何故世界が間違ったのか、千雨は明確な答えを出すことは出来ない。しかし、いつ間違ったのかは、その答えを知っている。
簡単だ。最初から、全てを間違えていたのだ。千雨がそのことを知る前から、生まれる前から間違い続け、その流れの中で足掻いて失敗した。ただそれだけだ。
三年と半年前、ただの中学生だった千雨の前に現れた新任の担任教師。
ネギ・スプリングフィールド。捻じ曲げられ、折り曲げられ、無理やり真っ直ぐに伸ばされた悲劇の魔法使い。その歪さを察したのは31人の中ですら極少数だったろう。神楽坂明日菜、超鈴音、エヴァンジェリン.A.K.マクダウェル。そして最後に気づいたのが長谷川千雨だった。ネギは間違っていたが、それは彼自身が間違っていたわけではない。世界が間違っていて、その結果生まれたものがネギ・スプリングフィールドでありフェイト・アーウェルンクスだった。彼らは間違えたまま生きて、多くの人に影響を与え続け、結果的に世界の間違いを露にした。
千雨は、最後の最後までネギの傍にいた。白き翼のNo,3――後にはNo,2であり白き翼そのものであるとまで言われたが、決してその活動に妄信的だったわけではない。かといって積極的に懐疑的なスタンスをとったわけでもなく、結局千雨は傍にいただけだった。
ネギが迷えば背中を押し、
悲しめば叱咤し、
進む時は裾をつまんで、一緒に進んだ。
だが、それだけだ。目に見えないような小さな成果は空気の中に拡散していき、三年経った今では何も出来なかったという結果だけが残っている。
超鈴音は、どうして行動することができたのか。
今でも千雨には解らない。
朝日に左手の薬指に嵌めたギメル・リングを透かすように、腕を挙げる。然程広くもないリビングは、ソファーに寝転んだままでも手にフィルタリングされてない朝日が降り注いだ。
知恵の輪(ギメル)指輪(リング)。細い輪の二重構造になっており、片方は真鍮、片方は黄金で出来ている。一見するとただのアンティークリングだが、二つの輪をずらしてみれば凄まじく細かい魔術刻印が見ることができる。
この類の魔道具は腰が抜けるほど高価なのだが、早乙女ハルナがどこからか見つけてきて、綾瀬夕映の手に渡り、二人がいなくなった後、行き場をなくして千雨の手に残った。形見を気取るつもりはない。彼女達の形見は、それぞれ行くべきところに行っている。ただこれを使っているのは便利だというそれだけの理由だ。
千雨が魔法を覚えたのは逃亡中の頃……それも末期。千雨とチャムの他、二人がいるだけで三ヶ月ほど秘境に逃れた時、生活のために片手間に覚えた程度でしかない。才能のほうもネギや夕映を比較するまでもなく乏しかったらしく、今に至っても中級魔法すら使うことができない。魔法世界での生活を送るための生活魔法の他は、防御系魔法を数えられる程度扱えるだけだ。
金と白、二色の指輪が朝日を飲み込むように鈍く輝く。
「マスター。そろそろ学校の時間です」
「ん……ああ、そうだな」
そういえば昨日は空を飛び損ねたな、と徹夜で酩酊状態の頭の中に欲求不満が燻る。昨夜のような気分の時こそ空を飛ぶべきではなかったか。今からでも遅くないかもしれない。どうせ今日限りの学校にわざわざ顔を出すこともない――。
こともないのだ。千雨は未練を振り切り、ソファーから転げ落ちるように立ち上がった。
「チャム。撤収の準備は任す。何時に完了する?」
「方々への連絡がありますから23時までかかる見込みです」
「じゃあいっぺん戻ってくる。あと一人処理してくるから、そっちの準備も頼めるか」
「はい」
処理、という言葉に篭めた剣呑な雰囲気に千雨自身が可笑しくなった。自分も随分とスレたものだ。
3-Aの中に受動的に巻き込まれた人間は多かったが、結局は全て自らの意思で巻き込まれた。運動部四人組ですらそうだったのだから、千雨にしたところで他の何かに責任を求めようとは今更考えていない。
スレたのも、今更旧世界社会に戻れないのも、ここに至って自業自得以外の理由を求めることはない。厳密に言えば、その気力もない。あえて言うなら、ネギ・スプリングフィールドには自分以外の責任を追及する権利があったが、その権利を知ったところで行使する人間ではなかった。
「じゃあ、行ってくる。……他に何かあるか?」
「いえ。ご武運を」
「大袈裟だっつーの」
馬鹿丁寧に腰を折るチャムに見送られて、千雨は外に出た。
逃亡生活も長い。こういう転居もよくあることだ。札幌は長かったが、チャム以外の誰かがいた頃――新世界での逃亡生活に至っては四人だけで過ごした三ヶ月が最長だった。酷い時は半日と同じ場所にいられなかったこともある。
現在、千雨は新世界で蓄えた金と、葉加瀬聡美の援助によって逃亡生活を送っている。厳密に言えば千雨が遠まわしに葉加瀬の研究に協力し、援助と言う形でペイされている。葉加瀬聡美は数少ない3-Aメンバーの成功者であり、またそれぞれに対して好意的なスタンスを崩すことがなかった。生き残っている3-Aメンバーは彼女を介して細い繋がりを維持している。彼女が裏切ればそこまでだが、千雨は葉加瀬に裏切られるくらいなら全てを諦めようと考えていた。
マンションを出て、すぐに千雨は足を止めた。
「おはよう。やっぱ、ここのマンションだったんだ」
宮内努が立っていた。眼鏡に、それなりにバランスの取れた体躯。運動経験はなさそうだが体力はありそうだ。千雨はもう何度となく読みこんだパーソナルデータを反射的に右目の前に写した。心拍、体温は昨日よりは落ち着いているようだ。冷えた発汗が見られる。急いでここに来たが、落ち着くくらいの時間はあった、というところだろうと千雨は当たりをつけた。
「よう」
千雨が返事をしたことに呆気に取られたようで二の句を口篭る宮内を置き去りにして、千雨は学校に向けて歩き出した。慌てて早足で宮内が肩を並べる。
「ま、待ってよ。……やっぱり一昨日……じゃなくて一昨昨日のって夢じゃなくて」
「さあな」
「昨日の奴とか、その……」
続く自らの失態に苛立っているのか、それとも一々はっきりとしない口振りでしか自分に話しかけることの出来ない宮内にに腹を立てているのか解らない。解らないことが尚更苛立ちを増長させる。
「ちなみに、この待ち伏せは迷惑条例違反で訴えられるからな。通報されたくなきゃ二度と話しかけてくんな」
うぐ、と呻いて、一旦宮内は足を止め、
「いいの? ……隠し事なんでしょ?」
言ってから宮内は顔を歪めた。つい口に出た、意に沿わぬ言葉だったのだろう。咄嗟に否定を口に篭らせる気配を漂わせる。しかし、千雨は足を止めると、先んじて言い訳を叩き潰す。
「脅しのつもりか?」
「い、いや……脅しってほどでは」
「かまわねーよ。言ってみたらどうだ? クラスで、家族に、ネットで、「春野サナは不思議な力を持っています」ってな」
「え」
千雨は、宮内の顔を見た。何も考えていない、腹いっぱい食ってる顔。世の中がなんとかなると思っている顔。たまに思い出したように政策批判することで自分は見識があると考え、それを他人に一方的に喋るだけで自分は社会に貢献してると錯覚している愚か者。
千雨と同じ、ごく普通の人間だ。
だからこそ千雨の胸に怒りが宿った。同じ、普通の奴に脅迫されるというこのシチュエーションだけで非常の怒りが冷たく満ちた。普通の奴に、長谷川千雨程度の奴に長谷川千雨がいいようにされるというのだけは許されてはならない。自分が凡人であることは知っているが、自分を守った人たちは凡人でないという、それだけの誇り。
だから千雨は笑った。にやりと、口元の作り笑い。
「莫迦が一人増えるだけだ」
長く麻帆良の街で千雨のジレンマとなった、自分の言葉を理解してもらえないということ。自分の常識が周りとは違う。絶対であるはずの常識が脅かされ、少数派に落とされ、苦笑いされ、何一つ信じてもらえない。そこらに転がってる奴がそういう扱いをされた時に思うことを千雨はよく知っている。ざまーみろと作り笑いだけでなく嘲笑う。
「……」
絶句。扱いやすい奴だ、考える必要すらない。
「考えてもみろ。誰が信じるってんだ? 実際に目撃したテメーが半信半疑だったんだぜ?
