幻想郷
博麗大結界により外界と隔離された外れた者たちの理想郷、今や幻想の存在として外の世界から否定された存在が住まう夢の都。遥か昔の、懐かしき日本の原風景が残る地。
その中で特徴的なものは広大な自然だったりと色々とあるが、最も特徴的なのはやはり住民だろう。そこに住まう人の世から外れたモノ達こそが幻想郷の主役であり、顔と言っていい。しかし一概に外れたモノといっても様々である。幽霊。 妖怪。 妖精。 神。 宇宙人。 巫女に、魔法使いと非常に多岐に渡る。
だが、幻想郷の住民全てが人外というわけではない。幻想の地においても、平凡な人間が住まう地がある。人獣が守護する人間の集落。 妖怪たちはこの集落を、【人間の里】と呼ぶ。
そこは外界と断絶した世界なだけに、今やTVの中でしか見る機会がなくなったような一昔前の服装ばかり着用した人ばかりだ。
しかし、その老若男女問わず、古めかしい着物の様な恰好をした人の中に明らかに異彩を放っているものがいた。緑や、赤に、黄色といった色艶やかな着物を着た可愛らしい少女、稗田 阿求(ひえだ あきゅう)だ。
稗田 阿求。 幻想郷において妖怪辞典的存在の【幻想郷縁起】を編纂している稗田家の九代目当主でり、転生の術で数百年振りに一度に生まれ変わった初代、稗田阿礼の転生体でもある。稗田阿礼(あれ)とは、はるか千年も前から、人間が安全に暮らすために妖怪についての知識を記した【幻想郷縁起】を書き始めた人物だ。何代も転生しているが、その代償か、転生する際には記憶のほとんどを失っていることに加え、寿命も僅か三十年と色々と問題がある。
といったように稗田 阿求は色々と常識外れた存在だが、外見上は十と少しばかりの幼い子どもであった。
「今日もいいお天気ですねぇ」
彼女は、爽やかな風に髪を靡かせ、人里の通りを歩いていた。幻想郷縁起の編纂の息抜きのためである。実はここ最近、作業が思うように進んでいなかった。というのも世間で“馬鹿扱いされる妖精”に屋敷に侵入され、書類を凍り付けされたり食べられたりと多大な邪魔をされた為だ。おまけに仮眠をとっていた自身の顔にまで筆でラクガキをされていた時には、普段温厚な彼女でさえ激怒した。
「お、阿求ちゃん。 今日はお散歩かい?」
「こんにちは霧雨のおじ様。 商売の方はどうです?」
「まぁ悪くねぇな。 阿求ちゃんもまた今度よってくれや」
その時は是非に、と他の里人にも同様に挨拶をしつつ歩みを進めると、懐かしい建物が現れた。
老築化が進み屋根だけでなく全体が見窄らしいソレは、以前人の悪い男が住んでいた住居だ。一日中、酒を飲んでは荒れて、根拠のない言い掛かりをつけては喧嘩を吹っかける荒くれ者が住んでいたらしい、と噂を聞いたことがある。随分と前に他界している彼と、阿求は面識はなかったが、人伝にそういう噂を聞いたことがあった。
…………所詮、噂は噂ですから、どこからどこまでが真実かなんてわからないですけどね。そこまで、恐ろしい方だったのでしょうか?
