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[12082] ぼくのかんがえたそれなりにかっこいいしゅじんこう(封神演義 現実→憑依 TS)
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/02 00:01
チラシの裏から来ました。

ご存知の方は構いませんが、初めての方はお読み下さい。

・この作品は封神演義の二次創作です。

・ジャンルは憑依物で、原作キャラへ憑依します。

・憑依ですが、原作知識は持っていません。

・中身が別人である以上、原作キャラとは名前が同じだけ、ローマ字キャラとよく言われる存在です。

・TSしているのは主人公ではなく原作キャラです。

・キャラ崩壊が時折あるかもしれません。

・オリキャラ、オリジナル設定、オリジナル宝貝が出ます。

タイトルから想像がつくかもしれませんが、このお話はイタイ話です。
ヒロインといちゃついたり、原作キャラ相手に無双したりといった、そんな話です。
また、主人公に殺意・嫉妬・苛立ちなどの感情が湧き起こる事がありますが、それはデフォです。
ご了承下さい。

もしこれでも読んでみたいと思って頂けたなら、どうか覚悟を決めた上でご覧下さい。



追記

現在、闇月夜の宴様が連載されている『太公望が幻想入りしたようです』にて、この話の主人公がネタとして使われています。
よろしければそちらもご覧下さい。



[12082] 第一話 彼の名は……
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/04/07 21:43

 





 気が付いたら走っていた。
 否、正確には走らされていたというべきだろう。
 俺の手は誰かの手を掴み、誰かは俺の手をしっかりと握って走っていた。
 俺はそれに引かれるがまま、ただ追従していたに過ぎなかった。
 訳が分からなかった。
 俺は確か、疲れて眠っていたはずなのだ。
 それなのに、気が付いたらこんな森の中に居て、誰かに手を引かれて走らされていたのだから。
 夢なのかと思った。
 だが、夢のようには感じなかった。
 現に、身体に感じるこの不自由な程の重力に、俺の身体は悲鳴を上げていたから。
 そして遂に、木の根に足を躓かせて俺は倒れ込む。

「××!? 急いで!!」

 手を引く誰かから声が掛けられる。
 同時に、俺を引き揚げるように、引く手に更に力が籠った。
 俺は顔を上げる。
 もう走れない。
 そう愚痴ろうとした。
 顔を上げた俺の前には、ボロボロの着物のような服を纏った女がいた。
 そこで初めて、俺は俺の手を引いていた人物が女だった事に気が付いた。
 かさついてあかぎれだらけの指。
 俺を問答無用で引っ張って行く強引さ。
 俺の知っている身近にいるような女とは、まったくもって対照的だった。

「××! 何をしているの! 速く逃げないと――」

 ××というのは、俺の事を言っているのだろうか?
 だが、俺の名前はそんなんじゃない。
 そう返そうとした時……、
 女の腹から、鈍い色をした尖ったモノが突き出て来た。
 女は呻き声を上げて、その場に跪く。
 女の後ろからは、鎧を着込んだ兵士の格好をした男がいた。 

「手間を掛けさせるな」

 男は低い声で言うと、その手に持つ、女を貫いていた槍を一気に引きぬく。
 同時に、槍で栓がされていた女の腹から、赤い液体が飛び散る。
 それが俺の顔に降りかかる。

「え……?」

 赤い液体が頬を伝い、俺の口の中に入る。
 錆びた鉄の味がした。
 そこで初めて、俺はその赤い液体が血なのだと気付く。
 倒れ伏して、ビクビクと痙攣する女からは、尚も血が留まる事を知らずに流れ出して行く。
 それが地面に染み込み、地面を紅く染めて行く。

「え? 死ん、だ……?」

 男が女を殺したのだと言う事は明白だった。
 だが、人が殺される所を見る機会など、そうそうある訳が無い。
 俺はその衝撃に固まる。
 しかし、ずっと固まったままでいる事は出来なかった。

「子供か……」

 男が女の陰に隠れていた俺を見つける。

「これもあのお方の為だ。おとなしく死ね」

 そう言って、男は槍を振り上げる。

「ひっ……」

 男の何も映していないようなその目を見上げながら、俺は声を漏らす。
 このままでは殺されてしまうと気付いたからだった。

「あ……あああ……」

 足に生温かい感触が伝わる。
 恐怖で漏らしてしまったという事に、俺は気付けなかった。

「嫌だ……死にたくない……」

 ズルズルと後ずさる俺に向けて、鈍い輝きが迫る。
 すぐさまこんな場所からは逃げ出したい。
 だが、俺の身体は鉛のように重く、動かそうとするだけで精一杯だった。
 その時、倒れていた女が起き上がり、男の足にしがみ付いた。

「お前……! 殺したはずじゃ……!?」

 男の目に、初めて動揺が走る。
 女はそんな事には応えず、ただ必死にしがみ付いていた。
 ブツブツと同じ言葉を繰り返しながら。

「逃げて……逃げて……逃げて……」

 逃げて、とまるで壊れたおもちゃのように、女は同じ言葉を繰り返す。
 それは俺に呼び掛けているのだと分かった。

「ええいっ! 放せっ!!」

 男は俺に向けていた槍の穂先の向きを変え、女に向けて突き刺した。
 槍は女の腿に突き立った。
 だが、女は尚も放そうとしない。

「逃げてっ! ××っ!!」

 悲鳴のようにかん高い声で女は叫ぶ。

「うわ……ああ……わあああああっ!!」

 その声に弾かれたように、俺は後ろに向けて走り出した。
 情けなく悲鳴を上げて俺は走った。
 どこまでも。
 何処までも。
 ただひたすらに走った。
 ここがいったいどこなのか、そんな事など、既に頭に無かった。
 自分がどうしてこんなところにいるのかも分からなかった。
 でもそんな事はどうでも良かった。
 ただただ逃げ出したかった。
 あの場所から。
 そして何より、何も映していないような空虚なあの目から。



 限界まで走り続けた後、俺の視界は真っ暗になった。






 目を開ける。

「夢……か……」

 地面に寝転がっていた俺は、今見た光景を夢だと判断する。
 何故なら、それは実際昔に起きた事だからだ。
 忘れたくとも忘れられない悪夢。
 俺がこの世界に来た初めての日。
 この身体に取り憑いた亡霊になった日。

「よっこらせ、っと……」

 軽く身体に力を込めて、一気に飛び起きる。
 この程度の事でさえ昔の俺は出来なかったのだ、と懐かしい気持ちになった。
 道士となったこの身では、肉体的には姿は変わらない。
 だがその中身は、最初の頃とは別物と言って良かった。
 もはやこの身体になる前の時間よりも、長い年月を経てしまった。
 それが、小柄なこの外見からは分からないものの、確実に俺を老いさせている。
 昔は起き上がる時に、よっこらせ、などと掛け声を入れる事は無かったのだから。

「んん……!」

 身体を伸ばして、ラジオ体操を始める。
 しばらくゆっくりと身体をほぐしていると、段々と眠っていた頭が冴えて来た。
 体操を終えると、俺は目の前に高くそびえる岩壁に目をやる。

「さて、今日も修行を始めるか……」

 手に持つ武器を見遣る。
 宝貝ぱおぺえと呼ばれる、仙人や道士の力を増幅する道具だ。
 今では失われてしまった仙術などを再現をする事が出来る。
 手を振りかぶり、宝貝を発動させる。

「疾っ!」

 宝貝の力によって、岩壁にビシッと罅が入る。
 そのまま、俺は宝貝を使い続ける。
 そうしていると、あの時の事の続きが思い浮かんで来た。






 次に目を覚ました時、俺は木のウロの中に居た。
 辺りに音は無く、逃げきれた事に安堵する。
 同時に、身体がガタガタと震える。
 両腕で自らの身体を抱き、その場に縮こまった。
 夢であって欲しいと思った。
 だが、夢ではなかった。
 身体に染みつき、乾いて赤黒くなった女の血は、全身にこびり付いている。
 何かの間違いで、自分はまだ夢の中にいるんだと思った。
 だが、夢ではないが故に、そうしていても何も変わらなかった。
 その時、耳にサラサラと流れる水の音が聞こえた。
 その音に喉の渇きを覚える。 
 ここから出たくない。
 そんな思いで縮こまる。
 だが、ずっとこうしている訳にも行かなかった。
 一度気付いてしまえば、喉の渇きは抑えられなかった。
 そして、ビクビクと震えながらも、木のウロから出た。
 辺りを必要以上に警戒しながら、音の方向へと走り出した。

 やがて、聞こえて来た音の正体に辿り着く。
 そこには、川幅が五メートルもない、小さな小川があった。
 川の傍に跪き、コップなど無いので両手で水を掬う。
 手の端から零れ落ちる水など気にも留めず、それをゴクゴクと音を立てて飲み干す。
 飲み終えると、再び手を川に浸して水を掬った。
 それを飲み干す作業を何度か繰り返すと、最後に水で顔を洗った。
 パリパリと乾いた血が、水によって洗い流されていく。
 そして、小川の水面を見て、その時初めて気付いた。

「これ……誰だ……?」

 そこには、小柄な少年の姿が映っていた。
 俺の知っている自分の顔とは、似ても似つかない。
 口を開いた拍子に、すきっ歯な事が分かった。
 慌てて自分の身体を見下ろす。
 血で汚れた着物のような服を着ていた。
 だが、問題はそこでは無い。

「小さい……」

 記憶にあるよりも、ずっとずっと小さな身体だった。
 
「なんだよこれ……」

 手も足も短くて、子供と言って良かった。
 それが自分の身体だと言う事に納得がいかなかった。
 自分がこの、誰とも知れない少年の身体に取り憑いてしまったのだと、何故か理解出来たから。

「いったい何なんだよっ!!」

 傍にあった石を拾って立ち上がり、苛立ちに任せて、力の限りを込めて川に叩きつけた。
 思った以上の水飛沫が上がり、跳ねた水が目に入った事で思わず目を閉じる。
 ゆっくりと目を開けると、そこには信じられないモノがいた。

「っ!? 誰だっ!?」

 視線の先には、長いひげを蓄えた小柄な老人がいた。
 どこから現れたのか、と言う事など分からなかった。
 ただ、一瞬目を放した隙に、そこに老人は出現したのだ。

「ありえねぇ……」

 俺は目を疑った。

「人が……水の上に立ってる……」

 老人は水の上に立っていた。
 老人は俺の方を向きながら、言葉を発した。

「これは、殷の皇后の仕業じゃ」

「殷の……皇后……?」

 聞き返した俺に、老人は頷いた。

「皇后は元々仙人界にいた仙女じゃ。
 不老不死の肉体と、傾国の美貌を持っておる。
 数百年前に人間界に降りて以来、ずっと王宮に住みついておる。
 殷王朝の前の夏王朝の時代から、名を変え、姿を変えての。
 歴代の王達をその美貌でたぶらかし、贅沢三昧を続けておる。
 今回のも、その戯れに過ぎないのじゃろう」

「そんなの、出来る訳が無い……」

 俺は否定した。
 そんな突拍子もない事を、そう易々と信用出来る訳が無い。
 老人を睨みつける。
 だが老人の目は隠れていて、その真意を窺い知る事は出来なかった。
 老人は俺に声を掛けて来る。

「小僧、仙人にならんか?」

「は?」

 俺のその驚き具合に満足したのか、老人は口元を歪める。
 笑ったのだ。
 俺の戸惑いなど気にも留めず、老人は言葉を続ける。

「おぬしは仙人になるために必要な仙人骨を持っておる。
 その才能を伸ばしてみたいとは思わんか?」

 老人の言葉に、俺は考え込んだ。
 いきなり現れた爺。
 おまけに、仙人にならないかとカルトじみた事を言っている。
 普通なら一笑に付す所だ。
 だが、この爺が水の上に立つとかいう奇妙な事をやっているのも事実。
 爺に疑惑の視線を向けながら、俺は尋ねた。

「……仙人になれば、俺の知りたい事も分かるのか?」

 なんで俺はこんな所に居るのか?
 なんで俺はこの少年の身体に取り憑いてしまったのか?
 それが知りたい。
 なんで普通に家で寝ていたはずの俺が、こんな訳の分からない所で爺とお話しなければいけないのか。
 爺はニイッと笑う。

「それは、おぬし次第じゃな」

「俺次第だって?」

 爺は頷いた。

「儂はただ、才能のある者をスカウトに来ているだけじゃ。
 スカウトに応じた者が、何を知り、どんな力を手にするか。
 それは儂にも分からん。
 じゃが、おぬしがそう望むなら、いずれはその知りたい事とやらも分かるかもしれんぞ?」

 爺がスカウトという横文字を使う事に、もの凄い違和感を感じた。
 だがこの爺は、俺の知らない何かを知っていそうな気配を感じた。
 だから、頷いた。







「まさか、スカウトだとか言っていた爺が、崑崙であんなに偉い人だとは思わなかったな」

 疲れて地面に座り込みながら、師匠の姿を思い出す。
 偉い人が自ら来るとも思えなかった。
 それに、老人の見た目でスカウトをしているのだ。
 うだつの上がらない中間管理職だと思っていた。
 その中間管理職の疑いのある爺が、あそこまで偉い人だとは思わなかったのだ。

 爺の言葉に応じ、仙人界に行く事になった。
 だが仙人界に連れて行かれる前に、あの女の事が気になった。
 俺に逃げろと言ったあの女性。
 あれだけの出血だったのだから、もう死んでいるだろう。
 そう分かっていた。
 しかし、それならせめて、墓だけでも立ててやりたかった。
 爺を連れて、元の場所に戻った時、女性の亡骸は未だそこにあった。
 辺りに漂う濃厚な血の香りに包まれて、思わず吐いた。
 水しか詰めていない腹からは、ほとんど何も出て来なかった。
 その後もえずきながらも、必死に穴を掘って埋めた。
 最後の土を掛ける時、初めてその女性が、この少年の身体の母親なのだと気付いた。
 ××というのは、この少年の名前なのだと気付いた。
 また吐いた。


 仙人界に来てからも、驚くような事ばかりだった。
 話を聞く限りでは、この世界はまだ古代中国といってもいいくらいだった。
 しかし、彼らの使う宝貝とやらは、俺の知っている現代でも解析不可能だと分かる代物だった。
 その宝貝も、必死の修行で俺も手に入れる事は出来た。
 良いおもちゃを与えられた時のように喜んだ。
 中々に奥が深いのだ。 
 俺が貰った宝貝は、単純な事しか出来ない。
 そう思われていた。
 だが、意思によって発動する宝貝は、俺の意のままに動いた。

「そう、例えばこんな風に」

 手の宝貝を発動させる。
 一瞬の後、手の中には砂で固められた団子があった。
 こんな風に、大気中に散らばった塵や砂さえも集める事が出来る。
 まあ、これは空気を清めるくらいの遊びでしかないけれど。
 こんな便利な事も出来る。
 だがこれは、ただの武器だ。
 道士となっても、それからもう六十年も生きていても、俺の知りたい事は未だ分からないままだ。
 むしゃくしゃして、手の中に作った砂団子を放り投げる。

「疲れたから寝よ。特にやることも無いし」

 そして寝転がった俺の後ろから、清流のように澄んだ声が聞こえた。

「相変わらずだな」

 その声に、俺は寝転がったまま、視線を上へ向ける。
 そこには、身の周りに幾つもの水球を漂わせ、艶のある長い黒髪をそよ風にさらした美女が立っていた。

「公主か」

「久しいな」

 俺の言葉に、竜吉公主りゅうきつこうしゅは口角を僅かに上げて微笑を浮かべた。







「そうだったかな?」

 道士になってからというもの、時間の流れという物が曖昧になった気がすると彼は首を傾げる。
 ボケたのかもしれないと思ったが、まだ百年も生きていない身だ。
 それはないと首を振り、彼は竜吉公主に尋ねた。

「まあいいや。それで? どうしてここにいるんだ?」

「友に会いに来た、では理由にはならんか?」

 竜吉公主はそんなことを言った。
 気恥かしくなったのか、彼は頬をポリポリと掻く。

「そう言ってくれるのは嬉しいけどな。でも、それで体調を崩したら駄目だろう?」

 竜吉公主は純潔の仙女であり、仙人界の清浄な空気の中でしか生きられない。
 そのため、いつもは浄室に籠りっ放しなのだ。
 それなのに、そうホイホイと外に出たら寿命が縮むのは明白だ。

「呼んでくれれば、こっちから出向くさ」

 そういう彼に、竜吉公主は首を横に振った。

「会いに行きたいと思ったのは私の方だ。ならば、私が出向くのが筋だろう?」

「普通はそうだけどな。でも、それで公主の寿命を縮めたりしたら、俺が公主の側近達に殺されるじゃないか」

 そこで彼は、ふと気付いた。
 竜吉公主はたった一人だったのだ。

「なあ、いつも一緒にいる碧雲へきうん赤雲せきうんはどうしたんだ?」

 外に出る時には、いつも一緒に居るはずの彼女の弟子達。
 緊急事態でも無いというのに外に出ようとした事を、あの二人が承諾するとも思えない。
 彼が短い首を傾げるのを見て、竜吉公主はクスリと笑った。

「弟子達は撒いて来た。せっかくの友との再会に、無粋な邪魔をされたくないのでな」

「それはそれは……お茶目な事で……」

「そういってくれるな。長く生きていれば、私とて偶には一人で出かけたくもなるさ」

 撒かれた弟子達は不運と言うべきだろうか。
 今頃あちこちを探しまわっているに違いない。
 崑崙こんろん最強とも言われる水の仙女がこんなのでいいんだろうか、と彼は頭を抱えた。
 しかし、トップの元始天尊げんしてんそんが変な糞爺と呼ばれている崑崙である。
 竜吉公主のこの行動も、まだマシな方だろう。
 彼より長く生きていても、多少お転婆なだけなのだから。
 いや、竜吉公主の言う通り、長く生きているからこそ、刺激を求めて奇行が増えるという事なのだろうか。
 魂魄さえ生きていれば、仙人や道士は再び再生出来る。
 そんな仙道たちは、再生出来るからこそ、生死の境が曖昧になる事もあるのかもしれない。
 だから、刺激を求める彼らが変人と呼ばれ、それが偉い人達に多いのも納得出来る事だ。

「でも生憎だな。俺はこれから寝るから、公主の話し相手にはなれそうもない」

 とても眠いのだという事をアピールするためか、彼は大きくあくびをした。
 その様子を見下ろしながら竜吉公主は答える。

「なに、それならそれでいいさ。元々暇つぶしだ。おぬしが眠れば、またどこかへ行けばいい」

「さっきは俺に会いに来たと言っていたくせに……」

 竜吉公主の言葉に、彼は苦笑いをする。
 見た目からして子供の容姿なのだ。
 その姿のまま固定された自分に、誰かが、ましてや美人の竜吉公主が惚れるとは思ってはいない。
 だが、彼が僅かに哀しい思いをしたのは事実だった。

「まあいいけどな。それじゃ、おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 竜吉公主の言葉を皮切りに、彼の口から寝息が小さく聞こえて来た。
 眠りに落ちるまでが早過ぎる、と竜吉公主は思った。
 余程疲れていたのか、竜吉公主が呼び掛けても、返って来るのは寝息ばかり。
 竜吉公主は小さく溜め息を吐く。

「やれやれ……」

 竜吉公主はしゃがみ込み、左手で髪をかきあげながら、眠っている彼の頬に右手を当てる。

「こんな美女が傍にいるというのに、呑気に眠りこけられるのは、おぬしか太公望たいこうぼうくらいだろうよ」

 頬を引っ張ると、餅のように伸びた。

「こんな無防備な童が、僅か三十年ほどで仙人に匹敵するほどの能力を手に入れたとは思えんな。
 元始天尊殿や懼留孫くりゅうそん殿のような者では無く、道行どうこうの所で世話になって居た方が、あるいは良かったのかもしれぬな。
 名前の響きも似てるしの」

 面白かったのか、彼女は更に引っ張る。
 だが、それでも彼は眠ったままだ。

「これだけされても起きないとは……。信用されているのか、私は?」

 僅かの呆れと、微笑ましさを同居させた笑みで、彼女は彼を見つめる。
 その時、一際強い風が吹いた。
 竜吉公主は顔を上げると、風の吹いてきた方向を見遣る。

「……嫌な風だ。なにか、とてつもなく大きなうねりのようなモノを感じる」

 竜吉公主は、風に髪をなびかせながら、厳しい目をしていた。

「元始天尊殿が、何やら大がかりなモノを作っていると言っていたな。
 あのお方の考えはどうも分からんが、もしかすると何か関係があるのやもしれぬ。
 だとすると、私達も巻き込まれるかもしれないという事か」

 竜吉公主は、彼女の手によって顔が変形している彼を見遣る。

「『何か』が始まる。おぬしもそうは思わんか?」

 未だ起きない童に、竜吉公主は尋ねた。





「のう、土行孫どこうそん?」




 返事は、寝息で返された。





あとがき

やっちまったZE☆
土行孫が竜吉公主と仲良くなりたがっていたので、何となく書いてみたくなった。
まあ、憑依キャラだから外側だけだけど。
太公望に憑依だと騙された人はいたでしょうか?
でもこの主人公、DOKOSONがいくら強くなっても、スーパー宝貝持ちには勝てないんですよね。
あと竜吉公主と仲良くなり過ぎると、それだけ燃燈に殺される確率も上がりそうなんですよね。
所詮は土行孫ですから。
どんなにがんばっても、賑やかしぐらいにしかなれないんでしょうねぇ……。



[12082] 第二話 土行孫、竜吉公主に膝枕をされる。
Name: 軟膏◆05248410 ID:27935c7d
Date: 2009/09/24 20:42


 ※土行孫が主人公という事に耐えられない、土行孫がラブコメやるなんて嫌だという方は読まない方がいいです。






「かあ……さん……?」

 土行孫は夢を見ていた。
 もう会えないであろう、彼の本当の母と会う夢だ。
 仙道に通ずる者として固定されてしまった彼は、もう元に戻ることは出来ない。
 それが今では分かるのだ。

 彼の魂と、××という名の少年の身体。
 その二つが合わさって、今の土行孫という存在がある。
 今の彼の魂が無くなれば、後に残るのは××という名の少年の抜け殻のみ。
 今の彼の身体が無くなれば、後に残るのはもう誰も呼んではくれない名を持った一人の亡霊のみ。
 どちらが欠けても、今の彼はありえないのだ。

 そんな彼だが、分かっていたとしても、未練は付き纏うもの。
 いつも気になっていたのだ。
 なぜ自分はこんな所にいるのかを。
 自分がこうなった後は、前世とも呼べるあの世界が、一体どうなってしまったのかを。
 そんな彼が、夢の中とはいえ、二度と会えないと思っていた母と再会できたのだ。
 もう何十年にも渡るこちらでの生活で、既に顔も名前さえも忘れ去ってしまっていた。
 だがそれでも、どこかでは覚えていたらしい。
 母に会い、言葉を交わすことが出来た彼は幸せだった。

 しかし、そんな時間も長くは続かない。
 後ろから引っ張られるような、全身を暖かな膜で覆われるような感覚を覚えた。
 起きるんだな、と彼は気付いた。
 もっとここにいたい。
 まだまだ、話し足りないのだ。
 自分がこちらに来てから、どんな暮らしを送っていたのかを。

 だが、時間は待ってはくれない。
 だから、彼は最後に一言だけ、母に伝えた。

「俺は大丈夫だから……」

 だから、心配しないでくれ。
 最後まで伝えることは叶わず、彼の意識は現在へと浮上していった。






 土行孫はゆっくりと目を開ける。
 むくりと起き上がると、大きなあくびをした。
 寝起きでしょぼしょぼとする目を、長い爪の付いた手で器用に擦る。
 土行孫は未だ焦点の合わない目と、上手く回らない頭でぼんやりとしたままだった。
 今起きるまで、彼は後頭部に柔らかい不思議な感触を感じていた。
 その事に、寝起きの頭ながらも疑問を抱く。
 自分はゴツゴツと荒れた地面に寝そべっていたはずなのだ。
 しかし深く考えるような事をせず、柔らかい枕にポフリと再び頭を預ける。
 二度寝をしようと試みたのだ。
 今一度眠れば、再び母に会う事が出来ると考えたのかもしれない。
 西日に目を焼かれぬよう、手を翳そうとする。
 しかし、それは無用となった。

「なんじゃ、また寝るつもりか?」

 土行孫の顔を覗き込んだ竜吉公主が、その光を遮ったからだ。
 同時に、竜吉公主の長い髪が一房垂れ下がり、パサリと土行孫の顔に掛かる。
 逆さまの竜吉公主に、顔がくっつきそうな程の近距離から見つめられて、土行孫は目を見開く。

「うおわぁあっ!?」

 慌ててガバッと身を起こし、その場から跳び退った。
 両者の顔がぶつからなかったのは奇跡だろう。
 二、三歩離れた所で、土行孫は竜吉公主に向き直る。
 既に眠気など吹き飛んでしまった。

「な、な、なんで……」

 焦りと動揺で土行孫の顔は引きつり、口はパクパクと動くばかりで上手く言葉が出てこない。
 その様を見ながら、竜吉公主は笑みを浮かべる。

「その顔、まるで鯉みたいじゃな」

「そんな事はどうでも良い! 何やってんだ公主!?」

 自分の顔の事より、竜吉公主の行動の方が大問題である。

「ん? 膝枕」

「膝枕って、どうして……」

 竜吉公主は正座をしている。
 それと先ほどの感触と自分の体勢から、何をしていたのかくらい分かる。
 だが何故そんな事をしたのか分からない。

「寝苦しそうだったのでな。地面よりはマシかと思ったのじゃが……」

 竜吉公主は恥ずかしげも無く答える。

「駄目だったかの?」

「いや、駄目というわけじゃ……」

 土行孫は答えに窮する。
 立っている土行孫と、正座している竜吉公主では、土行孫の方が僅かに目線が高い。
 そのため土行孫は、心持ち上目遣いになった状態の竜吉公主に見つめられる事になる。
 駄目だとは言い難い。
 いくら成長が止まった子供の身体とはいえ、彼も男なのだ。
 おまけに相手は、仙界一とも謳われる美女。
 何十年も生きていて老成したとは思うものの、そんな美女に見つめられて何も感じないほど枯れている訳でもない。

「ならば良いではないか」

「いや、公主が疲れるだろう?」

「私は別に疲れてなどおらぬさ。それに、中々面白いものも見られた」

「面白いもの?」

 土行孫は首を傾げる。
 彼は寝ていただけだった。
 何も面白いものなど見ていない。
 そのとき土行孫は、ここには暇つぶしで来たと竜吉公主が言っていたのを思い出した。

「そういえば公主、たしか暇つぶしでここに来たんだったな?」

「そんな事も言ったのう」

 竜吉公主は頷く。

「俺が寝たら、どこかに行くとも言っていたな?」

「そうであったな」

 竜吉公主は再び頷く。

「じゃあどうして、まだここに居るんだ?」

「おぬしの寝顔を見るため、では理由にはならんかの?」

「……は?」

 土行孫は目を丸くする。
 竜吉公主は対称的に目を細める。

「おぬしの顔は見てて飽きぬ。
 その上、寝苦しそうにしておったおぬしを膝枕すれば、途端に赤子のような笑みを浮かべおった。
 それを見ながら、有るかどうか分からぬ面白いものを探しに行くなど面倒。
 否、出来るものか」

「いや、そんなに力説されても困るんだが……」

 土行孫は引いている。
 こんな性格だったかと竜吉公主に疑問を抱く。
 真顔で言うものだから、冗談なのかどうか判別がつかないのだ。

「まあ、友とのコミュニケーションというやつじゃ。気にせずともよい」

「膝枕は友人にする範囲を大きく逸脱している気がするんだが……」

 竜吉公主主の言葉に土行孫は呆れる。
 箱入りのせいだろうか、竜吉公主はどうもそういう事に疎い気がする。

「あ~もうっ!」

 土行孫がガリガリと頭を掻き毟る。

「……ん?」

 そこで、おかしな事に気付いた。
 いつもよりも髪に抵抗が無いのだ。

「おお、そうそう――」

 竜吉公主が思い出したとばかりにポンと手を叩く。

「おぬし、もう少し髪の手入れをした方が良い。そのままではいずれハゲるぞ?」

「は? 髪?」

 道士になる前から長く、ずっと放ったらかしにしていた髪を見る。
 そして目を見開いた。

「なんじゃこりゃあっ!?」

 心の底から叫んだ。
 もう何十年と出していなかった大声を出した気がする。



 ボサボサだった土行孫の髪が、サラサラのストレートヘアーになっていた。



 何がなんだか分からないといった様子で、土行孫は髪を撫でる。

「俺の髪が、キューティクルのきいた艶のある髪に……」

 呆然とする土行孫。
 その土行孫の耳に、押し殺したような笑いが聞こえてきた。

「……く、くくくくく……」

 ハッとして土行孫がその音の元へと顔を向ける。
 そこには、袖で口元を隠した竜吉公主が居た。
 だが、いくら袖を口元に当てていようと、漏れてくる笑い声は消せていない。

「くくくく……あははははっ!」

 遂には袖で口元を隠すのもやめ、竜吉公主は大笑いをする。
 まるで子供のように、竜吉公主は腹を抱えて笑っている。

「公主! いったい何をした!」

 サラサラヘアーの土行孫が竜吉公主に問いただす。
 笑いすぎて涙まで出てきたのか、竜吉公主は目尻に溜まった水とを、指でそっと拭う。

「ふふふっ……いや、寝ているおぬしを見るのは楽しかったが、ただ見ているだけというのも芸が無いと思っての。
 その時、おぬしの髪があんまりにも傷んでいる事に気付いて……」

「それで、俺の髪を洗ったと?」

「そうじゃ」

 竜吉公主は頷いた。
 水の仙女である竜吉公主は、静かな攻撃を得意としている。
 だが、人の髪をサラサラになるまで洗髪して、尚それを相手に気付かせない事が出来るなんて土行孫は知らなかった。
 竜吉公主は続ける。

「だが予想外だった。
 少し手入れをしてやろうと思っただけなのだが、まさかそこまでサラサラになるとは……」 

 これほどの結果は、竜吉公主にも想定外だったらしい。

「そこまでされて、どうして起きなかったんだ俺は……」

 崩れ落ちる土行孫。
 厳しく鍛えていたはずなのだ。
 そう、例え殺気を向けられても、飛び起きる事が出来るくらいには。
 だが現実として、土行孫は一度も目を覚まさないまま、サラサラヘアーにされたのだ。
 レベルの差を思い知らされたというべきか。
 うな垂れている土行孫のサラサラの髪を撫でながら、竜吉公主は言った。

「私の膝の上が余程気持ち良かったのではないか?」

「……」

 気持ちが良かったのは認めるが、土行孫には釈然としない思いである。

「でも良かったではないか」

 竜吉公主のその言葉に、土行孫は顔を上げる。
 いったい何が良かったというのか。
 自分の修行不足を突きつけられ、おまけに髪もサラサラになったというのに。
 そんな土行孫の顔を見ながら、竜吉公主は右手の袖で口元を覆う。
 だが、その目に笑みが浮かんでいるのは、どうしようもなく隠す事が出来ていなかった。
 竜吉公主は左手で自らの髪を一房摘み上げると、土行孫の髪の上にそれを落とした。
 パサリと落ちた烏の濡れ羽色の髪は、土行孫の漆黒の髪と混ざり合い、やがてどちらのものか分からなくなった。

「おそろいだぞ?」

「うるせ――っ!!!」

 土行孫の叫びが、誰もいない空へと響き渡った。





あとがき

なんだろう、この胸の奥から湧き上がってくる想い。
もしかしてこれが……殺意?

原作との違いを出すために、うちのDOKOUSONにはサラサラのストレートヘアーになってもらいました。

正直やらなきゃよかった、と書き終わった後で今更ながらに後悔している作者です。
自分で書いておきながら、ここまでキャラが羨ましいと思ったのは初めてです。
どうして俺は竜吉公主をヒロインに選んでしまったのか。
書かなければこんな思いせずに済んだのに……。
マジで凹む。
ああ、でもこのまま続くんだろうな。
ネタが思い浮かんだら書きますけど、これ以上凹まないためにも、あまり長く続けない方が良いかもしれないです。





[12082] 第三話 土行孫、竜吉公主と真面目な話をする。
Name: 軟膏◆05248410 ID:27935c7d
Date: 2010/04/07 21:52




 土行孫がサラサラヘアーにされた後、そこにはひとしきり笑った竜吉公主と、憔悴しきった表情の土行孫がいた。

「はぁ……」

 土行孫は深い溜め息を吐く。
 ジロッと竜吉公主を半眼で睨む。

「なあ、公主」

「ん? なんじゃ?」

「もう十分楽しんだだろ? そろそろ帰ったらどうだ?」

「おお、そうであったな」

 竜吉公主はポンと手を叩く。
 笑い過ぎて忘れていたらしい。
 竜吉公主はすっと立ち上がる。

「ここらは浄室に近い程に空気が澄んでおるからな。つい時間を忘れてしまう」

「まあ、そうだな」

 既に日も傾きかけている。
 どれほどの間会話していたのだろうか。
 昔ほど一分一秒と時間を気にしなくなった土行孫は、一日の感覚が曖昧なのだ。
 その時、一際強い風が吹いた。
 その風が、竜吉公主と土行孫のサラサラの髪をなびかせる。

「そういえば……」

 竜吉公主が髪を手で押さえながら、思い出したように喋りだす。

「元始天尊殿が色々と動いておるようじゃが、おぬしは何か知らぬか?」

「元始天尊様が?」

 土行孫が聞き返し、竜吉公主は頷く。

「うむ。それに十二仙も、その何かに一枚噛んでいる気配がある。
 懼留孫殿は何か言ってはおらなんだか?
 そうでなくとも、あちらこちらに顔の広いおぬしだ。
 浄室に篭もりっ放しの私より、おぬしの方が詳しいであろ?」

「そういえば最近、師匠達が忙しそうにしていたな……」

 土行孫は師の様子を思い出す。
 いつもは飛雲洞ひうんどうに篭もり、悠然としている師の懼留孫も、ここ最近は出かけてばかりだ。
 そのため稽古をつけてもらう事が出来ず、こうして自主練習をしていたのだが。

「おそらくそれじゃろう。何か知らぬか?」

「う~ん……?」

 土行孫は頭をコツコツと叩き、元始天尊達が何をしているのかを思い出そうとする。

「たしか聞いたはずなんだが……」

 すぐに出てこないのは、あまり真面目に聞いていなかったからだ。
 元始天尊がまた戯れに変な事をして、十二仙達が嫌々ながら付き合わされているのだと思っていたからだ。
 下っ端の土行孫にまでそう思われているという所に、元始天尊の普段の行いがよく表れているというものだ。

「……ああそうだ、思い出した」

 土行孫はコツコツと頭を叩き続け、やっと相応しい答えを見つけ出す。

「たしか師匠は、封神ほうしん計画とか言っていたな」

「封神計画?」

 小首を傾げる竜吉公主に、土行孫は説明する。

「たしか……人間界で悪さをしている妖怪仙人たちを倒す計画だったはずだ」

「悪さをしている妖怪仙人……殷の皇后か」

「今は妲己だっきと名乗っていたな」

 土行孫の身体の母親を殺し、村を焼いたのはその妲己の仕業だ。
 尤も、当時は別の名を騙っていたが。
 竜吉公主の口からその存在が語られる辺り、土行孫の知る以上の悪行を重ねているのだろう。

「しかし、殺生は禁じられておろう?」

「殺生じゃなくて封印だ。
 元始天尊様が作った場の中で、大人しくしてもらうものだそうだ。
 師匠からの又聞きだから、詳しい事は分からないけどな」

 今までにも妲己を倒す話はあったはずだ。
 殷王朝の前の夏王朝の頃から、彼女は人間界に住み着き、悪さを働いていたのだから。
 元始天尊や十二仙が出張れば、いくら妲己が強力であろうと勝てるとは思えない。
 それなのに妲己はまだ生きている。
 今まで見逃し、この時期になってから動こうとする所に、土行孫は何か含む物を感じる。
 絶対裏に何かがあるのだ。
 それがいったい何なのかは分からない。
 個人としての元始天尊は信用している。
 だが、崑崙の教主としての元始天尊を信じて良いものかどうか、土行孫は迷う。
 組織のトップに立つ者は、時として残酷な命令をしなければならない。
 何も考えずに身を任せていると、切り捨てられるかもしれない。
 それが分かっているからこそ、土行孫は迷う。
 長く生きたとはいえ、千年以上を生きてきた彼らに対し、土行孫は未だ百年も生きていない。
 そんな若僧が、海千山千の元始天尊の考えなど見通せるはずが無い。

「公主は強いけど、身体が弱いからな。
 知らせると手伝いそうだから、あえて黙っていたんじゃないか?」

 計画に必要な場を作るには時間が掛かる。
 長時間外に出られない竜吉公主が、場を作るのを手伝おうとしても邪魔なだけだろう。

「なるほどの。たしかに私が居ても、皆に要らぬ心配を掛ける事にしかならぬな」

 竜吉公主もそれを察したらしい。
 そこで土行孫がある事に気付く。

「そういえば、誰がその役目を負う事になるのかは、もう決まっているらしい」

「何? そうなのか?」

「師匠が『元始天尊様は既に相応しい人材を育てておる』と言っていたからな。間違いないだろう」

「相応しい、か……」

 竜吉公主は僅かに考え込むと、一人の人物に行き着いた。

「そういえば元始天尊殿には、直弟子の太公望がいたのう」

「ああ、会った事は無いけど、そんな奴もいたな」

 自分とあまり年の変わらない、太公望という名前の道士が居た事を土行孫は思い出した。
 何度か会いに行ったものの、タイミングが悪いのか、会う事は出来なかった。
 その時元始天尊は、眠り薬で朦朧としていた。
 その元始天尊から聞き出した所、太公望は普賢真人ふげんしんじんと一緒に人間界に遊びに行っていたらしい。

「もしその師叔スースがそうだとして、本当に大丈夫なのか?」

 土行孫は不安になる。

「聞いた話だと、修行をサボって眠ってばかりみたいだな。
 それに、別に自慢する訳ではないけど、宝貝もまだ与えられていないんだろう?」

 仙術の多くが失伝してしまった今、天然道士でもないのに、宝貝も持たずに戦いに赴くなど自殺行為だ。
 師匠の弟弟子に当たるため、太公望を敬意を込めて師叔と呼んでいるが、土行孫にはその実力は分からない。
 聞いた話では、自分と大して変わらない年齢の、少年の見た目だという話だ。
 心配する土行孫に、竜吉公主が笑う。

「おそらく大丈夫であろう。あやつならばやり遂げるさ」

 竜吉公主のその言葉に、信頼の色が篭もっている事に土行孫は気付いた。

「会った事あるのか?」

「昔、一度だけな」

 竜吉公主は虚空を見つめる。
 太公望と会ったときの事を思い出しているのだろう。

「死んだ魚のような目をしておったが……」

「おい、本当に大丈夫なのか?」

 土行孫は竜吉公主にツッコミを入れる。
 心底不安になって来たのだ。
 竜吉公主は言葉を続ける。

「そんな目をしておったがの。太公望ならば何とかしてくれる、そういう期待を抱かせる人物だった」

「ふぅん……」

 納得がいかない表情で、土行孫は相槌を打つ。

「べた褒めだな、公主」

「……何じゃ? 嫉妬か?」

「いや……」

 ニヤリと笑う竜吉公主に、土行孫はそんなんじゃないと手を振る。
 竜吉公主は残念そうに肩をすくめる。

「つまらんのう」

「そう言うなよ。もう十分楽しんだろ? これ以上俺をいじめないでくれ」

 土行孫が溜め息混じりに説明する。

「一度しか会っていないのに、そこまで言えるのは凄いと思っただけだ」

「あやつは人を動かす術を心得ておる。
 蛙の子は蛙というべきかの。
 元始天尊殿の直弟子なだけあって、あやつもまた策士じゃ」

「腹黒いんだろうなぁ……」

 元始天尊が教えたのなら、それはそれはさぞかし狸であろう。
 土行孫は猪突猛進な性格をしている訳ではないが、二重三重に策を巡らせるタイプでもない。
 身体を動かしている方がまだマシと思っている。
 話術で相手を騙したりするのは、やはり性に合わないのだ。
 あまり会いたいという気になれない相手だ、と土行孫は判断した。
 そのとき、土行孫の耳に、聞き覚えのある声が小さく聞こえた。

「竜吉公主さまぁ~っ! どこですかぁ~っ! 竜吉公主さまああっ!!」

「あれは……赤雲か?」

 声の聞こえてきた方角へ顔を向けると、空を飛んでいる竜吉公主の弟子の姿が見えた。
 必死に声を張り上げて、竜吉公主の姿を探しているようだ。
 ここにいる竜吉公主を、どうやらまだ見つける事が出来ていないらしい。

「迎えが来たようじゃの。では、私はお暇するとしようか」

「その方がいい。赤雲のやつ、疲れて飛び方も危なっかしくなってるしな」

 今まで探し回っていたのだろう。
 赤雲の額には珠の汗が浮かび、ヘロヘロとした今にも落ちそうな飛行をしている。
 竜吉公主はふわりと浮かび上がる。

「ではな、土行孫。今度は遊びに来るといい。いつでも歓迎するぞ」

「ああ、分かった」

 土行孫は頷く。

「美味い茶菓子でも手土産に持って、今度は俺から会いに行くとするよ」

「それは楽しみじゃな」

 竜吉公主はフッと笑う。

「ではおぬしのために、膝の上も空けておくとしよう」

「それはいい」

 土行孫は首を横に振った。
 これ以上からかわれるのは沢山だ。
 竜吉公主は美人なのだ。
 その美しさ故に、彼女を神格化して見ている者もいる。
 会いに行くくらいならば、別に構わないだろう。
 だが、その彼女の自宅で膝枕などして、それを誰かに見られたとする。
 竜吉公主の側近は全て女性だ。
 その日のうちに崑崙全域へと、その噂は広まるだろう。
 もしそんな事になれば、土行孫が悪さをした道士として封印されてしまう。
 そんな事態は避けなければいけないのだ。

「じゃあまたな、公主」

「ああ、また……」

 そういって竜吉公主は飛び立って行った。
 後に残され、竜吉公主が見えなくなるまで見送った土行孫は、ベシャリとその場に座り込んだ。

「疲れた……」

 からかわれてばかりだった。
 やはり、こんな子供が、口で年上に敵うはずもないのだ。
 あんなに寝たというのに、土行孫の身体にはさらに疲労が溜まった気がした。

「もう一回寝るかな……」

 そう思った瞬間だった。

「……っ!?」

 ゾクリと背筋が粟立つのを感じた。
 慌てて跳び上がり、その場から離れる。
 宝貝『土竜爪どりゅうそう』を構えて、辺りを警戒する。
 だが、何も居ない。

「……いない?」

 今の殺気からは、とても強い執念のようなものが感じられた。

「何だったんだ、今の殺気は……?」

 警戒を解く。
 もう先ほど感じた殺気の存在は感じられない。
 だが、とても特徴的な殺気だった。
 まるで燃え盛る炎のような、そんな熱の篭もった殺気だった。

「……帰るか……」

 再び殺気が向けられるのではないかとビクビクしながら、土行孫はすごすごと自分が住んでいる飛雲洞まで歩いていった。





あとがき

土行孫、シスコンにロックオンされたみたいです。

もう開き直って、DOKOUSONtsueeeeとかやるかもしれませんけど、かまいませんよね。
漫画に出て来なかった宝貝使うかもしれませんけど、かまいませんよね。
だってタイトルからして痛いんですから。
チート大好きです。






[12082] 第四話 土行孫、竜吉公主宅へ遊びに行く。
Name: 軟膏◆05248410 ID:27935c7d
Date: 2010/04/07 21:56






 土行孫は竜吉公主の住まう鳳凰山ほうおうざんへと訪れていた。
 だが事前にアポを取っていた訳でもないので、竜吉公主と会えるまでは時間が掛かった。
 門番に取り次いでもらうように頼んだが、すぐに会うことは出来なかった。
 誰なのか名乗りを上げさせられ、確認を取るまで待てと言われて待たされた。
 やっと身分証明が終わると、今度は女中に、その次は竜吉公主の側近の碧雲にと面通しが行われた。
 そして碧雲が竜吉公主に判断を仰ぎ、竜吉公主が許可を出して、やっと面会が叶うのである。
 ここまででかなりの時間が経っており、土行孫は精神的に疲労の極致に達していた。

「……公主、遊びに来たぞ」

「おお、よく来たな」

 竜吉公主の手に招かれ、土行孫は香の焚き染められた浄室の中に入る。

「疲れておろう。ゆるりと休むと良い」

「ああ、そうさせてもらう……」

 竜吉公主に労われ、土行孫はその場に座り込む。
 深い溜め息を吐き出す土行孫。

「まったく、何なんだここは……。
 元始天尊様の所でさえ、ここまで警備は厳重じゃ無かったぞ。
 朝早く来たのに、もう昼過ぎだ」

 うんざりとした声で土行孫は言った。

「それは悪かったの」

 竜吉公主は謝罪する。

「次からは、おぬしが来たら通すように言っておこう」

「ああ、そうしてくれると嬉しい。
 待つのは別に構わないんだが、あの目に見つめられるのは、もう勘弁してくれと言いたい」

「目?」

 竜吉公主が首を傾げる。

「遠巻きにじろじろと見られて、まるで見世物のパンダにでもなった気分だ」

 土行孫の愚痴に、竜吉公主は笑って言う。

「フフッ……まあ仕方がないであろう。
 あの者たちは、ずっと此処に篭もっておるからな。
 元々、来客自体が珍しいのだ。
 おまけに、その来客が男ともなれば、もう何十年と会っていない事になる。
 皆、おぬしという存在が物珍しいのだよ」

「そんなもんかねぇ……」

 土行孫は頭を掻く。
 その勢いで、床に広がった土行孫の髪がゆらゆらと揺れる。
 竜吉公主によってサラサラにされた髪は、何故か元のようには戻らなかった。
 風が吹くたびに髪が纏わり付くので、今では後ろで一つに縛っている。

「それより土行孫。そんな端に座らず、もう少し此方へ来い」

 竜吉公主は膝を軽く叩く。
 その上に座れと言いたいのだろう。

「前にも言っただろう? それは遠慮しておく」

 土行孫は断り、片手で後ろ手に扉に手を掛ける。

「野次馬もいるしな」

 扉を一気に開けると、そこにはお盆にお茶を載せた碧雲がいた。

「わっ、きゃあああっ!?」

 身体を扉に預けていたせいか、扉の抵抗が無くなり、碧雲は倒れこむ。

「おっと……」

 土行孫はそれを支える。
 しかし、土行孫の低い身長では格好よく支える事は出来ず、下から持ち上げる事になった。
 顔から倒れこまないように腕を差込み、碧雲はそれによって倒れずに済んだ。

「へ? あれ?」

 ギュッと目を瞑っていた碧雲だが、いつまでたっても痛みが来ないので目を開ける。
 そこで碧雲は自分が土行孫に支えられている事に気付いた。

「悪かったな、大丈夫か?」

「は、はあ。ありがとうございます、土行孫様」

 呆けた碧雲が礼を言う。
 土行孫は離れると、軽く咳払いをする。

「でも、盗み聞きは、あまり趣味が良いとは言えないな」

 ジロリと睨む土行孫に、碧雲の頬に汗が一筋流れる。

「い、いやですね……そうお茶! お茶を持って来たんですよ」

 碧雲はワタワタと慌てて、再び溢しそうになったお茶を、お盆ごと土行孫に差し出す。

「そ、それじゃ私は戻りますんで! ごゆっくりしていって下さいね!」

「あ、おい!」

 お盆を押し付けられた土行孫は碧雲を呼び止めようとする。
 しかし、走って出て行った碧雲にその呼びかけは聞こえなかったらしく、戻ってくる事は無かった。

「碧雲は俺のこと知ってるだろうに……」

 横から見ていた竜吉公主はクスリと笑う。

「女というものは、いつの時代であろうと噂が好きなものよ。男女の間柄に関しては特にな」

 長くを生きた仙女だからか、自身も女であるからか、竜吉公主のその言葉には説得力があった。

「……それもそうだな」

 土行孫の記憶にある、過去の女性達も皆そうであった。
 まあいいか、と土行孫は渡されたお盆を置き、お茶を竜吉公主に渡す。

「ほれ」

「すまぬな。本来なら、私がするべきなのだろうが……」

 竜吉公主が謝罪するが、土行孫は頭を振る。

「別に良い。持って来たのは碧雲だし、俺はそれを渡しただけだ。
 それだけの事に畏まられると、こっちも居心地が悪いだろう?」

「それもそうじゃな。その程度の仲でもないしの。
 ここは寧ろ、礼を言うべきところであった。ありがとう」

「どういたしまして」

 土行孫は茶を啜る。
 竜吉公主が普段飲んでいるだけあって、高級そうな味がした。
 一息ついた土行孫は、自分が来た本題を話し始める。

「太公望が旅立ったぞ」

「ほう、そうか」

 それはつまり、封神計画が始まったという事だ。

「スープーシャンに乗って、人間界へ飛んでいくのを見たから、多分あいつがそうだろう」

 スープーシャン(四不象)とは、元始天尊専用の乗り物をやっている霊獣だ。
 見た目はカバというか、ムーミンのような顔をした霊獣だ。
 だがそんな容姿にも関わらず、かなりの速さで飛ぶ事が出来る。
 その霊獣を与えられたという事は、彼が太公望なのだろうと土行孫は当たりをつけたのだ。

「多分宝貝も貰ってるだろうから、本格的に動き始めているみたいだな」

「そうじゃのう」

 竜吉公主も頷く。
 その時、窓から部屋を埋め尽くすような光が差し込む。
 そして数秒遅れて、部屋の中に居た土行孫達にも聞こえる轟音が鳴り響いた。

「……何だ? 今のは……」

「人間界の方からか? 雷のようであったが……」

「馬鹿な……」

 立ち上がり、竜吉公主のすぐ後ろにある窓に近寄る。
 外を見てみるが、そこには透き通るような青空が広がっていた。
 雷が落ちるような天気ではない。

「ここは雲の上なんだから、そもそも雷なんて落ちるはずはないんだが……」

 正体不明の雷に、土行孫は疑問を持つ。

「……もしや、雷公鞭らいこうべんかもしれぬ」

「雷公鞭?」

 土行孫は振り返る。
 竜吉公主は厳しい目をしていた。

「雷公鞭ってのは、スーパー宝貝のあの雷公鞭の事か?」

 スーパー宝貝とは、現在の仙道達が使用している宝貝の原型となったものだ。
 誰が何のために作った物かは分からず、しかし強大な力を持っていると云われている。
 竜吉公主は頷いた。

「私も見た事は無いが、雷公鞭は仙界最強の破壊力を持つという。
 雷を操る宝貝でこれほどの威力ともなれば、その存在も自ずと知れよう」

「そうか……」

 土行孫は再び窓の外を見る。
 そして、ポツリと呟いた。

「次元が違うな」

 土行孫は今までにも、強力な宝貝は幾つも見て来た。
 だがこれほどの力を持つ宝貝を、土行孫は知らない。
 仙人界にいて、これだけの力を確認できるのだ。
 おそらく、人間界では殷全土を覆い尽くす程の雷が観測出来ただろう。
 竜吉公主に続いて、再びレベルの差を思い知らされた土行孫だった。

「がんばれよ、太公望」

 土行孫は、全てを太公望に丸投げした。




あとがき


二人だけの会話も、ネタが尽きてきた気がする。
そろそろ新しいキャラでも入れようかな。

前回、tsueeeeeeをやろうかと言ったんですけど、あまり戦闘が無いかもしれません。
現在戦う相手が二人くらいしか思いつかないんですよ。
それも相手は敵じゃなくて味方。
戦闘シーン書くのも苦手ですし、あまり期待しないでください。



[12082] 第五話 土行孫、友達が増える。
Name: 軟膏◆05248410 ID:27935c7d
Date: 2010/04/07 22:01




 いつものように、土行孫は誰もいない修行場で、一人修行をしていた。
 対人戦に備えての練習試合などもしているが、普段はいつもここに居る。
 持っている宝貝を使いこなすために、暴走の危険などが無いかを確認しなければ、怖くて実戦で使えないからだ。
 全力でどれぐらいの時間使用出来るか、使用した後の疲労はどれ程か、応用すればどのような事が出来るのか。
 そういう事を知るためには、他に人の居ない所で修行するのが望ましい。
 一緒に修行すれば、土行孫の宝貝について知られてしまう。
 可能な限りは、その情報が漏れるのを防ぎたいのだ。
 情報とは重要なものである。
 そして、どこから漏れるか分からないものである。
 土行孫は、知られる事で対策を立てられる事を阻止しなければならない。

「はあっ……はあっ……疲れたあ~……」

 限界まで力を使い切って、土行孫は倒れた。
 全力で使用しているからか、長くは持たないのだ。
 子供の身体である事が、恨めしいと感じてしまう一時だ。
 成長した大人の身体であれば、もう少しは長く持っただろう。
 だが、文句を言ってもどうにもならない。
 持久力は少しずつだが増えている。
 愚痴は竜吉公主が聞いてくれる。
 何も問題は無い。
 歩みは遅いが、土行孫は確実に強くなっているのだ。

 雲よりも高い場所にある仙人界は、透き通るような青空が広がっている。

「風が気持ち良い……」

 仙人界でも高所に位置するこの場所には、普段からあまり人が来ない。
 そこに吹く風は冷たく、修行で火照った土行孫の身体を、ほどよく冷やしていく。
 風邪になるような柔な鍛え方はしていないので、いつもこうして青空を見ながら昼寝をするのが、土行孫の密かな楽しみだった。

「……ん?」

 倒れたまま空を見上げていると、見慣れない一匹の霊獣が通りかかった。
 いや、ここよりも遥かに高い場所を飛んでいるのに、その姿が判別出来る事を考えれば、一頭と数えたほうが良いのかもしれない。

「猫……?」

 それはたしかに猫だった。
 真っ白い毛皮の巨大な猫が空を飛んでいる……否、走っているのは中々にシュールだな、と土行孫は思った。
 すると、走り去って行こうとした猫が、急に方向を変え、こちらに走ってきた。


 ドドドドドド


「え? ちょ……」


 ドドドドドド


「おい、待てよ……」


 ドドドドドド


「待てって……」


 ドドドドドド


「うおおおおおっ!?」

 土行孫はその場から転がって必死に避ける。
 ズシャアッ!! という音を立てて、猫は着地した。
 余程勢い良く飛び込んできたのか、着地の余波で土行孫は吹き飛ばされた。
 あのまま寝転がっていたら、土行孫は猫に撥ねられるか、踏み潰されるかで封神される事になっていただろう。

「何なんだ、いったい……」

 土行孫は寝転がったまま混乱していた。
 いきなり猫に撥ねられそうになれば、誰だって混乱するだろう。
 その土行孫の目の前に、ヌウッと猫の大きな顔が現れた。

「ボクは虎だ。猫なんかじゃない!」

 どうみても猫にしか見えない霊獣は、自らを虎だと言い張った。
 その霊獣は白一色だったが、唯一額にだけ黒丸の模様があった。

「ああ、悪かった。ごめんな」

 土行孫は謝ると、手を伸ばして、下からその霊獣の喉元を掻いた。

「そうそう、分かれば良いんだよ、分かれば……あ、そこ、もうちょっと右」

 霊獣の希望通り、土行孫はもう少し右の方向をカリカリと掻いてやる。
 土行孫がその霊獣の喉元を掻くに連れて、霊獣はゴロゴロと喉を鳴らした。
 例え虎だとしてもネコ科である事には変わりないんだな、と土行孫はそんなどうでもいい事を思った。

「それにしても、よく俺の言ったことが聞こえたな」

「当然だよ。ボクの耳は順風耳じゅんぷうじだからね」

「それは凄いな」

 順風耳とは、千里眼と対になる能力で、遥か先の事でさえ聞き取る事が出来る能力だ。
 その力があるのなら、土行孫の呟きも聞き取る事が出来るだろう。
 その時、土行孫と霊獣の声以外の声が聞こえた。

黒点虎こくてんこ、もう良いですか?」

「ん?」

 土行孫が首を傾げる。
 今の高い声は、目の前の霊獣が出した声ではなかった。
 ならば、他に誰かいるという事だ。
 黒点虎と呼ばれた霊獣は、首を後ろに向ける。

「あ、ごめんね」

 その様子に、黒点虎の背に誰かが乗っている事が分かる。
 身体を起こした土行孫は、その姿を確認する。

「は?」

 そこには、奇抜な格好をした人物がいた。
 体型の分かり難いダボッとした服装で、頭にはパーティー用の三角帽子、髪は綺麗に切り揃えられた銀髪だった。
 紛う方なきピエロである。
 その格好に土行孫は絶句する。
 この不思議な世界でさえ、十分におかしいと判断できる容姿をした小柄な人物は、声に反応して顔を土行孫へ向ける。

「おや? 貴方……」

 そのピエロは、土行孫を見て目を見開いた。
 そしてひらりと軽やかに、黒点虎の背から音も無く降り立つ。

「な、何だお前……?」

「静かにしなさい」

 小柄なピエロは腕を伸ばすと、土行孫の胸倉を掴み、片腕で持ち上げた。
 体型の分かりにくい服装をしているが、ピエロの腕は細いと思われるのに、何処にそれだけの力があるのだろうか。

「ぐ、うう……!」

 持ち上げられているせいで、呼吸が満足に出来ず、土行孫は足をバタつかせる。
 だがそんな土行孫の様子など気にも留めず、ピエロはネコのような円らな瞳で、土行孫の目を見つめる。
 顔がくっつきそうな程近くから見つめられ、土行孫は言葉を失った。

「ほう……なるほど……中々興味深いですね」

 何がそんなに面白いのか、ピエロは土行孫を見ながら感嘆の声を上げる。
 土行孫は疲れきったその身体を必死に動かし、自らを吊り上げている腕へと宝貝を走らせる。

「おや?」

 その衝撃でピエロは、土行孫から手を放す。
 拘束を逃れた土行孫は、弾かれたようにその場から跳び退った。

「……いったい、どういう事だ?」

 土行孫は低い声でピエロに問いただす。
 だがピエロは土行孫の問いには答えず、土行孫を持ち上げていた自分の腕を見つめていた。
 土行孫によって、その白い肌に赤い線が刻まれた自分の腕を。

「……驚きました。まさか、こんな短期間に二人も現れるとは……」

 ピエロは土行孫へ顔を向ける。

「貴方、名前は?」

「は?」

 いきなり友好的に話しかけて来たピエロに、土行孫は戸惑う。

「名前ですよ。私が聞いているのですから、さっさと答えなさい。
 言っておきますが、偽名を名乗ったりしたら殺しますよ?」

「……土行孫だけど」

 土行孫にはピエロの意図が見えなかった。
 だが殺すとまで言われたら、真面目に答えざるを得ない。

「土行孫……ですか。私は申公豹しんこうひょうと言います」

「……は?」

 申公豹と名乗ったピエロに、土行孫は目を丸くする。
 土行孫の知っている情報では、元始天尊を含める三大仙人よりも強いと言われる最強の道士である。
 そして以前、仙人界まで轟くほどの雷を発生させた、スーパー宝貝「雷公鞭」を持っている。
 そして今更ながらに気付いた事だが、先ほど話していた霊獣「黒点虎」も最強の座を得ていたはずだ。

「嘘だろう? そんなピエロの格好したやつが申公豹だなんて……」

 信じられないと土行孫は首を振る。
 その様子に、申公豹は眉を顰める。

「……貴方、今私の格好を馬鹿にしましたか?」

 申公豹の声は低くなり、取り出した雷公鞭によって、その身体はバチバチと帯電を始める。
 離れていても分かるほどの電圧に、土行孫の頬に汗が流れ落ちる。
 殷全土を覆うほどの威力を発生させる雷公鞭だ。
 この距離で受けたら、一瞬にして消し炭になってしまうだろう。
 このままでは死ぬ、そう思った土行孫は、何とか回避しようと口を開いた。

「いや、馬鹿になんかしていないさ。その格好はとても似合ってるよ」

 土行孫の言葉に反応して、申公豹の周りの帯電がピタッと収まる。

「……本当ですか?」

「あ、ああ……。申公豹にはぴったりだと思うぞ?」

 必死で媚を売る土行孫の言葉が通じたのか、申公豹は雷公鞭を下げた。

「ふむ……嘘は言っていないようですね」

 申公豹の言葉に、土行孫の背中に冷たい汗が流れる。
 たしかに嘘は言っていない。
 土行孫は申公豹というビッグネームが、ピエロの格好をしていた事に驚いただけだ。
 申公豹自体は綺麗な容姿と相まって、どこか掴み所の無いそのピエロの格好が似合っているのだ。

「どうやら貴方は、私のセンスが理解出来るようですね」

「そういうことになる……のかな?」

 土行孫の言葉に、申公豹は考え込む。
 やがて結論が出たのか、申公豹は一つ頷いた。

「良いでしょう」

「はあっ……」

 土行孫は肩の力を抜く。
 これで殺される事は無くなった、と気が抜けたからだ。
 しかし、申公豹の言葉はまだ続いていた。

「土行孫、貴方を友と認めましょう」

「は?」

 再び土行孫は固まる。

「生まれてより五千年、私のセンスを理解出来た者は貴方が初めてです。ですから、貴方を友と認めましょう」

「いや、ちょっと待て」

「何ですか? 言っておきますけど、ライバルは駄目ですよ? それは既に決めてありますからね」

「待っ――」

「やはり友と言うならば、私を傷つける事が出来るほどの相手が、私には相応しいでしょう」

「……」

 土行孫は申公豹を見つめながら思った。
 本気で友達がいないんだな、と。
 自分の中で勝手に完結して、相手にそれを強要する。
 あまり人に好かれやすい性格ではないだろう。
 おまけに強い力を持っているから、その力を恐れて、相手からよって来る事も無かったに違いない。
 そもそも土行孫が傷を付けられたのも、申公豹が油断していたからだ。
 現に、傷を付ける前の申公豹は、土行孫の言葉になど耳を貸さず、土行孫を物としか見ていなかった。
 だから攻撃が届いたのだ。
 そもそも眼中に入っていない物を、わざわざ警戒する必要など無かったのだから。

「はあ……」

 土行孫は溜め息を吐く。
 殺される心配は無くなったものの、厄介な知り合いが出来てしまった。
 申公豹が言うには友達らしいが。

「それで? 申公豹はどうしてこんなところにいるんだ?」

「おや? 知りたいですか?」

「いや、別に言いたくないなら無理にとは……」

「知りたいでしょう? 知りたいと言いなさい」

「……知りたいな、うん。凄く知りたい」

 申公豹は教えたがりなのだ、という事に土行孫は気付く。
 いつまでも遠慮していては話が進まないので、土行孫は頷いた。
 申公豹は得意げに話し出す。

「私は太子達の様子を見に来たのですよ」

「太子? ……ああ、あの……」

 土行孫はその言葉に、二人の少年を思い浮かべる。
 少し前に元始天尊が招いた、殷の紂王(ちゅうおう)の子供の太子兄弟の事だ。
 今は十二仙の赤精子(せきせいし)と広成子(こうせいし)の下で、修行をしていたはずだ。

「真面目に修行をしているか気になりましてね」

「そうだったのか。でも、それなら黒点虎に頼めば良いんじゃないのか?」

 黒点虎は順風耳と共に、千里眼も持っている。
 千里先をも見通すその目があるならば、わざわざ来なくても大丈夫だろうに。

「偶には自分の目で確認したくなるのですよ。黒点虎の千里眼にばかり頼っていては、楽しみが薄れますからね」

「なるほどな」

 申公豹の言葉に土行孫は頷く。
 やはり申公豹も長生きをしているだけあって、退屈を嫌うようだ。
 申公豹はひらりと黒点虎の背に乗る。

「それでは、私はやる事があるので、もう行くとしましょう」

「ああ、それじゃあな」

「じゃ~ね~」

 土行孫に黒点虎が軽く返し、黒点虎は足場も何も無い空中へと飛び上がる。
 そして、素早いスピードで走り去って行き、あっという間に見えなくなった。

「はあ……」

 土行孫はその場に座り込み、深い溜め息を吐く。
 もう何度溜め息を吐いただろうか。

「そういえば、何か気になることを言っていた気がする」

 なぜ申公豹が土行孫に興味を抱いたのか、そこのところを聞くのを忘れた。

「でももういいや……」

 正直に言って、申公豹の友達発言のインパクトが強すぎて、何が気になっていたのか全然覚えていないのだ。
 何故こんな事になったのだろう、と自らに問うが、雰囲気に流されたとしか言えない。

(今日は厄日か? それとも女難か?)

 声に出すと黒点虎に聞かれるので、土行孫は心の中で呟いたのだった。






あとがき

ところで皆さん、申公豹って中性的な顔しているとは思いませんか?
いえ、なんでもないんですけどね。

さて今回、友達が増えました。
といっても、ほとんど一方的ですけどね。





[12082] 第六話 土行孫、碧雲の危急を知る。
Name: 軟膏◆05248410 ID:27935c7d
Date: 2009/09/27 20:00



 土行孫はいつもどおり竜吉公主の家へと遊びに来ていた。
 太公望が仙人界へと戻って来た、というのを聞いたからである。
 身体の弱い竜吉公主は、あまり外の事情を知らない。
 だからこうして時折、土行孫が外界の情報を手土産に、竜吉公主の自宅へ訪れるのだ。
 いつも篭もりきりでは、竜吉公主も暇だろうと考えたためである。
 以前、弟子達を撒いて遊びに出た事が原因で、警備が厳重になっているのだ。
 その気になれば、制止を振り切って外に出る事など容易いのだが、竜吉公主はそれをしない。
 それは自らの身体を傷める事になると分かっているからであり、弟子達を傷つけたくないという竜吉公主の想いがあるからである。

「ん? おかしいな……」

 門の前まで来たものの、最近仲良く挨拶するまでになった門番が居ない。
 門を叩いてみるが、反応は無い。
 おまけに、中がなにやら騒がしいのだ。
 がやがやと騒がしい声の中に、聞きなれた声があるのに気付いた。

「公主? 何かあったのか?」

 門の外から本人と分かる程の大声を、竜吉公主が上げるのを土行孫は聞いたことが無い。
 土行孫は不審に思い、悪いと思いながらも中へ入る。
 門の中に入ると、いつもは浄室にいるはずの竜吉公主が外に出ていた。
 それだけなら大して驚く事ではない。
 いくら身体の弱い竜吉公主といえど、ずっと篭もっているわけではないのだから。
 だがいつもと違うのは、その身体に女中がしがみ付いている事か。

「ええいっ! 放せっ! 放さぬかっ!!」

「なりません! 浄室へとお戻りください!
 竜吉公主様を外へ出してはならぬ、と赤雲様から言い付かっております!!」

 必死に振り払おうとする竜吉公主だが、女中達も力の限り押さえ込もうとする。
 苛立ちを隠しきれない竜吉公主は、女中に向かって怒鳴る。

「私はその赤雲の師匠だぞ!?」

「それでもです! 今竜吉公主様に外へ出られては、私達は叱られてしまいます!」

「この非常時に何を言っておるか!」

 常ならぬ竜吉公主の怒声に、土行孫はたじろぐ。
 その時、正面を向いた竜吉公主が、土行孫を見つける。

「おお、土行孫。良い所に来た。この者達に、手を放すよう説得してくれ」

「ああ土行孫様! 竜吉公主様に浄室へとお戻りになるよう説得してください! 私達では聞いて下さらないのです」

「え? ええ?」

 竜吉公主と女中に同時に別の事を言われ、土行孫は混乱する。

「えっと……とりあえず、何があったのか説明してくれ。そうでないと、どうすれば良いのか分からん」

 土行孫の言葉に、何ついて言い争っているのかを説明していない事に気付いたのか、竜吉公主は大人しくなる。

「それもそうじゃの」

 暴れるのを止めたせいか、しがみ付いていた女中は、ほっと胸を撫で下ろす。

「実はの、碧雲が行方不明になったのじゃ」

「行方不明!?」

 土行孫は目を見開く。
 立ち上がった女中が、竜吉公主の言葉を引き継いだ。

「碧雲様は竜吉公主様の使いとして出かけられました。
 ですが、道中何か有ったのか、もう二日も帰って来ておりません。
 こんな事は今までありませんでした」

「そのとおり」

 竜吉公主は頷いた。

「碧雲が行方不明になったのは、碧雲を使いに出した私の責任。
 碧雲の身に何が起きたのか心配での。
 だから先ほどから私が、碧雲を探しに行くと言っておる」

「だから駄目です!」

 女中は飛び立とうとした竜吉公主に、再びしがみ付く。

「現在、飛行術の使える者を総動員して、碧雲様を探しています。
 十二仙達に行方を尋ねて、応援も頼んでいます。
 竜吉公主様はここでお待ち下さい。
 私だって、探しに行きたいのはやまやまなんです!」

 女中の必死の訴えかけに、竜吉公主が困った顔をする。
 宝貝を使えば、無理矢理にでも振り払う事など容易いだろう。
 しかし、それをすれば、彼女を傷つけてしまう事になる。
 竜吉公主にとって碧雲は大事だが、彼女もまた大事なのだ。

「話は分かった」

 土行孫は何が起きているのか理解した。
 そして竜吉公主へと顔を向ける。

「公主。公主はここに居ろ」

「何故じゃ!? おぬしは碧雲がどうなっても良いと申すのか!?」

 竜吉公主は土行孫に非難の視線を向ける。
 対して土行孫は、ゆっくりと頭を振る。

「違う、そうじゃない。俺だって碧雲の事は心配だ。
 でも公主が行ってどうなる?
 公主が出ても、余計な心配を増やすだけ。
 倒れたらそれこそ足手まといだ。
 碧雲が行方不明になっているこの時に、公主が倒れたりしたら、いったいどうなるか。
 それは公主も分かるだろう?」

「それは……」

 竜吉公主も分かったのだろう。
 いつもは竜吉公主が病気で臥せっていても、側近の碧雲と赤雲の姉妹がサポートをして来た。
 しかし、碧雲が行方不明になっている今、皆は不安になっている。
 姉の赤雲も捜索に加わっている以上、竜吉公主が倒れたら統率する者が居なくなるのだ。
 まず間違いなく混乱が起きる。

「これ以上、皆に心労を掛けさせたくない」

「それは私も同じじゃ。しかし……!」

「大丈夫」

 土行孫は竜吉公主の手を握り、言った。

「俺が、公主の代わりに探すから」

「土行孫……」

 竜吉公主は土行孫を見つめる。
 土行孫は、竜吉公主の目を直視しながら、続きを言った。

「だから、公主はここで待っていてくれ」

「……」

 竜吉公主は黙り込み、静かに目を閉じる。

「……分かった」

 やがて、竜吉公主はゆっくりと目を開けて頷くと、未だしがみ付いたままの女中に声を掛ける。

「すまなかったの。もう無理に出ようとはせぬ」

「え? あ、はい……」

 キョトンとした顔の女中が、ゆっくりと竜吉公主の服から手を放す。
 軽く襟を正した竜吉公主は、土行孫の目を見つめる。

「土行孫。碧雲の事、頼めるか?」

「ああ。俺に任せてくれ」

 土行孫は、力強く頷いた。

「こう見えて、モグラの鼻は良く利くんだ」

 おどけたように言う土行孫に、竜吉公主の口元が僅かに緩む。

「おぬしなら、見つけられるのか?」

「もう見つかってたのなら、俺はどうしようもないけどな」

「そうじゃな。もう見つかっておると良いが……」

 竜吉公主は目を伏せる。
 土行孫に任せると決めたとはいえ、心配なのは依然として変わりが無いのだ。

「じゃあ俺は行くよ。グズグズしてられないからな」

「ああ。頼む」

 竜吉公主に見送られながら、碧雲を探すために土行孫は走り出した。




あとがき

やっぱり土行孫が竜吉公主とラブコメやるとむかつくな。なんでだろ?
多分次は太公望出ます。




[12082] 第七話 太公望、初登場する。
Name: 軟膏◆05248410 ID:c84fbb07
Date: 2010/04/07 22:07




 太公望は元始天尊の下を訪れ、封神計画についての謎を問い質して来た。
 悪い仙道のみを封印するはずの封神計画が、人間であるはずの殷の紂王の妻・姜妃きょうひまでも封印したからだ。
 その上、渡された封神の書には、妲己とその手下の365名ではなく、その半数の180余名しか書かれてはいなかった。
 その中には、紂王とその子である太子二人の名も書かれていた。
 それを元始天尊に尋ねると、元始天尊は渋々と語り始めた。
 今崑崙が総力を挙げて戦えば、妲己は倒せるだろう。
 しかし妲己は、殷の奥深くまで潜り込んでいる。
 今妲己を倒せば、各地で殷への不満が爆発し、人間界は混乱の渦へと叩き込まれる事になる。
 それを防ぐための王を立てなければならない、と言われた。
 封神の書に書かれている名は、その過程で犠牲になると予想される者約180名なのだ。
 残りは予測不明者を含めた数として、総数365名が封神されるであろうと言うのだ。

 話を聞き終えた太公望は、元始天尊の下を後にする。

「……分かっておった」

 例え犠牲が多くとも、人間界の平安は、人間達がその手で掴まなければならない。
 そんな事は、太公望自身、誰かに言われずとも百も承知なのだ。
 しかし、それでも太公望は心を痛める。
 分かっていても、感情というものは完全には制御出来ないのだ。


 翌日、休暇を与えているスープーシャンを待っていると、白鶴童子はくつるどうじが太公望の目の前に現れた。
 白鶴童子は鶴を原型とする妖怪仙人だが、気性は穏やかで、元始天尊のお付きをしている。
 また、他の十二仙たちとの橋渡しのような事もしているので、あちこちに顔が広い。
 その白鶴童子は、焦った様子でバサバサと羽を飛び散らせながら、太公望に声を掛けて来た。

「た、たたた、太公望! 大変、大変です!」

「おお、白鶴ではないか。何をそんなに慌てておる? 
 ……もしや、元始天尊様の蔵から、儂が豊満をかっぱらった事がバレたのか?」

 辺りを見回して、元始天尊がいないか警戒する太公望。
 元始ビームは結構痛いのだ。
 白鶴童子は首を振って否定する。

「そんな事はどうでもいいです! スープーシャンが……」

「スープー? あやつなら、昨日から休暇を与えておるが……」

「そのスープーシャンが誘拐されたんですよ!!」

「……は?」

 白鶴童子の言葉に、太公望の目が丸くなる。

「はああああっ!?」







 白鶴童子が言うには、スープーシャンは誘拐される直前まで、太乙たいいつ真人といっしょにいたらしい。
 白鶴童子の足に捕まり、太乙真人の所まで飛んでもらう。
 目当ての太乙真人は、小さな浮き島の上で、ガタガタと震えていた。

「太乙、こんなところにおったか」

「ああ! 太公望! 良かった……本当に良かった……」

 太公望の姿を認め、太乙真人は心からの安堵の笑みを浮かべる。
 黒いローブを身に纏い、黒髪を肩の所でおかっぱに切り揃えている青年は、目に涙を浮かべていた。

「太乙、スープーが誘拐された、というのはどういう事じゃ?」

「ああ、話せば長く恐ろしい話になるんだけど……」

 太乙真人は何が起きたのかを詳しく話し始めた。



 太乙真人は休暇中のスープーシャンと出会い、ドライブに行こうと持ちかけたらしい。
 その後、昼時になったので、弁当の桃を食べようと言う話になった。

「ここらへんで良いッスか?」

「うっ……た、高いなぁ……」

 スープーシャンが太乙真人をこの岩場に下ろし、昼食を取ろうとしたとき、小柄な影がスープーシャンの上に降ってきたのだ。

「ギャアアアアアッ!!」

 いきなりの衝撃に、スープーシャンが悲鳴を上げる。

「な、何ッスか? いったい何なんッスか!?」

 動揺するスープーに、背に乗った人物が答える。

「久しぶりだな、スープーシャン。俺だ、土行孫だ」

「ええっ!?」

 振り返ったスープーシャンが、土行孫の姿を確認する。

「嘘ッス! ボクの知ってる土行孫さんは、そんなサラサラヘアーじゃないッス!!」

 否定するスープーシャン。
 土行孫は頭を掻くと、スープーシャンに言った。

「ああもう……俺はお前の知ってる土行孫だ。
 詳しい事は道中で話すから、とりあえず飛んでくれ。
 緊急事態なんだ。仙界でも屈指の速さを誇る、お前の足を貸してくれ」

「はっ! わ、分かったッス!」

 緊急事態と聞いて、スープーシャンの顔が引き締まる。
 目尻が僅かに下がっているので、褒められた事も、若干嬉しかったらしい。
 土行孫は太乙真人に声を掛ける。

「それじゃ、太乙真人様。ちょっとスープーをお借りしますね」

「ああっ! 待ってくれ! 僕を置いていかないでっ!!」

 太乙真人の叫びに、土行孫は目を伏せる。

「すいません、太乙真人様。
 このスープーシャン、一人乗りなんです。
 ……行くぞ、スープーシャン」

「はいッス!」

 土行孫はスープーシャンを促す。
 スープーシャンも勢い良く返事を返して飛び立った。

「ああ、待ってくれ~っ!!」




「と、いうわけなんだ。恐ろしい話だろう?」

「……何故だ。中途半端に長くて、逆にツッコめぬ」

 太乙にツッコミを入れようと思っていた腕のやり場を探しながら、太公望は疑問を浮かべる。

「それにしても、その話だとスープーシャンは、自分から付き従っていたようだが?」

「あ、そうだね」

 太乙真人が今更ながら、その事に気付く。

「しかし、スープーがあっさり騙されるとも思えぬ。
 その男、土行孫とはいったい何者だ?
 本人で間違いはないと思う。
 そして、どこかで聞いたことがあるのだが……」

「土行孫なら、私が知っています」

「なぬ? そうか。教えてくれ」

「はい」

 太公望のその疑問に、白鶴童子が答える。

「夾竜山(きょうりゅうさん)飛雲洞に住まう十二仙の一人、懼留孫の弟子です。
 主に、地中を潜る宝貝『土竜爪』を持っています」

「……主に?」

 太公望がその部分に引っかかる。

「彼は宝貝が好きみたいなので、いろいろな所から使わなくなった宝貝とかを貰っているようです。
 そのせいで顔が広く、十二仙とも知り合いで、宝貝蒐集家とも呼ばれています」

「宝貝蒐集家……か……」

「尤も、コロコロと持っている宝貝を変える事があるので、若い道士達からは嫌われています。
 宝貝を持ち替えるのは、自分の宝貝を信用できておらず、自信が無いからだと。
 その道士達からは、土行孫の見た目と土竜爪の特徴から、モグラと呼ばれてますね」

「なるほどのう……。それにしても、十二仙と顔見知りだと言うのに、なぜ儂はそやつと会った事が無いのだ?」

「? 当然じゃないですか」

 白鶴童子は、何を当たり前のことを、と言い切った。

「だって師叔は、この間まで宝貝持ってなかったじゃないですか」

「……そうであった」

 太公望はそのことに気付き、落ち込んだ。

「それに、土行孫も貴方に会おうとした事はあったみたいですよ?
 でもタイミング良く師叔が人間界に遊びに行くので、結局会えなかったみたいですね」

「儂かっ!? 儂が全部悪いのかっ!?」

 追い討ちを掛ける白鶴童子に、太公望が叫ぶ。
 そこに、震えた声で太乙真人が告げる。

「僕も、土行孫には良く世話になっているよ」

「なぬ? そうなのか?」

 太公望はグリンと顔を太乙真人に向ける。
 太乙真人は頷いた。

「あの子はよく、僕の開発した試作品の宝貝のモニターになってくれるんだ」

「じゃあおぬし、なぜ気付かなかったのだ?」

 それだけ親しいなら、顔くらい覚えてるはずであろう? と太公望の顔が物語っている。
 太乙真人は額に溜まった脂汗を拭きながら言った。
 
「最近は会っていなかったから、あんなイメチェンしてるとは思わなかったんだよ」

「そうか。しかし儂は、以前の土行孫に会っておらぬからな。
 イメチェンがどれほどのモノかは分からぬが、それは今は置いておこう。
 だがしかし、それなら、自分の所の弟子を使えば良いではないか。
 わざわざ他の十二仙の弟子を使わなくても良かろう?」

「最初はそうだったんだけどね」

 太乙真人は膝を抱える。

「昔、火尖鎗かせんそうって宝貝を作ったときに、それが暴発してね。
 火を噴く宝貝だったんだけど、逆流して弟子が全身大火傷になったんだよ。
 それ以来、誰も引き受けてくれなくなったんだ」

「おぬし……」

 当たり前だ、と太公望は太乙真人を見つめる。

「でも、土行孫は引き受けてくれたんだよ。あの子は土属性の宝貝を主に使うせいか、身体が頑丈だからね」

「ふむ……」

 太公望は僅かに考え込む。

「土行孫か……一度、会ってみたいのう」

「そうですか」

「……よし白鶴。そうと決まれば、スープーを探すのだ! そやつが何を急いでいるのか聞かなければならぬ!!」

「アイサー、師叔」

 白鶴は翼をはためかせ、太公望はその足に掴まって、スープーシャンと土行孫を探しに飛び立つ。

「待って! 僕を置いていかないでっ!」

 後ろから、太公望に向けて太乙真人の懇願が聞こえる。
 太公望は後ろを振り向くと、太乙真人に向けてニヤリと笑った。

「悪いの、太乙。この白鶴、一人乗りなんだ」

「そんなっ!?」

「カカカカカッ! 行くぞ、白鶴!」

 そして太公望と白鶴童子は、太乙真人を置き去りにしたまま、スープーシャンと土行孫の捜索に入った。





あとがき

ついに太公望初登場。
外道なのは変わらない。

土行孫の二つ名が登場。
モグラなのは変わらない。





[12082] 第八話 土行孫、碧雲の救出に向かう。
Name: 軟膏◆05248410 ID:c84fbb07
Date: 2010/04/07 22:13
第八話 土行孫、碧雲の救出に向かう。


「む、見つけたぞ!」

「あらら、土行孫。後姿だと誰なのか、本当に分からなくなってますね」

「そんな事はどうでも良い。今助けるぞ、スープー!」

「別に誘拐されたわけじゃないでしょ」

「何を言う白鶴。そっちの方が盛り上がるではないか!」








「ここも違うか……」

「碧雲さん、見つからないッスねぇ……」

「まだ時間はある。この周辺である事には間違いないんだ。暗くならないうちに、もっと探すぞ」

「はいッス!」

 土行孫は汗を拭い、スープーシャンに飛び乗る。
 広大な崑崙山の中から、たった一人の人間を探すのはかなりの骨が折れる。
 しかし、あまり休んでもいられない。
 時間は刻一刻と迫っているのだから。
 疲労から、スープーの背に身体を預ける土行孫。
 その時、フッと土行孫の顔が陰に隠れた。

「ん? 何だ?」

「――太公望キィィィック!!」

「ぐはっ!」

 いきなり何者かに蹴り飛ばされた土行孫は、スープーの背から落ちていく。
 慌てて体勢を整え、宝貝を発動して空中に立つ。
 そして、自らを蹴り飛ばした相手を睨んだ。

「おいっ! いきなり何しやがるっ!?」

 蹴られた腹をさする。
 いきなりで驚いたものの、力が弱かったせいか、まったく痛くない。
 日頃の修行の成果が出たと言う事だろうか。
 白鶴童子に掴まり、土行孫を蹴り飛ばした道士は、その手に小さな教鞭を持っていた。

「ええいっ! 黙れ黙れっ! 
 人の霊獣を誘拐し、あまつさえ勝手に乗騎として使用しおって!」

「人の霊獣?」

 土行孫は、その道士の言葉に、相手が太公望なのだと気付いた。

「お前が太公望師叔か」

「いかにも! この太公望と、我が宝貝、大気を操る打神鞭だしんべんで成敗してくれる!!」 

「ご主人……!」

 太公望が激怒している事に、スープーシャンは目を潤ませる。
 いくら太公望の怒る理由が勘違いとはいえ、自らを心配してくれた一言に、スープーシャンは感動したのだ。
 だが、太公望の次の言葉に、その感動は無残にも打ち砕かれる。

「だいたい、そういう事はまず、儂との値段交渉を通してからであろうが!」

「……ご主人。僕を売るつもりッスか?」

 太公望は首から、「一回 50文」と書かれた札の貼ってある箱をぶら下げていた。
 スープーシャンが呆れた声を出して、太公望を見る。
 その目からは、数秒前までとは違った涙が溢れていた。

「……あ~、取りあえず、スープーシャンを誘拐したっていうのは嘘だ。
 スープーシャンは自分から手伝ってくれているからな」

「そうッスそうッス! 僕は自分から手伝ってるんスよ!」

 土行孫は頬を掻きながら言い、スープーシャンも同意する。
 既に土行孫は、太公望の態度に毒気を抜かれ、いきなり蹴り飛ばされた事もどうでもいいかと思い始めていた。

「でも主人である師叔に、スープーを借りる事の了解を取らなかったのは悪かった。すまない」

 土行孫は頭を下げる。
 対して太公望は腕を組み、うんうんと頷いていた。

「分かればいいのだ。これに懲りたら、今後は儂の手足となって働くが良い」

 ふんぞり返って偉そうに言う太公望に、頭を下げている土行孫のこめかみに青筋が立つ。

「まあ、そんな事は後だ」

 太公望は調子を切り替えると、土行孫に問い質した。

「のう、土行孫。おぬし、緊急事態とやらでスープーに乗っていったそうだな? いったい何があった?」

 土行孫は顔を上げ、太公望を見つめた。

「竜吉公主の弟子の碧雲が行方不明なんだ。もう二日も見つかっていない。頼む、師叔。手伝ってくれ」

「なに? そうか……」

 土行孫の言葉に太公望は目を丸くするが、すぐに頷いた。

「そういう事なら、たしかに緊急事態だのう。分かった。儂も手伝おう」

「ありがたい」

 土行孫は再びスープーシャンの背に乗る。
 太公望は白鶴の足に掴まったまま、二人して捜索を再開した。

 飛びながら、土行孫は太公望に状況を説明する。

「公主の他の弟子達は、十二仙の下へ行って碧雲の情報を聞いている。
 だから俺達は、十二仙がいない、あまり人が来ないところを中心に捜索していたんだ」

 土行孫の説明に、スープーシャンが補足を入れる。

「もう東、南、西と探したッス。だから後は、この北の方角にある、小島が多いエリアぐらいしか残ってないッス」

「なるほどのう」

 太公望は、一つ気付いた事を土行孫に尋ねる。

「ところで土行孫。
 おぬし、宝貝蒐集家とかいう、大それたあだ名を付けられておったな。
 探索用の宝貝は持っておらぬのか?」

 土行孫は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「……探索に使えるような宝貝は数が少ない。持っている人間はその有用性から手放そうとしない」

「持っておらぬなら、素直にそう言わんか」

 太公望が打神鞭でベシッと土行孫の頭を叩く。
 土行孫は効いていないのか、叩かれたところを撫でながら言った。

「今はこの土竜爪しか持っていないんだ」

 手に装着している土竜爪を太公望に見せる。

「大体、公主の所に行くときには、いつも宝貝はほとんど持って行かないんだ」

「ほう? 何故だ?」

「最初に行った時、宝貝を全部取り上げられたからな。
 なんとか後で返してもらったけど、またそんな事にはなりたくなかったんだよ」

「……なるほどのう。たしかにあそこは女しかおらぬから、必要以上に警戒するのも分かるの」

「ああ。それに俺が持っているのは、見た目とかで人気が無かったりして使われなくなったものが多い。
 そんな警戒している所に、ゴツイ宝貝でフル武装した男が入り込んだら、襲撃に来たと思われるだろう?」

「それもそうだのう」

 今度は土行孫が太公望に尋ねる。

「師叔。その宝貝、大気を操れるんだったな?」

「そうだが……はっ!」

 太公望は土行孫の視線に気付き、打神鞭を胸に抱え込む。

「やらんぞっ! これは儂が持つ唯一の宝貝なんだからなっ!!」

「誰も寄越せだなんて言ってねえよ」

 土行孫は首を振って否定する。

「そうじゃなくて、大気を操れるなら、この小島の中から、碧雲のことを探せないか?」

「……無理だ」

 太公望は考え込むが、無理だと否定する。

「儂にはそんな高等技術は使えん」

「……そうか」

 土行孫が落ち込む。

「それじゃ、空気を通して伝わる音を、聞き取る事は出来るか?
 もしかしたら、碧雲の声とかが聞こえるかもしれない」

「おお! それなら出来るやも知れぬ」

 太公望は真面目な顔をして、打神鞭を振るった。

「打神鞭よ! 大気を震わせる小さき者の声を、儂に届けよ!!」

 同時に、太公望を中心として、辺りに強風が吹きすさぶ。
 目を閉じた太公望は、苦悶の表情を浮かべる。
 今太公望は、擬似的に順風耳と同じぐらいの能力を行使している。
 その頭の中には、大音量の音が満ちているのだろう。
 慣れない者には、とても辛い作業だ。
 しかし太公望は、文句も言わずにただ宝貝を使い続ける。
 やがて、カッと目を見開いた太公望は、打神鞭で一点を指差した。

「この方向に、助けを求める者の声があった。か細い声だ」

「本当かっ!?」

「間違いない」

 太公望は断言した。

「よし、行くぞスープーシャン!!」

「ラジャーッス!」

 土行孫はスープーシャンを促し、太公望が差した方角へと一直線に飛んだ。

「ああっ! 待てっ! 儂の手柄を横取りする気か!?」

 後ろから太公望が叫んでいるが、土行孫にとってはどうでも良い事だ。
 そのまま聞き流して、スープーシャンを急がせた。
 飛んでいると、しばらく来ていないうちに、地形が僅かに変わっている所があった。
 その麓に、一人の人物が倒れているのが見えた。

「見つけた!」

 土行孫はスープーシャンの背から飛び降り、軽い音を立てて着地する。

「碧雲、大丈夫か?」

「あ……土行孫……様……?」

 目を閉じていた碧雲が、土行孫の呼びかけに、ゆっくりと目を開く。
 どうやら碧雲は、落石事故に巻き込まれていたらしい。
 落ちてきた石に足を挟まれ、身動きが取れなくなったようだ。
 幸い、本当に挟まれただけらしく、出血などは見当たらない。

「待ってろ。今助ける」

「はい……」

 土行孫は土竜爪を使い、穴を掘る。
 下に穴を開け、隙間を作り出して碧雲を助け出すのだ。
 だが、少し掘った所で土行孫の目が曇る。

「要石が真下にある……」

 要石とは、この小島が空を飛ぶための装置だ。
 崑崙からの飛べという命令を受けるアンテナのようなものだ。
 もしこれが破壊されれば、この小島は浮力を失って落下する。
 それが真下にあるという事は、土行孫は穴を掘る事が出来ない。
 もし破壊すれば、碧雲は落下に巻き込まれるだろう。
 落ちていく所を助け出す事も考えなければいけないが、それは土行孫としては遠慮したい。

「仕方ない。地道だけど、石を一つずつ除けよう。スープーシャン、手伝ってくれ!」

「はいッス!」

 土行孫とスープーシャンの二人で、地道に石を除けていく。
 その時、追いついた太公望が、土行孫に声を掛ける。

「土行孫。おぬしらだけでは、その石を全て除けるのは難しいであろう。
 援軍を呼んだほうが良いのではないか?
 再び落石が起きたらどうする?
 下手をすれば……死ぬぞ」

「うるさいっ!」

 土行孫は汗だくになって、石を除けながら叫んだ。

「碧雲はもう二日もここにいるんだ。身体も弱ってる。
 いつまた落石が起こるか分からない以上、だからこそ早く助け出してやりたいんだよ」

「ふむ……」

 土行孫のその背を、太公望は静かに見つめていた。
 だがその時、

「危ないっ!!」

 土行孫の声に反応したか、不安定だった巨岩が上空から降って来る。
 離れて見ていた太公望の声に反応し、土行孫は上を向いた。
 避けられない。
 太公望がそう思った時、土行孫は手を巨岩に向けて翳した。
 すると、ぴたりと巨岩の落下は収まった。
 目を丸くする太公望の後ろから、追い討ちとばかりに白い閃光が迸り、巨岩を粉々に打ち砕いた。

「今のは……?」

 巨岩を止めたのは土行孫であろう。
 しかし、白い光はまた別のモノだ。
 太公望が目を丸くしていると、その後ろから別の声が聞こえた。

「お久しぶりです、太公望師叔。帰っていると聞いて、会いに来ました」

「よ、楊戩ようぜんっ!」

 振り向いた太公望の前には、背中まで伸ばした長い髪を風に靡かせた美青年が立っていた。
 彼こそはこの崑崙でも天才と呼ばれ、賞賛される程の実力を持つ楊戩だった。

「どうですか? 僕の哮天犬こうてんけんの破壊力は。あの巨岩でさえも一撃です」

 楊戩の宝貝『哮天犬』は、一見普通の犬に見えるが、巨岩を粉々に砕くほどのポテンシャルを秘めていたらしい。
 だが太公望には、それ以上に楊戩に聞きたい事があった。

「おぬし……もしや、出待ちしておったのか?」

 楊戩はフッと静かに笑い、太公望の問いには答えなかった。





あとがき

オリ設定入れてみました。
要石とかです。
崑崙の核みたいなもので、破壊されると島自体が落ちます。

太公望ってこんな感じで良いんでしょうかね?
どうもあの思考が読めないんですよね。
頭の良いキャラを書くのは難しいです。

楊戩は確実に出待ちしてたと思う。

次回、おそらく土行孫無双です。



[12082] 第九話 太公望、土行孫にいちゃもんをつける。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 22:20




 巨岩を楊戩が破壊した後、皆で碧雲を助け出した。

「碧雲、大丈夫か?」

 石を除け終えた土行孫が碧雲に尋ねる。

「はい……土行孫様、ありがとうございました」

 ヨロヨロとした足取りで、碧雲は立ち上がる。
 だが衰弱していたせいか、それとも立ちくらみをおこしたか、碧雲は前に倒れこむ。

「おっと」

 足から崩れ落ちた碧雲の身体を、土行孫は支える。
 土行孫の子供の身体に比べて、碧雲の身体は大きい。
 結果、倒れこむ碧雲は、土行孫に抱きつく形になってしまう。

「あ、すいません。今退きますから……」

「いや、弱っているんだから無理するな」

 土行孫は碧雲を抱き上げて、楊戩に向き直る。

「楊戩だったな。悪いけれど、碧雲をさっきの哮天犬に乗せてやってくれないか?」

「うん。構わないよ」

 楊戩はさらりと爽やかに了承する。

「僕もそうしようと思っていた所だからね。
 スープーシャンは二人を乗せるのは難しいし、落ちるかもしれないから一人で運ぶ訳にはいかない。
 白鶴童子の足に掴まるのは、疲れている碧雲さんには辛いだろうからね」

「ああ。哮天犬なら二人くらいは大丈夫だろうし、宝貝なら、持ち主が一緒にいたほうが良いしな」

 楊戩は哮天犬を土行孫の前に出す。
 土行孫は碧雲をその背に乗せる。
 碧雲は土行孫を見つめる。

「あの、土行孫様はどうするんですか?」

「俺はここに残るよ。結構疲れたから」

「すいません。私のために……」

 すまなそうな顔をする碧雲。
 土行孫はその肩をポンと軽く叩いた。

「気にするな。無事に助けられて良かったよ。
 明日にでも会いに行くから、竜吉公主にはよろしく言っておいてくれ」

「はい……」

 その碧雲の後ろに、楊戩が軽やかに乗り込む。

「それでは、碧雲さんは僕が責任を持って、竜吉公主のもとへと連れて行きます」

「ああ。頼んだぞ」

 土行孫がそう言うと、哮天犬はフワリと空を飛ぶ。

「それじゃ、私もここらでお暇しますね」

 一緒に石を除けるのを手伝ってくれた白鶴童子が言った。

「ああ。ありがとう」

 そして白鶴童子は元始天尊のもとへと飛び、楊戩と碧雲を乗せた哮天犬は、竜吉公主の住まう鳳凰山へと一直線に飛んでいった。

「ふう……」

 見えなくなるまで見送った土行孫は、その場にべしゃっと崩れ落ちた。

「疲れた……」

「よくやったのう、土行孫」

 その土行孫を、太公望が労う。

「しかし……良いのか?」

「何がだ?」

 太公望が土行孫に尋ねるが、土行孫は意味が分からなかったのか聞き返した。

「このままでは、楊戩に手柄を持ってかれるぞ。あやつ、そういうところはちゃっかりしておるからの」

「何だ、そんな事か」

 土行孫は鼻で笑う。

「そんなのより、碧雲の無事を知らせる方が大事だ。俺はそんなのどうでもいい」

 土行孫は目を閉じて、ガクリと頭を垂れる。
 疲労が限界に達したか、眠りに落ちたようだ。

「ぬぅ……」

 太公望の頬に汗が一筋伝う。

「眩しいっ! あやつから放たれるオーラが眩しいっ!」

 土行孫の放つオーラに焼かれぬよう、太公望は目を押さえる。

「何故だ……。あやつ、あのような潰れた饅頭みたいな顔しておるくせに……。
 それなのに……何故儂は、あやつを格好良いと感じてしまうのだ……!?」

 太公望は叫ぶが、眠りに落ちている土行孫に、その言葉は聞こえなかったようだ。
 代わりに、傍にいたスープーシャンが同意した。

「本当ッス。まるで、土行孫さんが主人公みたいッス」

「なにっ!?」

 太公望がスープーシャンの目を見る。
 その目は、自分のした事を鼻にかけない、土行孫の性格に感動しているようだった。
 そして、じろりとスープーシャンは太公望を見遣る。

「それに比べて、うちのご主人と来たら……」

「う……」

 冷めた視線に、太公望がたじろぐ。

「はっ!?」

 そこで太公望は嫌な事に気が付いた。

(もしかして、このままだと儂は解雇されるんじゃ……)

 太公望の嫌に働く頭脳が、最悪の妄想を掻き立てる。





「太公望よ。おぬし、もう封神計画やらなくていいよ」

「な、何故です!? 理由を仰ってください、元始天尊様!!」

「だっておぬし、弱いんじゃもん」

「そんな!?」

「おぬしを鍛えようと思って試練を課したが、あまりの情けなさに儂も呆れかえったわ。
 これからは、この土行孫に封神計画を託す事にする」

「そうだ、太公望。あとは俺に任せて、お前はゆっくり昼寝でもしていろ」

「そうッス。それじゃ、新しいご主人。行くッスよ」

「そうだな」

「ああ! 待ってくれスープー! 儂を見捨てないでくれ~っ!!」





 ヤ  バ  イ

 太公望の顔が引き攣る。
 スチャッと打神鞭を構える。

「あれ? ご主人、打神鞭なんか取り出して、いったい何するつもりッスか?」

 スープーシャンが太公望を見て尋ねた。
 もう宝貝を使う必要なんてないはずだ。
 碧雲は助け出されたし、あとはやる事など無いのだから。
 だがスープーシャンのその言葉に、太公望は暗い笑みを浮かべる。

「フッ……これはの、こうするのだ!!」

 太公望は打神鞭を振るい、風の刃を発生させる。
 刃が飛んでいった先には、未だ眠りこけている土行孫がいた。

「ぐはあっ!?」

 眠りに落ちたところで攻撃された土行孫は、なす術も無く直撃を食らう。

「な、何してるッスか!? ご主人、相手は土行孫さんッスよ!?」

「ええいっ! 黙れスープー! 今あやつを亡き者にしておかねば、儂の主人公の座が危ういのだ!!」

 太公望は吹き飛ばされた土行孫を見る。
 しかし、風が巻き起こした砂煙で、土行孫の姿は見えない。

「あやつを倒す事で、今一度、儂がこの少年漫画の主人公であるという事を、読者に思い知らせねばならぬのだ!!」

「思い出させるんじゃないんッスか!? ていうか止めて下さいッス! そこまで堕ちたら駄目ッス!!」

「ええい! 放せっ! あやつの名も封神の書に記されておったから、これで丁度良いのだ!!」

 太公望の腕にしがみ付くスープーシャン。
 太公望はそれを振り払おうと腕を振る。
 しかし、浮いているスープーシャンは、器用に太公望にくっついたまま放れない。
 そこに低い声が割って入る。

「……いきなり、何しやがる……」

 砂煙が晴れた後には、土竜爪を構え青筋を立てた土行孫が、太公望を睨んでいた。
 その視線を受けて太公望が一歩下がる。

「ほ、ほれ見ろ、スープー。おぬしが邪魔をするから、儂が倒す前にあやつが起きてしまったではないか!」

「僕のせいにする気ッスか!?」

 人のせいにされたスープーシャンが目を見開く。

「だいたい、寝ている土行孫さんに向けて、いきなりご主人が宝貝使ったのが悪いんじゃないッスか!」

「あ、バカっ!」

「ほう……?」

 太公望がスープーシャンの口を塞ごうとするが、土行孫には聞こえていたらしい。
 ギロッと太公望を睨む視線を強くする土行孫。

「いったい、どういう事だ?」

「う……」

 太公望が尻込みするが、覚悟を決めて、土行孫に打神鞭を向ける。

「土行孫! おぬしに決闘を申し込む!!」

「……決闘だと?」

「そうじゃ。儂が勝てば、おぬしは儂の手下になれ。おぬしが勝てば、仕方ないが儂の下で働かせてやろう」

「それ、土行孫さんに何のメリットも無いじゃないッスか……」

 スープーシャンが呆れた表情で太公望を見る。
 土行孫も同じ視線を太公望に向けた。

「あほらしい……」

 土行孫は再び座り込む。
 付き合ってられないと思ったのだろう。

「ああこらっ! 儂が決闘を申し込んでいるというのに、無視をするな!」

「呆れてるんだよ」

「むぐぐぐ……!」

 太公望は歯軋りをする。

「フンッ! おぬしはたしかに強いだろうさ。
 しかし、いくら宝貝蒐集家といえど、今はその地中を潜るしか出来ない土竜爪しか持っていないのであろう?
 おぬし、先ほど自分で言っておったものな。
 ならば好都合。おぬしを倒して、儂の肩書きに箔を付けてくれるわ!」

「……俗っぽいッス、ご主人」

 スープーシャンがさめざめと泣きながら言った。
 太公望は高笑いをしながら、宝貝を振るった。

「ダァーッハッハッハ! 食らえ土行孫! 打風刃、最大出力。じぇぇい!」

 振るった打神鞭の先から、風の刃が発生する。
 それは、先ほど土行孫に放った刃の、倍以上の大きさと速さだった。
 迫り来る打風刃を一瞥して、土行孫は溜め息を吐いた。

「はあ……」

 土行孫は一瞥した後は打風刃を見ようとせず、片手を地面に突き刺した。
 ボゴッ! っと土行孫の目の前の地面が、爆発するように盛り上がる。
 その土は、壁となって打風刃を受け止めた。
 土の壁に防がれ、砕かれた風の刃は、土行孫にそよ風さえも与える事は無かった。
 相殺されてボロボロと崩れ落ちる土の間から、土行孫は無傷で現れた。

「な、何だと!?」

 太公望が目を見開く。
 今のはたしかに、かなりの力を込めて放ったはずなのだ。
 だがそれを、土行孫は一動作で防ぎきった。
 一つしか持っていないと言っていた、土竜爪一個で、だ。
 その土行孫は、今度はもう一方の手を地面に突き刺す。
 すると、地面がボコボコと盛り上がりながら、太公望のもとへと突き進む。
 太公望の足元まで来た盛り上がりは、再び爆発するように弾ける。

「ぬ、おおおおっ!?」

 その土は太公望を巻き込み、頭だけ出した状態で、土の中に太公望の全身を閉じ込める。
 太公望は、頭だけを出した彫像のようになってしまった。
 
「ぬおおおっ!? 何じゃこりゃあっ!?」

 動けなくなった太公望が叫ぶ。
 土行孫はそれを見つめながら、ポツリと言った。

「この辺りは風が強い。そのまま少し、頭を冷やせ」

「ぬうううっ! スープー! 助けてくれスープー!」

 太公望はスープーシャンに助けを求める。
 だがスープーシャンは、未ださめざめと泣いていた。

「情けないッス。すごい情けないッスよ、ご主人……」

 自分から勝手にいちゃもんを付けて勝負を挑んで、それで返り討ちにあったら、すぐに助けを求めて泣き付く。
 そんなのが自分の主人だとなれば、誰だって泣きたくもなるだろう。

「僕は土行孫さんに賛成ッス。ご主人は少し頭を冷やした方が良いッスよ」

「スープー!? おぬし、儂を裏切るのか!?」

「ご主人のためを想って言ってるッスよ……」

 そのスープーシャンに、土行孫は声を掛ける。

「スープーシャン」

「はいッス。何ッスか?」

 振り向いたスープーシャンに、土行孫は思い出した事を伝える。

「太乙真人様を迎えに行ってくれないか? あの人、高所恐怖症だし……」

「ああ、それなら太乙さんは九竜神火罩きゅうりゅうしんかとうを持って……」

 そこまで言った時、スープーシャンはある事を思い出す。
 たしか、太乙真人は弟子のナタクを反省させるために、九竜神火罩を使っていたはずだという事を。
 その後に、自分とドライブに出かけたのだという事を。
 であれば、移動手段のない太乙真人は、未だにあの場所に居る事になる。

「す、すぐに迎えに行くッス!」

「ああ、頼んだ。太乙真人様によろしくな」

「はいッス!」

「ああ、スープー! 儂を置いて行くでない!」

 太公望が叫ぶが、スープーシャンはそれを一瞥しただけで、太公望を無視して飛んでいった。

「見捨てられた……」

「自業自得だ」

 ガクリと頭を垂れる太公望に、土行孫は止めを刺した。
 頭を上げた太公望は、土行孫に恨み言を言う。

「だいたいおぬし、卑怯ではないか。
 地面に潜るだけの宝貝とか言っておきながら、こんな事が出来るとは聞いておらぬぞ?」

「俺はそんな事一言も言ってない」

 喚く太公望に、土行孫は首を振って否定した。

「師匠からも、貰った時には、そんな事を言われたけどな。
 でも、地面に潜る掘削用なら、スコップとかドリルとか、もっと掘りやすい形状があるだろう?
 そんなんじゃなくて、これは本来、土を操る宝貝なんだよ」

「な、なるほど……」

 太公望は納得する。
 それならば、自分がこうして土で固められた中に、閉じ込められた事も説明が付く。
 土行孫は自虐的に言った。

「だいたい、俺は飛行術も使えないしな。
 さっきの楊戩みたいに、天才なんかじゃないんだよ。
 その代わりに、宝貝の扱いに長けるよう、応用を利かせているだけだ」

 太公望は土行孫の言葉に首を傾げる。

「む? 飛行術が使えない? だがおぬし、儂が蹴飛ばしたとき、浮いておったではないか」

 太公望が土行孫と出会ったとき、太公望はスープーシャンの背から土行孫を蹴り飛ばした。
 土行孫は僅かに堕ちていったものの、すぐに体勢を整えて浮いていたはずだ。
 しかし、土行孫は首を横に振る。

「あれは浮いていたんじゃない。足元に空気中の塵を集めてから足場にして、その上に立っていただけだ」

「なんと……!」

 土行孫の言葉に、太公望が目を見開く。

「その様な事が出来るのか?」

「まあな。練習は要るけど」

 土行孫は頷くと、太公望に問いかける。

「なあ、太公望。『土』って、何だと思う?」

 質問の意図が見えず、太公望は眉を顰める。

「何を言っておる。土は土であろうが。儂を拘束しているこれも、おぬしが今座っている場所も、全てが土だ」

「その通りだ。でもな、俺が言いたいのは、それじゃないんだよ」

 土行孫は土を一握り持ち上げる。

「土っていうのは、いろんな物を含んでいる。
 小石、砂、泥、それらはただの粒の大きさの違いでしかない。
 粘土や生物の死骸、腐植土なども土だ。
 土っていうのは、無機物、有機物問わずに全部ひっくるめて、土なんだよ。
 俺が落下を止めたあの巨岩も、俺が足場にしている塵も、全部が土だ」

 風に飛ばされて、土はサラサラと飛ばされて行った。

「それじゃあさ……土を操るってのは、いったい何処まで出来ると思う?」

「……」

 太公望は黙った。
 それがどれほど凄い事なのか、理解出来たからだ。

「……形あるものは全てが土であり、それを操る事が出来るという事か……」

「意志のあるものは無理だけどな」

 土行孫は軽く言った。

「おぬし、楊戩とはまた違った、別の天才じゃのう……」

 そんな土行孫を見つめながら、太公望はポツリと言った。

「よしてくれ。そんなの、柄じゃねえよ」

 土行孫は笑った。





あとがき

以上、土行孫無双でした。
楊戩と戦うと思った方、すいませんでした。
相手は太公望です。
太公望は力自体は弱いので、これぐらいは出来るでしょう。
楊戩だったら、もう少し苦戦するでしょうが。

太公望の不幸は、これが少年漫画じゃなくて、それを元にした小説だったという事ですね。
太公望ってこんな感じだと思うんですけど、どうでしょうか?

今回土について、土行孫が独自の理論を展開しています。
ようは、宝貝は意志に反応するので、出来ると思えば大抵の事は出来るはずだ、という土行孫の考えです。
これだけ書けば、それなりに強くても良いんじゃないかと思ってます。




[12082] 第十話 土行孫、楊戩に決闘を申し込まれる。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 22:22





「ん?」

 太公望と会話していた土行孫が、視線を空へと向ける。
 そこには、白い大型犬に乗って、こちらへと素早いスピードで飛んでくる人影があった。

「楊戩か。戻って来たのか」

 無事に碧雲を送り届けた事の報告だろう、と土行孫は当たりをつける。
 未だに土の像の中に閉じ込められている太公望が、楊戩を見ている土行孫に声を掛ける。

「のう、土行孫。楊戩も帰ってきたのだ。
 そろそろ、この拘束、解いてくれぬか? 
 儂もそろそろ、自由になりたいのだが……」

「スープーシャンが戻ってくるまではそのままだ。今開放したら、また攻撃してきそうだからな」

「そんな……スープー、早く戻ってきてくれ……」

 太公望が未だ影も形も見えないスープーシャンに助けを求める。
 しかし、都合良くスープーシャンが戻ってくるはずも無かった。
 だが、太公望の願いは、予期していなかった事態によって達成される。
 その間にも哮天犬は、グングンとスピードを上げてこちらへと近づいて来る。
 その加速具合に、土行孫は既視感を覚えた。
 あれはいつだっただろうか。
 たしか、ごく最近だったような気がするのだ。
 だが、土行孫が答えを出す前に、哮天犬は突っ込んできた。
 太公望を閉じ込めた土の像へと。
 轟音を上げて像は砕け、砂煙が舞い上がる。
 土行孫がそれなりに硬めに作った像であったが、巨岩を粉々にする破壊力を持つ哮天犬には勝てなかったらしい。

「ギャアアアアッ!!」

 巻き込まれた太公望が悲鳴を上げる。
 ちなみに楊戩は、直撃の寸前で哮天犬から飛び降り、事無きを得ている。
 土行孫はそれを見ながら、頭に引っかかっていた事を思い出した。

「そうだ。黒点虎の時と似ているんだな」

 どうでも良いことではあるが、胸のつかえが取れた土行孫はすっきりした。
 そして、静かにこちらをこちらを見つめている楊戩を見遣る。

「で? 何で楊戩は、俺に殺気を向けてるんだ?」

 楊戩は土行孫に、丸めた布のような物を投げつけた。
 パサリと土行孫の足元に落下したそれは、白い手袋だった。
 土行孫はそれを見て眉を顰める。

「手土産か? 果てしなく意味の無い物を渡すな」

「違う!」

 楊戩は手に持っている、大きなフォークの形をした宝貝を土行孫に向ける。

「土行孫。君に決闘を申し込む!」

「……はあ?」

 土行孫が呆れた声を出す。

「お前も師叔と同じ、俺を倒して箔を付けようとかいうやつか?」

「違う。僕の理由は至極真っ当な物だ」

「ほう? 一体なんだ? 決闘を申し込むほどの理由ってのは?」

「良いだろう。何も知らずにやられるなんて、可哀想だからね。特別に教えて上げよう」

 楊戩は語り出した。
 自らに何が起きたのかを。
 どうして土行孫を恨む事になったのかを。





 美しく端麗でビューティフルな楊戩は、落石事故に巻き込まれた碧雲を華麗に助け出した。
 そして彼女の師匠である竜吉公主の下へと、彼女を送り届けたのだ。
 碧雲を抱きかかえて鳳凰山の中へと運ぶと、仙界一とも名高い竜吉公主が出て来た。

「碧雲!」

「竜吉公主様!」

 優しい楊戩が彼女達の想いを汲み取り、碧雲を優しく下ろすと、碧雲は竜吉公主とヒシッと抱き合った。

「無事であったのだな。良かった」

「ごめんなさい、竜吉公主様。土行孫様と、そちらにいる楊戩様が、私を助け出して下さったんです」

「何、そうか」

「はじめまして。玉鼎ぎょくてい真人門下の楊戩と申します」

 竜吉公主は有名な楊戩の名に、聞き覚えがあったようだ。
 いつも浄室に居る身であろうと、楊戩の高名は轟いていたらしい。

「玉鼎の所の天才道士か。楊戩、碧雲を助け出してくれた事、鳳凰山を代表して感謝する」

「いえ、困った人が居たのなら助ける。人として当然の事をしたまでです」

 白い歯をキラリと輝かせ、爽やかな笑顔を見せる楊戩。
 しかし、あろうことか竜吉公主は、格好良い楊戩から目を逸らすと、碧雲に尋ねた。

「ところで、土行孫はどうした?」

 キョロキョロと辺りを見回す竜吉公主。

「え? あの……」

 楊戩が声を上げるが二人には聞こえなかったらしい。
 碧雲はもじもじとしながら、竜吉公主に言った。

「土行孫さんは、私を助けるのに力を使ったので、お疲れになってます。明日にはこちらへ参られるそうです」

「ふむ、そうか」

 竜吉公主はフッと笑うと、碧雲に言った。

「碧雲を助け出してくれたのだ。あやつには何か、礼をせねばなるまいな」

「はい!」

 碧雲も頷いた。






「と、言うわけなんだよ!」

「何がだ?」

 正直、今の話を聞いても、土行孫には楊戩が怒る理由が全く分からなかった。
 そして、それ以上に気になる事が出来てしまった。
 哮天犬の直撃で、ビクビクと痙攣している太公望に、土行孫は話しかける。

「なあ、師叔」

「……何だ」

 どうやら意識はあるようだ。
 だがしかし、その声はとても弱々しい。

「今儂は死んでおるのだ。邪魔をするでない」

「そんな事はどうでもいい」

 太公望の言葉を、土行孫はあっさり切り捨てる。
 呼び方は師叔であるが、既に太公望に対する敬意など、欠片も見当たらない。

「楊戩っていったい何なんだ?」

 土行孫は楊戩を見つめながら言った。

「いきなり公主や碧雲に変化して、一人三役で小芝居始める奴を、俺は初めて見たぞ」

「ナレーションも入れておったのう。おまけに、自分の名前の所だけ華美な脚色して」

 土行孫の言葉に、太公望が補足を入れる。
 ボロボロの状態でも、話はちゃんと聞いていたようだ。

「美しいとビューティフルって、同じだよな」

「あやつはナルシストで、その上良く分からん変な趣味があるからのう」

「なるほど。馬鹿と変態は紙一重っていうものな」

 土行孫は頷き、可哀想な目で楊戩を見る。
 楊戩が土行孫に叫ぶ。

「そんな目で僕を見ないでくれ!」

「いや、だってなぁ……」

 土行孫としては、変態とはとんと縁が無いものだった。
 だからどういう対応をすれば良いのか分からないのである。
 楊戩は土行孫に指を突きつける。

「キューピー人形を踏み潰したような顔の君が、美しい顔の僕よりも目立つなんておかしい。
 だから僕は、君の力を試す。決闘して、僕を納得させてもらおうか」

「おい、それの何処が至極真っ当な理由なんだ?」

 土行孫は呆れる。
 顔に付いての暴言など、どうでもいいと感じてしまうほどに下らない理由だった。

「諦めろ、土行孫。おぬしが実力を見せない限り、あやつは納得せん」

 太公望が震える声で言った。

「儂の時も、儂の都合を無視して、テストをすると言ってきたからのう」

「……まあ、いいか」

 土行孫は手袋を拾い上げる。
 それは決闘を受けるという宣言だった。

「最近は人相手に戦ってなかったからな。天才道士相手なら本気でやれるだろう」

 土行孫は楊戩に手袋を投げ返す。
 片方だけの手袋など、持ってても何の役にも立たないからだ。

「だけど、今日は疲れてるから、また今度にしてくれないか?」

 土行孫の提案に、楊戩は頷いた。

「いいだろう。
 疲れてる君と戦ったところで、僕は君の力の全てを見ることは出来ないからね。
 決闘は一週間後。それでどうだい?」

「ああ。分かった」

 土行孫は頷いて了承した。

「それじゃ……」

 楊戩の身体がブレる。
 変化をしたのだ。
 そして出てきた人物は、派手な格好をした一人の女性だった。
 際どい衣装を着たその女性は、土行孫にふりふりと手を振る。

「じゃあね、土行孫ちゃん♡ 精一杯がんばって、妾を楽しませてねん♡」

「は?」

 ウィンクをしたその女性に、土行孫の目が丸くなる。

「ヒューッホホホホホ!!」

「あ、おい……」

 楊戩が変化したその女性は、高笑いをしながら去って行った。
 土行孫はそれを唖然とした様子で見送る。

「言ったであろう? あやつには変な趣味があると」

「……俺には理解出来ねえ……」

「儂もだ」

 仙道としてはまだ百年も生きていない二人は、二人して同時に年寄り臭く溜め息を吐いたのだった。




あとがき

今回、キューピー人形を踏み潰したような顔って書きたかっただけ。
実はこれ、金八先生が以前、生徒の顔を説明するときに言っていた言葉です。




[12082] 第十一話 土行孫、新宝貝ゲットだぜ!
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 22:28





 翌日。
 土行孫は碧雲との約束を果たすため、竜吉公主の住まう鳳凰山へと足を運んだ。
 碧雲を助け出した事が、既に広まっていたのだろう。
 土行孫を見かけた者たちと通路で顔を会わせる度に、彼女達は土行孫に深々とお辞儀をした。
 竜吉公主の直弟子である碧雲が、どれだけ皆に大事に想われているか、良く分かるものである。
 特に、碧雲を見つけ出せなかった門番は、泣きながら土行孫に礼を述べていた。
 そのせいで変な目で見られそうだった土行孫は、必死で門番を慰めるはめになった。
 門の外だったので、他に誰もいなかった事が土行孫の救いである。
 竜吉公主に会う前に、余計な疲労を溜めることになったが、それは余談だ。

「公主、碧雲の様子はどうだ?」

 浄室まで来た土行孫は、竜吉公主に碧雲の様子を尋ねる。
 竜吉公主は薄く笑みを浮かべ、碧雲を呼ぶ。

「失礼します」

 コンコンと扉をノックして入って来た碧雲は、昨日よりもずっと血色が良くなっていた。

「この通りじゃ。もうすっかり碧雲は元気になったぞ」

 竜吉公主が碧雲を見ながら言った。
 治療が効いたのだろう。
 治癒と関わりの深い水の仙女である竜吉公主に掛かれば、あの程度の衰弱などモノともしないらしい。
 汚れも綺麗に落ちた碧雲は、昨日よりもずっと美しく見えた。

「あの辺りは人があまりいないので、いくら助けを呼んでも、誰も来てくれませんでした。
 一日が過ぎても、誰も通りませんでした。
 二日が過ぎても、誰も私に気付いてくれませんでした。
 もう駄目か、と半ば思っていました。でも、諦めなくて良かったです。
 土行孫様、助けていただき、本当にありがとうございました」

 碧雲は土行孫に感謝の意を込めて頭を下げる。
 頭を上げた碧雲の肩に、竜吉公主は手を置く。

「私からも礼を言おう。碧雲を助けてくれた事、感謝する」

「ああ」

 土行孫は頷いた。

「手伝ってくれたスープーシャンたちにも伝えておく。あいつらも、碧雲が元気になった事を知れば喜ぶだろう」

「なに? 太公望が戻って来ておるのか?」

 竜吉公主が土行孫に尋ねる。
 どうやらその事は知らなかったようだ。

「スープーシャンがご主人と呼んでいたしな。間違いない」

 本人の名乗りよりも、知己であるスープーシャンの言葉を信用した土行孫だった。

「あ、お茶持ってきますね」

 話が長くなると判断したか、碧雲がパタパタと足早に浄室を出て行く。
 残された二人は座り込み、話に花を咲かせる。
 お茶を持ってきた碧雲も加わり、場は賑やかになる。

「それでな。碧雲を見送った後に寝ていた俺に、いきなり太公望が攻撃してきたんだよ」

「うわ……酷いですね、それ」

 碧雲が眉を顰めながら、率直な感想を言った。

「疲れてる土行孫様に、追い討ちを掛けるような事をするなんて」

「そうじゃのう」

 竜吉公主も同意する。

「その理由が、俺を倒して箔を付けるからだと。
 よく分からなかったから土の中に閉じ込めたら、スープーシャンに助けを求めていたな」

「情けない……」

 竜吉公主がこめかみを押さえる。

「仮にも封神計画の遂行者が、そのような事で良いのか」

「どうなんだろうな。でも、公主の言うとおり、よく分からないやつだったな」

「ほう?」

 竜吉公主の目が輝いた。

「俺は、太公望を土の中に閉じ込めはしたけど、ただそれだけだ。
 あいつは宝貝を持ったままだった。
 大気を操る宝貝を持っているんだから、あの程度の拘束なんて自力で抜け出せるだろうに。
 でもあいつは、掴まったら即座にスープーシャンに助けを求めて、抜け出そうとしなかった。
 そこが何か引っかかるんだよな」

「つまり、捕まったのはわざとだと、おぬしはそう言いたいのか?」

「う~ん……わざと捕まったようには見えなかったんだけどな」

 竜吉公主が問うが、土行孫は首を傾げる。
 土行孫の作った土の中に、太公望は閉じ込められる。
 それが自然だったと感じたのは確実だ。
 でも、だからこそ気になるのだ。
 封神計画ほどの大きい計画を任せられる太公望が、あっさり捕まるのはおかしいと。
 あの程度の拘束さえも自力で破れない者が、妖怪仙人たちを倒す事など出来るわけが無い。
 何がしたかったのか、土行孫にはよく分からなかった。
 そして、土行孫は太公望の評価を付ける。
 あいつはやはり狸だ、と。
 そして話は楊戩との決闘へと移る。

「おぬしと楊戩が、か?」

「ああ。相手が天才道士なら、役不足という事も無いだろう。
 強力だから、人に向けて撃った事の無い宝貝もあるからな。
 この際、試させてもらう」

「ほう。面白そうじゃな」

 竜吉公主の目に、楽しそうな色が浮かぶ。

「でも、あまり使えないのが難点だな」

 土行孫が不満げに語る。
 宝貝蒐集家と言われていても、いつも大量に持ち歩いている訳ではない。
 宝貝を多く身に着けていると、それだけで消耗するのだから。
 いつもは土竜爪をメインに、補助として宝貝を二つくらい持つ程度だ。
 そもそも戦いに行く訳でも無いのに、普段から武装している訳が無いのだ。

 大きな宝貝を幾つも持てば、その分動きも遅くなる。
 色々と宝貝を持っていれば、それだけ攻撃手段が増える。
 だが、複数の宝貝を使うのは、一つの宝貝を使うより遥かに手間が掛かるのだ。
 複数の宝貝の中から、状況に応じて一つを選択しなければならないのだから。
 相手が天才と呼ばれている以上、易々と勝たせてはくれないだろう。
 戦闘が長く続けば、それだけ判断も鈍る。
 だから、精々二つ、多くても三つぐらいしか使えないだろうな、と土行孫は考える。
 土行孫の言葉を聞いて、竜吉公主は碧雲に目配せをする。

「それなら丁度いい。アレをここへ」

「はい」

 碧雲は頷き、部屋を出て行く。
 竜吉公主がはっきりと言わなかった事に、土行孫は疑問を浮かべる。

「なあ、アレってなんだ?」

「すぐに分かるさ」

 と、土行孫が尋ねても、竜吉公主はそう言ってはぐらかす。
 すぐに分かるというのなら、と土行孫は引き下がる。

「お待たせしました」

 戻ってきた碧雲のその手には、灰色の服が乗っかっていた。

「これをどうぞ」

 土行孫はその服を渡され、良く分からないまま広げてみると、それはコートだった。

「着てみろ」

「あ、ああ……」

 竜吉公主に促され、土行孫は服の上から灰色のコートを着込む。
 それは土行孫に合わせたように、ピッタリのサイズだった。
 竜吉公主がその姿を見て、感想を述べる。

「中々似合っておるではないか」

「あ、ありがとう。でもこれは……?」

 言われるがままに着たものの、何がなんだか良く分からない。
 土行孫が首を傾げていると、竜吉公主が説明する。

「その外套は、内旗門ないきもんという宝貝じゃ。
 身に着けた者の姿を、一時的に消す事が出来る」

「え? これ、宝貝だったのか?」

 言われて初めて、土行孫がその事に気付く。
 土行孫がコートを触って感触を確かめてみるが、明らかにただのコートにしか見えなかった。

「おぬしにそれをやろう」

「え? 良いのか?」

 土行孫が問う。
 本当に貰ってもいいのかと。
 竜吉公主は頷いた。

「もともと蔵に放り込んであったものだ。
 このまま死蔵されるよりは、おぬしに使ってもらったほうが良かろう。
 放っておいて、妖怪仙人にでもなられたら面倒だしの」

「それはそうだが……」

 妖怪仙人とは人以外の生物、あるいは無機物が、千年以上月日の光を浴びる事で、魔性を帯びたものだ。
 土行孫が使われなくなった宝貝を集めているのも、これが理由の一つになっている。

 土行孫がこの身体になる前にいたところでは、長年使われた器物は、九十九神と呼ばれるものになると云われていた。
 もちろん、それは物を大切にしましょう、という教訓のようなものだ。
 だがこの世界では、それは現実の事となる。

 宝貝が原型の妖怪仙人ならば、その力は強大となるだろう。
 だから土行孫が、そうならないように使っているのだ。
 捨てられた宝貝が妖怪仙人になれば、その事に怒りを覚えるだろう。
 宝貝としてちゃんと使われていれば、もし妖怪仙人になっても、そんな事にはならない。
 土行孫が宝貝を集める理由には、そんな打算も僅かに含まれているのだ。

「おぬしは碧雲を助けてくれた。私との約束を守ってくれた。だから、それに報いたいのじゃ」

「ちなみに、裾上げは私がしました。竜吉公主様は、こういう事には不器用ですから」

 横から碧雲がニコニコとしながら割り込む。
 竜吉公主は碧雲をじろりと見遣り、窘める。

「これ、碧雲。余計な事は言わずとも良い」

「は~い」

 碧雲は反省しているのか良く分からない声で返事をする。
 それから土行孫に向き直り、碧雲は言った。

「土行孫様の体格に合わせて、ばっさり切りましたから、他の人には使えませんよ」

 たしかに、土行孫の子供の体格では、他に合う人はいないだろう。
 太公望なら、無理をすれば着れるかもしれないが、それでもきつい。
 土行孫よりも小さい道行天尊なら、もっと切らなければいけなくなる。
 つまり、土行孫以外に、この内旗門を着れる者がいなくなったという事だ。

「その内旗門は、内側に別の細工をしてある。楊戩と戦うというのであれば、役に立つであろう」

「……ありがとう」

 土行孫はコートをギュッと握る。

「それじゃ俺は、楊戩との決闘に備えることにするよ」

「ああ」

頷いた竜吉公主が、浄室を出て行こうとする土行孫に声を掛ける。

「土行孫」

「何だ?」

 顔だけ振り向いて聞き返した土行孫に、竜吉公主はフッと笑って言った。

「勝てよ。天才道士の鼻を明かせてやれ」

「任せろ。こんな物までもらって、不様なところは見せられないからな」

 竜吉公主の応援に、土行孫はニヤリと笑い返して浄室を出て行った。
 あとには、竜吉公主と碧雲の二人が残された。

 竜吉公主は土行孫が出て行った扉を見ながら、ポツリと言った。

「相変わらず、新しい宝貝を手にした時のあやつは、ただの童と変わらんな」

「そうですね。普段は私よりも年上っぽい感じなのに」

 碧雲もその事に同意する。

「でも良いんですか?」

「何がだ?」

 碧雲の問いに、竜吉公主は問い返す。
 碧雲は竜吉公主も知っていることを改めて言った。

「内旗門は、竜吉公主様の外旗門がいきもんと対を成すもの。
 竜吉公主様のお母様が、竜吉公主様の嫁入り道具に、と渡されたものなのでしょう?
 それをあっさりあげてしまって……」

「なに、構わぬ。
 あやつにも言ったように、放っておいても使う事などあるまい。
 ならば、私がしたいようにするさ。
 母上も理解してくれよう」

「はあ、そうですか。土行孫様、あの事に気付いてくれると良いですね」

 碧雲は竜吉公主に、含みを持たせた言葉で言った。

「気付かなくとも良いさ。私は見返りが欲しくて、あやつに内旗門を渡した訳ではないのだから」

 竜吉公主は、薄く笑みを浮かべてそう返した。









「ま、別に『それ』でも構わんがの」

「え? 竜吉公主様、何か言いましたか?」

「いや……何でもない」





あとがき

ちょっとお茶目な公主様。
ていうか、まだ土行孫に何を使わせるか全然決まらない。
勝負の結末は考えてあるんですけど、そこに至るまでの戦いがねえ。


書いてて思ったんですけど、宝貝が原型の妖怪仙人っていませんよね。
そこが不思議です。
霊獣もスープーシャンとか1500年は生きてるはずなのに、ただの霊獣ですし。
霊獣で妖怪仙人目指そうとしたやつとか、いなかったんでしょうかね。
宝貝も妖怪仙人になるかもしれない、というのはオリ設定です。




[12082] 第十二話 土行孫、楊戩と決闘する。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 22:36





 土行孫は楊戩を待っていた。
 今日は決闘の日である。
 細かな時間など決めていなかったので、時間よりも早めに来ていた。
 こんなところに、時間に正確であろうとしていた昔の自分を思い出す。
 土行孫はこの身体に取り憑いてから、既に昔の自分よりも長く生きてしまっている。
 だがそれでも、幼い頃に躾けられた事は、しっかりと土行孫の内に残っている。
 目を閉じ、これから戦う事を考えると、別に死に逝く訳でもないのに、走馬灯のように昔の事が思い出されるのだ。
 普段は気にしないが、それが土行孫には嬉しい。
 なんであれ、自分という存在が居たことを確かめる術が、今の土行孫にはその記憶しかないのだから。

「……来たか」

 ゆっくりと目を開ける。
 三尖刀さんせんとうを右手に携えた楊戩が、そこに立っていた。
 土行孫は楊戩に向けて口を開く。

「遅いぞ」

「時間は指定していなかったはずだけど?」

「こんなにも待たされたんだ。少しぐらい愚痴を言ってもいいだろう?」

「僕は君と違って、お肌のお手入れに余念が無いんだよ。
 この美しい顔にシミでも出来てしまったら、仙人界の損失だからね」

「抜かせ。お前一人の顔がどうなったところで、変わるものなんてほとんどねえよ」

「それは僻みというものだね。この美しさが理解出来ないなんて」

「偉い自信だな」

「当然だね。自分に自信が無ければ、そんな事は言わないよ。
 そして僕は、自信を持てるだけの美しさも、力も、人気も兼ね備えているのだから」

「ふん。そのプライドが、お前の足を引っ張る事になると思うがな」

「やってみるかい? 出来るものならね」

「負けられないんだよ。約束があるんでね」

「……」

「……」

「……」

「……」

「来るが良い、土行孫! 僕に君の力を見せてもらおう!!」

「良いのか? そんな余裕かましていて。油断してると……その高い鼻が圧し折れるぜ!」

 土行孫が大地に土竜爪を突き立て、決闘の幕が上がった。






 離れた場所から見ていた太公望が、土行孫と楊戩の間に、見えない火花が散るのを見て言った。

「どうやら、始まるようだのう」

「うん」

「でもご主人、こんな事していて良いッスか?」

「何がだ?」

 隣にいたスープーシャンが太公望に尋ねる。

「だって……どう見てもご主人、ただの野次馬にしか見えないッスよ? ……主人公のくせに」

「そうだね」

「う……」

 ボソリと言ったスープーシャンのツッコミに、太公望の顔が引きつる。

「ええい、黙れスープー! 
 少年誌の主人公というものは、最後に勝つから主人公なのだ。
 今は雌伏の時よ。
 必ず儂が、あの二人を下してトップに躍り出る時がいつか来る。
 その時まで耐え忍ぶのだ」

「う~ん……それは無理じゃないかな?」

「何っ!? スープー! おぬし、儂が信じられんというのか!?」

「ええ!? ぼ、ボクじゃないッスよ!」

 太公望に胸倉を掴まれ、グラグラと揺すられるスープーシャンが必死に首を横に振る。

「じゃあ誰が今の言葉を儂に言ったというのだ。ここには儂とおぬししかおら……ぬ……?」

 太公望が尚もスープーシャンに食って掛かろうとするが、スープーシャンの後ろにもう一人、誰かが居る事に気付いた。

「太乙。おぬし、いつからここに……」

「実は君とスープーシャンが話す前に、こっそり紛れ込んだんだ」

「この作品でそれをやる意味はあるのか?」

「気にしちゃ駄目だよ。僕の立ち位置はこうだから」

 太乙真人はさらりと言ってのける。
 そんなものかと太公望は納得し、太乙に詰め寄る。

「だがおぬし、儂があやつらに勝つのは無理だと、何故言い切れる?」

「見てれば分かるよ」

 太乙真人は顎で二人を指し示す。

「ほら、始まるよ」

「むう……」

 太公望は釈然としない思いを抱えながらも、二人の行方を見守る。
 そこでは今まさに、土行孫が大地に宝貝を突き立てた所だった。






 土行孫が土竜爪を地面に突き立てると、地面が勢い良く盛り上がる。
 それは宝貝の名に相応しき、土の竜へとその身を変えて楊戩へと襲い掛かる。
 大質量のそれが直撃すれば、大怪我は免れないだろう。
 だがそれを見ながらも、楊戩はその顔に湛えた笑みを崩さない。

「僕の高い鼻を折る、か。そんな事をしたら、全国の読者を敵に回すよ?」

 楊戩が右手に持つ宝貝、三尖刀を振るう。

 一閃。

 ただそれだけで土の竜は、三尖刀の先端から放たれた衝撃波によって切り裂かれた。
 土の竜は三つに分断され、制御を失い崩れ落ちて行く。
 だがそれで終わりではなかった。
 制御を失い、ボロボロと崩れ落ちる土が、突如として意志を持つ土石流となって楊戩に覆い被さる。
 楊戩の姿が土に隠れて見えなくなる。
 だがそれも一瞬の事だった。

起風きふう

 突如として内部から強風が発生し、竜巻となって土を弾き飛ばす。
 中から現れたのは、浅黒い肌をした二枚の翼を持つ男だった。
 土行孫がその姿を見て目を見開く。

「それは……天騒翼てんそうよくか!」

「へぇ……良く知っていたね」

 感心したといった風情で、元の姿へと戻った楊戩は言葉を発する。

「調べたんだよ。
 あの『変人スプーキー』が開発した、杏を食べるだけで手に入るって宝貝だ。
 よくそんな訳の分からない怪しい物を食えたもんだと、当時は思っていたからな」

「なるほど、たしかに。僕も食べたくないね。よく食べたものだよ」

 本人の知らないところで、どんどんと評価が下がっていく。
 彼はそんな運命なのだろうか。
 土行孫と楊戩の視線が交錯する。

「これで終わりかい?」

「まさか。今のは様子見だ。天才がどれ程のものか知りたくてね」

 土行孫は軽い調子で言った。
 この程度に対応出来ないようでは、本気を出すに値しないという事か。

「僕の力を、逆に測ろうとするなんて……」

 楊戩が微かに眉を顰める。

「けど残念だったね。僕の力は、そんな簡単に分かるほど安くはないよ?」

「ああ、そうみたいだな」

 ニヤリと土行孫は笑う。

「それを知るためにも、まだまだ行くぜ」

 土行孫の力を楊戩が見ると言った名目である以上、いつもは待ちの体勢をする土行孫から攻撃を仕掛けていく。
 先ほどとは異なる方法で、土行孫は楊戩を攻撃する事にした。
 今度は土行孫の周りに拳大の石が浮かび上がる。
 それを見た楊戩が、土行孫に尋ねた。

「それだけ出来るなら、碧雲を助け出す時にも出来たんじゃないのかい?」

「馬鹿を言うなよ。あんな疲れてる状態で無理に宝貝なんか使えば、一歩間違えれば碧雲の足を潰すだろうが」

 仙人界を駆け巡って、土行孫は疲労の限界に達していた。
 その状態で精密な操作が必要な事をしようとすれば、より危険な状態に陥る可能性があった。
 絶対に大丈夫だとの判断が出来なかったから、土行孫は手で地道に取り除こうとしていたのだ。

「けど、今は気にする事は無いからな。あっさり潰れるなよ?」

 宙に浮かぶ石の多くを楊戩に向け、土行孫はそれを弾丸として撃ち出した。






 離れた場所から見ていた太公望は、二人の戦いに目を丸くする。

「何なのだあやつら……時期を間違えておらぬか? まだ三巻だぞ!?」

 まだ始まったばかりだと言うのに、この時期にこんな戦いしていて大丈夫なのかと太公望は叫ぶ。

「でもまだ二人とも、準備運動くらいにしか思ってないみたいだけど?」

「ぬぬぬ……!」

 太乙真人の指摘に、太公望が歯軋りする。

「でも楊戩さんは変化を使ったッスよ! 
 それに比べて、互角に戦ってる土行孫さんは、まだ土竜爪だけッス!」

 スープーシャンが土行孫のフォローをする。
 宝貝蒐集家が、まだ一つしか宝貝を使っていないのだ。
 勝機があるのは土行孫だとスープーは思っているらしい。

「スープー。おぬし、やけに土行孫の肩を持つのう?」

「土行孫さんは顔のラインが僕と似てるッスから、なんか親近感が湧くッス!」

「それが理由か……」

 太公望はスープーシャンに呆れながらも、戦っている二人を見ながら言った。
 視線の先では楊戩が哮天犬に乗り、土行孫が放った石弾を華麗に避けていた。

「しかしスープーよ。
 たしかに土行孫は土竜爪を使っただけだが、それで本当に勝てるかどうかは分からぬ」

「何でッスか?」

 太公望は確信を込めて言った。

「宝貝は持っているだけで消耗する。
 たくさん集めておっても、使える数などたかが知れておる。
 土行孫が宝貝を使わないのは、切り札を隠し持っているからであろう。
 しかし、あやつは……楊戩は、二つ名通り、天才と呼ばれるだけの資質を備えておる。
 そも、変化の術で他人の宝貝まで使用出来るあやつは、タネが割れた所で痛くなど無い。
 割れた所で対処など出来ぬのだから。
 常に持っている土行孫より、疲労も軽いであろう」

「そうッスか……」

「さて……この勝負、どちらに転ぶかのう……」

太公望達は、再び二人の戦いに集中した。







「速いな……」

 土行孫は楊戩のスピードを見て言った。
 哮天犬はその突進力だけが問題だと思っていたが、中々機動力が高い。
 真っ直ぐ飛んでいるが、先方に障害物を配置してもひらりと避けてしまう。
 それぐらい哮天犬の破壊力があれば、容易く打ち破れるだろう。
 しかし、その背に楊戩を乗せている事から、全てを避け続けている。
 かなり上質な宝貝と言って良い。
 その時、楊戩が哮天犬の背から飛び降りた。
 哮天犬は向きを変え、土行孫に向けて突進してくる。

「げ……!」

 土行孫は目を見開く。
 あんなものが直撃したら、頑丈な土行孫でも怪我をするに決まっている。
 土竜爪を使い、哮天犬がぶつかる直前で地面を爆発させる。
 土行孫の足元を。
 下からの爆発で飛ばされた土行孫は、そのまま哮天犬を踏み台にして、空へと高く飛び上がる。
 避けられた事に安堵するが、その先にいた楊戩の姿に、土行孫は顔を引きつらせる。
 額宛を付けた若い少年の姿へと、楊戩は変化していた。

乾坤圏けんこんけん

 楊戩は、その両腕にある腕輪を土行孫へと放った。

「うおおおおっ!?」

 危険性を察知した土行孫は、一瞬にして空気中の塵や砂を集めて足場を作成し、ギリギリで跳躍して避ける。
 その一瞬後、土行孫のいた場所を、まるで大砲でも撃ったような轟音を響かせて、二つの腕輪が通り抜けていった。
 それを見送った土行孫は、姿の消えた楊戩を探す。
 そして、先ほどの土行孫の宝貝と、哮天犬の地面への突撃で、もうもうと上がる砂煙の中に、降り立つ一人の影を発見した。

「そこかっ!」

 土行孫は土竜爪の先を人影へと向ける。
 風が吹き、砂煙が流されると、そこには再び別の姿へと変化した楊戩が居た。

「太乙真人様……?」

 戦闘の得意でない太乙真人に変化した事に、土行孫が一瞬眉を顰める。

「……はっ!?」

「もう遅い」

 土行孫がその意図に気付くも、それは遅すぎた。
 太乙真人の姿へと変化した楊戩は、空に浮かんでいる土行孫へと指を向ける。

「これで……チェックメイトだ」

 土行孫の背後から、白い卵のような形状をした九竜神火罩が迫り、一息に彼を飲み込んだ。
 元の姿へと戻った楊戩は、風に艶やかな髪をなびかせる。
 九竜神火罩へと閉じ込められた土行孫は、もう出て来られないだろう。

「フッ……やはり僕が一番格好良い。
 やっぱり、彼みたいな醜男が主人公だなんて、最初から間違っていたんだ!
 これで次回からは、『天才道士楊戩の華麗なる日々』が始まる!!」

 楊戩の高笑いが、辺りに響き渡った。







あとがき

前回の疑問に答えてくれた皆様、ありがとうございました。
宝貝が原型の妖怪仙人、まさか本当に居るとは思いませんでした。
ワンダースワンで出てるなんて事も知りませんでした。
当時ゲームボーイの方が好きだったので、全然見向きもしなかったんですよね。
でも、前回のはただの疑問なので、実際に宝貝が妖怪仙人になる事は無いです。
話の中でそうなる事はありません。
だって、そんなの出しても書ききれませんから。
変なオリキャラ出しても原作の濃いメンバーと張り合えるとも思えません。
それに原作キャラの宝貝を擬人化したら、キャラが戦う術を失いますからね。
そんなわけで、設定としてはありますが、オリキャラが出ることはありません。

そして今回の話。
実はまだ続きます。
まだ土行孫は土竜爪しか使ってませんからね。
楊戩の活躍も書いておいた方が良いと思っての事です。
ちなみに、楊戩がナタクや雷震子に変化出来るのは、太公望が彼らと会っているところを見ているからです。
最初楊戩は、太公望をストーキングしてましたから。




[12082] 第十三話 天才道士楊戩の華麗なる日々……?
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/10/08 21:03




 天才道士楊戩の華麗なる日々

 第一回 美しい楊戩様はアフタヌーンティーを飲みながら華麗でアンニュイな日々を過ごす。

 原作 Y戩  漫画 新藤崎竜



 やあ! 僕の名前は楊戩。
 〇〇〇〇(自主規制)の血を引く、生粋の崑崙の天才道士さ!
 パパの都合で崑崙に住んでいるんだけど、僕の住む崑崙は大変なんだ。
 皆が僕の美しさに嫉妬して、何とか僕を亡き者にしようと狙っているんだ!!
 でもそんな人達と、まともに相手をするのも疲れるから、最近は適当にあしらっている。
 それでも邪魔なのは変わりないから、僕はここ最近、アンニュイな日々を送っているんだよ。

 最近のマイブームは、こうしてアフタヌーンティーを飲む事なんだ。
 今日はダージリンのセカンドフラッシュを飲んでいる。
 高貴な香りが、僕のささくれた心を癒してくれるのさ。
 でもそんな時間は長くは続かない。
 ほら、今日も僕をアンニュイにさせる原因がやって来たよ。

「おい楊戩! 今日こそはオメーのその小綺麗な顔に一発入れてやる!」

「おや、土行孫君じゃないか」

 僕の前に現れたのは、ボサボサの髪をした小さい体躯の、モグラみたいな男だった。
 彼の名前は土行孫。
 僕に華麗にやられても諦めずに、毎日僕に突っ掛かってくる。
 正直、彼の真っ直ぐなところは長所だと思えるけど、僕に対する嫉妬にその長所を向けられても困る。

「行くぜ楊戩っ! おいらの新必殺技を食らいやがれっ!!」

「哮天犬」

「わんデシ」

「ギャアアアアッ!!」

 僕が掌から放った哮天犬で、土行孫君はあっさりやられた。
 え? 新必殺技?
 わざわざ食らう必要がどこにあるのさ?
 そんなの食らうのは、間抜けだけだよ。
 哮天犬の突撃で埃がたつのを見て、僕は少しこの端正な眉を、僅かに顰める。
 そのせいで、せっかくの紅茶が台無しになってしまったからだ。 

「まったくもう……やめてよね。本気で喧嘩して、君が僕に敵うはずないだろ?」

 優しく忠告してあげるが、気絶している彼には聞こえなかったようだ。
 僕はポットを取り出すと、カップに新しい紅茶を淹れた。

「はぁ……アンニュイだなぁ……」

 僕の呟きは誰にも聞こえず、紅茶の香りだけが僕を慰めてくれていた。







『僕の呟きは誰にも聞こえず、紅茶の香りだけが僕を慰めてくれていた』

「何じゃこりゃ……つまらん……」

「つまんないッスねぇ」

 楊戩が笑いながら辺りにばら撒いているその漫画を、太公望とスープーシャンが拾って読みながら言った。
 しかも、きっちり製本までしてある。

「あやつ、本当にこれを連載するつもりか?」

「少年誌の風上にもおけないッス」

 最初から最強で、カタルシスなど何にも無い。
 ただお茶を飲んでいるだけの話の、いったい何処が面白いというのだろう。
 努力も友情も無い。
 あるのは強い主人公による、あっさりとした勝利だけ。
 そんなもの、誰が読みたいというのか。
 まだ続いている『天才道士楊戩の日々』を閉じる。
 そして太公望は、わざとらしいほどに大きな溜め息を吐いた。

「このままではあやつに乗っ取られる。仕方が無いが、儂が出ることにしよう」

「あ~っ! ご主人、そうやって自分が一番目立とうとしてるッス!!」

「な、何のことやら……」

 スープーシャンの指摘に、太公望は訳が分からないといった表情をする。
 だがしかし、その視線が泳いでいる事に、スープーシャンは気付いた。
 そこに太乙真人が声を掛ける。

「二人とも、まだ終わってないみたいだよ」

「太乙……おぬし、まだおったのか」

「忘れてたッス」

「酷いよ二人とも!」

 太乙真人は叫んだ。

「と、とにかく、まだ終わってないみたいだから、もうしばらく様子を見ようよ」

 太乙真人は、二人にそう促す。
 だが太公望は、苦い顔で楊戩達を見た。

「だがの、太乙。
 仙界最硬とも呼ばれる九竜神火罩の中に、土行孫は閉じ込められたのだ。
 もはや自力で出ることは……む?」

 楊戩達へ視線を向けると、太公望はそれまでの顔を止めて、真面目な顔つきになった。







「やっぱり強いな。流石は天才……といったところか」

 九竜神火罩の中に閉じ込められた土行孫は、内部から壁を撫でながら独り言ちた。
 九竜神火罩は、仙界最硬と呼ばれている。
 生半可な攻撃では、出る事は叶わないだろう。

「まあ、出る方法が無いわけじゃないが……」

 土行孫は袖に手を入れる。
 そこから一本の細い棒のような物を取り出した。
 土行孫は宝貝を発動させようとした。
 だがその直前、ピタリと発動を止める。

「しかし、出たとして、俺はあいつに勝てるのか?」

 楊戩の変化の術は凄い。
 他人に変化をする事が出来る上に、宝貝まで真似る事が出来る。
 そんな相手に、どうやって勝てば良いのだろうか?
 このままでは、土行孫がいくら宝貝を使おうとも、それも真似されて終わりだろう。
 おまけに楊戩は、戦っている間、一度も笑みを絶やさなかった。
 土竜爪しか使っていなかったとはいえ、土行孫はその笑みを剥がす事が出来なかったのだ。
 否、土竜爪は土行孫が一番最初に手に入れた宝貝だ。
 それ故に、土行孫は色々と使っているとはいえ、土竜爪こそが一番信頼している宝貝でもある。
 それを使って駄目だったのだ。
 土行孫が楊戩に勝つのは絶望的だ。

「……止めるか?」

 土行孫が弱気になった時、身に纏う内旗門の存在を思い出した。

「公主には悪い事をしたな。約束を破る事になってしまって……」

 そういって、内旗門を撫でる。
 せっかく土行孫の勝利を祈って、この内旗門を渡されたというのに、それを活用出来なかったのだ。
 両手を掲げ、内旗門を見ながら、土行孫は情けない気持ちで一杯になる。

「……ん?」

 だがその時、土行孫はある事に気付いた。
 土の中に潜り、暗闇を見つめる事が多く、目の鍛えられていた土行孫はその異常を見逃さなかった。

「この袖……左右が少しおかしい……?」

 土行孫は、服について詳しい知識を持っていない。
 だがそれでも、内旗門の左右の袖口が、綺麗な対称になっていない事は分かった。
 右手に比べて、左手の袖の方が、僅かにダボッとしている。
 解れた糸が、所々で絡まっているのも分かった。

「変だな……あの碧雲が、こんな単純な失敗をするとも思えない」

 裾上げの方はきっちり出来ている。
 なのに、袖の方だけが、こんなにも乱雑なのはおかしい。

「待てよ……碧雲の奴、他にも何か言っていなかったか?」

 土行孫は楊戩と戦っている事も忘れ、その事を思い出す。
 まだ一週間も経っていないのだ。
 頭をコツコツと叩き、その言葉を思い出していく。

『土行孫様、助けていただき、本当にありがとうございました』

『うわ……酷いですね、それ』

『お待たせしました。これをどうぞ』

『ちなみに、裾上げは私がしました』

 そう、確かこの後、何か変わった事を言っていたはずなのだ。

『――――――、――――――――――――――』

 土行孫は頭をコツコツと叩き、更に深く思い出す。

『竜吉―――は、こう―――には――用――か―』

 更に深く、深く思い出す。

『竜吉――様は、こう―う―には―器用――から』

 そして、頭を叩くのを止めた。

「思い出した」

『竜吉公主様は、こういう事には不器用ですから』

 碧雲はそう言っていたのだ。
 そしてその後、竜吉公主に窘められていた。
 だが何故、あの時わざわざそんな事を言ったのか。
 土行孫は首を傾げる。

「なんで碧雲は、あんな事を言ったんだ?
 師匠の失態なんて、普通は隠すものだろうに」

 普通は師匠の失敗談を話す事なんてしない。
 師匠が失敗ばかりしている、という噂でも広まれば、その弟子である自分の信用も無くなる恐れがあるからだ。
 だがしかし、土行孫が気になったのは其処ではない。

「しかし……あの公主が裁縫なんてするか?
 生まれも育ちも高貴な公主が、わざわざ針なんて持つとも思えん。
 でも、碧雲はそう言った。
 公主もそれを窘めていたんだから、それは事実なんだろうな。
 じゃあいったい……?」

 土行孫が内旗門を見る。
 その左右非対称の袖を見る。
 そしてなるほど、と土行孫はその事に気付いた。

「裾上げの事しか、碧雲は言ってなかったんだよな」

 ではいったい、この袖は誰が繕ったというのか。
 碧雲と竜吉公主の言葉、そして、この内旗門。
 これだけ情報が揃っていて、気付かない訳が無い。

「ク……クククク……」

 土行孫の口から、押し殺したような笑い声が漏れる。

「慣れない事をして、公主も疲れただろうに……」

 碧雲を助けた礼に、と土行孫はこの内旗門を受け取った。
 土行孫としては、ありがとうというただの一言で済むのだ。
 それだけでも十分だったのだ。
 だが竜吉公主達は、土行孫の行為に報いたいと、一晩でそこまでやってくれたのだ。
 彼女達には、感謝しなければならない。

「美人にここまでされたんだ。それに応えないなんて、男じゃねぇよな」

 勝利の一つでも手土産に持っていかないと、これから先、竜吉公主達に会わせる顔が無い。
 土行孫の顔に、つい先程までの弱気は、もう見当たらなかった。
 そして、まるで近くまで散歩にでも行くかのような声色で、土行孫は言った。

「さてと、ここから出るとしようかね」

 闘志に満ちた表情を浮かべ、土行孫は手に持つ宝貝を発動させた。






 高笑いをしていた楊戩だが、飽きたのか笑うのを止める。

「さて、そろそろ土行孫を出してあげようかな。
 発動した宝貝を維持するだけなら、変化しなくても大丈夫だから元に戻ったけど。
 ……何より、太乙真人様のままじゃ、前回の最後は格好がつかないしね。
 それでも疲れるのには変わらないから、そろそろ解除しよう」

 楊戩は説明的なセリフを言いながら、その手を九竜神火罩へと向ける。
 そして、九竜神火罩を解除しようとしたその時だった。

「ん……?」

 楊戩の眉が、僅かに顰められる。
 何故なら九竜神火罩が、ギシギシと音を立てていたからだ。

「何だ、いったい……?」

 楊戩の言葉に答える者はおらず、九竜神火罩は更に音を立てる。


 ギッギギ……ギギギギギ……!!