ああ、証拠を引きずり出すって手があんな。例えば、わざと自分の上にガラスを降らせるとかな?」
「っちょ! ちょっと待ってよ! あれは……!」
「知るか。聞いてなかったのかよ。テメーを信じる理由が何処にあるってんだ? 現にテメーは私を脅して情報を引っ張ろうとしてる。騙されたな。私も甘い」
「違うよ! 話聞いてくれ!」
「寄るな。……あとな、テメー足見すぎなんだよマジでキメーから消えろ」
ぐえっ! と一番強くショックを受けたらしく、呻いて転がった宮内を放って、千雨は歩き始めた。
自分がイラついているのが心を手で掬うように解った。それをぶつけた宮内はどうでもよかったが、このままだと隙だらけすぎで不味い。しかしそれも仕方ないと思っていた。散々イラついていた所に四葉五月からの手紙。泣きっ面に蜂……弱り目に祟り目といったところだ。
一晩で動く気力が戻ったことが奇跡みたいなものだ。千雨は悪意には強いが、強い善意には打たれ弱い。一晩中傍にいてくれたチャムと七部衆に感謝しなければならないと思う。口に出して言うのは気恥ずかしいので、何か土産でも買って帰ろう。
梅雨の中、晴天。雲も薄く、ゆっくりだ。宮内がまだ落ち込んでいるのを確認して、不意に今夜は星が良く見えるだろうと思った。
◆◆◆
神々の時代――。
まだ人の間に争いがなかったサトゥルヌスの時代、神と人も仲良く暮らしていた。しかしユピテルが政権を奪うと、人は争うようになり、神々は一人ずつ天に帰っていった。
最後に残ったのが正義と天文の女神アストライアーだった。
彼女はそれでも人々に正義を教えていたが、人に絶望し、ついに天に帰り乙女座となった。
「わけなんだ」
「何が言いたいんだ、宮内よ……」
森嶋の目に呆れだけではなく哀れみまで篭められているのに気づき、宮内は遠くを見た。
「見てみて森嶋ー。俺今レイプ目ー」
「なんか俺が悪かった感じだから謝っておく。ごめん」
「今乙女座がいい季節なんだよなー。今晩は一人で夜空に引きこもろうかなー」
「お前はショックを受けただけで神の領域に至れるとでも言うのか。とにかく、何があったか話せ」
一瞬、それを話すべきかを宮内は悩んだが、その悩みは長くは続かなかった。朝、オオカミ少年扱いされたことが念頭にあって、またそれも尤もな話だと思ったのだ。まともな人間が「空から降りてきた」だの「腕を振ったら風がガラスを吹き飛ばした」だのを信じるわけがない。
宮内は感情を意図的に篭めないようにしながら、昨日の顛末、それに今朝のことを続けて話した。大して量のある話でもなく、ほんの五分ほどで終え、森嶋は深く頷いた。
「……なんというか、お前もお前だが、あっちもあっちだな」
「……」
そう、なのだろうか。宮内は自問した。触れられたくない所に無造作に宮内が触れたから、春野は強い反応を返したのではないだろうか。いくらこちらが彼女のことをまったく知らないといっても、殻に閉じこもっていたところに無理やり手を突っ込んでまさぐって、そこがたまたま弱いところだったら怒られて、それは手を突っ込んだほうに責任はないだろうか。
「それで、お前はどこに落ち込んでいるんだ?」
「え?」
「春野に誤解されて嫌われたことか、それとも魔法がどんなものなのかを知ることができなかったことなのか。どっちだ?」
「え、と」
誤解されたことに悲しくなり、話を聞いてもらえない悲しさがあって。余計なことをまた言ってしまって。冷たい目で見られることとなった。
「ようはフラれたのが辛いわけだ」
「別にフラれてはいねーよ!」
「亀裂が決定的になったのなら、それはフラれたのと同じだろ」
「それは、それに、それだけじゃなくて……」
近づいた気がしたのだ。秘密を知って、守ってもらって。昨日は動揺しててあの後何を口走ったかも覚えていないけど、少しだけでも彼女に近づいて、もう少し話す機会ができると思ったのだ。
だから、朝マンションまで押しかけてしまった。
「なんだ、宮内。お前は」
「……なんだよ」
「青春だな」
「リアル18に青春とか言うなよ……醒めるだろ」
言われれば言われるだけ恥ずかしくなる言葉だ。同い年のはずの森嶋が妙に保護者の姿勢なことに宮内は顔を赤くし、机に突っ伏した。
「じゃあやることは一つだろ」
慈悲に溢れた、としか言いようのない……或いは、母性でもいいが、森嶋の声に宮内は腕の中から目だけを上げた。変わらない鉄仮面。しかしその表面には兄貴分的な雰囲気が浮かんでいる気がした。宮内は同い年に年下の仕方ない奴扱いされていることに内心落ち込む。しかし縋るものも他にない。
「ごめんなさいして、お友達になってくださいって言って来い」
◆◆◆
春野サナは友達もおらず、休み時間に勉強するような優等生でもない。友達がいないのは心底ぼっち気質の素なのだが、休み時間に勉強しないのは単に努力している姿を見られたくない千雨の意地だった。
千雨は元から勉強することは苦手だった。面倒だとか、色々と口に出して理由を言ったが究極的には勉強することに意義を見出せなかったからだ。中途半端に頭のいい奴は自分で勉強することの無意味さを導き出して、それを盾に取るから厄介だ。同じ理由で勉強をしなかった綾瀬夕映のことを思い出す。そういえば桜咲刹那はどうだったのだろうか。多分素であの点数だったのだろう。三ヶ月ほど四人きりで過ごした内の一人だったが、冷静な顔をして迂闊で天然なずっこけ剣士だった。
だが進学校でトップを争うほどの成績になったのは、自分の取り柄を一つでも作るためだった。どんなものでもいいから、自分を守る価値がある人間に押し上げる。それは千雨の保身法だった。
いつものようにiPODを弄るか、本でも読むか。それともプログラムでも組むか、と昼休みのチャイムを聞いた瞬間、春野は目を丸くした。携帯電話が震えていた。これは、葉加瀬聡美からの連絡が入ったことを意味する。チャムとは念話でことは済むからだ。春野に連絡を取ろうとする人間はその二人を除いて他にいない。――チャムを人間と呼ぶかについては議論の余地があったが。
一度呆れたように鼻を鳴らし、春野は教科書を鞄の中に放り込んで立ち上がった。葉加瀬との連絡を他人に聞かすのは拙い。特に昨日からこっち、聞き耳を立てている宮内は余計な想像をすることだろう。
忌々しいことだ。何より、一々宮内の動向を気にしている自分が。春野は誰にも聞かれないくらい小さく、舌打ちした。
踊り場には誰もいない。春野はスカートのポケットから旧いタイプの携帯電話を取り出し、通話を押した。窓は確認しなかったが、葉加瀬聡美の名が書かれていない限り、それが誰かを特定することは出来ないのだ。変わらないだろう。
『四葉さんの招待状は届きましたか? 千雨さん』
のっけから先制パンチだ。春野は頬を引きつらせた。
「やっぱてめえの仕業か、葉加瀬」
『いやー、あんまり熱心に聞くもんですから、つい。昔はあんなに腰強くなかったんですけどね、四葉さん。3-Aのお母さんの面目躍如ということで許してください』
「テメーのことをなんて罵ってやろうかって考えて昨日は眠れなかったぜオイ」
『それで、どうするんですか?』
「あん?」
こいつもすっかり腹の探りあいが得意になったな、と思いつつ聞き返す。麻帆良にいた頃はただの友情に篤いマッドサイエンティスト、といった風情だったのだが。色々あったのは居残り組みも同じか。
『参加、不参加はどちらにするんですか?』
「……――」
『千雨さんもすっかりバイオレンスになりましたねー』
「良く解ったな。今、テメーをどれだけ残虐にブチ殺せるかを考えてた所だ」
新世界にすら名の知られる手配犯の長谷川千雨が、ノコノコとクラス会などに行けるはずがない。ましてそれが行われるのが麻帆良でなら尚更だ。いくつかのプロクシを中継してはいるが、こちらから四葉に返信するすら躊躇われるほどなのだ。少なからず3-Aメンバーはマークされている。下手な接触はそれが剥がれるまでの時間を延長することになりかねない。千雨にも、他にもデメリットだらけ。
加えて――いや、むしろこちらが主題であるが、千雨はまだクラスメート達に会いに行く決心がついていなかった。裏の事情を心得ていない奴もいるし、ある程度知っている奴もいる。千雨よりどっぷり浸かっている奴もまだ生きている。だが居なくなったクラスメート達の顛末を最も良く知っているのは千雨だった。それを追求されて尚保つと信じられるほど千雨は自分の精神力を信じていない。それを思い出すことも、口にすることもまだ多大な負荷が強いられれる。
『でも、四葉さんが可哀想だと思いません?』
一々私の勘所を抑えている。連鎖的に次々と葉加瀬への恨みつらみが浮かんできて、千雨は憮然とする。資本家と労働者の関係であるから仕方ないといえばそうなのだが、葉加瀬は感心するくらい千雨はこき使ってくれる。一端のプログラマでありハッカーの一角と言えど、基本はアンダーグラウンドで生きてきた千雨は普通の優秀なプログラマの仕事をこなせと言われても出来ないに決まっているのに。
ああ、なんで私はこいつに弱みを握られているのだろう。この弱みとはチャムの整備であったり、金であったり、コネであったりする。
「可哀想……というか、私が情けないとは思うが、どうしようもないだろ」
千雨が我慢すれば、とか無茶すれば、という自助努力を超えた話だ。変装にも限界がある。変装を見破る専門に対して、変装の専門以外の俄仕込みは弱い。
千雨の返答が予想通りだったか、葉加瀬は意地悪く笑った。
『千雨さん、歴史を変えたいと思いませんか?』
「……待て。テメー」
『その手段が、あるんです』
歴史を変える。――過去を変えたいと一度も思わなかった人間はいないだろう。
人は絶対的な大小はあれど、常に後悔をし、昔を振り返り、ある人はそれを糧に成長し、ある人はそれを引きずり続ける。
そう、例えば。
千雨とて、過去に戻って選んだ選択肢を変えたいと思ったことは数え切れないほどある。
だが。
「まさか、それを言うためだけに四葉に余計な期待を持たせたのか」
千雨がそう思う心を最高潮にする時。それこそが3-Aの仲間達を集めるという四葉五月の招待状だ。
現在の千雨の根底には後悔がある。間違えた世界を正すことの出来なかったという後悔。誰一人守りたい人を守れなかったという後悔。失われた人にも大切な人がいたという後悔。3-Aメンバーに仲間を再開させてやれなかった後悔。