かの家の住人と面識があったものは、今でも彼を恐れている。彼が他界した後になっても、彼の魂はその家に取り憑いており、勝手に何かしようものならば呪われると信じてられているほどだ。確かに建物から瘴気のようなものが吹き出ているようにも見える。錯覚かもしれないが、日差しも心地良いというのに、その屋敷周辺だけは周囲よりも気温が低い気がした。昔そのことで、博麗の巫女に調査を依頼したが『そんな面倒くさいことやぁよ』と断られたことを思い出す。
思わず苦い表情になった阿求は
「しかし…………“荒くれ屋敷”とは安直な。 私なら“【ぴー】”もしくは【ピーピー】と名付けますね」
眼前にそびえ立つ屋敷を前に、とても見た目少女が口にすべきではない言葉を吐く。普段の彼女なら心の内だけで留まっただろうが、最近の“馬鹿妖精”の襲撃のせいで阿求にもストレスが溜まっており多少黒くなっていた。
「それにしても馬鹿妖精め、書類を凍らすだけでなく食べるなんて……忌々しい。 今度悪さをしたら追い詰めて肥貯めに打ち込んでやるんだから……!」
瘴気を纏いながらとんでもないことを口走る阿求を見て、里の男衆は無言で顔を反らす。まるで、一瞬でも少女のその言葉に感じた背徳的快楽を否定するかのように。
そんな時だった。
「阿求さんッ! そこ危ないですよ!!」
近くにいた恰幅のいい中年男性が、声と同時に此方の手を引いたのは。直後に、
「錐揉み回転!?」
言葉の通り錐揉み回転で、此方に突っ込んでくるものがあった。それは人形(ヒトガタ)である。それも大柄な成人男性だ。何なんだ、と思う間もなくそれは屋敷に突っ込んでいく。けたましい破壊音。凄まじい音を立てて屋敷は倒壊した。舞い散る埃、四散する木材、消し飛ぶ瘴気。
言葉にならないとはこういうことを言うのだろう、と自身を客観視しながらそう思った。
「一体どういう状況…………?」
呆然としながらも、周囲を確認することにする。屋敷は原型を留めていない。元々、老築化が進んでいたというのもあるが、錐揉み回転で突っ込んできた男の速度が半端なかったということも、倒壊の理由の一つだろう。
続いて飛来物、突っ込んできた男の姿を探してみるも見当たらない。おそらく、瓦礫の下に埋もれているのだろう。先程、阿求が怪我をしないように腕を引いてくれた男も含め、何人かの里人達が瓦礫の周辺で救助活動を始めようとしていた。何があったのかはわからないが、阿求は救助に参加せずに、それを遠巻きに眺める。というのも、彼女は非力な十と少しばかりの幼い子どもだからだ。救助活動に何の役にも立ちはしないと判断したからだ。
…………出来ないことよりも、出来ること。この場合、私に出来ることといったら状況の分析くらいでしょうね。
男が飛んできた方向に目をやる。すると、意外な人物が腕を振りぬいた形で瓦礫の山を睨みつけていた。阿求はその人物――――、風見 幽香(かざみ・ゆうか)を見て、顔を引き攣らせる。阿求だけでなく、里人の大半が幽香を見て、阿求と同様の反応を示した。
風見 幽香とは、幻想郷でも指折りの実力を持つ強力な妖怪だ。普段は強いものや、特別な能力を持つ人間にしか興味を持つことはない。戦闘力敵な意味で、一度興味を持たれてしまうと悪夢であるが、基本的に紳士的な妖怪であるので、此方からちょっかいを出したり、彼女が大切にしている花畑を荒らさない限り危険はないはずである。人里にある妖怪専門の商店とも、基本的に悪い関係ではない。問題らしい問題も、今までは起こったことなど一度もない。そのはずなのだが “四季のフラワーマスター”の異名を持つ、視界の先にいる彼女は、随分とお怒りの様子である。
「まさか……先程飛んできた人は、彼女を怒らせるような真似を?」
振りぬかれた片腕を見る限り、男は張り倒されるように殴られたのだろう。所謂、ビンタを受けたに違いない。あの錐揉み回転もそれなら頷ける。そうだとしたら顔面は陥没しているかもしれませんが、と阿求は思った。
幽香クラスの妖怪のビンタを人間が食らえば、普通ならその顔面は弾け飛ぶか、千切れるか、最悪でも捻じれるだろう。しかしながら、基本的に人里では幻想郷の管理者等により、妖怪による人間への殺害は禁止されている。幽香もおそらくそれは忘れてはいないはずだ。ならば、多少顔面が変形しているだろうが生きてはいるだろう。
「何時までも死んだ振りなんてしていないで、そろそろ立ち上がってきては如何かしら?」
ねぇ伊達男さん、と額に青筋を浮かばせた幽香は瓦礫の山を睨みつけてそう言う。普段が紳士的な妖怪程、激怒した際の怖さは異常である。