 九竜神火罩が悲鳴を上げながら、ゆっくりと開いていく。

「馬鹿な……」

 楊戩は目を見開いた。
 楊戩はまだ宝貝を解除していない。
 それなのに九竜神火罩は、独りでに開いていく。
 無理矢理にこじ開ける音を立てて。
 そして遂に、九竜神火罩が開き切った。
 卵のような形をした九竜神火罩の中には、閉じ込める時には無かった、つっかえ棒のような大きな鉄棒があった。
 そしてその脇には、それに手を添えた土行孫が居て、楊戩を見つめていた。

「さあ、第二ラウンド、始めようか?」

 土行孫のその言葉に、楊戩は決闘が始まってから、初めてその顔から笑みを消したのだった。






あとがき

さて、新しいこの宝貝、以前感想で書かれた物を採用しています。
良かったら次の話までに探してみてください。

次こそ決着です。
オリ宝貝とか出てきます。
DOKOUSON無双になると思うので、苦手な方はご遠慮ください。



[12082] 第十四話 土行孫、決闘の行方は……?
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 22:46




 土行孫が九竜神火罩をこじ開けた鉄棒を見て、太乙真人が叫んだ。

「あ! あれは如意棒だ!!」

「なぬ? 知っておるのか太乙」

 横に居た太公望が尋ねる。
 太乙真人は頷くと、土行孫が持っている鉄棒の説明をする。

「あれは元々、僕が道士時代に作った物なんだよ。
 伸縮自在で、大きさも意のままに出来る、折れず曲がらずをコンセプトに作ったんだ」

太乙真人の言葉に、太公望が首を傾げる。

「それが何故、あやつの手にあるのだ? そんな便利な物なら、自分で使えば良かったではないか」

「それが……」

 太乙真人は口ごもる。

「作っているうちに、テンションが上がって来ちゃってね。
 もっと硬くして。もっと思い通りに動くように。
 そんな事をやっていたら、重量を考慮するのを忘れちゃったんだ。
 それで、出来たときには、重すぎて僕には扱いきれなくなってた。
 大きさは変わっても、重さは変わらないし。
 見た目ただの鉄棒だから、ダサくて誰も使ってくれなかったし」

「おぬし……バカだのう……」

 太公望が突っ込むが、太乙真人は苦笑いをするだけだった。
 どうやら太乙真人も、それを自覚していたらしい。

「せっかく作った物を使わないのも勿体無いから、意地で黄巾力士に乗った時の武器にしてたんだ。
 でも、元々僕は格闘が得意じゃないし、そもそも戦わなかった。
 だから、しばらくすると倉庫に入れて、それからずっとそのままにしてたんだよ。
 それを倉庫の掃除を手伝ってくれていたあの子が見つけてね。
 欲しいって言うからあげたんだ。
 他に使ってくれる人も居なかったしね」

「だが太乙。おぬしが持てぬのに、あやつが扱えるのか?」

 土行孫は見た目は子供である。
 当然、力も相応の物しか持って居ないはずだ。
 しかし太乙は、太公望に向けて、指をチッチッチと振る。

「その辺は大丈夫。
 あの子が使えるように、筋力を上げる宝貝もセットであげたから」

 太乙真人は、土行孫の頭を指差す。
 太公望がその指が指す方を見遣ると、土行孫の髪を縛る紐が、ぼんやりと光っていた。

「あの子の髪を縛っている紐がそれだよ。
 他の宝貝との併用を考えて、省エネで動くようになってるんだ。
 前は腕に巻いてたんだけどね。ちなみに、名前は怪力紐かいりきひも

「安直だのう……」

「う……し、仕方ないじゃないか。
 僕だってもっと格好良い名前にしたかったよ!
 でも良い名前が思いつかなかったんだよ!
 あの子が分かりやすいからそれで良いって言うから、結局そのままなんだ」

 太乙真人は不満だと言いたげに肩を竦める。
 土行孫が如意棒を身の丈ほどの大きさに縮めるのを見ながら、太公望は頷いた。

「なるほど、経緯は分かった。しかし、それだけで勝てるほど、楊戩は甘くは無いぞ」

 太公望の声が聞こえたか、土行孫は油断無き構えで、楊戩を見つめていた。






 九竜神火罩から出てきた土行孫に、楊戩は目を見開いた。

「驚いた……」

 開いた口が塞がらないといった感じで、楊戩は言葉を続ける。

「まさか無理矢理にこじ開けて出て来るなんて、全然予想してなかったよ」

 楊戩のその言葉に、土行孫はニヤリと笑う。

「九竜神火罩は、確かに硬いさ。
 でもな、破壊するより、上下にこじ開ける方が楽なんだよ。
 勿論、隙間無く閉じられているから、普通開けるのは難しいんだけどな」

「それで、その宝貝の出番という訳かい?」

「その通り。これを伸ばして、内側から開けたのさ」

「でも、太乙真人様の九竜神火罩に、それが敵うとは思えないけど?」

 楊戩の疑問に、土行孫は如意棒を掲げてみせる。

「それは大丈夫だ。なにせ、これも太乙真人様の作だからな」

「……なるほど、納得だ」

 楊戩が頷くと、土行孫は如意棒を両手で持ち、楊戩を見つめる。

「謎は解けたな? もう良いよな? それじゃ……行くぜっ!!」

 土行孫は地面を爆発させ、その勢いで一息に楊戩の懐まで入り込む。
 土行孫は如意棒を突き出すが、楊戩はそれをバックステップで避ける。
 しかし、楊戩は避け切れなかった。

「甘いっ!」

「なっ!? ぐふっ!」

 避けた所で如意棒が更に伸び、楊戩の腹に突き刺さる。
 その衝撃で、楊戩は大きく吹き飛ばされた。
 そのまま楊戩は、地面をゴロゴロと転がる。
 土行孫は楊戩が立ち上がる暇を与えず、更に攻撃を仕掛ける。
 先ほど九竜神火罩を破ったときのように、如意棒を巨大化させる。
 その巨大化した如意棒を、重力をプラスして思いっきり楊戩へと叩きつける。
 叩きつけられた地面が、砂を巻き上げる。
 確かな手ごたえを感じた土行孫だった。
 だが……、

「何っ!?」

 油断してはいけない。
 相手は楊戩なのだ。
 才能のある者達が集まる崑崙で、天才とまで呼ばれた男なのだから。

「ぬ……うううう!」

 如意棒を叩き付けた先にいたのは、眉目秀麗な優男ではなく、ぼさぼさの金の髪をバンダナで留めた大男だった。

「おおおおおっ!!」

「何だと……!?」

 大男は、如意棒を受け止め、尚立ち上がろうとする怪力を見せた。
 徐々に上がっていく如意棒。
 土行孫は力を抜いている訳ではない。
 むしろ最大の力を込めて押し込んでいるというのに、大男はそれに抵抗するのだ。

「おりゃあああっ!!」

「うおおおっ!?」

 遂に立ち上がった男は、如意棒の先を掴んで持ち上げる。
 このままでは自分が吹き飛ばされる。
 そう思った土行孫は、如意棒から手を放し、後ろへと跳ぶ。
 如意棒を奪った大男は、それを遠くへと投げ捨てる。
 投げ捨てられた如意棒は、下界へと落ちて行った。
 そして大男は、元の楊戩へと姿を戻した。

「今のは誰だ? 見た事無い顔だったが」

 土行孫が楊戩へ尋ねる。
 対する楊戩は、僅かに息を切らせながら、その質問に答える。

「殷の武成王さ」

 その言葉に、土行孫は納得の表情を見せる。

「なるほど、武成王か。それじゃ、俺が力負けするのも分かるな」

「だけど、どうする? 頼みの綱の如意棒は、もう君の手には無いよ?」

 楊戩が土行孫を挑発する。
 たしかに、如意棒は武成王に変化した楊戩によって、下界へと投げ捨てられた。
 だが土行孫の顔に焦りは見当たらない。

「さて、それはどうかな?」

 土行孫はニヤリと笑うと、右手を左手の袖口へと伸ばす。
 そして取り出したのは、小さな棒だった。
 それは一瞬にして大きくなり、先ほど楊戩が投げ捨てた如意棒へと姿を変える。
 楊戩が目を見開く。

「馬鹿な……それはさっき僕が捨てたはずだ!」

「ああ、そうだな。その通りだよ」

 土行孫は頷いた。
 対する楊戩は、土行孫の持つ如意棒を睨みながら、ブツブツと考える。

「アレはさっき投げ捨てたはず……しかし現にあそこにある。
 偽物? いや違う。それを今やる意味は無い。
 二つあった? 違う。土行孫は僕の言葉に肯定した。
 じゃあやっぱり、アレはさっき捨てた物と同じ物。
 引き寄せたのか? どうやって?
 ……そうか!!」

 楊戩は土行孫を見つめる。

「そのコート、香火遁こうかとんが仕込んであるね?」

「正解だ」

 土行孫は如意棒を楊戩へと投げつける。
 飛んでいる途中で大きくなった如意棒を、楊戩は乾坤圏を放つ少年へと変化して空に逃げる。
 土行孫は空を仰ぎ、変化した楊戩を見遣る。

「このコート、内旗門の内側には、遠くの物を取り寄せる香火遁の術が仕込んである。
 つまり、武器を投げ捨てても、また再利用出来るんだよ」

 土行孫は再び如意棒を取り出し、地面に突き立てる。
 その上に飛び乗ると、如意棒を一気に伸ばして空へと飛び上がった。

「なっ!? 僕よりも高い!?」

「こんな風にな!!」

 一瞬にして楊戩よりも上に移動した土行孫は、くるりと一回転して再び取り出した如意棒を、楊戩へと叩きつける。

「ぐうううっ!」

 両腕の乾坤圏で辛くも防いだものの、土行孫の如意棒の一撃で乾坤圏は砕け散り、楊戩は地面へと落下する。
 そして地面へと落ちた楊戩を、土行孫が見下ろしていた。
 この配置は、先ほど土行孫が九竜神火罩に捕まった時と同じである。
 それ故に、土行孫は気を抜かず、更に攻撃を仕掛けた。
 地面に落ちた楊戩に向けて、土行孫は如意棒を投げつける。
 そして、駄目押しとばかりに土竜爪の爪を切り離し、ミサイルとして撃ち出した。
 返って来たのは、硬質な何かに弾かれる音だった。

「あの状態で、まだ守れるのか」

 土行孫は感心した。
 大地には不自然な白い卵型のシェルターがあった。
 地面に落下しながらも、太乙真人へと変化して、九竜神火罩に身を隠したのだろう。
 地面に降り立った土行孫は、九竜神火罩を見る。
 ブレるように九竜神火罩は掻き消え、中からは荒い息をした楊戩が出てきた。

「まさか、ここまでやるとは思わなかったよ。どうやら、君を甘く見ていたようだ」

「もう少し、見る目を養った方が良いぜ? でないと、痛い目を見る事になる」

 もう終わりだ。
 土行孫の口調に、その考えが透けて見えた。
 楊戩は大きく首を横に振り、叫んだ。

「……まだだ。まだ儂は終わってはおらぬ!」

 楊戩は太公望へと変化すると、巨大な打風刃を放つ。
 土行孫はそれを、如意棒で受け止めた。
 大きく後退したものの、太乙真人が自信を持って語るだけあり、如意棒には傷一つ付かなかった。
 受け止めた土行孫は、如意棒をしまい、内旗門を発動させた。
 姿を消した土行孫に、楊戩が戸惑う。

「何処に行きおった!?」

 辺り構わず打風刃を放つが、姿を消した土行孫には当たらない。

「くっ!」

 楊戩が最初に変化した、風を起こす翼を持つ青年へと再び変化する。
 そのまま楊戩は、風を起こすのではなく、天に雷を呼ぶ。

「発ら――」

「遅いっ!」

 だが目の前にまで迫っていた土行孫が姿を現して、楊戩が雷を落とす前にその腹を殴る。

「ぐううおおおおおっ!!」

 殴られる痛みに耐えながら、楊戩は武成王へと変化して、土行孫を殴り返した。
 弾き飛ばされた土行孫だったが、空中でくるりと回転して、危なげなく降り立つ。
 不安定な体勢で放たれた拳は、あまり効いていなかったようだ。
 土行孫は楊戩へと声を掛ける。

「もう終わりだ」

「何を……!」

 楊戩が反論しようとするが、土行孫は手を掲げる。

「戻れ、土竜爪」

「何……?」

 土行孫のその言葉に、先ほどミサイルとして射出した、土竜爪の爪が浮かび上がる。
 そして、土行孫のもとへ戻るために飛んだ。
 その爪は楊戩の後方にあり、土行孫は楊戩の前方に居た。
 それは楊戩を間に挟んで、一直線上にあった。

「くっ!」

 慌てて楊戩は避けようとする。
 しかし、それは叶わなかった。

「あ、足が!?」

 右足が鉛のように重く、どうしても動かせなかった。
 目を凝らして見ると、右足の所に、小さな棒が引っ掛かっていた。
 如意棒だ。

「さっき姿を消したのはこれを仕込むためか……!」

 姿を消した土行孫は、楊戩の足に小さくした如意棒を仕込んだ。
 そしてそれを気取られぬよう、わざと姿を現したのだ。
 如意棒に気を取られた楊戩は、背後から迫る土竜爪の爪を一瞬忘れた。
 そしてその一瞬で、勝負はついた。

「ぐうっ!」

 土竜爪の爪は楊戩の服に絡みつき、そのまま地面に引き倒して縫い付けたのだ。
 まるで昆虫標本のように、地面に這い蹲る楊戩に向けて、土行孫は新たな宝貝を取り出す。
 香火遁を使用し、懐から取り出したのは、身の丈ほどもある大剣だった。
 その宝貝を見て、楊戩が目を見開く。

「そ、それは! 道行天尊どうこうてんそん様の絶仙剣ぜっせんけんじゃないか! なんで君が……」

「俺の噂、知らないのか?」

 土行孫は絶仙剣を、空中高くへと放り投げる。
 すると、空中で絶仙剣は二つに分裂した。
 否、二つではない。
 二つが四つ、四つが八つ、八つが十六へ。
 幾つも幾つも分裂し、落ちてきた一本の絶仙剣を土行孫は手に取った。
 他の絶仙剣は、土行孫が一本を掴むと落下を止めて、空中を浮遊している。

「道行天尊様には、万能包丁が有るからな。
 あの人の身体には合わなかったこれを、俺が貰ったんだよ」

 土行孫が絶仙剣の切っ先を楊戩へと向ける。
 すると、空中を浮遊していた他の絶仙剣も、一斉に楊戩に切っ先を向けた。
 その様に、楊戩はゴクリと唾を飲み込んだ。







「終わりだのう……」

 離れた場所で見ていた太公望は、スッと立ち上がった。

「あれ、ご主人? どうしたッスか?」

 隣で戦いを見ていたスープーシャンが、太公望に尋ねる。
 その顔は、土行孫が勝ったと確信して、気持ち悪いほどににやけていた。

「なに、決着をつけに行くだけだ」

 太公望は不適に笑いながら、ゆっくりと前へ歩き出した。






 楊戩は土行孫を見ながら言った。

「まだ僕には変化がある。君に変化すれば――」

「往生際が悪いぞ」

 土行孫の言葉に、楊戩は口ごもる。
 確かに、土行孫に変化すれば、この場を抜け出せるだろう。
 土竜爪を操って拘束を抜ける事も出来るし、如意棒で剣群を弾き飛ばすことも可能だ。
 だが土行孫は、楊戩がそれを出来ないと分かっている。

「お前、不細工になりたくないんだろ?
 じゃあ無理だよなあ?
 俺みたいな不細工になって、それで勝っても、プライドが許さないんだろう?」

「ぐ……」

 楊戩は反論出来なかった。
 楊戩は、土行孫に華麗に勝たなければならない。
 それなのに、土行孫に変化して勝っても、それは華麗とは言い難い。
 それは土行孫の事を認める事になるからだ。
 それに何より、土行孫の言った通り、楊戩は不細工な顔に変化したくないのだ。
 土行孫が戦いの直前に言った通り、まさしく楊戩の高いプライドが邪魔をしたのだった。

「……良いだろう。認めよう、君の実力を」

 低い声で楊戩は言った。

「でもこのままでは終わらない! 僕の最終奥義を見るがいい!!」

 そう言って、楊戩の身体がカッと光った。
 その様子に、土行孫が眉を顰める。
 今更何をしようと言うのか。
 光が収まり、中から出てきたのは、土行孫の予想を凌駕するものだった。

「いや~ん♡ 妲己ちゃん、埃塗れだわぁん♡」

「は?」

 妲己と名乗る、派手な女性へと変化した楊戩に、土行孫はガクッと肩の力が抜ける。
 妲己姿の楊戩は、身体をくねくねと揺らしながら、土行孫を見つめる。

「許さないわよ、土行孫ちゃん♡
 かくなる上は妾のセクシーふくらはぎ攻撃で、土行孫ちゃんを悩殺してあげ――」

「てやー」

「いやぁぁぁん!!」

 土行孫の気の抜ける言葉と共に、絶仙剣が発射される。
 絶仙剣が消えた後には、気絶して変化の解けた楊戩が、ボロボロになって倒れていた。

「俺は……派手な女は苦手なんだよ」

 土行孫はそう言うと、絶仙剣を仕舞って、深い溜め息を吐く。
 そして空を見上げ、ポツリと呟いた。

「……終わった。俺の勝ちだな」

「いいや、儂の勝ちだ」

「なに? があっ!?」

 土行孫の後ろから声が掛かり、いきなり後頭部に攻撃を食らった。
 疲れ果て、気を抜いていた土行孫の意識は一瞬にして絶たれ、土行孫は気絶した。
 倒れ伏した土行孫の後ろには、口が裂けたかと思われるくらいに、口角のつり上がった太公望が居た。

「フ……フフフ……フハハハハ……ダァーッハッハッハッハ!!」

 初めは小さく、だが徐々に笑い声は大きくなっていった。

「な、なな、何やってるッスかご主人ー!?」

 スープーシャンが飛んできて、太公望の胸倉を掴み上げる。

「何で土行孫さんを攻撃してるッスか!?
 決着をつけるって、土行孫さんの手を取ってウィナー、とかやるんじゃないッスか!?」

「何を言うスープー。いったい儂がいつ、そんな事を言った?」

 太公望はスープーシャンにガクガクと揺すられながら、尚も笑みを浮かべている。
 太公望のその調子に、スープーシャンは首を傾げた。

「え? いや、言って無いッスけど……。でも決着をつけるって……」

「だいたい、なぜ儂がそんな事をせねばならぬ?」

「え……?」

 太公望は、倒れている土行孫を指差して言った。

「そやつとは、今の今までずっと、決闘が続いておったのだぞ?」

「……はぁ?」

 スープーシャンの目が丸くなる。

「だってご主人、一週間前にあっさり土行孫さんにやられたじゃないッスか!」

「ああ。あれは儂も、本当に負けたかと思ったぞ」

 太公望は苦い顔をしている。
 土行孫に一週間前、土の中に閉じ込められた事を思い出したようだ。

「負けたかと思ったって……」

「だが儂は負けを認めておらず、そやつも勝利宣言はしておらぬ。
 故に、まだ戦いは続いておったのだ。
 そして、一週間にも渡る厳しい激闘の末、辛くも儂が勝利を収めたのだ!!」

「そ、そんな……!!」

 スープーシャンがガーンとショックを受ける。

「……はっ!?」

 だが直ぐに正気に戻ると、太公望を詰り始めた。

「屁理屈ッス! そんなの屁理屈ッスよ!!」

「カカカカッ! 屁理屈も理屈の内よ! 決闘の最中に油断して、気を抜いた土行孫が悪いのだ!!」

「卑怯ッス! 外道ッス!!」

「ええい、黙れっ! 二者を戦わせて、漁夫の利を得る。まさしく兵法の基本ではないか。
 勝てば官軍よ! ……おお、何と良い言葉だ。後世に残すとしよう!」

 太公望は懐から巻物と筆を取り出し、そこに「勝てば官軍」と書き込んだ。
 その巻物を見て、スープーシャンが目を見開く。

「ってああああっ!? それは封神の書じゃないッスか! ご主人、何落書きなんかしてるッスか!?」

「カカカカッ! こんな物もう要らぬ、要ら~ぬ! だから儂が有意義に使ってやるのだ!!」

「ご主人! アンタって人はあああっ!!」

 スープーシャンが激昂する。
 だが太公望はどこ吹く風で、尚も高笑いをしていた。



「ダァーッハッハッハッハッハ!! 儂の勝ちだぁぁっ!!」







 後には、気絶した土行孫と楊戩が転がっていた。
 そして、忘れられている太乙真人も居た。





あとがき

この展開、予想できた人はいますか?
いたら凄いと思います。

土行孫の絶仙剣ですが、道行天尊の万能包丁アタックの、サイズが大きいバージョンだと思ってください。
決して運命的なもののパクリではありません。
あくまで元ネタは、万能包丁アタックです。

それから、ネタが切れました。
次どうしましょう?




[12082] 第十五話 土行孫、運び込まれる。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/10/05 23:37




「ん……ここは……?」

 暖かい感触を感じ、土行孫はゆっくりと目を開ける。
 未だはっきりとしない頭と視界で、ぼんやりと上を見つめる。
 そこに、土行孫に声を掛ける者がいた。

「おお、起きたか」

「公主……?」

 土行孫の目に、竜吉公主が逆さまに映る。
 土行孫に声を掛けたのは、竜吉公主だった。
 何故ここに、と考えるが、今の構図に、土行孫は既視感を覚えた。
 そして、以前はどうだったのかを思い出し、土行孫は起き上がろうとする。
 しかし、それは竜吉公主が、土行孫の肩に掛けた手によって防がれた。

「これ、起きるでない。まだ手当ては済んでおらぬ」

 そう言った竜吉公主の意外と力強い手に引き倒され、土行孫は再び竜吉公主を見上げる事になった。
 竜吉公主は土行孫の後頭部に手を当てる。

「他に大した傷は無いが、頭に大きなたんこぶが出来ておるからの。今は寝ている方が良い」

「あ、ああ……」

 どもりながらも、土行孫は頷く。
 竜吉公主が手を当てている土行孫の後頭部が、暖かなものに包まれる。
 竜吉公主が治療をしているのだと、土行孫は気付いた。
 それを感じながら、土行孫は竜吉公主に尋ねる。

「なあ、公主」

「ん? 何じゃ?」

「何でここに居るんだ? 公主は身体が弱いんだから、そう外に出たら駄目だろう?」

「可笑しな事を言うのう」

 竜吉公主はフッと笑う。
 その様子に、寝転がっている土行孫が器用に首を傾げる。

「ここは浄室だぞ? 私が居て何が悪い」

「え?」

 竜吉公主に言われ、土行孫は横になったまま辺りを見渡す。
 その土行孫の目に入ったのは、殺風景な大地ではなく、小物などが置かれた、華やかな竜吉公主の浄室の風景だった。

「……何で俺はここに居るんだ?」

 自分は楊戩と闘っていたはずである。
 だが、ここまで来た覚えは無い。
 正確には、楊戩に勝った後の記憶が無いのだ。
 竜吉公主が言った、大きなたんこぶとやらも、土行孫には覚えが無いのだ。
 覚えている最後の記憶では、邪悪な笑みを浮かべた何者かが映っていたが。
 そんな土行孫を見かねたのか、竜吉公主が答えを言った。

「おぬしは楊戩に勝ったあと、太公望の攻撃を受けて気絶したようじゃ」

「何? 師叔に?」

 竜吉公主の言葉に、土行孫が思い出す。
 否、正確には記憶にある邪悪な笑みを浮かべた者が、太公望であったと納得出来ただけだ。

「それで気絶したおぬしは、ここに運び込まれたという訳じゃ。災難だったの」

「全くだ」

 土行孫はその言葉に全力で同意した。
 楊戩に勝ったというのに、余韻に浸る暇も無く邪魔をされたのだ。
 水を差された、という印象が拭えない。
 そこまで思い出した処で、土行孫は一つの事に思い至る。

「……なあ、公主」

「何じゃ?」

 聞き返す竜吉公主に、土行孫は静かに言った。

「俺……勝ったぜ」

「ああ」

「勝ったんだ。あの天才に……」

「そうじゃの」

「……少しぐらい、自慢しても良いよな?」

「ああ。おぬしは良くやったよ」

 万感の思いを込めて、土行孫は呟く。
 竜吉公主は静かに頷き、土行孫の頭を撫でた。
 その細い白磁の指が、サラサラとした土行孫の髪を梳いていく。
 土行孫は気持ち良さそうに目を閉じた。
 そのまましばらくの間、二人とも言葉は発さなかった。

「ありがとうな、公主」

「急にどうした?」

 ぼそりと小さく土行孫は呟く。
 だが、他に音を立てるモノのないこの空間では、その声は大きく響いた。
 土行孫は竜吉公主を見上げる。

「公主がくれた内旗門が無かったら、俺は勝てなかったよ。
 楊戩はちょっとバカだったけど、それでもかなり強かった。
 こっちの攻撃は全然当たらないし、向こうは変化の術で効率良くこっちを狙い撃って来る。
 挙句の果てには、太乙真人様に変化して、九竜神火罩で閉じ込められた。
 本当、勝てるかどうかなんて、全然思えなくなったよ」

「……そうか」

「でもさ、その時思い出したんだ。
 内旗門をくれた時の、公主との約束を。
 内旗門も使っていなかったし、それを見てがんばろうって思えたんだ。
 でないと、公主に会わせる顔が無いって。
 折角、公主達ががんばってくれたものを、無駄にしたくないって、そう思ったんだ。
 だから、俺は勝てたんだよ。
 ありがとう、公主」

 土行孫の言葉を聞いて、竜吉公主はフイッと顔を背けた。
 その様子に土行孫が眉を顰めていると、竜吉公主が口を開く。

「ま、まあそこまで言ってくれるなら、私もがんばった甲斐が……ああいや、違うぞ?
 内旗門の裾上げをしたのは碧雲だし、私はおぬしに手渡しただけだからの。
 結局、闘ったのはおぬしなのだし、勝ったのもおぬしだ。
 それは誇っても良いとは思うが……」

 どうやら、竜吉公主は照れているようだ。
 人との交流が少ないせいか、こういう言葉には免疫が無いらしい。
 思わずポロッと零れているが、自分が内旗門に手を加えている事は隠したいようだ。
 治療に邪魔だったのか、竜吉公主は髪を簪で纏めている。
 そのため、普段は隠れている竜吉公主の耳が、今は僅かに赤く染まっているのが見えた。
 それを珍しいと眺め、又、年上であっても微笑ましいと感じながら、土行孫は口を開いた。

「でも、やっぱりありがとう。香火遁の術のおかげで、俺は無駄な消耗をせずに済んだ訳だし」

 香火遁で遠くのモノを引き寄せる事が出来た。
 そのおかげで、持っているだけで消耗していく宝貝を、ギリギリまで手に持たずに済んで消耗を抑えられたのだ。
 それが何よりも大きい。
 集めている宝貝を引き寄せられる事も魅力的だ。
 元々、宝貝は沢山持ち歩く事は出来ないのだから、その欠点が無くなった事が土行孫には大きいのだ。
 土行孫がそう言うと、竜吉公主はコホン、と軽く咳払いして土行孫を見下ろす。

「のう、土行孫。それはそうと、聞きたい事があるのじゃが……」

「何だ?」

 若干言い辛そうにしている竜吉公主に、土行孫は尋ねる。

「その……おぬしはいつ、申公豹と出会ったのじゃ?」

「は?」

 土行孫が目を丸くする。
 何故ここで、その名が出て来るのか分からない。
 その目はそう物語っていた。

「どうして申公豹の話になるんだ? あいつは何かしたのか?」

「何かしたというか……」

 竜吉公主は僅かに言い淀むが、静かに事実を口にした。

「その、おぬしをここまで運んで来たのが申公豹じゃ」

「……おおう」

 土行孫は頭に手を当てる。
 竜吉公主によって、既に怪我は治っているというのに、まだ頭が痛むような気がした。

「何処かで見てたのか? いや、黒点虎がいるなら分かるだろうけどさ」

 黒点虎の順風耳であれば、土行孫と楊戩が今日決闘をするというのも分かるだろう。

「『中々楽しませてもらいました』と言っておったぞ。
 それと『私をタクシー代わりに使ったのは、彼が初めてです』とも言っておったな」
 
「別に頼んだ訳じゃねえよ……」

 気絶していた土行孫が、竜吉公主の所まで運んでくれるように頼める訳が無い。
 だから申公豹がやった事は、全て独断なのだろう。
 竜吉公主は言葉を続けた。

「それから……『友を助けるのは当然でしょう』とも言っておった」

「……」

「のう、土行孫。おぬし……いったい何をやったのじゃ?」

「……色々あってな」

 土行孫は言葉を濁した。
 濁さざるを得なかったのだ。
 何せ土行孫も、申公豹の事はまだ消化出来ていないのだから。

「色々あって、服装をバカにされたと思った申公豹に殺されかけたんだ。
 それで、申公豹の服装が似合っているって言っただけだ。
 そしたらセンスが分かるとかで、友達に認定されたんだよ。
 正直、俺も良く分からないんだ」

「……なるほどの」

 釈然とはしないものの、理解は出来たようだ。
 頷いた竜吉公主に、土行孫はフゥっと息を吐く。

「いきなり現れたからの。流石に驚いたぞ」

「それはそうだろうな」

 面識も無いはずの最強の道士が、いきなり自分の所に来れば驚くだろう。
 土行孫も最初に会った時、流石に目を疑ったものだ。
 そのせいで殺されかけ、訳も分からないまま友達になってしまったのだが。

「ところで土行孫」

「何だ?」

「私を見てどう思う?」

「は?」

 土行孫は首を傾げた。
 膝枕の状態だから、竜吉公主の顔は逆さまに映っているが、そこにはいつも通りの美しい顔があるだけだった。

「どうって……いつも通りだろう?」

 竜吉公主が僅かに不機嫌そうな雰囲気を出しているのを感じ、土行孫はもう少しよく見つめる。
 そして気付いた。
 
「……あ、簪の事か? それなら結構似合ってると思うけど」

 先ほど気付いた、竜吉公主が珍しく髪を結っている事。
 おそらくその事だろうと、土行孫は当たりをつけた。

「……うむ、そうか。それなら良い」

 竜吉公主は満足げに頷いた。
 その反応に、土行孫は更に首を傾げる。

「良く分からないんだが……」

「なに、気にせずとも良い」

「はぁ……分かった」

 釈然としないまま、土行孫は頷いた。
 竜吉公主も女性だ。
 相手が誰であろうと、似合っていると言われれば嬉しいだろう、と土行孫は判断したのだ。

「……まあ、良いか……」

 土行孫は静かに目を閉じた。
 竜吉公主の手で治療はされたものの、宝貝を使った疲労まで回復した訳ではない。
 頭に感じる柔らかな感触と、頭を撫でる優しげな感触に身を任せ、土行孫は再び眠りに落ちていった。
 今度は良い夢が見られそうだな、と土行孫は思いながら。







あとがき

イラッ☆
そう感じた貴方、間違っていません。

とりあえずリクエスト通り、公主とのいちゃラブ。
それとちょっと申公豹風味でお送りしました。





[12082] 第十六話 土行孫、礼を言いに行く。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 22:52




 決闘から数日後、土行孫は菓子折りを持って、金庭山玉屋洞に来ていた。
 ここは十二仙の一人が住まう山である。
 降り立った土行孫は、中へと進みながら声を上げる。

「道行天尊様! 土行孫です! 道行天尊様!」

「……は~い。今行くでちゅ!」

 土行孫の言葉が聞こえたか、奥からふよふよと浮かぶ一人の人影が現れた。
 現れたのは、赤子と見紛う程に幼い人物だった。
 彼こそがこの金庭山玉屋洞の主であり、崑崙十二仙の一人、道行天尊である。

「おや? 土行孫ではないでちゅか。久しぶりでちゅね」

 舌っ足らずな口調で、道行天尊は土行孫を歓迎した。

「ご無沙汰してます。あ、これどうぞ」

 土行孫は道行天尊に頭を下げると、右手に持っていた菓子折りを渡した。

「ありがとうでちゅ。韋護いごは今出かけてるでちゅから、あとで皆で頂くでちゅ」
 
 道行天尊は菓子折りを受け取り、礼を言った。
 その喜ぶ姿からは、彼が土行孫よりも、遥かに長くを生きた仙人であるとは感じられない。
 だがこんな口調と容姿であっても、彼は間違いなく、十二仙に名を連ねるほどの人物である。
 道行天尊は仙人を志した時期が、土行孫よりも早かっただけなのだろう。 
 それは才覚を表すのが早かったという事であり、それだけ彼が優秀だったという証拠である。
 土行孫が下手に出るのは当たり前であった。

「ん?」

 土行孫は、道行天尊の一言が気になった。

「韋護が出かけるだなんて珍しいですね」

 韋護とは道行天尊の弟子の名前であり、土行孫も顔見知りである。
 怠け癖があったり、多少現金主義なところがあって、そこは太公望にも似ているかもしれない。

「あの子はよくサボるでちゅからね。
 おつかいの名目で、道徳まで手紙を届けさせてまちゅ。
 手紙には性根を叩き直してくれるように書いてまちゅからね。
 今頃は強制的に、夕日に向かってうさぎ跳びでもやらされているはずでちゅ」

「今頃って……今は朝なんですけど……」

 土行孫の頬に汗が流れる。
 韋護が疲労骨折を起こすのではないか、と土行孫は心配になった。
 うさぎ跳びは有害でしかない、と言われているからだ。
 尤も、うさぎ跳びは道行天尊が言った事なので、あの清虚道徳真君が、実際そんな間抜けな真似をするとも思えない。
 もっとちゃんとした訓練メニューを組んでくれるだろう。 
 だがしかし、あっさり逃げられるとも思えないので、韋護に今日会う事は出来そうにないと土行孫は判断した。

「そういえば土行孫。楊戩に勝ったそうでちゅね」

「はい。良くご存知ですね?」

「結構有名でちゅよ?
 あの天才道士が負けた、って噂になってるでちゅ。
 楊戩のやつ、かなり情けない負け方したみたいでちゅからね。
 そのせいで、玉鼎が嘆いていたでちゅ」

「そうですか」

 土行孫は頷いた。
 自分の弟子が、最後は女装して負けたともなれば、誰だって嘆きたくもなるだろう。
 楊戩の師である玉鼎真人に、土行孫は同情した。

「それで今日はですね、その決闘で絶仙剣が切り札になったので、お礼を言いに来たんです」

 道行天尊からもらった絶仙剣は、十二仙がかつて使っていたものである。
 当然、威力も高い。
 あれだけの数の分裂した剣を見せて、相手を取り囲めば十分な威嚇にもなる。

「ありがとうございました」

 そういった土行孫の言葉に、道行天尊はキョトンとした顔をする。
 そして苦笑いを浮かべながら、土行孫に言った。

「相変わらず君は、変なところで律儀でちゅね。義理堅いというか、几帳面というか……」

「そうですか?」

 土行孫は首を傾げる。
 道行天尊は頷いた。

「そうでちゅよ。普通は宝貝をもらったらそれっきりでちゅ。
 だいたい、あれは君にあげたものなんでちゅから、わざわざその都度言いに来る必要はありまちぇん。
 やっぱり君は、微妙に他と感性がズレてまちゅね」

「ズレてる……ですか?」

 聞き返した土行孫に、道行天尊は再び頷いた。 

「大した事では無いんでちゅけどね。
 君はどうにも事なかれ主義というか、周りに波風立てないように生きてる節がありまちゅから」

「……」

 それは土行孫の中身が、この時代の人間ではない事だからだろうか。
 今の時代から考えれば、土行孫の中の意識は、遥か未来の時代の別の国の人間である。
 馴染んだという意識を持っていたが、どうやらそれは土行孫だけだったらしい。
 道行天尊からすれば、その違和感は明確であったようだ。

「まあ、問題がある訳でも無いでちゅから、特に気にする必要はありまちぇん。
 僕とちても、君に絶仙剣をあげた事は、間違って無いと思ってまちゅ。
 それで弟子達に、発破を掛ける事も出来まちたから」

「はあ……」

 土行孫は曖昧に頷いた。

「……そういえばこれから、太乙真人様のところへ行かなければいけないので」

「そうでちゅか。分かりまちた。また来るでちゅ」

 道行天尊は手を振って、出て行く土行孫を見送った。
 その裏の無さそうな顔に後押しされ、土行孫は跳び上がる。
 足早に出て行くその姿は、まるで逃げて行くかのようだった。






 道行天尊のところを出てきた土行孫は、自分が言ったとおり太乙真人のところへと来ていた。
 山とは言い難い形状をした乾元山、その中にある金光洞こそが、太乙真人の住まう地である。
 土行孫もよく世話になっている場所だ。
 何故か展開されている九竜神火罩を横目に、土行孫が降り立つと、声を出す前に太乙真人が出てきた。

「土行孫じゃないか!」

 走り寄って来た太乙真人は、土行孫の顔をまじまじと眺める。
 むず痒くなった土行孫が、太乙真人に尋ねる。

「あの……太乙真人様、どうかしたんですか?」

「どうかしたんですかって……心配してたんだよ。
 怪我的には楊戩の方が大きかったから、先に九竜神火罩で運んだんだよ。
 でも、楊戩を送り届けて帰って来たら、君はもういなくなってたからね。
 まだスープーシャンと追いかけっこしてた太公望に聞いても、見てないって言うから。
 太公望を殴り飛ばそうと必死で、スープーシャンは君の事忘れてたし」

「そうだったんですか……」

 どうやら土行孫を運んだ申公豹の姿は、誰にも見られなかったらしい。
 余計な追求を避けられた事に、土行孫は密かに安堵した。

「ご心配をおかけしました。友人が見つけて運んでくれたんです」

「そうかい? いや、それなら良かった。てっきり封神されちゃったのかと焦ったよ」

「魂魄が飛ぶところを見た訳でもないでしょう?」

「それでも、気になったんだよ」

 土行孫の言葉に、太乙真人はホッと胸を撫で下ろす。
 少し後ろめたい気持ちになりながらも、土行孫は宝貝を取り出す。

「それで、楊戩との戦いで使った宝貝の整備、お願いしても良いですか?」

「ああ、うん。任せておいて」

 宝貝の専門家である太乙真人に、宝貝の整備を頼む事がここへ来た目的だった。
 硬い如意棒や、直接攻撃に使用していない怪力紐などは大丈夫だろうが、土竜爪は結構無茶をしたからだ。
 土竜爪自体も、それなりの硬度はあるが、九竜神火罩に向けて撃ったのだ。
 どこかに不具合があるかもしれない。
 事実、爪の先が僅かに欠けている事に気付いたからこそ、土行孫は頼みに来たのだ。
 土竜爪を受け取った太乙真人は、軽く表面を撫でながら言った。

「それじゃ、見させてもらうよ。これぐらいなら多分、一時間ぐらいで終わると思うから」

「分かりました」

「……ああ、そうだ!」

 奥へ引っ込もうとしていた太乙真人が、ある事を思い出したらしく土行孫へ振り返った。

「土行孫。良かったら待っている間、ナタクの話し相手になってくれないかい?」

「ナタク?」

「楊戩が変化した中に、乾坤圏を使った子供がいただろう? 
 君はまだ本人には会ってないだろうけど、あれがナタクだよ。
 私が作った霊珠れいじゅを核にして生まれた子でね。
 ちょっと気難しいところがあるから、今は九竜神火罩に入れて反省させてるんだ」

「ああ。あれが……」

 土行孫はその事に思い至る。
 楊戩が変化した姿とはいえ、あの攻撃はかなり鋭かった、と土行孫は思い出した。
 その相手が、今は表にあった九竜神火罩に閉じ込められている事実に、土行孫は思わず笑う。

「分かりました」

「それじゃ、お願いね。
 君なら多分、大丈夫だよ。
 あの子は君にとっても弟みたいなものだから、やり過ぎないようにね」

 土行孫が頷くと、太乙真人は奥へと消えていった。
 太乙真人が最後に言った言葉が気になったが、大した事ではないだろうと土行孫は判断する。
 土竜爪が直るまでの間、土行孫は太乙真人に頼まれたとおり、ナタクに会いに行く事にした。






 土行孫が表へ出ると、閉じられていた九竜神火罩が、ゆっくりと開いていく。
 中から出て来たのは、土行孫よりも背は高いものの、まだあどけない顔をした少年だった。
 上半身はランニングシャツ一枚で、その燃えるような赤毛を額宛で留めていた。
 不機嫌な顔をした彼こそが、太乙真人の言っていたナタクだ。

「よぅ、はじめまして。俺は土行孫だ。よろしくな」

 そういって土行孫は、軽く手を上げて挨拶をする。
 土行孫を認識したナタクは、ジャキッと音を立てて乾坤圏を構える。

「死ね」

「は?」

 目を丸くする土行孫に向けて、ナタクは乾坤圏を放った。

「うおおおっ!?」

 転がって土行孫は何とかそれを避ける。
 通り過ぎる乾坤圏に、土行孫の髪が一房削り飛ばされる。

「チッ……」

「いきなり何しやがる!?」

 舌打ちをしたナタクに、土行孫は叫んだ。
 声に振り向いたナタクは、土行孫に指を突きつける。

「お前からは強いニオイがする。だから俺と戦え」

 土行孫は、自分を見つめるナタクの眼に、喜びのようなものを垣間見る。
 その様子に、土行孫は深い溜め息を吐いた。

「太公望の次は楊戩、そして今度はナタクか……。
 最近、決闘を申し込まれる事が多いな。
 何なんだ、いったい……」

 この頃戦ってばかりのような気がする、と土行孫は思った。
 土行孫はこの事態が、誰かが仕組んだ陰謀のような気がしてならない。

「いきなり攻撃してくるのは、気難しいってレベルじゃないと思うんだけどな」

 ナタクがそういう性格ならば、最初に言っておいて欲しかったと、土行孫は奥へと消えた太乙真人を見遣る。
 しかし、だからといって、太乙真人が出て来る気配は無い。
 太乙真人の言った、土行孫ならば大丈夫とは、土行孫ならばナタクにやられる事は無いという信頼からだろうか。

「まあ良いか。頼まれた事は、ちゃんとやらないといけないし」

 土行孫は懐から如意棒を取り出す。

「それに……弟みたいなものだっていうなら、悪い事は悪い、と兄が教えてやらなきゃな」

 大きな棍となったそれを軽く回すと、両手で持って構える。

「さあ来い、ナタク。兄弟喧嘩だ。
 俺はそう簡単にはやられないから、全力で来い。
 俺が勝ったら、話し相手になってくれよ」

 土行孫の言葉に、ナタクはニヤリと笑うと、飛び上がって乾坤圏を構えた。




あとがき

何か気分が盛り上がらないなぁ。
次回も遅れると思います。
正直、乾坤圏しか持ってないナタクなんて楽勝ですけどね。
もしかしたら、次回は既に戦いが終わったところから始まるかもしれません。

うちの土行孫は韋護とは顔見知りですが、良いギャグが思いつかなかったので登場できませんでした。
あんな事言わないなら登場出来たのに。




[12082] 第十七話 土行孫、ナタクと戦う。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 22:55





 ナタクは土行孫へ向けて、両腕を突き出した。
 その腕に装着された乾坤圏が、まるで銃を撃ったかのような音を響かせて撃ち出される。
 土行孫は如意棒を突き立て、巨大化して盾にする。
 金属にぶち当たる甲高い音が響き、土行孫は眉を顰める。

「くっ……結構重いな」

 ナタクの放った乾坤圏は、土行孫を僅かではあるが後退させるだけの威力があった。
 楊戩が変化したナタクよりも、この乾坤圏は更に強い。
 以前楊戩がナタクに会った時よりも、成長しているのだろう。

「今度はこっちから行くぞ!」

 土行孫は如意棒を引き抜くと、振り回して横からナタクへと叩きつけようとした。
 ナタクはその攻撃を、足についた宝貝『風火輪(ふうかりん)』で飛び上がって避ける。
 そのまま空へと翔け上がるナタク。
 土行孫はそれを見上げていた。

「ここならお前の攻撃も当たらない」

 そういったナタクは、再び乾坤圏を発射する。
 先程とは別の意味で、土行孫は眉を顰めた。

「……それだけか?」

 土行孫は如意棒を構えて、飛んできた乾坤圏を横から叩き落とした。
 そして土行孫はナタクへ背を向けると、金光洞の入り口に向けて歩き出す。

「おい! 何処へ行く!? 戦いはまだ終わっていないぞ!」

「ああ、そうだな」

 土行孫は金光洞の入り口で立ち止まると、振り返ってナタクを見上げる。

「安心しろ。別に逃げるつもりなんかないから。俺はただ、これを取りに来ただけだ」

 土行孫は傍らにあった、九竜神火罩を叩く。
 それはナタクが閉じ込められていたものだ。

「それは……」

「太乙真人様が持っている本体が無いと、九竜神火罩は使えない」

 太乙真人が肩に着けている本体が無ければ、操作は出来ない。
 よって、土行孫がそれに触れても、九竜神火罩でナタクを閉じ込める事は出来ない。

「でもな? こういう使い道も――」

 土行孫は如意棒を両手で持つ。
 それは武器としての構えではなかった。
 間隔を開けたものではなく、棒の一端を握り締める持ち方だった。
 そしてそれを、土行孫は思いっきり振りかぶる。

「あるんだぜ!!」

「なにっ!?」

 振り抜いた如意棒は、九竜神火罩にぶち当たった。
 如意棒の当たった九竜神火罩の下半分は、思い切り吹き飛ばされ、ナタクに向けて飛んでいく。
 ナタクは乾坤圏を撃つが、九竜神火罩には弾かれただけだった。

「くっ……!」

 慌てて避けるナタク。
 そこに土行孫の声が聞こえた。

「もう一発行くぞ!」

 なおも如意棒をバットのように構えた土行孫が、残った九竜神火罩の上半分をナタクに向けて打ち出す。
 それもまた物凄いスピードで迫り、二発目を想定していなかったナタクに直撃する。

「ぐあっ……!」

 大きく仰け反るナタク。
 そのまま落下する事は防いだものの、フラフラと飛ぶナタク。
 だが、なおも戦いを続けるため、土行孫に向けて乾坤圏を構える。
 だがそこに、土行孫は既に居なかった。

「何処に行った……?」

 辺りを見回して、ナタクは警戒する。
 だが土行孫は見当たらない。
 その時、ナタクの宝貝に異常が起きた。


ギィンッ!!


「何だとっ!?」

 風火輪が弾き飛ばされ、ナタクは目を見開く。
 グラリと体勢を崩したナタクの背に、想像を超える急激な重量が加わった。
 いきなりの加重によって、重量オーバーとなったナタクは、虚しく地面へと落下する。
 地面へと叩き付けられたナタクの背には、内旗門で姿を現した土行孫がいた。

「これで終わりだ」

 投げ出されたナタクの腕の上に、土行孫は如意棒を置く。

「ぐっ……!」

 ナタクが何とか腕を動かそうとするが、如意棒に下敷きにされて引き抜く事が出来ない。
 ナタクの武器は、これで封じられたのだ。
 軽く辺りを警戒しながら、土行孫は言った。

「俺の勝ちだな」

 太公望が居ない事を確認すると、土行孫はナタクを見下ろす。

「さて、何から話そうか? 言いたい事があったはずなんだが……」

 土行孫は目を瞑り、軽く思案する。
 そして思い出したようで、目を開けた土行孫は、ナタクに言った。

「まず、いきなり人に向けて宝貝を撃っちゃいけない。
 今回は俺が避けられたから良かったものの、そうでなかったら封神されてたぞ?」

 土行孫は遠い目をして言った。

「あれは本気で危なかったぞ」

 今更思い出したのか、土行孫の頬に汗が一筋流れる。

「とにかく、もうあんな事は止めろ。
 もし罪も無いやつを殺したりしたら、お前の大切な人だって悲しむぞ?」

「……分かった」

 小さくナタクは頷いた。
 土行孫の言葉に納得した訳ではないようだ。
 「大切な人が悲しむ」という言葉に渋々頷いた、そんな感じだ。

「ん~……まあ、良いか。今はそれでも」

 理由はなんであれ、取りあえず無駄に死に掛ける事が無くなったのだから、土行孫としては良しとしておく。
 本当は、誰かが悲しむから、という理由ではなく、自分でそう思ってもらいたかった。
 だがまだ精神的に子供であるナタクに、そんな事を言っても分からないだろうと思ったのだ。

「話は終わったか? じゃあこれを除けろ」

 そう言って顎で如意棒を示すナタクだが、土行孫はまだ除けようとしない。

「まあ待てナタク。まだ話は終わってないんだよ。
 さっきから見てたけど、お前は遠くから乾坤圏を撃ってただけだったな?」

「それがどうした」

「あれじゃ駄目だ」

 土行孫の言葉に、ナタクが振り返る。

「どういう事だ?」

 乾坤圏の威力は凄まじい物だ。
 その破壊力は、大岩をも一撃で砕ける哮天犬とも良い勝負だろう。
 それだけの力を持つ宝貝が、同時に二つも放つ事が出来るのだから。
 でも、それだけだ。

「乾坤圏は強いけど、それだけじゃ俺には勝てない」

 威力はたしかに強い。
 だがその分、弱点も存在するのだ。
 土行孫は手を伸ばすと、ナタクの手から乾坤圏を取り外す。

「この乾坤圏はな、その突破力が長所だ。
 さっきの九竜神火罩ほどの硬さでもない限り、大体は砕ける。
 でもそれに力を入れているせいで、それ以外は脆い」

 土行孫はコンコンと乾坤圏の側面を叩く。

「俺がやったみたいに、側面からの攻撃であっさり方向が変わる。
 それ以外にも、腕輪型の形状をしてるから、風を操れる宝貝なら進行方向を変えやすい」

「……お前の話は長い」

「はは、そういうなよ。ちゃんと聞けば、強くなれるぞ?」

「本当か?」

 話が長いと言われた事に、土行孫は苦笑いする。
 自分が年寄りだと、面と向かって言われた気分だった。
 だが、ナタクが子供のような目をして土行孫を見るので、土行孫は仕方ないと思いながらも答える。

「例えば、二発同時に放つんじゃなくて、一発をフェイントにするとかどうだ?
 それが駄目なら、ここは仙人界なんだから、地面に撃って相手を叩き落すのも良い。
 叩き落せなくても、舞い上がった砂煙で身体を隠す事が出来る。
 それに乗じて、近づいて至近距離から撃てば、相手は避けられないだろうしな」

「……」

「宝貝でなくても、相手を攻撃する事は出来る。
 俺が九竜神火罩を球にして打ち出したみたいに、そこにある物を利用すれば良い。
 乾坤圏で山を崩して、大岩でも落とせば似たような事も出来るな」

「……お前、どうしてそこまで、コレの事を知っている?」

 ナタクは土行孫の持つ乾坤圏を見つめる。
 土行孫はナタクから取り外した乾坤圏を、軽く手で弄びながら言った。

「以前使ってたからな。知ってるのは当然だ」

「何……?」

「尤も、俺が使ってたのは、この乾坤圏の試作品だけどな」

 土行孫は乾坤圏を上へと放り投げる。
 そのままそれを、お手玉のように投げ続ける。

「……なあ、ナタク。お前、宝貝人間だろ?」

「それがどうした」

 土行孫はお手玉をしながら、言葉を続ける。

「この乾坤圏はな、お前にプレゼントするために、太乙真人様が頑張って作ったんだよ。
 暴発とかするといけないから、細心の注意を払ってな。
 お前が足に着けている、その空を飛ぶ風火輪ふうかりんも。
 お前が腰に着けている、水を振動させる混天綾こんてんりょうも。
 俺が大丈夫だ、と判断出来るまで確かめたんだ。
 だから……俺が使っていた宝貝がお前に受け継がれたんだから、お前は俺の弟みたいなものなんだよ」

 お手玉に飽きたのか、土行孫は乾坤圏をナタクの腕へと戻す。
 そして如意棒を除けて、自分もナタクの背中から立ち上がる。

「兄貴の言う事は、素直に聞いておいた方が良いぜ?」

 立ち上がったナタクの背を軽く叩いて、土行孫は太乙真人の待つ金光洞へと促す。

「それじゃ、戻るか」

「……フン」

 土行孫に促され、ナタクは歩き出す。
 二人して戻ると、既に修理を終えた太乙真人に、大いに心配されたのだった。




あとがき

前回言うのを忘れていましたが、PV数が十万突破しました。
もう十一万超えてますけど。
皆様、ありがとうございます。

次どうしようかな?




[12082] 第十八話 土行孫、悩む。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 22:58





「いやあ、二人とも大きな怪我が無くて良かったよ」

「そうですね。ナタクとも仲良くなれましたし」

「……フン」

 土行孫と太乙真人の会話に、ナタクはそっぽを向いて答える。
 その様が本当に子供なので、親と兄としては微笑ましく感じた。
 この時ばかりは、太乙真人とアイコンタクトが通じたような気がした土行孫だった。
 小さく笑った太乙真人は、その手に持つ土竜爪を土行孫に見せる。

「はい。直ったよ」

「ありがとうございます、太乙真人様」

 土行孫は太乙真人に、土竜爪を渡された。
 欠けていた爪の先は修復され、以前と遜色ないほどに綺麗になっていた。
 戻ってきた土竜爪を手に装着すると、土行孫はホッと一息吐く。

「やっぱり、これを使っているのが一番落ち着きますね」

「そうかい? そういってもらえると、僕も頑張った甲斐があったよ」

 太乙真人は誇らしげに胸を張る。
 だが土行孫が撫でている土竜爪を指差し、太乙真人は言った。

「でもその宝貝、ちょっと変だよね」

「変……?」

 土行孫は首を傾げる。
 指差されるがままに土竜爪を見るが、いつも通りの土竜爪だ。
 特に不思議な所は無い。

「変って……何がですか?」

「それがね……」

 太乙真人は言い難そうに言った。

「土行孫。君はどうして師匠の懼留孫じゃなくて、僕に持ってきたんだい?」

「えっと……最初はそのつもりだったんですけど……」

 土行孫は言葉に詰まる。
 だがここまでしてくれた相手に、何も話さないのも悪いと土行孫は判断した。

「師匠に見せたら『儂が作ったやつじゃないから分からん。太乙に見せろ』とか言われて……」

「……あ~、なるほど。そういう展開だったか」

 太乙真人は、土行孫の言葉で納得した。

「その程度なら、僕じゃなくても懼留孫に頼めば良いと思ってたんだけどね。
 でもその土竜爪、思っていた以上に、中身は高度な作りしてたんだ。
 懼留孫が作った物にしては、どうにも精巧過ぎる気がしてたんだよ」

 懼留孫は面倒臭がりなのだ。
 普段は土行孫をバカ弟子呼ばわりして扱き使っている。
 その面倒臭がりが影響してか、今の弟子は土行孫だけである。
 もしかして、その性格に他の道士は逃げたのじゃないかと、土行孫は疑っている。

 そんな懼留孫だが、最初に会った時は、水の上に立っていたのだ。
 土行孫も勉強した後なら分かるのだが、水の上に立つというのは、かなり難しいのだ。
 それが気になり、土行孫は尋ねた事がある。
 あれはいったい何だったのかと。
 性格から考えて、あんな事をするとは思えなかったから。
 それを尋ねると、懼留孫は直ぐにネタばらしをしてくれた。
 あれは水の上に立っていたのではなく、水の中に居た柏鑑はくかんという亀の妖怪仙人の背に乗っていただけらしい。
 何故そんな事をしたのかと尋ねたら、『ただの演出じゃ』と言われた。
 仙人だと認めさせるには、それ相応の演出がいるようだ。
 その事に土行孫は、仙人になるのを止めようと思ったものだ。
 現在、土行孫が仙人の免許を取ろうとしないのは、それも理由の一端である。
 いちいち弟子を取るのに、そんな面倒な事などしたくないと思ったのだ。
 理由の第一に面倒というものが来る辺り、土行孫が懼留孫の弟子であるのは、やはり相応しいのだろう。

「でもそれじゃあ、その宝貝はいったい誰が作ったんだい?」

「それは……俺にも分からないです。
 土竜爪は師匠から貰ったものですけど、師匠も良く分かってないみたいでしたから。
 土竜爪を貰った時も、『土の中を潜れる宝貝……らしいぞ』って言ってましたし」

「それは……なんともアバウトだね……」

 太乙真人は苦笑する。
 師匠の恥を晒す事になったので、土行孫も苦笑いをするしかなかった。
 太乙真人はフム、と頷く。

「そうか……懼留孫が作ったやつじゃなかったのか……。
 誰が作ったのかはさておいて、土の中を潜るだけの宝貝には見えない作りなんだよね。
 土行孫が言っていたように、土を操る宝貝って考えた方がしっくり来るぐらいだ。
 もしかして、それは懼留孫の嘘だったのかもね」

「嘘……ですか……」

 だがしかし、懼留孫が土行孫に嘘を吐く理由が見当たらない。
 特に気に入らない行為をした覚えなど無いし、関係はそれなりに良好であるはずだ。

「考えられるとしたら……リミッター?
 土行孫がその事を知って、天狗にならないようにとか?
 でも土行孫はそんなタイプじゃないと思うけど……」

「そんな深く考えなくても良いんじゃないですか?」

 考え込む太乙真人に、土行孫は手を振る。

「あの師匠の事ですから、多分蔵にでも放り込んでて、忘れただけでしょう。
 もう年ですから。ボケたんでしょう、きっと」
 
「……何気に酷い事言うね。僕も大して変わらないんだけど」

「それじゃ、俺はもう行きますから」

 土行孫は踵を返して出て行く。
 その背に、ナタクの声が掛かる。

「おい」

「何だ?」

 振り向いた土行孫に、ナタクは指を突きつける。

「次は勝つ。その宝貝も使ったお前にだ」

 その指が土竜爪に向いているのを見て、土行孫はニヤリと笑う。

「やってみろ。でも、兄貴がそう簡単にやられると思うなよ?」

 そう言って土行孫は飛び立ち、乾元山を後にした。






 空を歩きながら、土行孫はのんびりと考える。

「さて、どうするかねぇ」

 修行をするにも、先ほどナタクと戦ったばかりで、あまりやる気がしない。

「……そういえば、申公豹に会ってないな……」

 道行天尊の所などに回って礼を言ったが、申公豹に礼を言うのを忘れていた。
 竜吉公主のところへ、土行孫を運んでくれたのは申公豹なのだ。

「う~ん……申公豹には礼をしなきゃいけないと思うんだが……」

 土行孫はそう考えてはいるが、申公豹がどこに住んでいるのか分からない。
 そもそも、申公豹が特定の場所に定住しているイメージが湧かないのだ。
 順風耳を持つ黒点虎なら、土行孫が呼べば聞こえるだろう。
 しかし、礼が言いたいなら、土行孫が申公豹の下へ出向くのが筋であろう。
 礼を言うために相手を呼び出すのは、土行孫としては本末転倒な気がするのだ。

「でも何だかなぁ……。
 礼を言うだけなのに呼び出すのも、申公豹の迷惑にしかならないだろうし……。
 何か物でも贈った方が良いのかねぇ……」

 自分以外に誰もいない空を、土行孫はとぼとぼと歩いていく。
 最近独り言が増えた気がするのは、やはり年を取ったせいなのかもしれない。






「で、どう思う?」

「それを聞くために、私に会いに来たのか?」

 土行孫は浄室で、竜吉公主に話を聞きに来ていた。
 土行孫が申公豹と友人関係にある、という事を知っているのは、竜吉公主だけだからだ。
 竜吉公主は、僅かに声音を低くして言った。

「……おぬし、人の部屋に上がり込んで聞く事がそれとは、いささか無粋が過ぎるとは思わぬか?」

「真面目に悩んでるんだよ。
 長く生きてる申公豹だ。
 おまけに、申公豹は面白い事が好きな愉快犯の気がある。
 そんな相手に、いったい何を贈れば良いのかと思ってな」

「ほう? 贈る事はもう決まっておるのか?」

「そんな事言ってもなぁ……。ただ礼を言うだけなのも、味気ない気がするんだよ」

 胡坐をかいた土行孫が頬を掻く。

「だが普通は、思いの籠もったものであれば何でも良い、というではないか。おぬしもそうすれば良かろう?」

「そうだよなあ……」

 土行孫は竜吉公主の言葉に、ぼんやりと頷く。

「公主もやっぱり、心の籠もったものなら何であれ、嬉しいか?」

「当然じゃな」

 竜吉公主は頷くと、傍らの小箱を手に取る。
 それを開けると、中には小さな泥団子が入っていた。
 それを見た土行孫が顔を顰める。

「……おい、それまだ持ってたのか?」

「当然であろう? コレはおぬしからもらった、初めての物なんじゃからな」

「別に……捨てるつもりだったからあげただけで、そんな後生大事に持つ物でもないと思うけどなぁ……」

「例えそうであったとしても、コレに心が籠もっているのは間違いない。だから記念として残してある」

 竜吉公主は泥団子に指を近づける。
 すると、乾いていた団子に水の膜が張られた。

「放っておくと、乾いて砕けてしまうからの。こうやって、時折見てやらねばならぬ」

 音も無く閉めた小箱を、竜吉公主は大事そうに仕舞った。

「よく分かんねぇなぁ……」

「分からずとも良い。私が分かり、傍に居ればそれで済む事じゃ」

 竜吉公主のその言葉に、土行孫は溜め息を吐いた。

「まだまだだな、俺は……」

 まだまだ受難は続きそうな気がするのは、なにも自分の気のせいではないと、土行孫はそう思いたかった。




あとがき

筆のノリが悪いです。
っていうか、封神演義は時間の流れが速すぎる。
酒池肉林から武吉登場までに、七年も時間が経ってるなんて気付かなかった。
でもたしかに読み直したら、最初の時の姫昌はまだ黒髪なんですよね。

懼留孫、面倒臭がりになってしまいましたけど、別に構いませんよね。
漫画からの描写だけだと、性格を読み取るのは難しいので。

主人公はあくまでDOKOUSONで、そのうえ原作との関わりは現時点であまり深く関わっていません。
なので、ほとんど流れは同じなので、主に人間界での話とか、原作と同じところはカットします。

次、どうしましょう?
もしかしたら、何年か飛んでるかもしれません。



[12082] 第十九話 土行孫、攫われる。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 23:01





 竜吉公主に言われたように、土行孫は贈り物を製作していた。
 酒や食物でも良いかとも考えたのだが、申公豹はそういう物に、特別興味があるようにも思えなかった。
 ならば、すぐに無くなる物よりは、多少は長持ちする物を贈った方が良いのではないか、と土行孫は思ったのだ。
 それが例え、仙道の生きる永い時間に比べれば、あっという間に壊れてしまう脆い物だとしても。
 最後にヤスリを掛けて、パラパラと落ちる粉を濡れた布巾で拭うと、それは完成した。

「……にしても、本当にこれで良いのかね?」

 出来上がったそれを、土行孫は掲げる。
 土行孫が作ったのは、水晶を使用した首飾りだ。
 首飾りには勾玉がついており、中央には二つの勾玉が合わさった陰陽の球がある。
 部屋に差し込む光に当たると、透き通るような首飾りは、光を中に閉じ込めてキラキラと白く輝いた。

「自信作、といえば自信作なんだが……やっぱり止めとこうかな」

 陰陽の印はありふれた物である。
 その上、ただの首飾りなのだから、特に変わった効果がある訳でもない。
 竜吉公主に言われた通り、心を込めて作ったものであるのは間違いないのだ。
 しかし、作り終わった後で考えるのもどうかと思うが、このありふれた物では、申公豹の好みに合うか分からない。
 センスが分かると思われている以上、つまらない物を贈れば、もしかすると命に関わるかもしれない。
 それに、そうならなかったとしても、やはり物を贈る以上は、お世辞ではなくて素直に喜んでもらいたいものなのだ。

「……とりあえず、保留にしておくか」

 土行孫は首飾りを懐に仕舞う。

「渡すかどうかは、今度申公豹に会った時に考えよう。駄目そうだったら、また別のを考えれば良いだけの事だしな」

 土行孫は立ち上がり、服に付いた汚れを軽く払う。
 そして扉を開け、部屋を出た。

「散歩にでも行くか」

「……おい、バカ弟子」

「ん?」

 外へ出ようとしていた土行孫に、後ろから声が掛けられた。
 しわがれた声をしたその声は、土行孫には聞き覚えのある声だった。
 何より、土行孫の事をバカ弟子と呼ぶのは、一人しか居ないのだ。

「師匠か……」

 振り向いた土行孫の視線の先には、小柄な人影があった。
 真っ白になった長い髭を蓄えた老人である。
 彼こそ、土行孫の師匠である懼留孫だ。
 碁盤を前にして唸っている懼留孫は、土行孫の方を見向きもせず、そのまま碁盤を見つめていた。
 土行孫としても、懼留孫のその態度は既に見飽きたものなので、構わず尋ねる。

「俺に何か用か?」

「ちょっくら霊宝のところまで、伝言に行ってくれ」

 霊宝大法師れいほうだいほうしは、懼留孫と同じ崑崙十二仙の一人だ。
 そして懼留孫と同じ、見た目はかなりの年寄りである。
 年寄り同士で気が合うのか、それなりに仲は良いようだ。

「またかよ。自分で行けば良いじゃないか」

「面倒臭い。それに、儂は今忙しいんじゃ」

「どこが? 碁盤の前で唸っているようにしか見えないぞ」

「おぬしには分からぬ、崇高な仕事があるんじゃよ」

 髭を扱きながらしれっと言う懼留孫に、土行孫は溜め息を漏らす。

「これも修行じゃ」

「伝言を伝えに行くだけの修行なんて、聞いた事がねえよ」

「何をいうか。宝貝を沢山持って粋がってるバカ弟子には、丁度良い試練じゃ」

「粋がってなんか無いさ」

「ほう?」

 土行孫が否定すると、そこで初めて懼留孫は土行孫を見た。

「儂にも勝てぬくせにか?」

「ぐ……」

 それを言われれば、土行孫としては反論が出来ない。
 懼留孫の持つ力は、それほど強くは無い。
 移動用の黄巾力士以外には、宝貝も一つしか持っていない。
 だがその一つが曲者なのだ。
 確かに土行孫の方が力では勝っているだろう。
 しかし、懼留孫の持つ宝貝、梱仙縄こんせんじょうは土行孫と相性が悪い。
 梱仙縄は相手を捕縛する宝貝だ。
 ただ捕縛するだけではなく、捕縛した相手が暴れるほどに、その縄はギリギリと相手を締め付けていくのだ。
 一瞬で小さな生き物にでも変化出来る楊戩ならば、抜け出す事は出来るだろう。
 だが土行孫にはそんな器用な真似など出来ず、一度絡め取られたら抜け出す事が出来ない。
 それなら捕まらなければ良いだけだとも考えたが、それも通じなかった。
 なぜなら、梱仙縄は十本もあるのだ。
 前方から迫り来る梱仙縄を避ければ、死角に潜み、後方から襲い掛かる残りの梱仙縄に捕まる。
 だから土行孫は、梱仙縄とは相性が悪いのだ。
 懼留孫との試合は、今まで全て土行孫の敗北で終わっている。

「チッ……いずれ絶対勝ってやる」

「ホッホッホッホッホ」

 舌打ちする土行孫に、懼留孫はわざとらしいほどに高笑いを上げる。

「おぬしが儂を超えたその時は、この梱仙縄もくれてやるわい」

「言ったな? 見てろよ。絶対その宝貝、俺が頂くからな!」

「ふん。やってみろ。百年も生きてない小僧に易々と負けるほど、十二仙の名は安くないんじゃからな」

 懼留孫はそう言って、小さく口角を吊り上げた。

 懼留孫はずっと放任主義だった。
 仙道としての基本知識を叩き込まれた後は、全て自分で覚えろと言われた。
 だからこそ土行孫は、色々と覚えるためにあちらこちらへと出かけるようになった。
 一人で修行して、分からない事があれば、錆付きかけていた黄巾力士に油を差して他の十二仙に教えを請いに行った。
 それが土行孫の人脈が出来た始まりである。
 土竜爪をもらえるほどにまで成長した時、土行孫はもう一端の道士となっていた。
 その自信はあった。
 だがそれで強気になり、下克上を狙って土行孫は懼留孫へと挑んだ。
 結果、梱仙縄に捕まって、あっさりと土行孫は負けた。

「道士『見習い』から道士の『卵』になったくらいで、調子に乗っとるおぬしなんぞ、寝てても勝てるわい」

 そう鼻で笑われた事は、今でも土行孫の苦い思い出となっている。
 しかしそれで、高飛車な自分を打ち砕かれたのは、土行孫としても感謝しているのだが。

「それで? 伝言っていったい何だ?」

 感謝はしているし、実は敬ってもいる。
 だが敬語は使わない。
 懼留孫としても、土行孫の口調には気付いているはずだが、何も言わない。
 それを認める事が出来る程度の関係は築いているのだ。
 土行孫が敬語を使わない相手は、十二仙では懼留孫だけなのである。

「フム……」

 懼留孫は碁盤に目を走らせると、静かに言った。

「……三々のコスミ」

「やっぱりか」

 相手もいない碁盤を眺めているから、誰かと対戦中なのだとは思っていた。
 その予想は的中した事になる。
 懼留孫は土行孫を伝言係にして、離れたところで霊宝大法師と囲碁を打うつもりなのだ。

「はあ……面倒臭いな」

 そう良いながらも、土行孫は言われたとおり、霊宝大法師の住まう山元陽洞へと歩き出した。
 そのままブツブツと愚痴を漏らしながら、土行孫はトボトボと歩いていく。
 懼留孫の方が立場は偉い。
 どう思っていようと、土行孫は師匠である懼留孫の言う事を、大人しく聞かなければいけないのだ。






 霊宝大法師に伝言を伝え、土行孫は自由になった。
 土行孫は当て所も無く歩き続ける。

「予定なんか何も考えて無かったしな。どうしようかねぇ……」

 今日は風が強い。
 足の裏に集めた小さな足場に乗っている土行孫としては、風で落とされそうであまり好きではない。
 飛雲洞へと戻り、昼寝でもしようかと土行孫は思った。

「それなら、私の手伝いでもしてもらいましょうか」

「ん?」

 土行孫が振り向くと、大きな猫の顔が目の前にあった。

「うおっ……と!」

 仰け反った土行孫が、足場を踏み外して僅かに体勢を崩す。
 だが直ぐに持ち直すと、顔を上げて声を掛けてきた人物を見遣る。

「申公豹じゃないか。久しぶりだな」

「久しぶり、という訳ではありませんが……そういえばあなたは、前に会った時は気絶していましたね」

 楊戩と闘い、太公望に気絶させられた時の事だろう。
 その後、申公豹によって、竜吉公主のもとへと運ばれたのだ。

「ああ。その事は感謝してる。ありがとう」

「特に気にする事ではありませんよ。友を見捨てる事は、私の美学に反しますから」

「それでも、だよ。
 例えお前が、自分の信条に基づいて行動したんだとしても、それで俺は助けられたんだから。
 礼を言うのは当然だろう?」

「……それもそうですね。では、その礼は受け取っておきましょうか」

「ああ、そうしてくれ。礼さえ受け取ってもらえないのは、結構辛いんだ」

 土行孫は懐から小さな実を取り出した。
 それを目の前の黒点虎へと差し出す。

「黒点虎も、ありがとうな」

「マタタビ!?」

 黒点虎は目を見開くと、グワッと大きく口を開ける。
 そしてガブッと勢い良くマタタビの実を食べた。

「……えっ?」

 土行孫の腕ごと。

「ちょ!? 痛い痛い痛いって!!」

 ブンブンと腕を振って、土行孫は何とか黒点虎に飲まれた腕を外した。

「いってぇ……」

 腕を擦る土行孫。
 勢い良く噛み付かれたせいか、ジワリと血が滲んで来る。

「食い千切られるかと思ったぜ……」

 土行孫は猫が嫌いな訳ではないのだが、嫌いになりそうだった。
 こんな事で腕を無くしたら、情けなさ過ぎる。
 申公豹は黒点虎を窘める。

「黒点虎、酔っ払ったりしないでくださいよ」

「大丈夫だよ」

 マタタビの実をコリコリと噛んでいる黒点虎は、酔っ払った様子も無く言った。

「酔うのは猫でしょ? 僕は虎だよ」

「……そういう問題なのか?」

 土行孫の突っ込みも、痛みで覇気が無い。
 土行孫は黒点虎から目を逸らし、顔を上げる。

「それで? 手伝いっていったい何をすればいいんだ?」

「おや? 手伝ってくれるのですか?」

「まあな。ただ礼を言って、それで『はい終わり』っていうのは、どうかと思うしな」

「なるほど」

 申公豹は頷くと、土行孫に手を伸ばし、片手で持ち上げて黒点虎の後ろへ乗せた。

「では行きましょうか。手伝いの内容については、現地に到着してから説明します」

「……出来れば、もっと優しく乗せてもらいたかったぜ……」

 咳き込みながら土行孫は言った。
 そのまま申公豹の背にしがみ付き、土行孫は連れ去られていった。






あとがき

話が進まない。
何故だ。

今回一話以来の懼留孫が出てきました。
現在は相性の問題で懼留孫の方が強いです。
立場的にも強いので、土行孫は逆らえない感じ。

リクエスト通り、次回は発掘編になりそうです。
短くなりそうです。

次でやっと二十話ですね。
こんなに続くとは思ってませんでしたよ。




……書き終わった後に気付いた。
これってデートじゃね?



[12082] 第二十話 土行孫、発掘に行く。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/10/16 23:18




 申公豹に連れられ、土行孫は人間界に来ていた。
 空から眺める人間界は、土行孫にとって新鮮な思いを抱かせた。
 懼留孫の誘いに乗り、仙人界に行ってからは、降りて来た事など一度も無かった。
 土行孫にとって、人間界とはそれほど興味のあるものではない。
 彼にとって人間界は、嫌な思い出しかないからだ。

「人間界ってのは、こんな感じなのか……」

「おや? それほど見るべきものがあるとは思えませんが?」

 土行孫の呟きが聞こえたのか、土行孫の前にいた申公豹が尋ねて来る。

「俺にとっては、どれも珍しいよ。ずっと仙人界に引き篭もってたからな」

 今の土行孫にとっては、自然に生える木々でさえ珍しいのだ。

「それより、どこまで行くんだ?」

「もう少し先ですよ」

「ふうん……」

 黒点虎がスピードを上げたので、振り落とされないように土行孫は更にしっかりとしがみ付く。
 ダボッとした服装をしているので分からなかったが、申公豹は予想以上に細い腰をしていた。
 もう少しゆっくりでもいいな、と土行孫は思いながら、流れていく風景を見ていた。
 そのまま段々と木々は少なくなっていき、遂には一本も生えていない地域へと辿り着いた。

「これは……砂漠?」

「そうですよ。見た事はありませんか?」

「あ、いや……あるよ。間接的にだけどな」

 一面に広がる砂の景色を見ながら、土行孫は言った。
 写真などで見た事はあるが、実際に見たのはこれが最初だった。
 砂漠を見ていると、段々と気温が上がっているのに気付いた。
 内旗門がガードしているのか、砂漠は暑いという認識が無ければ、土行孫は気付かなかったかもしれない。

「なあ、申公豹」

「何ですか? そんなに急かさなくとも、もうすぐ着きますよ」

「いや、そうじゃなくて、お前は暑くないのか?」

「暑い?」

 コートを着ている土行孫が言う言葉ではないかもしれないが、申公豹の服装はとても暑そうである。
 ゆったりとした服装といえば聞こえは良いが、風は全然通りそうに無い。
 おまけに、申公豹は首にマフラーを巻いていて、後ろには土行孫がしがみ付いている。
 だがそんな状態にもかかわらず、申公豹はさらりと言った。

「この程度の暑さなど、全然気になりませんよ」

「……本当か?」

「ええ。涼しいものです」

 土行孫が再度尋ねるが、申公豹の言葉に強がりのようなものは感じられない。
 マフラーの隙間から覗ける申公豹のうなじにも、汗をかいている様子は見られなかった。

「それなら良いけど、熱中症とかにならないように気をつけろよ」

「そうするとしましょう。ご心配ありがとうございます」

「いや、友達を心配するのは当然だろ?」

 土行孫はそう言った。
 たしかに、土行孫が申公豹と友人になったのは、成り行き、もしくは申公豹の気まぐれである。
 だがそれでも、申公豹は土行孫を友人として扱おうとしている。
 楊戩との決闘で疲弊し、太公望に気絶させられた土行孫を、竜吉公主のもとへと運んだ。
 竜吉公主から伝え聞いた言葉では、友達を助けるのは当然、と申公豹は言っていたらしい。
 だから、土行孫を友人として扱おうとしている申公豹の事を、土行孫は友達として認めるべきだと考えている。

「そうですか」

「そうなんだよ」

 そうして二人が話していると、黒点虎が急停止した。

「わぷっ!?」

 慣性の法則に従い、土行孫は申公豹の背に顔が押し付けられる。

「……いてぇ……鼻打った」

 鼻を押さえて涙目になる土行孫。
 どうやら、痛いところに入ったらしい。

「不様ですね」

「はは、全くだ」

 申公豹の言葉に、土行孫は苦笑する。

「着いたのか?」

「はい」

 土行孫が顔を下に向けると、古びた建物が見えた。

「遺跡……か?」

「ええ。あなたには、あの遺跡の発掘を手伝ってもらおうと思いましてね。
 入り口らしき物は見えるんですが、砂に埋もれてしまっています。
 吹き飛ばそうかとも思いましたが、雷公鞭だと遺跡ごと吹き飛んでしまいますからね」

「……なるほど、分かった」

 遺跡を見てみると、大半が砂に埋もれていて、その全容は把握できない。
 その発掘をするのであれば、土を操る土竜爪が丁度良い。
 楊戩との決闘で、土行孫が土を操るのを見ていたから、ここへ連れてきたのだろう。
 土竜爪なら遺跡を傷つけずに、砂だけを追い出す事が出来るからだ。

「それじゃ、行って来る」

「行ってらっしゃい」

 申公豹に見送られ、土行孫は黒点虎の背から飛び降り、落下していく。
 そのままズボッという音を立てて、土行孫は砂漠の中に潜り込み、その姿は見えなくなった。

 そして数秒後、大地が震動し、砂が大きく移動を始めた。
 まるで流砂のように、遺跡を中心として砂が重力に逆らいながら動いていく。
 やがて、遺跡が徐々に姿を現して行き、そして遂に、その全貌が明らかになった。
 その傍らには、柱に手を添えた土行孫が、もう片方の手で軽く砂を払いながら立っていた。
 そこに黒点虎が降りて来る。

「お見事」

「照れるな」

 申公豹の素直な賛辞に、土行孫は頬を掻きながら照れ笑いをする。
 そして遺跡を見上げると、申公豹に言った。

「中にあった砂も、大体は取り除いたからな。もう通れると思うぞ」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 そういった土行孫は、中を覗き込む。

「中はそれなりに広いけど、入り口は狭いな。これじゃあ、黒点虎は入れそうにないぞ」

「え? そんなの壊せば良いじゃん」

 黒点虎が事も無げに言った。
 黒点虎なら、それなりの力で体当たりでもすれば、あっさりと壁を破壊出来るだろう。
 だが、申公豹はそれを制止した。

「止めておきなさい。この遺跡は、その大部分が砂に埋もれるほどの年月が経っています。
 老朽化もしているでしょうから、黒点虎のせいで調べる前に崩壊でもされたら、目も当てられません」

「ふぅん……分かった」

 黒点虎はあっさり引き下がった。

「別に遺跡なんてどうでもいいからね」

 どうしても入りたい、という気持ちで言った訳では無さそうだ。
 自分だけ入れないのが残念だったのだろうか。

「それでは、私は中を調べてみます。あなたはどうしますか?」

 尋ねる申公豹に、土行孫は首を横に振った。

「俺はいい。あまり遺跡に興味が有る訳でもないし。ここで黒点虎と待ってるよ」

「そうですか」

 申公豹は遺跡の中へ入って行き、土行孫は黒点虎と一緒に待つ事になった。
 申公豹を見送り、その姿が見えなくなると、遺跡の日陰になるところに移動した。
 砂漠は陽射しが強いのだ。
 日陰で黒点虎は寝そべる。
 そしてその黒点虎の腹を、土行孫が枕にして寝転がった。
 フカフカとした柔らかな感触に、土行孫は気持ち良さそうに目を閉じる。
 そんな土行孫に、眠気が襲って来た。
 寝ようかと思いつつ、まどろみながら土行孫は黒点虎に尋ねた。

「……なあ、黒点虎」

「何?」

「申公豹って、いったい何を調べてるんだ?」

「ん~、僕も知らない」

「……そっか」

「どうでもいいよ」

「……そうだな。特に、気にする事でも無いな」

「うん」

 眠気で深い事は考えられないのか、土行孫は疑問を投げ捨てる。
 そして、黒点虎に別の事を尋ねた。

「そうだ、黒点虎」

「何?」

「マタタビ、美味かったか?」

「うん」

「そっか。そりゃあ良かった」

 探した甲斐があったな、と土行孫は微笑む。

「でも、俺の腕ごと食べるのは止めてくれよ。本気で食い千切られるかと思ったぜ」

「大丈夫だよ。何かガリッて引っかかったから、結局そんな事にはならなかったと思うよ?」

「……ガリッ?」

 土行孫が僅かに眉を顰め、噛まれた腕を見遣る。
 噛まれた箇所の腕の血は、既に止まっている。
 特に引っかかるような物は見当たらない。
 ならば、もっと先の方か。
 土行孫が腕の先を見ていくと、目を見開いた。

「ああああっ!?」

 その異変に気付き、土行孫はガバッと飛び起きた。

「どうしたの?」

 振り返った黒点虎だが、土行孫はそれに返す言葉を持っていなかった。
 土行孫には、その言葉が聞こえていなかったからだ。

「ど、土竜爪に……罅が……」

 土行孫の持つ土竜爪に、明らかに分かるほどの大きな亀裂が走っていた。

「直してもらったばかりなのに……」

 土行孫は落ち込んだ。
 機能に支障が無かったので、土行孫は今まで気付かなかった。
 それに、まさか噛まれたくらいで、罅が入るとは思っても見なかった。
 黒点虎が一噛みで、土竜爪に罅を入れたのだ。
 宝貝はそれなりに硬いはずであり、それを噛み砕くなど出来る訳が無いと思っていた。
 否、考えもしなかった。
 だが黒点虎は、それを容易く一噛みで行った。
 黒点虎は最強の霊獣と言われているが、こんな形でそれを知る事になるとは思っていなかった。
 だが喜んでくれた黒点虎を責める事も出来ず、土行孫は溜め息を吐く。

「もう良い。また直してもらうか」

 そして、そういう結論に達した。
 そのまま嫌な事を忘れるためか、土行孫は再び倒れ込み、黒点虎の腹を枕にする。

「寝る」

 申公豹はいつ帰って来るか分からない。
 ならば、寝てても問題ないだろう、と土行孫は判断した。

「黒点虎、申公豹が戻って来たら起こしてくれ」

 黒点虎の順風耳なら、申公豹が戻って来るのを聞き取れるはずだ。

「分かった」

 頷いた黒点虎を見届けると、土行孫は不貞寝を開始した。






あとがき

モフりたい……。
最近の俺には猫分が足りない。


次回で発掘編終わりだと思います。
もう帰るだけですからね。



[12082] 第二十一話 土行孫、贈り物をする。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/10/18 10:46





 パチリ、と土行孫が目を開けると、日は既に傾きかけていた。

「ん……ふわぁ……」

 口から欠伸が漏れる。

「よっこらせ、っと」

 身体を起こして、軽く伸びをする。
 首をひねると、ゴキリと身体の骨が鳴るのが分かった。

「どれくらい寝てたんだ?」

 あまり長い時間寝ていたようにも思えない。
 枕にしていた黒点虎の方を振り返り、今がどれぐらいかを尋ねる。

「なあ、こくて……」

 だがその言葉は、途中で止まった。
 なぜなら、黒点虎もまた、眠っていたからだ。
 この陽気なら、眠たくなるのも分かる。
 起こしては悪いかと思い、土行孫はゆっくりとその場を離れる。
 黒点虎の耳なら、土行孫が動いている事が分かっただろう。
 だが寝ている時まで気にしているとも思えず、実際に黒点虎は眠ったままだった。
 最強の霊獣である事から来る、余裕の表れであろうか。
 それは土行孫には分からなかった。

「申公豹、遅いな……」

 日の傾き具合からして、精々が二時間といったところだろうか。
 時計を持っていないのが悔やまれる。
 だがそれなりの時間が経っているにもかかわらず、申公豹は戻って来ていない。

「見に行ってみるか」

 申公豹の身に、特に何かが起きたとは思っていない。
 最強の道士と呼ばれる申公豹が、建物の崩落などで動けなくなる、という間抜けな事にはならないだろう。
 おそらく、何か面白い物でも見つけて、時間を忘れているだけに違いない。
 だがそれでも、姿が見えないと心配になってしまうのだ。

「杞憂だって分かってるのに、我ながら損な性分だよな」

 苦笑しながら、遺跡の中へと入る。
 遺跡の中は埃が堆積していて、僅かに黴臭かった。
 何処からか光が漏れているのか、薄暗い道が土行孫には見えていた。
 申公豹の姿は見えない。
 ならばもっと奥だろう、と土行孫は歩を進める。

 奥へと進むほどに、気温が下がってきているのを感じる。
 暑い外と比べて、中は寒いと感じるほどだった。
 大部分が砂の中に埋もれるほどの期間、この遺跡は建ち続けている。
 古代の超文明の賜物か。
 何か超常的な仕掛けでも働いているのかもしれない。

 やがて、小さな部屋へと辿り着いた。
 先には一つの道があり、申公豹はその先へ進んだのだと、地面に残った足跡が示していた。
 しかし土行孫は歩みを止め、横の壁を見る。
 赤茶けた色をした壁を擦ってみると、表面に張り付いていた砂がポロポロと崩れ落ちる。
 中からは、白い大理石のような滑らかな表面が現れた。
 触ってみると、石のような冷たさではない。
 無事な方の土竜爪を使い、土行孫は壁を軽く叩いた。

 キィンッ!

 金属のような高い音を響かせて、土竜爪は止まった。
 その感触に、土行孫が眉を顰める。
 腕を引いて、再び叩き付ける。

 ギィンッ!

 衝撃によって、壁に僅かに亀裂が入る。
 だがそれはほんの僅かなもので、剥がれた壁面の欠片が一つ落ちただけだった。

「……何なんだ、ここは?」

 土竜爪で壊せないというのは、ただの建物にしてはおかしい。

「これは……本物なのかもしれないな」

 本当にこの遺跡は、古代に栄えた超文明の名残なのか、と土行孫は考える。
 土行孫はしゃがみ、先ほど欠けて落ちた壁面の欠片を拾う。
 見たことの無い素材だと土行孫は思った。
 土を操るために、土行孫はそれなりに勉強している。
 組成を知っていた方が、より多く土を操る事が出来ると思ったからだ。
 だがそんな土行孫でも、知らない物だった。
 まるで、人工的に作り上げた合成物のように見える。

「他に何かあるかもしれないし、少し……調べてみるか」

 その欠片を懐に仕舞うと、土竜爪を発動させた。
 部屋の隅に堆積していた砂が舞い上がる。
 それは土行孫の周りに集まって行き、土行孫を中心としてグルグルと竜巻のように回り始めた。
 そして十分にスピードが乗ったところで、土行孫はそれを少しずつ解放する。
 勢いの付いた砂は、部屋全体に飛び散り、音を大きく反響させた。
 それを繰り返し、土行孫は耳を澄ましてその音を聞きながら、部屋全体の構造を把握していた。

「……ん?」

 土行孫が眉を顰める。
 金属のような高い音を出すこの部屋で、少し鈍い音が聞こえた。
 その一点に近づき、よく調べてみると、うっすらと線のようなものが見えた。

「隠し扉かよ。ベタというか、何というか……」

 特に何も無いはずなのに、わざわざ部屋の形をしているのが気にはなっていた。
 だがこういう事かと納得する。
 部屋を作り、その先の道を作っておく事で、隠し扉の存在を隠そうとでもしたというのか。

「まあ良い。どこかにスイッチみたいなのはあるのか?」

 調べようとその扉へと手を当てた瞬間、土竜爪が反応して中へと手が埋まった。

「……は?」

 土行孫の目が丸くなる。
 だが次の瞬間に身体が引き寄せられて、水に小石を落としたように、土行孫は静かに吸い込まれて行った。







『あいつを倒さなければならない』

『あいつを……――を!』

『――はやり過ぎた』

『――は敵だ!』

『もう――の言いなりは御免だ!』

『しかし我らには、最早抗う力など残っていない』

『だから托そう。次の者へと』

『だがコレだけでは、あいつを倒せない』

『祈ろう』

『次の者がそれに気付く事を』

『我らの意志を受け継ぐ事を』

『――を倒し、未来を掴む事を』






 土行孫が目を開けると、鼻先数センチのところに申公豹が居た。

「うおがっ!?」

 慌てて顔を仰け反らせるが、土行孫の後ろには壁があった。
 そこに強く頭を打ち付け、土行孫はのた打ち回る。

「何をやっているんですか、あなたは……」

 申公豹がその様を見ながら、呆れたように溜め息を吐く。

「いや、まあ……ちょっとな」

 言葉を濁し、土行孫は辺りをキョロキョロと見回す。
 二人がいる場所は、小部屋の中の一角だ。
 近くの壁に見覚えのある傷を発見し、土行孫は先ほどの部屋だと気付く。

「なあ、俺はどうしたんだ?」

「寝ていましたよ。私が戻って来てからも、起きる気配はありませんでした」

「そうか……」

 どうやら土行孫は、ずっとここで寝ていたらしい。
 後ろを見て、先ほど土竜爪が吸い込まれた場所を確認する。
 だがそこは、ただの壁だった。
 土竜爪が再び勝手に反応するという事も無い。

(夢……だったのか?)

 先ほどの声が、頭に残っている。
 誰かが話しているようだった。
 尤も、それは霞のようにぼやけていて、何を言っていたのか詳しい事は分からない。
 だがそれがなんであれ、あまり良いものではないと土行孫は感じた。

(まあ良い。忘れよう)

 嫌な事は忘れるに限る。
 特に困った事ではないし、忘れても構わないだろう。
 土行孫はそう思い、早く忘れようと頭を振って、申公豹に尋ねる。

「なあ、申公豹。知りたいものは分かったか?」

「ええ。もうこの遺跡に用はありません」

「そうか。それじゃ、出るとしようか。あまり長く居ると、病気にでもなりそうだ」

「そうですね。病気にはなりませんが、良い環境とも言えませんからね」

 二人の意見は一致し、出口へと向かって歩き始めた。
 黙々と歩いていると、土行孫があの事を思い出した。

「そうだ、申公豹」

「何ですか?」

「これ、やるよ」

 そう言って土行孫は、懐から水晶で出来た首飾りを取り出した。

「これは?」

 受け取った申公豹は、首飾りを目の高さまで持ち上げ、じっくりと観察する。

「運んでくれたお礼だよ。言葉だけじゃ味気ないかと思って、作ってみた」

「これをあなたが?」

 首飾りから目を離し、土行孫を見つめる申公豹。
 土行孫は頷いた。

「何の変哲も無いただの飾りだから、気に入らないなら捨てても良いぞ」

「……いえ、ありがたく頂いておきましょう」

 申公豹はそういうと、首飾りを首に掛けた。

「似合ってるぞ」

「ありがとうございます。では、行きましょうか」

「そうだな」

 申公豹に促され、土行孫は再び出口へ向けて歩き出した。
 その道中、申公豹の足取りが僅かに軽く感じたのは、土行孫の錯覚であろうか。






 二人は遺跡を出ると、黒点虎のもとへと向かった。
 日陰で休んでいる黒点虎は、未だに寝ていた。

「黒点虎、起きなさい」

「……んぁ? 申公豹、用事は終わったの?」

「ええ」

「ふぅん……」

 目を開けた黒点虎は、くぁ……、と大きく欠伸をした。
 そしてぱっちりと目を開けた黒点虎は、申公豹が身に着けている首飾りに気付く。

「あれ? 申公豹、それどうしたの?」

「貰ったんですよ」

「ふぅん……綺麗だね」

「あげませんよ。これは私の物です」

「あっそ。まあ良いや」

 黒点虎の背によじ登った申公豹の手を借り、土行孫も後ろに乗る。

「それじゃ、次はどこ行くの?」

「とりあえず、俺を仙人界に帰してくれ」

 そう言った土行孫に、了解と黒点虎は頷いて、空へと飛び立った。
 上空から見下ろした遺跡は、色褪せて今にも崩れ落ちそうだった。







あとがき

何やら謎っぽいものを出してみた。
いずれ使うかもしれませんね。




[12082] 第二十二話 土行孫、贈り物をするPart2
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/10/20 19:22




 崑崙へと送ってもらった土行孫は、申公豹と黒点虎に礼を言って別れた。
 数日後、土行孫は鳳凰山へと向かった。

「公主、遊びに来たぞ」

「おお、土行孫か。よう来たの」

 土行孫の姿を目にした竜吉公主が、手招きをして土行孫を呼ぶ。
 招かれるがままに近づき、土行孫は竜吉公主の傍に腰を下ろす。
 土行孫は、竜吉公主が簪を差している事に気付いた。

「また髪を纏めてるんだな」

「暇でな。こうして髪で遊ぶ位しか、する事も無いからの」

 竜吉公主は、指で毛先を弄ぶ。

「公主の髪は長くて綺麗だからな」

 素直な感想を言う土行孫。
 竜吉公主は小さく笑うと、毛先を弄ぶのを止め、土行孫の髪に手を伸ばした。

「おぬしの髪も長いではないか」

「これはただ伸ばしてるだけだ。手入れしてる公主とは違うよ」

 土行孫は邪魔そうに髪を後ろへと払う。

「何か、願掛けでもしておるのか?」

「別に……そんな大層なもんじゃないさ」

 土行孫は首を横に振る。

「ただ、あまり好き勝手にしたくなかっただけだ」

 土行孫自身の髪であるというのに、好き勝手にはしたくない。
 それはいったいどういう事であろうか。
 その声の裏には、何か隠しておきたい物があると読み取れた。
 竜吉公主もそれに気付いたのか、深く追求はせずに別の事を尋ねる。

「して、何かあったのか?」

「ああ」

 尋ねる竜吉公主に、土行孫は頷いた。
 
「この間、申公豹と出会ってな。ちょっと一緒に人間界まで行って来たんだ」

 土行孫の言葉に、竜吉公主の眉が僅かにピクリと上がる。

「……ほう、そうか」

「公主はあまり外に出れないからな。
 代わりに、俺が見てきたものを教えて暇潰しにでもなれば、と思ったんだが……」

 竜吉公主の声色が低くなったのを聞いて、土行孫の声は段々と小さくなって行った。

「……嫌だったか?」

 自分で言って、嫌なのは当然だと土行孫は気付いた。
 竜吉公主は身体が弱い。
 別に出れないという訳ではないが、長時間の外出は確実に体調を崩す。
 そんな彼女に、人間界の事を教えるのは駄目なのだ。
 面白い事を知れば、誰だって気になるもの。
 多少移動に不自由があるとはいえ、土行孫は人間界と仙人界を自由に行き来出来る存在である。
 そんな土行孫が、人間界の事を楽しそうに話せば、竜吉公主は必ず興味を持つ。

 だが竜吉公主は人間界へ行けない。

 行けば寿命が縮む。
 目の前にあるのに届かない。
 それは生殺しに近いだろう。
 知らない方が良い事も、世の中にはあるのだ。
 身体が良くなれば、という気休めも利かない。
 仙人界の清浄な空気でしか生きられない、という体質が竜吉公主を苦しめている。

「悪かった。こんな話は聞きたくないよな」

 目を伏せた土行孫は、ばつが悪い表情で言った。

「それじゃ、何か別の話でも――」

「いや、いい」

 話題を変え、明るく話そうとした土行孫を、竜吉公主が止める。

「聞かせてくれ」

「え? でも……」

「のう、土行孫。おぬしが何を考えているか、それは私にも分かる。
 私の身体を案じて、人間界の事は話さない方が良いと考えたのだろう?」

 苦虫を噛み潰したような表情で、土行孫は目を逸らす。
 竜吉公主に気を遣わせた事は、確実に土行孫の落ち度だ。
 もっと考えていれば、と遅まきながらに悔やむ。

「だが私の身体の事など、私が一番良く知っているさ。
 だからおぬしが、そう気にする必要は無い」

「でも……」

 竜吉公主は自らの手を見つめ、ポツリと呟いた。

「私とて、自由に外へ出て、はしゃぎ回りたい気持ちはある。
 汚れなど気にせず、幼子のように泥だらけになって遊んでみたい。
 そう思った事はある。
 おぬしのように、多くの者達と言葉を交えたいと願う気持ちもある。
 しかし……それは叶わぬ」

「公主……」

「こんな弱い身体に生んだ母を、恨んだ事もあった」

「公主!? それは……!」

 土行孫が声を張り上げて、竜吉公主を諌めようとする。
 竜吉公主は小さく微笑むと、首を横に振った。

「昔の話だ。今は恨んでなどおらぬ」

「……そうか」

 思わず身を乗り出していた土行孫は、気が抜けたのかドスンと座り込んだ。

「だから、おぬしから聞きたい。
 おぬしが思ったように、私の目の、耳の代わりとなって感じたものを聞かせて欲しい。
 難しい事は考えなくて良い。
 おぬしが感じたありのままを、私に教えてくれ」

「……分かった」

 土行孫は頷いた。
 そして言葉を紡ごうとした所で、ある事に気付いた。

「そういえば、どうして嫌そうな顔したんだ?」

「それは気にせずともよい」

「そ、そうか……?」

 竜吉公主にきっぱりと切り捨てられ、土行孫は釈然としないながらも話し始めた。

「そうだな……どこから話そうか……」

 僅かに逡巡した土行孫は、結局その日の事を全部話す事にした。
 その方が分かりやすいと思ったからだ。
 懼留孫に頼まれ、霊宝大法師に伝言を伝えに行った事。
 その帰りに申公豹と黒点虎に会い、手伝いをするために人間界へと降りた事。
 人間界を見た事を、土行孫は話していった。

「羌族が羊を育てていたのを眺めたりもしたな」

「羊か……それはどんな生き物じゃ?」

「……あ~、そういえば仙人界に羊はいないもんな。見た事無いのも当然か」

 土行孫はその事に思い至る。

「羊ってのは四つ足の動物でな。ふわふわした毛が生えてて、その毛を刈って服にしたりするんだ」

「ほう、なるほど。他には?」

「ああ、えっと……俺達には関係ないけど、乳を飲んだり肉を食ったりも出来るな」

 興味津々に聞いて来る竜吉公主にたじろぎながらも、土行孫は続きを話す。

「最後は砂漠の遺跡に辿り着いたんだけどな。
 遺跡っていっても埋まってて、上の方しか見れなくなっててな。
 申公豹に頼まれたのは、それの発掘だったんだ」

「おぬしの土竜爪なら、丁度良かったではないか」

「ああ。申公豹もそう思って、俺を誘ったらしい。
 ……ああそうだ。そういえば、黒点虎にマタタビをあげた時に腕を噛まれてな。
 結構痛かったぜ」

「それは……大丈夫だったのか?」

 心配する竜吉公主に、土行孫は手を振ってみせる。

「この通り、大丈夫だよ。ちょっと血が出たけど、すぐに止まったしな」

「それは良かった」

 ホッと息を吐いた竜吉公主に、土行孫は少し沈んだ声で続ける。

「でも……」

 掲げた土竜爪に、無残なほどに大きい罅が入っているのを、竜吉公主は気付いた。

「この有様だ。幸い、表面に罅が入っただけで、中身には影響無いみたいだから一安心だけど。
 使えない訳じゃないから急ぐ必要は無いけど、今度太乙真人様の所へ持って行かなきゃ駄目だな、これは」

 痛ましげな表情で土竜爪を撫でながら、土行孫は言った。
 自らが一番愛用している宝貝だ。
 傷が付けば哀しくなるのも仕方が無いだろう。

「ま、まあ……その土竜爪も、おぬしを守れたのだから本望ではないか?」

「そうかな……?」

「うむ」

 竜吉公主に励まされる土行孫。

「……そうだよな」

 元気が出た土行孫が、土竜爪を撫でるのを止める。

「さあ、続きを話してくれ。まだ聞き足りない」

「ああ、悪かった。次は遺跡の話でもしようか……」

 そして遺跡での事を話していく土行孫。
 尤も、土行孫はほとんど入り口の所までしか入っていないので、詳しい事は分からなかったが。

「どうも古代の文明みたいで、俺達の時代より遥かに前から人は居たみたいだ」

「私達よりも昔か……。長く生きてはいるが、元始天尊殿よりも昔に人が居たなど、あまり想像が出来ないな」

「俺もそうだよ」

 元始天尊も人から仙人へとなった存在だ。
 ならば元始天尊を生んだ母親がいるはずだが、どうにもそれが想像できないのだ。
 二人の間に沈黙が流れる。
 二人とも同じ事を考えているのだと、相手の目を見て分かった。
 互いに苦笑いをし、話題を変えるために土行孫が言った。

「そうだ。公主に言われたように、手作りのプレゼント作って、申公豹に贈ってみたんだ」

「……そうか。何を贈ったのじゃ?」

 ここで再び、竜吉公主の声のトーンが下がった。
 土行孫はそれに気づいたものの、そのまま続ける。

「水晶で出来た首飾りだ。気に入らないかとも思ったんだが、喜んでくれたみたいで俺も嬉しかったよ」

「……それは良かったの」

「ああ。公主のおかげだ。ありがとう」

 土行孫が礼を言い、竜吉公主は目を伏せる。

「公主にも世話になったな」

「……気にせずともよい」

「そうか? 折角作って来たんだが……」

「なに……?」

 顔を上げた竜吉公主は、土行孫が懐から何かを取り出すのを見た。

「それは……髪留めか?」

「まあそうだな。バレッタっていうんだ」

 カメオが施された木の細工に、散りばめられた水晶の欠片がキラキラと光っている。

「公主のおかげで喜んでもらえたんだから、公主にも何か贈ろうと思ってこの数日作ってみたんだが……」

「私にも……?」

「ああ。公主の髪は長いし、バレッタならゴムよりも跡が付きにくいから」

 土行孫はバレッタを竜吉公主に差し出す。

「申公豹にも言ったけど、気に入らないなら捨てても良いから」

「そんな事はしないさ」

 震える手で受け取った竜吉公主は、それを胸に掻き抱く。

「大事にしよう。ずっと……」

「はは、大げさだな……」

 竜吉公主のその様子に、土行孫は苦笑いをする。

「公主にはその綺麗な簪があるから、それの出番なんて無いかもしれないのに」

 土行孫が指差した先には、宝石が散りばめられ、細かな細工の施された簪があった。
 その簪は美しく、それがある事で、竜吉公主の美しさが更に引き立つような装飾だった。
 それに比べれば、土行孫が作ったバレッタは素人の手作り。
 いくら手先が器用とはいえ、泥臭い物にしか見えなかった。
 だが竜吉公主は頭を振り、断言した。

「そんな事は無い」

「え?」

 頭に手をやり、竜吉公主は簪を抜き取った。
 纏められていた髪が、はらはらと零れ落ちる。
 竜吉公主はバレッタを頭に当て、それで再び髪を止めた。
 纏める位置が高かったからか、ポニーテールになっている。

「……どうじゃ?」

「あ、ああ……」

 顔を横に向け、バレッタが見えるようにして尋ねる竜吉公主に、いきなりの行動に驚いていた土行孫は素直に言った。

「綺麗だと思う。うん、似合ってる」

 土行孫の作ったバレッタは、竜吉公主の髪を一つに纏め上げている。
 烏の濡れ羽色の髪は木の素朴な色合いと相まり、埋め込まれた水晶が時折光を反射して、よりその美しさが際立っていた。
 先ほどの簪が互いに引き立てあうようなものとすれば、こちらは竜吉公主の美しさを支えるようなものだった。
 それはベクトルの違う良さであり、比べようの無いものだった。

「そうか、そうか」

 ポロッと本音を溢した土行孫の言葉に、竜吉公主は噛み締めるようにそうかと繰り返し、笑みを漏らす。

「あ、いやその……」

 取り繕う事を忘れていた土行孫が、言葉を濁す。

「きょ、今日はもう帰るよ。土竜爪を太乙真人様に見せないといけないし」

 立ち上がった土行孫が、素早く扉へと向かう。

「あ、おい……」

「それじゃまたな!」

 引き止める竜吉公主にも構わず、土行孫は出て行った。

「……く、くくく……」

 残された竜吉公主は、口元を押さえて含み笑いを漏らす。

「愛い奴よの……」

 呟いたその声を聞く者は、竜吉公主以外に誰もいなかった。






あとがき

書き終ってから気付いた。
DOKOUSONってポニーテール萌えなんじゃないか、という事に。

感想で勧められたので、次回からはその他板へ移動します。
はっきり言って不安ではありますが、冒険しようと思います。

次どうしましょうかね。



[12082] 第二十三話 太乙真人、土竜爪を修理する。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/10/21 23:21




「じゃあ、これお願いします」

「分かった」

 土行孫から罅の入った土竜爪を、太乙真人は受け取る。
 軽く外から眺めた太乙真人は、心配そうな顔をしている土行孫に声を掛けた。

「大丈夫。軽く見ただけだけど、ちゃんと直るよ」

「そうですか。良かった……」

 土行孫から聞く限りでは、動作に不備があるという訳では無いらしい。
 それでも心配は拭えなかったのだろう。
 太乙真人の言葉で、土行孫の顔に安堵の色が浮かぶ。

「調べたい事もあるから、今度は前と違って、数日ぐらい時間が掛かると思うけど?」

「分かりました」

 頷いた土行孫は、太乙真人の邪魔をしないように出て行った。

「前はちゃんと見てなかったし、今度はじっくりと観察させてもらおうかな」

 前回は爪の先を直しただけなので、あまり詳しくは見ていなかったのだ。
 うきうきとした様子で、太乙真人はラボへと向かった。

 太乙真人は宝貝オタクだ。
 そして宝貝オタクとして、宝貝への興味は誰にも負けないという自負があった。
 今は及ばないが、いずれはスーパー宝貝に至るほどの宝貝を作り出すのが、太乙真人の夢なのだ。
 そのためにも、他人の作った宝貝は良く知る必要がある。
 崑崙で自分以上の宝貝の作り手はいない。
 封神台を製作したのも太乙真人だ。
 だがしかし、未だ自分が知らない技術が、どこかに眠っているかもしれない。
 だから、誰が作ったのか分からない宝貝である土竜爪は、太乙真人の興味の対象だったのだ。

 土竜爪を幅の広いテーブルの上へと乗せる。
 そしてポケットに手をやり、小さな欠片を取り出す。

「この素材も、調べる必要がありそうだしね」

 土行孫から渡された遺跡の一部。
 土行孫はこの欠片が、組成が分からない事が分かったようだ。
 これも興味の対象である。
 もし足りないようであれば、土行孫に案内を頼んで遺跡へと足を運ぶ必要があるだろう。
 無くさないように、別の場所へと保管しておく。

「さて、始めようかな」

 土竜爪の修理をするために、腕まくりをする。
 だがその時、乾元山を揺るがすほどの衝撃が襲った。

「おおっと……!」

 思わずよろけた太乙真人が、倒れないようにテーブルに手をつく。
 視線を外の方角へと向けた太乙真人は、遠い目をして呟いた。

「またナタクか……」

 おそらくナタクが、乾坤圏を乾元山へと向けて発射したのだろう。
 太乙真人の強化によって、乾坤圏はドンドンと威力を増している。
 すぐにナタクだと判断出来たのも、彼が似たような事をやっているからに過ぎない。

 土行孫の助言によって、ナタクは今までとは少し違った戦い方をするようになった。
 尤も、それは頭を使った戦術などではない。
 以前は乾坤圏によって、『相手を狙い撃ちにする』戦い方をしていた。
 それが土行孫の助言によって変わったのだ。
 『相手を狙い撃ちにする』戦い方から、『周りごと全て吹き飛ばす』戦い方へと変わった。
 おかげで乾元山が狙われ、太乙真人は研究そっちのけで、乾元山が沈まないように奔走する羽目になった。
 いったい何を助言したのか知らないが、その時は土行孫を恨んだものである。
 だが太乙真人にとっても、土行孫には子供のような思いを抱いている。
 正確には、太乙真人が作った宝貝を使う者達は、皆子供のような思いを抱いている。
 尤も、十二仙以上には、そんな思いは抱いていない。
 黄巾力士や封神台も太乙真人の作である以上、それを使用している元始天尊も自分の子供だなんて認めたくないからだ。

 話がずれたので戻すが、土行孫も太乙真人には子供のようである。
 なので、恨みを抱いた事もあったが、それは一過性で今はそんな事はないのだ。
 現にこうして、快く宝貝の修理を受け持っているのだから。

「おまけに、土行孫がいると、ナタクの対象が土行孫に移るしね」

 土行孫に負けたのが悔しかったのか、土行孫が来るとナタクは勝負を仕掛けている。
 その間は、太乙真人がナタクに狙われる事も無くなる。
 多少うるさいが、研究に没頭出来るのだ。
 ナタクは戦いに拘る。
 だからこそ、ナタクの納得出来る勝ち方でなければ、ナタクは認めようとしない。
 現に、土行孫の助言は聞き入れたが、戦闘能力の低い太乙真人の言葉は撥ね付ける。
 純粋であるが故に、それ以外の方法を知らない。
 ナタクはまだ子供だから、納得出来なければ従おうとはしない。

「土行孫も兄代わりになってくれてるし、このまま常識とかも教えてくれないかなぁ……」

 ポツリと呟く太乙真人。
 手を焼かされている太乙真人の、切なる願いであった。
 後ろから乾坤圏を撃たれるのは、もう懲り懲りなのである。

「まあ、大丈夫だよね。まだしばらくは土行孫が勝つだろうし……」

 土行孫によって、土煙を上げたりする事をナタクは覚えたようだ。
 だがそれは、土行孫にとっても願ったり叶ったりなのである。
 煙幕で自らの身を隠す事は出来るが、それは相手にも通用する。
 内旗門で姿を隠せる土行孫に、煙幕等で姿を見失う方法を取るのは下策だ。
 それに気付かないうちは、まだナタクは土行孫には勝てないだろう。
 助言はするものの、自分が不利にならないように言葉を選んでいる土行孫だった。

「……おっと。いけない、忘れてた」

 テーブルの上に載ったままの土竜爪に、太乙真人が気付く。
 これの修理を頼まれていた事を思い出し、改めて気合を入れる。
 目を保護するためのレンズつきのゴーグルをはめて、パカッと蓋を開ける。
 そして精密な部品を、一つ一つ取り出していく。

「う~ん……これといって、中身には問題があるようには見えないなぁ……。
 やっぱり、破損したのは外側だけみたいだね」

 全部を解体し終えた太乙真人が、土竜爪を見て言った。
 土行孫の見立てどおり、基礎基盤には傷一つ付いてはいなかった。
 修理は外側を直すだけで良さそうである。

「……でも、どうしたらこんな傷が付くんだろうね……」

 縦に大きく裂けた罅を見て、太乙真人が呟く。
 尤も、太乙真人は、それにはあまり興味は無い。
 必要であれば、土行孫の方から言うと確信しているからだ。
 それが無いのなら、特に大した事ではないという事である。

「にしても……」

 土竜爪のパーツを眺めながら、太乙真人は眉を顰める。

「どうにも作りが古いね、この宝貝……」

 誰が作ったのか分からない宝貝。
 ずっと蔵にしまっていたほど昔に出来たのなら、それも分かる。
 だが、パーツの劣化具合からは、何千年も経ったようには見えない。
 作り自体は古いが、太乙真人に作れないほど古い訳ではない。
 同じものを作れと言われれば、作る事も可能だろう。

「作りは古いけど、出来たのは最近だ……」

 少なくとも、この数百年以内に作られた事は間違いないだろう。
 考えられる事は、一つだった。

「誰かが最近作って、それを懼留孫の蔵に放り込んだって事かな……?」

 おまけに、作ったのは太乙真人と同じくらいか、それ以上の年齢の仙人だ。
 でなければ、古い作り方しか知らないのだ、と分かる出来にはならない。
 頭が固まって、新しい技術を知らない者が製作したに違いない。

「……ん?」

 土竜爪のパーツを眺めていると、太乙真人の頭に疑問が浮かぶ。

「これ……このままだと動かないよね……?」

 このパーツだと、土行孫が普段使っているような行為が出来ない。
 それだけではない。
 ただの土に潜るという行為でさえ、難しいものとなる。
 なぜなら、回路が繋がっていないからだ。
 使用者から吸い取った力を変換し、宝貝の動力として使用する。
 それが本来の道筋なのだが、土竜爪にはその間に異物が挟まっていた。
 異物といっても、見た目にはおかしいものではない。
 力に方向性を与える変換機だ。
 切り裂く宝貝に方向性を与えて衝撃波として使用する、楊戩の使う三尖刀などが良い例だ。
 だがそれは、回路の途中に付けるものではない。
 下手をすれば、暴発する危険もある。
 それでも付けるという事は、宝貝の製作者は余程の自信があったのだろう。
 そもそも土竜爪には爪の先に、既にその装置が付いているのだ。
 いったい、何故そんなものが付いているのか、太乙真人には分からなかった。

「これは……調べる必要がありそうだね……」

 太乙真人の目に、喜びの色が浮かんだ。
 分からない事があれば解明したくなる。
 宝貝オタクの悲しい性だ。

「問題は力の変換機と、宝貝の発動までのプロセスの間に、二つの方向性を与える変換機が付いている事だ。
 通常は力の変換機を通った力が、宝貝を発動させる。
 このとき、方向性を与える変換機を通す事で、宝貝の能力に幅が生まれる。
 この土竜爪の先についている、方向性を与える変換機は従来のものと変わらない。
 じゃあ……」

 太乙真人の目が、回路の中間に挟まっている、方向性を与える変換機を見据える。
 それをそっと手に取る。

「何が出るかな……」

 ワクワクとした表情で、ゆっくりと変換機を解体していく。
 そして、蓋を開けた。

「……あれ?」

 そこには、何も無かった。

「おかしいな……」

 たしかに、ここには何かがあるはずなのだ。
 しきりに首を傾げる太乙真人。
 だがハッとして、ある事に気付いた。

「そうか! 小さくて見えないんだ!」

 ゴーグルに手をやり、レンズの倍率を上げる。
 ちなみにこのレンズ、太乙真人のお手製で、やろうと思えば電子まで確認出来る優れものである。
 ゆっくりと倍率を上げ、見逃さないようにして原因を探していく。
 そして太乙真人は、変換機の片隅に、小さな物を発見する。

「見つけた! この小さな黒い泡が、この宝貝に変換機を付ける原因だな!!」

 見つけた事の喜びと達成感に、太乙真人はニヤリと笑みを浮かべる。
 だがその時、ふと何かが太乙真人の頭に引っ掛かった。

「……あれ? これ、どこかで見た事があるような気が……」

 だがその正体は思い出せないまま、太乙真人は首を傾げるのだった。







あとがき

初めての太乙主役の回です。
さて今回、土竜爪の謎を説明しました。
太乙真人は気付きませんでしたが、皆様はこれで分かってくれると思います。

次どうしようかな。



[12082] 第二十四話 土行孫、フルボッコにされる。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/10/24 10:46




 土行孫が修行の休憩中に空を見上げると、スープーシャンが飛んでいるのを見かけた。

「お~い! スープーシャン!」

 手を振って自らの存在をアピールすると、それに気付いたのかスープーシャンは高度を落とし、土行孫へと近寄ってくる。

「久しぶりだな、スープーシャン」

「久しぶりッス、土行孫さん」

 そう言って挨拶を交わす。
 もう何年会っていないのか。
 楊戩との決闘後、顔の形が変わった太公望を、スープーシャンが引き摺って来たのが最後になる。
 それでもあまり長い別れではないと感じるのは、土行孫の感覚が仙道達の感覚に近くなって来ているからだろう。

「あれ?」

「どうしたッスか?」

「師叔はどうしたんだ?」

 その背に、いつも乗っているはずの太公望がいない事に気付き、土行孫はスープーシャンに尋ねた。

「ご主人はここのところ、ずっと霊穴で瞑想して修行してるッス」

「ふ~ん……。あの怠け者で有名な師叔が、ねぇ……」

 どうにも想像出来ない、と土行孫は首を傾げる。

「土行孫さん達の闘いで、ご主人も危機感を覚えたんじゃないッスか?」

「そんな殊勝なやつが、後ろから不意打ちなんてするかねぇ……」

 今でも覚えている。
 楊戩との決闘で、土行孫が勝ちを確信したその直後、後ろから頭部への強烈な一撃を食らった事を。
 尤も、もう怒ってなどはいない。
 もう一度会ったら、一発殴り飛ばさないと気がすまない、と当時は意気込んでいた。
 だが次に会った時には既にボロボロだったので、殴る気が失せたのだ。
 そのまま殴れずに有耶無耶のままであるが、それから何年も経てば、怒りなど無くなる。
 怒りの感情を持続させるのは、とても労力がいる作業だ。
 だから最早どうでも良い、という結論に達した。
 今でもその事を口にするのは、ただの昔話としての話の種にするためである。

「それで今は、修行でご主人が動けないッスから、僕が代わりに情報収集してるッス」

「なるほど」

 スープーシャンが日記帳を取り出した。
 おそらくそこに、情報が纏められているのだろう。
 土行孫はふとある事を思い出す。

「そういえば、この間久々に魂魄が飛んでいくのを見たけど、あれは師叔がやったのか?」

「……違うッス」

 暗い顔でスープーシャンは否定した。

「あれは……朝歌の方角から飛んで行ったッス」

「……そうか」

「きっと、妲己がまた誰かを殺したに違いないッス!!」

 憤慨するスープーシャン。

「早くどうにかしないとな……」

「そうッス!」

 土行孫としても、悪逆非道の限りを尽くしている妲己を、許す気にはなれない。
 人間界に土行孫の家族がいる訳ではない。
 だが、だからといって放っておいていい訳が無い。
 いずれは妲己を封神する。
 そのための封神計画なのだから。

「それじゃ、僕は行くッス。あんまりご主人を待たせると、道端の草を食べて腹を壊すかもしれないッスから」

「おいおい、さすがにそれは無いだろう」

 笑い飛ばす土行孫。
 いくら腹が減っていようと、食べられない雑草を食べるなんて考えられない。
 そもそも、仙道は空腹なだけでは死なない。
 理論上はそうなっているが、実際に空腹で死ぬ者が居ないため、真相は分からないが。

「引き止めて悪かったな。情報収集、頑張れよ」

「はいッス!」

 力強く頷いたスープーシャンは、空高く飛んで行き、すぐに見えなくなった。
 残された土行孫は、土竜爪を掲げて呟いた。

「俺も、強くならないとな……」

 最近、いやに土竜爪が重い。
 太乙真人が解析した遺跡の欠片によって、土竜爪が強化されたせいだろうか?
 いいや、違う。
 帰ってきた時も、それほど重量に差など無かった。
 そもそも、髪を結んでいる力を上げる怪力紐があれば、多少の重量など無視できるはずなのだ。
 だが、土竜爪が重い。
 日が経つに連れて、ドンドンと重くなっているような気がする。
 今まで以上に、多く力が吸われている感覚があるのだ。
 自分で軽く調べてみたが、それらしき変化の原因は見つからなかった。
 やはり、土行孫の力不足が原因なのだろう。

「師叔と違って、怠けてたような記憶は無いんだがなぁ……」

 確かに、息抜きのようなものは入れているが、それは以前と変わらない。
 それで体力が落ちるような事は無かったのだが、現に土行孫は今まで以上の疲労を感じている。

「このままだと、弱くなりそうだな……。誰か、相手になってくれるやつを探さないと……」

 こんな状態では駄目だと感じる。
 誰か自分の相手になってくれる者を探して、実戦訓練を積まなければならない。
 そうして今の自分が、どれだけ出来るかを判断しなければ、土行孫は今以上には強くなれないだろう。

「では私が、お前の相手になってやろう」

「なに……?」

 物思いに耽っていた土行孫に、後ろから声が掛けられる。
 慌てて振り向いた土行孫は、黒い人影を見つける。
 土行孫の着ている、内旗門に良く似た黒いローブで全身を覆い、その姿は良く分からない。

「誰だっ!?」

 土竜爪を構えて問い質す土行孫。
 いつからそこに居たのだろう。
 声を掛けられるまで、全く気付かなかった。
 頬から流れ落ちる汗にも気付かず、土行孫は人影を見つめる。
 ローブの内より聞こえる低いくぐもった声から、人影は男だと判別出来たが、分かったのはそれだけだ。

「言っただろう? お前の相手になってやる、と……」

 そう言った男は、土行孫に殺気を叩き付ける。

「ぐっ……お前は……!」

 男から迸る殺気に、土行孫は気圧されて一歩後退る。
 それは土行孫が、以前味わった事のある殺気だった。
 まるで燃え盛る炎のような、灼熱の意志が込められた殺気である。

(殺される)

 そんな思いが、土行孫の脳裏を過ぎる。
 背中に冷たい汗が一筋流れる。
 だが男はその殺気に反して動こうとはせず、ローブの内から猛禽のような瞳を覗かせ、土行孫を見つめていた。

「どうした? 来ないのか?」

「くっ……!」

 その声を切欠として、弾かれたように土行孫は宝貝を使う。
 土竜爪を地面に叩き付けるように突き刺す。
 宝貝が鼓動して、大地が震える。
 土行孫の左右から、大質量の土が持ち上がる。

「行けっ!!」

 それを雪崩のように相手に向けて、勢い良く発射させた。
 相手は成す術も無く飲み込まれ、姿が見えなくなる。
 だが土行孫は安心などしていなかった。
 例え土に押しつぶされていようと、そこから感じる殺気は微塵も衰えていないのだから。

「っ!?」

 次の瞬間、土行孫が何もしていないにも関わらず、内側から土が爆発するように弾かれ、四散していく。
 その爆発の発生地には、傷一つ無い人影が立っていた。
 男に宝貝を使ったそぶりは無く、ただ片手を掲げていただけだった。

「何をした……?」

 男が何をしたのか分からず、土行孫は警戒する。
 だが男が素直に答えるはずが無い。
 静かに佇む男に、土行孫は土竜爪の片方で威嚇したまま、手を懐に入れる。
 香火遁の術により、身の丈ほどの大剣を引き寄せた。
 道行天尊より貰い受けた宝貝、絶仙剣だ。
 掲げたそれを、幾つも幾つも分裂させる。
 両手に一本ずつ持ち、残りの絶仙剣を男へ向けて全て撃ち出した。
 正体の分からない男に対し、接近戦を仕掛けるのは分が悪い。
 なればこそ、再び遠距離から攻撃し、男の手札を知る必要があるのだ。
 大量の剣群が、男に向けて降り注ぐ。
 これだけの刃の群れに晒されれば、普通は無事では済まないだろう。
 だが男は、迫り来る絶仙剣の群れにさえ、動揺する事は無かった。

「疾っ!!」

 男の右手から嵐のような衝撃波が生まれ、絶仙剣は一本残らず弾き飛ばされる。
 方向を捻じ曲げられた絶仙剣が辺りに突き刺さり、土行孫にはそれがまるで墓標のように感じた。

「宝貝も使わずに……あの威力だと……」

 男が使ったのは、宝貝では無かった。
 仙術である。
 それは宝貝の便利さによって取って代わられ、既に廃れた物だ。
 土行孫としても、身に纏う内旗門に仕込まれた香火遁の術以外は、僅かしか知らない物である。
 それも戦闘に使える物ではない飛行術や、水を酒に変える程度の物。
 戦闘に使える物は、楊戩の変化の術くらいだろう。
 それを使いこなすが故に、楊戩は天才と呼ばれているのだ。
 知識でしか知らない、戦闘に使用できる仙術。
 それを使いこなす男の実力に、土行孫は呆然とした。

「っ!? 消えたっ!?」

 まるで最初から居なかったかのように、男の姿が掻き消える。
 土行孫はその姿を探すが、見当たらない。
 突如、背筋が粟立つ。
 土行孫は本能に導かれるがままに、絶仙剣を交差させて掲げる。
 周りには誰もいない。
 だがそこに、上からの衝撃が走った。

「ぐううっ!!」

 土行孫の足が、地面にめり込んだ。
 それほどの衝撃が、土行孫を襲ったのだ。

「ほう……受け止めたか」

 風に溶けるように姿を消していた男が、声と共に姿を現す。
 燃え盛る炎を宿した剣を左手に持ち、絶仙剣に押し当てていた。
 この炎の剣を受け止めた事が、先ほどの衝撃だったのだ。
 だがそれよりも、土行孫は男が姿を消した事が重要だった。

「それは……内旗門と同じ……」

 男が身に着けていたローブは、内旗門と同じく姿を消す物だった。

「どうしてお前がそれを……」

「それは……こちらのセリフだっ!!」

 激昂するように男は叫び、土行孫を回し蹴りで蹴り飛ばす。
 声を発する事も出来ず、土行孫は吹き飛ばされた。

「グッ、ガッ、アアア……!」

 まるでボールのように跳ねて、土行孫は転がっていく。
 そして岩に叩き付けられ、やっと動きが止まる。

「ぐぅ……アグっ……」

 蹴られたところを押さえ、苦悶の表情を浮かべる土行孫。
 たった一撃。
 ただそれだけで、骨が何本も折れてしまったのが分かった。
 攻撃を受け止めた絶仙剣も、刃毀れを起こしている。
 大して、男は無傷だった。

「ぐ……まだだっ!」

 額から流れる血を大雑把に拭い、男を睨みつける。
 土行孫は痛みに耐えながら、震える腕で如意棒を取り出す。
 巨大化させたそれを、重力もプラスさせた上から叩き付ける。

 だがそれさえも、男には効かなかった。


 ギィィンッ!!