後悔があるからこそ千雨は努力を続け、逃げ続け、生き続けている。
一気に剣呑さを増した千雨の声色を他所に、葉加瀬の言葉は心底明るかった。
『それは誤解ですよ。ただ偶々そういう状況が揃ったってだけで……まあ、確かにそう疑われても仕方のないことですけど』
「正直、今私は超を煽ったのはテメーじゃないかって疑ってるぜ」
『それこそありえません。私は超さんほどの天才ではありませんから』
宮内努はどれだけ御しやすい相手だったことか。腹芸の上手い奴が上手いと言われるに足る理由は胡散臭い言葉が本当に聞こえることだ。白き翼における交渉の大半を担った千雨だが、葉加瀬は間違いなく厄介な交渉相手に分類されるだろうと思う。だが内心で千雨は葉加瀬の言葉の半分を否定した。
超鈴音が天才足りえたのは、それは遥か未来のオーバーテクノロジーをただ一人で担っていたからに他ならないと思っていたのだ。それぞれ一つ一つの技術を自らが産み出したと思われていたからこその天才の称であり、内実を明かせばその所業は決して天才のものではないという認識があった。ネギ・スプリングフィールド、神楽坂明日菜を初めとした天才達に並びうる存在ではない。
だからこそ、千雨の劣等感の矛先であるのだが。
『まあまあ、そう怒らないで話だけでも聞いてみませんか?』
「聞いたら、逃げられないようになっちゃいないだろうな」
『まさか。でも千雨さんが逃げないだろうとは確信してます。だって、3-Aメンバーの想いは私も千雨さんも含めて同じはずですから』
千雨はどうしようもなく下唇を噛み締めた。「他の3-Aメンバーと想いは同じ」「千雨は逃げない」。それぞれがこれ以上ないほど計算された千雨の心を動かす言葉だった。自分でも認識していることだが、千雨は3-Aメンバーの中で異端の位置にあり、それが是正された立場にいただけその居場所への執着心が強い。
昔は散々仲間にされたくないと思ったものだが、新世界へ行く時、空港でそれは吹っ切った。代わりに得たのが、仲間の中に心を浸すことへの居心地の良さだった。それは自分が理解されないことへのフラストレーションの裏返しでもあっただろう。
気丈に応えようとしたが、どうしようもないほど力が篭っていなかったのは、自律心の強い千雨から見てすら仕方ないと思えたかもしれない。
「……言ってみろ」
『カシオペアのことを覚えていますか?』
忘れるわけがない。千雨が裏の事情に関わることになった切欠の事件だ。
「航時機か」
『ええ。超さんの最大にして最悪の遺産。タイムスリップを可能にする機構のことです』
「三号機まであったっけな。けど二つはネギ先生と超の戦いで壊れて、最後の一つは超が自分の時代に帰るのに使ったはずだろ」
『苦労しましたよ。手元には二つの残骸とブラックボックスを除いた設計図しか残ってなかったんです』
「設計図がなんであんたのとこにあるんだよ。三つとも超の奴が未来から持ち込んだんじゃなかったのか」
『最初から三つ必要だと持ち込まれたんですが、一つ壊れてしまいまして。その修理を依頼されたのが超さんとの馴れ初めなんです』
やけに素直に情報を見せてくる。そういう細かい事情一つ一つで千雨からやはり細かい情報を引き出すことも可能だろうに。何を考えているのか千雨には検討もつかない。脳みその方向性がまったく違うといっても、やはり葉加瀬と千雨では基礎的な能力に大きな差がある。
「直したってのか」
『はい』
「それで、」口篭ったのは、僅かに胸の内に宿ってしまった光明を必死で押さえつけたからだ。「歴史を変えるっていうのか、テメーは」
『いいえ。……私と千雨さんでです』
甘美な誘惑。頭の隅に残っている千雨の常識が真偽を確かめようと稼動するが、本能がそれに乗り気になっていない。葉加瀬に騙されるというならそれまで。それに、その希望に縋ることがどれだけ楽か。
だがそれは許されない。今になってもまだ、千雨は白き翼だ。
「忘れたのかよ葉加瀬。私とあんたは学園祭じゃ敵対してたんだぜ」
『じゃあついでにそれも変えてきてください』
「ザケんな、この狸……私はネギ先生の薫陶を受けてる身だ。ネギ先生が否定した以上、私もそういうエゴを肯定するわけにはいかねーんだ。何考えて私に話してるのか知らねーが、それを許すわけにいくか」
――本当にそうか? 言葉の上でだけは強く言っておきながら、千雨の脳裏には渦が巻いていた。救おうと考えているなら、それが何より大切なものであるなら、3-Aだというなら、
(あのガキも許してくれるんじゃないのか)
多分、許さない――だろう。
でもその判断は是正すべきと千雨が気づいたネギの間違いであって、千雨はそれこそを正そうとした。もし許されるなら、そうするだろう。
(なら、許されるべきなんじゃないか)
『そのことですが、私は超さんは歴史を変えることに成功したんだと思っています』
「……なんだよそりゃ。葉加瀬、アイツは負けたんだぜ」
『厳密に言えば、歴史は超さんが三年前にいたというその事実だけで変化したはずです。少なくともあの三年の間、麻帆良の人口は超さんがいなかったはずの『別の過去』に比べて一人多かったはずですから』
「ヘ。それくらいで満足してくれるならどうぞご勝手にって話だけどな」
『ですが、超さんはネギくんに大きな影響を与えました』
「……」
エゴを否定した。一人の願いをエゴでもって否定した。否定したからこそ、ネギ・スプリングフィールドはそれ以後たった一つのエゴも許されなくなってしまった。許さないことを自分に、他人に強いらざるを得なくなった。
まさかと思うが、たったそれだけのことをするためだけにあんな大掛かりを仕掛けたとでも言うつもりか。
『千雨さんのことですから初期値鋭敏性のことは知ってますよね? カオス理論の』
「そりゃ、知ってるが」
『僅かな値のずれが、時間を経つたびに影響を大きくしていく性質のことですが、もちろん人口の増減の数値一つ程度の値のずれでは――そうですねー、人類が絶滅するまでの時間程度でははほとんど影響がないでしょう』
「待てよ。カオス理論なんてトンでも話を根拠に出されても納得できるわけないだろ」
『いえ、確かに実証不可能が証明されて途絶えた分野ですが、未来を予測するための条件を抽出したという点では有益な分野でした。バタフライ仮説は流石に大袈裟でしたけど』
バタフライ理論、或いは仮説。一匹の蝶の羽ばたきが或いは台風になりうるという仮説。その本質は気象予測を初めとした未来予測の分野において初期値鋭敏性がどれだけピーキーなものかを示すものだ。
『話を戻します。なら――少なくともそれほど遠くない未来を変えるにはどれくらいの値の変化が必要なのか。現代ではまったく益のない研究ですから計算の取っ掛かりもないんですが、航時機が実用化されてる未来では必要に応じて研究されているんでしょう。
千雨さんも気づいているでしょう。超さんは与えた影響は微々たるものでしたが、その影響を最も受けたネギ先生が魔法世界に与えた影響の大きさは』
余りにも甚大だ。その与えた影響の内訳に超が絡んでいることも自明。
『そもそもおかしな話です。過去を変えるならその悲劇に直接当たればいい。子供の頃見たヒーローみたいに。悲劇を止めきれないなら、その原因を直接消せばいい。最近はやりのダークヒーローみたいに。
でも超さんはそうしませんでした。量子力学に精通してた彼女がカオス理論に触れていないはずもないのに。鋭敏な影響を与えると解りきっている遠い昔を改変したところで未来がどうなるのか解ったものではないはずです』
「待てよ。それは私たちも考えた。だがタイムスリップといっても厳密には超の世界とこの世界は別物だ。つまり、死んだ猫を助けようとして過去に行って猫を助けても、そこには猫が死んだ世界と死ななかった世界が発生するだけだろ」
『それは、千雨さんの勘違いです。つまりはこう考えたのでしょう? 良く似た無数の世界が平行に並んでいて、カシオペアはその横移動をする道具だと。その内一枚を変化させたところで元の世界にはなんの変化もない。カシオペアはそうではありません。あれは平面的な時間の移動を操作する道具なんです。ごく小規模で、しかも莫大な魔力エネルギーが必要とされますけど』
「待て。待て……それにはタイムパラドックスが付きまとうだろ。つまりは不可能ってことだ。タイムパラドックスを回避することが可能とすればそれは、あー、なんていうか、その横移動以外にはありえないはずだ」
『お忘れですか? 超さんが来たのは遥か未来からなんですよ。私たちには発見されていない概念が発見されている世界です。そもそもそれが解っていたらカシオペアをオーバーテクノロジーとは呼びません』
「未来って便利な言葉だなオイ……」
『多分……推測ですらありませんが、それは緻密な計算の元に成り立っているわけではないと思うんです。タイムパラドックスはごく自然に世界に飲み込まれ、調和し、融けていく。それを観測している人以外はそのことに何の疑問も持たない。そこにある矛盾には誰も気づくことはなく、長い時間をかけてそれは世界に馴染んでいく。
超さんの計略でネギくんたちを七日後の強制認識が発動した世界に飛ばしたことがありますね。その世界は確実に存在したはずですが、存在しません。存在した世界が消失したという矛盾は実際に観測した千雨さんたちにしか把握することができず、やはりそのまま消えてどこかに行ってしまいます』
「それは強制認識が発動した世界を私たちが消去したってことか」
『有り体に言えばそうです。カシオペアは使った瞬間からの進行するはずだった時の流れを遮断し、また新たな流れを作るための機械、と言った方がいいかもしれません。あとは観測者の問題とか、過去は過去として一まとめにされるべきとかそういう話もしたいんですけど、していいですか?』
「いや、大体想像付くからいい。大枠以外の細かい理由は私の本分じゃねーよ」
というか話が長くなるだろ。
そうか、と千雨は口元に手を当てた。まずタイムパラドックスがあるからこそ、「今もネギたちのいない強制認識の発動した世界がどこかで進行している」ものだと思っていたが。
いや、千雨はそもそも超のあの作戦がある種の超の意地によって進行されたものだと考えていた。「自分のところはダメだったが、せめてどこかで救われていて欲しい」という意思を持っていたと勝手に想像していたのだ。大まかなところでは初期鋭敏性が解決できない限り隣の世界を改変することも同じ平面世界の遥か昔に手を入れることも大差はないはずではあるが。