言葉の一つ一つに込められた感情が空気を震わせているかのようだ。敵意を向けられる先、瓦礫の山で埋もれた男を救助しようとしていた里人達に、幽香の敵意に抗う術はなく、彼等は蜘蛛の子を散らすようにそこを離れた。
誰でも自分の命は惜しい。そんなことは当然だ。ましてや、幽香の敵意だ。逃げ出さない方がどうかしている。だから、阿求は救助活動を破棄して逃げ出した彼等を非難する気持ちにはなれなかった。それに、幽香の口調だと埋もれた男は生きているらしい。一先ず、死者がなかったことに一息ついた。これから出るかもしれないが、と思いながら。
「あれは……?」
屋敷の残骸を注視していると、ガラクタの山から腕が生えてきた。天を穿つように突き出された腕に次いで、頭、胴体が出てくる。
ガラクタの山から出てきたのは、三十台半ばの男だ。精悍な顔つきに、僅かばかり日に焼けた肌に加え、身に紳士服を纏っている。それは、幻想郷ではあまり着るものがいないだけあって、ひどく浮いている。それに加え特徴的なのがその目元、左目に片眼鏡(モノクル)を着けていることだ。彫の深い顔にそれはよく似合っていた。
明らかに人里から浮いているその存在に一体何者なのでしょうか、と疑問を抱く阿求の視界の先、男は飄々とした笑みを浮かべ、
「手首の捻りがよくきいた張り手だったよ、幽香君。 しかし、幾ら照れ隠しにしても少し酷いのではないかね? 仮に、君の張り手を受けたのが私でなかったら、顔が千切れているか、陥没していただろうな」
「手加減してあげたのだから生きていて当然でしょう」
それよりも、と幽香は続ける。
「この私が親切にも、道端で右往左往していた貴方を人里に道案内してあげたっていうのに、まさか恩を仇で返すように人前で押し倒されるとは夢にも思わなかったわ」
彼女の言葉を僅かばかり吟味するように顎を撫で、「それはだね」と男は頷く。
「あれは私も本意ではなかったのだよ。 悪戯好きのクソが……ではなく、少年に背を押されてな? つい、幽香君を押してしまったわけだ。 つまり、事故だ」
「あらあら。 面白いことを言うのね、駄犬風情が。 なら訊くけど、偶発的に押し倒したのは事故だとしましょう。 では何故、故意に唇を奪おうとしたのかしら?」
周囲の重力が増した気がした。当事者ではないとはいえ、風見 幽香の怒気に晒されるのはあまり健康に宜しくない。
「ステイツで生活していた時の癖だよ。 向こうでは、挨拶時に接吻するのが普通でね」
「ステイツが何処かなんて知らないし、ましてやそこの文化なんて知っちゃことないわ。 要するに、歯でも食いしばりなさいな」
「痛いのは勘弁願いたいものだ」
「勘弁願いたいから何? まさか逃げるとでも言う気? 本当に馬鹿な駄犬ね。 この私がみすみす逃がすと思うの?」
手加減していたそうだが、それでもあの風見 幽香に殴られても飄々とした態度を崩さない男に、阿求は違和感を抱いた。
その違和感を抱くことになった原因は、彼女が持つある特殊な能力だ。その名も、【一度見た物を忘れない程度の能力】 幻想郷では、力のある妖怪や、稀にだが阿求のような人間が固有の能力を持つことがある。例えば、【炎を操る程度の能力】【悪夢を具現化する程度の能力】【武器を手にしたら一流の戦士の戦闘力を発揮する程度の能力】などが挙げられる。
【一度見た物を忘れない程度の能力】という地味な持つ彼女は、まじまじと男の顔を見つめる。というのも、阿求の記憶には、その存在が記されていなかったからだ。
「……私の記憶にない? 新しくやってきた妖怪? それとも、神隠しに遭った外来人?」
それほど近い距離にいるわけではないのに呟く声が届いたのか、興味という名の感情の籠った視線が幽香から、阿求へと向けられた。
…………ッ!?
その瞬間、強烈な吐き気にも似たものが彼女を襲う。心の中をぐちゃぐちゃに掻き回されるような忌避感、全身を愛撫されるかのような不快感、土足で心の中を荒らされたかのような嫌悪感。そういったものに心が縛り付けられる。
怖さでいうなら、風見 幽香の方が数百倍も恐ろしい。しかしながら幽香と違う、別種の恐ろしさが男にはあった。すなわち前者が単純な暴力的な毛色だとすれば、後者は得体の知れない不気味な毛色をしており、それが夜道で背後からヒタヒタと付きまとわれるような恐怖を、阿求に与えていた。今も眼前の男浮かべているあの飄々とした八雲 紫(やくも・ゆかり)のような笑みが、そういった思惑を余計加速させるのかもしれない。
阿求が得体の知れない何かに心を浸食されている一方、渦中の主達は
「臨戦態勢を整えている幽香君。 一ついいかね?」
「なによ? 見苦しい命乞いは寿命を縮めるだけでしてよ」
