦闘振りを見ればその恐怖も増すというものだ。

 ……美琴と壬姫に脅威を感じないのは何故だろうか……。これも、普段のキャラクターのなせる業か……。

 ともあれ、大して意味のない思考とは関係なく、エレベーターが停止する。どうせ、見つかる時は見つかるのだと開き直り、茜はその先にあるだろうPXを目指した。







 カウンターだけ明かりのついた、矢張り薄暗いそこ。入口からでは暗闇にしか見えない箇所もあったが、左程不気味と感じることもない。

 ひっそりとしているが、PXはPXだ。休憩するために訪れるこの場所で、一々に恐々としていたのでは本末転倒である。

 昼間とはまた違う雰囲気でリラックスできそうな、暖色系の灯かりに照らされたカウンターへ向かう。これで洋酒でも並んでいたならば、小洒落たバーにも見えただろう。

 ――ぁ。

 茜は足を止める。ヒトの気配がした。テーブルと椅子が並ぶ、仄暗いその場所に。誰か……居る。

 あ、と。

 それは驚きの音を発して。――どくん。

 心臓が、一つ大きく弾んだ。

「た……け、る…………?」

 口にして、どくんどくんと心臓が壊れるくらいに高鳴って……。そして、確信した。

 椅子にもたれるように眠る少年。背中しか見えないのに、髪型しかわからないのに――わかる。

 全身がまるで金縛りにあったように硬直する。ぎしりと足が膠着して、なのに心臓だけが怖いくらいに鳴り続けている。

 ああ、ああッ!

 武がいる。武がいる! そこに、すぐそこに武がいるッッ!

 たったの一週間だ。

 まだそれしか経っていない。……なのに、こんなにも、胸が高鳴る。

「……ぁ、……はっ、」

 ごくりと喉が鳴った。頭が茹るように熱い。……きっと、鏡を見れば真っ赤になった自分がいる。脈動する心臓が、全身に熱い血流を送る。

 一歩を、踏み出した。

 並ぶテーブルの間を抜け、ゆっくりと、一歩一歩慎重に近づいていく。暗さに慣れた目が、次第にハッキリする輪郭を映し出す。

 小さな寝息が聞こえてきた。ただそれだけで、飛び上がりたいくらいに嬉しくなる。

(武……っ)

 顔が見たい。逸るような気持ちで、残りの歩を進める。

 隣りに立って、

 冷静になろうと大きく深呼吸、

 ドキドキとなる心臓を押さえつけるように胸をなで、

 ちらり、と。







「――――――――ッ、」







 まずい。これは、いけない。危険だ。

 茜の脳内でけたたましく警報が鳴り響く。落ち着け、落ち着け、いいからとにかく落ち着け!

 何度も繰り返し脳内で叫び、無理矢理に鼓動を落ち着ける。スーハーと深呼吸を数度。……再度、ごくりと喉を鳴らす。

 今度は身を屈めて、すぐ近くから覗き込むように。

 穏やかな寝顔だった。

 一体どうしてこんな時間にこんな場所で眠っているのか。そんな疑問は微塵も浮かばず……。ただ、茜は狂おしいくらいの愛しさを覚えた。

 先ほどまでのような狂喜はなりを潜め、静かに眠る武をそっと見守るように。

 音を立てないよう注意しながら、茜は武の隣りの椅子を引いた。……いつもの位置。武の左隣のその場所。毎日、そうやって彼の隣りに座っていた。

「……武……」

 柔らかく、小さな声。名を呼ばれても眠ったままの彼に、茜は目を細めた。

 テーブルの上に置かれた湯呑みに気づく。どうやら休憩中に眠ってしまったらしい。……消灯時刻を過ぎていて、誰も彼を起こさなかったのだろうか。埒もなく想像しながら、それでも、彼にこうして出逢えたことを喜ばしく感じてしまう。

 突然に眠気が失せてくれなければ、こうして彼に再会することはなかったのだ。ならば、よくやった自分、と褒めたたえてあげよう。

 ギ、と。僅かに音を立てて、茜は自身の椅子を武へと近づけた。

 隣りから、寄り添うような位置に。武の肩が触れるくらい、側に。

「…………」

 ひどく穏やかで幸せな気持ちだった。寝息に合わせて上下する胸板に抱きついてしまいたい。……思わず浮かんだ恥ずかしい考えに、茜は頬を染める。

 どれだけの時間をそうしていただろうか。……数分のようであり、数時間のようでもあった。

 ぼぅ、っとするような温かな感情に満たされて、茜もウトウトとし始める。

 ――と。小さく、可愛らしい寝息が聞こえて――まるでもたれるように、武の顔が茜の肩に乗る。

「!!」

 どきりと。再び茜は全身を硬直させた。まるで……これではまるで恋人同士が互いの体温を確かめ合うようではないか! そんな桃色の思考に一瞬捕らわれ、危うく自己を見失いかける。

 顔を真っ赤にしたまま、窺うように。今度はものすごく近い位置に在る彼の顔を見た。

「ぁ、」

 小さく。本当に小さく。武は笑みを浮かべていた。――夢を見ているんだ。

 それはきっと、幸せな夢。

 武の頭を抱くように、茜は自身も更に身を寄せて、眼を閉じる。

 おやすみなさい。ほんの僅かに囁いて。

 どうか――――――その夢の中に、自分が居ますようにと。













「…………ん、ぅ」

 目を開く。柔らかで薄い朝日が、硝子の向こうから差し込んでいる。

 自身の部屋は地下四階にあるはず。なのに一体どうして太陽の光が見えるのか……。ぼんやりとした思考のまま、武は首を回し……自身がPXで椅子に座ったまま眠ってしまったのだということに気づく。

「………………阿呆か、俺は……」

 がっくりを項垂れる。壁に掛けられた時計を見れば計ったように起床ラッパの五分前。おのれ、全然眠った気がしない。

 固まった背骨をばきばきと鳴らし、思い切りに背伸びする。――ふと、左肩に誰かの体温の残り香を感じた気がした。

「……ぇ?」

 背伸びしたままにその場所を見るが……誰もいない。一口分しか減っていない湯呑みに、不自然に寄せられた椅子。ただそれだけしかそこには残っていない。

 なのに、武は確かに誰かが居たような感覚を感じていた。それは多分、数分前までそこにいたはずで――――。

「……ゆめ、か?」

 ぽかんと呟く。短過ぎる睡眠時間と、座ったまま眠っていたことが相乗して頭の働きを悪くしているらしい。

 だが、もしそれが夢なのだとしても…………ならばきっと、幸せな夢だったに違いない。

 そう。

 夢を見た。……ような気がする。

 温かで穏やかで、まるで夢のような夢。そこで武は、確かに幸せだった。

 ならばよい。

 照れくさい心地よさだけが残っている。武は勢いよく立ち上がって、もう一度だけ大きい伸びをして、そして、

「ぃよっしゃ! 今日も気合入れていくぜっっ!!」

「はいはい頑張りなっ! ほら、さっさと顔洗う!!」

 ――既に朝食の準備に取り掛かっていたおばちゃんに怒鳴られるのだった。







[1154] 復讐編:[九章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:25

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:九章-03」





 天と地の境界が曖昧になる。果たして、そんなモノが存在していたのかどうかさえ薄れるほどに。目まぐるしく変動し入れ替わる景観に内臓器官が反吐を吐き脳髄がシェイクされる錯覚。

 否。

 事実として、それはミキサーにかけられた果実のように猛回転し炸裂しギュルギュルと在り得ない駆動音を響かせて驀進していた。

 およそ戦術機の機動ではない。

 例えるならば直進するバレルロール。……いや、矢張りそれはバレルロールそのものと言っていいかも知れない。

 機体を押し潰す重力と、吹き飛ばそうとする遠心力。更には全力で火焔を噴く跳躍ユニットの推進力。緩やかに回転方向へ軌道をとりながら、吹雪は“目”を正面にして突き進む台風の如くに無茶苦茶な回転運動を続けていた。

 最早それは戦術機という戦闘兵器を操縦する概念からかけ離れた機動であり。そもそも、それは本当に意図した操縦の結果なのかと疑いたくなるほどに人畜有害で……戦略上、デメリットしか生み出さないように見える。

 簡単に言ってしまえば、スロットル全開の匍匐飛行中、機体を転倒する寸前までに傾けて……腕を、或いは長刀を振るうことで機体そのものを軸とした回転運動を行い――後は跳躍ユニットの推力で「前進」と「旋回」を行うという機動だった。

 単なる思い付きから浮かんだ機動だったのだが……存外にこれが洒落にならなかった。

 既に管制ユニット内の衛士は呻き声すらあげることが出来ずに……バイタルは目に見えてフラットに近づいていく。数瞬後には機体の制御など不能になり、空を切り裂いて進む螺子の弾頭と化した吹雪は、地面を抉りながらに墜落するだろう。

 遠隔より管制ユニット内の状況や機体の様子をモニターしていたみちると数人の整備班は顔色を真っ青にして小さく息を呑んだ。

「莫迦者ッ! はやく減速しろッッ!!」

 叫ぶように通信機に怒鳴りつける。猛威を振るう遠心力に吹き飛ばされることのないよう、必死に操縦桿を握り締める少年の姿。こちらの声が聞こえているのかさえ怪しい。顔色を青ざめながらに、何かを必死で堪えているように。

『………………ッ、ァ、…………ガッッ、、、、!!』

「!?」

「吹雪、減速します――!」

 叫ぶことさえできないのだろう。空恐ろしいほどの形相をして、渾身の力を込めて操縦桿を引き戻している。或いは、同時に跳躍ユニットを操作――旋回を続けながらに落下しようとする機体を、それでも墜落させないよう、制御しなければならない。

 このとき、機体が高重心であることが裏目に出た。機体重量が集中している肩部の方が、推力が弱まったせいで地面へと近づいているのだ。横向きに錐揉みしながら滑空する機体は、操縦者の奮闘空しく……盛大な轟音と土煙を巻き上げながらに………………。







「ぅぅうげぇぇええええええっぇぇぇえっ!」

 頭部と両腕、腰部に両脚部の小破。各関節の総点検、或いは交換も必要だろう。地面を抉りながらにそれでも回転し続けた結果である。

 幸いにも肩部シールドのおかげで管制ユニットは無事。土にまみれボロボロになった機体から、操縦者が文字通り這いずり出て来たときは、駆けつけた全員がほっと胸を撫で下ろしたのだが……まるで地面に引かれるように転落した彼は、そのまま胃の中身をぶちまけていた。

 みちるは表情を強張らせながらに全力で駆け寄った。――加速度病。戦術機が引き起こす振動……こと今回のケースで言えば通常では発生し得ない遠心加速度によって内耳にある三半規管が極度に混乱したのだろう。うつぶせの状態で嘔吐を続ける彼を、すぐさま仰向けて口内から吐瀉物を掻き出す。

 後方から追いついてきた佐久間に衛生班を呼ぶよう指示して、みちるは冷静に容態を確認した。発汗が激しい。嘔吐はどうやら治まったようだが、脱水症状を起こしている可能性が高い。がくがくと小さく痙攣する指先。失神したまま呻くように喘いでいる。

 一般の衛士と比較して、三半規管の機能が優れている彼が、これほどまでにボロボロになっている事実。……彼が行った機動が、どれほどに在り得ないかがよくわかる。

 彼と整備班たっての希望から行われた新しい戦術機機動の実験。

 どうやら彼が日頃から行おうとしていた戦術機による剣術の再現にあたり、試行錯誤を重ねていることはみちるも承知していた。

 さながら戦場を駆け巡る独楽のような螺旋機動。地面に対して垂直に軸を置き、長刀を振り抜いたことで発生する慣性と膝の捻転による連続した旋回運動。その実現に当たって、彼が行った操縦方法では膝関節部に過度の負荷が生じていることが判明した。

 次に彼が考えたのは高重心の機体を前傾させ、機体そのものに働く物理法則を利用しての旋回運動。膝を酷使ししての捻転ではなく、より戦術機に特化した機動方法といえるだろう。最初こそ転倒し、方向制御を失敗し、と思うようにこなせていなかったが、それも数日繰り返す内に様になってきていた。彼独特の剣術もさることながら、その傾斜したままに旋回を続ける螺旋の剣は……目の当たりにしたみちるをして感嘆せしめるに相応しいものだった。

 聞けば、彼の扱う剣術は、前線で戦い抜いた斯衛の衛士が、圧倒的物量で迫り来るBETAを相手取り屠るために考案、開発したものなのだという。――ならばその威力は推して知るべし。BETAを相手のシミュレーター訓練はまだ行っていないが、仮想敵を相手に繰り出されるその機動・攻撃は想像以上の戦果を挙げている。戦場で、十分に通用する剣術だと思えた。

 ……そして、ある程度その機動…………彼の言う「月詠の剣術」をものとし始めた頃、突然に彼が言い出したのだ。

 ――実は試してみたい機動があるんです。

 それを思いついたのは単純に面白そうだという発想からだったという。整備班の佐久間に戦術機の構造や特性について享受した際にふと思いつき、いつかやってみたいと考えていたらしい。

 変則的な戦術機操縦にも慣れ、日々の訓練も着実にこなしていた彼が、少年らしくも瞳を輝かせながらに語るその機動は……ハッキリ言って実現は難しいように思えた。が、そこに整備班の佐久間までが口を挟み、更にはいつの間にやら仲良くなっていた数人までもが是非にと詰め寄ってきたために。

 一時間だけだというみちるの言葉に万歳と声を上げた男達は意気軒昂に声を揃え、機体の姿勢制御、特に跳躍ユニットの操作について入念に打ち合わせ……後は本人の身体がどれだけ持つか……ということさえも十分に打ち合わせていたというのに。

 結果は目も当てられないものとなった。

 ……それでも、あの悪夢のようなバレルロールを数十分続けて命が在るだけ奇跡的だ。彼の身体機能がずば抜けて「戦術機に適している」ことを必要以上に知らしめてくれたが…………そんなことが救いになるとも思えない。

 現実に彼は重度の加速度病となり、駆けつけた衛生班に運ばれていった。

 責任は、莫迦なことを言うなと止められなかった自身に在る。……結局のところ、自分も彼が言う機動に対する好奇心に負けたのだ。新人の衛士ながらに興味深い機動を行い、着々と身に付ける彼の、その可能性を見たいと思ってしまった。

 教え子の成長を楽しみに思ってしまったことが……安易にその実行を許してしまったことが、今回の事故を招いた。

 或いは、彼本人……そして佐久間たちもどこか浮かれていたのかもしれない。訓練で命を落とすこともある。……そんなことを、今更痛感させられることになるとは誰も予想していなかったし……そもそも、それを予見できない時点で、彼らは矢張り、どこか自惚れていたのだ。

 試行錯誤することはいい。

 そして、実践を繰り返し、更なる手段を考案するのもいいだろう。

 想像が成長を促す。実践が経験を培う。いくらでも失敗するがいい。そして、その度にステップアップできればいいのだ。そのためならば、多少の無茶にも目をつぶろう。

 だが……無茶と無謀は異なるのだということ。

 己までもがそれを履き違えていたのだと知って……みちるは悔しさに拳を握り締めた。







 ===







 ぼんやりと目を開けると見覚えのある白い天井。一年前によく世話になった病室だと気づいて――同時に脳髄に重りを乗せられたような倦怠感と重圧感に襲われる。軽い酩酊に浸っているかのように気分が悪い。

 じわりと汗が浮いているらしく……拭おうとした左手に点滴の管が繋がれていることに気づく。む、と眉を顰め……改めて病室を見回してようやく、

「そ、か……俺……」

 思い出して、一気に気分が悪くなった。

 めまぐるしく入れ替わる空と大地。どこに向かって進んでいるのかさえ判然としないまま、慣性と遠心力と重力に思う存分振り回され……ただ意地だけで操縦桿を握っていた。

「ぅ~~ん。ありゃあ、駄目だな」

 辟易としてそう零す。最早強化装備に蓄積されたデータで誤魔化しのきく次元ではないし、なにより、あんな物理法則を力技で捩じ伏せたような状態でまともな操縦を行えるわけがない。

 ……よくよく考えればわかりそうなものだったが、それでも試した価値はあると武は思う。練習機とはいえ戦術機一機を地面に激突させ、しかも自身は加速度病でぶっ倒れていながらに、なんとも前向きな思考であった。

 実現できれば面白いと思ったのだが、イメージと現実はあまりにもかけ離れていた。矢張り、月詠の剣術は当面――既にある程度身に付けることに成功している第二案でいくことに決める。

 今回試した跳躍ユニットの操作法を巧く利用すれば、その機動にも幅が広がるだろう。何より、人間の身体ではどうやっても実現不可能な転進や離脱、或いは吶喊さえ、跳躍ユニットを使用すれば可能となる。単純に慣性と遠心力で旋回するだけでなく、跳躍ユニットの噴射によってその速度も変動させることが出来、更には直線的な機動を織り交ぜながらの侵攻も行える。

 新たに浮かび上がる構想にニヤリと笑みを浮かべて、そうと決まれば早速実践だと身を起こす。

 佐久間たち整備班に散々聞かされた知識を動員して、より攻撃的で効果的な機動を編み出すことが、楽しい。

 真那や彼女の父親が実戦で行った機動とは異なるのかもしれないが……けれど武は、己に最も適した月詠の剣術を体得しようと試行錯誤を繰り返す。

 戦術機の機体性能を知れば知るほどに。そして、そこに詰め込まれた高尚なメカニズムを知れば知るほどに。

 兵器として、そしてもうひとりの自分として……武は、戦術機に強い思い入れを抱くようになった。

 最初は歯痒く思いながらに失敗の連続だったそれも、コツコツと繰り返せばいつの間にか思うように、そしてそれ以上の機動を実現できるようになった。訓練を重ねれば重ねただけ賢く、速く、より自身に近しく進化するそのシステムに、全身で感じる進歩に、胸を躍らせた。

 ……そして、それを実感するたびに、己もまた強くなっているのだという感覚。

 失敗がなんだ。そこには百の可能性が満ちている。ならば存分に失敗して、それら百の経験を手にしよう。

「っしゃ!」

 病室の壁際に立て掛けられていた弧月を手に取る。黒塗りの鞘に巻かれた鮮やかな黄色いリボンを握って――武は強い眼差しで病室を出た。







 そして――意気高く格納庫にやってきてみれば、

「莫迦者。貴様の吹雪は修理中だ。よって実機訓練は明後日まで中止。……シミュレーター訓練も暫く様子見だ。……頭を冷やせ莫迦者」

 思い切りにしかめっ面をしたみちるに、殊更強い口調で「莫迦者」と叱られてしまった。それも二度。

 武はあがぁと口を開き、衝撃を受ける。そもそもバレルロールなどという機動を想定していない機体には、こと関節部においてだが、それはもう相当の負荷が生じていたらしい。金属疲労を起こしているものが多く、訓練中にぽっきりと折れなかっただけでも不幸中の幸いだという。更には地面を抉りながらに激突した部位。さすがに肩部シールド装甲は丈夫だったが、頭部はセンサー類に損傷が及び、機体がオートで行った姿勢制御によって両腕・両脚部が小破。ところどころ塗装も剥げていて痛々しい。

「………………~~~ッ」

 うげぇと顔を顰めて己の機体を見上げる武に、みちるは至極真面目な表情をして諭す。

「……白銀。貴様、今のままだと死ぬぞ」

「――え、」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 武はぎょっと表情を強張らせて、感情を殺しているような能面をしたみちるを見る。スゥッ、と血の気が引くのがわかる。みちるは、冗談を言ったのではない。

「俺が……し、ぬ?」

 口にしても、実感がまるで伴わない。……突然何を言い出すのかと、武は困惑した。みちるの心理が読めない。

 だが、みちるは眼を閉じて口を噤む。なにかを黙考しているらしいその仕草は、ひとつひとつ言葉を選んでいるようにも思えた。

 ……そして、えもいわれぬ沈黙の後。目を開いたみちるは突き刺さるように鋭い視線を向ける。

「白銀……貴様の才能・実力を、私は高く評価している。戦術機適性“S”というランクに関係なく、貴様の訓練に打ち込む姿勢、常に高みを目指し努力を忘れない姿……衛士として、軍人としての貴様を、私は認めている。貴様は、優秀な兵士だ」

 武は息を詰まらせる。一瞬たりともみちるから目を離せない。

 ……なんだ。一体みちるは何を言おうとしているのか。

「だがな、ここ数日……貴様には驕りが生まれているように思う。いや……違うな。貴様はこれが戦争だと言うことを忘れている。――戦術機を操縦することは、遊びとは違う」

「――なっ!!?」

 遊び、だと――ッ?!

 カッと頭に血が上る。侮辱されたと感じた。教導官であるみちるが、訓練兵である武を侮辱したのだ! 戦術機の操縦は遊びじゃない――? 当たり前だ! そんなことはわかっている!!

 武は奥歯を強く噛み締めて、拳をギリギリと握った。一瞬でも気を抜けば罵詈雑言が口をつき、握った拳を振るってしまいそうだった。

「…………ッッ、ッッ!!」

 左手で、強く強く弧月を握る。落ち着け。落ち着け。冷静になれ。――教官の真意を探れ。

 昂ぶりに任せてしまいそうになる精神を、どうにか宥める。表情は怒りに歪んだままだが、とにかく武は釈明を求めて精一杯にみちるを睨みつけた。

 そんな武の反応を、しかし、白々しいまでに無視して。みちるは更に冷ややかに言う。

「そんなつもりはない……、とでも言いたそうな顔だな? ……だが、本当にそうか? 今回の件、私には貴様がはしゃいでいるように見えた」

「!?」

 どぐん、と。血管が収縮した。

 言葉が突き刺さる。冷ややかな視線が突き刺さる。感情を殺した、能面のような顔が、こちらを見ている。

 ――ぁ、あ。

 呼吸が出来ない。視線をそらせない。カラカラになった喉を鳴らす。痛いくらいの圧迫感に……ようやく、怯むような呼吸を一つ。

 どこまでもみちるは真剣に、そして……歴戦を潜り抜ける衛士としての凄みを感じさせて。

「今の貴様は新しい玩具を与えられた幼児のそれだ。手に入れた力の本質を見失い、この戦争の本質を忘れている。日々上達する己の技量に浮かれ、この世界がおかれた状況を忘れ、自惚れに驕りはしゃいでいる愚か者だ! ――目を開けろ! 現実を見ろ!! 貴様はそのザマで、一体何を護るというのだ!!」

「!!!!!!」

 言葉がない。何もいえない。みちるの叱責が、諭すような声音が、ただただ……武の臓腑を抉る。

 そんなはずは……なかった。

 そんなつもりはなかったのだ。

 浮かれていた? はしゃいでいた?

 ――莫迦な、俺は、ただ……っ、

「……白銀。貴様はそう遠くない日に、戦場に立つ。戦場で、そこで、何と戦う? 貴様は軍人だ。貴様は衛士だ。戦場で戦術機を駆り、BETAと戦う一人の兵士だ。今のようなふざけた気持ちで――BETAと戦い、生き残れるなどと思うな……」



 死ぬぞ。



 と。

 ただ一言。

 震えるように立ち竦む武の横を通り過ぎて。みちるはそれ以上何も言わなかった。

 コツコツと軍靴の音が遠のいていく。

 呆然と取り残されて、武は壊れたように鳴り続ける心臓の鼓動を聴いていた。







 ===







「……少し、きつ過ぎやしませんか?」

「貴様には関係ない」

 タラップを降り、修復作業中の吹雪の前へとやってきたところで、額に汗を浮かばせた佐久間が振り返る。首にタオルを巻いていて、ふぅと一息つきながらの言葉を、しかしみちるは一蹴した。

 どうやら相当に声を荒げてしまったらしい。整備班員の大声が飛び交うこの場所で作業していて聞こえていたのだから。腕を組んで、みちるは嘆息する。

「ははは。まぁ白銀訓練兵殿にはちょうどいいかもしれませんが」

「莫迦者。貴様もだ、伍長。白銀と揃ってはしゃいでいたのは貴様も同じだろう」

 眉尻をぴくりと上げて、みちるは「舐めてんのかオルァ」と佐久間を睨む。基地副司令直属の特殊任務部隊長にして数々の戦場を潜り抜けた猛者。更には大尉という雲の上のような階級差がありながら……しかし佐久間は全く気にした風もなく。

「はっ! この度はまことに申し訳ありませんでした! 十分反省し、二度とこのようなことの無いように誠心誠意尽くす所存でありますッ! ――なお、吹雪は最短で明日の朝には修復可能です」

 敬礼だけは様になっている。……言っている内容は模範的ではあるが……それは呆れるくらいの棒読みだった。みちるは溜息をつく。

 腕はいい。戦術機に関する知識など、さすがは整備班というところだろう。だが、みちるはこのおよそ軍人らしくない技術者が苦手だった。階級差などなんのその。この男にとっては戦術機こそが何よりも優先するのだろう。

「……伍長、吹雪の修理はゆっくりでいい。白銀はしばらく戦術機には乗せない」

「は! …………は?」

 またもびしりと敬礼して、しかし佐久間はそのまま首をかしげた。その様子に、なんだ聞こえなかったのか? とみちるはさも呆れたように表情を顰める。

「そんなに急いで修理する必要はないと言ったんだ。……白銀には少し仕置きが必要だからな。腑抜けた精神を鍛えなおしてやる」

「……………………」

 ニヤリと唇を吊り上げるみちるを見て、佐久間は言葉を失う。内心で武に向けて念仏を唱えながら、その武の後押しをしたのは紛れもなく自分であるとも自覚している。

「……大尉殿。今回のことは確かに失敗でした。正直に言って、俺も浮かれてましたし、あいつの操縦を見てはしゃいでいたのは事実です。白銀も……そうだったのだと思います。……大尉殿の仰ることはわかります。ですが――」

 珍しく真面目な表情で、佐久間は神妙に語る。このまま武だけが叱責を受けるのが少々我慢ならなかった。確かに武にも責任は在る。新しい機動をテストするためとはいえ、戦術機一機を小破させたのである。その修理に要する人員、物資、予算……果たして、それらをかけるに値する結果を彼は出したのか否か。総合的に見ても、結論は否だろう。

 浮かれていたというのなら、そうだ。無意識の内に武は驕り、佐久間がそれを助長した。みちるもそれは承知しているはずだ。

「貴様には関係ないと言ったはずだぞ、伍長。私は白銀の教導官だ。私には白銀を正しく教え、導く義務があり……そして、それが私に課せられた任務だ。衛士として、軍人として、道を過とうとする若者を見過ごすわけにはいかない。伍長、これはな、衛士としての在り方の問題なのだ。整備兵が口を挟んでいい領分ではない」

「――!」

 厳しく見据えるみちるに、今度こそ本当に佐久間は息を呑む。姿勢を正して、心底からの敬礼を向けた。

 衛士としての在り方……。なるほど、一介の技術屋風情が立ち入っていい問題ではなかった。謝罪の意味も込めて、佐久間は真っ直ぐにみちるを見る。

 組んでいた腕を解き、みちるは吹雪を見上げる。武が行った出鱈目な機動のせいで損傷した箇所に、数名の整備兵がはりついている。――莫迦者め。

 それは武に。

 そして……なによりも、止められなかった自身へ。

 この結果を招いたのは武だが、彼一人に責任が在るなどというつもりは毛頭ない。先ほど佐久間に言った言葉は、半分は自分に向けてのものだった。

 衛士としてのあり方の問題だ。

 そう、そうなのだ。これはそういう問題だ。

 力持つ者の、力を手に入れた者の、力を振るう者の……その、力の在り様。

 武は自身の能力に浮かれ、はしゃぎ、衛士としての自分を、一時的とはいえ見失った。

 みちるは武の成長に浮かれ、はしゃぎ、衛士としての自分を、一時的とはいえ見失った。――武を止められなかった自分にも、責任は在る。むしろ、それは先を行く者として……一人の若者を教え導く者として、致命的なまでに愚かしい行為だった。

 だからこそだ。

 己が誤っていたというのなら、正す。その自分のせいで武が過ちを犯すというのなら、全力で正す。

 問題はハッキリしている。それを自覚し、理解しているのなら……後は行動に移すのみである。ゆえにみちるは、自身の過ちによって引き起こされたこの事態の原因――衛士としての在り方をもう一度見詰めなおすために。

 視線をずらせば先ほどのまま立ち尽くした武の姿。腰に提げた日本刀を握り締め、格納庫の天井を見上げている。

「…………」

 ここからではその表情を窺い知ることは出来ない。だが、みちるは確信していた。

 きっと武は、こんなことで挫けたりはしない。強大な力を手に入れて、その強大さに振り回されることは誰にだってあるだろう。

 いくらでも間違えればいい。いくらでも失敗すればいい。……そして、その度に強くなればいい。同じ過ちを繰り返さなければいい。

 今はまだ、それが許されるときだ。

 才能に溢れ、その才能を磨く努力を怠らず、なによりも高みを目指し続けることのできる武ならば……きっと、優れた衛士となるだろう。任官まであと二週間。ならば、それだけの時間を限界まで使いきり、一回りも二回りも大きく成長させて見せよう。

 なにせ彼は、みちるが誰よりも敬愛し尊敬する神宮司まりもの教え子なのだ。その彼女に恥ずかしい思いはさせられないし、なにより……彼女の教導を無駄にするわけにはいかない。武には誇ってもらわねばならない。まりもの教え子であったことを。そして、なによりも――

「白銀……貴様を死なせはせん。……速瀬のためにもな」

 小さく呟いて。

 姿勢よく直立したままの佐久間に苦笑しながら、みちるは格納庫を後にした。







 ===







 じっと…………ただ、考える。

 脳裏を巡るのはみちるの言葉達。頭を冷やせ、とみちるは言った。……最早、冷静を通り越して無心に近い。

 左手に弧月を握り、眼前に掲げる。右手で柄を握って……しかし、武は引き抜くことに躊躇した。

 格納庫のすぐ近くにある補給物資の保管庫。弾薬類の詰められた木箱が多く積まれたその空間、黒の拵を手に、ただ独り立ち尽くす。

 ――死ぬぞ。

 ぐ、と。鞘を、柄を握る手に力が込められる。武は己の不甲斐なさを恥じる。

 手に入れた力に浮かれて、自身を見失ったこと。戦術機の操縦にうつつを抜かし、戦う理由さえ忘れていたなどと……っ!

 漆に塗られた黒い鞘。そこに巻かれた鮮烈な黄色が、無言のままに武を責める。

「…………ッ、」

 悔しい。情けない。そんな自分が厭になるくらい、怒りが込み上げる。自分は、一体何をやっているのか……。

 思い出せ。彼女の顔を。

 思い出せ。彼女の声を。

 思い出せ。彼女の体温を。

 思い出せ。彼女の感触を。

 思い出せ。彼女の言葉を。

 思い出せ。彼女の笑顔を。

 思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、

 お前は、一体、どうして衛士になろうと、そう思ったのかを――――ッ!

 護ると誓った。

 護りたいと願った。

 護るための力が欲しかった。

 そうだ。そうだ。そうだ。そうだ。

 全部全部彼女ために。彼女を護る、ただそれだけのために。それが始まり。そしてそれが全て。

 けれど彼女はもういない。幼馴染の、愛しい彼女はもういない。

 鑑純夏はもういない。

 そのことを哀しいと感じた。そんな現実に耐えられなかった。

 それでも、壊れそうになる自分を支えてくれた人がいた。手を差し伸べてくれて、大丈夫と言ってくれる人がいた。

 それでも、挫けそうになる自分を支えてくれた人がいた。いつも側にいてくれて、大丈夫と言ってくれる人がいた。

 それでも、足掻くだけだった自分を導いてくれた人がいた。強く厳しく鍛えてくれて、想いを託してくれた人がいた。

 だから、前に進めると思った。自分にはこんなにも想ってくれる人たちがいる。そして自身もまた、彼女達を想う。

 だから、彼女達を護りたいと願った。その想いこそを護り抜こうと誓った。そのために戦うのだと。だからもう、大丈夫だと。

 ――けれど、それはベニヤよりも薄い張りぼてで……自分自身気づかぬ内に被った仮面なのだと知った。

 ただ、純夏を喪った心の空隙を誤魔化すための詭弁なのだと。

 ……違う。詭弁なんかじゃない。本心からに、彼女達を想っている。それは事実だ。

 純夏を愛している。純夏を想っている。彼女を喪ったことを受け入れることなんてできないし、忘れるなんて在り得ない。心を抉る呪い染みた妄執は今も尚、己の深奥を焼いて焦がしている。

 茜を、水月を、真那を大切に想う。多くの仲間達を、護りたいと願う。

 力が、欲しい。

 力が、欲しかった。

 その狂おしいまでの激情を、ベクトルの異なる二種類の感情を……思い出すだけでこんなにも胸が苦しくなる……思い出すだけでこんなにも胸が温かくなる……それら、現在の己を構築する根源を。

 貫き通す力が欲しい。

 狂うことなく突き通す力が欲しい。

 その激情が行き着く先に在る敵を斃すための力を。

 その感情の行く末に在る想いを護るための力を。

「俺は……どっちだ?」

 かつて、熊谷に言われた言葉が蘇る。

 哀しみを怒りに換えて、ずっと復讐のために戦う者。

 哀しみさえ想いに換えて、ずっとその想いを抱えたまま戦う者。

 果たして……今の自分は一体どちらか。

 力は、手に入れた。戦術機という、BETAと戦うための手段を手に入れ……月詠の剣術という、究極を体得した今。

 任官はもう目の前だ。夕呼が提示した期限はすぐそこに迫っている。

 戦場に立つ。もうすぐ、BETAと戦う。やつらを、コロス。それは、もう本当に、すぐだ。

 みちるの言葉が、警鐘として鳴り響く。熊谷の言葉が、焦燥を掻きたてる。

 選択を迫られている。

 何よりも、誰よりも、武自身が――己の進む道を決めろと決断を迫る。

 浮かれている莫迦は死ね。はしゃいでいる大莫迦は死ね。才能に驕る白銀武など死んでしまえ。

 だから、そんな愚かな自分は捨てて、ただ前だけを見据えればいい。

 ちゃんと思い出した。ちゃんと残っていた。手に入れた力に目が眩んでいただけだ。そんなまやかしは、みちるが晴らしてくれた。

 だから、選べ。



 純夏か――茜、水月、真那、支えてくれた彼女達か。



 復讐者か――守護者か。



 己の進む道を、選べ。決めろ。己の立ち位置はどこだ。どこに向かって進んでいく? 欲しかった力は手の中にある。ならば、後は振るうだけだろう?

 決めろ。選択しろ。

「くっ…………、」

 刀を抜くことが出来ない。弧月を握る手が震えて止まらない。

 武の迷う心を見通しているとばかりに、弧月は沈黙する。

 ……やがて、武は力なく腕を下ろした。握り締めた弧月は音を立てて床に転がり、それでも、彼は息を荒げるだけで。

「あぁ、ぁああっ! ああああああああああっっっ!!」

 どうしてだろう。

 すごく、怖い。すごく苛々する。とても哀しい。腹が立つ、悔しい、涙が出て、頭にくるのに、どうしてこんなにも、――寒い。

「ぅぅううあああああああああああああっっ!!」

 叫ぶ。叫ぶ。泣いているように叫ぶ。絶叫するように、啼く。感情が、激情が、狂おしいほどに。

 ――選べない。

 ――選べない。

 ――選べない。

 ――選べない。

 ――選べないよ、俺には……っ。

 純夏を愛している。でも…………それでも、茜を、水月を、真那を、――――――。

 そのすべてが、愛おしい。

 そして、その全てを大切にしたい。

 いつだっただろう。復讐に濡れる鬼にはなりたくないと思った。……ああ、だったら答えは出ているはずなのに。

 選ぶ道など一つしかないはずなのに。

 ――死ぬぞ。

 ただ、その一言が響く。死にたくない。死んでたまるか。死んだら護れない。死んでしまったらなんにもならない。

 そう、思うからこそ。

 喪った彼女が脳裏を占める。死ぬものかと笑い、彼女から離れた己を呪いたくなる。

 ああ、「死ぬ」ということはこれほどにも……こんなにも、寒くて、怖くて、暗い、なんにもない。

 想像してしまった。経験の無いそれを、目の当たりにしていない彼女の最期を。赤いマーカーに塗り潰された黄色の光点を。その瞬間の、彼女の心を。

 護りたい。護りたかったよ。純夏。――だから、赦せない。

「ごめん涼宮……ごめんなさい、水月さん………………ごめんなさい、月詠中尉……みんな………………」

 俯いて、膝をついて、涙を流す。

 弧月を拾って、躊躇なく刀身を引き抜く。まばゆい銀色の刃が……どうしてかくすんで見えた。

「俺は……やっぱり純夏を忘れるなんて、できない……」

 道は決めた。

 だからもう、止まらない。

 震えるように呼気が凍える。冷ややかに、弧月は鉄の煌きを放つ。

 驚くくらい、気持ちが鎮まる。だから、武はゆっくりと立ち上がって……そして、













 そして。二週間後。



 梅雨の湿った熱気がこもるその日。白銀武は任官した。







[1154] 復讐編:[九章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:26

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:九章-04」





 かつて、尊敬する水月が任官した時のような、盛大な式は行われなかった。たった一人。いつも座学に使用するブリーフィングルームに、自分と、教導官のみちる、基地司令……補佐として、まりも。

 その四人。ただそれだけ。

 流石にテーブルやホワイトボード等の備品は片付けられていたが……想像以上にひっそりとした任官式に、武はいささか苦笑を禁じえない。

 ――なるほど、この任官さえ秘匿、というわけだ。

 これでより一層に、茜達同期の仲間との距離が開いてしまった。彼女達は今頃、総戦技評価演習に合格し、戦術機操縦訓練課程に入っている頃だろうか。……そう想像して、ちらりとまりもに視線を向けるが、彼女はいたって真面目な表情で、正面に立つラダビノッド司令の横に控えている。

 姿勢を一切乱さぬまま、みちるが声高に訓練部隊の解隊式の執行を告げる。たった一人の訓練部隊で解隊もなにもあるまい。だが、これで晴れて任官という段にあたり、武は余計な思考を頭から追いやった。

「楽にしたまえ……。訓練課程修了、晴れて任官というめでたい日だ。本来であれば君の門出を盛大に祝ってやりたいところではあるが……知ってのとおり、君の立場は非常に秘匿性の高いものとなっている。それゆえのことだということを、理解して欲しい」

 ラダビノッド司令の声は、穏やかに、しかし耳朶に響く。この横浜基地に転属になった際にも感じた……歴戦を掻い潜った猛者、という印象が強い。腹に沈むような声に、武は知らぬ内に全身を緊張させた。

 基地司令の訓示は続く。その一言一句を聞き逃すまいと、強い眼差しで司令を見詰める。

「……手の平を見たまえ。その手で何を掴む? その手で何を護る?」

 ――この想いを貫き通す強い意志と力を。

 ――想ってくれた純夏の心を。

「……拳を握りたまえ。その拳で何を拓く? その拳で何を斃す?」

 ――BETAのいない世界を。

 ――純夏の命を奪ったBETAを。一匹残らず、全て。

 静かに、強く、闘気を孕む。司令もそれを感じたのだろうか……武には、彼が少しだけ目を細めたように見えた。

 やがて訓示も終わり、みちるの口から衛士徽章の授与が告げられる。ラダビノッド司令は武の前へ進み出て、名を呼ぶ。

「白銀武訓練兵!」

「はい!」

「ただ今をもって、貴官は国連軍衛士となった。…………おめでとう、少尉」

「……ありがとうございます!!」

 敬礼。そして、しっかりと視線を交わす。夕呼の、武としては無茶とも思えるような強引な推挙を承認し、訓練課程を大幅に短縮したこの任官。間近に見る基地司令の瞳には、少なくない期待と、それ以上の激励が感じられた。

 武は、強く、強く見据える。男として、衛士として、基地司令の期待に応えられるよう。……その思いが通じたのか、ラダビノッド司令は一つ頷くとブリーフィングルームを出る。

 解隊式の終了をみちるが告げて。……そしてようやく、武は張り詰めていた緊張を解く。ハッキリ言って、疲れた。

 極東最大の規模を誇るこの横浜基地の基地司令を前にして、緊張するなというほうが無理な話だ。それを承知しているのだろう。どっと疲れの浮かんだ様子の武に、みちるがニヤニヤと意地悪く笑う。

「なんだ白銀、この程度で音をあげていては、これから先持たんぞ?」

「そうですよ白銀少尉。貴方は立派に任官されたのですから、もっと胸を張ってください」

「……大尉、神宮司教官……他人ごとだと思って適当に言ってますよね……っ」

 まりもにまでくすくすと笑われて、武は泣きたい気持ちになった。畜生と眉を寄せ、……そういえばかつて夕呼と初めてあったときも大層緊張を強いられたことを思い出す。呼び出しを受けるたびに薄れていった緊張感だが、あれだって随分と時間が掛かったものだ。

 まして、こちらは研究者である夕呼とは違い、全うな軍人である。階級や肩書き、特にラダビノッド司令については人間として、衛士として尊敬できる強さを感じるために、余計でも緊張するのだ。

 自分達だって一対一の状況になれば……武ほどではないだろうが、緊張するはずだ。そういう意味合いを込めて二人を見れば、更に可笑しそうに笑い出す。

「あぁぁ、もう! ほっといてくださいよ!」

「ははは、まぁそう怒るな。それに、貴様はこれから私の部下となるんだ。放って置きたくとも無理というものだろう?」

 ――は?

 みちるがぽろっと零した言葉に、武は耳を疑う。その武に、どうしてか驚いたように、そして呆れたようにみちるが口を開く。

「……まさかとは思うが、白銀……貴様、大尉である私が教導官に就いていた意味をわかってなかったのか……?」

「え? あ、あ~…………す、すいません。正直そこまで頭が回ってませんでした」

 溜息が一つ。忍び笑いが一つ。その両方に武は羞恥に頬を染めた。……なるほど。納得である。みちるは一個中隊を任された隊長なのだと聞いたことがある。現職の中隊長に訓練兵の教導官を兼務させるなんて、副司令もたかが訓練兵に特別扱いしすぎだろうと思っていたのだが……そういう裏があったのか。むしろ考えればすぐに思いつきそうなことだったが、本当に、武は全然気づかなかった。

 あまりの間抜けさに恥ずかしくなる。ぐぁ、と片手で顔を覆い、年上の彼女達に赤面を見られないように隠す。

「…………まぁいい。貴様がそういうヤツだということはわかった。……白銀、ともかくも貴様は我がA-01部隊に配属となる。香月博士直属の特殊任務部隊だ」

「特殊任務部隊……」

 A-01という名。聞き覚えがあるもなにも、つい数分前まで武が所属していた訓練部隊と同じ名である。……まさかみちるの中隊の名が用いられていたのだとは露知らず、あまりに安直なネーミングに武は内心で呆れる。

 が、そもそも、転属から任官までの一連の企ては夕呼の発案であり、そして彼女の思惑のままに進められていたのだから……これはある意味予定調和ということなのだろう。つまり、武は最初からA-01に配属することを前提に、みちるの教導の下、訓練を積んだのである。

 今更それに気づいてもなぁ……と再び己の迂闊さを恥じるが、いいかげん頭を切り替えるべきだろう。

 ちらりと、みちるの横に並ぶまりもを見る。副司令直属の特殊任務部隊……というならば、武に対する扱いを見ても、恐らくは相当な機密にあるのではないだろうか。

 元教導官とはいえ、まりもがこの場にいる状況でその部隊のことを話してもよいものか……。そんな武の逡巡を悟ったのだろう。まりもは柔らかな笑みを浮かべて。

「白銀少尉……このたびの任官、おめでとうございます」

「……神宮司教官……」

 掛けられた温かな声音に、一瞬、武は虚を突かれたように。半ば呆然と呟いた武に向けて、まりもは毅然とした態度で言った。

「少尉……既に私は少尉の教官ではありません」

「!」

 そうか、と気づく。転属した時点でまりもは武の教導官ではなくなっていて……そして、少尉に昇進した今、武は彼女よりも位が高いことになる。なんだか複雑な気持ちだった。

 武にとっては、まりもは矢張り尊敬する教官であり、育ててくれた恩師だ。いくら階級に差があろうとも、それは変わらない。武はまりもを尊敬している。感謝しても仕切れないくらいだ。まりもは本当にたくさんのことを教えてくれた。軍人としての心構えから精神・肉体の鍛錬。ただの餓鬼だった自分を、兵士として成長させてくれた。

 ふと、熊谷の顔が脳裏に浮かぶ。……ああ、そうだ。彼も間違いなく、武を育ててくれた恩師で在る。

「神宮司軍曹…………あなたのおかげで、俺はここまでやってこれました。本当に、軍曹には感謝してもし切れない。軍曹の教えは忘れません」

「少尉、私は一教官として責務をまっとうしただけであります。そのような御言葉を頂くのは身に過ぎる想いであります」

 ぐ、と。武は拳を握った。――ああ、これがまりもなのだ。

 彼女は誰よりも優秀な軍人である。……だから、武はそれ以上何も言わなかった。静かに敬礼をして、同じように返してくれた彼女へ、強く、微笑む。

 まりももまた、眩しいものを見るように目を細めて。

 そして彼女は、みちるに敬礼した後に部屋を退出した。毅然としたその背中が……武に、頑張れといってくれているように感じられて……。

「……白銀、神宮司軍曹の教えを胸に刻め。軍曹は誰よりも、お前たち教え子のことを愛している。その教えに恥じぬよう、貴様はこれから衛士としての任務に励め」

「はい」

 みちるの言葉に頷いて、武は己の上官となった彼女に振り向く。……本来ならば居合わせることなどなかっただろうまりもがここに居たこと。どうしてか、それがみちるの計らいなのだと感じられた。

 目礼する武に、みちるはふっ、と微笑む。そして、数瞬の後に、彼女は軍人の表情を見せた。

「さて……先ほども言ったとおり、これから貴様は私の部下となる。A-01部隊は香月博士直轄の特殊任務部隊だということは既に伝えたが、我々は香月博士の提唱するある計画を達成させるために存在する」

「ある計画……?」

「オルタネイティヴ計画。――人類の未来を賭けた、世界を救うための計画だ」

 どぐん、と鼓動が一つ。しっかりと言い聞かせるようなみちるの言葉に、武はただ呆然としてしまう。初めて耳にする計画。人類の未来を賭けた、世界を救う計画……。多分に言葉を濁しているのだろうそれに、しかし、言葉に出来ない感情が揺れる。

「AL4(オルタネイティヴ4)と呼称されるその計画の達成。そのためだけにA-01部隊は存在し、機能する。当然にして極秘に進められている計画を遂行するための部隊であるから、我々の存在も機密扱いとなる。部隊員は親類から恋人、友人にいたるまで、一切の他者にその存在を知らしめてはならない。貴様がA-01に配属となったことは公的に記録されるが、その処理をする担当官さえ、我々の任務内容を知ることはない」

 早口に告げられる内容に、武はなんとも徹底されていると息を呑んだ。……それほどの機密。それほどの計画。AL4――果たしてそれは、如何なる計画だというのか。

 ……だが、みちるがそれを説明することはなかった。つまり、今はその内容を知るときではない、ということだ。

 A-01部隊の存在の意味。それを承知していればそれでいい。自分が何のために戦うことになるのか――それが人類の未来のためだと言われ、武は全身から奮えた。

 力強い眼差しを向ける武に、みちるは満足そうに頷いた。

 そして、その後は配属に当たっての事務処理と、正規の軍服である黒い軍装と衛士強化装備を受け取ったりと、必要な庶務を片付けていく。

 隣室で着替えを終えた武を連れて、みちるは颯爽と歩き出す。これから、A-01部隊の先任たちと顔を合わせるのである。先ほどの基地司令を前にした時とはまた違う緊張に、知らず、つばを飲み込んだ。

 フロアを一つ降り、辿り着いたその場所。A-01部隊が使用するブリーフィングルームだというその部屋の入口に、立つ。

 一足先に室内へ消えていったみちるの声が聞こえる。当たり前だが、矢張りそこに彼女の部下……A-01部隊の面々が整列しているのだろう。

 ――怖気づくな。決めたはずだ。止まらないと。進むべき道を選択し、決断した。だから、そこに迷いや躊躇は存在しない。そうだろう?

 自身に言い聞かせるように。

 そして、みちるの声。入って来い、という声に……どうしてか悪戯気な音色を感じたのは気のせいだと思いたい。

「――白銀武少尉です。よろしくお願いしま…………っ、…………」

 ズンズンと歩を進め、みちるの横で直立。敬礼と同時にハッキリと名乗りを挙げようとした瞬間……とてつもなく信じられない者を見て、武はぽかん、と口を開けた。

 頭が回らなくなる。え? あれ? なんで? そんな単語が武の脳内を飛び交って、敬礼したままに硬直するその姿は、とてつもなく珍妙であった。

 武の正面に立つ人物。青色の鮮やかな髪を後頭部で結び、艶やかな馬の尻尾のように、毛先が肩で揺れている。気丈そうな瞳は目尻で少しだけ吊り上がっていて、まるでしなやかな猫を思わせる。薄っすらと淡いピンク色を見せる唇はふっくらと柔らかそうで……その存在を主張する双丘は少しも衰えることなく。

 ああ、本当に。全然変わっていない。そして、絶対に見間違いであるわけがないし、よく似た他人ということもない。

 本当に、ほんとうに、――速瀬水月が、そこに居た。

「水月さん――ッ」

 足先から痺れるような歓喜が湧き上がる。目を見開いて、僅かに頬を紅潮させて、武は泣きそうな、嬉しそうな、そんな表情で。

 叫ぶように、その名を呼んだ。

「武……」

 そして、応えるように。水月が薄っすらと微笑を浮かべた……その、――瞬間。



「おっめでとうございますハヤセ中尉ぃいい!!」

「「おめでとーございまーす!」」



 鼓膜を突き破らんばかりの歓声が上がる。その声量に圧倒される間もあらば、武は盛大に叫んだ栗色の髪の女性に腕を引っ張られ、水月の前に突き出された。更には水月の周りを取り囲むように、なんだか見覚えがあるような気がする複数人が輪を作る。

 彼女達は口々に「おめでとう」を合唱し……果たしてそれが新人である武に向けてのモノではないと気づいた時には、水月の顔は真っ赤を通り越して茹っていた。

「本田ァァァアア!? ちょっとあんたそこに座んなさい!! 上川! 岡野!! あんたたちもっ!!」

「わー、みんな逃げろー」

「あはははは、中尉、照れてます?」

「いやぁ、そんなに歓んでいただけると……」

 武と水月の周りをぐるぐると回っていた三人の首根っこを掴み、水月がズンズカと部屋の隅に引き摺っていく。…………なにがなんだかさっぱりわからない武は、任官一発目の挨拶にしくじったことや、まさかの水月との対面もぶち壊しだということに、乾いた笑いを漏らすしかない。

「……まったく、お前たち、少しは落ち着かないか。……速瀬も、嬉しいのはわかるが、そんなに興奮するんじゃない」

 腕を組み、心底から溜息をつきながらのみちるの言葉に、水月はグ、と喉を詰まらせた。明らかに動揺を見せてはいるが、だからといって両手に掴んだ三人を解放する素振りもなく。

「あはは、水月ったら。しょうがないなぁ、もう。本田少尉、上川少尉、岡野少尉も。せっかく新しい仲間がやってきたんだから、もっとちゃんとしないと駄目だよ」

 め、と。まるで幼子に言い聞かせるような口調。……どこかで聞いたことがある……というかむしろ物凄く記憶に残っているその姿。茜の姉にして水月の親友。涼宮遙がそこに居た。その彼女を見て再び驚愕する武。水月がいたことも驚きなら……まさか遙までもがA-01部隊にいるとは……。

 全くの他人の中で過酷な任務に臨むことになるだろうと覚悟していた武にとって、これは嬉しい誤算である。

 なによりも、水月がいること。……憧れ、尊敬し……そして、武を救ってくれた大切な女性。その彼女とともに、戦えること。

 嬉しい。

 何よりも純粋に、そう感じた。

 そして、遙のやんわりとしたお説教に、水月はしぶしぶながらに列へ戻り、彼女をからかっていたらしい三人の少尉も続くように列へ戻る。

 なし崩し的に崩壊してしまった着任挨拶も、どうやら仕切りなおしということらしい。みちるが横目に武を見て、武は妙に気恥ずかしく感じながらも、今度はきっちりと挨拶をする。

「A-01へようこそ。白銀、我々は貴様を歓迎する」

 隊を代表して、隊長のみちるが告げる。自信と威厳に満ち溢れた彼女の姿。教導官としてのそれとはまた違う、軍人として、隊を纏めるものとしての強さがそこには窺えた。

 さて、と武と向かい合うように整列した女性たちを向いて、みちるは一人ひとりを紹介してくれる。

 右から順に、木野下中尉、水月、遙、宗像少尉、風間少尉、岡野少尉、上川少尉、篠山少尉、本田少尉、高梨少尉、古河少尉。全員が女性だ。……そして、隊長のみちるも当然女性。計十二名の女性。その中に、唯一の男である自分。……どうしてか、背筋が寒くなった。冗談だろうと真剣に問いたかったが……この他に部隊員がいるという様子もなく。

 考えてみれば、軍隊に入隊してからこの三年以上……常に周囲を女性に囲まれていたわけである。今更恥ずかしいもなにもないのだが……なにせ、全員が揃って武の先任である。よく見知り、深い情愛を抱いている水月に、茜の姉である遙が居るにはいるが、その彼女たちとて中尉だ。知らず萎縮してしまいそうになる自身に気づいて、武はええいと己を鼓舞する。

「どうした? まさか年上の女性に囲まれて緊張しているのか?」

 本当にみちるは意地が悪いと思う。武はあからさまにその言葉を無視して、耐えるように沈黙した。あまりにも露骨過ぎてバレバレだったのだろう。幾人かの忍ぶような笑いが耳に痛い。泣きそうだった。色んな意味で。

「さて、それじゃ堅苦しいのはこれで終わりっつーことで! 改めてよろしく、白銀少尉」

「は、はいっ。木野下中尉」

 唐突に声を掛けられて、武は弾けるように向き直る。中隊の副隊長を務める木野下は、かなりの長身で武と並んでもそう変わらない。どこか水月と似た雰囲気を感じて、武は少し安堵する。

 そして、ちらりと視線を向ければ、にやりと懐かしい表情を浮かべる水月。心なしか、武の任官をとても喜んでくれているように見えるのは……矢張り自惚れなのだろうか。改めて彼女の正面に立つ。

「武……ようやく来たわね……。…………まってたんだから

「……は?」

 ほんの少しだけ頬を染めているような水月が、武にはよくわからないことを言う。……後半はなんだかぼそぼそとしていて聞き取れなかったが、首を傾げる武に、水月は慌てたように手を振る。

「ぃ、いやっ、……その、と、ともかく! これから、よろしく。武……」

「はい――俺の方こそ、よろしくお願いします。水月さん……」

 笑顔を向けあう。と、いつの間にそこに居たのか、宗像美冴が水月の背後に立っていて……

「さーお前たち。私たちは一足先に訓練の準備でもしようじゃないか(棒読み)」

「そうですねー。邪魔しちゃ悪いですよねー(棒読み)」

 美冴に並んで白々しいくらいに何事か呟く本田真紀。矢張り武にはサッパリだったが、それはどうやら水月を怒らせるに値する言葉だったらしい。ぷるぷると肩を震わせる彼女は、次の瞬間には背後の二人に躍り掛かっていた。わー、と棒読みのまま逃げる美冴と真紀。後者は完全にはしゃいでいるように見える。

「真紀、ぜんっぜん懲りてないよね」

「あの方に反省などありませんわ……」

「もう、美冴さんったら……」

 そんな彼女達に、嘆息しながら高梨旭はぽつりと漏らし、古河慶子は呆れたように言う。風間梼子は困ったように苦笑して、ニコニコと微笑み続けている遙に助けを求めに向かっていた。

 茫然とその光景を眺める武に、先ほど真紀と一緒になって祝辞を述べていた上川志乃、岡野亜季がやってくる。と、武は首を傾げた。……二人とも、どこかで見た顔だと思った。

「ぃよっ、久しぶり。覚えてるか?」

「あははは、そりゃ酷でしょ。あんな状況で顔まで覚えてないって」

 にゅ、と手の平を差し出してくる志乃に、慌てて自身も手を差し出しながら……武は「あ」と気づく。

「総戦技演習のときの……ッッ?!」

「お、正解」

 にやりと口端を歪めて、志乃は武の手を握り、ぶんぶんと振った。

 見覚えがあるはずだ。熱帯のジャングル。囲まれた六人……最後の一人。力一杯に投げ飛ばされて、地面に叩きつけられたその相手。そしてその横にいる亜季。……記憶が確かなら、一番最初に倒した相手だったはずだ。

「ありゃ、正解正解。よく覚えてたねぇ……って、そんな覚えられかたすっごい屈辱なんだけど」

 むむむ、と眉を寄せる亜季に、少々武は慌てる。志乃がからかっているだけだと知らせてくれるが、先任だらけのこの状況で、内心冷や汗ものである。

 改めて一人ひとりの顔を見回せば、木野下と美冴以外の全員に見覚えがある。総戦技評価演習で戦った七人の仮想敵。……なるほど、その彼女たちまでがA-01部隊所属……つまりみちるの部下だったというわけだ。

「ま、うちらもお前がこんなに早く任官するなんて思ってなかったんだけどな。……まさか総戦技評価演習から一ヶ月で任官するなんて、お前どんな手品使ったんだよ」

「手品……って、」

 気安い言葉遣いをしてくれる志乃に、武は緊張が薄れるのを感じる。というか、暴れまわっている水月と美冴、真紀や……その彼女達を見守る(?)木野下、遙、旭、慶子、梼子……と、皆が皆、なんだかとても仲がいいように感じられる。

 本当に正規の軍人なのか、と疑ってしまいたくなるくらい、そこには階級という縛りに代表される軍隊らしい規律が見受けられない。……無論、そう見えないというだけで、彼女達が軍規をどうでもよいと考えているわけではないだろうが。恐らく、オンとオフの切り替えがハッキリとしているのだろう。そうでなくては、恐れ多くも副司令直轄の特殊部隊などという職位は与えられまい。

「でもほんと、在り得ないくらい早い任官よね。……ひょっとして、白銀少尉はスペシャルなのかしら?」

 ぎょっと声に振り返れば、いつの間にそこに居たのか、目元のほくろが特徴的な篠山藍子。つい先ほどまでみちると何か話していたように思っていたが……気配も何もなく背後に立たれていたことに、少なからずショックを受ける武である。

 なんだか艶のある仕草で武を覗き込んでくる藍子に、たじたじと後ずさること数歩、がっしりと志乃に両肩を掴まれ、さらには亜季がにんまりと口端を吊り上げていた。

「さぁって、肴も手に入れたし。お昼お昼っと」

「そうだな。白銀にはたっぷりじっくり聞かせてもらおうじゃない」

「ふふふ、そうね。速瀬中尉との馴れ初めを、惜しげなく語ってもらおうかしら」

「――馴れ初め!!??」

 愕然とする。馴れ初めってなんだとか、今の話の流れはなんだったのかとか、そういう疑問さえ口にしてはいけないらしい。全力で疑問符を浮かべる武を、半ば引き摺るように志乃は歩く。

「ちょ、ちょ、ちょっ! 上川ァ!? あんたなにやってんのよっ!!」

「いえいえ、新人との交流を深めるために昼食に誘っているだけですよ。中尉」

「そうですよー。食事のついでに中尉の恥ずかしい話を聞かせてもらおうだなんて、これっぽっちも」

「食事が口実だということは隠さないのね……」

 真紀にヘッドロックを極めたまま叫ぶ水月に、志乃と亜季がしれっと言ってのける。こちらも全く懲りてないのだなぁ、と藍子は感心するように呆れた。

 そんな藍子の苦笑まじりの言葉にも気づかず、「それでわ」と笑顔のまま去ろうとする志乃と亜季に、引き摺られる武。最早彼にはなにがなんだかわからない。……わからない、が……この二人、そして水月に締められている真紀の三人は、どうやら彼のよく知る207A分隊のあの三人ととても似通っているらしかった。

 つまり、愉快なことが一番。

(性質悪ィ……)

 およそ先任に吐いていい言葉ではないが、正直にそう感じた。

 ……そして、案の定水月がいい笑顔を見せながらにやってきて。







 なんだか、想像していたのとは全然違うA-01部隊の雰囲気に。

 呆れるくらい賑やかで姦しい彼女達に。

 武は、これから大変だと…………そんな呑気なことを感じていた。







 ===







 昼食は……かつてない地獄だった。

 歓迎会を兼ねているというそれは、単純に全員揃って昼食を採るというだけだったのだが……なんというかその、非常にパワフルだった。

 武の知る限りでは207訓練部隊の面々と採る食事も相当に賑やかで姦しいものだったが、どうも任官すると、それは一様にパワーアップするようである。

 というのも、まず食事のスピードが圧倒的に速い。筆頭は何故か武の右横に陣取って不必要に密着しようとする藍子。多分数分も掛かっていない内にトレイを空にしていたのではないかと思われる。そして、その藍子に若干の悔しさを見せている気がする梼子。武が感じた彼女の心理を両隣の美冴と亜季がからかっていて実に微笑ましい。

 残る全員もまた、武を圧倒するくらいの速度で皿を空にしていく。……軍人にとって必須だという早食いだが、全員が全員、尋常ではない。武だって207部隊に居た頃は相当な早食いだったはずなのだが……。

「いつ如何なる時でも即時対応できるように、ね。……こういう心掛けは大事なのよ?」

「は、はぁ…………」

 それはそうなのだろう。にっこりと微笑みながら教えてくれる藍子に、しかし武は苦笑するしかない。……というか、どうしてこの人はこうも身体を寄せてくるのか。……主に肩に触れる柔らかな膨らみ。一々ふよんふよんと揺れる感触に、最早正常な思考が回らない。

「…………………………」

 ――が、理性など保てそうにないこの状況で、ギリギリ、武の本能を押さえつける気配。ひりひりと喉が干上がって、痛いくらいに心臓が悲鳴をあげる。向けられる視線は極低温に冷え切って、鋭利なツララのような切っ先を突き立てられたかのよう。

 明らかに黒雲漂い雷鳴轟く殺気じみた気配に……恐ろしくて振り向くことさえ出来ない。触れていないはずの左腕が、どうしてか盛大に捩りあげられているような錯覚を覚える。怖い。率直に言って、怖い。

 藍子にその“彼女”の気配や形相が読み取れないはずはないのに……彼女はむしろそれを楽しむかのようにさらにグイグイと胸を寄せてくる。……うぁあ、柔らかい、やわらかいんだけど、その、……それに二乗、否、三乗して左側から立ち上る怒気が膨れ上がっている!

「あら? どうしたのかしら。顔が赤いわよ。……ぅふふ」

 それは嘘だ。今の状況で武が赤面するなんて在り得ない。むしろ蒼白を通り越して真っ白に血の気が失せているはずだ。……だが、恐ろしすぎて左側を向くことの出来ない彼の顔色を、件の彼女は窺い知ることなどできずに。

「あはははは! 見ろよ、速瀬のあの顔ッ! な、涼宮! あ~っ、だれかカメラ持ってないのカメラ! 残念だなぁもう! あっはははは!!」

「……き、木野下中尉……さすがにそれは……」

 武を挟んで行われているなんらかのやり取りを見て、木野下が爆笑する。あまりにあんまりな彼女の言い分にさすがの遙も若干引いているが……しかし、一抹の望みを抱いて向けた武の視線に、彼女達はそろって「頑張れ(にっこり)」と無責任な笑みを向けてくれた。

 ……ああ、わかってたさ。わかってたよ。ついさっきまでのやり取りを見てたらわかるさ。水月は……こんなにも隊の皆に好かれているのだ。尊敬とか憧れとか、そういうものも在るだろうが……全員が全員、暖かく微笑ましくこの光景を楽しんでいるというなら、きっとそうなのだろう。

 豪放にして豪胆にして豪快。そんな水月だが――こと、“この件”に関しては、彼女は皆の嗜好品という扱いを受けている。

 無論、武本人には全くに知る余地のないことなのだが……しかし、彼は、過程はどうあれ、水月がからかわれているのだということには気づいていた。そのために自分が餌にされているというのは些か辟易とするが、新人が何を言ったところでどうなるというものでもなく。

 そもそも、最初に亜季がこういっているのだ。「肴も手に入れた」と。……なるほど、こういうことだったかと今更溜息をついたところで、事態が好転するはずもなく。

「ぁ、の……水月、さん……?」

「ん~~~? なにかなぁ武ぅ?」

 ゾ、っと。

 全身に鳥肌が立つ。血が凍る呼吸が止まる耳の奥がヅンとして脳髄が冷や汗をダラダラと流す。カタカタとテーブルに置いた自身の腕が震える。哀れなほど恐怖に縮み上がるが、けれどここで怯んでいてはどうにもならない!

「そ、の……怒って、ます?」

「全ッッッ然~~~~?!!」

 ギシリ、と何か恐ろしい音を聞いた気がした。……振り向いて確認したいが、できない。多分、拳を握った時に骨が軋んだとか、そんな音だ。もし振り向けば、……想像するに恐ろしい。

「め、滅茶苦茶おこってますよ、…………ね?」

「あっはははは~! 面白いこと言うわねぇ武ゥ!? 私が一体“な・に・に”怒ってるっていうのかしらぁ?!!」

 ガクガクブルブル。最早壊れた機械のように震えまくる武。もし彼が本当に機械作りだったなら、あまりの振動に螺子の二、三本抜け飛んでいるかもしれない。

 だというのに、その武と水月のやり取りを見て、尚更に藍子がしなをつくり武に密着する。木野下の爆笑が耳に響く。なんだか真紀や亜季、志乃あたりから歓声があがったような気がする。震えて定まらない視線で、最期にもう一度だけ助けを求めて向いた先――遙は――鼻歌混じりに食事の続きを採っていた!!



 神は、我を見捨て給うた――。



 ふ、と。何かを悟ったように笑う武。

 なるほど、これが自分の運命かと。それは諦観にも似た薄い笑み。――瞬間、後頭部に走ったゴシャアという衝撃と炸裂音。続く視界の暗転に、くぐもって聞こえる水月の怒声や罵声。

 ああ……多分これからも、こんなやり取りが続くに違いない。

 任官して、正規の軍人として、衛士として……相応の覚悟と決意を持っていたはずなのに。いっそ悲壮になれたらどれほど楽だっただろう。……なのに、A-01部隊の皆は、彼女達は……水月は。武のそんな内心の狂気などに関係なく、ただ、底抜けに明るく、そして、温かかった。

 薄れゆく意識の向こう、藍子を追いまわしているだろう水月の声が聞こえる。

 ……ああ、懐かしい。温かい。

 変わらない彼女と、これからも一緒にいたいと思ってしまう。成長した自分を見て欲しいと願ってしまう。

 でも、それは。

 気絶しそうなくらい後頭部が痛いのに、なんだか随分と余裕の在ることだ。武は無意識に薄っすらと笑みを浮かべて……今度こそ本当に気を失った。







「貴様は莫迦なのか大物なのか全くわからんな……」

「はぁ、自分ではそのどちらでもないつもりなんですが……」

 教壇にはみちるの姿。並べられた机には武一人。まるで昨日までの座学にも似た光景だが、それはそのままにこれから座学が始まることを示していた。

 そこにA-01部隊の彼女達の姿はない。彼女達は木野下の指揮のもと、シミュレーター訓練に勤しんでいる。

 今からみちるが執り行う座学は新人の武に、A-01部隊が、具体的にはどのような任務に就くのかということや、……今後実戦に出て戦う武に、敵についての知識を詰め込むためだ。

 敵……つまり、BETA。

 知らず、武は拳を強く握っていた。どこかしら視線も鋭くなり……若干ではあるが、心拍数も通常よりは、高い。

 が、それは表面上には目立った変化としては現れず……昼食の出来事を回想して苦笑しているみちるには、武がやる気に満ちている程度のものにしか感じられない。

「さて、まずは貴様に我々A-01部隊について、詳細に説明しておこう。……無論機密に触れる事項について話すわけにはいかないが、自身の属する部隊の任務さえ知らないのでは話しにならんからな」

 それはそうだと頷く武に、みちるはA-01について説明してくれた。

 かつて、A-01部隊は連隊規模で運用されていたこと。過酷な任務に次々と数を減らし……現在では一個中隊を残すのみということ。それだけでA-01部隊の人員損耗率の高さが知れる。この横浜基地で最も損耗が激しい戦術機甲部隊……。武は、自身が夕呼の何らかの思惑によってこの部隊に“引き抜かれた”のだと考えている。ならば、そこにはこの損耗率の高さも関係しているのかもしれない。

 例えば……多く補充の見込めない戦術機甲部隊には丁度いい補充要員。戦術機適性「S」という規格外の適性値を持つ武に、夕呼は研究と証した実験を繰り返していた。きっと、その過程で武がA-01にとって有益な補充要員であるとの発想を抱いたのだろう。

 まして、夕呼直属だというこの部隊ならば、ほかに例のない「S」ランク適性者の武を存分に扱えるに違いない。

 ……もっとも、それは単に武が邪推する内容でしかないため、夕呼の本心はわからない。案外、丁度いい捨て駒とでも考えているのかもしれない。……本人にしかわからないことを、アレコレと探るのはよそう。どう足掻いたところで、既に彼女の手の平で踊りきることを選択した身である。今更、その理由を知りたいとは思わなかった。

 続けられるみちるの説明の中に、ぎょっとさせられるものがあった。

 A-01部隊のメンバーが、全員同じ訓練校を卒業しているということ。即ち、この横浜基地衛士訓練校……果ては、かつての帝国軍横浜基地衛士訓練校……。つまり、みちるも、木野下も……そう、そうだ。水月や遙さえ、確かに帝国軍の衛士訓練校を卒業しながらに、こうして国連軍の部隊に籍を置いている。

 自分が国連の衛士訓練校に転属して、そのまま国連軍の部隊に配属されたことで、そのあたりの認識に齟齬が生じていたが……冷静に考えれば、妙な点が多い。

 その武の疑問を承知しているのだろう。みちるは一拍を置いて、更に説明してくれた。

「そもそも、この基地……いや、かつての帝国軍横浜基地衛士訓練校は、A-01部隊の衛士を錬成するために設立された。……いや、そういうと語弊があるな。つまり、A-01部隊の発足が計画された段階で、帝国軍横浜基地の訓練校に、A-01部隊専用の養成部隊の設立が立案・可決されたんだ」

「国連軍の新たな部隊を発足するために……帝国軍に専用の衛士訓練校を設立……ですか」

 そうだ、と頷く。そして、それこそがAL4と呼称される計画のそもそもの始まりなのだという。

「1995年に開始されたAL4だが、その以前より計画のための準備は進められ……A-01部隊の設立も、その準備の一環として行われた。言ってしまえば計画開始に伴う専用の特殊任務遂行部隊が必要となったから設立した、ということになるが……そもそも、このAL4は国連の中で極秘裏に遂行される人類の叡智を集結させた一大計画だ。つまり、それこそ世界中の識者や技術者達が集まって協議・採決され、実行が決定された計画。その提唱者が……」

「副司令……」

「……そうだ。そして、香月博士は帝国の招聘に応じる形で本計画の理論を検証し、そして現在にいたり尚、計画達成のために尽力されている」

 ……なるほど、なんとなく事情が飲み込めてきた。当時日本国内には大々的な研究を行える規模の国連軍基地は存在していなかった。まして、夕呼の計画が正式に可決される以前より――このあたり、計画に相当の自信があったことが窺えるが――彼女の計画遂行にとって必要となる専用のスペシャルチームを発足する準備を進めていたというのなら、そもそも国連軍内部にそんなものを立ち上げること自体が無理だ。

 故に、帝国軍の基地内に、対外的にはそうと知らせず、計画が正式に国連の承認を得た後にはA-01部隊として任官させるための衛士訓練部隊が設立された。日本人の科学者が、帝国のバックアップを受けて提唱した理論が罷り通ったのである。ということは、この計画はそもそも日本人の手によって運用されることが相応ということだろう……。それ故に、帝国軍衛士訓練校出身でありながら、国連軍に転籍、さらに直属の特殊任務部隊に配属される……という理屈が実現してる。

 そして……1999年の1月に、帝国軍横浜基地が壊滅し……『G弾』という暴力が更地と化したこの地に新たに設けられた、国連太平洋第11方面軍横浜基地。なるほど、ならばそれはその建設の当初からAL4を潤滑に進めるための、専用の研究施設ということになる。計画提唱者である夕呼がちゃっかり副司令の地位に就いているあたりに、彼女の恐ろしいまでの策謀が窺える。

 基地司令であるパウル・ラダビノッドは……いわば国連からの監視役、だろうか……。

「やっと理解できました……。俺達、207訓練部隊の国連軍への転籍は、そんな理由があったからなんですね……」

「そうだ。貴様らと……一期上の、高梨たちは、基地そのものがAL4専用に建設されるために、今までのような回りくどい手を使わずとも直接A-01部隊へ任官させることが可能となったことから、札幌基地より異動させることが決定した」

 やることが一々壮大で、漠然とした感想しか思いつけない。スケールが大きすぎてその全貌まで窺い知ることなど出来ない武は、今はとりあえずそういう事実があったのだということで頷いておく。そこに国家間の陰謀や思惑もあったのかもしれないが、現実に、武はここに居る。だから、それは最早そういうことでしかないのだ。

 手に入れた情報をそう整理した段階で……ならば自分はいずれ、どっち道A-01に配属になっていたのだと気づく。そして、いつかは茜達も。

 ならば夕呼は何故、こんなにも異例中の異例という手段で、武をA-01へ捩じ込んだのか。訓練期間の大幅短縮に続く任官。まるでこの時期に武がA-01にいないと困るとでも言いたげな……いや、それは考えても詮無いことだと自分でもわかっているはずだ。

 だが、想像は出来る。

 先ほども考えたような……きっと、夕呼にとってなにか有益な存在。戦術機適性「S」というだけでは説明もつかないが……最適な言葉を捜そうとするならば、矢張り“駒”、だろうか。

 なんにせよ……これは深く考えれば考えるほどに泥沼に陥りそうな命題だった。……駒でもなんでもいい。覚悟は当に決まっている。そして、用意されたレールとはいえ、自身の意思でその上を奔ると選択したのだ。夕呼の思惑など知ったことではない。

「白銀……貴様が考えていることは大体想像がつく。放っておいても八月……遅くとも翌年二月にはA-01に任官するであろう自分が、どうしてこんなにも早急に任官することになったのか……」

「……」

「それはな。貴様が今月末に行われる甲20号目標間引き作戦……作戦名を『伏龍作戦』と呼ばれる一大作戦に参加することが決定されているからだ」

「――は?」

 『伏龍作戦』という名も初耳なら、それに参加するというのも初耳だ。当惑する武に、しかしみちるは変わらぬ表情のまま……

「故に、貴様は本日からでも部隊の訓練に合流し、隊の皆との連携を完璧なものとし、さらには対BETAに関するあらゆる知識・技術を身に付け、己のものとしなければならない」

 みちるの言葉に絶句する。

 一般的に、任官した後、どの程度の訓練期間をおいて初陣となるのかを武は知らないが……常識的に考えて、任官したばかりの新兵を、僅か二週間後に……しかもそんな大々的な作戦に参加させるというのは……多分、とんでもないことなのではないだろうか。

 ……だが、みちるは一切冗談を言っている風ではないし、なにより、これこそが夕呼の思惑の一つなのだと悟って、武はギュウと拳を握り締めた。腰に提げる弧月がヒィン、と鳴る。締め付けられるような心臓に反比例して、なにか得体の知れない情感が込み上げる。







 つまり、それは……



 二週間後には、ヤツラを、殺せる、という……こと、?







「いいか白銀。貴様に用意された時間は少ない。ハッキリ言って無茶苦茶だ。……だが、我々は軍人であり、そして香月博士直属の特殊任務部隊である。博士が立案する作戦は全て、AL4遂行のために必要不可欠で、失敗の赦されないものだ。貴様が参加する『伏龍作戦』もまた、そのひとつであると知れ。――わかったな?」

「はい!!」

 その声量に、みちるはほんの少しだけ驚く。或いは……武が瞬間にして纏った、空気、というもの。

 あまりにも一瞬前までとは異なる様子の武に、彼女は小さく眉をひそめはしたが……時間がないということを誰よりも承知しているみちるである。今日の夕方までに詰められるだけBETAについての知識を詰める。ハイヴ攻略は想定されていないため、そのあたりの知識は追々叩き込むとして……みちるは、昨日までに立案していた武の、そしてA-01部隊全体の訓練内容を今一度確認し、よしと気合を入れる。

 ともあれ、武はやる気に満ちている。部下がこれほどに気概を見せているのだから、それに応えてやるのが上官というものだろう。

 だからみちるは気づかなかった。

 左手に弧月の鞘を握る武の瞳。――それが、どこか黒々とした光を孕んでいたことに。







[1154] 復讐編:[十章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:26

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十章-01」





 最高時速180km/hで迫る巨岩のような大群。遠方からでも圧倒的に過ぎるその大群を前に、ぶるりと全身が奮えるのがわかる。前面に突き出した装甲殻には通常の攻撃手段は通用しない。反面、後部は36mm砲で十二分に通用するので、突撃級と呼称されるソイツの攻略法は、往々にして決まりきっている。

 つまり、衝角突撃戦術をかわし、背後に回って討ち取るのである。だが、一言にかわすと言ってもそう単純ではない。跳躍ユニットで飛翔してかわせるならそれが一番手っ取り早く、安全なのだろう。だが、後方に光線級の存在を認めている場合、跳躍することによる危険度は突撃級の間を縫って回避することよりも倍増するのだった。

 座学で散々に叩き込まれた戦史を見てもわかるように、BETAのレーザー属……つまり光線級や重光線級という連中だが、それらのレーザーによって航空兵器が軒並み潰滅させられている。連中は飛翔体を殊更に優先して攻撃してくるのだった。

 戦域情報には光線級を示すマーカーが踊っている。ならば、ここで跳躍しての回避運動は好んでとりたい手段ではなくなった。武は……前方を行く三機同様に、壁のように迫り来る突撃級の間をすり抜けるようにして回避――同時に、抜き放った長刀でその無防備な背中を切りつけた。

 ふらりと機体を倒すように、回避のためかはたまた攻撃を想定してのことか、くるんと機体を旋回させてのその一撃。回避が攻撃となり、攻撃が回避となっている。

 その武の機動を後部カメラの映し出す映像で確認していた水月はヒュウと口笛を吹き、自身も負けてられないと照準もなく36mm砲をばら撒く。左方では、その水月と同じように志乃が、真紀が次々と獲物を平らげていた。

『よぅし、B小隊はこのまま転進、予定通り前方の要撃級を叩く! ついてこい!!』

『07了解!』 『09了解ッ!』

 通信機越しに聞こえてくる水月たちの声に重ねて、武もまた了解を告げる。

 A-01、通称を伊隅戦乙女中隊(イスミ・ヴァルキリーズ)とも言う、女性だけで構成される一個中隊。その突撃前衛を務めるB小隊に、武はいた。

 歴代のヴァルキリーズの栄えある伝統に泥を塗ったとされる武だったが、彼以前にも実は鳴海孝之という男性衛士が所属していたことや、彼もまた同じくB小隊だったことを、木野下から聞かされている。

 当時はそのことで孝之を散々からかったものだと笑う木野下の言葉に、しかし内心で武は狼狽していたのを思い出す。……その場には水月や遙はいなかったが……彼女達がそれを知らないはずはないだろう。水月たちが任官したその日を思い出す。泣いていた水月。震えていた水月。……果たして、武は本当に彼女の力と、支えとなれていただろうか。再会した水月からは、とても“強い”印象しか見受けられない。隊の皆に見せる仕草や、突撃前衛長としての豪胆さ。役割を務めているという印象はなかったが、彼女の深奥を知る一人としては、正直、心配に思ったことも確かである。

 ……が、矢張りそこは速瀬水月であった。

 武如きがどうこう案ずる必要などなく、むしろこちらが彼女を心配させる種となりかねない。今の武に求められていることは、ともかくも彼女達との連携を完璧にすること。そして、BETAとの戦闘に慣れることである。

 所詮シミュレーターではあるが、それでも話しに聞くBETAの脅威と、こうして目の当たりにしてやり合っている連中の脅威は雲泥の差だった。知識としてさえ、BETAの詳細を知ったのはつい先日のことである。こいつらがこんなにも奇妙奇天烈な姿形をしていることや、おぞましいほどに醜悪な容姿をしていること。まして、精神的ダメージを期待しているのならそれは紛れもなく大成功だと賞するに相応しいだろう個々のデザイン。

 中でもずば抜けて武の精神を逆撫でしたのが兵士級と呼称される、目下のところ最弱とされるBETAだ。どいつもコイツも吐き気を催す不快さを湛えているが、その白いきのこの化け物のような形をしたそいつの、ギッチリと並び剥き出しにされた歯を見たときなどは、夢に出そうなくらい強烈な感情に見舞われたものだ。

 同様の意味で、武は戦車級という小型種も嫌悪している。こちらは戦術機に取り付いて数多くの機体、並びに衛士を喰らっているというから、尚更に吐き気がする。

 網膜投影ディスプレイに映し出される要撃級の群れ。その間を這いずるような赤褐色の戦車級の大群を見て、武は一気に眉を寄せた。

 ――こんな連中が、純夏をッ!

 ぎりり、と操縦桿を握る腕に力が入る。噛み締めた奥歯は焼き付くように熱くて、睨み据えた瞳は凍りつくように冷たい。

 だが、その感情に振り回されることがあってはならない。戦場では、感情に流された者から死んでいくという水月の言葉が蘇る。

 突撃前衛。常に前線を駆け巡り、隊の進む道を切り拓く花形。最も多く接敵し、故に最も高い死傷率を誇る小隊でもある。高い近接格闘能力と操縦技術、なによりも常以上に優れた状況判断を要求されるその小隊に自分が抜擢されたことを、武は誇りに思う。同時に、自身が負った責任というものも、重々承知しているつもりだった。

 己が拓いた道を、後方の仲間達が突き進むのである。BETAたちに攻め入るための入口を。或いは、囲まれた状況を打破するための突破口を、拓く。

 突撃前衛小隊にいるものは、その全員が往々にして単機での攻撃力に突出している。その卓越した能力を巧みに連携させ、更には後方の部隊ともに連携を繋げて、ようやく人類はBETAと戦えるのである。地上支援部隊や海上からの支援砲撃等、多分にそれらの恩恵あってこそのBETA殲滅だが、矢張り対面してBETAと戦い抜くためには部隊内の強固で高度な連携が求められる。

 武は匍匐飛行しながら右手に長刀、左手に突撃砲を構える。水月や志乃の戦闘スタイルを真似てのものだが、存外にこれが効率よくBETAを屠ることができる。真紀は周囲を囲まれない限りは突撃砲だけを構えている。そのことを質問した際に、彼女はこう答えていた。

 曰く、長刀を使うと長持ちしない、のだそうだ。……なるほど、確かに長刀の扱いには突撃砲のようなシンプルさはない。剣術に覚えのある武がBETAを“斬る”のに対して、真紀は“叩きつけて圧し通す”ような使い方をしていたように思う。……志乃も似たようなものだったのだが、真紀のそれは彼女自身が言うように、少々荒っぽく、耐久度を鑑みれば、確かに頻繁に使いたくない装備なのだろう。

 が、突撃前衛の基本装備である74式長刀二本に87式突撃砲一丁というそれは変更していない。接近戦を必然的に迫られ、常に敵の真っ只中にある突撃前衛においては、矢張り長刀は必需品なのだ。包囲網を突破、或いは隊全体が後退でもしない限りは弾丸の補給など出来ない。敵に近接している状況で弾薬が尽きたのなら、頼るべきは長刀、そして短刀となるからだ。

 脳の片隅で思い出しながら、武は36mm砲のトリガーを引いた。狙いを付けなくとも命中するというのが、どこかしら滑稽にさえ思える。汚物を散らしながらに悶絶し、停滞し、そしてすぐさま背後から怒涛に迫る他のBETAに踏み潰される戦車級の一団を哀れに思うこともなく、武は月詠の剣術を体現する。

 右手に握る長刀を振り回し、機体を旋回させつつも左手のトリガーを引く。右と左、前と後ろ、左と右、後ろと前。踊るように旋回し、僅かにも思える敵の隙間を縫いながら螺旋を描く。すれ違い様に斬りつけては回転、遠方から迫る集団に向けて突撃砲が火を噴き、更に回転。対物量戦を想定したかの剣術を、武は内心で沸騰するような感情を抑えつつも、とにかく必死に繰り返す。

 息をつく間もない。二機連携を組んでくれている水月が武の進む道を用意してくれる。……彼女のフォローなくして、まだ、武は単機でBETAの包囲網を抜ける術を持ち合わせていない。

 無論、戦場においては最低でも二機連携を組むのが鉄則であるから、その武の葛藤は些か先走りすぎともいえるが……。ともかくも水月は先任として、そしてB小隊を纏める小隊長として、新人の武を死なせまいと、更には己の機動を見せることで武の成長を促そうと躍起になって劣化ウラン弾をばら撒き、手当たり次第に切り捨てていく。

『武! 前方の光線級、一匹残らず叩くわよ!!』

「ヴァルキリー12了解ッッ!! うぉおおおおおお!!」

 腕を振り上げた要撃級の顔面らしき部位を切りつける。その慣性のままに機体を転進させて、振り抜いた左手の突撃砲で止めを刺しながらに、武は跳躍ユニットを盛大に噴かせた。前方には既に目標へと進路を移している水月の不知火。追随するように、武も自機を操る。左方にはやや遅れる形で志乃と真紀の不知火。07、09とペイントされた青色の二機が、まるでタイミングを合わせていたかのように左右に割れる。

 ――同時、鳴り響く警報音。レーザー照射警報。初めてこれを聞いた時は正直パニックに陥って何も出来なかった。人類の航空兵器を完全に制圧し、人が空を飛ぶ夢さえ文字通りに打ち砕いた圧倒的対空兵器である光線級。ともすれば刷り込みに近いレベルで、その脅威度は上位に置かれている。

 だが、志乃や真紀が事前から回避運動を取っていたように……このレーザー照射は予想の内だ。前方の水月も焦ることなく進路を右にとり、武もそれに倣うように操縦桿を傾ける。進行方向には、BETAの一団。第一陣として突撃していた突撃級の一部を背後に取り、更には群れる戦車級を前方の盾として利用する。下手をすればあっという間に取り囲まれて身動きが取れなくなりそうだったが、単純にレーザー照射を避けるための手段でしかないため、長時間居座るつもりもない。無論、ただ黙って盾に利用するだけというには危険極まりないので、当然として向かってくるヤツは斬り、或いは撃ち落とし絶命させる。

 そんなことを繰り返しながら光線級にどうにか接近し、柔らかなその身体を長刀で切り刻む。跳躍ユニットの噴射を利用した高速旋回による連撃。三体の光線級の周りを一周するかのような軌道を取り、水月共々に七体を葬る。志乃と真紀も同様に戦果を挙げ、これで当面の危機は去ったといっていいだろう。戦域情報を見れば、A、C小隊も全員が健在。進行方向の要撃級を平らげて、こちらに合流する進路を見せていた。

『ヴァルキリー1よりヴァルキリー3。よくやった、速瀬。今のうちに後退して補給しろ。補給完了次第、ポイント45に移動。次の目標を叩く!』

『03了解! ……ぃよっし、さっさと下がって補給するわよ! 先頭は上川!』

『07りょーかい!』

 みちるの指示に返事して、水月は早々に後退の準備に取り掛かる。あらかたの敵を屠ったとはいえ、まだまだ食い残しが多く存在するのである。基本的に突進するだけのBETAだが、進行方向からわざわざ転進して襲い来るヤツもいる。特に数の多い戦車級は矢鱈と厄介なため、警戒は怠らないに限る。

 志乃を先頭に真紀、武が並び、殿を水月が務める。

 知らず緊張を解いてしまいそうになる自身を戒めながら、武はレーダーを代表する各種センサーの反応を見逃さないよう、意識しながらに後退する。

 戦闘開始から僅かに十数分たらず。――長い。

 乾ききっている喉を鳴らす。まだまだ、“戦場の空気”というモノに圧倒されている自分を自覚する。志乃に言わせればたかが数回のシミュレーター訓練で調子に乗られるよりはマシだとのことだが……。無論、調子に乗るつもりなどないし、驕るつもりもないのだが……武は、なによりも己が進むと決定したその道を突き進むための術を欲している。

 そのためには、一秒でも長く生き残り、生き延び、戦い続けなければならない。初陣で無様な屍骸を晒してなど堪るものか。

 生きて、生きて、生きて、生きて。そして、――殺そう。

「…………ッ、ッ、!?」

 殊更に鋭く歪められた双眸を、進行方向から見て右側――九時の方向に向ける。立ち上る砂煙。揺らめくようなシルエット。要塞級。そして、幾条もの白い閃光が空を焼く――







 ===







「武、あんたなかなかやるじゃない。今の連携はよかったわ! 次もこの調子で頼むわよ!」

「…………はい。ありがとうございます」

 シミュレーターから降り、壁に背中を預けていると水月がやってきた。笑いながら武の肩をバシバシと叩く彼女はとても機嫌が良さそうである。それはきっと、今回の訓練で初めて、武が戦死しなかったからに違いない。

 少々気恥ずかしい気もするが、しかし、純粋に嬉しい。憧れて尊敬して、大切にしたい水月が、武の生存のために数え切れないくらいのフォローをしてくれたことを、彼は気づいている。なにより、訓練開始前に、わざわざオープン回線のまま「絶対に死なせない」などと宣言されてしまえば、言われた当人としてはひたすらに赤面するほかない。

 そうして、水月の宣言どおりに、確かに数度ヒヤリとした場面もあったが、こうして無事に武は生存することが出来ていた。四回目のシミュレーター訓練にしてようやく。その数字が一体何を意味するのかは、正直武には興味がない。……これほどに歓んでくれる水月には本当に申し訳ないのだが、けれど武は……その結果にただ憤慨するばかりである。

 もっと強く。

 例えば水月や他のB小隊の僚機に助けられなくとも。

 もっと強く。

 例えば包囲されたその時に一体を葬る時間を最短に。

 ……今の自分にはまだまだ過ぎた望みであることもまた、重々自覚している。……というよりも、思い知らされたといった方がより適切だろう。

 そんな自身の葛藤を、武は表に出しているつもりはなかったのだが……気づけばジットリとした眼で、水月が睨んでいた。

「……ぇ、っと…………水月さん?」

「水月さん? じゃないわよ。……あんたねぇ、まさか生き残ったのが嬉しくないなんて言うんじゃないでしょうね?」

 そんなつもりはない。戦い抜いて、任務を成功させて、生きて帰ってくるのが衛士の義務であり責任だ。例え戦闘の最中、惜しむらくも命を落とそうとも一切の後悔はしないが……矢張り、生還できてこそ、一人前ということがいえると思う。まして、衛士は貴重なのだ。その損耗率に補充が一切追いついていない状況で、どうして生き残れたことに不満を覚えるというのだろう。

 更に言えば、今回の武の生還は、真紀の犠牲あってのものである。仲間に救われた命を嘆くほど、武は無神経でも愚か者でもなかった。……無論、それが訓練であろうとも。

「そんなつもり、ないですよ。……生き残った者は、死んでいった者の分まで生きなきゃいけない。そのヒトの存在を、生きていたという記憶を、絶えさせないために。笑って、誇らしげに語ってやれ……って、俺に教えてくれたのは、水月さんじゃないですか」

「……わかってるなら、そうしなさい。あんたがそんな仏頂面してたら、本田も浮かばれないわ」

「あの~~~、本当に死んだみたいに言わないでくれません???」

 剣呑な表情をする水月の背後で、真紀は控えめにその存在を主張した。更に後ろには志乃がくつくつと笑っている。……どうやらも何も、武と水月の会話を聞いていたようだった。その真紀の半泣きに似た表情に、思わず噴き出しそうになる武である。

「本田少尉……その顔……ぷっ、」

「ぁあああ!!?? おまっ、シロガネ! 今笑ったろ!? 笑ったぁぁあーーー!!」

 ぷんすかと肩を怒らせて武ににじり寄り、拳を振り上げる真紀。しかし武はひらりと身をかわし、くるくると彼女の周囲を廻りながら翻弄する。ムキになって殴ろうと追いかける真紀が可笑しくて、志乃は盛大に笑っていた。

 ……だが、眼前のその光景に、水月だけが眉を顰めたままだ。一歩、武たちから身を引くように、真紀と戯れる彼を見詰める。

 水月は思い出していた。

 武がA-01へ任官したその日の晩。隊長であるみちるに呼び出され、真剣な表情の彼女に問われたその内容を。







 ――速瀬、白銀にはなにか……BETAを怨むようなことでもあるのか?







 その言葉を聞いた時、水月は、まるで白痴のように呆けてしまった。……みちるに問われたことが、よくわからなかったというべきだろうか。しかし、確かにその耳で聞いた言葉は脳裏に残っていて……だから、一拍の後に、

「大尉、それは……」

「いや……今の時勢、誰も彼も、少なからずBETAに怨みを持っているだろう。……人類をここまで追い詰めた連中を、怨んでいないものなどいないだろうし、……それによって何か大切なものを失ったものも珍しくはない」

 水月を呼びつけながらに、しかし彼女から少しだけ視線を外して、みちるは思い出すように口にする。……今までの部下を思いだしているのかもしれない。或いは、彼女を育ててくれた多くの先達を。喪った、仲間を。

 確かに……今現在地球に暮らす人の中で、連中に怨みを持たないものは存在すまい。やつらが踏みにじった後にはただ荒野が残るだけ。住んでいた家も街も都市も、暮らしていた家族も親も兄弟も。何もかもを蹂躙され、何もかもを喪って。抗うために戦争に出向き、力及ばずに戦死して。逃げ惑う最中に踏みにじられ暴威にコロサレ。

 一般人だろうと、軍人だろうと、老人だろうと、若者だろうと、赤子でさえ……死んだものも生き残ったものも誰も彼も。全員が皆、BETAを敵と認識し、怨み、憎んでいるだろう。……そこに復讐を誓うものも、いるかもしれない。

 哀しいことだが、それが現実であり……それがこの戦争だった。

 だから水月は、その感情を否定するつもりはない。復讐という黒い執念に憑かれることを肯定はしないが、……少なくとも、誰だって一度は、そんな類の感情に晒される。それは、事実だろうと思う。

「……幸いにして……本当に、幸いにして私は、私の部下だった者たち……お前たちも、だが……未だ復讐にとり憑かれたものはいない。……今後もそんな哀しいことにはなって欲しくないと思っているが……」

「…………」

「……だが、な。今日、ヤツに講義をしていてわかったことがある。…………一ヶ月もヤツと過ごしていて、今更という気がしないでもないがな……」

 水月は沈黙する。みちるも、酷く忌々しそうに言葉を切った。

 最早、彼女が何を言おうとしているのかは明白だ。否、彼女は最初から水月に問うている。

「ヤツは、倒すべき敵を欲している……というのが、かつて白銀の教官だった熊谷という男の言だ」

「――え、」

 熊谷、という名に覚えがなく……水月は少しだけ虚を突かれた。だが、思い当たる人物が一人いる。札幌基地で、武の教導官をしていた大男。そうか、アレが熊谷……。

 何かを思い出したような水月に、ひたりと視線を向けて。みちるはまるで深く息を吐くように、言った。

「速瀬……おまえが訓練兵時代に白銀と関わりがあったことは知っている。…………白銀に、何があった?」

 予想通りに。

 あまりにも予想通りに、みちるは問うた。そして、彼女のその言葉は……ひどく水月を哀しませる。

 武が敵を欲していて……そして、みちるがその理由を尋ねるということ。それは、つまり、……………………………………そういう、ことだった。

「――ッ、!!」

 ぎしり、と。水月は奥歯を噛み締める。両拳を握り締め、ぶるぶると腕が震えるくらいに強張らせて……。

 でも、それでも、そんな程度では一向に収まらない感情――怒り、に。

 視界が白熱するほどの怒りを覚えた。この場に武がいたならば、即刻に殴り飛ばして、いつぞやのように気合を入れてやるところだ。



 ――あの、莫迦ッッッ!!!



 迸る感情がある。怒りと、怒りと、そして哀しみ。悔しさ。

 立ち直ったのではなかったのか。歪もうとする武を、あの雪の日、自分が支えてあげられたのではなかったのか。迷いながらも足掻き、必死になってもがく武を、あの夜に引っ張りあげられたのではなかったのか。……差し出した手の平を、彼は握ってくれたはずなのに!

 ……それとも、もう、既に。

 昨年の七月。意識を失った武に再会したあの時。もう、既に…………。彼は、狂ってしまっていたのだろうか? 憎悪に捕らわれて、復讐に駆られてしまっていたのだろうか?

 ――きっと、違う。そんなことは、ない。

 だって、茜がいたのだ。親友の妹。武の一番近くにいる、仲間。誰が見ても明らかなくらい、武のことを心配して……いつも、いつだって傍にいて彼を支えていた少女。彼女達。

 そんな風に案じてくれる茜達がいて……武が復讐を選ぶとは思えない。もし自分が傍にいたら……と想像して、矢張り自分は武をそんな風にさせないと確信するように。茜がいて、彼女達がいて、武が歪んでいくのを、ただ黙ってみているはずがない。

 だから、きっと違う。

 みちるが武を“そうだ”と言うのなら。それは……極々最近のことのはずなのだ。

 例えば、単身で異動し、A-01へ任官するための……その、敷かれたレールの上を行くと決めたとき。――そんな、莫迦な。

 だが、およそ水月が考えうる中で、それが一番可能性が高い。……武は、己を支えてくれる人々を見捨てて復讐に走るような男ではない。もしも仮に武がその道を転げ落ちたのだとしても、きっと……茜が止める。感情を誤魔化すことを知らないあの子が、泣きながらに道を阻むだろう。だから――

「……大尉、本当に、武は……?」

「…………わからん。単に、私がそう感じたというだけの話だ。…………神宮司軍曹からも、引継ぎの際に聞かされていたことだったが……あの方も、熊谷軍曹のその言には半信半疑ということだったしな。……訓練を見ている分に、ヤツにそういう類の狂気は見られなかった、というのが正直な本音だ」

 ならば、何故――。

 その水月の感情を知るからだろう。みちるもまた、それを知りたいとでもいうようだった。

「BETAについて講義を始めたあたりからだな……白銀の眼が、どこか妙だと感じた。……最初は気のせいなのかと思ったが、違う。少なくともこの一ヶ月間、私はあんな白銀の眼を見たことがない」

 どこか暗く濁ったような……泥泥とした黒い光。早口に説明するみちるの言葉、その一言一句を脳に魂に刻み込み、敵の、BETAの特徴を形態を戦略を弱点をあますことなく記録し記憶し、一秒後には斃す方法を何百通りとシミュレートする。……そんな、狂気。みちるは自身の考えすぎだと笑うことなど出来なかったし、それを放っておいていいとは感じなかった。

 本当に幸いに、彼女は今までそういった感情に飲み込まれた者を部下に持ったことはない。

 一様にしてヴァルキリーズの面々は、まりもという尊敬する教官の教えによって、よい意味で真っ直ぐに、そして優秀な衛士として育っていた。……或いは、そんな感情を抱えていた者はいたかもしれない。けれど、それ以上に仲間の大切さを知り、生きている者の責任を知り……多くの戦友を死なせないために。それら負の感情を表に出すことも、支配されることもなかったのだ。

 だから。

 その武を見て、確信する。こいつは……この男は、このままでは死に引き摺られるのだと。彼に何があったのかは知らない。どれほどの憎しみに駆られているのかなんて、彼以外には知り得ないだろう。……だが、それが招く危険さは知れる。

 往々にして、感情に支配された者は死に易い。戦場では特にそれが顕著だ。

 怒りに支配され状況を見失い、恐怖に支配され身動きがとれず――そして、復讐に駆られる者は、己を顧みない。

 目的だけが最優先。なけなしの理性が辛うじて生存を叫ぶが、その声は黒々と噴き出す怨恨に塗り潰されて届かない。敵を前にした復讐者に、制止を促す感情は、ないのだ。

 その日の訓練中、武は一見して冷静だったように見えた。

 小隊長である水月や、先任の志乃、真紀の助言に素直に従い、隊内の連携やBETAとの戦闘方法、諸々の事項について真摯な姿勢を見せ、一つずつ確実にものにしようとしていた。……それは、紛れもなくいつも通りの彼の姿であり、努力を怠らない、己の能力に慢心しない、衛士としてあるべき姿だった。

 ……だから、尚恐ろしい。

 武を知る水月が気づけなかったということが、なによりもその狂気の片鱗を、みちるに思い知らせる。

 故に、みちるは知らなければならない。本当に武がBETAに対する何らかの……憎しみを、怨みを持っていたとして。それが部隊としての運用に支障をきたす可能性を持つならば……。

 隊長として、十一名の部下の命を預かる者として、先任として――正し、導く。

 そう。つい二週間前にそう決意したように。武自身のために……そして何より、目の前で悔しさに瞳を滲ませる優しい彼女のために。

 白銀武を、死なせはしない。

 既に彼もみちるの部下の一人だ。まりもの教えを受けた彼を。類稀なる才能を持つ彼を。……夕呼が直々に特別な措置を取った彼を。……死なせはしない。

「速瀬……お前が白銀を大切に想っていることは知っている。……恋人の過去を抉るようで気が進まないかもしれないが……」

「…………」

 どうしてか、みちるのその言葉に喉を詰まらせる水月。ごほごほと咽るように咳き込んで……若干頬を染めながら、しかし、彼女は、かつてない真剣さで。

 語った。

 その、哀しい過去を。

 降りかかった災厄を。悲劇を。――喪われた、彼女の話を。







 泣いていたのだと、水月は自分で思う。その後のことはよく覚えていないのだ。……ただ、みちるの「そうか」と呟く声だけが、やけに鮮明に残っている。

 目の前には未だふざけあう武と真紀の姿。いつの間にか志乃までが真紀をおちょくっている。

 あまりにも微笑ましい。賑やかで、呆れるような穏やかな光景。笑っている。武はちゃんと笑っている。声を上げて、からかって……志乃に裏切られて、真紀に腹を殴られて………………。

「ルゥァアアア――!!」

「ぐぼぉっ!?」

 ずむん、という鈍い音が響く。武の肩くらいまでしかない少し小柄な真紀の、抉るようなボディーブロー。志乃に両腕を固められて、逃げることも出来ずにまともに喰らっている。超至近距離のその一撃は、如何に強化装備越しとはいえ、大層なダメージを与えたことだろう。

「……かみ、かわ、しょうい……っ、ひど……い」

「いやぁ~、いつまでも逃げてたんじゃ面白くないしなぁ」

「ふははは! シノっちを信じたシロガネが愚かだったのさ!!」

 まるで何処かの悪の幹部を思わせるような真紀の高笑いに、一人シリアスにふける自分がまるで莫迦のように思えてくる。水月はげんなりと溜息をついて……やがてヤレヤレと肩を竦めた。

 どうしてだろうか。

 きっとみちるが感じたことは本当だろうと、そう確信するのに。

 こんな風に……武は、あまりにも水月の知るままの姿を見せてくれている。水月が護り、支えると決めた……そのままの彼を、見せてくれている。

 だから大丈夫なんて保証はないのに。

 なのに、どうして。どうして自分は……。きっと大丈夫、なんていうもう一つの確信を、抱けているのか。

「ほらほらっ! いいかげんにしなさい! 武もいつまでもサンドバックになってないで、さっさとシミュレーターに戻んなさいっ」

「おろ? もうそんな時間?」 「あっちゃ~、全然休憩してないや」

 出来るだけ盛大に。強気に振舞って声を掛ける。慌ててタラップを上る真紀と志乃に……屍みたいに転がる武を見る。

 うつぶせて引き攣った笑みを浮かべている武を見て……がばりと跳ね起きて助走の後に飛び上がり真紀に一撃を喰らわせた彼を見て……。

「あはははっ、だってそんなの、決まってる」

 保証なんて必要ない。確信して当然。――だって、武は私が支えるのだから。

 だから大丈夫。何の心配も要らない。

 もし武が道を踏み外して外道に堕ちるなら、自分も一緒に転がり落ちて、その道を阻む。胸倉を掴みあげて、思い切り殴って。呆けた面にもう一発くれてやって。そして。

 そして……手を引いてあげよう。あんたが進む道はこっちじゃない、って。そう教えてあげよう。

 そのために、自分はいる。そう、誓ったのだから。

「だから武…………鑑のことを忘れられなくてもいい。だから、生きなさい」

 先を行く少年の……いつの間にか青年になっていた彼の背中を見る。真紀に遠慮なしの飛び蹴りを食らわせて、高々と笑っている彼を見る。あははは、また真紀に殴られてる。……まったく、本当にしょうがないヤツ。

 本当に本当に、手のかかる……手の放せない、可愛い弟。

「まるで恋する乙女そのものですねぇ……。中尉、今夜あたり白銀を誘ったらどうです? もうすぐ作戦なんですから、今の内に励んでおいたほうがいいと思われますが……」

「……ッ、あんたは……ッ、ほんっとうに……いつもいつも、」

 しれっと。水月の背後に立っていた美冴が、本当にしれっと言ってのける。

 涼しげに笑いながら言う彼女に、ぷるぷると肩を震わせる水月。胸の辺りでは握り締められた拳がスタンバイオーケーという状態だった。

「おや? これは余計なお世話だったようで。……そうですか、中尉と白銀は毎日のように……。まるでケダモノですね」

 ぶちっ。なにか、水月の中で大事なものが切れた。あは、あはははは。にこやかに凄絶な笑みを浮かべる水月。しかし直面している美冴は微塵も恐れた様子もなく……

「――って、岡野が言ってました」

「わたしぃいいい!!??」

 すぐ隣りで成り行きを愉しんでいた亜季に振る。それはもう見事なまでのパスが、何の打ち合わせもなく合図もなく、すとんと手渡された。驚愕に叫ぶ間もあらば、ギヌロ、と向けられた水月の視線に息を呑む。

「岡野ォオオオオオ!!」 「ぎゃーーっ!!?」

 シミュレータールームに轟く咆哮と悲鳴。なんだか賑やかに過ぎるその光景を、ぽかんとした表情で……そしてどこか可笑しげに、楽しげに。

 武は、笑って、……見詰めていた。







 ===







(ほほぅ)

 腕を組んで、志乃は感嘆の息を漏らす。シミュレーター訓練を終え、夕食を終え、一日の終わりも間近、という時間。寝る前に自身の機体の様子でも見ておこうとやってきた格納庫で、彼女はそれを目撃した。

 ヒュゥ、と空気が裂ける音。ブォウ、と大気が擦れる音。……まるで舞を舞うように。銀色の刃を振るう武がそこに居た。

 彼が常日頃から立派な刀を提げているのは、矢張り彼が相応の剣術の使い手だからだろうという志乃の読みは正解だったということだ。或いは武家の出身かとも思ったが、そのあたりは別にどうでもいいとも思っている。純粋に志乃の眼を引き、興味を引いたのは武の持つ黒塗りの拵だったし、それを扱う彼の技量だったからだ。

 自身の剣術の師から託されたのだと、とても嬉しそうに、誇らしそうに語る武の表情を思い出す。……そして、それを聞いて大層愉快な表情をしていた水月を。多分アレは嫉妬とかそういう類のものじゃないかと志乃は睨んでいた。

 女だな――。その場に居合わせた全員が確信し、そのお師匠様と水月はとても反りが合わないのだろうと想像して笑った。水月も色々大変である。聞けば遙の妹も武のことを気にしていているとかいないとか。まさかの三つ巴に騒然としたものだが、現時点では水月が武の恋人だというのだから、とりあえず問題ないのだろう。……多分。

 そんなごく最近の面白事情を回想しながら、……偶然にも目の当たりにした武の剣術に、志乃は満足そうに頷いた。

「ははは、なんだありゃ。アイツのあの機動は、これから来てたってわけだ!」

 合点がいった、と志乃は笑う。真紀にも今度教えてやろう。とても新人とは思えない武の機動。BETAの大群の間をくるくると舞うようにすり抜けては斬り付ける奇妙な剣術。

 そのルーツを知った。なるほど、あれか。アレが武の強さの根底に在るものか。

 水月や藍子、真紀に亜季、そして自分にからかわれている時のような情けなさはどこにもなく、ともすれば見ているだけで斬り殺されそうなほどに鋭い剣舞。一撃一撃に必殺の意思が込められて、振るう度にその殺気は肥大化していく。

「…………」

 志乃は、ぼんやりとそれを観察した。多分、戦術機でBETAと戦うそのときを想定しているのだろう武の動き。それを、ただ、見詰める。

 喉がひりつくほどに、痛い。自分に向けられたわけではないのに、そのあまりにも手当たり次第な殺気に、いつの間にか瞳を険しくしている自分が居た。

「あいつ……」 「酷いわね……」

 ぎょっとして振り向けば、いつの間にそこに居たのか……藍子が同じように腕を組んで立っていた。いつもなら艶っぽい目元のほくろも、今の彼女の表情にはあまりにも似合わない。

 ともすれば自分以上に険しい表情をしているようにも見える彼女に、しかし志乃は何も言わなかった。

 酷い、と藍子は言った。……そして、それに似た言葉を、志乃もまた口にしようとしていた。

 ならば、改めて口にすることも無い。……今、彼女達にとって重要なのは、武が見せる、あまりにも哀れな酷い姿である。

「速瀬中尉は……知ってるのか?」

「さぁ……どうかしら。…………多分、知っていると思うわ」

 ――だよなぁ。

 志乃は苦笑する。流石に一年も彼女の部下をやっていればわかる。武が来てからというもの、水月はほんの少しだが、妙だった。それは表面上には何の変化もなく、彼女はあくまでもいつも通りの水月だった。……が、志乃には感じられていた。特に訓練中の、水月の武に対する行動の全て。掛ける言葉の端々、見せる表情の端々に……武を気にかけてのものがあった。

 ならばそれは、恋しい人を想うのと同時に、彼の内面の暗黒を危惧してのものだったのか。

 水月の真意は志乃にはわからない。……だが、きっとそうなのだろうと想像することは出来たし、彼女の知る水月なら、そうだろうと信じられる。

「なら、うちらも白銀をなんとかしてやんないとな」

「あら、それは少々お節介なんじゃない?」

 ふふんと笑いながら言う志乃に、藍子はきょとんと目を丸くする。けれど志乃は一向に気にした様子もなく、

「だってさ、速瀬中尉の恋人を、死なせらんないだろ?」

 まるでそれを当然のことと言わんばかりに。頼もしい突撃前衛のナンバーツーは、にやりと口端を吊り上げる。その表情に、藍子はクッ、と噴き出して。

「ふふふふふっ、まったくあんたは。……ああ、でもそうね。私もそう思うわ。……速瀬中尉の可愛い弟を、死なせたりなんかできないもの」

「弟ォ? お前何言ってんの??」

「あら、知らない? 速瀬中尉は白銀少尉のことを、“アイツは弟だーッ”って顔真っ赤にしながら言ってたわよ」

 さも可笑しそうに藍子は笑う。どうやら今日もまた彼女は水月を散々にからかったらしい。美冴といい藍子といい…………まぁ、あまり他人のことを言えない志乃ではあるが、ともかく。

「……今更照れ隠しもないだろうに……くくくっ、中尉って可愛いよなぁ!」

「ふふふっ、本当。……だから、ね」

 おう、と。志乃と藍子は見詰めあい、しっかりと頷き合う。

 すっと差し出した拳に、藍子は躊躇わず拳を合わせて……そして、二人はもう一度、強く頷いた。

「うちらが、白銀を護る」

「勿論、速瀬中尉のために、ね?」

「ぃやー、白銀がフリーなら、狙ってもいいんじゃない?」

「あら意外。あんたにそんな趣味があったなんて」

 それはどちらかというとお前だろう? 志乃は、藍子はお互いに笑って…………。

 尊敬する水月のために。新しい戦友のために。――次の作戦、『伏龍作戦』で、絶対に……絶対に、死なせたりはしない、と。

 不敵な笑み。自信に満ち溢れた決意。ならば、絶対にそれは達成されるだろう。

「うっわ、怪しぃ~~。二人ともさ、もう少しなんつぅかこう、もっと乙女らしくしたら?」

 現れた亜季に、わぁわぁと慌てふためく二人。それを見てニタリと笑う亜季は間違いなく確信犯だろう。







 作戦開始まで残り一週間。そんな夜の一幕だった。







[1154] 復讐編:[十章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:27

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十章-02」





 朝鮮半島の南西部、全羅南道に八方を囲まれる形に位置する光州と呼ばれた都市。喀什ハイヴの大東進によって蹂躙され尽くしたその場所。

 遠方からでもその存在を主張する全長300メートルの地表構造物。フェイズ4。そう分類されるかのハイヴは、かつてのその都市の名を取り、光州ハイヴとも呼称される。

 帝国軍呼称を甲20号目標というそこから、数え切れないほどの怒涛が波となって湧いて出る。

 波はハイヴを中心に円周上に広がり、或いは地表構造物から遠く離れた地表からぼこぼこと土煙とともに現れ、たちまちの内に地上を黒々と染めていく。

 監視衛星が捕らえた映像が示すそれは、既に一万に達しようとしていた。大小入り乱れた人類の天敵は、その圧倒的なまでの異形と物量で迫り、たちどころに地上部隊を踏み躙るだろう。

 黄海に展開した連合艦隊の艦砲射撃が火を噴く。耳を劈く炸裂音。太陽の光を遮るほどの密度。空を焼き大気を裂き爆炎と黒煙を孕む鋼鉄の体躯が、巣穴から這い出した異形に降り注ぐ。

 閃光。

 先頭を行くALM弾頭が正確無比なレーザー照射に打ち落とされる。発生する重金属雲。セオリー通りの戦法。続け様に放たれていた第二波、三波の砲撃が爆撃の雨を降らせ地形を変える。



 2001年7月1日――



 作戦名、『伏龍』。大東亜連合軍を中心に、中国・韓国の混成軍が筆頭を成す甲20号目標間引き作戦。推測BETA総数はおよそ十数万。BETAは既存ハイヴ周辺の個体数が飽和すると外部へ進出し、新たな前線基地を構築することがわかっている。ここ数ヶ月の大陸への侵攻、或いは九州上陸の頻度を鑑みるに、当ハイヴは近々大規模な侵攻が予測されるとし、その危険性を捨て置けない韓国が中国と協力体制を敷き、同国が代表となり、大東亜連合へ間引き作戦を上申。

 大東亜連合軍はその申し入れを受け、近隣諸国に派兵を要請。そして、約半年の準備期間を経て、本作戦は始動した。

 6月30日に各国艦隊、陸軍は所定の位置に展開を完了し、作戦開始のそのときを待った。

 そして――







 地表での陽動に成功した中国軍の精鋭部隊は、後退する自分達に引っ張られて追撃してきたBETA群が、轟音とともに爆裂するミサイルの爆炎に吹っ飛ぶのを見て気勢を上げた。

 地表構造物からの到達半径が10キロもある横坑、地表に姿を見せている門からBETAを引きずり出し、応戦しながらの後退である。これまでの度重なるBETAとの戦闘の中で、連中は「空を飛ぶもの」、「精密機械」、「人間」の順に優先して襲い来ることがわかっている。無論、統計としてのデータでしかないわけだが、こと戦場においては地上支援部隊や随伴する強化装備部隊以上に戦術機が優先して撃破されていることから、往々にして陽動には彼ら戦術機甲部隊が出向くことになる。

 また、直接にBETAと相対して戦闘するのもまた彼らであるために、衛士にとっての陽動は支援砲撃を成功させるための布石、戦闘は、砲撃が喰い残した残存BETAを食い尽くす、という形式となる。

 間引き作戦に代表される人類側からの侵攻作戦の第一段階、つまり戦闘開始直後は特にこの方法が多く採られており……要するにこれは、乱戦・混戦となるその以前に、艦砲射撃による面制圧の効果が最も望まれるその時に、出来得るだけ多くのBETAを殲滅するための最有効手段というわけだった。

 BETAによって平らに均された大地に、弾頭の雨に焼け焦げた屍が累々と晒される。容赦手加減一切なしのそれが生み出した地獄に、先行する陽動部隊は臆することなく前進を開始した。――支援砲撃の効果は上々。既に前方にはBETA群の第二波が迫っている。

 空を焦がす弾頭の雨。雲さえを吹き飛ばすほどの気焔に、衛士たちの咆哮が混じる。迎撃するレーザー。発生する重金属雲。その繰り返し。着弾し爆裂し死肉を散らす豪雨へと、連隊規模の戦術機甲部隊は吶喊した。







 ===







「白銀のデータ、ですか……?」

「そ。実戦では常に極限が求められ、そして常に極限に晒される……。人間は、死に面した時にこそ己の最大能力を発揮するものよ」

「……つまり、この作戦に白銀を参加させるのは、彼の実戦データが欲しいから、だと?」

 皮製の椅子にゆったりと腰掛ける夕呼は、ふふん、と唇を吊り上げる。眼前に立つみちるの表情が見るからに歪んでいるのが面白いのだろう。堅物で真面目な彼女のことだ。この作戦で部下を喪う可能性も在るというのに、夕呼の科学者然とした態度に若干の反意を見せているのだろう。

 少しだけ感情を波立たせながら、しかしみちるは己を制御する。伊達に夕呼の懐刀をやっていないし、直属の特殊任務部隊の隊長を任されていない。夕呼の命令に無意味なものはなく、異論を唱える余地はない。……下された命令には従う。それが軍人だ。

 ……が、その作戦について何の質問も許されていないわけではない。疑問に思う箇所は解消するべきだし、なにより、隊長である自身が作戦をよく理解していなければ、それだけ部下の危険が増すのだ。故にみちるは問うた。夕呼の真意を知るために。

「ええそうよ。何のために白銀の任官を早めたと思ってるの? 伊隅、白銀の戦術機適性値が“S”ランクなんて尋常じゃない数値をたたき出したことは知ってるでしょ? あれだけの逸材を手元に抱えたまま遊ばせておくつもりはないし、何より研究のためには生きのいいデータが重要なの」

「戦術機操縦については訓練時のデータである程度集積できた。……だから次は実戦でのデータが欲しい、と、そういうことですか?」

「わかってるじゃない。そういうこと。都合よく中国の連中が間引き作戦なんて立案してくれたおかげで、それに乗じることが出来たわ」

 不敵に笑う夕呼の表情は、科学者のそれだ。なるほど、「S」ランクという適性値を持つ武の能力を解明するためのデータ収集、そして集積。確かに実戦での機動データや操縦ログ、或いは身体情報等は、訓練で得られるそれらとはまた違うものだろう。

 夕呼自身が言っているとおり、確かに戦場では常に極限を求められ、極限に晒され続ける。

 気を抜けば死ぬ、という状況では訓練の数倍以上に感覚が研ぎ澄まされる者もいるくらいだ。……データを収集するに、これ以上ない実験場というわけである。――夕呼にとっては。

 ならば矢張り、武の任官……単独での訓練部隊の異動に始まった今日までの計画は、この『伏龍作戦』に間に合わせるためだったとわかる。確か作戦の立案が半年前というから……以前から夕呼は機会を窺っていたに違いない。武の能力に気づき、目をつけたその時から。彼が任官するに十分な能力を身に付ける時を待ち、その能力を発揮させる戦場が訪れるのを。

 そしてそれは用意された。『伏龍作戦』。甲20号目標間引き作戦。

 六月末から始動され、七月に戦闘が開始されるその作戦の存在を掴み、夕呼は早々に武を任官させる計画を進めたのだろう。……が、総戦技評価演習を終えてもいない訓練兵を任官させることなど出来ず、まして訓練課程を八ヶ月以上残した状態で総戦技評価演習に参加させることも出来ようはずがない。

 故の強硬手段。或いは、基地司令との妥協案……といったところだろう。

 そもそもがA-01へ任官させる前提で訓練を進めていた訓練兵である。ならばその中隊長であるみちるが直接に教導を行い、武もまた一人であるために通常よりも密度の濃い訓練が可能となる。更に言えば武の高い戦術機適性を解明するための情報収集も同時に行える。

 夕呼が推し通したのはその辺りだろう。かくしてそれは夕呼の思惑と多少異なるものではあったものの、こうして現実となり、任官したばかりの武は戦場に出向くのである。

「もちろん、白銀のデータ採りがすべてじゃないわよ。流石にそれだけのためにあんたたちを動かそうなんて無駄、やんないわよ」

「……それを聞いて安心しました。……大東亜連合軍から帝国軍へも出兵要請が出ていると聞いていますが……」

「ええ、山口・広島の戦術機甲部隊が出撃するそうよ」

 自分達が決して捨て駒ではないのだと知り、みちるはそれだけで満足することにした。甲20号目標の存在は日本にとっても脅威なのである。今回は偶々陸続きである中国や国内にそのハイヴを持つ韓国が音頭をとったというだけのこと。海を面してすぐそこには九州があり、何度も被害にあっているのだ。だからこそ、当然として日本にも要請はあった。大東亜連合に加盟にする一国である。甲21号目標という直近のハイヴに対する常駐部隊は動かせないために、特に九州から上陸するBETAに業を煮やしている山口の駐屯軍に加えて近隣の広島からも派兵が決定されているという。

 それを聞いて、ふと昨年参加した山口での戦闘を思い出す。あの時共闘した部隊は参加しているのだろうか……。

「ま、一応あんたたちが作戦に参加していることは秘匿、ってことになるけど……別に隠密に動く必要はないわ。今回の作戦は単純にBETAの個体数を減少させること。A-01部隊としてもそれ以上に特別な目標は持たないわ。……強いて言えば白銀のデータだけは持ち帰って欲しい、ってところかしらね」

「……」

 つまりそれは、武の生死は問わない、という意味だ。

 みちるは無言のまま姿勢を正し、目礼して執務室を出る。A-01は日本国内に駐留する国連軍を代表して参加するという建前で、中国軍に協力する。作戦の中核を担う大東亜連合が米国の『G弾』使用に端を発し、米国色の強い国連軍を嫌悪しているための措置である。はっきりに言って回りくどい。所詮上に立つニンゲンの思惑など、大尉風情が理解できるはずもなく。







 目を開ける。ほんの一瞬だけ回想に耽っていた意識を覚醒させ、網膜投影ディスプレイに表示される戦域情報表示を確認する。

 戦闘開始から既に二十分。計三回の艦砲射撃によって一千体以上のBETAの爆殺に成功。現在は中国軍の戦術機甲連隊が南東から進撃を開始して、北東からは韓国軍、北部から大東亜連合軍がそれぞれ侵攻している。

『ヴァルキリーマムよりヴァルキリーズ! 作戦は第二段階へ移行! ヴァルキリーズは直ちに目標に対し攻撃を開始せよ!』

「ヴァルキリー1了解。――いくぞお前たち。ここが日本じゃないからといって、遠慮することはない。我々がただの物見遊山で来たわけではないことを、連中に教えてやれ!」

 みちるの号令に十一人の声が重なる。了解――そう声高に叫ぶ勇壮な衛士たちの先陣を切るのは、B小隊の四機の不知火。蒼色の機体が全速でBETAの屍骸を飛び越えていく。

『しっかしこれだけ更地になってちゃ、観光しようにもなぁ……なぁ白銀』

『はぁ? ……いや、その、……俺に振らないでくださいよッ?!』

『あっははは! 木野下中尉、それ、問題発言ですよッ。シロガネもほら、なんか巧いこと切り返せってば』

『……あのねぇ真紀。笑ってる時点であんたも同類だって……。あ~、白銀。とりあえず無視していいから。うん』

 B小隊に遅れること数秒。こちらは巡航速度で移動する。C小隊隊長にして中隊副隊長の木野下がからかうように武を呼び出す。いきなり名を呼ばれて驚きを見せる武に先を行く真紀がはしゃぐように笑い、彼女と二機連携を組む志乃が諭す。未だ接敵していないとはいえ、既にここも戦場である。……だというのに、まるで世間話をするような雰囲気の少女達に、みちるはヤレヤレと嘆息した。

「……お前たち、既に作戦行動中だぞ。少しは気を引き締めろ」

 至極当然の意見である。だが、みちるとて彼女達が心底から油断しているなどとは思っていないし、本人達もまた、最大に警戒を払いながらの軽口である。張り詰めてばかりでは精神的に疲弊する。或いはそれは、今回が初陣である彼に対する配慮だったのかもしれない。

 ……だが、みちるが心配していたような極度の緊張を、武はどうやら見せていない。木野下たちもそれぞれに多少は気に掛けていたらしいが……それにしても、大した平静振りであった。

 自身の初陣はどうだっただろう。ふと、かつての自分を思い出して、みちるは苦笑するしかなかった。なるほど、確かに現段階で言うならば、武はとてもよく落ち着いていた。よく言えば冷静、普段どおり。バイタルにも異常な興奮などは見られない。決して十分とはいえない訓練しか積んでいないというのに、大したタマである。

 尤もそれが、本物のBETAと相対したその時に、どう変化するのか……。

 武は斃すべき敵を欲しているという。そして、二週間前に水月から聞いたあの話……。1999年の横浜侵攻。みちるもまた、防衛戦線にいた。あの時、あの場所。その戦場で……。

 ならば、武の幼馴染を殺したのは自分だろうか。どこか感情を押し殺したように話してくれた水月に、みちるはそんな独白を零しそうになったのを思い出す。

 一概には否と言えないのかも知れない。是、ともまた、言えないのではあるが。

 ともかくも、訓練中の武は殊更に苛烈にあろうとしたようにも見えた。表面上は冷静に、感情をコントロールしての戦闘。本当にたった一ヶ月の操縦訓練しかこなしていないのかと自身でさえ疑いたくなるその卓越した操縦技術。武の能力の伸び幅はどう考えても通常の者よりも極めて大きい。それは矢張り高い戦術機適性によるものなのか、或いは単純に才能という言葉に括られるものなのか。

 ひょっとすると、夕呼もそれを知りたいのかもしれない。そのために武のありとあらゆるデータを欲し、恐らくはA-01のメンバーとのデータと比較・検証を重ねるはずだ。それによって得られた何がしかの事実を、どう使うのかまでは考えが及ばない。……単純に研究して終わり、なんて可能性もないわけではないのだ。

 浮かんでは流れていく思考をスッパリと切り捨てる。B小隊が接敵した。突撃級の一団。主だった集団は周囲に展開する中国軍へと殺到している。それにあぶれた少数が、進路を変えることなくこちらへ向かってきていたのだった。

 そして――みちるは聞いた。

 通信機越しに鮮明に届いたそれ。ディスプレイに映し出される青年のバストアップ。……知らず、息を詰まらせるほどの、黒い瞳。



 ――ははっ



 小さく。本当に小さく。聞き間違いじゃないかと思うほどに、けれどそれは最初だけで。ほんの一瞬だけで。

 割れるように。

 白銀武が、嗤っていた。







『来たわよぉっ! ヴァルキリー3よりB小隊、前方の突撃級は無視! すぐ後方に控えている要撃級を叩くッ!』

 突撃前衛長である水月の号令に応と返す。突っ込んでくるだけの突撃級は、状況にもよるが、無視しても支障ない場合はそうするに限る。その突進力は脅威だが、結局のところ、突撃級はそれだけなのだ。硬い前面装甲殻という防御機構を持ち、それをそのまま突進力に乗せて攻撃とする。まともどころか機体の一部でも喰らおうものなら、戦術機なんて簡単に吹っ飛ばされるのだが、直線的な連中の軌道は読み易く、かわし易い。更に減速も遅く旋回能力も低いとなれば、矢張り放っておくのが一番簡単で装備を消費しないで済む。

 今回は長期戦が想定されているため、出来る限り戦力を温存する必要が在る。無論にして補給部隊は状況に応じて補給コンテナを設置するが、それだけを頼りにするわけにはいかない。物資には限りが在るのだし、なによりも混戦の最中には補給などしている暇もないのだから。

 事前に打ち合わせていたこともあり、まして水月の意図することをわからない武たちではない。

 眼前に岩のような突撃級の群れがやって来ているというのに、一向に気を引き締める様子のない真紀。笑いながらそれを指摘する志乃にも、些かの緊張すら見えない。前方を行く二人の先任の在り方には敬服する。そして、隣りで連携をとってくれる水月にも。

『武、とにかくあんたは、自分が生き残ることだけを考えなさい。無理に私や上川たちのフォローをしようとしないこと。自分に出来ることだけを確実にやりなさい』

「……了解」

 接触まであと十秒もないだろうそのタイミングで。水月がいつものようにニヤリと笑って言う。自信に満ち溢れた彼女の姿を見ていると安心する。余裕を見せ付ける志乃と真紀を見ていると励まされる。

 緊張はしていない。想像した以上に、落ち着いている。……大丈夫。やれる。だってこんなにも頼もしい先任が三人もついてくれているのだ。今までの訓練で、彼女達の凄さはよく知っている。そしてその彼女達にも自分は認められている。……けれど、自惚れることはない。これが初陣。初めての、戦闘。

 さっきから機体を通して感じるビリビリとした振動に足音に全身が奮えるのがわかる。――感情は、落ち着いている。

 どんどんどんどん大きくなる突撃級の姿に操縦桿を握る手がぶるりと奮えるのがわかる。――心臓は、落ち着いている。

『いくわよ――!』

 叫んだのは水月。どっ、と。暴風を巻き上げながら文字通り突撃してくる18メートルの巨体共の間をすり抜ける。ぶわり――感じることのないはずの風圧を錯覚する。自身の肉体をバラバラにしそうなくらいの衝撃。180km/hに到達するその速度。自機の両脇を突き抜けていく超物量の壁。

 交錯は一瞬。振り返ることなく、機体の跳躍ユニットが火を噴く。前方70メートル。甲殻類の持つ鋏にも似た巨碗を振り上げながら迫る要撃級。――本命は、オマエタチだ。

 長刀を右腕に。突撃砲を左腕に。いつものスタイル。訓練で身に付けた変則装備。馬のひづめのような多脚が、大地を揺るがせる。突撃級とはまた異なる重厚な振動が、大気を震わせているのがわかる。

 怒涛は後ろに遠ざかり、新たな怒涛がやってくる。――感情が、波打った。

 照準を合わせる。志乃と真紀が左右に展開する。武も自機を左に流し……水月が右へ機体を傾けて……。――心臓が、波打った。

 トリガーを引く。前傾、長刀は既に振り抜いて――着弾、飛沫、紫色の血、鮮烈に、おぞましい、汚物、散る、――――接敵。

「は、」

 機体が回転する。機体バランスを前傾させて崩し、振り抜いた長刀が生み出した遠心力に従って旋回。首を刎ねる。同時に背後の要撃級へ乱射。ザリ、と地を蹴って軌道を変更。流れるような慣性のままに長刀を振るう。

「はは、」

 斬りつけた。浅い。気にするもんか。撃て。旋回。次を斬る。前のヤツを撃つ。次を斬る。前のヤツを撃つ。次を、斬る――。

 BETAは前進をやめない。連中の眼前に飛び込んだ状態では次から次に迫りくるその巨体を捌ききれなくなるのは必然だ。ならば一体を相手にする時間は短ければ短いほどいい。一撃で屠ることは不可能。一体だけ仕留めたって無駄。浅い傷でもいい。動きを止められなくてもいい。――止まるな。囲まれるな。封じられるな。

 動け。動け。動け。動け。動いて動いてッ――螺旋を描く。

 対物量戦のための剣術。対BETAのための剣術。圧倒的物量を前に戦い抜くその剣術。

 連中が前進をやめないなら自身はそれを利用しろ。個々の隙間を縫い、次から次に相手を変えてダメージを負わせろ。細かい動きの出来ない鈍重な愚図だ。一撃は強烈でも、当たらなければいい。見切れ。かわせ。そして食らわせろ。血を、啜れ。長刀で、銃弾で、少しずつ、少しずつ。

「ははは、」

 最接近していた三体が沈黙する。都合二撃ずつ。首を刎ね胴を裂き銃弾で抉り散らす。屍をすり抜け、最初に乱射して弾幕を張ったその場所へ。ほんの僅かのダメージを見せる要撃級四体が、腕を振り上げて、やってきた獲物にゴウゴウとにじり寄る。

 感情が、ひりついて熱い。

 心臓が、ひりついて熱い。

 脳髄は歓喜に濡れて。――ああ、殺した。

「はははっ、」

 跳躍ユニットを一瞬だけ噴かせる。機体を斜めにしたままに、旋回する途中での一瞬だけ。武の不知火がその回転スピードを増す。爪先が大地に触れると同時に、斜めに疾走する独楽は右端にいた要撃級の胸板らしき部位を逆袈裟に引き裂いた。機体正面が空を向く。至近距離から36mmを喰らわせる。裂けた部位に、醜い顔面に。気持ち悪い肉片がぶしぶしと舞い散り、機体の正面が地を向いたそのときには、既に次の獲物の正面へ。

 モース硬度15以上を誇る前腕が振り下ろされる。喰らったらオシマイだ。だから避ける。捻った半回転分。また突撃砲が要撃級に向けられる。右腕は背後に回ってきたソイツを斬り付けていた。マズルフラッシュ。斜めに弾痕を残す36mmに、斜めに引き裂ける長刀の通った後。一動作中に二体。上出来だ。残る一体が回転軸と同じ方向から……進行方向から迫ってくる。跳躍ユニットを噴かす。機体を地面と垂直に立てるように――瞬間的に回転を殺す。振られた腕をバックステップしてかわしながら、トリガーを引いた。命中。沈黙はしない。

「ははははっ」

 傷ついた仲間を押しのけるように追って来る。両腕を見せ付けるように振り上げて――上段からの一閃――間合いに入ってきた莫迦の顔面を真っ二つにしてやる。勢いのついた巨体がドドウと地面の上を滑った。

 接敵から数分。撃破七。…………もっと長い時間が過ぎたような気がしていたのに。武はふっ、と短く息を吐いて更に連なって迫る次の獲物へと肉薄した。

 さっきから、どうしてかわからないが開いた口が塞がらない。呆れている? それは違った。その表現は正しくない。

 頬が歪む。喉が震える。漏れる衝動を抑えられない。

 ――殺した、ぞ。

 まだ七体。たった七体。要撃級をただそれだけ。――まだだ。まだまだ、BETAは腐るほどにいる。こんな程度で安堵するな。こんな程度で満足するな。敵は強大だ。敵は圧倒的だ。その物量を見ろ。艦隊の一斉射撃で一千近い数を減らしているのに、レーダーに映し出されるそれらのあまりにも多いこと!



「ははははははははははははははははははははははっ!」



 ああ、こんなにもいる。まだたくさんいる。目の前の要撃級。戦車級も見える。気色悪い。気持ち悪い。うん、殺そう。こいつらを、殺そう。全部殺そう。すぐに殺そう。斬って、撃って、撒き散らそう。――そう、しよう。

 ――だって、こいつら。

 ――純夏を殺したんだぜ?

 割れるような哄笑が、ただ無意識のままに。







「た……ッ、け、る!?」

 我が目を疑う。何だ今のは! 一分をかからずに三体。続け様に四体。時間にして数分。たったそれだけ。それだけで、七体。……在り得ないというわけではない。単純に接近してくるしか能のない連中には突撃砲だけで事足りる。集団で密集してやってくるのだから、照準も何もなく弾丸をばら撒いただけで十数体を葬ることだって可能だ。「距離が開いている」ならば。

 だが、その光景は。

 水月は通信機越しに響く狂ったような哄笑に、盛大に表情を眇めた。そして、そんなおぞましい笑みを浮かべながら実行した彼の機動に、ただ驚愕する。

 その剣術は、知っている。訓練兵時代に、武の稽古に付き合ったこともあるのだ。幼き頃より続けている剣術。通りすがりの男に半ば無理矢理習わされたというそれ。月詠真那という斯衛の衛士に出逢ったことで、より、上達し昇華され磨きぬかれたその技。

 託された刀。師の遺品。託された想い。師の心。水月には踏み入ることの出来ないその領域で鍛え抜かれたその剣技。

 確かに、知っていた。シミュレーターでの訓練中にも、武はその剣術を用いての戦闘機動を行っていた。機体を前傾させることで発生する物理力を利用しての旋回運動。膝関節に掛かる負担を極力軽減し、常に倒れ続け回転を続けることで推力を得る。時には噴射跳躍を推力に変え、或いは変則的な進路変更や軌道変更、回転のキャンセルから瞬間加速。実に巧みに操作を組み合わせ、実現してみせるその螺旋機動。

 まさに、それは武そのものだった。

 水月が相手をし、同じ時を過ごした……その時の、彼の剣術を体現している。戦術機で効率よい機動を実現するための工夫や試行錯誤は窺えたが、それでも矢張りそれは武そのものであったし、独特なその剣術は実に効果的にBETAを屠ってもいた。

 そう。

 特段、彼が接近戦でBETAを屠ることは珍しくない。当然として突撃砲も十分に併用し、遠近両方の攻撃をその螺旋の剣術に組み込んで戦う様は、本当に訓練一ヶ月の新人なのかと疑いたくなるほどだ。

 みちるが言っていた。武の戦術機適性は過去に例を見ないほどにずば抜けている、と。そして、自身に秘められたその才能の凄まじさ。

 本当にこれが初陣なのか――。驚愕する。息を忘れる。

 だが、それで自身の敵を見失うことはない。己に迫りくる要撃級を突撃砲で散華させながら――それでも水月は、込み上げる感情を必死に抑えなければならなかった。

「あのっ、莫迦!!」

 それは哀しいくらいの確信だった。

 耳に響く笑い声。あんな、水月たちにしてみれば出鱈目な機動を繰り返しながら、敵を切り裂いて切り裂いて返り血を浴びながら。どうして。

 どうして、そんなに嗤っているのか。

 狂ってる――。戦慄に似た声。真紀だった。ああ、言われなくてもわかっている。誰だってあんなものを見ればわかる。あんな無様。頬を歪めて、瞳を真っ黒に濁らせて。

 撃破数は右肩上がり。それが何だ。それがどうした。戦果は上々と褒めてやればいいのだろうか? ――莫迦を言え。

「ヴァルキリー12!! 武ッ!! あんたいい加減にしなさい!!!」

 吠えるように。水月は自機の不知火の跳躍ユニットを爆発させるように加速する。武との距離はそう開いていない。武の機動に惹かれるかのように、要撃級と戦車級が多数群れていた。前方で同じように戦車級の群れを相手取る志乃が、水月の動きに気づいてフォローしてくれる。

『速瀬中尉!』

 要撃級の正面を飛びぬける水月に、志乃の驚いたような、責めるような声が響いた。タイミングよく腕を振り上げていた一体の背中に、志乃の放った36mmが突き刺さる。水月もまた、それと同時に長刀で顔面を切りつけて。

 視線だけで謝罪を述べ、しかし水月は一瞬後にはその“輪”の外に降り立った。輪、である。武の不知火……12のナンバーがペイントされた真新しい機体。その一機を、六体の要撃級が取り囲み、足元には戦車級がひしめいている。踊るような旋回機動。舞うような螺旋軌道。六体がかたちどる輪の中を何度も何度も旋回しながら廻り続ける。腕をかわし詰めようとする足を撃ち抜き寄ってくる戦車級を踏み。

 止まらない。次から次に戦う相手を変え、次から次に蹴散らしていく。六体の後ろには更に十近い要撃級。水月はその分厚い外壁を打ち壊すべく突撃砲のトリガーを引きまくった。

 文字通りに囲まれている。暴走する感情に状況判断能力が低下したか――? 瞬間の疑問は、しかし未だ続く哄笑に打ち消される。

 嗤っている。武は嗤っている。

『はははっ! はははははっっ!!』

 愉しんでいるのだ。歓んでいるのだ。囲まれたその状況を。否。BETAと戦っている今この瞬間を。

 復讐に駆られる者は、己を顧みない。

 敵を前にした復讐者に、制止を促す感情は、ないのだ。

 痛感する。確信する。今更になって。

 みちるに言われて知ったはずだ。訓練中にそんな素振りはなかったけれど、それでも自分は知っていたんだ。

 ついさっきまではあんなにも落ち着いていて。全然、いつもと変わらなくて。

 これが実戦だから。これは本物だから。こいつらは全部、本物のBETAだから。シミュレーターなんかとは全然違う。あんな仮想現実では感じられない。本物の、空気。

 高度に再現されたシミュレーターにおいて平静を保つことの出来ていた武が、こんなにも、感情を発露させている事実。

 哀しいくらいの熱い息。振り絞るように、水月は撃ち続けた。僅かな隙間をこじ開けるように長刀を叩きつけて――瞬間、内側からの斬撃にそいつの首が飛ぶ。

「武……」

 六体を屠り。十数が群れるその中を。

 輪を何重にもしたようなその中を、しかし武は正に一点突破するように抜けてきていた。水月がやってきていることにちゃんと気づいていたのである。

『……すいません、助かりました』

 苦笑する彼の表情は、ゾッとするくらい、“いつも通りの武”だった。先ほどまでの凶相は微塵たりとも窺えず、声音からも正常な人間の感情しか読み取れない。――そのあまりにも酷い落差に、水月は絶句する。

 二機の不知火が交錯する。互いの36mmが各々に獲物を撃ち抜き、振り抜いた長刀がそれぞれの敵を裂いた。ぎり、水月は奥歯を噛み締める。武を叱りたいのに、武を殴ってやりたいのに、そんな暇がない。莫迦野郎と、何をやっているのかと。そう怒鳴ってやりたいのに。

『ぁぁぁああああっっ!!』

 背後で再び螺旋機動をとる武が叫ぶ。戦車級をぶちぶちと踏み潰しながら、次々に要撃級を沈黙させていく。再びに響く哄笑。歪んだ笑み。殺気に呪われた双眸。

 ぎりぎりと砕けそうなくらいに歯を食いしばって、同じように、水月もまた長刀を振る。五十にも満たない戦車級の一群。三時の方向から盛大な銃撃が響く。木野下のC小隊がこちらへやってきていた。

 接敵から八分。

 どきりとした。偶然に視界に入った最小表示の時刻。振り向くことが出来ずに、後部カメラが捕らえたその映像を凝視する。

 旋回する不知火。血を撒き散らすBETA。――復讐に濡れた悪鬼。

 死の八分を越えた武に。なぜだろう。水月は一滴だけ……涙を零した。







 ===







 それが異常であるということは、誰の眼にも明らかだったし、そのことで水月が疲弊していることもまた、痛いくらいに伝わってきた。

 命令には従っている。作戦内容も十分理解し、把握し、最大の効果を上げるべく連携をとることも……できている。

 何かを堪えるような水月の呼びかけにも応答し、会話するその表情は怖いくらいに「いつもの」武だった。接敵し、相対し、その剣を振るう度。

 白銀武というニンゲンが壊れていくのではないかと、全員が息を呑んだ。

 BETAに対する復讐心を抱いたまま戦う衛士は……多分きっと、珍しくはない。この世界にBETAを怨んでいない者など存在しないだろうし、大切な者を奪われた者は、それこそ全人類に共通する。

 喪われたものに優劣はなく。ただ、その本人の心に突き刺さる棘。……だから、その白銀武の有り様を……彼のことを、彼にとって喪われた大切なものを知らない彼女達は……なにも言えなかった。

 いいや、知っていたとしても、口を挟む権利はないのかもしれない。

 そこに如何なる理由が在ったのだとしても……武は復讐を選択している。そのために戦い、そのためにBETAを屠る。

 その姿を異常と、他人が断じていいのかどうか。

(――いいに決まってる)

 そして、そのまま外道に身を落とそうとする彼を叱り、殴り、更正させるのは……仲間となった自分達に課せられた義務だ。志乃は拳を握る。

 きっと水月も同じ考えのはずだ。武のことを想う彼女はきっと、彼の見せる姿に傷つきながらも、決して諦めてはいないはず。志乃が尊敬し、目標とする突撃前衛長は……こんな程度の逆境をものともしない。誤った道を転げ落ちようとする部下を、悪鬼に身を染める恋人を、彼女は断じて赦しはしないだろう。

 それを傲慢とは思わない。

 武の意思を無視しての行動だが、彼に何を言われても憎まれても、そんなものは一切関係ない。――水月は、罵られ謗られ傷つけられようとも、絶対に武を救い上げる。

 だから。……せめて生きて帰ることの出来るように。あんな戦闘を続けていては長く持つはずがない。一見冷静で的確な判断を下しているように見えて、矢張り武はどこか暴走している。彼の操縦が秀でていて、扱う螺旋の剣術が効果的なのは十分に立証された。……だが。

 それでも武は殊更に長刀に拘っている。「斬る」という行為に、酔いしれている。そう見える。

 接近せずとも斃せる標的を、わざわざに吶喊して斬り刻み、数体が群れる中に敢えて突っ込んでは同時に多数を葬る。確かにすごい。確かに強い。……なのに、どうしてそんな戦い方をする?

 武は剣を扱う。日本刀を持ち、幼少の頃から鍛え続けた剣術を使う。――刀で戦うことが、染み付いているのか?

 そうだろう。そして、もう一つの仮説が浮かぶ。……正直、それは考えたくもないほどに下劣だ。

 即ち――殺しているという感触を得るために。

 手応えが欲しいのだ。

 遠方から突撃砲を放ち仕留める。不必要な接近もなく、敵の攻撃の射程外から斃すことのできる兵装に戦術。それを使用しない。それを選択しない。武の突撃砲が火を噴くのは、決まってその剣術と併用している時だけ。近接し斬り付け、より効率的にBETAの数を減らす手段としてしか、彼は突撃砲を見ていない。

 危険を危険と認識せず。自己に染み付いた剣技こそ至高と、それ以外の戦術に靄がかかっている。まして、加速する憎悪に自己の存在さえが薄れ……ああ、だから、またしても彼は、

「莫迦ッッ! そっちには要塞級だっているんだぞッッ?!」 『武ッ?! 戻りなさいっっ!!!』

 ひらりと流れるように。旋回機動を開始した武の不知火が要撃級の壁に突っ込んでいく。隙間を埋めるような戦車級。背後には光線級を孕み……そして、弩級の規模を誇る要塞級が、そのニードルに似た多脚で地面を抉りながら闊歩している。戦慄がよぎる。駄目だ。

 現在部隊は左右両翼に各小隊が丁度半分ずつ配置されている。左翼前衛に志乃と武、中衛にはC小隊の木野下と藍子、後衛をA小隊の美冴と亜季が就き、右翼には残りの面々が同じような陣形で迫りくるBETAに対していた。

 叫ぶ間もあらば、志乃は武を追随する。引き裂けるような水月の声には少なくない懇願が込められていた。……それがわかる志乃だから、尚更武の吶喊を赦すわけにはいかなかった。

『上川ァ! 白銀を止めろォ!! ――宗像、岡野は二人を援護! 行くぞ篠山ァああ!!』

 右翼の指揮を執るみちるに代わり、副隊長の木野下が咆哮する。遅れることなく了解を告げる三人の声が響く――だが、最早志乃は後方支援を当てにしている暇などなく!

「白銀ぇえええええええ!!!」

 厭な直感があった。接近しすぎている武には見えないのだろうか。長い足をもつ要塞級が大きく前脚を開くように。群れを成す要撃級がじわりと左右に開けるように。最前列で武の猛攻を喰らっているソイツは最早屍と化した。……ならばそれは既に“モノ”と同義。ただ射線上に存在する炭素の塊だ。

 ――よけてくれっ!

 冷たい汗が逆流するような悪寒。けたたましい警報が鳴り響く。レーザー照射警報。アラートアラートアラートアラート!! ――くそ喧しいぞボケがぁあああッッ!!

 機体が勝手に軌道を変更する。重力を無視するような急激な横荷重。内臓をかき回すそれを感じた瞬間――――飛び上がる蒼色を見、――幾条もの閃光が、空を焼き地を凪いだ。







『白銀ぇえええええええ!!!』

「!!?」

 痛烈に耳に突き刺さるその咆哮に呼応するように、シートに固定した弧月が鳴った。

 正面の要撃級の腕を刎ね飛ばし、傷口に尽きた36mmの代わりに120mm砲を叩き込む。同時に確認した戦域データリンクを見て、ようやく、武は自身だけが突出しすぎていることに気づいた。

 瞬間的に巡らせた視界はどこを見てもBETAの壁。左右前方を完全に化け物に塞がれて、しかもそいつらは全部武に向かって殺到している。じり、っと額に汗が浮かぶ。頬を流れ落ちたその感触に小さく驚いて……苦しいほど呼吸が乱れていることに、愕然とする。

 極度の疲労が全身を包む。――莫迦な。戦場における自分の位置を見失い、仲間の位置を見失い、自身が疲弊していることにさえ気づかない。

 そんな、莫迦な。

 驚愕が武を包む。しかしそれに戸惑っている暇はなく、疲れていようが仲間がいなかろうが、迫るBETAは殺さなければならないッ! そうしなければコロサレル。誰が自分が俺が純夏が――そうだ。純夏はこいつらに殺された! 忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな! だからBETAを殺すんだ。だから疲れなんて関係ない仲間がいなくても関係ない単機でも単独でも変わらない間違えないやられないっ!

 殺そう殺す殺します殺すから死んでくれ死ね死んでしまえくたばれっ!!

「――ッッッ!!!」

 呼吸がひりつく。暴走する感情に比例して、脳髄が警鐘を撒き散らす。――莫迦な、何をやってる!!

 違う。そうじゃない。確かにBETAは憎い。殺しても殺してもコロシテも殺しても足りないくらいに奴らが憎い! ……でも、ここは戦場で一緒に戦っている仲間がいて。あんなにも悲痛に叫んでくれる人がいるのに。……どうして自分は、そんなことを忘れていたのか。

 さっきまではちゃんと出来ていたはずだ。ちゃんと命令を聞いてちゃんと作戦にしたがってちゃんと水月の言葉に従って――じゃあ、何で今ここに、独りで……?

 憎悪が膨れ上がる。心臓が復讐を叫ぶ。驚愕が肉体を支配する。感情が冷静さを叫ぶ。

 相反するなにがしかの葛藤にぶれた瞬間、――ぞっ――と。空間を包む温度が下がった。ヒヤリとした、痛いくらいの静寂。勿論、それは錯覚で幻聴で気のせいのはずなのに。絶えず地響きに揺れる大地は機体は怒涛の音を鳴らしているのに。喉を焦がすほどの絶叫が己の口から漏れ出ているのに。斬撃に体液を散らす音。砲撃に肉片を散らす音。そんなにもたくさんの様々な喧しい音が鳴り響き炸裂しているのに。

 どうして、そんな、まるで耳鳴りのような静寂が――――――独楽のように回転し、推力の全てを上乗せした一刀に要撃級が割れる。屍と化したソイツの背後から間髪いれずに押し寄せるだろう次の敵へ向けて操縦桿を傾けたのと同時、武は、信じられない光景を見た。

 こなかった。

 さっきまで斬り捨ててはその度に現れて、躍るようににじり寄ってきていたそいつらが。その姿が。ない。全然。一体も。

 まるでぽっかりと開かれた空間。モーゼの渡る海のように。



 ド、



 血液が逆流しそうになる。脳が酸欠で壊死してしまいそう。



 グ、



 鳴り響くのは警鐘に警報に絶叫。瞬間に、刹那に、なによりも武の精神が焼きつくくらいに加速した。



 ン――。



 見えたのだ。ぽっかりと開かれたその道の向こう。薄い緑色の姿。小さな姿。二つ並んだレンズのような膜。群れるように。体型を組んで。――――ォォォォおおおおおおおおあああああああああっっっ!!??

 光線級! 光線級がそこにいる。開かれた道の向こうに、武が散らした要撃級の屍の遥か先に!

 嵌められたのだと悟る。管制ユニット内にけたたましく鳴り響く警報に血流が凍り呼吸が停止する。――死ぬ。死ぬ。死ぬ!?

 あとコンマ何秒かで、避けろ、左右を要撃級に囲われて、ソイツラの前なら当たらない、遠い、間に合わない、避けろ、だからどこに、後ろ、莫迦言ってんじゃねぇ、右でも左でもいい、だから盾にするには間に合わないって言ってるだろう!? 知るか関係ない避けろ避けろ避けろ避けろォオオ!

 乱数回避が起動しようとする。旋回の機動を慣性のまま続けていたその一瞬間で、制御プログラムが強制的にすべての機動をカットする。逃げるために。――どこに逃げる?!

「ッッッ!!!」

 気づいた瞬間、左手で何かのボタンを砕くように叩き、右手で操縦桿を折れるくらいに引いて、両足がフットペダルを全力で踏み抜いていた。白い閃光が、奔る。

「あぁぁぁぁっぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 気焔を巻き上げて機体が上昇する。狂いそうなほどの晴天がそこには在った。視界を幾条もの閃光が過ぎていく。完全に狙われていて、どうして空になんて逃げようと思ってしまったのか、その思考にただ吐き気がした。

 何も考えられない。ただ我武者羅に空へ逃げる。数十体もいる光線級の段階的なレーザー照射。沸騰する本能が回避機動を強制して、

 右脚が、吹き飛んだ。

 右腕が、吹き飛んだ。

 傾いた機体の左腕を、閃光が焼く。

 墜落する機体の腰部を、閃光が――焼イ、







[1154] 復讐編:[十章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:27

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十章-03」





 まるで血の海のようだった。

 蒸発した鉄の匂い。焼け焦げた樹脂の匂い。どろりと融解したような軟弱な断面は未だに白煙を放ち、てらてらと流れ落ちるよう。

 頭部から落着したことが幸いしたのだろうか。砕け割れたメインカメラの破片が粉々に散り、叩きつけられた衝撃に歪曲した機体。主機が爆発炎上しなかったことこそが奇跡といってもいい。

 天地が逆転し、或いは斜めに転がる管制ユニットだった部位。喪われたのは頭部、両腕、腰から下。最早それは戦術機とは言わない。砕けへしゃげ熔けて焦げた、……今すぐにでも爆発しそうな鉄の箱。――棺桶。

 そう呼ぶに、相応しい。

 心臓が動いていることは、わかっていた。

 精神も肉体も限りなくフラットに落ちている状態で、ただ、弱々しく脈打つ鼓動。否、意識も覚醒しようとしている。生きているのだ、この状況で。

 ならば、レーザーの一斉射をアレだけに受けながら管制ユニットが無事だったことも、高度八十メートル近い上空から墜落して爆発しなかったことも……全部、彼が生きようと足掻いているからこそ与えられた、奇蹟。

「……うっ、」

 だが、ここで志乃は己の選択と行動が誤りだったと気づく。

 もう駄目だと眼を覆った。乱数回避による無茶苦茶な回避運動の最中に見た、次々に腕を脚をもがれながらに墜ちたコールナンバー12。蒼の不知火。もう駄目だと思ったのに。

 心臓が動いていると知った。縋るように確認したバイタルデータは、確かに生存を訴えていた。――だから、

 だから志乃は、選択し、行動した。死なせるものかと。助けて見せると。尊敬し、敬愛し、憧れて、目標としている水月のために。彼女をあんなにも傷つけて哀しませた莫迦野郎に一発食らわせてやるために。

 だから、生きているなら、死なせないと。

 その判断は人間として正しく、軍人として間違っていた。

 光線級の一斉射は断続的に続いている。重光線級がいなかったことがとてつもなく救いに思えたが、状況が逼迫していることは変わらない。墜落した不知火の残骸までの距離は遠い。どれだけ頑張っても、あんなにも出鱈目に繰り出されるレーザーを全て回避し、あまつさえその中を変わらぬ速度と物量で駆け抜けるBETA共を掻い潜り、辿りつける訳がなかった。

 ――そう。単機では。

 戦術機をまるで玩具のように粉砕したレーザー照射によって、隊は左右に分断されていた。元々が右翼、左翼に陣形を分けて進撃していたことが、余計にも作用した結果だ。左方に流れるように移動した彼を追いながらの出来事だったことも、理由としては大きいだろう。

 つまり、志乃が現在いる位置に最も近い仲間は、同じように左翼に展開していた木野下、美冴、藍子、亜季の四名。……誰よりも即座に駆けつけて救出したいだろう水月は、遥かに遠く離れたポイントに追いやられていた。

 志乃がそれを確認したのは、既に救出に向かうための機動をとった後だった。というより、単機で行動を起こした志乃をフォローするように追随してくれた味方の存在に気づいて、慌ててデータリンクで確認したというほうが正しい。

 散発的に続く光線級の白い閃光を度々にかわしながら、先陣を切る志乃はとにかくもスロットルをふかし、突撃砲の引き金を引いた。

 射線軸を開けるために左右に割れていた戦車級に要撃級が、じわじわと再び壁を構築し、まるで狙ったように彼の機体へと突き進んでいる。ともすれば恐慌に陥りそうになる感情を無理矢理捩じ伏せて、背後の四機の支援に心底感謝しながら、……ようやく、志乃はたどり着いたのである。

「…………本当に、生きてるのか……?」

 レーザー照射を受け、四肢をバラバラにされ、頭部から墜落して……僅かに一分足らず。たったそれだけの、ここにたどり着くまでの時間は、悪夢のように長く感じられた。だが、すぐそこまで、というより本当に手を伸ばせば届きそうな距離にまでBETAが迫っている状況で、志乃は一々に時間を確認する余裕などなかったし、志乃の到着と同時に陣形を敷き、手当たり次第に敵を蹴散らしてくれている木野下たちを思えば、彼女はなによりも迅速に行動しなければならなかったのだ。

 だが、ここで志乃は己の選択と行動が誤りだったと気づく。

 膝をつくように停止した志乃の不知火。鉄の棺桶と化した白銀機の前に跪くようにして、自機のハッチを開く。遠目からでも、その機体の各部が歪んでいたことから、ひょっとすると管制ユニットのハッチの開閉に支障があるかもしれないという危惧は正にそのとおりで……しかし、腰部に受けたレーザーの余波だろうか、熔けたユニットの側面には穴が開いていて、そこからなら人ひとりくらい出入りできそうだったのだ。

 高温を放つ金属に歯噛みしながら、衛士強化装備の耐熱限界はどれほどだっただろうとしょうもない思考を巡らせる。滑り込んだ白銀機の管制ユニット内は……殆どの電子機器が死んでいて、薄暗い。むっとするような鉄の匂い。温度。融解した機体が放つそれとは異なる、生暖かでぬめるような臭気。

 血の、匂い。

 白銀武はそこにいた。

 確かにいた。

 ……ベイルアウトを図ろうとしていたのかもしれない。強化外骨格装備で行動する際に使用するハーネスが、所々の固定金具を引き千切らせながらも、武の身体をシートに繋ぎとめていた。

 緊急脱出の際に自動的に着用されるそれが、武の命を救っていた。……もし、あの墜落の中、通常に使用する固定ベルトだけだったならば……武の身体はシートから投げ出され、ユニット内を撥ね回り骨を砕かれて死んでいたかもしれない。

 が、楽観は一切出来ない。力なくハーネスに体を預けているだけの武は……顔面から左腕から血を流し、シートにはべったりとした血痕が見られる。ユニット側面を抉り飛ばしたレーザーに撒き散らされた金属片。叩きつけられた衝撃に欠損した部品。……或いはそれら以外の何かによって、武は重傷を負っている。

 狭いユニット内で、しかし志乃は並々ならぬ焦燥に駆られながら、武の容態を診る。顔面――左眼から左頬にかけてざっくりと引き裂けている。頬の傷口から口内が覗ける、ということはなかったので、どうやらこれは浅いと思われる。瞳にまで裂傷が及んでいるかどうかはわからない。確かに出血はひどいが……毛細血管が多い顔面に傷を負った場合は、往々にして派手に出血する。無論放っておいていいものでもないが、生憎に手持ちの救急セットでは血を拭い方形の絆創膏を貼るくらいしか出来ない。瞳、或いは瞼の裂傷はどうしようもない。包帯を巻いている暇はないのだ。即座に左腕の裂傷を確認する。――引き千切れたような金属片が、上腕に深々と突き刺さっている。所々ささくれ立ったようなそれが、ずぶりと肉に埋まってしまっていたために、引き抜くことさえ出来ない。最早応急処置で対応可能な範疇を超越している。放置するしかない。

「…………ッ、」

 これで、五分。状態を確認し気休めにもならない手当てに五分。――くそっ!

 オープンにしている通信機からは耐えることのない悲鳴にも似た絶叫が四つ。志乃が武を救出するその時間を作り出すために奮闘してくれている木野下の美冴の藍子の亜季の、咆哮が、悪態が、雑言が、叫びが、悲鳴が、――くそ、くそっ、くそくそくそくそくそクソォ!!

 志乃は、己の選択と行動が、誤りだったと――。

「くっそぉおおお!!!」

 武を救うと決めた。武を助けると行動した。それに付き合ってくれた上官に、同僚に、仲間に……感謝してもし切れない。だが、志乃は誤った。間違えた。選択を、行動を。

 軍人としての判断を、行動を。

 一つは、撃墜され敵の直中に置かれ重傷を負った武を「救おうと」したこと。

 一つは、突撃前衛であり近接戦闘に秀でた自身が、この、圧倒数のBETAに接敵されている状況で武の救出に向かったこと。

 その判断も誤りならば、それに従ってとった行動もさらに誤り。

 だが、今更にそれに気づいたところで、こうして志乃は武の身体を背負うように抱え上げ、いつ爆発するかわからない鉄の棺桶から這い出そうとしているのだ。――やるしかない。やるしかなかった。

 一秒でも一瞬でも早く、ここから抜け出して自機に戻らなければならない。負傷した武を簡易式のハーネスに固定して、戦線を離れなければならない。全員で。

 そう。全員で。今も尚溢れるように、高波のように迫るBETAと戦ってくれている彼女達も含めて全員で。

 武も死なせないし、自分も死なないし、彼女達も誰独り欠けることなく。――じゃないと、駄目だ。そうじゃないと、志乃の取った行動の責任を果たせない。

 付き合わせたのは志乃だ。志乃にそうさせたのは武だ。……だが、こと彼女達の生還に関して志乃は、武を責めるつもりはない。武がとった行動は罰せられるべきだし、思い切りに殴りつけて、水月の前に叩き出して、更正してやるという怒りが在る。……だが、そのことと志乃が武を救出するために行動したことは直結しない。そのために彼女たち四人が協力してくれていることは、全て志乃の行動に起因するからだ。

 軍人として冷静的確な判断を下せば、あの状況、武ひとりを救うために行動を起こすことは愚行以外のなにものでもない。その愚行さえなければ彼女達は、極めて得意というわけではない近接戦闘を余儀なくされることはなかっただろう。

 棺桶のようなこの場所にいる志乃には、現在の戦況というものは全くわからない。わかるのは、届くのは、ただひたすらに叫び続け吠え続け己を鼓舞するように奮い立つ彼女達の魂の咆哮のみ。

 だから、絶対に生きて帰る。

 みんなで、全員で、生きて帰る!

「……ぅ、あ、…………ッ、ガ、」

「?!」

 頭の後ろで、小さな声。足を止めている暇はないというのに、ほんの一瞬だけ、志乃は停止してしまった。――意識が戻った、のか?

 そっと窺うように首を捻ると、顔の左半分を血に染めた武の、どろりとした右眼と視線がぶつかる。熱に浮かされるように、まるで判然としない表情。痛いのか苦しいのか寒いのか恐ろしいのか。まるで何の感情も判別できない、神経が鈍磨したような表情。

 墜落のショックに、痛覚が麻痺しているのかもしれない。傷のことを思えば失神したままであってくれたほうが都合がよかった。痛みに暴れられては、救出・脱出に手間が掛かる。ゆえに志乃は、再び前を向いて棺桶から抜け出しながらに早口で状況を説明する。

「白銀、お前は今左眼と左の頬、左腕上部に裂傷を負っている。顔面は恐らく軽症……瞳に裂傷が及んでいるかもしれない。さわんなよ? ……左腕はどうしようもない。手術して鉄片を引き抜かなきゃ駄目だ。多分指一本も動かないだろうけど、これも動かすな。悪いな、血止めも包帯もやってやる暇がない。自分で出来るってんなら、それが一番なんだが……」

「ぁ……? ぉ、れ、」

 喋るなよ。志乃はずるずると武を引き摺って、融解した穴から抜け出す。自機の不知火の手が差し出されるように拡げられている。そこに右足を掛け、武を座らせる。遠隔操作で機体の右腕を操り、開放されているハッチまで移動しようとしたそのときに――――志乃は、再び過ちを犯した。

 呆然とぼんやりと鈍磨した表情のまま現状を飲み込めていない武。相変わらず出血は続いていて、実は血が足りなくて相当に危険な状態なのかもしれない。医者ではない志乃には判断がつかなかったが、しかし、そのときに志乃が思考していたことはそんなことではなく。

 刀が、ない。

 漆に塗られた黒の拵。鮮烈な黄色に巻かれた、武が大切にしているもの。師の遺品。師に託されたもの。

 そんな暇はないとわかっていたのに。そんな余裕などないとわかっていたのに。――そのはずだったのに。

 あまりにも、彼女は……哀れにも思えるくらいに、軍人としては失格だった。

 多分、きっと、心のどこかで。……武の意識が戻ったことに安堵した。死んでいるのではと怯んでしまった己を、眼を覚ましてくれた武は安心させてくれた。

 自分の行動が無駄で愚かなそれではなかったのだと、恥知らずにも思考してしまい、――在り得ないことだが――気を緩めてしまった。

 すぐそこにBETAが居て。すぐそこで仲間が死闘を繰り広げていて。

 それを知っていてそれを理解していて、だから一秒でも一瞬でも早くここから逃げ出さないといけないはずだったのに。

「待ってろ、すぐに――」

 言い終わるよりも早く、志乃は再び棺桶の中へと戻る。薄暗いその中でも、血濡れのシートに固定された日本刀の、その黄色がよく目立った。探すのに一秒も掛かっていない。下緒で括られていたそれを二秒で解き、武の元に戻る。――時間にして、僅か五秒。

 微塵の焦りもなく躊躇もなく。彼女は自身でも驚くほど迅速に行動を終え、武の右腕に刀を渡す。不知火を遠隔操作して、武を管制ユニット内に押し込ん、――――――で、







『ィィィいっぃあああアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!??』







 ――――え?







 振動。衝撃。身体が宙に浮くように。

 視界が斜めに流れていく。跪く不知火が横に流れていく。ゆっくりと。緩慢に。視界の上下が入れ替わって、落――――――――――――、







 ===







『亜季ィいい!!』 『岡野ォオッ!!』

 全身が凍りつくようだった。

  よくわからない。状況が、何が起こったのか。今、自分がどうしてここにいるのか。

『いやぁあああ!! 熱い、熱い熱い熱いアツイアツイアツイよぉおおおおおっっ!!!! ぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁ!!!!!!』

 発狂しそうな絶叫が、耳を劈く。女のヒトの声だ。知っている声だ。

 でも、それが一体誰の声なのかとか、何が起きたのかとか、どうして視界が傾いているのかとか、じくじくと顔の左半分が痛いとか、壁に押し付けられた左腕が千切れたように痛いとか。

 そんなものの一切が、凍り付いて考えられなくて理解できない。

「かみ、かわ…………しょう、ぃ……………………?」

 ここは戦術機の管制ユニットだ。自分は撃墜されて負傷して助けられたのだ。視界が斜めなのは機体が少し傾いているからで。機体が傾いているのはつい一瞬前に物凄い衝撃を受けたからだ。だからだから、だからだからだから――?

 目の前に誰も居ないのはなんでだ?

 ついさっきまでそこに立っていたはずの彼女が居ないのはどうしてだ?

 助けてくれて運んでくれて弧月を渡してくれたあの人が居ないのは何故だ?

 いない。

 いないいない。どこにもいない。――だから、なんでだよ?

 ここは戦術機の管制ユニットで、自分は撃墜されて負傷して助けられて、視界が斜めなのは機体が少し傾いているからで、傾いたのはつい一瞬前に物凄い衝撃を受けたからだ。――だから、だから!?

 だったら……なんで、どうして、何故、居ない、のか。

 そこに立っていたはずだ。自分を管制ユニットに押し込むようにして。ハッチの上に立っていたんだ。そうさそうだそうだろう!?

「上川、少尉……??」

 一体何処に? 隠れている? 莫迦な。こんな狭い管制ユニットの中に、一体どうやって隠れるっていうんだ? いや、そもそも、隠れる必要なんてないだろう。そんな行動に何の意味がある。ああくそ思考が纏まらない眼が痛い顔が痛い腕が痛い痛い痛い痛いッ! 視界が半分しかないからよく見えないんだそうだそうに違いない。右手で左眼の血をぬぐう。痛い痛い。畜生いてぇ眼が痛い開けられないざけんな開けろ確かめろッ! 両方の目でちゃんと探さなきゃ。ちゃんと両目で見つけなきゃ。

 真っ赤に染まった左の視界。どろりと流れる血に滲んで全然見えない痛いくそう畜生ッ!! 居ない居ないッ、――何処にも居ないッッ!!

 なんで機体が傾いているんだ!? どうしてあんな衝撃が起こったんだよっ!! あああこれじゃあまるで、くそうくそうくそうくそう信じられない信じたくないそんな莫迦なことがあるわけがない!!

 落ちた墜ちたオチタおちた――あぁぁあぁぁあああぁぁあああああっっ!!??

「上川少尉ぃいい!!」

 腕が痛いとか左眼が痛いとか、そんなものを完全に超越して、喉が焼けるような絶望が全身を覆う。――助けなければ、と思考する反面、一体どうやって助ければいいのかわからなくなる。状況がわからない。全然把握できない。

 志乃の姿はない。呼んでも叫んでも返事がない。落ちた。落ちた。落ちた落ちた落ちた――ッ!

「俺のせい、だ……ッ」

 呼吸が出来ない。思考が回らない。脳がパニックを起こしている。気づいたそのときにはもう何もかもが起こった後で、ああくそ、一体この現実を理解するのに何秒を費やすつもりなんだこの莫迦はッ!

 武は絶望に脅かされながら、縋るようにコクピットのシートに座った。落ちたというなら、助けなければ。負傷した左腕は動きそうもない。その痛みが、武の精神を苛んで行く。

 最早状況は明白だった。何が起こっているのかなんて、わかり易いくらいにわかっていた。

 単独で突出し過ぎた自分。BETAのある意味で定石の戦術に嵌められた自分。光線級のレーザー照射に機体をバラバラにされ墜落した自分。砕けた機体の破片に腕を顔を負傷した自分。意識をなくして、けれど恥知らずに生きていた自分。

 それを志乃は助けてくれたのだ。

 光線級が居るその戦場で。超至近距離に居たはずの戦車級や要撃級の群れの中で。危険を顧みず、彼女は武を救ってくれたのだ。

 ――なのに、彼女は、

 気づいたそのときにはもう、視界に居なかった。どうしてそんなことになったのか。彼女が居なくなるその瞬間に、機体を襲った衝撃。そして、絶叫。ヒメイ。

 ああそうだ。それだってわかってる。

 糞のようなBETA共に包囲された状況で、どうすれば戦術機を降りて負傷兵の救出など出来るというのか。志乃はひとりじゃなかった。仲間が居た。同じA-01の、彼女達がいたに決まってる。

 聞こえている。わかっている。ただ、目の前で起きた事象に精神を呑まれていて聞こえなくなっただけだ。――今もまだ、泣き叫ぶように引き攣れるように、悲鳴が。

『ぁああああ足が! わたしの足ぃイイアァァアッ!? なぃよぉ! 熱いぁあああ! 足がない! 足がない! 足が足が足がぁぁああ!!!』

 熱いと。

 狂ったように。何度も。

 そう。BETAは戦車級に要撃級だけじゃない。連中に包囲されているのなら光線級は当面の間、手を出さないだろう。……でも。

 そうだ。確かに居た。少なくとも三体はいた。十本の多脚を持つそれが。ニードルのような鋭い先端の脚を持つそれが。

 まるで変幻自在の鞭のように。尾節から伸びる全長50メートルもある触手。先端にかぎ爪状の衝角を持つそれ。衝角には何かに激突した際に分泌される強酸性溶解液がたっぷりと含まれていて――――ッ。

 ――着座調整の終了。操縦者が志乃から武へと変更される。ヴァルキリー7。その機体。映し出される網膜投影ディスプレイ。データリンクは正常。

 サブカメラが、その光景を映し出す。志乃機の背面にもたれかかるような蒼い機体。不知火。肩には06のナンバー。岡野亜季。彼女の機体――その、下半分が、ない。

「ぅォおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!!!」

 絶叫する。吐き気がする。角度的にその管制ユニットがどのような状況になっているのかは全くに窺えなかったが、しかし、先ほどから止むことのない彼女の絶叫が鳴き声が悲痛なまでの叫びがその惨状を厭というほどに知らしめるッ!!

 アアア駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だッ! こんなのはっ、駄目だ!!

 志乃を探せ。志乃を探せ。志乃を探せ志乃を探せ探せ探せ探せ探せ――!

 落ちた彼女を探せ。すぐ下に居るはずだッ! 衝撃は機体の背面から前面に掛けてのものだった。下半身を失って吹き飛ばされた亜季の不知火がこの機体にぶつかってのものだった。なら、志乃の身体は、ハッチに立っていた彼女の身体は、きっと、ふらりと後ろに倒れるような衝撃に――

「ッッ!!!!」

 なんだ、あの白いのは。

 なんだ、あの黒いのは。

 なんだ、あの赤いのは。

 なんだ、なんだ、なんだなんだなんだなんだ何なんだよぉおおおお!!??

「かっ、み、…………か、わ、」

 ――少尉、が。

 白い塊。ぶよぶよとした塊。二匹、三匹。……塊を、“匹”と数えるのはおかしいんじゃないのか?

 黒い棒。先端が更に細く小さく分かれていて……それは五本ある。びくびくと揺れて、…………動かなくなっ……、

 びしゃっ、と。赤色が散った。さっきの黒い棒も放り投げられるみたいに。転がって、点々と赤色が地面に。白色がもごもごと蠢いている。そいつはなんだか腕みたいなものがあって、二本あって、下半身がぶよぶよで。

 歯が。

 並んでいた。

 ――ああそうだ。アレを初めて見たときは、そう。夢に出そうなくらい強烈な感情に見舞われたんだ。吐き気が、する。胸がむかつく。何だお前なにやってんだ? ぎっちり並んだ歯が、上下に蠢いている。まるで人間が食べ物を咀嚼するように。

 気のせいだ。気のせいに決まってる。あんな小さなヤツ。見間違いだ。なんで、くそ、なん、で、――赤色の水溜り。ぐちゃぐちゃの黒色の姿。よく知ってる。よく見慣れている。あれは強化装備だ。衛士の身体を熱から冷気から衝撃から刃から護ってくれる優れものだ。

 こみ上げるものを堪えられなかった。零れ落ちる涙を止められなかった。血涙。左眼からそれをダラダラ流して、沸騰するような脳ミソが、武をただ絶叫するだけの壊れた機械に貶めていた。

 亜季の悲鳴は止まらない。目の前で起きた惨状を覆せない。左眼を負傷して左腕を負傷して。片腕だけでも機体は動く。だったら、だから、さっさと――立てよ、このっ、ぁあああああああっ!!

「あああああああああああああああああああ!!」

 ヴァルキリー7が、武の乗った志乃の機体が立ち上がる。反動に、亜季の不知火がずるりと滑るように倒れて。通信機越しに中尉や少尉たちの声が顔が見える聞こえる。まるで気のせいみたいに、亜季の声がぱたりと止んだ。

 視界が、脳が、ただ叫んで痛んで汚物を撒き散らし涙を垂れ流し血濡れのままに、不知火の右腕に長刀を装備させる。――やれる、やる、殺してやるッ!

 こんなはずじゃなかったのに。

 こんなことあっていいはずないのに。

 BETAが憎かった。BETAが憎かった。BETAを殺して殺して、純夏の仇を取りたかった。あいつを殺したBETAを。あいつの命を奪ったBETAを。全部全部殺して、ぶっ殺してやるはずだったのに!

 そのために戦った。一生懸命戦った。我を忘れて、自分を仲間を見失って。ああそうだ。莫迦だった。間違えた。たったひとりであいつらに敵うはずがないって、散々に教え込まれていたのに!

 どうしてこんなことになった? ――俺の、せいだ。

 どうしてこんなことになった!? ――全部全部、俺のせいだろうがっ!!

 赦せない。赦せない。自分が、BETAが、ここで起きた全部が! 赦せない赦せない赦せない!

 狂いそうだ。狂ってしまう。狂いたい。――いっそ、見捨ててくれていれば――っ!!

「ぅぅぅぉおおああああああっ!!」

 莫迦野郎。それでも、志乃は助けてくれた。彼女は助けてくれた。自分の危険も顧みず、こんな莫迦みたいに暴走した自分を助けてくれたのだ。そこに一体どんな感情が思いがあったのかなんてわからない。でも、それでも彼女は命を救ってくれた。

 莫迦野郎。それでも、亜季は助けてくれた。彼女は助けてくれた。自分の危険も顧みず、こんな莫迦みたいに暴走した自分を助けるために行動してくれた、志乃のために。

 眼前には三体の要撃級。十数体の戦車級。ゴミのような兵士級。――触手を振り回し、藍子の不知火を執拗に追いまわす要塞級。

 散乱するBETA共の屍骸。融解して転がった不知火の下半身。血溜まりに転がる志乃だったもの。泣き叫んでいた亜季の声が聞こえない。血濡れの左眼で見たバイタルは、哀しいくらいに平坦だった。

 これが夢なら、覚めてくれ――――。縋るような祈り。自嘲するように歪んだ笑み。

 ああ、こんな悪夢――これが現実。

 もう、駄目だった。戻らない。

 これが――武の罪だ。







 ===







 藍子は必死になって震える腕を押さえ込んだ。ガチガチと歯の根が震えている。死んだ。死んだ。志乃が亜季が死んでしまった。



 執拗に追ってきた要塞級。巨大過ぎるその圧倒的存在に翻弄され、壮絶に蠢く十本の赤い脚に踏まれないように、懸命に関節部を狙い撃つ。当たらない、硬い装甲に弾かれる。

 それは隣りで戦っていた亜季も同じだった。強襲掃討の彼女も制圧支援の自分も、そもそも長刀を装備していない。両手に構える120mm砲を我武者羅に狙い、滅茶苦茶に撃つ。命中、だが、大したダメージには至らない。

 ぐ、と。喉が唸る音を聞いた。要塞級は止まらない。ぞろぞろと流れるように、槍みたいな脚が迫ってくる。後方では武を助け出すために、志乃が頑張っている。その時間を稼ぐのだ。自分が、亜季が、志乃の直援のために要撃級・戦車級を相手にしている木野下が美冴が。

 だから止める。この要塞級を止める。ただでさえ混戦にもつれ込んでいる木野下たち先任に、これ以上の負担を強いるわけにはいかない。何よりも何よりも、友人で同期の仲間で、気が強くて格闘が強くて一緒になって水月をからかって――そんな風に、ずっと過ごしていた志乃がいるのだ。

 武を死なせられないと言っていた。水月のために彼を死なせないと約束した。ああ、そうだ。だから今、こうして自分は、志乃は、戦っている。

 この状況を作ったのは武であり、志乃だ。――だが、藍子は自らの意思でここに居る。自らの意思で、判断で、志乃を護るのだと決めていた。

 亜季だってそうだ。副隊長の木野下も、先任の美冴も、それぞれに自分の意思で決めてここにいるはずだ。――誰が悪いとか、何のせいだとか――そんなのは、生きて帰ってから怒ったり怒られたり、反省したりすればいい。全ては、生きていなければ意味がない。

 過ちも、責任も、全て。

 生きて帰って、命があって――怪我をしても、傷ついても、絶望しても、悔し涙を流しても、それでも、生きていさえすれば、また頑張れる。

 武を死なせない。武を助け出そうとする志乃を死なせない。彼女を護ると決めた自分だって死なないし、同じように戦っている亜季も木野下も美冴も、誰だって死なない。みんなで生きて揃って帰る。

 右翼に展開しているみちるたちだって、じりじりとだがこちらへ向かってきてくれている。さっきから光線級の攻撃がないのは、水月や真紀が蹴散らしてくれたからだ。三体居た要塞級も、二体がそちらに流れている。――だから、

 あとちょっと。もう少し。それだけを乗り切れば――――――ガヅン、という、酷い音を聞いた。

 思わず、眼で追ってしまった。

 そんな光景、見たくなかったのに…………ッッ!

 しなるように、豪速で繰り出された触手。一体いつの間に。全然、全く、これっぽっちも気づかない内に。だから回避なんて出来なかったに違いない。或いは節を狙うことに意識が行き過ぎて、低空をおぞましくも迫るそれの存在を忘れていたのか。

 管制ユニットと腰部の丁度中間辺り。抉るように炸裂した先端のかぎ爪。炸裂するように散った液体を見た。まるで冗談みたいに、亜季の機体の上と下が分かれて――衝撃に吹っ飛んで。

『ィィィいっぃあああアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!??』

 耳を塞ぎたくなるような絶叫だった。ディスプレイ下部に映る亜季の表情は、一度も見たことのないくらいに、凄まじい形相だった。

 眼を見開いて、涙が滲んで零れて、蒼白になった顔面に、胸を掻き毟るように――。

 足がないと。熱いと。何度も何度も、本当に狂ったように。そして同時に、もう一つの絶叫。全身が痺れた。嘘だ、と。そう叫びたかった。

『上川少尉ぃいい!!』

 少年の声。痛烈に叫ぶその声。ああ、助けられたのだ。生きていたのだ。そんな安堵はどこにもない。ちっとも湧いてこない。白銀武は叫んだのだ。志乃の名を。そして、呟くように――俺のせいだ、と。

 仲間を喪うことには慣れた、と。

 心のどこかでそう、勘違いしていた。或いは、思い込んでいただけなのか。――既に亡くした五人の仲間。帝国軍の訓練校に入隊し、出逢い、苦しみも喜びも、全部全部一緒に分け合ってきた彼女達。

 全然、慣れてなんかなかった。全然、平気なんかじゃなかった。

 07のコールナンバーを持つ不知火が立ち上がった。志乃のバイタルはフラット。……ああ、死んでしまった。

 武が操縦しているのだろう。立ち上がった衝撃に、亜季の機体がずり落ちるように倒れる。そのせいなのかどうかは……わからない。でも、丁度そのときに、亜季のバイタルもまた、フラットに……。

 藍子は必死になって震える腕を押さえ込んだ。ガチガチと歯の根が震えている。

 眼前の要塞級。うねるような触手は健在。踏んだだけで戦術機など串刺しにできる十本の脚もまるで無傷。何処から湧いてきたのか……戦車級の影が増してきて。

 吶喊するような武の咆哮が聞こえる。07の表示で映し出される彼の顔面は血に濡れて恐ろしかった。木野下の声が聞こえる。珍しく感情を剥き出しにした美冴の表情が見える。

 ――ああ、そんなに傷だらけで、何も出来るわけないでしょう?

 怖かった。大事な友人が、いつもふざけあっていたトモダチが。戦友が、仲間が。死んでしまって。二人とも、凄くいい子だったのに。……あんなに無残な死に方をしていいような、そんな子ではなかったのに。

『ぅぅぅおおおおおおおおおお!!!』

『止まれ白銀ェ!!』 『――上川の死を無駄にするなッ、莫迦野郎ッッ!!』

 震えている暇なんてない。

 怖気づいている暇なんてない。

 涙なんて、流している暇はない。

 今は――生きる時だ。

 無様でも滑稽でも、悔しくて哀しくて憤っても。――生きて生きて、生き延びることこそが先決ッ。

 志乃が救った武を死なせない。亜季が護った武を死なせない。彼女達の死を、無駄にしない。彼女達が命を懸けて助けた彼を、絶対に絶対に何があろうとも死なせはしない。

 血まみれの青年がやってくる。道中、戦車級を、要撃級を斬り刻みながら。旋風のように回転して、螺旋の機動を描き来る。

 でも、それは、どこかおかしくて無理矢理で滅茶苦茶で。まるで出鱈目。訓練で見せたような、今日の戦闘で見せたような、強烈で正確無比で惨忍で凄惨で……そんな機動は、どこにもなかった。

 禍々しい殺気だけが迸る。血だらけのまま、呼吸だってろくに出来ていないまま。そんな状態で戦術機を操縦できるわけがない。あんな動き続ける機動に耐えられるわけがない。

 表情を蒼白にして、ぶるぶると血を失った寒気に震えて。それでも、武は止まろうとはしなかった。喚いて、叫んで、泣いて泣いて咆哮していた。

 美冴の不知火が、吹き飛ばすように武の機体にぶち当たる。怪我人相手に容赦がない。だが、そうでもしないと武は止まらなかったに違いない。呼びかけに一切応じず、ただ感情のままに暴走するだけ。

(……もう少し、大人に成りなさい……白銀少尉)

 負傷した傷が痛むのだろう。悶絶するように息をひりつかせる彼の機体を、美冴が無理矢理抱え込んで跳躍ユニットを噴かす。

『篠山ァ! 来いっ、撤退するッッ!!』

 後退する美冴を尻目に、木野下が猛烈な勢いでやって来る。三度襲い来る触手をどうにか避けることに成功して、了解と心の中で呟いた瞬間に――――――――一体いままでどこにいたのか。

 一つ目の巨体が、のっそりと、水平線の向こう、巨大な地表構造物のそこに。

「あ、」

『――っ』

 心臓が縮み上がるのがわかった。ぴかっ、と眩しいものを見た気がした。わかったのは、それだけだった。

(志乃……亜、季……)

 涙が、一筋。目元のほくろを濡らすように、流れて、







「なん、だ、とぉおお!!??」

 爆裂する大気に驚愕する。重傷の癖に暴れまくった莫迦が乗る不知火を丸ごと抱えての匍匐飛行では、大した速度が出せない。一刻も早く戦場から離脱して、或いは右翼に散った隊長たちに合流しなければならないのに。

 志乃と亜季を喪って、それでも二人が命がけで護ったこの莫迦だけは死なせるわけには行かない。もしこいつが死ねば、二人の死が無駄になる無意味になる。だからそんなことは絶対に赦せなかった。

 故に美冴は逃げる。目一杯に表情を歪ませて、貧血に息を絶え絶えにする武を抱えたまま。

 ――なのに、

 レーザー照射警報。更新されたデータリンクには重光線級を示す光点があり、それはいきなり横坑の門から顔を出して、各地で一斉に、盛大に、その巨大な照射膜から――放たれたレーザーが、自機から数十メートルも離れていないその場所を、焼く。

 不知火を一機抱えたままに、乱数回避を取ろうとする機体が悲鳴をあげる。アラートが鳴り響く。武機を掴んでいたマニピュレーターが損壊し、肘関節に過負荷が発生する。たちまちにイエローに染まる機体情報。クソッタレという悪態は、果たして無意識の内に。

 振り向いている暇はない。どうやら重光線級の数はそう多くないようだった。連携してレーザー照射を行う素振りもなく……たちどころに、空をALM弾頭が往く。木野下の支援砲撃要請を無視したくせに、こういうことには惜しまないのか。――中国め!

 或いは韓国か、はたまた大東亜連合軍か――。

 考えても詮無いことだ。そして無意味すぎる。自分達は国連軍。『G弾』を使用した米国の息が強く掛かっている国連軍。美冴自身、そしてA-01部隊を指揮する夕呼は米国を痛烈に嫌悪しているが……そんな事情を、彼らが知るはずもない。

 瞬間に思考を切り替えて……気づく。追随してきているはずの二機の反応が、ない。

「…………っ、あ、?」

 02、08。灼熱の閃光が奔り抜ける直前までは確かにあったはずの、その、マーカーが。

 ぞォッ、と。美冴は血液が逆流する感覚を覚えた。なんてことだ。こんなことで、こんな場所で、こんな戦場で、こんな戦闘で。

 間引き作戦。その総数を減らすことで一時的にBETAの侵攻を止める……時間稼ぎのこの作戦。

「中尉ッ……篠山ッ………………くそぉっっ!!」

 吐き捨てるように。拳をコンソールに叩き付ける。――クソッタレ!

 その美冴の小さな嗚咽が聞こえたのだろうか。或いは、彼もまた自機の戦域情報で確認したのか……だとしたら、重傷を負った身で、大したものだ。――ああ、大したヤツだよ、この大莫迦野郎。

『ぅ、あっ……、ああ、あっ、』

 みっともなく震えるなよ。後悔しているのか? 怖いのか? 莫迦め。この大莫迦め。

「泣くな白銀ッ、震えるな、怯えるな! 目を開けろッ! その目で見ろッッ!! お前独りの暴走が招いたこの現実を受け入れろォ!! お前を死なせない、絶対に死なせないぞッ! お前は生きて、生きて、生きてっっ――!!」

 こんなにも感情が昂ぶったのはいつ以来だろう。初陣で同期の仲間をいっぺんに喪った時以来だろうか。

 枯れた桜の木の下で。

 優しい水月の計らいで、たった独り、遺された悲しみに泣いた。あの時。

 狂おしいほどに。哀しかった――今も、同じように。

『ぅ、あっ、ッッ!! うぁああああああああああああああ!!!!』

 血だらけで傷だらけで、それでも生きている。

 ならば、生きて生きて、生きて生きて生きて生きて生きて、あの四人の分まで生き抜いて、――示せ。お前にはそれだけの価値が在るのだと。木野下が志乃が亜季が藍子が、その命を差し出してまで救ったお前に、その価値が在るのだとッ!!

「生きろっ、白銀ぇえええ!!!!」













 作戦名『伏龍』。戦闘開始より三時間二十九分。目標BETA撃破数達成を確認。現時刻を以って本作戦は第三段階に移行する。各部隊は所定のポイントへ帰還せよ。

 作戦は成功――諸君らの尽力に感謝する――。







[1154] 復讐編:[十章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:28

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十章-04」





「最悪ね…………やってくれるわ」

「……………………」

 バサリと、打ち捨てるように投げられた報告書。『伏龍作戦』におけるA-01部隊の戦闘報告、並びに戦死した四名の衛士の死亡報告書……。手にとって、数枚をめくっただけで、ろくに内容を確認しないまま……香月夕呼は内心の不機嫌を少しも隠すことなく、晒している。

 眉間に刻まれた皺は深く、眦は鋭い。引き結ばれた唇は忌々しげな舌打ちの後に噤み……腕を組み足を組み、椅子の背もたれに体重を預けるようにして……やってくれる――と、再度、同じことを呟いた。

「………………それで? 暴走して副隊長含め四人も殺したあの莫迦は、今どうしてるわけ?」

「……帰還途上に意識を失ったため、現在は医療施設にて療養中です。腕の負傷ですが……神経系の損傷が著しく、擬似生体へ移植することが医師より勧められていますので、意識が戻り次第左腕の処置について本人の意向を確認します。顔面の裂傷は浅く、網膜には及んでいないそうです。皮膚の縫合を済ませ、一ヶ月もすれば視力も元に戻るだろうとのことです」

 夕呼が知らないはずはない事実を、しかしみちるは無感情に報告する。……案外、色々と頭に来すぎていて、秘書官のピアティフに任せきりなのかもしれない。確かに夕呼の立場を思えば、手駒の一人が負傷したところでそれに構っている暇などないし、構う必要もないのだろう。

 彼女がイラついている原因は、……使えると思っていた駒が存外に使えず、そのせいで他の手駒をも喪ってしまったことだろう。

 部下のことをチェスか将棋の……BETAとの戦争という盤上に乗せられた駒としか見ていないかのような夕呼の仕草には、少しだけ憤慨に近い思いがわく。……無論、彼女が本当に自分達を戦場の駒としてしか見ていないならば……みちるは厳罰を覚悟の上で、夕呼に躍り掛かっていることだろう。

「……原隊復帰はいつ頃?」

「は、擬似生体を移植した場合……リハビリを含め早ければ三週間ほど……眼の治療とあわせても、およそ一ヵ月後には復帰させることができます」

 十中八九、擬似生体を移植することになるだろう。その場合は、リハビリの最中や、或いは退院後に、戦術機適性検査を行う必要が在る。神経結合を必要とする擬似生体の移植には、日常生活には支障なくとも、戦術機の操縦に支障が出るケースが見られるのだ。……A-01でいえば、CPの涼宮遙がいい例だ。彼女は訓練中の事故で両脚を失い、擬似生体を移植した。リハビリも終え訓練にも支障なく臨み、しかし、彼女は適性検査で撥ねられた過去を持つ。

 元々に高い指揮官適性が見られたために、彼女は自身の進む道を戦域管制に見出し、今では部隊にとって欠かせない優秀なCP将校として成長しているが……。

「…………そ、わかったわ。ご苦労様」

 そっけなく言い放ち、視線を机上のモニタに移す夕呼。激しい憤怒を湛えた様子の彼女は……しかし、その激情を振るうこともなく、静かに押し黙っていた。

 みちるは顎を引き、一度だけ夕呼を見詰める。『伏龍作戦』。BETAの間引き作戦。……作戦は成功した。しかし、それは彼女達にしてみればあまりにも苦い“成功”だった。

 副隊長の木野下をはじめ、志乃、亜季、藍子――実に四名の戦死者。

 別に、戦場で衛士が……或いは、如何なる兵科であろうとも、軍人が死ぬことは珍しくない。彼らはある意味で死ぬことこそが職業であり、その覚悟のないまま戦争に臨む者はいない。戦術機を駆り、BETAと相対する衛士。戦場において最も損耗の激しいとされるその者たちは……今このときも、世界中で戦い、そして……散っていく。

 彼女達が特別なわけじゃない。彼女達だけが亡くなったわけじゃない。

 今回の作戦に参加したその殆どの部隊で、数え切れないほどの衛士が散った。大隊が全滅したという部隊もあると聞く。小隊がまるごと失われた、なんて話は日常茶飯事だ。……ならば、一個中隊で作戦に参加し、失った人員が小隊規模という自分達は恵まれているのかもしれない。

 ――反吐が出る。

 自己の思考に、吐き気がする。

 ヒトの生き死にに、差異はない。誰だって死ぬ。誰だって絶対に死ぬ。いつか必ず、確実に。そして――矢張り、喪えば哀しいのだ。

 作戦に参加し、戦死した英霊の家族たちには、大東亜連合軍から感謝状が贈られるらしい。……あまりにも莫迦げているが、しかし、遺された者にとってそれは、一体どんな意味を持つのだろうか。

 自分の家族を、兄弟を、恋人を……戦場に送り出し、いつか帰ってくることを願いながらも、それが叶わないと知っている彼らは……一体どれ程の悲しみに打ち震え、一体どれ程の理不尽に涙するのだろうか。

 ……それは、結局のところその本人にしかわからない。ひとりひとり、感じる悲しみも感情も想いも異なるだろうし、或いは納得し、誇らしくも思うかもしれない。

 自分はどちらだろう。――決まっている。

 彼女達は、立派だった。軍人としての役割や、人としての優しさや……そんな要素に関係なく、彼女達は、その死に際に――自分が出来る最善を精一杯に発揮して、散って絶えたのだ。

 その死に様を、忘れない。

 その死に様を、胸に刻む。

 彼女達の生き様を、忘れない。

 彼女達の生き様を、胸に刻む。

 ……そう。そして、それを胸を張り誇らしげに語ってやることこそ……彼女達にとって最大のはなむけとなる。それが、衛士の流儀だ。

「……失礼します」

 呟くように。みちるは踵を返す。スライドする扉を抜け、廊下に一歩を踏み出したそのとき……唐突に、夕呼が口を開いた。

「――は?」

 うまく聴き取ることができず、……いや、聞こえていたのにその内容を理解できなかったみちるは、立ち止まり、振り返り、今一度尋ねた。

 煩わしそうに視線を眇める夕呼が、思い切りに面倒くさそうに口を開く。――曰く、

「退院なんて待つ必要はないわ。意識が戻り次第、あの莫迦をここに連れてきなさい」

 ぐ、とみちるは喉を鳴らした。……厭な、予感がしたのだ。

 夕呼はこの作戦で彼の実戦データを得、何らかの研究を進める算段だった。……だが、彼の機体、管制ユニットは戦闘により紛失。出現した重光線級により消滅したという報告も在る。手に入るはずのデータはなく、そして……軍人としてあるまじき暴走行為によって四人の先任を死に追いやり……そんな彼を、夕呼が呼ぶ。

 彼女の真意を、みちるは推し量ることさえ出来ない。恐らくは、AL4にも絡んでいるだろう彼の、様々なデータ。そのための研究……或いは、新たな指針を思いついたのだろうか。

 ともかくも、みちるに拒否権はなく、同様に彼も拒否することは出来ない。夕呼直属の特殊任務部隊。その役割は、彼女の計画をなんとしてでも成功させるために、常に最大の成果を上げることである。

 しかし…………少しだけ、性急過ぎはしないだろうか。みちるは、勿論夕呼の命令に異論を唱えるつもりはないし、そんな権利はない。……だが、今回のことは色々と……自分にとっても、隊の部下達にとっても、何より、白銀武にとって、非常に重い意味を持つ。

 初めての戦場で先任四名を死なせた武。そこにいたるまでの、そうなってしまうまでの……彼女達当人の思いというものもあるだろう。彼女達亡き今となっては、それは遺された者が想像するほかないのだが……けれど、そんなことに関係なく、間違いなく武は己を責めるはずだ。

 軍人なら、衛士なら……誰だって一度は経験する。――仲間の死。

 自分の力が及ばずに目の前で、自分を護るために目の前で、自分が見捨てたために目の前で、自分がミスしたせいで目の前で…………様々な、死。例え目の前でなくとも、例え自身の手の及ばない場所であっても、仲間の死というものは、少なくない影響を残す。

 ヒトの生き死にに差異がないとは言うけれど……それでも、喪うことは辛い。理屈ではなく、感情がただ、痛むのだ。

 作戦終了から既に一日が経過している。部下達はそれぞれ、自分の中での彼女達の死を整理し、納得し、前を向き始めている。誰もが親しい仲間を喪った経験を持ち、誰もが、その度に強く成長している。喪われた仲間を嘆くのではなく、彼女達の生き様を語り継ぐことこそが手向けになるのだと知って居る彼女達は……きっと、立ち直ってくれるだろう。

 だが――武は?

 彼の暴走は決して許せるものではない。復讐という感情を推奨はしないが、否定するつもりもない。それは、この世界に生きる者たちにとって……ある意味で当然の感情だからだ。

 だが、その感情に振り回され、暴走し、単独行動を取り……あまつさえ、窮地に陥り、仲間を死地に晒したその罪。過ちを犯した事実。――武は、きっと自分を赦さない。

 赦す赦さないの問題ではないのだと、みちるは思う。罪の所在を問うこともまた、この戦争の時代においては不毛だ。

 新任で、初めての戦場で、己のミスで先任を仲間を死なせた武。……未だ目を覚まさないが、もし、意識が戻った彼が己を責めるような素振りを見せたならば――容赦しない。

 だから、みちるは少しだけ時間が欲しかった。……或いは水月、そして彼を生還させた美冴もまた、そう感じているだろう。

 殴るのでもいい。諭すのでもいい。だから、その時間を。目を覚ました武が、喪われた彼女達に、或いは生き残った自分達に、どんな感情を精神を在り方を見せるのか。……隊長として、見極めなければならない。そして、腐った性根を見せるようならば容赦なく、叩き直す。

 あの四人の死を無駄にはしない。

 絶対に無駄になんかさせない。

 そうなってしまうまでの過程や、事実や、感情になど関係なく。ただ、彼女達が果たしたことを、その意味を、武には絶対に刻み付けさせなければならないのだ。

「……香月博士、白銀の件ですが…………どうか、暫く時間をいただけませんか。……彼も私の部下の一人です。隊員の管理は隊長の義務……万全とはいかなくとも、時間をいただくことで、白銀を、」

「――あぁもう、わかったわよ好きにしなさい!」

「……っ、」

 せめてそのための時間を求めて口を開いたみちるに、夕呼は机の上の書類を投げ散らしながらに叫ぶ。僅かに上擦ったその声は、表情は……一度たりとも見たことのないくらいに、歪んで、いた。

 息を呑む。驚愕に目を見開く。そのみちるの様子に気づいたのだろう……夕呼は顰めるように顔を背けて、溜息をつく。

「――――……済まないわね、伊隅。……八つ当たりよ、気にしないで」

「…………は、っ」

 驚かずにはいられない。そして、戸惑わずには。

 夕呼が謝罪することも稀なら……八つ当たりなど、初めてのことだった。武のことだけでこれほどに憤っているとは思えない。……ひょっとすると、AL4自体に、何か彼女をイラつかせる要因があるのかもしれなかった。

 だが、それはみちるが踏み入っていい領分ではなく……。兵士は、ただ与えられた役割を全うするだけでいい。

 今度こそ執務室を後にしたみちるは、内心で酷く動揺しながらも、けれど、しっかりと前を向き――愚かしいほどに滑稽で哀れな部下を見舞うため、歩を進めた。







 ===







 目を開ける――その動作に、息を殺すほどの苦痛を覚えた。

 左眼に走った痛烈なそれ、びりびりと痺れるような、じりじりと焼けるような、そんな痛みに――強く眼を閉じる。それさえも、苦痛。

 反射的に左眼を覆おうとするが、しかし左腕は全くに反応せず、ただ、動かそうとした感覚だけがあって……ひどく、気持ち悪かった。

 落ち着いて、右目を開く。白い天井、白い電灯――見覚えのある、病室。……一体何度ここの世話になれば気が済むというのか。呆れるように息を吐き出した瞬間に――彼女の亡骸が脳裏を乱した。

「――っ、ガッッ!!??」

 びくり、と心臓が跳ねた。呼吸が一瞬にしてひりついて、見開いた右眼に――天井ではなく、その、光景が――ぁああああああっ!

 掛けられた布団を蹴り飛ばすように、身を起こし、ガチガチに固定された左腕に構うことなく、激痛を訴える顔面を無視して、ベッドから降り立つ。ふらり、と身体が流れた。あ、と思った瞬間には無様に床に転がっていて……打ち付けた左腕に絶叫したくなるような痛みが、

「武ッ!?」

「……ぁ、ぁ、ガッ、ぁ…………ッッ!」

 強くカーテンを鳴らして、水月がやって来る。どうやら近くにまでやって来ていたらしい。そこに先ほどの叫び声を聞いて、まるで図ったようなタイミングで現れていた。

 だが、武はやってきた彼女にまるで気づいた様子はなく、込み上げる激痛を、歯を噛んで食いしばり、ギリギリと右の拳を握り締めて……床に転がったまま、ただ右眼の見せる光景を何度も何度も、反芻しては猛っていた。

 白い塊、黒い残骸、赤い水溜り――。

 脳が灼熱する。感情が烈火のごとく揺らぐ。砕くほどに噛み締めた歯が、ギシリ、と音を鳴らす。――その様に、水月は……、

「武ッ! あんた、しっかりしなさいッッ!!」

「――ッ、!?」

 倒れたまま立ち上がろうとしない武の襟首を掴み、負傷した彼を、しかし水月は躊躇なく引き摺り起こす。胸倉を掴みあげるように、包帯だらけの武を睨み据えた水月に、ようやくにして彼は彼女の存在に気づいた。

「み――」

 驚いて、その名を呼ぼうとする。……だが、至近距離から向けられる視線のあまりの鋭さに、武は声をなくした。ゾッ、と全身の温度が下がる。突き刺さるような、射抜かれるようなその瞳に、呑み込まれてしまう。

 愕然と表情を歪ませた武を、水月はベッドに放るように手を放した。ぼすん、と音を立てて、武はベッドに座るように落下する。

 互いに無言。一方は厳しい表情のまま口を結び、一方は怯むように右眼を彷徨わせて。……やがて、嘆息しながらに、水月が口を開いた。

「…………武、私がわかる?」

「え…………」

 その言葉の意味が、わからなかった。恐ろしいくらい真っ直ぐに向けられる視線。厳しい表情、そして口調。まるで目の前の武が敵かなにかと言わんばかりに。……それほどに、水月の表情は凄まじい気配を放っていた。

 その彼女が、問う。――私がわかるか、と。

 わかるに、決まっている。……水月だ。速瀬水月。武が憧れて、尊敬して、目標として……自身を救ってくれた恩人として、想う……大切な女性。

 A-01部隊においては所属する小隊の小隊長を務め、…………真紀や■乃とともに戦う、大切な仲間だ。

 ――ア、レ?

 ザッ、と。ノイズが混じる。なんだろう。武はつい今しがたの思考に混ざったノイズに引っ掛かりを覚えた。――志■。ザリザリザリ――……。

「……ぁ、」

 また、右眼に何かが映る。見上げていた水月が消えて、白いきのこみたいなぶよぶよした化け物が、なんだかもぐもぐとギッチリ並んだ歯を蠢かせている。そいつの足元にはよく知った黒い女性用の強化装備がその下の肉が転がって赤色でもぐもぐむしゃむしゃぼたぼたびちゃびちゃ。

 吐き気が、した。なにかが、込み上げた。寒い。怖い。震えが、――熱いぁあああ! 足がない! 足がない! 足が足が足がぁぁああ!!!――発狂、シソウ……。

 誰かが叫んでいる。鼓膜が破れそうなくらいすぐ近くで。がたがた震えて、みっともなく震えて、目の前で繰り返される記憶に映像に叫び声に絶叫して、喚いている。

 ――ヤメテヤメテヤメテクレもうたくさんですお願いですからヤメテ下さいごめんなさいごめんなさいもう赦してヤメテ食べないであぁあ足がない溶けてなくなってそんなのって落ちた喰われた畜生くそうやめてくれ逃げて俺のために俺のせいでうわぁあぁああ厭だ駄目だこんなの全部ユメで現実だそんな酷い誰がべーたが俺が俺の――せい、でっっっ!!

「……こっ、の! 大莫迦ァア!!」

「!!」

 右頬に、焼けるような衝撃と痛み。吹き飛ぶようにベッドの上を滑って、壁に叩きつけられる。ぐっ、と呻きが漏れた瞬間に、先ほどまで脳髄を焼いていた絶叫が収まっていることを知る。――ああ、アレは己の叫びだったのか。

 呆然と項垂れるような武に、今の一撃の衝撃に口内を切り血を滲ませる彼に、水月は躊躇うことなく距離を詰めた。ベッドの上で壁にもたれるような武の胸倉を再びに掴んで……水月はもう一発、今度は縫い終わったばかりの左頬を、殴りつける。

「――ッッッ!!!!!!」

 包帯の上から、手加減など一切ない拳の衝撃。びりぃ、という鈍い引き裂けるような音がしたが、そんなものに構っていられないくらいの痛みが熱が――涙が滲みそうなくらいに、――掴まれたままの身体を、更に壁に押し付けられる。後頭部が薄いクリーム色の壁に打ち付けられた。ギリギリと絞るように襟元が締められる。

 水月の表情は、憤怒に染まっていた。向けられる瞳は完全なる怒気を孕み。……食らった二発の拳には……………………抉られるくらいの、哀しみが満ちていた。

「武……私がわかる……? ちゃんと今の状況が、わかる?」

「…………」

 睨んだまま、胸倉を掴んだまま、水月は問う。自分は誰だ、と。お前は誰だ、と。今の状況――即ち、お前が死なせた志乃の亜季の、彼女達がわかるか、と。



 ――その罪の重さがわかるか、と――そう……。



「――ッ、ぅ、」

 表情を歪める。包帯の下で、頬の傷が裂けて血が流れ出す。いっそ、このまま左眼も抉って欲しかった。右腕が震える。全身が震える。――怖、かった。

 水月が、ではない。死にそうになったことが、ではない。

 ただ――目の前で喪われた彼女達の死が、――感情を歪ませるくらいに、怖かった。

 でも、それは紛れもない事実で過去で現実で。志乃は、亜季は、藍子は、木野下は――皆、武のせいで、死んだのだ。

 ぶるりと震えるような感情に、武の右眼がぶれる。水月はそれを見逃さない。ほんの僅かな反応だって見逃さない。水月は……誰よりも武に怒っているのだから。

「……木野下中尉は、上川は、岡野は、篠山は…………死んだわ。皆あんたを助けるために戦って、戦死した。その意味、あんたわかってるの?」

「……お、れ……ッ、こん、な……こんな、つもりじゃ……っ!」

 しっかりと言い聞かせるような水月の言葉に、武は殊更に反応した。まるで恐れていた事実を突きつけられて嘆くように、哀れにも思えるくらい、身体を震わせて。

「……俺の、せいでっ……!! でも! 俺は、そんなつもりなかったんだ……ッ! 間違いだったって、気づいてるッ――でもッッ! それでも俺はッ、あいつらを、BETAを、赦せない!! 純夏を殺したあいつらがっ! 純夏を踏み潰したあいつらがっ! 純夏を食い殺したあいつらがっっ!! …………赦せなかっ……た、のに、……こんな、ことって…………ッ」

 真っ黒に濁った瞳が、水月の蒼い瞳に映る。ぼろぼろと涙を零す歪みきったその瞳を、己の罪を吐き出すような震えたその声を…………けれど水月は、一切、受け止めてはやらなかった。

「――ッぐぅうう!!」

 腹にめり込んだ水月の右拳。切れた口内から血が滴って、濡れた包帯からその赤色が散った。白いシーツを点々と汚す赤色にも、苦悶を浮かべる武にも、水月は全然構うことはない。左手で今一度胸倉を掴み上げ……腹から引き抜いた拳を、一杯に奮わせて……ッ。

「この、莫迦ッッッッ!!」

 殴るその瞬間に、左腕を放す。ほんの一瞬だけの浮遊感に似た感覚――瞬間に、左頬を抉るようなストレート。壁にぶっ飛ばされて、ボダボダと引き裂けた頬から血が滴る。ぐらりと脳が揺れて、武はずるずると壁にもたれるように身を沈める。

 辛うじて……本当に辛うじて右眼だけを水月に向けて、自身を殴りに殴った彼女の、その――――泣いているような顔を、見る。

「…………ッ、ぅ、あ?」

 泣いて、いた。

 ような……ではなく。本当に、水月は涙を浮かべていた。厳しい表情のまま、険しい視線のまま、両拳を握り締めて、口からは熱い呼吸を繰り返して……。

 憤怒の形相のまま、彼女は。確かに泣いていた。

 ギュウウ、と。心臓が締め付けられるように、痛む。啼く。――震えた。

「水月……さ、ん」

 呼びかける声は弱々しく。紡がれた声は情けないくらいに。

 どうして、泣くのか。

 どうして、貴女が泣くのか。

 ――決まってる。大切な仲間が戦死したんだ。四人も。先任が、部下が、自分の手の届かない場所で亡くなったのだ。……哀しいに、決まっている。

 でも、違う。違う気がする。水月が見せるあの涙は、……どうしてか、武に向けられてのものだと、わかった。

 理屈はなく、ただ、彼女を知る自身の直感が……そう訴えてくる。

「なっ、なにやってるんですかっっ――!?」

 その声は、唐突に。顔面を血に染めた武を見下ろす水月を押しのけるようにして、軍装の上に白いエプロンをつけた衛生兵が駆け寄ってくる。包帯全部に赤色が滲んだ彼を見て、衛生兵の女性は表情を険しくした。

「――中尉っ、貴女は一体何を……っ」

「武――――――。あんたは生きてる。上川が、岡野が……篠山が、そして木野下中尉が、命を懸けてあんたの命を救った。……あんたは生きてる。生きてるのよ」







 ――だったら、どんなに悲しくて辛くても……生きて生きて、精一杯生きて……、そして、鑑に逢いに逝きなさい







 どぐり、と。疼くように、記憶が蘇る。

 いつだったか……そう、だ。それは、あの日、水月に救われたあの日……純夏を喪った翌日の。

 彼女の胸の中で聞いた……彼女が掛けてくれた、言葉。

 光景が、フラッシュバックする。哀しみが、思い出される。あの時に噴き出した憎しみが、あの時に吐き出された哀しみが。嗚咽、涙、…………抱いてくれた水月の体温。

 同じ、だ。同じだった。水月の声は、水月の拳は、水月の言葉は……全部、全部、あの時と同じ。道を踏み外そうとする武を叱り、……道を踏み外した武を、叱ってくれる、水月は。

「……白銀少尉、さあこちらへ。傷の手当をしましょう……」

「…………」

 衛生兵に手を引かれるままに、呆然と武は水月の横を通り過ぎる。引き裂けた傷をそのままに、ただ、水月だけを見詰めながら……。

 水月もまた、無言だった。すぐ横を通り過ぎる武をチラリとも見ず、ただ、真っ直ぐになにかを睨みつけているかのよう。

 渦巻く感情があった。逆巻く感情があった。憤りも、悲しみも、痛みも、悔しさも、歯痒さも。――武がこうなることは、わかっていた。病室からいなくなった彼を想い、深く息を吐き出す。

「武……あんたを、このまま終わらせはしない……」

 幼馴染の恋人を喪って、ずっと、ずっと……それだけを引き摺ってきた武。一度は立ち直ったかのように見えたのに、それはきっと、水月や茜を安心させるために被った仮面かなにかで。だから……武は全然立ち直ってなんかいなかったし、忘れられてもいなかった。純夏を喪った哀しみを。彼女を奪われた怒りを。BETAへの憎しみを。ずっとずっと、心の奥底に溜め込んでいた。

 それが、爆発して。…………その武の感情は、理解できる。想像に想像を重ねるほかないが、しかし、それでもそうやって理解することは、できる。

 あまりにも、怖いくらいの一途さに、どうしてだろうか。水月はちくりと胸が痛むのを感じた。……同時に、その結果喪われた部下を思う。

 武はミスを犯した。憎悪に、殺意に、復讐に自己を周りを見失い、戦場にあって独り、暴走した。それは軍人としてあるまじき行為であり、ニンゲンとして脆すぎる選択だった。

 自身が負った傷。そして、あまりにも痛烈に過ぎる彼女達の死は、間違いなく武を苛むだろう。彼女達にはそれぞれに決意があり、信念があり、それら譲れない何がしかに従っての行動の結果の――死、だということを、きっと武は気づかない。己のミスが彼女達に死を招いたのだと思い込み、絶望し、後悔に身を焦がすだろう。

 或いは、自身にもっと力があれば……なんて、傲慢に過ぎる悔恨を吐いてしまうかもしれない。――そうは、させるか。

 水月は誰もいない病室で、ただ耐えるように拳を握る。シーツに染みた赤い斑点が、沈黙を以って水月を奮い立たせる。

 武は自分の部下だ。大切な、弟のように愛しい存在だ。死なせないと誓ったし、支えるとも誓った。ほかでもない、自身に。傷ついて泣き崩れて狂いそうになって……それでも、一度は、例え嘘に塗り固められた仮面の下であったのだとしても――前に進んだ彼を。今度こそ、本当に。

 これが戦争だということ。これが衛士に課せられた役割なのだということ。そして――どんな形であれ、生き残ったものが果たすべき義務を。

 泣いている暇などない。後悔している暇などない。恐怖に竦んでいる暇なんてない。

 自身の行動が誤りだと悟ったのなら、やるべきことは一つしかない。

 ……それでもまだ、気づけないというのなら、もう一発。今度はその眼を抉るほどに。

 いくらでも殴って、叱りつけて、気づかせてやる。わからせてやる。――だから覚悟しなさい、武。

「あんたには、生き続ける義務が在る」

 鑑純夏と、彼女達の分まで。喪われたその命の分まで……生きて、生きて、生き足掻いて見せる義務が在る。

 命を救われたと感じるのなら。彼女達の死に涙するというのなら。

 無様でもいい。格好悪くたって構わない。滅茶苦茶に我武者羅に、精一杯生きればいい。…………そしていつか、やってくる自身の最期に。

 そのときに出来る、精一杯の――最期を。

 眼を閉じて、顔を上げる。まるで溢れてしまいそうな何かを堪えるかのように。水月は、静かに一度だけ、彼の名を呟いた。







 ===







 憎いくらいに、晴れ渡った蒼い空を……真紀はぼう、っと見上げていた。施設の屋上は夏の熱気を孕んだ風が、それでも地上に比べては幾許か涼しげに吹いている。浮かんでくる汗を丁度よく乾かすその風に髪を遊ばせながら、矢張り彼女は蒼天を見上げたままだ。

「…………あら驚いた。珍しいじゃない、貴女が屋上にいるなんて……」

 きぃ、と開かれた扉から、慶子が現れる。呼びかけられた真紀は、顔は見上げたまま、視線だけをそちらに向けて苦笑する。

「いやぁ~、ほら。シノっち、さ。よく屋上にいたじゃん?」

「……そうね。あの方はよく屋上で空を見上げてましたわ」

 ふふっ、と。何処かのお嬢様かと見間違いたくなる黒髪を、慶子は真紀と同じように風に遊ばせた。ただぼんやりと立ち尽くす真紀の横を通り過ぎて、慶子は手摺に手をかける。

 抜けるような晴天。風に流れる白い雲。梅雨が明けるには少し早いというのに、憎いくらいの夏空だった。

「アタシは、大丈夫だよ……」

「あら、私別に貴女の心配なんてしていませんわよ」

 呟いた真紀に、間髪いれずに答える慶子。背中を向けたまま放たれたその言葉に、真紀はくくっ、と喉を鳴らした。

 どうやらこの似非お嬢様は、たいそう素直ではないらしい。…………そんなことは、今日までの四年間で十分すぎるくらい理解していたが。

「……なにが可笑しいんですのっ?! わ、私は別に…………ッ」

「あははははは! ケーコ顔真っ赤じゃん」

 むっ、と眉を寄せて振り返る慶子は、確かに頬を染めていた。高らかに笑う真紀に、むぐぐと口元を唸らせている。――その仕草が、スゴイツボに嵌った。

「ぶっ…………あっはははははは! ひぃーっ、その顔ッ、あはっ、あはははっ、お、お腹が、くふっ、ひぃひはははっ!」

「…………なっ! なにを、貴女は笑ってるんですのッッ!! ひとの顔を見て笑い転げるなんて無礼でしょうッ!?」

 やめてー。もうだめー。笑いながら、コンクリートの上をごろごろ転がる真紀。目元に涙が滲んで見えるのは多分気のせいではない。よじれそうな腹を抱えて、ばたばたと転がっている。

 慶子は……自身が物凄く無駄なことをしているのだと悟った。もはや溜息しか出ない。――でも、これなら安心だ。

 ふっ、と。漏れるような可笑しさがあった。

 まるでいつも通りの莫迦をやってくれる真紀。ちゃんとそうできている彼女。入隊以前から志乃と同じ予備学校に通い、友人として過ごしてきた彼女を……ともすれば慰めるつもりでやってきてみれば。

(逆に……私が励まされましたわ……)

 苦笑するほかない。自然に、口元が緩んだ。あはははっ。噴き出すように笑ってしまった。あんまりにも真紀が可笑しくて。あんまりにも彼女が見せる強さが心地よくて。

 慶子は笑う。真紀は笑う。

 喪われた彼女達の死に、泣いている暇なんてないのだ。帰還する船の中で皆、それぞれ存分に泣いた。慶子は知っている。それを目撃している。

 自身がようやく涙が枯れるくらいに泣きつかれた後。気分を変えようと甲板に上がったそのときに。海に向かって、朝鮮半島へ向けて――叫んでいた、真紀を。知っている。

 莫迦野郎と。何で先に逝くのかと。置いていくなんて酷い。畜生。畜生。畜生。畜生ッ。――繰り返される嘆きは、再び、慶子の眦を濡らしていた。

 仲間を喪うのは初めてじゃない。初陣で、その後の任務で。……既に五人を喪っている。同じ年齢の、同期の彼女達。その数が、増えただけだ。

 でも、そんな風には考えられなかった。

 これっぽっちも、慣れた、なんて実感は湧かない。ただ、哀しい。哀しかった。涙が溢れた。喪うことが怖いと思った。こんな戦争、こんな世界。狂ってる狂ってる――でも、これが現実。

 もしあの時、自分も彼女達の傍にいたならば。……そう考えてしまうのは傲慢なのか。ありもしないイフに縋り、自身を慰めようと妄想する。……莫迦め。そんなことをしてもなんにもならない。

 上官の木野下を想う。友人で戦友の志乃を、亜季を、藍子を……想う。眼を閉じれば鮮明に彼女達と過ごした記憶が蘇る。入隊した時、自己紹介したとき、訓練に疲れたとき、食事の時、笑いあい、励ましあい、……任官して、実戦に出て……ああ、仲間を、喪って。

 ――お前は、生きているだろう。

 かつて、同期を五人亡くしたときに、木野下が言ってくれた言葉だ。喪った彼女達を嘆くばかりだった自分に、小隊長でもあった彼女が笑いながら教えてくれた。

 生き残ったものの義務。喪われた彼女達の記憶を、廃れさせないこと。記憶があれば、彼女達は生きていける。そのひとの中で、そのひとと共に。一緒に、在ることが出来る。……そして、そうやって誇らしげに彼女達のことを語ってやることこそが、これ以上ないはなむけとなるのだということ。

 衛士の流儀。……慶子は、それをよく覚えている。

 そして、目の前でようやく停止した真紀も。晴れやかな笑顔で、抜けるように高い青空を見上げて。その瞳に悲しみはない。その表情に嘆きはない。その心には――彼女達が、確かに存在している。

「なぁケーコ。シノっちもアキも、アイコもさぁ……み~んな、あいつらに逢えたのかなぁ……」

「当たり前でしょう? あんなに賑やかな人たちですもの。向こうが嫌がっても、無理矢理でも混ざって、引っ掻き回すに決まってますわ」

 そして多分……その筆頭を行くのは、木野下なのだろう。想像して、笑った。真紀も笑う。嬉しそうに。――そっか、そりゃあ楽しそうだ。

「…………なんか、凄い気持ち悪いよ? てか、なんで真紀は寝てんの?」

「まあ、二人とも。そんなに大きく口を開けて……はしたないですよ。うふふっ」

 開かれた扉から、旭と梼子がやって来る。笑い合う真紀と慶子に首を傾げて……けれど、その旭の表情がいい具合に、可笑しくて。

「「あはははははははっ!」」

 やっぱり、二人は笑うのだった。







 ===







 二度目の縫合を受けた後、医師が勧めるとおりに擬似生体の移植をお願いした。……同意書にサインする時に……左腕を治療して、一体どうするつもりだと――――何を、迷うことがある。

「それと、顔の傷だが……こちらも、君が望むなら完全に消すことも出来る」

「いえ、これは…………このままで、いいです」

 思いついたように言う男の医師に、反射的にそう答えていた。

 何故? 脳裏に投げかけられる問い。即座に答えることが出来なかったが……確かな、感情が在る。――これは、俺の罪だ。

 できれば左腕もそのままにしておいてほしかったのだが、こちらは神経がズタズタに傷ついているらしく、通常生活の用には使えないそうだ。まして衛士となれば、それは事実上の退役に等しい。

 その選択を…………選ぶことは、できなかった。

 自分が衛士だからとか、高い適性値を持っているからとか、軍人としての義務とか、ひととしての責任とか、BETAが憎いからとか、純夏の仇を取りたいからとか…………多分、そんなことではなく。

 ここで逃げたら、終わりだと。

(逃げる……何処に、逃げるっていうんだ…………ッ)

 逃げる場所なんてない。故郷は廃墟に沈み、迎え入れてくれる肉親もない。恋しい彼女は既に亡くし、その自分を支えてくれ、導いてくれた彼女達に甘えることなんて出来ない。

 第一、何処に行ったって同じだ。どこまでも、絶対についてくる。

 管制ユニットから落下した志乃、ディスプレイに映し出された真っ赤な水溜り、無表情に咀嚼する兵士級の面。

 耳を焼くほどの亜季の叫び、泣き声、溶けた機体の下半身。

 巨大な閃光に消えた藍子、木野下。

 なにもかも、ついてくる。

 その全てが、呪うようについてくる。例え武を受け入れてくれる場所が、人が、在ったのだとしても……それでも、絶対に振り切ることなんて出来ず、忘れることなんて出来ず、いつまでも、何処までも、彼女達の“死”は。

 顔の傷を残すというのも、結局はそのためだろう。……自身の感情を、思考を、十分理解できないでいる。

 一体自分は、哀しいのか、恐ろしいのか、悔しいのか、憎いのか、狂っているのか――わからない。

 左腕に擬似生体を移植して。

 顔の傷を残して。

 それで――? それで、一体自分は、何をしようというのか。

 傷が治ればまた、衛士として戦場に出る。戦術機適性検査を受ける必要は在るだろうが……例えそれに撥ねられたのだとしても、きっと、何らかの形で戦場に赴くことになるだろう。

 そうなったとして、自分は……。そこで、何を?

 ついてくる彼女達の死に捕らわれたまま、ついて廻る己の罪を、鏡を見るたびに思い出しながら。それで一体、本当に、何をしようというのだろうか。



 ――お前を死なせない、絶対に死なせないぞッ! お前は生きて、生きて、生きてっっ



 ――……あんたは生きてる。生きてるのよ



 そうだ。自分は生きている。無様にも、醜態を晒して。己の愚行のせいで、遥かに自分よりも優れた先任を四人……殺した。

 そんな自分が、傷を治し、傷を癒し、再び戦場に出て――どうするって?

 また復讐に駆られて、また暴走して、また無様を醜態を晒して……そうして、仲間を殺すのか? 自分だけ生き残って? 助けてもらって、救ってもらって、迷惑をかけて、死なせて。

 そんなことに何の意味が在る。そんなことにどれだけの意味が在る!?

 自分は生きている。助けられて、命を救われて、こんなにも愚かしいほどに呼吸して心臓が脈動して――ッ! 生きているっ……自分だけが、生きている。



 ――貴方たちには未来がある。貴方たちには未来を勝ち取る権利がある



 優しい教官の言葉が、ふっとよぎった。

 果たして自分には、そんな権利があるというのか。こんな罪を犯した自分に……それでも生きている自分に、一体……どれだけの未来があるって?

 水月に殴られた箇所が痛む。

 呻いて、泣いてしまいそうなくらいに、痛む。――ああ、どうして。水月さん。

 どうして、貴女が泣くんだ――。

 拳を握り締め、武を思い切りに睨んで、熱い呼吸を繰り返していた彼女。

 殴って、叱って、抱きしめて支えてくれた彼女。

 つい先ほどの水月と、……二年前の、あの雪の日の水月が重なる。――どうして、こんなにも胸が熱い……ッッ!?

「白銀少尉……どうぞ」

「ぇ……」

 同意書を持って去って行った医師と入れ替わるように、先ほどの衛生兵がやって来る。両手に持ったそれを、……見て、武は。

 受け取った右腕が震えていた。速瀬中尉から少尉へ渡すよう言付かりました。そう言って少し微笑んだ彼女を、しかし彼は見ていない。

 漆に塗られた、銀の意匠の施された豪奢な鞘。それを台無しにするくらい鮮烈な黄色のリボンが巻かれて――弧月。真那に託された、彼女の父の、遺品。想いの塊。魂の、遺志の、具現。

「ぅ、ぁ、」

 鮮やかで目に映えた黄色が、薄汚い赤色でくすんでしまっている。自分が流した血。それに濡れて、それを吸って。純夏が、彼女が泣いていた。

 血涙。或いは――弧月もまた、血を吸って。

 責めたてる。

 無言のまま、師が、真那が、純夏が。自身の無様を責めたてる。







 ――……胸を張れ、己を信じろ。限界などない







 ――だって、タケルちゃんのこと、信じてるもん!







「ぁ……ぁ、ああっ、うぁああああっっ!!!!」

 涙が、止まらない。右眼から、閉じた左眼から。溢れる。零れる。

 志乃の死に様がはりついて剥がれない。

 亜季の泣き声がこびりついて剥がれない。

 藍子の木野下の散った姿が、焼きついて消えてくれない。――でも。

 生きてる。

 生きてる。

 生きてる。

 生きて、いるんだ……っ!







 ――安心して! 白銀はあたしたちがちゃんと面倒見るからさっ!!







「!?」

 どうして、だろう。

 心臓が、温かい。――誰だ?

 弧月を握る右腕に、熱い、力が篭る。

 ああ――、涼宮。茜。お前が――。

 一筋の涙が、頬を伝い、落ちる。

 懐かしい。たった二ヶ月しか経っていないのに。それでも、これほどに懐かしい。

 助けられた、救われた、命を懸けて。彼女達を死なせて。それでも自分は、生きている。

 苦しい、哀しい、なんて罪深い、なんて愚かしい、なんて、なんて、無様で醜い……血濡れで呪われたこの命。

 でも、生きているんだ。

 そんな自分を想ってくれるひとが、居る。

 そんな自分が想うひとたちが、居る。

 死んで、たまるか。死なせて、たまるか。これ以上ッ――絶対に。

 弧月が――真那が、純夏が、笑ってくれたような気がした。頬に残る熱い痛み。水月の笑顔が見えた気がした。

 胸が熱い。心臓が温かい。

 きっと今も、いつものように元気に笑って、一生懸命頑張って。賑やか過ぎるくらいに、笑いあって。――ああ、あいつらと共に。

 だから。そう。

 前に、進め。

 這い蹲ってでもいい。どれだけの血と涙に濡れても、汚れても、腕をもがれ足をもがれ心臓を砕かれても。――進め。

 自身にはたくさんの想いが詰まっている。この手にはたくさんの想いが託されている。

 だから、だからどうか。

 喪われた四人に、…………志乃に。頭を下げる。ごめんなさい。ありがとう。――生きることを、赦してください。



 ――ばーか。



 不敵に笑うような、そんな幻視。涙は、乾いていた。目を開ける。弧月を握る。血に汚れた黄色いリボンを――。

 その瞳に濁りはなく。

 その表情に歪みはなく。

 ――だから、そう。それは。…………いつだったか、あれは二ヶ月前。あの時もそうだった。本当に唐突に、完全に不意打ちに。

 銀色の髪。黒いドレス。いつだって変わらないその姿。小さな、少女。

 社霞。

 また……お前、か。

 ぶるりと震える武の瞳に、苦い感情が――奔る。







[1154] 復讐編:[十一章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:29

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十一章-01」





 見舞いに来たのだと……まるで、怯えるような声音で……。少女は、霞は、呟いた。

 その声に、仕草に。自分が彼女をキツク睨みすえていることに気づく。――何故。突然に湧いた苦い感情を、武は理解できないでいた。

 別に、霞が彼に対して何かしたというわけではない。……単に、武が、彼女を…………彼女によって気づかされることになった自身の、まるで腐った泥のような黒い感情を、恐れているだけだ。

 そのことで理解した、己のおぞましい感情。

 BETAに対する復讐心に駆り立てられ、今回のような無様を晒した原因。震えるような、悪寒があった。

 どうしてだろう。彼女に罪はない。彼女が悪いなんてことはあるわけがない。ただ、苦い。ニガクて吐き出したい感情が、口の中に転がっている。

 ……落ち着け。

 噛み締めながらに、眼を閉じる。

 弧月を握った右手がアツイ。……大丈夫。大丈夫。大丈夫だ。水月が気づかせてくれた。まりもの言葉が前へ進めと言ってくれた。真那が、自分を信じろと。純夏が、自分を信じていると。

 そして、茜が――彼女が、支えてくれると。

 だから、大丈夫だ。まだ辛いけど、まだ哀しいけど、でも、きっと。前に進める。

 生きている自分を、死んでいった彼女達を、これ以上……無様にはさせない。

 ああ……大丈夫だ。武は、霞を見たことで再びに思い出した黒い感情を押さえ込む。けれど、その感情を抑圧しようというわけではない。――この感情も、己だ。

 鑑純夏を想い、彼女を愛し、捕らわれるが故の……憎悪。それは多分、どうやっても拭えない。心の奥の更に奥。武という青年の深層心理を形成するにあたり、十五歳の時に経験したその哀しみは強烈に染み付いてしまっている。

 だから、それはある意味で武自身を表す心であり……彼の半身、と。そう言っても過言ではないものだった。

 武は深く息を吐く。目を開けて、怯えたように病室の入口に佇む少女を見た。

「……ごめんな。折角お見舞いに来てくれたのに。怖がらせちまって……」

 酷い声だと思った。……何が大丈夫、だ。この腹の底から込み上げてくるような黒い呪わしい感情を、お前はこれからも抱えて生きてくのか? 死なせてしまった彼女達の死を引き摺って、それでもお前は生きていけるつもりか?

 ――うるさい黙れ。もう、決めたんだ。

 己の中の悪性を理解した。己の中の醜悪な本性を目の当たりにした。それが撒き散らす災厄を。愚かしいくらいの無様さを。

 己の中の温かい想いを理解した。己の中の大切な想いを目の当たりにした。それが与えてくれる安らぎを。涙が出るくらいの優しさを。

 その二つを抱えて、生きていく。

 だから、きっと大丈夫。辛いだけじゃないとわかったから。苦しいだけじゃないとわかったから。だから、進もう。前へ。

 支えてくれた彼女のために。救ってくれた彼女のために。導いてくれた彼女のために。

 それでも、愛している彼女のために。

「……そんな所に突っ立ってないで、さ」

「………………はい」

 出来るだけ柔らかく微笑みながら。左の頬が引き攣れるように痛んだが、それは我慢する。小さな歩幅で近づいてくる霞。ベッドの脇まで来て、銀色の瞳がすぐそこで武を見ていた。

「…………」

 無言。

 その表情は少しだけ哀しそうで、その睫は少しだけ震えていた。……まだ、武を怖がっているのかもしれない。武は、少しおどけるように唇を歪めて見せた。

 ……思えば、霞との記憶はろくなものがない。夕呼に呼び出しを受けたあの時。実験、或いは研究と称した何らかの企みに、彼女も関わっていた。

 当時交わした会話を思い出しながら……そうだ、と思い出す。

 お互いろくに知らないもの同士。だからだろう。武はその当時誰にも話さなかったようなことを、霞に語って聞かせたのだった。

 そして気づかされた、自身の暗黒。――そのことは、もういいんだ。

 緩く頭を振り、武も霞の瞳を覗きこむ。作り物染みた相貌。硝子のような無機質な瞳。……だが、矢張り彼女は人間だ。年相応の少女だ。

 些か表情に乏しいが、けれど。……ちゃんと、感情は在る。

「けが……痛みますか?」

「えっ…………ああ、いや。……そうだな。すげぇ痛い。痛いけど……でも、生きてるから」

 ――助けられたから。

 笑うことは、できているだろうか。ちゃんと、笑って言えただろうか。

 チキ……と。弧月が鳴った。うん、大丈夫。ちゃんと、生きていけるから。だから笑えている。どんなに格好悪い不器用な笑みでも――ちゃんと。

「白銀さんは……生きてます。ちゃんと、生きています」

「――ッ!」

 そうか。そうか。…………。

「ありがとう、社……。その一言だけで、十分だ」

 薄っすらと、涙が浮かんできた。情けない。格好悪い。この、泣き虫野郎……。ああ、でも。どうしてだろうか。どうしてこんなにも、この涙は温かい。

 それ以上の言葉はなく。それ以上の会話はなく。

 銀色の少女は、傷ついて尚立ち上がろうとする青年とのひと時を。静かでどこか温かで……そんな時間を、過ごした。







 ===







 昼食、である。

 見慣れたいつものメンバーしか居ないPX。他の部隊員や基地職員は例の如く彼女達とはその時間がずれているために、広大なその空間に対して、一層彼女達の存在感は際立っている。

 その数、僅かに八。

 だが、テーブルの上に並べられた食事の数は彼女達の人数とそぐわない。実に三十二食。一人が座る椅子に対して四種類の食事。おかずではない。食事、だ。

 皿に、或いは丼に盛られた実に色とりどりの食事。この戦争の時代において、一度の食事にこれだけの量を食することのできるものが、果たして何人いるのか。……如何に軍人が食事において優先されているとしても、些かその量は多すぎるし、なによりも大盛り過ぎる。

 ……だが、これこそが当横浜基地食料班班長にして曹長、食堂のおばちゃん名物。弔いの食事だ。

 彼女はこの基地に居る全職員、衛士、戦場で後方でそれぞれに戦う彼らの「好きなもの」を委細承知し、その彼らが任務の果てに見事散ろうものならば、残された、生き延びた彼らと同じ部隊の仲間に、その「好きだった物」を存分に振舞うという一種の儀式的なものを続けてきた。

 そう。だから今こうして目の前に並ぶ四人分の食事は……それぞれに、木野下の、志乃の、亜季の、そして藍子の大好きだった食事、なのである。

 全員の顔には咲かんばかりの微笑みと、その裏に隠れた若干の焦り。

 食堂のおばちゃんの気遣いは有難いし嬉しい。彼女達も、英霊となったあの四人を悼み、偲んでくれているのだとわかる。ああ……だから安心してくれ。お前たちは皆、こうして我々と共に生きている。感慨深く眼を閉じるみちるだが、しかし彼女は一向に目を開ける様子はなく、そしてまた箸を取る様子もない。

「大尉ー……そんなことしててもなくなりませんよ」

「やれやれ、大尉ともあろう方が諦めの悪い。……ほら梼子。遠慮せずに食べな」

「みっ、美冴さん!? まるで私が大食いのような扱いはやめてくださいっ……」

 ははははは。はしゃぐような笑い声。正面に座る水月からの視線がいい加減耐えられなくなってきたので、がっくしと肩を落としながらみちるは目を開ける。

 でん、と並んだ四人分の料理。――くっ、と。みちるはニヒルに唇を吊り上げる。

「くくく、真昼間から如何にも強敵だな」

「かっこつける場面じゃないですよね……」

「いや、全然かっこよくないですよ」

 不敵に笑うみちるに、旭があきれ、真紀が突っ込む。その二人の言葉に、さすがにカチンときたらしいみちるは……しかし正にそのとおりだったので諦めて箸を握る。

「ほらほら、温かい内に食べなっ! みちるちゃんも隊長なんだからっ、あんたが真っ先に食べないで、誰が食べるって言うんだいっ!?」

「…………曹長、その呼び方は……」

 つべこべ言うんじゃないよ! ご立腹らしいおばちゃんに小さく溜息をつきながら、しかしみちるは困ったように笑う。ああ、困った。こんなにたくさんの料理。こんなにたくさんの想いが込められた食事。食べないわけがない。食べきれないわけがない。……これは、彼女達の生きた証。彼女達の好物を食し、語り合うことで……喪われた彼女達を弔う。

 水月と目が合った。同じように、からかうような顰め面。……ついさっきまで武のことで憤りを見せていたくせに、切り換えの早いことだ。みちるは今一度苦笑するように。

「さて、それじゃあ頂くとしよう。……みんな、曹長のお心遣いに感謝しよう。――京塚曹長、ありがとうございます」

「いいんだよっ! あたしゃみちるちゃんたちが生きて帰ってきてくれただけで、嬉しいんだからっ」

 快活に笑うおばちゃんに、心の底から感謝しつつ…………せめて二人分ずつ昼と晩に分けて欲しかったなぁと思わずにいられないみちるだった。

 その二人のやり取りを、どこかそわそわとした様子で梼子が見ている。目の前の料理とみちるの顔を行ったり来たり。落ち着かない視線が、無言のままにみちるを責めているようにも見えた……。

 お前はお預けを喰らった犬か何かか……。呆れたようにみちるは思い、その心を読んだかのように美冴が梼子をからかっている。――まったく。

「さあ、冷めてしまわない内に頂こう。……わかっているとは思うが、食べ切れなかったやつは午後から特別メニューだぞ?」

 ニヤリ、と悪戯気にみちるが言う。しかし、それを受けて水月がおどけるように言った。

「あっははは、大尉ぃ。それって大尉が食べ切れなくてもやるんですかぁ?」

「なにっ?! ……速瀬、いい度胸だな」

「あはは、水月ったら。……あれ、でも、それってやっぱり私も入ってるのかな??」

「それは当然でしょう。涼宮中尉もヴァルキリーズの一員。木野下中尉が言ってましたよ、涼宮中尉は我々にとって戦場における母親のようだと」

「あら、素敵ですね。それでしたら是非、中尉も特別メニューに加わっていただかないと」

「うぉおお……人参が、オレンジ色がぁ、……シノっちぃい、なんでお前“八宝菜”なんて好きなんだよぉー」

「あからさまに話しの流れを無視しましたわね……。ほら、唸ってないで食べてしまいなさいな」

「真紀は相変わらずだねぇ。…………んー、でさぁ、梼子? なんでもう中華丼が半分くらいになってんの?」

 実に、賑やかなことこの上ない。

 それぞれが箸を進めながら、笑いあい語り合い、切なくも楽しく、寂しくも温かい、そんな食事が続けられた。普段から食べられる時に喰えるだけ喰う、という軍人としての矜持を守ってきた猛者たちである。

 が、些かに……矢張りというかなんというか、その。要するに量が多い。

 一度に胃の中に詰められる量というのは個々人で異なるが、それぞれに限界値が決まっている。それを超える量はどう足掻いても入らず……けれど彼女達は、各々のプライドと特別メニューなんて受けてたまるかという意地と……何より、それでも彼女達を悼む気持ちが強いから。

 思い出話に花を咲かせ、部下達の知らない木野下の新人時代の話や、上官の知らない志乃や亜季や藍子の訓練兵時代の話……等々。いつまでも笑いの絶えないそんな空気が続いて。ゆっくりと料理は減っていって。

 お腹が苦しくても、笑いに混じって涙が滲んでいても、それでも。

 笑って。命在る限り、こうやって語り継いでいこう。大切な仲間達。誇らしい仲間達。素晴らしい彼女達。

 その生き様を負い。胸を張って――生きていく。







「泣いてたねぇ……」

「ええ、泣いてました」

 格納庫の手摺にもたれるように、旭はポツリと呟いた。足元では整備班が忙しなく動いている。彼らが整備に勤しむのは我らがヴァルキリーズの愛機、不知火。十二機あったそれはその数を減らし、現在で八機。

 無くなったナンバーは02、06、08、……そして、12。旭は、07のナンバーを持つ機体を見上げて、ふぅ、と儚げに息を吐いた。

「……真紀、大丈夫かな?」

 その言葉には、一体どれ程の思いやりが溢れているのだろうか。梼子は少しだけ目を伏せて、旭の言葉を噛み締める。

「大丈夫ですよ。真紀さんはちゃんと、前を向いています。……慶子さんが傍にいてくれるから、……二人とも、大丈夫です」

「そ、か」

 そっかぁ……。二度、旭は呟いた。手摺の上で組んだ腕に顔を乗せて、志乃が使っていた機体を見上げながらはにかんだ。その表情に、仕草に、梼子は少しだけ見惚れる。ショートヘアの、色素の薄い髪。毛先が内巻きに癖がついていて、どこか猫科の動物を連想させる愛らしい顔。

 とろけるような。心底に安心したような、そんな表情は……同じ女性の梼子から見てもとても好ましい。

「…………旭さん、貴女も、…………いいえ、やっぱりいいです」

「? なんだよ、気になるじゃん……って、梼子、なにさその“なんでもわかってますから”みたいな顔は……」

 むぅ、っと唇を尖らせる旭。姿勢は変わらず、表情だけが器用に変わって面白い。梼子はくすくすと堪えきれないように笑ってしまった。ちぇっ、と不貞腐れたように。旭は視線を再び不知火へ戻す。整備班の中には塗装用のペンキ缶を持っている者も見られる。

 ――ああ……。旭は、そして同じように彼らに視線を向けていた梼子は、理解する。

 間の欠けたナンバー。

 部隊のナンバーツー……副隊長の木野下が亡くなったこと、そして藍子が亡くなったことで、C小隊は旭と慶子の二人だけとなってしまった。同じくA小隊からは亜季、B小隊からは志乃が喪われたが、こちらはまだ三人での変則運用も可能だ。

 だが、あの怒涛のBETAとの戦闘で、打撃支援に強襲前衛という慶子と自分の二機連携……それだけで一小隊として機能するかどうかは甚だ疑問であるし、現実的ではなかった。

 つい先ほどのみちるの言葉を思い出す。食事前のブリーフィングで、彼女はC小隊の解隊と、旭と慶子のA小隊編入を決定した。

 水月を副隊長のポストに置き、A小隊を五人、B小隊を三人とする変則二小隊編成。例えば比較的近接戦闘にも秀でている美冴をB小隊へ……という案もあったそうだが、総合的な戦力バランスを鑑みた場合に、どう繕っても二小隊しか編成できないならば、多少変則的であろうとも現在抽出し得る最良のポジションを採った、ということだった。

 隊長であるみちるの決定に、旭も慶子も異論を唱えることなどない。むしろ自分達だけでC小隊を運用しろ、なんて無理難題を吹っかけられるよりは遥かに願ったり叶ったりだった。……無論、みちるがそんな無茶を強要するはずもないのだが。さておき。

 整備班員は整備用のリフトに乗って不知火の肩まで移動する。隊内の編成を改めると同時に、コールナンバーも一新したための処置だった。副隊長となった水月がいつまでもヴァルキリー3では対外的にも成り立たないし、自分達にとってもスッキリしない。……ぽっかりと間の空いた06、07、08の……彼女達のナンバーを、生き残った旭たちが受け継ぐことで、本当に。これで自分達はたった八人の部隊となってしまったのだと。

 国連軍仕様の蒼色に塗り潰されていく07のナンバー。その機体は、新たな08として……つまり、白銀機として運用される。自機を戦場で大破……どころか跡形もなく失った彼は、帰還にあたり使用することとなった志乃の不知火を引き継ぐ。元々が同じ突撃前衛装備であり、過度の機動にも耐えられるようチューニングをされている近接戦闘仕様の機体だ。後衛に回る他の者の機体をいじるより格段に効率がよいし……なにより、矢張り、皆それぞれに自分の機体には愛着というものがある。

 梼子は04と打たれた自身の不知火を見詰めた。

 取り付いた戦車級を払うためにナイフで刻んだ脚部が、少しだけ痛々しい。それでも関節にも異常はなく、最後までちゃんと戦い抜いてくれた機体。……一歩間違えれば、自分もまた、ここには居なかっただろう。こうして大切な仲間達と食事を採ることも、大切な友人と語らうことも……死んでしまえば、できないのだ。

 気を抜けば暗く落ち込んでいきそうな思考を振り払う。大丈夫。何を哀しむことがある。彼女達は確かにいなくなってしまったけれど、それでも自分は生きているし、生きていく。

 先に逝った彼女達を安心させるように。先に逝った彼女達が、迷って出てこないように。――ふふふっ、藍子さんは心配性だったもの。泣きほくろの似合う友人の、艶やかな笑顔を思い出して、微笑む。

「……時間、だね。行こうか」

「ええ。行きましょう」

 身を起こしながらに旭が言う。いつしか、毅然とした軍人の表情に戻っている旭。まるで眩しいものを見るように、梼子は薄っすらと微笑んだ。

 弾むように、駆け足。シミュレータールームへと続く回廊を、残された彼女達は、走る。







 ===







 みちるが病室にやってくるのと入れ違いに、小さな少女が出てきた。あまりに予期せぬタイミングの遭遇だったために、みちるも霞も、互いに踏み出した足を止めることが出来ず……結果、小さな彼女はみちるのお腹に顔を埋めることとなった。

「ぐっ……」

 ぽょん、という張りのある感触。驚いた表情で霞は慌てて身体を離すが……何分、過食に過ぎる昼食を終えたばかりのみちるにとって、その一撃は強烈だった。

 思わず口に手をやり、のぼって来そうなそれを堪える。ぐ、む、ぅ。脂汗を浮かべ悶絶する年上の大尉の姿に、霞は困ったように狼狽している。眉尻をハの字に下げて、ごめんなさい、と小さく呟いていた。

「ぃ、いや……社が悪いわけじゃない」

「……ごめんなさい」

 苦い表情でみちるが取り繕うが、それでも霞は落ち込んだように目を伏せる。……迷うように視線を上げて、苦笑するほかないみちると視線を合わせると、少女は……

「お腹、いっぱいです……」

「?」

 と、よくわからないことを口にした。時計を見る。……確かに昼食の時刻は過ぎている。自分はついさっきまで部下と共に食事を採っていたわけだが……或いはこの少女も、ここに来る前に昼食を済ませていたのかもしれない。

 ぺこりと、無表情のままに頭を下げて、去っていく霞。いまいち情感の掴みにくい少女ではあるが、みちるは彼女を嫌っていない。

 香月夕呼の懐刀である自分。腹心のイリーナ・ピアティフ。そして、社霞。常に夕呼の傍らに控える、という点で共通している自分達だが、実際のところそれほど深い交流がある訳でもない。遙がCPとして任官するまではA-01の戦域管制を行ってくれていたピアティフとは交友関係にあるが、些か年齢が離れすぎている霞とは、いい意味での付き合いが薄い。

 ふむ、とみちるは顎に手を添えて、去っていく少女の背中を見た。ここに居たということは……当然、武の見舞いにやってきたのだろう。或いは夕呼から何がしかの指示を受けてのことかもしれないが……。

 ふと――思い出す。武が総戦技評価演習を終えたその日。深夜の横浜基地で出逢った、その時の少女。

 武の合格を伝えた際の……その、表情。

 諦観、後悔、消沈、悲哀、憐憫……なにか、それらに近しい感情。或いはそれら全て……。

 それを、思い出した。……今思えば、あれは、あの時点で既に霞は…………武の身に起こる何がしかの悲劇に気づいていたのかもしれない……。

「ふ、何を莫迦な」

 予知能力でもあるまい。浮かんだ想像に、莫迦莫迦しいと笑う。或いは、あの時点で武の心の奥底に潜んでいた黒い憎悪に気づいていたというなら……その予想は、出来たのかもしれない。

 けれど、矢張りそれもあるまいと。みちるは思う。ただでさえ霞は夕呼をして「歩く機密」とまで言わしめている存在だ。基地内を気ままに闊歩している姿も見るには見るが、その彼女を目撃するであろう誰もが、決して彼女の素性も任務も知らないように。……そもそもにして、霞は他人と触れ合う機会が少ないのだ。

 もしかすると昨年武が受けていたあの実験の中で、武と触れ合う機会があったのだとして……武が、霞に己の内心の憎悪を語って聞かせたとは思えない。ならば普段の彼を見てその危うさに気づいていたというのは……これもまた、在り得ないだろう。

 本当に武は――思い出すのもゾッとするが――頑強で滅茶苦茶な仮面を纏っていたのだ。敵を目の前にしたそのときだけに剥がれ落ちる仮面。憎悪に塗られた素顔を覆う……水月や、あの斯衛の衛士や……彼を支える誰かの目を誤魔化すための精緻な仮面。

 BETAとの戦いで、その仮面を無意識に捨て去り、醜悪で滑稽なほど愚かしい様を見せ付けた武だが……それまで一切、こと“日常”と呼ばれるその中で、武は一切の亀裂さえ感づかせなかったのだ。……水月にさえ。

 その武の深層意識を、どうして霞が気づけていたというのだろう。所詮想像でしかないし、……偶々、あの時の霞の表情が今回の惨劇に繋がって見えたと言うだけのことだ。

 ひょっとすると、単純に。あの時は武という年齢の近い少年が戦場へ近づいていることが哀しく、怖かっただけなのかもしれない。――きっと、そうだ。

 なんとも不可思議な想像をめぐらせたものだ、と。みちるは今一度苦笑する。ベルトを一杯にまで緩めたズボンを一度整えながら、水月にしこたま殴られたという部下を笑いにいってやろうと。或いは……それでも愚かな悔恨を見せるようならば今度は自分が殴ってやると。

 ドアを開ける。カーテンを開く。そこに武は居た。顔の半分を包帯で覆われ、左腕をガチガチに固められて。ベッドの脇に折り畳める台の上には食事が乗せられている。――ぐ。思わず、それを見て吐きそうになるみちるである。

 もどしてなどたまるかと無理矢理に飲み込んで、呆けた表情でこちらを見上げる莫迦者に、不敵な笑みを浮かべてやった。

「大尉……っ」

 驚いて、敬礼する武。……右手にスプーンを持ったままだと気づいて慌てて敬礼しなおしている。……すごく、可笑しかった。

「ぶっ、ははははっ! まったく、……思ったより元気そうじゃないか、白銀」

「…………」

 恥ずかしいのだろう。バツが悪そうに視線をそらす武。そこにはあの戦場で見せたような危険さはなく……木野下達を喪ったことによるメンタルの傷も、また、見受けられなかった。

(そうか、速瀬……矢張りお前は凄いヤツだ)

 午前中に武を見舞ったという水月。顔面に腹に、と思い切り手加減抜きで殴ってやったと笑っていた。軽快にいつも通りに笑っていながら、どこか、それでも少しだけの涙を見せていた。――ああ、安心しろ、速瀬。お前の恋人はちゃんと……前を向けている。

 今更隠すこともないだろうに、しかし水月は殊更に武との仲を誤魔化そうとする。弟のような存在だと頑なに主張する水月を、木野下はよくからかっていたものだ。情報源である美冴も、遙から聞いたから間違いないと断言しているし、その遙からして武と水月の恋仲を確信しているという。……ならば、いくら本人が違うと言っても――そもそも、そういう水月の顔は面白いくらい真っ赤なのだが――説得力がないというものだ。

 ……そんな無為なことを思い出しながら、そういえばこの青年はちゃんと水月のことを恋人として想っているのだろうか。などという余計なお世話がむくむくと沸き起こる。

 どうやらその恋人である水月のおかげでまともな精神状態にあるらしい武に、みちるはニヤリと意地悪く笑って見せた。

「――っっ、」

 怯んだように、武が固まる。昼食の乗ったトレイを備え付けのテーブルに移し、台を畳んでみちるに向き合っていた彼の表情が、何がしかの直感に強張っていた。

 武は気づく。あのみちるの表情はヤバイ。

 或いは先ほどの水月のように気合を入れられるのかと内心で身構えていただけに、その、獲物を狙うような鷹の目に血の気が引く。あれは――ろくでもないことを考える人間のそれだっ!

 可能ならば全速力で逃げ出したい衝動に駆られるが、如何せんここは狭い病室であり、唯一の出入り口はみちるによって阻まれている。まして片目が見えず左手も使えない状態で、歴戦の猛者であるみちるを突破できるはずもなく。窓でもあればまだ可能性はあっただろうが、地下施設であるここにそもそもそんなモノはなく。

「どうした白銀ぇ。なにをそんなに怯えているんだ?」

「ぃ、いえっ、そのっ! あっ、俺、そうだトイレにっ――――ひっ!!」

 焦るように視線を彷徨わせて立ち上がろうとする武の両肩を、みちるの両腕が掴んで抑える。にっこりと形作られた微笑が、武の動きを完全に封じていた。……ごくり、と喉を鳴らす音。逃げられない。

 観念したように項垂れる武。その様子に満足したように、みちるは手近な丸椅子を引っ張って座る。

「……さて、冗談はさておき。…………聞いたぞ、擬似生体を移植するそうだな」

「――はっ? あ、え、ええ、はい」

 唐突に真面目な話をされて、武は虚を突かれる。……というか、矢張りあれも冗談だったのか。武は今度こそ本当にげんなりと肩を落とした。上官の目の前でありながら、恨めしそうな視線を露骨に投げる武に、みちるは尚意地悪く唇を吊り上げて見せる。――勝てる気がしない。

 武は困ったように笑って、右腕で、ギプスで固められた左腕を撫ぜる。

「……神経が駄目になっていると、言われました。……それから、血が流れすぎていて、指先が壊死しかけていた、と」

「そうか……。これも既に聞いているかもしれんが、擬似生体への移植は、明日にでも行う。手術が成功し、リハビリも順調に進んだなら……早ければ三週間後には原隊復帰できるだろう。無論、その左眼が完治してから、だが……。医師によれば、そちらも同じ頃には治るそうだ」

 はい。しっかりとそう答える武の瞳は……もう、あの黒々とした光を放ってはいなかった。表情や仕草の端々に、喪われた彼女達への嘆きや哀しみが窺えたが……こればかりは、たった一日や二日でどうにかできるものではないだろう。まして、初めての実戦で、原因はともかく、目の前でたて続けに四人も喪ったのだ。その傷は、衝撃は……深く、重いものだろう。

 武一人が傷つき、哀しみに濡れているわけではない。どうやらそのことはちゃんと理解できているようだったし、そのことに引き摺られ過ぎてもいないようにも見える。これも全て水月のおかげだろう。本当に強い。本当に、頼りになる。新しい副隊長となった彼女の、強気で勝気な性格をありがたく感じる。

「白銀……速瀬を大事にしろよ……」

「え!?」

 それこそ、武にとっては不意打ちのようなタイミングだった。ぎょっとして表情を凍りつかせる武に、おや、とみちるは眉を顰めた。

 どうしてそこで驚かれなければならないのだろう。そこは男として「はい」と強く逞しく決意に満ちた表情で首を縦に振るところだろうに。しょうのないやつだ、とみちるは溜息をつき、成程、水月も苦労するはずだと少しばかり同情する。

「なんだなんだ情けないっ。……いいか白銀、男子たるもの、自分の大事なものは全力で護りきれ。いつまでも女に支えられ手を引かれているようでは、男として情けなさ過ぎるぞ?」

「――っ、ぁ、はいっ! 俺は、もう絶対に死なせませんっ!! ……絶対に、水月さんを護れる男になります」

 そして、真那を。

 ――茜、を。

 強く。心からの本気を、武はみちるにぶつけた。そう。そうだ。それは、もう、絶対だ。

 水月に救われたのは、これで一体何度目だろう。純夏を亡くしたその時……前に進もうと足掻いていた時……そして、今日。感謝しても仕切れない。でも、水月は礼など求めないだろう。正面きって「ありがとう」なんて言おうものなら、強情な彼女のことだ。きっと、言葉よりも行動で示せ、とニヤリと笑いながら言うに決まっている。

 だから、もっと、強くあろう。強く生きよう。護れるように。あんな醜い復讐心に捕らわれないように。もう一つの自分に、塗り潰されないように。

 そして、護る。

 救ってくれた彼女達の死を無駄にはしない。助けられたこの命を無駄にはしない。

 底無しの泥沼に沈もうとする自分を救い上げてくれた水月。

 師の想いを託してくれ、自身の想いさえ託し、導いてくれた真那。

 いつだって傍にいて、どんな時でも笑顔で支えてくれた茜。

 ――永遠に想う、既に喪われた純夏。――愛している。心の底から。だから。

 護る。

 もう迷わない。もう間違えない。

「俺は、この手で、大事なものを……大切な人を、護って見せます……」

「――ふふっ、一丁前のことを言う。……いいだろう、白銀。そこまで言うからには絶対にやって見せろ。……そうだな、もしお前がその誓いを守れなかったら……或いはまた道を間違えるようなことがあったら、」

 そこまでを言って、みちるは一層意地悪く笑う。このひとは何処までが本気で何処までが冗談なんだろう、と武は早々に呆れ返るが、しかしみちるは一向に気にした風はなく。

「そうだな。その時は87式突撃砲の銃口に逆さまに吊るして、BETAと戦わせてやる。――ああ、安心しろ。無論機体は本田の不知火だ。あいつの操縦は激しいぞ?」

「      (絶句)      」

 あんぐりと口を開けて、信じられないという表情をする武。そのあんまりにも間抜けな面に、みちるはくっくっ、と噛み締めるように笑った。







「ああ――そうだ、白銀」

「……はい、なんですか?」

 あの後、昼の休憩時間を一杯に使って、みちるは思い出話に花を咲かせていた。新任である武に、亡くなった彼女達のことを語ってやり…………武は、その話を聞いて、笑い、生き様に学び、少しだけ……泣いていた。

 そんな武を、恥ずかしいヤツとか、情けないヤツとは思わない。いつまでもウジウジと女々しく泣いているようなら話は別だが、既に己の進むべき道をしっかりと見据えることができたらしい武は、懸命に、みちるの声に耳を傾けてくれた。

 きっとこいつは強くなる。満たされるような思いに、みちるは微笑んだ。――これで、あいつらも安心するだろう。

 武を救うために死地に飛び込んだ四人。本当に、素晴らしい部下達だった。だからどうか、知っていて欲しい。……忘れないで欲しい。武を助け、救った彼女達が、こんなにも素晴らしい人々だったことを。

 そしていつか、自身にも部下が出来たなら。その者たちに語ってやって欲しい。この世界には……自分の命を顧みず、己を救ってくれた素晴らしい衛士たちがいたことを。

 そのみちるの思いを、武は真正面から受け止めた。今だって眼を閉じれば思い浮かぶ、志乃の、亜季の、藍子の、木野下の顔。耳に響く、その声。

 自分の知らない彼女達の話を、本当に楽しそうに、みちるは聞かせてくれる。ああ――自分はなんて、愚かだったのだろう。そして、なんて恵まれている。

 このひとが隊長でよかった。このひとの部下になれてよかった。……彼女達と出逢えて……本当に、よかった。涙が零れる。微笑が漏れる。

 だって、こんなにも彼女達のことを誇らしげに、嬉しげに語ることの出来る上官なんて……きっと、そう多くない。こんなにも部下のことを愛し、大切に想ってくれる上官なんて……きっと、そう多くない。

 だから、幸せだ。自分も、彼女達も。

 伊隅みちるというひとの部下で在れて……幸せだ。

 そうして、長い昔語りを終えたみちるが、立ち上がりながらに、思い出したように言う。

「…………痛み止めはまだ効いているな? ……ならば、少々無茶かも知れんが………………香月博士が呼んでいる」

「――っ、副司令が、ですか?」

 ほんの少しだけ困ったような顔をして、みちるは頷く。直属の上司が呼んでいるのだ……無茶でも何でも、行くしかない。みちるもそれは当然そうする予定だったらしく、立ち上がる武に頷いただけで、それ以上の言葉はなかった。

 優しい上官から、いつもの毅然とした表情に戻るみちる。……強い人だ、と。武は内心で唸らせられる。いつか自分も、みちるのような軍人になりたいものだと……漠然と思う。

 途中、衛生兵に見つかって怒鳴られたりもしたが、痛み止めが切れるのは夜半ということだったので、安心して夕呼の執務室へ移動する。というか、みちるの有無を言わせぬ剣幕に、衛生兵が小さく悲鳴をあげて退散したというのが正しいのだが……。一体どんな凄みを利かせたというのだろう。恐ろしいひとだと呆れながら、無言のままエレベーターへ。

 背中を見せるみちるも、一切口を開かない。先ほどまでの温かで優しい空気など最早何処にもなく。……武もまた、無言のままに思考を巡らせていた。

 ここで、このタイミングで……夕呼の呼び出しを受ける意味。思いつくのは……今回の作戦で隊内に甚大な被害をもたらした武への何らかのペナルティ。或いは、ありがたいお説教か。

 ――莫迦な。

 武は夕呼をよく知り、理解しているわけではない。……だが、あの副司令がそんな無駄とも思えることをわざわざ行うだろうか。

 夕呼が直々に行わずとも、A-01内の権限はみちるの支配下にあり、隊員の管理はそもそもが隊長の仕事である。武に何らかの罰則が適用されるとしても、それはみちるの権限で執行が可能なのだ。まして、説教などと。

 だとするならば……なんだろう。残された可能性は……戦術機適性「S」という、己の特異性、か。

 そもそも、この武の任官は夕呼の用意したシナリオに沿ってのものだった。恐らくは武を実戦に投入することで……何らかのデータを収集し、何がしかの研究に活かす、というような筋書きだったのだろう。……それが一体何か、ということは本当に一切の想像も出来ないのだが。

 そういう仮定で考えるならば、成程、夕呼のシナリオは失敗に終わったということに、なる。

 武を単なる駒としてしか見ていないだろう夕呼ならば――大層ご立腹のはずだ。わざわざ基地司令を説き伏せてまで無茶を押し通したこの一件。それが結果として失敗したのであれば…………最悪、ことの張本人である武は処分されてもおかしくない。まして、志乃たち四人の先任を巻き添えにしているのだ。

 ただで済むはずがない――。

 ごくり、と。無意識の内に喉が鳴っていた。唾を飲み込んでも、全く潤う気がしない。粘つくような汗が額に浮かんでいた。

 エレベーターのドアがスライドする。先に降りたみちるに続いて、武も筐体から出る。



 或いは――あの、脳ミソのように。



「!」

 足が、震えて……止まった。

 みちるは気づかない。ぴたりと強張って動かない武に、みちるは全く気づかずに先へ進んでいく。

 どうして、と。

 武は己の思考をせせら笑った。――莫迦な。そんなことが。

 ない、とは言い切れない。ついさっきだって、自分で想像したはずだろう? ――処分されるかも、しれない…………?

「――っ、はっ、ァ」

 ぜっ、と。喉が渇く。引き攣りそうな口内に反して、とめどなく汗が噴き出して落ちる。脳裏には、シリンダー。青白い光を放つそれ。

 その中に浮かんだ……誰かの、脳、ミ、ソ――――――。

「どうした白銀?」

「!!!!!!」

 びくりと顔を上げる。いつの間にか、至近距離でみちるがこちらを覗き込んでいた。ばくばくと心臓が鳴る。痙攣しそうな呼吸を繕い、汗に濡れた額を拭う。

 ハァ、ハァ、ハァ、ハァ――ッ! 荒い。息が荒い。心臓が、狂ったように鳴り響く。……落ち着け。落ち着け。まだ決まったわけじゃない。自分の莫迦みたいな想像で、何を怖がっている――ッ!!

「…………傷が痛むのか? ならば、博士には私から……」

 真剣に案じてくれるみちるに、強張った笑みを向ける。いつも水月が見せるような、唇の端を吊り上げるそれ。……うまくできただろうか。武は、精一杯に強がって、笑う。

「ははっ、大丈夫、ですよ……すいません。少し立ち眩みを」

 自分はなんて嘘が下手なんだろう。ほら、みちるが訝しげにこっちを見ている。それでも、こんな妄想に怖気づいたなんて知られたくはない。本当に、何の根拠も確証もない、単なる妄想なのだ。

 歩き出した武に、みちるは少々の違和感を覚えつつ。上官の前を歩くとは何事かと、武の後頭部を小突く。

 そしてやってきた執務室。夕呼に武を連れてきたことを告げて……みちるは、矢張りというか、これは予想していたことでもあったのだが……追いやられるように門前払いを喰らう。

 今朝の夕呼の機嫌の悪さを思えば、些か心配は残るが……しかし。

「後は、お前次第だ……」

 果たして夕呼が武に何を求め、何をさせようというのか。――知らされない以上、踏み入ることは許されない。それが軍隊だ。だが、どうか。折角に立ち直り前を向き始めた武を……これ以上、歪ませることの無いように、と。

 施錠された扉を眺めて、みちるは息をつく。……さあ、訓練の時間だ。頭を切り換えろ、思考を切り換えろ。ここからは、A-01の隊長としての時間だ。

 新たに編成し直した、最初の訓練である。今日の訓練でその問題点や改善策を洗い出し、正式なポジションを決定する。やることは山積みで、一つとして楽な作業はない。

 だから、行こう。部下達の待つその場所へ。そしていつか、……三週間後、武が復帰してきたそのときに。

 彼を、笑顔で迎え入れてやろう。

「……白銀、お前が立ち止まっている暇なんてないくらいに、私たちは先へ行って待っているぞ」

 呟いたその一言を、開くことのない扉に向けて。

 みちるは、来たばかりのその道を戻る。様々な思いを抱いて。たくさんの決意を抱いて。







 ===







 最早見慣れた……書類の山。乱雑に散らばったそれらのおかげで、十分に広い面積を持ちながら、足の置き場もないというその有り様。

 横浜基地副司令、香月夕呼の執務室。

 A-01部隊の一士官としてこの部屋を訪れるのはこれが初めてだった。いや、そもそも任官して以降、夕呼と顔を合わせることなどなかったのだから、当然だ。部屋の奥。国連旗の飾られた壁の前に、尊大に振舞う夕呼が居る。皮製の椅子に深く腰掛け、腕を組み、足を組み、不機嫌さをちっとも隠そうとしない表情で。

「――いつまでそんな所で突っ立ってるわけ? さっさと来なさいよ」

「……はい」

 未練がましくも扉の前に立ち尽くしていた武を、殊更に冷たい視線と声が射抜く。震えそうになる両足を叱咤しながら、武は懸命に歩を進めた。……たかが歩くだけにも関わらず、大層な労力である。

 ――くそっ、こんなこと、で。

 思い浮かべたイメージが悪すぎた。まだ夕呼は何も言っていないというのに、どうしてそんな妄想を抱くのか。……だが、そんな風に表情を強張らせてしまうほど、或いは、歩を進めることを躊躇わせるほどに……あの脳ミソは強烈に過ぎる。

 脳と脊髄。ただそれだけ。シリンダーに浸かって、まるで標本のように。誰かの、脳。作り物であるわけがない。青白い光を放つ液体に浮かんだ脳ミソ。初めてアレを目撃した時のような苦い恐怖が込み上げる。――莫迦な。

 吐き捨てるように。そして武はようやくにたどり着く。時間にしてほんの数秒だったのだが……扉から事務机までのその距離は、断頭台にのぼる囚人のように重く、長く感じられていた。

 夕呼と目が合う。もう、怯んでなんかいられない。この、得体の知れない副司令は……一筋縄ではいかない。そもそも逆らう権利もないのだが、それでも、せめて、向けられる視線に呑まれることのないように。腹に力を込めて、右拳を握り締めた。

 両手が使えなかったので、弧月は腰に提げていない。……病室に置いてきてしまったことを、今更に後悔する。あれがこの手にあったなら、どんな恐怖にも負けはしないのに。だから、より一層に。武は平静を装った。

「……怖い顔ねぇ。流石に四人も殺せば、軍人らしい凄みも出せるってことかしら?」

「――っ?!」

 な、ん……だと? ぶるりと右手が震える。今、この人はなんと言ったのか。まるで白々しいくらいの……どうでも良さそうな、口調。表情。

 視線を鋭いものへと変える武に、しかし夕呼は嘲るような笑みを見せて。

「なによ怒ったの? めんどくさい男ねぇ。どんな言い方したって、それは事実でしょう? あんたがあんな莫迦なことしでかさなきゃ、木野下たちは死ななかった。……なら、死なせたあんたはあの子達を殺したも同じでしょう?」

「――、ぐっ、」

 ぎりりと歯を噛み鳴らした武を、夕呼は一笑に伏す。……言い方の問題では、ない。それは確かだ。……だが、それでは、あまりにも。

 どうやら夕呼は夕呼なりに彼女達の死を悼み、哀しんではいるらしい。……だが、その言葉は……あまりにも武の心を抉る。

 大丈夫だと、ちゃんと生きていけると。そう覚悟を決めたはずなのに……こうも簡単に乱されてしまう。落ち着け……落ち着けよ、白銀武。自身に言い聞かせるように、何度も何度も繰り返す。

 みちるに誓ったのだ。護る、と。そのために強くなると。――水月を、真那を、茜を。純夏の心を、護る。

 それは最初から変わらない……武にとっての、大切なもの。戦う理由。護りたいもの。

 ほんの少し道を間違えて……そのために亡くしてしまった彼女達。本当に申し訳ないと思う。本当に、自分は愚かだったと思う。――だから。だから自分は、前に進まなければならない。

 ああ、夕呼の言うことはもっともだ。どんな言い方をしたってそれはかわらない。紛れもない事実だ。武は、それを受け入れて、進むと決めた。ならば……怯むな。呑まれるな。

「…………ふん。……………………まぁいいわ。時間が勿体ないものね」

 面白くなさそうに言う夕呼。彼女は立ち上がり、事務机を回って武の横へ移動する。無言のまま、しかし既に微塵の怒りも感情もなく。夕呼は無表情に見据えてきて……歩き出す。何処へ、とは聞く必要はない。そう。ここに来るまでに莫迦みたいな想像を巡らせていたのだ。予想はついている。

 果たして、予想通りにやってきたその部屋。執務室の隣りに設けられた薄暗い回廊。その先にある、ケーブルだらけのその部屋。中央に置かれたシリンダー。青白い光の中には、時間の経過を思わせない脳ミソが浮かんでいて……。

 じわりと。汗が浮かぶ。包帯の下の眼球が怯むように揺れた。……ふと、向けられる視線に気づく。そこを見れば、先ほど病室で話した霞がいた。ほんの少しだけ寂しそうな視線を向けてくる少女に、僅かな疑問を抱く。――と、夕呼がこちらを見ていた。

「何してんのよ、早く来なさい」

「え…………」

 彼女は、部屋の奥に居た。そこには別室に続いているらしい扉があって、スライド式のそれはとっくに開いている。そういえばと改めて室内を見渡せば、夕呼が立っているそれともう一つ、何処かへ通じているらしい扉に気づく。今までこのシリンダーの放つ強烈な存在感に眩まされて気づかなかったが、確かにそれは扉だった。

 少しだけ驚いて……夕呼の元へ。まさかこの先にも脳ミソがあるわけではあるまい。脳裏に浮かんだ厭な想像を追い払いながら、その室内に踏み入る。……霞はついて来なかった。ただじっと、武の背中を見詰めるだけだ。声を掛けるでもなければ、何らかの感情を見せるわけでもない。

 その部屋は……薄暗いシリンダーの部屋と比べて、全うな明るさに満たされていた。医療棟の手術室を思わせる造り。置かれたベッドと、何らかの器材。……或いは、本当に医療器具まで揃っている。そしてそれらの前に立つのが白衣を纏った夕呼。怪しさ倍増である。

 間違っても口には出来ない想像に、再び緊張を強いられる。さっきから厭な予感が止まらない。なんだ。何をしようとしているんだ。心臓だけが、ただ、脈動する。

 そこに座れ、という夕呼の指示に従って、ベッドに腰掛ける。続けて差し出されたコップには水が注がれていて……受け取ろうとしたところで、夕呼は何かに気づいたように手を止める。

「……そっか、左腕が使えないんだったわね。……だったらハイ。これを先に口に入れなさい」

「……はぁ」

 下げられたコップに代わり、手の平に落とされたのは一つのカプセル。半分が赤色で、半分が無色透明。中には黄色い顆粒が一杯に詰められている。

 ――薬、だ。

 紛れもなく。見慣れたフォルム。これぞカプセル薬といわんばかりの存在感。いや、そんなことはどうでもいい。

 問題は、これが何の薬か、ということである。痛み止め……は既に投薬されているし、そもそもこんな怪しいカプセルではなかった。風邪薬……というわけでもあるまい。というか在り得ない。ならばビタミン剤とか栄養剤という線も薄いだろう。

 ともかくも、カプセル。右手の平に乗った一粒のそれをじっと見詰めて、武は恐々と口を開いた。

 口に入れろ、と言われたのだ。……ひょっとすると命令ではないのかもしれない、などという願いは空しいだけだ。夕呼の手には水の入ったコップが用意されている。――呑む、しかない。

 果たしてこれがなんなのか。武が知るべきならば当に夕呼は説明しているだろう。だから、それがないということは…………もう、呑むこと以外に選択肢などない。或いは質問すれば教えてくれるのだろうか。ただ命令を鵜呑みにするだけの無能にはなるな、とまりもは教えてくれた。だから、聞くだけ聞いてみよう。

「あの……これ、何の薬ですか……?」

「ほんとに知りたいの……?」

 ニヤリと。これ以上ないくらい気分を最悪にしてくれた。聞くんじゃなかったという激しい後悔に苛まれながら、これは実は毒薬で、彼女は自身の手を汚さずに武を処分しようとしているのだという想像が、妙に説得力を持って浮かぶ。

 カプセルを口に含み、水を受け取る。注がれた水を全部飲んで……胃の中に流し込んだ。……別に、味もしないし、気分が悪くなるということもない。身体にも目立った変化は…………というか、何処の世界に呑んだ瞬間効果を発揮するカプセル薬が存在するのか。

 不必要に怯え過ぎだ。今更、遅い。呑んでしまった以上、後はその効果とやらを覚悟するだけである。

「なによ怖い顔ねぇ……。安心しなさい、別に死にはしないわよ」

「…………」

 じゃあせめて薬の説明をしてくれ、と。恨みがましい視線を向ける武に、夕呼は肩を竦めるだけで何も言わない。それから、小さな紙の袋を渡してくる。なんとなく予想がついたが、一応中身を確認する。――矢張り、同じカプセル薬。

「これから、三日に一度、今と同じくらいの時間に一粒呑みなさい。いい? 期間を間違えても、投薬数を間違えても駄目。それから、二週間おきに私のところに顔を出しなさい」

「……?」

 突然に、何を言い出すのだろうか。そう疑問に思ったところで……まさか、という疑惑が浮かんだ。

 そう、まさか。これは何らかの新薬で、武はその効果を実証するための被験者、ということではないのか。――否。そうとしか思えない。

 ずしり、と。手に持った小さな紙袋が重さを増す。莫迦な、気のせいだ。ざっと二ヶ月分。およそ二十粒ほどのカプセル。武は、酷く冴えない声で了解を示し……………………病室に、戻った。

 これから三週間を過ごすベッドの上で、武は神妙な顔つきで、天井を睨む。

 何らかの新薬。その効果さえ知らされず……或いは、その効果こそを知りたいのだろうか。わからない。わからない。全くもって、謎のままだ。

 ただ……それでも。

 去り際の霞の表情が、妙に脳裏にこびりつく。まるで武が呑んだ薬がもたらす効果を知っていて……それを嘆くような哀しい瞳。

 気分が晴れない。厭な予感だけがひたすらに。募る。ああ……こんな気分を抱えたまま、これから短くとも二ヶ月。手渡されたその量を全て飲み終えるまでは。

 一日一日の、自身の点検を怠らないようにしよう。そう決めて、眼を閉じる。気分が、重い……瞼が……重、く…………。







[1154] 復讐編:[十一章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:29

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十一章-02」





 廃墟を走る。コンクリートの残骸を盾に、敵の射撃を耐え凌ぐ。牽制、或いは焦れて出てくるのを誘っているのか。――させない。

 レーダーは撹乱されて使えない。音響センサーに感アリ。センサーは見慣れた音紋波形を見せている。……吹雪。僚機の跳躍ユニットの駆動音。ブァアッ――という砂塵を噴き上げながら、低空を青い戦術機が突出した。

『20703、バンディットインレンジ! ――フォックス3!!』

『20702――獲物を見つけたっ! 狙い撃つよっ!!』

 同時、通信機越しに届けられる声。まるで猫のように俊敏な機動を見せる吹雪が36mm突撃砲を構え、ジグザグな機動を見せながら仮想敵へ吶喊する。その03の吹雪に照準をつけていたらしい、隠れていたもう一体の敵を見つけて、02が軽快に笑い――撃つ。

「207A各機、敵はB-23エリアへ移動後退している。――04、05はこのまま追撃。私は03と共にこのエリアの敵を殲滅するッ!!」

『20704了解』 『20705りょーかいっ! お前が来るまでに全部蹴散らしといてやるよっ!』

 言うが早いか、少しの遅れもない仲間からの返事に、01のナンバーを駆る少女は、グッ、と操縦桿を倒した。二時方向のビルの上で爆発音がする。02が仕留めた敵の吹雪だろう。爆炎を撒き散らしながら落ちてくる残骸をチラリと確認し、先行する03を援護する。

『ぅォオオオオオっっりゃああああああああっっ!!!』

 気合が入っているのか、或いはそうでないのか。相変わらずよくわからない軽快な咆哮をあげる03。接近してくる03に、そして狙撃され撃破された仲間に浮き足立ったのか――敵機はその姿を現し、03へ銃口を向ける。

 莫迦め――。少女はほくそ笑んだ。あれが全うな衛士の操る機体だったならば、セオリーに従って回避、或いは後退を見せるだろう。だがお前は知るまい。あの03の本懐を。

 アレに常識は存在しない。アレは非常識こそを常として行動し、トリッキーな近接格闘に秀でたお茶目さんだ。…………言っていて、どうしてこんなに迫力がないのだろうと首を傾げる。まぁ、それが03の持ち味ということだろう。ともあれ。

 向けられた銃口から36mm砲がばら撒かれる。当然にしてそれを予測していた03は、亀裂の走ったコンクリートを思い切り踏み込んでバーニアを全開に。ほぼ垂直に跳躍し、すぐ横に聳え立つビルの壁面を蹴り飛ばして方向転換――――敵機の、真上を取っていた。

『もらったぁあああああ!!』 『あっ!? ちょっと多恵――――っ!??』

「あっ」

 錯綜する咆哮。銃口。爆撃音。標的を見失った敵機は無防備にもその胴をがら空きにし、遠方より狙いをつけていた02の87式支援突撃砲がドカドカと火を噴いて炸裂する。それは、万一に敵機が後退して回避することも想定して、あらゆる方向へ弾丸をばら撒くような砲撃だった。つまり、ある程度の射線角を持たせていたわけであり…………つまり、

『んんのののおおおおおおっっ!!?? なぜっ、なぜにやられているの私っ!!??』

『あっちゃぁ~~っ。ゴメン多恵……ていうかさ、何今の在り得ない動き……流石の私も読みきれないって……』

 データリンクには正面から上面から蜂の巣にされた敵機表示のほかに、……20703大破、とある。

『ひ、ひどいいいいっっ! ひどいよ晴子ちゃんっっ!!』

『あはははははっ! まあ、気にしないってことで一つ』

『築地ぃ! 死人が喋るなっ!! 柏木も戦闘に集中しろ莫迦者ォッ!!』

 号泣するようにモニター一杯に面白い顔を映し出す多恵に対し、味方を容赦なく撃ち抜いた晴子はあっけらかんと笑う。その、あまりにも拍子抜けするくらいの莫迦らしいやりとりを、教官であるまりもが鬼の形相で吠え立てた。

『20705より01ッ……03がやられたのかっ?!』

「こちら20701……ええ、惜しいヤツを亡くしたわ。……こちらの敵は殲滅した。02と共に援護に向かう」

 驚愕に満ちた表情で05――薫が尋ねてくる。一連のやり取りが聞こえていないはずなのに、大した役者ぶりだった。だから、こちらもそれに合わせるように暗く落ち込んだ、けれど決して諦めていないという表情を見せてやる。

『……あの、多恵さん泣いてますけど……』

『あはははははははっっ!! っと、ふざけてる場合じゃないな。――01、B-23は突破された。連中はC-25へ向けて尚も逃走中。一体は撃破したんだが……連中、もう独り狙撃手がいるぜ』

 そんな大根役者二人のやり取りを聞いて、打ちひしがれる多恵。何故だろう、その背中には哀愁が漂っている。さすがに見かねたらしい04――亮子が諭すように言うが、そもそもそんなことを気にする自分達ではない。

 案の定耐え切れないように笑い出した薫だが、先ほどのまりもの叱責を思い出したのか、慌てたように真面目な顔に戻る。戦域マップに敵の逃走経路を示しながら、新たに入手した情報を重ね合わせる。残る敵は二体……内一機は狙撃手、ということらしい。

「……01より02。そこから敵の狙撃手は見える?」

『~~っ、無理。移動しなきゃ駄目だね。ビルの上に陣取っているっていうなら、少し厄介かな。ほら、そこって結構背の高いビルが残ってるでしょ? 敵がその向こうに隠れてるんなら……狙撃手は、』

『ビルの間を抜けようとするわたしたちを狙い撃ち……ですね』

『正に入れ食いってわけだな』

 接近せず、目下の脅威を排除できないかと考えたが……矢張り移動しなければならないようだ。こちらの唯一の狙撃手である晴子が敵を見つけ、その射程に収めるまでに何秒要するだろう? ……その時間を使って敵機は逃走、或いは体勢を立て直してくるかもしれない。敵の増援の有無はわからない。課せられた任務は、とにかくこのフィールドから敵を逃がすことなく全滅させること、だ。

 ならば、晴子が準備を整えるまでの時間を稼がなければならない。逃走する敵を追撃する必要が在る。当然だ。……だが、その敵の逃走経路……つまり追撃する経路は入り組んだビル群の間であり、背の高いそれらの屋上には敵の狙撃手が待っている。

 莫迦正直に最短ルートを行こうとするならば、頭上から降り注ぐ弾丸の雨を掻い潜らなければならないし、そもそも迂回ルートでは追いつけない可能性も在る。亮子の指摘は至極もっともなものだった。

 ……敢えて薫の発言を無視して、隊長機である吹雪が、各機へ指示を飛ばす。04、05で狙撃手の注意を引き、02はその間に敵狙撃手を精密狙撃により撃破。自分は迂回路を往き逃走する敵機を追撃。狙撃手撃破後に04、05も追撃を開始する。……こんな、ところだろう。

『おーい。あたしのハイセンスな例えは無視ですか?』

『薫さん、はしたないですっ……』

『あははははっ! 亮子は優しいねぇ!』

「…………もーっ、ちょっとはシャンとしなさいよぉ!?」

 それぞれが下された指示に了解を示し、行動を開始する……の、だが。どうしてこう、無口のままに動けないのだろうか。軽口を叩き合いながら、亮子は、薫は牽制を開始する。晴子もビルの上に飛び上がり、敵狙撃手の姿を探している。

 ともかくも、行動は開始された。敵の予測進路と移動速度から推測して、もうあまり時間がない。跳躍ユニットが気焔をあげる。――追いついてやるっ!

