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[12843] Lovefool 【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2009/10/24 18:17
※原作とはだいぶ雰囲気が違うので、ご注意下さい。





「拝啓 時下ますますご清祥の程お喜び申し上げます。
 さて、過日は弊社採用試験にお越しいただきありがとうございました。
 弊社にて慎重に審議した結果、まことに残念ながら今回は採用を見合わせたいと存じます。貴意に添えなくなりましたが、何卒ご了承下しますようお願い申し上げます。
 末筆ながら、今後の健闘を心からお祈り申し上げます。」

 阿良々木暦は飽きるほど読んだ文面にもう一度目を通した。何度読んでも同じだった。不採用。これで何度目の不採用だろう。数えようとして止めた。苦い味が口の中に広がっていくのを感じたからだ。
 こみ上げてくる嘔吐感は錯覚に過ぎない。胃の中に吐くものは何もなかった。
 ベッドに横たわったまま、携帯を取り出して時間を確かめる。既に昼に近い。大学では既に二限の授業が終わろうとしている時間だった。
 目の前の画面がメールの受信を告げるものへと変わり、そして震えた。暦はのろのろと指を動かしてメールを確認する。暦の受け取るメールは種類が限られている。一番多いのは迷惑メールで、あとは家族か口うるさい恋人と友人からのものが多数を占める。

「阿良々木君、一体どこにいるの? 次の授業は必修だし、代返にも限界あるんだから、近くにいるならとっとと来なさい」

 文面に目を走らせて、暦は額に皺を寄せた。携帯の電源スイッチに指を伸ばして、電源を切った。このまま放置すれば、彼女はそれを放置しない。そのことを暦は過去の経験から推測できた。電話を無視するのも、彼女とやり取りをするのも暦の神経を疲労させる。彼女のつり上がった目と高い声が脳裏に蘇る。自分を責める視線と声色だった。

「そんなんじゃ、阿良々木君、卒業も危なくなってしまうのよ。授業にきちんと出席して、試験を受けて、単位を取る。なんで、それだけのことができないのかしら?」

 彼女の論理に暦は答える言葉を持たない。彼女の言葉には正しい論理があるからだ。それくらいのことは暦にもわかっている。しかし、今、暦が欲しているのは論理でも正しさでもなかった。
 彼は渋面を深くすると、携帯を脇に置いた。
 高校を卒業して入った大学は暦の能力に適合していなかった。美しい恋人と優しい友人に励まされて頑張ることができたのは最初の一年だけだった。二年目には欠席の数が増え、三年目には必修の単位を落とした。四年目の今、暦はBとCの目立つ成績表を片手に就職活動にいそしんでいる。自分という存在が社会には求められていないことを口頭と書面で告げられては自室に舞い戻る。それを延々繰り返しているうちに、大学に行くことを忘れた。あるいは人はそれを逃避と呼ぶかもしれない。そのことを暦は自覚している。しかし、それ以外の選択肢を彼は思いつくことができなかったのだ。
 不規則に眠り、不規則に食べる。身体は次第に時間を忘れ、睡眠は不快なものとなった。疲労感と倦怠感が寝ても拭えないものとなり、常態化する。吸い始めた当初は、彼女に罵倒され、罪悪感のあった煙草も今では手放せないものとなってしまった。紫煙が立ち上り、臭いの染みついた部屋に妹たちは近づかなくなった。彼女たちは言う、「兄ちゃんの部屋、なんだか腐った臭いがするんだもん」と。暦は、それを聞いたときに声を出して笑った。的を射ていると思ったのだ。ここでは人間が一人腐りつつある。それは暦の偽らざる実感だった。
 暦は、手の中の紙を握りつぶして、灰皿の中に置いた。口元のタバコを近づけて燃やした。紙は炎の中で踊り、燃え尽きていく。赤々とした炎に目を奪われる。紙片が次第に灰と化していく様を暦はじっと眺めていた。立ち上る一筋の煙は、幼いときに参列した葬式を思い起こさせた。鼻をつく臭いに一種の恍惚を覚える。それはモノが死んでいく臭いだった。
 今の自分に似ている。そう思ったのだ。

 ●

「どう阿良々木君とはうまくいってる?」

 羽川翼の問いに戦場ヶ原ひたぎは答えなかった。少し目の端が動いたところを見ると、聞こえてはいるようだった。ひたぎは黙々とスプーンを動かして食事を取っている。
 ひたぎの所作には無駄がなく、品があった。美人は食事をするのも様になるのだな、と翼は改めて感心する。
 再び二人の間を沈黙が包み込んだ。大学の食堂は、昼食中の学生でごった返している。あたりは騒々しいまでのお喋りと無機質な食器の音でうるさいくらいだった。その騒々しさが沈黙を一層際だたせる。落ち着かない気持ちで、翼はあらぬ方向へと視線を投げた。
 久しぶりに友人と顔を会わせて、それが昼食時であれば、昼食に誘うのが礼儀だろう。翼はそんな風に思って、ひたぎに声をかけたのだ。しかし、トレイを持って、食堂の端に腰を押しつけてから、ひたぎは何も話していない。翼の問いかけに、気のない返事を返すだけ。友人の相変わらずの社交性のなさに翼は苦笑で対処した。
 そしてふと思いついた質問だった。それは単に沈黙を埋めるためだけのもので、他意はない。失恋も既に昔のことだった。それは既に思い出と呼ぶにふさわしいものとなっている。彼女の中で、暦との一件は、ある種の装飾とともに然るべき場所に仕舞われていた。時折取り出して、感傷に浸る以外に今では使い道はない代物だ。
 だから、その問いに意味はない。答えは何でも良かった。翼は、とかく黙りがちになる友人から、恋人の話題を振ることで何とか会話の糸口を探りだそうとしたに過ぎない。
 だから、驚いた。翼は、大して意味のない答えを求めていたのだ。問いに意味もなかったのだから、答えに意味は求められていない。意味があったのは、会話という行為自体のはずだった。

「壊れてしまいそうだわ」

 と戦場ヶ原ひたぎは答えたのだ。
 彼女の表情に変化はない。翼を見たのは一瞬。その一瞬だけ、彼女の瞳が揺れた。

「え……何が?」
「……私たちの関係。いや、正確には、阿良々木君それ自体かしらね」

 ひたぎはそう言って、翼を見た。まっすぐと翼に視線を投げてくる。

「ど、どういうこと?」
「羽川さんは不思議に思ったことはないかしら……阿良々木暦という人間は、なぜあれほどまでにお人好しなのか。底抜けのお人好し、誰にでも優しくて、困った人がいれば、自分の命構わず、吸血鬼でも怪異でも助けてしまう……でも、それは言い換えれば、自分に対する評価がゼロということだわ。阿良々木暦は阿良々木暦という存在を肯定していないのよ」

 ひたぎはそう言って、口を噤んだ。食事を終えたスプーンを皿に置く。スプーンは陶器に当たって、乾いた音を立てた。
 ひたぎの視線は翼に問いかけている。思い当たることがあるでしょう、羽川さん?
 翼はひたぎの視線にたじろいだ。ひたぎの指摘の正しさを知っていたからだ。阿良々木暦には、動物としての本能が欠けている。彼は自己の生存を重要視していない。ゆえに翼は彼の行動を人道主義だとは考えていなかった。分類して名称を与えるとすれば、半ば自殺衝動に近い。自身の存在をかけらも肯定していないからこそ、彼は他人を助けられるのだ。だから、彼は助ける相手も選ばない。誰を助けるのかは問題とならない。たとえ吸血鬼であっても怪異であっても怪異に取り憑かれた知り合いであっても、阿良々木暦よりは生きるべき存在。彼はいささかの躊躇いも逡巡も迷いもなく、そうした結論を下す。そのことを翼はまさに身体をもって体験している。

「そんな阿良々木君も大学に来て、私みたいなかわいい恋人とハッピーなキャンパスライフをアホみたいにエンジョイすれば、少しは考え方も上向きになるんじゃないかと思っていたんだけれど……」

 甘かったみたいね。そう言ってひたぎは立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待って、戦場ヶ原さん。それって……」
「阿良々木君は、相変わらずの『死にたがり』だわ。三年経っても、何も変わっていない。むしろ、最近はもっとひどくなってる。どういうきっかけでどうなってしまうか、私にもわからない。時々変なことを考えてしまうのよ。阿良々木君は自分の命に価値を置いていない。でも、それって命それ自体には価値を置いていないってことでしょ。阿良々木君は、自分の命を何のためらいもなく切り捨てることができてしまう。でも、私はそれをいいことだとは思えない。だって、それは他人の命を同様に扱う危険性をはらんではいないかしら。阿良々木君にとって、人間の命はどんな風に見えているのでしょうね。阿良々木君は極端すぎる。極端なプラスは、極端なマイナスに通じるんじゃないか。そんなことを考えてしまうのよ……もっとも、この場合は何がプラスで何がマイナスなのか、微妙だけれど」

 翼は答える言葉を持たなかった。今、ひたぎが暦について述べたことは多かれ少なかれ彼女自身にも当てはまることだった。彼女もまた自身の存在に価値を置いていない。だから、ためらいなく投げ出してしまう。そして、そこには一種の危険が潜んでいることも自覚していた。そうした行動の裏には、恍惚感と自己陶酔がある。自分の命を投げ出すことによって、自分の命に価値を見いだすという矛盾。自己を投棄するという手段さえ果たすことができれば、動機や目的は何でもよいのだ。他人を助けることにつながったとしても、それは偶然の産物に過ぎない。たとえ結果が逆になったとしても、自分は大して気にしないのではないだろうか。そんな風に翼は時々思う。
 阿良々木君もそうなの?

「でも、阿良々木君は、『そんなこと』はしないと思う」

 既に去ろうとしているひたぎの背に声を投げかけた。半ば自分に対するつぶやきでもあった。

「私もそう願っているわ」

 彼女の声には思いがこもっていた。翼はそこにわずかの嫉妬を感じる。化石となった感傷をわずかにくすぐられる。阿良々木君をよろしくね、と言いかけてやめてしまった。
 一人になった翼の耳を捉えた会話があった。ひたぎが去った後、横に座った男女のやり取りだった。男が女に言う。それはたわいない大学生同士の噂話。うわついた口調だった。言っている当人さえ、それを信じていないことは明らかだった。目の前の女性を怖がらせて、一時の感興を得ようというだけの話題に過ぎない。
 しかし、そこには聞き逃すことのできない単語があった。
 その単語を聞いたとき、翼は胸を貫かれたように感じた。突然、闇の中から躍り出た手に心臓を鷲づかみにされたかのようだった。

「なあなあ知ってる、最近さ、街で『吸血鬼』が出るらしいぜ」



[12843] Lovefool-2【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2009/10/24 18:18
 ●

「なんじゃ、今日も夜の散歩か」

 頻繁に過ぎる、と忍は思う。
 最近、暦は毎日、夜に外に出かける。出かける前に忍を呼び出すのが常だ。呼び出すと、無言のまま、首を差し出す。忍が意図を問うても、暦は答えない。頼む、とだけ彼は言うのだった。訴えるような、哀しげな目で忍を見つめながら。
 既に忍は暦を問いただすことを諦めていた。どうせ、この主人兼従僕は例によってどこぞで手足どころか身体全体で人のために自ら命を張っているのだろう。主人の酔狂に付き合うつもりはない。ただ、自身が人助けに手を貸すのは業腹だったが、忍がしているのは暦の血を吸っているだけだ。求められることがそれ以上でない限りは、忍は黙認を続けるつもりだった。
 今や、半ば常態化した習慣だった。血を適度に吸って、暦を半吸血鬼化する。