 鈍い音を立て、如意棒は折られた。

「そん……な……」

 折れるはずのない、土行孫の知る中でも最も硬い如意棒が、あっさりと折られた。
 圧倒的な実力差に、唖然とする土行孫。

「弱いな」

 男によって突きつけられた現実に、土行孫は打ちひしがれる。

「弱すぎる。お前の持つ宝貝はどれも良い物だが、お前の実力がそれに見合っていない」

 先ほどの怒りは何処へ消えたのか、男は淡々とした喋りを続ける。

「お前の力は、所詮その程度だ」

「……そんなの」

 土行孫は目を伏せる。

「そんなの……俺が一番良く分かってるさ。
 楊戩はもう師匠を超えたって言われているのに、俺は未だに師匠には勝てない。
 ナタクにはまだ勝ち越してるけど、すぐに抜かれるだろう。
 あいつらに比べて、俺が弱いなんて事、分かりきっているんだ。
 ……でも」

 土行孫は男を睨みつける。

「でも、俺にだって意地がある!
 あいつらに置いてけぼりにされるだけなんて、真っ平御免だ!
 弱いんなら強くなってやる!
 抜かれたんなら抜き返してやる!
 だから……こんな所で終わってたまるかよ!!」

 手に装着された土竜爪が、土行孫の声に従い反応する。
 その爪の先に、一ミリほどの黒い球体が生まれた。

「ぐ……あ……」

 力を吸い取られ、土行孫は倒れ込む。
 同時に、黒い球体は消失した。
 その姿を見つめ、男は呟いた。

「……気絶したか」

 力に耐えられず、身体が自らを守るために、防衛手段として気絶を選んだのだろう。
 気絶した土行孫に向けて、聞こえるはずが無いにも関わらず、男は告げた。

「お前は弱い。だからこそ、強くなれ。いつか、――を打倒するために……」

 男の最後の呟きは小さく、誰にも聞こえなかった。
 そして男の姿は、風に溶けるようにして、消えていった。


 後には気絶した土行孫が倒れている以外、男がそこに居た痕跡は残らなかった。




あとがき

今回、一気に何年か過ぎ、やっと四巻に入れました。
今の時間は、ハンバーグ事件の後です。
封神演義では時間の流れが速いので難しいです。

そろそろDOKOUSONにストレスが溜まっている人もいるかと思います。
だから彼に出張ってきて貰いました。
すっきりしましたね。
でもこれも一応話として必要だと思ったので、書きました。
決してDOKOUSONが羨ましかったから、ボコボコにしたかったという訳ではありません。
本当です。
信じてください。
これも必要な話のはずなんです。
……なんだか、「嘘だっ!!」っていう言葉が聞こえてきそうですね。



[12082] 第二十五話 失われし過去の記憶
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 23:09




「……ん……て……」

「ん……」

 誰かがおいらを呼ぶ声がする。
 でも、もう少し。もう少しだけ寝かせてくれよ。
 おいらは昨日、羊の世話で一日中働いてたんだ。
 早く起きた方が良いとは思うけど、せめてもうちょっとだけ……。

「……きて……!」

「ん~……あと少し……」

 誰かがおいらの身体を揺さぶる。
 でも安眠を妨害するその手を、おいらははたき落とした。
 これで眠れる。
 そう思ったその時、眠りに落ちようとしていたおいらを、誰かが今まで以上に思いっきり揺さぶる。

「起きろぉぉぉっ!!」

「うおわっ!?」

 なんだなんだっ!?
 耳元で叫ばれ、身体がガクガクと揺さぶられる。
 状況が分からず、目をぱちくりさせるおいらに、おいらを起こした声が話しかけて来る。

「やっと起きた……」

「馬氏かよ……」

 おいらをたたき起こしたのは、近くにすむ馬氏ばしだった。
 その馬氏は、おいらの顔を見て眉を顰める。

「なによ、その嫌そうな顔は。せっかく起こしてあげたのに」

「誰も頼んでねぇよ。おいらは疲れてるんだ。もっと寝かせろ」

「何言ってんのよ。あんたをこれ以上寝させたら、もっと太るでしょうが」

「別においらは太ってねぇよ。身体見りゃ分かんだろうが」

 別に馬氏が言うように、太っている訳じゃない。
 そもそも、太るほど大量に食えてなんていないんだ。
 そんな事ありえる訳がない。

「嘘をおっしゃい。こんなに頬に肉付けておいて」

「ちょ、痛い痛い! 引っ張るなって」

 おいらの頬をグニッと引っ張ってみせる。

「痛いっての! まったく……」

 頬を抓る馬氏の手を引き剥がし、頬を押さえる。
 多分、真っ赤になってるんだろうな……。

「これはもとからだっての……。好きでこんな下膨れの顔に生まれた訳じゃねえのに……」

 もしこれが、後から起きた事が原因なら、間違いなくそれは馬氏のせいだ。
 事ある毎においらの顔を引っ張るんだからな。
 こっちは溜まったもんじゃない。
 どっちにしても、おいらの顔は下膨れになる事が決まってたんだろうな。

「さあ行くよ」

「え? おい、何処へ行くんだよ?」

「決まってるでしょ。羊の世話をしに、だよ」

「ええ~? また? ちょっとは遊ぼうぜ」

「何いってるのよ。ちゃんと世話しないと、ご飯が食べられないじゃない」

 そういってズルズルとおいらを引きずっていく馬氏。
 こいつ一人いれば、羊の世話なんて楽勝だと思うんだけどなぁ……。
 人一人を片手で引きずっていける力があるんだし。
 なのに、いつもおいらを連れまわすんだから、疲れるったらありゃしない。

「もうっ! ちゃんと歩きなさいよっ!」

「へいへい……」

 怒る馬氏に、適当に答える。

「それじゃ、行くわよ。そん

「分かったよ、馬氏」

 こうしておいらこと、孫の一日が始まる。





 羌族である孫たちが住む村は、遊牧で成り立っている。
 そのため、幼い頃から羊の世話を覚えさせられる。
 子供というものは、あちらこちらへとフラフラと出歩く事が多い。
 興味を見つけたら、それを追いかけて村から出てしまう事もある。
 だから子供は、主に同じところに集められ、一緒に行動させる。
 そうする事で、村人がより効率よく働く事が出来るようにだ。
 だが孫よりも年が上の若者は出稼ぎに出ており、同年代の子供は馬氏しかいなかった。
 必然的に二人は、一緒に行動する事になる。

 孫と馬氏が行うのは、主に羊の世話だ。
 羊に食事を与える。
 尤も、これはその辺に生えている草を食べるので、孫たちはそれを見ているだけ。
 羊が逃げたときに、捕まえる。
 これは力が強い馬氏が一人でやってしまう。
 孫はただ、羊の気を引くぐらいしか出来ない。
 非力な子供である孫には、やる事はあまりないのだ。
 やろうと思った事は、馬氏が全部やってしまうから。
 あとは羊の乳を搾る作業があるが、これも毎日ではない。

 でも、孫にしか出来ない事もある。
 馬氏との話し相手だ。
 馬氏も一人は寂しいのだろう。
 いつも孫を連れ歩き、孫はそれに振り回されている。
 孫が疲れているのも、これがほとんどの原因。
 昨日は久々に羊が一斉に逃げ出したので、村中で大騒ぎになった。
 それで寝ていたのだが、それも馬氏に叩き起こされてしまった。

「ふああ……」

 未だ寝足りない孫は、大きな欠伸を繰り返す。

「何欠伸してんのよ。きびきび動きなさい!」

 そんな孫に、馬氏の叱責が飛ぶ。

「まったく……こんな美少女と一緒にいるのに、その反応はどうなのよ?」

「美少女、ねぇ……」

「なによ、その目は……」

 孫はじろじろと馬氏を眺める。
 確かに、美少女といっても良いだろう。
 目はパッチリとした二重で、切れ長の目は強い意志を感じさせる。
 鼻筋はスッと通っており、唇は紅を塗ったかのように赤い。
 羊の世話で日に当たって出来た小麦色の肌は、健康的な印象を与える。
 だが、孫は溜め息を吐いた。

「それじゃあなぁ……」

「なっ!?」

 孫の視線はある一点を見ていた。
 そろそろ膨らむかと思われる年齢であるのに、全くそのそぶりを見せないその平面。
 馬氏は胸を手で覆い隠す。

「王様の今度の奥さんはとても美人らしいから、胸も大きいんだろうな」

 孫は呟く。
 王の今度の妻は、王氏という。
 かなりの美人で、既に居た他の妻を押しのけて、自らが一番の寵愛を得たほどの美しさらしい。

「孫の馬鹿っ! この変態っ! 変態っ!! 変態っ!!!」

「痛い痛い痛いっ!!」

 馬氏の怪力で頬を抓られ、孫は目に涙を浮かべて叫ぶ。
 ギリギリと抓られる痛みに負け、孫が泣きを入れる。

「フンッ! 私は成長期なの。まだ未来があるのよ。これからこれから」

「分かったよ……」

 逆らう事は得策ではないと判断した孫は、心にも無い事を言って馬氏の機嫌を取る。
 その時、孫の顔に冷たいものが当たる。

「……雨?」

 見上げれば、雲によって空は陰り、雨がポツリポツリと降って来ていた。

「このままじゃ濡れる。テントに行こう」

「そうね。そうしましょう」

 孫の提案に、馬氏も頷いた。
 二人して近くのテントへと入る。
 中には誰もいなかった。
 このテントの主も、出かけている時に雨に降られて、立ち往生しているのかもしれない。
 二人がテントに入ると、それを待ち構えていたかのように雨が本降りになる。
 ざあざあと音を鳴らして、雨がテントを叩く。
 その雨の音を聞きながら、孫は溜め息を吐いた。

「はあ……やだなぁ……」

「本当ね」

 馬氏も頷いた。
 雨が降れば、羊達が風邪をひく事もある。
 風邪が酷ければ、羊は死んでしまうのだ。
 羊を食べるために殺す事もあるが、望んでいない時に死なせたくはない。
 それは二人とも同じ気持ちだった。

「こんなんじゃなくて、もっと安定した仕事が欲しいな」

 羊の世話は、いつ駄目になるか分からない。
 羊が病気になれば食べるものが無くなる。
 もしその羊を食べれば、それが原因で疫病が広がるかもしれない。
 だから食べるわけにはいかない。
 だがそこまではまだ良いが、それが羊に広がったら終わりだ。
 人の手では、どうにも出来ないことはあるのだ。

「ねえ、それじゃどうするのよ」

「そうだな……朝歌にでも行って、一稼ぎしようかな」

「一稼ぎって、いったいどうやって?」

「それは……まだ考えてない」

「無計画」

 孫の浅はかな考えに、馬氏が冷ややかな視線を送る。

「それじゃ、馬氏は良い考えでもあるのかよ?」

「私が?」

 孫が尋ねると、馬氏は軽く考え込む。

「う~ん……そうだなぁ……」

「やっぱり馬氏も無いんじゃないか」

「な、失礼ね。あるわよちゃんと!」

 笑おうとした孫に、馬氏は顔を赤くして反論する。

「何だよ、言ってみろ」

「ソバ屋」

「……はぁ?」

 思わずもう一度聞き返す孫に、馬氏は意気揚々と言った。

「ソバ屋が良いわ。美味しいし」

「おいおい、そんな理由かよ」

「良いじゃない。何も考えてない孫よりマシよ」

 そう言われれば孫は反論出来ない。
 実際、思いつきで話しただけで、深く考えてなどいなかったのだから。

「でもまぁ、ソバ屋ってのも良いかもな」

「でしょう?」

 孫の言葉に、馬氏が得意げに笑う。

「真面目に目指してみるかな」

「じゃあ私も手伝ってあげるわ」

「何でだよ」

「孫はドジで愚図だからね。私がいないと何も出来ないでしょ」

 馬氏のその言葉に、孫はムッとして反論する。

「出来るさ。おいら一人でも」

「それなら、私が給仕になってあげる。ソバ屋になるのは出来ても、流行ってるお店を一人でやるのは難しいもの」

「む……」

 馬氏の言うとおり、馬氏が給仕を引き受けてくれるなら、孫の負担は下がる。
 それが分かったからこそ、要らないとは言えなかった。

「まだ流行るって決まった訳じゃないだろ」

「流行るに決まってるでしょ。こんな美少女が看板娘になるんだよ? あ、その時は美女かな?」

「おい……」

「とにかく、夢を大きく持たないでどうするのよ。朝歌中に私達の店の名前を知らしめる位の気概を持ちなさい」

「……そうだな。王様の目に留まるくらい、美味いソバを作れるようになろう」

 孫は頷いた。
 馬氏はそれを見つめると、静かに言った。

「じゃあ約束ね」

「ああ。約束だ」

 二人はそう言って約束した。
 雨の音が止む。
 テントから外を覗くと、雨は上がり、雲間から光が差していた。

「……帰ろうか」

「うん」

 このテントの主も、いずれ戻ってくるだろう。
 あまりここに居座る訳にもいかない。
 二人して外へ出る。

「それじゃ、また明日な」

「うん……。あ、孫」

「何だよ?」

 呼びかける馬氏に、孫は振り向く。
 常ならぬ小さな声で、馬氏は言った。

「約束……忘れないでね」

「ああ……」

 馬氏の不安そうな表情を安心させるために、孫は力強く頷いた。
 馬氏の顔は、雨が上がった今の状態のように明るくなった。

「じゃあな」

「またね」

 いつも通り、手を振って別れる。
 いつも通り、自分の家のテントに帰って手伝いをする。
 そしていつも通り、疲れて眠った。

 それでその日は終わった。
 この日が、孫にとっての最後の幸せな日だった。



 翌日。
 起こしに来ない馬氏に、孫は奇妙な思いを感じつつ、自分で起きた。

「おかしいな。あいつが寝坊するとは思えないけど……」

 だが外は慌しく、その思いはすぐに流された。
 いつも通り、羊の世話をしようと思った孫だった。

「……え?」

 だがしかし、外に出た孫は、倒れている村人を見つけた。
 慌てて村人の下へ駆け寄る孫。

「おい! どうしたんだよ! おい!?」

 呼びかけるが、村人の口からは呻く声が漏れるばかり。
 孫がその身体を揺さぶると、手がぬるっとした感触に包まれる。
 孫が自らの手を見つめると、赤いものが手にべっとりと付着していた。

「何だよ……これ……」

 呆然とその手を見つめる孫。
 その時、呻き声を上げていた村人が、掠れた言葉を発する。

「軍が……いきなり襲って来て……」

「軍が!? 何でおいらたちを攻撃するんだよ!?」

 だが村人が、孫の問いに答える事は無かった。
 既に息絶えていたのだ。

「ちっ、クソ……!」

 孫は舌打ちをする。
 外は血の海だった。
 あちらこちらに人が倒れていて、皆が地面を紅く染めている。
 その時、孫は気付いた。

「そうだ! 馬氏は!?」

 馬氏の姿が見えない。
 今日彼女が孫を起こしに来なかったのも、今の状況が関係しているのかもしれない。

「探さないと……!」

 居ても立ってもいられず、孫は走り出した。

「馬氏! どこだ馬氏!!」

 これだけの声を出せば、兵士に見つかるだろう。
 だがそれでも、声を張り上げずにはいられなかった。
 見つからなかったのは、幸運だったのだろう。
 非力な身体が怨めしく思う。
 息が切れても走り続け、馬氏を探す。
 そして、遂に見つけた。

「馬氏っ!!」

 切り裂かれた胸から、血を流す少女の姿を。

「馬氏! おい! 目を開けろよ!」

 孫は駆け寄り、馬氏の身体を揺さぶる。
 いつもとは逆の光景。
 これがいつも通りの朝であったなら、孫は笑いながら馬氏を起こしただろう。
 そして、ねぼすけだと馬氏をからかうのだ。
 だがそんな事は起きなかった。
 孫の胸中に、そのような思いなど欠片も無かった。
 あるのは、目の前で倒れている少女の安否を、必死に気に掛ける想いだけ。
 その想いが通じたのだろうか。
 馬氏がうっすらと目を開ける。

「そ……ん……」

「馬氏っ!」

 孫が馬氏の顔を覗き込む。

「待ってろ、今助けてやるから」

 だが馬氏は弱々しく首を横に振る。

「ごめん……ね……約束……守れなくて……」

「おい! そんな事言わないでくれ! お前は、おいらと一緒に店をやるんだろ!?」

 孫は叫ぶが、馬氏は首を横に振るだけだった。

「やっぱりあんたは……昔っから涙脆いね……」

「そうだよ! だから……おいらは弱いから、馬氏がいないと……!」

「……そんな顔……しないでよ……これじゃ……私が悪者みたいじゃない……」

 馬氏は震える手で孫の頬を引っ張る。

「ほら……いつも通り……笑いなさい……」

「う、うあ……」

 孫の顔が歪む。
 馬氏に言われたように、笑おうとして。
 馬氏は孫の顔を見て、クスリと笑った。

「あはっ……やっぱり……不細工だね……」

「うるせえよ……」

「……ねえ、孫……」

「なんだよ」

「私ね……孫のこと……」

 だが馬氏が最後まで言い終える事は無かった。
 孫の頬を引っ張っていた手が、力無く落ちる。

「……なんだよ」

 孫は頬に手をあて、呟いた。

「こんなの、全然痛くねぇよ……いつも千切れそうなぐらい、強く引っ張って来るくせに、どうしてこんな時だけ……」

 孫は馬氏の頭を胸にかき抱く。

「馬氏……」





 目を開ける。

「夢……か?」

 土行孫が見たのは、初めての光景だった。
 何も知らない子供が、好きな子と将来を約束する夢。
 それを理不尽に奪われた夢。
 土行孫が体験した事ではない。
 ではこれは、いったい誰の夢だ?

「……強くなってやる……!」

 土行孫は這いずって進みながら、呟いた。

「何がなんでも、絶対強くなってやる!!」

 痛みで土行孫は、未だに立ち上がる事さえままならなかった。
 だが土行孫の目には、怒りが燃えていた。
 それは土行孫が初めて、敵という物を認識した瞬間であった。






「ボロボロだね、あいつ」

「ええ。そうですね」

 遠くから見ていた申公豹と黒点虎が、土行孫の姿を見て言った。

「でも良いの? 申公豹」

「何がですか?」

「あんなになってるのに助けなくて」

「良いのですよ」

 黒点虎の問いに、申公豹は助けなくて良いと言った。

「彼は負けたのですよ。それも、完膚なきまでに。
 そんな所を、誰かに見られたいとは思っていないでしょう。
 それに、この程度のどん底など、這い上がって貰わなければ私が困ります。
 彼が這い上がると確信しているからこそ、私は敢えて助けなかったのですよ。
 あのローブの人物も、殺気は出していても、本気で殺すつもりはなかったように思いましたしね。
 現に、受け止められるように、わざと殺気を出したままで闘っていましたし」

「ふうん……」

 黒点虎は土行孫を眺める。
 そして或る事を思い出した。

「そうだ、申公豹」

「何ですか?」

「どうして申公豹は、土行孫に興味を持ったの?」

 土行孫を友と認めたのは、土行孫が申公豹を傷つける事が出来たから。
 だがその前、何故申公豹は土行孫に興味を持ったのだろうか。

「おや? 気付かなかったのですか?」

「何に?」

 驚いたように尋ねる申公豹に、黒点虎は本気で分からないと返す。

「では、気付いていたのは私だけ、という事ですか」

 申公豹は面白そうに口角を吊り上げる。

「もったいぶらないで、教えてよ」

「分かりましたよ」

 申公豹も遥か下で、這いずって進んでいる土行孫を見る。
 そして自慢げに話し始めた。

「彼の中には、魂魄が二つあります。それが気になった原因ですよ」

「魂魄が二つ!?」

 黒点虎が目を見開いた。

「そんな事あるの?」

「現に、彼はそうなのですよ。何故そうなったのか、それは分かりませんがね」

「そうなんだ」

「ええ。妲己でさえ、借体形成の術では乗っ取る事しか出来ない。
 人の身体は、魂魄が二つ入るには、小さ過ぎるのかもしれませんね。
 でも彼は上手く共存しているのか、魂が争うことなく存在しています。
 そこに私は、興味を持ったのですよ」

「ふうん……そんな事がねぇ……」

 土行孫に、そのような秘密があったとは知らなかった。
 黒点虎は面白そうに土行孫を眺める。
 申公豹も共に土行孫を見つめながら、ポツリと呟いた。

「強くなりなさい、土行孫。私の友が、この程度で潰れる事など、あってはならないのですから」

 申公豹の呟きを聞く者は、黒点虎しかいなかった。






あとがき

今回は、過去のお話。
土行孫の身体の方の思い出のお話です。
身体の方の名前は孫(そん)としています。
原作の土行孫の過去捏造ですね。

いきなり過去編へ入ったので、いったいどんな感想が来るのか戦々恐々としています。




[12082] 第二十六話 土行孫、修行しに行く。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/15 16:40





 土行孫は青峯山にある紫陽洞へと訪れていた。

「たのもー」

 大きな門をドンドンと叩き、中に呼びかける。
 やがて門の向こうから足音が聞こえてきた。
 段々と足音は近づいてきて、門のすぐ手前で止まる。
 木が大きく軋む音が響き、門が開いていく。

「やあ、土行孫じゃないか」

 門からヒョイッと顔を出したのは、青いスポーツウェアを着た、爽やかな印象を与える男性だった。

「どうしたんだい? 道場破りでもしに来たのかい?」

「違いますよ、道徳真君様」

 道場破りかと尋ねて来た清虚道徳真君せいきょどうとくしんくんに、土行孫は苦笑いを返す。

「今日は修行を付けて貰いに来たんです」

「なるほど、そういう事なら大歓迎だよ。天化も喜ぶさ」

 道徳真君は爽やかな笑みを浮かべて、土行孫を門の内へと招き入れる。
 門を潜り抜けると、そこには土行孫が以前来た時と、変わらない光景があった。
 修行は基本的に外で行うのだが、この道場を模した建物には、染み付いた汗の臭いが僅かに漂っていた。

「相変わらずですね、ここも」

「修行をするのに、奇抜な事をする必要は何も無いからね。
 健全な肉体にこそ、健全な魂は宿る。
 だからこそ横道に逸れる事無く、身体は基本に忠実に、そして堅実に鍛えるべきだ」

 後ろで門を閉めた道徳真君が、土行孫の肩に手を添えて言った。
 納得出来るからこそ、土行孫は頷いた。
 体育会系のノリではあるが、今の土行孫にはありがたいものだった。
 そして、ふと思い至った。
 もしかして不健全な肉体だから、太公望はあそこまで捻くれたのだろうか、と。

(どうでもいいことだな)

 頭を振って、その考えを打ち消した。

「天化はどうしました?」

「あの子はさっきまで寝てたよ。そろそろ起きてくるころだと思う」

 その声に応じるかのように、奥から人影が現れる。

「ふわ、ああ……」

 欠伸を噛み殺し、髪をガシガシと掻きながら現れたのは、短い黒髪にベストを着た若者だった。
 オヤジ臭いその行動も、どこか似合っていると言える雰囲気があった。
 その若者は、道徳真君の隣に立つ土行孫の姿を見つけると、目を瞬かせる。

「ん? おお!? モグラじゃないさ!?」

「よ。久しぶりだな、天化」

 ヨッと手を上げて、土行孫は軽く挨拶をする。
 天化と呼ばれた彼の名は、本名を黄天化こうてんかという。
 昔彼から聞いた話では、彼は殷王家に代々仕えている名門、黄家の次男なのだそうだ。
 そして、かつて楊戩が変化した殷の武成王こそ、彼の実の父親だ。
 楊戩との決闘で、楊戩が変化した武成王の力の強さに納得したのも、天化という繋がりがあったからと言える。
 土行孫よりも後に仙人界に来たものの、天化はその天賦の才により、瞬く間に頭角を現してきた青年だ。
 仙道としては同格の位置にあるが故に、彼にはタメ口を聞いている。
 だがしかし、もしも道士になる順番が逆であれば、彼には敬語を使うだろうと判断出来るほど、土行孫は天化に一目置いていた。
 武成王譲りの才は、遺憾なく発揮されているようだ。

「俺っちに何か用かい?」

「用っていうか、修行しようと思ってな。だから道徳真君様を訪ねてきたんだ」

「はぁ~、なるほどねぇ……」

 土行孫の言葉に、天化は納得がいったのか、ニヤリと笑みを浮かべる。

「うしっ、それじゃ、また俺っちと戦おうぜ!」

「ああ、頼むよ。接近戦だと天化の方が強いからな」

 土行孫の言葉通り、接近戦だと天化の方が強い。
 今までの戦績は半々といったところで、前回は僅差で土行孫が勝利を収めている。
 二人の戦いは、天化が接近戦を挑み、土行孫が離れた場所から土竜爪や絶仙剣で攻撃する事が多い。
 天化が土行孫の攻撃を凌げるか、土行孫が天化の攻撃に反応出来るか、そういう接戦なのだ。

「でもそれは今度だ。今日は闘いに来た訳じゃないから」

「じゃあ何しに来たんさ?」

 天化は首を傾げる。
 土行孫が以前来ていたのは、天化と戦うためであり、それ以外では見たことが無かったからだ。

「修行しに来たんだよ。初心に帰って、基本から鍛え直そうと思ったんだ。
 思い返してみれば、最近は宝貝を使ってばかりで、俺自身を鍛えるのを忘れてた気がするし」

「そっか。それじゃ、また今度闘うさ」

 納得したのか、天化は取り出そうとしていた宝貝を仕舞う。
 だが黙って二人のやり取りを見ていた道徳真君が、土行孫に声を掛ける。

「いや、土行孫。今日は天化と闘ってやってくれないか?」

「え? 何かあったんですか?」

「さっき元始天尊様から連絡があってね。久しぶりに十二仙が集まる事になったんだ」

 十二仙が全員集まる事はほとんど無い。
 土行孫も全員が集まると聞いた事は無かったから、少なくとも百年以上は無かった事だ。
 それほどまでに重要な何かが起きた、と考えるべきだろう。

「これから出かけなくちゃいけないから、今日は天化との試合をしていてくれ」

「はあ……分かりました」

「悪いね。天化にビデオカメラを渡しておくから、それで試合の様子を撮影してくれ。
 君の訓練メニューは、それを見てから組もうと思う」

 道徳真君は懐から拳大のビデオカメラを取り出し、天化に渡す。
 戦えると分かった天化の顔が綻ぶ。
 前回の試合では土行孫が勝ったため、雪辱の機会を伺っていたのだ。

「うしっ! それじゃ、始めるさ」

「そうだな」

 土行孫を促し外へと連れ出そうとする天化に、後ろから道徳真君の声が掛かる。

「ああ天化、ビデオカメラは壊さないでくれよ。
 太乙が作った物とはいえ、精密な機械である事は間違いないんだから。
 ちゃんと説明書を読んでから使うんだよ」

「分かったさ」

 道徳真君の言葉に頷き、天化はビデオカメラと一緒に渡された説明書を開く。
 説明書を見ながら、天化がビデオカメラを弄ると、メキリと機械が軋む嫌な音がした。

「……ま、いいさ」

「おい」

 どうにも手付きが怪しい。
 戦闘のセンスが高い人間は、それ以外がからっきしな事が多い。
 闘いに関しては強くても、常識が備わっていないナタクなどは、その典型だろう。
 もしかして、天化もその類なのだろうか。
 本当に大丈夫か不安になりながらも、土行孫はその後ろを付いていった。






 何とか壊れることなく作動したビデオカメラを脇に置き、土行孫と天化は対峙する。
 天化はタバコを銜えながら、土行孫に尋ねる。

「そういえばもぐら、ちっと聞きたい事があるんだけどさ」

「何だよ」

「以前見せびらかしてたコートは、いったいどこに行ったさ?」

「ああ、それか」

 土行孫は今、内旗門を付けていない。
 否、正確には土竜爪以外の宝貝を持っていない、というべきか。
 髪を縛るのに使っていた怪力紐でさえ、土行孫は身に付けていない。

「ちょっと事情があってな。今は他の宝貝は修理中、もとい封印中だ」

 折れた如意棒や、刃毀れした絶仙剣をそのまま使う訳には行かない。
 土竜爪以外の宝貝は、全て太乙真人に預けてきた。
 今頃は、修理と改造を頑張ってくれているはずである。

「封印? 何でまた?」

「さっき言ったろ? 初心に帰るってさ。だから、今日は土竜爪だけで闘うよ」

「へえ……」

 天化の目に、剣呑な光が宿る。

「俺っちと闘うのに、それだけしか使わないなんて、舐めた事言ってくれるねぇ」

「別に舐めてなんかいねぇよ」

 確かに天化相手に、宝貝一つだけ、というのは心細い。
 いつも通りに、遠くからちまちまと攻撃していては、すぐにやられるだろう。

「俺にはそれが必要だと思ったから、今日は土竜爪しか使わないんだ」

 あの男にも言われたのだ。
 土行孫の持つ宝貝は良い物だが、土行孫自身の実力がそれに追いついていない、と。
 ならば、まずは地力を付けなくてはいけない。
 今までは、相手が力押しで来ようと、それに対応した戦い方をすれば、少ない力でも倒せると考えていた。
 柔よく剛を制す。
 その考えは間違っていない。
 だが、あの男のような圧倒的な力を持った相手には、小細工など通用しないのだ。
 幾ら相手を罠に嵌めようと、容易く食い破られるのがオチである。

「それに……そっちこそ、あまり俺を舐めないで貰いたいね」

 土竜爪を発動させる。
 地面が盛り上がり、土行孫の身体に土が巻き付いていく。
 それが収まったときには、土行孫の全身は土の鎧に守られていた。

「土竜爪だけでも、俺は闘えるんだぜ?」

 怪力紐さえ付けていない今、土の鎧はとても重い。動きも大幅に制限されるだろう。
 だがそれがどうしたというのだ。
 この程度の重りを気にして闘えないのなら、強くなる事など夢のまた夢だ。
 今は重くとも、いずれはこの状態でも闘えるようになる。
 それが、土行孫が強くなるために立てた、今一番近い目標である。

「さ、始めようか?」

 土行孫の言葉に、天化は知らず、獰猛な笑みを浮かべていた。
 彼の中にある、武成王の血が騒ぐのだろうか。
 懐から莫邪ばくや宝剣ほうけんを取り出す。
 剣とは名ばかりの、柄だけのそれを起動させると、剣の柄から光が生まれる。
 光は棒状に伸びて行き、やがて剣と化した。

「へっ、面白くなって来たさ!」

 土行孫に向けて、天化は走り出した。






あとがき

天化口調が書きにくいなぁ……。

現在他の宝貝は修理中、もとい改造中です。
帰って来たときには、もう折られないように強度が上がっている事でしょう。

さて、次回はジェダイとの闘いです。
サブタイで修行しに行くとか書いておいて、また決闘です。
まあ実戦に勝る修行は無いという事で。

今度は土竜爪しか持っていないんで、次回は土竜爪と莫邪の宝剣の闘いになりますね。
オリ宝貝とか他の宝貝の出番とか考えなくていいので楽そうです。
何であんなに宝貝持たせようとしたのか、自分でも分かりません。

正直言って戦闘シーンは苦手なので、あまり期待しないで下さい。

あ、遂に二十万PV突破しました。
ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。



[12082] 第二十七話 土行孫、天化と闘う。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/15 16:42





 天化が土行孫に向けて、一直線に突っ込んでくる。
 いつもならばそれを遠くから迎撃する土行孫だが、今は土竜爪しかない。
 土竜爪で精密な作業を行えば、それは天化に隙を与える事になる。
 闘いに、こと接近戦に関しては、特に非凡な才を有する天化に対して、それは自殺行為というものだ。
 今回の修行の目的とも合致していない。
 だからこそ、土行孫は振り下ろされたその宝剣の刃を、土竜爪で受け止めた。

「ぐっ……!」

 頭上で交差された土竜爪に莫邪の宝剣の刃が当たって、金属が擦れ合うようなかん高い音が響く。
 体格で勝る天化の上からの体重の乗った振り下ろしに、土行孫が呻きを上げる。

「おらぁっ!」

「おっと……!」

 天化の足を潰そうと、天化の膝を狙って蹴りを繰り出す土行孫。
 だが天化はそれを軽々と避ける。

「ちっ……やっぱり無理か」

「へへっ、そう簡単に食らってやる訳にはいかねぇさ!」

 舌打ちする土行孫に対し、天化はカラカラと笑う。
 だが天化とは対照的に、土行孫の顔は暗い。

「まさか、ここまでとは……」

 土行孫の顔が暗いのは、天化の実力が高かったからではない。
 それは幾度となく闘っている事から、土行孫は理解していた。
 土行孫が理解していなかったのは、自分自身の事だ。
 たった一撃。
 たった一撃を受け止めただけで、自分がいかに宝貝に頼っていたのか、実感してしまったからである。
 怪力紐が無ければ、土行孫の体格では攻撃をまともに受け止める事さえ難しい。
 内旗門が無ければ、迫り来る相手に対しての恐怖が生まれる。
 土行孫では、まともにやれば勝ち目など無いのだという事に。
 そんな事、宝貝を手に入れる前は、十分に分かっていたというのに。
 自らの殻に籠もって、それを自分の物であると、さも当然のように宝貝を使用し、いつの間にか忘れていたのだ。
 自分の力は、宝貝の恩恵に与っているに過ぎない事を、土行孫は忘れていた。

「これじゃ、負けるのも当たり前だ」

 土行孫は歯噛みする。
 自分が負けたのは、相手が強かったからではない。
 勿論それもあるが、それ以上に自分が情けなかったからだ。

「ま、それが理解出来ただけでも、封印した甲斐はあったみたいだ」

 土行孫の身を守るのは、たった一つの宝貝のみ。
 だからこそ土竜爪を、最大限に使いこなせるように成らなければいけないのだ。
 力が無いからこそ、土行孫は宝貝に頼らざるを得ない。
 だがしかし、それだけでは駄目だ。
 宝貝で守りに入っているだけでは駄目なのだ。

「考えは纏まったさ?」

「ああ、悪かったな。待ってもらって」

 莫邪の宝剣を肩に担いだ天化が、土行孫に声を掛ける。
 律儀に待っていたようだ。

「別に……そんな時化た顔で闘われても、面白くないだけさ」

「そうだよな。やっぱり、やるなら楽しくしたいもんだ」

「当然」

 互いにニヤリと笑うと、今度は土行孫から攻撃を仕掛ける。
 宝貝で守りに入っているだけでは駄目だ。
 だから……前に進む。

「はあっ!」

 土竜爪を使い、足元の地面を爆発させた。
 鎧で動きが鈍っているものの、鎧のおかげで遠慮なく爆発の負担を無視出来る。
 その勢いで天化へと飛び、土竜爪を天化へと振りかざす。

「おおおっ!」

 知らず、土行孫の口からは声が漏れていた。
 その雄叫びに応えるかのように、天化も声を発する。

「はああっ!!」

 切り裂くように振るわれた土行孫の右の土竜爪を、天化は莫邪の宝剣で弾き返す。
 弾き飛ばされてバランスを崩した土行孫に向けて、天化は返す刀で切り掛かった。
 だが土行孫は、左の土竜爪の爪の先を天化に向けていた。
 土行孫が爪を射出する。

「いっ!?」

 天化は切り掛かるのを止め、宝剣の軌道を変えて爪を叩き落す。
 弾かれた爪が、その頬を掠めた。
 うっすらと浮かび上がる赤い線を気に留める事無く、天化は土行孫を見つめる。

「今のはちょっと、危なかったさ」

「あの近さで撃ったってのに、反応出来るなんて反則だろ」

 絶対当たったと思ったのに、と土行孫は歯噛みする。
 爪の一本でも当たれば、例え致命傷にはならずとも、動きを制限する事が出来たはずなのだ。
 辺りに散らばった土竜爪の爪を、天化は横目で見る。

「でも、爪が飛ばせるなんて聞いてないさ」

「言ってなかったからな。俺もほとんど使わねぇし、知らないのは当然だろ?」

 いつも土竜爪を使うときは、土を操る事を主眼に置いているため、それ自体を武器で使うことはあまり無かったのだ。

「でも、これで奥の手はもう使えないさ」

 爪を飛ばした以上、残っている土行孫の武器は、右腕の土竜爪のみ。
 それだけに気を付けていれば、天化が負けることは無い。
 だがそう言った天化の言葉に、土行孫はニヤリと笑う。

「それはどうかな?」

 土行孫は左手を掲げる。
 すると、今しがた弾き飛ばされた爪が宙に浮き、土行孫の下へと帰ってきた。
 元通りになった土竜爪を、天化に見せる。

「ほれ、この通りだ」

「……ずりぃさ」

「何とでも言え」

 恨めしそうに土竜爪を見遣る天化に、土行孫が言った。

「そんな簡単に負ける訳には行かないんだよ」

「……ま、この程度で終わったらこっちも困るから、別に良いさ」

 あっさり勝ってしまえば、前回の雪辱が果たせない。
 天化はそう考え、土行孫の行為を認めた。

「そんじゃ、もう一丁行くさ!」

 走り出した天化が、土行孫に向けて風のように素早く飛び込んで来る。
 土行孫は爪を再び天化へと向けて放つが、天化はそれを避け、避け切れない物は莫邪の宝剣で弾きながら真っ直ぐ突き進んで来る。
 再び天化が土行孫へ攻撃を仕掛けられる間合いへと入ったとき、天化の足が止まった。

「へ?」

 否、正確には止められた、と言うのが正しい。
 その足は柔らかい土に埋もれ、スピードを殺されていた。

「もらった!」

 地面を柔らかくして待ち構えていた土行孫が、天化に向けて土竜爪を突き出す。

「こなくそっ!」

 身体を捻り、真っ直ぐに突き出した土行孫の爪を避ける。
 だが近距離からの攻撃を避け切る事は出来ず、土竜爪の爪が天化のわき腹を掠めた。
 そのまま勢いを殺さないように逆らわず、天化は前転して土行孫の横を通り抜けた。

「はっ!!」

 後ろへと回った天化が、振り向きざまに土行孫の背中へ向けて切りつける。

「ぐあっ!?」

 しかし鎧が削れるばかりで、土行孫に攻撃は届かなかった。
 不安定な体勢から放たれた攻撃は、鎧を抜くまでには至らなかったようだ。

「ちっ、硬ぇさ!」

「そう簡単にやらせるかよ!」

 土行孫は振り向きざまに、裏拳で天化を殴りつける。
 天化はそれを腕で防ぎ、土行孫の脇腹を蹴り飛ばした。

「ぐうっ!」

 脇腹への攻撃に、土行孫は苦悶の表情を浮かべる。

「そっちがその気なら、やってやるさ!」

 その顔へ向けて、天化は肘打ちを叩き込む。
 たたらを踏んでよろける土行孫に向けて、天化が莫邪の宝剣を振るった。

「これで終わりさっ!」

「ぐっ……!」

 両手を顔の前に持ってきて、重要な部分を庇う土行孫。
 莫邪の宝剣は土行孫の腕に当たり、土の鎧を削り飛ばして土行孫の腕へと到達する。

「……まだだっ!」

 土行孫を護っていた土の鎧が、内側から爆発するように弾け飛び、天化に向けてぶち当たる。

「ぐあっ……!」

 至近距離から予想だにしていなかった攻撃を食らい、たまらず吹き飛ばされる天化。
 離れた天化に対して、土行孫は顔を顰め、愚痴を漏らした。

「痛ぇじゃねえか」

「それはこっちのセリフさ。まさかあの鎧が、攻撃用だったなんて思ってなかったさ……」

 互いに身体に傷を負っている。
 土行孫は両腕にダメージを負った。
 両腕からは血が流れており、ダランと下げた腕からどろりと流れ出る血は、土竜爪を赤く染めて地面に滴っている。
 土竜爪を振るう事に支障が出るのを危惧し、腕の鎧部分を薄くしていた事が仇となったようだ。
 だが土の鎧を纏っていたおかげで、両腕を切り飛ばされなかった事が唯一の救いだろう。

 一方天化は、土行孫のような大きな出血こそ無いものの、全身の至る所がヤスリを掛けられたように赤くなっている。
 咄嗟に判断して重要な部分は護ったものの、防ぎきれない面の攻撃を食らい、天化の身体もボロボロだった。

「もう一度、あの鎧を着せるつもりはねぇさ」

「やっぱり……待ってはくれないか」

 土行孫もそれは分かっていた。
 もう一度鎧を形成すれば、土行孫は先ほど以上に頑丈に作る。
 そうすれば護りに入った土行孫に対して、天化が攻撃を通すのは難しくなる。
 そんな余裕など、天化は与えてくれない。

「そろそろ、終わりにするか」

 この両腕では、先ほどのような斬り合いなど難しい。
 下手に動かし続ければ、腕が動かなくなる事も考えられる。
 天化の傷も、手当てをした方が良いだろう。
 これ以上の闘いは、互いに無駄な怪我が増えるだけで得になどならない。
 それは土行孫の本意ではない。
 土行孫が自分の両腕を見ている事に、天化は気付いた。

「へっ、慣れない接近戦なんか挑むから、そんな怪我するんさ。
 もぐらはもぐららしいやり方で、自分の闘いやすいように闘えば良いだけなのに」

「俺だって男だ。偶にはそういうのに憧れるんだよ。まあ天化の言うとおりだけどな」

 土行孫は土竜爪を掲げ、爪を自らの下へと呼び戻す。

「さっきも言ったとおり、終わりにするぞ。もう小細工は無しだ」

「今日は俺が勝つさ」

「ふん。このまま接近戦でもお前に勝って、連勝記録を作ってやる」

「そんな事、俺っちがさせないさ!」

 互いに睨み合い、宝貝を構える。
 そのまま対峙し、同時に走り出した。
 既に鎧を脱ぎ捨て身軽となった土行孫が、両腕の土竜爪を使い、天化へと切り掛かる。

「おおおおっ!!」

 対する天化も、土行孫の攻撃を避け続けたその足は、未だ健在だ。
 手に持った莫邪の宝剣を閃かせ、土行孫へと切り掛かる。

「はあああっ!!」

 二人の距離が縮まり、互いに攻撃が届く距離へと入った。
 だがしかし、互いの宝貝が相手に当たると思われたその瞬間、二人の間に人影が入って来た。

「はい、そこまで!」

「何……?」

師父コーチ!?」

 二人の間に割り込んできたのは、道徳真君だった。
 両手に莫邪の宝剣の改良版と思われる宝貝を持ち、二人の攻撃を受け止めていたのだ。

「師父、邪魔しないで欲しいさ!」

「そうですよ道徳真君様!」

 天化と土行孫が抗議の声を上げる。
 道徳真君は静かに瞑目し、両手の宝剣を下げる。

「二人の邪魔をしたのは悪いと思っている。僕も出来れば邪魔なんてしたくは無かった。
 でも敢えて言おう。二人とも、宝貝を下げてくれ。今はそんな時じゃないんだ」

 道徳真君の真面目な声色に、二人は何事かと思い宝貝を下ろした。

「……ありがとう」

「そんな事より、何かあったんですか?」

 礼を言う道徳真君に、土行孫が尋ねる。

「ああ、そうだね。天化」

「何さ、師父?」

 呼び掛けられた天化が、道徳真君に尋ね返す。

「君の母上と伯母上の事だが……」

「おふくろとおばさんがどうかしたさ?」

「……亡くなられたそうだ」

「なっ!?」

 天化が目を見開く。
 その手から莫邪の宝剣が滑り落ちた。

「何で……何でさっ!? 何でおふくろとおばさんが……」

 天化が道徳真君の胸倉を掴み、問い質す。
 道徳真君はなすがまま、

「元始天尊様が千里眼で見た限りでは、妲己の策略で殺されたらしい。それ以上の詳しい事は、私には分からない」

「そん、な……」

 天化は地面にへたり込む。

「立ちなさい、天化。辛い事だとは分かっている。でも、まだ続きがあるんだ」

「続き……?」

「ああ」

 顔を上げた天化に、道徳真君は頷いた。

「君のお母上達が亡くなられた事が原因で、君の父上は一族を連れて殷を離れた」

「……」

 静かに見ていた土行孫だったが、天化の顔はとても酷いものだった。
 家族が亡くなったと聞かされ、一族が誇りとしていた殷を離れたのだ。
 その衝撃は、とても抑えられるものではない。
 土行孫と闘っていたときの活力が、今の天化の顔には全く感じられなかった。

「畜生……」

 呟く天化に、道徳真君が言葉を続ける。

「殷を出た君の一族は、西岐へと向かっている。
 でも君も知っている聞仲と、妲己が素直にそれを許しはしない。
 必ず追っ手を差し向けてくる。
 西岐には今太公望が居るけど、西岐からじゃ遠すぎるんだ。
 だから……」

「俺っちが行くさ!」

 立ち上がった天化が、莫邪の宝剣を拾い上げる。

「これ以上、俺っちの家族に、誰も手出しはさせねぇさ!!」

 天化の言葉に、道徳真君は頷いた

「そう言ってくれると思っていたよ。僕達十二仙が動く訳にはいかないから、君が適任なんだ」

「分かったさ」

 そこに、黙っていた土行孫が、天化へ声を掛ける。

「なあ天化、俺も一緒に行こうか?」

 一人では心配だという感情が、土行孫の顔に浮かんでいた。
 だが天化は首を横に振る。

「これは俺っちの問題さ。だから俺っちが行く。それに……怪我人を連れて行ったところで、足手纏いさ」

「……分かるか?」

「あれだけ痛がってれば当然さ」

「……上手く隠したつもりだったんだけどな……」

 土行孫が脇腹を押さえる。
 それは謎の男によって、回し蹴りを食らった所だ。
 骨は接いだものの、未だ土行孫の身体は完治してはいない。
 そして、先ほど天化に、再び蹴りを入れられた所でもある。
 いつもよりも傷の直りが遅く、両腕の傷よりもこちらの方が遥かに重症だ。
 あの男に何かやられたのかもしれない。
 今では失われた仙術を使いこなす男だ。
 足から術を放ててもおかしくは無い。

「今日の所は俺っちに任せて、怪我人は大人しくしてるさ」

「……仕方ないな。そうさせてもらうよ」

 土行孫が溜め息を吐く。

「うしっ! それじゃ、早速行って来るさ」

「ああ、天化」

「ん? 何さ師父」

 振り向いた天化に、道徳真君は小さな箱を投げ渡した。

「血止めの薬だ。土行孫程ではないとはいえ、君も怪我してるだろう? 
 行きながらでいいから、それを塗っておきなさい」

「ん……サンキュ、師父」

 天化は小箱を懐にしまう。
 そして歩き出したが、数歩歩いたところで立ち止まり、振り返って土行孫を見る。

「そうだもぐら。今日のところは引き分けだったけど、今度こそ俺っちが勝つかんね!」

「ばーか。それはこっちのセリフだよ」

 互いに軽く笑い合った後、天化は走り出した。
 土行孫はそれを見送る。
 その肩に、道徳真君が手を置いた。

「土行孫。君もいずれ、人間界に行くつもりなんだろう?」

「……ええ」

 道徳真君の言うとおり、土行孫は既に人間界へ降りる決意を固めていた。

「じゃあまずは、天化の言うとおり、身体を癒さないとね。
 そんな身体で無茶しても、良い事は何も無い。
 鍛えるのはそれからだよ」

「……はい」

 土行孫は頷いた。
 強くならなければならない。
 土行孫には、その理由が生まれたのだから。







あとがき

今回の模擬戦はお流れになりました。
まあ実際、それどころじゃないんですよ。
これから天化は聞仲にボコられに行く訳ですが、土行孫は怪我のためお休みです。

実は土の鎧を纏ったのは、キャストオフがやりたかっただけだったり(カブトは見ました)。




[12082] 第二十八話 土行孫、決意をする。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 23:17





 日が中天へと差し掛かる頃、竜吉公主に会いに、土行孫は鳳凰山へと赴いた。

「公主、ちょっと良いか?」

「おお、おぬしか」

 土行孫の姿を目に留めた竜吉公主は、土行孫を手招きして近くに来るよう呼ぶ。
 招かれるがままに近寄る土行孫だったが、いつものように座らず、立ったままだった。
 柔らかな笑みを浮かべていた竜吉公主だったが、土行孫の目に深刻そうな感情がある事に気付いた。

「……して、何かあったのか? その顔からして、私に何か話があるようじゃが……」

「ああ……」

 土行孫は頷いた。

「単刀直入に言おう。俺は……人間界に降りようと思う」

「なに?」

 竜吉公主の眉がピクリと上がる。

「……それは真か?」

「ああ。もう決めたんだ」

「……そうか」

 竜吉公主は僅かに思案する。

「訳を聞いてもよいか?」

「ああ……」

 土行孫は静かに目を閉じると、吐き出すように言った。

「……師叔達を助けるために、人間界に降りて行った楊戩とナタクが、この間帰って来たんだ」

「楊戩はあの天才道士として……ナタクはおぬしの弟分だったな。それがどうした?」

「ボロボロにやられてたよ」

 太乙真人の所を訪れた土行孫は、ナタクの片腕が吹き飛んでいたのを見てしまった。
 土行孫は楊戩には会っていないが、おそらく疲労が溜まっている事だろう。
 土行孫が認める二人が負けたのだ。
 太乙真人はその場面を見ていたらしい。

「幸い、ナタクは蓮の花の化身だから、腕や足が無くなっても元通りになるらしいけど」

 その事が土行孫にとって、唯一安心できる事であった。
 それを為した相手を、竜吉公主は訪ねた。

「……相手は?」

聞仲ぶんちゅうだそうだ」

「聞仲……聞いた事がある。禁鞭きんべんを持つ、殷の太師だったか?」

 土行孫は頷いた。

「そうだよ。知ってるのか?」

「これでも、それなりに長く生きておるからの」

「そうか」

 聞仲とは、崑崙とは対を為すもう一つの仙人界、金鰲島きんごうとうで修行をした仙人だ。
 禁鞭という名のスーパー宝貝を持っている。
 そして、殷に仕える太師であった。

「太乙真人様から聞いた話だと、その聞仲が一人で師叔達を倒したらしい」

 太公望の実力は、土行孫にはよく分からない。
 だが、後の楊戩、ナタク、天化の三人は、土行孫が自分以上だと認める程の実力を兼ね備えている。
 そんな彼らが束になっても、聞仲一人に敵わなかったのだ。
 土行孫が深刻な表情を浮かべるのも道理だろう。

「今西岐には、仙道は師叔と天化しかいない。
 あまり長い間、二人だけっていうのも、危ないと思う。
 聞仲レベルの仙人が攻めて来る事は早々ないだろうけど、それでも心配なんだ」

「だから、おぬしも人間界に行く、と?」

「そうだ。俺が行っても、大して役には立てないかもしれない。
 でも、ただ待ってるだけなんてのは、俺は嫌なんだよ」

「……ただ待っているだけは嫌、か」

 竜吉公主は目を細める。

「私にそれを言うとは、おぬしも酷い男じゃのう」

「あ……」

 土行孫は絶句する。
 身体が弱く、待つ事が常の竜吉公主に、そんな事を言うのは駄目だと気付いたのだ。

「悪い。そんなつもりじゃ……」

「よい、分かっておる」

 竜吉公主は軽く頭を振り、土行孫の言葉を制止する。

「おぬしがわざと言っておるかどうかなど、私にはすぐに分かるよ」

 だから謝る必要は無い、と。
 竜吉公主はそう言った。

「でもよ……」

「悪く思っておるのなら、もう少しこちらへ来てくれぬか?
 人間界に降りるというのなら、こうして顔を合わせて事もしばらく無いであろうからの。
 その前に、良く顔を見せておくれ」

「……分かった」

 土行孫は立ち上がり、数歩歩いて竜吉公主へと近づく。
 顔を合わせて話をするには、少し遠い距離。
 それだけの距離を、土行孫が詰める。
 座っている竜吉公主に、土行孫が尋ねる。

「これで良いか?」

「まだじゃ。もう少し……」

 竜吉公主は左手を伸ばして土行孫を招く。
 もう一歩近寄った土行孫の頬に、竜吉公主の白魚のような指が触れた。
 ひんやりとした指が、土行孫の顔をなぞる。

「お、おい……?」

 手を払いのける事も出来ず、土行孫は突っ立ったままだった。
 静かに顔に触れていた竜吉公主は、もう片方の手を伸ばす。
 そして土行孫の頭に手を当てると、両手で土行孫を引き寄せた。

「え、ちょ、しまっ、罠かっ!?」

「人聞きの悪い事を言うでないわ」

 土行孫の頭を胸に抱えた竜吉公主が、土行孫の髪を指で梳きながら言った。

「これ、暴れるでない」

「暴れるに決まってるだろうがっ!」

 竜吉公主が抑えようとするが、土行孫は離れようとしてバタバタと足を動かす。
 本気で抵抗すれば、竜吉公主を引き剥がす事など造作も無い。
 だがしかし、土行孫がそんな事をすれば、竜吉公主を傷つけてしまう。
 竜吉公主を傷つけないで済む力加減を分かっていなかった土行孫。
 結局彼は、身体を反転させて、竜吉公主に背を向ける事しか出来なかった。

「ふむ……まあ良いか」

「良くは無いんだけどなぁ……」

 竜吉公主は土行孫の身体に腕を回し、ぬいぐるみのように土行孫を抱えた。
 無理に引き剥がすのは難しいか、と土行孫は判断し、抜け出す事を諦める。
 もし無理に引き剥がしたりしたら、竜吉公主が悲しみそうで、土行孫にはそれが出来なかった。

「のう、土行孫」

「……何だよ」

 耳に掛かる竜吉公主の声に、くすぐったい思いを感じながら、土行孫は聞き返した。

「友とは良いものだ。そうは思わぬか?」

「何だよ、急に……」

「なに、ふと思っただけだ」

「そうか」

 竜吉公主は腕に力を込める。

「思えば、私に友と呼べる者は、僅かしか居ない」

「……」

 友達が少ないと言われ、どう返せば良いのか分からず、土行孫は口を噤む。

「数えれば、片手で足りる程であろうな」

「いやでも、碧雲や赤雲がいるじゃないか。友達が少なくても別に……」

「そうではない」

「え?」

 振り返った土行孫に、竜吉公主は頭を振って応えた。

「あやつらは弟子じゃ。故に、師匠である私は、あやつらの前では師匠でいなければならない。
 他でもそうじゃ。私は『純血の仙女』であり、『崑崙最強』でもある。
 だからこそ、周りはそれに応じた対応をする。否、しなければならない」

「……ああ、そうだな」

 竜吉公主は0.000000003%の確率でしか生まれない、純血の仙女である。
 貴重な存在である以上、周りはその扱いに慎重にならざるを得ない。
 その力は強大であり、崑崙最強という羨望を受ける。
 おまけに、病弱で滅多に姿を見ることの無い有様から、神格化している者も居る。
 そんな中で竜吉公主は、不様な様を晒す訳にはいかないのだ。
 もしそのような事があれば、弟子達にそれが飛び火する可能性もあるのだから。

「おぬしも、最初はガチガチに緊張しておったのう」

「そりゃそうだろ。有名な竜吉公主様が近くに居るんだぜ? 緊張しない方がどうかしてる。
 だいたい、俺が巻き起こした塵を吸い込んで、公主が倒れるだなんて思わなかったしさ」

「あの時は丁度、風が吹いておったからの。水の膜も張ってはおらんかったし」

 いくら身体が弱くとも、全く動けない訳ではない。
 だから竜吉公主は、偶に一人で外へ出ていた。
 二人が出会ったのは、そんなある日である。

 その日、竜吉公主は弟子も連れず、一人で外を出歩いていた。
 当ても無く飛び、仙人界の端の方まで来ていた竜吉公主は、疲れたのか空に浮かぶ岩に腰掛けていた。
 丁度心地の好い風が吹いていて、時折道士らしき人影が遠くを飛んでいるのを見かけた。
 それは良くある光景。
 なんでもない普通の一日。
 だが偶にしか外へ出られない身として、竜吉公主にはそれがとても新鮮だった。
 だから、少し気が向いたのだ。
 常時張り巡らせている薄い水の膜を解除しようと思ったのは、そんなちょっとした気まぐれだった。
 それを解除する事で、この心地好い風に自らの身を晒してみたいと思ったのだ。

 そして水の膜を解除した丁度そのとき、辺りを轟音が包み込んだ。
 竜吉公主の視界の外に居た土行孫が、修行のために岩壁を破壊したのである。
 舞い上がった塵や砂煙を、竜吉公主はまともに吸い込んでしまった。
 崑崙最強と言われていても、戦いに慣れている訳ではない。
 咄嗟に水の膜を張る事も出来ず、竜吉公主は咳き込んで倒れてしまった。

「俺のせいで公主が倒れたんだからな。あの時は殺されるかと思ったよ」

「失礼な。私はそのような見境の無い行為はせぬ」

「でも、最初に会ったときは、そんな事分からないしなぁ……」

 仙人界の端で修行していた土行孫は、誰も来ないような所に人が居るとは思っていなかった。
 だから見知らぬ美女が、いきなり咳き込んで倒れるのを、ぼうっと見ている事しか出来なかったのだ。
 慌てて介抱するために自分の家に運んだが、竜吉公主が起きて、その名前を聞いたときは背筋が凍ったものだ。

「……こうして思い返してみると、出会いは最悪だな。被害者と加害者だし」

「おまけにおぬしは、気絶した女を自分の家に連れ帰った男じゃな」

「止めてくれ……」

 土行孫は沈む。

「あの時は気が動転してたんだよ」

「分かっておるさ。土下座して謝るおぬしに、その気が無かった事くらい」

「分かってるなら、蒸し返さないで欲しいなぁ」

「何を言う。今となっては、良い思い出ではないか」

 土行孫としては、忘れたい思い出だ。
 だが竜吉公主にとってはそうではない。
 これは土行孫が、まだ過去の事で感傷に浸れるほど、年輪を積み重ねていないという事だろう。

「のう、土行孫」

「何だ?」

「以前私は、この病弱な身体に生まれた事を恨んだ、と言っておったな」

「……ああ」

「じゃが、今は寧ろ感謝しておる」

「どうしてだ?」

「私の身体が弱くなければ、私は今とは違う生を歩んでおったはず。
 私がおぬしと出会う事も無かったであろう。
 否、例え出会っていたとしても、こうして友となる事は無かったに違いない」

「……まあ、そうだろうな」

 竜吉公主の身体が弱かったから。
 偶々、外へ出ようとしていたから。
 偶々、遠くへと出掛けたから。
 偶々、水の膜を解除したから。
 積み重なったその偶然が、土行孫と竜吉公主を出会わせた。
 もし竜吉公主の言うとおり、彼女の身体が丈夫であれば、そのような事は起こり得なかった。
 外へ出ようとも、遠くまで行く事は無かっただろう。
 土行孫が塵を巻き上げようと、竜吉公主には何の影響も及ぼす事は無かった。
 土行孫が竜吉公主と出会ったところで、身分の違いから友人となる事は無かったに違いない。

「あれから何かと色々あったが、おぬしとは友になれた。
 私の我が侭ではあったが、おぬしは私と対等の関係で居てくれると言った。
 そんな、気の置けない相手が出来た事に、私は感謝しておる」

 竜吉公主もまた、対等に話せる相手を欲していた。
 何の肩書きもない、ただの竜吉公主として話せる相手を。
 だが上下の関係は、基本的にきっちりしている。
 ナタクのような例外はあれど、基本下の者は上の者に絶対服従である。
 そして、弟子である碧雲や赤雲では、竜吉公主と対等になる事が出来ない。
 だから、出会いは偶然とはいえ、ただの一道士であった土行孫が、竜吉公主と友人となれたのだ。
 それとは少し異なる考えを持っている土行孫だからこそ、竜吉公主と友人になれたのかもしれない。

「碧雲が行方不明になったとき、おぬしが言ってくれた言葉で、どれほど安心出来たことか。
 信頼しておる友の声が、あれほど心強いと感じた事は無い」

「……」

 土行孫は頬を掻く。
 その顔は僅かに赤みを帯びていた。
 幸い、竜吉公主に背を向けているので、それを見られる事は無かった。

「……ん? ちょっと待て」

「何じゃ?」

 竜吉公主の話を聞いていた土行孫が、疑問を浮かべる。

「水の膜なんて、俺は見た事無いんだけど」

 竜吉公主の周りに、常に水の膜が張り巡らされているというのなら、こうして二人が密着している事も無いはずだ。
 しかし、現に土行孫は、竜吉公主の指が顔に触れるのを感じていた。
 だが疑問を浮かべた土行孫に対して、竜吉公主はあっけらかんとして言った。

「当然じゃな。おぬしと会うとき、水の膜は解除してある」

「……は?」

 土行孫の目が丸くなる。

「何でだよ。あんな事があったんだから、尚更気を付けるべきだろう?」

「私がおぬしと会うときは、おぬしが大気中の塵を集めておるではないか。
 だから私は、おぬしの傍に居れば、澄んだ空気を吸う事が出来る。
 おぬしとて、それが分かっておるから、いつもそうしておるのであろう?」

「それは俺にも出来る事が無いかって探しただけだよ。
 水の膜で予防出来るなら、そっちの方が良いに決まってる」

 竜吉公主が再び塵や砂を吸ってしまわないよう、土行孫はそれを集めていた。
 物珍しげな竜吉公主が欲しがったので、土行孫があげた泥団子もその一つである。
 最初は上手くいかず、塵が飛んでいかないように、湿った土で周りを包んでいたのだ。

「……のう、土行孫」

 土行孫に回している腕に、竜吉公主はギュッと力を込める。

「死ぬなよ。私はまだ、友を失いとうはない」

「……ああ、分かってる」

 土行孫はその腕に、自らの手を添えた。

「俺だって、死にたくて人間界へ行く訳じゃないんだから」

 二人の間にしんみりとした空気が流れたとき、浄室の中に木を叩く音が響いた。


 コンコンッ


「失礼します」

 ノックした戸を開けて、入ってきた赤雲が竜吉公主に尋ねる。

「公主様、今日の献立はいかがいたし……ましょう……か……」

 だが顔を上げた赤雲のその声は、段々と尻すぼみになっていった。
 見開かれた目は、土行孫を後ろから竜吉公主が抱きしめている姿を捉えている。

「……失礼しました」

「あ、おいっ!」

 呼び止めようとした土行孫だったが、赤雲は素早く出て行った。

「……どうすんだよ、この状況」

「見たままであろう?」

「いや、間違ってはいないと思うけど、どこか間違っているような……」

 手を引っ張って、拘束から抜け出した土行孫。

「そうだ、俺達は友達だろう? だから状況的に考えられる事があったとしても、それは間違いなんだって」

 首を横に振って否定する土行孫。

「……じゃが噂は、すぐに広まるであろうな。
 少なくともこの鳳凰山の中には、今日中に広まるであろう。
 そうなれば、もう噂を消すのは難しいぞ」

「う……」

「人の噂も七十五年と言うしの」

「長すぎるぞっ!?」

「何を言う。あっという間ではないか」

 千年を超える仙道の感覚からすれば、確かに七十五年は短いかもしれない。
 だが未だ百年も生きていない土行孫には、そうは感じられなかった。
 竜吉公主は小さく口元に笑みを浮かべる。

「まあ良いではないか。しばらく経てば、噂も消える。
 ……もしかしたら、消えぬかもしれぬがな。
 そうなれば、私を貰ってくれる相手がいなくなるか」

「おいおい、勘弁してくれよ。そんな事になったら、俺は公主にどう謝罪すれば良いんだ……」

「なに、いざとなれば、おぬしが私を嫁に貰えばよい」

「そんな簡単に言うなよ……」

 軽い口調で竜吉公主は言うが、対照的に土行孫はげんなりとした声で返した。

「俺じゃなくても、もっと良い奴は居るだろうに。
 だいたい、俺の見た目は子供だぞ?
 そんな男と結婚するだなんて、何処の物好きだ」

「此処に居るではないか。おぬしの友である私が」

「はいはい。確かにそうだな」

 わざわざ土行孫と友になっている竜吉公主は、確かに物好きだろう。
 あるいは、箱入りなのだから、土行孫とは少し感覚がずれているのかもしれない。

「美人の公主なら、相手なんて選び放題だと思うけど、もし万が一そうなったときは俺が責任取るよ」

「うむ。それで良い」

 竜吉公主の顔に、してやったりといった笑みが浮かぶ。
 またからかわれたのだな、と土行孫は思った。
 土行孫にとって、竜吉公主は近くに居て安心出来る存在である。
 だがしかし、時折土行孫が凄く疲れる事を言うのが偶に傷だ。

「……早く降りよう」

 今頃、姿の見えなくなった赤雲によって、噂が広がり始めているはずだ。
 それが鳳凰山を覆い尽くす前に、人間界に行こうと土行孫は決意した。







あとがき

人間界に降りると、しばらく公主は出てこないので、その前にスーパー竜吉公主タイム。
これだけ話しておけば、また登場したとき、忘れられているなんて事は無いでしょう。



さて、DOKOUSONが何処に顔を埋めたか……分かるな?
存分にもげろと言えば良いと思うよ。
畜生……なんでこいつだけ、こんなに良い思いをしやがるんだよ畜生……。



次回は人間界に降りる前に、高貴な家柄のあの人が出ると思います。




もげろ。



[12082] 第二十九話 土行孫、不憫な原作キャラと出会う。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/11/08 20:24




 土行孫が外へ出る頃には、噂は既に広まっていたらしい。
 恐るべきは女性の情報網の伝達の速さか。
 門を出るときに、門番から寂しそうな目で見送られた事が土行孫に打撃を与えた。

「公主とはそんな関係じゃないんだけどなぁ……」

 愚痴をこぼすものの、土行孫以外にその場にはおらず、その言い訳を聞いてくれる者は誰も居なかった。
 土行孫は竜吉公主を嫌っている訳ではない。
 嫌っているのであれば、わざわざ会いに行くなどしない。
 例え出会った所で、当たり障りのない琴を言って逃げれば良いだけの話だ。
 それをしないのは、土行孫としても竜吉公主の事は憎からず思っているからだ。
 だが土行孫は、竜吉公主が言っていたような事にはならないだろう、と思っている。

「だって公主、笑ってたもんなぁ……」

 本当にそういう話をするのであれば、もう少し真面目な顔で話すのではないか?
 土行孫はそう思っているからこそ、竜吉公主の話を冗談だと捉えているのだ。
 尤も、あれは手付けであり実際の告白は別に取ってある、という事も考えられる。
 それまで周りを寄せ付けないための牽制だ、というのであれば竜吉公主の言葉も信憑性を帯びて来る。

「まあ……流石にそこまではしないだろ……」

 土行孫は軽く考え、その考えを切り捨てた。
 土行孫自身、竜吉公主の言葉は冗談だと思っている。
 それならば仮定の話をして、余計に疲労を溜めるのは止めた方が良いと考えたからだ。

 そのままテクテクと風に当たりながら歩いていると、土行孫を呼ぶ声がした。
 俯いて考え事をしていた土行孫が顔を上げると、バサバサと翼を羽ばたかせている白鶴童子の姿があった。
 腰に何やら白い物を身に着けている。

「土行孫、ここに居ましたか」

「白鶴か。どうしたんだ?」

「人間界に降りるそうですね」

「良く知ってるな」

「元始天尊様が言っていましたから」

「ふぅん……」

 千里眼を持つ元始天尊ならば、土行孫が人間界に降りるのも知っているだろう。
 最近は降りるための準備で、あちらこちらを歩いていたのだし。
 部屋の掃除もしていたので、慌しかっただろう。
 師匠の懼留孫に、うるさくて眠れないと頭を殴られたのは余談である。

「あなたに用事があったんですけど、元始天尊様が見失いまして」

「……見失った?」

「はい」

 土行孫は眉を顰める。
 千里眼を持つ元始天尊が、姿を見失うのはおかしいのではないか、と気になったからだ。
 姿を消す事の出来る内旗門を発動していれば、土行孫を見失う事も起こり得るだろう。
 しかし、ここ数日、土行孫は内旗門を使用していない。
 ならば、尚更おかしいのでは? と疑問が浮かぶ。

「土行孫、千里眼の届かない何処かに、今まで隠れてたんじゃないんですか?」

「いや、そんなつもりは……」

 だが土行孫が否定しようとしたとき、一つだけその可能性に気付いた。

「……あそこか?」

 土行孫が気になったのは、鳳凰山である。
 竜吉公主の住まう山は、とても警備が厳重だ。
 女性ばかりが住んでいるのだから、それは当然だろう。
 ならば、千里眼が届かないように何か仕掛けでもあるのかもしれない。
 覗きのための能力など、真っ先に警戒するべき対象なのだから。

「……まあいいや。それで? 俺に用事って何だ?」

「ああそうでした。これをどうぞ」

 そう言って白鶴童子は、腰に着けていた白い布に包まれた物を渡す。
 受け取った物を見て、土行孫が眉を顰める。

「何だこれ」

「宝貝です。元始天尊様が、土行孫に渡せと」

「宝貝?」

 布を解いてみると、それは確かに宝貝であった。

「元始天尊様とはあまり話した事が無いんだけど……何で俺に渡すんだ?」

「丁度人間界に降りるので、どうせだから土行孫にあげようって事になったんですよ。
 元始天尊様はもう使わないらしいので、使う機会があるかもしれない者が使った方が良いですから」

「そうか……」

 土行孫はその宝貝を見つめる。

「俺じゃなくても、ナタクとかの方が、火力があって良いと思うんだけどな……」

「私もそう言ったんですけどね。ナタクは既に新しい宝貝を幾つか入手していますから」

「何? 新しいの手に入れたのか?」

「はい。ちなみに、その一つは九竜神火罩です」

「……あいつ、もしかして強奪したのか?」

 太乙真人が九竜神火罩を手放すとも思えないので、おそらくそれが真実だろう。

「まあそういう事なら仕方ないか。俺は引き寄せられるけど、あいつはずっと身に付けてなきゃいけないからな」

 触れているだけで力を抜かれる宝貝を、ナタクは常時身に付けていなければならない。
 それに対して、香火遁の術で宝貝を引き寄せられる土行孫は、ナタクに比べて疲労が低い。
 あまり多く持っても手が塞がるだけでしかない以上、元始天尊がナタクより土行孫に宝貝を与えたのは妥当だろう。
 丁度良かったという事だから、本当に大した意味は無いのだろう。

「それじゃ、ありがたく貰っておくよ。元始天尊様にお礼を言っておいてくれ」

「分かりました」

 土行孫が宝貝を懐にしまう。
 するとその時、近くで雷鳴が轟いた。
 二人同時に、その音の方角へと目を向ける。

「雷? 申公豹か?」

「いいえ、あちらは終南山です。おそらく別人ですね」

「終南山……ああ、『変人』の所か」

 土行孫はその名前に、なるほどと納得する。
 おそらく、また変な実験でもしていたのだろう。

「別人か……まあそうだろうな。雷公鞭にしちゃ、威力がしょぼかったし」

 今の雷は、音は凄かったものの、それだけだ。
 土行孫が以前、間近で見たあの雷公鞭から感じた畏怖。
 あれの前では自分は何と無力なのか、と思い知らされるような、そんな圧力を土行孫は雷公鞭から感じた。
 それに比べれば、今の雷など恐ろしくも何とも無い。

「でも、ちょっと気になるな。人間界に降りる前に調べていくか」

「私も行きましょう。足に掴まって下さい」

「ああ、ありがとう」

 そう言って土行孫は白鶴童子の足を掴み、終南山へと向かった。






 終南山へと降り立った土行孫たちは、中へと進む。
 先ほどの雷の影響か、帯電している物がパチパチと音を発していた。

「いったい誰だ? こんなのするなんて」

「雷震子ですよ」

「誰だ?」

 会ったことの無い名前に、土行孫は首を傾げる。

「天騒翼を持っていますから、これもそれの影響でしょうね」

「天騒翼って……ああ、あいつか」

 土行孫は楊戩と決闘した時に、風を起こしていた男を思い出した。

「そういえばあいつには会ってなかったな」

「珍しいですね。それなりに顔の広い土行孫が知らないなんて」

「俺は十二仙に会いに行って、偶然知り合いが増えただけだからな。白鶴より知り合いは少ないよ」

「そうですか」

 奥へと進むと、二人の男が居た。
 身体から煙を発して倒れている男と、激昂してそれを踏みつけている男が居た。

「おいっ! ふざけんじゃねぇぞ!」

 倒れている男をグリグリと踏みつけている男は、浅黒い肌で背中から黒く大きな翼を生やしていた。

「……どういう状況だ?」

「とりあえず、止めましょうか。このままだと、雲中子が封神されます」

「あ、ああ。そうだな」

 白鶴童子の言葉に従い、土行孫は羽男を後ろから羽交い絞めにする。

「おい、止めろって」

「ああん? 何だテメェは!?」

 そこで男は初めて、土行孫の存在を認識した。
 振り向いた男のその口から、鋭い牙が覗く。
 今にも噛み付きそうな顔つきで、男は叫んだ。

「この雷震子様の邪魔をすんじゃねえっ!」

「いや、何があったのか知らないけど、それ以上やるとまずいって。
 ほら、そっちのそいつもボロボロだし、ここら辺で収めるとしようぜ」

「……チッ、分かったよ」

 雷震子と名乗った男も、流石に本気で殺す気は無かったようだ。
 広げていた羽を収めた雷震子を見て、土行孫は手を放す。
 部屋の隅に置かれた寝台に、雷震子はどっかりと座り込んだ。
 土行孫は白鶴童子へと声を掛ける。

「白鶴、そっちの様子はどうだ?」

「……それがですねぇ……」

 雲中子の様子を見ていた白鶴童子が、言い辛そうに土行孫に返す。
 手遅れだったのか、と土行孫が焦る。
 雲中子へと視線を向けると、土行孫の目が見開かれる。

「は、はははは、実験は成功だ……これで研究も捗る……」

 倒れている雲中子は、空ろな目をして笑っていた。

「おい白鶴、大丈夫なのか?」

「彼は元からこんな感じですよ」

「マジかよ……」

 自分が怪我しても研究の方が重要、という所が変人と呼ばれる由縁だろうか。
 分野が違うものの、どこか太乙真人に通じるものがあると土行孫は思った。

「分かったろ? そいつはそんな奴なんだよ」

 土行孫の後ろから、雷震子が声を掛ける。

「さっきだって寝ていたオレ様に、変な物を飲ませやがったんだからな。
 お陰で起きた時には、羽がでっかくなってやがった」

「変な物?」

 土行孫が辺りを見回してみると、割れたビーカーに緑色の液体が入っているのを見つけた。
 先ほどの雷で割れたようだが、まだ少し中身が残っていた。

「これか……」

 ビーカーを手に取ってみる。
 一見青汁のように見えなくもないが、実験がどうとか言っていたのだから、やはり中身は別物なのだろう。
 一滴地面に垂らしてみる土行孫。
 液体は驚くほどにヌトッとしており、一滴垂らすところが、一気に半分ほどドロリと流れ落ちてしまった。
 粘液といった方が相応しいのではないか、と土行孫は思った。

「……確かにこれを飲まされたりしたら、怒りたくもなるか……」

 雷震子が怒るのは当然か、と土行孫は納得する。

「……で? 人ん家に勝手に上がり込んで来たテメェは、いったい誰だよ?」

「ああ、悪かったな」

 土行孫は自分が名乗っていなかった事を思い出した。

「俺は土行孫だよ。さっきここに雷が落ちたから、気になって見に来たんだ」

「ハッ、野次馬か」

「まあそうだな。その通りだ」

 頷いた土行孫に、雷震子は興味を無くしたように顔を背ける。

「ならもう良いだろ。とっとと出て行け」

「分かった。俺も西岐に行かなくちゃいけないからな。直ぐに出て行くよ」

「何?」

 西岐という単語に、雷震子がピクリと反応する。

「おいテメェ、西岐にいったい何しに行くつもりだ?」

 低い声で脅すように土行孫に問う雷震子。
 土行孫は眉を顰めながらも、正直に話す。

「太公望師叔たちの手伝いだよ。西岐は今ゴタゴタしてるみたいだし、仙道がいつ責めてくるか分からないからな」

「何だって!? どうして西岐が仙人に狙われるんだよ!?」

「……姫昌が邪魔だからじゃないか?」

 太公望たちは、西伯侯の姫昌を王として、殷を倒すために動いている。
 ならば、その旗印である姫昌が、殷にとっては邪魔でしかない。
 それを言ったが、雷震子は別の感想を抱いたようだ。

「親父が……?」

「……親父? 姫昌はお前の父親なのか?」

 尋ねる土行孫に、雷震子は苛立ちながら返す。

「ああそうだよ! オレ様は姫昌の百人目の子供だ」

「そうか……」

「こうしちゃいられねぇ! 親父を助けるために修行してたんだ。早く親父に会いに行かねぇと……」

 バサッと羽を広げる雷震子に、横から声が掛かった。

「行くなら早めの方が良いですよ」

「ん? 白鶴、何か知ってるのか?」

「はい」

 何かを知っている白鶴童子に、土行孫が尋ねた。

「神鷹から聞いた情報ですけどね。どうやら姫昌は、もう長くないようです」

「なっ!?」

 今にも飛び去ろうとしていた雷震子が、白鶴童子の言葉に目を見開いた。

「何だって……親父が……?」

 その顔には、焦りと困惑が滲んでいた。






あとがき

はい、今回は雷震子登場です。
まあ予告もしていましたし、予想出来た展開でしょうね。

魔家四将編はどうやら長くなりそうです。
魔家四将を倒すところまでプロットを立ててみたら、終わるのは第四十話ぐらいになりそうです。
もっと一話に詰め込んだ方が良いでしょうか?
それと、人間界に降りることで、他のキャラの活躍も書かなければいけないので、原作と被る事もあります。
ご了承下さい。


次回は「老賢人に幕は降り」です。
予定ではあの人メインで話を書くつもりです。




[12082] 第三十話 老賢人に幕は降り
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 23:25




 今、一人の老人の命の灯火が消えようとしている。
 寝台に横たわった彼は、静かにその時を待っていた。
 その時、彼の名を呼ぶ者がいた。

姫昌きしょう……」

「……おお……太公望殿か……」

 姫昌と呼ばれた彼が、静かに目を開ける。
 姫昌の名を呼んだその人物は、太公望だった。

「後のことは任せよ。おぬしはゆっくりと休め」

「……ありがたい」

 ぼんやりとした目で、姫昌は天井を見上げる。
 その時、横に居た青年が声を掛ける。

「親父……」

「発か……」

 発と呼ばれた青年は、姫昌の息子の姫発きはつだった。
 姫昌は姫発へと目を向ける。

「私の役目は終わった。新しい国を作るのは……発、お前に……」

「ああ!」

 姫昌の手を、姫発はしっかりと握った。

「任せとけ、親父」

 多くの言葉は要らない。
 姫発のただ一言で、姫昌の心には安息が訪れた。






 西伯侯姫昌は、争いを好まない穏やかな人物である。
 民に聞けば、誰もがそう答えるであろう。
 誰からも尊敬される、器の広い人物であると太公望は語っている。
 差別を受ける羌族を受け入れ、自らの碌を削ってでも民を救う気概を持っていた。

 だが姫昌は人望が強すぎたのかもしれない。
 その名声が国中に広まっていた姫昌は朝歌に呼ばれ、そこで殷の皇后妲己の策略に嵌まる。
 大量の酒を池とし、罪人を木に吊るして虎に食らわせる、文字通りの酒池肉林の宴に招かれてしまったのだ。

 共に招かれた四大諸侯たちは、その光景に絶句した。
 朝歌の街は荒れ果て、民は貧困に飢えている。
 だというのに、紂王はそのような事はどうでも良いとばかりに、宴に興じていたのだから。
 東伯侯の姜桓楚きょうかんそ、南伯候の鄂崇禹がくすううの二人は、紂王を諌めようとした。
 だがそれが妲己を悲しませたとして紂王の怒りを買い、妲己の部下によって切り殺された。
 北伯侯の崇候虎すうこうこはそれを見て恐れをなし、妲己と紂王に媚を売った。
 崇候虎の目は既に、いかに死なないようにするか、という姫昌から見れば情けないものになっていた。

 ……僅か数分の出来事である。

 王を支え、時には諌めるべき存在である忠臣たちが、あっという間にその存在を消した。
 残されたのは姫昌だけであった。
 呆然とその様を見ていた姫昌は、我に返ると自らも紂王を諌めようと考えた。
 命を無駄にする訳ではない。
 例え死ぬ事となろうとも、主君のため、民のために我が身を捧げる覚悟は、西伯侯となった瞬間から既にしていた。
 もしこの光景を見過ごせば、姫昌は自分を許せなくなっていただろう。
 だが姫昌は死ななかった。
 酒池肉林の宴を聞き、慌ててやって来た武成王・黄飛虎こうひこの嘆願と、紂王も姫昌の世話になっていた事から、姫昌は死を免れた。
 姫昌が誠の忠臣であった事が、紂王の判断力を僅かでも回復させたのかもしれない。
 しかし、王を否定する言葉を、姫昌が口にした事は変わらない。
 結局、姫昌は無期懲役の実刑判決を下された。

 こうして妲己の陰謀は成功し、姫昌はこの後七年の間、羑里の邑に幽閉される事となる。

 羑里の邑に幽閉された姫昌は、いつか西岐の地を再び踏める事を夢見ながら、周易という書を記していた。
 幽閉されるなどとは考えていなかった姫昌だが、朝歌へ行くには長い時間が掛かる。
 その間西岐は、最も信頼できる姫昌の長男の、伯邑考はくゆうこうに任せて来た。
 だがしかし、それでも長きに渡って、西伯侯である自らが西岐を離れる事が、姫昌は気がかりだったのだ。



 姫昌が幽閉されてから、七年の月日が流れたある日。
 その日はいつもとは違った、何か嫌な予感のする日であった。
 何事も起きて欲しくないと、藁にも縋る思いで姫昌は祈った。
 しかしそれは、無残にも裏切られる事となる。

 その日、姫昌の夕食はハンバーグだった。
 その料理を見て、姫昌は気付いた。
 ハンバーグを運んできた者の前で、姫昌は大好物なのだと喜んで騙った。
 妲己の手作りしたというそのハンバーグを見て、運んできた者は羨ましいと愚痴りながら出て行った。
 部屋に誰もいなくなった後、姫昌は滂沱の涙を流しながら、誰にも聞こえない声で呟いた。

「伯邑考……」と。

 ハンバーグの肉は、西岐にいるはずの姫昌の息子、伯邑考だった。
 直感でそれを感じ取った姫昌だったが、食べなければ妲己に殺されてしまうと分かっていた。
 留まる事を知らない涙を拭いながら、姫昌は必死に息子だった物を食べ続けた。

 その後、姫昌は罪を許され、西岐へと送り返された。
 息子の肉でさえ気付かない間抜けだと、妲己には思われたらしい。

 西岐へと戻った姫昌は、一人の道士と出会う。
 武吉ぶきちという名の木こりの少年を助けた道士の話を聞き、姫昌は供も連れずに会いに行った。
 道士は釣りをしていた。

「釣れますか?」

「……どうやら、大物が掛かったようだのう」

 太公望という名の道士に、姫昌は尋ねた。
 自分がこれから、何をするべきかを。
 釣りを止め、立ち上がった太公望は答えた。
 殷は妲己によって、既に民の信頼を完全に失っている。
 これ以上殷が存続する事は、誰のためにもならない。
 なればこそ、太公望は答えた。

「挙兵して殷を討ち、新しい国を作れ。そしておぬしが次の王となるのだ!」

「……重いな」

 その言葉が、姫昌には重かった。
 何百年と続いた殷の歴史に終止符を打つ。
 その重圧に、今にも姫昌は潰されてしまいそうだった。

「だがこれも、私の天命なのかもしれない」

 姫昌は殷を討つと決意した。

 その後姫昌は、太公望を軍師として西岐へ迎え入れる。
 そして、西岐へと逃れて来た黄一族を引き込み、元鎮国武成王であった黄飛虎を、新たに『開国』武成王に任じた。

 そして、北伯侯を人質に取られ、代理として北を守っていた崇黒虎すうこくこを説得に行った。
 これが姫昌の最後の仕事である。

 伯邑考の肉で出来たハンバーグを食べて以来、姫昌の食は細くなる一方であった。
 肉も魚も食べられず、小鳥の餌ほどの量しか口に出来なかった。
 そんな姫昌が、長旅に耐えられるはずもない。
 崇黒虎を説得した後、彼は気を失って倒れた。






 最早起き上がる事さえ出来なくなった姫昌は、寝台に横たわって空を見上げる。
 雲一つない青空を見つめる姫昌。
 だがその時、屋敷に何やら騒々しい音が響いた。
 その場にいた四男の周公旦しゅうこうたんは、その音に眉を顰める。

「何事だ!?」

「そ、それが、侵入者のようです!」

「侵入者だと? 何故今この時に……!」

 衛兵の報告に、周公旦は歯噛みする。
 静かに最後を看取る事さえ出来ないのか、と。

「侵入者は二人、その内一人はコウモリのような羽を付けた化物です!」

「コウモリだと?」

 その言葉に、太公望がピクリと眉を上げる。
 尚も言葉を続けようとした衛兵だったが、後ろから現れた男によって蹴り飛ばされる。

「おぬしは……」

 太公望が現れた男を見て呟く。
 浅黒い肌にコウモリのような羽、そして口から覗く鋭い牙。
 後ろに小柄な男を引き連れて現れたその男の目は、猛禽を思わせるかのようにギラギラと光っていた。

「……どこだ?」

 低い声で何かを問い質そうとする男に、周公旦は眉を吊り上げる。

「何をしている! とっとと摘み出せ!!」

「待て周公旦! そやつは敵ではない!!」

 いきなり現れた男に対して憤りを隠せない周公旦に、太公望が待ったを掛ける。
 肩を掴んで止める太公望に、周公旦は反論する。

「ですが太公望どの。このような得体の知れぬ男を父上に近づける訳には――」

「……良い」

 その時、静かに成り行きを見ていた姫昌が声を発する。

「旦、その者をこちらへ……」

「しかし父上っ!」

「良いのだ……」

 尚も告げる姫昌に、周公旦は警戒しながらも道を開ける。
 ゆっくりと歩みを進めた男が、寝台の傍まで近寄った。
 姫昌を見下ろして何も言わない男に、姫昌は声を掛ける。

「大きくなったな……雷震子……」

「……親父」

 その男、雷震子は姫昌の言葉に、目に涙を浮かべて膝から崩れ落ちる。

「オレ……オレ、こんな姿に成っちまって……これじゃ親父に会えないって思って……!」

「馬鹿者……」

 膝を付いた雷震子の頭に、姫昌はゆっくりと手をやる。

「もっと早く……顔を見せんか……」

「ごめん……親父、ごめん……」

 雷震子は目からボロボロと涙を零し、姫昌のその手に縋り付く。

「だが……これで心残りは無くなった……」

 姫昌の言葉に、雷震子は目を見開く。

「待ってくれ親父っ! まだ言い足りない事があるんだ。
 そうだっ! オレ強くなったんだよ。
 こんな羽生えちまったけど、これ結構使えるんだぜ?
 これで親父も守ってやれる。
 だから……だからさ……」

「雷震子……その力は……西岐を守るために使ってくれ……」

「でも……!」

「頼む……」

 姫昌の嘆願に、雷震子は顔を俯けて、静かに頷いた。
 それを見届けた姫昌は、再び窓から見える青空を見つめた。

「困ったな……もう本当に……何もする事が無い……」

 次の歴史を作る若者達のために、出来ることは全てやった。
 悔いの無い想いを胸に、姫昌は空を見つめる。
 その時、姫昌の目がぼんやりとした人影を捉える。

「伯邑考……?」

 その言葉に応じたか、ぼんやりとした人影は、やがて死んだはずの伯邑考の姿になった。

『無念の内に死んだ私には、父上が羨ましゅうございます』

「……ああ、そうだな」

 姫昌は、静かに目を閉じる。

「私は……幸せ者だ……」

 全てのやるべき事を果たし、姫昌は笑った。
 そして、再び目を開ける事は無かった。






 こうして、後に文王と呼ばれる西の大諸侯姫昌は、多くの人々に見守られながら、その生涯に幕を降ろした。







あとがき

漫画だと雷震子は親の死に目にも会えなかったので、まあこれぐらいやっても良いでしょう。

次回は日常編だと思います。
魔家四将編はその後ですね。




[12082] 第三十一話 武吉登場。
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/11/17 20:12




 西伯侯姫昌が亡くなり、西岐に住む多くの民は、自発的に姫昌の喪に服した。
 姫昌の後は第二子の姫発が継ぎ、武王と名乗る事になる。
 西岐は殷に対抗する国として、新たに「周」と改名した。
 その中で、軍師となった太公望は忙しい日々を送っていた。

「うむ……まあこんな物で良いか」

 手に持った報告書を眺めながら、太公望は静かに呟いた。
 殷と本格的に敵対する以上、戦の前の準備は念入りに行わなければならない。
 食料の確保や軍備の増強は必須なのだ。

「木材や石材はもう十分だが、城壁の方はまだだのう。
 仙人が来たら、今の城壁では心許ない。強化を急がせるか」

 太公望は指令書にサラサラとその旨を書いて、横に置く。

「……あとはもっと、モモの生産量を上げるように言っておくか」

 こっそりと正式な文書に、自分の私欲を混ぜる太公望。
 そしてニョホホホ、と笑う太公望の元へ一人の少年が訪れた。

「お師匠さまー!」

「む? なんだ、武吉ではないか」

 ジャージに短パンという服装をした少年は、武吉という名だった。
 太公望の事を尊敬しており、太公望をお師匠さまと呼んで、自身は弟子を名乗っている。
 尤も、太公望は未だ弟子を取れない道士の身なので、自称でしかないのだが。

「僕も居るッスよ」

「スープーまで……」

 武吉の後ろから、カバのようなスープーシャンが現れる。

「手伝いに来たッス」

「僕、書道コンクールで優勝した事があるんです。
 だからお師匠さまのお役に立てたら良いなって思って」

「ああっ!? 待て二人とも!」

 二人が太公望を手伝おうと、机に乗っている書類に手を伸ばす。
 だがそこにはモモの増量を命じた指令書があったので、太公望は慌てて二人に待ったを掛ける。

「おぬしらが手伝おうとしてくれるのは、素直に儂も嬉しい。
 しかし、ここには重要な書類が多くある。
 だからそう易々と他人に任せる訳には行かぬのだ」

「そうですか……ごめんなさい、お師匠さま」

「いや、構わぬ」

 しょんぼりとした武吉に、太公望は気にするなと言って慰める。

「そうだ、代わりといってはなんだが、これを届けてはくれぬか?」

 横に置いていた指令書を太公望は手に取り、武吉へと手渡す。

「この豊邑の城壁の強化案だ。それを周公旦に渡してくれ。
 儂の指令など無くとも、あやつなら既にやっておると思うがのう」

「分かりました、お師匠様!」

 元気一杯に答える武吉に、太公望はうむと頷いた。

「そういえば、周公旦さんも頑張ってるッスよね。
 姫昌さんが亡くなってから、まだあんまり時間が経ってないのに……」

「そうだのう……」

 太公望は周公旦の老け顔を思い浮かべる。
 姫昌が亡くなり皆が悲しみに暮れる中で、周公旦は誰よりも早くこの国のためを思って動き出した。
 淡々と姫発に武王という名を、西岐を周という国にする事を決めた。
 その姿に姫発は、周公旦のことを血も涙もないのかと反発したものだ。

「人にはそれぞれの悲しみ方がある。
 案外、あやつもまだ、姫昌の死を受け入れる事が出来てないのかもしれぬのう」

 だからといって、周公旦は仕事にボロを出すような人間ではないのだが。

「まあこれは儂らがどうする事ではない。
 姫昌の事は、あやつが自分で折り合いを着けるしかないのだ」

「そうッスね……」

「あ! そういえば……」

「武吉くん、どうかしたッスか?」

「姫昌さんといえば、雷震子さんはどうしてるかなって思って……」

「ああ……」

 武吉の指摘に、スープーシャンが雷震子の事を思い出す。

「最近は豊邑の上空を回って、仙人が来ないか警戒してるッス」

「へぇ~そうなんだ」

 納得した武吉だが、スープーシャンは顔を伏せる。

「姫昌さんに任されたせいか、雷震子さんはすっごく頑張ってるッス。
 そのせいで、身体を壊しそうで心配ッスよ」

 今わの際の姫昌に対して、西岐を守るために力を使うと雷震子は誓った。

「こんな事言うと不謹慎ッスけど、雷震子さんが姫昌さんの最後に間に合って本当に良かったって思ってるッス」

「うむ、それは儂も同感だ」

 太公望も頷いて同意する。

「親の死に目にさえ会えない、というのは残酷な事だ。とても……のう」
 
「ご主人……」

「お師匠さま……」

 太公望の声には、悲哀が込められていた。
 太公望の両親は、殷の人狩りによって王と共に墓に入れられた。
 両親は連れて行かれ、太公望はその死に目には会えなかったのだ。

「で、でも雷震子さんは、姫昌さんに会えたから良かったッス。
 姫昌さんも雷震子さんに会えて嬉しそうだったッスから」

「そうだのう……」

「そういえば姫昌さんって、よく雷震子さんの事が分かったよね。
 姫発さんも周公旦さんも、雷震子さんの事が分からなかったのに……」

 武吉が首をひねる。
 あの場にいた者たちの中で、あの姿の雷震子を知っていたのは太公望とスープーシャンだけだ。
 だが姫昌は、姿が変わっていても雷震子だと気付いた。
 姫発や周公旦はその事に気付けなかったというのに、だ。
 姫昌の死後、姫発たちが雷震子に本物なのかと問い掛けられた事は余談である。

「例え姿が変わろうと、親は子供の顔を忘れない。親とはそういうものだ」

 太公望はそう言った。

「そうッスね」

「はい!」

 それに二人は同意する。

「それじゃ、僕は周公旦さんにこの手紙を届けてきます!」

「ああ待て、武吉」

「はい?」

 走り出そうとした武吉を、太公望が後ろから呼び止める。

「何ですかお師匠さま」

「それを渡し終わった後で良いから、こっちの手紙も届けてくれ」

 そう言って太公望は、懐から「しれーしょ」と書かれた封筒を取り出して、武吉に渡した。

「分かりました。それで、誰に渡せば良いんですか?」

「土行孫だ」

「土行孫さん……ですか?」

 その名前に、武吉が首を傾げる。
 その様子に名乗っていなかったのかと太公望は気付き、説明する。

「前回の話で、雷震子の後ろに居て、一行だけ登場したちっこい奴がおったであろう? あやつが土行孫だ」

「ああ!」

 太公望の説明に、武吉はポンと手を叩いて納得する。

「雷震子さんが怪我させた衛兵さんたちに、一人一人謝って回ってたあの人ですよね?」

「むぅ……あやつ、そんな事しておったのか。変な奴だのう」

怪我させたのは雷震子であるのに、傍に居ただけの土行孫が謝るのは筋違いではないだろうか。
それが分からない程愚鈍ではないだろうに、彼は兵士達を尋ねて回っていたらしい。
相変わらず変わっているな、と太公望は判断する。

「まあ良い。その土行孫に渡してくれ。
 金はスープーに渡しておくから、ついでに飯でも食ってくると良い」

「分かりました! それじゃ行って来ます!」

「あ、待つッスよ武吉くん! 僕を置いていかないで欲しいッス!」

 走り去った武吉を追いかけ、スープーシャンが急いで飛んでいく。
 後には、書類に囲まれた太公望が残された。

「ふう……まったく、相も変わらず騒々しいやつらだのう……」

 嘆息した太公望が、一枚の紙を手に取る。

「とりあえず、モモの事はバレずに済んだようだのう」

 太公望はニタリと笑みを浮かべた。
 なお、この事は後に周公旦によってバレ、太公望はハリセンを食らった後、一週間モモ抜きにされたという。






 周公旦に太公望からの手紙を渡した武吉たちは、次は土行孫を探す事にした。

「でも土行孫さんって、いったい何処に居るんだろう?」

「分からないッス。あの人は結構いろんな所をフラフラしてるッスから」

「上から探してみよっか?」

「そうッスね。武吉くんなら見つけられるかもしれないッスから」

 スープーシャンの背に武吉が乗り、上空から探す事にした。
 天然道士の武吉の視力はとても高い。
 両目ともが10.0という驚異的な数字を叩き出している。
 だが上から眺めて探すものの、土行孫は見つからず、武吉は首を捻る。

「う~ん……」

「駄目ッスか?」

「うん。ごめんね、スープーシャン」

「気にする事はないッス。降りて町の人にでも聞いてみるッスよ」

「そうだね」

 頷いた武吉とともに、近くを歩いていた薪売りに尋ねる事になった。

「すいませ~ん」

「え? 道士さま?」

 スープーシャンの背に乗った武吉を、薪売りは道士と間違えたらしい。
 慌てて武吉が否定する。

「なんだ、違うのか。それで? 薪が必要なのかい?」

「いえ、人を探してるッス。僕みたいな顔をした道士を知らないッスか?」

「客じゃないのか……いや、知らないな」

 落ち込みながらも答えてくれた薪売りに、二人は礼を言ってその場を離れた。
 
 その後も西へ東へと駆け回る二人だったが、土行孫は見つからなかった。

「いないねぇ……」

「本当ッス。いったい何処に行ったッスか……」

「町からは出てないみたいなんだけどね」

 城壁で警備をしていた南宮适(なんきゅうかつ)は土行孫を見たらしい。
 だがしばらく城壁の周りを散歩したあと、町の中へと戻って行ったようなのだ。
 その情報に従い、片っ端から聞いて回ったものの、土行孫は見つからない。
 いつ見つかるとも分からない相手を探し続け、二人は疲労が溜まっていた。

「休憩がてら、ご飯でも食べるッスよ」

「そうだね。僕もうお腹ペコペコだよ」

 スープーシャンは太公望から貰ったお小遣いを取り出し、武吉も賛成した。
 食事となると現金なもので、先ほど疲れていたときとは打って変わって元気になった。

「何食べるッスか? ご主人からお金をせしめて来たッスから、それなりに良い物が食べられるッスよ」

「そうだね……」

 武吉は辺りを見回し、僅かに考え込む。
 料理店が並び、賑やかな様子を見せる町を眺める。
 その中から、一軒の店が目に付いた。

「僕、蕎麦が良いな」

「蕎麦ッスか。良いッスね、それにするッス」

 武吉の提案にスープーシャンも頷き、蕎麦屋を訪ねる。
 こじんまりとした蕎麦屋の戸を開き、二人は店の中に入った。
 店には店主が一人、客が一人居た。

「いらっしゃい。好きな所に座っとくれ」

「分かったッス」

「ねぇ、スープーシャン……」

 スープーシャンの服を引っ張り、武吉が尋ねる。

「あの人……」

「え?」

 言われてスープーシャンが武吉の視線の先を見る。
 そこにはスープーシャンのような顔のラインをした、小さな男が蕎麦を啜っていた。

「あ~っ! 土行孫さんじゃなないッスか! やっと見つけたッス!」

「あ、やっぱりあの人だったんだね」

 武吉が蕎麦を啜っている土行孫を見て、やっぱりかと納得する。
 それに対し、一人で蕎麦を啜っていた土行孫は、スープーシャンの姿を見つめて目を丸くする。

「スープーシャンじゃないか、久しぶりだな。お前達も飯食いに来たのか?」

「そうじゃないッス! いや、そうなんスけど、そうじゃないッス!」

「……良く分からんぞ。もう少し落ち着いて喋ってくれ」

 蕎麦を食べ終えた土行孫は、箸を置いてスープーシャンの言葉に眉を顰める。

「それにそっちは誰だ? 初めて見る顔だけど」

 その言葉に武吉が一歩踏み出し、土行孫へと近寄る。

「はじめまして!僕、太公望さんの弟子で武吉っていいます!」

「弟子? なあスープーシャン、師叔はまだ道士だよな?」

「そうッスよ。弟子云々は武吉くんの自称ッスけど、ご主人も満更嫌でもなさそうッス」

「ふうん……まあ良いや」

 土行孫にとって、弟子かそうでないか、というのは大して重要な事でもないらしい。

「それよりも、蕎麦食いに来たんだろ? 奢ってやるよ」

 そう言った土行孫は、店の店主にざる蕎麦を三枚追加で注文した。
 スープーシャンは首を振って遠慮する。

「別に良いッスよ。ご主人からお小遣い貰ってるッスから」

「気にすんな。金なら持ってるから、その小遣いは別の事にでも使うと良い」

「……それじゃ、ご馳走になるッス」

「おう、腹一杯食っていけ」

 土行孫の対面に、武吉とスープーシャンが座る。

「あ、そうだ土行孫さん。お師匠さまからお手紙預かってたんです」

 武吉はなぜ土行孫を探していたのかを思い出し、懐から「しれーしょ」を取り出す。
 それを見て、土行孫は眉を顰めた。

「また何かやらせる気かよ……」

 うんざりとした様子で手紙を受け取った土行孫は、それをパラパラと流し読みする。
 その様子にスープーシャンが尋ねる。

「また何か……って土行孫さん、今まで何かしてたッスか?」

「人聞きの悪い事言うなよ。俺は西岐……ああ、もう周だったな。
 周に来てからこっち、ずっと働き詰めだ。忙しくて今日も朝飯食ってないんだよ。
 それでさっき、やっと一段落着いたから、外の風に当たっていたところだ」

 土行孫は気付いていないが、どうやらその時の様子を南宮适に見られていたようだ。
 そこに、器用にざる蕎麦を両手に持った店主が近寄って来た。

「へいお待ち! ざる蕎麦三枚ね」

「ああ、ありがとう」

 土行孫は店主に礼を言い、新たに届いたざる蕎麦を再び食べ始める。

「うん、久しぶりに食うけど、やっぱり蕎麦は美味いな。
 まさかワサビまであるとは思ってなかったから、食が進むよ」

 美味しそうに蕎麦を啜る土行孫を見て、二人の腹が空腹を訴えてキュルキュルと音を鳴らす。
 
「どうした? 遠慮せずに食え」

「それじゃあ……」

「いただきま~す!」

 美味しそうに蕎麦を口に入れる二人を、土行孫は微笑ましそうに見つめる。
 食べながら聞いてくれ、と土行孫は前置きして、話を続けた。

「師叔の野郎、働かなければ俺はただのニートだと言いやがった。
 乗せられてるのは分かってるけど、働かないとまたからかわれるからな。
 まったく……仙人なんて基本ニートな奴らばっかりなのに、なんで俺だけ……」

 怠ける事が出来なくなった太公望の僻みが絶対入っている、と土行孫は愚痴る。
 ぶちぶちと愚痴を零す土行孫に、スープーシャンはなるほど、と頷いた。

「でも、それにしてはずっと姿を見てなかったッスけど、いったい何やってたッスか?」

「それは言えないな」

「え? 何でですか?」

 武吉が質問する。

「師叔から口止めされてるんだよ。
 『本格的に殷と事を構える以上、何処にスパイが潜んでいるか分からない。
 だからこの事について、口外する事を禁ずる』だとさ」

「それじゃ、聞かない方が良いッスね」

「ああ、そうしてくれ。これぐらいなら大丈夫だろうけど、実際に何をしているかまで知られるとまずい」

「分かったッス」

「はい! 誰にも言いません!」

 理解してくれた二人に、土行孫は満足げに頷いた。
 その時、美味しそうに蕎麦を味わっていたスープーシャンがある事に気付き、土行孫に尋ねた。

「奢ってくれるのは嬉しいッスけど、土行孫さんはお金持ってるんスか?」

 太公望はお金も持たずに降りて来たため、色々と辛い思いをする事になった。
 ひもじい思いをして、そこら辺に生えている草を食べたり。
 畑で育てている大根を、道端に生えていたものだと言い訳をして引き抜いたり。
 姫昌に軍師として迎えられる際も、姫昌の放った「衣食住付き」という言葉の魅力に負けたからに他ならない。
 だから土行孫はそこの所はどうなのだろう、とスープーシャンは気になったのだ。
 だが土行孫はニヤリと笑うと、懐から袋を取り出した。

「金ならあるぞ」

 そう言ってスープーシャンにその袋を手渡した。

「どれどれ……」

 箸を置いて中身を確認しようと、スープーシャンは袋の口を緩める。

「うおっまぶしっ!」

 中から黄金色の光が漏れ、まともに直視したスープーシャンは目を押さえる。

「わ~、凄い綺麗な石だね、スープーシャン」

 中に入っていた小石を見つめ、暢気に答える武吉。

「そ、それどころじゃないッスよ! こ、ここ、これ金じゃないッスか!!」

「たしかに金色だね」

「そうじゃないッス! 金、Au、ゴールドッスよ!」

「そうだぞ」

 二人に言われ、武吉もこれがただの綺麗な石ではなく、金塊なのだと気付いた。

「え~っ!? 土行孫さん、どうして金なんか持ってるんですか!?」

「まあちょっと、な」

 土行孫は金の入った袋を懐にしまう。

「仙人界でも探せば金鉱ってのはあるもんでね。
 他の仙人は、そういうのに興味持ってるのはほとんどいない。
 だからそこから取って来た」

「取って来たって、そんな簡単に……?」

「土行孫さん、そこは何処ッスか!? 今から採掘に行って来るッス!」

 血走った目でスープーシャンが土行孫に尋ねる。
 今にも飛んでいきそうなスープーシャンを、土行孫はまあ待て、と抑えた。

「土を掘れる俺の宝貝じゃないと取りに行けないぞ。
 それに、金鉱といっても大した物じゃない。
 精々飯が腹一杯食えるレベルだから、例え全部掘り尽くしても周の財源なんて潤わないぞ?」

「……そうッスか」

 残念そうに椅子に座り直したスープーシャンは、再び蕎麦を食べ始めた。

「まあ良いじゃないか。働いたあとの飯を、ちょこっとだけ贅沢にするくらいは」
 
「……そうッスね。偶には良いと思うッス」

 蕎麦を啜りながら、スープーシャンが小さな声で同意した。

「それじゃ、ゆっくり食べていくと良い」

「まいど!」

 先に食べ終わった土行孫が、換金したと思われるお金を取り出して机に置く。

「もう行くんですか?」

「ああ」

 武吉の問いに、土行孫は渋々と言った感じで頷いた。

「まだやるべき事が山ほどあるんだ。仙人が来るかもしれない以上、急がないといけない」

「そうですか。頑張ってくださいね、土行孫さん」

「おう! それじゃ、またな」

 武吉の応援に元気良く答え、土行孫は店から出て行った。
 そこに、二人に向けて店主が声を掛ける。

「あんたら、ちょっと良いか」

「なんですか?」

「さっきの人、ちょっと多めにお金置いて行ったんだよ」

 店主が見せたお金は、この店の料金設定よりも、多めに払われていた。

「だから、良かったらもっと食べるかい?」

 店主のその言葉に、二人は顔を見合わせる。
 そして互いに同時に頷くと、店主に声を掛けた。

「お願いします!」

「まだ足らないッスよ!」

「はいはい、ちょっと待ってな」

 店主は蕎麦を茹でるため、再び厨房へと戻って行く。
 腹一杯食べろ、という土行孫の言葉に、二人は甘える事にした。







あとがき

何故土行孫が周にいるかというと、前回雷震子にへばり付いて一緒に来たからです。

実は土行孫、他にも水晶やら何やら色々と溜め込んでたりするんですよね。
だから太公望みたいに餓死しかける事はないです。


次回から魔家四将編に入ると思います。



[12082] 第三十二話 魔家四将編① 襲来
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 23:29




「うむ……これで良し」

 一通り考えられる手を尽くした太公望は、城壁を護る兵たちを見て満足げに頷いた。
 兵たちの警備は、いつもの十倍にまで上げている。
 あとは敵を迎え撃つのみである。

 戦の準備は既に整っている。
 収穫までに手間のかかる作物なども、軍師として西岐についた時から準備はしていた。
 これで、いつでも朝歌へと攻め上る事が出来るだろう。
 しかしそれは、周だけのことである。
 太公望は東西南北全てからの同時攻撃で、殷を討つつもりなのだ。
 そのためには、何よりも足並みをそろえる必要がある。
 バラバラで立ち向かったところで、殷に勝つことは不可能なのだ。
 だからこそ太公望は、他の三侯が準備を整えるまで待つ必要がある。
 その間に殷が、何よりも聞仲が何処を狙うか。
 それはこの周を置いて他には居ない。
 旗印となっている武王を殺されれば、こちらは途端に烏合の衆となってしまう。
 なればこそ、太公望たちは武王を護りきらなければいけないのだ。

 太公望が思索に耽っていたその時、城壁の一部が轟音を立てて崩壊した。

「来たかっ!」

 太公望はスープーシャンに乗る。
 そして、後ろに控えていた天化に声を掛けた。

「儂が行く。天化、おぬしは姫発を守るのだ」

「分かったさ!」

 天化は莫邪の宝剣に光を灯し、力強く頷いた。

「良し、行くぞスープー!」

「はいッス!」

 太公望の声に応じ、スープーシャンが飛ぶ。
 モクモクと砂煙の立ち上る城壁へと向かう太公望たち。
 だがそこに居た物に、二人は唖然とした。

「なんじゃこりゃ!?」

「くじら……ッスか?」

 砂煙が消えた後、そこに居たのは巨大な空飛ぶくじらだった。
 突如として現れたくじらは、城壁をバクバクと呑み込んでいく。

「いかんっ! 城壁ごと見張りの兵がっ!」

 成す術もなく、くじらに呑み込まれていく兵たち。
 その時、ゴロゴロと雷雲が辺りを包んでいく中、太公望の横を走り抜けて行く一人の男が居た。

「この野郎ぉぉぉっ!」

「武成王っ!」

「うぉりゃっ!」

 くじらへと走って近づいた武成王は、自慢の膂力で鉄棒をくじらへと叩き付けた。
 だがくじらには全く効いた様子もなく、それどころか鉄棒が折れてしまった。

「くそっ!」

 折れた鉄棒を見て、武成王は悪態をつく。

「武器がねえなら素手でやってやる!!」

 鉄棒を投げ捨て、素手でくじらへと向かおうとする武成王。
 だがその時、くじらへ向けて落雷が降り注いだ。

「これは……!」

「てめぇぇっ!」

 天より飛来した雷震子が、瞳に怒りを灯してくじらを睨みつける。

「親父の城で何やってやがんだっ! 発雷っ!!」

 雷震子の声に応え、上空にある雷雲から更に雷が降り注ぐ。
 落雷によって朦々と煙が立ちこめる。

「なにっ!?」

 だが雷震子の全力を持ってさえ、くじらを落とす事は叶わなかった。
 あれだけの雷撃が直撃したにも関わらず、尚もくじらは悠然と空を飛んでいた。

「無駄だ、二人とも!」

「何言ってやがる! こいつは親父の城を破壊しやがったんだぞ!」

「そうだぜ太公望どの! こいつは兵を何十人も食いやがった! 許せねぇ!!」

「分かっておる! だがそやつに攻撃しても無駄だ。やるなら、そやつを操る宝貝使いの方であろう!」

 太公望の叱咤に、雷震子と武成王の二人は舌打ちをして、くじらへと向かうのを止める。

「幸い、今のそやつは動いておらぬ。
 雷震子、今の内におぬしの風で、そやつを城壁の外へと吹き飛ばせ」

「オレ様がか?」

「ああ。儂らはその間に、このでかいくじらを操っている宝貝使いを探す!」

 雷震子は頷き、その背の天騒翼を羽ばたかせる。

「よし、行くぞ武成王」

「おうっ!」

 城壁にそって飛ぶ太公望たちを追って、武成王が付き従う。

「お師匠さま!」

「む、武吉か。丁度良いところに来た」

 自宅から通っている武吉が、そこに合流する。
 天然道士の健脚で太公望たちに追従する武吉が、くじらを指差して太公望に尋ねる。

「あれ、あの大きなくじらは何ですか!?」

「話は後だ。武吉、あれを操っていた仙人を探せ!」

「仙人ですね、分かりました!」

 武吉はすぐに太公望の意図を理解し、自慢の視力で敵を探す。

「頼むぞ武吉。これだけのことをしたのだ。どこかで高みの見物をしておるに違いない」

 だがその時、太公望の頭脳が嫌な答えを弾き出した。

「まて、まさか姫発の所に……!」

 姫発は天化に守らせている。
 しかし、これだけのことを仕出かした者を相手に、天化だけでは心もとない。
 急いで姫発の無事を確認しようと、太公望が思ったその矢先の事だった。

「あっ! お師匠さま、あそこに!」

 武吉の指差した方角を太公望が見る。
 見晴らしの良い屋根の上、そこに見知らぬ三人の男が居た。
 三人の男によって、捕らえられた姫発と共に。

「姫発!」

「す、すまねぇ太公望」

 姫発は罰の悪そうな顔で太公望に謝る。

「天化はどうした!?」

「あ、ああ……それが……」

「こっちだ」

 横から声が聞こえ、太公望がそちらを振り向く。
 全身から血を流して気を失っている天化が、無雑作に転がっていた。

「天化!?」

 天化のあまりの惨状に、武成王が天化の名を呼ぶ。
 だが天化はそれに、何の反応も返さない。
 その天化の傍に立っていた男は、剣の宝貝を天化に向ける。

「黄天化と武王姫発。この二人の命と引き換えに、周の道士は皆、投降してもらう。
 太公望と黄飛虎、それとそこの武吉という天然道士の三人。
 そしてあちらで、花狐貂かこてんに向けて風を起こしているコウモリもだ」

 了承しなければ、即座に天化が殺される。
 天化へと向けた剣が、それを物語っていた。

「……分かった」

 苦い顔で太公望は言った。

「ただし、花狐貂と言ったか、あの巨大な宝貝で民を傷つけるのは止めよ。
 それを約束出来ぬのなら、儂がおぬしらと話す事は何も無い。
 例え二人を犠牲にすることになろうとも、儂がおぬしらを殺す」

「約束しよう」

 頷いた男は、天化から剣を下げた。
 それを見た太公望は、姫発の傍へと近寄り、スープーシャンから降りる。

「スープー、おぬしは仙人界に戻れ」

「ええっ!? 嫌ッス! 僕もここに残るッスよ!」

 ブンブンと首を振るスープーシャンに、太公望は小さく耳打ちする。

「ナタクと楊戩を呼んで来るのだ」

 戦力が増えれば、この状況を打開する事も出来る。
 太公望の言葉でそう気付き、スープーシャンは高く飛び上がる。

「分かったッス。ご主人、それまで気をつけるッスよ!」

 そう言ってスープーシャンは、自慢のスピードを生かして飛んで行った。
 スープーシャンの姿が消えた後、太公望たちは敵に向き直る。

「よし、後ろを向け。動いたら斬る」

 天化を倒したリーダー格の男は、剣を向けてそう言った。

「人質の命が惜しかったら、変な真似はしないことだな」

「畜生っ! ちい兄が捕まってなけりゃ、こんな奴ら……!」

 助ける事も出来ず、敵に背を向けるはめになった雷震子が怒る。
 巨大な花狐貂を城壁の外まで押し返した雷震子だったが、兄を人質に取られてはそれ以上戦う事は出来ない。
 だがそんな雷震子の様子を気に掛ける事もなく、琵琶を担いだ男が剣を持った男に話しかける。

「礼青」

「なんだ礼海」

「あの霊獣は良かったのか?」

「ああ。せいぜい味方を大勢連れて来るが良いさ。
 仙人界の奴らは、武王などどうでも良いだろうが、こちらには太公望が居る。
 餌に釣られて誘き寄せられた崑崙の仙人どもを、順々に殺していこう」

 礼青と呼ばれた男は、リモコンを持っている小柄な男に目を向ける。

「さて礼寿。約束どおり、花狐貂を小さくしてポケットに仕舞え」

「分かった。それじゃ、このリモコンで……」

 礼寿と呼ばれた男は、リモコンのレバーに手を添える。

「あ、間違えた。……くくく」

 ガシャ、という音を発して、レバーが前に倒される。
 すると、今まで静止していた花狐貂が動き出し、街を襲いだした。

「っ!?」

 ガブガブと城壁や家屋、人々を見境なしに食べ進む花狐貂に、太公望は絶句する。
 花狐貂に破壊されていく街を見て、姫発が叫ぶ。

「やいてめぇらっ! 約束が違うぞ!!」

「ちょっと間違えただけだよ」

 街を襲う花狐貂を眺めながら、礼寿は事も無げに言う。
 顔に着けられた仮面によって表情は見えないものの、その顔は愉悦に歪んでいるのが誰の目にも分かった。

「おい太公望っ!」

 姫発は歯噛みして太公望に向き直る。
 だが太公望は座り込み、静かに目を閉じていた。

「何座ってやがんだ? 諦めちまったのかよ!? 街の皆が食われてるって言うのにか!!」

 だが太公望は、姫発の問いに答えなかった。

「クソッ! もう良い。俺だけでも皆を助けに――」

「勝手に動くな、と言っただろう?」

 走り出そうとした姫発の前に回り込み、礼青は姫発を張り倒す。
 仙人の力で殴られ、姫発はあっけなく倒れ伏した。

「ちい兄っ!?」

 雷震子が駆け寄り、姫発の様子を確かめる。
 倒れた姫発に向けて、礼海が声を掛ける。

「武王姫発、仮にも王を名乗るのなら、もう少し利口になる事だな。
 太公望を見てみろ。今足掻いても無益だと分かっている」

 礼海の言葉に、姫発は座り込んでいる太公望に目を向ける。

「だからああやって、座って耐えているのさ。
 身体から迸るほどの怒りを抑えながら、静かに時を待っている」

 礼青はスープーが飛んでいった空を見上げる。

「あの霊獣のスピードなら、崑崙まで約一時間弱といったところだな。
 味方を連れて戻るまで、二時間は掛かるはずだ」

 太公望が待つ『時』とは、つまりその時なのだろう。

「礼寿、そろそろ花狐貂を引き上げろ。街が無くなったら、こいつらが何をするか分からんぞ」

「そうだな。無駄なエネルギーは使わずにおこう」

 礼寿は今度こそ花狐貂を引き上げる。
 だが礼青の言ったように小さくするのではなく、花狐貂は先ほどのように動きを止めただけだった。





 スープーシャンが応援を呼びに行ってから、一時間が経過しようとしていた。
 街は異様に静まりかえっていた。
 いつもは賑やかな豊邑の街が、四人の仙人によって無理矢理静寂へと変えられたのだ。
 そんな中、礼寿がポツリと呟く。

「退屈だな」

その言葉に、姫発が食って掛かる。

「退屈だと? 誰のせいでこんなことになったと思ってやがる!?」

「また花狐貂で遊んでみるか」

「ふざけんなよてめぇっ!!」

「おっと、そんな大声を出すなよ。ほら、お前の声に驚いて、うっかりレバーを動かしてしまったじゃないか」

「何だとっ!?」

 姫発の目が丸くなる。
 だが礼寿の言葉どおり、花狐貂は再び動き出した。

「また動き出しやがった……」

 雷震子が花狐貂を見上げながら、呆然と呟く。

「もう我慢出来ねぇ! お前ら全員ブチ殺してやる!!」

「……止めよ、雷震子」

 激昂した雷震子に向けて、今まで静かに黙っていた太公望が制止する。

「けど太公望、このままだとまた街が破壊されるんだぞっ!?」

「……雷震子」

 目を開けた太公望は、打神鞭を雷震子へ向ける。

「少し……黙れ」

「う……」

 喉元に突き付けられた打神鞭に、雷震子は言葉を無くす。
 その時雷震子は、何かが滴る音を聞いた。
 何事かと音の正体を探ると、それは太公望の右手から聞こえていた。
 握り締めた右手は真っ赤に染まり、足元に滴った雫が音を発していたのだ。

「太公望……お前……」

 太公望は打神鞭を引くと、武吉に声を掛けた。

「武吉、民の数はどうなっておる?」

「え? 数……?」

 太公望に言われ、武吉は豊邑の街を見渡す。

「あれ?」

 だが、武吉の視力を持ってしても、民の姿は見えなかった。

「人が……いない……?」

 その言葉に、太公望は後ろへ声を掛ける。

「雷震子、武成王」

「お、おう!」

「何だ?」

 雷震子は僅かにどもり、武成王は待っていたとばかりに立ち上がる。

「もうすぐあの花狐貂に何かが起こる。
 その時雷震子は、風を起こしてあやつらを吹き飛ばせ。
 武成王は姫発を担いで逃げよ。武吉もだ」

 太公望の言葉に応じるように、花狐貂に変化が起きた。


 ゴオオオオオンッ!!


「何っ!?」

 街を食らおうと口を開いていた花狐貂は、無理矢理にその口を閉じられた。
 突如として現れた赤い巨大な柱によって、花狐貂は下から勢いよく突き上げられる。

「何だあれは?」

 警戒する礼寿の視線が、巨大な柱の根元へと向かう。
 その先には、小柄な男が一人、赤毛の少女を庇うようにして立っていた。
 その男は無傷な花狐貂を見上げて、小さく舌打ちをする。

「ちっ……やっぱり駄目か。外からだと難しいな。中からやるか」

 静かにその男、土行孫はそう呟いた。







あとがき

今回から魔家四将編です。
最低でも、あと五話ぐらいは魔家四将編が続きます。


今後出てくる敵の順番を忘れている人も居るので、簡単に説明します。

順番としては、魔家四将→鄧蝉玉→鄧九公→呂岳→太子→趙公明→仙界対戦へという感じです。

これは敵の順番ですから、間に普通の話が挟まる事もあると思います。





正直に言います。
雷震子が邪魔です。



[12082] 第三十三話 魔家四将編② 裏
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/11/26 08:47




 花狐貂が土行孫によって吹き飛ばされたとき、太公望は叫んだ。

「雷震子、今だ!」

「おうっ!」

 起風、と唱えた雷震子から、四人組へと強風が吹き荒れる。
 男達は風を受けて仰け反る。

「小癪な真似を!」

 リーダー格の礼青が、手に持った剣を屋根に突き刺してその場に持ち堪える。
 太公望は武吉の背に乗り、敵に向けて宣言する。

「これで形勢は逆転した。今度は儂らが攻めさせてもらう」

 そう言った太公望は武吉を促し、その場を離れる。
 雷震子も風を起こしながらじりじりと後退し、礼青の剣が届かない距離へと退避していった。






 時は僅かに遡る。
 豊邑の街に、突如として巨大な宝貝「花狐貂」が出現したとき、土行孫は街でそれを見上げていた。
 そして、すぐさま自分のするべきことを思い出し、行動を起こしたのである。
 土行孫のすべき事、それは街の住民の避難である。

「皆、急いで逃げろ! いつまたあの宝貝が動き出すか分からないぞ!」

 花狐貂を見て恐れ慄いている街の人々に、土行孫は声を掛ける。

「ど、道士様! でも、いったい何処に逃げれば良いんですか!?」

「そうですよ! あんな大きな物から逃げるなんて、私達には出来っこありません!」

「大丈夫だ」

 心配そうに尋ねてくる街の人々に、土行孫は安心させるように言った。

「こんなこともあろうかと、地下にシェルターを作ってある」

 土行孫は土竜爪を発動させる。
 すると、辺りの砂がザアッと引いていき、皆の目の前に大きな穴を作り上げていく。
 その穴には、地下への階段が生まれていた。

「この中に居れば、あの宝貝に食べられる事は無い。
 ちゃんと作ってあるから、崩落する心配も無い。だから急いで!」

 土行孫は街の人々をシェルターへと誘導していく。
 土行孫の言葉に従い、整然と並んで地下へと避難していく人々。
 それを見ながら、土行孫は溜め息を吐く。

「師叔はいったい、どこまでを予期していたんだろうな」

 土行孫がこのシェルターを作り始めたのは、土行孫が周に来たその日からだ。
 姫昌の死で周りが陰鬱な空気に包まれていたとき、太公望だけは土行孫に仕事を押し付けたのだ。
 土行孫に姫昌との関わりが無く、周りと比べてそれほどショックを受けていなかったこともあるのだろう。

 だがこのシェルターは、土行孫でしか出来ない事でもある。
 土を操る宝貝を持っていることが条件であるが、それだけではない。
 土行孫は太公望たちに比べて、知名度が無い。
 ずっと仙人界に引きこもっていたのだから、それは当然だろう。
 そして、同時期に降りた雷震子が目立つことによって、更に土行孫の存在は陰に隠れる事になる。
 現に、太公望たちに投降を呼びかけていた男、礼青は土行孫のことを知らなかった。
 礼青は、太公望と黄飛虎、武吉と雷震子の四人しか敵とみなしていなかった。
 だからこそ、民に紛れて土行孫が動いている事が、敵に気付かれ難いのだ。

「まったく、人遣いが荒いぜ」

 シェルターの存在は、ギリギリまで秘匿されなければならない。
 それはスープーシャンや武吉にでさえそうだ。
 何処にスパイが潜んでいるか分からない以上、土行孫は注意しなければならない。
 最初にシェルターを狙われたら?
 否、シェルターに避難する人々の中に、他の敵が混じっていたら?
 幸い、土行孫は避難する人々を注視しながら見ているが、そういう存在は今のところ見つからない。
 敵の様子からして、あの四人組以外に他の敵が潜んでいる、という事は無さそうだ。

「でも、悪くねぇな」

 実際の所、今動けるのは土行孫しかいない。
 その中で、土行孫は街の人々を助ける事が出来る。
 それは太公望たちが何よりも望んでいる事であり、それは土行孫も同じである。
 この敵の襲来までの数ヶ月、その殆どを地下で過ごした甲斐があるというものだ。

 『まず民の安全を最優先に考えよ』

 それが、土行孫に授けられた太公望の指令である。
 敵の打倒よりも先に民を逃がせ、と武吉より渡された指令書には書かれていたのだ。

「さて、ここら辺の人の避難は終わったし、他へ急ぐか」

 周に来てから土行孫が作り上げたシェルターの数、およそ三十。
 僅か数ヶ月で、この豊邑の民が全て逃げ込めるだけの数を、土行孫は用意した。
 勿論、土行孫が事前に作り上げていた階段へ、民を避難誘導する兵も幾人か民の中に紛れ込ませている。
 だが、土行孫が行った方が早い。
 道士であるという事が、パニックになった民を静める効果も持っている。
 仙道という肩書きを見せびらかすつもりはないが、それで民を助けられるのならば何も問題は無い。

 土行孫は民の姿を探して走り出す。
 一人でも多くの民を助けるために。

 走りながら、土行孫の口元には小さく笑みが浮かぶ。
 そして、ポツリと愚痴を零した。

「まったく、師叔は人遣いが荒いな」

 でも、土行孫はそれを悪いとは感じなかった。






 花狐貂がその動きを止めてから、一時間が経過しようとしていた。
 集団が地下へと降りていくのを見ながら、土行孫は呟いた。

「ここで最後か?」

 土で辺りの大体の人の存在を探るが、多くの人が地上を歩いている事は感じられない。
 全ての人を収容出来たとは思っていないが、それも時間の問題だろう。
 土行孫は小さく一息を吐く。
 だがその時だった。
 避難をしている民たちの間に、動揺が広まっていく。
 花狐貂が動き始めたのだ。

「またあのくじらが動き出したぞ!」

「おい! 速くしてくれ、後ろがつっかえてるんだよ!」

「そんなこと言われても、俺だって早く降りたいんだよ!」

 再び花狐貂が動き出したことで、民の恐怖が呼び起こされたのか、二人の男が言い合いを始める。

「お前達!」

 土行孫は言い合いを始めた二人の男を一喝する。

「あのでかいのは俺が何とかする。だから喧嘩をするな」

 土行孫の言葉が効いたか、二人は口を噤む。
 そこに、一人の老婆が土行孫に声を掛けた。

「道士様……」

「何だ? どうかしたのか?」

 尋ねた土行孫に、老婆は一つの方向を指差す。

「先ほど、あちらに走っていく少女を見ました」

「何だとっ!?」

 老婆が指差したのは、今まさに花狐貂が呑み込もうとしている街の方向だった。

「お前達は避難しろ!」

 土行孫は後ろ手に呼びかけ、老婆の指差した方向へと駆け出す。

「間に合えっ!」

 土行孫は少女を探して進む。

「間に合えっ!」

 土竜爪で地面を爆発させ、その推進力を利用して跳ねるように前へと進む。

「間に合えっ!」

 屋根の上に飛び乗り、障害物を無視して進む。
 その時、土行孫の耳に、悲鳴が聞こえた。
 絹を裂くような、少女のかん高い声。

「あそこか!」

 土行孫が目を向けた先には、赤毛の少女が佇んでいた。
 座り込んだままの少女は、恐怖で足が竦んだのか一歩も動こうとしない。
 だがその少女の顔を見て、土行孫は一瞬動きを止めた。

「馬……氏……?」

 まるで他人が自分の口を乗っ取って使用しているのかと言わんばかりに、その声は遠く聞こえた。
 そして花狐貂は、今まさにその少女を呑み込もうとしていた。

「馬氏っ!!」

 夢現のような状態で、土行孫は走る。 

 最早誰が声を出しているのかさえ分からず、彼は走る。

 かつて身近に居たあの少女とは、別人であると分かってながらも。

 そして彼は辿り着いた。

 いつもの動きが鈍重と呼べるほどの、風の如き素早さで。

 少女の前へと辿り着いた彼は、如意棒を取り出して、地面に突き刺す。

 そして彼は叫んだ。


「伸びろ! 如意棒ぉっ!!」


 持ち主の意志に応じ、何よりも硬い如意棒は、巨大な柱となって天へと突き進む。
 その先には、大きく口を開けた花狐貂が居た。


 ゴオオオオオンッ!!


 まるで鐘を打ち鳴らしたような低い音が響く。
 如意棒を支えていた土行孫は、その衝撃にビリビリと腕が痺れるのを感じた。

「ちっ……やっぱり駄目か」

 如意棒によって打ち上げられた花狐貂を見上げ、土行孫は舌打ちをする。
 あれだけの衝撃であっても、花狐貂を破壊する事は出来なかったようだ。

「外からだと難しいな。中からやるか」

 呟いた土行孫は、後ろを振り返る。
 そこには、長い赤毛を頭の両側で結った少女が、ぽかんとした目で土行孫を見上げていた。
 夢で見た少女の顔と似ているな、と土行孫は思った。

「大丈夫か?」

 だがそんな事はおくびにも出さず、土行孫は安心させるように少女に手を差し伸べる。
 導かれるように、少女はその手を取った。
 土行孫は手を引き、少女を立ち上がらせる。

「ここは危ない。早く逃げろ」

 土行孫は土竜爪を発動させ、地面に階段を作り上げる。

「ここを降りればシェルターがある。さあ早く――」

「あ、あのっ!」

 促そうとした土行孫の声を遮り、初めて少女が声を発する。

「貴方の……名前は……?」

「……土行孫だ。いいから早く行け」

「は、はいっ! 頑張ってください、土行孫様!」

 少女は階段を駆け下りていき、後には土行孫だけが残された。
 土行孫は階段の入り口を塞ぐと、花狐貂を見上げる。

「頑張ってと言われたからには、頑張らないといけないよなぁ」

 土行孫は巨大な柱となっていた如意棒を縮小させ、右手に持つ。

「どれ、一丁やるか」

 右手で構えた如意棒の先に、左手を添える。
 花狐貂に狙いを定めるその姿は、まるでビリヤードのキューを構えるかのような仕草だった。

「もう結構食ってるはずなのに、全然動きが変わらない。中にはやっぱり、消化液とかが有るんだろうな」

 花狐貂を見つめ、土行孫は呟く。
 消化液があるのならば、食べられた時点で死ぬだろう。
 おそらく宝貝でさえ溶かしてしまうに違いない。
 だが、例えそうだとしても、溶けるまでには僅かに時間があるはずだ。
 それに、と土行孫は言葉を続ける。

「外が堅い奴は、中が脆いと相場は決まってるんだよ!」

 土行孫は構えた如意棒を突き出し、真っ直ぐにグングンと伸ばしていく。
 それは花狐貂の口の中に入り、やがてドンッという音が聞こえ、衝撃が手に加わる。

「爆ぜろ」

 土行孫がパッと手を離すと、如意棒は忽ち大きくなる。
 そして、如意棒によって串刺しにされた花狐貂は、大きくなった如意棒に耐え切れずに内部から破裂した。
 パァンッと風船が割れるような音と共に、花狐貂は弾けて消える。
 それを見ながら、土行孫はポツリと呟いた。

「そういえば俺、もう何十年も蟹食ってねぇな。もう食えないけど」

 再び縮小させた如意棒を、土行孫は手元に引き寄せる。

「如意棒でさえ溶かすなんて、やっぱり凄いな。想像以上だ」

 花狐貂の口に入った如意棒は、消化液を浴びて先がドロリと溶けている。
 それが槍のように尖り、一層凶悪なイメージを抱かせた。
 花狐貂の中に突入した如意棒は、その身を溶かしながらも直進し、花狐貂を貫いたのだ。

「これで面倒な奴は片付いたな。あとは……」

 土行孫は先ほどから強風の吹き荒れる一帯を見つめる。
 そこに立つ四人組を、土行孫は睨み付けた。

「あいつらだけか」







「驚いたな。あのチビ、一人で花狐貂を潰したぞ」

 口調とは裏腹に、さほど驚いた様子の無い礼海が呟く。

「そうだな。だが、一匹倒しただけだ」

 土行孫をじっくりと観察する礼青。

「そうそう。まだまだ花狐貂は沢山有るんだよ。くくくく」

 礼寿のポケット、そこから小さな花狐貂が幾つも顔を出し、もぞもぞと蠢いていた。








あとがき

ちょっと(かっこつけさせる意味で)やりすぎたかな?
まあ良いでしょう。


前回、雷震子が邪魔だと言いました。
ですが、それは彼の役割を潰すわけではありません。
彼にはちゃんと噛ま……失礼、何でもありません。
ちゃんとした役があると思うので、ご安心ください。


次回は楊戩とかが出てくると思います。









あと私は魔礼紅が嫌いなわけではありませんので、あしからず。





[12082] 第三十四話 魔家四将編③ 援軍
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/07 23:33




 敵から逃げ切った太公望たちは、土行孫によって花狐貂が破壊されるのを見ていた。

「やりやがった! あのくじらをやっつけたぜ!」

 破壊されて消滅していく花狐貂を見ながら、雷震子が笑みを浮かべる。

「安心するのはまだ早い」

 喜色を浮かべている雷震子を、太公望は叱責する。

「雷震子、風をもっと強めよ。あの消化液を吹き飛ばすのだ」

「お、おう!」

 破裂した花狐貂からは、消化液が漏れている。
 今はそれが、あの四人組を怯ませるために雷震子が起こした風で、浮き上がっている状態だ。
 雷震子は風を強めて、消化液を城壁の外へと吹き飛ばす。

「うしっ! これでこっちには怖い物無しだ。一気にあいつらブッ倒そうぜ」

「うむ」

 人質となっていた姫発、天化は救出した。
 被害が出るであろう民も、既に地下に避難を完了している。
 一番の脅威であった花狐貂は既に無い。

「今度は、此方から出る番だ」

「では、僕もそれに一枚噛ませてもらうとしましょう」

「む?」

 後ろから聞こえた声に、太公望が振り向く。

「楊戩!」

「お元気そうでなによりですよ、太公望師叔」

 そこには哮天犬に乗り、爽やかな微笑を浮かべた楊戩が居た。

「おぬし、いつからそこに?」

「この場に到着したのは、つい先ほどです。
 本当はあの花狐貂を倒して、もっと華麗に登場したかったのですけどね」

 土行孫に先を越されました、と楊戩は苦笑を浮かべて、ひらりと哮天犬から飛び降りる。
 楊戩は天化の傷を一瞥すると、武吉に声を掛ける。

「武吉君。天化君を哮天犬に乗せてあげてくれ」

「分かりました!」

 天化の傷が出来る限り痛まないように、と気を付けながら武吉は哮天犬の背に天化を運ぶ。
 四肢に傷を負った天化は、それでも痛みに呻き声を上げる。
 その状態の天化に、楊戩は声を掛ける。

「天化君。君は一度、仙人界に戻って身体を癒さないといけない。
 だから、僕の哮天犬を貸してあげよう。
 後は僕達に任せて、君はゆっくり休むと良い」

 そう言った楊戩は、哮天犬の背を一度撫で、崑崙へと向けて飛ばせた。
 それを見送った太公望は、楊戩に向き直る。

「これで天化は大丈夫だろう。それで楊戩、次はあの四人組だが――」

「魔家四将ですね?」

「……おぬし、奴らの事を知っておるのか?」

「ええ、少々」

 楊戩は少し言い澱むが、その先を話し出す。

「僕は何十年か前、金鰲島に潜入したことがあります」

「金鰲に……何のために?」

「好奇心ですよ。もう一つの仙人界である金鰲島、そこがいったいどうなっているのか気になったので。
 魔家四将は、僕達が以前闘った九竜島の四聖と、力は同等と言われています。
 ですが、四聖とは異なり、冷酷な面が目立ちます。
 長兄の魔礼青をリーダーとした、魔礼紅、魔礼海、魔礼寿の四兄弟。
 それぞれ『青雲剣』『混元傘』『黒琵琶』『花狐貂』を持ち、兄弟ならではの連係プレーで相乗効果を発揮します」

「ふむ……連係プレーか……」

「ええ。ですから、彼らの本領は団体戦――」

 最後まで告げる前に、楊戩は言葉を失う。
 何故なら、新たな花狐貂が出現していたからだ。
 それも一体ではない。
 風船を膨らますように膨れ上がった花狐貂が、幾つも幾つも生まれていたのだ。
 太公望たちはその光景に絶句する。

「じょ、冗談じゃねぇ……一つだけでもあんなに手間取ったっていうのに……」

 雷震子は呆然とした表情で花狐貂を見上げる。
 だが花狐貂が再び暴れだそうとしたとき、天より幾条もの光線が花狐貂に向けて降り注いだ。

「あれは……ナタク!」

 太公望の視線の先には、背中の金磚きんせんを構えたナタクが居た。
 現れたもう一人の味方の姿に、太公望は安堵する。

「あやつ、また宝貝が増えておるのう」

 太公望がナタクと最初に会ったとき、彼は三つの宝貝を所持していた。
 乾坤圏、混天綾、風火輪の三つである。
 次に会ったときは、金磚という光線系宝貝、火尖鎗という化学反応系宝貝を太乙真人より受け取っていた。
 そして今回、ナタクは更に三つの宝貝を身に着けていた。
 そのうちの一つは両肩に着けており、太乙真人が好んで使用していた九竜神火罩だと判断する。
 そして右腕上腕に三つ連なった輪を、両腰に同じ形の剣を一振りずつ下げている。

「まあ良い。今は宝貝のことに言及している暇は無い」

 太公望は振り返ると、雷震子と楊戩の二人を見据える。

「雷震子。おぬしは再び花狐貂を、ついでにナタクも一緒に城壁の外へ吹き飛ばせ。
 今のナタクの攻撃で、多少なりとも街に被害が出ておる。
 このままでは花狐貂よりも先に、ナタクによって街が破壊されかねん」

「お、おう!」

 花狐貂へと風を巻き起こすため、雷震子は高く飛び上がる。
 それを一瞥した太公望は、楊戩へと向き直る。

「楊戩、おぬしはあそこまで行き、ナタクに花狐貂の破壊方法を教えるのだ。
 おぬしも土行孫が壊すところを見ていたのだろう?
 だからナタクの宝貝を有効に使えば、花狐貂を破壊する事など造作も無いと分かるはずだ」

「ナタクの? ……なるほど。流石ですね、師叔」

 太公望の言葉に、楊戩は太公望の意図する所を把握する。

「儂は既に一度、あれが破壊される所は見ておる。ならば、考え付かない方がどうかしておるよ」

 出来ねば軍師失格だ、と太公望はニヤリと笑みを浮かべた。

「そうですね。では僕は、白鶴の翼を借りて行ってまいります」

 変化、と楊戩が口にすると、その輪郭が一瞬で曖昧になり、再び輪郭が固定される。
 するとそこには、蒼髪の美青年ではなく、白い翼を持った鶴が立っていた。
 白鶴童子へと変化した楊戩は、翼を羽ばたかせ、空へと舞い上がった。

「あ、そうだ師叔、スープーシャンの事ですけどね」

 だが楊戩はスープーシャンの名を出し、空中で停止する。

「彼は他に無いほど、献身的で良い霊獣ですね。
 限界速度で飛んで、僕達を呼びに来てくれました。
 流石に今は仙人界で寝込んでいますが、その行動には胸を打たれましたよ」

 それだけを言うと、楊戩はナタクへ向けて飛んで行った。
 後に残された太公望と武吉は、それを見送る。

「お師匠さま、スープーシャンが褒められました。嬉しいです!」

「うむ!」

 武吉の喜びに満ちた声に、太公望も力強く頷いた。
 そこに、聞き慣れた声が後ろから聞こえてきた。

「何だ、行っちまったのか」

「む? おお、土行孫ではないか」

「よう、師叔。住民の避難は完了したぜ」

 太公望が振り向いた先には、赤い如意棒を引き摺りながら歩いて来る土行孫が居た。
 土行孫は街の一角を指し示す。

「ついでに来る途中で武王に会ったから、シェルターの中に入れておいたぞ」

「おお、でかした!」

 土行孫が指し示す先を太公望が見てみると、地面の一部に掘り返されたような後を発見した。
 その中に姫発は避難しているのだろう。
 だとすれば、姫発の人徳で民の恐怖心も、多少なりとも和らぐはずである。
 尚、シェルターには太公望の無茶な注文により、シェルター間で伝声管を通してある。
 そのため、状況が気になって勝手に出て来る、という事も無いだろう。

「ところでおぬし、それはまだ使えるのか?」

 太公望は土行孫が引き摺っている如意棒を指差す。

「ああ。それは大丈夫だ」

 問われた土行孫は、如意棒を持ち上げて伸ばしてみせる。

「かなり溶けちまったけど、ほれ、こうして伸ばせば元通りだ。
 尤も、太乙真人様に着けてもらった、先端の金箍とかは消えちまったけどな」

 元々の見た目は黒いただの鉄棒だったので、その事に関しては特に気にしていないらしい。

「でも先端が溶けたせいで、槍になっちまったからな。
 攻撃力だけなら、以前より上がってるぞ?
 その代わりに消化液とか付いてて、以前より使い難くなったけど」

 土行孫が如意棒を振るうと、先端に付着していた消化液がピッと数滴城壁に掛かる。
 すると、石で出来た城壁が煙を上げ、表面に小さな穴が開いた。

「それより、俺たちもナタクたちを追うとしようぜ。まだ本命の敵は無傷なんだからな」

「ああ、そうだのう」

 土行孫に促され、太公望は武吉の背に乗った。






 ナタクは金磚を撃ち、花狐貂を沈めようとした。
 だが金磚の光線は確かに命中したものの、その外皮を破るには至らなかった。

「でかいオモチャだ」

 呟いたナタクは、両腕に装着された乾坤圏を撃ち出す。
 貫くかと思われた乾坤圏だが、ボスッという音と共に花狐貂にめり込み、あっさりと弾かれてしまった。
 山をも砕く乾坤圏だが、花狐貂の身体はゴムのような弾力まで備えているらしい。
 苛立ちを覚えたナタクだったが、更に追撃を掛けようとした所で強風が吹いてきた。

「何だ、この風は」

 いつもならばどうという事も無い風であったが、それは突如として勢いを増し、横殴りにナタクを吹き飛ばした。
 巨大な花狐貂でさえも動かすほどのその風に、ナタクは何者かの作為を感じた。

「……あいつか」

 ナタクは空を見上げ、風を起こしている雷震子を見つけた。
 オモチャを壊すのを邪魔されたナタクは、苛立ちを込めて睨みつける。

「邪魔だ」

 両腕を突き出し、先に雷震子を潰すために、乾坤圏を撃とうとしたときだった。

「待ってください、ナタク!」

 ナタクの後方から、白鶴童子に変化した楊戩が待ったを掛ける。

「彼は街に被害が出ないよう、花狐貂を外に出しただけです。敵対している訳ではありません」

「俺には関係ない」

「いいえ、あります。もし攻撃すれば貴方の母、殷氏も悲しむ」

 母の名を出され、ピクリとナタクは反応する。
 雷震子に向けていた乾坤圏を、楊戩に向けた。

「お前、どうして母上の名を知っている」

「少し知っているだけですよ。そんなことより、今はあの花狐貂をどうにかする方が先です」

 楊戩はナタクの問いをさらりと流す。
 そしてナタクの攻撃を受けても尚、無傷で悠然と空を飛ぶ花狐貂を楊戩は見下ろした。

「あの宝貝は、外側からの攻撃にはめっぽう強いようですよ。
 貴方の乾坤圏でさえ、ゴムのような外皮に阻まれました。
 そのような攻撃では、どれほどやっても衝撃を吸収されてしまうでしょう。
 本気で壊そうと思うなら、内側から狙うべきです。
 それは先ほど土行孫によって、花狐貂が内側から破壊される所を見た貴方も分かるでしょう?」

 楊戩の言葉に、ナタクは乾坤圏を下ろす。

「あの花狐貂の内部は、おそらく消化液で満たされている。
 それで食べたものを即座に消化し、エネルギーとして動く宝貝です。
 でなければ、これだけの巨大な物を、これほどまでに幾つも操作できるはずが無い。
 壊すなら内側からと言いましたが、普通それは難しい。
 例え貴方といえど、口の中に入った途端に消化されて、エネルギーになってしまうでしょう」

 楊戩はナタクが腰に巻いている宝貝を指差す。

「ですが、貴方のその宝貝『混天綾』があれば何とかなります。
 さあ、頼みましたよ、ナタク。
 それがあれば、例え中に入ったとしても、溶かされずに動く事が出来ます」

 楊戩は自信満々に、ナタクがするべき事を説明した。

「……くだらん」

 だがナタクは、楊戩のその言葉を一刀に切り捨てた。

「え?」

 ナタクの言葉に、楊戩は呆気に取られた声を出た。
 ナタクが混天綾を使えば、花狐貂を容易く破壊出来るというのに。

 楊戩の言うとおり、花狐貂の内部は、強力な消化液で満たされている。
 それは土行孫の使用した如意棒が、容易く溶かされた事からも分かる。
 太乙真人のお手製の如意棒は、元々破壊されない事だけを前提に作られた代物である。
 それは酸なども例外ではない。
 しかし、それをも溶かすという事は、事実上溶かせないものは存在しないのだ。

「何を言いだすかと思えば、そんな事か。そんな事は言われなくても、疾うに分かっている」

「じゃあなぜ、それを早くしない? それが分かっているなら、君はそうすべきだ」

「黙れツル。お前の指図は受けん!」

 楊戩の言葉を切り捨てたナタクは、街の方を見据える。

「あいつは内側から攻撃するしかなかった。なら俺は外側から破壊する」

「あ、ちょっとナタク!」

 ナタクは雷震子に向けて上昇していく。
 楊戩はそれを制止しようとするが、最早ナタクはそれを聞いてはいない。
 楊戩はナタクの様子に、深い溜め息を吐く。

「子供らしい対抗心、か……。
 出来れば別の時に出して欲しかったよ。
 土行孫、君はどうやって彼を手懐けたんだい?」

 その問いは、この場にいない土行孫には届かず、風に流れて消えていった。



 ナタクは上昇して、雷震子に声を掛けた。

「おい、そこのお前。その無意味な風を止めろ」

「んだとぉテメェ!!」

 ナタクに無意味と言われ、雷震子がキレる。
 街へと入ろうとしている花狐貂を、全力で押し止めているときにそんな事を言われれば、怒るのも当然だろう。
 だがナタクは雷震子のことなど気にも留めず、花狐貂を見下ろす。

「あれは俺の獲物だ。俺が壊す」

「テメェ、後で絶対泣かす!!」

 雷震子の怒りに反応し、その背の翼がバリバリと帯電する。
 だがナタクはそれも無視し、右腕上腕に装着していた三連の輪を手に取る。
 雷震子が風を止めたのを見計らい、それを投擲した。

「っ!? 何だこりゃあ……」

 雷震子が呆けた声を出す。
 ナタクの投げた三連の輪は、花狐貂を包むかのように巨大化し、すっぽりと輪の中に花狐貂を通してしまった。
 だが次の瞬間、輪が急速に収縮を始め、輪の内側にあった花狐貂を縛り上げた。
 メキメキと音を立て、花狐貂はドンドンと圧縮されていく。
 その圧力に耐えられなくなったのか、花狐貂の口から消化液が溢れ始めていた。

 ナタクはそれを見届けると、両腰に下げていた二本の剣を両手に持つ。
 鋏のように交差させた剣を構え、ナタクは花狐貂へと飛ぶ。
 花狐貂へと一直線に突進したナタクは、花狐貂の腹部を切り裂きながら、向こう側へと突き抜けた。
 切腹のように腹を裂かれた花狐貂は、三連の輪の圧縮に耐えられずに潰される。
 中から消化液が噴き出して、花狐貂はゆっくりと落下していった。

「あの野郎……オレ様があんなにやっても駄目だったくじらを外側から……」

 雷震子はナタクのやった事を見て絶句する。
 花狐貂の外皮がいかに頑丈かという事を、実際に雷を落とした雷震子は知っている。
 だがナタクはやり遂げたのだ。
 それに対し、雷震子が悔しいと感じるのは仕方の無い事だろう。

「まったく、ナタクも無茶をする」

 雷震子の隣に寄って来た楊戩が、ナタクを見て嘆息する。

「ゴムみたいで衝撃を吸収する、とは言ったけどね。
 遁竜椿とんりゅうとうで縛ってから、呉鉤剣ごこうけんで切り裂く、か。
 『ゴムみたいに跳ねるのなら、縛り上げて衝撃を吸収する余地を消せば良い』
 全く、いったい誰に似たのやら……。
 僕の助言なんて、必要なかったみたいだしね」

 楊戩は苦笑いを浮かべる。
 外から破壊する、というナタクの言葉は、楊戩にとって傲慢といえる物だった。
 より難しいやり方で花狐貂を破壊する。
 そうすれば自分の方が上だ。
 子供らしい、傲慢で浅慮な考えだった。
 自分なら鼻で笑うやり方だった。
 そんな事をしても無意味であり、無駄に疲れるだけなのだから。
 だがナタクは、その幼稚な考えを実行に移し、そして成し遂げた。
 それは楊戩を、十分に驚かせるに値するものだった。
 だが……。

「無茶の代償は、あったみたいだね」

 ナタクが手にしている呉鉤剣、その刃が溶け落ちていた。
 持ち主であるナタクは混天綾によって、消化液を浴びる事は無かった。
 だが花狐貂を切り裂いたのだ。
 まともに消化液を浴びた呉鉤剣は、消化液には耐えられなかったのだろう。、

「これはもう使えん」

 刃の溶けた呉鉤剣を一瞥したナタクは、それを投げ捨てた。
 投げ捨てた呉鉤剣はクルクルと回転し、消化液を撒き散らしながら雷震子に向けて飛んで来た。

「うおあっ!?」

 慌てて躱す雷震子。
 頬を掠めて飛んで行った呉鉤剣を見て、雷震子は頬を押さえながらナタクを睨みつける。

「テメェ! 危ねぇじゃねぇか! ちょっと当たったぞ!」

「フン……避けられないお前が間抜けなだけだ」

「何だとこの野郎! 喧嘩売ってんのか! ああ!?」

 怒り狂う雷震子を、どうでも良いと言わんばかりに流して、遁竜椿を回収するナタク。

「まあまあ、二人とも。喧嘩は後にしなよ」

 魔家四将を倒す前に、仲間同士で同士討ちになりそうな所に楊戩が割って入る。

「あとナタク、後ろに気をつけた方が良いよ?」

「何?」

 後ろを振り向いたが、そこにいた物に反応する前に、ナタクは楊戩たちの視界から姿を消した。
 そこにいたもう一体の花狐貂によって。

「花狐貂が君を狙っているから……って、遅かったみたいだね」

 ぱっくりと食べられたナタクを見て、楊戩はあーあと言った。
 その顔に焦りの色は見られない。
 それもそうだろう。
 ナタクを呑み込んだ花狐貂は、内部からボコボコと膨れ上がっていたのだから。

「あ、雷震子。また風のガードを頼むよ」

 楊戩がそれを言い終わるとほぼ同時、花狐貂が内側から爆発した。
 その中心には、赤く輝く混天綾をはためかせたナタクが居た。

「やれやれ……結局は僕の助言が役に立ったから、まあ良いのかな?」

 楊戩はそう呟き、苦笑いを浮かべた。
 






あとがき

はい、今回は楊戩の説明回、ナタクの強化回でした。
雷震子? 風でガードおいしいです。

楊戩がやっと出てきて説明してくれたので、これで次回から魔家四将って書けますね。
宝貝の名前とかも出せますから、結構楽になります。
正直、剣とか四人組とかで面倒だったんですよ。


そしてナタク、以前誰かが言っていました。
DOKOUSONは弟育成SLGでも始めるつもりなのか、って。
これが育成の結果だよ!