『そういえば千雨さん、こんな思考実験のことを知っていますか? カオス理論の究極的な目的。「運命は存在するのか」』
「いや知らねー」
『ありとあらゆる現象の原理が解明されたとします。超統一理論も実証された世界で、世界の始まりの大爆発――いわゆるビッグバンのエネルギー量が正確に測定されたら。初期値がこの上なく正確に入力されれば、ビッグバンの一秒後に発生する全ての現象は全て網羅される。その一秒後も、二秒後も、三秒後も』
「……」
『延々とこれを続けていくと、いつしか星が発生します。どこにどんな星が生まれるのか解ります。太陽に似た恒星が、地球に似た星が産まれ、生命が、知性が生まれ、その知性すら一秒前の値と法則から逸脱することはありえなく、思考は予測され、そして長谷川千雨が生まれ、超鈴音が生まれる。それはまさに運命です。宇宙上の全ての要素がその運命図に則って動いている。それから外れるには法則の外の存在が必要です。この運命は存在するのか?』
「……」
『もちろん、ただの思考実験であって、人類が残っている間に宇宙全ての法則が明らかになるわけはない。宇宙誕生のきっかけも定かではないのに最初期エネルギー量を計測するなんて不可能です。またそれを計算するには人類が考え付けるスケールでは絶対無理でしょう』
「……」
『当然、答えは誰にでも解ります。そんなものは存在しない。
ですが、この思考実験はそれ以前の問題なんです。まず一つは、この宇宙はこの宇宙だけで存在しているわけではなく、宇宙に影響を与えている「何か」が存在していること。計算するには要素が足りません。初期値の問題を解決するために要素の数を減らすというのはユニークな考えですが、それなら宇宙以前の無から計算を始めなければ話になりません。
もう一つは、知的生命体があるものを開発することが予測されるからです』
「タイムマシン」
『そうです。「平行世界説」も「平面世界説」も、どちらだったとしても問題があります。この思考実験の条件では一秒一秒を丹念に計算していくため、未来から何かが来ることを想定できません。結果起きるのは計算機のエラーです』
「……葉加瀬」
本当に話が長い。千雨はうんざりして溜息をついた。
「本題を言え」
『歴史を変えるなんて、大局的に見たら大したことではない、という話です』
「だがエゴだ。私たちは大局じゃない。宇宙なんて見たこともないし、地面に這い蹲ってギリギリで生きてるだけだ」
『私と千雨さんが悪役になるだけで救えるならそれでもいいと考えられませんか』
「綾瀬が言ってたぜ。あー、カモだったか? 「今あるもので這いずり回るのが私たちに許されたギリギリの正義だ」ってな。いいか、葉加瀬」
心惹かれたのは確かだ。甘美な誘惑。失ったものを全て取り戻せるなら、その方法が手元にあるなら、それを手放すことこそが悪ではないか。それを選択しなくて、本当によいのか。
きっと、永遠に後悔するだろう。四葉五月から手紙が届くたびに悩んで、悩んで、その悩みは永劫晴れることはなく、千雨の心に影を落とす。
だが、それでも。
「それでもやるっていうなら、あんたがそれを正義だと思うなら、私が悪となってあんたを殺してでも止める」
息するのが苦しくなるほどの言葉。その様子は葉加瀬にも伝わったらしかった。だがスピーカーからは熱のない、乾いた声が響いてきた。
『ネギくんへの義理だけでそれを言ってるとしたら、軽蔑しますよ千雨さん。ネギくんだって結局超さんを止めたのはエゴだったんです』
「……」
多分、そうだろう。だがもう出してしまった結論だ。歯を食いしばって、千雨は携帯電話を閉じた。
息をつく。頭の中にジーンとした響きがあった。吐き気をするほどの選択肢の数が脳裏に踊っている。それを一つも選び取れないことは、きっと不幸だ。だが千雨は無理やり飲み干した。
壁に背を預け、そのままずるずるとリノリウムに座り込む。
見たことを全て忘れて、それを選べればよかった。だが千雨は多くのものを見てきた。戦いを傍観者の立場から見てきた。意地を、仲間を、世界を守るための戦いを見てきた。葉加瀬の提案は、それを全てなかったことにしろと言っている。新たに生まれたものを、貫き通したものを忘れろといっている。
チャム。犬上小夏。
存在を消される奴もいる。もしカシオペアを使ったとして、再び会えるかは解らない。いや、それは似て非なる存在になるだろう。千雨は笑った。散々な生き方をして、まだ世界に執着している自分が滑稽だった。
けど、そう。
得たものと、失ったものを比較して、自信を持って得たものを選べたかは解らなかった。
「ちうたま、お仕事終わったス」
「ちうって呼ぶなっつったろ」
突然懐から飛び出してきたしらたきを鷲掴みにする。なんだか理由はないが、電子精霊を鷲掴みにするのが好きな千雨である。何故かしらたきは嬉しそうな悲鳴を上げ、ぐるぐると手の中で回転する。
無言で付き合う千雨。両手を擦り合わせるようにしらたきをぐりぐり回す。うれしそうなしらたき。なんだか悔しくなって高速で擦り合わせる千雨。
「うおえっ」
「うおっ! ばっちいなっ!」
「すいやせん、ちょっとデータ出たス」
「テメーはどんだけ柔軟性あるんだよ! 精霊の癖に酔ってんじゃねえていうかデータ吐くのかよ!」
千雨の指先に茶色い何かをぶちまけたしらたきはぺろぺろとそれを回収し、するりと手の中から抜け出し、千雨の手の上に座って向き合った。
「ご主人、どこに送りましょうか」
「すぐ見たい。眼鏡に写せ」
「うい」
主人の癖に七部衆のキャラを把握しきれていない千雨だが、しらたきは真面目で使いやすい程度の認識は持っている。……敬語は変だが。
眼鏡に、情報が投影される。一目で、千雨は唸り声を上げた。
「……近衛かよ」
どうも、思ったよりずっとピンチらしい。
◆◆◆
「ごめんなさい。友達になってください。……なんか友達になってもらうことにごめんなさいしてるみたいだなあ。ごめんなさい。それと友達になってください。……これじゃあごめんなさいはオマケみたいだしなあ。そもそも春野さんは友達になってくださいといって友達になってくれる人なのだろうか」
一瞬、本当は友達になってくれる人を待ち続けている不器用な少女、という妄想が宮内の頭を掠めたが、残念ながら思春期の暴走である。
「友達になってください。仲良くしてください? いや、そういうんじゃなくて……ご飯食べに行かない? ……まんまナンパみたいだな。じゃあ、お茶行かない? 行かないだろうなあ。いっそのこと、高級フルコース奢るからご飯行かない? ……そんな金ないし、フレンチ好きかなあ。開き直って、お金あげるから友達になってくれない? ……完璧に援交の誘いだ。そうだ、せっかくなんだから、今夜夜空を一緒に見上げない? ……絶対またキメーって言われるよ……うーん」
成り行きで秘密を知ってしまったが、まだ宮内は春野サナのことをほとんど知らない。勝手に妄想だけは進行していくのだが、流石にそれを信用するほどのアホではなかった。謝れば許してくれるのかとか、どれくらい怒っているのかとか。それも知らずにとりあえず謝るのは上手くない手ではなかろうか、と宮内は思ったが、流石にそれは逃げ腰すぎだろうと思い直す。
珍しく教室から消えた春野の姿を探し、踊り場の階段の下を通りかかる。
「そうそう、出来れば謝るのと友達になってもらうってのを同時に言えるようなのを考えて……春野さん! ごめんなさい、仲直りしてくださいっ! ……って、いや、仲直りするほどの仲でも」
「……仲直りするほどの仲でもねーだろ」
「おおうあっ!?」
丁度、踊り場から下りてきたところの春野が呆れた顔で宮内を見下ろしていた。
「い、いつからそこにっ!?」
「今だが、独り言はフツーに危ない奴にしか見えないからやめとけ」
「いや別に独り言って訳じゃ……」
いや、そうじゃない。と宮内は被りを振った。思いっきり失態を演じたが、もうそんなのはどうでもいい気分だった。
宮内は階段の上の春野に向き直って、頭を下げた。
「ごめんなさいっ!」
「ん、なっ……」
「脅迫とか、そういうつもりじゃなかったんだ。その、なんていうか、酷いことをしたことは解ってる。本当にごめんなさい。ただ、その……」
「わ、わかったよ……わかったから頭上げろよ……」
「昨日のことは誰にも話さないから! だから……その、と、友達になってくれないかな!」
「は、ハア!? 友達!? つか、もういいから頭上げろって……注目されてるって」
「い、いや! 別に無理なら無理って言ってくれていいんだ! だからって誰かに言いふらすってわけじゃないし、でも出来れば友達になって……あ、よく考えたらもう森嶋に話しちゃってる……俺は本当にダメな奴だ……」
「わ、わかったわかった。いいから、いい加減頭上げろって……」
「ごめんなさい……森嶋に言っちゃったよ……そうだよ、俺凄い図々しいよな……ごめんなさい……俺死ねって感じ」
「わかったから、タマ上げろっつってんだろが人の話し聞けよテメエはああああああああああああッ!」
「うわああああああああああああ! ごめんなさいいいいいいいいいいっ!?」
どう考えてもアタマが省略されてタマになったのだが、宮内はヤクザ的な意味でのタマにしか聞こえなかったらしく、華麗に土下座に移行した。春野が躊躇いなくそのアタマに踵を落とす。
ごきっ、と致命的な音が響いた。遠巻きに見ていたギャラリーが流石に慌てる。
しかし春野はギャラリーをぎろっと睨みつけると、その細身の体からは想像もできないような膂力で宮内を引きずりながら踊り場に戻っていった。
「恩寵あれ(シット)、治癒(クーラ)」
頭の痛みがすっと引いていくのを感じ、宮内は確かにそれが魔法なのだと思った。だが、
「……まだちょっと痛いんだけど」
「悪いな、半人前で」
苦笑した宮内に春野は憮然として、そっと宮内の頭の中に手を伸ばした。宮内の鼓動が高鳴る。昨日から思ってたことだが、春野には妙に無防備なところがある。
「大丈夫だろ、小さいタンコブになってるだけだ」
「え、あ、う、うん」
目の前に春野の胸元がある。当然、セーラー服に包まれていて実情ははっきりしないのだが、近くにあるというだけで動揺くらいはするものだ。男だもの。