「命乞いとえばそうなのだが、一つ手品を拝見してもらおうと思ってね」
「そういえば、道中で言ってたわね。 自称奇術師だ、って」
「紳士の嗜の一つだよ」
そう言って足元に転がっていた木材を手に取る。それは先程、倒壊した屋敷だったものの一部だ。他にも似たような木材が当たり一面に転がっている。
「これを投げて地面に落ちるまでに、私は君の前から消えてみせよう。 お題は“瞬間移動”」
「あらあらあら。 駄犬にしては面白いことを言うのね」
幽香は童女のような笑みを浮かべながら、
「いいでしょう。 仮に、そう仮によ? 貴方の言う“瞬間移動”とやらが成功した暁には見逃してあげるわ」
笑みの表情を浮かべているが、瞳はまったく笑っていない顔で告げる。ただし、と前置きし
「普段なら半殺しにする程度の無礼だけど、貴方の奇術というもの興味があったから、ここまで譲歩してあげたのよ? 万が一、瞬間移動というものが失敗した場合は、私刑を受けてもらうわ」
私刑という言葉に、その場にいるものは疑問の表情を浮かべた。死刑なら理解できるが、私刑とは何なのだろうか、と。
「簀巻きにして張り倒すのは確定だけど、それだけだと甘いから罰を追加するわ」
「追加?」
「ええ。 一度全裸に剥いた上で、それもこの往来の多い通りでね? 私の足を舐めてもらうわ。 駄犬にはちょうどいいでしょう?」
里人の間で悲鳴が上がった。悲鳴の種類は二種類だ。悲哀の声と、何かを期待するかのような桃色の悲鳴だ。前者は男性が、後者は女性がその大多数を占めていた。ちなみに、どうでもいいことだが阿求も後者である。
「なん……だと?」
「新参の分際で……幽香様のご褒美、だと?」
「神は死んだ…………初めから信じてなんかいなかったけど」
「所詮、人生は別れが全てなのさ」
男達は膝を折り、その場に崩れ落ちた。虚ろな瞳からは、とめどなく涙が零れ出る。余程、悔しかったのだろうか。一方、憂いに支配された男達とは打って変わって、女達はというと…………。
「キャーお姉さま! ステキー!!」
「なんて背徳的な! 駄目よそんなプレイ!! 病み付きになるじゃない!?」
「流石、幽香様ッ! 私達には出来ないことを平然とやってくれる!」
「そこに痺れるぅ! 憧れるぅうう!!!」
割れんばかりの声で、歓声を上げていた。もはやお祭り状態である。中にはヘヴン状態のものも見受けられる。建物倒壊などがあって危ない雰囲気が漂っていた先程とは大違いだ。今では奇術師の男と、幽香の周囲には多くの人が集まっていた。無論、出歯亀目的で。遠巻きに且つ客観的にその光景を眺めていた阿求は思う。もうこの里は駄目かもしれない、と。
「幽香君。 随分と人気があるようだが、その、なんだ……近寄らないでくれるか? 変態が伝染る」
「……待ちなさい。 貴方、絶対に私のこと誤解してるわよ」
「しかし」
男が何かを言おうとしたところ、周囲を取り囲んでいる人込みの中から、ある人間が幽香目掛けて飛び出してきた。脂の乗った中年男性だ。ぶよんぶよんと揺れる腹と、額に巻いてある【風見 幽香様に踏まれようの会】と書かれたハチマキが印象的だ。彼の表情は、鼻息が荒く、目が血走っている。極度の興奮状態に陥っているのが窺えた。
見た目はあれながら軽快な動きで地を駆け、
「幽香さまぁあ! ふ、ふふふ踏んで下さぁああああああいひょごぉう!?」
いざ飛びかかろうとした瞬間、後方から輪の形をした縄が飛来し、彼の首を巻きつく。彼は空中で停止し、そのまま人込みの中へと引きづられていく。そして、その姿が完全に人込みに埋もれた直後に、
「てめぇ! 抜け駆けしてんじゃねぇぞ!!」
「“風見 幽香様に踏まれようの会”の鉄の掟を忘れたのか!? 抜け駆けは万死に値するぞ!!」
「この非国民がッ!」
「俺だってなぁ! 幽香様に踏まれたいんだよぉおお! くぞぉぉぉぉおお肥貯めに打ち込んでやる!」
怨嗟の咆哮と打撃音に加え、
「ふぎょ痛!? 痛いけど痛いけど、だがそれがいい……ッ!! これ何てエクスタシー!? ぎゅえ痛ッ痛い!!!」
豚のようなくぐもった悲鳴がそこら一帯に木霊した。
バキバキと奏でられる打撃音を無視し奇術師は無言で、幽香を見た。視線を向けられた彼女はと言うと、目を逸らして無視に徹している。二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。気のせいでなければ彼女の頬は引き攣っているように見てとれる。あまり言及しない方がいいのだろうか、と思いながらも男は結局、問うことにした。
幽香君、と彼が呼びかけたところ、
「忘れなさい」