 乱立するビルの間を掻い潜りながら、青の吹雪は滑走した。







「茜ちゃあああああ~~~んっっ! 寂しかったよぉ~~~っ!!」

「ぶっ?!」

 シミュレーターから降りた瞬間、何かやわらかいものが飛び込んできた。むにゅむにゅぽよん、と顔面に押し付けられるそれにバランスを崩し、お尻から倒れる茜。彼女の上半身に抱きつくように飛びついた多恵は、ぐしゅぐしゅと鼻を鳴らしている。

 ……というか、泣いていた。思い切り。子供みたいにわんわんと泣いて、その度に茜の顔に柔らかいのを押し付けている。

「ぅぉお、あいつ、そっちのケがあるんじゃないかと思ってたけど……」

「多恵さん、大胆です……ぽっ」

「あはははっ、多恵~、それくらいにしないと。茜窒息しちゃうよ~?」

 ぞろぞろとやってくる仲間の気配に、しかし茜はジタバタと手足を暴れさせるしか出来ない。マウントポジションを取られ、更には手加減無しで締め落とされようとしている彼女に、最早脱出する術はない。

「もが~~っ!? もがっ、もがもがっ!?」

「あっ……あふんっ。だめ、だめだよう茜ちゃんっ……こんなとこで、いやん」

「もがぁああ~~~~~~!!!???」

 暴れながらも、なんとか呼吸できる隙間だけは確保しようと、茜はもがくように顔を動かす。その度に柔らかい果実がもにゅむにゅと形を変え、なんだか鼻にかかったような甘い声が聞こえてくる。……そんなつもりも趣味もない茜は、最早泣きたいのはこちらだといわんばかりに吠える。

 くぐもった声を上げながら暴れる茜をとにかく解放するために、晴子と薫が近づいていく。なんだか変な声を発している多恵を極力直視しないようにして、べりべりとしがみついていた手足を引き剥がす。その際に多恵が、やだー、もっとー、とよく意味のわからない泣き声をあげていたことは秘密だ。

「……多恵さん、茜さん……不潔ですっっ」

「あたしはなにもしてないわよっっ!!??」

 顔を真っ赤にして、まるで汚らわしいものを見るように亮子は言う。信じられません! と両手で顔を覆い、嘆いている。……アレのどこをどう見ればそんな風に見えるというのだろうか。危うく窒息させられそうになったこちらの身になってほしい、と茜は思う。

 どうやら多恵の奇行は一応の落ち着きを見せたらしい。薫に首根っこを掴まれてショボン、と落ち込んだ様子である。そうしていると本当に猫のようだ。呆れる茜に、晴子が軽快に笑う。

「あっははは! 災難だったねぇ茜」

「笑い事じゃないわよ……もう。多恵も、なんでなんなことするかなぁ?」

 立ち上がった茜は、顰め面のまま多恵を覗き込み、次いで、先ほど押し付けられていた豊満なそれを見る。――こいつ、また大きくなってないかっ?!

 裏切り者め。内心で一瞬だけ黒い炎を立ち上らせつつも、割と剣呑な視線を向けてやると、多恵は怯えたように視線をそらし、力なく泣き始めた。

「だってぇえ~~っ、私一人だけやられちゃって、しかも晴子ちゃんに撃たれちゃってさぁ……。みんな楽しそうに話してるのに、ぽつーん、て。あんな狭いコクピットの中で一人ぽっちは寂しいよぉぅ……」

 メソメソと涙を流す多恵に、流石の晴子も言葉をなくす。いい機会なのでじっとりとした視線を晴子へ向けてやる。薫も同じような論理に達したらしく、しかしこちらはからかうようなそれだ。

 う、と表情を引き攣らせる晴子。彼女にも言い分はあろうが、確かに多恵の機体を大破させたのは彼女である。珍しくもやり込められる立場となった晴子は、誤魔化すように乾いた笑いを漏らした。

「って、ていうか! ほら! 私だって悪いとは思ってるけどっ、そのっ、」

「まっ、多恵の機動は読みづらいよなぁ。……あたしもこいつと合わせるたびに思うもん」

「「いっぺん、こいつの頭の中を見てみたい」」

 茜と晴子の声が重なる。そうそれ、と薫はカラカラと笑う。襟首をつままれたままの多恵は再び号泣し、…………亮子は顔を覆ったまま、照れたように身体をくねくねさせていた。

 ……余談ではあるが、多分この中で一番、亮子が妄想力逞しいと思われる。

「ほら貴様達っ! さっさと整列しないかっ!」

「わっ、教官だ」

「小隊整列~っ!」

 通信機械室から降りてきたまりもが腰に手を当てて怒っている。慌てて駆け出し、整列する五名の少女達。白い衛士強化装備を身に纏う、207衛士訓練部隊、A分隊の少女達。

 並んだのは……その五名だけだ。茜、晴子、多恵、亮子、薫。その、五人。

 B分隊の少女達の姿は……ない。

 五月下旬に行われた総戦技評価演習。熱帯のジャングルで行われたサバイバル演習。あまりにも過酷で、あまりにも厳しかったその演習をクリアしたのはA分隊の彼女達だけ。B分隊の彼女達は……巧妙に張り巡らされた二重三重の罠に陥り、身動きが取れなくなったのだという。

 失格の、詳しい理由は知らない。……ただ、彼女達にとってその失格は、きっと、何よりも重い。

 同じB分隊で、単身で別部隊へ異動した白銀武。彼に見限られまいと、或いは成長した自らを見せ付けてやろうと。彼女達はそれはもう努力した。最大の問題点だった千鶴と慧の不和、そして隊員間の信頼関係……それらを解決し、乗り越え、新しいステップへと進むことが出来た後だっただけに…………その心中は、計り知れない。

 片や合格し、戦術機操縦課程へと歩を進めた自分達。憔悴し、悔しさに涙する彼女達にかける言葉が見つからず……何を言っても、自らの合格を鼻に掛けるようで。

 だから茜は、A分隊の少女達は、何も言わなかった。……けれど、確信している。絶対に、彼女達は諦めないだろう。冬季に行われる最後のチャンス。それを、逃しはしないだろう。それぞれが更に成長し、どんな過酷な難関であろうとも、踏み越えてその先を掴んで見せるだろうと。

 心配はいらない。なにも案ずることはない。

 ならば案ずるべきは我が身であり、A分隊の今後のことである。夢に見た戦術機操縦訓練。地球上を跋扈する憎きBETAと対等に戦うための力。人類の叡智の結晶。二足歩行の人型戦闘兵器。

 期待に胸膨らませ、やる気に闘気を漲らせ。茜たちは新たな訓練に全力で臨む姿勢を見せた。その様をまりもは不敵に笑い、厳しい言葉と共に叱咤激励してくれる。

 受け取った訓練兵用の強化装備がやたらと恥ずかしいことや、二回目の戦術機適性検査の強烈さに吐き気を催したことや、それ以上に過酷で凄まじいシミュレーター訓練……と。心も身体もへとへとに疲れ切って……。

 でも。

 どこかで、この横浜基地のどこかできっと……武も頑張っているのだ、と。

(武…………)

 深夜のPXで再会した彼。疲れ切ってあんな場所で眠っていた彼。武も、頑張っている……。真面目で努力を忘れない武だから、きっと、毎日毎日滅茶苦茶に我武者羅に訓練に臨んでいるのだろう。

 たった独りで。茜を置いて。――だから。

 だからきっと、いつか再会するその日のために。戦場でもいい。どこかで、再会する時のために。

 彼を支えてやれる力を身に付けよう。彼が頼りにしてくれるくらいの力を、手にしよう。

 傍にいたい。傍にいられるだけでいい。そして……武を支えられたなら。それだけで、茜は幸せなのだから。

「……ぉ~~ぃ、茜ぇ?」

「さっさと着替えて飯喰おうぜぇ? あたし腹減っちまったよ……」

 はっとして声の方を見れば、いぶかしむように覗き込んでくる晴子の顔。その向こうでは薫と亮子が待っていて。

「ははぁ、さては白銀くんのこと考えてたにゃァ??」

「ッッ!!??」

 背後から、ぺったりと多恵が抱きついてくる。うろたえるように頬を染めた茜に、眼前の晴子が目を光らせる。――しまったっ!?

「ほほ~ぅ。茜さぁ、その辺詳しく聞きたいなぁ~」

「しっ、知らないわよっ! ……ほらっ、早く行きましょ!」

「わっかり易いなぁ茜ちゃん。可愛い可愛い」

 すりすりと頬を摺り寄せてくる多恵に、こいつ本当にそっちの趣味があるんじゃないのかと激しく疑いたくなる茜である。どうも……強化装備を支給されたあたりから、多恵の茜を見る目が尋常ではない気がするのだ。救いを求めて晴子を向けば、彼女は「自分はそういうことに偏見を持つつもりはない」などと思い切り目を逸らして言い放つ。

 視線を移せば待ちかねたような薫が先に進もうとし、やっぱり顔を真っ赤にした亮子は不潔ですっ、と嘆いていた。……ああ、もう、どうにでもなれ。

 いつまで経っても変わらない。三年以上を共に過ごし、四年目に入ってもちっとも変わらない。

 温かで、緩やかで、楽しい時間。――ああ、本当にもう。茜は込み上げる苦笑を抑えられなかった。多恵も笑う、晴子も笑う。薫も、亮子も。皆笑う。

 どうか……どうかずっと、このひとときが続きますように。任官するまでのあと少しの間。彼女達といられますように。

 願う。







 ===







「あら、今日はそっちの方が早かったのね……」

 夕食の時間。ぞろぞろといつものように賑やかに姦しくやってきた五人の少女。先頭を歩く眼鏡におさげの千鶴が、少し驚いたように漏らす。

 視線の先には既にいつもの席に陣取っている矢張り五人の少女。千鶴たちに気づいておーい、と手を振っている。

「おっそーい。千鶴ー。もう席取ってるから、さっさと自分達の分、取りにいきなよ」

「ええ。そうするわ」

 ぶんぶんと手を振っていたのはカチューシャの似合う207訓練部隊の元気印、茜。相変わらずの彼女の笑顔に、千鶴は微笑しながら頷く。

 口々にお疲れさま、と交し合いながら、B分隊の彼女達はカウンターへと向かう。料理を受け取り、戻ってくるまでの少しの間を、A分隊の五人は……静かになど待てるわけもなく、きゃんきゃんと話に花を咲かせていた。

 その茜たちの様子に苦笑しながら、しかしこちらも全く負けた様子もなく。両手でトレイを抱えたまま、歩きながらに喧騒を飛ばしあう千鶴たちも相当なものである。

「……さて、それではいただくとしよう」

「みんなおつかれさまー」

 椅子を引いて座る。冥夜が手を合わせて言い、壬姫が朗らかに同僚へ労いを掛ける。その彼女たちに合わせるようにして、総勢十名の彼女達は一斉に食事を開始した。

 基本的に話題が途切れることのない彼女達は、口に物をつめては飲み込み、喋る……という一連の作業を繰り返す。勿論、口の中に物を入れたまま喋るなんてマナー違反は存在しない。一度、多恵がそれをやったことがあるのだが、そのときの千鶴の怒りようが尋常ではなかったために、全員が最低限のマナーを守ることを約束しているのだ。

 次々と自身の皿を空にしながら、わいわいと会話が弾んでいく。そこに、総戦技評価演習の合格、不合格という隔たりはなく。お互いに同じ207訓練部隊という、一つのチームに所属するものたちの輪を保っている。

 当初こそ多少のぎこちなさはあったのだが、そこは遠慮を知らない晴子や薫、美琴に壬姫といったムードメイカーたちの活躍により、或いは、分隊長同士のライバル関係などもいい具合に作用して……結果、現在のような形に落ち着いているのだが。

「しかし、今日は随分と早かったんだね」

「……そだね、いつもならこっちの方が終わるの早いのに……」

 食事を終え、合成緑茶を啜りながらに美琴が問う。それに合わせるように慧もぼそりと呟いた。わざとらしいくらいに皮肉を交えた慧に、千鶴は溜息混じりに、けれど何も言わず……茜に視線を向ける。

 もぐもぐと料理をほおばっている最中だった茜は、むぐ、と咀嚼する口を止め……正面の晴子にパスを送る。リスのように頬を膨らませた茜に苦笑しながら、晴子はハイハイと手を振って。

「ん~、今日はさ、なんか近い内に部隊の出動があるとかで……基地待機の部隊が訓練するのに使うんだって」

「出動? ……基地待機の部隊……はて、しかしシミュレーターとはそなたたちが使用しているもの以外にもあるのだろう? ……使用時間はあらかじめ決まっているのではないのか?」

「だからさ、今日は元々そういう予定だったんだって。偶々今までの訓練がそれに重なってなかっただけで、さ」

 掻い摘んでの晴子の説明に冥夜は首を捻るが、薫の言葉にふむと頷く。別段何か気になったというわけでもなく、単に思いついた疑問を解消したかっただけらしい。それ以上の質問もなく……茜が、ようやくに口の中の料理を飲みこんで、言った。

「それでさ、その出動っていうのが……」

 少しだけ身を乗り出すように、そしてやや声を潜めながら茜は口を開く。その思わせぶりな彼女の態度に、自然、皆身を乗り出すようにして耳をそばだてる。

 A分隊の少女達はその内容を知ってはいるが、雰囲気作りも大事なのだとわかっているため、興味津々に耳を寄せるB分たちの少女達同様に、茜に身を寄せる。

「……朝鮮にあるBETA前線基地の、間引き作戦……??」

「BETAの間引き作戦……って、こっちから攻めるの?!」

 眉を顰めながら千鶴が呟き、美琴は目を丸くして驚いたように言った。その声が思ったより大きかったことに茜は慌て、晴子が唇に人差し指を当てて「しーっ!」と押し殺すように言う。

「ばかっ、声でかいって。…………別に誰にも聞かれてない、な」

「ご、ごめんっ」

「あはは、謝ることはないって。……でもさ、これ、その訓練しに来た待機部隊の人たちが話してるのが聞こえてきただけなんだけどさ……」

「……訓練兵の我々が知っていてよい情報では、ないのかもしれんな……」

 小声で叱責する薫に美琴はしゅん、と肩を落とす。その彼女をフォローするように晴子が苦笑を浮かべ、情報の入手ルートを簡単に説明する。それを聞いて、冥夜が神妙な表情と声で言う。一瞬……シン、と場が静まり返った。

 確かに冥夜の指摘するとおり、訓練兵が知っていてよい情報ではないかもしれない。だが、この横浜基地から部隊が――それは間違いなく戦術機甲部隊だろう――が出動し、朝鮮に存在する敵の前線基地へ攻撃を仕掛けるというのだ。その事実には、全員が興奮の色を隠せなかった。

「……それって、いつ?」

「ん~~と、確か、月末? とか言ってたような……?」

「六月末で合ってたと思います」

 ぼそっと聞いた慧に、多恵が顎に指を当てて「う~ん」と唸り、横合いから亮子が告げる。うんうんと首を盾に振る多恵に、壬姫が少しだけ怯えたように聞いた。

「それで、その部隊って……どこなんでしょうか」

「えぇ? ……それは、……誰か知ってる?」

「んにゃ。あたしは聞いてないよ……つか、皆一緒に聞いてたんだからさ」

 晴子が首を振り、薫も首を振る。待機部隊の彼らはそこまでは口にしていなかった。或いは聞き取れなかっただけかもしれないが。

 その彼女達の様子に、千鶴は殊更に表情を顰めた。

「けど……それが事実だとして、そんな風に無防備に話題にするなんて……その人たちの情報意識ってどうなってるのかしら?」

「……確かに。…………既にこうして噂話を楽しんでいる時点で我らも同じだが……些か口が軽過ぎるようだな」

 B分隊の真面目組が揃って唸る。言っていることは確かに尤もだが、彼らとて人間である。冥夜も指摘するように、自分達だって常に新しい話題、或いは盛り上がる話題を求め、率先して語り合っているのだ。隊内のコミュニケーションを図る上で会話はとても有効で有益である。それが間際に迫った大々的な作戦となれば……ならばこその情報管理は確かに必要となるだろうが、直接に関わりを持たないその部隊員たちにとっては、格好の話題というわけである。

 そしてその話題も“あくまでそういう話が在る”と隊長が話していたのを聞いた、という程度。即ち噂話のレベルでしかなかったために、茜たちもそう意識することなく耳をそばだて、そして話したのだ。

 千鶴と冥夜に指摘されて、思わず困ったような顔をする茜たちに、慌てて千鶴がフォローを入れる。

「べっ、別に茜達を責めてるわけじゃないわよっ?! 確かにそのっ、……興味ある話、だし……」

「あっははは、ありがと榊」

「千鶴ちゃんも結構わかりやすいよね」

 ナイスフォロー、とちっともそう思っていないだろう慧が呟く。見事に空気を読んでいない……或いはそれこそを狙っていると言わんばかりのタイミングである。千鶴の拳が僅かに震えた。

 まったくしょうがない二人である。根底でとても似通った彼女達。手を取り合い息を合わせればとてつもなく恐ろしいコンビと化すくせに、こういう日頃のじゃれ合いはなんとも微笑ましく見えた。

「でも、BETAの前線基地ってさ…………実際、どんなのなんだ?」

 思いついたままを口にして、薫が首を捻る。腕を組んで真面目な表情をしているが……全然似合ってないのは何故だろう。隣りで晴子もまた腕を組み……気づけば全員が思い思いに想像を巡らせているようだった。

 なので茜も想像してみることにする。

 BETAに前線基地が在る……というのは、知ってはいるが見たことはない。一般市民には公にされていない情報だが、訓練兵である彼女達は、座学でその概要程度は学んでいる。曰く、BETAが地上で活動するための足がかり……巣、のようなものであり、連中はその中に多数存在しているという。

 そしてBETAが侵攻を開始する場合、或いは迎撃に出向く場合は往々にしてその前線基地から出現し、怒涛となって圧し迫るのだとか。……前線基地の形すらよくわからないままに想像しても、大した意味はないことに気づく。

 ましてそこに攻め入り、間引き作戦……というからには、連中の数を減らすことが目的なのだろう。具体的な数字もいまいち想像できず、どこかスッキリしない。

 それは茜以外の皆も同じだったらしく、一様に苦笑している。

「だめだーっ、全然想像できないやぁ……」

「そうですね~。BETAの姿も知らないんじゃ、なにもわかりません」

 だぁーっ、と美琴がテーブルの上に身体を投げ出し、壬姫もまた同じように肩を竦める。確かにそうだった。戦うべき敵の姿も形も知らず、そしてそれと戦うための作戦についても全く想像できない。……いや、一切の想像が不可能、というわけではないのだ。少なくとも自分達は一般市民よりBETAについての情報を多く所持している。軍人として、いずれ戦う際に必要となる最低限の知識でしかないが……それ以外にも、基本的なBETAとの戦闘方法、部隊・兵器の運用等……組み合わせれば、おぼろげにも想像は出来るのである。

 ただ……座学で、机上で学んだそれらと、現実にBETAと対面しての戦闘とが結びつかないだけであり、故に想像もつかない……となるのだ。

 自分達は衛士を目指し訓練に励んでいる。そして、A分隊の少女達は既にそのための兵器……戦術機に搭乗しその操縦訓練に臨んでいる。

 あの鉄の巨人を駆り、BETAと戦う……。世界中を蹂躙し、数十億の人間を殺し尽くした恐ろしい敵。

 想像も……つかない。

 だって、世界中で、今このときも、戦術機でBETAと戦っている人々が、いるのだ。いや、今までにも……それこそ、数え切れないくらいの衛士が戦い、散って、いる。

 圧倒的にBETAの方が……その戦力の方が、強い。果たして戦術機一機で、どれだけのBETAと戦えるというのか。

 ぶるり、と全身が震えた。それは、その想像は……なんと恐ろしいのか。――でも。

 現実に、そのBETAと戦うために部隊が出撃するという。その恐ろしい敵と戦うために部隊が出撃するという。

 自分達がそう在りたいと目指す、衛士たちが。戦術機甲部隊が。圧倒的不利を承知で、この世界のために戦いに出向くというのだ。――身体が、奮えた……っ。

「どの部隊だって、いいよ……頑張って、戦って、生きて帰って欲しい、な」

「茜……」

 強く拳を握って。茜は笑う。本当に本当に、BETAとの戦闘なんて想像もつかないし……きっと、とても怖いものなのだろう。

 でも、それでも、自分は衛士になると決めた。そもそものきっかけは父親が衛士だったことと、姉がその道を選択したことだった。……けれど、今はそれ以外にも理由が在る。それ以上に、衛士を目指す理由が在る。

「みんなきっと……大切な、護りたいもののために戦うんだよね……。だったら、うん……やっぱり、生きて帰って欲しいかな」

 そしていつか自分が衛士となり、戦場に出向く時が来ても。

 絶対、絶対に生き延びて、生きて帰って……大切なひとのために、ずっと戦えるように。傍で、支えてあげられるように。――ね、武。

 朗らかに笑う茜に、晴子が嬉しそうに微笑み、多恵がうんうんと頷き、薫が、亮子が、力強く笑う。

 そんな彼女達に、千鶴は眩しいものを見るように微笑み、冥夜と慧が不敵にも頷き、美琴が、壬姫が、優しく笑う。

「……ふふっ、まったくそなたは強いな」

「――はっ? えっ?!」

 堪えきれぬ、というように冥夜が笑う。それを発端に、みんなが笑う。どうして突然に笑われたのかがわからない茜も…………その雰囲気に、明るい笑い声に、つられるように笑った。

 ――ああ、大丈夫。頑張ろう。いつか、今はまだ想像もつかない過酷で凄惨で恐ろしい戦場も。敵も。いつか……その場所に立ったそのときに、頑張れるよう、戦えるよう、生きて帰れるように。

 明日からの訓練も、より一層に励もう、と。







 そしてこの三日後に、『伏龍作戦』は開始された――。







 ===







 2001年7月7日――







「別に……これという異常も、ない……よなぁ?」

 病室のベッドから身を起こし、身体の状態をチェック。寝起きで少しだけぼんやりするが、それはすぐに晴れる。ギプスで固定された左腕、包帯に巻かれたままの左眼を除けば全くもって異常なし。いつも通り。

 武はふむ、と頷いてからベッドを降り、コキコキと骨を鳴らす。擬似生体の移植手術は成功。明日にでもギプスを外し、リハビリを開始するとのことだ。……正直、運動もトレーニングも禁止されていたこの数日間は、武にとって拷問に等しかった。それが明日からは存分に身体を動かすことが出来るとあれば、自然頬も緩もうというものだ。

 とはいえ……実は衛生兵の目を盗んでは弧月を素振りしたりしていたので、それほどのストレスが溜まってる訳ではない。が……左腕が使えない状態でそれを続けると右腕ばかりが鍛えられてバランスが悪くなる。矢張り人間、身体の真芯に重心が在るべきである。月詠の剣術はそれこそありとあらゆる場所に重心を置くが、それはあくまで応用編であり、矢張り基本が一番大事なのは変わらない。

 よって、片手で素振り、片手腕立て伏せ……というあまり身にならないトレーニングは程々にしている。走り回ることができないために残るは腹筋やスクワットという地味でキツイ筋トレばかりだったのだが……。それでも、僅かなりとも運動することは健全な心を保ってくれるように思う。

 ……今でもまだ、夢に見てはうなされる。志乃の姿。亜季の声。……木野下の、藍子の、光に飲み込まれる光景。

 そしてそれに追い討ちをかけるような夕呼の「薬」だ。無理にでも身体を動かしていなければ、多分今頃は精神的に病んでいるに違いない。

 と、備え付けの卓に置かれた小さい紙袋を見る。夕呼にそれを渡されてから五日。三日に一度、というから明日にはまたこれを服用しなければならない。

 この薬が一体なんなのか……ということはもう、考えることをやめている。情報が足りなすぎるし、何よりも知ってしまえばそれこそ命取りになりかねない。夕呼が何を企んでいるのか……なんてことは最初からまるでわからないのだし、例えばこの薬を自分が服用することこそ、彼女が進めているというAL4の成功の鍵を握っているのかもしれない。

 何もかもが想像で、どれ一つ確証はない。……想像をめぐらせることは自由だが、現状想像し得ることはすべてが「妄想」の域を出ない。全部が全部“こういうこともありそう”という、無責任に、好き勝手に脳内で思い浮かべているだけの自己満足に過ぎない。……いや、その想像すること全部が満足感さえ得られない末恐ろしいものなのだが……。

 朝から不毛な思考に捕らわれてしまい、武は溜息をつく。冷たい水で顔を洗おうと、廊下に出る。

 早朝の涼しい空気。地下で、空調の完備されたこの施設で何を……と自身で苦笑するが、それでも矢張り、朝の空気というものは、在る。

 例えば皆が起き出す気配。覚醒する者の息遣い……とでも言えばいいのだろうか? 清涼な空気も涼やかな景色もないが、そういう、今日がこれから始まるという感触は、こと入院している身としてはむず痒い。

 自分もその空気の中に混ざり、思う存分訓練に打ち込みたい。A-01部隊の先任たちは、今日もまた過酷な訓練、或いは任務に明け暮れるのだろう。207訓練部隊の彼女達は、今日もまた精一杯に我武者羅に訓練に臨むのだろう。

 想像し、苦笑する。それを羨ましい……懐かしいなどと思うなら、一日でも早くこの傷を治せ。自身をそう叱咤して、蛇口を思い切り捻った。

 部屋に戻り、置時計の時間を確認する。五時二十分――起床時間には少し遅い。む、と眉を寄せ、たった数日で自身の生活リズムが崩れていることに若干の危機を覚える。精神肉体共にぬるくなっているような気がして、コリコリと頭を掻いた。ベッドに座りながら、小さく溜息。

「はぁ……たるんでるな、俺……」

 ちらりと左腕を見る。骨も神経も筋組織も完全に繋がっている。この十数年で医療技術が格段に進歩したことは知っていたし、擬似生体を移植するということがこういうことだ、ということも知識としては知っていた。……まさか自分がその恩恵を賜ることになるとは夢にも思わなかったのだが――自業自得だ、愚図め――よぎる思考に、頭を振る。

 しばし、押し黙る。

 空気の流れる音さえ聞こえそうなほどの静寂……武がいる病室以外には、現在のところ入院者はいない。というか、そもそもこの医療施設……医療棟というものは短期間の入院が必要な患者しかいない。それ以上の重症者となれば外部の軍病院へ搬送され、治療を受ける。これは戦闘に参加できない兵を基地内に置いておくことで発生する人的リスクを懸念したためだが……ならばそういう意味において、今回の武の負傷は「重症」に値するはずなのだが……。

 これも夕呼のなせる業か。ふ、と水月を真似て唇を吊り上げてみる。左頬が多少引き攣りをみせて痛い。皮膚はくっついているはずなのに、まだまだ内部で引き攣れているらしい。

「…………そういえば、今日は……」

 今一度時計を見る。日付も表示されるそれには「7/7」とある。…………彼女の誕生日だった。

 武はじ、っと時計の表示を見詰め続けた。1999年の1月に彼女を喪って以来……三度目の、誕生日。今日までにも二度、その日は訪れていたはずなのだが……どうしてだろうか、昨年の、一昨年の、その日の記憶というものが……ない。

 いや、それは正しくない。記憶にないというのではなく、彼女の誕生日に意識を傾けた覚えがない。例えばそれは喪った哀しみから立ち直ろうと足掻くことに必死だったときであり、新しい環境でとにかく我武者羅に前に突き進み続けたときであり。

 何かに夢中になっていて、考える暇がないくらいに足掻いていて、もがいていて。

「そ……か。俺……去年は、」

 傍らの弧月を握る。そうだ。昨年の今頃はとにかく真那に師事することに夢中で、それ以外のことなんて一切考えられなかった。

 そして、夕呼の呼び出しを受けたのもその頃。武の戦術機適性の謎を解明するための情報収集。そんな題目で彼女の研究につき合わされ、……霞の質問によって暴かれることとなった己の、脆く薄っぺらな卑しい仮面に気づいた頃。

 コツ、と。弧月の柄を額に当てる。――ああ、ごめんな、純夏。

 酷いやつだ。二度も、彼女の誕生日を忘れていた。訪れていたことも、過ぎ去っていたことも気づいていなかった。

 毎年欠かさずに誕生日を祝っていたのに。すぐ隣の家に住んでいて、窓越しにおめでとうと声を掛けて、彼女の家で、皆揃ってお祝いしたのに……。もう、それはできない。

「――ッ、」

 顔を上げる。拳を握る。歯を食いしばり、――湧き上がる感情を、堪える。

 絶対に忘れない。絶対に忘れられない。鑑純夏の、死。

 絶対に消えない。絶対に消すことのない。BETAへの、憎しみ。

 ……それは、もう、どうしようもない感情で、自身を形成する根幹の一つだ。今更純夏を忘れることができないように、BETAへの憎悪もまた、消すことなんて出来ない。

 だが、それに呑まれ翻弄され、復讐に生きる鬼には成らない。そんな無様は、二度と晒さない。

 己が間違えていることを知った。これ以上ないくらい最悪な形で、それを知った。己の犯した罪を、復讐ではなにも残せないのだという事実を。――命を懸けて、教えてくれた人たちがいた。

 だから大丈夫だ。

 ふとした瞬間に込み上げるこの黒い感情に、もう支配されることはない。

 水月の拳が、真那の言葉が、純夏の信頼が――茜の、支えが。武をちゃんと導いてくれる。進むべき道を照らしてくれる。……だから、大丈夫。生きていける。

「誕生日おめでとう、純夏……。また、お前の方がお姉さんになっちまったな……はははっ」

 ぽつりと呟いて、笑う。

 いつだっただろう。そう、それはいつもだ。

 誕生日が来るたびに、おめでとうを言うたびに、彼女は太陽みたいに笑い、腰に手を当ててふんぞり返って……



 ――今日からあたしのほうがお姉ちゃんなんだからねーっ! タケルちゃんはちゃんとあたしのことを純夏お姉さんって呼ぶんだよっ!



「……誰が呼ぶか、ばぁーかっ」

 鞘に巻いた血染めのリボン。儚くも鮮やかな黄色を残すそれを、掻き抱くように。

 涙が、染みた。







[1154] 復讐編:[十一章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:30

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十一章-03」





 そして、二週間。夕呼に言われたとおりに三日おきに薬を服用し、定期的に顔を見せるようにと申し付かったその第一回目。

 包帯の取れた左眼には眼帯が当てられており、頬と額には縦に走る抉れた傷跡。改めて鏡で見たときは想像以上の痛々しさに自身でも思わず呻いてしまったが、それを見た水月の顔は……なんというか言葉にするのも難しいくらいに複雑なものだった。愛惜、同情、それから怒り。……多分、そんな感情が混じり合ったような。

 傷を消すつもりはない、という武の言葉には医師も納得してくれているし、それを今更水月がどうこう言ってくることもない。……彼女はちゃんと武の気持ちを承知してくれていた。傷跡を見てあんな表情をしたのは、それでも矢張りそれを見るたびに思い出される彼女達の記憶と、……何より、武の犯した罪が蘇るからだろう。

 左腕のリハビリも順調に進み、既に日常生活に支障はない。神経の結合にも取り敢えずの支障はなく、あとは戦術機適性検査に耐えるかどうか、ということらしい。

 最初こそ動かすことにも一苦労だったわけだが、流石に最新の医療技術である。世界中で普及していることも理由としては大きいのだろうが、前線で戦う軍人にとって、擬似生体移植という技術は素晴らしく有効であるといえるだろう。

 例え負傷したのだとしても、また戦場に復帰することが出来る……。幸いにして武はPTSDに代表される心的障害を負うこともなく、戦場に帰ることができる事実に、小さな喜びさえあるのだ。喪われた彼女達に報いるために、愚かだった自分にけじめをつけるために、なによりも戦場に戻らなければならない。

 戦って、戦って、そして生き抜き続ける。

 この命の価値を、彼女達に救われたこの命の価値を、世界に示し続けてみせる。皆に示してみせる。その義務が在り……なによりも、それが一番のはなむけとなるのだから。

 筋力トレーニングや訓練兵時代の訓練内容をざっとこなしたところ、特にこれも支障はない。弧月を使用しての月詠の剣術も概ね良好というところだ。……施術は完璧だというのに、矢張りこれが元からの自分の腕ではないせいか、若干の違和感が感じられるが……恐らくそう致命的なものではないだろう。どちらかというと、数日間とはいえ固定され続けていて動かすことのなかった、ということの方が影響しているように感じられる。

 医師から告げられているリハビリの期間は残り一週間ほど。早ければ眼帯も数日後には取れる。

 全てにおいて順調だ。――夕呼に関すること以外、は。

「……失礼します」

 プシュン、とスライド式のドアが滑るように開く。カタカタと響くキーボードを叩く音。いつものように白衣を纏い、コンピュータ端末に向かいなにやら忙しそうな夕呼。相変わらずの書類の山が、以前より少しだけ増えているのは気のせいだと思いたい。

 一見しただけでこれほどに多忙に過ぎる副司令が、直々に一少尉を呼びつけて行う何がしかの実験。否応にも緊張を強いられ、相当の覚悟を強いられるこの状況。

 風邪薬でもなく痛み止めでもなく栄養剤でもなく……ただ「呑め」と言われ押し付けられたカプセル薬。赤色と透明のそれ。中には黄色い顆粒が詰まっているそれ。

 この二週間、欠かさずに自身の点検を行い、また、目的は異なるが医師の手によっても毎日の経過を確認している。結果は、共に良好、異常なし。――それが逆に恐ろしい。

 或いは、この薬の効果は服用して数日という期間で現れるようなものではなく、もっと長期的に服用を続けることで効果を見せるのかもしれないし、専門知識のない衛士がざっと身体を動かした程度でわかるようなものではないのかもしれない。

 そもそも表面的には何の変化も見せず、身体の内奥、という場所で密やかに進行するものなのかもしれない……。

 どうも思考が後ろ向きになっていけない。自分でもどうかと思うくらいの怯えようだが、ともかく得体の知れないものほど恐ろしいものはないのである。実証効果がはっきり明確にされ、それを保証するもの――この場合、実際にそれを使用した者の経験談が望ましい――が揃っていなくては、とてもじゃないが扱えないし扱いたくない。……それは実戦投入前の兵器のことだろう、と自身で軽く呆れながら、しかし気持ち的にはそれと対して変わらないというのが本音だ。

 既にこの二週間散々考えまい考えまいとして結局厭な想像を膨らませ続けてきたのである。諦めが悪いというかなんというか、それくらいにこの薬が武に与える精神的負荷が大きいというか。

 ともあれ、この際だからどんなに凄まじく恐ろしい効果を表す劇薬なのだとしても、本当のところを説明してもらおうと少々意気込んでの来訪だった。

「……あの、副司令……? 白銀少尉であります」

 ――が。

 相変わらずカタカタとキーボードを叩く音だけが続く。完全に無視されている。若しくは、本当に武の来訪に気づいていないのか。……莫迦な。いくら作業に集中しているといっても、ドアを開け人が一人訪れているのである。ともすれば暗殺等の危険性も孕むだろう地位にいる御仁が、これほどに無防備な姿を晒しているというのはいかがなものか。

 実は武の存在に気づいていて、取りあえず面倒だから放置している……というのが目下のところ最有力な仮説であるが、これが本当に「誰か来たことにさえ気づいていない」のであれば……夕呼は既に十数回殺されている。……無論、武は暗殺者ではないし、一応は彼女の直属の部下という立場にいるため、もしこの場にそんな輩が現れたのだとすれば即座に弧月で叩き切るが……。

「………………」

 実に、居心地が悪い。というか、いい加減本当に気づいてくれてもいいんじゃないかと泣きたくなってくる。

 二週間おきに顔を出せと言いつけておきながら、武にこれほどの心的負担を与えておきながら――流石は副司令、部下の都合などお構い無しである。

 否、そもそもこの薬を武に服用させることが何らかの実験なのだとしたら、それこそ武の都合など些かも関係しないだろう。

 夕呼にとって武は実験体、即ちモルモットと同義であり、薬を服用することで発露する様々な反応を、或いは症状を観察、記録することで更なるデータを収集する。その結果がこれとは異なる新薬の発明なのかどうかは今までと同様に見当もつかないが……どう転んでも、それが武にとっての幸福に繋がるとは思えない。

 既に一度彼女の計画を失敗に終わらせている身である。……挽回の余地はまだ在るのかもしれないが、とりあえずこの薬とそれとは直結しないのではないだろうか。

 戦場で戦うという行為と、謎の薬を呑むという行為にはどう考えても接点を見つけられない。武の知識が足りないだけなのかもしれないが……矢張り、どう考えたところで夕呼以外にはその理由など知り得ないのだろう。

 考えるだけ無駄。

 ――そんなことは、わかっている。

 それでも思考することをやめられないのは……自身で泥沼だと重々承知していながらにやめられないのは。想像でも妄想でもなんでもいいから、とにかく考えていないと不安に押し潰されそうになるからだ。……特に、今はまだリハビリ期間中である。

 これがA-01部隊に復帰して、日がな一日過酷で容赦ない訓練に、任務に身を置いているならばこうはなるまい。こんな薬のことを考えている暇などないし、そんなことに頭を悩ませる暇が在るのなら、一秒でも長く機体に触れるべきだ。それが衛士というものであろう。

 自身の軟弱な精神に喝を入れる。もう考えるのはやめだ。本当に。これでオシマイ。……後は夕呼に問い質し、答えが得られれば上々。――得られなければ、その時はそのときだ。無用な想像に頭を悩ませることはしない。ともかくも身体を万全にし、戦術機適性検査にも合格する。それが最善だ。

「香月副司令ッ! 白銀少尉、まいりました!!」

「――っ?!」

 腹の底から盛大に吠えてやる。文句の付けようのない直立姿勢。踵はキッチリとあわせられ、理想的な「気をつけ」を体現する。……本来なら敬礼すべきなのだろうが、かねてより敬礼は無用と言いつけられているので、それは省略する。

 びくり、と一瞬だけ身体を強張らせて、顰め面がこちらに向けられる。……どうやらいきなりの大声に驚いたらしい。その夕呼の反応に逆に驚いてしまいそうになる武だが……取りあえず直立の姿勢は崩さない。

「……でっかい声ね……そんな大声出さなくても聞こえるわよ」

「……」

 不貞腐れたような、若干不機嫌そうな表情。多分も何も間違いなく、自分が驚いて、それを武に見られたことが腹立たしいのだろう。そして、取り繕うように放たれた発言については異議を申し立てたい。……申し立てたところで一蹴されてしまうのだろうが。さておき。

 武は姿勢を正したまま夕呼の前へ進む。夕呼も片手でキーボードを叩き、その後は身体を武の方へ向けてくれた。どうやら、ようやくにして武にとっての本題に入れそうである。

「ここに来たってことは……ちゃんと、薬は呑んでいるみたいね?」

「はっ……副司令直々のご命令でしたので、三日に一度、欠かさずに服用しております」

「……なにそれ、嫌味? あんた私が堅っ苦しいの嫌いなの知ってて、わざとやってるでしょ?」

 氷点下の視線を向けられてしまい、思わず怯む。……伊達に副司令などやっていないということだろう。その眼光はたかだか十七の小僧である自身にはない、迫力と威厳に満ちていた。……それが部下の嫌味に対して発揮されるのはどうかと思うのだが……驚かされた恨みが篭っているのかもしれない。

 無言のまま武は顎を引く。肯定も否定もしなかったが、それこそ夕呼にとってはどうでもよいのだろう。彼女もまた何も言うことはなく、いつかのようにキィと椅子を鳴らし立ち上がった。

 行く先は前回と同様にあの医療施設。脳ミソの部屋の奥に在るそこは、前者と比較してあまりにも異質に感じられる。……通常の感覚からするならばその脳ミソ部屋こそが異常であり、一見するとただの病室にも見えるこちらの方が全うであるべきなのだが……既にその脳ミソとシリンダーのイメージが刷り込まれている武としては、このフロアはそういう、異常こそが正常に感じられてしまうのだった。

 そんな武の内心など気にした風もなく、夕呼はなにやらバインダーを取り出し、ベッドに座るように指示を下す。言われるままに腰を下ろす武。……ふと、これではなんだか医師の問診を受ける患者のようだ、と想像してしまう。なるほど、言いえて妙だ。正しく今から自分は、夕呼という研究者の問診を受け、現時点での薬の効果を記されるのだろう。

「さて、と。今から幾つか質問するから、そのことに対して思ったままを率直に答えて頂戴」

「……その前に、その、この薬のことをもう少し詳しく説明していただきたいんですが……」

 自身も椅子に腰掛け、手に取ったバインダーを開きながら言う夕呼。どうやら問診すべき内容がそこに綴られているようだ。バインダーの表紙には……剥がれかけていてよくわからなかったが、「Академия」という文字が見受けられた。これでも座学で英語に代表される公用語はみっちり身に付けているつもりである……が、如何せんその記号のような綴りを読み取ることは出来ずに、首を傾げる。

 そして、首を傾げつつも僅かばかりの抵抗を見せる武。先ほど自分の中でも決定したが、これで薬について説明が得られないならば、後はどうとでもなれ、と覚悟を決める。

 夕呼は詰まらなそうな、面倒くさそうな表情を隠しもせずに武を睥睨する。その彼女の顔色をみただけで次に続く言葉が容易に想像できてしまったのだが、それでも一抹の希望を込めてじっと見詰めることキッカリ一秒。

「却下。必要な時がくれば、そのときに教えてあげるわ」

 むべもない。そして、予想通りでもあった。……ならばそれで納得しよう。武は了解と頷いてみせ、夕呼は一つ鼻を鳴らした。

 改めてバインダーに綴じられた何らかの書類に目と落とす夕呼。恐らくそこに記されているのだろう項目を読み上げては、武がそれに答える。主としては身体機構に異常が感じられないか、精神的に圧迫されるようなことはないか……等々。どうにも薬の効果を知るための問診としては奇妙な点も多かったような気がするが、それだって気にしていては仕方がない。或いはこの問診自体、何がしかの検査のための前段階として必要なだけなのかもしれない。

 続けられる問いに率直に答え、それが数分も続けられると、次はペンライトを取り出してくる。ライトの動きに合わせて眼球を動かせ、ということだったので……取りあえず右眼だけその動作を繰り返した。

「……ん、いいわ。特に異常なしってところね。……しっかし、一々こんな検査しなきゃならないなんて、結構メンドクサイわねぇ……」

「…………は?」

 バインダーに視線を落としながら、夕呼が顰め面をする。眉を顰めながらのその言葉に、武は思わず間の抜けた声を発していた。

「あの……副司令? 聞いてもよろしいですか?」

「あによ……。詰まんない質問だったら容赦しないわよ」

 どうしてこの人はこう偉そうなのだろうか。質問する前から質問することを遠まわしに断られているような気がするのはどうしてだろう。しかし武は小さく頭を振って自身を奮い立たせる。

 多分、今ここで退いてはいけない気がする。そう。これは物凄く重要なことのような気がするのだ。退いてはいけない、怯んではいけない。……これだけは、ちゃんと確認しておかないと……多分後悔する。

 意を決したように、一つ息を吸う。ぐ、と拳を握って……よし。

「この薬…………副司令が作ったんですよね? ……それで、副司令の研究に必要な実験のために、俺が被験者となっている……ん、ですよね?」

「はぁ? なんであたしがこんな薬作んないといけないのよ。大体こんな実験、あたしが率先してやるまでもないわ。実証試験だって散々行われてるんだし。……第一、実験の被験者、って……まぁ、あながち間違っちゃいないけれど…………安心しなさい。言ったでしょ? 死にはしない、って」

 ――――言葉が、ない。

 何に驚けばいいのか。

 夕呼が薬を開発したわけではないということ?

 実験の必要がないくらいに、成果が証明されているということ?

 矢張り何がしかの実験……の、被験者であると明言されたこと?

 混乱する。夕呼の真意が益々見えなくなる。あまりにも予想していたこととは異なる事実に、武はぱくぱくと口を開閉させるしかない。

 これが夕呼が執り行う計画……AL4に関係するのかどうか、は正直わからない。彼女はそのことについては言及しなかったし、今の発言の中にもそれは含まれていない。ならば必ずしもAL4と無関係、ということではないのかもしれない。

 そして、それはともかくとして……この薬物を使用しての実験は、彼女が改めてその効果を検証するために行われているのではなく、既に確立された、その成果を武に適用することで得られる効果を求めてのことだということ……。

 ならば武は根底から勘違いしていたことになる。……いや、結果的には“その効果”こそが重要、ということに変わりはない。

 単純に一からの実験、研究ではない、というだけのことだ。結果が証明されていて、その結果を武に求める。……ならば矢張り、この薬を服用し続けることでいずれ……夕呼が求める結果とやらが、武の身に現れるのだろう。そしてそれは衛士として戦えなくなるようなものではなく、命に別状が在るようなものでも……ない。

「……ただし、あんたみたいに既に二次性徴を終えた……ほぼ成人体への投薬記録はないから、ひょっとして最悪の最悪……ぽっくり逝っちゃう、なんてこともあるかもしれないけどねぇ……」

「ちょっ!? なんでそこでそんなこと言うんですかっ!!?」

 ニヤリ、と唇の端を歪める夕呼。実に愉しげである。たまらずに頬を引き攣らせる武を手で制して、続けるわよ、と……夕呼は再び、武にとってはよくわからない問診を続けていく。

 散々不安がらせておいて、更に追い討ちをかけるような……そんな一片の救いもない夕呼のやり方は、最早異議を唱えたところで変わらない。既に二週間。つまり四度、あのカプセルを服用している。ひょっとすると今なら引き返せるのかもしれないが、それを夕呼が許してくれるわけもなく。薬の服用を誤魔化したところで、既に完成された薬品であるならばその効果も明白であろう。……つまり、呑まなければそれはそれで露見する可能性が高いということだ。

 どの道、武が逃げる術はない。あの日、半ば以上強制的に呑まされたその時点で、何もかもが手遅れだったということだ。

 やがて長いようで短かった問診と簡単な検査が終わる。今日はこれだけ、という夕呼の言葉にベッドから立ち上がり……武は自身の身体を撫で回すように確認した。

「……なにやってんの?」

「はっ? い、いぇ……その、」

 何処にも異常がないのはわかっている。自分でも点検しているし、医師も……左眼や擬似生体の経過についてだが、問題ないと言っている。まして、今正に夕呼自らが異常はないと診断しているのだ。そんなもの、在るわけがないのだろう。

 ……だが、それはそれとしてどうしても気になってしまうのは、それが人間の性だということにしておきたい。決して武の精神が矮小なものである、というわけではなく。

 冷ややかな視線を向けられて、しおしおと肩を落とす武。思い切り呆れたように肩を竦める夕呼の仕草が、小心者と嘲られているようで少し痛い。――くそっ。

 背を向けて歩き出す夕呼に遅れまいと歩を進めながら、医療施設を出る。見慣れてしまった脳ミソを横目に、ズカズカとあとをついていく。



 ――ぃた……



「――――あ?」

 ぴたり、と。

 足が止まった。数歩先で、夕呼もまた足を止めて振り返る。いぶかしむような視線を向けられるが、しかし武はどこかぼんやりとした表情のままに、

「今、何か言いましたか?」

「ハァ? 別に、何も言っていないわよ……?」

「そう……ですよ、ね……」

 顰め面を向ける夕呼に、少しだけ周囲を見回すようにしてから、やっぱりなんでもないです、と武は苦笑する。白衣のポケットに両手を突っ込んだ夕呼は、その武の仕草をじぃ、っと見詰めていたが……やがて歩き出す。

 何かが、聞こえた気がした……のだ。

 歩きながら、武はぼんやりと思う。いや、違う。耳は何の音も拾っていないし、脳にだって何の音声も届いていない。――あれは、“音”じゃない。

 では、なんなのか。……気のせいに決まっている。武は頭を振った。色々と考えすぎてナーバスになっているのかもしれない。或いは夕呼が言ったこの薬のもたらす何らかの効果。もう考えないと決めたのに……また繰り返すように要らぬことを考えようとする自分が居る。

 ならば、あれはそういう不安に巻かれた自身が見せた幻視……なのだろう。

 執務室の前で、夕呼と別れる。次はまた二週間後。同じような問診を行った後に……その結果如何では、また違う内容の検査を行うとのことだ。なんにせよ、二ヶ月の辛抱である。渡された量でこの投薬実験が終わるのなら……だが、それこそ、考えればきりがない。

 いい加減にしろ、と自身の頭を小突く。精神的にいらぬ疲労が増えた気がして……武は盛大に溜息をつきながら、医療棟へと戻るのだった。







 ===







 手に取った戦闘報告書――『伏龍作戦』における白銀武の戦闘報告書に眼を通す。丁寧に、そして詳細に纏められた字を追いながら、横目でコンピュータ端末のモニタを見る。速瀬機のカメラが捕らえた白銀機の映像が再生されているそれは、途中から画面が切り替わり――上川機のそれへと移る。

 戦闘時のカメラが捕らえた映像なので、当然としてその衛士がカメラを向けている方向しか映ってはいない。今再生されているデータは、その中でも、あの戦場の中で最も武と共に戦場を駆け巡った時間の長い二機のカメラのデータから、白銀機が映っている場面を抜き出したものである。

 単機で群れるBETAの中に飛び込んでは呆れるくらいの戦闘力で次々に屠っていく姿。音声データは切ってあるので静かなものだが、実際にはこのとき、あの不知火を駆る武は狂ったように嗤い続けていたのだとか。みちるから受け取った報告書の注釈には、武の精神状態について……主に彼が敵を欲し、復讐することに至福を感じていることについてが記されている。

 なるほど、と夕呼は唇を吊り上げた。画面には現れた光線級のレーザー照射に白銀機がバラバラにされていく瞬間が映し出されている。……改めて見れば、よくあんな滅茶苦茶なレーザー照射を受けて生きていたものである。志乃の挺身がなければ間違いなく戦死していたのだろうが、それにしても、その前段階……つまりレーザー照射の段階で管制ユニットが無事、という事実に驚愕する。

「……ま、元々A-01に来る連中はそういう素質を潜在的に秘めている可能性が高い子が選ばれてるんだけど…………」

 ともすれば、これは異常に過ぎる。戦術機適性「S」。そして、この生還能力の高さ――運、だけではあるまい。“生き残る”という自身の運命を引き寄せる才能……なるほど、おもしろいではないか。

 香月夕呼は唇を歪めながらに映像を停止させる。改めて眼を通した戦闘報告書を机の上に投げ、先ほど聴取したばかりの検査記録を手に取る。

 二週間前より開始した投薬実験。経過は今のところ良好。目に見える異変はなし。

 くっ、と堪えきれぬような小さな笑み。夕呼は思い出していた。十数分前の、武の姿。――まるで何かの声を聞いたような、そんな……。

 まさかたった四度の投薬で? それがもし“そう”なのだとしたら、これはいよいよもって天才的な才能だといわざるを得ない。あらゆる可能性に富んだ青年であり、衛士。手駒として、これほど使い勝手のよい者がかつていただろうか。

 先の作戦での失敗は確かに痛い。だが、それを不問としてあまりあるこの戦果はどうだ。一体誰がこの武の戦闘映像を見て、初陣の衛士のそれだと思うだろう。後半……特に最後の光線級に撃墜されるあたりは目も当てられないほどお粗末なものだが、それこそ新人としてはありがちな過度の興奮により周りが見えなくなっただけのことだ。その点では矢張り新人、経験の少ない新米衛士と評せざるを得ないのだが、しかし、こと近接戦闘能力だけを見るならば、現在のA-01内でも相当の上位に位置するのではないだろうか。

 隊長のみちるをして将来有望と言わしめる器である。このまま腐らせる手はない。移植した擬似生体も順調に快復しているというし、目にも特に異常はない。ならば残る不安要素は戦術機適性検査だが……これこそ、適性値「S」を誇る武である。さして心配は在るまい。

 ならば武の実戦データ収集についてはまだまだ機会があるということだ。先任四人を巻き添えにした無様さは頭にくるし、復讐に捕らわれるなんていう陳腐さにも反吐が出る。――が、今日見た限りではどうやらそれらも既に乗り越えたようでもある。さすがにみちる、或いは水月という優秀な先任が傍にいるだけはあった。先任の教えを素直に聞き入れ、己の愚かさを反省した上で前に進む姿には若干の好感が持てる。……というか、衛士という立場に関わらず、人間とは常にそうして前に進み続ける種なのだ。それは出来て当たり前。一々に悩み、苦しむようではまだまだ半端者、というのが夕呼の解釈であったが……。

 そして、もうひとつの成果。まだまだ始めたばかりではあるが、既にその片鱗を見せているという……ある意味で規格外の戦術機適性よりも驚異的な成果が見られたそれ。

 霞のリーディングに限界を感じていたために半ばやけくそで考案した実験だが、ともすれば想像以上の成果を見せてくれるかもしれない。……もっとも、それがうまくいったとして、得られる情報が一体どのようなものになるかは……正直、判然としない。

 わからないから知ろうとしているのであり、そしてそれがどのように些細なことでも「知ること」こそが重要なのだ。連中の情報は少ない。今までに積み重ねられた様々な研究の結果判明していることは連中が炭素生命体であり、なんらかの思考を持ち合わせ……人類を、生命体として認識していないということ。ただそれだけ。あとは連中がある程度の種類に分類され――そもそもその分類を行ったのは人間であるが――現在のところ、それら以外の種は確認されていないこと。ハイヴと呼称される前線基地に潜み、個体数が飽和すると新たなハイヴを建造する……。実にその程度でしかない。

 人類の叡智を集結して、三十年以上の年月を費やして、判明していることはたったのそれだけなのだ。ならばそこに情報の優劣はない。連中に関する新たな情報はすべてが貴重で重要なものなのだ。

 例えばそれが実際の戦略に活かせるものであるならば尚のこと言うことはない。……が、そうは簡単にことは運ばないだろうという冷静な思考も持ち合わせる必要は、ある。

 ともかくも、第四計画が始動されてより今日まで、そして今後も変わらぬ夕呼にとっての最優先はアレを完成させることであり、そのための研究を日夜続けている。……だが、彼女としては大変に遺憾であるのだが、未だに芳しい成果を出せていない現状、もし万一にそれが完成しなかった場合さえを視野に入れて、ありとあらゆる手段を尽くさなければならない。

 自身の計画が「失敗」と断ぜられたなら、世界は終わるのだ。後に控える予備計画……第五計画だけは、断じて許すわけにはいかない。だからこそ、僅かばかりの可能性、そして考えうる全ての選択肢をこなす必要が在る。

 霞によるあの脳ミソのリーディング然り。

 武の戦術機適性「S」の解明然り。

 ほんの少しでもいい。ほんの僅かでもいいのだ。それらを行うことによって得られる何らかのデータを、計画に反映し、活かす。

 前者はこれまで以上のBETAを研究する手段として。その情報を、得るために。

 後者はこれまでにない適性値を持った衛士を育成するため。武という青年の心身の情報を解析し、例えば訓練で鍛えられるものはそのように鍛え、例えば薬品や手術によって肉体改造が可能ならばそのように行う……。実現するためには相当のモラルを乗り越えなければならないだろうが、しかし、適性値「S」がもたらす効果はどれも夕呼を満足させるに値するものだった。

 訓練期間の大幅短縮に、初陣であれだけの戦果を上げ……。被験者である武には精神的に色々と問題もあったが、それさえなければ途轍もなく優秀な衛士が完成しているのだ。全部が全部高い適性値のおかげではないだろうが、訓練期間の短縮については相当の効果を表すはずである。

 一日に連続して十四時間のシミュレーター・実機訓練が可能。こんな数字は今まで誰も出したことがない。自分が計画し、みちるに実行させたわけだが、実際に行うまでは夕呼自身少しやり過ぎたのではと内心で恐々としていたものだ。それが、蓋を開けてみればどうだろう。確かに不慣れな操縦訓練に疲労は見せていたが、それだけだ。重度の加速度病になることもなく、連続して乗り続けることができるから一度に習得する技術もデータも多い。文句なしに成功といっていい成果を叩き出している。

 この成果には基地司令も満足しており、AL4に直接関与しないが、積極的に進めていきたい研究課題である。

 ……そして、今回の投薬実験。

 いつまで経っても大した成果を上げられない脳ミソのリーディング。霞のフォローを行うための準備段階……とでも言っておこう。とにかく、これがうまく行けば、少なくともあの脳ミソから「彼女」が見聞きしたであろうBETAに関する情報が手に入る。それをどう活かすかは手に入れてから考えればいい。今はとにかく、情報が欲しいのだから。

 アレが完成しないことには、AL4自体何の意味もないことだが、それでも足掻けるだけ足掻くことは悪いことではないし、一研究者としては当然の在り方だろうと思う。夕呼は目下のところ最優先の三つのそれらについて、今後の運用を瞬時にまとめた。

「白銀……武。ふふふっ、まったく……あんたは最高の素材だわ」

 手に持った検査記録をばさりと投げながら。夕呼は静かに、愉しそうに笑うのだった。







 ===







 軍人としての立場を考えたとき、真那はその足を止めるしかない。

 自身は斯衛軍第19独立警護小隊隊長であり、その最優先は御剣冥夜の守護である。厳しい査定と訓練を潜り抜け、名実共に最精鋭とされる斯衛にあって、その果たすべき任務には私情を挟む余地などないし、あってはならない。

 斯衛の衛士として正式に帝国軍に籍を置いてから今日まで、一度たりともその矜持を破ったことはないし、今後も破られることなどないだろう。自分自身、それを誇るからこそ、真那は常に胸を張り、自信に満ち溢れて任務に臨むことができるのである。

 ……が、しかし。

 個人としての……月詠真那としての立場を、在り方を考えた時。真那はその足を進めることに躊躇いを持たない。否、むしろ駆け出してしまいたいくらいだ。

 自身は月詠の――父の剣術を継ぐ者であり、そして彼の姉弟子であり、二人目の師でもある。厳しい修行を潜り抜け、正真正銘に後継者となった彼を、真那は誇りに思うし大切に想ってもいる。

 父から託された遺志を「弧月」と共にその身に託し、また、自身の想いさえを乗せて託したのだ。それを涙ながらに受けてくれたことは、真那にとって何よりも嬉しく、喜ばしいことだった。己の、そして父の想いを受け継いだ少年は、その時に青年と呼ぶに相応しい成長を見せてくれたのである。

 ――武。

 思わず呟いていた名。はっと気づいて口を噤む。何を莫迦なことを考えているのかと自身を罵り、浮かぶ己の矮小さを振り払うべく、眉間に皺を寄せながらに眼を閉じる。への字に曲げられた口は露骨なまでに不機嫌さを示していて……それらは彼女が内心に向ける苛立ちの程をこれ以上ないくらいに表していた。

 ……要するに、それは恐ろしい形相をしていたのである。

 そして、彼女が立っているのが大勢の衛士や基地職員が往来するPX入口付近の廊下の中央だということ。彼女自身は己に対する憤慨で一杯だが、そんな形相で仁王立ちされていては、食事と団欒のために歩を進めようとする彼らにとって、とてつもなく近寄り難い壁と変わらない。

 押し黙り殊更に表情を歪めていく美麗の真那に怖気づき、次から次に人々が足を止める。PXに向かおうとする者、出ようとする者。その全員が須らく足を止め、怯んだように慄いては向きを変えていく。……PXの入口が一つではないということが幸いした。仮にPXに繋がる通路がここ一つだけだったならば、一体どれ程の惨事となっていたのか……。空腹と恐怖に失神し、累々と積み重なる亡者の群れ。想像するだけで目も当てられない。

 通りがかる皆が一様に足を止め、目を逸らし、そそくさと道を変えていくことに、しかし真那は気づかない。昼食を採る間中ずっと考え続けていて、結論が出ないままにPXから出るべく歩を進め……そして、何の因果か、この場所で己の思考を揺るがす二つの感情に板ばさみとなり、動けなくなってしまったのだ。

 真那にしてみれば正に立ち往生であり、未練がましい矮小な自己を叱責する諸々の葛藤の末なのだが……矢張り、このような場所でそんな風に自己に埋没することこそが、常の彼女からは想像も出来ないくらいに不似合いだった。

 否、不似合いという程度の言葉では済まされない。

 矢張り彼女はどこまでいっても、如何なる理由が在ろうとも、斯衛の衛士なのだ。将軍家縁者を守護し、そのために全てを懸ける。全身全霊を注ぐのだ。斯衛となった時点で己など捨てているし、そのために優先されるべき事象を見誤ることもない。――赦されない。

 では、そのような斯衛の矜持を考える時……ならば何故自身は彼に剣術を教えたのだろうと、煩悶せずにはいられない。

 斯衛としての矜持、役割、任務……現在真那が臨むべきは全てが“冥夜の守護”に尽き、それ以外には存在しない。それは単純に彼女の命を護るということに尽きないのだが、そこは幼少の頃より彼女を見守り続けた自身である。それ以上の深い愛情と憧憬、思慕が何の苦も躊躇いもなく、その任務を果たせと魂から奮え立つことができる。

 ならばそれほどの想いと意志に溢れていながらに、何故……白銀武という少年に月詠の剣術を教示したというのか。

 それは如何なる理由をもっても斯衛としての任務にそぐわないし、斯衛としての在り方にも掠らない。冥夜を守護するという至上命令にして真那の全てと言い切れるそれらを置いて、一体何故、そうしてしまったのか。当時、武に剣を教え、彼と打ち合っている最中には一切感じなかった疑問が次々に浮かんでは泡沫と消える。――わからない、のだ。

 何故、と問われれば真那は恥知らずにも口を噤むほかない。

 己に課せられた任務を忘却したわけでもなければ、その重大さを理解できていないわけでもない。斯衛としての自身をこれほどに承知していながらに、……本当に、どうして武に剣を教えたのかが、わからない。

 父の死を無念に感じる自分が居たことは間違いない。当時既に斯衛としての道を進んでいた自身が、唯一に抱いた感慨でも在る。一族郎党に罵られ酒に溺れた父。病魔に蝕まれたその身を、旅の最中で朽ちさせることを望んだ父。……その無念は如何ばかりか。その悔しさは如何ばかりか。

 だが、そんな父を救ってくれた子供がいた。旅先で偶然に出会った幼子。少年。類稀なる才能を秘め、無垢なるままに父の剣を継いでくれた彼。武。

 その存在を知った時。彼がこの場所にいるのだと知ったその時――――真那は、自身の本来在るべき姿のほかに、「月詠真那」としての己を生み出してしまったのだ。

 父の剣を受け継ぎ、斯衛の道を歩みながらに……けれど確かに残っていた真那の、父親への執着。それが爆発した瞬間でもあった。

 ……なるほど、ならば、そう考えるならば、確かに理由などわからなくて当然なのかもしれない。少なくともその当時は、真那にそんなことを考えている心的余裕などなかっただろうし、同時に斯衛としての任務を忘却などしないという最低限の矜持も守ることも出来ていたのだから。

 つまりは、斯衛の月詠と、個人の真那が両立していたのだ。冥夜を守護する己と、武を教え導く己。そのどちらもが優劣など付けようもないほどに紛うことなく“己”であり、“月詠真那”だったのだから。

 今更にそのことについて頭を悩ませている時点で、そのことが確かに証明されている。

 当時と現在では決定的に異なっているのだ。

 武は己の道を選択し、突き進むことを選んだ。弧月を彼に託した時点で、彼はもう真那の弟子ではなくなっている。後継として認めるに相応しい成長を果たした彼を、己の道を進む彼を、真那が束縛することは出来ない。故の巣立ち。故の別れである。例え共にこの横浜基地に在するのだとしても、そこには最早師弟としての感情が割り込む余地などないのである。

 そして、そのことで個人である真那は再びなりを潜めることになった。当然だ。個人としての自分が向き合い、触れ合っていた武がいなくなったのである。ならば、彼のために浮かび上がっていた自己が、斯衛としての自己の裏側に追いやられることに不思議はない。

 煩悶とするだけだった思考に、ほんの少しだけ指向性が見え始めた。相変わらずその形相は凄まじいのだが……若干、最初のそれよりは穏やかに近くなっている。具体的に言えば眉間に寄せられた皺が一筋減っている。

 ……ならば、残る問題は現在の葛藤である。

 即ち、進むべきか進まざるべきか。……そもそも、今もって真那が頭を悩ませる事項とは、基地内部の者たちにも極秘ということで内々に処理され秘匿されているはずのある部隊……A-01という名で呼ばれる一個中隊の衛士が負傷して、医療施設に搬送されているということである。名は――言うまでもない。

 斯衛の立場から、冥夜が所属する207訓練部隊に関連する情報は常に最新の、そして内容の深いものを把握しておく必要があり……その中には207部隊そのものを影で操る香月夕呼の動向も含まれ、当然の如く、彼女の直属であるA-01部隊に関するそれも耳に入る。

 武が訓練を終え秘密裏にその部隊へ任官したことも知っていたし、彼が『伏龍』と呼称される間引き作戦に参加したことも、承知している。……それを知ったそのときこそ、酷く狼狽し、通常であれば在り得ない事態に混乱もしたが……それこそ、紛れもなく彼が自身の選んだ道を突き進んでいる証拠であり、一人立ちした弟子を想うならば、何も言うべきではないのだと自身を納得させている。

 だが、その作戦を終え、基地に帰還したA-01部隊は四名の戦死者を出し――彼女達はその特殊な任務から存在を公にすることが許されず、公式には訓練中の事故死として処理され――そして、初陣であった武が重症を負ったのだという。

 それを知ったのは、つい先ごろ。……今朝、である。

 甲20号目標間引き作戦の終了から早二週間が過ぎた今日。既に治療を終えリハビリに励んでいるというその情報の、なんと遅いこと。それを聞くまで、真那はA-01部隊の戦死者のことも、武の負傷のことも知らなかったのだ。『伏龍作戦』にA-01部隊が参加することは知っていた。それは半年も前から計画されていたことなのだから。だが……流石に夕呼の身辺のセキュリティは相当なものだということだろう。作戦終了から二週間経ってようやく、放たれた密偵はその情報を掴むことが出来たのだから。

 そこまでを思考して、果たして自分は一体どうすべきなのか、を改めて黙考する。

 或いは、この情報を武が負傷したその時点で聞かされていたならば――自分は一体どうしたのだろうか。

 どくん、と高鳴る心臓の音。呼吸が乱れる。――迷うことなく、武の元へ駆けつけている自身を夢想した。

 それを莫迦なと罵る斯衛の自分と、当然と受け入れる個としての自分が居た。……堂々巡りである。

 結局のところ、どれほどの大義名分を着飾ろうとも、真那は武を案じているのだ。ようやくに、その事実に気づく。呆れるほどの傲慢で、嘆かわしいほどの脆さである。斯衛としての自身は、そんなことで揺れ動くほどに脆いものだったのか。冥夜への忠義は、それを至高とする己の意思は、そんなにも薄弱だったのか。

 ――否。断じて否だ。

 冥夜を想う心は誰にも負けない自負が在る。彼女を守護することは紛れもない至高であり、誉れなのだ。

 そして同時に、そんな冥夜を想う心と拮抗するほどに、武を想う心もまた、大きかったのだ。既に己の手を離れている弟子を、傍らに置いておきたいと願ってしまう傲慢。醜いだけの、私欲である。――なんて、浅ましい。

 崇高に光り輝く斯衛の道を全うする真那と、感情に爛れた欲情に溺れる真那。二者は紛れもなく己であり、眠りについていた後者は最早完全に覚醒している。

 むくむくと肥大化するその感情を押さえ込もうと、軟弱な己に対する怒りを募らせるが……依然、“武に逢いたい”という私欲は衰えを見せない。むしろ、抑圧すればするほどに増大していくようである。

「せめて一目……」

 口にして、しまった、と目を見張る。もう駄目だった。言葉は言霊となり、自身の耳から脳髄に響き渡り染み渡る。

 我慢など出来ようはずがない。言霊とは、文字通り霊魂に響くからこそコトダマというのだ。葛藤する二つの自己。その天秤が崩れ去る。魂を震わせるほどの感情に、遂に真那は屈服した。

 表情には未だに斯衛としての己を前面に出しながら、既に歩き始めている足に迷いはない。諦めの悪い堅物の自身が精一杯に斯衛の立場を叫ぶが、それは内心を誤魔化すために紡がれ続ける独り言に掻き消されていく。

 どう理由をつけたところで、言い訳を飾りつけたところで、矢張り斯衛の真那が横浜基地の中枢を握る夕呼直属のA-01部隊の武と接触することは在り得ないし赦されない。下手をすれば帝国と国連の繋がりを断ち切るきっかけとさえなりかねない可能性も孕んでいる。

 だが、そうやって浮かんでくる様々なリスクを全て理解しているにも関わらず、それらは空しくも空回り、真那の足を止めるには至らない。

 気づけば心拍数は高まり、進める足も幾許か速い。仏頂面だった表情も次第に緩やかで柔らかいそれに変わり……そうして遂に、真那は医療棟にたどり着いていた。

 武の病室はわかっている。この時間ならば病室で昼食を食べているだろうか。既に斯衛としての己が心の裏側になりを潜め、表面には個人としての真那が現出している。武と一年間の師弟関係を築いたもう一人の自分。武に、父と自身の想いを託した自分。真那。――一際大きく、鼓動が鳴った。

 この角を曲がって二つ目。いつぞやも運ばれていた病室。いつだったろう……そう、それは彼が始めてそこに運ばれた日。まりもから知らせを受け、気づけば駆けるように見舞いに行ったその日。叫びながらに目を覚まし、真那と誰かを勘違いしたままに抱きしめた武。

「――ッ、」

 足が、止まった。

 息が、止まった。

 心臓が、まるで壊れたように鳴り響く。

 そうだ。武は名を呼んだ。――スミカ、と。真那の知らぬ少女の名を呼び、抱きしめたのだ。……真那を、ではない。その、スミカという名の彼女、を。

 どうして、今更にそれを思い出したのか。どうして、そのことでこんなにも感情が冷たくなっていくのか。

 震えるほどに、寒い。何だこれは。なんなのだ、この感情は――!?

 先ほどまでの、まるで浮かれていたような己は何処にもいない。武の身を案じていた自分も、武に逢いたいと想ってしまった自分も、斯衛としての立場を執拗に叫んでいた自身さえ……黙りこくり、冷え冷えと凍りついた感情になりを潜めている。

 ――なんと、愚かしいのだ、私は。

 真那は右手で己の顔面を覆った。すぐ側にあった壁にもたれるように背中を預けて、だらしなくもずるずると身を沈める。

 認めざるを得ない。真那は、自分は、浮かれていた。なにかともっともらしい意味を考えては葛藤し、斯衛だ個人だと大義名分を振るっては自己さえを誤魔化し、納得させ、騙し騙しやってきたこの場所で。――悟る。

 これは矮小な自分が見せた愚かしいまでの欲望。……なんのことはない。真那は、なによりも己の欲望に従って武に逢おうとしていただけだった。

 だからこそ、その名を思い出した瞬間に……こうも容易く凍りつく。動けなくなる。浅ましいのだ、この感情は。

 スミカ。武の心の奥底に突き刺さる何がしかの呪い。夢にまで見る彼女の名を叫んだ武は……だからこそ、彼女に捕らわれることを望むだろう。

 そこに、真那が立ち入る隙などなく。……そして、真那が立ち入っていい道理など存在しない。他の誰でもなく、真那自身がそう結論したのだ。故に、凍りつき、足が止まる。己のこの感情は誤りなのだと、悟り、認めた自身が吠え立てる。――やめろ、引き返せ、こんなことをしても意味はない。

 口々に叫び、真那の感情を削いでいく。

 ――自分は一体、何だ? その疑問にはこう答えよう。

 月詠真那は斯衛の赤であり冥夜を守護する存在。それ以外の何者でもなく、それ以外に果たすべき義務はなく、それから逸脱するなにもかもは存在しない。

 ――自分にとって武は、一体、何だ? ……その疑問には、こう答えよう。

 白銀武は真那にとって唯一の弟子であり、父の遺志を継ぎ、想い託す者。それ以外の何者でもなく、それ以外に抱く感情などなく、それから逸脱するなにもかもは存在しない。

 彼は、弟子でしかない。

 そして彼は、もう自分の足で歩き始めている。己の往く道を選んでいる。――手を差し伸べる必要も、道を示す必要も、ない。もしそれをしてしまったならば、それは一人立ちした彼を愚弄する行為に他ならず、彼を一人前と認めないことになる。

 そんなことは出来なかった。真那は武を認めている。月詠の剣術を継ぐに相応しい者だと認めている。だから弧月を託し、想いを託したのだ。――なら、それで十分のはずだ。それで、充たされたはずだろう。

 そうだ。それだけで十分だった。充たされた。……だから、逢ってはならない、のだ。

 少なくとも今は。このような感情に翻弄されている今は。自分でもわからないくらいに、ぐちゃぐちゃな感情が渦巻いている今は。――武にあわせる顔などない。

 深く、息を吐いた。顔面を覆う右手を引き剥がし、壁から身を起こす。屹立し、もう一度だけ……息を吸い、吐く。

「…………、」

 その表情には最早葛藤も迷いもなく。

 真那は踵を返し、逸るようにやって来た道程を戻る。厳しい視線には自身を戒め、己の性根を叩き直すという絶対の意志が込められていて。

 強く、刀の鞘を握る。

 真那は知った。己の中に潜む、身勝手に過ぎるその感情の名を。だがそれは、今の彼女には、そして彼にも無用なものであり、不要なものだった。

 在るのはただ、信愛だけでいい。弟子を想う自身と、師を想ってくれる彼の心。それだけがあれば、充たされる。

 振り返ることなく、真那は進んだ。







 去ってゆく彼女の後ろ姿を、武の病室から出てきた水月は目撃した。

 一度見たら絶対に忘れられないその姿。鮮烈に過ぎる赤い軍服。腰に提げた刀。――月詠真那。斯衛の赤にして警護小隊の隊長。そして、武の剣術の師。

 ギョッとするような感情と、背中を向けて去っていく姿に疑問を抱くような感情と……僅かばかりの優越感が、浮かんでは消えた。

 自身でもよくわからないそれら瞬間の逡巡を、水月はぼんやりと反芻し、どうしてそんな風に思ったのかを考える。

 ギョッとしたのは……単純に、その姿を目にして驚いたからだ。一体何がどうして、斯衛の赤がこんな場所にいたのか。それを考えると……必然的に答えは一つしかないのだが、そもそもそんな理由にたどり着くよりも先に、まず驚いたのである。

 次に疑問に思ったのは……恐らくも何も武の様子を見に来たのだろう彼女が、何故背中を向けて去っていくのかわからなかったからだ。現在このフロアには武以外の入院者はいない。ならば来訪の目的は武以外にはありえず、そのためにやってきたのであろうはずなのに、顔も見せずに去っていく理由がわからない。

 そして――その一瞬間に水月は気づいたのである。

 真那の行動の意味。そこに潜む葛藤と決意を。……それは、かつて自分が味わった感情とよく似ている。

 立場が変わったのだ。

 昨年の七月。偶然にも武をこの病室まで運ぶこととなった水月。あれは本当に偶然で、当時の水月と武の立場を思えば、本来在り得ないことだった。片やA-01という特殊任務部隊に所属する自身。片や、訓練兵に過ぎない武。

 みちるの計らいがなければ決して実現することのないその時点での邂逅に、……そのときの武の容態等気にかけることはたくさんあったが、事実、水月は胸を躍らせていたように思う。本当なら顔を見せることさえ許可されない立場にありながら、武の側にいられたこと。それを嬉しく感じてしまった自分が、確かにいたのだ。

 無論、その後はそのような偶然などなく、また、自身から感情に従って行動することもなかった。その時は、その時点の自分では武に逢っても仕方がないという確信があったし、互いにその必要もなかった。特殊任務に従事する衛士が、たかが訓練兵に逢いに行くことなど在り得ないという、互いの立場が異なるゆえの隔たりもまた、存在していた。

 だから水月は武が任官するその日を待った。それまでに自身を鍛え抜き、彼を支えてやれるだけの力を得る。そう決めて、その誓いに従って……武に逢うことはなかった。

 去りゆく真那を思う。……彼女もまた、水月と同じような思考に至ったのだろう。

 斯衛である自身と、A-01部隊の一員となった武の立場を鑑みた時に……選択できる行動など知れている。

 どのようにして武の負傷を知ったのか……はわからないが、例えそれを耳にし、弟子の身を案じたのだとしても……それでも、矢張り彼女は斯衛で在り、武は任官した衛士なのだ。既に手のかかる訓練兵ではなく、世話を焼く弟子ではないのだ。……武が託された刀には、きっとそういう意味も込められているに違いない。

 あの黒塗りの拵を託された時点で、武は彼女の弟子を卒業し、一人の剣士として完成したのだと思う。師の下を離れ、己の道を行くならば、最早武は……その心がどう思おうと、事実上、真那が導くべき存在ではなくなったのだ。そしてそこに、斯衛という彼女の立場が重なって……結果、真那は顔も見せずに立ち去ったのであろう。

 それに、優越感を覚えた自分が居る。

 水月はどきりとした。――なんで、そんなことを?

 自身に問いかけるも、返答はない。……当然だ。自分でわかっているならば、問うまでもなく明白であろう。

 武に逢うことはできない、という選択をした真那を見て、どうして優越感に浸るというのか。――立場が変わったのだ、という言葉が、再び脳裏を巡る。

 なるほど、正にそのとおりだ。今や武は水月と同じA-01の仲間である。そこにはかつてのような立場的な隔たりはなく、何に遠慮することもない。水月が望み、行動を起こすならばいつだって武に逢うことができ、傍で支えてやることが出来るのだ。――今のように。

 そして、水月にとってそのように隔たりがなくなったというならば、同様に真那にとっては隔たりが出来てしまったということだ。

 武の傍にいられなかった水月が武の傍にいて。

 武の傍にいた真那が武の傍にいられない。

 その、逆転。――そんなことに、優越を覚える。

「……っ、なんて、浅ましい……ッ」

 ぎゅぅ、と拳を握り、唇を噛んだ。最早考えるまでもない。水月は今確かに、真那に対して醜く薄汚い感情を抱いたのである。

 弟のような存在と自身からして主張している武を、自分の近くに置いておけること……それを、喜ばしいと感じ、独占しようとする自身がいた。――反吐が出る。

 水月は頭を振り、振って湧いた己の醜い感情を払う。同時に、真那に対して心の中で謝罪をし……………………結局、どれほどに自身の心を誤魔化そうとも、矢張りその感情の名は覆せないのだと、知る。

 やれやれと苦笑する。そう、水月は苦笑するしかなかった。これではまるで、恋する乙女のそれではないか。

 呆れるくらいに溜息をついて。そんな風に心揺るがせる自身の感情を……少しだけ、容認することにした。

 どの道、実らせるつもりのない感情だったし、本当にそうなのかは、言い訳がましいがまだ判らないのである。それでも、真那に対して無意味な優越感を抱くよりはマシだろう。ともすれば非常によく似た自身と彼女。その心の有り様に、水月は殊更に苦笑する。

 全く、難儀なものだった。

 勝てる見込みのない戦い。勝つつもりさえ更々ない戦い。ならばそれは戦いではなく、単純に武を一番近くで支えるためだけの……。

「あ~ぁ、まったく。しょうもない……。…………茜、あんたも苦労するわねぇ」

 呟いて、懐かしい少女の名を口にする。自分や、ましてあの斯衛の赤である真那でさえ、こうなのだ。

 誰よりも武を想い、傍にいることを望む彼女は、それはもう大変な苦労をするのだろう。いずれ遠くない未来に、彼女もまたA-01へやって来るに違いない。――ああ、その時は一体、どれほどに賑やかで騒がしく、そして切ないくらいの想いが満ち溢れるのだろう。

 想像して、なんだか温かくなる感情に気づく。

 なるほど、つまり自分は…………。

 己の裡にある感情の、最も答えに近しいそれに気づいて。水月は前を向いて歩くのだった。







[1154] 復讐編:[十一章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:31

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十一章-04」





 戦術機適性検査――判定「S」。

 これで見るのは三度目となったそれ。「A」を二重線で削除し、わざわざに手書きで修正された判定結果。突きつけられたそれを見て、内心で――よし、と拳を握っていた。

 これでまた、戦える。

 これでちゃんと、戦える。

 志乃に、亜季に、木野下に、藍子に……救われたこの命を、存分に揮うことが出来る。彼女達に救われたこの命を、最大限に発揮できる。

 そうだ。

 己は衛士であり、規格外の戦術機適性を持つもの。ならばそれは戦術機に乗るために生まれて来たようなもので……だからこそ、この身はそのために存在するのだ。

 懸念していた適性検査をパスして、取りあえず安堵する。正直なところ、この適性検査で弾かれたなら、立ち直れないような気もしていたのだ。……無論、脱落する気などなかったし、そんなはずはないという自信と確信もあった。今思えば何の根拠もないそれらだったのだが、結果として合格ならば問題ない。

 ともかくも武はリハビリを終え、顔に禍々しい傷跡を残してはいるが、衛士として完全に復活したといっていいだろう。移植した擬似生体も何の後遺症もなく、戦術機にさえ乗ることが出来る。

「――おめでとう、白銀」

「ありがとうございます、大尉」

 戦術機適性検査結果の書類を突きつけていたみちるが、ニィ、と口端を吊り上げながら笑う。武は敬礼と共に力強く述べて、込み上げる喜びを噛み締めていた。

 そう。これで、また――。

 BETAと戦う。命を懸けて戦う。救われたこの命の価値を示すために。喪われた彼女達に報いるために。その生き様を語るために。――護りたいものを、全力で、絶対に護るために。

 敬礼を解き、拳を握る。眼を閉じて、胸の奥から湧き出してくる闘志に奮える。

 大丈夫。大丈夫だ――。

 ちゃんと、戦える。きっと。……いいや、絶対に。

 純夏を喪った哀しみと、純夏を殺したBETAへの憎悪。これらは決して消えてはくれないけれど。でも、それに負けないくらいの大切で温かい想いがある。

 彼女を忘れない。笑顔を、声を、体温を……愛情を、絶対に、忘れない。

 彼女への想いさえを抱いて、これからを生きていく。復讐に濡れる悪鬼ではなく、それさえを抱いて護る――守護者になる。

 だから大丈夫。道はちゃんと見えたから。進むべき道を見つけたから。だから……あとは突っ走るだけだ。

 身体の調子は万端。三週間のリハビリで完全に元に戻っている。左眼もきちんと見えるし、視力が落ちる……ということもない。弧月を振るうことにもなんら支障なく。つまりは――本当に完全に、武は元通りの自分を手に入れていた。

 眼差しに込められた様々な感情を汲み取ったのだろう。不敵に笑っていたみちるが、ふ、と表情を和らげて言った。

「白銀……よく戻ってきた。速瀬の支えも大きかったのだろうが、こうして今貴様がここにいる事実……。それは貴様が決して諦めなかったからだ。歯を食いしばり、過ちを認め、それでも生きようと前に進んだからだ。――おめでとう、白銀。我々は貴様を歓迎する」

「――ッ、!?」

 どくん、と心臓の横が啼いた。じわり、と熱いものが拡がって行く。みちるの言葉が染み透る。ああ…………本当に、この人は。

 なんて嬉しい言葉を、掛けてくれるのだろう。

 なんて温かい想いを、くれるのだろう。

 本当に、本当に……彼女の部下でよかった。彼女の部下であれることを誇りに思う。

 武は今一度敬礼し、無言のままみちるを見つめた。柔らかな表情のまま、みちるも答礼する。視線を交わすだけで互いに何を言いたいのかがわかる。部下を思う優しさと、上官を思う信愛が、そこにはあった。

 しばしをそのまま過ごした後、みちるが毅然とした表情で言う。

「さて……原隊復帰にあたり、貴様にはまずシミュレーターで操縦感覚を取り戻してもらう。出来るならこのままA-01部隊としての訓練に参加させたいのだが……」

 後半を言いよどむようなみちるに、武は首を傾げた。シミュレーター訓練を行うことに異議はない。なんといっても丸三週間戦術機に触れていないのだ。これでいきなり実機訓練と言われても少々不安は残るし、水月たちの訓練に叩き込まれた日にはボコボコにされて終わるに違いない。感覚を取り戻す目的、であるならば単独での訓練に何の疑問もないのだが……。

 しかし、みちるは間を置いたまま口を開かない。抉れた武の傷跡を見つめて、そして武の両の瞳を見据えて――やがて、己の内情を振り払うように首を振り。

「……訓練内容はBETA掃討戦を模擬した仮想フィールドでの戦闘だ。貴様はただひたすらに現れては迫り来るBETAを屠り続ければいい」

「…………」

 別に、これといって不可思議な内容でもない。単純に衛士の力試しとしてプログラミングされているタイムトライアルのようなものだ。制限時間内にどれだけのBETAを駆逐できるか……或いは戦い続けることが出来るか。支援砲撃はなし、武器・弾薬の補給は指定のポイントに設置された補給用コンテナで行う。大抵は小隊単位で訓練に臨むのだが……今回は武一人での挑戦となる。

 向けられるみちるの視線に、なんとなくだが……この訓練が目的としている事項に予想がついた。

 つまり、本当にBETAと戦えるのか。

 光線級のレーザー照射に撃ち落され、目の前で兵士級に志乃を喰われ、要塞級の衝角に溶かされた亜季の絶叫を耳にし、重光線級のレーザーに蒸発した木野下と藍子を見た。

 医師の診断ではPTSDの可能性はないだろうとのことだった。……だが、それでもこの目に、この耳には彼女達の絶命する瞬間が焼き付いている。或いはこの身で味わったレーザー属の恐怖。それらを覚えている。

 ならば戦場においてBETAと戦う際、それら諸々の恐怖に捕らわれてしまえば……竦み、怯え、戦うことを忘れたら……恐慌に陥り、周囲を見失い、僚機さえ危険に晒したら……みちるはそれを懸念しているのだ。部隊を纏める隊長として、部下の命を預かるものとして。決して、戦術機適性検査に合格した程度の結果に安心することは許されない。万が一の可能性が在るならば、それさえも取り除く。

 徹底した完璧主義、とでも評すればいいのか……。否、それは正に、部下を愛するみちるの優しさだ。

 そしてそれは、武自身にとっても確かめなければならないことでもあった。

 もう二度と、あんな無様は晒さない。もう二度と、己のせいで仲間を死なせたくはない。絶対に、護るのだ。――そのためには、BETAに対する恐怖心を拭わねばならない。

 表面に現れていないだけで、もしかすると、あの戦場の空気を吸った瞬間にまたも復讐の念に捕らわれる可能性も捨てきれない。実戦に参加するのが最も手っ取り早い確認方法なのかもしれないが、三週間のブランクがある以上、それは現実的ではないし、なによりもそういった懸念がある以上、戦場に出すことなんて出来るわけがなかった。

 だから……この訓練で確かめよう。みちるの懸念を晴らそう。

 大丈夫なのだということを。戦えるのだということを。復讐者ではなく、守護者として在れるのだと。

 管制ユニットに搭乗する。着座調整終了――網膜投影ディスプレイに、一面の荒野が映し出される。遠方に霞んで見えるのは地表構造物だろうか……ならば、この荒野はハイヴ建造のために均されたそれであり、――前方の門より、突撃級が姿を現した。

「……、」

 戦域データリンクで状況を確認。支援部隊、ナシ。味方機、ナシ。――ははは、酷い設定だ。思わず笑ってしまう。目的が武の操縦感覚を取り戻すためと、BETAへの恐怖心を拭うためとはいえ……これでは逆に、これこそがトラウマとなりかねない。

 怒涛の砂煙を上げて突き進んでくる突撃級を見据えた――大丈夫。こいつに対する恐怖心はない。

 迫る、迫る、巨壁が迫る。長刀を右腕に、突撃砲を左腕に。ひとつ、息を吸う。次の瞬間、武は迫り来る怒涛へと突っ込んでいった。

 二体の間をすり抜けながらに長刀と突撃砲で両方を仕留める。長刀を振り抜いた勢いですぐ後ろの突撃級を斬りつけ、同様に36mmをばら撒く。通り過ぎていくだけの個体は無視、数百メートルまで距離を縮めてきた要撃級へ向かう。

 感覚は――ほんの少しだけ、鈍い。脳髄に叩き込まれた操縦方法は脊髄反射の速度で正確に思い描いたとおりの機動を再現するが、それでも、武自身の反応が、鈍い。身体は何の問題もないが、戦場を感じ取る戦士としての本能が僅かに錆付いているらしかった。……ならば、研げばいい。錆びた刃は、鋭く研ぎ澄ませばいい。

 そのやり方さえ間違えなければ……力加減や、感情の操作。それらさえこなすことが出来たなら、錆びた刃を折ることなく、再び水を打ったような鋭利なそれを手にすることが出来るだろう。

 要撃級の首を飛ばす。胴体に弾丸を撃ち込み、回転しながらに次々を相手取る。囲まれるな、止まるな、そして――それだけに、気をとられるな。脳裏に、苦い光景が蘇る。斬り殺した要撃級。その屍の向こう。開かれた射線、隊列を組む光線級――あの恐怖が、駆け上る。

 ひたすらに要撃級と足元に群れる戦車級を屠りながら、視界に映し出す戦域情報を逐次確認する。レーダーが捉えている範囲に光線級の姿はない。……たったそれだけの注意を、あの時は怠っていた。こうやってチラリと確認するだけのことを、あの時は出来なかった。目の前の敵を殺すことに夢中になって。それ以外の何もかもを考えられなくなっていて。ただ、連中を滅ぼすことに狂っていた。

 冷静に当時の自身を分析しながら、それでも苛烈に敵を叩き切る。咆哮と共に戦場を駆け巡り、月詠の剣術――螺旋の剣閃を繰り返し繰り返す。レーザー照射警報。機体を照射範囲から引き剥がすように、跳躍ユニットを全開。BETAの間を滑りぬけて、光線級のレーザー照射を妨害する。――よし、落ち着いている。

 ぐ、と操縦桿を握る手に力が篭る。自嘲するような笑みが、武の口元を歪めていた。

 なにが、落ち着いている……だ。額には汗がじわりと浮かんでいた。心なしか、心拍数も上がっている。バイタルを確認すれば、自身が平常よりも僅かに昂揚しているのがわかった。――ああ、くそ。

 ぶるり、と奮える。

 手が、精神が、感情が。

 レーザー照射範囲から抜け出た瞬間に、身を翻して要撃級を斬り殺す。群れる戦車級を踏み潰し突撃砲で散り飛ばし、遥か遠方の光線級の姿を視認する。要塞級に護られるように厳かに進む緑の怪物。二つの丸いレンズが、くりくりと獲物を求めている。そこにたどり着くまでには要撃級と戦車級の海が広がり――――まるで蟻のような、白いソイツを見つけた。

「――っ、は……ッ」

 心臓が狂うように蠢く。BETAの海が押し寄せてくる。白いきのこの化け物。ぶよぶよとした下半身。ギッチリと並んだ歯。歯。はははっはは――!!

 抉れた顔の傷が引き攣る。ぶるぶると全身が奮えて止まらない。興奮している。昂揚している。シミュレーターが生み出した仮想現実の中で、こんなにも、こんなにも感情が揺さぶられている。

 込み上げる憎悪。噴き出しそうな憎悪。苦しい、苦しい、憎い憎い憎い――ッッ!!

 込み上げる恐怖。噴き出しそうな恐怖。苦しい、苦しい、怖い怖い怖い――ッッ!!



 赤いマーカーに塗り潰された黄色いマーカー / 兵士級に咀嚼された志乃 / べーたに殺された彼女達



「ぉっ、ぉぉおおおっ!!」

 ――ォおおおおああああああああああああああああっっっ!!!!!!

 ガン、と操縦桿を殴りつける。シートに後頭部を叩き付けて、喘ぐように喉を震わせる。叫んで、叫んで、狂いそうになる感情に叫んで。――それでも、決して、呑みこまれはしないと。

 眦に涙が浮かんでくる。込み上げる吐き気に顔面を蒼白にさせる。苦しい苦しい。こんなに苦しい。いっそ全部吐き出して……駄目だ、そんなことはできない。

 これが正念場だ。ここで負けたらまた繰り返す。

 BETAが憎い――そんなことはわかってる。

 BETAが怖い――ああ、そうだよ、怖いさっ!

 だが、けれど、でも、だからこそ……そんな感情に負けてなんかいられない!

 生きている。生きているのだ。志乃に、亜季に、木野下に、藍子に……この命を救われた。彼女達の死を無駄にしないと誓った。生き続けることこそが、なによりも尊い彼女たちへのはなむけとなるのだと、知った。――だからっっ!

 呑まれない。

 決して斬り捨てることのできない憎悪を、純夏を殺された恨みを、そんな黒い感情を……なんとしてでも、押さえ込む。己の戦いに、その憎しみは必要ない。

 忘れることも失くすこともできないもう一人の自分。でも、それでも、それ以上に大切なものが在るのだから。そのために戦うと決めたのだ。今度こそ、本当に。

 接敵。

 兵士級が潰れて散った。戦車級が潰れて散った。突撃砲を撃ちまくる。36mmの弾丸がバラバラと地上の小型種を抉り散らすッ。

 要撃級の腕が首が胴体が飛んだ。長刀で斬り付ける。踊るように旋回しながら、螺旋の機動。飛散する血飛沫に濡れ、それさえを遠心運動に散らせて。

 36mm砲の弾丸が尽きる。迷うことなくパイロンへ収納、同時にもう一振りの長刀を左手に。

 二刀流。

 旋回にあわせて振るわれる二振りの刀。回転する。止まらない回転。その度に敵の身体を斬り付けては裂く。――要塞級が、迫る。

 光線級はどうやら後方で射撃のタイミングを計っているらしい。自慢の尾節がビュルビュルと迫り来た。身を翻す――回避、成功。思考が爆発する。かわした方向へ振るわれる触手を、跳躍ユニットのバーニアを全開で噴かせながら……それこそ独楽のように、機体をその場で回転させる。

 一撃、二撃、三撃、四――連続で同一箇所を斬りつけて、要塞級の触手が断ち切れる。耳障りな咆哮が響く。それは要塞級の悲鳴だったのだろうか――痛い、のかよ。

 亜季はもっと痛かったに違いない。亜季はもっと熱かったに違いない。足を失った恐怖に震え、怯え、絶命するその瞬間まで――彼女は泣いて叫んでいたのだ。

「ァァッぁぁあああああああああああああああ!!」

 機体が跳び上がる。蠢く十本の足を掻い潜るように、その巨体との接合部を、二つの長刀で切り裂いた。――血の、雨。落下しながらに、それでも前進し続ける他の足をかわし、地面へ。即座に転進、要撃級の群れに突撃する。

 長刀しかない現状、短時間で要塞級を沈黙させることは不可能だ。ならば足元のゴミを一掃することが先決。或いは後退して補給すべきか……。

 その感覚は、一体どのようなものか。

 ひょっとすると、緩やかに狂っていたのかもしれないし、憎悪に呑みこまれていたのかもしれない。

 だが、そこに以前のような慢心はなく、或いは自己を、戦況を見失う失態もなく、ただ、それこそが「機能」といわんばかりに。

 殺戮する。

 これでは駄目だと脳髄が叫ぶ。これなら勝てると脳髄が叫ぶ。――その、どちらが本当なのか。わからない。

 生きる、生き延びる、そのために戦う。だからBETAを殺すし、たくさん殺す。そうだ。それは正解だ。

 護る。そのために戦う。だから強くならなければならないし、強さを手に入れる。そうだ。それは正解だ。

 ならば、これは正解か――?

 まるで自分の感情がわからない。まるで自分の現状が把握できない。果たして己は、狂っているのかいないのか。

 ともすれば冷静さの中に大胆なまでの機動を見せ、状況を的確に判断しつつ着実に敵の命を刈り取る。――それは、多分優秀と評される衛士の姿だろう。

 武は叫ぶようにしながら、自機を操る。二本の長刀を振るい、手当たり次第にBETAを殺していく。――俺は、まだ、正気でいられているのか?

 そんな風に考えてしまうことこそが狂っている証拠なのではないかと。

 敵の数は一向に減らない。あんなにあんなに殺したのに、次から次に門から溢れてくる。触手を失った要塞級が接近してきた。前脚の一つの動きが鈍い。先ほど斬りつけたそれはまがりなりにも効果を示している。――だが。

 このままではジリ貧だ。既に周囲を圧倒数に囲まれて、残弾は120mmが丸々残っているものの、数分も持てばいい方だろう。戦闘開始から十数分が経過――それだけしか、経っていない。

 機体を後退させる。ともかくもこの包囲網から逃れることが優先だ。後方に廻りこんだ要撃級を切断する。斬りつける。真那に叩き込まれた月詠の剣術の真髄を、奴らに味わわせる。

 サブカメラが左右に散開し始めたBETAを捕らえる。このタイミングで――このタイミングだからこそ? 一斉に鳴り響く警報。やかましい、わかってる!

 道が開く。まるでかつての再現のよう。逃げ道も、光線級の射線も、全く同時に開かれていた。ゾッ、と血の気が引く……なのに、それでも冷静さを失わない自分が居た。スロットルを全開に。過負荷だろうがなんだろうが構わない。バレルロール。ギリギリと機体を軋ませながらに、回避行動を取る。目指す先は要撃級の群れ。飛び込んでくる獲物目掛けて高々と腕を振り上げるソイツラを、斬り殺して斬り殺して斬り殺して斬り殺して、足場を確保――地面を滑りながら、要撃級に隠れるように身を伏せる。

 頭上を、白熱の光線が飛び交った。息をつく暇もない。快哉を叫ぶ間も、ない。潜り込んだその場所へ、要撃級が迫り来る。即座に身を起こし、転進。構ってなどいられない。推進剤の消費も著しい。――引き際だ。進路を塞ぐ敵だけをぶった切り、武はとにかく逃げに専念した。目指す先には補給コンテナ。敵影ナシ。

「死んで、たまるか……」

 死ねないのだ。生きなければならないのだ。護るために。――なのに、どうしてだろう。

 気分が悪い。気持ちが悪い。まるで自分を信じられない。

 果たして、今の自分は――――。

 生きているのに。戦えているのに。多分どこかで、狂っている。

 反吐を吐いてしまいたい。冷たい汗に額が濡れている。呼吸が荒い。ああ、発狂しそうだ。

 多分それは、無理矢理に近く抑えている憎悪が、体内で暴れているせい。憎しみに身体を明け渡せ、と黒いもう一人の自分が自身を傷つけている。……きっと、そのせいに違いない。

 こんなことで、戦えるのか?

 こんなことで、生き続けることができるのか?

 わからない、わからない――でも、それでも、決めたんだ。生きる。戦う。護り抜く。彼女たちの想いを、彼女達への想いを。

 誓ったのだから。

 だから、絶対に、諦めない。







 管制ユニットから降りてきた武は、まるで死人のような表情をしていた。血の気の引いた、それ。

 戦闘中のバイタルは過去最悪。にも関わらず、単独での撃破数は過去最多。自身の記録を大幅に塗り替えていながらに、けれどそれを果たした当人は今にも死んでしまいそうなほどに憔悴している。

 タラップを下り、みちるの前へやってくる武。ふらふらとよろめくような歩き方。冷たい汗がぐっしょりと髪の毛を濡らしている。蒼白の顔面が、怯えるようにみちるに向けられた。

「――」

 言葉が、ない。

 果たしてこれは、どういうことなのか。

 戦闘機動を見る限りでは、単独での戦闘という極限にありながら一切の混乱も焦りもなく、常に冷静で的確な判断を行えていたように思う。そしてそれに伴うBETAの撃破数。兵士級や戦車級などの膨大な数で迫る小型種等は特に桁違いの数を示している。

 最も長い間相手取っていた要撃級にしても矢張り過去最多。途中から長刀の二刀流に切り替えた途端に、その数は鰻上りとなっていた。近接戦闘に極めて特化していると、改めて認めざるを得ない。何処の誰が、突撃砲を用いた戦闘時の倍近い撃破数を、長刀だけで叩きだせるというのか。最早これは尋常ではない。

 更には要塞級一体さえを屠って見せたその手腕。そして、一瞬にして戦場を阿鼻叫喚の地獄に塗り替える光線級のレーザー照射をかわした技量。

 なにもかもが、かつて初陣に臨んだ武を上回っている。

 復讐に捕らわれ、自身を、戦況を見失った彼とは全く違う。……これが、本来の武の力だとでもいうのだろうか。

 結果を見れば、そうなのだろう。これこそが武の実力。総戦技評価演習で見せたような、極限状態にあっての冷静さ。静かに沸騰する闘志。そしてそれを実現するための技。剣術。その、才能。

 ……ならば、どうしてだろう。

 武自身、わかっているはずだ。この戦果がかつての自身の何よりも優れていることを。それだけの力を発揮できたのだということを。

 それを実感として認識し、少なからず、自信を抱いてもいいはずだ。そういう表情を見せてくれてもいいはずだ。――そうしたところで、みちるは叱責などしない。

 なのに、それなのに、驚異的といえる戦闘をやってのけたというのに。シミュレーターから出てきた武は、今も目の前で苦しげに顔を青くする武は。

 どうしてそんなに、憔悴しているのか。

 久しぶりの操縦に疲弊した? 可能性は捨てきれない。だが、絶対にそれだけではない。戦闘中のバイタルは最悪。これは、機器の故障でもなければ真実そのまま、武の精神・肉体が極度の衰弱を見せていることを表している。

 そして、そんなデータなどなくとも、眼前に立つ武を見れば一目瞭然だ。

 ――こいつには、ナニカがあった。

 みちるには想像もつかないそれ。戦闘中の、訓練中の武に、間違いなくナニカがあったのだ。それは恐らく精神的なもの。

 武を治療した医師はPTSDの可能性は低いといった。だが、戦闘中にフラッシュバックに襲われたとしても何ら不思議はない。特定の条件下で引き起こされる記憶の氾濫というものは、確かに存在する。……その危険性を確かめる目的もあったこの訓練……ならば、実施した甲斐はあったというのか。

「白銀――少し休め。今日はこのくらいにしておこう……」

「……………………は、ぃ……」

 まるで消え入りそうな声だった。青褪めた表情のまま、夢遊病者のような足取りで更衣室へと向かっていく。その背中に、拭いきれない不安を抱く。

「厄介だな……これは」

 果たして本当にフラッシュバックによる精神疲労なのか。或いはほかの、――この場合はそれに予想もつかないが――ナニカ、なのか。

 一瞬、水月に頼ろうかと思ってしまった自身に苦笑する。確かに彼女に任せるのが一番いいのかもしれない。……だが、それでは隊長としての名折れであろう。自分に出来る最善を最大限に尽くして、それでも駄目だったなら……水月の手を借りるのもいいだろう。いや、この場合、如何なる手段を用いてでも武を立ち直らせるべきか……。

 つらつらと思考を回転させながら、みちるは息を吐く。――厄介だ。本当に。

 心の傷は、どう足掻いたところで本人にしか癒せない。他者の力で和らげることはできても……それを乗り越えられるかは本人次第なのである。

 肉体の傷は癒えた。リハビリも完了し、戦術機適性にも問題はない。

 ここまできたのだ。どうか、最後まで足掻き抜いて欲しいと思う。そして、武ならばきっと、克服することも出来るだろうと。

 その才能を、信じている。

 才能だけではない。誰よりも真剣に訓練に打ち込み、何よりも高みを目指し続けるその姿。慢心はなく、努力を怠らず。……血の涙を流しても、腕をもがれても、立ち止まることをしなかった武。衛士として一回りの成長を見せた武。

 信じている。武は絶対に這い上がる。隊長である自分が信じてやらなくてどうする。――あいつは、私の部下なんだぞ。

 自身に言い聞かせるように呟いて。みちるは顔を上げた。視線の先にはもう武の姿はなく……。

「さて、どうしたものか……」

 本当は武一人の力で立ち直ることが望ましいのだが……多分、それでは時間が掛かる。今の人類には余裕がない。ともすれば今日にでも出動が掛かるかもしれないのだ。

 戦術機適性「S」ランクであり、そして、今日これだけの戦果を挙げて見せた武。その才能を、力を、ただ黙って腐らせるわけにはいかない。

 ならば少々荒療治であろうとも。或いは非人道的と罵られようとも。

 催眠暗示――それを、試してみるのが最善か。小さく息を吐きながらに、みちるはその決定を下す。……或いは、武に暗示を掛けたと思い込ませるだけでもいい。それで乗り越えられたなら……その時にでも実は「催眠暗示は嘘だった」と明かしてやれば……それはそのまま、武にとっての自信に繋がるのではないだろうか。

 どちらにせよ、武の心理を操ることには変わりない。そして、それが最も短時間で効果を表す可能性が高いのならば、実行する。

 それがA-01部隊を任せられたみちるの隊長としての義務であり、責務なのだから。







 ===







 熱いシャワーを浴びる。ロッカーに備え付けのそれを、全身に浴びて…………全身に、血流が巡るのがわかる。

 両方の拳を握り、開く。数回その動作を繰り返して、ようやく指先にも感覚が戻ってきた。――寒かったのだ。

 凍えていた。血が。精神が。肉体が。

 寒くて寒くて、凍え死んでいた。

 制限時間を生き延びることは出来なかった。結局どんなに必死に足掻いたところで、たった独りでは限界が在る。それはよくわかっていたし、自身は精一杯をやったのだという自負も在る。

 ――なのに、寒い。

 どうしてこんなに寒いのか。顔面を蒼白にして、震える身体を止められず。ふらふらとした足取りのままにここまでやって来た。強化装備を引き剥がすように脱ぎ捨て、師と真那の想いの具現、そして純夏の“御守り”を巻きつけた弧月さえ床に転がしたまま……ようやく、熱を感じている。

「…………」

 ザァァァアア――という水流の音に耳を済ませる。眼を閉じて、まるで自身の精神を探るように深呼吸を繰り返す。

 心臓はちゃんと動いている。

 鼓動はちゃんと血を巡らせている。大丈夫。もう凍り付いていないし、凍えてなんかいない。

 落ち着いた。心臓も、感情も、精神も、心も。全部全部、落ち着いた。平穏だ。何の心配もない。

 自身の現状をそう認識して、ならば先ほどのアレは一体なんだったのかと思考を巡らせる。手に取るように思い出せる、あの感覚。思考は冴え渡り全部の神経が研ぎ澄まされて敏感になっていた。敵の動きに冷静に対処できただけでなく、都度の判断も恐ろしいくらいに的確だった。

 それだけでは常識外れの数で迫る暴威には対抗し得なかったわけだが……しかし、あの感覚は、自身でも震えるほどに凄まじいものだった。

 まるで殺戮する機械。マシーンと化したような境地。この身は、BETAを殺すための機能。そう錯覚してしまいそうになるほどの、境地。

 正直に言おう。アレは――異常だ。

 何十年も戦場を駆け抜け、BETAと戦い続けでもしない限り、あんな境地には至れないのではないか。……否、確かに末恐ろしい境地ではあったが、矢張りまだ粗が目立つ。

 現状考えうる自身の最大能力を発揮しても到達できないような境地に一足飛びで至ってしまったような感覚……とでも言えばいいのだろうか。ともかくも、アレは、あの時の武は……間違いなく、ナニカが狂っていたのだ。

 例えばそれは感情だろうか。

 この命を救ってくれた四人の先達のために。この身を救ってくれた水月のために。導き、信愛をくれた真那のために。愛し、愛してくれた純夏のために。いつだって傍で支えてくれた茜のために。

 大切な、護りたいもののために戦う――その、意思。

 そして、相反するような黒い怨念。復讐心。憎悪。怒り。初陣で大いに暴れ狂わせたその意思。

 確かに存在した、二つの感情。拮抗し、吐き気を催すほどに猛り、涙が滲むくらいに狂わせた。ああ、そうだ。確かに狂っていた。

 感情に翻弄されて、それでいながらにどこか冷静に冷酷に極めて的確な殺戮機械の自分が居た。――それを狂っていると言わずして、なんという。

 それは、一体全体どういうことなのか。

 わからない。わからない。自分のことなのに、全くわからない。

 戦闘の度にあんな思いを味わうことになるのだろうか。それとも偶々? ――莫迦な、アレが偶然の産物であるわけがない。

 アレは紛れもなく感情の暴走だ。精神の暴走だ。分裂した自己が、護りたいものを想う己と、復讐に狂う己を同時存在させ、そしてそれさえを見下ろして戦っていた。

 単純に数えて、三つ。三人。……そして、今こうしてそのときの自分を分析している己を合わせれば――四人?

 莫迦莫迦しい。なんだ、それは。自己の分裂……多重人格とでも言うつもりか。だが、確かにあのシミュレーターの中で、それぞれに異なった意志が猛り狂い鬩ぎあっていたのは事実。そして、そんな中で自分は、過去にない最大の戦果を見せたのだ。

 本当に、気が狂いそうなくらい、狂っている。或いは、壊れているとでも言おうか。

 精神分裂。自己崩壊。不吉な単語が脳裏に浮かび、それらが意味することを想像して、小さな眩暈に襲われた。……立っていられない。タイルの壁に手を当てて、荒い呼吸を繰り返す。

「……くそっ、なんだ、これは……ッ」

 シャワーの温度を一番高温に設定する。――熱い。

 肌を叩くお湯が熱い。湯気で真っ白になった視界に、まるでそんな自分を嘲笑うかのような、もう一人の“俺”を見た。

「!!??」

 幻覚だ。妄想だ。そんなヤツがいるわけがない。自身は自身であり、そして自分こそが白銀武である。そのはずだ。……なのに、ソイツは、湯気の向こうに立つソイツは、自分と全く同じ傷を顔に持つソイツは。

 ――――――だからさ、俺に任せとけよ。

 そんな言葉を、呟いた。

 呼吸が止まる。心臓が凍りつく。何故だ。こんなにも熱いシャワーが全身を叩いているのに。ともすれば火傷しそうなくらいの熱を浴びているのに。――どうして、こんなにも寒い?

 ヤメロやめろ。必死になって頭を振る。なんだ? どうしたって言うんだ!? 何でいきなり、こんな幻想を見る!? どうして突然、こんな風に壊れなきゃならないんだッ!?

 凍りついた心臓を起動させようと、握った拳で左胸を殴打する。――か、はっ。引き攣れた呼吸が再開し、どくどくと心臓が血を送る。シャワーが熱い。湯気の向こうには、もう“俺”はいない。

「………………」

 幻覚、だ。本当に。間違いなく。

 自分は今、本当に本当に、幻覚を見たのだ。ズキズキと頭が痛む。――なんだっていうんだ、畜生……ッ。

 ギリギリと奥歯を噛み締めて、もう一度だけ、心臓を殴る。どんっ、という衝撃が空しく響くだけで……この、狂いそうな感情は、ちっとも収まってくれなかった。







 身体を拭き、訓練用の軍装に袖を通す。ロッカーに強化装備を押し込んで、弧月を腰に。火照った身体にジャケットは辛い。上着を左手に引っ掛けたまま更衣室を出る。みちるのところに顔を出すべきだろうか。今の自分は明らかに尋常ではない。自身の現状をありのままに報告し、しかるべき処置を願い出るのも軍人としては必要なことだと思う。

 だが、そんなことをしてどうなる、という思考もあった。素直にありのままを話す? ――俺は幻覚を見ました、って? そうして多重人格の可能性があり、精神が分裂崩壊する危険性があるとでも上申するのか。

 それこそ、精神崩壊者だろう。或いは人格喪失者か。

 一体どうしてしまったというのだろう。リハビリの最中も、そして適性検査を受けたときも……そもそも、みちるからシミュレーター訓練を提示されたときも、こんな壊れた感情はなかったはずだ。そう、なかった。間違いなく。絶対に。

 生きていくのだと。そのために戦うのだと。復讐に濡れるのではなく、護るために生きて戦うのだと。その決意に溢れていたはずなのに。

 なのに、なぜ、……武からすれば突然に、こんなことになっているのか。

 間違いなく、あの戦闘が原因だ。戦闘中の自分が見せた、あの異常なまでの戦闘能力。戦闘機動。或いは鬩ぎあう二つの感情か。

 カツカツと音を鳴らしながら、シミュレータールームを通り過ぎる。向かう先には戦術機の格納庫がある。自分の機体――志乃の不知火を見れば、少しは気がまぎれると思ったのだ。

 整然と並ぶ戦術機たちを横目に、A-01のハンガーへと進む。国連軍カラーの撃震が肩を連ね、その重厚な姿を鎮座させている。極東最大の基地というだけはある。ズラリと並ぶそれらは正に圧巻だった。横目に眺めているだけでも、自身の懊悩が酷くちっぽけなものに思えてくる。

 少しだけ歩幅を小さく、緩やかに歩く。響く整備班の声、喧騒、……ひどく、気分が落ち着いていく。騒がしいくらいのそれらが、沈んでいくだけの気持ちを少しだけ浮かび上がらせてくれた。

 ――ああ、なるほど。

 苦笑する。結局、武は独りではいられないのだ。独りだったから、あんな思考に捕らわれてしまう。或いは、あの尋常ではない状態も、孤独であったが故なのかもしれない。

 わからない。本当に。

 小さく頭を振って、前を向いて歩く。鳴り響く喧騒に耳を傾けながら、ゆっくりと歩いていく。――視界に、青が過ぎった。

「吹雪……」

 五機の吹雪が並んでいた。整備班の怒号に似た声が飛び交っていた。オレンジ色のペイントに汚れた機体。01と記されたその吹雪を清掃しているのは――――

「涼宮……」

 整備用のリフトに乗って、足元からの怒号にびくびくと急かされながら、半泣きのような表情でペイントを洗い落としている。その吹雪の足元には……晴子がいて、多恵がいて、亮子が、薫がいた。

 どくん、と。心臓が、感情が、打ち震えた。

 ああ、きっと今日の訓練は模擬戦か何かで……きっと、そう、茜は何らかの策に嵌って滅多撃ちにされたのだろう。それにしてもひどい。青色の吹雪の装甲は、大半がオレンジ色でべしゃべしゃだ。

 アレを全部洗い落とすには相当の時間が掛かるだろう。……無論、整備班が手分けして行えばあっという間なのだが。そこは機体をあれほどに汚した茜へのペナルティということだろうか。喚声をあげる晴子たちに混じって怒号を上げる整備班長らしき老人の表情を見ればよくわかる。――くっ、くくっ。

「くっ――ははははっ」

 込み上げるような笑い声。ああ――なんだ、なんで、だろう。涙が出てくる。ぽろぽろと零れ落ちてくる。

 どうして……だ? なんで、一体……なぜ、こんなにも。



 嬉しい。

 嬉しい。

 嬉しい。

 ああ――こんなにも、嬉しい。



 生きていられることが。生き延びられたことが。命を救われたことが。諦めずに前に進む覚悟が出来たことが。護ると誓えたことが。――そして、彼女の姿を、見れたことが。

 どくどくと心臓が鳴る。こんなにも熱い鼓動。さっきまでの凍てついた感情などカケラもなく。狂いそうな氷の塊は溶けてなくなって。

 茜がいる。ここからじゃあ遠すぎて声も届かないけれど。向こうは全然、こっちに気づいてないけれど。

 そこに、茜がいる。晴子がいる。多恵がいる。亮子がいる。薫がいる。――みんなが、いる。存在している。

 逢えて嬉しい。見れて嬉しい。彼女達が生きていることを感じられて、嬉しい。――ああ、だから、こんなにも嬉しいから、俺はちゃんと“生きている”。

 だからこそ、この気持ちを大切にしたい。

 やっぱり、例えそれがどんなに己の根幹に深く突き刺さっていようとも……もう、復讐に呪われるのは、厭だ。

「……涼宮、ありがとうな」

 お前の顔が見られて嬉しいよ――。

 涙を拭う。

 そこにはもう、危ういくらいに壊れ狂っていたあの感情はなく。幻覚に幻聴に翻弄された自身はなく。

 ただ――温かな感情だけが宿っていた。

 いつも傍にいてくれた彼女。いつも傍で支えてくれた彼女。いつも自分を案じてくれて、いつも自分に笑顔をくれて。いつもいつも、ずっと、傍にいてくれた――茜。

 そうか。

 そうか、わかった――気づいた。

 あの時、病室で、弧月を抱いて泣いたあの時。志乃たちを殺した罪に押し潰されそうになっていたあのとき。支えてくれた、奮い立たせてくれた言葉達。

 水月の、まりもの、真那の、純夏の……心を奮わせる、言葉達。どうして……そう、それは少しだけ気になっていた。

 どうして、あのとき、あの、茜の言葉が――いいや、違う。この胸を震わせて、魂を奮わせたのは「言葉」じゃない。記憶――いつも、いつも、出逢って、そして武が離れていったその時まで。いつだって傍で支えてくれた茜の、記憶。

 声が、笑顔が、温もりが……胸を打った。前を向かせてくれた。

 純夏ではなく……茜が。

 純夏以上に……茜が。彼女が。

 それを嬉しいと感じる自分が居る。それを愛しいと感じる自分が居る。――弧月が、鳴る。巻かれたリボンが、風もなく揺れる。

 多分、きっと、間違いなく。冗談でも、勘違いでも、なく。――そう、か。自分は。

「純夏、俺はお前を愛している」

 それは変わらない。それは絶対だ。微塵たりとも想いは揺らがない。忘れられるはずのない彼女。太陽のように笑う、純夏。

「でも……俺、」

 最低だ。最低だ。最低だ。純夏を愛しているのに。こんなにも愛しているのに。――それでも、もう、気づいてしまった。

 拳を握る。弧月を握る。巻かれた黄色いリボンを。彼女の想いと、彼女への想いを……胸に、抱く。

 顔を上げた。視線は前を、胸を張り、一歩を踏み出す。

 もう迷わない。もう狂わない。狂わされない。あの戦闘時の自分は確かに気掛かりで不安材料で、もし再びあんなことになったらと思うとそれだけで気が狂いそうになるけれど。それでも。

 戦う。戦える。生きてみせる。

 生きて生きて、生き抜いて。そして。護る。絶対に。絶対に。絶対に。

 気づいてしまったから。わかってしまったから。本当はもう、多分、ずっと前から――。







 白銀武は、涼宮茜を――――――、







 その感情は嘘じゃない。その想いは偽者じゃない。

 でも、それでも、この胸には純夏がいる。幼馴染の、大好きで愛している彼女がいる。それは変わらない。それは廃れない。――だから、この気持ちは胸にしまおう。

 そして、胸に抱いて、生きていこう。護り抜こう。彼女を。茜を。大切な水月を、真那を。みんなを。

 そのために。

 一体何度目かわからない決意。誓い。けれど、これは今までの何よりも深く、固く、揺るがない。

 それは例えあのシミュレーターの中で自身を焦がした尋常ではない狂気であろうとも。絶対に、負けてやらない。侵されない。

 この気持ちを砕くほどの何かなんて、ない。それほどに、この誓いは強いのだ。だから、ちゃんと護れるように、貫けるように、前を向いて歩こう。手を伸ばして、掴もう。













 ――――――ああ、本当にそう出来たなら、よかったのに。

 それを知るのはまだもう少しだけ先の未来。

 崩壊の足音は、小さく、けれど確実に白銀武を蝕んでいた…………。







[1154] 復讐編:[十二章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:31

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十二章-01」





 上官命令と言われてしまえば、逆らうことなど出来ないのが軍隊である。そこには一切の拒絶も疑義も抵抗も許されず存在しない。

 ひどく剣呑な表情で、わざわざその文言をつけての命令に、武は了解と首肯するほかない。みちるに連れられて医療棟の一室へ。既に話をつけていたのだろう、衛生兵に案内されるままに武はさらに別室へ通され、そこで待っていた医師の指示に従ってベッドに横になり、眼を閉じた。

 催眠暗示――。それを聞いた時は半信半疑だったが、みちるの言葉、そして医師からの説明を聞く限り、精神に傷を負った者に対してはある程度の効果を見せるらしい。即ち、精神にストレスを与えるフラッシュバックの軽減、或いはトラウマの引き金となるキーワードや映像のブロック等々。脳内で発生し、精神・肉体にまで影響を及ぼすそれらを「暗示」によって封殺してしまおうというわけだ。

 武の精神状態をみちるが案じていることは承知している。彼女はどこまでも部下思いで優しく、そして、軍人として優秀である。

 隊の運用に支障をきたす恐れの在る武をこのまま何の処置もせずに放置しておくなど愚の骨頂。故にみちるは有無を言わさず、この催眠暗示による治療を敢行するのである。……無論、これによって完全に武の精神が元通りになるかといえば、恐らくはそうではあるまい。催眠はあくまで一時的な処置に過ぎない。最終的には、それを受けた本人の意思、気力……そういった、人としての生きる力がものを言うことには変わりない。

 即ち、如何にして乗り越えるか。

 絶対に諦めたりはしないと決意している武だが、それをみちるに伝えたところで隊長としての彼女の判断は覆らないだろう。

 みちるは武の意志を買うだろう。その誓いを果たせ、と肩を叩いてくれるだろう。……だが、新米衛士ひとりの誓いなど……果たせるかどうかもわからないそんな言葉に全てを懸けるわけにはいかない。みちるは、ヴァルキリーズ全員の命を預かるものとして、そしてAL4を成功に導くための一つの駒として、己に課せられた役割を果たすだけなのだ。

「さあ、目を開けて」

 男の医師の言葉に、目を開く。……特に、これといって変化はない。治療は終わったのだろうか。

 視線だけを医師に向ける。彼は一度頷いて、視線で治療室の出口を示した。ただ単に眼を閉じて、僅かながらの睡眠をしていたようにしか思えない武だが、医師がそうというならば“そう”なのだろう。これで治療は終了。あとは訓練、或いは実戦の場でその効果を確認するのみである。

「……」

 が、武は一つの危惧を抱いていた。

 この催眠暗示――治療は、何の意味ももたないのではないだろうか。

 みちるは恐らく、武の精神状態が不安定な理由を、志乃たち先任の死に所以するものだと考えているはずだ。確かにそのことが武の脳髄を抉ることは間違いなく、自身に罪科を、そして敵への憎悪を膨張させる一因であることもまた、真実だ。

 若しくは――そもそもの武の暴走の原因。復讐に走らせるその発端となった、あの横浜襲撃で喪われた彼女のことを知っているならば、それについてもブロックを掛けたに違いない。

 つまりは、みちるは武の復讐を抑制しようと暗示を掛けた……ということ。当然だ。BETAに対する憎しみこそが先の戦闘での武の暴走の原因であり、そして精神を苛む根本なのだから。生きる、生き続ける、という武の、護りたい人たちを守り抜くという誓いを揺るがすもう一つの彼を封殺することが出来たなら、それはきっと……みちるの思惑どおりの結果をもたらすだろう。

 ――それが原因、ならば。

「…………」

 腰に提げた弧月を握り締める。廊下に出れば、わざわざ待っていたらしいみちると目が合う。無表情にこちらを見つめるみちるに、武は苦笑を浮かべた。

 ここまで心配を掛けておいて……これで何の効果も成長も見せないようならば、武は首を括って死ぬべきだ。或いは弧月で腹を割いてもいい。

 果たしてこの催眠暗示が効果を表さなかったのだとしても、それとは違う、武本人の精神力で以って、克服し、成長を見せてみせる。――でなければ、武は自分を赦せない。

 みちるに対する配慮だけではない。既に自身の魂に誓ったことでもある。

 護るのだ。絶対に。大切で愛しい人たちを。心から想う彼女達を。

 例えもう一人の自分を幻覚に見ようとも、例え自己が幾多に分裂しようとも、例え精神がほつれて異常なまでに暴走しようとも。

 もう絶対に、武は負けない。負けられない。

 たった昨日の出来事。シミュレーター訓練の最中に発現した異常な精神状態。みちるが懸念するそれ。だがそれは、決してみちるが想像したような要因に起因するものではなく……もっと別の、白銀武というニンゲンが壊れていこうとすることに原因が在るのだ。

 崩壊の理由はわからない。

 復讐に身を委ねようとする“白銀武”。

 大切なひとを護り抜くと誓う“白銀武”。

 その両者の鬩ぎ合いを傍観する“白銀武”。

 それさえを無視して戦闘に没頭する機械のような“白銀武”。

 或いは――もっともっと、自分は分裂しているのかもしれない。そして、同時に、並列に、そんな「自分達」が脳内に肉体に精神に存在する。その存在を認識できる自分が居る。

 狂ってしまいそうだ。

 誓いは揺るがない。彼女を護る。彼女達を護る。その決意は、絶対に揺れない。覆らない。もう二度と復讐に濡れることはない。その黒い炎に魂を委ねることなどないのだ。

 なのに。必死になってそれを押し通そうとすればするほど……狂っていく自分をより明確に認識する。

 崩壊の理由はわからない。

 武は静かに、けれど速やかに壊れ始めている。根拠のない実感が、ただ、彼の脳裏に根付いていた。

 そしてそれを知らないみちるは――武が知らせていないので当然だが――彼の精神を圧迫するであろう要因のそれぞれにブロックを掛け、取りあえずの安心を得ていることだろう。それを、武は恨めしいとは思わない。

 彼女は隊長として、軍人としての役割を全うした。そして武は部下として、軍人として与えられた任を果たしたのだ。そこにそれ以上のなにものも存在しない。

 あえて言うならば、全て武が悪いのだ。

 部下として、軍人として、自身に何らかの欠陥があるというならば、それは速やかに須らく上官であり隊長であるみちるに報告すべきことである。なのに武はそれをしなかった。狂っていることを公言したくないという塵芥のプライドと羞恥が、武にそれをさせなかった。同時に、こんな自身の崩壊程度で揺るがされてたまるかという意地もあった。

 だから武は、絶対に負けるつもりはない。みちるにこれ以上の負担をかけることも、ない。絶対に。絶対に。

 茜の顔を見て気づいたのだ。久しぶりに彼女を見て、これ以上ないくらいに思い知らされたのだ。

 この三年以上を、ずっと傍で支えてくれていた彼女のために。彼女の想いに、そして自身の想いに気づいたのだから。

 だから、理由なんてわからなくても、そして本当に確実に壊れて狂っているのだとしても。――それでも、もう、止まることなどありはしない。

「白銀、気分はどうだ?」

「……悪くはありません。むしろ眠っていただけみたいで、頭が少しぼんやりしますが……」

 苦笑しながら答える武に、みちるは少しだけ微笑みを見せてくれた。言葉なく踵を返す彼女について歩く。

 さあ、訓練の始まりだ。

 弧月を握り締めていた手を放す。

 一際大きな鼓動を打った心臓に一筋の汗を浮かべながら…………武は、それでも、前に進む。







 ===







 水月の機動は痛烈なまでに激しかった。僅か三週間。されどそれは歴戦を潜り抜けた衛士にとっては驚愕するほどの成長を可能とする期間であったらしい。――即ち、ついていくのが精一杯。

 正直、呆れてしまう。こちらもつい昨日のシミュレーター訓練で自己最大のBETA撃破数を叩き出したというのに、その戦闘機動を以ってしても、水月の機動に食いついてくのがやっとという有り様。一体どれ程の修練を積めば、これほどの成長を果たせるというのだろう。

 前を行く凄まじい小隊長の機動に振り回されながら唸る武だが、それならば自身もそこに到達すべく修練を重ねればいいだけの話だ。恍惚にも似た冷や汗を流しながら、自身は自身の役割を果たす。

 現在B小隊は水月、真紀、武の三名編成であり、彼は真紀との二機連携を基本に、時には三人での変則連携をとりながらに戦場を駆け回っている。B小隊だけでなく、A小隊もまた五名一小隊という変則体制を組んでいた。これは、志乃をはじめ、喪われた彼女達の穴を埋める衛士の補充がないための苦肉の策であった。

 武がA-01部隊へ復帰して早々に行われているこのシミュレーター訓練では、主として改めて三機編成となったB小隊の慣熟を図るためと、武の連携機動を万全とするために行われている。つまりは、武以外の面々については、この三週間で新たな編成での連携は万全に行えるということである。水月の、武からすれば呆れるほかない戦闘機動が示しているとおりに、彼女達は遥か高みに手を伸ばしているように思えた。

 無論、三週間のブランクがあり、ましてまだ一度の実戦経験しかない武の視点であるため、彼女達の成長度合い……錬度が、どれ程に上達しているのかは、各々の主観により異なることだろう。つまりは、素人――というには語弊があるが、経験の少ない武から見てわかる程度には、彼女達はその腕を磨けているということである。

 月詠の螺旋機動で敵の首をぶった切りながら、武は秘めやかに決意する。今日一日。それだけで、彼女達の三週間分に追いついてみせる。

 可能不可能という問題ではない。それは、やらなければならないことだと思う。怪我の治療とリハビリのために費やした三週間。仕方のないこととはいえ、しかしそれは結局のところ武自身が撒いた種である。己の不手際は己で挽回する。ならば、無為に費やした三週間、そしてその間に開いた隊の仲間達との差は――出来得る限りの最短で、縮め、並ばなくてはならない。

 二日も三日も、まして彼女達が積み重ねた三週間丸々を、安穏と重ねていいはずがない。

 いつまた前線へと出撃するかもわからず、まして次は敵から攻めてこないとも限らないのだ。常に最悪を想定し、そしてそれに対応できるだけの最善を、自身の中に用意しておかなくてはならない。軍人とはそういうものだ。だからこそ、今日一日なのである。

 手当たり次第にBETAを斬りつけて刎ね飛ばしながら、それでも武は攻める手を休めない。

 両手に一振りずつ握った長刀で、斬りつけて斬りつけて斬りつけて殺す。その一刀ごとに己を高めよ。その一刀ごとに己を超えよ。一刀前の自身は次の一刀で超越し、そしてまた次の一刀で高みへのぼる。

 その意志を込めて、剣を振るう。敵を殺す。これはただ、ひたすらに追いすがるための訓練だ。背中を見せ付ける水月に、真紀やほかの仲間達に、追いつき、肩を並べるための修練だ。

 ……だから、だろうか。

 武の意志が、思考が、ただ他のなにものも考える余裕も猶予もなく、己を高めることだけに集中していたために。彼は昨日のシミュレーター訓練で見せたような感情の暴走に振り回されていない。復讐を吠えるもう一人の自身は現れず、冷徹に敵を惨殺する機械のような自身は現れず……。武は、純粋に白銀武としてそこに在った。

 彼がそのことに気づくのは午前中の訓練が終わり、喧しくもけたたましい昼食を終えた後であり、水月に連れられて基地外へと通じる門までの道程を緩やかに進んでいたときのことだ。

 前を歩く水月の、歩調に合わせて揺れるポニーテールを見つめながらに、ふと、気づいたのである。

 それは、武にとっては喜ばしい事実であった。訓練前にみちるが行った催眠暗示も効果を見せていたのかもしれない。だがそれ以上に、ただ追い縋ること以外に考える暇がなかったことが大きいのだろう。――なるほど。武は苦笑した。

 昨日にも気づいたことだった。武は、独りでは容易く壊れてしまうのである。誰か傍にいてくれて、或いは、人々と触れ合うことの出来る距離にいてようやく、まともな自分を保つことが出来るのだ。そうすれば、その人たちとの時間を、会話を、触れ合いを大切にして、大事にして、……あんな、どす黒く薄気味の悪い“自己”はなりを潜めてくれる。

 問題は何も解決していないのかもしれないが、しかし、これで一つ頭を悩ませる種が減った。

 自分が壊れ、或いは狂い始めていることは間違いないだろう。今は、そして午前中の訓練では現れなかったが、きっと、この身体の中には別の自身が存在している。

 だが、それはこうして水月たちA-01部隊の彼女達と過ごしている限り、表に浮かび上がってこれないのだ。ならばと頭を振る。

 ならば――この思考も、止めにしよう。

 折角、体中が凍りつくほどの狂気がなりを潜めているのである。それを自身から掬い上げて表面に晒す必要はないだろう。

 みちるにさえ隠し立てているのだ。当然、水月や他の仲間達にも明かすつもりはないし、悟らせる必要さえない。彼女達と共に在り、戦う限り――自身は、もうあの狂気に侵されることはないのだ。そう結論して、前を向く。

 女性ながらに少々歩幅の大きいらしい水月の歩みは、長身の武が何の苦痛もなく歩いていける速度を保っている。まさか武に気を遣ってのことではあるまいが、それにしても、緩やかに大股で歩く水月は……なんというか、男らしい。軍人に男も女も関係ないのだろうが、こうして背後から眺める分には、彼女は十二分に“女らしい”。くびれた腰や、形のよいお尻など、少々目のやり所に困るくらいだ。にも関わらず歩く姿が男らしいとはこれ如何に。そんなどうでもいいことをつらつらと思い浮かべては消していく。

 我ながら何を莫迦なことを考えているのかと苦笑するが、しかしそんな武の思考に気づくはずもなく、水月は門衛の詰め所へと近づいていった。

「A-01部隊所属、速瀬中尉だ」

 進み出た門衛へと名乗りながら、自身の認識票を提示する。それに倣って、武もまた自身の認識票を提示した。門衛がそれらを確認するのと同時に、水月が外出許可証を提示する。みちるの名で承認されているそれを見て、アジア系らしい門衛が敬礼しながらに道を譲る。

「どうぞお進みください。お気をつけて」

「ありがとう」

 水月と一緒に答礼する。堅苦しいことこの上ないが、これも規則だ。まして門衛の階級は伍長。中尉相手に手続きを省略するわけにもいかない。

 門を抜けながら、そういえば基地から出るのはこれが二度目なのだと唐突に思い出す。正確には帝国軍時代に一度、そして今回が二度目、ということになる。

 一度目は確か……そうだ、茜の姉である遙が両脚を負傷し、軍病院に入院した時である。見舞いに行った茜の迎えにと、こうして水月と門を抜けた。――あれから三年。当時訓練兵だった自分達は、中尉と少尉という立場にあり、それでも……なに一つ変わらないままに歩いている。

(ああ、そっか)

 ふ、と当時の出来事を思い出す。病院の廊下で倒れていた茜。貧血を起こした彼女を前に何も出来なかった自分。あんまりな情けなさに笑うしかないが、それでも、随分と成長できたつもりではある。――色々と、精神的にイカレてしまったようだが……。

 そういえばあの時は軍車輌を爆走させていた水月だが、彼女は変わらずに徒歩のまま坂道を下っている。行き先も目的も知らされぬままに、ただ連れられている武だが、少々もなにも、迂闊過ぎである。水月と二人きりという事実と、壊れた自分が現れなかったことに浮かれていたのかもしれない。ヤレヤレと小さく溜息をつきながら、視線を……枯れはてた桜の木々にむける。

 かつては、眩しいくらいの花びらを散らせていた風景。夏だというのに、緑の芽吹きさえない。『G弾』の影響で、この都市の植生の回復は絶望的だということを、みちるの講義により教えられている。まさか人類初のハイヴ攻略の決定打となった超兵器にそのような事実が潜んでいたということは、少なからず武の心理を揺さぶった。生まれ故郷をBETAに破壊しつくされただけでなく、これほどの荒野を生み出した最大の原因……そして、それが及ぼす重力異常。反吐が出るくらいに、忌まわしい。

 今年の春には心震わせるほどの満開を見せてくれた桜たち。絶望的といわれていた植生の僅かながらの回復……或いは植物の持つ生命力の偉大さに、みちるは大層感動したとのことだったが…………今、眼前に並び立つ木々には、生命の神秘は感じられない。痩せ細り、枯れたように佇む老骨のそれである。

 と、水月が立ち止まった。

 彼女は一本の桜の木の前に立ち、じ、っとそれを見つめている。武は水月の横に並び立ち、同じように木を見つめた。……ここに、なにかあるのだろうか。

 そう思い、水月に視線を向けたとき、彼女は口を開いた。

「武……ここにね、木野下中尉たちが眠ってる」

「――ッ?!」

 どぐん、と心臓が跳ねた。なんだって――その驚愕が、奔る。

 視線を桜の木へ。何の変哲もない、枯れた桜。基地へと続く坂の中腹に在るそれ。その木。ここに……木野下たちが眠っている? 武は、なんとも不思議な表情をしていた。

 それは一つの疑問からである。

 彼女達は戦死した。そしてその遺骸は残っていない。志乃は兵士級にその肉を食まれ、亜季は亡骸を回収する間もなく、藍子と木野下は……レーザーに蒸発してしまっている。そのために、彼女達の葬儀は遺体のないままに行われ、基地の敷地内に存在する合同の慰霊所へと祀られているのだ。

 であるはずなのに、水月はここに彼女達が眠るという。これはどういうことだろう。首を傾げてしまった武に、苦笑しながら水月が説明してくれる。

「この桜の木々はね、横浜基地建設に際して植えられたものなんだけど……それには、一つの謂れが在るの。即ち、“明星作戦”で散った英霊達への弔い」

「!」

 ぎょっとする。その話は初耳だった。そして、同時に理解する。なるほど、この横浜の地に存在したハイヴを攻略し、日本の危機を救うために戦って散った数多くの英霊――彼らの魂を弔うための、桜。そしてそれは……彼らの墓標でもある。

 桜の花には人を魅了する類稀な美しさが在る。そして、それは死者の魂を慰め、英霊となった彼らを祀るに相応しいのだろう。

 改めて桜並木を見渡す。痛々しいほどに枯れた、夏の桜。――ああ、このひとつひとつが、この地を取り戻し、平和を勝ち取るために戦い抜いた先達を祀る、神木……。

 武は己の迂闊さを恥じた。事情を知らなかったとはいえ、あまりにも夢のない情感を抱いたものだと、数瞬前の己を反省する。そして改めて目の前の桜の木を見つめ……その表面に、触れた。

 水月は何も言わない。武もまた、口を閉ざしていた。

 触れた指先にはかさついた木肌の感触。ただそれだけ。だが、ここに、彼女達が眠るという。――彼女達の魂が。そして、武の知らぬ先達もまた、この場所に在るのだ。

 胸が熱くなった。じんわりと、込み上げる感情があった。指先を離す。触れていたその場所を、ただじっと見つめる。

「上川少尉……岡野少尉、木野下中尉、篠山少尉………………俺は、生きていきます。貴女たちに救われたこの命の、最後の最期まで……生き抜いて、戦い抜きます。貴女たちに救われたこの命は絶対に無駄にしません。絶対に、絶対に。――俺には、護りたい人たちがいます。護りたい想いがあります。だから、ちゃんとそれを護れるように……強く、前に進んで見せます」

 弧月の下緒を解き、右手に鞘を掴んだ。桜に掲げるように弧月を突き出して、そして、

「俺はもう間違えません。俺はもう迷いません。俺は、絶対に、後悔しない。進むと決めたこの道を、護ると決めたこの心を。最後まで、やり遂げて見せます」

 そして誓いは成った。眼を閉じていた水月は満足そうに頷いて――バシン! と武の背中を盛大に叩いた。正直に痛い。息を詰まらせて、涙混じりに水月を睨む武に、彼女は、それは晴々とした笑顔を見せてくれたのだった。







 ===







「しっかし、シロガネよー。お前のあの二刀流、何あれ?」

 午後からの訓練の合間、二十分の休憩という貴重な時間の早々に、真紀が拳を突き出しながらに問う。問われた武は彼女の攻撃をひらひらとかわしながら、え、と首を傾げた。二人とも歩きながらの攻防である。タラップを降りながらのその芸当を見れば、互いに実に器用なものだった。

 前を進む美冴が振り返る。ああ、それは私もきいてみたい――そういいながら唇を吊り上げるニヒルな彼女に、そして尚も続く真紀の攻撃に思わず怯む武。

「いや、何、って……ただ、長刀二本使ってるだけですけど……」

「そういう意味じゃねーよスカタンっ」

 とぁ、とアッパーが繰り出される。が、哀しいかな、小柄な真紀の拳が届くよりも早く、武の手の平が防ぐ。怪訝そうに更に首を傾げた武に、美冴が肩を竦める。彼女の隣りを歩いてた梼子が曖昧に笑って、真紀の質問に補足をしてくれる。

「白銀少尉、真紀さんは、あなたの剣術のことを聞いているんですよ。……あの螺旋を描く機動、そして旋回の剣術。同じ部隊で戦うものとしては、多少の興味を惹かれます」

 丁寧なその言葉に、ああ、と納得する。チラリと真紀を見れば、梼子の言葉にそうだその通りと頷いている。……自分の言葉足らずを棚に上げて、いい身分だと思った。

 タラップを降り、揃ってブリーフィングルームへ。そこでは既に簡単なデブリーフィング終えたみちると水月がくつろいでいた。旭と慶子の姿はない。二人はまだシミュレーターに残り連携について話し合っている。

「……それで? どうなんだ白銀。お前のあの剣術は、そもそもどういうものなんだ? ……今日の訓練でお前は常に二刀を操っていたな。それであの戦績だ。是非ともその極意とやらを聞かせて欲しいねぇ」

「極意って……」

 椅子に腰掛けながら、美冴がさも面白そうに問いかける。その場にみちると水月が居ることを確認して、わざわざ改めての問いだ。その周到さには感服するが、そもそも、美冴たちが期待しているような説明をできる自信がない。

 なにごとかと興味深そうにこちらを見るみちると水月。その好奇の視線が武に向いていることは確かめるまでもないのだが……美女五人の注目を浴びて、少々気恥ずかしい。厭な緊張に汗を浮かべながら、溜息を一つ。全員が先任で、しかも武より優れた衛士なのである。逆らえるはずがなかった。

 半ば諦めるようにしながら、武は弧月を机の上に置く。黄色いリボンの巻かれたそれについては、既に皆知っている。

 武の剣術の師匠。幼い頃に剣術を教えてくれた今は亡きその人物の形見。彼の娘であり、斯衛の警護小隊長である真那から託された、師と彼女の想いの具現。それを簡単にさらいながら月詠の剣術について説明しようとしたのだが、その最初の時点で躓いた。

 水月の視線が怖いのである。

 なんというかもう、これ以上ないくらいに冷たい視線が突き刺さる。武は美冴や梼子、真紀が座る方向へ顔を向けているのだが……右方向からグサグサと刺さる鋭利なそれは、紛れもなく水月の視線と何らかの重圧だ。そしてそれは以前にも覚えのあるプレッシャーだった。

 任官した当初、腰に提げる弧月について質問された時と同じだ。あの時も真那の名を出した瞬間に空気が凍った。武には知る由もないのだが……どうやら真那と水月は知り合いらしい。それも、決して友好的なそれではないと思われる。

 そんな記憶に新しいプレッシャーを再び感じながら、けれど水月がそこまで険悪な雰囲気を醸し出す理由に思い至らない武は、恐々としながらも話を続ける。

 その間、美冴と真紀が……そしてみちるまでもが、ずっとニヤニヤと頬を緩めていたことを、武は、水月は知らない。水月の想いをよく知っている……と自負している彼女達は、嫉妬にやきもきとする水月を微笑ましく、意地悪く見守っていたのである。梼子一人だけがそんな彼女達を「しょうがないひと」と嘆息するのだが、それで止めさせる梼子ではない。

「……と、いうわけでして。そもそもこの剣術の始まりがBETAとの戦闘の中だったんです」

「なるほど。理不尽とも思える多対一にあって、常に一対一の状況を作り出す、か。正論だな」

「常に動き続けることで囲まれることを避け、そして一個の敵に執着しない……というのは基本的な戦略でしょうけれど。白銀少尉の機動は、それを攻撃・回避を両立させるまでに昇華させている……ということですね」

 頷くのは美冴と梼子。しどろもどろな説明に理解を示してくれたようでほっとする。腕を組んで難しい顔をする真紀が、天井を見上げながらに口を開いた。

「じゃあ、なんでいきなり二刀流なんだよ。前は長刀と突撃砲を装備してたよな」

 確かにそうだ。水月や志乃に倣い、武は長刀と突撃砲を同時装備するというスタイルを採っていた。そもそもは先任の装備を真似ただけであるが、実際に訓練を重ねる上で、その兵装が実に効率のよい戦闘スタイルだということは理解している。遠近両用、とでも言うべきか。敵に囲まれ、近接戦闘を余儀なくされた状況下でも、更に遠方より迫ろうとする個体を屠ることもでき……なによりも、兵装を交換する手間が省ける。

 どうせ乱戦になれば必然的に装備を迫られる近接武器なのだから、最初から装備しておけばよい、というわけである。水月は今も右腕に突撃砲を、左腕に長刀を装備して戦っている。真紀などは長刀の扱いに渋い表情を見せるため、常に構えるのは突撃砲のみであるが……。

 そして、そんな経緯もあるからだろう。真紀からすれば余計にも武の二刀流が理解できないのだ。武が剣術を身に付け、そしてその剣術は対BETAに際立って有効である事は理解した。

 わからないのは、何故それ以前にも効果のあった長刀・突撃砲の組み合わせを長刀・長刀に変更したのか、という点である。

「ん~~……実は、これは昨日のことなんですけど、」

 武はA-01復帰前のシミュレーター訓練の話をした。結局は弾切れで突撃砲を手放すほかなかったわけであるが、その際に両手それぞれに長刀を装備させて以降の撃破数が鰻上りであったことを簡単に説明する。どうしてか、という理由を求められても……結果、そうであったとしか言いようがない。そもそもが訓練兵時代に突撃銃の狙撃訓練をかったるいと感じていた男である。……無論、公言していたわけではないが、心のどこかで銃よりも剣に信頼を置いているのは間違いない。そういう武の表立たない剣術よりの近接格闘能力が開花したのだと、自身は考えている。

 或いは、感情の暴走が引き起こした爆発的戦果かとも思ったが、本日の訓練でその可能性は覆されている。

 明らかに、武は長刀を用いた二刀流に切り換えたほうが「強い」のだ。動きのひとつひとつが引き締まっていて、鋭いのである。

 三週間のブランクがありながら、突然に、以前よりも機動に冴えが見られたのだから……先任たちには見逃せない変化であった。ベースとなっているだろう剣術、その機動は変わらないのに、兵装を変更しただけでこの変わりようである。気にするな、という方が無理だ。

 当然、これには武自身も驚いているし、呆れてもいる。水月や志乃が選択しているスタイルだからそれでいいのだと、そこで思考を停止させていたことは事実であり、それが自身にとっての最善かどうかを吟味しなかったのは怠慢だ。そういう己の甘さを自省するとともに、この戦法について更に高みを目指すこと、そしてより効率のよい戦闘方法を考案することも大切であると認識する。

 とりあえずの説明を終えての武に、水月が口を挟んだ。

「……今の話聞いてると、あんたの師匠は、戦術機でのその剣術を教えなかったってことよね?」

「……そう、です。正確には、教わる暇がなかったと言うか……」

 恐らく、ではあるが。真那はきっと、武が戦術機操縦訓練課程に至った時点で、戦術機での月詠の剣術を教えるつもりだったのではないだろうか。無論、シミュレーターを使用して、というようなことはないだろう。口頭で、或いは日々の修行の延長として、その機動概念や長刀を使用しての戦闘について、様々なことを教わることが出来たのではないかと思う。

 今更だが、それを教われなかったことは残念以外のなにものでもない。……だが、それでも武は自分なりに試行錯誤を続け、現在の形にまで至っている。例え自身の力で考案したそれが本来の月詠の剣術と異なるモノだったとしても、それを悔やむことはないし、無駄だとは思わない。これは紛れもなく、武が自分で積み上げた修練の結果である。

 思い返せば、幼少の頃に教わった剣術に似ている。基礎の基礎しか教わることのなかったそれを十年以上も続け、そして、自分なりの工夫を織り交ぜて昇華させた剣術である。真那との出逢いによって更に高みに至ることが出来たわけだから……もし、今また真那と過ごす時間が手に入ったなら、武は存分に教えを請おうと思う。そして、そこから得られたものを今の自分の機動に組み込み、更に進化・昇華させるのだ。

 そういう思いを水月に語れば、なんとも奇妙な表情をされる。武の成長を喜ぶようであり、なにか面白くないというようでもある。水月の隣りではみちるが肩を震わせていた。

「なるほど、白銀がその月詠中尉とやらを信頼していることはよくわかった。私たちからすれば、お前が強くなってくれることは歓迎だ」

「だからって調子に乗るなよーっ! アタシの本気には遠くおよばねぇぜーっ」

 至極真面目な表情で頷く美冴に、きしゃぁ、と牙を剥く真紀。明らかに後者の行動は意味不明である。とりあえず気にしないことにして、武は弧月を手に取った。

 チラリと水月を窺うように目を向ければ、こちらを見ていた水月の視線とぶつかる。む、と眉を寄せた水月に苦笑して……。

 武は、仲間と在れることの喜びを噛み締めていた。

 生きていると実感できる。生きていられて嬉しいという感情が沸き起こる。これほどに。温かく。

 そして、この空気に包まれていられるならば、武は狂うことはないのだ。

 暴走する感情はなく、どす黒い復讐の念はなく、身を凍らせる狂気も、ない。

 だから大丈夫。

 もしまた、あんな感情の爆発と暴走があったのだとしても、絶対に。彼女たちといる限り、ともに戦う限り。

 狂いはしない。







 ===







 一日の訓練を終え、夕食を終え。そしてなぜか、その場所に立っている。

 基地の裏手にある小高い丘。柊町を一望できるその場所に立ち、宵闇に沈む廃墟を見つめる。かつては人々に溢れ、夜でも明かりに満ちていた風景は……最早ない。この町が廃墟となって既に三年が経過している。太陽が沈んでしまえば、そこに在るのはただ茫漠とした、闇。

 どうして唐突にここへやってきたのだろうか。武は内心で捻りながらも、恐らくは昼間に志乃たち英霊を祀る桜の前に立ったからだろうと理解している。

 彼女達がBETAの手から奪い返したこの土地を、もう一度目に焼き付けておこうと思ったのだろう。……もっとも、目に映るのは闇ばかりだが。苦笑する。感傷的になっているのだと、わかった。

 今日一日を振り返れば、それは久方ぶりの平穏だった。

 志乃たちの死による感情の揺り返しもなく、復讐に憑かれた妄執もなく、まして夕呼の実験に絡むなにがしかもなかった。武の精神を苛むそれらが一つとしてなかったことが、今日を平穏と感じさせている。さらには、水月の計らいであった。彼女達の墓前――あの桜を参れたことは、武の中に鬱積していた見えない枷を解き放ってくれたようにも思えるからだ。

 己の心に誓うだけでなく、彼女達の魂に宣誓することが出来た。その事実が、武の心を軽くしてくれているのだ。

 そういった諸々が積み重なって、こうして武は丘の上に立っている。闇に沈む廃墟。見えないそれらを、決して忘れはしない。自分が生まれ育ったこの町を。BETAに蹂躙されたこの町を。多くの犠牲者を出し、その彼らの命と引き換えにもたらされた今を。

 忘れない。胸に刻む。

 自分は、自分ひとりのために生きているのではないということ。

 自分の戦いは、決して自分だけのためにあるのではないということ。

 武にとっての戦いとは、既に自身の心に誓っている通り、護りたい人を護るための戦いだ。彼は己に、そしてみちるに、志乃たち英霊に誓ったそれを果たすべく、全力を以って戦い続ける覚悟を決めた。だからこそ、そのために戦うのである。……が、それは、決して彼一人の戦場ではない。

 武がその自身の誓いを果たすためには彼と共に戦う人々の協力は不可欠であるし、また、仲間である水月たちの護りたいものを護るためにも、武の力が必要であるに違いない。それは自惚れではなく、厳然たる事実であろう。

 護りたいものを護る。それを護れるかどうかは個人の意志と力量だけでなく、共に戦うものたちの自覚と結束にかかっているからだ。独りで出来ることには限界が在る。まして、相手は無尽蔵に湧くBETAである。例えその護るべきものが己の命だとしても、自分ひとりでは到底、護ることなどできないのだ。

 その、ともすれば当然と思える事項を、改めて認識する。

 基地へと続く坂道に植えられたたくさんの桜の木。そこに眠るとされるたくさんの英霊たち。御霊。彼らが護りたかったものは、なんだったのだろう。……果たして、この地を取り戻すためだけに散ったわけではないだろう。それを、夢想する。

 その想いを受け継いで、皆と共に生きて、戦い抜くこと。それが、武にとってとても重要なことだと思える。多分それは、どれだけの狂気に晒されようとも、決して忘れてはならないことだろう。水月は……武の狂気など知りはしないはずの水月は、それを、武に教えてくれたのだ。

「……本当に、水月さんには救われてばかりだ」

 ぼんやりと呟く。今日のことについては、恐らくも何も、彼女は無意識だっただろう。水月はきっと、武に志乃たちを参って欲しいという、そんな単純な理由から連れ出したに違いない。……結果として、武の進むべき道を、その道を進むという意味を気づかせてくれた。そのことを、嬉しいと思う。

 そうして小一時間ほど夜の廃墟を眺めていただろうか。昼間の熱気の冷めた空気を思い切り吸って、武は丘を下っていった。

 腰に提げた弧月の鞘を握る。

 そこに込められた想いを、今一度、噛み締めながら。







 息を弾ませながらに、走る。毎晩行っているとはいえ、一時間も走り続けていれば汗もかくし疲れもする。ただ走っているだけだが、自己鍛錬としてのそれを始めてから、一日たりとも欠かしたことがないのが彼女の生真面目さをよく表していた。

 ゆっくりと速度を落とし、歩く。息を整えながら、火照った身体を冷ますように。見上げれば夜空には星が瞬き――皮肉なことだが、街が廃墟と化して以降、星がよく見える――冥夜は、その美しさにしばし見惚れた。

 額を流れる汗を拭い、ふぅ、と息をつく。夜になって気温も下がっているとはいえ、さすがに夏である。これから八月にむけてまだまだ暑くなるのだろう。身体を動かすことが辛く感じる時期だ。が、そんな弱音など吐いている暇はなく。……今はただ、己を鍛え続けるのみ。

 五月末に行われた総戦技評価演習を思い出す。熱帯のジャングルで行われたあの過酷な演習。あの、纏わりつくような熱気に比べれば日本の夏など大したことはなく……。

「……」

 頭を振る。今更思い出したところで、結果は変わらない。冥夜が属するB分隊は失格したのだ。二重三重に張られた罠に陥り、進退窮まってしまった。尋常ならざる念の入りよう……ということなのだろうが、それに気づけなかった自身たちの未熟さが原因である。決して、そこに何らかの意志が介入していたとは思いたくない。

 ――この考えはよくない。沈鬱になりそうな思考を溜息と共に吐き出し、冥夜は顔を洗うべく屋外の水呑み場へと向かう。蛇口を捻れば冷たい水が溢れ出し、両手に掬って、思い切り顔にぶつけた。

 スッとする。意識が引き締まる。本当なら氷水でも全身に浴びたいところだが、ここにそんなものがあるわけもなく。数度冷たい水で顔を洗って、手持ちのタオルで拭う。前髪が少し濡れてしまったが、どうせすぐにシャワーを浴びるのだから、気にする必要もない。ふわ、っと吹いた夜風に涼しげな空気を感じながら、眼を閉じる。

 心地よい疲労と、躍動する筋肉を感じる。心身の状態は万全。いつ如何なるときでも、この状態を保ち続けることが出来るように、まだまだ鍛えなければならない。……とはいえ、じきに就寝時間であるし、なにより、自己鍛錬で限界まで鍛えてもしょうがない。明日も変わらず訓練があるのだし、あくまでもそちらに本腰をいれるべきだ。それを重々承知しているために、冥夜は部屋へ戻ろうと上着に袖を通す。

 と。

 基地の方へと進む人影を見つけた。どうやら裏手から回ってきたらしい。その人影が進んできた方向を見つめて何とはなしに想像する。

 ――ん、と。冥夜の感覚が違和感を訴えていた。その人影……男性のものらしいが、それに、なんだか見覚えが在るような気がしたのだ。遠目で、しかも薄暗いためによく見えないが、しかし、その背格好には見覚えが在る。はて、と首を傾げながらに自身も歩を進め――そこで気づく。横浜基地内にいて、背格好に見覚えのある男性など、一人しかいないのだと。

「白銀ッ」

 気づけば、声に出していた。まだ若干の距離のある人影に向けて、冥夜は、自身でも驚くほどの声量で呼びかけていた。静寂に包まれた夜のグラウンドに、彼女の声はよく透る。……否、それが例え昼日中の喧騒にあったとしても、矢張りその声は透っただろう。御剣冥夜の声とは、そういったものである。

 名を呼ばれ、人影が立ち止まった。振り向くような所作。間違いない、それは白銀武だった。表情まではよく見えないが、驚いたような気配が伝わってくる。冥夜は走った。どうしてか、動悸が激しくなっている。――疲労のせいか? 内心で首を傾げる彼女だが、その答えを持つものはいなかった。

「……御剣」

 果たしてそれは白銀武であり――だが、冥夜は息を呑む。

 目の当たりにした彼は、間違いなく彼だったのだが……その顔には、一筋の痛々しい傷跡が走っていた。顔の左に、縦に走るそれ。額から頬までを抉るように。縫合の跡さえが引き攣れているように見えて――驚愕に、言葉をなくす。

 そんな彼女に気づいたのだろう、武は苦笑しながらに言った。

「悪い。気持ちいいもんじゃないよな、これ」

「……ぃ、いや……」

 一体何があったというのか。彼がいなくなってから二ヶ月が過ぎた。その間。冥夜たちの知らない彼の二ヶ月の間に、何が? 思わずそのままに問いかけてしまいそうになった冥夜だが、そもそも、それを尋ねてもいいものかどうか、迷う。酷い怪我であることは間違いない。そして、そんな怪我を負うほどの状況に追いやられた武。現在の医療技術ならば傷跡を消すこともそう難しくはないはずなのに、あえてそれを晒している理由。

 瞬時に様々な疑問が脳裏を巡ったが、結局、冥夜は何も言えなかった。ただ、苦笑する武を見つめるだけである。

 それに息苦しさを感じたのか、武は一つ息をついて、久しぶり、と言った。――うん、久しぶりだ。冥夜は、自身でもどうかと思うくらい、鸚鵡返しにそう言ってしまった。完全に心ここにあらず、である。だが、しまったと思ったときはもう遅い。そんな彼女の失態に気づいた武は噴きだして小さく笑い、冥夜は羞恥に頬を染めることとなった。

「なっ、なにが可笑しいッ?!」

「くっはははは! いや、悪い……くくっ」

 可笑しげに笑う武に、やがて冥夜もつられて笑ってしまう。まったく、らしくない。自身でそう感じながら、けれど、どこか心地よさを感じている己を自覚していた。

 ともあれ、目の前にいる男は間違いなく武だった。久しい、という感情が……本当に、大きい。誰にも、茜にさえそのことを告げずに異動していった武。その彼が、目の前にいる。くつくつと綻ぶように笑う自身をどうにか落ち着かせて、改めて向かい合う。

 武もまた笑い止み、冥夜を見ていた。どうしても目に付いてしまう傷跡は痛々しいが、敢えてそれを晒しているからには、矢張り相応の理由が在るのだろう。――なにがあったのか。なにをしていたのか。それを、問うてしまいたい。自身の気持ちを抑えられないと自覚して、冥夜は口を開――く、その途中で、武が纏う訓練用の軍装の襟に、見慣れないそれを見つけた。

 即ち、階級章。

 冥夜の表情が驚愕に強張り――――瞬間、彼女は姿勢を正して敬礼していた。

「し、失礼しましたッ、少尉殿……ッ?!?」

「あ?」

 多少の混乱が混じった声音。そして唐突なその所作に、武は目を丸くする。が、すぐに冥夜の挙動の理由に思い至った武は、しまったという顔をして……一応、形式どおりに答礼する。

「あー……その、御剣、」

「はいっ、少尉殿!」

「……………………頼むから、それ、やめてくれ」

 がっくりと肩を落として、武は言う。なにやら酷く落ち込んでいるらしいのだが、しかし未だ混乱している冥夜はそれに気づけない。というより、彼女の脳裏は凄まじいほどの思考が錯綜していた。

 少尉階級のそれが示すことは唯一つ。武が任官していたという事実。この二ヶ月の間に、人知れず姿を消したその間に、彼は、たった独りで任官を果たし、衛士となっていたのだ。その事実に、驚嘆する。混乱する。

 総戦技評価演習に合格したA分隊の皆でさえ、未だ訓練期間に在る。恐らくは来月末には任官するだろうと予想されるが、しかし、現在はまだ冥夜たちと同じ訓練兵である。そして、そんな彼女達と同期であった武も、通常で考えるならば……最短でも任官は来月末。決して、現時点で少尉階級にあるはずがないのだ。まして、……そう、まして。

 戦場に出た、などと。

「……白銀、そな、た」

「……ああ。俺は任官してる。衛士として、任務についている」

 はっきりと、きっぱりと、武はそう言った。ならば、それが真実。彼の異動とは即ち、任官するための何らかの措置だったのだろう。……どこか他者と比較してずば抜けていた武。まさかそれが、このような結果を呼ぶものだったとは、流石に冥夜の想像を超えていた。またしても息を呑む。武の両の瞳からは、底知れぬ深い決意が感じられた。

 改めて武の全身を見る。見慣れぬのは顔の傷や襟首の階級章だけではなかった。腰に提げている日本刀。漆塗りの豪奢な拵に、鮮やかな黄色い布が巻かれている。視線に気づいたのか、武はその刀を手にとって、

「ああ、これは……月詠中尉に託されたんだ」

 では、それは矢張り。冥夜は頷く。彼女を守護するため、その任務を果たすために滅私で臨む真那の朱い刀を思い出す。武が提げるそれは、彼女のものとよく似ていた。――それが、月詠の父君の形見か。内心で呟いた彼女に応えるように、武の手の中で、弧月が鳴った。

「……その、黄色い布は?」

「…………」

 冥夜の記憶にはないその鮮やかに過ぎる黄色を示して、尋ねる。一瞬、武の表情に翳がさしたような気がしたが……けれど、武は至極真剣な表情をして。

 ――すまない、御剣。

 そう言って、頭を下げていた。冥夜は狼狽する。どうして武が謝罪するのかがわからない。慌てて頭を上げるよう願い出ると、渋々といった感じで、元の姿勢に戻る。とにかくも、ほっと胸を撫で下ろす。突然に謝られても、正直対応に困るのだ。

 しかも、相手はまがりなりにも少尉である。いくら武が敬語その他の上官に対する姿勢を厭ったのだとしても、その位置関係は覆らない。たった二ヶ月前までは同じ場所に立っていた彼だが、そこを履き違えてしまえば、軍隊という組織は成り立たないのである。

「いきなり謝られても困る。……むしろ、謝るのはこちらの方ではないのか? そなたにとって、聞き辛いことを聞いてしまったのではないかと……」

「いや、違う。……本当は、二ヶ月前にちゃんと答えなきゃいけなかったんだ。それを、今更思い出した。すまない」

 え、と冥夜は目を丸くする。二ヶ月前。武がいなくなったその時。……答えなくてはならなかった、と武は言う。果たして、何のことだろうと首を捻り……ああ、と。苦々しさと共に思い出した。

 そう、それは冥夜にとって忘れられるはずもない。彼女の不用意な一言で、武の心を抉ってしまった……その、問い。

 武の、戦う理由。護るために戦うという彼の、護りたいもの。

 きっと、武はそのことを言っている。答えられなくて済まない。答えるのが遅くなって済まない、と。――だが、冥夜はもう、そのことを無理に知りたいとは思っていない。むしろ、それが武の心を傷つけるものならば、知りたいとは思わない。そう言おうとして口を開くが……それ以上に早く、武は言っていた。

「俺には、護りたいものが在るんだ。それを、そいつを護るために……その力を得るために、俺は衛士を目指した」

 シュルシュルと黄色い布を解きながら、武は言う。所々錆色に褪せているそれを右手に握り締めて、まるで愛しいものを見るかのように、それを見つめる。

 ぐ、と。冥夜の心臓が締め付けられる。その武の表情を見ているだけで、胸が苦しい。――熱い。

「そいつは、幼馴染で、隣の家に住んでて……窓を挟んでお互いの部屋がすぐそこにあって。ずっとずっと、一緒に居たんだ。ずっと、傍にいた。ガキの頃に師匠に出逢って、剣術を教えてもらって……そう、それからだ。強くなって、純夏を護ってやる、って。そう、決めていた」

「スミカ……」

 その名を、遂に、耳にする。

 武の心の奥底にいたであろう少女の名。カガミ・スミカ。武だけではない。茜にとっても禁忌に等しいその名を……遂に、武自身が口にする。

「俺は、純夏を護りたかった。あいつがくれたこのリボンを御守りにして、いつでも、あいつを近くに感じていて……だから、どれだけ辛い訓練でも耐えられたし、頑張れた。そのひとつひとつが、純夏を護るための力になるんだと、信じていた」

「…………好いていたのだな、そなたは」

 ――ああ、今でも純夏を愛している。

 迷いもなく、躊躇いもなく。

 武はそう言った。はっきりと。しっかりと。少しの危うさも悔恨も見せずに。それが、冥夜には痛い。

「98年にBETAが京都を落とした時……やばい、って思った。俺達は北海道に転属することになって、益々焦ってしまって……俺は、………………」

 沈黙が続く。きっと、それは武にとって未だに赦すことのできないなにかなのだろう。冥夜はただ黙って、武が語るのを待っていた。

「俺は、取り返しのつかないことをしてしまった。純夏のことはなんだってわかっていたはずなのに、あいつが、“そうしてしまう”ことなんてわかっていたのに。…………逃げなかったんだ。俺を信じて、俺が護ってくれるって信じて……純夏は……死んでしまった。その時俺は北海道で、あいつが、この柊町と一緒に消えるのを……ただ、黙って見ていたんだ……ッ」

 ぎり、と。武の拳が鳴る。握り締められたリボンが儚いくらいに風に揺れている。息を詰まらせるほどの、感情。武の激情はいかばかりだろう。冥夜には、想像さえ出来ない。

 自身が護りたいと願った想い人を、その喪われる瞬間を、手の届かない遥か遠方より傍観するしかない。それ以外に、出来ることのない事実。もし自分がそんな状況に立たされたなら、果たして正気でいられるだろうか。底知れぬ寒気が、肩を震わせる。――そうか、これが、これが白銀武の――ッ。

「純夏を喪って、自分を見失った俺を、水月さんが支えてくれた。壊れそうになる俺を救ってくれた。……涼宮もずっと傍にいてくれて、一番近くで支えてくれて……そして、なんとか前を向くことが出来た。それから、お前たちに会って、月詠中尉と出逢って…………中尉は、俺が進むべき道を示してくれて、導いてくれて、そして、たくさんの想いを託してくれた」

 水月、という名には覚えが在る。武が、そして茜が尊敬し、憧れる先任の名だ。速瀬水月。なるほど、武にとっての彼女は憧れ以上に大きく、情の深い存在なのだろう。

 さっきからずっと、胸が熱い。鼓動が早くなり、眦が滲んでいる。

「それで、やっと、本当に、俺は……たくさんの人に支えられて、取り返しのつかない過ちを犯して、でも、それでも、護りたいひとたちが居て…………あぁ、俺、なに言ってるんだろうな。滅茶苦茶だ。はは……っ」

「……よい。気にするでない。……わたしには、ちゃんと届いている。そなたの護りたいもの。戦う理由。……しかと、胸に刻んだ」

「そ……か。ありがとうな、御剣……」

 礼を言うのはこちらの方だ。冥夜は笑う。涙を浮かべて微笑む武に、負けじと、笑う。

 わかったことがある。武が語った中で、明らかにされたことがある。――純夏。その少女。鑑純夏。武にとっての全て。愛しい人。護りたい人。喪われた、恋人。絶望に苛まれ、ともすれば発狂してもおかしくない状況で、それでも、手を差し伸べて支えてくれた人々。

 きっと、武が今、護りたいと願う人たち。水月、茜、真那――或いは、出逢い、触れ合った全ての人々か。

 辛かっただろう。哀しかっただろう。苦しかっただろう。憎らしかっただろう。様々な感情に、翻弄されたのだろう。――でも、それでも武はそれを乗り越えて、立っている。護りたい人たちを護ると、戦う、戦えるのだと、拳を握っている。

 その姿を、誇らしいと思う。

 その在り方を、尊敬する。

「そなたは強いな……白銀」

「そう、かな……。自分じゃ、そうなりたいと願っているんだが……」

 強いさ。冥夜はただ頷いて、眼を閉じる。不思議な感覚があった。かつて知りたいと思った武の全てを知った。彼の哀しみの過去を、心震える今を。全て。

 満たされたように思う自分がいる。まだまだ知りたいと願う自分がいる。どちらも間違いなく自分の心で――ああ、そうか。冥夜は、知る。自分はもっと、武と共にいたいのだと。……だが、それは叶うまい。武の心には今も幼馴染の彼女がいて、そしてそれと同じくらいに大きく、茜達がいるのだ。

 そこに、冥夜が座る椅子はないのだと思う。彼が護りたいと想う人たちの中に、自分もいればいいなどと願うことは、きっと、傲慢に過ぎる思いだろう。だから、口にはしない。

「……すまん、なんか、変な空気になっちゃったな。……あ~、と、その」

「よい。そなたが気を遣う必要はない。二ヶ月前ではあるが……それを聞かせて欲しいと願い出たのはこちらなのだ。突き放すことも出来たその願いを聞いてくれたことに感謝する。――そして、そなたの武運を祈らせて欲しい」

 頬を掻く武に、冥夜は朗らかに微笑んだ。目礼し、武がこれから進むであろう過酷な道を、その未来を、せめて支える一つになれと。祈る。

「そなたに感謝を。白銀」

「…………」

 目を開けて笑う冥夜に、少しだけ照れくさそうに。武も笑う。

 そして二人は基地内に戻り、それぞれの部屋へ続く道で別れる。別れ際に、今更だが、と付け加えての武の忠告を、冥夜は素直に聞き入れることにした。

 彼の任官が機密扱いであろうことは何となく予想がついていたことである。だから、今夜武と会ったことは秘密にしなければならない。――じゃあな。そう言って背中を向ける武を、冥夜はじっと見送った。

 恐らくは、月初めに行われたという朝鮮での間引き作戦。それに参加したのだろう武。あの顔の傷は、その戦場で負ったものなのではないか。……だが、それさえ、冥夜には知ることは許されない。

 既に立場を違えている二人だ。極秘裏に任官し、何がしかの任務に就く武と、未だ総戦技評価演習さえ合格できていない訓練兵の自分。そこに隔たる壁は、高く、分厚い。

 いつか自分も彼に追いつく時が来るのだろうかと想像し……必ず、追いついてみせると。そして、その傷ついた背中を支えることができたなら、それはどれだけ自身の心を満たしてくれるだろうか、と。

「……涼宮には間違っても話せんな…………」

 無論、機密であるならば誰にも話すわけにはいかない。そもそも冥夜さえ武と出遭ってはいけなかったわけであるが……ともかく。誰よりも武のことを想っているだろう茜が知らない武の任官を知れて、ほんの少しだけ優越に浸る自分がいる。

 それを浅ましいとは思わない。むしろ、自分にもそんな可愛らしいところがあったのかと驚いてさえいる。

 そんな、気を抜けば込み上げてくる微笑をどうにか誤魔化しながら……冥夜は部屋に戻る。自己鍛錬で汗を掻いた服を脱ぎ、浴室へ。

 シャワーを浴びながら……どうしてか、鼻歌を歌ってしまう彼女が、そこにいた。







[1154] 復讐編:[十二章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:32

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十二章-02」





 指示された椅子に座り、えもいわれぬ緊張の元、ペタペタと頭部にセンサーを貼り付けられる。スチール製の机を挟み、対面にはイリーナ・ピアティフ中尉。机上には長方形のケース。蓋のないそれには白いカードが詰められている。

 センサーから伸びるコードは部屋の隅に置かれた測定器へと繋がっていて、その計測データは隣室に備えられたコンピュータ端末へとリアルタイムで送信されるらしい。

 投薬開始から四週間。

 前回と同様によくわからない問診という名の精神鑑定――だと、武は想像している――を終え、そして、連れられたこの部屋。B19フロアの一室であるそこは、あの脳ミソの部屋とは遠く離れた場所に在り、当然ながら立ち入るのは初めてであった。

 白を基調とした、明るい色合いの部屋に、ピアティフと正面から向かい合う。涼しげな表情でセンサーだらけになった武を見つめる彼女に、少々どころか大いに緊張するわけだが、そんな彼の心情など、香月夕呼に届きはしない。

 夕呼はセンサーの接続を確認すると、ピアティフに何事か言い含めながらに部屋を出る。恐らく、隣りのコンピュータ端末に送られるというデータを観測するためだろう。……そういえば、昨年もこのように体中にセンサーを付けられ、色々と測定された記憶がある。その時は武の戦術機適性を解明するための初期データを計測するためだったが……果たして、今回のこれは如何なるものか。

 去っていく夕呼の背中を無言のまま見送るが、矢張り彼女は振り返りもしなかった。……当然だ。実験動物に見せる感情など、ありはなしない。今の彼女にとって重要なのは、この測定で彼女が求めるデータが得られるかどうか、なのであろう。

 この、何が始まるのかさえ知らされない実験……それにおける武の脳波、というものを測定する意味。考えたところで埒もないが、例えば四週間、という区切り。渡された薬は約二ヶ月分……即ち、既に半分に至ったわけだから、これはそれなりの途中経過を確認する意味での測定実験なのではないだろうか。

 これまでの日々に、武の身体に目に見える変化は、ない。身体が痛むわけでも、発疹が出るわけでも、或いは体調を崩すわけでもなかった。楽観的に考えれば、身体的には何の副作用もない……ということになるのだろう。そして同時に、矢張りこの薬は肉体に作用するものではないという証明になる。そこまでを昨日の内に整理していたが、ならば、余計にわからないのだ。

 科学的な知識は正直に疎い。爆薬や軍事兵器に通じる知識はあらかた修めているのだが、こと生物学的な分野や、心理学のような部類になるとお手上げだ。そしてどうやら、夕呼はそちらの分野における権威ということらしい。……ならば、どこまでいってもわからないものはわからないのだ。

 既に二週間前に、「考えても無駄」と自身に結論している。今更頭を悩ませたところで、自分の知識にないことを妄想しようとしてもどうにもならない。

 ならば考えるな。武に対して何の指示もないということは、目の前のピアティフが何がしか実験の主導を握るということだろう。

 香月夕呼の腹心。秘書官、という位置づけの彼女が夕呼との間に割り入る意味。或いは、この実験は夕呼では行えないという可能性も在るが……多分違う。わざわざリアルタイム転送されるデータを観測するために隣室へ移動したのだ。それは即ち、夕呼には何らかの確信があって、それに基づいたデータを目の当たりに出来ると予想するからだろう。

 後からデータを精査すればそれを拾うことは出来るのだろうが……そこは科学者の思考回路である。武には色々と予想のつかない夕呼の性格というものもあるだろう。

 どう足掻いたところで結局のところ、武には大人しく座っていることしか出来ないのだ。命令どおりに薬を服用し、今日という日にきちんと夕呼の下に訪れる。任務に忠実な軍人である以上、避けえない道だった。

「……では、実験の説明をします」

 耳に優しい声音が響く。ほんの僅かにまろやかな声。かつてはヴァルキリーズの戦域管制をしていたというだけあって、ピアティフの流暢な日本語はとても聴き取りやすく、透る。

 彼女の手には以前夕呼が手にしていたバインダーがある。そこに書かれているだろう文面を追うように、ピアティフの声が続く。

「カードの絵柄を当てる……?」

「そうです。ここには100枚のカードがあります。その全てには、丸、三角、四角、の三種類のマークが描かれています。ランダムに並べられたそれを一枚ずつ私が引きますので、白銀少尉はそのマークを当ててください」

 意味がわからない。どころか、胡散臭すぎる。――なんだそれは、というのが武の正直な感想である。

 超能力でも試そうというのか? 透視能力……とか、そういった何がしかの超常現象でも期待しているのだろうか? 自慢ではないが、武にそんなものはない。裏返しにされたカードの絵柄を、それを見ないままに言い当てるなんて芸当を、出来るわけがないではないか。

 しかしピアティフはいたって真面目な表情で……そして、それ以上の説明もまた、ない。

 本気で言っているとわかった。本当に本当に、彼女は今からそれをやれと言うのだ。出来るできないではない。“やる”のだ。ピアティフが引いたカードの絵柄を当てる。丸、三角、四角。その三種類。確立は常に三分の一。あてずっぽうで適当に答えても正解率は三割を超える。……これが、実験。夕呼が大真面目にこれだけのセンサーを貼り付けて、器材の接続を確認して、今も既に隣室で計測されたデータを観測している。……その実験の内容が、透視能力?

 莫迦莫迦しい、と思うと同時に――ならばなぜ、ここまで大掛かりな装置を用意してまで実行するのか、と考える。

 考えろ。よく、考えろ。

 相手はあの香月夕呼なのだ。極東最大規模を誇る横浜基地の副司令にしてオルタネイティヴ第四計画の総指揮を執る鬼才が、直々に執り行う実験なのだ。これは、そう、そういう立場に在る彼女が、大真面目にやろうという実験なのである。それを履き違えてはいけないし、忘れてはならない。

 彼女には間違いなく、何らかの確信がある。だからこそこの場をピアティフに任せて自身は隣室に移ったのだ。

 ――ならば、自分には本当に、そんなことをできる能力が?

 “ある”、の、だろう。

 ……………………否。

 “備わった”、のか。

 ここまでの状況が揃っていて、何を目を逸らす。いい加減、気づいたはずだ。いや、むしろそうとしか思えないし、それ以外には在り得ない。

 身体にはなんの影響も及ぼさなかったあの薬。今日までに何粒呑んだ? 九粒。九回。それは多いのか少ないのか。……だが、こうしてこんな実験を行う価値が在るくらいには、既に「発症」しているのだろう。

 絵柄を当てろと言う。それを答えろという。それができるはずだと……そう、言う。ならば、あの薬の効果とは……即ち。



 それは脳髄を侵食する、劇薬。



 冷や汗が、こめかみを伝う。ぐびり、と喉が鳴った。では、とピアティフが口を開く。――質問はないようですね。そう言って、ケースに収められたカードの、一番上を引いた。

 白いカード。反対側は見えない。きっとそこには彼女が言ったとおりに三種類のマークの一つが描かれていて、そしてそれを答えなければならない。

 ……どうしろというのか。透視能力というものが本当に備わっている……或いは備わりつつあるのだとして、それはどうすれば発現できるのだろうか。じっとカードを見つめてみる。意味もなく意識をカードに集中させてみたりする。……カードだ。ただの、白いカード。全然、全く、微塵たりとも反対側の絵柄など見えてこない。

 本当に、こんな実験に意味は在るのか? 疑問ばかりが浮かぶ。わからない。わからない。一切合財なにもわからない。夕呼が武に求めるものがなんなのかがわからない。

「……あの、全然、わかんないんですけど……」

「…………そうですか。では、…………そうですね、……私は今、このカードのマークを見ています。私は引いたカードのマークを思い浮かべますので、それを当ててみてください」

「……?」

 恐る恐る正直なところを述べる武に、ピアティフは一つ考える風にして、バインダーに綴じられている書類に眼を通しつつ、答える。やり方を変えろ、ということらしい。……どちらにしろ、奇妙なことには変わりない。カードを透視するか、ピアティフの思考を透視するか、という違いは在るのだろうが…………果たして、それでわかるとは到底思えない。

 しかし、やれといわれたからにはやるしかない。

 くどいようだが、これは夕呼が直々に執り行う実験であり、恐らくはその能力開発のために自身は投薬を続けていたのだ。そういう前提が在るということを、間違えてはいけない。例えピアティフが言うようなやり方でカードの絵柄がわからなかったのだとしても、それはそれでいいのかもしれない。つまり、現段階では夕呼の求める能力が、まだ武には備わっていないという事実が得られるわけだ。――これが、本当にそういう目的の実験なら、ではあるが。

 繰り返し浮かんでは消える、考えても無駄、という諦め。無駄と知りつつもつい考えてしまう己の底の浅さに辟易としつつ、指示されたとおりにピアティフの思考を読もうと試みる。

 ……といっても、なんの予備知識もない武である。彼に出来ることといったら、先ほどのカードの時と同じく、ピアティフの顔を見つめるだけだ。







 ○







「えっ――?」

 ぎょっ、と。心臓が強張ったような感覚。なにか、視えた……ッ?

 莫迦な、と頭を振る。見開かれた目を、もう一度ピアティフに向ける。彼女が思い浮かべる絵柄……カードに描かれた図形。――「○」、だ。

「……………………丸、です」

 額に汗が浮かぶ。莫迦な莫迦な、と心臓が鼓動を繰り返す。カードがめくられた。武の視界に映る絵柄は……「○」。

 ――在り得ない。

 単なる偶然と、そう思いたい。頬が引き攣った。ピアティフの表情は涼しげなままである。武の困惑など知ったことではないというように、彼女は二枚目のカードを引いた。武の側には白い面を。そしてピアティフは絵柄を見、それを脳裏に描く。……再び、武はピアティフの表情を覗いた。ふ、っと。武の脳裏に現れるものが在る。――「△」、なの、だろうか。

「…………三角、」

 喉がカラカラに渇いている。貼り付く舌を引き剥がすように答えた武の目に、めくられたカードの絵柄が映る。「△」。ははは、大正解だ。――在り得ねぇだろ。

 最早引き攣った笑みを拭うこともできない。

 莫迦な莫迦な、在り得ない在り得ない。たった九回の投薬で。たった九粒のカプセルで。何でどうして一体何故、どういう理屈でこんな芸当が出来る? そんな能力が、備わるっていうんだ?

 それは脳髄を侵食する、劇薬。

 ならば既に武の脳ミソは通常のそれとは異なった機能を備えているというのか。あの薬は人間の脳を改造してしまうほどの劇薬だとでも言うのか!? 莫迦な莫迦な。それこそ莫迦な、だ。

 引かれる三枚目のカード。脳裏に浮かんだ絵柄は「○」。めくられたそれを確認するまでもなく――もはや厳然とした確証があった。――ほら、アタリだ。

 気持ち悪い。

 怖い。

 震える。

 吐き気が。

 なんだこれ。

 なんだよこれ。

 どうしたっていうんだ。

 なにをしたっていうんだ。

 こんなの気持ち悪い。

 なんでわかるんだ?

 なんであたるんだよ。

 見える。

 視える。

 わかる。

 なんで。

 どうして。

 これが。

 これが、あの、クスリの。

 副司令の求めるもの。

 意味がわからない。

 理解できない。

 なんで。

 なんで、なんで、なんで。

 俺の脳ミソ。

 狂ってる。

 こんなの普通じゃねぇ。

 ――――なんで、全部、当たるんだよ……。







 的中率100パーセント。

 100枚のカードの絵柄を全て言い当てて見せて、武は、憔悴に項垂れていた。頭が痛い。気持ちが悪い。吐き気がする。鬱血しているような感覚。ぎりぎりと、心臓が軋む。べっとりとした汗が全身を濡らして、息がまともに行えない。顔面は蒼白。血の気がなく、瞳は澱んでいる。

 ――狂ってる。

 それは自分の脳ミソか。それを実行した夕呼か。……或いは、そんな薬を開発したという誰かか。効果は実証されている、と夕呼は言った。ならばこれはわかりきった結果であり、そして、その結果に到達するために、幾許かの被験者がいたのだろう。

 狂ってる狂ってる狂ってる狂ってる。――この、イカレ野郎が……ッ。

 脳が茹るように熱い。ぐらぐらと血液が沸騰するような錯覚。椅子に座っているはずなのに、無重力を漂っているような感覚がする。死んでしまいそうだ。

 ピアティフは何も言わない。彼女は書類を整理している。たった今終了した透視実験の結果をまとめ、バインダーと一緒に小脇に抱えた。

「お疲れ様でした、白銀少尉。……実験はこれで終了です。すぐに香月博士を呼んできますので、もう暫くお待ちください」

 自分より階級の低い武に対して、なんとも礼儀正しい女性である。

 能力……そう言ってもいいだろう。それを連続して使い続けた反動なのだろうか。武は返事をする気力もないほどに、かつてない心身の異常に苛まれていた。脳髄が暴れまわっている気がするのだ。神経のひとつひとつ、そして脳内で生成されるという様々な化学物質が氾濫しているような。それが吐き気を始めとする症状を生み出して……。

 ドアがスライドする音。ピアティフの気配が消えた。……なのに、彼女のいる場所が、わかる気がする。――莫迦な莫迦な。気のせいだ錯覚だ幻覚だ!

「……副司令が、来る……」

 ドアまで二歩、一歩――――ドアが、スライドした。武は口を噤む。両手で頭を押さえつけるようにして、額を机に押し付けて呻いた。

 カツカツと夕呼の靴音が響く。武の正面へとまわり、ピアティフが腰掛けていた椅子に座る。言葉はない。武も何も言わない。ただひたすらに、気分が悪い。おぞましい吐き気が纏わりつく。

「……………………俺は、どうなってるんですか…………?」

「さぁ、どうなってるんだと思う?」

 ――バンッ! と、両手の平を机に叩きつける。スチールの硬い音が室内に響いた。

 ゆっくりと顔を上げる。その表情は……多分、怒りに歪んでいた。ズキズキと脳が痛む。喉をえずく吐き気、暴れ回る心臓。――クソッタレ。

 けれど、夕呼は……笑っていた。自身に向けられた怒りを感づいていないわけがないのに、まるで気にした風もなく、悠然と佇んでいる。それが、酷く憎らしいと思えた。――ああ、そうだろう。そうだろうとも。

 夕呼にしてみればこれはわかりきった結果だったのだ。彼女は最初からこれを目的に武に薬を飲ませていたのである。それに気づけなかったのは武だ。理由を尋ねても教えてくれなかった……当然だ。こんな薬、知っていたら呑むわけがない。一体自身の脳にどれほどの変革が起こっているのかは想像もつかないが、それでも、これは……あんまりだ。

 こんなのはニンゲンではない。こんな能力はニンゲンには不要のはずだ。他人の脳ミソの中身が覗けるなんて……そんな、おぞましい能力。100枚のカードの絵柄を、100枚とも完璧に言い当てることの出来る。そんな能力。なんだというのだ。それが、一体、なんだっていうのか。

 わからない。わからない。これっぽっちもわからない。

 夕呼の考えが理解できない。或いはこの能力を巧く使えばそれを知ることも出来るのだろうか――厭だ、そんなことはしたくない。ニンゲンで居たい。ニンゲンにはそんな真似は出来ない。だから、絶対に、厭だ。武は歯を食いしばった。ぎりぎりと奥歯を鳴らして、爆発しそうな感情を押さえ込む。――夕呼の言葉を、待つんだ。

 ここまであからさまに薬の効果を示したのである。これで何の説明もないなんてことはあるまい。夕呼ほどの人物なら武がこういう反応を見せることも想定済みだろう。ならば、武が抱くであろう感情についても想定の内。そして、そんな反感を抱いた武を今後も手駒として活用するための手順を、彼女は用意しているはずである。――女狐め。反吐が出るとは、多分こういうことだ。

「顔色が悪いわね。何か悪いものでも食べたんじゃない? …………はいはい、そんなに睨まない。冗談よ、じょーだん」

 肩を竦める夕呼。武は無言のまま、彼女を見る。……睨み据える、と表現するべきなのだろうか。彼我の距離は二メートルもない。沸騰を続ける精神が爆発したならば、恐らく二秒と掛からずに脳天を叩き割ることができる。そんな距離だ。

「……あんたももう気づいてると思うけど、あの薬は、要するに“超能力”を覚醒させるための起爆剤、という代物よ。正式には、リーディング能力、って言うんだけどね」

「……リーディング……?」

 そう。頷いて、夕呼は足を組む。不敵に唇の端を吊り上げて、実に愉しげな表情をして見せた。……どうやら、説明することが愉しいらしい。或いは、それを間抜け面に聞き入る武を嘲ってか。

「リーディング能力……端的にいえば、ヒトの思考を、イメージとして読み取る能力。それは単純に絵として、或いは動的な映像として。音声さえもイメージとして読み取り、それを自身の脳内で再生することができる能力。今あんたがこの実験でやってみせたのは、それよ。ピアティフの思い浮かべたカードのマーク。そのイメージを、あんたは読み取った」

「あの薬を呑ませたのは、俺にその能力を与えるため……ですか」

「そうよ。それ以外になにがあるっていうの? ……まぁ、あんたが聞きたいことは大体わかっているから……そうね、順を追って説明しましょう」

 ニヤリと嗤って。その微笑は、武にとって悪魔の微笑みと等価だ。――最早、夕呼をヒトと思えない。

 夕呼は椅子の背もたれに体重を預けて、艶めかしい瞳を輝かせる。美しい相貌……それが、この上なくおぞましい。この科学者が何を思い、何を考え、何のために武をこんな風に「改造」したのか。それを知り、納得するまでは――納得など、出来るのだろうか――もう、この科学者を信用などできない。

 直属の上官だろうが、AL4の責任者だろうが……関係ない。ただの手駒に甘んじるつもりはなかった。既に彼女の掌から逃れられないのだろうが、それでも、意思在るニンゲンとして、抵抗くらいはしてみせる。――すべては、彼女の話を聞いてからだ。

「1958年、火星に到達した探査衛星がBETAを……当時はまだBETAなんて名前がついていないから、単純に地球外生命体の姿を捉えた後、国連の招聘を受けて各界の権威というべき識者が数多集められたわ。目的は、発見された地球外生命体――即ちBETAとのコミュニケーション方法を模索するため。そのプロジェクトの名は、“オルタネイティヴ計画”。1966年にスタートしたオルタネイティヴ1は、諜報活動や和平交渉など、あらゆる目的を達成する必要に迫られた結果召集されたのよ。動物学者、言語学者から数学者、各国情報機関の暗号解読チームまで投入して、BETAの言語、コミュニケーションの手段を解析しようと試みた」

「……!?」

 いきなり明かされた事実に、驚愕する。――1966年!? AL1!?? 聞いたこともないその名。BETAとのコミュニケーション方法を模索するため……だって?!

 三十五年も前から、それこそ、連中が発見されてから十年も経たぬ内に。1966年といえば、まだBETAによる侵略は始まっていないはずだ。……ならば、それゆえの、未知との遭遇に沸いていた時代。史上初の発見となる地球外生命体とのコミュニケーション……。なるほど、理屈としては、当時の科学者達の気持ちもわからないではない。

 太陽系外から飛来した可能性の在るBETA。惑星間航行技術さえ保有しているのではないかと予想され、ならばこそ、それだけの知性を持った相手の意図を探ろうとするのは当たり前のことだろう。夕呼は一科学者としての当然とも言える見解を交えながらに説明する。……そして、AL1は失敗した。

「BETAの言語を解析するどころか、そもそも言語が存在するのかも謎のまま……計画は暗礁に乗り上げて破棄されたわ」

 ……確かに、未だに連中の情報伝達の仕組みはハッキリしていない。奴らに戦術的思考が在るのか……在るのだとして、それを実際の戦術に反映させる手段はようとして知れない。例えば光線級のレーザー照射にあわせて回避行動を取る……その統制された行動には何らかのシグナルがあって然るべきなのだが……人類は、それを見つけられないでいる。

 三十五年が経過した今も変わらずに謎のまま……。当時の科学者達を無能と嘲ることなどできなかった。

「それを受けて1968年にスタートしたAL2は、BETAを捕獲し、その生体を研究・解明することで彼らとの直接的なコミュニケーションを図ろうとする計画だったわ。その生態を調査するために、彼らの肉体に対するありとあらゆる調査と分析が行われたの。……思いつく限りの方法で、ね」

「…………」

 淡々と語っているが……その研究の内容は、出来るならば知りたくはない。恐らくは解剖に始まり、或いは様々な環境下での実験。……しかし、この計画もまた、要求に値するだけの成果を得ることは出来なかった。

 確認されている数種のBETAには種を特定するための特徴は一切発見できず、各個体には消化器官も生殖器官も発見できなかった。そんなでたらめな数種類の生物が、高度な科学技術を持つ社会を形成して地球圏に侵攻してきたという事実は、人類を戦慄させるに十分だった。天文学的な予算と、サンプル捕獲のために莫大な犠牲を払った結果わかったこと。BETAは、炭素系生命体であるということ。――ただそれだけ。

 当時、既に月面でBETAの猛威を目の当たりにした人々にとって……AL2のもたらした事実など、なにひとつ気休めにならなかっただろう。わかったのは、敵に関する情報の一切合財が“わからない”という事実のみ。不理解は恐怖を生む。そして、その恐怖は間違いでもなんでもなく、敵は強大で圧倒的で、絶大だったのだ。

「1973年、BETAの地球来襲をきっかけに、計画は第三段階へ移行。彼らが社会を形成し、人類に対し組織的な行動を取っている以上、そこには必ず、思考や意思があるはずだ――という前提で計画された、半ばやけくそなプラン」

 言葉を切り、夕呼が武を見つめる。向けられた視線を訝しく思いながらも……しかし武は険しい表情で見つめ返すだけである。……なんだというのか。なにか、厭な想像が過ぎる。

「BETAの思考リーディングを目的とし、ソビエト科学アカデミーを母胎に開始された人工ESP発現体の研究……それがAL3よ」

「……ッ!!??」

 リーディング……だと? まさか、と驚愕に表情が歪む。確かに今、夕呼は言った。リーディング、と。

 解剖してもわからない、話も出来ない。だから、奴らの心を読んでしまおう……流暢に謳うように。夕呼はかつての計画を口にする。……気持ちが悪い。なんだ、それは。

 人工ESP発現体……。ESP、即ち、超能力者と総称される人々……。人工というからには、生まれつきそのような能力を有している者、という意味ではないだろう。

 例えば武のように。

 クスリによって「発症」した……そんな、ニンゲン。

「もともとソビエトではそっち方面の研究が国家プロジェクトとして進んでいてね、数世紀に渡って計画的にESP発現体同士を結婚させて、より強力な発現体を発生させてきたのよ。……勿論、それ以外にも様々な手段が考案されたのだけど……。例えば、ESP能力を持たない一般人を対象に、“投薬を重ねて無理矢理にESP能力を付与したり”……なんて、ね。実験に実験を重ね、数え切れない犠牲者を出し、それでも邁進し続けた狂人の執念、とでも言うべきかしらね。ともかくも、ソビエトにはそういう分野を、国家が、本気になって取り組んでいたのよ。そして、だからこそAL3の中心を担うこととなった」

 吐き気が、する。なんだそれは。

 ESP発現体同士を結婚させて、その子供がより強力なESP能力を発現できるように? 人体実験を重ねて、人工的にESP能力を発現させて?

 ソビエト科学アカデミー……。ああ、なるほど。あのバインダー。「Академия」――アカデミー、か。あれはキリル文字。ソビエト語、だ。……本当に、そういうこと、なのか。

 それを、人道的ではないと声高に叫べばいいのか。狂人の執念と夕呼は言う。ほんの僅かに忌々しそうに見える表情。それが嘘でないというならば……否。ならば何故、彼女はそれを武に強制したのか。その答えはまだ、口にされていない。

 気が狂いそうだ。気が狂って死にそうだ。

 でも、まだ、話は続いている。そしてそれは過去の話であり……実際に、人類が刻んだ黒歴史でもある。人類がBETAを知ろうと足掻いてきた軌跡……それを罪深いと呪うならば、全てを知らねばなるまい。

「AL3では、その中でもリーディング特性の高い発現体を選んで…………人工授精で大量生産し、遺伝子操作で特性を強化していったのよ」

「…………な、……に…………ッ、」

 表情を殺した貌で、夕呼は言った。

 人類が絶滅に瀕している状況で、そこに倫理を求める余裕はなかった。彼らはなんとしてもBETAの意思を知り、思考を読み取り、その目的を、或いは生態系を、情報伝達の術を、直接的な弱点を、有効兵器を、戦う術を、滅ぼす手段を、生き残る方法を……知らねばならなかった。そうしなければ、滅びてしまうのだと。

 それは……そのとおりだ。敵を知らずして、その存在を知らずして、どう戦えというのか。だから知らねばならない。知る必要が在る。……そう、オルタネイティヴ計画とは、BETATとのコミュニケーションを…………奴らのことを知るための計画だ。人類の叡智を集結させ、一丸となって臨む一大プロジェクトだ。そこに躊躇はなく、そこに妥協はなく。ありとあらゆる、考え得る全ての方法、その中でも最も確立の高いだろう手段を講じて進められるのだ。

 BETAの言語を解明できず、BETAの生態系を解明できず……だから、ならば、その心を読もうという試み。……決して、無謀ではなかったのだ。

 既にソビエトで実証されていたのだから。そういう能力を持つESP発現体――数世紀に渡る人体実験の集大成。その存在が、あったのだから。

 だから。

 そう、だから――だから彼らは、BETAの思考を読もうとしたその時。最大の効果を得るために、彼らを「大量生産」した。それを出来るだけの予算を、得たのだから。だから……そうした。それをすればBETAの思考を読み取れて、奴らの考えていることがわかって――そうして、奴らとの戦争に光明を見出せるのだと、信じて。



 反吐が、でる。



 本当に、狂いそうだった。……いや、当に、壊れている。

 なるほど。正に人類の危機。そういう局面に立たされていて、そうして、AL3の中心を担う連中には、“そんなこと”を極当たり前に実行できる狂人たちが跋扈していたのだ。なにせ国家プロジェクトである。国がそれを求めた。そういう基盤が在るのだから、彼らにとって、ESP発現体を生産することは呼吸するのと同じくらいに必然で当然なものだった。

 そして、一般人を薬で改造するよりも、ESP発現体同士の子供を育てるよりも、一度に、大量に、人工授精だろうが人工子宮で培養しようが、遺伝子を弄くって能力を強化しようが――否、むしろそうする方が確立も効率も上がるのだから、それは当然そうするべきだったのだ。

 ははははは。

 そうかそうか。ニンゲン誰だって無駄なことはしたくないし、少しでも可能性が高まるならその選択をするべきだ。御尤も。軍人なら誰だってそうする。科学者だって勿論そうする。当たり前だ。それが、課せられた使命であるならば。成すべきことならば。ああ、理解しよう。理解してやる。

 じゃあなんで、こんなに怒れているのか。狂いそうだと言いながら、既に壊れていると自覚するのか。

 ああ、それもまた当然だ。――だって、俺も、そのひとりとなってしまったのだから。

「リーディング能力には弱点があって、目標に一定以上接近しなければ正確に思考を読み取れないの。大勢の発現体が、ハイヴの中枢を目指す突入作戦に投入されたわ。BETAの思考を読み取るためにね……。作戦に投入された発現体の生還率はたった6パーセント」

 酷いものだ。……だが、それも当然だろう。むしろ全滅しなかったことを褒めてやりたいくらいである。そして、からがらに生還した発現体は、結果としてリーディングに成功した事実を報告した。

 BETAにも、思考が存在する。

「唯一わかったことは……BETAは人類を生命体として認識していないということ」

「…………はっ、――――はははははははっっ!!」

 右手で顔面を覆う。――なんだそりゃっ!? なんだなんだなんだそりゃあっ!? ああ知っているさ。任官したそのときに、みちるから教えられているさ! BETAは人類を生命体として認識していない。そんなこと、わかってるよ――ッ!

 ああそうか。そうなんだ。そういうことだったのか。

 今まで講義や座学を通して知りえたBETAに関する情報、知識。それらは全部、オルタネイティヴ計画の結果、判明した事実を公表していたわけだ。そして、それしかわかっていない。本当にそれだけしかわかっていない。

 天文学的予算を食い潰して、莫大な犠牲者を出して――BETAが炭素系生命体だとわかった。

 非人道的手段を奨励して、そこに至るまでにも、そして至った後も。数え切れない人体実験の成れの果てに得られたものは――BETAが人類を生命体として認識していない事実のみ。

 くそったれ。

 くそったれだ、この世界は。そこまでして、そうまでして、それほどのことをやって……結局、わけがわからない、そのまま。

 狂っている。狂っている。とっくの昔から、人類は狂っている。いや、狂わされたのか。……BETAによって。

 ああ、可笑しい。笑いが止まらない。なんで、こんなに怒れている? 嗤っているのに、ちっとも、スッキリしない。苦しい、熱い、死にそうだ。――いっそ、殺してくれ。

 自分もそのひとりとなったのだ。自分もその成れの果てのひとりなのだ。

 遺伝子を操作されなかっただけマシだと喜ぶべきだろうか。お望みどおりの能力を宿したことを褒めてもらえるのだろうか。――くくくはははっ。

 ふざけんなよ、畜生。

「…………その嗤い、止めなさいよ。頭にくるわ」

「……すいません。つい。……どうぞ、話を進めてください」

 睨まれる。感情をむき出しにした夕呼など初めて見た。……だから、というわけではない。もうとっくに壊れている自己を、気づけば晒していた。みっともない。見ていられない。――俺は本当に狂ってしまったらしい。

 ESP発現体。リーディング能力者。そうなった自分。そうされた自分。投薬実験。ソビエト科学アカデミーの集大成。人工授精遺伝子操作エトセトラエトセトラ。数知れぬ被験者達の屍の上に、今、自分は立っている。

「……リーディングと対を成す能力に、プロジェクションという能力が在るんだけど……これは簡単に言えば相手に自分の思考や感情を、イメージに変換して投影する能力よ。発現体たちはリーディングと同時に、人類が考え付くありったけの“和平”のメッセージを彼らに投影し続けたんだけど……」

 だが、BETAからの反応は無かった。そもそもBETAに“和平”という概念が存在しないのか、人類を生命体と認識できないから無視しているのか。人類のなりふり構わぬ努力にも関わらず、BETAに関してはこの程度のことしかわかっていない。

 そして、AL4――だ。

 夕呼は88年頃から理論の検証をはじめ、91年にそれを認められ帝国大学へ招聘されたという。さらに94年には国連から求められ……AL3の成果を接収し。1995年、AL4がスタートする。

 彼女があのソビエト科学アカデミーの機密文書に該当するだろう、人工ESP発現体を発生させるための資料や、それに必要な薬を持っていたのも、それ故だろう。なるほど、少なからず成果を残した研究である。彼女の提言する計画とやらにも、その能力は有効ということなのだろう。

 さて、それならば。夕呼は果たして武になにをさせるつもりなのか。

 リーディング能力を行使した成果は既に明らかである。人類を生命体と認識していない。……或いは、それ以上の情報を求めてのことなのか。戦場でBETAと戦闘しながらに、奴らの考えていることを逐一レポートに纏めろとでもいうつもりか。なんとも笑えない冗句である。――ああ、だが、我らが崇高なる副司令殿ならば、もっともっと素晴らしい策をお持ちだろう。狂って壊れたこの自分がどこまで役に立てるかは知らないが、精々、駒としての役割を果たしてやろうじゃないか。

 荒んだ思考が空転する。さっきからずっと、脳ミソがおかしい。感情が砕け散っているとでも言えばいいのか。

 ……なんだこれ。自分で自分の思考を観察する。明らかにされたオルタネイティヴ計画の、あまりにも無為な結果に嘆いているのか。斜に構えて、投げやりになって、自暴自棄に浸っているのか。憤り、怒り、猛っているのか。嘲りを浮かべ、へらへらと狂人を装い、それでどうにかなると思っているのか。

 わからない。ただ確信だけが在る。

 絶対に、自分は、碌な目に遭わない。死ぬよりも恐ろしい、死んだほうがマシだと百万回も思うくらいの絶望が、口を開けて待っている。糞喰らえだ。――あんたも俺も、地獄に堕ちろ。

「……オルタネイティヴ4の目的は、00ユニットを完成させること」

「ゼロゼロユニット……」

「そ。それについて話せることはないわ。……ちなみに、あたしをリーディングしようとしても、無駄」

 バッフワイト素子――というものがあるらしい。それにはリーディング能力に干渉する何がしかの波長が出ていて、夕呼はそれを身に付けているのだとか。なんとも準備のよいことである。それもこれも、武の能力を確信していたためであろう。

 さて、こうしてじっくりと親切丁寧に今日に至るまでの足跡を説明してもらったわけだが……結局、武が求める回答はまだ、ない。

 即ち、AL4実現のために奮戦する衛士の一人としての武に、リーディング能力を与えた理由。それを以ってして、彼に何をさせようというのか。

 澱んだ視線を夕呼に向ける。どうにでもなれ、という思考が、確かに存在した。――ああ、今ならばわかる。

 さっきから渦巻いている思考のひとつひとつ。それらが全部、間違いなく自分の思考なのだと。……つまり、錯綜する自己を、その鬩ぎ合う思考を、読んでいる。

 自己に対するリーディング能力の行使。それは恐らく無意識の内に。己の思考をイメージとして読み取り、それが脳内で再生されているのだ。だからこそ、気が狂うほどに、精神が崩壊する。

 ならば先週、原隊復帰を果たす直前の訓練時に見せた感情の暴走も……そして、目の当たりにしたもう一人の自分も。

 それらさえ、無意識に発動していたリーディング能力で自己の思考を読み取った結果だろう。ああ……そうに違いない。思考をイメージで読み取り、あまつさえその声までも再生する。復讐に身を委ねろという誘惑。黒い瞳を闇色に輝かせていたアイツは、間違いなく奥底に眠る“白銀武”の姿を読み取っていたための、幻視だったのだ。

 理解したところで、だからどうしたというのか。尚のこと、自身に備わったリーディング能力の精巧さを示すだけではないか。

 既にこの脳髄は通常のそれではない。

 後天的に与えられた、投薬による化学反応の果ての果て。九回の服用でこれだけの成果を見せるならば、それはそれは凄まじく危険な劇薬なのだろう。技術が確立され、そしてその成果も実証済み。……だからこそ夕呼はそれを手段として用いたのだろうから、今更それを非難するつもりは無い。その思惑は未だ知れないが、結果として武は死んでもいなければ廃人になっている訳でもない。およそニンゲンとはかけ離れた能力を有してしまったものの、まだ、ギリギリでヒトとして存在している。

 それが数多在る命を踏み躙った末であるという事実には感情が擦り切れるが……けれど、それを知ってしまったからこそ、踏みとどまる必要が、ある。

 如何に狂おうとも。

 止まらないと決めたのだ。

 突き進むと決めたのだ。

 この身には、護りたい人たちが居る。護りたい想いが在る。

 救われた命。与えられた生。生き続ける義務。

 迷わない。後悔しない。振り返らない。

 ただ、前へ。

 そうだ。

 それは絶対に、揺るがない。――揺るがせて、なるものか。

「……………………副司令、教えてください。……俺に、何をさせようって言うんですか……」

 視線は夕呼を捉えたまま。澱んだ瞳は薄っすらと意志の光を宿す。

 暫しの沈黙の後に、夕呼は言う。

「00ユニットの完成までにも、やらなければならないことは数多く在る。あんたにはそのうちの一つを手伝ってもらうわ。……オルタネイティヴ計画は、総じてBETAを“知る”ために行われている。それこそが最終目的であり、手段。無論AL4もそれを根底に根ざしているわ。――詳しい任務の内容はまだ言えない。今はまだ、ね。……白銀、あんたは今後そのリーディング能力の訓練を重ねてもらう。幸いなことにあんたには才能が在るわ。それこそ、ソビエトの連中が見たら大はしゃぎして脳解剖の果てに脳ミソをホルマリン漬けにしたくなるくらいの、ね」

 何もいえない。……なにも。

 リーディング能力の訓練……。他者のアタマの中を覗き見ることの出来る能力。……なるほど、正しい使用方法を知らなければ、或いはその制御法を知らなければ、武は不用意に他人の思考を読んでしまうことになるかもしれない。それを防止するための訓練……。若しくは、たかだか百回程度……時間にして数十分程度の能力行使で心身に異常をきたすようでは使い物にならない、という理由からか。

 どちらにせよ、更にニンゲン離れすることには変わりない。

 才能が在る――だと? 武はそのことに関しては鼻で笑った。夕呼なりのジョークなのかもしれないが、ちっとも可笑しくはない。むしろ、それは彼の神経を逆撫でした。

「薬の服用は今後も続けてもらうわ……。能力を安定させるためと…………今更だけど、副作用を抑えるためよ」

「……………………」

 ああ、それはそうだろう。副作用がないなんて楽観は、矢張り、無理があるのだから。

 考えればわかることだ。人工ESP発現体を発生させる手段。たった九回の投薬……自己に対するリーディング能力の片鱗と言う意味では、六回程度の服用で発現させることのできる薬。或いは夕呼が言う武の「才能」というものも少なからず影響していたのかもしれないが……ともかく、それほど劇的な効果を見せる薬を……どうしてAL3では採用しなかったのか。

 人工授精による大量生産。人工子宮の中で育った、遺伝子操作で強化された能力者たち。……この、遺伝子操作を兼ねるためにそれを採用したともとれなくはないが……しかし、そうではないだろう。

 要するに、無理があるのだ。投薬による後天的人工ESP。恐らくは脳内で発生する化学物質を活性化させ、通常の人間が使用していないとされる脳の機能を呼び覚まし、未使用の神経系を活発に躍動させて――そうして、無理矢理に、能力を「発症」させる。

 クスリ。

 それは脳髄を侵食する――魔薬。

 死にはしないと夕呼は言った。そうだろうとも。だがそれは、“すぐに死にはしない”という意味なのか、或いは“廃人は死人ではない”という意味なのか。

 どちらにせよ、……こういうクスリに手を出した者の末路は往々にして決まっている。即ち――襤褸屑のように朽ち果てる。

 クッ、と。喉が鳴った。口は歪な笑みを形取り、胡乱な瞳が、夕呼を射抜く。

「服用を止めたら、どうなりますか?」

「……今ならまだ、言語障害程度で済むわね……」

 上等。

 ならばとことんまで堕ちてやる。――くそったれ。外道め、地獄に堕ちろ。







 ――俺もお前も、地獄に、オチロ。







 ===







 そこから後の記憶は、曖昧だった。

 気づけばいつの間にかPXに居て、水月たちA-01の先任たちと昼食を採っていた。……あのリーディング能力の実証実験が今日の午前中に行われたものなのか、それとも昨日に行われたことなのか……はたまた、遥か以前のことだったのか。そんな記憶が、曖昧だ。

 だが、隣りに座る水月が笑っていて、彼女達が楽しげにお喋りをしていて、笑顔を見せるのだから……ああ、だから、別にいいじゃないか。

 気にすることはない。気に病むことはない。

 自分は軍人であり、軍人とは与えられた任務に忠実であり、そして最善を尽くして最大の結果を得ればよいのだ。――だったら、それでいい。

 どちらにせよ、後には引けない。逃げ場所を奪われていた感は否めないが、しかし、それでも夕呼の命令を承諾したのは自分なのだ。ならばそれは、自らの手でその運命を選択したことと同じだ。

 いや、それは最初から。五月に夕呼の呼び出しを受けて、単独での転属に同意を示したその時から。

 そう。確かにあの時その道を選択した自分が居た。夕呼によって用意されたレールの上を直走るのだと決定した自分が居たのだ。……ならば無論、これもその一つ。夕呼にとっては全て一貫した目論見であろう。だからこそ、執拗に、武を利用する。

 極東最大規模の国連軍基地副司令が、AL4の総責任者が、これほどまで執心してくれているのだ。――光栄なことじゃないか。そう心の中で皮肉って、嘲笑う。

 だが、その夕呼の思惑がどうであれ。

「ホラホラ武っ、なにぼーっとしてんのよ! さっさと食べなさい。休憩時間なくなるわよっ?!」

「えっ? あ、ほんとだ」

 横から、水月の声がする。肩を突かれて、半分以上残っている料理を示される。時計を見れば結構な時間が経過していて……当然ながら、周りの皆は既に自身の食事を終えている。慌てて箸を進めては流し込んでいく。早食いは衛士にとって必須である。訓練兵時代から結構な早食いを誇っていたし、今ではA-01の彼女達に比べても遅れを取ることはない。

 澱むような思考に浸っていたために一人取り残されたが、数分もしない内にすべての皿を片付け、合成宇治茶で一服つく。

(――結局、こうして日常に浸かってさえいられるならば……俺は、)

 水月は知らない。

 彼女に知らせることなんてできない。

 機密だから、という意味ではない。みちるにさえその内容を伝えていないという夕呼の言葉の意味は正にそれを示していたが、けれど、武が口外しないのはそんな理由からではない。

 無論、水月だけでなく。

 今はまだ会えないでいる茜。いずれ再会することもあるだろう真那。かつての仲間達。207部隊の皆。――絶対に、言ってたまるか。

 リーディング能力を知られたくないわけじゃない。……もちろん、それもあるにはある。が、それ以上に。

 緩やかに、そして確実に。狂って、壊れて、死んでいく。そんな自分など、知られたくはない。優しい彼女達のことだ。もしそれを知ってしまったらどうなる? それとも、これは武の自惚れだろうか……。だが、どちらにせよ、いい気持ちはしないだろう。

 ――俺は狂っていて、あのクソッタレのクスリを呑み続けないと死んでしまうんです。

 今も隣りで笑ってくれる水月に、そう言ったならば……彼女は、一体、どんな表情を見せるだろう。…………どんな感情を、心を、見せるだろう。

 そんなもの、見たくない。耐えられない。そっちの方が、万倍も辛い。深く、心を抉る。

 だから、言わない。言えない。知られるわけにはいかない。――だから、そう。

 仮面を被ろう。

 いつかみたいに。いつかのように。精巧で精緻で、誰にも見抜けない仮面を被ろう。

 あの時は無意識だったけど、今度は、ちゃんと自分の意思で。

 復讐者を隠す仮面は無様に剥がれ落ちて割れたけれど。今度のこれは絶対にひび割れない砕けない。絶対に絶対に。

 絶対に絶対に絶対に。

 だって決めたのだから。

 だって誓ったのだから。

 護りたい人がいる。護りたい想いが在る。生きてみせる。生き続けてみせる――例え、終焉が約定された命でも。

 外道の果てに立つ、命でも。

 地獄に堕ちるその日まで、生きて生きて、精一杯生きて……………………ああ、そして。いつか。せめて、奈落に叩き付けられる、その一瞬前に。







 せめて一目、純夏に逢えるならば。







 それで、いい。

 守護者として、生きて、死ぬ。――そうできれば、それでいい。







[1154] 復讐編:[十二章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:32

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十二章-03」





 リーディング能力の訓練……午前中を使用してのその訓練の間、武はA-01部隊から外れている。有事の際には即時原隊復帰が認められているが、それがない限りはずっと、ESP能力の向上と安定のために時間を費やすことになる。

 部隊長であるみちるには、夕呼の「特殊任務」に従事していると説明したところ、既にあらかたの事情は聞いていたらしく……ひどく真剣な表情で「行って来い」と送り出された。

 訓練内容までは知らされていないみちるに、いつも通り、敬礼して応える。B19へ続くエレベーターに向かう道中に、水月とすれ違った。どこに行くのかと尋ねる彼女に曖昧に笑って、

「ちょっと、香月副司令に呼ばれてまして……」

「香月博士に? …………ああ、特殊任務、ってやつね。……そう。しっかりやんなさい」

 笑顔で。パシ、と肩を叩かれる。言葉も仕草も異なるが、それはみちるとよく似ていた。……なるほど、水月は心からみちるを尊敬しているのだろう。或いは、根っこの部分がよく似ているのか。快活で優しさの滲む微笑に、頷いてみせる。

 ――仮面は完璧だ。

 これ以上ないくらい万全、と。そう評していいだろう。

 笑顔を向けてくれる水月に、ほんの少しだけ後ろ暗く感じながら…………エレベーターに乗り込む。独りになった瞬間に、心臓を掻き毟りたくなるくらいの衝動に襲われた。右手で胸を殴るように押さえつけ、左手は、弧月を握り締める。

 極度の緊張か。或いは恐怖か。見えたのは水月の心の色。暖色のオレンジ。決して他者の思考など読みたいとは思わないのに――まるで滑り込むように流れ込んできたその色を、拭い去る。

 そんなモノは、視ていない。絶対に、視てなんか、いない。覗いたりなんか、してない。

 リーディング能力というものを知り、そして、実際に行使した。子供の頃、自転車に乗れるようになったときと同じだ。――一度コツを掴めば、あとは簡単。

 100枚もカードを当てて見せれば、その扱い方など脳裏に刻まれて当然だ。月詠の剣術のように、戦術機の操縦技能のように。既に無意識下に刷り込まれた異能を扱う術。

 何気ない、ただ一言二言をかわすだけの会話の中でさえ、無意識にリーディングしてしまった。……それを、激しく嫌悪する。

 仮面は完璧だった。そのことに、僅かながらに救われる。――握り締めた弧月が、ぶるぶると震えていた。寒い。凍えそうだ。……心が。

 不意に脳裏を過ぎるオレンジ色の温かさ。水月の温度。――ああ、くそ。

 それに、安堵してしまう自分がいる。

 それに、救われる自分がいる。

 これほどに彼女の心の一端を覗き見てしまったことをおぞましく感じながら、なのに、それに救われる……。酷い矛盾だ。

「最低だな……俺は」

 筐体が停止する。開かれるドアを抜け、夕呼の元へ。……ここに居る間は、仮面を被る必要はない。外道に濡れた己を、隠しだてる必要はない。なにせ、ここに居るのはそれをやって見せた夕呼しかいないのだから。

 執務室のドアの前に立つ。ID認証のドアを潜ると、そこに夕呼の姿はなく。おや、と訝しんだ武の視界に、ひっそりと立つ霞の姿があった。銀色の髪、銀色の瞳。いつもと変わらぬ佇まいで、主のいない部屋の隅に、立っている。

「……社、副司令は……」

「香月博士は、席を外しています」

 それは、まぁ、見ればわかる。解せないのは、武のリーディング訓練を行うと言っておきながらに居ないという、その理屈である。……確かに多忙に過ぎる様子の夕呼だ。部下の一人二人待たせることになんの感慨も抱くまい。武の能力が彼女の研究に必要なのだとしても、それは今彼女が執行している何がしかの事項より優先されない、ということなのだろう。

 ならば待つしかあるまい。執務室の端に置かれているソファへ向かう。腰掛けるとお尻と背中がずぶずぶと沈んでいく。――なんだこの高級感は。今までの人生で一度も感じたことのない高級素材の感触に、少々複雑な感慨を抱く。こんな柔らかいソファにずっと座っていたら腰を痛めるに違いあるまい。埒もなく思考しながら、視線を霞に移す。

 相変わらず微動だにせず、立ち尽くす少女。視線だけは武の方を向いているが、……ただそれだけだ。会話があるわけでも、こちらに近づいてくるでもない。

 いや。

 そう思った瞬間に、霞がやって来た。ゆっくりと歩いて、ソファに座る。丁度武と向かい合う位置だ。立っているときにも感じたが、矢張り小さな女の子である。武と同じようにずぶずぶと柔らかいソファにお尻を沈ませながら、ちょこん、と両脚をそろえていた。

 しばし、見詰め合う。表情の変化に乏しい彼女だが、今日はどういうことか……ひどく、毅然とした眼をしている。

 それは、覚悟を持つ者の目だった。

 それは、覚悟を決めた者の貌だった。

 それは、覚悟を負う者の言葉だった。







 ――わたしも、同じ、です。







 なにを言われたのか、わからなかった。

 唐突に、意を決したように。真剣な表情で、真剣な口調で。表情を引き締めて、毅然と瞳を光らせて。言った。――同じ、と。

「……え?」

 なにを言われたのか、わからない。なにを指してのことなのか、わからない。間抜けにも疑問の音を発したまま、開かれた口。霞の銀色の瞳を見つめる。一体、彼女が何を言っているのか、それを、探ろうと――

「人工ESP発現体。わたしは、第六世代と……そう、呼ばれていました」

「ッ、あ?」

 心臓が、どぐり、と。

 血流が、ぐにゃり、と。

 脳髄を――銀色の少女達が、蹂躙する。

「……ガッ、!!??」

 なんだ、今のは。なんだ、今のは。――なんて言ったんだ、お前は。

 ジンコウESPハツゲンタイ。

 つい最近耳にした言葉だ。つい昨日聞いた単語だ。そしてそれは、自分を示す言葉だ。……そう、だろう?

 同じと言った。わたしも同じと。そう言った。人工ESP発現体。第六世代。銀色の少女達。――つまり、社霞、は。

「社……お前、は、」

 AL3。ソビエト科学アカデミーを母胎としてスタートした、BETAの思考リーディング計画。ESP発現体の中でも特にリーディング特性の強いものの精子と卵子を人工授精させ、人工子宮の中で育てられた――人工ESP発現体。それを中心として行われた、という。あの。

 第六世代。

 1973年に始まり、1995年までの、実に二十年を積み重ねた計画。

 BETAの思考をリーディングするために前線へと赴き、たったの6パーセントしか生還できなかった……その、創られたイノチの。

「反吐が、出ますか?」

 ――!?

 僅かに視線を逸らせて、霞が呟く。その言葉は、それは、――俺が、抱いた感情だ。

 オルタネイティヴ計画を知って、その連綿と続けられた外道を知って、AL3が行ったそれらを知って……ああ、そうだ。……反吐が出ると、そう、感じた。忌々しいと、そう、思った。

「狂って、いますか?」

 ああ、狂ってる。狂ってるさ、そんなの。いくら戦争とはいえ、いくら人類が絶滅する瀬戸際だからって、……そんな選択を迫られるほど追い詰められた世界は、狂っている。そう思える。

 それをやった科学者も。それを奨励した国家も。

「外道だと、思いますか?」

 そう……だろう? ニンゲンをなんだと思ってる。敵はBETAだ。戦うべきは、斃すべきはBETA、だ。BETAと戦って、奴らを殺して、そうしないと多くのヒトが死ぬ。……なのに、そのために、こんな、人体実験の果てに……。

「…………ひとでなしだと、思いますか?」

 違うのか? お前は、そう思わないというのか? 創られたイノチ……人工ESP発現体。人工授精で生み出され、遺伝子を操作されて。

 それが、ニンゲンのやることか……ッ!

「…………ヒトではないと、思いますか?」

 ……ああ、やめろ。

「…………ニンゲンではないと、思いますか?」

 やめて、くれ。

「わたしは、ニンゲンではないと、そう思いますか?」

 やめろ。

「人類を救うためと信じて、狂いながらも外道に身をやつした科学者を、反吐が出ると嘲りますか?」

 たのむ。

「そうして創られたわたしたちを、ヒトではない、ニンゲンではないと。そう、思いますか?」

 もう、やめろ。

「覚悟を持ち、使命を果たすために戦場に散った姉達を、その生を、無為で無意味と嗤いますか?」

 やめて――くれ。



「わたしは、生きています」



「わたしは創られたイノチです。……でも、生きています。ヒトとして。ニンゲンとして」



「そんなわたしを――生きて、死んでいった姉達を、白銀さんは、“反吐が出る”と。“狂っている”と。…………嗤うんですか…………っ」



 ああ――なんて、ことだ。

 なんて、傲慢。なんて、無恥。そして、なんて……罪深い。――俺、は。

 今更に、気づく。今更に、思い知る。

 そうだ。彼らは狂っていた。狂って狂って狂い続けて……それでも、人類に希望をもたらすため、BETAとの戦争に打ち克つために、必死に狂って、人工ESP発現体を生み出したのだ。

 そして創られたリーディング能力者たちは、大量生産されたイノチは、人工的に創造された己の生の意味を知り、ただ生み出されたこの世界を救うための礎となるべく、戦地に赴いた。

 ――その懊悩は如何なるものか。

 ――その覚悟は、どれほどのものか。

 知らない、わからない。……想像も、出来ない。――ああ、だからこそ、なんと恥知らずで、おこがましい。

 何一つ、見えていなかった。何一つ、理解していなかった。彼らが何を信じ、何のために狂い、どれだけの覚悟と絶望を負って、死んでいったのか。その、なにもかもを。

 理不尽な仕打ちに怒り、狂気を嘲笑い、己のみが哀れなのだと……そうやって、嘆いていた。――なんて、無様。なんて、愚かしい。

 それは一つの戦争だった。

 戦場でBETAと戦うだけが戦争ではない。それは倫理との戦いだった。それは狂気との戦いだった。それは人道との戦いだった。それは生命との戦いだった。それは救われない戦いだった。それは、それは、……それでも、人類を救うための、戦いだった……。

 狂おしいほどに狂い果てた科学者達の。

 ただそれだけのために創り出されたイノチの。

 信じていたに違いない。信じたかったに違いない。自分が行っていることは必ず人類の明日を作り出すのだと。その、狂気に染まった覚悟を。

 課せられた使命を果たすためだけの生。親の温もりを知らず、ただリーディングを果たすための人生。たった6パーセントしか生き残れず、死んでいった人工ESP発現体の、その、生きて死ぬ覚悟を。

 ――俺は、嘲り、そして、嗤ったのか……ッッ。

 それはなんという恥知らずな傲慢か。

 我が身可愛さに、一元的なものの見方しか出来なかった。そんな自分を、殺したいほどに憎む。

 確かに反吐が出る。確かに狂っている。紛れもなく外道であるし、ひとでなしに過ぎるだろう。

 だが、それでも、ヒトだ。

 ニンゲンだ。

 それでも、彼らは、彼らの戦場で、戦って、喪われて、そして……掴んだ。それはあまりにも救われず報われないたった一つの、それだけの情報だったけれど。

 それを無意味と、無為であると……嗤っていいはずがない。嘲りは、自身に。そんなことさえ気づけず、理解できず、ただ、狂人のそれであると反吐を吐いた己など。――死ねばいい。目の前の霞に頭を下げて、そのままに腹を割いてしまえ。

 ――俺は、莫迦だ。どうしようもなく、愚かだった。

「白銀さんは……謝らなくて、いいです」

「…………」

「……でも、白銀さんも、同じだから……知っていて、欲しい、です」

 そう言って、哀しげに。銀色の瞳が揺れる。霞の瞳を覗いて――――流れ込んでくるイメージに、魂を震わせる。

 人工子宮に縋りついて泣き叫ぶESP発現体。狂気に耐えられず自殺した若い科学者。衛士と共に戦術機に乗り込む幼さの残る少年。帰ってこない兄姉たち。数を減らすキョウダイたち。済まないと、そう頭を下げて戦場へと送り出す老科学者。生まれた子を抱くことさえできず。生みの親の体温さえ知らず。ただ使命を果たす。己の運命を、用意されたそれを、是、と。精一杯に生きて。

 そして、死ぬ。

 涙が、出た。

 それは霞の記憶だけではなかった。彼女が生まれ、見て、聞いて、たくさんの兄や姉たちの記憶を刻み付けて……それは、大切な宝物だったのだ。

 どれほどの狂気であろうとも。どれほどの外道であろうとも。

 そこに生まれ、そこに生き、己の運命に立ち向かって、死んでいく。――無駄死にであるはずがない。それが無為であるはずがない。そこには確かに、彼らが生きた全てが在るのだ。

 それを、嗤うことなんてできない。

 哀しくて、悲しくて、酷い話で、救われなくて…………でも、それを、懸命に戦い抜いた者達が居た。それを、知った。

 どれほどの美辞麗句で飾ろうとも、それは間違いなく外道であろう。けれど、それは美しいほどの哀惜が満ちた、ひとつの戦争だったのだ。

 謝らなくていい、と霞は言う。ただ、知っていて欲しいのだと。彼女は、少女はそう言って首を振る。

 だが、それでは武は自分を赦せない。あまりにも思慮が足りなかった。衛士として戦い抜く覚悟がありながら、世界中に存在する人々の全てが“BETAと戦っている”と知っていながら。……ただ、ただ、自分の身に備わった異能に慄いて、感情の暴れるままにさせて。

 まるで自分こそが犠牲者だと。悲観ぶって、いた。

 謝らなくていい、と霞は言う。

 ……だったら、これからの生き方で、示せ。この小さな少女に。自分以上に過酷な運命を背負って生まれた彼女に。人類の狂気の申し子に。――示せ。

 己の生き様を以って。

 己の生き方を以って。

 衛士としての、覚悟を以って。

 護り抜く者の、覚悟を以って。

 ――さぁ、白銀武。お前は、彼女の心に、カノジョタチの生と死に、報い、示せ!

 それは狂気であって狂気でないと。

 それは外道であって外道でないと。

 貴女たちのイノチは、美しく、尊いと。同じニンゲンだ。同じイノチだ。生きている。生きている。自分の生を精一杯に生きて、死んだその鮮やかさに、敬意を。

「……社、俺は、この能力を呪わしいと思う」

「……はい」

「知らされないままに後戻りの出来ない状況に追い込まれていて、それを実行した副司令が、憎い」

「…………」

「そんなクスリを開発したソビエトの連中が憎いし、狂っていると思う。――でも、それは、……ただの俺の感情論だ。何で俺がこんな目に遭わされなきゃならない、っていう……ただの我儘だ」

「………………」

「……でも、俺は軍人だ。衛士だ。だから命令には従うし、任務にも忠実にあれる。…………なのに、俺は忘れていたんだな。気づけなかった。……みんな、戦っているんだ。みんな、我武者羅に滅茶苦茶に、足掻いて足掻いて、何度も狂いそうになりながら、それでも前に進んでいたんだ」

 吐き出すような感情は、きっと、霞にも届いている。言葉にする必要はないのだと、少女が訴えてくる。

 けれど、これは、けじめだ。

 愚かだった自分を、気づけなかった自分を……思い至らなかった己を、戒めるために。

「ありがとう、社。……お前が教えてくれなければ、俺は間違ったままだった。悲劇の主人公を演じて、この能力を、この現状を、呪うまま死んでいたかもしれない。……なぁ、聞いてくれるか? 俺には、護りたい人たちが居るんだ。たくさんの、護りたい想いが在るんだ……。もう、元には戻れないけれど、約定された死に縛られているけれど。それでも、精一杯生きて、護りたいんだ。……お前も、そうなんだな。お前のキョウダイも皆、そうだったんだ……。お前たちを生み出した科学者も、この薬を使った副司令も。……皆、同じ、なんだ」

「……はぃ」

 だから、ありがとう。

 叱ってくれて。教えてくれて。気づかせてくれて。ありがとう。

 ちゃんと生きていけるから。どれだけ狂って壊れてしまおうと。どれほどの外道に満ちた生であろうと。

 反吐を吐いても、血を吐いても。腕を足をもがれ、例え心臓さえ抉られても。止まらないと、そう決めている。その覚悟は、もう随分と前から出来ている。護ると決めた。そう誓った。

 その想いがまた一つ、大きくなった。

 きっとこの能力を受け入れることなんて出来ないけれど、ただそれを嘆くだけの自分は必要ない。軍人であり、衛士で在るならば……死者の想いを受け継ぎ、その生き様を誇らしげに語る流儀を抱く「衛士」であるならば。もう二度と、嘲りは、嗤いは、しない。

 本当にありがとう。心の底から。



 少しだけ――霞が微笑んだような気がして。

 武は。流れ落ちた涙を拭った。







 ===







 ブリーフィングルームにはみちると水月、そして神宮司まりもの三人だけが居た。長机を二つくっつけて、みちると水月が並んで座り、まりもは彼女たちと向かい合う形で腰掛けている。

 互いに無言。

 室内には、みちるが手にする書類がめくられていく音だけが響いていて……緊迫した静寂が流れていた。一枚一枚を隅々まで眼を通し、内容を記憶するみちる。その間、水月はただ正面のまりもを見つめ、決して書類を横から覗き込む、なんて真似はしない。

 いやしくも副隊長という立場にある彼女は、好奇心に疼きながらも、当然の義務として姿勢を正し続ける。視線を向ける先……まりもは、この部屋に入ってきて席に着いたその時から一切姿勢を変えず、じ、っとみちるを見つめている。醸し出す雰囲気は軍曹に似つかわしくなく、ともすれば佐官階級にあったとしても何ら不思議はないほどに。

 歴戦の猛者――それはきっと、彼女のことを指す言葉だ。

 かつての教導官であり、恩師。水月だけでなく、みちるの教導さえを行ったまりもは、いつまで経っても衰えを見せることはない。……むしろ、年を重ねるごとに益々の冴えを見せているように感じるのは、恐らく気のせいではないだろう。

 富士の教導隊に属していたこともあるというから、それはある意味で当然なのかもしれなかったが……しかしまりもの凄まじさはそういう部分だけに限定されない。

 誰よりも厳しく、そして慈愛に満ちた母のような女性。訓練兵時代を思い出せば、鳥肌も立つし恐怖が蘇りもするが……なによりも、優しくて温かな想いが浮かぶ。――彼女は、海よりも深い愛情を、教え子全員に与えてくれる。

 水月が今、中尉として、副隊長として……まっとうに在れるのは、間違いなくまりもの教えがあったからだと。彼女はそう確信している。……きっと、みちるも同じように思っているに違いあるまい。

 尊敬し、目標とする二人の偉大なる先達と肩を並べることの出来る自分を、少しだけ褒めてやりたいと……そんな風に、感じた。

「……神宮司軍曹、礼を言う。……貴女が育てた衛士は優秀だ。これで、少しは我々も楽が出来るかな……?」

 書類を置き、口端を吊り上げながらにみちるが言う。つい、と寄越された書類を、水月は無言のままに目を通す。耳だけをみちるたちへ向けながら、意識は書類に。そんな器用な真似をする彼女には構わず、まりもは苦笑を浮かべる。

「ありがとうございます。……ですが、彼女たちが優秀であるのは、全て彼女たちの努力と鍛錬の結果です。私がお礼を頂く理由が在りません」

「そうか……では、これは私の独り言だ」

 少しだけ嬉しそうに、そして朗らかに笑うまりもに、みちるはくつくつと喉を鳴らし、目を細めた。実に、まりもらしい。教官という立場を貫き通し、そして、教え子に誇りを持っている。――ああ、ならばそれは素晴らしい衛士となるだろう。まりもが手塩にかけて育てた彼女達を、まりもが更に誇りに思えるような衛士に仕立ててみせる。

 そういう意味合いを込めた視線を向けると、察したのだろう。まりもは眼を閉じて、優しい笑顔を見せた。

 そんな柔らかい空気を感じながら、水月は次々に書類をめくっていく。

 八月末に任官を控えた衛士候補生――第207衛士訓練部隊、A分隊。任官の暁にはA-01へ配属される少女達。

 涼宮茜、柏木晴子、築地多恵、月岡亮子、立石薫。

 元々は武と同期であり、ともに帝国軍横浜基地へと志願入隊した五人の少女。水月もよく知る彼女たちの、その、訓練の成果を把握する。

 ――特筆すべきは矢張り茜か。水月の親友である遙の妹にして、自身にとっても可愛い妹分である少女。自分を慕ってくれていて、目標にしてくれているという……なんとも面映い心地にさせてくれる元気印の彼女。どうやら勝気な性格そのままに若干の近接戦闘寄りに成長しているらしいが、狙撃や指揮官適性など、まだまだ伸びしろを残しているように思える。

 同じ近接戦闘能力なら薫の方が優れているようにも見受けられたが、総合力で茜が一枚上手、という印象を受ける。なかなかの成績だ。贔屓目に見ても、つい頬が緩んでしまう。――いかんいかん。水月は頭を振った。

 機動でいえば多恵がダントツに飛びぬけている。ご丁寧に括弧書きで注釈が付けられているあたりに一抹の不安を覚えるが、まりもをしてそのような評価をさせる機動というものには興味を惹かれる。

 狙撃のスペシャリストならば晴子だろう。戦況を瞬時に把握し、常に適切な、そして最大効果をもたらす支援砲撃を得意とする……とある。命中率もさることながら、その判断力の高さにはめざましいものがあるようだ。

 総合力で茜に並ぶ亮子。特筆すべきスキルはないが、しかしその全てにおいて新任衛士の平均を軒並み上回っているというハイスペックだ。突出したものがないので埋もれがちだが、……下手をすると、こういう人物が最も恐ろしい成長を見せるものである。

 最後の一枚をめくり終えて……ふむ、と一息つく。その頬は緩みっぱなしで、途中気を引き締めたことは何の効果もなかったらしい。

 満足げに書類を置く水月に、みちるがニヤニヤと笑って言った。

「速瀬、楽しみで仕方がないって顔だな?」

「あははは~! そりゃあもう! 待ちに待った補充要員ですからねぇっ。しかも遙の妹まで居るんですよッ。これが楽しみでなくてなんだって言うんです?!」

 実にあけすけに答える水月に、さすがに苦笑するまりもである。みちるもまた、「違いない」と声を上げて笑う。

 机に広げられた書類をトントン、と指で叩いて。まるで不敵な視線で、みちるは口を開く。水月も同じような表情をして、彼女と共にまりもを見つめた。

 まりもは、その表情に僅かながらの昂揚を隠しつつ、みちるの言葉を待つ。かつての教え子であり、共に戦場を駆け巡った戦友であり、現在では上官となったみちるの成長を、真正面から受け止めてやるという気概が窺えた。

「世界中で衛士が不足している状況で、これほどの優秀な衛士候補生を育ててくれたことに、改めて礼を言う。そしてどうか、安心して任せて欲しい。このわたしが、責任を持って彼女達を優れた衛士に成長させて見せる」

「は! よろしくお願いします、大尉殿!」

 敬礼をするまりもの表情は、とても晴れやかで輝いて見えた。みちると水月も敬礼を返し……そして、この会合は解散となる。

 颯爽と去っていくまりもを見送って、みちるは書類をまとめて立ち上がる。水月もそれに倣い、彼女について部屋を出る。歩きながらに、二人は今後の方針を話し合った。

 新たに補充される衛士は五人。彼女たちの任官まで、およそ一ヶ月近く残っているが、それでも今から準備をしておくことは悪くない。教導官であるまりもより受けた報告書の内容を吟味しつつ、新しい編成の構想程度はまとめて然るべきであろう。

「涼宮を除けば十三人……通常の三小隊編成を組むことが可能、か……。一人余る計算だが、小隊強の編成が組めるなら言うことはないな」

「そうですね。任官後の訓練でポジションを決定するとしても、通常の編成に組み直す方が効率的に運用できると思います」

 現在の変則編成を思えば、矢張り規定どおりの編成で部隊を運用することが望ましい。最小戦闘単位である分隊編成の二機連携。その原則を遵守するならば、矢張り一小隊は四名で在るべきなのだ。四機ならば、常に二機連携を組むことが可能となる。

 例えばB小隊の三機編成だが、元々が最前線に突出することを本懐とする水月たち突撃前衛は、往々にして単独となり易い。ただでさえ孤立する可能性の高いポジションに居て、今は三機しかいないのである。相互にフォローし合ってこそ、生存確率も上昇するし効率的にBETAを屠ることもできるのだ。まして相手は圧倒的物量で迫る化け物の大群。単独でそれらに囲まれて、生還を果たすことは困難とされた。

 だから、みちると水月の判断は当然のものだろう。部隊の効率的運用、という言葉を水月は用いたが、要はそういう意味合いである。

 ならば、とみちるは腕を組む。思案しながらも歩みを止めない彼女だが……しかしその表情を見れば、何がしかの方針を既に用意していることが窺えた。水月は黙して待つ。

「C小隊を新規に編成するならば……小隊長は宗像だな」

 当然、そうなる。

 階級こそ少尉だが、彼女は水月の一期下の任官である。つまりは梼子たちの一期上ということなのだが……序列に関わらず、単純に衛士としての能力を比較した場合でも、美冴以上に適任はいないだろう。

 A小隊に所属し、ずっとみちるの下で戦い、生き抜いてきた彼女である。高い戦闘センスを誇り、状況判断も指揮能力も申し分ない。現在五名変則編成で運用しているA小隊の半分は、美冴の采配に任せているという事実もある。――ならば、何も問題ない。

 実際にC小隊隊長として任務に就くのは、茜たちが任官を果たし、少なくとも三ヶ月は訓練をこなしてから……となるだろう。

 ――と、新任少尉となる彼女たちの訓練プランについても簡単に考えを及ばせた時に、そういえば自分の部下にその訓練期間さえすっ飛ばして実戦に出た莫迦者がいたな、と思い出す。

「……速瀬、改めて考えると、お前の恋人はバケモノだな」

「――ちょっ、!? た、大尉ッ、武はそのっ!!??」

 わざわざ足を止めて、口端を吊り上げながらの言葉に、水月が狼狽する。一瞬で頬を真っ赤に染めて、あたふたと視線を躍らせている。わかり易いやつだ、とみちるは意地悪く笑い、いいかげん、素直になればいいのにと溜息を一つ。

 ……が、部下にそう言えるほど自分は素直かといえば……そうではなく。どこまでも自分によく似た性格の水月に、苦笑するほかない。

「……速瀬、後悔だけはするなよ。手の届く場所に居る、顔を合わせることの出来る場所に居る……声をかわすことのできる距離に、触れ合うことの出来る距離に、居る。……それは、きっと尊いことだ」

「大尉…………」

 どこか遠くを見つめて言うみちるに、水月は一つ、思い当たることがあった。――恐らく、帝国軍に居るという想い人……。以前、何かの機会に聞いたことのある……みちるの戦う理由。

 生きて、逢い続けるために。

 A-01部隊に所属するものは、その任務の特殊性故に対外的には秘匿された存在となる。また、常にAL4の達成のために課せられる過酷な任務に従事していれば、休暇の取得など夢のまたユメだ。……それ以上に、属する組織は異なれど、衛士であり、軍人である。全てにおいて優先されるべきは、軍であり、任務だ。

 逢いたい人に逢うことのできないみちるを思えば……なるほど、その言葉の重さがよくわかる。――そして、温かさを。

 後悔はするな、とみちるは言う。……どうだろうか、自分はいつか、今の関係を後悔する時が来るだろうか……。――ふふっ、そんなことは、絶対にない。

 傍にいるだけでいい。支えてあげられるだけでいい。力になって、護ってあげられれば、それでいい。きっと、そのはずだ。

「大尉、私は大丈夫です。今、幸せですから……」

「…………今、なにか凄い殺意に似た感情が芽生えたんだが……」

「ええっ?! た、大尉~、そこは大人っぽく……“そうか……”って笑ってくれるところじゃないんですかぁ?!」

「やかましいっ! 一人だけ幸せそうな顔をしてッ!」

 唐突に感情のメーターが振り切れたみちるに驚愕しながら、それが彼女なりの本音だということも理解している。……ああ、しかし。いくら好きな男を思い出して感情的になったとはいえ、いきなり、それはないんじゃないだろうか。

 不貞腐れたようなその表情は、いつものみちるのイメージとギャップがありすぎて逆に恐ろしい。偉大なる隊長殿の素は、ほんのちょっぴり攻撃的な乙女、ということらしかった。

 水月は苦笑するしかない。みちるも、可笑しそうに笑っている。やれやれ、なにをやっているというのか――みちるは笑いながら、どこか清々しい気持ちを抱いていた。

 水月は幸せだと言う。そうか、ならば、それでいい。

 では、自分は幸せだろうか……。――ああ、幸せだとも。満ち足りているとも。

 たくさんの素晴らしい部下に恵まれて、支えられて、共に戦えて。――ああ、だから、待っていて欲しい。いつか、この戦争が終わって、世界が平和になったその時。

 胸を張って、逢いに行こう。

 その時はきっと、女としての幸せを手に入れるのだ。絶対に。

「…………あの、通路の真ん中でなにやってんですか?」

「「!!??」」

 突然に背後から声を掛けられて、二人はギョッと硬直してしまう。軍人としてあるまじき失態だが、しかしそれほど穏やかに和んでいたという証明でもあり……一瞬にして、平静を取り戻しいつもどおりを繕うみちると水月。その頬が若干の羞恥に染まっているのは愛嬌というものだろう。

 要するに、タイミングが悪かった。

 そして、そのタイミングの悪い来訪者は誰ぞ、と僅かに剣呑な視線を乗せて振り返れば、そこにいるのは顔の左半分に裂傷を走らせた武。……とても奇妙で珍妙で不思議なものを見ました、という表情で突っ立っている。

 瞬間――水月の顔が爆発するかのように真っ赤になった。

「ぅわっ!? ど、どうしたんですか水月さんッ!??」

 驚いて駆け寄ろうとする武を、水月は無言のままに拳を繰り出して迎撃する。まさかのボディーブローに内臓を軋ませる武は、そのまま膝をついて崩れ落ちた。

「……なっ、なに、ヲ……っっ、??」

「わっ、やっ、その! ~~~~ッ、武が悪いッッ!! い、いきなり、驚かせないでよっ!」

 いきなり殴られて、全く意味がわからないことで怒られている武だが、真剣に痛そうである。恐らく呼吸も出来ていないのでは、と思わせるくらいに、先ほどの拳は正確に横隔膜を突き上げていた。鍛え上げられた腹筋など、水月の拳にかかれば紙に等しいということなのか……改めて彼女の恐ろしさを痛感しながらに、武は助けを求めるようにみちるを見上げる。

 ……が。

「白銀、女の話を立ち聞きするなど、日本男子の風上にも置けんな……っ」

 なぜか、また怒られた。――なんでだっ!? 愕然とする武を、しかし二人は恨めしそうに睨みつけてくる。

 本当に理由がわからない。武はただ、夕呼の指示で彼女の執務室へと出向き、そこで霞によるリーディング能力の訓練をしていただけだ。その訓練がつい先ほどようやく終わり、こうして彼女たちのいるフロアまで戻ってきたというのに……。

 ブリーフィングルームに行けば誰か居るだろうと思ってやってきてみれば、そこには通路の真ん中でおかしげに笑うみちると水月。普段から明るく楽しく姦しく、というA-01部隊だが、みちるがこれほどに大声で笑うというのは珍しい。というか、武にとっては初めての光景である。……だからこそ、奇妙と感じ、恐ろしいと思ってしまった。

 そういう感情を後ろに隠したままおずおずと声を掛けてみれば………………なぜか殴られたわけである。……思い返してみても、殴られる謂れが全然わからなかった。

「ったく、……ほら武。いつまで蹲ってんのよ……」

「誰のせいですか……」

 未だ鈍痛が残る腹をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる。水月の頬はまだ少し赤いが、先ほどのような取り乱しようは既にない。……そういえば、あんなに慌てた水月を見たのも初めてだった。なにか、今日はそういう珍しいものを見る日なのだろうか。

 珍しいといえば霞もそうだった。 まだ彼女とは多くを語ったわけでも、同じ時間を過ごしたわけではないが……それでも、彼女の本質に在る強さの一端を垣間見れたことは、幸運だったように思う。

 彼女が自身の強さを見せ付けて、そして諭してくれなければ……武はまだ、呪われた己の運命を嘆くだけだっただろうから。

 そんな数刻前のことを思い出しながら、水月に微笑を向ける。む、と眉を寄せる水月。多分、自分のことをからかわれたとか、そんな風に思っているのだろう。――能力は、絶対に、使わない。

 視線をみちるに向ければ、彼女は水月を見つめて笑っていた。――しょうのないヤツ。そんな言葉が聞こえてきそうな微笑みだった。

「……ちょっと武。なに笑ってんのよっ」

「いや、さっきの水月さん、可愛かっ――――ぐぁ、ッッ!!」

 鼻っ面に衝撃。目から火花が散る。痛い。本気で。ツン、と鼻の奥を酸っぱい痛みが走る。――が、そんな痛みによろめいていられるほど、水月は容赦を知る人間ではなかった。

 近接格闘のプロフェッショナル。突撃前衛に選出されるものは、得てしてそういう能力を持つ。そして、その頂点に君臨する水月は即ち――――硬い通路に、背中から叩き付けられた。今度こそ呼吸が止まり、びくびくと指先が痙攣する。

 仰向けになった視界に、呆れ顔のみちるが映る。見ていられない……そんな憐れみが僅かに滲んでいるような気がした。

「ばっ、ばっ、ばっ……!! このっ、莫迦ッ!!!」

「ほらほら、いい加減にしておけ速瀬……。これ以上やると白銀を殺しかねん。……まったく、お前はどうしようもないヤツだな」

 顔面を林檎のように真っ赤にしたまま、みちるに引っ張られていく水月。目がぐるぐると渦を巻いていて、見送る分には面白い光景なのだが……。

 むくりと上体を起こし、ズキズキと痛む鼻をさする。

「…………で、何で俺は殴られたんだ??」

 オマケに背負い投げだ。かつてない水月の乱心に首を傾げつつ、――――ふっ、と。笑う。

 仮面がどうとか。

 人工ESP発現体とか。

 薬の副作用とか。

 外道に堕ちた自分とか。

 そんなことを一切忘れさせるほど。

 水月は、軽々と。本当に軽々と……武を引っ張りあげてくれる。忘れさせてくれる。気にする必要はないと、教えてくれる。

 ――ああ、本当に。敵わない。

 強い、と。心底から、想う。

 だから、――絶対に、護りたい。







 ===







 薄暗い、けれど、少女にとって何よりも心安らぐこの部屋。

 人工的に生み出され、施設の外から出ることを許されず、同じ境遇のキョウダイたちと過ごした……かつての日々。

 それが、彼女――霞にとっての記憶。AL3の目指す、BETAの思考リーディング。ただそれを果たすために創られた自らを、当時の霞は嘆くわけでも呪うわけでもなく……ただ、それが当然のことなのだと受け入れていた。

 別に、稀有なわけではない。それが、彼女の……彼女たちにとっての、“当然”であり“義務”だったのだから。

 生みの親、とでも言うべき科学者達はそうやって霞たちを教育したし、知性を持った瞬間から、それに近しい刷り込みも行われていた。この戦乱の時代において、それでもモラルを唱えるものは言うだろう。――人道に悖る。外道、と。

 そういう意味で評するならば、白銀武という名の青年は……真っ直ぐな心をしていたのだろう。だが、彼の憤り……そして嘲笑は、霞の心を抉ったのだ。

 自分を、自分の命を、キョウダイたちのイノチを、そんな風に思って欲しくはなかった。それを強制した科学者達を、罵って欲しくはなかった……。

「白銀さんは……ちゃんと、わかってくれました。……優しいですね、白銀さんは」

 微笑みを向ける。シリンダー。青白く発光する液体、それに浮かぶ、脳ミソに。霞は、穏やかに笑って見せた。

 薄暗い、けれど、ここは……少女にとって何よりも心安らぐ場所。“彼女”の居るこの部屋は……かつての日々にないたくさんの思い出をくれる。

 自分にはない人生。自分の知らない外の世界。自分は体験したことのない感情、経験、知識。たくさんのそれらを、“彼女”はくれる。

 リーディング能力。

 武が、それでも「呪わしい」と沈痛に零すそれ。けれど、霞にとってのその能力は……なくてはならない、生きていくために絶対に必要なものだった。

 だって、それがないとわからない。

 自分と接する人が何を考え、どんな思いを持っているのか。何の記憶も経験も持たない自分には察することも理解することも出来ない。……だから、この能力は、手放せない。人が歩く時に足が必要なように。物を持つときに腕が必要なように。霞にとって、リーディング能力とは。

 ヒトと触れ合うために、絶対に必要だったのだ。

 それは最早能力という括りをこえて、彼女そのものと言っても過言ではない。――少なくとも、霞にとっては。

 そしてなにより、その能力がなければ“彼女”と会話することもままならない。往々にして霞が一方的にプロジェクションで話しかけるだけなのだが、時折、“彼女”は霞の知らない世界を見せてくれる。応えてくれるのだ。……それを、リーディングで読み取る。

 任務、であった。……だが、それ以上に。

 霞にとって、それは。自分にはないたくさんの思い出を重ねるための……かけがえのない時間なのだ。

「……もうすぐ、また、話が出来ます…………」

 語りかける。……返事は、ない。だが、霞は小さく笑って。

 そう遠くないその日に、武は“彼女”と“会話”するだろう。夕呼はそのための準備を着々と進めている。自分もまた、そのために武の能力指導を担当している。

 リーディング能力については申し分ない成果を見せているから、残るはプロジェクション能力の開発と訓練だ。

 今日の訓練の最後に、武は新しい薬を受け取っている。……もはや、避け得ぬ投薬。それだけが、霞を暗く落ち込ませた。

 最初から「そのように」創られた自分には、あのような劇薬は必要ない。……そして、自分がもっと、夕呼の望む成果を出せたなら……彼はそんな魔薬に侵されることはなかったのだ。

 “彼女”のことはある程度の情報を手にすることが出来ている。だがそれは、“彼女”自身や“彼女”に近しい人たちの記憶、という程度でしかない。夕呼が求めるのはそんなことではないのだ。もっと深く、もっとあけすけに、彼女が見た何もかもを欲するのである。

 だが、霞ではそれを読み取れなかった。拡散し、氾濫する“彼女”の精神の奔流を、掻い潜ることができないでいる。潜り込むことを拒まれているのか……或いは、単純に、リーディングが通用しないほど、記憶が、思考が崩壊しているのか。

 だからこそ、夕呼は武に白羽の矢を立てた。

 彼ならば或いは……そう思うからこそ、自ら外道と忌まわしく思いながらに、その手段を躊躇なく選択した。その選択は、霞にとって……少しだけ、哀しい。後悔を抱かせるものだった。

 夕呼にそれを選択させたのは自分。武が壊れていく原因となったのは自分。

 そんな悔恨が、一時霞を苛んでいた。――でも、それは間違い。

 武への投薬が開始された時、霞は夕呼に泣き縋ったことがある。自分の力が至らないばかりに、ごめんなさい、と。夕呼に外道を進ませて、武の人生を壊してごめんなさい、と。

 頬をぶたれた。視線だけで殺されると思った。――夕呼は、烈火の如く怒ったのだ。思い切り睨まれて、怒鳴られて、ふざけてんじゃないと、舐めるな、と。



 ――あんたの同情なんて欲しくないわ。これはね、社。あたしが、あたしの意志で、現状考え得る中で最も可能性が高いと判断したことよ。“外道を進ませてごめんなさい”? 莫迦にするんじゃないわよ……。



 そのときに、ようやく知ったのだ。自分の愚かさを。知らぬ内に夕呼を侮辱していたのだと。……そして、彼女の高潔さを。

 自分を研究所から引き抜いてくれた夕呼。目的のためならばどこまでも非道になれる冷酷な女性。……でも、霞にとっての彼女は……本人に向けて言ったことはないけれど。

 まるで、お母さんの、ようで――。

 だから、そのことで……投薬実験のせいで、武が夕呼を憎むことが……哀しかった。彼からすれば、自身のあずかり知らぬところで脳を改造されていたのである。しかも、最早投薬の有無に関係なく、絶対に、ヒトとしての機能が壊れて、死ぬ運命に在る。

 憎むな、という方が酷だろう。

 命在るものは必ず死ぬ。それは万人が避け得ぬ運命であり結末であるが……。

 護りたい人が居る。護りたい想いが在る。そう言って、だから、戦うのだと教えてくれた彼は。果たして、その想いを貫けるだろうか。貫いて、逝けるだろうか。

「……逢いたい、ですよね。…………お話、したいですよね。……たくさん、たくさん。白銀さんと、お話……したい、ですよね?」

 でも。

 きっと。

 それは――なによりも。

 残酷で。悲惨で。哀しくて。涙が出て。心が引き裂けて。感情が砕け散る。

 彼の、武のその、大切な想いさえを粉々に砕くほどの絶望を。

 それを、引き起こすだけなのではないか。

 …………霞は、泣き笑いのような顔をした。

 その後悔は、その悔恨は……夕呼を侮辱するだけだと知りながら。けれど、それでも。――ごめんなさい、白銀さん。

 哀しいと。泣いてしまうのだった。







[1154] 復讐編:[十二章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:33

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十二章-04」





 季節はいずれ秋へと移ろう……。にも関わらず、今日は特に陽射しが厳しいような気がしていた。早朝の朝日に目を細めながら、まだ涼しさを残す空気を胸いっぱいに吸い込む。

 点呼が終了してすぐに、こうしてグラウンドに立っていることには……特に理由というものは見当たらない。

 だが、何か、予感があった。……兆し、というべきかも知れない。或いは、単純に、そういう予測が以前よりあったということも。

 正確な日付を把握しているわけではない。教官であるまりもからも何の通達を受けたわけでもなく……。

 ただ、過去の例を鑑みるに……じきに、という期待にも似た予感があり、そして、今朝。その予感が“今日だ”と強く訴えていた。

 だから……なのだろう。清廉な早朝の空気と、じわじわと暑さを感じさせる太陽の陽射しを受けて。――心身を、リフレッシュさせる。

 多分、今日、任官する。

 それは最早確証に近い確信であり……どこか、胸躍らせる感情だったのだ。







 2001年8月25日――







 第207衛士訓練部隊A分隊所属の五名の少女は、自身の教導官を務める神宮司まりもからの呼び出しを受け、講堂へと集められていた。

 一体何事だろう、と入隊式以来訪れることのなかったその場所に集合したのは数分前。いつもの訓練用軍装ではなく、白い訓練兵の制服を着用して、茜はしかし、緊張の面持ちで口を噤んでいた。

 当初こそ、わからなかったのだが……それは、恐らく、間違いない。

 自身の予感が的中したのではないかと確信する茜は、その意味合いを込めた視線を晴子に向ける。茜の視線を受けて……彼女が何を言いたいのかを悟った晴子は、柔らかく、そして自信に満ちた笑顔を見せる。その笑顔がどこか強張って見えたのは、矢張り彼女も少なくない緊張を覚えているせいだろう。

 一人そわそわと落ち着きがなく、視線をあちこちに泳がせている多恵。何か言いたそうに口を開けば……何も言うことなく口を閉じ。再度開いたと思えば……ぱくぱくと口を開閉させて結局何も言わない、ということを繰り返している。傍目から見ればそれはとてつもなく珍妙で可笑しい仕草だったのだが、それを突っ込めるほど余裕の在るものはいない。

 何事にも物怖じせず、困難な状況にこそむしろ燃え上がる薫でさえ、今は真剣な表情で腕を組み、沈黙している。強く鋭い視線は講堂のステージに向けられているが……恐らく、薫はただそちらを向いているというだけで、何を見ているわけでもないだろう。見つめるは己の心。自身の内側へと意識を向け、これまでの日々を反芻しているようにも見える。

 最後に視線を向けた亮子は、意外なことに一番の平静を見せていた。元々芯の強い少女だということを茜は理解していたが、これほどの緊迫した状況下で平時同様、たおやかに佇んでいる彼女は大した度胸であろう。

 ふ、と。

 少女達全員が茜を見た。あまりにタイミングが揃っていたのでほんの僅かに怯むが……けれど、皆の視線が、訴えてくる。それは多分、茜と同じ。晴子が首肯してくれたように、自らも頷いてみせる。

「みんな……まだそうだと決まったわけじゃないけど……」

 けれど、多分、きっと、そう。

 ごくり、と多恵が喉を鳴らすのがわかった。薫も、亮子も、緊張を……そして、隠し切れない期待を見せる。晴子が多恵の肩を叩いて、ニッ、と笑う。

 瞬間――講堂の側方に設けられている扉が開いた。基地施設への渡り廊下に続くその扉を抜けてきたのは、まりも、基地司令パウル・ラダビノッド准将、……そして、見たことのない国連軍大尉の三人。さらには、彼らに続いて十数名の士官が並ぶ。

 予感が確信へと変わる。声高に告げられたまりもの号令に整列し、敬礼する。

 緊迫した空気は尚もその濃度を増し……ラダビノッドが彼女たちの正面へと移動した。赤色の双眸に見据えられる。緊張と、歓喜と、驚きと、昂揚と……様々な感情が入り乱れ、沸騰しそうだった。「休め」と号令する大尉に従って敬礼を解く。マイクスタンドの前に立つ彼が言う。



 ――ただ今より、国連太平洋方面第11軍、横浜基地衛士訓練学校、第207衛士訓練小隊解隊式を執り行う!



 その言葉に、痺れるほどの興奮を、昂揚を覚えた。――遂に、自分たちは……ッ! その喜びが、全身を駆け巡る。

 基地司令の訓示に始まり、衛士徽章の授与。襟首に輝くそれは、自身で見ることはかなわないけれど、きっと、誇らしく在るに違いない。

 国連軍大尉の号令に伴って、十数名の士官たちが盛大な拍手をくれた。……恐らく、横浜基地の要職に就く人々なのだろう。彼らの表情からは祝辞と激励が浮かんでいて、初対面であるにも関わらず、茜は薄っすらと涙を浮かべてしまった。

 そして解隊式は終了し、基地司令をはじめ、士官たちは去っていく。彼らの最後に、まりもが扉を抜けて……そして、茜たちが残される。

「茜……」

「茜ちゃん……ッ!」

「やったなっ、茜っ!」

「おめでとうございますっ、茜さんッ!!」

 口々に、晴子が、多恵が、薫が、亮子が……言ってくれる。茜は泣いていた。嬉しくて、嬉しくて、泣いていた。

 それはもう、周りの皆が率先して茜に「おめでとう」と言ってくれるほど、彼女はぽろぽろと涙を流していたのだ。

 何度も何度も、うん、うん、と頷く。言葉にならない想いがたくさん溢れて……けれど嬉しくて嬉しくて。晴子が肩を抱いてくれる。多恵が抱きしめてくれる。薫が、亮子が、温かい微笑みをくれる。――ああ、だから、安心する。

「皆……ぁりがと、ぐすっ…………えへへ、泣いちゃった」

 目尻に浮かんだ涙をそのままに、頬を染めて茜は笑う。その、咲いたような笑顔は可愛らしくて綺麗で……だから、晴子たちもまた、笑った。

 見れば皆も薄っすらと涙を浮かべている。茜につられてか、多恵と亮子は既に決壊寸前というところだった。特に亮子は、式前までの気丈な素振りがどこにもなく、薫に寄りかかって鼻を鳴らしている。

「晴子……多恵……薫……亮子……っ、皆おめでとう!!」

 わっ、と。

 感情が、歓喜が、涙が、笑顔が。咲き誇る。咲き乱れる。少女達の想い全部が溢れて零れて、それはお互いを祝う言葉となって温かくこだまする。

 頬を紅潮させて、浮かぶ涙をそのままに、笑って、笑って。

 やがて少女達は頷きあう。ようやくに果たした任官。四年間――正確には三年半という長い訓練期間を経て、遂に、辿り着いたこの場所。

 自分たちは、衛士となった。襟首に誇らしく在る衛士徽章がその証。――そう、だから。胸を張ろう。誇らしく在ろう。

 もう、護られるだけの訓練兵じゃない。

 正規の軍人として、一人の衛士として、戦う。戦える。自分が護りたいと想う全てのものに対して、全力で、戦うことが出来る!

 嬉しい。ただそれだけで、こんなにも満たされる。……だから、もう、涙を拭おう。自分たちは衛士だ。衛士となったのだから。

「……これで、みんなとはお別れかもしれないけど、でも、あたしたちはずっと仲間のままだよ……」

「うん。……どの部隊に配属したとしても、みんなのことは忘れない」

「ぅぅぅ、茜ちゃんと離れるのは寂しいけど、でも、皆、忘れないよっ」

「当たり前だろ? あたしらは仲間だ。それも最高のなっ!」

「はい! 絶対に忘れません。何処に居てもわたしたちの心は繋がっていますから……!」

 茜は手を差し出した。意図に気づいた晴子がその上に自身の手を重ね……多恵が、薫が、亮子が、倣うように手を重ねる。……自然、円陣を組むように。彼女たちは最高に輝かしい笑顔を浮かべて。そして、胸に宿る熱き決意を抱いて。

「207A、解散ッッ!!」

「「「「了解っ!」」」」

 分隊長の茜の号令の下、応、と。四人の少女が声を揃える。――これで、本当に最後。

 彼女たち五人が、揃って同じ部隊に配属となることはないだろう。だから、本当に、これで最後。どの部隊に配属になったのだとしても、この時勢、生きて再び顔を合わせることはないかもしれない。だから、もしそうなったとしても後悔しないように。絶対に後悔などしない、と。

 互いの武運と、幸福を祈って。どうか、生きてまた再会できることを祈って。

 皆、笑う。眩しいくらいに、笑顔を見せる。

 少しだけ照れくさくて、茜ははにかむ。――じゃ、いこっか。促すような晴子の言葉に頷いて、扉を抜け、講堂の外へ。夏の日差しを存分に注ぐ白い太陽に、目を細める。今は、この熱気さえ好ましい。

 視線を転じれば、そこにはまりもが立っていた。少し驚くと同時に、ひょっとしなくても自分たちを待っていてくれたのだと気づいて、僅かに慌てる。

 ……けれど、その彼女の表情はとても柔らかく、温かで……それはいつか見た、慈愛に満ちた母性のそれだった。

 ぐ、と。胸を締め付けるような感情が込み上げる。入隊したその日から、北海道へ転属となるその日まで。そして、この国連軍横浜基地に異動となった際に、再び教官として鍛えてくれたまりも。尊敬する恩師。敬愛するもう一人の母。

 茜は、一歩を踏み出した。まりもとの距離が近づくにつれて、心臓の鼓動は大きくなり、涙腺が緩く、涙が溢れそうになる。――泣くな、泣くな、泣くなっ!

 涙は、存分に流した。大切で大好きな仲間達と、存分に分け合った。

 だから泣かない。彼女には……尊敬し、敬愛するまりもには。今の自分を、自分という教え子を持ったことを誇りに思ってもらえるように。

 笑顔を。

「神宮司軍曹……貴女には、本当にお世話になりました」

「ご昇任おめでとうございます少尉殿!」

「軍曹に教えていただいたこと……決して、忘れません……」

「お気をつけください、少尉殿。私は下士官です。丁寧なお言葉遣いを戴くにあたりません」

 柔らかな表情の中にも、毅然とした、軍人としてのそれが垣間見える。そうか……と茜は気づいた。任官し、少尉に昇進したことで、彼女とまりもの立場は逆転している。それを少し複雑に感じながら……けれど、それでまりもに対する敬愛が薄れるわけはなく。

「……軍曹の尽力に感謝する! ……どうか、お元気で……ッ!」

「お心遣いありがとうございます。――武運長久をお祈り致しております、少尉殿」

 敬礼を、かわす。――ああ、駄目だな、あたしは。

 見開いた目から、涙が、落ちる。でも、それでも、茜は毅然として。決して眼を閉じたりはしない。最後まで、しっかりと、まりもの顔を見つめる。

 名残惜しいが、しかし、それは自分だけではない。茜は颯爽とまりもの前を通り過ぎて……ちらり、と僅かに振り返った。基地への入口にほど近い場所で立ち止まる。自分だって見られていたのだから、晴子たちの泣き顔も見てやろうと思った。

 晴子が進み出る。まりもと向き合って、敬礼をかわす。

「ご昇任おめでとうございます少尉殿!」

「ありがとう、……。……神宮司軍曹、軍曹に育てられて、私は幸せです。軍曹の尽力に感謝する……ッ」

「ハッ、身に余る光栄です。――武運長久をお祈り致しております」

 微笑みさえ見せて。晴子は緩やかにまりもの下を去る。向かう先で待っていた茜はまるで太陽みたいに笑って見えて、晴子は照れたように頭を掻く。そして茜同様にその場で立ち止まり、続く皆を見守る。

 多恵は……もう、ボロボロに泣いていた。それでも、一生懸命に涙を拭って、目を開けて、精一杯に進み出る。

「ご昇任おめでとうござます少尉殿!」

「じっぐう、じ、ぐんそっ……ひっ、くっ、ぅぅ、っ!」

 口を開こうとして……けれどそれは、嗚咽に遮られる。まりもを正面にして、感情が大きく振れたのかも知れなかった。みっともないくらいに泣きじゃくる多恵を、けれどまりもは優しく見つめていた。まるで、多恵の感情が落ち着きを取り戻すまで待っているように。

 多恵は両手の平で涙を拭って、わななくように震える喉を鳴らして――込み上げる感情を、ただ一言に篭めた。

「ありが、とう、……ござい、ましたぁっっ!!」

「……武運長久をお祈り致しております、少尉殿」

 振り切るように、多恵は走る。走って、走って、茜と晴子に飛びつくように抱きついて。大きく、全身を震わせて、泣いた。

 多恵らしい、と少しだけ苦笑しながら。薫が進み出る。毅然と、そして凛々しくも在る表情でまりもと向き合い、敬礼を。

「軍曹の尽力に感謝する!」

「ご昇任おめでとうございます少尉殿! ――武運長久をお祈り致しております」

 交わす言葉はそれだけ。けれど、薫は満足していた。言葉だけがすべてではない。まりもの、表情、声、姿……それらが、言葉以上に彼女の想いを伝えてくれる。感じさせてくれる。――ありがとう、軍曹。

 最後に、ニッ、と笑って。薫は皆が待つそこへと向かう。茜と晴子に宥められている多恵を、自分も弄ってやろうと。破顔する彼女の目尻には、ツゥ、と零れる涙が一粒あった。

 そして、亮子が進み出る。先ほどまでは多恵同様に涙を滲ませていたが……多恵が存分に泣いてくれたからだろうか。亮子の瞳は潤んではいるものの、決壊にまでは至っていなかった。

「ご昇任おめでとうございます少尉殿!」

「軍曹の錬成に感謝します。……今日まで、ありがとう。……どうぞ、これからもお元気で」

「少尉……ありがとうございます。――武運長久をお祈りいたしております」

 にこりと微笑んで。亮子もまた、皆のもとへと駆ける。わんわんと泣く多恵に抱きつくようにしながら、亮子も、耐えていた分を泣きはらしていた。

 少女達は、笑顔を咲かせながら、涙を流しながら、それでも……歩いていく。前に進んでいく。

 その後姿を見つめて。見守って。まりもは、ただ静かに微笑んでいた。誇らしく成長した彼女たち。これほどの想いをくれた彼女達――どうか、あなたたちに、幸せな未来が訪れますように。

 この戦争が終わる、いつかそのときまで……どうか、生き延びて欲しい。そう、願う。







 ===







 涙と笑顔に溢れた解隊式の後、その情感に浸る間もなく強化装備の交換や正規軍の黒い制服の手配、任官の事務手続きや書類の作成……と諸々を片付けて、ようやく一息つく。

 既に受け取ったC型軍装に着替えているが、これが存外に着心地がいい。さすがにセミオーダーというだけはある。知らぬ間に自身の体型を元にした制服があつらえられていることに若干の困惑を抱いてしまったが、自身に違和感なくフィットするこの軍装に文句を言うつもりは無かった。

 まして、この黒を基調とした制服を着ているだけで……衛士としての意識が引き締まるのだ。単なる錯覚かもしれないが、それでも、本当に任官したのだという実感を、形として与えてくれる。

「――では続きまして、配属部隊についてご説明します」

 手続きや書類作成についての指導をしてくれたまりもが、そのままに配属について説明してくれる。……わかっていても、矢張り緊張を強いられる瞬間だった。

 茜はちらりと皆を見て、皆もまた、互いの顔を窺っていた。例え離れ離れになったとしても、絶対に忘れないし、仲間である……と。そうやって互いの気持ちを確認し合ってはいるが……それでも、どうしても気になってしまうのだ。そして、出来得るならば、この素晴らしい仲間たちと共に戦いたいと願ってしまうのである。

「今後皆さんは、国連軍の正規兵として実働部隊に組み込まれ、多様な地域でのあらゆる作戦に従事することになります。……このたび衛士訓練学校を卒業した新任少尉は全員、同一部隊に配属されることが決定しています――」

「――――えっ?」

 まりもの言葉に、耳を疑う。思わず声を漏らしていた茜だが、それは……一瞬の後に、驚愕の喚声となった。

「「「「「ええええええっっ!!!???」」」」」

 実に喧しい。

 だが、それほど驚愕すべき内容だったということか。耳を劈くような声量に目を丸くするまりもだが、すぐに教官時代に見せたような厳しい表情に変わり、騒がしい新任少尉たちを無言のまま見つめる。――ゾッ、と。茜達の背筋に怖気が走った。まりもがああいう表情を見せたとき、大抵は怒声が飛ぶのだ。……が、現在は既に、新任とはいえ少尉と軍曹という関係にあり。故にまりもは沈黙を通しているのだが……むしろその方が怒声を浴びせられるよりも何倍も恐ろしい。

「……す、すまない、軍曹」

「いえ。お気になさる必要はございません」

 おずおずと謝辞を述べる茜に、まりもが目を伏せながら応える。どうしてか、やれやれと溜息が混ざっていたような気がするのは気のせいだろうか。

「皆さんは本日1200を以って、横浜基地司令部直轄の特殊任務部隊、A-01部隊に配属となります」

「!?」

 基地司令部直轄、特殊任務部隊……。その不穏な単語に、どきりとする。わざわざ特殊と銘打たれているあたりに、胸の辺りがざわついてしまう。まして基地司令部直轄……とは、一体どういうことなのか。

 全員が揃ってその部隊に配属となるからには、何か必然性が潜んでいるに違いあるまい。むしろ、その特殊任務部隊に配属することが前もって決定されていたのだとしたら……在る程度の納得は出来る。

 つまり、自分たち――即ち、207A分隊は、最初からそのA-01部隊に配属するために、その特殊な任務内容に従事できるだけの能力を得るために、訓練を続けていた……。

 あくまで可能性だが、瞬時に組み立てた予測としては、なかなかに説得力が在る。横目にこちらを見ていた晴子と視線がぶつかる。その表情には、どこか悪戯気な感情が見え隠れしていて。

「以上までで、なにか質問はありますか?」

「……A-01について、詳細を聞くことは可能ですか?」

 まりもの言葉に、茜が声を発する。が、彼女の問いに答えたのはまりもではなく……まして、今この室内に居るものではなかった。

「それは私が説明しよう」

 ガラリ、とドアが開く。言葉と共に現れたのは小豆色の髪をした、女性大尉。まりもが敬礼するのにあわせて、茜達も一斉に敬礼する。む、と答礼を返す女性大尉は、そのまままりもの横に並び、不敵とも思える表情で茜達ひとりひとりを見回した。

 妙な緊張感が走る。A-01の詳細ついて説明してくれるらしい彼女。まさかひょっとして……という少女達の予感に気づいているのだろう。彼女は真面目な表情で、名乗りを挙げる。

「伊隅みちる大尉だ。貴様らが配属されるA-01部隊第9中隊の隊長を務めている」

「!!」

 ざわ、と全員の空気が揺れた。矢張り、という思いと、隊長が女性であるという事実に、少なくない驚きを覚える。……軍に男女の差はなく、今の時代男性が貴重で在ることも鑑みれば、別段驚愕するようなことでもないのだが……そこはやはり、司令部直轄の特殊任務部隊、という肩書きが影響していた。

 その肩書きだけでとてつもなく重要な任務を任されているだろうことが予想できる部隊に、女性の隊長が就く。ならばこそ、みちるという女性の持つ実力を想像して、驚くのだ。

「……神宮司軍曹、ご苦労だった。後は私に任せてもらおう」

「はっ! よろしくお願いいたします、大尉殿!」

 後方に控えたまりもへ労いを掛け、みちるは彼女の退出を命じる。まるでそのことがわかっていたかのように、まりもはこの場を彼女に任せて去っていった。……あまりにもあっさりとした引き際に若干の寂しさを感じたが……既に、彼女との別れは済ませているのだ。気を引き締めて、みちるを見つめる。

 その気丈な視線を向ける茜達を改めて見つめて、みちるはまたも不敵に笑う。いい根性だ――そんな言葉が聞こえてきそうだと、茜は思った。







 みちるの説明によれば、矢張り自分たちは、入隊の当初からいずれA-01部隊へと配属されることが決定していたらしい。……否、それに値する能力を身に付けたならば、という方が誤解がないだろうか。結果として、その条件を満たし、A-01へ任官することとなった茜達元207A分隊の全員。

 さらには、彼女たちと共に訓練期間を過ごした207B分隊も、いずれはA-01へ配属される可能性が高いという事実。或いは帝国軍横浜基地の時代より連綿と続けられてきた特殊任務部隊専属の訓練部隊、という経緯。それらを知り、自分たちが辿った数奇な経歴にも納得を示す。

 さて、と。A-01の成り立ちやその経緯をあらかたに説明し終えたみちるは、新たな部下となった五人の少女達に、一層不敵な笑みを見せ付ける。……それはどちらかというと悪戯っ子のそれであり、なんだかよく似た笑顔を浮かべる晴子を連想させるものだった。そう思って晴子を見れば、彼女も何がしかを感じ取ったのだろう。「あちゃぁ……」と、観念したように言葉を漏らしていた。

 そう。それはきっと間違いなく。

 ああいう笑みを浮かべたとき、その人は往々にしてなにかろくでもないことを思いついているか……その後の結果を愉しみにしているか、のどちらかしかない。

 つまりは茜達にとってはそれほど笑えないような出来事が待っているという……ことに、なるのだろうか。茜は真剣に悩んだ。

「早速だが、部隊の皆に引き合わせよう」

 ついてこい、と歩き出すみちるに、皆が続く。エレベーターに乗り込んで地下へ。居住フロアよりも下の階層へ降り……向かう先はA-01部隊がブリーフィングに使用する部屋だという。そこに、彼女たちの仲間……先任の、衛士たちがいる。

 心臓が早鐘のように鳴り響いていた。緊張に手の平が汗ばむ。ごくり、と絡みつくつばを飲み込んで――それでも、精一杯に胸を張る。

 入口の前で、みちるが不意に立ち止まる。どきりとした茜達の表情をじっくりと観察して、――くっ、と。苦笑に似た笑顔を見せた。緊張を笑われたのかと思ったが、多分違うだろう。まりもとは違うが、今の苦笑からはそれとない優しさが感じ取れた。

「……まぁ、驚くな、という方が無理だろうな」

「えっ?」

 どうやら独り言だったらしいみちるの言葉に疑問符を浮かべた茜だが、みちるはそれに気づかず、ブリーフィングルームのドアを開ける。――カラカラ、と軽い音を立ててスライドしたドアを抜けて、みちるに続く。

 横列に整列し、隠しきれない緊張のまま……視線を彷徨わせる。正面には、同じように並ぶ女性たち。けれどこちらは、一向に緊張を浮かべた様子もなく、むしろガチガチに固まっている彼女達を見て楽しんでいるようだった。

「――ぇっ、」

 視線が、止まる。

 その人物には、見覚えがあった。――否、見覚えが在るどころか、その人は、たった一人の……

「お姉ちゃん!? そ、それにっ、速瀬さんもッッ!!??」

 驚愕を通り越して唖然とする。――そんな莫迦なッ! という衝撃が、茜の全身を走り抜けた。

 が、瞬間に、思い出す。

 つい先ほど、みちるの説明にあったばかりだった。A-01部隊に配属される……そのために、専用の錬成を受ける訓練部隊。かつての帝国軍横浜基地衛士訓練学校、そして、現在の国連軍横浜基地衛士訓練学校……。ならば当然、そこに遙と水月がいても、何の不思議はない。

 知識としてその事実を受け入れていただけで、全くそのことに予想がつかなかった。茜は、自分の迂闊さを情けなく思う。……同時に、実の姉と、そして憧れて目標にしてきた水月と同じ部隊に配属されたことを、心底から喜ばしいと思う。

「あああああああああああああああああっっっ!!!??? なんで、なんで、なんでぇええええ!!!??」

 ワァン、と茜の耳を貫くのは、多恵の絶叫だった。その声量に思わず身体のバランスを崩してしまったが、何事かと多恵を叱責しようと振り返れば……言葉をなくして立ち尽くす四人の仲間達を見た。

 え? あれ?