「ふむ、こんなところかの」

 と言って、忍が離れようとした刹那。
 暦が忍の身体を抱きしめた。

「こ、こら、何をする」

 忍は、手足を動かして抵抗した。暦の血を吸ったせいで、身体は、幼女から少女へと変化を遂げている。肌に感じる男の筋肉と気配にたじろいでいた。
 悪い、俺もお前の血を吸うぞ、と耳元で暦が囁く。同時に、忍は全身を快感に包まれた。吸血鬼にとって、吸血という行為は一種の性行為だ。血を吸われながら、久しぶりの感覚に陶酔する。お前も吸え、という声を契機に、忍も再び歯を突き立てた。肉を割く感触と血の味に酔いしれる。音を立てて、血を嚥下すると、暦が低く呻いた。その声にさらに感情が高ぶる。身体の奥から頭の中へと興奮が全身を駆け巡る。首から垂れた血を舌で舐め取って、行為を続けた。
 時間にして数分、互いに抱擁し、吸血を繰り返した。忍は快感に溺れ、暦は快感を貪っていた。行為の最中、暦の表情が何度か忍の視界に入った。眉間に皺を寄せて、何かに耐えているように見えた。瞳の光は揺れて、表情に力はない。

――いったい、何をしておるのじゃ、お前様は。

 忍はそれを声には出さなかった。自分に求められているのは、目の前の男を慰めることだとわかっていたからだ。暦が他の誰でもなく自分を頼っている。その事実も忍を酔わせた。既に行為は終わっている。しかし、暦は忍の身体を離そうとしなかった。忍は黙って身を委ね、そっと手を回して抱きしめた。首の肉に浮き出た傷跡を指で弄った。吹き出た血をすくいとって舐める。痛いな、という男の呟きを愛おしく思った。
 しばらくして、暦が身体を離した。

「悪いな、助かる」

 そう言って、窓から身を乗り出した。口の端、鋭い牙が見えた。忍が少女から女性となり吸血鬼と化したのと同様、彼もまた自らを怪異と化している。その身体も纏う空気も、人間のものではなかった。
 忍は浮かれていた。今の暦は、彼女の「仲間」だ。今の暦を人間と規定することは難しい。ならば、彼は今彼女の同類であり、運命をともにする存在だった。行為の後の余韻が、その感傷を後押ししている。忍の身体は未だにある種の熱を保っていた。
 戯れに聞いた。
 意地悪い気持ちがそこには混じっている。暦は、果たして、何と答えるのだろう。そんなことを考え、暦の答えに期待をふくらませている自分に忍は苦笑した。頬がゆるんでいるのがわかる。

「しかし、あの女、仮にもお前の恋人であろう……あやつには何も言わないでよいのか?」

暦は首を振って、それに答えた。

 ●

 雨の中、翼は目的地目指して、一心に足を動かしていた。夜になって降り出した雨は激しさを増し、傘に当たる音は次第に強く激しくなっている。空気は冷たく肌を刺してきた。雨に濡れて、衣服を重たく感じる。重たい湿気が肌にまとわりついてくるようだった。
 翼のはき出す息は荒い。抑えようとして、足が速くなるのを抑えられないのだ。自分の鼓動を強く感じる。重い鉛を腹の中に流し込まれたような気分だった。ともすれば不安に押しつぶされそうになるのを必死でこらえている。
 大丈夫、きっと大丈夫。そう心の中で何度も呟く。胸を締め付けるのは、不安と焦燥だった。神様に祈る趣味も嗜好も彼女は持ち合わせていない。人生において、祈るたびに与えられたのは絶望だったからだ。天から蜘蛛の糸を垂らしてくれる存在など、人間が勝手に作り出したありもしない幻想。それくらいのことはわかっている。しかし、今、彼女は友人のために祈っていた。対象も定かではない祈りに効果があるのかはわからなかったが、それ以外にできることはなかったのだ。

「あっ、ごめんな……」

 下を向いて歩いていたので、気がつけなかった。人とぶつかる寸前だった。向こうも急いでいたのだろう、すれ違い様に傘が相手の身体に当たってしまった。翼はよろけ、さらに肩で相手とぶつかった。強い衝撃を身体に感じる。相手は傘を差しておらず、全身濡れていた。翼は、反射的に謝罪の言葉を述べたが、返事はなかった。気分を害してしまったのかもしれない。無言のまま、足早に遠ざかる後ろ姿に、翼は、もう一度、すいませんでしたと声をかける。
 そして、我に返った。視界の端には、既に私立直江津高校の建物がある。彼女が目指しているのは、昔の母校だった。思い出の詰まった空間だったが、感傷に浸る余裕は今の彼女にない。まっすぐにグラウンドへと足を運ぶ。
 単なる直感だった。

――阿良々木君は、きっとここにいる。

 翼は、阿良々木家に立ち寄り、暦の部屋で忍に会っている。夜の塾講師のバイトを終えてから向かったので、時刻は既に遅かった。そして、自身の判断ミスを翼は悔やんだ。バイトなどキャンセルして、即刻暦と会うべきだった。歯噛みしても遅い。忍は、艶やかな女性の肢体を誇って翼に暦の留守を告げたのだった。

「なんじゃ、久しぶりじゃの、人間。あ、暦か、あやつなら留守じゃ……散歩に出かけておる。ところで、お主、人を訪ねるのに、土産もなしか? 儂の好物くらい知っておるであろうに、気が利かぬなあ」
「忍さん、その姿は……」
「ん、これか……先ほど暦とちょっと『いたし』てな。完全に昔のままとはいかぬが、これでなかなか儂も捨てたものではなかろう? お主ほどではないが、胸もあるぞ」

 ほれ、と言って、忍は、自分の胸を掴んで寄せた。嬉しそうな声だった。軽い口調、上気した頬に濡れた瞳。吸血鬼の浮かれている様を別世界の出来事のように翼は感じた。現実から自身の存在が遊離していく、あるいは自身の世界が現実から遊離していく感覚がある。
 階下にいた妹たちは、最近の兄の不審行動を語った。深夜に頻繁に出かけているようだと言う。

「なんだ、やっぱり今日も出かけてんの、兄ちゃん?」

 兄の留守を知って、一人が眉をひそめて言った。

「『やっぱり』って、どういうこと?」

 翼の問いに、もう一人が言葉を継いだ。

「最近、兄ちゃん、何だか変なんですよ。夜になると、こっそり街に出ているみたいで……あと、なんか、最近の兄ちゃんは怖いっていうか……あまり話さないし、話しかけても上の空で聞いているんだか聞いてないんだかわかんないし。むっつりなのは昔からだけど、最近の兄ちゃんは何を考えているのか、よくわかんない」

 翼は、グラウンドを睥睨して歩きながら思い出している。妹の話。忍の姿。そして暦の部屋。部屋には暦の行き先を告げる手がかりどころか、何もなかったのだ。四畳一間。ベッドに机。机には若干の本と書類。ベッドの脇の灰皿、そして詰め込まれた吸い殻。それだけだった。他に何もない。生活感どころか、人間の生きている匂いを感じることのできない部屋だった。
 強い違和感がある。彼の部屋は、高校生のときもこんな有様だっただろうか。翼の記憶はそれを否定した。あそこには漫画もあれば、ゲームもあった。翼が眉をひそめ、あるいは、笑みを浮かべて暦をからかう種となるような、いかがわしい本も数多くあった。そういったものが暦の部屋から全て消え失せている。「なぜ」そして「いつ」とという問いが頭の中を駆け巡る。
 惑乱の中で聞いた。
 ぐちゃ。

――何の音だろう?

 それは今まで翼が耳にしたことのない音だった。鈍く重い低音。翼は足を止めて耳をそばだてた。
 雨はさらに強さを増して、天からたたきつけるように落ちてくる。傘を重く感じる。雨と闇に押し包まれてしまいそうな錯覚に陥る。濡れた服は冷気にさらされて一層冷たさを増し、身体から熱を奪っていく。
 激しい雨の中、音がどこから来ているのか聞き分けようと、翼はあたりに目をやって、耳を澄ませた。闇の向こう、小屋があるのが目にとまった。体育倉庫だった。かつて暦が絶望に喘ぎ、助けを求めて震えていた場所であり、翼が暦を迎え、慰め、そして送り出した場所だった。
 記憶が脳裏を走った刹那。
 大きな音が響いた。
 倉庫のドアが弾け飛んだのだった。開いたドアから大きな塊が飛び出した。獣だろうと翼は思った。その塊は動いたからだ。よろめいて、土の上を這い回る。進もうとして果たせず、蹲る。そして、また蠢く。何かに追われ、何かから逃れようとしているような動きだった。事実、それは何かから逃げようとしているのだろう。遠目にも無様な動きは、恐れと生存への強い意志を感じさせる。死に瀕した動物が迫り来る死を逃れようとして、足掻いているのだと翼は思った。
 正体を見極めようと目を凝らしたとき、その獣が自分を見たと感じた。錯覚ではない。確信があった。見られたと思い、次に逃げなくてはと思った。それは動物的な直感に近い。その獣は捕食する強者で、自分は捕食される弱者だ。翼の本能が危険を告げていた。

「女……運が悪かったな」

 突然、頭上から声がした。闇の中、光る目が翼を捉えていた。乱れた髪の毛とカチューシャ、口の端の牙が目についた。いつの間に移動したのか、目の前にそれはいる。
 それは明らかに獣ではない。獣は人語を解さないし、発さない。しかし、これは人間なのだろうか、と翼は思う。そう呼称するには、必要なものが欠けていた。
 四肢がなかった。
 あるのは、巨大な体躯だけで、右手は肘から先が、左手は肩の付け根からない。足は左右ともに太股から先がなかった。雨に混じって赤い血液が止まることなく滴り落ちている。

「あ……」

 声は出なかった。叫ぼうとして果たせない。喉の奥、締め付けられているような感覚がある。足が竦み、身体が震える。震えた手から傘がこぼれ落ちた。とたんに全身が雨で濡れた。
 自分は、これを見たことがあると翼は思った。しかし、思い出せない。いつだったか、目の前の存在とすれ違ったことがある。なのに、わからない。恐怖に支配されて、頭が動かない。動け、動けと念じても、頭も身体も止まったままだ。

「この通りの有様でな、このままでは私は死ぬ。だからな、女……」

 それは息を継いで言った。

「お前の血をもらうぞ」
 
 悪く思うな、と呟くように付け足した。そして、それは大きく口を開く。闇の中、牙が光るのが見えた。
 え、悪いよ、と翼は思う。私、死ぬんだな、と次に思った。口の奥で奥歯を噛みしめて、足に力を入れた。

「死ぬのは、羽川じゃない……お前だよ」

 声がした。聞き慣れた声だった。
 肉の裂ける音が続いた。

「え……」

 翼は目を見開いて、それを確かめる。眼前のものを信じられず、目を何度か瞬いた。
 目の前に心臓があった。
 血が飛んで翼の顔を汚した。巨大な身体の中心を手が貫通している。その手には心臓が握られていた。どくり。肉の塊が音を立てて動いた。
 
「あ……が……」

 呻き声。それは言語ではない。分節不可能な音だった。しかし、意味は明瞭だ。四肢を引きちぎられ、身体を貫かれ、その生き物は死ぬ。真ん中を貫く手から抜け出そうと、もがいて動いているが、その動きは弱々しい。
 
「じゃあな、ドラマツルギー。これで終わりだ」

 そう言って。
 翼の眼前。
 阿良々木暦は、心臓を握り潰した。



[12843] Lovefool-3 【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2009/10/24 19:00
 ●

「それにしても、阿良々木先輩からの呼び出しとは驚いたぞ。一体、どんな風の吹き回しで突然、私を呼び出したりなんかしたのか」

 神原駿河は感想を正直に述べた。そして微笑んだ。自分は今上手く笑えているだろうか。そんな心配が頭をよぎる。手が震えそうになるのを必死で抑えながら、目の前のコーヒーを口につける。舌を刺す苦みに顔を歪めた。

「迷惑だったか?」

 そう言って、暦はまっすぐに駿河を見た。暦の視線に胸が跳ねる。今、阿良々木暦に見られている。そのことを意識するだけで、胸が痛い。声を出そうとしたが、口は中途半端に開いたままで、言葉を結ばなかった。ごまかそうとして、紙ナプキンを取って口元をぬぐう。白い地に走る紅を見て、失敗を悟った。強く拭いてしまったために、口紅がほとんど取れてしまった。
 意を決して口を開いた。