疲労6、怒り3、何とも言えない気持ち1がブレンドされたかのような声だった。
「いや、しかし」
「忘れなさい。 忘れないと言うのなら、殴ってでも忘れさせるから」
取り付く島もないとはこういうことを言うのだろうか。下手に刺激してしまったら、爆発しかねない危うさを放っていた。おそらく、人里に日用品を買いに来る度にこのようなやり取りがあったのであろう。並々ならぬストレスを抱えているに違いない。
「兎も角、貴方の言う奇術とやらをさっさと見せないな」
「了解した。 それでは、この木材が地に落ちる前に、私は君の前から姿を消してみせよう」
男は即座に手に持っていた木材を投擲した。それは、幽香目掛けて一直線に飛んでいく。それなりの速度に回転が加わったそれが当たれば、いくら幽香が妖怪といえ雀の涙程度は痛いだろう。
しかし、
「この程度のこと、目くらましにでもなると思ったの? そうだとしたらとんだ御馬鹿さんね。 チョン切るわよ」
誰かが「な、何を……?」と疑問に思う前にそれは幽香の眼前に迫り、彼女はそれをまるで蠅を払うかのように、、手に持った日傘を一閃するだけで難なく弾いてみせた。ただ、誤算は視界から奇術師を逃さないために、適当に弾いてしまったことにある。弾かれた木材は、
「え?」
観衆の内の一人、偶然眺めていた阿求に向かった。幽香に弾かれたといっても、その回転力は多少落ちた程度で、阿求のような幼い子どもに当たれば無傷では済まない。更に、それは少女の顔面に向かっている。下手をすれば、傷跡が残る恐れがある。
皆が咄嗟に反応しようとするも、あまりに遅すぎた。この瞬間になっては、木材を弾いてしまった幽香ですら間に合わない。拙い、と阿求が思った時には尖った断面がやけにゆっくりと見えた。そしてあと数回転で届こうかというところで、
「済まない。 ちょっとした手違いで危険な目に遭わせてしまったようだね」
阿求の視界には凶器ではなく、緩い笑みを浮かべた男が映りこんだ。飄々とした態度のわりには、他人に安堵を与えるかのような落ち着いた声が遅れて届いた。最初に抱いた感情が嫌悪感だったり、違和感だったりした分、その驚きは大きかった。
…………これが外の世界から流れ込んできた書物にあった“ギャップ萌え”っていうやつかしら?
軽く混乱する阿求に、彼は「ところで」と前置きし、疑問を発した。
「先ほどから、私のことを気にしているようだが、何か用だろうか?」
「…………」
嫌悪感は先程に比べればそれほど大したことはないが、何か漠然とした違和感を男に抱いた。本能的なものが警鐘を鳴らしている。何かがおかしい、と。
「はぁ……はぁ」
改めて男を観察してみることにした。客観的に見れば、男は“伊達男”という言葉がしっくりと当てはまる。ここいらではあまり見ない灰色の紳士服に、同じ色の帽子といった洒落た服装を普段着のように違和感なく着こなした。また、日に焼けて少し浅黒くなった肌に、精悍な顔つきという要素も加えて、世間一般の感性から見れば、俗に言う“いい男”という部類に入るだろう。
しかしそれだけだ。それ自体は問題ない。
……では、一体どうしてこの人に違和感を?
「はぁはぁ……はぁ」
少女は自身に問いかける。何故ああも異常な違和感を抱いたのか、と。もう一度、彼女は男に視線をやる。身長の関係上、彼の半分程しかない彼女が必然的に見上げる形になる。
「はぁ……はぁ。 用といいますか、そのッ」
「その?」
そこで気がついた。先ほどから気にしていた違和感に。そう、それは奇術師と名乗る男の声、動作、香りに至るまでがまるで媚薬のようだということだ。甘美な麻薬のように染み渡る男の声に、
「はぁ……はぁ……」
ただ、相対しているだけで息が荒くなり、視界が涙で滲む。より端的に言えばまるで発情したかのような状態に襲われる。異常だ。魅惑だとか魅力だとかそんな言葉では言い表せない暴力だった。
…………【異性を魅了する程度の能力】でも持っているの?
魅惑という暴力に翻弄され、対魔力や異能に体性のない彼女は熱病に罹り、立っていられないと言わんばかりに膝を折る。ああ駄目だ、と思った時には身体は崩れていた。
「大丈夫か?」
そんな彼女を咄嗟に抱きしめるものがいた。奇術師の男だ。身体が触れ合う。少女はその瞬間、自身の脳内がますます侵された気がした。今にも飛びかかり自身の欲望を余すことなく曝け出したい衝動に喘いでいると、
「人といえど、外界と隔離された幻想に住まう住人ならば、もしや異能に体性があると思ったのだが。 万人がそういうわけではないか」
困り顔で呟く男の言葉が耳に届く。
…………ふぁくぁswでfrtgyふじこlp;@?