 立ち尽くす晴子たち。多恵にいたっては驚愕に叫んだそのままで硬直している。薫も亮子も驚いたように目を見開いて、……全員が、ある一点を見つめていた。

 何事だろうと、そちらに視線を移す――。

 どぐん、と。心臓が鳴った。

 ぇ、と。呟きが漏れた。

 そこに、いた。

 そこに、立っていた。

 居並ぶ女性たちの、一番端に。

 多恵の大声に驚いて、でも、少しだけ照れくさそうに微笑んで。

 黒い髪、黒い瞳。……見間違えるはずのない、その人は、――――ああっ、







「武ッッ!!」







「よっ、久しぶり」

 涙が、込み上げてきた。どうしてだろう、ぼろぼろと零れて止まらない。

 任官を果たしたその時、まりもと別れのひとときを過ごしたその時。あんなにもたくさん泣いたのに。……一体何処に、これだけの涙が残っていたのか。

 熱い涙が頬を濡らす。いや、これは頬が紅潮しているための熱さだろうか。

 両手で口元を覆うように。漏れそうになる嗚咽を、必死になってこらえる。溢れる涙が、彼の姿をぼやかせる。ああ、もっと見たいのに。もっと見ていたいのに。どうして、この涙は止まってくれないのだろう……。

「…………涼宮……、」

 気づけば、武が優しく微笑んでくれていた。久しぶり、と彼は言う。微笑みを彼が向けてくれる。

 それだけでこんなにも満たされる自分が居て……だから、そう。茜は、これ以上取り乱した自分なんて見せられない、と。涙を拭って、一度、大きく息を吸った。

 任官して、配属して、早々に無様な姿を見せてしまった。――だから。

「涼宮茜少尉であります! よろしくお願いします!」

 胸を張れ。既に任官していて、笑顔で迎えてくれた武に、成長した自分を見せ付けるのだ!

「柏木晴子少尉です! よろしくお願いします!」

「築地多恵少尉です! よろしくお願いします!!」

「立石薫少尉です、よろしくお願いします!!」

「月岡亮子少尉です。よろしくお願いします!」

 五人が、敬礼を向ける。それを受けて、隊長であるみちるが宣言した。

「A-01部隊へようこそ。貴様達を歓迎する!」

「「「「「はっ! ただ今を以って、着任いたします!」」」」」

 盛大に、凛々しくあれ。茜は、晴子は、多恵は、薫は、亮子は……こうして、遂に、任官を果たし……白銀武との再会を果たしたのだ。







 ===







 交流を深めるためには矢張り食事を一緒に、という手段が一番手っ取り早い。無論、A-01部隊に属する面々であるならば、時と場合に依らず、その開けっ広げで、よく言えば大らかな……悪く言えば色々と痛い目を見るので省略するが、とにかく、食事、というツールを利用せずとも打ち解けることは可能だろう。

 が、相手はなんと言っても新任少尉である。その全員が顔見知りという水月さえ、他の皆に気を遣う形で昼食を一緒に採ろうと提案したのだから、武は当然、異を唱えることはしなかった。

 各自が料理の載ったトレイを手に、席へ着く。いつも通りに定位置へと腰を降ろす彼女たちの中で、どうしてか水月と茜……というか、元207A分隊の五人が立ち尽くしている。後者は……まぁ、まだその理由を想像できる。共に食事を採ることは願ったり、ということだろうが、はてさて、一体何処に座ろうかしら、という具合だろう。

 ――だが、しかし。

 何ゆえに水月が立ち尽くしているのかがわからない。見れば、水月はいつも通りに武の左隣に座ろうとしていたのだが……そこには、茜もまた、立っていた。お互いにそこに座ろうとして、鉢合わせて、おや、と首をかしげて見詰め合っている。

「……なに、茜? 早く席に着きなさいよ」

「えっ? あ、いぇ……速瀬さんこそ、その、」

 不思議そうに首を傾げながら、水月は茜を座るように促す。……が、茜は一向に空席に向かう様子はなく。その視線は、水月と武の顔を行ったり来たりしている。茜の背後では、なにやらどよどよと騒ぎ始めた晴子たち。――なんだ? 武は眉を顰めた。

「……??」

 よくわからないままに、水月は自分のトレイを、いつもの席に置く。そして武の左隣に腰掛け……ようとして、ぴたりと停止した。

 ややあって、再び茜の顔を見つめる水月。その表情は、何かに気づいたような……言葉にすると、「はは~ん」とか、なにか、そういう類のニヤリとした笑みが浮かんでいて。

「ねぇ本田、そこ、詰めてくれない?」

「はっ?」

 くるりと向きを変えて、水月が武の右隣に座る真紀に言う。かつてはその席に藍子が座っていたのだが……彼女たちが亡くなって以降、空白を埋めるようにとそれぞれが席をずれていた。ぽかん、と水月を見上げる真紀に、彼女は「いいからさっさとどく!」と椅子をガタガタと蹴っ飛ばした。

「うわぁっ?! ちょっ、なにするんですかぁ! 中尉!!」

「ほら、さっさとしなさいっ!」

 わけもわからず放り出された真紀の、彼女が数瞬前まで座っていたその席に、水月は座る。勿論、一度置いたトレイもそこに移動させていた。満足そうな笑顔を浮かべて、茜を見やる。水月の意図に気づいた茜が、ぼん、と顔を真っ赤に染めた。……背後ではささやかに歓声が沸いている。

 それを見て、ほほぅ、と内心でほくそ笑むのが美冴である。顔を真っ赤にしたまま武の左隣に座る茜、そしてそれを受けて柔らかい表情を見せる水月。更には武までが、水月の意図に合点が言った様子で、僅かに頬を染めている。

(なるほどなるほど、そういうことですか……)

 昨年に偶然聞いたあの話は、どうやら的外れではないものの、真実ということではなかったようだ。……無論、そんなことはとっくに気づいていた美冴だが、それでも、水月をからかい続けたのは単純に楽しかったという理由だけではない。だが、こうしてあからさまな水月の態度を見せられては、最早苦笑するしかない。

 ちらりと遙を見れば、彼女も親友である水月と、妹の茜の気持ちに感づいたらしく、にこにこと天使のような笑顔を浮かべている。

 ――くくっ。漏れる笑いを堪えられない。これはこれは、大変面白いことになったものだ。ニタリ、と唇の端を吊り上げてその三者を眺めていると、不意に武と目が合った。瞬間、――やべぇ、と目を逸らした武。……どうやら美冴の視線によからぬことを感じ取ったのだろうが、そこまで期待されては先任として、存分にそれに応えねばなるまい。

「……美冴さん、駄目ですよ」

「…………まだ何も言ってないんだが」

 さらりと美冴の企みを看破した梼子が、さりげなく釘を刺す。つい先ごろ中尉に昇進した美冴ではあるが、どうにも梼子の言には逆らえない。……いや、別に言いなりになっているというわけではないのだが……けれど、彼女とのそういう関係性を気に入っているのも事実。無論、そんな彼女を含め周りの人間をからかっては引っ掻き回し、その反応を見ることも十二分に気に入っているのだが……。

 もはやライフワークに等しい水月弄りに、新しい要素が加わったことをたっぷりと喜びながら、美冴は無言で武と茜をニヤニヤと見つめた。



「……えーっ、と。あれ? なんでアタシ放り出されたの?」

 真剣に首を捻りながら、新しい自分の席を探す真紀だけが、この状況を飲み込めていなかった。







 少しだけぎこちなかった昼食も、気づけば互いに打ち解けていって……十四人となったA-01部隊は、新たな活気に沸いていた。特に、新任少尉組のテンションが高い。遂に任官を果たした喜びと、そこにかつての同期であった武が居ること。それらが合わさってずいぶんとはしゃいでいたように見えた。

 勿論……それは嘘ではないし、作り物でもなく。本当に、彼女たちの気持ちそのままだっただろう。

 だが、みちるは、水月は……そして数名の先任たちは、察していた。気づいていた。

 彼女たちの、武を見る視線、表情、呼びかける声。その、ひとつひとつが。――強張っている。

 終始そうだったわけではない。その僅かの戸惑いも、次第に薄れていったように思う。……だが、彼女たちはまだ、本当の意味でその惑いを拭い去れたわけではあるまい。

 恐らくは衛士として、その立場に在るものとして……先任となった武の、任務に関する内容に触れることを躊躇い……彼が語るまでは聞いてはならない、と自身を制してのことだろう。

 初対面でそうとわかるみちるの観察眼などは流石に隊長を務める才覚溢れた御仁であると評してしかるべきだろうが……それでも、恐らくはあの鈍感な武でさえ気づいている程度には、わかり易い強張りであった。

 武の顔を見れば、或いは目でもいい。とにかく、彼を見れば……どうしても、視界に入る、その傷。事情の知らぬものが見れば、思わず息を呑むのは必至であろう。

 傷を残す衛士、というのは……多くない。

 戦術機という戦闘兵器に搭乗して戦場を駆ける衛士だが、彼らが負う負傷というものは……往々にして致死に至ることが多い。BETAの攻撃によって戦死する者の大半が、その全身を圧殺されたり、咀嚼されて喪われたり、溶解液に溶かされたり、レーザーに蒸発したり……或いは、機体の主機の爆発によって吹き飛んだりと、残す傷もないほどに無残なものが多いのだ。

 負傷を負い、運よくも生き残った場合でも、それは例えば手を、足を失っていたり……内蔵に傷を負い、骨を折り……といった具合のものが多い。つまり、武のような裂傷を負うことは少ないということでもある。

 また、前者のような重症の場合は必然的に擬似生体が移植され、傷ごと「元通り」に治療することが可能であり……例え縫合の跡だろうと、それも擬似生体の技術を応用した皮膚を移植することで消すことが出来る。……故に、自らの肉体に傷を残すものは多くなく……けれど、そうして、敢えて自らの負傷を晒す者は、確かに存在するのだ。

 現に武がそうである。

 そして、彼らも武も……そうして傷痕を残すことで、自らの過ちを肉体に刻み付けている。そうすることで己の犯した失態を忘れず、二度と同じ過ちを繰り返さないように、との戒めと成すのだ。……或いは、その傷を負ったときの思い出、という理由で傷を残すものも居るかもしれない。奇跡的に生還を果たした際の傷、等、それぞれに、それぞれの理由が在るのだろう。

 水月は、武が自らの傷痕を残す理由を問い質したことはない。……が、大凡の理由は見当をつけているし、それが外れているとも考えていない。

 間違いなく、あの傷に込められたのは自身への戒めだろう。復讐に捕らわれ、衛士としての本懐を見失い……先任四人を、木野下を、志乃を、亜季を、藍子を死なせた罪。既にそのことを「罪」と括り、捕らわれることからは抜け出している武だが、それでも、彼は未だに恐れているのだ。――己の奥底に眠る、復讐の鬼を。

 だから、その傷に刻む。己が犯した過ちを。己を救ってくれた彼女たちの生き様を。そうすることで、武は身を焦がす復讐に支配されることなく、護るもの……守護者として、存在できている。

 そのように、水月は理解している。視線を向けた先、みちるも……多分、同じように考えているだろう。

 だから、茜達の戸惑いは、僅かに胸を痛ませた。そしてそのことを武が気づいていることにも……若干の憂いを抱く。こればかりは、如何に水月とて口を挟むことなどできない。武を差し置いて、茜達に彼の覚悟を語るわけにはいかないのだ。

 故に、素知らぬふりをする。

 茜達が武の傷痕について積極的に触れようとしないように、自身もまた、彼女たちがそう思っているだろうことに、気づかないふりをするのだった。

 やがて昼食も終わる。いつもよりもややゆったりとしたペースで、そして歓談に花を咲かせての食事。そのために休憩時間も残り少なくなっていたが、解散するに当たり、みちるが武と茜達五人を呼ぶ。

 それだけでみちるの考えを悟った水月は、遙と共にPXを後にした。去り際に、ちらりと武たちを振り向く。顔に、腕に、心に傷を負い……それでも、前を向いて突き進むことの出来る武。どうか、彼女たちにもそんな強く成長した武を知ってもらいたいと。水月は微笑みを浮かべた。







 みちるの計らいで、特別に三十分の休憩時間を与えられた武たち六人は、久しぶりの再会に、会話を弾ませた。

 場所は変わらずにPX。いつかのように合成宇治茶を啜りながら、思い思いに話題を口にする。主たるものは、武が任官するに当たってのいきさつだ。ただでさえ喧しく姦しい茜達である。彼女たちの質問にはいつだって逆らえないし、強制的に引き出されることを、武はよく知っている。

 思い出すのは三年以上前。帝国軍の訓練校に入隊し、彼女たちと初めて出会ったその日。純夏とのキスを目撃していた茜と晴子に散々からかわれ、それからというもの、彼女についての情報を悉く引きずり出されたのである。

 その経験から、武は機密に抵触しない範囲で、自分が異動してからのことを簡潔に話した。単独での総戦技評価演習、仮想敵の全員が先任少尉たちだったこと、戦術機の操縦訓練に、深夜までおよぶ突貫の座学。真那に託された弧月と、その想い。……そして、任官。

 初陣の、あの…………黒々とした、おぞましくも無様で、愚かしい自分。

「俺は……駄目だったんだ。どうしても、どうやっても、純夏を忘れられなかった。アイツが死んでしまった哀しみをずっと引き摺っていて……お前たちにも平気なふりを見せて……そして、BETAに対する憎しみを、強く募らせていた」

「…………」

 少なくとも、その言葉は茜達にとってショックだった。騙されていたこと、ではない。……彼が、武が、そんな仮面を纏っていたことに気づけなかった。その事実が、悔しい。

 感情を吐き出すような、自らの傷を抉るような武に、茜は「もういい」と声を掛けそうになる。もういい、もう聞きたくない。……武がそんな風に苦しむ姿を、見たくはなかった。……だが、武は語るのを止めない。向けられる彼の瞳が、聞いて欲しいのだと訴えていた。

「そして、俺は出撃した。甲20号目標に巣食う、BETAの間引き作戦に参加して…………そこで、俺は、狂っちまった。BETAを一匹屠るたびに、長刀で、突撃砲で、奴らを斬り、殺すたびに……俺は、壊れて、復讐に酔いしれた。――ざまぁみろ、って。そう、嗤っていたんだ」

「……ッ、……武……、」

 堪えるような声を、茜がもらす。今にも泣きそうな表情で、青褪める茜。見れば、晴子たちもまた、同じような表情をしていた。……無理もない、と武は思う。なにせ、自分でも思い出すたびに恐怖に包まれる。凍りつくような感情に支配され、心臓の脈動まで停止するような怖気が忍び寄るのだ。

 コロセ、殺せと復讐が吠える。呪え、その暗黒に身を委ねろと。もう一人の自分が魔手を伸ばしてくる。――でも、

「でも、そんな俺を、助けてくれた人が居た。……暴走して、単独で敵に突っ込んで……レーザーに機体をバラバラにされた自分を、瀕死の俺を……自分の命を顧みず、救ってくれた人が居た」

 今でも覚えている。彼女たちの、死ぬ瞬間。掛けてくれた言葉。任官して、たった二週間しか同じ時を過ごしていないけれど。……それでも、彼女たちを、忘れはしない。

「上川少尉たちの挺身で……俺は今、生きていられる。顔を抉られて……左腕をなくしたけれど、でも、俺はこうして生きている」

「腕……を、」

 晴子が息を呑んだ。視線を向けるそこには、確かに左腕が存在する。その視線に気づいた武は、自身の腕を撫でながら……擬似生体であると、答える。薫の表情が歪んだ。なにかを堪えるような、そんな顔だ。

「俺の暴走で四人を巻き添えにして、それでも自分だけが生きている……それに潰されそうになった俺を、水月さんが救ってくれた。……ホント、今思い出しても容赦なかったなぁ……。縫い終わったばかりの顔面を思い切り殴られて、血まみれになったんだぜ、俺」

 おどけるような武に、多恵が僅かに微笑んでくれる。彼女は気づいたのだ。こうして武が……その、悲惨な過去を語れること。こうやって、自分たちに語ってくれていること。その理由に。

 にこり、と。温かい感情を思い出すように。武は笑う。笑顔を見せる。そして、茜を見つめて……彼は言った。

「ありがとう、涼宮……。お前が、俺を救ってくれた」

「……え?」

「水月さんが気づかせてくれて……でも、それだけじゃあ立ち直れなかった俺を、狂いそうになる俺を、支えてくれた言葉があった。前を向いて、這い蹲ってでも進め。そうやって、叱咤激励してくれる想いがあった」

 それはあの戦域から脱出する際に美冴が言った言葉であり、水月が諭してくれた言葉であり、まりもが示してくれた未来であり、己を信じろと、誇らしげに言ってくれた真那の言葉であり、その最期まで、武を信じてくれていた純夏の言葉。

 そして。

 それは、いつも、いつでも、いつまでも……武の傍にいてくれて、支えてくれた、彼女の――お前の。

「お前の言葉が、お前との思い出が……俺を、支えてくれた。前を向かせてくれた。生きている、って、そう、思わせてくれた」

 傷が癒え、けれど、自身の内で渦巻く感情の奔流に狂いそうになった時。偶然に目撃した茜。彼女達。そして……ようやくに気づいた、自身の想い。



 いつも、お前が傍にいた。



 それが、どれほど武の心を支えてくれていたのかを知った。――だから、感謝を。

「ありがとう…………茜。お前が居てくれたから、俺は、また前を向いて進むことが出来る」

「―――――――ッッ!!??」

 ぉおお、と静かなどよめきが走る。晴子が、多恵が、薫が、亮子が、一斉に。それはもう盛大に、叫ぶ!

「やったね茜ッ!」「おめでとう茜ちゃんッ!」「ッッかぁあ! 見せ付けやがってこのぉ!!」「おめでとうございます茜さんッ!」

 そのあまりにも突然の歓声に怯んでしまう武だが、しかし、左隣に座る茜は微動だにしない。ん? と疑問に思って俯くような彼女の表情を見れば……真っ赤になって硬直している。

 多分、今も尚続いている歓声さえ聞こえていないのではないだろうか。ぷしゅぅぅぅ、と顔から湯気がたち……どうも、尋常ならざる容態のようであった。

「ぉ、おい、茜ッ! 大丈夫かよっ?!」

「はゎ、はゎ、はゎ」

「何言ってんだ?! おい! しっかりしろって!!?」

 茜の細い両肩を掴み、気をしっかり持てと揺する。けれど、反応らしき反応はなく、これはいよいよまずいのではなかろうか、と若干焦る。

「白銀君! よく言ったよ、見直したね!」

「大胆だよぅ! でもそんな白銀君も素敵☆」

「いっやぁ~、いつかそうなるんじゃないかと思ってたけど、まさかイキナリとはなぁ!!」

「男らしいです、白銀くん!!」

 やんや、と騒ぎ続ける晴子以下。遊んでないで茜をどうにかしろと思う武だが、内心、驚くほどに落ち着いている自身を認識していた。

 自身の想いを伝えられたこと。ちゃんと、茜に伝えることが出来たこと……。それを誇らしいと思う。嬉しいと思う。

 こんなに真っ赤になってしまって、可愛らしい姿を見せてくれる茜に…………どうしようもないほどの、感情が溢れ変える。周りではしゃぐようにからかいの言葉を投げる晴子たちに再会できて、変わらずに居てくれることを嬉しいと思う。

「ぁ、の、武……っ」

「ん? なんだ?」

 茜の肩を掴んだままの武に、おずおずと、もじもじと、茜がようやく口を開いた。見詰め合う距離は、近い。

 その、あんまりな近さに更に顔を真っ赤にする。それに気づいた武が、慌てたように手を放し…………ほんの少しだけ寂しそうな表情を見せる茜。どうしろというのか、武は思わず苦笑してしまった。

「…………武、ありがと。…………あたしもね、武が居たから、頑張れたんだよ。武を支えてあげたい、って。そう思って、そうできるように、頑張ってた」

「そ、か。うん……」

 微笑んで、恥ずかしそうに、笑って。武が、くしゃくしゃと茜の頭を撫でる。――あ、と。ほんの少し驚いたような表情をして、けれど、くすぐったい感情を堪えるように。

 懐かしい、その感触に。

 止まらない、この感情に。

 想いに。

 通じ合ったのだと、それを知って。

 だから、幸せだった。

 茜は、幸せだったのだ。







[1154] 復讐編:[十三章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:33

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十三章-01」





 207A分隊が任官した……その事実を、素直に受け入れられている自分を認識する。

 先に行った彼女たちを羨む気持ちがないと言えば嘘になるが、それ以上に誇らしく、嬉しいという感情がある。――おめでとう、茜。

 残暑の厳しい太陽を見上げながらに、そう心中で呟く。千鶴は、額から零れ落ちる汗を拭った。

「……榊、気分悪い?」

「えっ……?」

 唐突に呼びかけられ、驚いてしまう。振り向けばそこには同じように汗でアンダーシャツをぐしょぐしょにした慧が立っていて……不審げにこちらを見つめている。

 案じてくれたらしいのに不審げな視線を寄越すとは何事か……と眉を寄せつつ、以前では考えられなかった彼女の気遣いに苦笑する。……相変わらず慧と衝突することは多いが、それでも、現在では彼女との関係も良好……と、いっていいだろう。

 それもこれもまりもの発案によって行われたあの奇妙な共同生活のおかげだが、今ではそれに感謝している。

 慧だけではない。冥夜、美琴、壬姫。そして自分。互いに深く干渉しあわないことをどこか美徳と感じていた自分の、……そして、同じように考えていただろう彼女たちの、凝り固まった常識をぶち壊してくれたまりもには感謝してもしきれない。

 知られたくない、知って欲しくないことは確かに存在するし、それを無理に聞きだそうとは今でも思わないが、でも、個々人の考えや意見、生き方。そういうものを目の当たりにして、自分たちは全く別の人間なのだということを理解して、そして、だからこそ互いをよく知り、相互理解が必要なのだと知った。

 かつて、武が自分たちに向けた怒り。あれは的外れでもなんでもなく、真実、自分たちを諭してくれていたのだろう。……言葉足らずで感情的なものだったけれど、千鶴は、それにさえ感謝している。

 苦笑しながら振り返った千鶴に、慧は益々不審げな表情を見せる。ちらり、と視線を太陽に向けて、また、千鶴を見る。

「…………日射病?」

「なんですって!?」

 目を線のように細めて、ぼそりと呟く慧。思わず大声を出してしまったが、今ではこういうやりとりもどこか柔らかく感じてしまう。……人間、変われば変わるものだと実感する。

 飄々とした態度を崩さぬまま去っていく慧を、しかし千鶴は追わなかった。時刻はじきに正午。食事の前にシャワーでも浴びるのだろう。グラウンドに一人残されて、けれど千鶴はまた空を見上げた。足早な雲が太陽を隠し、またすぐに流れていく……。心地よい風が、硬質な毛先を揺らしていた。

 思い出す。

 総合戦闘技術評価演習。その、最後を。

 千鶴率いるB分隊は失格した。それは、単純に言ってしまえば仕掛けられた罠に気づかず、退くも進むもかなわぬ状況に陥ったからだ。サバイバル能力に秀でた美琴が居ながら、彼女が気づいたときには既に泥沼に嵌っていた……。そのことで美琴を責める者はなかったが、彼女は今でもそのことを気にしている。――自分がもっと早く気づけていれば。そう言って涙を零していた彼女の姿は、声は、今でも鮮明に残っている。

 ……が、それを言うなら皆同じだ。或いは、その針路を決定したのは千鶴なのだから、自分が責められるべきであろう。……まして、曲がりなりにも分隊長である。部隊の責任は隊長の責任。順調に任務をこなせていたことによる慢心――と、そう評価したまりもを恨むつもりは毛頭ない。

 悔しいと思う。情けないとも思った。……だが、まだチャンスは残されている。十一月に行われる後期の総戦技評価演習。これを落とせば全てが終わる。――絶対に、合格してみせる。

 けれど、一つだけ……脳裏を過ぎる疑念が在る。

 絶対に、そんなことはないと信じたいのに……ほんの薄っぺらな感情が、その可能性を示唆してくる。

 ――お前は、戦場に立つことなんて出来ない。

 拳を握った。奥歯を噛み締めた。……やめろ。この考えは、やめろっ。

 父の顔が、浮かぶ。榊是親。内閣総理大臣という日本の上位職に位置づく存在。

 考えたくはない。そんなことがあってたまるかという鬱屈が、腹の底を這い回る。

 家出当然で飛び出して、国連軍の門戸を叩いた。……帝国軍は、父の影響が強過ぎて絶対に入隊できないから。だから、千鶴は国連軍に入隊したのだ。この手で、BETAを葬るために。この世界に、平和を取り戻すために。――なのに、なぜ。

 自分が軍属になったとしても、父の手から逃げられるとは思っていない。スンナリと国連軍に入隊できた時は内心で驚愕していたのだが、今考えれば、あれは“人質”として送り出されたような形となっていたのではないだろうか。

 戦国の世では珍しくもない手段。その相手とは戦う意思がないという証明として自身の血縁を人質として送り出す。千鶴の父、是親は、彼女をそのようにするべく、国連軍側に手を回したのだろう。

 或いは、娘の意志を尊重しただけなのかもしれないが……政治家である是親には、そのような感傷は皆無だっただろう。我儘娘が莫迦をやったが、それはそれで利用できる……という打算を働かせたに違いあるまい。

 この考えはやめろ、と。そんな風に考えたくはない、と。千鶴がいくら思ったところで、それが晴れることはない。もう何回も繰り返して……最早、自分たちが失格した理由はそのためなのだという屈曲した思考が空転しそうになる。

 ……だが、人質については定かではないが……総戦技評価演習での失格は、きっと、まりもが言ったとおりのことでしかないのだ。

 そこには榊是親の思惑も、千鶴が人質として在ることも関係なく。単純に、自らの力量不足によるもの……。そういうことだ。絶対に。――それ以外の理由なんて、あってたまるか。

 もし、もしも……そんなものがあったのだとして、それが「お前は帝国軍からの大事な人質なのだから」と説明されたなら……では一体、自分は、自分たちはなんのために死に物狂いで訓練に明け暮れているというのか。なんのために、これほど必死になって自身を鍛えているというのか。

 だから、絶対に、そんなことはない。

 そう信じたい。……でなければ、前を向くことなんて出来ず、先を目指すことなんて出来ない。

「……榊、なにをしている。あまりにも遅いので、皆心配しているぞ?」

 呆れたような声。視線を向けたそこには腕を組んで溜息をついている冥夜。着替えを済ませたらしい彼女は、ぼんやりとする千鶴を見て、やれやれと小さく苦笑した。

「……そう。すぐに行くわ」

「そうしてくれ。……そなたの分の食事は取っておく。早々に着替えを済ませるがよい」

 済まなそうに答えた千鶴に、冥夜は快活な笑顔を見せた。一々言葉遣いが堅苦しいのも、彼女の魅力の一つだろう。

 一瞬だけ、先ほどの“人質”についての疑念が浮かんだが……冥夜の向ける緩やかな視線に、そんなものはスゥ、っと引いていった。

 涼やかな風が吹く。汗に火照った身体を撫ぜるそれに頬を綻ばせながら、千鶴は基地へと歩を進めた。







 ===







 最初の一週間は座学が主となる。任官し、正規軍の一員となったことで開示される情報は、訓練兵のそれと比べるまでもない。部隊の任務内容や、軍規、或いはBETAの詳細について等々の知識を片っ端から詰め込んでいくのである。

 特にBETA個々の特徴・能力や、ハイヴの構造、その分類などは否が応でも頭に叩き込んでもらわなくては困る。敵を知らずして戦うことなど出来ない。その点を言えば実際のところ連中についてはめぼしい情報を得られていないのだが、長きに渡る闘争の末に、それぞれに対する有効兵器や戦略は、ある程度整理されているのも事実。

 ならばこそ、しっかりとそれを抑え、把握することで実戦におけるパニックを軽減し、冷静な対処が行えるようにするのだ。無論、座学で教えられる知識が全てではないだろう。だが、新任の彼女たちにはそれらの情報ひとつひとつが、己を生かし、仲間を生かすために必要な拠り所となる。

 故にみちるは一切の妥協を許さず、また、受講する五人の少女達も己に甘えを許さない。

 モニターに映し出される醜悪なBETAの異形に、息を呑み、眉を顰めたとしても。……眼を逸らす者など、いないのだ。

 真摯な態度で座学に臨む新兵たちを見て、みちるは内心で「さてどうしたものか」と頭を悩ませていた。口では光線級について、こいつが如何に厄介で煮え湯を飲まされた相手かを説明しながらも、脳裏では全く別の思考を展開させている。我ながら器用なものだと感心するが、不真面目ともとれないこともない。

 が、幸いなことに……というか、当然なのだが、茜達新任少尉はそんなみちるの内心の思考など気づくはずもなく。みちる自身も、教授する立場として本腰を入れるために、早々に思考を纏めるよう務めた。

 つまりは、

 ――茜達新任を、いつまで訓練期間に充てるか……

 である。

 無論のこと、任官したからといって訓練がないわけではない。当たり前だ。実戦に出ずっぱりならいざ知らず、現在の横浜は前線に位置するとはいえ、佐渡島にある甲21号ハイヴからの直接侵攻でもない限り、早々、戦場になることはない。

 だからこそ日頃の訓練は至極大切であり、これを怠ることなど許されない。

 また、A-01部隊は特殊任務部隊であり、香月夕呼の命令でいつ何時出撃が掛かるかわからない部隊だ。横浜基地防衛だけのために存在しているのでは、ない。そして、その任務が容易であったためしはなく、死人が出ない戦闘など殆どない。

 至近の作戦では四人が戦死し、それ以前にも多くの上官、同僚、部下を喪っている。……日々、厳しい訓練を積み重ねておいて、尚……だ。敵はそれだけ強大で恐ろしく、圧倒的なのである。だからこそ、それらに対抗するためにも訓練は欠かせない。

 だが、こと新任の者については……それ以前に、部隊として機能するために必要な訓練期間というものが在る。

 例えばそれは現在のような座学であったり……先任との連携を万全とするための訓練であったり……シミュレーターによる、BETAとの戦闘であったりする。

 いつ何時出撃となるかわからないのだが、ろくにBETAと戦えない状態で戦場に連れ出すわけにも行かない。往々にして新人は死に易い。シミュレーターでBETAとどれだけ戦っていても、初陣で感じる生の空気というヤツにとり憑かれて死んでいくものは多いのだ。

 “死の八分”――どれだけ準備万端で挑もうとも、それに飲み込まれるものはいるし……逆に、ろくに訓練を積めないまま、それを乗り越えるものも居る。

 要するに、人は計れないのである。……或いは、みちる自身にもう少し慧眼があればそれさえも把握できるのかもしれないが……。

 通常であれば、とみちるは思考を回転させる。

 通常であれば、三ヶ月。座学に一週間、部隊内の連携習得に二週間。シミュレーターおよびJIVES(統合仮想情報演習システム)を使用した実機演習に二ヶ月。……恐らくは、それが一番望ましい訓練期間だろう。

 余裕が在るならば、それを選択すべきだ。……現在、新任五名を除き部隊は九名。内一名はCP将校であるため、実際に戦場でBETAと相対するのは八名となる。

 本来三個小隊で一個中隊と成るべきところを二個小隊での変則運用を強いられている現状……矢張り、余裕が在るとは言い辛い。だからこそ、このたびの補充は正直に喜ばしい。報告書で見た限り、彼女達の成績は申し分なく、すぐにその実力を開花させてくれるだろう。

 だが、それはあくまで紙面での評価でしかない。みちるはまだ彼女達の、現時点での実力というものを見ていないし、これからの才能についても未知数である。

 ……結局のところ、当面の予定通りに訓練を続け、それを見て訓練期間を変更或いは修正する、という方向で進めるしかあるまい。

 最終的にそう結論して、……ならばそもそも何故、こんな思考に耽ってしまったのかを思い出した。

 ――白銀武。

 茜達の同期であり、類稀なる才能を期待され、単身で任官した男。アレは夕呼の指示というのが大きいが、しかし、経緯はどうあれ、武は僅か二週間ばかりの訓練で実戦を経験し、……矢張り、経緯はどうあれ、生還した。

 つまり、彼がたった二週間……通常ならば三ヶ月、少なくとも二ヶ月は欲しい訓練期間をすっ飛ばして実戦に出たのだから、その同期である茜達もそうするべきか、と。単純に、そういう思い付きだった。

 だが、既に結論したとおり、彼女たちは通常通りに訓練すべきだろう。……正直に言って、武のそれは常軌を逸しているのだから。

 そもそもの発端は戦術機適性「S」ランクなどという桁外れな数値を叩き出した彼の特異性だ。夕呼の研究によって明らかになった、発達した三半規管、強靭な内臓器官。それらがあったからこそ、十四時間連続のシミュレーター・実機訓練が実現できたわけだから、矢張り短期間での彼女達の錬成は現実的ではない。

 まして、今回は『伏龍作戦』のように目前に迫った作戦もなく、また、それに彼女達を出撃させてデータを採る……といった裏事情もないために、敢えて急ぐ必要もない。

 勿論、一日でも早く一人前に、実戦に出ても生きて帰ってこれるくらいに成長して欲しいとは思うが、急いてはことを仕損じるの諺もある。ここは、武と彼女達を引き合いに考えるべきではあるまい。特例は特例。彼のような特異な身体構造をしていない彼女達を、それと同じレールに乗せるべきではない。

 兵士級までの説明を終え、質問を受ける。そのときには既に、先ほどまでの思考は脳の片隅に追いやられていて……。

 みちるは、新たな部下となった五人の少女達の質問に、丁寧に答えるのだった。







 初めて見たBETAの姿は、おぞましく、最悪だった。――……これが、こんな姿をしたものが、人類の敵……っ。

 モニターに映し出されるBETAの姿。濃紺の背景に、その構造だけが描かれた戦車級、という敵のシルエットを凝視する。これまでにも光線級や要撃級など、十分おぞましい容姿をした連中がいたが、……一体何の冗談かと疑いたくなるような奇怪な姿。

 腹の下……と表現していいものか甚だ疑問だが、そこにズラリと並ぶ歯は、戦術機の装甲さえ噛み砕くという。そして続く闘士級に兵士級……というそれらも、反吐を吐きたくなるほどに醜悪だった。

 室内に設置された時計をチラリと盗み見る。……午前十一時四十分。食事の直前にこんなものを見せられて、ほんの僅かに食欲が失せるのがわかった。

「……今説明したのは、脅威度の高い順だ。もっとも、その順位付けに漫然と拘っていてはそのために足元を掬われる可能性もある。そのことは十分に注意しておけ。――なにか、質問はあるか?」

 確認されているBETAについての説明を終え、みちるがこちらを見回す。瞬間に脳裏に浮かんだ戯けた想像を払いのけ、茜は「はい」と手を挙げる。

「BETAとの戦闘……戦術機のカメラが捕らえた記録映像等を閲覧することは可能ですか?」

「可能だ。……が、資料として保管して在るものはどれも映像が酷くてな。教材用に撮影されたわけではないから、あくまで参考にしか…………」

 と、そこまでを答えてみちるはふむ、と顎に指を当てる。質問した茜はきょとん、とするしかないが、なにやら思案顔で頷いたみちるは、

「先月の戦闘記録のデータを編集したものが在る。……それでいいなら、昼休憩中に渡してやろう」

「はいっ! ありがとうございます!」

 硬い表情で言うみちるに、茜は元気よく返事を返す。一つ頷いて、みちるはちらりと時計を見た。少し早いが、休憩にしよう。そう言って、部屋を出て行く。残り二十分少々では中途半端な所で講義が中断されると考えたのか、はたまた早速そのデータを取りに行ってくれたのか、茜には判断がつかない。

 と、唐突に多恵が圧し掛かってきた。へろへろと力なくもたれ掛かってくる多恵に困惑しながらも、えい、と柔らかい頬を押しやる。

「ぃたーぃ。茜ちゃんが冷たいよう~」

「いきなり意味わかんないわよっ?! ……って、なによその顔は」

「んーん。茜ちゃんは、怖くないのかな、って」

 多恵の頬をもにもにとつねりながら、けれど冴えない表情の彼女に首を傾げる。――怖くないのか、と尋ねた多恵の本心を探ろうとしたところに、晴子が苦笑しながらやってきた。

 ぽん、と多恵の頭に手を置いて、

「多恵はさ、多分、BETAが気持ち悪いって言いたいんだよ」

「……だって、あんなバケモノみたいなの……」

 ああ、そういうことか。見れば、薫も亮子も同じような表情を浮かべて……けれど、晴子のように苦笑している。

 多恵のその感覚は、理解できる。自分だって、まさかBETAがあれほどにおぞましい姿形をしているなんて思わなかった。外見だけでかくも不快な感情を抱かせる敵。そしてそれは醜悪にして最悪の脅威。BETAとの三十年に渡る戦争で、人類が優勢だったことは一度もない。……だが、その事実が証明するのはBETAの圧倒的な強さであって、その醜悪な外見によるおぞましさ、ではない。

 連中がおぞましいことは重々承知しているし、それが恐ろしいほどの物量によるものだということも理解している。……確かに、その見た目の奇怪さも十分恐ろしいが、それが直接戦闘に影響するかというと……………………。

 どうだろう、と思ってしまった。

 多恵はその姿を見て怯えている。或いはこれは一時的なもので、慣れてしまえばどうということのない話なのかもしれないが……。実際、戦うとなったらどうだろう。人間大のもの、戦術機大のもの、それよりも遥かに巨大なもの。往々にして、巨大なものはそれだけで畏怖を呼び起こし、醜悪なものは精神に干渉する。

 慣れの問題なのだろう。実際は。

 けれど、例えば先ほどの戦車級などが自身の機体に取り付いて、その強靭な顎にガリガリと装甲を削られて……管制ユニットのハッチさえ食い破られ、開けた視界にその醜悪な面があったならば――それは、一体どれ程の恐怖、なのか。

 ぶるりと。身体が震えた。そうか、それを多恵は恐れているのだ。――自身が死ぬ様を想像してしまって、恐怖に憑かれている。

「大丈夫だって! あんなの、全然大したことないじゃないっ!」

 声を張り上げるような茜に、多恵はびっくりしたように目を丸くする。晴子たちも呆気にとられたように茜を見やった。

「それに、あれくらい気持ち悪いほうが、思いっきりぶっ倒せるじゃない」

 にっこりと笑って、少々乱暴な言い方をしてしまう茜に、晴子はたまらずに噴き出した。――あっはははは! 可笑しげに笑う晴子に、薫がつられて笑う。くすくすと亮子も笑って、多恵だけが驚いた顔のままだ。

 茜は別に、強がりを言ったわけではない。敵は、敵らしい姿をしてくれていたほうがいい。そう思うのは、当然の心理だろう。

 まして、相手は長年に渡り人類を苦しめ続ける天敵。異形の化け物は、そうあってくれた方が、より戦闘意欲も増す、というものだ。……恐怖はある。あの醜悪な姿が怒涛のように攻めてきたとき、果たして正気を保てるかという疑問もある。

 だからこそ、そのために訓練を積むのだ。その異形に慣れ、その醜悪さに慣れ、それらが催すおぞけを、戦う意思へと変換する。そうできるように、訓練を重ねる。

 ――そうでしょ? という意志を込めて多恵に微笑めば、彼女は困ったような、照れくさいような笑顔を浮かべた。どうやら一人だけ子供のような怖がりに憑かれていて、そういう自分を知られたことを恥じているらしかった。

 だが、茜はそういう多恵の純真さを貴重だと思う。同じように思っているのだろうか、晴子と薫も、多分自分と同じような表情を浮かべている。

「でもさぁ茜」

「? なによ、晴子」

 ――ぶっ倒せる、はないよねぇ。

 薫が爆笑した。亮子もぷるぷると震えている。……乱暴な言葉遣いだとは自覚していたが、そんなに笑わなくてもいいだろう……不満げに唇を尖らせて、茜は晴子をじっとりと睨んでおいた。







 ===







「ハッキリ言って、あんたにプロジェクションの才能はないみたいね……」

「それは、自分でもそう思います」

 八月に入ってから続けられていた午前中の「能力強化」のための訓練。投薬によって得られたリーディング能力こそ安定したものの、もう一つの能力であるところのプロジェクションについては、針先ほどの成果も上げられていない。

 ソビエト科学アカデミーが独自に研究を続け、数多もの人体実験の果てに開発した魔薬。ESP能力のないものに後天的に能力を付与するためのクスリは、現在も定量を服用している。……劇薬であるために、その副作用も計り知れず、既にこの身は投薬を続けるほかに生き続ける術がなくなっているためとはいえ、自身をこのような目に遭わせたクスリに頼らざるを得ない現実に眩暈がする。

 ……が、それとは関係なく。矢張り後天的な能力付与、というものはESP発現体同士を人工授精させ、“そうなるように”遺伝子操作を施した人工ESP発現体よりは不安定である、ということだった。

 実際にその効果が実証され、投薬を続けることでESP能力を付与することに成功したという事実が在るからこそ、夕呼はそれを武に使用したのだし、現実に武はリーディング能力を手に入れていた。……が、夕呼が求めたのはそれだけではなく、武自身の意思を他者に投影するプロジェクション能力。つまりは、武に何がしかの存在の思考をリーディングさせ、それを夕呼自身にプロジェクションさせる。そういう算段だった、ということだ。そして、それは見事に崩れ落ちた。

 しかし、これについてはさほど問題が在るわけではない。武がプロジェクション出来なくとも、その武が読み取ったイメージを、霞がさらにリーディングし、夕呼にプロジェクションすればいい。……手間ではあるが、現状を打開する手段でもある。

 それをわかっているからだろう。武がプロジェクション能力を覚醒させる可能性がないと断じた夕呼は、それ以降、無駄な時間を浪費することはなかった。霞を見やり、少女もまた、夕呼を見上げる。どうやらそれだけで意志の疎通が出来たらしい両者を、武はなんとはなしに見つめていた。

(しかし……すっかり人間離れしちまったな……)

 以前ほどの嫌悪感はないとはいえ――慣れというものは、本当に恐ろしい――矢張り、この能力は本来ニンゲンに備わるべきものではない。産まれた時からそう在るべしと教えられてきた霞にとっては、この能力こそが自身の拠り所となっているらしいが、武にその感慨は無縁である。

 能力の制御方法を学び、一ヶ月あまり訓練を続けたことで、もう無意識に他者の思考を読んでしまうことはない。以前は水月やみちるたちの表層意識を感じ取ってしまって、相当な自己嫌悪に陥ったものだが、もうそのことに頭を悩ませる必要はないだろう。夕呼が身に付けているというバッフワイト素子を自分にも装備させて欲しいと願い出たこともあったが……なんでも相当に高価で貴重なものらしく、無下に断られた。ならば、能力を完全に己のものとする以外に道はなく……。そうして、リーディング能力を安定させることが出来た。

 能力の及ぶ範囲や、正確さ……そして、一番重要なイメージ翻訳、という点……そのどれをとっても、霞には遠く及ばないという。

 純然たるESP発現体として「製造」「調整」された彼女と――どうやら先天的な才能もあったらしいのだが――自分では、その性能差は当然だと、夕呼は言う。……自分や霞をまるで機械かなにかのように評する彼女には苛立ちを覚えたこともあったが、それも過ぎたことだ。

 香月夕呼という女性について、ハッキリとわかったことが在る。

 彼女は、自分にとって絶対に赦せない女であると同時に、矢張り、天才で、そして、この基地に……否、世界に、なくてはならない存在なのだ。

 オルタネイティヴ4。その全貌を、自分はまだ知らない。00ユニットを完成させること。その明確なる目的を教えてはくれたが、具体的にどう自分がそれに絡んでいくのかは未だ見えない。そして、そんな途方もない計画を、ただ独り、たった独りで……一切の妥協もなく、後退もなく、後悔も、恐怖さえもなく。ただそれらの感情を呑み込んで飲み乾して突き進む科学者。――それが、香月夕呼だ。

 彼女は自分の唱える計画が世界を、人類を救うと言った。言い切った。00ユニットが完成すれば、人類に未来は残される。そして、それを信じ、協賛するからこそ、彼女は国連軍でも極東最大と謳われるこの基地の副司令というポストに在ることができている。そのために用意されたバックボーンは“世界”そのもの。

 比喩でもなんでもなく、彼女の双肩に、世界の未来が掛かっている。

 ……それは、想像を絶するプレッシャーだろう。凡人である武には、その重圧の万分の一でさえ、押し潰されてしまうかもしれない。だが、香月夕呼にそれは赦されない。

 プレッシャーに潰されることも、研究に挫折することも、未来を諦めることも、趣味に逃避することも、感傷に流されることも、好機を見過ごすことも、――計画に、失敗することも。

 何一つ赦されない。

 だからこそ。

 そう、だからこそ、彼女は誰よりも冷酷で、誰よりも非情で、誰よりも狡猾で、誰よりも異端で、誰よりも孤独なのだ。――だから、たった独りで戦っている。

 彼女が武を駒としてしか見ないのは道理だ。霞の能力を「性能がいい」と評するのは当然だ。

 端から、夕呼はそれらをヒトとして認識していない。……でなければ、ニンゲンとしての感傷など、振り払えるものではないのだから。

 鑑純夏という少女についてを、夕呼に根掘り葉掘り聞かれた際に言われた言葉が在る。……恐らくは霞のリーディングによって夕呼に伝えられたのだろう彼女の存在だが、しかし、当時は相当に深奥の傷を抉られたものだった。

 だが、それ以上に。夕呼の言葉は、彼女の一言は、痛烈で、厳しかった。

 ――この、甘ったれが。

 まるで吐き捨てるように。ただ一言。苦痛に顔を歪めて純夏の最期を語った武に掛けた言葉。

 なにを言われたのか、理解できなかった。最愛の少女を亡くして、喪って、哀しい。……それのどこが、甘えていると? ……いや、確かに、甘えている。幼かったとはいえ、衛士を志す者が、“ヒトが死んだくらいで”壊れているようでは…………話にならない。

 夕呼の吐いた言葉は何処までも正論で、冷静な、客観的な、ヒトをヒトと認識しない科学者のそれだった。……だが、言葉の終わりに、彼女は言った。――それが、あんたの復讐の根底、か。

 僅かに遠い目をして、呟いた夕呼。或いは、それは無意識のことだったのかもしれない。故に、理解した。零した呟きに込められた体温に、ぎくりとした。

 この女は……心底からニンゲンなのではないか、と。

 純夏を忘れられない武を「甘い」と吐き捨て、けれど、そのことを憂うように呟いた夕呼。あまりにも両極端に在る二者の、果たしてどちらが本当なのか。

 香月夕呼という女性について、ハッキリとわかったことが在る。

 彼女は、自分にとって絶対に赦せない女であると同時に、矢張り、天才で、そして、この基地に……否、世界に、なくてはならない存在なのだ。

 そして、きっと、誰よりも……ニンゲンだ。

 その日から、僅かに気づいたこと。霞と接する夕呼を見て、本当に小さな、それに気づいた。

 ……まるで母のように。決して表には出さず、決して仕草には表さず。けれど、それは温かで仲のよい母娘のようで……。だから、武は目を逸らした。

 夕呼を赦すことはできない。その背景に、どれほどの理想と、それを実現するために切り捨ててきたものがあろうとも、それは絶対に覆らない。……だが、ただそれだけで、彼女を恨むのはやめようと。そう、考えるようにした。

「能力の訓練は……どうしますか?」

「少なくともリーディングはちゃんと使えるんだから、問題ないわ。……少々手間が増えたってだけで、大筋に影響はないもの」

 夕呼と直接話したことは少ない。言葉を交わすのも、今のように任務について指示を仰ぎ、或いは下され……それに対する応答のみである。

 武が彼女についての多くを知ったのは、全て霞からだ。訓練の内容が内容だけに、武の能力を鍛えてくれた教師は霞である。ことESP能力において、彼女の能力は現存する人工ESP発現体の平均を上回っているらしく、だからこそ夕呼は彼女を引き抜いたのだというが……要するに、指導を仰ぐにはこれ以上ない人物というわけだ。

 すると必定、霞と言葉を交わす機会が増える。或いは、訓練を通して彼女の思考をリーディングする内に、そういった夕呼のイメージに触れたのである。

 一元的な見方は、事実を歪ませる。そのことを、以前霞によって気づかされていながら……それでも全然自身に反映できていなかったことを恥ずかしく思いながらも、残虐で怜悧な科学者――という夕呼への憎悪が拭い去られていくのを感じてもいた。

 要するに、前ほど鬱屈した気持ちで夕呼に接することはなくなった、ということである。

 そして実感として理解し、軽く凹んでもいる。

 自分は、とことんまで独りでは前に進めないらしい――。

 かつて純夏を喪った時然り、立ち直ろうと足掻いていた時然り、復讐に狂い取り返しのつかない失態を犯した時然り、振り切れそうな感情に侵された時然り、自身に降り掛かった運命を呪った時然り、――そして、今回もまた。

 “甘ったれ”と。そう夕呼に言われても仕方がない。

 どこまでも、白銀武は誰かに助けられなければ一歩を踏み出せず、前に進めず、己の過ちに気づけないらしい。――いいかげん、大人になれ。

 護るのだと。そう誓ったのだから。

 水月に手を引かれ、真那に背中を押され、茜に支えられ……そして、霞に諭され、夕呼に気づかされ……。

 ほんの少しずつ、成長できたのなら。もう、後は独りでもやって見せろ。そうだろう? そうじゃなきゃ、あまりにも格好悪い。情けない。向ける顔がないし、感謝の言葉も言えやしない。

 護る。絶対に、護る。だから、今までの幼稚で甘ったれな、そんな自分は切り捨てろ。純夏を忘れない。支え、手を差し伸べてくれた彼女達を忘れない。その想いを、胸に刻んで。――だからこそ、独りで進め。

 茜を護る。大切で大事で、切ないほどに感情が溢れる……彼女を、護る。

 そのために、戦う。そのために、生き残る。例え死が約定されていたとしても。……そういう意志を込めて夕呼を見つめていると、彼女が唐突に表情を消した。

 なにか、と口を開こうとした瞬間に、夕呼が無表情のままに言った。

「任務を説明するわ――」

「!?」

 任務。リーディング能力を行使して、武が何がしかの思考を読み取る。霞をしてイメージを読みきれず、彼女より数段能力の劣る自分になら読むことが出来るというソレ。

 その理屈は頭に引っかかっていることでもあった。通常の考えをするならば、彼女がリーディングできないものを、武が出来る道理がない。その疑問すらを説明してやるとばかりに、夕呼は無遠慮で、何処かしら物憂げな視線を投げて寄越したのだった。







 ===







 さて、昼食……という段になって、遙とPXへ向かう水月を、美冴が呼び止める。先月に昇進試験を受け、見事合格した宗像美冴中尉は、水月よりもほんの僅かばかり背が高い。中性的な顔のつくり、そしてその雰囲気もあり、基地内ではちょっとした麗しの君となっている。

 そんな彼女がA-01部隊に属していることを知っているのは、彼女と同じ部隊に属する者たちだけだが……いや、そういうことはさておき。

「なによ宗像、あんた先にいったんじゃなかったの?」

「梼子に袖にされてしまいまして。それで仕方ないので速瀬中尉にお供しようかと」

 涼しげに言ってみせる美冴に、水月は僅かにこめかみをひくつかせ、遙はニコニコと微笑む。――今の会話のどこに、微笑ましい内容があったというのか。親友の感性を疑いながら、けれど水月は何も言わない。……言ってどうにかなるなら、とっくに遙の感性は改善されているはずなのだった。

 ともあれと美冴に向き直り、好きにすればいいと視線で応じる。臆面もなく水月の隣りに並んだ美冴は、歩きながらに、ぽつぽつと漏らすように呟いた。

 ――部下を持つとは、どういう気持ちか。

 ああ、と。水月は苦笑した。遙もほんの少しだけ、驚いている。いつものように穏やかでややハスキーな声ながら、けれど、美冴の表情は真剣だった。決して水月の顔を見ず、ただ前だけを見つめて。

 彼女はわかっている。十二分に理解している。

 中尉へと昇進した意味。やってきた補充の衛士。ならば必定、考え得る可能性は唯一つ。――美冴は新しい部隊を纏める、小隊長と成る。

 それは、かつてみちるの意見に水月が賛成したものである。A・B両小隊を、現状どおりにみちると水月が指揮するならば、新たにC小隊を設ける場合、当然として新しい小隊長が必要だ。

 軍歴や実力を鑑みれば美冴以外に適任は居らず、故に立った白羽の矢であるが……恐らくもなにも、それを理解しているらしい美冴が、こうして先任のアドバイスを受けようと思うほど熱心な姿勢を見せてくれるなら、推薦した甲斐があるというものだ。

 既に梼子たちに武と、多くの後輩を持つ美冴だが、実際に自分の指揮下に就く部下を持ったことはない。その美冴の不安に、どこか懐かしい感情を抱きながら――ああ、自分と同じだ――水月は彼女と同じように前だけを見つめた。

「宗像……確かに、部下を持つってことは色々と不安も在るし、自分の指示ひとつでそいつが死ぬかもしれない、って思ったら、物凄く怖いわ」

 遙は、何も言わない。ただ静かに、水月の隣りを歩くだけである。戦場に出ないCP将校。……だが、指示一つで他者の生死を左右するという点では、彼女も同様の恐怖を感じているだろう。或いは、直接戦場に出向かない分、彼女が感じる苦痛と恐怖は大きいのかもしれない。

 ……が、遙には悪いが、それとこれはまた別な話だ。CPにはCPの、衛士には衛士の戦場がそれぞれに存在する。共に同じ部隊でありながら、置かれた戦場が異なるというのもおかしな話だが、これは指揮官としての心得の問題だ。故に、遙は何も言わない。

「でもね、そんなことを恐れて、BETAとは戦えない。正しい判断を下し、正しい指示を下したとしても……それでも、人は死ぬこともある。それは本人の錬度の問題かもしれないし、部隊全体としての問題かもしれない。或いは、間違った指示を下したために無碍に死なせてしまうことも……。でも、それを恐れていては誰も戦えない。指示を下すことを恐れる隊長がいて、そいつが指示を出さなければ……それだけで、部下が死ぬ」

 判断の遅れは一人を殺す。感情に迷えばまた一人を殺す。実行を躊躇えばさらに一人を殺す。

 それは、かつて水月がみちるに教えられた言葉だった。そして……彼女自身、戦場でまりもに教えられたことなのだと、そう言っていた。

 部下を喪うことは恐ろしい。自分の手の届かない場所で、志乃を死なせた自分。武を止められなかった自分。……もし、あの戦場で武との二機連携を取り続けていたなら…………そんな後悔を、抱いたこともあった。

 だが、それはもうどうしようもなく。そして、それを恐れていては指揮官たる資格はないのだ。

 戦場では、多くの人が死ぬ。衛士だろうが、砲兵科、機械化部隊の兵士達だろうが。多くの人々が戦い、そして死んでいく。ただ、その尖兵として我武者羅に戦って死ぬか、部下にそれを命じる立場になるか……ただそれだけの違いしかない。そして、それは決定的な違いでもあるのだが……。

 指揮官とは、部下の命を護るものである。

 任務達成のために、時に非情に、時に冷酷にならざるを得ない立場だが……それでも、そこに立つ者たちは、部下を死なせまいと足掻く。全力を尽くす。何故か――問うまでもない。

 一人でも多く生き延びることが出来たなら、それは任務達成の可能性を高め、貴重な戦力を喪わずに済み、その者を育成するために要した金と時間を無駄にせず…………なによりも、「よかった」と。生きる喜びを分かち合うことが出来るのだから。

 指揮官は機械ではない。感情を殺すために務めてそうする状況もあるかもしれないが……だが、矢張りニンゲンだ。部下を喪いたくないと思うのは当然であるし、それを恐怖するのは当たり前だろう。

 そして、それを恐れるだけでは部下を生き残らせることは出来ない。死なせてしまうかも知れない恐怖を乗り越えて、死なせないために指揮を執るのだ。

 殆どがみちるの受け売りだが、それは水月の中にしっかりと根付いている。

 まりもからみちるへ、みちるから水月へ……そして、美冴へと受け継がれるその意志。歩く姿勢はそのままに、微笑を湛えて水月を見つめた美冴に、彼女は不敵に笑って見せた。

「……らしくないとは自分でも思ったんですが……。こうも真面目に答えていただけると、むず痒いです」

「そんなこと言うのが、既にらしくないわねぇ。……っていうかなによ。私が真面目に答えないと思ってたわけ?」

「…………さ、涼宮中尉、早くPXへ行きましょう。梼子たちが準備してくれているはずですから」

「うん、そうだね」

「――無視すんなッ!!? ていうか遙っ! なについて行ってんのよッッ!!」

 そそくさと早歩きになった美冴に、遙がくすくす笑いながら続く。僅かに取り残された形になった水月だが、即座に走って追いつき、美冴もまた全力で逃げた。

 その一瞬。見えた横顔。

 まるで照れたように頬を染めて。振り返りもせず走っていく美冴に……水月は、堪えきれないような柔らかい笑みを浮かべていた。それを見て、遙が微笑む。どこまでも優しい笑顔は昔からそのままで…………。

「さぁって、私たちも行こっか、遙」

「うん。水月」

 二人は頷き合うようにして、のんびりと歩き出した。大切な部下達――仲間達が待つだろう、その場所へ。







 水月と遙がPXに到着したそのときには、既にテーブルの上には料理の載ったトレイが置かれ、更には合成宇治茶まで用意されていた。ぎょっとして驚いた目を向ければ、素知らぬ顔の美冴が、ニタリと唇を吊り上げる。半分以上呆れたようなみちるに促されて、そそくさと席に着いた。

「……速瀬、お前がこんな横暴を働くようになるとはな…………」

「まったくです。私の才能に嫉妬してか、中尉に昇進してからというものどうも風当たりが強くて……」

「適当なこと言ってんじゃないっ!! 大尉も信じないでくださいよっ!」

 溜息混じりに深刻そうな表情で言うみちるに、美冴がしれっと乗っかる。頬を引き攣らせながら吠える水月だが、当然みちるとてそれが美冴の冗談であることは理解している。……更に言えば、水月たちの食事は美冴が率先して取りに行き、並べたのだ。手伝おうと席を立った梼子や茜達をわざわざに制して、自ら行ったからには、何らかの意味があるのだろうと想像していた。

 水月と美冴の応酬を眺めながら、ちらりと遙に目をやれば……事情を知っているのだろう彼女が、柔らかな視線を向けてくれた。――ならば、何も問題はない。

 一人頷き、全員揃ったわけだからと食事を開始する。別に、揃って食べなければならない道理はないのだが……これもある種の習慣というものだ。チームとしての意識作りというか、輪を大切に、というか。……要するに、食事は、大勢で採ったほうが美味いという論理である。

「……あれ? 武は?」

 だが、今日は少々事情が違う。席に着きながら、PXをきょろきょろと見回しながらに呟く水月に、空席を挟んで隣りにいる茜がぴくりと肩を揺らした。

 水月の左隣。そして茜の右隣。ぽっかりと空いた空間には、誰も座っていない椅子があり……正面には、料理のトレイも、合成宇治茶も置かれていない。A-01に於ける唯一の男性衛士、白銀武。彼が、まだその姿を見せていない。

「白銀はまだ戻っていない……」

 合成味噌汁を啜りながら、みちるは静かにそう答えた。一瞬だけ、シンと静まった面々だが……それを、水月の快活な声が掻き回す。夕呼の特殊任務ならば仕方ないと笑う彼女が、素直に強いと感じさせられる瞬間だろう。茜は目を丸くして、そして同じように笑い……彼女同様に武の不在を気にして――むしろ、彼が居ないことを気に掛ける茜を案じていたようだが――晴子たちも朗らかに笑う。同様に、武の不在に瞬間的に見せた水月の情動を察知した真紀たちも、ほっと胸を撫で下ろすように会話を始める。

 水月とて、気にならないはずがないだろう。……だが、それを知ることは許されない。みちるにさえ、その詳細は知らされていない。……ならば、それはきっと武にしか出来ない任務なのだろうし、その機密を彼から聞き出すことも認められない。隊長としては僅かに寂しくもあるが、それだけの実力を秘めているらしい部下を、誇りにも思う。

 恐らくは水月も同じように考えているはずだ。だからこそ彼女はあんなにもあっけらかんと「仕方ない」と言い切ったし――それは軍人として当然の判断なのだが――周囲の者にもそうだろう、と促すことが出来る。実に頼りになる副隊長だ。

 そんな水月と比較するのは酷かも知れないが……矢張り茜達はまだまだ新兵ということだろう。精神的な幼さはまだまだ拭えていないらしい……。こればかりは、恐らく実戦を経験しなければ無理だろう。生と死の狭間に叩き込まれ、そこで死に物狂いで戦い、生き残った時には、一回りも二回りも精神的に熟達するだろう。

 むしろ、今の段階からそんな境地に至っていたのでは、それこそ恐ろしい。武のように狂気に憑かれていない分、幼さを見せる彼女たちは微笑ましいものがある。水月のような機転が利く性格は有り難いし心強い。……それを少しでも感じ取れたなら、そうなれるように頑張ってほしいものだと思う。

「それで茜、座学はどうなのよ?」

「えっ? あー……その、…………BETAが気持ち悪いなぁ、って」

「ぶっ」

 唐突に話題を投げた水月に、思案するように茜が返す。その彼女の答えに何故か噴き出した薫だが、その隣りでは晴子が肩を震わせていた。

 不審に思ったらしい旭が正面に座る二人を見つめれば、薫と晴子はヒィヒィと腹を抱えて悶えている。なにかそんなに可笑しいことを言っただろうかと茜を見つめ……確かにまぁ、気持ちのよいシルエットではない、と旭は頷く。

「なによ? 立石たちはなんで笑ってるわけ?」

「……気にしないでください……っ」

 語尾が怒りに震えている茜の言葉に、ふぅむ、と水月は首を傾げる。ちらっと多恵を見ればビクッ、と身を竦められてしまう。そのまま隣りに座る亮子を見れば、困ったような苦笑が返ってきた。……なんだというのか。

 けれど、すぐにそれを気にしないことに出来るのも、水月の美点だろう。「気持ち悪い、ねぇ……」呟いて、合成焼きアジの身を摘む。もぐもぐと咀嚼しながら、自分が新任の時――初めてBETAを見たときの記憶を探って、危うく喉を詰まらせそうになった。

「成程……納得。確かにあいつら、まともな“見てくれ”してないもんねぇ……」

「速瀬中尉……そんなしみじみ言わないでくださいよ……」

 うんうんと頷く水月に、旭が困ったように呟く。隣りでは慶子が呆れたような表情をして、梼子も苦笑している。皆が皆微妙な表情を浮かべる中、真紀だけが懸命に食事を続けている。……水月の隣りにいて、全然その声が聞こえていない、というのも恐ろしいものがあるが……。

 ともあれ、これは自分の質問が悪かった、と水月は素直に反省する。では、と次の話題を考えた丁度その時、武がやって来た。

 既に食事を開始している自分たちを見て、慌てたようにカウンターへ向かっている。それに気づいたのだろう、茜がサッと立ち上がり、おばちゃんから合成宇治茶を受け取っていた。そして二人並んで二、三の言葉を交わしながら、こちらへやってくる。

 なんとも……仲睦まじい光景を見せ付けてくれるではないか。思わず、にやけてしまう水月だが、実のところ、それは彼女だけではない。同じようにニヤニヤと笑みを浮かべるのは晴子たち同期の少女であり、実の姉の遙……というか、隊の全員だった。

 初々しい様を見せてくれる武と茜を微笑ましく、それでいて無遠慮に眺め回す彼女達の視線と、緩んだ表情に気づいて、茜が顔を真っ赤に染める。それに対して武が苦笑を浮かべるだけというのが実に面白くなかったが、まぁ、男としてはそれくらいが丁度よいのかもしれない。

 と、にこやかに微笑んでいる水月に、美冴が声を掛けた。無論、席に着こうとする武と茜にも、この場に居る全員にも聞こえる声量で、だ。

「しかし速瀬中尉、いいんですか? このままでは白銀を取られてしまいますよ」

「――――ぐっ!!?」

 ゴホッ、と口に入れたご飯粒が詰まる。慌てて合成宇治茶で押し流し事なきを得たが、しかし既に遅い。水月が見せた動揺は明らかだし、それは美冴だけでなくみちるや真紀たちをニヤリとさせるに十分だったらしい。晴子たち四人が“ぉおおお”、と色めきだち、茜が慌てたように皆を見渡している。

 そこでどうして武が首を傾げるのかが、美冴には理解できない。彼女の隣りで、梼子が呆れた、と溜息をついている。……その溜息は、果たして武に宛てたものか……それとも自分にか。ちらりと梼子を見れば、しょうがないひと、と見返されてしまった。

 ともあれ、期待したとおりの展開を一応は見せてくれているらしい。ようやく席に着いた武が狼狽するような水月を心配しているが、それを彼女は犬を追い払うようにあしらっていた。その、どうしようもない鈍感ぶりに、茜までもがげんなりと溜息をついている。あれでは彼女も相当苦労したに違いない、と勝手に同情して、美冴は自身が作り出したこの微妙な空気をどうにもしないまま食事を再開した。

 ――が、そんな風に無関係を装えるほど水月は優しくもなく。

「むぅ~なぁ~かぁ~たぁ~っ! あんた、後で憶えてなさいよ……」

「おや? どうしてそこでいつものように切り返さないんですか? ……まさか、本人を前にしては言えない、なんて……」

「だぁああ! 黙れッつってんのよ!!」

「速瀬、宗像、いい加減にしろ……」

 水月が絡んでくれるなら願ったりだというように、美冴が更に油を注ぐ。頬を紅潮させた水月はいい具合に火がついたらしく、あわや注がれた油に引火するかと思われたタイミングで、みちるの声が割って入る。……実に的確な思考予測と行動予測であろう。流石は隊長。曲者揃いのヴァルキリーズを纏めているだけはある。

 喉を唸らせるような水月も、終始変わらず涼しげな表情のままだった美冴も、取り敢えず口を閉じる。が、相変わらず視線で応酬を続ける二人を、みちるはヤレヤレと嘆息しながらに苦笑する。

 そんな皆を見回して、武は最後に茜を見る。目が合った途端、慌てて逸らす彼女に苦笑しながら――ふ、――と。誰にも気づかれない笑みを漏らす。

 武は震えそうになる指を懸命に動かして、決して聡い彼女達に気づかれないように、精一杯努力して……そしてようやく、一口目を咀嚼する。

 味が全然わからない。熱いのか冷めているのか。それさえも感じない。耳に届く皆の声は、どこか皮膜に覆われたように遠くに聞こえて。ただ、視界だけが明確に現実を映している。

 薬の副作用、というわけではない。

 そもそも、副作用を抑えるために今も尚あのクスリを飲み続けているのだから、それは在り得ない。……では、一体如何なる症状か。

 単純に、武の精神状態が通常のそれとは異なっているせいである。そしてそれは絶対に茜達には知られてはならないし、気づかせるわけにはいかないものだった。優しい彼女達ならば、気づいた途端、見ているこちらが胸を締め付けられるほどの心配を、感情を、くれるだろうから。

 それに甘んじるわけにはいかない。

 夕呼に“甘ったれ”と称され、正にそのとおりだった自分。大人になれ、と。そして精神的に自立して、彼女達を護るのだと。そう決めたのだから。だから、気づかれるわけにはいかない。

 しかし、そう決意しながらに……早々に膝を屈してしまいそうな自分が居る。

 つい、十数分前だ。

 その時そこに、自分はいた。

 香月夕呼の執務室。社霞がそこに居て、そうして、告げられた任務の内容。――俺が、リーディングすべき相手。

 碗を持った左手が震えている。気を抜けば、箸を取り落としてしまいそうになる。

 でも、それを悟られてはいけない。なにかあった? そんな風に尋ねられてはいけない。――そうなれば、脆く崩れ去る。頼ってしまう。縋ってしまう。甘えて、泣きついて、差し出される手を……求めてしまう。だから、駄目だ。

 水月が話しかけてくる。茜が笑顔を向けてくる。美冴がからかい混じりに適当なことを言い、晴子がそれに便乗する。真紀が紛れ込んでいた人参に悲鳴をあげて、慶子がそれを呆れたように嗜めて、旭と梼子が無理矢理に食べさせて。多恵が笑い、薫と亮子も笑って……。

 そしてみちると、目が合った。

 ――なにかあったのか、白銀。

 声に出さないその言葉を……武はリーディングしてしまっていた。

 ピキリ、仮面に、小さな亀裂が走る。全身の血液が逆流するような感覚。爆発するように脈動する心臓とは対比的に、瞬時に凍えていく体温。感情のベクトルが、瞬間的に振り切れる――駄目、だ!

 静かに、碗を置く。何食わぬ顔で合成宇治茶を取り、啜る。……いかにも、熱いお茶を啜ってほっと一息をついた。そんな光景を、身に纏う。

 みちるは何も言わなかった。……その観察眼、慧眼には、正直に戦慄する。アレが、過酷な戦歴を持つヴァルキリーズの最古参。連隊で運用されていた時代を知り、生き延び続けた強者の、眼か。

 誤魔化しはきくまい。だが、みちるは何も言わなかったのだ。恐らくは機密に抵触するために。武の不調が、彼に与えられた特殊任務に関することだろうと察したために。

 その気遣いが――心底から有り難い。

 素晴らしい上官。尊敬すべき、目標とすべき衛士。虚勢を張る部下に気づいて、尚、虚勢を張り続けることを黙認してくれる……。そんなみちるに、感謝する。

 思い出す。

 表面では平静を装いつつ、きちんと会話を成立させて。莫迦話に笑顔を浮かべ、茜と一緒に多恵をからかって。

 思い出す。

 この手に残る、感触を。

 肉を断つ、柔らかで重みの在る、その感触を。

 無意識に掴んだ弧月の鞘が――初めて、肉を斬った感触を明確に伝えてくる。

 吸った血は鮮烈な赤。衝き動かした感情は憎悪。

 きっと霞は泣いていた。真っ黒に染まった武の感情をリーディングして、そして立ち塞がった小さな少女は、泣いていた。

 思い、出す。

 震える自分に向けられた、夕呼の言葉を。――00ユニットは、完成させて見せる。

 思い、出す。

 自身が吐いた、その、言葉を。







 ――香月夕呼、絶対に、アンタを殺す。







 それは僅かに十数分前。返り血に汚れた自身が、右腕のない彼女に吐いた言葉。







[1154] 復讐編:[十三章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:34

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十三章-02」





「任務を説明するわ――」

 香月夕呼は表情を消したまま、その艶やかな唇を開く。向けられる両の瞳は、かつてないほどに真剣で深刻で、そして昏い。

 射抜くような深淵が、武の身を竦ませる。……それだけで、今から彼女の語ろうとしていることが途轍もない重大事項であり、恐らくは高位の機密にさえ抵触するだろうと予想できる。

 今更ながら……自身が置かれている状況というものを認識した。

 戦術機適性「S」。その特異性ゆえの特例措置。そんなものが霞むほどに、与えられたリーディング能力と、それを用いての“特殊任務”は……AL4において、重要なのだ。

 己の能力を超越した範疇。一衛士が手を伸ばしても届かない領域。最高位のリーディング能力を有する霞ではなく、夕呼の片腕として奮闘するみちるではなく、側近として仕えるピアティフではなく。

 ――この、俺。

 白銀武という自身。ただ、その者にしか出来ない任務。夕呼の瞳が語る。言葉を紡ごうと蠢く唇が示す。――お前にしか、出来ない。

 自惚れるつもりは、ない。そのために払った代償は自分の命……。むしろ、命を捨てて任務に挑め、と最初からそう言われていたならば……恐らくは軍人として、躊躇も後悔も憎悪もなく、臨めていたのではないかと思う自分が居る。

 恐らくはそこが、その……本人にしてみれば気を回したつもりのない“遠慮”が、一見鉄面皮の冷酷マッド・サイエンティストを想像させる夕呼の、捨てきれない感傷なのだろう。

 結果、それが武の精神を追い詰めることになったが……彼女自身、そして武自身、それは既に過去のことと割り切っている。

 この身体はもう助からない。あのクスリだってあとどれだけの分量が残っているのか知れない。開発・作成の技術は残っているのだから精製は可能だろう。しかし、AL3を進めていた段階よりも、更に人類は追い詰められている。……如何に武が延命を望み、或いは夕呼が段取りを付けてくれたのだとしても……そう長くはもつまい。

 つまり、使い捨て。

 多分も何も、この任務が終了したならば……衛士としての使い道が残されていない限りは、武は投薬を中断させられるのではないか。そんな、最悪の想像が脳裏を過ぎる。

 まだ任務の内容も、そしてそれが成功するか否かさえ判然としていないのに、随分時の早いことだ、と。内心で苦笑する。……だが、相手は香月夕呼であり、そして感傷を捨てきれないながらも、そうすることが出来る女である。彼女の行動は一貫して、AL4達成のためにある。そのための最善を、躊躇なく取捨選択できる強靭な精神力を持つ彼女ならば……武が不要と断じた瞬間に、処刑なりの処置を施すだろう。

 機密を知る、ということはそういうことだ。

 それを明かすということは、――任務遂行のために知らせなければならないということもあるが――相手がそれを知るに相応しいと判断するからだ。言うならば、例えその内容を知ったとしても、そいつが裏切ることはないと、達成してくれると信用するからである。

 夕呼の瞳が言っている。ならば自分は、彼女のその信用に……どこまでのものだかは知れないが、けれど、衛士として、軍人として、応えなければならない。――成否如何で、死ぬことになろうとも。

「まず、あんたにリーディングしてもらう相手だけれど、ソレについてある程度の情報は、既に社のリーディングによって解析できている。……それは、説明したわよね?」

「は。……しかし、それだけでは不十分なため、自分がそのフォローをする、というお話でした」

 部屋中に充満する緊張に満ちた空気に、武は夕呼が厭がることを承知で、軍人としての態度を示す。直立で姿勢を正したまま、特殊任務を受ける彼女の部下としての武を表面に押し出した。

 単なる気構えの問題だが、これが出来るのと出来ないのでは、随分と違う。かつて自身にリーディング能力があると知ったときのような、腑抜けた性根は見せられない。……恐らくは、それ以上に過酷で辛い内容なのだろう。だからこそ、せめて外面だけでも気丈に振舞っていなければ、容易く崩折れてしまう……。それだけは、自分のためにも、機密を明かそうとする夕呼のためにも出来なかった。

「あんたがリーディングするのは、…………“脳”よ」

「…………は?」

 空間が、僅かに冷える。

 執務机を挟んで相対する夕呼と武。両者から少し離れた位置に佇む霞。たった三人だけの、後は雑然と積まれた書類だけのこの部屋の、温度が下がったような錯覚。

 夕呼の言った言葉を反芻する。――なんと、言った?

 脳。脳ミソ。を。

 リーディングする。

 ……………………えっ?

「あの、脳ミソを、です、…………か、?」

 喉が一瞬で乾涸びていた。部屋の空気は冷えているのに、体内は灼熱を通り越して砂漠のように熱砂に埋もれている。心臓が狂ったように脈動し、酸素を求めて喘ぐかのよう。

 夕呼の瞳は、一度たりとも逸らされず、真っ直ぐに、武の瞳を映している。質問する武に、夕呼は椅子から立ち上がるようにして、両手を白衣のポケットに突っ込んだ。

「あんたがアレをどう思っていたかは知らないけれど……あの脳ミソは生きている。脳と脊髄だけになり、けれど、あのシリンダーの中で、今も尚、生き続けている……」

「ちょ、っと……待ってください。……アレが、生きてる? あんなっ、あんなッッ!? だって、……アレは、」

 サンプルじゃあ、なかったのか――?

 心臓の音が喧しい。全身を巡る血流の音さえ聞こえているよう。室内の空気はどんどん冷えて凍えるくらい薄ら寒くて。……けれど、夕呼はそんな武の混乱を一蹴する。

 射竦められたような視線に、ぐびり、と湿気のない唾を飲み込む。まるで凝り固まった石を呑んだように。カラカラの喉が痛みを訴えてくる。

「アレは、紛れもなく人間の脳で、そして、生きている。サンプルでもなければ標本でもない。……アレはね、白銀。れっきとしたニンゲンなのよ」

「!!」

 思考が停止する。ニンゲン。ニンゲン。アレが、生きた人間……。何度も何度も、その言葉だけがグルグルと脳内を巡って、……知らず、武はこめかみを押さえるように、額に浮かんだ汗を拭う。左手は彷徨うように弧月を求め、指先が触れた瞬間に、ガシッ、と強く握り締めた。

 ――落ち着け。

 信じられないことだが、しかし、夕呼がそう言うのだから、そうなのだ。あの脳ミソは生きている。サンプルでも標本でもなく、れっきとした、生きた人間。……よし、と。一つ息を吸う。湿り気を取り戻した唾液を呑み込んで、汗を拭った右手を払う。

 何とか、落ち着いた。その様子をわざわざ待っていてくれたらしい夕呼が、小さく鼻を鳴らす。“甘ちゃんの白銀”、とでも思われているのだろう。……悔しいが、その通りだ。純夏の復讐に憑かれた自分。AL3という狂気に取り乱した自分。そんな前科があれば、誰だって武の精神構造が常人のソレよりも脆いことに気づくだろう。まして相手はAL4の最高責任者であり、天才科学者なのだ。察する以前に、見透かされているに違いない。

 これしきでパニックになっているようでは、彼女の任務を果たすことは出来ない。だから、落ち着け。落ち着いて、今は夕呼の声に耳を傾ける。

 自分が今後も生きていくためには、彼女から提供されるクスリが絶対に必要だ。同時に、AL4を成功させ、人類を救うには……きっと、この任務の成果が役に立つはずだ。

 ならば、明かされる真実にどれ程の衝撃を受け、混乱し、理解できずとも……それを、事実として受け止めるだけの胆力を。

 まずはありのままを受け入れる。「そんな莫迦な」と否定するのではなく、「そうなのだ」と自身に頷かせる。……自分がどれだけ現実から目を逸らそうと、香月夕呼が言う以上、それこそが真実なのだから。だから、無駄な感情に時間を費やすことは許されない。

 武にプロジェクション能力はなく、そして最低限リーディング能力の行使は可能。

 ならば、これ以上の訓練は必要なく、故に今、こうして任務の詳細を告げられようとしている。……夕呼は恐らく、今すぐにでも武にソレをさせたいはずだ。だから、自分の甘ったれた精神なぞ、いくら踏み躙られようと関係あるまい。衛士として、軍人として、そして……香月夕呼の部下として。リーディング能力者としての、任務を果たす。

「あの脳ミソについて説明しておきましょう。いくらなんでも、イキナリ“あの脳ミソはニンゲンです”なんて言われても、心理的に理解し難いでしょ?」

 小莫迦にするような言い方が少しだけ癇に障るが、実際そのとおりなので何も言わない。……任務に余計な感情を持ち込まないためにも、疑問は解消しておいたほうがいい。夕呼が説明してくれなければ、自分から尋ねるつもりだった。

「順を追って説明しましょう……。1998年の夏、日本にBETAが上陸。破竹の勢いで京都さえ突破した連中は、翌一月にここ、横浜を壊滅させた……。その後、連中は既に佐渡島に甲21号ハイヴを建設しながら、ほぼ同時にこの横浜にもハイヴを創り始めた」

 知っている。苦い思い出が込み上げてくるが……それは、よく、知っている。

 鑑純夏がBETAに殺されたその日。その時。その場所。それが横浜であり、この基地がある柊町だ。

 やられっぱなしだった人類は、けれど諦めることはしなかった。大東亜連合と国連が協力体制をとり、本州奪還作戦……『明星作戦』が開始される。――1999年8月。米軍が秘密裏に運用した二発の『G弾』によってハイヴは壊滅。人類は、BETAに対し初の大々的勝利を収めたのである。

 まるで戦史どおりの内容を説明してくれる夕呼を、武は黙って見つめた。そんなものは座学で習っているが……順を追って説明するといった以上、その経緯も、矢張り重要なのだろう。

 そして、そこまでを語り終えた夕呼は……突然、表向きには公表されていない、裏の事情を語り出した。武は眼を剥く。耳を疑う。……だが、それが、真実。

 夕呼の語ることこそが、この世界の真実なのだ。

「この『明星作戦』には、二つの目的があった。……一つは、あんたもよく知っている“本州奪還作戦の第一弾”として。首都に直近する脅威を取り除き、それを皮切りに日本中に蔓延る連中を一掃すること。……そして、もう一つが、」

 余談だが、これはかつて夕呼が『明星作戦』に参加するA-01部隊と、衛士として前線に復帰していた神宮司まりもの部隊に作戦を説明する上で、敢えて彼らに伏せた情報でもある。矢面に立ってBETAと死闘を繰り広げる衛士が知っていたところで、それは戦闘の邪魔でしかない情報。或いは、99年の2月時点で既にその形を出現させていたハイヴを半年も放っておいた本来の理由を知れば、彼らの戦闘意欲の幾許かが低減すると予想されたからだ。

 そして……その当時は明かさなかった事実を、目の前に居る武に明かす。

 夕呼は認めないだろうが、これが――彼女の感傷だ。武には知る権利が在る。自身さえ気づかぬうちに、彼女はそう考えていた。

「甲22号目標を半年も放置しておいたのは……表向きにはかつてない大規模作戦を万全の常態で行うために必要な期間、ということになっているけど、そんなもの、本気になれば一週間と掛からずに準備できるわ。……では、なぜ国連は半年も待ったのか」

 武には、わからない。ハイヴの成長は最初の一年余りで急激に行われる。すべてのハイヴが一様ではないらしいが、平均として半年から一年でフェイズ2へと成長する、と言われている。或いは、一年目の段階でフェイズ3にまで成長した例もあるし……そう、佐渡島ハイヴなどは二年半あまりで既にフェイズ4へと至っている。

 ハイヴの規模に比例して増加するのがBETAだ。連中はハイヴ内で製造……誕生するという説が在る。つまり、内包できる容量がでかければでかいほど、その中を跋扈するBETAの数も増えるという考えだ。

 そして、恐らくも何もそれは的を射ている。実際にその物量を目の当たりにした今だから実感として理解できるが……如何に間引き作戦とはいえ、フェイズ4の甲20号目標に今後挑むとなれば……戦慄に似た感情が隅々まで這い回るだろう。

 つまり、放っておけば放っておくほどにハイヴは成長し、内包するBETAは増え、リスクは膨張するのである。それを知らぬ国連ではないだろうし、軍人ではないだろう。……では、何故それほどのリスクを犯してまで、一週間で準備できるものを半年も掛けて……放置して……。

「まさ、か……」

「そう。まさかよ」

 待った、のだ。ハイヴが成長するのを。二月の時点でその存在は確認されていた。ならば、その時既に然るべき対策が練られたはずだ……。

 そして、その対策さえ……何がしかの目的を持った“方向”に流れていったのだとしたら。ハイヴの成長を待つことによって、得られるメリット……。それが、なにか、わからない。

「『明星作戦』は、ハイヴがある程度成長するのを待ち、ハイヴ内で精製されるであろう『G元素』を採取するために半年の期間が必要だった」

「ジー、元素……」

「そ。かつてカナダに落ちたBETAユニットを調査していたロスアラモス研究所のウィリアム・グレイ博士が発見した、BETA由来の人類未発見元素。発見者の名前を取って、『G元素』……と、呼んでいるわ」

 人類未発見元素。そんなモノが存在していることに驚きだが……ハイヴというリスクが成長するのを敢えて待ち、それを手に入れるために本州奪還作戦という壮大なカモフラージュを被ってみせる……。これが、世界の情勢を未来的に見据えることの出来るものの視線、か。

 とてもではないが、武には想像も出来ない論理だった。だが、夕呼の説明を聞けば、成るほどを唸らざるを得ないのも確かだ。

 そんな手段を用いてまで、人類にとって、その『G元素』は貴重で有益なのだ。続けて夕呼が『G弾』もその『G元素』から製造されていると聞かされれば、余計にも納得してしまう。

 BETA由来の、けれど人類の戦力に転化するならば、これ以上ないほどの破壊兵器を生み出すことの出来る元素。どうやら、グレイ・イレブンと称される『G弾』の原料以外にも数種類発見されているらしいが……そんなものを手に入れられるならば、ハイヴ一つが成長するのを待つ程度、問題でもなんでもなかったのだろう。

 事実として、米軍は『G弾』を使用している。彼らには確信があったのだ。フェイズ2程度のハイヴなど、自分たちが抱える『G弾』を使用すれば必ず攻略できるのだと。だからこそ、悠々と半年も待った。

 それは米軍の意志か、或いは国連の総意か……はたまた、目の前に居るAL4最高責任者の思惑か……。いずれにせよ、『明星作戦』は日本の窮地を救い、人類に希望を与える作戦であると同時に……人類の技術では決して得ることの出来ない“恩恵”を――これが恩恵とは皮肉以外のなんでもないが――手にするため。

 それを、感情的になじっていいわけがない。

 それでも、彼らは戦ったのだ。この横浜を取り戻すために。東京に直近する脅威を排除するために。日本を救うために。人類はBETAに対抗できるのだと世界中に示すために。

 例え、その背景にどれほどの思惑が渦巻き、その最後に米軍が利己的な手段を投じたのだとしても。それらは、過程はどうあれ……日本を救ったのだから。

 散った英霊は横浜基地の桜に眠り、今もこの町を見守ってくれている。その想いを、感情によって踏み躙るわけにはいかない。

「でも、予想した量の『G元素』は発見できなくてね……予想が外れて肩透かしを食らったような状況の中、ハイヴ内に残存するBETAを殲滅するために、最深部を目指して突入した部隊が……ある物を発見した」

「……………………それが、あの、脳ミソ……」

 察しがいいわね。夕呼はほんの僅かに唇を歪め……しかし、すぐに元の無表情に戻る。殊更に武の眼を射抜いて……ふい、と顔を壁の方へ向けた。そちらは、例の脳ミソが収められたシリンダーがある部屋の方向で……彼女が、壁を通してソレを見ているのだと理解する。

「突入部隊が発見したのはBETAの捕虜になっていた人間たち……正確に言えば、ニンゲンだったもの。彼らが見たのは、青白く光る無数の柱。その中には……恐らく捕虜になっていたと思われる人間たちの、脳と脊髄が収められていた……」

「……ッ、ぐ、……。BETAの、捕虜……」

 脳が、わんわんと唸る。眼球が捻じ切れそうに歪んで、夕呼の顔をまともに見ることが出来ない。

 BETAが、人間を捕虜にする。それも、わざわざ脳と脊髄だけを抜き取って……? 光る柱、というのは、多分あのシリンダーのような装置のことなのだろう。

 胃の下辺りがざわざわとする。喉元まで競り上がってきた不快感が、指先を震わせる。――なにか、いやな、予感がする。

 ざらついた舌を無意味に口内で蠢かせて、引き攣りそうな息を懸命に繰り返して、夕呼を見つめる。顔を横に向けたまま、視線だけがこちらを見た。

「何百とあった脳髄で“生きていた”のはたったひとつだけだった。……それが、あの脳ミソ。……BETAの捕虜になって、唯一生還した存在」

「唯一……生還……」

 そうだ。夕呼はあの脳が生きていると言った。紛れもなく、生きた人間の脳だと。そう言ったのだ。それがBETAの捕虜として攫われた人間の物で、“生きている”のなら……それは、生還だろう。生きて、還ってきたのだ。

 得体の知れない怖気が走る。さっきから……妙だ。なにか、物凄く気持ち悪い。

 あの脳ミソは何処に在ったって? 甲22号目標、横浜ハイヴ。それって……それって、

「この基地はね、あの脳ミソを生かすためだけに、この場所に設立されたと言っても過言ではないの。伊隅から聞いてるかしら、かつて、横浜ハイヴと称されたそれは、この基地の真下に存在していた」

「なっ…………ッ!?」

「あら、知らなかった? ……まぁいいわ。確かに知らなくても任務に支障はないもの。ともかくも、私たちは捕虜となり、生還した脳を手に入れたけれど、……今の人類に、ニンゲンを脳と脊髄だけの状態で生かしたままにしておく技術はない。だから、この基地はBETAが作った施設を稼動状態のまま維持されている……」

 そうしなければ、折角救出した“生還者”を、生かし続けることが出来ないから。

 さらりととんでもないことを言ってのけた夕呼に戦慄するが……しかし、それについては後ほど改めて質問したのでもいいだろう。恐らく、この基地が横浜ハイヴをそのまま流用したのだと言うような話は、武の任務に関係在るまい。それが重要なら、とっくに明かされていて然るべきだろう。

 ともかくも、BETAの技術の恩恵……により、今もあの脳ミソは生き続けている。成程、という納得が、脳裏に浮かんだ。

 あんなものが、B19フロアに、しかも、二重のロックの向こうに安置されている理由。否、夕呼の執務室がそれに隣接する形で据えられている理由、というべきか。

 つまり、あの脳ミソは正に最高機密の塊。BETAが人類を捕虜にしていたことも機密なら、それが脳と脊髄だけになって存命していることも機密。……当たり前だ。そんなことを知ったら、あまりにもおぞましすぎて、戦えない。民間人に知れれば、たちまちの内にパニックが起こるに決まっていた。

 これは、絶対に外部に漏れてはいけない情報だ。恐らくは発見したという突入部隊にも箝口令が布かれたのだろう。関係する組織、機関のすべても……脅威と言っていいこの発見を、表沙汰にはしたくないはずだ。

 あまりにも、絶望に過ぎる。これがBETAのやること……。日の光の下を歩く、世界の表側に生きる人々にとっては、知るだけで恐怖のどん底に落とされるようなものだ。

 ならば、裏側に生きるものにとっては?

 例えば、現実にBETAと戦い、その醜悪さと恐ろしさを前にして、尚戦い続ける衛士たちは?

 或いは、今目の前に居て、あの脳ミソの存在を委細承知し、そしてその思考を読もうと企てる天才科学者は?

「私たちもその時初めて知ったのよ。BETAがそんなことをしてたんだ、ってね。……社の集めたイメージから推測できるのは、人間の何かを研究していたらしいってことだけ」

「しかし……あいつらは、人類を生物だと認識していないはずでは……」

「ニンゲンだって、生命体でない岩石や金属の研究をするでしょ?」

 言葉がない。つまり、BETAは、生きた人間を……連中にとっては“生命体でない”ニンゲンを、そこらに転がる石ころを研究するのと同じに、弄くって、バラバラにして、脳と脊髄だけにして……生かして、研究していた……。

 ――なんだ、そりゃ。

 くそっ。感情が沸騰する。落ち着け。落ち着け落ち着け! こうやって簡単に感情が振り切れるのが、未だ精神的に未熟だと言うことだ。けれど、理解しているのに、早々簡単には修正できないのがヒトの性というものだろう。

 両脚に思い切り力を込めて、ぶれそうになる身体を支える。左手は白くなるくらいに弧月の鞘を握り締め、右拳は、爪が肉にめり込むほどに。

 呼吸が、荒い。心臓が熱い。脳が、熔けてしまいそうだ。――それでも、今は、落ち着け。

 ぐっ、と顎を引く。何度目かわからない生唾を飲み込んで、しっかりと夕呼を見据えた。こちらを正面から見ていた夕呼は、しかし武の感情には無関係に、続きを語る。

「BETAがニンゲンに興味を持ち始めている。それは紛れもない事実。そして、あの脳はBETAと直接コンタクトしていながら生存した人間……その存在は、私たちを驚喜させた」

 そう語る夕呼の表情は、一瞬だけ、色めき立ったように見えた。……それは武が忌み嫌う科学者としての貌で、狂気に憑かれたニンゲンのソレだとわかった。

 ――かつては、俺もあの貌をしていた。

 身に迫るような恐怖を感じる。ほんの瞬間的な夕呼の狂気はすぐに消え去り……その呆気なさが、逆に武には恐ろしく感じられる。感情をコントロールするとは言うが、あれほどの狂気を瞬時に隠してしまえるのだから、夕呼という女性は相当に、ニンゲンの精神力を超越しているのではないか、と。そう想像させた。

「驚喜……ですか?」

「そうよ。……そういえば、これはまだ話していなかったけれど……そうね、一緒に説明しておくわ。AL4は、BETAに生命体と認識される擬似人類――00ユニットを創成することが目的なの。それに最も適した素体候補が手に入ったんだから、喜んで当然でしょう?」

「え……?」

 00ユニットを完成させること。それが、AL4の目的。目指すべき場所。計画の終着点。……そう、聞いていた。

 そして、00ユニットとは、BETAに生命体と認識される擬似人類……。つまりは、人間に似た、けれどニンゲンでない……存在。なんだ、それは。BETAに生命体と認識される……ということは、どういうことだ? 奴らが何を以って生命体と判断するか、それがわかったとでも言うのだろうか。……00ユニットがそうなのだとして、……ああ、そうか。

 だから、その脳ミソなのだ。

 BETAが何をして生命を判断するのかが判明していなくとも、少なくとも夕呼にはそれが00ユニットならば可能だという確信があり、そして国連がソレを認めたからこそ、今が在る。ならば夕呼の研究とはそのまま00ユニット、擬似人類を創成するためのものであり……その核となるべき素体を、彼女は求めていた。

 そしてそれは……BETAの捕虜となり、尚生き延びて生還した、あの脳ミソこそが相応しい。そういう、理屈だ。

 素体候補と夕呼は言った。ならば、その脳ミソ以外にも00ユニットの核となるべき何がしかが存在すると言うことだろう。――が、ニンゲンの脳ミソが核となるということは、イコール、残る素体候補とやらもまた、ニンゲンであり……その、脳ミソだ。

 知らず、奥歯が軋むほどに噛み締めていた。それが、人類を救う計画の、裏側、か。

 AL3と何も変わらない。人類の未来のため、世界の平和のため、BETAを駆逐するため。そうだ。そうしなければ人類は滅ぶ。目前に迫る脅威を、ただ指を咥えて黙って見ているなんてことは、出来るはずがない!

 だから、だからだ。

 どれ程の狂気に塗れようと、どれ程の妄執に憑かれようと、ソレを目指すほかに道はない。非人道的と罵られようが、外道と蔑まれようが、その道を往くことを躊躇うことは許されず、失敗さえ認められない。

 突き進むほかないのだ。人類は、とっくの昔にその領域に立っている。そうする以外に道を喪っている。ただひたすらに前だけを見据えて、その後ろに連なる屍の数も、背中にぶつけられる謗りも、外道と吠える亡者の声さえも無視して、切り捨てて、未来を掴む以外にない。

 そして、夕呼はその先頭を堂々と歩き。自分は、その背後に追随する。――その位置に、足を踏み入れたのだ。

 今、この、瞬間に。

「……残念ながら、未だ00ユニットを完成させるまでには至っていないけれど、それでも、やれることは残っているし、それはやらなくてはならない。……あんたには、それをやってもらう」

「…………」

 脳ミソのリーディング。00ユニットとなることを前提に、AL4へ徴収された唯一の生還者。この場所にハイヴが在ったと言うのなら……恐らくは、自分と同じ、柊町に暮らしていた一般人。故郷を同じくするものの脳を、BETAに想像を絶するだろう恐怖を味わわされたその精神を、……武に侵せという。覗き見て、霞を経由して、自分に伝えろと言う。

 そう。それが任務。

 衛士として、軍人として、上官の命令には従わなければならない。自分の生が夕呼の手駒としての期間しか得られないのなら、これは必ずやり遂げなければならない。否、自分のためとか、そういうことはどうでもいい……そのはずだ。

 夕呼は紛れもなくBETAを嫌悪し、その存在を駆逐することを目的としている。人類の未来を勝ち取り、希望を取り戻し、世界を平和に導くために戦っている。

 どれ程の狂気に塗れようと、どれ程の妄執に憑かれようと。その道を違えることはない。

 本物だ。この女は、本物だ。――だからこそ、やり遂げろ。

 香月夕呼を信じることは出来ない。彼女を赦せるほど自分は寛大な心を持ち合わせていない。……だが、それは武個人の問題であって、それを、世界を背負って立つ彼女にぶつけていい道理はない。

 正直に恐ろしい。あんな脳ミソと脊髄だけになるまでに、一体何があったのかなんて考えたくもない。だが、それが……彼女の研究の助けとなり、ひいては人類の未来に繋がると言うのなら。

 何を躊躇うことがある。この身は既に外道に濡れている。頭の天辺から爪先まで、全身外道の集大成じゃないか。――ならば、やる。やって、やる。見事夕呼の手駒として、その役割を果たして見せよう。

 でも、その前に一つだけ。

 ――地獄に堕ちろ、外道――

 言われるまでもない、と。武の心中の声が聞こえたとでも言うように、夕呼は鋭い視線を向けてくる。

 そうか、と武は理解した。そう……武なんかに言われるまでもなく。彼女は、誰よりも彼女自身が、それを一番理解している。

 決して楽に死ねるはずがない。この身は当に冥界に身を置いている。ならば行きつく先は地獄であり、魔窟であり、怨恨と贖罪の坩堝。それ以外に、堕ちる場所などなく。

 夕呼の声なき視線が、雄弁にソレを物語っていた。……呆れるほどの覚悟と胆力に、武は敵わないと俯いた。何処までいっても、自分は夕呼の境地に至れない。衛士としての覚悟を一時とはいえ見失い、世界のおかれた状況を理解しながらにAL3を外道と嗤い、今も尚、ぶれそうになる決意しか抱けていない自分には。夕呼の立つ位置には到底届かない。

 だが、それでいい。

 彼女は天才であり、孤高であり、そして、たった独りでAL4のために喪われた多くの者の罪科を背負う気でいる。武は、そして霞は……或いはA-01部隊の全員は、そのための駒でしかなく、切り捨てることに躊躇もない。

 だからこそ、武が彼女を哀れむ必要など微塵たりとも存在しない。それは最大の侮辱だろうから。故に、罵り、謗れ。恨み言をぶつけて、それで自身の脆弱な精神が楽になるのなら、存分に吐き捨てるがいい。――外道と。――地獄に堕ちろと。

 それを夕呼は望んでいる。

 何もかもを全部やり遂げて、そして、死ぬ。多分、それが彼女の最期の願いなのだと…………わかったような、気がした。

「一つだけ……まだ教えてもらっていないことがあります」

「なによ?」

「何故……自分、なのですか? ……社の方が能力に優れていて、その彼女が読みきれなかった脳ミソの思考を、自分が読み取れるとは思いません」

 それだけが、気に掛かる。

 臓腑を抉るような怖気が、膝をかすかに震わせていた。さっきから、ずっと、あの脳ミソがBETAの捕虜となった人間のものだと知ったときから、ずっと。厭な、予感が拭えない。

 夕呼の目的は理解した。その覚悟も、知った。……だが、ソレとは無関係に、ずっと、武の脳髄を焼く予感が在った。

 その答えが、そこに在る。霞でなく、自分。霞が踏み入ることの出来なかった領域に、自分ならば踏み込めるという……その道理を、知りたい。そうすれば、この厭な、ろくでもない予感の正体がわかる気がする。

「…………そう、ね。気になるわよね。……ま、どうせリーディングすればわかることだし、…………安心しなさい。ちゃんと説明してあげるつもりだったから」

 眼を伏せる夕呼が、妙に引っ掛かった。つい先ほどに見せた外道の謗りさえ誇らしいと胸を張っていた姿は何処にも無い。いや、それは見間違いかと錯覚するほどに一瞬で、次の瞬間には、数瞬前の彼女がそこにいた。

「白銀。あんたには、知る権利が在る…………。例えどれ程の理不尽と不理解が錯綜した結果の、運命の悪戯なのだとしても、それでも、私はあんたにソレをやらせる。……そうする以上、あんたには全部を知る権利が在ると、そう考える」

 らしくない。なんだ、これは。向けられる瞳は、視線は、地獄の果てに堕ちることさえ許諾している強者のソレなのに……リーディング出来なくともわかるほどに、夕呼から発せられる感情は……それは、

「あの脳ミソはね、あんたと同じ、この街に暮らしていた一人の少女のもの。当時十五歳だった……、







 その後に続いた言葉を、よく、覚えていない。

「ぁああああああああああっっ!!」

 なんだかよくわからないままに、執務室を飛び出して、すぐ横にあるドアのロックを解除して、

「嘘だァアああああ!!」

 走って、走って、すぐそこの距離を、懸命に、足をもつれさせながら走って、

「っぁあああっ、嘘だ、嘘だッ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だァア!!!」

 二つ目のドアがスライドして。

 薄暗い部屋はコードがたくさん敷かれていて、中央に青白く光り輝くシリンダーがあって、

「……ぁ、ぁああ、ア、」

 脳ミソが浮かんでいる。脊髄がひっついているだけの、脳ミソが。

 生きていて、BETAの技術で生かされていて。でも、そもそもがBETAの捕虜として捕まって研究されてバラバラにされて。

 00ユニットの素体候補で。

 人類の希望を一身に背負って。

 擬似人類なんていう、ヒトじゃないものに、なることが決定されていて。

 ――俺が、リーディングする対象で。

 BETAが一体何を考えて人間を捕虜にしたのかを、脳ミソだけで生かし続ける技術を、どういう個体が、どんな風にバラバラにしたのかを、そして奴らが何を得たのかを。

 知るために。

 敵を知るために。

 ただそれだけのために。

 霞では拒絶されて手の届かなかった、精神の奥の奥、その深奥に、手を伸ばす。

 脳ミソ自身が発狂して壊れて死なないようにブロックしているその領域を、こじ開けるために。

 ――だから、なんで、俺になら……出来るって、……そんな、道理が、

 あった。

 納得してしまった。

 理解できてしまった。

 ああ、そりゃあ、そうさ。――アイツのことは、俺が一番知ってるんだ。

 霞なんか逢ったこともないだろう? 声を聞いたこともないだろう? でも、違う。

 自分なら、わかる。白銀武なら、絶対に、わかる。

 拒絶されるわけがない。

 だって、だって、これは……この脳ミソは、







「純、夏…………ッ、」







 シリンダーに両手をついて、額を押し付ける。両目からあふれ出す涙が、“彼女”の姿を曇らせる。――ぅぅォおおおおおおあおああああああっっ!!!!

「嘘だッ! そんなっ、そんなことっ……ッッ!! ぁぁああああ純夏ァアアアアアアアア!!!」

 叫ぶ。意味もなく、わけもなく。叫んで、叫んで、変わり果てた“彼女”に縋りつく。

 どうして気づかなかった!? / 気づけるわけねぇだろうが!!

 なんでわからなかった!? / ならお前はわかってたとでもいうのかよッ!!

 これで生きてるって!? / 莫迦な莫迦な莫迦な莫迦な!!

 でも、これが真実。

 だってそうだろう? 香月夕呼の言うこと。それが、この世界のホントウなんだから。

「――――――――――――――――――――――ッッッ!!!!!!!」

 シリンダーを掴む指先が、狂ったように震える。これが、ホントウに、純夏。あいつが、あんなに笑顔の素敵な、太陽みたいに笑う、あいつが……ッ。

 気持ち悪いと感じた。おぞましいと思った。二度と見たくないと。恐怖を。

 どうしてッ!

 どうしてそんな風に思ってしまった、感じてしまったんだ!!!!! ――俺はッ!

 世界でたった一人の。この世でたった一人の。

 産まれた時からずっと一緒で、隣の家に暮らしていて、お互いの部屋は窓を隔てたすぐそこにあって。好きだった。愛していた。だから、護ると。決めた、のに。

「純夏……ッ、純夏、すみ、かぁ、ぁああっ、ああああ」

 喪ったと思った。手の届かない場所で、永遠に喪ったのだと、絶望した。感情が壊れて、狂いそうになって。ずっとずっと引き摺って、今だって全然忘れられなくて。

 それでも、茜がいてくれて。傍にいてくれて。支えていてくれて。だから、ようやく、――俺は、お前を、――

 ワスレラレルワケガナイ。

「畜生ッ畜生ッッ畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生ォオオオオオオ!!!」

 咆哮が、感情が、能力を発動させる。リーディング能力。お前の全てを、お前が見た全てを、お前が感じた全てを、――全部全部、俺が、一緒に背負ってやる。

 お前をこんなにしたBETAを殺す。

 お前を利用しようとする香月夕呼を殺す。

 殺すコロス! 全部全部殺してやるッ!! あああ、だから純夏。見せろ。お前をこんな眼に遭わせたヤツを、俺の敵を!!

「ァァアああああああああアアアああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ」

 もう、駄目だ。

 遠慮なんて必要ない。

 壊れろ。イカレろ。狂ってしまえ。

 元より死ぬ身。こうなった時から、わかっていたことじゃないか。捨ててしまえ。何もかも。全部かなぐり捨てて、そして、「復讐」を。

 鑑純夏を弄んだBETAを。彼女を利用する香月夕呼を。そう使われた自分を。そう成ってしまう彼女を。

 全部、殺してしまえばいい。

 狂ってる。こんな世界狂ってる。――そうだ、だから、今更正気に未練はないだろう?

 発狂しろ。絶叫しろ。お前は呪われた存在だ。お前が進む道は外道のソレだ。逝きつく先は奈落の底の、地獄の果て。堕ちろ。白銀武。もう、駄目だってわかってるだろう?



「        !!!」



 ぶちんっ、! と。何かが、キレた。千切れた。それは多分、白銀武の仮面を縫い付けていた糸。罅さえ入らない頑強な仮面が、壊れることなく外れた音。

 垣間見えたのは一瞬。

 押し寄せる怒涛のように、純夏が見たそれらが脳を侵略する。それは恐怖。純然たる恐怖。助けてと乞い願う声。助けてと泣き叫ぶ声。何度も何度もシロガネタケルの名を呼んで、何度も何度もシロガネタケルに助けを求めて。

 そして、壊された、バラバラにされた、小さな少女の、十五歳の彼女の、







『あたし、疎開なんてしないよっ! だって、タケルちゃんのこと、信じてるもん! タケルちゃんが軍にいて、同じ軍人さんが護ってくれるんだもん。心配なんてないよっ!!』

『おじさんとおばさんもタケルちゃんを信じるって、納得してくれたんだっ。せっかくもらった切符だけど……無駄になっちゃうかな?』

『あ、でも安心して! おじさんが、切符はお向かいの佐藤さんにあげようって、昨日持って行って……佐藤さん、凄く喜んでたよ。うん。お腹の中の子も、旦那さんも凄く喜んでた。ありがとう、って、何度もお礼言われちゃった。えへへ』

『……今は、なんだか日本中が大変なことになってるけど、でも、大丈夫。あたしはタケルちゃんを信じてる! タケルちゃん、昔から悪戯ばっかりであたしのことからかってたけど……でも、今でも思い出すよ。あの日、タケルちゃんが衛士になるって決めた日のこと』

『タケルちゃんがあたしのこと、大好きだって言ってくれた日だもん。護ってくれるって、そう約束してくれた日だもん……。忘れないよ。……だから、信じてる! タケルちゃん、あえなくて寂しいけど、でも、頑張ってね!! 応援してるから! そして、いつかタケルちゃんが立派な衛士になって、あたしを護ってくれて……ちゃんと、帰ってきてくれたら……』

『えっへへ~、それは、そのときのお楽しみだよっっ!』







『じゃあね! タケルちゃん!! ――――大好きだよ!』







 俺は、絶対に、俺を赦さない。







「……どうやら、リーディングには成功したみたいね……」

「白銀、さん……」

 掛けられた声に振り向く。部屋の入口付近に、腕を組んだ香月夕呼と、泣きそうな顔で見つめる社霞がいた。

 膝をついて崩れ落ちる武に向けて、数歩、夕呼が歩み寄る。霞もそれに倣うように続き、きゅ、と唇を噤んでいた。

「俺の……思考は、読んだのか?」

 尋ねる。自分でも信じられないくらいに平然とした声音だった。それに驚いたのだろうか、霞が、びくりと肩を震わせて、……けれど、しっかりと頷いた。

 ならばいい。後は、彼女の仕事だ。自分の任務は完了。後は、A-01の一員として、衛士として、その領分を果たせばいい。

「…………白銀……、」

 どこか躊躇するように、夕呼が口を開く。やめてくれ、と願った。今、夕呼に何か言われると、我慢なんて出来そうになかった。どうか、それを察してくれ。優秀で天才で、冷酷で非情な科学者様なら、それがわかるはずだろう?

 ……なのに、一体どうしたというのか。

 夕呼は。そうやって常日頃から努めて怜悧な素振りを取る彼女は。

 視線を伏せるようにして、注視しなければ気づかないくらいに指先を震わせて。

 言ってしまった。

「あんたには、済まないと思ってるわ…………」

「――――――ッッ!!!!!!!!!!!!」

 感情が爆発した。もう駄目だった。止められるわけがなかった。

 オマエガ、ソレヲ、イウノカ!!

 香月夕呼、貴様が、お前が、――――ッッ。

 頬に掛かる粘液に、振り抜いた剣先から滴る赤色に。まるで、弧を描く月のように――白い袖ごと宙に舞った細腕を、見る。

 右手は何のためらいも無く弧月を引き抜き、鞘走った刃が、居合いの軌道上に存在した夕呼の右腕を切断する。

 手には肉を断つ感触が。柔らかで、重みの在るその感触が。水を打ったような刃紋には鮮血が糸を引き、肺腑のすべてから、どす黒い感情が吐き出される。

「ッ、アッッ?!!」

 腕を飛ばされ、何が起こったのか理解できない表情で、バランスを崩した夕呼が尻を床に落とす。――その様を、隙を、見逃すわけがない。

「駄目ですっ!!」

 黒いドレスが立ち塞がる。銀色の髪をした、銀色の瞳をした、少女が。霞が。夕呼を母と慕い、心の拠り所としている小さな女の子が。

「駄目です! 殺さないでッ!! 殺さないでぇええええ!!!!」

「や、しろっ、どきなさい……ッ!」

「嫌です! 厭です! いやです!! 絶対にどきません! 絶対に駄目ですッッ! ――殺さないで!!!!」

 大きな瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちる。何度も同じ言葉を繰り返して、一生懸命に叫んで、プロジェクションでその意志を投影して。

 そのすべてが、武の狂気を、憎悪を、膨れ上がってどうしようもなくて――――コロス以外にないじゃないかよっ! なんでだよっ!? じゃあなんでっ、コイツはッ! 謝ったりするんだよ!!!!??

「謝るな……謝るなよ……ッ、あんた、その覚悟が在るんだろう? 地獄に堕ちて、外道に果てる覚悟が、在るんだろう!? ――じゃあ、謝るな! 俺に頭を下げるな! 純夏を哀れと思うなッッ! お前はっ、アンタはっ!!」

 傲岸不遜に、お前たち全部が駒だと。

 どんな運命にあろうが、どんな非道に陥ろうが、そこでのた打ち回って死ねと。そうするのが役割だと。

 冷酷に、無慈悲に、見下して、笑って…………その果てに、人類を救ってくれるなら。

 それだけで、いい。――俺は、それを受け入れる。

 純夏を助けられず、純夏に気づけず、純夏の運命を知った自分なら……同じように、人でなしの外道に濡れて死ぬ自分なら。

 そうするのが道理だろうから。それを受け入れられるから。

 だから……赦せない。

 夕呼がそんな自分たちに「済まない」というなら、じゃあ、一体……そんな目に遭わされた自分は、純夏は、一体どうすればいいっていうんだ?!

 惨めなだけだ。可哀想なだけだ。ふざけんな。ふざけんなよ……。どうして、そんな、優しさを見せるんだ。どうして!!?

「なんでっ、俺達が死ぬ最期までッッ! 笑って、偉ぶって、堂々と……自分は外道だと、それがどうしたって…………ぁぁあ! なんでだよぉおおおおお!! クソォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!??」

「白銀さん、白銀さんっ……全部、全部、届きました。博士も、博士にも、ちゃんと、届きましたから……っ!!」

 お願い、どうか、殺さないで。

 霞の泣き叫ぶ悲鳴が、脳髄に木霊する。気づけば弧月を取り落としていて、武は再び床に膝を落としていた。両手をついた床に、ぼたぼたと涙の跡が染みる。泣いている。泣いている。――俺が、純夏が、泣いている。

 自分たちをこんな目に遭わせたBETAが赦せない。

 こんな運命を決定した神様が赦せない。

 そしてなにより、いずれ自分と純夏を殺す夕呼が、赦せない。

「――香月夕呼、絶対に、アンタを殺す」

 でも、それは……すべてが終わった後だ。何もかもが終わったその後だ。

 00ユニットが完成して、AL4が成功して、人類に未来が約束されて、BETAが駆逐されて、世界が平和になって。

 その、後だ。

 そうするために、自分は改造されて、純夏が利用されるというなら。今、ここで夕呼を殺せるはずがない。――畜生、くそう、クソッタレ!!

 だから謝るな。お前は、アンタは、その最後の最期に、全部全部成し遂げた果てに、――俺に殺されろ。

 そうして死ぬ間際に、それでも不敵に笑って……勝手に満足して、死ねばいい。すぐに後を追ってやる。自分も、純夏も。そうやって外道に頭の先まで浸かった全部を、亡くしてやる。

「…………白、銀、ッ、ぁ、…………約束、するゎ、」

 右腕のない夕呼が、痛みを堪えたような、喘ぐような声で、言う。弾かれたように霞が傍に寄り、ドレスの裾を引き千切って断面に押し当てていた。

 武は、俯いたまま、真っ黒な感情を逆巻かせたまま、血色に充血した瞳を、夕呼へと向ける。

「――00ユニットは、完成させて見せる。…………そうすれば、あんたは…………鑑に、逢える……」

「博士っ、はかせ……ッ、ああ、血が、……」

 俯いていた顔を、上げる。出血に顔面を青白く染めた夕呼が、右腕のない彼女が、偉そうに、不敵に、笑っていた。

 泣きじゃくる霞の髪の毛を、残った左手で優しく撫でながら……このまま放っておけば失血死するとわかっていて、それでも、挑むように武を見ていた。

 涙が、止まる。――ああ、このひとは、やる。

 やると言ったら、絶対にやる。ならばそれは確定された未来で、約束された事項で。だから、絶対に、純夏は……00ユニットとして、完成する。

 それがどういう意味かは、わからない。人類の手で創成される、擬似人類。人に似て、ヒトでないもの。“ひとでなし”。ならばそれは、ひょっとするとニンゲンとして死ぬということなのかもしれない。……だが、どちらがいいというのか。

 ヒトの肉体を喪って、脳ミソと脊髄だけで「生きている」純夏。

 ヒトに似た肉体を取り戻して、けれどヒトとして「死んでいる」純夏。

 ――そんなもの、選べるはずがない。

 どちらにせよ、純夏は00ユニットとなる。それは絶対だ。例えそれを武が拒んだのだとしても、既に決定されていることだから。最高の素体候補。BETAとのコミュニケーションを図る、唯一の希望。

 ならば、いい。それは、もう、覚悟の上だ。どの道、壊された人生である。――せめて、その生を、00ユニットとしての純夏を、傍で支えられたなら。

 護ることが出来るなら。

 BETAを赦せない。夕呼を赦せない。こんな狂った世界を、呪いたい。

 でも、それでも、世界にはたくさんの人が生きていて、その人たちを護りたいと戦う人がいて。

 護りたい人が、いるんだ――純夏。

「俺は……俺は、純夏、お前を護りたかった……だから、お前を護るよ。今度こそ……絶対に……ッ、」

 そして茜を。水月を。真那を。みんなを。

 捨てられるわけ、ない。何もかも、全部、かなぐり捨てるなんて……無理だ。

 純夏が全てだった。彼女が全部だった。……でも、今は、もう。これまでにたくさん、もらったから。大切なものを。想いを。支えてくれた人たちがいるから。

 捨てられない。手を放せない。なんて、無様。なんて女々しい、“甘ったれ”……。欲張りで、怖がりで。

 床に転がった弧月を拾う。それと一緒に、剥がれ落ちた仮面も拾う。

 刀身を拭い、鞘に収める。それと一緒に、鋼鉄の仮面を丁寧に被る。

 武は立ち上がった。見上げる夕呼と目が合う。互いに無言。数瞬で視線を引き剥がし、口を閉じたまま部屋を後にする。

 スライドするドアが閉まる瞬間……夕呼が、霞にピアティフを呼び出すようにお願いしているのが聞こえた。……何の感情も、わかなかった。



 ただ、恐ろしいくらいの茫漠が。

 何もかも空っぽになったような哀しみが。

 進む足を、震わせていた。







[1154] 復讐編:[十三章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:35

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「復讐編:十三章-03」





「擬似生体移植は成功、早ければ三週間ほどで完治するとのことです」

「……そうか、感謝する、ピアティフ中尉」

 いえ。そう言って敬礼し、去っていくイリーナ・ピアティフを見送りながら、みちるは目的の病室を目指す。つい先ほど内線でピアティフから連絡を受け、夕呼が重症を負ったのだと知らされた。

 夕呼が重症を負う……執務室に篭りきり、或いは、研究のために機密フロアを往来するだけの彼女が、そんな負傷を負う事由が思いつかなかった。……事故、ではないのだろう。

 ならば、なにか。

 決まっている。不慮の事故でないならば、そこに関わっているのは人間の意志だ。

 ピアティフの説明では、右腕を肩口から、鋭利な刃物で切断されているのだという。……鋭利な刃物。そんなモノを持ち、且つ、その時間帯に夕呼と共にいたであろう人物など……一人しか思いつかない。

 ――在り得ない。

 みちるは自身の想像を頭を振って拭い去ろうとした。……が、食事の最中に見せた、彼のほんの僅かな違和感が、今では確信として知らせてくれる。

 白銀武。彼が、夕呼の右腕を斬ったのだ。

 いつも身に付けている日本刀。豪奢な漆塗りの拵に、鮮烈過ぎる黄色いリボンを巻いた、あの……弧月という名の、剣術の師の形見。

 それを以って。

 何故だ、と。拳を握り締めた。もしそれが本当なら、自分は彼を処罰しなければならない。そこに如何なる理由が在るとしても、武は、夕呼を……オルタネイティヴ計画最高責任者にして横浜基地副司令である香月夕呼を。

 右腕を喪わせるほどの重症を、負わせた。

 事故であるわけがない。刀を持った男がいて、右腕を喪った被害者がいて……それでどうして、不幸な事故と言える? だから、間違いなく。白銀武は、彼自身の意志で、夕呼を斬ったのだろう。

 ――何故だ、何故だ白銀。

 その襟首を掴んで、問い質したい。何かもっともな理由が在るというのなら、それを聞き出したい。そして、それを承知した上で、その顔面を殴りつけてやりたい……ッ。

 もし、彼が何かに追い詰められていたのだとして、そこまでのことを仕出かすほどに逼迫していたのだとして……では、何故、上官である自分に、水月に……誰でもいい、相談してくれなかったのか。打ち明けてくれなかったのか……。

 決まっている。任務に関することだったからだ。

 夕呼直々に命ぜられた、特殊任務。その概要さえ知ることを許されない自分たちに、相談できる道理がない。……ならば、それは、上官である自分は……なんて、無様。そして無力なのか。

 病室の入口に立つ、銃を持った衛兵が敬礼を向けてくる。基地内部の警備を務める衛兵二名に答礼をし、みちるは内心で沸々と込み上げる自身への怒りを一旦鎮める。

 ピアティフから言われていた。

 夕呼は、この負傷自体が機密に抵触するから、その理由を聞くな、と。夕呼の側近、という意味ではみちる以上に信を置かれていたであろうピアティフでさえ、彼女の重症の理由を知らされない。ショックだっただろう。病室の外でみちるを待っていた彼女は、やるせなさに表情を曇らせていた。

 或いは、みちると同じように。……己の無力さに、打ちひしがれていたのか。

 ともあれ、夕呼はみちるを呼んだ。それはみちるに用があるということであり……恐らくは、武に関することだろう。

 傷が刃物によるものだとわかれば、それだけで下手人は絞られる。模擬刀で人体を裂くことは出来ず、アーミーナイフでも、肩口を一刀のもとに両断することは難しい。……ならば必定、それはそもそも刀、ということになるのだから。

 だから、下手人は、武しかいない。彼しか、それを出来ない。

「失礼します……」

「来たわね、伊隅」

 ベッドに横たわる人物は、全くいつも通りの不敵な表情で、みちるを出迎えた。普段と異なるのは、着ている服が病院着であり、右腕を吊られていること。だが、向けられる瞳は腕を斬られたショックなど微塵も感じさせず、不退転の輝きを放っている。

 口元は緩やかに吊り上がり、その場景を見て困惑するみちるを愉しんでいるようでもある。

 みちるは何を言っていいかわからず、呆然と立ち尽くした。部下に斬られたというのに、まるで蚊に刺された程度にしか感じていないような……そんな態度を見せる夕呼を、不思議に思う。

「なにしてんの……見舞い客が突っ立ってちゃあ、こっちが気を遣うでしょ……」

「はっ? ……あ、はい」

 悪戯気に。含むように笑って、夕呼が椅子を示す。みちるは慌てたように丸椅子に腰掛け……そこでようやく、ベッドを挟んだその場所に、銀色の髪の少女がいることに気づいた。社霞。恐らくは、夕呼の右腕が喪われる現場を目撃したのだろう少女。

 ピアティフと衛生兵を呼んだのは霞だという。そして、彼女が駆けつけたとき、血濡れの霞はかつてないほどに泣きじゃくっていたのだとか……。普段感情を見せない少女だけに、その話を聞いただけで痛々しいと感じてしまう。

 同時に、誰よりも……みちるやピアティフよりも夕呼の傍らに在る彼女が、自分たち同様に夕呼を慕ってくれている事実が、嬉しいと思えた。

「伊隅、今回の件だけど……」

「はっ、現在このことを承知しているのは隊内で自分だけです。……ピアティフ中尉にも伝言を承っていますので、この情報が私以外に漏れることはありません」

 そう。ピアティフが負傷の詳細を知らされなかったのと同様に、これは正真正銘、最重要の機密となるだろう。

 AL4最高責任者の負傷。そして、それは彼女の部下が引き起こした叛逆行為……。外部には、それだけで活気付く連中がわんさといる。AL5推進派……それらに代表される、オルタネイティヴ計画そのものに反対的な組織……等々。

 とにかくも、連中に付け入る隙を与えるわけにはいかない。夕呼の治療に当たる医療スタッフも、外で歩哨にあたる衛兵も、それは同様だ。この微妙な時期に、なんとも厄介な事件を起こしてくれたものだと、先ほどとは違う意味で、武に対して怒りが込み上げてくる。

「…………白銀、ですか」

「そうよ。あいつ以外にいないでしょ、日本刀持ち歩いてる衛士なんて」

 押し殺した声で問えば、何を当たり前なことを、と呆れたように言われてしまった。……どうやら、本当に、夕呼は斬られたことをなんとも思っていないらしい。

 みちるには理解できない。特殊任務を任せるほど、信頼の篤い部下に裏切られて……どうして、そんな風に笑っていられるのか。あっけらかんと言い切れるのか。――私には、わからない。

「伊隅、白銀が私を斬ったのは事実で、そのせいで私が三週間右腕を使えないのも事実で、その間にどれだけ貴重な時間が失われるかは、よくわかっているつもりよ。……でも、私は白銀を恨むつもりはないし、むしろこれは……まぁ、自業自得と言えなくはないわね……」

 首が繋がっているだけ儲けものよね~、と。夕呼はふざけるように笑う。

 何故、そんな風に笑えるのか……ッ! 大声を出して、そう、言ってしまいたい。尋ねてしまいたい。貴女は何故、それほどに……ッ。

 武と夕呼の間に何があったのかは知らない。それを知ることが許されないというのなら、軍人として、みちるは従うほかない。

 夕呼には、武に斬られるだけの理由があるとでも言うつもりか……否、事実として、彼女はそう言ったのだ。そして、武は夕呼を斬る理由が在った。

 莫迦な。

 確かに武は少々精神的に危うい面もあるが、それでも、己の犯した過ちを見つめ、水月の支えもあって……どうにか前に進んでいたはずだ。誰よりも何よりも、自身を高めることを欲し、常に高みへと手を伸ばすことが出来る……そんな衛士だったはずだ。

 恋人を亡くした復讐心に身を委ね、暴走を見せたこともある。それが原因で、四人を死なせたこともある。

 それでも、少しずつ、前に進んでいたのではなかったのか。未熟な己を振り切り、突き進む覚悟を身に付けたのではなかったのか。

 理由など関係ない。

 お前は、結局…………何一つ、変わっていないということか――白銀ッッ!

 そして夕呼は、そんなみちるの感傷さえ必要としない。この場に自分を呼んだのは、単に武を放っておけと、そう命ずるためだったのか。……ならば、今の自分はなんと情けない顔をしているだろう。

 自分の部下でありながら、その所業を知らされず、その内奥を悟れず、上官にこれほどの傷を負わせた。――無能の極みか、私は。

 みちるの口から自虐的な吐息が漏れるのを、夕呼は見逃さなかった。横になった姿勢のままで、鋭い視線をみちるに向ける。名を呼ぶ声には棘が含まれていて、それは、無力に嘆く部下を叱咤する上官の顔だった。

 科学者でなく、軍属に身を置く端くれとしての、顔だった。

「伊隅、あんたはよくやってくれてる。あれだけ消耗の激しいA-01部隊を、よく纏めてくれているわ。私はね、あんたを評価しているの。あんたの部隊を評価しているのよ。……それを、侮辱することは私が許さないわ」

「香月……博士……」

 まるで仇を見るように。それほどに険しい視線を向けられて……みちるは、…………苦笑するしか、なかった。

 ああ、その通りだ。我がA-01部隊は素晴らしい部隊だ。優秀な部下に恵まれ、彼女らの働きに助けられ……そして、その部隊は、世界中のどの部隊にも勝る、至高の宝だ。

 夕呼の言うとおりだ。それを、侮辱することなんて出来ない。みちるが自身を無能と謗るならば、それは、ひいては自身の部下さえを無能と、そう断じるのと同じだ。……そんなことは、ない。絶対に。

 少々感情的になり過ぎたらしい。いいかげん、少女ぶる歳でもないだろうに……。そういう意味を込めて夕呼に視線を向ければ、何もかもを悟った表情で、夕呼は意地悪く笑っている。――なんとも、大物だ。

 みちるが夕呼と会話する時は、いつだってそう思い知らされる。

 天才と人は言うが、正にそのとおりだろう。どう逆立ちしても敵わない。届かない。そんな高みに立つ女性。人類の未来を担うに相応しい、鬼才であった。

「しかし、博士……私は、隊を纏める上官として、白銀を罰しなければなりません」

「あんたもしつこいわねぇ……。私が“いい”って言ってるんだから、“いい”のよ」

「しかし……ッ」

 先ほどの論理の逆だ。隊長が無能ならばその部下も無能。部下が失態を犯したなら、それは隊長の失態なのだ。

 失態は、拭わねばならない。罪には、相応の罰を与えなければならない。当然のルールだ。まして、相手は香月夕呼である。本当に、夕呼自身が言うように、そこにはそうなって当然の理由が存在していたのだとしても、“それでも”、武は夕呼を斬ったのだ。

 武器を持った人間が、武器を持たない人間を。

 その肉体さえを武器とすべく鍛え上げた軍人が、なんの訓練も積んでいない科学者を。

 人類を護りBETAを駆逐する衛士が、人類を救いBETAを滅ぼす計画を進める責任者を。

 部下が、上官を。

 斬ったのである。ならばそれは叛逆だ。斬られた当人がどうこういったとしても、それは軍という組織において……或いは民間においても、罪、なのだ。

 どれほど腹立たしい事由があろうと、どれ程屈辱的で尊厳を蹂躙されようと。それでも、軍人は上官に手を挙げることは許されない。認められない。手を出したら、それで終わりなのだ。不敬罪、というものが在る。筋は、徹さねばならない。

 いや……それ以上に、武は。

 刀を持つ。武人として在る。その己の誇りさえ……二人の師から託されたという想いさえ、裏切ったのだ。泥を塗った。捨て去った。……それは、きっと、何よりも赦されない。

「だからあんたは固いってのよ……伊隅、もう少し頭柔らかくしなさいな。まったく」

「それとこれとは関係ありません。白銀は軍人です。そして博士も、副司令という立場にあるれっきとした軍属です。軍には規律が在り、それに例外はありません……。軍事裁判を起こさないというなら、せめて、私の権限内で白銀の処罰を認めてください」

 呆れ返るように溜息をついた夕呼に、しかしみちるは喰らいつく。心底うんざりとした表情を向けられるが、こればかりは、いつもの夕呼の言があろうとも曲げられない。

 軍とはそういう組織であろう。そして、みちるは誰よりもそれに忠実である。

「あのね、白銀を尋問されるのは困るのよ。自白剤なんて飲まされた日には、機密もへったくれもないわよ」

「しかしっ……!」

「それとね伊隅。あんた今、自分の権限内って言ったけど……午前中、私の特殊任務に従事している最中は、あいつはA-01部隊に所属する衛士じゃない。言ったでしょ? 特殊任務が終われば原隊復帰させる、って。わざわざ言うつもりはなかったけど、あいつが、私の腕を斬ったその時間……間違いなく白銀武少尉は副司令直轄の特務少尉だった」

 それは詭弁だ……。がっくりと、みちるは肩を落とす。夕呼は多分、武を庇っているわけではない。自身のあずかり知らぬ場所で、武から機密が漏れることを恐れているのだ。

 これが例えば、第一報が夕呼直属のピアティフではなく他の基地職員にいっていたとしたら……武は、即刻MPに連行され、自白剤漬けになり、営倉入りだ。その場であった全てを洗いざらい白状して、夕呼しか知りえない機密さえ、弛緩した口内から垂れる涎と共に吐き出しているだろう。

 無論、夕呼がその尋問に絡んでいるならば問題ない。彼女が手を回し、MPも記録員も、全て掌握しているならばそれに不都合はない。白状した機密情報は記録から削除すればいいのだし、関わった全員に口封じを命ずればいい。それだけの権限が、彼女にはある。

 だが、それは出来なかった。ピアティフが言っていた。駆けつけたその時、夕呼は「誰にも話すな」と一言呟いたきり……移植手術が完了して麻酔が抜けるまで、一度も目を開かなかったのだから。

 意識を失い、その後の指示も出せぬ状況で、もしMPが動いていたなら……。ひょっとすると、夕呼の隠滅作業が及ぶよりも早く、彼女の負傷、吐かされた機密、それらが……反対組織に属する者の耳に入っていたかもしれない。

 だから、それは認められない。みちるが尋問に自白剤を用いないと言っても、恐らくは無駄。

 ましてその時間帯は、武がみちるの部下でもなんでもなかったのだと言われてしまえば、最早みちるに手を出せる問題ではない。

 夕呼の強情さと、またしても自身の無力さに嘆かわしさを通り越し、いっそ呆れるほどの脱力感が全身を包む。

 どの道、弁論で夕呼に勝てる道理もなかったのだ。みちるは遠慮ない溜息をついて、じっとりと夕呼を見つめた。

「では……白銀は、」

「今までどおり、A-01部隊の衛士よ。腕は確かなんでしょ?」

 仰るとおり。腕は……いい。情緒面で不安定さを起こし、精神面で脆弱さが見られるが……それも、いずれ何とかなるだろう。少なくとも、数ヶ月の内には、みちる直々にあの軟弱な性根を叩き直す所存である。

 が、それでも、矢張り、これだけは聞いておかねばならない。例えどれ程の理由が在ったにせよ、あの武が、――BETA相手ならいざ知らず――夕呼に、生身の人間に、手を下すとは思えない。

 正気の人間のやることではない。

 それは、正真正銘の狂気だろう。狂人は狂っているからこそ、人としての道理を、倫理をかなぐり捨てる。

 武の暴挙は、間違いなくそれに所以する。……ならば、今後もその狂気が発症しないという保証はない。それは例えば同じ部隊で戦う彼女達を窮地に追いやる可能性もあるのだから。

「白銀の暴走……暴走と表現させていただきますが、それは、今後も起こり得るものでしょうか」

「さぁ……多分、暫くは大丈夫だと思うわ。……そうね、私見を言わせてもらうなら…………」

 今すぐ実戦という段になった場合、武を戦場に出すな。

 と。夕呼はそういう。

 もし夕呼の推測が正しいならば……彼は、自身を死なせるだけでなく、A-01全部を巻き添えにして崩壊させる危険性が在る……と。そう言った。

 それは軍人として、衛士として、致命的な欠陥なのではないだろうか。BETAと戦えない衛士。敵を前にすると発狂する衛士。……そんな人間を、確かに戦場に出すわけにはいくまい。まして、部下として用いるなど……自殺願望でもない限りは、御免被りたいものである。

「白銀は軍人として役に立たない、と?」

「当分は……ね。ま、それを判断するのは伊隅、あなたの仕事よ。私は精神科医でもなければ気の利く部隊長でもないものねぇ。部下の管理はあんたの仕事。そうでしょ?」

 なんという横暴か……。先ほど感じた脱力感を更に上回る虚脱感に苛まれて、最早みちるは項垂れた顔を上げようともしない。

 そのみちるの感情を察してか、視界の隅で霞がおろおろとしている様子が窺えたが、あのような小さな少女に案じられるほど、落ちぶれてもいない。

「わかりました。白銀の運用についてはこちらで対処します……。それと、例の特殊任務ですが、」

「ああ、それも当分いいわ。今日付けで白銀はA-01部隊へ完全に復帰させる。……ま、また借りることになるかもしれないけど、それも……」

 語尾になんと言ったのかは、よく聞こえなかった。何かを完成させる……と聞こえた気がしたが、聞き直すわけにもいかない。みちるは、了解の意を告げて椅子から立ち上がる。ぴょこん、と跳ねるように霞も椅子から立ち上がって……

「伊隅大尉、ありがとうございました……。……白銀さんを、お願いします……」

「? あ、ああ……。とんでもないことを仕出かしてくれたが、それでもヤツは私の部下だ。…………狂気に支配されたというなら、それごと、叩き直してやるさ」

 しっかりとみちるを見つめて言う霞に、果たして彼女はこれほどの強い瞳を持っていただろうか、と。みちるは小さく首を傾げる。

 ひょっとすると……今回の事件を通じて、彼女は何がしかの成長を見せたのかもしれなかった。……ならば、いい。もう、それだけで十分だ。

 夕呼自身が“いい”と言い、霞がそれによって一回り大きくなることが出来たというなら。それでいい。残る問題は確かに厄介でどうしようもないことかもしれなかったが、それでも、武が自身の部下である以上、みちるは彼を見捨てはしない。

 水月に一肌脱いでもらうまでもない。これは純粋に、隊長としての領分であり役割だ。

 ふ、と。思いつくものがあった。

 武は夕呼を斬った。発狂するほどの感情の昂ぶりに、暴走した。……それはなんだか、捻くれて捻じれた一振りの刀を思わせる。真っ直ぐだった刃は、積み重なる負の感情に歪み、たわみ、亀裂が走るほどに捻じれてしまった。

 ならばそれは、また鍛えなおすほかない。

 灼熱の炉にくべて、丁寧に丁寧に、何度も何度も火を通して、叩いて鍛えるしかない。

 人を斬るほどに崩壊した、その精神を。性根を。叩き直す。……なんとも腕が鳴るではないか。――覚悟しろ白銀。貴様を全うな人間に戻してやる。貴様にもあったはずの、純粋で真っ直ぐな刀身に鍛え直してやる。

 数ヶ月だ。いや、二ヶ月でいい。

 それだけあれば、貴様を「まとも」に戻してやる。もう決してぶれない、壊れない。歪みも、たわみも、亀裂さえもなく、故に捻じれることのない刀に。

 或いはそれは武を育てた師……あの斯衛の衛士の役割なのかもしれないが、いやはや、困ったことに自分は武の上官で隊長だという。

 いつか武が彼女と再会する時も来よう。ならばその時、あの温かく微笑んでいた彼女の表情を、曇らせることのないように。

 何より、水月や茜といった、彼を案じている者たちのために。

「……では、私はこれで失礼します」

「はいはい。……二、三日したら、自室に戻ることになると思うから、その時はまた呼ぶわ」

 は、と。気をつけのまま踵をあわせる。最早みちるの顔に迷いはない。疑問も、不満も、一切ない。故に夕呼はさっさと行けというように手を払い、みちるはそれに苦笑しながら病室を出た。







 みちるが退室するのを見て、夕呼は盛大に溜息をついた。自分でもらしくないとは思うが、腕を一本喪って平然としていられるほど、自分は超人ではない。

 表情にはヤレヤレという諦観しかなく、片腕が使えない間に積もるだろう職務を思えば、反吐の一つも吐きたい気分になる。

 ――あれは、完全に間違えた。

 数時間前の出来事を思い出す。なぜ、自分はあんな言葉を吐いたのか。

 同情は、そいつを侮辱することと変わらない。……かつて、自分が霞に教えたことでもある。……ならば、それを十二分に知っていたはずの自分が、何故、あんな……。

 つい、口にしてしまった。……ということなのだろうか。

 あの時霞にはリアルタイムで武がリーディングしたイメージをプロジェクションさせていた。所々雑然として判断のつかないものもあったが、大凡、BETAが何を仕出かしたのかは見ることが出来た。

 それを、見てしまったから?

 十五歳の少女が受けるには残酷で悲惨に過ぎるそれを見てしまったから? そんな少女を利用せずにいられず、その恋人だったという武をズタズタに傷つけたから?

 ……さて、どうだろうか。

 自分がそこまで“甘い”人間だとは思っていない。それとも、そう思っているのは自分だけで、実は……ということが在り得るのだろうか。

 今でも信じられないのだ。どうして、言葉として、それを伝えてしまったのか。――それは絶対に、死んでも、言ってはいけない言葉だった。そうわかっていたのに……。

 だが、理由はどうあれ、最早口にしてしまったものを取り消すことなど出来ない。……ならば武を“甘ちゃん”と嘲るわけにはいくまい。正に自分もそうだった。自分でも理解できない“甘ったれ”た自分がいて、つい、内心を零してしまった。……本当に、らしくない。

 しかし……と夕呼は寝返りを打ちたい衝動に駆られたが、腕をつられていてはそれも出来ない。仕方ないのでもぞもぞと身体を動かして、硬直しそうな四肢をほぐす。

 しかし、あの武の暴走振りは果たして如何なるものか。精神が脆弱に過ぎる、というだけでは少々説明がつかない気もする。

 例えばこの右腕だが……これは武のもつ日本刀に斬られたものだ。夕呼は武道には詳しくないが、それでも、日本古来より続く伝統的な武器……刀、について、それを持つ者たちの心構え、というものは在る程度理解しているつもりだった。

 現在にも残る武家、或いは帝国軍に代表される斯衛などは、常に帯刀し、武人としての、剣士としての己を律しているのだとか。ならば武もその一画。刀を有し、それを帯びるもの……であるならば、最低限の気構えを持っていてもおかしくはないだろう。

 むしろ……とそこまで考えて、夕呼は面白くなさそうに鼻を鳴らす。

 考えてもしょうがない。武の中でどのような感情の化学反応が起こったにせよ、これは自身が撒いた種だ。よもや自分の口からあんな全てをぶち壊すようなセンチメンタルが吐き出されるとは思いもしなかったが、それで首が飛ばなかったのは本当に僥倖である。

 或いは本当に殺すつもりがなかっただけかもしれない。……霞を通して伝えられた武の心は、ただ暗黒に似た空隙が広がるだけだった。そこにそんな思考を働かせる余地があったのかどうかは本人にしかわからないだろうが、それでも、夕呼は武が元には戻らないだろうことを予測している。

 あれは、もう駄目だ。

 みちるにはそれを諦めるつもりはないらしい……。いや、それを言うなら自分も、そうらしいが。

 現状で武を有効に使える札は全てきってしまったと言っていい。まさか武の精神がこれほどに崩壊するとは少々予想外だったが、しかしこうなった以上は、衛士としても長く持つまい。

 或いは、それでも尚這い上がるほどの胆力を見せてくれるなら、それはそれでいい。衛士としての腕が優秀だということは夕呼も理解している。何の成果も上げられずに終わった『伏龍作戦』での失態を、今後の作戦で雪ぐことができるなら、それはそれで使いようがあるということだ。

 しかし、そんないつも通りの思考を展開させていると……我ながら酷い女だという嘲りが漏れる。そして、武に言ってしまった言葉が、どれ程に自身からかけ離れているかを。

 ひょっとすると、いつか遠い昔に……オルタネイティヴ計画という世界に足を踏み入れる直前。そのときに捨て去ったはずの畜生にも劣る感傷が、呼び覚まされた結果かもしれない。

 ……ならば、それは再度捨て去ろう。そんなモノは必要ない。

 一切の感傷も、一握りの情動も不要。自身は香月夕呼であり、国連軍横浜基地副司令であり、AL4最高責任者なのだから。

 この世すべての非道と外道を背負い、そして人類を救って果てる者。

 そう改めて自覚し、自身の失態とはいえ、本当に、今もまだ生きながらえていることにホッとする。

 ともかくも、傷を治す。それが最優先だ。完治に三週間必要だとしても、歩き回ることが出来るなら問題ない。今はただ、突き進むときである。

 武が入手し、霞経由で手に入れたBETAの情報…………正直、これの詳細を解析したとして戦況に劇的な変化は見られないようだが……。それらを整理し、僅かでも役立てる。

 そして、00ユニット。未だその中核となる量子電導脳は完成していないが、それを、絶対に完成させる。

 武に約束したことに関係なく。これは、香月夕呼として、その道を進むと決定した自身として、絶対に、やり遂げてみせる。そして世界を救えたなら……その後は、あのズタボロになってのた打ち回る餓鬼に、殺されてやってもいいと。

 そんな、らしくない感傷を――。







 ===







 何の感情もわかない、と。

 そう思っていた。

 独り自室に篭り、ベッドに腰掛ける。脇には弧月が置かれ、武は……自身の両手の平を見つめていた。

 ドアは施錠してある。……今、誰かに逢うと、それだけで無条件に縋りつきたい衝動に駆られてしまいそうで、怖かった。

 怖い、何を?

 それをしてしまうと、もう、戻れないという確信がある。自身の無意識をリーディングするまでもない。それは、絶対にやってはならないことだろう。

 そんな資格はないし、それは、衛士としての在り方に反している。

 ――笑わせるな。では、人を斬ったお前は、衛士であると胸を張って言えるのか。

「ッッ!」

 何の感情もわかない、と。そう思っていたのだ。あの時は。

 夕呼を斬った瞬間、或いはその直後、武は弧月を取り落としていた。……あれは果たして、霞の言葉に動揺したせいだったのだろうか。彼女の剣幕に圧され、恐怖に手放したのだろうか。

 恐怖……確かに、恐怖だろう。狂うほどに壊れていたあの時の頭では一切の何も感じることが出来なかったが、今ならば、わかる。

 あれは恐怖だ。畏れ、だ。

 両手の平を見つめる。震えている。ずっと、ずっと震えている。あの後、血塗れた制服を着替えに戻った時も、食事のために平然を装って皆と過ごした時も。

 ずっと震えていた。

 何度も箸を取り落としそうになり、何度も碗をひっくり返しそうになり。……ただ、道化の仮面を被って、それを悟られないように振舞っていただけ。

 自分はずっと、恐怖に震えていたのだ。

 暴走して過熱した感情の熱が去ったからこそわかる。自分は何よりも、人を斬ったことを畏れていた。爆発した感情に引き摺られて、目の前にいる夕呼がどうしようもなく憎くて、そして……あろうことか、弧月で。人を、斬った。

 瞬間に、何を思った?

 くるくると弧を描いて落ちる夕呼の右腕を見て、飛び散った鮮血を浴びて、――俺は、一体何を思ったのか。

 それが思い出せない。ただ、次の瞬間には、恐ろしくて、怖ろしくて、畏ろしくて……弧月を手放していた。人を斬ってしまった恐怖に、それをやってしまった自分に、弧月を持つ資格がないとわかったから。

 脇に置いた弧月を見る。血は、何度も拭った。水面のように澄んだ刀身は……けれど、いくら拭おうとも前の輝きを取り戻してくれない。

 無道に人を斬り、血を吸ったそれは妖刀となる……。いつだっただろう。真那が教えてくれたことだった。

 月詠の剣術。螺旋の剣閃。

 すべては、全ては、ただBETAを屠るために。実戦の中で編み出され、鍛え抜かれ、故に究極と。その物量を以って人類を民を窮するBETAに対抗する、究極の一であると。彼女は、誇らしげに語ってくれたのではなかったか。

 ならば、もはや武は……人斬りであろう。

 人を斬った狂人が、衛士を名乗るなどおこがましい。まして、温かな想いをくれる人々に縋るなど……そんな道理は存在しない。

 道を違えたというならば、もう、誰の温もりを求められるはずがない。

 茜の笑顔が思い浮かぶ。――莫迦が、まだ、わからないのかっ!?

 それさえも、罪だ。赦されざる、罪であろうが。

 武は人を斬ったのだ。武人の教えを受け、師の遺志を託され、真那の想いさえが込められた刀を託され……それなのに、そんな大切な何もかもを見失って、忘却の彼方に置き捨てて――斬った。

 無道を。

 外道を。

 それはもはや、人に非ず。人斬りという名の、鬼だ。

 純夏の想いを踏み躙り。

 茜の支えを踏み躙り。

 水月の差し伸べた手を踏み躙り。

 真那の、師の、託された想いを踏み躙り。

 そしてお前は、今までの全てを踏み躙って、捨てたのだ。完全に、自らの未熟さゆえに。

 誰が悪いわけでもない。あの時、あの夕呼の言葉が逆鱗に触れたというのなら、何のためにその拳が在るのか。

 まして、あの夕呼が……あれほどに頑なに非情の科学者をやりきることの出来る彼女が、あんな言葉を吐いてしまうほどに……それほどに無様を晒したのは己の失態だろう。

 感情に任せ、逆巻く憎悪に任せ、お前は単に、そこにあった得物を、何の道理もなく、何の正義もなく、ただ子供の癇癪のように。

 暴力を振りかざしたに過ぎない。

 ――それを、恐怖する。

 そんな自分を信じられない。どうして、何故。何度繰り返しても、わからない。理解できない。これが自分。これが、こんな矮小で浅ましい人間が、自分。

 純夏に想われる資格なんてない。茜の想いを受け止める資格なんてない。水月に手を差し伸べられる資格なんてない。真那に刀を託される資格なんてない。

 震えが止まらない。もう駄目だ。もう、本当に、駄目だ。

 立ち直るなんていう問題じゃない。

 完全に、道を違えた。踏み外した。奈落へと続く崖を、転がってしまった。――自分の意思で。否、その意思さえ及ばぬ領域で。

 それを、狂気と呼ぶのなら……ならば武は、最早それから逃れることなんて出来ない。

 どうすればいい。どうすればこの震えは止められる?

 誰にも頼ることは出来ない。誰も近づけてはならない。自分は人を斬った。刀を持つ剣士として、一番やってはならないことをやってしまった。

 斬るべきはBETA。斃すべきはBETA。それを知っていたのに。剣士として、武人として、衛士として――俺は、どうして、俺はッッ!!??

 絶望。

 その二文字が過ぎる。

 武は自身に絶望する。かつてなく、これ以上などなく。本当の本当に、自分が信じられなくなってしまった。

 どうすればいい。ただそれだけが意味もなく脳内を巡り、ぶるぶると震える指先を、尚痙攣させる。

 考えれば考えるほどに泥沼に陥っていく。ああ、ならばその泥は底無しで地獄にでも続いているのだろう。……堕ちていく。それを、実感する。

 震える左手で、弧月の鞘を掴んだ。眼前に縋り寄せ、ガタガタと震えながらに抱き締める。

 寒い。怖い。助けてくれ。

 心中で甲高く叫ばれるそれらの言葉を、ただ、空気を震わせる呼気へと変えて。喘ぐように口を開閉させて、絶叫したい衝動を堪える。――駄目、なんだ。

 誰にも、何にも、縋ってはならない。これは、これだけは、絶対に、自身で乗り越えなければならない。

 今まで、自分がどれほどに多くの人々に助けられてきたのかが、ようやくに、わかった。……自分は本当に“甘ったれ”で、情けなくて、餓鬼だった。どうしようもなく。ただ手に入れた力に溺れていただけの……最低なヤツだった。

 三年以上をかけて。

 純夏を護りたいという、ただそれだけの……当時は宝物のように輝いて煌いていたはずの感情さえ忘れて。

 三年以上をかけて、――俺は、ただ、無道を働くためにこの身を鍛えてきたというのか。

 そんな莫迦な話があるか。そんなのは酷すぎる。……それをやってしまったのが自分だと理解していながら、まるで誰かのせいにでもしようとしてしまう、脆弱な精神に反吐が出る。

 認めろ。

 まずは、認めろ。

 それをやってしまった時点で、お前は“そう”なのだと。そういう人間だったのだと。人斬り。狂人。感情を抑える術を知らず、ただその時のそれに振り回され、学んだもの、身に付けたもの、心に、身体に刻んだもの、それら全てを……忘却してしまう愚か者だと。

 そして、最後になって後悔する。やってしまったことを畏れ、独りきりで、無様に震える弱者なのだと。

 ああ、認めよう。認めます。――俺は、どうしようもない莫迦だった。

 ならば、足掻け。

 もう戻れないとわかっていても。もう駄目だと理解していても。どれだけの恐怖に足が竦んでも。どれだけの狂気にこの手が染まっていようとも。

 足掻け。足掻け。足掻いて足掻いて、足掻きぬけ。

 踏み躙ってしまった想いを、それでも大切にしたいと願うなら。

 踏み躙ってしまった全てを、それでも取り戻したいと願うなら。

 自らの手で捨ててしまった何もかもを、この手に、また抱き締めたいと願うなら――足掻け。

 誰の手も借りず、誰の助けもなく、誰の支えもなく、誰の想いもなく。ただ、己自身の力で、足掻いて、もがいて、這いずってでも前に!

 違えた道はどれだけの時間が掛かろうともまた戻ればいい。奈落に転落したなら、どれほどの苦痛に身を委ねようとも這い登れ。

 地獄の鬼に足を掴まれたなら、その足を切り捨てろ。狂気に憑かれまた誰かを傷つけるならその腕を切り捨てるがいい!

「ぅあ、あっ、ああっ、」

 両手に抱えた弧月を、そっと、手放す。部屋の隅に立て掛けるように……震える腕を、引き剥がす。

 ――ごめんなさい。

 ――ごめんなさい、月詠中尉。

 何を謝る。謝ってどうにかなるとでも思っているのか。

 それでも、ただ、涙が零れる。――俺は、貴女の弟子である資格が、在りません。

 でも、それでも、どうか……。どれだけの時間が掛かろうとも、どれ程の苦痛を伴おうとも。絶対に。戻ってくる。

 真那の弟子として、弧月の主として、相応しい男に、なってみせる。

 この狂気から、抜け出してみせる。

 踏み躙ったたくさんの想いを、手放してしまったたくさんのものを、また、手にするために。

 三年以上をかけて、ようやく、やっと、理解する。

 自分は衛士でもなんでもなく、ただ、復讐に濡れた悪鬼だった。

 こんなにもたくさんの時間を掛けて、こんなにもたくさんの想いを傷つけて、そうしてようやく、わかったのだ。

 それに気づくのが遅過ぎた。……いや、きっと、何処かに、それを捨ててきてしまっていた。

 多分それは純夏を喪った時に。彼女を喪って、何もかもが壊れて…………いや、それでは、まるで純夏を責めているようじゃないか。――違う。あいつは悪くない。

 悪いのは、間違えたのは、全部自分だ。だからこそ、自分独りで、這い上がる。足掻いて足掻いて、また、皆のもとに……還ってくる。

 ――だから弧月。どうか、待っていてくれないか。お前を妖刀に貶めてしまったけれど、どうか、待っていて欲しい。

 再び、お前をこの手に握ることが出来るまで。

 それまでどうか…………。

 待っていてくれ――――。







 ===







「真那様? どうかされましたか?」

 唐突に立ち止まった自身に、驚いたように巽が声を掛ける。はっと我に返り、いや、と小さく首を振るものの、しかし真那にはどうして立ち止まったのかがわからない。

 背後に控える巽の大きな瞳をじっと見つめて、

「今、私を呼んだか……?」

「えっ? いぇ……呼んでいませんが」

 首を傾げながら、巽は横に並ぶ雪乃を、美凪を見やった。……が、矢張り彼女達も同様に首を傾げるしかない。

 では、彼女たち以外だろうかというと……それもまた、ない。現在のここは彼女達の駆る機体……武御雷を安置するハンガーであり、衛士強化装備に着替えた彼女たちは、これから実機での戦闘訓練を行うのだ。

 機体の面倒を見てくれている整備士たちは班長を残して演習場へと移動を開始している。そしてその班長も、真那の真紅の武御雷の最終チェックを終え、先ほどそれを報告したばかりだ。

 ならば一体誰が自身を呼んだのか――まさか、空耳では在るまい。

 真那は暫し考えるような素振りを見せたが、ふん、と強気に笑って再び進みだす。それに続く白い零式強化装備に身を包む三人の少女達は、互いに顔を見合わせ……揃って、自分たちが忠誠を誓う上官の背中を見る。

 真那の腰に提げられた朱色の拵。彼女が唯一の弟子と認めた少年へと託されたその片割れが……ただ、凛と。

 音を鳴らしているのだと……そんな、気がした。







「すごい……これって、でも、」

 息を呑むように、晴子が呟く。目にするのはみちるより渡された映像データ。前回の戦闘……即ち、朝鮮で行われたBETA間引き作戦。その、ある機体の映像を繋ぎ合わせて編集したそれ。

 元々は夕呼に提出する資料として作成した物のコピーだというが、しかしそんな経緯など、未だ実戦を知らず、先任たちとの合同のシミュレーター訓練さえ行っていない身には関係なく。

 ただ、感嘆する。

 そして、その恐ろしさに、息を呑む。

「危ない……っ、わっ、わっ?!」

 多恵が怯えたように奇声を発する。……だが、それも無理はないのかもしれない。醜悪なBETAの集団――映像なのに、こんなにもおぞましく、凄まじい――に、まるでふらりと流れるように突撃する蒼い不知火。

 コールナンバー12。

 なんだか何処かで見たことのあるような、そんな螺旋の機動を描きながら、敵中を舞うように長刀を振るう。

「……こんなの、まともなヤツのやることじゃねぇ……っ」

 ぎりり、と拳を握る音がする。感情を噛み締めるような薫の声が、やけに耳に響いた。

 映像記録に音声はない。……理由は、知らない。でも、これが、この12番の機体に乗っているのが……彼なのだとしたら。

 特徴的過ぎる機動。彼が戦術機を使う姿を見たことはない。けれど、わかる。この機体が行っている剣術は……それは、間違いなく、あの。

「まるで、死にたがっているみたい……」

 亮子の言葉にどきりとする。……でも、その通りだと思う。思ってしまう。

 戦場に出たこともない自分たちでも、わかる。

 こんなのは、まともな衛士がやることじゃない。……絶対に、やってはいけないことだ。

 彼自身が話してくれた。明かしてくれた。過ちを犯したのだと。取り返しのつかないことをしてしまったと。

 だから、これは……その、記憶。彼自身が、そうだと認める、負の、復讐の、姿――。

「武……ッ、こんなのって……っっ」

 画面が、別の機体からの映像に切り替わる。先ほどよりも苛烈に敵中に身を躍らせて、そして次々とBETAを屠っていく姿が映し出される。――ああ、でも。

 真っ白になった。たくさんの光の筋がビカビカと光った。それが光線級と呼ばれる個体のレーザーなのだと気づいたときは、12の不知火は、まるで襤褸屑のように……バラバラになって、地に落ちた。

 映像が終わる。沈黙が、室内を包む。

 誰も何も言わない。誰も口を開かない。……これが、戦場。これが、かつての、白銀武。

 多くの人に助けられて、多くの人に教えられて、そして、生きていることが出来ると。そう言っていた、彼。

 ならば大丈夫……なのだろうか。本当に、本当に、彼は……真っ直ぐ前を向けているだろうか。

 茜には、わからなかった。それでも、信じたいと、そう願う。

 だって武は言ったのだ。言ってくれたのだ。“救われた”と。“前を向いて進むことが出来る”と。そう言ったのだ。

「…………茜、柏木たちも、ほら、なんて暗い顔してんのよ」

 背後から、水月が優しげに声を掛けてくれる。今の映像から疑問に思ったことに答えるためのオブザーバーとして控えていた彼女には、茜達が抱いたような暗い不安は欠片もないようだった。

 不思議に思ってしまって、茜は尋ねていた。

 どうして、そんなに明るく見ていられるのか、と。

 あれに乗っていたのは武ではないのか。……確かに彼は今生きていて、前を向いていて……でも、あんなにも、見ていられないくらいにボロボロになっていたのに。何故。

「茜……、武は大丈夫だから。確かにあの時のアイツはどうしようもないくらい壊れちゃってたけど……でも、それでも、立ち直った」

 事実から言うならば――当然にして、これは水月も、茜達も知りはしないが――それは、誤りである。

 だが、少なくとも水月には……そして、当時の武自身さえ、立ち直ったように見えていた。いや、真実、立ち直り、前を見据え、再び歩き出したのだ。――その時は。

 水月はそれを信じている。そうやって前を向くことが出来た彼を、信じている。

 だから笑うのだ。大丈夫だと。…………故に。尊敬し、目標とし、憧れた彼女の言葉だから。そしてなにより、武自身がそう言ってくれたから。

 だから大丈夫。茜もまた、そう信じる。信じられる。

 何より、彼を想う自分が信じられなくてどうするというのか。……そんな、僅かばかりの水月への対抗心も、背中を押していた。

 水月の言葉に茜は笑う。茜の笑顔に、少女達が笑う。――だから大丈夫。白銀武は、今はもう、大丈夫。

 その想いは、まるで小さな輪になって彼女達を包んでいるかのようで。







 主がいなくなったその部屋で、独り、体温の温もりをなくした刀は佇む。

 己をまた、主が手に取るその日まで、ゆるりとした休眠を。

 鬼人が操る妖刀ではなく、真実、人の手に委ねられる刀剣として。

 復讐を嘆き、守護に希望を見出す主を、

 己の不甲斐なさに泣き、犯した罪に震える主を、

 それでも、諦めきれない想いを、再びその手にするときまで。

 ただ、――待ち続けよう。

 漆黒の鞘に巻かれた鮮烈過ぎる黄色が、ふわり、と。その身体を包み込むように。

 そう。

 刀は独りではなかった。彼女もまた、共に居た。

 だから寂しくはない。共に待ってくれるものが居るのだから。

 弧月は眠る。

 再び、その力を主が欲するそのときまで。ひとときの、眠りを……。







『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』 復讐編:完







[1154] 守護者編:[一章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/11 16:36

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:一章-01」





 ――運命を、呪いなどしない。


 彼女の身に降り掛かった凄惨に過ぎる悲劇も。

 この身に課せられた、宿業も。

 一度は灼熱するような烈火に感情を焦がし、呪わしいと罵ったそれを。

 ……だって、生きているから。

 彼女も、自分も。

 護りたいから。――彼女を。

 だから、取り戻そう。拾い上げよう。……思い出そう。

 たくさんのことを忘れていた。今日までの日々に得た、与えられた、たくさんの、大切なことを。見失っていた。

 感情に振り回されて、自分を、周りを見失う……。その恐ろしさを、愚かしさを、身を以って知っていたはずなのに。けれど、また、自分はそれさえを忘れていて、取り返しのつかないことをしてしまって。

 でも、それでも。

 ようやくにして。気づけたから。思い知ったから。「それが自分」なのだと。そして、そんな醜悪で最悪な自身を、今度こそ本当に、変えたいと願うから。

 強くなろう。

 強く在ろう。

 足掻いて、必死に、我武者羅に。

 どれだけの苦痛だろうと、困難だろうと、足掻いて、足掻きぬいて……そうして、この奈落の底から。

 這い上がってみせる。

 ――俺は、もう一度、やり直す。

 たくさんのことを、教えられていたんだ。

 たくさんの想いを、与えられていたんだ。

 この胸に響く温かな感情が、決して嘘でないと言うのなら……。この胸を締め付ける後悔が、決して嘘でないと言うのなら……。

 見失った、全てを。手放した、なにもかもを。

 ひとつひとつ、丁寧に。拾い上げていこう。






 武の両親は、彼が幼い頃から、この世界の現状――BETAという地球外生命体に侵略されている世界の、在りのままを話して聞かせていた。

 父、影行は退役した衛士だった。戦闘中に機体脚部を破壊され、機体を捨てて戦線を離脱する際に重症を負ってしまった。当時、擬似生体の技術がめざましい進歩を遂げつつあった頃……しかし、彼に移植された擬似生体は神経の一部に拒絶反応を示し、衛士としてはおろか、軍役につくことさえ出来なくなってしまった。

 ただ一人、無様にも戦場を退かざるを得なくなった青年は……けれど、どこか胸の内でホッとしていた。

 衛士として任官する以前に婚約を交わした女性。遠い戦場で戦いに明け暮れる影行に、彼女は欠かすことなく手紙を送ってくれていた。……その一通に付されていた、一枚の写真。

 小さな赤ん坊を抱いた、愛しい人。写真の向こうで眩しいくらいに笑う彼女と、その胸に抱かれて眠る赤子。

 影行は、安堵していた。

 戦場を去らねばならない悔しさと無力さに苛まれながらも、……「還れる」のだと。愛する女性と、彼女との間に授かった息子の下へ。生きて、還ることが出来るのだと。

 …………だから、彼は。

 生まれて間もない我が子に。やんちゃに育つ息子に。お隣に住む同い年の可愛らしい女の子を気にしているらしい武に。

 話して、聞かせた。

 この世界の現状を。この世界の恐ろしさを。……愛する人が暮らす、この世界の尊さを。美しさを。大切さを。

 ――その、一言一言を、思い出す。

 純夏を護るのだという、明確な意思が刻まれたのはその頃だった。まだ、小等学校に通う以前。曖昧であやふやなそれらの記憶を……リーディングによって、読み取る。

 自分自身に対する能力行使を、既に武は万全のものとしていた。……人の記憶が喪われることはないという。けれど、繰り返し、積み重ねた日々の全てを記憶することは脳に多大なる負荷を与え、機能障害を起こすために……普段使用しない、閲覧しない「記憶」は、忘却という機能によって、意識の下層へと押し込められる。

 それら、自身でさえ思い出すことの出来ない記憶の再生を、しかし、リーディング能力は可能としてくれていた。

 武は今、「自分」を見失っている。すべては自身の精神力の脆弱さ、或いは胆力のなさが原因だが、“そうなのだ”と気づいた現在でも、彼は己というものを見失ったままだった。

 感情に狂い、外道をひた走り、人斬りへと堕ちた自分。

 眩いばかりの想いを与えられ、支えられていた……そのことさえを見失って、崩壊した自己。――それを、最早信じることなど出来ない、と。

 だからこそ、見つめ直す必要があった。もう一度、知る必要があった。

 白銀武という男の全てを。自分自身という存在の全てを。成り立ちを。積み重ねてきた何もかもを。最初から、順を追って、ひとつひとつ、丁寧に。丁寧に。

 思い出して、理解して、今を――真正面から、見据えなければならない。そして、これからを。

 父は、たくさんのことを教えてくれていた。愛する人こそを護りたかったのだと、だから自分は戦ったのだと。軍役を退いた後も、彼は、たくさんの努力を積み重ねて……精一杯、武と、武の母を護っていた。……その、与えられた深い愛情を、思い出す。

 だから……。そう、だから。純夏と遊ぶ時も、一緒に学校に通う時も、ずっと。いつも傍にいて、護ってやるんだと。自分が、この少女を護るのだと。そう思うようになった。

 そして、公園で、出逢う。

 数人の友達と、木の枝でちゃんばら遊びをしているときだった。純夏も一緒になって、喧々と暴れていたその時に……ベンチで眠っていたおっさんが、目を見開いて立ち上がった。胸に抱いていた瓢箪作りの徳利を地に落とし、酒臭さを残したまま、まっすぐに武の方へとやって来たのだ。

 友達は驚いて喚きながら逃げ出して、純夏は武の背に隠れるように縮こまった。武もまた、驚きに硬直して……けれど、背中に伝わってくる小さな震えが、精一杯の強がりを保たせてくれていて。――なんだよ、おっさん!

 喚くように問うた武に、……彼は。――師匠は、

 剣術をやる気はないか、小僧。

 真剣な双眸で、小さな武の両肩を抱いて、……そう、言った。――ああ、そうだ。そうだった。それが、出逢い。それが……始まり。

 当時の自分には知る由もないが、既にこのときおっさん――師匠は、病魔に蝕まれていた。まして、彼が父と同じく戦場を退いた衛士であること。斯衛の赤を賜るほどの武家の出身であること。対BETAに於ける究極の剣術を編み出した、豪傑であること……。それら全てを知らず、知る間もなく……ただ、与えられた木刀で、教えられた型を繰り返す……それだけの、日々。

 たったの数日。こうして記憶をリーディングすると、それは、僅かに四日だった。一週間にも満たない、それだけの日々。出逢った公園で、朝から夕方まで、ずっと。一緒に遊ぼうと声を掛けてくれる友達の言葉も、心配そうにこちらを見つめている純夏の視線も、何もかも忘れて、没頭した。

 始めの内は半ば無理矢理に。でも、三日を過ぎた頃から、むしろ待ち遠しく感じてしまうほどに。

 ――そうだ。思い出した。

 五日目の朝。本当に、心の底から、思っていた。きっと、この剣術をもっと上手に使えるようになったなら。きっと、きっと……純夏を護ることができるのだと。

 初めて自分自身から、やる気に満ちて公園に向かった。昨日までは“おっさん”と呼んでいた彼を、……照れくさいけれど、“師匠”、と。そう呼んでみようと決めたその日の朝。

 公園には誰もいなかった。この四日間、ずっと、公園の真ん中に仁王立ちして、木刀を構えていた彼は……姿形もなく、まるで幻のように消えてしまった。

 その時の戸惑いを、思い出す。

 どうしてか、悔しいくらいの、たくさんの感情が溢れたのを……思い出した。

 捨てられたのだと感じた。見捨てられたのだと知った。それが悔しくて哀しくて……でも、この剣術は、きっと純夏を護る力になるから。だから、ずっと……続けていた。いつかきっとこの公園に、おっさんが帰ってくるのだと信じて。期待して。そのときに、成長した自分を見せてやろうと。この力で、純夏を護って見せると。

 純粋だった。

 真っ直ぐに、それだけを信じていた。迷いなく。躊躇なく。――俺が純夏を護るのだ、と。ただそれだけを、見ていた。それが総てだった。

 記憶という名のアルバムを、捲る。師匠との出逢いから以降、予備学校に進むまでの六年間は……ずっと、そのための日々だった。身体を鍛え、剣術の腕を磨き、純夏の傍にいて、彼女への想いを強くしていって。

 あの頃の真っ直ぐさが……どうしてか、武にはひどく眩しく感じられた。あまりにも今の自分とかけ離れている、輝かしい白銀武。その瞳はただ前だけを見据え、高みを目指し続け、自身の信じる道がハッキリと示されている。

 中等学校へと進学し、帝国軍が志願兵の受け入れ対象を十五歳にまで引き下げるという話を、教師から聞かされた。


 武は迷うことなく、自身の進路を決定した。純夏にも、両親にも、教師にも。誰にも相談せずに、けれど、絶対に――衛士になって、純夏を護るのだと――そう決めて。我武者羅になって勉強した。滅茶苦茶なくらいに、自身を鍛えた。何をそんなに頑張っているの、と心配してくれる純夏に微笑んで、けれど、訓練学校の試験に合格するまでは黙っていようと。

 衛士訓練学校の試験に合格したその日。まず、両親に打ち明けた。届けられた合格通知を見たときの父親の表情は……リーディングなど用いずとも、今も鮮明に残っている。嬉しいような、寂しいような……でも、泣きそうな。しっかりと頷いて、肩を抱いてくれて。頑張れ、と。ただ一言。その声を、掌を通じて伝えられた万感の想いを。思い出す。

 その日の晩、純夏に打ち明けて。告白して、彼女も同じ想いを抱いてくれていたのだと知って。嬉しくて、こそばゆいほど幸せを感じて。

 だから自分は、衛士になる。絶対に衛士になって、強くなって、彼女を、両親を、この町を、この国を、世界を――護るのだと。

 輝かしい、想いを。抱いていたのだ。

 ともに同じ道を往く仲間と出逢い、颯爽として、力強くて、優しい先達に出逢い。

 ――すべてが狂ったのは――

 ここから、だ。

 自身には、輝かしい想いがあった。両親から与えられた想いが、師匠から与えられた力が、純夏から与えられた愛情が、確かにあった。存在した。

 だからどんなに辛い訓練にも耐えられたし、微塵たりとも己の道を疑わなかった。積み重ねるひとつひとつの日々が、すべて、彼女を護るための力となるのだと。

 でも。

 それは間に合わなかった。

 記憶にノイズが混じる。雑音が、脳髄を支配する。そうだ。すべてはここから、この日から。

 これこそが、すべての元凶。或いは、堕ち始めたきっかけか。

 横浜襲撃。壊滅した柊町。喪った純夏。両親。護りたかった――全部。

 なにもかもを。

 ただ、それだけを目指していた。ただ、護るのだと。護りたいと。それだけを、抱いていた。だからこそ、なによりもそのために。そう出来るように、衛士を目指したというのに。

 ――故に、捩れ、狂う。

 これが、すべての始まりだ。あの時確かに、自身にとってのなにもかもが、音を立てて崩れ去った。粉々に罅割れて、塵と化し、芥と消えた。武は自身を見失う。喪って。幼少の頃より抱き続けてきた総てを亡くして…………その精神は、「死んだ」のだ。

 自我が崩壊して、ただBETAへの憎しみに感情が奔流しそうになった武を、けれど水月が支えてくれた。思い切り殴り、蹴り、投げ飛ばし。生きているのだと。お前は生きているのだからと。何もなくとも、「生きているから前へ進め」と。胸を打つ言葉をくれた。温かい想いをくれた。涙に濡れる自身を抱き締めてくれた……あの、切ないまでの感情。

 それに縋ることで、武は今一度の生を掴む。けれどそれは酷く脆くて薄っぺらで、武自身、危ういと承知していながらにただ足掻き続けた。……そして、その武を、いつも、いつでも、傍で支えてくれた茜。当時は自分自身にそんな余裕がなくて、全く気づけなかったその想い……。ただ自分だけを支えてくれた、彼女の存在。

 ――でも、きっと。どこか無意識に、甘えていた。傍にいてくれる茜に、支えてくれる彼女に。ほっとして、嬉しくて、甘えて……。気づかぬ内に、少しずつ。

 戻ってきた横浜の地で、出逢う剣士。たった四日間の、幻のような日々……その、再来。二人目の師匠。武にとって、真那という女性の存在は、涙が溢れるほどに……大きくて、憧れて、なによりも、嬉しいと思えた。彼女から伝えられた師の想い。彼女に託された想い。月詠の剣術を――継ぐ。そうすることが、今、生きている自分を真っ直ぐ導いてくれるのだと。そう思うようになった。

 ――これほどに、たくさんの想いを与えられていて。

 ――それでも、捨て切れなかった純夏への執着は。

 仮面を纏った道化だったのだと、知った。銀色の髪の少女。人類を救う科学者。……この横浜の地に唯一“生き残った”、脳ミソ。

 今思えば、あの時の感情の暴走は、抉られるような記憶の奔流は……きっと、霞のプロジェクションによるものだろうとわかる。あの脳ミソが鑑純夏なのだと知り、彼女の記憶の中に武がいたことを知った夕呼の、紛れもない、計略。

 武の戦術機適性の謎を解明する傍らで、本命とも言える、純夏の脳のリーディングは行われていたのだろう。純夏のイメージを投影され、そして表層に浮かび上がった彼女のイメージを、霞は脳ミソにプロジェクションすると同時にリーディングする。……あの時の自分にはまだ、何もわかっていなかった。発狂するくらいの“ソレ”は、霞を通じて自身へと逆流したのだろう。

 その、意味するところを、知りはしなかった。気づくことさえ、想像することさえ、出来なかった。

 ……ただ、深層意識の最下層に封じ込めていたドス黒い憎悪が怨讐が、鎌首をもたげ、覚醒した。――これが、更に捩れるきっかけとなった。

 純夏を喪って、両親を亡くして…………その憎しみを、復讐を、決して拭い去れるものではないと気づかせた出来事。

 己の紛れもない本心を仮面の下に覆い隠し、傍にいてくれる茜には絶対に悟らせることはなかった。彼女の哀しむ顔を見たくなかったから、懸命に、いつも通りの白銀武を演じた。――否。

 そうじゃ、ないだろう?

 怖かった。支えてくれる茜を喪うことが、怖かったんだ。……ああ、今だからこそわかる。あの時自分は確かに、茜や、周りにいてくれる彼女達を騙して、平穏を装った。

 そうしないと、彼女たちが離れていってしまうと……怖かった。

 純夏を捨てきれない自分。彼女を忘れられない自分。いつまでも、その死を受け入れることの出来ない……情けない自分。そんな、浅ましく醜い本心を知られれば、きっと――見放される。……そんな、甘ったれた感情を。

 それが、白銀武。それが、自分だ。――認めよう。これが、こんなにも情けなくて女々しい男が、自身であると。

 結果として、そうやって仮面の下に押し込まれた負の感情は、それゆえに加速度的に増幅されていったのだろう。抑圧された感情は、いつか、限界を超える。

 限界まで酷使された仮面を呆気なくぶち割った原因は、矢張り、夕呼が直々に執り行った、単独での任官だった。

 目の前に敷かれ、用意され、そこを突き進む以外の道を遮断されていたとはいえ、けれど武は、紛れもない自分自身の意思で、決定で、覚悟で、その道を往くことを選択した。

 別れることとなった剣術の師――真那に、師匠の形見の「弧月」を託され、彼女自身の、涙が溢れるくらいの温かい想いを託された。――なぜ、このときに。託されたその本質を刻み付けることが出来なかったのか。どうして、その想いに涙しながらに、あの忌まわしい憎悪を晴らすことが出来なかったのか。

 託された刀に込められた真那の想いと。手を差し伸べてくれた水月の想いと。ずっと傍で支え続けてくれた茜の想いと。

 純夏を殺された哀しみと憎しみとが。

 ――別物である、などと。

 原因は、単純だ。捨て切れなかっただけ。捨てるのが怖かっただけ。彼女を喪った哀しみを、奪い去ったBETAへの憎しみを。……忘れられなかった理由は、ただ一つだけ。

 自分には、そんな強さはなかったのだ。

 哀しみに縋り、憎悪に身を焦がし……そうでもしなければ、そうやって自分の感情を常に滾らせていなければ。永劫に、純夏を喪ってしまうと。そう、思い込んでいた。

 脆弱であると断ぜられて当然。これが、紛れもない自分自身の精神である。かつて熊谷に諭されたような、憎しみさえを想いに換えるほどの“強い力”は、自分には、なかったのだ……。

 憎しみさえを想いに換えるということは……それを、ありのままに受け入れるということだ。

 BETAに殺された彼女を。BETAに蹂躙された彼女を。

 もう、どこにも鑑純夏が居ないのだと。それを、受け入れるということだ。――それが、自分には出来なかった。

 だって、受け入れてしまえば、それで終わりだ。もう純夏は居ない。……そんなことは、出来なかった。だから、憎む。怨む。その感情を、沸々と滾らせる。……そうすれば、BETAが存在する限り、彼女が消えてしまうことはない。BETAへの復讐が続く限り、永劫に、純夏は自分の中から消えたりはしない。

 ――そうやって、歪んだ思考に捕らわれて。歪んでいることに気づかずに、誤っていることに気づかずに。……気づこうとさえしないで、何一つ誤魔化しの中で。

 だからこそ、選択を迫られたそのときに。

 純夏という存在が自分の中から消えてしまうのがただ怖かったから。――選んだ。復讐を。脆弱で恐怖に縮み上がった精神は、ソレを選択した。

 故に、呆気なく。

 仮面は砕け散る。否。自らの意思で、手放したのだ。

 復讐を、遂げる。

 そうすれば、そうしている間は――鑑純夏は、“生き返る”のだ。

 BETAを殺すたびに、その醜悪な肉を断ち切るたびに、自身の感情の中で……確かに、純夏の息吹を感じていた。故に酔いしれる。故にソレだけを求める。戦場に在るのは自分とBETAだけ。連中を殺す自分と、そんな自分にコロサレルだけの、BETA。斬るたびに、返り血を浴びるたびに――恍惚と。

 外道。

 道を、踏み外した。迷いなく。躊躇なく。それが誤りと気づかぬまま。人道を見失ったまま。正道を失くしたまま。ただ、悦びに歓声をあげ、喜色さえ浮かべながら、奈落への道を駆け堕ちたのだ。

 その代償は、あまりにも大きい。

 喪われた四人の先達。復讐に狂い、それこそを是と暴走した武を救うために犠牲となった彼女達。光線級に撃墜され、重症を負った己を、ただ、ニンゲンで在るがための優しさで。志乃は、救ってくれた。命を懸けて。弧月さえを手渡してくれて……でも、そんな優しさをくれた彼女は、BETAに喰われて死んだ。

 彼女と共に救出の時間を稼いでくれていた亜季は要塞級の攻撃に下半身を失って、絶叫の果てに息絶えた。木野下は、藍子は、逃げる間もないほどのレーザー照射に蒸発して逝った。

 全ては、武の暴走が引き起こした凄惨なる地獄絵図。……これ以上ないくらいの、最悪な、代償だった。

 故に思い知る。如何に己が間違えていたのかを。いつまでも復讐に捕らわれ続けることこそが、喪われた彼女達を貶め、或いは……これまでに与えられた数え切れないほどの想いを裏切ることになるのだと。思い、知った。

 ――水月には、永遠に頭が上がらない。あの時、彼女が泣きながらに殴ってくれなければ、また、間違えていただろう。過ちに気づかぬまま、復讐という名の泥沼に捕らわれたまま、溺れ……死んでいたに違いない。だから、感謝を。

 だから。

 だから、純夏への想いを……胸に抱くと。復讐さえを彼女への想いへと換えて、守護者として。護るものとして。戦えるように……そう在れるように。

 ――そう出来たなら、本当によかった。いや、違う。今だって、そう思うのだ。そうなりたい。絶対に、成ってみせる。

 なのに、また。

 道を踏み外して、奈落へと転落してしまったのは……。

 脳を改造され、いずれ訪れる死を約定され。

 それでも、心底からに気づいた想いがあった。鬩ぎあう自身の「復讐」と「守護」の感情に自我が崩壊しそうになったその時に、知った。

 茜。

 彼女のことを、想う自身を。彼女への想いの、大きさを。

 だから、それだけで十分だった。純夏への想いと、茜への想い。それらを抱いて、守護者としての道を突き進むことが出来たなら……それだけで、満足だと。そう決めることが出来たのに。

 ――その覚悟と、宿業を知って・・・尚、それでも、俺は、香月夕呼を赦せない。

 クスリによって無理矢理に開かれたリーディング能力。その行使。対象は脳ミソ。

 喪ったと、思っていた。

 亡くしてしまったのだと、そう思っていた。

 だからこそ自分は復讐に捕らわれて、哀しみに縛られて……でも、それでも、茜への想いを自分自身の支えと出来るようになったのに。

 生きていた、純夏。BETAの暴虐に変わり果てた姿となって。ずっとずっと、シリンダーの中に浮かんでいた、彼女。

 その事実を知り、その存在を知り、その非道を知り、その恐怖を知り、その絶望を知り、その悲哀を知り、その怒りを知り、その叫びを知り。――そして、その運命を、知った。

 00ユニット。ひとではない、擬似生命体。BETAの思考を読み、奴らを打ち倒す術を諜報するための……素体。ヒトとしての姿を、生を奪われ……いずれ、“ひとでなし”の存在となることが決定された、その、運命を。

 赦せないと。どうして、と。……けれど、それが夕呼の覚悟と宿業で在ると知ったから。だから――苦しくて哀しくて気が触れて吐き気がして、憎くて憎くて憎くて憎くて――殺したくて。

 …………なぜ、あのとき、夕呼は。

 あんな言葉を、吐いたのか……………………。

 きっと、その言葉さえなければ、自分は……いや、違う。夕呼が悪いわけじゃない。それでも尚、自身を抑え切れなかった自分が……弱かった、だけだ。……………………。

 夕呼を斬ったその感触は、生々しくこの手に残っている。浴びた血飛沫の生温さを、この身はまだ憶えている。

 それはきっと、その行動はきっと……シロガネタケルとしては正しくて、白銀武としては間違っていた。

 自身の不遇を受け止めることが出来て、茜への想いに気づくことが出来て……全ては再び、ここから、と。――どうして、そんなタイミングで、こんな、こんなにも、残酷な。

 運命というものは唾棄すべき呪いのようなものだと……知った。いや、そう思いたかった。そうでなければ、あまりにも、酷い。

 振り切れた感情の、ほんの僅かに残った理性は。確かにその音を聞いていた。

 崩壊の音。崩落する音。道を踏み外し外道へと堕ちた自身が、再び正道へと歩き始めたその道が…………粉々に壊れて、ただ、奈落という名の暗闇に変貌する。

 底無しの闇の、奈落の底。

 そこに堕ちた。

 二度と這い上がることなど出来ないその場所に転がり堕ちて。――ああ、でも。それでも。

 捨てきれない想いがあったのだ。捨てたくない、想いが、こんなにもたくさん、存在したのだ。

 ――父の、母の、愛情が。

 ――剣術を教えてくれた師匠の遺志が。

 ――刀を託してくれた真那の信愛が。

 ――手を差し伸べてくれた水月の情愛が。

 ――いつも傍で支え続けてくれた茜の想いが。

 ――あんな姿になってまで、自身を求め続けてくれた純夏の愛が。

 己の無道を、赦しはしない。

 このまま、奈落に捕らわれることを、認めなどしない。

 これほどの想いを裏切ったままなんて無様、晒せるわけがない。――生きろ。そして、足掻け。

 見失った自分自身。信じることなど出来ない己の心。

 けれど。思い出したから。たくさんの、温かい気持ちを。

 だからもう一度。そして今度こそ。強くなる。強くなって、ひとつひとつ、取り戻す。どれだけの永い時が過ぎようと、どれだけの醜い姿を晒そうと。――俺は這い上がる。

 喪いたくないから。捨てたりなんて、出来ないから。だから、手放してしまったそれらを、踏み外してしまった道を。

 再び、この胸に、抱く。



 運命を、呪いなどしない。



 生きている。純夏も、自分も。

 生きてまた、巡り逢うことが出来た――ならば、それはきっと、泣きたいくらいに嬉しいことだろうから。

 どんな姿になっていても。どんな残酷で惨たらしい陵辱を受けたのだとしても。それでも、白銀武は。

 鑑純夏を愛しているから。



「…………でも、俺は、」



 武は、自身の両手の平を見下ろす。

 廃墟と化した柊町を一望できる丘の上で、雨の湿り気を孕んだ風が、頬をなぶる。訓練用の軍装、ジャケットの前をだらしなく開いたまま、風の吹くままに遊ばせて。

 手の平を、見つめる。

 いつも、そこには彼女がいて……そして、自分は、くしゃくしゃと、この手で、彼女の頭を撫でて……。そうするのが、心地よいと思えた。そうしていると、心が落ち着くと思えた。顔を真っ赤にして、慌てたような声を発して……でも、本当に、嬉しそうに笑ってくれるから。

 だから。

 いつも傍にいてくれた。いつもそこにいてくれた。気狂いに支配されそうになったときに、彼女の声が、笑顔が、ギリギリのところで支えてくれた。――気づかせてくれた。



 白銀武は、涼宮茜を――――――――――――――愛している。



 それは、もう、間違いない。

 偽りでも、気のせいでもありえない。自分の気持ちを誤魔化せるほど、武は器用でもなければ達観もしていなかった。

 そもそも、己の感情を、情動をコントロールできるのであれば、復讐に狂うような愚かさも、夕呼の右腕を斬り落とすような無道もなかったに違いない。猛る感情こそが己の本性であり、それを抑える術がないのが自身だと知った。……ならば、この、茜への感情も。

 嘘偽りなく、心の底からの。

 故に、武は葛藤する。

 護りたい。護りたい。絶対に、護りたいと。そう想う。愛するが故に、愛していると気づいた故に。――好きだ、茜。

 でも。

 それでも。

 鑑純夏が居る。彼女が存在している。彼女への執着を捨てきれず、ここまできた自分。彼女の運命を知ってしまった自分。己の原点にして、性根の部分。――純夏を、護りたい。その、幼少の頃からの念が……。縛る。心を。茜への感情を。

 もし――もし、純夏の生存を、運命を……知らぬままだったなら?

 ひょっとすると武は、そう遠くないいつかに、茜と結ばれるようなことに……なったのかもしれない。

 純夏への想いを胸に抱きつつ、それでも、茜を心底から愛し、護り、幸せにすることも出来たかもしれない。

 でも、知ってしまった。その事実を、その存在を、その非道を、その恐怖を、その絶望を、その悲哀を、その怒りを、その叫びを。――そして、その運命を。

 ――どうすれば、いい。

 純夏が悪いわけじゃない。彼女が悪いなんてことがあるはずない。悪いのは、元凶は――BETAだ。一点の曇りなく、紛れもなく、奴らが。そして…………それが夕呼にとって、AL4という人類の希望を賭けた計画にとって、最も適しているというだけ。純夏は、それら運命に翻弄されただけの被害者だ。

 それを知ってしまって……感情に、火がついた。胸に抱いた感情が、そう在れればいいとさえ願った感情が――また、目を醒ました。

 鑑純夏を愛している。

 涼宮茜を愛している。

 ――ならば俺は、どうすればいい……。

 大切なものを、大切な人を、大切な想いを……護りたい。「護る」という意志の中には、全てが含まれているように思う。純夏も、茜も、水月も、真那も、師の遺志も、両親の愛も、仲間達も……なにもかも。

 でも。その中でも、愛するが故に護りたいと、喪いたくないと……想うのは、純夏、茜……彼女達。

 どうすれば、いいんだ――?

 自分がこんなにも不実であるとは想像もしなかった。純夏を愛し、彼女を護りたいからこそ衛士を目指したというのに……彼女を喪い、支えてくれた茜を愛するようになって……なのに、純夏の生存を知り、またも気持ちが揺らいでいる。――こんな、ことって……。

 紛れもない本心だった。純夏への気持ちも、茜への想いも。どちらもが、武の本当の感情であり……愛情。だが、武という青年の倫理観において、それは赦されざる不義理だった。己の心に二心が存在するなどという事実。

 きっと、このままではどちらも傷つける。茜の想いを確かめたことはないが……でも、多分、間違いない。ならば、武自身紛れもない本心に気づいたのなら、彼女の想いに応えることもできるだろう。だが、それは……茜を選ぶということは、純夏を切り捨てるということだ。

 執着。

 まさに……そのとおりだ。

 今の武に在るのは、ただ、純夏への執着という名を借りた愛情。己の人生のほぼ全てを共に過ごし、だからこそ愛し、護りたいと願った少女。その存在は自身の半身とさえ言っていいほどに、大きく、愛しい。

 かつて、茜への感情に気づいた際にも……決めていたのではなかったか。その気持ちを胸にしまうと。胸に抱いて、生きると。

 ならば何故、今更に葛藤するのか。純夏への想いと、茜への想いに板挟みになり……これほど無様な、醜態を晒すのか。決まっている。

 ――純夏が、生きていたからだ。

「莫迦か…………ッ、俺は………………ッッ!!!!!」

 最悪だ。どうしようもなく。

 うんざりするくらいの、情けなさ……そして、精神の弱さであろう。愛し抜くと決めた純夏の存在を、茜の温かさに薄れさせ、彼女への愛に生きると決めた矢先に、……純夏の生存を知り、揺らいでいる。目の前の事象に揺らぐだけの、惰弱なる精神。――それこそを、変えたいと……だからこそ強くなると誓ったんじゃないのかよッッ!!

 なのに、どれほど自身を罵倒しようとも。決められない、選べない。どちらも。

 喪ったと思っていた純夏が、今、手の届くその場所に居て……。

 愛していると思える茜が、今、手の届くその場所に居て……。

 そのどちらも、絶対に喪いたくない。失くしたくない……。それは、如何なる傲慢か。

 守護者として生きていく。手放してしまったもの、裏切ってしまったもの、そのひとつひとつを、取り戻す。そのために強くなり、そのために強く在り……だからこそ、護りたい。

 そう、願うならば。

 それを、誓うならば。

 ――男として、選べ。

 衛士としての、月詠の剣術を継ぐ者としての決意を固めたならば。二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うならば。どれだけ醜悪で滑稽で無様な姿を晒そうとも。

 その生き方に殉じると決めたならば。

 ――愛する者を。

 純夏への愛が、彼女への執着であるというならば。

 茜への愛が、一時の気の迷いでないというならば。

「う…………ぅぅぅうぅうううっっ、純夏ッ、純夏ァア!! 俺はっ、おれは――ッッッ!!」

 生きていてくれて嬉しい。

 どんな姿になっていても、どれ程の宿業に捕らわれていたのだとしても。

 生きていてくれて。また、逢えて。

 嬉しい。愛しい。お前を護りたい。

 ――それを、「執着」というならば。

 喪った哀しみが、滾る怨讐が、BETAへの憎悪が……生きていた喜びが、運命への悲哀が、夕呼への怒りが、全て、その言葉に括られるものならば。

 涼宮茜。

 いつも傍にいてくれて、いつでも支えてくれていて。感情の裏表がなくて、すぐに何でも顔に出て。眩しいくらいに笑って、はにかんで、たくさん泣いてくれて、たくさんの時間を、一緒に居てくれて。護りたくて、挫けそうになる心を、――お前との思い出が、支えてくれて。

 どこか、純夏と重ねてしまっていた。傍にいてくれた彼女を、喪った幼馴染に重ねていた。――でも、例えそれがきっかけなのだとしても、それでも。

 ――この感情が、偽りでないと吠えるなら。

「俺は……ッ、純夏……お前を………………ッ、」

 茜には、笑っていて欲しい。

 傍にいてくれる彼女には、いつだって笑っていて欲しい。

 その笑顔を、護りたい。その想いを、護りたい。……だって、白銀武は、涼宮茜を、、、で、も、――。

 心臓が張り裂けそうになる。心が引き裂けそうになる。それは、数時間前に味わった夕呼への憤怒やBETAへの憎悪とも異なり、或いは純夏に用意された非業なる宿命に気狂いしたそれとも異なって……。ただ、痛む。

 人斬りの外道に堕ちたことを痛むそれとは、全く別の……けれど、間違いなく武の精神を形作るもう一つの根幹とも言うべき心が。

 純夏だけを想い、純夏だけを愛し、純夏だけを見て、純夏だけを求めていた――その、もう一つの自身が、裂ける。罅割れて、血を噴き出して、絶叫しながらに、痛い、と。

 叫ぶ。

 裂ける。

 心が、血を流して、――選択する。

 一つだけ、気がついた。

 血だらけになった心を見下ろして、その選択を下した己を睥睨して。どくどくと痛いほどに脈動する、血塗れの心臓の、その横に在る傷に、啼いて。

 気がついたことが、ある。

 例えどちらを選んだのだとしても。自分には――俺には、それを受け取る資格は、矢張り、ないのだということを。

 二心を抱いた自分には。彼女達を天秤にかけた自分には。例え……そのどちらこそを「愛する」のだと決めたとしても。彼女の幸せを願うことはあれ、それを享受することなど出来やしないのだと。これは、自分勝手なエゴだ。彼女達を愛しいと想い、護りたいと願う……己の傲慢だ。茜が武のことをどれ程に想ってくれようとも、純夏が武のことをどれ程に想ってくれようとも、それを受け止める資格は――きっと、ない。

 どちらを選んでも、武の心は死ぬ。男としての、青年としての、女性を愛する者としての自身は……血に濡れて、反吐を吐いて、死に絶える。心の半分を喪って、片割れたそれだけで、選んだ彼女を幸せに出来るはずがない。それはきっと、あんまりにも……不義理だろうから。

 愛しているという囁きも、己の心の半分だけ。選んだ彼女へ与えられるのは……半分だけ。残りのそれは血に濡れて、心の奥底にいつまでも沈んでいて。

 だから、武には……茜の、純夏の、想いを受ける資格はない。

 ただ、幸せであれ、と。エゴだろうが傲慢だろうが……或いは、単純に自己を満たすだけのちっぽけな満足感だろうとも。――護る。護り抜く。

 選択したこの心こそを根幹として。

 秤にかけて選択した彼女への愛情こそを胸に抱いて。

「俺は……最低だ」

 十数年を共に生き、いつまでも護ってやりたいと願ったはずの純夏。

 この数年を共に過ごし、いつしか愛しいと感じるようになった茜。

 真っ二つに割れたそれぞれへの愛情を…………その片方を、今、自分は。……紛れもなく、







 ===







「それで茜、これからどうするの?」

 午後の講義の合間、二十分の休憩の早々に、晴子が隣の席から身を乗り出すように寄って来る。それを片手で押さえつつ、茜は一体何のことかと思案しながらも、適当と思われる答えを返した。

「そりゃ、当然……速瀬中尉たちに迷惑をかけないように一刻も早く……」

「あー、あー、あー、そっちじゃなくて」

 顔面を押さえつけられたままの晴子が、ニヤニヤと口を綻ばせながら、「違う違う」と手を振る。きょとん、としてしまう茜の背後から薫がにょきっと顔を出して。

「晴子が言ってんのはさ、白銀のことだろ?」

「そうそれっ! ね~、茜、白銀君とは何か進展あったの~?」

 絶句する。ニタリ、と口端を吊り上げて、晴子と薫が同じ表情で笑う。その内容になにかを嗅ぎ取ったらしい多恵が猫のようなしなやかさでやってきて、亮子までもがその輪に加わるべく椅子を近づける。四人の同期にぐるりと囲まれて、茜は狼狽した。いつの間にか出来上がっている包囲網、これも長年の付き合いが成せる業かと嘆きつつも、けれど晴子の発した不穏当な質問に答えるわけにもいかず……ッ。

「なっ、なっ、なにをイキナリ言い出すのよっ?!」

「いやー、いい加減じれったいというか」

「そうだぜ。白銀だってあれだけハッキリ言っちゃったんだからさ」

 瞬時に顔を真っ赤にさせた茜に、しかし晴子と薫は頓着しない。共に茜の想いを知り、それが報われればいいと願っている親友として。或いは、単純にお前らいい加減くっつけよ、と少々どころが大いにじれったく思う悪友として。……自分たちが任官を果たしたその日、武が茜に言った言葉を思い出せば、なにがしか進展があったはずだと睨んでの問いだった。

 が。

 茜はそれに応える術を持たない。確かに武がああいってくれたことは嬉しく、幸せになるくらい感情がときめいたりもした。

 けれど、今の自分は一人前の衛士を目指す身であり、まして武は数ヶ月とはいえ、先任であるのだ。恋愛に階級など関係ないのかもしれなかったが、……茜は、現状に不満を抱いているわけではない。武が茜を必要としてくれたことを知り、自身の存在が彼の支えとなっていたことを知れば……それだけで満たされるのである。

 無論、晴子や薫……まだ口を挟んでいないが、多恵や亮子とてその茜の気持ちは承知しているだろう。

 報われることのない恋。愛情。――それを、哀しいとは思わない。

 茜は自身の感情に誇りを持っている。それが武の支えとなれたことを、心底から嬉しいと笑うことが出来る。……だから、そう、だから。

 晴子や薫の表情を見ればわかるとおりに、この問いは単純に娯楽に餓え始めた彼女達が、茜を弄ることでその餓えを満たそうとしているだけに過ぎない。……の、だろう。

「んののっ、そんな茜ちゃんっっ! 白銀くんといつのまにそんなことにっっ!!??」

「あんたはナニを想像してるのよッッ?!」

 顔を真っ赤にしてくねくねと抱きついてくる多恵に、チョップを喰らわせる。にゃあっ、とよくわからない悲鳴をあげた多恵はよろよろと尻餅をついた。

「え? なに? 茜ってばまさか――」

「そっか……お前いつの間にか、オトナになってたんだな……」

「茜さん不潔ですッッ!」

 最早何を突っ込めばいいのやら。茜はげんなりと肩を落として溜息をついた。その様子に晴子や薫がからかうような笑顔を見せるが、けれど茜の表情は変わらない。両手で顔を覆ったまま耳まで真っ赤にしている亮子をとりあえず無視して、

「あのねぇ……あんたたちが何を想像してるのか知らないけど、……あたしと武はその、別に、」

「ん~~~~、茜。それはさ、まあわかるんだけど」

 少々の怒りを込めた茜の声を、どこか真剣さを帯びた晴子の声が遮る。ぇ、と驚いたように茜が彼女を向けば、入隊以来の親友は――これまでに一度も見せたことのないような真面目な表情で。

「茜、さ。…………茜の気持ちは知ってるし、理解しているつもり。でもさ。もう、いいんじゃないかな? 白銀君だって茜の気持ちに気づいているみたいだし、なにより……茜のこと、本当に真剣に考えてくれてると思う。私はね、茜。……茜には、幸せになってもらいたいんだ……。いきなり何を、って思うかもしれないけど、さ」

 晴子はそこで一度言葉を切り、戸惑うような茜を見て、笑った。――その笑顔は、いつかどこかで見た、微笑みで。

「私たち、衛士になったんだよ。念願かなって、この国を、世界を護るための力を手に入れた。……でも、まだまだ実戦の経験も無くて、今だってBETAの知識や部隊の一員として必要な知識を習ってるだけの半人前で…………でも、さ。もう、私たちは訓練兵じゃない。無力だったあの頃とは違う。戦争に、出るんだ。…………私、さ。怖かったよ。あの映像を見て、白銀君がBETAと戦うのを見て……光線級に、撃ち墜とされるのを、見て。怖かった。――死んじゃうんだって、思った」

「晴子……」

 静寂が、室内を包んだ。微笑みながら、なにか底知れぬ決意を語るような晴子に、茜も、薫も、多恵も、亮子も……皆、言葉を失った。

 怖かった、という。気が違ったかのような殺戮を繰り広げる武を見て。その武が、レーザーに撃墜されるのを見て。

 死んでしまう。

 その恐怖を。

「でも、それが衛士としての使命で……戦争というなら、私は絶対に、最後まで誇りをもってやり遂げることが出来る。……茜もそうだよね。……うん、だから、さ。だから……いつ死んでしまうかわからない、そんな戦場だから。やっぱり、茜には幸せになって欲しいよ。好きな人がいて、好きな人の傍にいて……茜はそれで満足だ、って。そう言うかもしれないけど。でも…………やっぱりさ、女の子なんだもん。好きな人とは、結ばれたいって、思わない?」

「――!?」

 不意を、突かれた。悪戯気に細められた瞳が、茜を貫いていた。

 一瞬前までのシリアスな雰囲気はどこに消えたというのか。再びニヤリとかたどられた唇が艶やかに、晴子、という名に相応しい、実に晴々とした笑顔で。

「というわけでさっ、今夜あたり白銀君とセッk――――」 「ふんっっ!!」

 右手の親指を人差し指と中指の間に潜り込ませた晴子に、間髪居れず抉るようなアッパー・カット。椅子ごと仰け反るようにしてぶっ倒れた晴子は、ぐるぐると眼を回していた。

「ばっ、ばかじゃないのっ!!!??」

「……茜、少しは手加減してやれよ……」

 とても椅子に座った状態から繰り出されたとは思えない、身震いするほどのアッパーを目の当たりにして、このメンバーの中では随一の近接格闘能力を持つ薫は戦慄した。……が、まぁ、晴子の自業自得ともいえるので彼女に対するフォローはしない。むしろ、晴子が最後まで言うことの出来なかったそれこそを継いで伝えることが、自分の使命であろう。たとえ、その後に自分もまた晴子同様に打ちのめされるのだと知っていても……! ――ああ、我ながらこの性分が恨めしい。内心で苦笑しながら、けれどそれが性分というものであろうと知っている薫は、

「ま、アレだ。ちゃんと避妊しろよ?」

 机と椅子が並ぶこの室内で、だからどうすればそんな鮮やかな回し蹴りが放てるというのか。こめかみを抉るように決まった爪先に意識を刈り取られながら、薫は床と接吻するのだった。

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……」

 二つのできたての屍を見下ろしながら、まるで闘神のような在り様で、茜は荒く息をつく。見るからに興奮状態にあり、けれど羞恥に頬を染めたその目は血走っていて……まるで視界に映った全ての者を血に染めなければ収まらないかのような姿は、伝説に謳われる狂戦士を彷彿とさせた。その錯乱に近い状態にある茜が、ギヌロ、と多恵と亮子を振り向く。

「んののののっっ!!? あ、あ、茜ちゃんっ! お、おち、おちつ、おちちゅいてっっ!!??」

「はゎゎゎわわわ、茜さん、ど、どどど、どうか、冷静にっ」

「多~~恵~~」

「ひいいいいいっ!? いやぁーだめぇーっ、こんなところでーー! あ~~れ~~っ」

「気持ち悪い声出してんじゃないっ!!」

 すぱーん。と小気味よい音を立てて、再び多恵にチョップを喰らわせる。びくびくと震えていた亮子が涙目でこちらを見つめていた。……本気で怯えていたらしい。なるほど、彼女達の間で自分がどのように思われていたかがよくわかる。やれやれと苦笑しながら、茜は椅子に座った。

「あの……茜さん」

「な~に? あ、別に怒ってるわけじゃないからね?」

 上目遣いに呼びかける亮子に、困ったように笑いながら。けれど亮子は、小さく首を振って。……ついさっきの、晴子と同じような眼をして。表情で。

「わたしも、茜さんには幸せになって欲しいです……。軍人であろうとすることは、大事なことだと思います。衛士として在るためには、それも仕方ないのかもしれません……。でも、でも……やっぱり、それでも」

 誰よりも、人の心の機微に聡い亮子のことだ。きっと、彼女もまた、茜の本心を理解しているに違いない。小柄な身体の全部を使って、自身の気持ちを伝えようとする亮子の姿は、同性から見てもとても愛らしいと思えるものだった。

「白銀くんには、きっと、茜さんが必要なんだと……思います。例えそれが精神的なものでも、肉体的な繋がりを求めないものでも……でも、きっと、白銀くんは、茜さんを求めていると思います。茜さんが、白銀くんを求めるように……」

「べっ、別に、あたしは――――!!」

 本当に、そうだろうか。

 続く言葉を、茜は持たなかった。

 晴子は言った。戦争が怖いと。いつ死ぬかわからないそれが怖いと。だからせめて、いつその時が来てもいいように。後悔しないように。――愛する人と、結ばれたい。

 それはきっと……生きて、恋をして、誰かを愛したことの在る人ならば……きっと、誰もが想うこと。

 亮子は言った。武は茜を求めていると。精神的な面で、肉的な繋がりを不要としていたとしても。それでも、茜を求めるだろう、と。そして、茜もまた……。

 どうなのだろう。茜は自問する。自分の感情に問いかける。果たして自分は、そんな風に、武を求めているのだろうか……?

 傍にいたいと願った。支えてあげたいと願った。そのために自身を磨き、そうできるように鍛えた。いつしかそれは、淡い恋心となって……むしろ、彼が居なくてはぼろぼろになってしまうくらいの愛執に育ち……今はただ、傍に在れるだけで満たされる、愛情へと変化した。

 武が自分を選ばないだろうことは、わかっている。彼の心の中にはいつだって幼馴染の少女が居て。……だからこそ、武はあれほどに猛り、狂い、道を踏み外したのだろう。けれど、その武を……過ちを犯したのだと独白した彼を、自分という存在が支えてあげられたのならば。そうすることが出来ていたならば……。



 ――ありがとう…………茜。お前が居てくれたから、俺は、また前を向いて進むことが出来る。


 そう言って、微笑んでくれるなら。

 ああ、きっと、それだけで満たされる。……それ以上を望み、求めるなど…………、

「鑑さんに、遠慮してるんですか?」

「!?」

 なにを、と。茜は亮子を見る。今にも泣きそうな表情をして、亮子は……気づけば、晴子も、薫も、多恵さえも。みんな、同じような顔をして。

「……まぁ、わからんでは……ないけどさ」

 薫が頷く。亮子の頭をぽんぽんと撫でながら、苦笑するように。

「ん~~、でも、白銀くんだってああ言ってたんだし!」

 こめかみに指を当てて真剣に考えるような多恵に、晴子が笑って。

「ま、今無理に結論を出すことでもないかも知れないけどさ……茜、でも、これだけは覚えといて」

 四人が、大切でかけがえのない仲間達が。

 同じような表情をして、咲かんばかりの笑顔を浮かべて。

「皆、茜の味方だからさっ! 頑張れっ、茜!!」

「っ、ぁ、」

 じんわりと、胸に響く。なんだかどうしようもないくらいの切なさが、胸を締め付ける。

 わかったことがある。気づいたことがある。……きっと、彼女たちも、同じなのだ。それはいつからだったのだろう。――きっと、あたしと同じ。

 同じ気持ちを抱き、同じように想うからこそ……彼女たちは、茜に託そうとしているのではないか。……そう、思える。

 茜は、零れ落ちた涙を拭って、困ったような、恥ずかしいような、そんな曖昧な笑みを浮かべた。晴子たちも同じように笑って……暫くの間、柔らかで温かい空気に浸っていた。やがて茜が眼を閉じて、口を開く。誰一人としてそれを遮るものはなく。皆が皆、最高の仲間たちで在ると自負する彼女たちは。

「ぁ、りがと。みんな……。…………あたし、絶対に幸せになるから。それは、皆が願ってくれるような形とは違うかもしれないけど、でも、一生懸命、頑張るから」

 ――武と一緒に。

 最後に飲み込んだその言葉は…………けれど、確かに皆に届いていて。

「んじゃっ、やっぱり今夜早速!」

「しょうがない、あたしの勝負下着貸してやるよ」

「のののぉお!? し、白銀くんの逞しいものがっっっ、あ、茜ちゃんをおおお!!!??」

「だっ、だめですっ、そっちは違うんですーーっっ!!」

 肩透かしを食らったように、茜は椅子から滑り落ちる。……なんだというのだ、この移り身の速さは……っ。

「…………あんたたち、いい加減にしなさいよ……!?」

 がっくりと肩を落とす。もはや、乾いた笑いしか出なかった。

 ……ただ、もうどうでもいいと思いながらも、一つだけ。……………………誰か、多恵と亮子の暴走を止めてください。







[1154] 守護者編:[一章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/13 21:38

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:一章-02」





 白銀武に対する如何なる尋問も懲罰も許可しない、と言われてしまえば、A-01部隊の隊長として、彼の上官として、伊隅みちるが採ることのできる行動は限られている。


 眼前に立つ青年はどこか虚ろな表情をしたまま、けれど、幾許かの覚悟を滲ませた瞳で、こちらを見ている。いつも提げている刀はなく、無手のままに直立する姿は……端的に言うならば“抜け殻”、だろう。魂のどこか重要な部分が欠落している……とでも言い表せばよいのか。ともかく、そういう一種の危うさを感じさせていた。

 が、その瞳。ひたとみちるに向けられる漆黒の瞳だけが――殊更に、彼の意志を訴えかけてくる。

 みちるは一つ息を吐く。目を瞑り、不動のまま口を閉ざす武に、言った。

「白銀、貴様には一ヶ月の療養を命じる。……専門の精神科医にカウンセリングを依頼してある」

「……」

 武は、無言のままだ。その反応の無さに、彼がある程度そうなることを予測していたのだろうことが窺えたが、しかし、いまいちみちるには面白くない。夕呼には悪いが、みちるは矢張り、全てを納得しているわけではなかった。

 武が夕呼の右腕を斬った理由さえ知らされず、それを本人に問うことさえ許されず……そして、その彼を罰することさえ出来ない。

 最悪で銃殺刑……或いはA-01部隊からの除隊等も考えられる重罪だが、夕呼はそんな罰則さえ不要と言い切った。自業自得のようなもの。そう言って笑った彼女の表情には、本当にそれ以上の感情はなく。……だからこそ、みちるもその言葉に従うほかないのだったが……軍人として生きてきたこれまでの在り方が、武の犯した罪を決して許すことなど出来ないと猛っているのも事実。

 反面。これほどまでに“どうしようもない”状態に陥った武を、再び戦場に立てるようにして見せるのも、矢張り隊長たる自分の責務であろうと理解している。夕呼が彼への断罪を許可しなかったのならば、みちるは隊長として、彼を更正させる義務と責任がある。

 武が何に追い詰められ、夕呼を斬ったのか……。

 理由を知ることさえ出来ないのならば、想像するしかないが……そうして思いつくことは、かつての武が見せたBETAへの復讐心だった。何がどう転じれば、BETAに向ける怨讐が夕呼へと矛先を変えるのか知れなかったが、けれど、そういう――喪われたという恋人への執着が彼を縛っているというのなら、何がしか、精神的に逼迫する事象があったのだろう。

 追い詰められた獣。

 今、目の前に居る武は、多分そういう状態に近いのではないか……。

 刀を持つ武人が人を斬るという心情を、みちるには理解することが出来ない。近接格闘の訓練で刀を振ることもあるが、けれど彼女は武家の出身でもなければ、武人でもない。だが、同じ日本人として、或いは軍人として……「人を殺す」という行為について、ある程度の覚悟と理解を持っている。今回の件が、例えばそれが拳銃であったか刀であったか、という程度の差異しかないというならば、みちるにも、武の行動の理由がわかるのかもしれなかった。

 ……が、何処まで考えたとしても、結論からしてみちるが夕呼を傷つける要因は思いつけなかったし、そもそも在り得なかった。……だから、みちるには武の心情が計り知れない。読み取れない。ただ、何処かそういった精神の面で脆弱に過ぎるきらいがある武だから……夕呼からの特殊任務というプレッシャーに追い詰められ、圧迫され、爆発してしまったとも考えられる。

 同情の余地はない。例えそれがどれ程に困難と苦難を伴うものであったとしても……与えられた任務を、その信頼を投げ打ってまで上官を斬りつけた武は狂人としか思えない。そしてその狂人の手綱を本来握るべきはみちるであり…………だからこそ、カウンセリングという手段を採用するに至ったわけだが。

「……なにか、言いたいことはあるか?」

「…………大尉は、知っているんですよね」

 何処まで、とは聞かれなかったので――ああ、と頷いておく。戸惑いがちに発せられる声から推測するならば、カウンセリングの類については予想していたが、処罰について何も触れられないことに疑問を感じている、という具合だろうか。

「貴様が仕出かしたことのあらましは知っているつもりだ。……今貴様があの刀を所持していないのも、それが理由だろう?」

「――ッ、」

 ぎり、と。奥歯を噛み締める音が響く。強く強く、砕くほどに。握られた両の拳が、ぶるぶると震えている。それは、自身への恐怖か、怒りか。真剣な表情で、みちるは武を見据えた。武もまた、一切の躊躇もなく、彼女を見つめる。しばしの沈黙の後に、再び武が口を開いた。

「自分は、罰を受けないのでしょうか……」

「その件に関しては、一切の咎めはないそうだ。……香月博士の寛大なお心に感謝することだな。でなければ、貴様はとっくに銃殺刑だ」

 半信半疑、という表情で呟いた武に、少々の苛立ちを込めて答えてやる。苦虫を噛み潰したような表情を見せた武だが、小さく――それも当然、か――と漏らしていたのを聞き逃さない。

 そう。――それも当然だ。

 どうやらその程度を理解できるくらいにはマトモな精神が残っているらしい。現在刀を所持していないこともそうだが、どうやら辛うじて人としての理性や軍人としての常識は存在しているようだった。ならば、いくらでも改善の余地は在る。いつまでも武への怒りを滾らせていては時間の無駄だ。彼への如何なる処罰も許されず、そして今後もA-01の一員として在るというなら、みちるは速やかに、あらゆる手段を用いて、この脆弱な精神構造を持つ少尉を、真っ直ぐ全うな道に立ち返らせなければならないのだから。

「他に質問がなければ、早速にでも医師に引き合わせるが?」

「…………はい、お願いします」

 戦場の空気に中てられ、或いはBETAとの戦闘に、仲間の死に、恐怖を植えつけられ……そういった様々な理由から、精神に傷を負う者は珍しくない。代表的な精神障害にPTSDがあるが、それ以外にも症状は様々、それこそ精神に疾患を認められたものの数だけ存在する。特に新兵に於いて多く見られる事象だが、歴戦を潜り抜けた古参でさえ、時には重度なそれに罹るというから、存外に度し難い疾患でもある。

 ならば武の身に起こった何がしかの暴走……も、きっとそこに原因が在るに違いない。所詮想像だが、みちるはそれこそが最も高い可能性だろうと判断し、そして、武もまたそうなるだろうことを予想していた。つまり、本人が、自分は精神に問題が在ると頷いたわけだ。

 そこまで考えをめぐらせて……では、武を追い詰める精神的な問題とはなんだろうか、と想像する。真っ先に思いつくのは、BETAの襲撃により喪うこととなった恋人の存在。彼を復讐に駆り立て、四人の犠牲者を出した……あの泥沼に似た戦闘。けれど、武はそのことを乗り越えたのではなかったのか。或いは、それとは別の、なにか、彼の根幹に関わるような出来事でも起こったか…………所詮、想像は想像に過ぎず、確証も何もない。溜息混じりに、みちるは考えるのを止めた。

 すれ違う者のない廊下を、みちると武の二人だけが歩く。そうやって靴音だけを響かせながら医療棟へ向かう道中……みちるはこれまでの「白銀武」というものを反芻していた。

 単独で総戦技評価演習を受け、見事合格に相応しい成果を見せ、戦術機操縦訓練課程では目覚しい成長を見せた。己の才能と手に入れた力に浮かれ、少年期にありがちな傲慢さも見せたが……それを乗り越えて任官もして見せた。BETAへの憎しみが引き起こした暴走、単機で要撃級の群れに突っ込み、敵の術中に陥って撃墜され……。水月の叱咤に衛士としての生き様を学び、立ち直り……今日まで来た。

 そうだ。

 そういえばその時……武とこんな話をしたはずだ。

「白銀、憶えているか?」

「ぇ……」

「貴様は言ったな。もう絶対に死なせない……速瀬を護れる男になる、と」

「……ッッ??!!」

 背後で大いに慌てる気配がした。どうやら狼狽しているらしいが、“夕呼の右腕を斬り落とす”という気狂いを見せておきながら、なんとも歳相応な反応である。思わず、みちるは笑ってしまった。――ああ、そんな風に慌てることができるなら、きっと、大丈夫だ。内心で思って、故にみちるは……何処までも真剣に、本気で。

「いいか、白銀……。もう貴様には後がない。既に貴様は一度、BETAへの復讐などという衛士にあるまじき衝動で四人を死なせている。…………そして、今回の件もまた、一歩間違えば…………。わかるか、白銀。貴様は今、瀬戸際にいる。いや、香月博士の温情がなければ、とっくの昔に死んでいておかしくない。――これが、最後のチャンスだ。まだ貴様に衛士としての戦う意思と、誇りが在ると言うなら……その手で、大切なものを護りたいと願うなら…………足掻け。どれだけみっともなくても構わない。例えどれ程の傷をその心に負っているのだとしても。どんな手段を使ってもいい。足掻いて足掻いて、這い上がって見せろ」

 それが、貴様の贖罪だ――。

 言葉にはしなかった最後の一言が、武の脳裏に流れ込んでくる。みちるの声に注意を傾ける際、どうやら無意識に能力を発動させていたらしい……が。

 武は俯いて、必死に涙を堪えていた。零れそうになる嗚咽を懸命に堪えて、ただ、ぎりぎりと歯を、拳を鳴らす。

「……は、い……っっ」

 頷くことしかできず。前を行くみちるの背中さえ見ることも出来ず。

 それでも。見捨てずに居てくれる彼女に……進むべき道を示そうとしてくれるみちるに。感謝を。謝罪を。敬愛を。

 そして同時に、武とて“これが最後”であることは理解している。夕呼の温情、という点には些かの異議を唱えたいが、例えそれがどのような理由からにせよ、あの科学者のことだ。次に武が己の精神の惰弱さに潰れるようなことがあれば、即刻のうちに処刑するだろう。そもそも、それ以前の問題として……次に、今回のような感情の暴走があったならば……多分、もうオシマイだという確信が在る。底のない底辺。奈落の底。そういう場所に転がっている自分が、最早まっとうな精神をしてないことは明白。ズタボロに亀裂が走り、襤褸屑同然に横たわった精神に、これ以上の負荷が掛かろうものなら、それは一瞬にして砕け散るに違いなかった。

 純夏が脳ミソとして生きている。……これ以上の精神的負荷など想像も出来ないが……なにか、それに匹敵するような事象が起きたならば、それに耐えられなかったならば……それが、武の終わりだ。精神が砕け散ったならば自殺することもかなうまい。気が触れた狂人として彷徨い……夕呼の手によって処断される。そんなところだろう。

 断じて、そうなるわけにはいかない。

 足掻け、とみちるは言ってくれた。それが贖罪だと――捨ててしまった、手放してしまった、裏切ってしまった、全ての者への、贖罪であると。

 そうだ。それが、自身でも選び取ったこれから進むべき、道だ。

 外道から這い上がり、正道へと戻るために。無道から這い上がり、人道へと戻るために。もう一度全てをやり直す、最後のチャンス……。

「それからな、……これは正直、余計なお世話なのかも知れんが……」

「……?」

「なにかに追い詰められた時……というのは、往々にして間違った判断をしてしまうことが多い。或いは、鬱積したその感情を暴走させたり、な。……白銀、これからは周りの者にも頼ってみろ。速瀬でもいい。涼宮でもいい。……無論、私だっていいんだ。……誰でもいい、信頼できる人に、相談してみろ。自分独りで抱え込む必要はない。むしろ、誰にも相談せずに自分を追い詰めることこそが愚かな行為だぞ」

 どこかしら、その口調は。

 自身の無力を嘆くような、独りで感情を暴走させた武を戒めるような、けれど何処か優しい……暖かな響きを持っていて。

 武は、何も言えなかった。頷くことさえできずに……ただ、愚かしいほどに間違えた自分を、悔しく思う。投薬により脳を改造され、次第に追い詰められていった自分。幼馴染の彼女に降り掛かった理不尽で非業なる運命。誰にも相談できるはずのないそれらを……そうとはわかっていながら、けれど、誰にも相談出来ず……。

 みちるが、嘆くことなどない。これは単純に……そのことに耐え切れなかった自分のせいだから。

 ――大尉、ありがとうございます。

 それでも、彼女の気遣いは優しく、嬉しく感じられる。こんなにも愚かな自分を、こんなにも弱い自分を、それでも、みちるは見捨てないでいてくれる。心底から部下を想い、愛する、尊敬すべき隊長の姿を……滲む網膜の向こうに、焼き付けた。







 ===







 速瀬水月は少々……どころか大いに困っていた。

 普段の彼女を知る者ならば、そんな誰から見ても“困っている”姿は珍しいを通り越して戦慄すら覚えるほど奇妙に映るに違いない。水月の水月たる所以は、矢張り豪放にして豪胆、豪快な、これぞ正に突撃前衛長と言わんばかりの溢れるアクティブさだろう。

 そんな彼女が今、目の前に身を乗り出さんばかりに陣取って座る二人の部下に冷や汗をかかされている。何処までも真剣に、そしてほんの僅かに小さな企みを覗かせて……眼前に座る晴子と薫の両名は、水月が口を開くのを待っていた。

 困惑した様子で水月が黙してから既に数分。熱かった合成宇治茶も緩やかにぬるくなり、立ち上っていた湯気は最早ない。数百秒にも満たない沈黙ではあったが、けれどその沈黙こそが“らしくない”ということは、誰あろう水月が一番よくわかっている。じっと見つめてくる二対の瞳から逃れるように視線を湯飲みへと落とし、気まずさを紛らわすように一口啜った。――美味くは、ない。

 冷めてしまった合成宇治茶の苦味に一際眉を寄せながら、やれやれと溜息をつく。――まいった。

 現在の率直な感情を言葉にするならば、それが最も適している。じきに就寝時間となるが、それまでとぼけ続けるわけにもいくまい。すっかり宵闇に染まった窓の外をちらりと見やってから、改めて二人へと向き直る。……かつて、一年と少しの時間を共に過ごした後輩たちが、今こうして目の前に部下として座っている。――随分とまぁ、成長したもんねぇ。そんな一瞬の感傷が、ふっと、困惑に強張っていた感情を弛緩させてくれた。

 水月は苦笑しながらもう一口だけ湯呑みを鳴らし……そして、

「武のことは……好きよ」

 静かに。コトリ、と小さな音を立てて湯呑みを置く。それを見届けた後に正面を見れば……殊更に苦笑したような、困りきったような……「あっちゃぁ」……というような表情をした晴子と薫が、互いの顔を見合わせて――まいった、と。そう呟くように漏らしていた。

「はぁ~……やっぱり、そうなんですよねぇ……」

「うわっちゃぁ~~~~っ、ああもうっ、こんなの勝ち目ないじゃん! どうすんだよハルー……!」

「いやいや私に振られても。ていうかハルーってなに? いきなり? まぁそういう綽名も嫌いじゃないけどね」

 溜息に苦笑を乗せてがっくりと肩を落とした晴子に、薫が大げさなリアクションを混ぜながらに嘆く。その際にどうやら唐突に晴子の綽名が決まったらしいが、どうして今までの会話の流れからそういう展開になるのかが、水月には理解できない。この独特な空気を持つのが彼女達元207分隊の特徴であり美点……なのだとは水月も思っているが、放っておくといつまでも無軌道に話が逸れ続けるため、呆れながらも釘を刺す。

「こらこら~。人がせっかく真面目に答えたってのに、あんたたちがふざけてんじゃないわよ」

「「あ、すいません」」

 そもそも、どうして水月がこの二人に“困らせられて”いたのかといえば、晴子と薫が、水月に相談したいことがあるから……という口実を借りた、……要するに、武のことをどう想っているか、という実に明快で単刀直入な質問のためだった。

 水月にしてみれば口実に騙されたわけであるが……、副隊長としての処務を片付け、いざ悩める部下の相談に乗ってやろうと意気込んできたためにその反動も大きく、且つ、予想だにしていなかった問いに、困惑させられたのである。

 無論、そう問うた晴子と薫の真剣さがわからない水月ではないし、そしてなによりも……その問い自体が、自身にとって妹のように可愛いと思う彼女のためというならば、こちらも真面目に応じねばなるまい、と。そう考えて……けれど、矢張り改めて自身の感情を吐露することに気恥ずかしさも重なって……数分、という長いのか短いのか微妙な沈黙を要したわけで……。

「強敵だなーっ。……ん~、速瀬中尉、手を引いてくれません?」

「ぉおっ!? 直球だな晴子。あ、速瀬中尉! あたしからもお願いしまっす!」

 心底困り果てた表情で、けれど全く怖気づいた様子もなく。晴子がこちらに戦線離脱を要求してくる。その尻馬に乗っかるのが薫だが、矢張りその目は……二人共に、些かも揺らいでいない。真剣そのもの。口調や態度こそいつも通りにふざけているが、向けられる瞳には若干の怖れと不安、僅かの期待が混ざり、複雑な色を放っていた。

 再びの沈黙が場を満たす。周囲に人がいないことが幸いしていた。……こんな話、赤の他人に聞かれたくはない。

 さて、と水月は腕を組む。

 ここまでくれば最早彼女達の意思は明白だ。つまりは……茜。渦中の人物である白銀武に恋する乙女。誰が見たってバレバレな、可愛いくらいの熱情は、当然ながら水月とて承知している。任官してきたその日にピンと来ていた彼女は、わかり易すぎる茜の想いを微笑ましく見守っていたものである。無論、彼女を愛してやまない実姉にして水月の親友、遙も同様に。……もっとも、遙は水月と茜の両方を応援していたような気もするが、それはさておき。

 茜ではなく、晴子と薫がこうして水月に問い質すというのなら、どうやら近々茜が何らかのアプローチをかけるらしいと予想できる。或いは、この二人が茜にそうけしかけるのか。

 どちらにしても、目下のところの対抗馬候補――と予想したのだろう――水月の動向を探ることこそが先決。そういう思考が流れ着いたというなら、この問答の意味もわかる。……一体どうして自分が“対抗馬”として目を付けられたのかは……イマイチよくわからない……それが的外れということもなかったのだが。

 水月は腕を組んだまま、背中を椅子の背もたれに預け、天井を見る。何の柄もないベージュ色のそこに答えが書かれているはずもなく……さて、どうしたものかと内心で首を捻る。

「ははは、考えるまでもない……か」

「速瀬中尉?」

 あはははは、と笑いながら、水月は肩を竦めるようにして、二人を見た。戸惑ったように視線を交し合う晴子と薫。やがて微笑を湛えた水月が悪戯気に唇を吊り上げれば、彼女たちも何かを悟ったのだろう、ほっとしたように息をついた。つまりは――

「安心しなさい。別に、武のことをどうこうしようなんて、思ってないわ……。武のことは好き。でも……それは多分、弟として……、ということなんだと思う」

 それは今までに何度も口にしてきた言葉だった。遙にからかわれ、美冴に弄くられ、時にはみちるや真紀たちにまで弄ばれた――曰く、「年下の恋人説」に対する定型句となっていた単語だが……それが紛れもない己の本心なのだということは、二ヶ月ほど以前に気づいている。

 それは、武が顔と腕に重症を負い……そして、彼を見舞うためにすぐ近くまで訪れていながら、背を向けて去って行ったあの斯衛の衛士――月詠真那を見たときに。

 勝てる見込みのない戦い。勝つつもりさえ更々ない戦い。……そして、茜が彼を想うというならば、その背中を押してやりたいと……それこそを望んでいる自分を、既に自覚していた。真那に抱いた優越感によって気づかされた、或いは思い知らされたというべき感情。けれどそれは、気づいたその瞬間に白旗を振っていて……所詮、自分は武にとっての憧れでしかいられないのだと理解し、そして、――それでいいと、思えた。

 武の心には鑑純夏が存在している。かつて見せた復讐への衝動は紛れもなくそれが原因であろうし、それは水月がどう諭したところで永劫に拭えぬ傷だろう。そんな武に対して自分が出来ることといえば……傍で支え、或いは、手を引いてやるくらいのもの。ならばそれは恋心ではなく……道を誤ろうとする弟を叱咤し、その背中を支える姉のような情愛だろう。血の繋がりなど一切ないが、それでも、かつては彼を支え導くことこそ自身の運命とすら感じた身である。ならばそのくらいの傲慢は許されてもいいのではないか。水月は今、そう思っている。

 自分は白銀武の姉であり、最愛の弟が道を過たぬようにその手を引き、支える。

 ――そう。それで、いい。

 かつて、鳴海孝之という青年を喪って以降……ずっと、水月を支えてくれていたあの言葉を、思い出す。



 ――水月さんは独りじゃないです。……遙さんだって、独りじゃない。けど、二人だけでもないんです……っ。俺がいます。俺達がいます。…………水月さんは、泣いていいですよ。



 生意気に、そう言って……抱き締めてくれた武。水月に救われた、と微笑み。だから今度は自分の番だと決意に満ちて……笑って。

(ばーか。あんただって、全然振り切れてなかったくせに……背伸びしてんじゃないわよ……)

 記憶の中の武にそう呟いて。でも、胸に広がる温かな感情が心地よくて……。だから、想う。好きなのだと。見守りたいと、願う。でも、それは――姉として。恋に浮かれるような歳じゃない。求め、求められるだけが愛じゃない。そのことに気づいたから。

「……私は武を好きだけれど、茜のライバルに名乗りを挙げるつもりはないわ。……アイツ、目を離すと危なっかしくてしょうがないじゃない? ……だから、ずっと傍で見守ってたい…………っていうのが、本音。でも、それは恋じゃないから……」

 微笑のまま告げる水月に、どうしてか、晴子も薫も赤面していた。そんな二人の様子にきょとん、とする水月だったが……やがて、呻くように「参りました」と机に額を擦り付ける彼女達の姿が可笑しくて、鈴を鳴らすように笑った。

「――ところでさぁ、」

「「ぇ?」」

 一転、それまでの柔らかな雰囲気がなりを潜め、急激に場の空気が冷えていく。そのあまりにも落差の激しい水月の声音に眉を顰めたのも束の間、続けられる水月の言葉と、その視線が向いている先を見て……晴子は、薫は、――これがA-01のA-01たる所以か、と思い知ることになる。

「な・ん・で、宗像はそこにさも当然のように座ってるわけぇ?」

「おや、速瀬中尉は自分の部下がPXで休憩することも認めてくださらないという。……実に嘆かわしい。狭量に過ぎますよ、中尉」

「だれがんなことを聞いたァア!? っていうかあんた、いつから居たのよッッ!!?」

「いえいえ、私はただ梼子とお茶をしに来ただけですので。別に中尉が白銀を好きだとか愛してるだなんてこれっぽっちも聞いてませんよ」

 ――聞いてんじゃん。思わず突っ込みそうになった薫だが、そこは敢えて口を閉ざす。流石の晴子もこの展開には引き攣った笑いを浮かべるしかなく、二人揃ってチラリと見やった水月の表情は………………多分、般若というものが実在したならば、ああいう貌をしているのだと悟った。

「むぅぅなぁぁかぁあたぁあああああ!!!!?」

「――って、本田が言ってました」

 怒り心頭の水月に対し、何処までもクールにコーヒーモドキを啜る美冴。彼女の対面に腰掛けていた本田真紀を指差しながら、ニタリと微笑んでいる。その横では風間梼子が、懲りないですね、と言いたげな溜息をつき……憐れみを込めた目で向いた先には、ガチャガチャとコーヒーカップを震わせる真紀が居て……。

「ほ~ん~だ~ぁああ??!!」

「ち、ちちち、違いますよッッ! アタシなんにも聞いてないって言うか今来たばっかりっていうか!? そもそもアタシをここに呼んだのはムナカタ中尉でありましてーーーーッッ!!?」

「問答無用――ッ!」

 まるでそこに座っていることこそが罪、といわんばかりの理不尽なアッパーが炸裂する。ぎにゃー、とよくわからない悲鳴をあげながら星と化した真紀を、哀れと偲べばいいのか、或いはそう仕向けた美冴に戦慄を覚えればいいのか。まだまだ新任の晴子たちにはわかりかねる問題である。

 ――が。一つだけわかったこと。

 宗像美冴が水月をからかうそのときに、彼女の傍にいてはいけない。

 ……多分、傍にいても標的にされないのは梼子とみちる、遙ぐらいなものだろう。

 最早自分たちが何をしにきたのかさえ忘れてしまいそうな喧騒が続く。これが先任。これがA-01。呆れるくらいの底抜けの明るさ。……ああ、そんな彼女達と同じ部隊になれて、嬉しいと思える。なにより……突然の自分たちの問いに、誠実に向き合い、真剣に答えてくれた水月の想いに……胸が満たされる。

 彼女は言った。それは恋ではないのだと。武を想い、支え、手を差し伸べて……。それはまるで、姉が弟に抱く情にも似て。

「ん~、つまり、まとめると……」

「一番の強敵が参戦を辞退した……ってことだろ?」

「って、ことに……なるね。うん。よしよしっ」

 ――よかったね、茜。

 思わずそんな言葉を漏らしていた晴子に、――こいつは、本当に茜が好きなんだよなぁ――と思わず感心させられる薫だった。多恵といい晴子といい、そして自分も亮子も。まったく――どうしようもないくらい、メロメロなのだ。

 武と茜。

 この二人に。

 だからどうか……二人には、明るく素敵で、幸せな未来を。きっと、そのためになら命だって懸けられる。

 日本のため、世界のため……人類を護るため。そんな大義名分に拘らなくてもいいんじゃないか、と。そう思わせてくれる。――なによりも、二人のために。故に薫は、これからの訓練の日々、そして、実戦に出てからも、ずっと。

 自分の大好きな仲間達のために、戦うと。そう、決めた。







 ===







「あれ? 白銀くんいないねぇ……」

 何度ノックしても部屋の主が現れないので、どれどれと声に出しながらドアを開く。ひょっこり顔を覗かせれば、そこは照明もつけられないままで、誰もいなかった。スチール製の簡素なベッドには今朝畳まれたままの寝具一式。視線を転じた先にある机には備え付けのスタンドライトとカレンダー付の置時計に筆記用具。奥にあるシャワールームも当然消灯されていて、……改めて確認するまでもなく、見事なまでに無人だった。

「た、多恵さん……あんまりひとの部屋を眺め回すのは……」

 一応の確認のつもりで部屋の隅々まで見回した多恵だったのだが、どうやら背後に控える亮子には“覗き見”或いは“盗み見”しているように見えたらしい。それは心外だという感情がにわかに過ぎったものの、机にもたれ掛けるように置かれたそれを見つけて、んむ、と首を捻る。

「ちょっと多恵! あんたいい加減に――」

 一心不乱に室内を見回していた多恵の背後、亮子の更に後ろに控えていた茜が、怒声混じりに首根っこを掴もうと手を伸ばす……が、それよりも一瞬早く身を引いて振り向いた多恵が口を開く。

「茜ちゃん茜ちゃん茜ちゃんっ!」 「わぁっ、な、なによ!?」

 背の低い亮子の頭上で、唾を散らすように喚く多恵。その両手は慌てたようにバタバタと上下に動き、瞳は室内と茜といったり来たり。実に落ち着きがない。その突然の奇態に困惑せずにはいられないが、ある意味でそれが“築地多恵”という少女の常態でもあると理解している茜は、とりあえず落ち着けと顔面にチョップを叩き込む。手刀がめり込む瞬間に、亮子が小さく可愛らしい悲鳴をあげたのはナイショだ。

「ぃたぁ~ぃい~~っ! 茜ちゃんがぶったぁあああ~~!!」

「ハイハイ。痛いの痛いの飛んでいけーっと。それで? 一体どうしたってのよ?」

「そ、そそそ、そうだ! あ、茜ちゃんっ! あれっ、あれーーーっ!」

 ぐわっ、と目を見開きながらに、右手で室内を指差す。薄暗いのと、立ち位置の関係からよくは見えないが、どうやら机の辺りを示しているらしい。入口に陣取った多恵の身体の隙間から覗き込むようにした亮子が、あっ、と小さな驚きの声を漏らす。……どうでもいいが、つい先ほどまで多恵の動向を“よくない”と諭そうとしていた割りに、あっさりと覗いている。そんな歳相応の好奇心を見せられては、茜とて興味を惹かれてしまう。むむむ、と閉口しながら唸るものの、矢張り自身もそこに在るものが気になってしまい、既に多恵と亮子が覗いていることを免罪符に、どれどれと室内を覗き込む。

 白銀武の自室。言うまでもなく室内に置かれている備品の数々はどれも規格品であり彼女達の部屋に備えられているものと全く同一だ。個人の所有物や消耗品、例えば女性ならば生理用品等の違いはあるだろうが、ベッドと机の配置までもが同じであれば、大概どの部屋も個性というものを持ちにくい。人によっては壁に家族や恋人の写真を貼り付けたり飾ったり、私物に溢れていたりということもあるのだろうが、殊更、武の部屋は入居した時そのままの景観を保っているように見える。

 要するに――なにも、ない。

 生活している以上、匂いや空気中に漂う気配というものが残るのは当然だが、それ以外の何も……武を示すものが置かれていない、殺風景な部屋だった。

 勿論、武とて私物の一つもない、と言うことは在り得ない。だがそれは机の引き出しの中であったり、ベッドの下に備えられた引き出しの中に収められているために、今彼女たちが目にしている中にそれらが認められないのである。……が、当然ながらそういう事実を想像できるはずの茜は、思わず――寂しい、と。そんな感傷を抱いてしまっていた。

 正に、寝るためだけの部屋。

 そんな硬質な気配……。そこには生活、或いは安息の場所としての柔らかな息吹が感じられず、そう思えてしまうことが、茜の心をちくちくと痛ませた。

「ほらっ、茜ちゃん! あれっ!」

「――ぇ? あ、」

 そんな一瞬の感慨を、多恵の声が吹き飛ばす。一体何を考えているのかと緩く頭を振り、彼女の指差す先に目を凝らす。……そこには、一振りの刀が置かれていた。

「あれは……――」

 確か、弧月……と。そういう銘の日本刀。武の剣術の師の形見であり、斯衛の月詠真那中尉に託された彼女自身の想いの具現。月詠の剣術の後継であることを示す黒い拵が、まるでこの部屋同様に、ぽつん、と。寂しそうに佇んでいる。薄暗い中でよくも漆黒の鞘に包まれた刀を見つけたものだが……しかし、そこに鮮烈に過ぎる黄色いリボンが巻かれていれば、誰だって気づいただろう。

 そう、それは――彼女の御守りだったはず。

 茜の脳裏を、切ない記憶が過ぎる。あれはまだ、この横浜の地が戦乱に慄く以前。白銀武と鑑純夏を初めて見た、その日。基地へと続く桜並木の坂道で、向き合い、別れを惜しんでいた二人……。胸が張り裂けそうな切ない声で武を呼び、自身の髪を纏めていたリボンを手渡した純夏……。

 その情景を、幻視する。

「どうして、」

 無意識について出たのは、疑問を表す言葉だった。多恵も、亮子も、何も言わない。恐らくは自分と同じ疑問を抱いたからこそ、多恵はあんなにも喚いて茜を呼んだのだろう。そして、続くようにそれを見つけた亮子の驚きも。――どうして、あの刀がここに?

 別に、四六時中刀を傍に置いておかなければならないわけではない。如何に大切な師の形見であろうとも、さすがに用を足すときやシャワーの最中はその身から離して当然だろうし、それが普通だ。……だが、少なくとも茜達の知る限り、この数週間の間で、武が弧月を手放しているのを見たことがない。食事の時や休憩時間の時もそうだし、水月たちとの話を聞く限りでは、どうやら戦術機訓練の最中にも傍らに置いているらしい。

 それほどに思い入れが強く、固執する刀が……けれど、まるで忘れられたかのように室内に取り残されている。――鑑純夏の形見を置いたまま。なにか言いようの知れない感覚が胸の裡を巡り、茜は眉を顰めてしまっていた。その表情を見て、多恵が気遣うように名を呼ぶ。はっと振り返れば、彼女も亮子も、心配そうな眼をしていて……。

「あっ、いや、別にほら、武だっていつも刀と一緒って……わけじゃ……」

「茜ちゃん……」 「茜さん……」

 取り繕うように口を開くが、思考の働かないまま発せられた言葉は自分自身全く信じていない薄っぺらなもので……。向けられる二対の視線がいたたまれない。こんなちょっとしたことで揺さぶられてしまう自分は、なんと弱いのだろうか。――武の身になにかあったのではないか……。そんな根拠のない不安に駆られて、大切な友人を心配させてしまった。そんな自身の弱さに少しの失望を抱きつつ、苦笑する。――ごめん、ありがと。

 そういう感情を込めた苦笑を、多恵と亮子はどうやら察してくれたらしかった。なにか見てはいけないものを見てしまったような気がして、茜は部屋の入口から身を離す。そのすぐ後に亮子が続き、多恵が……ドアを閉めてこちらに来るはずが、けれど…………なにやら腕を組んで考え込んでいる。

(なんか……ヤな予感……)

 う~~ん、と唸りながら眼を閉じる多恵。そんな彼女が多分ろくでもないことを考えているのだと理解できてしまうのも、長い付き合いの成せる業だった。なにを考えているのかは知らないが、ここは無視してこの場を去ったほうがいいような気がする。ある意味で酷く淡白な思考を回転させた茜だが、そんな冷酷な感情を抱けないのが亮子だった。

「多恵さん……?」

 ――ああ、聞かなくていいのに……。思わずがっくりと俯いてしまう茜。けれど思いやりに溢れ、何よりも他人に優しい亮子だからこそ、声を掛けてしまうのだった。が、名を呼ばれたにも関わらず、熟考している多恵はブツブツと声を漏らすだけで反応らしい反応を見せない。傍目には全くもって意味不明の怪しい姿だが、どうやら彼女の中ではかつてない高速思考が駆け巡り、沸々と蒸気を発しているらしかった。

「そ、そそそそうかああーーっっ!!」

「うゎぁっ!?」 「きゃっ?!」

 唐突に、くわっ、と目を見開いて。腕を組んだまま、閃いた、という具合に咆哮する多恵。あまりにいきなりすぎて驚いてしまった茜と亮子だが、共に表情が引き攣っているのはいたしかたあるまい。ここで無視することも出来たが、それもなんだか可哀想な気がしたので、躊躇いながら声を掛ける。その時の茜の顔は、心底から「いやだなぁ~……」というオーラが発せられていたのだが……さておき。

「た、多恵……? あんた、大丈夫?」

 恐る恐る、まるで気が触れてしまったような多恵に呼びかける。くわっ、と目を見開いたままの多恵は、そのままにぐるりと首をこちらに向けて――正直に、かなり怖い――何か余程のことに気がついたのか、ごくりと喉を鳴らしていた。

「あ、あかねちゃん……」

「な、なによ……」

 緊張した面持ちで硬く口を開く多恵。そのただならぬ雰囲気にほんの少し怯んでしまう茜。亮子は言葉もなく成り行きを見守っている。

「私、気づいちゃったよ……」

 だからなにに――。恐らくは茜を気遣っているつもりなのだろうが、焦らされているようにしか思えない。と同時に、やっぱり先に部屋へ戻っておくべきだったかと薄情な思考も過ぎる。勿体つけるような多恵がもどかしく、さっさと吐け、と小さく睨んでやるが、どうやら自分の世界に入り込んでいるらしい多恵はそれに気づかない。

「もうすぐ消灯時間……なのに部屋に白銀くんがいなくて、そして……弧月くんも置きっぱなし……。これが意味することはただ一つ……ッ」

「………………」

 亮子は多分、今の茜の表情を一生忘れないと思う。その、見るからに「なにいってんのコイツ」的な、心底から憐れむような表情。向けられている多恵はそれに気づかずに、ぐぐぐ、と拳を握り締めて益々自分の世界に浸っていく。……この絶妙な二人の温度差も、いつもなら晴子や薫が引っ掻き回して丁度よい温かさになるのだが、残念ながら二人は今水月のところへ行っていて、居ない。故に多恵の暴走を抑えるものがなく――そもそも亮子は常に傍観者の立場を徹しているし、茜も大体似たようなポジションにいる――だからこそ彼女の一人舞台は続いていて……。

「そう、それはつまり……ッッ! 白銀くんはいまっ! たぶん誰か他の女の子とあんなことやこんなことをおおおおおっ!! いやっ、だめっ、そんなとこぉぉおおお~~~っ??!!」

「「阿呆かーーっっ!!」」

 ズビバシ、と。軽快な手刀が多恵の顔面と後頭部に炸裂する。わっ、と目を覆った亮子だったが、その瞬間に聞こえていた声が二種類あったことと、それが茜だけでなく男性のものが重なっていたことに気づいて、ハッとする。

 見れば、茜もきょとん、と多恵の背後に立つ人物を見つめていて――言わずもがな、武がそこに立っていた。

「わっわっ、武!?」 「白銀くんっ」

「おう、お疲れ」

 多恵の後頭部に右手の手刀をめり込ませたまま、ニッ、と微笑む武に、茜は慌てて多恵から離れる。驚いた表情のままの亮子もその隣りに並び……ずるずると、多恵が崩れ落ちた。はらひれ……とよく意味のわからない珍妙な声を漏らして、ぐるぐると目を回している彼女をそれはもう見事に無視して、

「ひとの部屋の前で何やってんだ?」

 僅かに首を傾げながら、それは当然な問いを口にする。しかも、よく見るまでもなくドアも全開だ。わーっ、と何やら慌てた様子の茜がばたばたを身を動かして何事か説明しようとするが、どうやら混乱して言葉が出ないらしい。顔を真っ赤にして、一生懸命誤魔化そうとしている姿は……正直に大変可愛らしい。思わず口元が緩んでしまう武だったが――でも、それ以上は……。

「あーっ、そのっ、武! ご、ごめん……。ノックしても返事がないから、居ないのかな……って」

「確認しようと思って、開けたのか?」

 ぅん。しょぼん、と頷く茜。そんな彼女を、不意に、抱き締めてしまいたい衝動に駆られ――――駄目だ。武は理性を総動員して、目の前に居る彼女に縋ってしまいそうな己を戒めた。降って湧いたような衝動を誤魔化すつもりで開かれたドアの向こう側……自室を見やる。無意識の内に、視線はそれを捉えていた。……ならば、彼女たちが気づかない道理がない。

 ふ、っと。武の表情に翳が差したのを、茜も、そして亮子も見逃しはしなかった。その視線が見つめる先には弧月があって……矢張り、それを手放すに至る理由が存在するのだと悟り…………きっとそれは、武にとって何か途轍もない出来事の果てなのだと想像できた。

 彼になにかあったのではないのか。奇しくもその不安が的中したことを知った茜は、気づけば武の左腕を握っていた。――茜? 小さく、驚いたように。呟かれた言葉はどこか薄っぺらで、彼の本当の心がここにないのだと、わかる。それを寂しい、哀しいと感じると同時に……でも、だからこそ自分が彼の支えとなるのだと頷いて。



「ね、武……。今夜、一緒に居ていい?」



「――――――――――――――――――――――――――――――は?」



 多分、全くの予想外だったのだろう。背後では亮子が声のない悲鳴をあげている。眼前の武も面白いくらい間の抜けた顔をして固まっている。

 それはそうだろう。――だって、自分でもそんな言葉が出るなんて思っていなかったのだから。

 聞きようによっては……というか、誰が聞いても“そういう意味”にしか聞こえないだろう発言だったわけだが、しかし茜は、そういう俗物的な思考からその言葉を紡いだわけではない。男女の契りを交わしたい……という欲求がないと言えば嘘になる……のだろう。その辺り、まだ漠然として茜自身確信を抱いているわけではないが、こと、現在においてそういう欲求は皆無だ。純粋に、傍にいたい。いや……きっと、傍にいなくては、武が潰れてしまうのではないか。そういう直感に似た不安を払拭するためにも、それが最善なのだと信じている。

 その真剣な瞳に気づいたのだろう。武は暫しの逡巡を見せた後、一度だけ弧月を見て――振り切るように、茜の手を解いた。

「武……っ」

「だ、駄目だ――ッ! そんなこと、駄目だ……茜。俺は……今、、、」

 何を、言おうとしているのか。武は自身の心臓が痛いくらいに動揺しているのを感じていた。

 みちるからの呼び出しで医師のカウンセリングを受けた後、八つ当たりに似たシミュレータ訓練を延々と続け、今の今まで脳裏を占めていた茜と純夏への愛情の、その引き裂けて血塗れた感情をどうにか落ち着かせることが出来たばかりだというのに。

 それを、こんな……まだ自身の立ち位置にさえ戻れていない状態の、そして愛する人への裏切りを孕んだままの自身に――――どうして茜は、こんなにも温かく接してくれるのか。今はただ、その優しさが……向けられる想いが、痛い。苦しい。――その気持ちに、応える資格がない。

 縋ることなんて出来ない。それを望むことなんてできやしない。

 茜を愛している。彼女を求めている。……でも、それはこんな風に、一途な彼女の想いを受け取るに相応しいものでは……ないから。

 だから、手を振りほどく。傷ついたように目を伏せた茜。――ごめん。ごめん。ごめん!

 なにをやっているのか……。誰よりも護りたい彼女を、傷つけたくないはずの茜を、こんなにも傷つけて……。――俺は、なんて……最低なことをしているんだろう。酷く苦い感情が、舌の上を転がって喉に落ちる。もたれるように部屋のドアに手を掛け、茜に背を向けて……、

「もう、消灯時間だぜ……。部屋に、戻――――」

 吐き捨てるように零した言葉の途中で……背中に、温かい体温が触れる。身体の前に腕を回されて……茜が、抱き締めてくれていた。

「あ、かね…………、」

「武……大丈夫、だから。あたしが、いるから……だから今夜は……一緒に居よう?」

 痛いくらいに心臓が拍動する。熱を持った血液が脳を沸騰させて……最早武は、正常な思考を失ってしまう。こんな不安定な状態で茜に逢ってしまえば、縋ってしまってどうにもならないと自覚していたはずなのに……。それでも、己の犯した罪の重さと、既に一度、人道を踏み外し外道の底にまで堕ちた己というものを痛感しているからこそ。――駄目なんだ、茜。

 けれど、その言葉が喉を震わせることなく…………回された腕に、自らの手の平を重ねてしまう。

 ――俺は、なんて醜くて、弱い。

 自身に対する罵倒が、熱に浮かされていた脳に冷や水をブチマケル。幾許かの冷静さを取り戻し、夕呼の右腕を斬ってからまだ一日と経っていないという事実を思い出しながら、

「茜、頼む……今は放っておいてくれ……」

「…………」

「――茜ッ、お願いだ……手を、放してくれ」

「…………」

 緩やかに、回されていた腕が離れていく。背中に感じていた体温も薄れて……そのことにどうしようもない寂謬を覚えてしまったが、それこそが自身の弱さ、何よりも不誠実さを指し示すようで――苦々しい怒りが、臓腑を焦がす。

 茜に何の罪が在るだろう。何もない。彼女はただ、常とは違う様子を見せた武を心から案じてくれただけだ。出来るならば、許されるならば、その気持ちの全てを受け止めてしまいたい。でも、それは……二心を抱く自分にはあまりにも赦されざる罪科ゆえに。

「……おやすみ、茜……」

「おやすみ…………武」

 キィ、と。物悲しい音を立ててドアが閉まる。極力静かに閉められたドアの向こうを、茜は暫くの間じっと見つめていた。――抱き締めた両腕を、見る。手を重ねてくれた、その場所を見る。ぼんやりとした思考で己の行動を反芻しながら……どうしてあんなことをしてしまったのか、言ってしまったのかを……。

「ああ、あたし……やっぱり……」

「茜さん――?」

 呼びかける亮子に振り返り、ニッコリと笑ってみせる。

「!」

 どきりと。亮子は心臓を締め付けられる思いだった。泣いているのだと思ったのだ。武に何かがあったのは間違いないだろう。だからこそ、その力に、支えになろうとした茜は……彼に拒まれたことにショックを受けて、傷つき、涙してしまうのではないかと……そう思っていた。それが、どうだ。今、茜は笑っている。ニッコリと、咲かんばかりの笑顔で。

 ――強い。

 そう、思い知らされる。どきどきと心臓が鳴る。こんなに輝かしい茜は、今まで見たことがなかった。

 一体どういう心境の変化なのだろうか。確かに以前までの茜ならば、武の感情に引き摺られ、彼の苦悩に涙し、彼の笑顔にこそ眩い光を放っていたというのに。その想いを拒まれ、何故、こうも笑っていられるのか……。そんな強い姿を見せることが出来るのか。

「今日、晴子に言われてわかったんだ――」

 廊下にしゃがみ、目を回したままの多恵を介抱するように。にこやかな笑顔を見せたまま、茜は亮子を見上げて言う。

「やっぱりあたし、どうしようもないくらい……武が好き。どれだけ拒まれても、傷つけられても……例え嫌われちゃっても……。あたしは、武の傍にいたい」

 よっ、と。多恵の体を背負うように立ち上がって、ふふん、と勝ち誇ったような笑みを見せる。そうして、その強気な表情そのままに、更にとんでもないことを口にした。

 ――亮子は、今の茜の表情を一生忘れないだろう。

「それに、わかったんだ。……武が、あたしを好きだ――って。手を重ねてくれた時に、伝わったの。……嬉しかったぁ……えへへ」

 だから大丈夫。そう笑って。照れたように頬を染めて。思い上がりかな? そう言って目を細める茜を、亮子は見ているこっちが恥ずかしくなるくらいに、真っ赤になってしまって……。

「茜さん……大胆です……」

「あははははっ! うん、あたしもそう思うっ」

 二人して、可笑しくて恥ずかしくて、こそばゆい感情に、笑った。だから。



 ――だから、ね、武。



 例えどれ程の闇が貴方を支配しているのだとしても、いつかきっと、晴らして見せるから――。







[1154] 守護者編:[一章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/17 14:55

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:一章-03」





 スチール製のドアを閉じる。 簡素な造りのそれ一枚を隔てただけで……世界は、真っ暗な闇に包まれた。

 そこはつい数瞬前までこの身を包んでいてくれた優しさも温かさもなく、ただ、冷たく昏い底無しの奈落。――ここが、俺の世界だ。

 茜への感情を引き剥がすように、ドアから身を離す。部屋の灯かりをつけないままにベッドへと歩き、畳まれた寝具もそのままに、硬い感触のそこへ身を投げた。――どすん。薄いマットが敷かれただけのベッドの、使い古されたスプリングがギシギシと音を鳴らす。外界と断絶されたこの闇の中で、一層惨めに響くその音が、これ以上なく我が身を焦がした。

 ――くそ、何をやっているんだ……俺は……ッ!

 ドン、と。握った拳をベッドに叩きつける。わざわざ思い出すまでもなく、この手に、背中に残る彼女の残り香を感じて……狂おしいほどの情動が衝き起こった。一緒に居ていい、と。一緒に居よう、と。そう優しく甘く囁いてくれた茜の、女としての色香が脳裏を占める。熱く滾るような衝動。脳が蕩けるほどの欲情。――ああ、俺は本当に、救いようのない……!

 わかっている。

 わかっている。

 茜の想いは、気持ちは、痛いほどよくわかっている。触れた手の平が伝えてくれた。リーディングするまでもなく、触れ合った瞬間に、彼女のココロが染み透るように伝わったのだ。多分それは、己の想いさえ彼女に届いたということ。触れ合ったことで、それぞれの想いが相手へと浸透する……きっと、ニンゲンにはそういう、言葉以上にココロを伝える術が備わっていたのだろう。

 だから――赦せない。

 そんな茜の想いを踏み躙った自分を。そんな茜の愛を拒むしかなかった自分を。

 でも、受け入れていたら、縋り付いてしまったら……それこそ、一番赦せない。――俺は。

 純夏へ執着するまま、茜を愛することは罪だ。

 茜へ想いを寄せるまま、純夏を愛することは罪だ。

 彼女達二人を等しく想うまま、それぞれを愛するなんて……出来ない。日本人としての倫理観、なんていう無粋なものじゃない。それは多分、こんな自分を愛してくれる彼女たちへの、せめてもの誠意だと思うから。……或いは臆病なだけか。どちらかを選ぶことはどちらかを失うということ。そんな恐怖が、一歩を踏み出す意思を――衝動を――竦ませているのか。

(俺は……選んだんだ……)

 独り、あの丘の上で風になぶられていた時。己の中に渦巻く二人の少女への愛に決着をつけたはずだ。そして、「どちらか」を選んだ瞬間に、結局のところ、どうしたところでそのひとの愛を受け止めることは赦されないのだと痛感した。引き裂けた心臓はその鼓動を刻む度に鮮血を吐き零し、愛情を抱く心はその想いを受け取るたびに白濁し罅割れていく……。どちらか一人を選んだことでもう一人への愛情は死に、その死んだココロに引き摺られるからこそ、選んだ彼女への愛は曇る。

 引き裂ける感情を押し留める術は今の武にはなく……既に自身の手で引き裂いてしまった愛情は血塗れて横たわっている。それは暗に……「選んだ」ことに対する「後悔」として。臓腑を抉るようなひりついた激情が、喉を震わせる。

「ォォォォオオオオオオ!!!!」

 暗闇に低く篭る咆哮。それはなによりも――――弱く醜く浅ましい自身への嘲りと怒りに滾って。

 愛する人を選んだというなら、正々堂々と向き合えばいい。そうすることが、きっと彼女達への精一杯の誠意だ。…………それが出来ないというなら、彼女の愛を受け取る資格がないなどという逃げ道を残すならば…………それは、本当は全然、全くに、誰一人選びなどしていないだけの。

 失うことが怖いだけの。

 ただの――餓鬼だ。

 違うと叫びたい。そんなはずはないと。声高に。――だってこんなにも胸が痛い。だってこんなにも感情が引き千切れて痛い。純夏と茜。茜と純夏。選べない、選ばなくてはならない二人。そのどちらも愛していて……手放したくなど、ない。

 ――それがオマエの本心だ。

 痛くて苦しい? 当たり前だ。引き裂ける痛みに悶えているというなら、それは未だに裂け切っていない証拠。痛い痛いと泣き叫んで、怖がって……結局、何一つ選べないままに“選んだつもりになって”誤魔化している。

 だから――傷つけることしか、出来ない。こんなにも弱い自分を支えようとしてくれた茜を。抱き締めてくれた茜を。その体温を振りほどくしか出来なかった。

 とことんまで……白銀武という男は性根が腐っているらしい。まるで他人事のように断じる自分がいる。自室に独り篭って、己の不甲斐なさを嫌悪するその様を、見下すような自分自身の視線がある。――――ああ、くそ。

 もう一度やり直すのだと誓った。

 手放した大切なものを胸に抱くのだと決めた。

 そうやって足掻いて足掻いて、“全うな”道に立ち還るのだと。

 そうすることこそが、贖罪となるのだと。……みちるが教えてくれた。自分独りで何もかも抱えて、追い詰められることは愚かだと。誰にも相談できずに感情を鬱積させることは愚の骨頂だと。

 まだ何一つ成し得ていない。外道と無道の終着に無様に転がったまま、正道へ人道へ立ち還る術を何一つ見つけられていないまま。……ただ、今までと同じように感情に振り回されているだけ。――それを悔しいと思うなら。

 無様と、憤るならば。

「――――――――――――、ァ、」

 闇の中に薄っすらと浮かぶ鮮やかな黄色。闇の中で高潔に浮かぶ漆黒と銀細工の拵――弧月。手放したそれが、手にする資格を失くしたそれが。ぴぃん、と。凛とした気配を放ち、昂ぶった精神を宥めてくれる。――月詠中尉。

 まるで彼女がそこで叱ってくれているよう。こんな姿を見たなら、あの高潔で誇り高い師は、どんな風に思うだろうか。

「…………ぁあ、また、やっちまうところだった…………」

 ひとつひとつ、拾い上げるのだろう?

 一歩一歩、踏みしめるのだろう?

 そうやって少しずつ、強くなろう……。何もかもを一度に取り戻すなんて、きっと不可能だから。全てのことをたった一度の選択で決めるなんて、きっと不可能だから。何度間違えても、何度躓いても、それでもずっと、諦めずに前だけを見据えていけるなら……きっと。

 きっとそこに――俺が生きる意味が在る。

 きっとそこには――俺が護りたい人がいる。

 それは茜か。それは純夏か。どちらだとしても、もう。……選んだ、なんて思い込みでいたずらに己の感情を追い詰め、そして茜を哀しませた愚行を、二度は繰り返さない。

 深く息を吸う。肺腑に酸素が行き渡り、頭の中をクリアにしてくれる……。今日は、いろんなことがあった。……あり過ぎた。己に課せられた宿業を知り、純夏の運命を知り、人類を救う計画の核心を知り、夕呼の非道と覚悟と甘さを知り、己の弱さと狂気を思い知り、人道を踏み外し、外道の果てへと堕ち、亡くしたたくさんの感情を思い出し、己が抱く愛情を確信し、みちるの厳しくも優しい感情に涙し――――茜の体温を、そこに秘められた深い想いと、それを求める自身の心を知り……。

 きっと今夜はろくに眠れやしない。

 今日という日に起きた全てのことを延々と脳内で繰り返し、何度も何度も反芻して刻みつけて……きっと、そうしないと、何一つ出来ないままだから。ありのままの全てを一度、受け入れよう。己の記憶を感情をココロの奥のその全てを、リーディングで読み取って再生して。そうやって何度も繰り返すことで、絶対に同じ過ちを犯さないように。

 己の弱さを知れ。

 己の醜さを知れ。

 己の卑俗さを知れ。

 己の矮小さを知れ。

 己の感情を知れ。

 己の情動を知れ。

 己の踏み外した道を知れ。

 己の立ち還るべき道を知れ。

 己の罪を知れ。

 己の愛を知れ。

 ――そうやって何もかもを胸に刻み付けることが出来てようやく。この底無しの奈落から、一歩、進み始めることが出来るだろうから。

「茜、俺はお前を……」

 きっと、その感情が支えてくれるから。その想いが在る限り、道を間違えはしないから。彼女を護りたいと想う気持ち。それだけは、絶対に嘘じゃないから。だから……。







 ===







 擬似生体移植手術から一日が経過した。

 肩口からスッパリと斬り落とされた自身の右腕は、搬送された自身と共に手術室へ持ち込まれ、今こうして再びその部位に縫い付けられている。爆撃で千切れ飛んだわけでも、強い衝撃に潰れたわけでもなく、キレイに斬り落とされたために……それをそのまま再用することが決定されたのだという。失血が多かったそうだが、切断からそれほどの時間が経過していなかったことと、格段に進歩した移植技術が確立されているために、それはさしたる不安も問題もなく執り行われ、こうして一晩が過ぎた今も、矢張り何の問題もない。

 固定されたままの右腕をチラリと見下ろす。“接合”の際に、胴体側、腕側、それぞれの断面を数センチずつ切除し、その間を埋めるように擬似生体を移植することで、極力神経系の拒絶反応を抑えることに成功した。……のだという。

 執刀した医師の説明を半分以上聞き流しながら、一度自分の身体から離れたそれが、再びこうしてくっついている事実に奇妙な安堵を覚えていた。――成程、私にも自分の身体に対する愛着はあったってわけ……。夕呼は自嘲するように口端を歪めた。

 尚も説明を続けようとする医師を、左手で払うようにして下がらせる。一瞬、怯むように身を揺すらせた老医師は、仕方ない、というように苦笑して、カルテを片手に去っていった。閉められる扉の向こうに、ちらりと小銃を構えた警備兵の姿を認める。警備は万全。今朝方様子を見に来たピアティフの報告から、外部に情報が漏れていないことはわかっている。

 ひとまずの懸念が晴れ、そして執刀医自らが懇切丁寧に傷の具合や移植後の注意事項を説明してくれたなら、これ以上、こんな薬品臭い病室で横になる必要もない。自分自身、医者である姉の影響もあってそれなりの医学知識は備えていたし、擬似生体移植技術にも疑いを持ってはいない。……もっとも、自身がその恩恵を賜ることになるとは予想もしていなかったのだから、そう思えば医学の進歩もあながち莫迦にしたものではないのだろう。「擬似生体」の技術を格段に進歩させた技術開発チームの一員だった姉に、ほんの僅かだけ感謝しながら、そういう感情さえ久しく抱いていなかったのだと気づいて、益々に自嘲する。

(私は、そういう感傷や繋がりを全部投げ打って、ここまでやって来た……)

 それを後悔したことはないし、そもそもそんな感情は抱かない。己は間違いなく、現状考え得る最良を成し遂げるために邁進している。それはひたすらに突き進む道。振り返る過去も、引き返す背後もない、ただ眼前にのみ続く無限の道のり。

 人類に残された最後の希望――オルタネイティヴ計画。第四番目のそれが求める00ユニットこそを完成させ、BETAを地上から一掃する。自分が生きている間に、必ず成功させて見せる。いや、既に残された時間は少ないのかもしれない……。なんにせよ、ここで無為に過ごしていい時間などない、ということだ。

 神経も骨も筋組織も皮膚も繋がっているが、まだ動かすことは出来ない。リハビリには時間を要するというし、その時間を惜しんでしまえば、一生後を引く。ならばせめてリハビリに集中するための時間を確保すべく、今すぐにでも行動を起こすべきだ。医師には何も伝えていないが、先ほどの苦笑を見る限りでは、既に夕呼の行動を承諾しているも当然だろう。まして、この基地内で夕呼を止められるものなど存在しない。――絶対安静? 笑わせんじゃないわよ。その不敵な笑みは誰に向けられたわけでもなく――――ドアをスライドさせて、霞がちょこん、とやって来た。

「香月博士……おはようございます」

「あら社、おはよう」

 わざわざ見舞いに来てくれたらしいが、夕呼は既にベッドから降り、立ち上がっていた。霞はその夕呼に驚いたような顔を向けて……寄り添うように傍に立つ。病院着の裾を小さく摘んで、きゅっ、と口を閉じたまま見上げてくる。強く開かれた瞳は銀色に澄み切っていて――夕呼は、ふふん、と唇を吊り上げた。

 ただそれだけで……理解した。

 社霞という少女は何か一つ、成長を見せたのだと。そして多分…………何処までも、いつまでも、香月夕呼という女が進む道を、寄り添ったまま、その運命の果てまで共に在ろうとするのだと。それを頼もしいと思えてしまう感情が、少しこそばゆい。――これでは、

(これじゃ、まるで母親だわ……)

 そんな感傷は不要だ。そう理解しているはずの心が、けれど今は心地よいと肯定している。

 自分自身の感情の底に捨てたニンゲンとしての甘さ。「社霞」、「鑑純夏」……そして「白銀武」に接する度、少しずつ表面に浮き上がるようになったそれを、今、胸いっぱいに感じている。幼い少女特有の大きな瞳で、じっとこちらを見上げている霞は、そんな夕呼の感傷を何処まで感じているのだろうか。希代のリーディング能力者。その能力を発揮するならば、夕呼の胸の裡なぞ明け透けに知られているに違いない。

 だが――それはない、と。知っている。

 霞は絶対的に他者との触れ合いが不足していて、それゆえに彼女は誰と接する上でもリーディングを必要とする。よく言えばそれが彼女なりのコミュニケーションの手段なのだが……言い換えるならば、それは他人の心を覗かずには、誰と触れ合うことも出来ない弱さを示している。

 生まれる以前より“そのように”創られた彼女にはそれこそが当然。だが、ヒトにそのような能力はなく……だからこそ、他者は霞を畏れ、距離を置く。霞を引き取って数ヶ月も過ぎた頃、彼女は独り泣いていた。己にとっての当然が他者にとっての異常で、己にとって何よりもなくてはならないものが、他者には畏れの対象となる。その齟齬に、彼女は涙を流していた。

 そして、そんな少女の涙を知りながら、利用するのが夕呼だった。霞を引き取った理由はひとえに“優秀なリーディング能力者”だったから。そして、自身の提唱する「00ユニット」に備えさせるべき機能の一つを研究するために。……鑑純夏の脳を手に入れたときなどは、それこそ、手放しで霞を引き取ってよかったと思えたものだった……。

 我ながら、酷い女だという自覚は在る。あの脆弱な精神構造の白銀武に言われるまでもなく、間違いなく己は外道であり、非道の科学者。人類の未来のため、BETAをこの地上から一掃するため。その目的と意志は微塵たりとも揺らぎなく灯っているが、一歩間違えば、己の好奇心を満たすためだけの狂人に成り果てる可能性さえ秘めていることを……誰よりも、夕呼自身が一番承知していた。

 霞は、そんな夕呼の全てを知っている。

 夕呼は、霞のリーディングを阻止しようとはしなかった。バッフワイト素子というリーディングを阻害するマイクロチップを身に付けてはいるが、それはあくまで武に機密情報を知られないようにするための措置でしかない。……霞にとって能力の存在は、“なくてはならないもの”。生きていくために必要な“器官”の一つといっていいのかもしれない。であるならば、それを抑圧するべきではないし、むしろ、計画のためにはその能力は遺憾なく発揮してもらわなければならないという考えがあった。

 そういう経緯もあって、夕呼は霞の能力を肯定し、存在を肯定された霞は夕呼を慕うようになった。

 霞に少しの変化が見られたのはその頃からか。それまでは目にするもの触れるものの全てを無条件にリーディングしていたのだが、無闇に能力の行使をしなくなった。ピアティフやみちるに対しても出来るだけ“言葉”を用いたコミュニケーションを図ろうとし……なにより、夕呼の心を読むことがなくなった。咄嗟の時や、或いは任務において必要な時以外、自らの意志で、霞はリーディング、そしてプロジェクションを使わなくなった。

 創られた人工ESP発現体としての人生を全て受け入れた上で、彼女は、「社霞」として歩き始めたのだ。夕呼の傍にいるために。夕呼の願いを支えるひとりとなるために。

 …………それを知る夕呼だから、霞の心が知れる。リーディングなんてなくても、人の気持ちはわかるのだ。理解できるのだ。――この子は、成長した。

 その内側に存在する様々な感情を無意味なセンチメンタリズムと断ずるのが、香月夕呼という科学者だったはず……。つい先ほども思考を巡らせた、甘く吐き捨てるべき人としての情。感傷ともいうべきそれを、けれど…………もう少し、せめて執務室へ戻るまでの間、霞が寄り添ってくれている間だけは……この胸に宿らせていても、いいのではないか。

 そう――思えた。







 ===







 訓練前のミーティングも終わり、茜達新任衛士は座学の準備のために退出し、水月以下先任は強化装備に着替えるためにロッカーへ向かう……の、だが。水月は、ミーティング後も自身に向けられていたみちるの視線から、何か、他の者には聞かせたくない話でもあるのかと部屋に残っていた。その隣りには武。彼もまた、みちるの視線から何がしかを汲み取り、この場に留まっている。

 水月と武の二人ともを正面から見据えて。みちるは一度武を強く見やった後、水月へと顔を向けた。

「速瀬――、A-01部隊の副隊長であるお前に、話しておくことがある」

「はっ……!」

 ひたと見据えられた強い視線をしっかりと受け止めて、水月は姿勢を正す。同時、武も丹田に力を込めるかのように、背筋を伸ばしていた。視界の端に愛すべき弟とでも言うべき彼が立っていることに少々の疑問を抱きながら、けれど、みちるが退室を命じない以上、武も関わりがあることに違いない。その水月の思考を理解しているのだろうみちるが、隊長として、大尉としての表情を見せる。

「昨日、1740を以って白銀武少尉の特殊任務は解除された。よって白銀は本日の訓練より原隊復帰するわけだが……その特殊任務の際に、少々問題が生じてな……。現状のままでは、白銀を実戦に投入させるわけにはいかなくなってしまった」

「――ッ?!」 「……………………」

 険しい、とさえ表現できるかもしれないみちるの表情、そして声音に。水月は息を呑み、ギョッとするように――武を見た。顔面に深い傷痕を残す青年は、真一文字に口を閉じ、強い眼光をみちるに向けている。姿勢は変わらず、不動のまま。ただ、その全身から……喩えようのない気配が滲んでいるのが感じられて……。

 ちらり、と。視線を武の腰へ向ける。……先ほどから、気になってはいたのだ。

 つい昨日まで、そこに提げられていた刀剣。月詠真那から託されたという、あの……鑑純夏の形見を巻きつけた黒い拵。武の魂そのもの。そう言っていいはずのそれが、どうして身に付けられていないのか。

 果たしてその理由は、今しがたみちるが述べた……生じた問題、というものに所以するのか否か。まだ水月には判断できない。ともかくも、みちるの言葉は続いているのだから、一言たりとも聞き逃すわけにはいかないだろう。みちるは敢えて、“副隊長の”という文言を頭につけていた。つまりそれは――当たり前のことだが――武を案ずる姉としての水月ではなく、副隊長、衛士、軍人としての「速瀬水月」として事に当たれ、という暗黙の内の命令だった。

 ならば当然、それに従うのが自身の役割。隊長の命を受け、それを迅速確実に実行する部下の役目。……まして、武は水月率いる突撃前衛小隊に属している。自身の部下の処遇についてをみちるから説明されているのであれば、彼女は軍人としてそれを受け止めなければならない。無論、そうできるように訓練を積んできた身であるから……今の水月に私情などありはしないのだ。

「……専門医の説明によれば、白銀は今、精神的に追い詰められて、“まいっている”とのことだ。……………………これは――軍人としてという以前に、ヒトとして、壊れつつあるという意味だ」

「――っ、な、」

 水月は目を見開く。……今、みちるはなんと言ったのか。武本人をこの部屋に残して、彼の目の前で、……水月に向かって、なんと? ――黙れ、落ち着け。

 なにが、私情などない、だ! 早々に心が乱れている自身に苛立ちを覚えると同時、努めて軍人であろうとする思考が、みちるの言葉を理解すべく咀嚼する。

 みちるは言った。ハッキリと言った。断言した。



 ――軍人としてという以前に、ヒトとして、壊れつつある



 文字通り、言葉通りの意味とするならば……それは一体、ドウイウコトだ? 必死になってその意味を理解しようとするが、水月には全くもってわからなかった。……唯一つ、ハッキリとしたことは……つまり、武は“また”、道を外れつつあるという……こと。

(或いは――既に踏み外した……?)