「そんなことはないぞ。この神原駿河、阿良々木先輩の呼び出しとあれば、例え火の中水の中風の中土の中、男子更衣室の中にだって入って裸になってみせるとも」
「いや、別に裸になれとは言ってない。あと、それはただの変態だろう……」

 暦は力なく笑った。苦笑に近い。しかし、険しかった表情がゆるんだ。よかった、上手くできた、と駿河は思う。昔みたいに軽口を叩くことができた。その事実が駿河の気持ちを高揚させる。阿良々木暦と二人で冗談を言って笑う。それは、失って久しい甘美な体験だった。

「いやいや、この私を見くびってもらっては困る。阿良々木先輩のリクエストとあらば、この昼間の喫茶店というきわめてチャレンジングな公共の場所でも裸になって、自慰にふけり、クライマックスで阿良々木先輩の名前を大声で呼んでみせようではないか」
「いや、それお前どころか、僕も巻き添えくらって捕まるだろ」
「そうだろうか。阿良々木先輩の名がこの商店街に伝説として永遠に語り継がれるかもしれないではないか」
「女に露出行為を強要した変態としてなっ!」

 暦は声を張り上げた。そして今度ははっきりと笑顔を見せた。喉の奥、赤い肉が目に入る。ソファに寄り掛かっていた身体が前方に移動する。革が擦れ合う音がした。男の身体の匂いが鼻をつく。暑い屋外から冷房の効いた空間に飛び込んだせいか、暦は首から肩にかけて汗を浮かべている。白いシャツは汗で濡れて、肌に張り付いていた。暦は、暑いなと呟きながら、シャツを動かして風を送っている。
 扇情的だと駿河は思った。身体の奥をくすぐられているように感じる。そして、感情をごまかそうとして、思いを言葉に変換する。簡単なことだった。口調を軽く保てば、言葉は冗談として処理されてしまう。逃げていると自分でも思う。しかし、そうすれば隠すことができるのだ。昔と何も変わらないと自嘲する。最初の緊張感は既にほどけ、舌はなめらかに動いた。

「暑ければ、脱ぐのが一番だぞ、阿良々木先輩。そうか、なんだ、私が裸になるのではなく、阿良々木先輩の露出行為を私が見ていればよいのだな。了解した。先輩は、見るのではなく、見られたかったのであったか。これは失礼した。ならば、この神原駿河、阿良々木先輩の裸をじっくりたっぷりじっとりしっとり視姦しよう。それくらいは朝飯前どころか、昼ご飯にすき焼きだ」
「それは重くて胃にもたれそうだな」
「私は視線だけで阿良々木先輩を妊娠させる自信があるぞ」
「性別を超越しちゃうのかよ!」
「では、間を取って、二人で裸になって抱き合おう! 今、ここで! さあ!」
「どう間を取ったんだ、それっ!」

 言葉で戯れ合う行為は懐かしく、そしてある種の恥ずかしさがあった。作り物めいた会話だと駿河は思う。きっと暦も同感だろう。わざと昔のようにふざけている。時をさかのぼるための一種の儀式だった。互いに間を計っている空気がある。暦と目でコンタクトを取りながら、駿河は懸命に会話の呼吸を思い出していた。

「何だか、懐かしいな」

 笑みを浮かべたまま、駿河を見て暦が言った。そして呟く。半ば自分に問いかけるような口調だった。

「お前とこうやって話すの何年ぶりだっけな」
「たぶん、三年くらいだと思うぞ、阿良々木先輩」
「そっか、もうそんなになるのか」

 暦は駿河から目を外して、コーヒーに口をつけた。そして、黙った。
 正確には、三年三ヶ月十五日だ、阿良々木先輩。その台詞を駿河は飲み込んだ。代わりにあいまいな笑いを頬に浮かべた。

「元気だったか、神原?」
「ああ、元気だぞ、阿良々木先輩。阿良々木先輩は、元気であらせられたか?」

 ああ、と暦は笑った。その笑みに引き込まれる自分を駿河は確認した。
 そして確信する。
 神原駿河は阿良々木暦をいまだ愛していた。

 ●
 
 神原駿河にとって阿良々木暦はどのような存在か。この規定は難しい。
 身を焦がす嫉妬と憎悪の対象として出会い、神原駿河は阿良々木暦を殺した。殺しかけたのではなく、間違いなく殺した。駿河は自身を殺人者だと思っている。阿良々木暦が吸血鬼の身体を保持し、不死身だったのは偶然の産物にすぎない。それは駿河の行為の性質を変えない。少なくとも彼女にとっては、彼女のなしたことは殺人と規定されるべきものだった。だから、彼女は彼に購うべき罪を負っている。駿河が罪人であるとするならば、暦は牢の鍵を握る番人だ。ただ、駿河は自らの意志で鍵を暦に預けているだけ。彼女は、その返却を望まない。暦に支配される存在でありたいという欲望がある。
 事後、嫉妬は憧れに、憎悪は思慕に変わった。自分の軽々しさに呆れたが、その思いは溢れて心の中を満たした。自身を同性愛者と規定していた彼女は、最初それを幻想だと考えた。だが、自身を縛っていた規定こそが幻想だったのだと気づく。駿河は、暦の臓腑を陵辱した感触を繰り返し思い出して陶酔に浸った。心は覚えていない。しかし、身体が覚えている。あの支配感と肉を裂く恍惚感。叶うならば、もう一度。そんなことさえ考える。暦に支配され、暦を支配したい。その願望は駿河の心と身体を焦がした。
 やがて気がついた。危ない、と思ったのだった。駿河は自身の弱さを知っている。この願望は私を狂わせる。疑惑が確信に変わったとき、彼女は暦に告げた。残った疑問は、いつということだけだったのだ。

「阿良々木先輩、私たちはもう会わないほうがいいと思うのだ」
「……そっか。わかったよ、神原」

 そう言って、暦は微笑む。卒業式の日、話があるので式の後、二年生の教室に来てほしい。そう言って駿河は暦を呼び出した。

「なんつか、寂しくなるよ、お前と話すの楽しかったからさ」
「私もだ。これから先、阿良々木先輩がいったい何を材料に自慰行為にふけるのかと思うと、心配でたまらない」
「そんな心配はいらねえよっ! あと、なんで僕がお前をネタにしてるの前提なんだ」
「何を言う、阿良々木先輩。阿良々木先輩の愛用オナペットが何か、などという問いは私にとっては、四則演算よりも簡単な問いだ。何せ、私たちは、一日最高何回できるのか、人間の限界を見極めんと互いに競い合った仲ではないか」
「そんなバカな男子高校生みたいな真似、してないっ!」
「阿良々木先輩は、なんと十五回」
「無理だ!」
「最後は、もう出ているのが液なのか汁なのか粉なのかもわからない有様で、それでも、もはや反応することさえない自身の一物を握り続け擦り続ける阿良々木先輩は、実に男らしかったぞ」
「確かに、ある意味男らしいが……最低だな、僕」
「もはや通常のエロ本では何も興奮しなくなってしまった阿良々木先輩は、こういうのもありかな、と言いながら、スカトロ熟女ものに手を染めたのだ……まったく阿良々木先輩は女泣かせであることよ」
「そりゃ、泣くだろうな、そんな光景見たら」

 二人で声を忍んで笑った。暦は苦笑に近い。駿河は奥歯を噛みしめて、頬に笑みを浮かべた。
 卒業式は既に終わり、校舎の人影はまばらだ。二年生は登校しておらず、教室は静寂に包まれている。漠然とした物音とかすかなささやきが静寂の中を舞っていた。日は暮れかかり、穏やかな光を部屋の中に差し込んでいる。
 暦が黙り、駿河も合わせて口を閉じた。そしてお互いを見た。空中で視線が絡み合う。暦の視線は溶けた鉛のように重く、駿河の心を浸食する。細く引き絞られた瞳に引き込まれそうだった。
 声を出そうとして、果たせなかった。弱い喘ぎ声しか出ない。切れ切れに息を出し入れしながら、駿河は二度三度目を瞬かせた。こめかみがうずき、動悸が高ぶる。脈打つ血管と心臓の鼓動を感じた。舌は上あごにひっつき、声は喉の奥でつまったまま。駿河は瞼を閉じて、そして暦の声を、表情を、匂いを思い浮かべる。弓形のまつげも、黒い瞳も、形の良い鼻も、濡れた唇も、なめらかに張った頬も脳の奥に刻み込んで格納しておくために。
 そして、言った。

「じゃあ、さよならだ、阿良々木先輩」
「ああ、さよなら、神原」

 だから、きっとこれは夢だと駿河は思う。自分の上に男がいる。脳裏に刻み込んだ声が、匂いが、かんばせが目の前にある。信じられなかった。しかし、身体の奥を貫く男の存在が駿河に現実を教える。男の首筋から汗が流れ、彼女の胸に落ちた。ベッドが軋んで、無機質な音を立てている。
 駿河は男の背に手を回して身体を引き寄せた。触れあった肌の温かさに陶然とする。三年間、夢に思い、現に幻想した感触だった。厚い胸板に頬を寄せて目を閉じる。男の動作が荒々しさを増した。身体の奥で臓腑をかき回されるような快感だった。太股の間に男を挟みながら、奥歯を噛みしめて耐えた。
 しかし、彼女は快感に溺れることができない。
 一つの疑問が頭を捉えて離さなかった。

――なんで、そんな哀しそうな顔をしているのだ、阿良々木先輩。



[12843] Lovefool-4 【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2009/11/02 00:15
 ●

「なあ、神原、最近、戦場ヶ原から連絡とか、あったりしたか?」

 それが最初の言葉だった。
 行為の後、しばらく二人は黙っていた。沈黙がホテルの一室を包みこむ。身体に残る熱が心地よく、駿河は一つ息をついた。そんなときに耳に入った男の言葉に驚き、目を丸くした。何も今この場で出す話題でもないだろう。そう思って、苦笑する。随分と乙女らしい思考だったからだ。

「阿良々木先輩、その質問はエチケットに反していると思うのだが、どうだろう?」
「……ん? そうか?」

 暦は不審そうな表情を作った。しばし考え込んで、言った。

「それもそうだな。悪かったよ、神原」
「うむ、女としては、せめてお前の身体は最高だったぜ、ぐへへ、などと言ってほしいところだ」
「それもそれでどうかと思うけどな」

 暦はあいまいな笑みを浮かべて、煙草に手を伸ばした。なめらかな動作で煙草を一本取り出すと、火をつけた。

「阿良々木先輩は、煙草を吸うようになったのだな」
「ああ……一年前くらいかな。なんかイライラしてたんで試しに吸ってみたら、やめられなくなっちまった。吸い始めた当初は、それこそ戦場ヶ原に人間の屑みたいに言われたもんだが……」

 暦は途中で言葉を切った。駿河が暦をにらんだからだ。演技めいた仕草だったが、意図は伝わった。悪いと暦は言って、煙草を口に含み、煙を吐き出した。煙が空中で弧を描いて漂った。
 煙の匂いが鼻をつく。行為の最中、男の身体には三年前と違う匂いが漂っていた。これだったのだな、と駿河は得心する。好ましい匂いだと思った。
 暦の手が駿河の髪を梳いた。頭から肩に向かって指が降りていく。脳から背筋へ甘美な快感がかけぬける。目を閉じて深く息を吐く。手を伸ばして暦に自分の身体を寄せた。

「髪伸ばしたんだな……いつだ、大学に入ってからか」
「いや、阿良々木先輩が卒業してからだ。もっと女らしくなろうと思ったのだ。服も買ったし、ピアスの穴も開けた……もう脱がされてしまったが、下着も随分と可愛くてきれいだったろう?」
「ん、そういやそうだったな。神原もこんなの着けるんだな、と実は思ってた」
「阿良々木先輩の呼び出しとあって、一番自信をもってお勧めできるものをつけてきたのだ」
「まあ、何というか、お心遣い嬉しいよ」
「是非先輩にもつけてみて欲しい一品なのだ」
「……それは遠慮しておくよ」
「今、一瞬、迷ったな、阿良々木先輩?」