本当に確認しただけで、春野は宮内から離れて壊れた机の上に腰を下ろした。
「うー」
春野の呻き声。きょとんとした宮内が春野を窺うと、春野は後頭部をカリカリと掻いて、
「朝は、私も悪かったよ」
と言った。
「……」
「……」
「……」
「黙るのかよ!? なんか言えよオイ!?」
「いや、びっくりして」
春野さんて普通に謝れる人だったんだ、と物凄く失礼なことを考えつつ、宮内は春野の顔をまじまじと眺めた。顔が赤い。意外と感情が顔に出てくる人なのだろうか。宮内が自分の顔を観察していることに気づき、春野は慌てて顔を逸らした。
「朝は虫の居所が悪かったんだよ、そこにあんたみたいな脳みそスッカラカンみたいな面した奴が来て舐めたこというから、つい当たったんだ。許せとは言わねーけど悪かったとは思ってるよ」
「え、うん。許すよ」
「……」
「え! 許しちゃダメな感じだった!?」
「いや、あんたがいいならそれでいいんだけど」
あんまり謝っていない謝罪を素直に受け取られるとそれはそれで気まずくなる……という些か偽悪的な考えを顔に浮かべた春野は気まずそうに顔をずらすと、
「そういや、森嶋に魔法のことを話したって?」
「ああ、うん。まずかったよね……ごめん」
「いや、それはどうでもいい。何て話したんだ?」
「一昨昨日と昨日起きたことをありのまま言っちゃったけど」
「ふーん」
「えっと、あいつにも誰にも言わないように言っておくよ」
「だからそういうのはどうでもいいっつってんだろ。……その話を振ってきたのはあっちの方からじゃなかったか」
「え、良く解ったね。そう。昨日、春野さんから空から落ちてきた話を聞き出せってしつこく嗾けられたよ」
ふーん、と気のないように言った春野だが、その頬は僅かに弛んでいる。どこか楽しそうで、宮内は嫌な考えが脳裏に浮かんだ。
「……もしかして春野さん、森嶋のことを」
「いや、ねーよ。鉄仮面じゃねーか」
「あはは、そーだよねー。鉄仮面がモテるのは少女マンガだけだよねー」
それもどうなんだ、と口走る春野。宮内は今の自分の感情を反芻して、顔を赤くした。
「やばい!」
「あん?」
「春野さん……い、一緒に天体観測しませんか。乙女座が綺麗な季節なんです」
「しねーけど、何だよ?」
やばい。これは、と宮内は思った。もしかして、俺は本気なのではないだろうか。ああ、一世一代の告白をしたあとに自分の気持ちを確認するとか俺はなんて順番間違い男。
ドゴッと凄まじい音を立てて宮内は額を地面に叩きつけた。
「うわっ!? ……お、おい……?」
「…………」
一世一代の告白が断られていた。しかも間髪いれず、考慮すらされず。子供の頃から考えていた必殺の口説き文句だったのに。口説きモンク(27)「ヘイお嬢さん。一緒に毘沙門天の加護ぞないかい? アッパーアッパー!」
待て俺の名前は宮内! 今のは性急過ぎたし脈絡がなさすぎた! きっと告白だとわかっても貰えなかっただけだ。落ち着いて……。宮内はゆっくりと顔を上げた。春野はドン引きしている。
「あ、あのさ、春野さん。俺ら、もうちょっと仲良くなれないかな……」
「なれないだろ。つーかなんだよ」
ゴッ、と再び額をリノリウムに叩きつける。またドン引きする春野。顔を上げれば宮内は「うわー変なのと関わっちまった」という顔をした春野を見ることが出来たのだが、幸か不幸か多分幸いに見ることはなかった。
失恋である。多分この上ないくらいはっきりとした。お前と仲良くなる気はない、と言い切られて思春期の男子に一体どんな手段が残されているというのか。ここから持ち直すのが熟練者なのだが、女友達は多くても恋愛らしい恋愛は皆無だった宮内にそういう技術はない。
「……あ、もしかして今私告られたか? あー、あー、悪い。そういうの興味ないんだ。つーかそういうの」
しかも追い討ち。
口篭る春野をそっと見上げると、顔を赤くしてどことなく照れている。それだけなら恋愛経験が少ないから解らないんだろう、とかそういう妄想に転化することが出来ただろうが、この二日間散々春野の毒舌に晒された宮内は春野が飲み込んだ言葉を正確に予想できていた。
「キメーんだ……」
「あ! いや待て! そういうわけじゃなくて、気持ちは嬉しいんだけどな……」
見るからに図星を突かれた、という顔で慌てる春野に、宮内はがっくりと項垂れた。
「わ、悪い……こういうの慣れてなくて、次までにもうちょっと穏便な断り方考えとく」
「いや、次に告ってフラれる相手のこととか俺の知ったこっちゃないから」
「おい……大丈夫か宮内、レイプ目になってるぞ……」
「あははは。あははははは。ちょっとトイレ行って泣いてくるから先教室戻っててよ春野さん」
「……悪かったよ。先戻ってる」
ふらふらとよたつきながらトイレに入り、妙なものを発見した目で自分を見る男子を無視しつつ、宮内は洗面台に両手をついた。
「はぁーーーー」
深く長い溜息。何だか一つ一つ無理やり希望を持たせられて、一々破壊されたような気分だった。前情報では恋愛巧者だったはずの春野サナがそうでなかったのが原因なのか、それとも宮内がダメだったのか。多分自分がダメだったのだと思う。なんか、もうちょっと上手くやればよかった。好意だけ伝えてしばらく傍に付きまとうとか、そういう手もあったんじゃなかろうか。あ、それはストーカーか。
そもそも宮内自身はともかく、春野がそういう感じになっていないことは宮内にすらわかっていたことだ。なのに、つい焦って。
「うわあああああ」
際限なく気持ちが落ち込んでいく。
チャイムが鳴った。5限が始まる。森嶋が、もしかしたら春野さんも心配するかもしれない。宮内は沈む茹った麩みたいな気持ちをなんとか両手で抱えて、教室へ行こうと顔を上げた。
「おわっ!」
鏡に、真後ろに立つ森嶋が映っていた。
「な、んだ。よ。森嶋かよ」
「……酷い顔をしてるな」
「ははは。笑えよ森嶋。この上ないほど無様なフラれ方をした男がお前の前に立っているぜ」
「笑えるか。……なんというか、悪かった。マジで告白するなんて思わなかったんだ」
「お前が謝る必要はないだろうよ。はは。俺が先走りすぎたんだよ。フライングだよ。競艇だったら返還モノだよ。若松競艇全選手フライングだよ」
「あー、その、泣きっ面に蜂というか、実は相談があるんだが」
「ん?」
宮内は振り返って洗面台に腰を預けた。
森嶋の鉄仮面を見つめる。
「あ、そういや相談乗ってもらってばっかりで悪かったな。何でも言ってくれよ。俺にできることだったらなんでもするよ」
「無闇にポジティブだな、お前」
ポジティブ以外の何になれというのか。宮内は遠い目をして、走馬灯のように先ほどの顛末を思い出した。きっとこれは一生高校時代の恥ずかしい思い出として記憶に残ることだろう。
「すまん! またなんか俺言っちゃったみたいだなあ!?」
「いやいいんだ、いいんだ。いいんだよ森嶋。それで、相談てなんだ?」
言い出しにくそうに森嶋は鉄仮面の奥の目を泳がせて、ゆっくりと口を開いた。その動作の一つ一つに宮内への気遣いが見て取れて、宮内は申し訳なくなった。散々迷惑をかけた俺を気遣ってくれている。宮内は自分にできることならなんでも森嶋のために捧げようとさえ思った。
「その、つい最近から悩んでいることなんだけど、宮内はアストライアーのことをどう思ってる?」
つい最近も何も、アストライアーの話は宮内が森嶋に今朝した話だ。宮内は少し笑って、
「どうって?」
「なんていうかだな、自分を理解してくれない世界にたった一人残ったアストライアーはどんな気持ちだったんだろうか、と思ってさ」
「どんな気持ちだったか、って? んーと、要領を得ないけど、やっぱ悲しかったんじゃないかな。自分が理解されないって孤独じゃないか? 時々言葉の通じない国に一人だけで放り出される、みたいなこと考えるけどさ、んーと」
「寂しい?」
「いや、自分はいらない、って考えると思うな。孤独で、誰にも伝わらなくて……世界は自分を必要としてないと思う。少なくとも――別にそういう経験があるわけじゃないんだけど、俺はそう思うんだろうな」
「自分はいらない……宮内はそういう状況でもない限り、自分が必要とされていることを感じるのか?」
「そういうわけじゃないけど。別に社会に貢献してるわけでもないし。でも俺がいなくなったら困ることが一つくらいはあると思うんだ。家族が泣くとか、葬式に出るのがメンドイとか。
地上に残ったアストライアーはそんな些細なことも感じられなかったんじゃないかな。理解してもらえないって、そういうことだろ? 理解するから、ってか理解しようとするから気にするわけで――」
うおお、と宮内は唸った。そうか、そういうことか。感心した目で森嶋を見つめる。この男は俺より遥かに大人なんだなあ。
春野サナはたった一人残されたアストライアーなのだ。誰にも理解されず、苦しんでいる。森嶋は宮内にフラれても尚アストライアーを理解するように努めろと勧めている。それは宮内だけのことを考えたら出てこない考えだが、全体の調和としては正しい選択肢なのだ。
フラれた人間とフった人間は被害者と加害者に例えられる。当事者から見ればそう思えることもある種仕方のないことだ。だが、大きな視点から見れば被害者は加害者を気遣う必要があり、また逆も然り。なぜなら、加害者は被害者の一方的な想いを押し付けられた立場にあるからだ。
フラれたからといって、宮内は春野の秘密を知ってしまったことに違いはない。宮内は腐らず、投げ遣りになることなく春野を理解しようと努め、またその秘密を決して他に漏らさないことを心に誓うべきである。それが誠意というものなのだ。
と、感心する宮内を他所に森嶋は顎に手を当て、何か考え込んでいるようだった。
「……? なんだ、なにか悩み事か?」
「ああ。些か、上司の判断に疑問が残っていたんだがな。たかが寂しいと思っているだけの感情程度、気にする必要もないのかと思い直してるところだ」
「あん?」
「ちょっと協力して欲しいことがあるんだが、宮内。手伝ってくれないか」
「ああ。……ん? お前の悩みがさっぱりわからんが」
「それはいいんだ。解決したから。協力してくれることに感謝するよ、宮内」
宮内は森嶋が何を言っているのかまったく理解できず、その手をずっと見つめていた。不思議なくらいにゆっくりと近づいてくる森嶋の手は宮内の肩に触れて。
「すまないな、宮内」