 想像して、血の気が引いた。

 思い出すのは伏龍作戦の惨劇。木野下、志乃、亜季、藍子の四人を死なせた復讐への暴走。愛し、護りたかった幼馴染の恋人を奪い去ったBETAに対する怨讐。それだけを糧に生きてきた少年の、ソレをひた隠しにしてきた青年の、仮面が剥がれ落ちた狂気の殺戮劇。あの哄笑を、嗤い声を、……思い出した。

 みちるの言葉を借りるならば、ある意味でそれも、精神的に追い詰められて、“まいっていた”……のだろう。けれど武は…………自らの暴走が招いた惨劇に、先任の死に潰されそうになっていた彼は、その過ちを受け入れ、新たな一歩を踏み出したのではなかったか。一昨日までの訓練を思い出せばよくわかる。午前中を夕呼の特殊任務に充て、午後からはA-01の一員として訓練に参加していた武。シミュレータで、或いは実機で、BETAと戦う彼には以前の危うさも暴走も、復讐を予見させる泥のような精神も見受けられなかった。

 なにより――茜たちが任官して以降、武は、「護りたいものを護るために戦う」という、明白な意思を抱えていたようにも見えたというのに。

 なぜ、“また”……なのか。

 どうして“また”、武はそれほどに追い詰められることとなったのか。

 特殊任務の際に生じたという。ならばそれは、夕呼から与えられた任務の過酷さによるものか。それを知る術は水月にはなく、知らずとも、事実は変わらない。このまま武を放置しておけば、近い将来、白銀武という人物はこの基地からいなくなるだろう。精神に異常をきたした狂人を衛士として運用するわけにはいかず、まして軍人として任務に当たらせることなど、指揮官として許可できるはずがない。ならばそれは軍人として使い物にならないということになり……除隊、或いは精神病院への収監……という事態に繋がるのだろう。

 断固として、そんなことは認められない。或いは、みちるも同様に考えるからこそ、今、白銀武がいるこの場で水月に話しているのかもしれない。

 一層に意思を込めた視線をみちるへと向けると、彼女もまた、同じように頷いてくれていた。それだけで、理解する。――ああ、矢張りこのひとは素晴らしい上官だ、と。水月から視線を外したみちるは、次に武を見据えた。……本当は、水月だけを残して話して聞かせるつもりだったのだが…………武は自らの意思でこの場に残ることを選択したようだった。その武に視線で退室を促したが、それでも尚、挑むように睨み返してきた彼の意志が――俺は大丈夫です――と、そういうのならば……いいだろう、とみちるは承諾していた。

 ひどく簡潔に纏めた事実だけを水月に述べた後も、武の視線は揺るがない。自身が狂人と言われ、壊れているという事実を、恐らくは武にとって絶対に知られたくないだろう水月に話して聞かせたことを、彼は真正面から受け止めている。

 部下に問題が在るならば、隊長はそれを把握しておく義務が在る。みちるは夕呼からそれを知らされ、そして武本人にも確認を取った。……ならば、水月も知っておく義務は、在る。水月が武の属するB小隊の小隊長である以上、彼女も当然ながらそれを承知しておかなくてはならない。そういうつもりで今という場を設けたみちるだったが……そのことを武自身が覚悟を以って臨んでいるというならば、それも良しと頷ける。

 ――覚悟を決めたか、白銀。

 任官してから既に二ヶ月以上が過ぎた。戦術機適性「S」という驚異的な才能を持ち、対BETAに特化した月詠の剣術を継承し、それぞれの才能を枯らすことのない努力と精進を積み重ねることを厭わず……。そんな、“優秀”と、そう評すべき青年は、けれど……その精神、「戦う理由」に於いてのみ、常人よりも脆く、そして罅割れていた。近しい者の死を振り切れず、愛しいものの死に捕らわれ続け、いつか復讐を果たす。きっとそれは、この世界に生きる人ならば誰もが一度は抱く負の感情。闇の領域。そうしなければ生きていけないという、崩折れそうになる自己を辛うじて立ち上がらせるために縋りつく外道の道だ。

 だが、軍人に――人々こそを「護る」衛士に、その感情は赦されない。

 武がそれに捕らわれているというなら、気づいたその時点でなんとしても留まらせるべきだった。みちるは、今でこそ後悔という感情を乗り越えることに成功しているが……あの時喪われた四人を思えば、己の無能さに対する怒りと苛立ちだけで死ねるほどに感情を昂ぶらせたりもした。同時、なんとしてでも、復讐に狂った武を更正させるという意思を抱く。このまま武が変わらないのであれば……あまりにも、喪われた彼女たちが報われない。……結論からすれば、彼は水月によって己の過ちを気づかされ、そして…………自力で泥沼から這い上がってきた。そこに至るまで、武の内奥でどれほどの葛藤と懊悩があったのかは知らない。けれど、復讐を誤りと知り、その感情を振り切ろうと足掻く姿を、対極に在る感情の鬩ぎ合いに憔悴する姿を、みちるは知っている。

 でも、それでも……武は立ち直り、心を決め、戻ってきた。――――はずだった。

 夕呼の右腕を斬るほどの、斬らずにはいられないほどの、ナニか。人としての道を完全に外れてしまった武が……けれど今、覚悟を秘めた瞳を見せる。

 そう、今度こそ本当に……そして、ある意味では“ようやく”……白銀武は、「覚悟を決めた」のだ。

 始まりは恋人への愛だった。それを喪った後は復讐こそが立脚点となり……取り返しのつかない過ちを重ね、そして、ようやく。軍人として、衛士として、護るものとして。そういう覚悟を、抱くに至る。水月もそれを感じたのだろう。強く揺るがない視線を見せる武の横顔を見て、微笑んでいるような、泣いているような、複雑な感情の織り交ざった表情をしている。

 覚悟を抱くに至ったことを喜ぶと同時、改めてそれを決めざるを得ないほどに追い詰められた事実に哀しみを覚える。……まして、未だ武は追い詰められたままなのだ。

 覚悟は決めた。そうすることができた。

 ならば、残るは精神・肉体の問題だ。武のカウンセリングを行った医師はみちるにこう教えてくれた。――彼は自分自身こそをもっとも信じていない。人を斬った狂人。そうするに至る感情の爆発。積み重ね、教えられ、託されてきたたくさんの想いのなにもかもが消し飛ぶほどの怒り、衝動。それを押さえる術を持たず、流されるままに暴威を振るった事実。……それに、慄いている。そうしてしまった自分に。それしかできなかった自分に。絶望し、恐怖し…………それでも、思い出したたくさんの想いを無にしないために、足掻こうとしている。

 ただ……自分を信じることは、出来ない。

 そんな風に感情が爆発して他者を踏み躙ってしまうのが己の本性だというなら、絶対にそれを変えてみせるという意思以上に、恐怖が勝る。――もしも、また……。そういうネガティブな思考が更に拍車を掛けて彼自身を追い詰め、その葛藤に、精神が消耗する。臨床心理士でもある医師はそのように説明してくれた。そして、隊長であるみちるに――精神が追い詰められたニンゲンは、その追い詰められる原因にこそ執着する傾向が見られる。全ての行動の起点は「それ」であり、例え「それ」に相反する行動を起こし思考を巡らせようとも、必ず「それ」が憑いて廻る。故に忘れることさえかなわずに、永劫と言って過言ではない時間、それに追い詰め続けられる可能性があり……大抵の者は、そう永く“もたない”。

 つまり――――自殺。

 無論、それは極端な例でもある。みちるに「結末」の一つを話して聞かせた医師は、あくまでも医師であり臨床心理士。まして国連軍に属する軍医だ。患者として目の前にやって来た迷える軍人を、むざむざ死なせるような愚行は犯さない。ただ、そういうことも在り得るのだという事実を述べただけであり、武がそうなるとは言っていない。……ただ、このまま何も処置を施さず、彼が自力で立ち直ることを待っていたのでは……それは思いやりでもなんでもなく、自殺を促す殺人行為だ、と。みちるに対して釘を刺したのだった。

 言われるまでもない、という若干の反感を抱いたのを思い出す。みちるとて一個中隊を任される大尉である。深い専門知識は医師に敵わないだろうが、当然として、部下のメンタルケアについても知識を修めている。それを知らぬ医師ではないだろうが、しかし、敢えてその事実を述べた医師からは、真剣に武を救おうとしている秘めたる思いが感じられた。ならば、それに感謝こそすれ、苛立つ理由はない。みちるは改めて医師に問う。武を救う手立てはないか。隊長としての自身に出来ることはあるか。どうすべきか。医師は、言った。

 一番いいのは、原因の解消。追い詰める原因となったそれこそを取り除く……或いは、それに執着する心を別のベクトルに向けること。……そして重要なのは、それを強制するのではなく、あくまで自らの意思で決定させること。己の心というものは、他人がどう気遣い、諭し、支えとなったところで……結局は、本人にしか決められない。まして、今回のようなケースでは特に。「己を信じることが出来ない」ならば、「もう一度己を信じてみよう」と、そう思えるように促すこと。気をつけなければならないのは常の精神状態であり、深層心理。自分を信じることは出来ずとも、それでも足掻き立ち直ろうとしている武には希望が在る。

 最後に医師は、言うまでもないことですが、という前置きを述べて――例え「決めるのが本人」であろうとも、矢張り、傍で支える人たちの想いというものは無駄ではありません。そう言って朗らかに笑った。これには、みちるも苦笑せざるを得ない。なるほど、この医師は素晴らしい人物のようだ、と。そう思える。だからこそ信頼しようと決めて、そして……傍で支えるという役目なら、誰よりも適任が存在していることをみちるは承知しているために……。

 水月は、真剣な表情のままみちるを見つめている。時間にして僅か数秒の記憶の反芻だったが、向けられる強い眼差しを見れば、矢張り彼女こそこの役目を任せるに相応しいと確信する。……一時は武と恋人なのだろうと思っていたが、茜がやって来て以来、どうやらそれは外れていたらしいことは気づいている。けれど、だからと言って水月が武に想いを寄せていることに変わりはなく――どうやらそれは弟を大切にする姉のような親愛らしいが、何より、小隊長として、先任として彼の傍に在る以上、彼女以外の適任など居はしない。

 誰よりも武の近しい場所に在る者……という意味であれば、それは恐らく茜が適任なのだろう。だが、彼女はまだ任官して一ヶ月も満たない新任であり、実戦の経験もない。武の抱える葛藤を、ひょっとすると誰よりも理解しているのかもしれなかったが、軍人としての武を更正する以上は、矢張りそれは上官の仕事であろう。故に水月。そして自身。みちるが茜達新任の育成に手を取られる以上は副隊長である水月に一任するほかないし、これが例えば木野下が健在であったとしても、みちるは水月に任せただろう。

 かつて、武の過去を水月から聞いたとき。そのときにわかったことだ。

 白銀武という青年を、教え、諭し、導くことに於いて――――速瀬水月以上の存在はいない。

 水月は紛れもなく、武を救っていた。その存在が、かつての武を、その進む道を支え、方向付けたことは間違いない。彼がそこから外れ、堕ちてしまったことを悔しいと思ったこともあるだろう。それでも尚、水月が武を見捨てはしないというなら、彼女の上官として、みちるはそれを容認してやれる。水月の想いに揺るぎはない。向けられる瞳が雄弁にその事実を語っている。誰よりも武の崩壊を赦さない彼女なら、絶対にやり遂げてくれると信じられる。

「速瀬、白銀には一ヶ月の療養を命じている。これは暫定的なものだが、医師の判断によっては延長も短縮も在り得る。その間、実戦となれば白銀抜きで戦うことになるが……B小隊には苦労を掛ける」

「は! お気遣いありがとうございます。……ですが大尉、心配には及びません。次の戦闘までに、武は戻ってきますから」

 ――ほぉ。

 その水月の不敵な笑みに目を丸くしたのはみちるだけではなかった。それまで無言で、ただ覚悟を秘めた視線をみちるに向けていた武も、その言葉に驚き、水月へと向いていた。虚を突かれたような表情で見つめる武を、水月はしっかりと見据えて、ニッ、と。凛々しく笑って見せた。

「大尉、武を訓練に参加させることは許可していただけますか?」

「……本当なら、医師の判断を仰いだ上に私が裁可を下すところだが……理由は?」

 療養、というならば、作戦・訓練、それら軍務に関わる事項から遠ざけるべきであろう。……無論、通俗的な意味からすればそれは重症を負った者や病気に罹った者に対する処置であるため、ある意味で武には適さないのかもしれない。これを「精神病」と断ずるなら、武に適用することもおかしくはないだろうし、そうと言わずとも、今は休息が必要だとみちるは判断していた。正規の軍人が一ヶ月もの間、負傷したわけでも罹患したわけでもなく、ただ“療養”を必要とする。対外的な面子もあったし、他の部下達へのしめしがあったが、そんなもの、この特殊任務部隊のA-01には関係ない。夕呼直属という肩書きが、こういうときは巧い具合に作用してくれるのだ。……他の部隊との疎遠、という意味では不便でしかないそれも、必要だからこそ切り離されているのだということを承知しているみちるに異議はない。直属部隊の特権などと揶揄される心配さえないというのは、隊長を務める自分にとって、かなりのストレス軽減となっていた。

 それはさておき。

 水月は不敵な表情のままに、みちるへ向き直る。それは軍人として、副隊長としての顔であると同時に、武の“姉”として親愛を注ぐ女の笑顔であるように、みちるには見えた。

「武は莫迦ですから。独りで考えたって結論は出ません。なら、そうやって意味のない思考にウジウジ浸っているより、訓練に参加してボロボロに疲れ果てるまで動いていたほうが健全だと考えます」

「――んなっ、」

 スラスラと、立て板に水を流すとはこういうことだと言わんばかりの水月の言に、武が絶句する。何事か言いたそうにしていたが、隊長と副隊長の会話に口を挟むべきではないと判断したのだろう、困惑した表情で奥歯を噛み締めている。対して、水月はそんな武の様子を委細承知しているにも関わらず、あくまで不敵に、堂々と――まったくもって理由になっていない理由を――みちるに向かって述べていた。

 これにはみちるも笑うしかない。

 ああ、そうだ。これが速瀬水月。この豪放にして豪胆な豪快さが、彼女が彼女たる所以であろう。軍人としての論理ならば落第点。……けれど、武を救う意志を抱く水月としての論理ならば、これ以上の満点など存在すまい。痛快、と。みちるは清々しいまでの水月の言にひとしきり笑って、

「――いいだろう、速瀬。白銀のことはお前に一任しよう。無論、日々の報告は欠かさないこと。それから、せめて一時間は医師とのカウンセリングのための時間を設けること。……私からは以上だ。何か質問はあるか?」

「はっ! いいえ、ありません」

 軽やかに敬礼して、水月は副隊長としての表情に戻る。ん、とみちるもそれに答礼し、

「ならばよし。二人とも早々に訓練に掛かれ!」

「「了解ッ」」

 号令を下すみちるに、水月は堂々と、武は困惑したまま再度敬礼する。駆け足で部屋を出る水月を追って、武もまた走り出したが……一瞬だけ、本当にいいのかという疑問を載せた視線をみちるに向ける。……だからこそ、みちるはもう一度、「行け」と命じた。武は一度だけ俯くように視線を落として……次の瞬間には、より一層強い眼差しを見せる。

「大尉、ありがとうございます……」

 そう言い残して、走り出す。軍靴が廊下を鳴らす音だけが響いて、みちるはヤレヤレと嘆息する。――まったく、勝手な連中の多いことだ。

 独りで何もかも抱え込んで精神に支障をきたす者もいれば、それを支える役割を、自身が望む以上にやり遂げようとする者もいる……。唯一ついえること。みちるは、そんな彼女達の全員を深く大切に想っているし、最高に素晴らしい部下だと、誇りに思っている。だから、今後どれほどの困難と苦難が待ち構えていたのだとしても、みちるは絶対に諦めない。

 ――死力を尽くして任務にあたれ

 ――生ある限り最善を尽くせ

 ――決して犬死するな

 A-01発足当時の、連隊長の言葉が脳裏を過ぎる。……そして、それは今も尚、ヴァルキリーズ全員の心の中に根付いていて……。だからきっと、水月はやってくれるだろう。武は、その想いに応えるだろう。

 絶望に追い詰められ罅割れたその精神を、「護る」者としての意志と決意と覚悟を以って、凌駕する。

 それが出来たなら、きっと…………彼は、誰よりも強い戦士とて成長することが出来るだろうから。






 ===







 ハイヴ突入を想定してのシミュレータ訓練だったはずが、なぜか、唐突にチーム対抗の模擬戦闘へと変更された。実機訓練では決して出来ない唐突な訓練内容の変更だが、しかしシミュレータで実行するプログラムを既に設定していた遙にとって、それは驚き以前に「そんなぁ」と漏らしてしまうに十分な出来事だった。

 現在部隊を纏めるのは副隊長である水月。遙の親友にして妹の茜の憧れのひと。隊長のみちるが茜達新任の教導を執る間、訓練の指揮は水月が行うことになっている。それはいい。部隊の運用とはそういうものだし、以前から水月は副隊長としての任務に忠実に真剣に取り組んでいたのだから。……が、しかし。あまりに唐突な訓練の変更に眉を顰めたものは多い。遙に次いで水月との付き合いが長い美冴も小さな驚きを見せていたし、観察眼に鋭い梼子なども、何やら思案するように眉を寄せていた。

 けれど、そんな若干の困惑を見せる面々に、水月は頓着しない。突然だけど、と断りを入れてはいたが、その理由を口にしないというなら……或いは出来ないというのなら、それ以上、誰も疑問を抱くことはしない。……ゆえに、現在遙はシミュレータに設定されていた訓練プログラムを、ヴォールクデータを元に作成されたハイヴ突入用のそれから、市街戦を模擬したそれへと変更する。心中で水月に対して思うことはあったが、けれど自分も軍人の端くれ、A-01部隊の一員である。CP将校という役割から前線に出撃することはないが、それでも、共に戦場で戦う身という自覚も在る。まして、現在の最高指揮官は水月。副隊長の彼女がプログラムの変更を命ずるならば、それを迅速に実行するのが遙の役目であろう。

 それに――と遙は思考する。

 それに、水月は権力を振りかざして横暴を働くような無体なことはしない。

 世間では権力を持つもののイメージとして、その権力を前面に押し出して尊大に振舞う……といったものが在るのではないかと思う。傍若無人にして唯我独尊。権力を持つものこそが絶対で、その命令は如何なる道理を以っても歯が立たない。そんな、吐き気を催す下衆のような権力者。軍隊にも色々なニンゲンがいる。清廉潔白にして聖人君子のような者もいれば、臆病ながらも精一杯自身を奮い立たせる者もいるだろう。或いは、本当にそういった下衆の烙印が相応しい者も……。多かれ少なかれ、軍という組織にはしがらみが在る。綺麗ごとだけでは決して立ち行かない局面というものも存在する。

 権力とは――そういった局面、或いは難事を乗り越える時に発揮されるべき力であり、頼るべき手段だろう。そしてそれを与えられる者というのは、矢張り、その使いどころを理解し、その時に“そう”と判断できる者だろう。

 ならば先ほどのような下衆も、潔白なだけの聖人君子も、臆病ながら奮い立つ者も、権力を持つに値すまい。下衆は言うに及ばず、“それだけしか持たない”者に軍隊の中核を担う指揮官は務まらない。故に権力を与えられず――言い換えるならば、権限を持つものとは、往々にしてそれに相応しい者ということになるのだ。

 であるからこそ、今回の水月の行為は……少々の違和感を覚えるながらも、納得することはできる。それは水月をよく知る遙だけの納得ではなく、軍人としての水月の姿を知る者たち全員が抱くものだった。それゆえに水月は部隊の副隊長を任されているのだし、それ以上に、彼女の人柄や日々の在り方が皆を納得させるのである。

(でも、やっぱり事前に一言くらいはほしいなぁ……)

 表情には微塵も出さず、まして手を休めるなどということは一切なく。シミュレータの設定を変更し終えた遙は、CP将校としての任務を果たす。

「ヴァルキリー・マムよりヴァルキリー2、シミュレータ・プログラムの変更作業終了しました。現時刻よりシミュレータは使用可能です」

『了解、遙。――いい皆? チームはさっき伝えたとおり、各人全力を尽くすよーにっ!』

『『『了解ッッ!!』』』 『ちょっ!? 俺の意見はッッ!!?』

 通信機越しに眼下の水月たちのやり取りが聞こえてくる。通信機械室の窓から階下のシミュレータ・ルームを見下ろせば、それぞれに自分のシミュレータへと散っていくところだった。どうやら遙がプログラムを変更している間にチーム編成を行ったらしいが、それにしては了解と返す美冴たちの声がやけに愉しそうであったり、最後に聞こえた武の愕然とした声が印象深い。小さく首を傾げながら席に着けば、着座調整を完了した水月から、訓練内容と各員の配置についてデータが転送される。それを元に状況の詳細を設定するのだが、目にしたそれに、思わず「うわぁ」と間の抜けた笑い声を零してしまう。

 なんて出鱈目な編成なのだろう。チーム対抗というから、当然ながら部隊を二つに分ける必要があるだろう。……確かに、二つに分かれては、いる。――が、

「水月ったら、なにかいいことあったのかな?」

 そのチーム編成の何処をどう見たらそういう発想になるのかは、恐らく常人には計り知れまい。だが、水月という女性の心の裡も感情も、考え方も委細承知している遙なら、それを見ただけで理解できるのだった。



 ヴァルキリーAチーム:速瀬水月、宗像美冴、風間梼子、本田真紀、高梨旭、古河慶子

 ヴァルキリーBチーム:白銀武



 そして訓練は開始され……二十分後に、戦闘中ずっと続いていた武の悲鳴と絶叫とありとあらゆる恨み言が途絶えたのだった――。







「ぉーい、白銀くーん。なんでそんなに黄昏てるの??」

 どよどよと騒がしくPXにやって来た新任少尉たちの先頭に立っていた晴子が、カウンターに向かうより早くそう問いかける。周りに座る先任たちの表情を見る限り、今日の訓練で何か“してやられた”のだろうと予想した晴子は、殊更からかうような口調で聞いていたのだが……返ってきたのは言葉ではなく、ただ、遣る瀬無さに満ちた老人のような溜息。本気で何があったのかと気になって仕方ないが、どのようなことにせよ、愉快なことには違いあるまい。例えばこれが余程深刻な問題で在るならば……武は絶対に他者にそれを晒さないだろうし、まして、水月たち先任も笑いなどしない。

 つまり、なにか愉快な出来事でもあったのだろうという納得をして、とりあえず食事を受け取るためにカウンターへ向かう。

「あれ? 武、食事は??」

 続く茜が首を傾げながら尋ねるのを見れば……なるほど、武の眼前には料理の載ったトレイどころか、愛飲している合成宇治茶すら置かれていない。けれど、その茜の疑問を払拭するように、水月から早く自分たちの食事を取って来いと言われては、駆け足混じりにカウンターに向かうしかないわけで。

 で、だ。

「あはははは! 白銀ぇ~、お前なっさけねぇなあ!」

「喧しいッ!? お前は知らないんだよッ、水月さんの突撃力と宗像中尉の厭らしい中距離射撃になによりっ! 風間少尉の支援砲撃の恐ろしさをなぁああっっ!!」

 結論から言うと、非常に愉快だった。

 夕呼から呼び出しを受けているみちるを除き、全員が席に着いたところで早速の晴子の質問には、自慢げに真紀が答えていた。でしゃばるような真似を、と慶子が嗜めていたが、それで口を閉ざすならばそれは真紀ではない。途中、明らかにそれは嘘だろうという言動も多々見受けられたが、大まかに事のあらましを言うならば、こうだ。

 きょうのくんれんは、ぜんいんでしろがねしょういをぼこぼこにしました。

 ……まるで小等学校の生徒が綴る作文である。せめて漢字を使え、と言いたいところだが、面白ければそんな些細なツッコミなど意に介さないのが晴子であり薫だ。それゆえに後者は武に向かって爆笑し、本人から自身が味わった恐怖がどれほどの者であったかを詰め寄られながらに聞かされている。そんな、「負けた罰」として昼食を取り上げられ、興奮状態にある武の気持ちを完全に無視して「ところでさぁ」と話の腰を折ることができるのは、多恵の美点(?)だろう。その瞬間に武ががっくりと項垂れたのは、決して空腹に力尽きただけではあるまい…………。

 晴子は、そんな武の左隣で微笑んでいる茜を小突く。ん? と視線をこちらへ向けた彼女は――笑っていた。心の底から。

 それを見て――安堵する。

 今朝方、亮子に聞かされた話だ。昨夜の出来事……晴子と薫、そして、茜に多恵に亮子。二手に分かれて、それぞれが茜と武のために諸々の探りを入れようと画策して行動した深夜前。

 晴子と薫は水月の想いを確かに聴き取り、そして亮子は……武が何かに追い詰められていることを知り、そして、それでも尚、強く光り輝く茜の想いを知った。その時の亮子の表情は、情景を思い出したのか赤面していたが、それでも、幸せそうな笑顔だったことを思い出す。茜が笑っていられたというなら、晴子が心配するようなことはないのかもしれない。……それに、水月が武へ寄せる想いが家族愛のそれだということを知り、更に武が茜を好いているという事実を聞くことが出来たなら――最早、何も案ずることはない。

 そう思えていても、けれど矢張り、実際目の当たりにするまでは安心できないのも人間というものだろう。故に晴子は、午前中は敢えて何も聞かず、昼食、或いはその後の休憩時間を使って「茜と武」の両方を観察するつもりでいたのだが……どうやらそれは、杞憂に終わってくれたらしい。

 武は笑っている。彼に再び、どれほどの困難が立ち塞がったのかはわからないし、知らされることはないのだろう。師に託された刀を、幼馴染の形見ごと手放すほどのナニカ。……それでも、武は今、笑っている。それはきっと、かつて自分たちさえを騙していたという感情を抑圧する仮面などではなく、本心からの笑顔に違いない。

 茜は笑っている。昨夜確信した想いは揺るがず、危うさを見せた武はけれど、傍で笑ってくれている。その事実に、時折向けられる視線に、自然、頬が綻んでしまっている。

 それを見れば、安心できた。それだけで十分だった。

 きっとこの先、どれほどの過酷な出来事が待っていようと、きっとこの二人なら……二度と折れず、壊れず、道を過たずに。進んでいくことが出来るに違いない。



「もう~、しょうがないな武はっ。……はい、あ~~ん」



 唐突に、場の空気が凍る。

 晴子も薫も多恵も亮子も、まして、食堂のおばちゃん謹製合成肉じゃがのほこほこジャガイモを挟んだ箸を目の前に突き出されている武も。

 水月も遙も美冴も梼子も真紀も旭も慶子も。

 みんなみんな――ぽかん、と間抜けな表情をして硬直していた。――――――――――――否、それは本当に一瞬だけの静寂で。

「「「「ォォォおおおおおおおおっっっ!!??」」」」

 その歓声を聞いて、その光景を目の当たりにして、そのあまりに正規軍とは思えない子供のような騒がしさを目撃して……みちるは、A-01部隊が他者の目に触れないよう色々と配慮されていることに、心の底から感謝した。一人遅れてやってきてみれば、イキナリの乱痴気騒ぎ。貴様ら今は昼間だぞなどという極当たり前の指摘など耳に届くはずもなく、事態の中心らしい武と茜は双方共に顔を真っ赤にしながら一人分の食事を二人で食べているし……。そんな茜が武に箸を差し出すたびに、興奮状態の莫迦者どものどよめきが響き渡る。

「…………あ、おばちゃん、今日は下で食べるからテイクアウトでお願い」

「おやみちるちゃん! ……いいのかい? あれ、あんたの部下だろう??」

 いいんです。ええいいんですとも。例え目撃しているのが食堂のおばちゃんたち食料班の極々一部であろうとも、あんな恥ずかしい連中とは一秒たりとも一緒にいたくなかった。

 ――まったく……見ているこっちが恥ずかしい。矢張り水月に任せたのは失敗だったのだろうか。そんな毒にも薬にもならない思考をめぐらせながら、何故かテイクアウトで頼んだはずの食事が極当たり前に、ここで食べる時と同じ様相でトレイの上に鎮座している。おのれおばちゃん、裏切ったか――!? 愕然と視線を向ければ、悪戯に笑うおばちゃんと目が合った。

 みちるはがっくりと項垂れて、ああ……せめて違う席で食べようかなどと未練がましく現実から目を逸らし…………けれどそれも、空気を読んだのか読んでないのか、遙の呼びかける声に遮られるのだった。哀れ。




[1154] 守護者編:[一章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/24 15:43

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:一章-04」





 肉を断ち斬った感触が、拭えない。







 ===







「おーい、シロガネぇ。ちょっと付き合え」

「――は?」

 それは唐突に。名を呼ばれて振り向けば、顔面めがけて飛んでくる棒。いきなり過ぎてそれが何なのか判断できなかったが、鍛えられた肉体が咄嗟に反応し、防ぐように掴んでいた。驚きに停止したままの脳髄が徐々に活動を再開し、右腕が掴むソレを認識する。――模擬刀。近接戦闘訓練でお馴染みの訓練用の刀。どうしてそんなものが自身の腕の中に納まっているのかというと、要するにソレが飛んできたからで……つまり、模擬刀を投げた人物が存在するわけで……。

「なっ、なにするんですかっ!? 本田少尉!」

「――ちっ、止めやがったか」

 小さく舌打つように悔しがるのは真紀。つい先ほど武を呼び止め、そして、あろうことか振り向いた瞬間にあわせて模擬刀を顔面目掛けて投げて寄越した張本人。武はそんな風に悔しがる真紀の神経を若干疑いつつも、なにをしてくれますかあなたは、という意味合いを込めて睥睨する。しかし当の真紀はそんな武に一切の謝罪もなく、のんびりと向かってきていた。その左手には武が手にする模擬刀と同じものが握られていて……、

「ほれ、さっさとグラウンドに行くぞー」

「……え?」

 ぐいぐいと腕を引っ張られる。真紀と武の身長差は約30センチ。同年代女性の平均よりも若干小さいだろう彼女は、本来なら武の襟首でも掴んで引き摺ってやりたいところなのだが、如何せん手が届かないために腕を掴んでいた。ついでに言えば相当に鍛えているはずの筋力も、大の男――しかも、こちらも彼女同様に鍛えている――には通じず、結果、一歩たりとも進めていない。腕を引っ張られている武は半ば以上ポカン、としながらも、自身の手の中の模擬刀と真紀の握るそれとを見比べて……ようやくに理解した。

「ええっと……少尉、今から近接戦闘訓練に付き合え、と。そういうことですか?」

「アァン? おまえ何聞いてんだよ? そう言ったじゃん」

 ――いいえ絶対に言ってません。

 首を傾げながら尋ねた武に、オマエ莫迦じゃないの、とばかりの冷たい視線を向けてくる真紀。一期上の先任にして、年上……であるはずなのに、どうしても年上と思えない言動に、武は少々頭が痛くなる。戦術機に乗って戦っている時は尊敬すべき素晴らしき先達であるのに……どうして、普段の彼女というものはこうも子供染みているのか。

 それはそれとして、武は再び首を捻る。真紀がこういう人物であるということは十分理解しているし、突撃前衛同士、何度か手合わせをしたこともある。もっとも、それは日常のコミュニケーションの延長というか、要するに会話の弾みで拳が飛んだり蹴りが炸裂したり、時には投げ飛ばしたり投げ飛ばされたりというささやかなものであり……今のように、明らかな「訓練」の誘いは、実は初めてだったりする。まして、模擬刀を使用する……とは、一体如何なる心境からだろう。

 A-01部隊に任官してから、武は戦闘訓練の類を行ったことはない。個人的な鍛錬は恐らくも何も全員が当然のように行っているのだろうが、矢張り衛士の本懐は戦術機の操縦、これに尽きるために、訓練の項目として近接戦闘や近接格闘、射撃等は織り込まれていない。……無論、それらは任官前の訓練兵時代にみっちりと仕込まれているために改めて実施しない、というだけのことでしかないが。

 戦術機でBETAと戦闘する際に最も多用するのは矢張り突撃銃だろう。遠距離からの攻撃が可能で、威力も高く、何より一度に多数を殲滅出来るとあれば、誰だってそれを有効に活用する。照準はコンピュータがオートで行ってくれ、衛士はタイミングと移動し続ける標的の行動を読んでトリガーを引く。ただそれだけで効果が望めるとあらば、必定、使用する頻度は多くなる。勿論、言うほど簡単な作業でもないのだが、戦場においてこれほど頼りになる装備はない。弾丸が続く限り、という制約はあるものの、その威力は推して知るべし、といったところだ。

 また、衛士にとって頼るべき装備の一つである長刀――突撃銃の最大の難点が弾丸、というならば、こちらは弾数制限もなく相応の殺傷能力を秘めているために、これも多用されている。特に帝国軍衛士にはその傾向が強く見られ、それは「刀」という日本古来の武器に武人としての精神を見出し、侍の誇りを体現させるためでもある。かく言う武も長刀を頻繁に用い……というより、明らかに長刀を握っている時間の方が長いのだが、要するに、使う者にとってはこれ以上ない必殺の得物ともなり得るのだ。両手持ちとして設計されているために片腕で振るうと機体にも長刀自体にも多大なる負荷が生じるが、それを見越して耐久度も高い。唯一の難点を挙げるとすれば……それは即ち、扱うものの技量が直に影響する、ということだろう。有効な間合いというものもあるし、なによりも、技――斬る、というテクニック。剣術を体得している者とそうでない者、或いは技を磨き抜いた者とそうでない者……それぞれを比較した時、その差は顕著であり、敵に与えるダメージも、長刀に蓄積する負荷も、雲泥の差が生じるという事実が在る。


 そういった標準的な戦術機の装備についての基本を訓練兵時代に“射撃訓練”や“近接戦闘訓練”等で体に叩き込み、身に付けさせ、覚えこませるわけだが……矢張り、往々にして長刀の扱いというものは個人差が顕れるものだ。A-01部隊内でもそれは見受けられるのだが……そこは流石に副司令直属の特務部隊であり、ハッキリと目に見えるような格差はなく――むしろそれが顕著ならば、それこそが問題なのだが――それでも、技を持つものと持たざる者では“耐久度”ならびに“機体の損耗”、“BETAへのダメージ”等、戦闘が長引けば長引くほどに、「技」による差が生じてくる。

 本人の戦闘スタイルというものもあるだろうし、生身で鍛え培ってきた経験、というものも影響するのだろう。戦術機に“己自身を体現するシステム”が組み込まれているというなら、それは当然の結果だった。そして、そういう差が生じることを前提とし、個々人が十二分に承知しているからこそ、日々の訓練が重要なのである。また、一つのスペシャルを持ちながらもオールマイティにこなすのが優秀な兵士に求められる条件でもある。……故に、長刀に拘りを持つ武はより射撃の技能を高める必要があり、長刀の扱いを苦手と感じている真紀はその感覚こそを研がねばならないのだ。

「つうわけで、むかつくけどオマエに剣術を教わってやらんこともない! ――さぁっ、かかってこい!!」

「いやいやいや、だからなんで俺なんですか」

 結局なし崩しにグラウンドまで連れ出され、模擬刀片手に向かい合う武と真紀。真紀は既に鞘を投げ捨て、刃を潰した銀色の刀を構えている。対する武は困惑した表情のまま、臨戦態勢の彼女を宥め落ち着かせるために思考を空転させていた。ここに引き摺られるまでに色々と考えて、それなりの解答と思しき事項は推測できていたが、だからと言ってなぜその相手が武なのかがわからない。剣術の訓練をしたいというなら、もっと適任がいるのではないか……と思考をめぐらせ、ああ、そういえば“剣術”なんて厳しい名前のつくものを修めているのは隊内で自分だけだったと思い至る。元同期の亮子も剣道をやっていたはずだが、真紀はそれを知らないのだろう。或いは…………志乃がいれば、また違ったのかもしれない。聞いたことはないが、彼女の戦闘スタイルを思い出せば、十分に長刀の扱いに長けていたことがわかるのだ。もっとも、今更それを望んだとて、既に亡くなった者に教えを乞うことは敵うまい……。

 故に、武。

 月詠の剣術を継ぎ、その独特の技を以って敵陣を暴風の如く駆ける様を目にしている真紀にとっては、大変に遺憾ながらも――コイツしか、いない。

 上官である水月も相当な腕前だと認識し、無論目標にしているのだが、けれど、長刀による戦闘に限定するならば…………幼少の頃より鍛え続けていた研鑽の積み重ねもあって、矢張り武が僅かなりとも優れていると判断したのだった。

 そういう真紀の思考を想像すれば、武としてはなんというは面映く照れくさいものであり――同時に、どうしようもない恐怖を呼び覚ます。

 彼が月詠の剣術に打ち込んだのはひとえに幼馴染の少女を護る力を欲したからであり、或いは、彼女を喪った絶望から逃れるためにのめり込み、再び歩き出すために縋りついた……そんな、様々な感情の紆余曲折の末に在る現在……それは人斬りの外道へと堕ちてしまっている。

 己の手は、血に染まっているのだ。

 その剣術は本来在るべき姿を失い、無道のままに錯綜している。…………弱く、脆い精神が砕けた先の奈落に、横たわり、転がったままだ。


 そして今尚――――肉を断ち斬った感触が、拭えない。


「…………」

 脳裏を過ぎるのはくるくると弧を描き、鮮血を散らしながら落ちる女の腕。香月夕呼という科学者の、細く柔らかな、腕。刃が肉に埋もれる瞬間の弾力、刃先が皮膚を裂き肉を裂き骨を断つ感触。最後の薄皮を突き抜けた刹那の――あの、プツン、という幻聴に似た末期の音。迸る赤色。冗談のように散った血潮。

 忘れることなんて赦されない……己の、罪。

 振り切れた感情の暴走を止められず、否、「止めろ」という意志さえ働かないままに、ただ、殺意が衝き動かすままに――あの時、俺は、殺そうとしていた……。

 ソレは怒りと怨みが入り乱れて沸騰した明確な殺意。コロス、というどす黒い感情の爆発。それが右腕を断つだけに留まったのは果たして偶然か、それとも、なけなしの理性が働いた結果か……。どちらにせよ、武が夕呼を斬るに至った動機は殺意。今までの自分も与えられた想いの束も全てが灼熱の怒りに燃え尽きて見失って……それを抑える術はなく、抑える理性もなく。ヒトとして生きる道を殴り捨て、外道の底に堕ちることを選択したその瞬間の、あの感触が……拭えない。

 ――でも、それでも。

 その罪を忘れるな。その罪を、受け止めろ。それをやってしまった自分の弱さから目を逸らすな。そうなってしまった自分の愚かさを見つめろ。人斬りの無道に堕ちたというなら、真那に託された弧月を握る資格がないと嘆くなら――それを、悔しいと思うなら。

 歯を食いしばってでも、前へ進め。再びその手に弧月を握るために。二人の師に託された想いを取り戻すために。月詠の剣術の後継であると、胸を張って誇れるように。衛士として、ニンゲンとして、再び、正道に立ち還るそのために。どれだけ醜くても、無様でも、足掻いて足掻いて、足掻きぬけ……。

 ――そう、決めたんだ。

 だから、立ち止まらない。眼を背けたりしない。……逃げ出さない。

 模擬刀を握る。鞘から抜き放ち、正眼に構える。両手で柄を握った瞬間――――身震いするほどの戦慄が込み上げた。臓腑を抉るような記憶のフラッシュバック。或いは、リーディングによる再生か。飛び散る血飛沫に濡れた夕呼、霞、そして武。赤色を撒き散らしながら床に転がった腕の、びくびくと痙攣する様。額に冷たい汗が浮かんだ。心臓は狂ったように小刻みに蠢動して、呼吸は浅く速くなり――――――、ぎゅっ、と、眼を閉じた。

 瘧のように震える身体を叱咤して、ともすれば恐怖に竦んでしまいそうになる精神を、情動を、コントロールする。

 現在の武に最も不足しているもの……感情を制御するその行為、衛士として、軍人として絶対必要とされる“自分自身の制御”。純夏を奪ったBETAへの復讐に眩まされて、いつの間にか疎かにされたままだったそれを、必死の思いで成し遂げる。……そう。白銀武という青年にとっては、そんな、軍人であるならば誰もが成し得ている自身の手綱を握ることこそが、最も難しいのである。 


 今までの愚かしいまでの失態を見つめ返して、ようやくに気づいた事実。

 いとも容易く振り切れる感情に、それを抑制することの出来ない理性。目の前の事象に振り回され、誘発された衝動に歯止めが利かず。そしてそもそも、それを制止しようという思考が働かない。……そんな、下らない餓鬼のような自分。純夏を喪った……そう思っていたあの時の……十五歳の子供のままの白銀武。ソイツが、ソレが……今も尚、彼自身を構成している。

 三年という月日を重ねて、表面上の経験を積み、知識も技能も習得して……けれど、何一つ“成長”することの出来なかった最大の原因。


 ――俺は、あの1999年の横浜から、一歩たりとも進めていなかった――


(でも、それでも、与えられた……手に入れた、たくさんのものが在る……ッ!)

 手を差し伸べてくれた水月。傍で支え続けてくれた茜。護るための力を託してくれた真那。命を救ってくれた志乃たち。過ちを教えてくれた水月。見守ってくれたみちる。非道の運命に立ち向かう強さを見せた霞。外道の謗りさえ厭わずに人類を救う覚悟見せた夕呼。……変わらずに傍にいてくれる茜。――生きていてくれた、純夏……。

 その全てを。自ら手放してしまった何もかもを。……もう一度、取り戻すと決めたのだ。

 餓鬼のまま停滞していた自己を変える。どれだけみっともない姿を晒そうと、それでも、成長してみせる。守護者として、護るものとして……そのための力を、手にする。

 ――だから、俺は、前に進むんだ。

「……行きます」

「よっしゃ、来いやぁ!!」

 目を開いた武の正面、同じように正眼に構えた真紀が……子供のように目を輝かせて、けれどどこまでも真剣な表情で、吼える。二つの銀色の刃が打ち合うたびに澄んだ音を響かせて――――武は、今……ようやくにして、その一歩を踏み出していた。







 ===







 その二人が打ち合う様を偶然に目撃して――月詠真那は、足を止めた。

 国連軍衛士の標準軍装として支給されている蒼いジャケットを纏った男性と女性。手にする模擬刀を苛烈なまでに打ち合い、互いに必殺の意思を込めて肉薄する。時折吼えるような呼気が発せられ、それに呼応するように強烈な剣閃が大気を引き裂く。執拗に攻撃を繰り返す女性衛士の剣を、対する男性衛士は巧みに受け、いなし、或いは完全にかわしきり、一撃たりとも喰らいはしない。防御に徹していた彼が突如として攻勢に転じれば、入れ替わるように女性が受けに専念する。

 互いが互いの実力を知り、手の内を知っている。それ故に決定打がなく、攻撃と防御が繰り返され――どうやら、随分と長い間この打ち合いは続けられているらしい。疲労のためか、背の低い女性の動きが次第に鈍くなってきている。剣を振る動きが大振りになり、攻撃の間隔が開いていく。男性はその隙を見逃すまいと容赦なく剣戟を加え、畳み掛ける。ついに一撃さえも受けきれなくなった女性の手から模擬刀が弾け飛び、その剣劇は終わりを告げた。

(国連の正規兵が剣術の訓練とは……珍しいこともあるものだ)

 遠方より眺めていたために彼らがどの部隊に属するものなのかは判別がつかなかったが、それぞれが相当な実力を秘めているらしいことは、そこからでもよくわかった。
模擬刀を飛ばされた女性は悔しそうに地団駄を踏み、「もう一回だゴルァア」と外見に似つかわしくない暴言を吐いている。相当な距離があるはずなのにハッキリと聞こえたことから、大層腹を立てているらしい。ずんずかと詰め寄られた男性の方は戸惑うように一歩後ずさっていた。

 その腰の引けたような仕草に、なんとも情けないことだと嘆息する。

 そもそも、国連軍では剣術……模擬刀を使用した近接戦闘訓練を重視していない傾向がある。これは国連軍衛士の育成指針の大本が、“圧倒的火力による武力制圧”を主とする米国軍の考え方を参考にしているからであり、帝国軍或いは帝国斯衛軍のように型の訓練や技の習得に時間を掛けるようなことをしない。
必要最低限、戦術機に搭乗した際にその有効な間合いや、長刀そのものの扱い方を習得するためのカリキュラムでしかなく、得てしてその実力は日本人に遠く及ばない。

 無論、中には長刀の有用性を十二分に理解し、ともすれば帝国軍人と同等に渡り合うほどの卓越した技能を修得するに至った外国人衛士もいるにはいたが、大雑把に見ても、矢張り国連軍内で長刀を重視する者の割合は少数なのである。……そんな国連軍の事情を鑑みれば、どうやら遠方に見えるあの二人の衛士は相当に長刀の扱いに長けていると評するべきだろう。特に男性の方は、かなりの使い手であることが予測できる。

(もっとも、何か危ういようではあるが……)

 漠然と眺めていてふと感じたというだけで、別段、何か確証があるというわけではなかった。――が、なにか、直感的な部位が、そう反応するのである。

 あの男性衛士は、今、少なくとも「正常ではあるまい」……と。

 どうやら男女共に日本人らしく、女性の方は喧々と男性に吼え立てている。風に乗って聞こえてくる言葉が日本語であったから、という判断でしかないが……そもそも、この横浜基地職員の半数以上が日本人というなら、まず間違いなく、彼らは真那と同じ、日本人なのだろう。

 ――少々、興味が湧いた。

 本来ならば帝国斯衛軍人である真那と、国連軍人である彼らとは接点を持たない。要人警護の任に就く彼女は、この基地において謂わば異端であり、腫れ物に近い。かつての国連軍イコール米軍、という図式は、国連軍側の努力と日本の理解によって瓦解しているが、それでも米軍の息がかかった国連は、本音の部分では帝国軍との関係に恐々とした感情を抱えているのだろう。……事実として、真那はこの横浜基地に駐留してからの一年半あまりの時を、国連軍人と過ごしたことはない。強いてあげるならば剣術の弟子である白銀武に、彼の教導を務めていた神宮司まりも軍曹…………警護対象である御剣冥夜……ぐらいなものだろう。もっとも、この三人に関しては国連軍という括りではなく、あくまで個人的な感情による結びつきを実感している。属する組織に拘らない、ニンゲンとしての繋がり、とでも言えばよいのだろうか。

 そういった真那自身の繋がりを除けば、彼女はこの基地の職員から声を掛けられたこともないし、その逆もない。無論、それが必要なことであるならば、真那とて国連軍職員と会話することくらい容認しただろう。……が、真那も、そして国連側にも、互いに“関わりあいたくない”という、潜在的な思考が潜んでいれば、当然ながらそこにコミュニケーションと表現できるような行動は発生しないのだった。

 そんな思考をつらつらと巡らせながら、未だに何事か吼えている女性の方へ足を向ける。相手からすれば突然に斯衛の衛士がやってきているのだから、相当に驚くだろう。けれど、それは当然の反応だ。これがもし逆の立場だったとしたら、真那だって驚くし――否、何を企んでいるのかと、敵意さえ抱くだろう。

 それくらい、真那の立場は微妙なのだ。国連軍の中に在る斯衛。あくまで斯衛としての本分……警護対象の守護、を果たすためだけに許されている駐留。例え小さな諍いが起きたとしても、本当に最悪の場合だが、それが国際問題に発展する可能性だって存在する。

 これがただ単に模擬刀を打ち合っているだけの男女、であるならば真那とてわざわざ近づいてみようなどとは思わない。国連にもなかなか腕の立つ者がいる――そういう感想を抱くだけで、おしまいだろう。……だが、今回は少々事情が異なる。――興味が湧いた、のだ。女性に、ではない。あの男性の動きに。

 どこか、見覚えのある脚運びに、剣の軌道。相手の攻撃の全てを読みきってかわし切る洞察力と胆力。機会が望めるならば一度手合わせしてみたいと思わせる、そんな実力と才能を匂わせた彼の顔だけでも見ておきたいと、そう思った。――声を掛けてみるか? いや、それはやめておいた方が賢明というものだろう。同じ帝国軍人というならまだしも、流石に国連軍人へいきなり声を掛けられるほど自分は無神経ではないし、先程のような問題も在る。第一…………話し掛けるにしても、なんと言えばよいのやら。なかなかの腕前、と。そんな風に思ったままを伝えればよいのか?

 ――莫迦な。

 ふ、と。自身の無意味な思考に鼻で笑う。

 これは完全に自身の任務とは関係ない。冥夜の元へ赴く道中、偶々目にしただけの訓練風景。ただ、それだけでしかない。斯衛としての本懐を果たすならば、そもそも“顔だけでも”という思考が割り込むだけでも許されないというのに、それを行動に移している時点で、真那は相当に逸脱している。こんな風に自身の衝動を抑え難いと感じるのは、恐らくは武の存在を知ったとき以来だろう。父がその才能を見出し、希望を抱いた少年。僅か数日の稽古であったにも関わらず、彼は実に十数年もの間、たった独りでその型を繰り返していてくれた……あの時の、喜びに満ちた、衝動。それ以来の“興味”、“好奇心”を抱きながら、自然を装って近づいていく。

 距離が近くなるにつれて、女性衛士が何を言っているのか聞き取れるようになってきた。……男性衛士はこちらに背を向けているために、まだ顔は見えない。一方的に女性から責め立てられているようだが……その姿は、少々情けなく映る。――貴様、それでも日本男児か。ほんの僅かに、真那の中で彼の評価が下方修正された。国連軍のだらしなさに柳眉を上げ、心なしか、憮然とした表情に。

 ……と、真那の足が唐突に止まった。

 二人までの距離はおよそ30メートル。そこに来て、どこか違和感に気づく。……いや、どちらかといえば既視感にも似た――あの男……。そういう、困惑。

 む、と真那は目を眇める。その後姿になんだか見覚えの在るような気がして、じーっと見やること僅かに数秒。小さく驚いたように目を丸くした真那は……次の瞬間には、口元をほころばせていた。――なるほど、道理で見覚えの在る……。

 再び歩みを再開した真那は、先程まで抱いていた僅かの気負いもなく、ゆっくりと距離を詰める。赤色の軍服が風に揺れて、碧色の長髪をゆるりと踊らせる。やがて、近づくこちらに気づいたらしい女性と目が合う頃には、彼の輪郭もハッキリと視認できていて…………

「あ」

 驚いたように口を開ける女性。襟元の階級は少尉。少々小柄ながらも、しっかりと鍛えられた肉体は健康的で瑞々しい。ぎょっとした表情のままこちらを見やり、慌てたように敬礼を向けてくる。その彼女の所作に気づいた男性がこちらを振り向き――――――真那も、彼も、それぞれが驚愕に目を見張った。

「月詠中尉…………ッ」

「たけ、る――」

 心底から驚いたように、白銀武はやや大きな声を上げた。それはそうだろう。この二ヶ月以上顔を合わせていなかった……もう二度と、顔を合わせることなどないと思っていた剣術の師に、こんな唐突に再会出来ようとは夢にも思っていなかったに違いない。例え同じ横浜基地に在ろうとも、互いの立場が違い過ぎるし、なにより、武が所属するA-01部隊の特殊性を鑑みれば、恐らくはこの基地が戦場とでもならない限り、共に戦うことさえないだろう。そんな彼女が、今、目の前に立っている。それを、驚かずにいられるわけがなかった。

 対して、真那は心臓を握りつぶされたかのように――一瞬ではあったが――身体機能が停止していた。視界には武の顔、驚いたような表情、すぐに笑顔へと移り変わる青年の姿。その、顔に走る抉られたような、傷痕。――ああ、そうか、その傷こそが……。真那は思い出す。七月のはじめ、朝鮮半島で行われた間引き作戦。重症を負い、血塗れで帰還した武の初陣。

 斯衛としての月詠真那と、個人としての月詠真那。その立ち位置の相違を悟らせた、あの感情。剣術の師として彼の前に現れることはないのだと下した自身の決断。そういった、諸々の記憶が瞬時に巡り、思い出される。真那は苦虫を噛み潰したような顔をして、内心で、しまったと罵っていた。


 同時に。

 なぜ、気づけなかったのかという小さな驚きが過ぎる。「彼」は武だった。一年近い時間を師弟として過ごし、共に剣術の稽古に明け暮れた……絶対に見間違えるはずのない、愛すべき弟子。こちらに背中を向けていたこともあるだろう。或いは、距離が離れすぎていたことも。……けれど、真那の中の女性が「否」と断ずる。――武だというなら、わかっていた。

 そういう自負が、存在する。故の驚き。そして自身への疑問。……どうして、こんなに近くに来るまで気づけなかったのか。彼の動き。どうやら“全うな”剣術の訓練であったために月詠の剣術が螺旋の軌道を描いてはいなかったが、それでも、武の癖というものは見覚えているし――そもそも、そういう彼の動きに興味を抱いたのだ。

 真那にとっては、興味を惹かれた男性衛士……それを武と気づけなかった自らがショックだった。

 二度と、それこそこの基地が戦場にでもならない限り再会はないと“決めていた”武に、こうして再び見えた事実。けれどそれは偶然の邂逅でしかなく……そして、彼女が、「あれは武だ」と気づいていたならば実現しなかった再会であった。そのことを、苦い、と感じる真那がいる。

 気づけなかった事実。再会してしまった事実。武の顔に刻まれた傷。なにより――――“危うい”、「正常ではあるまい」という直感。

 そうか、と。

 気づく。

 その危うさが醸し出したナニカが、真那の目を曇らせたのだ。或いは……真那の知る武を、彼女でさえ気づけないほどの「誰か」に変貌させてしまったのか。つまりそれは真那と武が別れていたこの三ヶ月あまりの間に起きた事象であり……考えられるのは、武が出撃した『伏流作戦』。若しくは、特殊任務部隊として運用されるA-01部隊ならではの過酷な任務に関わることで徐々に変わっていったのか……。武の傍にいなかった真那には――自身の道を選び取り、進んでいくことを決めた彼を止める術を持たなかった彼女には、それはわからない。

「…………お久しぶりです、月詠中尉」

「――っ、」

 どこか万感を込めたような、けれど、今すぐにも泣き出しそうな複雑な表情をして、武が敬礼する。めまぐるしく巡った思考がどれ程の時間が流れたのかと錯覚させたが、武の傍らに立つ女性衛士が真那に向けて敬礼してから、僅かに数秒も経過していない。一拍の間を置いて、真那も敬礼を返す。国連、斯衛の違いはあれど、そこは互いに軍人である。少尉と中尉との間には、言葉には出来ない明確な壁が存在する。親しき仲にも……という諺もあったが、正に、それが軍隊というものであろう。

 どこか翳りを感じさせる武の瞳に、真那は口を噤む。突然の再会に戸惑う素振りを見せた武も、どこか言葉を発せないまま……暫しの沈黙が流れた。

「あー……っと、おい、シロガネ。ひょっとしてこのヒトが……?」

「ぇっ?」

 その、どこか居た堪れない空気を、恐る恐ると言った具合に女性――真紀が遮る。普段の破天荒な彼女ならそんな気遣いは一切無用というところなのだろうが、さすがに今回は相手が悪い。なにせ斯衛の赤。しかも中尉だ。これが例えば勝手知ったるA-01部隊ならば少々のお茶目も笑って殴られて終わりだろうが、そんな振る舞いをこの赤服相手に晒そうものなら、腰に提げた立派な拵に真っ二つにされかねない。……初対面でありながら、けれど真紀は本気でそんなことを考えていた。

 そのため、振った話題は至極当たり障りのない、けれど武と真那の二人共の空気を緩和させるに十分なものだった。小さく驚くように真紀を見た武は、ほんの僅かな逡巡の後に――ええ、はい。はにかんだように笑って、今度は、真っ直ぐに真那を見つめた。

「このひとが……俺の、師匠です」

 その言葉の――――どれ程に嬉しいことか。真那は、込み上げてくる温かな感情を胸いっぱいに感じていた。どこか危うさを感じさせるほどに変わってしまったらしい武。痛ましい傷を負い、敢えてそれを晒す覚悟。けれど、それでも……尚、真那を師と呼んでくれる。

 真那は眼を閉じた。結ばれていた口元は緩くほどけ、ふ、と……小さく笑みを形作る。

(アルェー……? なんか、今度はまた微妙な空気が……)

 どうやら先程までの居た堪れない空気はどこぞに吹き飛んでくれたらしいのだが、一転、甘苦しい雰囲気が漂い出す。――付き合ってられねぇ。そう判断した真紀は、武の変態剣術の師匠を目の当たりに出来ただけでもよしとしよう、と適当に理由をつけて退散を決める。無論、立ち去る際に真那に対して敬礼は忘れなかった。腐っても軍人である、その辺りの教育は訓練兵時代から徹底されていた。

「それでは、自分はこれで失礼します……シロガネ少尉、訓練には遅れるなよ」

 言い残し、さっと駆けて行く真紀。声をかける暇さえなく、あっという間に基地内へ戻って行った。取り残される形となった武は茫然とその背中を見送るしか出来ず……というよりも、真紀が発した“軍人らしい”言葉遣いを、聞き間違いじゃぁないのか、と呆気にとられていた。当然、真那とてあまりに唐突な真紀の退場にぽかんとしている。

 しばし、そんな風に二人ともに硬直していると……なんだか可笑しくなって、どちらともなく笑っていた。

「中尉……その、本当にお久しぶりです」

「ああ、そうだな。……遅くなったが、任官おめでとう、少尉」

 ――ありがとうございます。真那の視線を正面から受け止めて、武は……拳を握り、しっかりと、頷いた。

 脳裏を巡るのは三ヶ月前の、夕呼の采配でA-01訓練部隊へ転属になった時のこと。総戦技評価演習を終えた翌日。207小隊の彼女たちが使うのとは別のPXで、独り、夕食を食べた後の…………真那との邂逅。あの、彼女の言葉、笑顔、信愛――託された弧月。月詠の剣術を継ぐに相応しいと、そう認めてもらえた時。



 ――肉を断ち斬った感触が、拭えない。


 与えられた全てを、託された想いを……地の底に貶めた己の暴挙。血に濡れた、血を啜った……師の刀。無道に人を斬り、血を吸ったそれは妖刀となる……。ならばあの弧月は既に妖刀であり――否、その血に染まった無道こそを晴らすために、一歩を踏み出したばかりなのだ。

 蘇る記憶に翻弄されるな。

 されど決して目を逸らさず。

 受け入れろ、受け止めろ。

「……………………………………白銀少尉、貴官が何も言わないというなら、私は何も聞く気はない……」

「――ッッ!?」

 ハッとして、真那を見る。気づけば視線を地に向けていた武だったが、けれど――驚きに見つめた彼女は、真那は――哀しむように、怒るように、鋭くも熱い感情に満ちた眼を、武に向けていた。

 武のことを務めて「少尉」と呼び、自分たちが現在置かれている状況というものをまざまざと突きつける真那。だが、そのどこか押し殺したような圧倒的な感情の波のうねりに圧されて――あろうことか、武は彼女の感情をリーディングしてしまう。――それは、言葉になんて出来ない、師の真那の彼女の――――――想いと惑いと哀惜と怒りと戒めと信愛と情と自制と……それら、たくさんの、ナニカ。武に向けられるものと、それを打ち消すかのように真那自身へ向けられるもの。

 葛藤。

 そう表現するに相応しい思考と感情の渦が逆巻いていて。武は不意に覗いてしまった自身を罵倒する暇もあらば、ただ、彼女から向けられる圧倒的なまでの“想い”に打ち震えていた。これほどまでに、真那は武を信じてくれている。想いを与えてくれている。……託されて、いるのだ。――俺は。

 武が何も言わないならば、何も聞かない。それは彼女なりの優しさなのだろう。いや、覗いてしまった葛藤を見るならば、……戒め、か。

 既に武は手のかかる弟子ではない。故に彼女が武の進む道に口を挟む権利はなく、そんな傲慢は己自身が最も赦さない。

 そういう、真那が自分自身へと課した戒め。それを徹底しようとする意思と、けれど、それでも抑えきれない感情。……そんな相反する理性と衝動が混ざり合った先程の言葉は、酷く武の心を揺さぶった。そんな風に言われてしまっては……つい、甘えて、縋りついて……頼ってしまいそうになる。そんなことは武自身が赦さない。そんな弱音を吐いていいわけがない。真那は武に弧月を託してくれた。今は亡き師匠の遺志を、彼女自身の想いを乗せて、あの刀を託してくれたのだ。

 ――その信頼を裏切ってしまったけれど……もう二度と、彼女達に。

 無様な自分は見せられない。

「…………」

 真那は何も言わない。腕を組んで沈黙したまま……変わらぬ複雑な色を滲ませた表情で、武を見つめている。その胸中では、武がリーディングしてしまった表層意識のそれ以上に、感情が渦巻いていた。こうして武を目の当たりにするまで、彼が武なのだということに気づけなかったこと。それは武が「変わってしまったから」で、誰よりも、武自身がそのことに慄いているのだとわかる。この数十秒の間にもどこかしら翳りを見せ、けれどそれでも気丈に在ろうとする姿を見せられれば……真那の中で燻っていた感情は、ちりちりと焦がれて溢れてしまいそうになる。――駄目だ。

 それは、認められない。その感情は、抱いてはならない。自分は斯衛の赤であり、そして、既に武とは何の関係もない。月詠の剣術の後継……そういう意味では繋がったままの自分たちだったが、各々の立ち位置、属する組織、突き進むべき道……その胸に抱える、戦う意志、護るべきもの。それら、たった一つの繋がりだけでは共に在ることを許されない様々な断絶が、二人の間には横たわっている。他の誰でもない、真那自身が「そう決めた」のだ。――だから、駄目だ。

 ともすれば自分から訊ねてしまいそうになる。或いは武も、吐き出してしまいそうになる内心を抑えることに必死になっているのだろうか。弱音を零して欲しいと願う真那と、そんな己こそを浅ましい未練と断じる真那がいる。


 まだまだ未熟――そうやって自身に結論を下し、斯衛としてのみ生きてきたこれまでの人生の、対人関係における経験の薄さを嘆きたくもなる。けれど、それでも己の人生を否定するつもりはないし……いずれは、武とも正面から向き合うことも出来るだろう。師弟関係という免罪符に頼らずとも、或いは、斯衛としての任務と個人としての感情に挟まれずとも……それらを一つ乗り越えた先の、もっと成長した自分なら。――きっと。

 今はまだ、「どちらか」しか選べない。そして……それを天秤に掛けた場合に「重く」、自身にかく在るべしと断定するのは…………矢張り、斯衛としての自分だった。

 武は、目の前の真那の葛藤を知ってしまった。複雑な色を見せる表情のまま、無言を通す彼女。意識してのことではなかったが、それでも、彼女の心を覗いてしまったことに後悔を抱く。そんな己の浅ましさを悔しく思いながらも、それでも、出来る限りの意志を込めて真那を見つめ返した。

 碧色の双眸。形のよい眉が僅かに寄せられて、何も言わない武を……哀しいと、訴えてくる。――そう見えるだけ、だろうか? 既に真那に対するリーディングは、その能力を封殺することで押さえ込んでいる。ヒトの内面など、得てして想像するほかないものだ。或いは昨日の茜のように、触れたその場所から伝わる想いもあるのだろう……。けれど、今、この場にいる真那の心情は、とても想像だけで量ることの出来るものではなかったし、なにより――自分自身が彼女に対して何を伝えるべきかすら判然としない。

 思い出すのは、みちるの言葉。

 ――……誰でもいい、信頼できる人に、相談してみろ。自分独りで抱え込む必要はない。むしろ、誰にも相談せずに自分を追い詰めることこそが愚かな行為だぞ

 そう言って、諭してくれた彼女の言葉に倣うならば……今、こうして己の内心だけに留めようとしている感情は、誤りなのだろうか。

 自身では吐露してしまいそうになる感情を理性的に抑えているつもりなのだが……なにせ、自分自身を最も信じていない武である。真那に、師匠に対して無様な姿を見せられない――そう考えて、己が犯した罪を口にしないことは……独りよがりの、過ち……?

 わからない。

 確かに武は未だ正道に戻る道にたどり着けず、否、奈落の底から這い上がるべく、外れたその道を彷徨い始めたばかりだ。標などなく、灯かりもない。進むべき道の方向性だけをただ模索し、“護りたい”、“託された想いを取り戻したい”という願いに向けて、手探りで這いずっている状態だ。自分が今向いている方向が正しいのかなんてわからないし、そうやって足掻くだけで正道に立ち還れる確証も無い。――それでも、進むしかないんだ。そうやって自身を納得させるものの……再会した真那の言葉と、みちるの気遣いが脳裏を巡る。

 武は今、自身の意思で、自身の感情で、自身が理性と信じるそれで、進むべき道を探している。或いは、ともかくも一歩を踏み出している。

 自分独りで決めて、自分独りで進んで、自分独りで、足掻いている。――それは、間違いなのか?

 己の意思こそを信じることが出来ていない。カウンセリングを担当してくれたあの医師が武に向けた言葉だ。わざわざ深刻な表情で言われずとも、武が一番よくわかっている事実。己の心をリーディングして客観的に把握・分析できるものの、その能力を用いて今までの自分を振り返ってみれば、ことあるごとに理性が消失し、暴走を見せていたことがよくわかる。十五歳の子供のままだった武。そこから一歩たりとも精神的な成長を果たせなかった自身。それを変えたいという意思は確かに存在するが、それでも、急に強い精神力を手に入れられるわけではない。或いは……正常な判断力、とでも言うべきか。

 衛士として、軍人として、剣士として、ニンゲンとして……守護者として。「信じるに値する自分」を確立できないのなら、それは闇雲に泥の中を泳ぐことと変わらない。絡みつく泥に呼吸も出来ず、力尽きて溺れ死ぬ……。結末の見えた愚行を犯しているというのなら、それは――その道は、勇気を持って引き返すべきだろう。

 まだ進み始めたばかりのその道。真紀との稽古を通じて進むことを決めたその道。暗中模索と言われてもしょうがない、半信半疑のその道。それを選択した己こそを信じられないという不安が残るのなら、それは、まだ、進むべきではないのか。若しくは、そうやって不安に思う弱い心こそを捩じ伏せて、強く、一歩を積み重ねるべきなのか。

 誰にも相談せず、自分を追い詰めるのは愚かだとみちるは言った。

 感情に任せて吐露してしまいそうになる武に、それでも受け入れようとしてくれる真那。

 ――言ってしまっても、いいのだろうか……?

 ――頼ってしまっても、いいのだろうか……?

 その迷いを体現するように、武の瞳が大きくぶれた。縋ることなんてできない、許されない――そう断じたはずの心は、酷く揺らいでしまっている。

 ――違う、そうじゃないんだ。

 地に落とした瞳が、土の一粒一粒を捉える。すぐ目の前に立つ真那の軍靴が視界に入り、裾の長い赤色の上着が、細い腰に提げられた朱色の拵が見え、ふくよかな二つの膨らみを過ぎ――――感情を押し殺したように閉ざされた唇、ただまっすぐに見据えてくる碧眼、彼女の想いが、痛烈に、脳裏を突き抜ける。

 武は眼を見開いた。それは、驚愕だった。何よりも今、武は、自分自身の中に存在したその“答え”の一つに気づくことの出来た自身に驚愕する。



 感情に任せ、誰かに縋ること。ニンゲンなら一度くらいはそういう衝動に駆られることも在るだろう。例えば幼少の頃、傍で支えてくれる両親に兄弟に縋ること……それはニンゲンとして当たり前の衝動で、最も安らぐ感情なのだろう。……けれど、それは軍人には許されない。衛士には、赦されはしない。己を律し、克己を以って強く誇り高く在らねばならない。誰かを護るということは、きっとそういうことだ。例え傷つき心に消えない痛みを刻んだとしても、それは……その行為は、逃避でしか在り得ない。そこにはどんな大義名分も存在せず、ただ、現実から目を逸らす弱者の姿が在るだけだ。それが赦されるのは幼い子供だけであり、まだ自身を護る術を持たない赤子だけ。

 逃避を赦さず、犯した罪に正面から立ち向かう。己自身を見つめ返し、そうしてしまった自分を変えようと、罪を贖おうとするとき。自らの意志でそれを乗り越えることは重要な要素となる。同じ過ちを二度と繰り返さないという決意と、それを自らで克服する強い精神。それらを気概と共に孕むならば、それは間違ってはいないのだろう。けれど、孤高と独善は違う。自分だけで乗り越えなければ、という強迫観念に駆られた時、ヒトは道を見失う。自分自身を律すること、それが最も肝要であることに疑いは無いが、それでも、独り善がりな決定と克己に見せかけた自己への逃避は、自身でそうと気づけないままに更なる過ちを犯す火種となる。ヒトは往々にして弱い。追い詰められたニンゲンは視野が極端に狭くなる。自分が追い詰められているのだという自覚を持ち、狭くなった視野とは違う視点を他者に求めことが出来るならば――それは、自分の罪を相手に晒すという恐怖が付き纏うながらも、決して、愚かしい逃避ではない。

 相談すればいい、というわけでもないのだろう。他者を頼りにすればよい、ということでもない。己の罪を見つめ直し、そこから立ち直ろうと足掻く意志を持ち、どれだけ無様で醜悪な様を晒そうとも諦めない気概を孕み、そして……まずは、前に進むこと。己の進むべき道を、その方向を、見定めること。それが出来たとき初めて……ヒトは、誰かに相談する資格を得る。



 犯した罪の重さに耐えられず、ただ縋ることは赦されない。

 犯した罪に苦しみながら、暗闇の中をただもがくことは誤り。

 己の進むべき道を見つけられず、ただ誰かに相談し……舵を明け渡す愚行は逃避と同じ。

 罪を受け止めること。罪を犯した自身を見つめ直すこと。もう二度と繰り返さないと誓う意志。絶対に乗り越えるという強い心。そのために成すべきことを、進むべき道を見出し……けれど、追い詰められている自身というものを一度客観的に見つめる勇気。或いは、他者に罪を晒す恐怖を乗り越え、広い視野からもう一度見つめ直す勇気……。

 みちるが言っていた「頼る」、「相談する」、「自分独りで抱え込むな」という言葉は……つまり、そういう意味だった。

 まるで雷に打たれたように瞬間的に巡った理解に、武は一度眼を閉じて……深く息を吸った。強く拳を握り、ゆっくりと吐き出す。開かれた目は微塵たりとも揺るがず、けれど、内心で渦巻く様々な恐怖と迷いを押さえ込むように――

「月詠中尉……。中尉に、聞いて欲しいことがあるんです…………」

「――――――ああ、聞こう」

 その言葉を、待っていたのだろうか――。

 数分にも及ぶ沈黙を経てようやく、武が強い視線と共に言った言葉。聞いて欲しいこと。変わってしまった理由。追い詰められている自分自身。その、弱さを――聞いて、やりたい。

 武の瞳からはただ揺ぎ無い強い意志しか感じられない。微かに震えるような拳が、彼の心情を、自身の弱さを曝け出す恐怖を無言のままに語っていたが、真那は、敢えてそれに気づかない振りをして見せた。その恐怖を、気遣ってやる必要はない。武は言ったのだ。そうやって自身の恐怖を押し殺してまで、それでも、聞いて欲しいと。そう言ったのだ。ならばそれは一切の戯れも無く、真剣に、真正面からありのままを受け入れて受け止めてやらねばならない。それが出来ぬならば、無礼というものだろう。

 武は現実から目を逸らしているわけではない。胸に抱えるナニカを吐露して、逃げようとしているわけでもない。それら自身を苛む心の傷を全て受け入れた上で、尚、前に進もうとする意志。気概とも言うべきそれを孕み、強い視線を向けてくるというのなら――真那は、それを嬉しいと思う。その相手に自分を選んでくれたことを、師への信愛を向けてくれることを、頼ってくれることを…………嬉しいと。

 ――ああ、その言葉を、待っていたのだ……。

 師として存在できること。武の胸の中にそう在れること。任官し、一人立ちした弟子が、それでも、真那を師と仰いでくれるならば……それは、何よりも温かく胸を一杯にさせてくれる。結局のところ、真那とて武を振り切れてなどいなかったのだ。立場が分かたれたこと、自分の手から彼が離れていったこと。そういう事象の結果に甘んじて、ただ諦めようとしていただけに過ぎない。傍で支え続けることは出来ないのだと。自らの道を進む彼を支えること事態が冒涜だと。そんな風に思い込もうとして、――だから、傍にいられない現実を誤魔化そうとしていた。

 なるほど、なればこそ――未熟、と。己を戒めることも可能だろう。つい先程にも気づいたことだ。そういう自分に気づいたなら……もっともっと自身を鍛えて、錬成して、その果てにもう一回り大きくなれたなら。

 そのときこそ、斯衛としての自分も、武の師として在りたいと願う自分も。“二人とも”、受け入れて、肯定して、両立させることができるだろう。――否。それは今すぐにでも。

 目の前には武。「聞いて欲しい」と、強い意志を込めて見つめてくる愛弟子。彼が真那に師としての存在を求めるならば、彼女はそれに応えたいと感じている。即ちそれは、斯衛としての立場をそのままに、白銀武の師として存在することと同義。武が訓練兵だった頃とは全く違う。一人の衛士が、軍人と成った武が、……真那の立場を理解した上で、それでも尚、師としての助言を求めている。

 真那は、頷いた。

 斯衛でありながら、武の師として。

 国連軍の衛士にして剣術の弟子。斯衛軍の衛士にして剣術の師。軍人としての立場だけを考えた時、決して触れることのないはずの彼と彼女が……けれど、お互いの立場を踏み越えて、ただ、師弟としての絆を求め合う。







 場所を変えよう、と。真那は言った。

 きっとそれは彼女なりの気遣いだったのだろう。屋外訓練場の一画を占めるグラウンドは多くの部隊が訓練に使用する。斯衛である彼女は色々な意味で目立つ。その真那と副司令直轄の特殊任務部隊の一員である武が一緒に居たのでは、様々な憶測を呼び、それが問題へと発展しかねない。……或いは、そういう軍人的な思考とは無縁の、ただ、他人に聞かれたくない話だろうという配慮であったなら、それはそれで気恥ずかしく思えるのだが。さておき。

 真那は武をつれて訓練棟の裏手にある小高い丘にやってきていた。廃墟と化した柊の町を一望できるその場所。この横浜基地に赴任してから幾度となく立ったことのあるそこで、武は吹き上げる風に髪を遊ばせる真那の横に並ぶ。互いに無言。真那は若干眼を細めるようにしながら、瓦礫に埋もれた町並みを眺めている。僅かに眉が寄せられているのは、この光景が言葉なく証明するBETA襲撃の凄惨さを思うからだろうか。暫くその横顔を見つめていると、やがて、真那が顔だけを武に向けた。その表情は柔らかさの中にどこまでも真剣な「師」としての貌が在り……武は、その視線をしっかりと受け止めた後……廃墟の故郷を見つめながらに、話した。

 全てを。

 衛士を目指した理由を。戦う理由を。護りたかった彼女のことを。喪ってしまったこと。狂いそうになったこと。水月に救われ、茜に支えられ、仲間達に助けられ……真那に出逢い、想いを託されたこと。ただ強くなりたいと、自分の本当の心に気づかぬままに彼女に師事したこと……。

 復讐を果たす力こそを、求めていた。真那が、師匠が託してくれたそれは、全てBETAを殺すためだけに欲していたのだということ。――それにすら、気づけていなかったこと。

 夕呼からの特殊任務をこなす内に、そういった自分の内側に潜む“本心”に気づいてしまって、次第に精神が抑圧されていったこと。誰にもそれを悟らせまいと偽りの仮面を被り続けたこと。新たな力、戦術機という兵器を手に入れたことで、それを押さえ込むことが出来なくなったこと。――自ら、復讐を選んだこと。純夏を殺したBETAこそをコロスのだと、そう決定したこと。

 初陣で、先任を死なせたこと。

 復讐は何も生まないのだと気づかされたこと。

 生きるということの意味を教えられたこと。

 衛士の流儀を知り、もう二度と復讐に濡れたくはないと強く願ったこと。

 白銀武という男の半分を占めるその感情を抑えきれずに、発狂するほど追い詰められたこと。……茜の姿を見て、それが晴れたこと。

 彼女こそを護りたいのだと、気づいたこと。

 ……………………そう思えたのに、また、感情が、理性が、精神が、少しずつ蝕まれていって……自身の根幹を抉る暴虐に、振り切れた感情に、灼熱するような怒りに、どす黒く噴出した憎悪に。

 ヒトを、斬ったこと。腕だけではあったが、それでも、一歩間違えば――殺していた。否、“殺そうとして”、偶然か理性が働いた結果か、“殺さなかった”。

 外道に堕ちた自分が、ただ無道のままにヒトを斬り、傷つけた。弧月を妖刀に貶め、今までに与えられていたたくさんの想いを全て見失って、襤褸屑のように奈落へ堕ちることを選択していた自分。そのことに気づいたのは全て終わった後。自分がしてしまったことを呪わしいと嘆き、おぞましいと怖れ、もうニンゲンでは居られない事実に震えたこと。

 それでも、与えられた想いと、支えてくれた人たちの全てを無にしないために、無駄だったなんてことに、したくないからこそ……もう一度、今度こそ、前に進もうと足掻いている。

 歩き始めた、ことを。

 決して短い話ではなかった。当然として機密に抵触する部分は曖昧にぼかして伝えたが、情報省とも繋がりのあるだろう斯衛の真那だ。ある程度の核心には気づけているのかもしれない。……仮に知られていたのだとしても、それが真那ならば何も心配はない、と。武は無責任とも思えるような信頼を抱いていた。事実として、それはその通りなのだろうが、少々迂闊とも取れる行為であることに変わりはない。……が、幸いにして真那は武が任官して以降のAL4に関する情報を殆ど入手していない。A-01部隊の詳細な任務内容など知りようもないし、せいぜいが『伏流作戦』のような大規模作戦が立案された際の情動を把握出来る程度だ。

 故に真那は、武がリーディング能力の付与を目的にAL3の前段階で破棄されたESP能力開発のための投薬実験を受けていたことを知らないし、この基地内に存在する“鑑純夏”のことも知りはしない。現在武を最も追い詰めているその事実を彼女が知ることはないが、それでも……真那は、武の心情を汲むことは、できていた。武の全てを知って、その心の根底に在る純夏への執着を知って、それを切り捨てるのではなく、それさえを抱えて前に進もうとする意志を。

 知った。理解した。

 たくさんの間違いを積み重ねて、どうしようもないほどにボロボロになって。傷ついて泣き喚いて苦しんで慄いて……けれど、そうやって嘆いているだけではどうにもならないのだと気づいて。そうやって、前を見据えた武の、血を吐くような懺悔。

 ヒトを斬ったという。感情の滾りに任せて、衝動的に。憎悪と怒りに支配され、真那が自身と父の想いを託して渡したあの日本刀――弧月、で。

「…………俺は、最低で、最悪です。……でも、それでも、俺はもう一度……ちゃんと、前を向いて、歩いて、――――――――強く、なりたい」

「言いたいことはそれだけか」

 えっ――? 吐き出すように、けれど心底からの想いを零した武に、怜悧な言葉が突き刺さる。驚きに真那を向けば――ひたり、と。首筋に冷たい刃金の感触。小さな痛み。ぬるいとさえ感じる液体が流れ落ち――。

 音もなく抜かれた真那の刀が、首筋に押し当てられていた。切っ先が僅かに皮膚を裂き、小さな赤色が筋となって首を伝う。

 武は呼吸を忘れた。戦慄と共に噴き出した冷や汗が逆流するような怖気。眼前の真那から発せられるのはただ、冷たいだけの身も竦むような殺気。

 なぜ、という疑問など過ぎる余地もない。ただわかることは、指先の一つでも動かそうものならば、即座にこの首が飛ぶという事実のみ。乾涸びた喉を潤そうと、唾を飲み込む行為さえ憚られる明確な恐怖。だが、同時に、それが真那の意思かと納得もしていた。――師匠にコロサレルならば、それもいい。そんな思考が刹那に浮かび上がったことは、武にとってはショックだった。

 自分は、誰かに断罪されたかったのか。腕を斬り落とす、他者を傷つける。そういう暴虐な振る舞いをして尚、罰を受けることさえなかった武。それが夕呼なりの優しさだったのか、ただ時間の無駄と判断した末かは知る由もないが、けれど、犯した罪の重さに膝を折りそうになっていた状況で、「罪人」とさえ断ぜられることのなかった事実。それが、その反動が、誰かに――真那に――断罪されることを望んで、今、こういう状況になっているのだとしたら?

 ホッとしている、のか。自分は。真那になら殺されてもいい。……そういう思考が浮かんだのならば、ほんの僅かでも、それを求めていた自分が居たということに他ならない。前に進もうと足掻き、どれだけの苦難にも立ち向かって見せると気負う一方で、そんな風に、この現実から逃げ、解放されることを希っていた……。そんな感情を、抱いていた。――俺は、本当に…………ッ! 救いようがない、とは自分のことを言うのかもしれない。それとも、どれだけの強い意志と誓いを胸に掲げようと、どこか心の奥底の隅、そういう場所に。そんな弱さを残してしまうのが、捨てきれないのが……ニンゲン、だとでも言うのか。

 首に触れる冷たい刃の感触が、ほんの僅かに離れる――瞬間、本能とも呼べる衝動が、武の足を動かしていた。地面を蹴り、背後に倒れるように飛び退る。思い切り背中を仰け反らせ、顎を振り上げながら転倒し――最中、空を横切った銀色の軌跡を見た。ほぼ無反動の斬撃。あのまま立っていたならば間違いなく武の首を飛ばしていただろう一閃。丘の斜面を転がり落ちながら、武は全身から吹き出る汗を感じていた。心臓が壊れるほどに激しく鼓動を繰り返す。呼吸は喘ぐように乱れ、コロサレルという恐怖に反応した自分をどう評すればいいのかわからなくなる。

 生きたい。

 殺されたい。

 死にたくない。

 脳髄を抉るように閃いたのはそんな矛盾する感情。氾濫する意思をリーディングによって把握し、掌握すべく精神を叱咤する。――が、そんな思考は一瞬にして中断され、まるで斜面を降ってくるような真那の追撃にただ逃げ惑うしかない。

 自分の腰に先程の模擬刀が提げられたままだということを思い出したのは、真那の追撃をかわすために林の中に逃げ込んだ時だった。自分自身の状況を把握できないほどに突然の事態だったわけだが、それにしても迂闊すぎる。刃を潰した模擬刀でどこまで真那の剣閃を防ぐことが出来るかはわからないが……少なくとも一撃の下にへし折られるようなことはない、と思いたい。

 ……が、鞘から引き抜こうと柄に手を掛けた瞬間に――俺は、一体何をしようって言うんだ?! 現状を理解しきれない混乱が、右腕を硬直させる。状況に流されるままでは駄目だ。真那が何を思い、何を考え、武を殺そうとするのか――そもそも、本当に殺そうとしているのか? わからない。わからないから、ある程度状況に合わせる必要は……ある。だが、流されては駄目だ。落ち着け……と強く眼を閉じて息を吸う。

 走り続けながら、例え一瞬とは言えそんな隙を見せた武を、当然ながら真那は見逃さない。飛ぶように地面を蹴り、爆発的な速度で武の背後へと接近する。
その気配を感じ取った武は横跳びにかわそうと身を捩るが――それよりも早く振り抜かれた剣閃が、左腕を斬り付ける。痛みに悲鳴をあげる間もなく、鮮血を撒き散らす腕を庇うことも忘れて。体勢を崩されたことで転倒してしまったが、即座に立ち上が――起こした上体を狙い済ましたように、分厚い軍靴が胸板を蹴り上げていた。

「ぐっぼぁ、あ……!??!」

 半身を起こした状態から胸を蹴られ、再び背中を地面に打ち付ける。口端から零れた吐瀉物に頬を汚しながら、痛みと恐怖と混乱に歪んだ瞳を真那に向ける。斬られた左腕は血を流してはいるが大した傷ではない。自分の状態を反芻しながら、けれど地に背中を預けたこの状況から、真那の攻撃をかわすことなど不可能。かく言う彼女は無言のまま剣先を眼前に突きつけていて……その表情は矢張り、どこまでも冷たく、殺気を放っている。

「……死にたくないか、白銀少尉」

「……!?」

 目の前には刀の切っ先。ゆらゆらと揺れるようなそれは、逃げ惑った武を罵るように揺らめき……やがて、ぴたりと動きを止めた。それは武の左眼を捉え、すぅっ……とそこに走る裂傷をなぞるように。やがて首筋をなぞりながら心臓へと移動した切っ先が、ずぶり、と。その先端を肉に埋める。――ォぉぉぉおおおああああああ!!??

「痛いか。怖ろしいか。死にたくないか――答えろ、少尉。貴様はなぜ、“死にたくない”などと恥知らずにも吼えるのか。貴様は、一体何のために“生きたい”のだッ!?」

 裂帛の意思を込めて。見開かれた碧眼からは心臓が奮えるほどの覇気が込められて。真那から発せられる気配からは変わらぬ殺意と、もう一つ――なにか、燃え滾るほどに熱く烈しい情動が。武に向けて、容赦なく、躊躇なく、手加減などなく、ただ、向けられ、突きつけられる明確な意思。奮えるほどの衝撃が、胸中に渦巻いていた何もかもが消し飛ぶほどの感情が――――熱い、アツイ、烈しいそれが!

 心臓が鼓動する。ひとつひとつが、大きく、強く、脈打つ度に訴えてくる。脳ミソを加熱する。精神を凌駕する。――俺はッッッ……!!

「俺は……ッ、おれは! 俺は生きたい!! 死んで堪るかッッ!! ――生きるッ、生きて、生きて生きて生きて生きて生きてッッ……! 護るんだ! 護るッ、護ってみせる!! 茜を、純夏をッ! 俺は絶対に……ッ、護って、みせる――――!!」

 だから足掻く。だから進む。だから強くなる。全部全部、それは、すべて彼女達を護るために! 愛する二人を、護るためにッ!!

「俺は――――――っっ、今度こそッ、今度こそッ! 強くなって! 成長して! “アイツ”を護れる男になるッッ!! だからっ、だから……ッ! 月詠中尉、俺は貴女に殺されるわけにはいかないっっっ!!!」

 叫ぶと同時、武は身を起こす。突きつけられていた刃先が更に胸に埋まったが知ったことではない。両手で真那の刀を掴み、力任せに胸から引き抜く――突然の武の行動に虚を衝かれた真那が僅かに身を引いて――両手の平を血に濡らしながら、武は身を翻すように旋回軌道を描き、立ち上がり――模擬刀を抜いた。躊躇なく正眼に構え、自身でも身震いするほどの闘志を秘めて、真那を見据えた。

 対する真那は無表情のままで、刀を構える様子もない。武の胸を抉った刃先。そこから滴る赤色を僅かに見つめ、後に、それだけで身が切り裂かれそうな鋭い視線を見せる。だが、最早武に恐怖はない。刃を潰した模擬刀では一刀の下に真那を無力化させることは不可能だろうが、それでも、骨を折るくらいは出来る。そんな思考を抱けるほどに、迷いのない闘志を放ち――両者の間に酷く剣呑な空気が満ちた。

 が。

 不意に、それを打ち破ったのは真那だった。

 左手で顔を覆うようにして、くつくつと可笑しそうに笑ったかと思えば、大きく口を開けて、盛大に笑い出した。呆気にとられた武が眼を丸くしていると、暫く笑い続けていた彼女はようやく収まったのか、それでもまだ口端に“愉快”という感情を貼り付けたまま。――刀を、正眼に構えた。

「月詠……中尉……」

「…………ふふふ、まったく。この莫迦者め。――いいだろう、ならば、全力で掛かって来い。先程言ったこと、ゆめゆめ忘れるな。 微塵にでも揺らがせてみろ……その時は、一切の容赦なく貴様を斬る」

「――!」

 そこまでを言われて、ようやくに悟った。真那は……武を試していたのだ。いや、或いは…………未だに胸中を支配する様々な葛藤や懊悩、暗闇に漂う霧を晴らすために。

 死の淵に追い詰めることで、武でさえはっきりと確信を抱けていなかった最も根源的な感情、衝動、心の底から欲している「それ」を気づかせるために。

 真那は――矢張り、真那だった。信愛する、剣術の師匠。

 彼女から託された想いと師の形見を血に穢してしまったことさえも、その無道を許してしまった武の弱さも……全て理解して受け入れた上で――道を示してくれた。闇を、晴らしてくれた。何を迷うことがある。「答え」は既にお前の中に在る……それを、教えてくれた。気づかせてくれた。

 “その意志”が偽りでないのなら、縋りつく妄執でないのなら、魂が奮えるほどの――願いならば!

 ただ、その道を往け!

「進むべき道を見出せぬというなら、その闇は私が照らそう。……来い、武」

「はい……! “師匠”ッ!!」

 無意識に発していたその言葉に、武も真那も気づかない。二人を満たすのは漲るほどの闘気と意志。この戦いで彼を包む闇を晴らそうと、この戦いで自身の進む道を見定めようと。この世に唯一つの剣術の担い手。その師弟が、今、再びに舞い躍る――。




[1154] 守護者編:[二章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/02/28 21:48

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:二章-01」





「……で、全身傷だらけ血だらけで医務室に運ばれて、包帯まみれになって? 白銀、貴様自分が“療養中”という認識はあるのか? あァン?」

「も、申し訳ありませんッッ! 伊隅大尉!!!」

 底冷えのする酷薄な瞳で睥睨され、武は全身の血液が足下に落ちるような錯覚を覚えた。怖ろしすぎてまともに顔を見ることも出来ず、けれど眼を閉じることは許されないので必死になって視線を逸らす。同時、今までの軍隊生活の中でこれほど美しい姿勢を完成させたことがあろうか、と自画自賛してもおかしくないほどの“敬礼”を向ける。額からはとめどなく冷たい汗が流れ落ち、膝は微かに震えていた。心臓は壊れたように激しく鳴り響いているが、一向に脳ミソに血流が流れ込む様子はない。視界は白と黒に点滅し、喉が恐怖にひりついてまともに呼吸が行えない。

 ……それほどの恐怖を、目の前のみちるは発していた……。

 A-01部隊に宛がわれているブリーフィングルームで、みちると武は対面している。両者の距離は約二メートルほど。その気になれば一瞬で間合いを詰めることが可能だ。そうして向き合う二人の様子は、けれど正に対極であり……みちるはふてぶてしくも腕を組み、その表情は鬼も逃げ出すほどの兇悪な相貌。その恐ろしさは先のとおりであるが、その万物を視ただけで殺せそうな視線を受けることは、本当に、本当に精神衛生上というか生存本能の安寧によろしくない。対する武は訓練用のジャケットを着ているものの、袖から見える腕に首周り、顔……等、露出している部分だけでも絆創膏に包帯に、と、全身傷だらけという有り様だった。その顔色が青を通り越して白く染まっているのは全身に及ぶ負傷だけが原因ではあるまい。むしろ、みちるの発する鬼気に圧されている部分が大きいのだろうが……。さておき。

 みちるが衛生班より“白銀少尉が傷だらけで搬送されてきた”と報告を受けたのがつい三十分前。何事かと医務室に出向いてみれば、そこに居たのは決して浅いとは言い難い裂傷に、軽微なそれらを負った武。更には全身いたるところに残る打撲傷に擦過傷……と、要するに全身傷だらけの武。疲労と蓄積したダメージのために意識を失ったらしいが、呼吸・脈拍共に正常で、眠っているだけだという。けれど、そんな報告よりもなによりも、一体全体、何がどうなって武がイキナリ傷だらけになったのか、ということの方が重要であった。

 みちるは武の治療を担当した衛生兵を捕まえて詳細を尋ねた。どこかしどろもどろに答える彼女に更なる剣幕で――このとき、みちる自身は“ちょっと強めに”程度の認識しかない――問い詰めたならば、観念したように、恐々と「斯衛の中尉殿が運んでいらっしゃいました」などと零す。これを受けてみちるはまさかと眼を丸くし、裂傷だらけ、という様相を見て、それが嘘偽りでないことに確信を抱く。

 つまりは、武の剣術の師であるというあの月詠真那中尉が、彼をこれほどの目に遭わせたということだった。

 全体的に診て、致命傷というものはないそうだ。数箇所に一つ、という割合で皮膚の縫合が必要な裂傷が散見される程度。それ自体もそう深い傷ではなく、一週間もすれば完全に治るだろうという。打撲傷の方は流石に鍛え抜かれた衛士の肉体だ。骨に異常がないというなら、全く問題はない。……つまるところ、その傷が“全身”に及んでいるために大層酷い負傷のように思えただけで、それぞれの傷は数日から一週間足らずで完治する程度のもの、ということになる。

 ――しかし、と。みちるは眠ったままの武を見下ろしながらに唸る。しかし、あの斯衛の中尉がここまで武を傷つける理由とは何だろうか。意識を失った直接の原因はどうやら疲労のようだったが、それでも鍛え抜かれた肉体を持つ正規兵の一員である。それがここまでやられたからには、相当に容赦のない……なにか言葉に出来ないほどの“ぶつかり合い”があったのだろうか。

 かつて武の訓練を引き継ぐことになった時、彼の教導官を務めていた神宮司軍曹は、みちるにこう申し添えていた。白銀武は独自に剣術を修めており、それはこの横浜基地に駐留する斯衛の――つまり真那の――剣術らしく、訓練が終わった自由時間を使って、彼は剣術の師匠と稽古を行っていた……と。当然ながら、当時は極秘裏に、急遽創設されたA-01訓練部隊に転属となった武であるから、その剣術の稽古も打ち切りとせざるを得なかった。武自身そのことを予想していたらしい節も見られたし、何より、その日の晩に件の中尉が武と何事か会話を交わし、刀を託している様子を目撃してしまったりもした。

 ということは、どういうことだろう。

 それ以降、彼女が武の前に現れた様子はない。A-01の一員となることが決定され、そう動き始めたその日から、武は真那と逢うことはなかったはずだ。否、みちるが知る限り、「なかった」。斯衛の情報網がどれだけのものかはみちるも知らないが、それを予想するならば、恐らくはこの基地がAL4の要であるということ、そしてA-01部隊の存在がその完遂を目指すための特殊任務部隊であること……その程度、だろう。元々が日本主体で稼動しているAL4であるから、如何に斯衛といえ、そうそう手を出していい相手ではない。まして彼女達は将軍家縁の者を守護する警護小隊である。いずれその者が任官してA-01へ配属されたならばまだしも、ただ一人の剣術の弟子がA-01へ任官したからといって、厚かましくも干渉してくるようなことは……当然ながら、なかったわけだ。

 武自身も真那に逢うようなことをせず、真那自身も武と距離を置いていた。今の今までそうやってお互いの立場というものを承知して、実現していた二人が……一体どうしてまた再会し――恐らくは手合わせ、なのだろう――これほどの傷を負わせるに至ったのか……。こればかりは、所詮彼らの繋がりの全てを知らないみちるは推測するしかない。ならば、呑気そうに眠るこの莫迦者を叩き起こしてでも問い質すべきだろう。

 なにせ、白銀武少尉は現在、「病気療養中」なのだから。……いや、正確には単なる「療養」でしかないが、みちるの中では既に武の状態はイコール精神疾患一歩手前、という認識であり……要するに、言葉自体に意味はない。が、療養は療養だ。水月の采配で訓練には参加しているが、それでも対外的にはあくまでも療養しているべきなのである。

 だというのにこれだけ派手に、大したことはないと言っても、体中を絆創膏に包帯に、と重傷人の有り様を晒していたのでは、「いい度胸だ」としか言いようがないだろう。つまり彼は部隊長であり大尉であるみちるの命令を無視し、療養中であるにも関わらず、何らかの理由はあったにせよ、かつての師と剣を合わせ、見事ズタボロになって医務室へ運ばれた、と。そういうことだ。

 そこまでを頭の中で整理するのに約三十秒。その間、捕まえた衛生兵の胸倉をずっと掴んでいたことはナイショだ。いつまでも手を放してくれないみちるの気配が秒を経るごとに重く強く恐ろしくなるのを感じて、哀れ衛生兵は顔を蒼白にさせて失神するに至っていたが……それはまた別の話。

 みちるは何故か気絶していた衛生兵を椅子に座らせると、ふっ、と寒気のする薄笑いを浮かべた。ぐっ、と腹に力を込め、ぷるぷると拳をわななかせて――次の瞬間、医療棟のワンフロアを震わすほどの怒声が轟いていた……。



 そうして、現在に至るわけである。

 微塵も衰えることのないみちるからの鬼気を空恐ろしく思いながらも、武は事のあらましを説明する。既に病室で叩き起こされてから問答無用に連行された身である。鉄拳が飛んでこなかっただけマシだが、それがこれからないとは限らない。内心で恐々としながら……否、外面上も恐怖に震えながら、出来るだけ簡潔にまとめ、真那と偶然再会し、相談に乗ってもらったことを話す。その結果が――要するに一歩間違えば命のやり取りに発展しそうなほどの白熱した稽古だったわけだが……そこまでを聞いて、みちるの表情が段々と呆れ顔へと変わっていく。

 おや、と内心で首を傾げつつ、武はみちるの様子を窺うように口を閉ざす。腕を組んだまま黙って聞いていたみちるが、がっくりと俯きながら盛大に溜息を吐いた。しかも長い。どうやらいらぬ心労を重ねさせてしまったらしいとほんの少し狼狽しながら、申し訳ありません、と頭を下げた。

「いや……いい。事情はわかった……わかった、が、しかし、なんだ。……貴様とその月詠中尉は、いつもそうなのか?」

「は? あ、いえ……稽古の時は確かに、その、自分が気絶するまで終わらなかったりしたこともあります」

 顰め面で問うて来るみちるに、言葉に詰まりながら答える。当時は――今も対して変わりないようだったが、真那に対して手も足も出ない、という有り様だった。武が
全身全霊で掛かって行くのに対し、真那は一度も本気というものを見せたことがなかったように思う。無論、真剣でない、という意味ではない。本気――即ち、本当の実力、底力、というものを前面に出すことなく、常に武の強さの一段階上、というレベルで稽古をつけていたように思えるのだ。

 それはつまり、真那が本気を出せば稽古にすらならないほど、二人の間には格差が在るという証明であり……それでも、真那に“後継”と認めてもらえるレベルには達することが出来たはずだったのだが……。

 武は数十分前の真那を、その剣撃を思い出す。

 かつてないほどの剣の冴え、或いは一刀に込められた恐るべき闘気……。殺気とは異なる、相手を倒すという気概、気迫。或いは単純に、一閃の速さ、重さ、そういうもの。何もかもが、一度も見たことのないほどの強烈な壮烈さを孕み、剣圧だけで皮膚が裂ける程の威力を見せていた。まともな一撃を受けなかったことは、本当に救いである。……或いは、その点のみ、真那は手を抜いていたのかもしれない。彼女は刀の刃を返すことをしなかった。武の構える刀が模擬刀と承知していながら、真剣のまま、本気に限りなく近い状態で。

 受けることが出来なければ即死。或いは腕や足が飛ぶ。

 あれは、そういう“死合い”だった。稽古なんていう生易しいものではない。真那自身が言っていたように、もしも武の決意にほんの僅かでも揺らごうものなら、即座に両断されていただろう。……冗談でもなんでもなく、彼女はどこまでも「本気」だったのだ。その本気の真那を相手に――数え切れないくらい殴ったり蹴られたりしたわけだが――この程度の負傷で済んだことは幸いだ。

 いや、これが手加減の結果だというならそれはそれで落ち込むべきなのだろうが、それでも、真那の目的が武の堕ちた奈落を覆う“闇”を晴らすことにあったというのなら、そもそも武に重傷を負わせることは愚行以外のなにものでもない。故に、左腕の裂傷のように多少深い傷は見られるものの、全体的に軽微。剣閃を餌に放たれた蹴りやらを喰らって青紫に腫れた打撲傷も、それほど深刻なものはない。今でこそ絆創膏に包帯が痛々しく目立つが、その大半は既に血も止まっているし、縫合処置をした部位以外は全く以って問題というレベルではないのだ。

 そして、真那との稽古という名の“死合い”を経て……武は、どこか吹っ切れた気分だった。真那に己の命を握られた瞬間に爆発した本能的な衝動。感情の最も深い部分、生存を訴える本能。死にたくない、生きたい。その理由。

 ――俺は、愛する人を護りたい。

 そのために生きる。ただそれだけが、武の進む道。それを往くことこそが、失った、手放した、裏切った全てのものへの贖罪となる。そう、気づくことが出来た。確信することが出来た。自分自身信じられなかった己の、極限状態で引き出された本当の本音。死んで堪るかという強い意志。生きて護りたいのだという……強い、願い。真那はそれに気づかせてくれた。

 茜に水月……そして真那。本当に、彼女たちには救われてばかりだ。助けられてばかりだ。だから――心の底からの、感謝を。

 武を病室に運んだのが真那だというなら、そして彼女が姿を消したというのなら……恐らくは、また、何かの偶然や余程の事態とならない限り、再会はないだろう。武はA-01の衛士として、真那は斯衛の衛士として。それぞれの立場に戻り、任務を貫き通す。だからこれは一時の出来事。たった数十分間の、師弟関係。…………けれどそれは、これ以上ないくらいに武の背中を押してくれて、闇を晴らしてくれて……自分が進むべき道を、はっきりと照らしてくれたのだ。

 あのまま自分独りで抱え込んでいたなら、いつ見つけることが出来たかわからないそれ。或いは、たどり着けなかったかもしれない道。真紀との訓練の際に一歩を踏み出したそこから分岐していただろう、その道。愛する人を……純夏を、茜を護る。その、守護者としての道。

 ――最早迷いは、ない。

 そういう確信を得ることが出来た。……だから、呆れたようにこちらを見据えるみちるに、巧く言葉で説明することは出来ないけれど……大丈夫なのだということを伝えるべく、武は彼女をしっかりと見つめた。叱責される恐怖に竦むようだった眼が、ひたと強い意志を込めて向けられれば、みちるとて気づけないではない。伊達に隊長など務めていない彼女は、その視線を受けて、武が何がしか“乗り越えた”らしいことを悟る。だが、如何に本人がそのように感じようとも、実際にどうなのか、は冷静に慎重に判断しなければならない。なにせ相手は二度も暴走を見せた前科があるのだ。専門医のカウンセリングも始めたばかりの状態で、おいそれと結論を下すわけにはいかない。

 心の傷を癒すことは、得てして時間が掛かる。武の場合はそれが人格形成の根幹にまで及んでいるらしいことから、取り敢えず“一ヶ月”という期間を設けたわけであり、確かにそれが短縮されることは願ったりなのだが……さて、では今現在、かつての師との再会で“乗り越えた”と訴えてくる彼は、どうだろう? 療養を命じてから僅かに数日。果たしてそれだけで本当に立ち直れているのかどうか……。

 丁度いい、とみちるは思う。

 本来ならば、決して“よい”とは言えない武の負傷、或いは真那の行動だったが、こうして武が暗黒に満ちたナニカから抜け出せたような表情を見せるなら、「いいだろう」と思わせてくれる。更には一週間ほどの、治療に要する時間。もし仮に武が本当の本当に立ち直ることが出来ているというなら、この一週間の経過を観察することで判断できるだろう。腕の傷などが治らない限りシミュレータにも乗せるわけにはいかない。そういう意味では経過を観察するに相応しい状況が出来上がったといえる。

 茜の支えに、水月の気遣い、更には真那の導きが武を“全うな”道に立ち還らせたのなら、必ず、この一週間でわかるだろう。みちるはそう確信し、頷く。


 直立し続ける武に向けて、みちるは挑戦的な笑みを向ける。組んでいた腕を解き、右手を腰に当てて――何かを感じ取ったのだろう、武がより背筋を伸ばし、負けん気の強い表情を見せた。

「では、白銀少尉。貴様はその傷が治るまでシミュレータ訓練を禁止する。トレーニングも、裂傷に障りない程度に留めておけ。一週間で完治するとはいうが、無茶をやって長引かせるような愚かな真似はするなよ」

「はっ! 必ず一週間で完治させます」

 踵を合わせて敬礼する武。その瞳にも声にも一切の迷いは感じられず、どこか……つい数時間前まで彼を覆っていた危うい暗雲がすっかり晴れているように感じられた。ならばいい。どうかそれが一時の仮初であってくれるなと、みちるは無言のまま答礼する。踵を返し退室しようとした武の背中を見送りながらやれやれとポケットに手を突っ込めば、なにか手に触れる感触が在った。――あ。

「ああ待てっ、白銀っ」

「――え?」

 ドアの取っ手に手を掛けていた武が振り向く。なにか、と視線で問うて来る彼に、みちるは右のポケットに押し込んでいたそれを取り出すや、武の手の中に押し込んだ。その感触から、折り畳まれた紙片だということを察した武は、四つ折にされた白い紙をまじまじと見つめ、次にみちるを上目遣いに見つめた。――なんです、これ? 無言のまま問いかける武に、みちるは少々気まずそうに、或いは取り繕うように、

「ああ、衛生兵が貴様の治療をする際に服を脱がせたのだが……そのときに、上着の胸ポケットから落ちたらしい。……預かっていたのだが、すまん、今の今まで忘れていた」

 はぁ、と怪訝そうに頷くも、武はその紙片に見覚えはない。着ていたジャケットから落ちたというのなら、それは自分の物なのだろうが、なにせ覚えがない。みちるが預かっていたというなら当然彼女の物である訳がなく――そこまで考えて、あ、と。気づく。

 ならばそれは、武が負傷し意識を失い……医療室へ運ばれる過程で入れられたものであり――つまり、その過程に武と共にいた者の、ということになる。

「月詠中尉……」

 無意識に呟いていて、武は折り畳まれたそれを丁寧に開く。そこには、ただ一言だけ綴られていた。



 ――弧月はお前と共に在る



 胸が、締め付けられるようだった。ぐ、と。込み上げてくる熱い感情があった。血に穢れ、妖刀に貶めてしまった刀。弧月。師匠の形見であり、彼と真那の想いの具現。純夏のリボンと共に、幾度となく折れそうになる自身を支えてくれた大切な大切な……半身。魂。――弧月はお前と共に在る――そう記された紙片を、ぎゅう、と。両手で抱くように。言葉にならない。言葉に出来ない。たった一言に込められた真那の、武の犯した無道の罪を知る彼女の……愛情と、優しさと、厳しくも美しい、誇り高い想いが…………武を、包み込んでくれる。

 弟子を想う師の、恐らくは最後の――教え。

 そこから眼を背けるな。それから目を逸らすな。刀とは、己を映す鏡。己の半身、魂。自身の感情を何よりも正直に浮かび上がらせ、自身の醜さを誰よりも知り、されど、愛も想いも喜びも、共に背負い分かち合う、友。――弧月は俺と共に在る。

「そうか……お前は、ずっと俺の傍に……いてくれたんだな……………………ッ」

「白銀?」

 こちらを見つめていたみちるの声が聞こえる。ああ、しまった。武は込み上げてきた温かい感情を出来るだけ胸の裡に仕舞い込んで、何でもありませんと笑う。あまり納得したようではなかったが、みちるはそれ以上何も聞いてこなかった。……この紙片を手紙か何かと感づいていたのだろう。だが、彼女はそれに眼を通すようなことはしなかっただろう。何よりも部下を、ヒトを思いやることの出来るみちるだから、そんなことはないと信じられる。そういう思いを込めた武の笑顔に、みちるはふむと頷いた後、苦笑しながらに、――さっさと行け、そう言って払うように手をやった。

 それに頷いて、今度こそブリーフィングルームを出る。ともすれば駆け出しそうになる足を精一杯律して、込み上げてくる、迸るような熱い感情を懸命に堪えて――ああくそ、我慢なんて出来るわけがない! ぐっ、と。拳を握り締めて。真那からの言葉を握り締めて。

 武は走った。滅茶苦茶に走って、走って、走りながら――笑った。

 泣いているような笑顔だった。嬉しそうな笑顔だった。ぐちゃぐちゃの感情が零れた笑顔だった。我武者羅に足掻くものの笑顔だった。ようやく還るべき場所に帰り着いた笑顔だった。たくさんの間違いを犯して、たくさんの罪を犯して、たくさんのたくさんの、想いを受け取って――哀しくて、嬉しくて、怖くて、でもようやく見つけることが出来て――そんな笑顔で、笑って、走った。

 ドアノブを回した瞬間にまるで体当たりするように跳ね開ける。喘ぐような呼吸を繰り返し、体中から汗を流して、それでも、凄く熱い気持ちがたくさん、次から次から溢れてきて。

 一歩一歩、踏みしめるように歩く。ゆっくりと。肩で息をしながら、ぶるぶると奮えながら。

 部屋の片隅、机に立てかけるように置かれた黒い拵。漆塗りに銀細工の施された……黄色に、くすんだ赤を滲ませたリボンを巻きつけた――――刀。日本刀。

 弧月。

 触れる。――瞬間、膝から崩れ落ちた。右手で鞘を掴み、左手でリボンを握り、

「うっ、ぅぅぅ、ぁああ! ああああああああ!!!」

 泣いた。

 泣いて、泣いて、胸に掻き抱いて、強く握り締めて。咆哮するように、吼え叫ぶように、基地中に轟けと、真那に届けと、爆発するような感情に、泣いて――!



 ――ただいま。ただいま、弧月。俺は、やっと、還ってきた。

 ――純夏、弧月……俺はようやく、やっと、前に進むことが出来るよ……。



 それは喜び。それは歓び。それは、生きるよろこび。

 闇は晴れ、光差し、輝ける正道が目の前に在る。そこに至る、立ち還る道が目の前に在る。奈落の底から這い上がり、ただ突き進む唯一の道が。

 往け、と。師はこの背中を押してくれた。

 来い、と。水月は手を差し伸べてくれた。

 一緒に行こう、と。茜は歩く身体を支えてくれた。――ああ、だからもう、大丈夫だ。

「俺はもう、絶対に間違えない」

 挫けない。迷いはしない。この身を待ち受ける約定された死も、純夏に課せられた宿業も、BETAへの怨みも、夕呼への憎しみも……何もかもを、受け入れて、それら全部が自分なのだとしっかりと抱いて、でも、絶対に。もう絶対に――!!

「護るよ……俺はお前を護る。純夏……。だって、俺はそのために衛士になったんだもんな…………」

 両腕で弧月を抱いて、そこに巻いた純夏の御守りを抱いて。温かい涙が頬を伝う。溢れんばかりのよろこびが笑顔を結ぶ。感情に打ち震える魂が、弧月を通じてこの世界を生きる人々の優しさを教えてくれる。支えてくれた人たちの、優しさを感じさせてくれる。――本当に、ありがとう。

 胸の中を、茜の笑顔が過ぎった。ああ――、茜。

「そ、っか……俺、本当に……」

 どうしようもない奴、と。可笑しくなる。苦笑してしまう。……本当に、どうしようもない。愛するひと。護りたいひと。それは純夏……そして茜。どちらかなんて選べない。二人ともが己の半身と思えるほどに、なくてはならない少女。喪っては生きていけない、そんな風に想える女性。生きる意味、目的。――彼女達を、護る。傍にいて欲しいと願う、傍にいたいと願う。どうしようもないほどの、傲慢な欲。二人ともを、愛したい。

 どちらかを選ばなければ嘘だと思った。二心を抱くことは彼女たちの想いに泥を塗る行為だと思っていた。だから、例えどれだけの痛みを伴おうと、心を殺そうと……選ばねばならないと。そう考えて、選んだつもりになった。でもそれは全然「どちらか」を選ぶことなんて出来てなくて、ただ引き裂ける心が痛くて怖くて哀しくて、自分を騙して誤魔化して目を逸らしていただけの、臆病で、卑怯な逃避だった。

 違う。本当は、心のどこかでわかっていたのだ。――絶対に、どちらも選べないことを。……それも違う。選べない、のではない。“選びたくない”のだ。本当は。純夏が愛しい。茜が愛しい。そこに、その想いに優劣などなく、偽りなどなく、虚飾などなく、ただただ、本心からに、愛す。本当に本当に、武は彼女達両方を愛しているのだ。……それを本能的に知っていたから、どれ程に迷い葛藤しようとも、選ぶことなど出来はしなかった。

 真那が気づかせてくれた。精神を覆っていた奈落の底の闇……その暗雲を吹き飛ばし、眩い光で示してくれた。――何のために、“生きたい”のか。

 純夏を護る。

 茜を護る。

 彼女達を、護る。死なせない。絶対に、絶対に。――そのためになら、俺は死ねる。生きる目的なのに、“死ねる”というのは些か妙だが、けれど、それが嘘偽りない武の本心だった。リーディング能力開発のための投薬、その副作用でいずれ廃人となって死ぬ自分。その運命を受け入れられるほどに、彼女たちへの愛情は強く、揺るがない。唯死ぬためだけの残りの生を、彼女達を愛し、護ることが出来たなら……ああ、それはどれ程の幸せなのだろうか。

 受け入れられなくてもいい。欲張りで傲慢で、倫理に悖ると謗られても仕方がない。――でも、愛しているんだ。だから、愛する。全力で、全身で。護る。命を懸けて。

 安易に死を選ぶわけではない。この身体が朽ちるのは副作用が抑えきれなくなったその時だ。それまでは、決して、死なせないし……死なない。本当はずっと彼女たちと生きていたいけれど、自分勝手なわがままでしかないとわかっているけれど。それでも、その瞬間までを……我武者羅に生きて、愛して、護ることが出来たなら。

 白銀武という人生を、誇れるような気がするから。

 始めはほんのささやかな願いだった。隣に住む幼馴染の女の子を護ってあげたい。そんな願いだった。そのために衛士となることを目指し、素晴らしい人たちに出会い……運命の悪戯に生きる目的を見失い……救われて、支えられて、託されて、未熟な感情に暴走して……運命を呪わしいと嘆き、狂い、人を斬った。

 たくさん、たくさんの、間違いを犯して、遠回りをして、それでも、温かい想いをくれる人が居て。気づく。気づいた、というべきだろう。――俺は今、幸せなんだ。

 愛されていた。愛されている。たくさんの人に。そして自分も、愛している。

 ずっと一緒に居て、大好きと言ってくれて、信じてくれて……脳ミソと脊髄だけになり、それでも会いたいと願ってくれて、いずれニンゲンとしての生を終えることが決定されている純夏。

 いつも傍にいてくれて、いつも眩しいくらいの笑顔をくれて、挫けそうなとき、折れそうなとき……支えてくれて、共に歩いてくれた茜。

 強気で、勝気で、でも満たされるくらいに優しくて……手を差し伸べてくれた、引っ張りあげてくれた水月。

 誇り高くそして気高く、強くて、格好良くて、信頼を、たくさんの想いを託してくれた……外道に堕ち、無道を犯した闇を晴らしてくれた真那。

 晴子、多恵、薫、亮子、みちる、まりも、霞、志乃――たくさんの、人たち。両親、師匠。その全て。白銀武を支えてくれたなにもかも。胸いっぱいに溢れる、温かい、想い。――胸を張って言える。この人生は、素晴らしいものだった。だから、これからもっともっと輝けるはずだ。純夏を、茜を、全身全霊で愛し、護る。衛士として、軍人として、戦って、護り抜く。

 BETAへの憎しみを消すことは、多分……出来ないのだろう。理屈や感情で誤魔化せるものではなくなっている……それはもう、紛れもない自分自身だった。けれど、もう二度と、復讐に駆られることは在り得ない。あんな無様を晒すことはしない。もしまた復讐に捕らわれてしまえば……それは、こうして再び正道へ立ち還る道を示してくれた真那を侮辱する行為であり、何より、水月、みちる……武を信じて、もう一度チャンスをくれた彼女達の信頼を裏切ることになる。そしてそれは、茜を、彼女を哀しませるだけだ。

 消えぬ憎しみさえを抱いて、前へ。果てぬ怨讐を越えて、前へ。――俺は守護者になる。

 かつて教官だった熊谷の、あの言葉を噛み締める。お前はどっちだ、と。そう武に問いかけた彼に、ようやく胸を張って答えることが出来る。愛するひとが居る。護りたいひとがいる。喪ったと思っていた純夏は、どんな姿に成っていたとしても、生きていてくれて……ここに居る。ならばもう、復讐に縛られる枷はない。あるとするならばそれは、ただ血に酔った悪鬼羅刹の妄執だろう。けれど、そんなものはもう、武の中に残っていない。志乃たちの挺身が教えてくれた。茜の笑顔が希望をくれた。

 ゆっくりと、立ち上がる。

 抱いた弧月を両手に握り、正面から見据えるように。音もなく鞘から引き抜いて――その刀身が、灯かりのない室内で煌くように、鳴る。

 それは全身に染み渡るような、静寂。凪のない水面のように穏やかで、満たされていて……なによりも、“揺るがない”。弧を描く月。武の心を映す水鏡。託されたそれは、常に武と共に在った。手にする資格が無いと手放したその時も、ずっと、武が気づいていなかっただけで……弧月はいつだってそこに在ったのだ。それが、嬉しい。生きていけると、確信させてくれる。護り抜くことが出来ると、信じさせてくれる。

 だから大丈夫。もう絶対に、間違えない。

 何度も繰り返し、思う。誓う。刻み付ける。……刀身を鞘に仕舞い、下緒を腰に結わう。数日振りに提げた弧月は、けれど、全く変わりなく……まるでそこに在るのが当然のように――風もなく、純夏のリボンが揺れた。彼女もまたずっと居てくれたのだと、気づかせてくれる。

 言葉を交わすことのできない恋人。愛しい人。純夏。武に出来るのはただその“願い”を聞き続けることだけ。その身に負った非業なる宿業を垣間見ることだけ。それでも、武は純夏をとても近くに感じていた。血に汚れた黄色いリボンを撫でる。指先を通じて伝わる柔らかさに、胸が熱くなるようだった。……生きている。自分も、純夏も。まだ生きている。これからも生きていける。だから愛する。だから護る。同じように、茜も。生きて、触れることが出来て、傍にいてくれて……想ってくれる彼女を。

「さぁ……行くぞ、」

 訓練への参加は禁じられてしまった。ならば鍛錬……と言っても、大したことは出来ない。ならばどうする。決まっている。武は自室を飛び出して、足早に向かう。行き先は戦術機格納庫。機体に関する知識を大なり小なり修めることは衛士にとってプラスになる。座学ではフォローしきれないより詳細で技巧に凝った知識を得るならば、実際にそのプロフェッショナルに聞いたほうが早いし、何より濃い。訓練兵時代に世話になったあの言葉と態度がちぐはぐな整備士に教えを請う腹積もりだった。かつての経験を活かして整備技術を向上させるもよし、更なる知識を深めるもよし。この一週間、無為に過ごすわけにはいかない。

 進むべき道を揺ぎ無く見据えることが出来たのなら、あとは突き進むだけだ。そのために必要な手段は何もかも手に入れる。より強く、護るための力を得るために。今出来ることを、片端からやって見せる気概を持て。

 ――それが、“生きる”ということだ。












 たぶん、なにかいいことがあった。或いは……迷いがなくなった、吹っ切れた――そう、表現するべきなのだろう。

 柏木晴子は夕食を勢いよく平らげていく武を見ながら、周囲で呆気にとられた表情をする皆と同じように、ぽかん、としていた。とにかく、なにか勢いが違う。例えばそれは昨夜の夕食であったり、今朝の朝食であったり……訓練前のミーティングの時であったり、午後……は会う暇がなかったのでわからないが……“とにかく”、違う。

 誰よりもそのことを一番察しているのだろう茜は、けれど武の左隣で嬉しそうに笑っているだけで――どうやら、彼がなにか違うことより、それがとにかくプラスの方向を向いているらしいことに喜んでいるようだ……。無論、晴子も武の雰囲気がどこか真っ直ぐに前を見据えているらしいと気づいているので、彼が今朝とまるで“違う”ことを問題とは思わない。いや、そもそも問題というか、要するに――何があったのか。それが気になるのである。

 今朝までの武といえば……数日前に茜と亮子が目の当たりにした、何か酷く追い詰められたような、昏く翳ったような鬼気迫る雰囲気を纏っていた。訓練を終えた直後の、皆と……水月たちと暴れている時はそうでもないのだが、独りで居るところを目撃した時などは、思わず目を見張ってしまうほどに“危ない”気配を漂わせていたように思う。剣術の師の形見を手放し、幼馴染の形見を手放し……ただ独り、ナニカに追い詰められ、けれどそこから這い上がろうと足掻いていた……らしい、武。こっそりと水月に尋ねた時に得た情報だった。詳細は教えてくれなかったけれど、精神科医の面談を受けたりもしていたようで――そこまでを聞いて、晴子はまさかPTSDではないのかと疑ったのだが、どうやらそれも違うらしい。

 とにかく、武のその状態は、直接の原因や現在の武の情動等、わからない部分が多いながらも、かなり危険な状態である……と、そう判断せざるを得ないようなものだった。

 それがどうだ。

 まじまじと武を見つめる。テーブルを挟んで斜め前方、その場所に座る彼は好物の合成竜田揚げ定食をあっという間に片付けて、程よく冷めた合成宇治茶を啜っている。あまりにも勢いが良く、更にスピーディーであったために誰もがポカンとしている。自分の食事も忘れて見つめてしまうくらい、なんだか本当に……武はサッパリとしていたのだ。故に、吹っ切れた、と。そう感じるのかもしれない。

 一度は手放した刀を再び腰に提げ、その鞘には変わらずに黄色い御守りのリボンが巻かれて……。それを見ただけでも、彼を覆っていたナニカから抜け出せたのではないかと想像できる。なにより、その雰囲気。柔らかで、真っ直ぐで、気概と目的に満ちた瞳。思わず見惚れてしまうくらい――――って、待て待て、私は一体なに考えてるのよ。晴子は一度頭を振り、冷静な思考を取り戻す。それだけでは足りなかったので一旦武から視線を外し、周囲の皆を観察することにした。

 まず一番に目に映るのは茜。真正面に座る彼女は、……見ているこっちが恥ずかしくなるくらいに、ニコニコと笑っている。多分もなにも、武が立ち直ったらしいことが嬉しいに違いなかった。――ああもう、本当に惚れきってるのね……。晴子は彼女の恋に全力で力添えすると決めているので、まぁ、これは問題ない。ただ、彼女は……自分の想いが言葉ではなく肌を通して武に伝わり……そして彼の想いまでもが伝わってきた……と確信してからは、その、なんと言うか――開き直っている。それはもう呆れ果てて苦笑するしかないくらいに。どこか遠慮する風だった水月に対しても実にアグレッシブに牽制を掛けているのだ。これを開き直りといわずしてなんと言おう。

 同期組の顔ぶれを見れば、三人共に武の雰囲気が変わったことに困惑、というよりも矢張り、呆気にとられているらしい。特に亮子は再び腰に提げられている件の刀をじっと見つめて、なんだか嬉しそうに小さく笑っていた。剣道を修めている彼女には、刀を手放す苦しみと、再び手に取ることが出来るようになった喜びというものが理解できるのかもしれない。また、三人共に若干頬が赤くなっているのはご愛嬌。どうも、彼女たちとは色々と思考回路が似ているらしい。全員で茜を応援しようと決めているものの、矢張りそれはそれ、ということなのだろうか。――ま、個人が心の中で想うくらいは、別にいいかな。かく言う自分とてその一人。黙っている分には何の問題もないのだ。うん。

 視線を反対側へと移す。武の右隣に座る水月は……どうやら既に呆れた様子はなく、深い慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。これも茜同様にかなり……見ているだけで恥ずかしい。武を“弟として”愛している。そう言い切った水月の、どこまでも強気な、自信に満ちた表情。それを思い出してしまって、困ってしまう。本当に凄いひとだと感心しながら、けれど、彼女もまた武の雰囲気から色々と良い側面を感じ取っているらしいことはわかった。

 先任達はどうだろう。ずらりと居並ぶ美冴以下五人も、大なり小なり同じような表情をしている。その中で目を引いたのは、呆気にとられた表情ながらも箸の動きが止まらない梼子であり……どこかしたり顔の真紀だ。前者についてはノーコメントで通したいところだが、後者は……どうだろう。真紀が何かにつけてホラを吹くことは既に身に染みて知っているし、それが彼女の魅力の一つだということも知っている。――が、さて、どうだろうか。

 端に座るのはみちると遙。遙は武が早飯食いをしている最中こそ驚いたように彼を見ていたのだが、今は視線を水月へと向けて、微笑む彼女を見て笑顔を浮かべている。……どうも、茜に対する自分たちと同じような感情を抱いているらしい。それを想像すると面映く、くすぐったい気持ちになった。では、みちるはどうだろうか。部隊長であり、部下のメンタルケアも一身に背負う彼女は――……・晴子は、一瞬だけ、息を呑んだ。

 それは多分、見定めようとする者の目だった。

 どこまでも深く温かい優しさに満ちていながら、その一点だけは見誤らない。そういう強い目だった。思わず、喉を鳴らしてしまう。――これが、戦場という極限の中において大局を見据えるものの視点か。指揮官としての責務。部下の命を背負う者の、責任。――白銀武は本当に“吹っ切れた”のか。立ち直れたのか。追い詰められた窮地から抜け出せたのか。足掻き、我武者羅に前を見据え、突き進めるのか。……戦慄に似た感情が晴子の背中を這い登る。みちるの胸中を占める高尚な軍人としての意識に、慄然とした。

 武の雰囲気だけに目を向け、それを喜ぶだけの自分たちとは明らかに次元が異なる。一番近い位置に在るはずの水月でさえ、今のみちるほど冷静にこの場を観察してはいないだろう。それが隊長の義務だと言われてしまえばそうなのかもしれなかったが……晴子は、もし自分がその立場になることがあったとして、では、一体どれ程の経験を積み、才気を養えばみちると並ぶことが出来るだろうと考えて……とてもではないが、そんな境地には至れないだろうことを悟った。

 自部隊の隊長の凄まじさを目の当たりにして言葉をなくした晴子に、隣に座る薫が肘でつつく。――どうした? 無言のまま問いかけてくる友人に、困ったように笑ってしまう。なんでもない。そう言って苦笑すると、薫は“ふぅん”、と視線でいぶかしんだ後、まぁいいやと呟いて食事に取り掛かった。それを見て、そういえば自分もまだ食事を採っていなかったことを思い出す。武に見惚れている間にすっかり冷めてしまった夕食を、――なんだかなぁ、と。またも苦笑しながら食べるのだった。

 武には、なにかがあった。

 それは彼の精神を魂を圧迫し追い詰め、磨耗させ狂わせるほどのナニカで……でもそれは、恐らくは今日の午後にあったのだろう、もう一つの“ナニカ”によって、払われ、救われ、立ち直ることが出来て……前に進みだせるような、そんな……。

 なにか。

 それを知ることは出来ないのだろう。いつか、武が話してくれるときが来るのかもしれない。――なら、いいかな。もしそんな時が来るのなら、それを楽しみにしたって罰は当たらない。武がナニカから吹っ切れて、笑っていて、その隣りで茜が笑っている。なら、それでいいじゃないか。気になるけど、知りたいと思うけれど。でも、今は――それでいい。







 ===







 2001年10月21日――







 なぜ、こんなことになっているのだろうか。武は一生懸命思考を働かせて、途轍もない努力を巡らせて、どうにかこうにか目の前の事象を理解しようと足掻く。例えば深く眼を閉じて思考の海に潜水したり、深呼吸して肺腑を新鮮な酸素で満たしたり、キョロキョロと視線を巡らせてみたり。……要するに、全く落ち着きがなかった。

 ちらり――と。ひょっとしたら自分の見間違いなんじゃないかな、なんていう期待を込めてそこを見れば、当たり前というかなんというか、変わらずにそこには茜がベッドに腰掛けていて……まぁその、つまり。

(俺にどうしろって言うんだッ――柏木ぃぃぃいい!!??)

 武の自室。宛がわれたその部屋。私物が殆どないと言っていい殺風景な室内に、けれど、絶対にあってはならないはずの、むしろ居ないはずの茜が、女の子が、国連衛士仕様の半袖ハイネックのアンダーシャツに軍パンという、ある意味でいつも通りの――けれどこの状況では非常に色々と困る姿で、どうしてかベッドに腰掛けている。武もまた同じくベッドに腰を下ろしているのだが、そもそも何でまたこんな状況にあるかというと、つい数分前に晴子の手によって茜が“配達”されてきたからであり…………。

 つまり、武には全く意味がわからないのだった。

 ――いや、心当たりがないわけでは、ない。

 もう一度だけチラリと“配達”されてきた茜を見れば、部屋中をくるくると見回している。彼女の部屋も同じようなつくりであるはずなのに、やけに楽しそうだ。こんな殺風景な部屋の何が楽しいのだろうと首を捻り……同時に、こんなにもいつも通りの仕草を見せられては意識してしまっていた自分が莫迦のように思えてくるから不思議だ。時刻はじき就寝時間。そんな時間に男の部屋に二人きり……しかもその、まぁなんだ。茜は誰の目から見ても明らかなほどに武へ向けて好意を示しており――武自身、それを好ましく感じてもいる。

 茜を愛しているという感情は、心からの本心だ。……けれど、同時にもう一人、純夏という幼馴染を愛している武は、その想いを茜に伝えてはいないし、伝えるつもりもない。お互いに愛し合っているという認識があり、確信もあるのに……二人とも、それを口にしない。伝えない。――わかっているのだ、茜も。武が純夏を愛し続けていることを。そうして、茜へも想いを寄せていることを。……最低な男、気の多い男、優柔不断、果たしてどんな風に見られているのかはわからないが、……それでも、彼女は傍に居続けてくれている。それを申し訳ないと思う反面、それでも――嬉しい、と。そう感じてしまうのは男のサガだろうか。いや、傲慢で見境のない欲望がそう錯覚させるのか。

 否。

 茜に傍にいて欲しいと想うのは、決して下心からではない。自分というニンゲンが狂わず壊れず、全うに生きていくために絶対必要な希望。正道を照らす太陽の輝き。共に歩み進んでくれる伴侶――武にとっての“涼宮茜”とはそういう女性であり、ただ、傍に居ることができて、こうやって傍にいてくれるだけで「満たされる」。護りたいひと、なのだ。

 勝手な感情だということは理解している。きっと、他人からは武のその一方的な想いは、ただ、身勝手な願望を投影しているように見えるのだろう。茜の気持ちを無視した、武自身のための愛情。見返りのない、相手の都合を考慮しない、ただ、想うだけの愛。……そんなものを一方的に向けられた相手は、ではどうすればいいのだろうか。迷惑と拒絶するか、或いはそれを理解し、受け入れるのか……。――茜は、どちらだろう。

 多分、茜はそんな武の身勝手な想いを全部承知していて、それを受け入れてくれているのではないか。そう、思える。感じられる。能力を使ってしまえば簡単に知れるのだが、そんなことは絶対にしないし、そもそも出来ない。

 アレ以来、夕呼から呼び出しを受けることもなかったのだが……一ヶ月ほど前に、霞を通じて手渡されたものがある。それは軍人なら誰もが持っている認識票。武のそれと全く同じものを、霞は両手に乗せて渡してくれた。今自分が身につけているそれと交換しろ、ということらしい。何故、と疑問を覚えた瞬間に、霞が懸命に伝えてくれたのだ。――純夏さんのリーディングに成功した、功績……です。そしてさらに、こうも言った。その認識票はバッフワイト素子が組み込まれている――と。マイクロチップには武が日頃から接するA-01部隊全員のデータが登録されていて、身に付けている限り、リーディングはブロックされるという。つまり、かつて咄嗟に思考を読んでしまっていたような失態を犯す心配はない、ということだった。無論、マイクロチップに登録されていない人物へのリーディングは阻止できないため、変わらず注意は必要だが……それはリーディング能力を重荷に感じていた武にとって朗報だった。

 純夏の脳をリーディングした功績、とはいうが……けれど、それは大した成果を挙げられてはいない。わかったことといえば、彼女が如何にしてBETAの捕虜になったかということと――その際に受けた、筆舌に尽くしがたい陵辱に尊厳の冒涜……凡そヒトを生命と認識していない連中らしい、反吐の出るようなおぞましい所業。一身にそれを受け、壊さないで、やめて、と繰り返し嘆き叫び発狂した彼女の……それでも、武に会いたいと願い続ける、想い。思い出すだけで視界が暗転して、どす黒い憎悪が鎌首をもたげてくる。決してなくすことのできない怨讐が復讐を謳いあげる。――けれど、もう二度と、復讐者のシロガネタケルにこの身体を明け渡すようなことはしない。泥のように濁った真っ黒な眼をしたアイツに、この身を預けたりはしない。

 とにかくも、夕呼はそれを“功績”と認め、バッフワイト素子を褒章として与えることを決定した。霞の表情を見るまでもなく、彼女の言葉を聞くまでもなく……それが夕呼なりのけじめの付け方なのだということは想像に易い。贖罪……という可能性もないではなかったが、けれどそれは在り得ないだろう。夕呼は一度、恐らく本人すら予期していなかっただろう発言で、右腕を喪っている。そういう脆さを極限まで精神が振り切れていた武に向けてしまった時点で、彼女も実は“同じニンゲン”であることに気づいた武は、もう二度と、彼女が武に対して弱さを見せることなど絶対にないと確信している。まして贖罪などと……あの、外道こそを自ら誇りを持って堂々と突き進む魔女には似合わない。

 多分、これが最後のけじめ、ということだ。夕呼自身の甘さとの完全な訣別。武を追い詰めた事実をただ“事実”と認識し、今後も使い勝手のいい手駒として存分に“使う”ための……功績。褒章。いいだろう、と武は渡された認識票を握り締める。これを受け取ることで夕呼の……ほんの僅かにこびり付くような“甘さ”や“感傷”が塵も残らず完全に消え去る、というのなら。受け取って然るべきだ。――きっと、そうすることであの人は00ユニットを完成させるためだけに、これ以上に邁進できるはず。それは純夏のニンゲンとしての死を意味し、同時に、彼女の生誕を意味する。

 …………どんな形であれ、どんな宿業を抱えた“生誕”であれ、武はそれを護り抜く。形や魂が重要なんじゃない。「鑑純夏」という存在。武にとってそう認識できる存在。自身はそれを護る剣であり盾であり……彼女を愛する、男だ。バッフワイト素子を受け取ることで夕呼の負担がナノグラムでも軽くなるというなら、喜んで頂戴しよう。褒章を受け取った武を見て、霞はとても嬉しそうに笑ってくれた。いつも無表情が目立つが、矢張り女の子には笑顔が似合うと思う。武は無意識のままに霞の頭を撫でて、ずっとずっと純夏に話しかけてくれていた彼女に……ようやく、“ありがとう”と伝えることができたのだった。

 と、そのような経緯から今も武は認識票を首から提げていて……つまり、バッフワイト素子を装着しているために、茜へのリーディングは出来ない。無論、それでいい。ニンゲンにリーディング能力は必要ない。それは多分、絶対だろうから。霞は未だに能力への固執を見せるが……生まれた境遇からして、それを拭い去ることは決して出来ないだろう。武がいつまでも復讐を拭い去れないのと同じに、ソレが、己の根幹を成しているのだから。けれど、彼女のソレが武のソレと同じようなものであるならば……いつかきっと、乗り越えることも出来るはずだ。なにせ、自分で情けなく思うくらいに脆弱で弱かった自身が、ようやくではあるがそれを実現できたのだから。まして霞はまだ幼い。きっとこれから先の長い人生で、どこまでも強くなれるに違いなかった。

「あー……茜、その、さ。部屋に戻らなくて大丈夫なのか?」

「んー? さぁ、ねぇ。――武は、どうして欲しいの?」

 ――そりゃ反則だ。

 苦笑が漏れる。そんな眩い笑顔を向けられたところで、武にはどうしようもないのだ。茜を愛しているし、彼女の想いも理解している。……でも、純夏も同じく愛している彼は、そのどちらとも結ばれることはないと「決めて」いる。本当に自分勝手で酷い男だ――そうやって自嘲するように口端を引き攣らせれば、察したのだろう。茜が武との距離を詰めるのがわかった。腕に茜の柔らかな肉体が触れる。肩に頭を乗せられて、心底安心したように眼を閉じられてしまえば……「部屋にもどれ」とも言えなくなってしまう自分の浅ましさに落ち込んだりもした。

 ともすれば衝動のまま押し倒してしまいそうであったため、必死に違うことを考える。一生懸命考える。心臓が壊れたように鳴り響いているが絶対にそんなのは気のせいだ冷静になれ落ち着け抑えろあああくそぅ柔らかいあったかくていい匂い――ってだから駄目だってああもうっ!?

 そうやって脳内でパンク寸前になりながらも、どうしてこんなことになっているのだったかと記憶をまさぐれば……思い出したのは矢張り晴子の顔だった。あの、“ごゆっくり”とでも言いたげな笑顔。心当たりがないわけではない記憶。言動。それはそもそも、今朝に遡る。







 九月末、茜達元207訓練部隊A分隊がA-01へ任官してから一ヶ月が経過したその日、彼女たちは遂にシミュレータ訓練に参加することとなった。正規軍として必要な知識を修め、司令部付、副司令直属の特務部隊の任務と極秘計画の一端を知り、それを担い果たす責任を自覚し、求められる実力を明確に意識付ける。そのための座学、講義を終え、次のステップへと進んだ彼女達を、B小隊で“歓迎”した。実に一ヶ月ぶりにシミュレータに搭乗した新任衛士相手に、一切の手加減なく、実戦と対BETAプログラムで鍛え抜いた最精鋭突撃前衛小隊の猛攻を叩き込み、現段階での彼女たちとの格差を思い知らせたのだ。

 散々凹ませた後に部隊を再編し、二つに分ける。新任を2-3で割り振り、Aチームには伊隅みちる、風間梼子、古河慶子、高梨旭、涼宮茜、柏木晴子の六名、Bチームは残る速瀬水月、宗像美冴、本田真紀、白銀武、築地多恵、月岡亮子、立石薫の七名編成の二部隊で模擬戦を行った。先任のチーム分けを見てもわかるのだが、中・遠距離攻撃に秀でたAチームと、近接戦闘に優れたBチーム、という構図になっているそれは、名目上は新任たちのポジショニングを決定するための試行的な模擬戦であり――実戦の経験が一度でもあればレーザー属種とそれ以外、という対BETA戦闘を想定しての構図と重なっていることがわかるものだった。メンバーの入れ替えを何度か繰り返して、茜たち五名の最も適したポジションを探ると同時、先任との連携の経験を積み、或いは彼女たちの動きから何か一つでも掴めたならば上々。

 みちると水月が訓練兵時代の成績から判断しての最初のポジショニングから、得意とするそれとは全く逆のポジションや兵装を選択したりと、かなり自由度の高い訓練を重ねる内に、紙切れだけではわからなかった個々の適性というものが浮き彫りになってくる。無論、教導官である神宮司まりも軍曹が纏めたレポートが全く役に立たないというわけではない。実際に目の当たりにして見なければわからないこと、というのは多々あるし、現場ではそれが最も重要なのである。……もっとも、流石はみちるの教官だったこともあるまりもだろう。彼女の提出したレポートに偽りはなく、むしろそれ以上とも言える実力を秘めた新任たちに、みちるは不敵に笑ったりしたものだ。

 数時間ぶっ続けで行われた模擬戦の結果、暫定的に決定されたポジションは、涼宮茜・強襲掃討・C小隊、柏木晴子・打撃支援・A小隊、築地多恵・突撃前衛・B小隊、月岡亮子・強襲前衛・C小隊、立石薫・突撃前衛・B小隊、ということになった。あくまで暫定ではあるが、これからの数日はこの編成を元に訓練を重ねていく。その間に散見された問題は虱潰しにしていき、最終的に、最大効率で、且つ最大戦力を生み出す編成へと決定する。それがみちるのやり方だった。

 ちなみに、彼女たちが正式にA-01の一員として実稼動するにあたり、宗像美冴中尉をC小隊隊長の席に据え、風間梼子少尉をC小隊へと配置。これにより、ヴァルキリーズはA小隊四名、B小隊五名、C小隊四名という変則十三名一個中隊として、人数だけを見るならばフル稼働が可能となった。勿論、CPは涼宮遙中尉。戦略の要となる戦域管制なくして戦場では生き残れない。そうしてシミュレータ訓練を一週間も続けた後はJIVESを使用しての実機演習。間引き作戦を想定した戦闘や防衛戦、それらを繰り返し繰り返して……さらに一ヶ月が過ぎた“今日”、武は晴子から呼び出しを受けていた。

「ねー白銀くん。昨日はどうだったぁ?」

「あ? 昨日? なんかあったっけ?」

 ニコニコと心底から愉しそうに尋ねてくる晴子に、話が見えない武は盛大に首を傾げた。ぽかん、と腕を組み首を捻った瞬間、晴子の時が止まったのを武は目撃する。ニコニコと笑顔を浮かべたまま固まられるというのは見ていて実に興味深い。暫くそんな晴子の奇態を見つめていると、ギギギ、と油の切れた機械のように、ぎこちなく笑顔が強張っていく。目と口だけは辛うじて笑みを形作っていたが、それも端っこの辺りがひくひくと痙攣していて、実に無理やりだった。

「えーっ、と。聞き間違いかな? 今、“なんかあったっけ”、って聞こえたんだけど……」

「ああ。言ったぞ。昨日……って、二十日、か? それがどうかし…… 「莫迦ァアあーーーーーーーっっっ!!??」 ……ヲイ、いきなりだな」

 もう一度首を傾げて、更には顎に手を当てて記憶を反芻しようとした武に、言葉途中で晴子が咆える。先程までの笑顔はどこにもなく、信じられないこの莫迦っ! と言わんばかりにがなっている。……というか、事実、莫迦といわれたわけだが。さて。

 武はその晴子の様子に全く思い当たる節がなかったので、どうどう、宥めるように声を掛ける。――私は馬かっ! とかつてない突っ込みの冴えを見せた晴子に、おお、と怯んだのも束の間。次の瞬間、晴子は盛大に溜息を吐いてがっくりと力いっぱい項垂れた。つい今しがた“莫迦”と罵られたばかりでこれだ。どうやら武に呆れているらしいのだが、そうやって一方的に落ち込まれても困る。どういうわけか問うた武に、晴子は頭イタイといわんばかりの顰めッ面で、事のあらましを説明してくれた。

 つまりは……昨日。10月20日、は。

「茜の…………誕生日?」

「そ。――まぁその、今まで一度も誕生日の話なんてしたことなかったから知らない……っていうのも無理はないのかもしれないけど……」

 言われて、そういえば彼女達全員の誕生日を知らないことに気づく。むしろ、水月や真那の誕生日だって知らない。一年に一度の記念日。自身が産まれた日。誕生を祝い、産んでくれた父母に感謝する日……人によっては、色々と思い入れがある日、だろう。かく言う武は誕生日の記憶といえば常に幼馴染と過ごしていたものしかない。他に友人がいなかったわけではなく、それくらい、ずっと一緒に居たということだ。年齢を重ねる内にそれほど盛大に行われなくなった誕生日のお祝い。ささやかなご馳走――その全てが合成食品だが――を囲んで、純夏とその両親、武の両親と六人で食卓を囲んだ記憶。少し寂しくも、けれど、温かなその記憶に浸ること数秒……なるほど、晴子の言わんとしたことが理解できてきた。

「つまり、お前は昨日俺と茜が誕生日のお祝いをしたかどうか、と。そう聞きたかったわけだな?」

「うん……ていうか、私から茜に白銀君を誘うようにけしかけたんだけどさぁ……」

 がっくりとしたまま零す晴子。どうやら武が茜の誕生日を知らなかったことよりも、けしかけた茜が何も行動を起こさなかったことに落ち込んでいるらしい。友人思いというか、なんというか。本当にいいヤツだと思う。武は尚溜息を吐く晴子に苦笑し、ならば茜へ“誕生日おめでとう”と伝えるくらいはしておこうと決める。プレゼントを贈れたらいいのだろうが、所詮ここは軍事施設だ。大したものは置いてない。日用品を贈呈したところで彼女が喜ぶとは思えないし、そもそもこれまで一度も祝っていなかったのだから、出来ればなにかインパクトのあるものがいい……。そうやって思考に耽っていると、じっとこちらを見つめる視線に気づいた。言わずもがな、晴子だ。無言のまま武を見つめること数秒、――あ、と何か思いついたように、ぽん、と手を打つ。

「……なんだよ、“あ”って。……ぉぃ、なんかスゲェ嫌な予感がするんだが…………」

「あーあー、いいのいいの。気にしないで。んじゃっ、そろそろ訓練の時間だし、私先に行くねーっ」

「ちょっ――!? おい、柏木っ!?」

 最後にはいつものように“にへら”、と笑って駆け出していく。そのあまりにもいつも通りな彼女の笑みに、底知れぬ不安を抱いたまま一日を過ごし……これと言って何も起こらなかったので自分の思い過ごしだったらしいと安心していたのだが…………そろそろ寝ようと毛布を広げていたところに、柏木宅急便の配達員さんから“お荷物”が届けられたわけである。

 言うまでもない。茜だ。

 そしてここで重要なのは、彼女が抵抗らしい抵抗を見せなかったということだ。そして更に、今こうしてぴったりと身体をくっつけてきているということ! ――まさかとは思うが、ひょっとして、覚悟の上、なのだろうか……。そういう経験の無い武には些か刺激が強すぎる状況である。訓練中や作戦行動中は男も女も一切関係なく、また、そういう意識さえない。だが、ひとたびそういう場から離れてしまえば、矢張り武とて健全な男子であり、茜は――それはもう、飛びぬけて魅力的な女の子なのだ。このまま一晩明かすことになれば、そう遠くない、具体的には数時間後には理性の糸が切れて襲ってしまいそうである……それだけは、なんとしてでも避けたい。

 いい加減、腹を括るべきか――。ぐ、と拳を握り、唾を飲み込む。しっかりと理性を働かせて、茜を見つめる。すぐそこに、目の前に、触れそうな距離に、ふっくらと柔らかそうな唇がある。多分、そこに触れたならとてつもなく満たされるのだろうけれど――あ、マズ……。茜が目を開けた。真っ直ぐに、武の目を射抜く。くすっ、と。小さく微笑んだ瞬間に、武の脳髄を甘く艶美な香りが満たす。「部屋にもどれ」。そう言う筈だったのに――くらっ、と。全身の力が抜けるように痺れる。気づけば両手で茜の肩を抱いていて、二人の距離は重なり合っ――――



「こらぁ貴様達! とっくに就寝時間を過ぎているぞっ!? なにをやっている!!」

「「「わぁぁあああ!??」」」



 びくぅ――ッ! と。

 武の心臓が、というか全身が跳ねた。突然の怒声と悲鳴に振り向けば、どうしてか開かれた部屋のドアに、そこに雪崩こむように積み重なった晴子以下お馴染みの面々。ちっ、と舌打ちをしてあっという間に見えなくなったのは間違いなく美冴だったし、続いて逃げようとしたところを怒声の主らしいみちるに掴まれて足掻いているのは水月だろう。一番下で潰されている晴子はぎゅうう、と苦しそうだ。

 …………そこまで見れば、誰だってわかる。覗かれていた、のだろう。うん。

 怒声と悲鳴に驚いた拍子に茜から距離をとっていた武は、ぱくぱくと口を開閉させるだけで、冷静な思考を取り戻せない。全て晴子の目論見だったのだろうことに気づけたのは、みちるが強制的に全員をシミュレータルームへ連行すべく怒鳴り散らした後であり……

「あー、白銀、涼宮」

「…………なんでしょう」

「…………………………………………避妊はしろよ?」

「出てってくださいっっっ!!!!!!!」

 ひょこ、っと最後にもう一度顔を出して要らぬ助言をくれる隊長殿に、真っ赤になりながら叫ぶしか出来ないのだった。







 その後、結局武と茜もシミュレータルームへと向かい……皆に散々冷やかされながらも、汗とともにそれぞれの衝動というものを鎮め、そして――一人、自室へ戻り、床に就く。

 そして。

 夢を見た。

 純夏がいて、両親がいて、仲間がいて、――BETAがいない、そんな、夢のような夢を…………。

 ああ、夢なんだ……と。そうわかるくらい、ぬるま湯に浸っているような、狂おしいほどの、在り得ない……。



 ユメを、見た――。




[1154] 守護者編:[二章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/03/06 22:11

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:二章-02」





 目を開くと、眦から滴が伝うのがわかった。滲んだ視界が、ぼんやりと天井を映し出す。ハッとして両手で目元を拭うと、矢張り、涙の感触があった。

 ――俺は今、泣いていたのか?

 卓上のアラームが鳴る。起床ラッパの五分前。いつもの時間。上体を起こし、アラームへ手を伸ばす。鳴り響く電子音が消え…………武は、俯くように手の平を見た。

「なんだ……っけ? なにか、夢を見た、ような……」

 それは一体どんなユメだったのか。眠りながらに涙を流すほどの、なにか。温かで、ただ幸福だった――そんな、曖昧な感覚が在る。「誰か」と一緒に居て、たくさんの笑顔があって、楽しくて……愉快で、幸せで。まるでぬるま湯のような、そんな夢。はっきりと覚えていない。本当に見たのだろうか、とも思う。けれど、武がその“よく覚えていない夢”に涙を流したのだろうことは事実。

 覚醒しない頭を緩く振り、顔を洗って意識をハッキリさせようと頷く。武はベッドから抜け出すと洗面所の蛇口を捻り、勢いよく顔を洗った。タオルで水滴を拭い、手早く着替えて……弧月を鞘から引き抜き、構えを取る。瞬間、柄を握る指先から脳の天辺、足先までが凛と漲った。意識を戦闘時のソレへと切り換え、曖昧でしかない「夢」の残り香を振り払う。――あんな幸せな世界を、俺は知らない。正眼に構えたそのときに、僅かな引っ掛かりが脳裏を掠めた。振り払おうとした矢先にそんな些細な違和感に意識を持っていかれて……武は己の未熟に眉を寄せて、裂帛の意志を爆発させた。

「――ぜああッ!!」

 確かに幸せな夢だったのだろう。内容も出てきた「誰か」もまるで覚えていないけれど、でも、幸せな世界だった。……だが、ソレは夢でしかない。心のどこかでそんな平和で幸せで、温かで笑顔の溢れる……そんな世界を欲していた、その願望が“在り得ない世界”として、夢として結びついたというのなら、それは武の心の弱さが見せた幻想だ。自身にそんな平和願望がないとは言わない。一刻も早くBETAをこの地上から掃討して、奪われた、蹂躙された世界に平和を取り戻す――それが、衛士の、BETAと戦う全ての人々の願いなのだから。

 腑に落ちないのは。わからないのは……なぜ、ということだ。“どうして”、あんな夢を見たのか。

 例えば寝る前に誰かと話していたとして、その時の内容を夢に見る……ということは、実は珍しくない。或いは、過去に経験した記憶が夢で再生される、というような現象や、普段は抑圧されて意識していない願望等が如実に現れる、というようなもの。夢の定義は様々だが……共通していえることは、本人が経験していない、記憶にないそれらは“夢に現れない”ということだろう。願望だというなら、そもそも自分の脳内に存在するのだから、これも同様だ。

 ならばつまり――あの、ただ幸せだったという感触だけが残っている夢は。例えば――幼かった頃の記憶や、訓練兵時代の賑やかな日々、そして、早くBETAのいない世界を取り戻したいという願望が複雑に重なり合った結果、脳内で作り上げられた都合の良い「シアワセ」。

 多分、そういうことなのだろう。あまりにも根拠がなく、妄想にも等しい願望……。故に記憶に残るほどの鮮烈さはなく、曖昧に、けれど……自身が願い夢見たからこそ、幸せであったのだと実感する。そんな、ユメ。

「ふっ――!」

 振り下ろした剣先を、横なぎに払う。弧を描くような剣閃の後に、ダン――と、足の踏み込みと同時に一閃。振り抜いた状態のままで暫く身を硬直させて……やがて、武は深く息を吐き、苦笑する。――なんて、未熟だ。そもそも本来ならば、既に習慣と化しているこの修練は“一閃に全てを駆ける”ものだった。衛士としての訓練・任務に、剣術の稽古をする暇がなく、せめてもと思って毎朝繰り返しているそれ。最早儀式と言っても過言ではないそれを、今日は三度も……一閃で払い去ることの出来なかった、よくわからないぬるま湯のようなユメの残り香を脳裏から追いやるのに、三度も剣を振るうことになった。

 夢を見ること自体はなんとも思わない。人が何故夢を見るのか、そのメカニズムは解明されていないというし、そもそも、人は夢を見て当然なのである。故にそれは、いい。いまいち納得できない不可解な点はあるように思うが、それでも、見るものは見るのだろうから。

 では、何が未熟というのか。――決まっている。意識のコントロール、感情の支配。それら、自身にとって最も鍛え抜かねばならない精神面の成熟が成っていない……その事実。最初にして最後、そのはずの一閃でありながら、都合三度剣を振るった事実。これが未熟でなくしてなんと言おう。まだまだ精進あるのみ、武はそう心中で頷いて、点呼のために部屋を出るのだった。







 いつもなら仕度を終えた茜達と話しながら向かうPXに、今日は一人で向かった。別に普段から待ち合わせをしているわけでもなく、皆のタイミングが偶然重なっていたというだけのことだったので、特に気にすることはない。全員勢ぞろいで向かう日もあれば、一人二人抜けていることもあったし、晴子と薫のお節介で茜と二人きり……という日もあったのだが、まぁソレも今は関係ない。確かに普段より若干早い時間だということは武も自覚している。ほんの数分早く部屋を出ただけで単身になるという発見は些か新鮮ではあったし、喉に引っ掛かって取れない小骨のような違和感について黙考するのにはおあつらえ向きだとも思う。

 結局――気にしないように、或いはそんな夢のような願望を振り払うためと弧月を振るいはしたものの、気になるものは気になる、ということらしかった。自分のことのくせにいやに曖昧だとは武も思うが、自身にリーディングを行使しても、あのユメについて読み取ることは出来なかったのだ。今まで一度も“自分の見た夢”に対してリーディングをしたことがなかったので、そのせいで巧くいかないのか……そもそも、リーディングとは感情や意識、というものに対して行使するものであって、ユメなどという蒙昧な精神領域には干渉できないのかもしれない。その辺りの専門的な話は武は聞かされていないし、AL3の研究成果を閲覧する権限もない。まして自分で調査する気なんて更々なかった。そのため、既にあのユメをリーディングで読み取ろうとする徒労はやめている。

 が、結果として余計に気になってしょうがない。気にするようなことではないのだろう。不可解な夢を見る、ということは誰にだって経験があるだろう。武だって幼い頃には奇々怪々な夢にうなされたりしたものだ。――なら、今回だってそういうこと……そうだろう? 自身に問いかけるが、返ってくる答えはない。本当にそうなのか、それとも、違うのか。その線引きが……出来ない。わからない。

 そもそも内容を全くと言っていいほど覚えていない、思い出せない、というのが引っ掛かる。……いや、それも過去に経験がなかったわけではないのだが……こうして気になってしまっている以上、あのユメにはなにか在るような気がするのだった。無論、ただの考えすぎとも言えるだろう。思い出せないからムキになって思い出そうとしている、ただそれだけなのかもしれない。

 いや――武は足を止めた。腕を組み、む、と黙り込む。

 そもそも妙なのは――――俺が、あんな平和な世界を夢見ること、か?

 平和な世界を築きたい、皆が幸せに笑っていられる世界を取り戻したい……そういう意識は、確かにある。誰だってそうだろう。こんな地獄のような世界を一刻も早く終わらせて、かつての幸せな日々に還りたい……それは、当然の願いだろう。ならば武がそんなユメを見たっておかしくはない。なにせ無意識下の話だ。本人の意識しない願望が形になるのがユメというのなら、その可能性は否定できない。

 だが、それはない。

 武にとっての願いとは、即ち純夏と茜――愛する二人を護り抜くことであり、そのために生きることだ。その延長線上にあのユメのような世界が在るのかもしれないが、一足飛びでそれを夢見たというのは……あまり納得出来ない。武の場合、夢に見るとすれば彼女達を護るために戦うとか……そういう、いかにも“ありそう”なものになるのではないだろうか。まして、リーディングで把握している自分の感情には、あんなぬるま湯のような世界を求めるものは存在しない。BETAに対する復讐心と、それを抑えきれるだけの理性、衛士としての覚悟、愛する彼女達を護り抜く決意、師の教え……等々、白銀武を形成するそれらの中には、平和で幸せな世界……というヴィジョンは含まれていないのだった。

 ユメを見たタイミングも妙だ。自分の無意識領域にソレを求める強い願望がなかったというなら、では何故イキナリにそんな夢を見たのか。A-01の仲間達とそういう話をしたわけでもない。印象に残っていた出来事……というなら、むしろ昨夜の茜との――ゲフンゴフン――の方が夢に出そうなものだ。……それがなく、本当に唐突に、自分の知らない、自分が思い描くことのなかった――世界、を。まるで内容を覚えていないのに、在り得ないほどの幸せが満ちていた……と、ただそういう実感だけが残るユメ。そういう世界。

 だから、そう。ソレを夢見た、という事実こそが奇妙極まりなく……言うなれば、異常、ということだ。

 まさかクスリの副作用ではあるまい……。脳改造の副作用を抑えるべく服用している劇薬。アレが更に脳に作用して、その結果引き出された幻想……なんだか、そちらの方が納得できてしまうから恐ろしい。だが、別段身体に異常が見られるわけではないし、精神的に圧迫されているわけでもない。というか、副作用の結果、あんなにも温かなユメを見たというのなら……脳細胞が破壊されて死ぬより、遥かに救いの在る副作用だと思える。

 なんにせよ、考えても埒が明かない。どこにも異常がなく、何も不調がないのなら……それでいい。些細なことを深刻に捉えたがるのは武の悪い癖だ。もっとも、かつてはそうやってウジウジ考え込んでいた以上の途轍もない仕打ちが待っていたわけだが。だからといって、今回のことは本当になんでもないことなのだろう。夕呼が絡んでいるわけでもなく、妙だとは感じるが、なにも異常な兆候は見られない。

 “幸せなユメ”を見ただけだ。

 ならばそれは、いいことではないのか? 涙を流してしまうくらいに幸せなユメ。温かで胸に迫る、そんな感情。――なら、いいじゃないか。

 幸せな夢を見て、その中で自分は、一緒に居ただろう「誰か」は笑っていた。……なら、それは本当に幸せなことで、嬉しいこと。こんな風に奇妙だ変だ、と首を傾げて朝から不毛な問いかけを繰り返すようなことじゃない。いい夢を見た。平和で幸せで温かで……。

「そう、か」

 本当に、いい夢だったのだろう。そしてそれは武に新しい目標を持たせてくれた。

 今までそんな幸せな世界を意識したことがなかったというなら、これからはそれも目標に置けばいい。純夏を、茜を護り、生きて、BETAを駆逐して……そして、あのユメのような世界を手に入れる。果たしてそんな時代が来るまで生きていられる保証はないが、でも、そのくらい“夢に見ても”罰は当たらない。ユメに夢見るなんて、冗談のようだけれど。武はそれもいいと頷いて――

「おっはよ! 武!」

 ――バシーン、と。盛大に背中を叩かれてつんのめるのだった。転げないようにバランスを取りつつ、驚愕した顔で振り向くと、そこには溌剌とした笑顔の茜が立っていた。その顔を見た瞬間に昨夜のことが思い出されて頬が熱くなるが、出来るだけ平静を繕って咳払い。おはようと返す。

「通路の真ん中でなに突っ立ってたの? あ、ひょっとしてあたしが来るの待ってたとか?」

「いや、そうじゃない。……ちょっと考え事してたんだ」

 えへへぇ、と照れたようにはにかんだ茜に、武は素直に答えた。その返答にむっと唇を尖らせた茜だが、それが冗談だということは武も知っている。こういうじゃれ合いも悪くない。なにより、彼女はこうしてくるくると表情を変えるのが本当に可愛らしいと思えるから。だからもっとそんな茜を見たいと思ってしまうのは武の我侭だろうか。気づけば彼女の頭の上に手をのせて、くしゃくしゃと掻きまわしていた。目を細めてくすぐったそうに微笑む茜。知らぬ内に武も口元をほころばせていて……

「あー、あのさぁ。朝からそういうのやめてくんない?」

「目のやり場に困るっつぅか、そこ通れないっつぅか……」

「んのののっ! だ、だだだ、だめーっ! それ以上は妊娠しちゃうーーっっ?!」

「そっ、そんな! 妊娠だなんて……白銀くん不潔です!!」

「お前ら……言いたい放題だな?」

 呆れたように零す晴子と薫。その二人のやや後方でぴょンぴょン跳ねながら意味不明な発言をする多恵に、それにつられる亮子。なるほど、茜が来たというなら、同じようなタイミングで仕度を終えたのだろう彼女たちがいるのは道理だ。若干一名朝からハイテンションに過ぎる珍妙な猫が居るようだが、それについては武も晴子も薫も、当然茜も深くは言及しない。あと、そういう話題になった時だけ変になる亮子もスルーだ。

「おはよう、柏木、立石」

「うん、おはよー」 「おぅ!」

 茜の頭から手を離しつつ、二人に挨拶をする。晴子はいつもの人懐っこい笑顔を浮かべながら、薫もいつも通りに快活に挨拶を返す。二人は茜に向けても声を掛け、茜も同じように返し……全員居るのだから、揃ってPXへ向かうことにする。勿論、未だに興奮しっぱなしの二人もちゃんと引き摺って、だ。そうして……皆で歩いていて、武はハッとする。

 ――そうか。

 そんな直感があった。

 あのユメ――平和で、温かで、幸せで、皆が笑っていて……それはきっと、こういう風景なのだ、と。茜がいて、晴子たちがいて、皆楽しそうに笑っていて……胸が温かくなって、幸せだと感じることが出来て……――そう、だ。武は気づく。あのユメが果たしてこの光景を示していたのかはわからない。けれど、それでも、今……確かに幸せだと感じて、笑っている自分が居る。BETAが居て、戦争が続いていて、人類は絶望の淵に追いやられているけれど……でも、それでも、戦い続ける自分たちにとって何よりも大切なこのひととき。

 皆と一緒に居る。

 皆と笑い合える。

 きっとそれは――なによりも尊くて、大事で、幸せなことで。だから、護りたい。茜の笑顔を護りたい。彼女が笑っていられる場所を護りたい。彼女が幸せであれる“今”を護りたい。――欲張りなことだ、と。自分でも可笑しくなるくらい、強欲だろうと思う。純夏に茜。彼女たちの生きる世界を護る。それはなんて大きくて重くて困難で……だからこそ、せめてそのための礎となることを厭わせない。


 胸に宿った新たな誓いを抱いて……武は綻んでいく口元を抑え切れなかった。――それは、でも、なんて眩しい世界……。

 くっ、と零れてくる笑み。隣りで茜が首を傾げている。突然笑い出した武を変だと感じているのかもしれない。上目遣いで武の表情を窺いながら、彼女は同じように微笑んで、武の左手を握る。本当は恥ずかしくてこそばゆくて仕方がないのだけれど、武はその手を払うことはしなかった。先を行く晴子たちの背中をぼんやりと見ながら……そういえば、こんな風に女の子と手を繋ぐのは初めてなのかもしれない、と。くすぐったい感情に、笑う。

 腰に提げた弧月が、不貞腐れたように音を立てる。いや、ひょっとすると鞘に巻かれた純夏のリボンが嫉妬しているのか……。自身の想像に薄ら寒いものを覚えながら、こんな幸せな気分も悪くない、と。そう思ってしまっていた。なら、今日は何かいいことがあるのかもしれないし……こういう浮かれた気分の時にこそ、それをぶち壊すようなナニカが起こるかもしれない。前者はともかく、後者だった場合に浮かれた気分のままだったとすると目も当てられない。しっかりと意識を切り換えて、気を引き締めなければ……。

 けれど、せめてPXに着くまでの間だけでも……こんな暖かな幸せを感じていたい。手の平を伝う茜の温もりを、命の鼓動を、護りたい彼女の感触を。しっかりと、刻み付けたい。

「……そうか、あの後二人で朝まで……か。白銀もついに“らしく”なったじゃないか」

「――宗像中尉、いきなり不穏なこと言わないでください」

 背後からの声に反射的に振り返る。中性的なハスキーヴォイス。さらにはクールな雰囲気漂う相貌の美冴がそこにいた。隣りには梼子。いつの間にかぴったりと背後につかれていて、その気配を感じ取れなかったというのだから恐ろしい。仮にも武道の一派を修める武であるが……どうにも、A-01の先任たちには化け物が勢ぞろいしている感がある。みちる然り水月然り、当然、美冴もその一人だ。面と向かって口にしたことはないが、それでも、彼女たちの戦闘力の高さはなにも戦術機に限ったことではないのだと痛感させられている。

 また、美冴と会話するときは必ずと言っていいほどに、弄くられていた。例えば彼女が水月をからかって遊んでいることは周知の事実だし、最早A-01部隊になくてはならない恒例となっている。どうやら他人をからかって場を引っ掻き回すこと、或いは単純にその対象が見せる様々な反応を愉しんでいるらしいのだが、次点として武が標的にされることが多かった。専ら、茜と水月に関する話題でからかわれることの多い武は、今回も例に漏れず昨夜のことを突かれてしまっている。

 別に二人で寝たわけでもないし、そもそも夜間訓練の後はちゃんとそれぞれの部屋へ戻ったのだ。美冴の言は完全に根拠も何もない出鱈目なのだが…………世の中には、それを確認せずに踊らされてしまう人もいるわけで……。

「ちょっ、なっ!!?? た、武ッッ、あ、あんたまさか…………っっ?!」

「あーその、水月さん。俺は潔白ですつぅかなんで水月さんが怒……」

「茜とっ!? 二人で!? 朝までですってぇええ!!?」

 ――あ、駄目だ。

 美冴の更に背後、遙と並んで歩いていたらしい水月の目が据わっている。表情は阿修羅の如く変化し、怒りか羞恥か、赤く染まっている。こうなった彼女には最早何を言っても無駄。ならば説得するという無駄な行為に費やす時間はなく、むしろそんな暇があるなら一刻も早く逃げ出すべきだ。こういうとき、頼りにすべき元同期たちの行動は素早い。野次馬根性逞しい彼女達は美冴が出現したその瞬間に武から距離を置き、傍観者の立ち位置へ移動済みだ。また、今の今まで手を繋いでいたはずの茜は姉君と二人仲良く並んで随分と先を歩いている。――おーい、見殺しですか? 声に出さず呟いて、所詮こんなもんだよとヤサグレるのも束の間、ギチギチと強張る首を回して、闘気漲る水月へ振り返る。無論、既に美冴と梼子の姿は無い。なんだかんだ言って梼子もこういう賑やかなことが好きなのだろう。美冴の言動を諌めることはあっても、未然に止めたことはない。

 いつの間にか水月と武の戦場が出来上がっており、最早どうすることも出来ない状況に……武は、ひょっとすると自分はこういう運命に在るのかも知れないなどと、よくわからない思考にたどり着き――――その日の朝食に、武が姿を見せることはなかったという。







 ===







 午前中の訓練を終え、自室でシャツを着替えてPXへ。火照ったままの体を冷ますつもりでゆっくりと歩く途中、前方に喧しくも言い争う人物の姿を見て、御剣冥夜は苦笑する。どうやら訓練中の連携について色々と思うところがあるらしい榊千鶴に彩峰慧。二人とも冥夜と同じ207衛士訓練部隊B分隊に所属する仲間だ。犬猿の仲、とでも評するべき彼女達は、けれど非常によく似た性格をしており、基本的に負けず嫌い、滅多なことで持論を翻さない、等々、頑固な面を持つ。更にはお互いの思考が真反対のベクトルを向いているために衝突することが多く……現に今目の前で口喧嘩の如き言い争いが展開しているわけだが。“そういうところが似ている”と言えば、揃って“コイツと一緒にするな”と咆えるし、周囲の者にとっても扱いにくいことこの上ない。

 ――が、それも数ヶ月前までの話。確かにそれまでの二人は手が付けられないくらい険悪な仲だった。それぞれの論理、思考、感情が真っ向から対立していて、共に手を取り力を合わせる仲間であるべきはずなのに、双方が足を引っ張り合い、互いの存在を邪魔なものとして嫌悪していたのだ。そんなどうしようもない泥仕合は、かつて同じ部隊だった少年の怒りと教官の機転によって、部隊員全員がそれぞれの過ちを知り、互いの長所も短所も理解し合い、或いは考え方や物事の捉え方を理解し合い……そうして、千鶴と慧だけでなく、冥夜たち全員は本当の意味で“仲間”へと成長することが出来た。

 それからは千鶴と慧の言い争いも随分と穏やかになったものだ。偶に拳や投げ技が炸裂したりしているが、それもじゃれ合う程度のもの。見ていて微笑ましいくらいである。感情でものを言うのではなく、それぞれ、どうしてそのように思うのか、何故それが最善と考えたのか……そういう、自身の論理というものを真剣に話し合っている。思考のベクトルが反対を向いていても、根本的に似ている二人である。合わせ鏡のようなものなのだろう、と、冥夜は思っていた。或いは、鏡に映ったもう一人の自分、とでも言おうか。

「榊、彩峰、何をそんなに盛り上がっているのだ?」

 ニコリと微笑みながら、二人の間に割って入る。小さく驚いたような千鶴に、憮然としたままの慧。どうやら冥夜が間に入らなければどちらかが“肉体言語”に訴えていた状況だったらしいが、さすがに食事前にそんな空気は勘弁願いたい。無論、それを見越しての仲裁だ。互いの意見をぶつけ合うことはいい。けれど、それが行き過ぎてはいけない。以前ほどの険悪さはないものの、色々と厄介な二人であることは変わらない。苦笑する冥夜に、千鶴が恥ずかしそうにそっぽを向いた。慧の頬も僅かに赤い。

 やれやれ――肩を竦める冥夜に、二人は恨めしそうな視線を寄越して、

「御剣、なに笑ってるのよ」 「御剣はいつもそう」

 同時に、双方から怒気混じりの言葉を喰らう。どうやら余計なお世話ということらしかったが、それで退く冥夜ではない。というか、気を遣って間に入ったというのに、こんな風に邪剣にされたのでは些かカチンとくる。…………沸点が低い、という点ではどうやら彼女も同様らしかった。



「ねぇ……なんで三人とも機嫌悪いの?」

「はぅあ~、わかりませ~ん……」

 それぞれが食事の乗ったトレイを置き、さぁ昼食だという段になって、鎧衣美琴が恐る恐る問いかける。問われた珠瀬壬姫はおろおろと泣きそうな表情で震えていた。並んで座る千鶴と冥夜、二人の対面に座る慧。三人とも険しい表情で目を瞑り、むっつりと閉じられた口は不機嫌そのものだ。顔に痣がないからそれほど悲惨なことにはならなかったらしいと予想する美琴だったが、何が発端でこんなことになっているのかはよくわからない。恐らくは午前中の訓練……が絡んでいるのだろうが、なにも食事の時間まで引き摺ることはあるまい。ちらりと隣に座る壬姫を見やると、彼女も同じように苦笑していた。

 喧嘩するほど……、という諺のとおり、確かに彼女達は仲がいい。互いに遠慮することがなくなってからは、ことあるごとに喧嘩して、その度に仲良くなっている。それは千鶴と慧に顕著だったが、冥夜が混じることも少なくなかった。三者三様の意見が飛び交い収拾がつかないなんてことは珍しくないのだが、訓練にまでそれを持ち込むことはなかったので問題ではない。好きなだけやればいい……というのが、美琴の結論だ。それで更によりよいナニカが掴めるのなら良し、或いは結束を強く出来るなら良し、だ。傍観者に徹するつもりはないが、基本的に我の強い彼女達を制御する術を持たないのが美琴である。

 その彼女とはまた違う理由から止める術を持たないのが壬姫だが、こちらは単純に、こういう状態の千鶴たちが怖くて近寄れない。拳が飛び交うような激しい喧嘩ともなれば、むしろ勇気が出て率先して間に入ることもあったが……無言のまま周囲を威圧するような怒気を、壬姫は苦手とするのだった。

 が、いい加減放っておくことも限界だろう。折角の休憩時間、出来るなら楽しく平穏に過ごしたい。ということで、不機嫌全開の三人の気を鎮めるべく、美琴は壬姫はアレコレと話題の種を探すのである。眼を閉じてう~んと唸りながら何かいいネタはないかと首を捻る。時折通り過ぎる基地職員達は、五人全員が冷めていく料理を前に眼を閉じてうんうん唸っているその光景を見て……そそくさと距離を置いていたのだが、それはさておき。


「そういえば、ねぇみんな知ってる?」

 いかにも“思いついた”という表情で、美琴が身を乗り出す。殺伐とした雰囲気の中、黙々と食事を続けていた面々が、むっとした表情のまま美琴を見る。心なしか千鶴の視線が伏せられているのは、どうやら美琴が気を遣ったらしいと気づいたためだろう。隊員のそういう気配りを察することのできる彼女は矢張り指揮官として向いているのだと思う。美琴はそんな千鶴に小さく苦笑しながら、PXに来てすぐに聞いた話を披露する。いつも基地の門衛を務めている警備兵がヒソヒソと大袈裟な身振りで話していたのを、偶然耳にしたのだった。

「ヒソヒソと大袈裟に……? なんか、よくわからない人たちね……それで?」

 千鶴から呆れたようなツッコミが入るが、彼女もまたこの話に乗って慧と冥夜との間に流れている不穏当な空気を払拭したいと考えたのだろう。苦笑を交えたまま続きを促してくる。そして、その千鶴を見れば、美琴の真意に気づけるのが慧と冥夜だ。二人ともバツが悪そうに眼をそらした後、如何にも“何も気にしていないぞ”という表情を繕って美琴の話に参加してくる。――似たもの同士。そんな言葉がぴったりな三人を見て、壬姫はくすくすと笑うのだった。

「うん、それでね、その人たちが言うには――今日の午前中、テロリストが侵入したんだって」

「「「っっ!?」」」 「えええ!?」

 サラリと言ってのけた美琴の言葉に、千鶴、慧、冥夜は絶句し、壬姫は驚愕に大声を上げた。その声量に慌てた美琴が壬姫の口を塞ぐが、しかし壬姫の反応も無理はない。ここは極東最大規模の国連軍基地だ。世界情勢から見ても最重要拠点のひとつとして機能している横浜基地に、テロリストが侵入した……。美琴はそう言ったのである。だが、些か不審な点は多い。もし本当にテロリストが侵入したというのなら、警報の類が鳴ってもおかしくないだろう。テロ鎮圧のために部隊が稼動したという報も聞かないし、如何に訓練兵といえど、歩兵の手伝いくらいは出来るはずだ。動員さえかからなかったというなら……テロは未然に防がれた、ということなのだろうか。四人は一応の平静を取り戻して、美琴の言葉を待った。

「あはは……ごめんごめん。テロリストって言っても、単独犯だったらしくて、あっという間に捕まえちゃったんだって。それがね、可笑しいんだ――」

 美琴の話を要約すると、訓練兵に化けて基地内に侵入しようと試みたテロリストは、けれど肝心の部隊章や認識票を所持しておらず、また、無用な警戒心を抱かせることのないようにと本当に何一つ武器を携行していなかった……ということらしい。話だけ聞くと単なる間抜けだが、それが本当にテロルを計画して乗り込んできた、或いは送り込まれてきたのだとすると、相当に抜けが多い。致命的なのは訓練兵に変装するための小道具が一切なかったことだろう。また、武器を非携行だったことにはある意味で周到さが感じられるが、莫迦正直にナイフの一本も持っていなかったというのは最早笑いを通り越して話にもならない。

「……それは、本当にテロリストだったのか?」

「今の話だけ聞くと、単なるその場の思いつきで適当に遊んでるようにしか思えないわね……」

「…………莫迦?」

 いまいち納得がいかないという表情で冥夜が首を傾げ、千鶴が呆れたように口を開く。慧にいたってはむべもないが、話を聞いた美琴自身そう思う。壬姫だけはテロルが未然に防がれたことを喜んでいる様子だが、それでも不審なテロリストだという認識は抱いている。……いや、不審でないテロリストなぞ居ないのかもしれないが、さておき。

 美琴としては千鶴たちの雰囲気がようやく普段どおりにまで戻ったのでこの話はこれでおしまい、ということで構わなかったのだが、色々と考えが働く――いわゆる真面目代表の冥夜と千鶴はそれぞれ思うところを口にする。警報もなく動員もなく、そして既に解決しているらしい事件。……事件、というほどのものでもないようだったが、そういう輩がよりにもよってこの横浜基地に出没したということ、或いはそのテロリストの真意というもの。その辺りを詳しく知りたいということらしかった。

「鎧衣、今の話、それ以上のことは聞かなかったのか?」

「え? うーん……偶然漏れ聞いただけだしね。それに、神宮司教官から何も聞かされなかったわけだし……多分、情報は規制されてるんじゃないかな」

 それはもっともだった。テロリストの集団が基地を占拠した、というならともかく、単独でしかも計画性も何もない愉快犯のような相手だったのだ。そんな輩に狙われたことも恥なら、それを基地職員に周知することも恥の上塗りだ。即座に鎮圧できたというならそれでよし。テロリスト集団の捜査は行われるかも知れなかったが、今の世界に人間同士で足を引っ張り合っている暇はない。後先考えず未来を見据えず、ただこちらの足を引っ張ってくるというのなら軍も動くだろうが、この程度で目くじらを立てていてもしょうがない。

 今日の午前中、間抜けなテロリストを捕まえた。

 ただそれだけのこと。美琴たち訓練兵が知らされなかったのはそのためだ。テロリストを捕らえたのだろう警備兵が仲間内で話題にしていたのは、滅多にない話の種に、つい口が滑ったという程度のことだろう。それを美琴が偶然耳にして、同じように仲間達に話して聞かせた……ゆえにこの話はこれ以上の広がりを持たない。色々と想像を膨らませて盛り上がることも出来るかもしれないが、美琴の真意が千鶴たちの険悪な雰囲気をどうにかしようというものだったのだから、その目的が達せられた時点でこの話題は役目を終えているのである。

 冥夜も、そして千鶴もそれがわかったのだろう、小さく笑うと、美琴の気遣いに視線で感謝を伝えてくる。場が和んだところで、と食事を再開する五人。途中、壬姫が美琴の脇をつついて、「うまくいったね」と微笑んだのは、彼女達二人の秘密だ。

 やがて食事も終え、食後のお茶に一息ついていると……分隊長である千鶴が真剣な表情で口を開いた。

「みんな聞いて。あと数週間もすれば、総合戦闘技術評価演習が始まるわ……」

 切り出されたその言葉に、全員の表情が引き締められる。和やかな食後の雰囲気は一瞬にして掻き消え、それぞれが衛士を目指す軍人としての気概に満ちる。通称を総戦技評価演習とも言うそれは、前期と後期の二回に分けて実施され、そのいずれかで合格できなければ衛士への道を閉ざされてしまうという、いわば最後の難関だ。千鶴たちB分隊の五人は、夏に行われた前期のそれに失格している。不合格の原因は……彼女たちが未熟であった、というものだと“彼女達自身は”信じている。いや、信じたいと思っている、というほうが正しいのかもしれない。全員とは言わないが、少なくとも内三人は、頑なにそう思っているのだった。

 実のところ、この第207衛士訓練部隊B分隊に所属する彼女達は、それぞれがかなり込み入った立場に在る人物の直系であり……即ち、それが原因で「失格」となった、或いは、そもそも最初から任官させるつもりがない、という後ろ暗い想像が先立っている。例えば冥夜が将軍家に縁の在る人物だということは皆も知っているし、千鶴の父親が現政府の総理大臣であるということも周知の事実。軍の情報に聡い者なら、慧と同じ苗字を持つ帝国軍人が過去に処刑されたことや、壬姫と同じ苗字の国連事務次官のことも知っているだろう。唯一美琴だけがそういった何かしらの“しがらみ”に捕らわれていないようだったが、一部隊中に四人もそのような者が存在しているなら、各々、ひょっとして自分のせいで失格させられてしまったのではないか……と。そんな想像が働いてしまうのだった。

 無論、そんなことはない。それはただ精神的に弱い自分が勝手に想像しているだけだ、と。そうやって全員が自身を励まし、また相手を疑わぬように心掛けてもいた。自分が未熟だった、或いは、全員が少しずつ未熟だった。きっと、そういうことなのだろう。だから失格した。だから失敗した。――なら、どうする? 決まっている。チャンスがもう一度残されているのなら、それを必ずもぎ取ってみせる。前回の総戦技評価演習から既に五ヶ月が過ぎた。十一月の半ば以降に実施されるだろう後期のそれを見据えながら、千鶴が不敵にも唇を歪める。

「絶対合格するわよ」

「当然だ。そのために我々は日々訓練を重ねているのだから」

「そんなの当たり前。今更気合を入れることじゃない」

「あはは……そうだね。うん、今度こそ合格しよ!」

「ががが頑張りますぅ~~っ!」

 千鶴の宣言に冥夜が頷き、慧が静かに闘志を顕にする。美琴が持ち前の明るさで笑顔を見せ、壬姫が拳を体の前で握って気合を込める。意気軒昂。気力に満ち、覚悟も当の昔に固まっている。今度こそ、絶対に合格する。それは最早決定事項。そういわんばかりに五人は頷きあい、改めて誓う。

 先に行ったA分隊に追いつくために。単独で衛士への道を突き進んだのだろう彼に追いつくために。

(待っていろ白銀……私もすぐに“そこ”にたどり着いて見せるぞ……)

 闘志を燃やす仲間たちの中で、一人冥夜は決意を新たにする。七月に偶然再会した白銀武。極秘裏に任官していた彼と話したそのときに抱いた想い。いつかその背中に追いつき、傷だらけのそれを支えてみせる。他の皆も既に武は任官したのだろうと予想しているが、彼が衛士徽章と階級章を身に付けている姿を見たことがあるのは自分だけ。……その時の“色々”を思い出して、知らず、頬が緩んでいた。

 そんな不審げな冥夜を見咎めた千鶴が声を掛け、冥夜はハッとするのだが……いかんせん、普段誰にも見せたこのない奇態に全員が疑いの目を向けている。何とか誤魔化そうと合成緑茶を口に含んだその瞬間、慧の「男……?」という呟きに、盛大に噴き出してしまうのだった。







 ===







 シミュレータから出ると、ひんやりとした空気が心地よい。体温調節機能を備えた強化装備のおかげで不快に思うようなことはないのだが、矢張り剥き出しの顔面は戦闘の緊張と熱気に火照っているし、それを冷ます空気をありがたいと感じるのは、当然の生理反応だろう。武はぐっと伸びをした後タラップを降り、同じようにシミュレータから出てきた仲間達と共に整列する。CPを務めていた遙が先の戦闘データをプリントして立っており、隊長のみちるがそれを受け取って内容を吟味していた。水月の号令で全員が姿勢を正す。この場でデブリーフィングを行い、以後は解散という流れとなる。

 本日の訓練内容はハイヴ攻略戦。ヴォールクデータを元に作成された、ハイヴ内部を模擬した擬似空間での突入訓練だ。これまでも幾度となく挑戦したことのあるデータだが、なかなかに手強い。想定はフェイズ3ハイヴ。突入するたびにランダムに変化する内部構造、常に選択を迫られる侵攻ルート等、瞬間瞬間の判断こそ生き残るために最も重要な要素となる攻略戦。最大目標は反応炉の破壊、ならびに離脱だが……実のところ、横浜基地最強と夕呼自身が謳うA-01部隊でさえ、未だに全員生還を果たしたことはない。

 そもそも一個中隊でハイヴ突入、という条件の時点で既に超難題なのだが、それが全員揃って生還となると、更に難易度は跳ね上がる。夕呼に言わせれば、スピードこそが求められる状況で大部隊引き連れての侵攻なんて論外、ということらしい。確かに、ハイヴ内のように援護も支援も届かないような場所で生き残るためには、なによりもスピードを重視する論理は理解できる。時間が掛かる、ということはそれだけBETAを相手にする時間が増えるということ。BETAを相手にする時間が増えるということは、弾薬の消費、長刀・ナイフの損耗、推進剤の浪費に繋がる。更には戦闘時間の増加というわけだから、衛士自身の疲労が蓄積する。装備がなくなり推進剤がなくなり、疲労がたまることで冷静的確な判断が行えなくなる……要するに、生き残る可能性が時間の経過に反比例して激減していく。

 突入部隊が多いと部隊間の支援や連携でより多くのBETAと戦えるメリットがあり、また隊員の生存確率も一時的に上昇するメリットがある。だが、裏を返せばそれは援護すべき対象が増えるということであり、弾薬消費量も増加し、部隊全体の足が遅くなることに繋がる……。つまり、突入部隊が多ければ多いほど、それも「ハイヴ内」で生き残る可能性を減らしていくのだ。

 だからといってあまりにも少数過ぎたのでは、そもそも最深部への到達さえ敵わないだろう。要はバランスということなのだろうが、いかんせん、伊隅ヴァルキリーズの衛士15名で、毎回必ず生還できる者……というものは未だ居ない。隊長のみちるでさえ、やむなく自爆することも多々あるのだ。反応炉破壊を達成できないことさえ、珍しいことではない。各員の錬度の問題、ということもあるだろう。或いは現在のハイヴ攻略に関する戦略がそもそも無理があるのか。一日中ハイヴ攻略戦を繰り返して得た結論は、矢張り何がしかの改善をしなければ、これ以上の結果を得ることは敵うまい、ということだった。

 デブリーフィングの最後に、各小隊長が呼ばれていた。武たち隊員はこのまま解散となるが、みちる、水月、美冴、そして遙の四名は引き続きミーティングを行うらしい。責任を持つ立場にある者の義務、責務と言ってもいいそれを眺めながら、武は内心で合掌していた。

(俺は出来れば兵卒のままがいいなぁ……)

 突撃前衛長であり、目標とする水月の背中を見ながら、苦笑する。なんだかんだ言って頼るべき素晴らしき我らが小隊長殿は、そんな武の考えとは裏腹に、心の底から尊敬にするに相応しい毅然とした態度でみちるに付き従って行った。いつまでも眺めていても仕方ない。武はもう一度疲労の蓄積した体を伸ばし、どうやら待っていてくれたらしい茜とともに更衣室へ向かう。

「……白銀さん」

「――ぉ?」

 先程までの訓練内容を茜と評価しあいながら歩いていると、通路の端に社霞が立っていた。武の名を呼び、とことこと目の前までやって来て、小さく会釈する。その霞の仕草に武も手を挙げ、茜もにこやかに挨拶する。僅かに微笑みを見せた霞はちらりと茜を見やった後、ほんの少し困ったような視線を武に向けた。実のところこうして霞と会うのは一ヶ月ぶりなのだが、どうやら以前と変わった様子のない態度に少々複雑な感情を抱く。恨まれているのではないか、或いは、嫌われたか――そんな後ろ暗い感情は、恐怖は、今も確かに武の中に存在している。夕呼以外に、唯一……武の罪を知る少女。未熟だった武の犯した暴挙を目の当たりにし、腕をなくした夕呼に縋って泣いていた少女。殺さないで――そう泣き叫んで、必死に庇っていた……霞は。

 けれど、微笑んでくれていた。武の名を呼んでくれて、あの頃と同じ、注意深く観察しないとわからないような僅かな感情を見せてくれた。――それは、とても嬉しいと思える。

 霞は、武の罪を赦してくれている……。それが、わかる。そんな霞に対して済まないと思うのは、恥知らずな餓鬼の思考だろうか。武の罪を知り、武の業を知り、そして……いずれ辿る死と、純夏の全てを知る霞。彼女は、彼女なりの矜持と誇りをもって、武を赦してくれているのだ。……ならば、それを武個人の感情で穢してはならない。霞自身があの頃のように接してくれて、それを望むと言うのなら、それに応えて見せるのが、罪を犯した武の取るべき選択だろう。

「どうした、社。何か用か?」

「……香月博士に、頼まれました」

 出来るだけ“いつもどおり”を心掛けながら、笑顔を浮かべる。――多分、頬が引き攣っているんだろうな、と。まだまだ未熟な自身を認識しながら、せめて茜には気づかれたくないというちっぽけなプライドが脳裏を掠めた。ここに来て罪を知られたくないと思う底の浅さに辟易とするが、それも正直な感情だろう。明かすべきでない罪というのは確かに存在する。何もかも曝け出して罰を乞うのは、ただの八つ当たりと同義だからだ。……だから、事情を知らない茜には、どうか知らないままで居て欲しい。故に、引き攣った笑顔だろうがなんだろうが、彼女に何がしかを悟られるわけにはいかないのであり……霞もまた、同様に考えているのだろう。

 夕呼の名を出し、再度茜を困ったように見上げる霞。それだけで悟ったのだろう、茜は武に先に行くと一言残し、気にしていない風に歩いて行った。必然、残された武は霞と二人で向き合う形になったのだが……ここで若干、武は困惑してしまう。

 既に二ヶ月近く顔を合わせていない副司令。香月夕呼。武が切断した右腕の経過についても一切知らされていないくらい、まるで接点というものがなかった。外部に対する情報遮断なのだろうことは想像できたし、その必要性も理解できている。擬似生体移植技術は既に確立されたものであり、実際にその恩恵によって左腕を取り戻した武であるから、夕呼の腕も“元通り”に治っているのだろうと予想しているし、純夏のリーディングは既に完了していることから、夕呼の中での武の使い道というものは衛士として戦うことくらいだろう、とも予想できる。

 A-01部隊で夕呼の呼び出しを受けるのは隊長のみちるのみ。既に特務の任を解かれた武は、他の皆と同様、呼び出されることなどなかった。その事実を鑑みても、“純夏をリーディング出来る可能性の高い白銀武”は、既に目的を達成し、用済みということがわかる。……では、直属部隊ではあるものの、一兵卒に過ぎない現在の武に、夕呼は如何なる用があるというのだろうか。わざわざ霞を寄越すあたりに彼女の多忙さが窺えるが、人類を救うという超難題を抱えている彼女の重圧を百分の一でも思えばそれは無理からぬことだろうと想像できる。まして、頼みごととは……。見れば霞はスカートのポケットから何かを取り出して武に差し出していた。何だろうと小さな紙袋を受け取って――ああ、そうか、と。

「あのクスリ……か」

「はい。以前お渡しした分がそろそろ切れるはずですから……」

 AL3を遂行したソビエトがそれ以前に開発した、後天的人工ESP発現体を「作成」するための劇薬。否、魔薬とでも言うべき外道のカプセル薬。三日おきに服用が義務付けられているそれは、脳内分泌物質を操作し、神経系を強引に強化することでESP能力を引きずり出す乱暴極まりない「毒」のようなものだという。その副作用は凄まじく、服用を止めれば――それまでの服用量にも依るが――軽くて言語障害、身体の障害に……最終的には、脳死を引き起こすという。規定量を超過或いは不足しても結果は同じ。なんともリスクばかりが目立つクスリだが、今更後悔しても遅すぎる。夕呼自身このクスリの使用は相当な冒険だったのだろうし、あの超人的な彼女をして、そこまで追い詰められていたというのだから……納得できないながらも、最早これも運命の内と思うようにしている。

 もっとも……そう思えるようになるまでに随分と愚かな過ちを繰り返したわけだが……。少しは成長できたのだろうか、と。武は自身に問いかける。答えは…………わからない。少なくとも、このクスリのことで夕呼を憎むことは“しない”。心の奥底の本心というものはともかくとして、A-01の一員として、衛士として、真那の教えを受けた剣士として、もう二度とあんな無様を繰り返さないと誓った身である。それを表面化させる気など毛頭ない。

 受け取った紙袋の口を開き、気づく。――色が違う。

 現在受け取っているカプセル役は赤色と透明色のカプセルの中に、黄色い顆粒が詰められているものだった。が、今受け取ったそれは中の顆粒は黄色だが、それを包むカプセルの色が赤から青に変わっている。違うクスリ、ということなのだろうか。首をかしげながら霞を見れば、少女は僅かに誇らしげに頷いて見せた。

「博士が……改良したんです」

「改良……」

 その言葉に多少ドキリとしてしまったのは仕方がないだろう。なにせ、香月夕呼である。AL4の統括者であり横浜基地の副司令という肩書きを鑑みれば相当に素晴らしい人物なのだろうことは想像に難くないが、けれどこれまで武が経験した様々な彼女の“思惑”が、言いようのない警戒心を煽るのだ。常にAL4の成功という一貫した行動目標に従っての思惑、そして決断だったことは少し考えればわかることだが、それでも、その悉くによって人生を壊滅的に振り回された一面のある武にとって、矢張り彼女は忌避したい存在として君臨している。衛士としての思考は彼女の命令に従うことを最早拒みはしないし、納得できずとも、感情を暴走させることはしない。……が、外面に晒すことのない内情として、武自身の本音としては、彼女への憎しみが消えることのないのと同様に――忌むべき人物、なのである。

 その彼女が改良したという。霞の表情から決してそれがマイナス面に働くということはないのだろうが、だとするとそれは如何なる改良だろうか。その疑問に答えるように、霞が丁寧に説明してくれた。

 武に求めたリーディングは既に十分な成果を挙げた。その結果から、これ以上純夏をリーディングしたところで現在以上の成果は得られないと予測できる。また、その詳細を細微に至り調査することはある意味で重要な側面を持つが、現状、戦略的観点から判断する限り、有益な情報を得られる可能性は皆無。故にこれ以上純夏をリーディングする必要はなく、それが可能な武も、これ以上の能力開発は不要となった。現在武が服用を続けているクスリは大雑把に言えば「脳改造」のための成分と、「副作用の抑制」のための成分が含まれているという。が、これ以上の能力開発が不要であるために、前者の成分も不要となり……即ち、改良されたカプセル薬には、副作用を抑える効果のみがある。もっとも、あくまで副作用を抑えるためのものでESP能力を消失させるような効果はなく……既に改造、変化した脳細胞を元通りにすることは出来ないらしい。その辺りの研究レポートはAL3の最中に紛失していたらしいが、副作用をこれ以上に抑制できるだけでも朗報だ。

「そうか……ありがとう、社。ありがたく頂戴しておくよ」

「……はい。……それと、」

 出来るだけ優しげに微笑んで頷いた武に、一つだけ、と霞が言葉を紡ぐ。夕呼からの忠告というそれは、改良はしたものの、誰にも試したことはないということ。つまり、前例がない、薬品としての実績は皆無、ということだった。まるっきりの新薬、というわけではないのだが、元々のそれを開発するにあたり何百という人体実験を繰り返した事実と比較すれば、あまりにも心許ない話である。とどのつまり、これも人体実験の一つ、というわけだ。恐らく夕呼があの魔薬を今後使うことはないのだろう。武が服用するに至った経緯は、あの脳ミソが純夏であり、武と彼女が何よりも精神的に繋がっていたからだ。霞をしてリーディングしきれなった脳を、幼馴染で恋人の武ならばひょっとして読みきれるのではないか、という予測の元に行われた一種の賭けである。

 分の悪い賭けだったのだろうが、成果は先の通り。そしてそれさえが既に“用はない”というなら、武以外にあのクスリを服用するものは現れないだろう。なにせ、飲めばいずれ副作用で死ぬようなとんでもないクスリである。それほどのリスクを負ってまで成すべきことなど早々ないだろうし、あったとしても、それはもっと違う形で命を懸ける事象だろう。なんにせよ、この改良品は武のためだけに開発されたのであり……そのために人体実験など実施されたのでは、武としては非常に迷惑な話だろう。故に、最初の被験者が武ということ、そして実績も何もなくとも、それは彼にとってなにも問題ではない。

 むしろ、夕呼の腕を斬り彼女の足を引っ張った愚かな自分に、ここまで気を遣ってくれる彼女に申し訳なく思うくらいだ。リーディングに成功した褒章は既にバッフワイト素子という形で受け取っている。ならば今回のこのクスリは完全に、夕呼なりの優しさの表れなのかもしれなかった。……感傷を断ち切ったはずの彼女が、尚も気を回してくれている。どう足掻いたところで夕呼を認められる日はこないのだろうが、こういう……果たして本人に自覚があるのかないのかわからない“優しさ”というものは、心苦しくも温かいと思えるものだった。ここは、今も身に付けている認識票の形をしたバッフワイト素子同様、素直に受け取っておくべきだろう。

 霞に対して礼を述べると、少女はニッコリと笑顔を見せてくれた。くしゃくしゃと彼女の頭を撫でて、じゃあな、と横を通り過ぎる。時間にして僅かなものだったが、既に皆着替え終えてPXにでも集まっているのだろう。自分もシャワーを浴びてそこへ向かおうと思考を巡らせていると……

「ぁ、待ってくださいっ」

「え?」

 慌てたように追いかけてくる霞に呼ばれ、立ち止まる。そんなに早足で歩いていたつもりはないのだが、懸命に走ってきた彼女は肩で息をしている。……見るからに鍛えようの足りない幼い体。別に軍人でないのだからいいのかもしれないが……恐らく、同年代の少女と比較しても相当差で劣るのではないだろうか。それはさておき。

「まだなんかあるのか?」

 純粋に疑問に思ったことを尋ねてみれば、僅かに怯んだ様子を見せる霞。どうやら今の発言は彼女にとって少々キツイものだったらしい。対人関係の経験が少ない霞である、もうちょっと言葉には気を払ったほうがいいらしいと納得して、武は苦笑しながらもう一度聞きなおした。それに意を決したのか、霞は至極真面目な表情で武を見上げて……

「白銀さんは、兄弟はいますか?」

 と尋ねてきた。一瞬、虚を突かれたように硬直する。……が、すぐに可笑しくなって笑った。

「あはは、なんだそりゃ。居ないよ。俺は一人っ子だぜ?」

「…………本当ですか? 生き別れた双子の弟さんとか、居ませんか?」

 おや、と武は思う。霞も冗談を言うのかと思っていたのだが、なにやら様子がおかしい。尚も問いかける少女の表情は真剣そのもの。微塵にも茶化すような気配はなく、ただ、事実を知ろうとする冷静さが光る。――しかし、生き別れの双子、とは。そんなことを問われたのは生まれて初めてだった。逆に、それほど真剣に尋ねられては「ひょっとして居るのか?」などと莫迦げた想像をしてしまう。……が、そんなことは当然ない。武にとっての親は自身を産み育ててくれた父母以外に存在せず、例えば腹違いのキョウダイや父親の違うキョウダイなんてものが存在する可能性なんてものは……それこそ、天地がひっくり返っても在り得ない。あの両親が浮気などするはずもないし、結婚する以前に違う相手と結ばれていたなんて可能性は考えたくもない。まして、双子、などと。赤子の頃に引き裂かれたというならわからないでもないが、それこそ武の両親が選択するはずもなく。幼少の武に“愛する人を護る強さ”を教えてくれた父が、その父を愛した母が、そんな無体をする理由がない。

 故に、武には如何なるキョウダイも存在しない。もし“居た”のならば今も武の兄或いは弟、姉或いは妹として存在しているはずだろう。

「いないよ。俺にキョウダイなんて居ない。……嘘をついていないのは、わかるだろう?」

「――――はい。白銀さんは、嘘をついていません」

 眼を閉じて、霞は申し訳なさそうに呟く。リーディングを行使してまでの問いとは……些か引っ掛かるが、けれど、それが夕呼からの命令であるというなら、武は何も言わないし、不快にも思わない。そう在るべし、と。創られ教えられてきた霞の境遇を不遇なものと身勝手な同情を抱くことはあっても、その彼女を哀れと思うことは絶対にしない。霞は僅かに眉を寄せて、バイバイと手を振って背を向ける。――ばいばい。呟いた武に振り向くことなく、“尋問”を終えた少女はどこか消沈した様子で遠ざかっていった。

 どこか、胸に引っ掛かる。最後の霞の問い。武にキョウダイ……しかも双子の兄か弟の存在に限定しての、問い。武にそういう存在が居たとして、それが一体なんだというのだろうか。夕呼の企みなど想像もつかないし知ったことではないが、なにか気に掛かる。悪い予感、というほどのモノではない。ただ……居心地の悪い違和感というか、奇妙な後味の悪さが舌の上を転がっている。霞がどこまでも真剣だったことが――なによりも、妙だと思える。わざわざリーディングで武の内奥を読み取っていながら、だ。

「……ま、考えても仕方ない、か」

 もし今のやり取りを受けて夕呼が行動を起こすというのなら、その時はその時だし、まだそうと決まったわけではない。何一つ見えない状況というものは、かつてのリーディング能力開発のための投薬の際に散々味わったのだ。あの得体の知れない怖気に比べればなんということはない。単に後味が悪いというだけのことだ。――何も問題ない。

 頷いて、武もまた歩を進める。さっさとシャワーを浴びて、皆が待つPXへ行こう。水月たちの分の食事も受け取っておいて、全員揃って莫迦みたいに騒ぐのだ。



 きっとそれは、こんな些細な違和感なんて簡単に吹き飛ぶくらい――楽しいに違いない。




[1154] 守護者編:[二章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/03/09 16:25

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:二章-03」





 興味が湧いた、というのが本音だ。

 人間、なにごとも好奇心が成長を促す最大の起爆剤とはよく言ったものである。香月夕呼は誰が言ったのか知れないそんな言葉を思い出しながら、硝子越しのシミュレータを眺めた。通信機械室のモニターに映る映像は現在シミュレータに搭乗している人物の網膜投影に投射されているものと同じ映像。その横のサブモニターには仮想フィールド全体が映し出され、更には各種レーダー、センサー類の情報が逐一更新されている。本来ならば戦域管制官が座り、部隊へ指示を飛ばすのだが、現在この場所に居るのは夕呼と霞の二人だけ。更に言えばシミュレータルームの出入り口も完全に閉鎖し、監視カメラもその全てが電源を落とされている。

 最重要機密、とまではいかないが、かなり高レベルなセキュリティで守られたこの区画内で、夕呼はひとり唇を歪めていた。背後に控える霞はどこか複雑な表情をして、けれど、決してモニターから目を逸らそうとはしない。奇妙な沈黙がそこにあった。二人ともモニターを見つめているのに、お互いに、それを見ていない。メインモニターに小さなウィンドウが表示される。バストアップで搭乗者が映し出され、“着座調整終了”のメッセージが表示される。それを確認して、夕呼は通信用のマイクのスイッチを入れた。

「いい? これから適性検査に使用する判定プログラムを起動するわ。あんたはそこに座ってただひたすら耐えるだけ。簡単でしょ?」

『――――』

 イヤホンから、どこかしら興奮したような声が聞こえてくる。どうも、早くやってくれと急かしているらしい。……まったく、現金なものだと夕呼は眉を顰めた。つい昨日まで泣き喚いて喧しく夢だ嘘だと叫んでいたのに、戦術機の話をした途端に目の色を変えた。もう少し閉じ込めておけばそれはそれで面白いものが見られそうだったが、これもまたよし。本人がやりたいというのだから、まぁ試してみるのも悪くないだろう。丁度いい息抜き、というわけではなかったが、どう転んだところで興味深いことには変わらない。……まして、ひょっとすると、ひょっとするかもしれないのだから。試すには十分過ぎる。

 無造作にプログラムを始動させる夕呼。ゆっくりと歩を進める戦術機――吹雪に、搭乗者は興奮を隠せないらしい。次第に速度を上げ、遂には最大戦闘速度で突進する吹雪。管制ユニット内は相当の揺れが起きているはずだが、相変わらず、搭乗者は興奮しっぱなしだ。まるで子供のようにはしゃぎ、初めて触れるテクノロジーに酔いしれている。衛士を目指すものの大半がかなり酷い乗り物酔いになるという統計結果がある適性検査プログラムなのだが……どうやら、この搭乗者はそれに当て嵌まらないらしい。モニターを見ているだけで画面酔いしてしまいそうな振動も、まるで問題外。もっともっと――そうやって更に激しい機動を求めるように、その瞳はどんどん輝きを増していく。

 まるで、どころか。本当に。――玩具を与えられてはしゃぐ餓鬼、ね。

 最大戦闘速度からの急停止。シミュレータ内の吹雪が制止する。戦術適性検査はこれで終了。バイタルを見れば……信じがたいことだが、全くもって平常そのもの。著しい昂奮が見られたが、そんなもの、その他のデータが示す異常さに比べれば可愛いものだ。

 ――戦術機適性「S」――

 かつて白銀武という少年が叩き出した人類史上初の異常なまでの適性値。その二人目。まさかが“まさか”になった瞬間だった。

 夕呼は殊更に口端を歪める。霞は益々に深刻そうな表情を濃くする。――さぁ、どうしてくれようか。そんな底知れぬ衝動が、夕呼を覆い尽くしていった。







 ===







 とにかく重要なのはスピード。怒涛の群れで迫るBETAを極力相手にしないこと。蹴散らすべきは着地点に群れるソレであり、或いは侵攻方向に壁となるソレら。……ハイヴ攻略の基本戦術としてマニュアルにも記載されているその戦法を、真剣に吟味し、噛み砕いて――実践する。全員が任官後の座学でそれを理解したつもりになっていて……実は誰一人本当の意味でのそれを実現できていなかった。ともかくも、“止まらない”こと。止まらないということはつまり、機体に働く慣性をそのまま次の機動に繋げるということ。機体自体に働く運動エネルギーを流用できるので、推進剤の消費を抑えることが出来る。が、それを実現するためには、着地点を常に確保することと、前方の障害を可能な限り除くことが必要となる。弾薬の無用な消費は避けなければならないから、必要最小限の狙撃、或いはそもそも、敵のいない空間を狙って機体を移動させなければならない。

 進行方向が直線的であればあるほど、操作は単純だし推進剤も機体にかかる負荷も軽減できる。ハイヴ坑内は相当な広さがあり、また、どういうわけかハイヴ内部には光線級などのレーザー属が出現しないため――これはBETAが味方誤射をしないという法則……つまり、ハイヴも一種のBETAではないのかという推論があり――かなりの高度を取ることが可能となる。要するに足下に群がる連中を飛び越えていけば、少なくとも跳躍中はBETAに襲われる心配はなく、着地点の確保、或いは次の侵攻に障害となる個体の排除が可能となるわけだが……言葉で言うほど簡単でないことは、先程からずっと繰り返している自分たちが一番よくわかっている。

 A-01部隊の中でこのハイヴ攻略プログラムの経験が一番多いのは、みちるだ。衛士としての実績が最も長いのが彼女なのだからそれは当然だが、実際のところ、みちるでさえ本当にハイヴ突入を果たしたことはない。というより、そもそもハイヴ攻略戦など積極的に行われる作戦ではないのだ。ハイヴとはいわば敵の巣窟。総本山。現在地球上に存在するハイヴの殆どがフェイズ3を越え、フェイズ4、フェイズ5……と、反応炉までの深度に比例して、内包するBETAの総数も万単位で跳ね上がっている。そんな魔の巣窟が、26箇所も存在するのだ。単純に計算しても……現状のままでは、人類に勝ち目はない。

 が、そんなことは誰にだってわかっているし、だからこそ自分たちは、香月夕呼は、AL4完遂のために命懸けで戦っているのである。確率なんて知ったことではない。必ず成功させる――そう断言した夕呼だからこそ、みちるは尊敬し、忠誠を誓っている。

 そうして、最近になって夕呼からハイヴ攻略に於けるヴァルキリーズの戦績について示唆されてしまえば、近々、いずれかのハイヴへ突入する算段なのだろうことは想像に難くない。実戦経験の少ない白銀武、その経験すらない新任たち。自身と同じくハイヴ攻略戦など体験したことのない全員……けれど、横浜基地最強の名誉を与えられている彼女達ならば、未体験だろうが無理難題だろうが、絶対にやり遂げなければならない。

 反応炉さえ破壊できればいい、なんていう甘えは、“明日のない世界”ならば許されるのかもしれない。だが、A-01部隊はその“明日”のためにこそ戦い、生き残り、次なる任務に臨む使命がある。夕呼が何らかの思惑でハイヴ攻略を命ずるならば――ハイヴ攻略は当然、更に全員生還してこそ作戦成功、と。そうでなければならないのだ。

 発足当初連隊規模だったA-01部隊。一人、また一人とまるで冗談のように死んで逝った仲間達。残すところ僅か一個中隊強にまで激減した特務部隊。先日夕呼から聞かされた指針では、現在訓練中の第207衛士訓練部隊B分隊の任官が成った暁には、専属教導官であった神宮司まりも軍曹を前線に復帰させる腹積もりらしい。――つまり、それ以上の補充などない。そんな時間を割いている余裕がない、ということだ。大尉風情にそんな情報を漏らしてもよいのかと、みちるは耳を疑ったが……だからこそ、求められる責任は重い。最早完全に抜き差しならない状況――いや、BETA大戦の当初より、人類はその窮地に立たされていたのだが――それを再認識して、みちる自身、訓練に没頭するのである。

 止まらない戦闘機動、というならば、一角抜きん出ているのが武だ。

 この世に唯一の螺旋剣術、帝国の武家である月詠の剣術の一派だというそれを受け継いだ彼は、殊更“止まらない”ことに長けている。乱戦、混戦となる近接戦闘こそを独壇場とし、常人には窮地以外のなにものでもないその状況でこそ羅刹の如き暴虐さを発揮する。……だが、彼の機動には欠点がある。或いは、その剣術は、機動は、ハイヴ攻略には全く向いていないというべきか。元々帝国斯衛軍の将が、その実戦の中で編み出したという「守護するための剣術」であるからなのだろう。警護対象の身を護るため、率先して敵中へ身を投じ、敵を暴殺する。警護対象に敵を近づけぬよう、敢えて敵に突っ込み、引き付けるのである。自身を最も危険な領域に置き、そしてその状況こそを利用して乱戦に持ち込み、打倒する。弧を描く旋回機動とは即ち360度全てに接近する敵を一度に葬り去るために昇華された戦法なのだろう。

 つまり、その剣術が求める“静止しないこと”と、ハイヴ攻略において必要な“停止しないこと”は全くベクトルが違う、ということだ。

 その事実に誰よりも驚愕してショックを受けていたのは武本人だったが、彼の機動を参考にしようと考えていた水月たちB小隊にしても、考えが足りなかったと自省するほか無い。だが、常に長刀を振るう武の戦闘スタイルは、ある側面では効果的でもあった。武は突撃砲よりも長刀を使ったほうが「強い」。本田真紀や築地多恵は、長刀よりも突撃砲を使った方がより効果的に戦線を維持できる。突撃前衛の標準装備は突撃砲1に長刀2、予備弾倉に短刀となるのだが、それぞれが突撃砲を使用せず、長刀を使用しなかったならば、補給が望めないハイヴ坑内でもある程度生き長らえる時間と可能性が上向くのである。勿論、全く使用しない、などという事態は在り得ないので多少の消費は仕方ないが、自身の残弾或いは長刀の耐久度だけに気を遣わなくてもいい状況というのは……割と隊員たちに――といってもB小隊に限った話だが――効果的に働いているらしい。

 戦闘機動中に装備の交換を行うなんていう光景は最早珍しくない。ならば最初から長刀3や突撃砲3という装備にすればよさそうなものだが、そんな一方面だけに特化した装備で生き残れるほど、矢張りBETAも甘くはない。ポジションごとに装備が異なるのは出来る限り汎用性に富みながらも、確実に敵を蹴散らし、自分たちが生き残る確率を僅かでも上昇させる策の一つなのである。もっとも、みちるが今更言うまでもなく、それは隊員全員がよく理解しているのだが。

 ハイヴ内にレーザー属が存在せず、上方の空間を利用して跳躍噴射が可能といっても、これがなかなか巧くいかない。頭でわかっているつもりでも、気づけば体の方が高度を取ることを忌避しているなんてことはざらだ。刷り込みに近い光線級、重光線級の脅威が、ここにきて戦果を上げられない一因となっているのは間違いない。また、ハイヴがBETAの一種で、だから連中が出現しない、なんてことはあくまでも推測に過ぎない。ヴォールクデータや間引き作戦等でハイヴ内にまで侵入した部隊の持ち帰ったデータから、かなりの確率でそれは“確からしい”のだが、絶対にないと言い切れない以上、どうしても警戒心が先に立つのである。それに、レーザー属は存在しないのではない。地表構造物から反応炉までは一直線の縦坑で繋がっているのだが、そこから突入しようとした部隊がレーザーに焼き尽くされた事実は決して冗談ではないのだ。上空は狙い放題。だからレーザー属はそこに配置されているのだろう。

 慣れの問題なのかもしれない。シミュレータ訓練を繰り返すうちにハイヴ内部での戦闘にも慣れ、レーザー属の脅威も振り払えるかもしれない。……だが、連中が脅威ということは間違いなく、逆に慣れ過ぎてしまえば地上での戦闘で莫迦みたいな過ちを犯す可能性も否めない。……今後はハイヴ攻略戦と地上掃討戦を交互に繰り返し、そのどちらも錬度を上げていかなくてはならないだろう。

 新任たちの成長は著しい。既に武との差も埋まりつつあるし、他の隊員たちとの連携も問題ない。まだ実戦に参加させられるレベルではないが、だからといっていつまでもお荷物扱いしておくのは勿体ない。通常であれば三ヶ月間は実機訓練までに留めておきたいところだが、これまでの成長具合と、元同期である武が既に実戦を経験している経緯から、その期間を繰り上げることも考慮しておく必要はある。いや……むしろそうすべきなのかもしれない。どちらにせよ、いずれ実戦に身を投じるのだ。それをいつにするかは見極めなければならないだろうが、夕呼がハイヴ攻略を画策しているというなら、それまでに少なくとも一回以上の実戦経験が欲しい。

(佐渡島か光州か……さて、)

 夕呼の性格から、そしてAL4が日本主体という裏事情を鑑みれば、そのいずれかであろうことは想像に易い。七月に光州ハイヴの間引き作戦を敢行したことを思えば、次に狙うは佐渡島の甲21号目標……だろうか。いや、総数が減っている甲20号目標という可能性も捨てきれない。いずれにせよ、ハイヴ攻略ともなれば大作戦となることは変わりない。水面下では既にその準備が進められているのかもしれないし、実際にはまだ先のことなのかもしれない。情報が開示されない以上みちるにわかることはなく、ならば――一割でも高い達成率を求めて、訓練に奮起するべきだろう。

「いいか聞けぇ! 次の突入作戦で生き残れなかったヤツは食事抜きに腕立て二百回だ!! 気合入れていけよっ!!」

『『『――了解』』』

 オープンチャンネルで部下達に咆える。それぞれ、挑むような気迫に満ちた返事を受けて、この日六回目のハイヴ攻略プログラムは始動した。







「あんたってば本当に乱闘向きねぇ……」

「いや、そういう水月さんもどっちかというそうでしょう?」

 シミュレータから出るなり、水月にそう呆れられてしまう武。先程のシミュレータ訓練で反応炉まで到達しながらも生還を果たせなかった武は、S-11という高性能爆弾を反応炉に設置するための時間稼ぎのために単身囮を買って出たのだった。それに付き合ってくれたのが茜、晴子、薫の三人。薫との二機連携で敵陣を掻き乱し、茜と晴子の支援砲撃で敵を引きつけつつ数を減らしていく。主広場とも呼ばれるその空間は広大で、武たち以外にも時間稼ぎのために水月、美冴、梼子の編成で別方面の敵を相手にしていたのだが、一見出鱈目なそれぞれの編成には止むを得ない理由というものがあった。要するに……通常の小隊編成を組めるほど生き残っては居なかったのだ。S-11設置部隊はみちると慶子の二人だけ。たった二人で巨大な反応炉に爆弾を設置するのだから、必定、ある程度の時間が必要となる。

 最深部に到達するまでに消費した武器弾薬は著しく、これで失敗すれば全員飯抜きの腕立て二百回。そんな無様を晒してたまるかという冗談めいた気概と、どこまでも真剣な“成功させて見せる”という意志。とにかく前に進むためだけの戦闘機動で遅れを取っていた武は、その囮役を果たすにあたって、巧くいかなかった先の機動に対する鬱憤を晴らすかの如く、手当たり次第に斬りまくった。二機連携でありながら単身で敵のど真ん中に突入し、上空から、或いは近接戦闘で薫が援護する。その戦法は最早B小隊ではお馴染みのものだったので、今更誰も驚かないし困惑しない。ともかくも近接戦闘、乱戦、混戦でこそ真価を発揮する剣術というのなら、武は気兼ねなく暴れまわるだけでいい。

 そういう経緯もあっての水月の発言だったのだが、それは武自身もそう思う。水月がどちらかというと乱闘向きだと思うのも、そうだ。先の時間稼ぎにしても、武には他の戦況を把握する余裕などなかったのだが、戦闘後の美冴や梼子、或いはS-11を設置しながらに全体を見通していたみちるの言から、水月も武同様に敵中に身を躍らせて無茶をやっていたらしいことがわかる。もっとも、そこはさすがに突撃前衛長だ。武のような単独で多勢を相手取る剣術を習得していなくとも、その戦闘力は凄まじい。圧巻の一言に尽きる、そう言っていい程の卓絶した技を魅せたのである。

 最終的には敵の数に呑まれ撃墜された武だが、訓練終了の号令がCPの遙から下され、各々自身の戦闘を反芻しながらに整列する。みちるの傍に向かう途中、水月が武の背中を叩いた。その手の平からは、もっと色々な技術を身に付けろ、と。そういう励ましが感じられた。――敵わない。本当に。小隊長、ということを除いても、武の何もかもを水月はお見通しなのだろう。ハイヴ突入後では月詠の剣術は役に立たない。それこそ、囮役として前線に躍り出て、他のメンバーが進む道を開き、或いは時間を稼ぐ程度にしか使えない。みちるから指摘されたとおりに、そもそものルーツが警護対象の守護だというなら、なるほど、直線的に突き進むことが求められるハイヴ内では無用の長物となるのは自明の理だったのだろう。それに気づけなかった武は未熟だったのだろうし、疎かにしたつもりはないが、その他の技能が茜達と横並びというのは痛い。早い段階でそれに気づけたことはよかったのかもしれないが、裏を返せば、ハイヴ内での戦闘を全く考慮していなかった自分の迂闊さに赤面するほかない。

 武は整列し、みちるに敬礼を向けながら、その傍に控える水月へ、“やって見せる”という強い視線を向けていた。水月もまた、それを受けて頷いてくれる。要は、戦場・戦況によって使い分けろ、ということだ。掃討戦や防衛戦では、月詠の剣術は有効。今までのシミュレータ訓練でもその成果は出ているし、武自身、この剣術こそが対BETAの究極の一つだという自負がある。ならば、ハイヴ内戦闘での究極を身に付ければいい。みちるを中心に小隊長たちが色々と考案しては訓練に反映しているし、個々人もそれぞれで試行錯誤を繰り返している。ともかくも、今までの観点に捕らわれない新しい機動、戦術の構築が最優先。A-01にとっても、武自身にとっても、重要な課題が明確となったところで、この場は解散となった。







 ===







 数日後、夕呼からの呼び出しを受けてみちるはシミュレータルームへ向かっていた。連日行っているハイヴ攻略戦の戦闘記録を分析して、よりよい戦術の構築を念頭に水月たちとミーティングを重ねていたのだが、ピアティフからの通信を受け、単身でやってきたのである。普段A-01部隊が使用するシミュレータとは別のその部屋には、白衣を纏った夕呼と、まりもが並んで立っていた。自分を呼び出した夕呼が居るのはともかく、どうしてまりもまで……と驚いたみちるだったが、彼女が居るならば、なにか訓練部隊にも関係のある内容……例えば、任官スケジュール等に関する調整だろうか、と想像する。けれど、それならば何故シミュレータルームに呼び出されたのか説明がつかないし……結局、夕呼の考えていることなど凡人には理解できないのだと頷く。ここは素直に二人の前へと歩を進めるべきだろう。

「伊隅大尉、参りました」

 ついいつもの癖で敬礼しそうになるみちるを、夕呼が視線で遮った。が、そんな彼女にお構いなくみちるへ敬礼するのがまりもであり、苦笑しながら、みちるもまりもへ答礼する。それを詰まらなそうに見つめた夕呼には申し訳ないが、これが軍隊というものである。そうして、完全に施錠されたシミュレータルームの広大な空間に、副司令、大尉、軍曹という、なんだかよくわからない組み合わせが完成したわけだが……さて、一体夕呼は如何なる用件でみちるたちを呼び出したのか。

「忙しいところ悪いわね」

「はっ、いえ……副司令の命以上に優先すべき事項はありません」

 空々しく呟く夕呼に、みちるは苦笑するしかない。誰よりも多忙であるはずの彼女が、冗談でもそんなことを言うとは……相当に笑えない。夕呼とは十年近い友人だというまりもも、流石に困ったように含み笑っている。が、すぐさまに表情を引き締め、鋭い視線をみちるへ向けてくる。どうやら彼女もまだここに呼ばれた理由を知らされていないらしい。まりもと夕呼の二人だけならば彼女自身が問いかけているのだろうが、何せこの場では大尉階級のみちるがいる。上官を差し置いて発言するわけにも行かないまりもは、だからみちるに視線を寄越したのだった。

「……副司令、それで、一体どのようなご用件でしょうか……」

 みちるもそんなまりもの立場は理解しているので、夕呼に向き直ると同時に尋ねる。すると夕呼は悪戯に唇を歪めて――それは、かつて白銀武という少年が手駒になった際に見せた表情と酷似していて――思わず、身構えてしまう。

「シミュレータルームに呼び出して、やることなんて一つしかないでしょう? ……まぁ待ちなさい。あと一人、揃ってから説明するわ」

「あと一人……?」

 ちらりと夕呼が見やったのは待機中のランプが点灯している一台のシミュレータ。どうやら既に衛士の搭乗は完了しているらしいが、ではあと一人というのはその衛士のことだろうか。――と、誰が乗っているのか知らないそれを見上げていると、施錠されたはずの入口が開き、こちらへやって来る足音が響く。何事かと振り向けば、そこには霞に連れられた武が居た。現在は小隊長を除いたメンバーで座学に勤しんでいるはずの彼が、どうしてか強化装備を着用してやって来たのだ。驚くなという方が無理である。

「白銀……?! 貴様、何をやっている……!」

「はっ! 香月副司令から強化装備着用の上、シミュレータルームへ直行するよう指示を受けました!」

 その返答に、む、と口を噤む満ちる。どうやら霞が伝令を請け負ったらしいが……ならば、どういうことかと思考をめぐらせる。既に待機状態にある一台のシミュレータ。恐らくは誰かが搭乗しているのだろうが、それについての説明はまだない。さらに、武が強化装備を着用しているというなら……恐らくは彼もシミュレータに搭乗するのだろう。――模擬戦? 脳裏に浮かんだそれが、一番可能性が高そうだという結論に至る。どうやらまりもも似たような思考にたどり着いたらしい。

 上官と恩師の二人が揃って夕呼へ視線を向ける様を、若干離れた場所から武は眺めていた。二ヶ月ぶりに見る夕呼の姿は、以前と全く変わらない。白衣の下で右腕はちゃんと機能していたし、服を脱がせて縫合の跡を見ない限り、誰も右腕を喪ったとは思わないだろう。武の腰には弧月が提げられている。夕呼からの呼び出しを霞を通じて受けたとき、一瞬だが、弧月を身に付けることを躊躇った。もう二度とこの刀で夕呼を斬ることなど在り得なかったが、夕呼自身がいい気分がしないのではないかと想像した。――いや、違う。この期に及んで、まだ怖いのだ。初めて斬った肉の感触。その人物。彼女を目の当たりにして、彼女を斬った弧月を身に付けていて……ひょっとすると、罪科に押し潰されてしまうのではないかという恐怖があった。

 だが、ここで弧月をいっときでも手放したならば、もう二度と、この刀を手にする資格はなくなってしまうような気もした。己の罪を恐れるな。自身で気づいたその意志。真那が教えてくれたその意志。弧月はいつも傍に在る。それを本当の意味で理解したならば、その恐怖さえ己のモノにしなければならない。夕呼と顔を合わせることを畏れては何も始まらない。己の罪が露見することを恐れては何の成長もない。まして……武は示して見せねばならないのだ。バッフワイト素子に改良品の新薬。それらを賜るに相応しい、せめてそれだけの気概は、認めてくれた彼女に示す義務がある。

「じゃ、早速だけど始めましょう。……白銀は三番機に搭乗、着座調整終了後にこちらから指示を出すわ」

「――はっ!!」

 まるでかつてのことなど気に留めていない表情と声音で、夕呼が武に命令する。反射的に敬礼してしまったが、彼女がそれに眉を顰める以前に、武は自機へと走り出していた。武が搭乗する三番機の正面……通路を挟んで対面に鎮座する九番機が既に待機状態にあることは気づいていた。強化装備着用でシミュレータルーム、と聞いた時点で何らかの……例えば新兵器等の運用試験だろうかと予想していたのだが、どうやらこれから模擬戦、ということになるらしい。手早く着座調整を終えると、通信機械室から通信が入る。状況から想像したとおりに、これから武は九番機――ドッペル1――と戦闘するらしい。戦闘中に限らず、相手との通信は一切が遮断され、こちらの通信内容もドッペル1には届かないらしい。……模擬戦で戦う相手なのだからそれは当然だろうが、聞けばみちるやまりもも、ドッペル1の映像や音声を見聞きすることは許可されていないらしい。

 一体どれ程の重要人物が乗っているというのか。些か緊張しながら、どうして自分がそんな相手と模擬戦闘を繰り広げなければならないのかと反目するが――それが命令なのだから、やるしかない。フィールドはお馴染みの荒廃したビル群。市街地戦だ。操縦桿を握り、フットペダルを踏み込む。索敵に意識を向けた瞬間に、夕呼から通信が入る。

『いいこと、白銀。一切の手加減もお遊びも許可しないわ。あんたはあんたのもてる最高の技術をぶつけなさい。向こうにも同じことを伝えてあるわ』

 当然だ。言われるまでもない。これまで一度として訓練で手を抜いたことはないし、まして最近はハイヴ攻略において行き詰った感のある武だ。こういう好きなだけ暴れていい状況を用意して貰えたのなら――その真意はともかく、我武者羅にやるだけである。言葉尻がからかうように笑っていたのが気になったが……恐らくは、相当腕の立つ衛士が乗っているのだろう。ドッペル1――ドッペルゲンガーからの引用だろうか? ――大層不吉なコールナンバーだが、簡単に負けるつもりも、惜敗するつもりもない。なにせ、隊長はともかくとして、まりもが見ているのだ。少年だった自分を鍛え上げてくれた恩師を前に、無様な姿は見せられない。

 状況から推測して、武が噛ませ犬なのだろうことは明らかだが、夕呼自身がああ言う以上、ともかくもやるしかない。レーダーが敵機を捕らえる。それは向こうも同じだろう。直線的に放たれた36mmを回避しながら、一気に距離を詰める。とにかく接近戦に持ち込んだなら武の勝ちだ。一対一というなら、支援砲撃で足を止められることもない。中々の反応速度を見せるドッペル1だが、水月や真紀の牽制に比べれば大したことはない。恐らく実力の半分も出していないのだろうが、そういう余裕を見せるというなら、――容赦しない!

「ぉぁああああ!!」

 両腕にそれぞれ長刀を装備し、肉薄する。ドッペル1は未だ突撃砲を構えたまま、装備を変更する様子も、回避行動を取る様子もない。舐められている? 瞬間的に意識が沸騰しかけたが、それもいい。この間合いなら一刀を外すことなど在り得ないし、それを回避してみせる程の腕を持つというなら、自分が選ばれた甲斐があるというものだろう。ドッペル1。何者か知らないが、あの夕呼が手ずからお膳立てをする程の人物。例え噛ませ犬なのだとしても、その相手に選ばれたのが武というなら、それは誇りを持っていいはずなのだ。……いや、ここは噛ませ犬として抜擢されたことを怒るべきだろうか。ともあれ、武は本当に手加減なしの剣閃を放つ。右腕に握った長刀の一閃。脚部は既に回避された後の状況を想定して旋回機動のための準備を整え、左腕の長刀が横凪の軌道を描き…………武は、自分の目を疑った。

 ――居ない。

 目の前に居たはずの標的が、ドッペル1の姿が――ない。右の長刀が空振り、旋回する機体は慣性のままに横凪の一刀を放ち、当然これも空振り。莫迦な、と驚愕に目を見開くのも束の間、戦慄が全身を直走り、咄嗟にフットペダルを踏み抜いていた。前方へ突撃するように全開噴射。一瞬遅れて地面に弾痕が穿たれ、煙を上げる。サブカメラが捕らえたその映像に、武は引き攣れたように息を呑んだ。――そんな、莫迦な!? そこに映った光景を俄かには信じられなかった。跳んでいる。噴射跳躍。ユニットから気焔を吐き出して、ドッペル1は上空に浮かんでいた。

「っ!?」

 驚愕に衝かれたのも刹那、ビルの壁を蹴って更に跳躍した敵機が、信じられないような空中軌道で迫ってくる。ひとつひとつの動きは無駄も多く大袈裟な印象を受けるものの、とにかくも予測がつかないし、なにより、空を翔る――その機動が理解できない。咄嗟に背部パイロンに装着したままの突撃砲を、あたかも遠隔操縦のように、マウントしたままの状態で撃ちまくる。背中から三本目の腕が生えたようなものだが、かつて教えを乞うた整備士の“裏技”の中にあったそれを、反射的に選択していた。両腕に長刀を装備したまま、肩の上から銃口を向けて火を噴く突撃砲。36mmが牽制にばらまかれ――そこで、ドッペル1は更に信じがたい機動をとって見せる。噴射跳躍の軌道上に狙いを定めたつもりだったのだが、あろうことか、ドッペル1は空中で急制動をかけ、いきなり地面に降下したのである。――どういう理屈だっ!? 盛大に粟を食った武は、けれど直線的に迫る標的に、ならばと36mmを放ちながら肉薄する。

 とにかくも、機動力が桁違いだった。或いは、その発想の次元が違うといえばいいのか。同じB小隊の多恵が見せる独特な機動とも違う、一線を画すそれ。本能のままに動きまくる多恵とは違い、ドッペル1には何がしかの意志というものが感じられるのだが――読んでみるか? ――瞬間的に湧いた衝動を、何を莫迦な、と抑えつける。外部との通信を遮断しているというなら、あのドッペル1に搭乗する衛士は相当な重要人物の筈だ。まして、武のリーディング能力の程度を知り尽くしている夕呼が、リーディングされることを予想しないわけがない。当然何がしかの対策がとられていて然るべきであり、そもそも、武自身がその能力を忌むべきと認識しているのだから、絶対に行使するわけにはいかなかった。

 再びの接敵。どういうわけか今度は長刀を振り抜いた標的に、言い知れぬ反発心が過ぎる。どうやら武が接近戦に秀でていることを悟ったらしいが、ならば、先程のように距離をとって戦うべきだろうに。何となくではあるが、武はこのドッペル1が“遊んでいる”――と、そう思えてしまった。相手が長刀を使うからこちらも長刀。或いはその変則的な機動で翻弄して、驚くこちらを見て笑っている。そんな想像が巡り、ぎしり、と操縦桿を握る腕が鳴った。完全に舐められている。得体の知れない相手であることは間違いなかったが、だからといって長刀――剣術の戦いで、武は負けるわけにはいかなかった。

「ぅぉおおおおおおおお!!!!!」

 咆哮一閃。一刀を受けて見せたドッペル1。空中での機動がそちらに軍配が上がるなら、平面機動ではこちらが上という自信は間違いなく、存在する。一撃目を防がれた瞬間には、既に標的の側面に廻りこみ二撃目を振り抜いている。咄嗟の噴射跳躍で前方に逃げようとしたドッペル1の、がら空きとなった背後へ廻りこんで――

「終わりだっ!」

 無防備な背部へ右腕の一閃を叩きつける。――が、浅い! 火花を散らしてウェポンラックが脱落するが、機体自体に大したダメージはないらしい。あっという間に再度上空へと躍り上がった標的に、歯を食いしばりながら突撃砲を狙い撃つ。――ちょこまかとよく逃げるッッ!!?? ここまでくると、最早信じられないを通り越して信じたくない。目の前のドッペル1は、間違いなく……空を跳ぶことを恐れていない。ここが仮想空間のシミュレータだから、だろうか。光線級が存在しないことを認識しているから、だろうか。

 いや、違う。

 アレは、あの動きは、跳躍は――そもそも、空を跳ぶことを恐怖ともなんとも感じていない、そういう機動だ。裏を返せばレーザー属を脅威と感じていない、ということになるのだろうか。だが、そんな理屈は信じられないし理解できない。初陣で光線級の脅威を身をもって体験した武だからこそ、“空に逃げる”という行為の危険性と恐ろしさを十二分に理解しているのだ。一度あの恐怖を味わったのなら、必要最小限の高度以上を取りたいとは思わない。そういう恐怖がハイヴ攻略戦においても己の足を引っ張っているのだということは重々理解していたが、だからといって早々拭い去れるものではない。

 だというのに、目の前のソイツはいとも簡単に、軽々と跳んでみせる。愕然としてしまうし、自分のちっぽけさを嘲笑われているようにも感じる。気づけば力一杯に歯を食いしばっていて、悔しさに震える腕を、コンソールに叩き付けていた。

「ふ、……っざけんなぁあぁぁああ!!!」

 恐怖がどうした。光線級がどうした。アイツは、目の前のドッペル1は、ああも簡単に空を跳んで見せているじゃないか! ――だったら、俺だって跳んでやる! 地上でなければ戦えない、なんてことはない。戦術機は空でだって戦える性能を秘めている。いくら地面の上で追い詰めても、がら空きの上へ逃げられるのであれば、いつまで経っても倒せやしない。

 要は、戦場・戦況によって使い分けろ、ということだ。

 数日前、水月が無言のままに教えてくれたことでもある。地上なら地上の、防衛戦なら防衛戦の、ハイヴ内ならハイヴ内の戦闘スタイルを構築し、編み出し、身に付けて昇華して錬度を上げる。――なら、上空でだって同じことだ。フットペダルを力いっぱいに踏み込む。噴射跳躍。かつて……任官する以前に、整備班の佐久間たちと考案した空中での機動制御方法。機体を捻りながら上昇する武の不知火は、さながら天に向かう螺旋の矢であり――それを予想しなかったのだろうドッペル1の機体は空中で二段階の跳躍を見せて回避し――すれ違い様、武の長刀が標的を斬り刻む感触と――至近距離で被弾し、撃墜された機体情報を見た。



『お疲れ様。あんたは暫くそこで休んでなさい』

「はぁ……はっ、ぁ、……了解っ……はぁ、はぁ、」

 シミュレータの出力が落ちる。薄暗くなった管制ユニットの中で、武は喘ぐように呼吸を繰り返していた。シミュレータであるために実機のような横荷重や強烈なGは再現されない。だが、それでも最後のアレは相当な負荷が掛かっていたし、空中で撃破され、ろくに着地できぬまま墜落した際に確認した限りでは、矢張り腕や脚部に相当なダメージが蓄積されていた。これが実機だったなら、武自身の肉体もただでは済むまい。かつては重度の加速度病に見舞われたのだが……下手をすると内臓が破裂しかねない。

「やっぱ……ありゃ、駄目だな……」

 ついカッとなってやってしまったが、そんなことは当の昔にわかっていたことだ。どうしようもなく餓鬼くさいとは思ったが、けれど、あんな風に目の前で、それこそ“なんでもないように”ぴょんぴょん跳躍されたのでは、それを恐れている自分は何なのだろうと思いたくなる。戦闘に敗北し、機体の損壊は大破。……惨敗だ。そうやって先程の戦闘を自己評価しながら、ならばあのドッペル1は何者だという思考に至る。とにかく、とんでもない実力を秘めた衛士だということは、わかった。武自身は当然ながら、A-01部隊の誰も、あんな機動を見せたことはない。そもそも空中戦という発想自体が随分と昔に廃れてしまった現在で、噴射跳躍を多用するあの機動は相当にイカレている。いや、自分が理解できないだけで、ドッペル1にはドッペル1なりの論理があるのかもしれないが……。

 やがてみちるから通信回線が開かれ、武はシミュレータから降りた。ひょっとするとそこでドッペル1に会えるかもしれないと期待したのだが、流石にそれは甘かったらしい。通路に並ぶのは夕呼にみちるにまりも。愉快気に含み笑う夕呼以外は、二人とも憮然とした表情だ。……気持ちはわかる。実際に戦った武自身、そういう気持ちになったのだから。武など足元にも及ばない戦績を持つ彼女たちなら、その悔しさもひとしおだろう。

 とにかく、自分たちの持っていた“常識”という観点がぶち壊されたのである。空をレーザー属に奪われ、地べたを這い回ることしか出来なくなっていた自分に気づかされたのだ。悔しくないわけがない。みちるもまりもも、そういう意識があったからこそ、最後に武が見せたヤケクソのような発奮は、些かの救いでもあった。無論、褒められた手段でないことは明白だが、それを口に出すことはしない。せめて一矢――そういう武の気迫が伝わり、それを理解できたからこそ、みちるは何も言わないのである。

「白銀、どうだった?」

 夕呼がさも愉快といわんばかりに尋ねてくる。こうなることは予想済みだったのだろう。その表情には矢張り武に対する何がしかの感情は浮かんでおらず、単純にドッペル1を見てどう感じたかという知的好奇心しかない。武は僅かに言葉につまり……どう答えるべきか迷う。ちらりとみちるとまりもを見れば、彼女たちも武の言葉を待っているらしかった。恐らく、武がシミュレータ内で待機している間に二人は存分に己の見解を述べたのだろう。そして、それが済んだからこそ実際に戦った武の言葉を聞きたいのである。

「巧くいえませんが……化け物だと思います……いや、変態的、というか……」

「変態ぃ? あっははははは! 成程ねぇ、あんたでもそう思うんだ」

 あの滅茶苦茶とも思える機動をどう表現したものか、と悩んだ挙句の武の言葉に、あろうことか夕呼が爆笑する。――あの副司令が、と驚愕するみちると武。まりもは別の意味で驚いているらしいが、何にしたってここまで感情を顕にする夕呼というものは珍しい。……というよりも、みちるも武も初めて見たのだが。さておき。

 愉快痛快。正にそういう状態らしい夕呼は、よくわかったと頷いて、みちる、そしてまりもへと視線を移す。武は彼女たちの会話に加わるべきではないのだろう。一歩下がり、上官たちの話を聞くとはなしに聞いていると……霞がおずおずと傍にやって来た。どうやら先の戦闘をモニターしていたらしいが、その表情は複雑なものだった。思い出してみれば、武を呼びに来た際もどこか複雑そうな顔をしていたわけであるが……武には、どうして彼女がそんな表情を見せるのかわからない。

「どうした、社。気分でも悪いのか?」

 シミュレータは油圧式で稼動するため、稼動後は焼けたような匂いが充満することもある。無論、密閉空間でそんなことになっては堪らないので換気は十分行われている筈なのだが……ひょっとすると、初めてこの場を訪れたのだろう少女には、この僅かな空気も気持ち悪いのかもしれない。そう思い声を掛けたのだが、霞は小さく首を振った。ではなんだろうと首を傾げる武に、霞は益々深刻な表情をして……

「……なんでもありません」

 と。絶対に嘘だとわかる呟きを零した。だが、霞自身がそう言うのであれば、武はそうかと頷くことしか出来ない。薄情かもしれないが、今の霞を見れば、追求されることを望んでいるようには見えないのである。放っておくことも時には救いになる。自身の経験からそう判断して、武は視線をみちるたちへ向けた。漏れ聞こえる言葉から推測する限り、あのドッペル1が何者なのか、という話題になっているようだった。それについては武自身、大変気になる話である。――が、むべもなく両断する夕呼。ドッペル1というコールナンバー以外は一切明かそうとせず、男性か女性かさえ教える気はないらしい。機密といわれてしまえばそれ以上みちるも口を開くことは出来ず、言いようのない空気が場を満たした。

「……で、さっきの話に戻るけど。どう? 実戦であの機動は使えるかしら?」

「すぐに再現しろ、というお話でしたら……操縦ログを閲覧できるなら、一週間もあれば、ある程度は習得できるかと思います。しかし、現状ではあのドッペル1の機動はあまりにも常識の枠から逸脱していると言わざるを得ません。悔しいですが――自分にはあの機動の根底にある戦闘理論が理解できません」

 それはあの動きに至る思考的プロセスを、想像さえ出来ない、ということだ。まりももそれには同感らしい。無論、武だってそうだ。とにかく、なにもかもが出鱈目なのである。化け物染みていると感じ、変態的だと思ったのは、比喩でもなんでもなく、言葉通りの意味なのだ。ドッペル1は明らかに常軌を逸している。――アレは、何か違う。それが具体的に何なのか想像も出来ないくらい、思考そのものの次元が違う。……だが、

「僭越ながら、副司令。確かに伊隅大尉の仰るとおり、ドッペル1の機動が容易には理解し難く、また、その模倣すら困難であることは明白です。……ですが、あの機動。あの戦術理論。そもそも空中は光線級に支配されているという常識を打ち破る大胆な機転等、ドッペル1から学ぶべきことは多いように思えます。例えば作戦に参加する衛士全員があの機動を再現出来たと仮定するならば――――中隊規模でのハイヴ突入・攻略も夢ではないのかもしれません……」

「神宮司軍曹――!?」

「へぇ……面白いことを言うじゃない、まりも……」

 微塵の冗談も誇張もなく、まりもがそう口にする。特に最後の一言、中隊規模で……という言葉にみちるは絶句し、夕呼はさも面白そうに唇を歪める。軍曹であるまりもがA-01に期待される作戦の概要を知ることはない。ならば現在正にハイヴ攻略のための訓練を重ねているみちるにとっては驚くほかないのだが、すぐに、それがまりもなりの賛辞であることは理解できた。つまり、もし本当にあの機動が実現できたなら、それくらいの戦力向上に繋がるだろう、というのだ。富士の教導隊に属していたこともあるまりものその言葉は、階級よりなによりも、重く、響く。数々の経験に裏づけされた衛士としての直感が、或いは導き出された客観的論理が、そうと断じたのだ。

 夕呼は妖艶に微笑みながら、まりもをじっと見つめる。その言葉、嘘じゃないわね――そう問いかけるような彼女に、長い付き合いであるまりもは、不敵に笑って見せた。

「いいわ。操縦ログはすぐに用意してあげる。……あなたたちは持ち場に戻りなさい。白銀もね。……社はこっちにいらっしゃい」

 みちるとまりもが揃って踵を返す。武も姿勢を正して、みちるの背後に付き従った。

 最後まで深刻そうな表情のままの霞が気になったが、去れ、と命じられた自分たちに止まることは許されない。シミュレータルームを出て、再び施錠されたドアを眺めながら、今頃はドッペル1がシミュレータから降りているのだろうと想像すると……言いようのない興奮が胸を満たした。そう。武は今、興奮している。ドッペル1の機動に中てられた悔しさや感情は、けれどまりもの一言で吹き飛んでいる。

 ――あの機動を再現出来たなら――

 その仮定は、想像も出来ないほどの熱い衝動を沸きあがらせた。確かにそうだ。あの信じられない機動を我が物と出来たなら、今よりもっと、もっともっと、BETAとの戦いを有利に運べるに違いない。特にハイヴ内部での戦闘で、その効果は著しく現れるのではないだろうか。今正にA-01部隊の課題となっている空中機動。或いはハイヴ攻略のための戦術。それら全てを一挙に解決できるかもしれない。そんな想像を抱けば、血が滾るのは当然だ。

「白銀、すぐに全員を強化装備着用の後、ブリーフィングルームに招集しろ。速瀬たちには私から声を掛ける」

「了解!」

 みちるの視線から、彼女が何を考えているのかを即座に理解した武は、力強い敬礼を向けて走り出す。恐らくも何も、夕呼から操縦ログを受け取り、全員でそれを倣うのだろう。とにかくも実践あるのみ。あの機動を目の当たりにしたみちると武だからこそ、その凄まじさが理解できる。……いや、論理も何もかもを理解できていないのだが、ともかく、そうとわかるのだ。

 戦術機の機動が改善されただけで戦況がひっくり返ることなど在り得ないだろうことは、この場に居る全員が一番わかっている。けれど、それでも……あのドッペル1が見せた機動は、なにか、希望を抱かせるに相応しい――“ナニカ”を孕んでいるように思える。







 ===







 夕呼は上機嫌に鼻歌を口ずさむ。他者に対して喜怒哀楽に代表される感情のこと如くを見せない彼女にしては珍しく、そしてそれ故にそぐわない。霞はそんな珍しくも上機嫌な夕呼を見上げながらも、彼女の下す指示に従ってキーボードを叩いていく。ドッペル1――そう呼ばれた人物の機動ログを解析するのである。霞には戦術機の操縦の仕方も、その戦闘に於ける有効な手段というものも理解できないし、そもそも知らない。だがそれでも、このドッペル1が行って見せた操縦は、かつて見たことのあるどんな衛士の操縦技術よりも……巧く言葉には出来ないが、「凄い」と思えるものがあった。

 例えば先程のみちるやまりもが述べたように。歴戦の勇士である彼女たちが賞賛するほど、あの機動には凄まじいナニカが在る。戦術機の操縦や戦術に関して知識しか持ちえていない夕呼にしても、その認識自体は霞と同程度だろう。が、常人の思考の遥か上を行く“天才”である彼女には、霞が思い至ることの出来ない何がしかの明確なヴィジョンが見えていて、現在のログ解析もその一端を担っているようだった。

 既に操縦ログ自体はそのコピーをみちる、まりも両名に手渡している。恐らくA-01部隊は今頃、みちるの指示の下、ドッペル1の機動を再現しようと躍起になっているのではないだろうか。……まりもに関しては、207B分隊の訓練状況からみて、恐らく彼女自身が個人的に修得を試みるのだろう。なんにせよ、それで彼女たちの錬度が益々に上向くことは間違いない。

 だが、同時にそれは途轍もない困難を孕んでいる。

 現に彼女達自身が言っているのだ。「あの機動は理解できない」。「模倣でさえ困難だろう」――と。それは多分、比喩でも皮肉でもなく、厳然たる事実。何故ならそれは、ドッペル1と彼女たちの、“思考そのものの基盤”が異なるからだ。言葉遊びのようだが、そうとしか言いようがないし、それが事実なのである。ともかくもドッペル1は「異端」であり、武が言ったような“化け物”と称すべき思考こそが普通であり、“変態的”と称すべき機動こそを当然としてやって見せる。根本的に、何もかもが違うのだ。……それを、霞は、夕呼は知っている。

 みちるは一週間もあれば……と言っていた。きっとそれは間違いではない。一週間もあれば、彼女たちのように数々の実戦を潜り抜け経験を積んだベテラン衛士は、ドッペル1の機動を解析し、噛み砕き、“自分なりの”それを再現できるようになるだろう。それは例えば空中機動に関するヒント的なものであったり、発想の転換という着眼点からの「進化」ないしは「深化」となるだろう。

 ――が、恐らくは誰一人として、あの機動を“理解する”ことはできない。

 きっとこういうことではないのかと想像し、自分なりに納得することは出来るだろう。正答ではない、自己的な解釈。その結論に満足するしかないのである。……絶対に理解できない機動理念、戦術理論。それを知ることが出来ている霞にも夕呼にも絶対に真の意味での理解などできはしないそれを、彼女たちが到達できる道理はないのだから。

 とにかくも霞は次々と下される指示に従うほかはない。当面、ドッペル1に対して思考を巡らせる暇もないくらい忙しくなるような予感がある。最後にもう一度だけ夕呼を見上げれば、矢張り彼女は愉快そうに上機嫌に、けれどどこか一抹の不安さを感じさせる嬉々とした瞳で……別室に“軟禁”しているドッペル1の監視映像を見つめているのだった。



 最高の素材を手に入れた、ということになるのだろう。

 否、最良の……か? ともかく、ドッペル1という手駒を手に入れたことはAL4完遂に於いてかなり重要なファクターとなることは間違いない。空想の産物、絵空事として捕らえられていた研究理論、『因果律量子論』。自身でさえ明確な解に辿り着けていないその理論を証明する存在が突然に現れたとき、信じられないというよりもなによりも、震えるくらいの感動があった。

 数日前の邂逅を思い出しながら、夕呼はじっと監視映像を眺める。その存在自体を揶揄って“ドッペル”というコールナンバーをつけたのも、珍しく浮ついた気分になっているからだろう。……ともかく、ドッペル1はいちいち使い道に困らない。その存在が及ぼす影響については、夕呼が提唱する『因果律量子論』自体を修正せざるを得ない現象も引き起こしたが、一応のところは想像の範囲内。想定内、という枠に収まってはいる。

 世界は矛盾を好まない――というのが夕呼自身の見解だが、それはあくまで“そんな程度のモノ”という認識でしかないし、或いは好まないからこそ生じた矛盾を修正しようという力が働くことの可能性を承知している。修正力、とでも仮称するべきそれは、恐らくは白銀武に端を発しているに違いない。夕呼自らが手を下したESP能力付加のための投薬実験。考えられるポイントはそれしかなく、彼の脳内で引き起こされた様々な化学反応が、彼を“白銀武”という存在から「僅かにズレた」者として世界に認識させているか……或いは、ドッペル1という存在そのものが、既に「別物」として扱われているか。

 いずれにせよ、それぞれの存在が夕呼の理論を証明することは変わりないし、益々もってAL4の可能性を拡げてくれている。

 例えばドッペル1が見せたあの戦術機の操縦についても……夕呼自身にはその凄まじさなどはいまいち理解できないが、それがまりもやA-01部隊の見せるモノと異なることはわかるし、遊び半分でやらせた基礎・応用教習プログラムも信じられない成績でクリアして見せた。過去に一度、白銀武で実験したこともあったのだが、それさえを上回る速度と成績を叩き出したドッペル1には驚嘆するしかない。ある意味では戦術機の素人である夕呼を、驚嘆させたのである。

 試してみる価値は十二分以上にあった。否、これは試す以外に在り得なかった。

 戦術機に関する知識・技術ともに、この横浜基地内で最も優れているのは神宮司まりもだというのは、基地司令も認める事実だ。別に司令に確認を取ったわけではないが、夕呼にはそういう確信がある。友人の能力を賞賛するつもりはないが、客観的にその経歴を見れば、誰だってそうと頷く以外にない。ともかく、戦術機に関する何がしかは、例えば駆動系や制御系の専門的な話にならない限りは、最高の衛士である彼女に聞けば“間違いない”のだ。さらにその教えを一身に受け、現在まで生き延びている伊隅みちる。A-01部隊の隊長を務める彼女は事実上のまりもの直系であり、その実力も劣らない。

 その二人を同席させ、ドッペル1の機動を見せたなら……どうなるだろうか。夕呼でさえ凄いと感嘆したのである。戦術機に乗り、実戦に身を投じ、現実にBETAと戦っている彼女たちの目には、その「凄まじさ」というものはどう映るのだろうか。想像しただけでも興味が湧く。思いついた瞬間にシミュレータでの模擬戦闘の段取りをつけ、二人を呼び出した夕呼は……更に、ある種のセレモニーと化したこのイベントを彩るべく、武を呼び出した。

 戦術機適性「S」。その二人が相対すれば一体ドウイウコトになるか。それは戦術機操縦技術の革新を期待すると同時に、それぞれの存在そのものに如何なる影響が生じるか、という実験でもあった。

 まりもにもみちるにも、無論武にもドッペル1の正体は明かさない。その存在が如何なるかを明かしたところで特に意味はないし、現実的に考えてドッペル1を表に出せる道理がない。いや、それはそれで面白そうなのだが、無用な混乱を招くだけだろう。……第一、ドッペル1が軍人として、衛士として戦場に立てるとは到底思えない。戦術機操縦の腕は間違いなく一流と称すべきなのだろう。――が、それだけだ。ドッペル1を戦場に立たせたなら、『死の八分』を越えることはおろか、恐慌に身をやつし悲鳴を上げてのた打ち回った挙句に食い殺されるのが関の山だろう。貴重な研究素材を、そんな風に捨ててしまうわけにはいかないし、そもそも機体が勿体ない。

 現在はB19フロアの一室に“軟禁”しているわけだが、取り敢えず衣食住を確保してやっているのだから十分だ。現実を直視しようとせず、戦術機に没頭している現状、精神的に好ましい状態とは言い難いようだが、いくらでもやりようはある。ニンゲン、寝床と食事さえ足りていれば案外何とかなるものだ。ドッペル1がどう足掻いたところであの部屋は内側から開くことなど出来ないし、シミュレータでも設置してやれば鬱憤も晴らせるだろう。それでも問題が生じるようならクスリに手を出すことも厭うまい。

 武という前例を鑑みれば、どうも薬物が効きすぎる体質にあるらしいが、それもまた良しだろう。或いは、投薬に依らずとも……例えば生きる目標のようなものを仮にでも与えてやればいい。そのあたりはピアティフが適任だろうか。衛生班の誰かに頼むのも手だ。経験の浅い餓鬼であるならば、目先のそれに溺れることは簡単に予想できる。

 ……とりとめもなく思考を巡らせながら、ふむ、と頷く。

 ドッペル1の処遇を今後どうするかは別として、まりもをしてハイヴ攻略も夢ではないと言わしめたその機動。操縦ログは霞の手伝いもあって既に解析済み。その操縦概念というべきものはどう足掻いても余人には理解できない代物だろうことは想像に難くないが……例えばそのフォロー、サポートとして戦術機側に何らかの改良を加えるというのはどうだろうか。

 夕呼自身の思いつきでもあるが、それは本来の彼女の使命――AL4完遂のための最優先事項かといえばそうではない。夕呼が一刻も早く完成させなければならないのは00ユニットであり、それを完成させるための理論だ。正直なところ未だに成果らしい成果を上げられていないこれらをなんとかしなければならないのだが、我武者羅に研究を続けるだけでどうにかなる時期はそろそろ終わりに近い。このまま何の成果も出すことが出来なければ、国連はAL5の発動を承認するかもしれない。とにかく、何がしかの研究成果を発表する必要がある。

 それを考えた時、戦術機の改良――ハード的な改修は、既に出回っている機体数と各国の財政状況を見ても現実的ではない。新型機の開発などもってのほかだ。では……例えば、OSを新しくしてみるというのはどうだろう。その思いつきは、何か閃きに近いものを与えてくれた。まりもが言ったのである。「作戦に参加する部隊全てが再現できたなら」、と。ならば、再現できるようにしてやればいい。ドッペル1以外には絶対に理解できないその操縦技術。戦闘理論。機動概念。その模倣だけでも相当の戦力向上が望めるだろうと彼女が言うなら、それはきっと間違いではない。だったら、その完全には理解できない部分を戦術機自身にやらせてしまえばいい――――これだ。

 夕呼は唇を吊り上げて笑う。

 単なる時間稼ぎにしかならないことはわかっている。だが、OSの改良……新OSの開発でもなんでもいい――それには恐らく、AL4の研究のために用いられた技術が応用できるはずだ。つまり、“それもまたAL4の成果”の一つと言い切ることが出来る。更にはその性能の有効さが世界的に証明できたなら、今後の作戦を有利に展開させる切り札とすることもできる。なんだなんだ、考えれば考えるほど美味しい話ではないか。夕呼は獰猛な笑みを浮かべて――その裏側で、相当に追い詰められている自分というものを冷静に自覚した。唯一つ、00ユニット完成のためだけに邁進できる時間は残り少ない。その焦りがもたらす現実逃避なのではないかという思考……だが、それを認めつつも、最早「なにかをやらねばならない」状況にまできている。

 追い詰められたニンゲンがどれ程に愚かな行為を犯すのか。夕呼は身をもってそれを体験している。かつて武の脳改造を実施した自分もそうならば、極限まで追い詰められて爆発した彼もそうだ。……だが、それを自覚し、認識し、冷静な理性によってコントロールできるならば、愚かさを補うことも出来るだろう。ともかくも、思いつき、そして今後に僅かでも有利に働く要素を孕んでいるのなら……やるしかない。

「いいじゃない……こういうの、悪くないわ」

 追い詰められた状況を楽しむ。危険な快感がそこに潜んでいるような気がして――夕呼はドッペル1を映す監視映像を一際睥睨するのだった。




[1154] 守護者編:[二章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/03/29 11:27
『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:二章-04」





 今まで積み重ねてきた全てをかなぐり捨てて、頭の中を真っ白にする。……ゼロからのスタート。ここが出発点。伊隅ヴァルキリーズの十三名は、その全員が一旦頭の中をリセットすることで、ドッペル1の機動――隊内の通称を『概念機動』という――を習得すべく訓練を開始した。



 ともかく――わけがわからないのだ。夕呼から手渡されたドッペル1の操縦ログを何度見直したところで、「どうして“そこ”で“そうする”」のか、「なんだって“そんなところ”で“そんなことをする”」のか……印字されたシーケンスと睨めっこしてもまったく理解できない。が、とにかく実践してみようということで実際にドッペル1と交戦した武が見本となり、一連の動作をなぞる。残る全員は自機の管制ユニットの中で武の見せる機動と手元のログを見比べ、その操縦概念を脳内でシミュレートする。……はずだったのだが……最初の一回で挫折した。

 従来の操縦技術を根底から覆すかのような“出鱈目”な操縦。A-01内でも、ある意味で異端であった武をして、全く再現不能なその機動。

 武は必死になって目の当たりにしたドッペル1の機動を再現しようとするが、ログに残されたとおりの操縦を行っても、あの謎の衛士が見せたような鮮やかな機動にはならない。どちらかというと、彼自身の戸惑いが前面に押し出され、小躍りしているように滑稽なものとなっていた。シミュレータなのだからと割り切って、忠実に噴射跳躍を行って見せるものの、例えばビルの壁面を蹴っての跳躍や、空中での二段跳躍などは目も当てられない程酷かった。ビルに激突し、或いは中空でバランスを崩し墜落し……とにかく、インプットする内容はログの通りなのに、それ以外の何もかもが異なっているらしかった。

 武自身混乱の極みであり、救いを求めるようにみちるに視線を向ければ、彼女も珍しく神妙な表情をしていた。呆れ返る水月や美冴の顔を見ることが出来ず――こんなものじゃなかった、と。困惑と悔しさに歯を噛み締める。俯いた武に、溜息まじりのみちるの通信が聞こえた。

『――全員聞け。今の白銀を見てもわかるとおり、このドッペル1という衛士が見せた機動は相当に困難極まるものだ。これまで積み重ねてきた操縦技術の進化系であることは間違いないのだろうが、なにせ独特すぎる。……進化系、とは言ったが……いや、矢張りこれは我々のソレとは根本的に異なるらしい。白銀と同じくその機動を目にした私だが……仮に挑戦したとしても、白銀同様、まともに再現など出来ないのだろうな』

 その声音はどことなく悔しさを帯びており、けれど、不退転の強さが窺えた。その言葉を聞いて、水月たちは理解する。ログでしか知らないこの『概念機動』。ドッペル1という衛士が見せたその機動は……隊内随一の操縦技術を持つみちるをして、そこまで唸らせるほどの代物なのだということを。――つまり、ムキになるくらい、悔しい思いをしてでさえ、“身に付けるに値する”。そういうモノなのだと。

『……大尉、そのドッペル1と白銀少尉の戦闘記録映像を閲覧することは出来ませんか?』

「さて――どうだろうな。どうもドッペル1の存在自体機密扱いらしいからな……香月博士のあの徹底振りを見ると些か怪しいが……こうして操縦ログは頂戴できたわけだからな。――涼宮、ピアティフ中尉に繋いでくれ」

 ログに向けていた視線をみちるへ向けて、梼子が首を捻る。シーケンスを読み取っただけでは理解不能。再現しようにもイメージさえ掴めない。……確かに、これでは全く埒が明かない。まして、目の当たりにし、更には実際に戦った武でさえあの様なのだ。それを参考にしろと言われても、そもそも前提に無理がある。そういう意味で尋ねた梼子に、みちるが考えるように頷く。夕呼はみちるにもまりもにもドッペル1の正体を明かそうとはしなかった。名はおろか、性別さえ教えてくれなかったのである。それが示す事実は多分も何も機密情報以外にはなく、けれど、今後の戦術機運用に躍進的な進歩を促す可能性を感じて、こうして操縦ログを公開してくれた。――ならば、聞いてみる価値はある。現場の率直な意見は――些か、早過ぎる嘆願ではあるようだが――率直に上へ申し立てるべきだろう。

 CPの遙が夕呼付の秘書官であるピアティフ中尉へと通信回線を繋ぐ。網膜投影に浮かび上がったブロンドのショートカットをみとめて、みちるは梼子が請うた内容をそのまま伝える。あの機動を一度でも見ることが出来れば、それが一体どのようなものであるのか、感覚を掴むことが出来る。後はそれをとにかく自分なりに噛み砕いて実践するほかない。例えば一番手として挑戦して見せた武だが、みちるだって最初から巧くいくなどと楽観していない。そもそも、一週間という期間を申し出ているわけだから、夕呼も最低でも五日は待ってくれるだろう。ならば、四日間でモノにし、五日目には完成させる。――ピアティフが夕呼へと確認している間にそれだけをまとめ、了解の意を返した彼女に、みちるは頷く。

『映像データを涼宮中尉へ転送します。そこからシミュレータを経由して、各員の網膜投影ディスプレイに投射してください』

「了解した。――涼宮、頼む」

 了解。頷いた遙の下へ、早速ピアティフから映像データが送信されてきた。遙は手早く機器を操作し、各員の網膜投影ディスプレイへと映し出す。つい十数分前の戦闘記録映像。武とドッペル1の模擬戦の映像を――全員が、息を呑んで見つめた。客観的視点から見るのは初めてだったのだが、武自身、改めて見て愕然とする。戦闘の最中は突然消えたようにしか見えなかった機動も、成程、こうして見れば頷けるものの……矢張り、理解し難い光景であることは変わらない。

 手元の操縦ログを見やりながら、ドッペル1の機動をトレースする。そうか、とハッとさせられる場面もあれば、余計わけがわからなくなった場面もある。例えば回避の際に「がちゃがちゃと」操縦桿を動かしているようにしか思えない操作……一体これは何だというのか。跳躍シーケンスが終了する前に何がしかの操作を入力しているらしいのだが……戦術機の根本的な操縦を間違えているのだろうか。所々にそういった“意味不明”な操縦も見られたが、全体的に見て、矢張り、凄まじい。

 呆れたような声で呟くのは美冴で――このときの彼女の感想から、『概念機動』という通称が定着したのだが、それはさておき――興奮したように叫んだのは水月だ。遅れて真紀が騒ぎ出し、薫や茜が口を揃えて歓声を上げる。どうやら彼女達はこのドッペル1の機動にすっかり魅せられてしまっているらしい。武自身そうなので、同じように感じてくれる皆にどうしてか嬉しくなってしまった。感覚を共有するというのは、実に意識を昂揚させてくれる。

 その興奮を鎮まらせるようにみちるが喝を入れ、そうして――苦行の一日が始まった。

 とにかく巧くいかない。わからない。丁寧にログをなぞり、或いは目にした映像を思い浮かべながら自機を操作するのだが、誰一人再現できた者はいない。強いて言えば、元々どこか独特だった多恵の操縦が“近い”のだが、それでも、かなり苦労しているようである。ビルの壁面を蹴って方向を変える、という荒業を実際にやってのけて見せたこともある多恵だったが、どちらかといえば彼女のソレは本能的な部分の成せる“ワザ”であり、このようなトレースは苦手とするのかもしれない。

 一人ひとりが懸命に自分なりに『概念機動』を咀嚼し、試行錯誤を繰り返す様を観察して、みちるが取り敢えずの結論を出す。このまま明確な指針なしに繰り返すのは時間の無駄。ならば全員で“ゼロから”積み上げていくしかない、と。

『ゼロから――ですか?』

 説明を求めるような水月の問いに、みちるは若干苦笑しながら答える。とにかく自分たちの操縦とは何もかもが違うドッペル1のソレ。再現しようとして再現できないのは、どこかで“自分の体に染み付いた操縦方法”を採ってしまっているから。或いは、そもそも思考がそのように働いてしまっているからだろう。そして、突き詰めて言ってしまえば、その思考さえ全く異なる次元にあるらしいドッペル1のソレを再現できないのは当然。――ならば、一度頭の中を空っぽにして、ともかく一切の“前提”を排除して、ゼロから詰め込んでいくしかない。

 もう一度、今度はそういう視点から『概念機動』を見てみよう――みちるはそう言って、遙へと指示を出す。首肯した遙によって、再びドッペル1と武の戦闘記録映像が表示される。全員が、みちるの指示したとおりに――先入観なしにそれに見入る。

 自分ならそこでこう動く。

 自分ならそこでこうする。

 自分なら――――そういう前提を一切なくして。ただ、ドッペル1の機動を見つめる。記憶する。イメージを掴む。同時に、その機動の根底にある思考を想像する。空には障害物がない。だから空へ逃げる。進行方向を変えるのに一々着地していたら時間の無駄。だからビルの壁を蹴って転進する。空中で狙い撃たれたら逃げられない。だから更に噴射跳躍して回避する。――そうやって、ドッペル1の機動を、ありのままの事実として受け入れる。「莫迦な」や「まさか」なんて言葉は抹消して、目の前の光景をただ「その通り」なのだと肯定する。

 信じられないと唸るのは簡単だ。理解できないと放棄するのは簡単だ。……だが、それではそこに在るものを得られない。そこには、ナニカが在る。全員が直感したのだ。この機動、この操縦技術。『概念機動』とも言うべきドッペル1の――ソレには。

 間違いなく、自分たちを更なる高みへと引き上げるだけのナニカが。

 ソレは希望。ソレは可能性。ソレは――一人でも多くの衛士を生き永らえさせる、力だ。







 ===







 2001年11月03日――







 『概念実証機』。

 夕呼がドッペル1の機動から考案した“新型OS”が実用段階に至り、A-01部隊の不知火に搭載されたのはその日の早朝のことだった。その新OSを搭載した機体を『概念実証機』と呼称するのは、元となった機動の隊内での通称が『概念機動』などという通俗的なものであり、それを面白がった夕呼がそのままつけたためだ。いずれ新OSの効果が証明され、ライセンス登録するにあたって、正式な名称が決定されるのだろう。

 ドッペル1の“概念”をそのまま“実証”できるように組まれたという新OS。その性能は如何なるものかと期待に胸を膨らませたヴァルキリーズの面々は、ドッペル1が見せる変態的な機動に呼吸さえ忘れ、唖然としたままに魅入る。映像が映すのははシミュレータの教習課程ではあったが、ドッペル1はかつて見たことのないほどの鮮やかさ、壮絶さで次々と敵性体を葬っていく。とにかく――スピードが尋常ではない。

 ひとつひとつの動作。従来ならば一つの動作が終了した際に生じる機械的な「停止」が殆どない。或いは、一動作が終了した後に次の動作を入力するためのタイムラグ。そういうものが極力なくされたスムーズな機動が、そのスピードを生み出しているらしかった。映し出される画面を示しながらの夕呼の解説によれば、それは“先行入力”という新機能の効果であり、一動作を行っている途中に複数個先を見越しての動作入力が出来るという。

 例えば、前進して長刀を一閃、すぐさまバックステップ、というシーケンス入力を、一度に連続して行えるということ。前進を入力、長刀の一閃を入力、バックステップを入力、という都度の入力が不要となったことで、人的硬化時間と機械的硬化時間を限りなくゼロに近づけている。

 さらには“キャンセル”という機能も追加されていて、これは文字通り、あらかじめ入力しておいた“先行入力”の内容を、或いは“現在実行中”の動作を“キャンセル”する機能だ。戦況は瞬きの間にもめまぐるしく変化する。数瞬先を読んでの先行入力も、場合によっては異なる動作をとらざるを得なくなる可能性もある。先の例で言えば前進、長刀の一閃、バックステップだが、これが例えば長刀を振る暇なく回避せざるを得ないとき……前進、長刀の一閃→キャンセル、バックステップ……という処理になる。

 キャンセル機能は任意に実行可能で、ソレを実現するために常に入力内容、処理内容を監視するシステムが組まれたのだとか。このあたりのOSの構造には些か不勉強な面々は、とにかくそういう便利な機能が追加実装されたのだと理解することにした。

 また、付随効果として、搭乗者の癖――よく取る行動パターン等――をよりスムーズに反映させるため、戦術機側で自動的に行動をカテゴライズし、次に行われるであろう処理を予測、機体各部が連動して予備動作に移る……ということも可能となっている。つまり、頻繁に行う動作を繰り返せば繰り返すほど、機体の反応速度が向上するというわけだ。これについては以前から備わっていたのだが、新OSの処理速度向上に伴い、更に柔軟化しているとのことだった。

 ドッペル1の『概念機動』を身に付けるべく、一度自身の操縦技術というものを空っぽにして訓練に挑んでいたA-01部隊の全員は、昨日までの訓練で既にそれを習得し、更には自分が得意とする機動に織り込んでの再修正、反映を終えている。みちるが夕呼に宣言したとおりの一週間――実質五日だが――で習得してみせたことには、夕呼も満足しているようだった。なにせ、タイミングがいい。夕呼が新OSをとりあえず完成させ、搭載したのが今朝。そしてソレを使用してデータ収集を担当するA-01部隊が件の機動を自分自身のものとしたのが昨日。完璧だ。

「――以上が、新型OSの概要よ。簡単に言えばこれで全部だけど、何か質問はある?」

 モニターに映されていた映像が消え、ブリーフィングルームに照明が点けられる。白衣を纏った夕呼は、さも愉しそうにみちるたちを見つめていた。それも無理はあるまい。なにせ、機動だけでも十分にこれまでの常識を覆すものだったのに、今度はソレの再現だけに留まらず、よりシャープな操縦が可能となるというのだ。しかも、その操作性はかつてのOSのものとは雲泥の差があるという。ドッペル1が実際にシミュレータでデータ収集を行ったのだという先の映像を見ても、その素晴らしさは明らかだ。

 敵性体として設定された機体の動きと比較するならば、正に昔話の“うさぎとかめ”の如く。無論、ドッペル1は俊敏な兎だ。……そして、その兎は亀に追いつかれることなく、走り切ったのである。圧倒的有利を貫いたまま。



 OSの性能差がこうまで如実に現れるとはまだ若干信じ難い。そんな印象を孕んでいた面々は、けれどシミュレータに搭乗してからはその認識を改めた。――否、改めざるを得なかった。最初こそ鋭敏すぎる機体の反応に戸惑ったものの、それに慣れてしまえば後は「世界が違った」。

 目に映る空間は何一つ変わらないのに、 搭乗する不知火の機動、その一つひとつが、信じられないくらいに――速い。疾い!

 ドッペル1の操縦ログから身に付けた三次元機動も、従来からの平面機動も、“ありとあらゆる何もかも”が、須らく速く、シャープだ。これが昨日まで使用していた同じ機体かと疑いたくなるほど。まだシミュレータでの体感でしかないが……シミュレータでこれなら、実機になると一体どれほどのモノだというのか! 興奮したように叫ぶ水月を、誰が咎められよう。真紀も武も、薫も多恵も。まるで水を得た魚の如くに敵陣へ突っ込んでいく。

 BETAの動きがまるでスローになったような錯覚。無論、錯覚だ。連中が遅くなったのではなく、自らが速くなっている。今までは絶対に回避できなかったタイミングの攻撃も、難なくかわすことができる。一分間で斃せる敵の数も、全員がその記録を塗り替えた。――凄まじい。なんて凄いOS! 本当ならば浮かれる部下達を叱責し、気を引き締めさせる役回りであるはずのみちるでさえ、その新OSがもたらす劇的な効果に頬を綻ばさずにはいられない。

 一通りの訓練プログラムを終え、全員がシミュレータから降りた。満足げに佇む夕呼の前に整列し、彼女が厭がることを承知で、揃って敬礼する。予想通りに顰め面を見せる夕呼に、みちるが一歩踏み出して、頭を下げた。――全員が、背筋を伸ばし、直立する。

「香月博士――ありがとうございます。これほど素晴らしいOSならば、戦場で戦う多くの衛士を無駄に死なせずに済みます……。私は、部下の命を預かる隊長として……博士には感謝してもし切れません……ッ」

「あのねぇ伊隅。あんたの気持ちもわかるけど、実際にはまだ組み上がったばかりでデータ不足なのよ。実用段階なんてまだまだなんだから、今からそんなに感動してたら、キリがないわよ?」

 呆れたように、けれどどこか誇らしげに唇を吊り上げる夕呼に、みちるはこれ以上ないというくらいに破顔した。確かにそうだ。この新型OSはまだプロトタイプ。これからデータ集積を重ね、更に更に改良を重ねていくのだ。……より高性能に。今よりも、更に、更に!

 いちいち感動していてはキリがない。まして、テストパイロット部隊としてA-01が選抜されたというのなら、彼女たちに求められるのは“感動に打ち震える”ことではなく、冷静に的確に新OSの性能を見極め、良い点も悪い点も率直に申し立てること。衛士が戦場で求める最高峰を常に意識してこそ、OSの改良は進むのだから。そのことを理解したみちるは、キッと表情を引き締めて、部下に号令を掛ける。二十分の休憩を挟み、今度は防衛戦プログラムで訓練を積む。その後は掃討戦、締めくくりとしてハイヴ突入戦を行う。大まかにその三パターンを訓練に織り込み、日々データを蓄積していくのだ。

 命令を復唱する水月が、解散を告げる。全員がみちるへ敬礼を向け――――自分のシミュレータへと駆け戻っていく。二十分の休憩だというのに、誰一人体を休めるつもりはないらしい。呆れたように笑うみちるに気づかないまま、ヴァルキリーズの全員は、先の訓練データを検証して次へと反映させることに躍起になっていた……。







 一日の訓練を終え、全員分の機動データを整理していると、夕呼がやってきた。どうやら訓練終了の頃合を見計らっての来訪に、みちるは苦笑する。なんとも読みの鋭いことだ――姿勢を正すみちるに、夕呼は小さく手を挙げて挨拶とした。丁度電子媒体に各員の操縦ログを移し終えたところだったので、それをそのまま夕呼へ提出する。差し出された電子媒体を無言で受け取って、夕呼は視線を鎮座する十二機のシミュレータへ向けた。何を見ているのだろう。つられたようにみちるもそこを見たが……在るのは、管制ユニットを模倣した鉄の棺桶。戦術機のコアであり、衛士の肉体を最後まで守ってくれる揺り篭。恐らくは自身の命が果てる場所も、そこなのだろう――みちるからしてみれば色々と思い巡らすものもあるが、さて、夕呼は何を思ってそこを見つめるのだろうか。

「伊隅……あんたたちには、何が何でもあのOSを使いこなしてもらうわ。新しい戦術機の先駆け――そういうものになってもらう」

「……無論です。私だけではありません。全員が、あの新型OSの素晴らしさに感銘を受け、ドッペル1の機動概念の習得に我先にと競い合っています。……あと二日もあれば完璧に使いこなして見せます。…………博士、あのOSは間違いなく、人類を救う一筋の希望です。アレを全世界に発表するにあたってのデモンストレーションを派手に行え、というのであれば、喜んでその任を負いましょう」

 どこか思いつめた風な夕呼を、無意識の内に励まそうとしていたのかもしれない。みちるは、自分でもわざとらしいと思えるくらいに大袈裟に頷いて見せた。ソレを見て、夕呼が片方の眉を上げる。吊り上がった唇の片端が、不思議と似合っている。――そして、理解した。

 香月夕呼は今、追い詰められている。

 みちるは夕呼が負うその全てを知っているわけではない。彼女が目指すAL4の達成。人類を救う最後の希望。その壮大なる計画の終着点は、恐らくも何もこの新型OSではないだろう。言うなればこのOSはAL4を進める上で発生した副産物。有体に言えばオマケだ。だが、副次的に生まれたのだとしても、ソレのもたらす効果は素晴らしいものがある。絶望的に過ぎる戦局を一変させるほどの力はないが――それでも、戦場で戦う多くの衛士の命を救うことが可能となるだろう。間違いなく、このOSは人々に希望を与えることが出来る。

 AL4が求める然るべき成果を出せないまま、たとえ時間稼ぎに足掻いた結果生まれたモノなのだとしても、それでも、だ。

 夕呼の全てを知るわけではない。そんな想像すら傲慢に過ぎ、夕呼を罵倒するのかもしれない。……だが、みちるは心底から“香月夕呼”という女性を尊敬し、信服し、忠誠を誓ったのである。ならば、彼女の何を否定できようか。彼女が追い詰められているのだと知って、それを見過ごすことなど出来ようはずがないではないか。

 だからみちるは大仰に新OSの素晴らしさを語る。衛士ではない夕呼には実感として感じられないだろうその凄まじさを。戦場で一分でも一秒でも長く生き永らえることのできる可能性の尊さを。――だからこそ、これもまた、人類の希望足りうるのだということを。

 貴女の生み出したこのOSは、例え副産物だろうと本来求めるモノとかけ離れていようとも……それでも。

 繰り返されるみちるの言葉に、夕呼はやれやれと溜息をついて見せた。どうやら、彼女に自身の状態が露見したことを呆れているらしい。態度に出るようじゃよっぽどなのね……呟いた夕呼は、受け取った電子媒体をひらひらと振りながら背を向ける。明日は朝一番に実機でのデータ収集を行う。それだけを告げて、じゃあね、と。

 去っていく天才の後姿を……みちるは、無言のまま敬礼して見送った。







 ===







 ドッペル1と呼ばれる衛士との面会は、許可されることはなかった。

 以前からそれが機密に抵触するだろうことは理解していたのだが、訓練を重ねれば重ねるほどに新しい発見をさせてくれる新型OS、そしてその性能の凄まじさを感じ取れば……その機動の第一人者、なのだろうドッペル1に教えを請いたいと願うのは当然だった。また、先日夕呼がうっかりと漏らした言葉の中に、そもそもこの新OSの元となるアイディアはドッペル1のソレだというものがあった。『概念実証機』の凄まじさに感極まった水月が、昂奮混じりに夕呼の天才振りを讃えたところ、うざったそうに夕呼があしらいながら呟いたのである。

 ――ちょっと、私をあんな変態と一緒にしないで頂戴。と。

 新型OSを組み上げることを考案し、決定したのは間違いなく夕呼自身なのだが、その構想を抱かせるにあたったのはひとえにドッペル1の存在があればこそだという。成程、如何に夕呼が天才的な頭脳を持ち合わせていようとも、彼女は衛士でもなければ軍人でもない。まして戦術機開発の技術スタッフだったわけでもないのだから、そのような人物が唐突に突然に戦術機の新たな可能性――『概念機動』のような操縦方法を思いつく道理はなかった。いや、天才だからこそ、という可能性もないわけではないのだが。

 そういう読みから水月は夕呼を讃えたのだったが、むべもなく夕呼自身が否定する。作ったのは自分。発想そのものはドッペル1。その事実は、少なからずA-01の面々を驚愕させ、同時に納得もさせた。名も正体も知らされぬ天才衛士――ドッペル1。一体如何なる人物か。かつてどんな衛士も思いつかなかった機動を体現して見せ、夕呼が――そこに至るまでの心理的プロセスはともかく――新型OS開発に乗り出すほどの変革をもたらした人物。

 会ってみたい。どのような人物なのか知りたい。面会がかなわずとも、せめて共に訓練に参加して、新型OSの教導を行ってはくれないだろうか。

 隊員たちの中でそういう気持ちが膨れ上がるのはある意味で当然であり、みちるだってそう感じていた。……が、かつて夕呼自身からドッペル1についての一切を知らされなかった経緯もある。なので上申し難く思っていたのだが、部下全員のたっての希望とあれば、もう一度嘆願してみる動機にはなる。駄目で元々。そういう気概で再度の面会を申し込んだわけだったが…………結果は先の通りである。

「矢張り……駄目なのでしょうか」

「無理よ。……ま、あんたたちの気持ちもわからなくはないけど。……むしろ、私としては速瀬あたりは激怒するんじゃないかって思ってたんだけどねぇ」

 激怒、ですか? みちるは夕呼の言葉に首を傾げる。それに対して夕呼は曖昧に笑って。

「だって、あの子自分より強いヤツは認めない、って感じじゃない?」

「――――――――、」

 それは誤解だ、とは言えないみちるである。いや、誤解なのだが。

 夕呼が言うような印象は、水月が突撃前衛長として相応しく在るように、努めてそうしているだけだ。常に好戦的、頭で考えるより体を動かすほうが好き、遠距離からの狙撃なんて欠伸が出るようなことはしない、やっぱ敵陣に吶喊してなんぼでしょ。そういう“いかにも”なイメージを積み重ねている水月であるから、夕呼がそう思っても仕方がない。……無論、夕呼は水月本来のひととなりを知っていながら“そんな風に言う”ので性質が悪い。

 だが、ある意味で自身より強いものを――というのは正しい。つい先程の訓練で、元々が異端だった月詠の剣術に『概念機動』の三次元的要素を組み合わせることに成功した武の螺旋剣術に敗北してからというもの、執拗に武を狙っている水月である。それこそ二人だけで市街地戦をやったり生身の状態で一方的に殴りかかったりと、実に微笑ましくも激しい攻防を繰り広げていたものだ。はっきり言って頭が痛い。

 多分今も水月が武を痛めつけているのだろう。そして、茜がおろおろとどっちを応援していいのか迷っているはずだ。遙は満面の笑みで水月に声援を送り……残る面々はドリンク片手に無責任な歓声を送っていることだろう。…………ああ、その場に居なくて本当によかった。

 脳内で物凄くどうでもいい光景を思い描きながら、けれどみちるは改めて夕呼に向き直った。その彼女に、しょうがないわね……と呟いて。夕呼は一枚の書類を差し出した。どうやら、夕呼もみちるたちがいずれドッペル1のことを知りたいと思考するだろうことは予想していたらしい。当然か。みちるは書類を受け取りながら、浅ましい真似をしている自分に苦笑する。

 だってそれはある意味でしょうがない。……衝動的である、という点では軍人として褒められたものではないが、夕呼とてその辺りの心理作用については理解している。あれほど素晴らしく凄まじい『概念機動』に新型OS。そしてそれを生み出すきっかけとなった天才衛士。そんな人物がいれば、会ってみたいと思うのは誰だってそうだろう。Need to know の一言で一蹴することも出来るが、それで皆が納得しないだろうことも承知しているし、そんなつまらない反感で士気が下がることは夕呼にとって望むところではない。勿論、そのくらいでみちる以下ヴァルキリーズの士気が低下することなど在り得ないとわかっているのだが。そこは複雑怪奇な人間心理。何がどう影響するかは、矢張りわからない。

 なら、面会させることは出来ずとも……特に大勢に影響のない情報ならば、公開してもかまわない。当然ながらA-01部隊内に留めておく必要はあるが、そんなことは一々言わずとも承知しているみちるだ。受け取った書類に眼を通したみちるの表情が、いきなりに険しくなる。無言のまま、食い入るように文面を追い……そして、

「なんですか、これは……っ!? こ、こんなことが……ッ!」

「…………わかったでしょ。それが、“彼”に会わせられない理由。――当然、“彼”が戦場に立つこともないわ」

 愕然と叫んだみちるに、どことも知れぬ場所を見ながら答える夕呼。そのあまりにも無感情な声音に、みちるは息を呑む。それだけで理解した。――ここに書かれている内容は、嘘でも出鱈目でもなく、真実なのだ、と。



 コールナンバー、ドッペル1。氏名、不明。性別、男性。年齢、不明(推定18歳前後)。過去に所属していた部隊も不明。階級は「―」が引かれている。



 なんだ、これは。何も書かれていないのと同じだ。わかっているのは性別と推定の年齢だけ。添付されている顔写真は――これこそ冗談のようだが――黒塗りの仮面を被っている。瞳の部分にまるでくりぬいたような「○」が二つ白く浮き上がっていて、どうやらそこが外界を映すカメラになっているらしい。

 莫迦な。

 注釈に眼を通す。やけに長い。ドッペル1を示す情報よりも、遥かに長い。長すぎる注釈に眼を通す。

 ――重度の記憶障害あり。本人の氏名をはじめ、出身地、年齢、所属部隊等の何もかもを損失。認識票も喪失しており、本人を特定する物品はなし。

 ――顔面に多大な損傷あり。恐らく小型種BETAとの交戦で抉られたものと推定。本人の写真等が見受けられなかったため、取り敢えずの整形処置を施す。術後、本人の希望から“仮面”を装着する。

 ――重度の精神障害あり。現実を現実と認識できず、BETAの存在自体を夢物語だと思い込んでいる。恐らく小型種との交戦において重度のPTSDに陥ったと推測される。尚、検査に当たりBETAのシルエットを見せたところ、発狂して気を失った。

 ――高い戦術機適性。

 ――回収時に強化装備を着用していたことから、ベイルアウト後に小型種と遭遇、負傷したものと思われる。所属部隊は全滅したと考えられる。

「……香月博士、これ、は……」

「信じるも信じないもあなたの勝手よ。情報撹乱のためのでっち上げかもしれないしね。……そんな顔しないでよ」

 みちるはギリギリと唇を噛み締めた。もし……もし、ここに書かれていることが本当なら、“彼”は、ドッペル1は――記憶をなくし、名をなくし、顔をなくし、全うな精神をなくし、衛士だったのだろう誇りをなくし。ただ、BETAの恐怖に怯え慄き、現実を直視できないほどに磨耗した精神崩壊者だということになる。現実から眼を背け、空想の世界に生きる人物。それがドッペル1の正体であり……だからこそ、“彼”はあんな出鱈目な機動に辿り着いたのか。

 無論、夕呼の言うとおりコレが本当かなんて証明するものはこの場にない。夕呼がもっともらしく取り出して、もっともらしくみちるに読ませただけだ。コレが本当にドッペル1についてを忠実に記している、なんて証拠はないのである。情報を撹乱するため……正に、そういう偽文書の可能性もあるのだ。

 だが、みちるはそれは無いと断じた。夕呼がここでそんな嘘をつくメリットは一切ないと思えたからだ。これが例えばAL4をある種敵視しているような連中に対する公式文書であったならば、それこそ格好なつけ入る隙となるだろう。むしろ、そんな連中に公開するならば、例え出鱈目なのだとしても、もっと“それらしい”英雄像を書き綴って然るべきである。なのに、この書類にはそんな飾り気はない。むしろ、淡々と書かれすぎていて気持ちが悪いくらいだ。

 特に最後の注釈……恐らくは医師が記したのだろうそれらを読み返せば読み返すほど、一体このドッペル1という青年はどれ程の目に遭わされたのかと寒気がする。いや、怖気、といったほうが正しいのかもしれない。……認めよう。伊隅みちるは恐怖したのだ。この、ドッペル1が体験したのだろう凄絶な過去を想像して。吐き気がするほどに、恐ろしいと感じたのである。


 メリットについての話をするなら……ここでみちるにこの書類を見せるメリットはなんだろうか。……これ以上の余計な詮索を避けるため。成程、それだけの効果は、ある。機密の一言で兵士を黙らせることは簡単だ。だが、自分をはじめ、部下の全員がドッペル1に憧憬に近い念を抱いている以上、ずっと隠しておくわけにはいかないだろう。ならばこうやって情報の一部を公にすることで、その欲望を抑えることは可能だ。

 ――だが、これでは……っ。みちるは忌々しく思う。本当に、こんな人物がドッペル1だというのか。本当に本当に、こんな、最早衛士として、人としての精神を喪ったような人物が、あの『概念機動』を編み出し、夕呼の新型OS開発に貢献したのだろうか。わからない。だが、この書類に書かれている内容はあまりにも……生々しい。武との戦闘映像を思い出す。どこか、武をおちょくっているような、遊んでいるような余裕を見せていたドッペル1。だが、あれがもし本当に……“遊んでいた”のだとしたら?