 駿河の問いに暦はうろたえた。そんなことねえよ、と言って横を向いた。駿河は声をたてて笑い、阿良々木先輩はかわいいな、と言った。心地よい会話だった。心をくすぐられるような幸福感がある。三年、渇望していたものが与えられた。その実感に彼女の心は歓喜の叫びを上げる。なお飢えと渇きを癒やそうとして、駿河は暦の声と言葉を欲した。話題は何でもよかった。単に身体を寄せ合い、声を交わしていたいだけ。
 ふと意地悪い気持ちが浮かび、男を苛めたくなる。悪戯のような質問が頭に浮かんだ。

「なあ、阿良々木先輩」
「ん?」
「戦場ヶ原先輩と私、どっちの方が良かった?」

 暦の耳元で囁く。耳を口に含んでから、顔を首筋に押しつけた。さらに、暦の身体を抱きかかえて胸を押しつける。彼女は暦と別れて以来、運動やスポーツをやっていない。意図的に運動量を減らし、筋肉を落とした。時が経ち、髪が伸びていくのに合わせて、身体は女性らしいふくらみや柔らかさを増した。
 暦は目に見えて困った顔をした。渋面し、額に眉を寄せる。そういうこと普通聞くか、と蚊の鳴くような小さい声で訴えた。

「ふむ、ちなみに、阿良々木先輩は、女子の処女性にこだわる人だったりするのだろうか。一応言っておくと、私はさっきのさっきまで一二〇%処女だった……お前、痛がってなかったじゃんと阿良々木先輩は思うかもしれない。しかし、処女膜は前に……」
「聞きたくねえっ! 女の子が膜とか言うな!」
「よし、では、さっきの阿良々木先輩の質問に答えておこう。実は、戦場ヶ原先輩とも卒業してからは連絡を絶っていたのだが、数ヶ月前にばったり街で出くわしてお茶を飲んだ。そのとき戦場ヶ原先輩は、あのグータラ、ろくに大学に出てこないで就職どころか卒業さえ危ないのよ、とまことにお怒りであった。あんなダメ人間、別れちゃおうかしら、とさえ言っていた。私は阿良々木先輩がダメ人間であるなどというとんでもない意見には大いに異議を挟んだものだし、もちろん、そんな発言はその場限りの冗談だとは思ったが……それでも私には理解できなかった。戦場ヶ原先輩はいったい阿良々木先輩の何が不満なのか。阿良々木先輩、私は、たとえ、先輩がニートでもフリーターでも大学中退でもロリコンのダメ人間でも構わない。先輩が愛人をいっぱいつくって阿良々木ハーレムを作ってもいい。あるいは、私が愛人なのでも構わない」
「あのなあ、神原……」

 言い差した暦を駿河は目で制した。暦の目をみつめる。胡乱げな顔で駿河を見返していた。一度諦めたものがそこにある。失いたくない。そう強く思った。三年前、彼女は自ら手放した。そのときの痛みを心はまだ覚えている。身を切られるような痛み。自身の半身を失ったかのように感じた。もう一度手放すつもりは彼女にはなかった。
 三年前、彼女は彼を殺したことによって、彼に縛られた。その呪縛は今もなお生きている。あのとき、暦は彼女に愛を教えた。それは神の啓示に近い。それまでの彼女も愛という言葉は知っていた。しかし、その言葉に中身を詰めたのは暦だ。今まで知っていたものとは違う概念を与えて、彼女に愛を説いた。彼女が彼を欲したのは、その帰結に過ぎない。だから、駿河は暦をまっすぐに志向する。その様は敬虔な信者が神を求める姿に似ていた。
 うん、と彼女は一人頷く。暦の目を見つめたまま、言った。普段と異なる表情と声を故意に演出した。

「神原駿河は阿良々木暦を愛している。そして、何があっても私は阿良々木先輩を愛する」

 言い切って黙る。
 暦も黙った。しばらく、無言の時間が続いた。やがて口を開いたのは暦。乾いた声が部屋に響いた。

「神原、マジか?」
「大マジだ」
「僕は正真正銘のダメ人間だぞ。それこそ戦場ヶ原も呆れてしまうくらいの」
「私が働けば何も問題ない。阿良々木先輩は家で寝て漫画読んでアニメ見てインターネットしてゲームして、外ではパチンコにいそしんでいればいい」
「……ヒモだな、それも最低ランクの」

 でもな、と暦は続ける。大きく息をつくと、彼は言った。胸からはき出す息に合わせて、言葉を無理に絞り出したように見えた。

「それだけじゃないんだ。実は、僕は……何人もの人間の死に責任がある。神原、僕は、この間、人を殺してしまった……僕は『人殺し』なんだよ」

 暦の声は低く、空気を沈み込ませる重みがあった。無音が続いた。頬を吊り上げて笑みを作ろうとして果たせない。ぎこちない表情になった。暦は黙ったまま自分の掌を見つめた。
 かすかな音が静寂を破った。枕元の灰皿の中で、煙草の灰が崩れたのだった。炎はかすかな音を立てながら燃焼し、根本に近づいている。暦は手を伸ばして、煙草を灰皿に押しつぶした。透明なガラスの表面を灰が汚し、鈍い擦過音が立った。
 暦は沈痛な面持ちのまま、下を向いた。かすかに眉をひそめ、額に皺寄せている。口の中で何かを呟いているようだった。なお言葉を紡ぎだそうとする暦を駿河は止めた。いいのだ、阿良々木先輩と囁いた。愛おしさが胸を満たしていた。男の頭を胸に抱いて、柔らかく力をこめた。男の髪が肌を刺す。こそばゆく心地よかった。
 自身が女性に生まれたことに彼女は感謝した。女性という性に意味があるとすれば、それは今このとき目の前の男を慰めることだ。そんなことを思ったのだった。同時に、ひどく欲情している自分に気がつき、苦笑する。身体の奥にうずいているものがある。それは弱っている男を慰め、支配したいという欲望だった。
 胸にかき抱いてた男の顔を上に向けると、駿河はゆっくりと自分の顔を近づけた。視線が交差し、絡まり合い、やがて溶けて一つになった。息と息が触れて抱き合う距離だった。

「いいではないか。阿良々木先輩が人殺しならば、私も阿良々木先輩と一緒に人を殺す。それだけだ。何を犯しても、私は阿良々木先輩とともにあることを選ぶ。私は、阿良々木先輩とともに生きたいのだ」
 
 駿河は迷いなく言った。目を閉じて、唇を男のそれに重ねる。舌と舌で互いの存在を確かめる。肉はなめくじのように這い回り、絡まり合い、濡れた音を立てた。
 やがて唇を離したとき、駿河は男の唾液を音を立てて飲み込んだ。暦は軽く口を開けたまま、呆然とそれを眺める。
 やがて、暦は一つ溜息をつくと、そっかと呟いた。顔を上げ、天を仰ぐような仕草をする。視線を駿河に戻す。何かに耐えるように、額に皺寄せ、唇を軽く噛んでいた。
 彼は言った。

「……僕の……責任なんだろうなぁ……わかった。僕も誓うよ。今日から僕は、頭の先からつま先まで全部神原のものだ」
「その誓いはとても嬉しいのだが……戦場ヶ原先輩はどうするのだ?」

 暦はそれに答えなかった。ベッドの脇、携帯を引き寄せて、ボタンを押す。
 数回のコール音の後、彼は言った。

「戦場ヶ原、僕だ。ホントは、留守電に入れるようなメッセージじゃないんだけどな、ちょっと事情があってな。スマン。えっと、色々あってさ、僕は神原と付き合うことにした。……僕は自分のしたことに責任を取らなくちゃいけないんだ。そんな説明でお前が納得してくれるとは思えないんだけど、それ以外に言葉がない……だから、戦場ヶ原とはお別れってことになる。今までありがとう。そして、ごめん」



[12843] Lovefool-5 【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2009/11/02 01:59
 ●

Dear, I fear we're facing a problem
(ねえ、私たち、今困ったことになってるわよね)
you love me no longer, I know
(あなた、私のこともう好きじゃないでしょ、知ってるんだから)
and maybe there is nothing that I can do to make you do
(あなたをもう一度振り向かせたいけど、たぶん私にできることなんて何もないのよね)
Mama tells me I shouldn't bother
(お母さんは気にするなって言うの)
that I ought just stick to another man
(別の男見つければいいじゃないって)
a man that surely deserves me
(今度はあなたにふさわしいような男をって)
but I think you do!
(でも、あなたが一番って、私思ってしまうの)

――the Cardigans, "Lovefool"

 ●

 戦場ヶ原ひたぎは足を止めて、耳からイヤホンを引き抜いた。携帯音楽プレイヤーのスイッチを切る。しばらく明滅した後に、機械は動作を止めた。暗闇があたりを包み込む。
 しばらくして、目が暗闇に慣れた。目に入ったのは、懐かしい光景だった。
 廃墟に彼女はいた。町外れにその建物はある。訪れようとして、道を思い出すのに、しばらくの時間と努力を要した。建物を前にして彼女が感じたのは、違和感だった。本当にこの建物だっただろうか、と思ったのだ。記憶を刺激するものを何も感じない。確かに、懐かしいとは思う。しかし、それだけだ。その懐かしさは機械的な反射に近い。アルバムを開いて、自分の出ていない運動会の写真を見つけたときの気分に似ていた。あの出来事は本当に自分のものだったのだろうか。そんな疑問さえ頭の中に浮かんだ。
 バッグから懐中電灯を取り出して、光をつけた。リノリウムの床や、割れた窓、汚れた机や椅子が視界に浮かび上がってくる。音はなく静かで、空気は冷たかった。静寂と冷気の中で、時が静止しているかのように感じる。事実、その光景は三年前と何も変わりはない。変わったものがあるとすれば、それは彼女自身。風景は見るものの心象によって、その装いを変える。三年前、彼女は眼前の風景を大事に記憶にしまったつもりだった。しかし、手入れを怠り、その記憶は風化した。取り出してみれば、過去の甘さは既に消えている。その事実がひたぎを焦燥に駆り立てる。
 ひたぎは、足早に歩を進めた。目指す部屋は三階にある。暦がひたぎを救い、ひたぎが初めて暦を望み欲した場所だった。そこに行けば、と彼女は思う。三年前彼女はそこで阿良々木暦に救われた。以来、彼女は彼を愛している。あるいは、彼女はそのように自己を認識している。
 一歩一歩階段を踏みしめるようにして、ひたぎは階上を目指す。目的の部屋を前にして、躊躇した。怖いと感じていた。灰色のドアを前に、彼女は息を整える。思い出せるはずのものをいまだ思い出せない。
 言葉が口をついて出た。

「私は阿良々木君を愛している」

 ●

 ひたぎが留守電を聞いたのは、病院からの帰り道のことだ。
 久しぶりに大学で顔を会わせた友人は変な噂をひたぎに語った。大学の食堂で耳にした噂だという。そして、本人に直接確かめてみると最後に言って、彼女は電話を切った。
 その日の夜、その友人は病院に運ばれた。
 深夜の学校で倒れているところを発見されたのだと医者は言った。直近の発信履歴から辿ったらしく、ひたぎに連絡が来たのだった。ベッドで横たわる彼女の姿はひたぎを少なからず当惑させた。病室に響く音は、ベッド脇の機械音と静かな呼吸音のみ。なぜか意識を回復しない、と医者はひたぎに告げた。半ば衝動的にひたぎは友人の首筋を確かめる。予感は当たった。首筋には、牙を突き立てた跡があった。
 それから先のことをひたぎはあまり覚えていない。半ば朦朧とした意識のまま、医者の話を聞き流して病院を出た。切っていた携帯の電源を入れると、留守電にメッセージが残されていた。それを聞いたとき、ひたぎは、地面を見て地に足がついていることを確かめた。世界の関節が外れてしまったのではないか、と思ったのだった。心の底に鉛が沈み、地について動かない。自分の肉体を疎ましく感じた。固い肉が溶けて崩れて露と消えてしまえばいいのに、と思った。
 やがて、ある疑問が彼女に訪れた。
 それは危険な邪推だった。毒が耳から注ぎ込まれるとき、それに味はなく苦くもない。しかし、それは血に直接働きかけて、燃え上がる性質を持つ。
 
――私は本当に阿良々木君を愛していたのだろうか?