ゆっくりと、宮内の意識は消えていった。それは前、機械の少女に気絶させられた時とまるで同じ感覚だったが、終ぞ宮内はそれを自覚することはなかった。
佳境へ。
◆◆◆
放課後。
春野――千雨は、歯噛みした。朝冗談のように自分は甘いと口走ったが、この時心底その通りだと痛感したのだ。
昼休みの後、結局宮内は帰ってこなかった。それどころか森嶋さえも戻ってこなかった。黒幕が近衛木乃香だったならありえないと思っていたのだが、現場の暴走か。それとも近衛が方針を変えたのか。民間人を巻き込んだらしい。
魔法世界においてその人が民間人であるかの基準は魔法を知っているかではない。もっと複雑で、単一の項目で判断するようなものではないのだ。だから、と千雨は思い直した。宮内努を民間人――カタギでないと捉えるような基準があってもおかしくはない。ただ近衛がそれを採用することに違和感は付きまとう。やはり現場の暴走だろうか。
下校、千雨にとってこの札幌の高校で最後の下校途中、下駄箱に手紙が放り込まれていた。宛先は「長谷川千雨様」。差出人は「青銅の騎士」。内容は、果たし状だ。
『貴女のご友人を預かりました。
23時、野幌森林公園でお待ちします。
ただしお一人でおいでください』
青銅の騎士――三年前から協調するようになった関東と関西の間に作られたごく小さな組織、「黒羽」の構成員だ。日本人だが西洋魔術師。何よりの特徴はそのフットワークのよさ。ただ、それほど際立った魔法使いというわけではない、というのは千雨にとっての好意的な情報だった。
だが問題は「黒羽」だ。そのトップには関東、関西双方にとっての重要人物が就いている。
かつての「白い翼」の構成員。近衛木乃香。「旧世界の姫」の異名を持ち、旧世界最強とも言われる彼女は新世界の姫と対立し続け、またその勢力を拡大し続けている。「新世界の姫」アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアと並ぶほどの偏執的執着心を以って千雨を追い続けている張本人だった。
千雨は周囲の生徒がぎょっとするほどの形相で、強い舌打ちをした。
黒羽に千雨が捕捉されたのは明らかだ。いや、大勢としては半信半疑ではあったのだろう。同窓会の手紙で居場所が発覚するなんて間抜けにも程がある。千雨はそんなミスをするような人間ではないとハンター業界で目されている。
だが、「青銅の騎士」は春野サナが長谷川千雨だと確信した。そして暴走し、その懸賞金と名誉を独り占めしようと企んだ。筋書きはこんなところだろうか。長谷川千雨の首にかかっている懸賞金と名誉は大抵の組織に所属しているというメリットを遥かに上回る。
千雨は足早に学校を出て、家へと足を向けた。
「クソ。舐められてるにも程があるっつの」
宮内を誘拐した。人質にした。つまり千雨がこの二日間付きまとったただのクラスメートをリスク承知で助けるとでも思っているらしい。冗談じゃない。さっさと逃げてやる。ざまーみやがれ。もう準備は済んでるんだ。
何か勘違いしているらしいな。私はそこまで人道主義じゃねーぞ。リスクとメリットを比べられる白き翼の厳しさ担当だ。
「宮内なんか知らねーよ。むしろ私をイライラさせてくれた礼に苦しんで死ねって感じだっつの」
宮内のことや追っ手のことなんか考えている場合じゃない。葉加瀬の提案のことで正直、頭は一杯だ。時間が経つにつれて全て見捨ててでも取り戻すべきじゃないかと言う考えが頭に浮かんできて、それを抑えるのが大変なのだ。まずチャムの顔を見なければこの思いは治まらないだろう。今の千雨にとってチャムは守るべき日常の象徴で、彼女を失いたくないと心底思えば葉加瀬の言葉もいくらか晴れるだろう。
エレベーターに乗り、自分の部屋の階のボタンに拳を叩きつける。
「しかも何だよあの告白は。普通になんなのか解るまで時間がかかったっつーんだよ。舐めんなよ。天然紳士と散々付き合ったんだ。私の男を見る目は並じゃねーぞ」
あれを基準にしたら一生男と付き合うことはできないのだろうが。
千雨の男の交友関係は極端に狭い。麻帆良の小学校時代はぼっちだったし、中学に入っても男の知り合いは増えなかったし。逃亡中も誰かと深く知り合ったことはなかった。もう記憶の隅に追いやられた親類を除いたらネギとラカンに小太郎ぐらいのものだ。無論、ネットを介した知り合いならいくらでもいたが。
ネギにラカンに小太郎。天然紳士と筋肉バカと筋肉バカ。男性観が偏るのも仕方ないだろうと千雨は自分に言い訳して、
「チャム!」
部屋の扉を開けた。
「お帰りなさい。マスター」
「ああ」
無表情。綺麗な顔立ち。美的偏差値の異常に高かった3-Aでも際立った美人といえば雪広あやかとエヴァンジェリン.A.K.マクダウェルだが、密かに千雨は絡繰茶々丸もそこに加わるのではと思っていた。人形のような造詣の整い方に加え、妙な人間ぽさがあって、千雨は彼女の顔立ちが好きだった。
髪はショートカットで、体も小柄で薄い肉付き。茶々丸の要望で差別化されて千雨のように吊り目がちなチャムだが、やはり茶々丸に良く似ている。関節や耳を完璧に隠して民間人に並べて見せれば十中八九姉妹だと判断するくらいにはよく似ていた。
そんなチャムがいつものようにメイド服で丁寧に千雨を迎えて、千雨は歯を食いしばった。
「準備は」
「ほぼ済んでます。が、連絡待ちです」
「そうか」
千雨は鞄を靴の片付いた玄関に落とした。意図せず握力が失われたようで、千雨自身、鞄が落ちたことにすら気づかなかった。ただチャムが不思議そうに重力に引かれた鞄を視線で追う。
優しかった。
(優しかった)
「優しかった」
「は、マスター?」
畜生、と思った。
ネギ・スプリングフィールドは。絡繰茶々丸は。神楽坂明日菜、近衛木乃香、桜咲刹那、宮崎のどか、綾瀬夕映。勿論それだけじゃない。超一派も、運動部四人組も、四天王どもも、チア連中も委員長トリオも。報道コンビも、春日も早乙女も双子もピエロもエヴァンジェリンだって!
優しかった。優しかったってのは軽い表現で、甘い奴らだった。いい奴らだった。いい奴ら過ぎて千雨は劣等感を感じて、いつしかその甘さに甘えて、その甘さに憧れて。
優しかったのだ。誰も彼も困っている人を見捨てておけなかった。龍宮やエヴァンジェリンですらそうだったのだ。常識的に考えて奴らは余りにもいい人過ぎて、でもそれは常識よりも心晴れやかなことだった。
(畜生)
誰も彼もが宮内を見捨てることができないことが簡単に想像できる。千雨は歯を噛み締め、天を仰いだ。
千雨にとって3-Aは特別だ。あんなに嫌だった非常識だらけのクラスだけが千雨の居場所のような気さえしてくる。嫌いだった。自分が受け入れられないことが。常識が通じないことが。でもいい連中だった。誰か一人が困っていたら全員で悩んだくらいにいい奴らだった。
千雨はあいつらが好きだ。
今では失われた。
同窓会一つまともに開くことができない。神楽坂明日菜は全ての記憶を失い、図書館組は死に絶え、近衛木乃香は決断してしまった。遺された四葉五月はそれでも残ったクラスメート達を集めようと招待状を配り、葉加瀬聡美はクラスメート達を取り戻そうと足掻いている。
千雨は、不意に中学三年に進級した時の双子の音頭を思い出した。
――三年A組、ネギせんせー。
合唱すればよかった。
千雨は歯が欠けるほど、強く噛み締めた。くそ、色々ありすぎた、と思う。四葉五月の招待状が、葉加瀬聡美の電話が。チャムの顔が、皆の顔が脳裏をよぎって止まらない。宮内が、宮内は、いい奴だった。あいつらを思い出させるに足るほどいい奴だった。あいつらとは違ってまるで千雨みたいに普通だったが、千雨と違ってあいつらみたいにいい奴だった。
泣き虫な千雨が、目元に涙を浮かばせる。チャムが心配そうに千雨に近寄る。大人になってしまった千雨が子供の千雨に侵食される。ネギが闇の魔法を会得した時流れた涙がまた涙腺に戻ってくる。
そんな理不尽なことがあるかよ。
二十歳にもならないガキが、理不尽に食われて。理不尽に失われる。
そんな理不尽が許されていいのかよ。
世の中は理不尽だ。努力したからって報われるなんて嘘だ。人を信じることを善と信じる奴から詐欺師は標的にしていき、争うことを否定する奴から強者は喰らっていく。理不尽すぎる。誰か守ってやればいいのに。
それは千雨が抱いた、始めての誰のものでもない思いだった。
あいつらを。
3-Aの奴らを。
理不尽に晒された奴らを。奪われた奴らを。
守る何かがあっても、いいじゃないか。
それは、唐突に千雨の中に芽生えたものだったが、それこそがこの世界のネギ・スプリングフィールドが遺したもの、そのものだった。
千雨は、涙が毀れる直前にその雫を手の甲で受け止めた。
「チャム」
「はい。マスター」
チャムが、縋りつくように千雨の首筋に顔を埋める。
「手伝え」
「御心のままに。マスター」
午後11時。野幌森林公園。
風がない。雲もない。澄んだ空気が上空の星空を輝かせている。
千雨は単身、宮内の姿を探すために公園に足を踏み入れた。木の多い広い公園だ。その姿を探すだけでそれなりの時間がかかるだろう。
この時間指定がそのことさえ考慮されていなかったとしたら、黒羽に思いっきりバカにした手紙を送ってやろうと思いながら、足を進める。装備はアンチグラビティーシステムのフィン六つに、ギメル・リング。それに七部衆を統率するための杖に原始的な魔力機構のない拳銃が一丁。これは魔力が完璧に封殺された時のための予備であって、五発のリボルバーに三発しか弾が入っていない。弾の調達方法がわからなかったからだ。
(寒いな)
6月。梅雨の時期でそろそろ夏の気配が感じられると言っても、札幌の夜は寒い。天体観測にブルゾンを着てきていた宮内の姿を思い返し、自分もそれくらいの防寒具を用意してくればよかったと思った。流石に息が白いほどではないが、夏服のセーラー服一枚では肌寒い。一応羽織っているローブは通気性抜群で、防寒具としての意味は何もなかった。何せ夏の新世界で調達したものだ。
広い公園だからか、明かりは点在している。その合間合間に立てば漆黒に包まれている。また、舗装された道を外れればすぐに暗黒の林の中に入り、月明かりさえ遮られている。