 そうか、と。みちるは書類を夕呼に返却し、眼を閉じる。――“彼”は、最早夢の世界でしか生きられないのだ。この世の全ては遊戯。BETAなんていない、ただ退屈でお遊戯染みた空想の世界。記憶をなくし、自我をなくし……けれど、唯一つ、衛士として生きていた本能のようなものが……戦術機への拘りを残している。『概念実証機』の演習映像を見たときに、どうしてBETAと交戦しているものがないのかと不思議に思っていたのだ。その謎も、わかってしまえばなんとも後味の悪いものだった。

「伊隅、私のことをどう罵ってくれても構わないわよ」

「いえ――それはありえません。ドッペル1がどのような人物であったとしても、“彼”の編み出したあの『概念機動』、そして『概念実証機』は、間違いなく我々に未来を与えてくれるものだと信じています。香月博士はその可能性を信じ、ご決断なさったのでしょう? ……でしたら、私が何を言うこともありません。ヴァルキリーズは、博士の忠実な駒です。……どうか、必要となったそのときに、博士の望むままを命じてください」

 穏やかに言い切ったみちるに、夕呼は小さく、けれど衝かれたように振れた。苦虫を噛み潰したような表情をして、らしくないわ――そう呟いた後に、

「ドッペル1の情報は出来れば外部に広めたくないの。わかるわよね?」

「はっ! 私はドッペル1の如何なる情報も得ていません。……これで、よろしいですか」

 いわばこれは茶番だ。夕呼は単純にドッペル1の詮索を避けるためだけにみちるに情報を公開し、そして、そのあんまりな内容に、みちるは目を瞑らざるを得ない。水月たちには“知る必要はない”の一言でオシマイである。案外、すんなりと納得させられるかもしれない。――みちるは、けれど、忘れないでいようと誓った。

 ドッペル1という存在。名も、顔も、記憶も、まともな精神さえも残っていない衛士。独りぼっちの孤独な衛士。夢の世界に浸る壊れた人形。……そういうヒトが存在して、だからこそ、人類に希望を与える先駆となったのだという事実を。決して公にされることのない、決して表に出ることのない――戦士の抜け殻の存在を。忘れないでいよう。誰に知られずとも、自分だけは覚えていよう。……そう、誓った。



 みちると別れてから、B19フロアへと戻る。執務室に戻る道中に、ドッペル1を軟禁している部屋はあった。夕呼と、夕呼がIDを与えた人物にしか開けることのできないドアの前には霞が佇んでいて、哀しそうにそこをじっと見つめていた。夕呼の足音に気づいたのだろう、霞が視線を彼女に向ける。なにか、乞うようなその瞳を……夕呼は無言のままやり過ごす。言葉を発しない霞の横を通り過ぎて――振り返らないままに、告げる。

「社、あんたが“彼”を心配するのはわかるけど……ここには“彼”の居場所はない。誰とも接触を持てず、“彼”という存在を直接認識するものが少ないことで、“彼”の存在自体が不安定になっていることは承知の上。それでも、“彼”は消えずに残っている。なら……まがりなりにも、“彼”は現状を受け入れつつあるか、それとも、既に世界の一部として認識されているか。居場所のない、座る椅子のない“彼”が、一体この世界にどんな影響を与えるのかなんて想像もつかないけれど――でもね。それが利用できるのなら、私はとことんまで利用してやるわ」

 言うまでもない。

 霞は夕呼の覚悟を全て理解している。そして、その罪を共に背負おうとしている。だから、改めて言うことはない。告げることはない。――外道を進む、その覚悟を。霞は小さく俯いたまま、ぎゅっと拳を握った。肩が震えていたが……背を向けている夕呼はそれに気づかない。

 みちるに見せたあの書類をポケットの中でくしゃくしゃに潰しながら、自嘲するように唇を歪ませる。廊下の先には――脳ミソとなった鑑純夏の幻影が立っていた――。くっ、と。夕呼は引き攣れたように笑う。ああ、どうやら頭がおかしくなってしまったらしい。幻覚、或いは霞のプロジェクションによるものか。廊下に浮かんでいた純夏の脳ミソは顔面に傷を負った武へと移り変わり……数々の、00ユニットの検体として脳髄の摘出を行った……A-01部隊員たちに変わっていく。

 そして最後に、ドッペル1の、夕呼が与えた鉄の仮面が浮かび上がる。のっぺりとした《鉄仮面》の異形に、夕呼は我ながらいい趣味をしているものだと可笑しくなった。

 全て「でっちあげ」だ。

 みちるに見せた書類も。そこに記された情報も。

 名前はちゃんとある。記憶もしっかりしている。年齢は十七歳、誕生日はあと一ヶ月と少々だ。住んでいた場所も判明しているし、そもそもどういう人物なのかだって知っている。顔を損傷なんてしていないし、精神だって「まだ」崩壊していない。――ただ、存在自体が異端に過ぎただけであり、そして……“ここに居場所がなかった”だけだ。

 同一存在。ドッペルゲンガー。さてさて、それは一体どんな運命の悪戯か。『因果律量子論』を証明せしめる、正に因果の申し子とでも言うべき存在。この世界にない“常識”を持ち、けれど、それゆえにこの世界を受け入れない。

 それもいい、と夕呼は笑う。それはどこまでも不遜で、一切の妥協もなく、後退もなく、後悔も、恐怖さえもなく。ただそれらの感情を呑み込んで飲み乾して突き進む科学者の貌。

 “彼”がどれ程の業を、運命を、因果を背負い、この世界にやってきたのだとしても。その運命から目を逸らし、この世界から目を逸らし、夢と断じて目を向けずとも。それでも、使えるものは何だって使うし、役に立つなら残り滓までも絞りきる。

 《鉄仮面》を被せたのはより一層この世界から浮き上がらせるための措置でしかなく、同時に、この世界の誰でもない“彼”を保護するための措置だった。そして、その無骨な仮面の質感と、“白銀武との対比”を揶揄って「鉄(くろがね)」なんて呼んでいる自分は、「ドッペル」なんて名付けた自分は。――最早、外道の最果てを突き進んでいるのだ。ブレーキなど、とうにない。

 追い詰められたニンゲンの狂気を誰よりも知り、そしてそのときに生み出される脅威のエネルギーを知っている夕呼は、戒めのように脳裏に映し出された霞のプロジェクションを、挑むように睨み据えて、尚、笑う。

 一歩を踏み出した。霞の背中が小さく震える。一歩を踏み出した。弾かれたように霞が振り返って、手を伸ばす。一歩を踏み出した。小さな手は夕呼に届くことなく、力なく垂れ下がって。

 そして、夕呼は本当に。ただ独り、その道を往く。白衣を翻し、非業とも思える後姿を呆然と見送って……けれど、霞は必死に追いかけた。息を切らして、涙を浮かべて。夕呼をここまで追い詰める世界を呪わしいと感じながら、躊躇なく外道の道を選択する夕呼を哀しく思いながら、世界の誰からもその存在を認められずに幽閉されている“彼”の心に嘆きながら――――少女は、懸命に、孤高の天才を追いかけた。







 ===







 最近、武と多恵の仲がいい。訓練でも二機連携を組んでいる相棒なのだから、それは別に悪いことではない。訓練兵の頃からずっと一緒だった戦友だ。他の隊員たちと比べても仲が良く、コンビネーションがよい、というのはある意味で当然だろう。……が、その。巧く言葉に出来ないもやもやが、茜の脳裏を占めては加熱する。

 ドッペル1の機動を最も早い段階でモノにしたのは矢張り多恵だった。普段から突飛な機動を多く取っていた多恵である。模倣する、という行為にこそ難を示していたが、一度コツを掴んでしまえば後の成長は目覚しいものだった。戦場を、ハイヴ内をぴょンぴょンと飛び跳ねるような機動は、元々の彼女の機動を更に鋭くし、必要以上に俊敏なものへと変貌を遂げた。どこかしら“猫っぽい”性格を反映したような気紛れな戦闘機動。突撃砲を多用するその戦闘スタイルと、武の螺旋剣術はまるで冗談のような噛みあいを見せた。

 なんというか……武が戦場で渦を巻く台風なら、多恵はその周囲を荒れ狂う気紛れなつむじ風、とでも言うべきか。――いや、全く意味がわからない。茜は自身の語彙の足りなさに溜息をつきながらも、そういう訓練中の息の合ったコンビネーションを見て、少々、嫉妬のようなものを感じてしまったのだった。

 許されるならば突撃前衛のポジションに就きたい。茜は今でもそう思っているし、そうできるように努力を重ねている。近接戦闘で薫に遅れを取っているわけでも、多恵に及ばないわけでもない。だが、茜はオールマイティーにそつなくこなす。対して、薫は絵に描いたように近接戦闘向きだし、多恵はその独特さゆえに前衛に置く以外の使い道がない。ならば、どのポジションでもそれなりの成績を修めている茜は後方へ下げるべき、というみちると水月の判断は正しい。勿論、今更そのことに不平を唱えるような幼稚な真似はしないが。

 が、それはそれ、これはこれ、だ。

 目の前で、実機訓練を終えて歩いている二人。武と多恵。戦闘中のコンビネーションについて更に連携を深めるために、和気あいあいと実に実に楽しそうでああもうなんか見てるだけでムカツイテキタ!!

「ちょ、ちょっと茜っ?! 落ち着いてってば!!」

「ぉ、ぉおっ?! 茜、なんか背中から黒い瘴気が……!?」

「ひっ……!? あ、茜さん……怖いです……っ」

 背後から怯えたような晴子たちの声が聞こえたが、気のせいだ。むしろ無視だ。今すぐにでも飛び出しそうな体を彼女たちの手が捕まえて離すまいとするが、そんなもの知ったことか――!

「いやいやいや! だから落ち着いてってば!!」

「おおおおおお!? なんだヲイ! 茜ってこんな力あったかぁ!?」

「ひ、引き摺られます~~っ!」

 ずるずるずる……。強化装備を着たままの茜が、晴子に薫、亮子の三人を引き摺ったまま一歩一歩踏み出していく。目指すは前方十メートル。まだこちらに気づかずに、気づこうともせずに、楽しそうに、連携について相談する……武と、多恵。

「し、白銀くーん!! 逃げてーーーっ!」

「た、多恵ェエ! 死にたくなかったら速く離れろっっ!!??」

「……も、もぅ駄目です~~っ!」

「「――え?」」

 ぱっと。

 手が離れた。亮子にいたっては反動でスッ転んでいた。けれどそんなことにお構いなく、溜めに溜め込んだエネルギーが解放された茜は一つの弾丸と化し――水月は、後に語る。アレはもう、一種の幻想だと。

「多ぁぁぁああ恵ぇぇえええ!!!!」

「にゃっ、にゃわぁああああああああああああああああ!!??」

「ぶっ!? あ、茜!!??」

 ああ、と晴子は目を覆う。とても見ていられない……というか、正視に耐えない。嫉妬に駆られ、暴徒と化した茜を止める術はなく、多恵の身体はまるで襤褸屑のように宙を舞っている。巻き添え、というよりもこれも明確な意思の下、標的とされた武も同じように中空に舞い、ボコボコにされて……。

「ああ、アレ――死んだな」

 どこか諦めたように、薫が呟く。普段の茜なら見ていて微笑ましいのだが、アレは最早そういう次元ではない。正直、怖い。しかし一体どうしてまた突然に暴れ出したのだろうかと首を捻る晴子と薫は――既に武と多恵を助け出すことは思考の埒外のようだ――転げたままの亮子を引き起こしながらうーんと唸る。

 確かにこの一週間あまり、『概念機動』の習得と、更には新型OSを搭載した『概念実証機』のデータ集積に躍起になっていて、個人の時間というものがあまりなかったような感はある。元々凝り性だった武は、みちるに無理を言って深夜もシミュレータを使っていた。勿論、その熱意を買ってみちるが夜間訓練を設けたわけだから全員一緒だったのだが……そういう経緯を踏まえれば、確かに休憩時間も武は自機の不知火の管制ユニットに篭りきりだったように思う。或いは整備士との会話に華を咲かせ、或いは操縦ログの解析に忙しなく……ああ、成程。晴子は、そして薫は頷いた。

 要するに、茜はこの一週間、ずっと武と二人きりの時間を過ごしていないのである。食事を除いて、ということになるが、その食事だって全員一緒なので二人きりというわけではない。で、そんな状態で色々と欲求不満に感じていながら、けれど肝心な武にはそんな素振りもなく、しかも二機連携のパートナーである多恵とは妙に仲が良くなったり。諸々の鬱憤が積み重なった状態であんな姿を見せられては堪らない。どうやら、そういう思考の果て、ということらしいが。さて。

(だからって、拳に訴えるなよ……)

 言葉よりも先に手が出る薫にしては、珍しくまっとうな意見だった。恋する乙女の嫉妬大暴走といえば可愛らしいが、しかし現実に目の前で起きている阿鼻叫喚の有り様はそんな微笑ましいものではない。廊下に転がった多恵はピクリともしないし、どことなく原型を留めていないような気がする。――いや、気がするだけだ、うん! 全力で頷いて、薫は現実から目を逸らす。同じように目を逸らした晴子と視線がぶつかり、お互いに、苦笑した。

 ――ああ、困った。

 茜の気持ちは皆知っているし、武の気持ちも皆知っている。お互いに好き同士で、愛し合っているのに……そこから発展しない二人。さてさて困った。どうやってこの二人をより親密に、有体に言えば結ばせてやろうか。……亮子も二人に混じり、困ったように笑い合う。なんとも面映い、くすぐったい苦笑だった。

「ま、とりあえず……」

「いい加減止めないと死にそうだし……」

「……でも、本当に怖いんですけど……」

 ふ、と。どこか諦めにも似た晴子の虚しい笑顔。そこからなにか感じ取ったらしい薫が、けれど不敵に拳を鳴らし。亮子が、キッと表情を引き締めた。

 ――いざ、往かん!

 悲愴ささえ漂わせて、三人の少女達が進んでいく。暴走止まぬ茜を取り押さえるために。愛憎の果てに命を落とそうとしている武を救うために。……どうでもいいが、ちっとも壮大に見えない光景なのは、別に水月の気のせいではない。――何を莫迦なことをやっているのだろう。水月は呆れたように見やりながら、とても楽しそうに微笑む遙をチラリと見る。

「遙……あんた、自分の妹があんな莫迦みたいなのに、なんとも思わないの?」

「え? あはは、でも可愛いじゃない」

「可愛い……そういう表現もアリですか……」

 可哀想に、と嘆くような水月に、けれど遙はどこまでも笑顔だ。多分、彼女の目には茜が照れつつも尻尾を振ってじゃれ付いている仔犬に見えているのだろう。妹贔屓にも程がある。そんな遙の言葉に、怪訝そうに美冴が唸り……その隣りで梼子が困ったように冷や汗を浮かべている。先任たちは完全に傍観を決め込んでいた。が、まぁ、それは当然の選択とも言えた。どう見ても割って入る余地はないし、その必要もない。

 今は訓練の最中でもないし、このことで彼女たちの和が乱れることもないだろうと知っている。むしろ、今の今まで新型OSの性能が見せる凄さに熱されていた頭を冷ますには丁度よい光景だ。――ニンゲン、あそこまで煮詰まっては駄目だな。そういう認識。茜の暴走を反面教師としながら、全員がどこか根を詰めていた自分というものを自覚する。確かにこの一週間、息をつく間もないくらい訓練に没頭した。いや、没頭しすぎた。休憩などあってないようなもの。誰一人体を休めようとせず、頭を休めようとせず……ただひたすらに、のめり込むように。そうやって新型OSを我が物にしようと努力していた。

 努力することは、いい。それは大事なことだし、現状に満足しない精神……上を目指し続ける意志は素晴らしいものだ。けれど、何事もやりすぎはよくない。適度な休息を挟んでこそ、能率も効率も上がるのだ。如何に鍛え上げた肉体を維持していようとも疲労は必ず蓄積するし、無視することなどあってはならない。一日も早い技術の習得は確かに重要だが、それ以上に、有事の際に体を壊してしまうほうが恐ろしいし、あってはならないだろう。そういう意味からいえば、成程、今日までの自分たちは……全員がそうと気づかぬまま、随分と無茶を積み重ねていたのだとわかった。

 傍観しているだけだった梼子が歩き出し、つられたように真紀が、慶子が、旭が歩き出す。こちらも同期四人組。仲良く揃ってロッカーへ向かうようである。取り残された感のある美冴だが、彼女はすまし顔で水月たちの隣に立ったままだ。前方では、同期五人喧しく戯れる茜たち。その少し手前に、同期四人微笑ましく会話を弾ませる梼子たち。……さて、では同期の全てを喪っている美冴は――けれど、水月と遙の傍で……当たり前のように微笑んでいた。

「あっははは!」

「水月?」

 どうしてか可笑しくて噴き出した水月を、遙が不思議そうに見上げる。おや、という風に眉を吊り上げた美冴が、頭でもオカシクなったのかと訝しむが、水月はそれさえも気にしない。その普段とは異なる様子に顔を見合わせる遙と美冴だったが……やがて、二人とも笑い出す。

「あはは、水月ったら、なに笑ってるの?」

「ふふ……速瀬中尉、なにか悪いものでも食べたんじゃないですか?」

「あはははっ! いいでしょ別に! ほらほらっ、私たちも行くわよーっ」

 おう、と腕を振り上げて突き進む水月は、唐突に駆け出して真紀の背中に跳び蹴りをかましたりしている。それを見て、しょうがないなぁ、と。遙が駆け出し、美冴が後を追う。







 ドッペル1という存在。その“彼”がもたらした『概念機動』と『概念実証機』。新型OS。その性能、効果。BETAとの終わりなき闘争に一筋の光明を見出したそれを、世界中の誰よりもはやく身に付けたヴァルキリーズ。彼女達は、希望を見た。そのOSがもたらす効果に、新しい境地を見た。

 BETAになんか負けない。

 もう、誰も喪わなくて済む。――それを可能とする、別次元の、戦闘機動。その概念。

 香月夕呼が望むのはその証明であり、一つでも多くの実績だ。……そして、その証明の場は――



 ――向こうから、やってきた。







 2001年11月11日――、BETA、新潟に上陸。

 さあ、新時代の幕を開けよう。




[1154] 守護者編:[三章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/03/29 11:28

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:三章-01」





「――207全員集合しました」

 榊千鶴の報告と同時、第207衛士訓練部隊B分隊の少女五人が整列する。踵を合わせ、背筋を伸ばし、一矢の乱れなく……けれど、全員が困惑を浮かべている。非常召集のサイレンが基地中に鳴り響いたのがつい数分前。久々の休日に羽根を伸ばそうとしていた矢先の、唐突な出来事。入隊以来初めて聞く、けたたましいサイレンの音に驚愕し、ともかくも全速力で駆けつけたそこには教官の神宮司まりも軍曹が居て――少女達は、一様に教官の言葉を待った。

「よし、状況を説明する――」

 全員の困惑を受けて尚、常と変わらぬ厳しい表情。けれど、それもどこか緊張感が漂っているように見える。まりもが発する気配に、訓練兵である少女達は出来得る限りの冷静さで対峙した。厳しい視線のまま、まりもは告げる。

 ――0620、佐渡島ハイヴから出現した旅団規模のBETAが海底を南下。日本海に展開する帝国海軍の海防ラインを突破した敵は新潟に上陸。旧国道沿いに展開していた帝国軍第12師団を食い潰しながら内陸部へ侵攻したBETAは、一時ロストされ、三十分後に確認されたその時、第二防衛線を突破。八海山の北西10キロの地点まで到達した。

「は、八海山……」

 息を呑むように、千鶴が言葉を漏らす。……残る面々こそ何も言わなかったが、誰もが同じ気持ちだっただろう。――そんなところまで。

 僅かに一時間と三十分。ハイヴ出現の確認からたったそれだけで、もう八海山まで侵攻している。その大きな理由としては帝国軍の対応の遅れがあるが、展開中の部隊だけで旅団規模の敵を抑えきれないのも確か。ともすれば恐怖と混乱に空回りしそうになる頭が、無意味に座学の知識を引っ張り出し、旅団規模のBETAの物量というものを想像しようと足掻いてしまう。帝国軍が抑えきれないBETA。BETAの脅威はその物量……旅団規模、侵攻速度、――もう、八海山まで来ている。

「更に、北関東絶対防衛線に沿う形で南下し、新潟、長野、群馬の三つの県境より急遽南東に進路を変えた。……このまま侵攻を許せば、絶対防衛線を超えるのは明らかだ」

 続けられるまりもの状況説明に、はっと意識を戻す。自身がいつもの状態にない――“冷静ではない”と気づいて、千鶴は気を引き締めるように拳を握る。認めよう。自分は今、間違いなく恐怖している。いや、自分だけではない。部隊の仲間達……御剣冥夜、彩峰慧、鎧衣美琴、珠瀬壬姫……その全員が、口には出さないが、少なくない恐怖を覚えているはずだった。

 チラリと視線を向ければ、そこには冥夜の横顔。常日頃から己を律し、精神共に鍛え磨かれている彼女の視線は鋭く、真っ直ぐにまりもに向けられている。硬く握られた拳が、千鶴同様に恐怖を押し殺すためなのだとしても、千鶴はそれを笑えない。怖いのは誰だって同じだ。――訓練兵。そう、自分たちはまだ、“護られるだけ”の新兵以下。実戦に立つこともない、戦場のお荷物。

 ……そうならないために日々の訓練を必死になってこなしているというのに、こんな程度で竦んで堪るか。千鶴は内心で、自身を強く奮い立たせる。大丈夫。やれる。自分は、自分たちは足手まといのお荷物になんかならない。

 怖い。BETAが来るなんて想像しただけでも卒倒しそうに。でも、そうやって怯えていれば誰かが助けてくれるなんて甘い考えは捨てよう。自分は衛士を目指す者。衛士となるために訓練を重ねている。――衛士とは、護るものを指す言葉だ。衛士とは、戦うものを表す言葉だ。だから、負けない。気持ちだけでも、強く持ってみせる。

 果たしてその気概は千鶴一人のものではなかった。教官であり先達であるまりもには、五人全員が同じような瞳をしているように見える。気概だけは当に一人前。そう思わせてくれることを誇らしく、そして不敵に思った。成長を見せてくれる教え子を頼もしく感じながらも、今はそんな感慨に耽っている暇はない。まりもは続けて状況を説明し……そして、敵の予測目標地点を明らかにした。



 目標、横浜基地。



 全員の目が見開かれ、息を呑む気配が伝わってくる。如何に訓練兵とはいえ、その言葉の意味するところを理解できない愚か者はいない。故に、気づいたのだろう。まりもの目に映る彼女達は、皆、この場所が戦場になる可能性に思い至り…………BETAと交戦するかもしれない可能性を、知ったのだ。無論、可能性である。帝国軍が戦線を後退させるようなことにならない限り、それは在り得ない。だが、相手はBETAだ。この三十年余りの歴史を見れば、誰だってわかるだろう。人類はいつだってBETAに虐げられてきた。ニンゲンの想像が及ばない敵。それがBETAなのだ。

 だからこそ、どんなに小さな可能性なのだとしても。それは覚悟しなければならない。覚悟を持たなければならない。その意味を込めて、その思いを込めて、まりもは厳格に告げる。兵士として完成していない教え子達に――“戦う覚悟”を。

「帝国軍の戦線が後退し、当基地が防衛基準態勢1に移行した場合、訓練兵である貴様達も戦闘に駆り出される。……いいか? これは訓練ではない。我々の目の前で、そして今現在、同胞が命を賭して敵と戦っているのだ」

 千鶴が、一層強く拳を握った。

 冥夜が、一層強い視線を向けた。

 慧が、一層強く表情を引き締めた。

 美琴が、一層強く気を持たせた。

 壬姫が、一層強い感情を見せた。

 ――全員が、戦場で戦う同胞の姿に、強く、強く畏敬の念を抱き、そして――自身もその一員として戦う覚悟を抱いた。

 まりもの命令が響く。完全武装で命令あるまで待機。一糸乱れぬ敬礼を見せて、207B分隊の少女達は、初めての戦場となるかも知れないこの基地を――――駆け抜けた。







 ===







 厚木基地より帝国軍への支援部隊が出撃するよりもはやく、横浜基地より出動した部隊があった。各基地、部隊への通達は一切なし、香月夕呼副司令の独断によって前線へ出撃したのは、彼女の誇るA-01部隊第9中隊――ヴァルキリーズ。伊隅みちる大尉を筆頭に、総勢十三機の蒼の不知火は戦線の真っ只中に居た。

 帝国軍よりBETA出現の第一報を受けるよりもはやく、監視衛星から送信される映像の変化に気づいたピアティフ中尉が、副司令であり直属の上司であった夕呼へ報告。それを受けた夕呼が即座に出撃を命じ、慌しくも、“想定内”の出撃態勢は整えられた。

 そう、この出撃は想定内だ。そして――それが佐渡島であることも。

 未来を予知したわけではない。ただ、夕呼の脳内では“そういう可能性”が想定されており、そのための準備をあらかじめ用意しておくように、特務部隊であるA-01へ言明していただけだ。全ては“想定”の内。これは、『概念実証機』の性能を実戦評価するために考案されていたものの一つだった。新型OSである『概念実証機』のデータ集積は、A-01部隊の働きもあって着々と行われている。既に必要な諸データの整理を終え、OSのヴァージョンアップも実用段階にまで行われている。残すは実戦での戦闘データの蓄積、或いは評価であり、そのための手段として、夕呼は複数の案を打ち出していた。

 即ち、ハイヴ内BETAの間引き作戦。若しくは防衛戦に代表される作戦。……攻めるか受けるか、そのいずれもの対応方法をあらかじめ想定し、用意しておいたのだ。

 対象として設定されたのは、国内に存在する甲21号目標と、直近の甲20号目標。共に監視衛星の映像を二十四時間体制で監視し、BETAの動向を探っていた。連中から攻めてくるというならば防衛戦、或いは掃討戦に参加して、新型OSの性能を試す。間引き作戦を立案することも考えていたが、実行に移す前に向こうから来てくれたので、これは今となってはどうでもいい。

 日の出と共に出撃したA-01部隊は大型トレーラーに機体を搬送させ、旧関越自動車道を北上、前橋IC跡から、戦術機による匍匐飛行で移動を開始。山岳地帯であるために見通しは悪いが、いきなり光線級の洗礼を受けなくて済む分、移動は楽なものであり……それ以上に、間に合うかという気持ちの方が強かった。

 この、“間に合うか”というのは――要するに、敵がまだ残っているか、というソレである。

 友軍――この場合帝国軍だが――の生存を案じているのではなく、『概念実証機』が餌食とすべきBETAがまだ「残存」しているか、を指す。夕呼から出撃命令を受けたとき、みちるはその旨をわざわざ告げられていた。ヴァルキリーズに求められるのは『概念実証機』、新型OSの実戦評価。そのデータを蓄積し、持ち帰ること。それに尽きる。帝国軍がどれだけの窮地に追いやられていようと関係ない。或いは全滅してしまうようなことになろうとも、優先されるのは救援ではない。

 新型OSの性能総てを以って、敵を完膚なきまでに殲滅すること――それが、最大にして絶対の目標である。

 故に帝国軍や近隣の国連軍基地へ通達はなく、秘めやかに、けれど迅速に部隊は出動したのだ。戦場でその戦乙女の姿を見るものも在るだろう。共に戦場を駆け巡るものも在るだろう。……だが、彼らはただそこに在るだけで、“共に戦うもの”ではない。言うなれば観客。観衆。ギャラリーだ。『概念実証機』。その性能。三次元機動の集大成であろう『概念機動』を体現せしめる新型OS、それが見せる圧倒的戦力。その暴虐ともいえる凄絶さを、ただ呆然と見つめるだけ。――それだけでいい。



 だから、今、こうして目の前で繰り広げられる“常識の埒外”であろう戦闘の光景を。

 彼ら帝国本土防衛軍第5師団211中隊の全員が成す術もなく見守っているだけであるのも、ある意味では当然のことだった。

『おいおいおいおいっ!!? 何だこいつら! 一体どこの部隊だッッ!!??』

『国連っ!? 新型……か?! いや、しかし!!』

『……なんて連中だよ……信じられん……ッッ』

 突如として戦線に突入してきた蒼い不知火。国連軍カラーのそれが上空から飛び込んできたかと思えば、次の瞬間には地面を抉るように旋回し、次々と螺旋軌道の渦を巻き、暴虐の限りを尽くしている。中隊長はそれを国連の支援部隊かとも思ったが、それにしては何の通信もないのは妙だ。……しかも、その一機。イキナリ介入してきて、イキナリ見たこともない機動で突撃級を突破し、要撃級を薙ぎ払っている両刀の戦闘スタイルに、愕然としてしまう。

 そう、一機だ。

 単機で吶喊したその不知火は、尚も一機のままBETAの前衛部隊を翻弄している。連携を組む相手もなく、支援砲撃もなく、唖然と息を呑む自分たちの目の前で、烈しい戦闘を繰り広げているのだ。――刹那、空から36mmの雨が降る。データリンクが更新され、網膜投影ディスプレイにも、もう一つの蒼が映し出される。不知火。同じく国連軍カラーのもう一機が、まるで台風のように暴れ回る「08」の機体に追随し、その暴風から漏れる小型種を蹴散らしていった。

 ――その機動を、なんと表せばいいのか。

 不覚にも、再び中隊長は息を呑み、呆然としてしまう。戦場で“我を忘れる”ことの愚かしさを身を以って知っている隊長だったが、けれど、どうしてかこの場ではそれこそを忘我していた。呆けていては死ぬ。そんな単純な式を忘れてしまうほどに、その不知火の見せる機動は在り得ないものだった。

 先の不知火が地面を這いずり回る暴風なら、この不知火は中空を舞い躍る熊蜂だ。一度たりとも静止を見せず、地に降りては突撃砲で薙ぎ払い、中空に跳んでは矢張り突撃砲で薙ぎ払う。或いは要撃級を踏み台にして攻撃を回避し、或いは山肌を蹴りBETAの集団を狙い撃ち――とにかく、めまぐるしい、まるで曲芸のような機動に茫然とする。一つひとつの機動の意味を理解できないのに、いや、そもそもそんな機動は見たことも聞いたこともないはずなのに、――わかる。「強い」「凄い」「なんてヤツだ」。その実感。その直感。

 恍惚にも似た昂奮が込み上げる。目の前で繰り広げられる“虐殺”を見て、叫んでしまいたい衝動に駆られる。

 ――ニンゲンが、BETAをこんなにも一方的に――

 そう。事実として、その二機が戦線に乱入してきてから実に数分が経過したわけだが、その間、211中隊が誰一人まともな戦闘行為を行っていないというのに、味方の被害はゼロ。単純に信じられない。けれど、データリンクは正常で、そして、通信機から聞こえてくるのは自分同様に昂奮した部下達の歓声。

『――こちらは国連軍横浜基地所属、伊隅大尉だ』

「!」

 突然割って入った通信にハッとする。指揮官権限で繋がれたそれは音声のみだったが、それには一切頓着せず、緊張と昂奮が混じり合った声で返信する。やや落ち着きのある中世的な声は女性のものだったが、――それよりもなによりも、告げられた内容に驚愕する。

「ばっ、ばかな!? 我々には絶対防衛線を死守する任務があるっ! 支援してくれるというなら喜んで力を借りる! だが――ッ?!」

『貴官の要求は聞いていない。もう一度言う。貴官らはこのまま待機、我々がBETAを殲滅するのを黙って見ていろ』

 ぐっ、と。口を噤む。指揮官らしい“伊隅大尉”の言葉は冷徹で、そして理解不能なものだった。わざわざ横浜基地から支援のために出撃してきたのかと思えば、それが「支援ではない」ときた。しかも、言うに事欠いて「黙って見ていろ」とまで言われたのだ。説明らしい説明は一切なし。こちらが新任大尉であることを向こうは知らないはずなのに、その声の迫力に呑まれて何もいえない自分が恨めしい。

 舐められている。誇りある帝国軍が、同じ日本人らしい国連の女に、完全に舐められている。だが、そんな怒りに震える暇もなく、蒼の不知火――ヴァルキリーの部隊表示がされている――が次々に戦線に突入してきて、そこで再び、息を呑まざるを得ない光景を目の当たりにする

 総勢十三の不知火。戦場を切り裂くその姿は圧巻の一言にさえ収まらず――どうしても、目の前のそれが信じられない。あまりにも現実味がない。あまりにも突拍子がない。先の二機だけが異常なのではなかった。全員が異常だった。部隊一つが異常な戦力を誇っていた。

 機動。スピード。三次元空間を巧みに利用した戦闘。そんな発想は脳内になく、そんな機動は理解の埒外であり。

 ならばそれは、如何なる道理か。

 ニンゲンが、BETAを圧倒する。この光景を、この、今目の前で繰り広げられている一方的な“虐殺”を。一体誰が現実だと信じることができるのか。――否、これこそが紛れもない現実だ。思考の中から、国連大尉からの罵倒が消える。あの女が言っていたことはこのことだったのだろうか。……だから「見ていろ」と、そう言ったのか。我々の支援のためにやってきたのではなく、我々の援護を必要とするのでもなく、ただ、ひたすらに。



 BETAを、駆逐、殲滅する。



 例えばアレは新型の不知火で。例えばアレは改良された不知火で。その性能を実証するための評価試験なのだとしたら――? あながち、的外れとも思えない想像が浮かぶ。現に、部下の誰かが口走っていた。なるほど、“あの”横浜基地なら、そういう可能性が出てきたのだとしても何ら不思議はない。女狐の異名で畏れられる天才科学者が潜む“あそこ”なら、こんな化け物部隊がいたって頷ける。

 ――ああくそ、でも。

 悔しいじゃないか。あいつらは目の前で、それこそほんの数百メートル先で暴れまわって、滅茶苦茶をやって、そして……BETAを殺している。潰している。蹴散らして、打ち砕いて、斬り裂いているじゃあないか。あの動き、あの性能。アレが自分たちにもあれば――羨ましい――そして、我慢なんて出来るわけがない。

『た、隊長――ッ! どうするんですかっ!?』

『まさか本当に待機なんて!? 冗談じゃねえ!! こんなにも凄ぇ光景見せられて、はいそうですかって黙ってられませんよ!!』

 そうだ。黙って見ているなんて、できるわけがない。

 さっきからずっと血が滾っている。向こうの大尉の言いようにカチンと来たことなんてスッカリ抜け落ちてなくなっている。一体どんな目的があって彼女たちがここまでやってきたのかは知らない。――知らない、が。だからと言って、大人しく引き下がるほど聞き分けのいい自分たちではないのだ。まして、ここは帝国軍北関東絶対防衛線。抜かれるわけには行かないのはこちらも同じ。むしろ、新型兵器なのだろうそれの実戦証明を行っている彼女たちよりは遥かに、この戦闘に見せる意気込みは高く崇高なはずだ。

 そして……如何に高性能な機体に乗り、BETAを圧倒的に散らすことができようとも。

 連中の脅威とはその物量であり、たった十三機の戦術機だけでどうにかできるものでもない。……元々は一個大隊で相手にしていたのだ。部隊は分断され、この場には自部隊を残すのみ。ならば――

「なら、貴様達の隙間から漏れ出てくるヤツらだけでも、やらせてもらう!!」

 咆哮染みた隊長の号令に、211中隊の全員が応じる。山裾に陣取っていた陣形を徐々に平地へと移動させ、這い出てくるだろう小型種に狙いを定める。ヴァルキリーズは地形を利用してBETAを押さえ込んでいるようだったが、どうしたって撃ち漏らしは出てくる。それを一掃すべく行動を開始した211中隊に、通信が開かれた。

『こちらヴァルキリー1。我々の背後は貴官に任せる……これでいいか?』

「――ハッ、好きにすればいい。……こちらはこちらの任務を果たすだけだ!」

 言葉尻が苦笑しているような伊隅大尉の音声に、鼻で笑う。その一言だけで、彼女の本来の人となりというものがわかってしまった。恐らくは新型の実戦評価こそが最優先命令なのだろう。そして、この場がその試験会場として選ばれたというのなら、当然そこで戦っている自分たちの生存など二の次のはずだ。軍人として割り切っているが、実際の本音はそうではない。……そういう気優しい心情が伝わってきて、中隊長である彼は忌々しく笑うのである。

『隊長、照れてますよね』

『ああ、絶対美人ですよ今の。間違いないです』

「やかましいぞっ!? オラオラオラ! さっさと配置につけ!」

 男女入り混じった部下達の揶揄が続く。……こいつらは今が戦闘中だという自覚があるのだろうか。いや、自分だって茫然としたり忘我したり、随分と隙を見せたものだったが。

 211中隊は陣形を敷き、ヴァルキリーズは更に戦中へと突撃していく。山の向こうから響く戦闘音と、データリンクが見せる異常なまでの戦績に再び頬を引き攣らせながら……彼らは、こうして新時代の幕開けを一番に目撃することとなった。







 ===







 新任たちを出撃させることを決定したのは、ひとえに『概念実証機』の性能にある。

 白銀武という存在が彼女たちの才能を成長させる起爆剤となったことも理由のひとつだ。元同期の先任少尉。たった二ヶ月の差でしかないが、その開きは彼女達を発奮させるには丁度よく、そして、全員が常以上の努力を重ね、着実に成長を重ねていった。隊長であるみちるはそれら新任少尉五名の成績を客観的に判断し、副隊長の水月の意見も聞き入れた後に、新人教育に充てる期間の短縮を検討していた。

 既に中隊としてシミュレータ訓練や実機演習にも参加していたが、通例では、任官から約三ヶ月の訓練期間を経ての実戦参加、という流れになる。つまり、八月末に任官した彼女達は、通例に従うならば十一月末以降の実戦に参加させるべき、ということになる。……別に拘る必要もないのだが、国連軍内部ではそれが罷り通っていて、事実としてみちるも水月もその訓練期間を経ている。

 無論、人手が足りず、任官したてのヒヨッコだろうがなんだろうが、問答無用で戦場に叩き込まれる状況というものは存在するのだが……幸いにして、この横浜基地ではそこまで逼迫した状況に陥ることはなかった。

 A-01部隊、ヴァルキリーズの構成員は新任の五名を含めて十四名。実際に戦場を駆け回る衛士は一名減の十三名。新任を入れてようやく中隊規模だ。余裕がある、とは言い難い。先の光州ハイヴ間引き作戦――『伏龍作戦』――において四名が戦死し、八名となったヴァルキリーズは、無論、二小隊編成でも戦えないわけではない。だが、既に補充要員が存在し、そして彼女たちが目覚しい成長を見せるならば、それを使わない手はない。……そう判断するのは当然だった。

 作戦の規模にもよるだろう。なにせ、初陣の衛士は“死に易い”。大規模作戦に投入して混乱のままに死なせるのは惜しい。反面、それほどの作戦ならば少数で参加すれば全滅の可能性もある。軽易な作戦でもあればいいのだが、戦争に“軽易”、なんて言葉は存在しない。なんにしても部隊長であるみちるの判断一つ、というわけだ。今更確認するまでもない。だからこそみちるは彼女たちの訓練期間の切り上げを検討したのだし、相談を受けた水月も真剣に吟味した上で同意したのだ。……不安がなかったわけではない。が、それ以上に、彼女達ならば見事やってくれるのではないか、という期待が勝った。

 ――そして、その僅かな不安さえ帳消しに……いや、遥かに上回った要因が、『概念実証機』だった。

 元々戦術機に触れていた期間がみちるたちに比べて短かった、ということもあるのだろう。誰よりもはやくその性能を存分に使いこなして見せたのは多恵だし、続いて亮子、茜、薫、晴子……と、新任たちが『概念機動』の習得に成功していた。

 その時点で既に先任である武と同程度の実力を有し、彼が『概念機動』を我が物としてからは全員が飛躍的な成長を見せた。……つまり、最早新任先任の差はなくなっていると言っていい状態なのである。あるとすればそれは「実戦経験の差」であり、そしてこればかりは経験しなければ得られない。既に操縦技術は一人前であり、そんじょそこらのエース部隊にも引けを取らないほどの実力を有するならば、一日でも早い実戦経験が望ましい。ということになる。

 夕呼には夕呼の、『概念実証機』の実戦テスト、という思惑があり、みちるにはみちるの、新任少尉たちに実戦経験を、という思惑があった。そして、丁度よい――BETAとの戦争の歴史を考えれば、非常に不謹慎極まりないのだが――タイミングで、敵の方からやってきたのである。夕呼は即座に出撃を命じ、あらかじめそういう状況を想定し、準備していたヴァルキリーズは出動する。新任五名を引き連れて。

 十三機の蒼の不知火が、戦場に飛び込んだのだ。







 初陣。その言葉の響きに緊張を覚えなかったといえば嘘になる。茜は87式自走整備支援担架から自機の不知火を起こしながら、一度、深く息を吸った。夜明けの太陽が自身の名前のように燃えている。美しいとさえ思える光景に眼を細めながら――本当にこの山の向こうにBETAが居るのか――現実に追い付けていないらしい脳を覚醒させるべく、深呼吸を繰り返す。

 それを緊張と見たのか、強気で勝気な水月の笑顔が網膜投影に映し出され、ニヤニヤと笑う彼女が早速に新人をからかい出す。それらは茜だけに向けられたものではなかったが、真っ先に彼女を標的とするあたり、水月はよくわかっている。新任五名の中心は、茜だ。別に自惚れているわけではないのだが、茜自身、それを認識していた。どこか茜に対して依存を見せる多恵然り、晴子も薫も、そして亮子も。皆、茜を中心として纏まっており、彼女のために戦うというような気概を見せている。

 それを知らぬ水月ではないし、見過ごす水月でもない。部隊長のみちるが軽口を嗜めるように笑うが、その表情を見ればみちるも水月同様に思ってくれているのだとわかる。

 やれ好きなだけ漏らせだの、涙と鼻水でぐしゅぐしゅになれだのと意地悪を言うのは、初めての実戦で凝り固まっている茜たちを笑わせてリラックスさせようという優しさからだ。……女性が用いるような表現ではないような気もするが、軍隊に入ってからというもの、むしろそういう気恥ずかしさは薄れる一方だったので問題ない。水月の気遣いに茜は笑顔を見せ、他の四名も同様に笑い合った。晴子に薫は水月も初陣の時に漏らしたのかと混ぜっ返すし、茜も笑いながらそれに追従する。

 既に全機支援担架から立ち上がり、出撃準備は完了している。みちるは軽口を叩き合う部下達をただ一声で律し、出撃の号令を下す。一瞬、茜は……いや、新任の彼女達は表情を強張らせた。――遂に、このときが来た。

 ずっとこの日を待っていた。帝国軍に志願した日を思い出す。あの日、胸に抱いていた想いを手の平に握り締める。

 仲間達と出逢い、仲間達を想い、辛く厳しい訓練を重ね、自身の力及ばぬ場所で起きた悲劇に涙し、無力さをバネに精進を重ね、肉体を精神を鍛え、技術技能を磨き。

 そして遂に。

 戦場に立つ――。

 操縦桿を握る腕が奮える。恐怖に震えたのではない。昂ぶる闘志に、奮えるのだ。先程の緊張とは違う、全身が燃えるような緊張感。表情を引き締め、ぐっと丹田に力を込める。B小隊が先陣を切る。跳躍ユニットが見せる気焔を網膜に映しながら、茜はフットペダルを踏み込んだ。

 全身を包むGを感じながら、山間を滑るように跳ぶ。『概念実証機』の性能を以ってすれば、ただ跳躍するという行動も実に滑らかで無駄がない。不知火本来の性能を十二分に引き出すことの出来る新型OSの素晴らしさを今一度噛み締めながら――これなら、あたしだって戦える――強く、強くそう思う。シミュレータも、JIVESシステムによる実機訓練も、問題なくこなすことが出来る。先任たちとの連携だって万全だし、ハイヴ突入プログラムも五回に一度は生還できている。……ならば、このBETA殲滅戦。負ける道理はない。敗れる理由はない。

 敗北は、即ち「死」だ。

 自分はまだ絶対に死ぬわけにはいかないし、死なせるわけにもいかない。――愛するひとがいるのだ。彼を、愛しているのだ。その想いを告げることはなくとも、彼が自分を愛してくれていると理解できても……否、そうやって通じ合えたからこそ、死なないし、死なせない。

 彼の背中は自分が護る。矢面に立ち、敵中で暴風と化す彼を、絶対に護る。

 自身にそう誓った直後、彼――武から通信回線が開かれる。部隊間の通信で使用するオープン回線だった。

 茜は気づいていなかったが、このとき、周囲では変わらずに雑談染みた会話が続いていた。常ならば嬉々としてその会話に割って入る茜の反応がなかったことをいぶかしんだ武が、どうやら彼女がまだ緊張しているらしいと読んで、回線を開いたようだった。ハッとして映し出された武の顔を見つめる。左眼から頬にかけて裂傷を残す彼は、ひどく穏やかで、そして凛々しい表情のまま、告げる。

『茜――心配するな。お前は俺が護る。絶対に、お前を死なせはしない』

「――――――ッ!?」

 心臓が止まるかのような衝撃に、茜は息を詰まらせる。一瞬にして思考が凍りつき――否、灼熱して爆発しそうだった。

 赤面するのがわかる。ばくばくと鼓動がうるさい。それと同時に、どうしようもなく嬉しいと感じる自分が居て…………茜は、真っ赤になりながらも、真剣にそう言ってくれた武に笑顔を見せる。

「ありがと、武。……でもね。あたしだって、武を護るんだから!」

 そうだ。死なせたくない。死なせない――そう想っているのは、自分だって同じ。誰だって同じだ。武もそれをわかっているのだろう。しっかりと頷いてくれた彼は、茜の笑顔を見て安心したようだった。

『あ~~~ッ!! アッツイわねぇ、熱い熱い!! 見てらんないわよまったく!!』

『……シロガネ、戦闘前にノロケとは余裕だな。なら貴様には特別に単機での吶喊を命じるッ!』

『いや、真紀。大尉の真似しても全然似てないから』

『しかも単機突入なんて、全く作戦になっていませんわよ』

『速瀬中尉、熱いのはともかく、独り身のひがみはみっともないですよ。だからあれほど白銀を襲えと忠告したというのに……』

『――まぁ、白銀少尉も隅に置けないですね』

『んののの!? 速瀬中尉と白銀君がっ!??』

『あはははは! 白銀君もやるね~』

『おい茜! お前も負けてらんねぇぞ!?』

『はぅわわ、速瀬中尉が白銀くんを……だ、駄目ですッ! そんなおっきなおっぱい駄目なんですぅうう!!』

『…………あー、貴様ら、全員揃っていい度胸だ。この作戦が終わったら全員腕立て二百回!! いいなッ、莫迦者ッッ!!』

『んな! 俺もですか!?』

「……え、っと。え?」

 なんだこれは。気がつけば全員が沸いたように盛り上がっている。どこからこんなことになったのかといえば間違いなく美冴のせいなのだが、それを曲解する梼子も梼子だし、そのまま受け止める多恵も多恵だ。……結論、ヴァルキリーズはそうなるように構成されている。信じたくはないが、そうらしい。

 ともあれ、茜は苦笑するように武を見た。通信画面の向こうでは、武も同じように苦笑しているに違いない。全員が緊張とは無縁のやり取りを続ける中、けれど誰一人警戒を怠らず、操縦にも油断はない。極自然にそういうことが実行できている先任を、改めて尊敬する茜たちであった。

 ――と、指揮車輌に詰める遙から通信が入り、前方に展開している部隊がBETAと交戦中との報告を受ける。

『全機戦闘用意――。B小隊は先行して敵の足止めをしろ』

『ヴァルキリー2了解! ――武、あんたには格好のステージでしょ、存分に暴れなさい!』

『ヴァルキリー8了解!! 行くぜ築地ぃいいい!!!』

『りょ、了解!』

 即座に放たれたみちるの命令に、まるでそれがわかっていると言わんばかりに水月が指示を下す。先行吶喊を命じられた武が咆哮と共に陣形から飛び出して行き、僅かに遅れて二機連携を組む多恵が吶喊する。それに追随する形でB小隊の残り三機が気焔を上げて――

『A、C小隊は左右に展開――宗像、当てにしているぞ』

『ヴァルキリー3了解。……大尉の手は煩わせませんよ』

 そう、“初陣”という言葉で括るならば、美冴もある意味ではそうだ。小隊長としての実戦。C小隊を任されることとなった美冴もまた、これが“初陣”である。部下の命を預かる、という責任ある立場ならば、その緊張とプレッシャーは新任のそれよりも遥かに重く圧し掛かっているだろう。クールに装う美冴はそれを悟らせるつもりはなかったのだが、どうやらみちるにはお見通しだったらしい。……いや、きっと水月にだって知れていたのだろう。

 だが、それを自分の部下に気づかせるわけにはいかない。上官が不安がれば、それは部下の士気に関わるからだ。……そういう配慮を利かせつつ美冴の緊張を解くことが出来るのがみちるであったし、美冴もまた、そんなみちるの気遣いに不敵に返せるくらいの気概は持っていた。

 それぞれの指揮の下、部隊は展開する。各自が配置につき、支援突撃砲を構えた晴子がその銃口から火焔を噴く一瞬前、武が敵の真っ只中に突入する。物量で迫るBETAをただ葬り去るためだけに編み出されたという斯衛の剣術を存分に発揮しながら、両手に握る長刀でおぞましい血の雨を降らせている。――その機動たるや、戦慄の一語に尽きる。

 従来の機動制御を超越している『概念実証機』。それは、空想と現実の融合を可能とした。戦術機というハイテクノロジーが秘める性能を十二分に引き出すことを可能とした新型OSは、文字通り、ニンゲンでは不可能な機動を実現させるそのシステムを大いに飛躍させることに成功している。機体自体に元々“そうできる”スペックがありながら、機動制御を処理するCPUが追いつかず実現できなかった経緯があったわけだが、高性能な並列処理能力を持つCPUに換装し、それを制御するOSの開発に成功したことで、それらを須らく解消することが出来たのである。

 また、先行入力による機械的硬化時間の短縮、人的硬化時間の短縮も大きい。以前から“止まらないこと”を念頭に置いてきた武の戦闘機動は更に磨きがかかり、文字通りの暴風と化し、渦を巻いている。平面機動の集大成、とでも称せばよいのか。ともかく、常に接敵していながら、触れた先からぶった斬るその殺戮ぶりは圧巻の一言であり、シミュレータで見慣れていたはずの茜たちも息を呑んだ。

 先の『伏龍作戦』で武の戦闘能力の凄まじさを肌で感じていた水月たちでさえ、『概念実証機』が発揮する『概念機動』を織り込んだことで進化を遂げた“月詠の剣術”に思わず呆気にとられてしまう。本来両手で用いる長刀を片手で、しかも両手に一振りずつ握っていながら――あの戦闘ぶり。はっきり言って異常だ。周囲を飛び跳ねるように突撃砲を撃ちまくっている多恵の機動も十分常軌を逸しているが、それは彼女たちも同様に行うことが出来る『概念機動』の延長だ。恐るべきは矢張りあの剣術なのだろう。一朝一夕で身に付くものではないのだろうが、機会があれば武に指南するのも悪くないのかもしれない。

 特に意味もなく水月の思考が回転する最中、武と多恵の行動の隙間を縫うように、晴子が放った弾丸の雨がBETAを撃ち抜いていく。タイミングは上々。多恵も晴子も、とても初陣とは思えぬほどに落ち着いている。梼子と慶子が多目的自立誘導弾システムに搭載した多目的ミサイルを放つのを視認しながら、水月、真紀、薫の三名も戦線に突入。武と多恵が拓いた空間に降り立ち、即座に敵を薙ぎ払う。

 みちるは指揮官権限で展開中の帝国軍部隊に音声回線を繋ぎ、後退を要請する。まだ若いらしい帝国軍大尉は激昂に似た感情を見せながらも、こちらの事情を察したのか、実に小気味よく背後を預かってくれた。生き残れば、いい指揮官になるだろう。ほくそ笑むみちるの横を、強襲前衛装備の旭が過ぎて行って、晴子の支援突撃砲が的確に援護を加えていく。C小隊は美冴を中心に梼子が次々に敵を撃ち取り、両手に突撃砲を構えた茜が敵を掃討していく。長刀を構えた亮子は旭と並んで要撃級を狩っていた。

 全員が――凄まじい。

 客観的に見ても、そう思える。それが新型OSの、ひいては『概念実証機』の性能なのだと。そうわかっていても、それを証明するための戦闘だと理解していても。その認識は覆せない。そう。凄まじいのだ、“これ”は――!

 ドッペル1という不遇の衛士が生み出した、“夢のような”現実。これまでのBETAとの戦闘では考えられなかった速度で、次々と屍が積み上がっていく。後方支援に回ってくれた帝国軍部隊は今頃愕然としていることだろう。なにせ、実際に戦っている自分たちでさえ、この戦果を信じることが出来ないのだから。

 だが油断するな。慢心はミスを招く。増長は死を招く。――ここは戦場で、戦っている相手はBETAで。

 圧倒しているというなら、このまま叩く。最大限の注意を払い、最大限の戦果を。ほんの僅かの隙も見せるな。ほんの僅かの緩みも見せるな。敵は、この星を食い潰そうという……それが出来る強大な存在だ。石橋を叩き過ぎて困ることはない。余裕を見せて足元を掬われるような無能は晒せない。

 この作戦、ただの一機も欠ける訳にはいかないのだ。

 求められているのは圧倒的勝利。『概念実証機』の実戦データを持ち帰ることは勿論、新人達を死なせないことは当然、一機たりとも喪うことなく、そして、前人未到の偉業を成し遂げるのだ。

 夕呼は『概念実証機』を完成させ、AL4の成果の一つとして発表する腹積もりだ。これだけの性能を秘めた新型OSならば、各国は喉から手が出るほどに欲するだろう。否、そうなるようなデータと偉業を持ち帰れと言っているのである。故に失敗は許されず。そして――失敗するつもりなどない。

 だが敵もただ黙ってやられてはくれない。連中はこちらを生命体として認識していなくとも、道を阻む障害として「排除」しようと群がってくる。そして、矢張りその圧倒的に過ぎる数だけはどうしようもないのだ。如何に優れたOSを搭載し、従来では考えられなかった戦果を挙げられようとも、所詮こちらは十三機。一個中隊に毛が生えた程度の戦力でしかない。こちらの撃ち漏らしを掃討してくれている帝国軍211中隊が居なければ、もっと苦戦を強いられていただろう。否、戦場で戦っているのは戦術機に乗った衛士だけではないのだ。後方展開している戦車部隊の砲撃然り、支援車輌部隊然り。それらの尽力なくして戦争は成り立たない。BETAとの戦争は、文字通り人類全部の明日を賭けた戦いなのだから。

 衛士一人、戦術機一機に出来ることはたかが知れている。……だが、その“たかが”を飛躍的に向上させることの出来るこのOSは矢張り素晴らしいものであり、だからこそ、一機たりとも喪うことは許さないという夕呼の命令は、心底に納得できる。故にみちるは自身も一切の油断なく戦場を駆け巡り、同時に、初陣である新任たちの動向に目を光らせるのである。――そして、武の動きをも。

 BETAへの復讐。

 そのどす黒い怨讐に捕らわれていた彼は、今も専門医のカウンセリングを受け続けている。頻度こそ少なくなったが、けれど、こればかりはやめさせるつもりはない。武本人も継続を望んでいて、現在は非常に良好な状態にあるとのことだったが……確かに、現状暴走を見せるような気配はない。だが、過去に見せたBETAに対する気狂いを思い出せば、一抹の不安というものは早々拭い去れるものではない。

 戦闘に出撃させることを不安に思う、というわけではない。むしろ、そんな不安があれば出撃などさせるわけがなかったが……みちるの不安とは、“そういう”衛士としての質を疑うものではなかった。茜や水月、或いは月詠真那との触れ合いの中で“乗り越えた”と思わせてくれる武のことは信じている。では何を不安に思うかといえば、即ち、この戦闘を通して、“吹っ切れるかどうか”だ。

 無論のこと、そうできると信じたからこそ出撃させているわけである。今更不安に思ったところで最早どうにも出来ない。決定を下したのは自身であり、武本人にも確認を取っている。武はハッキリと言ったのだ。――俺はもう二度と、絶対に道を間違えません。

 腰に提げる刀を握り締めながら。強く。自信と確信に満ちた瞳で、みちるにそう宣言したのである。――ああ、ならば何を不安に思うことがあるだろう。何の心配も要らない。男が言ったのだ。それを疑うのは隊長として度量が小さいというものだろう。36mmのトリガーを一秒引く間にそう結論付けて、みちるは空中に踊りあがる。直前までみちるが居た場所に戦車級と要撃級が群がっていて――回避と同時に、突撃砲が火を噴く。

 幸いにしてこの戦場にレーザー属の姿はない。姿がないからといって存在しないわけではないのだろうが、それでも、空を戦闘空間の一つとして掌握することに成功しているヴァルキリーズにとって、連中の姿が見えないことは大いにプラスとなる。迫り来るBETAを跳躍して回避すると同時に機体を捻って狙い撃つなんていう芸当も、最早当たり前。……それだけの訓練を積み重ねたのだ。ドッペル1が現れてから僅か二週間弱。一切の常識を超越した麒麟児の機動を再現し、我が物とすべく足掻きに足掻いたのだ。その自負が、A-01部隊をより攻撃的にさせる。



 武は透き通るような昂ぶりを感じていた。かつてシミュレータで垣間見た、血が沸くような境地。BETAへの復讐を咆え叫ぶ自分と、まるで機械のような冷静さで正確無比に殺戮する自分。そしてそれを客観的に俯瞰する自分……自身の無意識領域を自覚なしにリーディングしていた、あのときに似た感覚。……だが、今のソレは、あの頃のような寒気に襲われるものではなかった。

 機体の性能が武の理想とする剣閃に合致している、とでも言えばいいのか。或いは、武の技量がその高みに到達している、と。いずれにせよ、今の心情を表現するには足りない。感情は間違いなく昂ぶっている。興奮している自分、というものはしっかりと自覚している。みちるも、そして自身も危惧していた“BETAへの怨讐”は、恐れていた暴走もなく、静かに漂っている。だが、決して失われたわけではないし、いつこの体を支配するとも限らない。強い意志。二度と過ちを犯さないという意志を保ち続ける。二度と道を間違えないという誓いを胸に刻みつける。

 それら、自身を戒める“過ちからの教訓”があればこそ、武は暴走しないで済んでいるのだと理解する。志乃を始めとする先任の死、自らが斬り落とした夕呼の右腕。真那、水月への想い。純夏、茜への強い愛情。――それら全部が、武を支えてくれている。それら全部が、復讐者を穏やかに眠らせ、守護者としての決意に満ちた己を前面に押し立ててくれている。


 故に自身に暴走はない。猛る衝動は総て理性の名のもとに手綱を握り、今は、ただ螺旋を描く。



 ――実(げ)に恐ろしきはその物量、故に我が剣はそれに対する究極と知れ――



 真那の言葉が脳裏に蘇る。幼き日の師匠の教えが胸に宿る。そう。この剣術は、ただひたすらにBETAを斬り刻み惨殺するために。警護対象である将軍家縁者の身を護るため、ただそのために敵を屠り続ける無限螺旋。敵が怒涛で迫るというのなら、その真っ只中で暴風と化す。懐中こそ独壇場。向かってくる敵を片端から血祭りに上げる!

「ォぉぉおおおおおおおおお!!!」

 その機動は極めて異色であり、派手なものだ。地面を這いずり回るように旋回を続け、慣性と遠心力の働くままに長刀を振るい続ける。その一刀は全てが磨き抜かれた技であり必殺。腹の底から振り絞られる咆哮は正に《戦鬼》を彷彿とさせる。

 無論、武一人で戦っているわけではない。そして、彼一人で迫り続けるBETAを殲滅できる道理もない。シミュレータ訓練の結果を見ても、武一人で時間稼ぎが出来るのは精々が七~八分程度。十分持てば奇跡に近い。もっともそれはハイヴ坑内での話なので、物量そのものが異なる現状では一概にそのとおりとは言えない。が、それでも一度に相手に出来る数には限度がある。武の場合、両手に握る長刀と背部パイロンに固定された突撃砲を制御しての三点同時攻撃を組み合わせることで通常の衛士の平均撃墜数を軽く超えているが、何十にも折り重なったBETAの包囲網を単機で生き延びることは難しい。

 かつて水月にも言われたことがある。武が用いる剣術ほど乱戦向きなものはないだろう。即ち、武は囮役としてこれ以上ないくらい、適任ということになる。ならば囮を買って出た武が数十のBETAを惹きつけるなら、ソレを撃ち取るのが二機連携を組む多恵の役目であり、或いは残るB小隊、A、C小隊の役目だろう。

 武は殺戮マシーンと化してBETAを駆逐して行き、彼が進む道には屍が積み上がっていく。斬り裂く度に噴き散る紫色の体液に機体を染め上げる中、かつての自分を当に超えてしまっているのだと唐突に悟る。復讐に濡れ、妄執に溺れ、周囲を見失った愚かな自分。精神も覚悟も未熟だった、半人前の自分。救ってくれた人を死なせ、たくさんの人の想いを裏切ってきた自分。――そういうものを思い出して、全部、受け止める。

「今は、BETAを斃すッ!」

 考えるのは後でいい。しっかりと刻むのはこの戦闘が終わってからでいい。今はただ戦え。一分一秒でも長く敵を惹きつけろ。一体でも多くの敵を殺せ! 復讐ではなく、ただ、衛士として。護るために。生き残るために。戦って、戦って、戦って!! 勝利を。『概念実証機』の性能を見せ付けろ。証明して見せろ。これは、そのための戦いだ。――俺の復讐は、決して終わらないけれど。でも、それだけのために生きることはしない。

 多恵の援護によってBETAの戦列が途切れる。一瞬開いた包囲網の隙間に飛び込んで一時後退、要撃級の脇をすり抜け様に、ボロボロになった長刀を突き刺す。空手となった左腕に多恵の長刀を受け取って、代わりに予備の弾倉を渡す。交錯は僅かに一秒。武は再び渦中に飛び込もうとするが、それよりもはやくBETAの群れに突入する機体があった。02のナンバーをつけた不知火が両手に構えた突撃砲を撃ちまくっている。――先を越された。武は不敵に笑うと、敬愛する小隊長に並び、再び渦を巻く。水月が右翼の敵を相手取ってくれるおかげで、武は先程よりも効率よく敵を減らすことが出来た。

 B小隊は現在五機編成であり、武と多恵、真紀と薫の二機連携二組に、フリーである水月が全体の指揮を執ると同時に双方の支援を行うスタイルを採っている。また、現在のように水月自らが敵と対面する場合もあり、そのときは臨時的に三機連携となるが、それも今日までの訓練で繰り返してきた戦法の一つだ。故に武も多恵も水月との連携に何の迷いもなく、僅かの乱れもない。互いが互いの行動の結果を予測し、予想し、最大効率を果たすべく緻密な戦闘を繰り広げていく。

 一見派手で無軌道に見える武の螺旋剣術も、水月の行動を阻害するものではないし、水月と多恵が絶え間なく撃ち続ける突撃砲も、実に手際よく武の進路外の敵を屠っていく。更にはその彼らが接敵している敵の前衛以外――後方に控える要撃級に戦車級といった主力群を片端から撃ち抜く晴子の狙撃や、制圧支援である梼子、慶子の砲撃も須らく見事としか言いようがない。

 実戦でそれが出来るようにと、毎日必死になって訓練を繰り返しているのだから、それはある意味で当然と言えた。……だが、特筆すべきは矢張り、新任少尉たちの奮戦振りだろう。初陣であるなどと微塵にも思わせない機動。冷静に状況を見極め、己の持てる最大を以って敵を葬り去る手際は歴戦の衛士と並んでも遜色ないものだった。

 旭と共に戦車級の一群を相手取っていた亮子は、眼前に迫るグロテスクな異形に眼を覆いたくなる衝動を堪え、我武者羅に長刀を振るい、36mmを放つ。隊内で武以外に唯一刀の扱いに長けている彼女は、息を荒げながらも、敵を斬る行為に躊躇しない。――戦闘開始から既に十六分が過ぎた。表示される時間を見てしまって、亮子は思わず息を呑んだ。長い。途轍もなく、長い――! 『死の八分』をいつの間にか乗り越えていたことに今更気づくが、それ以上に亮子はスタミナの限界というものを感じていた。

 肉体的な、という意味ではない。

 それは、精神の疲労だ。シミュレータとは違う、「喰らったら死ぬ」という現実。一瞬でも回避が遅れれば致命傷に繋がり、僅かでも隙を見せれば一巻の終わり。如何に訓練を重ね、初陣の衛士とは思えぬ戦闘を繰り広げようとも――矢張り、初陣は初陣だ。

 ねっとりと肌に絡みつくような恐怖はどれだけ必死になろうとも拭えない。じわじわと自身を取り巻くような死の気配に汗が吹き出る。気づけば呼吸は荒くなっていて、うるさいくらいの動悸が耳につく。――それでも、死ねない、という思いが。茜と武の幸せを願う気持ちが、護りたいという、力になりたいという願いが……亮子を昂ぶらせてくれる。

『月岡! 一旦退がれッ!!』

「……ッ、」

 二機連携を組んでいた旭から後退指示が出される。どうやら先任の彼女には今の亮子の状態はお見通しだったらしい。自身の小心を恥じるように俯いた亮子だったが、戦場でそんな拘りは意味を持たない。悔しさに臍を噛みながら後退する亮子と入れ違いに前へ出たのは強襲掃討装備の茜。亮子が抜けた穴を埋めるべく、小型種の前進を阻むように突撃砲を狙い撃ち、迅速に旭と並ぶ。『概念実証機』がもたらしてくれるその機動の鮮やかさに、一瞬、眼を奪われた。――護りたいひとに、護られる。そんな己を無力だと嘆くならば。

 生き延びて、今まで以上に訓練に励もう。繰り返し繰り返し、鍛えて磨いて。そうやって成長していこう。



 水月と武の二機連携を目の当たりにして、茜は鳴り止まぬ鼓動に頬を紅潮させていた。

 衛士を目指すきっかけをくれた水月。姉の親友であり、自身の憧れ。幼かった茜は、彼女のようになりたくて――いつかその背中に追いつくことを目指してここまできた。任官し、尊敬する水月と同じ部隊に配属された時、茜は心底から感動を覚えると同時、自己の目標の一つであったそれを達成する機会を得たことに感激した。――共に戦える。その歓びは、言葉に出来ないほどに。

 自分の命全部を懸けて愛する武。訓練兵時代からの同期であり、自身の想い人。恋人を喪い、道を見失おうとする彼を支える力になりたくて――いつかその傷を癒すことを想ってここまできた。彼への想いに気づき、愛されていることを知った時、茜は心底から悦びに打ち震え、満たされた己を自覚した。――共に戦える、その背中を支えることができる。その幸福は、言葉に出来ないほどに。

 その二人、憧れる水月が、愛する武が――まるで血を分けた姉弟の如く、息の合ったコンビネーションで敵を翻弄し、斬殺し、撃ち殺している。足元を走る小型種を踏み潰し、要撃級の豪腕をかわし、群体で襲い来る暴威を手当たり次第に血祭りにあげている。螺旋を描く剣術が戦場に一種異様な殺戮場を作り出し、水月が、或いは多恵が、真紀が薫が次から次に隙だらけの連中を平らげていく。

 無論茜も、そして隣りで突撃砲を構え撃つ旭も。後方より打撃支援を加える晴子も。最前線で熾烈に戦い続けるB小隊の死角をカバーすべく、手を休めることはない。戦闘開始から既に四十分。更新されるデータリンクは、敵の増援がないことを示していた。CPである遙の状況説明を半分だけ聞きながら、36mmのリロードを手早く行う。他所に展開していた帝国軍部隊が敵の主力を殲滅することに成功したらしい。……残るはこの場に殺到する百にも満たない敵だけだ。

 たかが百。――されど、百だ。

 増援がないというのは正直にありがたい。しかも運の良いことにこの集団の中には本当に光線級が含まれていなかった。ドッペル1の『概念機動』に倣う際、最も苦労したのが光線級が存在する中での空中機動だった。無理に空を跳ぶ必要はないのだろうが、面で殺到するBETAを回避し、且つ、効率的に狙い撃てる空中の利点を知ってしまえば、多少の危険に目を瞑ることは道理だった。……が、下手に高度を取り過ぎると足元の敵を狙い撃つのと同時、自分が光線級に撃ち殺されてしまうデメリットがある。そのギリギリの按配、見極め、という感覚を得るのには随分と苦労した茜である。だからこそ、その報告に安堵してしまう。

 勿論、光線級だけが脅威なのではないことは座学で習って知っている。が、初陣で、実戦の経験がない茜たち新任にとっては――精神をすり減らし戦い続けて既に四十分も経過しているのだ――“脅威”の筆頭たるレーザー属がいないという事実。これは、大いにプラスとなる。


 まして、この『概念実証機』。これが初陣という衛士が五人もいて、まだ一人の死者も出ていない――どころか、機体に損傷を負ったものすら居ないのだ。きっとみちるや水月はその事実に驚嘆しているに違いない。数々の戦場を潜り抜け、生き延び続けてきた彼女達は……たくさんの先達と同僚の死の上に立っている。BETAとの戦いで死傷者が出ないことは稀だ。一人も死なない――言葉にすればただそれだけの事実を達成すること。それこそが最も困難で至難で、故にこの戦争は悲劇的で一方的なのだ。

 当初連隊規模で稼動していたA-01部隊も、発足当時から生き残っているのはみちるただ独りだけ。

 水月も遙も、そして美冴も。自らを残して同期は全て喪い……一期上の梼子たちでさえ、任官当時十二人いた同期たちを、半数以上喪っている。

 その大半が“初陣”で命を落としていることが――彼女たちの死に限らず――『死の八分』という儀式的ともいえる言葉が戦場に蔓延する理由の一つだろう。

 だからこそ、今、茜が、晴子が、多恵が、亮子が、薫が生きて戦い続けていられることは。四十分という、感覚的には永劫にも思える刹那の時は。ただそれだけで、この新型OSを搭載した『概念実証機』の性能の凄まじさと素晴らしさを証明することになる。

 同時。

 それは、みちるたちにとって、一種の悔恨を思わせる。――もしあの時に“これ”があったなら…………。

 意味のない行為だとしても、ふとした瞬間に脳裏に過ぎってしまったその悔しさを、みちるは奥歯を噛み締めることで霧散させた。後方より全体をカバーする晴子の技量はもう疑うべくもない。同様にピンポイントで適切な支援を続ける梼子と慶子の腕も信頼している。ならば中衛にいるみちるが成すべきことは、指揮官として、隊を統率するものとして。残り百にも満たない――小型種を含めた実数で言えばその倍近くにはなるが――敵を、これまで同様、一切の油断なく驕りなく、且つ、新任たちを死なせずに戦い抜くのみ。

 C小隊の動きに目を向ければ、美冴の指揮の下一度は後方に下がった亮子が再び前衛に出て、茜と二機連携を組んでいる。入れ替わりに右翼へと機体を流した旭に並ぶようにみちるは前進し、尚激戦を繰り広げるB小隊へ一度下がるように指示を飛ばす。

「築地、立石は退がれ――! 速瀬、本田、白銀はそのまま敵の中央を突き抜けろッッ! A小隊ッ、私に続け!!」

『『『了解っ』』』

 想像した以上に被害が少ない。新型OSのもたらしてくれた恩恵を痛切に感じながら、みちるはドッペル1という青年の存在を神に感謝した。BETAによって精神を蝕まれた哀れな道化。仮面をつけ現実を忘れ、ただ夢の世界に生きる彼の存在を。その彼の才能を認めた夕呼を。――みちるは、心の底から尊敬する。

 晴子を後方に残したまま、みちるは旭と慶子を伴って前進する。後退する多恵と薫をC小隊が援護しつつ、二人はそのまま一時美冴の指揮下に入る。そうして新任を後方に下がらせることで、既に精神的に大きなストレスを感じているだろう彼女たちにほんの僅かの休息を与える算段だ。否、ここから先の戦闘は、新人達の出る幕などない。

 新任全部を美冴と梼子に任せる形にはなるが、あの二人ならば問題ないと信じるし、同時にこれは美冴の指揮官としてのいい経験にもなるだろう。小隊長としての初陣もそうなら、一時的とはいえ二小隊編成に近い人員を預かるのである。これを無事乗り切ったなら、きっと彼女は一回りも二回りも大きく成長することだろう。

『いいかヒヨッコ共!! 後方に下がるからって気を抜くんじゃないぞっ! 敵はどこからだってやってくるんだ!!』

『『『『『了解!』』』』』

 合流に成功した多恵と薫に向けて、美冴が珍しく怒鳴るように言い聞かせる。彼女なりに新任の働きを称え、そしてそれに慢心するなという戒めを込めているのだろう。その音声を聞きながら、みちるは――ならば安心だ、と。毅然と視線を前に向けて、背後に続く二機にそれぞれ援護を命じる。データリンクに表示されるパラメータを見れば、武の長刀が、直に限界値に達しようかという状況だった。無論彼もそのことは承知しているらしく、叩きつけるように要撃級の頭部らしき部位を刎ね飛ばした後、長刀を投げ捨て、反転跳躍で一気に包囲網を抜けていた。

 真紀の背部ラックから長刀を受け取り、再び宙に舞う08の機体。まるで合わせ鏡のように地を奔るのは、同じく長刀を振り抜いた水月だった。常ならば地上を這い回ることで暴威を振るう武が空中を跳び、『概念機動』を身に付けてからは空中での三次元機動を頻繁に行っていた水月が地上を往く。その対比に思わず笑いが込み上げてしまったが――だが、隊の誰もが知っていた。

 あの二人の連携は――如何なる敵を以ってしても、止められない。

 それは現実的ではない喩えなのかもしれない。だが、ヴァルキリーズの誇る突撃前衛小隊の、突撃前衛長。そして、隊内随一の近接戦闘能力を持つ武。その二人の戦闘ぶりは、共に最前線で戦う真紀に、後方で尚も殺到してくる敵を相手取る皆に。

 興奮と、昂奮を。

 勝利への希望を。確信を、抱かせる。

 この戦いに負けることはない。この戦いに敗北はない。在るのはただ、厳然たる勝利。BETAの屍骸のみだ。

 血を、体液を浴び、夥しく連なる屍の上に立つのは我々。人類の敗北の歴史を書き換えるのは我々。



 ――――――反撃の狼煙を上げるのは、そう。



 我々だ。







 ===






「…………国連軍横浜基地、か」

 帝国軍第211中隊隊長の若き大尉は、まるで夢の中に居るような気分のまま、ポツリと呟いていた。無意識の呟きだったそれに、副隊長である女性が応じるように首肯する。

『“あれ”が本格的に配備されれば……我々は、国土を取り戻せるのでしょうか……』

 零すような声音に、隊長は深く息を吐く。それは落胆の溜息ではなく、裡に堪った“熱気”を堪えきれずに吐き出したものだった。静けさを取り戻した戦場を、感嘆の思いで見渡す。管制ユニットのハッチを開き、外へ。肉眼で見る戦場は――惨憺たる有り様だった。

 砲撃による爆撃で削られた山肌。真っ黒に焼け焦げた地面に木々……。風に乗って運ばれてくる厭な臭いは、恐らくBETAの流した血臭だろう。――だが、どうしてだろうか。本来なら吐き気を催す凄惨なこの光景も、今はただ、足の先から全身に至るまで。

 昂奮に、奮えている。

「取り戻せるさ――佐渡島も、九州も……あの不知火が在れば……ッ!!」

 ギシリと。強く強く握った拳を見下ろす。――直後、彼は咆えていた。どうしてなのかは自分でもわからない。ここは戦場で、まだ戦闘の事後処理が残っていて。部下が全員見ているというのに。それでも、堪え切れなかった。我慢なんて出来なかった。

「ぅぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」

 それは昂ぶった血が成せる咆哮。眼前に広がる光景に。つい先程まで目の当たりにしていた光景にッ。

 血が、滾る。

 思い出すだけでこれほどに全身が昂ぶっている。精神が、魂が、咆え猛っている!

 彼の咆哮に続くように、隊の男性衛士たちが次々に歓声をあげ、同様に咆える。――自分たちは、確かに見たのだ。それは夢でもなんでもなく、正真正銘の現実で。本当に、目の前で、つい先程まで、“そこに”。

 そこで、戦っていたのだ。BETAと。

 殺戮していたのだ。――BETAを。

 ただの一機欠けることなく。ただの一人の死傷者もなく。まるでそれが予定調和で在るかの如く。神話に謳われる戦乙女のように――華麗に、凄絶に、容赦なく。舞い、躍り、死をもたらした。

 隊長は確信する。部下達は確信する。自分たちは今、間違いなく。

 ――新しい歴史を、その幕開けを。

 ――目撃した。




[1154] 守護者編:[三章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/04/19 18:44

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:三章-02」





 最高の戦果だと、夕呼は嘘偽り無く笑う。

 唯一言。たったそれだけの言葉に――みちるは胸が熱くなるのを感じていた。

 本日1123を以って終了した、新潟に於けるBETA掃討戦。公式の記録にみちる率いるA-01の名が出ることは無いが、それでも、その素晴らしき戦果の一端は、間違いなく彼女達が担っている。実際にヴァルキリーズが相手取ったBETA群は全体の三割程でしかないが、それでも、たかが一個中隊が対抗できる物量ではない。……それを、文字通りに“殲滅”させることができたのは、ひとえに『概念実証機』の性能のおかげである。そしてそれは、夕呼が最も望んだ結果だった。

 圧倒的戦果。人類全部を愕然とさせ、驚喜させることの出来る戦果を。

 それが夕呼の求めた結果であり、みちるが持ち帰った結果だ。更に言えばあの時同じ戦場に居た帝国軍211中隊の存在も、いずれプラス方向に働くだろう。正式には一切の支援出動を行っていないことになっている横浜基地であるから、彼らの報告は公にはされないだろう。――が、噂は必ず広まる。アレだけの凄まじさを目の当たりにして、そして口封じの類を一切受けていない彼らならば、否、衛士であれば誰だって、黙っておくことなんて出来ない。

 そう、彼らがみちるの命令どおりに待機なんてしていられなかったように。――それは、興奮混じりに語られることだろう。



 横浜基地には化け物が居る。

 BETAの一切を駆逐する、蒼穹の戦乙女。死の十三。

 想像を絶する戦闘機動。現実離れした超戦闘。

 それが出来る機体。それが出来る新型兵器。



 きっと、そんな噂が広がるだろう。もとよりこの新型OSを世界に発表するつもりの夕呼は、帝国軍の部隊に『概念実証機』の性能を見せ付けることができたことをこれ幸いと受け止めている。インパクトは強ければ強いほどいいのだ。それだけの価値がこのOSにはあると確信しているし、そしてそれは現実味を帯びた。故に、みちるを賞賛する。言葉は少ないが、そこに篭めた思いは相当なものであり――夕呼はそういう気持ちでみちるに笑った。聡い彼女ならばそれがわかるだろう。夕呼はゆったりと椅子に体重を預けた後、悠然と腕を組んだ。――瞬間、眼光が鋭いものへと変わる。

 みちるは姿勢を正す。夕呼の発する雰囲気が変化したことを鋭敏に察知し、緩んでいた表情を引き締める。それを見た夕呼は無意識に頷いて、今後の方針というものを口にする。

 簡単に言ってしまえば、『概念実証機』を表舞台に発表する段取りについて。そして、その後に控える大規模作戦の概略について……。

 前者は現在訓練中の第207衛士訓練部隊の総戦技評価演習の合格を待ち、彼女たちが戦術機教習課程に進むことが第一。その後、折を見て装備性能評価演習――俗に言うトライアルを計画している。国連の各国に属する代表部隊に参加者を募ると同時、帝国軍への参加を依頼する。参加部隊については既に目星をつけているが、帝国軍の参加部隊は今回の一件を受けて、第211中隊に依頼してもいいだろう。どちらにせよ、参加するのはいずれも前線での激闘を潜り抜けた強豪部隊の古参ばかり。自身の腕を何よりも信頼し、実績のない新兵器など鼻であしらうような堅物揃い。

 そんな古強者連中を訓練兵部隊が打ち破ったならばどうなるだろう? ……想像しただけでも血が滾る。まして、『概念実証機』の性能を現在において最も実感しているみちるからすれば、それは全くの不可能ではない。無論、これはあくまで第207衛士訓練部隊が順調にその訓練過程をこなした場合の話であるから、彼女たちが期待に応えられなかった場合は、A-01から一部隊を選出し、参加させることになっている。

 特務部隊である彼女たちが参加するとなると様々な弊害が予想されるが、夕呼はその辺りについては特に言及しなかった。何も考えていないのではなく、むしろ、ヴァルキリーズの存在をアピールするのもいい、と考えているらしかった。真意は見えない。みちるは、夕呼が言わないのならば聞く必要はあるまいと断じて、説明の続きを聞く。

 ともかく、トライアルに求められるのは『概念実証機』の凄まじさを見せ付けること。実戦証明主義の連中の粋がった鼻をへし折り、屈服させることだ。かつてまりもが明言したように、「このOSがあればBETAになんて負けはしない」という。そんな希望を抱かせ、確信させることが最大の目的だ。参加した部隊全部がそれを実感し、やってくる各国の代表者がそれを理解したならば、夕呼の地位は磐石なものとなるだろうし。

 政治的取引の材料としても効果は高い。世代に関係なく、全ての戦術機に適用可能なこの新型OS。ならば、誰だって自国の機体を、自部隊の機体をそれに換装したいと願い出るのは当然だ。

 夕呼は国連に所属しているが、魂まで国連軍人というわけではない。オルタネイティヴ計画を進める上で必要な手段として国連に籍を置いているだけであり、そこに政治的しがらみは存在しない。……だが、現実には各国の、主に米国の情動は眼を光らせておくべき懸案であるし、“国連”という集団に属している以上、そこに名を連ねる全ての国家を無視することも出来ないのも事実。だからこその交渉材料として、『概念実証機』はそちらでも役立ってくれる。

 ドッペル1――鉄――という異分子がもたらしてくれた恩恵に、夕呼は我知らずほくそ笑む。“彼”が一体どのような因果を負ってここにやって来たのかは知らないが、“彼”はまだまだ使い道が多そうだ。現在のところは今以上の使い道というものを見出せてはいないが、AL4の根幹を支える『因果律量子論』の証明に、その存在は必ず役に立つはずだった。だからこそ飼い続けている。或いは、“彼”がここに来たその意味を解明できれば、それがAL4達成の引き金となるかもしれない……。

 思考の海に埋没しそうになりながら、けれど夕呼は足を組み直すことでその思考を中断する。――ともかく、トライアルはそのような流れで行う。時期的には恐らく十二月上旬となるだろう。207部隊の教導官である神宮司まりもと調整する必要はあるだろうが、来週には総戦技評価演習が行われる予定だし、合格の後には戦術機操縦訓練の初期段階から『概念実証機』を搭載した吹雪、並びにシミュレータで実施するのだから、十分な期間だろう。

 まりもはA-01部隊が新型OS搭載のシミュレータ訓練を開始したのと同時期に、自身も訓練を開始している。訓練兵である教え子達に『概念機動』を習得させるためには、まず自分が使いこなせる必要があると考えたからだ。単独の訓練ではあったが、流石は元教導隊というべきその操縦技術の卓絶さは凄まじく、みちるたちがその機動概念を習得する以前に、己のモノとしていたほどだ。その柔軟な思考と完成された資質は疑う余地なく、最高峰の衛士と評するに値する。夕呼からそれを聞いたみちるは恩師の凄まじさに絶句するが、矢張り素晴らしい先達だと改めて尊敬の念を抱いた。

 そのまりもが手塩にかけて育てるのだろう訓練兵は五名。全員が武、茜たちの同期であり……そして、須らくその生い立ちに政治的な何某かが絡んでいる。みちるはその詳細を知っているわけではないが、いずれ自身の部下となることを前提とされている者たちである。大雑把な説明程度は夕呼から聞かされていた。

 彼女たちの素質については心配する必要はないだろう。なにせこのA-01部隊に選抜されること、それ自体が一種の素養と言ってもいいからだ。みちるの先達をはじめ、彼女自身、そして現在生き残っている水月たち……その全員が類稀なる才覚と実力を秘め、現在も尚研鑽を積み重ねている。訓練を積めば誰しもが精強に熟達するというものではない。生まれ持っての才能――そういうものも、矢張り重要な素養だろう。

 そしてA-01にはそれらの“才能”と呼ばれるものを強く秘めた者たちが選抜される…………という。実のところこの辺りは夕呼の一存であるので真偽のほどは定かではない。が、みちる自身がそう感じるように、例えば水月や美冴、梼子、武、晴子等は完全に自身の才能というものを開花させ、戦闘においてそれを余すところなく発揮していると思えるのだ。他のメンバーについても同様に、未だ完全に花開かせていないものの、それぞれに原石を眠らせている。

 その秘めたる才能だけで量るならば、恐らくはこの五人――訓練兵でありながら、自分たちを優に超えるものがあるという。まだ戦術機訓練課程にすら進んでいないというのに、大層な評価である。まりもからの報告もまだ受けていないみちるには、いまいち想像がつかないし実感もわかないが、夕呼がそれほど言うのならば……そうなのだろうと頷く。なにせ、彼女の言に偽りはない。かつての武の件もそうだし、この新型OSの件もそうだ。まして夕呼はAL4の最高責任者にして、自身が忠誠を誓う上官だ。疑うことなど在り得ない。

 みちるがトライアルについて了解の意を示すと、夕呼は満足そうに頷いて――そういえば、と手を打つ。

「まりもが、白銀を訓練した時のデータの提供を求めていてね。参考にしたい、って言ってたから渡しておいたわ」

「――は?」

「手塩にかけた教え子の教官振りを参考にしたいなんて、まりももいい趣味してるわねぇ~」

 ばかな。

 みちるは絶句する。夕呼からの説明によれば、件の訓練兵たちの戦術機操縦訓練は相当に過酷なものとなるらしい。要するに『概念実証機』、新型OSの凄まじさを世に知らしめるための布石の一つ、ということなのだが、つまるところそれは、新兵育成の最短時間の更新にある。

 身体的素質が異常に高かった武に適用したその訓練内容は、彼の任官そのものが機密扱いだったために公式には記録されていない。ましてそれは新型OSなどその概念すら生まれていない頃の話なのだから、今回の件には該当すらしない。……それを、まりもが実践しようという。実際にその通りを行う、ということではないだろう。アレはあくまで武の戦術機適性「S」という規格外の才能があったが故に決行された荒業である。適性値が“高い”程度の訓練兵が耐えられる内容ではない。

 強化装備自体にデータが蓄積され、フィードバックされていけばいずれは解消される問題だが、何の蓄積もない状態でイキナリに――シミュレータとはいえ――十時間以上も乗り続ければ、重度の加速度病に陥るのは明らかだ。……そのために幾らか手を加える必要は出てくるのだが……そこは優秀な教官として基地司令からも認められているまりもである。あくまで彼女は短期間での戦術機操縦訓練を成功させるための“参考”としてデータを欲したのであり、何の考えもなく前例をなぞろうとしたわけではない。

 みちるとてそれは承知していたのだが……如何せん、尊敬し敬服する恩師に“参考”にされるとあれば、言葉に出来ない感情が巡るというものだ。面映いような、誇らしいような……矢張り、巧い表現が見つからない。唯一つ、ハッキリと言えること。……香月夕呼は間違いなく今のみちるの表情が見たくてそのことを告げたのだということだ。

「副司令、先程、トライアル後に控える大規模作戦と仰いましたが…………?」

 夕呼の見せる表情に先程とは違う意味で言葉に出来ない感情を噛み締めながら、みちるは話を逸らそうとする。いや、逸らすというのは正しくない。このままからかわれるのでは話が進まないと論理的に判断し、次の議題へと移ることを促したのだ。――無論、言い訳だが。

「あら、つまんないわねぇ。もっと可愛げのある反応見せなさいよ」

「――ッ、副司令!?」

 そしてそんな抵抗はあっさりと見破られていて、愉悦に唇を歪ませる夕呼の言葉に、つい声を荒げてしまうみちるだった。

 夕呼はハイハイと苦笑しながら、一度椅子に深く腰掛ける。そうして、次の瞬間にはいたって理性的な科学者の貌がそこにあるというのだから、矢張りこの人物は底が知れない。みちるとて長い軍人生活の中で公私、或いは作戦時とオフの時の使い分け等は完璧に切り替えられているつもりだ。というよりも、それが出来なくては衛士は務まらない。だが、数多くの戦場を潜り抜けてきたみちるでさえ至れないような境地に、夕呼は存在している。オンとオフの切り替え――というよりも、“香月夕呼”と、“世界を救うもの”との切り替え……。つまり、この世界を背負うべき己への切り替え。

 まるでそのための人格が別にあるとでも言うように、それはどこまでも徹底していて、余人の思惑の及ぶところではないだろう。……だが、それもまた紛れもなく香月夕呼その人であり、故に彼女は孤高の天才と謳われるのだろう。

「トライアルはなんとしても成功させる。……そして、その後に甲21号目標を落とすわ」

「……………………」

 静かに告げられた内容に、けれどみちるは驚きを見せようとはしない。

 それは、ある程度予想できていたことだ。恐らくは新型OSが完成したそのときから。否……みちるとまりもを呼び出し、武にドッペル1との戦闘を行わせたそのときから……夕呼はこれを考えていたに違いない。

 衛士の常識を根底から覆す『概念機動』。それを実現させるための新型OS、『概念実証機』。――全ては、戦術機によるハイヴ攻略を果たすため。『G弾』を使用せず、純粋にニンゲンの手でBETAを駆逐するための。全てはそのための布石だった。

 既に実戦証明は果たされ、その性能は疑うべくもない。残るはトライアルを成功させ、訓練兵でもベテラン衛士以上に戦うことが出来るという成果を叩き出すのみ。これが成ったならば、少なくとも参加した各国は新型OSを欲するだろう。

 その上で、甲21号を落とす――――。

 AL4の提唱者は香月夕呼であり、彼女は日本人だ。AL4が成功し、最大目標として掲げるBETAの駆逐が果たされたとき、世界での日本の地位は磐石となる。AL計画自体が国連の最重要機密であるために公にはされず、多くの人々はその事実を知らないが、しかし、帝国と夕呼との繋がりは決して薄くはない。互いに表立って手を結ぶことは在り得ないが、水面下、或いは“裏側”と呼ばれる側では、帝国はAL4の成功を切に願っている。

 その事実と、帝国内に存在するハイヴ、という二点から、夕呼は対象を甲21号に設定した。
目標が甲21号であるならば、当然主力となるのは帝国軍だ。或いはその攻略作戦自体が帝国主導という形を採るのかもしれない。いずれにせよ、日本主導の作戦となる筋書きに違いはない。……つまり、AL5を唱える不穏当な輩の介入を出来る限り抑えた上での、作戦実行となる、ということだ。

 みちるはAL5についてはその概要――しかもその上澄み程度しか知らされていない。が、『G弾』を是とする連中であるというなら、それだけで認めたくはなくなる。つまり、連中はある意味でみちるにとって「敵」対勢力なのである。…………BETAと同じく。同じ人類でありながら、哀しいことではあるが、それが彼女の中での真実だ。連中がAL4の、夕呼の邪魔をするというのなら、みちるは一切の容赦をしない。この手はとっくの昔に血に濡れている。――今更、人を殺めることを苦とは思えなかった。

 そうならないように――米国を主体とするAL5派の動きを封殺するような――筋書きを進めるというのなら、矢張り、全力でそれを支える必要はある。結局それは新型OSの世界的認知であり、全人類への希望の光となることだろう。

 なにはともあれ、トライアルの成功こそが鍵だ。話が一周したところで、夕呼がふっと表情を緩める。すると先程までの生真面目な科学者の貌はどこかに消え去り、いつもの、どこか人を小莫迦にしたような表情に戻る。こういう切り換えがキッチリ行えるからこそ、彼女は多くの人々の信頼を勝ち得ているのだろう。

「甲21号目標攻略について、今話せることはあまりないわ。……詳細については作戦が近づいた時に話すから、そろそろ上に戻りなさい?」

「――はい」

 口端を吊り上げて笑う仕草は変わらず、妖艶な雰囲気を見せる。からかうように微笑する夕呼に見送られ、みちるは執務室を退出した。自動で施錠までされる扉を見ながら、みちるは小さく息を吐く。――しぜん、頬が緩む。

「……香月博士は、我々を信じてくださっている」

 それは以前からわかっていたことだ。彼女は、みちるを自身の片腕として信頼してくれているし、同じように彼女の部下を、A-01という部隊を信頼してくれている。それは、彼女の部下としては最高の栄誉ではないだろうか。――誉れ、である。衛士として、軍人として、忠誠を誓う人物に認められ、正当な評価を授かり、信任を置かれる……そのいずれもを、夕呼は与えてくれていた。

 だからこそなのだ、と。みちるは自身の手の平を見つめ、握る。

 ――だからこそ、その信頼に応えてみせる。その信頼を果たしてみせる。

 トライアルについては心配ない。なにせ、訓練兵を鍛えるのは“あの”神宮司まりもなのだ。夕呼の親友でもある彼女が、その親友の信頼を裏切るような真似はしないだろう。故に、みちるに……みちるたちに求められることは唯一つ。



 斃せ。

 そして勝て。



 シンプルでいて、果てしなく難儀だ。――だが、それを決して不可能ではないと支え、励ましてくれる可能性が在る。人類を救う一手。『概念実証機』。作戦に参加する全部隊に行き届き、慣熟を果たせたならば――それは戦術機でのハイヴ攻略を可能とする。

 それを証明して見せること。それを実践して見せること。帝国に、米国に、世界に――この世全ての人々に。

 人類は負けない。その希望の灯火を。その希望の輝きを。かつて横浜に上った黒い明星ではなく、正真正銘、人類に勝利の『明星』を。

「…………」

 そして同時に。

 みちるは今一度扉を見つめた。その向こうで、いつものようにコンピュータ端末へ向かっているのだろう夕呼を見据えるように。じっと、言葉なく見つめ続けた。

 ――そして同時に、これは、それでも時間稼ぎでしかない。

 AL4の全てを知っているわけではない。全てを知らされているわけではない。……だが、これは妄想でもなんでもなく、事実だ。夕呼がそう明言したわけではないし、みちるの推測が混じっているのも否定はしない。だが、これが妄想だとするならば、それは九割九分九厘真実に近い妄想だろう。

 『概念実証機』の生まれた経緯を顧みれば、それは一目瞭然だ。

 ドッペル1――鉄、という名の精神異常者。その存在がもたらした『概念機動』。それを基にして生まれたのが件の新型OSである。……これは、夕呼自身がそう言っている。以前から理解していたことだ。……香月夕呼は今、追い詰められている。

 彼女が追い詰められるほどに、AL4の達成は極めて困難であり、だからこそ、世界を救い得るのだということ。それを忘れさえしなければ、例え時間稼ぎのために生み出された新型OSだろうがなんだろうが、利用して、生き延びて、世界中に希望を与えて――いつか、その本来の成果を達成できるための礎となれたなら。みちるは、その生に満足して死ねる。否――生きて、生き延びて、いつか人類がBETAを駆逐するその日まで、戦い抜いてみせる。礎程度で満足できるわけがない。AL4の副産物として開発された『概念実証機』で“これ”ならば、AL4の本来の目的である何某かが完成した際には、いったい“どれ程”だというのか。

 それを目の当たりにするまでは、死ねないし、死なせない。

 新型OSは紛れもない希望だ。夕呼自身にとってはその場凌ぎの時間稼ぎにしかならないのだとしても、けれどそれは紛れもなく、戦場で戦う衛士たちにとっての希望である。その希望を掲げ、人類反抗の先駆けとなるのが自分たちA-01の使命というなら、それは全身全霊を以って成し遂げるのみ。

 みちるは踵を返すと同時に、強く拳を握る。誰知れず、密やかに闘志を燃やす彼女は、時代が変わるその瞬間を確信して、叫び出したい衝動に駆られていた……。







 ===







「武、どこ行くの?」

 掛けられた声に、足を止める。声の主はわかっていたのだが、武は彼女の方へゆっくりと振り返った。鈴のような張りのある声。表情がころころと変わって、感情豊かな、少し天邪鬼な素振りのある少女。白銀武にとって最愛の女性であり、鑑純夏と共に胸中を占める護りたいひと。

 涼宮茜。いつものジャケット姿の彼女を見れば、アンダーシャツだけでうろついている自分は些か気候の変化に応じていないのかもしれない。益体なく考えて、武は苦笑した。夕方と言うには早いが、既に陽が傾き始めている。少女と同じ名前に染まる空をチラリと見上げて、笑顔で駆け寄ってくる茜を待つ。それほど距離も離れていなかったため、茜はすぐに武の隣に並び……二人はゆっくりと歩き始めた。向かう先は基地外部に通じる門。衛兵が二人、歩哨に立っている。

「ちょっと、な。上川少尉に会いに行くんだ」

「――上川、少尉……」

 前を向いたまま答える武に、茜は小さく息を呑んだ。

 その名前には聞き覚えがあった。かつて、任官したその日に武自身が聞かせてくれた、暴走の果ての惨劇……そのとき、武の命を救ってくれた先達の一人。確かに、武はその人物の名を零すように呟いていたのだ。

 言葉を噤むような茜の反応に、ああそうか、と武はもう一度苦笑して、

「悪い。初めてだったな、茜は。…………この基地の外、桜が植えてあるだろ? そこには『明星作戦』で戦死した英霊達の魂が眠っている……って、これは水月さんからの受け売りだけどさ、」

 夕呼直轄のA-01部隊に所属する衛士は、その特殊性故に例え戦場でその命を散らしたとしても、公式には“訓練中の事故死”としか記録されない。基地の片隅にある合同墓地に埋葬されるが、実際のところ、戦死した者の中で死体が帰還した例はほぼ皆無といっていい。死体がないのに、形式上、或いは処理上の手順として、墓地に穴が掘られ、そこに収まるべき者のない埋葬が執り行われるのだ。

 それは……あまりにも、その者にとって報われず……なにより、残された者たちにとって堪らない。故に、肉体は滅んでも魂は死なない――戦死した英霊は皆、この桜の木に還ってくる――という謂れが、横浜基地内には根付いている。武自身、そして茜も、訓練兵の頃には聞かなかった話だ。この基地の歴史は浅いが、『明星作戦』から数えれば既に二年以上経過しているし、それ以前の横浜襲撃まで遡れば三年近い時が過ぎている。

 訓練兵には耳にする機会がなくとも、実際に戦場に出てその命を懸けて戦い続ける軍人達にとっては、その話はある種の精神安定剤となっていたのではないだろうか。――例え戦場で肉片も残らず蒸発しようとも、BETAに噛み砕かれ引き千切られようとも、“還ってくることが出来る”、“還る場所が在る”――きっと、それは残された者のための慰めにしか過ぎないのだと知っていても、理解していても。それは縋るに値する。いいや違う。それは明確な拠り所の一つとなるだろう。自身を支える、標の一つとなるだろう。

 そういう意味合いをあの桜は持っているのだと説明しながら、武と茜は門を出る。型どおりに部隊証を提示し、外出許可証を提出する。茜はちゃっかりと武と連名にして処理を済ませ――そして、その場所までやってきた。

 秋も深まり、直に冬になろうかという季節。葉さえ散り落ちた桜はどこか物悲しさを漂わせる。かつて水月に連れられてやってきたその場所に、今、武は自らの意志で立っていた。傍らにいてくれる茜を嬉しく感じながら、武は寒々しささえ感じさせる幹に、最敬礼を向ける。

「……上川少尉、お久しぶりです」

 上川志乃。そして、岡野亜季、篠山藍子、木野下中尉。――皆、武の命を救ってくれた恩人であり……未熟で愚かだった武の暴走が原因で散った命である。あの時の後悔は今でも拭えない。あの時の恐怖は今でも拭えない。己の暴走が引き起こした悲劇を、武は今でも顔に残る傷と共に背負っている。

 ……矢張り、この場所に立つと足が震える。今でこそ愚かだった自分を見つめ返すことが出来るが――それでも、志乃が墜落する光景、BETAに食い散らされる光景は網膜に焼き付いているし、両脚を強酸で溶かされた亜季の絶叫は鼓膜にこびり付いて離れない。藍子や木野下が一瞬にして塵と消えた瞬間の、氷のような恐怖が全身を包み込む。

 だが。

 武はここに後悔をしに来たわけではない。志乃たちに無様な姿を見せるためにやってきたわけではない。ここには報告に来たのだ。救われた命、戦い抜く意思、守護者としての誓い。そして――人類が到達した、一つの希望……。

「少尉に救われた命を、俺はどうにか無駄にせず生きています。少尉たちが俺を救ってくれたから、今の俺があるんです。俺は生きます。これからも、この先も、上川少尉が、岡野少尉が、篠山少尉が、木野下中尉が……命懸けで救ってくれたその行為を、絶対に地に落としたりはしません。決して無駄なんかじゃなかった、ってこと。俺は、生きて、生きて、証明し続けます」

 たくさんの間違いを犯した。たくさん道を踏み外した。一度は奈落の底まで堕ちた外道。それでも這いずり、這い上がり、足掻いてきた。想いをくれる最愛の人。支え、導いてくれる先達、師。多くの人たちの助けの上に、武は立っている。こんなにも多くの人々に、武は助けられている。――武は、笑った。

 桜の木に、その場所に眠る――志乃たちの魂が海を渡り大地を潜り、ここに宿っていると信じさせてくれる……桜に。

「俺は負けません。俺達は、絶対に負けません――」

 訥々と、武は語りかける。『概念実証機』という新たな境地。夕呼の開発した新型OSの素晴らしさ。たった一個中隊で成し遂げた快挙。ただ一方的なまでの虐殺。BETAに脅かされるだけだった数ヶ月前までとは、まるで世界が違う。

 戦える、のだ。人類は。

 負けはしないのだ。――俺達は。

 拳を握り、桜へと突き出す。ゆっくりと手の平を開いて、幹に触れる。たった数ヶ月で、自分はどれだけ成長できただろう。あの七月の悪夢のような戦場から、既に四ヶ月が過ぎた。己に降りかかった運命の暴虐さに人道を踏み外した八月から、既に三ヶ月が過ぎた。

 あれから自分は、どれだけ前に進むことができただろう。ただ未熟で愚かだった自分は少しはマトモになれただろうか。茜を愛し、純夏を愛し、真那の信愛に己の往く道を晴々とした気持ちで見据えている自分は、あの頃と比べて、一体どれだけ――「生きて」いられるだろうか。重傷を負い、血まみれの自分を助け出してくれた彼女は、武にとって何にも換え難い弧月を手渡してくれた彼女は…………今の自分を見て、安心できているだろうか。

 左手を、茜が握ってくれる。身を寄せて、頭を武の肩に預けて……そっと、頷いてくれる。

 右手の平を通じて、志乃の笑顔が見えた気がした。――ああ、幻想でも構わない。武の頬を抉る傷痕に、一筋の涙が零れる。滴は顎を伝い、頬に触れてくる茜の指先に落ちて――――唇が、触れた。ほんの僅かの、柔らかな息吹。吸い込まれるように、彼女の瞳を見る。



 気づけば、茜を抱き、――求めていた。



 唇を、鼓動を、想いを。

 決して彼女には伝えまいと決めていたはずの、愛情を。純夏を愛し、そして茜さえ愛している男の卑俗な傲慢を。…………それでも、茜は受け入れてくれた。胸の高鳴りを感じる。密着する体と身体が、熱を持って脈打っている。ただ抱き締めて唇を触れ合わせるだけの行為は、けれど、蕩けそうなくらいの幸福と安心をくれて――、



「おめーらいい加減にしろォオォオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」

「「!!???????!!」」



 がおーん、と咆えたのは真紀だった。すぐ耳元で突然咆えられた武と茜は抱き締めあったまま硬直し、驚愕の表情で真紀を見る。見れば、そこに居たのは真紀だけではなく。頬を染めてそっぽを向いている旭、さぁはやく続きをなさい、と期待に満ちた眼を向けている慶子。左手になにかのケースを持ったままにこやかに微笑んでいる梼子……要するに、一期上の先任が勢ぞろいしていた。

 チョップチョップ!! 奇声を上げながら武と茜の間へ手刀による攻撃を繰り出してくる真紀に気圧されて、二人は慌てて離れる。その瞬間、名残惜しいと感じてしまったのか、互いに視線を交わす仕草を見た真紀が、更に咆える。その表情は真っ赤を通り越して茹っていた。あまりに常軌を逸している先達の奇態に戸惑いを見せる武に、くすくすと微笑みながら、梼子が説明してくれる。

「真紀さんは、ああ見えて純情なんですよ、白銀少尉」

 にっこりと笑顔を見せた後、なんとも艶めかしく、そして恐ろしい流し目をくれる梼子。瞬間、背筋を悪寒が走ったのは言うまでもない。どうやらそれは茜も感じ取ったらしく、背後で息を呑む音が聞こえていた。――つまり、最も見られてはいけない瞬間を、多分かなり見られてはいけない人に目撃されたらしい。狼狽したままの思考回路がそう結論付けると同時に、武はその場に崩れ落ちた。ああ――美冴の満面の笑みが眼に浮かぶようだ。いや、顔を真っ赤にして怒り狂う水月か? 或いは晴子と薫のからかいの声。多恵の狂態、亮子の暴走……エトセトラエトセトラ。

 想像するだけで恐ろしい。この後に待つ惨劇を想像して悲観に暮れる武の背後で、茜が乾いた声で笑っている。標的が武だけですまないことを、彼女もまたよく理解していた。

「ほら、真紀。いつまでも暴走してないで……」

「そ、そうですわよ。人の恋路を邪魔する無粋な輩は、馬に蹴られてなんとやらですわ」

 落ち込む武を見て幾分冷静になったのか、旭が宥めるように真紀の肩を叩く。ヨコシマな感情を顕にしていた自身を恥じているのか、取り繕うような慶子の言葉はむなしいくらいに説得力がないが、そこをフォローするのが梼子の役目でもある。そうしてようやく落ち着きを取り戻したらしい真紀は両肩を上下させて激しい呼吸を繰り返している。ぜーはー、と冗談のような息切れを起こしているが……本当に大丈夫なのだろうか。

「ああびっくりした。ちゅーなんて初めて見たよ、うん」

「……いや、真顔でちゅーとか言われましても…………」

 胸を撫で下ろしながらサッパリと言われてしまい、武は呆然とするしかない。これが本当に数秒前まで奇態を晒していた人物と同一なのかと疑いたくなるが、残念なことに彼女はやっぱり真紀であった。尊敬すべき先達……のはずなのだが、どうしてもこういう部分が尊敬したくない。そんな奇妙な感慨を武たちが抱いていることを、当人は全く気づいていないのだが。さて。

 なんだかバツが悪くなって、武は茜共々この場を去ることにした。武自身の用は済んでいたし、なにより、梼子の手にしているケースの中身に思い至って、先任たちの邪魔をしたくないと考えたからだ。姿勢を正して四人へ敬礼を向ける。真面目に答礼してくれたのは梼子だけ。旭と慶子の二人は若干目が泳いでいたし、真紀はさっさと去れと言わんばかりのあしらい方だった。

 そんな彼女たちにげんなりと肩を落として、とぼとぼと坂を上る。隣りを歩く茜は苦笑していた。――初めてのキスの感触も、感情も、なにもかもが吹っ飛んで。それでも、確かに通じ合えた。それをこそばゆいと感じ、温かくなる胸に涙が出そうなくらい喜びを感じていて……。

 笑顔が零れた。茜も、武も。互いの顔を見やって、困ったように、可笑しいくらいに、笑って、声を上げて。

 振り返れば梼子がヴァイオリンを奏でる音が響き、尊敬する先達達が、その場所に眠る英霊と楽しそうに会話に花咲かせていた。

「――茜、俺はお前を護る。絶対に、俺がお前を護るから」

「うん。私も、武を護るよ――」

 それは果たして、あの時と同じ言葉か。茜は今朝の、初陣に身を硬くしていたそのときを思い出した。護ると言ってくれた武。死なせはしない、と。そう強く言ってくれた武。……愛している。心から。だから自分も彼を護る。護りたい、支えたい、傍に、居たい。そう願う。恋ではなく、愛執でもなく。

 それは、ただ、彼と共に生きたいと願う――ささやかな、愛情。

 互いに愛し合い通じ合った心と想いは、けれど、それ以上はなく。武は前を向いた。進むべき道を今再び見据えている。茜を愛している。彼女のことを護り抜く。触れた唇、手の平、身体。柔らかな彼女の温かさ。その感触を狂おしいほどに求めながら――それでも。「それでいいのだ」と。自身を縛る。それは戒めであり、それは背徳であり、それは欲望で……二人の女性を同時に愛している自分への、枷だ。

 そして茜はその武の葛藤を知り、けれど、強く抱いてくれた彼の情動を知って。恍惚とした感情が芽生える。満たされている――そう信じられる。自分は選ばれることはないと知っていたのに、ただ傍に居られるだけでいいと納得していたのに。求めてしまったのは茜だ。そして、求めてくれたのは武。……けれど、もう、十分に満たされたから。

 だから二人は。武は、茜は。

 前を見据え、進むべき己の道を見据え。――ただ、与えられた勝利への鍵を。BETAへの反撃を。『概念実証機』の性能を更に引き出すために。人類に希望という名の輝きを与えるために。ただ、我武者羅に。

 戦って。生きて。――勝ち取れ。奪い返せ。世界を。平和を。ニンゲンという名の、命の煌きを。

 今は、そのときだ。

 武は弧月の鞘を握り締める。最愛の幼馴染を奪い去ったBETA。彼女を護る力を欲して衛士を目指し、進むべき道を喪い、復讐に身を委ね、愚かしいまでに醜い生き様を晒して。それでも今、生きている。「生きて」いられる。純夏を護る。茜を護る。愛する彼女達を護り抜き、この身が滅ぶまで傍らに在り続ける。きっとその頃にはBETAを駆逐して世界に平和が戻っていて……そして、AL4は人類を救うのだ。

 ああ、そうだ。だから、そのために戦おう。希望の光は既にこの手の中に在る。進むべき道はハッキリと目の前に開けている。

「俺は、もう――間違えない」

 無意識に呟かれたその言葉を、茜は胸に刻んだ。ならば、自分はその彼の往く道を共に進もう。いつかその道を振り返った時、彼が己の為したことを過ちと疑う日が来るならば、胸を張ってこう言ってやるのだ。

「武は、間違ってなんていないよ――」

 驚いたような武の表情。茜は小さく微笑むと、次の瞬間には――まるで、向日葵が咲いたような眩しい笑顔で、






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 2001年11月24日――







 運び込まれた紫紺の機体を見上げて、御剣冥夜は複雑な葛藤に苛まれていた。――武御雷。帝国斯衛軍が駆る、日本という国を象徴する最強の戦術機。如何なる理由があろうと斯衛以外の何者かに与えられることなど在り得ない、真実、国に忠義を尽くし、選ばれた者のみが賜ることが出来る機体。

 まして、紫とは。

 斯衛軍には明確な格差が存在する。それは階級という軍属にとっての絶対の肩書きさえ翳ませ、絶大にして絶対の優劣。「色」という名の、格差社会がそこに在る。そもそも斯衛軍に選ばれる基準とは愛国心、忠誠心、品位・品格・品性を兼ね備えることは当然、他を圧倒する実力と、智慧、判断力等――全てを挙げ連ねることが困難なほどの、複雑極まるもので、斯衛の一員となるためにはそれほどの厳しい審査と試験を潜り抜け、名実共に認められなければならない。

 家柄だけで選ばれるほど、ぬるい組織ではないということだ。……ただ、斯衛として成ったそのときに、自身の家名に与えられた「色」を賜り、そこに列記とした格差が生じる。結局は名のある家の出身の者が高い地位に就くことになるのだが……総じてそれらの人物は傑物であり、真実、“上に立つ者”としての風格を持ち備えている。傲岸なる権力者……名と権力に威を振るう下衆は、斯衛には存在しない。――否、存在を許されないのだ。

 つまり、斯衛とは、将軍家縁の者を守護する最強にして最高峰の衛士が肩を並べる、帝国を象徴する素晴らしき栄誉と誇りを賜った集団を指す。同様に、彼らのためだけに開発、配備された武御雷も然り。

 斯衛の階級として定められている青、黄、赤、白、黒の各色にはそれぞれ意味があり、武家に名を連ねていない民間の衛士では、どれ程に優秀であろうとも黒しか賜ることはない。だが、前述したように斯衛に選ばれるということは、ただそれだけで隔たりなく帝国を背負う最強の一人として認められたということであり……故に、帝国軍人にとっての彼らは強い憧れであると同時に、心強い勇気を与えてくれるのである。

 格差は在れど、それが日本という国を象徴し、その頂点に立つ政威大将軍の威光を磐石とするならば、誰一人とて不平を抱くものはいない。――ために、そう。

 紫とは、本来、将軍を指す貴色である。日本国内でただ一人に許された高貴なる「色」。ならば紫紺の武御雷とは、即ち、政威大将軍が駆るべき機体であり……この世に唯一機の、常人であるならば触れることすら憚られる代物であろう。

 それが、今、搬入され……冥夜が属する207B分隊に与えられた練習機吹雪に並んで固定されていた。機体に取り付いて作業を進めていたのは帝国からやってきた整備士達だろう。冥夜の守護を拝命し、この基地に駐留する月詠真那の警護小隊付の整備士。遠巻きに彼らの作業風景を眺めていた国連軍の整備士の一人が、興味本位で武御雷に近づこうとする。が、その青年はすぐさま班長に殴り飛ばされ、その場は解散となった。まるで腫れ物を扱う風である。

 一部始終を見やった冥夜だったが……彼女はあの整備士の気持ちもよく理解できるつもりだった。――なにせ、目立つ。嫌味ではなく、それは日本人であるならば絶対に眼を惹いてやまない機体だからだ。
現に同期の珠瀬壬姫などは歓声に近い声を上げて既にタラップを降りて行ってしまった。自らの思考に没していたために気づくのが遅れ、呼び止めることが間に合わなかった。

 楽しそうな壬姫の声が響く。装甲に自身の顔が映りこむほどに磨かれた機体を、ぺたぺたと触る少女を見て、同期の面々が微笑ましく見つめていた。――そのとき、

 パシン!

 乾いた音が格納庫に響く。壬姫を呼び止めようと中途半端に伸ばされた手が、苦々しく握り締められる。冥夜同様にその瞬間を目撃したほかの同期たちも瞠目している。ギリッ、と爪が食い込むほどに握られた拳をそのままに、冥夜はタラップを駆け下り、呆然と尻餅をつく壬姫の元へと向かった。

「貴様のような者が触れて許されるものではないぞ!」

「これは冥夜様だけのためだけに存在するもの!」

「この程度で許されることを幸福と思いなさい!」

 突き飛ばされた衝撃と、目の前に並び立つ人物の眼光に竦みきって動けない壬姫を助けようと、207B分隊の全員が詰め寄ったが……そこに立つ彼女たちの素性に気づいた鎧衣美琴が、喘ぐように言葉を紡いだ。

 ――帝国斯衛軍……。

 その言葉は愕然と響き、同時に、えもいわれぬ緊張を孕ませた。

「珠瀬!」

 榊千鶴と彩峰慧に助け起こされた壬姫の傍に、冥夜が寄る。千鶴が安否を問うが、恐怖を滲ませたままの少女は怯えたように視線を彷徨わせていた。それを見て、冥夜は更に拳を強く握る。…………なぜ、どうして。そんな葛藤が、ギリギリと食い込む爪の痛みに重なって……。

「月詠……中尉、一体どういうつもりですか……」

 滾るような感情を押さえ込み、冥夜は壬姫を打ち据えて突き飛ばした人物――真那を見据える。紅の装束を纏い、碧緑の長髪を腰元まで伸ばした美麗は、先程までの厳しい顔つきを哀惜に歪め、嘆くように応える。――私どもにそのようなお言葉遣い、おやめください。その言葉に込められた、明らかに壬姫に対するそれとは異なる感情を感じ取った千鶴たちは、ただ黙って成り行きを見つめるしかなかった。

 わかっていたことだ。――御剣冥夜は、将軍家縁の者。彼女にはいつだってその守護を命ぜられた斯衛の警護小隊が付き従い、訓練の最中も陰ながら見守っていた。まして、彼女の相貌を見れば……詮索してはいけない事情でもあるのではないか、と。容易に想像できてしまう。そして今回、極め付けが――紫の武御雷だ。

 いや、今はそれはどうでもいい。……大事なのは、壬姫が無事であることだ。真那については、冥夜に任せるほかない。なにせ相手は斯衛で、しかも上官である。本来ならば訓練兵に過ぎない自分たちが口ごたえしていい相手ではない。それは真那の背後に控える白い装束を纏った三名の少尉然り、だ。彼女たちは冥夜に忠誠を誓い、冥夜の命を護るためだけを至上とする、誇り高き斯衛軍衛士。彼女たちの心情を思えば、確かに壬姫は迂闊だったのだろうし、許されざる大罪、ということなのだろう。

 問い質す冥夜に、真那は非礼を詫び、型どおりの謝罪を壬姫へ述べるが……本当に、信じられないくらい……彼女たちの目に映る真那は、“白銀武の剣術の師匠”の姿とはかけ離れて見えた。

 それが、冥夜には辛い。否、彼女だけではない。武と真那の美しくも微笑ましい師弟関係を目にしたことのある全員が、あまりにも冷徹に過ぎる彼女の姿に――これが“斯衛”の本来あるべき姿なのか――と。恐怖に似た納得を得る。それは、悔しいくらいに悲しい現実だった。同じ日本人でありながら……けれど、斯衛は斯衛としての役割こそが何よりも優先し、至上であるがために。

 ならばこそ、武はイレギュラーだったのだと。ようやくにして千鶴たちは思い知っていた。詳しいことは何も知らない自分たちだったが、それでも、少なくとも、武と彼女の間にはこんなにも冷徹で寒々しい断絶はなかったように思う。

 ……冥夜のために武御雷を用意したという真那を、冥夜は不要の一言で切り捨てる。だが、それでも真那は退かない。

「この武御雷は冥夜様の御為にあるのです。冥夜様のお傍におくよう命ぜられています。……どなた様のお心遣いかは冥夜様が一番ご存知のはず……。どうか、そのお心遣い、無碍になさいませぬよう」

 諭すような真那の言葉に、感情を顕にしていた冥夜が、まるで苦虫を噛み潰したような表情をする。不承不承、「勝手にしろ」と言い捨てた冥夜へ、真那と部下の三名は謝辞を述べ、丁寧に頭を下げた。去ってゆく真那たちを見つめる皆の表情は重い……。壬姫は今にも泣きそうな顔をして冥夜に謝罪し、冥夜は――戦友であり、仲間である彼女に謝られることを悲しいと感じていた。

 総合戦闘技術評価演習を潜り抜け、見事合格を果たせたその一端を、間違いなく壬姫は担っていた。スナイパーとしてずば抜けた才能と実力を持つ彼女の狙撃があればこそ、演習の最終局面は比較的容易に切り抜けることが出来た。壬姫だけではない。慧の巧みなクライミングは深い渓流を渡るために役立ったし、美琴のサバイバル能力は演習中いかんなく発揮されていた。千鶴の明晰な指揮能力と、それを支えた冥夜。……一人でも欠けていたなら、お互いの心が僅かでもすれ違っていたなら、決して合格できていなかっただろう。

 そんな困難を共に潜り抜け、今このときを迎えられているというのに……向けられた壬姫の謝罪は、ひどく冥夜を揺さぶる。同様に、居た堪れないという表情を見せる彼女達を見て、無言のまま、冥夜は聳え立つ武御雷を見上げるしかなかった。

 白銀武という人物は、冥夜にとって大切な友人と思える存在だった。彼と、彼に焦がれる涼宮茜。冥夜が国連軍に入隊してすぐに、真那を従えている姿を目撃された。……そのときを、思い出す。

 その時、彼は、彼女は。本当に、冥夜にとって嬉しい言葉をくれたのだ。日本人ならば誰だって、将軍家縁の者と知れば冥夜から距離を置く。畏れ多い、そんな感情が先に立って、本当の意味で心を許せる人、という存在は、実のところ数えるしかいなかった。そんな冥夜に、武と茜は言ってくれたのだ。“仲間”――と。冥夜が何者だろうと関係ない。そうやってハッキリと言ってくれた武は誰よりもはやく単身で任官し、特殊任務に従事している。そして、茜もまた、A分隊と共に任官を果たし、前線で戦っているのだろう。

 彼らを思えば、勇気がわく。追いついてみせる、という気概が漲る。だからこそ、冥夜は今一度壬姫を見つめて、皆を見つめて、

「私は、そなたたちに出逢えて、幸福だと思う」

「――な、なによイキナリ……っ」

 微笑みさえ浮かべて言い切った冥夜に、千鶴が頬を染めて狼狽する。いや、千鶴だけではない。その微笑に見惚れた全員が、驚きながらも頬を染めている。

「な、なんですかー? 突然……」

「冥夜さん、急すぎるよ~っ」

「御剣、恥ずかしいね……」

 思い切り照れながらも、それぞれ微笑ましい反応をくれる。それらを全部受け止めて、冥夜はもう一度笑った。その笑顔には、将軍家縁者としての自分も、自分と武以外には決して斯衛以外の己を表そうとしない真那への葛藤も、紫の武御雷に託されたかの人の想いも……そして、大切で尊敬する“仲間”たちへの友情も。

 全てが、込められていた。――だから、私は突き進むのだ。

 己の選んだ道を。例えそれがあの方の想いを裏切ることになろうと、それでも、影となり微力ながらも支えとなれるように。冥夜は、自らが進むべき道を突き進む。言葉にはしないその意志を感じ取ったのか、仲間達が微笑んでくれる。先程までの居た堪れない空気はどこかへ消し飛んで、今ここにあるのは、苦難を乗り越え遂にここまでやってきた自分たちを、互いに誇らしく思う気持ちだけだ。







 微笑みを交し合う冥夜たちを見て、真那はほっと胸を撫で下ろすかのような表情を浮かべた。冥夜のもとから去り、格納庫の角を曲がったところでこっそりと窺うようにしていたのだが、どうやら杞憂に済んだらしい。

(冥夜様は、素晴らしいお仲間に恵まれた……)

 それは、本心からの想いである。つい先程こそ冷酷で厳格な態度をとったが、別に真那は壬姫を嫌っているわけでもなければ、冥夜の同期たちを蔑んでいるわけでもない。優秀な訓練兵として認めているし、彼女たちが冥夜の心の支えとなってくれていることを切に感じ取り、感謝さえしているのだ。――恐らく、それを伝えることはないだろうが。

 だが、斯衛という立場上、否、それに依らずとも、真那はあの紫の武御雷を大切に想っていて、そこに込められたかの御方の御心を想えば、冥夜以外の何者かが触れることなどは断じて赦せないのも事実。無防備にも機体に触れた壬姫への対応を、真那は恥じていないし、後悔もしていない。……このあたりの感情が矛盾しているのではないかと自分でも思うが、しかし、それもまた、本心である。

 奇妙な感覚だ、と。真那は眼を閉じて反芻する。

 そもそも、当初は冥夜が国連軍に入隊することさえ反対だった。――いや、それは今も尚、なのだが。まして、下賤の者共と一緒に生活し、訓練に明け暮れるなどと。

 冥夜自身がそのような苦労をせずとも、彼女を護るために自分たちがいるのだ、という想いが強かったし、真那自身、冥夜を守護することこそが至上であったために、それはある種の裏切りに思えた。――それほどに自分たちは冥夜の守護役として不足なのか。……そういう悔しさがあったことは間違いない。だが、そうではないのだ。国を護りたいという冥夜の想いはよくわかるし、民を愛し、将軍を影ながら支える一つの力となれればよいと願う彼女の決意、そういったものを真那は知っていた。冥夜から向けられる信頼と信愛の全ては、胸が一杯になるくらいの喜びと共に満ちている。

 冥夜の想いを理解し、彼女の決意を理解し……けれど、心のどこか片隅で、それでも、彼女にはそのようなことに手を染めて欲しくないと願う身勝手な自分がいる。それはきっと、幼少の頃より冥夜の傍仕えをしてきた自らのエゴであろうし、願望なのだろう。

 だからこそ、壬姫や千鶴たち冥夜の同期兵を「よい仲間」だと理解、認識しながらに……冥夜と同列に扱うなど言語道断、という思考が働いてしまう。それはきっと、斯衛である以上一生ついて回る性のようなものだろう。冥夜こそが全て。そして、勅命を下す政威大将軍こそが全て…………。故に、あの紫紺の武御雷に込められたあの方の願いは、必ず、届けて見せると誓っていたのだ。

 ――そして、冥夜はそれを受け取ってくれた。不承不承ながら、ではあるが。せめてこの場所に、冥夜の傍らに置いておくことを是、と頷いてくれたのだ。……よかった、という安堵があった。同時、喜ばしいことだと歓喜が沸き起こる。少なくとも、冥夜はあの御方の御心を理解し、受け入れてくれたのだから。……決して相見えることの叶わぬ二人の主の愛情を感じて、真那はほう、と息を吐く。

 これ以上ここに居る必要はない。むしろ、ここに残り続けてまた彼女たちの目に映れば、前途多望な訓練兵に要らぬストレスを与えかねない。……その程度でへこたれるような脆い精神力しか持ち合わせていないならば早々にこの基地から立ち去るべきだろうが、あくまで真那は彼女たちにとって部外者である。食客としての立場を通すならば、あまり基地内を歩き回るものでもない。

 冥夜が紫紺の武御雷を受け取った。――ならば、このたびの役目は終了。後は常と同様に、影ながら冥夜の守護の任務に就く。

「……真那様、」

「なにか」

 冥夜たちを窺っていた場所から移動しようと踵を返すのと同時、部下の神代巽が控えめに呼び掛ける。恐らくタイミングを計っていたのだろう巽に応えると、幼さの残る少女は無言のまま背後を振り返り、視線でそちらを示した。なにごとかといぶかしんでそこを見れば、国連軍の黒い軍服に身を包んだ衛士が二人、並び立っている。小豆色をした髪の女性大尉に……顔の左に傷を負った青年。

 伊隅みちると、白銀武。特務部隊A-01――夕呼直轄の、いわば私兵とでも言うべき部隊に属する部隊長と一兵卒。それが並んでいることも奇妙なら、わざわざ格納庫までやってきて、しかも真那を名指しで尋ねてくるなどもってのほか。奇妙以前に不審すぎる。元々が国連によい印象を抱いていない真那にとって、彼女の……そして、彼の来訪は予期せぬことであると同時に不吉極まりないものだった。

「月詠中尉、突然やってきた非礼を許して欲しい」

 微笑と共にそう切り出したみちるに、真那は無言で返す。相当に嫌われたものだな、と。ちっとも困っていない様子で苦笑するみちるに、真那は国連軍衛士の中で唯一尊敬の念を抱いている神宮司まりもに近い感覚を覚えていた。醸し出す雰囲気、或いは身に纏う空気……そういうものが、“似ている”。それとはまた違う意味で繋がりのある武を見れば、無言のまま、微塵も表情を崩さぬまま、腰に弧月を提げて、直立不動を突き通している。どうやら今回の話に彼が口を挟むことはないようだった。……それは当然だ。わざわざ大尉階級の、しかも中隊長が直々に出張っているのだ。そこに少尉風情が立ち回る余地はあるまい。

 では、そんな少尉を引き連れているのは何故か。――決まっている、真那と武が師弟関係にあるからだ。それも、斯衛という特殊な立場にいる真那が、明らかに私情の部分で弟子とした彼である。みちるの目的がなんなのか判然としないが、真那を揺さぶるには丁度よい材料ということだろう。……無論、武がそこにいる程度で揺らぐほど真那は落ちぶれてはいないし、斯衛としての立場を忘れることもない。既に武は己の道を見出し、自らの足で歩き始めている。師としての役目は当に終えた。故に、そこに立つのは国連軍少尉にして特務部隊の衛士。ただそれだけだ。

「……大尉殿が私に斯様な用件があるのか、お話願えますか」

「ああ、すまない。勿体つけるつもりはなかった。――月詠中尉、香月博士がお呼びだ。ついて来い」

「「「――ッ!?」」」

 真那が探るような視線を向けて問えば、みちるは涼しげに笑った後、一瞬で眼光を鋭くし、断固たる“命令”を発した。それは階級だけを見るならば確かに理にかなっている、或いは立場に沿っている……そう言っていいものだろう。だが、特務部隊所属とはいえみちるは国連軍、そして真那は帝国斯衛軍……あまりにも立場を違え過ぎている。しかも真那は独立警護小隊としてこの横浜基地に駐留している。つまり、完全に独立した、言うなれば一個の軍隊として存在しているのだ。極端な例を挙げるならば、例え横浜基地司令の命令であろうと聞く必要はない、ということだ。

 無論、真那とて自身の立場は理解している。彼女たちにとっては冥夜の守護こそが最優先事項だが、それ以外の全てを蔑ろにして、横浜基地内での立場を危うくするわけには行かない。食客として衣食住を当基地に委ねていることを思えば――いや、それ以前に軍人としての立場を鑑みれば、矢張り上位階級に在るものの言は、話くらいは聞いてやるという譲歩が必要になる。

 真那の背後に控える部下の三人が不穏当な気配を放ち出すが、真那は言葉なくそれらを制する。真正面からみちるを見据え、暫し睨み合った。その間、微塵たりとも視線を揺るがせなかったみちるは、ただそれだけで凄まじい実力を秘めた衛士なのだと理解できる。戦術機の操縦技能で劣っているとは思わないが、軍人として、人としての格の違いというものを認めざるを得ない。みちるの瞳には、それほどの固い決意が込められていた。

「…………了解した。――お前達は残り、冥夜様の守護を、」

 睨み合うこと数秒、眼を閉じて首肯する真那に、巽たちが瞠目する。何事か口走ろうとした彼女たちに有無を言わせず命を与えると、真那は目を開き――ちらりと武を見てから、みちるに向き直る。瞬間、ニヤリと口端を吊り上げたみちる。

「…………」

「…………」

 どうも無意識に武へと向けた視線を、しっかりと見られていたらしい。したり顔でニヤニヤ笑うみちるに内心で炎を揺らめかせながら、けれど表面には一切出さず、真那は立ち振る舞う。……そこでどうして武が震え出すのかがわからない。わからないが、とりあえずこのなんともいえない不快感の捌け口は彼に求めることとしよう。

 歩き出したみちるに付き従う形で真那も歩を進め……隣りを歩く武を視線でいたぶる。その度に言葉には出さずうろたえる武の反応は愉快だったし、矢張りそれを気取っているみちるには沸々とした感情が起こる。……まるで、一年前に出逢ったあの女性衛士のようだ。あの衛士とは全然異なるタイプだが、みちるのどこか真那をからかうような素振りは気に入らない。故に、ますます武への風当たりは強くなり…………。



 国連軍大尉と斯衛軍中尉の橋渡しとなるべく抜擢された武は、結局一言も発することなく、けれど誰よりも憔悴した様子でブリーフィングルームまでやってきた。

 室内には白衣を纏った夕呼、秘書官のピアティフ中尉、A-01副隊長の水月が居た。みちるが一歩進み出て、真那を連れてきた旨を報告すると、夕呼が大儀そうに頷く。真那一人を残して、みちると武は夕呼たちの側へと移動した。広い室内に一人、真那は孤立したような錯覚に陥る。いや、事実、孤立しているのだろう。黒い軍服に囲われた赤い斯衛の制服が浮き上がっている。これだけの人数が同時に牙を剥いたとなれば、流石の真那でも手を焼く。初見で計り知れるほどみちるは容易な相手ではなさそうだったし、見覚えのあるあの女性衛士は以前より遥かに実力を身に付けているように思える。……弟子である武には一対一で負けてやるつもりはないが、これら三名を同時に相手取り、生き残れる可能性は極僅かなものだった。

 ……勿論、一体何が目的で連れてこられたのかさえまだ耳にしていないのだが、いざという時に備えておくことは決して悪いことではない。たかがコンマ数秒の思考など余人には真実瞬く間のことでしかないし、その間に真那が成すべきことは全身の筋肉を緩やかに待機させ、いつでも抜刀できるように備えるのみ。部屋の入口は真那のすぐ背後にあるし、全員との距離を一定に開いている。咄嗟の時には逃げればよい。そうできるだけの段取りは最初から出来上がっていた。

「そんなに警戒しなくてもいいわよ。それとも、この程度で弱気になったのかしら? 斯衛が聞いて呆れるわねぇ~」

「……、」

 白々しいまでの揶揄が、夕呼の口から零れる。真那のみならず斯衛全てを侮辱するかのような発言に――室内の空気が、間違いなく凍りついた。それが夕呼なりのスキンシップの一種なのだと知っているみちるたちだが、流石に今回は話が違う。なにせ相手は中尉とはいえ……斯衛である。しかも「赤」だ。地位的なもので言えば間違いなく夕呼がトップに立っているが、彼女の背後に控える帝国の名家の威光を思えば、冗談では済まされない可能性もある。

 無論、真那が家の威光を振りかざすようなことはないし、夕呼とて斯衛の衛士がその程度の器でないことは承知している。が、この場合、そういった真那のプライドと信条を理解している上で、敢えてそのように揶揄するのだから性質が悪い。ピアティフこそ涼しい顔で立っているが、残る三名は内心気が気でなかった。……特に、見るからに怯えた表情を夕呼へ向ける武などは可哀想なくらいだ。真那のことを多少は見知っている程度のみちると水月はそれほどではなかったが、明らかな怒気を向けられている武にとって、ここは“針のむしろ”も同然だった。

 寒々しい空気が満ちた室内で、真那は苛立ちを隠しもせずに姿勢を正す。みちるたちに対する警戒を解いた状態で、けれど一層の気を巡らせている。剣呑な視線を夕呼へ向けて、これ以上の無駄話は一切不要、と。無言のままに圧する。

 実際、どうしてここに真那が呼ばれる理由があるのか、彼女自身予想がついていない。しかも特務部隊であり、夕呼の懐刀であるはずのA-01部隊の衛士が三名も並んでいるのだ。真那を引っ張り出すためだけとは思えないし、そもそも、そんな必要はない。夕呼の権限を持ってすれば、真那一人呼び出す程度のことは容易いのである。斯衛ではあるが、真那がこの基地内に駐留できているのは、ひとえに横浜基地司令の許可が下されているからだ。そして――実質的に、その許可を下したのは夕呼と見ていい。

 パウル・ラダビノッドという人物が傀儡というわけではない。現役時代にはその名を国連中に響かせた英傑の一人である。真那とてその名が示す戦果を知らぬわけではないし、その彼が無能であるはずがない。……だが、ことこの横浜基地、そして香月夕呼という人物に限定すれば、矢張り当基地の実権を握っているのは夕呼であり、ラダビノッド司令はその監視役、という位置づけが成り立ってしまう。勿論、それが全てではない。あくまで、「AL4」という機密中の機密の計画に関わってくる事項において、という意味だ。

 真那が忠誠を誓う御剣冥夜がこの計画に関わりを持つ可能性がどの程度なのかは知らないが、決して無関係ではないだろう。それらも含めて、真那が夕呼の動きを無視することなど在り得ない。ゆえに、武をダシに真那を呼び出すなどという手間をかけずとも、もとより断ることなど出来ない、というのが正しい。……もっとも、これは全て真那の想像であるから、目の前の夕呼には全然別の考えがあってのことなのかもしれない。そしてその考えに則るならば、この場所にA-01部隊の特務衛士が三人もいることは不思議でもなんでもない、ということなのだろうか。無論、武も含めて。

「ハイハイ、そんなに睨まないでよ。そんなんじゃ年取った時に眉間に皺が残るわよ。……ま、いい加減冗談にも飽きたしね。本題と行きましょう」

「……」

 ようやく、ということらしい。本題と口にした瞬間に、夕呼の纏う雰囲気が激変する。先程までの人を小莫迦にしたような態度はどこぞへ消え、そこに立っているのは既に別人。人類の未来を担う、天才の姿が在った。知らず、真那は息を呑む。気圧されている、というわけではないが……これまでの人生の中で、このように力強い瞳を見たのは三度目だった。

 一人は、帝国の頂点に立ち、心の底から民を愛し、民を想い、そして、日本の未来を担う……かの御方。

 一人は、影を生き、影に死ぬことを義務付けられ、それを己の進むべき道としてあるがままに受け入れた、そうしながらに、心の底から国を愛し、民を愛する……御剣冥夜。

 真那が全身全霊を懸けて忠誠を誓う彼女たちと同様の光を宿す夕呼。まさか、と驚愕すると同時に、なるほど、と納得させられてしまう。

 ――極東の女狐とは名ばかり。人類の未来を切り拓く、ただそのために全てを懸ける魔性の天才は、どこまでもニンゲンであり……人々を、愛しているのだ。

「……用件を、お聞きしましょう」

 だが、それで全てを受け入れられるかというとそうではない。信頼が置けるかというと、別だ……。あのような瞳を持つものが冥夜や武を無体に扱うことはないだろうが、けれど、真那は夕呼という人物を知らない。いや、ある程度は“見えた”。――それは、覚悟あるものの、燃えるような希望と、冷酷なまでの現実。己の目的のためには手段を選ばず、その残虐性も、非道さもものともしない。積み重ねられる犠牲は全て必要なればこそと割り切り受け入れ、累々と続く死の川を血で染め上げようとも、決して立ち止まることはない。

 恐らくそれは、「英雄」と呼ばれる者の道だろう。

 そして……それ故に孤高となる、天才の孤独だ。

「今日ここに中尉にお越しいただいたのはほかでもありませんわ。中尉率いる斯衛軍第19独立警護小隊の機体――武御雷に、我々が開発した新型OS、『XM3』を搭載する許可を頂きたいのです」

「は……?」

 切り出された夕呼の言葉に、真那は眼を見開く。今、この人物はなんと言ったのか。――新型OS。エクセムスリー?

 なんだ、それは。というのが一番だった。次に理解できたのは、それが戦術機のOSを指しているらしいということと…………風の噂で聞いた、BETA新潟上陸の戦果。確かあれは第五師団211中隊、だったか。



 ――死の十三(デス・ヴァルキリーズ)――



 たった一個中隊強で、怒涛の如く群がるBETAを文字通り虐殺し蹂躙し、殲滅せしめたという――それは、そんな噂だった。公式記録には一切記述されていないその部隊。蒼の不知火、“ヴァルキリー”の部隊表示とともに現れた、戦神。戦鬼。

 その部隊とは、まさか……今目の前にいる「彼女達」、なのだろうか。従来の戦術機とかけ離れた戦闘機動をものともせず、空を駆け戦場を血に染める常識の埒外。中でも眼を惹いたのは、「地上を薙ぎ払う暴風の如き二刀使い」だったとか。

 無言のまま、真那は武を見据える。――まさか、な。だが、その怪訝さを、夕呼はしっかりと捉えていたし、真那とて隠そうともしなかった。しばし思案する風に装うと、切れ長の瞳をスゥッと細めて、

「その新型OS……我が愛機武御雷に相応しいかどうか、試させてもらおう」

「無論そのつもりですわ。――それじゃピアティフ、早速準備して頂戴」

 その瞳は剣呑な雰囲気を孕んだまま。けれど、真那は半ば確信していた。例の神懸かりな戦闘を果たしたという部隊は恐らくA-01。そして、211中隊の彼らが実しやかに語ったその“秘密兵器”とやらの性能は、事実ならば、途轍もない代物だろう。だが、実際眼にしても居ないものの性能など、たとえ数値上の成果を見せられたところで、心底から信頼するには至らない。何事も、自らが経験してこそだろう。与えられた情報を鵜呑みにして戦場で死んでは目も当てられない。

 そして夕呼もそんな実践主義の風潮を理解しているのだろう。……なるほど、そのためのA-01部隊ということらしい。まさか隊長のみちるとは戦わないだろうが、実力的に言って拮抗すると予想される水月辺りが対戦相手として抜擢されたということか。秘書官に指示を下す夕呼を眺めながら、真那は思考を纏める。既にシミュレータの準備は整っているらしく、後は搭乗する真那たちが強化装備に着替えればすぐにでも開始できる。

「速瀬、遠慮することはないわ。思う存分暴れなさい」

「――は! 『XM3』の性能、思い知らせてやります!!」

「…………ッ!?」

 こいつ、本人を目の前にしてよく言う……ッ――! ギリッ、と。真那は誰が見ても明らかな程に怒気を剥き出しにした。いい度胸だ。そんな言葉が聞こえてきそうなほど、彼女から発せられる闘気は尋常ではない。まるでその背後に赤い竜が火焔とともに天に昇っているかのような錯覚を覚えてしまう。

 そして……必要以上の挑発を向けた水月も同様に。不敵に笑うその背後からは青白い炎の揺らめきを背負った蒼き虎が獰猛な牙を剥いている。

「あ、の……水月さん? つ、月詠中尉……」

「「黙れ――、武」」

「すいませんでしたぁ!!!!」

 竜虎激突する幻想を垣間見た武が恐る恐る仲裁に入ろうとすれば、寸分違わず一喝されてしまう。……実はこの二人、物凄く息が合うんじゃないだろうか。向けられた恐怖にめそめそと泣き崩れる武に、みちるが容赦なく「鬱陶しい!」と蹴りを入れる。







 そして、舞台は整った。

 訓練兵五名には新型OS搭載のシミュレータ、並びに練習機。

 横浜基地に駐留する最強部隊の一つである斯衛にはその新型OSの真価を。

 ――全ては、人類がBETAに反撃するその日のために。甲21号作戦。そのための布石は、一つひとつ、着実に打たれていく……。







[1154] 守護者編:[三章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/04/29 21:58

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:三章-03」





 XM3――横浜基地副司令にして世界最高峰の天才、香月夕呼が生み出した戦術機の新型OS。

 とはいうが、実際のところ、その誕生の経緯は謎に包まれている。単純にまりもの階級が低く、斯様な機密情報に触れる機会が極端に少ないという理由もあるだろうが、夕呼の数少ない友人の一人だという自覚を持っているまりもにしてみれば、それは矢張り不可解なものだった。

 ドッペル1、という衛士。彼なのか彼女なのか……それさえ知らされていないまりもだが、あの異常とも言うべき戦闘機動は未だに脳裏に焼きついて離れない。恐らくも何も、XM3は“あの”機動が元となって生み出されたに違いない。つまり、新型OS自体は夕呼が開発したのだろうが、その素案・発想ともいうべきものは、かの天才衛士が担当したのだろう。

 夕呼は衛士ではない。如何に天才とはいえ、一度も戦術機に搭乗したことのないような“素人”に、このようなOSを生み出せる道理がない。……道理が通用しないからこその天才、という見方もあるだろうが――確かに夕呼ならば片手間で成してしまいそうではあるが――それでも、夕呼単独でこのOS開発はありえなかっただろう、と。まりもはそう断じることが出来る。

 新型OS、XM3を蔑ろにしようというわけではない。夕呼がこのOSを開発する切欠は確かにドッペル1という存在が担っていたのだろうが、それを実行に移す直截的な要因は、まりもの発言にあるのだろう。自身の言葉が及ぼした影響というものを、彼女は正しく、そして客観的に理解していた。階級こそ軍曹だが、夕呼はそれに関係なく、まりもを必要としてくれている。決して態度に表さないけれど、それでも彼女はまりもを「親友」だと感じてくれているのだろう……。きっと、これは自惚れではない。

 なぜならば、“神宮司まりも”もまた、“香月夕呼”を親友だと想っているのだから。

 故に、夕呼が開発したこのOSが一体どういう経緯で生まれたのかは。……気にならないといえば嘘になるし、果たしてこのOSの誕生にどのような意味があるのかはしっかりと見据えていかなければならない事項だとは思うが、ただ、それらに関係なく。



 このXM3は――素晴らしく、そして凄まじい。



 モニターに映し出される光景を見て、まりもは年甲斐もなく興奮を抑えきれなくなりそうだった。

 シミュレータ訓練の当初からXM3搭載機を用いて、207B分隊の五名は訓練を行っている。彼女達は訓練兵でありながら新型OSのテストパイロット――実際にはA-01部隊という特務部隊が実証試験を重ね、実戦データを集積した上での改良・量産型なのだが――に抜擢されたこととなっていて、求められるものは自然、質の高いものとなる。訓練兵たちには高い機密に包まれたA-01部隊の存在など知る由もないし、まりもとて夕呼の息が掛かっていなければ本来知るはずのないことであるが……ともあれ、XM3は207部隊をテストパイロットとし、日々データを集積している。

 目的は、戦術機操縦訓練課程の短縮、並びに歴代記録の大幅な更新。つまるところ、既に実戦証明されたXM3の有用性を更に印象付けるための手段。

 司令部直轄の特務部隊はいわばエリート部隊であり、その実力は推して知るべし。公式に記録が残されていない先の新潟戦では、XM3があればこその歴史的戦果だったのだが、それは彼女たちが元より優秀だったからこそ、という捉え方をされても仕方がない。

 そういった他国の官僚、衛士たちの色眼鏡を粉微塵にするよう、彼女達は命じられている。直截的に言われたわけではないが、XM3の概略説明を行った際の夕呼の言葉は、多分にそういう意味合いが含まれていた。そして、それに気づけないほどの無能は、まりもの教え子の中にはいない。

 各人が始めて触れる戦術機――そしてXM3の性能に振り回されまいと必死になって訓練を重ね、シミュレータ訓練を開始してから五日が経過した。非公式の記録、であれば極最近に武が訓練兵時代に叩き出したハイスコアとも言うべき最短記録があり、それは僅か一ヶ月の訓練期間で任官し、さらに実戦に出撃したという冗談みたいなものだ。その詳細についてまりもは夕呼より当時の訓練データを頂戴し、眼を通している。かつて富士の教導隊に所属していたまりもをして尋常ならざる訓練内容だったが、それが白銀武という青年の戦術機適性「S」ランクという規格外の数値をテストするための実験を兼ねていたことは、夕呼自身から聞いている。

 今回、既に歴代記録を塗り替え続けている207B分隊のメンバーだが、彼女たちの訓練には、残念ながら武への訓練内容は適用できなかった。……いや、残念ながら、というのは違う。その訓練内容はどう考えても戦術機の素人に対して行うべきものではなく、むしろ、常人に適用するならば二日で病院送りとなることは間違いないほどに酷い。

 過酷、という意味がこれほどに似合う訓練はそうないだろう。一日に十時間以上の戦術機訓練など、通常どの部隊でも在り得ない。BETAとの戦闘でさえ、平均して二から三時間なのだ。これは補給の問題や衛士自身の肉体的精神的疲労を勘案しての平均値といわれている。それと比較しても、常軌を逸しているとわかる。それを命じた夕呼も夕呼なら、実践したみちるもみちるであり、そして、やり遂げた武も武だ。

 改めて親友の、科学者としての面の恐ろしさを痛感すると共に、それを終始徹底したみちるの軍人としての完璧さを知る。更には、白銀武というかつての教え子の肉体的素養の在りえなさに空恐ろしいものを覚えるが、才能というものはきっとそういう風に、常人からかけ離れたものを言うのだろう。

 まりもは一人納得し――そしてもう一人、「才能」という名の、常人離れした神懸かりなソレを体現させた少女を見やる。モニター越しではあるが、仮想敵部隊を遥か遠方より葬り去る技能は奮えるほどに凄まじい。

 珠瀬壬姫。射撃訓練の頃より一角の輝きを見せていた彼女は、戦術機においてもその才能をあますことなく発揮している。いや、彼女だけではない。御剣冥夜は卓越した剣術の冴えを戦術機で再現することを実現しているし、彩峰慧のスピード溢れる機動は賞賛に値する。榊千鶴は指揮能力もさることながら、中衛としての護りに確かな実力を感じさせるし、鎧衣美琴は彼女たちとは一味違い、戦場の特性をよく掴んだ、実に巧い戦い方を見せる。

 つまり、各人がそれぞれ得意とする分野でその実力を、才能をを惜しみなく発揮している。およそ訓練兵とは思えぬ戦闘ぶりには、さすがのまりもも苦笑せざるを得ない。彼女達は気づいているだろうか――既に、その実力は正規兵に勝るとも劣らないということを。

 そしてソレは矢張り、新型OSであるXM3による恩恵が大きいということを。

 実力がない、と言っているわけではない。彼女達は五人ともが素晴らしい実力を秘めている。それは誰の眼にも明らかだろうし、基地司令、夕呼の信頼の篤いまりもの評価も決して過度のものではない。真実、彼女達は素晴らしい衛士としての実力を身に付けるに到っている。……XM3の恩恵というならば、それは、今、この時点で既にその高みに到達できているという点だろう。従来のOSであれば、恐らくはもっと多くの時間を要したはずだ。否、間違いなく要しただろう。

 戦術機操縦に関して、或いはそこに到るまでの訓練課程に関して、衛士育成の方針・方策というものは長い年月をかけて完成されてきた。国連軍だろうが帝国軍だろうが米軍だろうが、そのカリキュラムに殆ど差はない。世界中の衛士候補生が、各組織の方向性という点に関して以外は、ほぼ同等の訓練を受けている。それら、世界中の訓練兵に充てられる訓練期間は、統計的に見てもほぼ横並びなのだとか。つまり、内容の密度や錬成度合い等に若干の差は見られるものの、ほぼ全ての衛士訓練兵が、同じ時間だけ戦術機に触れ、任官するのである。

 そして、XM3がなければ、彼女たちもまたそれと同等の時間を要し、戦術機の操縦訓練を行ったのだろう。――三ヶ月。統計的に見た戦術機操縦の訓練期間であり、国連軍における標準訓練期間でもある。衛士として必要な肉体的・精神的素養を育て上げる一年半以上の期間に比べれば極僅かの時間だが、戦術機の操縦を上達させる最も効率のよい方法は、“慣れ”だ。つまり、ある程度実戦でも通用する技能を身に付けたのならば、正規兵に押し上げてしまって実戦に慣れさせた方が否応なしに上達する、という乱暴な結論がそこにある。無論、正規兵として必要な知識、部隊内での連携を万全にした上で、のことではあるが。

 けれど、実力不足、或いは戦場の空気に汚染されて戦死するものは多い。こと新任の衛士については『死の八分』などという呪い染みた慣例が罷り通るほどに、それは過酷だった。初陣でパニックに陥り、部隊丸ごとBETAに喰われたなんていうのは……悔しいが、よく聞く話だ。珍しくも何ともない。

 だからこそ、訓練兵の教導を受け持つことになった各訓練校の教官は。神宮司まりもは。

 教え子を一分でも一秒でも長く生き残らせるために、どれほどの醜悪を晒しながらも生き延びる力を身に付けさせるために。持てる全てを以って、訓練を行うのである。

 ――話が逸れた。まりもは自身の思考を一度白紙に戻し、XM3という新型OSがもたらした効果について再び考察する。従来のOSでは実現し得なかった高い反応速度と機械的硬化時間の低減、或いは、先行入力に代表される人的硬化時間の低減は最早言うまでもない。更には、ドッペル1がもたらした新しい戦闘機動概念――夕呼曰く『概念機動』というそれは、対BETA戦術に革新をもたらすだろう可能性を秘めている。まりもを含めたベテランの衛士ならば、その機動がBETAとの戦闘で有効に作用することは一目瞭然であり、同時に、自身が習得するためには並々ならぬ労力を必要とすることが知れるだろう。


 そもそも、『概念機動』には基本とされてきた対BETA戦術機動の大半が通用しない。根本的に異なる思考体系から成っているらしいその“概念”を、自分なりに噛み砕き嚥下するには、相当の柔軟さが求められる。理解できぬと投げ出すのではなく、ありのままを体現する。自身の身に付いた生き残る術の一切を捨て去り、無からもう一度積み上げていく必要があるのだ。

 勿論、それはまだXM3が完成する以前の段階であったから、テストパイロット部隊だったA-01も、まりもも相当な苦労を重ねてきた。『概念実証機』が開発され、そして『XM3』へと進化を遂げた新型OSは、それら『概念機動』を“再現”するための様々なプロセスが機械側にインプットされている。そして、訓練兵を教導する立場にあるまりもは、自分なりの『概念機動』を理論的にまとめてもいる。

 つまり。

 現在、練習機吹雪を駆り、仮想敵部隊を相手に圧倒的な戦果を挙げ続けている彼女達は。

 全くの“ゼロ”の状態から、完成されたXM3と『概念機動』の理論――その全てを、真綿の如く吸収しているのである。

 故の成果。歴代記録の更新。たった五日のシミュレータ訓練で既に教習課程の全てを終えようとしている彼女たちは、既に“訓練兵”と呼ぶには実力がつき過ぎている。勿論、彼女たちにそれを教えることはない。その程度で増長するような連中でないことは十分承知しているのだが、そもそも教える必要もないし、少なくとも「トライアル」が終了するまでの間、彼女達は訓練兵のままだ。

 ……或いは、トライアル後も……。特殊すぎる生い立ちを思えば、彼女たちが任官できる可能性は相当に低いと言わざるを得ない。特に冥夜に限って言えば、この訓練校に入隊できたことでさえ奇跡的だ。特殊、複雑。そんな言葉で足りないほどに、彼女の境遇は凄まじい。恐らくは部隊の皆も気づいているのだろうが、誰もそのことを口にしない。禁忌に等しいだろう事項に触れ、冥夜を傷つけることを畏れているのではない。

 彼女達は、本当に、「仲間」だから。――だから、お互いの出自など、背後に潜む生い立ちなぞ関係ない。冥夜は冥夜。千鶴は千鶴。慧は慧。美琴は美琴。壬姫は壬姫。それでいい。それが全てだ。互いが互いを信頼し、慈しみ、思いやり、時に意見をぶつけ、時に拳を交わし……そこにあるのは、確かな意思。

 皆と戦いたい。この世界を護りたい。

 まりもはそのことを知っている。だから、心配は要らない。果たしてトライアルの後に夕呼の目論見通り任官できなかったとしても、それは、……ありのまま、受け入れられるだろう。「いつか、きっと」。その言葉を希望に、彼女達はこの世界のために必死の思いで訓練を重ね続けるだろう。それだけの覚悟が、彼女たちには存在している。

 夕呼に提出できるだけのデータは揃った。数ヶ月前に任官したA分隊の戦術機操縦訓練に費やした時間がまるで嘘のようだ。このOSが世界中に配備された時を考えると、全身が総毛立つほどに興奮する。衛士の実力を分野ごとにランク付けるならば、XM3の慣熟訓練を行うだけで、全ランクが一段階以上上昇するに違いない。特に、自身が得意とする分野では、際立って伸びる可能性さえ秘めている。

 個々の搭乗者に最適化するシステム。先行入力による無駄のない戦闘。キャンセル機能を実装することでより実戦的な行動が可能――エトセトラ、エトセトラ。掲げればきりがない。XM3は、正に戦術機の革命であろう。第一世代機から第三世代機までの間に変遷してきた技術の、更にその先を示す希望。

 これは、人類を勝利に導く希望の煌きだ。これは、人類に勝利をもたらす絶対の輝きだ。

 トライアルに敗北は赦されない。彼女たちに敗北は赦されない。――――だからこそ。

 まりもの眼に、作戦終了の表示が映し出される。圧倒的勝利、圧倒的戦果。表示・出力される戦闘データを一瞥した後、通信機に向かって十分の休憩を言い渡す。分隊長の千鶴から了解の声を聞き、まりもはゆっくりと通信室を出る。向かう先は、更衣室。自身のロッカーへと辿り着いた彼女は、不敵な笑みを浮かべ、シャツを脱ぎ捨てた。

 手に取るは、黒い強化装備。クッ、と口端を歪めたまま、あっという間に着替えを終える。緩やかになびく髪を操縦の邪魔にならないように結び…………。

「さて、“教育”の時間だ――」

 それは、その不敵な笑みは。この場に伊隅みちるが居たならば、或いは速瀬水月、宗像美冴が居たならば――彼女達は口を揃えて言うだろう。恐れ戦き、その名を呼ぶだろう。



 ――狂犬(マッドドッグ)



 戦場を奔る狂犬。帝国軍時代の通り名であり、鬼軍曹と恐れられた彼女の、もう一つの貌。

 207部隊の面々は、そんな彼女を見たことも聞いたこともない。既に任官している風間梼子たちの世代から、その育成に当たって方針を変更していたのだったが……ともあれ。今ここに居るのは厳しくも慈愛に満ちたまりもではない。

 世界中の衛士に最強を証明し、世界中の人々に人類が勝利する希望を確信させる。――そのために、私は“戦う”。

 教師になりたかった。けれど世界はBETAに脅かされていて、学ぶ場所は限られ、それらは須らくいずれ訪れる戦争に備えるためのモノとなった。だから、自分が戦って、BETAを滅ぼして、世界に再び平和を取り戻して……そして、その世界で自分は教師になり、たくさんの教え子達に囲まれて――そんな夢を、今も抱いている。そんな夢のために、戦ってきた。生きてきた。だから、教え子達全てに死んで欲しくなんてないし、どれだけみっともなくても生き続けてほしい。

 誇りを持って、“戦って”欲しい。精一杯生きて、逝って欲しい。後悔はいらない。輝ける未来が在ればそれでいい。そして、「敗北」が赦されないというならば。世界を、人類を救う先駆けとなることを求められるならば。

 まりもは、再び狂犬と化し、鬼と化し、207B分隊を鍛え上げる。さぁ、教育を始めよう。帝国陸軍にその名を知らしめ、富士の教導隊に引き抜かれた実力を持つ横浜基地“最強”の衛士が。貴様らヒヨッコを教育してやる。







 ===







 自分の実力、と。そう……勘違いしていたらしい。みちるはモニターに表示される紅を見て、つくづく思い知らされていた。

 シミュレータによる戦闘を開始してから既に十数分が過ぎた。その間の戦闘において、水月の駆る蒼い不知火は常に優勢だった。XM3が魅せる今までの常識外の戦闘機動、空中をも戦場と化すドッペル1の『概念機動』、先行入力とキャンセルの併用によるアクティブでキレのある疾走感。どれをとっても彼女が優勢。

 ――なのに、未だ一撃も喰らわせていない。

 ――なのに、未だ一発も喰らってくれない。

 対峙するは紅の武御雷。帝国斯衛軍の象徴、日本帝国の鑑。月詠という名の名家が一人。名も無き螺旋剣術の使い手にして、白銀武の師匠。

 武御雷と不知火は共に第三世代機であるが、その性能、或いは装甲をはじめとした機体そのものの“強度”が異なる。不知火の開発によって培われた技術を応用して開発された、将軍家、若しくはそれを直衛する人間のための機体。「将軍家の人間は前線に立って模範となるべし」という思想から、格闘戦能力――特に長刀による戦闘――を重視した設計で、他の機種に比べ機動力などがすばらしく秀でているという。

 その機体スペックを思い出しながら、けれど、みちるは驚愕を禁じえない。

 確かに、武御雷と不知火の双方が“一対一”で戦闘を行ったなら、衛士の技量を同一とした場合、明確な差となって現れるのは機体スペックのそれだろう。不知火よりも機動力に優れ、不知火よりも耐久力に優れる武御雷が、それよりも劣る機体に敗北する理由がない。

 が、今モニターの向こう側で戦っているのは“XM3搭載の不知火”と、“ただの武御雷”だ。新型OSの性能。その凄まじさと素晴らしさは、誰よりもみちる自身がよく知っている。実際にBETAとの戦闘をこなし、かつてない戦果を挙げた実績。部隊内の訓練で、新型OS非搭載の不知火と新型OSを搭載した撃震とでやり合ったときも、敗北したのは不知火だった。しかも、不知火に乗っていたのは水月を始めとする先任組だったのだ。新任チームは辛勝だったのだが、勝利は勝利であろう。機体スペックによる絶対差を覆して有り余る性能。機体性能を格段に上昇させ、衛士の技能を最大限に発揮できるこのXM3が在れば、理屈上、武御雷にさえ引けをとらない筈なのである。

 その、はず……だったのだが。

 ……みちる自身の予想では、この戦闘は当に終わっているはずだった。無論、水月の不知火が勝利する、という形で。或いは防戦に徹した真那を追い詰めるのに時間を要したとして数十分。――だが、所詮それは度違いの予想でしかなかったということか。みちるは臍を噛む。湧いた唾を嚥下する。

 驚愕と、昂奮と、そして恐怖――。モニターから目を離せない。通信機を通じて聞こえてくる水月の困惑の叫び声が、ただ無意味に反響する。――信じられるか? 答えは否だ。信じられるわけがない。戦闘は終始水月が優勢。優位に立っている――のに、その実、追い詰められているのは彼女の方だ。ヴァルキリー2、A-01部隊の副隊長にして突撃前衛長。単機の戦闘力では隊内ナンバー1を誇り続ける彼女が、恐怖に怯え、焦燥に喘いでいる。

『なッ!? なんで、なんで当たんないのよコイツ――ッッ!!??』

 さっきから断続的に耳に響いてくる悲鳴にも似た困惑。愕然と零されるそれは怒りによって塗り固められてはいるが、彼女の精神力が折れたとき、それは正真正銘の“恐怖”となって水月を押し潰すだろう。モニターには36mmを撃ちまくる水月の不知火と、直線的でありながら、ひらひらと避ける紅の武御雷。無手のまま回避だけを行いながら、ただ必殺の機会を窺っているらしい。

 傍目から見れば、紅の武御雷は接近しようとしても近づけず、放たれる36mmの弾幕に後退するしかない――と、捉えられなくもない光景。時折牽制に放たれる武御雷の36mmも、XM3を搭載した不知火の前ではその役割さえ果たしはしない。水月はビルとビルの間を縫うように跳びぬけ、弾道から機体を逸らし続ける。回避と同時に武御雷へ足止めとばかりに彼女も弾丸をばら撒いているから、結果として互いの立ち位置は――相対距離は、さして変化していないのだ。

 それはつまり、端的に言うならば……性能で上回るはずの武御雷が、XM3を搭載した不知火を追い詰めることさえ出来ない、という事実を浮き彫りにさせる。

 そして、それは実にそのとおりなのだ。近接戦闘を主体とする真那の武御雷は、依然として長刀の間合いに近づけていないし、水月へ有効と思えるダメージを与えられてもいない。だが、追い詰められているのは水月という矛盾。機体スペックの劣勢を新型OSで補い、今や武御雷さえ上回るだろう“性能”を手に入れたはずの彼女は――



「うそ、でしょ……っ」

 引き攣るような、息を呑む声。放つ弾丸は掠りもせず、殆どが紙一重でかわされる。行動の後には必ず発生する旧OSの弱点とも言うべき硬化時間を狙って放ったそれさえ、“明らかに”回避されている。ゆらり、ゆらり、と。揺れるようにかわす紅に、月詠真那にはナニか水月の知らない技術が在って、それゆえに当たらないのだと悟るのに数分。それが一体なんなのかを探るためにさらに数分。十分を過ぎた頃には、このまま36mmを主体とした戦闘では勝てないと確信せざるを得なかった。


 回避行動の際、或いは一つひとつの挙動の際に、振れるように揺れる。機械である戦術機の動作とはどこか異なる極自然なその“揺れ”が、水月の放つ弾丸を悉くかわし、機体の硬化時間を“なくしている”――真那は、あの紅の武御雷は、恐らくそのようにして水月からの攻撃を回避し続けている。

 一切の静止をなくした機動。決して“止まらない”その機動。それは、つまり…………機体に働く慣性、戦術機を傾けさせることで発生する位置エネルギーの応用。簡単に言ってしまえば、真那は戦術機を常に“転倒させ”て、本当に倒れてしまう以前に次の行動に移っている。機体に生じる硬化時間。その最中でさえ、慣性を利用して“動いている”のだ。故に当たらない。否、ただそれだけでは当たらない、当てられない理由には足りない。

 ならば即ち。それが水月と真那の間に横たわる、実力の差、というものなのか。――――追い詰められているのはこっちだ。

 既に何度も痛感している感覚を、今度こそ実感する。今も尚水月が優位に立てているのはひとえにXM3の恩恵あってこそだ。もう、それは間違いない。水月は自問する。自分は、いつの間に「自惚れ」ていたのだろうか。

 ドッペル1という天才が発案した『概念機動』。そして夕呼が開発した『概念実証機』――完成した『XM3』。その性能を引き出すために苦しい訓練を続けてきた。概念そのものが根本から異なる『概念機動』を我が物とするために、それはもう本当に我武者羅に訓練に明け暮れたのだ。……そして、それは実る。苦労した分だけの、いや、それ以上の成果を挙げることが出来たのだ。新潟での戦闘を思い出す。かつて、あれだけの数のBETAを相手に、一個中隊で殲滅できたことなどあっただろうか。――答えは否。断じて否だ。

 ならば、それは水月の実力ではないのか。『概念実証機』を乗りこなすことが出来た水月の、仲間達の、揺ぎ無い力ではなかったのか。



 答えは、否、だ。



 あれは水月の実力ではなかった。あれは皆の実力ではなかった。『概念実証機』、『XM3』によって皆の戦力が飛躍的に上昇したことは間違いない。疑う余地などないし、そもそもそれは実戦にて問答無用に証明されている。戦力が飛躍・上昇したというなら、……ならば、矢張り、それを操る衛士の実力も上昇したのではないのか。機体性能は文句なし、ドッペル1の概念を再現するための新型OSがあれば、誰だってその恩恵を苦もなく再現できるというなら――――ならそれは、衛士の実力に関係なく、ある意程度のレベルまでは引き上げることが出来るということ、なのか。

 水月は勘違いしていた。

 XM3は凄い。このOSは間違いなく人類を救うひとつの希望となるだろう。輝ける未来を切り開く一歩と成るだろう。……だが、水月は勘違いしていた。自惚れていた。見落としていた。自分が強くなった気でいた。錯覚したのだ。

 機体の性能、新型OSの性能。――XM3搭載機の素晴らしいその性能を、それが自分の実力なのだと、いつしか自惚れていた。

 きっと、今のこの状況はそういうことだ。“追い詰められている”というプレッシャーに圧されているのは、つまり、自身の能力とXM3の恩恵を混同して捉えていた自分の、本能的な部分が警鐘を鳴らしているからなのだった。

 ――このままでは負ける。このままではやられる。流石は斯衛の赤。紅の武御雷を賜る人物ということだろうか。戦術機操縦の腕は超一流。機体のバランスを崩して回避・移動を続けるそれは恐らく彼女の父が編み出したという剣術の応用なのだろう。衛士としての錬度。完成度。それら全部が、水月を押し潰そうと、じりじりと迫ってきている。

 チラリと残弾表示を見れば、節約して使ってもあと数分と持たない。その後は長刀、ナイフを使用しての近接戦闘となる。……そうなれば、きっと本当にオシマイだ。剣の間合いに入れば、それは斯衛の独壇場。しかも相手はあの武の師匠である。戦場を駆ける暴風。地を這いずり回る螺旋の剣。一切の静止なく、連続して渦を巻く剣閃に、きっと水月は刻まれる。長刀を用いての戦闘に多少の自信はあったが、ここまで突撃砲に頼った戦い方をしてきたのは、単純に彼女の間合いに入らないようにするためだ。相手がもっとも得意とする、言わば鬼門に好き好んで突撃するほど、水月は愚かではなかった。

 だが、覚悟を決めるときだ。

 『概念機動』そして『概念実証機』を通して、水月自身の実力は確かに飛躍的に上昇した部分も在るのだろう。だが、その大半が機体性能――新型OSの恩恵によるものだというなら、最早“実力で上回る”真那に勝てる見込みは少ない。――が、決してゼロではないのだ。

 初めて目の当たりにする斯衛の実力に身震いした所で、それで敗北を享受できる訳がない。アレがXM3でない限り、必ずつけ入る隙は生じる。そこを、衝く。それしかない。弾丸の尽きた突撃砲を投げ捨て、長刀を握る。

 空中に跳びあがった状態で装備を持ち替えた水月は、己を鼓舞するための咆哮を上げ――同じように長刀を握った赤色を見た。

 ――それはどのような幻想か。

 或いは、眼の錯覚なのか。咆哮を上げ、ビルの壁面を蹴って重力加速度に跳躍ユニットのブーストを重ねての超加速のついた状態で、水月は見た。

 アスファルトの路面を軋ませるほどに踏み込んだ一歩。赤色の残像さえ浮かぶような凄まじい速度の旋回。大気さえ切り裂くかのような暴虐に似た剣閃――そして、水月を喰らうべく開かれた、



 龍の、

    顎(アギト)を――



「ッ、ァ、」

 滅茶苦茶に機体を捻る、投げ捨てるように振るった長刀が、ギリギリと耳障りな音を立てて吹っ飛んでいく。振りぬかれた真那の剣閃を受け流すことが出来ずにぐるぐると飛ばされた長刀を生贄に、水月は超高速の直中でかわし、真那の背後へ。一拍の呼吸さえままならない一瞬間で、水月は己の幸運を噛み締める。――かわ、せた?! 己を奮い立たせるための咆哮は既に引き攣った呼吸に凍りつき、締め付けられた心臓が恐怖に歪むかのよう。赤い武御雷とすれ違うように一閃をかわした状態のまま、水月は本能が絶叫するままに機体を走らせた――距離をとれ――逃げろ!!!!!!

 必殺の一撃をかわされた当の真那は、至極当然のように機体を捻転させ、後方を――つまり、逃げる水月の背後へと向いている。そうだ。それが彼女の扱う剣術の基本。旋回。螺旋の機動。慣性と遠心力を最大限に利用して機体を振り回す埒外の戦法。攻撃は既に次の一手への布石。振るい続ける剣閃が生み出す破壊の渦は、全周囲に群がるBETAを悉く斬り刻む究極の一。

 故に、水月はただ前方へ跳ぶ。地面に落着するようだった姿勢から、形振り構わずにスロットルを全開へ。主脚部が路面に擦れて火花を散らしたが、そんなことを気にかける余裕などない。一刻も早くあの剣術の間合いから離れなければ、待っているのは無慈悲な「死」だ。

 ……いや、これはシミュレータなのだから、実際に死ぬことはない。だが、その安息するべき事実さえ翳んでしまうほどに、かつてなく、水月は自己の消滅に慄いていた。襲い来る真那の剣に怯えていたのだ。たった一瞬すれ違っただけの、偶然かわせただけのあの錯綜で。水月はそれに気づいてしまった。月詠の剣術――武がそう呼んでいたアレは、武が身に付けているアレは――――、全然、違うものだった。

 それは地を這いずる暴風などではなく。

 それは螺旋を描く長刀の剣舞などではなく。

 アレは、龍だ。

 長躯を唸らせ地上を蹂躙する赤き龍。長い胴と尾を引き摺って、まるでとぐろを巻くように地を薙ぎ抉り、ただ進む先に群がる餌を食い殺す顎(アギト)。紅というならばそれは地を焦がし灼熱に染める炎で、振るわれる剣閃は獰猛に過ぎる幻想種の鋭く尖った牙そのもの。

 月詠の剣術とは。対BETAにおける究極の剣術とは。圧倒的物量で迫り来る敵を屠り続けるために編み出されたその剣術とは。――即ち。

 螺旋を描く軌道は龍の長躯が地を這いずるそれであり、全周囲を暴虐の如く斬り刻むのは餌を喰らう牙が爪が鱗がただ傍若無人に貪るそれだ。月詠みの赤き龍。ソレが、月詠真那の扱う剣術だった。

 荒れ狂う暴風など龍が地を薙ぐ余波でしかなく、故に、武のソレは、彼女の剣とは重ならない。真実の後継には到っていないのだと、錯乱する水月の頭は解答を導き出していた。自身のおかれた状況にあまりにもそぐわない解に、現実逃避に近い絶望を覚えるものの、XM3が可能としてくれる三次元機動を滅茶苦茶に操って、どうにか後方の龍の間合いから逃れようと足掻く。

 身を翻し、逃亡へと移った不知火を追う武御雷は、その背後に燃え盛る火龍の幻想を纏ったまま、獰猛なまでの容赦なさを浮き彫りにして、最大戦闘速度で迫り来る。背筋が凍る、とは正にこのことを言うのだろう。……だが、逃げてばかりもいられない。接近戦で勝ち目はなく、突撃砲を捨てた今、けれど水月に取り得る選択はそれしか残されていない。機動撹乱という手は残っているが、文字通り死角のない真那に対して、それはどこまで通用するだろうか。XM3非搭載機とはいえ、戦術機は空中を跳躍する性能を備えているのだ。ここまでの水月の戦闘機動を見て、あの斯衛が空中に躍り出る利点に気づけないわけがなかった。

 ――つまり、最早水月に勝ち目はない。放たれる殺気はシミュレータという機械を通り越して肌に突き刺さるかのよう。乾涸びた喉が痛むくらいに、凝り固まった唾液を押し流す。悪寒を感じて震える指先を見て、これほどまでの恐怖を覚えたのはいつ以来だろうかと不意に思考をめぐらせた。

 刹那。

「なにやってんのよ、私は――」

 苦笑。そう表すののが不似合いなくらいの、清々しい笑顔がそこに在った。

 怖い、勝てない、死にたくない。…………そんな絶望は、いつだって目の前に転がっていた。鳴海孝之の死を知って、戦場に立って、目の当たりにしたBETAの大群に、眼が眩むほどの恐怖を覚えた。金縛りにあったように指の一本さえ動かなくて、沸騰するような怒りと、凍えるような怖れが拮抗し、脳が停止して。突撃前衛というポジションにいながら、その一歩を踏み出せたのは――動けない自分を庇って要撃級に砕かれた同期の吐いた、血色の絶叫を聞いた後だった。

 怖くて、恐くて、こわくて、どうしようもなくて。でも、断末魔の絶叫が、死にたくないはずなのに同じくらい恐いはずなのに、それでも水月を助けようと死んだ彼女の声が、狂うほどの感情の爆発をくれた。「なにをしている」のか。自分は。まるで稲妻に打たれたように、後悔と懺悔と怒りが明滅して。……ようやく、水月は“戦う”という選択肢を得た。突撃砲のトリガーを引き、崩れ落ちる同期の機体を汚らわしいBETAから引き剥がしながら、ただ眼を見開いて泣き叫びながら撃った。撃って撃って撃って撃って、肩で息をして、眼から涙の粒をたくさん零して、強化装備の下を濡らしながら、それでも、もう“こわい”なんて弱音は吐かなかった。

 絶え絶えに届いた最後の声が。

 今も耳に残っている。――ああ、やっぱり速瀬はそうでなくちゃ。そんな風に血まみれになって笑う彼女を、その笑顔を、

「私は、負けない」

 喪いたくないのだ。もう。この手から零れ落ちるようになくなっていくものを見たくはない。同期は遙を残して皆死んだ。尊敬して憧れていた先任はみちる以外もういない。扱いて鍛え上げた後輩も、たくさん死んだ。残ったのは片手で足りるくらいのほんの僅か。武たちが任官して人数は増えたけれど――それをまた、喪うわけにはいかない。

 斃すべきはBETAだ。滅ぼすべきはBETAだ。奴らとの戦闘はいつだって恐い。けれど、そうやって恐怖に震えていてもどうにもならないことを、最悪で最低な経験から思い知っている。だから、強く在ろうとした。強く在った。そのように振る舞い、己を鼓舞し、奮い立たせ、立ち向かって行った。

 水月が血を吐くまで殴り続けてくれた相原中尉。彼女のその背中を追い続けて、今や自分はその位置にいる。恐怖と絶望に硬直する自分を救ってくれた偉大なる先達が、笑って安心できるくらいには、今の自分は成長できている自負があった。――ならば。

「たかが斯衛如きに、負けてやる理由がない」

 アレはニンゲンだ。アレはニンゲンの女だ。BETAじゃない。憎き恐ろしきあいつらじゃない。斃すべき敵でなく、乗り越える壁でもない。今の自分に求められているのは、ただ、勝利のみ。XM3の性能を見せ付けて思い知らせ、機体スペックの差を覆す新型OSの優位性を知らしめることにある。全てはBETAを斃すため。総ては人類を救うため。だから何があっても勝たねばならないし、「死ぬほど恐い」程度で、逃げ出していいはずもなかった。

 空中で機体を反転させる。左肩のラックから、最後の長刀を取り、ビルの壁面を陥没させながら――水月は跳んだ。自身を鼓舞する咆哮はなく、ただ静かに、地上で渦を巻く紅の龍へ向けて、迎え撃つように長刀を構えた幻想へ向けて。

 まるで魔を断つ勇者のように。

「ッ、ァッ! ――――――――ァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 爆発する感情が、口を衝いて大気を焦がす。突き立てるように振り下ろした一閃。スーパーカーボン製の長刀が火花を散らし、耳障りな音を立てる。白熱する視界の向こうで、迎撃する紅の武御雷が、笑っているような錯覚を――その眼は、見た。







 真那は苛立ちと焦りに拳を操縦桿へ叩きつけた。自分の腕を驕っていたつもりはないが、これまで対人戦闘において、一度たりともその間合いに入れなかったことなどなかった彼女からすれば、今のこの状況は屈辱以外のなにものでもなかった。近づけない。ある程度間合いを詰めることが出来ても、そこから先が埋められない。36mmを放ってくるが、それが撹乱のためだということは百も承知だ。機体の性能に物を言わせて強引に距離を詰めようとしても、その度に在り得ない機動力で開かれる。

 なんだというのか、アレは。XM3――と。香月夕呼はそう言っていた。横浜基地を支配する天才科学者が開発したという新型OS。その性能があの機動力だというなら、なるほど、確かに凄まじい。武御雷は、言わば不知火の後継である。否、その技術を須らく踏襲した上で、さらにハイスペックなものへと昇華された、言わば最強の戦術機だ。将軍家縁者、そしてその守護に当たる斯衛のために開発された機体。近接戦闘を真骨頂としながらも、あらゆる機動戦闘において上位を占める性能を持つ。

 カタログスペックだけで不知火を凌ぐ筈の武御雷が、戦闘開始から十数分が過ぎて尚、一度たりとも間合いにすら近づけていない。これが屈辱でなくてなんという。しかも自分は御剣冥夜の守護という勅命を賜った、誉ある斯衛の赤なのだ。こんな無様を部下たちに見せるわけにはいかず、あまつさえ勝てなかったとなれば……真那は自身の腹を割くのも止むなしと考えていた。たかがOSが異なる程度の不知火に敗北するようでは、冥夜を護るに値しない。そしてそれは将軍殿下の信頼に泥を塗るということであり、それは殿下へ忠誠を誓う真那にとって、絶死さえぬるい。

 こちらの機体硬化時間を巧みについて本命の弾丸を放ってくる水月の腕前は正直、戦慄すら覚える。適当にばら撒かれたようでいて、実に緻密な計算の元に放たれた弾道の全てが、真那の武御雷を屠ろうとしている。たった一発でも喰らえば、なし崩し的に撃ち込まれるだろう。それだけの腕を、彼女は持っていると直感する。故に、かわす。行動の間隙に生じてしまう、どうしようもないコンマ数秒の停滞時間を、真那は機体重心を崩すことで相殺していた。自身が扱う剣術の機動と同様の理屈。機体を傾かせれば、重心の高い戦術機は転ぼうとする。一定の距離を保ち続ける不知火へ喰らいつこうと迫るたびに、機体バランスを崩して揺れるように回避を続けた。

 ――埒が明かぬ!!

 そんな小細工を弄して尚、現状を覆せない己を不甲斐ないと憤ると同時、ここまで手を焼かせる水月の技量と……最早認めざるを得ないXM3というOSの性能に、不敵なほどの笑みが零れる。苛立たしいほどの昂揚。矛盾するその感情を皮肉るように、真那は口端を歪めた。

「くくく、これで斯衛の赤を名乗るか、私は――」

 この戦闘を見ているだろう武を思う。思えば彼には戦術機における月詠の剣術というものを教えてやれなかった。そんな機会がなかったといえばそうだが、せめて任官する以前、或いは数ヶ月前の再会の際に、要点だけでも伝えられたらよかったのだが……いや、この戦闘から何か一つでも学んでくれたなら、それでいい――と。そう思うならば、余計に。斯衛としてこの上ない無様さを晒している自身に腹が立つ。

 戦闘中に随分と余裕なものだ。自嘲するような内心の吐露に、だからこそこのままやられて堪るかという気概が沸き起こる。対峙する不知火、水月は強い。昨年始めて出逢ったときは、まだまだ発展途上の衛士としか思わなかったが、まさか一年と少しでここまでの成長を見せるとは、途轍もない化け物だと思える。

 流石はA-01というわけだ。埒が明かない回避運動の中で、せめてそうやって皮肉る程度は認めてやってもいいだろう。真那は常にない自身の苛立ちを顧みて、そういえばここまで見事にあしらわれたのは久しぶりだと思い出す。斯衛同士の戦闘訓練では、必然的に長刀を用いた近接戦闘ばかりになる。それこそが斯衛の独壇場なのだから当然といえば当然だったが、その中でも真那は際立って優れた実力を有していた。

 父から受け継いだ剣術を磨き抜き、極めたそれ。冥夜の警護任務に就く以前の話だ。御前試合でもあったその決勝の場で、真那は出逢う。同じ赤を賜った巨漢。剃りあげた頭に雄々しいほどの顎鬚、分厚すぎる筋肉に覆われた屈強なる武士。完膚なきまでに叩き潰された真那の自尊心は、けれど、清々しいくらいに澄んでいた。――上には上がいる。そんな至極当たり前のことを教えられて、彼女は笑ったのだった。その後、紅蓮と名乗った彼に実力を買われ、冥夜就きの警護小隊長を任されるに到るが……今の状況は、ほんの少しだけ、その頃に似ていた。

 近づけない、当たらない、己の間合いに踏み込めない。ビルとビルの間を縫うように跳び回る機動は常軌を逸し、時に機体を捻るようにこちらの弾丸をかわす様などは何処の曲芸師かと呆れさえする。武御雷の性能を以ってすればあの機動を真似ることも不可能ではないのかもしれない。だが、どういう理屈で斯様な機動を行っているのかがわからない状況で、無理矢理にアレを真似られるほど、真那は愚かではない。まして、あの機動能力こそがXM3とやらの真骨頂だというなら、どう足掻いたところで追いつけまい。

 ならば、待つしかない。弾丸の予備は直に尽きるだろう。ここまで執拗に真那の接近を阻んでいたのは、水月が真那の剣術を知り、警戒しているからだと想像できる。なにせ彼女は武の上官だ。武が真那と彼女の父から受け継いだ剣術のことを知らぬ筈が無い。いずれ、水月は銃を捨てざるを得なくなる。どうにかそのときまで粘れば、一撃の下に叩き斬る自信は在った。――それを待つしかないという状況が、ただ、歯痒い。

 不意に湧いた苦々しい感情に眉を顰めたのと同時、水月が突撃砲を投げ捨て、長刀に持ち替えた。空中に跳びあがった状態で装備を変更した蒼い不知火が、これまでにないくらいの気迫を放ち、ビルを蹴り舞い落ちてくる。落下と噴射跳躍による倍速。一瞬息を呑むほどの爆発的な速度で迫り来る水月の覚悟を知った真那は、彼女もまたこの一撃に懸けているのだと直感で理解した。

 ならば、全身全霊でそれに応えるのみ。

 限界まで引き絞ったバネが、その束縛から放たれるかの如く。距離というクサリに捕らわれていた赤き龍が、解放の自由に雷鳴を呼び起こす。路面を軋ませるほどに踏み込んだ一歩。尾を巻き、周囲を薙ぐような旋回機動。――狙うは、降って来る不知火の頭部。強襲に振りかぶった長刀ごと、叩き割る。火焔を思わせる紅の残像が、武御雷に生まれた超速度の凄まじさを視覚化させる。急激な負荷に、機体の主脚が悲鳴をあげた。

 水月の攻撃への転進があまりにも唐突で、そして一瞬だったために。真那は常の如く機体に働いた慣性を十分に利用できる暇がなかった。が、泣き言を言っても始まらない。このタイミング、逃せばやられるのは自分だと瞬時に判断した真那は、跳躍ユニットの推力を借りて、無理矢理に最大戦闘速度に匹敵する旋回力を生み出していた。故に、軋む。これが武御雷でなければ、一閃の後には脚部の関節が砕けていてもおかしくない。

 渾身の一撃。

 それほどの気迫と必殺の意志。自身の闘気を背後に纏い、真那は電速と化した長刀の一撃を放ち――そして、「かわされた」。

「ばっ、――か、な!!!??」

 ――かわしただとォ!? 振り抜いた剣先はまるで捨てるように放られた水月の長刀を吹き飛ばしただけに終わり、捉えるべき不知火の頭部は、武御雷の脇の下を潜るかのような姿勢で地面すれすれを奔っていた。戦慄。足先から這い登るような恐ろしさを、この時真那は痛感した。

 墜落。そう言っていいくらいの出鱈目さで文字通り“降って来た”不知火が、驀進していたはずの機体が、落着と同時、機体を屈ませるように奔り出している。硬化時間とか、そんな次元の話ではない。「落ちた」筈なのに、「もう奔っている」のだ。しかも、必殺のはずの一刀をかわして。瞬間というべき時間の中で。汗が逆流するような錯覚を覚えながら、すぐさま体制を整えなければ死ぬのは自分だと悟る。振り抜いた加速度と遠心力のままに、アスファルトを削りながら旋回、ガリガリと路面を滑ることコンマ五秒、次の一刀を食らわせるべく、或いは、襲い来る不知火の攻撃に備えるべく、真那は激しい動悸と熱気に血を沸騰させる。

 ――だが、予想した攻撃はなく。構えを終えた真那は、まるでこちらを嘲笑うかのように再び距離を置く不知火の背中を見た。

 感情が、逆流する。

「ふっっ、ざ、けるなぁああああ!!!!」

 それは、ひょっとすると生まれて初めての激昂だったのかもしれない。――戦え! という衝動が、正直に口を衝いていた。一度たりとも真那を近づけさせなかったその機動力、生じた隙の全てを的確に狙って放たれた36mm、瞬間に戦法を切り替える判断力と実行力、なにより――真那の必殺をかわし、OSの格差が生み出す絶大なる性能差を見せ付けておきながら!! ――何故、貴様は背を向けるか!!!!!!!

 ギシリ、と。奥歯よ砕けとばかりに噛み締める。操縦桿を握り締めた手は屈辱と怒りに奮え、美しいその相貌は、まるで阿修羅の如き怒りを孕み……真那は、武御雷を奔らせた。否、アスファルトの路面を蹴り、最大戦闘速度で滑空していた。

 例えこうして背を向けた不知火を追うことこそが水月の策なのだとしても、そんな下策諸共に叩き斬る! それほどの感情が、真那の心中を埋め尽くしていた。

 認めよう。貴様は強い。そのOSは凄まじい。――ああ、認めるとも。

 だから、戦え。

 吐き捨てるように零したその一言を、水月が聞いていたはずがない。通信は閉じられていて、真那と回線が繋がっているのはシミュレータの外、通信室だけだ。だが、それでも、まるで彼女の言葉が届いていたとしか思えないようなタイミングで、空中へ逃げた不知火が、機体を反転させ、左肩のラックに収めていた長刀を抜き放つ。心臓が高鳴った。ぶるり、と全身が奮えた。――くる。速瀬水月が、来る!

 新型OSを搭載した化け物のような性能の戦術機不知火が、常識外れの機動を実現する化け物のような実力を持った衛士水月が。真那の意志に呼応するように、あらん限りの闘志を込めて、昂ぶるほどの必殺を込めて――――長刀が、閃く。スーパーカーボン製のそれが、耳障りな音を響かせ、火花が網膜を焼く。真那は瞠目した。白む視界の向こうに映る不知火の顔を、食い入るように睨みつけて、不敵に、不意に、笑ってやった。

「――は、はははははっ!」

 長刀を振り上げた右腕が弾かれる。両腕で振り下ろした水月の一刀を、片腕で受け止めることは出来なかった。が、腕が弾かれることなどわかっていた。右腕が衝撃に持って行かれそうになる一瞬間に、真那はもう一つの長刀を左手に握っていたし、対する水月はいつの間にか右手に短刀を握っていた。長刀は既にない。真那が自身の長刀を彼女のそれに引っ掛けていて、二本の長刀は一緒に吹っ飛んでいた。

 水月の機転に惚れ惚れする。もし彼女が長刀に拘りを見せたなら、この一刀は不知火の装甲を切り裂いたに違いない。だが、水月はそうしなかった。真那の行為を見抜いて、自ら長刀を捨てたのだ。武御雷の右腕と長刀を弾き、且つ、自身の武器さえ捨てることを惜しまない。行動は迅速で迷いなく、そこに躊躇などありはしなかった。しかも、機体が応える速度そのものが、段違いに速い――。

 真那が左手で長刀を振るうよりも速く、水月が短刀を突き立てるほうが速かった。真那の長刀を弾き、自身の長刀を捨て――同時に、短刀を抜き、穿つ。武御雷が長刀を抜き放ち振りかぶるというシーケンスを終えるよりも速く、短時間で、不知火は、XM3はそれだけの処理を終わらせていた。……ならば、これがOSの差か。真っ暗になった管制ユニットの中で、真那は静かに眼を閉じる。心地よい疲労感と、沸々と高ぶるほどの高揚感があった。耳に届くピアティフ中尉の声を聞きながら、一刻も早くXM3に触れてみたいと思う自分がいることに、彼女は――生まれて初めて、大声を上げて笑った。







 武はずっと黙っている。戦闘中も、そして戦闘を終えた今も。沈黙を守り、ただ、じっとモニターを見つめていた。自身の剣術の師匠、真那。それはきっと、武にとって目指すべき理想だった。いや、きっとなんてものじゃない。いつか必ず、彼女の立つその場所まで到ってみせる、と。そう決めていた。……だが、それは果てしなく遠く、そして、ひょっとすると永劫に届かないほどの高みに在るのではないか。そんな弱音が、胸中に渦巻いている。

 アレが、アレこそが…………月詠の剣術。その、真髄なのだ。

 BETAを滅ぼし、護るべき人物を護りきるための業。武が習得した剣術は、確かにそのための剣であり、技だったのだろう。――だが、足りない。今のままでは、到底届かない。身に付けたと思っていた剣術は全て、真那の魅せた火龍の如き暴虐の前には児戯に等しい。苛烈さも、壮烈さも、そしてなによりも、BETAを屠るという気概、敵を斃すという意志において、武は須らく劣っていた。

 あれが斯衛の実力か。あれこそが、真那の実力か。……赦されるならば、彼女の下で戦いたい。彼女に師事し、再び、彼女の剣術を学びたい。痛切に、そう願う。悔しいと思った。全然足りないのだと知った。けれど同時に――自分は、まだまだ彼女のように、強くなれる可能性を持っているのかもしれないと。ほんの少しだけ、前向きになれた。

 XM3という戦術機の革新を前に、『概念機動』、『概念実証機』という素晴らしい技術を前に、いつしか武は己の実力を見誤っていた。みちるや水月さえそう思っていたことなど武は知る由もないが、少なくとも、この場で彼女たちの戦闘をずっと見ていた彼は、それに気づいた。自惚れは、捨てろ。自身に言い聞かせるように、声に出さず呟く。慢心は、捨て去れ。XM3は確かに人類を救う一つの鍵だ。衛士本人の実力が変わらずとも、XM3搭載機に乗るだけで、戦力は飛躍的に向上するのだから。

 だから、こそ。

 己を鍛えよう。もっともっと磨きをかけよう。強くなろう。XM3に触れ、『概念機動』を更に極め、己の実力を伸ばし続けたなら、経験を重ねたならば。――きっと、いつか。真那と並び立つことも夢ではないだろう。分不相応な妄信ではない。それは、きっと、たどり着ける場所。届いてみせる輝かしい背中。武は深く息を吐いた。

 絶対に強くなる。そして、その力でBETAを斃し、滅ぼし…………茜を、純夏を、愛する彼女達を護り抜く。

 寿命を終えることなど出来ないのだろう自分。残された時間など知らないが、少なくとも、生きている間。生きていられる間。精一杯の努力をしよう。出来る限りの最善を尽くそう。A-01の隊規を思い出せ。決して、犬死などしない。自身の実力を見誤り、自惚れに溺れたまま死ぬなんて無様、晒せるわけがない。

 志乃の墓前に誓った。彼女たちに救われた命、絶対に無駄にしない。茜と触れ合ったその時に、より一層の強さを増した想いに気づいた。だからこそ、絶対に、強くなる。

「月詠中尉、お疲れ様でした。――いかがかしら? XM3の性能は」

 通信機に向かって、夕呼がこれ以上ないくらいの厭らしさで問いかける。黙考していた武だが、思わず顔を上げた。真那の性格を知っている彼からすれば、それは喧嘩を売っているようにしか思えなかった。否、実際、挑発しているのだ。まさか斯衛の赤が、新型OSを積んだだけの不知火に敗北する。しかもそれが斯衛の最も得意とする近接戦闘で、となれば……真那の屈辱はいかばかりだろうか。そういう真那の自尊心を知った上でからかうように問いかけるのだから、本当に夕呼は性質が悪い。AL4を完遂させるためにどれだけの外道であれ飲み乾して真っ向から立ち向かっている彼女を知ってはいるが、そういった悲壮なる孤高を貫く天才としての一面とは違って、こういう風に他者をからかう彼女は実に愉しそうである。

 みちるもピアティフも、それをよくわかっているのだろう。武などよりも遥かに夕呼との付き合いが長い彼女達は、愉しげに口端を吊り上げる夕呼の横顔に嘆息していた。その、溜息をつくタイミングが実に揃っていて、武は思わず噴き出してしまう。――それを、最も聞かれてはならない人に聴かれていたらしい。

『ほほぅ、白銀少尉。貴様今笑ったか? ふふふ、そうか、そうだな。斯衛の赤を賜り、殿下より勅命を賜ったこの私が、OSの性能差を前に無様に屈したのだ。さぞ痛快であろうよ』

 ――ぇ?

 モニターには碧緑の髪を結い上げた美しい真那の顔。碧色に澄んだ切れ長の瞳が、浮かべる笑顔とは裏腹にギロリと武を見据えていた。瞬間、絶望が過ぎる。隣りの画面に映っている水月が、呆れたように笑っていたのが印象深い。

 単純に真那の勘違いなのだが、最早何を言っても無駄。完全に頭の中を真っ白にした武を放って、夕呼と真那が会話を続けている。一体どんな話をしていたのかはさっぱり記憶に残っていないが、気づけば強化装備に着替えていてシミュレータの管制ユニットに着座していた。ハッと正気に返ったときには既に遅い。眼前に広がるのはつい先程まで真那と水月が戦っていた市街地跡。その遥か向こう。彼我の距離が一キロ近く離れているにも関わらず、とてつもない存在感と殺気を放つ赤い龍。

「――あ、俺、死んだ?」

 思わず零れた武の一言に、通信室で観戦していた全員が頷いた、



 その後、XM3を搭載した紅の武御雷と、悲鳴と絶叫を轟かせる不知火の剣舞は夜更けまで続けられたという。……無論、ギャラリーはとっくの昔に解散していた。







 ===







 茜が上機嫌であることは、晴子を始めとする彼女の同期たちにとって、大変喜ばしい事項である。その筆頭が多恵なのだろうが、少々常人とは異なる嗜好を持ち合わせているらしい彼女は時折怪しい言動をとることがあるので、色々と注意が必要だ。そして、今日も今日とて訓練を終え、食事のためにPXへ向かう道中に、茜が思い出したように呟いた。

「武、おっそいなぁ……」

「「「……」」」

 嘆息と共に零されたその言葉には、確かな情感が篭っている。晴子は薫と顔を見合わせ、ちらりと亮子を窺う。こくりと小さく頷いた亮子も、ニヤリと唇を歪めた薫も、今の茜の溜息が一体どういうものなのか吟味する必要がある――と、アイコンタクトで会話が成立していた。勿論、多恵だけは茜と一緒に“遅いねぇ”とぼやいていたのだが、それはまぁ、多恵なので仕方ない。

 友人達の酷評に気づかぬまま、多恵は茜の横でぴょんぴょんと跳ねるように歩いている。まともに歩きなさいよ、と茜にお小言をもらうのが大変嬉しいらしいのだが、茜からすれば手のかかる子供にしか見えない。……これで武との二機連携がずば抜けているというのだから、あまりいい気はしなかった。ほんの少しムッとした表情になる彼女だが、しかしすぐにニマニマと締まりのない笑顔がこぼれる。どうやら何かを思い出しているようで、照れたように“えへへ”と微笑を浮かべていれば、それはもう格好の餌と言っていいくらい、晴子たちを刺激した。

(ねぇ、またアレ……最近多くないかな?)

(ああ、多いな。何か思い出しちゃあ、ああやって一人でニヤけてるんだぜ? おかしくなったか??)

(薫さん、それは失礼ですよ……。でも、気になります。白銀くんと何かあったんでしょうか?)

 小声で呟く三人に、茜も多恵も気づかない。先を行く茜と多恵の後方で、少女達はヒソヒソと囁きあう。この場に武がいればまた少し違ったのだろうが、彼は今尚特殊任務の真っ最中であり、ここには居ない。なので唯一の突っ込み役である茜がしっかりと舵を取らねばならなかったのだが、生憎とその当人がトリップしているのだ。妄想を繰り広げる晴子たちを止める者はなかった。

「やっぱり白銀君か……問題は、ナニがあったか、だよねぇ」

「そりゃ白銀しかいねぇだろ。……で、ナニがあった、と」

「な、な、ナニって……ごくり、」

 愉快気に武の名を出す晴子。何かあったのだろうかと言い出したのは亮子だったのだが、晴子の発音にはどこか邪な気配が感じられた。そしてそれを受けて当然の如く“あった”と断じる薫。いや、別に断じているわけではないのだが、彼女はよくそういう言い回しをする。単純に武や茜たち周りにいるものをからかうための言葉遊びなのだが、面白いことに、毎回亮子がそれに乗ってくれる。自分が口にしたそれとは全然異なるのだろう晴子と薫の言い回しに、小柄な亮子は頬を染めた。生唾を飲み込むあたり、しっかりとどういうものか理解していることが窺える。

 ともあれ。

「白銀君って、結構凄そうだよねぇ……タフだし」

「だよなぁ。でも、ああいう奴に限って変な趣味持ってたりするんじゃねぇの?」

「あっははは、お尻とか?」

「「…………」」

「――ちょっ、ひかないでよっ!?」

 当人達の知らないところで、随分と好き勝手な戯言を口にしているものではあるが、これが、彼女たちのいつもの風景だった。

 人類の未来のため、この地球を救うため。そのために衛士となり、今も厳しい訓練に明け暮れている。けれど、それが全てではない。晴子、薫、亮子、多恵……彼女達四人には、もう一つ、明確な意思があった。儚く美しい、願いが在った。――いつまでも、武と茜が笑顔でいられますように。そんなささやかな願いをかなえるために、彼女達は戦っている。無論、本人達にその思いを告げたことはないし、今後も明かすことはないだろう。

 ただ、その想いがあればいい。それが心の支えとなっていることは紛れもなく、絶対に死なせて堪るものかという強い意志を持たせてくれる。そして、自分も生き延びて、いつまでも彼と彼女と共にいたい。……それを叶えるためならば、どんな困難にも屈することはない。真っ向から立ち向かい、必ず、未来を掴んでみせる。

 先にPXに到着した茜が振り返り、呼んでいる。どうやら話し込んでいる内に随分と遅れてしまったらしい。晴子たちはもう一度顔を見合わせて、可笑しくて笑った。そして、揃って駆け出して、茜と多恵の待つその場所へ向かうのだ。楽しげに笑いながらやってきた三人を見て、茜もつられて微笑む。何を話してたの? 問いかける茜に、それはもう最高の笑顔で晴子が答えた。

「白銀君とお尻でしちゃったってほんt――――――」



 後に、多恵は語る。

「ひとって飛べるんだねぇ……」

 凄絶なアッパーを喰らって宙に舞った晴子の身体が通路に落着したのは実に数秒後だったという。







[1154] 守護者編:[三章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/05/17 01:35

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:三章-04」





 XM3に関することで言うならば、計画は順調。予定通りの進捗を見せている。鉄(くろがね)という異分子の出現がこうも見事に良い方向の展開をもたらしてくれるとは、流石の夕呼も想像していなかった。というのも、夕呼には戦術機のOSを改良した程度でこれほどの戦力向上を望めるとは思えなかったからだ。実際に機体を操縦した鉄から感想を聞いて、戦術機の操縦とはなんとも面倒くさいものなのだと知った。……いや、理論としては知っていたのだ。そして、それが相当にレベルの高い技術の粋を集めたものだということも。

 だが、それは鉄によって覆される。

 彼から言わせれば、従来の戦術機の操縦システムは無駄があり過ぎ、或いは融通が利かないとか。例えば機体が転倒しそうになればオートで姿勢制御を行い、転倒を回避したり受身を取ったりするのだが、そのシーケンスを解除できないこと。――転倒しながらでも銃を撃てる――その方が重要だと、嬉々とした様子で彼は話していた。当初は無駄で無意味なコマンド入力と思っていたそれも、よくよく話を聞いてみれば「あらかじめ先の行動を入力しておくことで次の動作までのタイムラグをなくせる」という一応の理論に基づいていた。

 武と模擬戦を行わせ、彼の取る機動概念の有効さがわかれば、後の行動は早かった。鉄の生み出した発想、或いは概念そのもの。それは武器になる。00ユニット開発のために進めていた研究理論を応用すれば、新型OSの基盤を完成させることは容易かった。無論、夕呼が天才だということも理由の一つではある。

 そういった経緯から始まった新型OS開発も、XM3の完成を迎え、訓練部隊の慣熟、駐留斯衛軍への試供等、順調に進んでいる。各国へ公開するには十分すぎる成果だといっていいだろう。新潟での戦闘、歴代の訓練成績を塗り替える207部隊の成果、日本を代表する斯衛との戦闘データ……特に、この斯衛軍第19独立警護小隊がXM3の性能を認め、慣熟訓練に移っているというのが大きい。

 モニター越しに観戦していた水月と真那の模擬戦には多少冷や汗をかかされはしたものの、結果としては上々だった。日本の斯衛軍の実力は、世界が認めるほどに高いのだ。トライアルの折には彼女達にも参加してもらいたいというのが夕呼の心算ではあるが……さて、その点についてはまだ問題が多い。例え斯衛軍の参加がなくとも世界はXM3を認め、欲するだろう。よりインパクトを求めるならば、という程度の一手でしかないわけだが、もしそれが実現したならば、特に日本人の共感、賛同は凄まじいものとなるだろう。

 では――、それら以外では、どうか。

 オルタネイティヴ4……夕呼が目指す、人類の救済。その一手であり、最終手段。00ユニットの完成――何もかもが、停滞している。量子電導脳の開発のための理論が、実現出来ない。現世界最高峰の技術と知識を以ってしても、その完成には至っていない。

 いくらXM3という希望を打ちたて、時間稼ぎのための布石を打とうとも……恐らく、これが完成しなければ、人類に未来はない。

 確かにXM3は人類を救う希望の一つ足り得るだろう。そして、全軍がXM3を搭載し、十二分の火力支援・陽動があれば、戦術機でのハイヴ攻略も夢ではあるまい。――否、夢物語にさせないために、今、準備を進めているのだ。が。

 それだけでは、足りない。XM3だけでは、“勝ち続ける”ことが出来ない。いずれ人類側の戦力は底を尽き、BETAに蹂躙される日がやってくる。世界中にXM3が配備されたとして、人類の寿命は数年伸びればいいほうだろう。その間にどれだけのハイヴを攻略し、どれだけの短期間で00ユニットを完成できるか、が……これからの人類に、夕呼に残された課題である。

 つまり、本来の計画においては全く成果を出せていない現状をどうにか食い繋ぐために、XM3は絶対に必須で、そして、それだけの時間を稼ぐためのハイヴ攻略戦の成功は必須条件となる。甲21号目標、通称佐渡島ハイヴ。既にフェイズ4へと到達しているあの地下要塞を、何としてでも落とさねばならない。

 そのために必要な戦力は、文字通り日本全て。ハイヴ攻略戦など誰も成したことがないために、実際どの程度の戦力を投入すれば万全なのか、誰にも予想がつかない。そして、絶対に失敗が許されない作戦なればこそ、日本には相当の犠牲を払ってもらわねばならない。……「日本全て」などと言っても、実際そのとおりの戦力を投入することは不可能だ。甲20号目標の動向にも注意は必要だし、日本での復権を常々気にかけている米軍の動きにも目を向けなければならない。極東国連軍の協力があればそれらを封じることも可能だろうが、日本総力を挙げての作戦というには、些か無理がありすぎるのも承知している。

 では、どうする。

 XM3の優位性を知らしめ、日本人に希望を抱かせることに成功したならば、甲21号目標攻略作戦へ眼を向けさせることは容易い。ましてAL4を提唱した日本であるからこそ、夕呼の提案に異議を唱えはしないだろう。……表面的、対外的なポーズとしての渋りはあるかもしれないが、それこそポーズでしかあるまい。どの道、世界中の気運をそのように向けてしまえば、日本は作戦に同意せざるを得なくなる。最も望ましい形を採るならば、作戦立案、提唱を日本側から発することだが――これについては、現将軍陛下の周囲を囲む癌細胞の存在によって有耶無耶にされてしまいかねない。

 果たしてXM3という切り札だけで元枢府を動かせるかどうか。目前に迫るこの問題を解決するための布石を、夕呼はこれから模索せねばならなかった。

「結局……ひとつとしてまともに進んじゃいないのよね…………」

 溜息と共に、自嘲する。椅子に深く深く背を預け、無意味に軋ませてみるものの、それで事態が好転するはずもなく……。量子電導脳の開発は随分前から停滞したままだ。国連本部への定期報告の期日は近い。それまでに何とかポーズだけでも取り繕って見せなければ、年内の計画凍結さえ、ないとは言い切れない状況だ。

「珠瀬事務次官……か」

 知らない名ではない。むしろよく見知った人物である。国連事務次官の名を知らぬものなど、国連内部に存在しない。基地視察を兼ねた、夕呼への査察といったところか。連中も焦れているのだ。莫大な予算と優秀なスタッフを独占していながらになんの成果も挙げられないプロジェクト……五年前から始まったこの計画も、そろそろ見切りの時期が近づいているということらしい。

 忌々しい――とは、思う。だが、同時にこのまま手をこまねいていては不味いことも承知している。AL5推進派や、それに呼応する形での米軍側の動向等、煩わしい事項は多い。正直な話、人類全体がここまで追い詰められている状況で、同じニンゲンが足の引っ張り合いをしている場合かとも思うが、それもまた、ニンゲンの本性であろう。夕呼は博愛主義ではないし聖人君子でも在り得ないが、それらニンゲンの暗部さえあるがままに受け入れ、理解できるからこそ、愚昧な連中を見れば吐き気を催すのである。

 特に…………今、この時期は。

 追い詰められている自分を、誰よりも理解している。XM3以外頼るもののない現状に、狂いそうなくらいの怒りを覚える。

 理論は完璧だ。そのはずだ。どうしてそれが完成できない!? 人類の未来がかかっているのだ! その道の天才が揃っているというのなら、死に物狂いでやってみせろ!! ――そんな風に感情を吐き出すことが出来れば、それはどれ程に楽だろう。……無責任で、独り善がりなだけだ。喚けば事態が好転するというなら、喉が破れるまで喚いてやる。ヒステリーになればBETAが一掃できるというなら、所構わずヒステリックに陥ってやる……ッッ。

 だが、現実はそんなこと在り得ない。喚こうが、ヒステリーを起こそうが、BETAは“そこに居る”のである。

「あんたがわけわかんなくたって、事実は変わらない……」

 いつだったか……そう、それは鉄と対面した時に、夕呼が彼に言った言葉である。理解できない現実を前に取り乱した彼を嗜めるつもりで放った言葉だ。……今の自分の置かれた状況は、それに通ずるものがある。認めたくない事実がそこに、存在している。夕呼にとってのそれはいうまでもなく、00ユニットが完成しないことだ。

 “このままでは”00ユニットは完成しない……量子電導脳の開発に到れない。ならば、どうする?

 XM3は、鉄の発想から生まれた。“彼”は、自分たちにない発想を持っている。知っている。こちらが常識と思う何もかもとは違う“常識”を持ち合わせている。――そうだ。そもそも、鉄とは、ドッペル1とは、“彼”とは、一体何者なのか? どうしてここにいる? どうしてここに存在している? 仮定はいくつも積み上げた。どれひとつとして確証はないが、その中でも一つだけ、「そうであって欲しい」と願ってしまう希望がある。

「シロガネタケルは、この世界を救うために現れた――――」

 《鉄仮面》を被せ、名を偽り、正体を隠したのは何のためか。それは、“彼”の存在を絶対に知られてはならないと判断したからだ。出遭ったその日から、B19フロアに軟禁し続けているのは何のためか。鉄という人物。少なくとも、“彼”自身が「そう」だと思っている人物は……既に、この世界に存在しているからだ。

 ――「シロガネタケル」という人物は、A-01に所属し、この世界に存在しているからだ。



 鉄は「この世界」の人間ではない。



 そんなことは最初からわかっている。「白銀武」が存在している以上、鉄が「シロガネタケル」であるはずがない。――だが、それでも、“彼”は「シロガネタケル」として存在する。“やってきた”とでも言うべきか。次元を越え、時空を越えて、「この世界」に“やってきた”。

 多元宇宙、平行世界……なんでもいい、それを指す言葉が何かなんてことは、全く以って重要ではない。大切なのは、重視すべきは、その事実であり――因果、だ。

 鉄が……いや、シロガネタケルが“やってきた”と言う結「果」がある以上、そこにはシロガネタケルがやって来るための原「因」が存在する。しかも、この世界に白銀武が存在しながらに“やって来る”ほどの原「因」だ。世界の矛盾さえ捻じ曲げて同一の存在を二重に許容させるほどの「因果」。ならばそれは、間違いなくこの世界に影響を及ぼすほどのナニカだ。

 例えばそれはXM3の開発であったり、因果律量子論の証明であったりするのかもしれない。……なるほど、確かに二つとも、この世界に多大なる影響を与えるだろう代物だ。特に前者は、既に少なくない影響を与えている。戦術機の革命と技術者は口を揃えて言う。ならば、発案者である鉄は確かに世界を変えるほどの力を持っていたということになる。

 だが――それがどうした。

 XM3は確かに素晴らしい。交渉のカードとしてだけでなく、世界中に希望を与えるに相応しい革新を呼ぶだろう。……だが、それだけでは足りないのだ。それは先程もこれまでも、散々頭を悩ませて理解していることである。忌々しいが、それだけで勝てるほど、人類に余裕はない。

 では、シロガネタケルが“やってきた”本当の理由。原「因」とは。この世界を救うためであって欲しいと願うのは、唾棄すべきセンチメンタリズムだろうか。……そんなはずは、ない。今、この時、この世界に、“白銀武が存在しながら”に、“シロガネタケルがやってきた”というならば。そこには必ず、意味がある。確固たる理由がある。あって然るべきだ!!

「鑑純夏……」

 そうとしか考えられない。可能性があるのは、彼女しか居ない。自分でも突拍子もない理論だと鼻で笑いたい気分だが、今のところこれを否定する根拠も、肯定する根拠もない。仮定とは便利な言葉だと内心で自嘲しながら、夕呼は盛大に溜息をついた。――つまり結局、何一つとして変わらない。



 鑑純夏にはシロガネタケルを“呼ぶ”「因果」が在り。

 シロガネタケルには「この世界」に“やって来る”「因果」が在る。



 ただ、それだけのことだ。そしてそれを証明する根拠は一切ない。夕呼を嘲笑うような事実だけがそこに横たわっている。そして同時に、「矛盾を嫌う」“世界”が白銀武とシロガネタケルの二重存在を許容するというのなら、少なくとも二人は同一人物ではない。シロガネタケル……という存在そのものが、白銀武とは違うモノ。そうとしか言いようがない。だからこそ、この世界の現状を覆すほどの影響を及ぼす可能性を秘めているはずなのだが……果たして、それがなんなのかが掴めない。

 ……結局のところ、白銀武が居ようが居まいが、シロガネタケルは“やってきた”のだろう。或いは、そういった「因果」からすれば、白銀武が今こうして存在していることの方が想定外なのかもしれない。

 ――そんなことを埒もなく思ってみれば、少しは気が紛れるとでも思ったのかしら。皮肉気な笑みが浮かぶ。ギシリ、と椅子を軋ませながら、夕呼は席を立つ。向かう先は、鉄の住居となって久しい、部屋という名の檻。

 手駒は、一つでも多いほうがいい。まして、それがXM3の発案者にして「他の世界」の住人、「この世界」に変革をもたらすほどの「因果」を背負っているらしい存在ならば。

「甲21号作戦……使い物になるかしらね」

 催眠暗示と投薬によってBETAに対する恐怖――PTSDに似た反応は抑制できている。以前のようにBETAの姿を見ただけで心身に異常をみせるようなことはなくなった。……だが、鉄は軍人ではない。死ぬ覚悟がない。未だに「この世界」の存在を認めようとせず、思い出したように夢だと呟く。ピアティフはよくやってくれているが、彼女は専門的な知識を持ち合わせた医師ではないし、そろそろ限界が近い。精神的に磨耗しかけているという報告も受けていた。

 反応を示すのは戦術機のシミュレータと、ピアティフのみ。この時代、男の仕事は戦争と女を抱くこととはよく言ったものだと思うが、正直、正常な人間の状態ではないだろう。

 ――が、使い捨てるには惜しい。かつて白銀武に見出した以上の利用価値を、シロガネタケルは秘めているに違いないのだから。

 BETAへの恐怖、死への恐怖。新兵に多く見られるパニックさえ克服できたなら、鉄は際立って優秀な衛士となるに違いない。精神的、人間的に優秀かどうかはこの際関係なく、戦力として当てにできるというなら、当然、夕呼直轄のポジションに据える。……だが、リスクを伴うことも事実だ。戦場に出せば、死ぬかもしれない。シロガネタケルが「この世界」に及ぼす影響がなにかを解明しないまま――或いはそれは00ユニット完成に関わることなのかもしれない――、喪うことは避けたい。

「使い物になったとして、けれどそれは最悪の事態の切り札って所かしら……」

 歩きながら、思考を纏める。無意識に口に出していたことに夕呼は気づかないが、そもそもこのフロアには彼女以外には社霞と件の鉄しかいない。それすらも矢張り無意識下に確認しながら……最悪の事態に陥ったとして、軍人ではない甘ちゃんに頼ることが出来るかというと……夕呼は苦笑するしかない。そもそも、想定する“最悪の事態”とはなんだろうか。BETAがこの横浜基地を強襲する? テロリストが基地を占拠する? ……どちらもないとは言い切れない現状に、吐きたくもない最後の溜息をついて、夕呼はその扉を開く。

 たっぷりと数秒の沈黙の後、虚ろな声が夕呼の鼓膜を震わせた。

「……………………………………………………ゆうこせんせい」

 外された仮面が、ベッドの傍に転がり落ちている。やつれかけた頬。普段から照明をつけていないのか……差し込んだ光を眩しそうに睨みながら、弱々しく口を開く。

「……先生……オレを、家に帰してください……」

「――――――――、」

 傷のない左眼が、どこまでも黒く澱んだ瞳が、まるで夕呼を呪うように。

 その声に込められた感情の名は、一体なんだろうか。懇願、嘆願、憎悪、怨念……さて、いずれにしても、夕呼が彼の願いをかなえることは在り得ない。鉄は夕呼にとって得難い駒であり、シロガネタケルは「この世界」を変える鍵なのだから。

 反応を返さない夕呼に失望したのか……それとも、今まで何度も言って一度も聞き入れてもらえたことがないから諦めたのか……青年は言葉なく俯いて、のそのそとベッドから立ち上がり、服を脱いだ。ピアティフから身体を鍛えるように言われて、どうやらそれは素直に聞き入れているらしい。ここにやってきた当初とは随分体つきが変わっている鉄に、夕呼は鼻を鳴らす。

(誰だって、何もしないではいられない)

 それは人間の生理的欲求の一つだろう。食事を採り、衣服を与えられ、眠る。それさえ満たされていれば死ぬことはないというが、絶えずそれのみを強いられるのであれば、真っ先に精神が死ぬ。鉄を精神的にも肉体的にも生き延びさせるために、ピアティフはトレーニングの指導もしていた。無論、ただそれだけの理由ではない。コミュニケーションの一つでもあったし、いつか実戦に出ることを見越しての準備でもある。実直で真面目なピアティフのおかげだろう。「他に一切やることのない」鉄は、まるで機械的ではあったが、毎日トレーニングを欠かさず、シミュレータ訓練も行っている。

 夕呼が見ている前で強化装備に着替え終わった鉄は、無言のまま室内に設置された簡易シミュレータへと着座する。本物のシミュレータとは違い、画面だけが機動に合わせて変化するという代物だが、操縦感覚だけを掴むならばこれでも問題はない。衛士のリハビリ用に開発されていた筐体だが、成果は上々だ。当然である。規格外の適性値を持ち、「向こうの世界」では当たり前のようにそれとよく似た“ゲーム”をやっていたというのだから。

 筐体のハッチが閉じられ、駆動音だけが室内に充満する。完全に夕呼を無視した態度をとっているが、それが彼なりの意思表示だということはわかっている。……拗ねているのだ。そして、夕呼に怒りを覚えている。まるで餓鬼のようだと夕呼は思うのだが、それもまた、よし。鉄に対する感傷は、一切ない。どこか人間味を思わせていた甘さは、あの時斬り落とされた右腕と共に捨てている。

 いつか必ず、シロガネタケルが「この世界」に“やってきた”その理由を。「因果」を。「果」たすべきナニカを。

 掴んでみせる。解明してみせる。――世界を救うために。00ユニットを完成させるために。



 だから、絶対に、手放すものか。「元の世界」? 「オレの家」? そんなもの、例え在ったとしても――帰さない。







 ===







 2001年11月30日――







「では、我々は昨日説明したとおり、基地内部――主に珠瀬事務次官を始めとする政府高官の警護任務に当たる。……無論、我々が表立って動くことはない。いわば万一のための保険だな。C小隊は各自、機体の着座調整を済ませハンガーにて待機。急な話とはいえ、国連事務次官の視察を察知している不穏分子がいないとも限らん。テロリストの侵入およびその他全ての事態に備えろ。B小隊は三名を珠瀬事務次官の警護に当てる。残り二名はC小隊とともに宗像の指揮下に入れ。――速瀬、メンバーを選出しろ。宗像はC小隊を率いてハンガーへ移動。整備班の連中に、他の機体にも火を入れておくよう伝えておけ。A小隊は私と共に香月博士の護衛につく。以上だ」

「「「「了解!」」」」

 みちるの号令の下、全員が踵をあわせ、一糸乱れぬ敬礼を向ける。真っ先に行動を開始したのは美冴率いるC小隊。集合当初から強化装備に着替え終わっていた彼女達は、命令どおりに格納庫へと走り出した。それと同時に、水月の張りのある声が透る。多恵、薫の両名がC小隊の指揮下に入り、水月、真紀、武の三名が警護任務に就く。国連事務次官が無防備に基地内を闊歩することなど在り得ないが、その警護部隊の更に裏方として備えるのである。みちるが万一の保険というのがよくわかる。恐らく――というより、むしろ出番は皆無だろう。

 が、横浜基地副司令にして実質の最高責任者である夕呼直轄の特殊任務部隊が、如何に機密扱いの衛士とはいえ、何もしないでいいかというとそういうわけにはいかない。夕呼とて対外的に見せなければならない“立場”と言うものがある。この基地内にまで侵入できるテロリストなど早々いないだろうし、しかもそれが国連高官付の警護部隊を突破することなど在り得ないだろう。だが、何の手も打たず、万が一の事態を招いた時、夕呼はスケープゴートにされる。

 なにかと敵の多い人物である。そしてAL4の失墜を望む輩も居るのだということを、みちるはよく知っていた。外部からの侵入はなくとも、最初から内部に潜んでいるのであれば、ことは容易い。……つまり、みちるたちの任務とは文字通りに“裏方”であり、味方の顔をして事務次官たち官僚の命を脅かす“裏切り者”を排除すること。

 戦術機による対人テロを未然に防ぐためにC小隊を。

 警護部隊を利用した暗殺を防ぐために水月たちを。

 そして、AL4の要である夕呼の警備を万全とするために、みちる以下A小隊は備えるのである。……そこに妥協も油断もない。彼女達はスペシャルであり、自分たちに与えられた任務の重要性を重々承知しているのだから。

 表だって動くことはないとはいえ、水月たちは強化装備に着替えることはない。不測の事態に備えて各人の不知火に火を入れてはいるが、もしそうなった際には、まず先にC小隊が先行することになっている。夕呼の周辺警戒に当たるみちるたちはどうやら強化装備を着用するとのことだが、司令部から動くことのない夕呼を思えば、納得のいく選択だ。むしろ、基地内部を動き回ることになる水月たちが強化装備を着用すれば、それはそれで無用な動揺を呼ぶかもしれない。

 実際にことが起こった場合の動き易さや耐久性等を考えれば、強化装備を着用することに越したことはないのだろうが……BETA小型種ならいざ知らず、同じ人間相手に遅れを取るつもりなどさらさらないのがこの三人だった。

「……どうでもいいけど、あんたテロリストに刀で挑む気?」

「え? 何でですか?」

 珠瀬事務次官が到着するまであと十数分。持ち場へ向かうべく移動中の三人だったが、チラリと振り返った水月の言葉に、武が首を傾げる。いつもの如く腰に弧月を提げたままの武は、掛けられた言葉に「何を当然のことを」と言外に返したのだが、どうしてか水月は呆れたように息を吐く。武の隣りを歩いていた真紀でさえ溜息をつくのだ。ひょっとすると、武は非常識なことを言ってしまったのだろうか?

「…………ハヤセ中尉、シロガネが莫迦な顔してます」

「あんたに莫迦呼ばわりされたくはないと思うけどねぇ……」

 そして、端的にして容赦のない真紀。普段の真紀の動向を思い出せば、彼女の方が十分“莫迦らしい”と思う武だが、先任に対してそんな無礼は口にない。……思うだけなら自由なので、しっかりと胸中で叫んでおく――あんたに言われたくはない。そしてそんな武の心を読んだのか、水月がからかうように唇を吊り上げた。標的は武のはずだと思っていた真紀は、水月の裏切りにショックを受けたらしく、自分で「ガーン」と口にして俯いている。本気でいじけているのか、それとも構って欲しいのかは判断が難しいところだが、だからといって彼女を構ったりしないのが水月と武だった。

 その点、薫はよく真紀のフォローをしている。晴子を巻き込んで、三人揃って何かをしているのはよく見る光景だ。……外見は全く違うのだが、薫は上川志乃を、晴子は岡野亜季を思わせるのかもしれない。真紀の戦友にして親友。そんな人物とどこか似た空気を感じさせてくれるあの二人はきっと――真紀にとって、特別可愛い後輩なのかもしれない――などと武が考えていることを本人に知られたら、それはそれで恐ろしいので絶対に公言しない。特に晴子には絶対言わない。一体どういう因果関係があるのか知らないが、彼女にそういうことを漏らしてしまった時、最終的に茜の鉄拳が武の顔面にめり込む嵌めになるのだ。無論、それは水月の場合でも同様に。

「ちょっと武、ぼさっとしてないで整列!」

 ハッと顔を上げれば、いつのまにか滑走路付近までやってきていた。遥か前方には視察団の出迎えのために基地の主要人物が肩を並べている。武たちはその後方、滑走路の端ともいうべき場所に、ぽつんと並び立っていた。裏方に徹するとは言うが、結構な人数が整列している光景と比較して、これはこれで非常に目立つのではないだろうか。そんな疑問など些細なことを通り過ぎてどうでもいい、そういわんばかりの水月の視線に圧されて、武は背筋を伸ばし、背広組の到着を待った。

 ――任務だ、気をしっかり持て。

 例えそれが裏方の役回りだろうと、全く出番のない杞憂に終わろうと。武は二度と――香月夕呼の足を引っ張るわけにはいかないのだから。……それは自身のために、それは純夏のために。そしてそれは、この世界の未来のために。そして、杞憂ならそれでいいのだ。何も備えずに事が起きた場合の方が恐ろしい。その意味で言えば、夕呼は彼女なりに最善手を打ったということだろう。勿論、今回の事務次官来訪に備えているのは武たち特務部隊だけではない。横浜基地を挙げて、来訪する高官たちを歓迎する準備を終えているのだ。

「来た」

 真紀の声に視線を上げれば、空に駆逐艦の機影が見えていた。恐らくあれに珠瀬事務次官をはじめとした国連軍の官僚たちが搭乗しているのだろう。前方で待機していた面々が伸びていた背筋を更に緊張させている。そんな光景を目にしたせいか、俄かに武も緊張してきた。……なにせ事務次官である。副司令直属の部隊に属してはいるが、夕呼は特殊極まる例であり、こういう場合参考にならない。

 そんな武の落ち着きのなさを、目聡い水月が気づかないわけがなく……呆れたような溜息の後、背中に気合を入魂されるのだった。







 ===







『宗像中尉、質問があります』

 A-01部隊に宛がわれた格納庫、固定された不知火の管制ユニットの中で、茜は通信回線の音声を聞いた。オープンチャンネルで開かれたそれはB小隊の薫のものだった。今回の任務に限り水月の指揮下を離れた彼女は、いつになく真剣な面持ちでC小隊長の美冴に問いかける。

『なんだ? 任務の終了時間なら、珠瀬事務次官が何事もなくお帰りになられるまでだぞ』

 対する美冴は全く以っていつもどおり。過去に例を見ない任務に緊張している様子もなく、リラックスしきっている。何事もないと踏んでいるのか、何事かあったとしても自分たちならばやれると自信を持っているのか……恐らくは後者だろうとあたりをつけて、茜は網膜投影に映る美冴と薫の顔を見比べた。ともすれば、この組み合わせは珍しい。普段から分け隔てなく仲が良いA-01部隊ではあるが、矢張り同じ小隊、或いは同期同士で集まることの方が多い。そのため、薫が美冴に何を聞くのか、自然と耳を傾けてしまうのだった。

 もっとも、オープンチャンネルなので隠そうとしても隠せるものではないが。無論、秘匿回線を使用するような話題など、一少尉にあるはずもない。……そして、至極真剣な表情のまま、薫は口を開く。からかうようだった美冴もその表情に何かを感じ取ったのか、ふむ、と小さく頷いて、部下の質問を真摯に受け止める素振りを見せる。

『風間少尉とは……どこまでいったんですか……?』

「だぁあっ!」

『か、薫さぁ~ん……』

 ごくり、と生唾を飲み込みながらの薫の発言に転んだのは、どうやら自分だけではなかったらしい。同じC小隊の亮子も、困ったように苦笑を浮かべている。一体こいつは何を考えているのだろうか。同期にして親友、戦友である薫の思考についていけず、茜は盛大な溜息をついた。――晴子がA小隊で本当に良かった。心の底から真剣に思う茜だが、そんな彼女の内心などお構いなしに更に輪を広げてくれるのが、多恵である。

『ししし、師匠!! わわわ、わたしも聞きたいです~~っ!!』

 ――誰が師匠だ。というより、何の師匠だというのか。最早意味不明なまでに昂奮している多恵は、やっぱりそういう趣味の持ち主なのかもしれない。標的(?)にされているらしい茜本人にとっては迷惑極まりないことだが、それでいて武との仲を応援してくれているのだから、やっぱり多恵は不思議な少女だと思う。半ば白けたような思考で薫と多恵を見やりつつ、けれど話の内容に興味がないと言えば嘘になるので、こっそりと聞き耳を立てておく。それはどうやら亮子も同じようで、気づけば妙な緊張感が漂っていた。

 外部スピーカから届く整備班の号令がどこか遠い。……本当に今、この横浜基地内に事務次官以下視察団が訪れているのかと疑いたくなるほどに緊張感がないが、これもまた、A-01部隊の在り方だった。

『ふ、そんなに知りたいなら、今夜私の部屋に来るといい』

『――あら、美冴さんったら。そんなことを言って、本気にしたらどうするんです?』

 一体どこまで本気なのか、美冴がニヒルにそう言えば、梼子が穏やかに諭す。薫の質問にも多恵の暴言にも一切動じなかった彼女だが、その声は若干抑え目に感じられた。……心なしか表情が硬い、ような……気がする。茜にはいまいち判断つかなかったが、多分気のせいだと思いたい。男性が総じて少ない現在、そういう欲求を解消するために女性同士で、という事情はわからなくもないのだが。

(いやいや、やっぱわかんないって!!)

 現実に武のことを愛している茜からすれば、矢張りそれは理解の及ばない世界のように思える。単なる暇つぶしの話題にしては、実に重い……。いや、実際に美冴と梼子がそうだと決まったわけではないのだが。当人達も別に認めているわけではないし、誤解を招くような発言が多いのが美冴だ。それに振り回されていては身が持たない。それは、水月や武を見ていればよくわかることだった。

 なので茜は素知らぬふりをすることにした。否応なしに耳に入り込んでくる甘ったるい会話も、大昂奮が収まらないらしい多恵の暴走気味な言葉も、一体ナニを聞いているのかわからない薫の問題発言も、一々反応を示して耳年増ぶりを発揮する亮子も。全然、何も聞こえない。

『ところで実際のそういう経験談を聞きたいなら、涼宮、お前が話してやれ』

「――はぇ?」

 唐突に自分の名を呼ばれ、茜は眼をぱちくりとさせる。今までの話を完全に聞き流していた茜は、一体どうして自分の名が話題に挙がっているのかを理解できていない。……が、向けられる美冴の視線が笑っていること、薫の表情が獲物を見つけた獣のそれであること、期待に満ちた顔でごくりと唾を飲む亮子……等々、大凡の事態を掴むことに成功した。

 つまり、要するに。

『それで? どうなんだ? 白銀との夜の生活は――』



 莫迦なこと言わないで下さい!! ――と、そう叫ぶはずだった茜は、しかし管制ユニットの中で身を乗り出すようにしたまま、突然鳴り響いた警報に硬直する。喧しくも姦しい会話を断ち切った無慈悲な警報に、けれど、美冴たちの反応は早かった。一拍遅れて、茜も自機の状態をチェックする。オールクリア。着座調整時に確認したとおり、搭乗する不知火に一切問題はない。待機中のほかの機体のチェックも同時に済ませ、データリンクが正常であることも確認する。

 小隊長の美冴に異常なしを報告する茜たちに重ねるように、司令部で夕呼の護衛をしていたみちるから通信が開かれた。緊張に表情を強張らせる茜だったが、それを押し殺すように、隊長の言葉を聞き逃すことのないよう、しっかりと意識を保つ。――防衛基準体制2。果たしてテロか、BETAの進撃か。いずれにせよ、“戦闘”となるのだろう。……相手が同じ人間という状況は、本音を言えば想定したくない。だが、それが必要ならば、茜はきっと、躊躇わずに引き金を引く。

 ――そうしなければ、自分の護りたいものが護れないというならば。

 武を、姉を、水月を、大切で最高の仲間達を。世界を。喪いたくないと足掻くならば。自分はきっと、人を――――。

 ……だが、みちるが告げた内容は茜の予想を良い意味でも悪い意味でも裏切っていた。今から41分前の1504、エドワーズから那覇基地に向かっていたHSSTが再突入シーケンス直前で通信途絶状態に陥ったのだという。そして1519、国連軍GHQは状況を原因不明の機内事故により乗員全員死亡と推定。遠隔操作で突入角度の変更を試みるものの、高度なクラッキング対策が裏目に出て、悉くが失敗。自爆コードも受け付けず、ハッキングも出来ず……そのために、海に落とすことも自爆させることも不可能となった。

『HSSTは現在も横浜基地に向かって順調に落下中――事故機の航法システムは何故か電離層を突破後、機体の耐熱限界ギリギリでフルブーストするように設定されている。しかもカーゴの中身は爆薬満載というオマケ付だ。HSSTが落下した際の被害予測は、運動エネルギーと軍用装甲駆逐艦の耐熱耐弾装甲の強度から計算して地面を最低二十メートルは抉るとのことだ。更にカーゴに満載の爆薬が爆発すれば、基地壊滅も在り得る』

「!?」

 酷く淡々と、みちるは言う。その言葉の意味を一瞬理解できなくて、茜は――彼女達は、息を呑んだ。

 基地壊滅。それは、比喩でもなんでもなく。狂気に駆られたテロリストでもなく、暴虐に過ぎるBETAの襲撃でもなく。たった一機の駆逐艦の落下によって。

『……そのHSST、テロ行為の可能性は?』

 美冴の声に、ぎょっとする。あまりにも不自然に過ぎる事故の内容。HSSTの航行プログラムの不理解さに加えて、狙ったように満載の爆薬。何処かの誰かが書いた筋書きだと言われても全く違和感がない。むしろ、よくもやってくれたものだと感心さえする。今のこの世界に、地対空迎撃ミサイルという代物はない。光線級という理不尽極まる敵の出現に、一切の役に立たなくなってしまったからだ。……当然、この横浜基地にもそのようなものは、「ない」。

『テロの可能性もないとは言い切れないが……さて、その場合だと国連軍内部にテロリストがいることになるな。……流石にそんな想像はしたくないが、現在のところそれを否定する材料はない。話を戻すぞ』

 みちる自身、テロはともかくとして、人為的に起こされた事故という可能性は高いと判断しているらしい。それは当然だろう。今回の件、あまりにも出来すぎている。よりにもよって事務次官が視察に訪れているこのタイミングというのも、実にきな臭い。国連内部に事務次官と横浜基地を毛嫌いしているような矮小な人物がいて、丁度いいから一緒に片付けてしまおうとしている――そう言われた方が、遥かに説得力があるくらいだ。

 が、そんなことはどうでもいい。重要なのは、現実を捉え、今後どうするかだ。HSSTは落下を続けている。それを止める術はない。避けることなど出来ず、だからといって落下の衝撃に磨り潰されるのを待つわけにもいかない。

 いや、「術」は“あった”。

『――1200mmOTHキャノン……ですか。確かに現状を打破する可能性としてこれ以上の代物はないのかもしれませんが……』

 夕呼発案の打開策、即ち極超長距離射撃による“迎撃作戦”の概要を説明したみちるに、美冴が酷く渋い顔をする。みちる自身、それがどれ程困難極まる作戦なのかを理解しているのだろう。疑念を零してしまった美冴に対して黙したまま、ただ静かに、「無茶でも何でもやるしかないのだ」と視線で告げる。

 高度60km、距離500km――まるで非常識なその場所を落ちてくるHSSTに命中できなかった場合、電離層を突破した機体はフルブーストをかけるために軌道誤差が生じ、次弾以降の狙いが定め難くなる。また、OTHキャノンの砲身は三発までしか持たないのだという。……そして、三発目を外し、仮に四発目を撃てたとしても、その時にはHSSTは本土上空に到達している。撃墜に成功しても、破片が本土に落下することは避けられず、耐熱耐弾装甲の強度を鑑みれば、機体はほぼ原型を留めたまま落下するだろう。

 横浜基地壊滅は避けられたとしても、周辺地域の被害は相当なものとなる筈だ。ましてそれは、「仮に四発目が撃てた場合」の話でしかない。撃てるかどうかわからない仮定に縋るわけにはいかない。最後まで諦めない気概は持つべきだろうが、最初から四発目を当てにしてはならない。

『……風間、やれるか?』

『命令であれば、最善を尽くします』

 沈黙が痛い。

 みちるの発した問いに、梼子は間髪いれずに即答した。作戦概要の説明を受けた時点で、理解していたのだろう。隊内で最も狙撃能力に秀でているのは梼子だ。戦闘時において支援砲撃の効果が最も目覚しいのは晴子だったが、彼女は全体を見渡す能力が秀でており、その才能に射撃能力が引っ張られているというのが正しい。純粋に狙撃だけを見れば、梼子以上の腕前を持つ人物は居ないのだった。

 故に、迷いなく、躊躇なく、断じる。――最善を尽くす、と。

 梼子自身、わかっていた。自分にはHSSTを撃ち落すことはできないだろうと。出来て四発目。だが、その四発目は撃てるかどうかわからない。……それでも、その四発目に賭ける以外、彼女に出来ることはない。故に、“最善を尽くす”のだ。決して諦めはしない。己の全能力をもって、三発で仕留める。

 その……梼子の初めて見せる表情に、茜は喉が焼けるほどの覚悟を感じ取っていた。自分では、どう足掻いたところで三発で撃ち落とせない。それは多恵も薫も、亮子も同様だろう。晴子だってそうに違いない。美冴を差し置いて梼子が指定されているならば、美冴にだってその可能性は「ない」のだ。……この場に居ないほかのメンバーも、みちるさえ、同じく。

 誰も彼も、三発では当てられない。撃ち落とせない。……梼子とて、絶対はない。むしろ、命中しない確率の方が遥かに勝る。――だが、それ以上に、最も気になる点が一つ。それはみちるの口から発せられた、たった一つの単語。HSST打ち上げ用のリニアカタパルトに配備する機体。その名称。

『大尉……なぜ、吹雪なのですか?』

 そう。それだ。

 梼子が乗るというのに、“なぜ”、練習機の吹雪なのか。今回の作戦は非常にシビアなものだ。ほんの僅かな誤差、感覚のズレでさえ、許されない。ならば搭乗する衛士が最も慣れ親しんだ機体であればあるほど、成功の可能性は僅かながらに上昇するはずなのだ。にも関わらず、配備されるのは不知火ではないという。

『珠瀬……さん、』

 驚愕に震えたその声は、亮子のものだった。瞬間、戦慄が茜たちを襲う。美冴と梼子だけはその名が意味するところを知らず、いぶかしむようにしていたが、「彼女」をよく知る茜たちにとって、その可能性は決して笑い飛ばすことなどできないモノだった。――だから、吹雪。カラカラに乾涸びた喉を鳴らす。茜は浮かんだ額の汗をそのままに、亮子を見る。自身で口にして、確信したのだろう。亮子は顔面を青くしながら、小さく震えていた。

『…………そうか、月岡たちは彼女を知っているんだったな』

『大尉、その人物は一体……』

 噛み締めるように言うみちるに、美冴が質問を被せる。亮子や茜たちの反応、更に配備されている吹雪。それらを勘案すれば、大体の事情は掴めたのだが、ここはちゃんと事実を把握しておきたい。梼子もまた、通信画面の向こうにいるみちるを見つめる。それらの視線を受けて、けれどみちるは冷静に、ありのままを言い切った。そこには一切の誇張もなく、ただ、事実だけが存在する。

『本作戦の要である砲手を担当するのは、珠瀬壬姫訓練兵だ。彼女は非常に優秀なスナイパーで、その腕前は既に極東一を誇る。だが、如何に優秀とはいえまだ訓練兵だ。……風間、貴様は珠瀬が使い物にならない場合、珠瀬に代わって砲手を担当する』

 誰も何も言わない。ただ、事象に対する反射の如くに了解を告げる梼子だけが、強く強く拳を握り締めていた。







 ===







 その向こうから聞こえてくる消え入りそうな声を耳にして、冥夜は迷うことなくドアを開けた。簡素な造りの部屋。訓練兵に与えられた個室、そこに、壬姫はいた。今この基地に迫っている危機を乗り越えるため、そのための策の要として抜擢された彼女は、けれど圧しかかるプレッシャーと恐怖に怯え、ブリーフィングルームから逃げ出した。

 部屋の中で小さな鉢植えに咲いた花に向かってポツリポツリと言葉を漏らす壬姫は、普段の明るさなど微塵もなく、ただ弱々しく映る。――だが、冥夜は躊躇しない。勝手にドアを開け放ったのも、冥夜の侵入に気づいていないはずがない壬姫の態度も雰囲気も、全ては瑣末なこと。彼女は自身の信じるもののために、一切の容赦なく壬姫の肩を掴んだ。

「珠瀬、逃げても何も変わらない。そなた以外に任せられるのであれば、当の昔にその者が選ばれている。……香月博士の、神宮司軍曹の意思を汲み取ることはできないか……?」

 焦っているつもりはない。感情が揺らいでいるつもりもない。……だが、このとき確かに冥夜は急いていた。猶予は五分。ここに来るまでに要した時間と壬姫を連れ戻る時間を考慮すれば、もう殆ど残っていない。問答に時間を掛ける余裕など、ないのだ。

 夕呼は正規兵を待機させているとは言っていたが、恐らく壬姫以外を当てにするつもりはないのだろう。無論、何もせずに死を待つわけにはいかないから、本当の本当に壬姫が間に合わない場合にのみ、正規兵が吹雪に搭乗するはずだ。故に、五分といいながら若干の幅が持たされてはいるのだろうが……だからといって、それに甘んじてのうのうとしている暇はない。

 故に、無意識に急いていた。普段の冥夜であれば壬姫の心情を十分に汲み取った上で、行動に移しただろう。だが、冥夜は今、まず行動を起こした。声を掛け、肩を掴み、それと同時に壬姫の心情を汲もうとした――ために、

「ッッ、なんで!? 何でそんなこと言うの!? やらなくていいよって! もう心配なくなったよって! そう言いに来てくれたんじゃ……ないの?」

 その言葉は、目尻に涙を溜めたその表情は――冥夜の呼吸を詰まらせる。そんな壬姫は初めてだった。そんな彼女は初めて見た。こんなに感情を顕にする彼女は……見たことが、なかったのだ。

 こわい。

 言葉にすればただそれだけの感情が、壬姫の中で今、暴虐の如く荒れ狂っているに違いない。冥夜にはそう思えた。

 訓練兵だとか、戦術機に乗ったばかりとか、そういう言い訳を壬姫は口にする。彼女があがり症だということは知っていた。それを、自分の中の使命感や責任感で押さえ込んでいたことも知っている。伊達にこの二年間を共に過ごしたわけではない。仲間達の良い面も悪い面も眼にし、感じ、汲み取ってきた冥夜だからこそ、壬姫の気持ちはよくわかる。

 こわいのだ。自分に自信が持てないのだ。だから余計に怖くて、震えて。――出来ない、と。出来るわけがない、と。そう強く強く思い込んでしまう。誰かが助けてくれるなら、誰かが護ってくれるなら。自分の周りにはたくさんの“すごいひと”が居る。そういう甘えが、考えが、壬姫の中には存在している。ああ、誰だってそうだろう。誰だって、自分より優れたものを眼にすれば、「自分はなんて至らない」なんて。そんな風に考えてしまうことがあるだろう。

 だが、そう考えてしまったとして……その後どうするかは、人によって異なる。あるものは、だからこそより一層自身を高めようと努力するだろうか。あるものは、だから自分より優れたその人を頼るだろうか。冥夜は、前者だという自覚がある。自分はきっと、そういう人物に出会えたならば、いつかその人と並び立てるよう、或いは追い越せるように努力する。己を高める。そのことが自身を成長させる糧となることを知っているから。では、壬姫はどうだろうか。……彼女は、後者ではなかったか。

「珠瀬、現実から眼を背けるな。己の不安を、周りの者に押し付けるなっ!」

「!?」

 小さな壬姫の両肩を掴む。真正面から壬姫を見据えて、冥夜はまるで叫ぶように言っていた。その表情は、声は、まるで間違いを起こそうとしている幼子を叱る母親のようであり、恐怖に負けて逃げ道を探す友人を殴りつけるようであった。

 感情が爆発するような感覚を、壬姫は感じている。込み上げてくるのは恐怖と不安と震えだけ。どうして自分なのか、どうして自分に押し付けようとするのか。みんなで逃げればいい、急いで逃げればきっと間に合う。自分がやらなくても、正規兵の人が助けてくれるはず。こんな怖い思いをしなくても、きっと何とかなるはず。

 なのに。冥夜はそんな壬姫の心の弱音を全部見透かしたような眼をして、真正面から見据えてくる。叫ぶように放たれた言葉が、壬姫の身体を突き抜けていた。

 不安に思わない者などいない。誰だってHSSTの落下に恐怖を覚え、不安を抱いている。アレが落ちてきたら死ぬ。そんな現実に押し潰されそうになっているのは、壬姫だけではない。……だが、その恐怖を、不安を、周囲の者に曝け出す者はいるだろうか。ブリーフィングルームから逃げ出して、すぐにこの部屋に閉じこもった壬姫にはわからない。けれど、少なくとも、冥夜は自身の不安を壬姫に押し付けてはいない。みんなはどうだろう。…………冥夜がここにいるということは、皆もまた、手分けして自分を探しているのかもしれない。弱音を吐かず、不安など漏らさず、ただ、壬姫を説得するために。未来を掴む、そのために。

 諦めず、「戦って」いるのかもしれない。

「珠瀬……私には、護りたいものがある。……そなたにも在るだろう? だからこそ、そなたは今ここに居るのだろう?」

「ッ!?」

「こんなことを言うのは卑怯なのかもしれない。だが……そなたほどの技量を持たぬ私には、自身の護りたいものの行く末を、そなたに託すことしか出来ぬ。――やってくれ、珠瀬。そなたならきっと出来る。お願いだ……ッ、時間がない!」

 一瞬たりとも眼を逸らさず、強く強く見つめる。肩を掴んだ指に力が篭められて、そこから発する熱に、壬姫は血液が乱流するのを感じた。――この熱さが、冥夜の心だ。そうわかる。伝わる。護りたいのだという心が。自分の力で、“護りたいもの”を「護りたい」のだと。それが指先から、視線から、伝わってくる。

(壬姫にだって……ッ)

 そう、自分にだって、護りたいものがある。そのための力を手に入れるため、身に付けるために。自分は今、ここに居るのだ。向けられる冥夜の瞳は、自身の心から逃げることを赦さない。己の魂の咆哮を聞き逃すことを赦さない。冥夜の熱が教えてくれた。彼女の言葉が気づかせてくれた。――ああ、こんなにも。こんなにも確固とした熱い想いが、自分の中にも眠っていたのだと。

「そなたならば、私は喜んでこの命を預けよう……。待機しているという正規兵の方には悪いが、私はそなた以外にこの身を預けようとは思わぬ。そなたならば、信じられる。お願いだ、珠瀬……この基地を護ってくれ」

 そなたにしか出来ないのだ――その言葉は、けれど冥夜の口から紡がれるのよりも速く、壬姫自身が言葉にしていた。冥夜は驚きに眼を見開く。思わず見つめてしまった少女の顔は、眦を涙で濡らしたまま……けれど、強い、絶対の意思を内包していた。

「私じゃなきゃ出来ないから、みんな私に頼むんだよね?」

 緩やかに首を振り、冥夜の腕から離れる壬姫。机の上の鉢植えを手に取り、淡く咲いた可愛らしいその花弁を撫でる。すぅ、と深く息を吸った後に、壬姫は――

「私がやります! ……みんなが死んじゃうなんて嫌だ! 私は、私自身の力で! “護りたいもの”を護って見せます!!」

 その、鮮烈なまでの意志を。

 冥夜はきっと、死ぬ瞬間まで忘れないと。そう確信した。だからこそ、笑顔が込み上げる。「ああ」、と。強く頷いて。



 そして、珠瀬壬姫は、







 ===







「……なんつーか、アタシら出番なし?」

「まぁ、そうですね……。でも、結果的になんとかなったんだから、いいじゃないですか」

 つい数分前まで極度の緊張状態にあった基地内は、今尚歓声と昂奮に包まれている。

 HSST落下の情報がみちるからもたらされて以降、武を含む珠瀬事務次官の護衛任務に当たっていたB小隊の三名は、不測の事態に対処すべく戦術機にて待機を命じられていた。夕呼の護衛に当たっていたA小隊もそれは同様で、迎撃作戦の砲手担当候補の梼子と部隊長のみちる以外の全員が、格納庫で息詰る思いをしていたのが先程まで。警報が解除され、周辺にも基地内部にもテロの可能性がないことを確認した司令部より待機命令の解除があったのが今しがた。

 そうして戦術機から降り、生と死を分ける百数十秒から解放されて気が緩んだのだろうか。ヤレヤレと真紀が軽口を叩く。その軽口を咎めるものはなかった。確かに、自分たちには一切の出番がなかった。テロも暗殺もなく……それはそれでよいことなのだろうが、あわや基地壊滅かという事態において、出来たことは“待機”のみ。特務部隊が聞いて呆れる、と愚痴を零したくなる気持ちも、わからなくはなかった。

「そんなことを言って……。訓練兵に負けたことが悔しいと、ハッキリ仰いなさいな」

「なにおぅ!?」

 真紀と武の背後から、溜息と共に言い放つのは古河慶子。呆れた、とでも言うようなその表情を見れば、真紀をからかっているのだとわかる。……わかるのだが、その言葉は痛烈に皆の胸を抉っていた。慶子自身、そういう思いがあるのだろう。口にした瞬間の周囲の皆の反応に気づき、バツが悪そうに口を閉じる。真紀もその空気を察したのか、慶子に向かって吐こうとしていた言葉を口の中で転がして、なんとも憤懣やるかたない様子である。

「珠瀬……か。まさか本当にやってのけるとはな……」

「宗像中尉、」

 気まずくなった雰囲気を和らげるかのように、美冴が感慨深く呟く。その斜め後ろを歩いていた亮子が、思わずその名を呼んだ。振り返る美冴は、自分より遥かに背の低い彼女に、悪戯気に笑って見せる。その笑顔を見て、亮子は、武は、茜は、晴子は、多恵は、薫は、知る。――認められたのだ、と。

 今回の迎撃作戦の要は、“訓練兵”だった。狙撃成績極東一位。正規兵さえを凌駕する能力を秘めた訓練兵。それが壬姫であり、そしてそんな彼女の才能と実力を、同期であった彼女達は知っている。それ故に、彼女が砲手を担当すると知らされたときは、「珠瀬ならば大丈夫」という信頼が七割、「けれど訓練兵だ」という不安が二割、「どうか、成功してくれ」という祈りが一割、という按配だった。ただ成功を待つしかない身、というのは、存外に辛い。亮子たちにすれば壬姫は顔も名もその腕前もよく知った“仲間”であったが、美冴や真紀たちにしてみれば名も知らぬ一介の訓練兵に過ぎないのだ。

 その胸中は如何なるものだっただろうか。

 例え三発で命中させ得る可能性が低くとも、美冴たちにしてみれば、共にこの戦争を潜り抜けてきた梼子が砲手を担ったほうが、数倍以上安心できたに違いない。夕呼が判断したという事実があっても、それでも、自身の命を賭けるならば、自分が最も信頼している者に託したいと思うのは、誰だって同じだろう。それはきっと、当然の欲求に違いない。

 だが、彼女たちは軍人であり、衛士だ。そして、生ある限り最善を尽くす、ヴァルキリーズの一員だ。命令には従うし、余計な口を挟まず、ただ黙って待機していることが成功に繋がる最善手であると理解していたからこそ、皆、何も言わなかった。

 悔しい――と。

 誰一人、口にしなかった。迎撃作戦が始動され、壬姫が見事三発でHSSTを撃ち落とすまでの間。……誰一人、そんな言葉を吐かなかったのである。

 悔しくないはずがない。これだけの人数が居て、間違いなく横浜基地で最強を誇る特務部隊A-01の衛士が十三人も居て――たった一人の訓練兵の実力にさえ、届かない。その事実、その認識。悔しいと思わないはずがない。

 XM3を手にし、『概念機動』を会得し、押し寄せるBETAの大群を殲滅せしめた自分たちでさえ到達できない高みに、壬姫は居る。それは狙撃に限定した場合の事象なのだろうが、けれどそれは、厳然たる事実としてそこに存在する。……そういう自身に対する悔しさと憤りが――作戦が成功したという安堵もあったのだろう――漏れてしまったのが、真紀の揶揄った言葉であり、慶子の言葉である。

 皆が気まずそうになった理由はそこにあった。全員が、痛感していたのだ。「自分はまだまだ至らない」と。任官して正規兵となり、BETAと戦い生き抜いたところで、今回のような常人の能力では対処できない事態に陥ってしまえば……自分たちはただの外野、傍観者としてしか関われない。

 言うなれば、XM3の性能に浮かれ、天狗になっていた鼻をへし折られたようなものだ。いや、実際に天狗になっていたものはいないのかもしれない。けれど、どこか心の片隅に、自分たちは特別なのだという感情が宿っていたからこその悔しさであり、憤りだ。

 そして、そんな自身の感情を理解した上で、壬姫を認めることの出来る美冴は矢張り、尊敬に値する素晴らしい先達ということなのだろう。亮子は美冴を見つめ、同期の皆を見つめた。その問いかけるような視線に、薫が笑顔で頷き、茜もまた首肯する。武はニヤリと口端を吊り上げ、晴子と多恵は爽快な笑顔を浮かべている。――ああ、そうだ。

 才能とは、磨いてこそ光るもの。かつて亮子は他者に宿る“才能”を妬んだこともあった。けれど、それはその人の不断の努力の積み重ねの結果輝くものなのだと、気づくことが出来た。……あのときのことは、今でも鮮明に思い出せる。そして以後の訓練や経験から学んだことは。例え自身に才能がなくとも、努力は自分を裏切らないという、一つの真理だった。自分を満足させる言い訳なのかもしれないし、根拠のない詭弁なのかもしれない。けれど、亮子は自分が初陣を生き残ることが出来たのはそのためだと信じているし、疑ったことなどない。故に。

 悔しいと思ったならば、そんな自分が情けなく、憤りを覚えたというならば。

 もっともっと自分を鍛えて、能力を磨いて、壬姫に劣らぬ実力を身に付ければいい。そうできるだけの努力を重ねればいい。――それもまた、生きる力となる。

「はいはいはいはいっ! くっだらないことでウジウジしてんじゃないわよ! 肩ッ苦しい待機命令が解除されたんだから、さっさとシミュレータルームに移動ッッ!!」

「「「は??」」」

 ぱんぱんと手を叩いて。先頭を歩いていた水月が振り返る。みちるがいない今、この場を纏めるのは副隊長である彼女の役目なのだが……告げられた内容があまりにも唐突で、皆立ち止まり、ぽかんとしている。その中で唯一、美冴だけが表情を顰めながら苦笑していた。――まったく、この人は。それが美冴の正直な感想だったのだが、水月や周囲の者がそれに気づいた様子はない。いつもならそんな美冴の感情を察してくれる梼子も、まだ戻ってはいなかった。そのため、美冴はやっぱり一人で、水月の性格を羨ましく思うのだ。

「なにやってんのよ? ホラホラ行くわよ~っ?! あ、私より遅れた奴は腕立て二百回!! いいわね――ッ」

 言うなり、勝手に走り出す。――なんだって? 残された面々が水月の言葉を理解した瞬間、息が合っているのかなんなのか。全員が互いの顔を見合わせ、サァッと顔面を青褪めさせた後、まるで怒涛のように走り出した。

 この後、シミュレータルーム内で総勢九名による“腕立て伏せ大会”が開催されたのは言うまでもなく……何気に水月に追いついていた美冴を、本気で凄いと思ってしまう武たちだった。







「……それで? 警戒待機命令の解除後に、勝手にシミュレータを使用した言い訳はそれだけか? アァン?!」

「はい! もっ、申し訳ありませんッ! 大尉!!!」

「「「申し訳ありません!!!」」」

 そして、一時間ほどの訓練を終えてシミュレータから降りてみれば、そこに立っていたのは怒髪天を突くみちると、その彼女からやや距離をとって苦笑する遙に梼子。腕を組みまるで仁王のような有り様のみちるを見て、思わず「げ」と呻いた水月の判断は、きっと正しかったのだろう。――だが、哀しいかな、出口に陣取られてしまえばどこにも逃げ場はなく。結果、皆して怒られた。

 教訓。せめて事務次官が帰ってからにしましょう。あ、でもまずは許可を取ってからね! ……そんな莫迦げたフレーズが脳内を巡るくらい、水月たちはたっぷりこってり絞られたのだった。







 普段の任務とは異なる、あらゆる意味で特別だった一日が終わる。一歩間違えば基地壊滅も在り得ただろう事態を切り抜けたのは夕呼の大胆な作戦と、それを成し遂げた壬姫の実力。……今日ほど、A-01としての存在意義が薄かった日はあるまい。就寝前に振り返って、改めてそう思う。

 武は、壬姫が吹雪に乗り、1200mmOTHキャノンで以って落下するHSSTを撃ち落とした瞬間を見ていない。だが、自分とは離れた場所で、この基地の、自分の……茜の、純夏の命運を賭けた「戦い」が繰り広げられていたのだと思えば、言い知れぬ感情が湧く。――自分ひとりでは、護りたいものさえ護れない。どう足掻いたところで、この手で護ることができるのは……この手の届く範囲だけ。

 その事実を、改めて思い知る。

 思い出すのは、1999年の1月。北海道にいた自分には、あの横浜の惨劇を止める術はなかった。……BETAの捕虜とされ、悪逆の限りを尽くされた純夏を救う術はなかった。護りたい彼女を、護る術は……なかった。

 どう足掻いたところで。

 この手で護ることができるのは。

 ――この手の届く範囲だけ。

 そしてその狭い範囲の中でも、絶対という言葉は存在しない。今日、武に出来ることはなかった。別に武だけに限った話ではないが……けれど、結局はそういうことだった。

 自分の命がそう長くないことはわかっている。けれど、その全てを使って愛する者を、茜と純夏を護り抜くのだと誓った。

 だが、足りない。

 圧倒的に足りない。

 XM3、『概念機動』、真那から伝授された月詠の剣術……その全てを以ってしても、届かない領域がある。今回のHSSTは、その際たるものかもしれない。あんな事態が今後起こる可能性は限りなくゼロに近いだろう。だが、そのコンマ数パーセントの確率は、今日、現実のモノとなって文字通り降ってきた。そんな理不尽を前にして、果たして武は茜を、純夏を護ることができるだろうか。二人ともを愛し、二人ともを護ると誓った自分は……本当に、護れるのか。

「…………ッ、」

 護ってみせるという気概が沸々と滾る。足りないというのなら、修練を積み、届かせるまで。今までだってずっとそうやって己を高めてきた。――だが、同時に。武は今日、本当の意味で認識したのだ。己の命を。脳改造の副作用を抑える薬。アレがなくなった時が、武の命の終わる時。頭でわかっていたそのことを、武はまるで理解していなかったのだと気づいた。HSSTの落下。壬姫の失敗によってもたらされる最悪の事態。「死ぬかもしれない」という、認識。それが、武の中を貫いた。

 果たして、茜を、純夏を護って死ねたとしよう。……だが、その後はどうなる? 武が死んで、自分では護って死ぬことが出来てよかったと満足できるかもしれない。でも、残された茜は? 未だ脳ミソのままシリンダーの中を漂う純夏は?

 どうなるだろう。その頃には、この戦争は終わっているだろうか。――否、そんなに長く生きれるはずがない。夕呼が告げたのである。“お前はもう長くない”と。

 では、どうする。どうすればいい。死力を尽くして任務に当たれ。生ある限り最善を尽くせ。決して犬死するな。A-01隊規が脳裏を過ぎる。……ああ、その通りだ。この隊規に背くわけには行かない。例え自身の命が尽きようとも、例え自分亡き後の世界が茜や純夏の命を脅かすようなものだとしても。武に出来ることは、ただそれだけだ。

 護り抜く。

 それしか、出来ない。せめて自分の手の届く場所にいる間。自分が傍に居られる間。生きて、護ることができる間……ただ、その短い時間を。生きる。それしかない。

 だからこそ、

「純夏……悪ぃ」

 ともに戦場に出、ともにBETAと戦い、常に傍らに在ってくれる彼女を。いつ何時、その命を落とすかわからない彼女を……護る。何よりも、誰よりも、護り抜く。

 思えばそれは、唇を交わしたあの瞬間から、武の中で固まっていたのかもしれない。そう、決めていたのかもしれない。

 白銀武は、涼宮茜を間違いなく愛している。……それ故に。







[1154] 守護者編:[三章-05]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/06/03 20:15

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:三章-05」





 珠瀬壬姫、偶像に祀るには丁度良い外見をしている。

 小さな彼女は隊内でもマスコットのような存在となっているとか。柔らかな雰囲気を感じさせる彼女は、隊内の和を何よりも尊び、仲間のことをとてもよく想っているらしい。そういう性格的な面も、いい。整った可愛らしい外見、柔らかで穏やかな内面。――そして、常人には真似ることすら不可能な、超越した狙撃技術。

 横浜基地を救った小さな英雄は、その凄まじい才能の覚醒とともに、基地中にその名を轟かせた。

 一体誰が言いふらしたというのか……だが、それもまたよし。夕呼にとって、彼女たちの利用価値がまた上がったというだけのこと。そしてだからこそ、壬姫は偶像として丁度良い。さらには、今手元に送られてきた情報も。



 ――中部地方の山岳部で火山性地震が頻発。帝国軍は第一種危険地帯の不法居住者の災害救助、或いは退去を検討中とのこと。発生源は天元山と推定。近隣帝国軍、および国連軍基地へ救助部隊の派遣要請の可能性。対象は戦闘任務に就いていない訓練兵。



 第一報というにもあまりにもお粗末なメモ書きだが、ここまで決まっているのならば、恐らく近日中に正式な要請が来るのだろう。正直な意見を言わせてもらえば、不法居住者など知ったことではない。今の夕呼に、そしてこの世界に必要なのは好きで危険地帯に残っている融通の利かない“死にたがり”の命などでは決してない。彼らを救助するために、一体どれだけの人員が投入されるというのか。その金は、時間は? ……だが、彼らを助けることは、帝国軍にとっては至極当然の選択肢なのかもしれない。なにせ自国民だ。護るべき民だ。だからこそ、帝国軍は救助部隊派遣を要請してくるだろう。

 ――が、それがいい。

 夕呼は送信されたメモ書きを見つめながら、ゆっくりと笑みを浮かべる。この件を巧く使えば、或いは207Bの任官を早めることが出来るかもしれない。最大のネックである御剣冥夜。彼女の存在をこちらの望むように利用できたなら、XM3トライアル後の展開は、夕呼にとって都合よく転がることだろう。――いや、そうしてみせる。

 世界に干渉するほどの因果から鉄という駒を手に入れた。

 HSST迎撃作戦では壬姫という駒を手に入れた。

 ……では、天元山近隣の不法居住者救助作戦で、冥夜という駒を手中にしてみせよう。そして、XM3トライアルで、帝国軍を掌中に収めてみせる。世界中を、味方に付けてみせる。全てはこの世界を救うため。その足がかりとするため。

 そして。

 それら全ての布石を無駄にしないために。夕呼は何としても、絶対に、量子電導脳を完成させる。00ユニットを起動させてみせる。…………それが出来なくては、人類に未来はないのだから。

「そのためにいま少しの時間が必要というなら、くれてやるわ……」

 災害救助には最低でも一日以上要するだろう。救助部隊派遣にしたって、今すぐというわけではあるまい。その間の何日間を無為に過ごすことになるが、それは仕方のないことだと割り切ることにする。既に各国へトライアルの開催および参加要請は出している。約六割の国から、疑念と興味が五分五分といった具合の参加表明がされていた。残る何ヶ国も、この数日の間に返答があるだろう。

 ――順調だ。ただ一点だけを除いて、夕呼の計画は順調に進んでいる。多少の回り道をしていることは確かだが、今は、これが最善だと信じるほかない。







 ===







 2001年12月09日――







 神宮司まりもの口から本災害救助作戦の詳細が伝えられる。リミットは二十四時間後、10日1000。それまでに天元山山間部の旧天元町地域に散在する十四名の住民全員を避難させなければならない。

 本州奪還作戦――『明星作戦』の際に使用された新型爆弾、『G弾』の影響で、ここ数日日本中部の火山活動が活性化している。そのため、帝国政府は三日前に強制退去命令を発していたのだが、現在尚、退去通告を無視し、危険区域に不法滞在する者は多い。作戦の遂行、つまり不法滞在者の避難誘導にあたり彼らがそれに応じない場合は、災害救助規定に基づく実力行使が許可されていた。

 まりもの説明を聞くのは第207訓練部隊の五名。白い強化装備に身を包み、各人若干の緊張を漂わせながらも、この作戦の意味するところをしっかりと把握しているように見える。

「本来なら正規軍の出動となるところを、無駄飯喰らいの貴様達にお鉢が回ってきたのだ。役立たずでないことを証明するチャンスだ! いいな?!」

 その、真剣な眼差しを向けてくる教え子達に発破をかけるべく、まりもは語尾を荒げる。本来も何も、正規軍の出動など最初から考慮の外、救助作戦の立案時から出動するのは訓練兵と決まっていた。BETA予報は現在安全保障九十パーセントとなっているが、所詮人類側のデータなど連中に対しての気休めでしかない。そういった、いつ動き出すか知れない敵に備えるべく、正規軍は控えているのだ。都合のいいように使われているだけというのが本当のところなのだが、だからといって無碍にしてよい任務でもない。

 ――否、軍人であるならばどのような任務にも全力を、最善を尽くす義務がある。故に彼女達はこの任務に対して一切の疑念、不平不満を口にせず、ただ最速で最良の任務遂行を目指すのみ。そう在れるようにまりもは教えてきたし、彼女達はこれまでそれに良く応えて来た。しかも、XM3を搭載した吹雪での訓練成果は目覚しく、実力だけで言えば正規兵にも引けをとらないほどの上達を見せているのだ。任官していない、というだけで、決して役立たずではない。

 恐らく、今回の任務はそれほどの困難さはないはずだ。戦術機が先行すれば、説得自体もスムーズに運べるだろう。例え不法居住者の説得に時間を要したとしても、最悪の場合は麻酔銃の使用が認められている。……何の問題もない。あるとすれば、火山噴火がこちらの予想よりも早まるくらいだが、各所の観測データをリアルタイムで監視しているため、こちらもさほど問題ない。

 結局のところ、災害救助に向かう彼女たちの弁舌がものを言う、ということだ。

「では、班編成を通達する。榊、鎧衣をα1、御剣、彩峰をα2、私と珠瀬をα3――各自、戦術機の着座調整を済ませ、十五分後に作戦を開始する。以上だ!」

「「「「「了解!」」」」」

 敬礼とともに散開する訓練兵たちを見送って、まりもは一度指揮所へと顔を出す。本来ならここから部隊の指揮を執るのだが、訓練部隊は現在五名編成。二機連携を原則とする戦術機での作戦行動においては、一人余ってしまう。三機編成を取れないこともないが、今回の作戦は各所に点在する不法居住者の避難誘導であり、二班よりも三班で行動するほうが効率的だ。そのため、まりも自ら戦術機に搭乗し、現地へ赴くのである。

 指揮所は指揮車輌内に設営されていて、各モニターには火口の状況や、多種にわたる観測データが映し出され、随時更新されている。顔を見せたまりもに気づいた通信兵が起立し、敬礼を向ける。まりもはそれに答礼して、車輌内の全員へ鋭い表情を向けた。

「それでは、後のことをよろしく頼む。情報は逐次こちらへ、観測データは些細な変化であっても必ず通知しろ、いいな」

「ハッ! 了解であります! どうぞご武運を!」

 指揮所内の通信兵が背筋を伸ばし、今一度敬礼を向けてくる。それに颯爽と敬礼を返し、まりもは自機の不知火へと向かった。――帝国軍時代から愛用していた機体、あの『明星作戦』を生き延びた……思い入れの強い機体である。カラーリングこそ国連軍のそれに塗り替え、OSをXM3へと換装しているが、矢張りこれがまりもの機体だった。蒼の不知火の横には五機の吹雪。既に各員着座調整に掛かっているようで、整備班の怒号が飛び交っている。

「出来れば実力行使に訴えたくはないが……さて、」

 一つ息を吐き、眼を閉じる。

 ――今が大事な時期だということは、よく理解している。この災害救助活動が終了した後は、すぐに「トライアル」が待ち構えている。先日夕呼から聞かされたスケジュールには些か眉を顰めたが、彼女の目指す理想を思えば、納得のいくものだった。それだけ、夕呼がXM3に賭けているということ……そして、それはまりもも同様に。

 この新型OSの素晴らしさを世界中に知らしめ、見せつけ、惹きつけることが207B分隊に求められる何よりの成果。だからこそ、この救助作戦は何のトラブルもなく成功させる必要がある。トライアルに参加し、各国の烈士たちを相手に圧勝して見せなければならない彼女達が、救助作戦一つまともに行えなくてどうする。まりもは胸の裡の意思を強く固める。揺らぐことのない強靭な精神を、今このとき、より一層強固なものとして。

『207B分隊各機、異常ありません!』

 分隊長の千鶴からの報告を受け、狂犬は号令を発した。







「情報では、ここに一名ご老人が住んでおられるらしいが……」

「そだね……私が行く?」

「いや、私が行こう。彩峰は待っていてくれ」

 一軒の藁葺き屋根。古きよき日本家屋の趣を残した平屋建て。そこが冥夜と慧のやってきた、不法居住者の住む家の一つだった。到着し、機体から降りて早々に、冥夜は行動を開始する。「待っていてくれ」と言い終わるよりも早く、慧に背を向けて歩き出した冥夜を見送って……彼女は小さく息を吐く。

 ――御剣、焦ってるね……。

 言葉にはしないが、それが慧の見解だ。本部からここに移動するまでの間も、冥夜はどこかおかしかった。具体的にどうだったかといえば、移動速度が速すぎたり、操縦を誤って機体バランスを崩したりしていた。新型OSを搭載したシミュレータ、実機訓練を積み重ねてきた中で、冥夜はそういった初歩的なミスを犯すことは滅多になかったのだが、今回に限って粗が目立つ。

 災害救助のための出動がかかってからずっと、冥夜はどこか浮ついて……いや、焦っているように見える。思いつめている、ともいえるかもしれない。慧は自身を他人の感情の変化にそれほど敏感ではないと思っているが、そんな自分でさえ気づき、あまつさえ注意してしまうくらい、今の冥夜はおかしかった。

 平屋に近づきながら住人に呼びかける彼女の背中からは、不法居住者の安否を本気で心配しているのがわかる。その真剣さが焦りとなって浮かび上がって見えるのだろうか。……だが、それも仕方ないのかもしれない。冥夜の出自――少なくとも、斯衛の護衛がついていることを考慮すれば――将軍家に縁のある人物なのだということはすぐにわかる。或いは、現政威大将軍に瓜二つの外見等、勘繰ればキリがないのだが……ともかく、彼女の立場からすれば、自国民が危険に晒されている現状に、いてもたってもいられないのだろう。

「人は国のために成すべきことを成すべきである……」

 無意識に呟いていた言葉。それは、慧の心の支えとなり、今までもこれからも、自身の進むべき標となる言葉だ。「人は国のために成すべきことを成すべきである。そして国は人のために成すべきことを成すべきである」――彼女の胸に刻まれたそれは、亡き父がよく言っていた言葉だった。

 そして、その言葉と今の冥夜はよく似ている。

 彼女はきっと、不法居住者達を全員無事に救い出すことが、国のためになると信じて行動しているのだろう。そして同時に、今回の災害救助活動自体、国が人のために成すべきことだと信じている……。そう考えれば、彼女の焦りも理解できる。冥夜が慧の父の言葉を知っているとは思えないが、その行動する姿が父の言葉に重なるならば、慧も任務に全力を尽くそうと思えた。

 建物の奥の方へと向かった冥夜を見ながら待機していると、背後から人の気配が近づいてくる。この家の住民だろうか。振り返ると、割烹着姿の老婆が立っていた。どうやら畑にでも出ていたらしい。のどかな風景と老婆の姿を見ていると、ここが第一種危険地帯だなんて思えなくなりそうだったが、慧は自身に課せられた任務を果たすべく、行動を開始する。気概に満ちていた冥夜には悪いが、住民からやって来たのである。そこは勘弁してもらおう。

「……誰だい? ……大仰な機械でやってきて、一体どういうつもりだい? おまけにけったいな服まで着て……」

「……私は国連軍横浜基地から派遣された災害救助部隊の者です。ここは第一種危険地帯に指定されています。どうか、我々と一緒に避難してください」

 名乗るよりも先に問われてしまったが、慧は気にするでもなく説明する。見るからに頑固そうな老婆だとわかったが、どうやらそれは正解だったらしく、慧の口から“避難”の言葉が出た瞬間に、眉尻が上がっていた。とりあえずそのことは気づかなかったことにし、火山の噴火が近づいていること、退去通告が既に発せられていることを確認したのだが……いかんせん、暖簾に腕押しの感が否めない。

 噴火の事実も退去通告も知っていながら避難しようとしない。どころか、説得を試みる慧の言葉など聞こえていないようで、頑として頷こうとしない。……なるほど、強制退去命令さえ無視して居座るのだ、このくらいで避難してくれるならそもそも災害救助出動など無用ということか。取り付く島もない老婆に、次第に腹立たしい感情が込み上げてくるが、だが、それとこれとは別だ。個人の感情で腹を立てていい問題ではない。慧は一度深呼吸し、老婆をじっと見つめる。――なにか、理由があるのだろうか。

 ……あるのだろう。絶対にここを離れない。老婆の瞳がそう言っているように思えて、慧はヤレヤレと溜息をつく。――こういうのは苦手。そんな呟きを口の中で転がしていると、丁度良く冥夜が戻ってきた。向けられた慧の視線に気づいたのか、老婆と慧を交互に見ながら近づいてくる。

「御剣、タッチ」

「彩峰そなた……いや、よい。……もし、ご老人」

 涼しい顔で説得を丸投げした慧に、一瞬呆れた表情を見せた冥夜だが、すぐに表情を引き締めて、老婆へと呼びかける。
呼ばれた老婆は慧に向けたような、まるでこちらを煙たがるような表情で冥夜を見たのだが、それは一瞬の内に呆けたようになり、そして――



 老婆は、土下座し、希った……。







『……で? どうするつもり?』

 夜になり、日付が変わろうかという時間帯。慧から秘匿回線で通信が繋がれて、冥夜は一瞬呆気に取られたが、自分が彼女にそれほどの気を遣わせているのだと気づいて、苦笑を浮かべる。

 今、冥夜たちは自機の管制ユニットの中にいる。救助活動に訪れた最初の平屋。そこに暮らす一人の老婆の“避難誘導”のために、ずっと待っている。老婆のたっての願いを受け、説得を先延ばしにしたのが今日の午前。他の住民の救助活動を終え、残すところこの老婆のみとなった段階で、先んじようとする慧を引き止め、こうして待機を続けている。

 HQからの情報では溶岩ドームに亀裂が確認され、天元山本山の噴火予想が早まっているという。予断を許さぬ状況であることには変わりない。……先程から、余震が頻発している。そういう状況であるということを承知しながら、状況報告を求めるまりもに「鋭意説得中」などと戯言を返す自分は、きっと軍人としてあるまじき行為を犯しているのだろう。

 ただ一言、慧の問いかけが訴えてくる。

 ――どうするつもり、か。冥夜は真剣な表情で通信画面の向こうにいる慧を見つめ、同時に、老婆の言葉を思い出していた。冥夜に対して土下座をし、必死の思いで希った、老婆の想いを回想する。

 亡き夫と自分が苦労して建てた家。ここで生まれ育ち、国のために戦っている息子達。この家で待つことを約束し、息子達を送り出した。きっと、きっと帰ってくる。今ここを離れれば、死んでも死に切れない。山が噴火するというのなら、それは仕方がないこと。この地の土に還って、息子達の帰りを待ちたい……。

 それを、奪わないでほしい。

「彩峰……私には、護りたいものがあるのだ……」

『それは、……この国の、人?』

「!?」

 老婆の言葉を思い返せば、胸が締め付けられるようだ。老婆の気持ちは痛いほどよくわかる。――奪われることは、辛い。自身の力、意思の及ばないその場所で、無理矢理に奪い取られる苦痛。哀しみ。冥夜は、そういう個人の願い、想いを――護りたいと思う。

 日本という国。そこに暮らす民。人々の心、日本人の魂、志。それらこそを、護りたい。古より脈々と受け継がれてきたその心をこそ……。

 人のいない国はないのだから。

 だから、冥夜にとってここに暮らす老婆は、この国の民全ては、大切な存在であり、護るべき人々なのである。……その心を、誰にも打ち明けたことのない胸の裡を、慧は気づいていた。彼女の言う“この国の人”という言葉が、冥夜のそれと重なるかどうかは別としても、あまり他人の事情に介入しようとしないあの慧が、そうやって冥夜の心に触れてきたこと。その事実が、冥夜を驚かせる。

「…………ああ、そうだ。彩峰、そなたから見れば私は愚かな軍人に見えるのだろうな。これは私のわがままだ……そなたをつき合わせていることを、詫びさせて欲しい」

 そして同時に嬉しくもあり、申し訳なくもある。口にした通り、今こうして老婆の意思を尊重し、実力行使に訴えないまま時を過ごしているのは、冥夜のわがままであり、独り善がりな意志だ。そこには下された任務も、慧の思いも何もない。ただ、冥夜が冥夜の護りたいものを護るために我を通しているだけ。

 言葉にはしなかった冥夜の心を汲んでくれた慧を、ありがたいと思う。だからこそ、詫びねばなるまい。冥夜は頭を下げ、続く戦友の叱責を待つ。……が、いつまで経っても慧からの罵倒はなく、むしろ、呆れたような表情で、「莫迦?」と。それはもう拍子抜けするくらいに、飄々と言われてしまったのだった。

「…………彩峰?」

『御剣はおばかさんだね……』

「あや、みね……」

 慧は、優しい表情をしていた。柔らかで、それでいて呆れたような、しょうがない奴……そんな風な、温かな微笑で冥夜を見ていた。その美しさに、息を呑む。初めて見せる慧の表情に、冥夜は心底見惚れていた。穏やかなのは表情だけでなく、まるで冥夜の全てを包み込んでくれるような声音が、しんしんと胸に染みる。

「……そなたに感謝を」

 そして、よき理解者に巡り合えた幸運に感謝を。彼女と仲間となれて、本当に良かったと思える。互いを理解し、思い合える“仲間”がいることを、嬉しく思う。出逢ったばかりの頃の自分たちではこうはならなかっただろう。お互いの素性に想像がついてしまって、何処か余所余所しく、見えない壁を作りあっていたあの頃。同じ訓練部隊だった白銀武や、まりもの計らいがなければ、きっと今でもそのままだったのではないだろうか。

 そう思うとゾッとする。そして――なんと未熟だったのかと、苦笑してしまう。

『御剣、お婆さんが呼んでる。……降りる?』

 慧からの通信にモニターを見れば、老婆が平屋から出てきて手を振っている。手には盆が載せられていて……どうやら、おにぎりが並べられているらしい。夜食、ということなのかもしれなかった。……瞬時に、胸が詰まる。

 今、この場所には誰も住んでいないことになっている。ただでさえ食料の入手が困難になっているこの時勢に、どうしてあれだけの数のおにぎりを用意できるのだろうか。……あれは、残り少ない老婆の蓄えそのものではないのだろうか。自らの食を犠牲にしてまで、自分たちのためにおにぎりを握ってくれた老婆の思いやりに……冥夜は矢張り、あの老婆の想いを叶えてあげたいと願ってしまう。

 例えそれがこの地で命果てることだとしても。

 例えそれが任務に反することだとしても。

 きっとそれが、「生きる」ということなのだろうから。「自らの意志で生を全うする」――この国の人々が、そう在れる場所を護ることこそ、冥夜の戦う理由なのだから。







 不法居住者の避難は大凡完了した。残すはα2だけだが、芳しい報告はまだ受けていない。……人の意志を尊重し、慮ることが出来る冥夜には、実力行使に訴えるという選択肢はないのだろう。鋭意説得中とは言うが、実際それだって怪しいものだ。そして、その件について慧が何も口を挟まなかったのは、彼女も冥夜の考えに同調しているということだろう。――まったく、勝手ばかりをする……。

 自身の教え子の甘さに辟易とするが、それが彼女たちの美点だということも理解している。だが、それはあくまで人間としての美点であり、時として――現に今のような場合、軍人としては、足枷にしかならない。

 情を失くせ、と言っているわけではない。ただ、任務のためには非情になることも求められるという……軍人として至極当たり前のことが、彼女たちの中で行えていないということが問題なのだ。まだ訓練兵だから、というのは言い訳だ。甘ったれた感情に縋る奴は、戦場で死ぬ。そこにどれだけの崇高な意志があろうと、卓越した実力があろうと、甘さを乗り越えられないものは、いつか必ず、戦場に散る。

 全体を見通す能力が、まだまだ圧倒的に不足しているのだ。自身の感情に従ったその選択が、その他全ての事象にどのような影響を与えるのか。……そのことが、わかっていない。想像出来ていない。もし仮に、彼女達が鋭意説得しているのが嘘だったとするならば、その嘘のおかげで部隊は引き上げることも出来ず、随伴している整備班や通信班、観測班に衛生班、食料班等々、たった衛士二人と不法居住者一人のために、今もこれだけの人数が、第一種危険地帯に留まっている。

 いや、その全ての者は、これが任務だからと了解している。自分たちに与えられた役割を把握し、理解し、最善を尽くすために留まっているのだ。だから、それはいい。それが任務なのだと知っているから、それでいい。

「問題は――、」

 冥夜と慧。この二人が、果たしてそこまでを考えた上で行動しているか、だ。……まだ二人が嘘を報告していると決まったわけではないし、自分の部下を信じたいという気持ちもあるが、現在この場所で、一人の指揮官として。まりもは判断しなければならない。作戦終了まで残り四時間弱。ギリギリまで粘れるものなら粘りたいのはまりもも同じだが、ここ数時間の観測データを見るに、そんな猶予はないのかもしれない……。

 瞬間。

 直下が崩れ落ちるような震動、空を焼く灼熱色、轟く火山の咆哮を――

「――――――ッッ!? 207各機ッ! 応答しろ!!」

 唸りを上げる大地に対抗するように、まりもは叫ぶ。すぐ傍にいた壬姫の無事は目視でも確認できた。同じく本部まで帰還していた千鶴、美琴の両名からも返答を受ける。が、現在も作戦行動中の冥夜と慧。この二人からの返答がない。痛烈に舌打つと同時、まりもは再度通信を開く。視界に映る空は赤い。囂々と溶岩を噴き上げるその様は、中々に見応えがあった。

「20702、04! 応答せよ! ――20702、04! 応答せよ!」

 繰り返すまりもの通信に、やや遅れて冥夜から返答があり、慧も民間人も無事との報告に上出来だと鼻を鳴らす。突然の噴火、しかも深夜である。これが眠っていたところに溶岩の直撃を受けて死亡、なんてことになっては、本当に洒落にしかならない。その点を考えれば運がよかったとも言えるし、返答する声音が冷静だったことも上出来だ。パニックが人を殺す。少なくとも衛士としての冷静さを失っていない彼女達は、この窮地を生き残れるだろう。

 状況を問う慧に、観測班から回された情報を説明する。溶岩ドームが爆発、発生した大規模な土石流は天元町方面から外れた丹ノ瀬方面へと流れている。溶岩流が発生し、北斜面に沿って毎秒12mで進行中……。そこまでを一息で言い切り、まりもは網膜投影に写る二人の教え子の顔を、強く睨みつけた。

「住民を強制収容し至急撤退しろ! 土石流はまだしも、吹雪の設計では巨大な火山弾や溶岩に耐えられんぞ!」

 語気を荒げるのは、きっと心のどこかでこの命令が無視されるだろうことを理解していたからだ。誠に腹立たしいことだが、御剣冥夜という少女の心情と行動の理念を重々承知し、理解出来ているまりもだからこそ、彼女の表情を見ただけで確信した。

 冥夜は強制収用なんてしない。――こいつらは、端から説得なんてするつもりがないのだ!!