彼の新しい宝貝は三つです。
太乙真人から強奪した九竜神火罩と、金木から強奪した遁竜椿と呉鉤剣です。
まあ呉鉤剣は捨てられましたけどね。


あ、言い忘れていましたけど、前回で私の前作のPVを上回りました。
ありがとうございます。



金木? ……誰それ?
原作のナタクに、兄貴らしい事してくれた兄貴なんていたっけ?



[12082] 第三十五話 魔家四将編④ 対峙
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2010/04/15 16:51





 ナタクが花狐貂を破壊するのを太公望たちは見ていた。

「また色々と凄くなっておるのう」

「ナタクさん、凄いです」

 武吉はナタクを褒め称える。
 だが土行孫だけは、ナタクの行動に眉を顰めた。

「だけど、わざわざ外から破壊しなくても良いだろうに。相変わらず、あいつは負けず嫌いだな」

「お主もそうであろうが……」

 土行孫も負けず嫌いである。
 否、太公望の仲間には負けず嫌いしか居ない、と言った方が正確だろうか。
 そんな太公望のツッコミを無視し、土行孫はナタクへと声を掛ける。

「ナタク!」

「む?」

「おいテメェ、俺を無視すんな!」

 土行孫の声にナタクは、再び諍いが起きようとしていた雷震子との会話を打ち切る。

「待つんだ、二人とも。今は仲間内で争っている場合じゃない」

 再びいがみあおうとするナタクと雷震子の二人の間に、元の姿に戻っていた楊戩が割って入る。

「良いか? 儂が策を授けよう。魔家四将どもに、これ以上の好き勝手をさせてはならぬ」

 太公望の口から、魔家四将を倒すための策が生まれた。
 その策を聞き、楊戩は納得したように頷く。

「なるほど、それは上手く行くかもしれませんね」

「うむ、魔家四将は連携プレーが得意だと言っておったな。
 ならば何がなんでも四人をバラバラにして戦わせる。
 それに全力を注ぐのだ!」

 そう言った太公望に、武吉が手を上げて質問する。

「でもお師匠さま。僕もやるんですか?」

 天然道士である武吉は、宝貝を持っていない。
 その分、体力は普通の道士を上回るものを持っているが、それだけだ。
 その武吉に対して、太公望は力強く頷いた。

「お主は以前にも同じ事をしておる。あの花狐貂を無効化するには、おぬしの力が必要だ」

「はい! 僕、頑張ります!」

「しかし師叔、よくもまあ、そうポンポンと策が出て来ますね」

 楊戩は感心したように呟く。

「もしも貴方が、あらゆる束縛を捨てて汚い手を本気で使ったらと考えると、僕は恐ろしいですよ。
 そのときは魔家四将はおろか、聞仲でさえもその智謀で倒せてしまうかもしれないのですから」

「それは褒めすぎだ、楊戩。儂はいつも、ズルい手を使っておるぞ」

「まあ、そういう事にしておきましょうか」

 楊戩は薄く笑みを浮かべる。

「では僕達は、貴方の剣となって、戦って参ります」

 楊戩は再び変化の術を使い白鶴童子へと姿を変える。

「フン、俺に策などいらん」

 そう言って飛び立とうとしたナタクだったが、その前に土行孫がドスンとその背に飛び乗った。

「そう言うなよ。お前の戦いが邪魔されないように動いてやるからさ」

 土行孫は振り落とそうとしたナタクに掴まりながら、太公望を見据える。

「俺はナタクがやり過ぎないように付いて行く事にする。雷震子とは相性が悪いみたいだからな」

「うむ、そうしてくれ。街が無くなっては困るからのう」

 太公望は頷いた。
 武吉は雷震子に頭を下げる。

「雷震子さん、よろしくお願いします」

「おう、任せとけ。感電すんじゃねぇぞ」

 背の翼を羽ばたかせて飛ぶ雷震子。
 その足に武吉はぶら下がるようにして掴まった。
 準備が終わったのを見た太公望は、全員に声を掛ける。

「良いか、お主達。魔家四将は今まで遊んでおった。
 花狐貂一匹に手こずっておった儂らを笑っておった。
 だがもう違う。奴らも本気で向かってくるであろう。
 くれぐれも油断するなよ」

「分かってるさ。オレ様が負けるわけねぇ!」

 雷震子の威勢の良い言葉に、太公望は薄く笑みを浮かべる。

「良し、では行け。皆の者」

 その言葉を皮切りに、全員が散開した。






 未だ浮かび続ける花狐貂。
 その内の一つに、魔家四将は乗っていた。
 その彼らに向けて、一直線に突き進む存在が居る。
 ナタク達だ。
 土行孫を背に乗せ、だが欠片も劣る事の無いスピードで空を飛ぶナタク。
 振り落とされないようにしっかりと掴まっている土行孫は、ナタクに小さく耳打ちをする。

「良いか? まず金磚で攻撃をしろ。だがそれで倒そうと思うな。金磚は目晦ましだ。
 その後、乾坤圏で奴らの足場を攻撃。花狐貂を乾坤圏で攻撃した場合、ゴムみたいに跳ねるからな。
 それでバランスを崩したところに遁竜椿を投げて、片方を封じた後にもう一方を叩くぞ」

「フン、俺に指図をするな」

 そう言ったナタクだったが、言われた通りに金磚に力を籠め始める。
 ナタクの姿を認めた魔家四将。
 その中の一人、傘を広げた魔礼紅が四人の前に出る。
 そしてナタクが金磚を放とうとしたその直前の事だった。

「待てナタク!」

 白鶴童子に変化した楊戩の声が、ナタクの攻撃を制止させた。
 撃つのを止めたナタクの横を通り過ぎ、楊戩は花狐貂へと降り立つ。
 両手を前に差し出した楊戩は、粛々と魔家四将に近寄っていく。

「魔家四将、もうこれ以上暴れるのは止めて欲しい。代わりに僕の命を差し上げますから」

 その白鶴の姿の楊戩の嘴の先に、魔礼青の青雲剣がスッと差し出される。

「お前の只者ではないその空気……。どこぞの名のある仙人だな?」

 魔礼青が楊戩の首を刎ねようと剣を振り上げたその瞬間。

「今だ雷震子!」

 楊戩は叫ぶ。

「よっしゃ、任せろ!」

 上空から雷震子の声が響く。

「発雷!!」

 雷震子の言葉に応じ、幾条もの雷が花狐貂の背へと降り注いだ。
 雷の余波で、辺り一面に煙がたちこめる。

「チッ……あのコウモリか……」

 舌打ちをする魔礼海。

「ん? 何だ……?」

 濛々と立ち上る煙が晴れて行き、魔礼紅は眉を顰める。
 その視線の先には、魔礼青が二人居た。

「貴様っ!」

「俺の姿をっ!」

 互いの姿を目にした魔礼青たちは、片手に握り締めた青雲剣を振りかざして斬り合う。
 だが同じ姿をした者たちの攻撃は相手に届く事は無く、互いの剣がぶつかるのみ。

「そうか、貴様は清源妙道真君、楊戩」

「仙人界で唯一、変化の術を使う道士か」

 膠着状態に陥った二人。
 その様子を見て、魔礼海は舌打ちする。

「全く同じだ。これは迂闊に手が出せないぞ」

 その時、カッと上空が光る。
 ナタクが金磚を魔家四将たちに向けて撃ったのだ。
 だが、その様子に慌てる事も無く、魔礼紅が笑う。

「フッ、倍返ししてやるよ」

 その背に掲げた四つに分かれた傘、混元傘を金磚の攻撃へと差し出した。



オーン!!」



 金磚の攻撃に晒された混元傘。
 そのまま撃ち抜くと思われたが、直撃する直前で光線がぐにょりと曲がる。
 そしてそのまま、金磚を撃ったナタクへと光線は弾き返された。

「ナタク!」

「分かっている!」

 土行孫の言葉にナタクは応じ、跳ね返ってきた光線の前に左腕を差し出した。
 その手の前に、ナタクの肩から射出された九竜神火罩が巨大化して出現する。
 盾となった九竜神火罩に当たった光線は、バラバラに弾けてナタクたちの横を通過して行った。
 防御したナタクたちを、魔礼紅は嘲笑う。

「残念だったな。この混元傘がある限り、貴様達の攻撃は完全に封じる事が出来る」

 ナタク達の攻撃の全てが無駄なのだと言わんばかりに、魔礼紅は混元傘を構える。

「じゃあ俺は、あのうるさいハエを花狐貂で潰すとしよう」

 魔礼寿はリモコンに手をやり、花狐貂を動かそうとした。 
 だがその前に、後ろから伸びてきた浅黒い手に、ガシッと頭を掴まれる。

「オレ様を忘れてもらっちゃあ困るぜ?」

 ギリギリと頭を締め上げる雷震子。
 その腕力の賜物か、魔礼寿の小さい身体が宙に浮く。

「暴れんじゃねぇぞ。今から潰してやるからな」

 魔礼寿の頭を持ち上げている手に力を込めようとする雷震子。
 だが魔礼寿はフンと鼻で笑う。

「ただの道士に頭を潰されるほど、柔じゃないんだよ」

 手に持ったリモコンで、魔礼寿は花狐貂を操作しようとした。
 だがその時、風のように素早い影が魔礼寿の前を通り過ぎる。

「そうはさせません!」

「あ……」

 横から割って入った武吉が、魔礼寿の持つリモコンを掠め取った。
 かつて九竜島の四聖の一人、高友乾からも宝貝を奪い去った実績を持つ武吉だ。
 雷震子に掴まって注意が逸れている魔礼寿から、リモコンを奪い取る事など容易い事だ。

「これでこのくじらは動きません!」

「チッ……」

 舌打ちをする魔礼寿。
 抵抗を止めて動かなくなり、ぶらりと人形のように垂れ下がる。

 武吉が上手く動いてくれたお陰で、花狐貂の心配は無くなった。
 ホッと小さく安堵した土行孫は、魔礼紅の持つ混元傘を見て呟く。

「あの傘、厄介だな……」

「……面白い」

 だがナタクは、魔礼紅に興味を持ったようだ。

「あの傘は俺の獲物だ」

「おいナタク」

「邪魔はしない。そう言ったはずだ」

「……仕方が無い、か」

 魔礼青、魔礼寿の二人は引き離した。
 あとは魔礼紅と魔礼海の二人だが、ナタクが魔礼紅と戦ってくれるなら、土行孫はもう一人と戦えば良い。

「じゃあ俺は、魔礼海を倒そう」

 そう言って、土行孫はナタクの背から飛び降りる。
 花狐貂の背に音も無く着地した土行孫は、魔礼海に向けて土竜爪を構えた。

 土行孫が降りて身軽になったナタクは、再び金磚に力を籠める。

「今度は全力で行く。死ね」

 先ほどの数倍の大きさの光線が金磚から放たれる。

「馬鹿が……。瘟!!」

 魔礼紅は混元傘を構え、ナタクに光線を跳ね返そうとする。
 だがそれは叶わなかった。

「くっ……重い……!」

 ナタクの全力の攻撃。
 跳ね返すことが出来ず、一本の光線は数百もの細い光線となってバラバラに弾けて飛んで行く。

「なんだあの小僧……攻撃力が高すぎる」

 攻撃を上手く跳ね返せ無かった事に、魔礼紅は焦りを浮かべる。

「礼海!」

「ああ」

 魔礼海は黒琵琶を背から取り外す。

「そろそろ俺の出番だな」

 魔礼海が黒琵琶を弾くと、ギィィン、とかん高い音が辺りに響いた。

「フフ……今日もこの琵琶は良い声で鳴いてるぜ」

「良いから早くしろ、礼海!」

「分かっている」

 魔礼海が再び琵琶に指を走らせようとしたその時だった。

「何っ!?」

 飛来した土竜爪の爪が、魔礼海を襲う。

「チッ……!」

 琵琶を盾にして、その爪を弾き飛ばす。
 そのままバックステップで後ろに下がると、魔礼海が一瞬前までそこにいた場所に、土竜爪が現れる。
 先ほど魔礼紅が跳ね返すのに失敗して注意が逸れたとき、姿を消したのだ。
 何も無い空気から溶けるように現れた土行孫は、飛んで行った爪を回収しながら呟いた。

「そうはさせないぜ」

 魔礼紅の背に魔礼海はずっと隠れていた。
 魔礼海が後ろで補助している限り、このままではナタクは魔礼紅を倒す事が出来ない。
 ならば、土行孫が魔礼海を引き剥がす。
 それがナタクに言った、邪魔をさせないということだ。
 魔礼紅から離れた魔礼海。
 そのまま合流させないように警戒しながら、土行孫は言った。

「これで作戦通り、バラバラに戦うことが出来る」

「フン……例えバラバラにしたところで、お前達はここで死ぬんだよ」

「それはどうかな」

 土行孫は魔礼海に向けて、一直線に走り抜ける。
 その勢いのまま、土行孫は左手の土竜爪を貫くように突き出す。
 だが魔礼海をそれを横に回って容易く避けると、右足を軸にした左回し蹴りで土行孫を蹴り飛ばす。
 衝撃で数歩分後退した土行孫だが、倒れそうになるのを堪えて、土竜爪を横薙ぎに振るった。
 だがそれも躱され、後ろに回りこまれる。
 
「くそっ!」

「遅い」

「ぐううっ!!」

 黒琵琶で殴られ、土行孫は前方へと投げ出される。
 その様を見た魔礼海が、呆れたように土行孫に言った。

「ノロい……こんなものか」

 そして再び黒琵琶を構える魔礼海。
 対する土行孫は、舌打ちをして魔礼海を睨みつける。

 花狐貂の上では、有効に使える土が少ない。
 勿論、足場に出来るだけの量は空気中に漂っているものの、それでは不十分だ。
 いつものように地面を爆発させて、その推進力で前に進むという事が出来ない。
 土行孫は槍となった如意棒を取り出し、穂先を魔礼海に差し向ける。

「楽器で人を殴るのは、あまり褒められた事じゃないぜ?」

「そんな脆いものを使う訳が無いだろう?」

 ギィィン、と黒琵琶が鳴る。
 人を殴ったというのに、黒琵琶からは変わらず澄んだ音が響く。

「お前の力、俺が有効に使ってやるよ」

「なにっ!?」

「ノロマなお前に相応しく、ゆっくり聞いていけ」

 その瞬間、黒琵琶から音が溢れた。







あとがき

次回、DOKOUSON無双になると思います。
あと一回だけですが、他の漫画の技とか使います。
嫌いな方は気をつけてください。





[12082] 第三十六話 魔家四将編⑤ 無双
Name: 軟膏◆05248410 ID:b4c4a321
Date: 2009/12/08 20:16






「いかん!」

 魔礼海の弾いた黒琵琶、それは魔礼海から一番遠く離れた太公望の下まで届いた。

「ぐうぅ……」

 慌てて耳を塞ぎ、音の侵入を遮ろうとする太公望。
 幸い、琵琶の音は長くは続かなかった。
 耳鳴りのする頭を抱えながら、太公望は仲間達を見つめる。

「神経撹乱系の宝貝か。儂は比較的遠くに居るから良いとして……あやつらは……」

 魔礼海の宝貝は強力だ。
 数秒の事であったとはいえ、太公望はふらつく足を叱咤しながら、何とか立っている状況なのだ。
 だが敵がそれを見逃してくれるとも思えず、ただ耳に痛いだけの宝貝という訳でもないだろう。
 琵琶の音が鳴り終えてから、仲間達は沈黙している。
 その沈黙が、太公望の胸を酷く騒がせるのだ。
 そして、動きを止めていた仲間の一人が、グラリとよろめいて倒れ伏した。

「武吉っ!?」

 太公望が叫ぶと同時に、時が止まっていたような静寂が、一気に崩れ去った。






「ふふふふ……」

 魔礼寿は哂う。
 くすくすと、まるで子供のような無邪気さを装いながら。

「まったく、手間がかかるね」

 既に自らの頭を締め付けていた腕に力は籠もっていない。
 するりと拘束を抜け出すと、トコトコとのんびり散歩でもするように歩いていく。
 その先には、両耳から血を流した武吉が倒れていた。

「耳が良すぎるってのも、考え物だねぇ」

 武吉は至近距離で魔礼海の黒琵琶の音を聞いた。
 通常ならば、倒れるなどという事は無い。
 だが、武吉は天然道士だ。
 その力を身体能力の底上げに使っていて、それが五感にも作用しているのだ。
 いつもならば遠くを見渡せる高い視力や、犬のように発達した嗅覚は役に立つだろう。
 だが、この場合は逆効果でしかない。
 黒琵琶の音は武吉の鼓膜を破壊し、感覚を狂わせて気絶させるに至ったのだ。

 よっこらしょと腰を曲げて、武吉が奪った花狐貂のリモコンを拾う。
 軽く眺めて大丈夫だと判断したのか、魔礼寿は武吉を蹴り飛ばした。

「うぁっ!」

 脇腹に魔礼寿の足が刺さり、武吉が呻く。

「他人の物を盗むなんて最悪だな」

 心にも無い事を呟いた魔礼寿は、再び武吉を蹴り飛ばす。
 先ほどよりも、強い力を込めて。
 花狐貂の上をゴロゴロと転がっていった武吉は、そのまま見えなくなった。
 数秒後、魔礼寿の耳にぐしゃりという音が聞こえる。

「あ~らら、落ちちゃった。まあ良いか」

 花狐貂から落ちて行った武吉。
 魂魄が飛んでいっていないところを見ると、死んだ訳ではないらしい。
 魔礼寿は振り返ると、魔礼海に向けてリモコンを見せる。

「おーい、取り返したぞ」

 ただの天然道士に出来ることなど、こうして宝貝を掠め取る程度。
 落ちて行った雑魚を、特に気にする必要などない。
 魔礼寿はそう判断して、武吉を追う事は無かった。






 土行孫と雷震子。
 黒琵琶の音が響いてから、彼らは沈黙していた。
 何が起きたのかと問われれば、彼らを見れば一目瞭然だろう。
 瞳からは光が失われ、身体には黒い文様が走っている。
 この文様は黒琵琶の音が響いた後、彼らを締め付ける痣のように刻まれたのだから。
 特に雷震子は上半身裸であるから、その有り様が良く分かる。

「おかしいな。チビとコウモリだけしか操れていない」

 魔礼海は倒れた武吉は勘定に入れず、土行孫と雷震子を見つめた。
 魔礼海の黒琵琶、その能力は他人を操る事にある。

「……まあ良いか」

 ニヤリと含み笑いを零した魔礼海は、二人に命令を下す。

「暴れろ」

 ギィィン、と琵琶を鳴らすと、動きを止めていた二人がビクリと跳ねるように反応した。
 始めに動きを始めたのは雷震子だった。
 その身に小規模な竜巻を纏わせた雷震子が発動の言葉を唱える。

『起風 発雷』

 その言葉に呼応し発生した竜巻は、巨大な嵐となって四方八方へと広がり、建物を吹き飛ばす。
 天をつんざく程の強力な雷が街に降り注ぎ、家屋に当たった雷はその家を焼いた。

 雷震子に続いて、土行孫が動いた。
 先ほどまで魔礼海と対峙していた土行孫。
 だが今は魔礼海の術中に嵌まり、言われるがままに暴れようとしていた。

「オ……アアア……アアアアアッ!!」

 喉の奥から搾り出すような声で呻きながら、土行孫は叫ぶ。
 如意棒を投げ捨て、土竜爪を掲げて発動させる。
 土竜爪の命に従い、彼の下へと『土』が集まっていく。
 それは普段、彼が使用している土だけではない。
 建物を構築する木材。
 城壁を構築する石材。
 それら全てが一緒くたに空に浮かび、貪欲に一箇所に集められていくのだ。
 それはさながら、ボードゲームの盤をひっくり返すかのような所業だった。
 集められた『土』は土竜爪に纏わりつき、巨大な鉤爪となって再構築される。

 魔礼海に操られた土行孫の頬を、一筋の光線が通り過ぎる。
 チッと音を立てて、頬から血が出る。
 だが土行孫はそれを気にする事も無く、光の飛んできた方角を見遣る。
 そこではナタクと魔礼紅が戦闘をしており、弾かれた金磚の攻撃の余波が飛んできたようだ。
 混元傘に罅を入れるほどの威力を籠めて撃った金磚を見て、土行孫は相手を決めたらしい。
 巨大な鉤爪を両腕に作った土行孫は、それをブンと一振りする。
 ナタクへ向けて振り回されたそれは、大振りだったせいか直前で気付かれてナタクに避けられた。

「お前……」

 ナタクは鉤爪を振るった土行孫を見て、その顔に僅かに動揺の色を浮かべる。
 ナタクは過去、一度その肉体を捨てている。
 そして太乙真人により、蓮の花の化身として再び生まれた。
 そのナタクには文字通り神経が無く、魔礼海の黒琵琶が効かない。
 それ自体は喜ぶべき事だが、それは同時に、操られるという感覚が理解出来ないという事でもある。
 ナタクに分かった事は、今土行孫は敵対していて、自らに刃を向けているという事だ。
 再び鉤爪を振るう土行孫に向けて、ナタクは火尖鎗を構える。
 攻撃を反射するしか能の無い魔礼紅よりも、土行孫の方が興味の対象として上に位置したようだ。

「死ね」

 ナタクの言葉と共に火尖鎗から炎が伸びる。
 だが土行孫は腕をかざして、それを受け止めた。
 家屋や城壁を破壊し、砕いて作られた無骨な爪。
 それを火尖鎗は突破する事が出来なかった。
 否、火尖鎗の炎によって、鉤爪が燃え上がっている。
 効果はあったのだ。
 だが、それはそれを形作っている土行孫、引いては土竜爪に影響は無かった。
 燃える爪と化したそれを、土行孫は振り回す。

「チッ……」

 縦横無尽に振り回されるその爪から、ナタクは小回りの効く風火輪で寸での所を避け続ける。
 土行孫は両手を合わせるようにしてナタクを叩き潰そうとする。
 それをナタクは両腕を横に向け、乾坤圏を発射して鉤爪に当てる
 山をも砕く威力の乾坤圏は鉤爪に穴を開けて、ナタクはその開いた穴からひらりと抜け出した。
 避けられて動きの硬直している土行孫に向けて、ナタクは遁竜椿を投げる。

「ガァッ!」

 それは土行孫に絡みつき、その身を拘束した。
 暴れる土行孫だが、更に遁竜椿は絞まり、動きを抑えていく。
 暴れまわる土行孫の身体から、ベキベキと骨の折れる音が響く。

「終わりだ」

 ナタクは金磚を構え、土行孫に向けて撃ち出そうとしたその時だった。

「アアアアアッ!!」

「何っ!?」

 土行孫は力尽くで遁竜椿を破壊した。
 砕けた遁竜椿はパラパラと破片が零れ落ち、まるでオモチャの手錠のようだった。
 左腕が折れ曲がっていても、土行孫は気にした様子を見せない。

 何が原因だったのだろう。
 花狐貂程の巨大な宝貝を破壊したとき、遁竜椿にも罅が入っていた事だろうか。
 魔礼海に操られ、土行孫が自らの身体を省みる事が無くなっていた事だろうか。
 だが理由が何であれ、土行孫に破壊されるとは思っていなかった。
 だからナタクは、土行孫の姿に一瞬虚をつかれた。

 上から叩き付けるように振り下ろされた鉤爪。
 ナタクがそれを避けようとした時、鉤爪が崩壊する。
 ナタクが破壊したのではない。
 鉤爪は自壊したのだ。
 それはいったい何を意味するだろう。
 一箇所に留まり、土竜爪を振るっていた土行孫。
 巨大な鉤爪は、機動力を完全に殺していた。
 それが無くなる。
 つまり、土行孫は動けるようになったのだ。

「……」

 目を見開いたナタクの腹に、槍と化した如意棒が突き刺さっていた。
 崩壊する鉤爪からは確実に避ける事が出来た。
 だがその先に潜んでいた土行孫に、ナタクは気付けなかったのだ。

「カハッ!」

 ナタクが苦痛の呻き声を上げる。
 ナタクの腹を貫通していた如意棒が、急激に太くなったのだ。
 太くなった如意棒はナタクの腹に開いた大穴を更に拡げ、ブチブチと肉を巻き込んで千切りながらその身を引き裂いた。
 それはナタクの上半身と下半身を二つに別れさせる。
 飛行宝貝である風火輪と離れ、最早声も無く墜落していくナタク。
 土行孫は無感動な目でそれを見下ろしてから、興味を失ったように目を背ける。
 その先には、嵐を巻き起こしている雷震子がいた。

 土行孫は一直線に雷震子へと突き進む。
 魔礼海の命令は、「暴れろ」という一言のみ。
 誰々を相手にしろ、という事は命令されていない。
 だかれこそ、ナタクが消えた今、一番目立つ雷震子に土行孫は目をつけたのだ。

 雷震子に向けて、大雑把に土行孫が殴りかかる。
 雷震子の腹に当たるが、気にすることなく土行孫の顔を雷震子が殴り飛ばす。
 互いに防御を考えることさえなく、殴り殴られ再び殴り返す。
 狂ったように殴り合いを始めて、数十合。
 決着のつかない殴り合いに苛立ちを感じたか、先に動いたのは雷震子だった。
 土行孫にしがみ付き、腕を離されないようにしっかりと巻きつかせる。

『発雷』

「ガッ……アア……!」

 ゼロ距離からの雷。
 それは土行孫の皮膚を焼き、全身をダランを弛緩させた。
 雷震子はその身が起こした雷であるため、耐性を持っているからか、自らも食らった雷を屁とも感じていない。
 雷震子が腕を離すと、土行孫は碌な抵抗をする事も無く、ボフンという音を立てて花狐貂の背に落下した。
 興味を失った雷震子は、再びその身に竜巻を纏う。
 その時、跳ねるように土行孫が飛び起きた。
 まさか起き上がるとは思っていなかったのだろう。
 見下ろした雷震子の四肢に、下方から放たれた土竜爪が突き刺さる。

「グゥッ……」

 呻く雷震子。
 ガクンと高度を下げた雷震子の下へ、土行孫が飛び上がる。
 一足で雷震子よりも上空へと上がった土行孫は、雷震子の顔に右の掌打を叩き込む。
 そのまま頭を掴んで重力に任せて落下し、花狐貂へと激突する。
 受身を取る事も無く、頭から落ちた雷震子。
 その顔面に土行孫は、落下した勢いを加えて膝を落とした。
 頭部への三連続の攻撃に気を失ったか、雷震子はピクリとも動かなくなった。
 その様を見て魔礼海が哂う。

「はははは、何だ、中々やるじゃないか」

 土行孫の戦いぶりに、上機嫌になる魔礼海。
 その有り様にも、土行孫は何も返さない。
 ギィィン、と再び鳴らされた黒琵琶の音で動きを止め、濁った目でぼんやりと辺りを見つめているだけだ。
 それを横目で見ていた魔礼青の片方が、もう片方の魔礼青に言った。

「お前の味方はやられた。そろそろ変化の術を解け、楊戩。最早猿芝居の必要もあるまい」

 その言葉に、片方の魔礼青の姿が朧に霞む。
 楊戩がその変化を解いたのだ。

「貴様の……いや、太公望の作戦が、俺達四人を引き離す事にあるのは分かっていた。
 一対一で戦えば勝てる、そう踏んでいたのだろう」

 魔礼青の言葉に、魔礼紅、魔礼海が後に続く。

「残念だったな。俺達を甘く見すぎなんだよ」

「後はお前一人だ。太公望も残ってはいるが、お前が消えた後、一人では何も出来まい」

「……魔家四将よ」

 楊戩を取り囲む三人に、静かに楊戩は声を発する。

「あまり僕を怒らせるな。抑制が効かなくなるだろう?」

 常ならぬ楊戩の声と殺気に、三人はゾクリと背筋が粟立つ。

「フ、生意気な事を……」

 魔礼海が黒琵琶を弾く。
 ギィィン、という音と共に、魔礼海の傍へと土行孫が降り立った。

「このチビの魂魄は既に俺の支配下だ。
 一度掛かった俺の支配から逃れた者は、今までに存在しない。
 止めたければ、それこそ封神するしかないだろう。
 お前に戦えるかな?」

「……く、ふふふふっ」

 魔礼海の言葉に、楊戩は含み笑いを漏らす。

「……何がおかしい?」

「おかしくもなるというものさ。魔家四将、君達は実に雄弁だね。沈黙は金という言葉を知ると良い」

「どういう意味だ」

「分からないのかい?」

 楊戩は尚もくすくすと笑い、よじれると言わんばかりに腹を押さえている。

「君達はさっきから、彼の事をチビだチビだとずっと言っているね。
 彼の事を知らないのなら、僕が教えてあげようか? 
 彼の名前はね、土行孫というんだ。よく覚えておくと良い。
 その土行孫だけどね、彼は昔……一度だけ僕に勝った事があるんだよ」

「それがどうした」

 苛立ちを抑えきれない魔礼紅が、混元傘を楊戩に向ける。
 今にも楊戩に向けて、混元傘に蓄積した力を解き放とうとしている。
 その様子に、楊戩はやれやれと肩を竦める。

「ここまで言っても分からない、か。
 良いかい? 彼は僕に勝ったんだよ。
 その彼が、いつまでも操られてばかりだと思っているのかい?」

「何っ!?」

 楊戩の言葉に、皆が土行孫に注目する。
 だが土行孫はそれにも反応せず、ただぼんやりと突っ立っているだけだった。
 魔礼海は楊戩に向き直る。

「何を馬鹿な事を……。こいつは俺の支配下だと、さっきも言っただろう?」

「ふふ……『今』はそうだね。でも、一つ忠告しておこうか。
 僕もさっき言っただろう? 沈黙は金だ、と。
 フラグの力を、あまり甘く見ないほうが良いよ」

「ふざけた事を抜かすな。ああ、そうだ……」

 魔礼海は何かに思い至ったか、その口端を吊り上げる。

「確かこいつ、女を庇っていたな。
 何なら、今からこいつに、あの女を殺させてみるか。
 そうすれば、お前も無駄な事を言ったと理解できるだろうさ」

 魔礼海のその言葉に、今まで動かなかった土行孫が、ビクリと反応する。
 だが土行孫に背を向けている魔礼海は、その事に気付いていない。
 そしてボソリと土行孫は呟いた。

「ヤラセ……ナイ……」

「何?」

「礼海! 後ろだ!」

 魔礼青の叱責が飛ぶ。
 振り向いた魔礼海は、土竜爪を振り上げた土行孫の姿を見た。

「うおっ!?」

 振り下ろされた土竜爪を、横に飛んで魔礼海は避ける。
 だが土行孫は動きを止めず、そのまま魔礼海に向けて突き進む。
 横薙ぎに振るわれた土竜爪を、間一髪の所で黒琵琶で受け止めた。

「何だこいつ!?」

 魔礼海は戸惑いの声を上げる。
 それは当然だ。
 土行孫の顔、そこには操られている印である文様が、未だ刻まれているのだから。
 しかし先ほどとは異なり、彼の瞳には爛々とした怒りが宿っていた。

「礼海、何をやっている!」

「こいつ、俺の命令を受け付けない!」

 魔礼紅の問いに、魔礼海は焦燥をその顔に浮かべる。
 混乱する魔礼海。
 確かに土行孫の魂魄は支配下に置いたはずなのだ。
 だが彼の瞳には、まるで操られている事など感じさせない意志が籠もっている。
 未だかつて、このような事は起こらなかった。
 それが魔礼海の冷静さを削る。

「っ!? 消えただとっ!?」

 姿を消した土行孫に、魔礼海は辺りを見回す。

「何処だっ! 何処に行った!?」

 魔礼海は黒琵琶を振り回し、所構わず攻撃する。
 だが何にも当たる事は無く、それは空振りした。
 その時、魔礼海の背筋がゾクリと粟立つ。
 魔礼海は殺気を感じた方角へと黒琵琶を向ける。
 だが、それは僅かに間に合わなかったようだ。

「ぐ、ああっ!」

 魔礼海が苦悶の声を上げる。
 魔礼海の傍らに現れた彼は、一撃で黒琵琶の弦と、魔礼海の右腕を同時に斬り飛ばしていた。
 だらりと下げた両手に、花狐貂の消化液が付いた呉鉤剣を持って。
 すると、宝貝が壊れたせいだろうか。
 彼の顔に走っていた黒い文様が、ゆっくりと消えていく。

「……あれ、俺は……」

 正気を取り戻したか、土行孫はぼんやりと辺りを見渡す。

「礼海!」

 腕を斬り飛ばされた魔礼海の姿に、魔礼紅が叫ぶ。
 対して、楊戩はその顔に笑みを浮かべたまま、小さく呟いた。



「ほら……ね?」



 それを聞きとめたか、魔礼紅が楊戩に向けて混元傘を構える。

「貴様ぁ!」

 だがそれは発射することは無かった。
 撃ち出される直前、混元傘を掲げる魔礼紅の腕に、幾本もの光の刃が突き立ったからだ。

「誰だっ!」

 魔礼青が刃が飛んできた方角に青雲剣を振るった。
 幾重にも現れた刃が、現れた人物に襲い掛かる。
 だがそれは、男が振るった莫邪の宝剣によって防がれた。

「出番の無いまま終わるなんて真っ平御免さ」

 そこに立っていたのは、白い哮天犬を後ろに控えさせた天化だった。

「俺っち、こう見えても負けず嫌いでね」

 四肢に包帯を巻いて、莫邪の宝剣と小さな刃を持って再び戦場に現れた天化。
 瞳に強い意志を秘めた天化は、魔礼青に向けて莫邪の宝剣を突き付けて宣言した。

「再戦さ!」








あとがき

味方が多くなると、潰したくなるのはなんでだろうか。
噛ま……雷震子がやられてしまいました。
顔ぐちゃぐちゃですけど、雲中子が何とかしてくれると思います。

宣言通り、DOKOUSON無双になりました。
操られている状態ですけどね。
ご都合主義ですけど、細かい事は気にしない。

今回、一瞬だけですけど、武吉とナタクと雷震子を封神させてしまおうかと思ってしまった。
もしやったら後が続かなくなりそうなので却下しましたけど。
それと書いてて気付いたんですけど、どうして敵より味方と戦っていることの方が多いんでしょうね、ウチのDOKOUSONは。

前回、別の漫画の技を使うと言いましたが、分かりましたでしょうか?
岩颪なんて誰も覚えてないかなぁ……。


前回で三十万PV超えました。
ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。

次回はやっと天化の出番。
原作と変わらないと思いますが、お付き合い下さい。





[12082] 第三十七話 魔家四将編⑥ 天化
Name: 軟膏◆05248410 ID:a2b7933f
Date: 2010/04/15 16:42





 楊戩と背中合わせに立つ天化。
 その四肢にグルグルと包帯が大量に巻かれているのを見て、楊戩が尋ねる。

「天化君、もう傷は平気なのか?」

 その問いには答えず、天化はただ魔礼青を見つめながらポツリと返した。

「……楊戩さん、この剣士は俺っちがやるさ」

「……分かった」

 天化の口調に何か感じ入るものがあったのか、楊戩は天化の言葉を受け入れた。
 そして楊戩は、未だぼんやりと立っている土行孫の名を呼ぶ。

「土行孫、起きたばかりで申し訳ないけど、状況は分かっているかい?」

「……ああ。嫌というほどに、な……」

 カラン、という音を立てて、土行孫の手から血に塗れた呉鉤剣が抜け落ちた。

 花狐貂の上から見える豊邑の街は、瓦礫の山と化していた。
 その惨状を引き起こした人物が誰なのか、土行孫には良く分かっていた。
 全身を襲う虚脱感、折れた腕と軋む身体、数分前までと食い違う景色、倒れている仲間。
 それら全てが、自分が起こした事なのだという証明となって、土行孫に突き刺さる。

「本当、何やっているんだ、俺は……」

「悪いけど、自虐なら後回しにしてくれ。誰も君の話を聞いている暇なんか無いんだ」

 呟いた土行孫の言葉を、楊戩は切って捨てる。

「僕ならともかく、悲劇のヒーローなんて君には似合わないよ。
 下らない事を言うより前に、すべき事があるんじゃないのかい?」

「……ああ、そうだな」

 楊戩の言葉に、土行孫は顔を上げる。

「後は頼んだ……」

 そう言って土行孫は、気を失って倒れている雷震子のもとへ、フラフラと歩き出した。
 今は大丈夫だが、雷震子が人質に取られるという事も考えられる。
 気絶している雷震子に、抵抗する術は無い。そうなれば、今度こそこちらは敗北する。
 自分が雷震子をあのようにしたのだから、自分が助けに行くべきという考えが、今の土行孫の頭を支配していた。
 全身を襲う激痛に呻きながら、ノロノロと歩く土行孫を見て、魔礼紅が混元傘を向ける。

「俺達を無視するなんて、大層な余裕だな!」

「おっと、そうはさせない」

 だが混元傘を土行孫に向けて撃ち出そうとした魔礼紅の前に、土行孫を庇うように哮天犬が立ちはだかる。

「僕が守っているんだから、これ以上、僕の仲間に傷一つ付けさせる気は無いよ」

「楊戩っ!」

 憎々しげに楊戩の名を呼ぶ魔礼紅。
 だがその視線にも臆する事無く、楊戩は続ける。

「魔礼海は腕を切り飛ばされ、宝貝も破壊された。
 花狐貂の上にいる僕達に対して、魔礼寿は何も出来ない。
 そして、魔礼青は天化君が倒すよ。
 さあ魔礼紅、君はいったいどうするのかな?」

「くっ……!」

「なんなら、撃ち合いでもしてみるかい?」

 口元に笑みを浮かべる楊戩は、再び変化を使う。
 輪郭がブレて、姿が変わる。
 現れたのは、目の前に立つ者と同じ魔礼紅だった。

「君の混元傘は、ナタクの攻撃で罅が入っている。
 対して、僕の持つこの混元傘は、罅の入る前の完全な物だ。
 さて、互いに同じ宝貝を持って戦った場合、どちらが勝つと思う?」

 魔礼紅の姿に変化した楊戩は、既に口調を真似る事さえも止めている。
 混元傘を肩に担いだ楊戩に対し、忌々しいとばかりに魔礼紅は舌打ちをした。






 一方、魔礼青と対峙している天化は、魔礼青の一挙手一投足を余さず逃さないように見つめていた。
 一度魔礼青に破れた身である。天化には油断など欠片も無かった。

「黄天化、懲りもせずまた斬られに来たか」

 魔礼青が言葉を発するが、天化は何も語らず、ただ莫邪の宝剣を右手に構えて相対していた。
 その余裕とも取れる天化の姿に触発されたか、魔礼青は天化に向けて駆ける。

「最早手加減などしない。今度は命は無いぞ、黄天化!」

 一足で剣の間合いに入った魔礼青は、青雲剣を握って上段に構えて大きく振るった。
 幾つもの刃が生まれ、その鋭い切っ先が天化を襲う。
 あわや斬られるか、と思われたその時だった。

 ガギィィンッ!

「なにっ!?」

 天化の左手に現れた、もう一本の莫邪の宝剣。
 両腕に構えた二本の莫邪の宝剣は、青雲剣の刃を全て防いだ。
 そのまま宝剣を振り抜いた天化によって、魔礼青は後方へと吹き飛ばされる。

「……なるほど。莫邪の宝剣の二刀流か。だが……」

 スタッと軽やかに降り立った魔礼青は、天化の持つ宝剣を見据える。

「それでも、俺の攻撃を防ぐだけで精一杯ではないのか?」

「ぐっ!」

 無雑作に剣を振るう魔礼青。
 青雲剣は当たらずとも、そこに生まれた刃は天化を攻撃する。
 間合いの外からの攻撃に、天化は宝剣でそれを防ぐしかない。
 その天化の腕から、ジワリと血が滲む。

「フッ……」

 それを見て、ニヤリ、と珍しく魔礼青が酷薄な笑みを浮かべた。

「瘟!!」

 跳び上がった魔礼青は、突き刺すように青雲剣を振るう。
 流星群のように煌めく刃が降り注ぐ。
 宝剣で弾く事も出来ず、天化は為す術も無く地に這い蹲って、それを避け続けた。







「天化は……大丈夫かのう……」

 戦場へと舞い戻ってきた天化に対し、太公望は眉を顰める。
 天化は傷の治療のために、仙人界へと戻っていたはずだ。
 だがこの場にいるという事は、天化は戦えるということだろう。
 魔礼海に操られた土行孫の暴走で、ナタクと雷震子は既に戦闘が出来る程の余力は残っていない。
 そうなった今、戦力が増えるのは喜ばしい事だ。
 だがしかし、太公望の顔は曇ったままだった。

「おそらく、天化の傷は癒えておらぬ」

 この短時間で傷が完治したとは思えない。

「その通りだ!」

「む?」

 上から掛けられた声に、太公望は空を仰ぐ。

「あの子は今、闘争心だけで戦っている。戦士に必要な物、それはガッツだ! ファイトだ!」

「道徳!」

 そこには、黄巾力士に乗った道徳真君がいた。

「やあ太公望、千年振りだね」

 さらりと嘘をついた道徳真君が、黄巾力士の頭を蹴って、太公望の隣へスタッと降り立つ。

「やはり……天化の傷は……」

「その通り、治っていない。俺はただ、痛み止めの薬を与えて傷の縫合をしただけだ」

「ならばお主が戦わぬか! 本当に十二仙は頭でっかちの集まりだのう!」

「それは無理だ」

 苛立つ太公望に、道徳真君は首を横に振る。

「我々十二仙がでしゃばれば、金鰲十天君も出て来る。
 そうなれば人間界は滅茶苦茶だ。それはいけない。
 太公望も、それは望んでいないだろう?」

「むう……」

 太公望は苦虫を噛み潰したような顔をする。
 仙道のいない世を作る。
 それが目標の太公望にとって、人間界で十二仙クラスの仙人達が争い続けるのは望ましくない。
 その事を指摘されれば、口を噤むしかなかった。
 目を逸らした太公望は、攻撃を避け続ける天化を見つめる。

「しかし、天化の内にあれほどの激しい物があったとは……のう」

「おや? 太公望、君の知る天化がどうなのかは知らないけど、俺の知る天化は違う。
 激しい気性と闘争本能に溢れた強い戦士。それが俺の知る天化だ」

 さっきもそうだった、と道徳真君は前置きして話し始めた。






 俺はその時、筋トレをしていた。
 スポーツはやっぱり最高に良い。
 久方ぶりの自分一人の暮らしだ。
 だから存分に爽やかな汗を流そうとしていたんだ。

「……ん?」

 すると、遠くから犬の鳴き声が聞こえてきた。
 誰かに助けを求めるような声だったから、近くに居た俺が見に行ったんだ。

「っ!? 天化!」

 そこには、四肢に大怪我を負い、倒れ伏す天化が居た。

師父コーチ……」

 気が付いたか、それともずっと起きていたのか分からないが、天化は俺を呼んだ。

「天化、大丈夫か? 酷い怪我じゃないか」

 心配する俺だったが、天化は更に続けた。

「傷を治してくれ……すぐ戻らなきゃ……」

「何だって!?」

 これほどの傷を負いながら、まだ戦うと天化は言った。
 天化は歯を食いしばりながら、尚も立ち上がろうとする。

「俺っちは負けられねぇさ……負けねぇ……負け……ねぇっ!」

 本当なら、縛り付けてでも、天化を安静にしておきたかった。
 でも天化のその様子に、俺は天化が動けるように手伝う事しか出来なかった。
 この時、もしここで天化を助けるために、わざと治療をしなかったら? と俺は一瞬考えた。
 そうすれば、天化は戦えないだろうから。
 でも、どうしても駄目だった。
 何度イメージしても、天化が戦いに向かう姿しか思い浮かばなかったんだ。
 例え四肢が捥がれ、ダルマのようになっても天化は戦うだろう。
 だからせめて、俺が天化に出来る事をと考えると、傷の縫合と痛み止めの投与しか思いつかなかったんだ。







「あの子は生まれ付いての戦士なのかもしれない。
 例え勝ち目が無くても、その確率が1%も無いとしても、戦おうとするんだ。
 一応、預かっていた莫邪の宝剣のスペアと、鑚心釘を返したが……」

 道徳真君は言い澱む。
 そして空を仰ぎ、静かに続けた。

「あの子のあの性格が、いつか命取りにならないか、心配で仕方が無いんだ……」

「道徳……」

「湿っぽくなってしまったな、忘れてくれ」

「……うむ」

「なあ、太公望」

「何だ?」

「天化は勝つ。それは心配しなくて良い」

「……そうだのう」

 太公望は魔礼青と戦っている天化を見遣る。
 未だ、決定打を与えられず、防戦一方となっている天化。
 手足からは血が滲み、苦痛に呻きながら戦っている天化。
 しかし、尚もその瞳から戦闘意欲が失われる事は無い。
 それを見て、道徳真君が勝つというのなら、それは信じても良いだろうと太公望は思った。
 そして、ふと思い出し、太公望は視線を逸らす。
 気絶した雷震子を背に担ぎ、巻き添えにならないように、ノロノロと戦場から離れて行く土行孫の姿を発見した。

「天化もそうだが、土行孫も全身にガタが来ておるだろう」

 黒琵琶の音で身体のリミッターを外し、限界まで力を無理矢理引き出されていたのだろう。
 でなければ、ナタクと雷震子の二人を相手にし、更に街の半分を破壊する程に宝貝を酷使するなど不可能だ。
 痛みを感じている様子は先ほどまで無かったから、尚の事無茶が出来たに違いない。
 おそらく、土行孫も歩く事でさえ辛いはずなのだ。

「ああ、土行孫といえば……」

 道徳真君は何かを思い出したか、黄巾力士を傍へと寄せる。
 黄巾力士のその手の上には、二人の少年の姿があった。

「武吉っ! ナタクっ!」

 そっと地面に降ろされた彼らに、太公望が駆け寄る。
 太公望が身体を揺すると、二人はゆっくりと目を開けた。

「建物がクッションになったみたいで、武吉君の傷はそこまで酷くは無いよ。
 俺が見たところ、鼓膜が破れている以外は、全身の打撲と擦過傷ぐらいだ。
 でもナタクの方は重傷だな。
 足の方も回収しておいたけど、千切れてしまっているから使えない。
 いくら宝貝人間といえど、直るまでは戦えないだろう」

「……とりあえず、最悪の事態になる事は避けられた、か……」

 目を開けた二人は、状況が理解できていないのか、辺りをぼんやりと見つめていた。
 二人とも、封神されるほどではなかった事に太公望は安堵する。
 同意するように道徳真君も頷く。

「まだ十分に取り返しはつく。土行孫に仲間を殺させる事にならなくて、俺もホッとしているよ」

「うむ……」

「土行孫は脆いからな。もしそうなっていたら、土行孫は自責の念で押しつぶされていたはずだ」

「……道徳、どういうことだ」

 自責の念で潰される。
 それは十分に理解出来ることだ。
 だが『脆い』とはどういうことだと太公望は問う。
 道徳真君は目を細めて土行孫を見つめる。

「簡単な事だ。土行孫は……あの子には芯が無い」

「芯?」

「そう。土行孫はやっている事も、考えている事も全て地に着いた現実的なものだ。
 それこそ、個性の強い中にいれば埋もれてしまうほどに地味で、それでいて普通だ。
 でも、彼自身となると、どことなく朧気で良く分からない。
 最近では見てなかったけど、トレーニングも他にやる事が無いからやっている、といった感じだった時もある。
 俺の言う筋トレメニューにも黙々と従うほど素直なのに、天化と比べると何かが違う。
 性格的な面ではなくて、もっと根本から違うんだ。
 太公望達を助けたい、という理由で人間界に降りて来たが、それも本当かどうか……」

「本当かどうか……か……」

 太公望は顎に手を当て、思い当たる節が無いか考えを巡らせる。
 しかし、思い当たるほどの交流が無かったので良く分からなかった。

「いや、おそらく本当なんだろう。でも、薄い。
 まるで、自分がそうしなければ生きる価値は無い、とでも言わんばかりに。
 俺は、人間界に降りると言ったあの時の土行孫に、強迫観念じみた光を感じたんだ。
 他から強いられた理由では、薄いとは思わないか?」

「……それでも」

 考え込んでいた太公望は、道徳真君に問われて口を開く。

「それでも、あやつは儂らの仲間だ。
 儂らの傍に居るのが例えどんな理由であれ、それは変わらぬ」

「……そうか」

 道徳真君は小さく口の端を緩める。

「いや、すまない。もしかしたら気のせいだったのかもしれない」

「気のせいだと!?」

 儂がこんなにも悩んでおるというのに、と太公望はその顔にショックを浮かべる。

「そもそも、あの懼留孫の弟子なんだ。
 だから土行孫もどこか変わっていてもおかしくない。
 それが天化のように表に出にくいから、少し気になっただけなんだろう」

「……そうなのか?」

 懼留孫とはあまり交流のない太公望が尋ねる。

「懼留孫は面倒臭がって、一度も弟子を取ってなかったんだ。
 土行孫が道士になったのは、太公望の数年前だ。
 だから知らないのも仕方が無い」

「うむむ……」

「でも当時は、結構な騒ぎになったものだ。
 あの懼留孫が弟子を取った、って。
 元始天尊様も何故か咎めなかったから見逃されていたけど、正直心配していたんだよ。
 本当に弟子を育てられるのか、って十二仙で話し合ったものさ。
 途中で投げ出すのが関の山じゃないか、と言われていた。
 だから土行孫が俺を尋ねて来た時、『やっぱりな』と納得した事を覚えている」
 
「ダメダメではないか……」

 懼留孫の怠け癖に、太公望は溜め息を吐く。
 苦労しておったのだな、と太公望が珍しく似合わない事を考えてしまうあたり、師匠に恵まれなかった事は同情されるべきであろう。

「まあそういうな。懼留孫にだって良い所があるかも――」

 話の途中で道徳真君は言葉を切る。

「見ろ、太公望。ようやく天化が反撃に出ようとしているぞ」






 青雲剣の刃を避け、弾き、受け止めていた天化だったが、既にそれは限界に来ていた。
 手足の包帯は真っ赤に染まり、痛み止めが切れたのか動きも鈍くなっている。
 天化は尚も直撃を食らわないよう、歯を食いしばりながら宝剣を振るう。

「しまった!」

 直撃を食らわないように、全ての刃を叩き落していた天化だったがそれが裏目にでた。
 横に回りこんだ魔礼青が振るった青雲剣に対し、刃に注意が逸れていた天化は、宝剣を弾き飛ばされてしまう。
 手から飛んで行った宝剣は、魔礼青の遥か後方に突き立った。

「先に振るった青雲剣の刃が、まだ残っている間に横に回りこむとは……。
 流石に、剣の腕はあんたの方が上だったさ」

 ビリビリと痺れの走る腕に苦笑しながら、天化は答える。

「フ、莫邪の宝剣はあと一本だ。諦めろ。
 一本では俺の攻撃をかわせないのは分かっているだろう」

「かわせない?」

 ヒュッと振るった腕から、幾つもの光が魔礼青に向けて飛ぶ。
 ギィン! という音を立てて防いだ魔礼青は、バラバラと落ちるそれを見下ろす。

「……これは?」

 小さな莫邪の宝剣というべきか、投擲用と思われるその刃の群れが、魔礼青に向けて飛んできたのだ。
 対峙している天化は、同じ物を再び指に挟む。

「かわす必要はねぇ……。今度はこの宝貝『鑚心釘』で俺っちが攻める番さ!」

「……くだらん」

 バギッという音を立てて、足元に落ちた鑚心釘を踏み砕き、魔礼青は続ける。

「慣れぬ宝貝で何が出来る?」

「あんたを倒せるさ」

「ほざけ!」

「疾っ!」

 天化は鑚心釘を投擲する。
 ビュンと風を切って、魔礼青に襲い掛かる鑚心釘。
 だが体勢を低くした魔礼青に、鑚心釘は全て避けられる。

「付け焼刃の武器に頼るとは、見損なったぞ黄天化!」

 そして体勢を起こした魔礼青は、天化を貫こうと青雲剣を持つ手に力を籠める。

「終わりだ」


 ドンッ!


 肉に刃が突き刺さる音が聞こえる。
 動きを止めた魔礼青と天化。
 片方は口元に笑みを浮かべ、もう片方は襲い掛かる激痛に目を見開く。

「な……に?」

 先に声を発したのは、魔礼青だった。
 その背に突き立った、幾つもの鑚心釘の刃。
 振り向いた目の先には、混元傘を担いだ魔礼紅が居た。

「どうやら、勝ったみたいだね」

 魔礼紅は、否、魔礼紅に変化した楊戩が魔礼青を見つめて言った。

「ぐっ……混元傘ではね返したとは……」

 崩れ落ちる魔礼青。

「慣れてないなんて、誰が言ったさ?」

 手に馴染む鑚心釘を懐に収めながら、天化は言った。
 倒れ伏した魔礼青を見つめ、天化はふぅと大きく息を吐く。

「あんた、中々手強かったさ」







あとがき

やっとここまで来ました。
次で魔家四将編終わりです。





[12082] 第三十八話 魔家四将編⑦ 勝利
Name: 軟膏◆05248410 ID:a2b7933f
Date: 2009/12/20 14:54





「ふぅ……」

 深く息を吐いた天化は、スッと背筋を伸ばし、莫邪の宝剣を手に取る。
 ヒュッという軽い風切り音を立てて、それが魔礼青の首筋に添えられる。

「終わりにするさ、魔礼青」

 その言葉にも、倒れ伏した魔礼青は反応しない。
 そして、天化が宝剣を振り翳したその時だった。

 ニィ……

 魔礼青が、小さく笑った。
 その表情に天化は僅かに躊躇する。
 確かに自分は魔礼青に勝った。
 だが、本当に勝っているのだろうか、と。
 妖怪仙人は元となった種族によって様々な特性を有する。
 ならば、魔礼青にはまだ奥の手があるのではないか、と。
 それが天化の判断を鈍らせた。

「天化君、危ないっ!」

「なにっ!?」

 楊戩の警告に、天化は後ろを向く。
 そこには天化達の乗る花狐貂とは別の花狐貂が居て、天化達を押し潰そうと突撃して来た。

「避けられねぇっ!」

 既に花狐貂は間近に迫っており、疲労の極致にある天化には、素早い移動は望めなかった。
 天化の目が見開かれる。


 ズズゥンッ!!


 巨大な花狐貂同士がぶつかり合い、辺りに轟音が響き渡る。
 それを為した張本人である魔礼寿は、その有り様を見ながらくくくと嗤う。

「潰れたか、黄天化」

 踏まれた蟻のように潰れた姿を幻視し、更に嗤う魔礼寿。
 その魔礼寿に、後ろから声が掛けられる。
 怪我をした魔礼海に肩を貸し、巻き込まれないように移動した魔礼紅だ。

「礼寿、礼青は大丈夫なんだろうな」

「ちゃんと躱しているさ。潰されるほど鈍臭くは無いよ」

 ホラ、と魔礼寿が指を差す。
 そこには、フラフラとした覚束ない足取りで、魔礼寿たちのもとへやって来る魔礼青が居た。

「礼海……起きているな……」

「……あ、ああ……」

 掠れた声で、魔礼海が生返事を返す。
 起きている事を確認した魔礼青は、残りの二人へと視線を向ける。

「礼紅、礼寿……あいつらがここまでやるとは予想外だった。
 止むをえん……こうなったら原型に戻って、この街ごとあの崑崙の道士共を皆殺しにする」

 その言葉に、二人は静かに頷いた。






「天化君、平気かい?」

「いやぁ……マジで焦ったさ」

 哮天犬に服を銜えられ、宙にぶらんと吊るされている天化が、額の汗を拭う。

「あのくじらが来るのがもうちっと遅けりゃ、俺っちが魔礼青を倒せてたんだけどなぁ……」

「それだけ言えるなら大丈夫そうだね」

 哮天犬の背に座った楊戩は、天化の言葉に微笑を浮かべる。
 口に天化を銜えたまま、近くの小高い丘まで哮天犬は二人を運ぶ。
 気力が尽きたのか、地面に降りた天化はそのまま胡坐をかいて座る。

「良く頑張ったね。君はここで休んでくれ。
 僕はこれから、残りの花狐貂を全て破壊するから」

「何だって? あれを全部? そんなの、一人じゃ不可能さ」

「可能だよ。あれが内側からの攻撃に弱いという事は、土行孫とナタクの二人が証明してくれた」

「でも……」

 天化は食い下がる。
 天化はぼんやりと見ていただけだったが、土行孫が破壊したときには、宝貝を破損させていたはずだ。
 宝貝を破損させても構わないという意気込みならば、いったいどれ程の宝貝が使い物にならなくなってしまうのか。

「それは大丈夫」

 天化の表情から、何が言いたいのか理解した楊戩は、先んじてそれを説明する。

「僕の宝貝は土行孫のように遅くないからね。溶かされる心配は無いよ」

 そう言って楊戩は、傍らに立つ哮天犬の頭を撫でる。

「さあ哮天犬よ、行けっ!」

 一声吠えた哮天犬が飛び上がり、花狐貂の口目掛けて、一直線に突き進む。



 ドンッ!!


 花狐貂の口に入った哮天犬は、一瞬で尾まで辿り着き、内側から外皮を貫いて出て来た。






「流石……というべきだな、楊戩は」

 雷震子を背負い、地上に降り立った土行孫は、楊戩の行為に感嘆の声を漏らす。

「それに比べて、俺はなにやってんだか……」

 自虐的な溜め息を吐く土行孫。

「ん……?」

 雷震子が背中でもぞもぞと動くのを感じ、土行孫は顔を横に向ける。
 ゆっくりと目を開けた雷震子に、土行孫は先ほどとは異なった安堵の溜め息を吐く。

「ああ、起きたか、雷震子」

「ア゛……ア゛ア゛……」

「ああ、無理すんな。顎が砕けてるんだから」

 上手く話すことの出来ない雷震子に、土行孫が現状を説明する。

「俺が敵に操られたせいで、雷震子やナタクを怪我させちまった。
 街もこんなに壊してしまったし……ごめんな。本当に、ごめん」

 自分の落ち度で、こんなになってしまった。
 何の役にも立てなかった、と自責の念が押し寄せる土行孫。
 謝るしか出来ないことに、更に惨めな気持ちになる。
 それを横で見ていた雷震子は、徐に腕を持ち上げる。

 ゴッ!

「づぅっ!?」

「ガア゛ッ!」

 いきなり雷震子に頭を殴られ、土行孫が呻く。
 怪我をしている事を忘れていたのか、それとも気付いていなかったのか、腕を怪我している雷震子も呻く。

「ってぇ……何だよ、いったい」

 殴られたところを擦りながら、土行孫が雷震子に顔を向ける。
 対する雷震子は、憮然とした表情でボソッと言った。

「……ェ」

「え?」

「ウ゛ジウ゛ジズンナ! ウ゛ザッデェンダヨ!!」

「……」

「ンナモングジグジド気ニスンナラ道士ナンデ止メジマエ!
 デメェニ謝ラレダ所デ、俺ニハ迷惑ダ!!」

「あ、おう……」

 雷震子のその勢いに、土行孫は思わず頷く。
 そしてプイとそっぽを向いた雷震子に、土行孫は気付いた。
 態々励ましてくれたのか、と。
 いきなり殴られた事には驚いたが、それも話す事が難しい今の状況では仕方が無い。
 罵倒としか聞こえない言葉であったが、雷震子の言葉に土行孫は救われた気がした。

「……ありがとよ」

「ア゛ア゛!? ナ゛ンノゴドダ?」

「いいや、何でもない。顎が砕けてるせいか、何言ってんのか全然分からないからな。本当に、何でもないんだ」

 よっ、と身体を揺すり、ずり落ちそうになっている雷震子を、もう一度背負い直す。
 目を上に向けると、残り二体となった花狐貂の一体を、哮天犬が破壊していた。

「やっぱり、楊戩は最初から、わざと倒さないように気をつけていたみたいだな」

「ア゛?」

「その通りだ」

 呟いた土行孫の後ろから、同意する声が聞こえてくる。

「師叔……。それに道徳真君様まで……」

 振り向いた土行孫は、武吉を背負う太公望と、ナタクを小脇に抱える道徳真君に気付いた。
 体力が無いからか、武吉を背負ってひいこらと歩いてくる太公望。

「それで師叔、本当の所はどうなんだ?」

「うむ、それはのう……」

 土行孫の傍まで来た大綱棒は、地面にへたり込んで空を見上げる。

「楊戩は分かっておったのだ。
 魔家四将が『人間の形』であるときに弱らせておく必要がある、と」

「ニ゛ンゲンノガダヂ?」

「雷震子、途中で仙人界から逃げ出したお主でも知っておろう。
 あやつらは妖怪仙人だ。その本質は、人間でない別の姿をしておる。
 儂が昔戦った妲己の妹、王貴人もそうだったが、妖怪仙人は『人間の形』の時に倒されると、『原型』に戻る。
 王貴人の原型は石琵琶だったが、魔家四将は違うようだ。
 おそらくは原型に戻った時にこそ、やつらは真の強さを発揮するであろうよ」

「なるほど……原型の方が強い事も考えられるのか……」

 納得したと土行孫は頷く。

「ん?」

 楊戩の戦いを見ていた土行孫が眉を顰める。

「花狐貂が……消えた?」

 哮天犬に落とされた訳ではない。
 だが花狐貂の姿は、虚空に溶けるようにして一瞬で消え去った。

「あ、楊戩!」

 土行孫たちから少し離れた場所に、楊戩が降り立った。
 楊戩は土行孫の呼びかけには応えず、花狐貂が消えたところを見つめる。

「遂に原型を現したな、魔家四将!」

 濛々と立ちこめる煙が晴れ、原型となった魔家四将が現れる。
 山ほどもある巨大な蛇のような姿。
 腹には花狐貂のヒレを持ち、ゼリーのような半透明な体色をしている。
 文字通りの鋭い鎌首をもたげたその姿は、見るものを唖然とさせた。

「なんだあれは……?」

 まるで自分の口ではないかのように、ポロリと零れ出たその言葉。
 それに答えたのは、太公望だった。

「『ショウ』という四つ首の幻獣だ。どうやら、あれが魔家四将の本当の姿らしいのう」

「でもあんなでかいのが居たら、もっと話に上っても良いはずだけど……」

「おそらく、本来はもっと小さいのであろう。
 あの腹のヒレを見る限り、花狐貂を取り込んだからこそ、あのような巨大な姿になっておるのだ」

「そう。そして、花狐貂を取り込んだという事は、他の宝貝も取り込んでいるということだ」

 太公望の後を楊戩が引き継いで説明する。
 それを証明するためか、ショウの頭部らしき部分に太極の文様が浮かび上がる。

「いけないっ!」

 宝貝の発動する気配を感じ取った楊戩が、ショウに向けて駆ける。
 ショウは近付いて来る楊戩を敵と見定めたか、宝貝を発動する。


 ギギギィィンっ!!


 数十にも及ぶ鋭い刃が召喚され、楊戩はそれを三尖刀で弾く。

「魔礼青の技……やはり、宝貝の能力を吸収している」

 無数の刃の群れに押し返され、一歩後退した楊戩がその威力に驚愕する。
 青雲剣では仕留め切れないとみたか、ショウは次なる宝貝を発動させる。


 ギィィィイイイイッ!!


 耳に響く鳥肌の立つような不協和音。
 余りにも強烈なその音は、大気を震わせ、突風となって皆を襲う。
 砂埃が巻き上がり、服がバサバサとはためく。

「ぐ……あああああっ!」

 土行孫は思わず膝を着いてその音に耐える。

「これは魔礼海の……」

 耳を押さえながら、道徳真君が冷静に判断する。

「楊戩、早くせいっ!」

 不快に顔を顰めているが、唯一平気そうに立っている楊戩を、太公望が急かす。
 駆け出した楊戩の前に、混元傘が現れる。
 だが、楊戩はそれを見ても足を止めず、尚の事スピードを上げた。

「フッ!」

 音も無く一閃した三尖刀。
 パキィン、と薄い氷の板が割れるような音が響き、混元傘は砕け散る。
 同時、ショウの身体が四つに分断された。

 ドンッ! という轟音が響いた。

 スタッと降り立った楊戩は、崩れ落ちていくショウを見て呟く。

「混元傘には、ナタクの攻撃で罅が入っていると言ったはずだ」

 ポンと三尖刀を肩に担いだ楊戩は、地面に落ちるショウを見下ろす。

「それと……最後の手段に巨大化した悪者は、絶対に勝てないものだよ」

 そして、くすりと楊戩は笑みを零した。

「もしかして……知らなかったのかい?」

 その皮肉でさえ、今の魔家四将には届かない。

「ん……?」

 辺りに異臭が漂う。
 何事かと鼻を押さえた楊戩は、足元を見る。
 そして、驚愕に目を見開いた。

「これは……地面が腐ってゆく……」

 飛び散った赤い液によって、大地が自然の物ではありえない毒々しい紫に染まり、ドロドロに溶けて行くのだ。

「まさか……魔家四将の体液が、大地を腐らせているのか!?」

 まさかそのような事が起こるとは、流石の楊戩にも予想できなかったらしい。

『おのれ……』

 ゼリーのような半透明な頭部に、巨大な目玉が浮かぶ醜い姿となった魔家四将の声。

『おのれ……憎き崑崙の仙人どもめ……!』

 地の底から聞こえてくるようなその声は、怨嗟と憎悪を孕んでいた。

『腐ってしまえ!!』

「いけないっ!」

 気化した体液がピリピリと肌を焼くのを感じ、慌てて後ろに飛ぶ楊戩。
 だが魔家四将の体液は辺りにドンドンと広がっていく。
 更に一歩後退した楊戩のもとに、太公望が現れる。

「楊戩、早く止めを刺すのだ……」

 黒琵琶の影響か、ヨロヨロとした足取りの太公望が続ける。

「恐るべき執念よ。自らの命と引き換えに、この豊邑の大地を腐らせてしまうつもりなのだ。だから楊戩、早く――」

「嫌です」

「へっ?」

「僕の三尖刀は切り裂く宝貝だからあそこまでは届かないし、あんな汚らわしい物に哮天犬をぶつけたくありません」

「そんな事を言うとる場合かい!」

「……太公望師叔」 

 コトリ、と三尖刀を置いた楊戩は、太公望に振り向く。

「最後は貴方が決めて下さい」

「!」

「この戦いで、僕達崑崙の道士は、初めて力を合わせました。
 これは大変な進歩です。
 そして太公望師叔、皆理由は異なれど、この場には貴方を中心として皆が集まりました。
 だからこそ、この戦いの幕を引くのは、貴方が一番相応しいのです」

「……分かった」

 コクリ、と神妙に頷いた太公望は、懐から愛用の宝貝『打神鞭』を取り出す。
 両手で力強く握った打神鞭を構える。

「だ、だが楊戩よ……あやつ、また動いて襲って来たら……」

「もうそんな力はありませんよ。
 さあ、もっと背筋を伸ばして下さい。
 そんなへっぴり腰でどうするのです。
 第一、貴方だけ無傷でしょうが!」

「それはお主もだろうに……」

 ブツブツと文句を言う太公望。
 だが覚悟を決めたか、ヒュッと打神鞭を振りかぶる。

「で、では……疾っ!」

 振り抜いた打神鞭の先から、風の刃が生まれる。
 それは一直線に魔家四将目掛けて飛んで行き、ドスッとその頭部に突き刺さる。


 ドンッ!


 白い魂魄が四つ、並んで飛んで行く。
 それを見送った太公望は、フーと息を吐いた。

「終わったのう……」

「お疲れ様です、太公望師叔」

 最後の大役を果たした太公望を、楊戩が労う。
 その二人の前に、ナタクを抱えた道徳真君が歩み寄る。

「太公望、ナタクは壊れている。太乙の所に持って行って、修理してもらおう」

「む……それもそうだな。頼む」

「分かった」

 頷いた道徳真君は、振り向いて土行孫達の方を見る。

「二人も仙人界で治療した方が良いんじゃないか?」

 尋ねる道徳真君に、土行孫は首を横に振る。

「俺は良いです。ここに残りますから」

「何故だい? 仙人界の方が、治るスピードも早いと思うけど?」

「やらなければいけない事があります」

 そう言って、土行孫は瓦礫の山と化した豊邑の街に目配せする。

「俺が壊したんですから、復興させないと気が済みません」

「そうか……君がそう言うならそれで良い」

「あ、雷震子は連れて行って……づっ」

 再び頭部を殴られ、土行孫は痛みに悶える。
 土行孫の肩越しに顔を出した雷震子が、不快そうに答える。

「誰ガ、ア゛ンナ変人ノ所ニナンテ戻ルカ!」

 文句を垂れる雷震子。
 どうも本気で雲中子の事が嫌いらしい。
 それも仕方が無いか、と考えた土行孫は、道徳真君に向き直る。

「えっと……そういう事なんで、俺達は残ります」

「ははは、分かった」

 爽やかに笑いながら頷いた道徳真君は、後ろに控えさせていた黄巾力士に飛び乗る。

「それじゃ、また会おう」

「はい。ナタクも、またな」

「フン……」

 相も変わらず、そっぽを向いたナタクに土行孫は苦笑いを返す。
 そして、黄巾力士は飛び立ち、あっという間に見えなくなった。
 それを見送った土行孫の耳に、野太い男の声が聞こえてくる。

「うおおおっ!? なんじゃこりゃあっ!!」

 土行孫がそちらを見遣ると、筋肉質の大柄な男が腐った地面を見ながら叫んでいた。

「地面が腐れとるやんけぇっ!」

「南宮适……」

 大声を張り上げる男の名を、太公望が呼ぶ。
 だが南宮适にはその声が届かなかったか、後ろに控えさせていた兵士達に呼びかける。

「ムカつくぜ妖怪仙人どもはよぉっ! 
 こうなったら、俺達の手で殷の妖怪どもをブッ殺してやろうぜ!」

 その意見に、兵士達は大いに賛同する。
 オー! と高々と手を上げるその姿に、太公望が一筋の汗を垂らす。

「ま、待て、南宮适! 金鰲の仙人達は儂らに任せるのだ。
 妖怪仙人が相手では、例え普通の人間が百人掛かりでも倒す事は出来ぬ!」

「ならば、千人掛かりで倒せば良い」

「ハッ!?」

 太公望が振り向いた先には、ペットの象を引き連れた周公旦が居た。
 周公旦は象の足を撫でながら、皆が注目しているのを確認すると、静かに言った。

「金鰲の仙人は、はっきり言って迷惑です。
 此度も周の民、周の街は大ダメージを受けました。
 何もしなければ、此方がやられるのです。
 私達はむざむざとやられるくらいならば、死ぬ覚悟で立ち向かいます。
 敵の大本である妲己と聞仲、そして背後の通天教主を倒しましょう」

 その周公旦の言葉に、兵士達が口々に賛同する。

「そうだぜ! 俺達だって戦える!」

「ざけんなよ!」

「ああ!? よく見りゃ街も破壊されてるじゃねえか!」

「あ、それは俺が……」

「畜生! 妖怪仙人め!」

「いや、だからそれは俺が……」

「絶対に許さねぇっ! 金鰲の野郎!」

「……」

「こうなったら、殷も金鰲も纏めてブチ殺そうぜ!」

「そうだそうだ! 崑崙の仙人達に全部任せてられるか!」

「俺達がやるんだ!」

「俺達が変えてやる!」

「俺達が、殷を倒すんだ!!」

 皆の殷への怒りが最高潮に達する。
 その兵士達の姿を見て、周公旦はフフフと笑う。

「太公望、何も貴方が、全てを背負い込む事は無いのですよ。
 一人では重過ぎる荷も、皆で持てば軽くなります」

「周公旦……」

「殷の妲己も、恐らくは人間の兵士を送り込んでくるはずです。
 その時、貴方に人を殺せるのですか?」

「……」

 周公旦の言葉に、太公望は押し黙る。
 顔を俯けた太公望は、静かに話し始めた。

「確かに……人間の力を借りねばならぬ事は分かっておった。
 そして、実際そうしようとも思っておった。
 だが……出来る限りは犠牲を最小限に抑えたい。
 シェルターを作らせたのも、その犠牲を減らそうと思ったからだ。
 これは仙人界の者の驕りなのやもしれぬ。だが……」

 顔を上げた太公望は、周公旦の目を見据えて答える。

「それでも儂は、嫌なのだ!」

 叫びにも似たその声に、騒がしかった兵士達の声がピタリと止む。
 皆が太公望に注目する中、一人が太公望に近づき、その肩を叩く。

「そう小難しく考える事はねぇぜ、太公望殿!」

「武成王……お主、どうしてここに……」

「敵の魂魄が飛んでいくのを見たから、こうして出て来たんだよ」

 武成王の後ろから、大勢の一般人がぞろぞろと出て来る。
 その中には、逃げる途中で挫いたのか、赤く腫れた足をした少女を背負っている姫発の姿もあった。

「俺達にはこんなにも大勢の味方が居るんだ。皆で戦えば良いじゃねぇか」

 ダハハハ、と豪快に笑う武成王に、太公望はうーむ……と悩む。
 その太公望の耳に、聞き慣れた声が入る。

「ご主人ーーっ!」

 太公望が振り向くと、血色の良い顔をしたスープーシャンが太公望の下へと飛んできた。

「ただいま帰ったッスーっ!」

「おお、スープーではないか。身体の方はもう大丈夫なのか?」

「白鶴さんの看病のお陰で、もうすっかり良くなったッス。
 さあご主人、さっきの敵は何処ッスか? 僕も参戦するッスよ!」

「……フー」

 元気なスープーシャンの姿に気が抜けたか、太公望は深い溜め息を吐く。

「そうだのう。もっと、気楽に行くとするかのう」

「へ?」

 気の抜けた太公望の返事に、スープーシャンは目を丸くするのだった。










 魔家四将の脅威は去った。
 無事助かった人々は安堵の喜びを噛み締めていた。
 皆が街を救ってくれた道士を一目見ようと、楊戩達の周りに集まっていた。
 その中に一人、長い赤い髪を御下げにした少女が居た。
 彼女は皆に持て囃されている楊戩には目もくれず、ただ一人だけを見ていた。
 浅黒い肌をして黒い翼を背中に生やした男を背負っている、ボロボロの姿をした小柄な道士。
 居心地の悪そうな顔で、されど振り払う程の力も残っていないのか、人の波から抜け出す事が出来ない彼。
 その彼を熱に浮かされたような潤む瞳でジッと見つめながら、赤毛の彼女はポツリと呟いた。

「土行孫様……」







あとがき

やっと魔家四将編が終わりました。
長かったです。

雷震子のセリフは、顎が砕けているからという事なので、読み難いかもしれませんがご了承ください。



さて、一段落ついた事ですし、次どうしましょうかねぇ……。
・そろそろ影が薄くなっている彼女にスポットを当てるべきか。
・それとも本編を進めるべきか。

悩みます。




[12082] 第三十九話 その頃の公主様
Name: 軟膏◆05248410 ID:a2b7933f
Date: 2010/04/07 23:38





 竜吉公主は崑崙で最強の名を得ている。
 身体は病弱ではあるが、それは彼女の強さの枷にはならない。
 静かな水面の如き穏やかな心を持っているが、その内には全てを洗い流す激流が潜んでいる。
 一度戦いともなれば、相手は彼女の技量に驚くだろう。
 その身を守る薄い、だが堅固な水の膜で相手の攻撃は通らない。
 殺気を出す事の無い、静かな戦いを仕掛ける彼女に抗する事は出来ないのだから。



 だが、数千年の時を生きる彼女にも、勝てない相手というものはいるものだ。






「痛っ」

 指先に鋭い痛みが生まれ、竜吉公主は思わず声を出してしまう。
 痛みの生まれた場所を見てみると、白い指に赤い点がポツリと浮かんでいた。
 その赤い点は見る見るうちに膨れ上がり、弾けるように雫となって流れた。
 それを対面に座って見ていた碧雲が、心配そうに声を掛ける。

「もう、何やっているんですか、竜吉公主様」

「……ああ、すまない。少し、考え事をしていて、の」

「気を付けてくださいね。もう四回目ですよ」

 呆れたような表情を竜吉公主に向ける碧雲。
 苦笑いを返すしかない竜吉公主は、小さな水の珠で怪我した箇所を覆う。
 数秒後、弾けるように水の珠が消え、後には一点の曇りも無い陶器のような白い指だけが残った。

「人間界に降りた人達が心配なのは分かりますけど、もう少し目の前の事に集中して下さい」

「すまぬ」

 簡潔に謝り、再び目前の敵へ向かう。
 しかし、やはりどこか集中しきれないのか、竜吉公主は再び指に赤い点を作る事になった。
 碧雲は深い溜め息を吐くと、作業の手を止める。

「お疲れのようですし、今日はここまでにしましょう」

「いや、まだ私は――」

「いいえ、今日はもう終わりです!」

 言うや否や、碧雲は竜吉公主の手から針と糸、それを縫い付ける布を取り上げる。
 名残惜しげにそれらを見つめる竜吉公主。
 対する碧雲は、布を広げて縫い目を見る。

「見事にバラバラですね」

 竜吉公主の縫いつけた布は、縫い目がバラバラであり、いかにも不恰好であった。

「しかし、一向に上達しませんね、裁縫」

「何故じゃ……」

 落ち込む竜吉公主。



 竜吉公主が裁縫を始めたのは、土行孫に譲渡した内旗門の手直しをした事が最初だった。
 病弱な竜吉公主は、日がな一日浄室に籠もっている事が多い。
 だから手慰みに、と思って始めたのだが、それがそもそもの間違いだったのかもしれない。
 初めて針仕事をした時には、それなりに上手く行ったのだ。
 もしや才能が有るのでは? と仄かな期待を抱いたものの、それは木っ端微塵に打ち砕かれた。 
 もう何年もやっているというのに、一向に上達の気配が無い。
 思わず自分の持つ針に、何らかの動きを妨害する仕掛けでも仕込んであるのではないか、と疑ってしまったものだ。
 今思えば、内旗門の時はビギナーズラックというものが働いたのかもしれない。
 或いは、内旗門が竜吉公主の想いに反応して、自らの身を裁縫しやすいように動かしたか。

「それにしても、竜吉公主様がこんなにも不器用だとは思っていませんでしたよ」

「言うな。口に出されると余計に惨めになる」

「しかもちょっとドジだし……」

「言うな、と言っておろうが」

 力なく窘める竜吉公主を見ながら、碧雲はくすくすと笑う。

「でも、竜吉公主様にも苦手な物があったんですね。少し、安心しましたよ」

「……安心?」

「はい」

 碧雲は頷いた。

「竜吉公主様は私なんかよりずっと綺麗で、どこか超然とした雰囲気がありますから」

「超然……?」

「ええ。近寄り辛い、と言いますか。
 そんな感じがあるので、私や赤雲のような弟子でもなければ、こうして会話する事もままならないでしょう。
 ですから、こういう裁縫が苦手だとか、そんな普通の事に、とても親しみを覚えるんですよ。
 竜吉公主様にも出来ない事があるんだなぁ、って。後ろ向きの喜びですけどね」

 照れ隠しのように鼻の頭を軽く掻く碧雲。
 竜吉公主は自らの不器用な手を見つめる。

「私としては、不器用な事が良いとは思えないのだがな……」

「あら? でも場合によっては、それが長所になる事もありますよ」

「む? どういうことだ?」

「お分かりになりませんか?」

 本気で分からないという表情を浮かべる竜吉公主に、碧雲はくすくすと笑いながら立ち上がる。

「敢えて欠点を見せる事で、可愛らしいと思われる事が出来ますよ、きっと」

「……」

 竜吉公主は絶句する。

「それじゃ私は夕餉の支度をしている赤雲を見て来ますね」

「あ、碧雲……」

 それだけ言うと、碧雲はスッと戸を開けて、音も無く出て行った。
 後には碧雲を呼び止めようと持ち上げた手を、所在無く漂わせている竜吉公主だけが残った。
 音も無く手を下ろした竜吉公主は、背後の寝台へと身体を横たえる。
 天蓋付きの寝台は、竜吉公主という存在を、柔らかく受け止めた。

「欠点を見せる? そのような事、出来るわけがなかろう……」

 誰が聞いている訳でもないのに、竜吉公主の口から言い訳が零れる。

「だって、恥ずかしいではないか」

 少なくとも、彼の前では良い所を見せたいという想いがある。
 だから、彼の前ではそのような素振りを見せないよう、努力してきたのだ。
 いっそ碧雲が言ったように、超然たる存在であれば良いと、そのように行動してきたのだ。
 それを今更、変えるのは難しい。
 もしそうしたら、彼は心配するだろう。
 どうかしたのか? らしくないじゃないか、と。
 無論、竜吉公主も理解している。
 互いの短所を認める事が出来てこそ、関係はより深まるのだと。
 全てを曝け出さなければならない、という訳ではない。
 或いは、碧雲の言ったとおり、より仲が深まるという事も想像できる。
 だが、竜吉公主にはそれが出来ない。

「このような悩みを抱えるなど、本当に、らしくない」

 目を瞑り、竜吉公主は身体を丸める。

 つまり、竜吉公主は怖いのだ。
 この程度で崩れるような関係ではないと分かっている。
 だが、これが切っ掛けとなって、堰が崩れるように関係が気まずくなってしまう事が怖い。
 縁が途切れる事が怖い。
 それは、人との繋がりの薄い竜吉公主にとって、耐え難いものだ。

 以前、彼には言った事がある。
 このような病弱な身体を恨んだ事が有る、と。
 そして続けて言った。
 今はそれに感謝している、と。
 矛盾している。
 だがそれは嘘ではない。
 どちらも本当の事だ。
 しかし、例え今がどうであれ、病弱な身体を疎ましく思っていた過去は消えない。
 その過去が、竜吉公主という存在の、根源に近い所に根付いている。
 腹違いの弟は、竜吉公主とは異なり、健康だったのもそれに拍車を掛けているだろう。

 幼き頃、竜吉公主がまだ今の半分の背丈にも届いていなかった頃だ。
 異母弟は外に出て人と触れ合い、明るく笑っていた。
 対して自分は床に伏せり、よく分からない匂いの香を焚き染められた部屋に閉じ込められ、笑う事など無かった。
 強くなりたいという単純な欲求に従い、元気に走り回る異母弟を、いつも窓から眺めるだけの日々。
 宝貝の扱いなど、手を付けようともしなかった。
 今となれば、それが子供じみた嫉妬でしかないと分かる。
 だが当時は、心の底から思っていたものだ。
 自分は籠の中の鳥でしかない、と。
 泥だらけになって帰ってくる異母弟を、暖かく迎える事など出来るはずがなかった。
 異母弟もそれを理解していたのか、近寄る事など無かった。
 そして、竜吉公主は孤独に苛まれた。

 成長し、少しは身体が強くなった頃。
 初めて外に出られた。
 嬉しかった。
 異母弟との蟠りが、一瞬で無くなってしまうほどに。
 異母弟も、竜吉公主を異母姉様ねえさまと呼んで慕ってくれた。
 まるで鳥の親子のようについて回る異母弟に、思わず顔が綻んだ。
 それがまた嬉しくて、自分は閉じ籠められていたのではなく、閉じ籠もっていただけなのだと気付いた。

 それからの竜吉公主は、少し変わった。
 嫌がっていた宝貝の扱いに習熟し、異母弟をも追い越して崑崙最強とまで謳われる程になった。
 力に固執していた訳ではないが、本当に、少しだけ誇らしかったのを覚えている。
 和解した異母弟に、自慢の姉だと言われる事が嬉しかった事を覚えている。

「のう、燃燈ねんとうよ。お主ならば、このような悩みを持つ事も無いのであろうな……」

 今は亡き、竜吉公主の異母弟、燃燈道人に問い掛ける。
 単純で、熱血漢で、悩みなどないようだった燃燈。
 自分が玲瓏たる『月』と謳われた事があるなら、彼は燃え盛る『太陽』だった。
 彼ならば、このようにうだうだと悩む事は無かったに違いない。
 好意を寄せる相手が居たのなら、即座に告白でもしていただろう。
 そして竜吉公主は、結果がどうあれそれを微笑みながら見つめるのだ。
 だが彼は元始天尊と道を違え、激闘の果てに堕ちて行った。
 死んだ、とは思いたくない。
 だが、彼が傍から消えた事は、竜吉公主に深い衝撃を与えた。

 失う事が怖い。
 それは人との繋がりが薄い竜吉公主には、耐え難いものだ。
 もう、失いたくは無いのだ。

「そういえば……燃燈は何か言っておったな……」

 目を開け、寝返りをうって浄室全体を見渡す。
 燃燈が姿を消したその数日前、彼は此処を訪れていた。

「何と言っておったか……そう、確か内旗門を貸して欲しいと……」







「異母姉様、お願いがあります」

「燃燈か。どうかしたのか?」

 その瞳に何か、決意を秘めて燃燈はその話を切り出した。

「内旗門をお貸し下さい」

「内旗門を?」

「はい。理由を話す事は出来ませんが、あれが必要なのです」

「ふむ……」

 竜吉公主は考えた。
 内旗門とは、竜吉公主の持つ外旗門と対になる宝貝である。
 それは竜吉公主の母が、竜吉公主の良人となる相手に渡すようにと贈ってくれた、嫁入り道具である。
 それを貸してくれとは、あまり穏やかではない。
 燃燈も、この二つの宝貝の意味を理解しているはずなのに、だ。
 しかし、竜吉公主は頷いた。

「まあ、良かろう。理由は聞かないが、必要だと言うのであれば、貸すことも構わない」

「ありがとうございます」

「ただし」

 礼を言って頭を下げる燃燈に対し、竜吉公主はそれを制する。

「貸すのは外旗門の方だ。
 あれはもう随分と蔵に入れっぱなしで、埃まみれのはずだからのう。
 機能はどちらも同じだから、こちらの方が良いであろう」

 そういって竜吉公主は、傍らの衣装棚に仕舞っていた外旗門を取り出す。
 一度広げてみるが、埃などどこにもない。
 それを再び畳み、竜吉公主は燃燈に手渡した。
 受け取った燃燈は、珍しく動揺していたように思う。

「しかし、異母姉様……」

「何なら、返さずとも良い。お主に与えよう。
 私にはそのような物など不要だ。
 なにせ、私が嫁に行くなど、全く持って想像出来ないのだからのう。
 使わない者が持っているよりも、使う者に渡した方が良い」

「……分かりました」

 神妙な顔で、燃燈は頷いた。

「ですが異母姉様」

「ん? 何じゃ?」

「これを受け取る訳にはまいりません。飽くまでお借りするだけです」

「律儀な奴じゃのう。別に良いと言っておるのに」

「いいえ、必ず。
 異母姉様にその気が無いというのであれば、この私が。
 この私が、異母姉様に相応しい男が現れたと感じた時、これをお返し致します」







「……フ、フフフフ……」

 その言葉に、珍しく竜吉公主は腹を抱えて笑ったように思う。
 数日後、彼が消えてしまうまでは、それを思い出して何度も笑ったはずだ。

「そうであった。燃燈には、まだ外旗門を返して貰っておらぬ」

 だから、彼が死ぬ事など有り得ない。
 あのシスコンが、竜吉公主との約束を違えるはずがないではないか。

「なんだ……まだ私は、何も失っておらぬではないか」

 此処に来て、確証のような物を得た。
 胸のつかえが、取り除かれたように思う。
 身体が軽くなったように感じ、竜吉公主は起き上がる。

「必ず帰ってくる。今の私には、燃燈が外旗門を返す理由があるのだから」

 心に埋まっていた楔が取れ、竜吉公主はその理由を思い浮かべる。
 燃燈が相応しいと認めるかは分からないが、竜吉公主が認めた相手だ。
 文句など無いだろう。
 竜吉公主が母から受け取り、そして再び別の人物へと渡った内旗門。
 それを贈られた存在。

「土行孫……」

 そう、土行孫だ。
 まだ百年も生きていない童に、数千年を生きた竜吉公主が恋心を抱くなど、どうかしてしまったのかもしれない。
 だが、好意を持っているのは間違いないのだ。




 始まりはいつであっただろう。
 燃燈がいなくなり、時折フラフラと外を出歩くようになった。
 その時に偶然出会ったのが土行孫であった。

 原因は彼の過失とはいえ、気絶した彼女を優しく介抱してもらったからだろうか?
 否。優しいとは思ったが、それだけで恋に落ちるほど単純ではない。

 名乗り出た彼女の事を知り、それでも彼は友となってくれたからだろうか?
 否。友となってくれた者に抱いたのは友情だけ。すぐさま恋慕の情を抱くはずが無い。

 彼の愚直なまでに修行する様を見て、失ったと思っていた燃燈の過去の姿を重ねたからか?
 否。だが燃燈とは違い、何かに怯えているように必死に修行していた彼に、惹かれる物があった事は否定しない。

 疲労で眠りに落ちた彼が、何かに魘されて何度も飛び起きていた事が心配だったからか?
 否。どちらかといえば、膝枕をして彼が深い眠りに落ちた時、彼に対して母性のような物を感じてしまったように思う。

 否。否。否。否。

 どれもこれも、理由としては弱い。
 だが竜吉公主は、彼を見て来たのだ。
 姿は変わらずとも、彼が段々と成長していく様を。
 どれか一つが理由なのではない。
 それら全てが、混ざり合い、溶け合って全く異なる一つの感情へと収束していった。
 だがそこまでだ。
 その想いは薄い膜に覆われ、自覚する事は無かった。
 内旗門を土行孫に贈ったのは、本当にただのお礼のつもりだった。
 だから碧雲に問われたときも、軽く返す事が出来た。

 竜吉公主が、本当にその想いを自覚したのは、もっと後の事だ。
 それはいったい、何時の事だ?
 それを考えると、一人の事に思い至った。

「申公豹……か?」

 道化の格好をした彼女。
 楊戩との決闘で勝利したものの、太公望に気絶させられた土行孫。
 あの時、彼を運んできたのは、彼女だった。
 何故申公豹が? という動揺は感じた。
 だがそれ以前に、見知らぬ彼女の両腕の中で眠る土行孫をみた時、思わず竜吉公主は考えてしまったのだ。
 彼に触れて欲しくない、と。

 結局、特にそれ以上何も無く、申公豹は帰って行った。
 だが、一度破れた膜は、再び戻る事は無い。
 自覚してしまった以上、それに嘘をつく事は出来ない。
 竜吉公主は気付いてしまったのだ。
 土行孫に、恋心を抱いているという事に。

 彼の言動に、彼の行動に一喜一憂してしまう。
 こんな事は初めてだ。
 家族でもない相手に、そのような感情を抱いたのは。
 津波のように押し寄せる自分の感情を、制御出来なくなるのだ。
 これが恋で無いのなら、いったい何だと言うのだ。

 だが……。

「土行孫は……気付いてはくれぬ……」

 それが寂しいと、竜吉公主は感じる。
 自覚してからは、多少ではあるが自ら動いてみたりもした。
 彼が人間界に降りると言った時、思わず抱き締めてしまった。
 その時、偶然とはいえ碧雲が来た事を、咄嗟に利用したりもした。
 だが、それでも彼は、良く分からない曖昧な苦笑いを浮かべ、深い溜め息を吐くだけだ。
 本当に眼中に無いのか、と落ち込んだ事もある。
 だが、節々に見え隠れする彼の様子に、実は満更でもないのでは? という期待がある。
 彼は鈍感だから、言葉にしなくては伝わらないのかもしれない。
 だが、告白の言葉は彼から告げられたいと思う。
 そこまで考えたところで、竜吉公主の眉が寄せられる。

「いや……もしかして、逆なのではないか?」

 彼は気付いているのではないか?
 気付いているのに、敢えて気付かないように振る舞っているだけなのではないか?
 では何故だ?
 何故、そのような振る舞いをする必要があるというのだ?
 いったい何に……誰に遠慮しているというのだ?

「分からぬ……」

 人との付き合いの薄かった竜吉公主には、その理由が分からない。
 他人の心の動きを機敏に察知するという経験が、ほとんど無いのだ。
 だから、分からない。

 頭に手をやる。
 そこには、いつも竜吉公主の髪を纏めている、彼の作ったバレッタがあった。
 取り外して、顔の前に持ってくる。

「土行孫はいったい、何を考えておるのかのう……」

 だがバレッタがその問いに答えることは無く、ただ埋め込まれた水晶の欠片がきらりと光るだけだった。

 何気なく顔を上げた竜吉公主は、目を見開いた。
 窓の外を、白い四つの光が通り過ぎていったのだ。
 あれは……。

「魂魄……」

 誰かが封神された。
 では誰だ?
 誰が封神されたというのだ。
 それは竜吉公主には分からない。
 だが今の魂魄は、人間界から飛んで来た物だ。

「……願わくば、皆が無事に帰ってくる事を」

 バレッタで再び髪を纏め、開いた手を合わせて、静かに祈る。
 これから先、竜吉公主は何度もあの光を見る事になるだろう。
 その度に、こうして祈ろう。
 祈る事しか、自分には出来ないのだから。

「……土行孫は……無事であろうか……」

 彼はどこか無茶をする。
 だからという訳ではないが、彼の事が一番心配だ。
 また、傷付いているのではないだろうかと、彼の姿を思い浮かべる。

 すると何故か、幾つかの旗が風に靡いている丘で、赤い旗を立てている土行孫の姿が浮かんで来た。

 ……何故だろうか。
 純粋に心配していたはずなのに、この湧き上がって来る、どこかやりきれないモヤモヤとした気持ちは。
 とりあえず、帰って来たら詳しく話を聞かせてもらおうと、竜吉公主は心に決める。



 そのまま竜吉公主は、碧雲が夕餉の用意が出来たと呼びに来るまで、祈りを続けた。
 何故かむくれ顔で食事を続ける竜吉公主に、どこか失敗したのではないかと碧雲と赤雲の二人は顔を見合わせたという。







あとがき

ご期待通りスポットを当ててみました。
竜吉公主をドジっ娘にしてしまいました。
だが私は謝らない。



[12082] 第四十話 ある少女の日記
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2009/12/25 08:46




○月×日



今日、運命の人に出会った。

何かすっごい大きなクジラに食べられそうになった時、颯爽と駆け付けて来てくれたあの人。

あたしの白馬の王子様。

その人に手を差し伸べられて、あたしはそれに飛びついた。

結局、直ぐに手が離れちゃったのが残念。

自分も危ないのに、あたしの身を案じてくれたのがとっても嬉しかった。

去り際に名前だけは教えてもらったけど、崑崙の道士だって事以外は全然分からなかった。

シェルターから出て来た時、あの人は全身傷だらけだった。

皆に囲まれて、気まずそうに顔を掻いていたあの人の姿に、思わず胸がときめいてしまった。

あの人におんぶされていたコウモリっぽいのが、とても羨ましかった。

出来ればあたしと代わって欲しいくらい。

もう一度会いたいな。

会って、お礼を言いたい。

土行孫様。





○月□日



土行孫様は全身を怪我しているのに、街の復興を手伝っている。

瓦礫をどけたり、潰れた家から家財道具を運んだり。

左手をギブスで固めて吊ってるのに、片手だけで器用に働いているのが凄い。

通りがかった街の人から感謝されるたびに、何とも言えない曖昧な表情で返すのがグッド。

そして街の人が消えた後に、物憂げに溜め息を吐く土行孫様がそそる。

ああ、会いに行きたい。

でもあたしにもしなければいけない事がある。

今はまだ無理。

でもでも、だからってあたしが土行孫様を嫌いになった訳じゃない。

こうして遠くから見つめるしかないのが残念。

明日はもっと、さり気なく近づけるようになれると良いな。





~~中略~~





○月▲日



AM4:00  宿舎にて土行孫様が起床。

AM4:15  顔を洗って歯を磨いた土行孫様が街の外へと出掛ける。

AM4:20  近くの雑木林へと土行孫様が到着する。

AM4:21  土行孫様が懐からなんかすっごい大きな大剣を取り出した。

AM4:22  その大きな剣がどんどん数を増やして行って、あっという間に数十本にもなった。
        なにも言っていないのに、その後ろ姿から「材木の貯蔵は十分か?」って言っているように見えた。

AM4:44  あっという間に樹を伐採し終わった土行孫様が、余分な枝を斬り落とし始めた。
        こればっかりは宝貝で一気にやる訳にもいかないみたいで、手作業で斬っている。

AM5:42  全ての枝を斬り落として、綺麗に並べ終えた土行孫様がその場を離れる。

AM5:50  宿舎ではなく、街の一角に着いた土行孫様が、懐からニョキッとさっき斬った材木らしき物を取り出す。
        いったいどうやっているんだろう?

AM6:00  取って来た材木を積み終えた土行孫様がその場を離れる。
        早起きしたらしいおじいさんが、家の前に積まれた材木の山を見て驚いている。
        どうやら大工だったらしく、綺麗に切り揃えられたそれを見て喜んでいた。

AM6:10  宿舎に戻った土行孫様が朝食の支度を開始する。
        まずは米を洗って、竈で炊き始めた。
        竈をあまり使った事が無いのか、色々と焦ってる。

AM6:25  煙で涙目になってる。萌え。

AM7:02  白いご飯が出来あがった。ガッツポーズしてる。

AM7:05  出来あがったご飯を、鍋に移している。
        どうやらお粥を作るみたいだ。
        自分で食べる奴じゃなくて、他の人に食べさせる為の物らしい。
        誰に上げるのか気になったけど、相手はあのコウモリみたいだった。
        顎が砕けているから、しばらく流動食しか駄目らしい。
        流石あたしの土行孫様。とっても優しい。 

AM7:20  無事にお粥が出来たみたいで、それを持って何処かへ行った。
        鍋に残っていた物をちょっとだけ味見したけど、中々美味しかった。

AM7:25  戻って来た土行孫様が残っていたご飯でおにぎりを作って食べている。
        それにしても、片手で良く握れるわね。
        あと大きな爪型の宝貝を着けているのに、どうして握れるのかも不明。

AM8:00  ゆっくりと食べ終えた土行孫様が、外へ出て行く。

AM8:10  街の復興のお手伝いを始めた。

PM1:15  土行孫様が家を建てるのを手伝っていたら、その家の持ち主らしい人が出て来た。
        そうしたら、後ろから土行孫様と同じくらいの背丈の女の子が出て来た。
        ちょっと! あたしの土行孫様に近寄るんじゃないわよ!
        でも、あたしの心の声が届く事は無く、二人は和気あいあいと話していた。
        雌犬がお礼だって言って、お握りを取り出して土行孫様に渡した。
        笑いながら受け取った土行孫様が、それを一口口に含むと、一瞬動きが固まった。
        「美味しいよ、ありがとう」と言うと、雌犬は無邪気に笑いながら遊びに行った。
        残された土行孫様は、ジッとお握りを見つめている。
        後ろからこっそり近付いてみると、「甘ッ」とか言ってた。
        どうやら塩じゃ無くて砂糖が入っていたらしい。
        でも必死に全部食べてた。すげぇ。

PM8:20  土行孫様がお礼に夕食に招かれていた。
        最初は遠慮しようとしていたが、勢いに押されて頷いていた。
        土行孫様は押しに弱い、と。
        なんだかNOと言えない日本人みたい。  

PM11:10 泊まって行けという言葉を振りきって、やっと土行孫様が帰って来た。

PM11:50 お風呂から上がって、ホカホカの土行孫様が出て来た。

AM0:10  自分の部屋で、宝貝を磨いている。

AM0:50  眠くなって来たのか、大きく欠伸をした土行孫様が、もぞもぞと布団に潜り込んだ。

AM1:00  布団の中から寝息が聞こえて来た。寝ちゃったみたい。



正直、こんな生活続けて居たら、いくら道士とはいえ土行孫様の身が持たない。

やっぱり、ここはあたしが一肌脱ぐしかないようね。

あたしが疲れの溜まっている土行孫様を休ませてあげるわ!







あとがき

うん、なんていうか……その、ごめんなさい。

次の話はもう出来てるから明日投稿しますんで、それで許して下さい。


あと前回のあとがきはただの妄想ですので、本編には関係ありませんから。
あまり深く気にしないで下さい。



[12082] 第四十一話 新ヒロイン(?)登場
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/04/07 23:42
第四十一話 新ヒロイン(?)登場




 周の城壁を眺める、一人の男が居た。
 腕に霊獣を乗せたその男は、傍らの霊獣に話しかける。

「着いたねぇ、神鷹しんよう。豊邑さね」

「うむ。太公望達に会うのも、久しぶりかいな」

 男の言葉に霊獣『神鷹』は、グモグモと鳴きながら返事を返した。

「相変わらず、あの調子で居るのかねぇ」

「そう簡単に変わるとも思えないかいな」

「ははっ、それもそうさな」

 一人と一羽は、久しぶりに会う彼らの事を考えながら、城壁を潜って行った。






 魔家四将を打ち倒して、約一週間が経過した。
 強大な敵を倒した事により、気が抜けているかと思えばそうでもない。
 太公望達はバタバタと慌ただしく、西へ東へと城内を駆け回っていた。
 両手一杯に巻き物を抱えたその姿に、スープ―シャンが太公望に尋ねる。

「御主人、珍しく忙しそうッスね。何かあったッス?」

「これから要塞を造らねばならぬのだ」

「要塞? それはまたどうしてですか?」

 すっかり怪我も治った武吉が、太公望の言葉に反応する。
 うむ、と頷いた太公望は、ピッと指を立てて、街の方を指差した。

「先日の魔家四将との戦いで分かると思うが、儂らがこの街に居ると一般の民にも迷惑が掛かるからのう。
 だからこの周と殷の国境、汜水関に程近い所に要塞を造り、儂らはそこに引っ越すのだ。
 そうすれば、殷の仙人が攻めて来ても、そこで抑える事が出来る。
 既に楊戩を向かわせておるから、儂らはそれが出来るまでに、引っ越しの準備を済ませておく必要があるのだ」

「あれ? でもそういう事なら、土行孫さんの方が良いんじゃないッスか?」

 土を操る事の出来る土行孫ならば、要塞の建設などには役立つだろう。
 だが敢えて楊戩を向かわせた事に、スープ―シャンは疑問を抱いた。

「それは儂も考えた」

 そう言って太公望は続ける。

「だがあやつが動きたくないと言ってのう。普通ならば尻を蹴飛ばしてでも向かわせるのだが……」

「何か問題があったッスか?」

「うむ。あやつが敵に操られて、街を壊したのは知っておるだろう?」

「聞いた話ッスけど、それがどうかしたッスか?」

「復興させるまでは動かない、と土行孫は言ったのだ。
 儂としても、民を蔑ろにするつもりは無かったから、それを認めたのだ。
 儂らの戦いで街が壊れたのに、民を放ったらかしにする訳にもゆくまい。
 儂らがここを離れた場合の民の印象を考えると、復興させてから離れた方が受けが良いからのう」

 それに、と太公望は目を逸らして小さく言った。

「あやつを要塞の建造に向かわせると、全部自分でやりそうな気がして仕方が無いのだ。
 そうなれば兵が育たぬし、いざという時、兵が儂らを当てにしてしまう事も考えられるからのう」

「なるほど、そうだったッスか」

 納得といった表情で、スープ―シャンは頷く。

「……お師匠様」

 だが武吉は目を逸らし、城内の一角をじっと見つめている。

「誰かがこちらを見ています」

「む?」

 武吉の視線の向く先を見つめると、そこには人影があり、こちらの視線に気付いたのか、何やら慌てている。

「仕方ない。行け、五光石!」

 そう言って人影は太公望に向けて、石のような物を投げつける。
 それは一直線に飛び、バゴンッ! という音を立てて、太公望の額に命中した。

「おお……」

 痛みに血を吐きながら、くどい顔になった太公望がドサッと倒れる。

「御主人!?」

「お師匠様!?」

「ス、スープー……儂が死んだら……墓前には桃を備えてくれ……ガクッ」

「御主人ーーっ!!」

「あっ!?」

 太公望が倒れたのを見た怪しい人影は、素早くその場から走り去った。

「逃がさないぞっ!」

 太公望を倒され怒りに燃える武吉が、人影を追いかけて走り出した。





「逃げられた? 武吉、お主の足を相手にしてか?」

「申し訳ありません。匂いを嗅ぎながら追跡したのですが、どうやら犯人は川に入って逃走した模様で……」

 しゅんと肩を落とす武吉。
 だが太公望は仕方が無いと武吉を慰める。

「犯人は恐らく道士だ」

「道士!?」

「うむ。あやつの投げた石、あれは宝貝だ。幾ら儂でも、普通の石ぐらいならば避けられるわい」

「敵ッスかね、御主人!?」

 尋ねるスープ―シャンに、太公望は静かに首を横に振った。

「分からぬ。だが味方にしては行動が不自然すぎる。
 敵か味方か、いずれにしても正体を突き止めねばならぬ。
 だが儂には、まだやらねばならぬ事がある。
 お主らは儂の代わりに、あの不審人物の調査に当たってくれ」

「はいっ!」

「了解ッス!」

 スープ―シャンと武吉の二人は頷き、それぞれバラバラに探し始めた。






「う~ん、いないッスねぇ……」

 既に日は沈み、辺りは暗くなっている。
 空から探していたスープ―シャンは高度を落とし、屋根よりも少し高い場所で不審人物を探す事にした。
 月明りを頼りに、周辺を探索するスープ―シャン。

「後ろ姿から女の人だって事は分かってるッスけど、どこにもいないッス。
 でも敵の可能性もあるッスから、早いとこ見つけないと……」

 キョロキョロと辺りを見回していたスープ―シャンは、ある一点に目を止める。

「ん? あれは……御主人?」

 スープ―シャンは太公望の姿を見つけた。
 声を掛けようと思ったスープ―シャンだったが、太公望の様子がおかしい。
 辺りに人の姿がないか、しきりにキョロキョロと見回しているのだ。
 不審なその動きに、スープ―シャンは声を掛ける事を躊躇う。
 すると、太公望は懐から、丸々とした桃を取り出してムシャムシャと食べ始めたのだった。

「ああっ!? 何やってるッスか、御主人!?」

 周公旦が城の倉庫の桃の減りが早いとぼやいていた事を、スープ―シャンは思い出していた。
 その犯人は太公望だったのだ。
 軍師ともあろう者がそのような犯罪に手を染めた事に、スープ―シャンの目から涙が零れる。

「やらねばならぬ事って、桃を食べる事だったッスか?
 でも今ならまだ間に合うッス。
 御主人をとっ捕まえて謝らせれば、罪は軽くなるはずッス」

 そう決意したスープ―シャンは、太公望を捕らえようと後ろから近付こうとする。
 だがその時、近くから誰かの声が聞こえて来た。

「太公望はけしからん事に、庶民の税金である桃を……」

「あっ!」

「はっ!?」

 スープ―シャンは思わず声を上げた。
 その声に驚いた女も、スープ―シャンをみて声を上げた。
 スープ―シャンが声を上げたのは、その後ろ姿が昼間スープ―シャン達から逃げた不審人物と酷似していたからだ。

「しまった!」

 慌てた様子で、その女は振り向きざまに石を投げる。

「こんな物、躱すッス!」

 一直線に飛んで来た石の軌道を読み、スープ―シャンは器用に避ける。
 だが石は途中でカクンと直角に曲がり、ガンッとスープ―シャンの額に命中した。

「ああ……」

 濃ゆい顔になって落下するスープ―シャン。

「あ……」

 その先には、石を投げた張本人の姿があった。

「しまったああっ!」

 スープ―シャンの下敷きになった女は悲鳴を上げる。

「むっ? 誰だお主は!?」

 桃を頬張っていた太公望が、音に気付いて現れる。
 スープ―シャンの下敷きになった者に、太公望は警戒の視線を向けた。

「あっ、スープ―シャン凄い」

 遅れて現れた武吉が、無事不審人物を捕まえた事を称賛する。
 意図せずして周りを囲まれる事となった女だが、特に焦るような事も無く、その顔にニヤリと笑みを浮かべた。

「フ、フフフ……こうなったら仕方が無いわね……」

 スープ―シャンの下から、女がもぞもぞと出て来る。
 そして、太公望達に向けて胸を張った。

「あたしはスパイ! 聞太師の命により周の情報を集める、その名も鄧蝉玉とうせんぎょくという名の美少女よ!」

「随分とペラペラ良く喋るスパイだのう……」

 自らスパイと明かし、更に名前まで名乗り出た彼女。
 服装も妲己程ではないが、それなりに露出度の高い物である。
 そんな蝉玉の自己主張の激しさに、太公望は呆れ返る。
 それに対して武吉は、この場に居るのは戦闘の得意でない太公望とスープ―シャンのみという事から、その手に力を籠める。

「お師匠様、ここは僕が――」

「待て、武吉。ここは儂がやろう」

 手で武吉を制し、太公望は前へと一歩踏み出す。
 そして目をカッと見開き、太公望は宣言した。

「今こそ読者に、儂こそが本当の主人公であると知らしめる為にも!」

「なっ……あなた、主人公だったの!?」

「……ほれ見ろ、武吉。他の奴らが毎度毎度出張るせいで、儂の影が薄くなるからこうなるのだ」

 戦いともなれば、ナタクや楊戩といった華々しい活躍をする者がいる。
 そのせいで、太公望の存在感がドンドンと薄くなって行くのだ。

「ふん……だいたい、お主だってスパイの癖に目立ちたくて、わざと儂らに見つかったクチであろう?」

 登場の不自然さに、いかにもといったわざとらしさが滲み出ていた。
 それを見逃す太公望では無い。
 仮にもスパイだというのであれば、もっと見つからないように動くはずである。
 このようにあっさり見つかるような間抜けを、聞仲がスパイに命じるとも思えないのだ。
 だからこれは蝉玉の独断であろう、と太公望は判断した。
 それを指摘された蝉玉は、目を逸らしてピーピーと下手な口笛を吹く。

「な、な~んの事かしら~?」

「図星だな」

 太公望は懐から打神鞭を取り出すと、蝉玉に向けて突き付ける。

「だがこれ以上、脇役を増やす訳にはゆかぬ! 良いかスパイよ、この打神鞭の錆にしてくれようぞ!」

「ご、御主人……女の子が相手だと強気ッス……情けないッス……」

「スープ―シャン!」

 相手が弱そうだと強気になる太公望の情けなさに、涙を流すスープ―シャン。
 武吉も貰い泣きをする。

「フフ、そう。あくまで私に歯向かうというのね。今の私は無敵だというのに」

 ビシッと言い放った太公望に対し、蝉玉は不敵な笑みを崩さない。
 蝉玉は右手にスープ―シャンに向けて投げたあの石を持ち、太公望に向けて振りかぶる。

「この宝貝『五光石』の恐ろしさも知らずに、おめでたい事ね! 喰らえ、ドリームボール三号!」

 綺麗な投球フォームで投げられた五光石は、ビュンという音を立てて太公望に向けて飛んでいく。

「喰らうか、こんな物!」

 さっと身を屈めて、太公望は五光石を避ける。
 だが空中でガクンと方向を変えた五光石は、再び太公望に向けて飛んでいく。

「はぐあっ!」

 慌てて後方に飛び退り、太公望はもう一度五光石を避ける。
 だがそれが限界だったらしい。
 再びガクンと方向転換した五光石は、今度こそ太公望の額に命中した。

「ぬおお……」

「お師匠さまっ!」

 倒れた太公望に、武吉が駆け寄る。
 それを見下ろしながら、蝉玉は無邪気に笑う。

「見た? 見た? この宝貝は絶対に当たるのよ。
 そして何よりも恐ろしいのは、当たった人が必ず、くどくて濃ゆい顔になってしまうって事よ!」

「なん……だと……?」

 蝉玉の説明に、太公望が衝撃を受ける。
 声に出してはいないが、武吉もスープ―シャンも同じ心境だ。
 すなわち、

「何というアホな宝貝……」

 あまりのアホさ加減に頭痛を感じ、よろめく太公望。

「アホとは何よ、アホとは」

「いや、しかしだなお主」

「? 何よ?」

「このメディアで、顔がくどくて濃ゆい顔になったところで、何の問題も無いではないか」

「うっ……それを言われると……」

 漫画ならともかく、顔の見えない媒体でそれをやられても、誰も困る者はいない。
 蝉玉は一番重要な効果が封じられ、太公望達に有利な展開となった。
 だが必ず当たるという五光石を相手に、痛いのは極力避けたい太公望も迂闊には動けない。
 互いに膠着状態に陥ったその時、そこに新しく別の声が割り込んで来た。

「相変わらずだねぇ、太公望さん」

「む?」

 振り向いた太公望は目を見開く。

「崇黒虎ではないか」

 そこに居たのは、霊獣『神鷹』を腕に乗せた道士、崇黒虎だった。
 返事をするように、神鷹がグモグモと鳴く。

「ひっ……」

「む?」

 神鷹を見た蝉玉の肩が、僅かに震える。

「な、仲間が来たようね。
 いかにあたしと言えど、この人数差を覆すのは難しいわ。
 覚えてらっしゃい、太公望!」

 捨て台詞を吐いて、蝉玉はその場から逃走する。

「ほほう……」

 ニタリ、と太公望が嗤う。

「あの子は何者かいな、太公望?」

「追った方が良いんでないかい?」

「うむ……いや、あやつは放っておけ。それよりも崇黒虎、お主、なぜ豊邑に?」

「なぜって……おいおい太公望さん、忘れたのかい? 準備が出来たのさ」

「準備?」

 最近は色々とありすぎたせいか、その言葉を聞いても太公望は何を言っているのか思い当らなかった。
 その表情に本気で忘れていると感じたか、崇黒虎は軽く溜め息を吐くと説明を始める。

「東西南北四方から朝歌を攻める、大規模な包囲作戦の準備の事さ」

「……おお! あれの事か」

 太公望は思い出したのか、ポンと手を叩く。

「東・南・北の準備は完了したから、いつでも朝歌を攻める事が出来るよ」

「そうか」

「けど、北は俺が居るから良いとして、東と南には仙人や道士が一人もいない。
 そこを突かれたら包囲に穴が開くから、なんとかしないといけない」

「うむむ……では、こちらから何人か派遣するか……」

「いや、それはいい」

 太公望の申し出を、崇黒虎は手を出して遠慮する。

「ここには旗印の武王が居るし、せっかくの戦力を削るのは頂けない。
 だから元始天尊様に言って、人材を補充する事にする。
 殷の仙人に対抗するには、こっちも仙人が必要だからねぇ」

「うむ、ではそうするとしよう。殷を攻めるのは、それが済んでからという事だな」

 太公望と崇黒虎は互いに頷いた。

「ところでお主、わざわざ夜に来なくても良かったのではないか?」

「いやあ、久しぶりに来たせいか、街の形が変わっているのに気付かなくてね。
 珍しくて歩いていたら迷ってしまってね、つい夜になっちまったんだよ」

「お主……」

 そこで太公望はふと、蝉玉が消えた方角を見つめる。

「そう言えばあやつ、蝉玉と言ったか。以前どこかで見かけた事があるような気がするのだがのう……」

 あれ程自己主張の激しい相手を、太公望が忘れるはずが無い。
 ならば、実際に話した事は無いという事だ。
 スパイと名乗った以上、以前から潜り込んでいたのだろう。
 もしかしたら、すれ違う位の接触はあったのかもしれない、と太公望は思った。







「はぁ……今日も疲れたな……」

 誰もいない夜道をテクテクと歩きながら、土行孫は溜め息を吐いた。
 街の復興は順調である。
 それは喜ぶべき事だ。
 現に、街に活気が戻って行くのを見て、土行孫は嬉しく思っている。
 だがいくら精神的に気分が高揚したところで、蓄積した疲労は取れない。

「早く帰って、風呂に入ろう。そんで布団の中でぐっすりと寝よう」

 風呂があるという事は良い事である。
 この時間ならば誰も入っている者はいないだろうし、最後とはいえ一人占めできるのは気分が良いものだ。
 これがあるからまた明日もがんばれる、という気持ちになるのだ。
 最近はどこからかネバ付いた視線を感じるせいか、あまり落ち着けないので、より一層そう感じる。
 だがその時、土行孫のその思考を遮る者が現れる。

「土行孫様っ!」

「お前……たしか花狐貂の時の……」

 土行孫の前に現れたのは、魔家四将との戦いの時、花狐貂に食べられそうになっていた赤毛の少女だった。
 その赤毛の少女は、焦った様子で土行孫にしがみ付く。

「助けて下さい! 怖い奴に追われているんです!」

「……はあ?」

 なんでまた、この疲れている時に、厄介事に巻き込まれなければいけないのか。
 思わず漏らした土行孫の声は、意図せずして低くなっていたらしい。

「あ、あの、その……」

「あ~、まあ良いや。それで? 相手はどんな奴なんだ?」

「鋭い目付きをしていて、何て言うか、今にも食べられそうで……」

「鋭い目付き……雷震子か? いやでも、あいつはそんな事する奴じゃないしなぁ……」

 犯人の特徴を聞いても、土行孫には思い当る節が無い。
 こんな夜更けに、若い女性を襲おうとしている人間だ。
 そもそもそんな知り合いなどいないのだから当然だろう、と土行孫は結論付ける。

「……誰かが追って来ているようには感じられないな」

 土竜爪を発動させ、人間が歩いている気配を探すものの、そんな気配は感じ取れない。
 土行孫は未だしがみ付いている赤毛の少女を引き剥がす。

「そんな怪しい奴の気配は無いけど、一応家まで送るよ」

「ありがとうございます! あたしの家はこっちです」

 赤毛の少女は土行孫の腕に自らの腕を絡ませて、土行孫を引き摺るように歩いて行く。
 先程とは打って変わって、ずんずんと歩いて行くので、土行孫は遅れないようについて行く。
 そのまま二人の間に、僅かに静寂が訪れた。

 普通ならば、腕を絡ませて歩くという行為に、胸が高鳴る事だろう。
 だがこの少女と歩いていると、どこか郷愁とも言うべき懐かしさを感じるのは何故だろうか?

 何か話題はないものか、と土行孫が思考を巡らせる。

「なあ、家はこっちで良いのか?」

 だが、咄嗟の事ではあまり気の利いた事は言えず、出て来たのはそんな一言だけだった。
 赤毛の少女は頷く。

「はい。こっちで間違いありません。それでですね、土行孫様は――」

「あー……その、ちょっと良いか?」

「何ですか? 土行孫様」

「その、土行孫様って言うの、止めてくれないか?
 俺はその、太公望師叔みたいに軍師とかやってる訳でもない、ただの道士だからさ」

 土行孫としては、様付けで呼ばれる事はあまり好きじゃなかった。
 街を破壊したのは自分なのに、土行孫様と敬われるのはおかしいと思ったのだ。
 むしろ、そう呼ばれる度に、違うのだと叫びたい気持ちに駆られてしまう。
 だがそれは出来ない。
 周の民が一致団結して、殷と戦おうという気になっているのだ。
 その今、壊したのは自分だと言い出す事は出来ない。
 我が身が可愛いからでは無い。
 今の流れに水を差す事は、してはいけないのだ。
 これから戦おうという時、皆が戦おうという気持ちになっている時に、街を壊したのは味方なのだと言えるはずが無い。
 そうなれば崑崙の道士への不信感が生まれてしまう。
 いずれ仙道を排斥しようとするかもしれない。
 仙道のいない世の中を作る。
 それが本来の目的だから、例え排斥の動きが生まれても文句は無い。
 だが今は駄目なのだ。
 そうなってしまえば、仙道が居なくなった周は殷に負ける。
 それだけはなんとしても避けなければいけない。
 あくまで仙道がいなくなるのは、殷に巣食う仙人達を倒してからでなければならない。
 だから、今となっては土行孫が名乗り出る事が出来ない。
 例え、卑怯者と言われてもだ。
 だがしかし、彼女だけは別だ。

「それじゃあ、なんて呼べば……」

 土行孫の心中など知らない赤毛の少女は、戸惑ったように土行孫に尋ねる。

「好きに呼んでくれれば良い。あと、出来れば敬語も止めて貰えると嬉しいかな」

 この目の前の少女の活発的な格好からして、どうにも敬語という物が似合わないと感じる。
 まるで猫を被っているようにしか見えないのだ。

「……うん、分かった。それじゃ、あたしの好きに呼ばせてもらうね」

「……ああ」

 目を伏せて土行孫は頷く。
 彼の記憶の中に居るある少女は、彼に対して敬語など使ってはいなかった。
 別人なのだとは分かっていても、赤毛の少女の顔を見ていると、それが思い出されてしまう。
 細部は違うものの、赤毛の少女は彼女を彷彿とさせる容姿をしていた。
 だから、敬語で話される事が辛かった。
 他の誰だろうと、様付けされた所で耐える事が出来ただろう。
 だがこの目の前に居る、赤毛の少女だけは駄目だ。
 記憶の中の少女に、壁を作られているような気がして、耐える事が出来そうにない。
 土行孫自身の記憶では無い、他人の記憶なのに、それに引き摺られていると感じる瞬間だった。
 そして、顔が似ているというだけで、同じように振る舞う事を強要する自分は最低だな、と溜め息を吐く。
 その醜さに、浅ましさに、主体性の無い自分に嫌気がして、静かに落ち込んだ。

「着いたわ」

 横から聞こえて来たその声に、土行孫は顔を上げる。
 とりあえず、彼女を送り届けた後はもう会う事も無いだろう、と土行孫は思ったからだ。
 だが言われるがままに顔を上げた土行孫は、目の前の光景を見て絶句した。

 そこは土行孫の考えていたような明かりの灯る家などではない、ただの暗い路地裏だったのだから。

「おい、これはいったい――」

 どういう事なのか、と問おうとした土行孫。
 だが最後まで続ける事は出来無かった。
 いきなり額に、強烈な衝撃を受けたからだ。

「ぐああ……」

 頭部に強い衝撃を感じて、一瞬にして視界が真っ暗になり、土行孫は前のめりに倒れて行く。
 だが地面で頭を強打する前に、赤毛の少女の胸の中にポフッと収まった。

「フ、フフフフフ……」

 赤毛の少女は、作戦が上手く行った事に笑う。
 本来ならば、いくら土行孫が気を抜いていたとはいえ、気絶するまでには至らなかっただろう。
 だがここ連日の疲労が蓄積した土行孫には、その衝撃は止めとなってしまったらしい。
 倒れた土行孫を腕の中に抱え込み、赤毛の少女は土行孫に向けてボソリと囁いた。

「さあ行きましょう、ハニー。あたし達の愛の巣へ」

 ズル、ズル、と土行孫を引き摺りながら、赤毛の少女……鄧蝉玉は、光の届かない暗い闇の中へと消えて行った。


 ズル……。


 ズル……。


 ズッ……。


 ズ……。


 ……。


 ……。


 ……。








あとがき

クリスマスとは、男と女が寄り添って何処かへ消える、という都市伝説らしい。
だから自分なりの解釈を加えた上で、実際に書いてみた。

私からのクリスマスプレゼントだ。
皆も彼がこんな目に遭う展開を望んでいたはずだと、私は信じている。



[12082] 第四十二話 目覚めた彼の状況  ※ヤンデレ注意
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2009/12/26 16:26






「ここ……は……?」

 目を開け、ぼんやりとした状態で、土行孫は天井を見る。
 ざらざらとした天井。
 時折響く音に応じて、パラパラと砂が落ちて来る。
 軽く辺りを見回しても、ここには窓も何も見当たらず、ただだだっ広いだけの空間だった。
 見た事のある景色だ。
 だがそれがいったいいつ見た物なのか、どこで見た物なのか、土行孫には全く覚えが無かった。

「あら、起きたのね。おはよう、ハニー」

 特に何をするでもなく、天井を見つめていた土行孫に、横から声が掛けられる。
 土行孫が顔を横に向けてみると、そこには土鍋を持った人影が立っていた。
 燭台に灯された火が揺らぎ、そこに立っていた少女の髪が、赤い色をしている事に土行孫は気付く。
 しかし、それ以上に土行孫には、少女の言動に気になる事があった。

「……ハニー?」

 何だそれは、という意味を籠めて、土行孫はその少女を見つめる。
 だが少女は、先程の土行孫の記憶とは異なり、怯えるような事無く返事を返す。

「だって、好きに呼んで良いって言ったでしょ? だからあたしは、ハニーって呼ぶ事にしたのよ」

「な……に……?」

「ハニーはここ最近、ずっと働きっ放しだもの。
 でもそんなんじゃ、ハニーが身体を壊しちゃうわ。
 だからここでしばらく、長いお休みを取った方が良いと思うの」

「勝手な事を……」

 そんな事は望んでいなかった。
 ありがた迷惑、と言った所だろう。
 
「どうして、俺はこんな所まで連れて来られたんだ?」

 土行孫を攫ったのは、この少女で間違いが無いだろう。
 現に、先程から身体が動かないのだ。

「動けないでしょう? ハニーがお仕事に行っちゃわないように、しっかり縛っておいたから」

 土行孫が顔を下に向けると、何本もの太いワイヤーが土行孫の身体の上を通って、ベッドの下まで続いているのを見つけた。

「あの大きな爪の宝貝も外してあるから、急がなくても良いのよ。
 ハニーはベッドでゆっくり休んで、元気になってくれればそれで良いんだから」

 少女は土鍋を土行孫の頭の横に置き、自らもベッドに腰掛ける。
 土鍋の蓋をカパッと開けると、熱々の湯気が立ち上るのが見えた。

「あたし、結構お料理とか得意なのよ。
 ハニーが作ってくれたお粥、とっても美味しかった。
 だからあたしも、お返ししようと思って作って見たの、お粥」

 お前の為に作った訳じゃない、と土行孫は叫びたかった。
 そもそも、土行孫が粥を作っていたのは、雷震子の為だ。
 顎が砕けてまともな食事を摂れない雷震子の為に、せめて美味い物でも喰わせてやろうと思って作った物だ。
 それを、いつの間に食べたというのだ、この女は。
 声に出して言いたかったが、顔のすぐ横で熱い鍋がグツグツと音を立てているのに、そのような反論は出来なかった。
 もしこれが顔面に掛かったら? と考えると、迂闊な動きは出来ない。
 だが少女はそんな土行孫の心情に気付く事も無く、レンゲで鍋の中身を掻き混ぜている。
 そして、レンゲで鍋の中の粥を掬うと、軽く息を吹きかけて冷まし、土行孫の口元に持って行く。

「はいハニー、あ~ん」

「う……」

 果たしてこの状況で、大人しく口を開ける事など出来るだろうか?
 逡巡する土行孫。
 口を開ける事も出来ず、ただ小さく開いた口の隙間から、うう、と呻きが漏れるのみ。
 その土行孫の様子に、何事かを感じる少女。

「毒なんか入っていないわ。入っているのはあたしの愛よ」

 そういって、自らレンゲを口に含んで粥を飲み下す少女。
 寧ろ毒の方が後腐れが無くてまだマシだったかもしれない、と土行孫は顔を歪める。

「さあハニー、召し上がれ」

 もう一度レンゲで掬った粥を、再び土行孫の顔に持ってくる。
 さあ、と言われても、おう、と普通に返す訳にもいかない。
 結局、数十秒前の事が繰り返されるだけである。

「もう、どうして食べてくれないの?」

 食べたくないからだ、とは言えない。
 少なくとも、いきなりこのような手段に出る相手に、素直に従いたくないからだ。
 だから、仕方なく無言を貫くしかないのである。
 土行孫の表情に、少女は顔を歪める。
 だが次の瞬間、パッと顔を輝かせた。

「分かったわ、ハニー!」

「は?」

 いったい、何を分かったと言うのだろうか?

「あたしに口移しで食べさせて欲しいのね!」

「な!? 違う! 違うって! そうじゃない!!」

「じゃあどういう事?」

「あ……い、いや、あまりに美味しそうな匂いだったから、食べるのが勿体なく感じて……」

「な~んだ、そうだったの」

 少女は納得したように頷く。

「やだもう、ハニーったら遠慮しなくても良いのに。足りないなら、もっと作って上げるわ」

「あ、ああ。……それよりも、出来れば普通に食べさせてくれるか?」

「分かってるわ。こういうのは順序が大切だもの。初めてはハニーからしてくれるんでしょ?」

 何を、とは聞かない。
 聞いたら何かが終わる気がしたからだ。

「あ、これってもしかして間接キスかしら? キャッ、あたし恥ずかしい」

 いったい何を言っているのだろう。
 少女が口に運んで来る粥を、土行孫は静かに咀嚼した。
 いったい、どれ程の間寝ていたのだろう。
 空きっ腹に暖かな粥の熱が伝わり、無性に美味しく感じられてしまった。

 そのまま餌を与えられるガチョウのように粥を口に運ばれ、全て食べきった。
 全部食べる事が出来て安堵の溜め息を吐く土行孫。
 食べている間、少女はずっとニコニコと笑顔を浮かべていた。
 その少女の顔に、別に悪い事をしている訳では無いのに、なんだか良く分からない罪悪感に襲われた土行孫だった。

「それじゃ、あたしはちょっと出掛けて来るね。
 ハニーはここでゆっくり寝てて。
 元気になったら、デートしましょう」

「おい、待ってくれ!」

「なあに?」

 空になった鍋を片付けるためか、少女は土行孫から離れる。
 その少女を呼び止めようと、声を掛ける土行孫。
 出掛けるならこれを外してから行け、と身体を縛り付けるワイヤーを示して土行孫はそう言うつもりだった。
 だがにっこりと笑って振り返ったその少女の姿に、何故か土行孫は言葉を失う。

「……俺はまだ、お前の名前を聞いていない」

 結局、出て来たのはそんな言葉だけだった。
 少女は名乗る事をすっかり忘れていたのか、ごめんね、ハニーと言って謝って来る。

「あたしは鄧蝉玉、仕事は殷のスパイよ。覚えておいてね、ハニー」

 ここに来て初めて赤毛の少女の名前を知ったのだが、それよりも気になる単語が飛び出て来た事に、土行孫は眉を顰める。

「スパイ?」

「そうよ。でももうすぐ止めるから、ハニーは気にしなくて良いわよ」

 気にするな、と言われて本当に気にしない人間はいないだろう、と土行孫は思う。

「もうすぐ止めるって、どういう事だ?
 お前……蝉玉はスパイとして俺を攫った訳じゃないのか?」

「やあね、ハニー。愛に仕事を持ち込むなんて、そんな野暮じゃないわよ。
 ハニーが元気になるまでの間お金が必要だから、スパイの仕事をしているだけよ。
 それじゃ、チャチャッと行って調べて来るわね」

「あ、おい……」

 今度は土行孫の言葉が聞こえなかったのか、蝉玉は何処かへ行ってしまった。
 人の気配らしきものが消えたのを、土行孫は雰囲気でなんとなく察する。
 誰も居なくなった空間で、土行孫は深い溜め息を吐く。

「何なんだよ、もう……」

 土行孫の口から漏れたその呟きは、何よりも本心からの言葉であった。

 自分の前に現れた少女、鄧蝉玉。
 その少女は、どうしても初対面という印象を感じる事が出来なかった。
 かつて孫という少年が、淡い想いを抱いていた少女がいる。
 馬氏という名のその少女に、蝉玉の顔立ちは似ているのだ。
 髪も、肌の色も、背丈も、違う所を上げればキリが無いのに、どこか似ていると言わせる雰囲気を纏っている。
 その少女が、自分の事を好きだと言う。
 実際に好きと言う単語を出された訳ではないが、あれだけ素直に感情を表現されて分からないはずが無い。
 嬉しく無い、といえば嘘になる。
 人に好かれるという事は、悪い事では無いのだから。
 異様にハイテンションだった蝉玉からは、多少状況に酔っている節が感じられたが、ただそれだけだ。
 だからこのような拉致監禁となったのだが、その本音は働き過ぎの土行孫に休息を取らせたいという想いからである。
 そのための方法を一足飛びどころか何足も飛ばし、いきなり最終手段に手を出したのは頂けないが。
 デートをしようと言っていたから、おそらく土行孫が元気になったなら、素直に解放してくれるだろう。
 状況に酔って、盲目的になって、一直線に愛をぶつける。
 鄧蝉玉とは、そのような少女なのだろう。
 だが土行孫には、どうにも納得がいかない。

 そもそも、一度命を助けられた位で、本当に惚れるだろうか?

 一目惚れ、という言葉くらい、土行孫も知っている。
 けれど、そんな現象を、土行孫は信じていないのだ。
 確かに命を助けられた事で、相手に感謝の気持ちを持つ事はある。
 そしてそれが異性であるならば、それなりの好意を感じる事もあるだろう。
 だがそれ以上に、その想いは発展するだろうか?
 そのような事など、漫画かゲームの中でしか起こり得ない。
 命を助けられた時に、吊り橋効果で相手に好意を持っているのだ、と勘違いする事があるかもしれない。
 けれどそれは、ただの切っ掛けでしかないのだ。
 命の助け合いをして、相手と恋に落ちて、そのままゴールインする。
 そんな一行で片付くほど、人間関係は単純じゃないのだ。
 物語の中の話でしかないからこそ、現実では人は相手の心を射止めようと努力するのである。
 想像してみても、実際にはそのような事は起きないだろうと言い切れる。

「本当にそんな事が起こるんなら、今頃俺はハーレムを形成しているはずなんだよ」

 そして最後、甲斐性の無い自分は、後ろから刺されてバッドエンドである。
 土行孫には自分がハーレムの中心で高笑いしているよりも、背中に包丁を突き立てられて血の海に沈んでいる光景しか思い浮かばなかった。 
 しかも自分に包丁を突き立てた相手が蝉玉ではなく、黒髪の誰かさんだという事に、気まずさを感じる今日この頃。
 だから、そんな事は無いのだと、土行孫は思うのだ。

 しかし、このような言い訳など、本当の所はどうでも良いのである。
 他人の心を推し量る事など出来ないし、推し量った所で的外れな事が当たり前である。
 長々と考えているのも、実の所はただの現実逃避でしかない。
 土行孫にはそれ以上に、もっと重大な問題があるのだ。
 考える話題が尽きたせいか、目を逸らしていたかった事が口から漏れる。

「俺はいったい……どうしたんだ?」

 自分で自分に問い掛ける。
 土行孫は疲労の極地まで働き続けて、疲れ切っていた所を蝉玉に突かれ、誘拐された。
 そしてガリバーよろしく、今の土行孫はベッドに縛り付けられている訳だ。
 だが、今の状態に、とても不安を覚える。

「どうして……怒りを覚えない?」

 仮にも自分は攫われたはずである。
 そして望んでいない拘束を受けて監禁されていて、変な女に好かれている。
 正直、怒っても良いはずだ。
 怒りの感情の赴くがままにワイヤーを引き千切り、その力を振るっても良いはずだ。
 事ここに至っては、相手が女だから手加減をするべきという考えは抱いていない。
 なのに、だというのに、未だに心は平静なままなのだ。
 それが土行孫に、うすら寒い程の不安を掻き立てる。


 まるで、誰かに怒りという感情を、深い闇の底へと押し込められているかのようだ。


 怒りというものを感じるメーターがあるのなら、その針が振り切れないように強引に指で押さえつけているような状態。
 苦虫を噛み潰したような表情で、土行孫は呻く。

「……何だ、これは……?」

 蝉玉を……馬氏に似ている女を傷付けてはいけない、という感情が土行孫の奥底に根付いている。
 モヤモヤとした、不定形の感情。
 違和感しか感じない、その感情。

「いったい、誰の感情だ……」

 少なくとも、自分では無い。自分はこんな高尚な考えなど持ち合わせていない。

「どうして……まだ俺はここに寝ているんだ……」

 自分で自分が分からない。
 何故、蝉玉が戻って来るのを待っているのか分からない。
 取られたのは土竜爪だけなのだから、その気になれば逃げ出す事だって出来るのに、その気になれない。

「畜生……」

 それは、誰に向けての言葉だったのだろう。
 自分か、他人か、それとも世界か。
 訳が分からない、ぐちゃぐちゃの入り混じった考えで、ただ畜生と土行孫は呟く。

「畜生……死んだんじゃなかったのかよ……。
 お前の心が死んで、俺がそこに偶然入り込んじまったから、こんな厄介な事になってるんじゃないのかよ……。
 あの時、あのまま訳も分からず殺されていた方が良かったのか?
 ……嫌だ。理由も分からず殺されるなんて、真っ平御免だ……」

 今度は嫌だと、子供のように土行孫は首を横に振る。
 あの時、この世界に迷い込んだ時、初めて人の死を間近で見てしまった。
 人の身体に、血の池と呼んでも良い程の血が詰まっているなんて、思いもしなかった。
 振り翳された赤い血に塗れる剣から、情けなく不様に逃げ惑って、必死に走り続けた。
 もう、あんな恐怖を味わいたくなどないのだ。

「俺は……働いているだろう?
 お前の身体でした悪行を償うために、拉致されてしまう程に心配されるまで働いているじゃないか。
 なのに、そんなのはお前には何の関係も無いのか?」

 それは逃避でしかない行動。
 しかし、しなければならなかった事。
 殺したという罪悪感から逃れる為に、必死に身体を動かしていただけだ。
 だがそんな物は、土行孫が勝手に決めた償いの方法であって、それが誰かに伝わる訳ではない。
 許しを請うように土行孫は喋り続ける。

「死んでるんなら、これ以上俺の心を惑わさないでくれよ……。
 生きてるんなら、どうして俺みたいな亡霊に、むざむざと身体を使われてやがるんだ……。
 どうして……どうしてだよ……」

 恨み言が、泣き言が止め処なく土行孫の口から溢れ出る。
 分からないのだ。
 どうして自分が、こんな事になっているのか。
 自分はいったいどうしてしまったのか。
 自分は、いったい何の罪を犯してしまったのか。
 怒りには反応しても、この身体は悲しみを止めてはくれない。
 それが、とてつもなく苦しい。

「何とか言ってくれよ、孫……」

 かつて、この身体を使っていた少年の名。
 そして今は、その名を親しく呼ぶ者が誰も居なくなった名。
 土行孫が殺してしまったはずの名。

 これは、呪いなのだろうか?