しかし、それを音だとは認識できるが、それがどういう意味を持つのか今の少女には理解できなかった。その、泥酔した獣のような虚ろな瞳を揺らす様を見て、男は流石にまずいと思ったのか、
「すまないね。 即席で悪いがこの式を打ち込ませてもらうが構わな……」
「うー! はーいはーい!」
少女の反応を見た男は無言で阿求の額に指を当てると、「キミノヒトミニキノコピラフ」と何を呟く。すると、不思議なことに彼女の瞳は意思の光を取り戻すことになった。
∫ ∫ ∫
まるで白昼夢でも見ていたようだ、と意思を取り戻した阿求は思った。
「……私は、一体何を?」
「その前に、即席で豪華なものは出来ないが其処に腰掛けてほしい」
そう言うと、阿求の身体をまるで、椅子に座らせるかのような動作をとる。少女のくらくらする頭では、疑問に思うことがあった。往来が多い中央の通りに椅子などあるはずがないのに、何を言っているのだろうか、と。というのも、好き好んで路上の中央に、椅子を配置する人間などいないからだ。 仮に、あまり広いとは言えない路上の中央に椅子を設置したとしても邪魔なだけで、誰も利用しないどころか、すぐさま撤去されるだろう。
…………なのに、どういうことでしょうか?
ふと背に当たるものがった。思わず首だけ動かしてみると、椅子があった。小さな木製の椅子だ。 小さいが、その椅子は小奇麗で、子どもの阿求が座るには十分過ぎる大きさのものだ。座り心地は悪くない。 それどころか、ひどく落ち着く。石が投じられた水面が波紋を放っていたかのような心が、静かに落ち着いていく。男が距離をとったというのもあるが、この椅子には何か特別な効果があるのかもしれない。
「色々と思うことがあるかもしれないが、これを使いなさい」
「……す、すいません」
言葉と共に渡された青いハンカチで、阿求は慌てて涙を拭った。ハンケチに視線を落とす。 綺麗な青色だ。 青というよりは、藍に近い綺麗な。肌触りもよく、きっと安くはない品だろう。そう思った阿求は、途端に申し訳なさそうに告げた。
それより早く
「済まない」
「え?」
「故意ではなく、害する意思がなかったとはいえ、君には迷惑をかけた」
男はそう言って、少女の足元に土下座した。堂に入ったそれは非常に洗練された土下座だ。おそらく、日頃からやり慣れているのだろう。
「……事情がよく飲み込めませんが、何事もなかったことですし頭を上げて下さい」
「申し訳ない。 しかし、せめて謝罪ついでにこれを受け取ってほしい」
立ち上がった男の手にはいつの間にか、紙袋が握られていた。 まるで、手品か魔法のようだ。ちょうど、阿求の腹から胸は隠れるであろう決して小さくない袋だ。当たり前のように差し出された紙袋を、阿求は反射的に手に取った。あまり重みはない。
抱きしめた袋の中からは、甘い香りが漂ってきた。先程の色香の類ではなく、菓子の甘い香りだ。
「凄く自然な流れで渡されたので受け取りましたけど、ここまでしてもらうのは悪いです。 貰えません」
「どうか私の男を立てると思って受け取ってはいただけないだろうか。 それに同じものは幾らでもある、ほら」
そう言って、またどこから阿求が胸に抱いているのと同じような紙袋を取りだした。
「…… どこから出したんですか? ひょっとして手品ですか?」
「私のつまらない手品だとも。 だが、どういうタネなのかは教えて差し上げられない」
「どうしてですか?」
にやり、と口角を吊り上げながら、男は答えた。悪戯好きの子どものような表情だ。
「子どもと、可愛い女の子に夢を見せるのが大人の仕事だからだ」
白い歯を浮かばせ、そんな気障なセリフを口にする。口にした本人は兎も角、阿求にしては赤面ものだった。思わず、紙袋を抱く腕にぎゅっと少しだけ力を込めた。紙袋の中から、甘い香りが洩れる。阿求のお腹が、きゅう、と小さく鳴り、反射的に俯いてしまう。
「お腹が空いているなら、食べてくれて構わない。 自分の造ったものとして感想を聞きたいからね」
「……いただきます」
俯いたままで、男の表情は伺えなかったが、きっと緩い笑みを浮かばているだろうな、と少女は思った。阿求が袋を開けると、和菓子、銅鑼焼きが五つほど入っていた。幻想卿という隔離された世界では、この様な菓子でさえ珍しいのか、阿求は好奇心にせかされ、それを手に取った。
「これは、どういう和菓子なんですか?」
「小麦粉、卵、砂糖を原料として焼いた二枚の皮の間に、粒餡を挟んだ菓子だ。 外の世界では、皆知っているんだが、ここはそういうわけではなさそうだね」