 そして同時に、不法居住者を死なせるつもりもない。
データリンクでもたらされた情報を確認し、まりもの説明を聞く傍らで、冥夜は既に決断を下していたに違いない。故に、再びの地震に通信が中断されたその時。まりもは忌々しげに罵倒するのだ。

「02、04! 貴様ら何を考えている! 状況を報告しろッ!!」

『こちら04。通信回線が不調のため、一度通信終わります』

「なっ!? こら!! こッッの、莫迦者ォォオ!!」







 通信回線を閉じると同時、慧は吹雪を疾駆させた。前方には、本人は冷静なつもりで全然冷静になれていない冥夜の吹雪。度重なる地震と先程の土石流で大曲谷両岸の崖が崩れ、この谷の高低差が埋め立てられてしまっていることには、慧も気づいていた。このままでは丹ノ瀬方面へ流れている溶岩流が、旧天元町北区に流れてしまう。……恐らく、その溶岩の進路を多目的増加装甲で変えようというのだろうが、それはあまりにも無為無駄無謀な愚策だ。いいや、策ですらない。

「御剣! 戦術機じゃ無理、引き返して!」

『やってみなくてはわからん!』

 素人が見たって一目瞭然のその事実に、視野が狭窄してしまっている冥夜は気づかない。いや、本当は気づいているのかもしれないが、それでもやってみなければわからない、と、自分自身を鼓舞しようとしているのか。……いずれにせよ、このままでは冥夜が危ない。あの老婆を死なせるつもりなど毛頭ないのだ。老婆の意志を尊重すると言いながら、決して、その命を散らせるような真似はさせないと決めていたのだろう。

 慧は確信する。今ここに居る冥夜は、軍人などでは決してない。

 彼女は、ただ己の理想を声高に叫び、周囲を振り回す身勝手な女だ。自分のわがままなのだと言っていた。……本当にその通りである。だが、そのわがままに乗ったのは慧で、それが自分自身の意思でもあった。故に慧は冥夜の無謀を知りながら、軍人に許されない愚行を知りながら、それでも、あの老婆のために行動する。

 亡き父の言葉が蘇る。脳裏にこだまする。――人は国のために……そして国は人のために――その言葉だけを信じてきた。だから自分は、いつかきっと、この国のため、この国に暮らす人々のために成すべきことを成せるように。

「それでも、今の御剣は間違ってる……!」

『ッ?! なにをっ……』

 老婆を護るために。冥夜はただそのためだけに行動している。老婆の説得を慧に任せ、自分は単身、溶岩の進路を変えようと渦中に飛び込んでいった。――そんな行為を、あの老婆は喜びはしない。どう足掻いたって、出来ないものは出来ないのだ。多目的増加装甲で溶岩の一部の流れを抑えられたとしよう。だが、それがどうした。大量に流れ来る溶岩流のほんの一部を抑えられたとしても、その周囲を流れ来る溶岩は止められない。まして、吹雪の装甲は溶岩に耐えられない。稼げたとして、ほんの数分にも満たない気休めのために、冥夜は命を捨てようとしている。

 それは、絶対に許されない。

 衛士を目指すものとして。この国を、民を護ると言った冥夜には、絶対に赦されない行為だ。

「とにかく下がっ…………!!??」

『くはっ……』

 激昂した様子の冥夜に再度後退を促そうとした矢先、途轍もない震動と衝撃が機体を埋め尽くす。どうやら土砂崩れか何かに巻き込まれたらしい。脚部バーニアを最大に吹かし、何とか脱出に成功したものの、すっかり泥を被ってしまった。素早く機体の状態と周辺状況を確認する。網膜投影に映る冥夜が、何処か憮然とした表情で呟いていた。

『……このおかげで少しは……時間稼ぎが出来そうだな』

「……本気で言ってる? こんなの気休めにしかならない」

『……』

 つい、言葉が刺々しくなってしまう。ムッとした様子の冥夜の表情に肩を竦めながら、慧は老婆のいる平屋へと進路を向けた。



 さて、実際のところどうすべきか。慧は泥に濡れた自機を見上げて、溜息をつく。老婆を見捨てるつもりはない。そして、この場に留まりたいというその願いを曲げさせてまで、退避させるつもりもない。……そのことは、いい。たとえ冥夜の身勝手な願いなのだとしても、慧自身がそれに納得し、賛同しているのだから。

 問題は、今のこの状況である。土砂崩れのおかげで、数時間の猶予を稼ぐことは出来たが、同時にそのせいで機体に不調が出ている。慧の吹雪は通信機の受信に支障が出ているようで、冥夜からの通信さえ聞こえなかった。今は強化装備の通信機を使用しているが、出力の関係から近距離でしか使えない。冥夜の機体はセンサー類に不調が出ているだけでなく、泥でカメラが半分以上死んでいる。更に右主腕の肘関節と手首を、火山弾の直撃でやられていた。

 楽観できる状態ではない。溶岩は今も尚進行中だ。残る数時間で、なんとかしてここを護り抜き、溶岩の脅威を逸らさなければならない。

 たった二機の戦術機で何が出来る――そんな弱音が不意に浮かんできて、慧は自身を罵ってやりたくなった。

 それを決めたのは自分で、選択したのも自分。ならば、ありとあらゆる可能性を検証し、見つけ出し、「やり遂げてみせる」以外に道はない。……撤退命令を無視している時点で軍規違反の罪は免れないのだが、だからこそ、冥夜の意志は貫かせてやりたい。絶対にこの場所を護り、老婆を護る。でなければ、ここまで粘った意味がない。

「彩峰、発電機が母屋の裏にあるそうだ。そなたの吹雪から直接電源を取らせてくれ」

「……」

 どうやら冥夜は自機のカメラを覆っている泥を洗う気らしい。老婆から井戸とポンプがあることを聞き出したが、電気が止まっているせいで使えないとか。発電機も既に燃料切れとのことだが、そこは慧の吹雪から配線を直結するなりして、何とかしてくれという。……正直、呆れた。諦めないという気概は慧も負けるつもりはないが、冥夜の見せるそれは些か前向き過ぎるように思える。それがいけないというわけではなく、いい意味で常人を超えていると思わせるのだ。

「確か、納屋にホースがあったけの……ありゃ随分長いから、お役に立つかもしんれねぇ……今持ってまいりますわ……」

「あ、では私も一緒に参ります」

 冥夜に問われていた老婆が思い出したようにホースのありかを口にすると、冥夜はこれ幸いとばかりに強気な笑みを見せる。一度慧に視線を向けて、老婆の後をついて納屋まで向かう冥夜は、矢張り微塵の揺らぎもなく、ここを護り抜いて見せるという絶対の意志に溢れていた。

 ――教官に殺されるかもね。ふと、そんな想像が過ぎる。軍規は絶対だ。上官の命令は絶対だ。まりもは住民を強制収容して至急撤退しろと言った。それを完全に無視して単独行動を取っている自分たちは、よくて営倉入り、最悪で除隊処分だろうか。或いは今年の任官はなく、もう一年訓練を積むことになるかもしれない。

「後悔しない……」

 するくらいなら、冥夜を殴ってでも老婆を強制収容し、撤退している。冥夜に共感したというだけではないのだ。自分自身の心の中にも、彼女と同じような「護りたいものを護る意志」が存在していた。だからこそ、今ここにいる。小さく頭を振り、発電機を運んでこようと一歩を踏み出したそのとき――地面が跳ね躍るように歪んだ。バランスを崩しそうになった慧だが、幸い揺れはすぐに収まり――背後に聞こえた何かが崩れる音――まさかという予感がして振り返ったそこには、潰れた納屋が、

「み、御剣ッ!! お婆さん!!」

 知らず、叫び、駆け出していた。今正に納屋へホースを取りに行ったはずの二人の姿がない。崩れた納屋の下敷きになったか? そんな不安を振り払うように、もどかしいくらいに近しい距離を、慧は全力で走った。

 再度呼びかけようとした慧を留まらせたのは、弱々しい冥夜の声。痛みを堪えるように大丈夫だと言って見せた彼女は、納屋の柱に足を挟まれていた。そのすぐ傍では老婆が狼狽している。どうやらこちらは無傷のようだが、口走る言葉を聞くに、冥夜が老婆を庇ってのことだと知れた。崩落が早く、冥夜自身は逃げる暇がなかったのだろう。だが、出入り口に近かったことが幸いしたようで、冥夜は自力で脱出していた。

「ホントに大丈夫?」

「問題ない……」

 気遣うように傍に寄った慧の問いに、冥夜は不敵に笑って見せたが……立ち上がろうとした瞬間、痛みに顔を歪ませてバランスを崩した。咄嗟に抱きとめた慧に済まないと詫びる冥夜だったが、どうやら足を痛めたらしい。骨折もあり得る。慧はすぐさま冥夜を座らせて、患部を触診した。どうやら捻っただけのようだが、捻挫とはいえ楽観は出来ない。柱の下敷きになってこの程度で済んでいるのは流石に強化装備だと感嘆するものの、崩れた後のゆっくりとした加圧にやられたらしい。

「あああ……今すぐ包帯と薬を……」

 うろたえる老婆はそう言って平屋の中へ向かおうとする。危険だからと慌てて止めた冥夜の言葉を押し切り、老婆はまろぶように屋内へ入って行った。また地震が起こるかもしれなかったが、もう遅い。僅か数十秒の時間を、じっと待つ。……彼女は責任を感じているのだろう。自分の身を護るために、冥夜は負傷した。その罪悪感に潰されないためには、少しでも行動するしかないのだ。その気持ちがわかるからこそ、冥夜も慧も、老婆が戻ってくるのをただ待つしかなかった。



 その後老婆が持ってきた包帯で足首を固定し、少しでも負担を軽くするために強化装備の循環装置と生命維持装置を外す。冥夜に向かって土下座を繰り返す老婆をとにかく宥めて、顔を上げてもらうのは一苦労だった。なんとか落ち着きを取り戻した老婆に、今一度避難を勧めてみるが、矢張り彼女の意志は固かった。息子達の帰りを待つことが願い。そう言っていた老婆は、ポツリポツリと事情を話してくれた。

 既に息子達は亡くなっていること。頭ではわかっていても、戦死を告げる紙切れだけでは心が納得できない。老婆は、今でも息子達が国のために戦っているのだと信じている。

 例え死んでいたとしても。

 きっと魂は、まだ戦っている……。

「魂だけになっちまっても、ふとしたことで帰りたくなるかもしれんでしょ? そんとき、ここに誰もおらんかったら……さびしかろ思ってね?」

 その言葉に、胸が詰まる。冥夜も慧も、ただ俯いて唇を噛み締めるしかなかった。老婆の心は揺らがない。正真正銘、それが最期の願いなのだろう。最期まで生きて、ここで死ぬ。いつか帰ってくる息子達の魂とともに、この地で、この場所で。土に還り、一つになる……。

 掛ける言葉が見つからない。……いや、老婆もなにか言って欲しいわけではないだろう。これは、「戦い」だ。この老婆は、彼女の戦いをずっと続けている。ただ待つこと。ひたすらに、信じて待つこと。老婆は冥夜たちを見て“羨ましい”と言った。女でも戦場に行って、戦術機という大きな機械に乗って、戦えるようになった――ただ待つだけでなく、大切なものを奪われて哀しい想いをするだけでなく――それを、羨ましい、と。

「さて、こんな話しとる場合じゃないですな。危ないから早くお逃げくだされ……兵隊さんには兵隊さんの戦いがあるはずでしょう」

 こんな老いぼれに構わず、逃げてくれと。自分のようなもののために、冥夜たちが来てくれて本当に感謝していると。穏やかにそう告げて、老婆は平屋へと去っていった。沈黙だけが残る。冥夜も慧も、ただ黙って眼を閉じていた。溶岩は止まらない。老婆は逃げることを是としない。

 そして、それでも矢張り……自分たちの意思も意志も、変わらなかった。

「彩峰、そなたの吹雪を貸してくれ」

「お断り」

 どこか覚悟を決めた表情で冥夜は願い出たが、慧はむべもなく即断する。そのあんまりな即断に冥夜はムッと眉を顰めるが、慧とて引くつもりはない。どうせ冥夜のことだから、自分ひとりでやろうというのだろう。損傷した自身の機体を慧に預け、慧だけでも撤退させようというつもりなのだ。そんなもの、気遣いでもなんでもない。だいいち、足を痛めた状態でどうするつもりなのか。戦術機の操縦さえまともに行えるかわからないのに、“やってみなくてはわからない”なんて強がりを口にする冥夜は、ただの頑固者であろう。

「御剣一人じゃ無理」

「だからといって、そなたまで危険な目に遭わせるわけには……っ」

「ほら、認めた。“だから”、私も行くよ」

 ぅぐ、と。冥夜は言葉を飲み込む。危険なのは百も承知だ。泥に汚れた吹雪を見上げる。土砂崩れに巻き込まれただけでこの有り様だ。自然の驚異とは言うが、それは文字通りに恐ろしいものである。しかも相手は溶岩流。地震だってまた起こるかもしれない。土石流だって再び発生するかもしれない。ただでさえ危険な状態の中、この土地を護ろうというのである。二人でやれば絶対に出来るというものでもないだろうが、怪我を負った冥夜一人よりは断然いいはずだ。

 それからひとつ、冥夜は勘違いしている。

「御剣、私は自分の意志でここに居るよ。……巻き込んだなんて思われたら迷惑」

「彩峰……」

 そっぽを向き、どうでもいいような口調で慧は言う。冥夜は眼を丸くして、暫くの後、可笑しそうに笑った。くつくつと込み上げてくるような笑み。それが慧の照れ隠しなのだと気づいて、こそばゆいほどの嬉しさがこみ上げてくる。――ああ、本当に。そなたに感謝を。一度だけ心の中で呟いて、冥夜は毅然とした顔を向ける。

「……とてもすごく不愉快」

 笑われたことが気に喰わないのだろう。ふんと鼻を鳴らす慧に苦笑しながらも、冥夜は状況を確認するために行動することを提案する。大曲谷の崖崩れや、先の土砂の状況、地形の正確なデータ等々、手に入れたい情報は多い。何か案を打ち出すにしても、それらがなければ話しにならない。行動に際して痛めた足のことを案じられたが、それこそ、無用な心配というものだ。慧も冥夜の気持ちがわかるのだろう。それが強がりと知っていながら、それ以上は何も言わなかった。



 夜明け。一睡もしていないが、不思議と眠気はない。日頃の訓練の賜物か、或いは緊張に神経が刺激されているだけか。なんにせよ、視界が明るくなるのはありがたい。――同時にそれは、刻限が迫っていることを物語っている。

 現在溶岩流は先程の大曲谷の土砂崩れのおかげで一時的に丹ノ瀬方面へ流れているが、溶岩が土砂よりあふれ、天元町方面へ流れ来るのは時間の問題となっている。地形図を見ていてわかったのだが、丹ノ瀬地区に枯渇した川があるらしく、ここに溶岩を誘導できれば、天元町方面――即ち、あの老婆の家と土地は護ることが出来る。川に誘導するためには大曲谷の分かれ目を埋める土石流や崖崩れの土砂をどうにかしなければならない。

 現状を確認しようと土砂崩れがあった場所まで向かってみれば、そこは既に溶岩の海。どろどろとおぞましく流れる様は圧巻としか言いようがなく、戦術機二機が足掻いたところでなにが出来る、とこちらの意気を削ぐかのようだ。地形データは更新できた。これ以上そこに留まる必要がなくなっても、だからといって解決策を見出せたわけでもない。……丹ノ瀬側の岩や土砂をなんとかしないことには溶岩の流れを変えられそうにないのだが、その量が物凄い。土木作業用の重機を持ち込んだところで、何日もかかるだろう。

 地形データの更新を完了し、一旦引き上げる。……諦めるわけにはいかない。だが、溶岩の流れを変えるための方法が思いつかない。

 丹ノ瀬側の土砂はどうにもできない。圧倒的に時間が足りない。手がないまま、ただ悪戯に時間だけが経過し……あと数十分で溶岩が谷からあふれ出し、こちら側へ流れ出してくるという状況になった。このままでは冥夜と慧の命令無視は無駄に終わる。老婆の願いも、何もかも。全部が終わってしまう……ッ。

 冥夜は諦めたくないと言った。それは、慧だって同じだ。なにか手があるはずだ。必ずある! そうやって意識を保ち、眼を皿のようにして地形データを見直していく。そこに何か手が隠されているはずなのだと信じて。――そして、冥夜は気づく。たった一つだけの手段。たった一つだけの方法。発想の転換だ。土砂がどうにも出来ないのなら、高低差で天元町方面が低くなったのなら、谷の入口を高くしてやればいい。つまり、天元町北区に続く谷の入口を塞いでしまうこと。

 御守岩、というものがある。大曲谷の旧天元町北区側、崖から突き出すように伸びている巨大な岩で、古くからこのあたりを護る神が宿ると言われていたらしい。あの老婆から聞いた話ではあるが、そういう風説がある岩で町が護れるというなら、これ以上ないくらい“らしい”ではないか。冥夜は慧に作戦を伝える。

 手元にある兵装は74式長刀のみ。それで御守岩を“斬る”――きっぱりと言い切った冥夜に、慧は眉を顰めた。いくら長刀の耐久が優れているからといって、御守岩のような巨大な岩が斬れるわけがない。それとも、冥夜が修める剣術にはそのような技でも伝承されているのだろうか。いぶかしむ表情を向ける慧に、冥夜は不敵に笑ってみせた。

 “斬る”と断言したのには理由がある。冥夜は慧に一つのデータを送り、内容を説明する。それは吹雪の歩行時に発生する振動波と音響エコーから作成した大曲谷の地質モデルで、そのモデルには、赤色の平面が多く見られた。この赤い部分は岩盤に入った罅を示していて、つまりは、この罅が集中している一点、そこに衝撃を加えることで大規模な崩落を起こすことが出来る。

「なるほどね……でも、御剣に出来るの?」

『……その言葉には些か引っ掛かるものがあるが……いや、いい。……技術的なものもそうだが、実行するためにはそれ以外にも大きな問題がある』

 御守岩に崩落を誘発する瞬発加重を上から加えるためには、次の手順が必要となる。連続噴射跳躍で高度を稼ぎ、反転噴射降下、74式長刀による運動エネルギーの一点集約加重。言葉にすればそれだけだが、それがどれだけ技術的に難しいかは慧にだって理解できる。

 XM3という革新的な新型OSが開発されたおかげで、慧たちはこと機動制御において正規軍など比較にならないほどの技術を身に付けることが出来ている。その課程で修得した“反転噴射跳躍”も、OS開発に携わったというドッペル1が見せていたものには遠く及ばないが、十分使いこなせるようになっていた。

 が、ここで問題となるのは操縦に関する技術的な点ではなく、もっと根本的な、物理的なものだった。……即ち、推進剤が不足していること。二機分の残量を合わせても、必要な高度を得るために消費する量には足りないという。推進剤と安全保証高度を考慮すれば、必要高度の八割が限界となる。ただ、御守岩を叩き切った後、地面に激突することを無視すれば、この問題は解決できるのだが……。淡々と述べる冥夜を、慧は黙って見つめた。

 続く二点目の問題。そもそも時間に余裕がない。推進剤の補給に本部へ戻ることも、増援を呼ぶ時間もない。まして、本部からは即時撤退命令が出ているのだ。増援など在り得ないだろう。お互い、譲れないものを賭けての命令無視である。今更、そんな手段は採ろうとさえ思わない。敢えて冥夜がそのことについて触れたのは、考え得る全ての可能性を考慮したうえで、ということを慧に示しているのだ。

『あとは吹雪をあそこまで持っていって……自爆させると言う手もあるが、さすがにこれは……軍規的にも時間的にも、な……』

「…………いいよ」

『なに?』

 作戦自体は悪くない、むしろ実現できる可能性としては十分過ぎるものだ。ただ、実行には自身の命を懸けねばならない。絶対に死亡するというわけではないが、少なくとも、大怪我を負うのは間違いない。奇跡的に無傷だったとしても、崩落した御守岩や瓦礫に埋もれて、窒息する危険性がある。老婆一人、町ひとつを護るためとはいえ、貴重な戦術機一機と、衛士一人の命を秤に掛けるのだ……僅か一パーセントでいい、それだけでも生還の可能性が高まる手があるなら、ギリギリまでそれを探すべきか。

 一瞬の葛藤を見せた冥夜に、まるで素っ気無い様子で、慧は言った。

「私がやる。御剣の推進剤を頂戴――」

『ばっ! 莫迦を言うでないッ、彩峰!! ――私がやる。そもそもこれは私の我侭から始まったのだ。そなたを危険な目に遭わせる訳には……ッ!』

「言い争う時間が無駄。それにもう言った。……これは、私の意志。護りたいのは私も同じ」

 思わず感情的に声を荒げた冥夜を遮り、今度はきっぱりと言い切る。その眼光は冥夜をして唸らざるを得ないほどの意志に満ち溢れていて……けれど、だからといって割り切れる問題でもなかった。

「……御剣のその足で、連続噴射跳躍は出来ない。それに、ドッペル1の反転噴射跳躍なら、私の方が巧い」

『ああ……確かにそうだ。そなたは隊内で一番、機動制御に優れている……。だが、』

 長刀の扱いならば、慧よりも自分の方が優れている。冥夜は自惚れたわけではないが、それもまた事実。慧とてそのことは承知している。常時の冥夜であれば、連続噴射跳躍も反転噴射跳躍もお手の物だ。だが、今は足の負傷がそれを阻む。

 冥夜と慧の間に明確な差はない。機動制御では僅かに慧が、剣術では僅かに冥夜が上回っている。ただそれだけの差でしかない。――だが、今この状況において、失敗は赦されないという状況においては、その僅かな差でさえ、大きな影響を与えかねない。お互いに、一手足りない。片道切符の一発勝負。しかも残された一人は推進剤がない状況で、老婆とともに行く末を見守るほかない。

 ――失敗すれば、喪われるのは自分だけではない。

 自分の命だけでなく、もう一人の命、そして老婆の命。それら全部を負う覚悟は、確かに慧にも冥夜にも在った。だが、覚悟だけで挑むには、矢張りまだ不足している。より確実な、より最善な、作戦を成功させ、且つ、二人ともが生還できる手はないのだろうか。推進剤の問題。ただこの一点を解決するための手段。方法。――果たして、それは?

「……ッ、御剣、時間がない。早く推進剤を頂戴。……このままじゃ二人とも無駄死に」

『わかっている……だが、待て。待ってくれ。何かもう一つ、何か、あるはずなのだ……ッ』

 慧は眉を顰めた。冥夜がここにきて怖気づいているとは思えない。彼女はいつだって冷静で聡明だ。今回は些か感情が先走っている面もあったが、それとて、一面でしかない。彼女の素晴らしいところは決して諦めないこと。そして、諦めないための策を考え付くところだろう。例えば今の御守岩を斬るという発想だって、慧には思いつきもしなかった。そういう広い視野を持ち、柔軟な思考を持ち合わせる彼女が、“何かあるはずだ”と唇を噛んでいる。

 ――ならば、何かあるのだ。

 慧は確信した。冥夜はいつだって希望的憶測を口にしない。夢想を口に出したりしない。彼女の言葉はいつだって真実だ。……だが、時間がない。何か手があるのだとしても、それを待っている時間がない。慧は「自分を信じられないか」と冥夜に発破を掛けるつもりで口を開き――――言葉を発する寸前に、それを飲み込まねばならなかった。

 冥夜の表情がめまぐるしく変わっていく。それは驚愕。眼を大きく開き、次いで、不敵に唇を吊り上げる。

『彩峰、そなた……私一人では無理、と。そう申しておったな』

「? 今更なに?」

『うん……だから、そなたと私、“二人で”やろう』

 その、凛々しくも咲いたような表情に、慧は一瞬、見惚れてしまっていた。







 まりもは己の眼を疑った。観測班が寄越した映像に、思わず言葉を失ってしまう。活発化する火山の噴火。流れ出る溶岩流がもたらす被害状況等を継続的に監視・観測していた彼らが偶然捕らえたそれには、二機の吹雪が映っている。場所は大曲谷。今正に谷に積もる土砂を越え、溶岩があふれようとしていた。その溶岩を尻目に、高く高く跳躍を続ける二機。――いや、それは正確ではない。正しく表すならば、それは一機と二分の一。腰部ブロックと跳躍ユニットだけになった吹雪を、もう一機の吹雪が抱えている。

 確認するまでもなく、それは冥夜と慧の機体のはずだ。そして、見るからに不可解なその行動と、それらが目指す先にある“もの”を見て、まりもは愕然とした。

「あ、あいつら……、まさかっ!?」

 それはおよそまりもらしくない声だっただろう。教官として、或いは経験豊富な軍人として。まりもは、自身の教え子たちの行動に度肝を抜かれていた。

 機体の大部分をパージされた吹雪もどきの跳躍ユニットが、より一層激しい火焔を噴いた。瞬間的に悟る。――推進剤が、切れたッ!? ぐ、と息を呑んだまりもの予想通り、吹雪もどきのノズルから火焔が消える。だが、“吹雪”は止まらない。吹雪もどきが推力を失うその瞬間、狙ったようにもう一機の吹雪が跳躍した。抱えていた手を放し、遠慮のない全力の噴射跳躍。若干の推力不足があったのだろうか、機体の一部を崖肌にぶつけながらも、「04」の吹雪は止まらないッ!

 向かう先には崖から突き出た巨大な岩。名を、御守岩という。爆発するような噴射ノズルから大気を震撼させるほどの炎を撒き散らして、吹雪は空高く舞い躍り――マウントしていた長刀が、天高く翻る。

「あ、あ!!!」

 ――斬った。

 ――あの子達が、やった……!!??

 音声のない遠望の映像。迷いなく振り下ろされた長刀は岩の根元を叩き砕き――それはおよそ斬るという表現が似つかわしくないほどに壮烈だった――巨大な質量を持つそれは、大小の瓦礫を生み出しながらに崩落する。溶岩に向けて。大曲谷を覆いつくすように。

 ズン、、、という、その震動は。気のせいでもなんでもなく、僅かながらも伝わってきた。本当に、今、あの岩が落ちたのだ。崖崩れなんていうレベルの話ではない。地形が一つ変わってしまっている。そのあまりにも非現実的な光景に暫く呆然としていたまりもが、ハッと、目を凝らす。観測班からリアルタイムで送られている映像は、凄まじい量の土煙を映し続けている。――吹雪は?! 映っていない。あの崩落に巻き込まれたか? 舌打つと同時、千鶴から回線が繋がれた。救援を、と叫ぶ彼女は半ばヒステリーを起こしかけている。続き、壬姫と美琴が願い出る。

 撤退命令無視。彼女たちにはどう弁明しようとも覆ることのない罪状がある。あの状況で生きている可能性はかなり低いだろうが、まりもは教官として、上官として、彼女達を正当に罰しなければならない。自身には、その義務と責任がある。

「207各機、御剣、彩峰両名の救助活動を認める。だが油断するな。いつまた噴火が起こるかわからないのだ、観測班からの情報は常に注意しておけ! ――それからっ! 次また同じような事態に陥った場合、命令に従わないものには容赦しないッ!! わかったか!!」

『『『了解!!』』』

 狂犬の咆哮に、その裏に見える優しさに、千鶴たちは躊躇なく敬礼する。彼女たちの胸中にも、まりもと同じような感情が滾っていたのだ。――容赦しないわよ、御剣、彩峰ッ。内心で怒るように呟いた千鶴だが、その表情は不敵に笑っていた。

 きっと生きている。

 そんな確信が存在していて、だからこそ、あんな凄いことをやって見せた彼女達を救い出す。……それから、命令違反のことを思い切り問い質してやろう。いつもいつも勝手なことをする慧に、時折融通の利かない冥夜。きっと満足げに死を覚悟しているだろう二人を、絶対に助けてみせるのだ――……!







 ===







 その報道は、些か過剰に過ぎた。……いや、過剰というよりは、宣伝力が強いというべきか。通常の軍事放送では在り得ず、かと言って民報でもまた在り得ない。天元山災害救助部隊派遣についての報道であるはずのそれは、国連軍訓練部隊の危険を顧みない勇気ある行動によって全住民の救助が成ったと伝えている。流される映像には、国連軍カラーの吹雪が映し出されており、それが巨大な岩石を叩き斬り、溶岩の流れを堰き止める場景が繰り返されている。

 同じ衛士の眼から見ても十分迫力のある映像だが、これが一般にも報道・公開されていることを考えれば、民衆の反応は凄まじいものがあるだろう。基本的に、民間人が戦術機を眼にすることは殆どない。軍事機密ということもあるし、単純に軍事基地周辺に民間人が住んでいないのだ。最も知られている機体として武御雷があるが、これは戦術機として認知しているわけでなく、どちらかというと日本の象徴としての認識が強いように思われる。開発からの期間を考えれば、十二分に早い浸透ではあったが、その背景には国政の一環として取り組まれたこともある。

 さておき。今現在報道されている映像……火山噴火の危険、崩落に巻き込まれる危険を顧みず、不法居住者の一人を、文字通り身を挺して護った訓練兵二名が操る吹雪。衛士の名前は公開されなかったが、それが国連軍横浜基地所属の訓練部隊であることを、報道官は語る。――あいつらだ。この基地に衛士訓練部隊など一つしかない。合成竜田揚げ定食をかき込みながら、武はテレビジョンの画面を睨むように見つめた。

 207部隊が救助活動に出向くだろうことは想像がついていた。ブリーフィングの中で天元山噴火についての周知があった際、各基地の訓練兵に出動要請が掛かることを、みちるが口にしていたのだ。中心となって動くのは、当然帝国軍の訓練兵たちなのだろうが、それが横浜基地の訓練部隊が出動しない理由にはならない。火山の動向にさえ注意を払っていれば、救助活動自体は楽なものだろうと武は思っていたのだが、流れる映像を見る限り、かなり凄まじい任務になったようだった。

「……珍しいわね、こういうの」

「むしろ初めてなのではないでしょうか? 斯衛軍の武御雷でさえ、あまりハッキリと映されることはありませんし……」

 箸を置き、合成宇治茶を啜る水月。眉間に皺を寄せながら、画面を見据えている。呟くような彼女に応えたのは同じく箸を置いた美冴。こちらは空いた手を顎に当て、なにやら考える風である。二人の懸念には武も同意だ。いや、武だけではない。この場に居る全員が、同じように今回の報道に違和感を覚えていた。

 常ならば、或いは軍事放送の在り方とするならば、報道は簡潔明瞭に、客観的事実だけを報道するべきである。災害救助部隊の状況を伝えるならば、その日時や成否、結果について。その中で民間人に向けてアピールをするとしたら、迅速な行動の結果、だの、勇気ある行動により、だの修飾すればいい。わざわざ、あのように派手な映像を流す必要はなく、ましてその場景を繰り返し強調する必要もない。

「まるで、あの吹雪を宣伝しているようですね……」

「うん、そんな感じだね。……あれにも、XM3が搭載されているんだよね?」

 既に食後のお茶まで飲み終わっていた梼子が考えるように言葉を紡げば、遙が同意するように頷く。疑問符とともに向けられた視線を受けて、水月は首肯した。みちるから聞いた話だが、これについては別に隊員たちに隠す必要のない情報だ。水月たちはXM3開発に携わったテストパイロットとしての任務を既に終えているが、第207訓練部隊は彼女たちとは別の方向性のデータ収集を行っているとのことだ。

 その事実と、今の報道。それから、後日に控えているXM3のトライアルを結び付けて考えるなら、XM3の宣伝と捉えられないこともない。……だが、それにしては些か妙だ。世間にはまだXM3は公開されていない。かの新型OSが日の目を見るのはまだ少し先であり、しかもそれが訓練兵に与えられている事実さえ公表されていない。

 確かにあの映像は何某かの宣伝効果を狙ったもの、或いは民衆の興味を惹こうとする目的があるように思えるのに、水月たちが想像できるXM3の宣伝効果とは少々離れた位置づけにあるようなのだ。では一体なんだろうか。あのような映像を一般に報道するなど、ただの軍事報道ではありえない。まして、開発は日本とはいえ、国連軍仕様の機体を映しているのである。横浜基地上層部の許可なくしては実現不可能だろう。

「……香月博士、か」

 それまで黙って箸を進めていたみちるが、やれやれと溜息とともに呟くのを、皆は聞き逃さなかった。そして同時に、「ああ、やっぱり」と苦笑する。

 そう。映されているのが国連軍横浜基地所属訓練部隊の機体である以上、そこに夕呼が絡んでいないはずがない。ともすればこの報道自体が彼女の指示という可能性もある。何の理由もなくこのような報道が行われるわけがないので、そこには夕呼にとってのメリットが多分に含まれているのだろうが、ではそれが何だろうと思考を巡らせてみても、武にはいまいち理解できなかった。

 矢張り、XM3……トライアルに関するものなのだろうか。例えば、XM3の性能を以ってすればあのような無茶苦茶な機動も可能――とか。

「にしちゃ、吹雪埋まってんだよなぁ……」

「うん……映像は切れてるけど、絶対埋まってるよね、あれ」

 腕を組んで言葉を漏らした武に、茜が苦笑しながら同意する。それぞれ戦術機の機動制御には自信があるが、あのタイミングで安全圏まで離脱しろと言われても、そう易々と行えるものではないだろう。もっとも、彼らにはそれ以前に、岩を叩き切るなんていう芸当が出来ないのだが。

「ありゃ御剣だよな」

「あはは、そうだろうね。不法居住者を強制退去させない辺りが、御剣らしいよ」

 愉快気な薫に、晴子が笑う。くすくすと小さく微笑む亮子の隣りでは、多恵がようやく完食していた。そんな新任組を眺めて、みちるはふむと黙考する。――御剣、御剣冥夜、か。

 思い出すのは先日のHSST落下の際、まりもが夕呼に提出していた訓練兵のデータを参照したときのこと。政治的に特殊な事情を持った者達が集められている207B分隊。メンバーを把握したのはその時が初めてだったのだが、あまりに出来すぎた面子に驚いたことは記憶に新しい。

 その中でも一際眼を惹いたのが、“御剣冥夜”である。あの斯衛の月詠真那が護衛に就いている、将軍家縁者。別に、名前だけならばなんとも思わなかったかもしれないが、極めつけはその外見だった。……あまりにも、似ているのである。いいや、アレこそを、“瓜二つ”というのだ。

 政威大将軍煌武院悠陽――皇帝陛下の任命を受け、日本を統べる高貴なる人物。いくら国連軍に籍を置こうと、みちるは日本人だ。将軍殿下のご尊顔を忘れることなど在り得ないし、見紛うはずもなかったのだが……それでも、唸らざるを得ないほど、御剣冥夜は殿下に似ている。武たちはどうやら同期として過ごす内に気にならなくなったらしいが――その御剣冥夜が、あの吹雪を操縦し、住民の命を救ったという……。

(成程、そういうことか)

 合点がいった、と。みちるは一人頷く。夕呼は今、一人でも多くの優秀な人材――手駒が欲しいはずだ。そして、珠瀬壬姫をはじめとして、207B分隊の実力は並々ならぬものがある。今すぐ任官させてもおかしくないほどの実力を持ちながら、政治的な面から任官が難しい彼女達。その中でも最大のネックが御剣冥夜なのだろう。或いは榊現首相の娘や、光州作戦において処刑された彩峰中将の娘等、帝国軍と浅からぬ因縁を持つ者もいる。

 それら全ての“難しい”要因を、XM3トライアルで払拭するつもりなのだとしたら……確かに、この報道は夕呼にとって重要な布石となる。

 報道によって国連軍の活動をアピールすると同時に、英雄的な訓練兵の存在を印象付けておく。その後トライアルで、古参を完膚なきまでに捩じ伏せた者が実は――ということになれば、そしてそれさえ公開されるというならば……少なくとも、日本において御剣冥夜の存在は想像を絶する反響を呼ぶに違いない。

 政威大将軍に瓜二つな訓練兵。不法居住者を救うために自らの危険を厭わない勇気、信念。「日本人を味方につける」うえで、これ以上ない効果を生み出すだろう。つまりそれは、甲21号作戦において、帝国軍を動かす布石を磐石にするということだ。

 無論、相応の危険も孕むだろう。御剣冥夜は将軍殿下に似すぎている。将軍家縁者といいながら国連軍にいる理由。榊千鶴や彩峰慧、珠瀬壬姫等と同様に考えるならば、矢張り彼女も何らかの形の人質と考えるのが自然だ。あまり派手にやりすぎると、余計な反感を買うかもしれないが……恐らく、夕呼はそんなものに頓着していない。というよりも、派手にやって御剣冥夜を任官させざるを得ない状況に持ち込もうとしているのだろう。トライアルでの実力評価だけでなく、ダメ押しの一手、というわけだ。

「なんにせよ、トライアル次第――か」

「そりゃそうですよ! ガツンとやっちゃいなさい! 武!!」

「いや、俺ら出ませんから」

 零すように呟いたみちるに、水月がやや見当違いのやる気を見せる。にこやかに、それでいて勝気な笑顔を浮かべ、隣りに座る弟分にガシリと腕を回して絡むのだが、当の武は至極冷静に対処していた。それが面白くなかったのだろう、水月はムッと唇を尖らせて、“ノリが悪いわねぇ~”と武にヘッドロックを極め、周囲の者は待ってましたと沸き立つ。あまりにも日常的なコミュニケーションの光景にやや頭を痛めながら、みちるは肩を竦めるしかない。――やれやれ、本当にお前達は……。苦笑はやがて溜息に変わり、みちるは自身の苦労がこれからも続くことを、ほんの少しだけ嘆いたりしていた。



 その後、PXに無残な悲鳴が轟いたのは言うまでもなく……見咎めた食堂のおばちゃんに正座させられるまで、水月の戯れは続いたのだった。




[1154] 守護者編:[三章-06]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/06/24 21:42

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:三章-06」





 武は息を呑み、呼吸を殺し、けれど拍動を御すかのように身構えた。恐怖に竦みそうになる足は強靭なる気概でもって捩じ伏せ、暴れ狂うような心臓は全身を漲らせるようにして誤魔化す。こめかみを流れる汗が頬を伝い顎から落ちる。その、ぽつぽつと床を叩く音さえひどく近しく聞こえるほどに静まり返った殺気。

 ――動けば、死ぬ。

 それがわかっていて、痙攣するような指先を止められそうもない。一瞬でも気を抜けば、弧月の柄を握りたい誘惑に負けてしまう。それほど、眼前で向けられている殺気は凄まじく、恐ろしい。“こわい”という感情を、“コロサレル”という暴虐を、武は一度味わっている。……BETAに、ではない。

 目の前に立つ人物に。

 美しい碧緑の長い髪。絹のように滑らかな肌。その存在を引き立てて止まない紅の衣。豪奢でありながら、決して華美では在り得ない名刀を拵えた……。

 ――動けば、俺は殺される。

 誰に? 彼女に。



 ――月詠真那に。



 武は一度だけ大きく息を吸って、師から向けられる絶対の殺意と怒りを前に、けれど、それでも退くことなどできないのだと。これが己の選んだ道なのだと……ゆっくりと、右腕で弧月の柄を握る。それと同時、まるで合わせ鏡のように、真那もまた自身の刀の柄を握っていた。

「最期にもう一度言うぞ。――そこをどけ」

「どきません。…………俺は、もう二度と絶対に、香月博士の足を引っ張るわけにはいかないんです……ッ。あのひとの邪魔は、絶対に赦さないッッ!」

 睨み合う視線は既に必殺。ぶつけ合う感情は殺意と怒りと激情の坩堝。

 ここに師弟の絆は断たれ、双龍はただ、互いの首を喰い千切らんとその牙を剥き――――







 ===







 すっきりと晴れた、いい日だった。冬の凛とした空気が澄み渡り、近年では珍しい快晴を見せている。ここ数日、どんよりとした曇天が続いていたため、こんなにも清々しい晴天はなんとも好ましい。まるでXM3の門出を祝ってくれているようだと、茜は思った。

 国連軍のジャケットを身に纏い、滑走路上で空を見上げる彼女の隣りには、同じように青空に眼を細めている武。二人とも、本来ここに来た目的を忘れているのではないかと思わせるほどの気の抜けようだったが、流石に任務を放棄するつもりはないらしく、さて、と移動を開始した。道中、茜は先程思ったことを武に話すのだが、どうしてか武は可笑しそうに笑う。なにが可笑しいのかと首を傾げ、笑うことないじゃない、と小さく頬を膨らませた彼女に、更に武は笑った。

「ははは、悪ぃ悪ぃ。いや、可愛いこと言うよな、って思ってさ」

 そう言って茜の頭をくしゃくしゃと撫でて、誤魔化すようにさっさと歩き出す。顔を真っ赤にして呆然としていた茜は、数秒遅れて正気に戻り、朝から恥ずかしいことを言ってくれた武を追いかけて……

「ばっ、莫迦ッ!? なに言ってんのよッ?!?!」

「いてっ、いててッ?!」

 ポカポカと殴るのだった。結構本気で。割と容赦なく。けれど茜は気づかない。殆ど無意識といっていいだろう。彼女自身にとっては照れ隠しのスキンシップなのだが、手加減という理性が飛んでいる分、傍から見るそれは一方的な暴力にしか映らなかった。

 そんな二人を、目的地であるテントに立っていた人物は眼を細め、微笑ましく見守っている。あまりに喧々としていたので何事かと気になり、その眼を向けた先で、武と茜がじゃれ合っていたのだ。栗色の髪を緩く流した遙は、くすくすと笑いながら二人の名を呼ぶ。姉に呼ばれて我に返ったのか、茜は殴っていた手を止めて敬礼を向け、武もまた即座に直立し、敬礼する。

(うわぁ、タフだなぁ……)

 そんな二人に答礼しながら、遙は内心で驚いていた。流石は男の子、ということなのだろうか。それとも日頃から水月に鍛えられているから? とりとめもなく、そして微笑ましく思考しながら、遙は「未来の弟」に優しい視線を向けて、ご苦労様、と声を掛けた。

「頼まれていた器材と端末です。確認をお願いします」

「はい、確かに受け取りました。……ごめんね白銀少尉、涼宮少尉、二人に雑用みたいなことさせちゃって……」

「お気遣いありがとうございます涼宮中尉。ですがそれには及びません。今回自分たちは出番がありませんので、実を言うと暇なのです」

 武がショルダーバッグに詰めていた通信端末や器材を遙に手渡すと、柔らかな声音で遙が気遣ってくれる。それに元気よく、そして茶目っ気たっぷりに応えるのが彼女の妹の茜である。常ならば言葉遣いがもう少し緩やかになっただろうその会話も、流石に第三者が多くつめているこの場所では憚られた。滑走路から屋外演習場へ続く道路脇に設営されているテントには、通信兵が機器の設置に忙しくしている。演習場内では各所に据えられたカメラの最終点検が行われているらしい。人手が足りないということはないが、有り余るということもない状況。――つまり、彼女達が何をしているかというと、要するにトライアルの準備に追われているのである。

 前日までに余裕を持って設置されたカメラやケーブル類に、当日設営される中継地点。基地内外にこれでもかといわんばかりに配置された大型モニターには演習場の映像が映され、各人準備に余念がない。まるで祭りのような賑わいを見せる情景に、雑用を買って出た武と茜も、思わず表情を綻ばせる。

「凄い活気ですよね」

「あはは、なんか一大イベント! って感じだね!」

 辺りを見渡しながら言う武に、茜も首肯する。確かにそうだ、と遙も笑った。一大イベントと茜は言う。祭りのようだと、自分でも思う。……だが、確かに“これ”は、そういうものとなるだろう。横浜基地が、いや、香月夕呼が、世界に向けてXM3を披露する。こんな準備、派手でも過剰でもありはしない。これは一種のセレモニーだ。トライアルに参加する全ての衛士はただXM3の性能に翻弄されるだけの道化でしかなく、大衆を納得させるための駒。世界中を虜にする、世界中を味方につける、夕呼発案の一大イベントである。

「さ、二人とも戻って。私もここの設営が終わったら司令室に戻るから」

「はっ! 了解いたしました!」

「それでは失礼しますッ、中尉!」

 ぱふ、と軽く手を合わせながら指示を出す遙に、武と茜が仰々しく敬礼する。それをにこやかに見送って、遙は受け取った器材を他の通信兵たちに手渡す。中継地点の設営はここで最後。抜けのないように、しっかりとチェックしなければ。そしてその後はトライアルがスムーズに進行できるよう、司令室でのミーティングが待っている。参加各国の衛士への伝達経路や、スケジュールの確認等々、やることは多い。


 武たちはこれで任務完了となり、この後は格納庫で待機である。他のメンバーは隊長であるみちるを含め、既に不知火の調整に入っているだろう。A-01はトライアルに参加しない。ほかの戦術機甲部隊と同様に、トライアル終了までひたすらに警戒待機命令が発せられていた。そのことに不満を零すものは……まぁ居るにはいたが、そこは流石にみちるの部下であり、それぞれがそれぞれのやり方で暇を潰し、鬱憤を晴らすということをやっている。

 正直、武は遙から雑用を頼まれてホッとしていたのだ。ほんの僅かの時間とはいえ、やることが出来、更には素晴らしき先達の「鬱憤晴らし」に付き合わされることがないのである。こんなに喜ばしいことはあるまいと、二つ返事で了解し、近くにいた茜を誘ってのんびりと散歩を楽しんだわけだった。……だが、それも終わりが近い。格納庫に近づくにつれ、段々と足取りが重くなっていく。そんな武の及び腰を、茜はからかうように笑った。

「あっははは、武ぅ~、今更怖がってるの? そりゃそうだよねぇ~、せっかく速瀬中尉が組み手してくれるって言ってたのに、お姉ちゃんの用事に飛びついたんだもんねーっ」

「……お前はすっげぇ楽しそうだよな……ちくしょう、結局こうなるんじゃねぇかよっ!? なんであの時気づかないんだよ俺ッッ!!」

 うりうりと肘で武をつつき、茜は愉快痛快とばかりに笑顔を咲かせる。対する武は“これから”待ち受けているだろう「暇つぶし」や「鬱憤晴らし」の数々を想像し、奇声をあげて身を捩っていた。目の前の美味しい餌に飛びついた獲物は、その下で大きな口を開けて待っている蛇に気づかない。しかもこの場合、水月の誘いを蹴って、という点が非常に危険だ。茜も少し離れた所にいたのでハッキリと聞こえたわけではないが、あの時水月は確かにこう言っていた。



 ――へぇ、そう……私より遙がいいんだ……へぇぇえ、ふぅううん……ッッッ



 思い出して、血の気が引いた。いや、きっとアレは幻聴だ。そう思いたい。そして勿論、武はそれさえ聞こえていなかったのだが……。茜は小さく頬を引き攣らせながら、尚も頭を抱える武を励ますつもりでその背中を叩く。いてぇ! と背を反らした武は、叩かれたその場所を器用にさすりながら、ジットリと茜を見据えたが、本人は全く気にした様子がなく、むしろ鼻歌まじりで歩いていた。――いい度胸じゃねぇか。やや黒い笑みが武から零れるのにも気づかず、茜は無防備な背中を晒している。その隙だらけの背に向かって、両手を“わきわき”と蠢かせながら忍び寄れば……突然立ち止まった茜の背中に顔面をぶつけ、標的を見誤った両手はそのまま倒れまいと手近なナニカを力の限りに鷲掴む。

 ふにょん。

(あ、柔らk――――――)

「きゃぁぁあああああああああ!!!!!!」

「べぐしっっ!???」

 刹那にして手の平から“感触”が喪われ、顔面に鋭く硬く重い一撃がめり込む。仰け反るようにして地面へと倒れこもうとする武の体を、けれど暴虐という名の蹴りはそれを許さず、身体が物理法則に反する形で宙に浮い……た、瞬間、再び顔面に――多分踵だ――喰らわされた状態で、容赦なくコンクリートに沈められる。この間僅か二秒。

「ばっっ、ばばばばばっ、莫迦ぁぁあ!? な、なななななによいいいいきなり!? さ、触りたいなら触りたいってっ、そ、そう言いなさいよッッ! 莫迦ッヘンタイッ助平っっ!!」

 顔どころか耳まで真っ赤にして、必死に胸を庇うように身を抱く茜。ギュウと眼を閉じて、朝っぱらからいやらしいことをしてきた武をたくさんいっぱい踏みつける。

「こ、こんなところでイキナリなんて! ナニ考えてるのよっ!」

 ――どかっ、げしっ、めきょっ、どごっ、

「し、しかも朝からなんて! そ、そりゃ男の子だからイロイロ……ッ、たっ……溜まってるのかなって、お、思うけどっ!!」

 ――ぐしゃ、めぎ、ごしゃ、ぼき、

「だ、だ、だ、だからって!! 人前でなんて……っ!! そんなっ、いや~~~~! 莫迦莫迦莫迦莫迦ッ!!!!」

 ――ドカドガゴガゴキバキベキボキグシャゴシャ

「…………た、隊長……怖いです」

「案ずるな、俺も怖い……」

 まるで音速を超えているかのような蹴りの嵐。目尻に涙を溜めて、恋人なのだろう人物を蹴り続ける少女に、戦慄したような声が届く。その声にハッと正気を取り戻し、恐る恐る振り返ってみれば、そこには先程立ち止まる原因となった数人の帝国軍衛士が立っていて……全員が、“先程よりも”数歩遠くにいた。

「ぁ、わ、わ!!?」

「「「ひいい! こっち向いたァ?!」」」

 すっかり彼らのことを忘れ去っていた茜は慌てて向き直り、敬礼しようとして――あ、あれ? 敬礼ってどうやるんだっけ?! ――軽いパニックに陥り、振り向かれた彼らはあまりにも非人道的な攻撃を繰り出す茜に怯えて後ずさった。

 その、明らかに茜に恐怖を抱いている様子が妙に可笑しくて、ふ、と茜は冷静さを取り戻す。が、冷静になれたからといって恥ずかしさが消えるわけではなく。見知らぬ人々に胸を鷲掴みにされた瞬間を目撃されたこと、我を忘れて武をボコボコにしたこと、そういえば何か物凄く恥ずかしいことを口走っていたような気がする……それら全部が改めて思い出されて、より一層赤面する。

 そんな茜のしおらしい様子に彼らもようやく落ち着いたようで、いかにも隊長格の風貌をしている男性が、軽く咳払いをして口を開いた。白い軍服は紛れもなく帝国軍のもの。斯衛ではないようだったが、だからといって失礼な対応は許されない。恐らくはトライアルに参加するのだろう彼らを見つめながら、茜は小さく唾を飲み込んだ。

「いや、大変な場面に居合わせてしまったようだ。許せ」

「い、いえ! こちらこそお見苦しいところをお見せしまして……ッ! しッ、失礼します!!!」

 少しきまりが悪そうに謝罪する「大尉」に、茜は慌てて敬礼し、身を翻す。無論、気絶している武を一生懸命引き摺って。脱兎の如く、とはああいうのを指すのだろう、と。帝国軍第5師団第211中隊の面々は、笑えばいいのか呆れればいいのかよくわからないまま、暫く呆然と立ち尽くしていた。

「A-01、ですか」

「……ああ、そうだな。あの少尉の部隊章、間違いないだろう……」

 呟いた副隊長に、大尉は頷く。忘れるはずもない。アレは11月11日。新潟にBETAが上陸したあの日……あの時、あの戦場でともに戦った――十三の蒼き死神。BETAを殺戮し、BETAに暴虐の限りを喰らわせていた、あの……戦乙女の名を冠する部隊。それが正式にはA-01部隊ということは、後日になって知ったことだった。当時の彼らにわかっていたことは少ない。彼女達が国連軍横浜基地所属ということ、そして、隊長が伊隅という名の女性であること。ただそれだけ。

 どれだけの言葉を用いても彼女たちの戦いぶりを表すには足りず、誰に言っても話半分で信じてもらえなかった事実。彼女達が戦場に現れたことさえなかったことにされてしまえば、彼ら211中隊に出来ることなど、いつか再び見(まみ)えることを願って戦い続けるだけだった。

 それがどうだ。あれからたった一月あまり。幸運にもこの横浜基地を訪れる機会に恵まれ、到着早々、再会が叶ったではないか。少女と青年。ともに少尉ではあったが、あの二人もまた、あの戦場を駆け抜いた猛者なのだろうか。若き大尉はあの日の戦場に思いを馳せる。

 地を這う暴虐の螺旋。空を躍る熊蜂の機動。壮麗なほどの殺戮を犯し、ただの一機も喪うことなく勝利を掴んだあの――燃え滾るほどの昂揚を。

「くくくっ、くはははは!」

「……嬉しそうですね、隊長」

「あははは、そりゃそうでしょ。なんてったって、」

「エクセムスリー、でしょ? あの連中が使っていたっていうソレを、今度は私たちが使えるって言うんだから!」

 ――そうだ。これが滾らずにいられるか。XM3。国連の魔女が生み出したという新型OS。あの時A-01部隊にそれが搭載されていたという情報を彼らは得ていないが、間違いなく連中はソレを使っていた。でなければ、秘密裏に作戦に参加したことも、その存在さえなかったことにされている事実も、辻褄が合わない。

 彼女達がXM3を搭載した不知火を操っていたというならば、そしてそのためにあの戦果を挙げたというならば。……このトライアル、期待せずにはいられない。昂奮せずにはいられない。かつて、ヴァルキリーズが去った戦場で、BETAの屍骸の山を見下ろしたその時。彼は咆えた。滾る血に任せて、力の限り咆哮したのだ。新型OSは「力」であり、「希望」だ。人類は負けないという絶対の輝きだ。

「くくっ……楽しみだな!」

「子供のような眼をして……本当に困った人ですねぇ貴方は……」

 まるで童子のような笑顔の裏に、獰猛な獣の闘志を覗かせる大尉に、副隊長である女性は眉を顰め、溜息をついた。……なんにせよ、もうすぐだ。XM3がどれほどのモノであろうと、本当にあのA-01部隊が実戦で使用していたのだろうと。全ては今日。ここで。証明される。

 ――果たしてそれは人類の希望足り得るか否か。香月夕呼の進退とともに、世界は、新時代を迎えるかどうかの瀬戸際に立っていた。







 ===







「あんた……一体どうしたのよその顔……」

「というより、全体的にボロボロですね……涼宮、お前何か知らないのか?」

 格納庫、A-01の機体が並ぶその場所で、水月と美冴に出会う。二人の声は聞こえるのに、どうしてか視界が半分潰れていて、よく見えない。どうやらこちらを案じてくれているらしいことだけはわかったので、武は心配無用と笑って見せた。

「……ぅわっ、キモ!? ていうか怖ッッ!!」

「顔の形が歪んでるな。……頼むからその顔で笑うな。夢に見そうだ」

 ――ひでぇ。折角の強がりも二人の率直で容赦ない言葉にバッサリと切り捨てられる。ズキズキと全身に、特に顔面に集中した痛みがある。一体いつどこでこんな大怪我を負ったのかまるで記憶にないが、とにかく、先達二人をして怯ませるほどに、武の現状は酷いものらしい。……どうしてか気絶していて、意識を取り戻したのが数分前。激しい痛みに悶絶すること数十秒、自分で触ってわかるくらいに顔面が腫れ上がっている事実に当惑していると、茜が甲斐甲斐しく手当てをしてくれたのだが……。

「なぁ茜……俺、ホントになんでこんな怪我してるんだ?」

「……不幸な事故だったのよ。武ってば浮かれてはしゃいでイキナリ飛び出すんだもの……。反対側から走って来た装甲車に撥ねられて引き摺られて……うぅっ……記憶を一時的に失うのも無理ないわ……っ」

 明らかに嘘である。必死に涙を堪えるように語る茜だが、あまりに熱演過ぎて逆に嘘くさい。武、水月、美冴の三人から白い目で見られているにも関わらず、茜は「白銀武交通事故説」を翻すつもりはないらしく、さめざめと泣き真似をしてみせていた。誰がどう見ても全力で打撲傷な武を改めて見やって、水月は盛大に溜息をつく。いつもならば率先して武をからかう美冴も、流石に顔面が歪んでいる部下を虐める気にはならなかったらしい。

「まったく……隊長には私から言っておくから、あんたはさっさと医務室に行く! 宗像、あんたは茜を連行ッ」

「えええええーっ!? ど、どどど、どうしてあたしがっ!?」

「……涼宮、いくらなんでもバレバレだ……」

 しっしっ、とまるで追いやるように武を押し出す水月に、何故、と驚愕に身を強張らせる茜。そんな彼女に心底呆れた様子で肩を竦めた美冴が、ずるずると茜を引き摺って行く。半分潰れた視界でそれを見送って、武は幽鬼のようにふらふらと馴染み深い医務室を目指すのだった。――しかし、何だってこんな酷い目に遭っているのか。恐らく茜が深く関わっているのだろうが、如何せん記憶が一時的に失われていて、さっぱりと思い出せない。起床して点呼、ミーティングの後に遙から雑用を頼まれてそれを達成。その後茜とふざけながら歩いていて…………そこで、ブッツリと途切れている。

 酷く痛む顔を撫でつけながら、きっと頭に強い衝撃を受けたからなのだろうと推測するが、だからといって原因がわからない。或いは水月や美冴が茜から聞き出してくれるだろうか。ふと、悪寒が走る。――何故だろう、今物凄く嫌な予感がしたんだが……?

 それはまるで“原因がわかってしまえばもっと酷い目に遭う”という悪寒、そして直感。一体どうしてそんな風に思ってしまったというのか。被害者はこちらのはず。きっと気のせいだと自分を頷かせて、武は歩く。……道中、すれ違う人々があからさまに視線を逸らしているのを気配で感じ取り、なんだか泣きたくなってきた。

「うわぁ化け物!?」

「出たな妖怪!!」

「成敗ですわ~」

 ――は? 突如掛けられた悲鳴染みた三様の声。なんだか聞き覚えがあるようでないような、そんな不可思議な既視感を覚える暇もあらば、一呼吸の間に三度の衝撃を喰らい、廊下をのたうつ。どれもこれも洒落にならないほどの威力を持っていたようで、あまりの痛みに気を失いそうになるが、痛すぎて気絶できないという矛盾に陥る。まるで地獄のような責め苦を味わいながら、主に股間に走る痛烈なる鈍痛に脂汗が止まらない。――あ、ヤバ。

 顎と鳩尾に喰らった二撃も様々な意味でヤバイのだろうが、れっきとした日本男児である武にとって、最後の一撃は致命傷だった。それはもう言葉に出来ないくらい。このままでは死ぬ。そんな可能性に割りと真剣に思い至ったその時、暗澹と垂れ込める意識の外で、やっぱり聞き覚えのある彼女たちの慌てたような声だけが……

「あれ? これ人間じゃない?」

「ていうか、国連軍の制服着てるし……」

「あら~、この方も衛士なんですね~」

「「「……(沈黙)……」」」

 遭遇から一秒。問答無用で魔の手先を討伐したはずの三人は、ろくに受身も取れないまま吹っ飛んで悶絶しているソレを見て、はたと気づく。それが紛れもなくニンゲンの形をし、黒い軍服を着ていることに。更に襟元の徽章には銀翼の意匠。つまり、衛士。痛しい沈黙が場を包む。三人が三人ともに互いを見つめあい、アイコンタクトは成立。伊達に長い間一緒に居るわけではない。

「さ、さて、早く真那様と合流しないと!」

「そ、そーそー! それが一番!」

「まさか斯衛のわたくしたちが、国連の衛士に致命傷を負わせたなんてことはないですものね~」

「「……(沈黙)……」」

「あらぁ? どうしたんですか?」

 褐色の肌をした少女が声高に結論すると、茶味がかった髪をした少女が賛成、と頷く。お団子を二つ結った少女がぽわ、とそれに賛同を示せば、再び場に沈黙が下りた。今度は二人分。お団子少女の言葉に、僅かながらの良心が痛んだらしい。仲間達の心の機微に気づけなかったお団子だけが首を傾げ、心底不思議そうにしている。

 いや、良心が僅かなはずがないのだ。最早武は意識を手放してしまっているために気づけないだろうが、少女達は皆、白い軍服に身を包んでいる。しかも、それは斯衛軍の制服だ。日本を代表するに相応しい者として、斯衛に選ばれるためには厳しい過程を経なければならない。品位・風格どれをとっても申し分なく、武芸に秀で、理を知り、何より主君への揺ぎ無い忠誠が求められるのだ。

 それがまさか、イキナリ現れた怪我人の顔に吃驚して動転して反射的に防衛行動を取ってしまったなどと……もしこれが自分たちの上官に知られたらと思うと……ああ、ゾッとする。

「雪乃と美凪は足! 私が腕を持つから」

「わかった!」

「よいしょ、よいしょ~っ」

 その光景に斯衛としての威厳はなく。少女達はただ人目につかないことを祈るばかりである。なにせここは国連軍の基地内だ。こんな姿を連中に見られでもしたら、自分たちはともかく、上官や斯衛そのものの心象を害することになる。そしてそれは、めぐり巡って忠誠を誓うあの方に災厄を招きかねない。――そんなことにして堪るかッ。武の腕を掴み、懸命に引き摺り歩く少女は誓う。絶対に、誰にも見つからずにことを済ます。その表情は至極真剣で、鬼気迫るものであったが…………どう見ても証拠隠蔽に奮闘する小悪党であった。







 ===







 トライアルは順調に進み、午前中のプログラムを終えた。ここまでで機体の反応速度、機動制御による負荷の変化の測定を終え、午後から第二演習場東と第二演習場西で二組同時進行の連携実測が行われる予定だ。207B分隊の成績は現在最上位。各国の古参と呼ばれる衛士が参加する中、唯一の訓練兵部隊という事実を鑑みれば、それは驚愕に値する。

 国連に加盟している名だたる各国から参加している部隊は、夕呼の予想通りに曲者揃い。新型OS、しかも事前に周知していた事項では“訓練兵が”テストパイロットを務めた代物であることにも触れている。戦術機の“せ”の字さえ知らなかったヒヨッコ以下の訓練兵が、経験ゼロの状態から新型OSでの訓練中に正規兵に匹敵するほどの成績を叩き出した実績込みで、だ。

 軍上層部では様々な憶測が飛び交い、あるところでは極東の魔女の妄言であるとの判断も下されたとか。……まぁ、それについてはいい。そういう反応も予想の内だ。皆が皆諸手を挙げて参加されたのでは、そちらの方が薄気味悪い。夕呼としては、半信半疑でトライアルに参加し、そして間違いのない実感として、XM3の凄まじさを知ってもらえればよい。――無論、参加する全部隊がXM3に心酔するだろうことを確信しているわけだが。

 ともあれ、ここまでの内容・成績を見れば、最早XM3の効果は火を見るよりも明らかとなっている。最初はXM3のシャープな操縦感覚に戸惑いを見せていた連中も、時が経つにつれその操作性の柔軟さや高度さに恍惚としているように見えるし、更には“たかが訓練兵”と207Bの少女達を揶揄するものもいなくなった。操縦性を見るだけの試験だったとはいえ、誰一人として彼女たちに匹敵できるものはいなかったのだから。そしてそこには、「慣れ」の一言では誤魔化せない確かな実力が彼女たちに備わっている、と。古参たちは見抜いたのである。

 司令室からトライアルの様子を見物していた夕呼にとって、彼ら参加部隊の連中が一々驚愕する様は大変に愉快であり、痛快である。と同時に、それで当然、それだけのモノを作ったのだからという自身への戒めもあった。XM3は認められ、欲せられて当然のOSだ。……でなければ、意味がない。リスクを承知で米国からも帝国からも部隊を招聘しているのである。特に米国には現状OSの情報それ自体を公開・技術供与する気は更々ないが、今後の展開を見据えた上で、各国の協力は文字通り譲れない点だった。

 敢えて言うならば帝国軍、ひいては斯衛の協力は不可欠。甲21号目標――日本国内に在する脅威の消滅は、AL4の成果を挙げる意味でも、時間を稼ぐ意味でも非常に重要となるのだから。

 演習場を映すモニターの一つをそうやって眺めながら、夕呼は思考を中断させ、同様にモニターを見つめる各国の代表達を見渡した。どいつもこいつも腹に一物抱えたような顔である。夕呼が提示したXM3というカード、その価値を見極め、自国に対してどれだけのメリット、デメリットがあるかを計っている貌だ。――それで、いい。ここまでトライアルは順調。代表達の印象も概ね良好だ。だが、連中の度肝を抜くのはこれからであり、彼らが率先して夕呼にXM3の供与を求めるように誘導することこそ、このトライアルの本来の目的である。

 腹に一物抱えた連中に、ともすれば諸刃の剣となりかねない技術を供与する……夕呼にとっても、これは非常に重要視すべき点である。老獪な妖怪が跋扈する伏魔殿を相手に立ち回ろうというのだから、夕呼とてそれなりの覚悟を持っている。失敗は許されないし、する気もない。日本での復権を目論む米国も、戦略研究会なんて立ち上げるような帝国も、全て呑み下してみせる――。

 吊り上がる夕呼の唇に、気づいたものは居なかった。







 ===







 207B分隊でトライアルに参加するのは三人。いや、正確には吹雪三機、というべきか。本来なら一人に一機ずつ、つまり五機あったのだが、内二機は先日の天元山災害救助活動の際に大破しており、フル稼働できる状態ではない。元207A分隊が使用していた吹雪があったのだが、その機体は既に他の基地へ回されており、横浜基地に残っていたのは修理用パーツとしてストックされていたものだけ。現在彼女達が使用しているものが夕呼手配の新品であったことを思い出せば、機体を大破させた冥夜と慧は厳罰が下されて然るべきだったのだが……。

 命令違反に、機体を大破。除隊処分もやむなしという大事を犯してくれた二人は、夕呼の一存によって処分取り消しとなり、営倉入りはおろか謹慎処分さえ許されなかった。そこにどのような意図があったのかは知らないが……恐らくはあの報道が絡んでいるのだろうとまりもは推測している。

 天元山噴火後の夜に報道されたあの映像。間違いなく夕呼経由で根回しがされていたのだろう。観測班が偶然捉えた映像を、ニュースでは繰り返し繰り返し流していたし、報道官はとにかく冥夜たち“訓練兵”を英雄視する内容の報道文を読み上げていた。……大衆が持つ在日国連軍のイメージを払拭するには、十分な内容だっただろう。訓練兵が同じ日本人であったことを公開し、居住者の涙ながらに感謝する様をあのように報じられては、共感せずにはいられないのが民衆であるし、表面的に融和にならざるを得ないのが帝国軍だ。

 冥夜たちは形ばかりの感謝状を内閣政府から贈られていたが、内心では酷く混乱していたことだろう。罰せられることを当然として取調べに臨んだはずなのに、突然の無罪放免。しかも日本中から感謝されるような事態になっていると知れば、その胸中は複雑なものだったに違いない。……もっとも、それが嬉しくないわけではないのだろう。「ニンゲンとして」正しい行いをしたのだ、と。冥夜も慧も、納得するようにしている。まりもに出来ることは、だがそれは「軍人として」間違っているのだ、と。言い聞かせ、注意することだけだった。

 命さえコストで計られる軍隊において、人情や人道などを念頭に置く奴は不要だ。その言葉を受けた時の、冥夜と慧の真摯な表情だけが、まりもの信じる全てである。

 ――と、そのような事実から、207B分隊は五人で三機の吹雪を交替で使用している。個人が参加する午前中の試験内容とは異なり、午後からはチーム戦だ。XM3を搭載した機体の三機編成で、旧OS搭載の撃震四機編成と模擬戦を行うことになっている。仮想敵部隊が旧OSを使用するのにはOSの性能差をわかりやすく実感してもらうためと、その有効性を肌で体感してもらうためだ。一機少ない編成で出撃回数二十回以上の強者を相手取るのも、その一環である。全部隊二回の模擬戦を行い、その総合成績で順位を決定するわけだが……207Bからは人数の関係上、三人が参加する。

 一度目と二度目で搭乗する訓練兵を換えることについて、夕呼はそれほど拘らなかった。参加する他部隊からも特にそのことについて指摘を受けることもなく――そもそも、彼らは訓練兵と同列視されている時点でかなり憤慨しており、せいぜい足掻けばいいと思っている――今日まで来た。午前中の成績を見てその認識を改めているとしても、今更そのことをとやかく言う輩などいるはずもなく、まりもは自分たちの挙げた成績に喜びの表情を見せる教え子達に更なる発破を掛けるべく声を掛けた。

「よくやったな。香月博士もお喜びだろう。だが忘れるな。本番はこれからで、貴様達にはそこでこそ成果を求められているんだ」

「はっ! ありがとうございます! 午後からも全力を尽くします!」

「我らが力、正規兵の方々にご披露する機会……全身全霊尽くす所存です!」

 敬礼とともに力強く返答する分隊長と副隊長。その自信に満ちた言葉に、まりもは満足そうに頷く。まりもを見つめる彼女たちに驕りはない。そこにあるのは確かな自信。確固たる自負。この場において、自分たち以上にXM3を使いこなせる者はいない、自分たちの実力は決して正規兵に劣らない、そういう認識と客観的事実が、それを揺るがぬものとしている。

 確かに、数値上の成績やXM3の慣熟度合いから比較しても、彼女達が敗北することはまず在り得ないだろう。トップで当然。しかもそれは断トツであって然るべきなのである。……が、何が起こるかわからないのが戦場であり、彼女達はまだそれを経験として培っていない。

 そう。“経験”だ。彼女達が敗北、或いはトップの座から転がり落ちる要因として、“経験”だけが浮上する。戦場を知らず、実戦を知らぬ訓練兵にとって、BETAとの戦争を潜り抜け生き延びてきた古参の持つ経験は、何よりも脅威なのである。……だが、まりもは敢えてその点には触れない。触れずとも、彼女達は己を知り、敵を知っているからだ。自分たちが訓練兵であるという事実を何よりも痛感しているのが、彼女達なのだ。故にまりもは頷き、視線で“頑張れ”とだけ告げて、踵を返すのである。

 残された五人の少女は、ただ黙してその背中に敬礼を向けるのだった。







「……なんだ、あいつら、本当にいたじゃないか……ははは、これが夢じゃねぇってのはもう厭ってくらい思い知ったってのに……あんな風に知ってる顔が“別人”やってたら……クソ、わかっててもイテェなぁ……」

「……」

 格納庫の奥、一機だけ隔離されたように他の機体から離されたその場所、不知火の管制ユニットの中で、《鉄仮面》は呟く。着座調整を行っている際、メインカメラの具合を確かめていた時、偶然「それ」が映ったのである。

 ――第207B衛士訓練部隊。

 その構成員たる訓練兵と、教官。全員が女性で、皆、目を向けずにはいられない美しさと強さを秘めている。だが、鉄と呼ばれる彼がそれに瞠目したのは、何も彼女達が美麗であったからではない。彼は“知っている”のだ。彼女たちと同じ顔をした、彼女たちと同じ名前の、「別人」を。それは彼が元いた場所。こちらに来る前に暮らしていた場所。「元の世界」なんていう、まるで夢物語の御伽草子のような……そんな現実。そこで共に日々を過ごした、“彼女達”を知っている。

 だから、目に留まった。瞠目した。その存在自体は今日になって夕呼に知らされたのだが、だからといって実際に認識しての実感は、また異なるということらしい。

 視界に映ったその瞬間に叫び出したい、駆け寄りたい衝動に駆られたが、今の彼は彼女たちとは何の関係もないただの異邦人であり……未だ彼には自由と呼べるものは何一つ与えられていない。そんな彼が彼女たちの前に姿を現しても妙な奴と思われるのがオチで、存在自体を秘匿されている身分であるから、下手をすると軟禁を通り越して幽閉されるかもしれない。…………それは、鉄にとって絶対に御免被る最悪の事態だ。

 そのような様々な感情が絡み合った愚痴を零せば、整備用の足場で彼を監視している社霞が、案ずるような視線を向けてくる。

「ん? ああ……スマン。霞がそんな顔しなくてもいいんだ……。ただ、なんつーか……マジで違う世界なんだなって、実感しただけだよ……」

 幼い少女の相貌をした霞からそのような視線を向けられれば、荒んでいく感情も少し和らぐ。自身では外すことさえかなわない《鉄仮面》の下、鉄は小さく溜息をついた。霞とピアティフ。彼女達がいなければ、自分はとっくに壊れていたように思う。……実際、今日こうして「外」に出て、あの部屋以外の世界に出てくるまで、自分はボロボロに朽ちていたのだと痛感していた。

 開かれたハッチの向こうに佇む少女に、鉄は笑ってやる。例え能面のような仮面が表情を遮ったとしても構わない。自分が霞に対してどのように感じているのか、その感謝の念がほんの僅かでも伝われば、それでいい。――ほら、霞は笑ってくれるじゃないか。小さく微笑む少女を見て、鉄は満たされるような想いを感じていた。

 思い出すのは今朝。突如やって来た夕呼から与えられた“任務”について。外に出る代わりに、「鉄」に与えられる、一つの枷。香月夕呼の駒として生きる、その誓約を……。

 その折に、彼女達がこの横浜基地にいることを教えられた。トライアルに参加する訓練兵部隊。夕呼自身は鉄が彼女達を知っていることについて驚きもせず興味も持たなかったらしいが、彼女たちの名を聞かされたときの衝撃はまだ響いている。元の世界で見知った人物が、こんなにも身近にいたこと。……それさえを知らされることのないまま今日まで飼われて来たこと。……外に出ることを許されたとはいえ、結局何一つ状況は変わっていないということ。

 鉄は、逃れる術がないことを知ってしまっている。この世界に来てからまだ一ヶ月も経っていないが、それだけの期間を地下に閉じ込められていたのだ。最早夕呼の手の平で踊る以外の選択肢は在り得ない。……と、そう刷り込まれていて、そのことすら疑問に思わぬよう催眠暗示を掛けられている。自身ではどうにかして夕呼から逃れ自由を手に入れようと思っているのに、無意識領域で「そんなことは不可能だ」「生きるためには言い成りになるしかない」と、知らぬ内に諦めてしまうよう誘導されている。そのことに気づかないまま、今日を迎えた。――だから霞は、誰よりもそれを憐れんでしまう。

 この世界に来た当初、鉄は、毎日のように喚き、助けを求め、喉を嗄らしていた。夢としか思えない現実、存在秘匿という名の軟禁。この世界に己の居場所などなく、許されることといえば食事と睡眠、そして夕呼の研究材料となることだけ。彼の表情から笑顔が消えたのはいつからだろう――霞は小さく痛む胸を押さえながら、“笑ってくれている”「らしい」鉄を見る。

 鉄の健全なる精神と肉体を保つため、ピアティフは尽力していた。それは最初こそ夕呼から与えられた任務だからと割り切っていたようだったが、日に日に追い詰められていく鉄に、心優しい彼女は耐えられなくなっていたように思う。語りかける言葉はどこまでも優しく、戦術機の操縦という彼の才能を何よりも尊重し、軍人として生き抜くことが出来るよう、知識面肉体面での訓練を行ったりもしていた。同時に、誰も信じられる相手のいない鉄の心の支えとなれるよう……彼女は真剣に、そして真摯に向き合っていた。

 その二人の間になにがあったかなんていうことは霞にはわからないし……知らなくてもいいことだ。ただ、現実に問題なのは、“それでも”鉄には本当の笑顔が戻っていないということであり、霞もピアティフも、そのことを哀しく思っているということだ。本人がそのことに気づけていないという事実も、非常に厄介である。

 しかし、夕呼にとってその程度のことは問題ではないらしく、既に彼女の中で鉄の位置づけは「研究材料」から「使い勝手のいい駒」へと段階が進んでいる。約一ヶ月間の研究。その最大の成果はなんといってもXM3開発である。その他にあげられるものとして平行世界の存在証明、あちらの世界の歴史や技術の一部、鑑純夏とシロガネタケルに何らかの因果が課せられているという事実を知りえたこと。

 何よりも注目すべきは、白銀武とシロガネタケルは因果律において“全くの別人”という点だ、と。夕呼は霞に言ったことがある。世界の修正力が作用せず、別固体として存在が許容されている武と鉄。そしてその鉄を別の世界から呼んだ鑑純夏の存在……因果。これが解明できれば、AL4は更なる成果を挙げられるに違いない。ひいては、それが世界を救うきっかけとなるはずなのだ。

 そしてそれは、最早鉄を軟禁したまま研究を続けても「わからない」ことだった。霞のリーディングで鉄の思考を読み漁ったところで、彼が知識として持っているモノ以上の事柄は読み取れない。XM3開発が成った今、鉄に対する過剰なまでの隔離は弊害にしか成り得ない状況となったわけである。

 戦術機適性「S」という規格外の才能を持ち、『概念機動』なる戦術機制御技術の革新をもたらした鬼才。ならば、ひとつ派手に咲かせてやろうというのが、夕呼の現在の方針である。鉄の存在が秘匿されるべき状況であることに変わりはないが、彼を“鉄”として売り出すには丁度良い機会でもある。懸念すべきは武と鉄の接触であるが、こちらについてはこれまでどおりで構わないだろう。A-01部隊とは別の、特務兵として子飼いにすればいい。

 鉄と鑑純夏に課せられた因果の解明、それが成るまでの間、彼には仮面をつけた道化――いや、この場合は偶像の一つとでも言うべきだろうか――になってもらう。

 実戦に起用するかどうかは、また別の話である、ということらしい。霞はそれら夕呼から得た情報を思い出しながら、着座調整を終えた鉄をじっと見つめた。今回のトライアルを足掛かりに、鉄は世界に向けてその存在を主張できる。今日という日まで、ずっと地下に閉じ込められていた彼が、この世界において始めてその存在を認知される時がきたのだ。……それはきっと、喜ばしいことであるはずなのに…………霞は、どうしても哀しい想いを抱いてしまう。

「鉄さん……頑張ってください……」

「ん? ――ああ、ありがとうな、霞」

 鉄の出番まではまだまだ時間がある。調整を終えた彼は管制ユニットから抜け出して霞の隣りに立ち、応援してくれる少女の頭を撫でた。XM3発案者として自分の名前を世界に売るというのなら、それでもいい。鉄はとにかく、「自分がここにいる」という証明を渇望していた。己の居場所、己のあるべき場所――それは紛れもなく、あの懐かしい「元の世界」なのだが、そこに戻る術が見つからない以上、ここで生きていくしかない。そのための第一歩、というなら……あの狂おしい軟禁生活から脱する手段なのだというなら。

「せいぜい、踊りきってやるさ……」

 その言葉は。

 まるで冷え切っていて、鋭く尖っていて。霞は、知らぬ間に硬直していた。変わらず撫でてくれている鉄の手の平の温度が、急速に冷えていく。恐る恐る向けた視線は彼と絡むことなく、ただ、黒い《鉄仮面》だけが、のっぺりと遠くを見つめていた。







 ===







 目を開けると、そこには水月がいた。少しだけ驚いて、武は身を起こす。体中に鈍い痛みがあったが、それだけだ。特にこれという違和感はない。やや呆れたように顔を顰めた水月が、冷えたタオルを投げつけてきた。

「……なにするんですか」

「ったく、看病してやってたってのに、感謝の一つもないわけ?」

 どうやら、目を醒ましたにも関わらず挨拶しなかったのが気に入らないらしい。……いや、水月の言葉を借りるなら看病の礼がなかったこと、だろうか。ハッキリとしない意識が、顔に張り付いたひんやりとした感触に晴れる。どうやら顔面の腫れもある程度は引いたらしい。武はタオルで顔を拭うと、ふぅと一息つき、水月に礼を述べた。――うむ、よろしい。

「よろしいじゃないですよー。速瀬中尉今来たばっかりじゃないですかぁー」

 にんまりと頷いた水月の後ろから、ひょっこりと茜が顔を出す。手にはコーヒーモドキが二つ。小さく唇を尖らせながら、水月の隣りに座る。じっとりと見つめてくる茜に苦笑しながら、水月はごめんごめんとコーヒーモドキを受け取る。その会話が真実ならば、武はどうしてタオルを投げつけられたというのか。姉のように慕い、尊敬している先達の理不尽な仕打ちに、思わず溜息をつく。――ああ、そうだよ、水月さんはそういう人だよ。ヤレヤレと嘆息する武に、けれど水月は少しも悪びれた様子もなく、

「ま、武も気がついたことだし、私は退散するわ。茜も、武が起きたんだから、いつまでもべったりしてるんじゃないわよー」

「わぁわぁわぁ! もー、速瀬中尉~っ!」

 コーヒーモドキを飲み乾して、手を振りながら去っていく水月。去り際になにかとんでもないことを言っていたような気がするが、真っ赤に茹で上がった茜が喚いているせいで、それを追求することも出来ない。べったりってなんだべったりって。一体自分が眠っている間にナニがあったというのか。軽く頭を振りながら、まだ真っ赤になったままの茜に呼びかける。

「ん? なに? どっか痛い?」

「いや、そうじゃない。……なぁ、何で俺ベッドで寝てるんだ?」

 というより、医務室どころか医療棟に辿り着いた記憶すらない。今日はやけに記憶が飛ぶ日のようだったが、まさかクスリの副作用じゃないだろうな、と恐ろしい想像をしながらの問いかけに、茜は首を傾げて、

「先生の話だと、武、医務室の前で気絶してたらしいよ? ……その、酷い怪我だったから、とりあえず治療したらしいけど……」

 隊内リンチか、或いは他国の衛士と喧嘩になったか――一時、医務室は騒然となったらしい。衛士が怪我をすることはよくあるし、軍内部でのいざこざだって日常茶飯事だ。が、余程の怪我でない限りプライドが邪魔して医務室なんて行かないし、ある程度の処置なら自分たちで出来る。更に言えばここを利用する者の大半が重傷を負っていたり、病気に罹ったりした者ばかりだったので、顔面を腫れ上がらせた武は、かなり珍しかったのだろう。

 内線で隊長のみちるが呼ばれ、その内容に彼女は盛大に溜息をついていた。――多分、恥ずかしかったんだろうな、と。茜は他人ごとのように思い出していた。……勿論、直截的な原因である茜が事情を説明するべく医務室に派遣され、それからずっと看病していたわけだが。そして、交替で休憩をとる隊の仲間達が代わる代わるやって来ては、先程の水月のように茜をからかっていくのである。

 茜の説明に、武はふぅむと頷いた。おぼろげな記憶には、何者かに強襲されたような……そんな感じが残っているのだが、果たしてそれが本当かどうかはわからない。少なくとも生死の狭間を彷徨ったような、そんな恐ろしい感覚が、確かにある。けれどそれを茜に説明する気にはならなかったし、今はもうそれほど痛みがあるわけではないので、武はそれらを余所に追いやることにした。

「んー、まぁいいか。……さて、俺たちも戻ろうぜ。まだトライアル終わってないんだろう?」

「え? ああうん。今、前半が終わったところ。凄かったんだよー、千鶴たち。見れなくて残念だねっ」

 へぇ、と思わず零れていた。茜は病室の隅に置かれた小さなモニターを指差し、笑う。今は各国の衛士たちの様子が映し出されているだけだったが、きっと、トライアルの映像もリアルタイムで流されていたのだろう。

 自分の機動や隊全体の統制を把握するために訓練内容を録画することは稀にある。教習目的の撮影などもあるし、かつての鉄の機動のように、高い技術を持った者を参考とするために映像を記録することもある。

 そういう意味では、今回のトライアルは見所が多いだろう。なにせ、各国を代表する古参が集まっているのだ。豊富な経験を活かした操縦技術や、戦場での駆け引き等、学ぶべきものはたくさんある。それらが惜しみなく基地内のいたるところで放送されているのだから、これが注目せずにいられるだろうか。……そして、そんな古参たちに囲まれた中で、唯一の訓練兵部隊である207B分隊。その戦果がどれほどのモノだったかなんていうことは、茜の笑顔を見れば十二分に知れた。

「後半は見れるかな」

「んー、丁度休憩だったらいいけどねっ。あ、でも本田少尉はデータリンクで映像引っ張って見てた、って言ってた」

「なに考えてんだあのひとは…………」

 そして案の定みちるにバレて腕立て二百回を喰らったという。同じB小隊の素晴らしき先達であるはずの真紀のことを嘆きながら、武と茜は格納庫へと歩いていく。

 道中、夕呼の秘書官であるピアティフに出会い――どうしてか彼女は一瞬だけ表情を強張らせていて――武は夕呼からの任務を言い渡された。



 月詠真那を抑えろ。



 一方的に告げられたその命令の意味を知るのは、それから十分後。よくわからないままに真那をどうにかして別室へ呼び出した後の、あの、――――御剣冥夜の名と顔が、日本全土に報道されたその時だった。







 ===







「なん……だと?」

「え?」

 半ば呆然と、真那は呟いていた。が、驚いたのは武も同じだ。

 トライアルも佳境を迎え、連携実測の後半が始まって早々に、国連軍の報道が始まった。画面の隅にはトライアルの映像が映し出され、画面中央にはいつも軍事関連のニュースを伝える報道官が映されている。なにか緊急の報道だろうかと身構えた矢先に、その報道官はなんとも奇妙なことを言い出したのだ。

『日本全国の皆さん、ここからは予定を変更して、現在国連太平洋方面第11軍・横浜基地で行われております、戦術機の新型OSのトライアルの様子をお送りしたいと思います』

 唖然としたのはなにも二人だけではない。基地内でモニターを見ていた全員が、他国の衛士も含めた全ての関係者が、「なんだって?」と、眉を顰めた。何の冗談だ? と。皆が口々に呟き、失笑を浮かべる中、けれど報道官は今正に目の前で進行しているトライアルの様子を“日本国民”に親切丁寧に、わかりやすく報道している。これには、流石の衛士たちも、整備士たちも唖然とした。軍事機密がどうという問題ではない。一体どうして、何故、こんな報道をする必要があるのか……それがさっぱりわからなかったからだ。

 ただ、誰もがハッキリとわかったこと。それは、これが紛れもない宣伝行為であることと……恐らくは先日報道された天元山災害救助活動の、あの劇的な映像を流した報道と絡んでいるだろうこと。けれど、それでも、理由がわからない。横浜基地でトライアルが行われていることは国連内部では周知の事実であったし、帝国軍もそれは承知していて――だから第211中隊が参加しているのだ――これといって秘密裏にしていたわけではないのだが。

 そして、続く報道官の言葉に、矢張り全員が驚愕し、或いは表情を引き攣らせた。

『……と、このように従来のOSとはかけ離れた、素晴らしい性能を秘めた新型OS。そのテストパイロットを務めましたのが、こちらにいる第207衛士訓練部隊の訓練兵たちなんです。今日は隊を代表して二名の方に来て頂きました』

 映し出されるのは、小柄な少女と、凛とした少女。――珠瀬壬姫と、御剣冥夜の二人だった。

 瞬間、

 真那は冥夜の名を叫び立ち上がり、

 武は夕呼の命令の意味を知った。

「冥夜様!? ……ッ! この報道を止めなければ!!」

「…………、っ、」

 休憩室の出口に駆け寄ろうとした真那に先んじて、武がドアを塞ぐ。

「――ッ!? なんのつもりだ武……そこをどけぇ!!」

 ぶつけられる裂帛の意志は強かで、思わず呑まれそうになるほどだったが、武は何とか両手を広げて、“通せんぼ”をする。無言のままに、わかり易すぎるジェスチャー。そうして真那は、武が何者かに自分を引き止めるよう命じられていたのだと悟った。

 トライアル――という、一種お祭りのような昂揚する雰囲気が、そうさせたのだろうか。やって来た武がA-01としての彼ではなく、弟子として、真那との会話を望んだからだろうか。思い返せば、色々と引っ掛かる点はあったのだ。各国の古参の技術について真那の意見を聞きたいと誘われ、いぶかしむ巽たちを残し休憩室にまでやって来て……。

 雰囲気だとか、嬉しかったとか。そういったヌルイ感情に唆された自分が恨めしい。今はただ、目の前に立ち塞がる白銀武という存在が、どこまでも邪魔だった。

『お二人は先程の連携実測にも参加されていたんですよね? ベテランを相手の戦闘に一歩も譲らず、見事な勝利を挙げたわけですが……』

 白々しいまでの報道は続く。その間にもカメラは報道官と、壬姫、そして冥夜を映し続けていて――日本全土に、冥夜の顔が流されている。その事実は、真那を酷く揺るがせた。およそ考え得る事態の中で、これはかなり最悪の部類に入る。まさかこんな形で――そういう悔しさと怒りが、確かに真那を激憤させていた。

 不味いのだ。許されないのだ。これは。このようなことは。

 御剣冥夜の存在が、世に知られることは。

 “日本全国の皆さん”と報道官は言った。ならばそうなのだろう。本当に、この映像は…………っ。

『ところで珠瀬訓練兵は先月末、横浜基地へと墜落してきたHSSTを神業で撃ち落とし、基地壊滅の窮地を救われたそうですね。基地内では“狙撃姫”や“女神”と呼ばれ、尊敬されているとのことですが……』

 ――なんなんだよ、これは……っ!? 真那の行く手を阻みながら、けれど武は少々混乱していた。夕呼が真那を抑えろと言ったのは、間違いなくこの報道のためだろう。冥夜がそこに居ることが、何よりも物語っている。つまり、この報道のためには、冥夜の傍をつかず離れぬ斯衛――真那が、邪魔だったのだ。けれど、同じく斯衛で冥夜の警護を務めていたはずのあの白服の三人はどうなったのだろうか。彼女たちの家柄はよく知らないが、ひょっとすると、それは夕呼の権限でどうにか出来るものだったのかもしれない。

 家名、実力ともに厄介極まりない真那を抑え込むこと。こんな報道に一体なんの意味があるのかわからないながらも、確かに実行にはそれが必要だということは理解できた。だから、武は睨まれようと殺気をぶつけられようと、ドアの前から離れるつもりはない。この休憩室が無人であったことも幸いしている。武は後ろ手にゆっくりと施錠して、己の意思が揺らがないことを主張してみせた。――真那の眉がぴくりと上がる。握られた拳が、ぶるぶると怒りに奮えていた。

 報道官は澱みなく壬姫の偉業を讃え、訓練兵ながら既に極東一の腕前を身に付けていること、その素晴らしき才能を世間に向けて主張している。誉めそやされる壬姫は、顔を真っ赤にしながらもしっかりと受け答えしていて、それだけを見ればなかなかに好感を持てるインタビューだった。見ている者の心を掴んで放さない、そんな魅力に満ちた笑顔だった。

 偶像。

 そんな言葉が不意に過ぎる。そして、パズルのピースが嵌るように、先日の吹雪の映像が蘇った。――ああ、だから冥夜なのだ。

『さて皆さん、先日の天元山の噴火のことを覚えておいででしょうか。あの日災害救助活動に参加していた勇気ある国連軍の訓練兵の活躍により、危険地帯に暮らす全住民の安全が護られました。その時の訓練兵こそが、こちらにいる御剣訓練兵なんです。御剣訓練兵――危険を冒してまでの救助活動を行われたわけですが、一体どうしてそこまですることができたんでしょうか? よろしければ御剣訓練兵の行動の理由を教えていただけますか』

 理解し、納得した瞬間に、映像があの日の報道で流れたものに切り替わる。過剰なまでのあの報道は矢張り、「これ」に繋げるための布石だったということだ。……つまり、夕呼は二人を偶像として祀ろうとしている……のだろうか。横浜基地を救った英雄、不法居住者の命を救った英雄。そんな風に。

 そして、英雄がテストパイロットを務めたXM3――それは、世界中のベテラン衛士を相手に、一歩も引けをとらなかった。実力、才能共に超一級であり、そして、世間的に英雄と認められる結果を手にしている。そんな彼女達を擁する横浜基地……香月夕呼は、世界での地位を磐石することは勿論、日本に於ける信頼というものを一挙に手に入れようとしているのではないだろうか。

 だが、それはなんのために――? 武には、夕呼の思惑を読みきれない。ひょっとしたらという想像は出来ても、それは関係ない。武に課せられた任務は真那を抑えること。ただそれだけ。この報道が終わるまで、一歩たりとも真那を冥夜に近づけさせないこと。

 武は一度だけ大きく息を吸って、師から向けられる絶対の殺意と怒りを前に、けれど、それでも退くことなどできないのだと。これが己の選んだ道なのだと……ゆっくりと、右腕で弧月の柄を握る。それと同時、まるで合わせ鏡のように、真那もまた自身の刀の柄を握っていた。

「最期にもう一度言うぞ。――そこをどけ」

「どきません。…………俺は、もう二度と絶対に、香月博士の足を引っ張るわけにはいかないんです……ッ。あのひとの邪魔は、絶対に赦さないッッ!」

 睨み合う視線は既に必殺。ぶつけ合う感情は殺意と怒りと激情の坩堝。

 ここに師弟の絆は断たれ、双龍はただ、互いの首を喰い千切らんとその牙を剥き――――


『――私には、護りたいものがあるのです』



 その言葉に、真那は硬直した。ぎしり、と。凝縮された空間が軋みを上げる。

 振り仰ぐように休憩室のモニターを見上げた真那は、画面に映る主の、揺ぎ無い瞳を見て……

『この星……この国の民……そして、日本という国……。そのために、私は一刻も早く衛士となり、そして戦場に立ちたいのです』

 その言葉は、その表情は、声音は。

 酷く、魂を揺すぶらせた。モニターを見つめる真那と同様に、武もまた、まるで惹き込まれるように冥夜を見つめていた。……彼女は将軍家に縁のある人物だ。故に斯衛が護衛に就く。政威大将軍殿下と瓜二つの顔をしていて、普段から高貴なる雰囲気を纏っていた。誰に対しても常に誠実で、優しく、誇り高い。そう。御剣冥夜とは、そういう女性だった。

 ――だから、なのか。

 だから、天元山噴火の折も不法居住者とはいえそこに暮らす「日本の民」を諦めることなど出来ず、その心を踏み躙ることをよしとしなかった。その覚悟。軍人、衛士として矛盾する覚悟さえ丸ごと内包したまま、冥夜はただ、この星を救うために戦いたいという。

「めいや……さま…………っ」

「月詠中尉……」

 その声は震えていた。俯くようにモニターから目を離し、ただ、刀を強く握り締めている。耐えるように、感情を呑み込むように。冥夜は衛士になりたいと言った。だからこの横浜基地へと入隊したのだし、真那はそのことを喜ばしいと感じていた。日の当たる場所に出ることを許されず、ただ影としての生だけを与えられた“写し身”。その冥夜が、己の意思を持ち、貫き、あと一歩でそれが叶うところまで来ている。――それを寂しいなどと思う私は、なんという傲慢な女だろうか。

 この報道を止められなかったことが悔しい。

 この報道で冥夜の言葉を聞けたことが嬉しい。

 彼女の覚悟は知っていた。その護りたいものが何であるかも……。そうやって、ただ御剣冥夜という個人であることを望み、地球という名の星を護るために戦うことを望む。なによりもこの国の民を愛し、慈しみ、気高い魂の在り処を護りたい。――あの方のように。その力の一添えとなるべく。

 その覚悟は。微塵たりとも揺らいでいなかった。捻じ曲がってはいなかった。冥夜の芯は折れることなく、何者にも曲げることなど出来ず。ただ、穢れなき輝きを放ち続けていた。――今も。そしてこれからも。

「…………」

「……」

 報道は終わり、再びモニターにはトライアルの様子が映し出された。真那は俯いたまま顔を上げない。武も何も言うことが出来ず、まるで幼い子供に戻ってしまったように、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。真那の気持ちは、きっと真那にしかわからない。……自身の首にぶら提げている認識票を外しさえすれば、バッフワイト素子の阻害を受けることなく、彼女の心中をリーディングすることが出来るだろう。けれど、そんなことは絶対にしないと既に誓った。



 だから、やっぱり武には何も出来ず、じっと黙って、打ちひしがれる師を見つめることしか出来なかった。




[1154] 守護者編:[三章-07]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/06/24 21:43

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:三章-07」





 向けられる懐疑の視線、いや、それはハッキリと見て取れるほどの怒りだろうか。どちらにせよ、夕呼は気にした素振りもなく、こちらを睨み据えてくる帝国の代表に微笑んでやった。高官らしい初老の男はそれに対して何も言わず、モニターに映し出される御剣冥夜を見る。報道官の質問に答え、己の戦う理由を述べた彼女。その凛々しい姿にほんの少しだけ瞳を和らげて、彼は司令室から退室した。

 終始、無言だった――。

「……なるほど、流石に一国一軍を代表してここに来るだけはあるわね」

 呟く夕呼に誰も気づくことなく、そして臨時の報道は終わる。脚本・演出はともに夕呼。冥夜の顔と名、そしてその気高き理想を知れば――さて、帝国はどのように動くだろう。決まっている。冥夜の存在の意味を知る連中だからこそ、彼女はここに送られてきたのだから。……ならば、後は夕呼の目論見、そのための最後の一手を打つだけだ。

 あの初老の男の対応を見れば、彼は少なくとも“御剣冥夜”の存在を知っていて、それが帝国内部にどれ程の波紋を呼ぶかを知っているのだろう。だが、彼らはこの報道について夕呼をどうにかすることは出来ない。もし夕呼に責を問おうものなら、一介の国連軍訓練兵に過ぎないはずの冥夜の素性を明らかにしなければならなくなる。存在を秘匿したくて影の世界に放り込んだ娘を、存在を否定するために明るみに出す――そんな愚行を、連中が犯すはずがない。

 故に、勝負あった。夕呼はこの時点で既に、日本という国に対して、絶対的な有利を得たのだった……。







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 コツ、コツ……と。鉄は仮面のふちを指でたたく。自身に宛がわれた不知火の管制ユニットの中、データリンクで接続されている演習場の様子を眺める。――どいつもこいつも、まるで化け物だ。たった一度の連携実測をこなしただけで、全員が、二度目のそれでは格段の違いを見せている。同じ機体、同じXM3。なのに、ただ一回の経験を積んだだけで、彼らは須らく技術を向上させていた。

「これが正規の軍人ってわけかよ……」

 XM3が搭載されているだけで、その操縦技術は桁違いに跳ね上がる……とは、夕呼の言だ。この世界の戦争を知らない鉄には、その言葉が意味するところをいまいち実感として把握しきれていなかったが、網膜投影に映し出される彼ら「衛士」の実力を見れば、なるほどと頷かずにはいられなかった。全員が全員、まるで一度目とは別人だ。機動の一つひとつにキレがあり、とてもシャープに感じられる。

 その変貌に貢献しているのが、自分のアイディアの発展形であるとなれば、仮面の下で表情を緩ませてしまうのも無理はない。愉悦。そういう感情が、鉄の中に満ちていた。――そうか、これはオレのおかげなんだ。そんな考えが浮かんでしまったとして、誰が彼を傲慢と言えるだろう。それは真実であり、鉄という存在なくして、XM3は絶対に生まれ得なかったのだから。

「リアルバルジャーノン、か……はははっ、すげぇぜ」

 込み上げてくる笑いを止められない。自分の存在なんて露ほども知らない連中が、自分が地下に閉じ込められている間のうのうと表を歩き回っていた連中が、今、そこで、自分の考え出したOSの性能に嬉々として没頭している。それはなんて清々しいほどの、優越感。――お前らオレに感謝しろよ? くつくつと湧いて出る笑みが、止まらない。愉快だった。痛快だった。どうだ、すげぇだろう――そんな感情が次第に膨れていって、そしてトライアルは最終組を迎えた。

 207B分隊。鉄の知る、鉄の知らない少女達の部隊。先程ニュースに登場した冥夜と壬姫は今回は留守番らしい。残る三人の乗る吹雪が演習場へと移動して……

「冥夜、か……なんかアイツ、全然変わらないな」

 彼女が言っていることの半分も理解できなかったが、ただ、それだけはわかった。アイツはどこでも変わらない。冥夜は、冥夜だった。――と、ピアティフから通信が入る。自分を包み込んでくれる優しい女性の声に、鉄の意識は脈打った。柔らかでいい匂いのする彼女の感触を思い出しながら、鉄はCPとしてのピアティフの指示に従う。

『タイミングはこちらでカウントします。鉄少尉は“精々派手に暴れまわりなさい”とのことです』

「はははっ、夕呼先生らしいや」

 苦笑混じりに告げられる夕呼からの指示内容に、鉄は破顔する。“そういうところ”は、矢張り鉄の知る香月夕呼と変わりない。どれだけ世界が異なろうとも、人間の本質は変わらない。きっと、そういうことなのだろう。……それがわかったところで、この世界に自分の居場所はないのだが……。鉄は頭を振って、余計なことを考えないようにした。とにかく、これが成功すれば自分にも居場所が出来るのだ。例え夕呼にとって都合のいい駒としての生でも、個人として自由に生きることが出来るなら。

 《鉄仮面》は、ただそれだけを手に入れる。それさえあれば、保証されるならば――とりあえず、納得をしてやる。

 網膜投影には、踊るように戦場を駆け巡る吹雪が映る。仮想敵部隊はじわじわと押され始め…………そうしてついに、決着がついた。本当にあれで訓練兵だというのか。素人の鉄が見ても、彼女たちの実力は、他の誰よりも優れていて、圧倒される。

(すげぇよ。お前ら本当にスゲェ……)

 そんな彼女達と、この世界でも出逢えていたなら。友人になれていたなら……自分にも、今とは違う“現在”が待っていたのだろうか。あんな風に軟禁されることなく、共に訓練兵として過ごして来れたのだろうか。どれだけ願っても、最早それは夢物語でしかない。この鉄の仮面を与えられた時から、鉄は、こういう生き方しか許されなかったのである。

『CPよりドッペル1』

「……こちらドッペル1。準備は出来てる」

 さぁ、出番だ。

 こんな狂った世界に放り込まれ、居場所もなく、名も顔も奪われ、ただ存在するだけの価値のない日々。――それら全てと、訣別する。今から自分は、世界中にその名を轟かせるのだ。世界中の誰もが、自分の名を口にするのだ。――“鉄”。まるで嫌味のようなその名も、この《鉄仮面》には相応しい。それは道化を指す言葉だ。それは道化を押し付けられた者の名だ。

「踊れ踊れ……ククッ」

 世界が自分に踊らされるのか。自分が世界に踊らされるのか。道化者はそれさえ知らず、ただ、日の当たる場所を求めて。その一歩を踏み出した。







 ===







 一体どうすればよかったのかわからないまま、トライアルは全行程を終えようとしていた。武は小さく溜息をついて、つい数時間前の出来事を回想する。夕呼の命令で真那を休憩室に押し留め、“あの”報道を最後まで行う一手を担うこと。武自身、まさかあのような報道がされるとは予想もしていなかったために、真那の信頼を裏切る形になってしまったわけだが……それを、果たして自分は後悔しているのかどうか。それがわからなかった。

 いや、こうして思い悩んでいることが既に後悔しているということなのだろう。敬愛する師匠の信頼を裏切ったこと。それが、酷く痛む。

「けど……やっぱり香月博士の邪魔は出来ない」

 それは、絶対に許されない。己の未熟さから夕呼の右腕を切り落とし、その足を大いに引っ張った罪を負う武にとって、それだけは絶対に出来ないことだった。純夏を救うための唯一の手段。彼女の笑顔を再びこの世に取り戻すための、この世界の救うための研究――AL4。夕呼の行動の全ては、常にそれに直結している。ならば当然、あの報道だってそのための手段の一つなのだ。

 故に、武は己の行動に一片の後悔さえ抱いてはならない。武にとって後悔すべきは、あの時真那を抑えきれずにあの報道を中断させてしまった場合だ。……なら、なにを思い悩むことがあるだろう。たかが剣術の師匠一人の信頼を裏切ったところで、なんら気負うことはない……――そのはずだ。

 いつまでもウジウジと未練がましい、とは自分でも思う。武はいつだってこうやって一人で頭を抱え、自己に没頭して、そうして道を間違えるのだ。自分なりの答えや納得を導き出すことはいい。けれど、いつまでもその問題に捕らわれて周囲を見ることを忘れてしまうと、知らず知らずのうちに誤った方向へ流れていってしまう。あの1999年からの二年間、武はずっと間違え続けていたのだ。それを、繰り返すわけにはいかなかった。

『武~、あんたねぇ、気が入らないのはわかるけどちょっと呆けすぎ』

「……すいません」

 どこかジットリトした視線を向けながらの水月の注意に、武は苦笑する。……また、余計な心配をさせてしまうところだった。本当に水月には救われてばかりだと、武は内心で深く頭を下げながら、意識を切り替えることに専念する。――そう、なにを後悔することがある。自分は夕呼の部下として、そして純夏を救うための任務に命を懸けている。自分は軍人だ。軍人は命令に忠実で在らねばならない。

 真那には真那の、武には武の信念があり理想があり、任務が存在する。ただ、それだけのことだ。本来ならば国連軍所属の一兵卒が帝国斯衛軍の赤服と師弟関係にあることの方がオカシイのである。そんな奇妙な接点に気をとられ、信頼だなんだということに葛藤するなど愚の骨頂。……そう思い込むことで今は自分を納得させる。かなり無理矢理で乱暴だが、若干気が楽になった。

 今は任務の最中である。思い悩み葛藤するのはまた……一人になった時でいい。







(まったく……あの莫迦は……)

 世話の焼ける、とはこのことだ。水月はやれやれと嘆息しながら、武を見た。どうせまた下らないことで頭を悩ませているのだろう。男の癖に神経の細かい奴だ。もっとも、武自身考えすぎることがよくないということは経験から理解しているらしいので、これ以上の気遣いは不要だろう。

 月詠真那との間になにがあったかなんてことは、あの報道を見れば想像することは容易い。そしてそれは、水月が介入してよい問題ではなかった。故に水月は嗜める程度でいい。気にしすぎる必要はないのだと気づかせてやれたなら、それでいい。

 それよりもなによりも、今は警戒待機中である。トライアルも連携実測の最終組を終え、残すところ夕呼の会見のみとなった。天元山の報道以降、横浜基地の名は世間に知れ渡っている。先程の訓練兵の報道にしても、そうだ。日本中、そして世界各国へ向けて、夕呼は着々とその名を轟かせようとしている……ように、水月には思えた。本当の目的はほかにあるのかも知れない。夕呼の片腕であるみちるならそのことを知っているかもしれなかったが、副隊長である自分が知らされないというなら、それはあまり深く考えるべきではないのか。

 シートに深くもたれるようにしながら、ふむと腕を組む。そもそも、このトライアル自体が少々派手だ。まぁ確かに、あれだけの性能と可能性を秘めた新型OSのお披露目と考えれば、まだまだ足りない――なにせ、これが世界中に配備されたなら、何万という衛士の命を永らえさせることができる――くらいだが装備評価演習として見れば、矢張り大仰なのだ。演習内容を日本中に中継するということ自体がまずあり得ないし、やる必要がない。

 そんなことをつらつらと考えていると、みちるから全員へ回線が繋がれた。データリンクで回された映像は、滑走路に設けられた演台を映している。丁度格納庫を背にした位置にあるそこへ、白衣を纏った一人の女性が現れた。言うまでもない、香月夕呼そのひとである。周囲にはトライアルに参加した各国の衛士、整備士をはじめとする軍関係者が集まっていて、XM3というとんでもない代物を開発した極東の魔女を目の当たりにしようと、身を乗り出す者も見える。

 知らず、優越感を覚えていた。――いや、それは共感を得ることの出来たときに感じる昂揚か。

 あの場所にいる全員が、XM3の凄さに痺れているのがわかる。このOSの性能に打ち震え、昂奮して堪らないという感覚に支配されているのがわかる。――すごい! 言葉にすればただそれだけの最高の気分。映像の向こう側で、誰もがソレに陶酔しているのだと気づけば、水月は笑みを浮かべてしまうのだった。

 すると、我慢できなかったのだろう、真紀が奇声を発する。その表情は晴れやかに笑っていて、まるで自分もその場所で歓声を上げているかのようだ。続くように、薫が、晴子が歓声を上げ、武や茜がそれに倣う。ならば当然その雰囲気に乗るのが水月であり、みちるから苦笑しながらの叱責を受けるのが、A-01部隊の在り方だ。咲いた笑顔は枯れず、全員がはしゃぐように笑い、喜色を浮かべていた。

 ――あの日、あの新潟での戦闘で得た昂奮が、間違いなく蘇っている。

 ――あの日、あの時に確信した希望が、未来がそこに在る。

 XM3は人類を救う。このOSは、時代の革新であり……それは、そう。新時代の幕開けだ。今、これだけの人間が、衛士が、新たな時代の到来を目の当たりにしている。壇上に立つ夕呼を讃え、惜しみない拍手を浴びせ、「天才」と畏怖される科学者へ、感謝の言葉を投げかける。

 そんな彼らの気持ちが染みるほどによくわかって、水月はどうしようもなく嬉しいと感じていたのだ。そしてそれは、A-01の全員がそうなのだろう。XM3が世界に受け入れられることは当然、それだけの性能を持っている――と。そんな風に理解していても、矢張り実感は違う。理屈ではないのだ。これは。自分たちがテストパイロットを務め、データを提供し、一つずつ育てていったOS……言うなればそれはA-01全員の子供のようなものだ。勿論、トライアルに参加した207B分隊も同じ気持ちだろう。

 鉄という不遇の衛士の発想を実現したOS。完成させたのは夕呼だが、決して夕呼一人では成し得なかったこの“今”を、不知火の管制ユニットの中、ヴァルキリーズは噛み締めていた……。







 壇上に立つ夕呼は、艶然と笑む。本来なら基地司令であるパウル・ラダビノッドがここに立つべきなのだろうが、彼は別室で各国の代表達と懇談している。それにこの件は、一から十まで夕呼の立案であり、更にはAL4の研究成果の一つとしても提示される事案であることから、夕呼が立たねばならない――と、ラダビノッド司令は彼女に告げていた。あまり表立って動くことを得意とはしない夕呼だったが、基地司令から直々にそういわれては仕方がない。ならば精々派手に、やりたいようにやらせてもらうとしよう。

 用意された演台に両手を置き、不敵に口端を吊り上げる。およそ基地を代表する立場にあるものが公共の場で見せるに相応しい表情ではなかったが、今のこの状況には不思議と似合って見える。――それはまるで、一国を代表する王族のように堂々としていて、不遜なものだった。

「XM3は世界を変える“力”を持っている…………と言ったなら、それを信じられるかしら?」

 昂奮に満ちたざわめきが、しんと静まり返る。まるで夕呼の言葉が空間に拡がり、場を支配してしまったかのように……全員が、黙って夕呼を見上げていた。

「私は、確信しています。このXM3は、世界を変える。戦術機の歴史を変え、対BETA戦術の在り方を変え、世界が侵されている凄惨な状況を打破することが出来る、と。そう確信しています。――そのためのXM3であると、信じています」

 だから開発したのだ。だからこのトライアルを開催したのだ。全てはXM3というOSを世界に知らしめるため。全てはXM3というOSを世界に認めさせるため。――そうすれば、世界は変えられる。BETAに侵され、滅亡を待つだけの未来を、変えることができる。夕呼の言葉には、その意志が込められていて……耳を澄ます全員が、それを感じ入っていた。

「その性能は、実際に演習に参加した皆さんがよくご存知でしょう。先程の歓声、笑顔が、それらを実感してのことだというならば、私は嬉しい。この新しい力が世界全てに拡がったなら、人類は、決して負けはしないのだと……そう、信じさせてくれたのです」

 その声は、表情は……放たれる言葉と共に様々な感情に打ち震えるかのように豊かで、強かで、包まれるような温かみを持っていた。普段の夕呼を知るものならば、まるで別人とさえ感じられるほど。けれど、そのように取り繕っているというわけではなく、それもまた香月夕呼という女性の在るべき姿の一つなのだろう。……ただ、好んでそのように振舞わないというだけであって、この全てが彼女のパフォーマンスということでは、決してない。

 新型OSを開発した本人、そして以前より世界的に注目の高かった天才の言葉は、どうしてか胸に響く。女性、という点も理由の一つかもしれないし、彼女の存在自体が惹き付けてやまないということもある。――カリスマ。そう称するに相応しいナニカを間違いなく夕呼は備えていて、百人近い観衆を魅了しているようだ。

 夕呼の演説は続く。それは例えば基地司令や部隊の隊長が部下を奮わせるために告げる言葉たちとは違って、静かに語りかけるようなものだった。まるで世界を救うために遣わされた聖母のように。XM3を産み落とした彼女は、温かな希望を高々と掲示して見せたのだった。

「――そして、我々在日国連軍には、一つの明確な目標が存在します。このXM3があれば、それを現実のものと出来るでしょう。……そう、即ち『甲21号作戦』。日本という国に突きつけられた槍を、我々は打ち砕く!」

 瞬間。

 まるで波紋が広がるようにざわめきが起こり、それは驚愕や驚嘆や自身の耳を疑う声に鳴り響く歓声に。全員が――、打ち震えた。夕呼の言葉を理解したその瞬間に、各国を代表してトライアルに参加した全員が! 声高に咆哮を上げたのだ!

 世界各地に点在するBETAの巣窟、ハイヴ。その攻略を果たした者はおらず、実現は相当に難しいとされてきた。ハイヴ内部の詳細情報は不明。ヴォールク・データという貴重なデータを元に再現されたシミュレータで訓練を重ねてはいても、この中にハイヴ突入を経験したものはいないだろう。物量で圧倒的に勝るBETAを相手の戦闘では、冗談のように弾薬を消費する。戦術機も補給なくして戦い続けることは出来ない。

 消耗し、徐々に追い詰められている人類にとって、ハイヴ攻略は悲願であると共に、まるで夢物語のような遠い目標だった。――それを、打ち砕く?甲21号目標、通称佐渡島ハイヴと呼ばれるあの魔窟を? 『甲21号作戦』とは、つまり――“そういうこと”なのか?

 衛士たちが、整備士達が、高官が、報道を目撃した民衆が、軍関係者が、誰も彼もが。夕呼のその言葉に、目を見開き、驚愕に奮え、粟立つのを感じていた。それは、紛れもない希望となる。XM3の性能がそれを可能とし、現実としたならば――世界は、間違いなく新たな局面を迎えるだろう。横浜基地は、夕呼は、真実……世界を救うための輝きをもたらすことになる。

 昂奮は鳴り止まない。歓声は留まるところを知らない。不敵に笑む夕呼は、ゆるやかに手を掲げた。まるで一つの巨大な生き物のようにうねりを見せた観衆に向けて、どこまでも不遜に、どこまでも高貴に、彼女は告げる。

「……国連各国を代表する皆さん。ここ日本の守護の中核を担う帝国軍の皆さん。この放送を目の当たりにしている、全ての人々へ――私は、一つ明らかにしなければならないことが在ります。希代の新型OSであるXM3。この開発に当たって、基礎概念の発案を担ったのは私ではなく……一人の衛士なのです。故あって詳細を明かすわけにはまいりませんが、けれど、“彼”の存在なくして、このOSは生まれ得なかった……ッ」

 言って、夕呼は掲げた腕を更に天へと向ける。

「“彼”の名は――クロガネ。その才能こそ、世界を救う可能性を私に気づかせてくれたのです――!」







 瞬間、格納庫から飛び出す機影があった。それは天高く舞い踊り、急激に反転して降下、演習場へと降り立つ。蒼い不知火。JIVESが作り上げた無数のBETAが襲い来る只中を、まるで流れるような出鱈目さで潜り抜けていく。

 それは、その動きは、息を呑むほどに凄絶で。理解不能なまでに複雑精緻、巧みであった。

(ドッペル1――だとっ!!!?)

 思わず叫びそうになった口を、愕然と開く。みちるは反射的に浮かせてしまった腰をシートに押し付けながら、驚愕のままモニターを凝視する。夕呼の言葉と共に出現した不知火。マーカーにはドッペル1の表示が踊り、演習場を所狭しと駆け巡っている。……いや、それは駆けるなんていう表現に当てはまらない。宙を踊り地を踊るそれは、まるで戯れる道化の如く。仮想現実の中を蠢くBETAを相手に、サーカスを披露しているかのよう。

 要撃級の前腕を潜り抜け、戦車級を踏み散らす。突撃級をスレスレで跳びかわし、その背中を抉り散らす。まるで出鱈目で曲芸染みたその機動は、しかしトライアルに参加したどの部隊のそれよりも遥かに洗練されていて無駄がなく、なによりも幻想的だった。――まるで別次元の動き。

 みちるは、その機動を一度だけ目にしている。自分以外ならばまりも、そして武の二人だけが、“あの”機動を目の当たりにしている。ドッペル1、鉄という名の衛士。素性も経歴も一切が闇に包まれた記憶喪失の衛士。現実を見失い、夢想の中にだけ生きる仮面の男。

 その男が。

 XM3が生まれるきっかけを作り出した彼が。

 自身の創り上げた夢幻の世界、そこで編み出された機動を最大限に実現可能なOSを以って――世界中の衛士を驚愕の彼方へ誘っている。

『な、なによ……あの機動……っ』

『クロガネ……って、だってアイツは……っっ!?』

『これが“概念機動”……なんて……凄い……』

 口々に零れる部下達の声は、その全てが呆然と紡がれて――無理もない――と、みちる自身歯噛みしながら蒼の機影を見つめる。みちるたちが『概念機動』と呼び、研究を続けてきたその機動制御方法は、元々は鉄の機動を再現しようとしてのものだった。その習得に費やした時間は決して短くなく、そうやって身に付けた技術は、間違いなく自分たちを更なる高みへ引き上げてくれた。

 そうしてその『概念機動』を再現するためのOSが生まれ、試作型を搭載した機体でデータ収集を繰り返し……完成したのがXM3。そのXM3を誰よりも使いこなせているのはトライアルに参加した古参たちではなく、彼らに圧倒的差をつけて勝ち抜いた207B分隊でもなく、自分たち――A-01なのだという自負。揺るがないそれは絶対の自信であり、厳然とした事実であった…………はずだった。

『化け物かよ……ッッ、あいつ!!』

 悔しげに表情を歪めた武の言葉は、A-01の全員の気持ちを代弁していた。

 XM3を搭載した不知火を駆る鉄は。その見せる機動は。――まるで私たちの“これまで”を、嘲笑っているかのようだ……ッ。格が違う、とはこのこと。次元が異なるとは言い得て妙。『概念機動』とは、結局のところ鉄の思考を自分たちなりにトレースした結果でしかない。そしてそれは、間違ってはいなくとも、正解ではなかった。

 鉄は――“これ”を夢想していたのだ。彼の頭の中には、“これ”が在ったのだ。この機動。この性能。旧OSの不知火で見せたアレは、全然、彼自身が行おうとしていた機動などではなく。自分の思い通りに行かないOSに不満を抱いた彼を――ではどのような機動を求めているのか――それを解明し、満たすために生まれたのが……XM3だったのだ。

 つまり。鉄とみちるたちとでは、前提がそもそも違う。いや、みちるたちが勘違いをしていたと言うべきだろう。

 XM3があれば鉄の動きを再現できる……のではなく。

 XM3があってようやく鉄は自分本来の機動が行える……のだ。――目指す高みは、“その場所”だ。

『でも……すごい、』

『ああ…………確かに悔しいが、同時に、アレはXM3の可能性を見せてくれている……』

 打ちひしがれるような沈黙を破ったのは、梼子の呟きと、美冴の奮えるような言葉。自身と同じようにそのことに気づいた二人の部下を、みちるは優秀だと賞賛する。美冴の言葉に、全員がはっとしたように目を見張った。水月にいたっては、その発言がある以前から食い入るように見つめていた。――鉄の機動。ドッペル1の戦闘機動。それは、凄まじく高い次元にあるように見えるけれど、決して、届かない場所ではない。

 自分たちが身に付けた『概念機動』の更なる進化系を、彼は見せ付けてくれている。……ならば、そこに辿りつけない道理などなく。同時に、『概念機動』とXM3であの新潟の戦場を殲滅できたというなら、この『概念戦闘機動』とでも言うべき機動を習得できたなら――それは、一体どれ程の戦果を挙げるというのかッ。

「――――――ッッ!」

 ぶるり、と奮えた。

 足の指先から脳天の頂まで。全身を痺れるような昂奮が駆け上る。想像しただけで胸が躍る。想像しただけで闘志が込み上げる! このOSは、あの『概念戦闘機動』は、本当の本当に、人類を救う希望の光と成る。れっきとした力。BETAを駆逐する強力な、眩いほどの輝きを放っている。

「全員聞け――」

『『『…………』』』

 みちるの静かな声に、部下達が耳を傾ける。全員が、みちると同じ表情をしていた。全員が、みちると同じ昂奮を抱いていた。ならば多くの言葉は不要。あんな機動を見せられて、魅せられない衛士はいない。

「甲21号作戦までに、絶対に間に合わせる。いいな」

 それは、具体的な言葉が抜けていたにも関わらず、全員を頷かせるに十分なものだった。作戦名さえ初耳なら、その詳細はおろか概要さえ知らされていないハイヴ攻略作戦。だが、それが夕呼の口から発せられた以上、本当にそのような作戦は行われるのだし、そこに国連軍AL4直轄特殊任務部隊A-01が参加しない理由がない。つまり。

 いつ何時、それが例え明日の早朝に作戦実行となったとしても、“間に合わせる”、万全であるという、A-01であるからこその使命だった。

 みちるは了解と声を揃える部下達を頼もしく見つめながら、今一度、ドッペル1の機動を見やる。BETAの姿形を見ただけで発狂するほどだったという《鉄仮面》が、仮想現実とはいえ、BETAと戦っている。催眠暗示か投薬による抑制か。……いずれにせよ、夕呼が何某かの手を打ったと見るべきだろう。夕呼直属の特務部隊とはいえ、その全てを知ることは出来ない。夕呼の信頼を疑うわけではないが……自分たちとはまた違う場所で、一人の青年が悶え苦しみ、乗り越えているのだと知ってしまえば、共に戦う仲間としての意識が芽生えてもおかしくはない。

(貴様も頑張っているのだな……)

 顔を合わせたことさえない《鉄仮面》へ、みちるは知らず敬礼していた。







 ===







 頬を撫ぜるような穏やかな風は、この季節には珍しい。穏やかな中に張り詰めたような冷たさを含んだそれに裾をなびかせて、視線をそちらに向ける。眼に見えぬ気流は、けれどそこに確かに存在していて……少女はたおやかに眼を閉じた。風の音を聞き、風の柔らかさを感じ、風の冷たさを受け入れる。そうやって自然の見せる表情を身体で感じながら佇んでいると、庭園に面したそこへやって来る二組の足音を聞いた。

「ここに居られましたか、殿下」

 掛けられた女性の声にゆるりと振り返ると、そこには予想通りの人物が立っていた。一人は大柄な巨漢。頭を剃り上げた壮齢の武人は、彼の人柄を示すかのような燃える赤色の軍服を纏っている。対して、その隣りに立つは理知的な鋭さを持った女性。腰元まで伸ばされた翡翠の髪はどこまでも真っ直ぐで、女性のひととなりを表している。軍人にしては珍しい眼鏡を掛けていて、こちらも、武人と同じ赤色を纏っている。

 ――城内省が誇る最精鋭部隊、斯衛。その赤。そしてこの二人は、少女が特に信頼を置き、傍に仕えることを許している数少ない者達だった。

「紅蓮、月詠……そなたたち、このような所まで一体どうしたのです」

 二人の姿を認めた後、少女は再び庭園へと目を戻し、気にした風もなく問う。その視線が向かう先には美しい奇岩が見事に並べられ、朱に染められた橋が架かる池には、煌びやかな鯉が泳いでいる。均され、模様を描かれた庭は白く、吐く息も白い。

 ……少女は気づいていただろうか。先程の言葉の終わりが、同じように白く震えていたことに。

「殿下、内殿にお戻りください。ここは冷えましょう……お体に障ります」

「よい。わたくしはもう少しここに居たいのです……」

「しかし――」

「月詠、まどろっこしいことを言っても、殿下を慮ることにはならんぞ」

 頑なに背を向ける少女へ、眼鏡を掛けた女性が尚も声を掛けようとした時、隣りの武人がそれを阻んだ。その声には何の気負いもなく、どこか清々しいような快活さがあった。

「紅蓮……?」

「殿下、先程政府へ正式な要請が参りました。流石は極東の魔女、こちらの手の内など知り尽くしていると言わんばかりですなぁ」

「紅蓮中将!? それはっ……!」

「先の報道以来、帝国政府は混乱の極みにある。表向きは常と変わらぬよう仕向けてはいるが、内奥の混乱は抑えきれまい。“御剣冥夜”――その名と顔が世に知れ渡った以上、不埒を考える輩も多かろう」

 ぐっ、と。月詠と呼ばれた女性は息を呑む。握り締めた拳は怒りに奮え、眼鏡越しに睨みつける視線は、正に射殺さんとするほどに。だが、当の紅蓮は飄々としたもので、まるで気に留めていない。

「更には、XM3という革新的なOSの存在……そして、甲21号作戦などと啖呵をきられた以上、我々がそれを無視することなど出来ようはずもない…………と、そこまで読まれておるでしょうな」

「……帝国の面子は丸潰れだ。あの女は、我が国を混乱させて面白がっているのだ」

 あくまでも気にした様子もなく口にする紅蓮に、月詠が苦虫を噛み潰したような顔をする。その頃には少女も彼らの方を向いていて、静かに、巨漢が放つ怜悧な視線を見とめていた。表情は笑っていても、目は一切笑っていない。

「紅蓮そなた……なにが言いたいのです」

「この混乱を押さえ、乗り切り……そしてあの女狐の跳梁さえこちらの意に沿わせるためには、相応の標が必要となりましょう」

 冷え冷えとした風が、少女達の間を通り抜ける。冬の風は、冷たく、痛い。けれど、そんな冷たさなど意に介さないほどの裂帛が、少女の瞳には在った。その視線を真っ向から受け止めて、赤を纏う紅蓮醍三郎は言ってのける。「標」と。それが必要だと。

 天元山噴火から以降、国連軍の……特に横浜基地の動向は些か帝国を刺激していた。危険を顧みぬ挺身と人々は口を揃え讃えるが、あの災害救助に出動した隊員の誰が、危険を避けていただろう。出動した全員が、いつ噴火するとも知れない危険地帯に飛び込み、その命を溶岩の麓に曝しながら救助活動を行ったのだ。――あの国連軍衛士訓練生だけが、危険を顧みなかったわけではない。

 けれど、それによって旧天元町に暮らしていた老婆が救われたことは確かで、報道を見た日本国民が安堵したのも事実。当時は在日国連軍のイメージ回復のために都合よく利用されたと憤慨していた軍上層部だったけれど、自分たちにも体面というものがある以上、世間に向けてのポーズは、とらなければならなかった。

 だが、それも今日までの話だ。

 今日の報道は、些かどころの話ではない。横浜基地で開催された新型OSのトライアル。無論帝国軍にも参加要請がされていて、第五師団から第211中隊を向かわせていた。新型OSの性能についての報告は既に軍上層部にも届いている。時代を革新させるOS。手に入れるべき価値は、何よりも高い。……そのような評価を得るほどのOS、そしてトライアルでありながら……その最中に報じられた映像が、政府を根幹から揺るがせるほどの大事を引き起こしたのだった。

 多くの者は、「似ている」と驚愕するだけで済んだだろう。――だが、その事実を知る者は、内心で唾棄していたはずだ。

 ――「やってくれた」、と。

 その罵りは辛辣で、なによりも心情を表していたことだろう。同じように少女も、それを目の当たりにした瞬間に、「まさか」と呟いてしまっていたのだから。御剣冥夜という名。少女と瓜二つの相貌。「まさか」生まれたときより引き離された――いや、そのような存在などいなかったのだとされたあの娘が、モニター越しとはいえ目の前に現れる……。その意味を、少女は瞬間に悟った。

 横浜基地は、否――香月夕呼は、帝国を「引き摺りだそうとしている」のだと。

 何処へ? という問いには、夕呼自身が答えている。『甲21号作戦』。字面どおりに捉えるならばそれは、佐渡島に君臨するBETAの巣窟。甲21号目標を殲滅するための。

 御剣冥夜の存在を世に晒し、XM3という手札を餌に、日本の喉元に突きつけられた槍の排除を謳う――これ以上ないくらいの、挑発だった。これに乗らねば帝国の威信は保たれない。否、乗じる程度では駄目だ。ここまで嘗められて、帝国軍が、日本政府が黙っていられるわけがない。

 ……だが、その憤慨は悪戯に混乱を呼んだ。事情を知る高官たちは表面上はXM3と甲21号目標についての対応を纏めるよう会議を繰り返し、その裏で御剣冥夜の存在自体をごく自然に有象無象の中に埋没させようと画策を始めている。一番簡単で労力を要しないのは、さっさと任官させてしまうことだろう。帝国の歴史の裏側に秘された、忘れられるべき水面が波打っている。その波及を恐れる者達の結論は、ただただ穏便の内に有耶無耶にしてしまうことに向かっている。

 帝国軍としての表向きの在り方、帝国としてのあるべき形を保つ方向性、それら、今後の方針というべきものを結論付けるために、今現在も会議は続いている。けれど、政府高官、軍上層部の代表者が集うその場所に……少女は立てないでいた。

「……紅蓮、榊はなんと申していますか」

「はっ、些か時期尚早ではあるが、これも已む無しとのことです。是親自身は女狐に踊らされることをよしとして居らぬようですが、いやいや、あ奴の斯様な表情は久方ぶりでした」

 紅蓮は豪快に笑い、内閣総理大臣の言葉を告げる。――これも已む無し……少女の眉が小さく顰められた。帝国議会を束ねる代表にして、第四計画の立案にも携わった老獪の一人。国連軍横浜基地とのパイプを握り、極秘裏に情報のやり取りをしている人物でもある。少女と五摂家の主要人物、知る必要のある極少数の人物を除き、第四計画の存在を知る者はない。日本主導となって行われている第四計画は、その計画自体が国連上層部の極秘計画であるがために、横浜基地に秘密部隊を置いて研究が進められているのだ。

(その成果がXM3……)

 と、いうことなのだろう。そして、その成果を知らしめるためのトライアルだというなら、今日行われた報道に何の意味があるだろうか。

 第四計画の成果である新型OS、XM3。その性能はトライアルによって証明され、世界中を震撼させるに足る評価を得ることが出来た。帝国内部でもそうであるように、既に各国の軍上層部は如何にしてそのカードを手に入れるか、その手段を模索していることだろう。

 昼間に報じられた御剣冥夜の件は? ……恐らくは、後に判明した『甲21号作戦』にも関わりがあるのだろう。その存在を知らせることでこちらを浮き足立たせ、混乱を招く要因に仕立て上げ……優秀であるらしい彼女を早々に任官させるための一手――である可能性。あながち間違いではないような気がする。天元山の報道から、既にこのシナリオは出来ていたのだろう。第四計画の責任者がそこまでするほどの価値が、彼女にあるということだ。

 そして、『甲21号作戦』……。正直、あのように焚き付ける必要があったのかどうか、という疑問がある。XM3の報告は受けている。軍上層部も、その性能の凄まじさに感嘆しきりで、手に入れられるものなら今すぐにも欲しいという有り様だ。まして、甲21号目標は帝国にとっても厄介な癌なのだから、共同作戦という形で要請を掛けるなりすれば――XM3導入を交換条件に――快く協力できただろう。或いは、作戦はあくまで帝国が主導を握る……という方向で話を進められた可能性もある。

(無論、すぐというわけにはいかないでしょうが…………)

 ――ああ、なるほど。少女は僅かに、ほんの僅かに表情を歪ませ、唇を噛んだ。

 つまり、悠長に構えている時間がないのだ。“やる”からには“今”しかなく、そしてその最大の要因は、そこまで早急に実行しなければならない理由は――全て、第四計画の「時間を稼ぐため」なのだろう。XM3が第四計画の全総力を挙げた最大の成果とは思えない。これはこれで素晴らしいものだということは理解出来ても、これだけでは不足。全世界の命運を懸けるオルタネイティヴ計画の成果とは到底言い切れないだろう。

 本命は別にある。けれど、それを研究・開発する時間……完成させる時間が、“足りない”のだ。榊是親を通じて得た情報では、成果を挙げられていない第四計画を中止すべきだという声が強くなっているのだという。その後に控える第五計画――米国が主体となって謳われているそれへと移行すべきだと、そういう流れが出来始めているのだと。

 それを、当の責任者である香月夕呼が知らないはずはなく、故に、追い詰められている彼女はとにかく時間を稼ぐしかない。……そのためのXM3であり、そして、帝国軍を過剰に挑発しての、『甲21号作戦』の実行なのだ。あの最後の報道は、世界中に報じられている。つまり、世界中の軍関係者が、近々『甲21号作戦』なるハイヴ攻略作戦が実行に移されるのだと認識してしまったわけだ。

 在日国連軍だけで実現可能な作戦ではない。もし本当にそれだけの戦力で作戦を実施するつもりなら、それは単なる気触れであり、自殺志願者の集団ということになる。だが、曲がりなりにも極東の魔女などと畏れられ、さらにはXM3という革新的なOSを現実のものとした天才が、そんな愚を犯すはずがなく――――つまりは、端から帝国軍の戦力を当てにしていたということになる。

 いずれは甲21号目標攻略を考えたであろう帝国軍を、“いずれ”ではなく、“今”動かすための策。あの演説は全て、ただその一点だけのために行われたのだ。…………そういう観点から見れば、御剣冥夜の存在を知らしめたことについても、少々別の見方が出来る。彼女の“戦う理由”。それはそのまま、少女自身へのメッセージだったのではないか。

 その事実に気づいて、ハッと目を見開く。――ああ、まさか。そのようなことがあるのだろうか。少女は噛み締めるように目を閉じて、彼女の言葉を思い出す。



 ――私には、護りたいものがあるのです



 ただそれだけの、ありふれた願い。現実の戦場を知らないが故の、理想論。……けれど、その言葉は、その意志は、どこまでも純粋で強い、穢れなき彼女の輝きは。――強く、少女を揺さぶった。本当に。心の底から。

 少女と向き合う形で立つ紅蓮と月詠の二人は、少女の微細な表情の変化に気づかぬ素振りをして、じっと待っている。……そう、待っている。少女が結論を出すことを。彼女が、「標」となることを。

 政威大将軍、煌武院悠陽――それが、御剣冥夜と同じ顔を持つ少女の名であり、この国を背負って立つ、日本そのものの象徴とも言うべき人物の名。だが、その彼女は現在、外交、内政、軍事に関して……一切の発言権を持っていなかった。いや、便宜上「将軍殿下」の命令として遂行される何もかもが、彼女の名をほしいままに利用しているケダモノ共によって行われているのだ。

 帝国議会を牛耳る卑俗な高官たち。米国という強大な国に尻尾を振ることで自身の腹を満たしてきた狗ども。……そんな下らない連中が、今の日本を統べている。

 ……内殿という名の檻に捕らわれた傀儡の少女は、しっかりと目を開き、二人の従者を見据えた。

「紅蓮、月詠、五摂家並びに帝国議会の諸侯を招聘なさい」

「「かしこまりました」」

 毅然と言い放った悠陽に、紅蓮と月詠が礼を持って受け賜る。顔を上げた二人の表情はなんとも不敵で、なんとも勇ましく、そして――なんとも晴れやかなものだった。悠陽は、ソレを見て苦笑してしまう。

「……そなたたちには迷惑を掛けます」

「なんの、この身この命、如何なる時も御身のためにございますれば、迷惑の一つや二つ、むしろ足りぬくらいですな」

「左様にございます。殿下、我らは殿下の御身心を護る剣。殿下の手足として働くことこそ、我ら斯衛の誉れでございます。……なんなりとご用命くださいまし」

「……そなたたちに感謝を」

 晴れやかなるままに笑顔を浮かべ、そして武人の表情へと戻る二人。彼らはもう一度頭を下げ、悠陽の前からさがって行った。その背中には闘志が漲り、その足音には「待ちかねた」とでも言うような強い歓びが満ちて。

「あ――真耶さん」

 去り往く二人の背中に、悠陽が唐突に声を掛ける。立ち止まったのは眼鏡をかけた怜悧な女性で、力強い返事と共に、一切のよどみなく振り返る。悠陽は自分がどうして彼女を呼び止めたのか一瞬わからなかったが……けれど、理解するよりも先に、言葉が発せられていた。それは、無意識の願いだった。

「真那さんに伝達を――あのものを、頼みます……」

「………………っ、……かしこまりました」

 恭しく一礼する月詠真耶を見やって、悠陽は、自分が今失態を侵したのだと悟った。……だが、一度言葉にしてしまったならばそれは全権総代である将軍としての言葉となり……故にその責任は、重く、強く、言霊となって具現化する。悠陽は己の責任というものを今一度認識しながら――最早一切の迷いはなく――庭園から覗く空を見上げた。

 そして、帝国は動く。政威大将軍、煌武院悠陽の名のもとに。







 ===







 今日は本当に色々なことが起こる。トライアルに始まり、訓練兵の異例の報道や、夕呼の演説……更には、政威大将軍の声明発表だ。特に、一日の締めくくりとも言うべき時間帯に放送された全国民に対する将軍殿下の御言葉は、驚愕を呼び狂乱を呼んだ。――いや、熱狂というべきか。

 政威大将軍がかつてその肉声を公共の電波に乗せたのは、先代将軍が身罷り、新たな将軍として即位したそのときだけで……以来、将軍殿下は人々の前に立ち、言葉を発することはなかった。けれど、人々にとって“将軍”という存在は日本を照らす希望であり、光明であり、象徴だ。その御姿、御尊顔は国民全員が見知っていて、誰しもの心に深く根付いている。例えその御言葉を耳にする機会なくとも、その存在が、日本という国を照らし続けてくれていたのだ。

 その殿下が――人々の前に立ち、宣言した。甲21号目標の攻略。極東国連軍との共同作戦、『甲21号作戦』の、その遂行を。誰でもない、全ての人々へ、告げたのである。

「……」

「? どうしたの武、ぼーっとして?」

 夜間訓練も終了し、各自自室へ戻る段になって、茜は格納庫の手摺にもたれる想い人の姿を見とめた。まだ強化装備のまま着替えてすらいない武に近づきながら、気安く微笑みかける。やって来る茜に気づいたらしい武が曖昧に笑うと、彼女はむっと眉間に皺を寄せて……

「ちょっと、こーんなに可愛い女の子が声掛けてあげてるんだから、もっと嬉しそうにしなさいよっ」

「……自分で言ってて恥ずかしくないのか?」

 わざとらしくぷりぷりと怒ってみせる茜に、武は呆れたように肩を竦める。至極真っ当に返されてしまった茜はノリが悪いわねぇと溜息をつきながら、武の隣りにもたれかかる。自分と同じように手摺に背を預ける少女を見ながら、視界の端に映る複数人を確認した武は、隠れる気が全くないらしい晴子以下をとりあえずどうでもいいと割り切って、照明の灯る天井を見上げた。……頭の中では今も、将軍殿下の御言葉が繰り返されている。

「――国土を取り戻す戦い、かぁ……」

 呟いたのは、茜だ。その一言に、彼女もまた自分と同じなのだと感じて、武は少し嬉しくなる。政威大将軍、煌武院悠陽殿下は仰ったのだ。これは国土を取り戻す戦いであり、BETAに奪われた全ての者の想いを遂げる戦いなのだと。……同じ日本人として、奮えない筈がなかった。込み上げる熱い情動を、抑え切れるはずがなかった。――いや、そもそも抑える必要などない。

「ああ、そうだ。俺たちは、アイツラに奪われたものを取り返す……」

 言いながら、武は拳を握る。その燃えるような感情に、腰に提げる弧月が鳴った。その横顔はどこか鬼気迫るものがあり……茜は、無意識に武の左腕を抱く。驚いたような顔をする武に、少女は……小さく微笑みかけた。

「大丈夫だよ、武の傍には私がいる……。武の背中は、いつだって私が支えてあげる…………だから、」

「茜……?」



 ――だから、鑑さんのこと、



 その仇を、とは……言えるはずがなかった。知らず感情が込み上げてきて、茜は言葉を詰まらせる。言ってはいけない、そんなことは。武はかつて復讐に捕らわれていた。そしてそれはそんなに昔のことではない。半年にも満たない以前。彼は紛れもなく、呪われた憎悪に身を焦がしていた。先任の命を以ってその愚かさと恐ろしさを学んだ武は、今やその暗黒に捕らわれることはないようだったが、今こうして何らかの感情に満ちている姿は、少し不安を抱かせる。

 そんな茜の感情を悟ったのだろうか、武は抱かれた腕の指先を少女のそれと絡めて、強く握り締めた。――大丈夫だ。言外にそう伝えると、茜は安堵したように微笑み、肩に頭を預けてくる。シャワーを浴びたばかりの温かな香りが鼻をくすぐって、武は目を細めて小さく笑った。右手で茜の頭をくしゃくしゃと撫で回す。

「こんな作戦がいつから進められていたかなんて知らないけど……でも、俺は嬉しい。香月博士に、殿下……この二人が協力して、出来ないことなんてないんだ」

「うん……そうだね。私たちは、勝つよ……絶対!」

「ああ、絶対だ……。俺たちは、必ず勝つ……!」

 夕呼が宣言した『甲21号作戦』は、その詳細はおろか概要さえ知らされていない。けれど、それが煌武院悠陽の口から“声明”として発表されたのだから、本当に、その国連軍と帝国軍の共同作戦は実行される。大規模なものとなることは間違いなく、そして、投入される全ての部隊にXM3は導入されるだろう。

 故にその作戦は――XM3の実戦性能評価試験であり、AL4の続行を決断させるカードであり、奪われた国土を取り戻すための――勝利以外赦されないものとなる。

 武にとってこの作戦は、この戦いは、絶対に譲れない。夕呼の研究を完成させるためには時間が絶対に必要で、XM3は認められなければならない。その目的の一部はトライアルで達成されているのだろうが、完全なものとするためには、絶大的な成果が必要となるだろう。――鑑純夏を復活させるために、“彼女”を再び取り戻すために、敗北は赦されない。

 自分の命を救ってくれた上川志乃たち。偉大なる先任の死を決して無駄死にとしないためにも、今こうして隣りにいてくれる愛しい茜のためにも、水月や、共に戦う仲間達のためにも……武は、戦い抜く。絶対に生きて、護ってみせる。

 BETAから。敵から。奴らから。勝って、生き延びて、護る。取り戻す。――全てを。なにもかもを。そうすれば、夕呼が、純夏を――……救ってくれるのだから。

「茜、お前は俺が護る……だから、一緒に生きてくれ……」

「――、うん……っ! 嬉しい、武……っ」

 唇が触れそうに近しい距離で、二人は更に互いの距離を縮めていく。朱に染まった頬を擦り合せるように、肩を抱き、背中を抱き、ゆっくりと身体をとけあわせるように――

「ええい! 見せ付けやがってこの野郎!! あてつけか!? 男がいないアタシへのあてつけなのかっ!!??」

「あぁぁあああ! 本田少尉ぃぃ~~っ! 邪魔しちゃ駄目ですってばぁ!」

「一番いいとこだったのに~~!!」

「ででででもっ、見たいようで見たくない! そんなフクザツな乙女ごころがムムムム!」

「た、多恵さんも皆さんも落ち着いて……っ」

 触れ合う寸前で横にそれた唇が、空しく開かれる。武の視界には、恥ずかしかったのか本気で悔しいのか、顔を真っ赤にして暴れ回る真紀の姿と、それを取り押さえようとする晴子、薫、多恵、亮子の四人の姿。本当にいつもいつもあの連中は……と、そんな風に諦めにも似た溜息が出てしまう。同じようにがっくりと項垂れる茜は、次第に肩を震わせ、次に顔を上げたときは、それはもう鬼神の如き形相をしていた――咄嗟に目を逸らした武は、多分きっと悪くない。

 恐々と騒がしい真紀たちの中に、ゆらゆらと怒気を立ち込めた茜が向かっていく。武の背筋は恐怖に粟立っていたのだが、どうしてあの連中はそんな茜の接近に気づかないのだろうか。……きっと目の前にある真紀が面白くて夢中になっているんだろうなぁ――そんな諦観を抱いて、武はそそくさと退散する。早く着替えて自室に逃げ込むべし。さもなくば、いつあの矛先が自分に向くかわからない。女心と秋の空、とは誰が言ったか。何となく使いどころを間違えた気もするが、武はとにかく平穏無事に一日を終えるために行動するのだった。

 後には、ただ女の子達の黄色い声だけが…………いや、人はそれを絶叫という。







 そうして、長い一日は終わりを告げ――、翌日、第207衛士訓練部隊の任官式が執り行われた……。




[1154] 守護者編:[三章-08]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/07/08 20:49

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:三章-08」





 月詠真那は当惑していた。斯衛軍の上層部より通達された辞令。そこにはたった一文だけが記されていて、綴られている文言は、どのように解釈したとしても理解に及ばないものだった。しかし、真那は斯衛の赤であり、優秀な軍人であったため……当惑しながらも、納得が得られずとも、命令には従う。それは自動的な反応というよりは、努めてそう在ろうとする頑なさが窺えるものだった。

 今や政威大将軍付の最精鋭部隊に属するまでに出世した“いとこ”からの手紙と共に送られた辞令を卓上に投げ打って、真那は“真耶”からの手紙に眼を通す。そこには簡素な辞令同様、ただ一言だけが書かれていて…………笑えばいいのか、泣けばいいのか、真那は狭い部屋の天井を見つめるにとどめた。



 ――殿下は、案じていらっしゃる。



「…………っ、ぁあ、冥夜様……っっ」

 零れ落ちようとする涙を堪えるために上を向いたのに、どうしてだろう。滾々と溢れてくる温かな涙をとめられない。吐息は熱く震え、胸には込み上げる確かな感情があった。今頃講堂では任官式が執り行われているだろう。そこに仲間達と並ぶ主の姿を思い浮かべて、真那は確かに、幸福を感じていた。

 止められなかったあの報道。夕呼の策謀により敢行されたあの、冥夜の名と顔を世に知らしめた報道は――結果として、真那にとって非常に喜ばしいものとなった。人質……そう言っても間違いではない状態に置かれていた冥夜は、恐らく通常では任官することなど在り得なかっただろう。いや、許されなかった、というべきだろうか。そこには当然、単なる人質として以上の意味がある。将軍殿下と瓜二つな相貌、鏡写しのような気高い理想、魂――それらには、日本を揺るがすほどの意味がある。

 双子。

 煌武院家の仕来りにより、産まれたその瞬間に分かたれた二人。二人の指導者は混乱を呼び、災禍を招く。それを未然に防ぐため、悠陽と冥夜は存在そのものを分断され、表と裏に絶縁された。悠久に輝く太陽と、冥府の如き夜。名に刻まれたそれぞれの運命を、彼女達は自ら選択し、望み、歩んできた。例え“そうせざるを得ない”レールの上に乗せられていたのだとしても、二人は、間違いなく――自分自身の意思と決断で、生きてきたのだ。

 真那はそれを素晴らしいことだと賞賛する。忠誠を誓う二人の主に、彼女は心底心酔しているのだから。……そして、そのうちの一人、御剣冥夜は今日……任官する。もう護られるだけの訓練兵ではない。一人の衛士として、立つのだ。この世界に。この戦場に。――それと同時に真那の任務も終わる…………はずだった。

「真耶の手紙が真実なら、この辞令にも納得がいく……」

 今一度手紙の一文に目を落とし、辞令を見返す。――斯衛軍第19独立警護小隊長の任を解任し、斯衛軍第19独立遊撃小隊長に任じるとともに、国連太平洋第11方面軍横浜基地への出向を命じる。

 つまり、将軍家縁者の警護任務からは外れるが、今までどおり冥夜の傍に仕えよ……ということらしい。無論、仕えるべき主は任官を果たすわけだから、一軍人と成った冥夜相手に、これまでのような臣下の態度は通用しまい。もし臣下として振舞えば、それは立派に任官した彼女への侮辱となる。

 案ずる気持ちはあるが、彼女の任官を心より喜ばしいと幸福に感じている。ならば、民草を護る剣と成ることが出来た冥夜が望むのは、ただ軍人としての在り方だろう。故に、真那は斯衛軍中尉として、彼女よりも階級が上の一軍人として振舞うべきであろう。……なによりも、殿下自身がそれを望んでいる。あの御方は、いつでも……今でも冥夜を案じているのだ。

 それは恐らく、将軍という立場からは許されない甘えなのだろう。けれどそれでも、そうとわかっていても、悠陽には冥夜を忘れることなど出来なかった。――冥夜が悠陽を忘れることなどなかったように。分かたれた双子の姉妹は、立場や距離を越えて、常に傍らに存在している。ともに、支えあって生きている。真那は、しっかりと頷く。任官した冥夜を、影ながら支え続ける。この身に刻まれた新たな任務と信念。そこに生まれてくる昂揚を不謹慎だと苦笑しながら……。

 と、控えめに部屋のドアをノックする音が響く。なにか、と問いかければ、部下の巽がおずおずとドアを開く。

「どうした?」

「はっ! ……その、香月博士が、真那様にお会いしたいと……」

 困惑した様子で告げる巽の背後には、ブロンドのショートヘア。確か香月夕呼付の秘書官だったなと思い出しながら、表情を崩さないピアティフを見据える。――あの女狐が、一体何の用だ?

 いぶかしむ真那の視線を受けても、ピアティフは怯むことはない。彼女は真那の心情というものをある程度は理解していた。御剣冥夜に忠誠を誓い、その身を護るためだけにここに居る彼女は、昨日のトライアルにおいて、その任務を他ならぬ夕呼に阻害されている。結果として冥夜は任官する運びとなったが、それを真那が手放しで喜んでいるとは思えない。斯衛の忠誠心の全てを理解出来ているわけではないが、主をあのように売名行為に利用されて、それを実行した相手に好感を抱く者などいないだろう。

 つまり、真那は夕呼を憎むに到らないまでも、ある程度の悪感情を抱いている……そう見るべきであった。そして、今正にピアティフに向けられている視線は悪意と疑念が色濃いように思える。これでも夕呼の秘書官として様々な立場に立ってきた身である。人を見る目には自信があった。――目の前にいる女性は、決して頭の悪い人物ではない。ピアティフは小さく微笑を浮かべ、ある種の葛藤は既に通り越しているらしい真那へ声を掛けた。

「ご無礼をお許しください、月詠中尉」

「いや、いい……。この基地の実質的な最高責任者に招聘されて、それを拒めるほどの権利は私にはないのだからな……。神代、貴様は巴、戎と共に残れ」

「――はっ!」

 敬礼する部下に視線だけを向けて、真那はピアティフに続く。廊下を行く間、二人は特に口を開くこともなく、会話らしいものは一切なかった。だが、真那は一つの確信を抱く。自分と同じ中尉である彼女は、文官とは言え、優秀な人物なのだと。そして……自分同様、己の主と定めた人物に、心底から忠誠を誓っているのだ、と。

 到着したエレベーターに乗り込むと、ピアティフはB19のボタンを押した。真那はこの区画にあるエレベーターを使用するのは初めてだったのだが、乗り込みにIDチェックが必要なことといい、それほどの下層に連れて行かれることといい……今更、本当に香月夕呼のいる場所へ案内されているのだという実感が湧く。いや、驚きを抱いたというべきか。女狐に呼ばれているといわれたが、てっきりそれはどこか適当なブリーフィングルームなどで待っているのだと思っていた。……が、どうやらこれは己が甘かったようだ。

 B19フロアに降りた瞬間、空気が一変したような錯覚に陥る。まさか自分のテリトリーに斯衛という異分子を呼びつけるとは……夕呼という人物に対する評価を些か改めざるを得ない。そう真那は感じていた。以前より優秀な人物と――信頼は出来ぬが、目的達成のためには躊躇しない姿勢などは評価していた。それは時として昨日の報道のように真那の心を掻き乱し、冥夜を貶めるようなことにも波及したが、それらとて全ては一つの目標のための手段だった。

 そして、彼女は常に結果を出している。XM3然り、トライアル然り……そして、『甲21号作戦』という、国連軍と帝国軍の共同作戦の立案然り、だ。

 ピアティフが最奥のドアの前で立ち止まる。ここが夕呼の執務室なのだろう。ここに来るまでの間、ピアティフは真那が帯刀していることについて何も指摘していない。真那が夕呼を斬ることなど在り得ないと踏んでいるのか――いや、確かに斬る理由はないが。少々迂闊とも取れるが、逆に考えればここはこの横浜基地の中で最も警備の厚い場所でもある。監視など当たり前、ここに来るまでにどれだけの監視カメラが設置されていたことか。姿を見せていないだけで、周囲の部屋には警備兵が詰めているのかもしれないし……仮にいないのだとしても、すぐに飛び込んでこれるだけの態勢は整えているだろう。

 極短い間黙考していた真那をピアティフが振り返り、微笑む。その表情は自分の心理を見透かしているようで、ほんの少し、背筋が冷たくなる。

「ご安心ください。斯衛の方相手に警備兵を待機させるほど、我々は無粋ではありません」

「…………こちらを信用してくれることはありがたいが、……いや、いい」

 矢張りこちらの疑念は読まれていたらしい。彼女たちにしてみれば、斯衛の赤服がいきなり無体を行うはずがない、ということらしい。そして当然、そのとおりである。一方的な信用とも取れるが、それが夕呼なりの志の表明というなら、甘んじて受けよう。いずれにせよ、異分子は斯衛である自身なのだと頷いて、真那は開かれたドアを潜る。

 重要機密なのだろう書類が乱立した室内は広い。応接用のソファと書類棚以外には夕呼が執務を行っているデスクとコンピュータ、申し訳程度の観葉植物があるだけ。壁に飾られた国連軍旗が、なんとも白々しさを掻き立てている。本当にここが基地副司令の執務室かと疑いたくなるが、そこに座る人物は紛れもなく香月夕呼そのひとであり、白衣を纏う姿は天才と名高い評価そのままに知的であった。

(そこに居るだけで周囲を惹き込む力に溢れている……)

 カリスマ、という言葉が真那の脳裏に浮かんだ。思い出すのは昨日の彼女の演説である。百人近い各国のエースを前に、不遜なまでに堂々としていた姿。立ち居振る舞い。語りかける言葉――人類の勝利を確信する、その在り方。不覚にも、真那は――三人の部下も同様に――そのときばかりは、夕呼の言葉に耳を傾け、確かに惹かれていた。心を奮わせたのだ。

 人の上に立つべき人物。そう在るべき、そう在ることの出来る人物というのは、悠陽や冥夜のような人物を指すのだと。常々真那はそう思っていた。……だが、確かにこの香月夕呼という科学者も、それだけの資質と資格を備えているように思える。護衛も置かず、帯刀した真那をこの部屋まで呼びつける心胆もそうなら、ピアティフや神宮司まりものような優秀な人材を引き抜いて傍に置くだけの眼力と行動力等々。なるほど、確かに傑物だろう。

「わざわざ呼びつけて悪いわね、月詠中尉。……ピアティフ、ご苦労様。貴女は下がっていいわ」

 腰掛けていた椅子からゆっくりと立ち上がり、微笑さえ浮かべて言う夕呼。ピアティフはそんな彼女に一礼して執務室を出る。まるでわかっていたかのように退室したピアティフに若干の驚きを滲ませながら、真那は一層濃くなった疑念を隠しもせず、夕呼を見つめた。一対一。広いとはいえ、所詮ただの部屋だ。乱立する書類など障害物にさえなり得ない。……もし真那が夕呼の命を狙う刺客だとしたら、彼女は既に死んでいる。――これも信用の証というわけか? 度が過ぎているし、いくらなんでも無防備過ぎる。

 顔を合わせるのは初めてではないが、こうして面と向かって警戒の一つもされないほどの間柄ではないはず。なにか、真那の知らないところで夕呼の信用を得るようなことがあっただろうかと思考を巡らせようとして――詮無いことだと気づく。そんなことを考えても意味はない。重要なのは夕呼の信用云々ではなく、ここに呼び出された理由だ。

「さっそくだけれど、本題に入らせてもらうわ――貴女も世間話がしたいようわけじゃないみたいだし?」

「……」

 人を食ったような態度に真那は眉間に皺を寄せるが、特に何も言い返さない。呼び出しの理由を不審がっているのはその通りだし、実際話の内容が気になっているのだ。昨日の今日、そして冥夜が任官するこのタイミングで……果たして国連軍の基地副司令が斯衛の自分に望むこととはなんだろうか。

「辞令は受け取ったかしら? こちらが得ている情報では今朝一番に届いているはずだけれど」

「…………ええ、受け取っています」

「そう。なら話は早いわね。――貴女たちの部隊だけれど、A-01付の独立遊撃小隊ということにしておいたから。所属は私の直轄。あ、これについては煌武院悠陽将軍殿下直々の親書も頂いてるから、拒否権はないわよ?」



 ――なんだって?



「……? あら、なによ。鳩が豆鉄砲食らったような顔して…………面白いわね、斯衛でもそういう顔するんだ。あ! そうだカメラカメラ、っと……あら、どこやったかしらね。確か姉さんにもらったヤツが……」

 ガサゴソと執務机の引き出しを漁る夕呼になど気づかず、真那は呆然と突っ立っていた。耳朶が拾った音は間違いなく真那の脳髄に届いていたはずなのに、呆けてしまった脳ミソはその情報を処理できずにいる。頭の中では何度も夕呼の言葉が繰り返されているのに、真那がそれを理解するのには、使い古された一眼レフをようやく発掘した夕呼が素人撮影で六回シャッターを切るまでの時間を要した。

 瞬くフラッシュにようやく我に返り、はっとした真那は夕呼を睨みつける。当の夕呼は気にした風もなくカメラを卓上に置くと、いい物が撮れたと満足そうである。放っておけば鼻歌でも歌い始めかねない……と思っていると本当に鼻歌を歌いだし、更には“いくらで売ろうかしらね~”などという聞き捨てならない台詞を吐き捨てる始末。――待て、誰に売る気だ!? 愕然と慌てる真那を冗談の一言で切り捨て、次の瞬間には怜悧な視線を宿らせている。

 真那は、この他人を置き去りに傍若無人の振る舞いを素で行っている夕呼に辟易とせざるを得なかった。まるで気紛れなじゃじゃ馬だ。これでは彼女の部下は堪ったものではないだろう――先程退出したピアティフや、尊敬するまりもの心労を思うと、同情を禁じ得ない真那である。さておき。

「……何故、斯衛が国連軍の指揮下に入らねばならないのです?」

「聞こえなかった? これは殿下の御意志でもあるのよ。殿下御自らが望まれて、そして要請した。軍上層部はその御意向に従って采配を執り、貴方達は要人警護の任を解かれた。ただそれだけよ」

「…………何故、香月博士直属の部隊に配属となるのか、と聞いたつもりでしたが?」

「理由がなきゃ納得できない? 斯衛が? 笑わせるわねぇ」

 睨み付ける真那をせせら笑うかのように夕呼が肩を揺する。まるで真那を見下したような視線は、本当にあのカリスマを感じさせる才人と同一人物かと疑いたくなる。……だが、確かに夕呼の言うとおりだろう。優秀な軍人であり、何よりも殿下への忠誠の篤い斯衛が、その直々の命令に“理由なくして従えない”などという不忠を晒せるわけがないのだ。

 いや……それ以前に、恐らく真那はその“理由”を手にしている。今朝届いた手紙。真耶からの手紙に綴られていたただ一言の――あの、温かい言葉。

 殿下が冥夜を案じているというのなら、それが全ての事象を示している。許されることではないと知りながら、せめて真那を傍に置くくらいの我侭を通した悠陽。それを表沙汰にしていいわけがなく、故に今回のような処置となったのだろう。真那を警護任務から外し、フリーとすることで夕呼の特権を利用する。そして、夕呼にも真那とその部下を有力な手駒として迎えたいくらいの欲はあったというわけだ。

 将軍殿下からの親書というのが図抜けている。恐らくは情報省の鎧衣課長あたりが絡んでいるのだろうが、実に根回しが良すぎる気がする。まさか真那の処遇までを読んでのことではないだろうなと戦慄にも似た怖気を感じながら、真那は一層視線を強く鋭いものにした。

「はいはい、そう睨まないで欲しいわね。流石に斯衛に睨まれて平然としていられるほど、私は頑丈に出来てないのよ」

「……配属の件については了解しました。ですが、我々はあくまで独立部隊ということをお忘れなきよう」

「言質はしっかりとるってわけ。いいわよ、元々そのつもりだし。ただし、私の直属となってもらう以上……その命令には絶対に従ってもらうわ」

 ――例え、その命を懸けてでもね。

 言外に篭められたその意志を、真那は感じ取っていた。是非もない。拒否権は最初からないのだし、悠陽の願いという以前に、真那自身冥夜の傍に馳せ、御身を護りたいという願いがある。そして冥夜が任官するならばA-01部隊にありえないなら、断る理由などありはしない。

 命を懸けるなど当然だ。この身は冥夜を護るための剣。彼女に忠誠を誓ったそのときより、ただの一度も揺らいだことなどない。

 その真那の苛烈な瞳を受けて、夕呼は満足そうに頷いた。







 ===







 ブリーフィングルームで新たに任官してくるヒヨッコを待ち構える総勢十四名の表情は実に様々だった。隊長であるみちるはその中でも比較的無表情に近く、どちらかというと部下達の百面相ぶりに呆れている。主だった面々は比較的穏やかな表情をしたり、不敵な笑みを浮かべたり、本当は気になるのに気にしていない素振りをしたりしている。時の人となった冥夜の存在に牙を研いでいる水月はかなり危険だし、元同期との再会を待ち遠しく感じている六人は喧しい。そして極め付けが無意味にはしゃぎまわる真紀なのだが、コイツには最早何を言っても無駄なので放っておく。なにしろ、武や茜達の任官の際はおろか、自身の任官の際でさえ無闇矢鱈とはしゃいでいた大莫迦者なのだ。流石のみちるも当に諦めていた。

「……さて、私はそろそろヒヨッコ共を迎えに行ってくるが…………涼宮、後を頼むぞ」

「はい」

「ちょっ!? た、隊長! あたしはァッ?!」

 やや疲れたように頭を振るみちるは、退室するに当たって遙にこの場を引き継ぐ。にっこりといつも通りに頷いた遙――の背後から、驚いたような表情の水月が身を乗り出した。

「……ほぉ? 自分が副隊長だという自覚があったのか、速瀬……。白銀から御剣の情報を引き出すことに忙しいようだから、涼宮に頼んだんだが?」

「ぅぐっ!? そ、それはその……っ!」

「速瀬中尉は戦闘狂の変態だからしょうがありませんよ。常に強いものを求め挙句にはベッドでその歯牙を剥かねば気が済まないという凶暴振りですから――」

「ちょっと宗―― 「と、白銀が言ってます」 ――武ゥゥウ!? あんたねぇ!!」

「俺ぇ!?」

 酷く冷めたみちるの物言いに、言葉を詰まらせる水月。慌てて言い訳を探そうとしたところに、しれっと背後から美冴が言ってのけた。水月がその不埒者をとっちめようとした瞬間に、何故か矛先は武に向き、自分ではないと抗議する間もなく、武は壁までぶっ飛ばされる。――ひでぇ。ぐったりと崩れ落ちた武は、床に「犯人は水月さん」としたためるとゆっくりと瞼を閉じた。

「そんなっ……武ぅうううーー!」

「いや、死んでないからさ」

 器用に翳を背負って気絶する武に、茜が泣きながら縋りつく。どこの三文芝居だと白々しく思いながらも、せめてもの友情が晴子に突っ込みを入れさせていた。

 ――貴様らはどこぞの漫才集団か……っ。いい加減ふざけすぎている感が拭えない部下達に、みちるの拳がぶるぶると震えている。最早我慢の限界だ。







 ……そして、遙は後にやって来た新任たちに語る。あの時間違いなく、ブリーフィングルームは阿鼻叫喚の地獄だったのだと。しみじみと語り聞かせてくれる先任CP将校に、ここに居ないその人物達の処遇を想像して青褪めた千鶴たち五名の反応は、多分間違っていない。

「あはははは、白銀完全に白目剥いてたしねぇっ」

「茜なんてお嫁にいけないなんて泣いてたし!」

「はぁはぁ……お嫁にいけないなら私が……はぁはぁ」

「た、多恵さん、落ち着いてくださいっ」

「…………で、貴方達はちっとも変わってないのね……」

 遙の説明にその状況を思い出したのか、晴子が耐え切れずに笑い出す。同じように捩れる腹を押さえて、薫が痛快とばかりに机を叩いて感情を表し、多恵が少々危険な眼差しで虚空に向かって荒い息を吐いている。頬を紅潮させたその様子に恐ろしいものを感じながら、ここで自分が止めなければ大変なことになると感じた亮子が、必死になってその肩を揺すっていた。……その、実に四ヶ月ぶりの同期たちの、相変わらずの様子に、千鶴は呆れたように溜息をついた。椅子に座る冥夜たちも同様である。

 場所はPX。任官の挨拶を終え、懇親も兼ねてやってきたこの場所で、新任たち五名は「不慮の事故」で参列できなかった先任たちのあまりにも莫迦莫迦しい顛末を聞き、呆れればいいのか笑えばいいのか、それとも頭を痛めればいいのかわからないでいた。しかも、その中には同期であり目標でもあった武と茜まで入っているのだ。最早自分たちはなにを目指していたのかわからなくなるくらいのショックが、五人の胸中を埋め尽くしていた。そもそも、武にいたっては自分たちの知らぬ間に同じA-01部隊に任官していたというのだから尚更だ。

 が、それらのショッキングな出来事は、いい具合に緊張をほぐしてくれてもいる。CPを務めている遙の人柄も、それに一役買っていた。現在PXにいる先任は遙、旭、梼子、慶子、そして元同期の四人。よく見知った四人以外の先任も、比較的温和そうな女性たちだったので、知らず知らず強張っていた表情も柔らかくなっている。

 自分たちの隊長であるというみちるという人物も、尊敬を抱くには十分すぎる魅力を持っていた。自分たちと同じくまりもの教え子ということだが、彼女にはまりもとはまた違った包容力があるように感じられた。……その人物が、今ここにいない残り五名に今も尚厳罰を強いているのだとはあまり想像できなかったが……。

「でも、まさかこんなに早く新任が回されてくる思わなかったなぁ」

「やはりこれもXM3の成果が出ているということでしょう」

 横一列に座る新任たちの向かい側、壬姫の正面に座る旭が腕を組みながら感慨深そうに呟く。それに頷きながら、梼子が言葉を継いだ。思い出すのはトライアルの結果だ。自分たちは待機任務だったために実際の映像を見てはいないが、整備班がわざわざ録画してくれていて、データを渡してくれたのである。梼子にそのデータを贈った若い整備士はいつになく緊張し頬を染め声が上擦っていたのだが、梼子はそんな彼の様子に気づくことなく、提示されたデータに夢中になっていたという……。

 そんな裏事情など知るはずもないヴァルキリーズの面々は、梼子経由で手に入れた映像データにかじりつき、結果、鉄の『概念戦闘機動』習得のための訓練以降、一睡もしていない。そんな睡眠不足などどこ吹く風といわんばかりだが、たかが一度の徹夜くらいで音をあげるような者は軍隊にはいない。そして、そこに映っていた207B分隊の凄まじさに、自分たちも油断は出来ないと唸らされたわけである。

 夕呼がXM3を使って衛士の訓練期間短縮のための方法を模索していることはみちるから聞かされていた。そのためのカリキュラムをまりもが組んでいること、そして訓練部隊が実践していること。それらの成果が、今目の前に並ぶ五人である。訓練兵にして古参を圧倒的に上回る技量。戦術機操縦課程に進んで僅か一月足らずで任官を果たす驚異的な成長速度。どれをとっても文句なしだ。急造の衛士というのは悉くろくでもない連中に仕上がるのだが、彼女達はずば抜けている。これまでの常識に捕らわれないOSを搭載しての実験だったのだから当然だろうが、文字通りこれまでの常識をぶち壊していた。

 XM3の性能を考えれば至極当然のことだと頷けるのに、自分たちが重ねてきた辛く厳しい訓練を一足飛びで越えられたような気がして、慶子は少しだけ面白くなかった。その眉間に小さく皺が刻まれたのを旭と梼子は見逃さず、小さく苦笑する。自尊心が高いのは結構だが、慶子は表情に出過ぎなのである。故にわかり易く、扱いやすい。真紀が率先して彼女をからかうのも当然といえた。

「……我々自身も驚いています。まさか、これほど早く任官できるとは……本当に、夢にも思っていませんでした」

 感慨深げに零す冥夜を、全員が見つめた。政威大将軍と瓜二つの外見を持つ彼女は、紫の武御雷や斯衛の警護部隊共々、以前より注目を集めていた。気にするなと言うのが無理な話だったが、その衆人環視の中には無論A-01の面々も含まれている。とにかく目立ちすぎるのだ。色々と。そしてそれは昨日の報道で爆発的に広まった。基地内だけの話題だったのが、今では世界中の国連軍基地で話題になっているだろう。

 その素性を、隠された真実を知る者はこの場には居ないが、彼女のこれまでを知り、ある程度の勘の良さを持っている者ならば、何となく推察出来ている。そして、その推察が正しいとするなら、彼女が任官できたのは奇跡に近い――或いは、計略によるところが大きいだろう。

 そして、不意に沈黙した面々に驚いたのか、冥夜は慌てたように左右を見回す。その挙動はどこかオロオロとしていて、なんだか迷子になって途方にくれているようにも見えた。

「――くすっ」

 それがあまりにも可愛らしくて、遙が微笑む。手を口に当てて、必死に笑いをこらえようとしているのだが……全然耐えられていない。頬を緩ませ肩を震わせて、懸命に笑いが漏れるのを我慢している遙だが、それに気づいた冥夜は自分が笑われているのだと知って赤面した。その二人を見て、薫が噴き出す。つられて晴子が笑い、皆が笑った。千鶴たちも揃って笑っているところが実にひどい。冥夜はまるで裏切りにあったように慌てて、一体どうして笑われているのか赤面したまま首を捻るしかない。

「な、なにが可笑しいのですかっ?!」

「ぷはっ……御剣、オマエ可愛すぎ……くくくっ」

 心外だ、とばかりに冥夜が机を叩くと、薫が涙さえ浮かべて尚笑う。――か、可愛い?! 突然そんなことを言われても意味がわからない冥夜は、更に顔を真っ赤にして混乱する。

 しばしそうやって笑っていると、遙がポケットに入れていた通信機が着信を告げる。ハッとして通信機を耳に当てて連絡を受ける遙。周囲の面々の表情も既に鋭いものに変わっている。……そのあまりの切り換えの速さに、冥夜たち新任は一呼吸遅れた。これが正規兵というものなのだと素直に感心しながら、じわじわと込み上げる緊張に拳を握る。

「……はい。全員揃っています。……はい。了解しました」

「……涼宮中尉、招集ですか?」

 通信の途中遙は全員を見回した。そして全員揃っていると応えたなら、それは召集命令と考えられる。身を乗り出すように尋ねた旭。遙はこの場に居る全員に、いつも戦場で見せる表情と口調で告げた。

「香月博士より、1120、ヴァルキリーズは全員、強化装備でシミュレーションルームへ集合するように、とのことです。急ぎ行動してください」

「「「「了解!」」」」

 遙の言葉にチラリと時計を見れば、実に11時10分。あっという間に席を立ち走り出した先任たちに続いて、新任たちも走り出す。遙自身もまた席を立ち、こちらは強化装備に着替える必要がないので直接シミュレータへと向かう。……さて、一体何事だろうか。命令を言伝たピアティフはその詳細までは語らなかったが、それは彼女も聞かされていないのかもしれない。ともかくみちるに罰則を受けている者以外の全員を集合させるように、とのことだったので、そのように伝達したわけだが……。

 考えられるのは新任を歓迎する意味での模擬戦か。これは今後の隊の運用を決めるためにも重要で、その内容を見て個々人の適性を見抜き、ポジションを決める材料とする。慣例的に行われていたものでもあるし、茜達が任官した際も行った。……だが、これに夕呼が絡んだことは一度もなく、故に少々勘繰ってしまう。さて、一体なにを考えているのだろうかと首を傾げながら――夕呼の考えていることなどわかるわけがない――と結論して、ともかく足を速めた。思考をそこで停止させているわけではないが、遙には予想しか出来ないのだからしょうがない。そんなことに頭を悩ませるくらいなら、一秒でも早く現場に向かうべきなのだ。







 そして、遙を含めた十三名がシミュレーションルームにやってくると……どうしてか、そこは喧々としていた。というより、罵詈雑言と悲鳴と言い知れぬ殺気が満ち満ちていた。

「いい加減負けを認めて武をこちらに寄越したらどうだ?」

「なんですってぇぇ!? 誰が負けたのよ誰がァ!? あんたと私は一勝一敗! 引き分けよ!!」

「ふん、あの時はこちらにXM3がなかったのだ。OSの性能差がなかった今回の戦闘、負けたのは貴様だろうが」

「はっ! そんなの知ったこっちゃないわね!! 勝ちは勝ちよ! OSのせいにして自分の負けを翻そうなんて、斯衛の赤ともあろうお方が随分とセコイ真似するわねぇ~!」

「なっ……! 貴様ッ、言わせておけば!! 大体、今の戦闘で負けた奴がどの口で言う!!」

「とにかく! 武はあんたに渡さないわ! 悔しかったらもういっぺん戦る!?」

 孝之君……目の前に赤い龍と蒼い虎が居ます――そんな死者へのメッセージが、遙の脳裏を駆け巡った。俄かには信じがたいが、目の前で、水月と真那が言い争っている。それも強化装備で。間にいる武の両腕を引っ張り合って。いや、意味がわからない。状況が掴めないままの遙たちを置き去りにして、赤と蒼の二人はどんどんヒートアップしているらしく、険しい表情はどんどん恐ろしくなっていき、纏う殺気は目に見えるほどに濃くなっていく。

 背後で誰かの息を呑む声がした。先頭に立っていなければ、中尉という階級でなければ、遙とて悲鳴をあげたくなるような恐怖がそこに立っている。正直に怖い。一触即発の雰囲気のままにらみ合っている両者の間で、ぎりぎりとヤバ気な音を身体から発している武は腕が千切れそうな痛みに絶叫していて、そんな彼を見て茜がおろおろと泣きそうだ。

 呆然とそれを眺めていると、龍虎の幻想を放つ彼女たちから少し離れた場所で、白い零式装備の三人が真紀と言い争っているのが見えた。隊内でもかなり背の低い真紀が、自分よりも更に小さい三人を相手に、舌を出して“ち~び!”とからかっているらしい。顔を真っ赤にして憤慨する三人の神経を更に逆撫でするような振る舞いは、本当に正規の軍人かと疑いたくなる。その背後で顔に手を当てて呆れている美冴の反応は、きっと間違っていないだろう。

 そしてさらに視線を向ければ、そこには強化装備姿のみちると――何故かまりもがいた。なにやら真剣な様子で語り合っている二人は、直近で起こっている混沌を全く無視して、自分たちの世界に入り込んでいるらしい。……そして、そのすぐ傍にピアティフと立っていた夕呼がようやく、やって来た遙たちに気づく。

「あら、はやかったわね。結構結構」

「こ、香月博士……これは?」

「ああこれ? あんたたちが懇親深めてる間にちょっと模擬戦やらせてたんだけど、賞品の白銀がね~。あの餓鬼、どっちがいいか選べないなんて言うから模擬戦やったっていうのに、諦めが悪いって言うか往生際が悪いって言うかさぁ」

「は……はぁ…………??」

 唇を吊り上げる夕呼の説明は、多分説明になっていない。余計混乱した様子の遙を無視して、夕呼はパンパンと手を鳴らした。ただそれだけで喧々囂々と喧しかったこの場が収まるのだから、矢張り彼女は恐ろしい。

「はいはい集合~」

「中隊整列ッ!!」

 夕呼の声に、みちるが即座に反応する。そしてそれに乱れなく従って整列したヴァルキリーズに、……どうしてか一緒に居る斯衛の四名。そして、夕呼の隣りにはまりもとピアティフ。召集をかけられた十三名は、一体どうしてというより、何が起こってこんなことになっているのか激しく混乱している。無理もあるまい。なにしろ、やってきたらそこは既に混沌と化していたのだから……。

「さて、ようやく全員揃ったところだし――伊隅、さっさと紹介済ませちゃいなさい」

「――はっ!」

 夕呼に言われて、みちるが新任五名を前に進ませる。そこで五人は回れ右をして、先任プラスアルファと向き合う形となった。困惑した様子の遙たちをそのままに、先程顔を合わせていない先任たちの紹介がされていく。水月、美冴、真紀、武、茜――一人ひとりの特徴を簡単にまとめてのみちるの言葉を聞きながら……千鶴、冥夜、慧、美琴、壬姫の五名はじっと武の顔を見つめていた。この中で冥夜だけはその傷の所以を知っているのだが、それを知らない残る四人は、自分の知らぬ間に「実戦」を潜り抜けてきた同期の、その凄絶さに息を呑んでしまう。

「んじゃ、後は私が引き継ぎましょう。あんたたち、戻っていいわよ」

 表情を強張らせたままの新任たちに、夕呼が素っ気無く言い放つ。別に怒っているわけではなく、夕呼がそういう人物だということは斯衛を除いた全員がよく知っていた。……そして、その斯衛に夕呼は視線を向ける。横列に並ぶヴァルキリーズとは少し離れた場所で同じく横列に佇む零式装備の四名。視線を受けた真那が半歩前に進み出て、居並ぶ面々を見やる。

「伊隅たちには先に紹介したけど、斯衛軍第19独立遊撃小隊の月詠真那中尉、神代巽少尉、巴雪乃少尉、戎美凪少尉。今日付けで横浜基地に出向――早い話がA-01同様、私直轄の特務部隊となったわ。あんたたちと一緒に作戦にも参加するから、仲良くしなさいよ~」

「「「「えええ?!!」」」」

「なっ……!?」

 驚くのは遅れてやってきた十三名である。顔を合わせたことはなくとも、直接話をしたことはなくとも、斯衛の彼女達は基地内で有名人であり、その存在は一際浮いていた。元207B分隊の五人はそうでもないのだが、他の八名にいたってはあまりにも接点がない。それほど斯衛軍というものはかけ離れた存在であり、一体どういう手品を使えばこのような措置がとられるのかさっぱりわからない。

 同じ部隊の武が剣術を師事していたという赤服の中尉については色々と話を聞く機会もあったが、だからといって、それが自分たち同様夕呼の下に就くという事実は、暫く脳ミソを硬直させるに十分な破壊力を持っていた。――いや、常識で考えて、在り得ない。勿論この措置は夕呼と悠陽の間で高度の機密を孕んだ外政交渉が行われた結果なのだが、そんなことを知る者は本人以外に居ないし、事前にその旨の説明を受けた真那とて、いまいち実感が湧かないでいる。

 もっとも、その真那たちと既に一戦交えた水月以下は悔しいような頼もしいような複雑な表情を浮かべるに留まっていた。……いや、若干二名は内心で色々と思うところがあるらしく、髪をポニーテールに纏めた女性はひたすら恐ろしい敵意を真那に向けているし、顔に深い傷を負った青年は俯いて脂汗を掻き続けている。果たして先の模擬戦で一体何があったというのか。そんなことを気遣える余裕は、矢張り彼女たちにはなかったのである。

 特に険しい表情で驚愕したのは冥夜で――それは無理もないことなのだが――自分の知らぬ間に警護任務を解かれた真那たちがここに居る事実に当惑するしかない。だが、その惑いも数瞬のことで、すぐさま冥夜は厳しい視線を真那に向ける。――一体なにを考えているのだ、月詠ッ。だが、その視線は、より烈しい炯眼によって弾かれる。初めて見せる真那の鋭い瞳に、冥夜は知らず身を竦ませた。

 それは多分、殺気だ。

 視線に乗せて放たれた怖気の正体に気づいて、冥夜は呆然としてしまう。……だが、すぐに理解した。あそこに立つのは、冥夜の従者であった“月詠真那”ではない。アレは、城内省帝国斯衛軍中尉、“月詠真那”なのだと。赤を賜り、特命を以って国連軍横浜基地に出向を命じられた、自分とは完全にかけ離れた存在なのだと。――そう在るように、努めているのだと。

 一瞬だけ目を伏せた冥夜は、けれどすぐに真那へと視線を向けて、不敬を詫びるべく頭を下げた。それは極僅かな仕草だったのだが、真那には十二分に届いている。……真那とて辛い。長年仕えてきた主を前に、もう忠義を尽くすことはできないのだ。課せられた使命には冥夜の守護も含まれているのだが、それは決して以前のような関係では在り得ない。周囲の者にそうと悟らせず、あくまで斯衛の中尉として……その範囲で、可能な限りの守護を。

 夕呼が自身の目的のために真那たちを手元に置いたのだということは理解している。けれど、結果的にそれが真那にとって最も望ましい状態をもたらしてくれるというのなら、全力を以って任務に尽くそう。真那の深奥には、間違いなくそういう決意が存在していた。

「それと、もう一人紹介しておくわ」

「神宮司まりも少佐だ。今日付けでA-01中隊の隊長を務めることとなった」

「「「「「えええええええええ!!???」」」」」

 夕呼の言葉を受けて一歩前に出たまりもが、これ以上ないというくらいの完璧な敬礼を向ける。これに仰天したのは新任五名だ。無論遙たちとて驚愕していたのだが、こちらは驚き過ぎて絶句している。

「なんだ貴様ら、喧しい!」

「「「「「も、申し訳ありません!?」」」」」

 叫んでしまった千鶴たちを叱りつけるまりもは、やっぱりつい先程まで自分たちの教官であったはずの神宮司まりも“軍曹”その人であり……なのに、今は“少佐”で、しかも“隊長”なのだという。――莫迦な。千鶴は混乱した。冥夜は真那のことが吹っ飛ぶくらい驚いた。慧は瞠目して二の句が次げず、美琴と壬姫は目を丸くしている。つい数十分前に“隊長”であるはずのみちるに連れられてA-01部隊への着任を果たしたばかりなのに……新しい“隊長”殿が赴任していて……しかもそれがまりもで――??

 あたふたと混乱する新任たちを見て、夕呼は実に嬉しそうに口端を吊り上げている。ああいや、思い切り楽しそうに笑っている。自分の予想通りに驚いているのが愉快でたまらないのだろう。実にいい笑顔である。

 数十分前に同じように驚かされて笑われた水月たちは、せめて自分たちも楽しめればよかったのだが、実は先程の斯衛との模擬戦で敗北したことを当のまりもに説教されたばかりであり、笑うに笑えない。みちるにいたっては自分の尊敬する恩師が上官として就いてくれることを喜ばないわけがなく、満足そうで、嬉しそうである。――そして、このことで一番頭を悩ませているのは、実は当の本人であったりするのだが……。

 勿論、まりもとてそういう可能性についての話は事前にされていた。横浜基地に在籍する衛士訓練兵が全員任官した後は、前線に復帰してもらいたい。そう夕呼から言われていたので、衛士として復帰することについて問題はない。これは既に覚悟していたことだからだ。だが、それが“少佐”なんていう待遇で迎えられるとは夢にも思わず、ましてA-01をそっくりそのまま預かることになろうとは考えても居なかったのだ。

 いくらなんでも二年以上のブランクがある自分を特務部隊の隊長に据えるのはやり過ぎだ。しかも左官待遇である。現役の頃でさえ大尉でしかなかったまりもは、このことについて夕呼に物申したのだが、これまでのA-01要員および207B分隊の錬成についての功績と言いきられてしまえば最早受け入れるほかなく、教え子が任官して上官となった直後に、また自分が上官となるなんていう不可思議な体験をした。

 一通りの紹介を終え、混沌と化した皆の脳ミソが落ち着くのを見計らって、夕呼が手を叩く。先程の「集合」といい、どうしてそれだけの所作で全員を従わせることが出来るのか。恐らくそれは、夕呼の秘めるカリスマというものなのだろう。決して無視できない“なにか”。夕呼には、間違いなくそれがある。

「はいそれじゃーあんたたちは訓練でもなんでも好きにしなさい」

「涼宮、速瀬以下、各小隊長はミーティングだ。――高梨、風間、ヒヨッコ共を存分に扱いてやれ!」

「「「はっ!」」」

 投げやりとも取れる声音で夕呼が解散を告げ、まりもが遙、水月、美冴――真那を見て召集をかける。そして、残された者たちに向かって指示を飛ばし、激動の数分間は幕を下ろした。

 ぞろぞろと去っていく夕呼以下六名を見送って、この場を任された旭が梼子と顔を見合わせる。まぁ、まりもが指示を出して行ってくれたので、これからやることは決まっていた。模擬戦である。それも当然、新任対先任の。新任たちの技量を見るということもあるし、トライアルで最高の成績を叩き出した彼女達と戦ってみたという純粋な動機もある。自然、不敵な笑みを浮かべていた旭を見て、梼子が小さく笑った。普段あまり好戦的な姿勢を見せることはないが、強襲前衛を務めるこの元分隊長は、言動に示さないというだけで、実のところかなりの戦闘好きなのである。

「じゃあ、早速始めましょうか。……あなたたちは決まりとして、対戦相手はどうしましょうか?」

「決まってんじゃン! くじだよくじ!!」

「はい! 私たちにやらせてください!!」

 おっとりと梼子が声に出せば、真紀が燃えるぜーと拳を突き出した。――が、それを完全に無視して勢いよく手を挙げた茜は、俄然やる気である。それを受けた梼子が了承し、旭と慶子が通信室に向かう。遙もピアティフも夕呼たちと行ってしまったので、機器の操作とCPを担当するのである。対戦カードが決定し、茜は歓声を上げた。無論、元A分隊の全員も同様に。そんな彼女達を見てしまえば、千鶴たちだって負けてはいられない。元同期同士、この四ヶ月の間にどれほど上達したのかを見せ付けてやろうというのだ。

「ぉーぃ。無視すんなよーぅ」

 烈しい火花を散らす後輩たちに、いじけた様子で真紀が声をかけるが、本当に聞こえていないらしい茜達は気づかない。武だけは真紀のすぐ隣りに立っていたのでちゃんと聞こえていたのだが、普段が普段なので一切フォローしなかった。そして遂には床に体育座りしてどんよりと鬱に陥った真紀を見て、あろうことが白服の三人が失笑する。冷たい床に「の」の字を書いていじけていた真紀だったが、その小さな嘲笑を聞き逃しはしなかった。

「てっっめぇ!! なにが可笑しい!!?」

「ふん、仲間にすら相手にしてもらえない貴様を憐れんでやったのだ」

「感謝してもらいたいくらいだな」

「礼儀知らずの無礼者~ですわ~」

 勢いよく立ち上がった真紀が怒鳴れば、はねっかえりの強い言葉の応酬を受ける。こいつら本当に斯衛かと言いたい真紀は、我慢することなく吠え立て、地団太を踏んだ。そのあまりの幼稚さに、武は真紀が自分より一つ上のだったはずと記憶を探って……そこは触れてはいけないのかもしれないと思い直した。

「こっっの! ちびっこがぁああ!! 言いたい放題言いやがって!! 国連舐めんなよぉ!?」

「誰がちびっこだ! 貴様だってちっさいではないか!!」

「そうだそうだ! 胸だって美凪よりちっさいくせに!!」



 ――ビシィ!



 そのとき、確かに時は止まった。実際に時間の流れが止まったわけではないが……確かに、真紀、巽、雪乃の三人の時間は停止していた。

「あらぁ~、照れますわぁ~」

 そして、凍り付いて自爆した雪乃たちに、慈悲の欠片もないまったりした声が浴びせられる。頬に手を当てて薄っすらと頬を染める美凪。どうやら照れているらしい。別に見るつもりもなかったのだが、そのような話題を出されて視線を向けないで居られるほど武は理性的ではなく、つまり真剣に美凪の胸を観察してしまった。――ふむ、確かに。一人納得したように頷いた武の背後から、どうしてか怨念のようにどす黒い瘴気が漂い出す。

「た~~け~~るぅ~~??!」

「……な、なにかな……すずみやしょうい……」

 振り向くな。振り向くと終わる! がっしりと背後から肩を掴まれた武の脳髄がエマージェンシーを告げる。ぐいぐいと振り返らせようとする冷たい手に必死に抗い、武は滝のような汗を掻いていた。膝が笑う。狂ったような心臓の鼓動。肩から侵食してくる冷気ががくがくと全身を震わせる――ッ。

「チーム変更!!! 207AB連合対武!!!」

「打倒白銀くーんっ。はい、みんなファイトー」

「「「「「おおーっ!!!」」」」」

 武の肩を掴んだままの茜が、まるで鬼のように叫ぶ。それに晴子が賛同して、あまりにもあっけらかんと掛け声をかけ――シミュレーションルームを、少女達の怒号が奮わせた。

「では、各員シミュレータへ搭乗して下さい。……あら、どうしたの? 白銀少尉。あなたも早くシミュレータへ」

「…………何気に容赦ないですよね、風間少尉……」

 梼子の指示に従って駆け出した十名の少女達。取り残される形で項垂れていた武に、とても不思議ですという表情を向けながら、早く死にに行って来いと宣告する梼子。さめざめと涙を零しながら、――十対一でどうやって戦えというのか――武は待ち受ける非道な仕打ちに怯えることしか出来なかった。

 本日の教訓。女の子に胸の大きさの話をしてはいけない。……男性が少なくなった世界では失われて久しい常識を、武はしっかりと胸に刻んだ。







 ===







「さて、じゃあ早速だけど、『甲21号作戦』について簡単に説明しておこうかしら。それほど時間に余裕があるわけじゃないしね」

 ブリーフィングルームへ移動した面々は、ホワイトボードを背にして立つ夕呼に向かい合う形で整列している。右からまりも、みちる、水月、遙、美冴、真那の順で並び、夕呼の傍にはピアティフが控えている。

 大々的に発表された『甲21号作戦』だが、実は元隊長であったみちるでさえ、その全貌を知らない。無論、なんのプランもなしの妄言だったはずがないので、夕呼、そして声明を発表した煌武院悠陽殿下には明確なヴィジョンが描かれている。何故このようなことになったかといえば、それは夕呼が軍部よりも先に世論を動かすことに躍起になったからで、国連上層部の承認を取り付けたのも、悠陽の声明があった直後――昨夜のことである。かなり強引な手段だったといっていい。

 しかもこの承認は条件付で、帝国軍と連携して進めるのは勿論のこと、万一ハイヴ攻略に失敗した場合、夕呼は現在の地位から追放され――AL4は即時凍結、米国が推すAL5へと移行することが決まっている。これは夕呼の進退を懸けた一大作戦であり、同時に、この星を捨てるかどうかを決定付ける正真正銘運命の一戦となる。

 国連上層部は夕呼の焦燥を見抜いていたが、追い詰められた者は時として予想も出来ないほどの何かを仕出かすこともある。AL4本来の目的である00ユニットが完成していないながら、彼女が作り出したXM3というOSは時代に革新をもたらした。更には極東の島国を激動させ、一国の主とも言うべき者の全面協力を勝ち取るなど――とにかくこの香月夕呼という天才は、“衝動”とも言うべきナニカを漲らせてくれる。

 その夕呼に対する“衝動”――彼女が見せてくれる新世界を見てみたいと思わせる“衝動”――に、国連上層部は一回限りの勝負を認めたのである。この作戦がAL4遂行のための時間稼ぎに過ぎないのだとしても、もしそれで本当にハイヴを攻略出来たなら、それはXM3にそれだけの価値があるという証明になり、その事実は世界に希望をもたらすだろう。

 この新型OSの性能はAL5推進派に対する抑制力となり得る可能性も秘めているのだが……もし失敗した場合、XM3単独で不可能だったことを、XM3プラス『G弾』という最悪の戦略展開を連想させることにもなる。

 夕呼自身の思惑やXM3の持つ様々な可能性を、数時間という極短い時間の中で議論に議論を重ね、結論を出した国連上層部は確かに傑物の集まりだったのだろう。既にAL4の凍結について検討を始めていたこともそれに拍車をかけていた。AL5反対派はXM3の登場でその勢力を盛り返し、逆にAL5推進派はそのXM3を接収して強硬策に出ようとした。それら世界の裏側で暗躍を始めようとしていた連中が行動するよりも早く結論を出す必要が在ったのだ。

 AL4からAL5へと進もうとしていた流れを、XM3が堰き止めたのである。――それだけの価値があると、世界が認めたのだ。

 だが、些か冒険が過ぎることも否定できない。『甲21号作戦』の主要戦力となる帝国軍。これを擁する日本は、この作戦に失敗した場合、手痛い打撃を受けることになる。作戦参加部隊が全滅に到らなかったとしても、消耗する武器・弾薬は計り知れず、防衛線として特に重要に機能しているこのラインが破られるようなことになれば、文字通り地球は滅亡の一途を辿るだろう。……失敗すれば地球が滅びるかもしれない。そんなハイリスクを、彼らは侵せるはずがなかった。だからといって大東亜連合を動かすことは米国の牽制により叶いそうもない。米国自身はXM3を我が物とし、すぐさまAL5に移行させるべく躍起になっているのだから、当然だ。

 ――故の、AL5即時移行である。

 表向きは帝国軍と極東国連軍の共闘作戦だが、そのすぐ背後には米軍艦隊が控え、それには『G弾』が艦載されることになっている。……つまり、『甲21号作戦』が失敗に終わった場合、或いは失敗すると判断された場合、その時点で戦線に『G弾』が投入されるのだ。闇の明星。半永久的な重力異常を引き起こす五次元爆弾。横浜を荒野と化し、ハイヴを破壊せしめた超破壊兵器。米軍は自らが『甲21号作戦』の保険となることを名乗り出て、一応の暗躍を留めるに到ったのだ。

 夕呼と悠陽の声明によってその足を止めたAL5だが、国連上層部は最早この波を完全に押し止める力を持ち得ない。『G弾』を忌避する、という観点からも、AL4が提示したこのハイヴ攻略作戦の成功は重要な意味を持つのである。……けれど、BETAの侵略をこれ以上看過できないことも事実であり……つまり、どちらに転ぶにせよ、地球の破滅だけは防がねばならない――人類の全滅だけは回避せねばならない。そのための条件を、国連上層部は打ち出したのだ。

「そんな……っ!? 『G弾』はその使用を国連上層部によって凍結されているはずでは!?」

「その許可を出すって言うんだから、しょうがいないでしょ。私が形振り構ってないんだもの、連中が形振り構わないのも当然でしょ」

 気炎を上げるみちるに、夕呼はさも当然とばかりに言ってのける。そのくらいわかりなさい――視線でそう諭されたみちるは口を噤むしかなく、その隣りではまりもは忌々しげに夕呼を睨んでいた。形振り構っていられない、という彼女の状態はわかるが、けれどこれでは些かどころか大いに危険な賭けではないか。文字通り人類の未来を賭けての戦いに、その決断をたった一人で行った夕呼を――親友を、まりもは一発ひっぱたいてやりたいと思った。

 だが、既に賽は投げられたというなら、今から夕呼を殴っても仕方ない。万感をこめた溜息を一つ落として、まりもは夕呼に続きを促した。これほど急激に動いた作戦だ。事前の準備が尋常でなかったとはいえ、それは夕呼に限った話である。肝心要の実働部隊であるA-01はおろか、帝国軍でさえその作戦の詳細は未だに把握していないのだから、今、この瞬間からの行動が作戦を成功させる鍵となる。

 いくらXM3が優れたOSであろうと、作戦を立案し、実行するのは人間である。戦争は「我々」の領分なのだ。機械の性能なぞ成功の可能性を引き上げるための一因でしか在り得ない。

「状況は把握したわね。それじゃ、『甲21号作戦』について説明するわ」

 そして遂に、人類の未来を決める世界初のハイヴ攻略戦がそのベールを脱ぐ。

 作戦開始は十二月三十一日――今日が十五日なので、あとたった二週間しかない――佐渡島にあるBETAハイヴ甲21号目標制圧を目的とする、国連軍と帝国軍の大規模合同作戦だ。佐渡島への上陸および侵攻は明朝一月一日となるため、文字通り、新時代を切り拓くための作戦ともいえる。

 淡々と語る夕呼の瞳には最早人類の勝利以外にはなく、AL4を完遂するという意志しかない。その気迫を感じ取ったまりもたちは、同じように真剣な表情で夕呼の説明に集中する。負けは許されない。敗北は、地球の崩壊を示している。――AL5などという、地球を捨てて外宇宙へ逃げ出すなんて無慈悲な夢を、誰が認められるものか。母なるこの惑星を、死の星になど変えさせて堪るものか。

 最早後戻りは出来ないのだ。

 夕呼の強行も、悠陽の決断も、国連の苦難の裁可も、米国の思惑も――それらは全て、この星、そして人類が在ればこそなのだから。それを非難することも、糾弾することも、或いは賞賛することも、それら全ては、“未来”が在ればこそなのだ。

 だから、絶対に、負けない。――――負けられるはずが、ない……。







 ===







 ハッキリと言おう。この《鉄仮面》は、異常だ。

 それが赤を纏い驚愕に表情を強張らせた月詠真耶の、心底からの本音だった。隣りに控える紅蓮など、先程から笑いまくっている。この全身で戦を愛して止まない巨漢にとって、強いものは愉悦の対象なのである。故に、XM3を以って実現可能な『概念戦闘機動』なるものを教導するために派遣されてきた国連軍横浜基地の秘蔵っ子は、紅蓮にとって格好の獲物というわけだ。

 重要会議等が行われる大会議場に設けられたモニターを凝視する斯衛軍の代表達の大半は、真耶のように苦い表情を浮かべている。残るものは紅蓮のように愉快そうな笑みを浮かべていたが、真耶からしてみればこれで笑っていられる連中の心境が理解できない。世の中には笑うしかない、という状況もあるというが、これがそれなのだろうかと真耶は本気で歯噛みしてしまった。

 流れている映像は一昨日横浜基地で行われたトライアルのものだ。香月夕呼の演説の締めくくりに突如その姿を現した蒼い不知火。鉄、という名の衛士が駆るその戦術機は、ハッキリ言って桁違いの戦闘機動を見せていた。これほどの機動を実現できる性能を持つOSがXM3であり、そしてこのような機動を当然とばかりにやって見せるのが鉄なのだとようやく認識した真耶は、“天才”というものは本当に存在するのだという事実に、矢張り面白くないと吐き捨てる。

 この場に居る斯衛軍の代表達は既にこの映像は穴が開くほど繰り返し見ていて、その機動が対BETA戦術に一石を投じるものであること、そして実に革新的で効果的であることを見抜いている。如何に歯痒いほどの嫉妬を呼び起こされようとも、それが優れた技量であることは理性的に判断出来ているのだ。故にこの議場において一際異彩を放っている黒の《鉄仮面》を見ても、何も文句は言わない。むしろ、XM3のデータを手にやって来たこの異形が、直接手ほどきをしてくれるというのなら、己の体面なぞどうでもいいとさえ考えている者が大半だ。

 無論、このようなことは異例中の異例だ。通常、斯衛が外部の、しかも国連所属の一介の少尉風情に教えを乞うことなど在り得ない。OSや機動データを欲し、要請を掛けることはあっても、直々に教導を願い出るなどという措置は、前代未聞なのだ。なにしろ、彼らは「斯衛」なのである。政威大将軍の御身を守護し、最強の戦闘力を誇る帝国屈指の最精鋭部隊の集団なのだ。

 いわばエリートでありプライドの塊である彼らが、この場においても仮面を外そうとさえしない下郎に、XM3の戦闘機動を教導して貰わねばならない……。そんな事態を嘆かわしいと思うのは当然であり、真耶が思うようにこれで笑っていられる連中の方がどうかしているのである。――その技量の凄まじさと有効性を認めるのとは別の部分で、だ。

「――今御覧になっていただいたのが、一昨日行われましたトライアルの記録映像です。映像中の不知火に搭乗していた衛士がこちらの鉄少尉であり、少尉がXM3の基本概念を考案したことは、既に皆様もご承知のとおりです」

 居並ぶ斯衛の重鎮相手に少しも臆した様子もなく、横浜の女狐の秘書官を務めるイリーナ・ピアティフは平然としている。五摂家に名を連ねる青服までが揃っているこの状況で、実に大した肝の据わりようだ。この場で唯一の外国籍を持つというのも相当なプレッシャーであるはずなのだが、流石にAL4最高責任者の片腕を務めるだけはあるということだろう。ある程度の事情を知っている者たちは、内心ではピアティフの見せる度胸を手放しで賞賛している。

 そもそも、この場を設けたのが煌武院悠陽である以上、文句を言えるものなど一人たりとも居ないのだが、それにしても、彼女の落ち着きぶりは凄まじい。彼女の隣りで硬直したように座っている《鉄仮面》など、表情こそ窺えないが、大層緊張を強いられていることは誰にだって見て取れた。どうやら《鉄仮面》も日本人らしいのだが、常識で考えたなら、ここは彼のような反応を示すほうが真っ当な神経の持ち主といえる。

 だが、今ここで重要なのはピアティフの神経云々ではなく、彼女が夕呼より預かってきたXM3のデータとその最高の使い手である鉄であり、そもそも、自分たちに萎縮しない程度のことを不満に思うような下らない思考の持ち主は斯衛に存在しない。

 故に議事はスムーズに進み、神宮司まりも作成のXM3『概念機動』教導マニュアルを使用した鉄のシミュレータ演習の観照へと移行する。更には横浜基地に駐留していた斯衛軍第19独立警護小隊のXM3慣熟データ等を交えながら、午前中のスケジュールは消化された。午後からは実際に斯衛の大隊長クラスがXM3に換装したシミュレータで訓練を行い、会議に出席した全員が一度XM3に触れることとなる。

 大隊長クラスからXM3に熟達させ、順次下に就く者たちへ普及させるというこの方式は悠陽自らが示したものであり、斯衛、そして帝国軍全軍に配備されるXM3を、最も効果的に運用し、『甲21号作戦』で絶大なる成果を挙げるために採用された。

 トライアル以外に目に見える実績のない新型OSではあったが、そのトライアルで見せた成果は凄まじく、そしてトライアルに参加した第5師団第211中隊の報告、更には斯衛の中でも勇壮で名高い月詠真那の部隊の訓練データ等々、その性能を証明するための材料には事欠かない。が、そんなものよりなにより、実際に自らの手で触れた瞬間の昂揚は筆舌に尽くしがたいらしく、最初は渋面を浮かべていた者も、先を競ってXM3の訓練に臨むほどだ。

 それを見て、そして迫るように機動制御について問われ……鉄は、己の存在が認められたのだということを、かつてない実感として受け入れていた。この場で自分が必要とされていること。自分という存在がもたらしたもの。そういった、これまでの生活の中で奪い取られた何もかもが、今のこの場には存在する。“鉄”という名の己を、その存在を、必要としてくれる者が居る。

 トライアルの時に感じたような、暗い優越感はなく……ただ、涙が出るくらいの歓びがそこにあった。

 ――ああ、オレはここに居てもいいんだ。

 そんな溢れるくらいの感情が、鉄の胸を震わせる。斯衛の実力者との訓練は熾烈を極め、何度も敗北した。『概念戦闘機動』だけで圧倒できたのは一度だけだったし、疲労のあまり気を失うこともあった。たった一日の特別派遣任務。夕呼の都合のいいように使われるだけの駒としての自分。……でも、凄く充実していた。楽しかった。軟禁されていた一ヶ月以上の苦しみも諦めも、絶望も。何もかも吹き飛ぶくらいに。

 確かに今、鉄は“生きていた”。

 ピアティフはそんな鉄を見て、優しく微笑んでいた。沸き立つ斯衛たちを見て、全員が同じ未来を見ているのだと実感した。彼ら、そして帝国全軍がA-01に匹敵するほどの熟練を現実のものとしたならば、きっとこの作戦は巧くいく。忠誠を誓う夕呼が、己の命、そして人類の未来そのものを懸けて戦っているのだ。ならば、自分も同じように戦ってみせる。夕呼の賭けを一分でも勝利へと傾けることが出来るなら、全力を以って支援する。

 そのための斯衛軍へのXM3教導であり、そしてそれが実を結ぼうとしているというなら……鉄が己の居場所を見つけるきっかけとなったというなら……それでいい。後は、戦場で戦う衛士たちの問題だ。文官である自分ができることはこれまで。そして、これが夕呼にとって最高の結果をもたらすための一手となっているならば。







 こうして、世界は廻りだす。

 新世界を切り拓くための新型OS。世界を救う、そのための刻限を引き伸ばすために行われる『甲21号作戦』。失敗は即ち「死」。夕呼も、作戦に参加する全ての将兵も、地球そのものさえ。総ての命運を懸けた大戦だ。

 誰一人として負けるつもりなどなく、勝利するために苛烈な訓練を積む。未来を掴むため、奪われた国土を取り戻すため。愛する者を護るため。失くしたものを手にするため。全ては、“ただそれだけ”のために。大儀も、理想も、希望も、怒号も、怨讐も、ありとあらゆる感情も情念も。全部全部ひっくるめて、世界はその分かれ目に立っている。

 そう、分かれ目だ。

 それが希望の側に傾くか――絶望の側に傾くのか。それは、まだ誰にもわからない。香月夕呼が帝国を挑発し、煌武院悠陽が自らの意志で断行したこの作戦が、これからの世界にナニをもたらすのかなど…………まだ、誰一人として「知りはしない」。




[1154] 守護者編:[四章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/07/29 22:28

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:四章-01」





 A-01部隊。発足当時は連隊規模だったこの部隊も、その過酷な任務による消耗は激しく、今年の初めまでで一個中隊で運用されるまでに激減していた。伊隅ヴァルキリーズとは、その中隊を預かる指揮官の名を冠した通称であり、全員が麗しき女性衛士であるからつけられたのだ。そこに一人の男性衛士が加わることで定数を満たし、続く作戦で四名の戦死者を出した。その数ヶ月後に五名の新任衛士の補充を受けたことにより、CP将校を含む十四名で稼動している。

 そして本日、新たに五名の新任衛士が任官・配属され、更には前線に復帰した神宮司まりも少佐や横浜基地に出向扱いとなった斯衛一個小隊が加わり、人数的には二個中隊に相当する規模の部隊となった。

 香月夕呼より『甲21号作戦』の説明を受けた直後の小隊長ミーティングでのことだ。夕呼は作戦実施に当たっての諸準備のために執務室へ戻り、ピアティフは鉄を伴って帝都へ教導派遣されるため、その準備のために矢張り退室している。残されたまりも以下五名は今後の部隊運用について、ホワイトボードを前に各々の意見を申し述べていた。

「矢張り、斯衛は遊撃部隊として考えるのが一番効率が良いでしょう。作戦開始までの二週間で斯衛を同一部隊に編成した場合の連携を完成させられるとは思いません。……しかも、今回は新任五名との連携も詰めねばなりませんから、正直に言って時間がなさ過ぎます」

「大尉に同意です。……茜達のときでさえ初陣までに三ヶ月の訓練期間を要しましたから……いくらXM3のおかげで驚異的な技能を身に付けられたといっても、一朝一夕で部隊としての作戦展開を身に付けることは不可能です」

 二十三名全てをまりもの指揮下に置くことはともかく、一個の部隊として運用することは不可能だと、みちると水月は言う。これには全員が同意見だったようで、まりも自身も頷いている。そのまりもから視線を向けられた真那は小さく首肯すると、

「差し出がましいですが、矢張り我々は別個の部隊として、遊撃を行ったほうが宜しいでしょう。これには幾つか理由がありますが……そもそも、我々は出向を命じられただけであり、今回A-01部隊と同一指揮下に置かれるのは、香月博士の一存に過ぎないということ。二つ目に、斯衛には斯衛の戦い方がありますから、それを例えばそちらの部隊に組み込んで一個中隊を編成したとしても、その連携は中途半端なものとなる可能性が高いこと。やって出来ないことはないでしょうが、我々がA-01と共に作戦に参加する期限が不明確な以上、少なくとも『甲21号作戦』のためだけに時間を削るのは得策ではないかと」

 A-01にはA-01の、斯衛には斯衛の戦い方があり、それはどちらが優れているとかそういう問題以前に、“馴染んだやり方”が双方にあるのだから、一度限りかもしれない共同戦線のために、それを崩す必要はないだろう、というわけだ。要するに、みちるたちが意見した内容と同じである。そして、続けて真那が言った内容に、まりもは苦笑せざるを得なかった。直接この目で見たわけではないが、彼女達斯衛の四人は独自の戦術展開を持っているということ。真那が扱うのは自身の父が編み出した対BETA戦術の究極の一つである螺旋の剣術。そして指揮官自ら戦線に突っ込んでいくため、残る三名はこれまた独自の連携を得意とするということ。

 つまり、彼女達は彼女たちであるからこそ、完璧な連携が行えるというのだ。部隊を一つ預かる指揮官自らにそう断言されては、まりもは頷くしかない。

「――そうなると、A-01は榊たち五人を入れて二十人……CPの涼宮を除いて十九人か。……半端だな」

 ちらりと遙を見て眉を顰めるまりも。その視線を受けて、遙は苦笑していた。要員が増えたのはいいことだが、確かにこれでは中途半端である。最前線で過酷な現実と立ち向かっている部隊には定数を満たさないまま中隊や小隊を編成することが当たり前となっているらしいので、これは贅沢な悩みだといえる。が、斯衛を別部隊として運用することを前提で考えていたまりもは、さして悩むまでもなく、割り切って六人一個小隊編成を提案する。

「それでは一名余りますね。一つ、七名編成で組みますか?」

「いや、その余り一は私でいい。中隊指揮は現状どおり伊隅が執り、私は単独で遊撃を行う――月詠中尉たちと同様だな」

 確認の意味で問うたつもりの美冴は、返ってきたまりもの言葉に愕然としてしまう。これはみちると水月、遙も同じだったらしく、瞠目して口を開いている。

「ちょっ! ちょっと待ってください少佐!! それでは、少佐が危険すぎます! それに、一部隊に指揮官が二人などというのは混乱を招きかねませんッ!」

「……む。伊隅、そんなに全力で否定しなくてもいいじゃない。大体、私は二年以上のブランクがあるのよ? それに新任以外は伊隅の指揮に信頼を置いているでしょうし、その方が部隊も纏まるでしょう。外部の将兵がいるならともかく、極秘任務担当の特務部隊が、そんなの気にしてもしょうがないでしょう?」

 その言い分は無茶苦茶だ、とみちるは顔を青褪めてしまう。いつか夕呼がまりものことを親友だと言っていたことがあるが、まさかそのような傍若無人な台詞を、まりもから聞かされるとは思っていたなかったのである。類は友を呼ぶというが……教官時代のまりもにはそんな素振りは全くなかったというのに……。時間とは、このように人を変えてしまうものなのか……。言葉に出来ないやるせなさに、みちるは項垂れた。

 が、これには流石に水月たちも喰らいつく。指揮云々はともかく、いくらなんでも単機は無謀だという意見。二機連携が原則だという美冴からの指摘には、流石にまりもも口を閉ざすしかなかった。本人的には言ってみただけというのが実は大きいのだが、ここまであからさまに「やめてくれ」と反対されるとは思わなかった。ちょっとだけショックである。

「仕方ないわね……じゃあ、小隊の一つを七人で組むとして……」

「お待ちください」

 やれやれと溜息をつきながら話を纏めようとしたまりもに、真那が待ったをかける。自分たちの運用方法が決まったため一歩引いていた彼女が、割り込むように挙手していた。当然、全員がそちらを向く。――水月だけは、その目に“まさか”という危惧を宿らせていて……そして、その直感はオオアタリであった。

「そちらから一名ほど、我が隊に貸し与えてはいただけまいか。そうすれば私はハイヴ内という危険地帯で二機連携を組むことが出来、そちらは六機一個小隊編成でバランスよく部隊を編成できましょう」

「――却下ァ!! 却下よ却下!! 大体そんなの、白服の一人を相方にすればいいじゃない!」

「あの者たちは三人で一個小隊を凌ぐ実力を発揮する。これを無理に崩すとなると、全体の戦力低下は否めないな」

 どうしてか声高に反対する水月に、ある意味滅茶苦茶な論理で反論する真那。……どうでもいいが、二人とも明らかに敵意を剥き出しである。水月は表情から声音、態度で丸わかりだが、対する真那は纏う空気が強烈に冷ややかなのだ。彼女達を見ているだけで、みちるは頭痛を覚えている。――お前ら、いい加減にしろ。

「月詠中尉。先程そちらの部隊は特殊な戦術に則って部隊を運用するから、我々との連携は期待できないと自分で言っていた筈だが?」

「――は! そのとおりであります。ですが、物事には常に特例というものが存在するのです、少佐。……そちらには我が剣術の弟子である白銀少尉が在籍しておりますから、彼を我が隊に加えていただければ、遊撃小隊としての活躍は更に期待できます」

 半ばその答えを知っていながらのまりもの問いに、真那は至極当然とばかりに言い切った。直後、顔を真っ赤にして憤る水月だったが、遙と美冴に抑えられてしまっている。予想された暴徒の抵抗がないのをいいことに、真那は勝ち誇った表情で水月を見た。誰が見ても喧嘩を売っているようにしか見えない。事実、そのとおりだったのだが。

 そして、この意見にはみちるが賛成した。そもそも、先の模擬戦では夕呼のきまぐれとは言え、武の配置を巡って水月と真那が戦っていたのである。退屈しのぎのこととはいえ、真那率いる斯衛の小隊は、水月たちを打ち破り、賞品であった武をその手中に収める権利を持っているのだ。もっとも、この件については水月が一勝一敗の引き分けで無効だ、と大人気ない抵抗を見せていたのだが……。

「ちょっ!? 大尉!!??」

「いいじゃないか。白銀も自分の師匠と連携が組めるなら文句はあるまい。それに、『甲21号作戦』だけに限った話で現在は打ち合わせているんだから、作戦終了後にまた返してもらえばいいだろう?」

 ――それとも、弟を取られて悔しいのか?

 上官の裏切りに焦った声を出す水月に、みちるはさも意地悪く唇を吊り上げる。完全にからかいに走ったみちるは容赦なく水月を弄り回し、水月はといえば顔を真っ赤にして慌てふためき、悔しそうに唸っている。その背後では遙が「水月可愛い」と幸せそうだったが……まぁそれはどうでもいいだろう。美冴だけは武本人や、恋人関係にある茜を無視したこのやり取りを一歩引いて眺めていたが、また面白いことになりそうだとほくそ笑んでいるので同類だ。

「ほらほら、貴様達いつまでもじゃれ合ってるんじゃない」

 やや呆れたような口調でまりもが手を叩き、じろりと一同を見渡す。これにはみちると真那が背筋を伸ばすことで応じ、水月は悔しげな表情のまま屹立する。遙と美冴はごく落ち着いた様子で姿勢を正し、自らの指揮官を見た。

「では、部隊の編成は今の通りとし、白銀は月詠中尉の部隊に臨時的に編入する。各員の配置については――今頃模擬戦も佳境に入っているだろうから、その結果で判断するとしよう。伊隅はC小隊、速瀬はB小隊……そして私がA小隊を指揮する。速瀬を突撃前衛長に据えるのはこれまでの経験・実績と突撃前衛としての素質の高さから判断した結果だ」

「「「はっ! 了解しました!」」」

 簡単に議事をまとめるまりも。真那は満足げに頷き、小隊指揮官に指名されたみちると水月が姿勢よく敬礼する。従来であれば部隊のナンバーツーが務める突撃前衛長だが、この配置についてみちるに文句はない。半年前までならいざ知らず、現在の水月と一対一の戦闘で勝つことは難しくなっているからだ。それだけ、彼女は近接戦闘に優れているのである。なにせ接近戦において鬼のような強さを誇る斯衛と渡り合えるほどの実力だ。正直、みちるには真似できない。

 この指揮官の配置換えにより、美冴が小隊長から外れることとなるが、彼女は少しも気にした様子もなく上官たちを見つめている。元々序列から小隊長を任されていただけであって、そのポジションに未練があるわけでもない。……勿論、小隊長として必要な気構えや志、部下を死なせないための戦略を必死の思いで身に付け、実践してきた自負はある。それらを無駄にするつもりなどないし、この経験が自分を成長させてくれたのだと実感してもいる。つまり、立場こそかわってしまったが、そうやって現場で培った経験は今後も自分にとって、部下達にとってよい糧となるのだ。

 美冴はそれを理解している。そして、そんな彼女にお疲れさま、と遙が優しく声を掛け……気づけば、みちると水月も美冴を見て微笑んでいた。美冴はむず痒いような気恥ずかしさを覚えて視線を逸らして、そして小さく笑う。――まったく、この人たちは……。そんな温かい感情をよしとして、自分をここまで成長させてくれた先達二人を見つめ返し、一礼した。







 そうして新生A-01は訓練を開始したわけだが、前代未聞の国連軍衛士の斯衛への配置換えを聞かされた武は引き攣った表情で絶叫した。その隣りでは茜が同じように驚愕していて、見ているものを愉快にさせている。が、驚き、困惑しているのはほかの皆も同じようで、一体どういうことだろうとまりもや真那に視線を向ける。

「――なんだ白銀? 厭なのか?」

「はい! いいえ! 厭ではありません!!!」

 完全にからかいの口調でまりもが問い、これに武は全力で否定した。もし万が一ここで頷いてしまったら…………考えるまでもなく、血の雨が降ることになる。気のせいか、真那の視線が痛い。……彼女から既に二度ほどホンモノの殺気を向けられた経験のある身としては、これ以上の恐怖を上塗りしたくはない。昨日の冥夜を巡っての感情のすれ違いについては既に解消されているが、だからといって真那が恐ろしくないわけではない。

 そして、驚きが去ってみれば、これはひょっとすると物凄く貴重な経験となるのではないかと閃いた。剣術の師匠である真那と二機連携を組む。……衛士として最高峰の実力を誇る斯衛の赤服と戦場で肩を並べる。彼女の弟子であり、より高みを目指している武としてはこれは願ってもないチャンスではないのか。

 無論、今現在の彼の実力で真那と対等に在れると思うほど自惚れていはいないので、それ相応の訓練を積む必要はあるだろう。が、それらの訓練とて己を成長させてくれる要素を多分に孕んでいるのは明白であり、つまるところ、拒否する理由などないのである。

 更には、まりもが説明してくれた遊撃部隊という位置づけに据えられるのであれば、突撃前衛として戦場を突き抜けるよりも、茜を直截的に護る機会も増えるわけだ。もっとも、斯衛という集団の性格上、前線に躍り出る頻度が格段に高くなるのだろうが、それはそれ、と割り切ることにする。真那は武の気持ちを知ってくれているので、先のような配慮も少しはあるのではと思いたい。

 そこまで思考を纏めた武は、自身に二種類の視線が向けられていることに気づく。一つはすぐ隣りから。そしてもう一つはみちるの隣りに立つ水月から。――ヤバ。何がヤバイというのかはわからないが、そういう直感が武の脳裏を過ぎった。一体どうしてあんな視線をこの二人から向けられなければならないのか甚だ疑問であるが、それに対してとにかく弁明しなければという焦燥に駆られ――る間もなく、真那が武の襟首を掴んで引き摺っていく。どうやら茜たちの視線に気づいた時点で思考が停止していたらしい。……が、だからといっていきなり連行されているのは何故だろうか。

「つ、月詠中尉!? 一体どこへ?!」

「決まっているだろう。貴様は私と二機連携を組むんだぞ? ハッキリ言って今の貴様では役不足だから、これからみっちり扱いてやる」

 聞くんじゃなかった――そんな後悔を胸に、そして冷たく恐ろしい二組の視線に突き刺されながら、武は真那に引き摺られるまま、A-01が使用するシミュレータルームから退場した。

 まるで猫か何かのように連れて行かれた武をポカンと見送った元207B分隊の面々は、暫しの後に全員で顔をつき合わせ、ひそひそと何事か囁いている。そこから漏れ聞こえる声を聞く限りでは真那と武の関係についてアレコレと憶測が飛んでいるようだった。誰がどう見てもただの師弟関係には見えなかったわけだが、実際には彼女達が拳を震わせるようなことは一切なかったりする。……のだが、そんなこととは無関係に怒り心頭な水月や、単純に嫉妬に燃えている茜には焼け石に水らしい。

 まりもとみちるが賛成したために武を手放してしまった水月からすれば、真那は弟を取っていった恨めしい相手であり、それ以上に、実力で敗北した事実が相当に苛立たせている。年齢も、衛士としての実績・実力も、共に真那の方が上だったのだが、そんなことは一切関係ない。階級が同じであり、互いに特殊な立場にある以上、遠慮は無用だ。それは真那も同じらしく、互いに好敵手として認め合ってもいる。

 そんな水月の肩に美冴がそっと手を置き、

「諦めが悪いですよ、速瀬中尉。伊隅大尉も仰っていたではないですか。作戦が終わり次第、また返してもらえばいいんですよ」

「……宗像……、」

 珍しくからかいなしに宥めようとする美冴に、水月は神妙な顔を向ける。確かにそのとおりなのだが、色々と咀嚼できない感情が渦巻いている。茜と武の仲を応援している身ではあるが、それはそれ、という言い訳めいた情感が、確かに存在しているらしい。女々しいことだ、と自身を嘲りながら、水月は溜息をつ――こうとしたのだが、続く美冴の暴言に、身を強張らせる。

「まぁもっとも、白銀が戻りたいと言うかどうかはわかりませんが。なにせあれほどの美人にシゴかれるわけですから。……胸の大きさでは確かに中尉も負けていませんが、武家の女性は夜伽の教育もしっかり施されていると言いますし……」

「……………………」

「しかもあちらにはまだ三人いますからね。下手をすれば四人同時に、なんてことも……」

「「たぁけぇるぅううううううう!!!??」」

 とんでもない爆弾発言をかました美冴の思惑の通り、水月と――そしてそれを聞いていた茜が怒りを顕にして咆哮する。顔を真っ赤にして煉獄の炎を背負った二人の姿は、正に羅刹。その嫉妬と怒りの奔流は傍にいた皆を全力で引かせるほどに恐ろしく、そして怖い。

 自分の意図した以上の反応を見せてくれる二人に、美冴は満足そうに頷いている。その背後では、彼女の優秀な教え子である晴子と薫がとても愉しそうに笑っていた。







 ===







 2001年12月31日――







 甲板上に吹き荒ぶ冷たい風を受けて、武は宵闇を睨み据えていた。昨日までの熾烈にして苛烈、壮烈な訓練の日々を思い返せば、色々と頭を抱えて蹲りたくなるようなことが思い出されて憂鬱になる。真那直々の訓練は文字通り地獄の日々だったし、残る白服三人との実戦形式での訓練は何度死にそうな目に遭ったかわからない。そしてようやく真那から合格をもらえたと思えば、A-01との連携訓練の日々。遊撃小隊とは簡単に言えば戦場を駆け巡る囮部隊なので、それはもう間断なくハイヴ内を駆けずり回り、真那共々消耗に消耗を重ねてきた。

 ハッキリ言って、辛い。苦しい。けれど弱音を吐いている暇などないし、絶対に負けは許されない状況と、武自身の決意が、血反吐を吐きながらの訓練を乗り切らせていた。

 ……そう、武は本当に血を吐いたことがある。たて続けに行われる過酷な訓練に内臓がやられたというだけでなく、どうやらクスリの効きが悪くなってきているらしかったのだ。今でもクスリを届けてくれる社霞から“そろそろ危ない”ことを聞かされていたので驚きは少なかったが、足元から這い登ってくる死の予感に、心臓が凍りつきそうだった。不安を抱えたまま戦場に出るわけにもいかず――作戦の準備の余念がない夕呼を呼び出すのは気が引けたが――クスリについて一番詳しい夕呼に、現在の自分の状態を確認したりもした。

 返ってきた答えは、今すぐどうこうなるわけではない、というもの。この今すぐというのが数日なのか数ヶ月なのかは判然としないが、夕呼がそういうのならば少なくともこの『甲21号作戦』中に死ぬようなことはないのだろう。そう自分を納得させた武は、それ以降副作用のことを考えることはしなかった。死なないのであれば、それでいい。ならば後は戦場で命を落とさないよう、茜を護り切るだけの力を身につけるよう、より一層の訓練に打ち込むだけだ。

 そして――鑑純夏。

 この作戦が失敗すれば、夕呼はその地位を失う。それはつまりAL4の頓挫を意味し、00ユニット開発も中止されるということだ。幼馴染にして恋人、そして今尚武の心に存在し続ける愛する少女。その純夏の命を奪い、00ユニットとしての復活を約束してくれた夕呼には、なんとしてもオルタネイティヴ計画を続行してもらわなければならない。そのために武は戦うと誓ったのだし、彼女の足を二度と引っ張る真似はしないと誓ったのだ。

 愛する茜を戦場で喪わないために戦い、愛する純夏と再会するために戦う。今の武にはこれだけで十分だった。それがどれだけエゴイストな考えだとしても、残り少ない日々しか生きられない彼には、かけがえのない輝きなのだ。真那に教えられたことでもある。――戦う理由として、それは何よりも尊い。

「――生きてやる」

 それは無意識の呟きだった。澄み切った夜空に輝く星々を見上げて、まるで仇敵を睨みつけるかのように――強く。握り締めた弧月が鳴る。師に託された刀は、今このときも武の心のよりどころとして一番近くに存在してくれていた。……師匠といえば……武はふと、出航前に夕呼から渡された写真を思い出した。それはいつどこで撮影したのか知れない、なんとも可愛らしい表情をした真那のブロマイドで、一体どういう気を回したというのか、夕呼が餞別にくれたのである。

 目を丸く見開いて、驚いた表情をしている真那。あの恐ろしく厳しい師匠がこれほど可愛らしい顔を見せるというのはかなり珍しいのではないだろうか。少なくとも、武は見たことがない。元々目を見張るような美人であったわけだが、ホンモノの美人というのはどのような表情でも整っているから美人なのである。……が、まぁ、この写真は見惚れる、というよりは可愛らしくてつい笑ってしまうような類のものだったが。

「ははは、師匠も可愛い顔するんだなぁ……」

 出撃前の着座調整まで不知火に乗ることはないので、今もこうして防寒ジャケットのポケットに忍ばせていたその写真。手に取り、ひとしきり眺めてくすくすと笑う。せっかく夕呼がくれたのだから、御守り代わりにモニタやパネルに貼り付けておこうと考えていた。なにせ斯衛の赤服様である。きっと御利益があるに違いない。本人に知られたら海から叩き落されないが、武は割りと本気だった。

「へ~、白銀君ってば月詠中尉の写真なんか持ってたんだぁ」

「どれどれ? ほほお~、こりゃまた可愛らしい!」

 ギシリ、とタケルの全身が硬直する。突如として背後から掛けられた声に聞き覚えがありすぎる。帝国軍訓練校時代からの付き合いで、今ではA-01のトラブルメイカーとしてその名を轟かせるようになった晴子と薫。どうしてこいつらはいつもいつも武にとって不利になるような状況に現れるのか。……実は物陰に隠れてタイミングを見計らっているのではないか。そう疑いたくなるほどの遭遇率である。

「か、柏木? ……これはだな、御守りというか、」

「御守り!? あっはははは! そっかそっかぁ! 白銀君もやるねぇ! 茜に速瀬中尉に、遂に月詠中尉まで!! いやぁ~、隊内唯一の男の子となると、やることが違うね!」

「なっ!? ちッ、違うぞッ! お前は今猛烈に誤解している!!」

「はいはい落ち着けって白銀ェ。言い訳なんて男らしくないぜー? 別にあたしらそれを非難してるわけじゃないんだからさぁ」

「違うって言ってるだろう立石!? 俺は無実だ!! ていうか茜はともかく水月さんてなんだ?! つか遂にとか言ってんじゃねぇ!!」

 武の手から真那の写真を盗み取ろうとする薫をかわしながら、まるで悲鳴をあげるように武は弁明する。それを晴子は一歩下がってからかい続けるのだが、今の武の発言にはなかなか興味深いものがあった。

「へぇ~? 茜はともかく、ねぇ??」

「――ッッ!!」

 とっくに周知の事実ではあったのだが、本人達は隠しているつもりらしく、公知ではないというのが武と茜の認識だ。それを理解している晴子は、故に“初耳です”という具合にからかうのである。そして武は晴子の期待通りに顔を真っ赤にして固まった。「しまった」という表情をして、硬直している。そんな隙だらけの武の手から薫が真那の写真を抜き取り、晴子共々観賞する。どうやら同性から見ても大変可愛らしいようで、二人とも実に愉しそうである。

「……って!? いつの間に写真を!? ぃや、違う! そ、その、茜とはつまり……ッ!??!?!」

 数秒の後、我に帰ったらしい武が慌てふためいて奇妙な動きを見せるが、晴子も薫もそれに苦笑するしかない。……まったくこの男は。そんな諦めにも似た可笑しさが込み上げてきて、……きっと、茜は今幸せなのだろうと頷く。もっと色々とからかわれるのではないかと身を強張らせていた武は、彼女たちからの追及がないことに逆に恐怖を感じたが、やがて二人の見せる表情や雰囲気から、いつもとは違うなにかを感じ取る。

「ん、ほら。……御守りなんだろ? 返す」

「ぁ…………ぁあ、ありがとう??」

 苦笑したまま真那の写真を返してくれた薫。その、あまりにも調子が狂う態度に、武は思い切り首を傾げてしまった。確かに武は鈍感だが、感情の機微に疎いというわけではない。けれど、目の前にいる二人の何が妙だと感じるのか、そのことまではわからなかった。

 武の表情から考えていることを悟ったのだろう。晴子は薫と顔を見合わせ、更に苦笑した。

「ごめんごめん。心配させちゃった?」

「ぁ……ああ、いや。なんか変だな、……って。そう思った」

 ――どうかしたか? その一言が何故か憚られて、武は口を閉ざしてしまう。リーディング能力は常時バッフワイト素子を身に付けているので使えない。……使う気もないのだが、こう神妙な空気が漂ってしまうと、どうしていいのかわからない。これが例えば茜であったり、気の弱い面もある亮子であったりするならば、まだ武にもやりようがあったかもしれない。けれど今目の前に居るのは“あの”柏木晴子と立石薫なのだ。武は、この二人がこれほど「不安そうに」している姿を見たことがなかった。

(不安、だって……?)

 自分で思ってギョッとした。そうだ、晴子と薫……この二人が見せている表情は、発している雰囲気は、不安に押し潰されそうな……そんな姿だった。まさか作戦を目前にして怖気づいたのだろうか。いや、そうではないだろう。初陣は既にこなしている。戦場が恐ろしいというなら、あの新潟で見せた強さはなんだったのか。だが、そんな武の思考を留まらせるように、薫が海の方向を見やりながら、零すように呟いた。

「あたしはさぁ……怖いんだ」

「…………」

 どこか遠くを見つめる風な薫に、武は何も言葉を掛けられない。――怖い。そう口にした薫は、不安に満ちた、というよりはまるで無色な表情で、淡々と胸の裡をさらけ出す。……武に出来ることは、ただ黙ってそれを聞くだけだった。

「初陣の時はさ、もう何がなんだかわからないくらい無我夢中で、XM3の性能や、みんなと戦ってるんだっていう使命感……じゃないな、興奮、みたいなものでいっぱいでさ。正直、怖いとか何とか、考える暇もなかったよ。後になって冷静になってようやく……ああ、怖かったんだ、ってわかった。BETAと戦うことはさ。戦争するってことはさ。……怖いんだ」

 あたしの中には、今もあの12番の不知火が焼きついている――そう続けて言った薫に、武は表情を凍らせた。何故、と。そう口にしたかった。……確かに“その話”は、彼女達が任官したそのときに話したことがある。かつての自分が犯した過ち。決して拭い去ることの出来ない愚かさ。先任の命を奪い、己の顔に傷を負い、左腕を失った……あの、血みどろの戦場。

 だが、それは武の口からそういうことがあったのだと、掻い摘んで話しただけだ。それがトラウマ――なのだろうか? ――になるほどの影響を薫に与えたというのか? きっとそれは違う、と。武は凍りつきそうな寒気を振り払う。どうして、などと考えるのは不毛だろう。現実に、薫はその光景が焼きついていると言ったのだ。ならば何らかの形であの『伏龍作戦』の詳細を知り、武が光線級に撃ち落とされた様を目にしたのだろう。

「……新潟には、光線級はいなかった。レーザー属は、本当に運よく、あの戦場には出現しなかった。だから、だろうな。あたしはパニックになることもなく、なんとか戦えたんだ」

 けれど、今度は違う。大規模な作戦。人類の未来を賭けた一戦。敵の根城、ハイヴを攻略する。敵は膨大で、まるで無限を相手にするかのよう。迫り来る少数を蹴散らすのとはわけが違う。こちらから飛び込んでいく。レーザーが飛び交い、数え切れないくらいの化け物が殺到する戦場を駆け抜け、根城そのものに突入する。

 それを恐ろしいと漏らすことの、一体何がおかしいだろうか。……そんな弱音を漏らす薫を、誰が責められようか。誰だって怖い。誰だって恐ろしい。ただ、皆それを口にしないだけだ。表に見せないだけだ。……それが、実戦を経験した者の強さというものだろう。喪った仲間のため。共に戦う仲間のため。怖いと嘆くだけでは誰も救えない。誰も護れない。だから弱気を見せないし、怖気づいたりしてやらない。

 薫は、ひょっとすると晴子も……まだその域に達していないのかもしれない。武自身そう偉そうなことが言えるわけではないが、だからといって、こればかりは武にはどうしようもない。冷たい言い方だが、結局のところ、本人次第なのだ。戦場を恐れようとも、軍人であり衛士である以上そこからは逃れられない。逃げたいというのではなく、ただ怖いのだというだけでも……怖がってばかりはいられない。死にたくない、というのも同じだろう。そういった恐怖に身を縮ませていたって、戦場が遠ざかるわけでも、なくなるわけでもない。

 人類は今、地球そのものを侵略しようという化け物と戦っているのだから。

 ……無論、薫もそれは理解していた。こんな風に武や晴子に己の不安をさらけ出したところで、結局なにがどうなるというわけではないことなど……とっくに理解して、知っていた。現に聞かされた武は戸惑うような視線を向けてくる。気優しく、思いやりのある彼のことだから、きっと……自分を慰めるような、或いは元気付けるような言葉を探しているのだろう。――あはは、ばぁか。その武の感情をありがたいと思うし、好ましいとも思う。

 薫は小さく笑って、次の瞬間には夜空に向かって咆えるように叫んでいた。

「あたしは死なねぇ! 死んでやるもんかっっ!! 戦って! 勝って! 生きて!! ――あたしらみんなッ! みんなで還るんだ!!」



 ――なぁ、そうだろう白銀!?



 顔を天に向けたまま、どこか晴々とした声で、薫は呟いた。突然の咆哮にびっくりしていた武と晴子は、その言葉に震えそうなくらいの感情を覚えていて…………武はただ、ああ、と。力強く頷いた。

 しばらくそうやって三人で星空を見上げていて、やがて薫が眠くなったと言って艦内へ戻っていった。……きっと、恥ずかしかったのだろう。武は晴子と顔を見合わせて苦笑し、なんだか可笑しくて笑った。

「……ありがとね、白銀君」

「あン? なにがだよ…………」

 うん、ありがとう。そう言って微笑んで、晴子は“よっこらせ”なんて年寄りくさいことを呟きながら甲板に座り込んだ。両脚を投げ出すようにして、その様子を眺めていた武を見上げている。

「なにしてるの。ほらほら、白銀君も座って座って」

 冷たい甲板を叩いて示しながら誘ってくる。そんな仕草が無性に可笑しくて、武は笑いながら晴子の隣りに座った。もちろん、両脚を投げ出すようにして。そのまま特に会話もなく、ただぼんやりと夜空を見上げる。そういえば自分はどうして甲板に出てきたのだったか……武は一人でこんな寂しい場所にやって来た理由を思い出そうとして、苦笑した。何のことはない。自分も怖かったのだ。薫と同じ……そして、多分、今隣りにいる晴子も同じ。

 晴子や薫にとっては始めての大規模作戦。茜、多恵、亮子にとってもそうだし、冥夜たち五人にとっては初陣だ。……怖くないはずがない。恐ろしくないはずがない。初陣が大規模作戦という点は武も同じだが、あの時の自分と彼女達とでは比較にすらならない。なにせ、あの頃の自分は復讐に酔いしれる鬼だったのであり、BETAへの恐怖よりも連中を斬り殺すことの出来るその時を今か今かと待ち望んでいたのだから。

 そう思えば、今こうしてBETAとの戦争に緊張して、“怖い”なんていう真っ当な感情を抱いている自分は、どうやらマトモな人間に戻れているらしいが……。これも、自分を殴りつけ諭してくれた水月や、進むべき道を示してくれた真那、狂って壊れた自分を見捨てずにいてくれた夕呼にみちる……傍で支え続けてくれた茜のおかげだ。――上川少尉。一歩間違えば戦死していただろう自分を、救い出してくれた彼女。なによりも、貴女への感謝を……。

「ね、白銀君……白銀君はさ、この戦争が終わったらどうする?」

「――ぇ?」

 思考の海に埋没しそうになっていた武に、晴子が問いかける。……その問いはあまりにも夢想染みていて、けれど、晴子はとても真剣な表情をしていた。微笑をたたえたまま、けれど、眼が。その瞳が。武の心の中にスルリと入り込んで、染み込む。――戦争が終わったら。BETAを滅ぼしたら。奴らを根こそぎにしたら。そうしたら、どうする? 武はほんの少し言葉に詰まった後に、紛れもない笑顔で、こう答えた。

「前に……さ。夢を見たんだ。どうしてそんな夢を見たのか、アレが一体なんだったのか……そんなのは全然わからないんだけどさ。でも、凄く幸せな世界だった。俺はみんなといて、みんながいてくれて……笑ってた。声を上げて、楽しそうに。莫迦みたいなことをやって、ふざけて、遊んで……みんなで、楽しくて、幸せだったんだ。俺は、そんな世界を生きてみたい」

 抽象的過ぎるかとも思ったが、それを聞いた晴子は満足そうだった。そう、とだけ呟いて、頷いて、いつものように笑う。晴子の真意を量りかねた武が一体どうしたのかと尋ねようとしたそのとき、まるで見計らっていたかのように晴子は立ち上がり、先程の薫のように夜の空を見上げた。武は座ったまま彼女の背中を見上げて、次いで空を見た。

 連中は宇宙から来た。奴らはソラからの侵略者……。この戦争は、そんなSFが現実になった地獄だ。戦争の終わり……いつかはきっと終わるのだろう。けれど、多分、それは自分や晴子が生きている間の話ではない。

 負ける気もないし、死ぬ気だってない。戦って、勝って、生きて――薫の叫びが耳に残っている。ああ、そうだな。――俺たちは、生きてみんなで還る。茜を護るため。純夏を救うため。夕呼の計画を現実のものとするため。残り少ないこの命を、燃やし尽くす。そしていつか、いつか戦争が終わって……平和が戻ってきたら。いつか夢で見たあの温かで幸せな世界を……そんな場所に、彼女達と……。

 生きて、笑って、暮らしたい。







「な、なんで……なにやってんのよ晴子ォォオオ……ッッ」

「あ、茜! 落ち着きなさいよっ!!? ――ちょっと御剣、貴女も手伝って!」

「おのれ柏木……一人だけ抜け駆けしおって……ッ!」

「貴女もなの!?」

「女の嫉妬は醜いね……」

「はっははは! 拳鳴らしながら言っても説得力ねぇな彩峰!」

「笑ってないで、なんとかしなさいよっ!?」

 艦内と甲板とを繋ぐ通路の一つ、薫が戻っていったそこで、なにやら奇妙なことが起こっていた。

 つい先程のことだ。武や、先程までの自分のように風に当たろうとでも考えていたらしい茜たち御一行に遭遇した薫は、面白みの種が自分からやってきたことにほくそ笑み、無言のまま彼女達を手招きした。自分も今ここに来たのだという風を装った薫に騙された四人は、僅かに開いた扉から甲板を覗くようにして、そこで武と晴子が逢引している光景を目撃したのである。

 これに面白いように激怒したのが茜で、慌ててそれを止めようとしたのが千鶴。が、千鶴の説得に耳を貸そうともしない茜に焦りを覚えた彼女は、背後にいた冥夜に助けを求めたのだが、どうしたわけかこちらも一触即発の雰囲気を放っている。一体何故、と愕然とした千鶴の耳に、今度は慧の呟きが届く。言っていることは確かにそのとおりなのだが、じゃあ両拳をバキボキと鳴らしているオマエは一体なんなのか。それを薫が突っ込んでいたが、どうもコイツは彼女達を抑えるつもりがないらしい。

「ちょっ!? ちょっと、立石さん!? あなたも何とかしなさいよっ!?」

「えー? なんで? いいじゃんか。ほっとけほっとけ。ホラ、面白いもん見れるしさぁ」

 駄目だコイツ。薫が端から愉しむ気満々なのだと気づいた千鶴は、その悪気の欠片もない様子に脱力してしまった。――あ。気づいたときにはもう遅い。両手で抑えていた茜が解き放たれ、自由を得たことに快哉を上げる。……いや、あれは嫉妬の叫びかなにかだろうか。それを待っていたとばかりに冥夜が走り出し、どういうわけか慧が続いていく。武と恋仲だという茜や、何かと武のことを気にしていた冥夜はまだわかるが、どうしてそれに慧まで加わっているのだろうか。最早暴走した彼女達を止めることなど不可能だと悟った千鶴は、全然関係ない思考に浸ることにした。現実逃避とも言う。

「あはははははっ! 白銀が飛ぶの、久しぶりに見たなぁ」

「……いや、全然笑えないんだけど……」

 というか、なんであれで生きているのか。腹を抱えて愉快そうに笑っている薫の神経を疑いたくなるが、あんな人外魔境な攻撃を平然と繰り出している茜達も本当にニンゲンなのだろうか。そして更に恐るべきは、律儀にそれを全部喰らって、宙を舞いながらも生きているらしい武だ。非道すぎて直視に耐えないが、聞こえてくる断末魔が、彼の生存を伝えてくる。

「あら、柏木さんは?」

「あ? ああ晴子ならとっくに逃げたよ。あいつこういうときだけ逃げ足はやいよなぁ」

 恐ろしい現実から眼をそらした千鶴の疑問に、薫が答えてくれる。当たり前のように言った薫の言葉や、茜と武の様子から判断するに、どうやら彼女達はいつもこんなことを繰り返しているらしい。彼らにとってこれは最早日常であり、当たり前のコミュニケーションなのだろう。……物凄く不毛だとは思うが。呆れたように溜息をついた千鶴は、まったく理解に苦しむという顔をして薫を見たのだが、返ってきたのは、思わずつられて笑ってしまいそうなほどの笑顔だった。

「……ぷ、くく……あははっ!」

「あっはは! ははははは!」

 暫くそうして笑い合っていると、近づいてくる大勢の足音がした。見れば、笑い合う自分たちを見て不思議そうにしている仲間達。元207分隊の彼女達が、そろいも揃ってやってきていた。先頭を歩いていた亮子と壬姫。隊内でマスコット扱いされるほどの愛らしさを持つ彼女達が、きょとんとした様子で首を傾げていて……その仕草が、薫と千鶴を刺激する。もう駄目だった。何でも可笑しい。止められない。――ああ、なんでこんなに、莫迦みたいなのに、楽しいんだろう。心底不思議に思いながら千鶴は笑う。同じように薫も笑い、外からは武の悲鳴と茜の咆哮が聞こえてくる。



 ああ、なんて楽しい。

 こんな風に可笑しくて楽しい仲間達だから――――だからみんな、生きて還ろう。



 笑いながら、薫はそう胸に刻んだ。もう怖くなんてない。もう恐怖なんてない。光線級だろうが重光線級だろうが敵じゃない。ハイヴにどれだけの敵がいようと、そんなの全部、自分たちの敵じゃない。

 そうさ。そうだろう? だって、自分にはこんなにも頼もしい仲間達が――







 ===







「立石ッ!! 逃げろ立石ィイイイイイイイイ!!!!!!」

『間に合わん! 奴はもう無理だ!!』

 まるで雪崩。高く高く積み重なった要撃級と戦車級の山津波。侵攻する自分たちを押しとどめようと足掻く連中の、正に数にものをいわせた戦法だった。まさかBETAがこんな戦法を採るなんて――そんな絶望にも似た感情は、けれど、気づいたときにはもう遅く、まるで雪崩落ちるような物量に、薫の不知火はあっという間に呑まれて消えた。

 悲鳴すらない。助けを呼ぶ声さえない。ハイヴ内に起きたBETAの山崩れ。その轟音と振動だけが機体を通じて伝わってきて、じわりと全身を這う。

 死んだ。

 ――立石薫が、死んだ?

「ちくしょぉおおおお!!!??」

『落ち着け莫迦者ッ! 今のでB小隊に穴が出来た! 我々はそこを塞ぐぞッ!! ――ブラッズ各機、続けェ!』

 まるで胃から血が込み上げてくるよう。操縦桿を握る腕が怒りに奮えて、今にも暴走してしまいそうだ。……けれど、そんな武を真那の叱責が冷静にしてくれる。ここはハイヴのど真ん中。敵の胃の中なのだ。周囲を見渡せばBETAの異形がごろごろとしていて、連中はまた新しい山を形成しようとしている。後方に配置された晴子や壬姫の砲撃がその山を打ち崩し、梼子や美琴の放ったミサイルが次々に敵を散らしていく。

 直援についていたC小隊から離脱する。一気に前衛のB小隊まで跳びぬける紅白の武御雷と蒼い不知火。その不揃いの五機編成の背中を護るため、C小隊長のみちるが怒号に似た指揮を執る。BETAの山に潰された薫。B小隊の先鋒を務めていた彼女が喪われたことで、二機連携を組んでいた多恵が孤立してしまっている。戦友の死、初めて触れるその衝撃に、少なくとも同期の全員が揺さぶられていた。

 流石に先任たちは冷静なものだったが、だからといって何も感じていないわけではない。B小隊長の水月は自分の目の前で部下が死んだことに憤り、部隊中央で迎撃前衛を務めている美冴は、自分にくっついて悪さをしていたその笑顔を思い出して歯噛みした。

 フェイズ4の横坑はかなりでかい。直径がいくら、なんてどうでもいいくらいに広大で、故に武たちは全力でハイヴ内を跳躍している。XM3が可能としてくれた二段跳躍を駆使して、横坑天井から降ってくる化け物共をかわす。こいつらはただ降って来るだけなので完全に無視だ。油断ならないのは、そいつらを回避した先の着地点。下手をすれば着地と同時に要撃級に叩き潰されるなんていうこともあり得る。

 マウントしたままの87式突撃砲で狙いをつけようとした瞬間に、群れていた要撃級が撃ち殺された。続き、戦車級も肉片と化している。どうやら千鶴が掃討してくれたらしい。まりも率いるA小隊がすぐそこまで押し上げていた。武はモニターに映る彼女たちに視線で礼を述べ、すぐさま跳躍を再開する。止まっている暇はない。数百メートル先では文字通りの地獄が待っている。後方に逃れようとする多恵を、真紀が援護に向かい、その二人を更に冥夜と慧がカバーしている。

 既にBETAは二つ目の山を完成させたようで、そこに薫が呑み込まれた瞬間を思い出した多恵が恐慌をきたしているらしい。いやだいやだと泣きながら突撃砲を撃ちまくる10番の機体を、真紀がなんとか後ろへ連れて下がる。急がなければ、二人ともこの山崩れに呑まれてしまうのだ。

『いい加減にしろツキジィ!! オマエも死にたいのかよォッ!?』

『ひぃいいっ、いやぁああ! やだぁあ!! 薫ちゃん薫ちゃん薫ちゃんぅっ!!』

『05、10を下がらせて! ……16、17は二人の援護ッ! 悔しいけどここは斯衛に任せるわよっ!』

『こちらブラッド1――そこの臆病者を早く連れて行け! 突破口は我々が開いてやるっ』

 怒号の応酬。飛び交う36mm砲が崩れ落ちようとするBETAを穿つが、喰らっても倒れればいいという今の連中には効果がないようだった。なにせ、その質量が武器となるのだから、死んでいても関係ない。築地機を無理矢理引き離すことに成功した真紀は追いついてきたA小隊に多恵を預け、自身はすぐに身を翻す。薫をやられて気が立っているのは、彼女も同じだった。その真紀と同じタイミングで、武がB小隊に合流する。見れば真那は既に水月と連携を組んで敵中を躍りぬけていた。

 紅の武御雷と蒼穹の不知火が崩れ落ちたBETAの山を切り拓いて行く。真那の螺旋剣術が手当たり次第に敵をぶちまけ、並走する水月が長刀と突撃砲で猛威を振るう。進路を塞ぐように積み重なった連中は厄介そのものだが、一点に集中すれば突破できないこともないようだった。山となり雪崩落ちるという驚異的な攻撃を仕掛けてきたわけだが、落下の衝撃で自滅した戦車級は数多く、または降って来た要撃級の前腕に潰されるヤツもいた。BETAが数にものをいわせた戦いをするのは周知の事実だったが、この戦法も、そういった物量戦の延長なのだろうか。

 それにしては実に無駄が多い。山と積み重なった連中はその半分近くが絶命している。完全な自滅だ。こちらを巻き添えに出来ればいいと考えているのか、それとも何も考えていないのか。同胞の命などまるで関係ないといわんばかりの行動に、真那は背筋が寒くなるような思いだった。

「ヴァルキリー2! 貴様は一度下がって部隊を整えろ!」

『……ッッ、悔しいけど、そうさせてもらうわ……!』

 止まることのない螺旋機動を描き続けながら、真那の紅い武御雷は要撃級の首を刎ねる。両手に握った一刀を尋常ならざる速度で振るいながら水月に後退を促し、それを受けた水月は本当に悔しそうに下がっていった。それと入れ替わりに、武の不知火が飛び込んでくる。ようやくやって来た弟子を遅いと叱責しながら、真那は内心で舌打っていた。あの水月までが余裕をなくそうとしている。衛士として格段に優れた実力を持ってはいるが、矢張り部下の死は相当堪えているらしい。

 ハイヴに突入して直に一時間が経過しようとしている。ここに来るまでにA-01は二名の戦死者を出した。A小隊の古河慶子と、先程死亡した立石薫。国連軍横浜基地で最強を誇る特務部隊から出たこの戦死者は、彼女たちにかなり負担を強いているらしかった。指揮官であるまりもや、経験豊富なみちるは冷静そのものだが、直情的な面のある水月や、経験の浅い新兵達にはかなりストレスになっている。

 特に酷いのが後者だ。目の前で相棒を喪った多恵は完全に戦意を喪失していて――これが地上なら後送することも出来るのだが――一名減となっているA小隊に組み込まれている。あの状態のまま突撃前衛を任せられないのは当然だが、これではA小隊そのものの足を引っ張りかねない。A小隊には彼女の同期の千鶴や美琴、壬姫が居たが、彼女達だって薫の同期なのだ。しかも初陣である。ショックを受けているのは同じであり、これをカバーしながら戦い続けるというのは酷としか言いようがない。

 だが、真那がそのことに気を揉んだところで状況が好転するはずもなく。とにかくもこの分厚い敵の壁を突破しなければ、ここで全員潰され飲み乾されて終わりだ。すぐ背後には白い三機の武御雷。その更に後ろには水月と二機連携を組んだ冥夜がいて、真紀と慧が奮戦している。――冥夜様。一度だけ彼女を見やり、そして真那は吶喊した。武がタイミングを合わせるように並び、同様に突撃を掛ける。長刀二振りを左右それぞれに握らせて二刀流をする武に、この一刀があれば十分とばかりに両腕で長刀を握る真那。これで武の機体も武御雷だったら言うことはないのだが――今はそんな詮無いことを愚痴ってもしょうがない。

 紅い龍と蒼い龍。双龍は地を這いずり回り、螺旋に捻子くれながらBETAの壁を突き破っていく。そこを白い三連が更に切り裂いて拡げ、B小隊が自らを捩じ込んでいく。左右に展開したA、C小隊はとにかく静止を良しとせず機体を奔らせ、最後尾を帝国軍第211中隊が続いていく。

 この実数だけを見るならば一個大隊を率いているまりもは、眼前に積み重なろうとしている新たなBETAの山に愕然とした。連中は、一体何をやろうというのだ。

「くっ……! この数ッ、予測を遥かに超えている……ッッ!!」

 思わず怒鳴るように零した愚痴は空しく管制ユニット内に響いただけだった。少佐という立場にあり、この国連・斯衛・帝国軍の混成部隊を纏め上げる重責を負っている彼女の立場を考えれば、決して褒められた愚痴ではないが、幸いにして皆そんな愚痴を聞いている暇もないくらい我武者羅に戦っていた。真那率いるブラッズの活躍のおかげでどうにかこの連中を突破出来そうではあったが、後方から続く211中隊からは芳しくない報告も届いている。

 ――先程広間で振り切った敵が進路を変えて追いついてきている。このままでは挟み撃ちになるというのだ。中隊長である若き帝国軍大尉――名を大塚といった――は、些か引き攣ったような表情で、けれどふてぶてしく笑ってもいた。これで燃えなければ男ではない、ということらしかったが、まりもには追い詰められて自棄になっているようにしか見えなかった。

 ともかく、このままただ突っ切るだけでは不味い。遥か前方にもBETAが山となって積み重なっている。さっきから一体なんだというのだ。進むべき方向には雪崩れる山が聳え、後方からは津波が押し寄せようとしている。まりもは音響センサーが割り出した地形データを表示させて、とにかく何かこの状況を打開させる手はないかと頭を回転させる。

 このとき、同様にみちるも様々な手を模索していた。こちらはBETAがここにきて妙な戦法を取り出したことに疑念が消えず、そこには何か理由があるはずだと考えていた。連中の考えていることなどその殆どが解明されていないのだが、奴らに戦略がないというわけではない。そのことだけは、これまで数多く行われた作戦から学んでいる事実だ。だからこそ、この山のように積み重なる戦法にもなにか理由があるはずで…………そうして、みちるはその答えに暫し言葉を失ってしまった。

 音響センサーが拾い出した地形データは、この横坑が緩やかに下方へ傾斜していることを示していて、現地点よりあと数キロも進んだところに複数の横坑の出口が在ることを示していた。そして、その出口の部分からこの地点までには他に抜け道がない。つまり穴から出てきた連中はとにかく自分たちへ向かう以外に道がなく、しかも連中からすると緩やかなのぼり坂となっているため、平地ほどの突撃能力がない。……これは微々たる差なのだろうが、そこにこちらの侵攻がぶつかることで一部足を止めるものが出てくる。足が鈍る連中がそれに追いつき、やがて連鎖的に続いたそれらが、いわゆる自然渋滞のようなものを引き起こし――それでもBETAは前に進む以外の何も持っていないために、足を止めた目の前のヤツの上にのぼり、前進し、次から次にそれが繰り返されて重なって、滞っては上にのぼりを何度も何度も繰り返した結果、「山」のようになるのだ。

 莫迦げている。そして山の頂上に至ってもまだ前進を続けるから……やがて積みあがった連中は雪崩れの如く落ちてきて、そうして薫は呑まれて死んだ。そんなふざけた理由があるかッ!? 激昂しそうになるみちるを、けれど現実にそれが起こっている光景が打ちのめす。今また積み重なったBETAが多数の自滅を出しながら進路を塞ごうと崩れ落ちた。これではいくら対物量に特化している真那と武の二機連携でもきりがない。切り拓くべき敵は正面に群がるそれだけでなく、その上を、更にその上を怒涛の如く突き進んでくる。

 数という名の暴虐が、文字通りそこを走っていた。







 結果として、二発のS-11を使用することで突破口を切り開き、A-01からは高梨旭を、211中隊からは三名の戦死者を出しながらも……なんとかして予想進路の半分まで侵攻することが出来た。威力だけを見れば戦術核にも匹敵するというS-11の破壊力は凄まじく、堆く積もっていたBETAが吹き飛び爆裂する様は見ていてスッとしたほどだ。だが、そのS-11を使用した帝国軍衛士は自決のための手段を失ったことになり、彼らはもし自らの最期が目前に迫ったとしても、手持ちの武器でどうにかする以外になくなってしまった。BETAに群がられ食い殺され磨り潰されるその瞬間まで、足掻くしかなくなったのだ。……無論、生き残れるならばそんな恐怖を味わわなくていいのだが。

 だが、そんな楽観を出来るものは最早いなかった。いや、最初から誰も楽観なんてしていない。いくらXM3が高性能で、BETAに対する切り札として十二分の威力を誇ろうとも、ただそれだけで勝てるほど連中は甘くない。物量とは、……それも、比較にもならない物量差とは、ただそれだけで無情なほどに脅威となるのだから。

 『甲21号作戦』に参加した全部隊に配備されたXM3。決して十分とはいえない訓練期間だったが、それでも帝国軍、斯衛軍の全部隊員は死に物狂いで新型OSの性能を己のモノとして見せたし、何よりも、その開発初期よりXM3に触れてきたスーパーエース、A-01がいるのだ。

 希望。そう呼べるものを抱いていたとして、誰が笑うだろう。……誰も、211中隊を笑うことなんで出来やしない。彼らは新潟に上陸したBETAを文字通りに殺戮して見せたA-01部隊に、その圧倒的な強さに追いつきたい一心で、彼女たちと共に戦いたい一心でトライアルに参加し、帝国軍内にXM3の配備を上申し、そして今、遂に念願かなって同じ戦場に立っているのだ。

 中隊指揮官である大塚にとってA-01はコールナンバーであるヴァルキリーそのものだ。勇敢なる戦士の魂をヴァルハラへと連れて行く……勇猛果敢な戦乙女。彼女たちのためならば、この命、燃やし尽くしても後悔はない。――この大塚の熱意は中隊全員に浸透していて……故に彼らは、大隊指揮官であったまりもの制止を聞かず、S-11でハイヴ内壁を爆破・崩落させ、自身さえその瓦礫に埋めながらも追ってくるBETAの大群を押し留めることに成功した。

 この三人の挺身によりほんの僅かの平穏が訪れているが、それだっていつまでもつかわかったものではない。崩落した横坑を放棄して、別ルートから追撃が来る可能性は拭えないし、まだあと半分の道のりが残っている。

 ともかくまりもは全員に小休止を言い伝え、自身も今の内にとドリンクを口にする。部下達は想像以上に疲弊している。自分だってそうだ。まさかハイヴ攻略がこれほどに神経をすり減らすものだとは……。しかも、敵の数が明らかに異常だ。ハイヴ突入以前から、地上でもその数は尋常ではなかった。作戦部が見積もった総数の数倍近い数がいるのは明白であり、どうやらそれは反応炉に近づけば近づくほど上昇しているらしい。

 ここに来るまでに数万単位の敵を飛び越えてきたわけだが、たった半分来るだけで十名を喪った。特に211中隊の損耗率が高い。既に七名が喪われ、中隊は一個小隊に再編成されている。水月とそう年の変わらないだろう大塚は、けれど大尉らしく隊長らしく気丈に不敵に振舞っている。この時代、貴重な男というだけはある。想像を絶する消耗にも屈しない精神力は賞賛に値した。……同じ男ということで、武にも気安く声を掛けてくれているのもありがたい。

 みちるから報告は受けていたが、武の過去の状態ははっきり言って狂っている。なんとかして真っ当なニンゲンに立ち直ることが出来ているようだったが、この作戦中に発狂しないとも限らない。薫の死、そして慶子と旭の死は彼を含む部下達に多大な影響を与えている。仲間の死に慣れてしまった自分やみちるたちとは違い、同期を喪った梼子、真紀……そして武たちの精神的ダメージは決して軽くはない。

 ようやく落ち着きを取り戻そうとしていた多恵は余計悪化していた。……なにせ、自身のミスで窮地に陥ってしまったのを、旭がその身を挺して救い出したのだから。誰が責めるわけでもないのに、多恵はそれを自分のせいだとして泣き崩れていた。そして、それにつられるように茜や亮子が落ち込んでいる。みちるとて悔しい思いはあるし、まりもにもそんな腑抜けた部下を叱るくらいの気力は残っている。ここがハイヴでなければ今すぐ管制ユニットを飛び出して、多恵を殴りつけているところだ。

 だが、ここは敵地のど真ん中であり、戦場であり、一瞬の油断が自身の死に直結する人外魔境の只中なのだ。故に、一人ひとりを立ち直らせる時間などないし、教育する暇もない。そんなまりもに、先任たちにできるのはただ一つ。

 泣くな。喚くな。生きろ。

 どれだけみっともなくても、どれだけ怖くとも、どれだけ悔しくとも。

 生きて、戦え!

 死力を尽くして任務に当たれ! 生ある限り最善を尽くせ! ――決して無駄死にするな!!

 みちるの掛け声と共に、ヴァルキリーズが復唱する。ようしいいだろう。その言葉を胸に刻めチキンガール。貴様らはなんだ? BETAに喰われてくたばる餌か? 奴らの胃の中で泣き叫ぶミンチか? 違う! 貴様らは英傑だ。貴様らは英雄だ。人類初のハイヴ攻略を成し遂げる勇気ある戦乙女、この国を世界を護り抜く衛士だッ! 仲間の死を嘆く必要などない。連中は皆誇り高く死んで逝った! 奴らの死を無駄にするような腑抜けは今すぐにここで撃ち殺してやるッ! 前を見ろ歯を食いしばれヴァルキリーズ!! 貴様らのその拳は何だ?! 87式突撃砲はBETAの顔面に36mmを抉りこめ! 120mm砲弾で微塵に砕き散らせ! 74式長刀は敵を裂き首を刎ね血風を撒き散らせ!! 貴様らはなんだ! 貴様らは英傑で英雄で衛士だ!! 生きて戦え! そして勝てッ!! 我々はA-01だ! この手に勝利を栄光を掴み世界中にその希望の輝きを煌かせる最強の牙だ!! ならばこの手に掴むは勝利のみ! 進め進め進み蹴散らせェ!

「――全隊前進ッ!! その身をBETAの血に染めろォオオ!!」

『『『『ォオオオオオオオオオオ!!!!!』』』』

 息をつく間もないまりもの激昂に、全員が呑まれていた。これが、かつて富士の教導隊に所属し、『明星作戦』では“狂犬”の二つ名のままに戦場を暴れまわったという、あの、神宮司まりも――。奮えるほどの激情に身を包み、みちるは、大塚は、真那は痛感していた。これが、この人こそが、“目指すべき目標”なのだと。歴戦を潜り抜けた自分たちでさえ消沈して諦めてしまいそうなこの逆境において、尚奮い立つことの出来る――奮い立たせることの出来る力。

 これが、指揮官というものの「力」なのだ。



 ただひたすら突き進むだけの行軍の中で、けれど多恵はまだ……一人震えていた。まりもやみちるの鼓舞に一時は感情の揺らぎを抑えられたが、今もこうして次々に無限に湧いてくるBETAの異形を目の当たりにして、次第に、徐々に、感情が悲鳴を上げてくる。ハイヴ突入直後の大襲撃に呑まれて散った先任の慶子。堆く重なり、崩れたBETAに押し潰されて死んだ薫。その恐怖に縮み上がり、お荷物となってしまった自分。そんな自分の迂闊さが旭を殺した。

 最早自分は、ただの疫病神ではないのか。こうして前に進むしかない状況に流されているが、もしかしたら、また自分のせいで誰かが死んでしまうのではないか? ……そんな恐怖が、どんどん、大きく膨らんでくる。

 B小隊からA小隊へと臨時的に編入されていた多恵は、部隊中央付近に配置されている。出来るだけ接敵しないようにとの配慮だろうか。或いは、役立たずの臆病者が矢面に立つ者の邪魔をしないようにとの措置だろうか。いずれにせよ、最早多恵の精神を安定させるには至らない。自由気ままな猫のような奔放さは見る影もなく、そこには消沈し、怯え、歯の根をみっともなく鳴らすか弱い少女がいるだけだった。

『多恵ッ! いいかげん前を見て!!』

 そんな彼女に掛けられる声。恐怖に滲んだ瞳を向けたその先には、突撃砲を撃ちまくりながら物凄い形相で睨みつけてくる茜がいた。その表情は必死そのもので、多恵のことを構っていられるほどの余裕など微塵もないはずなのに。けれど、茜の瞳は――どこまでも真っ直ぐに――多恵を見つめ、睨み据え、怒りと悲しみに濡れていた。泣いているのだ。彼女は――。

『泣いたって、怯えたって!! 薫はもう戻ってこない!! 高梨少尉も! 古河少尉も!! 帝国軍の人たちだって、みんなみんな!! 還ってなんかこない!!』

「……ぁ、あ、」

 そんなことはわかっていた。もう薫はいない。亡骸さえ見つけられない。旭は要撃級の前腕に潰されて絶命した。耳にこびり付くような断末魔が蘇る。足元から這い登るような冷たさが、一層多恵を縛った。

 気が遠くなるほどの銃砲の音。恐怖を振り払おうと叫ぶ声。咆哮。機体が軋み、悲鳴をあげ、それでも敵を切り裂く音。諦めて堪るかと喚き散らす各々の声。それらが入り混じった阿鼻叫喚の中で。不思議なほど、茜の声は透き通っていた。それは最前線で進路を切り拓いていた武や真那の耳にも届いていたし、奮迅の働きを見せる水月や真紀にも聞こえていた。初陣の恐怖とストレスに嗚咽をあげそうになる冥夜たちに。慣れたと思い込んでいた仲間の死に追い詰められつつあった美冴や梼子にも。後方を支える211中隊に、今この一瞬間も勇猛に指揮を執り続けるまりもに、みちるに。

 多恵に、届いていた。

『生きてるんでしょう!? まだ生きてるッ! 多恵はまだ生きてるじゃない!! だったら生きてッッ。薫の分も生きて!!! 高梨少尉だって! 今の多恵を見たらきっと哀しむ!! あんたは……ッ。生きて……生きて還るの……じゃなきゃ!!』

『そうじゃなきゃっ!! わたしは多恵を赦さない!!』

「!?」



 まるで胸を、臓腑を抉られるようだった。寸断なく二振りの長刀で敵を切り裂きながら、武は滾る己の血を確かに感じていた。涙ながらに叫ぶ茜の言葉の一つひとつ。そして、最後に晴子が次いで叫んだ一言が……光州での己を罵倒するように錯綜する。

 泣くな。震えるな。怯えるな。目を開けろ。その目で見ろ。この現実を受け入れろ。――お前を死なせない。

 ……そう言ったのは美冴だった。

 あんたは生きてる。生きてるのよ。――だったら、どんなに悲しくて辛くても……生きて生きて、精一杯生きて……、そして、鑑に逢いに逝きなさい。

 ……そう言ってくれたのは水月だった。

 今の多恵はあの頃の自分によく似ている。仲間の死に、先任の死に追い詰められ、苛まれ、自身の不甲斐なさに震え怯え泣いているその姿は……その原因はどうあれ、とてもよく似ていた。武には水月、美冴、そしてみちるという素晴らしき先達の教えがあった。直截的に、間接的に。肉体を、精神を、感情を、全てを支えて、叩き直してくれる強い人々がいた。そしてなにより、自分で考え、必死に足掻く時間があった。

 そのおかげで――その後も色々と追い詰められて気が狂うこともあったけれど――今、こうして自分はまだ生きていられる。武はそう確信している。同じ過ちを犯そうとしている多恵。彼女には武のように悩み足掻き這い上がる時間はない。

 今ここは戦場であり、全員が己の命さえ護りきれないような状況だ。そんな中で多恵のメンタルケアを行う余裕などないし、たった一人のために隊全体を危険に晒せるはずもない。だからまりももみちるも多恵のことを放っておいた。勿論、戦死した旭を無駄死ににさせないため、基地に戻ったら多恵を教育しなおしてやるために、その身を護るように戦っていたが……。

 けれど、そんな状況下で。自分だって同じように悲しくて怖くて震えているはずなのに。――茜は。晴子は。多恵を叱る。お前は何をやっているのかと。生きているじゃないかと。――だから生きろ、と。そうやって彼女に呼びかけている。

 はっとしたような多恵の表情が見える。……ならばもう大丈夫だ。自分はまだ生きていて、そして戦える。そう気づけたのなら、もう心配は要らない。築地多恵はまだ生きている。例え次の瞬間BETAの暴行に命を落としたとしても、彼女は今、もう一度戦う意思を取り戻したのだから。

「おおおおああああ!!」

 だから武は剣を振るうだけでいい。愛する茜を護り切るために。死んでしまった薫の魂を連れて還るために。みんなで還るのだと言っていた。戦って、勝って、生きて……。そう夜空に向かって叫んでいた薫と……共に還るために。

 一刀ごとに敵を殺す。一撃ごとに敵を殺す。一振りごとに敵を殺し、その身を返り血に染め上げる。――血が、沸騰する。血液が呼気と共に溢れる。左眼からは血涙が零れ落ち、視界が半分赤色に濡れる。――錯覚だ。気のせいだ。身体のどこにも不調はない。それはどちらかというと精神が紅く赤く赫色に染まって気が狂いそうなほどの昂ぶりを感じているために。

 絶対に生きて還る。絶対に死なせはしない。もうこれ以上、仲間を喪うのは御免だ。そう魂を迸らせているのは武だけではない。戦闘の度に同期を喪い、遂には二人だけになってしまった梼子と真紀。彼女達は涙こそ見せはしないが、その心はズタズタに泣き叫んでいる。部下の命を護ることが出来なかった水月、美冴の心痛はいかばかりだろう。過酷な戦場で、死人が出ないことなど在り得ないと知っていながら、まりもは、みちるは己を至らない指揮官だと……内心で罵倒する。ずっと一緒に過ごしてきた友人を喪い、茜は、晴子は、亮子は、多恵は……哀しみを生きる力に換えて。そんな多くの仲間達の姿を見て、千鶴たちは励まされている。

 だから、絶対に。

 この作戦は成功させる。甲21号目標は、絶対に必ず破壊する。――落とす。

 でなければ、誰一人報われない。散って逝った多くの者たち。A-01や211中隊だけではない。地上で今も戦い、そして死んで逝った者たち。他のルートから反応炉を目指し戦い続けているだろう者たち。佐渡島を取り戻し、日本を護ろうと戦い続ける者たち。……今日、この日を迎えるまでに命を落とした、全ての者たちの――命。それに報いるために。

 誰一人として無駄死ににしない。何一つとして無駄になんてしない。

 全ては今日、この時のために。この戦場で、この作戦で、ハイヴを叩き潰すために。BETAをぶち殺すために。その命を託してくれた、数え切れない人々に報いるために!