 だから彼は、土行孫の問いかけにも応えないのだろうか。
 自らの名を呼んでくれる相手を、彼は失ってしまったから。
 土行孫の呼び掛けなど、何の役にも立たないのだろうか。
 応える意義を、土行孫という存在に感じ取れないから。

 土行孫の問いに、答えを返す者は誰もいなかった。

 身体がワイヤーで縛られていた事に、初めて土行孫は感謝した。
 もしただの檻に入れられたような身体が自由に動く状態なら、自殺していたかもしれない。
 全てを投げ出して、逃げ出す事が出来たかもしれない。
 この辛さから解放されるなら、それも良いかもしれないと、土行孫は考えてしまったから。
 舌を噛み切る勇気すら無いくせに、そんな事を考えてしまったから。
 馬鹿なその衝動を、このワイヤーは抑え付けてくれる。
 だから、土行孫は感謝した。
 崖っぷちに立っている自分が、寸前で留まる事が出来たのだから。








あとがき

蝉玉はちょっと暴走しているだけなので、終わったら本来の明るく活発な彼女に戻る……はず。

それにしても、おかしいですね。
もっとほのぼの監禁になる予定だったんですけど。

蝉玉編はあと二話ほどで終わる予定です。



[12082] 第四十三話 蝉玉×土行孫×申公豹=?
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2009/12/29 16:03




 日も中天に差し掛かる頃。

「……行ったみたいね」

 崇黒虎が豊邑を出て行くのを、蝉玉は城壁の上からこっそりと見ていた。
 何か苦手意識でもあるのか、崇黒虎の姿が見えなくなると、蝉玉はホッと胸をなで下ろした。

「あのう……スパイさん」

「きゃあああっ!?」

 気を抜いていた所に声を掛けられ、蝉玉は思わず声を出す。
 蝉玉が振り向くと、そこにはスープ―シャンが居た。

「何? 何っ? あたしとやる気!?」

「違うッス」

 五光石を構え、今にも投げつけようと警戒する蝉玉。
 だがスープ―シャンにはそのような気は無いようで、手に持った便箋をスッと蝉玉へと差し出す。

「? 何これ?」

「御主人からの果たし状ッス」

「果たし状ぉ?」

 スープ―シャンに促されるがままに、胡散臭そうに蝉玉はその果たし状を開く。
 尚、ハートマークのシールが付いていた事に、蝉玉が嫌そうに顔を顰めたのは余談である。

 手紙の文頭には、大きく『果たし状』と書かれており、蝉玉は面白そうだと内容に目を通す。


『          果たし状

 スパイよ。

 儂は周の軍師として、スパイがこの街に居座る事を許す訳にはゆかぬ。

 しかし、お主を問答無用で封神するのも、出来る事ならばしたくはない。

 明日正午、豊邑城中央広場にて待つ。

 そこで儂と戦い、雌雄を決しようではないか。

 お主が勝てば、自由にスパイ活動してよし。

 だが儂が勝ったら、お主は速やかにこの地を去るのだ。

 来なかった場合は儂の勝ちとする。

                         by 太公望』


「フ、フフフフフ……」

 読み終わった蝉玉の口から笑いが漏れる。

「はーっははは、しょうがないわね。挑戦を受けるのも、スパイの宿命ってとこかしら?」

 わざとらしく肩を竦めた蝉玉は、もう一度果たし状に目をやり、内容を一瞥する。

「あたしに勝とうなんて、無謀な事。周の軍師って言っても、やっぱりこの程度ね」

「御主人をあまり甘く見ない方が良いッスよ」

 勝ち誇る蝉玉に対し、スープ―シャンが反論する。
 だがそれでも、蝉玉は笑みを崩さない。

「今のあたしは無敵よ。だってハニーの愛があたしを強くしてくれる。
 太公望なんてあっさり倒して、それを肴にあたしはハニーとの甘い蜜月を過ごすんだから」

「え? スパイさん、結婚してたッスか!?」

 スープ―シャンが目を見開いて驚く。
 だが蝉玉はまだよ、と首を振る。

「でも、もうすぐそうなるつもり」

「おめでとうッス」

 敵であるにも関わらず、スープ―シャンが蝉玉を祝福をする。

「ありがと。公認スパイになったら、この街で大々的に結婚式を挙げてみたいから、もしその時は呼んであげるね」

「楽しみにしてるッスよ」

「それじゃ、あたしはハニーの様子を見に帰るわ。あんまり放置してると、ハニーが寂しがるもの」

「お熱いッスねぇ」

 ヒューヒュー、と口笛を吹くスープ―シャンを背に、蝉玉は愛すべき彼のもとへと向かう。






 辺りに人影が無い事を確認した蝉玉は、路地裏へと入り込む。
 崩壊した街の、まだ整備が行き届いていないそこを、障害物などないように軽々と進んで行く。
 そして、ある地点まで歩を進めると、蝉玉はしゃがんで、足元に手を伸ばす。
 サッと手で砂を払うと、うっすらと横に引かれた線が見えた。
 それは扉であり、巧妙にカムフラージュされた入口であった。
 土行孫の作ったシェルター、その入口がここにあった。
 ギシリ、と軋む音を立てて開いていく扉。
 中には光の届かない闇へと続く、階段がずっと続いていた。
 トントンと軽やかに階段を下りていく蝉玉は、うっすらと口元を綻ばせる。

「ハニー、喜んでくれるかな?」

 蝉玉のその手、そこには買い物袋が提げられている。
 土行孫に振る舞われるための食材が、その中にはぎっしりと詰まっていた。

 蝉玉は上機嫌だった。
 太公望の果たし状。
 それは蝉玉にとっても渡りに船だったからだ。
 太公望に勝つ事で、蝉玉は公認のスパイと成れる。
 そうすれば、大手を振って道を歩けるだろう。
 今までそうしていなかった訳ではないが、やはりスパイという後ろ暗い仕事柄、コソコソと隠れ潜まなければならない事もあった。
 それが公認ともなれば、堂々とスパイをする事が出来る。
 土光孫との結婚式も、皆に祝福されながら、堂々と出来るのだ。
 すぐに結婚して辞める事になるのだが、それでも必要な事だ。
 相手である土行孫としても、妻の過去は人に認められたオープンな物である方が嬉しいだろう、という配慮である。
 蝉玉はそう考えていた。

 階段を下りると、均されただだっ広い空間に出た。
 壁には燭台が備え付けられており、そこには半ばまで溶けた蝋燭の塊が残っていた。
 蝉玉はそれに火を灯すと、僅かに周囲が明るくなった壁を伝って奥へと進む。
 等間隔で備えられている燭台の蝋燭に火を灯し、段々と明るくなっていく空間を歩いて行く。
 そのまま進むと、初めは朧気であった人の気配が、空気を介して伝わって来る。
 蝉玉は相手に聞こえるであろう距離まで近づくと、その相手に声を掛ける。

「ハニー、ただいま」

 だがそのハニー……土行孫は、蝉玉の呼び掛けに応じてくれない。

「ハニー? 寝ちゃってるの?」

 不思議に思った蝉玉は、もう一歩踏み込んで、土行孫の寝ているベッドに一番近い燭台へと火を灯す。
 そして土行孫の姿を見て、蝉玉は目を見開いた。

「ハニー!?」

 明かりによって照らされた彼の顔は、お世辞にも元気そうとは言えなかった。
 憔悴しきった顔で土行孫はぶつぶつと何かを呟いており、虚ろな目で虚空を見つめている。

「ハニー、どうしたの? ねえハニー!?」

 手に持っていた買い物袋を投げ捨て、土行孫の横たわるベッドに飛び付くようにして蝉玉は歩み寄った。
 手を土行孫の頬に当てると、死人のように蒼白な顔は、やはり冷たく感じる。
 顔がくっつきそうな程近くで見つめても、土行孫は蝉玉の姿を目に映してはいない。
 生きているはずなのに、その土行孫の姿に、蝉玉は信じられないと頭を振る。

「何これ……」

 違う。
 こんなのは違う。
 自分は、彼に元気になって欲しかったのだ。
 自分の身体の事など後回しで働いている彼に、もっと自分を大切にして欲しかっただけなのだ。
 それが例え、多少無茶な手段であっても、必要な事だと理解したからだ。
 だからこそ、このような強硬手段に出たというのに。

「……」

 何かを決意した蝉玉は、彼を縛り付けていたワイヤーを外していく。
 全てが外され、最早自由になったというのに、土行孫は動こうとしない。

「やっぱり……」

 全く暴れる素振りなど見せない土行孫を、蝉玉は悲しげに見つめる。
 そしてするり、とベッドに横たわる土行孫の横に潜り込んだ。
 蝉玉は土行孫の背中に手を回して、土行孫のその小さな身体をギュッと抱き締める。

「震えてる……」

 身体を抱き締めて初めて分かったが、土行孫の身体は小さく震えていた。
 何かに怯えるように。

「ハニー、どうしちゃったの?」

 土行孫が何故このようになってしまったのか、蝉玉には分からない。
 だからそれを尋ねる。
 土行孫は蝉玉の方を見ようともしないまま、その口から掠れた声が零れる。

「……だ……」

「……」

「……俺は……誰なんだ……」

「……」

「俺は……どこに居るんだ……」

「ハニー……!」

 蝉玉は土行孫を抱き締める力を強くする。
 蝉玉は土行孫に一目惚れして、それからずっと見て来た。
 だから彼が、その心に弱さを内包している事も知っている。
 誰もいないと思っているその時、気の抜けているその時、彼という殻の隙間に弱さが顔を見せるのだ。
 誰にも知られない方が良いと思った。
 だから、日記に書く事さえも躊躇われた。

 蝉玉が見ていた彼は、復興の手伝いをするために外出するのを、一日たりとも止めようとはしなかった。
 もし蝉玉が何もせず、土行孫が疲労で動けなくなった時、彼は多少なりとも自分の弱さに落ち込むだろう。
 だから、蝉玉が彼を攫った。
 攫って、監禁して、無理矢理にでも休息を取らせることにした。
 そうすれば土行孫は、仕方の無かった事だと、自分を追い詰めずに済むではないか。
 全てを蝉玉に押しつけた後、土行孫は元気になって再び復興の手伝いが出来るではないか。
 そして蝉玉は、この奇妙な生活を思い出に、これからも生きる事が出来る。
 それが、予定であった。

 蝉玉は殊更明るい口調で、土行孫に言う。

「ねえハニー。ハニーが元気になったら、結婚式を挙げましょう。
 あたしはウェディングドレスを着て、ハニーはタキシードを着るのよ」

 蝉玉がスープ―シャンに語った事。
 この街で結婚式を挙げるという事。
 それは夢である。
 何よりも、未だ復興の成っていないこの豊邑で式を挙げる事など、土行孫が許そうとはしないだろう。
 土行孫の事を調べていた蝉玉は、土行孫のその心の機微を理解している。
 だが夢見る事ぐらい、別に良いではないか。

「きっと似合うわ。まだ恋人のこの字もない太公望達に、見せつけてあげましょう」

 その時は人前式が良いな、と蝉玉は言う。

「ハニーはハニーよ。
 例え弱くても、それは変わらないわ。
 そして居るのはあたしの腕の中。
 ハニーを抱き締められて、あたしは幸せ者ね。
 皆に自慢したいぐらいだわ。
 だから……」

 蝉玉は土行孫の背中に回した手を外し、土行孫の前髪を掻き上げる。
 昨夜、風呂に入る前に攫った所為か、髪は少しベタついていて、汗の臭いが漂って来た。
 だが何らそれらを忌避する事無く、蝉玉は髪を梳く。

「だから、早く元気になってね」

 そっと静かに、彼の額にその唇を落とす。
 それは何ら疾しい所の無いもので、怖い夢を見た子に、母が安心させるようにする類のものだった。
 再び彼の背に手を回して抱き締め、震えが治まったのを確認すると、蝉玉はゆっくりと眠りに落ちて行った。






 翌朝、目を覚ました蝉玉は朝食を作り、土行孫の隣に置いた。

「ハニー、あたしはちょっと出掛けて来るけど、ちゃんとご飯をしっかり食べてね」

 そう言い残して、蝉玉は出て行った。
 本当ならば、傍に居たいのだろう。
 何度も振り返って、土行孫に念を押して行ったのだから。
 太公望との果たし合いをすっぽかす事も出来た。
 しかし、果たし状に書いてあった通り、行かなければ蝉玉の負けである。
 もし無視すれば、無理に土行孫と引き剥がされるかもしれない。
 今の土行孫を一人にする事は不安であったが、だからこそ行くしかないのだ。
 名残惜しげに姿を消した蝉玉を見送る事もせず、土行孫はずっと天井を見つめていた。

 再び一人、土行孫はぼんやりと上を見つめる。
 その身を縛るワイヤーが既に無いという事以外、昨日と同じ姿であった。
 そのまま、幾分かの時間が過ぎた時、土行孫の顔に影が掛かる。

「おやおや、酷い有り様ですね」

「申公……豹……」

 ぬうっと何処からか現れたその人影は、申公豹だった。
 土行孫が掠れた声でその名を呼ぶ。

「何で……ここに……」

「あなたを嘲笑いに来た、とでも言っておきましょうか」

 上下逆さまに土行孫を見つめる申公豹の目は、土行孫を見つめて面白げに歪んでいた。

「それにしても、酷い顔です」

「うるせぇ……好きでこんな顔になった訳じゃねぇよ……」

「そういう意味ではないのですけどね。
 ですが、もし今のあなたを他の誰かが見たら、いったいどのように思うでしょうね?
 ……そう、例えば竜吉公主が今のあなたを見たら、どのように思うでしょうね?」

「……」

 土行孫は黙り込む。
 しかし、尚も申公豹は続ける。

「彼女は仙人界を離れる事が出来ませんから、代わりに私があなたの様子を伝えて来てあげましょうか」

「待て……申公豹……」

 その場を離れようとした申公豹の服の袖を、咄嗟に土行孫は手を伸ばして掴む。

「待ってくれ……申公豹……頼む……公主には……」

 知らさないでくれ。
 その意味を籠めて、土行孫は申公豹に懇願する。
 今の不様な姿を、彼女に見せたくは無かったのだ。
 必死にしがみ付く土行孫の言いたい事を理解したのか、申公豹はフッと笑う。

「嫌です」

「え……?」

 パンッ、という軽い音を立てて、土行孫の手は叩き落とされる。
 払い落されたその手を、呆然とした表情で見る土行孫。
 その土行孫に向けて、申公豹は言った。

「何故私が、あなたの言う事を聞かなければならないんです?」

「そんな……俺達、友達だろう?」

「友人の頼みならば聞いても構いませんが、そもそも私の友人は、そのような不様な事は言いません。
 もし私の友人ならば、例えこのような事態になろうとも、私は友人の名誉のために黙っていたでしょうがね」

 つまり、今の土行孫は、申公豹の友人足り得ないという事だ。
 土行孫の名誉を護る必要を感じない、だからお前の頼みなど聞かない、と申公豹は言いたいのだ。

「俺は……いったい誰なんだ……」

 申公豹の友人という分類からも、土行孫は外されてしまった。
 その今、自分はいったい誰なのだろう。
 だが何度となく投げ掛けていたその問いに、申公豹が答える。

「私が知るはず無いでしょう。甘えるのも大概になさい」

「……」

「そもそも、自分が誰なのかという問いは、その多くが無意味な物です。
 自分が誰なのか分からずとも、時は変わらず流れます。
 誰なのか分かった所で、変わる事、変えられる事など僅かでしか無いのですよ」

「……そう、か……」

「『自分は自分であり、それ以外の何者でもなく、何者にも成り得ない』
 とでも言えば、安易な言い方になりますか。
 ですが、深く考えずとも、案外それが正解に最も近いという事もあるのですよ」

「……」

「あなたは今まで、何のために動いて来たのです?
 背負わなくても良い罪悪感からですか?
 その身に刻まれた喪失の恐怖からですか?
 それとも力を得た自分が、その力に酔うための優越感からですか?
 あなたが今まで生きて来た時間、年月とは、ただ“それ”だけで構成されているのですか?」

「……俺、は……俺が動いて来た理由は……」

「ああ、言わなくても構いません。その程度で崩れる脆いものですから、どうせ大したことでは無いのでしょう」

 では、と言って、申公豹は土行孫から離れる。
 闇に溶けるようにして姿を消す直前、申公豹は言った。

「そうそう、言い忘れていましたが、あなたの中には二つの魂魄があるようですよ。
 それはいったい、何を意味しているのか?
 それさえも分からない程に頭が残念な事になっていないのであれば、少しは考える事をお勧めいたします」

「あ、待っ……」

 それだけを言い残し、申公豹の気配は消え去った。
 土行孫は先程とは別の意味で手を伸ばすが、今度は申公豹を掴む事が出来なかった。
 後には、ポツンと一人残された土行孫がベッドに横たわっていた。

「……少しぐらい、俺に言わせてくれても良いじゃないか……」

 雷のように突然現れて、嵐のように捲し立て、風のように去って行った。
 ほとんど口を挟む事さえ出来ず、土行孫は申公豹の言っている事を聞いているだけで精一杯だった。
 だが、最後に言った事だけは、土行孫の耳にずっと残っている。

 あの道化師は最後に言ったのだ。
 土行孫の身体の中には二つの魂魄がある、と。
 魂が無ければ、人は生きられない。
 それがあるという事は、だ。

「孫が……生きている……?」

 それはつまり、土行孫はこの身体の持ち主を殺していない、という事だ。
 それは、土行孫にとって、衝撃的な事だった。
 脳裏に今までの事が、走馬燈のように過ぎさって行く。
 だが今までの根底が覆され、考えが纏まらない。

 ゆっくりと、土行孫は起き上がる。
 ただそれだけの事でさえ、今の土行孫には億劫だった。
 身体は既に自由だというのに、未だこの場に縛り付けられているかのようだった。
 老人のようにノロノロと動きながら、土行孫は上を見上げる。

「外に……出よう……」

 外に出れば、何かが変わるかもしれない。
 少なくとも、ここでジッとしているよりは、まだマシかもしれない。
 そんな一縷の希望を持って、地上へと続く階段へ向けて歩き出した。

 だが一歩踏み出した所で、土行孫は歩みを止めて振り返る。
 その先には、朝食と思しき冷めきった粥が置いてあった。

「とりあえず……飯食ってからにするか……」

 自分のためにせっかく作ってくれたものを無下にする。
 せめて、そんな人でなしには、土行孫はなりたく無かったから。






あとがき

次で蝉玉編は終わる……はず。
蝉玉はなんとかヤンデレから脱出できたかな?





[12082] 第四十四話 太公望VS鄧蝉玉……と土行孫
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2009/12/30 16:07





「……眩しい」

 地上に出た土行孫は、日の光に目を細める。
 三日と経っていないはずだが、随分と久しぶりの気がした。
 人通りの無いその道を、土行孫は当て所も無く歩き続ける。

 土行孫は、自らの心にぽっかりと穴が開いたような気分だった。
 そしてその穴に、寒い隙間風が吹き付けている気がした。
 歩きながら、土行孫の口から小さく声が漏れる。

「六十年……」

 六十年だ。
 孫という名の一人の人間を、土行孫が殺したと思い込んでいた時間。
 不可抗力だった、と言う事は出来る。
 どうしようもないことだった、とも理解している。
 なにせ、自分の意志で彼の身体を乗っ取った訳ではないのだから。
 未だに何故自分はこんな状態にあるのか、その取っ掛かりさえ掴めていないのだから。

 最初は自分のせいじゃないと、そう思っていたのだ。
 けれど、時が経つに連れ、その事実を無視する事が出来なくなって行った。
 水で顔を洗う時に見る自分の顔に、ふとした拍子に見る自分の手に、それらが違和感を感じさせる。
 確かにここにある自分の身体だと認識しているのに、記憶と食い違う変化の無い身体。
 その違和感が、自分は違うんだ、という証明となって土行孫に突き付けるのだ。
 例え自分の意志では無いとはいえ、周りから見れば彼を殺した事には違いが無いのではないか、と。

 もしも孫の村が、妲己の悪意の対象とならなかったら?
 その時、孫の身体に取り憑いた土行孫は、どのような扱いになっただろうか?
 まず、気が狂ったと思われるだろう。
 そして、自分が孫という人格では無いと信じてもらえた場合、土行孫は詰られるだろう。

 孫を返せ、この人殺しが、と。

 家族から、幼馴染から、村から、彼の存在は認められなくなるのだ。
 もし現状を素早く受け入れ、孫という少年のフリをして生きて行った場合でも、彼の存在は消える。
 その想像をした時、あまりにも強いその重圧に耐えきれず、嘔吐してしまった事を覚えている。
 村の住人が死んだ事は都合が良かったのではないか、と土行孫は考えてしまったから。
 それを否定し切る事が出来なかったから、情けなさに自己嫌悪するしかなかった。

 その枷が外れた。
 孫は生きているという、その事実。
 喜ぶべき事だ。
 だが六十年以上もの間、孫を殺したと考えて来た土行孫は、それが無くなった今、どうすれば良いのだろうか?
 それが分からず、心にはぽっかりと穴が開いた気分だった。

 足の向くままに歩いていると、大通りへ出た。
 だがそこで、奇妙な感覚に襲われる。

「……人がいない……?」

 まったく居ない訳ではない。
 だがもう日も真上に来ている時間である。
 いつもならば人が大勢通っていて、八百屋や魚屋の客引きの声などが聞こえて来るはずなのだ。
 だというのに、人の姿が殆ど無い事がとても不思議だった。
 何があったというのだろう。
 誰かに話を聞いてみようか、と土行孫が思ったその時だった。

「いやあああああっ!!」

「え……?」

 悲鳴が聞こえて来る。
 その声に、土行孫は耳を疑った。


 今の声は、何処かで聞いたような声では無かったか?


 そう、それはここ数日、土行孫が良く聞いていたはずの声だった。







「何……これ……?」

 蝉玉は目を丸くしていた。

「スパイちゃーん、絶対勝ってねー!」

「おい、まだかよ」

「お酒……」

「まだ軍師の方が来てねえから始まんねぇんだろ」

「プリンちゃーん!」

「おいおい、不戦勝か?」

「私のお酒……」

「ダッハッハ、こりゃいい酒の肴になるぜ」

「薪ー! 薪はいかがっすかー!!」

「黄飛虎、俺達も勝負だ!!」

「おいー酒が足らねーぞ酒がー!」

「おいあの女何なんだ? 異常に飲むぞ」

「樽に入ってた酒、丸々飲んで大丈夫とか……」

「プリンちゃーん!!」

 蝉玉の目の前には、大勢の人が集っていた。
 皆がどんちゃん騒ぎをしており、あちらこちらで酒盛りをしている。

「なんなの、このギャラリーの数は……」

「周の人達はお祭り好きッスから、こういう事があると何処からともなく現れるッス」

 スープ―シャンが申し訳なさそうに言う。

「にしても、いったいどれだけの人が集まってるのよ。端の方まで見えないくらい居るじゃない」

 周の全国民が集まっているのではないか、という疑問が湧くほどだった。
 珍しくちょっと真面目に考えていた自分が、アホらしく感じて来た蝉玉だった。

「……まあ良いわ。このあたしのスパイとしての勇名を、天下に轟かせて――」

「プリンちゃーん!」

「きゃああああっ!?」

 後ろからガバッと何者かが抱きついて来て、思わず蝉玉は悲鳴を上げる。

「いやあああああっ!!」

 抱きついてきた不埒者を、蝉玉は力尽くで引き剥がす。
 仙人骨を持っているためか、それなりの力はあるのだ。

「このっ、このっ!!」

 ゲシッ! ゲシッ!! と抱きついていたその男を蹴り飛ばす。
 ギャアアア! と男は悲鳴を上げているものの、蝉玉は足を止めない。

「おりゃあああっ!」

 ドガッ! と最後に遠くへ蹴り飛ばした後、蝉玉は両手で自分の身体を抱き締める。

「あたしに触れないで! あたしに触れていいのは、ハニーだけなんだから!!」

 その宣言に、オオー、と周の民が感嘆する。

「良いぞースパイちゃーん!」

「もっとやれー!」

「旦那は幸せ者だなー!」

 などと言った声援が、蝉玉に向けて飛んで来る。
 その声に蝉玉は機嫌を直し、フフンと胸を張る。

「皆、応援ありがとー! この調子で太公望なんてギタギタにブッ倒してあげるわー!」

 アイドル気分で手を振る蝉玉。
 だが太公望は未だ現れない。

「おっそいわね、太公望の奴」

「まあまあ、もうすぐ来るはずッスから」

 苛立って来た蝉玉を、スープ―シャンが宥める。
 チッと蝉玉は舌打ちをする。

「……まあ良いわ。遅れて来た奴は負ける、って相場が決まっているもの」

「普通は逆じゃないッスか?」

「普通はね。実力がある奴が重役出勤して来た場合は勝つわ。でも、小細工を仕込むために遅れた奴は負けるのよ」

 小細工を仕込む事に全力を掛け過ぎて、手段と目的が逆転するからだ。
 そう言った蝉玉の耳に、聞き覚えのある笑い声が割り込んできた。

「フフフ……良い気になっておるのも今の内だ」

「その声は!?」

 バッと蝉玉は振り向く。
 その先には、今日の対戦相手の太公望らしき影が立っていた。

「さあ、決闘だ! 儂が小細工だけの男か、その目でとくと見るがよい!」

「い、いやあああああっ!!」

 太公望のその姿に、蝉玉は悲鳴を上げる。
 太公望は全身を覆う程の、大きな鳥の着ぐるみを着ていたのだ。
 しかもこの鳥、一見するとペンギンのように見えるが、羽や嘴が異常に大きい。
 その上、目から涙のようなものが大量に流れ出ており、嘴からは涎のようなものがぼたぼたと垂れている。
 その様たるや、気持ち悪いとしか言いようがない姿であった。

「……御主人、遂に被り物まで……」

「フフフ……スープー、驚いたであろう?」

「驚いたというよりも呆れて――」

 スープ―シャンが最後まで言うのを待たず、太公望は巨大なその羽を蝉玉に向ける。

「このスパイは鳥が苦手なのだ! この間神鷹を見て取り乱しておったのを、儂の慧眼は見逃してはおらぬ!!」

 ビシッと格好よく太公望が告げるが、その着ぐるみのせいで全てが台無しである。
 対する蝉玉は、太公望の言葉も届いていないのか、フルフルと首を横に振っていた。

「い、いや……こっち来ないで……」

 その姿からは、つい数分前までの強気な様子は感じ取れず、そこに居たのはただの少女だった。
 いやいやと首を横に振り続けていた蝉玉は、太公望の目が喜色に歪むのを見てしまった。

「いやああああっ!」

 叫びながら、蝉玉は太公望に背を見せて逃げる。

「はぁーーっはっはっは!!」

「いや、飛んで、いやああああ!」

 バサバサと羽を上下に動かし、飛行する太公望は蝉玉を追い掛ける。
 羽に何か仕込んであるのか、羽ばたく度に下向きの風が生まれる。

「こっち来ないでよぉー!」

「はーっはっはっは!
 来るなと言われれば行きたくなるのが人情というものよ!!
 逃げろ逃げろ、もっと儂を楽しませるのだー!」

「御主人……」

 外道な事をほざいて尚も蝉玉を追い続ける太公望に、スープ―シャンが涙を見せる。

 一方恐慌状態に陥った蝉玉は、ただ只管に逃げ回っていた。
 太公望に指摘された通り、彼女には鳥に対してのトラウマがある。
 そのため、トラウマを直撃する太公望の姿に、蝉玉は何も考えられなかった。
 叶う事なら、今すぐにでもこの場所から消えたいと願っていた。
 だが蝉玉の望みは叶わず、いつまでも逃げ切る事は出来なかった。

「い、行き止まりっ!? そんなっ!?」

「もう逃げられぬなぁ」

 広い城の端まで来てしまった蝉玉は、行き止まりにぶち当たる。
 これ以上逃げる事は出来ず、後ろには太公望が迫っている。

「残念だったな、スパイよ。
 儂としてはもっと、血沸き肉躍る流血の勝負を期待しておったのだが……。
 いやあ、本当に残念だのう」

 わざとらしく残念残念と言う太公望に、蝉玉の顔が引きつる。
 なぜなら、嘴の奥に見えた太公望の顔は、これ以上ない程に嗤っていたからだ。
 腰が抜けたのか、地面にへたり込む蝉玉。
 そのまま太公望から少しでも離れようと、尻もちをついたまま蝉玉は後退する。
 直視して多少頭が冷えたのか、蝉玉は太公望を罵倒する。

「あ、あんた、こんな事して良いと思ってんの!? 主人公の名が泣くわよ!」

「何を言うか! 相手の弱点を攻める。これぞまさに兵法の基本ではないか」

 だが太公望は何処吹く風と言わんばかりに、蝉玉の言葉を受け流す。
 すぐにでも決着が着けられると確信しているのか、敢えて蝉玉から少し離れた位置に太公望は陣取っている。
 
「だがこれで終わりだな、スパイよ。
 潔く儂の華々しい活躍の礎と成るが良い。
 最後に何か言い残す事があれば、儂が聞いてやろう」

「……て」

「ん~? 聞こえんなぁ~」

「……助け、て……」

「儂はもう歳だからのう。どれ、もっと良く聞こえるように、そっちへ行ってやろうかのう」

 グッとその短い足を縮ませ、ビヨンと跳ねる太公望。
 その勢いのまま、羽をバッサバッサと羽ばたかせて空を飛ぶ。

「なんと儂は優しいのかのう!」


「いやああああっ! 助けてハニー!!」


 蝉玉が叫ぶ。

「無駄だ、誰の助けも来ぬわぁ! カーッカカカカカ!!」

 わざとらしい烏の鳴き声のような高笑いをしながら、太公望は蝉玉に向けて直進する。






 その時、二人の間に黒い影が割り込んだ。

「女を……」

 その小さな影は蝉玉を護るように立つと、グッと握った右拳を、腰の捻りを加えて真っ直ぐに突き出した。

「泣かせるんじゃねぇぇっ!!」

「ギャアアアッ!?」

 加速して突っ込んで来ていた太公望の腹に、その拳はカウンターとして突き刺さった。
 弾き飛ばされた太公望は、地面にベシャッ! と叩き付けられる。
 そのままビクンビクンと二、三回跳ねた後、鳥の着ぐるみは動かなくなった。

「はあ……はあ……」

 太公望を殴り飛ばした彼は、全身汗だくになりながら、肩で息をしている。
 その彼を見て、蝉玉は目を見開いた。

「ハニー……どうしてここに……」

 蝉玉を助けたのは、地下のシェルターに居るはずの土行孫だった。
 最後に見た時の彼の様子からすれば、ここに居る事が不思議でしかないだろう。

「……声が……聞こえたんだ……」

「声……?」

「ああ。助けを求めている、お前の声が……」

 振り向いた土行孫は、倒れている蝉玉に向けて、スッと右手を差し出す。

「大丈夫か?」

 導かれるように、蝉玉はその手を取った。
 手を引いた土行孫によって、蝉玉は立ちあがる。

「ハニー……」

「怪我は無いか?」

「ハニー!」

「うおわ!?」

 蝉玉が両手を広げて、土行孫に抱きつく。
 土行孫は蝉玉を引き剥がそうとするが、しっかり抱きついているせいか、上手く離れられない。
 そうしている内に、グスグスという音が聞こえて来た。

「お、おい……」

 顔を横に向けてみると、感極まったのか、蝉玉が泣いていた。

「参ったな……俺が泣かせてたら意味が無いじゃないか……」

 勿論、土行孫にだって、それが嬉し泣きの類だとは分かる。
 だがそれでも、はあと口から溜め息が漏れるのは止められなかった。
 これから、更に泣かせてしまうのだから。

「蝉玉」

 グ、と力を少し籠めて、蝉玉を引き剥がす。
 離れた蝉玉は、土行孫の顔を見てキョトンとしていた。

「なぁにハニー、どうかしたの?」

「話がある」

 すると蝉玉は頬を赤らめて、もじもじと身体をくねらせる。

「やあね、こんなに人が見てる前でプロポーズだなんて、あたし恥ずか――」

「違う! ……そうじゃない」

「え?」

「蝉玉。俺は……お前の想いには応えられない」

 蝉玉の顔が驚きに、そして悲しみに歪む。
 ズキリ、と突き刺すような痛みが土行孫の胸に走る。
 その痛みを顔に出さないようにしながら、土行孫は続ける。

「お前が俺に好意を持ってるのは良く分かったよ。でも、蝉玉がそうでも、俺はそうじゃないんだ」

「……なんで? あたしの何処が悪かったの? 確かに、自分でもちょっと強引だったとは思うけど……」

「そうじゃない。確かにそれもあるけど、重要な所じゃない」

 土行孫は静かに首を横に振る。

「そもそも俺は、蝉玉の事を良く知らないし――」

「そんなの、これから知れば良いわ。何の問題も無いじゃない!」

「それだけじゃないんだ。俺は不器用だから、今の世の中でそういう事は考えられないんだ」

 はっきりと、土行孫は断った。

「お前が悪い訳じゃない。ただ俺に、そういう甲斐性が無いだけだから、お前は何も悪くない」

 蝉玉は再び地面に座り込み、目を伏せる。

「そんな……それじゃあたしは、どうしたらハニーに好きになってもらえるの……?」

「……ごめん。それは無理だ。だって俺は、自分が好きになれないから」

 自分が好きになれないから、他人を好きにはなれない。
 土行孫はそう言った。
 勿論、ライクの方の好きという感情は、他人にも向けている。
 しかし、ラブの方の好きという感情は、向けられない。

「俺は自分の事さえまだ良く分からなくて、他人を愛せるかも良く分からない。
 そんな中途半端な気持ちで、付き合ったりとかしたくないんだ」

 土行孫は蝉玉に背を向ける。

「こんな事、俺が言って良い事なんかじゃないけど、スパイなんか辞めてどこかで静かに暮らしてくれると嬉しい。
 ここに居辛いなら、国境まで送るから。
 殷のスパイのお前と、俺は戦いたく無いんだ。
 ……いや、俺のエゴだよな、これは。やっぱり好きにしてくれ」

 そのまま、土行孫は蝉玉のもとを離れる。
 いつの間にか、辺りは静かになっていた。
 皆が土行孫と蝉玉を見ている。
 その視線が辛くて、土行孫は目を伏せた。

「すいません。通して頂けますか?」

 土行孫が呼び掛けると、大勢の人の波が二つに分かれて道を作っていく。
 やがて、そこには綺麗な一本道が生まれた。
 その道を、土行孫は一歩踏み出す。

「……ああ、そうだ」

 だが、何かを思い出したかのように、土行孫は立ち止まる。

「粥、美味かったよ。ありがとう」

 それだけを言うと、土行孫は走ってその場を離れた。
 それ以上、蝉玉に何かを言わせる暇を与えず、土行孫は逃げ去ったのだ。

「ハニー……」

 その場に残された蝉玉の声は、辺りに虚しく木霊した。






 自らの宿舎へと逃げ帰った土行孫は、寝床に潜り込むと泥のように眠った。
 そのまま翌日まで眠り続け、やっと目覚めたのは、既に皆が起き出している時間だった。

「はあ……」

 起きた土行孫は、宝貝を全て外して風呂へと駆け込んだ。
 幸いというべきか、浴場には誰もいなかった。
 頭から水を被ってぼんやりとしていた頭を覚醒させると、昨日の事を思い出して深い溜め息が漏れた。

「何で俺は、あんな事言ったのかなぁ……」

 蝉玉を振った事が、土行孫に重く圧し掛かる。
 人に告白されるといった経験が無いせいか、言い方がきつくなってしまった、と土行孫は思う。

「でも……あのまま流される訳にもいかなかったしなぁ……」

 あそこは、はっきりと断るべきだった。
 蝉玉に語った通り、土行孫は蝉玉の事を良く知らない。
 それ以上に、土行孫は今、誰かと付き合うといった事をする余裕が無いのだ。
 自分という物が良く分からなかった土行孫には、いきなりそういった事に手は出せない。
 湯船に浸かる土行孫は、昨日の事を思い返しながら呟く。

「俺がもっと自分の整理が付いた後なら、そういう事も考えられたんだけど」

 昨日、蝉玉が危ない目に遭っていると分かった瞬間、土行孫の身体は動いていた。
 何があったのかとか、どうしようとか考える事無く、一直線に助けに向かった。
 その時の土行孫には、自分が誰なのか、というあれ程に悩んでいた事がすっぽりと抜けていた。

「俺は何がしたいのか、ごちゃごちゃと考え過ぎてたんだよな。
 結局のところ、俺に出来る事なんてたかが知れてるんだから、それを精一杯やれば良いんだよ。
 あの時俺は蝉玉を助けられた。それだけで良いじゃないか」

 難しい事なんて考える必要が無い。
 申公豹の言った通り、自分が誰なのか分かった所で、変えられる事なんて僅かだ。
 一人では大した事など出来やしないのだ。
 本当に、下らない悩みだったように土行孫は思う。
 あまりにもあっさりと解決した自分の悩みに、自分でも戸惑っている。

「だから俺は馬鹿なんだ」

 と土行孫は自分を詰る。
 それは、申公豹の言葉が効いていたのかもしれない。
 孫がまだ生きているという言葉に、多少なりとも罪悪感が消えたからだろう。

「自分が誰だろうと、助けたいと思って動いた事は間違いじゃない。
 そしてそれで助けられた人が居るなら、それが俺のした事の証明になるじゃないか」

 土行孫は風呂から上がり、身体を拭いて服を着る。
 宝貝は邪魔だったので部屋に置いて来た。
 だから長い髪を纏める事もせず、大まかに水気を切った後はそのまま垂れ流している。
 竜吉公主が居れば一瞬で乾かす事も可能なのだが、今は居ないのでそれも出来ない。

「……にしても、本当に疲れてたんだな、俺」

 ペタペタと廊下を歩きながら、身体が異常に軽い事に土行孫は驚く。
 これが本来の状態なのだろうが、もうここ数週間味わっていなかった軽さだ。
 もっと肩の力を抜いた方が良いんだな、と土行孫は思った。
 監禁まがいとはいえ、蝉玉の行為も無駄では無かったのだろう。
 その蝉玉の事を思い出し、土行孫は溜め息を吐く。
 それは、先程までとは少し違った溜め息だった。

「……ちょっと、惜しかったかな……」

 蝉玉の行為は過激であったものの、あれだけ直球で想いを向けて来られたのは初めてである。
 女性にモテた事が無かったから、正直言って嬉しかった。
 だから、その彼女を振った事が少しだけ残念だった、と土行孫は思う。
 蝉玉はタイミングが悪かった、としか言いようがない。
 もっと後に出会っていれば、もしかしたら付き合うという未来が生まれたかもしれない。

「まあ良いか。あれだけ言ったんだし、もう会う事も無いだろう。
 ……こんな事を言ったら、また会いそうな気がするな……まあ大丈夫だろう」

 これで振り回される事も無くなる、と土行孫は安堵した。
 挨拶でもしようか、と皆がよく集まっている食堂に土行孫は足を向ける。

「おはよう」

「ああ、モグラか。遅かったさ」

「おはようッス」

「おはようございます、土行孫さん!」

「おはようハニー!」

「なん……だと……?」

 土行孫の挨拶に、その場に居た天化、スープ―シャン、武吉が元気良く返事を返してくれた。
 だがその中に、見過ごせない者が一人混じっていた。

「蝉玉……」

「なぁにハニー?」

 それは昨日振ったはずの蝉玉だった。
 かなり落ち込んでいたのに、今見た所では元気はつらつといった感じである。
 あれだけ辛辣に振ったというのに、土行孫に対して何の確執もないように感じる。
 その蝉玉は机に向かって何か書きものをしていたようで、皆がその周りを取り囲んでいる。

「お前……どうしてここに……」

「言ってなかったっけ? あたし、太公望に勝ったから公認スパイとして認められたのよ。
 だから、ハニーも好きにしろって言ってくれたし、ハニーの傍に居る事にしたわ」

「な……師叔に? どうやって……」

「何言ってんの? ハニーが昨日あたしを助けてくれた時に、ぶん殴ってたじゃない」

「……え? あれ、師叔だったの?」

 土行孫はあの時、蝉玉を襲っているのは鳥の妖怪だと思っていた。
 一発殴ったら気絶したので、あとは大丈夫と思って帰ったのだが、それが太公望だとは気付かなかったのだ。

「あの試合はハニーが乱入したせいで無効になったの。
 それで、やり直そうって事になったけど、太公望が起きないから結局あたしの勝ちになったのよ」

「おかげで御主人はまだ医務室に居るッス……」

 さめざめとスープ―シャンが涙を流す。

「く……」

 屁理屈である。
 しかし、好きにしろと言った手前、土行孫は反論できない。
 ハニー、と蝉玉が土行孫を呼ぶ。
 土行孫が顔を上げると、蝉玉は真面目な顔で土行孫に告げる。
 
「あたしは諦めないわよ。絶対に振り向かせるから」

 その言葉には、嫌な程の説得力が籠っていた。
 監禁も辞さない覚悟を持つ蝉玉に言われると、いずれそうなりそうな気がする。
 それが想像出来たせいか、土行孫の口から乾いた笑いが漏れる。
 あれほどはっきりと断ったにも関わらず、蝉玉は諦めてはくれないらしい。
 その蝉玉は一転して軽い調子になると、言葉を続ける。

「でもあたし、殷のスパイは辞める事にする。これからはハニーの傍に居るからね」

「そ、そうか……でもお前さっき、公認スパイになったとか言ってなかったか?」

「そうよ」

「じゃあ何のスパイなんだよ?」

「勿論、決まってるじゃない」

 蝉玉は土行孫に向けてピッと指を差す。



「ハニー専用のスパイよ」



「……ああ、そう」

 それだけしか、土行孫は言えなかった。
 何とか話題を変えるべく、辺りを見回してみる。
 すると皆、一斉に土行孫の視線から眼を逸らした。
 天化はわざとらしい鼻歌まで歌っている。
 畜生何だよ武吉まで違うだろお前そんなキャラじゃないだろ、と土行孫は心の中で嘆く。

 尚も何か無いかと探すと、机の上にある資料のような束が目に入った。
 先程まで蝉玉が何か書いていたものの一部だろうか、びっしりと内容が書き込まれている。
 だが何が書いてあるのかは、少し離れた場所に立っている土行孫には読み取れない。

「なあ、それなんだ?」

 土行孫はその紙を指差す。
 すると蝉玉は花を咲かせたような笑顔を浮かべる。

「知りたい?」

「……いや」

 嫌な予感がした土行孫はそれを断る。
 だが蝉玉は恥ずかしそうにその紙を手渡して来たので、土行孫は仕方なく受け取る。

「う……」

 内容に目を通した土行孫は絶句する。
 その中身は土行孫に関する事柄が、びっしりと端から端まで書かれていた。
 蝉玉は机に向かって筆を取り、続きを書きながら上気した顔で、言葉を続ける。

「あたしはスパイだから、ハニーの事を良く調べようと思って。
 とりあえず、レポート用紙で五十枚くらいハニーの良さを語ったモノを、聞太師に送ろうと思うの」

「なに!?」

 そんな事をしたら、聞仲にはとても効果のある嫌がらせとなるだろう。
 しかし土行孫の精神的ダメージが大き過ぎる。
 そんな事をされたら、土行孫は社会的に死ねるだろう。
 否、怒った聞仲が土行孫を殺しに来るかもしれない。

「お願いだ蝉玉。それだけは止めてくれ!」

 本気で土行孫は叫ぶ。
 蝉玉にしがみ付いて、尚も書き続けようとするのを土行孫は止めようとする。
 しかし、今の土行孫は、宝貝を何も身に着けていない。
 見た目通りの力しかない土行孫には、蝉玉を止める事が出来なかった。

「あはっ、あはーっはははははは! 何これハニー超かわいい!!」

 土行孫の行為は、蝉玉を喜ばせる事にしかならなかったらしい。
 意地悪がしたくなったのか、尚も蝉玉は筆を取って書くフリをする。
 それを止めようと纏わりつく土行孫。
 その様はまるで、玩具を買って貰えなくて親に駄々を捏ねる子供のようだった。






 周の上空にて、一人の道士と一体の霊獣が喧騒を眺めている。

「……どうやら、立ち直ったようですね」

「相変わらず、あいつは良く分からない事で躓くよね」

「その方が面白いではありませんか。さて黒点虎、朝歌に帰るとしましょうか」

「あれ? ねぇ申公豹、これから竜吉公主ちゃんに会いに行くんじゃ無かったの?」

「会いに行く理由が消えました。行くのは延期です」

「延期って……やっぱり行くの?」

「ええ。彼らがもう少し親密になった辺りで、彼女に教えるとしましょう」

「……変な事考えるね」

「何か言いましたか?」

「何でもないよ」

「まあ、そう遠くはありませんよ。彼らはいつも、面白い事を仕出かしてくれますからね」

 そう言った申公豹は、黒点虎を促して周の上空から消え去った。





あとがき

これでやっと蝉玉編が終わりました。
シリアスはもうしばらくいいです。
あと、やっぱり太公望は今回みたいな時が輝いていると感じます。


結局、土行孫は色々と考え過ぎて泥沼に嵌まっていた感じです。

次どうしましょうかねぇ……。



[12082] 第四十五話 殷周易姓革命START!
Name: 軟膏◆05248410 ID:a2b7933f
Date: 2010/02/08 22:32




 暗い闇の中に一人、土行孫は立っていた。
 何処かに光源があるのか、辺りは真っ暗だというのに自らの小さな手はしっかりと認識出来て、それが不思議に感じられた。

「何処なんだろうな、ここは」

 夢の中、という事は分かる。
 このような何も存在しない空間という物を、土行孫は知らないからだ。
 もし他に見ている人が居るならば、現実感のないこの場に居る自分は、さぞかし奇妙な事だろう。
 周囲を見回せど、自分以外には誰一人居ない。
 こんな闇の中に、一人ぼっちで佇んでいる事が、どうにも心細かった。

「どうせなら、もっと明るい夢が良かったなぁ」

 と土行孫は一人ごちる。
 これまでの人生で自分に言い聞かせる機会が多かったせいか、どうにも独り言が多くなってしまった。
 心の中で考えれば良いことなのに、どうしても口に出さないと収まりが悪いというか、そんな感じなのだ。
 流石に他人の前では自粛しているが、ここは夢の中であるし、他人に気を使う必要が無いのが幸いか。

「誰かいないかな……」

 自分の夢なのだから、それ位の融通は聞いても良いのではないか。
 そう土行孫が思った時だった。

「え?」

 土行孫の声に反応するように、視界の端を何かが横切った。
 視線をそちらへ向けると、少し離れたところに、一人の人影が後ろを向いて立っていた。
 よく分からないが、袖に付いているカフスから、学生服のような物を着ていると判断できた。
 本当に自分の願い通りに人が登場したのか、と目を瞬かせる。
 だが現れたのはその一人だけのようで、再び他に誰かが登場する気配は無かった。

「おい、あんた」

「……」

「聞いているのか?」

「……」

 背を向けているその人影に、土行孫は声を掛ける。
 だがその人影は無言のままで、何等反応を見せない。

 夢の中だからだろうか。
 目の前に居るはずなのに、輪郭がはっきりしない。
 確かにそこに居るはずなのに、何処にも居ないような感覚を覚える。
 姿は見えるのに、それが人ではなく、ただの人形のような違和感を感じるのだ。
 まるで、自分の影に話しかけているかのようだ。

 何の反応も見せない人影に苛立ち、人影に近づいてその腕の辺りを土行孫が掴む。

「おい」

 グイッと腕を引いて振り向かせ、土行孫はその人影の顔を覗き込む。

「……え?」

 その顔を見て、土行孫は口をポカンと開ける。
 それはどこかで見た事のある顔で、土行孫が良く知っているはずの顔だった。
 しかし、彼は知らない。
 こんな虚ろな目をした姿を、彼は見た事が無いのだから。






 パチリ、と目を開ける。
 目の前には赤い髪が広がっていた。

「……何だ今の」

 夢の中で、自分は誰と会っていたのだろう。
 一瞬前まで見ていた光景。
 けれどその光景は、直ぐに靄がかかったように判然としない記憶へと成り下がった。

「ああ……くそっ」

 こうして意識がハッキリしたらしい今では、どんな顔だったのか分からない。
 覚えているのは、ただ人影の顔を見て、とても驚かされたという事だけ。
 ただの夢だと割り切る事も出来るが、果たしてそれで済ませて良いものか。
 夢は何かを暗示しているのかもしれない。
 孫という少年の記憶を、土行孫は以前垣間見てしまった事がある。
 だからあの良く分からない人らしき姿との対面も、何かの意味があるのではないかと思ってしまうのだ。

「……ま、良いか」

 あまり深く考えすぎても碌な事にはならない。
 それを土行孫は、最近思い知ったのだ。
 良く分からない夢は悪夢と片付けて、再び寝るとしよう。
 朝方が僅かに冷え込むこの時期としては、布団からは出たくない。
 大体、気だるげな朝を迎えるなど、柄ではないのだ。
 アンニュイな気分になって様になる顔でもない。
 そういったものは楊戩に任せるべきだ。
 その方が良い。

 寝ぼけた頭で理論武装を済ませ、土行孫は布団を被る。
 暖かな赤い抱き枕を抱えると、「やんっ」という声と共に、甘い香りが漂い、それが土行孫の鼻を擽った。

「もう、ハニーったら。まるで子供みたい」

「……なんでここに?」

「ハニーがまた魘されたらいけないかな、って思って。だから添い寝をね」

「……」

 そこに居たのは蝉玉だった。
 確かに、この部屋には扉のようなものは無い。
 ただの開けた空間があるだけだ。
 だから侵入するのは容易い。
 別に男の部屋なのだから、特に気にすることもないと思っていた。
 しかし、このような事は予想していなかった。
 否、蝉玉がこちらに加わった以上、このような事態は予想して然るべきだったのかもしれない。
 とりあえず、土行孫の結論は一つだった。

「……寝れない」

 二度寝の夢は露と消えたらしい。






「なあ、添い寝とか止めてくれよ」

「何を言うの? 愛し合う夫婦は一緒に寝るものでしょ」

「誰と誰が夫婦だって言うんだ……」

「あたしとハニーに決まってるじゃない。パパにも『結婚します』って手紙送ったもの」

「止めてくれよ!」

 蝉玉と会話しながら、土行孫は歩いていた。
 蝉玉は土行孫が無茶をしようとすると、先手を打ってくる。
 その手段がこういう土行孫の苦手な行為なのはどうしたものか。

 蝉玉が引っ付いて来る事で、土行孫はあまり前ほど動けなくなってしまった。
 先日、蝉玉の事を盛大に振ったあのシーンは、既に周中に広まっている。
 道士の恋愛という事が物珍しいのだろう。
 街を歩けば、皆が以前とは別の視線を向けてくる。
 しかも蝉玉が一緒に付いて来るため、皆が蝉玉に同情するのだ。
 振られたけど諦めない蝉玉は、街の人気者になっている。
 健気で可愛いと評判だ。
 絶世の美女、という訳ではないが、美少女である事には変わりない。
 多少性格が変わっていても、生温く見守られる範囲だ。
 スパイをやっていた者を相手にして、信じられない待遇の良さである。
 奇しくも、土行孫は蝉玉が街に溶け込む事に成功したのである。
 尤も、その蝉玉を振ったにも関わらず、尚も彼女の傍にいる土行孫には殺意が向けられるのだが。
 お陰で針の筵の土行孫は、怪我の治りは早くなっても、胃に穴が開きそうになっているのは秘密である。

 その蝉玉に対して、あまり強く出れない事が土行孫の悩みだ。
 蝉玉に対して土行孫は、我ながら最低な事をしたという負い目がある。
 そのせいか、どうにも無邪気そうに笑う蝉玉を見ると、怒る気が萎えてしまうのだ。
 土行孫の中で未だ生きているらしい、孫の意志も関係しているのだろうか。
 しかし、それだけでもないと土行孫は感じている。
 自分が、蝉玉の事を好ましいと感じているのも事実なのだ。
 別に惚れた訳ではない。
 蝉玉の明るい性格が、傍に居る土行孫にとって気持ちの良いものであるというだけだ。
 鬱々と自らの内に閉じ篭りやすい土行孫には、蝉玉のように多少強引な方が、相性としては良いのかもしれない。

 そのまま漫才の掛け合いのような会話を繰り返していると、土行孫の名を呼ぶ声が聞こえた。

「おーい、土行孫」

「ん?」

 土行孫が声をした方を見遣ると、太乙真人が立っていた。

「太乙真人様じゃないですか。お久しぶりです」

「や、久しぶり。そっちの君とは初めてかな?」

「え、あたし?」

 蝉玉が自分を指差す。
 そうだよ、と太乙真人は頷き、蝉玉にスッと手を差し出す。

「僕は太乙真人だ。気軽に太乙って呼んでくれて良いよ」

「あたしは鄧蝉玉、ハニーの妻よ」

「おい……」

 グッと蝉玉が太乙真人の手を握る。
 横から土行孫が声を発するが、二人とも聞いていないようだ。

「ハニー? 誰の事……ああ」

 横に立っている土行孫を見て、太乙真人は納得したように頷いた。

「現地妻かい?」

「違います!」

「ははっ、分かってるよ」

 本当に分かっているのか、太乙真人は空笑いを返す。

「そんな事より、どうして降りて来たんですか?」

「ああ、それね」

 土行孫が話題を逸らすと、太乙真人は話に乗って来た。

「明日、集会があるんだろう?」

「集会? ……ああ、そういえばそうでしたね」

 明日、周の民を集めて、決起集会を開く事になっている。
 土行孫はその事を思い出した。
 あちらこちらへと走り回っていたから、ずっと忘れていたのだ。

「ナタクが来れないからね。代わりに僕達が来たんだ」

「……達?」

「うん。僕と雲中子だ」

「なんでまた、雲中子まで……」

「雷震子がこっちに残ったからね。しかも怪我してるらしいって聞いて飛びついたんだよ。
 こっち来てすぐ別れたから、今頃は雷震子を探してるんじゃないかな?」

「……雷震子」

 人間界に来ても、雷震子は雲中子から逃れられないのだろうか。
 太乙真人の言った雷震子という言葉が、土行孫には実験台としか聞こえなかった。
 雲中子が雷震子に何をしたのかを聞いていた土行孫は、その事に涙を禁じ得ない。

「……あ、そうだ。ナタクの様子はどうです?」

「ああ、それはねぇ……」

 太乙真人は苦い顔をする。

「何せ、真っ二つだからね。神経の接続に手間取ったよ。
 あの子の本体は霊珠で、身体は蓮の化身なんだけど、考えるのは脳でやってるからね。
 無理に霊珠を摘出して、別の蓮で身体を作るわけにも行かないんだよ。
 もしやったら僕が殺されるしね」

「そうなんですか……」

「うん。それに壊れた宝貝の修理とか、改造とかが必要になって、もうてんてこ舞いだよ。
 ナタクが強奪した宝貝を返さないといけないし、その代わりの宝貝も与えないといけないからね。
 今から新しい宝貝の設計とか難しいし、火尖鎗をあの子用に改良する事になると思うけど」

「……大変ですね」

 土行孫がそう言うと、太乙真人は頬を掻きながら明後日の方を向いた。

「ま、手の掛かる子ども程可愛いんだけどね」

「そうですよね。早く元気になって貰いたいものです」

 ナタクが居れば、戦力としてとても心強い。
 思えば、もうしばらく戦っていないが、初めて会った時とは比べ物にならない程強くなったものだ。
 その成長速度に、土行孫は毎度戦々恐々としているのだから。
 そろそろ自分では相手が出来なくなるのでは、と焦る事もしばしばだ。
 なにせ、例え内旗門で姿を消しても、何故か見つかるのだ。
 どうして分かったのかと尋ねても、「臭いがした」と良く分からない返答を返される始末だ。
 どうやらナタクは、強さを見分ける嗅覚のようなものを持っているらしく、それで居場所を突き止められたのだ。
 それ以来、一瞬の虚を突く程度にしか、内旗門が使用できなくなったのはとても痛かった。
 何度も言っているのだが、相変わらずナタクは全力で殺しに掛かって来るので、一瞬も油断出来ないのである。

 そのまま太乙真人を加えて、ナタクの事に対して話をしながら、城内を歩いていく。
 太乙真人が言うには、太公望に渡す物があるらしい。
 蝉玉も仲間外れを嫌ったのか、進んでナタクの事を聞いて来た。
 中庭を通り過ぎた所で、二人の男を蝉玉が見つけた。

「あれ? あれ太公望じゃない?」

「え? ……ああ、本当だ。武王も居る」

 土行孫が目をやると、太公望が武王に何やら言い聞かせているのが見えた。

「ねえハニー、行ってみようよ」

「ああ、そうだな。太乙真人様も師叔に用があるらしいし」

 土行孫は蝉玉に手を引かれて、太公望達に近づいていく。
 余程集中しているのか、二人がこちらに気付いた様子はない。
 姫発は手に持った紙に目を落とし、うんうんと唸っている。

「ねえねえ、何してんの?」

「む? ……ああ、お主らか」

 顔を上げた太公望は、蝉玉達を見て少し嫌そうな顔をした。
 だがすぐに表情を変え、ピッと姫発の持つ紙を指差した。

「見ての通り、明日の集会に備えての準備だ」

「準備?」

「うむ。明日儂らは、民衆を集めて戦の開始を告げる。
 武王にはそのための演説がある。
 だから今、儂が考えた文章を暗記してもらっておるのだ」

「なるほどね」

 姫発が読んでいるのは、その演説の為の原稿だったらしい。
 姫発はブツブツと念仏のように文章を読み続けている。

「だぁー! もう面倒くせぇー。!」

 だが限界に達したのか、姫発はそう叫んでバタンと仰向けに倒れた。

「これ、武王。まだ終わってはおらぬ」

 太公望が窘めるが、姫発はそれを無視し、ひらひらと原稿を振り翳す。

「おい土行孫、これ見てみろよ」

 そう言って、近くに居た土行孫に原稿を投げ渡す。
 咄嗟に手を伸ばして受け取ってしまった土行孫は、その原稿に目を落とした。


『我、武王はここに宣言する。
 殷の紂王は妲己と共に、人を人とも思わぬ悪逆非道を行っている。
 民から吸い上げた税で、贅沢三昧の限りを尽くしているのだ。
 民を飢えさせ、民を殺す。
 そのような所業を行う者は、最早王ではない。
 彼の者に、既に王たる資格は存在しない。
 故に、我はここに宣言する。
 殷という国を腐敗させた暴君紂王、そして悪女妲己を討つと!
 そして、新たな周という国を持って、この地に平穏を齎す事を!!』


「……これがどうかしたんですか?」

 こういう事に詳しくは無いが、特に問題がある内容ではないと土行孫は思った。
 だが姫発の感じ方は違ったらしい。

「そんな小難しい文章、俺には似合わないと思わねぇ?」

「戯け! この程度が出来なくてどうする。似合う似合わないで愚痴を零すな。
 お主は人の上に立つのだ。その程度の事でうだうだ言うでないわ!」

 太公望が姫発を一喝する。
 太公望は土行孫から原稿を分捕り、姫発に突き付ける。
 原稿を受け取った姫発は、再び渋々と原稿に目を落とした。
 声に出してブツブツと呟いているのを見ながら、太公望は疲れたように溜め息を一つ吐いた。

「先が思いやられるのう……」






 翌日。
 壇上へと続く扉の前に、太公望と姫発は立っていた。
 扉の先からは、ざわざわとした人の声が聞こえてくる。

「武王」

「……なんだよ、太公望」

「壇上には太乙が作ってくれたマイクがある。
 声を拡大してくれるから、スピーチはそれに向かって言うがよい。
 メガホンでは様にならぬからのう」

「お、おう……」

「よいか。この扉の向こうには、五万もの民衆が集まっておる。
 失敗は許されない。くれぐれも、粗相のないように」

「お、おう!」

 プレッシャーが掛かっているのか、姫発の声は若干震えていた。
 太公望はそんな姫発を一瞥すると、バシッとその背を叩いた。

「痛っ!」

「シャキッとせんか。民の中には、お主がプリンちゃんと呼ぶ美人も混ざっておるのだぞ」

「分かってるよ!」

 反論するかのように太公望に言葉を返し、姫発は静かに目を閉じた。
 そして一つ、深呼吸をする。
 ゆっくりと目を開けた姫発は、口元にニヒルな笑みを浮かべた。

「うっし……行くぜ!」

 その顔には、数分前までの緊張の震える姿は、欠片も無かった。

 扉がゆっくりと開いていく。
 扉の隙間から差し込む光に、姫発は僅かに目を細めた。
 その先の壇上へと向けて、姫発は静かに歩を進める。
 壇上の傍らには、武成王と周公旦が控えていた。

 姫発が壇上へと上がると、ざわついていた民衆が一気に静まり返った。
 姫発は民衆を見渡し、皆が自分を見つめている事を確認すると、マイクに向けて話し始めた。

「あー……その……なんだ、戦争なんてものは、元々碌なもんじゃねぇと思う」

 それは太公望の指示した言葉とは異なる物だった。

「でも俺は、殷と戦おうと思っている。支配者だからって、いつまでも好き放題されるのは、もう勘弁ならねぇ」

 暗記が出来ていなかった訳ではない。
 普段からアホだの何だのと言われているが、姫発はこの場の重要性を理解出来ない程愚かではない。

「こん中には、俺の事を以前から知ってる奴もいる。
 俺みたいな奴に、王様なんて勤まらねぇって思ってる奴も、中には居るだろう。
 でもさ、とりあえず今は俺の事を親方だと思って、付いて来てくれないか?」

 ただ姫発は、必要だと感じたのだ。
 この場において、皆が自分を武王として見ている。
 自分の言葉を待っているのだ。
 だからこそ、他人の考えた文句がいかに素晴らしかろうと、それでは意味が無いと感じたのだ。

「俺には姫昌の親父や、伯邑考あんちゃんみたいな才覚は無い。
 一人じゃ何にも出来ない、そんな情けねぇ王様だ。
 だけど、ここに居る皆が、こうして応援してくれている。
 こんなにも味方が居るんだ。だから……」

 姫発が顔を横に向けると、武成王と周公旦が口元に笑みを浮かべているのを見た。
 そして目線を後ろへ向けると、太公望がやれやれといった感じで、仕方無さそうに肩を竦めていた。
 そして再び、姫発は民衆を見渡す。


「だからさ、殷なんてブッ潰そうぜ、皆ぁ!!」


 マイクを掴んで語り掛ける姫発に、民衆からは大いに歓声が沸いた。






 朝歌にて。
 一人の青年が、バタバタと慌しく走り回っている。
 青年はその手に土行孫の土竜爪に酷似した宝貝を持っていた。
 名を張奎という。
 張奎は常ならぬ動揺した様子で、ある人物の下へと駆けつけた。

「聞仲様、大変です!」

「何事だ、張奎」

 左目を覆うように仮面を着けた美丈夫……聞仲と呼ばれたその男は、焦りを浮かべた張奎に尋ねる。

「周で民を集めた決起集会が行われました。既に太公望は建設していた要塞に向けて、兵を率いて周を出たようです」

「何!?」

 それを聞いた聞仲は思わず立ち上がり、張奎に厳しく問い質す。

「諜報部は……いや、鄧蝉玉は何をしていた! 何故これほどまでに情報が遅れたのだ!?」

「そ、それが……どうやら我々を裏切り、周へと寝返ったようです」

「く……買い被り過ぎたか。女だからと、敵に篭絡される事を考えていなかった私の落ち度だ」

「そんな!? 聞仲様のせいではありません!」

「いや……思った以上に私は、狐の影響を受け過ぎているのかもしれない。
 こんな事も想定できなくなっているとは……な」

 ドサッと椅子に座り直した聞仲は、深い溜め息を吐いた。

「それよりも……問題は太公望だ。
 スパイを寝返らせるとは、中々にあざとい手を使う。
 その上、民を争いに巻き込むとは、見損なったぞ!」

「それは違うよ、聞仲君」

 ダンッ! と机を叩いた聞仲を窘める様に、後ろから別の声が掛かる。
 聞仲に声を掛けたのは、中世の貴族然とした派手な男だった。
 手にはワイングラスを持ち、優雅な笑みを浮かべている。

「何の用だ、趙公明」

 振り向く事もせず、聞仲はその男、趙公明に尋ねる。
 その口調には、隠し切れない苛立たしげな声色が滲み出ていた。
 だが趙公明はそれを気にする様子も無く、言葉を続ける。

「太公望は仕方なく、そうしたんじゃないかな?
 魔家四将は豊邑を狙ったんだ。民衆に交戦ムードが高まるのも無理は無い」

 既に飲み干したのか、それともただの格好付けか、趙公明は空の手にしたワイングラスをゆらゆらと動かす。

「君も諦めて、人間を使って大規模な戦争をしたらどうだい?
 壮大で華麗な戦になるだろう。良いね、悪くない。君もそう思うだろう?」

「黙れ、貴様の趣味になど付き合っていられるか!
 私は民を使わん。
 この私と金鰲の十天君の力を持って、崑崙の仙道と妲己を倒せば、それで済む事だからな」

「おや? 民を使わないだって? 残念ながら、それは手遅れのようだよ」

「何だと?」

「窓の外を見てみると良い」

 趙公明は窓の外を指差す。
 聞仲がその指が差す方角を見つめると、聞仲達の居る場所から見下ろせる場所に、彼らは居た。






 聞仲の見つめる先、そこに居た民の数は、聞仲の想像を絶するものであった。
 周の民による決起集会の比ではない。
 彼の民の人数は五万であった。
 それに対し、この大地を埋め尽くす人の群れは、五十万を超えていたのだ。
 そして彼らは皆一様に、狂ったようにある一人の名を呼び続ける。

「妲己様!」

「妲己様!」

「妲己様!」

 と。
 そこに集められた民衆は、老若男女関わりなく、皆が妲己の名を呼んでいた。
 異常な事である。

「あはん♡ 妲己ちゃん、何気に初・登・場♡」

 現れた妲己は民衆に向けて、軽くウィンクを返す。
 それだけで目から滂沱の涙を流し、喜びに咽び泣く者達。
 誘惑の術がしっかりと効いている事を確認した妲己は、シナを作りながら民衆に言葉を掛ける。

「皆聞いてぇ~ん♡ 病欠の紂王様の代わりに言うわん♡
 この朝歌に、東西南北の諸侯達が攻めて来ようとしているの……」

 そして妲己は、目をウルウルと潤ませる。
 その目には、今にも零れそうな涙が溜まっていた。

「いや~ん! だっきぃ、困っちゃう~ん♡ 助けてぇ~ん♡」

 嫌々と首を振る妲己に、民衆は更にヒートアップする。
 妲己の為ならば命も惜しまない。
 そんな兵隊達が生まれた瞬間だった。

「狐!!」

 その妲己の目の前に、聞仲が怒りを顕わにして立ち塞がる。

「民を扇動するとは何事か! しばらく大人しくすると言ったのは嘘だったのか!?」

「あら? だって、はっきり約束した訳じゃないじゃないん♡」 
 
 同じ朝歌に居ながら、聞仲と妲己は敵対している。
 しかしほんの数ヶ月前、妲己は聞仲に休戦協定を結ばないかと話を持ち掛けたのだ。
 今は太公望という共通の敵が居る以上、しばらく自分は大人しくしている、と。
 だがその言葉を、聞仲があっさりと信用するはずも無い。
 考えておくという言葉と共に、その話は立ち消えになった。
 けれど聞仲は、はっきりとその話を蹴った訳ではないのだ。
 もし妲己が本気で休戦協定を結ぶ気ならば、しばらくは大人しくしていただろう。
 だが実際はどうだ。
 僅か数ヶ月という期間は、数百年を生きる仙人にとっては、瞬き程の時間でしかない。
 その舌の根も乾かぬ内に、妲己はこれを行ったのだ。
 聞仲が警戒するのも当然といえよう。

「まあ良いじゃないのん、人間同士で戦わせれば♡
 そして妾達は影で人間を操る……太公望ちゃんのやってる事と同じよん♡」

 妲己は顔に手を当てる。
 既にそこに涙の痕跡は無かった。
 白々しい言葉を吐く妲己を、聞仲は鼻で笑う。

「フ、同じだと? 違うな。
 少なくとも太公望は人間の為に戦っている。
 だがお前は遊んでいるようにしか見えんがな!」

「あはん♡ そうかしらん?」

 妲己の口元には、妖しげな笑みが広がっていた。






「フフフ……見てください、黒点虎。
 この国の歴史が、仙道によって動かされようとしていますよ。
 長らく待った甲斐がありました」

 民衆が決起するのを眺めながら、申公豹はその顔に喜色を浮かべる。

「でも申公豹、これで良いの?」

 だが黒点虎は納得が行かないのか、申公豹に尋ねる。

「やっぱり君が妲己を倒しちゃえば、それで話は丸く収まるんじゃない?」

「それは出来ません」

「どうしてさ?」

「どうしても、です」

 詳しくは語らないが、妲己を倒す事は出来ないと申公豹はキッパリと言う。

 殷の横暴に耐えられなくなった周が決起し、殷は強大な力を持ってそれを廃そうとする。
 その影には、どちらも仙道が潜んでいた。

「でもこれで、形式が整いました。金鰲と崑崙、それぞれが殷と周に寄生して、戦争を行うという形式が」

「勝てるのこれ?」

「さあ? どうでしょうね。ですが、勝つ見込みの無い戦いを自ら仕掛ける程、太公望は愚かではありませんよ」

 申公豹の口からは、抑え切れない含み笑いが漏れていた。





 紀元前十一世紀、古代中国大陸にて。


 周軍総数五万。

 殷軍総数七十万。


 この革命戦争は、数の上では殷の圧倒的優勢で始まった。

 歴史に記された戦い。

 強大なうねりとなって全てを巻き込んでいく戦いの、その幕開けであった。








あとがき

遅れましたが、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

実は今回、聞仲や妲己を出そうかどうかで迷ってました。
DOKOUSONはどちらにも会っておらず、特に影響など無いんで、内容は変わりません。
ですが、やっぱり対立する以上、少しは出すべきだと判断して、漫画と同じ内容ですけど登場させました。

次回はパパ登場です。



[12082] 第四十六話 蝉玉のダディ登場
Name: 軟膏◆05248410 ID:a2b7933f
Date: 2010/01/19 01:33




 殷と周は、双方ともに「仙人と人間の合同軍」で戦う事を決定した。
 両国はそれぞれ、周の元帥太公望、殷の太師聞仲を司令官とし、この歴史的な戦争の指揮権を与えた。






 太公望は楊戩の建造した要塞を見て、ほうと感嘆の声を漏らした。
 そして振り返り、この要塞を造った楊戩を褒めた。

「流石よのう。これほど堅固な要塞は見た事が無いぞ」

「此処は殷と周の境界ですからね。それ相応の物を造ったつもりです」

 この要塞は、殷を攻める為の橋頭堡である。
 敵は強大である以上、堅牢な要塞は不可欠だ。
 故にこの要塞の出来は、太公望にとって満足のいく仕上がりだったと言えよう。

「うむ。これならば、敵が来てもしっかりと持ち堪える事が出来る」

「ええ。僕達に合わせて、東・南・北の諸侯も動いてくれています。……後は戦うだけですね」

「そうだのう……」

 この戦争で、いったいどれ程の人が死ぬのか。
 なまじ頭が良いだけにその事を想定出来てしまい、太公望達は目を伏せた。
 だが暗鬱な気分に浸っていた二人の耳に、聞き慣れない声が割り込んで来た。

「そこに居るのが太公望かーっ!」

「む?」

「なんでしょうね」

 その声に顔を上げた二人は、声の聞こえて来た方を見遣る。
 砦から少し離れた場所に、彼らは居た。

 リスをデフォルメしたような巨大な生き物の上に、人が一人乗っていた。
 痩せぎすのその男は、下に居る生き物と対比して、とても小さく見えた。

「な、なんという小さい人……!」

「違いますよ師叔、あれはあの生き物が大きいんです」

「ええい、そんな事分かっておるわ。……それにしても、あのミュウもどきはいったい何だ?」

「あ、静かに。どうやら自己紹介を始めたようですよ」

 楊戩が人差し指を立てて、口元に持って行く。
 太公望が言われた通り口を噤むと、男は話し出した。

「太公望よ、私の名は鄧九公」

「そしてボクは妖精の竜鬚虎ニャ」

 長い尻尾をゆらゆらとさせながら、下に居た生き物も名乗る。

「殷王家に代々仕えた名門・鄧家の当主として、汝らの主、姫発の罪を問いに来た。
 天子たる紂王を無視して勝手に『武王』を名乗り、その上叛臣黄飛虎を庇護した。
 あまつさえ、民を扇動して朝歌に攻め入ろうとしている。
 このような行いが赦されるとでも思っておるのか?」

 鄧九公はうだうだと口上を述べる。

「否! 断じて否!!
 大人しく自らの罪を認めるが良い。
 私としても、争いにより民を殺す事は避けたい。
 すぐさま姫発は武王という名を捨て、朝歌に出頭するのだ。
 であれば、西岐の民には手を出さぬよう、紂王には私からも進言しよう」

 だがここまで静かに話していた鄧九公は、語調を荒げて義憤に燃えた目で言葉を続ける。

「しかぁ~し!
 これでもまだ私の言を聞き入れないと言うのならば、これは天をも赦さざる大逆なり!
 断じて捨て置く事は出来ん!!」

「……長いのう」

 鄧九公の話を聞いていた太公望は、鄧九公の様子に引き攣った苦笑いを浮かべる。。

「どうやら敵……のようだが、こういうタイプにはきっと何を言っても無駄だのう」

「ええ。説得は無理でしょう。漫画ならコマがフキダシで埋まるレベルです」

 楊戩も太公望の言葉に賛同する。

「どうしようかのう……」

「そして!」

「お? まだ続くのか……」

 まだ喋り足りなさそうな鄧九公に、太公望はうんざりとした呆れの視線を向ける。
 だが鄧九公はそれに気付いていないのか、指をビシッと突き付けた。

「貴様だけは絶対に許さぬ! 土行孫よ!!」

「……え?」

 太公望の隣の楊戩に向けて。
 鄧九公の言った事が理解できなかったのか、楊戩は恐る恐る自分を指差す。
 鄧九公が力強く頷くと、楊戩は千切れんばかりにブンブンと首を横に振った。
 だが鄧九公は指を楊戩に突き付けたまま、話し始める。

「惚けても無駄だ! 私は知っているぞ。太公望の傍には、土行孫という男が居るという事を!」

「ちょ、待って下さい! 確かに僕はハンサムで美しくて格好良いけど、僕は土行孫じゃ――」

「まあ待て『土行孫』、面白そうだからもう少し様子を見よう」

 ニヤニヤと笑いながら、太公望が楊戩の肩に手を当てて楊戩を抑える。
 わざと土行孫という名を強調し、鄧九公にも聞こえるようにして、だ。

「放して下さい師叔! あんな誤解をそのままにしておくなんて、僕のプライドが許しません!」

「良いではないか良いではないか」

「何処のオヤジですかアンタは!」

 楊戩は暴れて逃れようとするが、太公望は蛸のようにへばり付いて離れようとしない。
 そうこうしている内に、鄧九公が瞳に怒りを灯し、語気を荒げながら話し始めた。

「聞けば、貴様はヒモのような状態で西岐に寄生し、民の税で暮らしておったそうだな。
 しかもその後は、さも働いている所を民の前で見せて、好感度を上げるという手段に出たという。
 そして良い人だと騙されて近寄って来た若い少女達を誑かし、食い物にしていると聞く。
 なんという鬼畜! 貴様に泣かされた者が、どれ程の怨みを抱いていると思っているのだ!
 貴様には情という物が無いのか!?」

「……凄い言われようですね」

「悪意を持って見れば、こういう解釈も出来るという事だのう」

 土行孫は周に来た時、秘密裏にシェルターの建設をしていた為、目立って動いてはいなかった。
 だから知らない者からすれば、土行孫は何もしていないように見えただろう。

 鄧九公の言うその後とは、魔家四将に豊邑を破壊され、その復興に当たっていた時であろう。
 これはシェルターを造る必要が無くなった為、復興を手伝っていただけである。

 食い物にしているとは、特に疾しい意味など無いはずである。
 見た目子供な土行孫に女子供が興味を抱き、手伝いの礼としてその名の通り食事の振舞われたに過ぎない。

 そして泣かされたというのは、やはり蝉玉の事であろう。
 今では豊邑の民の全てが知っている事だ。
 むしろこの話の所為で、今まで何とも思われなかった過去の善行でさえ、敢えて悪く解釈する者が出たのだろう。
 鄧九公が手に入れた情報も、それが大いに混じっているに違いない。

「例え天が赦そうとも、私は絶対に許しはしない!」

「鄧九公の奴、儂らに喧嘩を売りに来たのでは無かったのか?
 どう考えてもさっきの口上より、今の方が明らかに力が入っておるのだが……」

「そのような事は最早どうでも良い!」

「あやつ、認めおった……。
 よくよく思い返せば、誰かの命令でここに来ておる訳では無さそうだし、やはりさっきのはただの建前か……」

 しかし何故、と考えた所で、はた、と太公望は気付いた。

「『鄧』九公?」

 登場時のインパクトの所為で考えが及ばなかったが、それはどこかで聞いた事がある姓であった。

「あら? この声は……」

 その事に太公望が気付いた時、後ろからノコノコとその人物が現れた。
 鄧蝉玉、鄧九公と同じ姓である。
 そして蝉玉は、鄧九公の姿を見つけ、目に驚きを浮かべながら叫んだ。

「パパ!」

「ぱぱぁ?」

 太公望がアホのように蝉玉の放った言葉を繰り返す。
 すると蝉玉の姿を見て、鄧九公は先程とは別個の柔和な笑みを浮かべた。

「おお、蝉玉ちゃん。スパイ活動御苦労だったね。
 辛かったろう? さあ、こっちに来て顔を見せておくれ」

「はーい!」

 それは、何処にでも居る一人の父親の顔であった。
 蝉玉は元気良く返事をして、砦から飛び降りて鄧九公のもとへ向かう。
 竜鬚虎の頭にヒョイッと飛び乗った蝉玉は、久方ぶりの再会に笑う。

「パパ、竜鬚虎、、ごぶさた」

「センちゃん、久しぶりニャ」

「蝉玉ちゃん、怪我は無いかい?」

「大丈夫よ。あ、でも……」

 蝉玉はジト目で太公望を見る。

「そういえば太公望のアホは、鳥の格好をしてあたしを苛めたわ!」

「何ぃ!? 本当か蝉玉ちゃん!」

「許せないニャ!」

「竜鬚虎、岩を飛ばせ! あの分を弁えぬ愚か者どもを蹴散らすのだ!」

 竜鬚虎はその長い尻尾を振り回す。
 鞭のように操られたその尻尾は、大きな岩を弾き飛ばした。
 吹き飛ばされた岩は要塞に当たり、大きな音を立てて砕け散る。

「な、何をしておるのだ蝉玉! 早くそやつらを止めよ、儂が死ぬではないか!」

 上手く当たらないように避けた太公望が、焦った声で蝉玉に呼び掛ける。
 太公望が情けない声を出しているのを見て気が大きくなったのか、蝉玉はフフンと胸を張る。

「あの時の事、謝ったら許しても良いわよ」

「いつまで根に持っておるのだ。
 く、まずい……このままではせっかく造った要塞が壊されてしまう。
 仕方ない。楊戩、あやつらを止めるぞ」

「嫌です」

「へ?」

 楊戩が断り、太公望の口から間抜けな声が漏れる。

「竜鬚虎やパパはともかく、スパイの宝貝は恐ろしい。
 あれに当たってこの僕が濃ゆい顔になるなんて、読者も望んではいないでしょう」

「お、男の読者は望んでおるやも――」

「いいえ! そんな事はあり得ません!!」

 きっぱりと楊戩は断言する。

「絶対に顔が映らないと分かっておるのに、そこまで嫌か」

「当然です。真主人公のこの僕に、イメージが崩れる事などあってはならないのです。
 ……それに、僕達の出る幕なんて無いでしょう。適材適所です」

 楊戩がそう言った時、後ろから小柄な人影が現れた。

「……なあ師叔、さっきから何かうるさいんだけど、何かあったのか? 蝉玉の姿も珍しく見えないんだけど……」

 現れたのは土行孫だった。
 それだけでは無い。
 他にも先程の轟音を聞き付けた黄飛虎やスープ―シャン、南宮适や兵士達がぞろぞろと連れだって現れた。

「どうした太公望殿!」

「敵襲か!?」

 皆一様に焦りを浮かべ、敵の攻撃を警戒している。
 心強い味方が増え、太公望は助けを求める。 

「おお、良い所に来てくれたお主達。誰か、とっととあいつらを何とかせい」

「え、あいつら?」

 太公望に請われた土行孫は、太公望が指差す方を見遣る。

「あ、やっほーハニー。見て、友達の竜鬚虎とパパが遊びに来てくれたの」

 対する蝉玉は、空気を読まずに土行孫に手を振る。

「状況が掴めないんだけど……」

 首を傾げる土行孫に、実はこれこれこういう訳で……と太公望は手短に説明する。

「このさい誰でも良い。誰か蝉玉の暴走を止めよ」

 だがこの場に集まった皆は、中々行動を起こそうとしない。
 皆が口々に言い訳を零す。

「や、やだぜ……俺に女の子や動物と戦えって言うのかよ」

「蝉玉さんは悪い人じゃないッス! 御主人が謝ればそれで済む事ッスよ!」

「あんな怪獣に普通の人間が太刀打ち出来っか! お前がやれ!」

「そうだそうだ!」

「スパイは可愛い!」

「スパイは俺達の癒しだ!」

「土行孫は死ね!」

「土行孫はスパイと別れろ!」

「土行孫はもげろ!」

「羨ましいんだよ畜生!」

「土行孫はもげろ!」

「もげろ!!」

 兵士達からは蝉玉にではなく、土行孫に対して怒りを見せている者が多数だった。
 魂の叫びが聞こえて来る。
 男ばかりの軍に置いて、蝉玉の存在は一種の清涼剤であった。
 故に、蝉玉と仲良くしている土行孫に対して、鬱憤が溜まっていたのだ。
 兵士の中には復興の手伝いで土行孫に助けられた者も居るが、それとこれとは別問題である。
 皆が家族と離れ離れになっているのに、目の前でイチャつかれたら、誰だって怒りたくもなるだろう。

「と、いう訳で、満場一致でお主に決まった」

「畜生……」

 太公望が打ちひしがれている土行孫の肩をポンと叩く。
 陰口を言われるよりはマシだが、直球で言われても傷つくものである。
 実の所、スープーシャンや南宮适は太公望が何とかするべきだと言っているので満場一致とは言えないのだが、今の土行孫は気づかない。

「で、でもよ、俺もああいうのはちょっと……」

「良いからとっとと行け」

「うおっ!?」

 どうしようかと悩んでいた土行孫を、楊戩が後ろから蹴り飛ばす。
 土行孫扱いされた事が余程嫌だったのだろうか、その蹴りには結構な力が籠っていた。
 要塞から蹴り飛ばされた土行孫は、怪我をしないように受け身を取り、軽い音を立てて着地した。
 何をする、という意味を込めて土行孫が見上げる。
 すると、楊戩だけではなく、その場に居た皆が無責任に土行孫を応援していた。
 中にはどうなるかと賭けを始める兵士も混ざっている。

「……まあ、仕方ないか……」

 今から戻っても非難の目で見られるだけである。
 ならば、せめて何とかしようと、気持ちを入れ替えて蝉玉を止めると土行孫は決意した。
 といっても、蝉玉は頼めば止めてくれるだろう。
 問題は鄧九公の方である。
 話を聞く限り、鄧九公が納得しなければ、また岩を飛ばされる可能性が高い。
 だから蝉玉の事は置いておいて、土行孫は鄧九公に話しかける。

「あの、蝉玉のお父さん」

「貴様に義父さんと呼ばれる筋合いはない!」

「ちょ……」

 会話の一歩目から躓いた。
 確かに『蝉玉の』と付けたのにも関わらず、拒否されてしまった。
 どうやら娘の蝉玉と同じく、思い込みの激しい人物らしい。
 その鄧九公は、楊戩が土行孫では無かった事に気付いたか、今度は土行孫に向けて怒りを向ける。

「貴様のような外道に、蝉玉ちゃんはやらん!」

 どうやら鄧九公は、まだ土行孫の悪評を信じているらしい。
 鄧九公に反論しようとした土行孫だったが、口を開く前に蝉玉が割って入った。

「もうパパ! ハニーはそんな人じゃないわ。むしろあたしを助けてくれたのよ」

「え? 蝉玉ちゃん、それ本当かい?」

「うん。でなきゃ、あたしが結婚するなんて言わないわ」

「む……」

 苦い表情で鄧九公は苦悶する。
 だが愛娘の言葉を信じたのか、鄧九公は深い溜め息を吐く。

「……分かった。信じるよ、蝉玉ちゃん」

 あれだけ怒りを浮かべていた鄧九公だったが、蝉玉の言葉は届くらしい。
 正確には、蝉玉の言葉を疑う考えが思いつかない、というべきか。

「ありがとパパ!」

 朗らかに笑った蝉玉は、竜鬚虎から飛び降りて土行孫に抱きつく。

「ハニー、パパもハニーが悪い奴じゃないって信じてくれたわ。さあ結婚しましょ!」

「だからそんな気は無いって――」

「ボクはセンちゃんに付いて行くニャ」

「ありがと竜鬚虎」

「だから俺の話を――」

「ふむ……まあ良いか」

 蝉玉と竜鬚虎が笑っているのを見ながら、太公望は納得したように頷いた。
 竜鬚虎が蝉玉に付くという事は、もう要塞を破壊される心配は無い。
 味方が増えたのは喜ばしい事である。

「む?」

 だが一人残された鄧九公は、一件落着とはいかなかったようだ。
 ブルブルと手を震わせながら、鄧九公は叫んだ。

「それだけは駄目だ!」

「鄧九公……」

「パパ……」

 皆が鄧九公に視線を集める。

「そいつが悪い奴じゃないという事は信じよう。
 蝉玉ちゃんがそいつと結婚したいというのなら……悔しいが認めよう。
 しかし、殷の敵に回る事だけは駄目だ!
 我が鄧家は、代々殷王家に仕えた名家なのだ。例え天地が消えても、裏切りはせん!!」

 縋るように叫ぶ鄧九公。

「……鄧九公よ」

「……何だ、太公望」

「お主、何のために戦っておる?」

「!?」

「お主は、紂王ただ一人の為に戦っておるのか?
 お主も先程、『争いで民を殺したくない』と言っていたではないか」

「そ、それは……」

「儂らは妲己を倒し、人の暮らしやすい国を造るという目的を持っておる。
 お主はどうだ?
 民の為を想うのであれば、尚更儂らのやっている事が理解出来るはずだ。
 民に対して、裏切りをしているのがどちらなのかという事を」

「……」

「周の側に付く事を強要はせぬが、付かない時は容赦はせぬ。
 まあ娘と違って何十年も殷で生きたお主が、そうホイホイと主を変えられるとも思えぬがのう。
 昔の賢君であった紂王を知っているが故に、まだやり直せるという思いを捨て切れぬのも分かる。
 だからこそ、儂は強要はせぬ。お主自身の意志で決めよ」

 鄧九公は目を伏せて黙り込んだ。
 その様子を、蝉玉が心配そうに見つめる。

「パパ……」

「……しばらく、考えさせてくれ……」

 鄧九公は太公望達に背を向ける。
 そして愛娘である蝉玉に声を掛ける事も無く、鄧九公は静かに去って行った。






 こうして、僅かに足止めをされたものの、鄧九公は去った。
 太公望達は、再び朝歌に向けて進攻を始める。
 次なる目的地は、殷と朝歌の間にある五つの関所の最西端、汜水関である。







あとがき

パパ登場。
楊戩はとばっちりを喰らいました。
あとDOKOUSONは兵士達には嫌われてるようです。
主にもげろ的な意味で。




[12082] 第四十七話 蝉玉
Name: 軟膏◆05248410 ID:a2b7933f
Date: 2010/02/09 00:00




 朝歌にて。
 趙公明は天を仰ぎ、ポツリと呟いた。

「聞仲君が帰ってこない……」

 ここには居ない人物の名を呼ぶ。
 殷の太師である聞仲は、先日金鰲島に赴き、そのまま消息を絶ってしまったのだ。

「いったいどうしたというのだろうね?」

「あはん♡ そんなの決まってるじゃないん♡」

 窓の外を眺める趙公明の背に、艶やかな声が掛けられる。
 趙公明が振り返ると、そこには妲己が居た。
 妲己は柔らかなベッドの上に身を投げ出し、腕を枕にして気だるげに顔を持ち上げる。

「きっと十天君と仲違いしたのよん♡ だから亜空間に閉じ込められちゃって出て来れない♡」

「なるほど、それは有りそうだ。
 どうやら聞仲君は、個人プレイが好きみたいだからね。
 十天君の反感を買うのも分かる」

「いやん♡ プレイだなんて、レディの前でそんなこと言っちゃダメダメん♡」

「おっと、軽率だったかな? すまないね妲己」

 ハッハッハ、と特に悪いと感じていない様子で趙公明は笑う。
 妲己も口元を緩めながらその様子を見つめていた。
 その口から、ぼそりと声が漏れる。

「そういえば、行方不明になっていた鄧九公が戻って来たみたいねん♡ それも一人ぼっちで♡ 
 なんでも、勝手に太公望ちゃんたちの所に突撃したあげく、愛娘も乗り物の妖精も太公望ちゃんたちに取られちゃったそうよん♡」

「それは酷い」

 趙公明は面白そうに口角を吊り上げる。

「それで? その鄧九公はどうしているんだい?」

「私財を投げ打って、兵を集めて軍を組織しているそうよん♡
 可哀想、よっぽど悔しかったのねん♡ 怒髪天を突くって感じかしらん?」

「でも良いのかい? 紂王の命もない彼に、軍を作るなんて勝手を許しても」

「太公望ちゃんたちと戦ってくれるんでしょう? なら止める必要は無いわん♡」

 妲己は薄く色の付いた長い髪をかきあげる。
 絹のように艶やかな髪は、抵抗も無くサラサラと流れていった。

「それより、そろそろ妾のパパに行ってもらおうと思うのん♡」

「パパ君に?」

「最近の朝歌は酷い有り様だわん♡ 貧困も行く所まで行っちゃったって感じ♡
 この戦争で男手は駆り出されるし、たった一握りの小麦のために皆が殺しあっている。
 今までは支配者である妾達への不満は、妾の魅力で抑えて来たけど、それもかなりヤバイって感じん♡」

「……だから君のパパ君を戦わせるってわけだね。
 泣く泣くパパ君を出兵させなければならない妲己。
 それに同情した民は、ますます君の術に掛かりやすくなるってわけだ」

「ご名答♡ 妾も悲しいわん♡」

 ヨヨ、と目元を拭う妲己。

「……でも、民の好感度を上げるなら、税を軽くすれば良いのでは?」

「ばっかねぇ~ん、民は『生かさず、殺さず』が鉄則よ~ん♡」

「全く、君にはお手上げだよ」

 趙公明は首を振ると、再び窓の外を見つめる。

「さて、今回はこの僕も、召使いを数人ほど太公望に差し向けようじゃないか」

「あらん? 急にどうしたのん?」

「なにせ僕は、聞仲君に留守を任されているからね。
 それに、『趙公明様、貴方は何もしないからタダ飯食らいですね!』と先日張奎君に力強く言われてしまったからね」

「いやぁ~ん♡ タダ飯食らいだなんてはしたないわぁん、趙公明ちゃん♡」

「フフフ、だが今日からは違うのさ妲己!」







 土行孫は一人、宿営地の中を歩いていた。

「蝉玉の奴、何処行ったんだ?」

 最近になって傍に居ることの多かった蝉玉の姿は、今土行孫の隣にはない。
 そのせいか、土行孫はどうにも落ち着かなかった。
 一緒に居るときは気付かなくとも、離れてみれば気付く事もあるものだ。

 一通り宿営地を往復してみるものの、蝉玉は見つけられなかった。
 他に探していない場所は無いものか、と土行孫が辺りを見回すと、敵を見つけるための櫓が目に入った。

「……あ、居た」

 試しに櫓の上まで登ってみると、土行孫の視線の先には、膝を抱えて座り込み、彼方を見つめている蝉玉が居た。
 その視線の先には『冀州』と書かれた旗をはためかせた軍の姿があった。

「どうしたんだよ、こんな所で」

「……あ、ハニー」

 土行孫が再度声を掛けて、やっと蝉玉は気付いたようだ。
 ゆるゆると顔を上げるが、再び顔を伏せる。

「見張りの兵士はどうしたんだ?」

「うん……ちょっと一人になりたいからって言って、代わってもらった」

「そっか」

 どうやら、見張りの役を進んで引き受けたらしい。
 蝉玉は前を向いて、目前に迫った殷軍を見つめる。

「ねえハニー、目の前に殷の軍が居るのに、どうして皆ゆっくりしてるの?」

「ああ、冀州候は妲己の父親らしくて、こっちに味方してくれるって話だ。
 今、武成王と天化が交渉に行ってる。だから今回は戦わなくて済みそうだ」

 さらに、ナタクもそろそろ復帰してくるらしい。
 東や南へ道士を送るために、彼の兄二人も同行していると聞いた。
 だがそれを聞いても、蝉玉は聞いているのか聞いていないのか良く分からない返事を返すだけだった。
 土行孫は蝉玉の隣に腰を下ろす。

「なあ、どうかしたのか?」

「……何でもない」

「何でもないって事は無いだろ? らしくないぞ」

「そう……だね」

 自分でも分かっているのか、蝉玉は小さく頷く。

「……ねえ、ハニー」

「何だ?」

 とす、と小さな音を立てて、蝉玉は土行孫の肩に凭れ掛かってきた。

「お、おい……」

「あたしね、ハニーが好き」

「え、ちょっと!?」

 土行孫は慌てる。
 蝉玉から向けられる好意は理解していた。
 とはいえ、こうして改めて言われると気恥ずかしい物がある。

「あ、あのさ……前にも言ったけど、俺は……」

「分かってる」

 蝉玉は小さく声を出して、土行孫がそれ以上口を開くのを止める。
 蝉玉の想いには応えられない、と土行孫は以前はっきりと言ったのだ。
 それは蝉玉も理解している。

「一目惚れとか信じてないハニーには、あたしの言ってる事が分からないかもしれない。
 でも、嘘じゃないよ。ハニーの為なら殷を裏切っても構わないって、そう思ったもの。
 あたしは金鰲島で二十年以上過ごして来たから、殷にはあまり愛着もなかったしね」

「……」

「でもね、ハニー」

 蝉玉は口元に笑みを浮かべる。
 しかし、土行孫が見つめるその顔は、どこか力無い。

「あたし、パパのことも好きなの」

 それはこの場にいない、鄧九公に向けての言葉だった。

「ママはあたしが小さい頃に死んじゃった。
 優しいママで、死んじゃったときはどうしちゃったのか分からなくて、ずっと泣いてた。
 でも、それからはずっと、パパが傍に居てくれた。
 仙人になろうと思ったのも、強くなって軍人になれば、お嫁に行かずにパパの傍にいられるからだったし。
 殷に居た時は、あたしの好きなようにさせてくれた。
 そりゃ、あたしが悪い事した時とかは怒られたけど、それでも優しかった。
 パパはいつだって、あたしのお願いを何でも聞いてくれた」

 蝉玉は昔を思い出すように、目を瞑って土行孫に身体を預ける。
 だがその声は楽しい思い出を話しているはずなのに、ドンドンと小さくなって行った。

「だから……こんな事になるなんて思ってなかった」
 
 蝉玉は消え入りそうな声で、そう呟いた。

「あたしは、パパもこっちに来てくれると思ってたの。
 だって、紂王に義理立てする必要なんて無いと思ってたし、殷なんかより周の方がずっと良いじゃない」

 鄧九公は長年殷王家に仕えて来た。
 それに対して蝉玉は、若い内に金鰲島に行き、仙人になるための修行を積んでいた。
 そのため、賢君であった紂王の事などあまり知らず、あっさりと周に鞍替えする事が出来た。
 だが鄧九公は紂王を傍で見ていたからこそ、易々と裏切る事など出来なかった。
 蝉玉はそれに思い至らなかったのだ。

 蝉玉は土行孫の服の袖をギュッと掴む。

「ねえハニー。あたし、どうしたら良いのかな?
 このまま戦って、パパが殺される所を見なきゃいけないのかな?」

 目を開けて、蝉玉は土行孫を見つめる。
 その視線に射抜かれた土行孫は、蝉玉から目を逸らす事が出来ない。

「でもハニーが傍に居てくれるなら、あたしはそうなっても大丈夫だと思う。
 きっと耐えられる。だからね、ハニー。あたしを……」




  “好きだ”って言って。




 ゆっくりと、蝉玉はその顔を土行孫の顔に近付けていく。
 二人の間の距離が、段々と縮んでいく。
 そして距離がゼロになろうとしたとき、土行孫がボソリと言った。

「羨ましいな……」

「え?」

 蝉玉は動きを止め、目をぱちくりとさせて土行孫を見つめる。

「どういう事?」

「こんなにも想われているなんて、鄧九公は良い父親だったんだなって」

「……分からないよハニー。ハニーがどうしてそんな事を言うのか」

 少し思案するものの、蝉玉は首を振る。
 土行孫は蝉玉から目を逸らし、ポリポリと頬を掻きながら、ポツリと呟く。

「俺にはさ、父親が居なかったんだ」

「え?」

「別に大したことじゃない。蝉玉と同じで、小さい頃に死んだ。それだけだよ。
 違うのは、俺は父親の顔も、名前さえも覚えてないって事だけだ」

 土行孫にとって、それはもうずっと昔の記憶だ。
 今ではぼんやりとしか判別できない事が多い。
 だからこそ、土行孫は蝉玉の事が羨ましかった。

「俺は父さんがどんな人だったのかを知らない。
 仲良くキャッチボールした事も、悪い事をして叱られた事も無い。
 俺には母さんが居たけど、それでも父さんが居ない事が心のしこりだった。
 だから、父親の事をそんな風に語れる蝉玉が羨ましい」

 今度は土行孫から蝉玉に目を合わせ、しっかりと見つめる。

「なあ、蝉玉」

「は、はいっ!」

 何故か畏まった蝉玉に向けて、土行孫は口を開く。

「話し合おう」

「へ?」

 蝉玉はぽかんとした顔で土行孫を見つめる。

「まだ鄧九公は、完全に敵に回った訳じゃない。だから話し合うんだ。
 殷を裏切る事は無いかもしれない。でも話し合えば、俺達と戦わなくても済むかもしれない。
 俺達の敵は妲己だ。鄧九公じゃない。
 だから先に妲己を倒せば、蝉玉の言った事は避けられるんだ」

「あ……」

 蝉玉は気付いたらしい。
 まだ完全に糸が切れた訳ではないという事に。
 その顔に、段々と隠しきれない喜びが溢れて来る。

「そう……だよね。うん、そうだよね!」

「ああ。まだ悲観するような事態じゃない。十分間に合うんだ。だから元気を出せ」

「うん! ありがとうハニー!」

 力強く頷いた蝉玉は、気付かせてくれた土行孫に礼を言ってスッと立ち上がる。

「何処行くんだ?」

 前触れもなく立ち上がった蝉玉に土行孫が尋ねると、修行よと簡潔に返って来た。

「今まではどうでも良かったけど、妲己を倒すっていう目標が出来たから。
 このあたしの魔球で、くどくて濃ゆくなった妲己の顔が見たくなったの」

「それは……俺も見てみたいな」

「でしょ?」

 以前楊戩が変化したのを見たことがあるが、彼女の顔がくどくなるというのも、中々の見物ではないかと思う。
 おそらく『ベルサイユの薔薇』みたいになるのではないか、と土行孫は予想する。

「きっと永久保存版よ」

「そうだな」

 はははと土行孫は笑い、それに釣られて蝉玉も笑った。
 先ほどとは異なり、影の無い明るい笑い方だった。

「あ、そうだ」

 櫓を降りようと梯子に足を掛けた蝉玉が、何かを思い出したように動きを止める。

「ねえハニー」

「何だ?」

「新しいお父さん、欲しくない?」

「……はぁ?」

 呆気に取られた土行孫が、間抜けな声を漏らす。
 それを見て、くすくすと笑いながら、蝉玉は梯子を降りて行った。

「お、おい……!」

 ハッと我に返った土行孫は、慌てて櫓の上から蝉玉の姿を探す。
 見下ろした先に居た蝉玉は、一度だけ土行孫の方を振り仰ぐと、手を振って走り去った。

「速っ」

 あっという間に見えなくなった蝉玉の後ろ姿に、土行孫は声を漏らした。
 先ほどまでの意気消沈としていた蝉玉とは、まるで別人である。
 否、あれこそが彼女の本来の姿なのだろう。

「はあ……まったく……」

 最後に蝉玉は、まるで再婚する母親が子供に尋ねるようなセリフを言って来た。
 土行孫に向けられる蝉玉の好意を考えれば、そういう事ではないのだが、大して違いは無いだろう。
 けれど、予想外のことを聞かされれば、一瞬フリーズするのは仕方の無い事だと土行孫は思う。

「でも……」

 あまり悪い気分でもない。
 別に土行孫が“そういう”意味で、真面目に話を受け止めた訳ではない。
 だが、蝉玉の申し出は土行孫にとって、ありがたいと感じるものだった。
 その意味では、蝉玉には感謝してもいいのかもしれない。
 キスされそうになった事は忘れよう、と土行孫は考えた。
 流されやすい性分なせいか、もしそんな事になれば、土行孫は嫌でも意識してしまう。
 そうなれば土行孫は今後、蝉玉を拒む事が出来なくなるだろう。
 それを防ぐ事が出来た事も、良しとするべきである。
 残念とは思っていない。

「どれ、俺も降りるとするか」

 冀州候との戦いは無い訳だし、これ以上櫓の上に居る理由も無い。
 放って置けば代わりの兵士が見張りに付くだろう。

 梯子を一段一段降りるのも面倒だったので、土行孫は櫓の上から一気に飛び降りた。
 トン、という軽い音を立てて地面に着地する。

「蝉玉も修行しに行ったし、俺も何かした方が良いよな」

 さて何をするか、と土行孫が歩きながら考えていたその時だった。

「土行孫」

「ん?」

 誰かに名前を呼ばれた気がして、土行孫は俯いていた顔を上げる。
 聞き覚えのある声だった。

「土行孫」

 また呼ばれた。
 清流のように透き通った声で、以前に何度も呼ばれたことのある声だった。
 そして、辺りに仄かに漂う甘い香の匂い。

「これ、土行孫」

 咎めるように、後ろから土行孫の名が呼ばれる。
 声に惹かれて振り向いた土行孫は、目を見開いた。

「公主……?」

「おや? 私の顔を忘れたのか? まったく酷い奴じゃのう」

 そういって、土行孫の前に立っていた竜吉公主は、小さく笑った。







あとがき

お久しぶりです。
テストもレポートも大嫌いな軟膏です。
久方ぶりなせいか、どうにも勝手が掴めません。

今回のメインは蝉玉です。
あと楊戩です。

妲己の一人称が今見たら妾(わらわ)だったので、以前の奴をちょっと修正しておきます。

あ、今回で四十万PV行きますね。
ありがとうございます。
今後とも、この「ぼくそれ(長いので省略します)」を暖かく見守っていただけると嬉しいです。



[12082] 第四十八話 Virus使い呂岳
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/02/15 09:12





「お前、公主じゃないだろ」

 土行孫がそう言うと、竜吉公主の微笑を湛えた顔が引き攣った。

「な、何を馬鹿なことを……。何処からどう見てもお主の竜吉公主ではないか」

「いや、そういうのは良いから。何やってんの、楊戩」

 すると竜吉公主は目を逸らして口元を隠した。
 いかにも何か隠しています、といった感じである。
 ジッと土行孫が見つめると、竜吉公主は静かに溜め息を吐いた。

「……何故分かったのじゃ?」

 その問いに、やっぱりか、と土行孫が確信する。
 目の前に居るのは竜吉公主ではなく、その姿を借りた楊戩なのだと。

「何故も何も、こんな所に公主が居るはずないだろ? まあ、確証なんて無かったけどさ」

 確かに、楊戩の竜吉公主への変化は完璧だと思う。
 現に、こうして楊戩の変化だと理解した今でも、もしかしたら本人なのではないかと思ってしまう程だ。
 しかし、居るはずの無い、来るはずの無い相手が目の前に居れば、誰だって疑問に思うに決まっているのだ。
 土行孫がそれを指摘すると、楊戩は小さく首を振る。

「鎌を掛けられた、という事か。私もまだ未熟じゃのう」

「やるならせめて碧雲とかにしろよ。……それで? なんでまたそんな格好してるんだ?」

「お主にして貰わなければならぬ頼みが出来てのう。
 楊戩よりもこの姿の方が、お主は素直にやる気を出してくれると思ったのじゃ。
 竜吉公主とお主はただならぬ関係にある、と私は睨んでおるからのう」

「別にそんなんじゃねぇよ」

「さて、どうかな? 知らぬは亭主ばかりなり、とは良く言ったものよ」

 そういって楊戩は……竜吉公主の姿をした楊戩は、口元を押さえて小さく笑う。
 その様子から、楊戩は何かを知っているのかもしれない。
 楊戩か人間界に降りてきたのは土行孫よりも後であったため、竜吉公主についての情報を得ているのかもしれない。
 しかし、土行孫がそれを問うたところで、素直に答えてくれそうも無かった。
 気になる事ではあるが、敢えてそれを横に置き、楊戩に尋ねる。

「それよりも、俺に頼みって何だ? わざわざやる気を出させなきゃいけないような用事なんだろう?」

 その問いに、楊戩がスッと目を細める。

「敵じゃ。それもかなり性質の悪い、な」

「何?」

 土行孫が眉を顰める。
 敵、というからには、相手は仙人なのだろう。
 現在は冀州軍と対峙している状態だ。
 しかし周軍には冀州軍と戦う理由は無く、今にも交渉でこちらの味方になろうかという状況だ。
 その事に業を煮やした仙人が独断で突っ走ったのか、或いはこの状況を想定した上で隙を突いたのか。
 恐らくは後者であろう。

「今度の敵は呂岳という、ウィルス使いじゃ」

「……ウィルスだぁ? そんな物まで使えるのかよ」

 思わず呆れたように土行孫が呟くと、楊戩は少し驚いた表情を浮かべる。

「ウィルスを知っておるのか?」

「ん、ああ、まぁな……。それより続きを」

「ふむ、まあ良い。細かい事は後じゃ。
 敵はウィルスをばら撒いておって、私らは迂闊に呂岳に近付けぬ。
 ナタクも此処に来る途中でやられたようでな、援軍として一緒に来ていた兄共々病に倒れた。
 今は太公望の話術のお陰で何とか食い止めておるが、長くは持たぬじゃろう」

「ナタクまでか……宝貝人間にまで効くウィルスとなると、かなり厄介そうな相手だな。
 それで? 俺は呂岳の持っているウィルスの治療薬を取ってくれば良いのか?」

「いや、違う。治療薬があれば良いのだが、な。
 私の見た呂岳という男、性格は下劣であるが、頭はそれなりに回るらしい。
 奪われるかもしれない治療薬を、手元に持っているような愚は犯さぬじゃろう。
 何より、ウィルスの蔓延するあの中に平気で立っていられる呂岳に、治療薬など必要の無いものじゃからのう。
 だから土行孫、お主に取って来て貰いたい物は治療薬ではない。呂岳の血だ」

「……なるほど。呂岳の血から抗体を抽出して、こっちで治療薬を作ろうって事か。
 ……でも治療薬って、誰か作れるのか」

「幸い、雷震子の改造で雲中子がまだ此処に留まっておる。
 私にも出来ないことはないが、あやつに頼めば完全な治療薬を作ってくれるじゃろう」

「作るか? あの変人が?」

「作るじゃろう。治療しなければ研究が出来なくなるからのう」

「まあ、それもそうだな」

 土行孫は納得する。
 ナタクでさえも罹るのだから、放っておいたら雲中子もウィルスに冒されて死に至るだろう。
 そうなればそれ以上研究が出来なくなるのだから、何がなんでも作るはずだ。
 雷震子に叩きのめされても全く懲りる気配の無い彼ならば、それが容易に想像できる。
 何より、ウィルスという珍しいサンプルが手に入るのだ。
 化学マニアの実験マニアとしては、見過ごす事は出来ないだろう。

 土行孫が考えを巡らせていると、宿営地の外で異変が起こった。

「竜巻?」

 轟々と吹き荒れる竜巻が突如として発生し、風の流れが生まれている。
 それを見た楊戩は、険しい顔を隠そうともしなかった。

「最早太公望の口で抑えることも出来なくなったか。
 ……土行孫、こうなれば一刻の猶予も無い。
 太公望が呂岳を惹き付けている間に、急いで呂岳の血を採って来るのじゃ」

「分かった」

 おそらく、これが合図でもあるのだ。
 ウィルスを吹き飛ばすという事が主目的であるが、同時に別の意味も含んでいる。
 自らが竜巻で呂岳の感心を惹き付けている間に血を採れ、という太公望の合図だ。

「こんな事、私が言えた義理ではないが、気を付けるのだぞ」

「ああ」

 状況を聞けば、楊戩が何故竜吉公主の姿を取っているのか理解できた。
 呂岳はウィルスをばら撒いているという。
 ならば、呂岳の周りには既に高濃度のウィルスが蔓延しているはずだ。
 その場所までは地中を潜っていけば良いかもしれないが、血を採るためには一度地上に出なければならない。
 それが例え一瞬でも、ウィルスに感染してしまうのは明白だ。
 危地に自ら飛び込め、と楊戩は言っているのだ。
 だから、こうして少しはやる気を出させようとしたのだろう。
 土行孫ならば楊戩の姿でも頼みを聞くと分かっていても、だ。

「でもまぁ、不本意だけどお前の策に乗ってやるよ」

「それはありがたい。しかし、不本意とは酷いのう。
 こんな美女を前にして、普通は言う事ではないじゃろう?」

「何言ってんだ、楊戩のくせに。中身は男じゃねぇか」

「それはどうかな? お主の知っている楊戩の姿。それが本来の姿だと何故言い切れる?」

「言えるさ。お前は自分の格好良さに、絶対の自信を持ってるみたいだからな。
 そんな奴が、変化で作った借り物の顔を自慢する訳無いだろう?
 ……でも、もし楊戩の今の姿が本来の姿じゃなかったとして、だ。
 それがいったいどうしたって言うんだ?
 お前の事だから、美し過ぎるから敢えて隠していた、なんて裏設定でも有るんだろう?」

「……」

「ん? どうした?」

「あ、いや……何でもない。どれ、無事に血を採って来れたなら、褒美に私が接吻でもしてやろうか」

「露骨に話題を変えようとしたな。でも遠慮しておく。どうせなら本人にしてもらうさ。
 まったく、お前は姿がどんなに変わっても中身は変わらないな。やっぱり女装は趣味なんだろ?」

「おや、酷い事を言う男じゃのう。
 私はこうして、日々女としての美しさに磨きを掛けているというのに、それを女装などと貶すとは……。
 のう土行孫。お主、その口でいったい、どれだけの女を泣かせて来た?」

「俺より百倍格好良くてモテる楊戩よりは少ないはずだぜ?」

 互いに軽口を交わし、ニヤリと笑う。
 土行孫が竜吉公主を、楊戩を嫌いという訳では決して無い。
 本心で言っている訳ではないからこそ言える言葉である。

「それじゃ、行って来る」

 土行孫はそう言って地中に潜り、姿を消した。
 後には竜吉公主の姿をした楊戩だけが残された。

「あの……楊戩、さん? 今の話は……?」

「おお、スープーシャンに武吉か」

 楊戩が振り向くと、スープーシャンと武吉が心配そうに立っていた。
 楊戩の名前を呼ぶのに戸惑ったのは、楊戩が未だに竜吉公主の姿を借りているからだろう。

「話は聞いての通りじゃ。混乱が起きるかもしれぬから、兵士達には話さぬように。
 お主らも病に冒されるかもしれぬ。しかし、私らが必ず治すから心配せずともよい」

「わ、分かったッス」

「ウィルスは太公望が竜巻で吹き飛ばしておるが、全てとは行かぬ。
 だから私は、これから霧露乾坤網で宿営地を覆う。それで少しは蔓延が食い止められるじゃろう
 兵士達が不安を掻き立てられぬよう、お主らは此処に居て欲しい」

「はい……」

 沈んだ表情で武吉が頷く。
 ウィルスという未知の物に関して、何も出来ない事が歯痒いのかもしれない。

「では、頼んだぞ」

 楊戩はふわりと浮かび上がり、上空へと昇った。


 呂岳達を観察出来る位置にまで来た楊戩は、スッと袖に隠れていた手を出す。
 そこから出てきたのは白い手……ではなく、病に冒されて黒ずんだ手だった。
 呂岳と対峙したとき、離れていた楊戩も僅かに感染していたのだ。
 ピリピリと痺れる手を見下ろし、楊戩は呟く。

「私もあまり長くは持たぬ。上手くやってくれよ、土行孫」

 楊戩の周りに張り巡らされた水の膜が、静かに網の目のように辺りに広がっていく。

『霧露乾坤網』

 竜吉公主が常時身に着けている宝貝であり、水の膜として彼女を守っているもの。
 今楊戩はそれを使い、宿営地全体を覆おうとしているのだ。
 霧露乾坤網は音も無く辺りに広がり、目に見えないほどの薄い水の膜となって、人知れず兵士達を守ろうとしていた。






 吹き荒れる竜巻の中、太公望は荒い息を繰り返しながら、呂岳を睨みつけている。
 彼の身体は、既にウィルスに冒されていた。

 太公望の仲間の中で一番最初にこの病に冒されたのは、ナタクとその兄二人だった。
 そのナタクを、偶然遊びに出ていた黄天化の弟、天祥が見つけたのだ。
 自らよりも重いナタクを必死の思いで連れ帰った天祥だったが、既に皮膚を通して感染が始まっていた。
 幼い身体は病の進行も早く、天祥はナタクを太公望の下へと運んだ後、気を失って倒れた。
 その天祥を、楊戩が止めるのも聞かずに抱えた結果、太公望にも感染したのだ。
 道士の身であるからか、直ぐに倒れてしまうという事は無かったものの、じわじわとウィルスは全身に回っていく。

 その太公望を、竜巻の外から呂岳がニヤニヤとした笑いを浮かべて見ていた。

「ヒヒヒヒ、太公望よ、無駄な抵抗はやめ~い。
 目に見えないほど小さなウィルスを、風で完全に止める事など出来ないよ~ん」

 右目にくすんだ色のモノクルを掛け、白衣を纏った研究者然とした姿。
 その呂岳は太公望の行動に、隠そうともしない嘲りを向けていた。
 風で止める事など不可能。それは太公望も百も承知のことだ。
 彼の背後に控える、腹に頭痛、昏迷、発躁と書かれた以外は全員が同じ型のスーツを纏っている三人の道士達。
 彼らの背負うボンベから噴き出されるウィルスは、竜巻でその大部分を抑えていても全てを防ぐ事が出来ない。
 このままではジリ貧である。
 だから状況を打破するため楊戩に頼みをし、その間太公望は呂岳を惹き付ける役を買って出たのだ。

 だが竜巻を挟んで対峙する彼らの間に、場違いな明るい声が割り込んで来た。

「ねえちょっと太公望、これどういう状況?」

「蝉玉!?」

 この場に現れたのは、太公望が楊戩に頼んだ相手ではなく、華奢な一人の少女だった。
 その少女、蝉玉は太公望の生み出す大きな竜巻と、その前に立つ呂岳達を交互に見ながら、不思議そうな顔をしていた。
 何故蝉玉が此処に、といった疑問はあれど、今の太公望には詳しく説明している暇は無い。

「いかん蝉玉、今すぐ逃げよ! この者たちの相手をしてはならぬ!」

「え?」

 太公望が叱責するが、蝉玉は呆気に取られたように動かない。
 更に言葉を掛けようとした太公望だったが、それを抑えるかのように呂岳の高笑いが辺りに響く。

「ケケケケケケ、小生、良いこと思いついちゃった」

「はっ!」

 呂岳の顔に邪悪なものが混じっていることに太公望は気付く。

「頭痛くん達、太公望を攻撃するのは一先ず止めだ!」

 呂岳の言葉に、後ろに居た道士達はウィルスを撒くのを止める。

「先にあの女をウィルスに感染させろ!」

「なっ!? 待て呂岳!」

「ケヒヒヒヒ、やれ、頭痛くん達!」

 太公望が制止するが、呂岳はそれを無視して部下に命令を下す。
 頭痛達は、太公望から蝉玉へと矛先を変え、ウィルスを発射しようとした。


 が。



「ぐはあ……!」

 ガン! と音が響き、彼らの一人がドサッと倒れる。

「ああ!? 発躁くんが!」

「李奇!?」

 隣に居た昏迷が名を呼び、発躁に駆け寄る。
 それを行った人物、蝉玉は手に戻って来た五光石を受け止めながら、呂岳達を見つめる。

「何だか良く分からないけど、敵なら容赦しないわ!」

 その言葉に、呂岳が唸る。

「むっきぃ~……、くそ、今度こそやっちゃえ頭痛くん達!」

「はっ! やれるもんならやってみなさいよ!」

 蝉玉は再び五光石を投げる。
 それは一直線に呂岳達のもとへ飛ぶ。
 飛んで来る五光石に向けて、頭痛達はそれを撃ち落そうとホースを構える。
 だが噴き出したウィルスに対して、五光石は自らの意志を持っているかのようにガクンと曲がり、素早くそれを避けた。
 そして再び曲がって、ガン! と頭痛に当たる。
 返す刀で隣に居た昏迷にも当たり、五光石は蝉玉の下へと戻って行った。

「ぐうう……!」

「ぬああ……!」

 悲鳴を上げて、頭痛と昏迷が頭部を襲う激痛に倒れる。

「はあっ……はあっ……ど、どうよ、あたしの力は。この……五光石は……絶対に当たるんだから……」

 戻って来た五光石を掴みながら、蝉玉は得意気にニヤッと笑う。
 だが、その息は荒い。
 いつもならばこの程度の事など何ら問題ないというのに、今はとてつもないほどの疲労が彼女を襲っていた。
 その身体は、四肢がうっすらと黒ずんで来ている。

「つ、次はあんたに……当てるわよ……。大人しく……くどい顔になりなさい……」

 この場所は、先ほどまで太公望に向けてウィルスがばら撒かれていた場所である。
 そのため、大部分は太公望に吹き飛ばされているとはいえ、辺り一面に未だ高濃度のウィルスが蔓延しているのだ。
 直撃を受けた訳ではないにせよ、蝉玉の皮膚から、吸気から彼女の身体にウィルスが入り込んでいく。
 そして息苦しさを何とかしようと呼吸の回数が増え、さらにウィルスが身体に入って行くのだ。

 小さく音を立てて、蝉玉は膝を着く。
 そのままとさっ、と前のめりに倒れた。

「あ、あれ……? おかしいな、こんなはずじゃ……」

 何故自分が倒れているのか分からないのか、蝉玉は不思議そうな声を上げる。
 全身に力が入らず、上手く動く事が出来ないのだ。
 その蝉玉に向けて、立ち上がった頭痛達がウィルスを吹き付ける。
 ウィルスが全身へと回り、意識を失ったのか声も出さなくなった蝉玉。
 その蝉玉を、呂岳が笑いながら見下ろす。

「ひゃーはははは、よくもやってくれたなこのアマぁ。
 宝貝人間に散瘟くんがやられた時みたいに、ちょっとだけ焦ったじゃないか」

「きゃあっ!?」

 ガッ! と音を立てて、呂岳が蝉玉の腹を蹴り飛ばす。
 蹴られた勢いで仰向けになった蝉玉の頭を、呂岳は踏み付けた。
 声も上げられず、蝉玉は苦痛に呻き、顔を歪ませる。

「うけけけけけ」

 ぐりぐりと頭を踏みながら、呂岳は気持ち悪い笑いを漏らす。



 ギリッ……!!



 太公望はそれを、歯噛みしながら見ていた。
 太公望の口は、歯が砕けるのではないかという程に強く噛み締められている。
 瞳はこれ以上の呂岳の狼藉を許す訳にはいかないと怒りに燃えている。
 まだか……と太公望が焦りを浮かべた。
 これほどに待ってみても、土行孫は来ない。
 ならば、自分がやってやる。
 この手で、呂岳の血を……。



 その時。



 太公望の背筋がゾクリと粟立った。

 辺りの空気が変わった。

 全身に冷水を浴びせ掛けられたような感覚だった。
 思わず太公望の怒りが掻き消されてしまうような、そんな圧倒的な憤怒。


 もし感情というものを全て数値か何かで表せるとして、一人の人間の感情を最大に表せる量とはどれほどのものだろうか?
 個々人によって「大きい、小さい」もしくは「正か、負か」といった違いはあるだろう。
 だがおそらく、限界、最大値というものはあまり違いが無いのではないだろうか?
 どんなに感情が豊かであろうと。
 どんなにストレスを溜めやすい人がいようと。
 それが爆発した時の数値には、あまり差異は無いのではないだろうか?
 つまりは、一人の人間だけで出せる量などたかが知れている、という事だ。


 この発せられる怒りは、本当に一人だけの物なのだろうか?
 もっと居るのではないか?
 この場に、太公望と、蝉玉と、呂岳と、その部下三人と、そして怒りを発する彼。
 それ以外に、誰かが居るのではないか?
 怒りを発する“彼”に同調し、同様に怒りを向けている者が。
 だというのに、眼前の呂岳は何でもない事のように、依然として下品な高笑いを続けている。

 ――気付いていないのか?

 これ程までに分かり易いその感情が、呂岳には届いていない。
 最早殺気と変わらないそれを、何とか抑えようとして、漏れ出てしまったのだろうか。
 もしかすると、そのために離れている太公望は、それを感じ取れたのかもしれない。

 何故だ、と太公望は疑問を覚える。
 これ程の怒りだというのに。
 こんなに近くだというのに。


 この怒りは、呂岳の足の下から漏れ出しているというのに。




 呂岳が気に入ったのか、再び蝉玉の頭を踏みつけようと足を上げる。

「ひゃーははは……は?」

 だが足を振り下ろした呂岳の高笑いが止まった。
 その視線が、自然に足元へと降りる。

 そこには、地中から這い出した爪が、呂岳の足を押し留めていた。

「なんだこれ?」

 花の蕾のように窄まったその爪は、蝉玉の頭を護るように生えていた。
 呂岳が不思議そうに足を戻すと、まるで植物が引き抜かれるように爪の先が現れ、全体像を出現させた。

 現れたのは土行孫だった。
 ずっと地中にいたというのに、汚れ一つ着いていない。
 不気味とも言える程に静かに、土行孫は黙っている。
 否、黙らざるを得なかったのかもしれない。
 言葉に出せば、堰が壊れてしまうから。
 だが、それも最早限界なのだろう。
 ゆっくりと目を見開いた土行孫は、爛々と光るその目で、目の前の敵を見据えた。
 カシャ、という音がして、右手の土竜爪が外される。
 剥き出しになったその手が、グッと強く握り締められた。


「その、薄汚い足で、これ以上蝉玉に触るんじゃねぇよ!!」


 飛び掛かるようにして、土行孫が呂岳を殴り飛ばす。
 振り下ろすように放たれたその拳は、反応すら出来なかった呂岳の頬に突き刺さり、呂岳を地面へと叩き付けた。
 衝撃で潰れた蛙のように醜い声を上げて、勢いでゴロゴロと転がって行く呂岳を尻目に、土行孫は着地する。

「はあっ……はあっ……」

 荒い息を繰り返す土行孫。
 そして一瞬太公望に目をやったあと、再び呂岳へと視線を向ける。
 その時、土行孫の後ろから、土行孫に向けて頭痛達がホースを構える。
 やっと状況が理解出来たのだろう。
 ホースの先からウィルスが撒かれる。
 しかし……。

「邪魔だぁっ!」

 右手に取り出した如意棒を振り抜き、三人纏めて吹き飛ばす。
 全身にウィルスを浴びながらもされた反撃に、頭痛達は成す術もなく弾かれた。

「ぐ……くそっ……」

 ウィルスを浴びてしまった自らに悪態を吐き、土行孫は膝を着く。
 地面に突き立てた如意棒を支えにして、急速に力の抜けて行くその身体に鞭打って無理にでも立ち上がろうとする。
 そんな土行孫に向けて、やっと起き上がった呂岳は頬を押さえてギリギリと歯軋りをしながら、土行孫を睨む。

「き、キサマ! 小生に向かって、よくもやってくれたな!!」

「それは……こっちのセリフだ……」

 ブルブルと震える左手を持ち上げ、土行孫は尚も衰える事のない怒りを目に込めて呂岳にぶつける。

「お前は……絶対に許さねえ!!」

「ひ……っ」

 迫力に押し負けたか、思わず呂岳は一歩後退りし、身を屈めた。
 だがそれは、結果的に言えば呂岳の身を守った事に繋がった。

 撃ち出された土竜爪の爪は、呂岳の頬を削るように掠め、宿営地の方へと飛んで行った。
 間違っても、封神など出来る傷では無い。
 それを見届けた土行孫は、がくりと項垂れて、地面に倒れ伏した。

「畜生……」

「……は、はは、あひゃはははは!」

 呂岳が再び笑う。
 ズンズンと土行孫に近づき、その頭を蹴り上げる。

「ひゃーはははは! 何がそれはこっちのセリフだ、だ。何がお前は絶対に許さない、だ。
 馬鹿だなお前は! 出来もしない事をベラベラと!!」

「ぐっ、ううっ!」

 げしげしと、執拗に呂岳は土行孫の頭を狙って蹴飛ばす。
 痛みを感じていないのか、その頬から赤い血が垂れている事を気にも留めていない。

「キサマは小生を馬鹿にしたな!? 馬鹿の癖に! この小生を見下したな!?
 どうした!? 抵抗してみたらどうだ!?」

「がっ、ぐぅっ!」

 ゴッガッ、と鈍い音が響く。
 土行孫は抵抗する事さえなく、呂岳に蹴られるがままになっている。
 その姿を見て、太公望は叫んだ。

「止めよ呂岳! それ以上やれば、土行孫が死んでしまう!」

 その声に、呂岳は太公望の事を思い出したのか、グリッと首を振り向かせる。

「そうだ、忘れていた。うけけけけ、太公望、こいつの命が惜しくば、いい加減にその邪魔な風を消せ!」

「ううぅ……」

 もはや掠れるような呻きしか漏らさない土行孫の頭を、呂岳はギリギリと踏み付ける。
 その惨状を見て、彼を見捨てる事が出来るだろうか。

「……」

 太公望は無言の内に竜巻を消し去る。
 その周りを頭痛、混迷、発躁が取り囲み、一斉にウィルスを噴き付けた。

「ひゃ、ひゃははは! ひゃーははははは!!」

 最早この場には周の側で立っている者はいなかった。
 満足したのか、呂岳は最後に力強く土行孫の身体を蹴り飛ばした。
 土行孫はゴロゴロと転がって行き、太公望にぶつかるようにして停止した。

「約束通り止めてやる。でも助けてなんてやらないよ~ん。
 そのまま殺人ウィルスで苦しんで死ね! ひゃーはははは!!」

 呂岳は頭痛達を引き連れ、その場を離れた。
 ずらかれー、という声と共に、その気配が段々と遠くなって行く。



 完全なる敗北であった。
 この場にいる太公望達は全て病に倒れ、宿営地にもウィルスは広がって行く。
 だが敵である呂岳達は、誰一人封神されることなく、この場から逃げ切ってみせた。
 呂岳は軽い傷を負ったものの、文字通りの掠り傷である。
 誰が見ても、太公望達は呂岳という敵に対して不様に敗北したと見えるだろう。

 彼らの姿が見えなくなると、太公望が土行孫に声を掛けた。

「土行孫……大丈夫か……?」

「……ああ、何とか。俺は結構頑丈だからな……」

 声は掠れていたが、思った以上にはっきりとした声に、太公望はホッと息を吐いた。

「しかし、お主も無茶をする。だが、よくぞ我慢してくれた」

「堪忍袋の緒が十本ぐらい一気に切れたけどな」

「そうだのう。儂も限界が近かった。
 お主が先に飛び出していなければ、いったいどうなっていた事やら……。
 あと……どうせなら儂も庇ってくれると助かったんだがのう」

「男だろ、自分で何とかしろよ」

「何とかしては駄目だと分かっておるだろうに……」

「それもそうなんだけどな……」

 その場に取り残された太公望と土行孫の二人は、静かに溜め息を吐いた。
 敗北したはずであるが、以外に元気である。







「まったく、心配を掛けさせおって」

 呂岳との戦いの行方を、楊戩はハラハラとした目で見守っていた。
 蝉玉、土行孫、太公望と次々に倒れて行く仲間を見ているのは、とても気が重かった。
 一瞬たりとも目を離す事が出来ない。
 次の瞬間には、彼らの内の誰かが封神されてもおかしくは無かったのだ。

「じゃが、ようやってくれた」

 その手には、飛来した土竜爪の爪が握られている。
 その爪の先には、まだ新しい赤い血が付いていた。

 土行孫はしっかりと働いてくれた。
 あの状況で、呂岳に意図を悟らせず、血を入手したのだ。
 呂岳は土行孫の最後の攻撃が、殺すつもりなど無かった事に気付いていないだろう。

 土行孫の目的は呂岳の血を採る事であって、殺して封神する事ではないのだ。
 封神とは魂魄を封印する事である。
 魂魄とは精神である魂と、肉体である魄の二つから構成され、それらを封印する事で、死した仙人達の肉体は残らない事になっている。 
 つまり、呂岳を封神すればせっかく入手した呂岳の血も、魂魄を封印する封神システムによって失われる危険があるのだ。

 じゃあ部下は? と疑問に思った者もいるだろう。
 入手する血は呂岳のものであって、部下の血は必要ない。
 もしくは、部下達は抗体をもっていない可能性もある。
 それなのに何故、彼らを封神しなかったのか。

 それは呂岳を追い詰めさせてはならなかったからだ。
 攻撃を全て部下達に任せ、自分は高みの見物をしている呂岳。
 怒りに任せて自らが敵を蹴り付ける事はあれど、主な攻撃は部下によるウィルス散布しか無かった。
 その彼が部下を全て失えば、いったい何をしでかすか分からないのだ。
 あるいは、部下達がばら撒いていたウィルスよりも、さらに強力なものを持っているかもしれない。
 そのため、敢えて封神する事はせず、呂岳達の攻撃を限定する事にしたのだ。
 
「しかし……」

 楊戩は目を下に向ける。
 そこには、太公望や土行孫から離れた場所、宿営地の塀に凭れるようにして気を失っている蝉玉の姿があった。
 土行孫は怒り狂い、自らの存在を呂岳に注目させた。
 直前まで誰を足蹴にしていたか、呂岳は既に忘れていただろう。
 そして土行孫が暴れている間に、土竜爪で蝉玉を運んだ。
 あの状況下で、そこまで頭が回ったのは称賛に値すると楊戩は思う。
 あるいは、そんな事など考えていなかったのかもしれない。
 無意識の内に、彼女を呂岳から遠ざけたいと思ったから、土竜爪がその意思を汲んだのかもしれない。

「いや、言葉にするのは止めておくとしよう。あやつが少し可哀想じゃしの」

 土行孫の怒りは尋常ではなかった。
 蝉玉には何かがあると、傍から見ていた楊戩にもそう感じさせられた。
 だが、もしこれを“彼女”が知ってしまえば?
 理性と感情は密接に関わってはいるが、厳密には別の物である。
 頭では分かっていても、心は納得しないという事はよくある事だ。
 だから、もしこの事を“彼女”が知れば、あまり良い結果にはならないのではないか、と楊戩は考える。
 誰にとっての結果かは、言うまでもない事であるが。

 蝉玉を見下ろしていた楊戩だったが、ゆっくりと目を閉じる。

「どうやら私も、此処までのようじゃのう……」

 ぐらりと身体が傾き、浮力を失って地面へと落下していく。

「楊戩さんっ!」

 地面に激突するかと思われたその時、飛来して来たスープ―シャンが間に入り、クッションとなる。
 その楊戩の下に、慌てて武吉が駆け寄る。

「大丈夫ですか、楊戩さん!」

「大丈夫じゃ。それよりも武吉、これを雲中子のもとへ……」

 楊戩は震える手で、血の付いた土竜爪を武吉へと手渡す。

「事態は一刻を争う。急いでくれ」

「分かりました!」

 武吉は大事そうに土竜爪を抱え、走り去って行く。
 それを見送った楊戩は、突如として込み上げて来た物に口を押さえる。

「ぐ、ごほっ……」

「楊戩さんっ!?」

 咳込んだその口から、赤い血がゴボッと吐き出された。

「だ、大丈夫ッスか!? 楊戩さん!」

「良い、大丈夫じゃ。変化を解けば元通りになる」

 慌てるスープ―シャンを制し、楊戩は赤く染まった自らの手を見つめる。
 吐血した自らの状態に、楊戩は驚くほど冷静な視線を向けていた。

「完璧すぎる変化というものも、中々に困り物じゃのう。体質まで真似てしまうとは」

 竜吉公主の身体に、このウィルスは凶悪過ぎたらしい。
 この姿に変化し、まだ一時間と過ごしていない。
 だというのに、既に身体が限界に来ている。
 赤い自らの血を見ていると、楊戩は竜吉公主に変化したのを土行孫が直ぐに見破った理由も良く分かる。

「確かにこれでは、下界になど降りる事は出来ぬな」

 今まで数多くの者達に変化をし、その力を自らの力として見て来た楊戩だからこそ分かる。
 この身では、戦う事など出来ない。
 それでも無理に戦おうとすれば、人間界での戦いは間違いなく寿命を縮めてしまうだろう、と。

「この姿になるのは、どうやら控えた方が良さそうじゃのう……」

 楊戩は変化を解き、いつもの好青年の姿に戻る。
 そして虚脱したように、楊戩はスープ―シャンの背に身体を預ける。

「お疲れ様ッス、楊戩さん」

「ありがとう。でも、まだやる事が残っている」

「え?」

 楊戩の言葉に、スープーシャンは呆気に取られた。

「スープ―シャン。悪いけど、雲中子の所まで運んでもらえるかな。
 治療薬の製作の手伝いをしないといけないからね」

「そんな!? 薬の製作は雲中子さんに任せておけば良いじゃないッスか!
 楊戩さんはもう十分頑張ったッスよ!」

「いいや、それは違うよスープ―シャン」

 楊戩は静かに首を横に振った。

「まだ僕は、出来る事を全てしていない。
 太公望師叔は呂岳を話術で惹き付け、竜巻でウィルスを吹き飛ばした。
 師叔のお陰で、僕はその間動く事が出来たんだ。
 蝉玉はウィルスなんて知らず、状況を何も理解していなかった。
 でも当たっても痛いだけの五光石しか持っていないのに、それでも気丈に立ち向かった。
 土行孫は怒りに震えながら、それでも自分を見失う事無く、ちゃんとやるべき事を果たした。
 呂岳の意識が自分に来るように、自分を囮にしてまで血を採るという役を成し遂げた。
 彼らは皆、自分に出来る限りの事をやり切った。
 じゃあ僕は? まだ僕は薬を作る事が出来るじゃないか。
 だから、まだ僕にはやるべき事がある。
 だからスープ―シャン、雲中子の所へ運んでくれ」

「……はいッス!」

 スープ―シャンは力強く頷き、武吉の後を追って飛び始めた。








あとがき
長くなりました。過去最長ではないかと思います。
ちょっと血を採って来るだけだったのに、どうしてこんな長くなってしまったのか。
それにしても、呂岳みたいな小者相手でさえボロボロになるなんて、主人公としてどうなんでしょうね。


あと今回、混迷くんが発躁くんの名前を呼んでいます。
封神大全によると、頭痛=周信、昏迷=朱天麟、発躁=李奇、散瘟=陽文輝という名があるそうです。
いやに格好良い名前ですね。

次回で呂岳編は終わる予定です。





[12082] 第四十九話 ナタク無双
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/02/23 23:17




 周軍宿営地にて。
 楊戩は雲中子と共に治療薬を作成していた。
 カシャカシャと試験管を揺らし、顕微鏡にて効果の確認をしている。
 そして日も暮れようとした時、一本のアンプルを手にした楊戩がポツリと呟いた。

「……出来た」

 楊戩はそれを持ち、ふらついた足取りで太公望のもとへ向かった。

 壁に寄り掛かり、浅い呼吸を繰り返している太公望に、楊戩は声を掛ける。

「太公望師叔、治療薬が完成しました。これを投与すれば確実に治りますよ」

「おお、良くやった」

「ですが、まだ数が少ないので、全員には行き渡りません。
 明日までには全員分の薬が作れますが、まずは症状の重い僕達が使うべきでしょう」

「仕方ないか。頼む、楊戩」

「はい」

 太公望に言われ、楊戩は懐から注射器を出す。

「ちゅ、注射……」

「どうかしましたか?」

 太公望は楊戩の持つ注射器を見て、タラリと一筋の汗を流した。

「よ、楊戩! 先にナタクに注射せい」

「ナタクに?」

「今儂が元気になった所で役には立たぬ。
 薬がまだ少量しか出来ておらぬのなら、先にナタクを治療して呂岳を倒させた方が良い」

「……そうですね。もしかしたら、呂岳がまた戻って来るかもしれませんから」

 太公望の言う事にも一理あると楊戩は納得する。
 太公望の強みはその知恵であり、戦闘は苦手なのだ。
 少なくとも太公望自身はそう言っている。
 だからこそ、先にナタクを治療して、その火力で呂岳を倒した方が良い。

「俺は少しで良い」

「あ! 意識が戻りましたか」

 意識を取り戻したナタクは、未だ動けないようであるものの、その目ははっきりと隣の少年を見据えていた。
 ナタクに寄り添うように倒れていた少年、天祥は傍目にも分かる程に衰弱していた。

「このガキ、このままでは死ぬぞ。俺は強いから良い。肉体が死んでも、本体は死なんからな」

「ナタク……」

 その言葉に、太公望は口元を綻ばせる。

「早くしろ!」

「はい」

 言われるがままに、楊戩は天祥に治療薬を注射した。
 そして針を取り換え、残った少しの治療薬をナタクへと投与した。

「しばらくは痺れが残ると思いますが、明朝には動けるようになるはずです」

「分かった」

「それにしてもナタク、貴方も成長しましたね」

 楊戩が感慨深げに呟いた。
 自分よりも他人を優先する事が出来るようになったのは、精神的に成長した証拠だ。
 ナタクの事をナタクにーちゃんと呼び慕う天祥の存在が、ナタクの中でそれだけ大きかったという事だろう。
 あるいは、誰かが命掛けで行っていた教育が、今になって実を結んだのかもしれない。
 楊戩の言葉に、ナタクは小さくフンと鼻を鳴らすだけだった。

「そういえば土行孫はどうしたんです?」

 楊戩がそこで初めて、先程から何も反応しない土行孫に目をやった。
 隣に居る太公望が、代わりに説明する。

「そやつは単に疲れて眠っておるだけだ。
 どうもこやつ、疲れが溜まると眠りに落ちる癖が付いておるらしい。
 昔、碧雲を助けた時も、気が抜けたのかその後で速攻で寝ておったしのう」

「そうですか」

 別に身体的には問題が無いのだと知り、楊戩は安堵する。

「しかし、僕が一生懸命薬を作っているのに、横で寝ていた訳ですか。そこはかとなくむかつきますね」

「そういうな。こやつの働きがあったからこそ、儂らも助かるのだ。
 確かに儂もむかつくが、少しくらいは大目に見てやれ」

「分かってますよ」

 いかに楊戩が薬の知識に優れていようと、薬を製作する技術を持っていようと、材料が無ければどうする事も出来ない。
 土行孫はその材料を採って来たのだ。
 そして呂岳の退治はナタクがする以上、土行孫が出来る事はこれ以上何も無い。
 ならば、起こさないように放っておく位は構わないだろう、と二人は思った。

「ところで楊戩」

「何ですか?」

「その薬、甘いシロップか糖衣に出来ぬか?」

「無理です」







 冀州侯との交渉に出向いていた黄飛虎と天化は、烏鴉(カラス)兵に捕まり、殷軍の宿営地にまで運ばれていた。
 殷軍の宿営地に辿り着こうかという時、二人は突如として現れた烏鴉兵達に囲まれ、攻撃された。
 二人の実力であれば、烏鴉兵を蹴散らす事など容易い。
 しかし、交渉に来た使者を攻撃するなど戦の礼儀に反している。
 それを問い質すため、敢えて二人はやられたフリをして捕まったのだ。
 尤も、フリをしようと思い至ったのは、烏鴉兵が最後の一人になってからだったが。

 そして、拘束されて宿営地にまで運ばれた二人は、転げ落ちるように慌てて出て来た鄭倫に縄を解かれた。
 蘇護の配下の鄭倫は、状況を問い質そうとした黄飛虎に向けて涙ながらに謝罪し、助けを求めた。


 それはつい昨日のことだった。
 周軍を目にした蘇護、そしてその息子であり妲己の兄である蘇全仲は喜んでいた。
 これでやっと殷を裏切れる、と。

 元々妲己は、冀州に住むただの少女であった。
 冀州で評判の美女などと言われていたものの、顔にはそばかすの浮かぶ、人より少しだけ見目が良い、それだけの少女だったのだ。
 正皇后の姜妃が紂王には既に居た為、彼女と比べれば妲己など大したことはないと、紂王自身が考えていた程だ。
 一時は結婚を考えていたものの、それを取り止めても構わないような、あまり目立たない少女だった。

 しかし、その妲己の身体を奪い去り、成り済ました者が居る。
 それが今の妲己だ。
 今の妲己は文字通り中身が別人であり、かつての素朴で優しかった妲己では無い。
 流れそうになる涙を気丈に堪えて、邑の為と身を捧げようとしていた少女では無いのだ。

 人の変わった妲己は、殷の財産を湯水の如く使い、逆らう者は容赦無く殺して行った。
 それで苦しむ者が居る事など分かっているはずなのに、そんな事は関係ないとばかりに平然と贅沢三昧を続けた。
 それを見ていた蘇護の心の内は如何程であろう。
 その妲己をついに懲らしめるチャンスが巡って来たのだ。
 喜ばないはずが無い。

 しかし、事は上手くは運ばなかった。
 浮かれていた彼らの前に、呂岳が現れたのだ。
 呂岳はウィルスを蘇護と蘇全仲に感染させた。

「このまま放っておけば二人は死ぬ。二人の病気を治す薬が欲しくば、太公望達と戦え~!」

 病に倒れた蘇護達を笑いながら見下ろした呂岳は、そう言ったのだ。
 だから、二人の命を人質に取られた鄭倫は、烏鴉兵を黄飛虎達に差し向けるしか無かったのだ。

「そういう事だったのか……」

「頼む武成王! どうか、どうか蘇護様達を助けてくれっ!」

「ああ、そういう事情があったってんなら話は別だ」

「その呂岳って奴は代わりに倒すから、後は俺っち達に任せるさ」

「すまん……」

 鄭倫は再度謝り、蘇護達が心配だからと宿営地へと引き返して行った。
 既に烏鴉兵も引き上げており、後には二人だけが残った。

「早いとこ、薬をどうにかしないといけないな」

「倒して無理矢理にでも薬を奪えば良いさ」

「けけけ……誰を倒すって?」

 会話していた二人に、後ろから割り込む声があった。
 二人が振り向くと、そこには呂岳と、スーツを着た三人の部下が立っていた。

「武成王・黄飛虎とそのバカ息子天化の裏切り者親子に、小生を倒せるかな?」

「貴様が呂岳かい」

 うけけけと笑う呂岳に対し、天化は莫邪の宝剣に光を灯す。

「薬を寄越せ! さもないとたたっ切ってやるさ!」

「くくく、良いだろう」

 いきり立つ天化をマアマアと手で制しながら、呂岳は頷いた。

「ただし、お前達二人の命と引き換えだ」

「なんだと!?」

 呂岳の後ろに控えていた部下達が、ホースの先を二人へと向ける。
 だがそんな事で怯む二人ではない。
 呂岳の対応に、尚の事瞳に怒りを宿す。

「やっぱぶっ殺して薬だけ頂くさ!」

「ひゃーははは! ちなみに、薬は今手元には無いよ~ん。
 この辺りにある岩場の何処かに隠してある。
 もし小生を殺しちゃえば、その場所が分からなくなっちゃうよーん!」

 呂岳の鼻に付く喋り方に、二人の額に青筋が立つ。
 その二人の周りを、走り寄って来た呂岳の部下達が取り囲んだ。

「畜生めが……!」

 黄飛虎が舌打ちをする。
 一歩でも動けば、その瞬間にまき散らされたウィルスが二人を襲うだろう。
 動けなくなった二人を前に、呂岳は機嫌良さそうに話し出す。

「う~ん、最後に良い事教えちゃおっかな~ん」

「何だ?」

「太公望達は全滅したよ~ん!」

「な……!?」

 二人の顔が驚きに染まる。
 それを喜悦の表情を浮かべて見る呂岳。

「そろそろみぃーんな病死の時間だ! 奴らの魂魄が、ポヨヨーンと飛んでっちゃうはず!」

 呂岳は周軍の宿営地の方を眺める。

「そう、ポヨヨーンと――」



 ゴォオオオッ!