千雨は人祓いの結界の薄い膜を感じた。完全な球形のその形を確かめれば、それほど広い範囲に張られた結界ではない。中心部は公園のど真ん中だろう。強い魔法使いであればあるほど人祓いの結界は大きくなる傾向にあるが、この感じだとそれほどでもない。まあ、少なくとも千雨より達者な魔法使いであるのは確かだが。
「青銅の騎士」がこのような暴挙に及ぶのは完璧に千雨の想定外だった。校内で直接的な手段に及ぶと考えたからこそ、朝チャムに始末する、などと物騒なことを言ったわけで、千雨としては転居の準備が完了する23時には全てが終わっていることが望ましかったのだが。だが千雨にとっては自分の想定内で事態が終わることがひどく稀だ。
(宮内)
灯りの集中する小さな噴水の前に宮内は座り込み、項垂れていた。意識はなさそうだ。その姿を発見したその場で千雨は一度周囲を見回し、暗闇に目を凝らして、諦めて宮内に近づく。
学ランのまま、外傷はないように見える。まあ民間人を傷つけるとすれば犯罪者である千雨の方で、組織を後ろ盾にしている青銅の騎士が短絡にそういう暴挙に及ぶのはあまりないことだとは思っていたが、千雨はそれでもほっと息をついた。
「春野茶菜、長谷川千雨」
千雨は周囲を見回した。林に囲まれた石畳の噴水。ここだけが灯りに照らされて、まるでスポットライトのようだった。
ネットアイドルとして一度は天下をとった千雨だ。引退して久しい今でもこの程度の灯りで動揺はない。
「懸賞金200万ドラクマ。新旧両世界における最強の電子精霊使い。テロ組織白の翼の残党の内片方」
「演出過多だぜ、森嶋。タネは割れてんだよ。大人しく出て来い」
「良く解ったな」
千雨の認識できないうちに、千雨が通ってきた道の上にその姿はあった。
小柄な鉄仮面。森嶋がローブを羽織り、片手に細く短い杖を持って立っていた。
「あのなあ」
千雨が呆れた声で応じたことで、森嶋が心底不思議そうな顔をしたことに千雨は頭を抱えた。どう考えてもこいつは新世界育ちで、旧世界に慣れていない。千雨は呆れたように森嶋の頭を指差した。
「いくら暗示があっても、鉄仮面をした高校生はいねえよ!」
「……?」
「わかれよ!」
森嶋は、顔が完璧に隠れてしまう鉄の仮面を嵌めている。中世の拷問具のような頭の形に沿った仮面。鉄の鈍い黒一色の顔面から、狭いスリットで目の輝きと口元だけが見えるようになっている。
それを聞いても不思議そうな顔をする森嶋に、千雨は溜息をついた。
「老婆心だが、新世界出身者に旧世界用の研修を組めって近衛に言っとけ」
「ふん。俺はレイシストではないが、姫に手配犯が意見するなどおこがましいと思うぞ」
「追っかけられてる方がハラハラするんだよ!」
「言っている意味がわからない」
「あー、マジで世の中って理不尽だ」
特にバウンティ・ハンターは新世界の辺境出身者が多く、魔法さえかけておけば旧世界の民間人なんて楽勝と考えている奴らばかりで困る。たまにそういう類の魔法に強い人種がいるんだと声を大にして言いたい。千雨自身、そんな人種の一人だったから幼少から苦労してきたのだ。
「では始めよう。リーガル・マジック・スキル・エクサション! 光の精霊七人集い来たりて、魔法の射手(サギタ・マギカ)! 連弾(セリエス)・光の七矢(ルーキス)!」
「話無視かよっ! プラクテ・ビギナル魔法の射手(サギタ・マギカ)! 連弾(セリエス)・雷の十一矢(フルグラティオー)!」
極端に短い杖を構えた森嶋と一瞬宮内の位置を確認した千雨の丁度中間で白と黄色の光がぶつかり合い、弾けた。
千雨は宮内を放っておいて、噴水の裏側に回った。深夜でも高く上っている噴水の裏側に森嶋の鉄仮面が見える。
「やはり、聞いたとおりだ。七と十一で相殺。魔法力は低いらしいな」
「……テメーは聞いたのと違って常識がねーな。黒羽はまず倫理教育を頭にするって聞いてるんだけどな」
「なに、民間人を平然と巻き込むフリーのハンターよりはよほどマシだろう? 何せ宮内は寝かせてある」
「ハナから巻き込むなって言ってんだよ!」
千雨は転がるように噴水の影から飛び出て、横の林へと駆けた。
「!」
森嶋が驚愕する。パン。乾いた音を響かせて、突然自らの自動障壁が展開したからだ。目が落ちた拉げた弾丸を追う。実銃……旧世界の兵器だ。息をするように魔法を使う魔法使いにはまるで意味のない兵器。だがそれに気を取られ、気づいたときには千雨は真っ暗な林の中に駆け込んでいた。
森嶋は軽い溜息をついた。失望に近い感情だ。数々の鉄火場を乗り越えてきたはずの長谷川千雨が小細工を駆使することで生き残ってきたのだと検討がついたからだ。魔法世界において小細工はそれほどの結果を残さない。圧倒的な才能こそが正義とされる世界だ。
「戦いの歌(カントゥス・ベラークス)」
それでも栄誉は栄誉で、報奨金は報奨金だ。森嶋は全身に魔力が回るのを確かめてから、千雨を追って林の中に入っていった。
二日前。宮内に飛んでいる姿を見られた翌日、千雨は登校して度肝を抜かれた。クラスの中に見たことのない鉄仮面男がいたのだ。
その認識を誤魔化す暗示は強力なものだった。現に宮内などは森嶋を昔からいた親友と認識していたようだった。記憶操作の魔法すら使えない千雨にとっては羨ましい話だ。それはきっと不得手でも魔法の使い手である千雨すら誤魔化すはずの術だったのだろう。
だが、千雨は3-Aメンバーにすら言っていないことだが、先天的にその類の誤魔化す魔法が利きにくいらしい。だからこそ麻帆良で散々苦しめられたのだが、この数年はその体質に感謝している。この類の稚拙な奇襲は読めるからだ。
「特殊術式「春の野に桜」リミット15無詠唱用発動鍵設定キーワード「電子の女王」大気よ水よ白霧となれこの者に一時の安息を眠りの霧、術式封印」
体内からごそっと魔力が抜ける感覚。才能がないということはそういうことだ。取れる手段の数も回数も極端に少なくなる。サウザンド・マスターもネギ・スプリングフィールドも小細工を必要としなかったし、ネギを敵に回して小細工でどうにかできるとも思わなかった。天才とはそういうものだ。凡人の努力を無に帰することこそが天才の為すこと。
「っあ!」
真っ暗闇の中、青白い光を漏らしながら千雨は「戦いの歌」の魔力を踵に集中し、ほぼ真後ろに方向転換した。遥かに多い魔力で以ってすぐそこまで近づいていた森嶋に肉薄する。森嶋は何一つの動揺も見せることなく指揮棒ほどの杖を振り上げた。
「電子の女王(エレクトリカルクイーン)、解放(エーミッタム)」
「風楯(デフレクシオ)」
霧と風が反発しあい、緑と青の光が混ざり合う。千雨はそのまま森嶋の傍らを駆け抜けた。森嶋はその場に一旦立ち止まったが、溜息をついてまた千雨を追いかけた。
「電子の女王。情報の通りだな」
「テメーこそ風と光使い。通ってる情報のまんまじゃねーか」
二三の木を挟んで、ぴたりと追ってくる。一気に距離を詰めてこない森嶋に千雨は感謝しつつも腹を立てた。距離を保つことが目的ではあるが、それを詰めてくればフィンでの方位掃射で一気にカタがつくというのに。その時に備えて、七部衆を全てフィンの制御に回してある。
「今日はいい星だな、宮内が乙女座の話をしてた」
「まさか口説いてるわけじゃねーだろーな」
「賞金首を口説く趣味はないなあ?」
背後から魔力の気配。咄嗟にそこらの幹を駆け上るように宙を舞う。幹に一本の矢が大穴を開けた。森嶋が幹を迂回し速度を全く落とさず方向を変えるのを見て、千雨は舌打ちし、追われるまま駆け出す。フィンを使った攻撃に移行するには距離がありすぎる。
「そういやあんたの仮面、青銅製か? 妙に黒いんだが」
「鉄製だ」
「なんなんだよ青銅の騎士って!」
「鉄より評価がちょっと落ちるんだ」
「シビアだな黒羽の名前の付け方!」
魔法の射手の詠唱。59矢。千雨は瞬時に迎撃を諦めて残る魔力のほとんどを足に注ぎ込んだ。59矢の射手。迎撃も防御も千雨の魔法では絶対にできやしない。
「ルーキス!」
だがこれとて森嶋にとっては力量を量る一環でしかないのだろう。全力には程遠く、千雨の限界を見切られ、その底までを一気に曝け出させようとしている。
噴水が見えた。59矢が放たれる。先行した二三本を木に誘導して撒きながら、転げるように千雨は広場に出た。森嶋が甲高く呻き声を上げて残る矢を反転させる。50以上の光の矢が石畳と泥に爪痕を立てた。
千雨は前に転がりながら、器用に噴水の縁に足を乗せ、立った。風に縛った後ろ髪が揺れる。
「……宮内がいないな。しまった。そのまま撃てば良かったか。しかし結界で生体反応は検出できるはずだったが、そういえば使い魔は人形だったな」
「人形は遠からずだが、使い魔じゃない。従者だ」
千雨は契約者カードを取り出した。
「召還(エウォコー・ウォース)・長谷川千雨の従者チャム」
傍らに魔力の光が渦巻き、そこにチャムが現れる。それで、千雨の魔力は尽きた。魔力欠乏の前兆に足元がふらつくが、踏ん張る。本題はここからだ。
「不思議なものだ。例えどれだけ従者が優秀だろうとも術者がこの程度の魔法使いなら仕留めるのにそれほどの幸運はいらないはずだが、200万ドラクマとは」
「懸賞金は別に能力に対してかけられたわけじゃないからな」
「姫もそれほど注意しろとも言ってなかったが」
「そりゃそーだろ。私は白き翼最弱だ。近衛だったら指の一本で仕留められる」
ちなみに、冗談ではない。指一本で放つ無詠唱魔法一つで千雨の防御は突き破られ、為すすべなく命を奪われるだろう。しかし近衛木乃香は旧世界最強の魔法使いと言われる存在。そこらの魔法使いと比較するとそこらの魔法使いが可哀想だ。
「なるほど。姫の指一本なら俺は全身全霊を賭けなければなるまいな」
「いや、手加減してくれると助かるな」
「捕縛が命令だが 」
「そりゃ参った」
「大人しく捕まらないか?」
「悪いが、切り札が残ってるんだ。チャム!」
「はい、マスター」
「解放(エーミッタム)!」
瞬動で距離を詰めたチャムを、白い雷が襲う。連続瞬動で僅かに距離をとりながら雷を掻い潜り、チャムはそのまま体を宙で回し胴回し蹴りを森嶋の杖に見舞う。その瞬間、森嶋の姿が消えた。チャムもそれを追って消える。
千雨は目を閉じた。一度深呼吸。無理な戦いの歌の行使であちこちが痛む。だが、チャムではプロの魔法使いにタイマンでは勝ちきれない。千雨の魔力が少ないため、チャムの武装は旧世界の兵器が基本となっていて、それが障壁を打ち抜くほどの力を持っていないことに気づくのにそれほどの時間はかからないだろう。