 だから、戦うのだ。みっともなく喚いて。はしたなく暴言を晒して。叫んで、悲鳴を上げて。怖くても恐ろしくても脅えても怯んでも悲しくても悔しくても怒れても狂いそうでも。それでも、だからこそ……ッ。戦って、勝って、生きて還るために。取り戻すために。総勢二十一名は突き進む。蠢きひしめくBETAの海を突き破る。国連軍と斯衛軍と帝国軍。三様の猛者が、各々の役割を徹底して貫き通し、轟然と敵を屠り散らす。進め。進め。前に進め! 目指すは反応炉ただひとつ。亡骸に眼をくれるな。悲しみに目を向けるな。

 今はただ、勝利だけを見据えればいい。――――泣くのは、生きて還ったその後でいい。




[1154] 守護者編:[四章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/08/09 12:00

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:四章-02」





 帝国軍第五師団第211中隊には、佐渡島を故郷に持つ者が数名いた。或いは新潟であったり、能登の出身の者もいて、中隊長である大塚もまた、新潟に故郷を持ち、BETAが佐渡島に侵攻するまでは母親と妹がそこに暮らしていた。父親は京都で戦死している。家族が疎開する中で大塚だけは帝国軍に籍を置き、戦いに明け暮れる日々を送った。二十三歳という若さで大尉に召し上げられるに足るほどの戦場を経験してきたわけではないし、精強さを秘めているわけでもない。だが、戦争は大塚の成長を待つことを許さず、頼るべき尊敬すべき先達が悉く戦死した帝国軍には、彼のような若い人材を重宝するほかない状況となっていった……。

 僅か数年。1999年の大敗北からたったそれだけの年月で、大塚の周囲は大きく変化した。若く美しかった母は精神的な疲労から髪に白さが目立ってきて、妹は知らぬ間に軍属に身を置いていた。数多くの戦友を、先達を喪い、気づけば中隊指揮官に奉られ、多くの部下を死なせてきた……。

 そして今また、一人が死んだ。甲21号目標。通称佐渡島ハイヴ。……故郷であるはずのこの地で、そいつは怨敵にその命を削られて磨り潰されて……死んだのだ。

 大塚は獣染みた咆哮を上げるとその要撃級を長刀で叩き斬り、部下の機体を破壊した前腕を斬り落とす。唾棄するかのように一瞥をくれて、次なる標的へと躍り掛かり、蜂の巣にする。残る部下は三人。同期でありずっと同じ部隊で戦い続けてきた副長に、その次に付き合いの長い古株の二人。ずっとこの四人で戦場を駆け抜けてきた。初めて小隊長を務めたその頃から今まで。大塚はずっと彼女彼らと戦ってきたのだ。

 ――俺はこいつらを、死なせようとしている。

「英ァ! 弾はいくつだ!!」

『予備弾倉は36mmが後一つ! 120mmは使い切りました!』

『隊長、弾が欲しいなら俺のを使ってください!! こんな連中ッ、ナナヨンがありゃ十分ですッ!』

 大塚が長刀をマウントしながら叫び問いかけると、二人の部下から明瞭な返事が届く。右腕に87式突撃砲を構えた“烈士”の不知火がにじり寄る戦車級を蹴散らし、74式長刀を構えたもう一機が手際よく予備弾倉を手渡してくる。その背後では副長の操る機体が巧みな剣技を見せ、要撃級を一体仕留めていた。

『隊長……ッ、このまま相手をしていたのでは本隊に追いつけなくなります! 急ぎましょうッ』

「ああそうだな。俺たちが死ぬのはここじゃねぇ!! 行くぞ野郎共!! この作戦ッ、負けるわけにはいかねぇんだっっ!!」

 珍しく逼迫した表情を見せる副長に頷き、大塚はこの場を振り切るべく指示を出す。前方を破竹の如く突き進むA-01の侵攻速度に追いつけず、敵の追撃を受けてしまったが、これ以上離されると不味い。包囲されれば死は確定し、距離が離れてしまえば矢張り死あるのみ。ここに来るまでで既に八人を死なせているが……だからこそ、全滅など許されはしない。

 元々、211中隊は地上部隊の一翼を担うはずだった。所属する第五師団の残る部隊は今頃地上で砂埃とBETAに埋もれ想像を絶するような地獄を見ているのだろう。……こちらも大して差がないように思えたが、それでも、どちらがマシだなどと比較できない。どちらも地獄。それが真実だ。そして、そんな地獄でも、大塚はここに居ること、“居られること”を、至福であると感じている。

 大塚はA-01に心酔していた。そもそもは十一月のBETA新潟上陸のそのとき。BETAに翻弄されるだけだった自分たちを嘲笑うかのような圧倒さで連中を虐殺した、その驚愕するほどの強さ。一糸乱れぬ部隊展開に、各人の底知れぬ技量の高さ。化け物かと唸るほどの戦闘機動。戦術機の限界を突破していると確信させる程の輝きを放っていた「あの」A-01と共に戦いたい……そう願うほどに、彼は心酔したのだ。

 その熱意を買ってくれた軍の上層部が横浜基地でのトライアル参加を承認してくれて……そこでA-01の強さの一旦である新型OSの性能に奮えた。このOSは本当に世界を変えてしまうだけの凄まじさを秘めている。そう確信して、益々……A-01と共に戦場を縦横無尽に駆け巡ってみたいと願うようになった。全軍にXM3を配備すべきだと最初に進言したのも大塚であったし、それを――夕呼とのやり取りもあったのだが――将軍が直々に認め、この『甲21号作戦』は実現している。横浜基地から最精鋭部隊がハイヴ突入の任を帯びるといい、その部隊と連携して作戦成功の確率を一厘でも上昇させよ、と。

 僅か一日でも長くXM3に触れ、そしてA-01の機動を一度でも目の当たりにしている第211中隊は。大塚の熱情にも僅かの期待をこめて、彼らにその大任を命じたのである。

 奮えた。大いに。大塚は昂奮と昂揚に雄叫びを上げ、その漲るほどの咆哮に、彼ら211中隊全員が大歓声を上げたほどだ。大塚がA-01に心酔しているように、部下達は大塚に心酔している。――惚れている、と言ってもいいだろう。だから彼らは皆大塚の命令に忠実であるし、それが例え死地に赴き、地獄の釜の底で……A-01部隊を一秒でも長く生き永らえさせ作戦を成功させるための捨て駒となるためであろうと、喜んでその身を投げ打つのである。

 ここまでで八人。そうして死んで逝った。――皆、大塚のために。大塚が惚れこんだA-01のために。彼女たちならば必ず故郷を佐渡島を日本を救ってくれると信じ、その確率を僅かでも向上させるために。

『大塚大尉ッ! 遅れているぞっ、早く来い!!』

 怒鳴るような通信に、大塚は苦笑した。多分美人なのだろうということはあの新潟から予想していた。そして、出逢った彼女は矢張り美人で、とても気が強そうな年上の女性だった。――ああ、本当に。

「はははは! 俺が離れてしまうと不安ですか。安心して下さい、伊隅大尉を残して死にはしませんッ!!」

『誰がそんなことを言った!! この莫迦ッ!!』

 ――さっさと来い!! そう吐き捨てて通信を切る麗しの戦乙女に、大塚は小気味よく笑う。――惚れたのだ。心の底から。故に彼は一層闘志を漲らせる。惚れた女が“来い”と求めているのだ。ならばそれに応えるのが男の役目であり、彼女のために命を張るのが、漢の誉れというものだろう。……そう言うと副長は溜息をついて諦めたようにするのだが、彼はそのことを余り深く気にしていない。……気づいていない、とも言えるのだが。



「まったく! この状況でよくもあれだけ軽口を叩ける……っ」

 みちるは呆れたように通信を切り、一人ごちた。後方に迫ってきたBETAの一群に捉まっていた211中隊――最早小隊だが――は更に一機を喪いながらも未だ健在。ようやく敵を振り切ってこちらへ向かってきている。打撃支援の晴子にその援護を命じ、自身は前面に躍り出て要撃級を狩る。両脇を美冴と亮子が固め、後方からは梼子と茜が援護を加えてくれる。ここまでに通り抜けた広間は一体いくつだったか。もうどれだけの時間この薄暗く不気味な敵の腹の中にいるのだろうか。

 歴戦の勇士と誉めそやされたこともあるみちるだが、はっきり言って限界が近い。ヴォールクデータを元に開発されたハイヴ攻略プログラム。その最高難度のS難度で反応炉破壊、そして生還までやってのけた彼女たちA-01だったが、所詮それは架空の話でしかなかった。……現実は、これだ。どこを見てもBETAばかり。前も横も後ろも、そして上さえも。BETAに埋め尽くされ、BETAが溢れかえり、BETAで塗り潰されたこのハイヴ。正直、気が狂いそうだった。

 自分でさえこうなのだから、指揮下で戦い続ける部下達のストレスはどれ程だろう。みちるの左方で感情を振り絞るかのように喚いている亮子を見る。彼女は薫の親友だった。同期仲のよい彼女たちの中で、この二人は本当に仲が良く、いつも一緒に居たように思う。網膜投射に映る表情は温和でマスコット扱いをされていた亮子とは似ても似つかず、必死の形相で、涙の粒を散らしながら、一刀一刀を、嗚咽と共に繰り出している。

『わぁああ! ぁぁぁあああ!! ぅぅうああああああああっっ!!』

 行く手を阻むように進み出た要撃級の頸を断ち切り、戦車級の体躯を踏み潰す。翻した刀は次なる獲物を抉り飛ばし、それでも亮子は振るう刀を止めなかった。――こいつらっ! こいつらが薫さんを!!!

 その感情は悔しさと哀しみと、何よりも怒りに満ちて。……亮子は薫が絶命する瞬間を見ていない。周囲に溢れかえる敵の物量に忙殺され、自分の身を護ることで精一杯だった。だから、亮子が親友の死を知ったのは……皮肉にも、多恵の上げた悲鳴である。その瞬間、亮子の世界は色褪せてモノクロに染まった。足元が崩れ落ちそうな衝撃に、呼吸が凍りついた。どこを見ても薫の不知火の姿はなく、データリンクにも映らない。各員の顔が表示されている縮小ディスプレイも……12のナンバーがつけられたそこは真っ黒で……。震える声で名前を呼んでも、誰も返事をしてくれなかった。

 だから世界はモノクロのまま。――そうして亮子の世界は、緩やかに崩壊を始める。

 みちるの目には、亮子は親友の死に押し潰されまいと必死に戦っているように見えた。まりもや、先の茜の言葉に励まされ、己の成すべきことを正しく認識し、任務のために我武者羅になっているのだと、そう映っていた。だから、鬼気迫るその表情も、BETAに対して微塵の躊躇も容赦もない攻撃も。“ちゃんと戦えている”ように見えてしまい、まさかその内面が既にボロボロに憔悴しきっているなどということは思いもしない。

 ……これは、みちる自身が消耗してしまっていることと、何よりも、薫が戦死した瞬間の多恵の暴走が原因だ。あの時は誰もが多恵の絶叫を耳にし、誰もが多恵の精神状態を案じた。このままコイツを放っておいては隊全体が危機に陥る――そういう危惧が、何よりも優先されていた。だからこそ、表面上はショックの余り言葉もないように見えた亮子の内面に誰も気づかず、察せず、そうして全員が仲間の心情を思いやる余裕もないくらいの消耗を続けていった。旭の死もある。多恵は完全に錯乱していたし、周囲の者もとにかく必死だった。

 “だから”、次の瞬間亮子の口から発せられた言葉に、みちるは一瞬の硬直を生み、美冴は驚愕に顔を染め、茜は、晴子は…………それを聞いた全員が、絶句した。



『ぅぅああああ!! お前らッッ! お前ら全部ころしてやるぅううッ!!!!!!!!』



 それが亮子の口から吐き捨てられた言葉だなどと、誰一人信じることが出来なかった。小さな身体をぶるぶると奮わせて、白と黒の世界の中で、少女は暴虐の剣を振るう。喚き、叫び、返せと。薫を返せと泣き叫びながら。

 そうしてようやく知る。あのまりもの喝も、多恵を諭す言葉も……何もかも、ずっと。亮子には届いていなかったのだと。亮子だけ、ずっと、薫が死んだその瞬間に囚われ続けていたのだと。反射的にみちるは動いていた。同時に、美冴もまた、取り押さえようとするかのように。機体を走らせる。敵中へと躍り掛かる11番の不知火。取り返しのつかないことになる前に。暴走は何も生み出さないと知っている彼女たちは――まるでそこにかつての武を見たようで――絶対に行かせてはならないと、刹那に行動した。

『――莫迦野郎ッッッ!!』

 みちるの耳に届いたのは血を吐くような悔恨の音色。眼で確認する暇もないが、それは武の声だった。ただ一言。たったの一言だったが……そこにみちるは、彼の成長を見た気がした。A-01の中でただ一人、彼だけが亮子の心理を理解できる。武だけが、復讐に魂を委ねることの愚かさを知っている。――だから、その言葉は、罵りは。たった一言ではあったけれど、みちるや水月、美冴、梼子、真紀……あの光州での地獄を見た彼女たちに、染みる。自分たちのしてきたことは決して無駄ではなかったのだ。過ちは、正すことが出来るのだ。

 そう。だから亮子――お前を止めてみせる。もう二度と、武のような過ちを犯すものを出したりしない。

 その美冴の決意は、確かに届いた。進行方向から外れようとしていた亮子の不知火に寸前で追いつき、その腕を掴む。機体に無理矢理な制動をかけられてつんのめるような亮子を、みちるが強引に引き戻した。眼前には要撃級の群れ。急いで後退しようとするみちるたちを援護すべく、梼子と茜の放つ36mmが敵を穿ち、晴子の87式支援突撃砲が火を噴く。部隊に追いついた211中隊が更に加わり、A小隊からも援護が来る。

 速やかに本体へ合流したみちると美冴は亮子の機体をホールドしたまま、隊形の中央へ移動する。まりもの怒号が全員に飛び、遊撃小隊とB小隊の猛攻が切り拓いた道をともかく奔り抜ける。止まっている暇はない。亮子の絶叫がどれだけ木霊しようとも、その憎悪を、感情のままぶつけさせるわけにはいかないのだ。そしてなにより、そんな無様を晒して亮子を死なせるわけにはいかなかった。

 生きて還る。全ては、散って逝った仲間を無駄死ににさせないため。

『月岡ァ!! 立石は復讐なんて望んじゃいないッッ!! 復讐はッ、怨讐はッッ……! ただの血に塗れた自己欺瞞に過ぎねぇんだよ!! お前はまだ戻れるっ! 俺みたいになるんじゃねぇええ!!!』

 敵を切り裂きながらの咆哮は、果たして亮子に届いただろうか。その武の叫びは、悔恨を吐き出すような悲痛さを伴っている。俯いてしまっている亮子の表情は見えない。そして武もまた、真那と共に目の前の敵を蹴散らすのに必死で、亮子の顔を見ている暇などなかった。……互いに相手の顔さえ見ず、けれど、言葉だけがある。ぽつりと呟かれたその音を、みちるは安堵の吐息と共に聴き取った。

 ――薫さん……わたし…………………………戦います。

『亮子ッ! 無事?!』

『ヒヤヒヤさせないでよぉ~っ!』

『亮子さんっ……大丈夫ですかっ!』

 そして次々に亮子へ向けて掛けられる言葉たち。茜に晴子、壬姫の案ずるような表情に、彼女は小さく頷いて見せた。ごめんなさい。ありがとう。そう口にして、亮子は再び自身の刀を構えた。みちると美冴は拘束を解き、再び戦中へ躍り出る。亮子の顔色に最早翳りはない。世界は、再び色を取り戻していた。――こんなにも、涙が込み上げてくる。一度だけ涙を拭って、亮子もまた、みちるたちの後を追った。



 まるで己の身を裂くかのような叫びだと冥夜には思えた。

 先程の武の言葉。それは亮子に向けられていながら、己への罵倒そのものだったように思う。悔恨は果てしなく、けれどそれを乗り越えたものの強ささえ感じさせる。そういう意味においても、目の前を行く武の姿は、凄絶に映っていた。斯衛の武御雷。紅の機体と鏡写しのように――螺旋は龍の体躯となり、その疾駆は竜巻が如き暴虐を生み――一糸乱れぬ、猛攻という名の進撃。真那の実力はこれまでの訓練でも厭というほど思い知っていたし、今日この瞬間までにも幾度となく目にしてきた。剣士として、衛士として、武人として。微塵も敵わぬ強さを誇る真那……そして、その彼女と肩を並べて戦える武。

 出逢ったそのときから、強い男だと感じていた。共に過ごす内に、脆い面もあり、なにかとてつもない傷を抱えているのだと知った。……それは復讐。恋人を奪ったBETAへの、禍々しき狂気の奔流。冥夜は、そのことを偶然の再会から知っている。護りたかったのだと言っていた。愛する幼馴染を喪った慟哭。それが、武の全てであった。

 だからこそ、武の叫びは。亮子へ向けられたその言葉は――胸を抉るような哀しみを伴っていて……。冥夜は緩く首を振る。今は、そんなことを考えている場合ではない。最前線を遊撃小隊に奪われているが、冥夜とてB小隊の一員。戦場を先駆け、後から続く仲間達の進む道を拓くのが役割だ。しかもここはフェイズ4のハイヴである。次から次へと溢れてくる敵は膨大で尋常ではなく、どれだけ切り伏せても抉り散らしても全くの無駄といわんばかりに湧いて現れて進路を塞いでくる。

 故に全てが戦場。全てが最前線。冥夜に出来ることは二機連携を組んでいる慧と必要以上に離れないことと、先を行く真那や武、水月、真紀たちに置いていかれないように足掻くだけである。ともすれば初陣とは思えないほどの戦闘力で突き進む冥夜は、研ぎ澄まされた精神集中のもと、的確に敵を削っていく。隣ではインファイターである慧が長刀で戦車級をぶった斬って蹴散らしており、彼女も大概凄まじいなどと感じている。

 こと才能で技量をはかるならば、冥夜や慧、壬姫などは隊内でもずば抜けていると言える。真那や武の強さは不断の修練の結果であるし、まりも、みちる、水月といった古参はその経験と厳しい訓練の賜物であろう。先天的な何某を持ち合わせているというなら梼子や晴子もそうであろうが、それは冥夜たちほど顕著に現れているわけではない。

 初陣で、突撃前衛で、しかもハイヴ内で――これだけ戦えるというのが、既に異常である。こと初陣というものは周囲を見失いやすく、己さえ見難くなるものだ。武の初陣がいい例だろう。或いは、茜たちの初陣と比較しても、冥夜たちほど冷静に戦えてはいない。つまり、苦しげに息を荒げながらも冷静そのものに敵を葬っていくことの出来る冥夜と慧は、それだけで十二分に凄まじい才能と実力を兼ね備えているということになる。特に冥夜は、この状況で武の様子にさえ気を配ることが出来ているのだ。

 己だけでなく、周囲の状況さえ把握出来ている事実。それがどれほどに凄いことかを、冥夜はわかっていなかった。

「……白銀……?」

 そんな冥夜だからこそ、躍り来る要塞級の尾節を回避しながらに――その槍のような脚の付け根に向けて武の不知火が跳躍し、壬姫の狙撃が理想的な射線を描いて確実にダメージを与えていく――そのことに、気づくことが出来た。

 赤い。眼が。そして、まるで泣いているかのように一筋…………武の目から、流れ落ちていた。冥夜は眼を疑う。気のせいだと思いたかった。けれど、武が忌々しそうに拭ったそれは頬を汚すように伸びて、まだ流れている。

 血涙。

 きっとアレはそういうものだという認識が、冥夜を凍りつかせた。

「しっ、白銀!? そなた……目が……ッ?!」

『傷が開いただけだ』

 強張ったように問うた冥夜だが、次の瞬間にぴしゃりと言い切られてしまい、二の句を失う。けれど、そのやり取りで他の隊員も武の尋常ならざる様子に気づいていた。真っ赤に充血した両目。眦から零れ落ちる赤い液体。涙……なのかもしれない。或いは、武の言うように、顔の裂傷が開いたのか。だが、それならば何故…………なにゆえに、右眼からも零れ落ちているのか。流れているのか。

 再度武は血涙を拭う。頬は拭われて伸びた血色に汚れたが――それで、血は止まったらしかった。先程まで拭っても流れていたソレは、もう普通に止まっていて……一体それがなんだったのかわからなくなる。周囲の、予断を許さぬ状況もそれに拍車をかけた。武を気にしている余裕など誰にもないのだ。彼のことをだれよりも愛し、想い、心を寄せている茜であろうと、武に一声掛けることさえできない。

 進む先には左方から合流するような横坑の出口が見えている。そこから要塞級をふんだんに含んだ大群が吐き出されているのも見えた。冥夜は――いや、彼女だけではない――水月は、真那は、茜は。一時的とはいえ武の血涙の事実を忘却し、目の前に迫り来る脅威へ対処すべく意識を切り替える。武とて、当然の如く先陣を切っていた。

 多分、それが――初陣の者と、一度でも戦場を経験し、生き延びた者との差であろう。冥夜は痛感する。慧は驚嘆する。後方にいる千鶴や美琴や壬姫も同様に。あれだけの数の化け物を相手に、尚果敢に挑めるその姿は……何よりも、壮絶で美しい。

 この地獄のような戦場で、BETAの胃の中ともいうべき醜悪さの中で。

 それは、なによりも美しい――そう在りたいと願わせる輝きに満ちていた。故に、希望。この戦いは「希望の煌き」を実現させるために。戦術機甲部隊だけでハイヴを攻略できるのだという新たな歴史を築くための礎。負けは許されない。『G弾』など使用させない。AL4を完遂させる……そのための、絶対の、戦いなのだ。



 ここにきて大型種が増えてきている。――地上陽動部隊が全滅したか? 真那の脳裏に最悪の状況が過ぎる。いや……それは臆病な自分が見せる悪趣味な妄想だろうか。最精鋭と謳われる斯衛五個師団に帝国軍総軍の三分の一近くを動員しているこの『甲21号作戦』。そう易々と地上部隊が全滅するはずがない。あってはならない。……だが、こうして目の前に、そして今更のように要塞級が群を成して押し寄せてくるならば、陽動は失敗に終わったか――そうでなくても、予想していたほどの効果を挙げられなかったかのどちらかしかない。

 連中が吐き出されているあの横坑は恐らく地上から伸びているものだろう。解析したデータを信じるならば、反応炉へ続く道は今自分たちが突き進んでいる正にコレなのだから。いや、ひょっとするとこれから地上へ進出しようとしていた連中が、真那たちの接近を知って引き返してきたのか。なんにせよ、厄介極まりないことに違いはない。ことここに至り――これまでにも数という暴力の意味を散々思い知らされてきたのだが――敵の増援が格段に跳ね上がっているように思える。自分たち以外にも複数のルートからハイヴ突入部隊は展開しているはずだが、その彼らも同じような目に遭っているのだろうか。

 この現象が示すことはつまり、反応炉はもうすぐそこだということだ。

 これだけ執拗に、しかも大型種まで持ち出してくるということは、連中の抵抗にも熱が入っているということだろう。これ以上進ませてはならないという防衛本能のようなものが、前からも後ろからもそして横からも、次から次に増援を送り込んでくる。……これで地上にも数万規模の敵が展開しているのだろうから、本当に、連中の最大の脅威はその物量なのだと痛感させられる。

 そして、だからこそ己の剣術は、父が生み出したこの螺旋剣術は、有効である。衛士一人に出来ることなどたかが知れている。戦術機一体が一度に相手できるBETAの数など極僅かに過ぎない。精々が正面に居る一体。或いは弾丸をばら撒くことで複数体。そしてそれは突き進みながらではなく、足を止め、防戦においての話だ。確かに月詠の剣術も防衛線に最も適した剣術といえる。人類はBETAの暴虐に対し、“攻める”気概を削がれるほどに追い込まれ追いやられていたのだから……そのための手段を講じるのは当然とも言える。

 けれど今は攻めるときだ。ハイヴに突入してから今まで、一度たりとも防戦に徹したことなどない。突撃力、或いは突破力というものならばA-01B小隊の水月には遠く及ばない。けれど、月詠の剣術は――龍の顎と称するべきそれは、対物量戦の究極の一つであるその剣閃は。

 矢張り、一対多を実現するに当たり理想的な機動を可能とし、手当たり次第に敵を切り捨てる荒業を可能としているのだ。

 武の不知火が要塞級を血祭りにする。真那の武御雷が振るわれる尾節をバラバラにする。多脚は見る間に千切り飛ばされ、腹に小型種を抱えたままの要塞級は崩れ落ち。戦車級を要撃級を押し潰し、砕けた外殻から内蔵された小型種が這いずり出る。水月と真紀の突撃砲がそれを食い散らし、冥夜と慧が屍骸にたかる蟲どもを薙ぎ払う。まりもの咆哮が隊内を衝き抜け走り、みちると美冴が手当たり次第に撃ち殺す。茜と亮子が長刀で叩き斬り、梼子に美琴が弾幕を張る。多恵は千鶴と共にB小隊の背中を護り、晴子と壬姫が必中の一撃で敵を削る。白い三連は縦横無尽に戦場を駆け巡り全体を支援し、211中隊が背後から吶喊する突撃級を防ぎきる。

 全員が死に物狂いで戦っていたが、あまりに多い敵の増援に侵攻速度が極端に低下した。ハイヴ内で要塞級――しかも十数体はいる――を相手にすることの厄介さを、全員が思い知っている。ハイヴ突入の直後。地上に出ようとしていたのだろう一群を突破しようとした際、たった二体の要塞級に、A-01は慶子を食われ、211中隊は二名を溶解させられた。だからこそ、この数を相手にすることは困難でありリスキーであり、出来るならば無視して突破を図りたいのだが……そう簡単にはいかない。

 要塞級一体を葬るのに要する時間は数をこなす内に短くなっていくが――これは極限状態にある彼らの成長速度が尋常でないことを示している――体力精神力、なにより装備が無限ではない状況では、そう長く続かない。真那は思わず舌打っていた。要塞級の脚を叩き切った瞬間に、自身の長刀が根元から砕け折れてしまった。これで残る長刀は一振り。この先補給がないことは百も承知だが、非情な現実に思わず天を仰ぎたくなってしまう。そんな弱気を一瞬でも見せそうになった己を盛大に唾棄しながら、真那はすぐさま長刀を装備しなおし、次なる要塞級に切りかかる。――今まで相手にしてたソイツは武と水月の攻撃で死に絶えていた。

 卓越した剣技を活かして、長刀や機体に掛かる負荷を最小限に抑えていた真那でさえ、ここに至るまで四本の長刀を駄目にしている。二刀流を好んで行っている武にいたっては既に七本目だ。主腕がまだ繋がっているのが奇跡的である。最後に補給を行ったのはいつだったか。既に211中隊からは弾切れを起こしているものもいる。

 ハイヴ突入以前からこういう事態は想定されていたが、後のない状況がこうして現実味を帯びてくると、それでなくても極限に追いやられているのに、更に焦りが生じてくる。こんな連中を相手にしている暇はないのに――そういう焦れた感情が、小さなミスを生み、或いは現実の過酷さに目を逸らしそうになり……ほんの些細なきっかけで、張り詰めていた糸は千切れてしまうことがある。



 晴子は眼がいい。視力についてもその通りだったが、彼女は全体を見回す能力に長けていた。これはある種の才能と呼べるもので、訓練兵時代から、まりもの指導の下成長させてきた長所である。だからこそ打撃支援という重要なポジションに就いているのであり、この己の利点を晴子はよく理解していた。味方の動きもさることながら、予測が難しいとされるBETAの行動までを一元的に把握することが出来、それを瞬時に取捨選択、行動に移すことができる。

 壬姫にも同じような才能が備わっているが、彼女の場合はこの能力が狙撃対象に特化したものであり、そして狙撃能力そのものに反映されている。晴子の場合、とにかく援護射撃が巧みなのだ。或いは、遠方から敵の行動をコントロールできる……というべきか。この晴子の的確な支援に、制圧支援担当が便乗し、現在の地獄はある程度対処可能な状況を保ち続けられている。どれだけの突破力、近接戦闘能力があろうと、BETA相手に単機では戦えない、という事実がここに現れていた。

 そして今も、晴子は持ち前の視野の広さから敵を狙い撃ち、仲間が窮地に追いやられぬよう、必死になって機体を操っている。無論、自身の身も護らねばならないから生半可なことではない。自分のフォローをしてくれる茜や211中隊の人たちがいなければ、とっくに晴子は死んでいただろう。要塞級を大量に排出した横坑を通り過ぎる。そこからは未だに小型種が漏れ出ていたが、どうやら大型種は品切れらしかった。A-01の先頭集団はようやくあと三体にまで減らすことが出来た要塞級を駆逐すべく獰猛に攻撃を仕掛けている。

 その攻撃部隊に支援突撃砲で援護を加えつつ、全体を把握。残弾数はもう残り僅か。出来るならばこれ以上の無駄弾はばら撒きたくないところだが――がぢっ――と、耳障りな音がした。

 瞬間、晴子は左腕に短刀を握り、左主脚部に取り付いた戦車級を抉る。前方の要塞級、更に消耗した装備に気を取られた一瞬の隙を突かれた。足元を疎かにしていたつもりはないが、結果はコレだ。晴子は思わず眉間に皺を寄せてしまう。取りつかれた部位に目立った損傷はない。警報も出ていないし、正常に稼動している。

『晴子ッ!?』

「あははっ、ちょっと油断した。大丈夫だよ、茜」

 フォローし切れなかったことを詫びるように茜が通信を繋いでくるが、この激戦の中、完璧な援護など行えるはずがない。戦車級の接近を許したことを、彼女が謝る必要はないのだ。自分の身は自分で護る。これが戦場の原則なのだから。そんな二人の耳に、つんざくような悲鳴が届き、ぎょっとしたその瞬間には、背後から帝国軍仕様の不知火がぶっ飛んできた。回避できたのは偶然でしかない。茜は反対方向へ跳んで回避している。親友の無事に胸を撫で下ろしながら、研ぎ澄まされた感覚が一体何が起こったのかを冷静に確認する。

 大塚の怒声が響く。サブカメラが捕らえたのは、通り過ぎた横坑から出現していた要塞級の一群。先の大群に遅れたのか、四体のデカブツが自慢の尾節を振り回しながら猛然と走ってきていた。――はやい。

『くそっ! 背後をとられたっっ!?』

『形勢が不利です! 振り切れ――――…………』

 罵るように叫んだ大塚に進言しようとしていた英の通信が不意に途切れる。一々確認するまでもなく、その機体には強酸性溶解液を分泌させることで恐れられている尾節が突き刺さっていた。声にならない絶叫が、晴子の背筋を走り抜ける。これは、絶望的な状況ではないのか。

 要塞級を打倒することは、かなりの技術、実力を有するものたちが揃っていれば、そう難しいことではない。もっとも、二機連携でこれを撃退してしまえる真那と水月は例外中の例外と捉えられるが、現実に帝国軍衛士の中にはこれを可能とするものが多くいる。要塞級の最大の脅威はなんといってもその尾節で、認識圏外から迫り来るその暴威を察せないもの、或いは察しても行動に移せないものには、これを相手取るのは難しい。また、かわすといってもただ跳躍すればいいわけでもなく、空中に跳びのいたその先でこそ、卓越した操縦技術が必要とされる。

 つまり、尾節は動くのだ。それこそ一個のイキモノのように。関節などなく、けれど鞭のようにしなるだけでもなく。“動く”のだ。追ってくる――のだ。三次元的に振るわれ、その全てを見極められないものは、いずれ叩き潰され、或いは先端に貫かれ、絶死する。

 晴子は……激しい機動を得意としない。出来ないわけではない。が、突撃前衛を務める彼女たちには及ばないし、斯衛や武の機動など逆立ちしても真似できない。ドッペル1の超絶機動などは見ていて笑うしかないほどだ。それでも、XM3に長期間にわたって触れていること、周囲同様にそれなりの実力と才能を秘めていることが相乗して、少なくとも平均の衛士以上には、卓越した技能を身に付けられている。

 が。この状況。背後から要塞級に追われるという冗談では済まない状況の中で、その平均を上回る程度の機動がどれほどの成果を上げるというのか。諦めるつもりは微塵もなかったが、一抹の不安が宿るのも事実。なにせ、もう二人死んでしまっている。湧いて出た要塞級に慌てたということもあるだろう。……けれど、自分よりも遥かに実戦経験のある、実力を持った衛士が、あっという間に殺されたのだ。

 表情からいつもの笑顔が立ち消え、歯の根がガチガチと鳴ってしまっている。――ねぇ、さっきさ……脚に、戦車級が……――そんな不安が過ぎってしまって、まさかと機体情報に何度も目をやってしまう。薫はどうして死んだのだったか。慶子は? 旭は? 211中隊の人たちは、一体どうやって死んでしまったのだったか。ぐるぐると思考が空回りして、それでも彼女の“目のよさ”が辛うじて回避を続けさせている。避けられている。

『晴子ォ!!』

『晴子さん!!』

 切羽詰ったようなその声に、狙われているのは自分らしいと確信する。211中隊の最後の二人はまるで晴子から追いやられるように大きく回避を続けていて……けれどこちらは遊撃小隊の白い武御雷と合流出来ている。茜と亮子がなんとかして晴子を救おうと接近を試みてくれているようだが、こちらに迫り来る尾節をかわせばかわすほど、彼女たちからどんどん離されてしまう。みちると美冴の両名が要塞級の一体を牽制し、梼子の支援砲撃が現状考え得るモアベターな援護を与えてくれるが――――しろがね、くん――――目前に迫った要塞級の尾節を、右に回避しようと、した。

 の、に。



 ひどく呆気ない音がした。目に映ったのは、左の主脚から火花を散らせた不知火がバランスを崩してよろめいた姿。けれど、次の瞬間には横なぎに払われたナニカ太いものだけがそこに在って、蒼色をした戦術機などどこにもなく、9番の不知火など形もなく、柏木晴子の姿も形も声も顔もなにもかも。

 こちらを追撃しようと迫り来る突撃級の集団がいる。滅茶苦茶に追い縋ろうとにじり寄る要撃級の大群がいる。その物量で圧しかかろうとうねり来る戦車級の波高がある。そちらの方向から鉄屑を踏み潰したような気持ち悪い音がして…………それで終わりだった。またひとり、仲間が死んだ。

 晴子が、いなくなった。

「ぃやああああああっっ!!??」

『そ、そんなッッ!! 晴子さんッッ!!?』

 BETAにしてみれば一番狙いやすい位置にいたのが晴子だったのだろう。ただそれだけなのだろう。他に理由はなく、ただそれだけ。晴子に要塞級の攻撃を回避し続けるだけの技量が足りなかったこと、或いは戦車級にとりつかれたことこそが最大の不幸。きっと、これはそういうことでしかないのだ。――それでも、納得できないことはある。

 いい子だった。最高にいい友人だった。初めて逢ったその日、自分と二人で武をからかった。自分の想いを察してくれて、相談に乗ってくれて、励ましてくれた。冗談ばかり言って、場を引っ掻き回すことが楽しくて。そんなはた迷惑な一面も、思いやりに溢れた優しさも……全部、今も鮮明に思い出せるのに!!

 薫も、晴子も!!

 ――もう、いない!!!!!!

「ぅぅうぁあああああ!!!!」

 茜の精神が悲鳴を上げる。亮子もまた、泣き叫んでいた。届かなかった。間に合わなかった! 親友が目の前で死んだ! 目の前で、あと僅かのその距離で!!

 多恵が薫の死に恐慌をきたしたのがよくわかる。亮子が薫の死に我を忘れたことがよくわかる。――武が、鑑純夏の復讐に狂った気持ちが、これ以上ないくらいの最悪さで、実感できた。ああ、これが仲間を喪うということなのだ。目の前で。手の届かなかったその場所で。

 薫も晴子も。二人とも。……そして慶子や旭、211中隊の大勢のひとたち。

 心が嗚咽を上げる。血が滲むような悔しさ。――武、助けて武っ……しんじゃった……晴子が、しんじゃったよぉ……!



『ぃやああ! 晴子ォオオ! ぁああっ……武ゥ!! 武ッッ!! 晴子、死んじゃった……っぁああ、晴子がッッ!!』

 引き裂かれるほどに心が痛む。耳に届く茜の泣き叫ぶ声を聞きながら、けれど武は止まることを許されなかった。残る要塞級はあと二体。こいつらを一秒でも早く片付けること、突き進む道を築くこと。それが武に与えられた役割であるというなら、迅速に速やかに成し遂げなければならない――でなければ、次は茜が死んでしまう。

 どれほど愚かしいことだと理解していても、もう二度と犯すものかと精神力を振り絞っても、感情の爆発は止められない。最高の友人を奪われて、最高の仲間達を奪われて――それも二人も! ――けれど、狂うことは許されない。武はBETAへの怒りを沸騰させながら、速やかに長刀を振るう。今はただ前に進むだけだ。嘆くのも泣くのも全部後回しにして、武は必死に理性を保とうと足掻いていた。

 限界だ、ということは自分でもわかっていた。薫が死んでしまってから、酷い頭痛がする。血涙なんてものを流したのがいい証拠だ。武の脳髄が悲鳴を上げている。爆発しそうな激情に、クスリでボロボロになった脳ミソが耐えられない。畳み掛けるように旭が戦死し、そして晴子が逝った。心臓はとっくに壊れているかのようで、さっきから呼吸が落ち着かない。偉そうに亮子を諭したりしてはみたものの、武自身が、自分の感情の限界を確信していた。――もう、もたない。

 まりもの命令で隊形を執り直した211中隊は斯衛の白い武御雷三機と共に最後衛を任され、とにかく要塞級の接近を押し止めようとしている。進行方向で暴れている邪魔者をどうにかしない限り、要塞級に前後を挟まれているこの最悪の状況は覆らない。突き破るしかないのだ。

『武ッ!! 今は反応炉を破壊することだけを考えろ!! お前の護りたい者を思い出せッ!!』

 まるで冷たいナイフのように、真那の言葉が心臓に突き刺さる。――狂うな、抗え! まるで地獄のような感情の奔流に流されるなと、師の言葉が強制する。突き破るしかないというなら、それをわかっているなら、果たせと。怒りと悲しみにぶれる感情を無理矢理制御して捩じ伏せる。これ以上殺させて堪るか。これ以上死なせて堪るか!!

 ――これ以上、俺を、茜を苦しめる貴様らを!!

「俺は絶対に許さねぇえええええ!!」

 死ね。死んでしまえ。殺してやる!! ――だからそこをどけ。さっさと失せろ化け物め。冷静に、怒りに我を忘れることなく。復讐に身を焦がすことなく。冷静に。そして迅速に。完璧に。機体を操り、長刀を翻し、真那と共に、水月、真紀、冥夜、慧と共に。一体を屠り。最後の一体を潰す。頼むから死んでくれ。もう……これ以上は勘弁してくれ。捩じ伏せたはずの感情が、たったこれだけの時間で暴れるように咆え滾る。もうこれ以上は無理だ。抑えることなんて到底出来ない。――だってもう、我慢なんて、出来そうもないんだ……ッ!

 こんなにも苦しい。

 こんなにも悔しい。

 こんなにも、こんなにも恐ろしく、怒り狂いそうで。

 これが……ああ、この感情が、仲間を喪うということなのだ。同期を、戦友を、友人を亡くすということなのだ。

 薫のときは精神が感情を凌駕していた。極限まで疲弊していない肉体が、それでも任務を優先させてくれていた。でも……もう駄目だ。背中を護ってくれる211中隊は次々に死んで行き、晴子まで死んでしまった。少なくとも武にとって、きっかけは薫の死だったのだと思う。彼女がBETAに命を奪われてから、少しずつ、余裕がなくなっていった。周りを見渡す余裕がなくなり、殺しても殺しても湧いてくるBETAに体力を消耗し、精神が疲弊し、進んでも進んでも先が見えず敵だけがやって来る状況が、更に追い討ちをかけてくる。

 疲労して罅割れてボロボロで。そんな状態の武に、晴子の死までが圧し掛かっている。亮子が見せた危うさや、茜の悲鳴がこびりついてどうしようもない。耐えられない。頼むから、もうやめてくれ――そんな泣き言を言いたくなってしまう。

 先達はそんな素振りさえ見せずに戦い続けている。……自分には彼女たちのような経験も精神力もないということなのだろうか。同期を喪ったのは梼子も真紀も同じだ。遂に彼女たちだけになってしまった。仲間の多くを喪っているというなら、まりももみちるも、水月も美冴も同じだった。長く戦場にいる彼女たちは、これまでに一体どれだけの数の戦友と死に別れてきたというのか。

 部下を喪う心の痛みが、自分たちと違うとは思わない。皆、悔しいに違いなく、悲しいに違いなかった。怒りを胸に秘めて、けれど、軍人としての――衛士としての役割が、冷静に冷徹に戦闘を続けさせているだけに過ぎない。ああ、だって――ここで感情に支配されてしまっても、もう彼女たちは戻ってこないのだから。ここで復讐に狂ったとしても、任務が成功しなければそれは無駄死にだ。……決して無駄死にするなという、隊規の一節が脳髄を抉る。

 それが、狂うことを赦さない。

 生きて還る。そう言っていた。戦争が終わったらどうしたいかと、彼女は聞いた。――ああ、そうだ。生きて還るんだ、みんなで。そして、この戦争が終わったら、涙が出るくらいの平穏を……みんなと共に、生きてみたい。

『武!??』

「――――ッ、」

 左腕が千切れ飛ぶ。要塞級最後の一体。十本ある多脚の、その十本目を叩き斬ったのと同時、とうとう積もり積もったダメージが、機体の強度を越えてしまった。火花を散らしている左腕を肩部からパージして切り離す。残った右手一つで、残りどれだけ戦えるだろうか。もう、真那と二機連携を組むことは出来ない。下がれと言う師の命令に大人しく従い、武はB小隊の中に身を置いた。代わりに水月が先頭に出て、真那と連携を組む。

 障害はなくなった。背後から押し上げてくる敵は減る気配を見せないが、とにかく、道は開けたのだ。残るは要撃級と戦車級の肉絨毯を踏破するのみ。振り向くな。嘆くな。前だけを見ろ。最大戦闘速度での一点突破を命じるまりもの怒声に、全員が振り絞るように応える。誰も彼も限界だった。もう、我武者羅に突き進むしかなかった。肉体も精神も疲労困憊。極限まで擦り切れた精神に、仲間の死だけが積み重なり圧しかかる。

 狂うなという方が……辛い。耐えられない。それでも、自我を保ち、任務に忠実で在らねばならない。自身の護りたい者を思い出せと真那は言った。その言葉が、武に理性を取り戻させてくれる。でも、それでも、飲み乾せない感情を抱いたまま。武は走る。最早、それしか出来なかった。







『大広間だ……っ』

 多分、それは真紀の声だったのだろうと思う。身も心も襤褸屑のようで、まるで時間の感覚がない。けれど、その一声は――ただそれだけで、全員の目を見開かせた。大広間。ハイヴの底。中心。破壊目標である反応炉が存在するという……その、敵の、中枢が。

『で、かい……、ッ』

 冗談のように開かれた広大な空間。フェイズ4ならば主縦坑の最大直径は200メートル。それが丸々収まるほどに広大で、そして“でかい”というなら、なるほど、武の呆然とした呟きも頷ける。大広間の中心――こうして見ると手が届きそうにさえ見えてしまう――そこに、青白く輝く巨大な筒が在る。不気味に光り輝いて、煌々としている。

「アレが、反応炉……ッッッ!!」

 全身が総毛立つような感覚を、水月は感じていた。足元から頭の天辺まで、痺れるようなおぞましさと昂奮が駆け上る! 遂にここまで来た。遂に、自分たちは到達したのだ! 人類の悲願。ハイヴ攻略。その最大の目標である――反応炉の眼前に!!

『B小隊ならびにブラッド1、5は目標へ向けて吶喊!! 全力で道を築け!! 21101、02はブラッド2、3、4と共に後方展開! 敵を一歩たりとも近づけるな!! ヴァルキリー4、8、13、14は部隊中央へ移動ッ――S-11の設置準備に掛かれ! 残る全員はとにかく四人を死守ッ! B小隊に遅れるな!! ――――ここが正念場だ! ここまで来てむざむざ死ぬような惰弱を見せるな!!?』

 まりもが命令を発した直後、或いはそれと同時に。水月は真那と共に突き進んでいた。ブーストは全開。右手に構えた36mm砲をとにかく前方へ撃ちまくる。そう、ここは敵の総本山であり本陣であり最奥。この目に反応炉が見えているのに。たかが数百メートルの距離しかないのに。……なのに、そこに蠢く敵は。その数は。これまで一体どれだけの敵を相手にしてきたのかと笑いたくなるほどに。無慈悲に。これ以上ないくらいのもてなしで――レーダーが狂っているならばそれでいい――一千以上の化け物の群れが、波となって押し寄せる。

 真紀と、B小隊へ復帰した多恵が二機連携を組み、背後に続く。眼前の敵を屠ってもすぐにその穴は埋まり、蹴散らし、埋まりを永劫に繰り返す。真那が陽動を兼ねて螺旋剣術でBETAを吹き飛ばし、それに片腕となった武の不知火が不恰好な螺旋を描き加わる。暴風に引き寄せられる敵も多数いたが、それでも、“それ以外”が多過ぎて陽動にならない。大広間全体を埋め尽くすBETAの姿は、正直、背筋が凍りつきそうなくらいに恐ろしいものだった。

 大広間にたどり着く道筋は一つだけではない。無数に横坑が伸び、そのでかい穴もたくさん見えている。……だというのに、そこに友軍の姿はなく、定員過多の超満員と化したこの場所に、更に雪崩れ込む敵ばかりが見える。突撃砲の引き金を絞り、長刀を振り回し、滅茶苦茶に、我武者羅に。一瞬たりとも静止せず、ただ前に前に突き進んでも、それでも。敵の数は右肩上がりの天井知らず。――こいつらは本当に底無しだ。

『おのれぇえ! きりがない!!』

 あの真那が、汚らしく罵声を放つ。形相は鬼気迫り、そしてそれは自分とて同じなのだ。一切の余裕がない。ただ目の前の敵を蹴散らすほかに術がない。残弾はもう数秒後には尽きようとしている。長刀は疲労が蓄積し、いつ折れるかわからない。

 それでも、自分たちが突き進むことに専念できるよう援護を加えてくれる仲間達がいて。

 反応炉を吹き飛ばす可能性を高めるために、S-11以外の装備を仲間に託した者達がいて。

 決死の覚悟で背後からの怒涛を凌いでいる彼女たちのために。

 なんとしても、道を築く。たった一本の道筋でいい。反応炉までたどり着き、S-11を設置するその時間を稼げるだけの、ただそれだけの戦いが続けられたなら。――それで、「勝ち」だ。人類の。自分たちの。この作戦に参加した全員の、全英傑の、全英霊の――それは紛れもない勝利だ!!

「ぁぁああああ!!!」

 弾丸のなくなった突撃砲を投げ捨て、長刀を振りぬく。同じように長刀を構えた冥夜が跳びぬけるように前に出て、羅刹の如き凄まじさで敵をぶった斬って突き進む。慧の不知火が短刀で接近戦を挑み、真紀が多恵が最後の突撃砲を撃って撃って撃ちまくる。

 真那と武、そして水月は三機で隊形を組み――先程の冥夜たち同様に彼女らを飛び越えて更に前へ押し進む。開いた道を開き続けるために。仲間達全員が突き進むために。目の前を閉ざされるわけには行かない。閉ざすわけには行かない。あと少し。あとちょっと。あと……ほんの僅か。その距離だけ。

 そんなギリギリに張り詰めた緊張の中、まるで場違い音声が水月の耳に届く。思わず目を見開いてしまうくらいの驚きをくれたその言葉とは、つまりこういうものだった。



『伊隅大尉、この作戦が終わったら、俺と結婚しましょう』


「――――ッ、ぁ、……はぁ??!」

 みちるは耳を疑った。死に物狂いで道を築いてくれているB小隊と遊撃小隊の二人の奮迅をとにかく援護するために、必死に敵を蹴散らしている最中のことだ。人類の悲願を賭けたその一瞬のために全員が我武者羅に戦っているこのときに、一体あの帝国軍大尉は何を言い出すのかと、彼の正気を疑い、露骨に眉を顰めてしまう。

 けれど。

 それは違った。そこに映っていたのは、冗談などない、心底から本気だという眼をした大塚の顔。この状況で涼しげに、そして不敵に笑い、みちるを真っ直ぐに見ていた。無論それは一瞬のことだったけれど、“結婚しよう”……そう言ったのと同じ声音で、彼は続けて言う。

『子供は何人がいいです? やっぱ男がいいですかねぇ。いやいや女の子も捨て難い。それなら大尉に似て、美人で気が強くて、そして思いやりのある子に育つでしょうね。ははは、楽しみだなぁっ』

「ぉ、大塚大尉! 貴様何を……、ぃきなりそんなことを言われても……って、違う! 貴様ッ、こんな状況で何を考えている!?」

『惚れた女を護ろうって言うんです。それなりの見返りを求めてもいいでしょう?』

 みちるは言葉を失った。愕然としながら、それでも機体を操作する腕は止まらず、的確に要撃級を潰していく。何を突然言い出すのか、という驚きと。――そうか、という納得。大塚は死ぬ気だ。

 今のこの状況で最も負担となっているのは背後からの追撃だ。前に突き進むだけでいいこの段階で、がら空きの背中を狙ってくる敵は最大の脅威なのだ。勿論、左右から押し寄せてくる敵も無視できないが、とにかく、五人がかりで足止めしている後方の暴威が排除できたなら、左右の敵を相手にしているA、C小隊の戦力を前方へ回すことができる。

 退路の確保、という点も重要だ。反応炉にS-11を設置したら、即座に転進しなければならない。起爆装置のタイマーは爆発圏外へ脱出するために必要と想定される時間に設定されるが、これだけの物量を前に必ず逃げ切れる保証はない。……が、それが例えばあらかじめ後方の脅威を取り除き、敵の密度が低くなっていたなら、そこを突っ切るだけでも爆発に巻き込まれる可能性は激減するだろう。

 つまり。

「大塚大尉……貴様は、」

『一言。嘘でもいいんだ。俺は貴女に頷いてもらえれば、それでいい』

 勝手なことを言う、と。みちるは苦虫を噛み潰したような表情をした。大塚は確かにいい男なのだろう。多くの部下に慕われた、信頼の置ける軍人。それがみちるの印象だ。……けれど、みちるには長年想い続けている相手がいて、そして大塚とは昨日顔を会わせたばかりなのだ。よく知らないどころではない。それでもここまで共に戦い抜いてきた戦友であり、彼の気概や力強さには尊敬できる部分もある。……よい、男なのだろう。本当に。

 けれどあまりにも身勝手だ。みちるが頷こうが頷くまいが、彼が死を選択することに違いはない。反応炉まであと僅かというこの距離で、先程から前に進めていないのは事実だった。後方に回している戦力を左右に、そして左右の戦力を前方に向けることが出来たなら、この状況も変わるかもしれない。――私に嘘を吐けというのか。

 その葛藤は、軍人としては潔癖すぎるものだろう。けれど、女性として誠実でありたいと思ってしまったみちるには、大塚の言葉に頷くことはできなかった。

「…………大塚大尉、私は……」

『いや、いいんです。身勝手を言いました。――――神宮司少佐!』

『S-11の使用を許可する。……21101、02は後続のBETAを殲滅しろ』

 了解。

 ただその一言だけが、一瞬の躊躇もなく、大塚と一人残った副長から発せられる。冷酷なほどに冷え切ったまりもの命令に、誰もが言葉を失った。ただ、BETAを斬り、撃ち、殺戮する無感情な音だけが響く。――その、密やかな葬送にも似た空気の中を、211中隊最後の二人が離脱する。指揮官機であるまりもの機体には、彼らがS-11の安全装置を解除したことが表示され……彼らが最も効率よく敵を減らせる位置にたどり着くまでの間、とにかく前へと突き進む。



 大塚たちはS-11を抱えたまま推進剤の残量など気にせずに跳びぬけていく。こちらへと向かってくる敵の波を掻い潜るのだから、相当に困難かと思われたのだが、存外に容易く突き進めるものだと、大塚は少々拍子抜けてしまった。手にも背部ウェポンラックにも武器はない。装備は全て斯衛の三人へ預けてきた。……もっとも、最早長刀一振りに36mm突撃砲が一丁と予備弾倉が一つ、という雀の涙に等しい置き土産だったのだが。

「二人合わせてアレじゃあ、ハイヴ攻略も楽じゃあないよな」

『……当たり前です。ここに来るまでに十人。そして我々で最後……211中隊の短い歴史は、短いままに終わるんですよ』

 呟いた大塚に、副長が秘匿回線を繋げてくる。お堅い彼女にしては珍しいものもあるものだと思ったが、自ら死のうとする者たちの会話など、A-01の彼女たちには聞かせたくはない。この期に及んでそういう気配りのできる同期の存在に、大塚はずっと助けられてきたのだと思い出す。――自然、笑っていた。

「はぁっはははは! お前はいつもそうだったよなぁ! ……ま、俺のわがままで道連れにしようって言うんだ。それくらいの嫌味、いくらでも聞いてやるよ」

『でしたら、最期くらい私からのお願いも聴いてもらいたいものですね。これまで苦労してきたんですから』

「ああ、いいぜいいぜ。言ってみろよ。この際だ、何だって聞いてやるさ」

 大塚にしてみれば彼女は巻き込んだ形だ。自分の部下とはいえ、これは彼が勝手に思いついた策である。……衛士の命を懸ける時点で、策としては下の下であろう。部下を一人でも多く生き残らせることも隊長の役目であるから、その点で言えば大塚は隊長失格と言える。なにせ、その犠牲には自身の命まで勘定されているのだから。愚痴の一つや二つ、今更屁でもない。死にたくないなんて泣かれたら流石に困るが、彼女がそんな弱いニンゲンでないことはよく知っている。

『では、遠慮なく。――大尉、この戦いが終わったら、私に子を産ませてください。男の子でも女の子でも。大尉の望む子を、授けてください』

「……………………そうか」

 ――わかった。

 大塚は力強く頷いて、そして機体を敵の集団に突っ込ませる。同様に、彼女の機体も敵の集団へと突撃していく。A-01との距離は十分、そして互いの距離も上等。即席の計算で弾き出したS-11の爆発範囲ならば、この二発だけでも横坑を進み来る敵の集団を――例えそれが一時なのだとしても――途絶えさせることが出来る。ならばよし。それで十分。

「行くぜBETAァァアアア!! これが帝国軍人の底力だッ! これが!! 俺たち人類のッッ、、、“力”だぁあああああああああああああ!!!!!」



 閃光を見た。――ような気が、した。

 届くのは凄まじい爆音と震動。そして爆発に吹き飛ばされたBETAの残骸や肉片。爆圧に機体が押されるほど――そんなにも近しい距離で、今また二人、死んだ。背中に感じるびりびりとした感覚に、茜は悲鳴をあげそうになる。命が喪われる瞬間は、絶対に慣れることなんてないのだと。茜は厭というほど思い知っていた。二人の先任が死に、二人の同期が死に……そして、共に戦ってきた211中隊は“全滅”した。誰一人生還叶わず、そして反応炉にさえ到達できなかった。

 これがハイヴ攻略戦。人類初のこの作戦には、きっと多くの穴があったのだろう。補給線の確保や、ハイヴ突入部隊の編成等々……考えればキリがないくらい、きっと、多くの教訓を得られるはず。何よりも痛恨だったのが、BETAの総量だったに違いない。シミュレータ訓練では、“こんなに多くなかった”のだ。最難関の“S”難度でさえ、反応炉といえどもこんな数の敵は居なかった!

 所詮不完全なデータを継ぎ接ぎしただけでしかないシミュレータだけれど、茜たちはそれを繰り返し訓練することで自信に変えていったのだ。戦死する仲間が一人減る度、突入深度を更新する度、己の実力の向上を実感し、やれる、いける――そう思えるようになっていった。……それなのに。現実はどうだ。

 ヴァルキリーズ自体の死者が少ないのは、単純に211中隊の存在のおかげだ。シミュレータの十数倍以上の敵の中を突き抜けてきて、死者四名で済んでいるのは……その暴威の殆どを彼ら帝国軍人が受けてくれたからに他ならない。なにせ、彼らは十二人全員が戦死したのだ。誰一人亡骸なんて残っていない。拾うことさえ出来ない。そんな犠牲と挺身のおかげで、今自分たちは反応炉に到達しようとしている。

 茜は機体に装備されたS-11を右手に持たせる。左右で、梼子と千鶴、美琴も同じようにS-11を準備していた。大塚たちの自爆で後方のBETAの八割方が吹き飛び、爆死した。斯衛の白服三人の行動は素早く、爆発と同時に左右に展開、それを受けてA、C両隊がB小隊の底上げをすべく吶喊を開始したのだ。もうじき、道が開かれる。

 あの青白く光る敵の中枢へ、届くのだ。あれだけの巨大なモノを、たった四発のS-11で破壊できるのだろうか。……先程の爆発や、或いは内壁を崩落させたあの威力を思えば、十分だと頷ける。――何かの感情が、漲ってくる。

 それはきっと、晴子と薫、二人の親友に向けた思い。最高の仲間だった彼女たちの死を乗り越えようとする力。あの二人の死を、絶対に無駄になんてしない。そういう漲りを、感じる。前方を見やれば、今正に反応炉へ到達しようとしている紅の機体が見える。その隣りには片腕となった不知火……。武がいる。彼が道を開いてくれる。死に物狂いで戦い続ける彼の咆哮は止むことがなく、今も尚咆え滾っている。

「武……お願い……ッ」

 道を、開いて。

 進む道を、人類の勝利を。晴子たちの魂に報いるそのための、唯一の――進むべき未来へ続く、その道を!!



「ぅおぉおらあああああ!!」

 片腕で振り切った一刀が、遂に眼前を塞いでいた最後の一体を千切り飛ばす。本当の本当に目の前。そこに、「ここ」に、反応炉がある。触れる距離だ。――ぉぉぉおおおおおお!!!

『よくやった武!! そのまま反対側へ廻りこめ! 反応炉には一匹たりとも近づけるな!!!!』

 武は咆哮する。感情の昂ぶりに脳が焼ききれそうになる。血管の中を、熱くて燃えるようなナニカが巡っている。真那の檄に背中を押され、考える暇もなく反応炉の向こう側へ廻りこむ。敵は膨大。そして大広間は円の形をしているのだ。その中心がここだというなら、敵は360度全部から襲い来る。殺到する敵を一秒でも長く近づけさせないために、武は真那に続いて突き進んだ。同様に、水月と真紀、多恵と冥夜、慧がそれぞれ左右に分かれ、反応炉確保に努めている。

 数秒遅れでA、C小隊がそれに合流し、S-11の準備を済ませた茜達四機が反応炉へと取り付く。斯衛三機が真那の元に戻ってきて――総勢十五機の猛攻が、全周囲に向けて火を噴き血の雨を降らせる。反応炉にS-11を設置すること自体はそう難しいことではない。何度も訓練で行ってきたし、落ち着いて行えば数分も要さない。四方に散った彼女たちの身を護るために、武は一層攻撃を猛らせ、背中側に居る茜の機体に飛びつこうとする戦車級を真っ二つにする。

 機体は既にズタボロだった。左主腕をパージしてから以降も、武は月詠の剣術を使い続けた。自分にはこれしかないのだという強い自負が、彼にそれを強制させている。機体バランスの崩れた状態の回転運動は加速度的に機体を蝕み、もう、警報を数えるのが莫迦らしいくらいだ。――それでも、止まれない。ここまで来た。ようやく、遂に、そういう感情が。武に無茶をさせている。多くの人が犠牲になった。四年間を共に過ごした最高の仲間達もいた。

 だから。

「おおおああああああ!!」

 目は血走り、眦に血液が滲んでいる。こめかみに浮かぶ血管は裂けそうなほど。込み上げてくるような嘔吐感に、恐らく血を吐くのだろうとわかる。限界だった。何もかも。機体も、武自身も。「ここ」が自分の最期の場所となるのか。……出撃前に夕呼が言っていたアレは、武の雑念を払うための気遣いだったのだろうか。考える暇なんてない。ただ、一つだけハッキリしていることは…………例え血を吐こうが視界を喪おうが、機体が木偶になったとて。

 涼宮茜は、死んででも護りきる。

 それだけは、絶対に絶対だ。



 すぐ隣りで死にそうな表情のまま戦い続ける弟子に、真那は鬼を見ていた。血涙に濡れた貌は青褪めて白く見える。口端から零れる泡は血が混じっていた。ナニカ酷い病床にあるような、そんな尋常ではない様子に、真那は心臓を震えさせる。

 武は何らかの重病を患っていたというのだろうか。そんな素振りはなかった。彼を知ってからの二年間、毎日を重ねたこの二週間余りの間も、一度も、そんな様子はなかったのに。――それでも武は、また血を流している。健全である者は、あんな血の流し方をしない。極めつけは血涙で、そんなものを流す人間を、真那は初めて目の当たりにしていた。もう疑いようがない。武は病気だ。真那が知らなかったというだけ。気づけなかったというだけ。……或いは、ひた隠しにしていたのか。誰にも知られぬよう、隠し通してきたのかもしれない。

 だが、それがどうしたというのか。彼が病気だったら、何がどう変わるというのか……。変わりはしない。相変わらず敵の数は減る気配がなく、一秒を重ねるごとにこちらの消耗が上昇するだけだ。

 まだなのか、という焦燥が浮かんでは消える。たかが数分。いや、一分にも満たない。たったそれだけの時間の経過が、この上なく永く感じられる。弾倉は既に空。長刀は今にも砕けそうで…………血を流し、血を吐いた弟子の存在が、ぐらつくように傾いだ彼の機体が、真那の張り詰めた精神を刺激した。

「武ッッッ!!!?」

『――S-11設置完了しましたっ!』 『ようし聞いたな! 全機反転ッッ、撤退だ!!!!』

 了解――割れんばかりの少女達の応答の中、真那だけは手を伸ばしていた。膝をついた武の不知火を掴み、迫り来る戦車級を払いのけ――長刀が折れた――込み上げる衝動を、奥歯を噛み締めることで抑えつける!

「武! 返事をしろぉ!!」

 撤退命令は既に発せられた。S-11は四つが設置され、あと数百秒もすればここは煉獄に焼かれることとなる。……そうれば、勝利だ。人類の勝ちだ。我々の、勝ちなのだ。なのに。ここまできたのに。後はS-11の爆発を確認して、反応炉破壊を確かめるだけなのに。――こんなところで!

『武ゥゥウーーー!!』

 真那が支える不知火に飛びつくように、もう一機の不知火がやってきた。08とナンバリングされた――茜の機体だ。彼女は真那たちと背中合わせに作業をしていた。きっと、その時から武の様子に気づいていたのだろう。恋人が血を吐いて倒れたのだ……気が気でなかったに違いない。

 真那は一つ頷くと、自身と茜の機体で武の不知火を運ぶと指示を出す。茜は強く何度も頷いて――二人は速やかにとはいかないまでも、とにかく、全力でこの場を離れる。武からの返信はない。気を失っているのか、或いは――……。遅いと罵る水月の声がする。本当は自分だって武を助けたかったいに違いない。指揮官としては彼女の方が正しいに決まっている。真那は、本当にらしくないと胸中で呟き、撤退する背中を護ってくれている頼もしい三人の部下に目礼すると、

「武を死なせはしない」

『あったり前でしょ!! いいから早く逃げろってのよ!!』



 応酬は一瞬。共に不敵に笑い合って見せた真那と水月を見て、茜はなんて凄い人たちだろうと感じ入っていた。自分はもう、武のことしか考えられない。人類の悲願とか、本当にこれで終わりなのかとか、死んで逝った彼女たちのこととか……そういう、数瞬前まで胸を占めていた何もかもが吹き飛んでなくなってしまうくらいの恐怖と焦燥が、ただ身体を震わせる。

 ――武、目を開けて……お願いっ。

 溢れてしまいそうになる涙の向こうで、微かに身じろぎした。目を見張る。動いた。動いた――! 武は左手をゆっくりと動かして、シートに固縛してあった日本刀に触れる。弧月。そういう名の、彼の愛刀。

『く……くくっ、ゃった、ぞ。畜生……やったんだ、』

 眼を閉じたまま、血涙に頬を濡らしたまま、吐き捨てた血に顎を赤く染めて――死人のような貌をした武が、笑っている。

「たける……」

『悪ぃ……助けられたな。本当は俺が、お前を護ってやるはずだったのに……』

 そんなことはない。茜は首を振る。――言ったでしょ? 武。……あたしだって、武を護るんだよ?

 優しい笑顔でそう言った彼女に、武は一度だけ目を丸くして……そして、笑った。血濡れの顔で、今にも死にそうな状態で。笑ったのだ。嬉しそうに。満たされたように。――ああ、生きている。その実感を、強く強く噛み締めながら。







 ===







 地上は歓声に満ちていた。



 ハイヴ内の状況はモニターできないため、ただじっと待つしかなかった夕呼に、CPの遙から、極度の爆発による震動を感知したと伝えられ――それが反応炉を破壊したS-11の爆発なのだということは、数秒もしない内に証明された。

 逃げ出したのだ。BETAが。展開する帝国軍を排除しようとする行動とは明らかに異なる、問答無用の全速前進。走り出すと止まることを知らないかのように。今の今まで攻撃を加えていた帝国軍の機体など目もくれず、脇を通り過ぎ、味方であるはずの小型種を踏み潰し、突撃級が、要撃級が、戦車級が、要塞級や光線級、重光線級に到るまで。全部が。突如としてハイヴから遠ざかろうと、我武者羅の前進を開始したのだ。

 これに当初は面食らっていた軍人達も、次第に理解し始める。――やったのだ。その直感が過ぎった瞬間の、彼らの歓声は、咆哮は、文字通り大気を震わせた! 司令部が置かれているこの場所も、夕呼を除く全員が手を叩き歓声をあげ、喜びの涙に包まれた。

 人類は、勝ったのだ。

 BETAがこんな行動を見せた前例などない。だから、これはきっと、今まで一度も成したことのない偉業を成し得たためではないのか。『明星作戦』では『G弾』によって何もかもが蹂躙されたために、地上に居たBETAも例外なく殲滅されていた。故に、この現象は前例がない。

 夕呼は確信する。まりもたちはやったのだ。歓声をあげる大勢を尻目に、夕呼は曖昧に唇を歪める。――これで、多少の時間は稼げたか。喜びがないわけではない。成し遂げてくれた部下達を誇りにも思う。同時に、こんな強攻策が何度も通用するはずがないと冷静に判断してしまう。一体どれだけの衛士が死んだのだろう。告げられる戦死者の数は、帝国総軍の何割に相当したのだったか。

 ハイヴからも吐き出され続ける怒涛の数には、流石に皆言葉を失った。夕呼でさえ呆れてしまうほどの物量が、途切れることなく吐き出され続けている。地上ではそれら逃げ惑うBETAを手当たり次第に撃ち殺し、正に入れ食い状態だったのだが……それでも、到底殲滅し切れる数ではない。光線級や重光線級といったレーザー属さえ一切の攻撃を加えてこないため、ミサイル等の爆撃で大多数を撃破できているが、それだけだ。どうしても漏れは出てしまう。

 それらが一体どこを目指しているのかという疑問を抱くには、今はまだ昂奮が冷めやらない。遙とて、親友に妹、彼女たちの安否が気になっている。けれど軍人としての一面が冷静に戦場を分析させていて、だから……地上を揺るがすほどの巨大な震動を拾ったと報告してくる部隊へ、周囲に異常はないかと問いかけることも出来た。……だが、彼らはすぐに地上を走り来る敵の掃討・殲滅に追われてしまい、それが一体なんだったのか知ることは出来なくなった。――戦況が落ち着いてから分析しよう。そう考えて、遙は他のCP将校とともに、未だ混乱を極めている戦場を把握する。



『――……ちら、――――……、だ、……こちら――ゼロワン……』

 その通信に、遙は瞠目する。夕呼がすぐさま遙の方を向いて、遙もまた、夕呼を向いていた。――今の声は……っ!

『……ちら、A-01。神宮司少佐だ。反応炉破壊に成功、繰り返す。――反応炉破壊に成功した』



 その日二度目の、割れんばかりの歓声に――――。







 2002年1月1日――甲21号目標、破壊。







[1154] 守護者編:[四章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/08/29 22:07

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:四章-03」





 佐渡島からBETA勢力の掃討・殲滅が確認されたのは、それから更に二時間が経過した後だった。あまりにも途轍もない物量に、取り逃してしまった固体も多く、その大半は海を渡り甲20号目標へと向かっているらしかった。……監視衛星や各種センサー類から推測した進路だが、十中八九間違いないだろうというのが、作戦司令部の見解である。一部、大深度地下から逃亡を図った一群もいたようだったが、これについてはその行き先が掴めていない。……あまりにも地中深すぎて、追跡できなかった。

 今回の反応炉破壊後のBETAの行動については諸説あり、識者たち、並びにAL4最高責任者である香月夕呼の導き出した仮説では、BETAはその巣であるハイヴ――反応炉を破壊された後は、近隣のハイヴへ移動する、という結論が導き出されている。これは地上部隊が佐渡島でBETA掃討戦を行っている最中に出された仮説であったが、成程、眼前を逃げ惑うBETAを手当たり次第に狩って回る側としては、頷けるものだったに違いない。







 ===







 前代未聞の大反攻の中を、特務部隊であるA-01は帰還していた。ハイヴ内戦闘の詳細を報告するべく、夕呼の乗る作戦旗艦最上へ収容された彼女たちは、ようやく訪れた平穏に重く息を吐く。――あまりにも、死にすぎた。その感情は、決して間違ってはいない。いや、ハイヴ攻略戦という前代未聞の大作戦、そしてあの地獄の釜の底のようなBETAの大集団を相手の戦闘を考えれば、それでも少ない方だったのかもしれない。

 ハイヴ突入部隊で無事生還できたのはA-01のみ。それだけでも彼女たちの優秀さが知れるというものだが……帝国軍第211中隊の全滅、そして――隊員四名の戦死は、少女達に小さくない傷を刻んでいた。

 茜は管制ユニットのハッチを開ける。まりもから艦内待機命令が出されたからだが、つまるところ休息である。佐渡島上では今も展開する帝国軍・斯衛軍の大部隊がBETAの残党を食い散らかしているが、ハイヴ突入・攻略という偉業を成し遂げた英雄である彼女たちには、特別に休息が許されていた。隊員の情報については一切が夕呼の権限によって伏せられているが、横浜基地所属の特務部隊A-01の名は、既に帝国軍中の知るところとなっている。

 だが、今の茜にとってそんなことはどうでもいい。彼女の頭の中を占めるのは唯一つ。――血涙を流し、血を吐き、死相を浮かべながら戦っていた、愛する人。武の無事だけが気掛かりだった。

 管制ユニットから飛び出すようにして、まろぶように駆ける。向かう先には赤い武御雷に白い武御雷が三機。そして……左主腕の失われた、蒼い不知火。そこには四人の人影があって、それらは全て零式強化装備を纏った女性であることがわかる。不知火のハッチは閉じられたまま。搭乗者は、まだ降りてきていない……。

「武ッッ!」

 声高に呼び、駆けつけた茜を真那が制する。目の前に差し出された腕に戸惑いを見せた茜だったが、次の瞬間に向けられた真那からの鋭い眼光に、足を竦ませてしまう。……その瞳は、怒りに燃えていた。ほんの一瞬だけ茜を睨み据えた真那は、腕を下ろし、再び頭上を見上げる。不知火のハッチが開く。手が見えた。続いて黒髪。真っ白で、半分血に汚れた顔。手で拭ったのだろう、赤色が汚らしく広がっている。

 まるで幽鬼を連想させるほど生気が感じられないが、それでも彼は茜の知る武の顔を姿をしていて、自分の足で立っている。眼下を見下ろす彼と目が合い――彼は破顔した。タラップを降り、ゆっくりと茜の前にやって来る。思わず抱きつきたい衝動に駆られたが、隣りの真那がそれを許さない。彼女から発せられる鬼気とした空気が、茜の足を縛っていた。……背後から、水月がやって来る。彼女だけではない。他の仲間達もやってきて、全員が、強張った表情で武を見ていた。

「……た、け、る……」

「ぁあ、茜……。どうしたんだよ? そんな顔して……。俺たちはやったんだ。そうだろう? …………だったら、戦死したみんなの分まで、胸を張って誇らなきゃ駄目だ」

 一瞬、茜はなにを言われているのかわからなかった。けれど、理解する。武は茜が仲間の死に心を悼めていると勘違いしたのだ。……いや、勿論、その感情もある。同期であり親友である二人を喪い、多くのことを教わった先達を二人喪った。更には自分たちの背後を護り切って全滅した211中隊への哀惜の念もある。――けれど。今の茜の頭の中は目の前に立つ武でいっぱいだった。そのことに、顔面を血で汚した自分を案じているということに、武は気づかない。

 気づかない振りをしている。

 下手な芝居だという自覚は武にもあった。血涙や吐血自体は戦闘中、或いは帰艦途中に収まっていたため、既に乾いていた。操縦の合間に強化装備越しに腕で拭っていたのだが、それが不味かったらしい。管制ユニットの中には負傷した際に備えて救急セットも用意されているのだが、乾いた血は包帯で拭った程度では落ちなかった。そのために今も武の顔面は汚らしく汚れているわけだが……そんなものがなくとも、今の彼は、誰が見ても瀕死に見えただろう。

 鏡で自分の顔を見ていない武には、それがわからない。彼だけは、茜や皆が自分の顔に付着した血液に驚いているのだろうと思っている。そうして、そんな自分を誤魔化すために、見当違いとは知りながら、戦友の死に哀しみ打ちひしがれている仲間を励ます言葉を掛けたのだ。――誤魔化しきれるはずがないと知りながら。空しい抵抗である。

「たけ……ッ」

「白銀、話がある」

 立ち竦んでいる茜の肩を押しのけるように水月が前へ出て、武の名を呼ぼうとした。その表情は怒りと困惑に歪み、今にも殴りかかりそうなほどの勢いがあったのだが、それに先んじて、彼女たちの一番背後から――底冷えのする、鋭い声が放たれた。まりもである。武は“やっぱりか”と半ば諦めに似た表情を浮かべ、残る全員は一斉にまりもへと振り返る。ただ一言で群れる彼女たちの疑念を封じてしまったまりもは、ゆっくりと重々しく武の前まで進み出て、それだけで何十回と殺せるほどの視線を向ける。

 全員が言葉をなくす。武も、元教官にして部隊長であるまりもの強烈な殺気に呼吸を忘れてしまうほどだ。追求は免れないと承知していながら、これだ。武はこの期に及んでまりもには絶対に叶わないなどと戯けた感想を覚えてしまう。そんな的外れな思考を浮かべてしまう自分は既に脳ミソがいかれてしまっているのではないかと笑いたくなるが、辛うじてまだ生きている。――現実逃避はよせ。腹を括ろう。武はまりもの威圧的な視線に小さく頷き、歩き出した彼女についていく。

 結果、取り残される形になってしまった茜たちだったが、全員が一言も発することも出来ず、呆然と二人の背を見送るしかなかった。…………副隊長であるみちるが全員へ艦内待機を改めて命ずるまでに、数分の時間を要する程度には、衝撃的な出来事だったといえる。



「一体どういうことか説明してもらおう」

「現在の任務に支障ありません。従って、少佐に御説明申し上げることもありません」

「そんな戯言が通用すると思うな!? 貴様ッ、白銀ェ!! ……貴様、“いつ”からだ……?」

 今にも胸倉を掴まれそうなまりもの剣幕に、武の心臓は無様にも縮み上がってしまっている。だが、どれだけ凄まれようと武は答えない。いや。答える必要は、ないらしい。

 内心で武は安堵していた。まりもは少佐だ。そして、夕呼と旧知の仲であり、親友でもあるという。つまり、正真正銘、夕呼の片腕と呼べる存在である。片腕というならばみちるやピアティフもそうだろうが、まりもは別格なのだろうという思いは、武だけでなく、隊内の全員が持っていた。多分それは事実なのだろうが、こと“この件”に関しては、まりもは知らされていないらしかった。……無論、みちるも同様だ。片腕でこのことを知っているのはピアティフだけということになる。

 夕呼にとっての陽を司ってきたのがみちるなら、陰を司ってきたのがピアティフ……ということだろうか。階級こそ上位だが、まりももまた、陽の部分を夕呼から任されているのだろう。武はそう判断する。――まりもは、武が脳改造を施されている事実を、「知らない」……「知らされていない」のだ。

 ならばそれは夕呼がまりもに話す必要はないと判断したということだ。武のあの容態のことを説明するためにはリーディング能力開発のためのクスリについて言及せねばならず、そしてそれを明かすということは、AL4の根幹を担うあの脳ミソ――鑑純夏――のことまで触れなければならない。夕呼の片腕であり、しかも少佐であるならばまりもはAL4について熟知していて当然なのだろうが……それを「知らされていない」というならば、迂闊に武が話していい事項ではない。

 Need to Know

 その言葉を教えてくれたのは彼女だった。一兵卒に過ぎない自分が、上官の知らない闇を知っている。……そんな皮肉は、優越感も何ももたらしはしない。けれど、今はそれが有難かった。武は機密だから答えられないの一点張りで、この場をかわすことが出来るのだから。

「なん……ですって……っ」

 思わず零れたその言葉は、きっとまりもの本音だったのだろう。部下から、しかも元教え子から、決定的な回答拒否を突きつけられたのだ。ショックでないと言えば嘘になる。例えそれが、あまりに軍人らしくない、甘ったれた感情だったとしても。――彼女は、武から信頼されていると思っていたのだ。それを裏切られた……。否。裏切りなどと捉えることが既に甘く、そして誤りだ。武は軍人として当然の対応を取ったに過ぎない。

 機密とは、外部に漏らしてはならないからこそ、機密なのである。如何に上位階級の者の命令とはいえ、脅し程度で口を割ることは許されない。そのことを厳しく教え込ませたのは、他ならぬ自分である。優秀な教え子だとは思っていたが、こうも強かに出られる時がくるとは夢にも思っていなかった。

「自分の口から御説明申し上げることは出来ません」

「…………わかった。下がっていい。……………………伊隅に伝えろ、私はこのまま香月博士の元に出頭し、戦果報告を行う。隊員は別名あるまで待機、斯衛軍第19独立遊撃小隊も同様だ」

「はっ! 伊隅大尉へ香月博士への出頭、ならびに戦果報告の旨を伝達し、全隊員および斯衛軍第19独立遊撃小隊へ別名あるまで待機すべし旨を伝達いたします!」

 上出来だ。――退がれ。力なく命ずるまりもに敬礼して、武は背を向けた。顔面を血に汚したまま去っていく部下の背中を見て……まりもは、自分が夕呼の信頼に値しないのかと項垂れる。

「……そんなことは考えるな。…………全てを知る必要など、在りはしない」

 武がAL4の深部に関わっていることなど、とっくに承知している。国連軍に移籍してきた矢先、夕呼から特別任務を与えられ……今年の六月には異例の早期任官まで果たしたのだ。無関係であると考えるほうがどうかしている。だが、まりもが知っている情報の中に、武が血涙を流し、或いは吐血するような部類のモノは存在しない。明かされていない。夕呼が知る必要はないと切り捨て、或いは知らせたくないと情報を非開示しているのか。

 いずれにせよ、夕呼本人に問い質すべきだろう。武が頑なに口を閉ざすのは、これが夕呼直々の何某によるものだからだ。……尊敬すべき上官であり、親友。世界を救う天才であり、人類の希望そのもの。

「夕呼――どうか、貴女を信じさせて」

 その独白は冷たい艦の空気に凍り付いて、まりもは一層冷ややかな眼をするのだった。



 武の口から改めて艦内待機を伝達されたみちるは、その場に居た全員へ解散を告げる。帝国軍の艦である以上、機密扱いの自分たちが艦内を闊歩するわけにはいかないが、それでも、この場に固まっているよりは健全だろう。一人になりたいものも居るだろうし、何かに打ち込みたいものもあるだろう。少なくとも、まりもが戻ってくるまでの間は自由な時間があってもいい。……今このときも戦闘は続いているが、今それを考える必要はない。既に、自分たちは役割を終えているのだから。

「……貴様は顔を洗って来い」

「はぁ……そうします」

 曖昧に笑う武の顔色は相変わらず悪い。けれど、本人を見る限りは元気そうであるから不気味だ。自身のものとはいえ、顔が血で汚れていることは本人も気になっていたらしい。武はみちるに勧められるまま洗面所へと向かい、その後ろを茜がついて歩く。そうやって二人の姿が見えなくなるまで、みちるも、他の誰も、口を開くことはなかった。解散を命じたというのに、律儀な連中である。みちるは深く溜息をついた。

「ほらほら、お前たちも解散だ。……今だけは、自分に優しくしてやれ」

「「「……」」」

 顔を上げ、手を叩きながら苦笑する。初めて戦友を喪うという悲しい体験をした新兵たちに向けられた言葉は慈しみを持って優しく、染み渡る。その言葉を受けて、真那は己の部下を引き連れてその場を後にし、水月たち先任が多恵たちに声を掛ける。泣くな、落ち込むな、という方が無理な話だが、衛士は仲間の死を嘆いてはならない。いつまでも悲しみに暮れていられるほど、戦場はぬるくないのだ。……それでも、“今だけは”。

 泣きたいなら声を上げて泣けばいい。

 仲間の死に、咽び、哀しんでいい。

 経験の浅い新人達は水月たちに連れられるまま去っていき、みちるは一人その場に留まる形となった。歴戦の勇士である彼女とて、矢張り部下の死は辛い。四人が死んだ。四人とも、よい衛士だった。自分よりも若く才能を秘めた者たちが、自分よりも先に死んでいく。……それを悔しいと嘆くなら、もっと、もっと強くなろう。一人でも多くの部下を生き残らせるために。一人でも多くの部下を救うために。そう出来るように――強く。

「生きてさえいれば…………か」

 それは昔、まりもがみちるに言った言葉だ。どんなに無様で格好悪くとも、生きてさえいれば、生き延びさえすればまた上を目指すことが出来る。戦える。――その通りだ。みちるは目を閉じる。そうやって自分はここまで来た。戦って、生き延びて。それを繰り返して、経験を積んだ。そうやって、反吐を吐きながら成長してきたのだ。

 去っていった部下達を想う。今は嘆き、悲しむといい。涙が枯れるほどに泣いて、そして……その分だけ、強くなって欲しい。先に逝った連中も、それを望んでいるだろうから。そして、絶対に彼女たちを無駄死ににしないためにも。強く。……強く。

「大塚大尉、貴様の想い……確かに受け取った」

 莫迦な男とは思うまい。彼が命を賭してまで愛を語るに相応しかった女として、みちるはこれからも生き抜いてみせる。……それが、あの時答えられなかった自分の、せめてもの誠意だ。



 梼子と真紀は、海を見ようと甲板までやってきていた。みちるの命令をまるっきり無視しているわけだが、そのことには頓着していない様子で、真紀はおもむろに胡坐をかく。甲板上では所狭しと帝国海軍の兵士達が走り回っていて――今尚地上戦を続行しているので当然だが――邪魔をするわけにもいかなかったのだ。艦内へ通じる扉のすぐ傍で胡坐をかくのも十分邪魔だろうと梼子は思ったが、それを言うのは野暮だろう。

 国連軍仕様の強化装備を着用している彼女たちを見ても、誰一人声を掛けようとはしない。皆、知っているのだ。表向きは知らないということになっているが、それでも、隊を成して帰艦してきた国連軍の不知火を見ていれば、自ずと推測できることであり、死線を潜り抜けてきた英雄達にはゆっくりと休んでもらいたいという思いもある。

 そういう無言の気遣いを梼子は察することが出来たので、甘受することに決める。真紀の隣りに座り、膝を抱えるようにする。視線は海の向こう……佐渡島へ向けられていて、おぼろげに見える地表構造物を見据えている。こうしてぼんやりと座っていると、自分は本当にあの地獄の底にいたのだろうかと不思議に思えてくる。まるで夢のように曖昧な、茫漠とした感覚に陥ってしまいそうだ。

 ……けれど、アレが、あの地獄が夢であるはずもないし、ハイヴ内の独特の怖気、押し寄せる敵の物量に心臓が凍りつきそうになったこと。――古河慶子と高梨旭。彼女たちを喪った、その現実は、どうあっても覆せない。真紀と自分、二人だけになってしまった。

 最初は十二人だった。……任官して、戦場に出て……一人減り、二人減り……今年が始まるころには七人まで減ってしまって……ようやく、戦場で互いをフォローし合える実力と精神的余裕を身に付け、経験を積んでいった頃……あの、七月に。上川志乃を、岡野亜季を、篠山藍子の三人を喪って――四人だけになって。

「みんな、アタシを置いていっちまうんだ」

 ぽつりと呟いたのは真紀だ。胡坐をかいて、ぼんやりと空を見上げる格好の真紀は、そのままの姿勢でもう一度繰り返した。――みんな、置いてっちまう。まるで無表情のようで、抜け殻のようで……そんな横顔を見てしまうと、梼子は泣きたくなってしまう。見上げる空の向こうには、志乃や亜季、慶子らが居るのだろうか。真紀が特に親しくしていた彼女たち。志乃が戦死した時、「何で先に逝くのか」と……「置いていくなんて酷い」、と。真紀がそう嘆いていたと教えてくれたのは、慶子だった。

 きっと真紀は、そういう少女なのだ。誰か傍にいてくれないと、笑うことなんて出来ないのだ。……親友だった志乃や、仲の良かった亜季、慶子……或いは、慕ってくれていた晴子や薫……。

 梼子とて悲しい。明るくて賑やかで、周囲の皆を温かい気持ちにさせてくれる彼女たちが喪われたことはとても胸を締め付ける。ここまで共にやって来た戦友を、同期を喪うことがどれだけ辛いことか。旭。彼女は、入隊当時からずっと同じ部隊だった。尊敬していて、頼りにしていて……よい、友人だった。

「……それでも、私たちは戦わなければならない」

「……」

 まるで自分に言い聞かせるように、梼子は固く言葉を結ぶ。空を見上げたままの真紀は、何も応えない。真紀とてわかってはいた。それが衛士の義務――いや、責務なのだと。戦友の死を嘆く暇などありはしない。彼ら彼女らの死を嘆くことは、戦場に散ったその魂を蔑むということだ。

 語らねばならない。誇らねばならない。彼女たちがいかに素晴らしき衛士だったかを。そしてその死を、無駄にしてはならないのだ。特務部隊A-01として、戦って、生き延びて、語り続けること。それが、衛士の流儀というものだから……。

「トーコ、お前は強いなぁ……」

「悲愴にならなければ戦えないなんて、哀しいでしょう? ……だから、私は輝かしい思い出を抱いていたい。彼女たちとの楽しかった日々を、大切にしたいだけです」

 だから戦う。その思い出を胸に。彼女たちの死に様と、彼女たちの生きてきた日々を抱いて――生きる。戦う。それが、梼子の誓いだった。



 鏡に映る不気味な相貌をした男を見て、武は思わず息を呑んだ。蒼白を通り越して白色に近い顔色をした、幽鬼のような男。それが自分なのだと理解するには、些かの時間を要していた。背後には、痛ましそうにこちらを見つめる茜の姿がある。鏡越しに目が合った彼女に、一体どんな顔をして、どんな言葉を掛ければよいのかわからない。

 まりもへの説明も機密情報だからの一点張りでかわしたのだから、茜に対しても同様の措置を取るべきだろう。無論、そのつもりだったのだが……茜は武に事情を尋ねようとはしなかった。茜の心中でどのような感情が鬩ぎあっているのかは、今にも泣き出しそうなその表情を見れば理解できる。愛する少女にそのような表情をさせてしまっている自分を盛大に罵倒したいが……不甲斐ない自身をなじったところで、武の身体は治りはしない。

 どうあっても、副作用のことは説明など出来ない。実際は機密など関係なく、単純にひとに知られたくないだけなのだ。“脳ミソを改造され、人の心を読むことが出来て、その副作用でもうじき死ぬ”。そんなことを……言えるわけもなかった。

 武はいつその命を落とそうとも、最期のそのときまで茜を護り続けるつもりでいる。共に戦場にある限り、彼女の身は己が護ると決めている。けれど、それはあくまで武の身勝手な誓いであって、茜は武の命が長くないことを知らない。彼女が自分を愛してくれていることは理解しているが……その誓いは、武の一方的なエゴなのだ。押し付けられた側が、武の死後、一体どんな傷を負うのか……今日この瞬間まで、武はそのことを見て見ぬ振りをしていたのだと痛感する。

 薫が死に、晴子が死んだ。四年という決して少なくない時間を共に過ごしてきた友人達を喪って初めて――己の死、それが他人に与える影響というものを想像できたのだ。いや、茜の泣きそうな顔を見て、ようやく想像に到ったというほうが正しい。

(俺は、茜を泣かせようとしている……)

 愛し、護りたいと想う少女。笑顔がとても似合っていて、可愛らしい面もある、気の強い彼女。泣いてほしくなんかない。……けれど、それを泣くなと願うこともまた、武のエゴだった。

「……ねぇ、武……」

 掛けられた声に振り向く。俯いてしまった茜の表情は見えない……が、泣いていることはわかった。きらきらと光を反射しながら、涙の粒が床を叩いている。咄嗟に抱きしめようとして――そんな資格が自分にあるのかと、戸惑う。けれど、躊躇したと思っていた身体は知らぬうちに茜を抱き締めていて、彼女は武の胸に顔を埋めて泣いた。

「……薫も晴子も……死んじゃった…………これがBETAとの戦争なんだってわかってても、他にもたくさんの人が亡くなったんだって理解できても……哀しい、の。あの二人が、……っ、もぅ、ぃない、なんて…………っ、」

 茜は父親を戦争で亡くしている。身内の死を通じて、この戦争の不条理さを知っている。近しい者を喪う悲しさ。そしてそれに捕らわれてしまう愚かさ。そういったものを、幼い頃に学んでいた。――けれど、知る。それは、ただ幼かったが故に、真実、理解してなどいなかったのだと。

 これほどに、哀しい。苦しい。騒がしいくらいの明るさ、呆れるくらいの奔放さ。彼女たちといることが好きだった。彼女たちと出会えてよかった。彼女たちがいてくれて、だから、今まで戦ってこれたのだ。――だから、涙が止まらない。……彼女たちは、もう、いない。喪失感というにはあまりにも大きく、虚しい。胸の真ん中にぽっかりと穴が開いてしまったよう。力強く抱き締めてくれる手が暖かい。包み込んでくれる武の体温が、彼の鼓動を伝えてくれる。

 こんなにも傍にいるのに。こんなにも触れ合っているのに……茜は、恐ろしくて震えを止められない。武が泣いている。彼の零した涙が、頬を濡らす。……ああ、彼も悲しいのだ。自分と同じに。戦友を、友人を喪って。震えが止まらない。怖い。さむい。――その想像を止められず、恐ろしくて、怖くて……寒い。



「たけるもしんじゃうの――――――――?」



 目を見張り、息が凍りつく。抱き締める手が思わず震えるほどに、茜のその呟きは痛烈だった。

 武は無言のまま、一層強く茜を抱く。力いっぱいに抱き締めて、まるでしがみつくように彼女の身体を求めた。――死ぬもんか。そう答えたかったのに、乾ききって震える唇から零れたのは、まるで無様な吐息だけ。茜の耳元を撫ぜたその呼気が、彼女の言葉を肯定したようで――武は、より力をこめた。嘘でもいい。誤魔化しだって構わない。こんな――、茜に、こんな顔をさせるくらいなら、涙を流させるくらいならッッ!

「おれ、は……死んだりなんて、しない。いつだって……茜の傍で、茜を護るよ……」

「うそつき……」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔。どうしてだろう。茜は泣いているのに、自分だって泣いているのに。こんなにも心が痛くて哀しくて、震えているのに……抱き締める身体だけが、触れ合う場所だけが、こんなにも暖かい。

「うそなんか、つくもんか……俺は、絶対に、茜を置いて死んだりしない……」

「…………ぁはは、武……嘘、ヘタだね…………………………お願い。言って」

 血涙を流し、血を吐き……こんな今にも死にそうな顔色をしていれば、誰だって想像がつくことだ。まして、立て続けに戦友の死を経験してしまった茜は、既に死の気配というべきものを察知することが出来てしまっている。根拠のない直感――そういうものが、確かに存在しているらしかった。だが、言える訳がない。答えられるはずがない。武の身に起こっている全ての事実は、闇に葬られるべき類のモノだ。AL3の暗部を負わされた非業なぞ、武が地獄に抱えていけばそれでいいのだ。

 だからこそ夕呼はまりもにもみちるにも明かさずに居るのだろうし、茜に話したところで、彼女をより哀しませるだけだ。……では、このまま話さずに嘘を吐き続け、彼女の前からいなくなること。“それ”と“これ”には、一体どれ程の差があるというのか。――なにも違いなどありはしない。……同じだ。

 結局、武は茜を傷つけ、裏切り、泣かせることしかできない。どれだけ傍にいる、護ると囁いたところで、武のリミットは決まっている。多分、夕呼の目算よりは相当に早い。脳にかかる負荷――ストレスとでもいうべきか――が極端であればあるほど、あのクスリのもたらす副作用は過激になるらしい。それは戦闘による昂奮であったり、仲間の死による恐怖と精神的ストレス、或いは怒り、憎しみ――復讐の念か。

「武……ぉね、がぃ…………答え、て……」

「……」

 答えの代わりに、唇を塞いだ。卑怯な手だということは重々承知していても、けれど、絶対に話すわけにはいかないのだ。武の感情云々の話だけではない。オルタネイティヴ計画という超高度な機密情報は、本来なら武だって知らされるべき情報ではない。夕呼は武が絶対に裏切らないことを承知で、AL3の研究の被験者となる彼にせめてもの慰みとして話してくれたのだ。直接聞いたことはないが、多分――不用意に知ってしまえば、消されるほどには。高度な機密なのだろう。

「ん、……んちゅ、んっ、、」

 抗議するような茜の呼吸を、無理矢理塞ぐ。開かれた瞳からは苦悶の感情と涙が溢れていて――茜は、武の命がそう長くないことを悟ってしまった。泣きじゃくる自分と同じように涙を零す武と、触れ合う距離で見つめあい、唇を重ねて……茜の感情は、爆発しそうなほどにぐちゃぐちゃになってしまう。

 哀しい。愛しい。離れたくない。喪いたくない。傍にいてほしい。抱き締めて。キスを。死なないで。いかないで。強く。ああ――こんなにも、胸が苦しくて、熱い。

「……武……」

「ああ、」

 長い長い口付けの名残が、二人の間に溶けていく。涙はもう流れていない。潤み、腫れてしまったまぶたを拭いながら、茜は精一杯の笑顔を浮かべて武を見つめた。その表情は儚いくらいに美しくて、眩しくて――武は、この一瞬の輝きを絶対に忘れないと胸に刻み付ける。

「私――子供、欲しい。武の赤ちゃんが、ほしいよ……」

 抱き締めあったままの距離で囁かれた言葉に、武は面食らった。驚いて見つめる先には、もう泣きじゃくるだけの少女はいない。親友の死に自暴自棄になっているわけでもなく、武の死期を悟り、諦観しているわけでもなく。その目には、笑顔には、ハッキリとした未来が描かれている。強い心が、そこに在る。武は震えた。全身が総毛立つ感覚に、甘い感情に、涙が溢れてくる。

 ――ああ、愛している。

 ――俺は間違いなく、涼宮茜を愛しているんだ。

 それが嬉しかった。涙が出るくらい、嬉しかった。何度も心の中で繰り返し叫んだその言葉を、感情を。武はようやく口にする。再び重ねた唇をゆっくりと離し、しっかりと、彼女の生命の重さを感じるように抱き締めて……。

「茜。お前を愛している……。好きだ、茜」

「……うん。嬉しい」

 私も大好きだよ――。告白を終えた二人は、止まることのない涙を流しながら抱き締めあう。強く。ただ、強く……そして、愛にとけるように。



「知ってた? 晴子ちゃんも薫ちゃんも、白銀君が好きだったんだよ?」

「――ぇえ、はい。くすっ。知ってます」

 左腕のない不知火を見上げながら、唐突に多恵は言う。その彼女の横顔を見上げながら、亮子は苦笑混じりに頷いた。よく知っている。だってそれは――自分たちも、同じなのだから。暗黙の了解というヤツだった。元207A分隊の女の子たちは、揃いも揃って、皆、武のことが好きだった。亮子も、多恵も。逝ってしまったあの二人も……。

「なのに白銀君は全然気づかないし」

「くすくすくす。ええ、ホントに。そういう鈍さも、薫さんは気に入ってたみたいですよ」

 無論それだけではないことも知っている。確かに彼は色恋について鈍感だったが、それは常に“鑑純夏”という最愛の少女が居たからだ。彼女を護るために衛士を目指し、彼女を喪ってから尚、一層。その心は強固になっていたように思う。愛しい恋人を喪い、傷ついた彼の支えになろうとした頃から……皆の気持ちは育っていったのではないだろうか。亮子にはそんな気がする。少なくとも、亮子はそうだった。

 常に前を向き、上を目指す姿勢は素直に尊敬できた。凄いな、と感じ入っていた。そんな憧れも在ったし……絶望に膝を折った彼の姿を見ていられなくて、助けになりたいと強く願ったのを覚えている。北海道のあの雪の早朝。水月に抱き締められて泣いていた武の姿は……今も鮮明に思い出せる。多分、薫もそのときから、彼を好きになっていたのではないだろうか。

「でも、白銀くんには茜さんが居ますし」

「そーそー! いいなぁ白銀君。茜ちゃんとらぶらぶで。いいないいなぁ~!!」

 そしてこの多恵という少女は、茜のことも心底好いている。勿論亮子も茜が好きだし、あの二人も同じだった。……結局、四人が四人とも、武も茜も好きなのである。なんとも微笑ましい。そして当然茜も武のことを愛していて……だから、皆、暗黙の内に茜と武の仲を取り持つようになった。正確には茜の背を押したわけだが……そのときの晴子の笑顔が忘れられない。

 親友の幸せを心から願い、応援する姿の、何と嬉しそうだったことか。だから亮子たちも晴子と同じく茜を応援した。その甲斐あってか――武の中でも様々な感情の変化はあったのだろうが――今や二人は公認の仲となり、周囲の者から羨望とからかいの視線と言葉を浴びせられる毎日である。……それはきっと、これからも変わらない。

 晴子も薫も。

 自分たちの死で、その幸せが崩れることを望みはしないだろう。

「多恵さんは、白銀くんのこと……どう思いますか?」

「んののっ?! ど、どどど、どうとはっ!!?? ――そ、その。あのその。あ、いやっ、で、ででででも、ホラ、わたしには茜ちゃんがいるしっ!?」

 慌てふためく多恵の姿は見ていて非常に可笑しい。あまりの珍妙さに堪えきれなくなった亮子くすくすと苦しそうに笑い、違う違うと首を振る。その亮子の仕草に、顔を真っ赤にして混乱していた多恵は首を傾げる。頬を赤く染めたまま、なんだよー、とむくれてた。

 あまりにも可笑しくて、可愛らしくて……だから、亮子はその先を問わないことにした。……多分、問うたところで答えなんて出ない。折角笑うことが出来たのなら、今のこの柔らかな空気を壊したくはなかった。――白銀武の身に起きているのだろう何らかの異変など……自分たちがいくら考えたところで、一切の解などないのだから。

 まりもに連れられて去っていった彼は、何事もなかったような表情で戻ってきた。そして、みちるにまりもの命令を伝えて、茜と共に姿を消している。そのときの彼の仕草が、あまりにも普段どおりで――顔は変わらず血に汚れていたし、蒼白ではあったのだが――まるであの血涙や吐血が嘘のように思えてしまうほどだった。努めてそういう態度をとっていたのか、本当に、あの時はなんでもなかったのか。その判断は、亮子にはできない。……多分、まりもでさえ把握していない事象だったのだろう。

 表情に翳りを浮かばせた亮子の顔を見て、多恵は本当に小さく息を吐く。亮子が何を言わんとしていたのか、察してしまった。多恵も彼のあの変貌振りは気になっている。気にしてもしょうがない類のことなのだとは想像がついているが、それでも、多くの戦死者を見てきたばかりだ。……今度は武がいなくなってしまうのではないかという想像は、抱くなという方が無理だ。

 少なくとも多恵は、武があのような容態――病気なのだろうか? ――にあることを知らなかった。きっと、皆もそうなのだろうと思っている。ハイヴでの戦闘中に血を流した彼に気づいた際の皆の反応が物語っているからだ。誰も、茜さえも、“あんな武”は知らなかったに違いない。

 どう楽観的に捉えようとしたところで、血涙を流すほどの状態が“良い状態”とは思えない。そういった類の前兆を一切把握していなかったからといって、実は彼が死の間際に立っていないとは誰にも断定できない。――そんな可能性をつらつらと考えたところで、所詮、妄想の域をでないし……自分に出来ることはないのだと、多恵は落胆する。

「ううん――」

 違う。そうではない。多分、きっと、なにかがある。自分や亮子、勿論茜が。彼のために出来ることはきっとある。この四年間で多恵が一番に学んだこと。それは……仲間の尊さだ。一人では出来ないことも、二人なら、仲間達と一緒なら、成し遂げることが出来る。どれだけの危険や犠牲を孕んだとしても、それでも、成すことは出来るのだ。『甲21号作戦』のように。日本中の衛士が、軍人が、総力を挙げて挑み、果たしたこの作戦。人類が力を合わせて我武者羅になれば、今まで誰一人として成し得たことのない偉業さえ、達することが出来るのだから。

 旭に命を救われ――そして、生き延びたからこそわかったことがある。「そうやって」、命は続いていくのだ。誰かが誰かを支える。誰かが誰かの力になる。誰かが誰かを護り、誰かが誰かを想い、愛し……そうして、生命は紡がれていくのだ。

 だから多恵は旭に救われたこの命を、自分の大切な仲間のために使うことを誓っている。そのために生き、戦うのだと決めた。亮子だってそうに違いない。薫や晴子たちの死を乗り越え、こうして隣りで気丈に立っている姿は、決して昨日までの彼女と同じではないことを物語っている。……凄惨で地獄のようなあの魔窟を潜り抜け、仲間の死に触れた経験が、自分たちを成長させてくれた。まだまだ力の及ばないところもあるだろう。けれど、自分ひとりでは出来ないこと、それを支え補い合える仲間が居るから、前に進むことが出来るのだ。

 だから、武のために何も出来ないはずがない。

 少なくとも自分と亮子と茜の三人――多分、水月や真那といった武と関わりの深い人たちも……他の仲間達だって、皆が、彼のため或いは全員のための力になることが出来るのだ。一人ではないのだから。仲間が居るのだから。

「亮子ちゃん!」

「――ぇ? あ、はい?」

 少し驚いたように顔を上げる亮子に、多恵はとびっきりの笑顔を向けて。

「一緒に頑張ろう!!」

 力強く、亮子を抱き締めた。ぽょんぽょんの多恵の胸に顔を埋める形になった亮子は突然のことに目を回したが、すぐに多恵の言葉の意味するところに思い当たり、笑顔を浮かべる。強化装備越しに感じる彼女の温かさに安心しながら、自分も武や他の仲間達のために出来ることを全力で成そうと決意する。きっとやれる。出来ないことなんてない。

 晴子を、薫を忘れない。彼女たちは最高の仲間で、最高の友人で……今も、いつまでも、ずっと傍に在るのだから。その生き様を、その死に様を。彼女たちの記憶全てを抱いていこう。そうすれば、ずっと一緒に居られる。共に戦っていけるのだから。

「ぁ、ぁっ、駄目……っ、亮子ちゃんそんなにされたらわたしぃ……はぅん……」

「むが?! もがもがもが!!」

 妙に鼻にかかったような甘ったるい声を聞いて、亮子は焦る。なんだか似たような展開を過去に見た気がする。そう、アレは多恵が茜に飛びついて抱き締めた時だ! 多恵にはそちらのケがあるということを十分に知っていたはずの亮子はしかし、気づいたときには既に遅く、駄目とかやめてぇとか甘く囁き続ける多恵により強く抱き締められるのだった。



「……あの二人、何やってるのかしら?」

「あははは、多恵さんなんだか気持ち良さそうだね!」

「はぅあぅあ~……見ちゃ駄目ですよ~」

「……同性愛?」

「男性が少ない今の時勢では理解できぬこともないが……もう少し人目を憚ってほしいものだな」

「あーこらこら。あんたたち、ちょっと前向きすぎ」

 亮子の顔を自身の胸に押し付けて喘いでいる多恵を遠くから眺めていた面々が口々に感想を述べる。千鶴以外の全員が突っ込みどころ満載の発言をしたため、我慢できなくなった水月は呆れたように零していた。特に冥夜の思考は色々と前向きすぎるため、あとで冗談と本気の境界線について教育すべきだろうか。……面倒くさい。水月は早々にその案を投げ捨てて、やれやれと皆の顔を見回す。

 どうやら……全員それなりに、大丈夫らしかった。一番心配な奴がこの場には居ないが、それ以外の面子の顔を見る限り、それほど気に病むことはないのかもしれない。……勿論、今この場所は強がっているだけという可能性もある。

 ともすれば自分が気合を入れてやろうとさえ思っていたので、些か拍子抜けではあった。勿論、そのほうがいいに決まっているし、安堵もできる。最も危険な兆候を見せた多恵と亮子は武の喝に正気を取り戻せているし、ああやって莫迦をやっている姿を見れば、道を踏み外すことはないだろう。……身近にそういう経験者がいると、学ぶことも多いということだろう。

 かつて武が道を踏み外したそのとき、彼を止められなかった最大の要因は、誰も彼が抱える感情に陥ったことがないからだった。水月はそう理解している。仲間を喪う痛み、悲しみは皆知っていた。BETAに対する憎悪を募らせたことだってあるだろう。……だが、それは尊敬する多くの先達の教えによって正され、厳しい訓練を積み重ねることで衛士の流儀を養っていったからで、最初からそのようにできていたわけではない。

 初陣の時点で武の内奥に蔓延る闇に気づけなかったことが何よりも大きいのだが……そうやって道を踏み外した彼自身の経験が、彼女たちを踏み止まらせるに到ったのであれば、きっと、あの時喪われた志乃たちの命も、無駄ではなかったのだろう。――ああ、その通りだ。決して無駄死にであるはずがない。武は己の過ちから学び、同じ道を辿ろうとする仲間を救ったのだ。だから、多恵も亮子も……ここにはいないが、茜も大丈夫だろう。

 視線を千鶴や冥夜たちに向ければ、彼女たちは彼女たちでよくまとまっていると思えた。五人の中でリーダー的な位置を千鶴が務め、それを冥夜が支える。美琴と壬姫はムードメイカーの役割を全うし、慧が適当に引っ掻き回す。……実にバランスのいいチームだと思える。伊達に同じ訓練部隊だったわけではない。晴子や薫とも二年近い付き合いがあったはずだが……それでも、彼女たちの死に引き摺られ過ぎている節は見られない。これも、武の存在ゆえだろうか。

「……武、か」

 過ちを犯し、それを乗り越えた者の言葉は重い。それ故に説得力があるということだろう。それはいい。彼もまた成長しているという証だから。……けれど、問題は。

「気になりますか?」

「……宗像、」

 無意識に武の名を呟いていた水月に、美冴が声を掛ける。壁に背を預けたままの美冴は、一切の茶化しなしで水月を見つめていた。今の今まで誰とも口を利かずにただ佇んでいただけのくせして、こういう時だけ隣りに寄り添ってくれる彼女の優しさを、水月はよく理解していた。それが嬉しくもあり、同時に、そんなに心配そうに見えるほど自分は落ち込んだ表情を浮かべただろうかと薄く笑う。

 まだまだ精進が足りないということだろう。どれだけ多くの先達を喪い、仲間を喪い、部下を喪っても……まるで平気、とは中々いかないものらしい。ともすれば肉親以上の情を寄せている武に関することだからこそ、という可能性もある。水月は緩く首を振り、美冴の隣りに佇んだ。

「あいつのことは、多分考えても無駄だわ……あの莫迦、とっくの昔に私の手の届かないところにいるんだから」

「……そうですか? 少なくとも、白銀は速瀬中尉に対して、肉親以上の感情を持っていると思いますが?」

 ヤレヤレと呟いた水月に、美冴が真面目な顔をして応える。思わず咳き込みそうになるような発言だったが、どうにか堪えた水月はまじまじと美冴を見つめた。――今、一体こいつは何と言ったのか。耳にしたはずの言葉の意味を理解できぬまま、水月は頬を染めてしまう。

「なっ、ななな、なに言ってんのよ!?」

「……鈍いのは速瀬中尉も同じですか。やれやれ。白銀は、私や梼子たちに対して、明確な一線を引いていますよ。勿論、神宮司少佐や伊隅大尉にも。あいつが素のままに接しているのは、速瀬中尉に涼宮、月詠中尉くらいでしょう。ですから、白銀が速瀬中尉の手の届かないところに行ってしまった、なんてことはないと思いますが?」

 こ、こいつは――。水月は真っ赤に火照る頬を抑えられずにいた。美冴は自分がどれだけ恥ずかしいことを口にしているのかわかっているのだろうか。取りあえず、言われた水月は恥ずかしくて堪らない。真正面から明け透けにそう言われてしまうと反論したくとも反論できない。水月はあうあうと数秒喘いだ後に、右手で顔面を隠すようにした。

「あ~~~っ、もう! 調子狂うわねぇ!!」

「……あいつは弟なんでしょう? 白銀も、中尉を姉のように慕っているとは思いませんか?」

「だからぁ!! そういう恥ずかしいこと言うなッつーの!!?」

 んがぁ! と身を乗り出して抗議する水月に、美冴はこれみよがしに肩を竦めて見せる。その仕草が一層水月を刺激したが、とりあえずこれ以上藪をつついても仕方ないので、高鳴ってしまった心臓を鎮めようと深呼吸を繰り返す。そんな水月を見て、美冴は苦笑するしかなかった。……きっと、茜がいなければ、彼女は武の最も近い場所に居たのだろう。そんな気がする。或いは、本当に家族愛なのか。美冴にとってそれはどちらでも構わない。――いずれにせよ、それは尊い。

 故郷で待ってくれているだろう人物に思いを馳せることも一瞬。美冴は、努めて静かに、水月の心の動揺を支える。

「中尉……白銀と涼宮を支えられるのは、中尉だけだと思います。まぁ、白銀が一体どういう状態にあるのかなんて一切わかっていませんが、少なくとも、何事もないはずがない。柏木たちの死も、暫くは堪えるはずです。…………ですから、中尉はどうか、あの二人の傍にいてやってください」

 他は自分が引き受ける。美冴はそう言って笑った。……その笑顔は、どこまでも透明で、哀しげだった。同期の全てをたった一度の戦闘で喪ってしまった彼女には、彼女にしか知り得ない心の砂漠を抱えているのかもしれない。そんな彼女だからこそ、今は笑っている部下達の、内心の涙に気づいていた。きっと、基地に戻り、独りになった時……彼女たちは泣くのだ。声を上げ、嗚咽に咽び、悲しみに濡れる。それがわかる。

 そしてそれは武や茜だって同じで……自分たちだって変わらない。ただ、彼女たちに比べてその哀しみを多く経験しているというだけに過ぎない。そして、多く経験しているからこそ、彼女たちを支え、導くことが出来るのだ。ならば――ならば、あの二人の支えには、水月が相応しい。姉のような水月なら――或いは茜には遙の方が適任なのかもしれないが――何やら不穏当な予感をさせる武を支えられるだろう。勿論、全てが杞憂ということもある。

「宗像……あんた……」

「なにもかも背負う必要なんて、ありませんよ。背負いきれないものは、私や梼子たちに預けてくれればいい。中尉は、中尉にとって譲れないものを護ればいいんです」

 生意気なことを言う、とは……水月は考えなかった。本当に、宗像美冴という彼女は、どうしようもないくらいに優しい。――かっこいいじゃない。水月は唇の端を吊り上げて笑い、更には大声で笑った。胸の裡にわだかまるような感情が晴れていくのを感じる。

 そうだ。何を思い悩むことがあっただろう。人類は遂にかつてない偉業を成し遂げ、世界は希望に満ちている。XM3の性能は問答無用に証明され、世界中の衛士はこれに飛びつくだろう。大掛かりな作戦と膨大な人員を要するとはいえ、戦術機でのハイヴ攻略の成功は、未来を輝かせるに足りる。そう。世界はこれから変わるのだ。――否。変えるのである。自分たちが。自らの手で。

 だから、武のことも……悩むことなどない。例えどれほどの事象が彼の身に起こっているのだとしても、きっと、力になれる。そして武自身、二度と折れることなどないと信じている。そう、なにせ彼は――

「あたしの、弟なんだから」







 まりもは形式どおりの戦闘報告を終えると一度口を閉ざす。室内には夕呼とまりもの二人しかおらず、部屋は高度なセキュリティによって隔離されていた。地上での戦闘ではかつてない大戦果を挙げているということは、夕呼から聞かされていた。そしてその当人は、まりもからもたらされたハイヴ内部の情報を元に何やら思案する様子で、むっつりと黙り込んだまま口を開こうとしない。

 夕呼が自身の考えを纏める時に黙考することは珍しくない。時折呟かれる言葉の切れ端を拾ってみても、多分まりもには彼女が一体何を考えているのかなどわからないだろう。作戦は成功。人的にも物的にも甚大なる損耗を抱えたが、確かに作戦は成功したのだ。国内に存在するハイヴを取り除いたことで、日本の安全性はかなり高くなった。依然として甲20号目標が間近にあるわけだが、今回の勝利によって佐渡島へ向けていた戦力を回す余裕が生まれ、防衛を強化できる。……日本人が九州を取り戻す日も、夢ではないのかもしれない。

「――そう。いいわ。よくやってくれたわね、まりも」

「ハ! ありがとうございます!」

 ようやく顔を上げた夕呼の表情は柔らかく、不敵だった。それは自身の開発したXM3の性能と直属部隊の栄光を讃える笑みであり、今後更に続く地獄に対する宣戦布告の笑顔。今回の作戦で見えた様々な問題点の解決。ハイヴ内部での戦術展開等、課題は多い。けれどそれらの全てが世界中に大いなる躍進をもたらすことは間違いなく……これで、AL4の即時凍結は免れたことになる。

 AL5遂行のために洋上で待機していた米国艦隊は特に嫌味を垂れることもなく既に戦場を後にしていて、その聞き分けのよさが逆に不気味に感じられる。けれど夕呼は、米国はXM3が喉から手が出る程にほしくなったから、無用な波風を立てまいとしているのだと言う。……確かに、これだけの大戦果を前にして『G弾』など使おうものなら、利己的な面ばかりが強調されて、彼らの権威は地に落ちるだろう。

 つまり、今のこの状況は、若干の博打的要素もあったわけだが、夕呼の目論見どおりというわけだ。そうしてAL4の続行を勝ち取れたなら、A-01から出た四人の戦死者や、帝国軍第211中隊の全滅、或いは他の突入部隊、地上部隊の損耗など……微々たるものでしかない。彼女は、徹底したリアリストでもある。必要な犠牲ならば惜しまない。後悔しない。常に最善を見据え、最大限の成果を上げる。夕呼はそれが出来る人物だった。

「ご苦労だったわね。今は下がりなさい。……続きは基地に戻ってからでいいわ」

 一応、作戦はまだ続いている。夕呼はこの作戦の立案者でもあり、客人でもある。そんな重要ポストに立つ人間がいつまでも席を外しているわけにはいかないのだった。……だが、退室を命じてもまりもは下がろうとしない。いつもなら生真面目に敬礼して背中を向ける親友が、今日に限っては噛み付かんばかりに鋭い視線を向けてくる。――なるほど、だから『狂犬』なのか。夕呼は親友の通り名を思い出して少しだけ笑った。

「……香月博士、差し出がましいことは承知ですが、一つだけ教えていただきたいことがあります」

 ほぉ、と。夕呼は唇を吊り上げた。珍しいこともある。こんなまりもの顔を見るのは初めてだったからだ。まるで自分のことが憎いかのような、けれど信じていたいと縋るような。そんな相反する二つの感情が混じり合った、怒りにも似た表情。そんなまりもに興味をそそられ、いま少しの時間をここで潰すこともいいだろうと、夕呼は緩く腕を組む。無言のまま、からかうように顎を引いた彼女に、まりもは意を決して口を開――、

『香月博士、月詠中尉が面会を希望されています……いかがいたしましょうか』

「――、ん、」

 意気込んだところに、タイミングよく遙からの通信が割り込んできた。彼女はこの部屋の外で待機しており、緊急の事態には夕呼を呼び出す役割も兼ねていた。一体斯衛が何の用だと面倒くさそうな顔をした夕呼は、少し不機嫌に遙に問い返した。

「この部屋には関係者以外入れるなと言ってあったはずよ」

『はぁ……ですがその、煌武院悠陽殿下よりハイヴ攻略の勅命を賜り、香月博士直属の部下として戦果を挙げた以上は……その、直截ご報告申し上げるのが義務だと……』

「……はぁ。いいわ、通して頂戴」

 全く頭の固いことだと夕呼は溜息をついたが、まりもはいささか面白くない。夕呼直属という立場ではA-01も彼女たち斯衛軍第19独立遊撃小隊も同一であるが、作戦中はまりもが総指揮を執ることで合意している。そして、そのまりもが“艦内待機”を命じたにも関わらず、真那はそれを無視してここまでやってきているのだ。命令違反と叱責するつもりはないが、斯衛という立場を若干乱用しているように見えるのである。……勿論、彼女がやって来た理由には見当がついていた。

 彼女たち師弟の絆の強さを、まりもはよく理解している。だからこそ、真那はここにやって来たのだ。戦闘報告なぞ口実に過ぎない。将軍殿下の名を持ち出してまですることかとも思いはしたが、そこはあえて口にすまい。恐らく、真那自身深い葛藤の末なのだろう。この辺りに、冥夜に対する線引きとは異なる曖昧さが窺える。主君であった冥夜と、ある意味私的な関係である武。斯衛の立場を貫く高貴なる武人であり、己の立場を客観的に把握できる彼女は……けれど、女性としてはまだまだ成長途上にあるようだった。

 まりもにはその真那の感情が理解できたので……一礼して入室した彼女の感情を押し殺したような能面を、哀しいと感じてしまった。

「拝謁を御許可いただき、ありがとうございます。神宮司少佐殿におかれましても、格別のご配慮痛み入ります……」

 顔を上げ、敬礼する真那にまりもは答礼する。夕呼は興味深そうに唇を歪めるだけで、何も言わなかった。それを“発言の許可”と受け取った真那は、一度まりもに視線を送った後、いとも簡単に、単刀直入に、「自分はこの部屋に立ち入るために嘘をついた」とこれ以上内くらい呆気なく暴露してみせた。



「白銀少尉の身体の異変について、香月博士が存じていらっしゃる限りの全てをお教え願いたい」



 これには流石にまりもも絶句した。無礼どころではない。如何に斯衛といえど相手は大佐。しかもAL4最高責任者にして国連軍横浜基地の副司令だ。一中尉如きが牙を剥いていい相手ではない。無論、まりもとて彼女と同じことを尋ねるつもりでいたのだが、もう少し言葉は選ぶつもりだった。……なにせ、まだ本当に夕呼が原因なのかどうかわからないのだ。――だが、真那にその躊躇はなかった。真那は「夕呼が原因――少なくとも何らかの形で関与している」と断定している。

 立場の違いも、自身の思い込みである可能性も一切なく、“お前のせいに違いない”という一方的な断定で、夕呼を問い詰めてみせた。これが斯衛なのか。否。目の前に立つ赤服は“斯衛”などでは決してない。怒りのあまり冷静さを失ったか。それとも、斯衛の立場を利用した一個人であるとでも言い張るつもりか。

「月詠中尉! 無礼だろう!!」

 まりもの立場上、真那を叱責するしかない。上官侮辱も甚だしい。結果的に自分の代弁者となった真那を責めるのは気が引けるが、いくらなんでも手段を選ばなさ過ぎた。何度も言うが、夕呼はAL4の最高責任者である。その夕呼を誘致したのが日本国首相の榊氏であることなど、真那の立場なら知っていて当然だ。そして、それらを全て承知の上で、政威大将軍の勅命を拝命しているのだ。……つまり、どれだけの理由が在ろうと、どれほどの感情が蠢こうとも、真那は夕呼を詰問できる立場になどない。

 にも関わらず、夕呼は笑った。呆気に取られるのはまりもと真那だ。真那の視線を遮る形で立ちはだかったまりもにしてみれば、ここで夕呼が噴き出す理由がわからない。真那は笑われているのは自分なのだと悟り、一層視線を険しくする。そんな彼女の態度が益々可笑しいのか、夕呼は本当に愉快そうに笑うのだった。

「こ、香月博士……」

「あっはははは、あはは、あ~、笑った笑った。ほんと~にアンタって面白いわねぇ。堅物で頑固で正直邪魔でしかなかった斯衛を、こうまで変貌させるなんて……ふふ、アイツも割りとやるじゃない」

「!?」

 おずおずと声を掛けたまりもを無視して、夕呼は息を整えながら意地悪く笑う。言葉の中にあった“アイツ”が武のことを指しているのだと気づいた真那は、湧き上がった感情に朱を差した。ぎり、と。強く握られた拳が軋んでいる。まりもは改めて夕呼を背後に庇いながら真那と対峙した。……真那の気持ちはわかる。わかるのだが、彼女は冷静さを欠き、礼節を欠いた。いくら夕呼がそういうことに頓着しないとはいえ、今の状況を真那自身好ましく思っていないはずだった。恐らく、暴走している自身への怒りもあるのだろう。震える拳が、幾つもの理性と感情が鬩ぎあっていることを物語っていた。

「――それで? 白銀がどうかした? ……まぁ、大体予想はつくけど。何? アイツ血でも吐いたわけ?」

「「――ッッ!?」」

 まるでなんでもないことのように。さも、それが当然であるかのように。

 だから、まりもは自身の耳を疑い、真那は込み上げた怒り以外の感情を消した。

「あら、図星。……そう、あたしの読みもまだまだねぇ。てっきり、あと数ヶ月は持つかと思ったんだけど」

「ゆ……香月、博士……?」

 夕呼でいいわよ。ヒラヒラと手をやりながら、夕呼は鬱陶しそうに言う。内心ではどうでもいいことなのだと割り切りながら、ならばどうしてこんなことを口走っているのかわからない。夕呼は勿論、全てを白日の下に晒す気などないのだが、どこかで誰かに断罪されたがっているのかもしれない……そんな風に、まるで他人事のように思う。武が血を吐いたというのなら、もうそれは止められない。いや、最初から決まっていた。初めからそんなことは承知していた。

 白銀武という一人の人間の命を犠牲に、鑑純夏の情報を得る。

 その目的のための手段。00ユニットとなる“彼女”のことをより深く知るために、武という存在は降って湧いた幸運だったのだ。だから利用した。そしてそれだけの価値はあった。彼は鑑純夏の身に起こった事象をリーディングすることに成功し、発狂しながらもそれを霞に託すことを成した。――後は、死ぬだけの日々。それを哀れなどと思うつもりはなかったのだが……あの時の自分の感情は、今もよくわかっていない。自業自得なのだと。夕呼は自身の右腕を抱いた。

「夕呼、貴女……今なんていったの?」

「まりも、あたしはあんたが思っているほど善人でも良識あるニンゲンでもないわ。あんただってわかってるんでしょ? だからここに居る。違う?」

 苦笑するように肩を竦めた親友に――まりもは、足元が崩れ去るような衝撃を受けた。頭では理解していた。夕呼は、そういうことの出来る科学者なのだと。理想を追う者は、その途上に転がるありとあらゆる障害を取り除くことに躊躇しない。そして同時に、その理想の助けとなるだろう事柄に挑むことにも、一切の躊躇いはないのだ。

「白銀は多分もう長くないでしょうね。今投薬しているクスリで副作用が抑えきれなくなっているなら……持って一ヶ月、ってとこかしら」

 夕呼の言っている意味がわからない。一体彼女は何を言っているのだろう。――無知を装うのはやめろ。もうわかっていた。もう理解できていた。まりもは知る。それが、全て真実なのだと。

「白銀少尉に、何をしたのですか……」

「脳を弄くっただけよ」

 怒りに震える拳を必死に押さえながらの真那の問いに、夕呼は身も蓋もなくそう答える。それには真那もまりもも愕然とした。――なんだ、それは。

 だが、まりもは“まさか”と気づく。武が夕呼からの呼び出しを受けたのはいつだったか。夕呼が武に目をつけたのは、一体いつからだったか。――戦術機適性検査結果:判定「S」――その単語が、脳裏を過ぎる。

 2000年6月当時、夕呼は前代未聞の戦術機適性を叩き出した武に興味を持ち、その身体構造や卓越した三半規管の解析に始まり、様々なデータを採取していた。……そう、それはきっとそのときから。一度だけ、夕呼の口から聞いたこのある……当時はただの冗談だと思っていたそのこと。「強化衛士」。……莫迦な。夕呼自身、冗談だと言っていたはずだ。まりもは必死になって当時の記憶を漁る。けれど、その不穏な単語を耳にしたのが一体いつだったのか思い出せない。

「まさか……本当に……、」

 思い返せば、夕呼の実験によって武は意識を失うことが多々あった。錯乱し、傷を負ったこともあったらしい。そしてそのことは真那もよく知っていて、一度、そこで水月とも出会っている。が、重要なのはそこではない。夕呼は言った。脳を弄くった、と。投薬しているクスリ、と。ならばそれは脳を肉体をクスリによって改造したということであり、そうやって「強化」を施された武は次第に副作用に蝕まれて…………?

「なぜ、そんなことを……夕呼、貴女は……」

「必要だったからよ。白銀には可能性があった。そして、彼は見事それに応えてくれたわ。……色々辛い思いもさせたようだけど、白銀は既に運命を受け入れている」

 まりもや真那が考えていることが真実とは若干ずれていることを夕呼は見抜いていたが、それはそれで好都合だった。夕呼自身、AL3の暗部をまりもに知らせる必要はないと考えていたし、自分が説明するまでもなく勘違いしてくれたのなら、わざわざ訂正することもない。それに、そういう思い込みが彼女たちの中に芽生えたというなら、今後の懸案の一つであった鉄の扱いについて、妙案も浮かぶ。

「……白銀は、このことを知っているのね?」

「ええそうよ。彼には全て伝えてある」

 そして、正気を失くし道を見失い、狂気と殺意の暗黒に溺れ……どれだけ無様で、死ぬだけの生と知りながらも、前を向き這い上がった。その点だけは、夕呼も評価している。その手助けをしたのが恐らくはすぐそこで殺気を漲らせている斯衛の赤なのだろうが、もっとも、その辺りの事情は夕呼にはどうでもいい。武は手駒の一つに過ぎない。確かに優秀な衛士であり、恐らくは屈指の実力を誇るのだろうが……それだけのことだ。そして、“後釜”も既に手中にあるのだから、「何も問題はない」。

 まりもはそれ以上続ける言葉もなく……ただ、黙っていた。それがことの真実だというならば、納得するしかない。成程、だから武はあれ程強固に拒んだのだ。脳や肉体に改造を受け、死が目前に迫っている事実を、上官とはいえ、知られたくはなかっただろう。

 真那を見る。目を閉じている彼女の表情は無そのもので、一切の感情を示していない。己の立場さえ顧みず、感情のままに夕呼を問い詰めた気丈さ、或いは怒りなど、どこにもなかった。師が弟子を想う以上の感情があったのかどうかは問題ではない。真那はただ――哀しいのだろう。まりもはそれを察して、真那の傍に寄る。

「……月詠中尉、もういいだろう。行くぞ」

「…………は。……数々の非礼、お許しください。…………失礼いたします」

 ただそれだけを言い残して、二人は部屋を後にする。入口で待機していた遙と目が合ったが、まりもは何も言う気になれず、真那もまた黙りこんだまま歩き去った。困惑した様子の遙だけが取り残されて……。







 ===







 自分の生きてきた意味というものを、武は感じ入っていた。

 最初は、幼馴染を護るために。師と出会い、剣術を学び、力を得ようとした。軍の存在を意識するようになり、衛士という存在に“護るもの”としての力を見出した。全ては純夏を護るために。愛する彼女を、彼女が生きる世界を護るために……我武者羅になって。

 自分には、それしかないのだと。そう思っていた。絶望を繰り返し、正気を失い、復讐に身をやつし、血に汚れ……それでも、彼女を護ること。それだけが、己の生きる意味なのだと。そう思っていた。

 ――けれど。

 いつも傍で支えてくれていた茜。手を差し伸べ、時には殴りつけてでも曇った目を醒まさせてくれた水月。突き進むべき正道を示し、胸を張って生きろと教え導いてくれた真那。

 彼女たちのために生きる。それが自分の成すべきことなのだと知った。――茜を愛しているのだと、気づいた。

 自分は何のために生きてきたのだろう? 鑑純夏のため? 彼女を愛し、護るため? ああ……そうだ。その通りだ。そして、茜を愛し、茜を護るための生。今の武の全て。残り僅かである自分の命を懸けるに値する、全てだ。

 腕の中で安らぐように目を閉じる茜を見つめる。触れ合う肌が暖かく、幸せだと教えてくれる。満たされていた。微塵の後悔も在りはしない。愛する彼女と契り、愛する彼女を全身全霊で愛した。……ならばもう、心残りなどない。

 この命ある限り、戦場に立ち続ける限り。茜を護り切ると決めた。純夏を愛する気持ちに偽りはなく、今もそれは変わりない。二人ともを愛するのだと誓った想いは、一度たりとも違えたことはない。――ああ、それでも、今だけは。

 済まないとは思わない。そんなことを思うのは、純夏に対しても茜に対しても失礼極まりない。武の腕に包まれて幸せそうにはにかむ茜と見詰め合う。彼女は嬉しいと泣いた。愛していると囁いた。だから武も、涙が出るくらいの幸せを噛み締める。細いその身体を強く抱き締めると、柔らかで形のよい乳房が潰れた。その感触さえ、愛しい。

「えへへ、ちょっと、恥ずかしいかな……」

「ん……まぁ、その。確かに」

 お互い苦笑する。あれだけのことをしておきながら今更、という気がしなくもなかったが、案外そういうものなのかもしれない。共に初めてだったということもあり、改めて思い返すとそれだけで顔から火が出そうだった。茜も武も、顔を真っ赤にして笑い合う。照れくさかったけれど、幸せだった。どちらからともなく唇を合わせ、微笑む。

「武……私を愛してくれて、ありがとう」

「それを言うなら俺のほうだ。……茜、」







 ――俺を愛してくれて、支えてくれて、ありがとう。

 ――生きる意味を与えてくれて……ありがとう。



 だから俺は、心置きなく…………死ねるよ。







[1154] 守護者編:[四章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:d7901020
Date: 2008/09/21 10:58

『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』


「守護者編:四章-04」





 世界は文字通り震撼した。

 それは、世界初のハイヴ攻略を成し遂げた英雄達の偉業に。日本という小さな極東の島国が果たした高潔なる魂の散華に。

 XM3開発者・香月夕呼、考案者・鉄――両者の名と共に。世界は、新たな時代の足音に……震撼した。







 横浜基地は歓声に湧いていた。いや、きっと日本中どこでも同じような光景なのだろう。存在を秘匿されている彼女たちが表に顔を出すことはなかったが、基地中に溢れかえる人々の歓びの音は、車輌の中にも響いていた。

 実際、帰還したA-01を出迎えた者たちは数え切れない。基地中の衛士たち、職員達がこぞって持ち場を離れ出迎えるという前代未聞の大騒ぎである。中にはわざわざ紙吹雪を作成したものもいたようで、建物の屋上から窓から賑やかにばらまかれている。外の冷気などまったく気にした風もなく、飽きることなく歓声を上げ、特務部隊の偉業を讃える。涙を流して手放しで喜ぶ者。握り締めた拳を天に突き上げ快哉を叫ぶ者。……多くの人々の、想い。

 ――それらを、涙が出るくらいの嬉しさを。彼女たちは全身で感じていた。散っていった仲間達は決して無駄死になどではない。当然だ。そうさせないために、死に物狂いで戦い、作戦を成功させ、生きて還ってきた。だから、より一層に、響く。皆の歓声が。迎えてくれる人たちの存在が。よくやった――そういってくれる観衆たちの声が、なによりも心を慰めてくれるのだ。



 そして宴は始まった。

 横浜基地PX名物、食堂のおばちゃんの手による弔いの儀式。A-01から戦死した四名の好物を大皿にこれでもかと盛り合わせ、それ以外にも各人の好む料理を並べた立食形式。一体誰が食べるんだと問えば、あんたたちに決まってるだろうと背を叩かれ、残しでもしたら明日からひもじい思いをすることになる。

 ざっと目算しても一人当たり四人前プラスアルファ。喰えるわけがない。――が、そんな言い訳が罷り通らないのがこのPXの真理であり真実。ましてこれらの料理は正真正銘おばちゃんたちの好意の顕れなので無碍には出来ない。彼女たちの気遣いを嬉しく思えばこそ、食べきらないわけにはいかない。

 色鮮やかな夕食に、A-01の隊員たちは目を輝かせ、笑顔を浮かべ、談笑を交え互いを讃え、死んで逝った仲間達の思い出に花を咲かせ……そして宴は始まった。

 新任たちが知らない高梨旭や古河慶子の物語。先任たちが知らない柏木晴子や立石薫の物語。梼子だけが知る彼女の物語。真紀だけが知る彼女の物語。茜だけが知る彼女の物語。亮子だけが知る彼女の物語。

 全て、もう喪われてしまった物語。――けれど、それはこうして皆に語ることで受け継がれ、語り継がれ、魂の名と共に「生きる」。魂の死とは、忘れ去られることだ。衛士が死ぬ時とは、その時だ。だから忘れない。だから語り継ぐ。彼女の素晴らしさ。彼女の強さ。弱さ。涙。笑顔。戦う理由、果たした全て。その生き様を。胸に刻め。

 宴は続く。和やかに、緩やかに。時に笑顔が咲き、時に涙が浮かび……時に、奇声が、哄笑が、踊り、絡み、愚痴り、荒み、目が据わったりくだを巻いたり裸になろうとしたり走り回ったり正気を失くしたり倒れて眠ったり発情した猫みたいになったり性格が反転したり……まぁ、なんだその。

「誰だぁああ!! 酒なんて出したのはぁああああ!!??」

「た、武ぅ~~っ! 助けてぇぇ~! ッ、いやぁああ!!?? 多恵、そこはっ、そこはダメェぇえええ!!」

「あ、茜!? いつの間にそんなに淫らな格好に!? なんてことだ実にけしからん! ――いいぞ築地もっとやれ!!」

「うん~~えへへぇ~任せてしろがねくぅぅ~~ん」

「あんたも酔ってんじゃないのよ~~~!! 莫迦ぁああ!!」



 中略



「で? 結局何? あんたたちヤッたわけ? あん?」

「で、ですから水月さん。俺たちはそのですね?」

「っるせーぇ!! あらひが聞いてるんだからこたえなはいよぉー! この甲斐性ナシーーー!! 鈍感ヤロー!!!」

 理不尽だ。武はげんなりしながらしなだれかかってくる水月の顔を見る。気がつけば阿鼻叫喚の酒乱絵図と化していたPX。半裸になった茜を抱き締めた格好で眠っていて、目を開けたときはかなりドキドキしたのだが、その茜の背中に豊満な胸を押し付けて眠っている多恵を見て更に混乱したのがつい数分前。周囲を見渡せばそこら中で酔っ払いが好き勝手なことをして暴れていて、とても正視に耐えるものではなかった。

 これがあの甲21号目標を破壊した英雄たちなのかと思うとなんだか哀しくて涙が出そうだったが、それよりもなによりも普段美人で勇ましい彼女たちの醜態が心に突き刺さったというほうが正しい。何より……自分もこうして目を醒ますまでの記憶を持たないのであれば、彼女たちの同類なのは明白だった。――何やってんだかなぁ。困ったように笑みを浮かべてしまうのも無理はない。

 それくらい、ただ、楽しいだけの時間。…………ようやく、自分を含めた全員が。仲間の死を乗り越え、吹っ切れ、前を向き進んでいる。その第一歩に相応しい、騒がしい宴だった。

 ……の、だが。

「アァン? ちょっとたけりゅう?? あんた全然呑んでないじゃないよぉ~。んんんぁぁあん??! あらひの酒が呑めないってかぁ~~!!?」

「言ってません! 呑んでます! 美味しいです!! サーッッ!!」

「ん。ならばよろしい。いーい? たける。アンタはあらひのおとーとなんだから、好きなだけ甘えていーんらからね? ほれほれ」

 どうしてこうなったのか。眠る茜の髪を梳くように撫でていたら、思い切り襟首を掴まれて攫われて、こうして水月と並んで夜空を見上げている。グラウンドの端に腰掛けて、澄み切った冬の空に浮かぶ月を肴に。頬を赤くして、火照った体で武にもたれかかる水月は、温かで……暖かかった。

「ほーら。いいこいいこ。あんたはあらひに甘えていーんだから。……ね」

「ちょっ!? ……水月、さん?!」

 頬を摺り寄せるように、そして武の頭を抱えて撫でる。突然のことに武は慌てるしかないが、くすぐったい感触に思わず目を細める。酒が入って酔っ払っているはずなのに、どうしてか水月の言葉は胸に染み渡るようだった。ゆっくりと武の頭を撫でて、機嫌良さそうに鼻歌まで歌っている。傍らには転がった一升瓶に二つのグラス。武も負けず劣らず真っ赤になっていたが……果たしてそれは酒のせいだけだったのだろうか。

 水月はただ満足そうに武を抱き締めて撫でている。武としては気恥ずかしさと心地よさが混じり合って一体どうすればいいのかわからないのだが……もう少しだけ、このままでいるのもいいのかもしれないと思う。こうして水月の腕に抱かれるのはいつ以来だろう。……ああ、それは……あの北海道の雪の日の朝。淡く光る月に輝く彼女は、今も同じに温かい。――まるで、そう、まるで……姉のように。

(水月さんは、俺のことを知らないはずなのに……)

 なのに、彼女はまるで全てを包み込んでくれるように、優しく、温かかだった。茜や純夏に対するのとは異なる愛情が込み上げてくる。それは、今は亡き父母へ寄せる情に似て。武は水月への思慕の情を理解する。――俺は、このひとに肉親のあたたかさを見ていたんだ……。

「……水月さん。……その、そろそろ……」

「ん~~~、んぐ~~~、ぐーーー。。。」

 寝てる。寝てますよ。莫迦な……なんてお約束の展開だ。武はほんの少しだけ項垂れながら、けれどがっちりと両腕で頭をホールドされたこの状態で、一体どう抜け出せばいいのか途方に暮れる。本格的に寝に入ったのか、水月は呼びかけても目を開かない。ヤレヤレと溜息をついた武は、その内起きるだろうと諦めて、寒空に浮かぶ月を見つめた。

 冷たい。雪こそ降っていないが、年明けの冷え込みは厳しい。酒に火照っている身体もすぐに冷めるだろう。風邪をひく前に水月を連れてPXに戻らなければ……いや、もう部屋に戻ったほうがいいかもしれない。そう頭で理解しても、行動に移せないのでは意味がない。誰か来ないだろうかと期待してみるが……こういうときに現れる人物というのは矢張りお約束なわけで。

「ほほぉ? これはこれは。いやはや、涼宮とめでたく結ばれたのかと思えば、次は速瀬中尉とは……。白銀、貴様もようやくわかってきたようだな」

「いきなり出てきて不穏なこと言わんで下さい」

 やってきたのは美冴で、手には水の入ったコップが二つ握られている。そのすぐ後ろには遙の姿もあった。彼女は薄い毛布を抱えている。視線で礼をする武に遙は小さく笑って、そっと毛布を掛けてくれた。

「あはは、ごめんね白銀少尉。水月って寝ちゃったらなかなか起きないから」

「いえ、構いません。こうして毛布を持ってきていただけただけでも、凍え死ぬ可能性が減りましたから」

「ほほー? 私には感謝せず涼宮中尉にだけは礼を言うのか。ふん、白銀、いい度胸だ」

「宗像中尉、お水ありがとうございましたッ!」

 水月に抱かれたままの格好で敬礼しても様にはならないのだが、美冴はそれで満足したらしい。若干薄桃に染まっている頬が、矢張り彼女も酔っているのだと教えてくれた。一方の遙は眠ってしまった水月の頬をつついて遊んでいる。ぷにぷに、と口に出しながらつつくので、大層幼く見えてしまっていた。可愛らしい、という意味では隊内一なのかもしれない。茜とはあまり似ていないけれど、その優しい瞳は、姉妹なのだと感じさせた。

「あの……中はどうなってるんですか?」

「ん? ……ああ、ついさっき京塚曹長にどやされてな。今頃正座でもさせられて説教でも受けてるんだろう」

「あははははは。私は毛布を取りに抜け出してたから助かったんだけどね」

 そういえばと気になって問いかけた武に、美冴が口端を不敵に吊り上げて答える。水月の頬をつついて遊びながら答えた遙だったが、武はその言葉に首を傾げた。……“私は”、と言うからには、遙は一人だったのだろう。そして、美冴は食堂のおばちゃんに“どやされた”のだと言う。……。…………。

「あの、じゃあなんで宗像中尉はここにいるんです?」

「ふっ――愚問だな、白銀」

 その一言で大体の事情を察してしまった武は、聞くんじゃなかったと軽く後悔するのだった。それから暫くを無言で過ごした後、遙がゆっくりと口を開いた。

「……ねぇ、白銀少尉。…………茜のこと、大切にしてあげてね?」

「――ッ、ぇ、あ…………はい」

 水月の隣りに腰掛けた遙は、月を見上げて微笑む。いささか唐突ではあったが、想い人の姉からそう言われて、嬉しくないはずがない。少しだけ驚きを浮かべた武は、けれどしっかりと頷いて見せた。――例え泣かせてしまうことがわかっていても。それでも、生きている限り茜を愛し抜く。大切に、する。武の言葉に安心したのか、遙ははにかむように笑って、柔らかな表情を彼に向ける。

「うん。白銀少尉ならそう言ってくれると思った。……白銀君、茜を好きになってくれてありがとう。あの子はあれで甘えん坊なところもあるから、可愛がってあげてね」

「ぃやぁのそのっ……真顔で言われるとかなり恥ずかしいんですけどっ!?」

「ははは。白銀ぇ、涼宮を泣かせたりしたら大変だぞ? なにせ涼宮中尉は大の妹好きだからな。お前は知らないだろうが中尉は天使の笑顔の裏にそれはもう恐ろしい般若を潜ませていて…………ぇー、と」

 にこにことトンデモナイことを言ってくれる遙に武は慌ててしまうが、それをからかうように美冴が肩を揺らす。そしていつもの如くいらぬ一言を発したわけだが、けれどそれは最後まで言い終わることなく遙の“笑顔”に遮られた。――い、いかん……このプレッシャーは……ッ! そう美冴が気づいたときには既に遅く、

「うふふふふふふふ。宗像中尉、ちょっと向こうでお話しよっか?」

「「すいませんでしたぁ!!」」

 何故か美冴と一緒に震え上がる武。貌は笑っていても目が全然笑ってない。気のせいか、遙からドス黒い瘴気が漂っているように見え、夜の寒さと相まって一層冷え冷えとする。ガチガチと歯の根を鳴らす武だったが、その身体を包み込む水月が小さく身じろぎした。遙もそれに気づいて――その瞬間に瘴気は消えて――水月の肩を揺すっている。名を呼び、起こそうと奮戦すること数分。いかにも眠そうに目を開けた水月が、眼前にある武の顔に驚いて吃驚してゼロ距離からアッパーを食らわせたのはまぁ、これもお約束というやつだろう。

「こっ……この!? いきなり夜這いなんて困るわよっ!? あ、あああ、あたしにも心の準備ってものが??!!?!」

 冷たいコンクリートに轟沈した武に向かって、水月は真っ赤な顔であたふたと混乱する。どうやら彼女の中では自室で眠っていたことになっているようだったが、取りあえず誰も突っ込まないことにした。遙にしても美冴にしても、寝惚けた水月が零した“本音”が可愛くて可笑しくて堪らないのである。実にオイシイ。これで当分からかうネタに困らないと頷いた美冴は満足そうである。

「――って、え? あれ?」

 ようやくここが基地のグラウンドであることに気づいたらしい水月がきょろきょろと辺りを見回し、気絶した武と、ニコニコと微笑む遙を交互に見返している。瞬間、水月の顔色が青褪めて真っ赤になってまた青褪める。実に器用なものだが、恥ずかしさと驚愕が滅茶苦茶に入り混じっているのだろう水月の心情を思えば、無理もないのかもしれない。美冴はヤレヤレと肩を竦めて、ぽん、と水月の肩を叩く。びくりと大きく身を竦ませた水月が余計可笑しかったが、ここでからかうのはなんだか可哀想でもある。――内心で爆笑していたが。

「速瀬中尉、少し飲みすぎたのではないですか? 風に当たって酔いを醒ますのもいいでしょうが、少々冷気が障ります。涼宮中尉とともに自室に戻られてはいかがでしょう?」

「……ぁっ、あ、ああ! うん! そ、そうねっ!! そうするわ!? ――は、遙ァ! 部屋に戻るわよーっ!」

「あはは。水月、待ってよぉ。じゃあね、宗像中尉。白銀君をお願いね?」

 至極真面目に胸中の笑いを必死に押さえ込んだ美冴の言葉は空々しいくらいの善意に満ちていて、混乱した水月が“見逃してくれるのか”と勘違いするほどだ。そして自身の暴言をなかったことにするために、水月は慌てて立ち上がり駆け出す。文字通り逃げたわけだが、それを遙は可愛いと感じてしまう。追いかけるように駆け出そうとして足を止め、横臥している武に視線を落としながら、美冴へと向き直り、微笑んだまま彼の介抱をお願いする。美冴は苦笑して肩を竦めるだけに留めたが、遙もそれが了解の意思表示だということはわかったので、走り去った水月を追いかけることにした。

 本当に、愉快な人たちである。美冴は苦笑したまま遙たちの背中を見やって、足元に転がる哀れな武を見た。理不尽な攻撃を受けた武だったが、とっくに意識を取り戻しているらしく、ゆっくりと上体を起こし、痛む顎をさすっている。――その表情は、なんとも形容し難い笑顔と寂謬が混じったもののようで。

 ――どうかしたのか。そう尋ねようとして……どうかしたに決まっていると、美冴は目を逸らして舌打つ。平然としている姿を見てしまえば、アレが何かの悪い夢だったのではという気さえする。言葉に出来ない忌々しい感情が込み上げてきそうで、美冴はイラつくように髪をかき上げた。

「――俺、水月さんに色んなものをもらってばかりで……」

「……?」

 ぽつりと呟いた武に驚いて、美冴は視線を戻す。そこには変わらず形容し難い表情を浮かべた彼が座っていて、けれど、瞳だけは穏やかな色を浮かべて地面を見ていて――視線が、月を見上げる。つられるように月を見上げた美冴は、煌々と照らす淡い光に目を細めた。独り言だろう。呟きを漏らしはしたものの、武はそれから口を開かない。こういうときは放っておくのが一番だと理解している美冴は、けれどこの場を去るでもなく、じっと月を見ていた。



 ――ずっと前から、俺は水月さんに救われてばかりで。色んなものを教わって、与えられて……ああ、今更、気づいた。――俺は、何一つ返していない。

 武は胸中で吐き零していた。言葉にすればするほど、武の中で様々な感情が渦巻いていく。それはきっと、未練だった。茜を愛し、彼女と結ばれて……心残りなどないのだと自分を納得させたはずの、それでも拭えない、「生きたい」という執着。死にたくなんてない。支えてくれた人たち、導いてくれた人たち。水月、真那……茜、純夏。彼女たちと、もっとずっと、一緒にいたい。

 そう思わせる感情が、未練がましく胸の裡に渦巻いてくる。

 いつだって水月は教えてくれた。武が道を間違えようとする度、殴りつけて、怒鳴って……生きているんだ、と……だったら最後まで生きろと。そう言って、たくさんの、あたたかい愛情をくれた。本当に、自分はもらってばかりだ。武はなんだか可笑しくて泣けてしまった。笑顔を浮かべているはずなのに、眦に涙が滲む。……ああ、おかしいなぁ。そんな風にわかっていても、涙は止まらなかった。そこに美冴がいるとわかっているのに、彼女に慰めてほしいわけでもないのに。どうして、涙は止まらないのだろう。

 月のせいだろうか。冬の寒さのせいかもしれない。或いは、つい先程まで触れていた水月の体温が残っているからか。生き残り、還ってきた仲間達と……あんなにも、楽しく、騒いだからか。

 心置きなく死ねる。――でもそれは、茜以外のひとに一切なにも返せていない今のことではなくて……。自分はまだ……何も、返してなんかいなくて。

「――だったら、返せばいい」

 ああ、きっと――――それが、答えだ。そんなことはとっくにわかっていた。

 愛し、傍で支え続けてくれた茜には愛情を。

 胸倉を掴み、或いは背を押し、何度も救いの手を差し伸べてくれた水月。人道に悖り、外道に堕ちたこの身を再び正道へと導いてくれた真那。繰り返す愚かさと過ちを知りながら、それでも信頼をくれたみちる。先任を犠牲にして生き延びた戦場で、それでも生きろと叱ってくれた美冴。共に過ごし、戦ってきた仲間達。……一体、何を返せるだろう。残り僅かのこの命で、彼女たちにどれだけの感謝を伝えられるだろうか。

 言葉はいらない。行動で示せ。……それは、いつだったか水月に教えられたこと。この命を救ってくれた志乃たちの死を無駄にしないために、武は我武者羅に生きてきた。ならば、そんな武が彼女たちに返せること――示すことの出来る行動はひとつだけだ。

 “最後の最期まで、精一杯に生きる”



「宗像中尉……」

「……ん? どうした、白銀」

 数分もしない内に呼びかけられて、美冴は僅かに眉を顰める。顔を月に向けたまま、視線だけを武へと落とす。座ったままこちらを見上げていた武の表情は、どこか吹っ切れたように見える。そんな武が続けて言った言葉に、美冴は胸を詰まらせた。

「あの時……俺に生きろと言ってくれたこと。…………俺は一生、忘れません」

 なに、と。そう声に出すことも出来ずに。ただ呆然と立ち尽くす美冴の横を、武は通り抜けていく。アルコールの余韻など微塵も感じさせず、しっかりとした足取りで、颯爽と。そうやって去っていく武の背中を見送ることもなく、美冴は困惑するしかなかった。血を吐いて、血を流して、今にも死にそうな貌をして――そんな姿を見せた男が――あんなことを言う。

「白銀……お前は……ッ、」

 そのときの感情を何と呼べばいいのか。美冴は奥歯を噛み締めながら、ただそれだけを考えていた。







 延々と続いた京塚曹長のありがたいお説教も終わり、長時間の正座で痺れた両足を叱咤しながらふらつくこと数歩。未だにPXから出られていない事実にそれでも特務部隊かと情けなくなるが、後ろを振り返れば皆似たような有り様だったので大して気にしないことにする。一歩を踏み出そうとするたびにじんじん痺れる足に悲鳴を上げたり喘いだりと忙しい一行だったが、先頭を行く彼女だけが平気そうにしていることを、茜は内心恨めしく思っていた。

「な、なんで御剣だけ平気そうなのよっ」

「ふ、そなたたちとは鍛え方が違うのだ。日々の精進の賜物だな」

 ずるずるとのろまな歩みを続ける屍たちを無視していち早くPXの入口に辿り着いた冥夜は、そのまま入口の壁にもたれかかるようにして、不敵に言い放つ。若干目が据わっているのは、まだ酒が抜けていない証拠だろう。そのせいか、少しだけ口調が偉そうである。――ムカツク。咄嗟に浮かんだ感情だったが、多分茜以外の全員がそう思っていたことだろう。だが、冥夜の言っていることも事実である。正座や禅を組み、瞑想を日課にしている冥夜はまだまだ余裕があったのだ。

 ――と、よくわからない酔っ払い同士のやりとりを数度繰り返しているうちに、ようやく足の痺れも取れ始めたのか、何人かは立ち上がってヤレヤレと嘆息している。茜もなんとか立ち上がり、まだ少し痛む足をさすった。隣りにいた千鶴と目が合い、互いに苦笑する。確かに長いお説教だったが、軍人とはいえ未成年者があれだけ呑んで騒いで暴れていれば、年長者として叱らないわけにはいかなかったのだろう。些か度が過ぎた、という点を、茜たちはちゃんと反省している。それに、PXでおばちゃんに敵うものなどいないのだ。郷に入っては郷に従え。実にシンプルな掟だ。

「ふぁ~ぁぁ。なんだか眠いや。ボク、部屋に戻るね」

「あ、わたしも~~」

 タイミングよく美琴が大きな欠伸をして、壬姫がそれに続く。つい先程までにゃはははとよくわからない奇声を発していた壬姫の足元はおぼつかない。それを不安に感じたのか、亮子がそっと壬姫を支え、そうして三人はPXから去っていった。彼女たちを見送って、千鶴が自分たちも解散にしようと提案する。既にPXには自分たち以外に居らず、いつの間にか抜け出していた先任たちは一人もいない。真紀だけは自分たちと共に説教を受けていたのだが、今はその姿もない。流石に潜り抜けてきた場数が違うということだろうか。

 茜としては武を探しに行きたかったのだが、場の雰囲気からハッキリと言い出すことも出来ない。隊内に男性が一人しかいない状況で、しかも特務部隊という特殊な立場上、恋愛をする暇も機会もないほかの仲間達に遠慮した――と言うのは建前で、本音は、今この状況でノロケでもしたら明日の朝日を拝める自信がないからだ。殺られる、という直感は多分間違っていないだろう。

「茜ちゃぁ~~ん。今夜は一緒に寝ようよ~~ぉ」

 頬を赤く染めた多恵がにゃんにゃんと擦り寄ってくる。酒の勢いを借りているのか、その目はいつもよりもとろけていて艶やかな色をしていた。同性にそんな色気を向けられても空しいだけなのだが、茜はどうしたものかと頬を引き攣らせる。この多恵と一緒のベッドで寝たりしたら……十中八九、犯られる。それだけは断固として拒否しなければならない! この身は既に武に捧げていて、それを他の、しかも女に抱かれるわけにはいかない――などとかなり本気で考えているあたり、茜も相当酔いが回っている証拠だろう。

「こらっ! 離れなさいって!! 多恵ぇ~~!?」

「んのの!? 茜ちゃんひ~ど~いぃ~~!」

「ほらほらあなたたち、あまりふざけてるとまた京塚曹長にしかられるわよッ!」

 むぎゅむぎゅと柔らかな多恵の頬を押しやって遠ざけようとする茜に、多恵が泣きながら縋りつく。呆れながらも慌てた様子で千鶴が二人を宥め、冥夜も協力している。空気を読んだのか読んでいないのか、慧だけは彼女たちの輪に参加せず、愉快なやり取りを眺めていた。――と、そこに見慣れた顔がやって来る。

「……白銀」

 呟いた慧に、茜たちはハッとして、振り向いた。両手にコップと酒瓶を持ってやってきた彼は眼前に広がる光景にきょとんとしていて、やがて可笑しいとでも言うように笑った。

「あっははは。なんだ、まだ残ってたんだな。もうすぐ就寝時間だぜ? さっさと部屋に戻って寝ろよ?」

「た、武……」

 武はそう言ってPXの奥へ入って行き――多分、開いた酒瓶などをおばちゃんに渡しているのだろう――拳骨の音と「いてぇ!」という悲鳴が響く。……説教を免れていたところに鴨が葱を背負ってやって来たのだ。ニヤリと笑いこそすれ、同情などしない。自分たちはそれよりも更に長く辛いお説教を受けたのだから。ほんの少し胸がすく思いで待っていると、頭部を押さえながら戻ってきた武と目が合う。バツが悪そうな表情をする彼に、茜はくすくすと笑いながら近づいた。

「あははは! 武ってば! 未成年が酒瓶戻しに行ったらそりゃぁ殴られるわよ~」

「うるせ。元はと言えば水月さんが瓶残したまま部屋に戻るからいけないんだ」

 茜のからかいに舌を出して憎まれ口を叩く武。右手が自然に茜の髪を撫でている。その感触に目を閉じて、茜はくすぐったいような表情を浮かべた。

 堪らないのは――それを見せ付けられた連中である。多恵はしくしくと泣いているし、冥夜、千鶴、慧の三人は明らかにこめかみに青筋を浮かべている。今この状況でノロケたらどうなるかわかっていたはずの茜はしかし、そんなことを完全に忘れているようだった。冥夜と慧が千鶴に指示を求めるように視線を向ける。それを受けた千鶴は一つ頷くと、矢張り視線だけで指示を返した。

「「了解」」

 不穏な響きを孕む言葉を放ち、冥夜と慧は迅速に行動する。目標は武といちゃいちゃしている抜け駆け少女。隊内でもずば抜けた近接戦闘能力を誇る二人は瞬時に茜の両腕を抱え込み、茜や武が反応するよりも早く、目標を達成していた。え? え? と目を白黒させている茜を無視して、冥夜と慧は彼女を抱え上げたまま走る。傍目には大層愉快な光景だったのだが、目の前に居た恋人をさらわれた武としては、呆然と立ち尽くす以外のことは出来ないのだった。

「――ッッて、おい!?」

「あ、白銀は来なくていいから。女だけの話っていうのも、隊内のチームワークを高めるためには必要なのよ」

 数瞬遅れて正気を取り戻した武が“待った”をかけようとした瞬間、千鶴がその出鼻をくじく。意味がわからないという顔をする武を無視して、千鶴もまた茜がさらわれた方へと歩みを進めていく。その背後をついていく多恵が「剥くなら私にやらせてぇ~」と何やら不穏な発言をしていたが、多分きっと深く気にしてはいけないのだろう。

『い~やぁ~~やめてぇ~! ちょっ、そこはっ! そこはホントにだめぇええ~~~~!!!』

 遠くから響いてくる茜の悲鳴を聞きながら、武は困ったように頭をかく。――まったく、本当に。最高に楽しい。最高に愉快で。最高の仲間達。晴子や薫がいれば、もっともっと楽しくて痛快で……きっと、涙が出るくらい笑い転げるのだろう。その光景を思い浮かべて、懐かしい……などとは。

「思えねぇよ……。だって、今朝のことなんだぜ……?」

 つい昨日まではそれが当たり前の光景だったのだ。…………こういう考え方は駄目だ。武は緩く頭を振って、醒ましたはずの酔いをもう一度醒まそうと、外に出る。向かう先は基地の外。桜並木のあの場所へ。こんな時間に外出などしようものならまりもやみちる辺りに酷く叱られそうだったが……どうしてだろうか。あの桜に行けば、晴子たちに逢えるような気がしたのだ。


 門衛の詰める守衛所へ向かっていると、律儀なことに向こうから出向いてくれた。敬礼をかわし、武はこんな夜に外出する言い訳を考えながら口を開いたのだが、それよりも早く、黒人の兵士が言う。

「白銀少尉ですね? 神宮司少佐より自分の部下がやってきたら通せ、と言われていますので、許可証は必要ありませんよ」

「……ぇ、あ、そう? すまない。助かるよ」

 あっさりと外出を認めた門衛に拍子抜けしながら、再び敬礼。……ということは、まりもも同じようにあの桜へと足を運んだということだろう。武が目を醒まして水月に連れて行かれる時にはもうまりももみちるもいなかったような気がしたので、恐らくはそのときだろうか。二人の門衛は武に対して何も言うことなく、一歩身を引いてくれる。彼らは知っているのだろう。自分やまりもたちが夕呼直属の特務部隊に所属していること。そして――あの桜に宿る英霊達のことを。

 軍とは矢鱈規律に厳しい面を持つが、こういう、兵士同士の気心というものはなんだか心地よかった。武はもう一度礼を述べると、就寝時間までに戻らなかったら門は閉めてくれて構わないと言伝、歩を進めた。もちろん、無断外泊するつもりなど微塵もないし……そもそも、泊まれるような施設はない。坂の下に広がるのはただ無謬の闇だけで、BETAに蹂躙された家屋の残骸が在るだけだ。

 かつての故郷の町並みなぞどこにもない。自分や純夏が生きてきた十数年の名残など……もう、跡形もないのだ。先程からやけにセンチメンタルに浸っている気がするが、死を間近に控えた者の心境とは、こういうものなのだろうか。――まだだ。最後の最期まで精一杯に生きる。そう決めたはずだ。そうやって返していこうと決めたじゃないか。武は全身を押しつぶしそうになる虚無感に、独りになるとこうも脆い己を嘲笑った。

 茜、水月、真那……傍にいてくれた、愛情をくれた彼女たちに自分がどれだけ依存してきたのかがよくわかる。それをありがたいと、愛しいと感じるなら……最期くらい、彼女たちが誇れるような生き様をしてみせなければ。

「そうじゃなきゃ、格好悪いよな……はははっ」

 女に護られてばかりが男じゃない。好きな女を護って死んでいくのが男ってものだ……。そうやって自身を鼓舞しながら桜へと視線を向けると、そこには先客がいた。遠目に見つけたシルエットは大小二つ。――青年と、少女だった。驚きに足が止まる。全身を黒い改造軍服に包んだ銀色の髪の少女――間違えるはずがない、社霞だ。隣りに立つ青年は、思わずギョッとしてしまう。顔を、真っ黒な仮面で隠していた。

 “見たこともない”はずなのに、悟る。――あれが、彼が、鉄。XM3考案者にして『概念戦闘機動』を編み出した麒麟児。

 知っているのはその名と、果たした偉業のみ。これが例えばみちるだったなら、夕呼から含まされていた出鱈目まじりの情報を思い出しもしたのだろうが、それは彼女の胸の中に秘されているので、武は一切なにも「知らない」。ただ、知らぬが故に……こちらの接近に気づき振り向いた“彼”に――敬礼していた。

「鉄少尉! 自分は白銀武少尉であります! 少尉の考案されたXM3のおかげで、自分たちは任務を達成することが出来ましたっ! ――ッ、仲間の命を救っていただき……ッッ、ありがとうございます!!!」

 気づけば、叫ぶように。

 心臓の真ん中から、感情の奥底から。涙がわきあがり零れ落ち、熱い衝動が口を衝いていた。そうだ。XM3がなければ、あの作戦は成功しなかった。XM3がなければ、きっとみんな死んでいた。晴子や薫、旭、慶子……211中隊の人たち。それ以外にも、きっと、多くの人が命を散らせていたに違いない。……いや、そもそも、『甲21号作戦』自体が実行されなかっただろう。

 でも、それは全て……今目の前に居る天才衛士の生み出したXM3のおかげで、彼の扱う三次元機動の習熟のおかげで! 日本からハイヴを根絶することに成功し、仲間達と肩を抱き合って笑い合うことが出来て……ああ、うまく考えられない。言葉に出来ない。どうしてこんなに涙が零れるのだろう。もっと、もっと多くのことを伝えたいのに。彼が、どれだけ素晴らしいOSを開発してくれて、どれだけ自分たちを救ってくれたのか! 人類に新しい希望を示してくれた彼に…………もっと、伝えたいのに……ッ。

「ぅ、ぐ……っ。す、すいません。……いきなりこんなことを言われても、混乱するだけですね。……でも、本当に。――ありがとうございます。少尉のOSのおかげで、自分はまだ生きています。……生きていて、茜を護ることが出来ました」

 だから――ありがとう。

 深く深く礼をして、武はようやく顔を上げる。こちらを強張った表情で見つめている霞に、能面のような仮面の鉄。きっと彼らは困惑しているだろう。いきなりやってきた衛士が叫ぶように礼を述べて泣き出したのだ。変なヤツと思われても仕方がない。武は妙に気恥ずかしくなってしまって、誤魔化すように笑い、背を向けた。失礼します。辛うじてそれだけを言い置いて、武は下ってきた坂道を上る。桜に眠る晴子たち英霊に挨拶できなかったが、また改めてやってくればいい。

 先客の邪魔をすることもないだろうし、何より、鉄という存在に出会えた事実が武の胸中を占めていた。A-01の自分たちにすら存在を秘匿されている人物に出会ったのだから、今日のことは誰にも打ち明けるべきではないだろう。つまり、自分ひとりの役得というわけだ。死ぬ前にいい思い出が出来た、と。半ば洒落で済まないようなことを考えながら基地へと戻る。

 エレベーターへ向かう途中、半裸に剥かれた茜と遭遇した。眦には涙の跡が残っていて、背中にどんよりと黒い影を背負っている。――そういえば、千鶴たちに拉致されたんだったな。ごくりと唾を飲み込み、こちらへ恨みの篭った視線を向けてくる茜に声を掛ける。語尾が震えてしまったのは決して恐怖からではないと信じたい。

「ょ、よぉ……だ、大丈夫だったのか?」

「……護ってくれるって言ったのに……ウソツキ」

 グッサァァアア! 武の心臓に槍が突き刺さる。拗ねたように唇を尖らせて言う茜は、助けに来なかった武を凹ませることが出来たので内心でスッキリしていた。……の、だが。あまりにも落ち込む武が可笑しくて、ついつい調子に乗ってしまうのだった。

「武のウソツキ。口だけ男。あんなに私のことを護るって言ってくれたのに」

「う、ぐ……! す、すまん……ごめん」

 剥かれた服を掻き抱くようにしながら泣き真似をする茜に、武はおろおろと情けなくうろたえるしかない。まさか良識ある千鶴と冥夜がいて、一体どんな酷い目に遭わされたのだろうかと不安になってしまう。そういえば、あの面子の中には多恵がいた……。――ま、まさか!? 武の脳裏に不埒な桃色空間が広がりそうになったそのとき、茜が甘えるように武の胸に顔を埋めてきた。

「…………でも、今夜一緒にいてくれたら、許してあげる」

「あ、……茜、それはつまり……その、」

 言った本人も真っ赤なら、言われた武も真っ赤になってしまう。初めては既に契った二人だったが、つまりは――初夜、だ。武はギクシャクと茜の手を取りエレベーターへ乗り込んだ。武に密着するように抱きついた茜は、彼の心臓の鼓動を耳に感じながら…………この幸せを、この温かさを、忘れないでいようと誓う。彼の匂いを、彼の息遣いを、彼の熱さを、想いを、愛情を……自分のカラダ全部で、受け止めて、覚えていよう。

 愛している。

 生きている。

 その証を――……。







 ===







「どういう……こと、なんだ?」

 呟かれた言葉の温度に、霞は身を竦ませる。震える肩に彼の手が置かれたのがわかっても、それが自分以上に震えているのだと知れても、霞は縮み上がるだけで見上げることも出来ない。黒い鉄の仮面の下。一体“彼”がどのような表情を浮かべているのか――例えその顔を見ることが出来なくとも、霞には伝わってくる。

「なんで、だよ……? “アイツ”、なんなんだよ……ッッ!? あ、“あれ”は……“あの貌”はさぁ!!!!????」

 握り締められた肩が痛い。心の中に入ってくる感情が痛い。霞は目を閉じて耳を塞ぎたい衝動に駆られた。許されるならばこの場から逃げ出してしまいたい。けれど、そんな、鉄という偽りの名を与えられた彼を裏切るような真似など出来ず――とっくに、最初から……裏切ってきたと言うのに!!

 鉄は震えて、混乱している。つい今の今までそこに立っていた青年。顔に傷のある、同じ背格好をした衛士。敬礼を向けてきて、いきなり大声で謝礼を述べて。自分が開発したXM3のおかげで作戦は成功したと。そう言って……言いたいことだけ言って満足そうに、ひとりで、勝手に……!

「なんなんだよぉぉおおこれはぁあああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」

 あれはオレだ!

 あの貌はオレの顔だ!!

 あの声はオレの声で、あの身体はオレの体で!!

 あいつはオレだ! あいつはオレだって?! だって、だって……あいつ、言ったじゃないか!

 ――白銀武少尉であります? はははっ?! 待てよ。嘘だろ。冗談きついぜ!! なんだよなんだよなんなんだよぉぉぉぉおおお!!?

 なんであいつが「白銀武」なんだ!? 「シロガネタケル」は“オレ”だろぅ!? なぁ!? そうじゃないのかよっっ!! そうだって言ってくれよ!!

「霞ぃっぃいいいい!!!!!」

「――ッッ、ひ、く、!!」

 よろよろと後ずさって、足をもつれさせて転ぶ。目の前で見た現実が信じられないとでも言うように、尻餅をついたままで、鉄は恐怖から逃れるように両腕を振り回して叫び続けた。嘘だ嘘だと喚き散らし、そんな莫迦なと《鉄仮面》に爪を立てる。そうだそうだ。顔を見ればハッキリする。自分の顔さえ見れば、オレがオレなのだとわかるじゃないか。ガリガリ。ガリガリ。畜生硬い仮面が取れない! 誰だよなんだよこんな《鉄仮面》!! 電子ロックで外せない?! 誰が何の権利でオレの顔を隠したって言うんだよ!!

 嗚咽混じりに泣き喚いて、必死に仮面を剥ぎ取ろうと喘ぐ。桜の木に背中をぶつけては悲鳴を上げて転がり、のた打ち回りながら嘘だとのたまう。呼吸もろくに出来ないまま、ただただ、鉄は叫び続けた。

 シロガネタケル。しろがねたける。白銀武。

 それは自分の名前のはずなのに。それは自分を指す言葉のはずなのに。

 同姓同名? 他人の空似? ――莫迦言えそんなのありえねぇ!! 冥夜がいた。千鶴がいた。慧が、壬姫が、美琴がいて……まりもがいた。そして夕呼がいて――“だったら”、「オレがいてもオカシクないじゃないか」。

「ァぁぁああああああああ!!?!?」

 仮面を毟るように爪を立てながら、鉄は咆哮する。彼はようやくに理解していた。どうして夕呼が自分を軟禁したのか。どうして彼女が自分にこんな《鉄仮面》を強要したのか。名を変え、存在を秘し、ピアティフや霞といった監視を常につけていたのか。――全てはこのためだった。

 “この世界の白銀武”。

 彼と自分を接触させないために。――そんなふざけた理由があるかよ。鉄は顔面を路面に叩きつける。頑丈な鉄の仮面は表面が僅かに傷ついただけで、一切割れる気配もない。その状態のまま力尽きて、鉄は盛大に泣き喚いた。腹の底から唸るような慟哭が夜空を震わせ、「この世界」に迷い込んでから今日までの日々が走馬灯のようにめぐり巡る。

 下らない夢だと思った。やたらリアルで、現実味があって、でも、どこか常識からずれ過ぎていて夢だとしか思えなかった。夢のはずなのに銃を持った兵士に捕らえられて、牢屋にぶち込まれて監禁されて、テロだなんだとわけのわからない尋問を受けて、基地の衛士に化けるならもっと勉強してからにするんだな、なんて。そんなわけのわからない嘲りに謗られ。ようやく知っている人に出会えたと思ったら、“夕呼先生”は自分のことを知らないと嘲笑して――嘘だ嘘だっ! あんた知ってたんじゃないかよ!? この世界にはオレがいるってこと、あんた知ってたんだろ!? なぁ!! 畜生畜生畜生ォォオ!! ――別室に通されて色々と質問されて、オレが別の世界から迷い込んだらしいと仮定して。……………………そうして、ずっとずっと、地下室に閉じ込められて。バルジャーノンに似た戦術機っていうロボットの操縦を覚えさせられて、それしかやることがないから夢中になって、ピアティフ中尉が話し相手になってくれて、優しくしてくれて、貧弱なオレを鍛えてくれて、この世界のことを教えてくれて……慰めてくれて。……だから、せめて。彼女のために頑張ってみよう、って。オレの操縦技術が、オレの世界の概念がこの世界の役に立つのならって――なのに、この世界にはちゃんとオレがいて、だからずっと、オレには居場所がないままでっ……! 冥夜たちがいることを知って、トライアルで初めて表の光を浴びて、帝国軍ってところで、化け物みたいな軍人達相手にXM3の性能を見せ付けて……、あああ、やっと、やっと! オレは、オレの居場所を見つけられたと思っていたのに――!! どうして、どうしてどうしてどうして!? なんで……こんなっ、酷いじゃないかよ。ヒデェぜ!! マジかよ!? 嘘だって言えよ!! オレのOSが、XM3が、日本を救ったんだって聞いて……嬉しかったんだ! ようやく、初めて、オレがこの世界に来たことの“なにか”を証明できた気がして……嬉しかったのに!! だからここに来たんだ。戦場に散った衛士の魂がここに還ると聞いたから。ピアティフ中尉がそう教えてくれたから。きっと『甲21号作戦』で戦死した人たちの魂も還って来ているはずだと……だから、オレは、せめて自分の存在を許してもらえるように、ここに居ていいんだってことを確かめたくて……ッ。ああ、ただそれだけだった、のに……。

「知って、いたのか……」

「!? ッ、ぁ、あの、ゎ、たし……っ」

「知ってたのかよ!? 霞も! ピアティフ中尉もッ!! 夕呼先生も!!! 全部全部ッッッ!! 初めから!!!!」

「ッ、ッ!? ぁ、ぁぁ、……ッ」

「クソぉぉおおぁぁあああああ!! 畜生畜生ッ!! なんだこりゃ! ふざけんな冗談じゃねえ!! オレはオレだッ! オレがシロガネタケルだ!! オレは世界でたった一人のオレで、なのにアイツが居たからオレには居場所がなかったって?!」

 軟禁されてずっと独りで閉じ込められて誰にも会わせて貰えずただただ飯を食い訓練を重ねピアティフを抱く毎日。その全部が……あの、“アイツ”がいたからだというのなら。同じシロガネタケルでありながら、どうして、自分だけが、あんな目に……ッッ。

 鉄の中で激流となった情動は、一つの捌け口にたどり着く。霞は目を閉じて耳を塞ぎ、ぼろぼろと涙を零して蹲る。ごめんなさいごめんなさいと謝罪の言葉を繰り返し、一生懸命、鉄の心を静めようと泣いて泣いた。……だが、狂気の如き混乱と憤怒に憑かれた彼は、霞など最早視界にすら入っておらず、ただ、脳裏に焼きついたこの世界の白銀武の顔をどす黒く塗り潰すことに躍起で……。

「アイツが居たからオレが居場所を奪われたって言うなら……オレがこんな《鉄仮面》を押し付けられたのがアイツのせいだって言うのなら……ッ」

 全部、奪ってやる。

 名前も顔も。その命さえも。オマエがオレでオレがオマエだというなら……そうさ、オレが「白銀武」になってやる。それがきっと、オレをこんな目に遭わせたこの世界とオマエへの、







 復讐だ――――。







 ===







 夜が明けて早々に、帝国城内省からの使者がやって来た。毎度毎度思うのだが、どうしてこの男にはセキュリティの類が通じないのだろうか。侵入されるたびにシステムを見直して対策をとっているはずなのだが、なんだかもうどうでもいい気さえしてくる。

「こんな朝早くにレディの寝室に忍び込むなんて、いい趣味してるじゃない」

「はっはっは。ベッドも毛布もないこの部屋が寝室とは、いやはや、働く女性の鑑ですかな、香月博士は」

 夕呼は叩いていたキーボードから手を置き、ぬけぬけと真正面から入ってきた泥棒まがいの男に向き直る。作戦が成功して若干気分がいい今なら、この男の下らない土産話でも聞いてやろうという気になったのだ。その意図を察したらしい男はロングコートの懐から一通の封筒を取り出し、夕呼へ差し出す。達筆で書かれた自身宛の表書きに眉を顰め、裏書を確認して……悔しいが、反応してしまった。

「その厳しい顔もお美しい」

 ぼそっと呟いた男を殊更に無視して、夕呼は封を切る。それは政威大将軍煌武院悠陽からの手紙だった。一国の主とも言うべき地位に立つ存在が、こうも軽々しく一基地の副司令如きに連絡を寄越していいのかとも思ったが、それについては何を今更、だ。元はと言えば自分が悠陽を引きずり出し、その権威を利用して『甲21号作戦』を敢行したのだ。表向きの立場こそ雲泥の差があるが、裏側――AL4――を進めるに当たって、二人は対等の位置にいるのだから。

「ふぅん……戦勝気分に浸ろうってわけ。ま、確かに民衆にはいい見世物になるんでしょうねぇ……。国家再生の足がかりとしては、確かに効果的、か」

 そこに記されていたのは甲21号目標破壊を記念しての合同慰霊祭。いや、祝勝式典とでもいうべきイベントだ。今回『甲21号作戦』に参加した国連軍部隊はA-01ただ一つだが、作戦の根幹を担ったXM3発案者は国連軍に籍を置き、その開発は夕呼が行っている。更に言えば甲21号目標の反応炉を破壊したのがA-01というなら、なるほど、戦勝祝賀会とやらを“この横浜基地”で執り行いたいという悠陽の腹も頷ける。

 予定では今日の午前中に悠陽が全国民へ向けて甲21号目標破壊の報を告げるはずだったが、それとは別に、大々的に催したいということだろう。BETAに本土を侵略されてから今日まで、日本に明るい話題はなかった。横浜を奪還した際には『G弾』などという暴虐の実験に晒され、延々と続く地球規模の戦争に疲弊してしまっている。そんな状況で、遂に、ようやく――ハイヴ攻略という、世界中の全ての人々が歓声をあげ喜びに涙を流すような偉業を果たしたのだ。民衆の士気を高めるには丁度いい。

 無論、その論法は夕呼から見たものなので、悠陽自身にはもっと違う考えがあるのかも知れない。単純に苦労を強いてきた国民へ明るい話題を提供したいだけなのかもしれないし、戦場に散った英霊達の生き様を知ってほしいと言う願いからなのかもしれない。

 その辺りの個人の感情云々は夕呼にとってどうでもよいことだったので、さして気に留めることもない。夕呼が計算するのはその式典を行うことによって得られる世界に対しての宣伝効果の高さと、XM3の値段の吊り上げ等、AL4を続行するに当たってのメリット、デメリットだ。暫く黙考して、なるほど、ここは悠陽の意向に従っておくのも悪くないとの結論に到る。

 『甲21号作戦』が夕呼の思惑を押し通した結果だと言うなら、今度は悠陽の意志を通すのが筋と言えば筋だろう。今後も彼女や日本政府とは仲良くしておく必要もあるのだから、一方的な関係を続けるわけにもいかない。大変に煩わしいと思いながらも、夕呼はそのあたりの政治的パイプを疎かにするつもりもなかった。天才と人は言うが、この計算高さもそういわれる所以の一つだろう。

「いいわ、煌武院悠陽殿下には当基地も式典には大変好意的であった、とでも伝えて頂戴。で? 式典はいつ?」

「明後日、一月四日に」

「――随分急な話じゃない。……まぁいいわ。司令には私から話をつけておくから、細かい調整はピアティフを通して頂戴」

 そうして、それ以上話すことはないと手を振り、夕呼は再びキーボードを叩く。男は肩を竦めながらも頷いて、彼にしては珍しく素直に引き下がって行った。擦過音を残して閉まるドアに見向きもせず、夕呼はこれからのことに夢中になっていた。

 甲21号目標は陥落した。フェイズ4のハイヴならば、それなりのG元素が期待できる。今回の作戦に米軍が介入する余地はなかったが、だからといって今後連中が割って入らない保証はない。国連主導で調査部隊が編成されているというから、この部隊編成には十分注意が必要だろう。情報やG元素等、ハイヴから得られるものの全てにおいて、最大の権利は夕呼と日本が持つ。強かな連中にそのことはよく思い知らせておく必要があった。勿論、夕呼と日本が全ての権利を主張しても周囲から排斥されるだけなので、その按配には気を配る必要があるが……。

「甲20号目標――大東亜連合をけしかけて、余力のある内に一気に叩きたいわね……」

 いや、それよりもまずは00ユニットを完成させるべきか。国連に対するAL4の評価は既に改められている。夕呼の首は辛うじて繋がったわけだが、それも永遠ではない。夕呼がこのまま……恐らくは年内に00ユニットを完成させることが出来なければ、国連は米国を抑えきれなくなるだろう。XM3は確かに凄まじい性能を持ち、戦術機のみでのハイヴ攻略を成し遂げはしたが……そのためには、膨大なる人材と物資が必要となる。

 日本は文字通り全力で戦い、そうしてハイヴを攻略できた。国内に備蓄している弾薬は半分以上消費し、優秀な衛士を数千人損耗している。事実上、日本は戦力を半減させたことになる。それほどの犠牲を払い続けて戦えるほど、今の世界情勢は良くはない。――消耗戦は、続けられない。それが世界の現実だった。

 故に、XM3だけでは駄目だ。元々そのつもりで00ユニット開発に心血を注いできた。……残念ながらその成果はまだ得られていないのだが、少なくとも、それを続行するだけの時間稼ぎは出来たのだ。あとは、如何にその時間を使って00ユニットを――量子電導脳を完成させるか、だが……。

「未だにその糸口すら見つけられないなんて……天才が聞いて呆れるわね……ッ」

 忌々しいとさえ思う。嘆かわしいとさえ……。これが天才。これが人類を救う聖母? ……与えられた僅かの時間で、一体どれだけの成果を上げられるのだろうか。本当に、00ユニットを完成させることができるのか? 泣き言を零しそうになる己を盛大に罵倒して、夕呼は不敵に笑う。――当然じゃない。それが天才ってもんでしょう?

 人類を、世界を救えるのは自分しか居ない。ならば、自分以外に00ユニットを完成させることなんて出来るはずもなく……ゆえに天才は孤高に在り、出口の見えない命題に命を懸けるのだ。迷いはない。後悔などない。ただただ前へ、ひたすらにその手に掴むために。







 ===







 『甲21号作戦』後、初めての訓練となる。丸一日の休暇を経た皆の顔色は気概に満ち、悲愴さも傲慢も見られない。仲間の死に受けた傷は塞がることはないのだろうが、今はそれを乗り越えた者の顔をしていた。まりもは優秀な部下達の顔を一人ひとり感慨深く見つめ、目を閉じる。甚大なる被害を被りながらも果たした栄誉。散って逝った四人の部下に思いを馳せるのも刹那、まりもは口を開く。

「本日の訓練は各員の配置換えとそれに伴う連携訓練を主に行う。まずはこれを見ろ――」

 いつまでも先の作戦のことに捕らわれたりはしない。それぞれのなかで決着をつけるしかなく、そして、その決着がついたと言うのなら、まりもがそれ以上気にする必要はない。彼女たちもそれは十分に理解していたので、全員が、即時に頭を切り替える。まりもの示す新編成を見ながら、小隊長クラスが各々意見を述べ、或いは前回の戦闘の反省点を潰していく。

 その姿勢。前を向き、明日に備えるという姿勢は――武には眩しく、そして、頼もしく見えた。クスリの副作用で死が間近に迫ってるらしいとはいえ、ただそのときを安穏と待つ気は武にもない。これが例えば身体機能に異常をきたして寝たきりに……なんてことならば諦めもついたのだが、幸か不幸か、身体はまだ動いてくれている。ひょっとするとまりもから静養を言い渡されるのではないかと不安にも思っていたが、どうやらそれもなさそうである。

 ならば、武はヴァルキリーズの一員として、生ある限り最善を尽くすのみだ。それが自分にとって唯一、成すべきことだと信じている。最期まで絶対に生き続けてみせる。――と、左方から鋭い視線を感じて目を向けると、そこには赤い零式装備の真那がいた。『甲21号作戦』以降もA-01と共に作戦に参加するらしいのだが、武は彼女たちとの臨時的な編成を外され、原隊に復帰している。

 剣術の師としてだけでなく、軍人として衛士として様々な面でお世話になった彼女には、どれだけ感謝してもしきれない。今こうして武が生きていられること、茜を護ることが出来ていること……その根本は、彼女の教えがあったからこそだ。尊敬しているし、敬愛している。……けれど、そんな真那が向けてくる視線にはいつにない厳しさが篭められていて、武はそのことに戸惑ってしまう。――まるで、怒っているみたいだ。なにか、例えば自身の気づかぬうちに冥夜に粗相を働いたり、真那の機嫌を損ねるようなことをしただろうかと首を捻るが、答えらしきものには至らない。

「では、各員シミュレーターへ搭乗!」

 まりもの命令にハッとする。仲間達と共に敬礼して散開した武は自身のシミュレータへと乗り込む。今は、訓練が先だ。確かに真那の視線は気になったが……それは、後で尋ねれば解決することだ。



 そうして数時間にもおよぶ訓練を終えて、昼食を摂るためにまずは着替え用と更衣室へ向かう途中、武は真那に呼び止められた。甲21号目標のデータを元に修正されたハイヴ攻略シミュレーションは厳しく、ハッキリ言って全員が消耗している。武もその例に漏れないのだが、どうやら真那にはまだまだ余裕があるらしい。不機嫌そうに腕組をする真那を見て――そういえば自分も戦術機の耐久力だけは異常に高かったはずだった――と思い出しながら、彼女の正面に立つ。この耐久力の低下も、ひょっとするとクスリの副作用の一部なのかもしれない……そんな、最早考えてもどうしようもないことを一瞬だけ思考しながら真那に用件を尋ねると、一層不機嫌そうな顔をして、ついて来いとだけ言われてしまう。はて、一体何の用だろうか――なんて、惚けられればよかったのだが……。このタイミングで、真那があれだけの鬼気を発する用件など、一つしか思いつかなかった。

 今思えばどうして訓練前に気づかなかったのかが不思議である。茜と結ばれて、自分なりの死ぬ覚悟とやらが固まったからだろうか……あの流血について誰も触れないことを、すっかり勘違いしていた。武は誰にも話していないのだから、誰もその事情を知るわけがない。……聞かれないのは全て、皆の優しさだったのだ。

「……呆れるな、俺は……」

 自分の迂闊さというものがこんな時にも現れているというのが、なんだか皮肉ったようで可笑しい。いや、笑っている場合ではないのだろう。

 武はかつてまりもと対峙した時以上の緊張を孕みながら、真那の背を追う。強化装備のままやってきたその場所は、かつて真那と命を懸けた問答をした場所――裏手にある丘の上だった。平時にあまり強化装備でうろつくものではないのだろうが、どうやら真那はそんなことを気にしていないらしい。……勿論、武とて本気でそんな心配をしていたわけではない。緊張のあまり思考が空回りしているのだ。ここにきて現実逃避まがいのことをしでかす自分の神経に苦笑しながら、真那の目を見つめる。

 怒り。そして――哀れみ、だろうか。

「白銀少尉。貴様に聞いておきたいことがある」

「――ハ!」

 敢えて、真那は階級で呼んだ。名を呼んでしまうと、感情が先走りそうな気がしたのだ。そんな自分に微かな驚きを覚えながら、けれど、それを一切見せず、真那は斯衛として問い掛ける。向けられる武の視線は真剣なもので……本当に、あと一ヶ月もすれば脳死してしまうのかと首を傾げたくなるくらいで…………。

「……白銀、斯衛に入隊する気はないか?」

「ハ! …………――ハァ!?」

 な、なんだって――? 武は聞き間違いかと思って目を見開いたが、真那は眉間に思い切り皺を寄せて、険のある表情のまま武を睨み据えている。どうやら彼女が言い間違えたわけでも自分が聞き間違えたわけでもないらしい。が、だからといってハイソウデスカと頷けるはずもなく、武は一体どうして唐突に斯衛への勧誘を受けているのか損耗した脳ミソをフル回転させる。

「あ、あの、中尉……。突然何を……」

 結果、考えたところでわからないという結論にいたり、素直に聞いてみることにした。確かに真那と自分は師弟関係にあり、一度は同じ小隊として作戦に参加した。自惚れでなければ、彼女たちとの連携は巧くできていたとも思う。真那が直截口にしたことはないが、まりもやみちる達からは斯衛に匹敵しているとからかわれたこともある。……だが、果たしてそんなことが理由になるのだろうか。

 斯衛はその殆どが武家出身の者で編成されている、いわば出生がものを言う特殊な部隊だ。家の格によって明確に色分けされ、この時代において尚、堂々たる差別社会を貫いている。軍としての体裁をとっていながら、その内実は“色”によって区分けされた世襲社会だ。……民間出身の者が厳しい審査を潜り抜けて末席の「黒」を得ることも出来るらしいが…………つまり、真那はそう言っているのだろうか。

 武の実力は斯衛に匹敵している。故に、自分の部下となれ、と――? いくらなんでもそれは自惚れが過ぎるように思える。

 真那の真意を量ろうと尋ねた武に、彼女は一度だけ目を伏せるようにして……

「我が婿となり、月詠の名を継ぐ気はないか。……武、そなたを……………………そなたの力は、今の帝国に必要なものだ。私と共に煌武院悠陽殿下に御仕えし、この国の未来を拓く礎となれ」

「…………ッ?!」

 今度こそ本当に耳を疑う。武は驚きよりも何よりも、まず――一体どういうことだと怪訝そうにする。部下どころではない。婿、だって? つまり、今の真那の言葉をそのとおりに受け取るならば、彼女は自分を夫としようとしている……ということになる。婿ということだから、月詠の家に入り、家督を継ぐ、ということになるのだろう。成程、故に先の“斯衛への入隊”に繋がるわけだ…………――スイマセン無理です繋がりませんっ!!??

 武は困惑し、混乱した。ぐるぐると考えをめぐらせ、真那の言葉を反芻しようとも――彼女の真意というものが全く見えない。どういうことだ。一体何故、真那は唐突に前触れもなくこんなことを? ――俺の病状のことを知っているのではないのか?

 武は、情報省とも繋がっているらしい真那のことだから、そういったルートから自分の容態のことを知ったのだろうと思っていた。剣術の師として、それを黙っていた弟子に灸を据えるなりなんなりされるのだろうと思っていたのだが……これは本当に“まさか”の展開だ。理由がない。いきなり過ぎる。真那に一体どれだけの理由が在って、武を婿としようと思うのか……それが一切わからない。

 師として尊敬していた。与えられる信愛に応えたいと思っていた。強く、誇らしく、美しい女性。……真那は、輝かしいほどに。けれどそれは……矢張り師弟としての情で。それは真那も同じだったはず――そう思っていたのに。それは、鈍い自分の勘違いだったとでもいうのだろうか。わからない。

 困惑を乗せた視線を向けると、真那は寂しそうに苦笑した。その眦に浮かんだ感情に――胸が張り裂けそうになる。

「ふ……私の夫となるのがそんなに厭か? ふふっ、わかっていても寂しいものだな……。だが、武。そなたを婿とすることは本気だ。斯衛となれば帝都にある専門の医療機関に入院することも出来る。そこには、世界屈指の医師たちが揃っている。…………そなたの“病”を、癒すことも出来よう……」

「……ぁ、」

「――――武。愛してくれとは言わぬ……」

 硬直する武を、ふわりとした真那の温もりが包む。背中に回された両腕は微かに震えているようで……まるで、抱き締めることを躊躇しているように、拒まれることを脅えているかのように。頬と頬が触れ合い、薄桃色の唇が耳元に寄せられて、



「死なないでくれ――」



 生きる希望を、捨てないでくれ。

 その言葉が、痛いくらいに……熱くて、嬉しくて、武はどうしてか涙を流してしまった。温かな真那の体温に包まれて、柔らかな彼女の体に抱き締められて、ただ、幼子のように泣きじゃくってしまう。

 どうしてだろう。ああ、どうしてだろう。こんなにも多くの人に愛されていて――どうして俺は、死ななきゃならないんだろう。もうどう足掻いても覆せない。知らぬことだったとはいえ、全ては夕呼の目論見の内だったとはいえ……どうして、「死」なねばならぬのか。

 それはあの脳ミソの持つ全ての情報を手に入れるため。

 それはあの脳ミソとなった純夏の全てを知るため。

 それはあの脳ミソとなった純夏の苦しみを味わうため

 それはあの脳ミソとなった純夏を救う手立てを得るため。

 それは死んでしまったとばかり思っていた純夏の――彼女の生を知るため。

 それは、もう一度、彼女を護るチャンスを得るため。

 そう。

 それは……もう一度、今度こそ、守護者として生きるため。

 たくさんの間違いを犯して、何度も何度も間違いを繰り返して、多くの人を死なせ、喪い、その度に教えられ、救われて――そうして、本当にようやく、前を向いて、上を向いて、愛する人を護るために生きることが出来て。

 自分の不遇を呪ったりしない。あの時の自分は、ただの愚か者だった。夕呼の目指す理想を理解せず、彼女の抱く苦悩を理解せず、そうまでしても尚立ち向かう彼女の偉大さ、業を知らず――だから、そう、“だから”。二度と、夕呼の邪魔をしないと決めた。もう誰にも、彼女の足を引っ張らせないと決めた。間違いを犯したのは自分だけでいい。愚かだったのは自分だけでいい。だから、その罪を償うと決めたのだ。

 同時に。愛する茜を、純夏を護り……死ぬ、と。水月や真那、みちる、まりも、仲間達……彼女たちに与えられたもの全部を、せめて、精一杯生きることで返そうと……。

「月詠……中尉、」

「…………」

「中尉、いえ……師匠。ありがとうございます。俺、本当に嬉しいです……。師匠にそこまで言ってもらえて……俺、本当に幸せ者ですよ」

「たける……ッ、」

「――でも、駄目なんです」

「武ッッ!!」

「駄目なんですよ。……だって、ここには茜が居るんです。水月さんも……そして、“アイツ”も。俺、護るって決めたんです。もう死ぬしかない命だけど、それでも、最後の最期まで生きて……そして、護ってやるって。だから――」

 頬が熱い。最初に感じたのはその衝撃。次いでやって来た痛みと音に、武は自分がぶたれたのだと理解する。僅かによろめいて、けれど、しっかりと足を踏ん張り、立つ。口の中が切れて血が滴ったけれど、武は怯まない。怯むことなく、真那を見据える。

 その瞳は怒りに燃えていた。その表情は痛みに泣いていた。その心は、悲しみに啼いていた……。真那は、武の頬を張った右手をぶるぶると引き寄せて、左手でぎりぎりと抑えつける。殴るつもりなどなかった。武がそう言うだろうことは承知の上だったはずだ。全てわかっていたのに、あまりにも予想通り過ぎて、頭にきたのか。――違う。真那は零れてくる涙を拭うことも忘れて、奥歯を噛み、うつ伏せた。

 どれだけの言葉で飾ろうと、誤魔化そうとも――もう、わかってしまったことだ。

「……貴様は、それでいいと言うのか」

「……はい。師匠。俺は、俺の運命を受け入れます」

 頷きたくなどない。けれど、それは自分の我儘なのだろうか。真那は長い沈黙の後に顔を上げて、武を見つめた。そこに在ったのは目前に迫る死に脅え嘆く者ではなく、ただ、愛する者を護る、そのことに誇りと生を抱いている若者だった。――いい顔だ。

「父の剣術を絶えさせたくはなかったが……仕方ないか」

「あぁ……なるほど。そういう理由もあったんですね」

 淡い微笑みを浮かべて、照れ隠しのように言葉を漏らす真那。月詠の剣術を絶えさせたくはなかったと苦笑した彼女に、武は思わずなるほどと思ってしまった。自分に純夏を護るための術を与えてくれたもう一人の師匠。最早記憶の中にしか存在しない人物に思いを馳せるのも束の間、気づけば、真那が無言で武を見つめている。先程までの険しい表情などどこにもなく、けれどあの淡い笑顔も消えていて……なんというか、じ~っと、真剣な眼差しを向けられていて……。

「……………………」

「ぁの? 師匠……?」

 なんだか厭な予感がする。そして大概、こういう予感は的中するのだ。じっと見つめてくる真那。武はなんだか得体の知れない危機感に襲われて、怯むように一歩後ずさってしまった。ごくり。恐怖に似た感覚が、生唾を飲み込ませる。――なんだ、ナンダこのプレッシャーはッ!? 武はよくわからないまま更に一歩後ずさり……あわせるように、真那が一歩踏み込んでくる。

「し、ししょ……ぅ、」

「……………………」

 怖い。かなり真剣にとてつもなく怖い。真那はいたって真剣な面持ちのまま、一歩一歩、後ずさる武に合わせて詰め寄ってくる。無言なのが一層恐ろしさに拍車をかけていて、武はとうとう震え出してしまった。今度は一体何が起こっているのか。そんなことさえ理解できないまま逃げるように一歩を退いて――背中が、一本の大樹にぶつかった。不味い。これ以上逃げ場がない! 退路を断たれた武は恐怖に身を捩らせたのだが、素早い真那の動きに取り押さえられてしまう。

 簡単に言えば木の幹に押し付けられたのだが、この体勢、誰がどう見ても人目を忍んだ逢瀬だろう。――ま、まさか……!

「つ、月詠中尉ッッ!??!?!」

「ふふ、そう、なにも無理に婿にとらずとも……子供を作る方法はあったのだったな」

「ちょ、ちょっとーーーー!!!??? なんか話ズレてませんかぁ!?」

「安心しろ、武。なに、そなたは雲の数でも数えていればよいのだ。……すぐに終わる」

「それ男の台詞――じゃねぇ! ひいい犯されるぅうう!!?!?」

「そんなに嫌がることはあるまい。涼宮少尉より私の方が魅力的だとは思わんのか?」

「んな問題ですかっっ!!」

 どうにかして組しだかれた体勢から抜け出そうと足掻く武だが、マウントポジションを取った真那は頬を染めながらゆっくりと強化装備を脱ごうとしていた。――まずいっ?! このままでは本気で犯られると悟った武は、何か策はないかと辺りを見回した。それはもう全力で、藁にも縋る思いで。誰か通りかからないかとか、誰か颯爽と現れてくれないかとか、BETAが襲ってくるとか、とにかく何でもいいので真那の注意を逸らしてくれる“なにか”を求めて――向けた視線の先に、白い軍服を着た三人娘が隠れていた。

 言わずと知れた、真那の部下たち。巽、雪乃、美凪。三者三様に頬を染め目を見開きどきどきですわ~と草の陰に隠れて覗き見している。いい趣味してるじゃねえかと項垂れそうになった武だったが、しかしこれはチャンスだ。なんだか冷静さを失っているようにも見える真那だが、流石に自分の部下がすぐそこに居ると知ればこの暴走も止まるだろう。

(むしろ止まってくださいお願いしますッ!!)

 先程とは違う意味で涙が出そうになる武は、肩まではだけた真那を極力見ないように目を閉じて、あらん限りの声で叫――――――ぶ、はずだったのだ、が……。



「へぇぇぇえぇぇぇぇえぇぇ?? 武ぅ……何してるのかなぁ、こんな所で?」

「いつまでもPXに来ないと思って探しに来てみれば……ふぅ~ん??」

「ぁ、か、ね…………みつき、さん…………」

「――ちっ、要らぬ邪魔が入ったか」



 仁王が二体、そこに居た。否。仁王とは二対であるからこそ、仁王足るのだ。

 背後に蒼い虎を具現させた水月。その獰猛な牙は鋭く光り、獲物を狩らんと爛々としている。その口腔からは不気味に低い唸り声――本人は笑っているつもりのかもしれない――が零れ、武を一層震えさせた。

 対して、頬を膨らませて顔を真っ赤にして涙目の茜。こちらは背後に悶々とした嫉妬の炎を燻らせていて怖いというより心が痛む。尖らせられた唇が拗ねているようで可愛――もとい、とても悪いことをしているような気にさせられるので、武は自分は一切悪くないはずなのに土下座して謝りたい気分になった。

「仕方ない。武、今夜は部屋の鍵を開けておく。いつでも来るがよい」

「さりげなく不穏なこと言わんで下さい!!!!!」

「あんたねぇ!? 調子乗ってんじゃないわよッ!? あたしだってまだなんだからねぇ!!??」

「月詠中尉も速瀬中尉も勝手なこと言わないで下さい!! 武は私のなんです~~!!!」

 やれやれと肩を竦めて強化装備を着なおす真那。武の上から離れつつ、爆弾を放り投げていく。明らかに水月をからかっていたのだが、それを承知して尚、水月はその挑発に乗ってしまう。互いにその実力も人格も認め合っているのに、それを表に出すわけには行かないという妙なプライドが二人の間には漂っているのだ。特に、武に関しては。

 というより、自分は姉として在れればそれでいいとちゃんと線を引いているのに、同じような立場に居たはずの真那が抜け駆けしていたのが許せないのだ。真那もその辺りの水月の感情はよく理解しているので、ついつい興がのってしまう。くつくつとからかうように笑いながら本音を漏らした水月を見つめ、不敵に唇を吊り上げる。

 そして、そんな火花を飛ばしあう二人をしっかりと睨みつけて、押し倒されたままの姿勢の武に縋りつく茜。ちゃんと自分の権利を主張する辺り、彼女の気持ちがよくわかるというものだ。涙目で唸る茜を見下ろした真那と水月はそれぞれ肩を竦めたり慌てて宥めたりと、対応に差はあれど、それ以上彼女を困らせるつもりはないらしい。

 ――一体なんだったのか。やれやれと身を起こした武はじっとりと睨んでくる茜に素直に頭を下げ、「変態、助平、色魔」と言われるがままにしている。途中、ぽかぽかと殴られたりもしたのだが、下手に言い訳すると後が怖いので好きにさせることにした。単なる嫉妬かヤキモチか。なんにせよ、きっと武が悪いのだろう。……そういうことにしておくのが、もっとも平和な気がする。

「……武、なんだかうやむやになってしまったが…………先の言葉、忘れてくれるな。そなたが望むならば、“斯衛への道”はいつでも開けている……」

「師匠……」

 背中を向けて丘を下ろうとした真那が、顔だけで振り向いてそう言う。恐らく、事情を知らない茜や水月に気を遣ったのだろう。斯衛への道、と濁した言い方をしたが……それは、先の医療機関のことだろう。いや、それとも本気で婿というか跡継ぎを望んでいるのかもしれない……。流石師匠だとわけのわからない納得をしながら、武は困ったように笑うしか出来ない自分を情けなく思う。

「既に貴様の武御雷を要請済みだ。殿下も貴様の働きに期待してくださっているぞ」

「ちょっ!? さり気に滅茶苦茶なこと言ってますよねぇ!!??」

「ははは。冗談だ。……武、息災であれ」

「「!」」

 丘を下りながらとんでもないことを言い放つ真那。思わず突っ込んでしまったが、それが冗談だと言われて――冗談かよっ!? ――と即座に思ってしまったが、続けての言葉に胸を打たれてしまう。その声音が震えていたこと。哀しげな響きを持っていたこと。まるで――まるで、これが最期の別れだと言わんばかりの……真那の言葉は。

 茜は、水月は、立ち尽くしてしまった武を見つめながら、それぞれ……胸に手を当てた。真那の言葉に胸打たれたのは武だけではない。一体二人の間にどんな事情があって、或いは、武の体にどれだけの事態が起こっているのか――それを知らない二人だったけれど、それでも、わかることはある。察してしまうことはある。

 武は、もう、永くない。

 茜は彼と触れ合うたびにその実感を高まらせ、水月はあの流血を思い出すたびに予感を募らせる。真那が性急に関係を求めたのも、ひょっとするとそのせいなのかもしれない。……そんな邪推をしてしまう。

(そんなことは――ない。ないに決まってる……ッッ!)

 水月は拳を握り締めて強く思った。甲21号目標を落とし、世界は今、間違いなく勝利への道を見据えている。BETAへの勝利。戦争の終結。世界に平和を取り戻し、喪われた人々の願いを実現させる。その、確かな一歩を踏み出した今――このときに。

 喪ってたまるものか。奪われてたまるものか。――大切な弟を、死なせたりなんかしない。だってようやく結ばれたのだ。武と茜。ずっとずっと想い合い愛し合ってきた二人が、ようやく、やっと、結ばれて……これから幸せな日々を築こうとしているのに。世界は確かに良い方向へ進んできているのに。希望はそこにあるのに。あと少しで掴める筈なのに。そんなタイミングで、武が死んでしまうなんて――そんなことは、在り得ない。在り得て堪るか!!

 そんなことを望むのは性質の悪いサディストな死神だけに違いない。そして、世界中の人々がBETAへの勝利を見据え、その希望の輝きに照らされている限り、そんな死神の鎌は、決して武に届きはしないのだ。そのために自分がいる。愛する弟を護るのは、姉の役割だ。そういうものだと決まっている。だから――、

「だから、まずはこのあたしを殺してからにしなさい……ッ」

「水月さん?」

 覗きこむように、武がこちらを向いていた。ぎょっとして身を竦ませると、茜も同じようにこちらを見ている。まさか口に出してしまっていたとは思わない水月は、慌ててなんでもないと手を振り、頬を染めながら誤魔化した。武と茜は互いに顔を見合わせて首を傾げ、変なの、と笑い合って丘を下る。手を繋ぎ、腕を組み。恋人たちが歩いていく。その二人の後姿を見て――どうしてか、水月は泣いてしまった。ぽろぽろと涙が零れてきて、水月自身驚きながら……。



 ただ、涙だけが止まらなかった。







[1154] 守護者編:[五章-01]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:c760b461
Date: 2009/02/11 00:25


『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』



「守護者編:五章-01」






 部屋に戻ればロックは自動的に外れ、呪われたこの《鉄仮面》を脱ぐことが出来る。あの桜並木からB19フロアにある自室まで一体どうやって戻ってきたのだったか。鉄にはその記憶がなかった。ふと背後を振り返ってみても一緒に居たはずの霞の姿はない。……冷たい汗の浮かんだ額を拭いながら、鉄はベッドに腰掛ける。投げ捨てるように外した仮面は床を転がり、無機質な虚構を物語っていた。

「……まだ、泣いているのか?」

 腰掛けた姿勢から背中を預けるように寝転がり、手の甲を額に当てる。激情が突き抜けた脳ミソが痛い。頭痛がする。込み上げてくる吐き気と悪寒に震えながら、鉄は蹲って泣いていた少女の姿を思い出す。銀色の髪をした、幼い少女。実際の年齢など知らない鉄だが、見た目どおりの少女なのだろう。……少々、キツイ言葉を吐きすぎたのかもしれない。

「――違う、霞はオレを騙してたんだ……ッ!」

 そして、夕呼も、ピアティフも……。

 鉄の目の色が変わる。憔悴して窪んだようだった瞳が、ギリギリと歯軋りに合わせて憎悪に歪んでいく。――白銀武。この世界の、“自分”。軍服を着ていた。左の顔に深い傷を負っていた。衛士……なのだろう。そして、ヤツがの言葉から、XM3を搭載した戦術機を駆り、『甲21号作戦』に参加したのだとわかる。

「死んじまえばよかったんだ……畜生ッ、ちくしょぉ…………っ、」

 大勢の衛士が戦死したのだという。鉄にはハイヴというものもBETAとの戦場もシミュレーター以上のことはわからない。実際にどれだけの敵を相手取り、どれだけの人が死んで逝ったのかなど想像もつかない。その戦場に赴き、散った英霊たちの戦う理由、願い、残された者たちの意志。それら全部が、鉄には正しく理解できていない。彼の境遇を知るものならばそれは無理からぬことなのかもしれないが……いや、最早鉄にとっての全ては“自分自身”に集約されている。

 これまで見聞きし、得た知識も経験も。そして今後得るだろうなにもかもが……この世界に胡坐をかいてのうのうと生きている“自分自身”を抹消しない限り、ただ己を責め苛む苦痛でしかない。異世界から迷い込んだ異分子は、ようやく見出し始めていた己の居場所を、根こそぎに奪われたのだ。ただ一度の邂逅。たったそれだけで。

 死んでしまえ。

 そんな呪わしい嘆きをぶつけたところでニンゲンは死にはしない。常識が脳裏を過ぎるたび、鉄の神経はささくれ立っていく。ならばどうするか。殺してやりたいくらい憎い相手がそこにいる。何食わぬ顔で。当たり前のツラで。自身の存在に何一つ疑問を持たず、ここに自分のような境遇に陥っている不遇の存在がいようなどと思いもせず。

 ――ならばどうするか。答えは既に得ている。…………復讐だ。

 しかし、一体、何をどうすればいいのだろう。一言に復讐といっても、その内容は様々だろう。存在を剥奪され自由を剥奪され、偽りに塗り固められた牢獄の日々。真に望むのは元の世界に戻ること。……それが叶わぬから、今もこんな狂った世界に生きている。この世界以外に生きる場所がないというなら、求めても叶わぬなら――オレは、オレとして生きたい!

 鉄じゃない。そんな名前は知らないッ! 夕呼の言葉遊びで付けられた偽名など捨ててしまえ。この世界の白銀武を抹消し、己こそが白銀武として存在すること。それが鉄の望む復讐劇の結末だ。付随して、自分を騙して利用した夕呼たちに仕返しが出来れば尚よい。胸がすくというものだ。こんな地獄のような世界に迷い込んだ自分をいいように使いまわそうとした人でなし共に、この苦しみを味わわせてやる。

「くく……ッ、くくく……はははっ、ははははははっ!! …………ッ、ぁ、はは、ぁぁあ、ああ、っ、ぁ、ぐ、……ぅぅっ」

 鉄の脳裏に浮かsぶのは足元に転がった「白銀武」の顔。顔面を剥ぎ取られて無様に死に絶えた“自分自身”の姿。顔を失くしたソイツに《鉄仮面》を嵌めてやり、自身は剥ぎ取った「白銀武」の顔を愛しむように撫で、外した仮面の変わりに被る。顔の剥奪は存在の剥奪を示し、そうすることで鉄はきっと白銀武に戻れるのだ。

 ドス黒い想像に浸り、引き攣ったように嗤う。盛大に嗤いたかったけれど、不意に思い出された元の世界の光景が胸を締め付ける。還りたい。帰りたい。かえりたい。願っても願っても、どれだけ夢に見ても、叶わない。隣りには純夏が居て、冥夜が居て。そんな幸福な世界に戻りたい――戻れない。ベッドに転がったまま、鉄は嗚咽を漏らす。ぐらぐらと煮立つ脳髄にえずきながら、怒りと哀しみ、悔しさがぐるぐるといつまでも渦を巻いて…………。



 そして、鉄は意識を失うように眠る。目覚めた時には元の世界であるようにと。叶わぬ願いを繰り返し。







 ===







 2002年1月4日――







 二日前、霞からの報告で鉄と武が接触したことを聞いていた夕呼だったが、今日までの間に双方特に目立った兆候がないことに、矢張りと頷く。世界は矛盾を許容しない。その論理から言えば鉄と武の二重存在は大いなる矛盾なのだろうが、二人が顔を合わせても――その内、鉄は武がこの世界の自分なのだと認識しても――鉄の存在は喪われなかった。武の側にも世界からの修正は働いていないようだ。
 となれば、以前にたてていた仮説は概ね間違いではないらしい。つまり、二人は同質の存在ではないということ。元々がこの世界の存在でない鉄は今でも夢に乗って元の世界と繋がったりしているようだが、武と接触しても世界からの修正――この場合強制排除とでも言うべきか――を受けていないというなら、二人の存在は限りなく同一に近く在りながら、根本的に異なっているということだろう。……それが具体的にどう異なっているかはわかっていないが。それを調べるのはひとまず後回しで構わない。
 或いは、武がいずれ必ず死ぬ、という点が鉄の存在を許容しているのか。……こちらの説は、いまいち説得力に欠けるが。なんにせよ、鉄が消えないことは僥倖である。XM3が世界的に認められた今、彼の存在は役に立つ。A-01も相当の訓練を積み、尋常ではない戦力を獲得しているが、XM3の能力を最大限に引き出すあの『概念戦闘機動』の本質を理解して実践できるのは、矢張り鉄だけなのだから。

 この世界の白銀武に対し、強い憎悪を抱いているということも報告されていたが、少なくともこの二日、鉄が何某かの行動を取った記録はない。“彼”という存在が精神的に追い詰められたときに発症――そう言ってもいいだろう――する暴力的な一面は既に武で経験済みだったので、念のため霞とピアティフを監視から外していたのが幸いしたのかもしれない。或いは鉄の脳内では様々な復讐方法がシミュレートされているのかも知れないが、今すぐにそれを実行することは、そもそも不可能だ。

 鉄の復讐対象として挙げられるのは筆頭に武と夕呼自身、続き、被害妄想染みた「裏切り」の対象であろう霞とピアティフの、合計四人。鉄の行動の自由こそ奪っていないが、この内霞とピアティフは接触できる機会をなくせば済み、夕呼についてはそもそも暗殺すら出来はしない。残るは武だが、こちらについては放っておいてももうじき死ぬので問題ですらない。殺したいなら殺せばいい。

 たかが異世界の小僧一人。体を鍛えた程度のガキが出来ることなどたかが知れている。

 夕呼はちらりと背後を振り返り、無言のままついて来る鉄を、能面の《鉄仮面》を眺める。XM3トライアル以来に顔を合わせたのだが、自分の指示とはいえ、あの《鉄仮面》は些か奇を衒い過ぎたかもしれない。表情がわからない、というのはある意味でもっとも厄介だ。……まぁ、夕呼の中で鉄は危険視されていないので関係はないのだが。憎しみを抱き、殺してやるとさえ思っているかもしれない相手を眼前にして、どれ程醜悪な顔をしているのかと興味もあったのだが。

(追い詰められたニンゲンがどれ程愚かな顔で愚行を犯すのかを見てみたかったのだけど……)

 

 そんな夕呼の内心を鉄が知ったならば、彼の精神の箍は外れていたことだろう。だが、幸いにして彼には霞のようなリーディング能力はなく――備わっていたとしても夕呼が身に付けているバッフワイト素子で妨害されるが――また、夕呼のように常に人を食ったような顔をしている人物の表情から感情を読み取れるほどの経験もなかったため、せいぜいがムカツク面だ、程度にしか思わなかった。

 夕呼からの呼び出しを受けるまでの二日間、鉄は部屋に閉じこもっていた。毎日のように顔を見ていた霞やピアティフが部屋にやってこなかったのも、どうせ夕呼の差し金だろうと理解している。もっとも、自分を裏切ったような女達の顔など見たくもなかったのだが。そうやって独りで自室に閉じこもり何をしていたのかといえば……如何にしてこの世界の白銀武を抹消するか、そのありとあらゆる方法を妄想しては、暗い愉悦に浸っていた。

 殺人。もっとも安易で成り代わりに困らない方法ではある。故に最初に思いついたのはそれだった。だが、実現可能な殺害方法を脳内で描くにあたり、鍛えられた軍人なのであろうこの世界の白銀武と、俄仕込みの自分ではそもそも勝負になり得まいという結論に至っている。

 同様に暗殺という手段も考えてみたが、例えば射殺だが、鉄は拳銃を持っていない。扱い自体はピアティフから教わっていたが、戦術機の操縦技術だけを求められていた鉄は、軍人である必要はなかったのである。……無論、衛士を名乗る以上それに付随する覚悟や信念が備わっているべきだろうが、鉄にはそもそもその辺りが明確ではない。知らぬ間に迷い込んだ世界で、戦争に参加しなければ存在自体が認められなかったのだ。あまりにも理不尽で過酷な世界。全ての事象が自分の理解を超えている中で、一体どうやれば“ここで頑張って生きていこう”などと思えるというのか。

 軍人としても中途半端であり、現在は武器自体所持していない状態で、どうやって白銀武への復讐を果たすか。その手段・方法を探るために二日を費やし……結論が出ないままに夕呼に引きずり出されたのがつい先程。部屋のドアが開かれた瞬間、鉄は身を竦ませた。不穏なことを考えているという自覚などなかったはずなのに、他人に対して警戒してしまう。そんな鉄の反応を、夕呼はさも面白そうに眺めていた。

 ――今もそうだ。夕呼は鉄を振り返り笑っている。部屋に来たときも笑っていた。アンタなんかに何が出来るのかしら? ――きっと夕呼はそう言って、嘲笑っていたのだ。……鉄は苛立ちを抑えることもなく舌打ち、忌々しい夕呼の背中を睨みつける。そもそもの始まりはこの女だった。自分を捕らえ、自分を騙し、自分を利用した女狐……ッ。沸々と湧き上がる怒りを噛み締めるたびに、復讐の念は膨らんでいく。憎悪が、全身を支配していく。

 夕呼や霞、そしてピアティフたちに対する裏切りの報いについてまでは“まだ”考えていない。彼女たち――特にピアティフについては裏切られたという衝撃自体が相当に深く、あの美しい顔を思い浮かべただけで胸を掻き毟りたくなるほどだ。哀しい、という言葉が一番適切なのかもしれない。

 けれど、恨めしいという思いがないわけではなく、むしろ、夕呼に関してだけは白銀武と同様、或いはそれ以上の憎悪が滲んでくる。あの天才面をした悪魔のような女。クソ忌々しいその端正な顔を、力の限り歪めてやりたい……。ぎりぎりと拳を握る。可能ならば今すぐに殴りつけて殺してやりたいほどに。

 ――ふと、思うのだ。もし、もしあの時、この世界に目覚めた最初に……“学園”に向かわなければ。この世界の横浜基地にさえたどり着かなければ……。自分は、ひょっとしたらもっと違う、己自身としての生を全うできたのではないか。

 少なくとも、存在を剥奪され、人権を奪われ、戦争を強要されるような……こんな地獄のような世界に巻き込まれることは………………………………なかった、とは。

(ちく、しょぉ……)

 どれだけ過去を呪ったところで、今のこの状況は変わらない。ピアティフと霞は監視から外され、代わりにゴツイ顔つきの軍人が四人がかりで警護ときた。夕呼と自分を挟むように前後に二人ずつ。如何に夕呼が憎らしく、殺意を募らせたところで、鉄の行動は封じられたも同然だった。一昨日の夜、衝動的に白銀武を殺しに行こうと部屋のドアを開けた際も、この軍人達が待ち構えていた。……好きで二日も閉じこもっていた訳ではない。行動を、制されているのだ。

 かつての軟禁と何が違うというのか。どうせ霞から報告なりなんなりを聞いたのだろう。鉄はどこまで行っても異分子であり、この世界にとっての異端なのだ。だから、そんな鉄が何かをしようとすれば、夕呼はその行動全てを封じて搦め手に出る。――弄ばれているのだ、と。鉄は知ってしまった。こんな監視を引き連れて基地内を歩くことも出来ず、まして……もう一人の自分を殺害することなど、不可能だった。

 たった一人の異分子に対して大層なことだと皮肉ってみても、現状が打開されるわけでもなく。鉄は鬱々と昏い感情の深みに嵌っていく。目に映るものすべてが欺瞞に満ち、手に触れるものすべてが虚飾に満ちた世界。自分がいるべき場所ではない。――ここは、正しく異界なのだと。鉄はついに受け入れるしかなかった。そうすることでしか、ピアティフたちに裏切られた感情を落ち着けることなど出来ず、己の現状を顧みることもできない。

 異界であり、自分がいるべき場所でないのだからこそ――復讐すべきなのだ。世界に。

 その認識は鉄の中でより一層強固に、絶対のモノとして凝固していく。そして、それでもこの異界で生きていくために、「シロガネタケル」であるためには……方法は、どれだけ考えたところで、一つしか在り得ないのだった。

 そうして鉄は結論する。白銀武との邂逅以降考えて考えて鬱々と過ごしたこの二日間の結論は、変わらない。自分という存在にこれだけの不遇を押し付けた世界に、夕呼に、その根本となった白銀武に……復讐を。

 もうそれしか、生きる目的が…………ない。



「あらまりも、早かったのね」

 発せられた夕呼の声に、鉄はハッとする。どうやら暗黒の渦に浸っている間に、目的地に着いたらしい。結局なんのために連れ出されたのかを知らされないまま到着したわけだが、鉄にとっては最早全てがどうでもいいことに思えていたので、あまり気にしていなかった……の、だが。鉄は仮面の下で目を見張る。瞠目せずにはいられなかった。

 神宮司まりも。その存在がこの異界にも在ることは知っていても、こうして面と向かい合うことが出来ようとは思っていなかった。それはきっと、シロガネタケルとしての存在を奪い返した後のことだと、そう思っていたのに、目の前に彼女は立っている。夕呼に向けて敬礼しながら、チラリと視線をこちらに向けていた。心臓が鳴る。緊張が走る。――まりもちゃん! そう声に出して叫びたい衝動が、鉄の内側から溢れ出ようとする。

 …………だが、そんなことは出来なかった。自分は鉄なのだ。今はまだ、《鉄仮面》の衛士でしかないのだ。まりもにとって。そして、この異界そのものにとって。更に言えば彼女は所詮この世界のまりもであり、鉄の慕う優しい女教師とは別人である。……ために、鉄は小さな失望と絶望を感じ、結局、黙り込むしか出来ない。俯くように夕呼の背後に立っていると、まりもがきつく睨み据えてきた。――そんな目は、オレは知らない。

「鉄少尉だな……。会うのは初めてだが、貴様の考案した『概念戦闘機動』そして、XM3には感謝している。そのいずれもなくして、『甲21号作戦』は成功し得なかった。多くの部下の命を救ってくれたこと――礼を言う」

「――っ、?!」

 だが、次の瞬間見せた優しい表情は……その声音は、鉄のよく知る“まりもちゃん”そのものであり、鉄は困惑してしまう。別人なのに、同じひと。頭が狂いそうだった。まりもはどんな世界であれまりもなのだという事実。そのことをたったの一言で理解できてしまった鉄は、しかしその理屈を認めるわけにはいかないと殴り捨てる。……でなければ、自分の存在の全てが否定されてしまう。

 そんな激流のような思考に囚われて言葉を発せなかった鉄に、まりもは特に何を言うでもなく、夕呼へと向き直る。今の今まで機密の一点張りで鉄という存在の上っ面だけしか開示されなかったのに、ここにきて突然の対面である。そもそも、夕呼から呼び出しを受けた時点では帝国軍と合同の慰霊式典を執り行うに当たっての最終打ち合わせとしか聞いていなかった。そのつもりで合流場所に来てみればそこには書類でしか知らなかった《鉄仮面》が共に居る。

 ――やられた。というのがまりもの本音であるが、先程の謝辞についても紛れもない本音だ。夕呼の思惑通りまんまと鉄の存在に驚いたまりもは、今回だけは夕呼の采配に感謝することにした。きっと、こういうことでもなければ、まりもでさえ彼と顔を合わせることはなかったのだろうから。

「さて、面子も揃ったところだし。行くわよ」

 そうしてまりもの前を通り過ぎて歩く夕呼に従う形で、一行はまた歩き出す。白衣の裾を揺らしながら堂々と歩く親友の背中を見つめながら、まりもは、そういえばピアティフの姿が見えないことを疑問に思った。帝国軍……というよりも、日本政府との合同慰霊式典の調整はピアティフが中心となり行われていたはずである。今回はその最終調整であり、午後には煌武院悠陽殿下直々に斯衛の精鋭部隊を引き連れてやって来る予定であるのだから、彼女がいなくてよいはずがないのだが……。

 もっとも、既に打ち合わせを進めているのかもしれないし、或いはそれに関係した横浜基地内部の調整に奔走している可能性もあるので、あまり深く考えることはなかった。まりもとしては、式典の際に救国の英雄として祀り上げられる、その段取りさえ押さえておけば問題ない。……偶像として扱われることに不満がないわけではないが、如何に機密性の高いA-01とはいえ、実際にハイヴ攻略を成した部隊長としてその立場を必要とされているのであれば、甘んじて受けようという想いもある。

 民衆は、希望を欲する。そして、その輝きを放つ英雄を欲する。

 日本にとっての希望は間違いなく煌武院悠陽殿下なのだろうが、その彼女が直々に英雄を指名してきたのだ。ならば、受けざるを得ない。まりも一人が偶像として民衆の上に立てば済むことならば、また、それが数多くの死線を乗り越えて、或いは散って逝った部下達にこれ以上ないはなむけとなるならば。隊長として、軍人として、まりもは英雄としての自身を受け入れられる。

 歩きながら、まりもは自分の斜め後ろを歩く鉄をちらりと振り返る。夕呼から開示された情報によれば、戦場でBETAに襲われ重度のPTSDに罹っているということであり、精神に支障をきたしているという。現実を現実として受け入れることが出来ず、自身の脳内に広がる夢の世界こそが唯一の世界と思い込むことで一応の平穏を得ているらしい。

 つまり、精神病患者……ということになるのだが。実際、会ってみての感触から言えば、極普通の青年にしか見えない。顔を仮面で覆い隠しているという異常性は見られるが、それだって負傷した顔を整形した際に、それが“元の顔”でなかったことを受け入れられなかったからだという理由もあるし、同情できなくもない。つまり、外見的に判断すれば、鉄は全く普通の、一衛士にしか思えないのだった。

 本当に彼が? そう疑問に感じてしまうほど、XM3や『概念戦闘機動』などの革新的な技術を編み出せるほどの天才的素養を持つようには見えない。……もちろん、天才と類される者の存在をまりもは疑わないし、目の前に夕呼という実例がいる以上、鉄もそうなのだろうとは思っている。そのように見えない、というだけで、実際にXM3を生み出したのだから。また、トライアルで見せたあの凄まじい機動は、今の自分たちにも到底真似できない異常さであり、こと『概念戦闘機動』に関しては流石発案者としか言いようがない。

(出来るものなら彼をA-01に迎えたいところだが……)

 衛士一人が増えたところで戦況が変わるわけではないが、部下達に与える影響は多大なものとなるだろう。……いや、実現しないことに思考を割くのはやめよう。もしそれが可能ならば、夕呼のことだ、既に実行に移しているに決まっている。それもXM3開発初期の頃に、だ。それがなく、XM3が世に知れ渡って尚、鉄が機密扱いされているのだから……そこから先は考えるまでもないことだった。

 そうやって暫し無言のまま歩くこと数分。基地内で最も広い会議場の入口には斯衛の軍服を着た烈士が二名、歩哨に立っていた。その彼らと向かい合うように、廊下を挟んだ反対側に国連軍兵士が同様に歩哨として立ち、合計四名が夕呼たちに敬礼を向けてくる。夕呼はいつものように眉を顰めただけで返答らしきものは見せなかったが、まりもと鉄は軍人らしく敬礼をしてみせた。そうして答礼しながら、まりもは眉を寄せる。――何故、斯衛が歩哨に?

 斯衛とは城内省に籍を置き、将軍家縁者を守護する最精鋭部隊の総称だ。彼らの任務は帝国の守護よりも優先して、将軍家縁の者を護る義務と責任、矜持がある。つまり、彼らは合同慰霊式典の開催のため打ち合わせにやってきている調整役を警護するような任務は負っていないはずであり、ここに居るはずがない者たちなのだ。……その調整役が将軍家縁者だというなら話は別だが、恐らくそれはないだろう。将軍家、そして五摂家とは、いわば日本という国を象る骨子であり、基盤だ。成人している者のほぼ総数が政治に、或いは軍に身を置き、この国を導くために身を擲っている。そんな人物が死者を祀る式典の段取り調整役を担うとは到底思えない。

 そんな疑問を抱きながら歩哨に立つ斯衛が扉を開くのを待っていると――それは静かに内側から開かれた。誰か出てきたのだ。その人物が進み出るのにあわせて、白服の斯衛軍衛士は脇に退く。微塵の乱れもなく踵を合わせ、敬礼を向け――現れたのは真那だった。赤色の軍服を着こなした彼女は警備にあたっている彼らに答礼し、夕呼たちに気づいて少しだけ表情を硬くした。逸らすように夕呼から視線を外し、まりもの眼を見る。……そこには、若干の憎しみ窺えた。

 まりもは何も言わない。自分たちにも敬礼し、退室する真那。一瞬だけ鉄の存在に驚いたように見えたが、彼女にとって、それ以上夕呼と同じ空気を吸うことは耐えられなかったのだろう。厳しい表情のまま――恐らく、僅かでも夕呼に憎しみを抱いたことを恥じているのだろう――一度も立ち止まることなく去っていく。その背中に向かって、何も言える筈がない。あの時、まりもも一緒に聞いたのだ。夕呼の非道。人類を救うための計画……その裏側に潜む、狂気の沙汰を。

 けれど、自分も真那も、それを非難する権利はない。いくら人道に悖り、外道の業を振るったのだとしても、それは必要だったから実行されたのであり、そして夕呼は自身の狂気を理解しているのだから。己の罪を知り、誰よりも己自身が自らを断罪している。その事実に気づいているから、だから……夕呼を憎むことは、赦されない。地獄に堕ちることすらヌルイ。そんな外道を往く夕呼の覚悟は、この星を救うという希望のように、気高く、孤高に輝いている。

 確かに武を想う真那にとっては憎らしいだろう。最愛の弟子の命を奪われようとしているのだ。その感情を抑えることなど出来まい。けれど、誇り高く、慈しみ深い彼女には、夕呼の覚悟も理解できるために……夕呼に対し憎しみを抱いた自分を、恥じてしまう。その生き方を、まりもは尊敬する。見習いたいと思う。

 まりもは小さく息を吸い、両目をしっかりと開いた。室内に入る親友の背を見つめて、例えこの先何が起ころうとも、夕呼がどれだけの非道を行おうとも……決して、彼女を裏切ることはしない。そう胸に誓う。軍人として、衛士として、そして夕呼の親友として。神宮司まりもという存在全てを賭けて――誓うのだ。







 廊下の角を曲がったところで、真那は立ち止まり、壁にもたれるように背を預けた。両目は固く閉じられ、握った拳は昂ぶった感情に震えている。整った美しい顔は苦しさに歪み、腹の底から燃え滾る感情が、今にも爆発しそうだった。――まだまだ、未熟。精進が足りない。

 武のことはもう整理したはずだった。二日前、僅かの可能性に賭けて斯衛への勧誘を試みたが、無碍に断られている。袖にもされない、というのは矢張り寂しいものだ。愛弟子の死を受け入れるしかない現実に無力さを覚えもしたが、武自身が己の運命を知り、それに納得しているというなら……今更、真那が夕呼を憎むことは的外れもいいところであり、何より、人類救済の道を拓こうとする彼女を侮辱する行為でしかない。

 それがわかっていて、理解していて、これほどの感情を抱いてしまったのだから……なんとも、未練がましいことである。真那は自身の業の深さに自嘲して、天井を見上げた。いつの間にか、これほどまでに――武という存在を欲していた。父の剣術を継ぐ者、というだけでは足りない。彼の子を欲したこともそうだ。弟子に対する信愛を越えた情を、真那は確かに抱いていた。死んでほしくないと願うのは……自分の我儘なのだろうか。

 ……その答えは、もう得たはずだ。いつまでも女々しいとは思う。武を想うというなら、彼が自ら選んだ道をしっかりと最期まで見守ってやるべきだろう。きっとそれが、彼の病状を知る真那の役目だ。師として、弟子の最期を看取る……。

「――こちらにおられましたか、中尉」

 掛けられた声にハッと目を向ければ、そこには冥夜がやって来ていた。凛々しい顔立ちの彼女は真那を見つけてほっとしたような表情をしてみせ、次いで、真那の様子に気づいたのか、眉を顰めた。歩み寄りながら真剣な面持ちになり、あと数歩という所で敬礼した。真那も壁から身を離し、答礼する。

「……何か用か、御剣少尉」

「はい。伊隅大尉より月詠中尉をお呼びするよう申し付かりました。A-01ならびに斯衛軍第19独立遊撃小隊は別名あるまで待機、とのことです。……もうじき煌武院殿下がいらっしゃいますから、我々は基地内の防備を固めると」

 かつての主は初陣を経て立派な軍人に成長したようだった。戦友の死を乗り越え、その悲しみも怒りもやりきれなさも、戦場の恐怖も無情さもなにもかも……それら全てをその身に刻み、ひとまわりもふたまわりも大きくなっている。冥夜から発せられる雰囲気からそれを感じ取った真那は、つい先程までの自身の女々しさを忘れるほど、誇らしく、嬉しい気持ちになっていた。

 そして、冥夜が告げた煌武院悠陽殿下の来訪。――ふと、小さく笑ってしまう。冥夜と血を分けた双子の姉。お互いの立場の隔絶に絶望することなく、互いに愛し合い想い合う姉妹の姿は、かつて仕えていた頃より変わりない。顔を合わせることは出来ないのかもしれないが、きっと、冥夜は悠陽が近くにやって来ていることをとても嬉しく感じていることだろう。そしてそれは、悠陽も同じなのだ。

 真那はつい先程まで面会していたそのひとの顔を声を仕草を思い出して、なんだかくすぐったいような気分になった。――ああ、矢張りこの方は素晴らしい。忠誠を誓うに相応しい、才気と風格を兼ね備えている。願わくば、互いに壮健であらんことを――そう願い目を閉じた真那に、怪訝そうな冥夜が問い掛ける。

「……あの、月詠中尉……」

「ん、ぁあ、すまぬな。少し考え事をしていた。……伊隅大尉がお呼びなのだったな。行こう」

 首を傾げる冥夜にそう答えて、真那は歩き出す。やや遅れてついてくる冥夜を気配で感じながら、以前とは違う自分たちの関係を思い――幸せなことだ、と頷く。悠陽の冥夜に対する心遣いが、この現状をもたらしている。真那にとっての幸せは矢張り、どこまでいっても冥夜の傍に在り続けることなのだと。改めて認識していた。

 武を喪うという哀しさは確かにある。だが、それでもまだ真那には……自らの命を懸けてでも護り抜きたい心の主が在るのだ。それを、幸せだと思える。そう言える。……だから真那は、これからも自分自身でいられるだろう。武の死を胸に抱いたまま。生きていける。

「そういえば……神代たちはどうした? 私を呼び出すのであれば、あの者たちに命じたであろうに」

 ふと思いついた疑問を尋ねれば、どうしてか冥夜は一瞬焦ったような表情をして、あちこちに視線をさ迷わせた後、頬を染めて俯いてしまった。一体何事かと思い立ち止まり振り返ってみれば、凛々しさなどどこへやら、辛うじて姿勢よく立ってはいるものの、その姿はいじらしい可愛らしさを放っていた。――め、冥夜様……ッ?! 本当に何があったのだろう。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。いや、莫迦な。

「め――、御剣少尉、一体どうした」

「ぁ、は……い、ぃぇ……」

 つい名前で呼びそうになってしまい慌てて言い直すが、問い詰められた冥夜は一層あたふたとしだす。本気で心配になってしまった真那だったが、これ以上声を掛けても同じことの繰り返しのような気がしたので、とりあえず落ち着くように促す。それがよかったのか、幾分落ち着きを取り戻した冥夜は上官である真那に醜態を晒したことを詫び、実は、と頬を染めたまま口を開いた。

「じ、実は……速瀬中尉から伺ったのです。そ、その……月詠中尉が、し、白銀少尉と――っ、あ、その。なんといいますか…………だ、だんじょのちぎり……を、か、かわした……ッ、と」

「……」

 至極真剣な表情で、顔を真っ赤にしながら、冥夜は尚も尋ねる。武には茜という恋人がいて、二人は相思相愛で、実は既に結ばれているらしく、互いが互いの存在を支えあう素晴らしい仲なのだということ。それを知りながら何故、武と――冥夜の話を要約すればこういうことになる。最初は恥ずかしさもあいまってしどろもどろに、けれど次第に感情が昂ぶってきて、声も大きく身振りまでついた糾弾に。最後には真那の行為が破廉恥極まりなく、同じ日本人女性として嘆かわしいということにまで至り……流石にこれ以上の暴言を誰かに聞かれでもしたら冥夜の立場が危うくなるので再度落ち着くように宥め賺す。

 如何に“元”真那の主であろうとも、今の冥夜は一少尉でしかない。中尉である真那に対して感情をぶつけていいはずもなく、また、本来ならば修正されるべき行動だ。そして冥夜のその行動は彼女を教え導いたまりもの教育指導にまで及び、結果として、まりもを貶めることになりかねない。勿論真那に冥夜を、ましてまりもをどうにかするつもりはないのだが……それ以上に、これほど感情を顕にした冥夜が珍しい。

 再び真那に宥められて冷静になった冥夜は、瞬間、真那に非礼を詫びるべく頭を下げた。冷静になったことで自分が如何に不敬な行いを取っていたかを悟ったのだろう。冥夜としては自身の失態が上官であるまりもに及ばないよう必死だったのかもしれないが……これもまた、珍しいというか、初めて見る姿だった。軍人としての習性が身についているという意味ではそのとおりだろうが、冥夜がこんなに感情をさらけ出すこと、そして自分自身の感情に翻弄されていることが、真那には嬉しく見えた。

 悠陽の影武者としての生を強要され、そしてそれを自身の道として選び受け入れた冥夜。人質同然に国連軍に預けられ、それでも自身の願う道を目指し、この国の未来を願い自身を鍛え抜いてきた冥夜。……彼女は、なによりも自分の感情を抑えてきた。勿論、冥夜とて人の子であるから完全に感情を殺すことは出来なかったし、しなかったが、それでも冥夜は矢張り、他人に比べて感情を面に出さない少女だったように思う。

 笑いもすれば悲しみに浸ることもあるし、怒りに身を奮わせることも、喜びに涙することもある。そういう、人間らしい感情の発露ではなく……歳相応の、少女らしい感情をさらけ出したのは、多分、これが初めてではないだろうか。

 それがまぁ――、真那と武の性交渉によって引き出された、というのがなんとも……真那としては喜んでいいのやら困るところではあるが。要するに、……まさかとは思うのだが、冥夜は真那に嫉妬しているのだろうか。話を聞く限りでは武と茜の仲をどうこう言うつもりは微塵もないらしい。が、そこに真那が割って入ろうとしている――或いは入った――ことが気に入らない、ふしだらだ、といいたいようだった。

「……」

「ち、中尉……その、失礼な口を利いてしまいもうしわけありませんでした。……で、ですがっ! 斯衛ともあろう御方が、添い遂げる相手の居る白銀少尉と、か、関係を持つのは如何なものかと……ぅぅ」

 折角落ち着いていたのに、口を開けばまた感情が昂ぶってしまうらしい。その一連の仕草をじっと見ていた真那だったのだが、もう駄目だった。限界だ。堪えられない。

「ぷっ……くくっ、くはははっ! はははははははっっ!!」

「!? ちゅ、中尉!? なにが可笑しいのですっ!?」

 真那が遠慮なく声高に笑うと、冥夜が驚いたように、そして憤慨したように眉を寄せる。自分は真剣な話をしているのに、どうして真那は笑うのか。そんな冥夜の感情が読み取れて、一層、真那は笑ってしまう。――なんとも、愉しいではないか。かつての主がこうまで一人の少女として在れること。その幸福を、真那は噛み締める。可愛らしい少女の恋慕にひとしきり笑った後、真那は呼吸を落ち着けながら肩を怒らせている冥夜に向き直る。

「いや、許せ。他意はない」

「――ッッ」

 思い切り他意があったのだが、そこは黙っておく真那である。冥夜は自分で気づいているのだろうか。今の自身の在り方が、何よりも幸せで自由であることを。……出来るならば自分で気づいてほしい。手に入れた幸福を、自身の手で掴んでほしいと願うのだ。

 そんな真那の心情など知る由もない冥夜は笑って誤魔化されたのではと唇を尖らせるが、そういえば自分はどうしてこんなに感情を荒立てているのだろうと内心で首を捻る。そもそもの発端は昨日のことだ。昨日、訓練後の休憩時に水月と茜が話しているのを偶然耳にしたのである。

 武は胸の大きな女に弱い。胸の大きさなら自分の方が云々。水月さんそれはどういう意味ですか。いやぁね茜本気にしないでよ冗談だってば。でも武ってば鼻の下伸ばしてデレデレしちゃって! そうそうあの莫迦押し倒されていいようにされちゃって! 斯衛の癖に恥じらいがない云々。斯衛の癖に節操がないどうだこうだ。斯衛の癖にいやらしいだの斯衛の癖に無駄にエロイだのなんだの(以下繰り返し)。

 ……というわけだった。その会話の内容を吟味した結果、真那が武を押し倒し強引に関係を持った――という結論に至り、その瞬間、冥夜の中でなにかが起こった。うまく言葉に出来ない感情、真っ先に浮かんだのは“赦さん”というようなものだったが、具体的に何をどう赦さないのかといわれるとよくわからない。よくわからないが、けれど、やっぱり腹に据えかねるものがあり……一晩を悶々と過ごした結果、直接本人に聞いてみようと思ったわけである。

 ――うむ、矢張り自分には一点の非もない。自身の行動の原点を振り返り、頷く冥夜。非があったとすれば感情に任せて上官を罵ったことだろう。それについては深く猛省している。……が、それがどうして真那に笑われることになるのか。誤魔化しは通用しない、というつもりで真那をじっと見つめると、慣れ親しんだ彼女の美しい顔がヤレヤレと困ったように和らぎ――真那は、華のように微笑んだ。

「武も幸せ者だな。御剣少尉にまで想われて……」

「なぁっ!? つ、月詠中尉!?!?」

 にっこりと微笑んだ真那はそう言って冥夜に背を向け、ゆっくりと歩き出す。冥夜はといえばあわあわと顔を真っ赤にして震えるしか出来ず、去っていく真那を追いかけることさえ出来ないでいた。彼女がようやくのことで我に返ったときには当然真那の姿はなく、慌てて格納庫に向かうと、みちるから遅いと叱責されてしまった。仲間達から向けられる“珍しいものを見た”という視線に羞恥心を覚えながらも、内心で真那への小さな憤慨を覚えるくらいしかできない冥夜は、けれど、どこか胸の内側で心地よさのような感情に気づいていた。

 一人の衛士として、一個人の御剣冥夜として存在していること。生きていること。真那や武たち、かけがえのない仲間達と共に戦える今を……冥夜は、大切にしたいと心の底から想っていたのだ。







 どうして斯衛が――そう不審に思ったまりもの疑問は、これ以上ないだろう衝撃によって氷解した。

 室内で待っていたのは合同慰霊式典の打ち合わせのためにやってきていた日本政府の代表でもなければ、帝国軍の高官というわけでもなかった。設けられた議席には既にピアティフがついており、やって来た夕呼たちを席に案内していたのだが、まりもの目は一点で凝結していた。

 そう。そこに居たのだ――いいや、違う。そこに“いらした”のである。

 煌武院悠陽殿下。

 日本という国家を象徴する臣民の希望。夕呼とともにXM3の普及に努め、『甲21号作戦』を完遂させ、AL4の完成にも協力する姿勢を見せてくれている……あの、政威大将軍そのひとが。

 豪奢で煌びやかな衣装そのままに、優雅な仕草で艶然と微笑みを浮かべながら、まりもたちを待ち構えていたのである。傍らには青服を纏う斯衛が仕え、室内には赤服を纏った斯衛の集団が配置されている。中でも特に威容なのが――恐らくこの人物が指揮官だろう――二メートルを越すであろう巨漢。堂々たる剃髪、はち切れんばかりの筋肉に覆われた剛毅なる雰囲気。腰に提げられた刀は真那や武のそれと似て、一目で名刀と知れる。

(――ッッ!? あれが、紅蓮中将……ッッ!)

 まりもも帝国軍に居た頃に噂くらいは聞いていた。現状、帝国斯衛軍の中で最強と謳われる男。そんな人物に護衛され、麗しの将軍殿下は佇んでいる。無機質な基地司令部の会議場が、ただそれだけで厳かな雰囲気に包まれるのだから恐ろしい。存在感、という枠で測れば夕呼など足元にも及ばないだろう。……いや、国家の象徴と天才科学者を比較する時点でどうかしているのだが。とにかく、そのくらい驚いたということだ。

 呆然と突っ立っているまりもと鉄を置いてさっさと悠陽に挨拶を済ませた夕呼は悠陽と向かい合うように革張りのソファに腰掛けている。凄まじいといえば凄まじい胆力の持ち主だが、夕呼の場合は単純に無礼ともいえる。あまりにも飄々とし過ぎる夕呼の態度に居並ぶ斯衛の全員が殺気立ったのだが、残念ながら、その程度の殺気で夕呼を怯ませることなど出来ない。存在感こそ悠陽に劣るが、ニンゲンとしての質は、間違いなく夕呼はここに居る誰よりも一枚以上上手なのだから。

「ちょっと、なにしてるのよあんたたち」

 早く席につけ、という夕呼の催促にはっとしたまりもだったが、その脳内では物凄い勢いで“これがどういうことなのか”を探っていた。午後からやってくるはずの将軍が既に横浜基地内に居る。まりもには一切知らされていないし、当然、自分の部下達も知りはしない。それどころか、みちるたちは今も悠陽がやってくることに備えて待機しているのだ。主たる目的は将軍の警護だが、国連が出張るまでもなく、直属の斯衛がその命に代えても護り切るだろう。まりもたちに求められた任務は、どちらかといえば不穏分子に対する備えとなる。

 不穏分子――と考えたところで、まりもは成程と頷く。現状、考え得る中で最も不穏な動きを見せているのは米軍だ。……いや、ハッキリ米軍と断定できるだけの証拠はなにもないのだが、そういう動きを起こしかねない輩、と言われればそれくらいしか思いつけないのだ。なにしろ、日本国内に根を張りつつあった戦略勉強会――決起部隊――をけしかけようと画策していた連中である。『明星作戦』以降日本への発言権を大きく損失している彼の大国は、日本でクーデターを起こさせ、それを鎮圧することで再び発言力を得ようと企んでいたらしい。

 夕呼が信頼できる筋から入手したという情報であるから、それは確かだったのだろう。けれど、そんな米国の目論みは、夕呼による煌武院悠陽殿下を表舞台に引き摺り出す算段によって崩れ去り、決起部隊そのものも表面化することなく散会したという。また、続く『甲21号作戦』でも出番を与えられなかった米軍は、XM3の台頭によって『G弾』の存在意義すら奪われようとしている。XM3と『G弾』を併用した戦略の有効性を謳われる前になんとか押さえ込もうと夕呼などは画策しているが……それが、将軍殿下が来訪するタイミングでテロを騙るくらいの暴挙に出ないとも限らない。

 つまり、悠陽自身、そんな米国の動きを察していて、それを欺くために一計を講じたということだろう。夕呼はそれを承諾し、情報漏えいを防ぐためにまりもにすら秘密にしたまま段取りを進めていったというわけだ。……単に、この場に呼んだまりもを驚かせるためという可能性もあるが……。そんなことを思考しながら殿下に恭しく礼をし、宛がわれた席へと向かう途中で――まりもは初めて、鉄の肉声を聞いた。



「めいや――」



 その声に驚愕したのはまりもだけではなかった。上座に座る悠陽、傍らに仕える青服の斯衛、或いは居並ぶ赤服の上位階級の者たち。いずれも名高い家系の者と思しき彼らもまた、驚きに目を見開いている。だが、そのいずれよりも愕然とした様の鉄が、まりもに違和感を覚えさせる。

 そう。恐らくはまりも以外の人々が驚いたのとは異なるベクトルで、彼女は驚愕していた。――似ている。その声は、あまりにも耳に慣れ親しんだ彼の……白銀武の声に、よく似ていたのだ。

 そしてまりもを除く全員が、悠陽を冥夜と呼んだ《鉄仮面》に警戒を呼び覚ます刹那の内に、緊迫した静寂を打ち破るかのように、悠陽自らが口を開く。

「……そなたが、鉄か」

「――ッ、あ」

 柔らかな眼差しで見据えられ、鉄は身を硬直させた。深い色をした瞳。優しげな眼差しなのに、その瞳から発せられるナニカが、鉄の中の精神を縛り上げる。そうして理解する。あそこに座っている少女は、彼の知る御剣冥夜ではないのだと。……いや、それどころか、この世界の彼女でさえないということを。そう。確かアレはトライアルが行われた日だ。テレビの画面越しに見た、この国の象徴。政威大将軍とかいう人物――なにか、小難しい名前だったような気がする。

 そのときにも思ったのだ。「似ている」と。どこか凛として真っ直ぐな印象のある冥夜とは違い、全体的に柔らかな印象を受ける。だが、ひたと鉄を見据える瞳からは、冥夜同様、或いはそれ以上の鋭さが感じられた。

「……そう、です。オレが、鉄です」

 自分で“クロガネ”の名を名乗ることに苛立ちに似た感情が過ぎるが、少なくとも今はこの感情をぶつけるべき相手が居ないので、何とか抑える。夕呼に対してあてつけてやりたい気持ちもあったが、場の雰囲気を考えれば自重すべきだろう。……いや、それ以前に、将軍なのだという少女から向けられる視線から逃れることが出来ない。その瞳に吸い込まれてしまったように、鉄は他のことを考えられなくなっていた。

「そうですか。そなたが……。そなたの衛士としての腕前、紅蓮から聞いています。我が精鋭たる斯衛にも決して劣らぬ技量の持ち主であるとか。……そして、XM3の発案者であり、戦術機の操縦概念に革新をもたらした」

 呟くように微笑んだ悠陽は、鉄の所業を淡々と語る。その彼女に斯衛たちは何も言わず口を噤んでいる。彼らとて鉄を知らぬわけではないし、その、最早革命というべきXM3の凄まじさを身をもって体験している。本来なら悠陽が直々に、一衛士に語り掛けることなどありえない。しかも、仮面で自身の素顔を隠したような、悠陽を前にして礼を失していると言わざるを得ない相手に、だ。

 が、悠陽の傍らに立つ青服の男性も、最強と謳われる紅蓮でさえ、鉄の非礼を叱責しない。彼がこの場に居るのはすべて、悠陽が望んだからだ。『甲21号作戦』以降不穏な気配を見せ始めたAL5推進派の動きを警戒して早期に横浜基地を訪れたのだが、そのために生じた慰霊式典までの時間に、彼女は先の作戦の英雄であるA-01部隊の指揮官――まりもと、XM3の発案者である鉄との面会を希望したのだ。

 直に会って話がしたい。顔を見て礼を言いたい。一国を代表する悠陽の口からそのような要望がでることは珍しく、さてどうするべきかと紅蓮たちは俄かに慌てたものだった。例えばこれがまりもと鉄の二人を帝国に召喚するのであれば無理であるとしか言いようがなかったのだが、今回は悠陽が横浜基地を訪れる側であり、当然、二人とも横浜基地に在籍している。紅蓮は真耶を通じて横浜基地のピアティフと連絡を取り、それを夕呼に伝えて……結果、このような会見の場が設けられたわけである。

「鉄……。そなたの発案したXM3のおかげで、我々はようやく甲21号目標を攻略することが出来ました。そなたの編み出したOSが、この日本を救ったのです。……作戦に参加し、喪われた多くの将兵の命、長年のBETAの脅威に晒されてきた民の想い……。皆に代わり、私から礼を言わせてもらいます」

 ――そなたに感謝を。



 室内に居た全員が息を呑む。それは、あの夕呼とて例外ではない。……まさか、あの煌武院悠陽殿下が、自ら頭を下げるとは、流石の夕呼でも読みきれない事態であった。政威大将軍がたかが衛士に礼を述べる。しかも、相手は日本人とはいえ、国連軍に所属する――それも、正真正銘の“異邦人”なのだ。勿論、鉄が異世界の存在であることを悠陽が知っているはずはないが、だからといって、これは少々どころか大いに凄いことだった。

 鉄の駒としての価値が吊り上がった、と冷静に判断出来ている自分も居るにはいたが、それ以上に矢張り驚きが勝っている。……所詮自分も日本人か、と夕呼はなんだか可笑しくなってしまったが、それにしても素晴らしい人物だと、眼前に腰掛ける政威大将軍を見やる。たかが二十歳にもなっていない小娘。夕呼の中で悠陽をそのように見ていなかったといえば嘘になる。夕呼にとっての悠陽は唯の宣伝材料であり、或いは日本という国の援助を受けるためのつなぎでしかなかった。

 その身に宿すカリスマや、民を導く指導力、希望を謳う発言力、更には、戦争の醜さと美しさを正しく理解出来ている点など、一国の指導者としては認めていても、それでも、所詮賢いだけの娘だと。そう思っていた。自分が彼女を利用しようとして画策したことを、悠陽は当然承知しているだろう。それが日本のため、ひいては世界を救うための布石となるのだと理解でき、実行に移せるくらいには使える女……そんな風に、計算していたことも事実だ。

 だが、どうだ。

 実際目にした悠陽に……鉄に礼を述べ、頭を下げて見せた彼女に――自分は、これほどに驚き、感銘している。自分同様、否、自分以上のカリスマ。人を強烈に惹き付けるその感情は、なんとも心地よく切なく、胸に迫るものだった。年齢など関係ない。英雄とは、こういう人物を指すのだ。夕呼は喉を鳴らした。一つの打算もなく、思惑もなく、ただ本当に、心の底から鉄に感謝している悠陽の姿は……彼を飼い馴らし利用するだけの駒として手中で踊らせている自分とは似ても似つかない。

 そう。

 それはまるで悠久に輝く太陽のようで――――ならば、自分はどこまでも外道の日蔭を往こう。

 彼女ならば、煌武院悠陽殿下ならば、協力できる。世界を救うため。そのための研究を、自身と世界だけでなく、彼女のために完成させるのもいいのかもしれない。きっと、いや、必ず……悠陽は夕呼の研究成果を正しく使ってくれる。真なる世界救済のために。そのために喪われる人々の血と魂を無駄にすることなく、散って逝く全てのものたちに報いてくれるはずだ。

 このとき夕呼は初めて、自身の思惑とは全く別の、ニンゲンとしての生々しさを持つ部分で……主を得ることの幸福に触れたのだ。斯衛のように忠誠を誓うことなどないが、それでも、心の支えとすべき輝かしい存在を手に入れたのである。

 00ユニットが完成し、凄乃皇の完全稼動を成し…………自分が居なくても世界がやっていけるようになった時。それが自分の死ぬ時だと、そう考えていた自分を……。今の今まで駒の一つとしか見ていなかった少女に覆される、この、現実。――だから人生は面白い、か。誰が言ったか知らないが、成程、全くそのとおりである。そして、そんな人生の価値観を変えてくれたきっかけを鉄がもたらしてくれたというのなら、突如やって来た彼にも矢張り意義はあるのだと思い直すことも出来る。

 ただの駒として終わらせるにはあまりに惜しい。……或いは、もうこの手の中に縛る必要もないのか……。

 否。それだけはない。鉄にどれだけの価値があろうと、また、鉄個人の人生を思えばどれだけ幸せに近いことだろうと――夕呼は、鉄を手放しはしない。かつて武が夕呼にとってそうであったように、鉄もまた、夕呼の目指す研究のために必要な「駒」なのだ。付随する成果に温情を与えることは……出来ない。二重存在という枷を潜り抜けてまでこの世界にやって来たシロガネタケルの因果。これを解き明かす時こそ、恐らく、00ユニットが完成するときなのだ。そういう直感が夕呼にはある。

 悠陽が頭を上げる。柔和に微笑みを向ける彼女に対して、困惑した様子で立ち尽くす鉄。その《鉄仮面》を見て夕呼は――胸を痛めることはない。そんなことは、絶対にない。そう言い切れるだけの残酷さが、夕呼には確かに存在し、そうしてそれが、多くの実験体を死なせ多くの部下を死なせ、武を死なせるのだ。そう。これは必要なこと。だから鉄も、いずれ……。

「そなたの顔を見ることは叶わぬのか? そのような仮面をつけねばならぬ苦行、想像も及ばぬが……叶うならば、我らが民を救ってくれた英雄の顔を見てみたいものです」

「なっ……、ぁ、え?!」

 ふと思いついたように尋ねる悠陽に、鉄は動揺している。咄嗟に仮面に手をやり、惑うように夕呼を見て、再び悠陽を見つめた。彼は今何を思っているだろう。御剣冥夜と同じ顔をした、双子である悠陽を前に、向こうの世界の冥夜しか知らないという鉄は、一体何を考えているのか。……霞が居ればそれも知れたのだろうか。そんな風に考えてしまう自身に若干の嫌気がさした夕呼は、つい先程まで考えていた鉄に対しての温情というものに、一つだけ頷くことにした。

 どうせいずれあの仮面は不要となる。白銀武の死によって。鉄という存在そのものに最早変更はないが、顔を隠す必要はなくなる日が来るのだ。……さて、どうするか。夕呼は逡巡すると、肩を竦める。《鉄仮面》は夕呼の手によって電子的にロックされていて、鉄の意思では外せない。通常は彼が部屋から出るときにロックが掛かり、部屋に戻った時に開錠される仕組みになっている。その電子キーを夕呼は所持していた。

 名を奪い顔を奪い、その存在を徹底的にひた隠していた頃、人格を失いそうなほどに追い詰められた鉄を見ていた夕呼には、鉄が自分をどう思っているのかなどわかりきっている。武と出遭い、その存在を憎悪し、連鎖的に自分が憎まれていることも承知だ。許されたいなどと思うこともないし、断罪されてやるつもりもないが……きっと、悠陽のせいだ。彼女の見せた天性のカリスマ。それに感銘を受けたのだから仕方ない。

 外道の底を往く業深き自分を、たった一言でこれほど変えてしまえる彼女の要望ならば、聞いてもよいと思えたのだ。



 立ち上がった夕呼がこちらにやって来る。咄嗟に、鉄は脅えるように一歩退いてしまった。話の流れからすれば夕呼は恐らく自身の仮面を外してくれるようなのだが……一体何がどうして、こんなことになっているのかが、鉄にはわからない。

 冥夜によく似た人物……将軍とかいう少女が言っていたこと。XM3を発案したことに対して礼を述べられたこと。これは素直に嬉しいと思えた。身も知らぬ全くの初対面の少女だったが、彼女を護衛する軍人達の中には見知った顔もあった。国を象徴するような人物ということだから、多分、畏れ多いことなのだろう。そんな身分の人物から感謝されて、しかもそれが冥夜と同じ顔をした美人とくれば、嬉しくないはずがない。

 ……だが、鉄は困惑した。戸惑うしかなかった。日本を救ったという。『甲21号作戦』とかいう作戦で多くの軍人が死んだという。ハイヴという敵の本拠地を攻略することなど不可能だといわれていた世界で、それを成し遂げたという。凄いことだ。素晴らしいこととさえ思える。たくさんの人が死に、その死んだ人々の想いすべてが、ハイヴ攻略を成したのだ。

 そう言われれば、“そうなのか”と思える。……けれど、実感がない。自分はそんな凄いことをやったのかという喜びもあるが――それだけではない。多くが死に、命を散らし……では、一体何人が死んだというのか。そして、その数字を述べられたところで果たして自分は……それを実感に置き換えられるのだろうか。「出来ない」。だろう。シミュレーターでBETAがどういうものなのかは知っている。ピアティフから学んだ知識でこの世界がどういう状況にあるのかも知っている。

 でも、鉄は知っているだけで、理解できていないのだ。身をもって体験していないことを、実感など何一つ得ていないことを、恍惚と述べられても戸惑うばかりだった。戦争で人が死ぬ。BETAに多くの民が脅かされている。そんな人々を自分が作ったOSが救った。

 以前は、ただそれだけで素直に浮かれていられた。そうだ。自分が世界を救うのだ、と。自分の価値が認められることに優越感を覚えていた。浸っていられた。――だが、今は違う。この国を代表する少女に頭を下げられても、どれだけの謝辞を述べられても……怖気が勝る。何故か。決まっている。――だって、それでもこの世界にはヤツがいる。どれだけ自分の発案したXM3が優れていても、所詮自分は異世界のニンゲンであり、そしてここは異界なのだ。この世界の自分。そんな存在を知らなければ、単純に喜んで恐縮するくらいは出来ていたのかもしれない。

 なのに。ただそれだけで。自分がただの利用される駒でしかなかったのだと、正真正銘、仮面をつけた道化でしかなかったのだと知ったとき――鉄にとっての“ここ”は、薄暗く、泥に染まってしまったのだ。憎悪。自分をこれほど悲惨な目に遭わせているもう一人の自分へ対する憤怒と憎しみ。それを知らせぬままに“自分”という存在を剥奪した夕呼への怨讐。ピアティフ、霞の裏切り……。

 そんな世界でも生きていかなければならない絶望。そんな状態で、悠陽の言葉を聞かされても……何一つ実感を得られないし、そこから感じるものもない。胸に響かないのだ。こんな世界の人間がどれだけ死のうと関係ない。鉄にとって重要なのは自分の居場所を得ることなのである。そのための復讐を果たす。それ以外に求めることはない……のに。それでも、真っ直ぐに言葉を向けてくる悠陽の姿が、声が、鉄を困惑させる。

 冥夜にあまりにも似た少女は――間違いなく、生きている。灰色の闇に褪せたこの世界で、鉄が「狂っている」と罵ったこの世界で……生きているのだ。生きた言葉が胸に刺さる。鉄は戸惑っている自分に気づいた。どうして? そんな思いが感情を鈍らせる。呪わしくおぞましいこの世界。そんな世界で人類は滅亡の危機に直面していて、そんな脅威に対する希望を自身の発案したXM3が担っている。

 どうしろというのだ。

 どうすればいいのだ。

 白銀武が憎い。香月夕呼が憎い。社霞が憎らしく、イリーナ・ピアティフが……哀しく、悲しい。こんな狂った世界は厭だ。一刻も早く元の世界に帰りたい。――そんな感情全てを、否定しろというのか。シロガネタケルという存在でしかない自分に、還るべき場所が在る自分に、そんな正真正銘の“自分”を否定して、この世界に生きろというのか。白銀武を許し、香月夕呼を許し、社霞を許し、イリーナ・ピアティフを好ましく思う……この世界を愛し、元の世界などなかったのだと……。そうやって、鉄として生きろというのか。

 悠陽の言葉はそれを迫ってくる。生きているのだと訴えかけてくる。恐らくもなにも悠陽自身にそんなつもりはないのだが、けれど、今の鉄にとって、あまりにも、悠陽は生々し過ぎた。鉄が憎悪し、悪夢のようだと呪っている世界に生きるニンゲン。この数ヶ月触れ合い、そして今は憎んでいる夕呼たちとは全く違う、無垢な存在として、そこに在る。こんな世界と罵ろうとも、それでもそこに、“生きている人は居る”。――そして、死ぬ人間も。それを、救ったというのか。――オレ、が。

 居場所などないこの世界。最早復讐するしか存在の意義を見出せない自分。白銀武。その存在を剥奪し、奪い取る。そうしなければ生きられないと知ってしまった。……なのに! 悠陽の言葉が、ぐちゃぐちゃと鉄の精神を掻き乱していく!!

「――鉄、仮面を外すわ。じっとしてなさい」

「!!!!!!???」

 直近で掛けられた言葉に、鉄は文字通り息を詰めた。心臓が一際大きく跳ね、呆然と目の前に立つ夕呼を見つめる。手にはなにかスイッチのついた小型の機械を持っていて、それが押下されると同時に、鉄の顔を隠す《鉄仮面》から耳慣れた電子音が鳴る。ロックが外れた音だった。

「……ぇ、あ、え? ゆ、ゆうこせんせい……っ、」

「今だけよ。この部屋を出るときはまた仮面をつけてもらうわ」

 一体何が起こっているのだったか、一瞬、鉄は現実を掴めなかった……が、すぐに悠陽が自分の素顔を見たいのだと言っていたことを思い出す。めまぐるしく感情が駆け巡ったせいか、なんだか気分が悪い。自身の情動をどこにぶつければいいのか、或いは、どのように処理したらいいのか。鉄には一切何も、見えていない。夕呼は小さく囁いた後にすぐ身を離し、元のようにソファに腰掛けた。その背中を見ながら、湧き上がってくる憎悪を止めることなど出来ないという確信を得る。……けれど、悠陽の存在が、或いは、それによって気づかされたこの部屋に居る全ての人間の存在が、鉄にこの世界の現実を突きつけてくるようで……。

 そして、鉄の胸中とは全く関係しないところで、悠陽を初めとする全員が興味深そうに鉄を見つめていた。鉄にとってはこれら向けられる視線が自身の内奥を掻き回す得体の知れない感情の原因となっているのだが、素顔を見たいと言った悠陽には、そんな彼の心理状態は知れない。……当然だ。霞のようなリーディング能力を持たない限り、人は、人の内心を知りえないのだから。

 向けられる奇異の視線に、鉄は思わずあたりを見回してしまった。あれ程恨めしく想っていた仮面を外すことができるというのに、急に、それが恐ろしいことのように思えたのである。この部屋に居る全員が「現実」で、「生きて」いて、「鉄」という存在を望んでいて……それを「受け入れる」というのなら、つまり、それは、、、

(オレが、こんな、生きているニンゲンがBETAなんて化け物に食い殺されて死んでいく……こんな、こんな世界に……ッッ!)

 ――生きて、死ぬ。それを選択することのように思えて……でも、それでも、白銀武を殺したいほど憎くて、香月夕呼を絶対に赦せはしなくて……それでも、そんな武たちもこの世界に「生きて」いて――ッ! 気がおかしくなりそうだった。どうすればいい。どうするべきなのか。そもそも、一体どうして自分はこんな世界に居るのだろう?