「え? ゴォオ……?」

 遠くから聞こえて来る飛行音に、呂岳は戸惑いの表情を浮かべる。
 だがその音は段々と此方へと近付いて来ていた。

「あれは……ぱ、宝貝人間!?」

 手に二又に分かれた赤い槍を持ち、両肩には円形の肩当てを着けたナタクが、そこに現れた。
 最初にウィルスに倒れたはずのナタクの登場に、呂岳は驚いた。

「あ、あっれ~ん? 何でキサマ、治っちゃってんの? しかも滅茶苦茶元気そうだし――」

 だが呂岳はある事にハッと気付く。
 頬に手をやると、そこには既に固まり、しかし消える事無く瘡蓋となった血の塊があった。

「あの時か! あれで小生の血を……! ……ぐ、ぐぐ……あのモグラがぁ!」」

 今頃になってやっと気付いた呂岳は、苛立ちを抑えきれず地団太を踏む。

「だ、だがな! こっちには人質が居るんだよ!」

 そう言って呂岳は、黄飛虎達を蹴り飛ばし、自らの前に押しやる。

「昨日、散瘟くんをやられた時みたいには行かないぞ!
 いいか、それ以上近付くなよ。
 昨日みたいに近付いたら、こいつらがどうなっても知らないからな!
 でもそこから強力な宝貝を撃つと、こいつらにも当たっちゃうよ!
 さあどうする? 撃てるか? 撃てないよなぁ!
 大人しくまたやられろ、ギャハハハハ!!」

「汚ねぇぞてめぇ!」

「うるさい! お前達は小生の盾をやってれば良いんだよ!」

 後ろを振り向いて呂岳を罵倒した黄飛虎に、呂岳は蹴りを入れる。
 天然道士の黄飛虎にとって痛くも痒くもない攻撃ではあるが、不快なものである事には変わりがない。
 黄飛虎は苦い顔で押し黙る。
 だが天化は、前を向いたまま目を見開いていた。

「お、おい親父……」

「あん? 何だよ天化」

「あれ、あれ!」

 天化は前を指差す。
 その指が指し示す方を黄飛虎が見ると、黄飛虎も目を見開いた。

 そこには、呂岳達に向けて金磚を構えたナタクが居た。
 しかも、離れている彼らにまで聞こえる程に、キィィィ、と力が金磚に集まる音がしている。

「あいつ……まさか俺達ごと呂岳を倒すつもりなんじゃ……」

「そ、それは流石に無いと思いたいさ……」

 だが二人の心配していた事は、ものの見事に当たった。
 凝縮された光が金磚から放たれ、幾十もの光線となって辺りに降り注ぐ。

「だあああ! やっぱり撃って来やがったぁ!!」

「逃げるさ!」

 そういって、後ろの呂岳を置き去りにして二人は走り出す。

「ああっ!? 何処へ行くキサマら!」

「うるせぇ! 味方の攻撃で殺されてたまるか!」

 盾としていた二人に逃げられ、呂岳は困惑する。
 だがナタクの攻撃に逃げ惑う彼らを嘲るように、金磚の光線は容赦無く辺り一面にまき散らされる。
 その光線は岩を削り、地面を抉り、彼らの身体を掠めて飛んで行く。
 気付けば、吹き上げられた土煙が、辺り一帯を濛々と包み込んでいた。
 その煙を吸い込まないように口に手を当てた天化が、ハッと気付く。

「……親父、ちょっと待つさ!」

「何だ天化!? 足を止めるな!」

「そうじゃねぇさ! これは――」

 天化が最後まで言う事無く、黄飛虎と天化の二人は立ち込める土煙の中から突如として現れた九竜神火罩に飲み込まれた。
 ちなみに天化が言いたかったのは、『これはモグラが良く使う手さ!』だ。






 一方、味方ごと吹き飛ばそうとしたナタクに戸惑い、呂岳は思わず黄飛虎達とは反対の方向に逃げた。
 走って煙幕の中から抜け出した呂岳は、後ろを振り向いて煙幕の中に居るであろうナタクを睨みつける。

「もう許さないぞ宝貝人間……やっちゃえ頭痛くん達!」

 呂岳は部下達に命令を下す。
 宝貝人間に再び、ウィルスを感染させるために。

 呂岳は自分の頭脳に絶対の自信を持っていた。
 故に、ナタクの治った姿を見ても、それはただのやせ我慢のような物だと考えていた。
 自分の考えたウィルスに、そう簡単に抵抗出来る訳が無い。
 そう考えていた呂岳は、自分以外が作った薬など、一時的にウィルスを抑えるくらいしか出来ないと思っていたのだ。
 だから再びウィルスを感染させれば、ナタクは今度こそ死ぬに違いない。
 そう思っていた。

「……あれ?」

 呂岳は後ろを振り向いた。

 呂岳は確かに、部下達に命令を下した。
 しかし、ウィルスは散布されなかった。
 何故なら、そこに彼の部下の姿はなかったからだ。

「あれ? 頭痛くん達は?」

 自分に付いて来ているはずの部下達がいない。
 その事に困惑の表情を浮かべた時、一陣の風が吹いて、呂岳の前の立ち込めていた土煙を払った。

「あ……ず、頭痛くん、混迷くん、発躁くん!」

 呂岳は驚愕して、思わず部下の名を――正確には違うのだが――呼ぶ。
 土煙の晴れた先、そこには長く伸びた二又の槍を持ったナタクが立っていた。
 呂岳が驚愕したのは、ナタクのその槍の先には頭痛、混迷、発躁の三人が、まるで団子のように突き刺さっていたのだ。

「焼けろ」

 ナタクがそう呟くと、槍が赤熱し、刺さっていた三人が炎に包まれ、ウィルスの入ったボンベごと一瞬にして燃え尽きる。
 そして、三つの魂魄が飛んで行った。

 ポヨヨーンと部下達の魂魄が飛んで行くのを見て、呂岳は悔しげに呻く。

「うぐぅ……こうなったら……」

「む……」

 呂岳の行動に、ナタクは僅かに眉を顰める。

「じゃーん!」

 呂岳は見せびらかすように、白衣のボタンを外して広げた。
 その白衣の裏側には、数十本にも及ぶ試験管があり、その中の一本を呂岳は取り出す。

「けけけけっ! この試験管中には小生をも病死させる超ウィルスが入っている。
 薬は無い。これがばら撒かれたら、速攻でこの辺りの人間は黒く腐って死んじゃうよぉ!
 もし小生を攻撃すれば、キサマらも全滅だよっ! ひゃーっはははは!」

 試験管の中身をちゃぷちゃぷと揺らしながら、呂岳は語る。
 その言葉が聞こえたか、離れた場所で九竜神火罩に入れられた黄飛虎達が、ドンドンと音を立てる。

「良いかぁ? 小生は逃げる! そこから動くなよ宝貝人間!」

「フン……嘘くさい」

 だが呂岳の警告を無視して、ナタクは乾坤圏を呂岳に向ける。
 ドンッ! と放たれた乾坤圏が、呂岳に向けて迫る。

「ああっ!?」

 間一髪、呂岳は横に飛んで避けた。
 乾坤圏は彼のすぐ傍を通り過ぎて飛んで行く。
 だが呂岳は無事だったものの、彼が手放した試験管は、地面に当たってパリンと砕け散った。

 ボン! と試験管が割れた場所から、先程とは異なる色の煙が辺りに広がって行く。
 その煙に包まれて、呂岳の姿が見えなくなってしまった。

「ひゃははは……」

 煙の中から呂岳の笑いが響く。
 しかし、その煙が晴れた時には、呂岳の姿は見えなくなっていた。

「なーんちって! 実は試験管の中にはウィルスじゃなくて透明になる薬が入ってたりして!」

 ナタクは辺りを見回す。
 しかし声はすれども、姿は見えない。
 ナタクのその様子に満足したのか、呂岳は更に続ける。

「無念だけど、今回はこの辺で帰っちゃう! けどその前に……」

 呂岳の声が途切れる。
 これでナタクは、声の出所を頼りに呂岳を探す事も出来なくなった。
 しかし、このような状況であるにも関わらず、ナタクの顔には、微塵も動揺は浮かんでいなかった。

「……はぁ」

 そして、ナタクには珍しいと言って良い、溜め息を吐いた。 
 それはまるで、新しく手に入れた玩具が、予想以上につまらなかったとでも言うかのように。



 ナタクはその場を動かず、クルリと火尖槍を逆手に持ち替え、勢い良く後ろに向けて突き出した。
 すると、ナタクのすぐ近くで何かにドスッと突き刺さり、鈍い感触がナタクの手に伝わった。

「な……なんで……」

 透明な何かに火尖槍が突き立った場所から、呂岳の驚愕に満ちた声が零れる。
 ナタクはそれを横目に一瞥すると、ポツリと一言だけ呟いた。

「焼けろ」

 そこに居た姿の見えない呂岳が、叫びを上げて炎に包まれる。

「ばかなぁ……!」

 ドン! と透明な魂魄が一つ、封神台に向けて飛んで行った。
 それを見送ったナタクは、フンと鼻を鳴らす。

「貴様のような腐ったニオイを、ただ見えないだけで隠せるとでも思ったか」

 ただ姿が見えないだけの敵など、ナタクの相手には成り得ない。
 どうやって姿の見えない敵を見つければ良いのか、そして姿の見えない敵は何処から狙って来るか。
 そういった敵に対して、ナタクはその身に染み着いた鋭敏な勘と、百を超える戦いの経験から十分な対策方法を知っていたのだ。
 そのナタクを侮った事が呂岳の敗因である。
 おそらく呂岳は、何故ナタクが呂岳の位置を掴めたのか理解出来ていなかっただろう。
 呂岳は最後に、ナタクに一矢報いようとしなければよかったのだ。
 姿を消したのなら、そのまま息を潜めてその場をゆっくりと立ち去れば、彼は封神されずに済んだだろう。
 その結果として、呂岳は自らの行いを後悔する間もなく、封神台へと魂魄が飛ばされてしまった。

「つまらん」







 こうしてナタクは、呂岳とその部下四人の、合計五つの魂魄を封神台へと送った。
 だがそれは彼のみの力では無く、その陰に多くの仲間の助けがあったからこそだ。

 完全には防ぎきれず、病に掛かってしまった周軍も、楊戩と雲中子の製作した治療薬によって復活した。
 しかし、太公望と楊戩の活躍のお陰で、彼らの予想以上に発病者は少なかった。
 そのため、治療薬が余ってしまうという事も起き、皆が笑ったという。

 その後、同様に病気の治った蘇護達も太公望達と合流した。
 これにより、周軍の総勢は八万を越える事となる。






 尚、冀州軍との合流後、鄭倫を見て珍しく子供のようにはしゃいでいた土行孫が居た、という事は余談である。










 申公豹は黒点虎と呂岳の最後を語っていた。

「呂岳は封神されましたか」

「うん。結構間抜けな最後だったよ」

「しかし……ウィルスとは厄介な代物でしたね」

「ガスマスクが無かったら、見てた僕らも危なかったもんね」

「ええ。私達も、後でワクチンをこっそり分けてもらうとしましょう」

 申公豹と黒点虎はガスマスクを装着していた。
 呼吸をする度に、しゅこおおお、と音がしている。

「もし発病したとしても、文句を言うつもりはありませんけどね。
 中々に面白いシーンを撮る事が出来ましたし、多少のリスクは仕方のない事ですから」

 と、申公豹は手に持ったカメラを弄ぶ。
 そのカメラを見て黒点虎が尋ねる。

「でもさ、そんな微妙な写真撮ってどうするの?
 どうせなら、もっとはっきり顔が写ってる写真の方が良いんじゃない?」

「そうですね。ですが、人とは物事に対して、時に明確な事実よりも、曖昧な幻想に引っ掛かり易いものです」

「また誰かを騙すつもり?」

「そんなつもりはありませんよ。あちらが勝手に勘違いするだけです」

「……同じじゃん」

「そうとも言いますね」

「……ところで、さ」

「何です?」

「前にも聞いたけど、このガスマスクとボンベ、いったいどこから出したの? あとそのカメラも」

「秘密です。ここでは一応私も女という設定なのですから、こういう言葉が使えるでしょう」

「意味分かんない」

「そういう物なのですよ」








あとがき

すいません。
最初に謝っておきます。

呂岳は後悔させて欲しい、という意見があったのですが、後悔させる事が出来ませんでした。
正確には、後悔させる暇も無く封神してしまいました。
どうかご了承下さい。

あと今回も主人公が空気ですけど、別に構いませんよね。

それと今回のタイトル思い付かなかったんで、良いのが思い付いたら次の話の投稿時に変えます。

次は遂に五十話、あの人の登場を予定しています。
あくまで予定なので、本編の方に行くかもしれませんが。



以下蛇足。






























「……オレ様の出番は?」








[12082] 第五十話 束の間の喧騒
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/02/23 23:18





 周軍宿営地にて。
 兵士達が元気に動き回っているのを上空から眺め、スープ―シャンは満足気に頷く。

「これで伝染病の患者は全員治ったッス。酷くなる人が居なくて良かったッスよ」

「……」

「あれ? 御主人、どうかしたッスか?」

「いや、聞仲の事なんだがのう……」

 スープ―シャンの背に寝転がっている太公望は、釈然としない表情で語る。

「何故あやつは来んのだろうか?」

「……さぁ。でも考えてみると確かに、あの怖い人にしては行動が迅速じゃないッスねぇ」

 太公望に指摘され、スープ―シャンも短い首を傾げる。

 殷と敵対する周の存在など、聞仲にとっては目障りでしかない。
 だというのに、やって来たのは魔家四将や鄧九公、呂岳といった聞仲とは関係の薄い者達ばかり。
 以前、黄飛虎達が殷を出て周へとやって来る時、太公望達は聞仲と相対した。
 その時の様子から鑑みても、聞仲自身が来ないのはおかしいと太公望は違和感を覚えていた。
 
「考えられる理由は二つある」

 太公望はスープ―シャンにも分かるように指を二本立てて揺らす。

「一つは殷の中の敵、妲己や申公豹に足止め……又は殺されておる場合。
 もう一つは金鰲のゴタゴタに巻き込まれておる場合だ」

「又はその両方ッスか? あの人が殺されてるってのは、ちょっと想像出来ないッスけど」

「うーむ……妲己に足止めされた挙句に、十天君と喧嘩でもしたのかのう」

 流石に無いか、と太公望は自らの浅はかな予想を切って捨てる。
 実際はその通りなのだが、それは太公望達には知る由もない。

「まあいずれにせよ、来ないにこした事は無いがのう」

「もし来たら、十二仙さん全員を呼びでもしないと勝てないッス」

 スープ―シャンが言うその言葉には、嘘など含まれていない。
 聞仲とはそれほどの強者なのだ。
 嘗て聞仲と相対した時、此方には太公望、黄天化、黄飛虎、ナタク、楊戩、武吉が居た。
 此方がその前の四聖との戦いで多少疲労していた事を差し置いても、普通の相手に負ける事など考えられなかった。

 しかし、その予想はあっさりと覆された。
 聞仲という、たった一人を相手にして、此方は敗北したのだ。
 聞仲は此方の攻撃を児戯と言い、右手に持つ禁鞭が振るわれる度に一人ずつ脱落していった。
 無傷で太公望達を倒した聞仲を、甘く見る事は出来ないと痛感させられた出来事だった。

「お師匠様ー!」

「む?」

 遠くから武吉が太公望を呼ぶ声が聞こえて来る。
 太公望がそちらを振り向くと、武吉が象を伴って宿営地へと入って来た。

「武王様と周公旦様が到着しましたー!」

「よ、太公望。二、三カ月ぶりだな。国内の細々した仕事で遅れちまったぜ」

「お―姫発、やっと来たか」

「へへっ、まぁな。これでも急いで来たんだぜ。やっぱ王様がいねぇと、革命もしまらねぇべ?」

「そうだのう。……それと周公旦、また儂に小言を言いに来たのかのう」

「そのあからさまに私を避ける態度、貴方も相変わらずですね」

 自分の方を見ようとしない太公望に、周公旦が冷ややかな視線を送る。
 周に居た時、何かある度に太公望は周公旦にハリセンで叩かれまくったので、周公旦に少しばかり苦手意識があるのだ。
 尤も、それは太公望に非がある時だけで、それを分かっているからこそ、太公望自身反論も出来ないのだが。

「しっかしまぁ……俺が居ない間に、何かより一層賑やかになったみてぇだなぁ」

 姫発は宿営地を象の上から見渡す。
 その言葉通り、宿営地は今まで以上に騒がしくなっていた。






「な……」

 目を覚ました雷震子は、自分の身体に起きた異変に気が付いた。

「何で朝起きたら六枚羽になってんだ?」

 バサバサという羽音が何時もより大きく、後ろを見たら羽が増えていたのだ。

「しかも……何だこりゃ? 羽に新しく何か書いてある」

 今までは羽には『風』と『雷』という二文字が刻まれていた。
 しかし、今羽には、新たな一文字が刻まれていたのだ。

「えっと……『病』?」

 雷震子が呟くと、その文字がピカッと光る。
 そして、羽の先から何か粉のような物が溢れ出た。
 空を飛んでいる雷震子の羽でそれは舞い上がり、辺りに広がっていく。
 その様はまるで……。

「うわあああっ! 蛾だ! でっかい蛾が上空に!」

「馬鹿! あれは雷震子様だ! 蛾じゃない!」

「え、マジかよ……蛾にしか見えねぇぞ!」

「昨日まではコウモリっぽかったのに、何で蛾になってんだ?」

「というか、コウモリから蛾って、悪くなってないか?」

「というより、蛾が鱗粉撒くって、どっちかっていうと悪役側のやり口じゃね?」

 兵士達の声が雷震子の耳に届く。
 予想するに、病気になる鱗粉をばら撒くようだが、兵士達は元気な者ばかりだ。
 おそらく、呂岳のウィルスと同じ物なのだろう。
 その為に、ワクチンを投与されている兵士達には何の影響も無いのだ。
 しかし、それを付けられた雷震子の胸の内は如何ほどであろうか。

 雷震子は兵士の声が聞こえて来る度にブルブルと身体が震える。
 勿論、怒りによってだ。

「あの野郎……殺す! 絶対ぇ殺してやる!!」

 雷震子の身体がバリバリと帯電していき、辺りに轟々と風が吹いて行く。

「だあああ! 雷震子様よさんかーい!」

「ウオオオオ!」

 南宮适が止めようと声を張り上げるが、雲中子への怒りが爆発している雷震子にその声は届かない。
 だが、雷震子は気付かなかったのだろう。
 未だ細かい粒子の鱗紛が、辺りに漂っている事を。
 そこに火種である雷を発生させればどうなるかという事を。

「うわー! 綺麗な花火が上がってるよ!」

 突如として起きた爆発を見て、天祥が喜ぶ。

「こら、天祥!」

「痛っ!」

 天祥の頭を、天化が莫邪の宝剣の柄で小突く。
 頭を押さえる天祥。

「よそ見してないでちゃんとやるさ」

「はーい」

 まだ訓練中で槍を持った天祥を、天化が窘める。
 そのすぐ近くで、山のように積まれた者達が居た。

「……飛虎兄貴、天祥の奴、仙人骨があるんじゃねぇか?」

 天祥一人に負けたその中の一人、黄明が呟く。
 黄飛虎の義兄弟でありながら、幼い天祥に手も足も出なかったのだ。
 天然道士だと考えるのは当然である。

 その彼らの横を、土行孫が走り抜けて行った。
 その後ろを、蝉玉が追い掛ける。

「ハニー! ご飯よー!」

 と、蝉玉が呼び掛ける。
 しかし、蝉玉が持っていたのは、蝉玉の身の丈ほどもある巨大なミミズだった。
 しかもまだ生きている為、ミミズがうねうねと動いている。
 土行孫は涙目になりながら、蝉玉から逃げ回っていたのだ。

「どうして逃げるのよ!」

「アホか! それが飯な訳ないだろうが!」

「だってモグラはミミズが好物なんでしょ!?」

「俺は人間だ! そうじゃなくても生臭になるから食えないんだよ!」

「良いから食べましょ! あたしが美味しく料理してあげるから!」

「断る!」

 だが足の長さから土行孫は直ぐに掴まった。
 ミミズもこれから食べられるかもしれないのに、土行孫の身体に巻き付いて遊んでいる。
 何とか抜け出そうとするが、あまり強くやると怪我させてしまう懸念があり、土行孫は逃げられない。
 その二人の前に、一人の女性が現れる。

「楽しそうじゃのう、土行孫」

「え、こう……じゃなくて、楊戩! 丁度良い所に。助けてくれ!」

 土行孫の前に再び竜吉公主の姿で現れた楊戩。
 ミミズを食べさせられるよりはマシだと、土行孫は楊戩に助けを求める。
 だが楊戩は土行孫を助けようとはせず、その口元を僅かに綻ばせるだけだった。

「ほれ、顔が汚れておるぞ」

「え? ああ、ありがとう……」

 竜吉公主(楊戩)が土行孫の土で汚れた頬を袖で拭う。
 土行孫は思わず礼を言うが、今の状況ではそれは危険なのだという事には気が付かなかった。
 自らを拘束している腕から力が抜け、土行孫は尻餅を着く。
 どうしたのかと土行孫が上を向いて蝉玉を見る。



「ハニー……誰? その女」



「ひっ……」

 無表情で土行孫を見下ろす蝉玉の顔に、土行孫の口から引き攣った声が零れる。
 身体が反応したのか、素早く立ちあがって、後ろに居る楊戩を指差した。

「いや、こいつは楊戩だって! ほら、よく変化してるだろ!
 今は偶々こんな姿してるだけで、中身男だから! な!」

「私は竜吉公主。この土行孫とは将来を誓い合った仲じゃ」

「おいぃ!?」

「ふうん……」

 何とか取り繕おうとする土行孫に対し、竜吉公主(楊戩)はそれを引っ掻き廻す。

「ねえハニー……それ、ホント?」

 蝉玉のその問いに、土行孫はブンブンと首を振る。

「いや、俺は公主とはそんなんじゃ──」

「公主? 随分と仲の良い呼び方よね?」

「ああ違う! そうじゃなくて、えっと、あのその……と、とにかく違うんだって!
 確かに仲は良いかもしれないけど、別に俺はそんな約束とかしてな──」

「『美人の公主なら、相手なんて選び放題だと思うけど、もし万が一そうなったときは俺が責任取るよ』だったかのう?」

「してな……い、はず……だったんだけど……」

 後ろから楊戩の言葉が割り込み、その内容に何かを思い出したのか、段々と土行孫の声が尻すぼみになって行く。
 その顔から、血の気がサァッと引いて行くのは、誰の目にも明らかだった。

「お、お前……何でその事を……」

「人の噂は七十五年、じゃな」

 振り向いた土行孫は、楊戩が竜吉公主の顔で悪い笑みを浮かべているのを見た。

「鳳凰山だけでなく、既にかなりの所にまで広がっておったぞ? 
 最早火消しは不可能じゃな。
 魔家四将と戦った後、崑崙山へ戻らなくて良かったのう。
 戻っておったら、今頃お主は封神台じゃ」

「そ、そんな……」

 土行孫の顔に絶望が浮かぶ。
 傷を癒やしに行った先で死ぬなんて、笑い話にしかならない。
 だが当人に取って、それは笑うべき問題ではなかった。
 その時、もう一人新たに割り込んで来る声があった。

「貴様」

「あ、ナタク……!」

 その声に、土行孫は救いを見た。

「俺は宝貝を改造した。試しに殺し合いをする。死ね!」

 その手から火尖槍が伸び、土行孫に向けて目掛けて突き進む。

「危ねぇっ!」

 巻き添えを喰らうと判断した土行孫は、咄嗟の判断で両隣にいた二人を突き飛ばす。
 そして土行孫は火尖槍の進路に、土竜爪を使って盛り上がった地面から壁を作り出す。
 だが咄嗟に作ったその壁は火尖槍の勢いを止める事は出来ず、壁を貫いて火尖槍が伸びて来る。
 土行孫はそれを横に転がって避けた。

「!?」

 再び火尖槍を向けようとしたナタクの顔に、僅かに驚きが浮かんだ。
 引き抜こうとした火尖槍が、先程貫いた土の壁に埋まっている。
 否、土が絡みついて、火尖槍を引き抜かせないように抑えているのだ。

 小さく舌打ちをしたナタク。
 尚も強引に引き抜こうとしたその身が、次の瞬間動けなくなる。

「これは……」

 その身体を薄い水の網が覆っており、ナタクは一瞬にして頭部以外身動きを取れなくなっていた。
 いつ張り巡らされたのか気付かず、ナタクは驚愕する。

「土行孫!」

「ああ!」

 少し離れた所で、竜吉公主(楊戩)の声が飛ぶ。
 土行孫は返事をして、土竜爪を地面に突き立てた。
 すると、地面が先程以上に盛り上がり、ナタクに向かって伸びて行く。
 その姿は傍から見ると、まるでミミズのように見えた。
 その土で出来たミミズは、動けなくなったナタクを飲み込み、再び地面へと潜って行った。

「はぁ……もう少し回りを見るように言わないとな」

「まったくじゃのう」

 ここで戦えば、普通の兵士を巻き込む所だった。
 それをちゃんと教えなければならないと土行孫は決意する。

 ナタクはしばらく地中に潜ってもらう。
 これぐらいでは傷一つ負う事は無いだろうし、放っておけば直ぐに自分から出て来るだろう。
 その事に関しては、誰も心配してはいない。

 寧ろ、土行孫が今一番心配すべきなのは他にある。

「ハニー、やっぱり仲が良いのね。ツーカーってやつ? 連携もぴったりだし……」

「あ、いや、その……」

 蝉玉がジッと此方を見ているこの状況を、どうやって切り抜ければ良いかという事だろう。
 折角ナタクがタイミング良く登場してくれたというのに、逆効果にしかならなかったようだ。
 ズンズンと土行孫に大股で歩み寄った蝉玉は、土行孫の頬をむんずと鷲掴みにした。

「え? 蝉玉、何を──」

「ハニーのバカァァァァ!!」

 グイッと土行孫の頬を上に引っ張り上げる蝉玉。

「痛い痛い痛い! 千切れる! 千切れるって!!」

 女とは言えども道士、その力は半端では無く、土行孫は片手で吊り上げられる。
 引っ張られる痛みに加え、頬に全体重が掛かり、土行孫は悲鳴を上げた。

 土行孫の上げる悲鳴を聞きながら、楊戩は変化を解く。

「人が薬作っている横でぐっすり寝ていたんだから、少しは懲りると良いよ」

 以外と根に持つ楊戩だった。






「賑やか過ぎですね」

「う、うむ……まあ良かろう」

 周公旦の物言いに、太公望は言葉に詰まる。

「だがこのお祭り騒ぎも、もうすぐ終わりだ。
 南と東にも、それぞれ仙道を振り分けねばならぬでのう」

 北には崇黒虎が居るが、南と東には居ない。
 そのため、仙人に対抗するために、道士を幾らか南と東に分配しなければならないのだ。
 東にはナタクと共に降りて来た兄二人を向かわせる。
 そして南には雷震子と、蘇護達を付けるつもりだ。

「聞く所によるとあと二、三人増えるらしいから、細かい事はその者達が来てからという事になるがのう」

 はてさて、いったい誰が来るのやらと太公望は思案する。






 周軍の宿営地が喧騒に包まれている時。
 鳳凰山にて竜吉公主(本人)は一人、祈りを捧げていた。

 先日、再び魂魄が飛んだ。
 それは予想していた事だ。
 だが、いったい誰の魂魄が飛んだのかは分からない。
 殺生を好まない竜吉公主としては、誰も死んで欲しくは無い。
 しかし、それは叶わぬ事だ。
 ならばせめて、その魂魄が竜吉公主の知っている誰かではない事を願って、竜吉公主は祈るのだ。

 微動だにしなかった竜吉公主が、スッと目を開ける。

「何の用だ、申公豹」

「おや、気付かれていましたか」

 浄室にある窓の外、そこから申公豹の顔がぬうっと現れる。

「何やら集中していたようですから、静かに待っていたはずなんですけどね」

「あまり私を舐めるなよ。これでも崑崙最強と呼ばれた身の上、これぐらいの事に気付かないでどうする?」

「それもそうですね」

 飄々とした様子で答える申公豹。
 隠れて竜吉公主の様子を盗み見ていた事は悪いとは思っていないらしい。
 振り向いた竜吉公主と申公豹の視線が交錯した時、戸を開けて赤雲が入って来た。

「公主様、何やら話し声がしたのですが──」

 だが窓の外に居る申公豹の姿を見つけ、赤雲は言葉を途切れさせる。

「申公豹!? 何故ここに!?」

「私がどこに居ようと、貴女には関係ないでしょう?」

 赤雲は申公豹と竜吉公主の間に立ち、竜吉公主を庇う。
 申公豹を警戒する赤雲。
 その肩を、竜吉公主が軽く叩いた。

「これ、赤雲。そんなに敵意を剥き出しにしてはならぬ」

「でも公主様……」

「申公豹は私と敵対してはおらぬ。なのにお主がその様子では、無駄な敵を増やす事にしかならぬ」

「竜吉公主は良く分かっているようですね。
 ですが、敵対したいというのであれば、私は構いませんよ?
 雷公鞭を相手にして何秒持つか、楽しみですから」

「く……」

 赤雲の顔が悔しさに歪む。
 申公豹を相手にして、勝てる確率は万に一つもない。
 申公豹の言う通り、秒殺されるのがオチだ。
 渋々と赤雲は引き下がる。

「私に何か用か? 用があるなら中に入れ。茶でも用意しよう」

「では、頂くとしましょうか」

 申公豹はするりと窓から器用に浄室の中へと入って来る。

「赤雲、茶を」

「……分かりました。急いで淹れて来ます」

 未だ警戒が解けない赤雲は、何度も申公豹の方を振り返りながら、浄室から出て行った。
 赤雲が茶を淹れて戻って来る間、奇妙に静かな時間が生まれる。

 やがて、戻って来た赤雲から茶を受け取り、会話が始まる。

「それで? 何故此処に来たのじゃ?」

「私が此処へ来たのは、貴女の懸念を払ってあげようかと思いましてね」

「私の?」

「ええ。太公望達が今度戦ったのは、趙公明の召使いである呂岳という病気使いです。
 そして数日前に飛んで行ったのは、呂岳とその部下達の魂魄ですよ。
 僅かばかり倒れる者も居ましたが、太公望達に被害はありません」

「そう……か。感謝する」

 何故竜吉公主がそれを気にしていた事を知っているのか、それは竜吉公主自身には分からない。
 しかし、有益な情報を持って来てくれた事には感謝をしなければならない。

 申公豹は懐から一本の注射器を取り出し、竜吉公主へと放る。
 受け取った竜吉公主は訝しげに申公豹を見遣る。

「これは?」

「呂岳がばら撒いていた病気に対するワクチンですよ。
 楊戩が作ったモノですから、毒ではないので安心して下さい」

「……分かった」

 毒ではない、というその言葉を信じた訳ではないが、わざわざ毒を持って来る理由もない。
 申公豹は此方の様子を見て楽しんでいるのだから、毒を盛って殺すという事はしないだろう。
 殺したらそれ以上、反応が楽しめなくなるのだから。
 それに申公豹程の実力があるのなら、わざわざ回りくどい方法を取る必要もない。

「ああ、そうそう思い出しました。呂岳との戦いで、土行孫が傷を負いましたね」

「何?」

 ピクリ、と竜吉公主の眉が即座に反応する。
 それを面白そうに観察しながら、申公豹は続ける。

「まあ大した傷ではありませんがね。仙道ならば直ぐに治る傷です。
 ただ、仲間を庇って受けた傷ですから、これからも増えて行くでしょうね」

「……申公豹。お主、何が言いたい?」

「いいえ、別に何も」

「嘘じゃな」

 申公豹の答えを、竜吉公主は切って捨てる。

「お主はこう言いたいのじゃろう?
 『土行孫はこれからも傷を負う。だから人間界に降りて、土行孫を助けてやったらどうか?』とな」

 確かに、竜吉公主が人間界に降りれば、その分だけ傷つく事も減るだろう。
 それは竜吉公主にとっても喜ばしい事だ。
 ただし、代価として竜吉公主の寿命を縮める事になるが。

「私は行かぬよ」

「ほう?」

 申公豹は珍しい物でも見たと言わんばかりに、竜吉公主に尋ねる。

「私の予想では、貴女は彼を助ける為に動くと思っていたのですけどね」

「私も皆に手を貸す為に動きたいのは山々じゃ。
 しかし、私が人間界に降りれば、あやつらに要らぬ負担を掛ける事になろう。
 自ら寿命を縮めに来た者を、あやつらが歓迎する事はない。ただ悲しませるだけじゃ」

「なるほど」

「それに……」

「それに?」

「あやつは……土行孫は、死なないと約束してくれた。
 だから私は、それを信じてあやつを待つ。
 そして、戻って来たあやつに労いの言葉を掛けてやろうと、私は決めたのじゃ。
 だからこそ、私は此処で土行孫を待つ。
 障害など乗り越えて必ず戻って来ると、約束を果たしてくれると、私は信じておるからのう」

「そうですか」

 申公豹は納得した様子で頷く。

「興味深い話を聞かせてもらいました。ふむ……そうですね……」

 申公豹は何事かを考えると、良い事を思い付いたとばかりに目を輝かせた。

「お礼といっては何ですが、一度だけ、貴女の代わりに私が手を貸すとしましょう」

「何?」

 竜吉公主の眉が顰められる。

「どういう事じゃ。お主は中立ではなかったのか?」

「そうですね。私は中立の立場を取っています」

「じゃあ何故……?」

「貴女の心意気に打たれたから、とでも言っておきましょうか。
 まあ私は妲己に少しばかり手を貸していますからね。そのついでです」

 妲己にも手を貸したのだから、周側にも手を貸さないと中立とは言えない
 申公豹が言いたいのは、つまりはそういう事らしい。

「ですが、一度だけです。それ以降はどうなろうと、私の知った事ではありません」

「……感謝する」

 一度とはいえ、申公豹が味方になってくれるというのだ。
 これ程心強い事は、そうそうあるまい。

「では、そろそろお暇するとしましょうか」

 申公豹は、ゆっくりと立ち上がる。
 その際、ひらりと一枚の紙が、申公豹の懐から零れ落ちた。

「何か落としたぞ」

 目の前に落ちたその紙を、竜吉公主は拾い上げる。
 十cm四方の紙で、表面はツルツルとしている。
 何か違和感を感じて、竜吉公主は紙を裏返す。
 そして固まった。

「ああ、そうそう……」

 申公豹は何かを思い出したような、わざとらしい声で告げる。

「中々に興味深い写真が取れたので、貴女に差し上げますよ」

 竜吉公主のその表情を見て、最後にニヤリと笑ってから、申公豹は姿を消した。

「あの……公主様?」

 赤雲が固まった竜吉公主に声を掛けるが、反応は無い。
 申公豹が写真といったのだから、何かが写っているのだろう。
 そこに何が写っているのか気になった赤雲は、こっそりと後ろに回ってその写真を盗み見る。

 何処かは分からないが、一際高い櫓の上に居る二人の人影が写っていた。
 片方は黒い髪の少年、そしておそらくもう片方は赤い髪の少女だった。
 おそらくと付けたのは、写真のピントが微妙に合っておらず、細部がハッキリしないからだ。
 だがこの写真の片方の黒髪の少年は、赤雲も見覚えがある。

「土行孫……」

 そう、土行孫だ。
 細部はぼやけて分からないものの、彼に間違いは無いだろう。
 しかし……。



「誰じゃ……この女は……」



 隣にいる竜吉公主から、冷ややかな声が漏れる。
 赤雲は、竜吉公主がこのような声を出す所を初めて聞いた。
 まるで氷のような冷たい、棘のある声。

 だが、これだけならばまだ大丈夫だった。
 ただ二人が櫓の上に居るというだけの話なら、それだけで済んだ。
 問題はそれだけでは済まない。

 写真の二人は寄り添っていて、まるでキスをしているように見えた。
 見えた、というのは、ピントが合っていないせいで、そのように判断出来るからだ。
 実際にはしていないのかもしれない。
 しかし、このような体勢でキスをしていないなど、果たして想像出来るだろうか。

 くしゃっ、と写真が握り潰される。
 竜吉公主自身にもよく分からない想いが、身体の中をぐるぐると駆け巡る。
 やがてその捌け口を見つけたのか、竜吉公主の口から小さな声が漏れた。

「降りるぞ」

「……は?」

「人間界に降りる」

「ええ!?」

 竜吉公主の爆弾宣言に、赤雲は目を見開く。

「公主様、さっきと言ってる事が違いますよ!?」

「それはそれ、これはこれという奴じゃ。ちょっとぐらいなら構わぬじゃろう」

「だ、駄目です!」

 赤雲は反対する。当然だ。
 先程まで気丈に応えていた竜吉公主だが、赤雲はそれを尊敬の目で見ていたのだ。
 その尊敬している竜吉公主が、一時の感情で寿命を縮める事を良しとする事は出来ない。

 この後、降りようとする竜吉公主を説得するために、赤雲は全力を持ってそれを押し止めた。
 妹の碧雲はどちらかといえば積極的に応援する側、煽る側なので役には立たない。
 よって、たった一人赤雲は、師匠の暴走を止める戦いを始めた。
 竜吉公主の頭が冷えるまで赤雲は絶え間なく言葉を紡ぎ、必死に説得を行った。

「向こう百年分くらいは喋りました」

 竜吉公主が遂に人間界行きを諦めた時、力を使い果たした赤雲はそれだけを言って脱力して倒れたという。










あとがき

遂に五十話!
ここまで続いた喜びで、ちょっとやりすぎちゃった感じがします。

雷震子は出番無くて可哀想だったので、ちょっと強化してあげました。


今回、修羅場ってみました。
公主自身は下界に降りないと決意しているんで、楊戩に代役をしてもらってます。


さて皆様。よろしければ、いつものアレをお願いします。

次は太子編に入ると思います。



[12082] 第五十一話 太子の選択一 
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/03/26 19:18




「兄様、やっと僕らも太公望の役に立てるね」

 隣にいる弟の殷洪が呟いた。
 僕はそれにそうだなと軽く返し、黄巾力士を飛ばす。

「太公望は強くなった僕らを見てどう思うかなぁ?」

「僕も殷洪もあんなに修行したんだ。太公望もきっと心強いと言ってくれるさ」

「そうだよね。あ~早く着かないかな~」

 そう言って殷洪は黄巾力士に寝転がる。

「落ちるぞ」

「大丈夫大丈夫」

 僕が忠告するが、殷洪は気の抜けただらしのない表情をしている。
 常々もっとそれなりの振る舞いをするように言っているのだが、中々身につかないのだ、この弟は。
 仙人界に来た時はまだ十にも満たない年だったからか、あまりそういった感覚は無いのかもしれない。

「……兄様、どうかしたの?」

「ん? 急に何だ?」

「何だかぼうっとしてて、上の空だったから……」

 考え事をしていた僕の顔が、殷洪の目に留まったらしい。

「何でもない。これから頑張らなきゃいけないからな。それを考えていただけだよ」

「そう……」

 殷洪は釈然としない表情を浮かべる。
 だが嘘など言っていないのだから、これ以上話す事も無い。
 僕は黄巾力士を操り、人間界に向けて急がせた。




 殷王国の第一王位継承者であるこの僕・殷郊と、第二王位継承者である弟・殷洪について、説明が必要だろう。
 僕らがどのような経緯で太公望と出会い、そして仙人界で修行する事になったのか。
 僕らの母・姜氏は殷の第一妃だった。
 だけど妲己に誘惑された父上・紂王は、母上の地位を妲己に譲り渡してしまったのだ。
 その後、母は妲己の策略によって投獄された。

 酒池肉林の宴。

 東伯侯・姜桓楚は南伯候である鄂崇禹と共にその宴を止めるように諌めた為、父は怒って二人を殺してしまった。
 姜桓楚の娘だった母も、父に歯向かった姜桓楚と同罪として、牢に入れられたのだ。
 母は隠し持っていた短剣で自らの胸を刺し、自害した。
 牢の中に居るにも関わらず、何故短剣などを持っていたのか。
 それは妲己が母は自殺するのを見越して、見張りに持ち物を調べさせないようにしていたからだ。

 そして、自分の地位を確たるものにする為、今度は僕らを殺そうと妲己は企んだ。
 母上の息子である僕らが生きている事は、妲己にとって邪魔でしかないからだ。
 生き延びる為に朝歌を逃げる事となった僕らに、妲己は勿論刺客を差し向けた。
 しかし、今僕らは生きている。
 殺されそうになったその時、僕らを助けてくれようとした人がいた。
 それが太公望だ。
 太公望には本当に感謝している。

 だけど……その直後にあいつが、申公豹が現れた。
 申公豹は僕らにこう言ったんだ。

『殷の王太子が、殷の敵である太公望の下につくというのですか?』

 最初僕には、その言葉が分からなかった。
 生きようとして何が悪い?
 殺されると分かっていて、どうして自らその場へと赴かなければならないんだ?
 その問題を解決するには、あまりにも僕らは幼すぎて、そして無知だった。
 何も分からないまま崑崙山に連れて行かれ、僕らはそのまま道士になるしかなかった。

 殷の王家は代々何名かの道士を輩出して来た名家だ。
 僕らの中にも、その才能がほんの少しだけあったらしい。

 崑崙での生活は楽しかった。
 最初はちんぷんかんぷんだった物が、段々と理解出来るようになって行く時。
 弱かった自分に、段々と力が身について行く事を実感する時。
 僕は喜んでいたと思う。
 そういった崑崙での生活は、確かに楽しかったのだ。

 しかし、段々と成長するにつれ、申公豹の言葉が重く頭に圧し掛かる。
 これで本当に良いのだろうか?
 何か、間違ってはいないか?
 現状が楽しいだけに、その想いはドンドンと強くなって行く。

 師匠の赤精子と広成子にはこの疑問は黙っていた。
 弟にもこの話はしていない。
 皆、僕が『妲己を倒す』為に修行していると思っているだろう。
 それは間違ってはいない。
 けれど、それが全てではないのだ。

 僕にはやらなければならない事がある。
 それを僕は思い出した。
 思い出してしまった。

 なぜなら……なぜなら僕は──







 殷都、朝歌上空にて。

「ほう、彼らが?」

「うん。崑崙から下山して、太公望達の所に向かうみたい」

 黒点虎の千里眼による報告を受け、申公豹は考え込む。
 彼らとは殷郊・殷洪の二太子の事だ。

「どうするの? このまま放っとく?」

 黒点虎はその千里眼で彼らを追いながら、申公豹に問い掛ける。
 だが申公豹は放っておくとも、追いかけるとも言わなかった。

「千里眼も良いですけどね黒点虎。近くにも面白い人が飛んでいますよ」

「えっ?」

 黒点虎が千里眼で見るのを止め、目の前に視線を向ける。

「あはん♡ 妾は意外と何でも出来るのよん♡」

「何か用ですか?」

 申公豹が前方に飛んでいた妲己に問う。
 妲己は薄い笑みを湛えたまま、口を開いた。

「趙公明ちゃんの召使いの呂岳はやられたわん♡
 ねぇん申公豹、殷のために次は貴女が手を貸して頂戴♡
 このままじゃ、殷が滅んじゃう~ん♡」

 妲己は身をくねらせながら、甘い声で申公豹に頼む。

「……殷のために?」

 妲己のその言葉を、申公豹は鼻で笑う。

「違うでしょう妲己。“殷を滅ぼすために”でしょう?」

 妲己は申公豹の言葉にも笑みを崩さない。
 言ってみろと言わんばかりに、妲己は口を閉ざしている。
 必然、言葉を紡ぐのは申公豹となった。

「貴女は数多くの謎を秘めていますね。
 もう何百年も前に金鰲島とは縁を切り、『はぐれ仙人』となった貴女。
 同じはぐれ仙人でも、聞仲は人と生きるために仙人界を捨てました。
 それでも彼は、まだ少し仙人界と繋がっています。
 けれど、貴女は違う」

 申公豹はきっぱりと告げる。

「貴女は金鰲島とは完全に縁を切ってしまっています。
 それどころか、金鰲島の半数にも及ぶ妖怪仙人を配下に付け、城に住まわせている。
 しかし、自分の弟子を貴女に取られた通天教主は、何故か貴女に文句一つ言わない」

「通天教主? ああ……」

 申公豹の言葉の内に含まれた一人の人物の名に、妲己は反応する。
 しかしその反応は、常人の感覚では予想出来ないものであった。


「そんな人も“居た”わねん♡」


 妲己の湛えていた柔らかな笑みが、酷薄なそれへと変わる。
 だが申公豹はそれに怖気づく事は無い。
 常の無表情をもって、妲己を見つめる。
 互いの視線が交錯し、無言の時間が生まれる。

「……まあ良いでしょう」

 先に折れたのは申公豹だった。

「私はこれからも、貴女の真の目的を知るまでは朝歌に居ようと思っています。
 それまでは今まで通り、少しだけ貴女に手を貸すとしましょう」

「何をしてくれるのん?」

「そうですね……」

 申公豹は僅かに思案し、自らの考えを妲己に伝えた。

「殷の跡継ぎは二人。その二人を太公望に殺させる……というのはどうでしょうか?」







 翌朝。

「お師匠様」

 空を見上げていた武吉が、太公望を呼ぶ。

「黄巾力士が飛んで来ます」

 太公望が武吉の見つめる方角に顔を向けると、確かに黄巾力士がこちらに近づいて来ているのが見えた。
 段々と大きくなるその姿に、誰が乗っているのかと太公望は目を凝らす。
 すると、向こうから太公望達に大きく手を振って来た。

「太公望ー!」

「おお、殷郊と殷洪ではないか。追加で来ると言っておったのはあやつらの事だったのか」

「大きくなったッスねぇ」

 久しぶりに会う彼らは、見違えるように大きくなっていた。
 十年近い年月が経っているのだ。
 スープ―シャンが感慨深げに呟くのも仕方が無い。
 太公望も久しく会っていなかった彼らを前にして、旧交を温めようかと考えた。
 だがその時。

「なっ!?」

 前触れも無く降り注いだ雷が、太公望と殷郊達の間を遮る。
 轟音が辺りに響き渡り、大気がびりびりと震えた。

「申公豹!」

「また会いましたね、太公望」

 いつの間にそこに居たのか、突如として現れた申公豹。
 その顔には見下すような嘲笑が含まれていた。
 申公豹は殷郊達から僅かに離れた場所を飛んでおり、その手にはまだ力の残滓が音を立てている雷公鞭が握られていた。

「何だ何だ?」

 そこに雷公鞭の轟音を聞き付けた姫発が、のこのことその場に現れた。

「どこの誰だか知んねーけど、喧嘩なら他所でやってくれー!」

 姫発は空に浮かぶ彼らの素性を知らないからか、場違いな程のんびりとした口調で声を掛ける。
 だがその声が耳に入っていないのか、誰も動こうとはしない。

「申公豹、お主はまた……」

 太公望が申公豹を警戒する。
 かつて申公豹は、殷から逃げ出した殷郊達を、力尽くでも連れ戻そうとした事がある。
 その時は元始天尊が二人を仙人界に運ぶ事で申公豹は諦めたのだが、今はそうはいかない。
 申公豹はそれを分かっているのか、太公望の顔に浮かぶ焦りをフッと鼻で笑う。

「さて……殷の太子・殷郊と殷洪。選択の時です」

 申公豹は殷郊達……太子二人に話しかける。

「民を見捨て、父を見捨て、我が身可愛さに逃げ出した貴方達。
 しかし貴方達はいずれ、父のために闘う日が来る。
 かつて私は、そう予言しましたね」

 誰もが固唾を飲んで、申公豹の言葉を聞いていた。
 申公豹は指を二本立てると、殷郊達に見せる。

「その貴方達が取る選択肢は二つ。
 このまま太公望の側につき、殷を滅ぼす手伝いをするか。
 それとも父・紂王の側につき、太公望と戦い王太子としての責任を全うするか。
 二つに一つです」

「今更何言ってんの! 僕らはとっくに地位は捨てたんだ!」

 申公豹の言葉に、殷洪が憤慨する。

「太公望と一緒に妲己をやっつけて、父上を取り戻す。
 そのために僕らは今まで修行して来たんだ! ねっ兄様!」

 殷洪は同意を求めるために殷郊に声を掛ける。
 しかし、殷郊からは同意の声も、頷きも得られなかった。

「兄様……?」

 静かに立ちあがった殷郊に、殷洪はどうしたのかと名を呼ぶ。

「申公豹……僕を殷に連れて行ってくれ」

「!? どうしたの兄様! 崑崙の人達を裏切るって言うの!?」

「殷洪、お前はまだ小さかったから自覚が無かったかもしれないけど……」

 殷郊は殷洪の頭にポンと手をやり、諭すように話しかける。

「例え申公豹に言われなくとも、僕は殷に行くつもりだった。
 なぜなら……なぜなら僕は、殷の正統なる王太子なのだから。
 次の王たるもの、国のために身を削る義務がある。
 太公望には悪いけど、これが僕の生まれ持った運命だから」

 殷郊は太公望を一瞥し、その隣に居た姫発に目をやる。
 姫発はその意味が分からず、首を傾げる。

「お前が武王だな」

「おう、そうだけど……」

「お前達に殷は渡さない。この国は、僕が護る!」

「はあ!?」

姫発は動揺する。

「ちょ、ちょい待ち! 俺は別に王になりてーって訳じゃ……」

「……情けない」

姫発の言葉に、殷郊は冷たい視線を投げ掛ける。

「王になる気も無いのに、お前は兵を起こしたのか?
 戦争して、殷を潰せば、それで満足なのか? だとしたら最低だな。
 そんなお前に、この国を渡すものか!」

「違ぇよ! てめぇ、ちゃんと俺の話を──」

 興奮する姫発を一瞥し、殷郊は黄巾力士から申公豹の乗る黒点虎の背に飛び移った。

「これで僕は、貴方達の敵だ」

「ふふふ……という事ですよ、太公望」

「あ……」

 誰かが何かを言う前に、二人を乗せた黒点虎は素早く走り去った。

「やいこら、待ちやがれ! てめぇのアホな勘違いを叩き直してやる!」

 姫発が叫ぶが、殷郊を乗せた黒点虎は戻って来る事は無く、段々と姿が小さくなって行った。

「……以前、申公豹が言っておった。いつか太子達が、儂を捨てて敵に回ると」

「そんな事無いよ! きっと兄様は申公豹に操られているんだ、連れ戻して来る!」

 殷洪は黄巾力士を操り、申公豹達の後を追って飛んで行った。
 十分に叫び終えた姫発は地面に座り込み、太公望に尋ねる。

「んで? どうすんだよ太公望。あのアホ王子様をよぉ」

「……元々は儂が撒いた種だ。だからここは、儂に任せてもらう」

「出来んのか?」

 姫発の問いに、太公望は頷いた。

「出来る。いや、やらねばならぬ」

「……戦うッスか?」

「おそらく……いくら呼び掛けても、殷郊は帰っては来ぬだろう。
 ならば己の撒いた種は、己が刈り取らねばなるまいのう……」

 太公望は皆に背を向け、静かにそう呟いた。






 殷へと向かう道中、申公豹は後ろの殷郊に問い掛けた。

「……またえらく決断が早かったですね。今ならまだ間に合います。帰りますか?」

「勘違いするなよ申公豹。
 君が出しゃばらなくても、僕は弟を太公望に預けて、一人で殷に戻るつもりだったさ」

 殷郊はきっぱりと言い切った。

「僕はきっと死ぬ。でも弟には生き延びて欲しいと思っているんだ」

「最後のアレも必要だったのですか?」

「中途半端な未練は断ち切るべきだ。でなければ、生き残る事など到底出来はしない」

「……」

 申公豹は横目で後ろの殷郊を一瞥し、しかし何も言う事は無く、再び視線を前へと向ける。

「汜水関が見えて来ました。あそこから殷の国ですよ、太子」

 黒点虎は汜水関の城壁を越え、内部に降り立つ。
 殷郊は黒点虎の背から降りて、申公豹に言う。

「ここまでで良い。後は自分で何とかする」

「分かりました」

 申公豹が頷くと、黒点虎がフワリと浮かび上がる。

「では私は戻るとします。色々と気になる事があるので」

「気になる事?」

「おっと、これは貴方には関係の無い事ですね。では健闘を祈ります」

 最後にそう言って、申公豹の姿は遠くなって行った。
 それを見つめていた殷郊は、チッと舌打ちをする。

「……道化め」

 申公豹は健闘を祈ると言った。
 太公望に殷郊が勝つなど、申公豹は欠片も思っていないのだ。
 ならばせめて自分を楽しませるように頑張れ、申公豹はそう言ったのだ。
 それを健闘を祈るという薄い言葉の膜に包んだだけだ。
 舌打ちが出ない方がおかしいというものだ。

「しかし……」

 殷郊は辺りに目配せする。

 雨風を防ぐ事の出来そうにない家屋。
 ボロ布を纏った人達。
 生気の失われた瞳。

 下山する途中に殷郊が空の上から見た周は、もっと活気に溢れていた。
 だが今、この殷の国は、その周とは大違いだった。
 歩く度に皆が殷郊をじっと見つめる。
 ぞろぞろと取り囲むように、人が殷郊の周りに集まって来る。

「何だ小僧、良い服着てんなぁ」

「何かよこせぇ」

「食い物、食い物ぉ」

 恥も外聞も無く、醜く物を乞う人々。
 栄養失調でやせ細り、しかし空腹をごまかすために飲んだ水で腹は膨らんでいる。
 彼らは皆、殷郊から何かを恵んで貰えないかと寄って来ている。
 その姿に、殷郊は顔を顰めた。

「……すまない。支配者の子として、貴方達に詫びよう」

 その言葉が、殷郊に触れそうだった手を止めさせる。



「私は王太子・殷郊。貴女達の君主・紂王の第一太子だ」



 それは決して大きな声で言った訳ではない。
 だがその言葉は波が引くように、殷郊を中心として一気に広がっていく。

「太子?」

「殷の……太子様!?」

 その言葉の意味が理解出来た時、人々は一斉に膝を着いて殷郊に平伏した。
 跪いた彼らを見回し、殷郊は言った。

「この汜水関の主将の下へと案内してくれ。こちらに攻めて来る周の軍と、私は戦おう」







あとがき

改訂しました。前の話は忘れて下さい。
前回はっちゃけ過ぎた影響でしょうか?
読み直してみたら異常にBL臭がするので、急遽主人公削除。
原作通り姫発に登場してもらいました。

改訂したのは、続きを書いてみたら無理があると判断したからです。
別に主人公だからって、無理に全部の話に絡める必要無いという事を思い出しました。
改訂前のは、余分に入れ過ぎて良い話が崩れていましたから。



[12082] 第五十二話 太子の選択二
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/04/17 14:18






「妲己よ……」

 殷の国の王たる紂王が、妻たる妲己の名を呼ぶ。
 しかし、その声は老人のようにしわがれており、そこに彼が生来持っていた精悍さは感じ取れなかった。
 どこか病んでいるような印象を聞いた者に抱かせる紂王に、妲己は軽い調子で尋ねる。

「あらん♡ 紂王様、どぉしたのぉん?」

 猫のような甘い声を発する妲己を、紂王は戸の陰から二つの目でジッと見つめている。
 二つの目といっても、その片方は額に付いていた。
 だが飾りなどでは無いのだと、くるくると動くその目が証明していた。
 更に顔には虎のような紋様が刻まれており、獰猛な獣を思わせた。
 足は恐竜のように太く巨大な鋭い爪があり、紂王が身じろぎする度にギラリと光っている。

「余の子……二太子が夢に出た……。
 最後に会ったのはいつだったであろうか……?
 つい昨日会った覚えがあるが……もう何年も見ていない気もするのだ……。
 なあ妲己よ……二人は今……どうしているのだろう……?」

 およそ人間とは思えないその姿から発せられる、子を想う親の問い。
 その問いに、妲己はクスッと小さく笑い声を零す。

「心配は御無用よん、紂王様♡
 彼らは今、兵を率いて周・武王の軍と戦っているのん♡
 継母として、妾も鼻が高いですわん♡」

「……そう……か……」

 妲己は正確には紂王の問いに答えた訳ではない。
 だが紂王は今の答えで納得したのか引き下がる。

「余は……少し疲れた……」

「あらん? 無茶はいけませんわん♡ どうぞお身体をご自愛下さいん♡」

「後は……頼んだ……」

「分かりましたわん♡ 何たって、夫を支えるのは妻としての義務ですもの♡」

 紂王は妲己の言葉に頷き、暗闇の奥へと消えた。
 巨大で重そうな爪が、ズルズルと音を立てて引き摺られていく。

 その姿を隣で見ていた王貴人おうきじん、そして胡喜媚こきびは満足そうに頷いた。

「妲己姉様、紂王はドンドン強くなっているわねっ!!」

「紂王のパパは強くって大きくって、とっても頼りがいがありっ☆」

 紂王の強さに王貴人は感嘆し、胡喜媚は無邪気に喜んでいる。
 誤解されやすいが、見た目と言動から幼い印象を受ける胡喜媚の方が姉である。

「あはん♡ だってあの人はこの戦争のラスボス(ラスト・ボスの略)だものん♡
 そうでなくちゃ、太公望ちゃんもやりがいがないでしょう?」







 民によって案内された殷郊は、主将に話しかける。

「お前がこの汜水関の主将の韓栄だな?」

「はっ」

 跪いて筋骨隆々の男、韓栄に殷郊は命令する。

「汜水関だけではなく、隣の界牌関からも兵を集めよ。
 そうすれば此方は七万、周軍の五万に数で有利となる」

 戦争の基本は数だ。
 どれほど強い将がいようと、どれほど有能な軍師がいようと、手足となる兵士がいなければどうにもならない。

「この戦いで、私は自ら兵を率いて戦うつもりだ」

 殷郊はそう言った。
 戦とは士気でするものだ。
 そして王族である殷郊がいれば、それだけで士気は上昇するだろう。
 太公望を甘く見てはいけない。
 自ら危険を冒そうとしない者に、勝利など掴めないと殷郊は理解していた。

「止めてよ兄様!」

「……殷洪か」

 黄巾力士で追いついた殷洪が、止めるように声を張り上げる。
 全力で追って来たのだろう、その額には汗が滲んでいる。
 だが殷郊は横目で殷洪の存在を一瞥しただけで、直ぐに韓栄へと視線を戻した。

「兵は出来るだけ早く集めよ。この戦いに勝てば税を半分にすると伝えれば良い」

「はっ!」

「兄様!」

 殷洪を無視して話を進めようとする殷郊。
 殷洪は苛立たしげに兄を呼ぶが、返って来たのは冷ややかな視線だけだった。

「何だ殷洪。私は忙しいんだ。お前の戯言に付き合っている暇は無いんだよ」

「戯言って……本気で太公望と戦うつもりなの!?」

「当たり前だ。私は殷の太子なんだからな」

「そんなっ!? だって……師匠達だって言ってたじゃないか!」

「師匠? ああ……」

 確かに、二人の師匠である赤精子と広成子は、下山する二人に言っていた。

 崑崙を下山した後は太公望に従え、と。
 もし逆らった場合は、死を持って償わなければならない、と。

 そこまで思い出した所で、殷郊はフッと笑う。

「馬鹿な人達だったな……」

「え!?」

「私は師匠どもに感謝も何もしていない。ただ宝貝を貰うために都合良く利用しただけだ」

「そんな……」

 殷洪の顔が隠しきれない悲嘆に歪む。
 追い打ちを掛けるように、殷郊が告げた。

「そもそも、私は生きているのだ。駒では無い。
 私が王太子として殷の為に身を削る覚悟をしたのも、太公望達の所を離れたのも、全て私の意志だ。
 それを他人にどうのこうのと指図をされる謂れは無い。
 ましてや、償うなど何様のつもりだ? 全知全能の何かにでもなったつもりか?」

「違う! 違うよ兄様、師匠達はそんなつもりで言ったんじゃない。
 僕達は妲己を倒すために、そのために今まで修行して来たんじゃなかったの?」

「ああ、その通りだ」

「だったらどうして!」

「殷洪……分からないのか?」

 殷郊はうんざりしたように殷洪に説明する。

「ただ妲己を倒すだけじゃ、この戦いは終わらない。その後を治める者が要るんだ。
 そして私は妲己を倒した後の世を、他人任せになどしていられないと判断しただけだ。
 まったくお前は……宝貝の修行だけではなく、ちゃんと勉強もしろと私は言っていたはずだぞ?」

「兄様……」

「正しいか間違っているかなんて、誰にも分からないさ。
 そんな物は後世の人間が頭を捻って考えれば良いだけの事だ。
 私にはどうでも良いし、私のやるべき事に変わりは無い」

「……」

 諭すように殷郊に言われ、殷洪は俯いて黙りこくってしまった。
 動こうとしない殷洪を見かねたのか、殷郊は腰に括り付けた袋から宝貝を取り出す。
 大きな判子を想像させるような形状だ。

「去れ、殷洪。最早此処はお前の居て良い場所じゃない。
 さもないと、この宝貝『番天印』をお前に使う事になるぞ」

「う、ううう……」

 殷洪は唇を噛み締めて、泣きそうな表情を必死に堪えていた。
 だがそれも長くは続かず、殷洪は泣きながら逃げ去った。

「うわ~ん! 兄様の馬鹿! 嘘つき! 恩知らず~!!」

 最後にそんな捨て台詞を残して、殷洪は飛び去って行った。
 悪口のレベルがいかにもな子供である。

「フ、フフフフ……」

 殷郊は段々と姿が小さくなって行く殷洪を見送り、込み上げて来た笑いを零す。
 その嘲笑は誰に向けられた物だろうか。
 殷に着くと決意した殷郊自身か、それともそんな殷郊を前にして拙い暴言を吐くしか出来なかった殷洪か。
 それは殷郊にしか知り得ない事だ。






 殷郊が兵を集めている頃、太公望もまた殷郊に対抗するため動いていた。
 だが表面上は何時も通りニョホホと笑い、不安そうな姿は見せていない。
 だからこそ、太公望の人となりを知っている者からすれば、それは無理をしているのだと分かるのだ。

「チッ、太公望の奴、明るく振る舞っていても無理してやがる……」

「そうですね。太公望殿は自分が助けた太子に裏切られた上、遂に人間の犠牲を出さざるを得なくなりましたから」

「……確かに、今までの師叔なら、いつものように妙な策を考えて、一人も殺さずに追い払っていたでしょう」

 テントに集まった姫発、黄飛虎、楊戩は太公望の事を良く知っているからこそ、不満のような物を持っていた。

「ですが、今回は特別です。
 今までのように、のらりくらりとかわす訳には行きません。
 なぜなら殷郊は、王太子でありながら道士でもあるのだから」

「は? それのどこが特別だって言うんだよ。別に問題があるようには見えねぇけど?」

 楊戩の物言いに姫発は首を傾げる。

「師叔が最も嫌うものは、『仙道が民を支配する事』です。
 妲己がその最たる例ですが、殷郊も今それを行おうとしています」

「だから太公望は王子様を倒さなきゃいけないんだろ?
 なら兵士で戦わなくても、あんたらがやれば良いじゃん」

「そう簡単には行かないんですよ」

 楊戩は苦笑して首を横に振る。
 初めての戦争だからか、姫発も気が立っているのだろう。
 楊戩のその仕草が分かっていないと言っているように感じ、ちょっと姫発はイラッと来た。
 思った以上に様になっているのも原因かもしれない。
 だが黄飛虎がそれを横からフォローする。

「王太子は道士としての力を使わず、一司令官として戦おうとしています。
 周側が戦争の礼儀を破り、仙道の戦いを仕掛けては、仙道が人間……それも王族を殺したという事になります」

「それだけではありません。兵士を戦わせなければいけない理由は他にもあります。
 武王、忘れましたか? 兵士の皆は、そして貴方は自分達の手で殷を倒すと言っていたのを。
 これは前哨戦です。今回の戦いに勝てなければ、殷を倒すなど不可能です。
 言い方は悪くなりますが、多少の犠牲を被ってでも、兵士達には経験をつませなければいけない。
 何しろ殷軍の総数は七十万、今は少し減っているでしょうけど、それでも勢いだけで挑んで勝てる相手ではありません」

 二人の言葉に納得したのか、姫発は頷いた。

「成る程な。太子が宝貝を使わない限りは、今回はあくまで人間同士の戦。
 それで勝たなきゃ、妲己と同じになるって訳だ。
 そんで、俺らも戦争を知らなきゃいけない、と」

「その通りです。子供の喧嘩ではありませんからね。目には目を、という訳には行かないんですよ」

 ただ勝てば良い、という問題では無いのだ。
 それでは一時的に状況が好転しても、後には続かない。

 例えば、殷郊を倒せばこの場は収まる。
 今回の戦いは起こらず、人間の犠牲は出ない。
 だがその為に何をしても良いか、となるとそれは違うのだ。
 道士全員で汜水関まで行き、複数で殷郊を取り囲んで戦えば、一方的に倒す事も可能だ。
 しかしそれは、自分自身の手で決着をつけようと考えている太公望の望む所では無い。
 そこに他の道士が割り込む余地など無いのだ。

 それだけではない。
 殷郊を倒せばそれで終わるかというと、まだ弟の殷洪が残っているのだ。
 現時点では周側に協力的かもしれないが、まだ完全に仲間になったと確信出来た訳ではない。
 殷郊が殷に行った事で、弟である殷洪もそうなるかもしれない。
 ぐらぐらと揺れ動く殷洪は、どちらに転ぶか分からない宙ぶらりんな状態なのだ。
 そこに兄を一方的に殺されるという事が起きれば、太公望達に憎しみを抱いて敵に回るしまうかもしれない。
 わざわざ敵を増やすなど、そんな事は誰も望んでいないのだ。

「頑張って下さい、武王。僕達は手伝いをする事は出来ますが、国を作るのは貴方達なんですから」

「お、おう……」

 姫発は頷く。
 姫発自身は殷郊の事を良く知らない。
 ただ、殷郊は殷の王太子として、姫発を殷の敵として定めた事は分かる。
 本来王になりたかった訳ではない姫発に取って、殷郊が王太子として敵に回った事は理解し難いものだった。
 現時点でも、王になりたくて王を名乗っている訳ではないのだ。
 これ以上殷の、妲己の好き勝手にはさせたくないから、姫発は王として立ち上がったに過ぎない。
 姫発自身の正直な想いは、誰が王になろうと、国の名前がどうなろうと関係ないのだ。
 ただ、そうした方がより良くなると分かっているから、姫発は立ち上がったのだ。
 決して、殷郊に罵倒されたように、倒した後はどうでも良いなどとは思っていない。

「ところでよ……殷を倒して、仙道の支配しない国を造ったら、あんたら仙道はどうするつもりなんだ?」

「そうですね……」

 楊戩は僅かに考え込み、一つの答えを出した。

「皆で仙人界に引っ込みますか」

「……ふうん」

 その言葉に、姫発は釈然としない様子で返す。

「……でもさ、それで良いのかよ?
 俺達を手伝ってくれるのはありがてぇけど、こんな汚れ作業ばっかりで嫌にならないか?
 裏方に徹して、戦う時は俺達を巻き込まないように必死になって、終わったら皆で引き篭もって……。
 何つーか、上手く言えねぇけど、あんたらはそれで良いのか?」

「何を言ってるんですか」

 姫発の問いに、楊戩は苦笑する。



「僕らはいつだって、誰からも嫌われる役回りですよ」









[12082] 第五十三話 太子の選択三
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/03/07 00:03





 兵を集め終えた殷郊は、すぐさま兵を引き連れて汜水関を出て、周軍との戦いの場へと赴いた。
 周軍には数で優るものの、それはその分進行速度が遅いという事である。
 同時に、周軍も移動を開始したため、戦場は汜水関よりも西へといくらかずれた場所となる。

 殷郊を先頭として、後ろにぞろぞろと付いて行く兵士達。
 その兵士達を、岩場の陰から殷洪がそっと覗いていた。

「なあ……」

「んー?」

「この戦、勝てんのかな?」

「さあなぁ……数じゃこっちの方が上みてぇだけどなぁ」

「勝ったら税を半分にしてくれるって王太子様は言ってたけど……」

「まあ俺達に出来る事なんて、言われた通りに動くぐらいしかねぇだろ」

「そーそー、俺たちゃ指示通り動くだけさ」

 そんな兵士達の声を盗み聞いて、殷洪は悲しくなった。
 貧しい人達の軍隊。
 物に釣られて戦争する兵士。
 皆、疲れきっている。
 なのに、これから死にに行かなければならないのだ、この中の兵士の大半は。
 殷郊は殷洪に、正しいか間違っているかはどうでも良いと言った。
 だが殷洪には、それをなおざりにして良いとは思えなかった。

 本当にこれが正しいのだろうか?

 本当にこれが、殷郊の言っていた王太子の責任というやつなのだろうか?

「僕には分からないよ、兄様……」

 殷郊のやっている事が、殷洪にはとてもではないが良い事だと感じられない。
 かといって、はいそうですか、と周に協力して兄と敵対する気にもなれない。

「こんな戦争に、何の意味があるっていうんだ……」

 殷洪には、この戦争には何の義も利も無い、ただの殺し合いにしか思えなかった。
 だが殷洪にはそう見えようと、兵士達には違う。
 死にたくない。だがこのままでは生きる術が無い。
 だからこそ僅かな希望に縋り、戦いへと赴くのだ。
 例えそれが、死という結果になるかもしれないと分かっていても。
 兵士達に選択肢など、初めから存在しないのだ。

 何の意味も無い、それは殷洪だからこそ言えた事だ。
 兄を追うために、汜水関まで来ただけの殷洪は見ていない。
 僅かばかりの食料を奪い、争う様を。
 少しでも生きようとする、あの必死な目を。
 名を出しただけで全ての民がひれ伏す、王族という血の重さを。
 何一つ、殷洪は知らないのだ。

 だからこそ、言える事がある。
 何も知らない子供の甘えた考えであっても、殷洪は決意した。

「兄様、僕は何とか兄様を止めたい……」

 どうすれば良いかなど分からない。
 他人の意見を否定する場合、それに代わる案を出すべきだ、とよく言われる。
 しかし殷洪には、兄が納得し、皆が円満に終わる案など思い付かなかった。
 例え太公望であっても、その答えを出す事は不可能だろう。
 思い付いていたのなら、こんな事にはなっていないはずだから。

 だが殷洪は代案など無いにも関わらず、兄を否定しようとしていた。
 直感ともいうべき浅薄な考えだが、それが殷郊と殷洪の違いなのだろう。







「う~む……この調子で行くと、敵とぶつかるのは二、三日後といったところかのう」

「まあそんなもんだろうな……」

 姫発は後ろを見やりながら答えた。
 今の進軍速度だと、二日もあれば敵と対峙出来る距離まで進むだろう。
 しかし歩き通しで戦えるはずもなく、三日という数字が妥当だろうと姫発は考える。

「でもよ、急にどうしたんだ太公望。そんなの、俺に聞かなくても分かるだろ?」

「いやなに、ちょっとした確認のためだ。
 儂はこれから出掛けて来るが、戦闘が始まるまでには帰って来るから心配するな」

「はあ!? おいおい、これから戦うってぇ時に、軍師のお前がいなくなってどうすんだよ。
 それに、いったい何処に行く気だ?」

「なに、ちょっくら仙人界までのう」

「なにぃ!?」

「行くぞスープー!」

「はいッス!」

「はーっはっはっは!!」

 太公望は高笑いを上げながら彼方へと飛び去って行った。
 それは姫発が止める間もない程のスピードである。

「本当に行っちまいやがった……」

 スープ―シャンのスピードなら、三日で仙人界を往復する事くらい容易いだろう。
 かつて魔家四将の一人である魔礼青は、スープ―シャンが豊邑と崑崙を往復するのに二時間は掛かると推測した。
 ここは豊邑ではないが、それでも全力で飛んでそれだけの時間しか掛からないスープ―シャンからすれば大した距離の違いは無い。
 武吉も毎日豊邑の自宅から走って通勤しているのだから、特に問題も無い。
 戻って来るという事に疑いを抱いている訳ではないが、聊か軽率ではないかと姫発は思った。

「にしてもあいつ、今更何しに行くんだよ」

「多分、王太子の師匠の所へ報告に行ったんでしょう」

 近くにいた楊戩が説明する。
 だが説明せずにさっさと消えた太公望に不満が無い訳でもない。

「チッ……まったく、あいつがあんな調子で戦に勝てんのか?」

「それは100%勝つでしょうね。まああの人がいなくとも僕がいれば余裕です!」

「ああそう……」

 いつものように自信満々でナルシスト気味の楊戩に、姫発は自分の周りの仙道は変人ばっかりだと嘆いた。







 日が沈み、野営の支度をしている兵士達を遠巻きに眺めながら、土行孫は呟いた。

「あと三日……か」

 あと三日で、決着が着く。
 あと三日で戦争が始まり、人が大勢死ぬ。
 分かっているのにも関わらず、土行孫にはそれに実感が湧かなかった。
 薄皮一枚隔てた向こうで、物語が進んでいるような、そんな感覚。
 だがそれも、始まってしまえば無くなるのだろう。
 戦争とは、個人の価値観など容易く押し流してしまう、濁流のような物だ。
 だというのに、泣いても笑ってもその時間はやって来るのに、覚悟が決め切れない。

 殷郊が裏切った。
 言葉にすればこれだけだが、それがとても重かった。
 土行孫は人から伝え聞いただけで、殷郊が裏切った時はいなかった。
 だから何故殷郊が裏切ったのかは知らない。

「俺は……どうすれば良いんだ……?」

 戦いは兵士がする。
 殷郊との決着は太公望が着ける。
 ならば自分は?
 自分に出来る事とはいったい何だ?

「何も無い……」

 何も無いのだ。
 見ているしか出来ない自分には、それは辛く感じる。
 何か自分に出来る事があれば、それをして満足出来ただろう。
 自分は頑張ったのだから、だから仕方が無い。そう言えるのだ。
 だがそんな言い訳など出来はしない。
 そもそも何もやっていないのだから、何かを手に入れるという事も無いのだ。

「折角降りて来たのになぁ……」

 何のために人間界に降りて来たかというと、皆の役に立つためだ。
 その決断は間違っていないと思う。
 自分の行いで助けられた人も居るのだから、それを間違いだとは言いたくない。
 けれど、土行孫が降りて来たのは、間違っても身内同士で殺し合うのを見るためではない。
 それだけは断言出来る。

 土行孫と殷郊、殷洪の間には大した繋がりは無い。
 時折様子を見に行って、ちょっと修行を手伝ったり、暇潰しの話をしたくらいだ。
 けれど、そんなあっさりとした関係であっても、土行孫が彼らを身内だと思っていた事に変わりは無い。

「何やってんだか……」

 土行孫は自分の心が良く分からなかった。
 死にたくないと思って逃げたはずなのに、修行して強くなった。
 痛いのは嫌いなのに、自分から危険に首を突っ込もうとしている。
 矛盾していると、自分でも思う。
 けれど、どちらも自分の本心である事には変わりが無いはずで、どちらが上という事も無いはずだ。
 結局、太公望のように大局を見据えるという事が出来ない頭では、その時の感情に身を任せるしかないのだろう。
 その選択の中で、後悔しないように、少しでも展開が良くなるようにするしかないのだ。

「殷郊は……どうして殷に着いたんだろうな……」

「分かりませんか?」

「……もう驚かないぞ」

「それは残念」

 何故か土行孫の後ろに申公豹が居る。
 周りには兵士は居ない。当たり前だ。そうなるように離れていたのだから。
 だがどうして誰にも見つからずにここに来れるのだろう?
 外見から神出鬼没な事が予想出来る申公豹の事だから、見つからないように動くのは容易いのかもしれない。
 しかし、そう何度もいきなり話しかけられると、土行孫としては心臓に悪いと感じる。
 もしかして内旗門のように姿を消す宝貝でも持っているのではないか、と土行孫は密かに疑っている。
 何も姿を消す宝貝が一つだとは決まっていないのだから。

 そもそもこんな簡単に後ろに立たれるのはどうなんだろう、と土行孫は首を傾げる。
 俺の後ろに立つな、という考えを持っている訳ではないが、少々危険ではないだろうか?
 申公豹相手に何を言っても、申公豹自身が面白いと判断すれば躊躇なく実行されるから、土行孫にはどうする事も出来ないのだが。

 話がずれたと頭を振って、土行孫は申公豹に尋ねる。
 そういえば自分が二太子の事を知ったのは、申公豹と会った事が原因だからだった、と思い出したのだ。
 土行孫が申公豹と最初に出会ったのは、申公豹が二人は真面目に修行しているかの観察のために崑崙まで遠出したからだ。

「で、殷郊の事だけど、申公豹は殷郊から何か聞いたのか?」

「ええ」

「教えてくれるのか?」

「まさか」

「だよな……はぁ……」

 申公豹が最初から最後まで懇切丁寧に教えてくれるなど、そんなものは夢物語である。
 こうして人が悩んでいるのを見るのが好きなのだ、申公豹は。
 悪趣味と言われるかもしれないが、申公豹にも幾らかのこだわりがあるらしい。
 その興味の対象の中に、考える事を放棄した者が含まれていないのは、土行孫も分かっている。
 思考を放棄し、他人に決定や答えを求める者は、申公豹の嫌いな者なのだ。
 何故なら、それではつまらないから。
 前に会った時、自分から動こうともせず、他人に他力本願だった土行孫は、精神的に叩きのめされた。
 見捨てられかけた、といった方が正しいだろう。
 なんとか信用は回復出来たのかもしれないが、流石にもう一度友人を無くしたいとは思わない。
 それを味わった土行孫からすれば、まだ興味を持たれている間は大丈夫だと判断しているのだ。

 困っている土行孫の顔を見て、申公豹はニヤリと笑う。

「ヒント……欲しいですか?」

「いや、いいよ。自分で考えるからさ。それじゃあまたな」

「!? お、お待ちなさい!」

「え? どうかしたか?」

 一人で思索に耽ろうかと思っていた土行孫だったが、申公豹に呼び止められる。
 というよりも、踵を返した土行孫の左肩をガッと掴まれたので、逃げるに逃げられない。
 指先が食い込んで痛いのだが、それを言う勇気は持っていない。

「百年も生きていない貴方が、ヒントも無しで人の思考を読めるとでも思っているのですか?
 だとしたら貴方の頭は私の中で『悪い』から『とても悪い』になります。
 さあ、私にヒントをお聞きなさい。聞くのです!」

 先程まで教える気など無さそうだったにも関わらず、土行孫が遠慮すると自分から教えようとする。
 土行孫としては申公豹が素直に教えてくれるはずは無いから、自分で考えようと思って断っただけなのだが。
 もしかして寂しがり屋なのかと一瞬思ったものの、口に出したら殺されそうな気もする。
 思えば、申公豹が自分以外の人と話している所を、土行孫は知らない。
 仲良くしないとな、と土行孫は少し脱線した事を考える。

「えっと……俺がまだそんなに生きてないのをどうして知っているのかとか、
 間違っていないけど面と向かって頭が悪いって言うのは流石にどうかと思うとか、
 色々と言いたい事はあるけど……それじゃ、とりあえずヒント教えてくれ」

「良いでしょう」

 積極的に教えてくれるなら構わないかと土行孫が頼むと、申公豹は自信あり気に頷いた。
 肩を掴んでいた腕が離れたので、そこをあまり気にしないようにして申公豹の話を聞く。
 コホン、と軽く咳払いした申公豹は、殷郊の事を語った。

「太子は自分が死ぬ事を確信しているようですよ」

「……」

「……」

「……え? それだけ?」

「はい。何か問題でも?」

「あ、いや……何と言うか……」

 土行孫の顔が引き攣る。
 正直何の役にも立ちそうにないヒントというか、聞かない方が良かった気がするヒントだった。

「まあ良いや、ありがとう。ちょっと真面目に考えてみる」

 土行孫は腕を組み、目を瞑ってその場に座り込む。
 そろそろ食事が始まるだろうから、あまり時間も取れない。
 もしかしたらもう探しているかもしれないが、長引けば蝉玉が探しに来るだろう。

 まず二太子の事について、土行孫は考える必要があるだろう。
 殷郊は現殷の国王である紂王の子供であり、第一王位継承者だ。
 弟の殷洪は第二王位継承者だが、仙人界に来た時はまだ幼く、そういう事は理解出来ていなかった。
 これらは以前、二人から聞いた。
 逆に言えば、これだけしか知らないと言う事も出来る。
 あまり他人の事情に深入りしない方が良いのではないかと、土行孫が遠慮したためだ。

「何だ、本当に何も知らないな……」

 こんなものは、本人からでなくとも入手出来る情報である。
 もっと人柄を知る為に会話をしておくべきだったと思うが、今更後悔しても仕方が無い。

 話を戻そう。
 殷郊は自分が死ぬ事を確信している、と申公豹は言った。
 そしてその覚悟も、殷郊は既に出来ているのだ。

 敵に回った以上、こちらがやられる訳には行かないのだから、殷郊は封神される。
 今ならまだ間に合うが、太公望の予測では殷郊は止まらない。

 殷郊と相対した時、こちらが敗北事は無い。
 無傷でとは行かないだろうが、こちらが必ず勝つ。
 何故なら、こちらにはナタクや楊戩といった強力な味方がいるのだから。
 これらを打倒出来るのは、話に聞いた聞仲レベルでなければ不可能だ。
 一から修行を始めた殷郊が、たかだか十年程度の修行でその域に到達する事は無い。
 確かに殷郊の持つ番天印は強力だが、防ぐ方法もまた存在する。
 正直な話、以前会った時と同じであるならば、土行孫は100%勝てると確信している。
 だがおそらくそんなはずもないので、自分を過信するのは危険だろう。

 王太子であるという事から、死は常に覚悟しているのかもしれない。
 高貴な人間の周りでは、謀略が渦巻くのは必然だ。
 だから殷郊も、死ぬ事は分かった上で、敵に回ったというのか。

「ん~?」

 土行孫は首を傾げる。
 話が繋がらないのだ。

『殷郊は王太子である』

『そして、死を覚悟しているものである』

 此処までは良い。
 だが何故それが、殷郊が殷へと回る理由になるのか繋がらない。
 どうしてそれが、自ら死にに行く選択肢を選ばせたのか、に繋がらないのだ。

「次の王たるもの、国のために身を削る義務がある」

 太公望から聞いた話だが、殷郊は周を去る時にそう言ったらしい。
 成る程、道理だ。
 国王とは民を導く存在なのだから、民のために尽くす必要があるのは当然の事。
 だから殷郊は殷へと行き、周と敵対する。
 その結果が、自分の死であろうとも。
 結局のところ、それが全てなのだ。
 土行孫がいくらあーだこーだと頭を捻ったところで、殷郊が語ったその言葉以上のものは見えて来ない。
 遠回しに愚痴愚痴と考えた所で、それが全てなのだ。
 何も変わらない。

 だが、土行孫の口から漏れるのは一言だけだ。

「納得出来ねぇ……」

 王族だから、義務だから、民のためだから。
 全て、理解出来る。
 だが納得など出来はしない。
 王族。義務。民のため。
 そういう余分なものを全て取っ払った時、何が残る?

 死とは誰もが持つ根源的な恐怖だ。
 それを覚悟してまで、殷郊を突き進ませるものは何だ?
 殷郊のように上に立つ者の教育などを受けていない土行孫に取って、殷郊の語った理由がその恐怖を誤魔化すための殻にしか思えない。
 本質だとは感じられないのだ。

 だが、目前に迫った死とは、そういった殻を残さず剥ぎ取ってしまう。
 土行孫が土行孫として目覚めた時、彼は目の前で孫の母が殺される瞬間を間近で見てしまった。
 そして、恥も外聞もかなぐり捨てて、力の限り逃げ続けたのだ。
 その時の感情を覚えているが故に、土行孫は納得出来ないのだ。

 まだ何かがあるんじゃないか? と。


「あ~くそっ。分かんねぇ……。いったい何だって言うんだ……」

 思わず悪態をつき、寝転がる土行孫。
 申公豹の言った通り、人の思考など読めない。
 だからこそ、こうしてモヤモヤとした感情を抱えなければいけないのだ。
 普段は別にそれでも構わないが、深刻な問題ともなるとそれがもどかしい。

 はぁ、と土行孫は溜め息を吐く。
 食事でもして気を紛らわそう、と土行孫は目を開けた。



 鼻先数センチの所に申公豹が居た。



「~っ!?」

「おや、どうかしましたか?」

 土行孫が声にならない叫びを上げる。
 どうかしましたか、ではない。
 目の前に人の顔があれば、しかも予想していなかった人物が居れば、誰だって驚くに決まっている。
 かろうじて土行孫に出せたのは一言だけだった。

「な、何でまだここに……?」

「私も思索の邪魔をしてはいけないと、離れようとは思ったのですがね。
 目の前で百面相をされるのが意外に面白かったものですから、観察させて頂きました。
 ああそれと、私も一つ、貴方に尋ねたい事があったのを思い出しましてね」

 どうやら申公豹は、ずっと土行孫が悩む姿を見て楽しんでいたらしい。
 どうせなら見送ってから考えるべきだったと土行孫は後悔するものの、今更後の祭りである。

「えっと、珍しいな。俺に尋ねたい事があるって?」

「はい。尋ねたい事は『貴方は何故、私を嫌わないのか』という事です」

「……」

「……」

「……は?」

 土行孫が聞き返す。
 意味が分からない。
 何故いきなりそのような問いを、土行孫が受けなければいけないのだろうか?

「ちょ、ちょっと待ってくれ。本気で訳が分からない」

 起き上がり、首を傾げる土行孫に、申公豹が補足する。

「私は太子を殷に連れて行きました。
 そしてその弟の殷洪は、私が兄を操っているのだと言いました。
 ならば、私に対して確執などを持つのは当然ではないか、と私は考えているのですよ」

「……ああ、成る程」

 そこまで説明され、やっと土行孫も申公豹が尋ねたい事を理解した。

 以前、妲己の魔の手から逃れるために殷を離れた太子二人を、申公豹は糾弾した事がある。
 その時に、申公豹は太子が殷のために働く事になると、予言という言葉で残したのだ。
 それが殷郊の選択を決めたとも言える。
 ならば、殷洪の言っていた操られているという発言も、強ち間違いではない。
 だから申公豹は、太公望達から見れば殷郊を攫った悪役で、本人もそう見られると思っていたらしい。

 しかし土行孫は申公豹に怒りも確執も露わにせず、普通に会話をしている。
 それが申公豹の予想を裏切った。

「私が姿を現したら貴方はすぐさま攻撃して来ると、そう思っていたのですがね。
 どちらかと言えば、肩透かしを食らったような気分ですよ。
 珍しくその気になっていたのですけどね」

「そ、そうか……」

 土行孫の頬に汗が一筋流れる。
 つまり、土行孫が申公豹と戦おうとしていたなら、今こうして考える事は出来なかったという事だ。
 申公豹にとっては遊びでも、土行孫は死ぬかもしれないのだから。

「それで? どうして貴方は今も尚、私の言葉に耳を傾けているのでしょうか?」

「いや、どうしてって言われてもなぁ……」

 土行孫は言葉に詰まる。
 何故土行孫が申公豹に対し、そういった感情を抱かなかったのか。
 答えは単純だ。

「ただ単に、思い付かなかっただけだよ。
 殷郊の事で色々と考えていたから、申公豹が連れて行った事にまで頭が回らなかった。
 結局のところ、それだけだな」

「ほう? ならば、私が今言った事で、貴方はその可能性に気付いたはずです。
 だというのに、尚もこうして会話を続けるのは何故ですか?」

「でもこうして話していると、どうも申公豹がやったようには思えないんだよな。
 何ていうか……今更って感じでさ。俺としても、あんまり戦う気になれないというか……」

 土行孫の言葉は、紛れもない本心である。
 申公豹との交流の中で、土行孫は申公豹の信条を知っている。
 それはつまり、『楽しい事はさらに楽しくする』という考え方である。
 修羅場とか大好きなのだろう、と土行孫は推測している。
 そしてその考えに、太公望が救われた事もある。
 その申公豹が、他人を操るという事をするだろうか?
 行動も思考も思いのままで、全てが想定の範囲内という事を、申公豹がするだろうか?
 土行孫の考えは『否』である。
 確かに他人を意のままに操るという行為は、人によっては気分が良いかもしれない。
 だがそれは攻略本を見て、全てのネタばれを知った後で行うゲームのようなものだ。
 そこには驚きも高揚も無く、ただの作業でしかない。
 そんなつまらないものを、申公豹がわざわざやるとは、土行孫にはとてもではないが思えなかったのだ。

「あともう飯時だから、そういう血生臭くなりそうな話は止めないか?」

 先程から土行孫の腹が空腹を訴えて来ているので、土行孫としては戦う気にはなれないのだ。
 食事の前に気分の悪くなる事が起きれば、食事を心から楽しめないからである。
 別に食べなくても死にはしないが、先程から麻婆豆腐の匂いが此処まで漂って来ているのだ。
 挽肉が入っているから食べられないだろう、と思うかもしれない。
 しかし、生臭が駄目な仙道のために、大豆から作った偽の肉を使った普茶料理を別に作ってくれているので、仙道でも食べられるのだ。

「殷に行ったのは殷郊自身の意志で、申公豹は関係ない。だから敵対する必要もない。これで良いか?」

「……分かりました。特に嘘を言っているようにも見えませんし、そういう事にしておきましょう」

 切り上げるように言った土行孫を、ジッと探るように見ていた申公豹はゆっくりと頷いた。
 そして申公豹は、一転して興味深そうに土行孫を見る。

「しかし、私と戦うよりも食事の方を優先するとは、貴方も中々変わっていますね」

「変わり者の代表格みたいなお前に言われたくないんだが……別に良いだろ。
 飯食うのは好きなんだ。生きてる実感が湧くからさ」

 食事も睡眠も取らなくて良いとしても、土行孫はそれを止める気は無い。
 それらは人間の持つ最たる欲求であるし、生きているという感覚を身近に感じられるからだ。
 欲を断ち、世俗との縁を切るというのが、土行孫が昔持っていた仙人像だ。
 しかし、いざ自分がなってみると、そんな仙道はほとんどいなかった。
 結局のところは千差万別であり、皆好きなように長い人生を生きている。
 だから土行孫も、食事や睡眠といった趣味により、人間だった頃を忘れないようにしているだけだ。
 あまりそういった人間味を無くしたくないのである。
 この考えが土行孫が仙人になれない原因、という訳ではないのだ。

「……ニー!」

「ん?」

 遠くから近付いて来る声に土行孫が顔を上げると、蝉玉が手を振りながら此方へ駆けて来る。。
 ハニーと呼ばれて自分の事だと分かってしまうようになった事が、土行孫としては少し釈然としないのだが。

「じゃあ申公豹、どうせだから一緒に飯でも──」

 食べないか、と振り返った土行孫だが、そこに申公豹の姿は無かった。
 どうやら満足したから帰ったらしい。
 それとも、見咎められるのを避けたか。
 何にせよ、神出鬼没の申公豹が姿を隠せば、土行孫にはもう見つけられない。

「飯は皆で食った方が美味いんだけどなぁ……」

「ハニー!」

 ボソッと呟いた土行孫のもとへ、蝉玉が辿り着く。

「どうしたのハニー、探したわよ」

「ああ、ごめん。色々と一人で考えたい事があってさ……」

「ふうん……分かった」

 蝉玉は頷くと、土行孫の腕に自分の腕を絡める。

「そんな事よりハニー、ご飯にしましょ。今日のご飯は、あたしも手伝ったんだ」

「ああ、そうなんだ」

 だから姿を見かけなかったのか、と土行孫は納得する。
 かつて蝉玉に拉致された時に、蝉玉の料理は味わっている。
 あの時は粥だったが、特に問題も無く美味しかったので、今日の食事も期待出来そうだと土行孫は考える。

 早く早くと蝉玉に急かされ、引き摺られるように付いて行く土行孫。
 歩きながら蝉玉が、ふと気付いたように土行孫の身体を見下ろす。

「ねえハニー。あたしはハニーが何してたのか知らないけど、随分と汚れてるわね」

「え? ああ、そういえば……」

 地べたに座ったり、寝っ転がったりしたせいか、服のあちらこちらが汚れている。

「結構動いたからなぁ」

 背中に手をやると、ザラザラとした手触りが伝わって来た。
 同時に、地面にぱらぱらと砂が零れ落ちる音が聞こえる。
 一つに纏めている長髪を前に持って来ると、黒かった髪が今は砂にまみれて茶色にくすんでいた。

「戻ったら洗濯してあげるね。そのままだと汚いもの」

「いや、別に良いよ。こんなのいつもの事だしさ」

 僅かな汚れや埃が身体を痛める竜吉公主の周りならともかく、土行孫は普段あまりそういう事に頓着しない。
 泥汚れなども、土竜爪の力を少し応用して弾き飛ばせばあっさりと落ちるからだ。
 だが蝉玉にはそんな言葉は通じなかったらしい。
 絡めている腕がギュッと締まる。土行孫には少し痛いくらいだ。

「いつもの事? 駄目よ、そんなの。
 身体はいつも清潔にしてないと。
 いつもの事なんて、あたしが許さないわ」

「まあそれはそうだけど……じゃあ腕放した方が良いんじゃないか?」

 汚れている土行孫の腕を取ったら、蝉玉も汚れてしまう。
 もう手遅れかもしれないが、一応と土行孫が言う。
 しかし蝉玉は首を横に振る。

「あたしは良いの。でもね、ハニーもちゃんと気を付けなきゃ……」

 蝉玉はピタッと足を止めて、土行孫の左肩をガッと掴む。
 いきなりの蝉玉の行動に、どうかしたのかと土行孫は目を丸くした。
 だが顔を覗き込んで来た蝉玉の目を見返し、土行孫はハッと気付いた。



「ほらここ、汚れてるじゃない。女の臭いがするわ」



 もしかして蝉玉は、先程の自分の言動で、何かもの凄い勘違いをしているのではないか? と。












 周軍が野営を始めていたその頃、汜水関を抜ける一軍の姿が有った。
 兵士達は『殷』と書かれた兜を被り、西へと前進していく。
 その総数は二万を越えており、長年訓練されたかのような規則正しい動きであった。
 彼らの目指す場所は汜水関の西、今まさに周軍と殷軍がぶつかり合う戦場である。
 既に数日前に汜水関を発った殷郊達に追いつかんばかりの勢いで、彼らは進んで行く。

「間に合ってくれよ……」

 軍の先頭、馬に乗ったその将は、焦りを含んだ声でぼそりと呟いた。










 三日後。

 殷の太子軍と周軍は遭遇し、広い平地に陣を布いた。

 間もなく、戦争が始まるのだ。

 ──だが!


「あのアホはまだ来ねぇのか!?」

「大丈夫です武王! 太公望が居なくてもこの南宮适が居ます!」


 太公望は遅刻していた。










あとがき

次回でバトルに入ります。
あの人再登場させるつもりです。



[12082] 第五十四話 太子の選択四
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/03/11 22:57





 殷軍と周軍が布陣を終えた頃、太公望は急いでいた。

「急ぐのだスープー!」

「了解ッス!」

 スープ―シャンはグングンとスピードを上げ、太公望は振り落とされないようにしがみ付く。
 遅刻している身の上だ。
 互いの胸中に焦りが生まれている。

「くぅ、思ったよりも時間が掛かったのう」

「もう戦闘が始まってるかもしれないッス……」

 本来ならば直ぐにでも帰って来る予定だったのだが、意外と時間を取られてしまったのだ。

 殷郊の裏切りを報告するために、太公望は崑崙へと向かった。
 玉虚宮には千里眼で事の成り行きを把握していた元始天尊が、既に待ち構えていた。
 そこで太子二人の師匠である広成子と赤精子から、二人の持つ宝貝の設計図を渡された。
 何故二人の宝貝かというと、弟である殷洪も裏切る可能性があると判断されたからである。

 そして太公望は、元始天尊に新しい宝貝をもらった。
 太公望は自分の責任として、殷郊を倒さなければならない。
 自分が撒いた種である以上、他人任せにする事は出来ないからだ。
 しかし風を起こす打神鞭だけでは、殷郊を倒すのは難しい。
 そう太公望は考えたからこそ、元始天尊に頼み新しき力を欲したのだ。

「だから儂にも、何か強力な宝貝をおくれ」

「戯け。それが人に物を強請る態度か」

「『ねだる』と『ゆする』は同じ漢字なのですよ、元始天尊様」

「儂を強請るつもりか、この莫迦弟子が」

 そんなやりとりが長く続いたせいか、太公望は遅刻したのだ。






 前方に位置する周軍を馬上から眺めながら、殷郊は断言した。

「錐行の陣だな」

「そのようですな」

 韓栄も頷く。
 錐行の陣とは陣形を剣のようにして、先端を鋭く尖らせる陣だ。
 上から見れば、まるで鏃のようにも見える事だろう。
 剣の切っ先である先端は確実に相手を突き刺し、刃である両翼は相手を切り裂く事が出来る。
 確実に突破するための手段として用いられる陣形だ。
 これに対し、殷郊が率いる殷軍は方陣という四角い陣形を取っている。

「おそらく敵は我が軍の中央を突破し、二つに分断された我が軍を各個撃破するつもりなのです」

「半分にしてそれを一つずつ叩く戦術か……そうはさせない」

 殷郊は命令を出し、中央を固めさせる。
 容易く突破などさせるつもりはない。
 兵の数では殷軍の方が優っているのだ。

「こちらの厚みに潰されるが良い」

「太子様!」

 殷郊が開始の声を挙げようとした時、伝令が走り寄って来る。

「何事だ!」

「は! 我々殷軍の後方に、見慣れぬ一軍の姿が見られました。その総数、およそ二万!」

「……どういう事だ?」

 殷郊が眉を顰める。
 周軍の増援という事はありえない。
 目の前にいる周軍が、その全てのはずだ。
 伝令は尚も続けて言った。

「遠目ではありますが、その軍は我らと同じ殷軍の装備をしておりました」

「殷軍の……?」

 殷郊は視線を韓栄へと向ける。
 韓栄は静かに首を横に振った。

「我々は汜水関、界牌関の全ての兵を集めました。
 その我々が、二万もの兵をどこぞに隠す事など出来ませぬ。
 その者達と我々とは全くの関わりが無いと考えるべきかと」

「そうか」

 殷郊は頷き、思索を巡らせる。
 突如として現れた謎の殷軍。
 その軍の狙いは何かと考え、二つほど答えを見つける。

 一つは妲己の差し金だという事。
 かつて命を狙われたように、殷郊は妲己に取って邪魔でしかない。
 故に、こうして戦争に託けて、再び始末しようという考えだ。

 そしてもう一つ。

「韓栄、お前はどう考える?」

「……おそらくその者達は、漁夫の利を得ようと企んだ者達ではないかと」

「そうか」

 殷軍と周軍がぶつかれば、当然の事ながら互いに疲弊する。
 そこに後から来たその軍が、手柄を横取りするつもりなのだ。
 まさに山賊の所業だ。

「私もそう思う」

「王太子、如何なさいますか?」

「放っておけ。そのような卑しい者ども、私の軍には必要無い」

「……は」

「どこから来たのか知らないが、彼奴らが追いつく前に決着をつける。
 そして、武王の首を持ち、今頃になって何をしに来たのかと問い詰めてくれよう」

 幸い、周軍はまだ後方の一軍の姿に気付いた様子は無い。
 ならば彼らは増援として、殷軍の役に立ってくれるだろう。
 先陣に立つ殷郊は、前方の殷軍を指差し、声を張り上げる。


「全軍、前進せよ!!」







「うわ、前進して来やがった……」

 波のように押し寄せて来る殷軍の姿に、姫発が焦りを浮かべる。

「どうすんだよ、こっちの司令官はまだ来てねぇってのに」

 こうなったら太公望抜きでやるしかない、と誰もがそう思った時だった。
 武吉が空を見上げて、遠くから段々と近づいて来る太公望を発見する。

「お師匠様!」

「お待たせだのう」

「アホ! もう敵は動いてんだよ!」

 姫発の苛立った様子に、太公望も苦笑する。
 太公望もここまで遅くなるとは思っていなかったのだ。
 姫発の怒りも尤もである。

「武成王、配置はどうなっている?」

「見ての通りだ。こっちは言われた通りの陣形にしておいたぜ」

「……うむ、予想通りだ」

 敵の陣形を見て、太公望は頷く。
 錐行の陣に対抗するために、殷郊はもともと厚かった中央をさらに厚くしていた。
 そのまま進めば、元より数で負けている周軍の事、勝ち目など無い。

「しかし……残念だが殷郊よ。儂は中央突破をするつもりは無いぞ」

 太公望は前進してくる殷軍に対抗するため、周軍も前進するように号令を下した。


 歩く度に地響きを起こす大軍。

 相手を射殺すために放たれる幾万もの矢。

 貫き、薙ぎ払われる槍の群れ。

 声すら上げる事無く死んで逝く人々。


 そんな戦いを見ながら、武吉はスープ―シャンに話しかける。。

「怖いね、スープ―シャン。人が、ドンドン死んでいくよ……」

「……僕も、初めて見たッス。これが……戦争なんッスね」

 矢も届かない離れた場所でそれを見下ろしながら、二人は会話を続けた。
 何でも良い。何でも良いから、何か話していないとおかしくなりそうだったのだ。
 武吉は両腕で身体を抱える。
 身体を覆う寒気が取れない。
 辺りを包む熱気で、武吉には暑いくらいだというのに、だ。
 戦争という現実を目の当たりにし、その重さに潰れかけていた。

「これが戦争なのか……」

 そしてそれは、同じように見ていた土行孫にも言える事だった。
 自分には危険など及んでいない。
 それどころか、土行孫のような道士が、普通の人間の攻撃などでやられる事などほとんど無いのだ。
 だというのに、脂汗が止まらない。
 今にもその矢が、槍が、自分を貫くような光景を幻視してしまう。

「くっ……」

 鼻を突くような強烈な血の臭いに、腹の底から酸っぱい何かが込み上げて来る。
 えずきそうになりながらも、土行孫はそれを必死に押し込めた。

「くそっ……分かっていても、慣れる事なんて出来そうにないぞ、これは……」

 それが土行孫の本心だった。
 この先、何十、何百と戦争を体験する事になろうと、絶対に慣れる事など出来はしない。
 土行孫はそう思った。
 人とは慣れる生き物だという。
 例えそれが戦争であろうとも、いずれは慣れてしまうのだろうか。
 だが土行孫には、その未来が欠片も見えなかった。

「絶対に慣れてなんてやるもんか……」

 大切なもののために立ち上がる事はあるだろう。
 手を血に染める事もあるかもしれない。
 土行孫は善人では無いのだから、そうなった時に力を向ける事を躊躇いはしない。
 知らない人間よりも、知っている人間の方が大事だからだ。
 だがしかし、それに慣れてはならないと感じる。
 例え人を殺す事になっても、それを何とも思わなくなるような人間には成りたくない。

 土行孫は別に、聖人君子でも正義の味方でもない。
 だが、出来る限りは人が死ぬ事を避けたい。
 他人のためなどではない。何よりも自分の心を護るために。
 それが人として当たり前の感情なのだと、土行孫は考えるからだ。


 戦争が始まり、未だ屍の数はドンドンと増え続けていた。


「……そろそろ、良いか」

 倒れて行く人の姿に僅かに眉を顰めながらも、太公望はジッと行く末を見つめていた。

「天化よ、銅鑼を三回鳴らしてくれ」

「分かったさ」

 後ろに居た天化が、勢い良く撥を振りかぶる。
 力を込めて振り抜くと、銅鑼の重低音が遥か遠くまで響き渡った。



 ガッ! という音と共に、兜が貫かれる。
 それを為した男は槍を振り回して、更に近くに居た三人の兵士を薙ぎ払った。

「はぁーっはっはっは! どうした! この南宮适に傷一つ付けられんのか!!」

 馬上にて高々と槍を振り回す南宮适。
 鎧を纏わぬ軽装でありながら、無傷で戦場を駆け抜けるその姿に敵兵は怯え、味方の兵士は奮い立つ。
 忘れられがちだが、黄飛虎が来るまでは、彼が周で一番の将軍であり武の持ち主だったのだ。
 この程度の事は造作もない。


 ゴーン……ゴーン……ゴーン……!!


 その彼の耳に、銅鑼の鳴り響く音が入って来る。

「よっしゃ、作戦開始の合図だぜ! 野郎共、前進だ! 遅れるんじゃねぇぞ!!」

 錐行の陣、その最も鋭い刃の部分である両翼の片方、右翼の位置に居た南宮适が声を張り上げる。

 そしてその動きは、同時に左翼と切っ先でも起きていた。

「こちらも前進せよ!」

 左翼に居た将軍、武成王と共に周へと逃れた四大金剛の一人である周紀が呼び掛ける。

「よし、後退だ! 余裕のある奴は手を貸してやれ!」

 切っ先、最も戦いの激しい場所に居た黄明と竜環は、盾となりながら兵士の後退を支援する。

 こうして最初は『凸』のような形状をしていた陣が、銅鑼の鳴り終えた後は段々と『凹』に近い形へと変わって行った。
 これがいったいどういう結果を及ぼすか、それは先頭に立って戦っていた殷の兵士が一番良く分かるだろう。

 自分たちの攻めに耐え切れず、後退していく周の兵士達。
 それに気を大きくした殷軍は真っ直ぐに突き進んで行く。
 これならば勝てる、と。
 周りが今どうなっているのか、それに気付く事も無く。
 そして手遅れになってから、初めて気付くのだ。


 自分達が囲まれているという事に。



 彼らは槍と盾を構え、真っ直ぐに前進するように訓練されている。
 多少の変化はあれども、陣を布いた後は原始的に正面衝突するのが一般的だ。
 その彼らが前後左右を囲まれ、思いもよらぬ所から攻撃を受ける。
 このような攻撃を始めて受ける殷軍は、大いに混乱するだろう。

「儂の作戦は最初から包囲する事にあった」

 自分の予想通りに事の進んだ戦場を見て、太公望は一人ごちる。

「前後左右から攻撃されて、いつまで戦意を保てるかのう……」

 最早勝利は見えた。
 殷郊も予想だにしていなかったこの光景に、臍を噛んでいるに違いない。
 しかし、太公望の顔は暗かった。
 表面上はいつも通りの表情で、戦場を見渡している。
 だがその顔には勝者特有の愉悦も、上手く行ったという安堵も浮かんではいなかった。
 これ程までに鮮やかに決まった戦術を行使したというのに、だ。
 当然だろう。
 人間の犠牲を少なくしたい太公望にとって、犠牲を生む戦が得意だと褒められた所で、嬉しいはずが無いのだから。

「ふう……」

「お、お師匠様ーっ!」

 これで終わりだ、と太公望が溜め息を吐いた所で、武吉が焦った声で飛んで来た。
 見れば、武吉だけでなくスープ―シャンまでもが焦燥を浮かべている。

「どうした武吉?」

「て、敵軍です! 汜水関の方角から、殷軍の別働隊が!」

「何っ!?」

 太公望が目を見開く。
 その殷軍の別働隊は、何故そのような場所に居るのだろうか。
 最初からこちらの狙いを読んでいた?
 否、そのような事はあり得ない。
 敵の動きからして、そのようなそぶりなど無かったのだから。
 そもそも数で勝っている殷軍が、敢えて兵を分ける意義が無い。

「どういう事だ……?」

 太公望は眉を顰めて考え込む。

「どうしたのよ太公望。そんなの蹴散らせば良いでしょ?」

「……そういう訳にも行かぬ」

 蝉玉の問いに、太公望は苦い顔で首を横に振る。
 今周軍は殷軍を取り囲んでいる。
 だがこの状況は、こちらの層を薄くしているのと同じなのだ。
 ここで一部をその別働隊の迎撃に回すと、折角の包囲が崩れてしまう。
 囲まれて意気消沈していた殷軍が、再び息を吹き返して来るのだ。
 そうなれば、今度こそ見せかけではない敗北となるだろう。

「うむむ……」

 だが唸る太公望の救いは、武吉がまだ全てを語ってはいなかった事にあるだろう。

「それだけじゃないんです。旗が……」

「旗? 誰か儂らの知っている旗だったのか?」

「そ、それが……」

 武吉は太公望の隣に居た蝉玉を見て僅かに言い淀むが、気を引き締めて太公望の目を見つめながら言った。



「別働隊の旗には『鄧』の一字。そして先頭には……鄧九公さんが居ます」










 戦いを続ける両軍を遠目に見ながら、鄧九公は少し前の事を思い出していた。

 太公望に諭され、考える時間が欲しいと言って殷へと逃げ帰った自分。
 その道中で、鄧九公は見て来た。
 飢えに苦しむ民の姿を。
 たった一人で、その光景を見て来たのだ。

「私はいつの間に、こんなにも目が曇ってしまっていたのだろう……」

 名門鄧家の当主となり、精一杯やって来たつもりだった。
 紂王に仕え、それで良いのだと考えていた。
 だがその結果がこの様である。
 ハッと気づいて目を凝らせば、自分の領地でさえも貧しくなっている有り様ではないか。

 これはいったいどうした事だ?
 自分のやっていた事は、間違っていたというのだろうか?

 鄧九公は苦悩した。
 国のため、民のためと口では言いながらも、やっている事は間逆の一言。
 かといって、暴虐を為している紂王を諌める事も出来なかった。
 紂王はこのところ体調を崩しており、それを無視してまで謁見を申し出る事の出来る力は無かった。
 鄧家は名門ではあるが、逆に言えば名門であるというだけの事。
 四大諸侯でさえも処刑されたというのに、鄧九公が王を諫めて生き残る事が出来るはずがない。
 鄧九公には、たった一人で何かを出来る程の力など無かったのだ。

「鄧九公様」

「……ああ、分かった」

 部下の呼び掛けに、鄧九公は頷いて返答する。
 僅かばかりではあるが感傷に浸っていたようだ。
 その自分を頭を振って振り払い、まっすぐに前を見つめる。

 鄧九公は考えた。
 民の消えた領地に、いったい何の価値があるというのだろうか、と。
 人が居てこその領主なのだ。
 無人の野に領主一人が佇んでいたところで、何も生み出す事は無い。
 鄧九公に、一人で何かを為す事の出来る力など無かった。
 だがそんな鄧九公にも、出来る事が一つだけあるという事に気付いたのだ。

「旗を掲げよ!」

 鄧九公の言葉に、彼の後ろに続いて歩いていた兵士達が、数人がかりで大きな旗を立てる。
 風にはためいて大きく靡くその旗には、遠くからでもはっきりと分かる文字が大きく記されていた。



 すなわち……『周』と。



「例え逆賊という誹りを受けようと、私は民を救うために動こう」

 例えそれによって、鄧九公が首を刎ねられる事になろうとも。
 後戻りをする事は出来ない。否、してはならない。
 それこそが、代々殷に仕えた名門鄧家の誇りであるのだから。


「鬨の声を挙げよ!」


『オオオオオオオオオッ!!』

 鄧九公の呼び掛けに、兵士達が大きな声を上げる。
 私財を投げ打ち、掻き集めた食料。そして武器防具。
 それらを十分に手にした彼らには、怖い物など何も無かった。


「聞け! 我らはこれより周に加勢する!
 お前達の全ての責任は私がこの身で背負い、全ての罪は私がこの首を持って贖おう!
 それを頭に叩き込み……全軍、前進せよ!!」












あとがき

戦争シーンもの凄く難しいです。
戦記物書いている人、本気で尊敬します。
果たしてこんなもんで良いんでしょうか?

やっと十巻に入りました。
太子編はもうすぐ終わると思います。
にしても、本当に百話越えそうな遅いスピードだなぁ……。



[12082] 第五十五話 太子の選択五
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/03/16 21:59





 突如として割り込んで来た第三者。
 殷軍の装備を身に着けながら、周の旗の下に行動する謎の一軍。
 彼らが現れてから、戦いは劇的に決着を迎えた。

 殷軍の増援と思われた彼らにより、包囲されていた殷軍は盛り返し、周軍は押し返された。
 戦意を失いかけていた殷軍に、増援という情報はその心に再び火を灯したのだ。
 だがこの状況において周軍の将は、押し破ろうとする殷軍により後退を指示する事を余儀なくされた。
 だがその手際は良く、敵でありながらその瞬時の判断には殷郊としても見事というしかない。

 そして、それによって開かれた活路に向けて、殷軍は進む。
 しかしその先には、周の旗を振る元味方の姿があった。
 味方と思っていた増援から『周』という旗が振られ、そして自分達と相対するために前進して来る。
 まともな訓練すら受けられず、食事も満足に摂れていない殷軍にとって、その相次ぐ混乱は兵士達の耐えられる限界を越えていた。

「私の敗北……か」

 続々と白旗を上げて行く自軍の兵士達を見ながら、殷郊は呟いた。
 勝敗は決した。
 殷郊率いる殷軍の敗北という結果によって。

「いや、最初から勝敗は分かり切っていた。しかし……」

 このような負け方をするとは、殷郊は思っていなかった。
 否、誰も予想だにしていなかったに違いない。
 味方が最初から裏切りを図って行動を起こしたなど、予想の範疇外だった。
 殷郊は後方の部隊の存在を知っていたが、それが役に立つとは考えていなかったのだ。
 こんなやり方が、本来成功するはずが無い。
 何故なら周軍は、あの増援の事を知らなかったのだから。
 動きの乱れた兵士達を見れば、その程度の事はすぐに分かる。

 だが殷軍は包囲されるという恐怖を味わい、兵士達は恐慌状態に陥っていた。
 そのような状況で見えてしまった希望。
 それが絶望に変わってしまえば、もう戦う意志など持てはしない。
 時に1%の希望は、99%の絶望よりも性質が悪いのだ。
 特に一度負けると思ってしまった殷軍にとって、その揺り返しはきつい物があったはずだ。
 周軍も同じように戸惑っていたようだが、それでも士気の下がった殷軍など問題では無かったのだろう。
 混乱した兵士を鎮め纏め上げる将さえも、殷にはいなかったのだから。

 その上、先程から将が率先して降伏するよう呼び掛けている。
 民の心は、既に殷から離れてしまっていたのだ。
 周に付いてこれ以上悪くなる事は無いと分かった今、兵士達がどちらに傾くかは一目瞭然だ。
 こうして周は殷の民を吸収し、さらに大きな勢力となるのだろう。

 人間同士の戦いでは、太公望には勝てない。
 殷郊はそれを理解していた。
 元より大義の下で兵士を集めた太公望と、王族という権力のみで兵士を集めた殷郊の人望の差が、この戦いには如実に表れていたのだから。
 味方の裏切りなど、その一端でしかない。


 そう……人間同士の戦いでは、太公望に勝つ事など出来はしないのだ。

「韓栄、もう良い。ここから先は私だけで十分だ」

「なりません。我が軍の大部分が降伏したとはいえ、未だ矢は飛び交っており危険です」

 韓栄は首を横に振る。
 そこに周軍の兵士達の声が聞こえて来た。

「居たぞ!」

「王太子殷郊だ!」

 殷郊を見つけた周軍の兵士達が、槍を構えて直進して来る。

「いかん! お下がりを、王太子!」

 殷郊に警告した韓栄は、剣を抜き放ち、殷郊を護るように立ちはだかる。
 韓栄は周軍の兵士達の突き出した槍を剣で叩き落とすと、足で踏みつけて動きを封じる。

「はあああっ!」

 武器を失った兵士達を一刀の下に斬り伏せた韓栄は、返す刀でさらにもう一人を斬り飛ばす。

「お下がり下さい、王太子!」

 未だ動こうとしない殷郊に対し、苛立ったように韓栄が声を掛ける。
 だがそれが仇となった。

「ぬおっ!?」

 韓栄が殷郊の事で気を逸らした瞬間、倒れていた兵士が韓栄の足を掴んだのだ。
 かろうじてまだ生きていた兵士が必死に掴んだ事により、韓栄がバランスを崩した。
 そこに後続の兵士達が槍を構えて突撃し、韓栄の身体を貫いた。

「がはっ……!」

 何本もの槍が身体に突き立ち、韓栄は膝をついて吐血する。
 数瞬の後、その身体は光となって、空へと高く飛んで行った。

「韓栄……」

 封神された部下の名を、殷郊は呆けたように呟く。
 王族としての自分に従っていたとはいえ、最後まで身を案じていたのは韓栄だけだったのだから。

 その殷郊の周りを、兵士達が取り囲んだ。
 皆一様に槍を突き付け、殷郊の動きを抑えようとしている。
 兵士達を感情の籠もらない視線で一瞥し、殷郊は俯く。

「フ、フフフフ……ハハハハハ!」

 最初は静かに、しかし段々と抑えきれなくなったのか、殷郊は高笑いを繰り返す。

「どうした? 刺さないのか?」

「う……」

 笑みを浮かべる殷郊のその顔に狂気的な物を感じ、兵士達はたじろぐ。
 目の前にいた兵士の槍を掴み、殷郊は自らの喉に押し当てる。

「ほら、どうした? お前が少し力を入れれば、私は死ぬぞ?」

 槍が触れている場所から、一筋の血が流れた。
 殷郊の気迫に気圧され、兵士は思わずその場から後退りする。
 それを見て殷郊は顔を歪め、チッと舌打ちした。

「小物めが……高貴な血筋の人間を殺せぬと見える」

 殷郊は番天印を取り出すと、左腕に持って構える。

「ならば、私から行くぞ。番天印……戦闘形態」

 殷郊の言葉と同時に、大きな判子のような形をしていた番天印が、左腕と一体化する。
 バキバキと骨格が造られる音と共に、左腕全体を覆う鎧のような形状となった。
 肩からは太い尾が後ろに向けて流れており、生物のようにうねうねとその身を動かしていた。
 その異様さに、兵士達は恐れを抱いて無意識に殷郊から距離を取る。

「例え私一人になっても諦めない。どんな手を使おうとも、殷を護ってみせる!」

「もう止めてよ兄様!」

 番天印を構えた殷郊の前に、悲痛な表情を浮かべた殷洪が兵士達を護るように立ちはだかる。

「人間に宝貝を使うつもりなの!?」

「殷洪……」

「兄様は間違ってる! 僕らの宝貝は、悪い仙人をやっつけるための物なんだよ!?
 大体、兄様がこんな事しなければ、人が死ぬ事だって無かったんだ!」

「偽善的な事を言うなよ……」

 殷洪の言葉を、殷郊は寂しげな表情で偽善と切り捨てる。

「確かに、私がいなければ兵達も死ぬ事は無かっただろう。だが、それでは駄目だ」

「どうしてさ!?」

「決まっているだろう。ただ享受されるのを待つばかりでは駄目なんだ。
 自らの足で立ち上がり、戦い、その手で勝ち取らなければ、人間は駄目になってしまう」

 人の欲とは、限りの無い物。
 より楽をしたいという想いは、誰しもが持つものだ。
 待っていれば、誰かが助けに来てくれる。
 我慢していれば、食料と綺麗な衣服を持って来てくれる。
 そんな幻想に縋るのは構わない。
 しかし、その幻想を味わった者が、その甘い蜜から抜け出すのは至難の業なのだ。

「後戻りは出来ないんだ。こうすると決めた時から、私の運命は決まっていたのだから」

 独り言のように呟いた殷郊は番天印を使う。
 すると、兵士達の目の前に『番天』という赤い文字が浮かび上がった。

「な、なんだこりゃ……」

 兵士達はその文字に戸惑い、指を近付ける。
 だがその指が『番天』の文字に触れる事は無かった。

「死を宣告する印さ」

「駄目だ! 兄様っ!!」


 ドンッ!!


 殷郊の言葉と同時に、番天印から光線が放たれる。
 殷洪の悲痛な叫びを無視して、花のように広がったその光線は『番天』の印に向けて、まるで判子を押すように正確に飛んで行く。
 そして『番天』の印を、その先にあった兵士達の頭を貫いた。

「う、うわああああっ!!」

 頭部を失い、声も無く倒れた兵士達。
 一瞬前までは生きていたはずが、今は最早誰か判別のつかない無惨なその姿に、殷洪はその場に崩れ落ちるようにして膝を着く。

「どうして……」

「良く見ておけ、殷洪。この者達の姿を」

 殷郊は冷淡な口調で死体になった兵士達を見下ろす。

「力を使う時は、例えそれがなんであれ、迷ってはならない。もし迷えば、それは死を呼ぶ。
 この者達は私を殺す機会があったにも関わらず、私が王族だという事で自らの行いに迷いを抱いた。
 そして、あの程度のはったりさえも見抜けず、それで死んだんだ」

「何でだよ!? 何で……何で……」

 言葉にしたくとも、上手く口から出て来ない。
 殷洪は力無く首を振り、絞り出すように言った。

「何で……人を殺したのに、そんなに冷静なんだよ……」

 殷郊とて、人を殺すのはこれが初めてのはずだ。
 だというのに、眉一つ動かさない冷酷な表情を見せる殷郊。
 仙人界でずっと一緒だった殷洪からすれば、兄のその姿は信じ難いものだった。

「確かに私にだって、人殺しを気持ち悪いと思う感情はあるし、叫び出したくなる気持ちもある」

「じゃあどうして!?」

「前にも言ったはずだ。私は殷の王太子だ、とな。
 今の私の両肩には、殷という国が背負われている。
 その私が、不様な姿をさらす事を許しはしない」

「そんなの……そんなの、捨てれば良いじゃないか!
 殷はもう駄目だよ。だけど、まだ僕達は殷に住んでいる人達を助けられるじゃないか!
 だから……だから僕達は力を手にしたんじゃ無かったのか!?
 皆が笑って暮らせるようになるために、そのために僕達は修行したんじゃなかったのか!?」

「その考えは甘いぞ、殷洪。誰かのためと謳い、誰かのために戦う人間は脆い。
 その誰かが居なくなれば、戦うという意志さえも折れてしまうのだから。
 誰かに戦うべき理由を、ましてや責任を押し付けている者が勝てるものか。
 戦うべき理由とは、自分の心の内から湧き上がって来た意志。それこそが重要なんだ」

 殷郊は殷洪の言葉をバッサリと切り捨てる。
 会話はしていていも、互いに一方通行でその言葉は相手には届かない。

「う、うう……うわああああっ!!」

 殷洪は立ち上がり、懐から四角い物を取り出す。
 それは見る間に大きくなり、光り輝く鏡となって殷洪の前方に展開された。

「……陰陽鏡か。確かに、それを使えば私の攻撃は防げるかもな」

「もう止めてよ兄様! 僕は……僕はこれを使いたくなんかない!
 これの威力は知ってるでしょ!? だからもう──」

「撃ってみろ」

「……え?」

「撃ってみろ、と言ったんだよ、殷洪。
 自己満足の偽善は何も生みはしないし、何も解決する事は無い。
 綺麗事を言って、待っているだけで誰かが解決してくれる事は無いんだ。
 それでも尚、偽善を貫きたいのなら、力が要る」

「う……」

「殷洪、お前にその覚悟はあるか? あるのならば私を撃て。
 私を撃ち、自分の方が正しかったのだと証明してみせろ」

「ううう……!」

 殷郊の言葉の一つ一つに、殷洪は痛みに呻くように顔を歪める。

「はっ……はあっ……」

 荒い呼吸を抑えようと、殷洪は胸に手を当てて呼吸を整えようとする。
 しかし手に伝わるのは、ドクドクと自分の意志とは無関係に動く、速い心臓の鼓動だけだった。
 尚も続く不快な自分の荒い呼吸に、殷洪は苛立ちに似た感情をその顔に浮かべる。
 足はガクガクと震え、歯はカチカチと音を鳴らし、その心の内を表すように展開していた陰陽鏡もグラグラと揺れていた。
 だがそれでも、そんな状態であっても殷洪の視線は、兄を見据えたまま逸らしはしなかった。
 否、逸らす事が出来なかったのだ。さながら、蛇に睨まれた蛙の如く。

 撃てない。
 殷洪には撃てない。
 撃てば、殷郊と同じになる。
 本心がどうあれ、力が全てで、弱い者の声を潰した兄と同じになってしまう。
 しかし、撃たなければ殷郊はさらに周の仲間を殺す。
 それは駄目だ。
 仲間が殺されるのも、それを為したのが兄だという事も。
 殷洪には認められないから。

 兄は撃てない。しかし、撃たなければ仲間が兄に殺される。
 二つの悩みの板ばさみとなって、殷洪は苦しみを抱える。

 その殷洪の表情に、殷郊は僅かに悲しげな表情を浮かべる。
 だが次の瞬間その表情は消え去り、代わりに怒りを露わにした。

「撃てないんだな?」

「……」

「撃てないなら下がれ。殺し、殺される覚悟の無い者が、ノコノコと出て来るな。目障りだ」

 興味を失ったように視線を逸らした殷郊に対し、殷洪は脱力し再び地面に膝を着く。
 展開していた陰陽鏡も、力を失って地面に突き立ち、輝きを無くした。

「無駄だ……どいておれ、殷洪」

「太公望……」

 いつの間にか傍まで来ていた太公望が、殷洪の代わりとばかりに前へ出る。

「宝貝『番天印』……押印した者を100%殺傷する、恐るべき宝貝か」

「フッ、広成子にでも聞いて来たのか?」

「……弟の声にならばもしや、と思っておったのだが……最早、何も言うまい」

 太公望は両手で打神鞭を構えると、殷郊と対峙する。

「行くぞ、殷郊」

「太公望……どうして……」

 殷洪が縋るように太公望の名を呼ぶが、太公望は静かにかぶりを振るだけだった。

「分かってやれ、殷洪。
 こやつは今、殷の王太子としての責任を果たそうとしておるのだ。
 そして儂も周の軍師として、周のために戦おうと思う」

「そんな……」

 頼みの綱であった太公望も頼れず、殷洪は唇を噛んで俯く。

「太公望……僕は……僕は何も出来なくて……兄様と戦う事なんて、考えられなくて……」

「……お主はそれで良い。何より、兄弟で殺し合う必要など、何処にもありはしないからのう」

 悔しそうに呟く殷洪に、太公望は気にした様子も無く殷郊を見据える。
 それに対して殷郊は、太公望の構える打神鞭を見てフッと鼻で笑う。

「まさか、その打神鞭で私と戦うと? その貧弱な宝貝では、私は倒せない」

 殷郊は以前、太公望の操る打神鞭の威力を見ている。
 その後の仙道としての修行により、打神鞭とはどういう宝貝だったのか、今では理解しているのだ。
 そして殷郊が出した結論は、打神鞭では番天印に勝つ事は出来ないという事だった。
 そんな事は長年打神鞭を使用している太公望が、一番良く分かっているはずだ。

「そうかのう?」

 だが太公望の顔に浮かぶ笑みは崩れない。


「疾ッ!!」


 ヒュッと太公望が打神鞭を振るう。
 ただそれだけで、小さな打神鞭から巨大な風の刃が出現する。
 それは大気を、大地を切り裂きながら、一直線に進んで行った。

「なっ……」

 すぐ隣を吹き抜けて行った打風刃の威力に、殷郊は反応出来ずに絶句する。
 その様子に満足したのか、太公望はいつもと変わらぬ笑みを浮かべた。

「儂とていつまでも弱いままではおれぬよ。さあ、本気で来い、殷郊よ」

「……力を隠していた、という訳か。やはり、貴方は危険だ」

 殷郊は警戒を強め、太公望を睨みつけた。

 太公望の周囲で風が渦を巻き、幾つもの円環が生まれる。
 その円環は高速で回転しており、触れた物を切り裂く事だろう。

「行け、打風輪!」

 数十にも及ぶ風刃が、殷郊に向けて射出される。

「そんなもの!」

 殷郊が迫り来る打風輪に照準を合わせ、押印する。
 番天印から撃ち出された光線は、印に目掛けて突き進み、その先にあった打風輪を消し飛ばす。

「よし! 相殺し……ぐぁっ!?」

 打風輪と番天印の衝突の衝撃で、僅かに視界が曇る。
 だがその隙間を縫って飛来した打風輪によって、相殺したと一瞬油断した殷郊は足に一撃を受けてしまったのだ。

「ぐっ……」

 グラリ、と殷郊は体勢を崩し、地面に倒れそうになる。
 だが番天印の長い尾が地面に突き立ち、倒れそうになっていた殷郊の身体を支えた。
 ドロドロと血の流れる右足を一瞥し、そこに白い物が見えると殷郊は苦笑した。

「まさか、力で押し負けるとはね……。どうやら、貴方を甘く見過ぎていたようだ」

「殷郊……」

「そんな苦しそうな顔をしないで下さいよ。戦意が鈍る」

「止められぬのか……殷郊……」

「それだけは出来ない!」

 殷郊は太公望に当たるように押印する。
 番天印から放たれた光線は、太公望を貫くために飛来する。

「疾っ!」

 太公望は竜巻を横向きに作り出すと、それで光線を吹き飛ばす。
 パン、と軽い音がして光線が消えて行くが、そこに込められた力は強力であった。
 その竜巻は正面に居た殷郊をも巻き込もうとして、殷郊は避けるために左へと飛び退る。

「私は殷を守る! 例え……どんな手を使ってでも!」

 殷郊は番天印を振りかざし、押印する。
 だがその対象は太公望ではない。

「むっ!?」

 対象は、離れて見ていた周軍の兵士達。
 その兵士達の頭部に、幾つもの『番天』の印が付けられる。
 だがここで、殷郊にも予想していなかった出来事が起こった。

「なんだとっ!?」

 殷郊は驚愕に目を見開く。
 突如として地面が盛り上がり、壁となって兵士達を隠してしまったのだ。
 兵士達を守るために生まれた土壁の上に、一人の道士が立つ。
 その人物を見て、殷郊は舌打ちをした。

「そうか……そういえばもう一人居たな。この番天印の力を知っている者が!」

 土壁を造り出した人物……土行孫へと、殷郊は苛立ちを込めた視線を向けた。
 仙人界に居た時、土行孫とは多少の交流があった。
 だからこそ、こうして即座に対応出来たのだ。
 番天印の力を、土行孫は知っているが故に。

「無駄だ、殷郊。これ以上人間を殺す事は、儂の仲間が許さぬ」

「……どうやら、そのようだ」

 押印していた『番天』の印が消された事を感知し、殷郊は静かに頷いた。
 押印出来なければ、正確な攻撃を当てられない事がこの番天印の弱点だ。
 そして押印するためには、目標を視認する必要がある。
 この状態で、土壁の向こうを狙った所で、当たりはしないだろう。
 かといって、土壁を破壊する事も無駄である。
 番天印ならば貫く事も可能だろうが、例え破壊したところで、その意味は無い。
 周りには幾らでも復元できる材料があるのだから。
 土行孫が行ったのは、あくまで兵士達に直接攻撃が向かう事を避けるだけの事。
 それさえ避けられれば、後は道士達が対抗出来ると考えているのだろう。


 だがそれは、甘い考えというものだ。


「まだこれで終わったつもりは無い!」

 殷郊は番天印を天へとかざすと、光線を撃つ。
 だがどこにも押印されていないため、行き場の無い光は真っ直ぐ天へと昇って行った。

「殷郊……お主、何を……」

「……番天印は、とても強力な宝貝だ。押印した目標へ、必ず向かうようになっている」

 数百もの光が天へと昇り、誰の目にも見えなくなった時、殷郊は言った。

「だからどうした? そんな事は儂も知って……」

 太公望が言葉を止める。
 それは何故か?



「だから、撃った後に押印しても、必ず当たるんだ」



 太公望の左腕は、背後から飛来した光線によって吹き飛ばされていたからだ。

「ぐぁっ……!」

 利き腕である左腕を失くし、太公望は思わず膝を着く。

「チッ、外したか。だが、まだ終わりはしない」

 殷郊のその言葉に、ハッと太公望が空を見上げる。
 殷郊が先程、何もない天へと光を撃ったのは、一発では無かったのだから。

 果たしてそこには、先程まで青かった空が、一面真紅に染まっていた。
 太公望が目を凝らすと、空を埋め尽くしていたのは、全て赤い『番天』の印で……。

「くっ!」

 太公望は落ちた左腕から打神鞭をもぎ取り、自身を護るために風を纏う。
 流星のように、豪雨のように降り注ぐ悪意の籠った光から、太公望は自らを護った。
 最初の一撃で落ちた左腕は、番天印の直撃を受けて粉々に吹き飛んでしまった。
 だが今の太公望に、それを気にする余裕は無い。

「はあ……はあ……」

 だがそれだけでは終わらなかった。

「ぎゃああああっ!?」

「腕が! 腕がああっ!!」

 流星のように降り注いだ光は、太公望だけを攻撃したのでは無かった。
 振り返った太公望が見たもの。
 それは兵士達を護るように立っていた土壁が崩壊している姿だった。
 それは腕や足を吹き飛ばされ、痛みに苛まれる兵士達の姿だった。

「狙いが甘くなるからな。余程当たり所が良くないと、殺せないんだ」

「殷郊……!」

「言ったはずだ。例えどんな手を使ってでも、私は殷を守る。
 かつての殷を取り戻すまで、膝を着く訳には行かないんだ。
 私は、殷の王太子なのだから」

 ギリ、と歯を食いしばって太公望は殷郊を見据える。
 その太公望の眼前に、『番天』の文字が現れた。
 頭、腕、胴、足。
 何処を見ても、印から逃れる事は出来ていなかった。
 もしこれが全て直撃すれば、跡形もなく吹き飛んでしまうだろう。

「これで終わりだ!」

 殷郊の言葉と同時に、番天印から殷郊の全力を籠めた光が放たれる。
 それは利き腕を失い、疲弊していた太公望には、到底どうにか出来るものでは無かった。
 誰もが──或いは太公望自身でさえも──死を確信し、動きを止めてしまった。





 ただ一人、殷洪を除いて。





 太公望の前に光の鏡が現れ、その間に割り込むように殷洪が立ちはだかった。
 番天印の光は太公望を守るために出現した陰陽鏡を砕き、それでも止まらず突き進む。


「殷洪ぉぉぉぉっ!!」


 止まる事を知らない光は殷洪の腕を、腹を吹き飛ばして、ようやく消え去った。
 陰陽鏡を間に置いた事で力が弱まったせいか、殷洪は即死する事は無かった。
 だが、あるいは即死していた方が幸せだったかもしれない。

「うう……うあああ……!」

 太公望と同じく片腕の無くなった殷洪は、かろうじて残った腕で大穴の開いた腹を押さえる。
 しかし、それで流血が止まるはずが無い。
 傷はそれだけでは無く、全身のいたる所にあり、その服を紅く染めていた。
 誰の目から見ても、殷洪の傷は致命傷だった。

「に……兄様……」

 それでも、殷洪は前へと進む。
 兄・殷郊のもとへと。
 ズル……ズル……、とゆっくりと足を引き摺りながら、ゆっくりと前へと進んで行く。

「兄様……これ以上……仲、間を……殺さな……いで……」

「あ、あああ……」

 殷郊は目を見開き、殷洪をジッと見つめていた。
 自分へと近づいて来る殷洪に対し、身体が凍り付いて動けなかったのだ。

「こん、なの……誰も……よろ、こばな……」

「殷、洪……」

 すぐ傍まで来た殷洪へと、殷郊は震える手を伸ばす。
 だが、その手が殷洪に触れようとしたところで、殷洪の身体が光に包まれる。

「僕に、は……覚悟なんてで、きない……けど……これ……少し、は……認めて……くれる……?」

「ま……待て! 待つんだ殷洪! 待っ……」

 最後まで告げる事は出来ず、殷洪の魂魄は封神台へと飛ばされた。
 その手は触れる事は叶わず、誰も居ない虚空を掻いた。
 その手を信じられないと見つめていた殷郊は、力が抜けたように膝を着いた。

「いん……こう……?」

 呆けたように弟の名を呼ぶ殷郊。
 だが自らが何をしてしまったのかを理解し、殷郊は呻いた。



「う、うう……あ、あああ……あああああああああああっ!!!」



 声も嗄れよと言わんばかりに、殷洪の消えた天へと殷郊は慟哭を漏らす。

「何故だ……何故だ殷洪! 何故お前が此処で死ななければならない!?」

 何度も殷を守ると、自分に言い聞かせていた殷郊。
 戦場に立つ者としての心構えを、何度も殷洪に語っていた殷郊。
 だが今の殷郊は、着く訳には行かないと言っていた膝を着き、戦場の最中にて我を忘れていた。


 なんて事は無い。
 殷郊が今まで殷洪に何度も言い聞かせていた事は、全てが自分に跳ね返る事だったのだ。


「違う! 違う違う違う!! どうして分かってくれないんだ!!」

 衝動の赴くがままに、殷郊は番天印を使用する。
 辺り一面を、逃す気は無いとばかりに、殷郊は見渡す限りの周軍の兵士達に押印する。
 もしこの人数を相手に番天印を使用すれば、周軍の被害は計り知れないだろう。
 動揺する兵士達に向けて、殷郊が番天印を撃とうと力を溜める。

 だがその一瞬の隙を突き、太公望が殷郊の眼前へと現れた。
 その手に、打神鞭を握り締めて。

「すまぬ……殷郊」

 そして、振り下ろされた打神鞭から生まれた風の刃が、袈裟掛けに殷郊を切り裂いた。








あとがき

展開は変わらないんですけど、少しは楽しむ事が出来ましたでしょうか?
多少はキャラに見せ場を作る事が出来たと思います。

今回は主人公の行動は逆効果でした。そういう事もあります。



[12082] 第五十六話 太子の選択六
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/04/17 14:19





 僕は殷の第一太子として、18年前に生まれました。
 父・紂王と母・姜氏の間に生まれた、次の王です。
 僕がまだ本当に小さかった頃、妲己が現れるまでは、英明な父と優しい母に囲まれ幸せに育ちました。

「殷郊。貴方は殷の王太子です」

「余を越える立派な男になるのだぞ」

 ──殷の王太子……?

 小さかった僕には、その意味すら分かりませんでした。
 それでも良かったのです。
 幼い僕は、父と母の愛情の下、ゆっくりとそれを理解していけば良いのだと思っていました。
 ただそれだけで、僕は幸せだったのです。



 でもある日突然、その幸せが音を立てて崩れ去りました。

「はぁ~い殷郊ちゃん♡ 新しいママよぉん♡ よろしくねぇん♡」

 ──誰だろう、このおばさんは……?

 僕ら家族の中に入って来た、妲己という人。
 でもこの妲己のせいで、全てがおかしくなってしまったのです。
 子供だった僕には、いったい妲己の何が良いのか分かりませんでした。
 子供だった僕には、妲己の誘惑の術テンプテーションが効かなかったからです。
 だから僕にとって妲己は綺麗なだけの、ただそれだけの人でした。
 しかし父上は妲己を褒め称え、その内母上を見向きもしなくなってしまいました。



 母上からは明るさが消え、周りの官僚達は次々と死刑になりました。
 国が少しずつ、狂い始めて来たのです。
 歯車が噛み合わなくなってしまったのです。

「母上……」

「殷郊……ごめんなさい、殷郊……。私がもっと強い女だったら、貴方にこんな怖い思いは……」

「泣かないで、母上。僕が守ってあげるから。
 早く大きくなって、強くなって、母上も殷洪も守ってあげるから」

 ──そう、僕がもっと早く生まれていれば良かったのに……

 僕が大きくなって、王になっていれば、妲己は僕を狙ったでしょう。
 そうだったなら、父上は昏君とは呼ばれなかったでしょう。
 僕が強ければ、妲己を倒す事が出来たでしょう。
 しかし、幼く、ただの子供だった僕には、何も出来ませんでした。



 だから、投獄された母上を慰める事さえも、僕には出来なかったのでしょう。

「母上……」

「母上!?」

「姜妃は自害なされました。
 前皇后という尊い身分でありながら、投獄される屈辱に耐えられなかったのでしょう」

 ──何故、母上が死に追いやられなければならないんだ!

 優しかった母上が、何故自害させられなければならないのでしょう。
 母上の胸中には、どれほどの苦しみと、どれほどの怒りと、どれほどの悲しみが渦巻いていたのでしょう。
 ただの人である僕には、到底想像のつかない物でした。



 だから僕は、一人残される父上の事も考えず、愚かにも逃げ出してしまったのです。
 弟の殷洪を連れて、命惜しさに殷を離れてしまったのです。
 妲己の手から逃れられる事を信じ、力の無い僕らに代わって誰かが母上の仇を取ってくれる事を考えてしまいました。

「両殿下、気に入りませんね! そのいつでも人を頼ろうとする態度は!
 呼べば誰かが来てくれる。泣けば誰かが慰めてくれる。
 そんな甘い態度では、自らが動こうとしないその態度では、王としてなど、誰も見てはくれません」

 ──じゃあどうしろって言うんだ!? 僕はまだ死にたくない。死にたくないんだ!

 僕らの前に現れた道士・申公豹。
 その言葉は、僕らの決断をあっさりと崩して行きました。
 でもただの子供だった僕に、いったい何が出来たというのでしょうか?
 ただの人だった僕に、どうやって妲己と立ち向かえば良いのでしょうか?
 何も為す事が出来ないまま、大人しく死ねという事なのでしょうか?
 申公豹にとってはそれすらも、尋ねる事は許されない事なのでしょう。
 何故ならそれも、他人に頼る事なのだから。



 元始天尊によって仙人界へと招かれ、僕らは道士として修行を積む事になりました。
 修行は辛く、しかし充実したものでした。
 修行をしている間だけは、何も考えずに没頭する事が出来たからです。

「よ、初めまして」

「君は……誰?」

「俺か? 俺は土行孫だ。よろしくな殷郊、殷洪」

「あ、ああ。よろしく」

「うん!」

 ──初めての友達だった。

 見た目は僕らと同じか、少し下の道士・土行孫。
 時々僕らを訪ねて来る彼は、僕らの友達になってくれました。
 友達というものは、知識としてしか知らなかった存在です。
 彼の持っている宝貝は汎用性が高く、僕らの修行に対する意欲を上げてくれました。
 早く宝貝がもらえるようにという思いが、子供の僕らには強かったのです。



 そして修行を続け、とうとう宝貝をもらう事が出来ました。
 僕は番天印を、殷洪は陰陽鏡を、それぞれ手にする事が出来ました。
 
『この力があれば、妲己を倒せる』

 そんな精神的な高揚を、番天印は僕に与えてくれました。
 それは殷から逃げ出した僕にとって、初めて妲己を打倒出来る手段を手に入れた瞬間でした。
 しかし殷洪は、僕と同じ考えでは無かったのです。

「どうしたんだ殷洪。そんなに暗い顔をして」

「兄様……」

「折角宝貝をもらったんだ。もっと喜んだらどうだ?」

「……兄様。僕、こんな宝貝欲しく無かった……」

「何を言うんだ!? これで妲己を倒せるんだぞ?
 そんな強力な宝貝をもらったのに、いった何処が不満なんだ?」

「だって……確かに、妲己を倒すのに力は必要だよ。
 でもこれは、誰かを倒す事にしか使えないじゃないか。
 僕は土行孫の持ってる土竜爪みたいに、もっと色々な事に使える便利な物が欲しかったんだ……」

「殷洪……」

 殷洪の言葉に、高揚していた僕の頭は、一瞬で冷えてしまいました。
 殷洪は力を振るう事の意味を、無意識の内に理解していたのです。
 そして同時に、自分がなんとちっぽけなのかと、酷く思い知らされました。

 僕と殷洪は、とても近しい存在でした。
 同じ修行をして、同じ勉強をして、同じ環境で育ったのですから、当然だと思います。
 しかし、それなのにも関わらず、僕にはそんな事は考え付きませんでした。
 妲己を倒すという目先の目標に気を取られ、その力が何を齎すのかという意味を、僕は忘れていたのです。

「……大丈夫だよ、殷洪」

「兄様?」

「殷洪がその宝貝をもらったという事は、殷洪がその宝貝を持つのに相応しいと思われたからだ。
 殷洪なら、正しい事に使えるから。その宝貝でも、人を守る事が出来るから。
 だから殷洪は、もっと誇りを持つべきだと思う」

「そうなのかな?」

「おいおい、僕の言う事を信じないのか? 殷洪だって、そう考えた方が気持ちが良いだろう?」

「……そうだね。うん、分かった!」

 ──ああ、母上……。優しかった母上の慈愛は、間違いなく殷洪に受け継がれています。

 何気ない殷洪の一言に、僕は自分が“違う”のだと理解しました。
 もし妲己がいなければ、次の王として相応しかったのは、僕ではなく殷洪なのです。
 ただ僕は、殷洪よりも先に生まれただけなのです。
 それを僕は、身に染みて理解しました。

 そして同時に思いました。
 殷洪ならば、僕なんかよりも多くの民を助ける事が出来る、と。
 殷の王族でなければ、殷洪はもっと幸せな人生が送れるはずだ、と。
 そのために、僕はこの身を削る事を、初めて決意しました。
 殷洪は気付いていません。それで構わないのです。
 多少人を信じ過ぎる殷洪にとって、それは気付かない方が良い事なのですから。
 僕は殷洪が自由になれるよう、大人しく敵になれば良いのです。




 殷洪は王になる気はないでしょう。
 妲己を倒し、周の手伝いをした後は静かに暮らすのでしょう。
 しかし王太子である僕には、その選択肢は無いのです。
 だから僕は、殷洪の敵として立ちはだかる事にしました。
 父の代わりに周と戦うという大義名分を果たせば、殷の王太子として戦って死ねば、それで終わりです。
 王太子としての責任を僕が果たせば、晴れて殷洪は自由です。
 殷洪が望めば、もう戦いの場へ出る必要もないでしょう。
 太公望は戦う意志の無い者を、戦場へと駆り立てるような真似はしないから。

「太公望と一緒に妲己をやっつけて、父上を取り戻す。
 そのために僕らは今まで修行して来たんだ! ねっ兄様!」

 ──駄目なんだよ殷洪。もう遅いんだ。

 もうそんな時期は、とっくの昔に過ぎ去ってしまったのです。
 人々は武王を旗頭として決起し、周という国として殷を攻めているのですから。
 そして殷を倒すためには、王である父上の死が絶対なのです。
 例え殷の全ての民が周の民として吸収されようと、王である父上が生きている限り、殷は存在し続けるのですから。
 だから僕は、父上の側に付かなければなりません。
 殷の王太子として、それは許してはならないのですから。



 僕らが殷から逃げ出した後、一人残された父上はいったいどんな心境だったのでしょう。
 道士の身となった僕でも、それは想像がつきません。
 妲己の手により狂わされた父上は、もう僕らの事なんて覚えていないのかもしれません。
 しかし、もし覚えていたのなら、それはとても心細い事なのでしょう。

「私は予言します。貴方達はいずれ、父のために戦う日が来るでしょう。そして太公望と刃を交えるのです」

 ――ああ。全部お前の言った通りだったよ。

 今なら申公豹の言った事が分かります。
 分かってしまうのです。
 父上の事も、母上の事も、弟の事も分からなかった僕だけど、自分の事だけは分かります。
 或いは、そんな事など分からない方が、僕には良かったのかもしれません。
 殷洪と共に戦い、妲己を倒して、父上を取り戻すという選択をしていれば、それで幸せだったのかもしれません。

 ですが……叫ぶのです。
 僕には父上を切り捨てる事が出来ないのだと、そう心が叫ぶのです。
 かつて父上を見捨てて逃げ出した事が、今の僕には楔となって心の奥底に打ち付けられているのです。

「殷郊、そなたは次の王だ。民を助け、より殷を盤石なものとするのだぞ」

 ――父上。僕にはそのような事は出来ません。僕は王の器では無いのですから。

 殷洪が言った通り、殷はもう滅び行くしかないのでしょう。
 僕の愚行も、それを僅かに遅らせる結果にしかならないのでしょう。
 しかしそれでも、僕は父上の側に付きます。
 殷を栄えさせるという父上の意志を継ぐ者が、一人位は居ても良いと思ったからです。
 誰も意志を継ぐ者が居ないという事、それはとてもとても寂しい事ではないでしょうか。
 かつて明君と謳われた父上が、今では非道の王として名を知られています。
 それらの全てが妲己のせいなのに、父上はただ運が悪かっただけの犠牲者なのに、後世にその汚名が語り継がれてしまうのです。
 息子として、心に楔のある僕にとって、それは否定しなければならない事でした。

 ──例え僕にその願いは果たせなくても、せめて父上の意志だけは……。


 もし僕が太公望を倒し、妲己を倒し、殷を取り戻せば、再び明るい時が戻って来るのでしょうか?
 妲己に誑かされた父上の、汚名を雪ぐ事が出来るのでしょうか?
 殷王家の名誉を、取り戻す事が出来るのでしょうか?