 その疑問は彼女の心の中に根をはやして、とどまった。否定して、その否定に耳を傾けない自分に驚いた。血が騒ぎ立ち、ひたぎの心に囁く。阿良々木暦が別れを告げたとき、どこか安心する自分がいなかったか、と。
 恋は愛に育ち、やがて愛は情に変わる。恋や愛は永続しないが、愛が情に変わるとき、それは愛情として華開かせる。
 そんなことをひたぎは聞いたことがある。彼女は暦に出会い、恋を知り、愛を学んだ。彼は彼女を救い、彼女の苦悩を理解した最初の人間だ。やがて訪れた恋は甘く、時間をかけて育てた愛は美しいものだった。しかし、それだけだ。甘さも美しさも時間が経てば慣れる。人は何にでも慣れる。その事実は残酷に恋と愛の終わりを告げた。
 それは、付き合いが二年を超えたときのことだった。初めてひたぎは暦の欠点が目につくようになったのだった。些細なことばかりが目につくようになる。食事の際、暦が肘をつけば、彼女は声を荒げて、それを叱った。暦は、それに不承不承従う形を見せた。その態度がさらに彼女の心をいらだたせる。箸の持ち方がおかしいと告げたときには、どうでもいいだろ、と一笑された。煙草の匂いにひたぎはどうしても慣れることができなかった。それを理由に男の要求を拒んだこともある。男の身体に染みついた匂いが我慢ならなかったのだ。暦が声をあげて不平を述べたので、彼女は仕方なく身体を預けた。そして、何の感情もなく男に抱かれている自分に驚いた。愛を確かめる行為として規定されるはずの交歓。しかし、それも慣れてしまえば、生活の一部に過ぎない。恥じらいも感傷もなく、感情を抜きに行うことができる。しかし、歓びもないとすれば、行う意味はあるのだろうか。男が自分の上で身体を動かしているとき、肌と肌とを触れあわせながら、ひたぎは一人そんな考えを巡らせていた。驚くほど冷静に男を見つめる自分がそこにはいた。
 恋は、醜い混沌から生まれる美。
そんな台詞を彼女は文学の講義で学んだ。しかし、逆だと彼女は思う。彼女が目の当たりにしているのは、美から生まれる醜い混沌だったからだ。
 時に目の前の男を疎ましく思うことがある。その事実にひたぎは戸惑い、狼狽えた。彼女には、それが愛が情に変わるための必要な過程なのか、わからなかったのだ。

(私は阿良々木君が大好き)

 だから、彼女は自身に催眠のように呼びかける。

(私は阿良々木君を愛している)

 戦場ヶ原ひたぎは阿良々木暦を愛している。
 それは、ひたぎが暦によって二度目の生を受けたときに受けた規定だった。二度目の生を受けて間もない彼女の精神は幼く、その揺らぎを受け入れることができなかった。
 確認のため。
 そう自分に言い訳をして、ひたぎは街外れの廃墟に足を向けたのだった。

(大丈夫、きっと『私たち』は大丈夫)

 ひたぎは目を閉じて祈りの言葉を呟いていた。そして、意を決すると、部屋の中に足を踏み入れた。
 三階の元教室。部屋は薄暗く、汚れていた。気のせいか、前よりもくすんで見える。懐中電灯の明かりの中を埃が舞っている。汚濁した空気に、何かものが腐ったような匂いが混じっている。ひたぎはハンカチを取り出して口と鼻をおおった。

(ここに忍野さんがいて、ここに阿良々木君がいた。ここで、私が……)

 記憶を探りながら、のろのろと足を動かして、部屋の端から端まで歩く。時間にして数分間、彼女はただ歩いた。
 そして呆然として立ちすくんだ。足が震えて、座り込んでしまいそうだった。歯を噛みしめて、足に力を入れようとしたが、無駄だった。歯の根がかち合わず、全身から力が抜けていくのがわかる。
 やがて彼女は声を上げて泣いた。思い出せなかったのだ。心のどこを探ってみても、あのときの気持ちは既に虚空に消えて見当たらなかった。それを確認したとき、彼女の心は地を失って揺れた。
 焦燥は、喪失の不安に形を変えた。母を失った記憶が蘇る。今のひたぎをつなぎ止める絆もまた消えるかもしれない。そう思い至ったとき、身体が震えた。心を落ち着ける術を知らず、ひたぎはただ泣き続けた。その姿は、母を失い、母を求めて泣く子供に似ていた。
 切れ切れの言葉が口から漏れ出た。

「……こ、ここで私は……阿良々木君に……だ、だから、わ、私は、あ、あら……阿良々木君のことがす……あ、愛して……」
「へえ、あんた、阿良々木暦の恋人か何か?」

 突然、背後から声がした。振り向こうとして果たせない。身体を男に固定されていた。叫びを上げる間もなく、男はひたぎの首に腕を回して力を込めた。
 頭が朦朧とかすみ、徐々に意識が薄れていく。

「超ウケる。単に寝床にちょうどいいから、ここにいただけなのに、俺、マジラッキー。あれだね、やっぱ、俺、いわゆる悪者退治の正義の味方って奴だし、神様に愛されてるね」
「あなた、いった……」

 ひたぎは最後まで言葉を続けることができなかった。

「悪いけど、人質ってことで、よろしく。ドラマツルギーの旦那がやられちまったらしいし、あのガキ強くなってるみたいだしさあ、保険てことで」

 意識を失う前、そんな声を最後に聞いた。



[12843] Lovefool-6 【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2010/04/12 07:29
 ●

阿良々木暦は考えている。
 自分にとって戦場ヶ原ひたぎという少女は一体何だったのか。その問いが暦の頭を惑わせている。
 蟹と出会い、体重を失った少女。
 その定義は、暦にとってもはや意味を持たない。ならば、恋人だったのか、と自分に問うと、暦の心は揺らぐ。付き合っていたのか、と言われれば、答えはイエスだ。しかし、自分とひたぎの持っていた関係を指して、恋愛と呼べるのかどうか、暦にはわからなかった。
 自分は彼女を救った。彼女に忍野メメを紹介し、彼女が体重を取り戻す契機を作った。それはひたぎにとっての暦である。
 では、自分にとって、戦場ヶ原ひたぎは何だったのか。そう問うてみて、暦は、既に問いが過去形でしか出てこないということに気がつく。彼女の顔も表情も肢体も覚えている。魅力的な異性だという認識は変わっていない。しかし、今、彼女の存在を暦は志向しない。
 要は、都合よく言い寄られたから、イエスと言っただけなのではないか。今となって、暦はそんなことを考える。そこには自責と諦念が混在していた。ひたぎは、魅力に溢れた少女だ。その少女が自分を好きだという。それを好ましく思わない男などいないだろう。そう考えて暦は自分を弁護する。
 しかし、そこに青年期特有の性欲や好奇心があったことを暦は否定できない。「彼女」が欲しい。しかも、叶うならば、人に見せても恥ずかしくないような、自慢できるような、美しい魅力的な容姿の持ち主の「彼女」。当時の自分にそういう欲求があり、またそこには性欲も混じっていたことを暦は自覚していた。
 ひたぎにしても、自分に対する感情は恋愛と呼べるものではなかったのではないか、と暦は思う。当時の彼女は孤立していた。人は人を志向する。母親に棄てられ、父親と距離を置いていた彼女は、新たな保護者を欲していた。ひたぎにとって、自分は親に代わる存在だったのだろう。暦の結論はそこに至る。
 だから、破綻した。
 その日は予想よりも早く来た。
 嫌がるひたぎの身体を弄んでいたとき、暦の心にわき上がるのは嗜虐の喜びだった。
 体験してみれば、性の交歓は期待していたほどの快感はない。飽きが来るのは早かった。しかも、ひたぎは、その行為自体を好まない様子を見せた。反応も薄かった。まだ終わらないの。そんな声が表情から聞こえてくるときもあった。暦にしてみれば、定期的な処理を自分で行うか、ひたぎの身体を利用するかだけの差だけだった。
 その日、暦は珍しく、目の前のひたぎに衝動的な征服欲を感じた。もはや日常と化した口論の後だった。生活を改めない暦に対して、ひたぎが文句を言う。最初は、柔らかかった言葉遣いは次第に激しさを増した。そして、その日、ひたぎは一通りの不平不満を並べた後、暦を目で蔑んだのだった。済ました顔と表情で自分を見下す女がそこにはいた。激しい逆上が胸に湧いた。この女の肉体を思う様、嬲りたい。その衝動は強く、抗いがたいものだった。
 衝動に突き動かされるまま、荒々しく衣服を剥ぎ取り、ひたぎの肢体を貪っているとき、暦は二人の関係が終わったことを知った。きっとひたぎもそう感じていただろう。彼女は何も抵抗を見せず、ただ暦の成すがままに任せていた。行為の後、ごめんと言った暦に彼女は言った。

「別にいいのよ」

 彼女が、あのとき感じていた感情は一体何だったのだろう。暦は今になって想いを巡らせる。諦めだろうか、それとも、悲しみだったのだろうか。ひたぎの表情は、凍り付いた能面のように何も映し出していないものだった。ひたぎの無表情には慣れていた。ひたぎの無表情の中には、喜びも焦りも怒りも嫉妬もある。そのことを暦は体験で学んでいた。しかし、そのときの顔は違っていた。その表情を思い出すとき、暦の胸は痛む。
 あとは惰性の日々だった。喜びや悲しみの共感はそこにはなかった。罵り、傷つけ合うだけなのに、なぜか離れがたかった。なぜなのだろう、と暦は思うが、答えは出ない。今、自分が囚われたひたぎを助けに行く理由も、また判然としない。
 ひたぎが好きだからではなかった。阿良々木暦が戦場ヶ原ひたぎに抱いている感情を恋愛と呼ぶことはもはやできない。あるいは、最初からそのように呼称する感情など自分は持っていなかったのかもしれない。そう暦は思う。
 人が人を好きになる。
 畢竟、暦には、その感情自体が理解を超えるものだった。戦場ヶ原ひたぎは阿良々木暦を好きだという。羽川翼も自分を好きだと言った。千石撫子の気持ちには気がついていたが、あえて気がつかないふりをした。状況をこれ以上ややこしくしたくない。そういう計算が暦の頭の中にはあった。
 ひたぎは、あるとき暦に言った。

「あの日、公園で出会ったのは偶然ってわけじゃないのよ……私は阿良々木君に会いたくて会いたくて、街の中を歩き回ったのよ。感謝しなさい」

 それはまだ付き合い初めて間もない頃のことだ。彼女は嬉しそうに自分の気持ちを告げた。暦は単に首を振って頷いただけ。自分は異性に対して、そのような気持ちを抱いたことがない。目の前の少女に対しても、それは変わらなかった。その事実が胸を刺したのだ。黙る以外の選択肢を暦は持たなかった。
 怪異と化した羽川翼が阿良々木暦を好きだと言ったとき、暦は戦場ヶ原ひたぎを理由に断った。自分が言った言葉が頭の中をこだましていた。

「僕はあの性格も含めて――戦場ヶ原のことが好きなんだ。生まれて初めて人を真剣に好きになったんだよ」

 あのとき言った言葉に嘘はなかった。あのときは、そう思い込んでいたのだ。しかし、振り返ってみて、真実そうだったのかと問われれば、今の暦は自信を持って答えることができない。