鼓動が収まらない。これを使うのは久しぶりだ。更にもう一度の深呼吸で千雨は無理やり体を整えた。
そして、
「コード77948522。呪紋回路解放、封印解除」
僅かな偏頭痛から始まり、千雨の体を生理痛にも似た激痛が襲う。千雨は呻き声を堪えた。
超鈴音の遺したものを受け取ったのは葉加瀬聡美だったが、それを受け継いだのは長谷川千雨だった。それは大した理由があったわけではない。葉加瀬聡美に助けを求めた人間の中で、最もそれを必要としていたのが千雨だった。ただそれだけだ。
「ラスト」
暴れる呪紋回路の制御に七部衆を回しながらも、千雨は昼の葉加瀬の電話のことを思い出した。四葉五月の手紙を思い出した。31人、全員の顔を思い返した。それだけで激痛が不思議と傍観できた。笑う。もしかして、3-Aに一番愛着持ってるのって私じゃないだろうか。いや、全員が全員、自分が一番だと言うかもしれない。
「テイル」
全身の魔力経路が青白く光り始める。骨が、神経が無理やりこじ開けられるような痛み。いや、葉加瀬に聞いた話では真実無理やりこじ開けているらしい。こじ開け、少しずつ削り、それを魔力として扱うことで魔法を使う技術。狂気の沙汰。だが凡人が天才に追いすがるためには狂気以外の何に縋れと言うのか。
「マイ・マジック・スキル」
だがこの力に縋った時、千雨はネギを泣かせた。その時にはもうとっくにネギの歪み方に気づいていたはずの千雨なのに、またネギに逃しようのない重荷を背負わせた。それもまた一つの後悔だ。
「マギステル!」
千雨は血を吐いた。足元をよろめかせ、噴水に足を突っ込む。水が熱を持った足と触れ蒸気を発した。指先の毛細血管が破裂して、十本の指が均等に真っ赤に染まった。
目を開ける。口の中に溜まった血を飲み干して、千雨は歯を食いしばって空を見上げた。極端な魔力が目にまで周り、望遠鏡のように遠くの星が見えた。綺麗と思わないわけではない。だがやはり千雨にはそれを愛でる趣味が理解できない。回りを見渡せば、星より余程儚いものが溢れているのに、なぜそれを差し置いて空を見上げるのかがわからなかった。
「来れ雷精(ウェニアント・スピーリトゥス)風の精(アエリアーレス・フルグリエンテース)雷を纏いて(クム・フルグラティオーネ)吹きすさべ(フレット・テンペスタース)南洋の嵐(アウストリーナ)」
ネギより、遥かに優しさのない風を引き絞るように細くする。左の真っ赤に染まった人差し指を照星に見立てて、腕を伸ばし、魔力の渦巻く右手を引いた。
魔力を使ったガラスのようになった眼球が、連続で瞬動を繰り返すチャムと森嶋を捉えはじめる。右へ、左へ。千雨へ近づこうとする森嶋をチャムが蹴飛ばし、森嶋が放った魔法の射手をチャムが打ち落とす。狙うは、瞬動の「出」。森嶋もそれを解っているのだろう、中々隙を見せない。千雨が執った呪紋回路解放のことは見当がつかなくても、千雨が突如発生させた莫大な魔力のことは気づいているはずだ。
ふ――と、千雨は笑った。電話では薫陶を受けたとかカッコつけたが、結局千雨は傍観者で、卑怯にしか拠り所のない半端者だ。だから、こういう手を躊躇いなく使うんだろう。
竜尾返し。
千雨は水飛沫を巻き上げながら背を向け、そのまま一回転しながら弓を引き絞った。
「解放(エーミッタム)!」
「雷の暴風(ヨウィス・テンペスタース・フルグリエンス)」
奇しくも同じ魔法。森嶋も渾身の魔法であることは違いない。魔法組織のエリートらしい、素晴らしい威力。千雨が身を削ってすら捻りだした魔力と同等ほどはあったかもしれない。
だが密度が違った。引き絞り、風をまとめて、槍のようにすらした暴風がぶつかりあうはずの森嶋の風を引き裂きながら仮面の少年の胸を貫いた。千雨はそれを確認してから、森嶋の風に身を任せた。エリートといっても、やはり違う。森嶋の風もまた、千雨のに良く似た鋭い風だった。
「マスターっ!」
宙を舞い、血を吐きながらも千雨は笑った。何のことはない。自分を嘲笑ったのだった。
◆◆◆
「消えちゃえ」
葉加瀬聡美は、公園の出口にぞんざいに投げ捨てられていた宮内努に記憶消去の魔法をかけた。長谷川千雨はどうも精神操作系の魔法に嫌悪があるらしく、基本魔法の記憶消去を覚えていないらしいが、魔法薬の手助けがあれば魔法を学んでいない葉加瀬にも簡単に扱える魔法なのだ。
葉加瀬は機械式魔力センサーを見て、千雨のものと思しき強い魔力が消えたのを確認してから公園に踏み入った。人避けの結界はもう切れている。多分、術者は死んだのだろう。
戦闘の痕跡はそれほど広い範囲にはなかった。木が抉れ、石畳が幾つも割れているが、本職の魔法使いなら復旧に手間はかからないだろう。尤もこの場にいた唯一の本職の魔法使いの死体は仰向けになって転がっていた。鉄の仮面をつけた少年。目を見開いたままで、仮面のスリットからまだ光を反射している。胸には細い穴が開いていて、背後に夥しい血が翼のように撒き散らされていた。
葉加瀬は一瞬躊躇ってから少年の仮面に手を伸ばした。耳の横に止め具はあったが、鍵はかかっておらず、逆に外れないのが不思議なほど緩かった。
森嶋の顔立ちは、小柄な体に合わないほど更に幼かった。葉加瀬の頭に速成人間のことが過る。戦闘型魔法使いとはつまり魔法世界における兵器でもある。時代を象徴するような魔法使いは旧世界における核兵器の扱いと同じだ。古い天才魔法使いが幾人も新世界では凍りつかされ、その数と質で国家間の軍事力争いが起きていることを葉加瀬は知っていた。
世界は間違っている――。
その言葉を言い始めたのは、誰だったか。3-Aの誰か。多分今はもういない誰かだったろう。最初にそれを言い出した誰かは、きっとそれが是正されることを望んでいた。だが今は既に諦念と共に吐き出されることの方が多い。今更、それをどうにかしてどうなるという。失われたものは戻ってこないのに。
後悔に生きているのは何も千雨だけではない。葉加瀬はもちろん、結局唯一血腥い世界に踏み込まなかった四葉五月ですらそうだ。
世界は間違っている。その間違いを葉加瀬は見出している。葉加瀬が大切だと思った人たちが後悔の中にしか生きれない、という間違いだ。
千雨は、半壊して水の溢れ出した噴水の近くのベンチで、チャムに膝枕されていた。目元には腕が置かれ、壊れた眼鏡が水に浸っている。
「なんでいるんだよ」
「私の顔を見たいかなーと思いまして」
千雨は酷く傷ついているようだった。白いセーラー服の胸元は血で赤く染まり、四肢が失われていないことが妙だと思うほどにそこら中がぼろぼろだった。だが声はしっかりと整っている。痩せ我慢だな、と葉加瀬は思った。理由は違うが、ネギと千雨はそういうところでよく似ていた。
葉加瀬はチャムを挟んで噴水を向いた。水がだらしなく吐き出され続けている。
「お昼の続きを話しましょうか」
「見てわかんねーか。満身創痍だ」
「千雨さんは強情ですから、弱ってる時の方が説得しやすいかと思いまして」
「……チャム。私、寝るから適当に相手しとけ」
「はい、マスター」
途端に立て始めた千雨の寝息を、葉加瀬はわざとらしいと思った。チャムを見ると、チャムは小さく頷いた。
「千雨さん。私、凄いことを言います」
「……」
「私を守るために。悪になってください」
千雨の寝息が止まった。そのまま、葉加瀬は空を見上げた。指先で乙女座をなぞる。
「私は星が好きです」
「……」
「でもアストライアーはただのバカ女です。ただ最後に残ったってだけで評価されてる。意地を張るなら張り続ければいいのに。何一つ為せずに結局逃げ帰って。乙女座とか言って気取っちゃって」
「……」
「今、千雨さんのこと皮肉ってます」
「……」
「本当は、誰にも言わずに有無を言わさず歴史を改変しようと思ってました。でも、私じゃ無理なんです。戦う力も、言葉の力もない。それどころか改造カシオペアを動作させる魔力すら捻りだせませんでした。呪紋回路ってあれなんですか。普通に心が挫ける激痛なんですけど、良く我慢できますね」
「……」
「だから、千雨さんの力が必要なんです。お願いします。
私、この世界が苦しいです。胸が張り裂けそうです。昔の仲間達がいがみ合って、いなくなって。辛いです。辛いんです」
「……」
「千雨さん、世界を救えなんていいません。私を助けてください。そのためだけに悪になってください」
「……」
「……用意してきた説得の文章は以上です」
「台無しだよ、このバカ」
千雨は腕を下ろした。3-Aが誇る眼鏡トリオの残存二人が視線を合わせる。千雨はチャムの膝の上から葉加瀬の無表情を見上げ、葉加瀬は千雨の裸眼を見下ろした。
「条件がある」
「はい」
「チャムと七部衆も連れていけないなら、この話はなしだ」
「そういうと思って準備してあります。ボディーごとというわけにはいきませんけど」
「もう一つ」
「なんでも」
「何年かかってもいい。コタローと村上をくっつけるのを手伝え。……つーか、あっちのお前に手伝わせる」
「任せてください。これでも女心には精通してるんです」
物凄く嘘だった。千雨は引きつった笑いをしたが、葉加瀬が真顔なのをみて笑いを引っ込めた。マジで言ってるんじゃなかろうな。
千雨はチャムに手伝わせて、体を起こした。そのまま空を見上げる。魔力がどこかに行ってしまったからか、星が小さく見えた。だが、空は大きく見えた。
「あーあ、先生に嫌われるだろうな」
「そうですね」
「でも、お前を助けるためっていうなら仕方ないか」
「そうですね」
「体いてー」
「そうでしょうね」
「宮内のこと忘れてた」
「消しておきました」
「消すなよ! 折角逃がしたのに!」
「記憶をです」
「……」
「面白かった?」
「つまんねーよ!」
「私のこと、よろしくお願いします」
「ん……」
千雨は笑った。作り笑いではない。
「任せろ」
長谷川千雨が、世界を正す。
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というわけで逆行もの。宮内君はもう出てきません
今回の反省
・葉加瀬さん話長い
・千雨のキャラを見直し。もうちょっと女らしい?
・スピードが足りない
・葉加瀬はなんで千雨のこと下の名で呼ぶんだ
この話を書く上での僕のモチベーション
・千雨可愛い
・千雨もっと活躍
・千雨がんばれ
・でもあんま成長すんな