 僕には分かりません。けれど、もう後戻りは出来ません。僕は進むしかないのです。



 そう、僕は進むしかないのです。



 例え、どんな事になろうと。



 誰かに、止められるまで。




「すまぬ……殷郊」




 ──ああ、これで……。












 錯乱した殷郊を止めるため、太公望は打神鞭にて止めを刺した。
 僅かに残った体力を振り絞り、袈裟掛けに振り下ろされた打神鞭の先に生まれた刃が、殷郊を切り裂く。

「ぐっ!」

 吹き飛ばされるように、たたらを踏むように一歩、二歩と殷郊は後退りする。
 その腕から力を失った番天印が、ゴトリと音を立てて落ちた。

「殷郊……」

 太公望が殷郊の名を呼び、殷郊は条件反射のように顔を上げた。
 最早、殷郊に反撃の手段は無い。
 足は既に立つ事さえ難しい傷が出来ており、胸には致命傷に至る大きく切り裂かれた跡がある。
 さらには番天印でさえも、その腕から離れてしまったのだから。
 だがそんな状況でありながらも、殷郊は笑った。

「悔いは無い……」

 口から血を吐き、膝を着いて尚浮かべるその笑みの透明さに、太公望が思わずその手を殷郊に伸ばす。

「殷郊……お主はもしや──」

「僕は殷の王太子として、父上と母上の子として、殷のために死ねたのだから……」

 太公望の言葉を遮るように、殷郊は静かに首を横に振り、掠れた声で答えた。
 その瞳に映る、錯乱した者では出せない理性の輝きに、太公望は何も言えなくなる。
 全身がボウッと光に包まれていく中、殷郊はそっと目を閉じた。



「だから……僕が死ぬ事で、誰も気に病む必要なんか無いんだ……」



 全ての重荷から解放されたような、そんな安らかな声だった。
 ドン、という音と共に、殷郊の魂魄が蒼穹の空へ飛んで行く。
 魂魄が描くその軌跡を、太公望は無言で見つめていた。







 こうして、敵の大将である殷郊を倒して、この戦いは終わった。
 太公望は表面的には悲しんでいる様子は見せず、いつも通りのダルそうな表情を浮かべるだけだった。
 戦争が終わった後は、戦死者の埋葬を指示し、テキパキとやり終えた。
 この時、一番被害の少なかった鄧九公が引き連れていた軍が、率先して働いていた。

 周と合流した鄧九公は、太公望を倒すという名目で兵を集めており、妲己から十分な糧食を与えられていたらしい。
 妲己に鄧九公の考えている事が見通せないはずが無いのだが、いつものただの気紛れだろうと判断された。
 その本心がどうであれ、妲己に無駄な期待はするべきではない、と皆の意見が一致したからだ。

 新たに数の増えた周軍を、再び朝歌へと進ませるように太公望は指示した。
 そういった諸々の仕事を済ませた太公望は、ようやく休む時間を取れるようになった。



「御主人……左腕が無くなったッスけど、大丈夫ッスか?」

「大した事ではないよ。まだ右の腕が残っておるし……」

 太公望は殷郊との戦いで、一瞬死を覚悟した。
 それを思えば、腕一つの代償など些細な物である。
 溜まった疲労からか、太公望は眠そうにゴロリと岩の上に横たわった。

「お? 武成王ではないか」

「よお、俺も少し疲れたからサボリに来たぜ」

 太公望が向けた視線の先には、黄飛虎が居た。
 黄飛虎は太公望の隣に座ると、ん? と違和感らしきものを感じて辺りに目をやる。

「よお、土行孫殿。あんたもサボリかい?」

「なぬ? ……土行孫。お主、おったのか」

「……何だよ。俺がいちゃいけないのかよ」

「いや、別に……」

 太公望達が座っている大岩よりも少し離れた場所に土行孫は座り、俯いて何かを弄っていた。
 顔を上げた土行孫に太公望が尋ねたのも、別に居る事が邪魔だった訳ではない。
 此処は霊穴という霊気の溜まり場である。
 霊気を吸収すれば一時的に力が上昇し、傷の治りも早くなる。
 それに霊穴の付近には自然と仙道が集まるとも言われるので、土行孫が居る事には何の不思議もない。
 ただ太公望が近くに居たにも関わらず、土行孫が声を掛けて来なかった事に、太公望は首を傾げただけだ。

「それにしても太公望殿、今回はやけに強かったじゃねえか」

「まあのう。これを見よ」

 太公望はゴソゴソと懐を探り、ある宝貝を取り出す。

「太公望の新宝貝、その名も『杏黄旗』だ」

「……新宝貝?」

「ただの打神鞭じゃないッスか」

 太公望が取り出したのは、何処から見ても今までと変わらない打神鞭だった。
 だが太公望はフフフと不敵に笑う。

「ただの打神鞭ではない。このスイッチを押すと……」

 そういって太公望は打神鞭に付いているスイッチを『ポチっとな』と押す。
 すると、ポンと打神鞭の先端から黄色い旗が出る。
 おまけにデフォルメされた太公望の顔まで描いてあった。

「おおお!?」

「何か無駄に凄いッス!」

「フフフ……かっちょいいであろう? この機構の取り付けには三日も掛かったからのう」

 実はそのせいで遅刻したのだが、最早終わった事である。

「この旗は黄巾力士のスカーフと同じ構造なのだ。土行孫、お主ならその意味が分かるであろう?」

「……いや、知らないな。それ、何か意味があったのか?」

「あれ?」

 僅かに考えた後首を振る土行孫に、太公望は間の抜けた声を出す。
 色々と宝貝を集めているはずの土行孫が、まさか知らないとは思わなかったのだ。

「お主の所にも、黄巾力士は有るはずであろう?」

 黄巾力士は十二仙それぞれが持つ物である。
 懼留孫は弟子を一人しか取っていないため、そのたった一人の弟子である土行孫が黄巾力士を見た事が無いというのはおかしな話である。

「いや、有ったけどな。俺が黄巾力士を整備してる時に、師匠が取り外して鍋敷きにしてたな。その後、汚れたから捨てたはずだ」

「何ぃぃっ!?」

 太公望が驚愕する。
 宝貝を汚したから捨てたなど誰が考え付くというのか。
 そもそも見た目が布の旗とはいえ、宝貝がその程度の汚れに負けるはずが無いのだ。
 これには流石の太公望も予想外である。

「何やっとるんだ、あの爺は……」

「……なあ、太公望殿。そろそろ説明して欲しいんだが……」

「お? おお! そうであったな」

 話が脱線していた事に気付き、太公望はコホンと一つ咳払いをして話を戻す。

「黄巾力士は崑崙山からあのスカーフへと、パワーを送ってもらって動いておる。
 それと同じく、儂もこの旗からパワーをもらって強くなれるのだよ」

「マジか……。俺は自力で黄巾力士動かせるようになるまで、二年くらい掛かったのに……。
 動かせないのは俺の才能が無いからだって、散々馬鹿にされたのに……」

「それは……御愁傷様としか言いようがないのう……」

 騙されていた土行孫に、太公望は片手で合掌らしき動作を行う。
 だが黄巾力士のあの巨体を、自力で動かすのはかなりの力を伴うはずだ。
 それを二年で成し遂げたのは、逆に凄い事ではないだろうか。

「まあそんな事はどうでも良い。
 問題はこれを使うと、その後にちょっとした副作用があってのう。
 しばらくは普通の人間に戻ってしまうのだ」

「ええっ!?」

「……ふ~ん」

 太公望の言葉にスープ―シャンは驚く。対して、土行孫の反応は薄い。

「しばらくってどれぐらいッスか!?」

「さあのう~。一カ月か、もしかしたら一年かも知れんのう~」

「このアホ道士! 事の重大さが分かってるッスか!? 
 普通の人って事は、宝貝も使えないって事ッスよ!
 敵が来たらどうするッスか御主人!?」

「うるさいのう……そう心配しても仕方なかろうが。
 ……で、武成王よ。お主、儂に何か話したくて来たのではないのか?」

 ブーブーと文句を重ねるスープ―シャンに辟易したのか、太公望が話を武成王へと逸らす。

「いや、大した事じゃねぇんだが……」

「殷郊の事か?」

 その名に、ピクリと黄飛虎の身体が反応する。

「……俺は、自分が分からなくなって来ちまった」

「……」

「俺は長年仕えた殷を捨てて、周に来た人間だ。
 その決断が間違ってたとは思ってねぇし、問題があったとも思ってねぇ。
 今は周の武成王だ。……そう、割り切ってたつもりだった。
 だが王太子が死んだと聞かされた時、俺はとてつもない罪悪感に襲われたんだ」

「……そうか」

「こんな俺が紂王陛下を目前にした時、あのお方を斬れるのか?
 かつての友、聞仲と本気で戦えるのか? そう考えたんだ。
 ……戦えないかもしんねぇ」

「……お主らしい悩みよのう。だがお主が戦えずとも、儂は紂王も聞仲も……そして妲己も倒す」

 太公望は右手を目の前に掲げ、グッと握り締める。

「そのためには何だってしよう。例え腕を失っても。血で汚れてでも」

「……強くなったなぁ、オメェは……」

 感慨深げに黄飛虎が呟く。
 それもそうだろう。
 痛いのは嫌だ、と注射から逃げ回る太公望が、腕を失おうとも止まらぬ決意を固めている。
 これを強くなったと言わずして何と言おう。

「……で、お主も何か言いたい事があるのではないか、土行孫」

「……ああ。少し、聞きたい事がある……」

 太公望は少し離れた場所に座っている土行孫に目を向ける。
 土行孫もまた、太公望が殷郊の名を出した時にピクリと反応したからだ。

「なあ……俺は、どうすれば良かったんだ?」

「どう、とは?」

「俺は、俺に出来る事をやったと思う。
 殷郊がこれ以上人を殺さないようにと思って、兵士達を守ろうとしたんだ。
 でも結果はアレだ。俺がやった事は、殷郊を追い詰めただけだった」

 だから殷郊は、太公望を倒すための脅しでしかなかった手段を取らざるを得なくなった。
 言いかえれば、土行孫が何もしなければ、兵士達は傷を負う事は無かったのだ。
 殷郊のあの攻撃、流星のように降り注ぐ光の雨で死んだ者はほとんどいなかった。
 だが腕や足を無くし、もう戦えなくなった者は居るのだ。
 今回の件で、仙道という存在に恐怖を覚えた者もまた存在する。

「それは結果論だ。あの時、儂がお主の立場だったら、同じように兵を守るように行動していた」

「でも!」

「後悔せぬ選択肢など無い。誰も未来など分からぬ。
 儂らに出来る事は、選んだ道の中でどれだけの結果を出す事が出来るかだけだ。
 そして儂は、例え後悔しようとも前に進む事を止める訳にはいかぬ」

「……俺は……」

 守るつもりが守れず、痛々しい姿となった彼らを見て、いったいどうすれば良いのだ。
 それが分からず、土行孫は頭を抱える。

「土行孫。お主は仙人界に帰れ」

「……師叔?」

「な、何言ってるッスか御主人!?」

「お主がもうこれ以上戦えぬ、というのであればそれで良い。
 後は儂らに任せて仙人界に戻り、お主はゆっくりと身体を休めるがいい」

「でも御主人!」

「スープー。土行孫の好きにさせてやれ」

 抗議しようとしたスープ―シャンを、太公望は手で制止する。
 確かに、土行孫が居れば役に立つ事も多々あるだろう。
 だがそれは、究極的には土行孫が居なくても成り立つ事なのだ。
 殷郊が殷洪に言ったように、戦う意思の無い者が居るべきではない。
 それは仲間を死なせたくないと思うからこその、太公望の優しさだった。
 だが太公望の示した選択に、土行孫は『はい分かりました』と従う気にはなれなかった。

「……なあ、師叔」

 意気消沈した土行孫は、空を見上げながら一つ、太公望に尋ねた。

「殷郊は最期に……笑ってたのか?」

 それは確認の言葉だ。
 土行孫も見ているはずなのに、それを信じ切れていないのだ。
 太公望はその質問に、ああと頷く事で答えた。

「……そう、か」

 土行孫は俯くと、持っていた物に目をやる。
 太公望はそこで初めて、土行孫が持っている物の正体に気付いた。

「それは……番天印……か?」

「ああ」

 土行孫が持っていた物、それは殷郊が使っていて、そして最後に落とした番天印だった。
 土行孫は番天印の端をゆっくりとなぞりながら、ゆっくりと頷いた。

「……使うのか?」

「分からねぇ」

 土行孫は小さく首を振る。
 土行孫自身にも、分かっていないのだ。

「ただあの場に打ち捨てられたままなのが嫌で、持って来ただけだ。
 陰陽鏡の方は粉々に砕けてて、持って来れなかったんだ。
 本当に、ただそれだけなんだよ。……それに、俺にはこれを使いこなす自信なんて無い……」

 番天印は殷郊の宝貝だ。
 その意識がある内は、土行孫は番天印を使えない。
 否、番天印に認められる事は無い。
 傍から見れば、意思の無いはずの宝貝に振り回されているようにしか見えないだろう。
 宝貝は集中力が弱まれば、パワーダウンする性質を持つ。
 土行孫が宝貝を自分の物と出来ないのならば、例え強力な番天印を使った所で意味は無い。
 ただ疲れるだけで、大した力は出す事が出来ないのだ。

「なあ師叔。殷郊は本当に、笑っていたんだよな?」

「……ああ」

「殷郊は本当に、あれで良かったと思っていたんだよな?」

「そうだのう……」

 再度、同じ事を太公望に尋ねる土行孫。
 だが返される言葉は同じで、土行孫はまた俯く。
 その時、土行孫の持っていた番天印に、ポツリと一滴、水の雫が落ちた。
 雫は一滴だけでは終わらず、二つ、三つと増えて行く。

「……雨だ」

「え? 雨ッスか? でも今日は……」

 晴れている。
 そう言おうとしたスープ―シャンは、顔を上げた土行孫の表情に口を噤んだ。

「雨が降ってる……こんなにも晴れてるのに……どうしてだ……?」

 頬に落ちる冷たい水の流れに、土行孫は不思議そうに呟いた。

「なあ、師叔」

「……何だ」

「俺は雨が嫌いじゃないんだ。でも、どうして、今日の雨はこんなに……胸が痛いんだろう」

「それは……」

 土行孫は胸を押さえ、苦しそうに呻いた。
 痛いのだ。
 胸が張り裂けそうなほどに、痛いのだ。

「ああ……師叔、お前は強いな。本当に、とても強い。
 こんな雨なんかに負けたりしないんだろうな。
 でも師叔に比べて、俺は弱いな。誰よりも……何よりも弱い。
 この中じゃ、俺が一番年上だってのに……どうしてこんな……」

 どうしようもない程に、土行孫は弱かった。
 誰だって知っていた事。
 土行孫だって覚悟していた事。
 分かり切っていた事。
 なのに……耐えられない。

「う……ふ、ぐぅぅ……あ、あああ……ぁぁあああ……」

 分かっていたはずだ。知っていたはずだ。覚悟していたはずだ。
 だがその全ては、所詮『はず』でしかない。
 事実に直面し、その浅はかな考えなど何の役にも立たなかっただけだ。

「のう土行孫……儂が、憎いか?」

「……違う。そんなんじゃない……そんなんじゃないんだ」

 土行孫は太公望の言葉に首を横に振る。

「ただ俺は……自分が悲しいだけ、なんだ……」

 土行孫は自分に言い聞かせるように、一語一語噛み締めるように言った。

 殷郊は納得して、それで笑って逝った。
 なのに土行孫がこうなった事は、殷郊が死んだ事が悲しいからではない。
 それは侮辱だ。
 笑って逝った殷郊を、土行孫が可哀想などと勝手に同情し、涙を流してはならないのだ。
 殷洪は身体を投げ出して太公望を守って、そして殷郊に自分の覚悟を見せつけてから死んだ。
 ならばおそらく、殷洪は満足して逝ったのだろう。
 そう考えなければ、割り切れない。
 だからこれは、土行孫の自己満足なのだ。
 殷郊が死んで、殷洪が死んで、それで自分が悲しいから、こうなっているだけなのだ。

「何でだよ……。俺に、いや、俺じゃなくても良い。何で殷郊は、誰にも相談しなかったんだ……」

 誰かに相談していれば、そうすればもっと良い解決があったのではないかと疑ってしまう。
 それでも殷郊が死んでしまった以上、もう土行孫には文句を言う事しか出来ないのだ。

 殷郊・殷洪二人の死とは、土行孫にとって初めての大事な人間の死だった。
 土行孫は今まで、何人もの人の死を見た事がある。
 それはこの身体の母であり、村の人であり、馬氏であり、戦争で死んだ兵士であったりした。
 だがそれらは全て、他人の範囲の事だった。
 土行孫自身とは、根本的な所で関係の無い人物であった。
 そう考えなければ、土行孫の精神が持たなかったのだ。

 だが今度は違う。関係無いと、そうやって逃げる事など出来はしない。
 土行孫が土行孫として生き、そして作り上げた人間関係。
 その中から生まれた事。
 土行孫にとって、初めて触れた身近な存在の死。
 この世界に比べればとても甘い世界で生きていたからこそ、土行孫にとってその衝撃は計り知れない物だった。

 これは誰も知らない事だ。
 或いは土行孫自身でさえも、それには気付いていない。
 土行孫は自身の意思で成長を止めたのだが、成長する事を嫌っていた訳ではなかった。
 だからだろうか、段々と成長し、土行孫の背を追い抜いて大きくなって行く二人を好ましく思っていた。
 それは父性と呼ばれる物かもしれない。
 成長する二人を見守る、親の感情だ。

 この世界において、土行孫は孤独だった。
 いきなり訳の分からない世界に放り出され、運良く助かっただけの人間だった。
 仙道として生きる事を決めた後でも、この世界に一人ぼっちだという思いは拭えなかった。
 だから、作る事にしたのだ。
 友を。家族を。好きな人を。
 そうする事で自分は大丈夫だと、独りでは無いのだと無意識の内に誤魔化していた。
 だがその歪で空回りをしていた家族ごっこも、配役が欠ければあっさりと醒めてしまう物でしか無かったのだろう。
 しかし土行孫自身がそれを自覚していない以上、どうしてもその感情の奔流は止められなかった。



「ああ……雨が、冷たい……」



 空を仰ぐ土行孫のその姿に、誰も、何も言わなかった。
 ただ静かに見守る事が、彼らが為すべき事だとでも言うかのように。



 頬を流れる雫は止まる事を知らず、日が暮れても尚、それは続いた。









あとがき

こんな感じで太子編は終了です。
やっぱり後味悪いですね。

土行孫はやっぱり精神的に弱いです。
どんなに大丈夫だと言っても、やっぱりすぐには割り切れないものです。



[12082] 第五十七話 落ち込む土行孫
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/03/26 15:18




 振り下ろされる剣を土竜爪で受け止め、土行孫は反撃をしようと土竜爪を突き出す。
 だが土行孫の攻撃は読まれていたのか、相手はそれを易々と避けた。
 一歩後退した相手は、両手で構えた剣で土行孫の胴目掛けて突きを放って来た。

「くっ!」

 受け止めきれないと判断した土行孫は、後方に転がってそれを避ける。
 素早く立ち上がり、相手を見据えようとするが、そこに既に相手は居なかった。
 ザリ、と地面を踏みしめる音を聞いて、とっさの判断で土行孫は前のめりに倒れた。
 一瞬の後、土行孫の頭のあった部分に、光が一閃する。

「これでどうだっ!」

 ダン! と土行孫は地面を叩いた。
 すると土行孫の周りの地面が盛り上がり、相手に向けて間欠泉のように噴き出す。
 流石に剣一本では面の攻撃を防ぐ事は出来ず、相手は横に飛び退いてそれをやり過ごそうとした。
 しかし噴き出す土砂の流れをずらそうと振るわれた剣は、その勢いに負けて弾き飛ばされてしまった。

「良しっ!」

 相手が武器を失ったのを確認し、土行孫は息を吐く。
 だがその一瞬が命取りだった。

「なっ!?」

 武器を失ったはずの相手は、懐から別の武器を取り出して土行孫へと投擲する。
 一瞬とはいえ油断していた土行孫は、その攻撃を全て受ける事になってしまった。
 昆虫標本のように鑚心釘で地面に磔にされた土行孫に、スペアとして持っていた莫邪の宝剣が向けられた。

「俺っちの勝ちさ」

「……負けた」

 天化の余裕そうな表情とは対照的に、磔にされた土行孫の表情は暗い。
 今回の土行孫と天化の模擬戦は、天化の勝利で幕を閉じた。






「……にしても、どうして急に俺っちと戦おうなんて言いだしたんさ?」

 機嫌良さそうに煙草を吸っていた天化は、ふと疑問を覚えて土行孫に尋ねる。
 問われた土行孫は、項垂れたまま静かに答えた。

「何か……戦っていればすっきりするかと思って……」

「ははあ、成る程ねぇ」

 ボソボソと答えた土行孫に、天化は納得したように頷いた。
 この間の殷郊との戦いの後、しばらく土行孫は陰鬱な気配を発していた。
 その思いを振り払うため、今回天化と戦おうとしたらしい。
 確かに身体を動かしていれば、その間だけは嫌な事を忘れる事が出来るだろう。

「で? 鬱憤は晴れたかい?」

「……いや、全然……」

「だと思ったさ。モグラってば戦ってる間、ずっと辛気臭そうな顔してたもんね。
 何か前より弱くなった気がするし、いつまでもそのままじゃ百回やった所で俺っちには勝てないぜ?」

 天化の言葉に、土行孫は顔を顰める。
 土行孫にだって分かっているのだ。
 自分が弱い、否、自分が弱くなったという事は。
 これは天化が特段に強くなった訳ではない。
 それと同じくらい、土行孫だって強くなっている。
 だがそれは、あくまで技術や戦闘経験で言えばの話だ。
 今回土行孫が天化に敗北したのは、精神的なものが原因だ。

 天化が強くなったのではなく、土行孫が弱くなった。

 これが正しいだろう。
 戦っている時、以前に比べて踏み込みが甘くなった。
 あと一歩で勝てるというはずなのに、その一歩が踏み出せない。
 この攻撃をすれば勝てる、という場面は何度かあった。
 だが一瞬それをして良いものか悩み、失敗すれば逆転されてしまうと躊躇し、結果として機を逃してしまう。
 今の土行孫は、そんな状態だった。
 以前のような思い切りが無くなってしまった土行孫は、このままでは誰にも勝てないだろう。

「……顔洗って来る」

 フラフラと夢遊病のように、土行孫はその場を離れる。
 その背中に向けて、天化は一声かけた。

「気ぃが晴れたら、もっかい仕切り直すさ」

 だが土行孫は反応する事無く、宿営地の中へと去って行った。
 遠くなったその姿を見て、天化は煙草の煙を吹かしながら、ぽつりと呟いた。

「吹っ切るかどうかはモグラしだいだけど、自分の中でけじめを着けなきゃ前には進めねぇさ」

 土行孫のようにはならなかったものの、天化も似たようなものである。
 土行孫がどうしてああなったのか、天化には良く分かったのだ。






 天化に言った通りに顔を洗ったものの、土行孫の頭がすっきりする事は無かった。
 そもそも寝起きでは無いのだから、顔を洗ったところでどうにかなる事では無い。
 いっその事、河にでも飛び込んでみるかと土行孫は考えるが、それは傍から見れば入水自殺にしか見えないだろう。
 土行孫自身、今の精神状態で溺れずにいられるか分からなかったので、仕方無しに諦めた。

「はあ……」

 深い溜め息を吐きながら、とぼとぼと当て所も無く歩く。
 土行孫は自分で自覚していた以上に、殷郊と殷洪の事が尾を引いていたようだ。
 あの日、枯れるまで泣いた事も、土行孫には大した効果を齎さなかった。
 泣いた後に残ったのは、疲労と、嗄れた喉と、赤くなった頬だけだった。
 涙を流す事は自己防衛の一種であり、悲しみを必要以上に貯めないために有るのだと、土行孫は以前聞いた事がある。
 だがそんな物は嘘っぱちだ、と土行孫は断言出来る。
 確かに込み上げて来る感情は薄れたが、ズンと腹の底に溜まる重みのような物は残っていた。
 そしてそれは感情の芽のようなものであり、僅かにでも刺激を与えればすぐさま成長して再び涙と化すのだ。
 涙が流れたのは、荒れ狂う濁流が一時的に堰を切って溢れたという、ただそれだけなのだ。
 かといって、この重みを土行孫が捨てる事は出来そうに無かった。
 言葉に出来ないその重みは、土行孫の内にしっかりと根を張っていた。
 もしこれを捨てたなら、土行孫は今以上に何か大切な物を失くしてしまうだろう。
 試した訳ではないが、それは確信だった。

「どうすれば良いんだろうな……」

 何もする気にはなれなかった。
 土行孫としてもこのままではいけないと思うのだが、どうすれば良いのか分からないのだ。
 もう一度溜め息を吐いた土行孫の行く手を、誰かが遮った。

「……む? おや、土行孫ではないか」

「……鄧九公」

 近くまで来て初めて土行孫の存在に気付いたのか、鄧九公は目を丸くした。

「蝉玉ちゃんはどうした? 一緒じゃないのか?」

「最初に聞くのがそれかよ……知らない、見てない」

 鄧九公の問いに、土行孫は首を横に振る。
 事実、ここ最近は蝉玉と一緒に動いていた訳では無かった。
 食事の時など顔を会わせる事はあったが、それ以外では極力接触を断っていたのだ。
 だが土行孫のそっけない答えは、鄧九公の気に障ったようで、鄧九公は眉を顰めた。

「それではいけない。蝉玉ちゃんが寂しがるだろう。さあ早く会いに行け」

「何でそんな事言われなきゃいけないんだ、俺の好きにさせてくれ。
 ……大体、あんた俺と蝉玉が結婚するとかいう話になった時、反対してたじゃないか」

 上から目線で告げる鄧九公に、土行孫は辟易する。
 土行孫にそんな気は欠片も無いのに、結婚話が持ち上がった時は鄧九公が一番反対していたのだ。
 そう、竜鬚虎のみしか連れずに殷からやって来る程度には。
 だというのに、この変わりようはどうだろう。
 今は寧ろ、土行孫と蝉玉がくっつく事を勧めているようにも見える。

「正直に言って、私は今でも反対だ。
 蝉玉ちゃんは、ずっと私と一緒に居てくれると言っていたんだ。
 それなのに、どこの馬の骨とも分からない小汚い男と結婚するなど、認めたくは無い」

「じゃあどうして……」

 言い方に多分の悪意が籠められているのを見れば、今の言葉が嘘ではないと理解出来る。
 なのにどうしてそれを認められるのか、土行孫には分からなかった。
 反対であるならば、寧ろこの状況を喜んでいるはずなのに。

「確かに認めたくは無い。だがそれは、所詮私の独りよがりだ。
 私の勝手な行動で、蝉玉ちゃんを悲しませる訳にはいかない。
 私は蝉玉ちゃんに、幸せになってもらいたいんだ」

「……」

 土行孫は何も言い返せなかった。
 確かに鄧九公は父親だ。
 娘を持つ親だった。
 それに比べれば、自分などその足元にも及ばない。
 土行孫と蝉玉の関係が少し疎遠になった事で、反対していた者は喜ぶはずだ。
 そう考えた自分は、なんと矮小なのだろう。
 小人にもほどがあるというものだ。

「蝉玉ちゃんは今も昔も可愛いけど、昔は少し変わっていてね」

 気落ちする土行孫を余所に、過去に想いを馳せるように遠い目をしながら、鄧九公は語り出した。

「妻を亡くした私を慰めようと、優しいあの子が仕事を手伝おうとしてくれたんだ。
 羊の世話をしたいと言った事があった。少し変わっているだろう?
 羊の放牧は羌族が主にやっているものだ。
 なのにあの子は羊を飼育していない、そもそも見た事も無いはずの私の領土でそう言ったんだ。
 他にも前世からの絆があると言ったりしていた。
 仮にそんな物があるとしても、その者は既に死んでいるはずだろうに。
 尤も、五歳を越える頃にはそんな可愛らしい言動も無くなってしまった。
 蝉玉ちゃん自身、自分がそんな事を言っていたという事を忘れてしまって、少し寂しい思いもしたけどね」

 鄧九公は苦笑して言う。
 彼にとって、幼い頃の蝉玉の言葉は、懐かしい思い出となっているようだ。

「そんな蝉玉ちゃんが、私への手紙に『運命の人を見つけちゃった』と書いていたら、心配にならないはずが無い」

 だがそれを聞かされた土行孫は違う。

「……前世?」

 あり得ない。
 だがそういった事をあり得ないと、土行孫は断言出来なかった。
 何しろ自分が奇妙な経験をしているのだ。
 目が覚めたら他人の身体に取り憑いていたという、摩訶不思議な経験だ。
 土行孫の経験が人為的なものでないのならば、そういう事もあり得るのではないかと思ってしまうのだ。
 だから土行孫は、鄧九公の言葉を一概に笑い飛ばす事が出来ない。
 ならば蝉玉の前世とは、いったい誰だ?
 土行孫が以前の姿であった時を前世としても、そのような人物は身近にはいなかった。
 何より、あの時代は未来なのだ。
 仙人という存在を考えてみると同じ世界とは言えない、今では自分の夢だったのではないかと疑いたくなるような、そんな世界だった。
 ならば他に誰かいるのだろうか、と考えてみると……居るのだ。
 土行孫でないならば、もう一人の存在との絆ではないのか?

「……まさか、な」

 土行孫は頬を撫でながら、その考えを否定する。
 そもそも前世とやらが本当にあったとして、それが土行孫と関わりがあると考えるのは、些か自己中心的だろう。
 それに蝉玉が“そう”であったとしても、今の土行孫とは別人だ。気にする必要など無い。
 蝉玉と彼女との間にどれほどの共通点があろうと、それは似ているだけで同じではない。

「どうかしたのかね?」

「いや……別に、何でもない」

 そう、何でもないのだ。
 全ては憶測である。
 土行孫とは関係のない人物の事を、いつまでも引き摺るのは良くない。
 例え切っ掛けが彼女の面影を蝉玉に見たからといっても、それはあくまで切っ掛けに過ぎない。

「はあ……」

 土行孫は頭を振って、つまらない考えを振り払う。
 これ以上考える事は、蝉玉も、そして彼女の事も侮辱する事にしかならないと思ったからだ。

「とにかく、今はあまり会いたくないんだ。今の俺は……腑抜けてるからな」

 今の精神状態で、蝉玉とは会いたく無かった。
 こんな腑抜けの姿を、蝉玉に晒したくないというのが本音だ。
 だが鄧九公はそれを聞いて、口角を吊り上げた。

「なら尚更蝉玉ちゃんの所へ行け。そして幻滅されろ」

 そう言って、鄧九公は去って行った。
 渋々認めたとはいえ、まだ土行孫自身を認めた訳ではないらしい。
 表面上は繕っていても、やはり未練は残っているのだ。
 蝉玉が土行孫への興味を無くせば、それが鄧九公にとっての一番という事だろう。

「……幻滅、か……」

 鄧九公が去り際に言った言葉を反芻する。
 確かにこんな人間だったと分かれば、幻滅するかもしれない。
 だがそれを聞いても、土行孫の顔は晴れなかった。
 元々結婚する気など無かったのだから、そうなった方が良いのだろう。

「してくれるか……?」

 土行孫が会いたく無かったのは、今の姿を晒したく無かったからだ。
 例え恋愛感情を抱いていなくとも、自分を慕ってくれる相手の前で格好悪い所を見せたくなかったのだ。

「無理な気がするなぁ……」

 しかし、例え見られても蝉玉は申公豹のように、土行孫を見捨てる事は無い気がするのだ。
 土行孫ははっきりと断ったにも関わらず、尚好意を抱いてくれている蝉玉の事だ。
 寧ろ今のままでも良いと、土行孫を庇ってくれそうな気がする。
 以前蝉玉は、震える土行孫を抱き締めてくれたが、またそうならないという保証は無い。
 だからこそ、土行孫は蝉玉を避けているのだ。
 もしそうなれば土行孫は、蝉玉に溺れてしまいそうだったから。

「ままならない、なぁ……」

 本当に、身体も心もちぐはぐで、思い通りに動いてはくれない。
 あと一歩踏み出せば勝てるのに、それが出来ない。
 もう少し視野が広くなればこんなにも悩む必要も無いだろうに、それが出来ない。
 ままならないものだ。






 時は僅かに遡り、王太子殷郊が太公望に敗れたという情報は、数日後には朝歌へと齎された。
 だがこの報せに驚くべき聞仲はおらず、焦りを感じたのは腹心の張奎のみであった。

「畜生! 聞仲様が居ないって時にどんどん太公望が迫っているなんて!」

 その事実を知った張奎は、苛立たしげに舌打ちをする。
 こうしてはいられないと慌てて荷作りをして、それを背負った。

「こうなれば僕が出るしかない。聞仲様の代わりに、太公望を!」

 両手に装着した爪型の宝貝を見つめ、張奎は決意を固める。

「大丈夫。崑崙の古臭い宝貝なんかに負けるはずが無い。
 噂では僕と同じ宝貝を使う奴も居るみたいだけど、こっちの方が性能は上だ」

 良し、と殷を発とうとした張奎の行く手を、誰かが遮った。

「張奎君、そんな大荷物を持ってどちらへ行くつもりだい?」

「ちょ、趙公明!? べ、別に僕が何処へ行こうと、貴方には関係ないでしょう?
 というか、どっからグランドピアノなんて持ち込んだんだあんたは……」

「ノンノンノン、関係大アリさ」

 趙公明はマイクを持つ指を振って、それを否定する。
 上に設置された照明器具は趙公明を華やかに照らし、後ろではグランドピアノが優雅な音を奏でていた。
 無駄に金の掛かった装飾に、張奎は唖然とする。

「君は僕と妲己に抜け駆けをして、太公望と戦いに行くつもりだね?
 張奎君、君は何と卑劣漢なんだ! 僕だって太公望と遊びたいんだよ!?」

「ぼ、僕は遊びでやってるんじゃない! このままだと、殷が本当に滅ぶんだよ!」

 自らの決意を遊びと称された事に、張奎は憤慨した。
 周から殷までは、汜水関や界牌関といった関所が五つと、朝歌に一番近いメンチ城がある。
 関所の人間は殷に反感を持っているから、彼らが戦う事は無いだろう。
 今回の戦にしても、殷郊が扇動しなければそもそも戦いは起こらなかったのだ。

「だから僕はメンチ城で太公望を防ぐんだ。何としても、朝歌には入れさせない」

「ノンノンノン」

 チ、チ、チと趙公明は再び指を振る。

「どうもこう……僕の想像していた戦争とは何か違うんだな。
 どうにも血生臭くて、何と言うか……華が無さ過ぎる」

「はなぁ?」

「そうさ!」

 華の無い戦争という物に嫌気が差していた趙公明は、思わず尋ねた張奎に我が意を得たりとばかりに頷いた。

「戦争は歴史の華! この僕ならば、真の意味での華やかな戦争を繰り広げられるというものだ!」

「は、花が……」

 いかなる手を使ったのか、機嫌の良くなった趙公明の意に沿うように、辺りに花が咲き乱れた。
 ちなみにこの花、ユリ科のヤマユリであり、豪華で華麗であることから『ユリの王様』と呼ばれているのだが、それは余談である。

「という訳で、次は僕の出番にさせてもらうよ」

「……何が『という訳で』なんだ?」

「さあて、衣装なんかの荷作りの準備をしなければ」

「聞いてないよこの人……」

 張奎の言葉を無視して、趙公明は真面目に荷作りをする。
 そして全ての衣装を揃え、趙公明はスーツケースをバタンと閉じた。

「ふう……スーツケースが三個になってしまったよ」

「あらん♡ たったの三個なのん?」

 ガラガラとキャスターの音を響かせて、妲己が現れた。
 長袖のワンピースを着ており、頭にはファーの高帽子を乗せている。
 その服装は、何処かの世界で銀河を走る列車に乗っている女性を彷彿とさせた。

「妾なんか二十四個よぉん♡」

「やあ妲己。君も行くのかい?」

「……つきあってられんわ」

 この異質な空気を作り上げている二人に対して、常識的だと自負している張奎はもう何も言う気にはなれなかった。
 誰が言ったか、仙道は変人ばかりだ、と言っているのを聞いた事がある。
 今の張奎は、それを否定したい気持ちでいっぱいだった。
 せめて、こんな奴らと同類には思われたくない、と。








あとがき

今回は繋ぎの話です。
次回からは皆様お待ちかねの『C』の登場です。

それとDOKOUSONはあと二、三話は鬱が続くと思います。



[12082] 第五十八話 巨大趙公明
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/04/15 16:55





「……また、白旗ッスね」

「うむ。戦わずに関所を通してくれるようだのう」

 殷へ向けて進軍を続ける周軍は、最後の関所を通過した。
 道中、再び戦いが起こるのではと警戒していたものの、関所の兵士達は皆、白旗を上げて周軍を招き入れたのだ。
 元より、彼らに既に戦う力など残っておらず、藁にも縋る思いだったのである。
 そんな彼らに、太公望は食糧を分け与えながら進んでいる。
 このような事態になる事を想定し、あらかじめ豊邑で農業に力を入れていたのだ。
 そして周軍が通った後には街道を敷いているため、食料の供給も早く進める事が出来ている。

「早いもんッスね、御主人。次のメンチ城を越えれば朝歌ッスよ」

「空からだと、もう朝歌が見える距離だからのう」

「……でも、簡単に行き過ぎな気がするッス。何か、罠が仕掛けられているに違い無いッスよ」

「うむ。あの妲己が、このまま黙って儂らを通してくれるとは思えぬ。どう仕掛けてくるかが問題だのう」

 太公望は遠くに見える朝歌を見つめ、感慨深げに呟いた。

「朝歌か……久しぶりよのう……。あの時、妲己にズタボロにしてやられて以来か」

 もう十年近くも前の話である。
 太公望は妲己の妹である王貴人を倒し、その原型たる石琵琶を片手に、朝歌へと潜り込んだ。
 宮廷音楽家として朝歌へ入り込んだものの、妲己には即座に見破られ、いいように手玉に取られてしまったのだ。
 その末に太公望は、蠆盆(たいぼん)という無数の蛇やワニの蠢く穴に、生きたまま突き落とされるという残虐な方法で処刑される事になった。
 結局、名も知らぬ羌族の少年の反乱や、当時鎮国武成王であった黄飛虎の機転によって助かったものの、その経験は太公望の心中に強く根付いている。

「今度は勝てるッスかねぇ」

「勝ーつ! っていうより、勝たねばならぬのだ。その為には、例え崑崙の全仙人を呼び寄せても構わぬ」

 全仙人とは、崑崙十二仙は勿論の事、竜吉公主や元始天尊を呼び寄せる事すらも辞さないという事である。
 それだけの戦力を揃えても尚、オーバーキルになる事は無い。
 妲己とはそれほどの強敵なのだ。






 馬に乗った姫発を先頭にして周軍は朝歌へと向かっていた。
 規則正しいリズムで進む馬の背で、姫発はくぁ……と欠伸をした。

「……暇だな」

 ぼんやりと前方を見つめながら、姫発が呟いた。
 長時間馬の背に乗って揺られていると、眠くなって来るものだ。
 だが次の瞬間姫発は、そんな眠気を吹き飛ばすかのように、だるそうに身体を預けていた鬣からガバッと身体を起こした。

「おい土行孫、ちょっと見てみ」

「……何ですか?」

 偶然姫発の近くを歩いていた土行孫を、姫発は呼び寄せる。
 その姫発が指差す先には、一人の農民の娘が居た。
 痩せた土地を鍬で耕している娘を見て、先程までの暇そうだった姫発は一転して元気になる。

「あの農民の娘、かなりのプリンちゃんだぜ。お前もそう思うだろ?」

「何故俺に話を振るんですか?」

「ちょっと声掛けてみっか!」

「聞いてないし……」

 馬から降りて、腕捲りまでしている姫発。
 その様子に呆れながらも、誰も止めようとはしない。
 姫発のこの病気は、既に知れ渡っているのだ。
 ならばせめて自分が止めるべきかと土行孫が考えた所で、それは遅かった。

「プリンちゃーん!」

 服は着ていても、ルパンダイブなみの鮮やかさで農民の娘へと飛び込んだ姫発を、土行孫は止められなかったのだ。
 だが娘は慌てた様子もなく、姫発を素早く避けた。

「おりょ!? 素早い……」

「フフフ……妾に触れられるのは、紂王様だけよん♡」

 娘は継ぎ接ぎだらけの服に手を掛け、一気にそれを剥ぎ取った。

「じゃーん♡」

 娘の正体は妲己だった。
 ボロボロの農民の服の内には、レオタードのような身体の線が浮き出る服を着ていた。
 日に照らされて眩しく輝く白い太ももを惜しげもなくさらし、しなを作って見せる。

「妲己だと!?」

「今度は本物さ!」

 唐突に現れた妲己に黄飛虎は驚き、天化は近くに居た楊戩をちらりと見て、偽者ではないと確信する。

「わお! 想像以上の超ド級のプリンちゃんだぜ! お前もそう思うだろ土行孫」

「だから何故俺に……まあ、美人だとは思いますけど……」

 今の状況を理解していないのか、それとも理解した上でか、姫発は妲己を見て興奮する。
 同意を求められ、土行孫は渋々頷く。
 楊戩の変化で何度か見た事があるものの、妲己が美人であるという事に議論の余地は無く、土行孫も認めている。
 ただ好きかと問われれば、派手好きな所が好みでは無いので、土行孫は否と答えるだろう。
 だがそれは、口に出さない限り誰も知る事は無いし、理解される事も無い。
 つまり……

「ハニー?」

 ぽん、と土行孫の肩に手が置かれる。
 誰が置いたのかは言うまでも無い。
 この広い大陸の中で、土行孫をハニーと呼ぶのは一人しかいないのだから。

「何馬鹿な言ってるさ! このモグラ! この王様!」

「ハニーのバカバカ!」

「殿! あいつは最悪の敵なのですぞ!」

「もげろ!」

「あー王様なのにー!」

「何で俺がぁぁっ!」

 上から順に、天化、蝉玉、南宮适、名も無き兵士、姫発、土行孫である。
 敵を前にしてふざけた事を言っている姫発に、王でありながらも遠慮なくガスガスと蹴りが入れられる。
 怒った蝉玉により、姫発の巻き添えで一緒に蹴られる土行孫。

「妲己……」

「あらん、お久しぶりね、太公望ちゃん♡」

「何のつもりだ?」

「あはん♡ この間はウチの太子がお世話になったそうじゃないん♡ そのお礼を言いにねん♡」

 たった一人で敵の前に現れたというのに、妲己の表情に陰りは無い。
 その妲己の周りを、各々が武器を構えて取り囲む。

「……ああ、それともう一つ……」

 妲己は笑みを崩す事無く、太公望達を一瞥する。

「あなた達がどれくらい強くなったか、確認しておきたくてねん♡」





 最初に反応したのはナタクだった。

「死ね!」

 両腕の乾坤圏を妲己に向けて撃ち出す。
 山すら砕く威力の乾坤圏だ。
 まともに当たれば、一撃で戦闘不能になる事は間違いない。

「いやん、粗雑な攻撃ん♡」

 妲己は両手に持った扇型の宝貝──五火七禽扇を広げる。

「エイ♡」

 軽く、撫でるように妲己は五火七禽扇を振り抜いた。
 ただそれだけで、乾坤圏は弾かれ、逆に砕かれる。

「ああっ!? 乾坤圏が!」

「……妲己め、相変わらず人を虚仮にしおるわ。儂らの力を確認するだと?」

 破壊された乾坤圏を見てスープ―シャンは悲鳴を上げ、太公望は厳しい顔で妲己を見つめる。

「でもこりゃあ、逆にまたとないチャンスさ!」

「そうだぜ太公望殿! 何せ、敵のボスがここに居るんだからな!」

「いかん! 迂闊に手を出しては──」

 飛び出した天化と黄飛虎を止めようと、太公望は制止の声を上げる。
 だがその口が最後まで言う前に、妲己は次の手を打つ。

「いやん♡」

 妲己は再び五火七禽扇を振り抜く。
 すると、扇の先から風の刃が、衝撃波が発生する。

「ぐぅっ!? 何というパワーだ!」

 妲己を中心として広がって行く衝撃波に、近くにいた彼らは吹き飛ばされる。
 太公望も、スープ―シャンも、天化も、黄飛虎も、楊戩も、ナタクも、姫発も、蝉玉も。
 本気とは思えない軽い一振りで、全員が吹き飛ばされてしまった。



 ただ一人を除いて。

「あらん?」

 そしてその一人に、妲己が目を着ける。

「ぐ……」

「見た事無い顔ねん♡」

「え?」

 その一人──土行孫は、咄嗟に地面に土竜爪を突き立てて、吹き飛ばされるのを免れていたのだ。
 土行孫が顔を上げると、すぐ傍に立っていた妲己が土行孫を見下ろしている。

「だ、妲己……」

「はぁい♡ 初めまして♡」

 妲己はにこりと土行孫に笑いかけるが、土行孫に笑い返す余裕は無かった。
 慌てて周囲に目配せするが、太公望達は先程の衝撃波で吹き飛ばされていたため、味方は近くにはいない。

「……甘い、におい?」

 次の瞬間、妲己から甘い香りが漂って来た。
 くらくらと酔ってしまいそうなほどに頭を揺らす、むせ返るような甘い匂い。
 その匂いに、気を失いそうな土行孫の頭が警鐘を鳴らす。
 土行孫は以前、太公望から聞いていた。
 妲己の持つ傾世元禳という宝貝は、甘い匂いで人を操るのだと。

「くっ!」

「そんな逃げなくても良いじゃなぁい♡ つれないわねん♡
 まるで子猿みたいに転がっちゃって……可愛くて面白くて──」

 鼻と口を押さえた土行孫は、ゴロゴロと地面を転がって妲己から離れる。
 不様に地を這う土行孫を見て、妲己はぼそりと呟き口角を吊り上げる。



「──おいしそう……」



 ぞ、と土行孫の背筋が粟立った。
 一層強くなる甘い香りの中で、土行孫は見てしまった。
 妲己の目が、人間ではあり得ない、獣特有の縦に裂けた瞳孔をしていた事を。

「……あらん? その宝貝……」

 だが妲己の瞳は一瞬で元に戻り、辺りに立ち込めた甘い匂いも風に流されて消えて行く。

「な、何だ……?」

 傾世元禳の影響でふらつく足を押さえながら、土行孫は尋ねる。
 だが妲己は答えず、土行孫の持つ土竜爪を見て、納得したように頷くだけだった。

「……成る程ねん♡ 話は聞いているわよん♡ あなたがそうなのかしら?」

「は、話……? いったい何の事だ!?」

「さあ、何を言っているのかしら? 妲己ちゃん分かんな~い♡ でも……」

「ぐあっ!」

 ヒュ、と妲己が五火七禽扇を振るう。
 再び巻き起こった衝撃波が、土行孫を襲う。
 妲己の言葉に気を取られ、一瞬反応の遅れた土行孫は踏み止まる事が出来なかった。
 小柄な体躯のせいか、より遠くへと飛ばされた土行孫を見て、妲己はクスクスと笑う。

「やっぱり、まだまだねん♡ もっと強くなってもらわないと、面白くないわん♡
 趙公明ちゃんとでも戦って、強くなってねん♡
 ……特に、土行孫ちゃんは強くならないと、代わりなんて務まらないわよん?」

 誰も聞く者の居ない中、妲己は名乗っても居ない土行孫の名を呼び、クスクスと笑い続ける。
 妲己の身体は、溶けるようにして段々と薄くなって行き、やがてその姿を消した。






「うう……」

 太公望は背中に感じる痛みに呻きを漏らす。
 妲己の衝撃波によって、スープ―シャンに乗っていた太公望は容易く吹き飛ばされてしまった。
 その際に地面へと叩きつけられ、片腕しかない今の太公望では、受け身もまともに取る事が出来なかったのだ。

「兵は……無事か。どうやら、上手く逃げてくれたようだのうスープー」

 あらかじめ妖怪仙人が現れた時は逃げるように言っておいたのだが、上手く動いてくれた事に太公望はホッと息を吐く。

「……おや?」

 同意を求めるようにスープーシャンの名を呼ぶも、返事が無い。

「スープー? スープーは……何処だ? それに妲己は……」

「太公望師叔……」

「おお、楊戩。スープーを知らぬか?」

「いえ……ですが、妲己が消えた所を見ました。何処へ行ったのかは分かりませんが、油断は出来ません」

「スース!」

「大変だ!」

 太公望が楊戩と話していると、天化と土行孫が慌てて走り寄って来た。

「親父が消えたさ!」

「蝉玉も見あたらない。何処行ったか知らないか!?」

「武成王と蝉玉が?」

 二人の姿が無いと聞いて、ハッと太公望は気付いた。

「ま、まさかスープーも……」

「武王の姿もありません。無事でいると良いのですけど」

『フフフフフ! 彼らは僕が預からせてもらったよ!』

「……誰だ!」

 後ろから聞こえて来た声に、太公望がバッと振り返る。
 すると、グォングォンという音と共に、巨大な男の顔が日の出のように昇って来た。

「うわ……何あいつ、キモい」

『諸君、初めまして。僕の名は趙公明』

「喋ったさ!?」

 ニョキニョキと竹の子が成長するかのように全身を露わした趙公明。
 それが言葉を発した事に天化が驚く。

「落ち付け天化。土行孫もだ。直視したくない気持ちは良く分かるが、アレは立体映像だ。
 あやつの足下を良く見てみよ。ちっさーく本物が居るであろう?」

『フフフ、流石は太公望君だ。よくぞ立体映像だと見破ったね。これぞ僕が千年掛けて作った映像宝貝さ!』

「よくもまあ、そんな物を千年も掛けてまで……」

 千年も経てば妖精が生まれてもおかしく無い年月である。
 あまりのアホらしさに、太公望は呆れた。

『さて、本題に入ろう。この度は妲己にお願いして、君たちの仲間を数人預からせてもらっているよ』

「何だと!?」

『返して欲しくば、この僕と戦うのだ! 
 君たちが勝ったら、賞品として彼らをプレゼントしよう。
 もちろん普通の戦いではなく、麗しき戦いで勝負してもらう』

「麗しき……ち、因みに妲己は?」

『朝歌に帰ったよ』

 趙公明の言葉に、太公望はホッと胸を撫で下ろす。
 妲己だけでも難しいというのに、二人を相手になど出来るはずもない。

『この僕は薔薇の運命さだめに生まれた気高き騎士ナイト
 子羊キミたちの死をロココ調に演出してあげるから──さあっ! 戦おうじゃないか!』

「……のう、あやつを無視して朝歌に進むというのはどうかのう?」

「それも出来ねぇさ、人質がいるし」

『はーーーっはははははは《キィィィィィィィンッ!》ははははははははっ!!』

「おい、ハウリングしてるぞ」

 耳障りな音に顔を顰めながら土行孫が突っ込むが、趙公明は聞いていなかった。

『……因みに、華やかなる戦いの舞台もきちんと用意してある。
 この先の渭水という河の上にある客船だ。集合時間は本日正午だから、それまでに船まで来る事。
 ……ただし、気を付けてくれたまえ。一秒でも遅刻したら、人質たちは断頭台の露と消える事になるだろう。
 では待ってるよ。さらばだ!』

 高笑いを残して、趙公明の立体映像がすうっと消えて行く。
 個性的過ぎる趙公明の勢いに呑まれ、皆は呆気に取られていた。

「……はっ!? しまったさ、このまま逃がすかい!」

「やめろ、天化君!」

 正気に戻った天化が趙公明を追いかけようとするが、楊戩が制止し、同意するように太乙が頷く。

「何でさ!? 今だったらあいつ一人倒せば、人質を取り返せるさ!」

「趙公明は危険なんだ」

「知っておるのか楊戩?」

「ええ。以前呂岳という敵が居ましたが、覚えていますか?」

「……おお、あのウィルス使いか。そんな奴もおったのう」

 太公望が呂岳の事を思い出し、顔を顰める。
 呂岳とは、稀に見る性質の悪い仙人であったから。
 彼の持つウィルスに、太公望達は苦しめられたのだ。

「呂岳はあの趙公明の手下です。他にも似たような敵が居ないとも限りません。
 聞仲と妲己は申公豹と同様に、仙人界と縁を切っています。
 ですが趙公明だけは、今も仙人界で弟子を取って生活していたはずです。
 それに、太公望師叔には以前言いましたが、趙公明自身も厄介です。
 趙公明は妲己、聞仲と並んで十天君以上の強さを誇っていて、“三強”などと呼ばれていますから」

 楊戩の言葉で、場に沈黙が訪れる。

「……聞仲、妲己、申公豹。奴らは確かに強いさ」

「でも、いずれは戦わなければなりません」

「……ならばここは一つ、一番やりやすそうな趙公明で力試しと行くかのう」

「ああ!」

「そうですね」

 太公望の提案に天化が頷き、楊戩も同意した。

「おはようございますおっしょーさまー!」

「む?」

 自分を呼ぶ声に太公望が振り向くと、彼方から土煙を上げて爆走して来る武吉の姿があった。

「すいません、ちょっと寝坊してしまいました!
 いやあ、やっぱり毎朝豊邑の自宅から通勤するのはキツくなってきましたねー!
 ……って、あれ? 太乙真人様もいましたか」

「へ?」

 武吉の言葉に太公望が横を見ると、自慢げに太乙真人が立っていた。

「……ぬおお!? 気付かなかった」

「フフフ……さっきこっそり紛れ込んだのさ!」

「何でこっそりなのだ……分かり難い混ざり方をするな」

「いやぁ、君たちも戦って行くにつれて、色々と消耗して来るだろう?
 特に太公望、君なんか利き腕が無くなってるじゃないか。そこで、面白い物を作って来たよ」

 そういって太乙真人はごそごそと懐を探り、アイテムを取り出す。

「名付けて『太乙万能義手』だ!」

 取り出した物は、見た目は太公望の左腕と同じ形をしていた。

「そのままだと、何かと不便だろう? さあ着けよう」

「ま、待て太乙! 実を言うと、儂は今宝貝の使い過ぎで能力を失っておる。
 つまりは普通の人間と同じなのだ」

「やっぱり人間だと、宝貝は使えないんですか?」

「うむ」

 武吉の疑問に、太公望は頷く。

「宝貝は仙人骨から出る強大な力を吸収して、それで奇跡を起こせるからのう。
 人間だと、持っているだけで全部吸われてミイラになってしまう」

「僕は使えますかね?」

「それは無理だ。残念ながらな。天然道士は仙人骨の力を筋力として使っているからのう。
 逆に道士はその力を宝貝に送り込めるけど、天然道士ほどの筋力は無い」

「そうだね。でもこの義手なら大丈夫!」

「ギャアアアアアアアッ!!」

 太乙真人に無理矢理ガポッと義手を填められ、太公望が悲鳴を上げる。

「あ、あああ……さらばだ皆の者……。儂はこれよりミイラとなる……」

「だからそれは宝貝じゃないんだって。
 ガスで動くからくり義手って所かな。
 だからほら、例えばここのボタンを押すと……」

「おおっ!? 水鉄砲が!?」

 太乙真人が太公望義手の小指の部分に付いていたボタンを押すと、義手の人差し指の先から水が迸った。

「成る程……儂の腕で遊ぶなボケェッ!!」

「ぐはぁっ!? ……ま、まだ説明していないのにロケットパンチを……」

「お主……適当に押したのに、こんな物まで……」

 顔面にロケットパンチを喰らい倒れ込む太乙真人を、太公望は呆れた表情で見下ろす。

「……まあ良い。行くぞ、皆の者」

 太公望が号令を掛け、皆が太乙真人の黄巾力士に乗り込む。

「待て。俺の乾坤圏も壊れた」

 いそいそと乗り込んでいた太乙真人を、ナタクが呼びとめる。

「三分で直せ」

「三分でと言われても……カップ麺じゃないんだから」

「直せ!」

「わわわ分かったよ! もう、親使いが荒いんだから……」

 渋々と太乙真人は黄巾力士を降りる。
 それを見ていた太公望が、後ろを振り返り、声を掛ける。

「丁度良い。武吉、お主は此処に残って、南宮适と兵を守っておれ。
 何かあったら、儂に知らせるのだ」

「あ、はい。分かりました」

「……土行孫、お主もだ」

「……俺も、か?」

「なんでさ!?」

「騒ぐな天化……。土行孫、何故儂がそんな事を言ったのか、それはお主が一番良く分かっておろう?」

「……」

 土行孫は反論出来なかった。
 ここ最近の体たらくは、太公望の耳にも入っていたのだろう。

「今のお主が戦いの場に立った所で、死ぬのがオチだ」

「でもスース!」

「止めるんだ、天化君」

 抗議しようとした天化の肩に、楊戩が手を置いて制止する。

「僕も君と土行孫の模擬戦は見ていたけどね。
 ……正直に言って、あんなお粗末な様子では、とても戦いになんて連れて行けないよ」

「……くっ!」

 楊戩に諭され、天化は苦虫を噛み潰したように顔を顰める。
 そして振り返り、土行孫の両肩に手を置いた。

「なあモグラ、本当にこれでいいんかい?
 蝉玉達が攫われたってのに、此処に残って何もしないなんて、それで本当に嫌じゃねえのか!?」

「……仕方ねぇよ」

「何だって!?」

「師叔や楊戩の言う通り、今の俺じゃ役になんて立てないし……仕方ないんだよ……」
 
「仕方ない……だって?」

 土行孫の言葉に、天化が目を見開く。
 問い詰めるような視線に、土行孫は目を逸らした。
 その様子に天化はギリ、と歯を鳴らす。

「……もう良いさ」

「え? ぐあっ!?」

 顔を上げた土行孫を、天化が殴り飛ばす。
 いきなり殴られた土行孫は為す術もなく倒れ、黄巾力士から転がり落ちて行った。
 落ちて行った土行孫を見下ろし、天化は悔しそうに言う。

「見損なったさ。後は俺っちたちがやるから、モグラはずっとそこで待ってると良いさ!
 行こうぜスース、楊戩さん」

「う、うむ……」

 天化に促され、太公望は頷いた。
 楊戩が操作する黄巾力士が動き、空へと浮き上がる。

「あ……」

 何かを言おうと土行孫が手を伸ばすが、それ以上言葉が漏れる事は無かった。

「……行っちまった」

 趙公明の指示した戦いの舞台へと、黄巾力士が飛んで行く。
 ベタッと地面に座り込み、土行孫は自嘲の笑いを洩らす。

「は……ははは……何やってんだ、俺は……」

 呼べば止まってくれただろう。
 追いかければ、受け入れてくれただろう。
 だが土行孫にはどちらも出来ず、ただ見送るだけだった。

「……まあ、良いや」

 ポツリと、土行孫はそんな事を洩らす。

「天化も楊戩も強いし、太公望が言っていた今は普通の人間だなんて、嘘に決まってる。
 なら……あいつらがいるんなら、俺が居なくたって大丈夫だろ。蝉玉だって──」

 誰にともなく、土行孫は言い訳を始めた。
 だがその言い訳は、すぐに止められる事になる。



「それが、貴様の答えか?」



 え? と土行孫が顔を上げる。
 だが辺りには誰も居ない。
 土行孫は顔に困惑を浮かべる。
 すると、誰も居なかったはずの土行孫の眼前の景色が、次の瞬間ぐにゃりと歪んだ。
 溶け出るようにして、一人の人間が空気中から姿を現す。

「お、お前は……」

 土行孫の前に突如として現れた人物。
 “黒いローブ”を纏った長身の男は、座り込んだままの土行孫をジッと見下していた。






あとがき

さあ、次回は久々のNEN……おっと、何でもありません。
最後に登場した謎の男、彼はいったい何者なのか。それはまだ秘密です。

今回で天化と同じように見捨てた方もいるでしょうが、次回で再び立ち上がる予定です。
鬱っぽいDOKOUSONは終わるので、お楽しみにお待ち下さい。

あと初めてルビタグ使ってみたんですが、大丈夫でしょうか?
子羊をキミたちなんて普通読めないので。



[12082] 第五十九話 再起
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/04/15 16:56






「それが、貴様の答えか?」

 再びまみえた黒いローブを纏った男。
 彼が土行孫に問うたのは、かつて土行孫が宣言した言葉、その確認だった。

「かつて貴様は、私に強くなると宣言したな。
 自分が弱い事は理解している、と。
 だからこそ、弱いならば強くなり、抜かれたのなら抜き返してやる、と。
 貴様はそういったな。だが今の貴様は、何をしている?
 仲間が攫われ、助けに行こうともせず、ただ徒に時が過ぎるのを待つばかり。
 もう一度聞こう。それが、貴様の答えか?」

「それは……」

「それは? 貴様が此処に留まっている理由が、仲間の命よりも重いというのであれば、私も納得しよう」

「……」

 土行孫には、何も口にする事が出来なかった。
 仲間の命よりも重い理由があるのか?
 答えは否だ。
 土行孫は、自分勝手な理由だけで、仲間の命を危機に晒しているのだから。

「今の貴様に、それだけの価値があるのか?」

 ありはしない。
 自分の命が惜しくて仲間を見捨てた者に、価値などありはしない。
 何も反論など出来はしない。
 土行孫は唇を噛み、俯くしか出来なかった。

「……もういい」

「え?」

 ローブの男の呆れたような声に、ハッと土行孫が顔を上げると、ローブの男が生み出す威圧感が増した。
 ゾワリと背筋が粟立ち、土行孫は咄嗟に腕を前に突き出した。

「がっ!? あ、ああ!!」

「ほう、宝貝を盾にして身を守ったか。多少は力を付けたのは間違いないらしいな」

 殴られたのか、それとも蹴られたのか。
 今の土行孫には判別がつかなかった。
 ただ分かるのは、腕を交差させた瞬間に衝撃が来て、次の瞬間には地面を転がっていたという事実だけだ。

「だがそれだけだ」

「ぐうっ!? ああああああっ!」

 男は土行孫を踏みつける。
 ミシミシと身体が軋み、悲鳴を上げていく。
 逃れようと土行孫はもがくが、土行孫を踏みつけている男の足は動かぬ山のようで、どうやっても外れる事は無かった。
 土行孫は、まるで全身が鉛のように重くなった感覚を覚えた。
 生まれたばかりの赤子の如く、身体の動かし方を忘れてしまったようで、土行孫は身動きをとる事が出来なかった。

「何故逃れる事が出来ないのか、分かるか?」

 男が土行孫を踏みつけながら尋ねる。
 しかし、今の土行孫に答える余裕など無かった。

「貴様の持つ宝貝を使えば、抜け出す事など容易いはずだ。
 その土竜爪で地面に潜れば良い。
 もしくは地面を柔らかくして、こちらの足場を崩せば良い。
 あるいはその爪の先で、私の足を切り落とせば抜ける事が出来るだろう。
 だが貴様にはそれが叶わず、身動きが出来なくなっている。何故だか教えてやろうか?」

「が……ああ……や……やめろ……」

 聞きたく無かった。
 そんな事は理解している。
 自分の持っている宝貝の事など、自分が一番良く分かっているはずなのだから。
 だから止めろ。
 言わないでくれ。
 そう土行孫は願った。
 男に踏みつけられ、呼吸すら満足に出来ない掠れた声で懇願した。
 だが土行孫の心中など意に介する事無く、男は続ける。
 
「宝貝は集中力の乱れた者には、本来の威力を出す事が出来ない。
 そして、仙人骨から生み出されるエネルギーとは別に、使う者の意志によってその力を増減させる。
 意志の強い者が持てば、本来刀身に火を纏うだけの宝貝も、世界を焼き尽くす業火を宿すだろう。
 逆に意志が薄弱であれば、かの雷公鞭でさえも、弱々しい静電気にしかならない。
 分かるか? 今の貴様は、私のこの程度の力から抜け出す事も出来ないほどに、意志が弱い。
 つまり、宝貝にまで見捨てられているのだ、今の貴様はな」

「……あ……ああ……」

 聞きたくなどなかった。
 宝貝が力を発動する原理など、初歩の初歩である。
 その程度の事が出来ない自分を、出来なくなってしまった自分を、土行孫は見つめたく無かったのだ。
 土行孫と男の間にある、圧倒的な力の差。
 その差を実感して、勝てると思えなくなった。
 否、戦おうと考える事すらおこがましい、そんな実力差。
 それを知り、意志を折られてしまったのだ。
 だから、宝貝が反応しない。
 いくら力を送り込もうと、宝貝を発動出来ないのだ。

 土行孫とて、仲間を助けに行きたくない訳が無い。
 国の象徴である、武王。
 仙人界に居た頃からの友である、スープ―シャン。
 天化の父親である、黄飛虎。
 そして……土行孫を慕ってくれる、蝉玉。
 その全員が助けたい相手であるのは変わりが無い。

 現に今でも、心の奥底でもう一人の自分が叫んでいるのだ。
 助けに行け、と。
 これ以上、大切な仲間が死ぬのを看過して良いのか、と。

 だが……動けないのだ。
 もし、また目の前で仲間が死んだら、と考えると。
 もし、自分のせいで仲間が死んでしまったら、と考えると。
 自分が助けに行けば、そんな事は無くなるのかもしれない。
 頭では理解している。
 理性はそうすべきだと言っている。
 感情は助けに行けと叫んでいる。

 なのに、恐怖に怯える心だけが、それに反発している。
 不安が頭をよぎるだけで、土行孫の身体は鎖で縛られたかのように動けなくなるのだ。
 その結果が、後悔しかないのだと分かっていても。

「……」

 男は無言で土行孫から足を退けると、今度は土行孫の胸ぐらを掴んで片手で持ち上げた。
 持ち上げられる土行孫の事など欠片も気にしない乱暴な扱いに、息が詰まりそうになって土行孫は身を捩った。
 だが男の手から抜け出す事は叶わない。
 そんな土行孫に向けて、男はもう片方の手をゆっくりと伸ばす。

「返してもらうぞ、『内旗門』をな……」

「なっ!?」

 土行孫は目を見開く。

「何を驚いている。元々これは、私が持っているべきだったものだ。
 今までは貴様が有効に使うであろうと考えていたから、これを預けていたに過ぎん」

 驚く土行孫に対して、男は当然と言わんばかりに言葉を続ける。

「……だが今の貴様は、一番長く使っていた宝貝すらまともに扱えない、屑へと成り下がった。
 だから返してもらうぞ。元より、貴様には過ぎた代物だったのだからな」

 男の手が土行孫の身に着けている内旗門へと至る。
 取られてしまう。
 否、男の言を信じるならば、取り返されてしまう。
 土行孫はそれを、ただ見ているしか無いのか。






『土行孫』






「こ、公……主……?」

 何故だろう?
 ローブの内から覗く男の瞳に、竜吉公主の面影を見てしまったのは……。
 似ている所など、無いはずなのに。
 何故だろう?
 宝貝が奪われてしまう事に、とてつもない羞恥を感じるのは……。
 それはまるで、竜吉公主に叱られている気がして…… 

「……あ、がああああっ!」

 男が内旗門を土行孫から剥ぎ取ろうとした時、土行孫は暴れた。
 身を捩り、使えない土竜爪を振り上げ、男の手を弾き飛ばす。
 初めて抵抗と言える抵抗をした事により男の手は外れ、土行孫は重力に従って再び地面へと叩き付けられた。
 だがそんな痛みに悶える暇もなく、土行孫は必死に這いずって男から遠ざかろうとする。
 男はそんな土行孫の姿を、冷ややかな目で見下していた。

「愚かな……使えなくなっても尚、宝貝に執着するか!」
 
「……ちが、う……」

 土行孫はかぶりを振る。
 そんな事では無いのだ。

 確かに、土行孫は宝貝に執着している。
 宝貝蒐集家などと呼ばれ、嘲笑を浴びせられた事がある。
 それは間違っていない。

 土行孫は宝貝という未知の物に対して、信頼が置けなかった。
 宝貝を一つ手に入れただけで満足している道士達が、土行孫には信じられなかった。
 たった一つしか持っていなくて、どうして安心出来るというのか。
 もし奪われたら? もし壊れたら? もし手元から離れたら? そこでお終いではないか。
 そうなったら、戦う術を失った自分は、何も出来ずに殺されるしかないのか?

 宝貝とは、土行孫の弱さを守るための心の鎧だったのだ。
 非力な自分を隠すために宝貝に頼り、鈍間な自分をどうにかするために宝貝に頼った。
 だから集めた。
 少しでも多くの宝貝を自分の手に。
 浅ましいと言われても、嘲笑されても、足る事を知らなかった。
 だがしかし、それでも土行孫の手元には、そんな想いとは無縁の物がある。

「内旗門は……これは違う……。
 内旗門は……俺を助ける為に、公主が渡してくれた物だ。
 俺の無事を祈って、公主が預けてくれた物だ!」

 だから、男の言っている事は嘘だ。
 竜吉公主が他人の宝貝を自分の物だと偽り、土行孫に渡すはずが無い。
 だから内旗門は、土行孫の目の前に居る男の物ではない。
 そして、土行孫の物でもない。
 内旗門とは、竜吉公主の物なのだ。

 未だに残っている、下手くそな裁縫の跡。
 竜吉公主が、土行孫のためを想って針仕事までしてくれた跡。
 何も知らない他人が見れば笑うだろう。
 所々が綻び、解れた汚い縫い目を馬鹿にするだろう。
 だが土行孫に取って、これは誇りなのだ。
 それを、何処の誰とも分からない相手に渡せるものか。

 男の言う通り、内旗門は土行孫には過ぎた代物だ。
 ましてや今の土行孫ならば尚更の事、持っている事が罪深い事とさえ思う。
 しかし……

「お前なんかに渡さない。俺がこれを手放すのは、公主が返せと言った時だけだ!」

「……だがどうするつもりだ? 今の貴様は宝貝が使えないというのに」

 男の言う通りだった。
 未だ土行孫は自らの纏う宝貝の重みに潰され、最早一歩も動く事が出来ない。
 こんな有り様では、男の攻撃を凌ぐ事は不可能だ。

「貴様はこれからも守れなかった事、救えなかった事に苦しみ続けるだろう。
 ならば私が、此処で貴様に引導を渡してやる」

 逃げようとする土行孫の前に回り込んだ男は、ローブの内から剣を取り出し、土行孫の喉元に突き付ける。
 ただの剣では無い。
 刀身が焔を纏い、ゆらゆらと陽炎の立ち上る灼熱の剣だ。
 これが先程男の言っていた、火を纏う宝貝なのだろう。
 その気になれば、土行孫の骨すら残さず焼き尽くす事が可能な、一撃必殺の剣。
 それを喉元に突き付けられ、近くにあるだけでじりじりと土行孫の肌を焼いて行く。
 土行孫は覚悟を決めたかのように、静かに目を閉じた。

「俺は……最低な人間だよ。
 仲間をむざむざ攫われて、仲間に見捨てられた屑だ。
 それなのに、こんな所で足踏みして動けなくなっているなんて、最悪だ」

 最低。屑。最悪。
 土行孫の頭の中で、自分の言葉が反響する。
 宝貝にまで見捨てられたのは当然だったのだ。
 例え目の前の男に指摘されずとも、蝉玉達が攫われなくても、遠からず同じ事になっていただろう。
 何せ土行孫は、自分に好意を抱いてくれている女に、まともな答えさえ返せない酷い男なのだから。

「でもな……」

 思い出せ、と土行孫は自分を叱咤する。


「例えどんなになっても……」


 思い出せ。
 自分は昔はどうだった?


「一人になっても……」


 思い出せ。
 自分は何を考えていた?


「挫折しても……」


 思い出せ。
 自分は何を決意した?


「絶望しても……」


 思い出せ。
 自分は何を知り、何を恐れ、何を想い、何に惹かれ、何に泣き、何を手に入れた?



「俺は……また立ち上がってみせる!!」



 土竜爪が黒く輝き、周りの地面が盛り上がって男に攻撃を加える。
 男は一歩、後ろへと大きく後退すると、手に持った剣を振るった。
 鋭い槍の穂先となって男に襲いかかろうとしていた土砂は、一瞬で灰塵へと変えられ吹き飛ばされた。
 だが土行孫はそれに焦る様子は無く、ゆっくりと立ち上がった。
 身体に付いた汚れを払う余裕さえある。
 そんな土行孫の姿に、男は感心したように息を吐く。

「どういう心境の変化だ?」

「別に……何も変わってなんか無いさ」

 何も解決はしていない。
 土行孫の内に根付いた恐怖は、未だ取り除かれてはいないのだから。

「俺はただ、思い出しただけだ」

 そう、土行孫は思い出しただけだ。
 何のために道士になったのかを。
 何のために力を手にしたのかを。
 何のために人間界に降りたのかを。

 道士になったのは、生きるためだった。
 何も分からない場所へと放り捨てられ、それでも死にたくなかったから。

 力を手にしたのは、守るためだった。
 それは自分の心であり、生きていればいつか生まれる大切な相手を守るためだ。

 人間界に降りたのは、失わないためだった。
 大切な存在を失わないように。失う事が避けられないのならば、それを受け止められるように。

「俺は昔、お前に強くなるって言ったな。その言葉に変更は無しだ」

 土行孫には内旗門は過ぎた代物だ。
 それは覆しようのない事実である。
 しかし、内旗門によって救われた事、救う事が出来た事があったのも、また事実なのだ。
 だからこそ土行孫は、内旗門の所有者として認められるよう、努力を重ねて来たのではなかったか。
 土行孫に内旗門を譲り渡した事が間違っていなかったと、竜吉公主の目は確かだったのだと、証明しようとしていたのではなかったか。

「弱いんなら強くなってやる。抜かれたんなら、抜き返してやる。
 どんなに不様で情けない姿を晒してでも、例え何度泣く事になっても、絶対強くなってやるさ
 誰からも文句が付けられないようにな」

「フン……甘さは捨てろ。涙を流す事は、弱さでしかない。
 痛みを感じない戦いなど、ありはしないのだからな」

「違う」

 確かに、男の言う事にも一理ある。
 これからも戦いは激化していく。
 その中で仲間が死ぬ事もあるだろう。
 その度に一々泣いていては、土行孫の命も、仲間の命も危険に晒す。
 それは弱さだ。
 命のやりとりをする戦いの中では、致命的な弱さ。
 だが土行孫は、男の言葉を否定する。

「甘さを捨てたら、それはもう俺じゃない。俺に似た別の何かだ。だから俺は、何度だって泣くぞ。
 ボロボロに涙を流して、顔がぐちゃぐちゃになるって分かっていても、俺は泣いてやる。
 甘さは捨てない。弱さを抱えた上で、それでも仲間を守れるように、俺は俺として強くなってみせる」

 恐怖はまだ残っている。
 自分を殺そうと剣を翳した目の前の男に勝てる確率など、零に近いと理解している。
 だがもう、それで立ち止まる事は終わりだ。
 この先、土行孫が恐怖を忘れ、弱さを捨て、純粋な力と効率のみを追求したとしても、その先には何も残らないだろう。
 だから、土行孫は恐怖を認め、弱さを認め、それでも尚、それら全部をひっくるめて一歩を踏み出してみせよう。
 がむしゃらにでも良いから前に進んでみせると、土行孫は決意した。

「だから……」

 土竜爪が黒く染まり、ボコボコと『黒い泡のような物』が発生する。
 それは分裂を続け、土行孫を取り巻くようにふよふよと浮かんで行く。
 ともすれば意識を持って行かれそうなほどに力を奪い、ずしりと重みを増す宝貝を翳し、男へ向かって跳躍する。

「お前なんかに、あっさり殺されてやる訳には行かねえんだよっ!!」

 踏み込んだ地面が爆発し、一足で男の目前へと土行孫は到達する。

「おおおおおっ!」

 土行孫が吼え、振り上げた両腕を交差させ振り抜く。
 男はそれを燃え盛る剣で受け止めた。

「何っ!?」

 此処で始めて、男が驚愕を浮かべる。
 土行孫の攻撃は確かに受け止めた。だが受け止めきる事は出来なかった。
 男が土竜爪を受け止めた瞬間、戦う為に必要な踏み締めるべき地面が消失する。
 否、正確には、土行孫の意志を伝えられた大地が、男から逃げて行ったのだ。
 そして、全身に掛かる押し潰されてしまいそうな重力を、男は攻撃を受け止めた瞬間に理解した。

 精神の薄弱さから数瞬前まで宝貝を使えなくなっていた土行孫。
 だが今の土行孫は、まるで別人と言って良い程の圧力を纏っていた。
 男は土行孫との競り合いに負け、地面と平行に吹き飛ばされてしまう。

「……何処に行った」

 男は危なげなく地面に着地すると、姿を消した土行孫を探す。
 最早油断など一欠けらも無い。辺りを見回し、警戒を続ける。
 だが土行孫が攻撃を加えて来る事は無い。
 それどころか、対峙しているという気配すら感じられなかった。

「……逃げたか」

 否、男には分かっていた。
 土行孫は逃げたのではない。仲間を助けに行ったのだと。

 そもそも、仲間を助けるのに男と戦う必要など無く、時間の無駄にしかならない。
 だから土行孫は男と戦う事よりも、仲間を助ける為に太公望達の後を追いかける事を優先したのだ。

 姿の見えなくなった土行孫を追いかける事も可能だろう。
 土行孫が向かう先は知っているのだから。
 だが男はそれをしなかった。

「強くなる、しかし甘さは捨てない……か」

 土行孫の言葉を反芻し、男は含み笑いを洩らす。

「“それ”で良い」

 それでこそ、出て来た甲斐があったというものだ。
 男にとって、土行孫は強くなってもらわねばならない存在だ。
 弱さを知り、恐怖を理解し、それでも尚、強くなろうとする意志を持ってもらわねば困るのだ。


 そうでなければ、代わりなど務まりはしないのだから。


「しかし……」

 男は空を仰ぐ。

「見ていたのでしょう? ちゃんと“抑えて”おいて下さいと言ったはずです」

 虚空へ向けて語り掛ける男は、相手が見ている事を確信した声で告げる。
 そして、後方へと殺気を向けた。

「……盗み聞きとは趣味が悪いぞ、申公豹」

「おや、ばれていましたか。名乗った覚えは無いのですがね」

「ばれていないとでも思っていたのか。お前の名は仙道ならば誰もが知っている」

 男は振り返り、一連の出来事を眺めていた申公豹を睨み付ける。
 殺気を向けられるが申公豹は意に介した様子もなく、いつものような飄々とした笑いを浮かべていた。

「中々、興味深い話を聞かせてもらいましたね。
 ちゃんと“抑えて”おけ、ですか。いったい誰に報告しているのでしょうか?
 これはいよいよ、貴方以外の何者かの関与が疑わしくなって来ましたが……」

「黙れ、それ以上喋るな」

「おやおや、図星ですか。どうやら貴方は嘘が苦手のようですね。
 さしずめ、貴方は鞭といったところでしょうか?
 貴方が鞭ならば、さて……果たして飴は誰なのでしょうね?」

「黙れと言ったはずだ」

「私が気に入らないと言うのならば、力尽くで黙らせたらどうです?
 尤も、武器を失った今の貴方に、私がどうにか出来るとは思いませんが」

 申公豹の人を食ったような態度に、男が苛立たしげに舌打ちをした。
 男の腕に握られた宝貝を、申公豹は一瞥する。
 焔を纏っていた剣は今や半ばから折れ、沈黙していた。
 それを握っている腕も、先程の衝撃であちこちに傷が走っている。
 この程度の傷など、男の力を減ずるには至らない。
 宝貝など必要のない所に、男の強さは有るのだから。
 だがそれでも、申公豹を相手にするには厳しい。
 何より男には、申公豹と戦う理由が無いのだから。

「……」

「だんまりですか。まあそれが良いでしょうね。
 失言をしないためには、そもそも口に出さなければ良いのですから。
 ですが……ああ、そうですね。一つ、尋ねたい事があるのでした。
 別に貴方が答えてくれなくても、私は一向に構いませんがね。
 彼の周りに浮かんだ黒い泡のようなもの、私はあれを過去に見た事があります。
 あれは──」

 申公豹の口元がクク、と吊り上がった。



「──盤古旛ばんこはんなのではありませんか?」



 男は何も答えない。
 だが何よりもその瞳が、答えを雄弁に物語っていた。

「成る程……やはり貴方は嘘が苦手なようですね。
 素直なのは嫌いではありませんよ。
 ……ああ、言っておきますが──」
 
「……何だ」

「私は貴方が好きになれそうもありません。それとこれとは別です。折角の出番を、貴方は横取りしたのですからね」

「……奇遇だな。私も人の秘密をこそこそと嗅ぎ回るお前が嫌いだ」

 気が合わない二人は、互いに相手が嫌いという一点に関してのみ、同意見のようだ。

「それに……彼の友人としては、本気で無かったとはいえ、勝手に彼を殺そうとした事も赦す訳には行きませんね」

「……友人、か」

 男はローブの内で含み笑いを洩らす。

「こんな奴に気に入られるとは、あいつもつくづく奇妙な縁があるらしいな」

「彼も言っていたではないですか。私が友人だと言ったなら、彼は泣いて喜びますよ」

「ほざけ」

 泣くという所だけ都合良く抜き出した申公豹に、男はそう吐き捨て、大気に溶けるようにして姿を消した。
 姿を消した男を面白そうに見送り、申公豹は黒点虎に乗る。

「……で? 結局どういう事? 良く分かんないんだけど……」

「まあ見てなさい、黒点虎」

 首を傾げて尋ねて来る黒点虎に、申公豹は待ったを掛ける。

「彼……いえ、彼らが仕掛けた細工は、後は仕上げを待つばかりなのですから……」








あとがき

やっと主人公が復活しました!
次からは鬱じゃなくなります。
土行孫は逃げました。戦略的撤退という奴ですね。



[12082] 第六十話 趙公明攻略Ⅰ 楊任
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/04/17 23:36






 渭水へと向かった太公望達は、趙公明の船を探していた。

「ほう……これが渭水か」

 目の前に広がる大河に、太公望はその大きさに目を奪われた。
 自然の雄大な様を目の当たりにすると、それだけで気分が高揚するのを感じる。

「しかし、これだけ大きいと、趙公明の船を探すのには苦労するかもしれぬな」

「……」

「天化、どうかしたのか?」

「へ? ……ああいや、何でもねえさ」

 話を振られた天化は俯いて何事かを考えていたようで、太公望に声を掛けられてハッと顔を上げる。
 そして辺りを見回し、既に渭水の上にまで来ていた事に気付いたらしい。

「それにしても、でっかい河さ。まるで海みてぇだ」

「太公望師叔、天化君。何か見えて来ましたよ」

「む……?」

 黄巾力士を操縦していた楊戩が前方を指差した。
 太公望が目を凝らすと、大河に浮かぶ奇妙な物を見つけた。

「あれか!」

 近付くにつれ、段々とその姿がよりはっきりと、大きく見えて来る。
 趙公明は船と言っていた。
 だから太公望も普通の船の形状を予想していたのだが、趙公明の船は違っていた。

 例えるならば、月。
 三日月のような巨大な船が水に浮かび、弧を描く部分が水に接している。
 そして上部の窪んだ所には、もう一つの月……満月が浮かんでいた。

『フフフフフ……ようこそ! 私の用意した、麗しき戦場へ!』

「む!?」

 太公望達がその全体を見上げていると、満月のような部分がピカッと光り、趙公明の姿が映し出された。

『この豪華客船クイーン・ジョーカー二世号は、金鰲島にあった僕の島でね。
 今回の麗しき戦いのために、持って来たんだ。
 どうだい? この戦いの舞台ステージに相応しいとは思わないかい?』

「……もはやこやつが何をやっても驚かんわ」

 映像宝貝の作成のために千年も掛けた事と言い、戦うためにわざわざ島を人間界に持って来た事と言い、太公望はその斜め上を行くスケールの大きさに呆れる。

『さて、君たちも気になっている事だろうし、人質が今どうなっているか教えよう』

 カメラ引いて、と趙公明が言うと、顔だけだった趙公明の全身が映る。
 そしてその横には、砂時計に閉じ込められたスープ―シャンが居た。

『彼らには砂時計の中に入ってもらっている』

『御主人~もう駄目ッス! このままじゃ砂に埋まって窒息死ッスよ!』

「スープー!」

「カバっち……何て酷い事を……!」

 ざらざらと砂が落ちて行く中に閉じ込められているスープ―シャンの姿に、太公望達の顔が悲愴な面持ちに変わる。

『他の人質達は下の階に居る。
 この船は一階から五階まであるんだけど、それぞれに一つずつ砂時計は置いてある。
 一階の砂時計は、あと三十分で終わり。
 二階の砂時計はあと一時間、三階は一時間半と、各階のタイムリミットは三十分だ。
 しかも、各階にはその砂時計を守る僕の召使いが待ち受けている。
 さあっ! 早々と彼らを倒し、砂時計から仲間を無事に救いたまえ!
 そして、この最上階のプリンス、趙公明の所まで這いあがって来るのだ!
 はーーっははははははははははは!!』

 高笑いを残して、趙公明の映像がぶつりと消える。

「……まずいのう。時間制限付きとは聞いておらぬぞ。スープー達の命が掛かってしまった」

 人質の安全が確保されているようであれば、太公望は一旦戻る事も視野に入れていた。
 そして仙人界から人手を連れて来て、大勢で趙公明をタコ殴りにするつもりだったのだ。
 しかし、このような時間制限があっては、それも出来ない。

「へっ! その方が緊張感があってやりがいがあるさ」

 だが天化は逆にやる気が出たようで、莫邪の宝剣を握り締め、瞳に闘志を浮かべる。

「さて、どこから突入するべきか……」

 太公望が船全体を見渡そうとした時、丁度良く船の一部がガコンと音を立てて開いた。
 親切に入口と表示されている所を見ると、歓迎されているのは間違いない。

「あれが入口か……時間が無い。二人とも、宝貝は持ってるな?」

「おう!」

「問題ありません」

 天化と楊戩の二人が頷き、黄巾力士はクイーン・ジョーカー二世号へと突入する。
 長いトンネルのような通路を進みながら、太公望は壁を見上げる。

「ふうむ……金鰲島の文明も、中々の物よのう。崑崙の物と比べても、遜色無いほどだ」

「妖怪仙人が多いからと言って、あまり金鰲島を馬鹿にする事は出来ませんよ太公望師叔。
 崑崙の文明が進めば、金鰲も進む。逆もまた然りです。
 そうでなければとっくの昔に、突出したどちらかの仙人界が、もう片方を吸収していたでしょうね」

「それもそうか」

 楊戩の言葉に太公望が頷く。

「おっ! 行き止まりさ、スース」

「扉か……」

 長いトンネルの先。
 そこには、これまた大きな扉が存在していた。
 三人は黄巾力士から降りる。

「どうやって開けるのでしょうね?」

 楊戩が扉を叩いてみるが、ビクともしない。

「俺っちが莫邪の宝剣で斬り抜こうか?」

「いや……これだけの大きさともなると、厚さもかなりのものになるはずだ。
 そう簡単には行かないと思うよ。やはり、何処かに開けるための方法があるんじゃないかな?」

「む! こんな所に花束が……」

 太公望が地面に落ちていた薔薇の花束を見つける。
 そこには、『楊戩へ♡ 趙より』と書かれたメッセージカードも添えられていた。

「楊戩。趙公明からお主ににだぞ。何やら手紙付きで」

「うう、嫌だなぁ……」

 楊戩はあからさまに嫌そうな顔で、渋々と花束と手紙を受け取る。
 男から花束をもらっても、嬉しくも何ともないのだ。
 楊戩が手紙を開くと、そこにはこう書かれていた。



『麗しき貴族“C”の招待状Ⅰ

 楊戩君! 君こそは、フェスティバルの幕開けに相応しい男だと思う。

 さあっ! 一人で入りたまえ! 一階の召使いは、君を待っている!』



「!?」

 楊戩がそれを読み終えると同時に、扉が一人でに開いた。

「……あっさり開きましたね。何処かでモニターでもしているんでしょうか?」

「よぉし! 皆で行ってタコ殴りにしてやるさ!」

「いや、ここはまず儂が行って、様子を探る。お主らはここで……」

「待って下さい、太公望師叔」

 一人で先に進もうとした太公望を、楊戩が制止する。

「今の貴方に何が出来ますか? 趙公明は僕一人で入れと言っています。
 ならば人質を取られている以上、こちらはそれに従うのが得策でしょう」

 楊戩は長い髪を後ろで一括りにして、三尖刀を持ち直す。
 そして一人で扉の向こうへ足を進めた。

「ぐぬぅ……楊戩の奴、何て小憎たらしい事を……!」

「そう恨んじゃ駄目さ。スースは今宝貝が使えないんだろ?
 だからあの人はあの人なりに気を使ったんさ、きっと」

「……分かっておるよ、天化。くれぐれも気をつけよ、楊戩」

 太公望は一人で戦いに行った楊戩を気に掛ける。

「あっ!?」

 楊戩を受け入れた扉は、ゆっくりと閉じて行く。

「いかん、扉が閉まる! これでは中が見えなくなるではないか!」

「お、おいスース、危な……」

 太公望は腕や顔を差し込んで、扉が閉じるのを抑えようとする。
 だが巨大な扉を、今の太公望の力でどうにか出来るはずもなく……

「ギャ────ッ!?」

「だぁはははははははっ!!」

 閉まろうとする扉に顔を挟まれ、太公望が悲鳴を上げる。
 後ろで見ていた天化は、堪え切れずに腹を抱えて笑った。

「師叔……」

 後ろ手に二人の声を聞きながら、テンションが下がるのを楊戩は自覚した。
 だが止める訳にも行かず、楊戩は歩を進める。
 暗く、じめじめとした空間。
 カビ臭く、先の見えない広い舞台。
 壁に目をやれば、目をモチーフとした紋様が描かれている。
 膝ほどまでもある張り巡らされた水をザブザブと掻き分け、自分が戦うべき相手を探す。

「これも趙公明の考えた舞台のセットという訳か。
 まったくもって、良いセンスをしているよ」

 皮肉を呟きながら、楊戩は自分が出す音とは別の物を聞きとった。

「誰だ……? 鼠か?」

 カサカサと何かが自分の見えない所で走り回っている。
 総毛立つような感覚を覚えた楊戩は、辺りを警戒して三尖刀を持つ手に力を込めた。
 その楊戩の目の前に、一人の人間が降って来た。

「なっ!?」

「キエエエエエエッ!!」

 まさか上から来るとは思っていなかった楊戩。
 楊戩の虚を突いた男は、目から光を発して楊戩の目を眩ませる。

「くっ!」

 楊戩は光に視界を防がれながらも三尖刀を振るう。
 だが男は柳の葉のように、ひらりと身を翻して攻撃を避け、フワリと軽やかに着地した。
 長いマントと、目の所が開いたシルクハットを深く被った奇術師のような格好をした男は、仰々しく楊戩に礼をした。

「ようこそ、趙公明様の豪華客船へ、楊戩」

「お前は……」

「私はこの船の一階を守護する召使い。
 楊戩、一階の戦いは趙公明様の弟子の一人、この楊任がお相手仕る。
 もし私を倒せたのなら、二階への扉を開けてやろう」

「そうか……人質はどうした?」

「案ずるな。人質は邪魔にならないよう、あちらに置いてある」

 楊任が手で指し示す方を見遣ると、岩壁に埋め込まれるようにして、巨大な砂時計が嵌まっていた。
 刻々と落ち続ける砂の中には、姫発が閉じ込められていた。

「楊戩じゃねえか!」

「ああ、武王。無事なようで何よりです」

「これの何処が無事だってんだよ!? 早くここから出してくれ。埋まっちまう!」

 姫発はどんどんと内側から叩くものの、砂時計はびくともしない。
 焦りを浮かべた姫発は助けを求めるが、楊戩は冷静にそれを眺めていた。

「砂時計の口を手で押さえれば、それ以上砂は落ちて来ないよ」

「なに? ……おおっ成る程!」

 手を握り締めて砂時計の口に手を持って行った姫発が、砂が落ちるのが止まったのを見て、凄い発見をしたかのように喜ぶ。
 砂時計に閉じ込められるという前代未聞の状況のせいか、正常な判断が出来なくなっていたのかもしれない。 

「ガッデ~ム! よくぞその砂時計の最大にして唯一の弱点を!」

「バカバカしい」

 憤慨する楊任を、楊戩は一蹴する。

「趙公明ならばともかく、君のような下っ端とは戦いたく無かったよ。
 僕の目標は、もっと高い位置にあるのだから」

「フッ……甘く見られたものだ。この私は、貴方以上の変化の使い手だというのに」

「変化の……?」

 楊戩が不審な物を見るような目で楊任を見る。

「それはおかしいな。変化は仙人界でも、僕と妲己の妹である胡喜媚の二人しか使えないはずだが?」

 広い仙人界の中でも、たった二人しかいない。
 おまけに胡喜媚は、如意羽衣にょいはごろもという宝貝を使って初めて変化を可能とする。
 変化とは、それほどに高度な技術なのだ。
 故に、宝貝を使わずに変化が出来る楊戩からすれば、楊任の言葉は疑わしいものであった。
 自分を越える変化の使い手であるならば、少なからず噂が漏れるはずだ。
 だが楊戩は、寡聞にして楊任という名を聞いた事が無い。
 これは仙人ならば、誰もが知っているであろう常識なのだ。

「フッ……ならば、その目で確かめて見るが良い。貴方と私の間に存在する、純然たる力の差という物をな!」

 だが……楊戩はその常識を覆す光景を目の当たりにする。



 ヒュン……!



 最初に聞こえたのは、風を切る音だった。

(聞仲!?)

 現れたのは聞仲だった。
 彼の持つスーパー宝貝、禁鞭が楊戩を襲う!

「がっ!?」

 幾十、幾百もの鞭の群れが楊戩を打ち据え、抵抗する間もなく楊戩は吹き飛ばされる。
 だがそれだけでは終わらない。
 楊戩以上の変化の使い手と自負する楊任が、これだけで終わるはずがない。

「いやん♡」

 聞仲が姿を消し、次に現れたのは妲己だった。
 妲己は吹き飛ばされた楊戩の隣に出現し、至近距離から衝撃波を放った。
 声も無く地面に叩き付けられた楊戩に追い打ちを掛けるように、妲己の姿が更に変わる。

「雷公鞭!」

 最強の道士と名高い申公豹が、極大の雷を楊戩に落とす。

「ふう……その程度ですか、楊戩」

 力無く水面に浮かぶ楊戩を見下ろし、申公豹はつまらなそうに溜め息を吐く。

「天才と謳われた貴方が、私に一太刀すら入れる事が出来ないとは……。
 てっきり私は、貴方のご自慢の変化を見られるかと、そう期待していたのですがね」

「ば……ばかな……」

 ありえない。
 楊戩の頭が、目の前の出来事を受け入れる事に拒否感を示す。
 自分でも申公豹に完璧に変化する事は不可能なのだ。
 だと言うのに、この身に感じるダメージは、本物と変わりが無い。
 目の前の現実を否定するために、楊戩は左腕を掲げる。

「おや?」

「哮……天犬……」

 楊戩の左腕から飛び出した哮天犬が、申公豹を襲う。
 だが申公豹はククッと笑い、哮天犬をひらりと避けると、再び姿を変えた。

「甘いな、楊戩」

 現れたのは、小柄な子供の道士だった。
 彼が右腕を一振りすると、その腕に装着された爪が輝いた。

「そんなんじゃ……俺は倒せないぜ?」



 衝撃



 楊戩の右腕が消失する。
 何が起きたのか?
 それは何よりも、楊戩が一番良く分かっているだろう。

「な……何故だ……」

 楊戩は肩から先が無くなった右腕を見下ろし、呆然と呟く。
 哮天犬によって噛み千切られた傷が、生々しく残っていた。

「哮天犬が……僕を裏切った……?」
 
「その通りだ」

 それを行ったであろう、土行孫が手を叩く。

「馬鹿な……他人の宝貝の制御を“奪う”だって? そんな事、あるはずが無い……」

「……なんだ楊戩、知らなかったのか?」

 土行孫は楊戩を小馬鹿にして笑う。

「いいや、お前は気付いていたはずだぜ? よく思い出してみろよ」

「……土竜爪の力は……物質操作だ。
 僕はそれを、ただの物にしか使えないと思っていた……。
 だけど僕の哮天犬が、君の宝貝に操られるだなんて……」

「ま、そういう事だな」

 土竜爪が輝く。
 土行孫に操られた哮天犬が、今度は楊戩の左腕を食い千切った。

「でもお前は、心のどこかでこう思っていたはずだ。
 『もしかしたら、いずれ成長したら……その時の俺なら、そんな事も出来るんじゃないか』ってな」

 土行孫の姿が歪み、今度は太公望が現れる。

「信じるか信じないかは、お主次第だがのう」

 太公望は打風輪を生みだしながら、楊戩を嘲笑った。

「他愛も無いのう、楊戩」






「むぅ……何をやっておるのだ、楊戩は……」

 それを見ていた本物の太公望は、動かない楊戩を見て顔を顰める。

「さっきから一方的に斬り付けられておる。
 唯一抵抗したと思った哮天犬は、てんで的外れな方向に放ったきり……」

 楊戩の手から放たれた哮天犬は、何も無い壁に当たっただけだった。
 それから所在なくうろうろしているばかりの哮天犬に、おかしいと太公望は首を捻ろうとする。
 だが顔が挟まれていて上手く行かなかった。

「……いったい、何が起こっておるのだ?」

「どうしちまったんだよ、楊戩さん。このままじゃ、マジやられるさ……」

 呼び掛けてみるものの、楊戩が太公望達の声に反応する事は無い。
 どうやら聞こえていないのか、楊戩は楊任を見つめたまま抵抗しようとしない。






 打風輪が楊戩の右足を斬り飛ばす。

「不様よのう。両手足を失うとは、お主らしくもない」

「……」

「……さて、もう反撃する力も残ってはおるまい」

 太公望の姿がブレて、姿が再び変わる。
 現れたのは、凛々しい顔つきの仙人。

「玉鼎真人……師匠……?」

 虚ろな目をしていた楊戩だったが、楊任が師である人物に変化した事で瞳に光を取り戻す。

「馬鹿な……何故お前が師匠の事を知っている!?」

「知らないさ」

「なっ!?」

「私は“私の知らない者にも変化出来る”のさ。信じる信じないはお前の自由だがね、楊戩」

 不可能だ。
 こんな変化はありえない、と楊戩は思う。
 なぜならば、変化とは他人の姿を借りる事だからだ。
 その他人を知らないのならば、変化は意味を為さない。
 伝聞で、あるいは写真で見たような少ない情報量では、変化を成功させる事は不可能なのだ。

(これは変化じゃない。どこかにからくりがあるはず……)

 楊戩は思考する。
 玉鼎真人は楊戩の喉元に、細い剣の切っ先を当てた。

「手も足も失っては、反撃する気も起きないか?
 だがお前も、弱者にやられるよりは本望だろう?
 お前の認めた者たちに殺される方がな!」

 玉鼎真人は剣を振り上げる。
 これが振り下ろされれば、楊戩は二つに両断されて死ぬだろう。


 楊戩はそれを知っている。


 玉鼎真人の振り翳す剣を見上げ、楊戩はハッと気づく。

(僕が……認めた? ……そうか!)

 楊戩は気付いた。
 玉鼎真人の、否、楊任の言葉の罠に。

 楊戩の姿が歪む。
 だが両手足を失った今、誰に変化をすれば良いと言うのか?
 誰に変化をしようと、手足を失った事は変わらない。
 だが楊戩は変化をする。
 彼の仲間には、例え両手足を失ったとしても、戦える者が居るのだから。



 変化をした楊戩の背に、六枚の翼が翻った。




「何っ!?」

 楊戩は雷震子の翼を羽ばたかせて後方に飛び、玉鼎真人の攻撃から逃れる。
 玉鼎真人が振り下ろした攻撃は、楊戩の胸を掠めるだけに終わった。
 不利な体勢から飛んだせいか、楊戩は背中から壁に激突する。

「フッ……逃げるか。だが逃げた所で何が出来る?」

「出来るさ……テメェをブッ倒す事がなあっ!」

 雷震子の荒い口調に同調するかのように、彼の周りをバチバチと光が爆ぜる。

「足下を見てみな」

「何……?」

 楊戩の言葉に、玉鼎真人はつ、と視線を足元へと逸らす。
 そこには何もない。
 ただ、水が張り巡らされているだけだ。

「そう、水だ。分かるよなぁ? 逃がさねぇぜ。
 水は電気を通すってぇのは、昔から相場が決まってるんだからよぉっ!」

 雷震子の翼の一字──『雷』が光を帯びる。
 


「雷鳴ぇぇっ!!」



 雷震子から放たれた雷は、張り巡らされた水を伝い、玉鼎真人を襲う。

「ぐおおおおっ!?」

 玉鼎真人は剣を落とし、その場に膝を着いた。
 姿が玉鼎真人から楊任の姿へと戻り、トスッと頭に被っていたシルクハットが落ちる。

「やっぱりね。今ので……自分の身体の上を流れた電気で、手足がある事を再確認した。
 君が仕掛けたからくりは、全て解けたよ」

 変化を解いた楊戩は、失ったはずの両足で立ち上がった。

「僕は手足を失ってなんかいない。そして君も、変化なんて使えない。だろう?」

「……ガッデ~ム!」

 悔しそうに拳を握り締める楊任。
 シルクハットが落ちて初めて分かる、その目の周りには、手のような模様が描かれていた。

「危うく騙される所だったよ。でも残念ながら君はミスを犯した」

 楊戩は指を三本立て、楊任に見せる。

「一つ、僕ですら出来ない聞仲や妲己、申公豹への完全な変化を君はやった。
 そんな真似を出来る者が、趙公明の部下に大人しく甘んじているはずがない。
 二つ、自分が知らない人間に君は変化した。
 そんな事は不可能にも関わらずだ。
 三つ、君は僕だけしか知らない、『僕が認めた者たち』に変化した。
 ……まるで、僕の頭の中を読み取ったかのように、ね。
 これらの疑問点を繋げると、答えは出て来る」

 楊戩は自分の頭を指差し、得意気に言った。

「君は僕の脳の一部を乗っ取った。そうだろう?」

「……」

 楊任は答えない。
 だが苦々しげなその表情から、楊戩の言葉が真実なのだと判断出来た。

「僕の目には、君が聞仲並の強敵に映っていた。
 だからこそ、ダメージもそれなりの物だと錯覚してしまったんだ。
 最初に僕に浴びせた光、あれがトリガ―だったんだろう。
 そう、君の宝貝は光によって相手の脳を支配し、記憶を見せる物だった。
 僕が戦っていたのは変化した君じゃなくて、僕が自分で作り出した相手だったのさ」

「ちっ……」

 全ては楊戩が、自分で思い描いた相手との戦いでしかなかった。

 だから勝てない。
 楊戩は未だ、聞仲や妲己といった強敵を相手に、勝つ事は出来ないと分かっていたから。

 だから哮天犬が当たらなかった。
 なぜなら楊戩は、自分が見ている楊任を攻撃しただけで、本物の楊任はそこには居なかったから。

 だから哮天犬が裏切った。
 それは楊戩自身が考え出した空想だったから。
 もしかしたら、といった考えを楊任に操られてしまったから。

「僕が今何を見ているのかを、君は僕自身に喋らせるように誘導して知り、ただそれに合わせていただけだ。
 結論、君は喋りすぎたんだよ。自分が勝てると思っている者は、口が軽くなるものだからね」

「……フッ、私の宝貝『神の見えざる手』の能力を見破ったとして、それがどうした!
 まだ私が敗れた訳ではない!」

 楊任は再び目に光を灯らせ、楊戩の脳を支配しようとする。
 だがその前に、楊任のすぐ傍を三尖刀が通り抜けて行った。
 頬を掠めたそれに、楊任が引き攣ったような声を上げる。

「君の宝貝は確かに恐ろしい。
 だが一度見破られたら終わりという脆さも持っているんだ。
 ……それでもまだやるというのなら、君のその目で確かめて見るかい?
 君と僕との間に存在する、純然たる力の差という物を、ね」

「は……」

 声にならない声を上げて、楊任は力が抜けたのか、膝を着いた。
 誰が見ても分かる、楊任の敗北だった。






あとがき

原作とはちょっと変えてみましたが、どうでしたでしょうか?
楊戩の方があの羽は上手く使えると思います。

次回は二階に行くまでのちょっとした話の予定です。



[12082] 第六十一話 趙公明攻略Ⅱ
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/04/27 00:43





「さて、あまり君に構ってられないんだ。悪いけど封神させてもらうよ」

「まあ待て、楊戩。そうビビらすでないよ、可哀想に」

 楊戩が楊任に勝利した後、哮天犬を差し向けようとしていた楊戩を太公望が引きとめた。

「しかし師叔」

「儂の勘違いかもしれぬが……そやつはもしかして、殷の宮廷画家の楊任ではなかろうか?」

「……画家?」

 太公望が言うには、楊任は殷の宮廷画家なのではないか、という事だ。
 かつて太公望は、妲己を倒すために宮廷音楽家として朝歌に潜入した事がある。
 その時に楊任の姿を見た事が有るような気がする、と太公望は言うのだ。

 扉の拘束から解放された太公望がそれを尋ねると、楊任は頷いた。

「……仰る通り、私は一月前まで、朝歌の宮廷画家でした」

 楊任は静かに語り出す。

「その時まで私は、妲己の誘惑の術テンプテーションに掛かっておりました。
 妲己ちゃん命! 妲己ちゃんこそが全て! ……そう思っていたのです」

 肩を落としたまま、楊任は言った。
 宮廷画家という物は、王家の肖像画を描いたりするものだ。
 そして楊任は宮廷画家として当然の如く、紂王の絵も描いていた。
 それが妲己の耳に入ったのだろう。

 ある日、宮廷へと呼ばれた楊任の前には、妲己が立っていた。

「ねぇん、画家ちゃん♡ 妾の絵も描いてぇん♡」

 楊任に否やは無かった。
 王妃が自分の絵を描いて欲しいという事は珍しく無い。
 何よりも、憧れであった妲己が、すぐ目の前に居るのだ。
 例え妲己が頼まなくとも、楊任の画家としてもプライドは妲己の美しさをキャンバスに留めようとしただろう。
 天にも昇る気持ちで楊任は筆を取った。
 夢中で筆を動かし、妲己の美しさを表現した。

「……そして遂に、私の最高傑作が完成したのです」

 それは確かに、楊任の持つ全てを注ぎ込んだ渾身の作品であった。
 これ以上の物は後にも先にも存在しないと、そう断言できる程に。
 しかし……

「あなたに目は必要ないようねん♡」

 妲己は楊任の描いた絵を気に入る事は無かった。
 それどころか気を悪くし、憂さ晴らしとばかりに戯れで楊任の目を抉り出した。
 だが楊任はそれでも良かった。
 妲己に殺されるのならば本望、とまで思っていたのだから。
 そして至福の中で、命の灯が消えようとした時だった。

「君かい? このトレビアーンな絵を描いたのは?」

 楊任の前に、趙公明が姿を現したのだ。

「僕は芸術を愛でる男。君のような素晴らしい才能と髪型の持ち主を、このまま死なすのは惜しい」

 そして趙公明のお眼鏡に叶った楊任は、外科手術で仙人骨を移植された。
 新しい両目であり、宝貝でもある『神の見えざる手』を与えられ、趙公明に仕える事になった。

「……以上が、私が貴方達と戦う事になった経緯です」

「素晴らしい髪型……いや、それにしても……」

 楊任の髪型を遠い目で見ながら、太公望は楊任に尋ねた。

「あの妲己を怒らすとは、相当の物だぞ。お主、いったいどんな酷い絵を描いたのだ?」

「酷いとは失礼な!」

 楊任は憤慨する。

「私は確かに最高の絵を描いた! ゲルニカなんぞに負ける事の無い、最高傑作を描いたのだ!」

「……ああ、もう良い。どんなのを描いたのかよく分かった……」

 尚も自分の作品の出来栄えを自慢しようとする楊任を手で制する。
 それは怒るだろう、と太公望は力無い溜め息を吐いた。

「おーいスース! 王様を助けたさ!」

「ふぅ……マジで死ぬかと思ったぜ……」

 天化は砂時計を切り裂いて、閉じ込められていた姫発を解放した。

「身体中が砂まみれだ。気持ち悪ぃ……」

 歩く度に砂が服の間からざらざらと落ちて来て、姫発は不快気に顔を顰める。

「何とか一人、助け出せたか。
 楊戩、お主は武王をこの船から送ってやれ。
 ここは人間には危険過ぎる」

「それは良いのですが……師叔、くれぐれも気を付けて下さい」

「む?」

「敵は想像以上にハイレベルのようです。甘く見て命を落とさぬよう」

「そうだのう」

 楊戩の忠告に、太公望は頷いた。

「特に貴方は今、宝貝が使えないんですから。
 この先の戦いは、天化君が全て引き受ける事になりますし」

「うむ。だが大丈夫であろう」

 カカカ、と太公望は楊戩の懸念を笑い飛ばす。

「哪吒達もすぐに合流するはずだからのう。だから天化一人に、無理を押し付けるような真似はせぬよ」

「達? ……ああ、そうですか。分かりました」

 太公望の言葉に楊戩は頷くと、姫発を乗せた哮天犬に自分も乗った。

「よし、では儂らも行くとしようか」

「待ってくれ、太公望」

 先へ進もうとする太公望を、楊任が呼びとめた。

「私を封神しないのか?」

「……お主、今は妲己をどう思っておるのだ?」

「どうって……既に誘惑の術テンプテーションは切れているんだ。
 今は目を抉られた憎しみしかない」

「おいおい、スースよぉ……まさかまた敵をやらねぇってのかい?」

「だがな天化よ、こやつは好きで戦っておるのでは無さそうだ。
 ならば無駄な犠牲は出さぬ方が良い。これが儂のやり方だ」

「甘いさ」

「儂は甘いのが好きだ。
 座右の銘に『糖分』と書いて、額縁に入れて飾っても良いくらいだしのう。
 時間もおしておるし、キリキリ進むとしよう」

「へいへい。そんじゃま、行くとしますか」

 天化が莫邪の宝剣を振るって、扉を切り崩した。
 太公望と天化は先に進み、後には楊任だけが残された。







「フフフ……」

 水晶に映る太公望達を見ながら、趙公明は笑う。

「見たまえ、スープ―シャン君。太公望君達はなんとか一階を突破したようだ。
 楊戩君が何を見たのかは気になるけれど、まあそれは良いとしよう。
 元々、楊任君には期待していなかったしね」

「趙公明さん、ここから出すッス!」

「それは駄目さ」

 チッチッチ、と趙公明は指を振る。

「太公望君に助けてもらう以外に、君が生き延びる道は無いんだよ。
 それがこの戦いのルール。
 君の死は非常に辛いけれど、僕にはどうする事も出来ないんだ……」

「貴方がやっている事ッスよ!」

「しかぁしっ!」

「話を聞いて下さいッス!」

「二階に居る召使いからはもっと手強くなる。
 一階のように、簡単には行かないよ。
 ハ――─ッハハハハハハハハハハ!!」

「……テンション高いッスね」

 はぁ……、とスープ―シャンは溜め息を吐いて、何を言っても無駄なのかと項垂れた。






 二階へと続く階段を見上げ、太公望は面倒臭そうに溜め息を吐いた。
 階段は宙に浮く巨大な円柱を取り囲む螺旋階段となっていて、大小様々な四角いブロックが浮いている。

「よいしょ……っと」

 一段目に足を掛けた太公望は、いきなり二段目から躓いた。
 一定の間隔で構成されている訳ではない階段。
 足場が大きい所もあれば、片足でバランスを取らなければならない場所もある。
 当然、段差がキツイ所もあるのだ。

「うう……何ともキツイ階段よのう……」

 二段目に手を掛け、爺臭い掛け声と共に身体を持ち上げてモタモタとよじ登る。
 普通の人間となっている今の太公望にとって、この道のりは険しいものだった。

「ああもうっ! 何で儂がこんな目に会わねばならんのだ!」

 のたのたと歩を進めるも、あまりの遅さに太公望自身が苛立ちを覚える。

「趙公明の奴が何考えておるのか、儂にはさっぱり分からんぞ。
 だいたい、何でわざわざ儂らと戦おうとしておるのだ?
 鬱陶しいったらありゃしない」

「俺っちに聞かれても分かんねぇさ……」

 太公望のあとをついて行く天化が苦笑する。
 分かるのは、こんな大規模な事を平然とやる変人という事のみだ。
 それはあの立体宝貝を見た瞬間から皆の共通認識となっているので、今更である。

「まあそんな事より……先行くぜスース」

「あっ!? 待て天化!」

 ヒョイッと太公望の上を飛び越え、天化は先に進む。

「スースのスピードに合わせてたら、二階の人質が砂に埋もれちまうさ!」

「こら、儂を置いて行くで無い!」

 と太公望が呼びとめようとするのだが、既に天化は太公望に追いつけない速さで昇って行った。

「うう……儂は今、ただの人間になっておるのだぞ。もちっと気遣って欲しいものよ」

 一人ぼっちで寂しく階段を上り続ける太公望だったが、その耳に聞き慣れた轟音が飛び込んで来る。
 飛行する風火輪が出す音だった。
 その持ち主は太公望のすぐ傍を通り過ぎ、真っ直ぐ上に向かって飛んで行く。

「哪吒……宝貝の修理が終わったのか」

 先を越された事で、太公望が焦りを覚える。
 急がなければ、この船ごと川に沈む事になる。
 太公望の脳裏に、ありありとその光景が幻視された。

「うう……随分と高い所まで昇ったのう」

 落ちたら間違いなく死ぬであろう高さにまで来た事で、太公望の頬を汗が流れる。
 明かりが設置されている事も無いので、最早一番下は見る事が出来ず、そこには闇が広がっていた。

「鉄骨渡り程ではないが……これも十分にキツいのう……ん?」

 下を見ていた太公望が、少し下の階段に別の人影が蹲っているのを発見する。
 ガタガタと震えていたのは太乙真人だった。
 太公望は太乙真人の下まで降りて尋ねた。

「太乙、お主いったい何しに来たのだ?」

「おお、太公望!」

 太公望の姿を見た太乙真人は、地獄に垂れ下がった一本の蜘蛛の糸を見つけたかのように安堵の表情を浮かべた。

「いやあ、哪吒の調子を見ようと思って来たんだけど……」

「高所恐怖症のお主にしては、よくぞここまで……」

「それはさておき、良い所へ来てくれた。
 君に上げた義手の小指のスイッチを二回クリックしてくれ」

「小指の? ……ぬおおおおっ!? 手が伸びた!?」

 言われた通りに小指についていたスイッチを二回リズム良く押すと、ニューッと太公望の左手が伸びた。

「ボタンを二回クリック後三分間は、君の意志で伸び縮みするんだ。
 それで頂上に手を掛けて戻せば、あっと言うまに昇れるはずだ」

「お主人の手を何だと思っておるのだ!?」

「ああっ止めて蹴らないで! 落ちる! 落ちちゃうぅっ!」







 一方、先に昇って行った天化は、上を見上げてふうと一息吐く。

「……どんだけでかいんさ、この船は……」

 結構昇ったものの、まだ一番上には辿り着かない。

「スースにはキツイだろうな」

 自分は大丈夫だが、ただの人間になっている今の太公望には、昇るだけで一苦労だろう。
 楊戩の言った事もあるし、この先にどんな敵が待ち構えているか分からない。
 だからこそ、天化は先に進んだのだ。
 天化には、守りながら戦うという器用な真似は難しいから。

 その天化の傍を、哪吒が通り過ぎて行く。

「しまったぁ! ぼんやりしてたら宝貝人間が来ちまったさぁ!」

 このままでは出番が取られる。
 そう思った天化は先を急ごうとした。
 だが……

「……は?」

 目の前を、下から伸びて来た腕みたいなものが通り過ぎて行く。
 しかもそのすぐ後に腕が縮み、太公望らしき姿が太乙真人と一緒に昇って行くのを見た。

「な、何さ、あれ……」

 自分の目がおかしくなったのかと、天化は目を瞬かせる。

「フフフフフ……」

「夢じゃ無かったさ!?」

 天化の目は正常だったようで、わざわざ降りて来た太公望と鉢合わせする。

「や、やあスース? ちっと見ない間に、随分と人間止めたっぽい──」

「お主、さっきはよくも置き去りにしてくれたのう。
 お主には一人ぼっちで階段を昇っていた、儂の孤独な道のりは理解出来まい」

 一人で階段を昇っていたのは天化も変わらないのだが、太公望は気にしない。
 そもそも、まだ別れてから十分程度しか経っていないのだが。

「ま、まあ待つさスース。こうしてまた会えたんだから、ここは再会を喜ぶべき所さ」

「そうだのう。儂が間違っておったな。ならば一緒に行くとしようではないか」

 そう言って、太公望は天化に向けて、開いていた右手を差し伸べる。
 ホッと安堵した天化がそれを掴み、ぶら下がった所で太公望が言った。

「おっと! そういえば儂は今“ただの”人間であったな。
 人一人を儂が腕一本で支える等、どだい無理があったのう。
 そういう訳で天化、悪いが離れてくれ」

 わざとらしくそう言って、太公望は天化の手をパッと離した。

「……へ?」

 既に足場から離れていた天化は、呆気に取られたまま深い闇の底へと落ちて行く。
 太公望の背にしがみ付いて、一連のその行いを見ていた太乙真人が言う。

「極悪なり、太公望……」

「かーっかかかかかかか!」

 外道な笑みを浮かべる太公望。
 一度持ち上げてから落とすという、このような非道な行いを、何故敵ではなく味方にばかり向けるのか。
 最早それは太公望だからだ、としか言えない。
 天化ならば落ちた所で怪我する事は無いと知っているからこそ、ここまで残酷な真似を平然と出来るのだろう。
 天化が聞いたのならば、そんな信頼は欲しくないと言うに違いない。

「……ところで太公望、土行孫知らない?」

「土行孫? いや、見ておらぬが……あやつがどうかしたのか?」

「哪吒の修理が終わった後、こっちに向かう前に声掛けようかと思ったんだけど、姿が見えなくてさ……」

「ふむ……」

 太公望が首を傾げる。
 自分達はすぐにこの船へと飛んで来たため、置いて来た土行孫を見る事が無いのは当然である。
 特に、情緒不安定になっている今の土行孫が何をするかなど、予測は出来ない。

「あやつの事も気になるが、それを今言っても仕方あるまい。
 それより、何か用事でもあったのか?」

 大した事じゃないんだけど、と太乙真人は前置きして続けた。

「以前あの子に渡った宝貝の事なんだけど、全然使ってる気配が無くてさ。
 いつもならどうだったのか、ちゃんと感想を言ってくれるんだけど、今回はそれが無くてさ。
 僕が直接渡したんじゃなくて、あの子が人間界に降りる時に白鶴経由で渡ったから、本当に持ってるのか聞きたかったんだよ」

 もしかしたら何かすれ違いがあって土行孫の下まで渡っていないのではないか、と太乙真人は思ったらしい。

「なるほどのう……で? 今度はどんな宝貝を渡したのだ?」

「それがね、聞いてくれよ太公望! 今度の宝貝も結構な自信作なんだよ。なんとあの──」

 太公望に尋ねられて興奮したのか、太乙真人は宝貝自慢を始めた。






 二階へと続く道を昇りながら、哪吒は半ばまで昇った所で立ち止まった。
 鼻を鳴らし、辺りを見回す。

「……? 懐かしい匂いがする……」

 趙公明の船に乗るのはこれが初めてだというのに、哪吒の鼻はその存在を捉えていた。
 決して不快ではないその匂いの正体が分からず、哪吒は珍しく戸惑いを浮かべる。
 試しに上昇してみると、その匂いが濃くなった。
 いてもたってもいられず、哪吒は今まで以上に宝貝に力を込めて先へ進む。
 そして二階へと辿り着いた哪吒の視線の先には、三人の人間が居た。

「やあ、良く来てくれたね、哪吒」

 その内の一人、小柄な体躯の少年が、哪吒を歓迎する。
 初めて見る顔に敵だと判断した哪吒は、反射的に乾坤圏を撃とうと身構える。
 ……だが、乾坤圏が撃ち出される事は無かった。
 少年のすぐ後ろ、椅子に座ったままの女性の存在が、哪吒が攻撃する事を躊躇わせたのだ。

「あら哪吒、久しぶり。元気にしてた? 風邪とかひいてない?」

「……母上」

 優雅にティーカップを傾けていたのは、哪吒の母──殷氏だった。







あとがき

特に何でもない繋ぎのお話。



パソコンが壊れて兄貴の古いノーパソ貰ったんですけど、これだと哪吒って表記出来る事に気付きました。
だから気が向いた時に、今までのカタカナ表記を修正していきたいと思います。



[12082] 第六十二話 趙公明攻略Ⅲ もう一人の宝貝人間
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/05/20 01:30




 クイーン・ジョーカーⅡ世号、二階。
 太公望が太乙万能義手の力を借りてその場に辿り着いたとき、辺りは驚くほどに静まり返っていた。

「ふう、やっとついたのう」

 全て義手まかせの登り方だったのだが、面倒だった事には変わりがない。
 掻いてもいない汗を拭い、何やら大仕事を済ませたかのようにホッと息を吐く。
 さて人質はどこだろう、と太公望が顔を巡らすと、一階にあった物と同じ大きな砂時計を発見する。
 中に入っていた人質も太公望の姿を発見して声を上げた。

「ん゛ーっ! ん゛ーっ!」

「李靖ではないか」

 砂時計の中に閉じ込められていたのは、哪吒の父である李靖であった。
 だが一階の姫発とは違って縛られているらしく、猿ぐつわを噛まされていて何を言っているのかを判別する事は出来ない。

「崑崙山で修行しておるはずのあやつが、何故ここにおる?」

「確か何日か前に君たちの助っ人として下山していたはずだけど……どうやら途中で捕まったみたいだね」

 太公望の疑問に、太乙真人が答える。
 言葉にならない声を洩らす李靖に、太公望はおかしいと感じた。
 李靖は哪吒に嫌われている。
 太公望が哪吒と出会ったとき、哪吒は李靖を殺そうと追いかけ回していた程なのだから。
 それを知っている太公望は、視界の端に哪吒の姿を捉えながら、それでも攻撃をしない哪吒に違和感を感じた。

「哪吒の性格からすれば、李靖では人質にはならぬ。
 儂らを待つまでもなく、もう戦い始めていてもおかしくはないというのに」

「あの子は喧嘩っ早いからね」

 太公望達が知る哪吒ならば、もし人質が李靖と分かった時点で、躊躇する事はないだろう。
 『丁度いい。そいつ諸共殺してやる』と、敵を吹き飛ばすはずだ。
 哪吒が敵を吹き飛ばさないのは理由がある。

 李靖の閉じ込められている砂時計の隣に、一人の少年が立っていた。
 線が細く、一階で見た楊任とはまた別の形の長帽子を被っているのが特徴だろう。

「あれが敵か? ……なんかイメージと違うのう」

 哪吒と戦うのだから、いっそ巨大なロボットが出てきてもおかしくないと思っていた太公望は、拍子抜けしてしまった。
 どんな宝貝を持っているのかは分からないが、哪吒が負けることはないと安堵したとも言える。

「ねえ太公望、そんなことより彼の後ろを見てみなよ」

「ああ、分かっておる。李靖もそうだが、殷氏までおるとはのう」

「きっと殷氏が捕まったから、李靖も大人しく捕まるしかなかったんだ」

「あるいは逆、ということも考えられるのう。李靖と殷氏で扱いの差が大きいし……」

 太公望、太乙真人、哪吒、李靖、敵らしき少年、そして殷氏。
 それがこの場にいる全員だ。
 だが殷氏は人質でありながら、李靖のように酷い扱いはされていない。
 拘束されている訳ではないし、身体に汚れが付いている様子も無い。
 哪吒の事を知っているが故に、人質として攫っておきながら、手荒な真似は出来なかったという事だろう。
 だがしかし、それでも殷氏の今の状況は、太公望を不快にさせていた。
 なぜなら……、

「何故儂らがえっちらおっちらと階段を上っている時に、殷氏の奴は暢気にアフタヌーンティーを飲んでおるのだ!?」

 太公望達は人質を助けに来たというのに、その人質は優雅に紅茶を飲んでいる。
 釈然としない思いがあるのは当然だった。

「ま、まあまあ太公望、落ち着いて。
 殷氏は普通の人間なんだから、無事だっただけでも良しとしようじゃないか。
 ……っていうか、怒る所はそこ?」

「何を言う! 儂だって茶が飲みたい!」

 ムキーッと暴れようとする太公望を、太乙真人がどうどうと抑える。
 そんなギャーギャーと喚く彼らの足元に、ゴッ! と音を立てて乾坤圏が突き刺さった。

「うるさい!」

 苛立たしげに太公望達を一瞥した哪吒は、殷氏の方へと向き直る。

「母上……怪我はないか?」

「ええ、大丈夫よ。私はただ、馬元君とお話してただけだもの」

「馬元?」

「俺の事だよ」

 殷氏の傍に立っていた少年が、手を上げて自分の存在をアピールする。
 彼が馬元、太公望達の行く手を阻む二階の敵なのだ。
 馬元は殷氏の隣を離れると、三階へ続く扉をトンと叩いた。

「俺が二階を守るように趙公明様に言われている馬元だ。
 この扉を通りたいなら、俺を倒さないといけない」

「ふん、弱そうな貴様に興味は無い」

「はは、殷氏さんから話は聞いていた通りだね、哪吒」

「死ね!」

 馬元が殷氏の隣を離れたのを契機とみたか、哪吒は乾坤圏を撃ち放つ。
 見た目からして弱そうな馬元ならば、当たればひとたまりもないだろう。
 だが馬元はその口元に浮かべた小さな笑みを崩すことはなかった。

 馬元は懐から取り出した宝貝――先端がパラボラアンテナのようになっている銃――を飛来する乾坤圏に向けて撃った。

「っ!?」

 集束した光線が乾坤圏に当たり、乾坤圏は進路を変えられて、全然関係の無い場所へと着弾する。

「つれないな、哪吒。もっと話そうじゃないか。
 身近にはお父さんくらいしかいなかったから、会話に飢えてるんだよ、俺はね。
 ……ああそうだ、今その手に戻した乾坤圏を見てみると良い」

「……これは」

 馬元に言われ、哪吒が手元に目をやり、訝しげな表情を浮かべる。
 乾坤圏がボロボロになっていた。
 哪吒が手で触れてみると、硬い銅で出来ている乾坤圏から、パラパラと破片が落ちて行く。
 脆くなっていた。
 乾坤圏は金属特有の光沢が消え、弾性も何も、そこには既に存在していなかった。
 錆びている……否、腐っていると言っても良いだろう。
 それだけならば、まだ良い。
 今まで乾坤圏を破壊される事はあったからだ。
 問題はそれだけではない。
 馬元に向けて撃った乾坤圏を付けている腕、そこがピリピリと痺れを訴えていた。
 乾坤圏の下の皮膚が、どす黒く変色している。

「この宝貝『瘟㾮傘おんこうさん』はウイルスを撒く事が出来るんだ。
 ……ああ、ウイルスって言ったら語弊があるかもね。
 人だろうと宝貝だろうと関係なく効果があるこれを、一応ウイルスと呼んでいるだけだから。
 ……尤も、何にでも使えるようにしたせいか、ウイルスって割には空気に弱くてね。
 すぐに死滅するから、あまり大したことは出来ないんだけど。
 普通の人間でも、余程の事が無い限りは死なないよ」

「ウイルス……?」

 馬元のその言葉と、手元からじわじわと広がって来る覚えのある痺れに、哪吒はある男の顔を思い出した。
 哪吒のその表情を見て納得したのか、馬元は挑発的に笑う。

「思い出したかい? そう、僕はあの呂岳の息子なんだよ」

「呂岳だと!?」

 軽い調子で放たれた言葉に、太公望が驚愕する。
 そのリアクションに満足したのか、馬元は笑いながらそうだよ、と頷いた。

「といっても、養子なんだけどね」

「いやしかし、養子とはいえ、あやつに子供がおったとは……」

 信じられそうもない事実。
 だが先ほど馬元が使用した瘟㾮傘は、以前相対した呂岳の武器を思わせるものであった。
 それが何よりも呂岳と馬元との間を繋ぐ関係性を表しているように感じさせる。
 だが、馬元が呂岳の子であると自分で口に出しておきながらも、太公望は首を傾げざるを得なかった。

「呂岳の息子であっても、呂岳と同じではないという事か」

 確かに、馬元は呂岳の子なのだろう。
 だがその眼には、邪気が感じられないのだ。
 哪吒に対しての確執のようなものはあれど、その本質は邪悪ではない。
 殷氏の扱いを見れば分かるだろう。
 もしこの場に居たのが馬元ではなく、呂岳であったのなら。
 その時彼女は、今の様にのんびりティータイムとは行かなかっただろう。

「ふん、そんな事はどうでも良い」

 哪吒は馬元を一蹴する。
 哪吒にとって、呂岳とは既に過去の存在だ。
 言われるまで名前すら忘れていた存在なのだ。
 この手で封神し、それで終わった出来事なのだ。
 故に、どうでも良い。
 目の前にいるのが敵である事には変わりが無いのだから。

「どうでも良い、か。本当にそうかな? 俺にはとってはそれが、とても大切な事なんだけどな」

 馬元は苦笑して肩を竦める。

「もう一度だ」

 哪吒はボロボロになった乾坤圏を再び構える。
 今度は逸らされないよう、より力を籠めて撃った。

「無駄だよ」

 馬元は瘟㾮傘を飛来する乾坤圏に向けてトリガーを引く。
 瘟㾮傘の銃弾が乾坤圏に炸裂すると、またも乾坤圏は明後日の方角へと飛んで行く。
 だが馬元はそこで止めることなく、今度は哪吒へと照準を合わせてトリガーを引いた。

「乾坤圏はまっすぐ飛ばす事に特化している。少しでも形が崩れれば、自ずとずれていくさ」

「くっ!」

 喋りながら撃ち出される馬元の攻撃を、哪吒は避け続ける。
 ただの光線ならば、哪吒は気にする事も無いだろう。
 腕が取れても、足がもがれても、哪吒は止まる事は無い。
 だが馬元の瘟㾮傘は違う。
 受ければ受けるだけ、宝貝人間である哪吒であっても動きが鈍ってしまう。
 それはいけない。
 戦いの最中に動けなくなるなど、あってはならないことだ。
 だから哪吒は避け続ける。
 しかし、絶えず放たれる馬元の攻撃から、いつまでも避け続けることは出来ない。
 何より、哪吒の性に合わない。

 そして哪吒は、一直線に馬元に向けて飛ぶ。
 最短のルートだ。

 遠距離からの攻撃は効かない。
 乾坤圏が当たらないのは二度も見せられた。
 金磚では離れているとはいえ、母の殷氏にまで当たってしまう。
 そして火尖鎗。
 これもまた効果が無いだろうと、哪吒は直感で理解していた。
 馬元の反射神経と動体視力は群を抜いている。
 馬元は哪吒の乾坤圏を、哪吒が撃った“後”に、懐から取り出した瘟㾮傘で撃ち落としたのだから。

 だが反撃手段が無いのならば、近づいて攻撃すれば良い。
 ただそれだけを考え、哪吒は馬元に向けての最短ルートを翔け抜ける。

 馬元は哪吒に向けて瘟㾮傘を撃つが、哪吒は回避を捨て、それを全て左腕一本で受け止めながら突き進む。
 馬元を倒すためには、腕を一本犠牲にしなければならないと判断したのだ。
 盾にした乾坤圏が砕け、腕が焼かれながらも、哪吒は突き進む。

「くっ!」

 捨て身で特攻してくるとは思わなかったのか、初めて焦りのような物が馬元の顔に浮かぶ。
 哪吒は近くまで来ると腰に手をやり、混天綾を馬元に叩きつけるように手放した。

 一瞬

 一秒にも満たないその瞬間、両者が互いの姿を見失う。
 その隙を突いて、哪吒は攻撃を仕掛ける。
 上か? 下か? 右か? 左か?
 否、そのどれも哪吒は選択しない。
 選んだのは前、回り込む事はせず、そのまま真っ直ぐ突き進む。
 突き出した火尖鎗は視界を塞ぐために投げた混天綾を貫き、その先にいる馬元へと突き立った。
 肉を貫く生々しい感触が、哪吒の腕に伝わる。

 だが同時に、混天綾にもう一つの穴が空いた。
 目を見開き、躱そうとする哪吒。
 だが完全に避ける事は叶わなかった。
 あまりにも哪吒は近づきすぎたのだ。
 瘟㾮傘の光は、体勢を半身にする事が精いっぱいだった哪吒の胸部の肉を巻き込み、抉って行った。

 その衝撃で、哪吒は後ろへと飛ばされる。
 火尖鎗も哪吒の手からすっぽ抜けてしまった。
 乾坤圏に付着したウイルスがじわじわと腕に広がり、哪吒の握力が弱くなっていたからだ。

 そして火尖鎗を身体に受けた馬元は、壁に叩きつけられて膝を着く。
 とっさに身体を逸らしたのだろう。
 火尖鎗は体幹には当たらず、左肩を貫いた所で止まっていた。
 馬元の被っていた、背の高い帽子が落ちる。

「なっ!? それは……!」

 それを見て、皆が息を呑んだ。



 馬元の頭部には、髪が無かった。

 馬元の頭部には、皮膚が無かった。

 馬元の頭部には、骨が無かった。


 あるのはただ一つ、

「あれは……霊珠?」

 太乙真人が馬元の頭部にあるそれを見て、ぽかんと口を開ける。。

 霊珠。
 仙人達の作った宝貝の中でも最高傑作と言われる、人工的に仙人を作り出す事が可能な宝貝。
 宝貝人間が宝貝人間であるための核となる存在。
 そして馬元の頭には、剥き出しになった霊珠があった。
 それが意味する事はつまり……

「宝貝人間……」

「どうやら金鰲島の方でも、宝貝人間の開発は行われていたらしいね」

 でも、と太乙真人は続ける。

「何だあれは……霊珠が剥き出しになってるなんて、いくらなんでも杜撰過ぎるよ」

 太乙真人が馬元を見て顔を顰める。
 無理もない。
 馬元の霊珠は文字通り剥き出しになっていて、頭蓋骨に守られる事すら無く、そこにあったのだから。

「……あーあ、出来れば見られたくはなかったんだけどなぁ」

 槍が身体を貫いているというのに、馬元は痛みに顔を歪める事は無かった。
 ただ緩慢に立ち上がり、肩から生えた火尖槍を見て不快そうに顔を顰める。

「痛みなんかとっくの昔に無くなってるけど、突き刺さったままってのはあまり良い気分じゃ無いね」

 馬元は火尖槍を引き抜くと、ポイっと哪吒へと投げ返した。
 火尖槍を受け取った哪吒は、馬元の意図が分からずに怪訝な顔で馬元を見返す。

「ねえ哪吒。正直に言って、俺は半信半疑だったんだよ。
 俺以外に宝貝人間が居るって事が。でもそれは今、証明された」

 火尖槍によって蓋をされていた腕から止め処なく流れるが、馬元は気にした様子もなく哪吒を見つめる。
 否、正確には、哪吒の胸部をだ。
 先程の馬元の攻撃によって、哪吒の胸部の肉は削り取られ、内部が覗けていた。
 そこに見つけたのだ。馬元と同じ、霊珠の存在を。

「この頭の霊珠を見ての通りだから、同じ宝貝人間の哪吒とは兄弟って事になるのかな?
 俺が兄で、哪吒が弟。
 ……ああでも、俺が宝貝人間になったのは生まれた時からじゃなくて、後から移植されたものだからね。
 だからやっぱり順番としては、哪吒の方が兄ってことになるのか……」

「後天的に……太乙、そんな事は可能なのか?」

「出来ない訳じゃないよ。
 馬元の霊珠が哪吒の物と同じなら、霊珠は失った臓器の代わりに機能させる事が出来るからね」

 でも、と太乙真人は言葉を濁す。

「霊珠によって生まれた訳じゃないなら、霊珠は元々あった臓器を摘出しないといけない。
 馬元は頭、それも頭部全体が霊珠だからつまり……」

 馬元のような宝貝人間を作るためには、一度脳を摘出しないといけない、ということだ。
 例え代用出来ると言っても、普通ならばやる筈がない。
 だが現に目の前に、その存在がいる。

「別に……貴方達が考えているように、俺はお父さんが俺を宝貝人間にした事が、悪い事だとは思っていないよ。
 強くなりたい、という俺の願いを、お父さんは叶えてくれたんだから。
 それから俺は霊珠を埋め込まれて、願いどおりに強くなって、そして……」

 そこまで言った所で、馬元は口を閉じた。
 饒舌であった今までからすれば、目を伏せる馬元の姿は、おかしいという印象を抱かせる。
 だがすぐに顔を上げると、ニコッと笑った。

「にしても、やっぱり強いな、哪吒は。
 初めて戦う俺からしたら、経験を積んでいる哪吒にはとても勝てそうに無いよ。
 いくら身体能力を強化してても、思い通りになんか行かないものだね」

 馬元は唯一の武器であった瘟㾮傘を落とす。
 軽い音を立てて地面に落ちたそれを気にする事も無く、哪吒をジッと見据えたまま馬元は続ける。

「本当なら、俺の予想ならもっと違っていたんだよ?
 殷氏さんを見たらもっと取り乱すと思っていたし、俺を見たら言葉なんて聞かずに襲いかかって来ると思っていた。
 何が哪吒をそう変えたんだろう? でも、そんな事は今は別にいいか。
 何もかも予想外で、俺に勝ち目なんて全然無いって事が良く分かったよ」

 馬元は両手を上げる。
 その通り、お手上げという事だろう。
 これで終わりか、と太公望が息を吐こうとした時、馬元は笑った。

「じゃあ……」

 何処に隠し持っていたのか、いつの間にか馬元の右手には、細い注射器が握られていた。

「予想外には、予想外で対抗するしかないよね?」

「なっ、馬元、お主いったい何を――」

「こうするのさ!」

 太公望が言い終える前に、馬元は注射器の先端を自らへと向け、剥き出しになっている霊珠へと突き刺した。
 注射器の中の液体が流れ込むにつれて、馬元の身体がブルブルと震え出す。

「ぐっ……あああ……!」

 馬元は酷寒の地に一人佇んでいるかのように身体を震わせ、自らの身体を抱き締めるように腕を回した。

「お主……何を打った?」

「ぐぐっ……強くなる、薬さ……がはっ」

 立つ事すらもままならなくなったのか、馬元は膝を着き、手で身体を支える。
 その背中がボコボコと内側から盛り上がる。
 地面に着いた手が、一回りも二回りも大きくなって行く。

「何故……だ、馬元」

「何故かって? そんなの……分かり切ってるだろう?」

 姿が段々と変わって行く馬元を見て、思わず声を洩らした哪吒に、馬元は今さらと言わんばかりに首を振った。

「強くなりたいんだ。強くなって、強くなって……。
 ただそれだけが、俺が力を手にしたいと思った理由……。
 この薬も、強くなりたいっていう俺の願いを叶えるために、お父さんが作っていた物。
 だから、詳しい事は知らない。何も……調べなかった」

 馬元は呂岳の作ったその薬を、事前に調べる事が出来た。
 呂岳は既に封神されているのだから。
 後に残された物を、好きに使った所で誰も文句を言う者は居なかった。
 瘟㾮傘もそうだ。
 残された研究データを読み、自分用に調整して作り上げた宝貝だ。
 だがこの薬は、調べる事無くそのまま使用した。
 危険だとは分かっていた。
 しかし、それでも解析する気にはなれなかった。

「解析して、それでどんな物なのか分かれば、使えないと思ったから……。
 どうなるかなんて分からない。……けど、こんなになるなんて、流石に思ってなかったな……」

「……お主、呂岳がいったい何をしていたのか、知っておるのか? おそらく、あやつはお主を──」

「……知ってるよ」

 段々と変質している自分の身体を見下ろしながら、馬元は頷いた。
 痛覚は消えていると言っていたのに、それでも苦悶を浮かべながら。

「全部、知っている」

 馬元は最初から全てを知っていたのだ。
 呂岳が何をしているのかを。
 馬元という実験体を使って、何をしていたのかを。
 呂岳が馬元を見る目は、息子を見る目では無かった。
 あれはただ、出来の良い『作品』を眺める目だったのだと、馬元は感じ取っていた。

「……なあ、哪吒。お父さんは、死んだ方が良かったんだと、俺も思うよ。
 封神された方が人のためになったんだと、誰もが言うと思う。
 でも……それでもさ……」

 呂岳はお世辞にも良い奴だと言えなかった事は、馬元も理解している。
 封神されて当然の下種だったと、馬元も分かっている。
 だがそれでも、呂岳は父だったのだ。
 例え血が繋がっていなくても。例え、呂岳が自分を見ていなくても。

 ならば、このやり場の無い想いは、何処へ向ければ良い?
 父を殺された怒りは、何処へ向ければ良い?