「お前、ひょっとして、真剣に人を好きににゃったこととか、ねーんじゃにゃいのか? 今その女と付き合ってることだって、ただ単に押し切られただけじゃにゃいの?」

 猫が言った言葉が頭をよぎった。反芻して、己に問うても答えは出ない。
 ただわかっていることがあった。
 阿良々木暦は戦場ヶ原ひたぎを助けなければならない。自分は彼女に恩もあれば、借りもある。たとえ既に彼女が恋愛対象ではなかったとしても、暦には彼女を見捨てるという選択肢はない。

「阿良々木君は『誰にでも』優しいから」

 そうひたぎが哀しそうに暦に告げたことがある。確かに、そうだった。その事実を暦は首肯する。暦の中で他者の優劣はほぼないに等しかった。
 戦場ヶ原ひたぎ。羽川翼。千石撫子。
 皆、同等に愛おしく、大事な存在というだけに過ぎない。同時に、それは誰も大事ではないということも意味している。自分は、ひょっとして人間として欠陥品ではないか。そんなことを暦はよく考える。そして自嘲するのだった。確かに自分は人間ではないな、と。怪異でもなく、人間でもない自分は一体何なのだろう。
 神原駿河。
 彼女のことを思うとき、暦の胸は痛む。彼女もまた怪異と人間の間を彷徨うものだ。

――僕があいつを巻き込んだ。

 そういう自責の念が頭を去らない。彼女と身体を重ねたとき、感じたのは悦びであり、哀しみだった。同等に不完全で歪つな二人が互いの傷を舐め合っている。そんなふうに感じてしまうのだ。
 暦は思う。
 自分は神原駿河とともに罪を重ねていく。
 その未来像は、現実感をもって、感じられた。無垢にして純真。純粋であるだけに、強く、そして危険な少女。そんな少女に罪を犯させた。それが暦の自己認識だった。
 暦は祈りたかった。しかし、できない。祈りたいと願う心は意志と呼べるほど鋭く胸を刺す。しかし、その意志よりも強い罪の念が心を砕くのだった。


 鈍痛を感じた。
 かろうじて直撃を避けることができたのは、怪異としての本能だった。思考に気を取られていた暦は、その光景で我に返る。

 飛来する十字架に触れた暦の右腕は燃え上がり、蒸発した。



[12843] Lovefool-7【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2010/06/06 20:54
 ●

 戦場ヶ原ひたぎは幼少時のことをあまり覚えていない。
 かすかに記憶に残っているのは、病院特有の匂いだ。薬品と人間の体臭が混じった、あの匂い。年寄りと病人が放つ匂いは、鼻の奥に沁みて、弱った人間の心をさらに弱らせる。弱い人間が塊になって腐りつつある匂いだと彼女は思った。
 病弱だった彼女は、学校をよく休んだ。自室で寝た数と同じだけ、病室で就寝した。
 学校は退屈だった。友人を作ることができなかったからだ。
 ともだち。その言葉は戦場ヶ原ひたぎにとって、不思議な響きを持つ。その言葉は実体を持たない。その言葉が表すものを理解しえない彼女は、おぼろげにその中身を推測することしかできなかった。
 やがて学んだことは、誰もそれを理解していないということだ。言語において、音と意味に本質的なつながりはない。だが、表す実体を持たないとすれば、その言葉が存在する意義は何なのだろうか。たまに学校に足を運んだとき、彼女は、そんなことを考えた。
 父親は仕事でほとんど家にいなかった。母親がそれをどのように考えていたのか、ひたぎにはわからない。彼女にものごとの判断能力が備わる頃には、母親は宗教に傾倒し始めていたからだ。父は、そんな母の様子を見て、さらに家から遠ざかっていった。物理的にも心理的にも父は家にはいない存在だった。
 ひたぎの脳裏に棲みついて離れない母親の姿がある。母親は、いつも額に皺寄せて、瞼を閉じて、一心に祈っていた。祈りの間、母は人を寄せ付けない空気を身に纏っていた。何を祈っているのか、とひたぎは母に聞いたことがある。幸せだと母は答えた。誰の、という問いは飲み込んだ。答えを聞くのが怖かったからだ。
 そして、あの日が来た。
 その日、母はひたぎに風呂に入っておきなさいと告げて家を出た。やがて帰ってきた母は、笑顔で来客を告げた。大事な人なのよ、粗相のないようにね、と彼女はひたぎに言った。
 のどが裂けてもいいと思った。声を振り絞って、ひたぎは母に助けを求めた。
 お母さん、お母さん。
 ナニコレ、ドウイウコト。
 ひたぎが喉から絞り出したものは、人間の言葉というよりは、動物の出す叫びに近いものだった。しかし、その音は明白な意味を一つ持っていた。
 助けて、お母さん。
 男の行為に驚いた様子もないまま、母は無言で微笑を浮かべて言った。

「……これも幸せのためなの。我慢して……ね?」

 そのとき、世界が瓦解する音をひたぎは確かに聞いた。
 そして、彼女は吐いた。
 母は、男は、ただそこにいた。
 いるだけだった。
 母も男も、その意味を失って、ただそこにいるだけの、柔らかくて無秩序な塊になったのだった。
 母が母であることを思い出せなくなった。母と呼ばれているものは、確かにそこにいる。しかし、そのものは、もはや母ではなかった。母という言葉から意味が消え、言葉とともに、その存在に与えられていた全てが消え去って、ただのぶよぶよとした肉の塊がそこに存在していた。そして、その塊はひたぎに恐怖を与えた。
 母とともに、男が、部屋が、そして自分が意味を失った。男が男ではなくなり、部屋が部屋でなくなったのと同様に、戦場ヶ原ひたぎは戦場ヶ原ひたぎという形を失ったのだった。
 言葉によって規定された、無害な意味を欠いた存在。
 それは、きわめて明白に存在していることは確かだが、ただそこにいるだけだ。捏造された仮象を引きはがされて、事物はそこにある。意味という服が溶けて消えたとき、後に残った裸形の事物は、無秩序にして醜悪かつ淫猥なものだった。
 それら全てのものは、ひたぎを不快にした。吐き気はとめどなくこみ上げてきた。
 ひたぎはそこにいた。自身の存在を空中に浮いているように、軽く柔らかく感じた。
 そして、彼女は体重を失ったのだった。

「……にしても、戦場ヶ原、お前、随分色っぽい格好しているよなあ……やっぱ、それ逃げないようにとかそんな理由で、エピソードに脱がされたわけ? 何か、それちょっと僕、悔しいかもしれない」

 なぜ、今になって、自分はそんなことを思い出しているのだろう。ひたぎは自身の心の揺れを説明することができない。

「しかし、あれだな、お前の下着姿なんて、見慣れているはずなのに、こういう状況だと、何だかエロく感じてしまうのは、何でなんだろうな……肌とか、妙に艶っぽいっていうか……やっぱ、あれかね、生存本能って奴かね。何気に、僕、今、生命の危機だしなっ!」

 男が喋っていた。
 声からすれば、男であり、人間のはずだった。
 しかし、それは人間と呼べるのだろうか、とひたぎは思う。手を失ったかと思えば、その手は緩慢な再生をし、足が切れたかと思えば、その足もまた緩やかに生えてくる。それは人間に出来る業ではない。飛来する十字架に、顔、手、足、脇、太股、全身から肉を引きちぎられて、血を垂れ流して、なお男はそこに、ひたぎの前に立っている。
 男は執拗に立ち続けていた。
 飛来する十字架の向きに合わせて、立ち位置を素早く変える。意図は明らかだ。背後にひたぎをかばって、巨大な十字架の方向を肉体の一部を引き替えに少しだけ変えている。
 十字架を投げる男は嘲笑を浮かべながら、十字架を投げ続けている。男が背後のひたぎを捨てないことを知って、わざと致命傷とはならないように、しかし、男の肉体を確実に傷つけるように、何度も投擲を繰り返していた。

「……あー、きっつー……あの野郎、わざとチマチマ苛めて楽しんでやがる。そんなに、吸血鬼苛めて殺すの楽しいのか……真性のサドだな。あいにく、僕はマゾじゃないんだけどなぁ……」

 男の口から切れ切れの息が漏れる。男の顔が苦痛に歪む。肉が裂ける音が響き、血が飛び散る。ひたぎは顔に温かい血しぶきがかかるのを感じた。その血の温かさを愛おしく思った。血の向こうに、男の存在を強く感じた。
 何と言っただろうか。
 男の名前をひたぎは思いだそうとしていた。
 阿良々木暦。
 その名前は天啓のように、彼女の頭にやって来た。

「……阿良々木君……」
「……ん、どうした、戦場ヶ原?」
「どうしてここにいるの?」
「……それはまた随分ツッコミにくいボケだな、戦場ヶ原」
「なぜ、そんなことをしているの?」
「……さぁて、どうしてだろうなっ!!」

 暦は、再び飛来した十字架を右腕に握った鉄の棒で横殴りにして、方向を変えた。十字架はかろうじて方向を変えて、放物線を描きながら運動場に突き刺さる。ただし、代償に、暦の右腕が蒸発して消えた。そして、また緩やかな再生が始まる。

「……それ、学校の運動場の鉄棒じゃないの?」
「……ああ、そうだよ」
「ダメじゃない、そんなことしちゃ」
「この状況で、鉄棒の心配している場合かっ!! 仕方ないだろ、僕、あの十字架、触れないんだからっ!!」
「いえ、別に鉄棒の心配をしているわけではなくて、阿良々木君が社会のルールを守れないことに若干の不安を覚えているだけ」
「僕の身体の心配はしないのかよっ!!」

 暦は笑いながら、また飛来した十字架を鉄棒で殴りつけた。暦の左腕と胸の一部が蒸発して、血が噴き出た。肉をえぐり取られた胸の中に臓腑が見える。

「……阿良々木君の裸は何度も見たけど、内臓を見るのは初めてで、とってもドキドキするわね」
「嫌なドキドキの仕方だなっ!」
「……食べちゃいたいくらい」
「カニバリズムっ!?」

 言葉が意味をもって、ひたぎの頭に染みこんでくる。会話は無意味だったが、暦とのやり取りにひたぎは安らぎを覚える。

「阿良々木君?」
「……何だ、戦場ヶ原?」
「ちょっと呼んでみただけ」
「この状況でっ!?」
「可愛いでしょ?」
「いや、お前、可愛く笑ってみたところで、ちょっと今の状況では、『彼女が彼氏の気を引きたくて、ちょっと名前呼んでみました、ウフ』は、無理があるだろう……」
「……阿良々木暦?」
「だからって、何で呼び捨てになるんだよっ!」
「私は、阿良々木君のフルネームを確認したかったのよ」
「今更!?」

 そう、今更だった。
 しかし、ひたぎはその確認を必要としていた。
 阿良々木暦。
 その名前は、意味を失っていない。
 阿良々木暦は、阿良々木暦としてそこにいた。無秩序な肉の塊などではなかった。
 阿良々木暦は阿良々木暦である。
 実感をもって、そう言い切れることに、ひたぎは我を忘れるほどの喜悦を感じる。暦のおかげで、世界が色と意味を取り戻す。暦が暦としていてくれるおかげで、戦場ヶ原ひたぎは戦場ヶ原ひたぎとしての形を取り戻して、世界に回帰できる。一瞬前まで、意味を失って溶けた肉塊だったものが、個性と本質を世界から奪い返して再び立ち現れるのだった。
 付き合って、喧嘩をして、セックスをして、それでもなおわからなかった男の存在を今、ひたぎは確かめて愛おしむ。

「阿良々木君?」
「……どうした、戦場ヶ原? また呼んでみただけか?」

 いいえ、とひたぎは首を振る。
 そして、告げた。

「I love you」



[12843] Lovefool-8【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2010/06/08 22:16
 ●

So I cry, and I pray and I beg
(だから、私は泣いて、祈って、そしてお願いするの)
Love me love me
(私を愛して)
say that you love me
(私が好きだと言って)
fool me fool me
(私のことを騙して)
go on and fool me
(騙し続けて)
love me love me
(そして私を愛して)
pretend that you love me
(私が好きだってふりをして)
lead me lead me
(私を引っ張って)
just say that you need me
(一言私が必要だって言って)