「……ええ。 博霊大結界で遮断され、外界とのやり取りを制限された世界では色々と物資も制限されますから。 ある例外を除いて」
男は阿求の返答に何か思うことがあったのか、そうなのか、と頷いた。
「……今、外の世界と仰いました?」
「私としてはその話よりも、先に菓子を食べることを勧める。 ちょうどいい具合に、温かいのに勿体ない」
「食べ終わったら話してくれますか?」
「なんなら、前向きに善処する所存であります、とでも答えようか?」
「質問に質問で返さないで下さいな」
それは悪かった、と相も変わらず緩い笑みを浮かべる男に、阿求は頬を膨らませた。その態度からも読み取れるように、彼女は随分と外に対しての好奇心が強いようだ。
「……失礼して。 いただきます」
外に対しての好奇心も強いが、手元の温かな菓子を優先することにしたようだ。紅葉のような小さな手が銅鑼焼きを掴み、その小鳥のような小さな口へと運んだかと思うと、彼女は花咲く笑みを浮かべた。実際、彼女は花の様に可憐であったが、笑みを浮かべたその様は普段よりも何倍も可憐であった。
「あまくて、おいしいですね」
あっという間にまるまる一つ平らげる。とても幸せそうな笑みを浮かべているのを見る限り、男の和菓子の成果が窺える
男は満足そうに頷くと、
「茶でも飲みなさい」
湯のみに入った茶を差し出した。少女は渡されたそれを極自然な流れで受け取り、
「ありがとうございます。 あ……渋くて美味しいですね。 私、こういう渋いお茶が好きなんですよって、また手品ですか?」
「今度は湯のみごと茶を出してみたかが、お気に召さなかったかね?」
「そういう問題じゃなくてですね。 …………って、そういえば先ほどから、ひどく自然な流れで路上の真ん中を占拠してました!?」
偶発的に木材が彼女のもとに弾かれた時、おそらく自身を助けてくれたであろう男に意識を割いていた阿求は、今頃、自分達が通りの真ん中を占領していることに気がついた。
なんてことをしていたんだ、と阿求は泣きそうになった。礼儀を重んじ、閻魔様の手伝いをすることもある彼女にしてたら、とても恥ずかしい行為だったからだ。今も、周りを見渡すと周囲には路上の中央だけあって、それなりに人が多く老若男女が通りにあふれている。
「?」
しかし、阿求はその光景を見て、違和感を覚えた。 見慣れた路上。 見慣れた顔ぶれ。 見慣れた日常だ。見慣れた光景であったのだが、
「……え?」
ただ、動いている人は誰もいなかった。
阿求は今更ながら、気がついた。世界が色を失い、不自然に停止している、と。空も、大地も、山も、人も、鳥も、犬も色を失い、彼女の視界には灰色の世界が広がっていた。里中から音が途絶えて、まるで世界から切り離されたかのようだ。
加えて、色んなものが停止している。今まさに躓こうとしている老婆、先程から幽香の周囲にいた群衆も発条が切れた人形のように停止している。また、大妖怪の風見 幽香ですら停止していた。極めて異常な状態だ。
混乱する頭の中、阿求は周囲をもう一度、観察し直す。停止した世界の中、例外はあった。阿求自身だ。 そして、彼女には色がった。 艶やかな着物が、灰色の世界で、その存在を誇示するように異彩を放っている。これが意味することはつまり、
「動けるものは色があり、動けない停止したものからは色が失われる? けど、どうして私が動けるの? それに、誰が何の目的で時を止めたのかしら?」
皆が停止しているのに、と阿求は疑問を持つ。また、脳裏にはこの現象を引き起こせる能力を持った人物が浮かんだ。
十六夜咲夜。
吸血鬼が住まう館、紅魔館でメイド長を務める人間。その【時間(空間)を操る程度の能力】を持つ彼女なら、この現象は実行可能だろう。 しかし、そうなると動機はどうだろうか。彼女に、この周辺を時間停止するメリットがあるのだろうか。
「おそらく、彼女は違う」
紅魔館の主を第一のこととして考える彼女が、このような主のためにならない行動を取ろう筈がない。それに、阿求だけを停止させないでいる理由もない。悩む阿求に突然、声がかけられた。 少しいいかね、と。
「……そういえば、あなたも動けたんですか。 てっきり停止していたものだと」
あまりに緩い空気なだけに、存在を忘れていたようだ。どうかしている、と阿求は気を確かにするように頭を振る。
「本当に気がついていなかったのかね? 木材が君に向かった瞬間から、私と君を除いて停止していたというのに」
「え、うそ!?」