 決まっている。



「俺は…………おで、は………………お、おお、おおおおおおおおっ!!」



 馬元が吼えた。


「……馬元」


 哪吒は小さく呟き、姿を変えて行く馬元を、ジッと見つめていた。






あとがき

呂岳が封神されているんで、此処はオリジナルの展開です。
馬元は残された研究データから自作の宝貝が作れるくらいに優秀というオリ設定になりました。
原作での元の馬元のセリフって一コマしか無いんで、口調が分からないです。

今回で五十万PV行きました。
ありがとうございます。
今後とも、よろしくお願いします。




さて、次回のぼくのかんがえたそれなりにかっこいいしゅじんこうは……

A馬元を殺す。
B馬元を倒す。

の、どちらかです。
まだ決まって無いんですよね。



[12082] 第六十三話 趙公明攻略Ⅳ 越えるべき壁
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/05/20 01:36





「おおおおおおおおおっ!!」



 馬元が咆哮する。
 巨大化した身体で、鋭く伸びた爪を振り回して。
 先程まで理知的な輝きを宿していたその瞳は、今はただ獰猛な獣の眼差しをしていた。
 異形ともいえるその姿は、四肢と頭がある事から、辛うじて人型なのだと判別出来るレベルだ。
 全身が筋肉と言わんばかりに身体は張り詰めたその鎧に覆われ、がっしりとした首に頭が支えられている。
 そして身体の表面の至る所に、筋のようなものが浮かび上がっていた。
 肥大化していると言っても血管にしては太過ぎるそれは、馬元の身体を走る神経の束なのだろう。

 元は人間であったのに、今の姿は妖怪と言って良い変貌ぶりだった。
 人を原型とした、妖怪仙人だ。

「馬元……」

 変わり果てた姿となった馬元を見つめ、哪吒はその名を呼ぶ。
 だが返って来たのは、獣の雄叫びだった。

「おおおおおっ!」

 技術も何もない、力任せの大振りの一撃を馬元が放つ。
 哪吒はそれをひらりと避けると、拳を振り抜いて出来た一瞬の空白を狙って片方残っている乾坤圏を構える。
 だが撃ち放つ前に哪吒は、馬元が腕を振り抜いた勢いを利用して回転するのを見た。
 掬い上げるように裏拳が迫り、哪吒はそれをまともに喰らってしまう。

「がぁっ!?」

 浮き上がった哪吒を捕まえ地面へと叩き付けた馬元は、重い両腕を哪吒目掛けてハンマーのように振り下ろした。
 先程の少年の姿をしていた馬元からは想像も出来ない重い一撃に、哪吒の身体が床を砕いてめり込んだ。
 床石に蜘蛛の巣のような亀裂が入った。
 追撃を掛けようと馬元は足を上げる。
 踏み潰そうと降ろされた足を喰らうものかと風火輪に力を籠め、股の間をかいくぐって哪吒は馬元の後ろへと回り込んだ。

「ここだ」

 馬元の後頭部目掛けて、哪吒は乾坤圏を構える。
 幾ら真っ直ぐに飛ばなくなっていると言っても、この距離から外すような真似はしない。
 哪吒は乾坤圏に力を籠め……馬元の霊珠を見た。

「……ちっ」

 哪吒は小さく舌打ちすると、何故か乾坤圏を撃つ事無く降ろした。
 その哪吒を馬元の鋭く尖った爪が襲う。
 爪が哪吒の身体を貫く前に、哪吒は馬元の身体を蹴って後方へと飛んだ。
 そのまま攻撃に転ずる事無く、哪吒はフロア内を縦横無尽に飛び回る。
 馬元もその巨体に似合わぬ俊敏さで、哪吒を追いかけて行く。

「ま……まずいよ、このままじゃ哪吒が負ける!」

「うむ……馬元はあの『強くなる薬』とやらで、力もスピードも哪吒に負けぬレベルまで上がっておる。
 その上哪吒も、初めて戦いたくない敵を前にして混乱しておるし……」

 馬元は初めて自分以外の宝貝人間と会ったと言っていた。
 だがそれは哪吒にも当てはまるのだ。
 哪吒が初めて出会った、自分と同じ存在。
 普通ではない生まれ方をしたが故に、哪吒は自分が他人とは違うという負い目を無意識的に持っている。
 だからこそ敵であるにも係わらず、同じ境遇の馬元を殺して良いものかどうか迷い、それが哪吒に攻撃を躊躇わせているのだ。

「だが、逃げてばかりでは終わる事は無い。ここが正念場だぞ、哪吒」

 哪吒は逃げ続けていた。
 だがそれも、やがて終わりを迎える。
 太公望の言った通り、馬元のスピードは哪吒に匹敵する域にまで押し上げられていた。
 だがしかし、決して逃げ切れぬ速さではない。
 哪吒が本気で飛べば、決して避け切れぬ速さではないのだ。
 しかし動揺し、困惑している今の哪吒に、常のキレは無かった。

「がはっ!?」

 馬元が繰り出した真横からの大振りの一撃をくらい、哪吒は壁に叩き付けられた。

「くっ……」

 どうすれば良いのかが分からず、哪吒は馬元を見つめる。
 今まで戦って来た敵は、ただ倒せば良かった。
 味方は哪吒を攻撃して来ないから、哪吒も攻撃をしない――哪吒から攻撃を仕掛けた事はあったが―─だけだった。
 だから敵だと分かっていて、それでも戦うという事を割り切れない相手を前にして、哪吒は戸惑うしかなかった。

「があああああっ!!」

「ぐうっ!」

 馬元が力を籠めた拳で殴り付けて来る。
 両腕で防ぐものの、馬元の力は凄まじく、哪吒の身体はは床にぶち当たった後も尚、ゴム毬のように跳ねる。
 ごろごろと地面を転がって行った哪吒を見て、今まで間断無く攻撃を仕掛けていた馬元が、追撃の手を止めた。

「弱い……」

「な、に……?」

「おまえ、弱い……逃げてばかりで戦わない……」

 それは失望であった。
 馬元はやる気を失くしたかのように腕をだらりと下げ、哪吒を見下ろしていた。

「俺が……弱いだと!?」

 それは強さを求める哪吒にとって、否定しなければならない事であった。
 しかし、今の逃げ回っているだけの哪吒が強いとは、誰にも言えないだろう。
 どうすれば良いのか、と混乱している今の哪吒にとって、馬元の猛攻が止まった事はありがたい事だ。
 だがしかし、哪吒の顔には隠しようの無い苛立ちが表れていた。
 何故失望などされなければならない。
 何故弱いと馬鹿にされなければならないのだ。
 そんな馬元への反抗的な思いと、武器を向ける事を躊躇った自分への戸惑いが苛立ちの原因だった。

 馬元が宝貝人間であるという事に、哪吒が武器を止める理由など無い。
 ただの宝貝人間であれば、哪吒が逃げることは無いのだ。
 重要なのは、馬元が呂岳の子であったという事。
 その子が、自分に隔意を持って戦いを挑んで来ているという事が問題なのだ。

 人を殺せば、殺された者と親しかった者から恨まれる。
 そんな当たり前の事を、哪吒は初めて認識した。
 否、その程度の事はいかに常識に疎い哪吒であっても、既に理解していた事。
 だが理解する事と、体験する事では天と地ほどの差がある。
 哪吒が剥き出しの感情をぶつけられたのは、これが初めてなのだ。

 自分の感情が理解出来ない。
 こんな事になったのは、初めてだからだ。
 その結果が、こうして哪吒を地に這い蹲らせている。

「哪吒!」

「……母上?」

 哪吒が視線を逸らすと、そこに立っていた殷氏が、毅然とした表情で哪吒に告げた。

「立ちなさい、哪吒。立って……そして戦うのです」

「母上、何を……」

 何故、という困惑を哪吒は殷氏に向ける。
 哪吒と違い、殷氏は戦いというものを好まない。
 だというのに、その殷氏が哪吒に戦えと言うのはおかしな話だ。

「哪吒、私がそう仕向ける事を、貴方は疑問に思っているでしょうね。
 ええ、私は貴方達に戦って欲しい訳ではありません。傷付いて欲しい訳ではありません。
 貴方が来るまでの間、馬元君と話していた私は、馬元君が悪い子ではないと知りましたから。
 だから本当なら今すぐにでも、貴方達が衝突するのを止めたい気分です」

 ですが、と殷氏は首を振った。

「男の子が頑張っているというのを、壁を越えようとしているのを、どうして止められましょうか。
 馬元君は哪吒、貴方と戦うためだけに薬まで使ったのですよ。ならば貴方は、それに応えるべきです」

 殷氏は馬元に目をやり、そして地に伏している哪吒を見据えて言った。



「お兄ちゃんなら、受け止めてあげなさい」



「…………俺は」

 哪吒は目を閉じ、僅かな間考え込む。
 即断即決をしていた哪吒が考え込むなど、今まででは見られなかった事だ。
 静かに目を開けた哪吒は、ふわりと浮き上がり、馬元を正面から見据えた。
 馬元は何も言わず、ただジッと哪吒を見つめている。
 口の中を切っていたのか、血混じりの唾を吐き捨て、口を拭うと哪吒は言った。

「俺は……こうする事しか知らん」

 哪吒はスッと腕を上げ、乾坤圏を構える。
 だから戦おう、と哪吒はそう言っているのだ。
 そして哪吒が口にした言葉は、かつて哪吒と戦った、ある道士を彷彿とさせるものだった。



「全力で来い、馬元。だが兄をそう簡単に倒せると思うな」



 哪吒のその言葉に、馬元はにい、と笑った。

 ギィンッ!

 撃ち出された乾坤圏が、頭部を庇うように差し出された馬元の爪に弾かれ、甲高い悲鳴を上げる。
 予想通りであったのか、哪吒は弾き飛ばされた乾坤圏には目もくれず、馬元へと突進する。

「おおおおおっ!」

 一声吼えた馬元は、哪吒を迎え撃とうと左の拳を振り上げ、上から哪吒に向けて叩きつけた。
 哪吒はそれをひらりと避けると、火尖鎗を地面に叩きつけた馬元の腕へと突き刺した。
 肉を貫き、地面に突き立った火尖鎗が、馬元を縫い付けた。

 ボンッ!! と音を立てて、馬元の腕が燃え上がった。
 哪吒が乾坤圏を引き戻し、馬元を狙う。
 だがそれよりも馬元の動きの方が速かった。

「っ!?」

 ミヂミヂミヂッ! と耳障りな音を立てて、肉が引き裂かれる。
 馬元が左腕を引いて、火尖鎗の束縛から抜け出したのだ。
 無論、無理矢理に腕を引き抜いた事が、馬元の身に何も起こさないはずが無い。
 馬元の左腕は、肘より少し先の方から二つに分かれていた。
 馬元はそれに構う事無く、燃え盛るその腕で哪吒の腕を掴んだのだ。

 じりじりと炭化していく哪吒の腕。
 だが哪吒はそれに動じることは無い。
 馬元が掴んだのは、哪吒の体ではなく、腕なのだから。

 バァンッ! と哪吒の腕を掴んでいた馬元の腕が吹き飛んだ。
 当然の事だろう。
 哪吒の腕には、乾坤圏が装着されたままだったのだから。

 互いの仕掛けた束縛から逃れた二人は、距離を取った。
 哪吒は拳を握りしめ、半ば炭化した腕がまだ使えるかを確認した。
 馬元は躊躇する事無く、未だ燃え盛る腕をもう一方の腕で自ら切り落とした。






 馬元と戦っている哪吒を見て、太公望達はホッと胸を撫で下ろしていた。

「ふう、とりあえず、これであっさりやられることはなかろう」

「うん。哪吒が戦う気になったんなら、絶対勝てるさ」

「うむ……にしても」

 太乙真人が哪吒を応援している横で、太公望は再び激突している哪吒達を見て、呆れたように呟いた。

「あの二人、笑っておる」

 哪吒も馬元も、楽しくて堪らないとばかりに、口元に笑みを浮かべていた。
 攻撃した場所が、あるいは避ける場所が僅かにでもずれれば、それは必殺の一撃となるというのに。
 攻撃し、避け、防ぎ、また攻撃する。
 言葉にすれば単調とも言える繰り返しの連続。
 だが、それでも二人は笑っていた。
 存分に力を揮える相手を見つけて、戦いに楽しみを見出していたのだ。

「戦い、殺し合うのが遊び……会話手段とはのう。何とも物騒で、そして不器用な奴らよ」





 哪吒が撃てば馬元は跳躍して躱し、馬元が腕を振るえば哪吒はギリギリの所で避けた。
 馬元が哪吒を貫こうと爪を繰り出せば、哪吒は火尖鎗を振り回して叩き落とした。
 哪吒が金磚を撃とうとすれば、瞬時にそれを判断した馬元が金磚を握り潰した。

 一進一退の攻防を繰り広げる二人。
 哪吒は縦横無尽に飛び回る。
 逃げるためではなく、勝機を見出すために。
 馬元は駆ける。
 閉鎖されたこの空間は、馬元の庭であるが故に。

「ぐっ!」

 間近で破裂した金磚の爆風が哪吒を襲う。
 金磚を破壊した代償は大きく、馬元の手は五指の半分以上が失われていた。

「ちっ」

 二基あったうちの一基を潰され、哪吒が舌打ちする。
 一つでは馬元の防御を抜く事が出来ないと分かっているからだ。

 どうやって防御を抜くか、と哪吒が考えたとき、哪吒の視界にあるものが飛び込んで来た。
 これだ、と直感で判断した哪吒は、それに向けて突っ込む。
 馬元の攻撃を避けながら拾い上げたそれは、穴の開いた混天綾であった。
 まだ使えると判断した哪吒は、混天綾を翻す。
 馬元の腕に混天綾が絡み付き、その動きを制限する。
 引き裂こうと力を籠めようとした馬元だったが、その前に混天綾がカッと輝いた。

「がっ!?」

 馬元が膝を着く。
 爪による攻撃を封じたかと思えば、それだけではなかった。
 馬元の腕が、内部からボコボコと盛り上がって行く。
 それは決して、馬元の意思によるものではない。

「おおおっ!?」

 声を張り上げた馬元の腕が、内側から弾け飛んだ。
 千切れた腕の間から、ボコボコと泡立ち、沸騰した血液が流れ出て行く。

 宝貝・混天綾
 その効果は、水に振動を与える。

 振動するエネルギーは、熱を発生させる。
 血管が破裂し、それでも納まり切らない血液が暴走して、自ら馬元の腕を吹き飛ばしたのだ。
 哪吒は原理を理解していない。
 だが、哪吒の直感は、そうなるだろうと予測したのだ。

 かつて哪吒は、混天綾を使って川の魚を殺した事がある。
 思えば、あの魚たちは水の振動に揉まれて死んだのではなく、発生した熱により茹だって死んでいた。
 試しに使っていたその体験が、哪吒を助けたのだ。

 だがそれでも、馬元の腕一本を吹き飛ばす事しか出来ない。
 しかし、それで十分だ。
 これで馬元の両腕は失われた。
 馬元に取って最強の矛であり、鉄壁の盾はもう無い。

「終わりだ!」

 哪吒は混天綾を投げ捨て、一基だけ残っている金磚に力を籠める。
 馬元はまだ立ち上がる事さえ出来ていない。
 哪吒が金磚を撃った。
 迫り来る金磚の光に、馬元は大人しく目を……閉じない!
 光線の雨を見据えた馬元の身体が、ボコン、と震えた。



「かああああああぁぁぁぁぁぁっ!!」



 馬元の口から放たれた咆哮が、衝撃波となって金磚の光を散滅させる。

「なっ!?」

 ただの大声に動揺するはずがない哪吒も、これには驚かされた。
 かなりの力を籠めたはずの金磚の光が、全て掻き消されてしまったのだから。
 びりびりと全身を痺れさせるそれに、哪吒の身体が一瞬硬直する。

 そして、一瞬もあれば十分であった。
 馬元の口から、長い舌が垂れる。
 鞭のようにしなり、伸びるそれが、哪吒の足に絡みついた。

 壁に、天井に、地面に何度も何度も哪吒は叩き付けられる。
 壁に大穴が開いても、馬元は哪吒を離す事は無かった。
 哪吒の足が、千切れ飛ぶまで。



 例え両腕を失う事になろうと、それが不利になった事には繋がらない。
 全身、是全てが凶器。
 それこそが、宝貝人間。



 馬元の拘束から逃れたとはいえ、片方だけの風火輪では、上手く飛ぶ事は出来ない。
 否、飛ぶ事は可能だが、慣れるまでに僅かながら時間が掛かる。
 そして哪吒は、馬元にその僅かな隙を突かれた。
 跳躍した馬元がその全体重を掛けて、体勢を崩した哪吒に圧し掛かる。

「ガフッ! ゲヒッ! ギヒッ!」

「哪吒っ!?」

 足で踏みつけられた哪吒が、苦悶を浮かべて吐血する。
 宝貝人間で、痛みを感じない蓮の化身である哪吒がだ。

「いけないっ! 今ので哪吒の霊珠に罅が入ったんだ!」

 太乙真人が叫ぶ。
 核である霊珠に罅が入る。
 それがどういう事なのか、太乙真人にだけは分かった。

 宝貝人間の核である霊珠は、何よりも堅く作られている。
 だがその霊珠に罅が入ったという事は、哪吒の命に関わる事態なのだ。
 もしこれ以上霊珠が壊れることになれば、それこそ哪吒は死んでしまうだろう。

 呻き声を上げる哪吒を、馬元は容赦無く踏み付ける。
 ミシミシと哪吒の身体が軋みを上げ、じわりじわりと霊珠の罅は大きくなって行く。

「おでの……勝ち……」

 馬元が掠れた声で宣言する。

「……違う」

 身体を押さえ付ける馬元の足に、哪吒は震える手を添えた。
 この足を退かさなければならない。
 弱りそうになる手を、さらに押しつける。

 負けない。負けたくない。負ける訳には行かない。
 そして何よりも、勝ちたい。
 その想いが、哪吒の目に闘志を漲らせる。

「勝つのは、俺だ!」

 手の乾坤圏が唸りを上げて、零距離で馬元の足を吹き飛ばした。
 両腕を失い、今さらに片足を失った馬元は、倒れ込むしかない。
 だが哪吒が、馬元が大人しく倒れるのを見逃す事は無かった。

「この距離なら、外さない」

 乾坤圏を、金磚を、火尖鎗を倒れ行く馬元に叩き込む。
 出し惜しみはしない。
 正真正銘、フルパワーで撃つ。

 全力で放たれた哪吒の攻撃は、馬元の胸から下を消し飛ばした。
 荒い息を整えながら浮かび上がる哪吒は、もはや一歩も動く事の叶わない馬元を見下ろす。
 乾坤圏を構えて警戒を解かないまま、告げた。

「俺の……勝ちだ」

 馬元は動けない事を理解したのか、暴れようとはしなかった。
 哪吒の言葉を聞き、馬元は静かにただ頷いた。
 先程の衝撃波の例もあってか、哪吒は未だ警戒を解いていない。
 もしここで反撃すれば、馬元の攻撃が哪吒に届く前に、哪吒の乾坤圏にやられるだろう。
 それを理解し、やっと馬元は負けを認めたのだ。
 ふう、と息を吐いた哪吒は、そこでやっと乾坤圏を下ろした。



 哪吒と馬元、宝貝人間同士の戦いは、哪吒の完全勝利で終わった。






 はずだった。



 突如として起きた横殴りの攻撃に晒され、気が抜けていた哪吒は碌に抵抗する事も出来ないまま叩き落とされた。

「が……ぁ?」

 まるでハエ叩きを喰らったハエのように、哪吒は床に転がる。
 何が起きたのかと、攻撃が来た方向を見る哪吒。
 否、今の哪吒を攻撃するのは、一人しかいないはずだ。
 しかしながら、哪吒を叩き落とした人物──馬元もまた、自らの身に起きた事に困惑していた。

「こでは……何……?」

 腕が生えていた。
 片腕は哪吒によって吹き飛ばされ、もう片方は自ら切り落とした馬元。
 当然、両腕が残っているはずがない。
 だが今、馬元の身体の切断面から、新たな腕が生えて来ていたのだ。
 先程まで使っていた腕よりも、二回りほど大きくてがっしりとした腕だった。
 不思議そうに眺めていたその腕が、馬元の身体を侵食する。

「お……? おお、おおおおおっ!?」

 馬元が声を上げる。
 新たに生えて来た腕は馬元の思い通りにならず、それどころか馬元の身体を蝕んで行く。
 身体が徐々に作り変えられて行く衝撃に、今まで以上の混乱を声に載せて馬元は叫んだ。

「た、太乙! 馬元の身に、いったい何が起きておるのだ!?」

「多分、霊珠が暴走してるんだ!」

 今まで以上に巨大化して行く馬元の姿を見て、太乙はそう結論付けた。

 何度も言うが、霊珠とは宝貝人間の核である。
 そしてその核が破壊されれば、宝貝人間は死んでしまう。
 罅が入った程度でも性能が落ちる、精密な機械と同じだ。
 しかし、霊珠は機械と同じであるが、決して機械ではない。
 霊珠に何かが起きた場合、そして製作者が傍にいない場合、その時のための保険が存在する。
 完全に破壊されないのならば、多少の罅程度ならば、自動で修復する。
 人が転んで膝をすり傷を作っても、いずれ治るように。

 その霊珠が暴走している。
 多少の傷を治す程度の効果が、喪失した腕を再び生やす程にまで高められている。
 なんという無茶であろう。
 そんな事をすれば、身体が崩壊するのは目に見えているのに。
 否、或いはそれこそが、呂岳の製作した『強くなる薬』の効果だったのか。
 例え身体が崩壊しようとも、今目の前の敵を倒せればそれで良い、と。

 先程まで馬元は、その効果をフルに使っていた。
 剛爪を振るい、巨体に似合わぬスピードで地を駆け、本来持ち得ぬ衝撃波まで操って見せた。
 だからこそ、馬元はあれだけの戦闘を繰り広げる事が出来たのであろう。
 忘れてはならないのが、馬元は哪吒と戦うこれが初戦だという事だ。
 そんな馬元が、歴戦の強者の経験を持つ哪吒相手に、手加減など出来るはずがない。
 暴走は、全力を尽くして戦う馬元の意思と呼応し、上手く働いていた。

 だが今、馬元の身体は、身動き一つ出来ない状態だ。
 そして薬とは、往々にして宿主の体調を考慮などしてくれない。
 もう十分だから効果はここで止めておこう、なんて薬が考える事は無い。
 薬はただ効果を発揮するのみであり、その効果を調節するのは薬の製作者であり、投与した人物だ。
 そしてそんな考慮を、或いは自重を、呂岳が持っていただろうか?
 そんな薬を、全て投与した馬元に、いったい何が起きるだろうか?
 答えは、例え馬元に既に戦う気が無いとしても、身体がそれを認めない、だ。
 腕が失われたなら新たに生やし、足が千切れたのなら新たに生やす。
 弱いのなら更に強靭な肉体へと作り変える。
 例え、投与された相手の人格が消えようとも。

「おおおおおおっ!!」

 歯を食いしばり、それでも抑える事の出来ない肉体の変化に、馬元は声を洩らした。
 新たに生えて来た腕は、馬元の意思とは無関係に暴れ回っている。

「馬元……」

 壁を砕き、床を割り、それでも止まる事を知らないそれに、哪吒は近付く事もままならない。
 ボコボコと内部が爆発するかのように肥大化していく馬元。
 そんな馬元と、哪吒の視線が交錯する。

「……そうか」

 物言わぬ馬元の言葉に、納得するかのように哪吒は頷いた。
 一度は下ろした乾坤圏を、哪吒は再び構えた。

「痛みは無い。俺の全力で殺してやる。お前が、消える前に……」

 哪吒は乾坤圏に、金磚に、火尖槍に再び力を籠める。
 哪吒は既に一度全力で撃った後であり、大して威力は出ないのではないかと思われた。
 だがしかし、宝貝に力を籠める哪吒が倒れる様子は無い。
 寧ろ、先程以上と言えるそれが、宝貝に渦巻いていた。

 何も言わずに、哪吒はその力を解き放つ。
 放たれた宝貝は狙いあやまたず、音も無く馬元の霊珠へと吸い込まれて行った。
 倒れ伏す馬元。
 霊珠は砕かれ、最早助かる事は無い。
 その馬元が、顔を僅かにずらして、哪吒を見上げる。

「あ……が、と……」

 掠れた声で呟いた馬元の身体が、ボウッと白い光に包まれる。
 先程の激闘で壁に開いた大穴へと、馬元は閃光となって飛んで行った。

「魂魄……そうか」

 納得したように、哪吒は呟いた。



「宝貝人間にも、魂は宿るのだな……」



 厳密に言えば、哪吒と馬元は違う。
 同じ宝貝人間というくくりであっても、最初は人間であった馬元と、霊珠から生まれた哪吒とでは異なる。
 だがそれでも、馬元という宝貝人間が、封神されたという事は事実だ。
 それが哪吒の心に影響を与える。
 例え作られた存在であったとしても、魂は生まれるのだと、哪吒は知った。

 呟いた哪吒は、馬元が先程まで使っていた瘟㾮傘を拾い上げる。
 馬元が手放していた事で、封神に巻き込まれなかった宝貝。
 殷郊の番天印と同じ、今となっては形見となったもの。

「おい」

「な、なんだい哪吒」

 瘟㾮傘を見つめたまま、哪吒は太乙真人に問う。

「強さとは……何だ?」

「へ?」

 問われた太乙真人は、キョトンとした顔で哪吒を見つめ返した。
 そんな事を尋ねられるとは思わなかったからだ。

 馬元は哪吒と戦うために、薬にまで手を出した。
 それが悪いとは、哪吒は思っていない。
 哪吒自身、薬を打つだけで強くなれるのならば、願ったり叶ったりと言った所だろう。
 ただ馬元は、最初に瘟㾮傘を使って戦っていた方が、厄介であったのは確かなのだ。
 遠距離から攻撃され、その攻撃は身体を掠めただけで影響を及ぼす。
 それに対し、薬を打った後の姿になった馬元は、接近戦を主とした殴り合いを挑んで来た。
 その体格、腕力、スピード、全てにおいて脅威であった。
 だが、遠くからちまちまと攻撃されるよりかは、戦いやすい相手であったのは間違い無い。
 そんな有利を自分から捨て、姿が変わる事になってまで求めた『強さ』とは、果たして何なのだろうか。

 それを考えた時、はた、と哪吒は気付いたのだ。
 自分が強くなろうとする事に、理由が存在しない事を。
 だからこそ、哪吒は尋ねたのだ。
 同じ宝貝人間であった馬元が求めた『強さ』。
 自分が今も尚、求め続けている『強さ』。
 それが分かれば、何かが変わるのではないか? と。
 だが太乙真人は、小さく首を振るだけだった。

「……それは、僕が言って良い事じゃないと思うよ」

「……そうか」

 太乙真人の言葉、それはつまり、哪吒自身で見つけ、納得しなければ意味がないという事だ。
 それを聞いた哪吒は、手に持つ瘟㾮傘と、馬元が飛んで行った空を見上げ、瞑目する。
 それは、死力を尽くして戦った相手に対する、哪吒なりの敬意だろうか。

 スッと瘟㾮傘を構える。
 疲れているからだろうか、今の哪吒にはとても重く感じられた。
 トリガーを引けば、瘟㾮傘の先から光線が一直線に伸びて行く。
 狙いあやまたず、光は李靖を閉じ込めていた砂時計を直撃した。

「ぶはっ! ……哪吒! もっと優しく助けんかい!」

「黙れ! 貴様を助けた訳じゃない」

 砕けた砂時計の中から出て来て抗議する李靖を、哪吒は切って捨てる。

「貴様らは俺が殺すんだ。砂に埋もれて死ぬなど、俺が許さな……い……」

 ぐらり、と哪吒の身体が傾いて行く。
 既に限界であったのだ。
 数十に及ぶ宝貝の連続行使に加え、霊珠には罅が入っている。
 左腕は侵食するウイルスに侵され、右腕は皮膚が半ば炭化している。
 乾坤圏や金磚は片方が砕かれ、風火輪は足ごと取れてしまった。
 普通の人間であるならば、正気を保つ事さえ難しいほどの重症なのだ。

 倒れ込む哪吒。
 だがその身体が地面に着く前に、目の前に現れた人に優しく抱きとめられた。

「お疲れ様、哪吒」

「母上……?」

 哪吒を受け止めたのは、今までずっと見守っていた殷氏だった。

「ごめんなさいね、こんな事を押し付けて。辛かったでしょう?」

「そんな事は……」

 哪吒は首を振った。
 辛くなど無い。
 そんな感情など、自分は知らないのだから。

 だが殷氏は笑みを深くするだけで、それ以上何も言わなかった。
 ただギュッと、哪吒を抱き締める腕の力を強めただけだった。










『……これで良し、と。今打ったワクチンで、瘟㾮傘のウイルスは効かなくなりました。痛かったですか?』

『ううん、全然。こんなの、子供を産む痛みに比べれば平気よ』

『そうですか、それは凄いですね。僕なんかは痛覚が無くなってますから、想像もつきませんよ』

『母は強いのよ。そう簡単に想像出来てたまるもんですか』

『ははは……』

『……それにしても馬元君、お父さんを亡くして、今は一人暮らしなんでしょう?』

『? はい、それがどうかしましたか?』

『だったら……ウチに来ない?』

『え?』

『哪吒も貴方も、同じ宝貝人間って事で、兄弟みたいなものなんでしょう?
 貴方達の年頃の子には、人に言えない悩みとかあるだろうし、二人が仲良くなれたら良いと思うの』

『ならいっそのこと、僕も貴女達の家族に……ですか?』

『だめかしら?』

『……申し出はありがたいです。でも、それに応える事は出来ません』

『……やっぱり、お父さんが好き?』

『ええ。血も繋がっていないし、性格もお世辞にも良いとは言えない。
 僕をこんなふうに改造した張本人で、最後まで僕を好きになってくれる事はありませんでした。
 あの人が見ていたのは、宝貝人間という馬元の存在であって、孤児であった馬元じゃい。
 けれど……それでもあの人は、僕の父でした。
 あの人が僕を子供として扱ったからでは無く、僕があの人を父と呼ぼうと決めたから、呂岳は僕の父なんです。
 だから僕は……俺は、ここにいるんです』

『なぁにそれ? 自分の事を俺って言うの、馬元君には似合わないと思うけど……』

『はは、自覚はあります。けれど一応、これもけじめなので』

『……戦うのね? 哪吒と』

『はい。お父さんを殺した哪吒を、許す気にはなれませんから。
 けれど、どうにも俺は、人を憎み続ける事が出来ないみたいで……。
 お父さんが封神された事を、心の何処かで予想していたからかもしれませんね。
 ……正直に言うと、哪吒と戦いたいというのは、別の理由が大きいんですよね』

『別の理由?』

『……俺はもう、長くありませんから。
 だからその前に、お父さんから貰ったこの身体で、どこまで出来るか試したいんです。
 例え哪吒を許す事が出来なくても、認める事は出来ると思うんです。
 ……ああ、そうだ。殷氏さんに一つ、お願いしたい事があったんですよ』

『私に?』

『ええ。貴女を攫った俺がお願いだなんて、厚かましいとは分かってるんですけど……』

『……良いわ。私に出来る事なら』

『ありがとうございます。
 殷氏さんにお願いしたいのは、戦いが終わった後に、俺の代わりに哪吒に聞いて欲しい事があるんです』

『聞いて欲しい事?』

『そうです。なにぶん、こんな事を面と向かって尋ねるのは、どうにも気恥ずかしくて……』










「ねえ、哪吒」

 殷氏は抱き締めている我が子に問い掛ける。

「私は呂岳という人の事を知らないけれど、馬元君はその人を越えられた?」

 越える、という行為は、何を持ってして越えたという結論に達するだろうか。

 人は何か越えるべき壁に衝突した時、どうやってその壁を越えれば良いだろうか?
 単純に、壁を乗り越えれば良いのだろうか。
 それとも、壁を避けて進めば良いのだろうか。
 或いは、単純に壁を破壊して進めば良いのだろうか。
 はたまた、最初から空を飛んでいれば、そもそも壁など気にする事も無いかもしれない。

 これらは全て、単純に壁という物理的な物だからこそ、そういった選択肢を取る事が出来る。
 だがそれは人という関係の中では、関係性は微妙に異なって来るものだ。
 越えるべき壁として人を設定した場合、それが顕著に表れるだろう。
 例えば、あっさりとその前提が崩れ去る事がある。
 壁が無くなれば、壁を越える為にしていた努力が水の泡となってしまうからだ。

 越えるべき壁を、自分が越える前に破壊されてしまえば、もう越える事など出来はしない。
 そもそもの壁が既に無いのだから、どうにもならない。
 そうなったとき、人はどういう選択肢を取れば良いだろうか?

 諦める? それが一番良いだろう。
 もう壁を越えようと、四苦八苦する必要は無いのだから。

 別の壁を探す? それも良いだろう。
 自分のしていた事は徒労と認め、他の道を進めば良い。
 既に何も無い場所に居続けた所で、良い事など無いのだから。

 だがもう一つの道がある。
 それは、壁を破壊した存在を新たな壁とし、それを越えようとする事だ。
 壁を壊した存在を通じて、間接的に自分が越えたかった壁を越える事。

 そして馬元は、最後の選択肢を選んだ。
 呂岳を封神され、強くなるという目標を持っていた馬元は、その意味を見失った。
 強くなりたいという想いの根源には、父の役に立ちたいという感情があったからだ。
 強くなって、強くなって……そして、もっと好かれたい。
 馬元の強くなるという意志は、そこから生まれた。
 だがその父は消え、後には父を消した相手しか残っていなかった。
 馬元は言っていたではないか。
 身近には呂岳しかいなかったから会話に飢えている、と。
 頼るべき相手は呂岳しかいなかった。
 だからこそ馬元は、強くなりたいと言っていたのだ。
 馬元は哪吒と戦う事でしか、道を見出せなかったのかもしれない。

『馬元は呂岳を越えられたか?』

 言葉を換えれば、

『馬元の意志は、哪吒に届いたか?』

 その問いの答えを知る者は、直に馬元と戦った哪吒しかいない。
 哪吒は先程の馬元との戦いを思い出す。

 楽しかった。
 腕や足がどうなろうと、知った事ではない。
 ただ全力を出してぶつかり、そして勝った。
 あれ以上の高揚はもう訪れないのではないか、と哪吒に思わせる程に。
 楽しかったのだ。

 だからこそ、哪吒は僅かに身体を震わせ、小さく、それでいて確かに頷いたのだった。
 殷氏は哪吒を抱き締める手を強める。
 哪吒は苦しそうに顔をそむけ、今の姿を見ている太乙真人達の存在を思い出した。

「おい」

 咎めるように哪吒は声を掛けると、生温い視線を向けていた太乙真人に言った。

「俺が寝ている間に直せ。いいな?」

 言い切るや否や、哪吒は返事も聞かずに目を閉じた。
 程なくして、クークーと寝息を立てる哪吒の姿が見られた。

「あらあら、哪吒ったら……」

「眠っちゃったねぇ……」

「あの哪吒が、こんな無防備な姿を人に晒すとはのう」

「当然だよ。私達は哪吒の親なんだからね」

「ケッ、そのまま封神されれば良いのに……」

 李靖だけがぶつぶつと文句を言う中、太公望は微笑ましいその光景を見ながら満足気に頷いた。

「……なぁ~に、一人で悦に入ってるさ、スース?」

「ぎくっ」

 後ろから聞こえて来た声に、太公望は恐る恐る振り返る。
 そこには、怒ってますという雰囲気を隠そうともしない天化の姿があった。

「さっきはよくも階段から落としてくれたな! スースを信じた俺っちが馬鹿だったさ!」

「ぎゃああああああっ!?」

 天化に蹴り飛ばされる太公望の声が、辺りに響いた。

「せっかく、良い感じに終わりそうだったのに……」

 しまらないなぁ、と太乙真人が溜め息を吐いた。










 その頃……

「渭水に浮かぶ船……あれか。待ってろよ、蝉玉。今助けに行くからな……!」

 汗だくになりながらも、土行孫は走っていた。








あとがき

宝貝人間同士の戦いは色々と好き放題出来ますね。
腕や足が無くなっても戦闘を続けられますから。
色々と試せて楽しかったです。

結局、馬元君は殺すルートにしました。
生かす方向も考えていたのですが、今後名前だけのオリキャラになる事請け合いなので断念しました。
それでも雷震子よりは出番が多い予定だったんですけどねw
で、どうせだからと馬元君をチートにしてみました。
頭脳は呂岳と同等であり、宝貝の製作技術もあり、肉体も薬で強化が可能というハイスペック。
おかげで原作であっさり終わった勝負が、こんなにも長引く結果となってしまいました。

馬元君生存ルートは、最後の異常な暴走が起きなかったら、というくらいの違いだけです。
このルートを断念した事で、予定していたイベントが3つ4つ潰れましたが、まあ仕方が無いでしょう。
こっちだと太乙が死ぬし。

次回は遂に、ここ最近登場していない我らが主人公が帰って来ます。
あと余裕があれば、ちょっと公主出します。
まだまだ続きます。
次回あとがき書かないかもしれませんが、どうかお付き合いのほど、よろしくお願いします。



[12082] 第六十四話 趙公明攻略Ⅴ 蝉玉のストーカー被害
Name: 軟膏◆05248410 ID:f6516e4c
Date: 2010/06/04 22:09






「素晴らしい!」

 二階での哪吒と馬元の戦い、水晶で行く末を見守っていた趙公明はその結果に拍手を送る。

「互いに死力を尽くして争う、力対力の殺し合い。
 永遠に続くと見る者に思わせる、戦いの輪舞曲。
 これこそが華麗なる戦いというものだ。流石は僕のプロデュースした戦い。
 馬元を哪吒君に宛がうのは、あっさり終わってつまらないのではないかと思っていたのだけれどね。
 ここまでの物を見せてくれるとは、やはり彼を二階に配置した僕の目に狂いは無かったようだね」

「哪吒君が勝って良かったッス。ヒヤヒヤしたッスよ……」

 上機嫌にティーカップを傾けている趙公明とは裏腹に、スープ―シャンはホッと胸を撫で下ろしていた。
 本当にギリギリまで、どちらが勝つかは分からなかった。
 楊戩や天化のような戦闘のスペシャリストならば、この展開も予測出来たのかもしれない。
 だが非戦闘員のスープ―シャンは、戦闘のイロハなどほとんど知らないのだ。
 だからこの死闘は、もしかしたら哪吒が負けるのではないか、とスープ―シャンを焦らせたのだ。

「二人は満足してたみたいっすけど、見てるこっちの心臓に悪いッス。
 もうこんなギリギリな戦いは見たくないッスよ……」

「それはどうかな? 馬元は貴族階級でいうならば、子爵の位に当たる。
 そして子爵とは、貴族の中でも下位に属する等級だ。
 養父である呂岳の後釜に座ったのだから、当然と言えば当然だけれどね。
 しかし三階から上には、伯爵や侯爵クラスが控えている。
 さあ、おいでませ崑崙の戦士達! 華麗なる戦いは、まだまだ中盤だ!」

 楽しげに笑った趙公明は、スッと水晶に触れた。
 すると、水晶の映像が切り替わる。
 今まで船内を映していた水晶は、船の外を、正確にはそこに居た一人の道士の姿を映していた。

「ヒーローは遅れて来るものだ。さあ、早くしないと、囚われの姫が砂に埋もれてしまうよ?
 元始天尊君の秘蔵っ子よ、果たして君は、僕に何を見せてくれるのかな?」

 スープ―シャンにすら聞こえない声で、囁くように趙公明が呟いた。
 趙公明の思惑など知らぬまま、土行孫はクイーン・ジョーカーⅡ世号へと急いでいた。






 三階へと続く扉の先には、階段では無く、大きな円盤が一つあるだけだった。

「どうやら三階へは、このエレベーターを使うようだのう。……太乙、哪吒達は頼んだぞ」

「任せとくれよ、太公望。私も彼らと一緒に戻って、哪吒を修理して来るよ」

「殷氏はともかく、李靖もか……。相変わらずやる気の無い奴よ……」

 太乙真人の出した九竜神火罩に、哪吒達三人は入っている。
 疲労と怪我で眠りに着いている哪吒や、その哪吒を抱き締めて放さない殷氏。
 そしてちゃっかりと潜り込んでいる李靖。
 李靖は修行を終えて助っ人として来たはずなのだが、どうにも誰かに勝てるというイメージが湧かない。
 太公望も呆れながらも無理に引き止めるという事をしなかった。

「ぶっちゃけ、居ても邪魔にしかならんと思うし……」

 普通の人間となっている太公望にすらそう言われる、李靖の実力とは如何程の物か。
 それが発揮される事は、おそらくこの先も無いであろう。

「なあスース、これどうやったら動くんさ?」

「ここにスイッチがある」

 太公望が『上』『下』と書かれたスイッチを発見する。
 『上』というスイッチを押すと、円盤がフワリと浮き上がった。
 太乙真人に見送られ、エレベーターは三階へと上昇していく。

「さすがはエレベーター、楽ちん楽ちん。……む?」

 あっという間に三階へと到着した太公望達は、入口を見て眉を顰める。
 そこには扉などはなく、入口とは名ばかりの、細い隙間があるだけだった。

「また随分と狭い入口よのう……」

 呟いた太公望は、入口の傍にまた花束が置かれているのを発見する。

「これは……また招待状か」

 一階の時と同じく、花束にはメッセージカードが添えられていた。
 違うのは趙公明が同じでは飽きると思ったのか、花束が薔薇ではなくヤマユリであった事。
 そして招待状の宛名が土行孫であった、という事だ。
 だが土行孫はこの場には居ない。
 仕方ない事だと自分を納得させて、太公望は招待状を開く。
 『麗しき貴族“C”の招待状Ⅲ』と書かれた文字が飛び込んで来た。
 太公望の肩越しに文面を見た天化が首を傾げる。

「……Ⅲ?」

「二階にも招待状はあったのであろう。おそらく、儂らが見逃したのだ」

 哪吒の馬元の戦いを見ていたせいか、二階は探索などしていない。
 もしくは、最初に話しかけて来た馬元の言葉こそが、その招待状と言うべきだったのかもしれない。
 それは過ぎた事だと考え直し、太公望は再び招待状に目を落とす。




『麗しき貴族“C”の招待状Ⅲ

 土行孫君! そろそろフェスティバルも大分盛り上がって来た所だ。

 楊戩君や哪吒君の活躍の陰に隠れる事の多い君の為に、僕は専用の舞台を用意した。

 さあっ! 一人で入るんだ! 囚われのお姫様は、君の助けを待っている!!』




「……で、どうするさ? モグラはここには居ないし……」

「土行孫がこの場に居ない以上、儂らが何とかするしかなかろう。どれ、入れるかのう……」

 身体を横にしてもぞもぞと動かしながら、狭い隙間を抜けようとする太公望。

「むう、せま……い?」

 だが半ばまで進んだ所で、太公望の動きがピタリと止まる。
 それ以上前にも後ろにも動こうとしない。
 否、出来ないのだ。

「ど、どうしたスース!?」

「……嵌まった!!」

「……懲りねぇなぁ、スースは」

 天丼をやらかした太公望に、天化は腹を押さえながらも莫邪の宝剣を取り出した。

「天化、助けてくれ!」

「あいよっと。こんなもん、たたっ切ってやるさ!」

 天化は宝剣に光を灯し、振りかぶった。

「何っ!?」

 だが壁を切り裂くはずであった宝剣は、天化達の予想を裏切った。
 壁はゴリ、という鈍い音を立てて、表面が僅かに削れるだけであった。

「この壁は……」

「……どうやら、超硬化宝貝合金で出来ておるらしいのう。
 この向こうには溶岩の海がある。
 他の階に影響が出ないように、この階は宝貝合金で囲まれておるのかのう」

 一見普通の壁に見えるが、天化の攻撃を防いだ事を鑑みれば、それが異常であると理解出来る。
 超硬化宝貝合金は、その名の通り、斬撃、打撃などの衝撃に強い性質を持っている。
 純粋に硬いと言って良い。
 これを打ち砕くには、天然道士レベルの圧倒的な力が要るだろう。
 ただし、あくまで硬いだけで、宝貝の力を無効化している訳ではない。
 その為、特殊な力を持つ宝貝であれば、宝貝合金といえども破壊は可能だ。
 だが今の太公望は宝貝を使えないし、天化は莫邪の宝剣と鑚心釘しか持っていない。
 この壁をどうにかする事は不可能だった。
 耐熱、耐寒などにも優れているのだから、例え目の前の溶岩が当たった所で、ビクともしないだろう。

「床の所は普通の土さ」

 天化は何か無いかと辺りを見回すが、太公望が嵌まった隙間のある床の部分が、土くれで出来ているのを発見しただけだった。
 おそらく、そこを潜って来いという事だろう。
 地中を潜れる土行孫ならば移動は可能だろうが、天化には無理だ。
 せめてスコップでもあれば何とかなるかもしれないが、莫邪の宝剣では代用は難しいだろう。
 となると、太公望が嵌まったのは、本当にただの見物用の隙間だったのかもしれない。

「どうするさスース。このままじゃ、先に進めねぇさ」

「ぬぐぐ……仕方ない。この手段だけは使いたく無かったが……」

「へぇ、どうにかする手段でも見つけたんかい?」

「うむ……気は乗らぬが、どうこう言ってられる時でもあるまい」

 天化の期待を背に浴びながら、太公望は覚悟の炎を目に宿し、すうっと息を吸った。




「趙公明! 見ておるのだろう! 助けてくれ!!」




「はあっ!?」

 太公望の言葉に、天化が目を見開いた。

「スース、あーた何言ってるさ!? 敵に助けを求めるなんて、正気か!?」

「フフフ……儂は至って正気だ」

 天化の疑惑の視線を受けながら、太公望は言った。

「趙公明は儂らとの戦いを期待しておる。
 それもただの戦いではない、『華麗なる戦い』という奴だ。
 儂らが最上階まで到達する事を楽しんでいる趙公明が、儂らがこんな所で躓く事を望んでおると思うか?」

「いや、流石にそれは無いと思うさ……」

「だろう?」

 太公望は自信満々に頷いた。

「趙公明は、儂らがちゃんとあやつの所まで辿り着くように、お膳立てしなければならぬのだ。
 つまり! 儂らが此処で立ち往生しておるのは、土行孫が来ない事を想定していなかった趙公明が悪い!
 だから趙公明は、儂を助けねばならんのだ! さあ趙公明よ、とっとと儂を助けに来るが良い!!」

「スース……」

 土行孫を置いて来た事による弊害を、太公望は全て趙公明になすり付けた。
 そもそも趙公明が助ける義理など無いのだし、明らかにその理屈はおかしいと言える。
 だが、こうも自信満々に情けない宣言をされれば、反論する気が失せるのも仕方がないだろう。
 あからさまに上から目線で助けを求める太公望に、天化は呆れていた。

「さっきも言ったけど、敵に助けを求めるなんて正気かい? あーたにプライドはねぇのか?」

「フッ、何を言っておるのだ、天化。儂を誰だと思っておる?」

 天化に背を向けたまま、太公望は言った。



「プライドを捨てて仲間が助かるなら、儂は幾らでもドブに投げ捨てよう」



「……スース」

 天化は太公望を見つめ、静かに言った。

「カッコイイ事言ってるのは分かる。背中で語ろうとしてるのも分かるさ。
 けど、嵌まってるせいで全部台無しさ……」

「おのれ趙公明! 卑劣な罠を!」

 溜め息を吐く天化。
 叫ぶ太公望IN隙間。
 漫画ならば、見開きを一杯に使うであろう名シーンと成り得たかもしれない。
 太公望が隙間に嵌まってさえいなければ、の話だが。
 確かに前後の話の流れを見ずに、今のセリフだけを抜き出して聞けば、太公望は格好良いだろう。
 だが隙間に嵌まっている今の状況では、どれだけ良い事を言っても笑い話にしかならない。
 その上、趙公明がもし手を貸したとしても、この状況で助かる仲間とは他ならぬ太公望自身なのだから、白々しいという印象しか生まれない。






「く、くくくく……」

「御主人……」

 水晶球を見ながら含み笑いを洩らす趙公明と、さめざめと泣いているスープ―シャンの姿が、そこにはあった。

「いや、本当に太公望君は僕を楽しませてくれる。思わず手を差し伸べてしまいそうだ」

「じゃあ趙公明さん、御主人を助けに行くッスよ!」

「それは出来ない」

 趙公明は小さく首を振り、スッと長い指を伸ばすと、水晶球に映る一点を指差した。

「お姫様がご立腹のようだ。僕にはどうする事も出来ないよ」






 ギャーギャーと騒ぐ太公望達の声が聞こえたか、三階に囚われている人質の声が聞こえて来た。

「ハニーっ!」

「あれは……蝉玉か」

 太公望達の方へと向けられた声に、太公望が目を眇める。
 招待状から予測出来た事であったが、やはり三階の人質は蝉玉であった。

「ああハニー、助けに来てくれたのね。あたし……あたし怖くて!
 早く助けて! この中は狭くて冷たくて、ハニーの温もりが感じられないの!」

 止まる事を知らない砂時計の中で、蝉玉は両腕で自らを抱き締め、身体を震わせる。

「ねぇハニー、早くあたしを此処から出して!
 変態なんかぶっ飛ばして、あたしをたす……け……って、あら?」

 一向にハニーが出て来る気配が無く、蝉玉は言葉を止める。
 じいっと先程から騒がしさを増した三階の入口へと目を向ける。

「ねえちょっと太公望、あんた何挟まってんのよ」

「儂が好きで挟まってるとでも思っとるのかお主は!?」

 太公望に向けられた第一声に、太公望が声を張り上げる。

「せっかく助けに来てやったというのに、その態度は何だ!?」

「あたしはハニーに助けてもらいたいの!
 普通の人間になってる今の太公望なんて、お呼びじゃないのよ!
 あんたの性癖なんてどうでも良いから、ハニーはどうしたのよ!?」

「逆ギレ!? ……ていうかお主、メチャメチャ元気ではないか。
 さっきの『狭くて冷たくて~』っていうのはどうした!?」

「こんな所に閉じ込められた程度で、あたしがどうにかなるはず無いじゃない!」

「……あっそ」

 つまり先程の蝉玉の言葉は演技という事だ。
 捕まったのを良い事に、これ幸いと便乗したのだろう。
 土行孫を前にして、無力なお姫様を演じるつもりだったのだ。
 結局その努力は、土行孫がこの場にいないせいで水の泡となったが。

「蝉玉、お主が期待してるとこ悪いが、土行孫の奴は置いて来た」

「へ?」

「この場にはおらぬ」

「なっ……何やってんのよこのアホンダラァッ!」

 折角待っていたというのに、その相手が来ていないと知って、蝉玉は太公望を罵倒する。

「信じらんない! ハニーが此処に居ないのに、どうして太公望が此処に居んのよ!?
 宝貝に触れただけで死んじゃうくせに、あんたが此処に来ちゃ駄目でしょうが!」

 言葉は荒いながらも、太公望を気遣う蝉玉。
 苛立たしげに砂時計の内壁を叩いた。

「まったく、何のためにあたしがわざわざ待ってたと思ってんのよ……」

「話は終わったかい、蝉玉さん」

 その蝉玉に、横から男の声が掛けられる。

「あ~もうっ、話しかけて来ないでよ劉環。
 こっちはあんたみたいな変態と話したくなんてないんだから!」

 劉環と呼ばれた男を、蝉玉は視界に入れるのすら嫌がるように目を背けた。
 この場に居るという事は、彼が三階の敵なのだろうと太公望達は判断する。

「むう……知り合いか? 何だか今回の敵はまた、えらく普通そうな男だのう」

「弱そうさ」

 劉環は宝貝と思われる弓を持っていたが、それ以外ではごく普通の男に見えた。
 蝉玉がどうして劉環を変態と呼び、毛嫌いしているのか分からない程に。
 だがそれは、すぐにも太公望達の知る所となる。

「やっぱり蝉玉さんはいじらしいなぁ。
 俺と目を合わせるのが恥ずかしくて、そうやって気丈にふるまって見せるんだもの」

「違うったら! 何であんたなんかと──」

「ははは、貴女はいつもそうだったね。
 俺を困らせたくて、意地悪ばかりする。その反応を楽しんでいる。
 でも良いんだ。蝉玉さんにそうされる度に、より一層貴女の愛を深く感じるんだよ」

「だから──」

「そうだ! 初めて会った時の事を覚えているかな? 勿論覚えているよね?
 俺達が運命の赤い糸に導かれるがままに出会った、記念すべき日だ。
 金鰲島で初めて貴方と出会ったあの時から、俺はずーっと貴女だけを見て来たんだよ。
 そう、お風呂でも、トイレでも、ベッドの中でも、いつでも貴女は美しかった」

「止めてよ! 本気で鳥肌が立つじゃない!」

 蝉玉は先程演技でやっていたように、両腕で自らの身体を抱き締める。
 だが演技であった先程とは異なり、蝉玉は本気で悪寒を感じていた。

「……」

「……アレが普通の男か? スース」

「うーむ……儂の目も鈍ったかのう……」

 蝉玉への愛を語る劉環に対して、太公望達は何とも言えない視線を送る。

「そういえば、以前蝉玉の父の鄧九公が言っておったな」

「へえ、何て言ってたんさ?」

「蝉玉は金鰲島に居った時、ストーカー被害にあっていた、と。
 そのストーカーを撃退するために手口を調べていたら、スパイとしての技術が付いたのだと」

「そんな過去が……」

 どうやら蝉玉のスパイ技術は、切実な想いの末に手に入れた物であったらしい。
 ストーカーを撃退するには、ストーカーの手口を知らなければならない。
 だから劉環から逃れるために、自らも技術を磨いたのだ。
 それが聞仲の目に留まり、結果として蝉玉は劉環から離れる事が出来た。
 聞仲の部下になれば、趙公明の部下である劉環は手出しが出来ないからだ。
 蝉玉にとっては、まさに渡りに舟だったのだろう。
 そのスパイ技術のお陰で、土行孫と巡り合う事が出来たのだから、皮肉なものだ。

「あ~もう嫌っ! ハニーも居ないし、劉環が居るし、とっとと出てやる!
 こんな狭っ苦しい所に、これ以上一秒だって居てやるもんですか!」

「はははは、蝉玉さんじゃその砂時計は壊せないよ。
 さっきから五月蠅いあのお邪魔虫達を片付けたら、すぐにでも出してあげるよ。
 だからもうちょっと大人しくしていてくれ」

 五光石を取り出した蝉玉を、劉環が出来る訳がないと笑う。

「非力な蝉玉さんじゃ、どんなにがんばっても壊せはしないよ。まあそんな所も可愛いんだけどね」

「ハッ、ジョーダン……あんた、あたしを舐めんのもいい加減にしなさいよね」

 狭い砂時計の中で蝉玉は腕を振りかぶり、叩き付けた。
 ゴッ、と鈍い音を立てて、五光石が砂時計の内壁にぶつかる。
 だがそこで五光石は止まらず、ビシビシと砂時計に罅を入れて行く。

「なにっ!?」

「あたしは、ただ守られているだけの、無力なお姫様じゃないのよ!」

 砂時計が砕ける。
 驚いて動きを止めた劉環目掛けて、五光石が飛ぶ。

「ぐうう……!」

「やった!」

 その額に五光石が直撃し、劉環は倒れた。
 戻って来た五光石を掴み、蝉玉はふうっと息を吐く。

「痛いなぁ……」

「げっ!?」

「驚いたよ、蝉玉さん。少し見ない間に、随分と強くなったんだね」

 直撃したというのに、なんて事ないように劉環は平然と立ち上がった。
 絶対に当たるという五光石の力のお陰で砂時計を砕く事は出来たが、劉環を倒す事は出来なかったようだ。
 劉環は片手に持っていた弓を蝉玉に向けて構える。
 弓を引くと、光の矢がそこに生まれた。

「でも、少しおふざけが過ぎるかな?」

「やばっ!」

 劉環の放った光の矢は、空中で幾条にも分かたれ、蝉玉の立っていた足場を砕いた。
 蝉玉は間一髪で、別の足場へと飛び移るが、再びそこを劉環の放つ矢に破壊される。
 何度かそれを繰り返し、やがて蝉玉は劉環の立っているのと同じ、大きなステージの上へと誘導された。

「俺に良い所を見せたいのは分かるけど、金鰲を裏切ったりしたのはやりすぎだよ。
 俺が趙公明様に口を利いて許してもらうからさ、素直に戻っておいでよ」

「誰が戻るもんですか! 
 金鰲島の居心地が悪かったとは言わないけど、あんたが居る所なんて絶対に嫌!」

 嫌悪感を隠そうともせず首を振る蝉玉に、劉環はやれやれと肩を竦めた。
 仕方ないな、と言って、再び弓を構える劉環。

「分かってくれよ、蝉玉さん。俺だって本当はこんな事したくないんだ。
 でも貴女が自分に正直になれるように、この『万里起雲煙』でお灸を据えてあげるのも愛情ってもんだろう?
 こっちに戻って来るなら、それなりの口実は必要だものね」

「くっ、この勘違いヤロォッ!」

 矢を放つ劉環。
 蝉玉は五光石を投げて矢を撃墜しようとするも、力不足は否めない。

「きゃあっ!?」

「いかん!」

 全てを撃ち落とす事は叶わず、一度に数十もの矢が降り注いで、蝉玉の足場を破壊した。
 蝉玉のピンチに、思わず太公望が声を上げる。
 煮え滾る溶岩の海に落ちそうになった蝉玉は、間一髪で無事だった岩場へと手を掛けた。

(やばっ……)

 片手で全体重を支える蝉玉。
 それは致命的な隙だった。
 そんな蝉玉の目の前に劉環が立ち、彼女を見下ろしていた。
 ここまでか、と諦めそうになった蝉玉だったが、その前に劉環に腕を掴まれ、引き上げられた。

「……放しなさいよ」

「どうして? こんなにも近くで、貴女と話せるというのに」

 劉環は蝉玉に笑い掛ける。
 劉環に腕を放す気配は無く、蝉玉は捕まったままだ。

「くっ!」

「駄目だよ、そんなんじゃあ」

 蝉玉は空いていた左手で劉環を殴りつけようとするが、容易く止められた。
 そのまま腕を上に持ち上げられ、片手で纏めて持たれる。
 五光石が唯一の武器である蝉玉にとって、両腕を捕らえられている状況では、反撃の手を封じられてしまった。
 劉環は空いた手を伸ばし、蝉玉の頬へと触れる。

「いやっ、止めてよ!」

 蝉玉は逃れようと身体をよじり、足をバタつかせるが、それは何の意味も無く、寧ろ逆に劉環を喜ばせるだけだった。
 はり付けたような笑みを浮かべたままの劉環が、蝉玉の頬に当てた指を滑らせる。
 溶岩の上で戦っていたせいか、頬を流れる汗を指に絡ませる。
 顔を背けようとした蝉玉の顎に手を掛け、グイ、と自分の方を向かせた。

「これで分かっただろう?
 無駄な事は止めて、金鰲に戻って来たらどうだい?
 力の差は歴然なんだからね」

「何が無駄よ! あたしは戻らないわ。
 太公望達と一緒の方が楽しいし、何より崑崙にはハニーが居るもの」

「ハニーねぇ……。そいつの事は知ってるよ。何でも、凄い醜男だそうじゃないか。
 俺の気を引く為に近付いただけの男だ。蝉玉さんが気にする必要は無いよ。
 現に君を助けに来ようともせず、逃げ出したんだろう?」

「っ!?」

 劉環が嗤う。
 それは会った事も無い土行孫に対しての、明らかな嘲笑だった。
 そしてそれは、常日頃から土行孫が好きだと公言している蝉玉にとって、見過ごせないものだった。

「……?」

 顔に冷たい物が当たり、劉環はそれに手をやる。
 僅かに粘度のあるそれを、劉環は呆然と見つめる。

 それは吐き捨てられた蝉玉の唾だった。
 力の差は厳然と二人の間に横たわっており、蝉玉が劉環を倒すのは不可能だ。
 そして蝉玉は劉環の手に捕まったままであり、劉環が手を放せば、溶岩の海へと真っ逆さまに落ちて行く。
 唾を吐いた事は、そんな蝉玉に出来る、唯一の抵抗だった。

「劉環……あんたって、本っ当に最低ね!」

 心底軽蔑した視線を、蝉玉は劉環に向けた。

 他人が土行孫を醜男と呼ぶのは構わない。
 彼を馬鹿にされるのは正直に言って、気に入らないが。
 けれど、それで彼に近付く女が減る事に繋がるなら、それは蝉玉にとって願ったり叶ったりだからだ。
 彼の良さは、自分だけが分かっていれば良いと蝉玉は考えている。
 だからこそ、そんな罵詈雑言も聞き流せる。
 言いたい奴には言わせておけば良いのだと割り切っている。
 蝉玉にとっての土行孫は、命の恩人である。
 そして、危ない時には助けに来てくれるヒーローだ。
 どれほど馬鹿にされようと、蝉玉がそう思っている事には変わらないのだから。
 蝉玉が彼の事を好きだと、格好良いと、或いは可愛いと思った事に変わりは無いのだから。

 だがそれを、劉環は侮辱した。
 蝉玉が土行孫に向ける想いを、無き物として扱った。
 あまつさえ、それは劉環を振り向かせる為の手段だったのだと決めつけ、貶めた。
 何という傲慢だろうか。

 そして何よりも、許せない事がある。
 土行孫がこの場に居ないのは、逃げたからだと劉環が言った事だ。
 心外にも程がある、と我が事のように蝉玉は思った。
 何故土行孫が逃げる必要がある?
 確かに劉環は強いだろう。今の蝉玉では敵わない程に。
 だがそれでも、蝉玉には劉環が彼よりも強いとは思わなかった。
 蝉玉を倒した程度で、土行孫と戦ってもいない癖に、勝ち誇っているのが気に入らないのだ。

「あんたにハニーの何が分かんのよ!?」

 蝉玉は劉環を睨み付ける。
 劉環は蝉玉のそんな視線すら気付いていないのか、無言で掌を見つめていた。

「…………」

「痛ぅっ!?」

 劉環が突然、蝉玉の腕を掴む手に力を込めた。
 ギシ、と蝉玉の腕の骨が軋む。
 次の瞬間、蝉玉は後方へと無造作に投げ捨てられていた。

「きゃあっ!?」

 碌に受け身も取れないまま、蝉玉はステージの上を転がる。
 その蝉玉へ向けて、劉環が万里起雲煙を構えた。
 未だ立ち上がる事さえ出来ていない蝉玉に向けて、だ。
 万里起雲煙から数十もの矢が放たれる。

「っ!?」

 迫り来る矢を前にして、蝉玉は逃げる事も、矢を撃ち落とす事も出来なかった。

「……え?」

「な~んちゃって、冗談冗談。驚いた?」

 矢が蝉玉を貫く事は無く、顔のすぐ横を通り抜けて行っただけだった。
 後ろを見てみれば、宝貝合金に当たって霧散していく矢の群れが確認出来た。

「劉環……!」

 キッと蝉玉は劉環を睨み付ける。
 蝉玉の腹の中で、溶岩よりも熱い怒りが鎌首をもたげた。
 遊んでいるのだ、この男は。
 自分の方が力が上だと分かった上で、その力を使って蝉玉を脅かしたのだ。
 蝉玉の行いが気に入らなかったから脅して、冗談だったと笑って、誤魔化してそれで済むと思っているのだ。
 馬鹿にされている。
 見下されている。
 これでどうして怒らずにいられようか。

 だが次の瞬間、蝉玉のそんな怒りは消し飛んでしまった。

 蝉玉の怒りなど何処吹く風と言わんばかりに、劉環は蝉玉をニヤニヤと見つめている。
 そのまま視線を逸らす事無く劉環は頬に手をやり、蝉玉の吐いた唾を指で拭った。
 そして、汚れた指を劉環は、ゆっくりと口元へと運んだ。



 ピチャ……




「ひっ!?」

 指をべろりと舐める劉環の姿に、尚もこちらを見つめたままの劉環の姿に、蝉玉は身の毛がよだつ思いがした。
 生理的嫌悪を催す劉環の行動に、止めておけば良かったと本気で蝉玉は後悔する。
 今の蝉玉は、封神される以上の精神的苦痛を感じていた。

 理解したくもない相手の行動に、蝉玉は金縛りにあったかのように動きを止める。
 もし蝉玉が攻撃した所で、今の劉環には防げないだろう。
 それを分かっていても、身の危険を感じる蝉玉には攻撃に出られなかったのだ。
 もし攻撃したら、その瞬間に今蝉玉を見ている劉環が近寄って来るだろう、と半ば確信を感じていた。

 そして、劉環が蝉玉に向けて一歩、近付いた。

「い……いや……」

 蝉玉は反撃しようと思う事すらなく、弾かれたように後ずさった。
 もはや強がりさえ出て来なかった。






「まずいべ! 何とか出て助けるさスース!」

「無茶を言うな痛い痛い痛い!」

 天化が何とか助けを向かわせようと、グリグリと足で太公望を押し込んだ。
 だが隙間にぴったりと嵌まっている太公望は痛みを訴えるばかりで、変化は現れない。

 このままでは蝉玉の貞操の危機だ。
 もしそんな事になれば、目も当てられない。
 自分達が助けに行くと啖呵を切ったと言うのに、こんな壁に阻まれて何も出来ないというのか。

「クソッ!」

「――どけ、天化」

 後ろから声が掛けられ、再び莫邪の宝剣を振り被った天化が動きを止めた。
 ぬぅっと伸びて来た力強い腕に、振り返った天化は押し退けられる。
 声の主は壁にコツンと手を当てると、小さく呟いた。

「……宝貝合金か──問題無いな」








「さあ蝉玉さん、もう十分に分かっただろう? 金鰲へ戻っておいで」

 じりじりと近付いて来る劉環に、蝉玉はステージの端まで追い詰められていた。
 劉環の口調は柔らかいものの、蝉玉が頷く事以外を認める気は無いと、その目が語っていた。

(……ハニー)

 あと一歩でも後ろに下がれば、蝉玉は足を踏み外して溶岩の中へと落ちて行くだろう。
 だというのに蝉玉の頭の中には、死ぬかもしれない恐怖も、劉環の言葉に頷く選択肢も生まれてはいなかった。
 ただ、もうずっと長い事目の前の変態を相手にしていたせいで、好きな彼の顔を見ていない事が残念だった。
 心の中で呼び掛けるのは、蝉玉が今一番好きな相手だった。

(ハニー……)

 けれど、その彼に縋るのは悪いのだろうか。
 此処には居ないのだと、助けに来てはくれないのだと分かったのに、尚も助けを求める自分は浅ましいのだろうか。
 否、最初から理解している。
 全ては力の無い自分が悪いのだ、と。
 だからこうして蝉玉は攫われ、今は危機に陥っている。
 だからこうして、蝉玉は彼の重石になってしまっている。
 それが嫌だから。
 自分は彼の弱みでしかないと言われたく無いから。
 だからこうして証明しようと、自分から意気揚々と出て来たというのに、結果はこの様だ。
 蝉玉の行動は、何の意味も無かったのだろうか。

「ハニー……!」

 蝉玉が彼を呼ぶ。
 自分だけが許されている呼び方。
 気恥かしげに顔を赤らめながらも、認めてくれている呼び方。
 もう蝉玉にはどうしようもない。
 だから、自分が一番頼れる相手を、蝉玉は呼んだ。

 その時、



「ぬおおお~っ!?」



「何だっ!?」

 太公望のしまりのない悲鳴と、劉環の困惑の声と共に、壁の一画が轟音を上げて破壊された。
 内側から破裂するかのように壁は吹き飛び、超硬化宝貝合金がザラザラと小さな砂に化して行く。
 蝉玉がそちらへ顔を向けると、そこには蝉玉が今一番会いたかった、彼が居た。

「ハ、ニー……?」

「遅れてごめん、蝉玉。助けに来たぞ」

 現れた彼──土行孫の姿に、柄にも無く蝉玉の目が潤む。
 まだ状況は何も変わっていないというのに、それでも蝉玉は心から安堵した。

「……邪魔をするな、クソガキがぁっ!」

 そんな感動の再会を邪魔するように、劉環の低い声が辺りに響き渡った。








あとがき

予定が狂いました。
蝉玉達が話しまくるせいで、主人公の影が薄いのなんのって……。
今回の話は、一話に詰め込むはずだった予定の半分くらいです。

ストーカーってこういう感じで大丈夫でしょうか?
気持ち悪さを出そうと頑張ってみたんですけれど。



[12082] 第六十五話 趙公明攻略Ⅵ 劉環の哄笑
Name: 軟膏◆05248410 ID:f6516e4c
Date: 2010/06/15 22:45





「……よんえふ?」








「蝉玉は……無事か」

 視線の先に居る蝉玉を見て、ひとまず土行孫はホッと息を吐いた。
 盛大に転がったのだろう、蝉玉は砂塗れであちらこちらに擦り傷を作ってはいたものの、重傷は負っていない。
 その事実が、土行孫を僅かながら安堵させた。

(良かった……)

 心の中で、土行孫は一人ごちる。
 間に合ったのだ。
 趙公明の指定していた正午は、とっくの昔に過ぎている。
 太公望達が間に合っていないという事は流石に考えていなかったが、それでも懸念を拭い切る事は出来なかった。
 周軍の宿営地からこの渭水までの数十キロという長い距離を、太公望達が黄巾力士に乗って飛んで来た距離を、土行孫は走って来たのだ。
 スタートから遅れていた土行孫は、今この場でようやく彼らに追いついたのだった。

「……師叔、ここは俺にやらせてくれ」

「土行孫……お主、本当に大丈夫なのか? そんな汗だくのくせに」

「……ああ、そうだな」

 太公望の言葉は、土行孫を気遣ってのものだった。
 それはそうだろう。
 彼らが別れる前に見た土行孫は、見る影もなく意気消沈していたのだから。
 そんな土行孫が、この短時間で劇的に変わるとは思わない。
 だが太公望の予想に反して、土行孫は力強く頷いた。

「俺はもう『大丈夫』だよ」

 それなりに疲労はあれど、そんなものは無事な蝉玉の姿を見れば吹き飛んでしまった。
 多分に精神的なものであろうが、土行孫は自身の身体が軽くなるのを感じていた。

「……モグラ」

「天化か……。お前に殴られたの、すげぇ痛かったぞ。おかげで来ちまったじゃないか」

「へっ、俺っちのせいにすんなよ。モグラが来たいから来たんだろうが」

「そうだな。俺は、俺自身の意思で、此処まで来たんだ。だから……」

 土行孫は劉環を見据え、静かに言った。

「手ぇ出さないでくれ」

 後ろに居る天化に一言告げ、ステージの上へと跳んだ。
 一足で辿り着いた土行孫は、蝉玉を守るように、彼女の前に降り立った。

 先程言っていたように、土行孫が邪魔なのだろう。
 劉環の憎々しげな視線が土行孫に突き刺さる。

「邪魔をするなと言ったはずだ、このクソガキ!」

「いいや、邪魔させてもらう。俺は蝉玉を助けに来たんだ。お前の好きになんかさせない」

「はっ! 助ける? 何を言ってるんだ。
 俺と蝉玉さんは愛し合ってるんだ。助ける必要なんかない。
 だからお前の入り込む余地なんか、最初から無いんだよ!」

「……はぁ?」

 まさか敵がそんな事を言いだすとは思っておらず、土行孫の口から戸惑いの声が漏れる。
 思わず劉環から眼を逸らして土行孫が振り返ってみると、千切れんばかりに蝉玉が首を横に振った。
 土行孫が来た事で、蝉玉も多少の元気を取り戻せたようだ。

「そんなのあるはず無いじゃない! 全部あいつの妄想よ!」

 そう、蝉玉が劉環と愛し合っているなど、あるはずがない。
 悪い冗談だ。それも誰も笑えない程に最低レベルの。

 蝉玉が劉環を好きになる事は無い。
 これは既に絶対と言って良い。
 劉環と分かり合う事など、永劫にありえない事だと蝉玉は思っている。

 もし本当に蝉玉が好きだと言うのなら、もっと素直に近づいてくれば良かったのだ。
 正面から薔薇の花束でも用意して、好きですと率直に伝えれば、蝉玉も悪い気はしなかったはずだ。
 例え結果がどうであれ、ここまで嫌われる事は無かったはずだ。
 あるいは、良き友人となる未来もあったかもしれない。

 だが現実として、劉環はこそこそと隠れて蝉玉の様子を窺っていた。
 そのくせ自分達は両想いなのだと思い込んで、プライベートにずかずかと土足で踏み込んで来た。
 どこに好きになれる要素があったというのか。
 今の蝉玉は劉環ではなく、土行孫を選んだ。
 それが嫌ならば、蝉玉を振り向かせるように努力すれば良いのだ。
 自分の事が好きに決まっていると、土行孫が劣っていると決めつけている劉環には、難しい事だろうが。

「劉環、あたしはハニーが好きなの。あんたの入り込む余地なんて、最初っから無いのよ!」

 土行孫の服の裾を握りながら、蝉玉は言い切る。
 そして追い打ちとばかりに、蝉玉は劉環に向けて指で下瞼を引き下げ、舌を出した。
 いわゆる、あっかんべーというやつだ。

 蝉玉は土行孫が好きなのだ。
 それを認めようとしない男に、この程度の機微を理解しない男に、蝉玉が靡く事は無い。

 ……だが、いくら蝉玉が否定しようと、毛嫌いしようと、通じない相手は存在する。

「そうか! 蝉玉さんはそこの小男に騙されているんだろう?」

 そして、目の前にいる劉環こそ、最も相性の悪い相手だった。

「純真な蝉玉さんを騙すだなんて、なんて酷い奴だ! 
 性根の醜さが顔に現れてるよ。
 ああ、でも大丈夫。そんな奴、すぐに俺が殺してあげるよ。
 そうしたら遠慮無く、俺をハニーって呼んで良いからね!」

「誰が呼ぶか! あたしがハニーって呼ぶのはこの人だけよ!」

 蝉玉が切り捨てるが、劉環には聞こえていないらしい。
 何故そこまでポジティブに考えられるのか、理解に苦しむ。
 まぁ当然と言えば当然なのだろう。
 今の劉環にとって、自分に都合の悪い事など聞こえていないのだから。

 蝉玉の言葉の全ては、土行孫に騙されて言わされているだけで、蝉玉の本心では無い。
 洗脳されて、心にも無い事を言わされて、蝉玉は苦しんでいる。
 本当はこんな醜男なんてどうでも良い、早く助けて劉環!
 そう聞こえているのだ。

 まるで悪い奴に攫われたお姫様を助けようとする勇者のような、よくある設定。
 だがよくある物語と決定的に違うのは、全てが勇者の妄想でしかない所か。
 今の劉環には、土行孫がさぞかし悪人に見えている事だろう。

 そんな劉環の声に呼応し、下で蠢いていた溶岩が爆ぜた。
 火山の噴火のように噴き上がった溶岩は、やがて一つの形を作り上げる。

「と……鳥……」

「宝貝『火鴉壺かあこ』。俺の真の宝貝だ。これでお前を、骨すら残さず焼き尽くしてやる」

 下の溶岩の全てが、劉環の宝貝であった。
 この場は劉環にとって有利になるように、最初から仕組まれていたのだ。


 ──瘟!!


 紅蓮の羽を撒き散らし、火の鳥は鳴く。
 その抱擁を持ってして、必ず相手を焼き尽くす存在。
 近付く事すら危険なその存在は、蝉玉を庇うように立つ土行孫を睨め付けた。

「は、ハニー……」

「大丈夫」

 トラウマとなっている鳥の姿に、不安げな声を隠しきれない蝉玉。
 劉環から眼を逸らす事無く、安心させるように土行孫は背後に庇った蝉玉に言った。

「俺は負けない」

「……うん!」

 簡潔、だがそれ故にその言葉は、蝉玉の胸に容易く滑り込んで行った。

 土行孫は土竜爪を発動させると、蝉玉の周りの地面が盛り上がり、彼女を囲むように壁を作った。
 劉環との戦いの余波で、蝉玉が怪我をするかもしれないからだ。
 鳥の姿を模した火鴉壺は、舞い散る羽すらも溶岩で出来ている。
 もし当たれば、タダでは済まない。
 幸い、今の劉環は土行孫を殺せば、蝉玉は自分の下に戻って来ると思い込んでいる。
 だから必要以上に、蝉玉を傷付ける事はしないだろう。

「俺はこっちだ!」

 蝉玉を巻き込まないように高く、天井近くまで土行孫は飛び上がった。
 火鴉壺は土行孫を追い掛ける為に向きを変え、襲い掛かって来る。

「はぁっ!」

 土行孫は懐から取り出した如意棒を両手に握り締め、上から全力で叩き付けた。
 インパクトの瞬間に如意棒は巨大化し、火鴉壺は姿を保てないほどに叩き潰され、不定形な形へと変わる。
 だが直ぐに姿を崩した所から修復されていき、幾許かの時を置いて元の姿へと戻ってしまった。

「……ちっ」

「無駄だ。火鴉壺は全身が溶岩、そんな攻撃が効くものか」

 舌打ちした土行孫を、劉環が嘲笑う。

「じゃあこれはどうだ!」

 にやついている劉環目掛けて、如意棒を投擲する。
 だが直撃するかと思われた瞬間、火鴉壺がその身を崩して射線に割り込み、壁となって立ち塞がった。
 ドロドロとした溶岩は抵抗が大きく、如意棒は火鴉壺に半ばまで埋まった所で勢いを止める。
 その後ろに居る劉環まで、攻撃は届いていない。
 火鴉壺の腹に突き刺さった如意棒は、自重でずるりと火鴉壺の身体から抜け落ちた。
 がらん、と音を立ててステージの上に如意棒が転がるが、一瞥しただけで土行孫はそれを回収しようとはしなかった。

 火鴉壺が羽ばたく度に高熱の羽が舞い散り、ステージを侵食する。
 猛禽を思わせる鋭い目で土行孫を睨め付け、喰らおうとその嘴を開いて襲い掛かって来る。
 弾かれるように後方へ飛び、舞い散る羽を取り出した絶仙剣を翳して防ぎながら、土行孫は確信した。

(……そういうことか)

 最初から予想していたことではあるが、なるほど、ここが敵地であるという事を、今更ながらに土行孫は実感した。
 土行孫の持つ宝貝を、趙公明は調べていたという事だろう。
 物理的な攻撃力を誇る宝貝では、火鴉壺を突破するのは難しい。
 如意棒が防がれたのならば、絶仙剣でも難しいだろう。
 例え数を増やした所で、火鴉壺を貫くまでには行かないはずだ。
 本来投擲武器である絶仙剣を宝貝である火鴉壺に当てた所で、劉環には何のダメージにもならない。
 火鴉壺の再生速度を鑑みれば、ただの疲れる作業で終わる。
 何よりも……

(もう持てないか……)

 先程投擲した如意棒は、濛々と白い煙を発生させていた。
 熱された事で、朱色に塗装された表面が更に赤く染まっている。
 やはり金属をぶつけるのは相性が悪い。
 如意棒を伸ばさず、敢えて投擲した理由がここにある。
 溶ける事は無いだろうが、熱くて土行孫が持てなくなるからだ。

 そして土竜爪での攻撃、これも少し難しい。
 というよりも、先程から迫り来る火鴉壺の足を止めようと、幾度となく土を盛り上げて盾を作っていた。
 だが火鴉壺の放つ超高熱が厄介で、盾が防ぐ意味を為さない。
 普通の土をぶつけるだけでは火鴉壺の身に取り込まれ、火鴉壺を更に成長させることになる。

 もし後方で土行孫の戦いを見ている天化ならば、それでも勝つだろう。
 彼の持つ宝貝、莫邪の宝剣もまた、火鴉壺を相手にするには不利だ。
 だが彼には自慢のスピードがあり、抜群の戦闘センスがある。
 それは土行孫の持ち得ない物であり、不利を跳ね返す切り札だ。
 天化がこの場に立っていたならば、火鴉壺の攻撃を避け、尚且つ劉環を仕留めるだけの素早さを発揮することだろう。

「速さが足りない……」

 自虐的に、土行孫は笑う。
 勿論、足りないのは土行孫の素早さだ。
 火鴉壺はスピードは遅いが、再生は早い。
 そして固定された形を持たないが故に、その手はどこまででも伸びて来る。
 叩き潰してから劉環を倒そうと動いても、足の遅い土行孫では間に合わないのだ。

 土行孫は攻撃の要を、土竜爪・如意棒・絶仙剣の三つに頼っている。
 色々と小細工を弄したりはするが、基本的に物量で押し切る戦い方だ。
 そんな土行孫にとって、物理的な攻撃が効かないのは致命的だ。
 物量で押し切るための土も、この閉鎖空間内では限りがある。
 おまけに土行孫には、火鴉壺の追撃を振り切り、劉環に一矢報いるだけのスピードは無い。
 正しく土行孫を殺すための布陣だった。
 まともに正面から戦った所で、勝ち目はない。



 今までの土行孫ならば、の話だが。



 確かにスピードは変わらないが、速さが無くてもどうにかする事は出来る。
 その鍵を握るのは、やはり土竜爪だった。

 謎の男と相対した時、土竜爪から黒い泡が漏れ出たのを覚えているだろうか?
 当然のことながら、無意識で発動させた土行孫もまた、あの黒い泡を見ていた。
 あの黒い泡が何なのか、土行孫は知らない。
 だが土行孫にとって、都合の良い影響を及ぼしたのは間違いなかった。

 今は使えない。
 何故か、男から逃走している途中で、急にその存在が消えてしまったからだ。
 クイーン・ジョーカーⅡ世号に来るまでの間に、何度となく再び発動するよう念じてみた。
 だが土行孫の意思に反応していたはずの黒い泡は、発生する事は無かった。
 まるで、何かに邪魔をされているかのように。

 例えるならば、金庫だ。
 あの時発動させた黒い泡は、感情に任せて金庫の鍵をぶち破ったようなものだ。
 だが金庫を開けたら、更に強固な金庫が中にあった。そんなところだ。
 そして土行孫は鍵を持っておらず、それを開ける事は出来ない。

 しかし、収穫はあった。
 走りながら調べたのだが、明らかに以前よりも格段に土竜爪の性能が上がっていたのだ。
 だからこそ、超硬化宝貝合金を砂に変える事が出来た。
 付け焼刃であり本物には遠く及ばないが、昔十二仙の一人が、土行孫に見せてくれた技の再現が出来た。
 それだけの事が出来るという確信が、今の土行孫にはあったからだ。

 あの黒い泡を自在に操る事が出来たのなら、劉環を倒す事など容易いだろう。
 しかし、黒い泡は土行孫の意思に反して使用する事は出来ない。
 土竜爪が強化されるというおこぼれのような事が起きたが、それで十分だった。
 使えもしないものに縋る気は無い。
 例えあの黒い泡の存在を知らずとも、土行孫はこの場に立っていたからだ。

 
 劉環を倒すには、強化された土竜爪があれば十分だ。



(さて、どうするか……)

 飛び跳ねて火鴉壺から逃げながら、どうするか思考を始める。
 火鴉壺をどうにかする方法は考え付いた。
 こちらも同じ土俵で対抗すれば良い。
 だがそれには、劉環の目を逸らさなければならない。
 そして、一時的で構わないから、火鴉壺を土行孫から引き剥がさなければならない。
 土行孫は今、そのための時間を稼ぐ手段を模索していた。






 変化が生まれたのは、天井近くまで後退した土行孫が、飛び散る溶岩製の羽を切り払った時。

「あっづううう!?」

「っ!? 師叔!?」

 太公望の悲鳴が聞こえ、土行孫は視線を横にずらした。
 するとそこには、頭を押さえて転がり回っている太公望が居た。
 起き上がった太公望は、涙目になりながら土行孫を睨み付けた。

「こら土行孫! もっと周りを良く見んか! 禿げたらどうしてくれる!?」

 どうやら、先程切り払った溶岩の欠片が、太公望に当たったらしい。
 僅かに焦げた髪を指し示した後、太公望は土行孫にビシッと指を突き付けた。

「だいたい、何を苦戦しておるのだ! さっき自分に任せろと言っていたのは嘘か?
 太乙から貰った宝貝があるであろう。あんな奴、ちょちょいとやっつけてしまわんかい!!」

「太乙真人様の……?」

 咄嗟に土行孫は、ステージの上に置き捨てた如意棒を見遣る。
 あれもまた、太乙真人の作だからだ。
 そして、気付いた。

 劉環が万里起雲煙を構えて、狙いを定めているのを。

「ごちゃごちゃとうるさいな。蝿は消えろ」

 その手から放たれた矢は、数十もの光となって飛ぶ。
 土行孫ではなく、太公望を狙って。

「師叔!」

 あれだけの矢が命中すれば、道士でも危ない。
 だから土行孫は、咄嗟に全身のバネを使って、片手に握り締めていた絶仙剣を投擲した。

「間に合えっ!」

 絶仙剣は空中で分裂し、万里起雲煙の射線に割り込む。
 その大半が矢と激突して弾かれ、吹き飛ばされるが、全てを撃ち落とすまでには行かない。
 太公望に当たる。
 だがここからでは届かない。
 土行孫が避けろと声を上げようとした時──

「俺っちを忘れてもらっちゃあ困るさ」

 間に飛び込んで来た天化が、両手に携えた莫邪の宝剣を一閃する。
 斬り飛ばされた矢は霧散し、太公望に当たる事は無かった。

「……はぁ」

「っ!? モグラ!」

「え?」

 土行孫が肩の力を抜こうとした瞬間、天化の焦りを帯びた声が響く。
 土行孫が顔を前へ向けると、火鴉壺がすぐそこにまで迫っていた。

(あ、逃げらんねぇな、これ)

 冷静な目で、土行孫は瞬時に現状を把握した。

 火鴉壺は巨大なその両翼を大きく広げ、逃げ道を塞いでいる。
 おまけに、後退しようとした土行孫の背中は天井に当たって、それ以上の後退を許さない。
 劉環はこれを狙ったのだろうか。
 土行孫の気が逸れる瞬間を。
 土行孫が逃げられなくなる瞬間を。
 だとしたら褒めるべきだろう。
 今まではただ、土行孫が逃げ回るのを見て楽しんでいただけで、本当は強いのだと。

 大きな口を開けて、迫り来る火鴉壺。
 この抱擁を受けたら、ひとたまりも無く土行孫は死ぬ。
 それを分かっていながら土行孫は、酷く冷静な目で濃厚な死の気配を放つ火鴉壺を見て呟いた。

「──ぬるいな」

 それは負け惜しみか、それとも純粋な感想か。
 やけくそのように、土行孫は両腕を背にした天井に叩き付ける。
 一瞬の後、火鴉壺は土行孫を呑みこんで、天井に激突した。
 余程の勢いが付いていたのか、火鴉壺の直撃した所から天井が崩壊を始める。
 瓦礫がガラガラと音を立てて崩れ落て行き、大穴が開いたその瞬間──



「うわあああああああああああああっ!!」



 若い少年の悲鳴が、辺りに響き渡った。
 それは、太公望や天化にとって、とても聞き覚えのある声で。
 数秒もしないうちに、蠢く溶岩の海から、白い光が飛び出した。

「ああ……そんな……」

 それは、誰が洩らした言葉だろうか。
 あの溶岩に呑まれ、生きていられるはずがない。そんな確信が、誰の内にもあった。
 魂魄たるその光は灼熱の溶岩から逃げるように、ミミズのようにのたうちながら飛び去って行く。

「……は、ははははははっ! やった! 倒したぞ! あいつは死んだ!!
 俺が殺したんだ! これでもう、俺と蝉玉さんの間を阻む奴は居ない!!
 はははははははははははははははははっっ!!!」

 土行孫が死んだと判断して、劉環が哄笑を上げる。
 おかしくてたまらないとばかりに、腹を抱えて。
 その脳裏には、めくるめく蝉玉との甘い妄想が広がっているのだろう。






 土行孫を飲み込んだ溶岩の海が、どくんと鼓動をするかのように一度、内側から震えた事にも気付かずに。










「土行孫……」

 ピントの合っていないぼやけた写真に写る、少年の姿の道士の名を、竜吉公主は呼ぶ。
 何故だろう。嫌な予感がする。胸騒ぎがするのだ。
 それは虫の知らせか、それとも乙女の勘か。
 けれど、写真に写っている彼は、何も返してはくれない。
 それどころか、一緒に写っている竜吉公主の知らない女を見ているのだ。
 憂鬱だった。

 申公豹の持って来た写真。
 ピントの合っていないぼやけた写真で、写っている人物は二人。
 一人は竜吉公主が良く知る男で、一人は竜吉公主の知らない女。
 まるでキスをしているかのように密着している二人の写真を見る度、竜吉公主は言い表せない感情に包まれる。
 この写真を申公豹に渡された時、竜吉公主はそれはそれは動揺した。
 思わず握り締めたせいで、写真にはぐしゃぐしゃの折り目が付いてしまっている。
 数秒前まで考えていた事さえ吹き飛び、感情の赴くがままに行動しようとした。
 その時は赤雲に止められたものの、胸を覆う不安感は取り除かれる事は無かった。
 冷静になってよく考えてみれば、これが二人が本当にキスをしている写真でないのは明白であったのに、だ。
 もし本当にキスしていたのなら、申公豹は写真に撮るだろう。
 ピントの合った鮮明な写真を、明確な証拠を竜吉公主に突き付けて言うはずだ。

『貴女がのんびりしている間に、彼は他の女に走ったようですよ』

 そう言って笑うはずだ。
 僅かな時間しか会話していないが、申公豹ならばまず間違い無くやるだろう、と竜吉公主は確信していた。

 それでも、不安は拭えない。
 こんな気分の悪くなる写真(確実に盗撮だ)を未だ持っているのも、理由がある。

 土行孫と竜吉公主との関係は、長く続いている。
 もう五十年程になるだろうか。
 二十年程度の細かい誤差はあるだろうが、大体それぐらいになる。
 だというのに、二人は未だ写真すら撮った事が無い、という事に、竜吉公主は初めて気付いたのだ。

 勿論、写真を撮ったからどうだ、というものでも無い。
 例え数年会わなくとも、途切れる事の無い絆はあると信じている。
 しかし、心配になるのは仕方が無いだろう。

「寂しいのう。誰も遊びに来ないこの部屋の中は、こんなにも静かじゃ」

 誰も居ない訳ではない。
 むしろ身体の弱い竜吉公主を気遣って、常に誰かが傍に居る。
 けれど、それ以上踏み込んで来る者は居ない。
 竜吉公主が友と呼ぶ彼以外は、気軽に立ち寄ってくれる者は居ない。
 最近では太乙真人が鳳凰山を訪ねて来たが、渡す物を門番に預けると、竜吉公主に会う事もなく引き返して行った。

「土行孫……」

 再び、竜吉公主は彼の名を呼ぶ。
 もし土行孫が帰って来たら、共に写真を撮ろうと心に決めて。
 一緒に写っていた赤毛の少女の事を問うのも良い。
 きっと彼は、言葉を詰まらせてしどろもどろに答えを返すのだろう。
 少しちくりと胸が痛むけれど、彼はそんな竜吉公主を案じてくれるだろう。
 そんなことを考えながら、竜吉公主は写真を胸に当てる。



 そうすれば、この胸の奥に生まれた、言葉に出来ない不安も消えてくれると、そう信じて。








あとがき



と、いきたいところですが、まだだ! まだ終わらんよ!!
今回無双だと期待されていた方には、本当にすいませんでした。



[12082] 第六十六話 趙公明攻略Ⅶ キレる
Name: 軟膏◆05248410 ID:f6516e4c
Date: 2010/07/02 21:53






「まさか……」

 すぐ傍を飛んで行った魂魄を見て、呆然と太公望は呟く。
 魂魄が飛んだ。
 それはつまり、土行孫が封神されたということではないか?
 土行孫を呑み込んだ溶岩の海に向けて、思わず一歩を踏み出す。
 ザリ、と砂の山が、太公望に踏み締められて音を立てた。
 その音は奇妙なほどに辺りに響き、太公望は足下に目を落とした。
 土行孫が破壊した、宝貝合金のなれの果て。
 細かい粒子となったそれが、ざらざらと音を立てて溶岩の海へと落ちて行く。
 その流れを見つめ……ハッと気が付いた。

「まさか……!」

 今しがた呟いた言葉と同じ、だが別の意味を持って太公望は顔を上げる。
 ステージの上を見た。
 そこでは未だ、劉環が勝ち誇った笑いを続けている。
 だが太公望が見たのはそこでは無い。
 ステージの上に居るもう一人、蝉玉だ。
 ここからでは、彼女の顔は見えない。
 だがそれで十分、太公望は確信した。

「──あの野郎ぉっ!!」

「待て天化!」

 莫邪の宝剣を構えて飛び出そうとした天化を、太公望が肩を掴んで引き止めた。

「放せ、スース!」

「いいや、放さぬ。天化、お主はあやつが言っていた事を忘れたか」

「……言ってた事?」

「アレを見よ」

 太公望はステージの上の、蝉玉を指差す。

「蝉玉の顔を見るのだ」

「顔って……そんなん見えるはずねぇさ。だって壁が邪魔して……あ」

 自分で言っていて、天化も気付いた。
 天化の言った通り、蝉玉の顔が見えるはずが無い。
 何故なら蝉玉は、巻き込まれないようにと土行孫が作った壁に囲まれているのだから。

 この第三階のステージは、溶岩の海の上を浮遊する巨大な岩盤と、その周りを飛ぶ小さな足場で構成されている。
 蝉玉を守っている壁は、土行孫が土竜爪の力を使い、その岩盤を変形させて作られたものだ。
 ならば、土行孫が封神されたのならば、壁は崩れて元に戻るはずではないか?

「それだけではない」

 太公望は指を動かすと、今度は天井の大穴を指し示した。

「あの宝貝に、火鴉壺にあれだけの力があると思うか?」

「それは……」

 天化は言い淀む。

 太公望達は確かに見た。
 火鴉壺が土行孫を呑み込むようにして天井にぶつかり、大穴を開けた所を。
 だが、あれは本当に火鴉壺の力だったのか?
 宝貝合金で囲まれている第三階。
 劉環達が立っているステージ以外には、壁も、床も、無論天井でさえも宝貝合金で構成されているこの場所で。
 土行孫が容易く避けられる程度の速さしか持たず、固い肉体を持たない火鴉壺が天井を砕き、四階まで貫く程の破壊力を有しているだろうか?
 そして楊任の時と同じく、それだけの力を持っていて、趙公明の部下に甘んじているだろうか?

 考えれば考える程に、違和感が募る。
 そしてその違和感が出した答えは、この状況をひっくり返すものだ。

「のう天化。あやつは言っておったな。『ここは俺にやらせてくれ』と」

「……ああ。そんで、手ぇ出すなとも言ってたさ」

 太公望の言葉に頷き、天化は溜め息を吐いて宝剣の光を消した。








「ははははははっ!!」

 劉環が笑う。哂う。嗤う。
 これで劉環と蝉玉の間を邪魔するものは無くなった。
 抑えようとしても抑えきれない笑いが漏れ、劉環は上機嫌に嗤い続けた。

「ふ、ふふっ、はははは……さあ、蝉玉さん!
 これであいつはいなくなったよ。いい加減、出ておいで」

 劉環が万里起雲煙を構え、矢を放つ。
 今まで蝉玉を守り続けていた壁は脆くなっており、容易く砕け散った。
 壁に守られていた蝉玉は外に引き摺り出され、劉環がにやりと笑う。

「もっと顔を良く見せてよ。照れてないでさ」

 劉環は両腕を広げ、待ち構える。
 蝉玉が胸に飛び込んで来ても良いように、だ。
 そんな劉環に向けて、蝉玉はくす、と微笑を浮かべる。
 それは蝉玉が、初めて劉環に向けた笑顔だった。

「ねえ、ハニーは優しいわよね?」

「何を言っているんだ、当然じゃないか! 俺は君を愛しているんだから」

 自分の事だと思い、劉環はしっかりと頷いた。
 先程までハニーと呼ばれていた土行孫は死んだ。劉環が殺したのだ。
 ならばハニーという呼び名は、自分がそう呼ばれるのに相応しいと、劉環はそう思ったからだ。

「そうじゃなくて──」

 だが蝉玉は分かってないと言わんばかりに、首を横に振った。

「あんたみたいな奴にも、わざわざ勝った気分を味わわせてくれるから、よ」

 蝉玉は初めて劉環に向けて笑った。
 それは劉環が好きだからでも、ましてや嫌いな土行孫が死んだからでも無い。
 ただの皮肉だ。
 蝉玉は劉環が勝ったと言ったのを、この程度で良い気になっている劉環を、鼻で笑ったのだ。

「そうよね、ハニー?」

 蝉玉は呼び掛ける。
 その声に、



「──そうかも、な」



 と、返事が返って来た。
 同時に、辺りに降り積もる砂の山が、まるで意思を持ったかのように蠢き、急激に渦を巻いて行く。
 それは溶岩すらも巻き込み、巨大な赤い渦潮を作り上げた。

「な、何だ? 何が起きている!?」

 自らの意思に反して動きを始めた溶岩の海を目の当たりにし、劉環が戸惑いを浮かべた。
 あり得ない、と劉環は断言する。
 今蝉玉の言葉に反応した奴は、溶岩の海に沈んだからだ。
 魂魄が飛ぶのも確認した。
 だから“そんなはず”はないのだ。
 なのに、だというのに、嫌な予感が消えないのは何故だ!?
 そこまで劉環が考えた時、渦の動きが止まった。

「な、何だったんだ、今の──」

 最後まで言い切る事無く、劉環の言葉が途切れる。
 何か細く朱い物が、劉環のすぐ傍を通り過ぎたからだ。
 僅かに遅れて、



 ヒュンッ



 という風切り音が劉環の耳に入る。
 劉環の見つめる先には、鋭い刃物で切り裂かれたように、溶岩の海が真っ二つに割れていた。
 続く風切り音で二つに裂かれた溶岩は四つに、八つに、十六にと際限なく細切れにされて行く。
 元に戻る暇すら与えられず、数えるのも馬鹿らしくなるほどに溶岩は分割され、吹き飛ばされた。
 大渦を生み出していた中心に、白い卵のような物を残して。

「……何故だ」

 信じられない、とばかりに、劉環が声を洩らす。
 奴は死んだはずだ、と自らに言い聞かせるも、すぐにそれは否定された。
 卵は目の前でざらざらと砂になって崩れて行き、中に居た者を劉環の眼前に晒した。



 無傷の土行孫が、そこに立っていた。



 よっ、と軽い調子で、土行孫はステージの上に移動する。
 そんな彼を、劉環が身体を戦慄かせながら睨み付けた。

「お前は……お前は死んだはずだろう!?」

「死んだ? 良く見ろよ、足はあるぜ」

 見せつけるように、土行孫はポンと両足を叩く。
 幽霊には足が無い。
 そんな迷信になぞらえてみたのだが、劉環にはそれが馬鹿にされていると映ったようだ。

「殺す……今度こそ殺してやる!」



 ──瘟!



 劉環の叫びと共に、細切れにされた溶岩が盛り上がり、再び鳥の姿を形作る。
 土行孫はそれを見上げると、今度は避ける事無く、懐に手を伸ばした。
 ずるり、と朱色の長い紐のような形状の宝貝が姿を現した。

「は?」

 土行孫が無事であったのを確認して気を抜いていた天化が、土行孫の取り出した宝貝を見て呆気に取られる。
 驚きのあまり、銜えていた煙草をぽとりと取り落としてしまったほどだ。

「フッ!」

 短い呼気とともに、土行孫が蛇のようにのたうつその宝貝を振り抜いた。
 すると土行孫に向けて襲い掛かって来た火鴉壺が二つに裂け、すぐ傍を流れ通り抜けて行く。
 僅かに遅れて、ヒュンという風を切る音が辺りに響いた。

「馬鹿な……」

 劉環がそれを見て、茫然と立ち尽くす。

「何故……何故お前がそれを持ってるんだ……」

 ヒュン、ヒュン、と風を切る音が断続的に響く中、劉環は土行孫を問い詰める。
 それほど驚くとは、彼もその宝貝を過去に見た事があったのだろう。
 天化が驚くのも当然だ。
 なぜなら土行孫の持っているそれは、彼らの戦うべき敵が持っているはずの宝貝であったから。



「何故お前なんかがスーパー宝貝を……禁鞭を持っているんだ!?」



 その問いに土行孫は答えず、ただニヤリと笑った。
 土行孫が禁鞭を一振りすると、音速を超えた鞭の群れが唸りを上げ、壁を、天井を、地面を削る。
 立ちはだかる溶岩など関係無いとばかりに細切れに分断され、吹き飛ばされる。

「な……な……」

 嵐が過ぎ去った後のような周囲の惨状に、劉環は言葉を失くした。
 対する土行孫は手の中の禁鞭を見つめ、難しそうに眉を顰めながら呟いた。

「……やっぱり、使い慣れないと難しいな」

 鞭というものは、とりわけ習熟に時間が掛かる。
 土行孫とてそれは例外ではなく、他の宝貝に比べて扱いが上手いとは言い難い。
 そもそも彼は、人間界に降りた後の怒涛の展開により、この禁鞭の存在を忘れてすらいたのだから。
 火鴉壺に当たったのは、ただ的が大きかったからに過ぎない。
 もし土行孫が禁鞭を使いこなしていたのならば、今の一瞬で劉環も倒せただろう。

「止めるか」

 ごそ、と土行孫は禁鞭を仕舞う。
 元々使うつもりなど無かったのだから、別に構わない。


 既に仕込みは終わっているのだから。


 だがそれを目の前でやられた劉環にとって、土行孫の行動がどう映ったかなど明白であろう。

「~~っ! 殺せ、火鴉壺ぉっ!!」

 蠢く溶岩がボコボコと盛り上がり、火の鳥が現出する。
 ただし、一羽ではない。
 数十もの大小様々な火鴉壺が入り乱れ、土行孫を取り囲み睨め付ける。
 四方八方から一斉に襲い掛かってくる火の鳥の群れを見上げながら、ポツリと土行孫は呟いた。

「ぬるいな」

 呟くと同時に、土行孫を飲み込もうとしていた火鴉壺が、



 ビタッと動きを止めた。



 正確には、火鴉壺の中から溢れ出て来た大量の土砂が、火鴉壺に巻き付いたのだ。
 超高温の溶岩でさえ溶ける事の無い、不可思議な土砂に火鴉壺はコーティングされて、それ以上の侵攻を強引に止められた。
 石化したかのように目の前で動きを止めた火鴉壺を見ながら、土行孫は「ぬるい」ともう一度繰り返した。
 温度、という意味では、火鴉壺はとても熱いだろう。
 傍にあるだけで皮膚を焦がし、息をするだけで肺腑を焼く。
 それは、とても脅威だ。



 だが──それだけだ。



 ここに来る前に出会ったあの謎の男もまた、炎を宿す剣を持っていた。
 彼の宝貝と比べても、火鴉壺は遜色ないだろう。
 だが目の前の火鴉壺には、あの男から感じられたような裂帛の気合も、苛烈なる意志も存在しない。
 目の前の火鴉壺から感じられるのは、ヘドロのように凝り固まった妄執のみ。
 故に、ぬるいのだ。
 土行孫はこの程度の敵に、負ける気など欠片ほども感じられない。

 土行孫の反撃は、これだけでは終わらない。
 彼が土竜爪を掲げると火鴉壺の溶岩で出来た身体が、内側からボコボコと盛り上がった。
 火鴉壺ではない何かが、火鴉壺の中で暴れていた。
 そして、爆ぜる。
 溶岩の中から噴水の如く噴き出した大量の土砂が、ザラザラと音を立てながら寄り集まり、やがて一つの形を作り上げる。
 戦いの行方を見届けていた太公望が、それを見て目を見開いた。

「なっ……ゴ〇ラだと!?」

「うひゃ~、でっけぇさ……」

 隣で見ていた天化も、呆けたようにその全景を見上げる。

 太公望が興奮気味に叫んだ存在。
 それは土で出来た竜だった。
 胸から上しか作られてはいないが、頭部が天井にぶつかるかと思われるほど大きい。
 巨大な印象を抱かせた火鴉壺が、土竜の前では大人と子供のように差があった。
 火鴉壺の腹を食い破り、溶岩を身に纏って生まれた竜。
 土竜は巨大なその身を一度、ぶるりと震わせ、人を丸呑みに出来る口を開いた。



 ──――――――──ッ!!



 声無き咆哮が辺りに轟き、誰もがその一挙一動に目を奪われる。
 土竜は辺りを睥睨した後、一点を見つめた。
 身動きの取れなくなった火鴉壺だ。
 狙いを定めた土竜は、両の腕で火鴉壺を押さえ付け、普通の生物ではあり得ない程に顎を開き──火鴉壺に喰らい付いた。
 火鴉壺は身を捩り、土竜に反撃しようとするが……無駄だ。
 自慢の超高温さえも、土竜の身体に焦げ目一つ付きはしない。
 火鴉壺が数で反撃しようと、土で構成されたその身は傷つかない。

 竜の前では、鳥などただの餌でしかないのだ。

「馬鹿な」

 目の前で喰われていく火鴉壺。
 口を開く毎に、その身を肥大化させていく土竜。
 それらを見上げながら、何度目になるか分からない言葉を劉環が吐き出した。
 目の前の光景が理解出来ていないのだろう。
 火鴉壺の身体の温度は1000度を越える高温。
 先程土行孫が盾とした、土の壁さえも呑み込んで、火鴉壺は成長していたはずだ。
 だが土行孫の力によって生み出された竜は、それを意に介した様子もないのだから。

 もし他の場所で戦ったのならば、土行孫がこうして劉環を追い詰める事は無かっただろう。
 あくまでも、この場だから出来たのだ。
 火鴉壺を押し込める為に作られたこの場だから、宝貝合金で周りが囲まれていたから、土行孫は劉環を圧倒出来たのだ。

 そう、土竜の身体は全身が宝貝合金で構成されている。
 土行孫は火鴉壺に追い詰められた時、天井や壁の宝貝合金を破壊して、自らを守る殻としたのだ。
 超硬化宝貝合金の特性は物理的衝撃に強く、そして熱や寒さにも強い。
 この階だけが宝貝合金で周りを囲まれている事から、火鴉壺の熱が通じないのは容易に想像出来た。

 尤も、力任せに破壊した訳ではない。

 土行孫は性能の向上した土竜爪を使い、宝貝合金を小さく分解した。
 純粋なる力で? 否。確かに天然道士並の力であれば、砕く事は出来る。だが粉々にする事は出来ない。
 宝貝合金という素材の変質? それも否。近いが違う。
 彼はそこまで大それた事を成し遂げた訳では無い。
 彼はただ、宝貝合金という物質に割り込み、その繋がりを少し緩めた。ただそれだけだ。
 あとは連鎖して崩壊して行く砂と化したそれを、土竜爪で操るだけで良かった。

 これは模倣技である。
 昔、十二仙の一人に見せてもらった技を、土行孫が真似しただけであり、本来の威力には遠く及ばない。
 十二仙の彼ならば分子などと言わず、原子単位にまで分解出来ただろう。
 だが慣れない土行孫にはこれが限界であり、けれどそれで充分であった。
 原子にまで分解すれば、宝貝合金の特性まで失ってしまうから。
 宝貝合金は小さく姿を変えただけで、その性質は失われてはいない。
 火鴉壺の吶喊から身を守った土行孫が、無傷であるのがその証拠だろう。

「なあ、劉環って言ったか? 火鴉壺は全部こいつの腹の中だ。
 中で絡め取ってるから、もう使えないし、使わせない」 

 二回りも三回りも大きくなった土竜を背後に従えながら、土行孫が言う。
 辺りの溶岩は根こそぎ喰らい尽くされ、火鴉壺がその身を形成するだけの量は、既に残っていなかった。
 地肌が晒された地面を見下ろし、ぶるぶると身体を震わせながら劉環が叫んだ。

「何で、何で邪魔するんだよぉっ! お前は逃げたんだろうが!
 それが後から来て邪魔して、何様のつもりだ!? 俺の幸せの邪魔をするなぁっ!」

 劉環は万里起雲煙に矢を番え、土行孫に向けた。

「お前みたいな醜男は、蝉玉さんには相応しく無いんだよっ!!」

 放たれた矢は数十に分裂し、土行孫を襲う。
 だが土行孫に届く直前、振り下ろされた土竜の巨腕によって、その全てが叩き潰された。

「……そうだな」

 やられるだけでは終わらず、土行孫は頷きながら土竜爪の爪を撃ち出した。
 土竜の腕を壁とし、回り込むように左右から飛来した爪が劉環を狙う。
 それに気付いた劉環が矢を放って撃ち落とそうとするも、その全てを撃墜する事は叶わなかった。
 大半が向きを逸らされ、散らばって行く中、爪の一本が劉環の手を貫いた。

「ぐっ……」

「……けどな」

 万里起雲煙を取り落とし、腕を押さえて呻く劉環。
 そんな劉環を見据えながら、土行孫は言った。

「どんなに俺が相応しく無かろうと、それが蝉玉を助けない事には繋がらない。
 ましてや、俺を慕ってくれている女を見捨てるなんて事は、何がなんでもしない!」

 それは、戒めの言葉だ。
 自暴自棄と言って良い状態になっていた自分を戒める言葉。
 あの時の土行孫は一度蝉玉を見捨てた。
 自分には無理だと、仕方が無いと諦めようとした。
 だからこそ、立ち上がった今、もう土行孫は、同じ轍を踏む訳には行かないのだ。

 勝手なものだと、自分でも思う。
 自分が不甲斐ないばかりに蝉玉が攫われた。
 それなのに、我が身可愛さに一度は見捨てておきながら、心変わりをしたから助けに来た?
 いったい何の冗談だと、笑いたくもなる。劉環が激昂するのも分かるというものだ。
 けれど、ああ、それでもだ。
 決めたのだ。
 立ち上がると。
 助けると。
 自分勝手な理屈であろうと、子供の我が儘であろうと、それを為すと決めた。
 他人に任せれば済むものを、見過ごす事が出来なくなった。
 だからこそ、土行孫は此処まで来たのだから。
 だからこそ、土行孫は宣言する。

「それが男ってもんだ」

 そんな土行孫に気圧されたか、劉環は一歩後ずさった。
 劉環をジッと見つめたまま、土行孫は告げた。

「なあ、劉環。もう……止めないか?」

「何を──」

「確かに、俺にお前の幸せを邪魔する権利は無いと思う。
 けどお前も、蝉玉の幸せを邪魔する権利は無いはずじゃないか。
 なら、蝉玉の幸せを考えるなら、ここで止めないか?」

 既に決着は着いているはずだ。
 これ以上戦った所で、得る物など無いと土行孫は思う。
 だからこの辺で、手を打ちたいのだ。
 綺麗事ではあるが、殺さなくて済むのならば、それに越した事は無いのではないか。
 そう思って、土行孫は劉環を止めようとした。
 だが──

「……く」

 土行孫のそんな想いも、既に劉環には届かない。

「くくくく、はははははははっ!
 もう止めよう? 蝉玉さんの幸せ? 何だそれ?
 ――ふざけるな!!
 お前が蝉玉さんを語るな! 蝉玉さんは俺と──俺とっ!」

 劉環は吐き捨てるように呟くと、走り出した。
 敵対している土行孫では無く、離れて戦いの様子を見ていた蝉玉に向けて。

「きゃあああっ!」

「蝉玉っ!?」

 劉環は蝉玉の身体を持ち上げ、その細い首に腕を回した。
 涙を流しながら、腕の中の蝉玉へと劉環は語り掛ける。

「蝉玉さん、俺はもう駄目だ。あいつには勝てない。だから……一緒に死のう」

「なっ、冗談じゃないわ! 死ぬなら一人で勝手に死んでよね!」

 劉環の腕を引き剥がそうと、蝉玉は首に手を伸ばす。
 だが劉環の腕は万力のように固く、彼女の細腕ではビクともしなかった。

「ぐ……うぅっ!」

「少し苦しいだろうけど、大丈夫。俺もすぐに逝くから。
 俺はあいつのように、殺す事を躊躇う事はしない。
 二人で幸せになろう。これで……ずっと一緒だ」

「ふざけな──あぐぅっ」

 劉環の腕に力が入り、ギリギリと絞め上げられて行く。
 これでは窒息する前に首の骨が折れるだろう。
 蝉玉も抵抗してはいるが、既に死を考えている劉環には目に見えた効果は無い。

 認めない。認められるものか。
 こんな所で、劉環のような変態に殺されるなど、蝉玉には到底許容出来るものでは無かった。
 愛の形は千差万別だ。
 あるいは、劉環の想いもまた、一つの愛の形と言えよう。
 だがそれでも、蝉玉はそれを認めない。

 相手を痛めつけて、それを『お灸を据える』だとか、『愛の鞭』などといった聞こえの良い言葉で誤魔化している。
 劉環は、それが本当に良い事だとでも思っているのだろうか?
 相手は必ず分かってくれると、自分を好きになってくれると、本当に思っているのか?

 全く持って、ふざけている。

 鞭を振るわれる方は、堪ったものではないのだ。
 余程の被虐趣味でも無い限り、喜ぶはずがないではないか。

 痛いなら避けられる。
 不快なら憎まれる。
 当然の事だ。

 愛の鞭とは、嫌われる事を前提として行うものだ。
 それを表面だけなぞり、痛めつければ通じると考えている。
 それでも好かれようと考える事が、そもそも間違っているのだ。
 自らを犠牲にして尚、相手を成長させる為にこそ、愛の鞭はあるのだ。
 安全圏から見下すような物では断じてない。

 故に、劉環を許す事は出来ない。
 今までの劉環は、ハッキリ言ってどうでも良かった。
 だが今の劉環を見過ごす訳には行かない。
 蝉玉のやって来た事、それを否定するような事を言う劉環を認められない。
 恋する乙女として。

 視線だけで人を殺せると言わんばかりに、最後の力を振り絞って蝉玉は劉環を睨み付けた。
 しかし、それすらも意に介した様子も無く、劉環は嗤った。

「かはっ……!」

「あまり暴れないでくれ。手元が狂う」

 劉環の腕に更に力が込められ、蝉玉の僅かな抵抗さえも潰される。
 最後にその姿を目に焼き付けておこうと、劉環は蝉玉をジッと見つめていた。
 戦っていた土行孫の事など、忘れてしまったかのように。
 誰と戦っていたのか、それを劉環は忘れてはいけなかったのに。

 蝉玉と心中する。
 それは土行孫に勝てないと判断した劉環の、最後の手段であった。
 だがそれは同時に、最もしてはいけない事であった。

 劉環は知らない。土行孫が蝉玉をどれほど大切に思っているのかを。
 劉環は知らない。土行孫が蝉玉を守るためにここまで来たという決意を。

 だから、劉環は知らない。
 目の前で蝉玉と心中しようとする劉環に、好きだと言った蝉玉を害そうとしている劉環に、





「────あ゛?」





 土行孫がキレるという事を。
 土行孫の怒りに呼応したのか、彼の周囲の地面がざわざわと生き物のように蠢き始める。
 弾き飛ばされ、散らされた土竜爪の爪が、ぶるぶると震え始める。

 何故、戦いを止めようと土行孫が言ったのか。
 あれは土行孫が怖じ気づいた訳でも何でもない。
 あれは……最後通牒だったのだ。

「蝉玉……目ぇ瞑ってろ」

 普段ならば、まずしないであろう命令口調で、土行孫は蝉玉に言った。

「……うん」

 小さく頷いた蝉玉は、抵抗を止めて静かに目を閉じる。
 自分よりも通じ合っている二人。
 それを見て、どうしようもなく自分との差を見せつけられて、劉環は叫んだ。

「お前が……お前がぁぁああああっ!!」

 劉環が声を張り上げる。
 だが次の瞬間、ドッ、という鈍い音が劉環の身体を駆け抜ける。

「が……あ……?」

 自らの背中にある筈の無い物が突き立っているのを見て、劉環は目を見開いた。
 肉を貫いていたのは、先程弾き飛ばしたはずの、土竜爪の残りの爪だった。

「がぁぁぁああああっ! くそっ、くそぉっ!!」

 込み上げて来る血を吐き、腕を振り回して劉環は暴れる。
 傍に蝉玉が居るにも関わらず、身体に走る激痛で、既にその事を忘れていた。
 だが、それも地面から生えて来た槍によって、蝉玉に拳が当たる前に劉環は吹き飛ばされる。

「ぐ、あああああっ!!」

 螺旋を描きながら槍は突き進み、劉環の腹を貫いて尚、止まる事を知らない。
 槍としての形を崩した土砂の濁流に押し流され、劉環は壁に叩きつけられた。
 濁流は劉環を昆虫標本のように壁に固定し、彼は落下する事さえ許されず、そのまま磔にされた。
 容赦無く身体を蝕む土砂から逃れようと、劉環は顔を上げた時、彼はそれを見た。

 そこには、悠然と聳える巨体を揺らして、ジッと劉環を見つめる土竜が居た。
 開かれたその口内では灼熱の溶岩が煌々と輝いており、その喉でちろちろと揺らめいている。



「女の子はもっと丁寧に扱え、このボケが!」



 土行孫の声に呼応し、土竜の顎から溶岩の塊が吐き出される。
 紅蓮の奔流は逃れる事の出来ない劉環を呑み込み、ゆっくりと流れ落ちて行く。
 数瞬の後、白い光がボウッと溶岩の中から飛び出して来た。

「……えげつねぇさ」

「かなり頭に来ていたようだのう」

「今あのでっかい竜がこっち向いたら、俺っち勝てないかもしんねぇ……」

 いっそ冷淡と言って良い程の、容赦の無さ。
 最初の一撃で劉環は倒せたはずなのだから、彼のした事は明らかなオーバーキルである。
 一切の反撃も、僅かな遺言すら許されず、あっけなく劉環は封神された。
 出口を求めて彷徨いながら、劉環の魂魄が飛んで行く。
 それを目の端で追いながら、土行孫は苦虫を噛み潰したような顔でポツリと呟いた。

「好きだってんなら、殺せる事を自慢すんじゃねえよ」

 殺す事など、子供でも出来る。
 相手を殺すか殺さないかの覚悟なんて持たなくても、あっさり人は死ぬ。
 そんなものを誇った所で、いったい何が偉いと言うのだ。
 覚悟があれば何をやっても良い、というものでも無い。
 故に、蝉玉を殺そうとした劉環を、土行孫は許す事は出来なかった。

 好きなら守って見せろ。
 好きな相手をその手に掛けて、悦に浸ってるんじゃない。

 そう怒鳴りつけたい気分だった。
 だが劉環は既に封神されている。
 激情に駆られた土行孫が、劉環を封神したのだ。
 それを分かっているからこそ、後味が悪かった。

 土行孫は、持ち主の居なくなった万里起雲煙に目を落とす。
 宝貝にとっても、不本意であっただろう。
 こんな戦いとも言えないような、ただの痴情の縺れに使われるなど。
 使う者の居なくなった万里起雲煙を拾って懐に収めながら、土行孫は座り込んでいる蝉玉へと近付いた。
 劉環を封神する事にはなったものの、蝉玉は守った。
 それに対し、安堵する心が土行孫の内に広がって行く。

「大丈夫か、蝉玉。立てるか?」

「う、うん」

 土行孫の伸ばした手に掴まり、蝉玉は立ち上がろうとする。

「……あ、あれ?」

 だが蝉玉は立ち上がれず、自分でも不思議そうに、力の入らない足腰を見下ろした。
 どうやら、腰が抜けたらしい。

(無理もないか……)

 蝉玉は土行孫が来るまで、劉環という生理的嫌悪を感じる変態と対峙していたのだ。
 土行孫には分からないが、女としての恐怖は凄まじい物があったはずだ。
 純粋な力の差から来るものでは無く、別次元の恐怖だ。
 それらが去った今、気が抜けて、同時に腰が抜けても仕方の無い事だろう。
 いくら気が強かろうと、蝉玉は女の子なのだから。

「仕方ないな……」

「へ? え、ちょっと、は、ハニー!?」

 すぐには立ち上がれないと判断した土行孫は、片膝を着いて蝉玉の背中と膝の裏に手を回した。
 そして、その体勢のまま立ち上がり、蝉玉を抱き上げる。
 所謂、お姫様抱っこというものだ。

「え、ええええ!? なに? なにこれ!?
 ああああのそのえと、ハニーからこんな事してくれるなんて、え? 嘘、夢? 夢なのこれは!?」

「いや、別に夢とかじゃないって。こうして蝉玉の体温感じられるし」

「う……」

 土行孫に言われ、蝉玉の顔がボンッと一気に赤味を帯びる。
 普段土行孫に抱き付いたりしているものの、されるのには免疫が無いようだ。

「ね、ねぇ……その、重くない?」

「ああ。ってか軽いな、お前」

 宝貝の力を使うまでも無い軽さに、土行孫の方が驚いたほどだ。
 その言葉で頬に差した朱が更に色を濃くし、蝉玉は顔を伏せてもじもじと身体を縮めた。

「……あついのう」

「ああ、あっちぃさ……」

 太公望と天化は、暑そうに手で顔を扇ぐ。
 それは決して、この三階に溶岩が敷き詰められているからだけではない。

「まったく……驚かせてくれるのう、あやつは。
 偽の禁鞭といい、〇ジラといい、いったいどこのビックリ箱だ」

 土行孫が取り出した禁鞭。
 あれは実は太乙真人の作った偽物であり、当然スーパー宝貝などでは無い。
 昔、元始天尊が聞仲の振りをして、楊戩と戦った時に使っていた物だそうだ。
 二階に登る途中、太乙真人に聞いていたから良かったものの、そうでなければ太公望も仰天していた所だ。
 禁鞭の能力は、『半径数キロ以内の敵を打ち据える』という、とても単純なものだ。
 尤も、この閉鎖空間では、その威力も十全に発揮される事は無い。
 それは本物よりも劣る偽物であってもだ。
 だから土行孫が生きていたという混乱の抜け切らない劉環にとって、本物か偽物かの判別がつかなかったのは仕方のない事だろう。
 偽物だと看破される前に、土行孫が仕舞ったのも大きい。
 あれによって、スーパー宝貝など使う必要が無いと挑発し、劉環はそれにまんまと乗せられたのだから。

「……にしても、あの魂魄はいったい、誰の物だったのだ?」

「さあ? 俺っちが知るはずねえさ」

 首を傾げる太公望に、天化も肩を竦めた。
 土行孫が生きていたのだから、飛んで行ったのは当然別人の物という事だ。
 だが彼らにその心当たりは無かった。
 その時、

「うわあああっ!」

 ドシャッ、と土行孫が開けた四階にまで突き抜けた大穴から、何かが落ちて来た。
 太公望達の聞き覚えのある声をした何かが。

「いちちち、尻打った~」

「天祥!?」

「何でここに……」

「あっ、兄様! 太公望も!」

 大穴から落ちて来たのは、天化の弟の天祥であった。






「むううううっ……」

 竜吉公主は頭を抱えていた。
 先程から何か、とてつもない程の嫌な予感がするのだ。
 それがつい今しがた、無視できない程のレベルとなって彼女を襲う。
 乙女の勘か、やはり乙女の勘が原因なのだろう。
 こうしている間にも、自らの立ち位置が危うくなって行く気がする。

「どうすれば良いのじゃ、私は……」

 人間界に降りる、という事も考えはした。
 だがそれは、彼との約束を破る事になってしまう。
 それは駄目だ。
 竜吉公主は、仙人界で彼を待つと決めたのだ。
 人間界から帰って来た彼を労おうと、そう決めていたのだ。
 ならばどうするか。

「太乙の持って来たこれを使うか? いやしかし……」

 太乙真人が置いていった物を一瞥して、竜吉公主は頭を抱える。
 これを使えば、土行孫とも話が出来るだろう。
 けれど、彼が同じ物を持っているかどうか、竜吉公主は知らないのだ。

「本当に、どうすれば良いのじゃ……」

 このまま、ただ待っているだけで良いのか?
 時折封神台へと飛んで行く魂魄を見送り、死者の鎮魂を祈るだけで良いのか?
 彼は何をやっているのか?
 早く会いたいな……。
 そんな感情や考えが、ぐるぐると彼女の頭の中を廻って行く。

「慣れているとはいえ、やはり待つだけの身は辛いのう……」

 竜吉公主は溜め息を吐きながら、寝台に突っ伏した。
 赤雲や碧雲が見たらはしたないと怒るかもしれないが、誰も居ないのだから問題ない。
 だから別に大丈──

「公主様ー、少しご相談したい事が……って、なに足バタつかせてるんですか。はしたないですよ」

「……」

「……」

「……赤雲」

「はい?」

「今見た事は忘れよ」

「……はい」







あとがき

はい、という訳で二十九話からずっと引っ張っていた宝貝の正体は禁鞭(偽)です。
予想出来た人は居たんでしょうか?
これが登場したのは原作の六巻だけなので、忘れている人も多いと思います。

主人公が死ぬ、でも実は生きてましたっていうのは結構お約束ですよね。
死んだって誰も信じて無かったですけど。
これで変態退治編は終わりです。
……何でこんな変態相手に三話も掛けてるんだろう?
一話でサクッと殺せば良かったのに。

公主様は人間界に降りられないせいで、色々と悶えているようです。



[12082] 第六十七話 趙公明攻略Ⅷ 天祥の戦い
Name: 軟膏◆05248410 ID:9b78a8eb
Date: 2010/12/25 00:00



 何故天祥がこの船の中に居るのか?
 そして何故四階から落ちて来たのか?
 もはや忘れている読者様も多いと思うので、少しばかり解説をしよう。



 端的に言って、天祥は父を救うべく、太公望達の後を付けて来たのだ。
 敬愛すべき父が攫われた事に、天祥は憤りを隠す事は出来なかった。
 助けに行きたいと考えるのはごく自然な流れだろう。
 だが天祥は将来は有望であろうと、今はまだ幼く、太公望達も彼を巻き込む事を良しとしなかった。
 そのため、声を掛けることはなかった。
 この時忘れてはならないのが、救出に向かったのは太公望・黄天化・楊戩のたった三人という事である。
 哪吒は宝貝の修理のために残り、土行孫はその陰鬱な精神状態から残された。
 だが遠くから話を盗み聞いていただけの天祥は、彼らの事情の詳細を知らない。
 それ故に、彼はこう思ったのだ。

「僕がお父さんを助けるんだ!」

 彼は趙公明の強さを知らない。
 巨大な映像宝貝も、彼の強さではなく変人ぶりをアピールするのみで、天祥の足を止める要因とは成り得なかったのだ。
 だから太公望達が三人で向かった事を、趙公明を倒すには三人で十分なのだ、と天祥は判断した。
 子供らしい無邪気さで即断即決し、それ以上深く考える事も無く、彼はそれが正しいのだと考えた。
 そうと決まれば話は簡単だ。
 天祥は黄巾力士の後を走って追いかけ、そして泳いで川を渡り、船へと乗り込んだ。
 この時、太公望達は黄巾力士に乗っていたため気付かなかった事がある。
 彼らが出会った以外にも、数多くの仕掛けが趙公明の船には存在したという事だ。

 背景と同化するように、床に仕掛けられていた円盤。
 天祥はそこに、『上』と書かれたスイッチを発見した。

「何だろう、これ? 押してみよう」

 目の前にスイッチがあれば、押したくなるのが人情というもの。
 もしここに『押すなよ!? 絶対に押すなよ!?』と書かれていれば、太公望でさえ抗う事は出来なかったはずだ。
 好奇心を抑え切れなかった天祥がそのスイッチを押すと、ふわりと円盤が浮かび上がり彼を上階へと運んだ。
 実はこの船の入口には、エレベーターが目立たないように幾つも設置されていたのだ。
 こうして彼は太公望達よりも先回りをする事に成功した。
 ちなみに同様に走って来た土行孫も、このエレベーターの存在を発見している。
 尤も彼は罠ではないかと疑って真面目に真っ直ぐ突き進んだのだが。







「よんえふ?」

 壁に書かれた『4F』という文字を見て、天祥が呟く。

「やだなー、迷っちゃったみたいだ」

 周囲を見渡すものの、左を見ても右を見ても、同じ光景しか映らない。
 一直線に伸びた道に、所々で思い出したように十字路で道が分かれている。
 先程からあちらこちらを行ったり来たりしているが、別段変わったような所は無かった。

 クイーン・ジョーカー二世号、その第四階層は広大な迷宮であった。


「……また分かれ道。この迷路ってどこまで続いてるんだろ? 怖いなー何か出て来そうだなー」

 分かれ道に差し掛かる度に、服のボタンを千切って目印として落として行く。
 だが服のボタンが全て無くなるまで歩いても、一向に景色の変化は無い。
 余りにも変わり映えの無い光景に、天祥はなんとも言えない薄気味悪さを感じていた。
 追い打ちとばかりに、先程から地鳴りのようなものすら感じる。

「お父さーん、どこに居るのー?」

 遂に上着を投げ捨てたあたりで、色々と飽きの来ていた彼の前にようやく変化が起こる。
 ガゴンッと石畳が盛り上がり、下から巨大な『何か』がその姿を現した。
 ロープのように細長い体躯がのたうち、侵入者である天祥を威嚇する。

「うわっ、ミ、ミミズ!?」

 それは紛れもなく、ミミズであった。
 ただし、天祥の知っているミミズという生き物の、数百倍は巨大な姿で。
 うねうねと蠢くミミズに驚かされ、天祥は咄嗟に槍の穂先を向けた。
 退化しているため、一見して目や鼻は見あたらず、槍を向けられてもミミズは怯む様子を見せなかった。

「何でショ? 太公望か黄天化かと思ったら、ただのガキが来たネ」

「え?」

 巨大なミミズの影から、幾分小さいサイズのミミズを身体に這わせた妖怪仙人が現れた。
 無機質な瞳が、迷い込んだ天祥を見下ろしている。
 その長い髪は逆立ち、螺旋状に渦を巻いている。
 その様子はさながら、

「うわー、ウンチ頭だー。きったねー」

「っ!? ……こいつ、どこから迷い込んだガキでショ」

 ヘアースタイルを馬鹿にされたのが気に障ったのか、妖怪仙人は額に青筋を浮かべて天祥を睨んだ。

「まあ丁度いい、この子達の餌にしてやるネ!」

「うわあっ!」

 妖怪仙人が腕を上げると、周りに控えていたミミズが一斉にその身を震わせる。
 その内の一匹が身を縮め、次の瞬間、バネのように弾かれた長い身体が天祥へ向けて躍りかかった。
 天祥の幼い身体はミミズの突進を受け止めきることができず、勢いよく後方へと弾かれ壁に激突した。

「ハハハハハ! やったネ! その小さな身体じゃ肉団子でショ! ……ん?」

 岩壁を砕く程の威力を見て、妖怪仙人は哄笑を上げる。
 だが砕いた岩壁を奥がごそりと動いたのを目の端に捉えて、妖怪仙人の眉が顰められる。

「びっくりしたなぁ、もう……このミミズ、意外と凶暴だなー」

「このガキ……」

 ミミズの頭を捕まえ、妖怪仙人の予想を裏切りけろりとした様子で天祥が出て来た。
 今の一撃で無傷であった天祥を見て、ただのガキではなく天然道士だったのかと妖怪仙人は警戒する。

「ちっ! いくら天然道士でも、一斉に攻撃を受けたら敵うはずが無いネ! ましてや、相手は子供……やってしまエ!」

 今度は全てのミミズをけしかけようと、妖怪仙人はミミズ達に命令を下した。
 天祥は襲い掛かって来るミミズ達を見てニッと笑うと、最初に突っ込んで来たミミズの頭の掴んだままでそれを器用に避けた。
 攻撃が連続して直撃すれば、未だ身体の出来上がっていない天祥には辛いモノがあるだろう。
 だが天祥は蛇のようにのたうつミミズ達の間をすりぬけ、舟から舟へと跳び回るかのように走り抜けていく。
 そして、ぴたりと足を止めると、大仕事を成し遂げたように天祥はふうと息を吐いた。

「ぎゃははは、片結び。おんもしろーい!」

 天祥を追いかける事でその長い身体が仇となったか、ミミズ達は互いに絡まり合い、それ以上身動きができなくなっていた。

「……あ! 遊んでる場合じゃなかった」

 子供らしい無邪気さで、遊具に登るようにミミズの頭の上に腰かけた天祥は、ハッと本来の目的を思い出す。

「ねえうんちー、お父さん……っていうか、黄飛虎を見なかったー?」

「……そうか、このガキは黄飛虎の息子だったのネ……ならば!」

 目をカッと見開いた妖怪仙人が、メキメキと音を立てて大きく、異形へとその姿を変えていく。
 半妖態だ。
 人間と妖魔の強さを併せ持つ、妖怪仙人ならではの形態。

「我が名は丘引──相手がガキだろうと、容赦するわけにはいかないネ」

 今や巨大なミミズと一体化した姿となった丘引。
 だが天祥は怯える様子など欠片も無く、変身した丘引をワクワクと見つめていた。

「すっごーい、ミミズ怪人だー!」

「ふん、楽しんでられるのも終わりネ。妖怪仙人の恐ろしさを──思い知らせてやるでショ!」

「っ!? わっ、何だ!?」

 長い鞭のように変化した丘引の腕が縦に裂け、そこから血のような赤い液が噴き出す。
 咄嗟に危険を察知した天祥は、液を躱そうと横へと跳んだ。
 一瞬の後、天祥が足場にしていたミミズに赤い液が降り注いだ。

「う……何だこれ……」

 赤い液が付着した所から、ジュウ、と肉の焦げる臭いが立ち昇る。
 ミミズが溶けているのだ。
 鼻を突く不快なその臭いに、天祥は顔を顰めた。

「くくく、我が宝貝『紅珠液』は強い酸性でネ。触ったら骨までとろけるでショ」

 焦りを見せた天祥に、丘引は勝ち誇る。

「……ところで、お前は父を捜していると言っていたが、黄飛虎はとっくに死んでるでショ」

「……ウソだ」

「嘘を言ってどうなる? この階には妖怪仙人が何人も居るネ。
 相手が宝貝も持たない人間ならば……生かしておく訳が無いでショ!」

 今度こそ天祥を殺そうと、紅珠液を噴き出す丘引。
 それが当たれば、いくら天然道士とはいえ耐えられるはずもない。
 だが天祥は臆する事も、そして退く事もなかった。

「ウソをつくなミミズ!」

 傍らに転がっていたミミズの塊を天祥は両手で掴んだ。

「あの強いお父さんが、お前らなんかに負けるもんか!」

 ミミズの頭を肩に担ぎ、全身の力を籠め──投げた。
 丘引目掛けてブン投げられた巨大なミミズの塊は盾として、そして武器として丘引を襲う。

「……へ?」

 間抜けとも言える声を丘引が洩らす。
 妖怪仙人を見ても全く動じない、感情と行動が直結しているような天然道士。
 そんな天祥を前にして、反撃される事を想像出来なかった事が、丘引の敗因であろう。
 紅珠液は確かに強力であった。
 だが一瞬の内に、全てのミミズを溶かすような芸当は出来なかった。
 その小さな体に見合わぬ怪力をかざし、投げるというより叩き付けるといった勢いでミミズ球が丘引を襲う。
 避ける事など出来ず、巨大な質量の前に、硬い石畳に蜘蛛の巣状の罅を入れる程の衝撃に、哀れ丘引はプチっと潰されてしまったのだった。

「やった! ミミズ怪人を倒した! ……って、あれ? ミミズは?」

 喜んだのも束の間、自分が投げ飛ばしたミミズの姿が消え去り、クレーターのように凹んでいる穴が後に残された。
 潰されているはずの丘引の姿も見えない。
 妖怪仙人ともなれば倒せば魂魄が飛ぶはずであるが、その様子はない。
 天祥が首を傾げて辺りを見回すと、小さなピンク色の球が視界の端を掠めた。

「これって……さっきの?」

 近づいて見てみると、それは絡まったミミズの塊だった。
 一部に焦げた跡が見える事から、先程天祥が片結びにしたミミズと見て間違いは無いだろう。
 天祥が最初に目にした大ミミズは、どうやら丘引の力によって巨大化していたようだ。

「あ、まだ居たんだ」

 持ち上げてミミズを観察しようとした天祥の目は、一匹の片結びにされていないミミズを見つけた。
 幸運にも片結びの刑から逃れられたのか、天祥の声を聞いてビクリと身体を震わせる。
 逃げるように這うその姿を見ていると、



 ビシッ



 と罅が入る音を天祥の耳が聞き取った。
 嫌な予感がして足元に目を向けると、先程ミミズを叩き付けた場所を中心として、無数の罅が広がって行くのを見た。

「やばっ!」

 本能的に危険を察知した天祥は、槍を拾い上げて逆方向へと走り出す。
 同時に、石畳の一部がボロリと崩れ、落下していく。
 天祥は罅の入っていない場所を目指して走るが、それよりも罅の入るスピードの方が速い。
 崩れていない場所まであと一歩、という処で足場が崩れ、天祥の身体が空中に投げ出された。

(落ちても大丈夫かな~?)

 と安穏と考えていた思考は、遥か下に見えた灼熱の海を見た瞬間に吹き飛んだ。
 まだ天祥は何も成していない。
 彼の中に流れる血が、諦める事を良しとしなかった。
 噴き上げる熱風に髪を煽られながら、天祥は段々と小さくなっていく足場を蹴って、跳躍する。

「でぇいっ!」

 両手で握り締めた槍を逆手に持ち、大上段に振りかぶって、唯一壊れていない壁面にそれを叩き付けた。
 槍というよりも、銛としての使い方。
 渾身の力を込めて振り降ろされた槍は硬い壁面を強引に貫き、その場に固定される。
 天祥の体重を支えて大きく撓る槍にしがみつき、身体はそれ以上の落下を止めた。

「あぶなかった~! 死ぬかと思ったよ」

 逆上がりの要領で身体を持ち上げ、槍の上に座ると天祥はそんな感想を漏らす。
 瓦礫が落下していった先には、マグマが蠢いている。
 流石に頑丈な天然道士といえど、落ちれば一溜まりもない。

「あ、魂魄」

 ボコボコの煮え立つ赤い海から、白い光が一筋飛び出して飛んで行く。
 今の崩落で、四階にいた誰かが巻き込まれて死んだのだろうと天祥は判断した。
 それが先程対峙した丘引の物と気付く事も無く。







「で、それから土行孫の戦いを観戦してたら槍が折れて落ちて来た、ということかのう」

「うん!」

 頷いた天祥の手には、半ばから折れた槍の残骸が握られている。
 残りの半分は、未だ壁に突き刺さったままだろう。

「儂の周りは好き勝手に突き進む奴らばかりだのう……」

 さて何と言おうか、と溜め息をついた太公望よりも先に、天化が前に出る。

「天祥、この馬鹿が!」

「ひぎゅっ!?」

 天化が握り締めた拳骨を天祥の頭に振り降ろした。
 ゴンッ! と鈍い音がして、天祥は痛みに頭を押さえた。
 そんな天祥を睨み付け、天化が言った。

「あのな天祥。俺っち達は攫われた親父達を助けるために此処に来てるんさ。
 親父を助けたいってのは分かるけど、一人で突っ走って皆に心配掛けるのは違うさ」

「うう、ごめんなさい兄様、太公望」

「分かれば良いさ。……後、敵を倒したのは良くやったさ」

 直前までの剣幕とは打って変わって、天化は天祥の頭に手をやってグシャグシャと髪を掻き混ぜた。
 封神するまでは行かずとも、この年でそこまで出来れば大したものである。
 天祥はにへら、と笑うと、思い出したように土行孫の方へと駆けて行く。

「土行孫! さっきの戦いスゴイかっこよかった!」

「え、ああ、ありがとう」

「ハニーはいつだってかっこいいわよ!」

 蝉玉を抱えたままの土行孫は、天祥の言葉に戸惑いながらも頷いた。
 天祥の事など意識していなかった上に、他人に褒められるなんて考えて戦った訳では無かったからだ。
 キラキラとした天祥の瞳に、土行孫は何とも言えない居心地の悪い思いをした。

「ねえねえ土行孫、あのおっきな怪獣なに? 名前は? どっから出したの?」

 天祥が指さす先には、沈黙を保っている巨大な怪獣の姿があった。
 中には『火鴉壺』をため込んでいるため、すぐさま解体するわけにもいかず、そのままにしていたのである。
 好奇心旺盛な天祥が、大きな怪獣を前にして興奮するのは自明であった。

「あれは俺が土竜爪を応用して作ったものだけど、名前は……無い、な」

 名前のところで、土行孫は言葉を濁した。
 太公望はあの怪獣をゴ〇ラと表現した。
 実の所、土行孫も同じものをイメージして作ったものの、あれは中身が空洞のハリボテである。
 表面を取り繕っただけの物にその名は相応しくないと思ったのだ。
 名前なんて考えている余裕なんてなかったとも言えるが。

「すご~い! ねえ、僕にも出来るかな?」

「いや、流石にそれは無理じゃないか……?」

 天祥は天然道士であるため、宝貝は使えない。
 例え今から道士になったところで、同じ事が出来るとも思えなかった。
 天祥の目には容易く作ったように見えたのかもしれないが、実際ここまで来るのに何十年も掛かったのだ。
 あっさり負ける訳にも行かない。
 だがそんな土行孫の内心の考えなど知らない天祥は、土行孫の言葉に、

「え……そう、なんだ……」

 物凄いショックを受けた顔で天祥は俯いた。

(えぇ~っ!? そこまでがっかりする事か!?)

 慌てたのは土行孫である。
 今まで天祥の前で良い所を見せた覚えがほとんど無い事は知っていた。
 それが今回の戦いで見直されたのは分かったが、ここまで株が上がっていたとは思っていなかったのだ。
 尤も、正確に言えば上がったのは土行孫というよりも、土行孫の作った怪獣の株だろうが。
 見た目は天祥の方が大きいとはいえ、実年齢は土行孫の方が上だ。
 一応年上である土行孫が、子供の夢を壊すのは気が引けた。

「あ、ああそうだ! 今度アレの頭の上に乗せてやるから、な?」

「ほんと!? わーいっ!」

 一転して喜びの声を上げる天祥に、土行孫はホッと息を吐いた。
 子供は単純だが、それ故に言葉には気を付けなければならない、と改めて実感した。
 それを苦笑しながら見ていた天化が振り向いて太公望に声を掛ける。

「それじゃ、そろそろ行くさ」

「そうだのう。実を言うと、もう半年近くこの暑苦しい空間にほったらかしにされてる気分だしのう」

「奇遇だな。俺っちもそんな気がするさ」

 先を急ごうと、二人は互いに頷いた。
 時間制限があるのだから、これ以上の時間のロスは無くしたい。
 手短に最初の趙公明の説明を太公望から教えられた土行孫も、二人に続いた。

「で、次はどうするんだ? 俺が開けたあの穴から上に行くか?」

「いや、あそこに『上』と書いてあるブロックが残っておる」

 太公望が指さした方向には、先程の戦闘でも壊れなかったブロックが浮いていた。
 表面には太公望の言った通り、文字が書いてある。

「お主が開けた脇道よりも、ここは従っておく方が良い」

「それもそうだな。俺もちょっと疲れたから、全員担ぐのは難しいし」

 土行孫の開けた穴から登っても良いが、あくまで土行孫は空中を『歩いている』のであって『浮いている』訳ではない。
 上の階層まで行くには当然、全員分の重さが圧し掛かる。
 全員を担いで登ったり何度も往復するよりは、趙公明側の移動方法に従った方が得策だろうと土行孫も判断する。
 人数が分断される事も防げる。

「さあ天化、あそこまで儂を背負って跳べ!」

「へいへい。遂に俺っちもスースの乗り物かい」

「天祥、肩車してやるよ」

「やったー!」

「蝉玉は……言わなくても良いか」

「さあ行きましょうハニー! 趙公明なんかぶっとばしに!」

「ノリノリだな……」

 蝉玉のハイテンションに、土行孫が苦笑いを浮かべる。
 太公望がチッと舌打ちしたが、それは傍の天化にしか聞こえなかった。

「のう天化……儂には『モテたい!』という気は別に無い。
 だがあ奴らを見てると、どうにもやるせない気持ちになって来るのは何故かのう?」

「そんな日もあるさ。特に『今日』は……な。
 まあスースにも出会いはあるさ。俺っちの勘は当たるぜ?」

「その勘だけは当たって欲しくない、と儂の勘は叫んでおるのだがのう……」

 ぶつぶつと呟く太公望を背負って、天化は跳ぶ。
 土行孫も天祥を肩車して、両腕で蝉玉を抱えながら後を追った。









あとがき

生きてます。
色々あって続きを書くのが遅れてしまい、すいませんでした。
全然話は進んでないんですけど、生存報告も兼ねて、という事で。



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