So I cried, and I begged for you to
(だから私は、泣いて、そしてあなたにお願いしたの)
Love me love me
(私を愛してって)
say that you love me
(私が好きだって言ってって)
lead me lead me
(私を引っ張ってねって)
just say that you need me
(一言私が必要だって言ってねって)
I can't care about anything but you
(あなたのことしか、私、考えられないの)

――the Cardigans, "Lovefool"

 ●

「……えっと、ガハラさん、今なんて?」

 思わず間抜けな声が出た。

「I love you」
「はぁ……」
「何よ、気の抜けた反応ね。もっと、畏れおののいて、喜びのあまり、腰が抜けたり踊りだしてもいいんじゃないのかしら。この私が阿良々木君のこと、大好きなのよ……そう、阿良々木君が死んじゃってもいいくらい、大好き」
「そこは普通、自分が死んでもいいくらいだろっ!! 勝手に僕を殺すなっ!!……大体、なんで、このタイミングで告白なんだよ」
「したかったから。言いたかったから、私が阿良々木君に首ったけだってことを……阿良々木君の意志とは関係なく、阿良々木君の足の先から爪先まで私のもの」
「少しは僕の意志も考えてくれ……あと、今、手足の一部が欠けていたりするけどな」
「だって、どうせ生えるんでしょ? 本当に便利な身体よね……ひょっとしてプラナリアみたいに、真ん中で切ると、阿良々木君が二人できるのかしら。そしたら、神原と二人で仲良く分けられるわね……」
「真剣に考えこむなっ! お前、何、うっとりしてるんだよっ!! ならないっ……真ん中で切られたら、僕だって死ぬわ……大体、再生はするけど、結構痛いんだぞ、これ」
「そんなに痛いの?」
「ああ」
「……イタイノイタイノトンデケー」
「棒読みすぎるだろっ!!」

 ひどく現実感に欠けたやり取りだった。
 命のやり取りの最中に痴話喧嘩をしている自分がおかしくて、暦は笑った。

「……僕、何気に今、お前のために命をかけていたりするんだけどな」
「ええ、知ってるわ。頑張ってね、阿良々木君、私のために命をかけてちょうだい」
「……お前は女王様か」
「阿良々木君は、私が危ないとき、私を助けに来てくれる王子様……あら、また来たわよ。ほら王子様、頑張って」
「……羽毛のように軽い存在の王子様だな」

 十字架が風を斬って迫っていた。
 空気を切り裂く音がする。
 暦は、十字架の軌道を慎重に見定める。吸血鬼化した暦でも、目視するのに苦労するスピードだった。エピソードは、決して手加減をしていない。あえて急いで殺そうとしていないだけで、十字架に込められた殺意は明白だった。エピソードにしてみれば、おそらく暦がいつ死んでも構わないのだろう。暦が対処を間違えば、十字架は直撃し、暦の全身は蒸発して弾け飛ぶ。その恐怖に身が震える。

(……こういうのは僕の柄じゃないっての)

 震える手足を抑えながら、暦は渾身の力を込めて、鉄棒を振り上げて、十字架を叩いた。
 鈍い音が学校の運動場に響いた。
 同時に身体に激痛が走った。エピソードの放る十字架は重く、そして速い。暦が、どれだけ力を込めて殴りつけたところで、できるのは、かろうじて軌道をそらすことだけだ。完全に避けることはできず、身体の一部が十字架に触れて蒸発するのだった。
 十字架は放物線を描きながら、グラウンドに突き刺さった。すぐに、その場にエピソードが現れる。そして、笑いながら、また十字架を取り上げた。

「超ウケル。随分、頑張るね、頑張っちゃうね……何、やっぱ彼女の前だと頑張っちゃうってか?」

 嬉しそうな声だった。

「そうよ、私のためなら、阿良々木君はすごくすごく頑張っちゃうのよ」

 こちらも嬉しそうな声だった。

「なんかお前に言われると、すごく釈然としないものを感じるな……」
「……何よ、神原と浮気した癖に」
「すいませんっ!」
「……ねえ、阿良々木君、そういえば、私と神原、どっちが良かった?」
「……えっと、戦場ヶ原、なぁ、それって今答えなくちゃいけないことか?」
「ええ、とてもとても大事なことよ」

 ひたぎはまっすぐに暦の目を見つめた。
 暦は、ひたぎの視線にたじろぐ。ひたぎの身体が目に入った。上も下も下着のみの扇情的な姿だ。縄で後ろ手に縛られている。縄で強調された胸と夜目にも白く光る肌が目についた。引き締まった腰と腹部、そして太股へと視線を下げる。その下着の下にある身体の柔らかさと温かさを暦は知っている。
 ふと、神原の顔が頭をよぎった。恥じらいながら、眉間に皺を寄せて懸命に暦を受け入れ、そして暦を喜ばせようとしていた彼女の表情と身体を思い浮かべて、暦は頬をゆるめた。

(ガハラさん、基本的にマグロだからなあ……)

「阿良々木君、黙ってると殺すわよ」
「もちろん、戦場ヶ原さんですっ!!」
「そう……阿良々木君が黙っているものだから、ひょっとして、私と神原のことを比べて、私のことをマグロだなあなんて思ってたりしたのかな、なんて妙なことを考えてしまったじゃないの」

(自分でマグロって、わかってるんだ……)

「でもね、行為の最中、かたくなに無表情と無反応を貫き通す私だけれども、別に阿良々木君とするのが嫌なわけじゃないのよ」
「説得力ないな、それ……」
「単に阿良々木君の愛撫が筆舌に尽くしがたいほど自分勝手で下手クソだっただけ……でも、しょうがないわね、童貞だったんだから」
「……お前、本当に僕のこと好きなのか?」
「ええ、大好きよ。愛しているわ」

 ひたぎはまっすぐに暦を見て、言い切った。

「たとえ、阿良々木君が私の大事な後輩である神原と浮気をした最悪の二股野郎でも、ところかまわず人の迷惑構わず煙草の匂いをまき散らかす公害みたいな男でも、学業をさぼりすぎて、就職どころか卒業も怪しくなっているクズみたいなダメ男でも、童貞だったことを差し引いてもひどいくらい、思いやりと技術のないセックスをする男でも、私が嫌がっているのを知りながら、それでもあえて私を犯すような最悪の嗜虐性癖の持ち主だとしても……私は阿良々木君のことが好きよ。だって、阿良々木君は阿良々木君で、私は私だから」
「……なんだか泣きたくなってきたけど、ありがとう、戦場ヶ原。とりあえず、嬉しい」
「どういたしまして。あら、また来たわよ」

 飛来した十字架を暦は完全に捉えることができなかった。次第に十字架の速度が増していた。鉄棒でかろうじて触れただけの十字架は、わずかに上に軌道をそらし、そのまま暦の左胸と左腕を削っていった。

「戦場ヶ原、しかし、留守電に入れたと思うんだけど、僕は神原と付き合うことにし……」

 ひたぎが暦を睨んだ。鋭い眼光に暦はたじろぐ。縛られて身動きもできないひたぎを前に、飛来する十字架よりも鋭く肌を刺すような危機を感じた。

「そんなのは関係ないわ。たとえ、阿良々木君が神原と付き合うなんて血迷ったことを言っても、阿良々木君が私のものという事実は未来永劫変わらないわ。私がそう決めたんだから……神原に取られるくらいなら、この場で阿良々木君を殺して、私も死ぬわ」
「……おっかない女だな、お前は」
「何よ、そんなことくらい、最初からわかってたはずじゃない、阿良々木君。私は、親に捨てられて、愛情に飢えたメンヘル処女だったところをあなたに救われたのよ。実の母に見捨てられて、男に乱暴されかけて、絶望していたときに、あなたが颯爽と王子様みたいに現れて、助けなんていらないって言った私を遠慮も何もなく救いだして……また今も、そんなにバカみたいにアホみたいに傷ついてボロボロになって私を守って私を助けようとしてる……ねえ、阿良々木君、あのときに私を助けてしまったのが、今こうして私を助けているのが、阿良々木君の運のつきね。潔く諦めなさい」
「……まったくだ。僕の自業自得だ」
「大体、私の処女は安くないのよ。処女を捧げたからには、阿良々木君が死ぬまで、阿良々木君を殺すまで、私は阿良々木君に執着するわよ。覚悟しなさい」
「いや、その……ガハラさん?」
「だから……私のこと……」

 ひたぎは言いかけて、下を向いて黙った。
 不審に思い、暦は視線を下げる。
 声を出さないまま、ひたぎの口が小さく動いた。
 愛して。お願い。

「……えっ?」

 ひたぎの口の動きに注意を向けていた暦は飛んできた十字架に反応しきれなかった。一瞬の不注意。力任せに殴りつけたが、十字架の威力に押されて、肘から先、右腕が弾け飛んだ。

(あ、やべ……)

 鉄棒が十字架とともに視界の向こうに飛んでいくのが見えた。左腕がまだ再生されていないので、鉄棒を握る術がない。

「……まあ、ボチボチ俺も飽きてきたし、これは預かることにするわ」

 エピソードが言った。十字架の突き刺さったすぐ先に鉄棒が転がっている。そこに現れたエピソードは、無造作に鉄棒を運動場の遠くへ放り投げた。

「それじゃ……これで終わりだ。わかってると思うけど、避けたら、女に当たるから」

 じゃあな、と言って。
 エピソードが十字架を投げた。



[12843] Lovefool-9【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2010/06/10 18:51
 ●

 ひたぎは、それを目の前で見た。
 エピソードが投擲した十字架はまっすぐに暦に向かっていた。それは純粋な殺意の顕現だ。軌道は直線的、まっすぐに暦の死を志向している。しかし、十字架の軌道にいた暦は何一つ動きを見せなかった。暦は十字架に触ることができない。十字架に直撃すれば、全身が蒸発する。いかに不死身の身体とはいえ、死ぬ可能性が高い。

「阿良々木君っ!!」

 暦は動かなかった。

「畜生、結局、来なかったなあ、あの野郎……戦場ヶ原、ちゃんと逃げろよ」

 背中越しにそんな声が聞こえた。
 次に聞こえたのは、妙な効果音だった。人間の言葉で形容することのできない音。暦の身体が崩れる音だった。そして、十字架の土に突き刺さる音が続いた。
 ひたぎは目を見開いて、それを見た。十字架が暦の半身を砕いて、眼前の土に突き刺さるまで、息一つできなかった。高熱の炎に触れた水のように、暦の身体は瞬時に溶けた。蒸気と化して、消えた。ひたぎは、一時も目を閉じずに、暦という存在が砕ける様を見続けた。自分にはそれを見る義務があると思ったのだ。
 その様をひたぎは美しいと感じた。心に突き刺さる美しさだった。蝶が人の手によって羽をもがれるようだった。
 そして暦は倒れた。
 それは、もはや人間と呼ぶに躊躇いを覚える姿だ。十字架は、まっすぐに暦の胸を抜けた。かろうじて残っているのは、頭部と四肢の一部。

「阿良々木君ッ!!」

 ひたぎは駆け寄りたかった。そして暦を抱きしめて言いたかった。バカね、本当にバカね、と。暦をかき抱いて、そのぬくもりを胸に感じたかった。もがいても抜けることもゆるめることもできない手足の縛をひたぎは呪った。
 暦が言った。
 低い声だった。それは耳から入って、ひたぎの心を溶かす。

「……うお、まだ生きてるよ、僕」
「……そうね、生きてるのね、阿良々木君」
「すげえな、僕。我ながら、万国びっくりショーみたいな身体だなあ」
「そうね、びっくりね」
「……つか、痛ぇ……」
「痛いの痛いの飛んでけー」
「……おお、痛くなくなったぞ、戦場ヶ原。すごいな、お前」
「ええ、私はすごいのよあ、阿良々木君……」