「本当だ。 嘘偽りなくな。 なんなら博霊の巫女にでも誓おうか?」
「……結構です。 そんな緩いのに誓われても何の保証にもなりません」
それよりも、と阿求は困惑した様子で男に問う。
「どうして、この状況を今の今まで教えて下さらなかったのですか?」
「必要なかったからだ」
問いに対して、そんなことを言うまでもない、という態度を男は示した。本気でそう信じているのだろう。 たかが、里が時間停止した程度のことをわざわざ教える必要があるのか、と。
「必要ない? どうしてですか?」
繰り返すような問い。 阿求には、男の言葉が理解できなかった。少女の顔に、やや険のある表情を浮かべる。 何やら男に対して言いようのない不信感を改めて感じたからだ。
「一時的に時間という因果から切り離された状況にあるだけのこと。 それが、君に危険を及ぼすことは確実にないからだ」
「私に害がなくても里の皆に何かあったらどうするのです?」
「それも問題ない。 言っただろう? たかが、時間が止まっただけだと。 この空間も、直に解ける」
「……これが一時的なものだの、直に解けるだの、何故そうもわかるのですか? それに、この様な異常事態でその冷静さ」
まるでこの現象を引き起こした犯人のよう口ぶりです、と阿求は棘のある声で問い詰める。
同時に、椅子から腰を上げ、一歩下がった。その瞳には、男に対しての隠しきれない警戒心が浮かんでいる。今から思うと確かに怪しかったと阿求は思う。手品のように何処からか物を出したり、時間が止まる瞬間を近くしていたり、暴力的な魅惑を振りまいたりときりがない。もしかしてこの男が妖怪だろうか、という疑問が少女の中で浮かぶ。少女の疑問通り、この男は確かに、阿求に妖怪と思われても不思議ではない。
というのも、妖怪というのは総じて個性が強い。 神隠しの八雲紫、吸血鬼のレミリア・スカーレットなどが良い例だろう。胡散臭さだったり、カリスマだったりと、たかが数十年生きた人間には醸し出せないような個性がある。そういう個性の点から見て、男は非常に怪しかった。更に、先程、幽香自身が手加減したと言っていたが、彼はあの大妖怪の張り手に一切堪えた様子がなかった。
…………怪しい。
「そう、警戒した目で見てくれるな」
男は苦笑を滲ませ、言葉を続ける。相も変わらず、その態度は飄々としている。それが、この異常な状態の中では際立つ。
「確かに、この里周辺の時を止めたのは私だ」
「あなたが!?」
「だが、別に害意があったわけではない。 何か邪な思惑があるわけでもない。 ただ、君の……ん?」
言葉の途中で、明後日方向に首を向けた。 釣られて阿求も、そちらに目を向けるが何があるわけでもない。あるのは灰色の光景だけだ。特に何かがあるわけではない。再び、男に視線を戻す。
「話の途中ですまないが、どうやら怖い顔をしたお嬢さんがやってきたので、そろそろお暇させて貰うよ」
そう言い踵を返す。向かう先は、里の入り口だろう。
「ま、待って下さい!!」
「時間停止か? それなら、君があと瞬きを十回した時にはもう解除されているよ」
尚も、阿求が口を開こうとしたところ、一陣の強い風が吹き、「きゃっ」と反射的に目を粒ってしまった。
「え?」
目を開くと、男の姿が幻のように消えていた。彼が此処に存在した痕跡は今や、阿求の胸にあるお詫びにと渡された紙袋と、さらさらと砂のように宙に消えていく椅子と湯のみだけであった。少女は呆然とその光景を眺めて、次いで、胸元の紙袋を見るがこちらは消える様子は無さそうだ。
…………何者だったんでしょうか? 態度からは悪人ではないと思うのですが、どうも得体が知れません。 まるで、どこかの妖怪そっくり。
∫ ∫ ∫
男が去って幾許も無く、思考に耽っていた阿求の隣に人の気配が生じる。阿求がそちらに視線を向けると、とある女性が興味深そうに彼女を見つめていた。
「……周辺一帯が時間が停止しているようですが、此処で一体何があったのですか?」
短いスカートから覗く脚が魅力的で、【時間を操る程度の能力】を持つ紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だ。
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追い詰めて肥貯めに打ち込んでやる……ACFAのイルビスさんが好きだからやってみた。
【今回の主要登場人物】
稗田・阿求(ひえだ・あきゅう)
風見・幽香(かざみ・ゆうか)
十六夜・咲夜(いざよい・さくや)