 鉄のままだとしても、白銀武を殺して自分が成り代わったとしても、この世界は変わらない。人類は相変わらず劣勢で、BETAの脅威はすぐそこまで迫っていて。勝ち目なんてなくて。それでも、一抹の希望だけは存在して……。そんな世界で、衛士として、生きて――死ぬ。死ぬ。死んでしまう。その事実は、覆せない。元の世界には返れない。どんな不運だったのかは知らない。知るわけがない。朝目が覚めて、家を出たらそこは異界だったのだ。わけもわからず紛れ込んでしまって、そこに自分の居場所はなくて……憎しみを抱き復讐を果たしても、それは、自らの手で自分が死ぬための席を捥ぎ取ることに等しく……。

 考えが纏まらない。このまま仮面をつけていてもいずれ死ぬ。鉄として、夕呼に利用されて、いずれ死ぬ。だってこの世界は現実だから。絶望が足元を這っている。自らの影に浸透して、じわじわと両脚を這い登ってくる。何をやっても無駄。元の世界に返れない以上、鉄のままだろうと、白銀武の存在を奪い取ろうと……この世界に居る限り――オレは。

「鉄少尉――」

「?!」

 耳朶に触れるような声に、一瞬、救われたような気持ちになる。優しく、落ち着いた声。この数ヶ月、常に傍にいてくれて、荒み、消耗していく心を支えてくれた年上のひと――ピアティフ。武の存在を知りながら、自分に打ち明けることのなかった裏切りの彼女。偽りの関係。全ては鉄が夕呼に従順であるように仕向けられた仮初。ただひたすらに哀しいという感情が沸き起こってくる。……そんな彼女が、じっとこちらを見ていた。

 笑顔、で。

 まるで鉄の存在を誇るような、美しい笑顔で。――どうして。どうして貴女は、そんな風に笑っているのか。自分がどういう存在なのかを知っていて、それを隠していて、利用して、裏切って!! ……なのにどうして、自分が恨んでいることなどとっくに知っているだろうに、どうして、そんな風に、誇らしげに……。

「ピアティフ、中尉……ッ」

 復讐しなければならない。そうでなければ、自分が生きる場所を手に入れられない。

 この世界は紛れもない現実で、生きている人たちがいて、死んでいく人たちがいて――そして、彼らは自分が鉄であることを望んでいて。

 自分も、いつか死ぬのだとようやく気づいた。この世界が現実ならば、いずれ来るBETAとの戦いは避けられず、付随する死もまた、付き纏う。

 そして、自分に不遇を強いた原因である白銀武もまた、生きて戦って……いつか死ぬ。

「…………」

 自分の中の憎悪が正しいのか否か。鉄にはわからなくなってしまった。あれだけ復讐するしかないと、二日間も暗い衝動を抱いていたというのに、たった一人の少女の言葉に、自身の在り方が揺さぶられている。あの少女は――覚悟を強要してきたのだ。この世界で生きる覚悟。きっと、そういうものを。復讐を果たすならばそれもいい。現状を受け入れるならそれでもいい。ただし、そのいずれも覚悟なくては成し得ない。この世界に生きる覚悟。この世界で死ぬ覚悟。

 この世界に今も生きる白銀武を憎しみから殺し、存在を奪い取ったその先――「生きて」いるニンゲンを「殺」し、それでも尚、「生きて」「死ぬ」覚悟を。

「……ッ、ぐ、」

 吐き気がする。膝が震えそうになる。自分は一体どうするべきなのか。その答えを得ることが出来ないまま、鉄は仮面を外した。この世界に来てからたった三人にしか見せたことのない素顔。……いや、最初に自分を捕まえた門衛を合わせれば、五人か。そんな下らない思考に逃げたのも、もうなにも考えたくなかったからだった。悠陽によって剥がされたのは無骨な《鉄仮面》だけではなかった。彼女は、たったこれだけの時間で、鉄――シロガネタケルという青年の、なにもかもを曝け出してしまったのだ。

 あまりにも、生きる覚悟の足りない己……というものを。

 鉄はピアティフを見た。彼女は、先程と変わらずに……誇らしげに見つめてくれていた。ならば今は、もう、それだけでいい。混乱した頭ではこれ以上何も考えられない。そういう諦めも手伝って、鉄は淡々とこの時が終わるのを待つだけだった。そなたに感謝を――そう言って、満足そうに頷いた悠陽の言葉を最後に、鉄は退室する。再びあの《鉄仮面》を嵌め、電子ロックを掛けられて……独思考を停止させたまま、能面のような表情のままで……監視を兼ねた四人の軍人に付き纏われたまま、“自分の部屋”に戻るのだった。



 そして、鉄は後悔する。

 このとき、今この瞬間に覚悟を決めなかったことを。悔恨の叫びとともに――痛烈に後悔することになる。







 ===







「夕呼――――ッッ!! アレは一体どういうことなのっ!!?」

 煌武院悠陽殿下との面会を終えた後、夕呼とまりもは何一つ言葉を交わさずにこの場所――B19フロアにある夕呼の執務室までやって来ていた。そして、開口一番がこれだ。まりもは夕呼の胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄り、満面に怒りを浮かべて声高に問い質す。アレはどういうことか。……そう、つまり、鉄の正体について、だ。

 まりもは今日初めてホンモノの鉄を眼にし、少ない言葉を交わし、肉声を聞き、そして素顔を見た。背格好が似ていると思った。声がそっくりだと思った。……ここまでは、いい。百歩譲って、いいとしよう。だが、それまでだった。顔を見た瞬間に、驚きよりも何よりも、恐怖に足が竦みそうになった。似ているなんて言葉では表せない。そんな言葉は的確ではない。アレは、「同じ顔」というのだ。

 御剣冥夜と煌武院悠陽が似ているというのとはまるで違う。彼女たちは一卵性双生児で、故に似ているのだが……鉄の顔は、その顔は、まりもの部下であり教え子でもあった白銀武のその顔と、「全く同じ」だったのだ。歴戦の勇士にして狂犬の異名を持つまりもが、慄くほどに。双子なんていう定義で括られるものではない。間近で入念に見たわけではないが、直感として理解していた。鉄と武は、同一人物なのだ。“同じニンゲン”なのだ。――在り得ないことに。

 だが、そんな在り得ないことが在り得てしまったのだから……尋ねずにはいられない。アレはどういうことなのか。一体鉄は何者なのか。

「……あんただってわかってんでしょう? 自分で答えを得ているくせに、それを信じられないの?」

「そっ、そんなことを聞いているんじゃないでしょう!?」

 優秀な軍人であるはずのまりもが、これほどに取り乱す様を……夕呼は、酷薄な表情で見つめている。普段ならそんなまりもをからかうくらいのことを仕出かす夕呼が、罵声の如きまりもの糾弾をあるがままに受け入れている。その彼女の態度が、余計にまりもをいらつかせたのだが……そうしてようやく、まりもは自身を落ち着けるよう心掛けた。如何に親友同士とはいえ、夕呼は自分の上官である。軍人としての上下関係に頓着しない夕呼だが、それに甘んじるわけにもいかない。

 既に十分失態を犯していたが、優秀すぎるまりもは自身の感情を押し殺すことなど造作もなく、完璧な仕草で非礼を詫びた。……それが恐らく、最も夕呼を傷つけると知りながら。案の定、夕呼は面白くなさそうに鼻を鳴らす。感情的になり過ぎたようだった。自省しながら、まりもは先程胸に誓った言葉を思い出す。――例えこの先何が起ころうとも、夕呼がどれだけの非道を行おうとも……決して、彼女を裏切ることはしない。

 そうだ。ずっとそうしてきた。そして今日、改めてそう誓ったのだ。鉄が何者だったのだとしても、自分は、絶対に夕呼を裏切らない。……ただ、その誓いを一時でも忘れさせるくらいに、彼の正体は衝撃的だった。現実的に考えて、同一人物が存在するなんて在り得ない。どこかの寓話にドッペルゲンガーなどという存在があるそうだが、まさかそうだとでも言うつもりか。無言のまま下らない思考を巡らせて、そういえば鉄のコールナンバーが“ドッペル1”などというふざけたものだったことを思い出す。

 まさか、本当にそういう揶揄を込めた名称だったのだろうか。もう一人の白銀武。ドッペルのお化け。……。

「ま、鉄の正体は見てのとおりよ。あいつはシロガネタケル。正真正銘のね」

 言葉がない。夕呼の口からハッキリと“そうだ”と言われて、まりもは頭の中が真っ白になりそうだった。武は夕呼の研究のために脳を改造され、身体を強化されたという。その副作用のために脳に負担が掛かり、遠くない未来、その命を落とすという。……そんな武と同じニンゲンが、もう一人、いて……。

「白銀は役に立ったわ。アイツの並外れた戦術機適性の解析データと、強化によって得られたデータ……。時期主力となる衛士育成に大いに役立ってくれるでしょうね。でもま、アイツはやりすぎちゃったからもうすぐ死んじゃうんだけど、――勿体ないでしょ?」

 夕呼は、何を言っているのだろうか。

「丁度こっちの研究で使った擬似生体技術の実験にもなったし、遺伝子情報の複製実験はまだまだ研究と実験が必要なのよねぇ」

 目の前の上官は何を言っているのだろうか。

「……まぁ、何が悪かったのか出来たのは四六時中異世界の夢を見てるような変態だったわけだけど、そのおかげでXM3なんて代物も出来たわけだし」

 彼女は、親友は、一体、何を……。

「精神情報のクローンなんて早々巧くいくとは思ってなかったけど、やってみると意外に――」

「もう――っ、やめて!!」

 へらへらと薄笑いさえ浮かべながら「鉄の正体」を語る夕呼に、まりもは俯いたまま叫んでいた。聞きたくない。そんなことは。そんな……自分を嘲るような、自身の非道を謗るような声音で……誰にも断罪されない自分を傷つけるのは、……もう。

「貴女は……私の親友だもの。私は貴女を信じているわ……夕呼、だから……お願いよ。もう、やめて…………」

「…………」

 本当に、そんなことが、AL4の目指す未来なのか……。それが、00ユニットの完成に必要なことなのか。真実が見えない。夕呼の真意が窺えない。目の前が真っ暗になりそうだ。進むべき標を見失いそうになる。

 でも。それでも……。まりもは夕呼を裏切らない。自分は夕呼を信じている。ニンゲンを作る。擬似生体のカラダ。複製された精神。……そんなものが、00ユニットの前段だというのなら。そして、AL4がAL3の成果を接収し、発展させようとしているなら……真の00ユニットとは――つまり、……………………。

 まりもは頭を振る。そんなことは、知らなくていい。考えなくていい。大切なのは、誤ってはいけないのは、一つだけだ。

 香月夕呼は人類を救うために必死で頑張っている。

 神宮司まりもは、そんな夕呼の苦悩と涙を知っていて、そんな彼女の力になりたいと心底思っている。――だから、それだけでいい。夕呼を信じる。夕呼は間違ってなどいない。そのために必要な犠牲者が武で、彼に行った非道が鉄を作り出す成果を生み、XM3を、『概念戦闘機動』を完成させ……00ユニット完成に近づくというのなら。それは、絶対に、必要で、間違いなんかじゃなくて、夕呼が、自身を責め苛むことではないのだ。

 断罪を求めて自嘲することなど、あってはならない。夕呼の罪を裁けるものなど在りはしない。それを罪と呼ぶならば、それは――彼女が途中で何もかもを投げ捨てた時だ。まだ、夕呼はその背に負った罪深き業を擲ってなどいない。しっかりと背負ったまま、不敵に前を睨みつけているではないか。だから、こんな風に、まりもに罪を曝け出す必要などない。まりもを怒らせて、断じられようなどと……そんな甘い考えは必要ない。通用しない。

 何故なら、まりもは夕呼の親友なのだから。

「……、少し、休むわ」

 無表情のまま視線を逸らした夕呼は、ポツリと漏らして椅子に腰掛ける。まりもは夕呼に敬礼して背を向け、執務室を後にした。



 静かに閉まるドアを見やって、夕呼は深い溜息をついた。――まったく、要らぬ気を遣ってしまったものだ。直後、脳裏を過ぎったのは悠陽の顔だった。たった一度の邂逅で夕呼の価値観を変えた少女。彼女の存在が、夕呼の中の何かを刺激したことは間違いない。

 鉄の正体をまりもに知られてしまったが、彼女が優秀な軍人であることを理解している夕呼は、そこからA-01内へ情報が漏れることなど在り得ないとわかりきっていた。……が、流石に今回ばかりは機密の一点張りでまりもの糾弾を退けることも難しく、また、悠陽によって思い知らされた自身のあまりの薄汚さに嫌気がさしたというのもある。

 次いで、鉄や武に抱いていた拭いようのない小さな罪の意識が加わって、あんな嘘出鱈目を騙ることになったのだが……その内容の迂闊さに自分でも呆れてしまう。勘のいいまりものことだから、あの話から00ユニット完成のために少なくともニンゲンを複製しようとしていることには気づいただろう。もっとも、正真正銘のニンゲンかと言うとそうではないのだが……いや、それはどうでもいい。

 けれど、丁度よいことでもある。どうせ、武が死んだ後は鉄にも前線に立ってもらおうと思っていたのだ。XM3は既に完成しているし、『概念戦闘機動』はまりもがマニュアル化してくれている。斯衛にもデータを提供し、既に実戦も終えた。XM3が世界中に普及するために必要な段階はすべてクリアしたといっていい。となると、鉄の存在はその天才的な発想で人類を救済する一つの希望を打ち立てた英雄として祀られるに相応しいものとなる。

 人は、目に見える希望に心酔したがる。悠陽のようなカリスマを持つもの、XM3のようにBETAに対抗し得る兵器。民にとっての希望が前者なら、衛士にとっての希望が後者だろう。そういう意味でも、鉄が前線に立つことは、共に戦うものたちを少なからず刺激する。……たった一人の存在が、世界を動かすのだ。ならば、鉄は真実、英雄として偶像化されるべきだ。

 その身に負った因果の究明こそが00ユニット完成の糸口に繋がるはずだ見当をつけてもいるので、そのいずれもをこなしてもらう必要はあるが、因果の究明については夕呼がこれまで同様死に物狂いになればよいことなので問題ない。……となると、鉄には戦場で無様を晒さぬよう、或いは簡単に命を落とさぬよう鍛えぬく必要があるが……これはまりもに任せれば問題ないだろう。なにしろ、今回口から出任せとはいえ、「鉄の正体」なるものを吹き込んだのだ。教え子思いであり、部下を愛する彼女なら、異世界からきた軟弱な鉄でも真っ当な英雄に仕立ててくれることだろう。

 そう考えればこの展開も悪くないのだと思える。悠陽によって若干乱された精神状態も落ち着いてきて、いつもの調子が戻ってきた。不敵に唇の端を吊り上げると、夕呼は早速午後からの慰霊式典のためにピアティフへ連絡を取った。最終調整は既に終えていて、あとは“これからやってくるはずの”、将軍殿下を出迎える準備をするだけだ。呼び出しに応じたピアティフにA-01への指示を伝える。そうして、夕呼は席を立った。

 その表情に憂いはなく。その姿勢に迷いはなく。執務室を後にするその背中に、一切の罪の意識も翳りもなく――――そうして夕呼は、







 直に死ぬ白銀武という存在のことなど、これからの一切に関係しない些事として……知らぬ間に、整理して、片付けていた。







[1154] 守護者編:[五章-02]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:c760b461
Date: 2009/02/11 00:26


『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』



「守護者編:五章-02」






 真那が言っていたことは本当に冗談だったのだと知って、武はほっと息をついた。実はほんのちょっとだけ本当に自分用の武御雷が用意されていたらどうしようなどと戯けたことを考えていたのである。勿論、誰にも言っていないので「そんな莫迦な話があるか」とからかわれずに済んでいる。斯衛一個大隊という大仰な護衛を引き連れてやってきた将軍殿下の警護任務……というよりは外部組織によるテロリズムに対しての警戒任務を無事終え、武たちA-01部隊は格納庫にて一息ついていた。

 正直、あの斯衛の最精鋭部隊――しかも構成されている殆どが赤に塗られた機体を駆り、山吹色、白と、武家出身者のみで編成されていた――を護衛する必要などあるのかと疑問にも思ったが、一国の主に等しい賓客を迎えるのだから、こちらとしても相応の出迎えをしなければならない、ということなのだろう。その辺りの偉い人物の対面については一切興味もなかったので、何事もなく良かったと思うことにしていた。

 そんな武は一時的に帝国斯衛軍に宛がわれることになった格納庫で、真那と共に、やってきた武御雷の群れを見上げている。真那の真紅の機体や巽たちの白い武御雷を見慣れていたので表向きは平然としたものだったが、実際は警護任務の最中から昂奮し通しだったりする。総勢三十六機。これだけの数の武御雷が整然と並ぶ光景はなかなかお目にかかれない。先日の『甲21号作戦』にも斯衛軍は参加していたが、武たちが戦場に躍り出た時には既に混戦を越えた地獄のような有り様だったので、周りを気にしている余裕などなかった。

 精鋭中の精鋭、煌武院悠陽殿下を守護する帝国最強の斯衛。そんな選び抜かれた超人たちだけに駆ることを許された尖鋭なる機体は、日本人であるならば一度は乗ってみたいと思わせる魅力を持っている。武の心中に歳相応の昂奮が満ちているのもそのためだ。……もっとも、これで真那が「アレが貴様の機体だ」などと大真面目に言おうものなら腰を抜かして叫ぶのだろうが。本当に、それだけは冗談であってくれてよかった。

 別に真那の夫となることが厭なわけではないが――いや、自分には茜と純夏という愛しい存在が居るので勿論困るのだが――命惜しさに横浜基地から離れるつもりはない。真那ならば、例えば茜を連れて行くという選択も許容してくれるかもしれないが、純夏はこの基地から動くことなど出来ない。彼女を護るために生きているのだから、茜も純夏も置いていくわけには行かないのだ。

 ここに武の機体が運ばれていて、問答無用に斯衛に入隊でもされられてしまえば、武如きが足掻いたところで国連軍に戻ることなど不可能だろう。……しかも、性質の悪いことに夕呼ならば面白そうの一言でことを済ませかねない。いや、彼女にとって武は最早ただの衛士としての価値しかないので、そんなからかいすらなく国連軍から除籍される可能性もあった。だから、本当の本当に、冗談で助かったのである。

 ずらりと並ぶ武御雷を見上げていると、まるでここが国連軍の基地であることを忘れそうになる。見慣れた格納庫も搬入される機体が異なるだけでこうも雰囲気が変わるものかと、武は不思議な気持ちになった。機体に取り付く整備班も、随伴してきた整備士たちで編成されている。国連の人間を信用していないわけではないのだろうが、そこは斯衛の機体である。やんごとなき身分の方々が乗る機体なので、粗相は許されないということだろう。……そういえば真那たちの機体も共に出向して来ている専属のスタッフが整備していたことを思い出しながら、武は隣りに立つ師を見つめた。

 警護任務から帰還した武を真那が出迎え――今回、斯衛軍第19独立遊撃小隊は出動せず、基地内待機だった――そのまま休憩となった武を連れてここまでやって来たのである。これという目的を聞かされていなかったため、まさかあの話は本気だったのかと恐ろしくなったわけだが、恐々と尋ねた武に小さく笑いながら冗談だと言ってくれたので安心できた、というわけだった。

 誰か知り合いでも居るのかもしれないとぼんやり見つめていると、不意に真那と目が合った。見ていたことを気づかれて、咄嗟に目を逸らしたのだが、それが逆に真那のなにかをくすぐったらしい。からかうような口調で、真那が声を掛けてくる。

「くく、どうした? 何か私の顔についていたか?」

「ち、違いますよ。熱心に見上げていましたから、誰か知っている人でも乗っているのかと思ったんです」

 背は武の方が若干高いのだが、それだけだった。年齢も経験も全く及ばない武は、矢張り師匠の前ではまだまだ未熟な子供なのだ。美しい顔のまま艶然と唇を吊り上げる真那の笑顔は卑怯だった。悔しいが、赤面してしまう。茜は可愛いし、水月だって相当な美人なのだが、真那のそれはまた別の美しさ――品があるというのか、とにかく、武はこの笑顔だけは慣れることなど出来そうもない。故に、それを知っていてからかってくる真那は卑怯なのである。

 以前はこんな風にからかってくるようなことはなかったのだが、真那が夕呼付の直属部隊に出向してきて以来、こういうことが多くなった。大半は水月を挑発して遊んでいたようなのだが――それだけでも十二分に驚くべきことだったが――二日前の“アレ”以降、なんというか、妙に艶かしく感じるのは気のせいではないだろう。真那にそのつもりがあるのかはどうかは知らないが、彼女のような顔もプロポーションも完璧な女性がそんなからかいをしていては、勘違いする輩が出てもおかしくはない。……勿論、武は勘違いするつもりも出来心から間違いを犯すつもりもないので大丈夫だ……と、自分に言い聞かせている。

 心に決めた女性が居るにも関わらず、気を抜けばその魅力に惹かれてしまいそうになるのだ。流石は師匠、と恐れればいいのだろうか。武は誤魔化すように頭を掻く。それを見た真那が可笑しそうに笑うのだが、それが余計に恥ずかしかった。

「なぁ~に雰囲気作ってんのよぉ!? この莫迦! 浮気者っ!!」

「ぅぉお?! い、いつの間にそこに居たんだ!?」

 唐突に真那とは反対側からにょきっと生えてきた茜に仰け反るほど驚いた武は、しかしそのとき既に地雷を踏んでいた。武としては純粋な驚きを口にしただけだったのだが、実は茜は最初から居たのである。それこそ、真那が武に声を掛けたそのときから。特に何を言うでもなく武の後をついて歩き、その後もずぅっと一緒だったのである。……単に、武が背後を振り返らなかっただけで。武を出迎えた真那は当然そのことを知っていて、武が茜に気づいていないことも、茜が武に気づかれていないとは思いもしないことも承知していながら、敢えて指摘せず、武をからかったのだ。

 この辺り、午前中に冥夜をからかった頃から、真那の中で新たな嗜好が育まれていたのは間違いない。好ましい相手が自分の手の平の上で転がるのはなんとも微笑ましく好ましいと思える。真那は存分に笑いを噛み締め、初々しい恋人たちを見守り、武から責めるような目を向けられてしまっていた。

「ひ、ひどいじゃないですか師匠ッ!? 知ってたなら教えてくれたって!!」

「涼宮の気配に気づかなかった自分の未熟を棚に上げて“ひどい”だと? 偉くなったものだなぁ武」

「うぐ!」

 怒りの波動を発している茜にびくびくと脅えながら、思わず師を非難した武だったが、満面の笑みを浮かべた真那に容赦なく切り捨てられ、ぐうの音も出ない。

「武は私が傍にいても気づかないんだ……うう、ぐす……っ」

「なっ!? いや違う! 茜ッ!」

 そんな武に追い討ちを掛けるように茜が泣き出したが……誰がどう見ても嘘泣きである。しかもかなり適当だ。動転しているせいか、武は慌てて茜を宥めようと声を掛け……ようとするものの、なんといっていいのかわからないようで、おろおろとするばかり。我が弟子ながら情けないが、からかった手前フォローを入れようとした瞬間、真那の目の前で、あろうことか莫迦弟子は茜を思い切り抱き締めていた。

「ごめん、茜! ……でも、聞いてくれ。俺にとって茜は傍にいるのが当たり前になってたんだ。傍にいてくれることが当たり前になってた。……でも、それに甘えてたんだな。ごめん。俺は茜のこと好きだから、だから、ちゃんと茜をいつも感じていられるようにする。もうお前に寂しい思いなんてさせない」

「「…………」」

 力強く抱き締められ、耳元でそんな言葉を掛けられた茜は、耳まで真っ赤に茹で上がっている。泣き真似に慌てた武をからかうつもりだったのだろうが、今回はそれが裏目にでたらしい。……もっとも、茜の表情を見る限りまんざらでもない――どころか、色々と満たされてしまったらしい。彼女と同じく言葉をなくしてしまった真那だが、弟子のそんな姿を見せられてしまえば、下手に声を掛けるわけにもいかず気を遣ってしまって大変やりにくい。――というか、周りに気を遣え莫迦者。

 このご時勢、男女の仲はかなり大らかで、子作りなどはむしろ奨励されているが、だからと言って日本という国柄からすれば、目の前の武たちはかなり刺激的に映るようだ。整備している者の中にも最近の若い者はという視線を向けてくる人物はいるようで、真那としてもなんだかムカついてしょうがない。これで水月でもいればことは簡単なのだが、すっぱりと振られている手前、真那には二人を離れさせることが難しい。

 恋路を邪魔して馬に蹴られたくもないが、振られていながら恋慕するのも違うように思う。暫しそんな思考を巡らせて、真那は一つの結論に至る。なんだか腹に据えかねるのは事実なので、とりあえず武の耳を引っ張った。弟子が往来で不埒な真似をしているのだ。それを正しく指導するのは師の役目であろう。うむ。と誰にでもなく頷いて、真那は武の耳を掴んだまま足を払う。ちゃんと倒れる瞬間に手を放してやったのだが、武は耳が千切れたかのような痛みに床をのた打ち回った。

「ッッッッッッッッッッ!!!!???!?!?!?!?!」

「た、武っ、あわわ、わぁわぁ!?」

 多分痛すぎて声にならないのだろう。手を放すのが少し遅かったらしい。あまりに激しくもんどりうつので、茜が軽くパニックになってしまっていた。……これだけのやりとりを見ていれば武も茜も横浜基地最強の部隊、A-01に属している衛士には見えない――し、真那も赤を纏うような斯衛には見えなかったが――その存在を知る者からすれば、余計にそのように見えないので救えない。

 莫迦をやっているようにしか見えないその三人を盛大に溜息をつきながら眺めた月詠真耶は、“いとこ”の随分な変わりように驚けばいいのか呆れればいいのか判断に迷いながらも、とりあえず声を掛けることにした。血の繋がったいとこ同士、嫌っているわけでも苦手としているわけでもない。ただ、自分は悠陽に仕え、真那は冥夜に仕えたというだけの違いでしかない。そこには身分の違いこそあれ、立場的な差異はないはずだ。……真耶は、自身にそう言い聞かせている。

「随分と変わったものだな。……国連の空気に染まったか? 真那」

「む……真耶か。こうして顔を合わせるのも随分久しぶりだな。息災なようでなによりだ」

 それはそちらもだろうと真耶は小さく笑い、それで、と視線を足元に落とす。ひとしきり痛みに悶え終えた武は床に膝をついて右耳を抑えている。目尻に涙を浮かべているので、多分本当に痛かったのだろう。茜も落ち着きを取り戻したのか、真っ赤になってしまった武の耳を同情するように撫でていた。ちらりと真那を恨めしげに見上げたのだが、当の本人はどこ吹く風で、真耶からも呆れたような視線を向けられていた。

「……貴様、本当に真那か?」

「本人だ。……まぁ、変わったと言われても仕方がないかもしれんが……」

 まじまじと見つめてくる真耶に苦笑するように肩を竦める。真那は、答えながら武たちを見て微笑み、訝しむ真耶に笑って言った。

「愛する者を持つと、女は変わるというのはどうも本当らしいな。自分でも驚いている。――だが、それは心地よい変化だ」

 にこりと笑う真那に、武と茜は真っ赤になった。なんとも恥ずかしい台詞を臆面もなく言ってのける胆力には感心するが、それが自分のことを指しているとなれば、最早冷静ではいられない。武は気恥ずかしさと嬉しさに頬を染めたが、同時に申し訳なさも感じている。脳だけで生きる純夏を愛し、隣りに居てくれる茜を愛するからこそ、真那の想いは受け取れないのだ。……それは、もう結論の出たことでもあるし、真那も承知している。――けれど、だからそれで冷静さを取り戻せるほど大人でもなく、経験もないわけで。武は勝手に高鳴ってしまう鼓動を茜に悟られないかと焦った。

 茜は真那の女性としての美しさと強さを感じ取り、それは自分にはない気高さだと気づき、心酔した。同性に惚れる、というよりも憧れを抱くのはこれが二度目だ。一人目は水月。目標に向かって真っ直ぐ生きる彼女の在り方、物事の捉え方、感じ方に尊敬を抱き、彼女のようになりたいと願いここまできた。そんな水月と肩を並べて戦えるようになり、自分の目標を達成しつつあった茜は、ここでもう一人、目指すべき目標を得られた幸運に感謝する。衛士としても女性としても完成された強さを見せる真那に、茜は気づいたのだった。

 そんないとこの変貌振りを見て、変われば変わるものだと真耶は納得し、目の前の真那が幸せそうなのだと理解して、ならばよいと頷く。その後二人は互いの近況を伝え合い、武たちにはわからない話で盛り上がっているようだった。周りを見れば搬入された武御雷から続々と斯衛の衛士たちが降りてきて、あっという間にその場が斯衛で埋め尽くされてしまう。自分たちが場違い甚だしいことを感じた武は茜を連れて集団から距離をとりつつ、一体真那はどうして自分たちを連れてきたのかと首を捻る。

「すげぇな……。斯衛の赤がこれだけ揃う光景は、なかなかお目にかかれないぜ……」

「う、うん。なんだか迫力が違うって言うか……」

 零式強化装備を纏う斯衛たちは、皆が皆、その表情に鋭い何かを秘めていた。それは気迫であったり信念であったり、強者としての風格や威厳、とにかくそういう堅苦しいまでの気配に満ちていて、国連軍衛士とはあまりに異なる気質に、武と茜は困惑するしかない。……いや、正直に言えばちょっと怯えていた。二人の中での斯衛の基準が真那とその部下三人だったので、どうやら勘違いをしていたらしい。特に武は真那と師弟関係にあったために、いつの間にか師としての真那と斯衛としての彼女を混同して考えてしまっていた。

 真那、或いは巽たち三人がこの横浜基地で過ごす間、その内面に何某かの変化があったのは間違いないことで、特に真那はそれが顕著に表れている。その変化は真那自身がそれでよいと受け入れたことであるから特に問題はないのだが、矢張りそれを基準と捉えていた武たちには、目の前を往来する斯衛たちとのギャップは相当なものだった。

 衛士としての覚悟。その胸に抱く理想。仲間の意思を魂を継ぐ姿勢。そういう部分はひけをとらないし負けるつもりもないが、なんというか、平時において尚武人たらんとする高潔さは、堅苦しいというか息苦しく感じてしまう武たちである。斯衛たちはどうやら思い思いにリラックスしているらしいのだが、見ていて、全然そんな風に見えない。視線を真那に移せば、彼女と話している女性衛士は若干柔らかそうに見えるものの、それでも、張り詰めたような緊張感が窺える。……別に、真那が弛緩しているとかそういう意味ではない。

 国柄、といってしまえばそれまでだが、斯衛とは矢張り、そういう“武”の精神が強いのだろう。以前本気で真那に殺されかかったときのことを思い出し、武はぶるぶると震えた。

「武、なにをしている」

「えっ?」

 名を呼ばれ、小さく驚く武。見れば真那がこっちへ来いと視線で命じていた。隣りには先程のマヤという名の女性が居る。話の途中なのではないのだろうかとも思ったが、上官に呼ばれては仕方ない。武と茜は一度互いの顔を見合わせて、真那のもとに戻った。

「月詠中尉、何か御用でしょうか」

「うむ。貴様を紹介しようと思ってな。――真耶、この者が我が剣術を受け継いだ、白銀武少尉だ」

 やってきた武を、真那は屈託なく紹介する。斯衛相手にそんな風に紹介されたことを驚く武だったが、それ以上に、目の前の女性衛士の様子が妙だ。武の腰に提げられた弧月を見て一瞬懐かしむような瞳をし、それでいて、歯痒いような、そんな葛藤を感じさせたのだ。それは茜も感じ取ったのだが、この話題に関しては部外者である彼女は大人しく口を噤んでいる。真那は自慢の弟子を披露できたことが嬉しいのか、大層機嫌が良さそうであり、武も、そんな師の笑顔を見れたことが嬉しいと思える。

 ――直にその命が果てると知りながら、二人は、今この瞬間を大切にしたかったのだ。

「そうか。……本当に、そうなのだな。白銀少尉とやら。――どうか、叔父上の剣術を誇ってくれ。伝統とは家の名誉であり、揺ぎ無き寄る辺だ。……そこから外れようとした叔父上を、私たちは味方することさえ許されなかった。その無念、そなたが晴らしてくれるというなら、これほど喜ばしいことはない」

 感謝する――。そういって小さく頭を下げた真耶に、武は驚愕した。叔父と言った。伝統から外れようとした彼を味方できなかったと……そう言った。ならば、この女性衛士は真那の親類であり、真那同様に、一族から悪し様に罵られ無念の内に亡くなった“師匠”を知っているのだ。その哀しみを、空しさを、知っている。

 真那は父の姿を思い出すように遠くを見つめ、真耶は武をしっかりと見つめた。……武は、今またこれほどに深い想いを受け取ったことを喜ばしいと思う。月詠の剣術。それは、何よりも武を支えてくれた、彼にとっての半身そのものであった。死に行く身にはあまりある謝意に、武は痺れるような感情を手にしていた。気づけば、武は真耶に対して敬礼していた。何故そうしたのかは思い出せない。……ただ、彼女も真那と同じなのだと知って、受け取った想いに応えようと体が反応したのかもしれなかった。

「――ありがとうございます。師匠の想いに恥じぬよう、精進いたす所存です」

「ああ、頼もしい限りだな」

 宣誓するかのような武に、真耶は満足そうに頷く。そうして彼女は真那へ別れを告げ、去っていった。真那もまた武たちに声を掛け自分たちの格納庫へと引き上げる。……道中、武は真那の配慮に感謝せずにはいられなかった。……本当に、真那にはもらってばかりだ。水月にも、茜にも。信愛する彼女たちに何か一つでも返せるだろうか。そう考えて、最期まで精一杯に生きることだと、頷く。

 そんな武の背中を追いながら、茜は一抹の寂しさを覚えていた。身も心も繋がりを得た茜だが、真那と武の間に存在する師弟の絆には割って入れない。それに嫉妬するわけではないのだが、見ていて感動してしまうくらいには、二人の在り方は羨ましかった。自分も武とは恋人として、戦友として、誰にも負けない絆を培っているつもりだが……いや、そういうものを比較すること自体、間違っているのかもしれない。

 真那が武のことを想っているのは本当だろうし、武も彼女のことを信愛している。それは恋愛感情とは違うのだと理解していても、なかなかそれだけで割り切れないのも事実。乙女心は複雑なのだ。……ふと、思う。こんな時、晴子が居てくれたなら――彼女はきっと、笑いながら茜の相談に乗ってくれたのだろう。もっと自信持ちなよ――そうやって、背中を押してくれるだろうか。それを薫が囃し立て、多恵と亮子が混ざる。

 姦しくも、楽しい時間。いつも五人で居た、あの頃を想う……。帝国・国連合同の慰霊式典は、もうじき開催の時間を迎えようとしていた。







 ===







 壇上には神々しくも物悲しい想いを引き立たせる礼服を纏った悠陽が立ち、居並ぶ衛士たちに向けて、先の戦闘で喪われた多くの将兵に向けて、感謝の意を述べていた。白く美しい指先が虚空を舞うように差し出される。冬の冷え切った大気に浸透するかのような声音は、耳朶に染み、心震わせる。両脇には国連軍の不知火と斯衛軍の武御雷が整然と並び、夕陽に染まり行く空が、神代の儀式を思わせる。その幻想的な光景は、世界中に発信されていた。

 『甲21号作戦』で喪われた全ての将兵、そして、今日このときまでに喪われた全ての英霊を祀る目的で執り行われているこの慰霊式典は、先の作戦さながらに、世界中の注目を集めている。式典の開催を決定した悠陽にそのような思惑はなかったのだが、この式典は、ある意味、世界を動かすほどの効果をもたらすだろう。

 人類に希望を見せ付けた『甲21号作戦』。そして、人類に誇りを抱かせるこの式典。――日本は、世界の中心となり得る影響力を持とうとしていた。

 もちろん、それを見越して世界中の報道機関に渡りをつけたのは夕呼である。この辺り、悠陽の思惑とは異なる部分でその影響力――カリスマを都合よく利用しているのだが、夕呼はそれを罪悪とは思っていない。彼女はなんとしてでもAL4を成功させなければならないし、そのためには日本が力を持つことも必要だ。AL4を提唱した日本が世界中に影響力を持つようになれば、それだけ、AL4は磐石となるのだから。

 勿論、トライアル以前からの焦りが夕呼をこのような手段に走らせていることは間違いない事実だが、そうでもしなければAL4は斃れてしまいかねない。今はまだXM3によって首の皮が繋がっているだけに過ぎず、いつ、AL5に取って代わられるかわからないのである。……そう、国連上層部が『G弾』の使用を認めてしまえば、最終的な成果を見ないAL4より、『G弾』とXM3を併用した戦略の方が遥かに有効で、即効性があるのだから。

 いわばこれは、そうさせないための苦肉の策であり、世界各地の政治家からはあからさまな宣伝行為だと判じられることとなる。……もっとも、最前線で戦い続ける衛士たち、護られるだけの民間人たちにはそうは映らない。民を想い、民を愛し、誇り高く散って逝った数多の英霊を讃え慰める悠陽の姿は、神々しく、美しい。彼女の言葉は不思議と胸に滑り込み、温かな感情を沸き立たせる。ある者は戦場に散った父を思い出し、兄弟を想い、喪われた戦友を想う。恋人を、隣人を、家族を喪った人々は、涙を零し、去来する感情に奮える。

 生きて、己を生きた全てのひとよ。

 そして死に行き、英霊へと昇華した魂よ。

 その全てに感謝を。気高く誇り高き数多の生命よ――。

 彼ら全ての想いを受け継ぎ、胸に抱き、血潮奮わせよ。



 不知火の管制ユニットの中で、武は厳かに紡がれる悠陽の言葉に、知らず、泣いていた。胸が詰まる。涙が止まらない。とめどなく湧き上がる感情は、ただ、戦友たちの思い出に濡れていて。

 頬を伝う涙を拭ったその指が、触れる。武は目を見張った。そこには――幻覚か――上川志乃が笑っていて、武の指を、掌を、握っている。ぁ、と息が漏れそうになる武に、志乃は頷く。彼女は振り返り武に背中を向けて……そうして、その先には、亜季が、藍子が、木野下が、旭が、慶子が待っていて――背中を二度、叩かれる感触。武の両脇を走り抜ける二人の少女。その後姿に、胸が詰まる。

「柏木、立石――ッ、」

 思わず声に出してしまった武に、彼女たちは可笑しそうに、楽しそうに笑って、振り向いて……………………、

 武は、目を開いた。

 幻覚か、幻想か。或いは一瞬眠ってしまって、垣間見た幸せな夢か。目に映るのはモニター越しの悠陽の姿。赤く燃え盛る太陽は緩やかに地平へ吸い込まれようとしていた。その切ないくらいの輝きが、彼ら衛士の心を慰め、誇りを抱かせる。――生きる。ただそれだけの決意を、心の底から、誓う。

 不意にヴァルキリーズの隊規が過ぎった。死力を尽くして任務に当たれ。生ある限り最善を尽くせ。決して犬死するな。先に逝った彼女たちは皆、素晴らしかった。彼女たちの犠牲が在ったからこそ、自分は今ここに生きていられる。幻覚でもなんだって構わない。死ぬ前にもう一度志乃たちに会わせてくれた神様に、武は感謝したい気持ちだった。



 だからこそ、次の瞬間耳に届いた凶報に。

 鳴り響く警報と悲鳴じみた管制からの指示に。

 武は、狂おしいほどの怒りを覚えるのだった。







 ===







 地表をぶち抜いて姿を現すのは突撃級。冬の太陽はとうに沈み、深淵から滲み出るように。異形は大気を轟かせながら迫り群れる。その見慣れた異形を目視で確認して、第1戦術機甲大隊長は静かに宣言する。

「全員見ろ。アレが俺たちを蹂躙するクソッタレBETAのツラだ。アレが俺たちの基地を破壊するファッキンBETAの豚顔だ。野郎共準備はいいか? 俺たちの役目はあのクソッタレ共の足止めだ。間違っても全滅させようとか殲滅してやろうなんて欲を掻くな。役割以上を果たす必要はない。……前にしか走れない突撃級には目もくれるな。悪食の戦車級が邪魔なら踏み潰していい。蟻んこの小型種なんざ相手にするな。俺たちが平らげていいのは要撃級からだ。足の遅いどん亀共を手当たり次第に食い尽くせ。劣化ウラン弾のご馳走をたらふく食わせてやれ。的は勝手にやってくるんだ。遠慮するな。武器弾薬全てを使い切って殺せ。何人死のうが何匹散らそうが気にするな。――蹴散らせ。俺たちの乗っている機体はなんだ? 俺たちの機体に積まれているお宝はなんだ? 佐渡島で暴れまくった帝国軍を見たヤツはいるか? ハイヴの穴倉に潜って反応炉をぶち壊した連中を見たヤツは? 俺たちのOSはなんだ? そうだチキン野郎。XM3。《鉄仮面》の変態が作り上げた最強のOSだ。人類の宝だ。――全員見ろ。アレが俺たち“が”蹂躙するクソッタレBETAのツラだ。 アレが俺たちの基地を破壊“出来ない”ファッキンBETAの豚顔だ。オーケーいい面構えだ野郎共。各員戦闘準備。逸りすぎて喰われるなよ? 喰うのは俺たちだ。蹴散らすのは俺たちだ。帝国が見せた奇跡は奇跡なんかじゃない。鋼鉄の戦乙女が起こしたのは奇蹟なんかじゃねぇ。さぁ行くぞテメェたち。国連最強の部隊は俺たちだってことを、連中に心ゆくまで刻み付けてやれ!」

 それは緩やかな昂奮だった。いや……隊長の号令の直後に爆発する、高性能の爆弾の如き昂揚だった。

 横浜基地と県境の帝国軍部隊の砲撃が空を走る。更には東京湾に展開する帝国海軍の支援砲撃も加わり、夜空を赤く染めていった。その軌跡を目で追いながら、第一防衛線に配置された第1、第2戦術機甲大隊は続々とやって来る突撃級の一陣を手はずどおりに跳躍してかわし、続く第二陣も同様に回避する。XM3が配備され、同時にまりもによってマニュアル化された『概念戦闘機動』を徹底的に叩き込んだ彼らの動きは洗練されていて、実に無駄がない。

 突撃級だけを見ても数千は下らない。長期戦になるのは必至であり、物量で完全に負けている彼らは個々に求められる役割を命を懸けて果たすしかない。迫り来る膨大な敵の姿に恐怖するものも居ただろう。跳躍回避しながらもいつ光線級が現れるか気が気でないものも居ただろう。だが、彼らは突撃級に対して使用していい装備など何一つ持っていないのだ。許されたのは、やり過ごすことだけ。そして――土煙を噴き上げて躍り出る要撃級共を喰い散らかすことだけ。

 突撃級の第三陣に混じって姿を見せ始めた要撃級を、即座に撃ち殺す。一定の距離を保ちつつ、連中が一定数量になるまで引き付ける。殺せるだけ殺しながら、詰められた分だけ距離を開け、突撃級をかわす。そうしてあらかた突撃級が走り去った頃合に、数えるのも莫迦らしいほどの要撃級、戦車級の混成集団が出現。小型種も見渡す限りに群れている。どうやら光線級はいないらしいが、いつ出現してもいいように警戒は忘れない。

 セオリーどおりの戦闘を続け、HQからの通信に各自散開する。基地に配置された支援部隊が面制圧を行い、溜まりに溜まった糞ゴミ共を地面共々平らげていく。遠慮容赦一切なしの爆撃が数十秒も続いた頃、砲弾の雨を潜り抜けたラッキーな敵が姿を見せた。何がラッキーかといえば、ソイツは顔を出した瞬間に36mmのご馳走を喰らうことが出来るからで、デザートも食いきれないほどに銃弾を浴びて崩れ落ちる。

 出足は順調。だが、油断など出来やしない。どれだけ密度の濃い支援砲撃を行ったところで、弾薬は無限ではない。そして、二個大隊七十二機の戦術機が一斉射したところで、殺せるBETAは数百にも満たない。奴らの恐ろしさとはまこと物量であり、怯まないところだ。レーダーは膨れ上がるBETAの数に見る意味さえない。飛び出した一匹を殺した次の瞬間には十匹が姿を見せている。次第に殺戮は追いつかなくなり、開いていた距離が狭まってくる。

 面制圧はかつてない規模で未だ続いており、後続のBETAを蹴散らし続けている。にも関わらず、その爆撃を潜り抜ける連中の数は尋常さをなくしていく。……勿論、初めから全てのBETAを足止めできるわけがないことはわかっている。そういう気概でいろというだけの話だ。そのために第三防衛線まで構築し、基地に最強の部隊を配置しているのである。自分たちが出来る限り後続をひきつけている間に、第二、第三防衛線の連中が残りを磨り減らしていく。

 実にマニュアルどおりの迎撃であり……それ以外に有効な手段を、人類は手にしていないのだ。だが、希望はある。XM3だ。横浜基地全ての機体に配備されているこの新型OSの性能は『甲21号作戦』の成果を見れば明らかで、この作戦にも重要な要素となっている。基地の全戦力を足しても数万規模で攻めて来るBETAを全滅させることなど出来るはずがない。けれど、XM3ならば――少なくとも従来のOSでの戦闘よりも高い戦果を期待できる。

 例え敵を全滅させたとしても、被る被害は尋常ではないだろう。よくて相討ち。敗北は滅亡を意味する。世界の希望となり煌きを灯している横浜基地が、香月夕呼が、そしてこの地を訪れている煌武院悠陽が亡くなれば、世界は絶望に支配され、人類は滅亡する。

 それだけは許されない。それだけは絶対にさせない。勝つのは自分たちであり、死ぬのはBETA共だ。全衛士、全兵士がそのことを胸に刻み、命を奮わせている。静かに昂奮を高まらせ、BETAの姿を見た瞬間に昂揚を爆発させる。人類の希望はここにある。自分たちの勝利こそ、人類の救済となるのだ。――そう信じられる。だから戦える。絶望的な戦力差を前に、圧倒的過ぎる敵を前に、全員が、命を燃やすことが出来るのだ。



 まるで地面が根こそぎひっくり返ったかのような衝撃だった。震動。地響き。そんな言葉で表すことさえぬるい。引き裂けるように震撼した大地が、捲れている。無数に亀裂を走らせて罅割れたそこから、巨大なクレバスから、龍が顎を晒していた。――否。あれが、あんなものが龍であってたまるものか。あれはなんだ。ミミズか? 蛇か? 広大な荒野をぶち破り屹立蠢動するアレはなんだ。

 離れた場所で同じような光景がもう一つ出来上がっていた。郊外に屹立したもう一つのそれはずしりと身を倒し、宵闇に獰猛な牙を輝かせる。第一防衛線を構築している第1、第2戦術機甲大隊の全員が、呆然と目を見開いた。アレは、「口」だ。まるでトンネル掘削用のドリルを思わせる形状をした「歯」……いや、最早アレはそんな言葉の枠に収まるような代物ではない。とにかく、獰猛に回転を続けるそれが地面を掘り大地を砕いたのは一目瞭然で、だからといって目にした光景をありのまま理解できるはずもなく。

 通信装置がイカレるのではないかと心配したくなるほどの部下達の悲鳴と絶叫が耳朶を打つ。その狂乱振りに冷静さを取り戻せるかといえばそんなはずはなく。気づけば必死になって機体を操り、仲間達と共に旧町田市に出現した“敵”――アレを味方だなどと一瞬でも考えられるような酔狂なヤツは居ない――の姿を追っていた。遠望に姿を見せたソイツを迎撃しなければならないのか――想像してしまって、全員が引き攣るように息を絞らせる。HQから支援砲撃が知らされ、横浜基地所属の全支援部隊がありったけの弾を降らせるが…………現れたそいつには、まるで効いているように見えなかった。

 突き抜けるように走り来る突撃級をやり過ごし、足の遅い連中の対応に我武者羅になっていた矢先、突如表れた“化け物”。見たこともない異形は途轍もない大きさでその姿を現し、迎え撃つ自分たちを竦ませている。あの異形は敵だ。BETAなのだ。要塞級や重光線級などの大型種ですら玩具に思えるほどの超弩級のスケールに、肝が冷える。膝が震えて、指先に力が入らない。
 だが、やらねばならない。負けるわけにはいかない。襲い来るBETAを滅ぼさずして、人類に明日はないのだから……!
 巨大なBETAはゆっくりと身を震わせ、地面に身体を投げ打った。その震動、或いは巻き起こされる風圧に、機体が吹き飛ばされそうな錯覚を覚える。遥か彼方の出来事が、あまりのスケールに直近で起こっていることのように思わせるのだ。絶え間なく続く支援砲撃の爆撃音、自らの機体が吐き出す36mmの銃弾の音。わけもわからず喚き散らすチキンの声。悲鳴。嗚咽。罵詈雑言。意味もなく叫び口汚く突撃級を撃ち殺しながら、厭でも視界に入ってくる異形を見てしまう。

 もしアレが動き出したら一体どうなるのか……考えてしまって、心臓が縮み上がった。――コイツは、ヤバイ。
 そんな直感が全員の脳裏を過ぎった瞬間、信じられない光景が視界に飛び込んできた。未確認種のBETAの「口」が開いたのだ。外見の硬質さとは裏腹に、妙に生き物めいた柔らかさで以って開かれた口から、這い出るモノがある…………。
『なっ、ん、だとぉ!?』
『ベッ、BETAァ!!? あいつっ、BETAを吐き出してる!!?』
 叫んだのは誰だったか。即座にHQがどういうことなのか聞いてくるが、そんなものに答えている暇はない! 地表に出現しているBETAは既に一万を超えている。にも関わらず現れた超大型の未確認種の腹の中から、更にBETAが吐き出されているのだ。その中には要塞級の姿もあり、光線級まで居るように見える。センサーはとっくに振り切れていて、絶望が胃に染み渡る。帝国軍からの援軍はまだ到着していない。こっちには連中の“姫”が居るのに。――頼むから、なんでもいいから誰かッッ!!

 助けてくれ。

 それが、全滅した第1、第2戦術機甲大隊の最期の通信であり――第一防衛線が全滅した瞬間だった。







 ===







 時は少し遡る。

 防衛基準態勢2――。突然鳴り響いた警報に、慰霊式典は中断せざるを得なかった。騒然とする喧騒の中、悠陽は斯衛の警護部隊に連れられて基地内へ避難し、衛士をはじめとする将兵はすぐに所定の位置に着いた。A-01も同様で、彼女たちは式典に参列していた武御雷の集団共々一度基地内に下がる。式典用の空砲しか装備していないので、実弾装備に換装する必要があるからだが、その時繋がれた夕呼からの通信に、まりもは盛大に舌打つしかなかった。

「佐渡島ハイヴの生き残り……ですか」

『そう。地中を移動する微弱な震源を感知したのは高崎と秩父の観測基地よ。警報が出たのがついさっき。なにもこんなタイミングで来なくてもよさそうだけど、来たものはしょうがないわね。震源の深さはどんどん浅くなっているわ。そこから導き出された出現予想地点は旧町田市一帯よ』

「……連中は大深度地下を進攻してきた、と仰いましたね」

『ええ。普通に考えて、三日でこの距離は速すぎるわ。……佐渡島ハイヴの地下茎構造が、既に本州内陸部まで延びていたとしか考えられないわね』

 少なくとも群馬あたりまでは延びていた可能性がある。そう結論した夕呼は忌々しいと言わんばかりだが、それはこちらも同じだ。まりもは夕呼から得た情報を部下に通達すると共に、斯衛にも情報を提供する。大隊を率いる紅蓮中将はまりもの気遣いに生真面目に礼を述べた。帝国軍内部で伝説と化すような大人物から謝辞を賜ることは恐縮だが、この場では彼の方が階級が上であり、現場の指揮は彼が握ることになるだろう。属する軍は異なるが、そういう垣根とは無縁の場所に、自分たちは立っている。

「司令部からの作戦は以上です。紅蓮中将にも出陣願うことになりますが、よろしいでしょうか」

『愚問だ。我らは殿下の御身御命を護るためにここに居るのだからな』

 野太い声が大仰に笑う。推定で二万を超えるBETAの群れがやってこようとしているのに、随分と余裕があるものだ。それが斯衛の在り方とでもいうのか。横浜基地に所属する二百五十機強に、斯衛一個大隊を合わせておよそ二百九十機。甲21号目標のことを思えば、現時点で判明している二万という数字も当てにしないほうがいいだろう。……となれば、こちらは自分たちの凡そ百倍近い物量を相手にしなければならない。

 まさに絶望的な状況だ。しかも、これはハイヴ攻略戦とは違い、敵を文字通りに全滅させなければならない防衛戦だ。迫り来る敵を掻い潜りすり抜けて反応炉を破壊する――そんな戦術は適用できない。一歩たりとも退くことなく、一匹たりとも抜けさせない。目の前の全てを殺しつくし、後に続く全部を殺しつくしてようやく、勝利を得ることが出来るのだ。

 自分たちの後ろには横浜基地がある。自分たちの背には基地の命運がかかっている。敗北は即ち死だ。横浜基地が滅ぼされるか、BETAを滅ぼすか。二つに一つしかない。しかも連中は失われたエネルギーを得るために基地の最深部に在る反応炉を目指しているというのだ。……ここを、再びハイヴとするわけにはいかない。機密ゆえに紅蓮へは情報開示しなかったが、けれど彼も大凡の察しはついているのだろう。今このタイミングで、この場所が狙われる意味。だが、彼は生粋の斯衛であり、殿下の身の安全が最優先という言葉にも嘘はないらしく、作戦への協力を申し出てくれた。

『……感謝しますわ。紅蓮中将』

『がっははは! なに、これも斯衛の務めの内。…………殿下を、よろしく頼みますぞ』

 夕呼は紅蓮に礼を述べ、紅蓮は豪快に笑う。悠陽は既に基地の地下施設へ退避しており、ひとまずは安全と言ったところだろう。斯衛の部隊はA-01と共に基地周辺に展開し、最終防衛線を築く。

 第1、第2戦術機甲大隊が出撃したのが丁度そのときで、続けて、第3、第4戦術機甲大隊が出撃準備に入る。BETAの地表出現までおよそ一時間。連中が町田市に姿を見せたならば、もう横浜基地は目と鼻の先だ。密に布陣される三重の防衛線。更には悠陽の名で帝国へ打診された出撃要請を受けて、1個連隊が出撃準備を急いでいる。さらに帝国海軍からも艦隊の支援砲撃を約束してくれた。周辺の国連軍基地からも出撃を確認しており、それら援軍が駆けつけるまでの間を、とにかく生き残り基地を死守する。

 ……だが、帝国軍は先の『甲21号作戦』で消耗しており、腕のいいベテラン衛士たちを多く喪ってもいる。武器弾薬等、装備についてはそれ以上消耗しているはずだ。そんな状況にありながら一個連隊を差し向けてくれる悠陽に、感謝しても仕切れない。艦隊の支援砲撃も同様だ。それらのことからも、悠陽は夕呼の可能性を信じてくれているのだと知れる。まりもは殿下のその思いだけで、胸がいっぱいになりそうだった。

『この戦い……気が抜けないわね』

『うむ……。先日の佐渡島以上に奮わねばなるまい……』

 ぽつりと漏らすような千鶴の言葉に、冥夜が重々しく応えていた。水月や美冴たちも普段の軽口など一つもなく、無言のまま目を閉じている。いつも彼女たちにからかわれ玩具にされている武ですら、じっと黙り込んでいた。千鶴の呟きはそれらの沈黙に耐え切れなかったからなのか。……けれど、生真面目な彼女に気の利いた明るい話題を振ることなど出来ず、さらに真面目すぎる冥夜が、余計空気を重苦しくさせていた。

 その部下達の様子に溜息をつき、まりもは緊張した表情を見せる彼女たちに喝を入れる。残念ながら、敵は止まってくれないのだ。絶望的だろうがなんだろうが、ただ黙って指をくわえてコロサレルなんてことは、絶対に許されないし、出来ない。みちるから各員の配置について説明させ、まりもは一度、深く息を吸った。動揺しているのは自分も同じ。緊張するなという方が無理な話である。

 だが、式典こそ中断されたが、自分は悠陽から“英雄”足らんことを望まれた身だ。ならば、御身のためにも、なにより、親友にして世界を救う天才、夕呼のために。見事この基地防衛戦に勝利をもたらし、彼女たちの思惑を達成させて見せよう。――そう、私は英雄になるのだ。

 そしてもう一人。夕呼の手によって生み出された“もう一人のシロガネタケル”。彼もまた、次世代の英雄となることを望まれた人間だろう。……彼がこの作戦でどのような配置となるのかは知らないが、きっと、あの《鉄仮面》も戦場に出るに違いない。出来れば自分の部隊に組み入れたいところだが、実際のところ、彼の実戦経験はどうなのだろうか。以前夕呼から開示された情報では実戦の経験もあるようだったが――それは紛れもない嘘出鱈目と知らされてしまい、正直、わからない。

 ……いや、彼の正体を鑑みれば…………恐らく、実戦経験はない可能性が高かった。彼がいつから《鉄仮面》として在るのかは知らないが、それでも多分、一度も出撃していないと考えるべきだろう。同じ“シロガネタケル”であり、改良――我ながら虫唾が走るが――されているならば、それほど気に病む必要はないのかもしれないが……。もし彼が戦線に投入されるなら、それはまりもの部隊である確率が高い。存在自体は既に公のものとなっているが、それでも尚、彼の特異性に変わりはないのだから。

 じき出撃となる。幾分か落ち着きを取り戻し、いつものように“お喋り”が出来るほどには部下達も冷静になってきたようだ。まりもは武を見る。――見てしまった。脳を改造され、いずれ死んでしまう彼と、彼のクローンであるという鉄。ひょっとするとこの戦いで彼らは肩を並べることになるかもしれない。そのとき彼らはどうなるのだろうか。そのとき自分はどうすればいいのだろう。

 考えても詮無いことだということはわかっている。武は鉄の正体など知りはしない。……鉄は、武を知っているのだろうか。知らずとも、武を見てしまえば気づくだろう。自分がもう一人居る。そんな状況で、彼らは戦えるのか……。矢張り、自分が考えたところでしょうがないのだが。それでも、部隊を預かる隊長として、不安要素は一つでも排除しておきたい。――まだ鉄が回されてくると決まったわけではないというのに。神経質な自分に呆れつつ、それでも、考えずにはいられない。襲ってきたBETAを前に、厭な予感が拭えない。

 なにか、この戦いでよくないことが起きるような……いいや、駄目だ。不安は災厄を招く。英雄は不安を表さない。ならば前を向け、顔を上げろ。例え鉄が居てもいなくても、常に最善を尽くすのみ。信じる夕呼を護るために。世界に差した希望の光を絶やさないために。

 戦うのだ。命を懸けて。







 そうして、第一防衛線が完全に崩壊した報せとともに、敵の未確認種の存在が判明する。体内にBETAを内包し、大深度地下を掘削しながら進攻してきたと思われるソイツは、地表を削りながら這いずり回り一瞬にして一個中隊を磨り潰して見せた。外殻はどうやら突撃級のそれ以上の硬度・耐久度を持っているらしく、支援砲撃も殆ど効果が見られない。まさかここに至ってそんな兇悪な新種を相手にしなくてはならないのかと、夕呼でさえ絶句したのだが……現在は、ぴくりとも動くことなく停止している。根拠も何もない夕呼の推測では――わざわざ自分から根拠がないと言い切り、基地司令を驚かせたが――BETAの活動に必要なエネルギーを消費しつくしたからではないか、ということだった。つまり、連中はエネルギーを求めて横浜基地を襲撃し、反応炉確保を目指している……という説がより濃厚になったわけだ。

 もちろん、当初よりそのつもりで基地防衛の態勢を整えていたので現場からすればだからどうしたというのが本音なのだが、改めて“そうである可能性が高い”ことがわかれば、司令部としては判断に迷う要素が軽減されることになり、基地司令パウル・ラダビノッドも理解の意を示していた。結局のところ、敵の真意など測りようがないのだが、例え推論に推測を重ねたのだとしても、そうだと思える拠り所があるのとないのでは全く違う。

 そしてその事実――敢えて事実とするが――は、基地、ひいては反応炉を防衛しなければならない彼らにとって朗報であった。つまり、連中はエネルギー切れが近い可能性があるのだ。全滅させずとも、連中のすべてがエネルギーを消費し尽くすまで戦い続けることが出来たなら、それが勝利となるのである。既に出現数が三万に近づきつつある連中を相手にしなければならないと覚悟を決めていた衛士や支援部隊にとって、その情報は僅かながらの希望となった。

 ――が。

『クソッ!! クソォ!! 死ねよ!! 死ね死ね死ね死ねぇぇぇえあああ!!』

『駄目だ! 全然ッ、チクショォ!! 奴ら全然止まらない!!』

『エネルギー切れだって?! いつだよ!! ぁぁぁあくそがぁああああ!!!!』

 途切れることのない雑言に、銃弾の雨。迫り来る圧倒的物量は俄然衰えることなどなく、怒涛の波となり押し寄せてくる。第二防衛線は既に、地獄の有り様と化していた。第一防衛線を突破したBETAは突撃級を先頭に、こちらを嘲笑うかのように攻め込んできたのだ。かつてない密度の面制圧を集中させてその数を減少させているはずなのに、それでも連中は次から次に地中から溢れ出し、一向に衰えを見せないでいる。

 その暴威、速度は本当にエネルギー切れなんて起こすのかと叫びたくなるほどで、そんな悠長な戦いなどしていられない現実を、彼らに押し付けてくる。のらりくらりとかわして戦えるような数ではない。のんびりと自滅するのを待っていられるような物量ではない。連中はBETAだ。人類をここまで追い詰めた最悪の天敵だ。放っておいて連中の進攻が止まるのなら、人類はこんなに大勢を死なせていない。喪っていないのだ。

 眼前に躍り来る暴威は撃たねばならない。機体に取り付く戦車級は払わねばならない。でなければ自分が死に、仲間が死ぬ。一匹たりとも抜かせるなと誰かが咆える。隊長と呼び慕っていた彼は跳ねるように飛びついた戦車級の群れに齧られて死に、昨日ベッドを共にした彼女はママと叫びながら要撃級に砕かれて死んだ。そんな光景を絶叫混じりに眺めながら突撃砲を撃ちまくっていた自分は、いつの間にか要塞級の尻尾に吹き飛ばされていて……。

 それが現実だ。機体はXM3に換装済みで、全員が《鉄仮面》の『概念戦闘機動』を頭に叩き込み身体に刻み込んでいるというのに。空しいほどの現実は、圧倒的無慈悲を以って彼らの命を磨り潰していく。そこに、希望の輝きなどあるはずもなく。

 ……いや、決して無防備に一方的にやられているわけではない。かつてない戦闘概念、操縦技術を身に付けることの出来た彼らは、各々がベストスコアを驚異的なスピードで更新し、戦えている。過去のシミュレータではとっくに全滅していておかしくないような物量の敵を相手に、まだ戦えている事実。確かに圧倒的過ぎる物量を前に戦死者数は跳ね上がっているが、それでも、彼らは今までの対BETA戦績を塗り替えるほどの奮闘を見せていた。

 かわせないはずの攻撃を潜り抜け、動けないはずのタイミングで撃ち殺し、跳べないと教えられていた空を跳ぶ。確かにXM3は、鉄の存在は、彼らを著しく成長させ、対BETA戦術を革新させた。我武者羅に叫びながら戦い続ける彼らは皆、その性能、恩恵に感謝せずには居られない。自分が一秒生き永らえられている間に敵を一体殺すことができ、仲間を一人救うことが出来る。その、全員の一秒が収束したならば、彼らは信じられないほどの長時間を戦い抜くことが出来るだろう。

 …………それだけの錬度を高める時間があり、相手にするBETAの数が少数であったならば。

 絶望に歯の根が震える。恐怖に喉が震える。三万“以上”。戦車級以上の中大型種の実数である。対する彼ら、第二防衛線を形成する部隊は二個大隊七十二機。連中は、愚直なまでに真っ直ぐと向かってくる。足の速い突撃級に、足の遅い大型種。その速度差が進攻にタイムラグを生もうと、その物量差の前には大した意味を持たなかった。

 止むことのない支援砲撃の爆音が荒野に響き渡る。収まることのない怒声と絶叫の入り混じった喚き声。地獄とは、どうしようもないほどに恐ろしく凄惨であるからこそ、地獄足り得るのである。

 そして、その地獄に更に拍車をかけるべく、光線級の一斉射が一個小隊を蒸発させた。出現自体は未確認種ともども判明していたのだが、遂にレーザーを放ってきたのである。エネルギー消費が激しいと思われる連中は、その数自体も少なく、連中なりに温存しておいたようなのだが、XM3の性能のおかげで通常以上の粘りを見せるこちらに業を煮やしたのか、容赦なくレーザーを撃ちまくってくる。

 もちろん、BETAにそんな戦略的思考や感情的要素があるかどうかなど知りはしないのだが、連中が見せる行動のほんの些細な部分で、XM3が影響しているのではと思わせる場面があったのである。もとより戦術機は高度なコンピュータを搭載したマシンであったことから、BETAは戦術機を優先的に狙ってくることが知られている。連中は人類の兵器に対して脅威度のようなものを設定していて、そのとおりに攻撃してくるのでは、という説なのだが、どうやらそれはXM3が搭載されたことでより顕著になったらしい。

 確かに『甲21号作戦』の最中にも地表でBETAをひきつける役目に徹底した帝国軍や斯衛軍の衛士からもそのような報告を受けており、確たる証拠はないながらも、夕呼は“そういうことも在り得るだろう”と断じていた。つまり、かつてない機動性能を以ってBETAの群れの中を跳び回り連中を殺して回る、いわば新型の戦術機は、連中にとっても脅威と認識されたということだ。

 それが果たしてどのようなメカニズムでBETA間に浸透しているのかは未だ不明だが、少なくともこの戦場に居るBETAは、XM3を脅威とみなし、執拗に戦術機を狙っているようだ。つまり、それだけ一体の機体に引き付けられる個体数が増えるということであり、現場の衛士にしては堪ったものではないのだが、若干の時間稼ぎが出来るということだった。夕呼はすぐにCPに命じて、各部隊へその情報を通達する。弾は惜しむな。だが、例え弾がなくなったとしても“やれる”ことはある。と。可能な限り敵の渦中を派手に逃げ回り、混乱を誘え。

 命じられた側はなんだその無茶苦茶な要求はと盛大に罵声を浴びせてきたが、それがほんの僅かでも生き延びる可能性を高めるかもしれないというなら、無茶でもなんでもやるしかなかった。……勿論、戦術機の機動一つで引き付けられる個体などたかが知れていて、武器を使い果たし恐慌に陥りかけている者などは派手に跳びすぎて光線級に撃ち殺されたりもしていた。こんな無間地獄の有り様で、冷静に正気のまま戦い続けられるものなど居やしないのだ。

 もしそんなヤツが居たとして……ソイツがあくびでもしながらこの地獄を駆け回れたならば…………ソイツは多分、常時狂っているのだろう。

 最早横浜基地は、狂わずにはいられないほどの、この世の地獄と化したのだ。

 そして、BETAの数をおよそ二万強に減退させることに成功した第二防衛線は、崩壊する。







 敵の撃破数だけをみるならば、かつてない大戦果といえるだろう。戦術機一機が血祭りにしたBETAの平均個体数は世界中の戦闘記録と照合しても、他に類を見ないほどの殺戮ぶりだ。それだけXM3の性能が優れているということなのだが……そんな快挙も、生きていなければ意味がない。人類史上最高の撃破数を更新し続けながら、横浜基地は着実に崩壊への道を転がり始めていた。

 第三防衛線が主戦場となってから既に十分。洒落にならない勢いで戦死者が増大し、演習場に敷かれた防衛線を突破したBETAがこぞって基地へと向かっている。空を覆い隠さんばかりだった支援砲撃も次第に密度が薄くなり、残弾の少なさを露見させ始めている。第5、第6戦術機甲大隊が他の部隊同様に突破されるのは時間の問題となっていた。

 夕呼の元へは帝国軍が一個連隊を出撃させた旨が知らされているが、果たして間に合うか否か。恐らく、基地に侵入された後の到着となるだろう。それでは手遅れだ、などとは言わないが、もう少し早ければまた違う手を打つことも出来たのにと思わずにはいられない……。ないものねだりをしてもしょうがないとはわかっている。それに、『甲21号作戦』での消耗を考えれば、帝国軍もかなり無茶をしてくれているのだ。感謝こそすれ、文句を言うことなど出来はしない。

 それもこれも悠陽がこの基地に居てくれたおかげだが、文字通り、不幸中の幸いというやつだった。少なくとも、この帝国軍の援軍が得られなければ、万が一にも生き残る術はなかったのだから。僅かの可能性さえないまま全滅させられるよりは、その僅かに賭けられる現状の方が断然いいに決まっている。勿論、それだけを当てにしてもいいわけではないことはわかっているので、夕呼はあらゆる手段を用いてこの基地を存続させる手段を考え続けている。

 ……結局のところ、基地防衛にあたっている戦術機甲部隊、航空支援部隊、機械化歩兵部隊等一人ひとりの尽力にかかっているわけだが、せめて彼らが無駄死にしないよう最善の策を授けるのが副司令、そしてAL4責任者としての夕呼の務めだ。第三防衛線を突破した突撃級や小型種がとうとうここまでやってこようとしている。光線級はエネルギー消費が激しいのかあまりレーザーを発射してこない。このまま第三防衛線の部隊の戦力で殲滅できるだろう。

 ならば後は力勝負だ。連中の突破力が上か、こちらの防衛力が上か。単純明快なる力比べ。数か質か。そんな天秤にこの基地、そしてこの世界の運命を預けなければならない現実に、夕呼は笑い捨てたい気分になってしまう。――くそったれ! 彼女にしては珍しい下品な罵倒を内心で吐き捨て、夕呼はA-01へ出撃を命じた。



 出撃命令を受けるまでもなく、既にA-01は第二滑走路を迎撃に奔走していた。自分たちに与えられた任務など単純明快すぎて笑いが出る。敵を基地内部に侵入させない。ここで連中を食い止める。ただそれだけ。そして、困難極まる任務だ。躍るように雪崩れてくる小型種を手当たり次第に蹴散らし、続く突撃級を着実にしとめる。他の部隊も同様の戦術を繰り返していて、最初の衝突は始まった。

 第一、第二防衛線を抜かれ、今また第三防衛線が崩壊しようとしていているのに、連中の数は冗談かと罵りたくなるほど多い。今はまだ散発的な進攻だが、いずれ第三防衛線を完全に突破した連中――予想では一万以上は確実に居る――を相手にしなければならない。第7戦術機甲大隊、斯衛の一個大隊、そしてA-01……。百機にも満たないたったそれだけが最後の防衛線であり、その先は、ない。

 基地内部に侵入されてしまえば勝負はついたも同然であり、なんとしてでもこの場所で敵を食い止め、殲滅――ないしはエネルギー切れを待たねばならない。達成可能な確率が僅かでも上回るのは後者であり、展開する各部隊はただひたすらそのために戦っている。どう逆立ちしたところで、万単位のBETAを殲滅できる戦力はこの場所にはないのだ。帝国軍からの援軍も、周辺国連軍基地からの救援もギリギリだ。ほんの少しでもタイミングが合わなければ、全ては廃墟と化してしまうだろう。連中のエネルギー補給がどのような方法で行われるのかは知らないが、横浜基地が破壊されてしまえば、救援にやってきた部隊だけで突入をかけるとは思えない。第3から第6大隊の残存兵力を集結させたとしても、結果に変わりはないだろう。

 或いは、ここに米軍の部隊でも居て、形振り構わずに『G弾』を使用してみせたなら……かつての『明星作戦』同様に破壊された基地ごとBETAを全滅させることも出来るだろう。強引に『G弾』投下を実行した上で、AL5を発動させようとすることも考えられる。『甲21号作戦』失敗時に備えていた艦隊が、ひょっとすると近くの海域に潜んでいるかもしれないのだから。――埒もない想像でしかなく、根拠も何もないわけだが……どの道、ここが落ちればAL4に未来はない。ならば人類はAL5を実行に移すだろう。帝国軍に供与されたXM3のデータを接収し、『G弾』とXM3を組み合わせた新しい戦略が構築されるだろう。

 それは一衛士が戦闘中に考えていいようなことではないし、そもそも、そんな思考に耽っている余裕などない。A-01の隊員たちはそんな最悪の可能性など考えるまでもなく、絶対に基地を死守するために戦っていた。死力を尽くして任務に当たれ――正にその言葉を体現すべく、全員が鬼神の如く殺戮を繰り返している。蒼い不知火の集団が戦場を駆け巡るたびに、汚物が散り肉片が舞う。おぞましい血煙は夜の闇に怪しく漂い、銃弾が炸裂するたびに化け物の花が咲く。

 その姿は戦乙女のイメージに遠くかけ離れ、地獄の巣窟であるハイヴを戦い生き残ったという正真正銘の「強さ」を見せ付けていた。凄絶、その一言こそ相応しい。彼女たちの存在は共に戦う衛士の士気を否応なしに高め、尋常ではない数のBETAをひきつけた。反応炉を最優先としているのだろう連中を無理矢理にひき付けて暴れ回るのだから、隊員たちの消耗は凄まじいものがある。敵中に飛び込み、殺しまくり、自身は生き延びながらも敵を連れまわすのだ。正気の人間の出来ることではない。

 味方が思わず呆然としてしまうほどの凄まじき戦法を繰り返すA-01だったが、当然のことながら必死である。一瞬でも集中を途切れさせれば待っているのは死の一文字。ハイヴ突入に比べれば、なんていう自負は交戦数秒で消し飛び、今は唯、全員が精神を途轍もないスピードですり減らし続けている。敵の動きを自分たちに向けさせ、可能な限り多くの個体を留まらせる。まりもが命じたその作戦は、彼女たちの限界を完全に無視したものだった。

 それでも、誰かがそうしなければ連中はあっという間に最終防衛線を抜け、基地内部に侵入してしまうだろう。現実に、一部の小型種が到達している。幸い少数だったので機械化歩兵部隊の手で食い止められているが、いつまでも防ぎきれるものでもない。いずれは絶対に突破され、基地施設内での戦闘へと切り替わるだろう。……その時を一瞬でも遅らせ、エネルギー切れを誘うために、A-01は死に物狂いで文字通り狂ったように戦い続けるのである。

 そんな出鱈目な戦闘を続けている彼女たちを援護すべく、紅蓮中将率いる斯衛の一個大隊が戦場に割って入った。その部隊の中には真那の斯衛軍第19独立遊撃小隊も含まれており――武御雷で編成されており、なによりも斯衛軍として指揮下に編成されたほうが今回の戦闘では有効であると判断されている――彼女たちもまた、ハイヴ攻略戦の経験を活かした、同一箇所に留まらない撹乱戦法を多用している。

 XM3の最大の利点である高機動性を惜しむことなく活用した戦法であり、『概念戦闘機動』の醍醐味でもある。そうやってひたすら敵中を渡り、戦い続けるA-01や真那たちを見て、残る斯衛の部隊も、第7戦術機甲大隊も、同様の機動撹乱戦を行うようになった。マニュアル化され、XM3の機動性の高さを知ってはいた彼らだったが、実際の戦闘でその特性をこのように活かす方法は思いつかなかったのだ。そして、その戦法の有効性を即座に認め、自身に取り込んで戦える柔軟性を持っていたことが、最終防衛線の戦闘模様を僅かに膠着させた。

 持ち堪えられるか――? 微かに見えた希望。そんなものを抱いてしまった衛士は一人や二人ではないだろう。きっと、それは間違いない。だが、そんな儚い一瞬の希望を打ち砕く現実は、ついに第三防衛線が崩壊を伝えてくる。四散した第5、第6大隊は第3、第4大隊の残存兵力と共にこちらへ後退を開始している。四個大隊の残存兵力を掻き集めてようやく一個大隊に届こうかという惨憺たる有り様だが、全滅よりは断然マシだ。それを思うと、未確認種に蹂躙されあっという間に全滅してしまった第一防衛線の衛士たちは運がなかったのだろう。

 その死を無駄にしないためにも、とにかく生き残っている全員が死に物狂いで戦い続けるしかない。どれだけ希望が踏み躙られ、絶望の淵を覗こうとも。諦めることなど赦されない。改めて全員がそう奮い立つのと同時、基地司令からの通達が入る。基地内部へのBETA侵入を防止するためにAゲートおよびBゲートを充填封鎖するという内容に、とうとうここまで追い込まれたのだという現実が否応なしに叩き付けられた。基地の地上設備を全て放棄して、第二滑走路へ順次後退。残存兵力を集中させてメインゲートを死守。戦車級を中心とする小型種の混成群が殺到しつつあるこの状況では、文字通りの「死」守以外在り得ない。

 A-01と斯衛軍は第二滑走路で我武者羅な戦闘を続行し、第7大隊はBETAと共に雪崩れ込んでくる形で合流した残存部隊と共にメインゲートへと下がる。基地内部では既に第二層までの隔壁を封鎖し、充填剤注入まで残り三百六十秒を切った。だが、迫り来るBETAの数は後続が追いついてきたのか、桁違いの様相を見せている。一度に相手にしなければならない個体数が多過ぎて、充填剤が完全硬化するまでの時間などとてもではないが稼げそうもない。

 更にはあまりにも多すぎる連中をなんとしてでも減らしてやろうと身を挺して補給コンテナを誘爆させたヤツもいたが、逆にその爆発で搬入ゲートの一部が破損し、そこをBETAに狙われてしまう。命を擲ってまでの行動の結果が、残された自分たちの首を絞めることになってしまったのだが、そのことに文句を言うものは一人も居なかった。どのような死であれ、そしてそれがどのような結果を招いたとしても、死んだ仲間を冒涜する者は衛士ではない。ゲートが破損してしまったことは確かに痛いが、それでも、死んだその者の命を誇るならば、無茶だろうがなんだろうが守りきるしかないのである。

 だが、そんな決死の覚悟を見せる彼らを嘲笑うかのように出現した要塞級の一群が自慢の尾節を揮い、隔壁にその兇悪なる先端部を叩き込んで見せた。ぶちまけられた溶解液が隔壁を溶かしていく。最大級の罵声を浴びせながらの必死の抵抗も空しく、次々と部隊を壊滅させられる残存部隊は演習場からの増援を求め、これにHQが応じる。帝国海軍の支援砲撃をBゲートのある第一滑走路に集中させる。Bゲートへの増援として移動を開始した部隊の中にはA-01の姿もあった。B小隊を前面に押し出して吶喊する彼女たちだったが、ピアティフからの通信がそれを呼び止める。

『――HQよりヴァルキリーズ! 帝国海軍の支援砲撃着弾まで三十秒! 第一滑走路周辺より即時退去せよ』

『――ヴァルキリーズはBETAの地下施設侵入に備え、直ちに移動を開始せよ』

 続け様に放たれたピアティフと遙の指示に、まりもは即座に部隊を移動させる。モニターにマップを表示しながら、まりもはメインゲートから中央集積場を抜け、メインシャフトを一直線に下るルートを説明する。最短距離で反応炉まで移動し、そこで敵を迎え撃つのである。A-01が第二隔壁を抜けた時点で隔壁を充填封鎖し、敵の進攻を少しでも遅らせるわけだが、つまり、それは隔壁突破以降味方の支援を一切受けられないということだ。

 既に中央集積場には紅蓮率いる斯衛一個大隊が移動を完了し、Bゲートを突破してくるであろう敵に備えている。ゲートの外では、第7大隊を中心とした国連軍部隊が絶対死守を掲げてありとあらゆる感情をぶちまけながら戦い続けていた。A-01はその彼らを横目に六十秒だけ開かれたメインゲートを抜け、斯衛軍の背中を通り過ぎながらメインシャフトへと到達する。――この配置は、正に帝国随一と謳われるべき錬度を持った最精鋭たる斯衛に期待していることを表している。悔しいことだが、磨り減らされた横浜基地所属の戦術機甲部隊よりも、斯衛軍の方が実力は上なのだ。XM3への慣熟然り、『甲21号作戦』で見せた実力然り。

 紅蓮は夕呼直々の要請に快諾してみせ、敵を一手に引き受けることとなった第7大隊以下の部隊も彼らへ基地の未来を託している。――頼む。ただそれだけの言葉に込められた苛烈極まる感情を、斯衛の部隊は痛いほどに理解している。本当ならば自分たちの手で最後まで基地を守り通したいだろう。だが、自分たちの力ではそれに及ばない……。その事実を認めることの、どれほどに悔しいことか。

 かつてBETAの進攻によって京都を喪い、郷里を喪った斯衛の衛士たちには、胸を抉るほどにわかりすぎる感情だったのだ。それだけではない。……この先には、悠陽が居るのだ。自らの命を懸けて守護すべき主。この日本を照らす輝き。彼女を、死なせるわけには行かない。なんとしてでも食い止める。自分たちが限界以上の力を以って戦い続けることが出来たならば、きっと帝都からの援軍が間に合ってくれる。――今はもう、それだけを信じるしかない。可能性に賭けるしかないのだ。

『月詠、貴様は自身の部下を率いてA-01へ同行しろ!』

 紅蓮が突然にそう命じたのは、メインシャフトへ通じる隔壁が開ききろうとしたその瞬間だった。メインシャフトへ突入を開始しようとしていたA-01が、僅かに足を止める。命じられた真那は一瞬彼が何を言ったのか理解できなかったが――刹那の間を置いて、了解と答える。真那は同じ月詠の姓を持ついとこへと視線を送り、彼女が不敵に笑ったのを見て、部下三名を率いて斯衛の隊列から離れた。紅蓮が何を思って自分をA-01へ同行させるのか……反応炉死守の可能性を僅かに上回らせるためか、或いは……冥夜、か。

 真那は表情には一切出さずに、真耶と紅蓮の二人に最上級の感謝を抱く。そして、心に誓った主を今一度この手の届く場所で護ることのできる歓びに打ち奮えた。

「ヴァルキリー0へ、こちらは斯衛軍第19独立遊撃小隊隊長月詠中尉だ。これよりブラッズはヴァルキリーズの指揮下に入る!」

『ヴァルキリー0了解。心強いわ、中尉』

 真那とまりもは互いに頷き合い、こうしてハイヴ攻略を果たした最強の混成部隊は再びその姿をBETAの前に晒すこととなった。彼女たちのもとへBETAがやってくるとき。それは人類が滅亡するか否かの瀬戸際であり、この基地の命運を賭けた戦いの終結を意味する。どのような結果であれ、そこが正真正銘最後の砦だ。――誰一人、生き残れるなどとは思っていない。それでも、生きてみせると笑えるのが彼女たちだった。

 メインシャフトを落下するように通過しながら、水月が真那へ通信を繋ぐ。この状況でよくも、と呆れるほどの強気の笑みを浮かべながら、水月は一種の宣戦布告を突きつけてみせた。

『月詠中尉ぃ。あんたまさか武が心配でこっちに来たんじゃないでしょうねぇ? 言っとくけど、あんたに武は渡さないわ。あいつは私の弟なんだから、B小隊から外さないわよ!!』

「――なっ、貴様頭が沸いているのか?! 誰がそんなことを言った! ……しかし聞き捨てならんな。白銀少尉の実力を最大限に発揮しようと思えば、我が部隊に配置すべきだということは貴様も知っているはずだが?」

『言ったわねぇ!? この高慢ちきの年下趣味がぁ! 武はねぇ、B小隊でこそ本領を発揮するのよ。私とあいつの二機連携の方があんたとのチャンバラ機動より断然上よ!』

「き、貴様……言うに事欠いてチャンバラだと!? 我が父を侮辱するか! ――大体、いつ武が貴様の弟とやらになったというのだ!! 前々から思っていたが、貴様は頭がオカシイのではないのか!」

 いきなり喧嘩を始めた二人を、残る全員は呆然と見守っていた。……いや、あまりに唐突で場の空気を無視しすぎていて、ついていけなかったというべきか。横浜基地最強を誇るA-01きってのエースである突撃前衛長と、帝都防衛の最大の要にして最精鋭部隊に属する斯衛の赤。そんな凄まじい存在であるはずの二人なのだが、互いに罵詈雑言をぶつけ合う姿からは、一切そんな偉大さが見えてこない。どころか……むしろ見苦しい。

 こんな通信が上に残って戦っている部隊に届いたなら、彼らは怒り狂うだろう。こんな連中にこの基地の未来を託すしかない己の不遇を呪うだろう。……それをわからない水月や真那ではなかったのだが、興が乗ってしまったでは済まされない言葉の応酬はまだ続いている。

 呆れ返ったまりもやみちるは、流石にこれ以上放っておくわけにも行かないと溜息をつく。成程、極度の疲労によって肉体も精神も消耗してしまった部下達にはいい休息になっただろう。そういう意味では水月の思惑通りにことが運んでいるようだが、最早本当に喧嘩しているようにしか見えなくなってきたのだ。――オマエラ、いい加減にしろ。

『速瀬、月詠!! 貴様らいい度胸だッッ!! そんなに息がピッタリなら、貴様ら二機で前衛を務めて見せろ!! 喧嘩するほど仲がいいんだろう? 遠慮するな。仲良く死んで来い!!!! この莫迦がッッ』

 狂犬の咆哮に身を竦ませた水月に、目を丸くする真那。緊張感もまるでなくなってしまった一行だったが、最後の隔壁が開かれ、ついに反応炉へ通じる通路へと降り立つ。配置された補給コンテナから順次補給を行い、B小隊、第19独立遊撃小隊を前衛に敷き、A、C小隊が後衛につく。その先頭は、本当に水月と真那が務めていた。まりもは冗談でもなんでもなく、本気でそれを実行させたようだ。

 武は敬愛し、尊敬する二人のあまりにもあんまりな姿に項垂れるしかなく、茜から向けられてくる嫉妬の視線に胃が痛くなってきそうだった。確かに十分場は和み、気分を一新することができたが、いくらなんでもアレはないだろう。特に自分の精神衛生上大変よろしくなかったので、本当に勘弁してほしかった。水月の斜め後方に位置取りながら、連携を組む多恵と簡単に打ち合わせる。とにかく、自分たちは前に出て戦いまくるしかない。真那が言うように自分と彼女が最前線に押し出て敵を足止めするのが一番いいのだろうが、まりもからその指示は出ていない。優秀な指揮官である彼女がそのことを失念しているはずはないので……多分、はめを外しすぎた水月と真那双方への罰なのだろうと思うことにする。

 恐らく、敵が全隔壁を突破してここへ侵入してきたならば、まりもは即時に真那と武に前へ出るように命じるはずだ。物量で圧し迫るBETAを足止めするのに、月詠の剣術ほど特化したものはないのだから。しかも、今回はもう後がない。弾幕を張り巡らせただけではBETAの波を押し留めることは不可能なのだ。頷いて、武は覚悟を決める。

 武は――絶対に生き残ると約束できるだけの自信がなかった。例え死んでも茜を護り、純夏を護り、基地を護る。それは絶対だ。何があろうと絶対に、それだけは果たしてみせる。

 要はBETAを反応炉に辿り着かせないように身を挺して時間を稼ぎ、連中が活動限界を迎えるまで耐えられればいいのだ。そうすれば、茜も純夏も基地も、護り切ることが出来る。ほぼ不可能と言っていいが、それでも、確率はゼロではない。やって見せる。そういう気概を、全員が持っている。ハイヴ攻略を果たした自分たちなのだ。……だから、絶対に成し遂げる。

 けれど、それと自分が生きているかというのは別の話だ。欲を言えば護り切ったその先まで自分も生きていたいが……さて、既に脳髄が悲鳴を上げ始めているこの身は、それを許してくれるかどうか。戦闘による極度の集中は血流を増大させ、精神をすり減らす。ハイヴ戦で身を以って体験した己の限界というものは、この身がもう永くないことを教えてくれていた。気力を振り絞って最後まで戦い抜いたとしても、多分――その先はない。

 BETAが活動を停止した瞬間に、自分もまた血まみれの屍となるのだろう。確信めいた実感がある。だから、覚悟を決めるしかない。

 最後の最期まで生きて戦う。愛する者たちを護りぬく。……その最期が、“今”なのだと。



 じっと待ち続ける。BETAが隔壁を打ち破り、残存部隊を掻い潜り、この場所へ進攻してくるまで。ただ、ひたすらに耐え続け、待ち続ける。地上で戦っている残存部隊はほぼ壊滅しようとしており、ゲートを破壊したBETAと斯衛が戦闘を開始している。……じきに、メインシャフトの隔壁まで到達されるだろう。自分たちの手の届かない場所で味方が次々と死んでいくのを黙って見ているしかない。その辛さを……全員が必死になって抑え込んでいた。

 自分たちに課せられた使命は反応炉の死守だ。どれだけの犠牲を払おうとも、例え全滅しようとも、反応炉さえ守りきったなら任務は達成される。人類の希望は潰えることなく、時間はかかるかもしれないが、AL4が目指す未来を掴むことも出来るだろう。そのためにも、この場から動くことは出来ないのだ。ある者は拳を軋むほど握り締め、ある者は歯が砕けそうなほどに噛み締めて。

 ……そうして数分が経過して、通路の天井に通じるメインシャフトの隔壁が開かれる。全員が何事かと身を強張らせたが、それと同時に夕呼からの指示を受け取ったまりもが落ち着くように命ずる。開かれた隔壁から飛び降りてきたのは一機の不知火。国連軍仕様とも帝国軍仕様とも異なる、漆黒に彩られたその機体には――ただ一文字、“彼”を示す文字が描かれていて……。

 それは慰霊式典にあわせて大々的に英雄として名乗りを挙げさせるために用意されていたものだった。色が違うというだけで、通常の不知火と何一つ変わらないのだが、目を引く、という点では非常に有効だろう。やって来た漆黒の不知火に乗っているのは――当然、

「香月博士から聞いている。……せいぜい、好きに暴れるがいい」

『――ハッ! 鉄少尉、ただ今を以って神宮司少佐の指揮下に入ります!』

 自身の進むべき道を、選ぶべき未来を、決めるべき覚悟を。何一つ掴めないまま、状況に流されるしかない不遇の《鉄仮面》。その仮面の下の素顔はただ――――同じ顔をした武に向けられ、抗い難い復讐の炎を滾らせる。



 そう、これが……ここが最期と死に場所を決めた男と、これが最大のチャンスと復讐に燃える男の――最初で最期の、戦場だ。








[1154] 守護者編:[五章-03]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:c760b461
Date: 2009/02/11 00:27


『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』



「守護者編:五章-03」






「XG-70……切り捨てるというのかね?」

「はい。……ムアコックレヒテ機関の出力を安定させることには成功していますが、肝心の00ユニットがありません。現状動かせない以上、あれはただの鉄屑であって守るべき主要兵器ではありません……。それに、どうやらBETAは反応炉以外に執着はないようですし、90番格納庫に兵力を分散させるリスクを考えれば、切り捨てるべきだと判断します」

 夕呼の言葉にラダビノッドは頷き、では、と全軍に指示を下す。その指示によって基地演習場、第一、第二滑走路に展開していた全戦力をBゲートのある第一滑走路へ集結させ、且つ、A-01を反応炉へ、帝国斯衛軍を中央集積場へと移動させる。遂に、基地内部施設が戦場となる時がきたのだ。最早、地上での戦闘に勝ち目はない。時間稼ぎさえも出来ないほどにすり減らされつくした戦力では、押し寄せるBETAを留めることが出来なくなっていた。

 連中の目的ははっきりとしているため、目指す反応炉までの一本道を塞ぐ作戦に出たわけであるが、言うほど容易いものではないことくらい、この場に居る全員が理解していた。

 作戦はこうだ。夕呼直属にして横浜基地最強の部隊であるA-01をメインシャフトを通じて反応炉のある階層まで移動。ここは元ハイヴというだけあってかなりの広さを有しており、戦術機甲部隊が稼動するのに不自由しない。その分、迫ってくるであろうBETAも行動するのに困らないのだが、贅沢は言っていられない。迎撃できるスペースがあるだけ上々と思うほかない。……文字通りこれが最期の要となるため、こちらへ流れ込むBETAの数は出来るだけ少なくする必要がある。なにしろ一個中隊強の戦力しかないのだ。如何に精鋭とはいえ限界はある。

 このA-01の負担を軽減すべく、中央集積場に帝国斯衛軍の一個大隊を展開する。メインシャフトへ通じる隔壁を死守するのがその役目だが、円周に配置された全隔壁を守りきるためには些かどころか大いに戦力が足りないといわざるを得ない。向かってくる敵は万単位。面で迫ってくる怒涛に対して有効な防衛は果たせない可能性が高い。……だが、そこは帝国最強を謳う斯衛である。生存出来る可能性は皆無といっていいが、それでも、彼らの実力ならば帝国や周辺国連軍基地からの援軍がやってくるまでの間を持ち堪えさせてくれると信じるしかない。

 更にはメインシャフト内の隔壁を第二層まで充填封鎖することで、物理的な壁を構築する。完全硬化までに時間がかかるが、何もしないよりはマシだろう。とにかく、なにがなんでも敵を反応炉へ到達させない。それが唯一の勝利条件なのだ。

 それ以外にも小型種の侵入に対応すべく、各所に強化歩兵部隊を展開させ、メインシャフト以外からのルートで反応炉へ到達されることを防ぐ。戦術機が入れないような狭い空間にも、人間とさほど変わらないサイズの小型種なら楽々やってこれるからだ。……そして恐らく、この小型種との戦闘が最も凄惨且つ熾烈を極めるだろう。生身でBETAと戦ったことのあるものなど、この基地には一人も居ない。戦術機に乗って戦う衛士ですら、戦車級に取り付かれればパニックを起こし小便を漏らし泣き叫びながら喰われて死ぬのだ。眼前に迫る兵士級や闘士級を相手に、果たして何人が“戦える”か……。

 考えても仕方がない。やってもらうしかない。でなければ、全員死ぬのだ。世界が滅ぼされてしまうのだ。――最早、祈るほかない。

「……違うわ、まだやれることはある」

「博士?」

 内心に浮かび上がった弱気を振り払うように、夕呼は呟いた。怪訝に思ったラダビノッドが問い返すが、夕呼はそれには応じず、僅かでも可能性を高めるためのカードを投入することを決める。この絶望的な状況を覆すには、常識外れの奇跡が必要だ。BETAに滅ぼされるという因果を覆すイレギュラー……つまり、それは、世界を渡り、同一存在を無視し、この世界に顕現したもの。00ユニットを完成させるための鍵を握っているのではないか。そう感じさせる、あの、甘っちょろい餓鬼を。

「ピアティフ、鉄を呼び出しなさい。あいつも反応炉へ配置させるわ。まりもへは私から伝えるから、急いで頂戴」

「――ッ、はい!」

 モニターを睨みつけながら指示を下す夕呼に、ピアティフは一瞬だけ表情を強張らせた。遂に、というのが彼女の本音である。鉄は慰霊式典が中断されてからずっと格納庫で待機していたのだが、遂に出撃命令が下されてしまった。……いや、この状況で出撃がないことの方が異常なのだが、鉄はその存在に付随する機密性から今まで待機が命じられていたのである。……実戦経験がない、というのも理由の一つではあったが……。

 ピアティフは彼の素性を――異世界からやって来たという点については知らされていないが――ある程度理解している数少ない人物であり、鉄の精神を安定させるための役割を果たしてきた。それは僅か数ヶ月間のことではあったが、ピアティフの中では“任務”と割り切れるものではなくなりつつある。幼稚な恋人ごっこ。されど、この世界に絶望を見せる鉄を癒すうちに、彼女もまた、鉄に癒されていたのだ。こんな過酷な世界で、一人ひとりが毎日を精一杯生きることさえ難しい地獄のような世界で、自らを必要としてくれる存在が居る……。それは、幸せなことだったのだ。

 だからピアティフは想う。自分を必要とし、求めてくれる夕呼……そして鉄。この二人のために、自分は命を懸けると。――その鉄を、死地に赴かせねばならない。

「HQからドッペル1――――」

 内心の葛藤とは裏腹に、抑揚なく命令を伝達できる己が恨めしい。身に染み付いた軍人としてのサガが、ピアティフに想い人の「死」を命じている。心の中で、必ず死ぬわけではない、きっと還って来てくれる。そう何度も叫ぶように繰り返し祈り…………そんな奇跡が、起こるはずがないと、明晰なCPとしての自分が結論する。なんて嫌な女。最低だ。そんな風に自身を罵倒する間もあらば、耳に残ったのは何かを噛み締めるように軋ませた鉄の“了解”の声。

 自分は、遂に、鉄へ「死んで来い」と言ってしまったのだ。――後悔なんてしない。してたまるものか。どうか生きて還って来て。叶わぬ生還を祈りながら、ピアティフは自分の頬を張った。やけに響く乾いた音に遙が視線を向けてくる。周りを気にしている余裕などないはずなのに、実戦経験豊富なCPとはかくも落ち着けているものなのか。目が合った遙へ苦笑を向けて、ピアティフは己の任務に没頭した。その姿に何かを察したのか、遙もまた、ヴァルキリーズへ指示を飛ばし、後は互いに集中する。

 気合は入った。だからきっと鉄は無事に還って来る。そう、信じる。



「出撃……」

 ホントに、こんな時が来てしまった――。それが偽らざる鉄の心境であり、叶うならば今すぐに逃げ出したいというのも、本音だった。直接目にしたわけではないが、オープンに固定された通信回線からは絶え間ない断末魔が流れてくる。耳にまとわりついて来るようなその言葉たちに脅かされ、聞いているだけで二度も嘔吐してしまった。最悪なのはそれが仮面の中で、口元も顎もびしゃびしゃになり、呼吸穴から零れたモノで強化装備が汚れてしまったことではなく…………これが、紛れもない現実だということだ。

 クソッタレの悪夢。今までにも夢だ幻想だと散々喚いてきたが、それで元の世界に戻れるというなら、誰かがそう約束してくれたなら、鉄はあらん限りの声を振り絞って叫んだだろう。――こんなものは夢だ、と。だが、そんなことをしてもどうにもならないことは厭というほど見せ付けられてきた自分であるから、もうそんな無駄なことはしようとは思わない。気力もない。ただ、恐怖だけがあり、絶望に視界が白むだけだ。

 そんな折に告げられたピアティフの言葉。反応炉とかいう重要施設を守るために移動しろという内容の命令を受けて、鉄は遂に自分も死ぬのかと、目の前が真っ暗になった。――死ぬ? 莫迦な。これは何かの間違いだ。自分で嘲笑いたくなるような往生際の悪さだが、そんな思考がスルリと出てくる己は、本当にこんな世界に居たくないのだと実感できる。……もっとも、そんな実感を得たところでこの状況は覆らないのだが。

 一瞬、将軍と呼ばれていた少女の瞳が思い出される。あの、恐ろしいくらいに澄んだ瞳に見据えられた時、自分は一体何を思ったのだったか。――この世界に生き、死ぬ覚悟。そんなもの、ありはしない。鉄という名を押し付けられ、《鉄仮面》という存在に飾り立てられ、自身としての在り方を奪われた。もう一人の自分を殺すこと。最早それだけにしか自分にはなく、けれど、その先さえ手に入らない――手に入れる覚悟がないというなら、一体自分はどうすればいいというのか。

 繰り返される懊悩も、既に意味はない。基地はBETAなどという化け物の地球外生命体に滅ぼされ、自分も遠からず殺されてしまうのだ。このクソ忌々しい《鉄仮面》とおさらばできるというならそれもいいかもしれないが、けれど、死にたくなんてない。誰だってそうなのだ。死にたくない。生きていたい。こんな恐ろしい感情に染められたまま、一方的に命を奪われるなんて……耐えられるわけがない。だってみんな叫んでいた。だってみんな泣き喚いていたじゃないか。

 助けて。やめて。いやだ。そんな言葉を滅茶苦茶に支離滅裂に繰り返し、言葉にならない絶叫を悲鳴をぶち撒いて、自身も肉片になって死んでいく。……それを現実だと認めたくなくても、ぶるぶる震えてゲロを吐いてしまうくらいには、現実だと感じられている。認めてしまっている。――紛れもない、リアルだ。

 格納庫にいれば生き延びられるのかもしれないし、そうでないかもしれない。化け物共はこの基地を完全に破壊するだろうと夕呼は言った。どこにも逃げ場なんてないのだ。……この基地に到達される以前に逃げ出していたのならば、また違ったのかもしれないが、今更言っても遅すぎる。

 掠れた声で“了解”とだけ呟いて、鉄は機体を移動させる。網膜投影に基地内部のマップが表示され、進路が示される。地上には出ず、このままメインシャフトとかいう縦坑へ進むらしい。もはや、成すがままだった。鉄の精神は現実を放棄し、言われるがまま動く人形のような有り様だ。裏切られたと、哀しいと感じていたピアティフの声にさえ何も感じない。自分を駒としていいように利用した夕呼への憎悪も、どこかに自分だけ避難しているのだろう霞への怒りも、何もかもが失せてしまっている。能面のような《鉄仮面》の下の素顔は、もう、死人のそれだった。

 隔壁が開かれる。既にメインシャフトの充填封鎖は始まっているらしく、縦坑内を見回してみれば、上側は完全に閉鎖されていた。ピアティフから適宜指示が送られ、鉄はなにもかもを放棄したまま、ただ状況に流されるように機体を操縦する。……そんな芸当が出来るくらいには、戦術機の操縦は身に染みていた。なにせ、機動制御だけを見れば横浜基地はおろか世界的に飛び抜けたセンスと実力を持つ鉄である。足りないのは覚悟と経験だけで、戦術機の操縦で彼に匹敵する衛士はそうはいない。……そうなれたのも、ピアティフのおかげだったのだが……そのことすら、鉄にはどうでもいいことのように感じられている。

 だって、もう死ぬのだ。こんな世界で、こんな仮面のままで。死にたくなんてないのに、諦めるしかない。生きる覚悟もないこんな世界……どうだっていいさ。鉄は自虐的な笑みを浮かべようとしたが、それさえも億劫で、か細く息を吐いた。縦坑内部を降りる彼に、モニターに映る夕呼から嘲るような声が届く。

『あらなによ? そんな今すぐ死にそうな顔して。どうしたの? こんな世界夢に決まってるんだから、在り得ないんじゃなかったっけ?』

「…………ッ」

 仮面越しの表情などわかるはずがないのに、夕呼はまるで見えているかのように言う。しかも、たっぷりの嫌味つき。いやに耳に残る声音は、現実を見ないことにした鉄を刺激する。現実に引き戻そうとする。……こんな、怖くて泣きたくて逃げたくなるような、無慈悲で地獄のような世界に。自分を引き戻そうとするのだ。勘弁してくれ。もう厭だ。そんな風に駄々をこねても、きっと夕呼は聞く耳を持たない。だからなんだ、それがどうした、それでアンタはなにをするのか。饒舌にまくし立て、きっと自分の不甲斐なさを指摘する。そのくせ、どうすべきなのか……その答えは、自分に選ばせるのだ。

『反論もないわけ。黙ってればそれでBETAが消えてなくなるのかしら。――ハン、笑わせるわ』

 つまらないものを見る眼。最初から期待なんてしていないくせに、最初から助けてくれるつもりなどないくせに、どうして――こんなにも、夕呼は縋りつきたいほどの何かを芽生えさせるのか。憎い。殺してやりたい。……でも、助けてほしい、なんて。そんな言葉が出そうになる自分は、本当にどうしようもないくらい、怖くて、死にたくなくて……。一体自分に何をしろというのか。こんな自分に何が出来るというのか。何も出来やしない。BETAなんかと戦えるわけがない。だって死ぬんだ。あんな化け物と戦って生きていられるわけがない。

 現に大勢が死んだ。七個大隊が全滅した。衛士だけで二百五十人余りがこの世から消え失せたのだ。こんな地獄のような世界で毎日毎日訓練して戦って生き延びるために準備してきたような連中が、たったこれだけの時間で、あっという間に、全部、殺された。――だから、ほら、オレだって死ぬしかないじゃないか。生き残れるわけがない。そうに決まっている。違うのかよ、先生――ッ。

『いいことを教えてあげましょうか。あんたがこれから合流する部隊――A-01にね、アイツが居るわよ。“白銀武”。残念ねぇ。せっかくの復讐のチャンスも、あんたがそんなじゃ無駄に終わるわね』

「ッ、?!」

 どきりとする。心臓がうずく。俯いていた顔を上げて、思わず夕呼を凝視してしまう。――それが夕呼の姦計だと気づいていても、抗い難い誘惑があった。「白銀武」。その響きは、その言葉は、死人と化していた鉄の精神を黒色に染め上げてしまう。どうせ死ぬ。そんな諦めに亀裂が入るくらいには、致命的だった。

『あんたが戦う気がないのなら、いいわ。戻りなさい。機体は予備機に回せるしね。あんたは戦術機を降りてどこか安全な場所に逃げなさい。……ま、今忙しいから脱出の段取りなんて整えてあげられないけど、あんた衛士なんだし、走ってでも逃げられるでしょ』

 冷淡な瞳で告げる夕呼。一体彼女が何を言っているのかわからない。鉄は身を乗り出すようにしてモニター越しの夕呼に手を伸ばしていた。網膜に映っている映像に過ぎない彼女に――ちょっと待て、待ってください! ――そう叫びながら、わななくように、声を振り絞る。

 逃げろだって?! どこに!? 安全な場所なんてどこにもないじゃないか!! そう言ったのはアンタじゃねぇかよ!! ぃ、いや、そうじゃない! そうじゃない!! 誰が居るって!? アイツが居るって!? 何処に……下にッ!? “居る”のか? 本当に? この下に、白銀武が居る――。

「先生!! 夕呼先生!! 待ってください!!」

『なによ。こっちはアンタなんかに構っている暇なんてないのよ。さっさと格納庫に戻りなさい。今なら五体満足で外に放り出してあげるわ。まあ色々と機密も知りすぎてるし、本当なら銃殺なんだけど、生きて基地の外に出られるだけありがたいと思いなさいよね~』

 違う違う違う――!! そんなことは聞いていないッ! 鉄の中で何かがはじけようとしていた。自分は白銀武のことを聞きたいのに、聞いているのに、夕呼はさっきから一体何の話をしているのか。銃殺? 莫迦な。在り得ない。例え五体満足で基地の外に出られたとしても、今のこの状況で生きていられるわけがない。ああそういうことか。つまり夕呼は鉄に死ねと言っているのだ。お前は用無し。お前は使えない。だから死ね。疾く死ね。居ても邪魔だ足手まといだ。機密ばかり知っていて他に使い道がないから、さっさとBETAに喰われて死ね――そう言っているのだ。

 厭だ。そんなのは厭だ。下に白銀武がいるらしいのに、そんなのは厭だ。だって諦めていたのだ。死ぬと。死んでしまうと。自分はこのままBETAに殺されてしまうと。そうやって諦めていたのだ。……なのに、こんな地獄のような戦場で、下の階層に白銀武が生きているというなら。それはつまり……――つまり、なんだ?

『あら、どうしたのかしら? さっきまでの剣幕はどこいったのよ。……逃げるの? 逃げないの? あんたに戦う理由はあるの? あんたは何がしたいのよ。生きる理由のないヤツに用はないの。…………“シロガネ”。あんたがこの戦いを生き残ったなら、あんたに白銀を殺させてあげる。そして、あんたを“シロガネタケル”にしてあげるわ。……でも、あんたが逃げたいというなら、止めはしない。あんたは自分のしたいように生きればいい。BETAの海を潜って、廃墟と荒野しかないこの世界で、自由気ままに夢だ幻想だって嗤って生きることを祝福してあげる』

「ぇ、ぁ、え?」

 急に真面目な口調で、夕呼は淡々と述べる。白銀を殺させてあげる。確かに夕呼はそう言った。そして、鉄を――オレを――シロガネタケルにする、と。つまり、この世界の自分を殺し、本当の意味で、自分は自分自身として存在を赦される。それを赦すと。夕呼は言ったのだ。復讐を成し遂げさせてやる、と。

 困惑した。本当に、一体何を言っているのか。夕呼の真意が測れない。……いや、いつだって彼女は何を考えているのかわからなかった。彼女の考えを理解できる者など、鉄が知る限りではまりもしかいない。天才と人は言うが――この世界の夕呼は、それ以上に、理解し難い存在だった。

 逃げても構わない。その代わりに死ねばいい。そうやって冷たく突き放しておきながら、復讐の対象である白銀武を殺害するチャンスをくれるという。戦い、生き延びたなら、その報酬にこの世界での自分自身としての生を、居場所を、与えてくれるという。――どう、すれば、いい?

『そうそう。わかってると思うけど、――これが最期のチャンスだから。生き残れなかったら死ぬだけだしねぇ?』

「……ッ、ぐ、」

 鉄はもうなにがなんだかわからなかった。戦うか否か。その選択を迫りながら、実際は“戦う”以外の道を閉ざしているということはわかる。卑怯な誘導だ。こんな世界で死にたくないと願う自分には、戦わないという選択肢は選べない。……なぜなら、それを選んだ時点で自分は戦術機を降ろされ、BETAの群れに放り出されるのだ。夕呼が言ったことは必ず実行される。彼女の中に冗談はないのだから。

 けれど、死にたくないからといって“戦えるか”というと…………膝が震えだし、小便を漏らしそうになる。吐き気は幾分収まっているが、それでも、恐怖が拭えたわけではない。戦術機の訓練を積み、XM3を誰よりも使いこなし、斯衛にも認められるほどの腕前を自分は持っているらしいが――こんな、一方的な戦争を、生き残れる自信などない。否。コロサレル、と。そう脅えていたのだ。だから諦めた。もう駄目だ。もう無理だ。自分はここで死ぬのだと諦観した。

 そんな自分に夕呼は言う。戦わせるために餌を撒く。白銀武。シロガネタケル。ヤツへの復讐を匂わせ、そして……最期のチャンスだと、決定的な言葉を吐く。本当に卑怯だ。本当に狡い。――そんなことを言われたら、もう、戦うとしかいえないじゃないか。戦わずとも死が待っていて、戦ったとしても死ぬ可能性が高い。そんな状況に追い込んでおきながら。生き延びるためには戦って生き残るしか道はなく、そしてそのための理由は復讐の二文字しかなく。

 戦う理由。生きる理由。それを未だ明確に出来ないまま、自身の中に確立させることが出来ないまま――鉄は決断する。

「オレは、戦います……。戦って、生き残って!! ――――そしてアイツを殺してやるッッ!!」

『……いいわ。じゃあさっさと行きなさい。まりもには説明してあるから、後はそっちの指示に従いなさい。……いつまでも餓鬼やってんじゃないわよ』

 その最後の一言は、夕呼なりの優しさだったのかどうか。鉄には知れない。知る必要もない。最早この期に及んで死にたくないと叫ぶことに意味はない。前にも後ろにも逃げ場はなくて、進むことの出来るのは前だけだというなら。そこにある障害を蹴散らすことでしか未来がないというのなら。

「やってやる――。やってやる……殺して、殺して、殺しまくってやる……!!」

 そして、“白銀武”を殺す――。仮面の下の眼光に狂気が宿る。どす黒い想念に染まった怨讐の気配が、異世界から迷い込んだ鉄を支配していく。かつてない恐怖。かつてない昂揚。生き残るために敵を殺す。復讐のために敵を殺す。殺す殺す全部殺す。目の前に立ち塞がる化け物共は全部敵だ。明日を生きる未来を閉ざす異形は全部敵だ。そして、自分の存在を脅かすこの世界の白銀武。敵だ敵だ。全部敵だ。

 最下層の隔壁が開かれる。これを降りればそこにはA-01部隊が居て、白銀武がいる。……なら、この場で殺してやろうかと思ったが、レーダーには二十機近い戦術機が表示されており、流石に無理かと自重する。まりもから声を掛けられ、軍人らしい返答をし、更新されたデータリンクを確認して絶句した。

 そこにはかつて自分が居た世界で級友として多くの時間を共にした少女達が揃っていて、また、クラスは違えど顔を知っている者もいて――鉄は、自分の存在はここまで呪わしいのかと嘆きたくなってしまう。一体どうしてこんな世界に来てしまったのか。……そして、せめてなぜ、自分の居場所を用意してくれなかったのか……。この世に神様なんて便利な存在が居るのなら、どうかお願いだ――白銀武を、殺させてくれ――。仮面を掻き毟るように、爪が悲鳴をあげた。







 ===







 鉄。《鉄仮面》。そいつを見るのは初めてだった。噂どおりの仮面の衛士。みちるやまりもはそいつのことを知っている風だったが、水月は鉄を詳しく知らない。わかっているのは、XM3を考案し、『概念戦闘機動』を編み出した変態。或いは天才というべき衛士ということ。開発された新型OSによって戦術機に革新を起こし、佐渡島ハイヴを陥落させる鍵を生み出したもの。……人類に希望を与えた英雄。そういう見方も出来るだろう。

 つまり、水月は鉄に感謝していた。どんな男だろうと想像をめぐらし、同じ衛士でありながら全く異なる発想を生み出した彼と、ゆっくり話してみたいと思っていた。

 ――だが。

 モニターに映るそいつは。本当に鉄の仮面を被っていて、本当に正気の人間なのかと疑いたくなるくらい、不気味で、無機質だった。能面のような仮面には呼吸のためのスリットがあるだけで、一切、表情も目線も窺えない。一体どうしてそんな仮面を被っているの、か……――いや、違う。そうではないのだ。

 水月は硬直していた。その声を聞いたとき。不気味な《鉄仮面》の声を聞いたそのとき、耳を疑って、硬直してしまったのだ。……おそらく、皆似たようなものだったろう。特に、茜や真那は自分と同じく驚愕したのだと思う。なにせ、似すぎていたのだから。発せられた声の質、響き。とにかくとにかく、そいつの、鉄の声は。驚愕のあまり硬直してしまうほどに、武の声と“同じ”だったのだ。

 唖然として鉄を見つめ、武を見てしまう。だが、見慣れた彼の表情はやや驚きに染められてはいるものの、自分たちのように硬直することはなく、首を傾げるだけだった。気のせい、だと感じているのか。自分によく似た声というものを聞いた経験のない水月にはよくわからないが、ひょっとすると武にはあの鉄の声がなんとなく似ている程度のものに感じられたのかもしれない。

 だが、武自身の感性はどうあれ、鉄の発した声は気に掛かる。よくよく見れば顔の輪郭や髪の毛等にも似た雰囲気を覚えるが……外見的なことはあの仮面のせいで比較しづらい。直接対面すればまた違うのかもしれないが、とにかく、武に異常に似すぎている……と。そう思える。

(何を考えているの……私はっ、)

 この状況。基地壊滅まであと数歩というところまで追い詰められているこの状況下で、一体何を考えているのか。水月はゆるく頭を振り、雑念を払おうとする。今はまだ斯衛の精鋭部隊が持ちこたえているが、いずれその防衛線を越えた小型種があふれてくるだろう。最悪の場合、斯衛が全滅し、隔壁をすべて突破され、大型種を含むBETAの大群勢が押し寄せてくるのだ。……例え鉄と武が似ていようがいまいが、そんなことを気にしていい状況ではない。

 そうやって意識を切り替えようとした矢先に、まりもから部隊編成を変更する旨の命令が発せられる。鉄が加わったことにより、現在の編成は不知火十六機に武御雷四機の計二十機。変則的な部隊編成は既に佐渡島で経験済みなので、恐らくそう問題なく運用できるだろう。配置を説明するまりもの声を聞きながら、文字通り最終防衛線である自分たちの役割を、隊員の一人ひとりがより一層深く認識していく。

 最前衛を真那と武の二機が務め、得意とする剣術でBETA群の足を止める。その背後に斯衛の三機がつき、右方に真紀と多恵、左方に冥夜と慧をそれぞれ配置する。さらにその後方にまりも、水月、鉄の三機を配置し、臨機に対応する。際立った近接戦闘力を持つ彼女たちを前衛に押し出すことで手当たり次第にBETAを殺戮し、可能な限り後方へBETAを通さないようにする……言わば、力任せの陣容だ。

 後がない、という観点からすれば力任せだろうが何だろうがとにかくやれることを全力でやるだけであり、当然、弾の出し惜しみもする必要はない。が、反応炉の絶対死守を果たす可能性を僅かでも上回らせるためには、帝国軍・近隣国連軍基地からの援軍が到達する時間まで持ち堪える必要がある。つまり、無駄弾などひとつもなく、確実に敵を仕留めるという高度な技術が必要となる。

 その点では壬姫に敵うものはおらず、彼女は最後方で神懸かりなその技術を存分に発揮してくれるだろう。後衛は壬姫を中心に、残るメンバーが半円を描くように配置される。前衛を突破してきたBETAをまず出迎えるのは茜と亮子であり、さらに突破してきた個体を両翼に配置された美冴と梼子が討ち取り、円の内側にいるみちる、千鶴、美琴の三機が各々をカバーする。

 重厚にして徹底された防衛線。雪崩れ来るBETAを真正面から迎え撃つその陣形は非常に高いリスクを孕んでいるが、少数精鋭で戦い抜く以外ない自分たちにはこの方法しかない。戦死上等。だが、敗北は許されない――。部隊をこの場所へ移動させる決断をしたラダビノッド司令や夕呼の心中はどのようなものだっただろうか。……それでも、実際にこうして自分たちが配置されているということは、つまり――信頼してくれている、のだ。夕呼は。直轄部隊であり特殊任務部隊であるA-01を。甲21号目標を破壊したヴァルキリーズと真那たち斯衛の部隊を。……鉄を。

 故に水月は、漲ってくる闘志を隠そうとはしなかった。出撃前にはよく美冴に戦闘狂だのなんだのと揶揄されたものだが、今はそれくらいで丁度いい。いや、狂うほどに猛り、けれど冷静さを失わないことが必要なのだ。――戦い抜くだけでなく、仲間さえも護り切る。この作戦、一機たりとも欠けてはならない。この人数でさえ圧倒的絶対的に不足しているのだ。“通路の幅”という制約があってそうなのだから、つくづくBETAの脅威というものは侮れない。

 信頼できるCPであり親友の遙の、務めて冷静さを装おうとしている声が聞こえる。――BETA、メインシャフト到達。

『……遂にきたか。――――各機戦闘準備。第二層までの充填封鎖は完了しているが、それが突破されるのも時間の問題だろう。連中は“穴掘り”が得意らしいからな』

 静かな、けれど殺気と闘気に満ちた声。まりもの目つきは既に狂犬のそれだ。きっと自分も同じような目をしているに違いない。勿論、まりもの教え子である全員ともに同様な目をしていることだろう。怯むな。恐れるな。泣くな喚くな、悲鳴をあげる暇などない。恐慌に陥る暇などない。許されたのは戦うことだけだ。許可されたのはBETAを討ち滅ぼすことだけだ。敵を殺せ。仲間を護れ。全員で立ち向かい、全員で生き残る。反応炉を護れ。基地を護り抜け。――それが、世界に光り輝く“未来”を導くただ一つの手だ。







 自分には何ができるだろう。

 亮子は躍りくる戦車級を叩き斬りながら自問する。自問してしまった。思考を巡らせる余裕など一切ないはずなのに、小型種を踏み潰す度、あるいはこうして長刀を振るい36mmを放つたび、過ぎる思考を止められない。――自分には何ができるだろう。かつて親友はこう言ってくれた。自分は、優しいやつだと。仲間たちのよいところを見つけ、気づき、その人物の本質を――心のあり方を理解する才能を持っていると。

 そんな自分に何ができるだろう。BETAと戦い、BETAを斃す。基地を護るために、今もこうして戦っていて、必死になって我武者羅になって戦っていて――それでも、一体自分には何ができるだろうか。

 彼女のために。尊敬し、信頼する、大好きな茜のために。

 彼のために。尊敬し、憧憬を抱き、好きだと言える武のために。

 この命、全身全霊を賭し――わたしには、何ができる? 多恵と約束した。「一緒に頑張ろう」。その言葉を、鮮明に覚えている。だから死に物狂いで頑張ってきた。あの日以来、A-01の皆と共に、大切で大好きな仲間たちと共に。この世界に平和を取り戻すのだと。愛する彼を彼女を護るための力を得るのだと。毎日、厳しい訓練に明け暮れてきた。劇的な変化はなくとも、僅かなりとも成長できたのだろう。その全てをぶつけるしかない。

『ぅぅぉおおおあぁぁおおあぁああぁぁぁぁぁぁあああ!!!!!!!』

 地獄の底から響き唸るような獰猛な咆哮が続く。それは最前線で羅刹の如く乱舞し続ける武の咆哮であり怨嗟だ。真那とともに一秒たりとも留まることなく次から次に襲来するBETAの群れを引き裂いている。全ての隔壁を完全に突破したBETAの群れは地上で目の当たりにした物量よりいささか少ないように感じられるが、それは単に地上からこの場所に到達するまでの進路が狭いせいである。楽観などできないのだが、一度に向かってくる量が僅かでも軽減されているというのは、迎え撃つ自分たちにとってはありがたい。

 メインシャフト入り口を死守し続ける斯衛は残すところ二個中隊ということらしく、彼らが持てる全てを擲ってくれているおかげで、殆どのBETAを前衛部隊だけで殲滅できているのだ。……もっとも、最下層に辿り着いたBETAの数など全体からすればたかが知れているのだろうが、その“たかが”を相手に死力を振り絞らなければならないという事実は、BETA相手に防衛線を行うことの悲劇性をよく表していた。

 とにかく、前衛部隊は地獄の有様だった。鮮やかな紅色の真那の武御雷は当にその色をなくし、返り血や汚物にまみれぬらぬらと穢れている。彼女の部下などもっと酷い。元が白色の機体だからこそ、余計にBETAの返り血が目立ち、悲惨なものとなっている。長刀を酷使し続ける武は既に二本を駄目にし、今使っているそれらがなくなれば、多恵や真紀から長刀を借り受けなければならない。弾幕を張り巡らせる彼女たちとて残弾を気にしないわけにはいかないし、同様に近接戦闘を繰り返す冥夜と慧も装備を消耗し始めている。

 かつてない正面からの対峙に、誰もが途轍もない速度で精神をすり減らしているのは明白で、だからこそその背中を支える位置にいるまりもや水月の存在は大きい。とにかく後方に抜けるBETAの数を少なくしようと暴れまわる武と真那にとって、突破した敵を確実に仕留めてくれる味方の存在はありがたいだろう。激戦の中ひたすらに敵を葬り続けることに特化した剣術といえど、全てを殺戮できるわけではない。当然といえば当然だが、最早後がないこの状況で、後方に信頼できる仲間がいることは安心できるのだ。

 指揮を執り、部下たちの奮戦振りに激励を送るまりもが消耗し尽くした肉体に喝を入れてくれ、豪快に軽快に漏れて来た個体を蹴散らす水月が勇気をくれ、在り得ないほどの出鱈目な機動で敵を撃ち殺していく鉄が自信をくれる。誰しもが酷い絶叫をあげ喚き散らし罵声を吐きながら、精神と肉体が疲弊し心身ともに消耗しようとも、その目の輝きだけは消えない。衰えることなどない。

 砲火を絶やさぬとばかりに撃ち続ける壬姫や美琴、どれだけ手を尽くしても矢張り抜けてきてしまう個体を確実に仕留めていく自分や茜、みちるたち。全員が、戦いながらに奮えていた。沸々と闘士が湧き、不思議なことに、これほど絶望的な状況にありながら――いける、と。非現実的な感覚さえ掴んでいた。勿論、諦めているわけなどないのだから、その心意気であることが肝要だ。護り切らねば、未来はない。だからいける――護り抜ける。そう信じる。

 そんな中で自分にしかできないことがあるとするならば、それは多分、彼に代わり、茜を護ることだろう。最前線にて己の本領を遺憾なく発揮している武は、与えられた役割ゆえに直接茜を護ることができない。進行するBETAを食い止めることで間接的に護ってはいるが、直截の脅威から救うことはできないだろう。彼と茜との間には絶望的なまでの距離が開いている。その距離を埋めるのが、自分なのだ。そう亮子は考える。

 一緒に頑張ろうと抱きしめ合った多恵が武を護り、自分が、茜を護る。そうやってお互いが力を振り絞ることで、大好きな彼を彼女を護り切るのだ。――わたしはっ!

「白銀君っ! 茜さんはわたしが護ります!! だからどうかッ! ――安心してくださいッッ」

 気づけば叫び、それと同時に茜の眼前に躍り出た戦車級を弾けさせている自分がいた。亮子はすぐにハッとして口を噤んだが、叱責するはずの上官の声はなく、代わりに、快活な――そんな余裕など何処にもないはずなのに――快活な、武の笑い声が届く。或いは、水月や多恵の、耳をくすぐる珠のような声が。

『わかった! 頼んだぜ月岡ッ!! ――俺は目の前のこいつらを全部倒すッッ!!』

『言ったわねぇ月岡ァ! 武ゥ! あんたも男なら気合入れなさいよぉ!!』

『亮子ちゃんかっこいい~!! 私も負けないぞぉ!! 茜ちゃ~んっ! 頑張るからね~~! 白銀くんの背中はちゃんと護るからね~っ』

『ちょっ、ちょっとぉ!? みんなこんなときになに言ってんのよッ?! もぉ!!』

 口々に軽口を叩き、笑う。その眼には一層の覚悟が宿り、仲間の存在の有難さに輝いている。恥ずかしそうに頬を染めた茜の視線に、亮子は今更ながらに顔を真っ赤にしてしまった。一見気の抜けたように見える自分たちを、まりもとみちるが同時に叱る。彼女たちは今の数秒のやり取りで全員のナニカが変わったことに気づいていたが、それでも、ただそれだけでこの戦況が覆ることはないと知っている。

 すぐ近くで武と真那の背中を護っているまりもには、武の限界が近いことが明白だったし、後方で全体を見渡す位置にいるみちるには、BETAの物量に押し切られるのも時間の問題だとわかる。数が多すぎて個々に相手をすることが難しい小型種はいずれ反応炉に到達するだろう。防衛線を抜けたその個体を始末することは出来ない。その対処のために背を向けたならば、瞬間、押し寄せる大群に食い殺されてしまうからだ。

 突破されたものは無視するほかなく、故に、その数を最小限に留めるために死力を尽くして戦っている。前衛全てを捨て駒にしてでも、援軍が到達し、BETAの後続を断ち切るまで戦い続けるしかないのだ。

 だからこそ、亮子の言葉は皆に勇気を振り起こさせた。前衛に立つ全員は、自分たちが生き抜けるなどとは思っていない。当然、死ぬつもりもないが――その辺りが、人間として非常に難しい線引きではある――最後の最期に力を振り絞った後、命を懸けて護った者を、同じように護ってくれる仲間がいるということは、なによりも掛け替えのない、嬉しいことなのだ。安心して、逝けるのである。

 亮子は茜を護ると言った。その言葉一つが、擦り切れていく武の精神をより強靭にする。帯刀した弧月が呼応するように響き、武は咆哮した。真那と共に螺旋を描き、双頭の龍がBETAを蹂躙する。理性を吹き飛ばしたその表情は獣のそれであり、呼気は既にヒトではない。薬によって崩壊しつつある脳細胞に血を巡らし、心臓が爆発するように蠢動する。充血した瞳からは一筋の赤い糸が垂れ、操縦桿を握る拳には血管が浮き上がっている。体中が軋みを上げ――これが最期だと、悔いはないと、白銀武は己の命を燃やし尽くす。



 その、光景を。

 鉄は見た。――なんだよそれ。その呟きが彼の全てを物語っていて、同時に、腹立たしいような、寂しいような、わけのわからない感情に胸を毟った。真那の武御雷と共に無茶苦茶な戦闘を繰り返す武を見る。鉄自身、まりもや水月ですら背筋を凍らせるような天才的な機動によりBETAを襤褸雑巾のように蹴散らしていたのだが、そんな事実には気づかない彼は、亮子の言葉……そして、その後の僅かのやり取りを見て、聞いて、わけがわからなくなった。

 武は血を流している。口から、眼から。まるで死ぬ寸前の手負いの獣のように、獰猛に吼え猛り、敵を喰い、殺している。悪鬼羅刹。そんな描写が妥当と思えるほど、鉄の眼に映る武というニンゲンは狂っていた。――なんだよ、それ。何がそこまでさせるのか。何のためにそこまでするのか。誰がどう見ても武の姿は病人のソレであり、次の瞬間に息絶えたとしても不思議ではない。だから、鉄にはわけがわからなかった。

 何が起こっている。武はBETAと戦っていただけだ。激しい戦闘機動なのは間違いないが、それでも、同様に戦い続けている真那には武のような変化は見られない。異常なのは武だけだ。死相を浮かべ、死に物狂いに戦っている。――安心して、と。亮子は言っていた。彼女のことはよく知らないが、その一言が武を支えたのだということは、理解できた。こんなクソ化け物どもとの命懸けの戦いの中で、よくもそんな思考を持ち合わせていられたものだと自分自身で呆れるが――いや、こんな状況だからこそ、狂って当たり前、人間性をなくして当たり前なこの状況だからこそ、そんな思考を持ち合わせた亮子の言葉に、鉄は“ぎくり”としてしまう。

 頭にきた、腹立たしい、というもの本当だ。戦争などというものを知らない自分が、こんな異世界は夢だと声高に叫び誰かにそのとおりだと頷いてほしい自分が、小便を漏らし反吐を吐き、狂いそうになりながら戦っているというのに、どうして自分ではなく、白銀武にそんな人間味のある言葉が掛けられるのか。こんなにも頑張って戦っている自分ではなく、どうしてあんなヤツに、――アイツのせいでオレはこの世界の居場所を奪われているのにッッ――「安心して」などと!!! 温かい言葉がおくられるのかッッ!!

 だが、それ以上に頭にくるのが、白銀武そのものだった。血を流し、死にそうな顔をして戦うその姿。振るわれた長刀が要撃級の首を刎ねる度、飛沫を散らしながら咆哮する度、鉄の中のどす黒い想念が暴れだす。何故そこまでできる。どうしてそんなになって戦える!? 護る? 護りたい? 護るため? ――誰を!? 誰だよッ! 涼宮……涼宮茜。知っている。夕呼先生のクラスの委員長で、確か委員長と仲が良かったはずだ。水泳部のエースで、男子に人気があって――――違う違う違う、そうじゃないっ!!

 鉄はぎりぎりと歯を食いしばった。感情が沸騰する。わななくように全身が奮える。“純夏”でなく、“冥夜”でなく、“彩峰”でなく、“委員長”でなく、“たま”でなく。アカネ。を。護る? つまり、こんな世界で、こんな状況で、そんな言葉が罷り通るのだとしたら、それはつまり、――そういうことで。

 自分は異分子でしかなく、自分に居場所などなく、名も顔も奪われ、別人として生きるほかない《鉄仮面》。自分はこんなにも惨めで薄暗い底辺にいて、戦う理由も護るべきものも得られないまま死に物狂いに戦うしかなくて、逃げ場所さえ取り上げられ、死ぬしかないような戦場で生きる以外に道はなくて、奪われていて! ――なのにッッ!! どうしてオマエは! どうしてオマエだけがッッ!!

 どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてオマエだけが――この世界の白銀武だけがッッッ!!! 何もかもを持っているんだ!? どうしてっ、どうして!??

 同じシロガネタケルのはずだ。同じはずなのに。どうして、後からこんな世界に放り込まれた自分だけが…………こんな目に遭っているんだ……。どうして。

「なん……で……ッ」

『? ……鉄?』

 感情を沸騰させる。最早我慢の限界だ。夕呼はこれが最期のチャンスだといった。それは自分が復讐を遂げるためには生き残るしかないという意味なのだと思っていたが、どうやら違うらしい。血の涙を流し、血反吐を吐くあの武の姿を見てしまえば、ヤツこそが生き延びる最期のチャンスなのだと知れた。ざまぁみろ。死ねばいい。だがそれは、夕呼に軟禁され続け、自分という存在を剥奪された憎悪を晴らすには到底足らず、むしろ憎らしさが倍増するだけだった。

 そうやって怒りを憎しみを肥大させ、鉄は気づいてしまった感情に、事実に蓋をする。亮子の言葉に“ぎくり”としてしまったこと。それ自体に蓋をして、開けてたまるかと感情を暴走させる。――アイツにも生きる理由がある。そんな事実は、気づいてはいけない。知ってはいけない。鉄は武を殺し、鉄こそが白銀武と成るのだ。でなければ、本当に自分は一体どうすればいいのかわからないから。

 誰にだって護りたいものがある。誰だって生きていたいと願う。――自分のように。けれど、それを理解し、受け入れることなどもう出来ないのだ。鉄は知ってしまった。この世界にもう一人の自分がいるということを。その存在のために自分の何もかもが奪われたのだという真実を。だから、今更それに気づいたところで――うん、と、頷くことはできないのだ。自分だって生きたい。自分だって本当の自分として生きたい! 手に入れたいのだ……あの眩しいくらいに平和で楽しかった世界に還れないというのなら、せめて、自身として生きられる場所がほしい。

 だから、そんな事実は、感情は知らない。気づいてなどいない。自分は武の存在に、生き方に、ヤツにだけ全てが与えられていることに、怒り、猛り、憎んでいるのだ。呪わしいと。そう歯軋りをして、感情を暴走させるのだ。殺してやる。殺してやる。渦巻く想念は一つのベクトルに集約し、そうして――鉄は跳躍した。奇しくもそれは最下層の隔壁が跡形もなく吹き飛ばされたのと同じタイミングであり、そこから今までとは比にならない数のBETAが溢れ出すのと同時だった。



 全員が息を呑み、絶望に呼吸を忘れ、拍動の後に――覚悟を決めた。真那は愛する弟子と共に最期まで戦い抜けた幸運に感謝し、最愛の主をここまで護れたことを誇りに想った。隣には既に死に体の武。呼吸さえおぼつかない虚ろな眼をして、それでも、愛する者の名を囁いている。通信機からは涙混じりに茜が武を呼ぶ声が響き、最前列に立つ武を庇うように、多恵と真紀が機体を寄せてきた。

 この物量――充填封鎖していた第二層までが完全に突破されたということだろうか。各隔壁も大穴が開けられ、連中は落下するように転がり出ているのだろう。振ってくる要撃級に小型種は悉く潰され、或いはその要撃級や戦車級に乗って無事に降り立つ兵士級などの姿も見えた。真那は薄く笑うと、背後に控える部下たちに、隣に立つ武に、冥夜に告げた。それは隊形を縮めるように近づいてきた真紀と多恵、慧にも届き、まりもや水月、そして後衛の茜たちにも届いていた。

「皆、よく聞け。……これが最期となろう。私は貴官らと共に戦えたことを誇りに想う。この命を最期まで燃やしつくせることを、喜ばしいと想う。貴官らに感謝を……。神宮司少佐、部下を頼みます」

『『『真那様っ!?』』』

「そして武。御剣少尉。そなたたちに、心よりの感謝を」

『……っ!』

『月詠、中尉……』

 そして真那は武御雷を一歩前に進ませ、武の前に立つ。突き進んでくる圧倒的物量を前に、紅の機体が翻った。武は息を呑んだ。自身もその隣に並ぼうと機体を操るよりも速く、真那の一刀が先頭の要撃級を切り刻んで見せる。――一瞬の静寂。

「ああ、そうそう。速瀬中尉、貴様にも言っておくことがあったな。ふふっ、まったく貴様は大した奴だ。縁があれば、地獄で酒でも酌み交わしたいものだ」

『……ふん。斯衛に褒めて貰えるなんて光栄だわ。でもね、地獄でなんてごめんよ。部屋に戻れば本物の吟醸があるんだから、それなら付き合ってげるわ』

 真那の表情は一瞬華やぐように微笑み、瞬間、鬼神がそこに宿る。だからこそ――命を懸ける甲斐がある!! 不敵に笑う真那の機体はまるで神懸りな機動を見せ、次から次にBETAを葬っていく。その凄まじさに喘ぐように、武たちも続き、銃火が血肉を散らす。押し寄せるBETAの数は最早対処できるものではなく、これを押し留めることなど不可能だ。全員が捨て身になって戦うほかなく、その中でも、せめて己が命を懸けることで護りたいものを護るのだと、真那は武御雷の持つ性能を限界以上に引き出し、暴虐の嵐を巻き起こす。

 武もその後に続こうとするが、瞬間――限界を超えてしまったのか指先さえ満足に動かなくなる。こみ上げてきた血液がコンソールを赫色に浸し、目の前が真っ暗になってしまう。脳みその真横で心臓が鳴っているような錯覚があり、全身が瘧のように震えていた。――こんな、時に。こんなことで、自分は終わるのか。まだ戦いは終わっていない。まだBETAは止まっていない。真那を助けなければ。茜を護らなければ。純夏を、水月を、大切な人たちを……。なのに。無理やり動かした手の平で血涙を拭い、壊れた呼吸器官で酸素を貪る。

 薄ぼんやりとした視界に映ったのは、BETAの波に呑まれた真那の武御雷――――ではなく、黒い機体。BETAの渦中を跳び回り、跳ね回り、突撃砲を滅茶苦茶に撃ちまくり屍を築き上げる漆黒の不知火。《鉄仮面》の、ソレだった。

『ォォォオオオ!! オラオラオラァァァア!!! てめぇらはこのオレが殺してやる!! オレに敵うかよ! オレについてこれるのかよ!? ぁぁぁああ!!? シネェ!! このゴミ野郎どもがァァァ!!!』

 口汚く喚くその声。モニターに映る鉄の仮面。戦術機の天才。XM3の発案者。《鉄仮面》。――鉄。

 狂わんばかりの咆哮に、猛撃に、機動に、誰もが言葉を忘れているようだった。絶望しかないこの状況に、真那の武御雷が嵐を巻き起こし、鉄の不知火が稲妻を呼び寄せる。単独で前に出すぎた鉄をまりもが強張った表情で呼び戻そうとし、真紀、多恵、冥夜、慧の四機が呼応するようにBETAの壁を断ち切る。斯衛の白の三人も主の背中を護るべく三位一体の業を見せ付けた。水月は武の機体に取り付き、下がるように命令し、武は朦朧とする意識の中で、ただ鉄の機動だけを追っていた。

「鉄ェ!! 戻れッ!! 貴様一人で何が出来る!!?」

 まりもの怒声が突き抜けるが、それも躍るように跳び回る鉄には届いていないのか。同じように突出している真那にも下がれと言いたいところだが、彼女と鉄では技量と経験に差があり過ぎる。とはいえ、鉄の派手な機動はBETAを惹きつける効果もあるようで、ほんの僅かながら、連中の足を鈍らせることが出来ていた。……だからといって、この状況下ではそれほど意味はないのだが。前衛の手に負えない防ぎきれないモノたちの中には既に後衛の防衛線へ達しているものが多く、それさえを突破して反応炉へ取り付こうとするモノまでいた。最早これまでかと歯噛みするまりもは、それでも望みをつなぐために――一人でも多く生き残り長く戦い続けるために――再度鉄を怒鳴りつけた。

『うるせぇぇええ!! ――オレをっ! オレを鉄と呼ぶなぁァァア!!!! オレは“オレ”だッ!! 鉄じゃない!! クロガネなんかじゃねぇぇええええ!!!!』

 《鉄仮面》が吼える。その悲痛な、泣いているような叫び声に、まりもは己の失言を悟った。夕呼の言葉が本当ならば、彼はもう一人の白銀武なのだ……。人類の都合で生み出され、作り出された存在。偽りの名を与えられ、その素性を闇に葬られ、ただ道化として生きることを定められた者。ならば……彼のあの我武者羅な機動も、戦闘行為も、そんな、自分ではどうしようもない抑圧された感情を曝け出しているからなのか。「オレはここに居る」――そう必死になって泣き叫び訴える仮面の男に、まりもは何も掛ける言葉がない。

 そして、状況もまたそれを許さなかった。一面の怒涛となって押し寄せるBETAの一匹一匹を食い止めたところで、その上から、或いは左右から、溢れ、雪崩れ、突き進む暴威を止められない。卓絶した技量を見せ付ける真那でさえ、BETAに包囲され孤立してしまっている。その周囲を鉄の機体が跳び回り敵の吹き溜まりを築き、冥夜と慧がその山を打ち砕く。斯衛と共に真那を救わんと暴れまわる真紀と多恵。武を食わせてたまるかと弾丸をばら撒く水月。まりも自身も出来る限りを成しているが、それにも限界がある。

「伊隅ィ!! ――なんとしてもBETAを食い止めろォ!!!」

『ッッ――了解!!』

 機体にはS-11が搭載されている。先の『甲21号作戦』以降装備されていた人類の切り札。反応炉から距離のあるここでなら、これを起爆させてBETAごと吹き飛ぶことさえ厭わない。まりもの命令をそう解釈したみちるは、けれどそれは最後の最期にとるべき選択肢であると認識し、既に防戦を開始している部下たちを叱咤激励した。武の容態に激しい動揺を見せた茜も既に頭を切り替え、亮子と共に群がる敵を撃ち殺している。前衛部隊と違い、接近戦が不得手という者ばかりだが、それでも、熟練の衛士に勝る技量の持ち主ばかりだ。夕呼直属の最強部隊は伊達ではない。

 壬姫の精密な射撃に護られながら、各人が死力を尽くす。脇を通り抜ける小型種に激しい怒りと悔しさを覚えながらも、それでも、ただひたすらに弾丸を撒く。それしかできない。上の状況はどうなっているのか――埒もない思考が過ぎり、目の前の地獄から眼を背けさせようとする。そんな浅ましい現実逃避紛いの行為を、みちるは盛大に罵倒した。

『いいかぁ貴様たち!! ――決して無駄死にするなァ!!』

『『『『了解!!』』』』

 絶対に。護ってみせる。例えこの命を落としても、必ず仲間が果たしてくれる。無駄死にになんてさせない。絶対に。――絶対にだ。



 水月の声が聞こえる。逃げなさい――そんな風に叫んでいた姉のような彼女の表情は、怒っているようで、泣いているようで、焦っているようで……やっぱり、怒っていた。役立たずの足手まといはさっさと退がれ。そう言っているのだと、叱られているのだと思う。やさしいひとなのだと、改めて感じた。最初からそうだった。初めて出逢ったときから……いや、最初はなんだか怖い人だったっけ。でも、憧れるようになって、尊敬するようになって……ああ、そうだ。やさしいのだと感じたのは、好きだな、と感じたのは。

 あの雪の日。純夏が死んでしまったのだと――そう泣いて叫んだあの日の、眩しいくらいの朝日の中。抱きしめてくれた彼女の温もりは、ただ、優しくて涙が出た。

 真那の姿が見える。父の形見の刀を託してくれた彼女は、いつもいつも、温かな感情をくれた。挫けそうな自分を、捻じ曲がりそうな自分を、いつも、何度でも、あきらめず鍛え直してくれた。信愛をくれた。華やぐような微笑がすごく綺麗で、怒った顔はすごく怖くて。向けられる信頼が嬉しくて、彼女のように崇高でありたくて、後継として認められたことが……涙が出るくらい嬉しくて。

 強くなりたい。なによりも力が欲しいと願っていたあのとき。出逢えた幸運に感謝を。貴女に逢えてよかった。本当に心の底からそう思える。

『武――ッッ!! お願い武!! 眼を覚ましてぇ!!』

 茜。茜の声だ。きっとこんな自分を気遣っている余裕なんてないはずなのに、自分自身命を磨り減らして戦っているはずなのに。……ああ、どうしてお前は、そんなにも心配してくれるのか。同じ訓練部隊になって、ずっと一緒に過ごして来て、いつだって背中を支えてくれて、ずっと好きでいてくれて。愛してくれた。――愛している。君を護りたい。お前を護りたい。なによりも、誰よりも、今ここで生きている茜――お前を愛している。

 震える右手が管制ユニット内を泳ぐように這う。確か、ここに――吹き荒ぶ砂嵐のような視界の中、虚ろに酸素を煽る口から血液を垂れ流しながら、武はユニット内に備え付けられている救急キットを取り出した。血を拭うのか。包帯でも巻くのか。――否。この中にはアレがある。万一、緊急の事態のときにも服用できるようにと備えていたあのクスリがある。副作用を抑えるために改良を施されたあのクスリの服用は三日に一度。それは改良後も変わらない。……昨日呑んだばかりのそのクスリを、カプセルを、一つ。痙攣するような右手で、辛うじて摘み……口の中へ放る。

 ――これから、三日に一度、今と同じくらいの時間に一粒呑みなさい。いい? 期間を間違えても、投薬数を間違えても駄目。

 それは劇薬。それは魔薬。僅か二週間の投薬で脳の配線を変え新たな機能を付加し、人外の魔技を成すクスリ。非道の果てに至り、非業の果てに辿り着き。いつしかそれは遺伝子そのものを弄くる悪魔の御業へと届かせるもの。服用せねば脳機能に障害をきたし、服用すれば死は免れぬ。ただ死ぬためだけに呑み、ただ生きるために呑む。まさにソレは魔薬に相応しく、だからこそ、人を狂わせる。

 武は口内に溜まった血液と共にクスリを嚥下する。最早動かぬこの体に、どうかひと時の奇蹟を。僅かでいい。この戦いの間だけでいい。せめてどうか――もう一度、この体を動かしてくれ。今まで一度たりとも服用規定を破ったことのない武だったが、既に死へのカウントダウンが残り少なくなっているなら、何が起ころうと覚悟の上だ。少なくとも、ここで野垂れ死に、庇ってくれている水月を道連れに死ぬよりはマシだ。

 効き目が薄くなってきたというなら、服用する間隔を短くするだけだ。それが即死につながる可能性は捨てきれないが――それで死ぬというなら、水月も諦めがつくはずだ。……いいや違う。死ぬものか。死んで堪るか。このひと時でいい。今だけでいいのだ。眼を開き、呼吸をし、心臓の鼓動が生命を紡ぎ、憎きBETAを斃せるのなら。愛する彼女たちを護れるのなら。――そうしたら、死んでやる。だから!!

 飲み込み、必死に願う。どうかどうか。お願いだから。今ひと時の奇蹟を与えてください――。どんなことになってもいい。数時間も生きられなくたって構わない。残る命の全てを燃やし尽くしてもいい。元よりここが死に場所だ。自分はこの戦いの後に死ぬとそう決めたのだ。惜しくなんてない。だからだから、どうかお願いします。戦わせてくれ。護らせてくれ。茜を。純夏を。水月を。真那を。

 心臓の音が消えた――――――――一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。武にはもうなにも感じられない。外界の音さえ聞こえず、渦巻く暗闇しか見えず、もがく指さえ感じない。それは刹那の時間だった。水月の突撃砲から36mm弾が発射され、目標へ命中するよりも遥かに短い時間だった。突き刺すような光が見え、巡る血液の拍動が聞こえ……そして、

「ぁっ、ぎ、ぃ……ぎぃぁあああああ嗚呼ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 激痛。そして――、武の脳は覚醒する。



『武!? ――ッ、くっ! この! 邪魔ぁああ!!』

 武の絶叫に続き、水月が叫ぶ。そのあまりにも尋常ではない声音に、思わず茜は止まってしまった。幸いだったのは、機体は既に長刀を振りぬいており後は慣性に従って戦車級を斬り付けるだけだったことか。タイミングが一瞬でもずれていたら、自分は今、死んでいた。

「たける……?!」

 動揺しながらも機体を操り、次々に群れ出るBETAを刻み撃ち殺す。身に染み付いた技能は自身の動揺など知らぬとばかりに敵を確実に屠っていくが、それでも、茜の意識が武たちへ向いてしまっているのは変わらない。連携を組む亮子が注意を促してくれ、フォローしてくれるが、茜は嫌な汗を拭えなかった。

『茜さんっ!! 今は戦って!! 白銀君は大丈夫です! 速瀬中尉がついてるんですから!!』

「……うん、ごめん!」

 わかっている。大丈夫だ。大丈夫に決まっている。武は死んでなんかいない。絶対に。だから戦おう。自分の役割を果たそう。そう自分に言い聞かせて、茜は亮子へ謝辞を述べる。安心したように頷いてくれた亮子と共に再び戦闘に集中する彼女だったが、それでもどこか、気にしてしまう。だが、茜の危惧とは裏腹に、武の不知火はそれまでの停滞が嘘であるかのように、唐突に動き出した。

 呼び止める水月を無視して、武の機体は跳躍し、孤立している真那の下へと向かう。足元に群れるBETAを完全に無視したその吶喊――まず間違いなく、真那を救出しようというのだろう。同様に彼女の退路を拓こうとしていた巽たちに合流するように、武の機体が着陸する。茜が眼にできたのはそこまでだった。思わず武を眼で追ってしまっていたが、眼前に走ってくる戦車級の対応に追われてしまい、それどころではなくなる。

(……ッ、武、たける!! 死なないで、お願い――!!)

 無理やりに捩じ伏せた叫びを、痛切なその想いを、茜は胸中に吐き出した。彼は行ってしまった。ならばもうどうしようもない。彼も自分も軍人であり、与えられた役割はただ一つ。反応炉を死守すること。ならばそのために出来る最善を成すのみである。既に小型種の多くが反応炉に到達し、エネルギーを補給している。砂糖菓子に群がる蟻のようなその様に、生理的嫌悪が噴き出してくる。――やらせない!

 もうこれ以上、敵を一匹だって通さない。通してなるものか! 背後を振り返る余裕などない茜と亮子は、とにかく前面の敵を押しとどめようと足掻きに足掻く。美冴と梼子、千鶴がそれを支えてくれる。反応炉に到達した個体を美琴が精密射撃で処理し、みちるが彼女を護る。半円の内側で壬姫は、ひたすらに前衛部隊の支援を行っていた。誰の顔にも鬼気が宿り、焦る気持ちと募る恐怖に歪んでいる。最早希望は何処にもなく、ただ意地があるだけだった。

 今日までに喪われてきた多くの仲間たちの、衛士たちの命。人々の命。涙。その全てを――無駄にしない。無駄にさせて堪るものか。ここで負ければ全てが終わる。人類を救う希望の輝きが喪われてしまえば、人類は、地球は終わりなのだ。……ヴァルキリーズの全員は、そんな悲劇を起こさせないために戦っている。そのための礎となれと、我が身我が命を懸けている。斯衛だってそうだ。煌武院悠陽殿下の御身御命を護るために戦い、散った――それは全て、彼女の導く世界を、彼女が築く平和なる日本を護るためだ。

 すべては今、この瞬間に懸かっている。横浜基地の全てを擲ったこの戦い。最早残っているのは僅かながらの斯衛と自分たちのみ。あとどれだけの時間を護りきれるのか。滅亡へのカウントダウンは確実に短くなっていた――。



 目の前が真っ赤に染まっている。見えるのは赫と黒のモノクロ。反響するような声たちが自分を呼ぶ声だと気づくのには数秒が必要だった。けれど、応えようと開いた口からは血液しか零れ落ちず、己の声は発せない。どのみち、応えている時間さえ惜しかったのだ。そして一々彼女たちに構っていられるだけの余裕などない。彼女たちならわかってくれる。彼女たちなら対応してくれる。自分が囮になれば、真那と鉄は脱出できるのだ。

 言葉にならない絶叫を振り撒きながら、武は機体を旋回させた。描く螺旋は龍の顎。ボロボロの二刀が翻り踊り、BETAの華が咲き乱れる。爆散。叩き斬った肉片が砕け飛び散り、噴き散った体液が肉共を彩る。ここが地獄というのなら、自分は鬼だ。復讐鬼。或いは殺戮鬼か。今はただ、殺すだけの獣でいい。濁流のような鼓動に脳が焼けるよう。溢れ零れ落ちる血液に、正気が喪われていく。世界は真っ赤な血に濡れて、言葉さえ紡げないというのなら。自分はもう、生きてさえいない。

 死にながら戦っていた。生きながら死んでいた。それが魔薬の多重投与によって引き起こされた奇蹟と言うのなら、武は神様だか死神だがわからないような存在に、心の底から感謝の言葉を贈りたいと思った。

 彼の――絶句するほかない戦いぶりに、その形相に、有様に……多恵は顔色を失った。一切の事情を知らずとも、最早誰の眼にも明らかだ。武は死ぬ。けれど、それでも戦っている。彼がやろうとしていること。真那と鉄の退路を拓く。押し寄せるBETAの大群にそれを成すことが出来なかった自分たちを先へと進ませるために、自身がその剣術を以って囮になろうとしているのだ。彼一機で何が出来るのか――そんな心配が無用だということは、ここに居る誰もが知っている。現に真那はたった一機で雪崩れ込むBETAの一割を押し留めているし、鉄は直進しようとする連中を惑わすことで行動を乱している。

 そのどちらもが多くのBETAを引き付けて離さないために、二人ともその場から動けなくなってしまっていた。後方に下がり、仲間と合流しようとすれば、それはそのまま引き付けた敵を連れてくることになるからだ。だが、このままでは呑み込まれてしまう。リスクを承知で合流しなければ、僅かの可能性も費えてしまうのだ。だから、武が囮になる。巽たちに向かっていたBETAの一部が武へと流れ込み、蹴散らされていく。その隙を、生まれた空隙を、斯衛の三機は見逃さなかった。同時に、真紀たちも動く。

 白い武御雷は主の下へ。蒼い不知火は鉄の下へ。――けれど、ただ一機。多恵の不知火だけは、武と共にBETAを引き付けるように銃弾をばら撒いていた。どうして、と。そう思う者はいない。きっと多恵が残らなければ誰かが残ったのだろう。夥しい血液を零れ落としながら戦う武一人を犠牲になどしない。生き残ることなど考えていないような彼を、その思惑通りに死なせてやるような優しさなど、誰も持ち合わせていないのだから。

『白銀くん!!』

 呼びかける声は弾むようで。長く連携を組んできた彼女は、まるでそれが当然であるかのように武と共闘を開始した。まともに応じることさえ出来なくなった武にも、彼女の気遣いは嬉しいと感じられる。だから、有難うと。声にさえならない呼気に乗せ、武は羅刹となった。消える一瞬前に最も苛烈に燃え上がる蝋燭のように。この命、燃やし尽くす。



『鉄少尉!! 下がってください!』

 喚き叫び、右も左も上も下もわからずにただ戦い続けていた鉄に、初めて声が掛けられる。絶大なる恐怖に神経を磨耗させていた鉄は、最初それを「敵」だと認識した。

 自分は何のために戦うのか――その答えを得られぬまま、ただ感情のままに鉄が単機でBETAの群れに突っ込んだのは、白銀武に対する怒りと憎悪、そして混乱からだった。居場所を手に入れるために戦わざるを得ない状況に追いやられた自分と、居場所がありながら戦いの中勝手に死のうとしている武。しかもそいつにはちゃんと護るものが在って、生きる理由まで在るのに――ここにオレという不遇な存在がいることにも気づかないまま、瀕死になって血を吐いている。

 それがムカついて、腹立たしくて、悔しくて、どうしていいのかわからなくなりそうで。憎しみに火がついた。激情に身を昂ぶらせた。……本当に、どうしたらいいのかわからなかったのだ。この手で殺してやりたいという憎悪が、自分を知りもしないという怒りが、自分という存在にまったく関係なく死のうとする武が、その引き金を引くきっかけになったということもあるだろう。

 つまり、鉄は戦場に酔うことを選んだのである。……そして、感情のままに弾丸をばら撒き、膨れ上がる憎しみのままにBETAを撃ち殺し続け、類稀なるその才能でXM3の性能を限界まで引き出して――単機で数十のBETAを足止めするに至ったのである。飛び出した彼を下がらせようと苦慮したまりもの叫びなど、本当にごく一部しか聞こえていなかったのだ。敵を殺すたび、化け物の肉片を36mmで散らすたび、鉄の意識は昂揚していった。炸裂し、ぶち撒けられる体液と肉が、彼の“ゲームの中での残虐性”を刺激した。

 元の世界で散々やりこんだゲームの中に、ロボットを操って群がる敵を一掃するものがあった。或いは架空の世界の武将となり、矢張り群がる敵を一網打尽にすることもあった。そういった、数で迫る敵を一方的に圧倒できる痛快な刺激を鉄は徐々に感じ始めたのである。両手に構えた突撃砲から銃火が絶えることはなく、地を壁を天井を、果てはBETAさえ足場にする三次元的な機動は一瞬たりとも留まることなく。神懸りなその機動でBETAを翻弄し、凄まじい銃撃でBETAを屠りまくっていたのだ。

 長刀を用いた独自の剣術でBETAを翻弄する真那とはまた違う凄絶さが宿る彼に、誰も手を貸すことが出来ないまま……そうして彼は、真那同様に孤立し、絶えることのないBETAに包囲されてしまう。そこからが、鉄にとっての地獄だった。自分が孤立してしまっていることに気づいたのは右手に持っていた突撃砲の銃弾がゼロになった時だ。それまで調子よく敵を殺しまくっていたのに、水が差されてしまった。つまらなそうに鼻を鳴らした鉄は左手の突撃砲で銃弾をばら撒きながら弾丸を補給するはずだったのだが、そこでようやく、全ての弾を使い尽くしてしまったことに気づく。

 従来なら在り得ないことだろう。実戦を経験したことのある衛士ならば、絶対にそんなミスはしなかったはずだ。……経験の浅い新人、或いは初陣の新兵にありがちなイージーミス。いや、昂ぶりすぎた感情にハイになるあまり気づけなかったというべきか。戦場の恐怖、BETAの恐怖に恐慌をきたした兵士は、我知らず引き金を引き絞るという。手に持った武器の全てを以って、目前の恐怖を追いやろうとすることが多いという。……鉄の状態がそれと同じだとは言いがたいのかもしれないが、少なくとも彼は、自身の周囲の状況や残弾に気を配るほどの意識はなく、それを意識しなければならないのだという認識さえ何処かに追いやってしまっていた。

 恐怖が――襲ってきた。

 慌てたように右の突撃砲のトリガーを引くも、何の反応もない。当たり前だ。弾がないのだから。――なにをやっている!? 自身への罵倒も、余計焦りを呼んだ。本当なら弾がなくなった時点で突撃砲は投棄するべきだったのだろうが、焦り、恐怖に包まれそうになる脳裏には、逃げることしか浮かばなかった。長刀一振りに短刀も備えてあったのだが、こんなに出鱈目のように襲い来る化け物の群れ相手に接近戦を行うなど、異世界からやってきた彼には無茶苦茶な自殺志願者にしか思えない。

 故に、逃げる。残る弾丸を左手に握った突撃砲から吐き出しながら、逃げに逃げた。半狂乱になりながら、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。何故誰も助けてくれないのか。こんなにも怖い。こんなにも死にたくないと願うのに、誰一人味方がいない。孤立していた。囲まれていた。視界に映るのは全て敵。敵。敵。敵だ。自分を殺す敵。自分を喰い散らかす化け物。殺される、殺される――そんな恐怖が、濁流のように押し寄せた。

 左手の突撃砲も弾を撃ち尽くし、鉄は言葉にならない罵声を吐きながら両方の突撃砲を投げ捨てる。白い歯を躍らせる小型種が数匹潰れて死んだが、それが慰めになることはない。相変わらず敵はまとわりついてくるし、何処にも逃げ場がない。何か身を護るものが欲しくて抜き放った長刀と短刀は無闇矢鱈に振り回されるだけで、とても正常な判断が出来ているとは言えないだろう。事実、鉄の視界にはもう何も映っていなかった。BETAの姿形をまともに認識できず、喰われたくない一心で滅茶苦茶に機体を暴れさせるだけだ。

 そんな狂騒の末に、冥夜は辿り着いたのである。

『鉄少尉!! 我らが退路を拓きますゆえ、少尉は後退してください!!』

「――ぁ、ぇ、あぅ、あ?」

 冥夜だ。鉄は泣きそうになった。恐怖に茹った頭で、狂乱に振り回された感情で、よく知った彼女の顔を見た。――ぁあ、冥夜だ。彼女が助けに来てくれた。凛とした彼女の声はよく耳に馴染む。それはまるで怖くて眠れない子供をあやす母親のような安心感。もう大丈夫なのだと安心させてくれる強い声。その声を聞いて、ようやく鉄は自分を取り戻した。臨界を超えた恐怖は緩やかに去り、《鉄仮面》としての自分が前に出る。

『くっそぉぉお!! 数が多すぎる!! 御剣ィ!! はやくしろぉ!!』

『……くっ、キリがない』

 鉄がなんとか機体を冥夜の傍に寄せる間に、そのような通信を耳にする。冥夜から突撃砲を受け取りながらそちらを見れば、自分たちの後方を、二機の不知火が切り拓いてくれていた。…………自分を助けに来てくれたのだ。それを知った鉄は、これで死ななくて済むのだと――気の早すぎる――安堵をしてしまった。冥夜と共に真紀と慧が拓く退路に飛び込む。自分の知る級友たちとは別人なのだとしても、それでも、鉄はよく知った彼女たちが自分を助けてくれたことを嬉しいと感じた。本当ならそんな彼女たちとありのまま向き合っていられる武の存在に憎しみを抱くのだろうが、今ばかりはそんな余裕もなく、ただ、まだ生きていられる事実に気が緩んでしまう。

 本田真紀。という名の先任少尉の不知火の後ろを通り過ぎ、若干強気が戻りつつあった鉄は、反応炉へ向かうBETAたちを手土産とばかりに散乱させる。散々命を脅かされ、小便を漏らすほどの恐ろしい思いをさせられたのだ。それくらいの報復は当然だという気持ちがあった。四散する戦車級の群れに胸が好くようで、自尊心が満たされる。だが、鉄は逃げるべきだったのだ。形振り構わず、先ほどまでのように、ただ逃げればよかった。つまらない感情を満足させるための報復などせず、助けてくれた冥夜たちとともにまりもたちが待つ後方へと、逃げるべきだった。

 耳にまとわりつくような音だった……と思う。はっきりとは聞こえなかったのでわからないが、とにかく、そんな厭な音だったのだということは、わかった。鉄にはそんな厭な音よりも、続く冥夜叫び声の方が記憶に残っている。或いは、初めて聞いた慧の雄叫びが。

『彩峰ッッ!! 退けぇぇ!!!』

 ただ、その言葉に背中を押されるように、鉄も退いた。自分を先頭にして、冥夜と慧の不知火が三角形の形をとる。

 凄まじい戦闘を続ける武と多恵の横を通り過ぎ、同じように脱出してきた真那とその部下たちと合流し、最後尾を先ほどの武たちがついてくる。まりもと水月が自分たちを迎え入れ、ようやく合流を果たした前衛部隊は、最早ここにいてもBETAの進行を押し阻むには至らないと判断し、“全員”で、後方へ下がる。

 鉄は首をめぐらせた。網膜投影に映る彼女たちの顔を何度も数えて……首を傾げた。確か、自分を助けに来てくれた不知火は三機だったはずではなかったか。冥夜に慧……そして、初めて顔を合わせた先任衛士。何という名前だったか。どのような顔をしていたのだったか。鉄には思い出せない。何度数えても足りない。……いや、えっと、だから?

「……………………ぇ?」

 零れた自分の呟きに、鉄は背筋を凍らせる。それが戦争の恐ろしさであり、本田真紀の死だった。







 血みどろ、という言葉は、きっとこういう場所に相応しいのだろうと茜は思う。

 真紀の戦死を引き金に、ヴァルキリーズは衰退を極めた。武は既に屍と化し、機体を反応炉にもたれさせるように倒れている。最期まで武のカバーに徹していた多恵は戦車級にたかられて鉄片と混じり、亮子は機体の脚部を破壊され、要撃級の怒涛に消えた。その、あまりにも呆気なさ過ぎる戦死者の連続に、誰もが言葉をなくし、誰もが感情をなくし、誰もが希望を見失おうとしている。――血みどろだ。

 いつの間にか司令部との通信も途絶え、聞こえるのはノイズと意味を成さない喚き声たち。残り僅かな残弾を全て壬姫に託し、全員が抜刀して鬼神と化す中……茜は己の限界を悟っていた。それは肉体的なものと精神的なものの両方であり、なによりも、呼吸を停止して随分と経つ……彼への想い。鈍痛のように沈み、心が磨耗していく。もう無理だとわかっていて、もう駄目だとわかっていて、それでも、目の前に現れるBETAを斬るのは何故だろう。

 水月が言った。絶対に諦めない。

 真那が言った。死すべきは貴様らだと。

 みちるの号令に合わせて決して無駄死にをしないと自身を奮い立たせても、まりもの狂犬の如き叱咤を受けても、終わりの見えない緩やかな“終わり”は、確かにもうそこまで肉薄している。全員が直にその命を落とす。もう間もなく。すぐ……次の瞬間にでも。反応炉を背後に、たった十六機でジリ貧の戦いを続けたところで、もう、出来ることは生き足掻くこと以外になく……。

 S-11を使うタイミングを完全に逸してしまった、ということもある。元々反応炉に近しい位置での戦闘ではあったが、迎撃の初期であれば、例えばタイマーを仕掛けた状態で投擲することも可能だった。爆風や爆圧による影響はあっただろうが、その頃であったなら相当数のBETAを殲滅できていただろう。或いはS-11による自爆も、効果を挙げたに違いない。だが、それらの手段をまりもが、そしてみちるが選択しなかったのは、基地施設を出来る限り温存したいということ、絶対的に不足している人員を無闇に減らせないことの、それぞれを重んじたからだ。

 結果として反応炉まで追い込まれ、四人の戦死者を出し……成す術もなくなってしまっているわけだったが……ここで彼女らを無能と叱責するには、あまりにも彼女らは優秀でありすぎる。個々人の技能は正真正銘の最強部隊に相応しいし、死んで逝った者たちも、素晴らしい衛士たちだった。その死を無駄とは言わせない。……だが、このままではその気概さえ打ち砕かれてしまう。

 反応炉を奪還され、横浜基地を壊滅に追いやった部隊。そんなレッテルを貼られてしまうのだけは耐えられないし、許されない。最高の仲間たちだった。最高の部下であり、先任だった。誰も彼も、皆。――だから戦う。だからまだ戦っている。だから諦めないし、死すべきはBETAだと戦える。どれだけ血みどろになろうとも。どれだけ喚き散らそうとも。涙枯れ果てて尚、勝利して歓喜の涙を流すために。

 そしてもう一つ。費えかけた希望に灯を点す者がいた。彼という存在に火をつけた言葉が在った。

 それは白銀武という名の青年が、名と顔を剥奪された彼に宛てた言葉。自らの血に溺れ、眼球や口鼻から血液を吐き零し絶命した白銀武の、最期の言葉。それは茜への遺言であり、愛であり……水月への親愛と感謝であり、真那への礼と信愛だった。

 決して、彼に宛てられたものではない。けれど、紛れもなく……彼に宛てられた言葉だった。最期の、ただその一言だけは。



 “純夏――お前を護ってやれなくて、ごめん”



 青白い燐光を放つ反応炉へ向けて、呟くように。まるで“そこ”に彼女がいるかのように。愛しげに、寂しげに、悔しげに。茜へ、水月へ、真那へ宛てた言葉たちのなによりもすまなそうに……向けられた、謝辞。

 瞬間。

 《鉄仮面》に変化が起きる。それは覚醒と呼べるほどの、ナニカ。脳髄に流れ込む――自分の知らない自分の、十八年の記憶。

 『なんのために戦うのか』。その理由を、解を得た瞬間だった。







[1154] 守護者編:[五章-04]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:c760b461
Date: 2009/02/11 00:28


『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』



「守護者編:五章-04」






 途切れ途切れのその声は、酷く虚ろで、血に濡れていて、聞き取りにくいものだったはずなのに……妙に、脳裏に響く。口腔を血液に溢れさせているはずの武の最期の声は、それでも確かに全員に届いていたし、想い人へ宛てられた温もりは、それぞれの胸に刻み込まれたのだろう。それは、クスリの多重投与に耐えられなかった脳ミソが激変した結果得られたプロジェクション能力だったのかもしれないし、そんな言葉を聴きたかったという彼女たちの思い込みだったのかもしれない。いずれにせよ、彼が戦死した以上、その事実を確認することは出来ないが、……それでも、紛れもなく。鉄は彼の声を聴いたのだ。

 純夏、と。

 茜や水月、真那は眦に涙を浮かべ、零れ落ちるそれらを無視して尚、我武者羅に戦いとおしている。武が抜けた穴を必死に護り抜こうとした多恵は、その直後に、まるで武の死に引き摺られるように戦車級に覆われてしまった。一番近くにいた亮子が多恵の機体に群がる化け物を引き剥がそうとしたが、隙をついた要撃級に脚部を破壊され、泣き叫ぶ多恵の断末魔を聞きながら、数多のBETAに踏み潰されて絶命してしまう。一緒に頑張ろう――そう約束しあった彼女たちは、約束を果たすことが出来ないことを悔しいと思う間さえなく、あっという間に、この世から消えてしまったのだ。

 それが、理解できない。鉄には、一体今、何が起こっているのかがわからなかった。……今更、である。今更ではあったが、それでも、白銀武が何を言ったのかわからなかったし、多恵や亮子が死んだ意味もわからない。少し前にも一人が死んだ。……。

 純夏、だって?

 呆然と立ち尽くす黒い不知火に、怒りを滲ませた水月の罵声が飛ぶ。弟分を喪った水月は、つい感情に任せてしまったのだが、すぐに後悔した。例え怒りをぶつけたとしても、武たちは還ってこない。それを知りながら、それでも、大切な人たちを奪っていくBETAへの憎しみを何処かに吐き出してしまいたかったのだ。無論、すぐに頭を切り替えられなければ次に死ぬのは自分であり、或いはその自分をフォローしてくれた仲間かもしれないので、染み付いた衛士としての習性が、彼女を冷静にさせる。――あんな言葉をもらって、死ねるわけがない。

 そんな水月の胸中を知る由もない鉄は、呆然と反応炉を見上げた。巨大なその足元にもたれる白銀武の不知火を見つめ、混乱によろめいてしまう。……なにが、起こっている。何を言ってるんだ、お前は。なんて、言ったんだよ……お前は!

「ふざけるな……ッ」

 脳髄に流れ込んでくるナニカがある。白昼夢のように雪崩れ込んでくる泡沫の夢。少女を護るのだと意気込み、教わった剣術に明け暮れ、衛士を目指すために努力を続け、仲間と出会い共に過ごし、大切な彼女を喪ったことに嘆き狂い、手を差し伸べられ、背中を支えられ、進むべき道へ導かれ、復讐に溺れ我をなくし、愚かさに嘆き、過ちに涙し、運命の非業さに己を見失い、世界の裏側を垣間見、自身と彼女に課せられた悪意を呪い、赦されざる大罪を背負い、運命を受け入れ、愛に気づき、護るのだと誓って……結局、護れないままに、息絶える。

 それは、たったそれだけの十八年間の日々。自分の知らない自分の物語。――知るか……知るかよッ! そんなものッッ!!

「なに死んでんだよ!? 何で死んでるんだよ!? てめぇ!! ふざけるなぁあ!! オレに気づきもしないで! オレを知りもしないで!! なんで、どうしてっ!? オマエはオレが殺したかったのに!! オレはオマエを殺したかった!!!! なのに! じゃあオレはどうすればいいんだ?! オレにどうしろって言うんだよ!! オレはオマエだ! オマエはオレなんだよ!! なのに、オレだけがこんな仮面を押し付けられて、夕呼先生に弄ばれて!! ――オマエに復讐するしかないじゃないか! 全部オマエのせいだって、押し付けて憎むしかないじゃないかよッッ!? ふざけんな! なんでそんな勝手なことを言って死んでいくんだ!! オレに押し付けて、オレに“こんなもの”見せて! どうしろっていうんだ、畜生ォォォォオオ!!!」


 ――純夏――お前を護ってやれなくて、ごめん



 その言葉が、抉るように。

 何度も脳裏を過ぎる。繰り返し繰り返し、抉るように紡がれる。白銀武は反応炉へ向かって言った。まるでそこに純夏がいるのだと言うように――そして、それは真実なのだと鉄は知ってしまった。もし“それ”がこの世界の白銀武の記憶だというのなら。いつも無邪気に笑顔を振り撒いていたあの勝気な幼馴染は、脳ミソと脊髄だけでこの世界に生きていることになる。BETAという名の化け物の技術で、今もまだ、反応炉に繋がったまま、ぷかぷかと浮かんでいるのだ。

 この世界にいないんじゃない。こんな世界に、産まれ、生きて、白銀武に恋をして……今もずっと、独りぼっちで生かされている。鉄の脳裏を、純夏の笑顔が過ぎる。それはこの世界の白銀武の記憶ではなく、紛れもない、自分自身の記憶。その中の彼女。くるくると表情を変えて、いつも楽しそうで、いつも莫迦をやって、からかって、叩いて、殴られて、頬を膨らませたり、飛び跳ねたり、大声で名前を呼んで、走ってきて――ぁぁ、ぁぁぁあ!

「知るかよ! オマエの記憶なんて知るか!! オレは“オレ”だ!! オマエじゃねぇ!!」

 あまりにも――違う。違いすぎる。この世界と自分がいた世界。それはこんなにも、こんなにも大きな隔たりを以って、鉄を責め苛む。白銀武の意思も想いも苦しみも悲しみも絶望も後悔も罪も逃避も心も復讐も怒りも優しさも涙も喜びも愛も。全部全部、なにもかも、それは白銀武のものだ。それは紛れもなく彼の全てであり、彼自身であり、間違っても鉄のものではない。――これほどに、違う人間だったのだ。

「オレは――」

 白銀武を殺して、復讐して、“白銀武”に成りたかった。元の世界に還りたくて、でも還る手段なんてなくて……こんな酷い異世界に居場所がないというのなら、そこに自分と同じ顔と名前をしたもう一人がいたなら、そいつの居場所を奪い取って、自分の座る椅子が欲しかった。そいつがいるから自分は名前を顔を奪われ、薄暗い檻に閉じ込められ、存在を秘匿され、道化を強制されたのだ。『だから』、呪わしい。『だから』憎んだ。殺してやりたかった。本当に。許せなかった。心の底から。どうしてという怒りが、理不尽な世界を憎ませた。

 なのに。白銀武は死んでしまった。幼馴染を護るために衛士を目指した男は、復讐にとり憑かれ道を見失い、外道と成り果てながらも捧げられた愛に守護者を夢見た。後悔と絶望に塗り潰され、そして深い愛に満ちた彼の人生は、その短い幕を閉じてしまった。後悔なく。愛する者に看取られて。血反吐にまみれて死ぬだけの最期の生を。

「オレは――オマエじゃない、オマエなんかじゃ、ない」

 この世界に白銀武はひとりだった。“そいつ”と“自分は”、こんなにも、あまりにも、異なっていた。違う人間だった。名前や顔なんて関係なく。本当に、文字通り別人だったのだ。自分は異分子で、ここは異世界で、つまりは最初から……そういうことだったのだ。この世界に居場所なんてあるはずがなかった。この世界に生きる意味などあるはずがなかった。……でも、それでも、だからといって死ぬ理由なんてない。ここに居てしまっている。ここに存在してしまっている。自分は。それでも尚、ここに確かに“居る”し、“在る”のだ。

 守護者になると誓い、愛する者を――茜を――護るのだと誓った白銀武は、その誓いを果たせずに死んで逝った。愛する幼馴染を、純夏を護りたいと願っていた彼は、原初の願いさえ果たせぬまま、死んで逝った。ザマァみろ。同情なんてするものか。哀れだなどと思うものか。苦しんだのは自分も同じだ。狂いそうだったのはオマエだけじゃない。生きる理由を見失って、復讐を選択したのも……オマエだけじゃない。

 運命を受け入れる? 死ぬだけの日々を精一杯生きる? ――だから、どうした。結局オマエは、何一つ成せないまま無様に死んでしまったじゃないか。茜を泣かせ、純夏を放り出して、自分勝手に満足して。悲劇の主人公にでもなったつもりか。…………。

「違ぅ……」

 それは自分のことだ。悲劇の主人公ぶって、白銀武に復讐することを選ばざるを得なかった、なんて。そんな――甘え。

 この世界は異世界で、ここに自分の居場所なんてなくて、生きる理由も、死ぬ理由も、護るべき者も、護ってくれる者も、なにもない。誰が悪いわけでもなかった。白銀武に成れるはずがなかった。けれど、それでも、と。どうしても思わずにはいられない。……もし、この世界の白銀武が今日ではなく、もっと早くに死んでいたなら。戦死でも病死でもいい。もし……自分がこの世界に紛れ込んでしまうその前に、既に他界していたならば。…………この《鉄仮面》を課せられることはなかったのかもしれない、と。

 怨むは筋違いであり、呪う相手などいないと気づいても。それが運命だなどとは到底受け入れられない。そんな弱さを“弱い”と断じることは……鉄には出来なかった。だから、自分には矢張り復讐しかないのである。死んでしまった白銀武に対する復讐。ただそれだけを、果たすほかない。



 白銀武は鑑純夏を護れなかった。

 だから、オレが純夏を護る――それが、あの日の約束を果たせなかったオマエへの、復讐だ。



 復讐の守護者。それが、鉄の選んだ道。無限に拡散した世界に散り行く“この世界の白銀武”の因果の流動を垣間見、『なんのために戦うのか』、その理由を、解を得た瞬間だった。







 ===







 反応炉で死に物狂いの攻防を続けているだろうA-01と連絡が途絶えてから数十分が過ぎようとしていた。通信機器に異常はみられないのに、電波だけが遮断されている。ハイヴ内での通信を妨害する何某かが、まさかBETAにも備わっているとは誤算だった。得体の知れない焦燥が司令部を覆い、夕呼でさえ、表情にハッキリと苦悶を浮かべている。部下を親友を信じているという思いと、最早全てが手遅れなのかという焦り。手の平の汗を白衣のポケットの中で拭い、思い切り奥歯を噛み締める。

 危険を冒しての反応炉停止は無駄に終わった。メインシャフト以外のルートから基地に侵入した小型種が制御機器を破壊してしまったのか、最下層にあるケーブルを噛み切ったか……否。停止操作に向かったピアティフや歩兵部隊と連絡が取れない以上、そして反応炉停止が確認できない以上、――つまりは、そういうことだった。夕呼自らが赴くことを制止した遙さえを遮り、死地へ赴くことを厭わなかったピアティフ……。世界の未来のために夕呼の生存は絶対で、“これからのA-01”のために遙は絶対に必要なのだと言いのけて。

 そうして、彼女は還ってこなかった。……夕呼は自身の片腕を喪ったのである。そして、その腕はかつて無くした右腕と違い、もう戻ってこない。

 地上には未だ数百を数えるBETAが蔓延り、それを抑えるべく奮迅してくれていた斯衛も全滅した。地下に避難させていたはずの煌武院悠陽は警備兵を押しのけて司令部へとやってきて、その最期の光景を、堂々たる佇まいで看取っていた。自分によく仕えてくれた忠臣の死に様を誇らしげに想う悠陽は、悲しみを胸に秘め、夕呼へハッキリと言い放つ。――この基地を救いなさい。なんとしても。言われなくてもわかっている。諦めるつもりなど最初からない。

 この基地が救えない程度の天才であるならば、元より世界など救えない。反応炉を喪い、鑑純夏の脳を喪ってしまえば、人類に未来はないのだ。……だが、この絶望的な状況を覆せる可能性は限りなく少ない。エネルギー切れを待つといっても一体いつ切れるのかわからないし、反応炉を死守しているはずのA-01はもう全滅しているかもしれない。BETAはエネルギーを補給したならばまず間違いなくこの基地を破壊し尽くすだろう。ハイヴ周辺が例外なく無謬の荒野と化していることは常識だ。

 あと十数分もすれば斯衛や周辺基地からの救援が到着すると連絡があったが……果たして、間に合うか否か。BETAのエネルギー切れが先か。基地施設が食い荒らされるのが先か。援軍が到着し、全滅させるのが先か。…………援軍が到着しても、果たして反応炉まで辿り着くのはいつになるのか。いずれにせよ、A-01の生還は絶望的だ。BETAの猛撃を真正面から受けてたった斯衛はもう居ない。同じように彼女たちが死んでしまっていたとしても、何の不思議もないのだ。

 そんな思考に意味はなく……。今こうして司令部に敵の脅威が及んでおらず、ここから把握できる限りの施設も無事だというなら、それが夕呼にとっての全てだ。既に反応炉が敵の手に落ちていようが、A-01が全滅していようが関係ない。如何にしてこの状況を覆すか。基地を……否、鑑純夏の脳を守り抜くか。それだけでいい。BETAに捕らえられ、BETAの手によって脳と脊髄だけで生かされている彼女さえ在れば――。

 だが、そんな方法は確立できていないし、BETAがどういう技術で彼女の脳を生かしているのかさえ解明出来ていない。基地を放棄できたならいっそ楽だったのかもしれないが、そんなことをすればAL4は即中断され、夕呼はその地位を追われるだろう。そうなれば、人類を救うどころではなくなってしまう。本末転倒だ。……成す術などなにもない。悔しいくらいにそれを理解していて、それ故に、無駄な思考が巡ってしまう。

 歯痒い。それは00ユニットを完成できない苛立ちに似ていた。量子電導脳を完成できない悔しさに似ていた。自分の力ではどうしようもないのかと、己の無力さを痛感するとき。手の平に食い込ませた爪が、肉を裂いて血を流す。成す術はないのか。最早手はないのか。ただ座して援軍を待つ……それしか、出来ないのか。戦術機甲部隊は全滅した。機械化歩兵部隊もとっくに壊滅している。整備士が決死の覚悟で予備の戦術機を動かして応戦したりもしたが……須らく残骸と化した。戦力はもうない。あるとすれば将軍専用の武御雷一機と、未完成のXG-70くらいか。

 ムアコックレヒテ機関を暴走させて基地ごと自爆してやるか? BETAはメインシャフトに殺到したため、90番格納庫は無事だ。必要な手順さえ教えれば、誰だって自爆させることが出来る……。いや、駄目だ。想定では『G弾』二十発分の威力を持つはずだから、被害範囲は尋常ではない。下手をすると帝都まで呑み込んでしまうかもしれない。地球全人類を道連れにする覚悟が必要だ。00ユニット一つのために、地球を喪うことは夕呼にも選べない。それならば00ユニットを切り捨ててでも生き延びて、いつか自力で00ユニットを完成させてみせる。

 いずれにせよ、待つしかない。援軍の到着を。BETAのエネルギー切れを。或いは連中がここを襲ってくるのを。――A-01の、生存を。成す術なく、己の無力さに憤りながら。ただ、重い沈黙を保ったまま、運命が拓けるそのときを。







 ===







 美琴の提案は想像以上の効果をもたらしていた。反応炉に取り付いたBETAはエネルギー補給を最優先して動かない。彼女自身半信半疑であったようだったのだが、反応炉よりも後方に下がり道を開けてやると、連中は砂糖菓子に集る蟻のように反応炉へ飛びついたのである。無我夢中、という言葉があるが、進路を阻んでいるときは容赦なく飛びついてきた化け物が、一切自分たちに目もくれない光景というのは……些か複雑であった。

 それは反応炉に取り付いた個体を精密射撃で撃ち殺していた時に気づいたのだという。ただ、その時はとにかく反応炉から引き剥がすのに夢中で、且つ、全員が混戦に巻き込まれていて死に物狂いであったため、すぐに思考の隅に追いやってしまった。真紀をはじめとして、武、多恵、亮子が戦死し、どうしようもないほどに追い詰められ……それでも諦めずに戦う姿を見せ付けてくれた真那や水月の姿に勇気を与えられ、希望を見せ付ける鉄の機動に勇気を与えられて――唐突に、思い出したのだ。

 逼迫した精神状態では思い出さなかっただろう。極限までおいやられ、磨り減らした心身では、思い出せなかった。美琴は頷く。思い出せたのは、心に僅かなりとも余裕を、自信を取り戻せたからだ。――彼のおかげで、ボクはまだ戦える。

 それは黒い不知火。武たちの死後、決して短くない時間、呆然と立ち尽くしていた鉄は、武の屍に向けて叫んでいた。その言葉の殆どを誰も理解できなかったが、それでも、彼が武の死に憤っていることはわかった。白銀武。訓練兵の頃より夕呼の特殊任務に携わってきた彼ならば、同じく夕呼秘蔵の天才衛士と繋がりがあったとしてもおかしくない。そういう、どこか自分たちの知らない繋がりを持つ故に、武の死に嘆いているのか――そう思ったときだった。

 英雄とは。或いは、希望もたらすものとは。きっと、鉄のような人物を指すのだろう。壬姫の周囲に集められた突撃砲と弾薬を奪い取った鉄は、唸るような咆哮と共に飛び上がり、中空から敵を薙ぎ払い始めた。壁を蹴り、天井を蹴り、縦横無尽に、重力さえ感じさせないほどの超絶機動。XM3の真価を惜しげもなく発揮しながら、彼は羅刹の如く敵を屠り、或いは地上に降りた瞬間に抜刀し、見覚えのある螺旋軌道で敵を切り裂いて見せた。

 その瞬間を、美琴は――彼女だけではない。全員が目にしていた。BETAが、怯んだのである。鉄の機動に。鉄の反撃に。鉄の気迫に。鬼気迫るその荒ぶりに。全員が勇気付けられ、全員が諦めることを忘れ、全員が希望を抱いた。――まだ、やれるのだと。鉄の機体が特別なのではない。同じ不知火。同じXM3。違うのは、異なるのは、それを操る者の技量知識気概のみ。諦めるな。戦え。鉄のように。抗え。死ぬな。生きて戦え。――鉄のように!

 最期の応戦が始まった。

 最期の攻防が繰り広げられた。残り僅かな残弾を確実に喰らわせ殺し、ボロボロの長刀を突き立て殺した。そうした中で美琴は忘れていたBETAの習性らしき違和感を思い出し、飽和しそうな物量に成す術を喪おうとしていた現状を打破できる可能性が一厘でもあるならばと決断したまりもが提案を受け入れ…………A-01は、ヴァルキリーズは、辛うじてまだ、命をつないでいる。

 絶対に辿り着かせてなるものかと足掻きに足掻いた反応炉に敵を群がらせるという暴挙によって。食事に夢中な連中を手当たり次第に殺すことで。薄皮一枚で繋がった首を、必死の思いで繋いでいたのだ。皮肉としか言いようがない。最初から道を明け渡していれば、連中は反応炉に至るまでに立ち塞がった自分たちを蹂躙するなどなかったのだ。多くの、あまりにも多くの命を犠牲にして。素晴らしき仲間たちを喪って。最後の最期には、こんな手段をとらねば戦えない。その悔しさに、怒りに、涙を流す者も居た。

 それでも、反応炉を奪還させないことが至上命令であることに変わりはなく。例えどれほど屈辱にまみれた手段であろうと、反応炉さえ護りきればそれでいいのだ。そうでなければならないのだ。何人死のうが、どれだけ悔しかろうが。逝った仲間たちを無駄死ににさせないためには、なにが何でも任務を果たすほかないのである。

 まるでお行儀よく並ぶBETAの列。お目当ての反応炉は、連中にとっても何よりも大切なものだということだろう。最下層を埋め尽くす長い長いBETAの列のその先頭。反応炉にびっしりとこびりついた小型種を短刀で殺ぎ落とし、しがみつく戦車級を長刀で突き刺し殺す。そうやって順番に、一匹ずつ。確実に殺し、ちまちまと殺し、剥がれ落ちたその場所に張り付いた次のBETAを、次のBETAを、その次のBETAを。殺して殺して、順番に行儀よく。莫迦みたいに殺す。反応炉に張り付く敵を。

 完全にエネルギーを補給し終える前に殺す。どんどん殺す。本当に皮肉だ。連中は反応炉にさえ到達してしまうと本当に、まったくこちらを見向きもしない。あれほど苛烈を極めた戦闘が遠い過去のように思えてしまう。まるでたちの悪い悪夢を見ているかのよう。食事中以外のBETAに近づくと襲ってくるので、どうやら敵に反応することに違いはないようだったが……それが一体何の慰めになるというのか。

 狂いそうだった。無我夢中に、我武者羅に。ただ行かせるものかと地獄のような戦闘を続けていたほうがマシだった。罵詈雑言にまみれ、返り血に濡れ、理性をなくした獣のように殺戮の嵐の渦中に居たほうが、きっとマシだった。後どれだけの時間、“これ”を繰り返せばいい。反応炉の光が見えないほどに張り付いた化け物どもを淡々と順番に満遍なく殺す。“そんな作業を”、あとどれだけ続ければ解放される?

 一秒が長い。一瞬が遠い。果ての見えないBETAの列が、その長さが、仲間たちの死を磨り潰していく。鉄を救うために身を挺した真紀は一体何故死ななければならなかったのか。夕呼に脳改造を施され死を間近に控えていた武は、どうしてあんな無残な死に方をしなければならなかったのか。多恵は、亮子は。第一から第七まであった戦術機甲部隊の全員は。斯衛一個大隊は。

 気が、狂いそうだった。磨り減らされた神経が、磨耗した精神が、更に更に磨り潰されていく。一体何のための戦いだったのか。一体何のために戦っていたのか。一体、何のために、死んで逝ったのか。彼らは。彼女らは。どうして。こんな、餌に群がるだけのBETAなんてものに、喰われ殺されなくてはならなかったのか。――もうやめてくれ。そして、もうやめさせてくれ。願っても願っても、BETAはその数を減らさない。最下層に響くのは、ひしめき合うBETAの気配と、狂わんばかりの思考の渦に苦悶するA-01の泣き声だけだった。

 それは全員の胸に最期の希望を抱かせた鉄も例外ではない。白銀武の記憶を垣間見たことで、彼はBETAとの戦争の凄惨さを知った。それはいつだって哀しみの連続で、それはいつだって残酷さと隣り合わせだった。呆気なく死んでしまった先任たち。恐怖の絶叫に塗りつぶされて命を落とした彼女たち。仲間のミスで、或いは自らの不運で。BETAに殺された数多くの人々。

 それがBETAとの戦争だった。復讐の狂気に自身を喪失してしまうことを恐れ、戦争の狂気に飲み込まれることを恐れた。先任の死に怯え、己の過ちに脅え。そうして何度も間違いを繰り返しながら、復讐心、恐怖心、そういったものに折り合いをつけてきたのだ。――それが、白銀武にとっての戦争だった。愛する者を護るための、BETAとの戦いの全てだった。

 だというならば。

 これは一体なんだ。“この作業”は一体なんだというのか。こんなものが戦争であるものか。こんなものがBETAとの闘争であるものか。こんな、……こんなっ! ただ繰り返し反応炉に群がるBETAを一匹ずつ潰していく作業が、単調でただ苦いだけの、繰り返すたびに苦味を増すだけの狂おしい“流れ作業”が!! ――これがBETAとの戦争であるわけがない!!

 これは地獄だ。ここは地獄だ。全身全霊を以ってBETAとの戦いに明け暮れた方がまだマシだ。生きているという実感。例え恐ろしい地獄のような戦場でも、自分は間違いなく生きて、戦って、護っているのだというちっぽけな自己満足を得られたはずだ。なのに、ここにはそれがない。生きている実感がない。戦っているのだという、護っているのだという実感が、微塵たりともありはしない。

 一体何故死んだのか。どうして白銀武は死んでしまったのか。こんなことならば、彼は命の全てを懸けて戦うことなどなかったのだ。この最下層が戦場に選ばれた時点で、皆が揃って反応炉よりも後方に構えていれば、こうして砂糖菓子に群がる蟻の群れを駆逐できたというのに。結果論でしかなく、暴論でしかないことも理解していたが……それでも、そう思わずにはいられない。苦しい。苦い。もうやめてくれ。そんな言葉が無意識に蠢く地獄のような時間。

 鉄は、変質してしまった。僅か一時間にも満たない戦闘の間に、彼は完全に……平和だった“あちらの世界”の住民ではなくなってしまっていた。BETAを知り、共に戦った者の死を知り、BETAの戦争を知り、これほどまでに狂おしい戦争を知った。白銀武という一人のニンゲンの人生を、その、あまりにも報われない終幕を知ってしまった。――もう、無知な餓鬼ではいられない。ぬるま湯の平和など幻想に過ぎない。

 自分はこの世界で、鉄として生きるしかないのだ。異世界に紛れ込んでしまった不遇を呪い、この鉄の仮面を押し付けられる原因となった白銀武へ復讐するしかないのである。もう戻れない。戻る方法もない。……戻れたとしても、こんな世界を知ってしまった以上、元の自分には戻れない。故の変質。この世界で、生きるしかない。哀しく、苦しく、嗚咽を漏らしながら。戻れない現実に、戻れない過去に、鉄は涙する。嗄れるほどの嗚咽を咆哮へと変えて。涙しながらに、BETAを殺し続けた。







 ===







 果たして、どれだけの時間が経ったのか。

 鉄の記憶に残っているのは、BETAの屍骸と残骸、体液に埋もれた惨憺たる光景。反応炉の輝きさえ濁りきった地獄の底。その次には場面が切り替わっていて、白い天井と蛍光灯の明かりが見えた。……それが病室のベッドなのだと気づくのに数分を要し、自分がまだ生きているのだと把握するのに更に数分を必要とした。――BETAは。奴らはどうなった。あの地獄のような苦い戦闘は……、どう、なったのか。

 跳ねるように身を起こし、病室を転がり出る。開け放したドアから廊下に飛び出ると――衛生班が忙しそうに走り回っていた。廊下のあちこちに蹲る兵士たち、或いは担架に乗せられたまま白い布を被せられているもの。血の滲んだ包帯を巻いているもの、怯えたように医師の腕を握り締めるもの。さまざまだった。呆然とその混乱を見やり、鉄は知る。…………あの地獄は、もう終わったのだ。

 ふらつくまま病室へ戻り、さっきまで寝かされていたベッドに腰掛ける。そのときにようやく、ベッドの脇に腰掛ける霞の姿に気づいた。どうやら自分が目を覚ますまで看病してくれていたらしいのだが、そんな彼女に掛ける言葉を、鉄は持っていなかった。ぼんやりとしたまま、室内を見回す。……個室、だった。廊下にまで怪我人が溢れているこの状況で、どうして自分は個室に寝かされていたのだろう。もっと、自分より酷い怪我をしている人のために使ってやればいいのに――何気なくそう思ったときに、霞が手を添えてきた。右手の甲に置かれた小さな白い手を見つめる。次いで見上げた少女の表情は、泣いているようだった。

「……なぁ、霞」

「…………はい」

 虚ろ、とも表現できるような声で、鉄はぼんやりとしたまま問いかける。銀色の髪の少女は、彼の心の声を聞き取れる彼女は、泣きそうな顔のまま、けれどしっかりと頷いた。

「オレ、どうなったんだ? ……みんなは? べーた、は……」

「終わったんです。……もう、全部終わりました」

「そ、か」

 曖昧模糊とした記憶。あの後なにがあったのか。自分が生きていて、あの戦闘が終わったというのなら、それは作戦に成功し、任務を達成できたということなのだろう。つまり、BETAのエネルギーが切れたか、援軍が間に合ったのか。……酷く眠い。酷く疲れている。頭がうまく回らない。白銀武が死んだ。彼の仲間たちも死んだ。まるで泥沼のような持久戦。ただひたすら狩り続けるだけの狂いそうな時間。

 全部、終わった。

 ――全部って、なんだよ。

「……純夏は、無事なのか?」

「――――、はい。純夏さんは無事です。反応炉も正常に稼動しています」

「ほかのみんなは?冥夜は、彩峰は、委員長、たま、美琴……月詠さんや、三バカは? A-01の人たちは?」

 鑑純夏の名が出たそのとき、確かに霞は動揺した。いや、鉄がそのことを知っているということを、彼が白銀武の記憶を受け継いでいるという驚愕の事実を霞はリーディングで読み取って把握していた。故に純夏の存在について彼が言及したとしても、それは驚くべきことではない。けれど、霞にとって鑑純夏という存在は矢張り特別だった。そして、彼女が常に想い続ける彼――シロガネタケルも。

 霞の知るシロガネタケルはこの世界には二人存在していて……そして、その内の一人、白銀武は戦死してしまった。自身と同じリーディング能力を授かるために脳を改造された彼は、その副作用に犯されながら、地獄のような戦場の中、羅刹の如く戦い、凄絶な死を遂げたそうだ。……誰に聞いたわけでもない。ただ、彼と親しかった真那の思考を読んだ際に知ったのだ。

 そしてもう一人。目の前に居る彼。鉄。偽りの名を与えられた、異世界からの来訪者。香月夕呼の因果律量子論を証明する人物。AL4における彼の重要度は自分など比較にならないほどだ。……恐らくは、00ユニット完成の鍵を握るだろう人物でもある。彼が一人個室に寝かされていたのは機密保持を兼ねた措置であり、現在はあの《鉄仮面》も外されている。内側からの開錠は可能だが、オートロックにより外部からの侵入を防止している。先ほどは彼が突然外に飛び出したので慌てたが、廊下に半歩踏み出した状態で戻ってきたためことなきを得た。

 そんな、夕呼にとっても霞にとっても重要で特別な鉄が、矢張り夕呼にとっても霞にとっても重要で特別な鑑純夏の名を口にしたのだ。……夕呼ならいざ知らず、霞に動揺するなというほうが酷だろう。そして、その鑑純夏は“無事”であり、反応炉も“無事”……である。夥しく付着したBETAの腐肉・汚物は完全浄化するとのことだが、今後、あの最下層にニンゲンが立ち入ることはないだろう。小型種によって破壊された制御室、制御システムの復旧が完了次第、一切の立ち入りを禁止するとのことだ。……BETAに汚染された場所、というわけである。

 では、「ほかのみんな」はどうなったのか。横浜基地は、軍事基地としての役割を完全に喪ってしまった。地上施設は軒並み破壊され尽くしている。幸い、医療棟を含めた地下施設の一部は無事であったため、現在はその復旧に、生き残った全員が力を合わせている状況だ。戦死者の数は凄まじく、死体さえ見つからない者が大半だった。特に機械化歩兵部隊や歩兵部隊などは悲惨であり、肉体の一部でも見つかった者はまだマシだった。戦術機甲部隊は全滅。基地防衛に協力してくれた斯衛一個大隊も同様であり……A-01部隊は、その半分以上を喪った。

 本田真紀、白銀武、築地多恵、月岡亮子の四名が戦死。彼女たちの死体は発見されていない。伊隅みちる、速瀬水月、宗像美冴、風間梼子、涼宮茜の五名が重傷。この内、美冴、梼子の二名は衛士として再起することは絶望的だという。斯衛軍第19独立遊撃小隊では神代巽、巴雪乃の二名が重傷を負った。……彼女らは現在も治療中であり、未だベッドの上だ。夕呼の秘書官を務めていたイリーナ・ピアティフも、反応炉停止のために最下層へと赴き行方不明。MIAと認定されているが、事実上の戦死であり――それを聴いた瞬間に、鉄は愕然とした。

「ピアティフ中尉が……しんだ? ……ぇ? ァ?」

 茫然と問い返すも、霞は否定も肯定もしなかった。ただ、哀しそうな瞳で鉄を見つめるだけである。異世界に放り込まれ、地下の牢獄に軟禁され続けた自分に、この世界のこと、衛士としての知識を授け、訓練を行ってくれた女性。柔らかで温かで、抱きしめるといい香りがした。優しい抱擁で鉄を包み込んでくれて、まるで恋人のように接してくれたピアティフ。その姿を、もう、二度と。

「ぅ、ぁ、ああ、ぁ」

 ――見ることができないなんて。鉄は泣いた。ボロボロと零れてくる涙を拭うことも忘れて、ただ、泣いてしまった。

 裏切られたのだと思っていた。所詮夕呼の手下なのだと。自分をいいように煽てて乗せて、操っていたのだと。そう思っていた。体を合わせてもそこに愛情はなく、ただ、自分が狂って自殺してしまわないように監視しているのだと思った。全て嘘だったのだと。そうやって心の中で何度もなじり、罵声を浴びせたこともある。……けれど、ピアティフは自分に頷いてくれた。政威大将軍という冥夜と瓜二つな少女に素顔を晒すとき、彼女は誇らしげに頷いてくれたのだ。どうしてかわからなかった。それが心に引っかかっていた。出撃命令を伝える彼女の声は冷たく冷静で、表情に感情はなかった。自分に死ねと命ずる彼女が恨めしかったし、けれどその時は最早恐怖と諦め以外のなにもなくなっていて……。

 結局。自分はピアティフをどう想っていたのだろう。彼女がいなければ、あの地下の軟禁生活の間に発狂していただろう。彼女が鍛えてくれなければ、今日の戦闘で生き残れなかっただろう。彼女がいなければ――彼女が居てくれたおかげで。自分は今、こうしてベッドに座っていられるのだ。……全部、ピアティフのおかげだった。

 そんな彼女が、死んでしまった。自分の知らない場所で、自分の知らぬ間に。あの血みどろの戦闘の最中、すぐ近くのその場所で……BETAに、喰われて死んだのだ。

 鉄は眩暈がしそうな体をベッドに投げ打った。眦から零れシーツに染み込む涙をそのままに、白く濁る蛍光灯の輝きを睨みつけた。――この世界は狂っている。こんな世界が在っていいはずがない。あまりにも酷い。あまりにも救いがない。ここは本当に地獄であり、自分になど全く優しくない世界なのだ。支えてくれた人を亡くし、復讐をぶつける相手を亡くし、鉄はただ独り、純夏を護るという行為に酔いしれるほかないのだ。そうしてずっと、生きていく。……いっそ死んだほうがマシだ。衝動的にそう考えてしまったとして、誰が彼を責められるだろう。

 白銀武の記憶が流れ込んだからといって、彼は決してこの世界の白銀武ではないのだ。戦闘が終わり、柔らかなベッドに身を沈めてしまえば――容易く、その心は屈してしまうのである。睡魔が襲ってきた。このまま眠ってしまいたい。いっそ目覚めなければいい。そんな誘惑に抗うには、今の鉄は疲弊しすぎていた。

「……香月博士が呼んでいます」

「……………………」

 固く、重い声だった。そこには鉄の苦悩と絶望、哀しみを知りながら、それでも前に進んで欲しいという願いがこめられていたのだが、果たしてそれが鉄に届いたかどうかはわからない。痛いほど彼の心を知りながら、それでも霞は与えられた命令を遂行するしかない。身も心もズタボロの鉄。……彼は英雄なのだ。人類に希望を与えたXM3。横浜基地を救った英雄にして、人類を世界を救うもの。そう在るべし、と。夕呼によって定められた者なのだから。

 無言のまま身を起こす鉄の、灼熱の如き憤怒を感じる。それはきっと白銀武の記憶が流れ込んだことも影響しているのだろう。《鉄仮面》を自ら嵌める彼の感情は、自分自身を、そして鑑純夏を弄んだことへの憎悪に占められ……その非業の道を尊いのだと理解できる、ほんの僅かの理性が渦巻いていた。或いは、放って置いて欲しいという彼のわがままなのか。例え感情を、思考をリーディングできたのだとしても、彼の真実には至れないのだということを、霞はこのとき初めて知るのだった。







 目覚めると、視界が半分なくなっていた。右側半分が闇に覆われている。……ああ、そうだ。茜は思い出していた。――あたし、やられたんだ。

「……ッ、ぅ」

 身を起こそうとすれば左手から酷い痛みがした。無事な左目で見れば、そこは包帯で吊られていて、寝起きの鈍い思考でも折れているのだと知れた。今度はゆっくりと上体を起こし、緩やかに周囲を探る。白い病室。あの地獄の釜の底のようなおぞましい恐ろしさはどこにもなく、ここには静寂と静謐さが漂っていた。薬品の匂いと、電子機器の音。押し詰められたベッドには自分以外にも複数の人が寝かされていて……ようやく、自分が生き残れたのだという事実に気づく。

 あの状況で、よくも――。右目に左腕。確かに負傷はしたが、この程度で済んだのは奇蹟と言っていいだろう。BETAに機体を殴り飛ばされて気を失ったとき、自分は死んだのだとばかり思っていたのだが……。瞬間。悲鳴と嗚咽と絶叫が耳に蘇る。あの最後のとき。あの反応炉での地獄の光景。誰もが気が触れそうになり、正気を失うギリギリまで追い詰められたあのとき。



 ――やめて

 ――やめてぇ!! たけるをたべないでぇ!! いやぁぁぁぁぁぁあああ!!



「ぅ、……ぐっ、ぅ」

 赫と黒と、気持ち悪い極彩色と。銃声。S-11の閃光。メインシャフトからS-11を投擲してBETAを殲滅しようとした斯衛。援軍。繋がった通信。安堵。悲鳴。反転。BETAの迎撃。反応炉の死守。援軍が戦闘を開始。反撃を。殲滅戦。まりもの命令。水月の怒号。誰も彼もが。必死に。狂うほどに血を浴び。《鉄仮面》の見せた希望。絶望を飲み干せ。抗って。戦って。そうしてそうして。ずっと戦って。限界だった。もう無理だった。反応炉から引き剥がされたBETAの群れ。その下からボロボロの不知火が。装甲が齧られていて。管制ユニットが覗いていて。見覚えのある黄色。血肉に塗れ赤黒く汚れた黄色。刀。腕。足。――ほかは? 残骸。残骸。残骸。残骸。

「……ぃ、ぁ、あっ!!」

 不知火の残骸。白銀武の残骸。武の残骸? 武の足。武の腕。武の刀が。武のお守りが。武の武の――彼女のリボン、が。

 やめてやめて、たけるをたべないで! やめてよぉ! やめてったら! もうやめてぇぇ!! これいじょう、たけるをたべないでぇぇえええ!!!!

「はぁ、はぁぁ、はぁ、はぁ、はぁ……ッッ!」

 俯いた顎から脂汗が滴り落ちる。だらしなく開かれた口からは恐ろしく熱い呼気と、言葉にならない悲鳴が漏れる。全身が瘧のように震えた。寒い。吐く息はこんなにも熱いのに! 凍りそうなくらいに寒かった。左目に涙が滲んできて、すごくすごく心細くて、寒くて……。そうして。

 涼宮茜は、ようやく。恋人を、同期の全てを喪って――ようやく、自分は独りになってしまったのだと……そう気づいてしまって、泣いた。

「武……ぅ、ぅぅぅぅぅぅうううううあぁぁぁあああああっっ!! ぁぁあああああああああああああ!! わぁぁああぁぁ……ぁぁあ、ああ、ぅ、ぐ、ぅぐうぅううううううう!!」

 哀しい。苦しい。武が居ない。彼が居ない。優しく頭をなでて欲しい。大丈夫だといって欲しい。傍にいると。抱きしめて欲しい。好きだって言って、キスを。お願い。お願いだから。晴子、多恵、薫、亮子ッッ!! 武!! 誰も居ない! どうして?! どうしてあたしだけが……っ! どうして、みんな……大好きだったのに……。置いていかないでよ。傍にいてよぉ! あたしに寂しい思いなんてさせないって……ッ! そう言ったじゃない!! 愛してるって、好きだって! 抱きしめてよぉぉお!! 武ッッぅぅああああああ!!

 右腕でベッドを殴りつける。何度も何度も。この涙が止まるまで。悔しい。哀しい。どうしてどうして。何度も何度も言葉が想いが駆け巡り、居もしない武の姿を追い求めるたびに、茜はただ子供のように泣きじゃくった。親友の姿を。仲間の姿を。自分ひとりを置いて逝ってしまったみんなを。愛しい彼の表情。言葉。匂い。体温。優しさ。もろさ。ずっと傍に居たかった。護ってくれると言った彼を。愛していた彼を。

「茜っ! 大丈夫だから、大丈夫だからね!? 茜ぇ!」

「ぁぁぁっ! あああっ! ぁ、あああ、はぁ、はぁ、はぁ……ぉ、ねぇちゃ……っ、ぐ、ひっく、ぅぅぁあ、あああ……あああん。あああああん。ぅぁぁああ……」

 気づけば姉のぬくもりに包まれていて。優しい大好きな腕に抱きしめられていて。まるで幼子のように茜は泣いた。泣きつかれて眠るまで泣いて……しがみついたまま寝息をたてる妹を、遙はそっとベッドに横たえる。涙に腫れた瞳を見つめながら、遙はどうか今だけは安らかに眠って欲しいと願う。悪夢にうなされることなく、どうか幸せな夢を。

 立ち上がり、病室を見渡す。そこにはみちると水月も運ばれていた。或いは、ほかの負傷した兵士たちも居た。茜の泣き声に起こされた者も居たようだが、彼らは何も言わなかった。……彼らだって、地獄を見たのだ。同じ地獄を見、体験したからこそ、仲間を喪い傷ついたからこそ、茜の気持ちがわかるのだ。泣けるものなら彼らだって泣きたかったのかもしれない。けれど彼らはあまりにも疲弊しすぎていて、涙を流す体力さえない状態だった。泣くのだって体力を使う。……遙は、この戦いの結果全てが、この場所にあるような気がした。

 誰も彼も全員が、泣きたいくらい酷い目に遭って。誰も彼も全員が、泣けないくらい酷い目に遭った……。この戦いは、ただそれだけの、一方的な、酷い出来事だったのだと。そんな気がしてしまう。

 そんなことを考えては駄目だ。まるで何もかも無駄であったかのように考えてはいけない。……自分はピアティフに後を託された。夕呼の、そしてA-01の未来を託されたのだ。彼女の挺身に応えるためにも、自分は更に、夕呼と共にAL4に尽力するしなければならないのだ。茜の状態は気にかかる。水月やみちる、擬似生体移植手術中の美冴や梼子。……大切な仲間たちの身を案じる気持ちもある。けれど。今はもう、立ち止まるときではない。戦闘は終わった。ならば今は、これからは、再び、前へと進むべきだ。

 夕呼に指定された時間までもう僅かもない。正式にピアティフの後継として夕呼の秘書官の任を掛け持つこととなったのだから、早々に遅れるわけにはいかない。遙は泣きつかれて眠った茜をもう一度だけ見つめて、病室を後にした。







 探し出せた遺品はこれだけ。真那は短く息を吐くと、手にした刀の残骸を昇ったばかりの朝陽に透かしてみた。訓練校の校舎の裏側。丘の上にある木に並ぶように。真那は、かつてこの場所で、自らの罪を吐き出した弟子のことを思い出していた。復讐に心を委ね、外道へと堕ちた過ち。それでも生きたいのだと、護りたいのだと叫んだ彼。……白銀武は、もう居ない。

 朝陽に透かしたところで、そこに彼の面影はない。管制ユニットのシートに括られていた彼の弧月は、BETAに齧られたのか、踏みにじられたのか……途中から折れてしまっていて、剣先はついに見つからなかった。残ったのは、柄と鍔、僅かの刀身と罅割れた鞘の一部のみ。そして、赤黒く汚れた僅かの帯。鞘に巻かれたその部分だけが辛うじて残っていて、反応炉を浄化作業していた部隊員から遺品としてまりもへ提出されたのだった。本来ならば汚染物質として焼却処理されるのだろうが、この基地を護るために最期まで戦ってくれた衛士の遺品ならばというその人物なりの感謝なのだと、まりもから聞いている。

 真那は、名も知らぬその作業員に礼を言いたかった。たったこれだけ。指先も僅かの肉片も残らなかった愛弟子の形見に、これほど相応しいものはない。祖父の形見にして、祖父そのもの。そして、それをその心と共に受け継いだ武の遺志。きっとこの弧月には、彼の魂が宿っている。病魔に蝕まれながらも戦い抜いた彼の、愛する者を護りたいという願いと共に。真那は弧月を胸に抱いた。顔を知らぬ鑑純夏という少女の形見が巻かれたそれを、愛しげに抱いた。

 涙は流さない。武は還ってきてくれたのだから。彼の死を知ったそのとき、避け得ぬ運命を知ったときに、真那はもう、十分に泣いた。決して涙は流さなかったが、それでも、心で泣いたのだ。……けれど、いい。武はちゃんと自分の下へ還ってきた。彼の魂は、今ちゃんと、この胸に抱いている。――武、貴様はよく、戦った。だから眠れ。護れなくてごめん、などと。自身を責める必要はない。

 そうしてしばらくの間、弧月を抱いていると、近づいてくる気配に気づく。よく知った気配……それは冥夜のものだった。今この場所に真那以外の者はいない。自分を探してのことか、或いは冥夜自身この場所に何か思い入れがあってのことかはわからないが、もう暫くここに居たいと感じたので、昇り始めた太陽に目を細め、武や自分たちが命を賭して護り抜いたこの場所を感慨深く見つめることにした。

 残骸ばかりが目立ち、広大な廃墟と化した地上施設。おぞましいBETAの屍骸は今も尚そこら中に溢れかえり、鉄屑と化した戦術機の亡骸も辺りを彩るオブジェと転がっている。混沌と死に満ちた不毛の地。けれど、間違いなく、ここは――多くの衛士・兵士が命の限りに護り抜いた、尊い場所である。残された死の気配が、その凄絶さを訴えかけ、その荘厳さを示している。無駄なことなど何一つない。無駄死になど、誰一人ないのだ。全員が、勇敢に戦った。全員が、誇り高く死んで逝った。――勝ったのだ。我々は。

「だから武……安心して、眠るがいい」

 その真那の安らかなる祈りを、冥夜は偶然に聞いてしまった。真那に会いにこの場所を尋ねた冥夜は、もう随分前から真那が丘の上にいることを知っていたのだが、当然、真那も自分の接近に気づいていると思っていた。聞いてはならない言葉を聞いてしまった気がして、冥夜はばつが悪そうに一歩退いたが、その気配を察した真那が振り返り――下がらずともよい――と、微笑んだのを見て、胸を射抜かれてしまった。

(なんと、強い瞳だ……)

 かつては自身に仕えてくれていたよき忠臣であった真那。衛士として、剣士として、人間として、尊敬し憧れていた真那。任官してから後、その思いは強くなりこそすれ薄れることなどなかったのだが、この瞬間に、冥夜は彼女の強さを更に思い知らされた。冥夜が真那を探してここまで来たのは、傷心であろう彼女を少しでも慰めることが出来ればと思ってのことだった。白銀武。彼という存在を喪い、茜をはじめ、水月、真那は心に深い傷を負ったのではないか。……無論、彼女たち以外にも――自分も――傷心であることに変わりないのだろうが、それでも、特に彼と親交の深かった彼女たちの胸中はいかばかりだろうかと、そう思ったのである。

 基地中に死が蔓延り、哀しみが蔓延している。肉体に傷を負った者。精神に傷を負ったもの。さまざまだ。それらの哀しみを振り払うことは、きっと誰にも出来ないのだろう。個々人が負ったそれらは、それぞれが乗り越えなければならない。自らの意思で。或いは……生き残ったもの同士、支え合って。冥夜は自問する。果たして自分は、真那を支えたかったのか、自らを支えて欲しかったのか。

 真那は武の死を当に乗り越えている。安心して眠れ、と。彼の魂の安寧を祈ることが出来ている。自分はどうだろうか。ここに来て、真那の言葉を聞き、その微笑を見た。それによって初めて、自分のほうこそが真那に支えて欲しかったのだと、慰めて欲しかったのではないかと気づいた。……自分は、白銀武の死を、未だ受け入れられていないのだ。そのことを、知る。

 一体いつからだったのだろうか。……いや、そもそもこの感情は恋というものなのかさえ、冥夜にはわからない。ただ、彼という人物を知り、その素顔を垣間見たとき……冥夜の心臓は確かに跳ね上がったのだ。――そうか。あまりにも、気づくのが遅すぎた。気づいたそのときには、もう彼は居ない。冥夜の頬を一筋の涙が零れ落ち、真那はそれを、ただ微笑みのまま見守っていた。







 霞と共に夕呼の執務室に赴くと、そこにはまりもと遙が居た。鉄は遙とは初対面だったのだが、まりもからA-01のCPを務めているのだと紹介され、曖昧に頷く。どういう理屈でかは知らないが、一方的に流れ込んできた白銀武の記憶の中に、その名前がある。まるで自分が目にした光景のように彼女と言葉を交わした場面が思い出されたが、矢張りそれが自分の記憶だという実感はない。得体の知れない夢を見ているような、そんな気分だった。

 全く知らない他人なのに、この世界の自分にとっては恋人の姉なのだ。しかも、奴にとっては冥夜たちよりも付き合いが長い……。実感を抱けという方が無理だ。それに、奴と自分が完全に別人だということはあの戦闘で厭というほど思い知らされている。今更、実感があろうがなかろうが、知ったことではない。――もう、あいつは居ないのだから。

 ちらりと霞を見る。鉄を含む四人から少し離れた位置に佇む銀髪の少女。彼女に半ば無理やり連れられてきたわけだが、案外、その方がよかったのかもしれない。立ち上がり、歩いてきただけで、あのベッドの上で蹲っているよりは随分と気分が違う。ピアティフが死んでしまったことや白銀武が戦死したこと、純夏のこと。あのまま病室に独りでいたら、鬱になって自殺していたかもしれない。……いや、そんな気力さえなくして、この世界に生きる理由を見出せず、ただ朽ちていたかもしれないのだ。

 視線で感謝を述べて――そういえば、リーディングだとか言う能力で思考を読めるのだったか? ――ほんの少しでも、伝わってくれればいいと思う。彼女に酷い罵りを向けてまだ数日も経っていない。自分よりも幼い少女に対して、随分と容赦ない行為だった。……今でも僅かなわだかまりはある。けれど、それも白銀武の記憶から彼女たちなりの思惑、意思があってのことだという事実を知っている。世界を、人類を救うのだというエゴ。根底にある想いは知り得ないが、憑かれていると言っても過言ではないほど、夕呼はその使命に命を懸けている。

 白銀武を利用し、鉄を利用し。A-01の全員を、まりもを、冥夜を、この基地を――純夏を。全てはAL4を完成させるために。鉄にとって重要なのは、純夏を護り抜くこと。それ以外の生きる理由を、今は見つけられない。そのために必要なことが夕呼のサポートをすることだというなら、彼女に仇なす敵を打ち倒すことだというなら、鉄は衛士として戦い抜く。己の中にわだかまる裏切りの傷など、最早どうでもいいことなのだ。

 そう思えるほどに――そう思うしかないほどに――鉄は白銀武の記憶に染められてしまった。自分と彼が全くの別人なのだと痛感し、実感しながらも、それでも、自身の憎しみをただ一方的にぶつけていい相手ではなかったのだと知り、夕呼には夕呼の目指す未来があるのだと知ってしまった。それら、凄絶な生き様を見せられてしまえば……もう、餓鬼のままではいられない。純夏の命を護る。拭い去ることなど出来ない復讐の憎悪を、そうやって誤魔化すしかない。

 いつか、いつか遠い未来に……白銀武への復讐以外の生き方を見つけられたなら、自分自身の生きる理由を見つけられたなら――それでいいのかもしれない。だから、そうなれるように今は純夏を護る。その行為に縋ってでも、生きてみせる。――結局、ガキのままじゃねーか。薄く浮かんだ嘲笑は、仮面に遮られて誰にも気取られることはなかった。時間にして数秒にも満たない思考を打ち切り、夕呼を見る。その傍らにピアティフが居ない現実。白銀武の記憶にかかわらず、矢張り、鉄にとっての世界は“変わって”しまっていた。

 もう前には戻れない。元の世界にも、この世界に来たばかりのようにも。あの戦闘を経験しただけで、あの地獄を潜り抜けただけで、これほどにも世界が豹変するのだという事実は、自分も変化しなければならないのだと脅迫してくるようで……。少し時間が欲しいと思うのも本音なのだが、それでもきっと、夕呼は鉄の躊躇を気にしないだろう。この場所に呼ばれたからには、世間話で終わるなどということは万が一にもありえないのだから。

「さて、それじゃ早速だけど――鉄。あんたこれからどうする?」

「――は?」

 挨拶を終えた一同を見やって、夕呼が一番に言ったことがそれだった。椅子に腰掛けたままどうでもよさそうに鉄へと宛てられた言葉。一体何のことだと首を傾げていると、まりもも遙も同じような顔をしていた。皆、夕呼がいきなりなにを言ったのかわからない様子であり――彼女が突然に妙なことを口走るのは知っていたが――夕呼の次の言葉を待っている。

「は? じゃないわよ。言ったでしょ。この戦闘に生き残ったら、あんたを“シロガネタケル”にしてあげる、って。……ま、当の本人はとっくに死んじゃったけど」

 その言葉に目を剥いたのはまりもと遙だ。まりもは鉄の出生を――それは夕呼の出鱈目なのだが――知っているから。遙は共に戦ってきた仲間の名前が挙がったから。それぞれ、夕呼の言葉の真意を測りかねて、瞠目する。……けれど、鉄はただ、なんだそのことか、と。そう納得するだけだった。そのことはもういいのだと、鉄は自分で納得している。例え名前がシロガネタケルに戻ったのだとしても、決して、この世界の白銀武に成れはしない。自分と彼が別人なのだと理解できたからこその、納得だった。

「先生……オレは、このままでいいです。白銀武が世界に一人だけだというなら、オレだって、世界に独りだけの鉄です。……オレは、この仮面と共に生きようと思います……。それが、オレの……――」

 復讐。

 最後のその言葉を、鉄は口に出来なかった。どうしてかはわからないが、夕呼にそれを言う必要もないと頷いて、仮面に触れる。仮面を嵌めた時に掛かる電子ロックは既に解除されている。本当なら、もう鉄はこの仮面をしなくてもよいのだ。……夕呼はそう約束してくれていた。それでも、もういい。《鉄仮面》をなぞるように指先を滑らせ、鉄は言う。

「オレは、鉄です。あいつじゃあない。アイツにはなれない。……そうわかったんです」

「…………あ、そ」

 素っ気なく応える夕呼に、まりもが苦虫を噛み潰したような視線を向ける。――オレを鉄と呼ぶな。そう叫んでいた青年が、鉄でいいと言う。アイツには、白銀武には成れないのだという。……そのとおりだ、と思う反面、そのような運命を強いられた鉄への同情がある。そして、それを実行した夕呼への哀しみ。遙はいまいち事情が飲み込めていないようだったが、まりもはそれでいいのだと思う。いつか鉄がその仮面を外すときまで。知らないままで居られるなら、それでもいいだろう。まして彼女と白銀武の関係は深い繋がりがある。妹の恋人であり、親友の弟分であった武を、遙自身好ましく感じていたはずだ。未来の弟、と。そんな風に見ていた節がある。

 どこか煮え切らないやるせなさを覚えながらも、まりもは鉄の言葉を反芻する。複製体。クローン。そんな非道を成された彼が、人道を往くというのなら、上官として支えていってあげようと思う。正体を隠したまま生きるというのなら、それでもいい。それが、彼自身の人生なのだから。

「じゃ、その話はこれでおしまい」

 さもどうでもいいように言う夕呼の素振りは、見ていて清々しいくらい鉄の葛藤を嘲笑うようだった。……いや、それが彼女なりの優しさなのか。自分の存在など、彼女にとっては一研究対象でしかないのだろう。なにが彼女をそうまでさせるのか。鉄には理解できないし、理解したくもないことだった。彼女と自分。互いに利害関係しかないのなら、それで十分だ。夕呼は研究のために鉄を利用し、鉄はこの世界で生きるため、純夏を護るために夕呼を利用する。ギブアンドテイク。この関係は、シンプルでいい。感情を挟む余地もなく、怨みも憎しみも必要ない。……それでいい。そのはずだ。少なくとも今は。
「社、鉄を連れて下がりなさい。ああそれから、あんたは今日付けでA-01に正式配置になったから。今日のところは好きに過ごしなさい」

「――ハ」

 夕呼の言葉に頷く霞。鉄はまりもを一瞥した後に夕呼へ敬礼を向け、霞と共に退室する。残る二人は今後のことを話し合うのだろう。一兵卒に過ぎない自分が関わる必要はない。閉まるドアを背中に、鉄は足を止める。好きに過ごせと夕呼は言うが、この基地で好きに過ごせる場所などない。病室からここまでの道程にも、数え切れないほどの負傷者とすれ違った。無傷なものなど殆どいなかった。……そして、それを圧倒的に上回る数の死人が出たのだ。

 心休まる場所など在り得ない。ならば機体の整備でもするかと顔を上げたが、霞が袖を引いていた。驚いて少女を見下ろせば、彼女はとても真剣な表情で鉄を見つめていて、どこかに連れて行きたそうに袖を引っ張っている。彼女が示すのは執務室に隣接したもう一つのドア。――そこは。

「すみ、か……」

 小さく頷く霞。先ほどよりも強く引かれるままに、鉄は一歩を踏み出した。セキュリティが掛かっているはずのドアは呆気なく開き、やけに足音の響く通路が鉄たちを奥へと誘っている。不気味な場所だ。初めて踏み入れる――でも、白銀武の記憶で知っている――その通路。奥のドア。……青白く輝くシリンダーには、彼女が眠っている。鑑純夏。脳ミソと脊髄だけで生きている、この世界の幼馴染。

 この少女を、護ると決めた。

 この世界で生きていくために。鉄としての生を手に入れるために。決して白銀武にはなれないのだと思い知らされた、ただ独りの自分のために。――純夏、オマエを利用すると、決めたんだ。

「……」

 無言のまま鉄はシリンダーへと近づく。積極的に袖を引いていた霞はドアの傍に立ち、その後姿を見つめる。その表情には如何なる感情も浮かんでいないようで……僅かの期待や願いが込められているようだった。手に触れたシリンダーは冷たく、頑丈なつくりなのだと知らせてくる。浮き沈みなくただそこにあるだけの脳。目も顔も表情もなく、手も足も体の何一つない……ただそれだけの物体。これで生きている。これが生きている。これが……純夏なのか。鉄はこみ上げてくる吐き気を咄嗟に堪える。――吐いてはいけない。

 もしここで嘔吐すれば、それは純夏を傷つける。……それは、白銀武の生を、純夏の愛を罵倒する行為だ。それだけは絶対にしてはいけない。白銀武は確かに純夏を愛し、純夏もまた白銀武を愛していた。互いに愛し合ったが故の悲劇。ただ白銀武だけを待ち続けた純夏は、遂に再会適わぬままに、彼を喪ってしまった。そして、喪ったことにさえ気づくことが出来ない。――これが、純夏なのだ。

 知らず、涙が零れ落ちた。仮面の内側を伝うその感触に、鉄はハッとする。哀しい、のだろうか。自分ではない白銀武の記憶が氾濫する。ただ幼いままに純夏を愛し、護り、喪った彼の絶望。生きていた純夏に定められた運命。夕呼への憎悪。その怒りの黒。哀しみと慟哭。狂わずにはいられないほどに。……鉄は仮面を外した。床に落ちる《鉄仮面》の無機質な音が響く。瞳からは、ぼたぼたと涙が零れていた。

「純夏……ぁ、」

 漏れた言葉は嗚咽に濡れて、鉄はひざをついてシリンダーに縋りついた。――オレがお前を護ってやる。こみ上げる悲しみ。鉄は幼い子供のように泣いて縋った。

 これは純夏だ。けれど、自分の知る純夏ではない。自分の幼馴染の、毎日くだらないおしゃべりをして戯れて、明るく無邪気なアイツじゃない。――でも、純夏だ。白銀武の記憶の中の彼女は、自分のよく知る純夏だった。世界の差など関係ない。純夏は純夏だったのだ。唯ひとりの、唯一の、彼女。元気で、太陽みたいに笑う奴で、くるくると表情が変わって、呆れるくらい……楽しい。幸せなのだと、こんな時間がずっと続けばいいと。そう思わせてくれる、大切な幼馴染。

 ――喪いたくない。

 オレは、純夏を喪いたくない! 白銀武のように。純夏と離れたまま死ぬなんてできない。絶対に。嫌だ。ずっと独りだった。優しかったピアティフは死んでしまった。もう誰もいない。誰もいない! 生きる場所を奪われ、生きる理由を見失い、白銀武への復讐に身を焦がすことももう出来ない! もうお前しかいない。もう純夏だけなんだ。白銀武が命を懸けて愛した純夏。オレがお前を護ってやる。護ってみせる。……だからどうか、いつか目覚めたそのときに……。

「オレを、独りにしないでくれ……ッ」

 傍で、いつものように、笑ってくれ。タケルちゃん――そうやってはにかみながら、隣にいてくれ。いつか純夏がそうしてくれるなら、その日がいつか訪れるなら。自分は戦える。生きて、戦える。この世界で。例え独りでも。いつか純夏が目覚めるときまで。その先も。ずっとずっと生きていける。――鉄として。鉄タケルとして、生きていける。だから、どうか、お願いだ。

 オレを独りにしないでくれ。心の中でもう一度祈り、鉄は立ち上がる。頬を濡らす涙を拭い取り、《鉄仮面》を被ると、踵を返し退室する。霞はその後を追わなかった。……追う必要はなかった。その目には薄く涙が浮かんでいたけれど、霞は自分がどうして泣いているのかわからなかったけれど。……ただ、どれだけ哀しくても、そうしたかった。だから、それで、いい。







 ===







 2001年1月6日――







「まさかあんたに礼を言われることがあるなんてねぇ。っていうかなんか気持ち悪いからいい加減頭上げてくれない?」

「……貴様な。ひとが礼を尽くしているのに、なんたる言い草だ。……以前から思っていたが、貴様はもう少し女性としての慎みを持つべきだぞ」

「大きなお世話よ。それより、あんただってあたしを助けてくれたんだから、お相子でしょ。……なんか照れくさいから、もういいって」

 病室の一角で半身を起こした水月は、頭を下げる真那をあしらうように言った。その頬が若干赤みを帯びているのは、本人の言うとおり照れくさいからだろう。それに気づいた真那は肩を竦めて苦笑し、傍らに立つ美凪へと目配せをした。表情に幼さを残す彼女は真那に頷き、最後にもう一度だけ水月に感謝を告げて退室する。美凪にしてみれば、水月は同僚二人の命を救ってくれた恩人なのだ。……無論、真那にとっても。

「で? あの二人の容態は?」

「幸い骨折程度で済んだようだな。完治すれば、任務に支障はない。あの者たちにはまだまだ働いてもらわねばならんからな。……その若き命を救ってくれたこと、誠に感謝している」

 だからもういいって――辟易したようにうなだれた水月に、真那が笑いかける。照れる水月が珍しくてからかっているのだろうが、その二人のやり取りはまるで十年来の親友同士のようにも見え、隣のベッドで眺めているみちるを大層驚かせたりもした。あれだけいがみ合っていたライバル同士が、あの戦闘を経て無二の親友のように笑い合っている。……白銀武の死を哀しいと感じないはずがないのに。いや、互いに同じ男に惹かれ、愛した者同士だからこその姿なのか。

 あの戦闘の終盤。精神・肉体共に疲労の限界で、機体さえ悲鳴を上げていた。どれだけ研鑽を積み、厳しい訓練を潜り抜け、修羅の如き戦場を駆け抜けてきたとしても、いつかはどうしようもない“限界”が訪れる。体の小さな斯衛の三人にそれは顕著であり、特に激しい機動を繰り返していた巽と雪乃の二人はほぼ同時に意識を失った。在りえないほどの密度で群れるBETAとの混戦の中、意識の喪失は死を意味する。真那も美凪もそのフォローに間に合う位置におらず、救出は不可能と思われた。……それを、水月が身を挺して護ったのである。

 あと少し。もうほんの僅か。そうすれば援軍の銃撃が届く。助けに来てくれた斯衛の精鋭部隊が、帝国軍の猛者たちが、無傷の彼らが救ってくれる。だから、今ここで死んでしまうのを見過ごせなかった。もう誰にも死んで欲しくなんてない。……かつての上官だった相原のように。水月は最後の最期に、自身の命を懸けて誰もを護りたかったのだ。そして、自分の機体ごと要撃級に吹き飛ばされ、破壊され、骨を砕かれる感触に悲鳴を上げながら、それでも。

 そう。それでも、必ず真那が、仲間たちが救ってくれると信じていた。気持ちは皆同じなのだと知っていた。――もう誰一人死なせはなしない。無駄にしていい命なんてない。助けは来た。援軍は辿り着いたのだ。だったら、全員で生きてみせる。この戦いを、生き抜いてみせる! ――死んで逝った全てのものたちのためにッ! ……そうして水月は巽と雪乃を救い、彼女は真那に救われ、みちるや美冴、梼子、茜という重傷者を出しながらも、……最後には全員が生き残った。生きて、命を繋いだのである。あの絶望的な状況から。死ぬしかない状況から。鉄が皆に希望を与え、美琴の機転が援軍が到着するまでの時間をもたらし、水月の、仲間たちの挺身が……今このときを紡いでいる。生きているのだ。

「貴様も、伊隅大尉も壮健そうでなにより。……宗像中尉と風間少尉も見舞いたかったのだが、致し方あるまい。――涼宮少尉が目覚めたら、これを渡してはもらえないか」

 援軍としてやってきていた斯衛軍は今日の午前中に引き上げることが決まっている。煌武院悠陽の厚意により帝国から救援物資が届けられてもいたが、国連軍から派遣されてきた部隊が正式に現場を引き継ぐこととなったための撤収である。実際に横浜基地の窮地を救ったのは斯衛であり帝国だが、それでもここは国連軍の基地であり、なによりも、AL計画を遂行する研究施設だ。いつまでも部外者が我が物顔をしていい場所ではない。

 手当てを受けた巽と雪乃は既に帝国軍病院へと搬送され、真那たちも共に引き上げることになっている。……夕呼と悠陽の思惑により成り立っていたA-01への出向は、横浜基地の壊滅と同時に意味を成さなくなってしまった。基地はこれから復興のために全力を向ける。そこに帝国が介入することは出来ない。そういう事情もあって、真那は水月たちに挨拶しにやってきたのだった。

「――これ、って……ッ」

 真那から差し出された赤い布を開く。布に包まれていたのは黒い棒状の……否、刀の一部だった。砕けた鞘から、同じく砕けた刀身が覗いている。赤黒く汚れた布の巻かれた、黒塗りの刀。変わり果てた外観をしていたが、水月がそれを見間違えるはずもない。

「武も、涼宮少尉と共に在りたいと願うだろう。……だから、貴様に託す」

 弧月。真那の父の形見にして、武へと受け継がれた刀。彼の幼馴染である鑑純夏のリボンを巻きつけ、いつも腰から提げていた彼の半身。魂の具現。文字通り、彼の血と涙が染み込んだ……彼そのもの。あの戦いで損なわれた武の肉体は遂に発見されなかった。その、唯一遺された彼の一部。遺品として託されるに、これ以上のものなどありはしないだろう。水月は、思わずこみ上げた涙を拭い、華やいだように笑った。

「あ、あははっ、あははは! そっか、そっかぁ……。武、たける……還ってきたんだぁ。……ぁは、あはは、はは……っ!」

 嬉しくて、哀しくて、それでも、還って来てくれた。もういないけれど。骨も見つけられなかったけれど。それでも武は還って来た。自分の下へ。茜の下へ。こんなにぼろぼろになって、それでも、ちゃんと還って来たのだ。水月は笑う。涙を零しながら、嬉しくて、笑顔を見せる。それを見た真那は満足そうに頷き、椅子から立ち上がった。

「――速瀬中尉。そなたに出逢えたことに感謝を。達者でな」

「――ええ。お互い、生きてればまた逢えるでしょ。楽しみにしてるわ」

 敬礼を交わし、互いに不敵な笑顔を浮かべる。それは再会の約束。次に逢うそのときにを楽しみに。……生きる。

 背を向けて去っていく真那を見送り、水月はもう一度弧月を見る。武の面影が浮かんだような気がして、気づけば弧月を胸に抱いていた。――おかえり、武。そう呟いた水月の表情は何処までも穏やかで、美しかった。まるで子の帰りを愛しいと感じる母親のようであり、姉のようであり……。うらやましいものだと、みちるは思う。自分にも愛する男がいるが、水月は武と親愛によって結ばれていた。そんな関係を築くことが出来た水月がうらやましい。

 そして同時に、何処までも哀しいものなのだと……。復讐に狂い、人の道を見失い、何度も何度も間違いを犯した武。その彼を決して見捨てず、支えることを厭わず、水月は水月なりに武を愛してきた。姉のように。弟を愛するように。病に命を落とし、仇敵にその身を食まれ、存在を無くしてしまった彼は、刀に宿って還って来た。もう二度とその声を聴くことは出来ない。もう二度と、その手に触れることはない。だからこそ、みちるは哀しいと思う。

 刀を抱いて涙する水月。今は眠っている茜。彼女たちはこれから戦っていけるだろうか。護りたいと願い、愛した男はもういない。折れた刀は還って来ても、武自身はもう存在しないのだ。……かつての武のように、復讐に狂ってもおかしくはない。或いは、傷ついた肉体と共に、戦う気力をなくしてしまってもおかしくない。……それでもどうか、と願わずにはいられない。間違ってもいい。折れそうになってもいい。けれどどうか。それでも。かつて水月や茜が武を支え、正道へと引き戻したように。彼女たちもまた、前を向いて生きて欲しい。生きるために、生きて欲しい。

 それが死んだ武の願いだろうから。彼はきっと、それを伝えるために刀に宿り還って来たのだ。

「速瀬、いいかげん涙を拭け。……まったく。しおらしい貴様などらしくない」

「ちょ、大尉それ酷いですって」

 からかうように言ってみれば、水月は恥らうように笑った。――ああ、なら大丈夫だ。みちるは彼女の笑顔にそう確信し、一緒になって笑った。涙を拭いながら笑う水月は、弧月を大事そうに布に包み、茜の枕元へ置いてやる。両足を砕かれた水月は擬似生体を移植している。まだ歩くことは出来ないが、隣のベッドに身を乗り出す程度なら出来た。小さく寝息をたてる茜を穏やかに見つめ、その頬をなでる。……寝ている間に何かを感じたのだろうか。茜の右手が動き、弧月を握るように求める。布にくるまれたそれに触れたとき、一筋の涙が枕へと零れたのを、水月は確かに見ていた。







 鉄という人物を間近に見るのはこれが初めてだった。あの戦闘の際に網膜投影ディスプレイに映っていたとおりの《鉄仮面》。のっぺりとしたその仮面には呼吸のためのスリットしかないため、見るものを非常に当惑させる。同年代らしいという話はかつてまりもが教官だった頃に聞いたことがあるのだが、その仮面の姿からは年齢が伺えない。偶然通路で遭遇したのだが、千鶴はどうしていいかわからなくなってしまった。共に歩いていた冥夜もそれは同じらしく、驚いたような表情をしている。

 千鶴は冥夜と会話しながら歩いていたのだが、最初にこちらに気づいたのは彼らしい。というのも、近づいてきていた足音が不意に止まったからで、それにつられて視線を向けた先に鉄が立っていたのだ。――呆然と。そう表現するのが妥当だろう。言葉はなかった。ただ、驚きながらも呆けているような、心ここにあらずといった風に。故に掛ける言葉も見つけられず、千鶴と冥夜もまた沈黙せざるを得ない。同じ少尉とはいえ、片や人類に希望をもたらし、戦術機技術に革新をもたらした麒麟児であり、この命を救ってくれた存在でもある。おいそれと声をかけていい相手ではないだろう。

 そんな千鶴と冥夜の内心に気づかず、鉄は立ち尽くすしか出来ないでいた。――冥夜、委員長。かつて暮らしていた世界での級友たちにこうして見える日が来るのだということを、鉄は完全に失念していた。……いや、昨日夕呼に「A-01に正式配置になった」と聞かされていたのだから、失念していたというのも妙なのだが。とにかく、こうして面と向かって彼女たちと出逢うこともあるのだという事実を、彼は本当に思いつかないでいた。

 流れ込んできた白銀武の記憶。そして、純夏という生きるための理由。かつての世界で培ってきた価値観の全てをぶち壊され、人間性を捻じ曲げられようとしているこの状況下で、他人の存在に気を回すほどの余裕が、鉄にはなかった。あの地獄のような戦闘からまだ二日も経っていない。正気に立ち返り、一個の鉄タケルというニンゲンとして完成するためには、些か時間が足りなすぎる。つまり、彼はまだ他人と会話できるほどこの世界に溶け込めていないのだ。……純夏を護り、生きる。その理由を自分自身に刻み付けることに手一杯で、屋外にあるあの丘に登り頭の中を整理しようと思っていた。

 その移動中に見知った顔に出くわし、そして彼女らがこの世界の存在なのだと思い出して、鉄は言葉を失った。なにを言っていいのか。どう声をかけていいのかわからない。自分は白銀武にはなれないと悟り、鉄として生きると誓いはしたが、ただそれだけだ。この世界に生き、この世界で死ぬことを厭わない崇高なる彼女らの意志は、鉄には眩しい以外のなにものでもなかった。――惨めだ、と思う。自分はこんなにも、幼く脆い。自分独りでこの世界に生き続ける覚悟を持てないでいる。純夏に縋り、いつか彼女が目覚めて微笑みをくれることを望んでいる。

(そんなオレが――)

 あの世界のように、彼女たちと笑い合えたならどれほど喜ばしいだろう。

 あの世界のように、彼女たちと同じときを過ごせたらどれだけ楽しいだろう。

 あの世界のように、……あの、平穏な毎日が無条件に続く、泡沫の彼方に消えた世界のように……。――そんなことは不可能だ。

 ここは地獄で、地獄のような世界で、地獄のような毎日を、誰もが必死に足掻いている。白銀武のように。純夏のように。理不尽な仕打ちを受けて人間性を奪われた者たちがいる。命を。尊厳を。文化を。生きる希望を。世界中全ての人々が、地獄を強いられている。――BETAのせいで。その存在のために。それに抗えるだけのポテンシャルを持てるニンゲンは素晴らしいと思う。本当にすごいことで、“すげぇ”、と。そう漏らすしかできないくらいに凄いと思える。小型種一匹を殺すのにどれだけの銃弾が必要なのか。肉弾戦で戦って生き残れる可能性は? そんな次元の敵が地球外から押し寄せてこの地球を蹂躙している事実を知りながら、ではどうして彼らは戦えるのか。

 この世界に生きているからだ。この世界以外に生きる場所などないからだ。愛する家族がいて、愛する恋人がいて、信頼しあえる仲間がいて、護るべきひとがいて。……いつか自分も、そうなれるのだろうか。こんな地獄に独りでいたくないからこそ、純夏という存在に縋りつこうとしている自分でも、いつか、そうなれるのだろうか。――オレは弱い。そして、白銀武もまた弱かった。

 何度も何度も挫け、折れ、捻じ曲がり、その度に擦り切れていったアイツは……けれど独りではなかった。どれだけ間違おうとも、自滅の道を辿ろうとも、決して見捨てない仲間が、上官が、愛情をくれる者たちがいた。――オレにはいない。ピアティフがそうだったのかもしれない。けれど、彼女は死んでしまった。自分にとっての“愛情をくれる者”は、この世界にはいないのに。果たして、自分は白銀武のように這いずりながらも立ち上がることが出来るだろうか。……否。今立っているここから、一歩でも踏み出せるだろうか。純夏に縋りつく以外の生き方を、見つけられるだろうか。

 ――いつか。

「あの、鉄少尉……よろしかったら、一緒に休憩いたしませんか? 我々はPXへ向かっていたのですが……」

 その言葉に誰よりも驚いたのは冥夜だった。自身で口にして、自分で驚いたのである。千鶴も驚いたように冥夜を見、鉄も――恐らく――瞠目したのだろう。PXへ向かおうとしていたのは本当だ。先ほど正式に国連の救援部隊が現場を引き継いだために、冥夜たちA-01部隊の衛士はやることがなくなってしまった。自分の機体さえBETAにスクラップにされている状況で、専門知識を持たない衛士に出来ることは精々が基地内の警備か雑用くらいなものだ。まして、副司令直轄の特務部隊ともなれば、勝手に救援部隊の衛士と馴れ合うわけにもいかない。

 そんな情けないやら悔しいやらの事情から――もっとも、救援部隊の面々にしてみれば、あれほどの絶望的な状況から反応炉を死守して見せたA-01部隊の存在は畏怖すべき存在なのだが――暇を持て余す結果となり、それならば暫しの休息を、となったわけである。無論、基地内がこんな状況のため羽目を外すことはしないが、命を懸けて戦い抜いた仲間たちと談笑するくらいは構わないだろう。…………そうとでも思わなければ、遣り切れない。

 死傷者を想えば哀しみがこみ上げるし、辛さが募る。だが、自分たちは決して苦しむために生きているのではないし、死んで逝った彼らとて、自身の死を引き摺っては欲しくないだろう。それは、あの甲21号目標を攻略した時に学んだことだ。初陣にして同期の仲間を喪い、先達を喪った冥夜たちは、そこからいくつもの大切なことを学び、経験した。死者を誇り、語り継ぐことが何よりの弔いだというのなら――この戦いに散った彼らのことを存分に語らい、弔ってあげたい。そう思う。

「オレ……も?」

「は、はい。……唐突に思われるかも知れませんが、是非」

 もちろん、お暇があればですが。恐縮したように冥夜は語尾をすぼませる。初めて肉声で聞いた鉄の声は、矢張り“彼”の声音に似すぎていて、心臓が跳ね上がりそう。上背も、髪型も、体格も似ている。そして声までが恐ろしく似通っているというなら、その仮面の下の素顔にも興味がわく。……同時に、自分はなんと不謹慎なのだろうと恥じ入ってしまうが、それは千鶴も同じだったらしく、目が合うと二人して苦笑してしまった。

「少尉、いかがでしょう。私たちの話を聞いてくれるだけでもいいんです。……散っていった仲間たちのこと。彼らの、彼女たちの生き様を……」

 その千鶴の言葉に、鉄は頷いた。散っていった仲間たち。その中には当然白銀武も含まれているのだろう。興味があった。白銀武の記憶は自分の中に流れてきたが、彼が、あの絶望のどん底を這いずり回るだけだった彼が、一体彼女たちにどう思われていたのか。……それを知ることが出来たなら、ひょっとすると、今のこの状態から抜け出せるきっかけを掴めるかも知れない。直視し難い現実に打ちのめされ続け、ニンゲンですらなくなってしまった白銀武。彼の生きた人生が決して無意味ではないのなら――きっと、オレだって生きていける。



 初めて向かうPXには先客がいて、その三人もまた、よく見知った顔をしていた。――彩峰、尊人、たま……。いいや、確かこの世界の尊人は少女なのだったか。そんな些細な、けれど致命的な差異は、矢張りここが異世界なのだと示している。自分にとっては永劫の異世界。それは、この世界に生きる限りずっと憑いて廻り、神経を蝕み続けるだろう。あの世界との差異を見つければ見つけるほどに、自分が異分子なのだと突きつけられるようで……。

「わぁ! 鉄少尉だぁ!」

 そんな鉄の苦さなど知らず、美琴が驚いたように近づいてくる。さっきそこで偶然出会ったのだと説明する千鶴の言葉を聞いているのかいないのか、興味津々なのを隠そうともしないで、美琴は鉄を見回す。その態度を失礼だろうと叱る冥夜に、自身の非礼を察した美琴は慌てて頭を下げ、照れたように頭を掻いた。……席で待つ慧たちの元へ向かう。別人である彼女たちと並んで歩きながら、それでも、思ってしまう。

 やっぱりオレは――、あの世界を、……………………。

「ホントに《鉄仮面》。……変態?」

「「「「……」」」」

「あははは、彩峰さん直球過ぎだよ~」

 鉄は、まじめに考えるのが莫迦らしくなってしまった。――彩峰、お前はそういう奴だよ。慧の無遠慮な発言に凍りつく冥夜たちには構わず、鉄は椅子を引いて座る。空気を読めていないらしい美琴だけが笑っていたが、生真面目な性格な千鶴や冥夜は胃が重くなっているかもしれない。シリアスに浸るのが莫迦らしいと思う反面、そういう、彼女たちの“らしさ”はありがたいものだった。……特に、自分にとっては。

「失礼でしょう、謝りなさいよっ」

 慌てて慧を非難する千鶴だが、これは鉄が制した。慧の発言に脱力したことは本当だが、別に不快に思ってはいない。そういう意味も込めて、鉄はこの仮面には事情があるのだと答える。白銀武亡き今、鉄がこの仮面を強制される必要はなくなった。……なくなりはしたが、それでも、自分は白銀武には成れない。不用意に仮面を外しても、周囲の人間を困惑させるだけだろう。特に、白銀武と親しかった者たちは。それが懸念される以上、鉄は鉄として在るしか出来ない。それでいいのだと納得している。

「事情……ですか?」

 きょとんと尋ねる壬姫には頷いて機密なのだと答えておく。夕呼が鉄の存在を隠していた以上、そしてその理由を鑑みれば、機密以外の何ものでもないだろう。黙っておいたほうがいい。いつか白日の下に晒されることがあるのだとしても、それは今ではない。或いは、鉄がどこか別の、白銀武を知るものの居ない全くの他所へ異動するなりすれば、この仮面から解放されるのかもしれないが。

 興味を隠せないのだろう。彼女たちの視線は常にこの仮面に注がれていた。いや、主に仮面だが、全体的に注視されている気がする。確かに、今まで一度も顔を出さず、姿を見せなかった人物が突然目の前に現れたのだから、興味を抱くなというほうが無理だろう。多分、鉄が逆の立場でもそうするはずだ。

 鉄は気づいていないが、彼を注視する彼女たちの中には次のような疑念・興味があった。白銀武に似すぎていること。XM3の発案者にして、『概念戦闘機動』の体現者。あの戦闘で見せた凄まじき機動。その仮面の理由。一体何者なのか。同じ年齢、同じ階級。副司令直轄の特務部隊にすら機密の、特務衛士。――等々、様々な興味。それらを内包した視線を受けて、けれど鉄はそれを知り得ないために、仮面を掻くような仕草をするだけだ。困っている、というわけである。

 その《鉄仮面》の困惑した感を察したのは冥夜で、自身もしげしげと見つめていたのを棚に上げて、皆に注意する。これには慧の抜け目ない反撃もあったのだが、一応、収まりを見せた。そのときの鉄の安堵した様子が妙に幼く見えて、彼女たちは不思議な感覚に捕らわれた。《鉄仮面》。そう称される人物は、確かに同年代にして同じ少尉階級にあるが、その戦術機操縦のセンス、発想の突飛さ、XM3の発案等々、まるで雲の上の存在だった。そう思っていた。……だが、たった今彼が見せた仕草は、安堵した様子は……なんというか、年相応な、けれど衛士らしくない、軍人らしくない幼さを孕んでいた。

 まるでBETAという脅威を知らず、軍という世界を知らず、平穏で伸びやかな世界で育ったかのような――なにを莫迦な――冥夜は頭を振る。そんなことが、あるはずがない。ただ、この鉄という人物は、純粋な心を持っているのだろうと感じられた。初対面である自分たちから向けられる無遠慮な視線に困惑し、安堵する。そういった当たり前の感情を当たり前に出すことの出来る純粋さ。素直さ。そういうものを持っているのだろう、と。……それが軍人にとってよいことなのかどうかは別として、人として好意を持てると思った。

「鉄少尉、ありがとうございます」

「……ぇ、?」

 だから冥夜は、心からそう言うことが出来た。鉄はなんのことかわからずに戸惑ったようだが、それでもいい。きっとこの言葉には皆の気持ちがこもっている。生き残った皆が、そう感じている。――貴方が居なければ、全員が死んでいた。今こうして生きて再び会話を交わすことが出来るのは、全て、なにもかも、鉄のおかげだった。XM3。人類を救う確かな希望。その発明がなければ、彼の発想がなければ、絶対に生まれることのなかっただろう新型OS。

 甲21号目標の攻略、佐渡島の奪還。基地防衛、反応炉の死守。ひいては、自分たちがこうして任官できているのも、XM3のおかげだ。本当に。なにひとつとして、XM3なしには、彼なしには成し得なかっただろう。だから感謝を。多くが死に、喪われた。……けれど、貴方が居てくれたからこそ、今、生きている人々が居る。それを伝えたかった。

「……オレは、なにも、」

「少尉はそう思われるのかもしれません。ですが、我々が少尉の戦う御姿に励まされたのも事実です。少尉の我武者羅な戦い方が、あの地獄のような戦場に希望をもたらしてくださったのです」

 莫迦な。そうではない。まるで自分を英雄かナニカのように語る冥夜を、鉄は恐ろしいと感じた。助けられたのは自分だ。初めての戦場を恐れ、死への恐怖に小便を漏らしたのは自分だ。悲鳴をあげ、我を忘れ、周囲を見失い、銃弾もなく近接戦闘を行うだけの勇気もなく、ただ逃れようと必死になって喚いていた。――それを助けてくれたのは、救ってくれたのは……冥夜、お前じゃないか。白銀武が死に、記憶が流れ込んできて、ようやく。死んで堪るかと思った。生きて、生きることで白銀武へ復讐してやると考えた。そう思わなければ生きていけないことを知ってしまった。――だからだ。だからなんだよ、冥夜。

「オレはそんな大層なことはしていない。……オレは、臆病だったんだ。今でもそうさ。独りで居ることに耐えられない。この世界で生きていくための理由が見つからないんだ。もう、一つしか残されていない。オレは、そのたった一つに縋らなければ生きていけないくらい、壊れちまってる」

 気づけば何事かを口走っていた。なにを言っている。なにを言ってるんだ、オレは――? あの世界で冥夜は強く輝いていた。彼女の存在は大きく、自分たちを包み込んでくれるような力強さを放っていた。帝王学。そういうものを学んでいるだけはあるのだと、漠然と感じていた。カリスマ。……ならば、嘆き縋りつくのに、彼女以上の存在はいないのかもしれない。自分の浅ましい弱さが、そんな彼女の強さを察知して、縋ろうとしているのだろうか。

 莫迦な。この世界の冥夜と自分は、今日これが初対面だというのに。相手にされるはずがない。狂気の《鉄仮面》。好き好んでこんな仮面を被るような奴は、マトモじゃない。そんな風に同情されるのがオチだ。すぐにここを去ったほうがいい。彼女たちに関わるべきではなかったのだ。こちらとあちらの狭間に立っている自分は、矢張り最期まで、死ぬまで、独りで居るべきだったのだろう。

 白銀武の記憶に蝕まれ、異世界という現実に蝕まれ、純夏への妄執に縋りつき。ただ、復讐するのだと呪わしく吐き続ける。――そうすればよかった。そう、しよう。

「少尉……」

「……」

 立ち上がろうとした鉄を、冥夜が鋭く呼び止める。その瞳には縋りつく異邦者を排斥する気配も、哀れな狂人に向ける同情もなかった。ただ、厳しい強さだけが。衛士としての……御剣冥夜としての強い瞳。鉄は、指の一本さえ動かせなくなった。吸い込まれるように、瞳を見つめる。目が、離せない。

「少尉が発案なさったXM3が世界を救う一助となることは確かです。現に、我々はそのおかげで佐渡島を奪還し、この基地を護ることが出来ました。少尉のXM3が、多くの人を救ったのです。……確かに、少尉自身の御心、内情を全て知ることは出来ませんが、けれどそれでも、少尉のなさった行為が、我々に希望を与えてくださったのです。どうかそのことだけは、忘れないでください」

「…………」

 応える言葉を、鉄は持たなかった。英雄とは、当人の意志に関係なく、“英雄”と呼ばれるのだ。言外に冥夜はそう言っていた。そんなモノを押し付けるな。そう喚き返してやりたいのに、喉が震えない。言葉にならない。なにかよくわからない感情が渦を巻いて、ぐるぐると思考が上滑る。放って置いて欲しいと思う。一人にしないでくれと叫びたい。オレはここにいる。オレはオレなのだと。知って欲しい。理解して欲しい。愛してくれ。ここに生きていいのだと。純夏。冥夜。誰か。

 お願いだ。

 オレは、どうしたらいい。

「オレは、――――――――ぁ、ぐ」

 伝えられるわけがない。言っていいはずがない。鉄タケルは白銀武には成れない。決して、同一人物には成り得ない。彼の持っていたもの、彼との間に築いてきた親交を、全て鉄が享受することなど不可能だ。この世界に居場所を求め、生きる理由を欲するならば。鉄は“英雄”を受け入れるほかないのだろうか。冥夜の言葉が全てではないだろう。ただ、鉄自身の境遇や感情、内情になど一切頓着せず、世界は彼に“英雄”を求める。

 純夏の脳を護ること。そうすることで白銀武に復讐すること。――英雄。その選択肢は、密接に絡んでいるように思われた。得体の知れない異世界という恐怖が、びっしりと根を張っている感触。恐怖が――この世界に生きるという恐怖が――BETAに感じたそれよりも深くおぞましいものを感じて、鉄は冷や汗を掻く。テーブルの上に置いた指が、小刻みに震えていた。

 最早白銀武の生前の様子を聞くどころではなくなってしまった。せっかくの彼女たちの団欒をぶち壊しただけでなく、これから任務を共にするのだろう彼女たちに最悪の印象を与えてしまったかもしれない。けれど、それを取り繕うことさえ出来ないまま、無言の時間が過ぎていく。……だからこそ、やってきたまりもはありがたかった。彼女が現れたことで休憩時間は終わりを告げ、軍人としての時間が再開されるのだから。一糸乱れず整列する冥夜たちに倣い、鉄もその列に並んだ。

「全員揃っているな……貴様たちに伝えておくことがある」

 そのまりもの表情や声音は、鉄はおろか、冥夜たちでさえ初めてのものだった。恐ろしいほど張り詰めた意志。そういうものを感じさせる迫力と、脆さ。およそ神宮司まりもという女性にそぐわない気配といえばいいのだろうか。知らず、全員が息を止め、唾を飲み込んでいた。――覚悟しなければならない。そういう直感を、まりもは強制している。

「我々の任務は終了した。オルタネイティブ4は――――」







 その後に続く言葉を、オレは覚えていない。







[1154] 守護者編」:[終章]
Name: 舞天死◆68efbbce ID:c760b461
Date: 2009/02/11 00:28


『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』



「守護者編:終章」






 あの日を境に、世界は崩落を始めていたのではないかと、時々思う。

 それは自分自身にとっての世界、というだけでなく。この世界そのものが、悲鳴をあげ、嘆き悲しみ、絶望に啼いているような……そんな、お定まりの言葉で飾りたくなるほどの、崩落。世界は――いや、まだ、全てが終わったわけではない。でも、既にこの世界は限界を迎えようとしている。人類は地球を、太陽系を脱出し、未だ見ぬ新天地を目指して飛び立つことを選択した。外宇宙。BETAがやって来たとされるその深淵へ向けて。銀河の果てに、この地球と同じく人の暮らせる環境が整った新世界が在る。そう信じて。そしてそこにはBETAもなく、不条理な戦争もなく、人類は新たな歴史を紡ぐのだろう。

 そんな夢に縋りつくしかないほど、世界は追い詰められていた。いや、この発言には多分に私的感情が含まれているから、正しくない。より正確に適切な言葉を用いるならば……………………いや、いい。美辞麗句を謳う政府の言葉など、どうでもよい。連中がなんと言おうと、彼らは地球を見捨てることを決定したのだ。地球脱出用のシャトルに乗って、この世界から旅立つ。

 或いは、全員が揃って旅立つことが出来たなら、こんな反発はなかったのかもしれない。脱出できるのは数十万人だそうだ。この計画を考えた連中は、それだけ逃がすことが出来るなら世界中の人々の同意を得られるに違いないとでも思ったのだろうか。――思うわけがない。誰も彼も納得せず、猛反発を起こすだろうことを承知で、けれど、そんな選択をしなければならないほど、もう、どうしようもなかったのだ。……ならばどの道、地球を捨て去ることに対する反発は起きたのだろう。

 結局。人の心はいつだって満たされないし、不安を抱え、感情を揺さぶり、涙を流すのだ。怒りを燃やし、声を上げる。――ふざけるな、と。誰も彼もが納得し、満場一致で「それはよい手だ」と拍手する策なんてありはしない。今日までの歴史を振り返ってもそれは明らかだし、地球・人類の危機というBETA襲来を以ってしても、それは変わらなかった。地球を脱出しようとしている今まさにこのときでさえ……。

 世界は崩落しようとしている。そして、その速度は日に日に速まっているようで、もう、すぐ足元にまで崩壊が迫ってきているのかもしれなかった。



「白銀少尉」

 呼ばれて、茜は振り返った。腰に差した脇差は漆に塗られた黒い鞘に収められ、鞘口には赤く掠れた帯が巻かれている。翻る後ろ髪が肩の下で軽やかに弾む。浮かべていた渋面をすっかりと消し去り、上官へ敬礼を向けた。目前には、碧髪の美麗。二年前より一層美しく、一層厳しさを増した真那が、相変わらずの赤い軍服のまま微笑んでいる。緩やかに答礼する真那はそのまま歩みを再開し、茜の傍らに立つと、先ほどまでの彼女と同じように夜空を見上げた。

 冬の澄んだ夜空。寒々しい風が身を切るようだった。――年々、冷気が増している。真夏でさえ肌寒く感じる日があるくらいに、地球は緩やかに凍り付こうとしている。それもBETAが地球上を蝕んでいる弊害なのだが、今の人類にそれをとめる術はない。寒さに眉を寄せるように虚空を睨んだ真那は、視線を空に固定したまま、茜に語りかけた。

「……白銀、宙(そら)へ行かないか」

 目を剥く。同時に、隣の真那を見上げていた。茜の表情は驚愕のそれで、何事か問い返そうとして喘ぎ、何も言うことができないまま口を閉ざす。……堪えるように俯いた茜は、左手に黒塗りの鞘を握った。弧月。かつてそう銘打たれていた刀を鍛え直した脇差は、茜にとって魂そのものとなっている。そう。かつての持ち主がいつもそうしていたように、茜もまた、昂ぶりや不安を弧月に支えられていた。――その存在が、感触が、心を安らげてくれる。

「なぜ、わたしなのですか……」

「愚問だ。貴様が選ばれたからに決まっているだろう。私に誰を宙へ上げるか選ぶ権限があると思うのか?」

 それは、どうだろう。真那はかつて冥夜に仕えていた。今も公にされてはいないが、それでも、身近にいればわかることはある。御剣冥夜は煌武院悠陽殿下と血を分けた姉妹であり、真那は彼女の身を護るためにあの横浜基地に赴任してきていたのだ。つまり、それだけ殿下の信頼が篤い。二年前の冥夜の任官を境にその護衛の任は解かれていたが、それでも、殿下が真那を思う気持ちに変わりはないだろう。――恐らく、

「御剣は、いいんですか? 御剣も選ばれているはずです。彼女が宙へ上がるからこそ、中尉もまた殿下からその権利を与えられたのでは、」

 茜の問いには答えず、真那は空を見上げたままだ。その沈黙が哀しく、悔しい。茜には子が居た。そして、徴兵年齢に満たない子を持つ親にだけ、特例措置として子を一人連れてよい権利が与えられている。……つまり、子供と共に宇宙へ逃げろ、と。真那はそう言っているのだ。一人娘はつい先月一歳になったばかり。彼女の未来を願うならば、新たな世界を求めるのもよいのかもしれない。だが。

「貴様の言いたいことはわかる。武や柏木少尉たちが護り、散っていったこの星を離れたくはないのだろう? ……最期まで、この地で戦いたいと願っている。娘のためにも、父親が眠るこの地で生きたい。そう言うのだろう」

「……はい。怪我の療養のため後方に配備されるはずだった私たちを斯衛に引き抜いてくださったことは本当に感謝しています。伊隅大尉も、速瀬中尉も、宗像中尉も風間少尉も。殿下の御心づくしには本当に言葉もありません」

 寒々しいほどの絶望を覚えている。あの日、ベッドで目覚め眠るのを繰り返していたあの日。負傷した兵士で埋め尽くされた病室で、みちる、水月とともに実の姉から告げられたAL4の中止の一言に、背筋が震えたのを覚えている。淡々と、努めて事務的に上からの命令を告げた遙の顔色は、まるで蝋人形のように白く、病室に居る誰よりも具合が悪そうに見えた。張り裂けそうな感情を飲み干そうとしているみちるや、無理に笑おうとした水月の表情が印象深い。茜はただ呆然と姉の言葉を反芻するしか出来ず、気づけば武の形見を握り締めて泣いていた。

 悔しい。そういう感情だったのだろうと思う。実際のところ、よく覚えていないのだが。きっと、その感情が一番強かったように思える。まるで、これまでの自分を、仲間たちの死を否定されたような気分だった。薫の、晴子の、亮子の、多恵の……そして武の。死。或いは先任であったり、帝国軍の衛士であったり、同じ横浜基地の衛士、兵士たち。AL4に関わった全ての人々の死が、犠牲が、願った未来が……全て無駄だったのだと。そう言われた気がした。

 その後は遙はおろか、直属の上官だった夕呼やまりも、千鶴たちにも会うことなく、オーストラリアに後送される準備だけが着々と進んでいった。入院を続けている美冴と梼子も同様の扱いとなり、みちるが彼女たちの分のサインをする。はずだった。みちるがサインを拒んだのではない。……確かに、彼女は自分たちの中では最もAL4に関与していた期間が長く、夕呼に仕えてきたのも最長だろう。忠誠を誓い、信頼を寄せていた彼女に面通しを願うことさえ許されず、一方的に計画の中止を告げられたのだ。その心中を量ることは、茜にはできない。自分たちを不要な駒として切り捨てようとしている上層部に反感を抱かなかったはずはないだろう。一度だけ、みちるが独りで泣き喚くのを見たことがある。自室のベッドに縋り、嗚咽を上げて啼いていた。

 感情の昂ぶりを無理矢理に押さえ込んだまま書類にサインをしようとするみちるの手を止めたのは、グレーのスーツを着た男性だった。城内省の関係者を名乗ったその男はみちるの手から書類を奪い取ってしまい、担当官の目の前で破り捨ててしまった。あまりのことにみちるも焦ったのだが、担当官が怒鳴るよりもはやく、男が懐から別の書類を取り出した。それはみちるたち五人の名が記されており、夕呼の名で名誉除隊の手続きが完了していることを示す書類で、日付は一月五日となっている。……あのBETA襲撃の翌日。夕呼の直筆でサインされたその書類の真偽はさておき、その日までは確かに夕呼は横浜基地の副司令としての権限を持っていたのである。しかも、ラダビノッド司令のサインまで書かれていた。

 既に除隊している者を軍務のためにオーストラリアへ後送することなど不可能、と男は一方的に述べ、呆然とするみちるの腕を引っ張って歩き出す。慌てたように水月と茜がそれに続き、何処へ行くのかもわからぬまま歩いている道中、男は美冴と梼子の二人を帝国軍病院に移送したと告げた。――冗談ではない。一体なんだというのか。男の正体もそうだが、あの書類は何なのか。夕呼がAL4中止を通達されるその前日に、自分たちは既に除隊していたという。明らかに偽造なのだが、けれどその書類には全員のサインまであった。なにがなんだかさっぱりわからない。……ただひとつ、確実なのは。これが夕呼の差し金だということ。あの天才は、最後の最期でナニカを成そうとしている。

 何処に向かうのか。それを問うたのは水月で、振り返りもしないまま男が答える。――帝国へ。茜は瞬いてしまった。美冴たちが既に帝国軍病院へ移送されたというのだから、まさかとは思っていたのだが……本当にそのまさかになった。先ほどからみちるが男の腕を振りほどこうとしているのに、男は少しも頓着した様子がなく、指の一本も離せない。愕然とするのはみちる本人であり、男が只者でないことを示していた。

 基地の外に出る。門をノーチェックで素通りすると、そこには軍用車が待機していた。帝国軍仕様のその車に半ば押し込まれるようにして、ようやく、男がことの仔細を語り始めた。――香月夕呼の、半生を懸けた長い戦いの物語。みちるでさえ知り得なかったその戦いの全貌は、茜には想像も出来ないほどの苦痛と困難を伴うもので、そして、世界そのものを背負う重責と、無数の犠牲者を強いねばならぬ狂気に、吐き気を堪えるので精一杯だった。

 武でさえ、その研究の道具に過ぎず、研究のために投与した薬品の副作用で死んだのだと知らされたときは…………本当に、夕呼への殺意を抑え切れなかったのを覚えている。あの水月でさえ一時とはいえ取り乱し、語る男の襟首を掴み上げたのだ。非道を成してまで果たさなければならない願い。夕呼の精神は、一体どれだけの涙を枯らしてきたのだろう。心は、どれほど磨耗していったのだろう。――そして、その半生を賭した研究は、遂に結果を出せぬままに中止された。

 みちるたちが知る情報はそれだけだ。夕呼は研究を完成させられなかった。XM3の開発は、00ユニット完成までの時間をもたらしてはくれなかった。……いや、本当はわかっている。計画の中止を決断させたのは、間違いなくBETAの襲撃だ。巨大な研究施設でもあった横浜基地は全壊。その復興だけでどれだけの時間と金を費やすだろう。ハイヴを擁しているために復旧は迅速に行われようとしていたが、それでも、基地には再びAL4に挑むだけの余力など残っていない。と。そう判断された。……判断するよう促した力の流れが存在した。

 『G弾』によるハイヴ殲滅を掲げていた彼の国は、XM3に目をつけた。XM3を搭載した戦術機甲部隊だけでハイヴを攻略した『甲21号作戦』に目をつけた。予備作戦として『G弾』を搭載した戦艦を海上に待機させるのと同時に、彼らはずっとデータを取り続けていたのだ。その凄まじき性能を、最も効率のよい戦術を、BETAを速やかに殺戮する術を。模索し、検討し、開発した。つまり、国連さえ使用を認めない『G弾』の代わりを、XM3で果たそうというのだ。そうして新AL計画の素案が提出されるのと同時に、横浜基地は壊滅。全人類を導かねばならない責務を負っているのだと自認する彼らにとって、またとない絶好の機会が訪れたのだ。

 嘘のような、けれど、実際に起こった話。結局のところ、AL4はこれまでに浪費してきた予算以上の結果を出せなかったということだ。そんな、金銭の話で片付けられてしまうというのが、みちるには悔しくて堪らなかった。夕呼の無念、怒りを思うと、一層虚しい。嘆く、という感情はこれほどまでに胸に迫るものだったのだと、水月は初めて知った。やり場のない、持て余すだけの感情を、茜はどうすればいいのかわからず、ぼんやりと外の風景を眺めた。廃墟と化した町並みを抜け、車は荒野を走っている。帝都へ。自分たちは向かっている。

 男は言う。一方的な中止を言い渡された夕呼は、その絶望の最中、00ユニット――量子電導脳を完成させるための鍵を見つけた。自分の半生を否定されたショックが、それを気づかせる閃きとなったのか。その辺りのことは男も知らないようだったが、とにかく、夕呼はこのままで終われるはずがないと強く思ったのだという。……当然だ。今までずっとその鍵を捜し求め足掻いていたのだ。遂にそれを掴んだというなら、手放して堪るかと思うのが人の感情だ。どれだけの絶望の淵に立たされようと。どれだけの悲嘆に暮れようと。気づき、見つけ、手に入れたのならば。……香月夕呼は故に天才と呼ばれるのである。そして、人類を救う聖母となるだけの資格が、彼女には確かに在った。

 だが、夕呼は計画の中止と同時に副司令の地位を追われ、横浜基地での権限の一切を奪い取られていた。あまりにも性急な処置だったが、それは夕呼の才能がホンモノなのだとよく知っているAL5からの圧力だった。つまり、00ユニット完成の鍵に気づいたそのとき、夕呼には取れる手段がなかった。夕呼の周りに居たスタッフは全て入れ替わっており、秘書官を務める遙はまりもと共に国連軍本部への即時異動が申し渡され、A-01のメンバーはアラスカへXM3の教導のための派遣が決まり、負傷したものはオーストラリアへ後送されるという。そして夕呼自身、どこぞの辺境で一研究員としての席が用意されていた。

 この横浜基地に居られる、残り僅か数時間が、夕呼に残された全てだった。各方面への通信手段さえ根こそぎにされていることに夕呼は徹底したものだと吐き捨てたそうだが、唯一つ、たった一つだけ、夕呼独自のネットワークが残されていた。それがこの男であり、そして男は、夕呼の意向を汲み、彼女の望むシナリオを作り上げた。……つまり、みちるたちの国連軍除隊である。

 夕呼はXM3開発の名誉もあり、社会的に抹殺されることはないようだが、その身は完全にマークされており、プライベートはおろか、内密に研究を進めることさえ出来ない状態となる。せっかく掴んだ00ユニット開発の鍵も、それを形にすることが出来ないのだ。そして、そもそもその開発には横浜基地に眠るあるものが絶対に必要で、僻地へ飛ばされる夕呼にはどうしようもないことだった。まりも、遙も同様だ。その能力を買われ軍本部へ招聘されるわけだが、それだけ監視の目も厳しくなるだろう。夕呼との繋がりが密接であったことを考えれば尚更だ。横浜基地へ戻ることなど万一にもありえないだろう。

 アラスカへ向かうこととなった冥夜、千鶴、慧、美琴、壬姫……そして鉄。彼女たちもまた、“英雄”鉄とともに世界中を駆け巡らなければならない。夕呼によれば、この鉄もまた00ユニット完成のために必要な要素なのだが、彼は世界中に希望をもたらさんとする英雄である。そして、素顔を明らかにしない彼の出身地は横浜。ならば、AL5を遂行せんとする者たちにしても、世界を救う英雄が是が非でも故郷に帰りたいと願うのを止められはしないだろう。横浜基地に新たに編成されるだろう戦術機甲部隊の教導のために派遣される可能性もなくはない。

 確率は低いが、ゼロではない。鉄が横浜基地に戻ることが出来れば、夕呼の望む二つの要素が成立する。――ならば、残る問題は夕呼の不在だ。それを解決するために、夕呼は社霞に持てる全ての知識を授けたという。元々自分の後継とするつもりだったのかは不明だが、霞は夕呼の研究の助手を務めていたこともある。そして、夕呼の期待通りに、霞はその知識全てを受け継いだ。僅か数時間の内に、である。空恐ろしい才能であろう。

 だが、霞には権力がない。横浜基地に籍を置いてはいるものの、彼女は正式な研究員というわけでもなければ、衛士でもなく、軍人ですらない。民間人と変わらないほどの無力な存在。けれど、その素性の特異性から、横浜基地に縛り付けざるを得ない存在だった。……実際、AL4およびハイヴ研究施設を兼ねた横浜基地のような場所でなければ、彼女の存在は塵ほどの価値も持たなかったのだろう。だからこそ夕呼は後継を得ることが出来たといえるし、だからこそ、霞だけでは例え鉄が戻ったとしても00ユニットを完成させるには至らない。

 研究には費用が掛かる。00ユニットを完成させるためには必要な機械装置の類が揃っていなければならない。だが、霞にはそれだけの予算を得る力がなく、パイプを持たない。そもそもが人類の命運を懸けた世界的プロジェクトであるオルタネイティブ計画をして、その予算を食い潰してきたような研究なのだ。とても少女一人にどうにかできる額ではない。――だからこそ、みちるたちは国連軍を離れる必要があった。そして、男の属する帝国へ逃れ、その深層に組み込まれ、霞のバックアップを担当するのである。

 夕呼の研究は全て、霞――そして帝国が受け継ぐ。男ははっきりとそう断言した。全ては夕呼と深い親交を結び、夕呼ならば世界を、人類を救うことが出来ると信じた煌武院悠陽殿下のはからいのもとに。

 帝国は夕呼からXM3のライセンスを譲り受けていた。『甲21号作戦』に向けて、帝国軍が僅かな期間でXM3を全部隊に配備できた背景にはそれがある。無論、XM3はAL4の成果でもあるから、作戦終了後には国連にその権利は返還されていた。だが、元々が帝国の誘致を受けてAL4の実行を勝ち取った夕呼である。当時、彼女はXM3のライセンス料の何割かを帝国が所有することを国連に認めさせており、結果、帝国は世界中に広まるだろうXM3の恩恵を予算という形で受けられることとなっていた。

 夕呼の手で完成させることが不可能でも、その意志を継ぎ、共感した者たちの手によって、夕呼の悲願を果たす。全ては極秘裏に進めなければならない。これはある意味で陰謀だ。世界を救うためとはいえ、夕呼を表舞台から引き摺り下ろした連中――即ち世界の主導権を握るAL5実行者たち――にしてみれば、れっきとした反逆行為だろう。地球を捨てることで人類を救済しようと目論む者たちと、00ユニットを完成させ全人類を救おうと挑む者たち。真っ向から対立する双極は、互いに潰し合うことしかできない。そしてこの場合、一方的に敗北するのはこちらだった。世界と、一国家。それも、帝国の中でもほんの一握りの者たちだ。

 そのリスクを知りながら、それでも挑もうという。男は、そのためにみちるたちを国連の手の届かない場所へ連れようとしているのだ。夕呼と男の間に残されていたネットワークは既に霞へと引き継がれている。今後は全て霞の指示に従って動くことになるのだが、具体的にみちるたちがなにをするかというと、表向きは斯衛軍の教導、ということだった。元A-01所属といった素性は一切隠し、別人として斯衛に所属する。それを聞いたときみちるは、まるでA-01のままではないかと思ったのだが、確かにその通りだろう。

 そうして表向きの任務をこなしながら、実際には00ユニット完成のため――仮に、マリア計画と呼称することになったそうだ――の任務を果たす。役割的には計画に関与しようとする外部組織の排除およびそれらからの警護。暗殺、或いは戦闘行為の一切を引き受ける。汚れ仕事といえば聞こえは悪いが、こういった世界にとっての陰謀を成そうとするためには、そういった闇の仕事も必要だろう。無論、みちるたち五人だけで手に負えるものではないし、彼女たちを中心とした裏の部隊を編成する予定もあるそうだ。

 装置が完成し、鉄が横浜基地へ戻ってくるその暁には、横浜基地を数日間から数週間占拠する必要があるらしい。その実働部隊としての役割も担っていると聞かされたときは、まるでテロだと顔面を覆いたくなった。そう実際に口に出して笑った水月は本当に荒事に向いている。みちると茜の二人は驚きの連続で既に感情が麻痺しかけていた。……結局、そのまま男に連れられて帝国軍へ入隊した彼女たちは、偽りの肩書きを与えられると共に、斯衛の黒を賜ることとなった。

 そうして二年――あっという間の、二年だった。

 白銀茜を名乗る女性は任務の最中に自身が身篭っていることを知り、出産を決意する。周囲の人々も歓びを以って彼女を支え、そうして一人の女児が産まれた。白銀武という青年の妻としての人生を与えられた茜は、産まれた我が子に「スミカ」の名を授け、深い愛情を注いだ。姉のように慕う水月も真那も、スミカの成長を待ち遠しく思い、よく産んでくれた、と、茜を労わってくれた。そう。この子は自分だけの子ではない。自分と同じように武を愛し、情深く想う人たち全ての子なのだ。

 茜、水月、真那。血の繋がりを超越して、スミカには三人の母が在った。強い子に育てよう、と水月は笑う。剣術を学ばせよう、と真那は微笑む。優しい子に育って欲しい、と茜は願う。――父親のように。彼のように。これからこの子が大きくなるのに合わせて、少しずつ、語ってあげよう。あなたのお父さんは、どれだけの苦しみも乗り越えて、立派に戦ったのだと。お母さんたちを、深く深く、愛してくれたのだと。

 あなたの名前はね、お父さんがこの世で一番深く愛したひとの名前をもらったのよ。――純夏、いい名前でしょう? 太陽のように華やかに、彼女は笑っていたわ。



 だから、どうかこの星で、娘の成長を見守りたい。武の眠るこの地球で、晴子や多恵、懐かしい仲間たちの眠るこの場所で。水月、真那。皆と共に。一緒に。生きて、いたい。

「月詠中尉――。わたしはスミカと共にこの地球で生きます。わたしはあの子に、この星を見せてやりたい。どれだけ残酷で絶望的な世界でも、それでも、武が生き、鑑さんが生き、わたしが生きた場所です。ここは、スミカの故郷なんです……」

 そう言うのだろうと、わかっていた。真那は肩を竦めるようにして息を吐き、残念だったのか嬉しかったのかよくわからない微苦笑を浮かべた。多分、嬉しいのだろうと思う。この二年間を茜と共に過ごしてきて、真那は水月同様に茜を妹のように想ってきた。そしてスミカもまた、実の娘のように愛でてきたのだ。いなくなってしまうなら、寂しさを覚えずにはいられないだろう。……だが、同時に。それでよいのだろうかとも思う。

 世界は間違いなく破滅へ突き進もうとしている。XM3は全世界に普及し、鉄たちの尽力もあって、衛士たちの技量は二年前のそれとは比べ物にならないものとなった。だが、それでも死者数は一向に減らないし、出生率も悪い。男女の人口比は圧倒的に男が少なく、徴兵年齢は引き下がる一方だ。BETAは先ごろ新たなハイヴを建設し、甲21号目標以降、攻略を果たしたハイヴは一つしかない。そしてその攻略作戦では、誰一人還ってこなかった……。

 『G弾』に代わる超兵器の開発はままならず、AL5は宇宙船の建設に心血を注いだ。計画が始動されて一年が過ぎた頃、連中はXM3をただの時間稼ぎとしてしか見ないようになっていった。それはまるで00ユニット開発のための時間を稼ごうとした夕呼のようで、XM3の存在価値を翳ませる行為だ。だが、それでもXM3の性能は衛士たちの希望となり、率先して実戦にも参加する『鉄の207』部隊は英雄としての役割を果たしている。

 状況は、悪い。けれど、まだ最悪ではないというところだ。……このままこの星にしがみ付いたとして、一体あと何年生きていられるだろう。果たして茜の選択は、その想いは……スミカにとって最良の未来となるかどうか。真那は瞑目する。――違う。

「そう、だな。……スミカの未来を憂うというなら、我々がその未来を切り拓けばよいのだ」

 他星系へ逃げる? それもいいだろう。だが、そうするためには、あまりにもこの星への執着が強すぎた。真那は茜を見つめ、茜は真那を見上げた。二人ともが強く微笑み、頷きあう。――生きよう。そして、未来を掴むのだ。武のように。最期まで諦めたりしない。絶対に、諦めてなるものか。

「あーっ! ほら、やっぱりここに居るじゃない!! 宗像アンタ、知ってて嘘ついたわねぇ!?」

「言いがかりですよ中尉。わたしは月詠中尉に速瀬中尉を近づけるなと申し付けられていたので、実行したまでです」

「尚悪いわッ!!」

「……中尉、美冴さんをあまり責めないでください。美冴さんたら今晩のおかずを盾にとられて、やむをえなかったんですから……」

「…………梼子、それはフォローのつもりなのか?」

「ほらほらいい加減にしろ。速瀬、お前がやたら怒鳴るものだから、スミカがぐずっているぞ」

「っ、わ、わわっ、ご、ごめんねスミカ! 母さんぜんっぜん怒ってないからね?! ほ~ら、べろべろばぁ~ッ!!」

「……余計に泣き出しましたね」

「矢張りその人の内面というものを察してるんでしょうか?」

「まぁ、速瀬に抱かれていてはおちおち眠ってもいられんということだろうな」

「い、言いたい放題ね……っていうか伊隅大尉。大尉だってこないだスミカのおしめ換えようとして思い切り泣かれてたじゃないですかっ」

「む、それはおしめが濡れていたから……」

「ああ、そういえばおしめのつけ方がわからなくて通りすがった男性衛士を脅してやらせたんでしたっけ」

「聞き覚えの悪いことを言うなッ! た、ただ、使い方を教わっただけだ……」

「それにしても、いたいけな乙女のおしめを見知らぬ男性に換えさせるなんて……」

「可哀想なスミカ……。安心してね、その男の記憶は母さんたちがちゃぁんと消しておいたからね」

「全治四ヶ月の頭部裂傷を記憶抹消というなら、まぁそうなるんでしょうね」

「わ、わたしが悪いんじゃないぞ。お前たちが揃って休みなんか取るから……っ」

「お休みを下さったのは伊隅大尉ですよ。涼宮少尉に胸を張って“私に任せてくれて大丈夫だ”なんて仰っていましたのに」

「……風間、貴様段々言動に遠慮がなくなってきたな……」

 近づいてくる賑やかな会話に振り向けば、和気藹々と罵り合いながらやってくる四人の女性。茜と同じく黒い斯衛の軍服に身を包んだ彼女たちは、今日までずっと繰り返してきたやり取りをそのままに、茜たちの前に立った。――やっと見つけたわよ。言いながら、水月が抱いた赤子を茜に手渡す。唇の端を吊り上げて笑う水月の髪は肩の辺りで切り揃えられている。二年前、帝国軍へ入隊したその時にばっさりと切ってしまった。その短い髪は、快活でアクティブな印象を抱かせる彼女によく似合っている。

「まぁったく。いつまで経っても戻ってこないんだから」

「すいません、速瀬中尉。スミカを預けてしまって……」

 腕に抱く我が子をあやしながら、茜は水月へ苦笑をむける。その茜に対して、水月は全然気にしていないように、至極当たり前のように、――ま、母親だしね。と笑う。そんな茜と水月の姉妹のような姿を見ながら、みちるたちもまた微笑む。美冴と梼子は二年前の負傷が祟り、戦術機には乗れない体となっていた。彼女たちは戦闘時のCPを務め、或いは新兵の教導にあたり、その実力を発揮している。いずれは自分たちがスミカの“面倒”を見るのだと、今から楽しみでしょうがないらしい。みちるにとってもスミカの存在は大きい。あれだけの狂気に憑かれながら、それでも最期までヒトとして生きて死んだ部下は他にいない。それだけ思い入れのあった部下の娘ならば、可愛いと思わないはずがない。

「時に速瀬、貴様はスミカをあやすことも出来んのか。先ほどから見ていればまるでスミカを荷物か何かのように扱いおって……」

「む。なによ月詠。アンタだって人のこと言えたもんじゃないでしょうが! 知ってんだからね、この間、スミカを負ぶって散歩しようとして危うく落とすところだったじゃない!!」

 なんだと?

「き、貴様……ッ!? いい加減なことを言うなッ。大体貴様はいつもいつも! スミカを風呂に入れるときはあれほど目を離すなと言っておいたのに、先日は石鹸を食べそうになっていたではないかッ!!」

「そ、それはアンタだって悪いでしょ!? あんたがスミカの着替えを用意してくるとか言って先に上がるからっ!」

 ちょっとまて。

「いいや、違うな。第一貴様は母乳も出ないくせにスミカに無理矢理咥えさせようとしたり……ッ」

「スミカが眠ってるのをいいことにほっぺたをぷにぷにして遊んでるアンタに言われたくはないわっ」

 へー。ふーん。

「おのれ貴様今日という今日はッ!」 「いい機会だわ、白黒はっきりつけようじゃない!!」



「速瀬中尉、月詠中尉――」



「「ッッ、」」

 互いの襟首を掴もうとする寸前、向けられた冷ややかな声に、両者は硬直する。恐る恐る振り向けばそこにはすやすやと眠る赤子を抱いた母親の笑顔。……いいや、アレは笑顔という名の仮面に隠した般若の面。噴出する寒々しい気配に、歴戦の強者もたじろいでしまう。――ま、まずい。水月と真那は、自分たちがこっそり胸の内に仕舞っておいた失態を晒してしまっていることに気づく。もし知られたら恐ろしいことになる。そうわかっていたからこそ互いに秘密にしておいたというのに……!

「二人とも、そんなことしてたんですねぇ……。わたし一人じゃ大変だ、スミカの面倒を交代で見てあげよう。なぁんて……。うふふふ。ひょっとしてこの一年間で、もっと色々、“やっちゃって”たりするんですかねぇ……?」

 まずい。両者は揃って直感し、茜の背後に揺らぐ炎を見た。アレは本気で怒っている眼だ。いかに三人で母親役をこなそうと、実際に血の繋がりのある母は茜ひとり。その茜が水月と真那ならばと信頼して預けてくれていた間に、まさか愛娘がそんな目に遭っていようとは。当然わざとではないのだろうが、それにしても茜にひとこともないというのはいかがなものか。沸々とこみ上げる憤懣に気づいた水月たちは一歩たじろいだ後に、項垂れて謝罪を述べた。――ごめんなさい。

 がっくりと肩を落とす二人に、茜は溜息をつく。揺らめいていた炎は消え去り、やれやれと苦笑が零れる。二人とも、心の底からスミカが可愛いのだ。実の娘のように。実の娘ではないからこそ。自らが孕み、産みたかった“いとし子”を、精一杯、愛でるのである。それは多分、女性ならば当然の心理。もしスミカが水月や真那の子だったとしたら、自分だって同じようにスミカを愛しただろう。

 血の繋がりがないからこそ、それを埋めるかのように愛し、愛でる。若干の行き過ぎや猫可愛がりはしょうがないのかもしれない。抱き上げたときの微笑を見れば、誰だって浮かれて舞い上がってしまうほどの愛らしさなのだ。それ故のちょっとした失敗は目を瞑ってもよいのではないだろうか。……幸い、大事には至っていないようだし。茜は内心で苦笑し、姉のように慕う二人を見上げた。項垂れたままの二人は恐る恐るといった具合に上目遣いを向けている。その、普段からは想像もつかないしおらしさに思わず噴いてしまったとして、誰が茜を責められよう。……勿論、みちる以下二名も笑いを堪えている。

「……ぷっ、くく、ぁはっ、あははははっ!」

「ちょ、なんで笑うのよ!?」

「……涼宮少尉、貴様……ッ」

「「「あはははははははっ」」」

 泣き疲れて眠る赤子を抱いて、茜は笑う。大好きな人たちに囲まれて、茜は笑う――ねぇ、武。



 ねぇ、武。

 見えている? 聞こえている?

 あなたが護ってくれたから、今がある。あなたが愛してくれたから、今もわたし、生きているよ。

 大好きな武。



 わたしは生きます。生きて生きて、最期まで生きて――



 ――そしたら、武に逢いに逝くね。











『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』 守護者編:完





































 一体いつ、どのようにしてこの部屋にたどり着いたのか。鉄は覚えていなかった。

 ただ気づいたときには夕呼の首を絞めるように掴み上げ、魂を汚染するほどの呪わしい怨嗟を投げつけていた。頬を伝う涙が熱い。体中に滾る血潮は怒りに沸騰している。――殺してやる。粘膜のように纏わりつく感情に衝かれるまま、両手に更に力が加わった。

 顔色を赤から紫へ変色させようとしている夕呼は、薄ぼんやりと目を開いたまま、何も言わず、抵抗もせず、殺すなら好きにしろと言わんばかりだった。……いや、確か自分から“殺せ”と言ったのではなかったか。鉄はよく覚えていない。どうしてこんなにも殺意が沸くのか。どうして殺したいほど憎いのに、最期のほんの一握りが加えられないのか。殺してはいけない――。相反する感情が、腕を麻痺させるようで。

「香月夕呼ォォォオオオオオ!!」

 吼え滾り、殺意を放散させる。口角から泡を飛ばし、壁に投げつけるようにして、夕呼を両腕から解放する。指先が痺れている。自身の血さえ通わぬほど、あんなに細い首を絞めていた。その冷たさにゾッとする。それをよしとした己の衝動に悲鳴が出そうだ。……それでも、本当に殺したかった。――いいや、殺してはいけない。

(何でッッ!!)

 鉄は突如として沸き起こった自身の激情に戸惑い、怒りと哀しみの狭間に捕らわれてしまう。それはかつて白銀武が体験した感情そのものであり、そして彼が過ちを犯した故に、踏みとどまることができた一線だった。香月夕呼の邪魔をするものは許さない。その誓いは、白銀武の後悔そのものだ。その記憶を受け継いでしまっている鉄にとって、彼の後悔はあまりに重い。故に、どれほど哀しく、絶望に喘ぎ、彼女を殺したいと衝き動かされても。……決して、それだけは出来ない。鑑純夏を救えるのは、この世界で彼女だけなのだから。

 ――純夏はもう、助からないッ。

 どうしてだろう。どうしてそう思うのか。何故、そう断言できるのか。――まりもちゃんが言った! そう。神宮司まりもは言った。鉄に突きつけた。AL4は中止となり、貴様らの任務は終了した、と。それを聞いた瞬間に鉄の中の何かが弾けて、砕けて、純夏の笑顔が罅割れて……どうしたんだっけ? 額にこびりついた汗を拭う。――あれ、仮面、は。汗に濡れた手の甲を見ながら、金属を殴りつける音を聞いた気がした。そうだ、確かまりもに顔面を殴られて……その時に、仮面が弾け飛んだのだった。何故、殴られたのだろう。計画の中止に我を忘れ、まりもに取り縋ったりしたのだろうか。

 ――この貌を、冥夜たちに見られたのだろうか。

(それがどうした)

 今やAL4は中止となり、夕呼は酒に溺れ壁にもたれるように転げている。机や床に散乱した書類を更に踏みにじったのは自分だ。どうしたら、いい。――どうにもなるわけがない。夕呼は失敗した。絶対に00ユニットを完成させて見せる。そう白銀武に豪語していた天才は、その力を毟り取られてしまった。そこにあるのは抜け殻だ。自身の力の至らなさに、自分を見限った国連に、世界を救う手立てを見誤った全ての者に、絶望し、自滅的に嗤うだけの抜け殻。

 細い首には鉄の指の痕が残り、酸素を取り戻した肺だけが自動的に喘いでいる。転がった酒瓶や激情を抑え込もうとしている鉄に目もくれず、散らばった書類をぼんやりと眺めているだけ。鉄は――泣いた。力なく膝を折り、床を埋める書類の海に手をついて、慟哭した。どうすればいい。オレはこれから一体、どうやって生きればいいんだッッ!? 00ユニットは完成しない。純夏は助からない。いつか彼女がヒトの形を取り戻し、あの懐かしい声でタケルちゃんと呼んでくれることは……もう、絶対に叶わない。

 純夏を護る。彼女を護る。けれどそれは、脳を……何も言わず感じない脳ミソを護り続けるという事ではない。いつかきっと夕呼が純夏を元に戻してくれる。その日のために。もう一度彼女に巡りあい、愛し、愛されるために。その日が来ると信じたからこそ、護りたいのだ。鉄が欲するのは、たった独りのこの世界で、傍にいてくれる愛しい人だ。白銀武にとっての涼宮茜のように。愛し、愛される伴侶を欲している。この世の者ではない鉄にとって、そう在れるのは純夏しかいなかった。彼女しか在り得ない。そう思った――それは確信だ。

 呪わしいこの世界。地獄のようなこんな世界。永遠に拭えない孤独。たった独りぼっちで…………一体どうやって生きればいい。絶望に視界が曇り、握った拳がぐしゃぐしゃと書類を巻き込む。涙が粒となって紙面に落ち、インクを滲ませた。ただ、哀しかった。自分ではどうすることも出来ない現実が、凍えそうなほど哀しい。……では、なんのために白銀武は死んだのだ。アイツは、いつかきっと純夏が復活するのだと信じて疑わなかったアイツは……。護れなくてごめん。そう最期に零したアイツの想いは……畜生。

 涙を拭う。こんな世界に生きている意味はない。こんな世界で生きていけるはずがない。――自殺。ふと思いついたその単語は、けれど全然現実味がなく、そして、どうすればよいのかさえわからなかった。最早生きる気力もなければ死ぬ気力もない。或いは、夕呼のように酒に溺れてみれば違うのかもしれない。夕呼を殺そうとした激情さえ既に去り、鉄は亡羊と床を見つめた。手の中で潰された紙きれ。夕呼が半生を懸けて臨んだというこの研究も、打ち切られてみればただ虚しい紙きれの山というわけだ。そう皮肉ってやりたくても、虚しさばかりが募る。

 ――ああ、なんだっけ、これ。

 夕呼の手書きなのだろうか。下手糞な図形。いくつもの四角が並んでいて、端に人間らしき図が描かれている。……どこかで見た、児戯のような、絵。

「そっか……。あっちの世界で、見たんだ……」

 自分で口にして、寒気がした。“あっち”――って、何だよ。いつからあの世界は、“あっち”になったのだろう。“あっち”、とは、向こう側、という意味だ。ここではないあちら。よそを表す音。違う。あそこは、アレは、元の世界。還るべき場所。自分が本来居るはずの、本当の世界。……だから、あっち、なんて、言葉は……。鉄はその紙切れを殊更に握り潰し、叩き付けるように投げた。元の世界を彷彿とさせ、この異世界に囚われている自分を自覚させたその図形。――こんなものが、AL4のッ……。

「そんな、間違った理論が…………ッッ!!」

 八つ当たりをするように叫ぶ。それは逃れられない世界からの束縛を振り切ろうとする鉄なりの抵抗だった。あんな、夕呼自身が古いと言い捨てた図形如きが、オレに元の世界を思い出させて、苦しめていいはずがない!! 怒りを纏う。こんな救いのない世界に囚われている不条理を、憎――――――――



「あんた、いま、なんていったの」



 最初、それが自分に掛けられた言葉だとはわからなかった。厳重なセキュリティに護られた地下研究区画。夕呼の執務室の中に、自分と夕呼以外の存在が居るはずがない。……にも関わらず鉄は、その声を、夕呼のものだと、彼女が自分に向けた言葉なのだとわからなかった。夕呼を見る。瞠目し、何処も向いていないまま、何も見ていないまま、ただ驚愕に目を見開き、唇だけが動いている。

「あんた、いまっ、なんて……っ」

 再び紡がれた言葉。矢張り、鉄に宛てているのか判然としないが……それは間違いなく、鉄に返答を求めていた。異常なまでの夕呼の様子に、鉄は硬直する。なんだ。なにが起こっている。見開いたままの眼。ゆっくりと機械仕掛けのように回る首。焦点が――鉄の瞳に据えられる。おぞましさに喉が鳴った。その眼は尋常ではない。ヒトの、それではない。アレは、そう、あの眼は――天才、鬼才、そういう類の……。







『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』クロガネ編







「さぁ、行くぜ……。オレたちが、この星を救うんだ」

「うんっ。行こう!」

 少女はさし出された青年の手の平を握る。あたたかい、大きな手。力強くて、優しいぬくもり。愛しさがこみ上げる。まるで涙が零れてしまいそうな、そんな気持ち。ずっとこの手を待っていた。ずっとこの手を求めていた。大好きなひと。うん。行こう。一緒に。この星を、この世界を、大好きなみんなを、大切なあなたを。――護るために。






 ――タケルちゃん!!







「大好きだよっ! だからずっと、一緒に居よう!!」

「ああ、当たり前だっ! もうお前をひとりになんかしねぇ! ――オレが純夏を護ってやる!」

 さぁ行こう。

 世界を救う――そのときだ。








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