 ともすれば、俯きたくなる自分をひたぎは叱咤した。見なければならない。自分には見届ける義務がある。自分のために半身を無くした男がそこにいた。男は、きっと死ぬ。そして、それは自分のせいだった。ならば、その痛みも苦しみもこの目で確かめなければならない。
 瞼を閉じて、現実から逃げたかった。目の前にある光景を認識したくない。目を背けてしまいたかった。
 だが、ひたぎは暦を見続ける。それしかできることがないからだ。にじみ出る涙に視界が歪む。喉の奥に石がつまって息苦しさを覚える。胸の奥からこみ上げてくるのは、一つにまとまらない感情の奔流だった。嬉しさ、悲しさ、悔しさ、憤り。全てを込めて、ひたぎは男の名を呼んだ。

「阿良々木君」
「……ん、なんだ、戦場ヶ原」
「ちょっと呼んでみただけ」
「……そっか」
「かわいいでしょ? 阿良々木君たら、私みたいな、かわいい彼女がいるのに、浮気するなんて万死に値するわ」
「……実際に死にかかってるけどな」
「ねえ、阿良々木君?」
「……ん?」
「でもね、それでもね、私は……」
「……」
「阿良々木君のこと、愛している……だから、やっぱり死んだらダメよ。あの世まで恨むんだから。頑張りなさい」
「……ゴメン、戦場ヶ原」

 なぜ謝るのだろう。ひたぎは、暦の顔をこの目で見たかった。目をこらしても、辺りは薄暗く、暦の表情はわからない。全身で暦の気配を探る。わかったのは、息が細く弱くなっていることだった。

「……超ウケル。まだ生きてやがる。やっぱしぶといねえ、吸血鬼」
「……お前、ちゃんと戦場ヶ原には当たらないように投げてくれたんだな」
「こっちにも事情があってな。一応、可能な限り、一般人を巻き込むな、殺すなって上から言われてんだよ。まあ、怪異を退治するのに、必要な場合は別にって感じなんだけどな……お前が逃げたり避けたりしたら、そこの女は死んでたよ」
「……一応、礼を言っておくよ」
「おいおい、俺はお前の胸に穴空けて、これからお前をすり潰して殺す相手だぜ? 超ウケル」
「勝手に笑ってろ……いいんだよ、別にそんなことはどうでも。大事なのは、そこに戦場ヶ原がいて、戦場ヶ原が生きてるってことだ。だから、僕はお前に礼を言うよ、戦場ヶ原を殺さないでくれて、ありがとうってな」

 エピソードの顔が歪んだように、ひたぎには見えた。不快そうに、眉間に皺を寄せている。何言ってやがる、このバカ。小さい声がひたぎの耳に届いた。
 エピソードは、急ぐ様子もなく、暦の横を通り、ひたぎに近づいてきた。ひたぎの目の前に十字架がある。土に刺さったそれを無造作に引き抜く。
 一瞬、エピソードがひたぎを見た。関心のなくなった道具を見る目だった。

「お願いです。阿良々木君を殺さないで下さい」

 ひたぎは言った。今の自分は身動きができない。手も足も何一つ動かすことのできない今、使えるものは言葉だけ。だから、ひたぎは希望を言葉に乗せて発した。ありのままの気持ちを言葉に変換して伝え、祈り、そして請い願う。自分の頼った手段の頼りなさに気が遠くなりそうだった。それでも喋らずにはいられない。
 エピソードの表情はわからなかった。地に額をこすりつけて、ひたぎは頼んでいた。奥歯を噛みしめて、苦い唾液を嚥下する。目を閉じて、一心に暦のことを思った。

「私にできることなら何でもします。この身体を弄んでくれてもいい。あなたのしたいことをしてくれていい。あなたのして欲しいことをします……だから……お願いです」

 ひたぎは喋った。言葉は自然と口から漏れ出た。ひたぎは、ただの一秒でも一瞬でも暦の死を遅らせたかった。阿良々木暦が死ぬ。その恐怖にひたぎの心は支配されている。失いたくない。そう強く願う。この期に及んで、なお欲深い自分にひたぎは驚く。暦は、ひたぎのために無私の献身を見せた。しかし、ひたぎの望みは、暦を軸にしていない。あくまでも望みの中心にいるのは、自分だった。ひたぎは、自分のために暦に生きていて欲しいのだった。暦とともに生きていたい。もう一度触れあい、互いの存在を確かめたい。それがひたぎの心にある願いであり、欲望だった。

「……私の阿良々木君を殺さないで」

 無言の間が続いた。
 ひたぎが聞いたのは、遠ざかる足音だった。恐怖に全身が竦む。血が逆流し、全身の筋肉から力が抜けた。全身が冷気に包まれたように感じた。足音は、一歩一歩遠ざかっていく。それが耳に届く度に、身体が刃に貫かれるような心地がした。

「……お願い」

 ひたぎはうつむいたまま、喉の奥から声を振り絞り、呼びかける。声が震えるのを抑えられない。
 答えはなかった。
 全身が大きく震えた。ひたぎは唇を噛んで、崩れ落ちそうになる自分を支えた。腹の奥に溶けた鉛を流しこまれたような重さを、背筋に冷たさが走るのを感じた。
 それは絶望の重さと冷たさだった。
 目を上げると、男の背中が見えた。男は、暦の間近に既にいた。押し潰されてバラバラになりそうな心を必死でかき集めながら、ひたぎは祈る。何に祈っているのか、自分でも判然としない。現状を変えてくれる何かを慕って、呟きを祈りに変える。
 
「……お願いだから……お願いだから……」



 突如、轟音が響いた。
 隕石の落下音のような轟音だった。巨大な質量と運動量をもった何かがグラウンドに落ちたのだった。
 その落下と同時に、砂と土があたり一面に舞い上がった。空中に舞う砂が視界を覆っている。
 土煙の中に何かがいた。目を凝らしても、よくわからない。
 暦の声がした。

「……ったく、遅えんだよ、忍」



[12843] Lovefool-10【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2010/06/14 17:12
 ●


「なっ……」

 忍の動きは速かった。エピソードに十字架を構える時間を与えなかった。
 即座にエピソードとの間を詰めると、駆けながら、右の拳を固めて鳩尾に叩き込んだ。
 衝撃にエピソードの顔が歪む。手から十字架が落ちて重い音を立てた。
 そのまま忍は左膝で蹴りを続けざまにエピソードの腹に叩き込む。左手で身体を乱暴に突き飛ばすと、頭の右のこめかみの辺りを狙って、拳を繰り出した。エピソードは、咄嗟に腕でかばうが、もはや手遅れだった。腕を弾き飛ばして忍の拳はこめかみに突き刺さった。

「……ッ!!」

 頭蓋を貫く衝撃にエピソードの頭部が揺れた。忍は、間を置かず、そのまま別の拳で顎を下から打ち抜く。さらに、身体を翻らせて回転した。淀みない流れのようだった。躍動感、そして幾何学的な対称美がそこには感じられた。張り詰めた筋肉が踊り、傾いだ身体から繰り出された右脚は弧を描きながら宙を切った。直撃だった。口から血を吐きながら、エピソードの身体が飛んだ。
 鈍い音とともに、身体が地についた。
 瞬間、その身体が霧と化して消える。
十字架の側に現れ、間を置かずにすぐに投げた。

「忍っ!」
「たわけが……」

 忍は鼻で笑った。若干身体を傾けただけ。十字架は忍の右胸と右腕を蒸発させたが、すぐにまた元通りの身体が現れる。

「……なっ!」
「今の儂を舐めるなよ。前にお主とやったときよりも、全然調子は上じゃ」

 忍は、距離を一気に詰めた。エピソードが繰り出した右の拳を忍は手で捌き、懐に飛び込むと、左の拳を相手の腹へ叩き込む。
 エピソードの口から血が迸った。
 忍が腹を蹴り上げると、エピソードの身体から力が抜けた。仰向けに転がり、顔を横に向けて、エピソードは吐いた。胃からこみ上げてくるものをそのまま抗う気力もなく、ぶちまけたようだった。かすれたうめき声を上げながら、胸を激しく上下させて息を荒げている。定まらない呼吸を必死に落ち着けようとしている。
 吐瀉物には、胃液と食物の残骸が混じっていた。血を滲ませた汚物だった。朦朧とした目つきでエピソードはそれを見つめる。歯を下唇につきたてていた。

「儂の回復力をそこらへんの有象無象の吸血鬼と一緒にするからじゃ……お前の十字架は、回復力がしょぼければ、吸血鬼にもそれなりに有効な手段じゃろうが、今の儂にしてみれば、なんじゃ、それってなもんじゃな」

 忍は、ゆっくりとエピソードの全身を視線で舐め回す。鷹を思わせる鋭い視線だった。表情は狩りの前の肉食獣を思わせた。
 乱れた前髪を退屈そうに払って整えると、小さく笑った。
 エピソードは、忍の視線を真っ向から受け止めると、頬を僅かに歪めた。

「ほら、お主、まだ戦えるのじゃろう……儂の渾身の打撃を受けたとはいえ、ヴァンパイア・ハーフの身体はそんなに柔でもあるまい。儂をあまり退屈させるな。せいぜい足掻け……それが弱いものの強いものに対する礼儀というものじゃ」

 エピソードは、頬を歪めたまま、立ち上がり、忍に右の拳を繰り出した。忍は、それを左手で外へ流すと、滑るように身体を懐に入れ、握りしめた右の拳を腹部へ突き入れた。
 エピソードは身体をよろめかせながら、膝で忍の顎を蹴り上げた。

「その調子じゃっ!」

 エピソードはさらに拳で忍の頭部を狙う。頭蓋上部、右のこめかみに直撃したが、忍は顔を愉快そうに歪めただけだった。
 
「ふんっ!」

 気合いを入れる声とともに、忍が右の手刀を繰り出す。胸を狙っていた。
 形容しがたい肉を貫く音がした。右手はエピソードの胸を貫いて心臓を握っている。
 苦悶の表情を浮かべながら、

「……ガ……ぐ……」

 声にならない呻きを口から漏らしている。
 忍が無造作に手を引き抜くと、支えを失って、エピソードは倒れた。瞳から光が消えつつあった。意識が朦朧としているのか、焦点が定まっていない。血を吐いて横たわった。流れ出た血溜まりに頭が浸かった。
 荒い呼吸音が響いた。必死で空気を求めている。
 激しく喀血する。胸からは止めどなく血が流れ出た。

「まあ、よく頑張った方だとは思うが、そんなものじゃろうなあ……ちょっとつまらなかったの」
「畜生、段違いじゃねえか……」
「だからさっきも言ったじゃろう、前にお主とやったときよりも調子は全然いいのじゃよ……大体あのときは儂も気づかん不調の原因があったしの」
「……なんだよ、ハートアンダーブレードを追い詰めたのも、俺たちの勘違いだったてのか」
「いや、別に勘違いではないぞ。確かに儂はあのときお主らに殺されかけた。そこにいるお人好しがいなければ、死んでおったじゃろうよ」

 忍が暦を見た。
 目の前に心臓を突き出す。
 目で聞いていた。どうするのじゃ、と。
 暦は黙って首を振った。

「……そうか、わかった、それがお前様の望みならそうしよう」

 忍が心臓を握りつぶすと、ぐしゃと小さい音が立った。



[12843] Lovefool-11【化物語SS】
Name: shizu◆c84b06a2 ID:ec097600
Date: 2010/06/15 19:22
 ●

「うふ……うふふふふふ」

 帰り道の間、吸血鬼はずっと浮かれていた。頬をゆるめて、満面に喜色を浮かべながら、にこやかに笑っている。

「これは貸しじゃのう、お前様」
「……忍」
「儂は何せお前様の命の恩人とやらになったぞ……お前様の大ピンチに現れて、お前様が歯も立たなかった相手を一瞬で片付けてしまうとは、我が事ながら、儂はかっこいいのう、素晴らしいのう、強いのう……さあて、何をしてもらおうかのう」

 そう言うと、先を歩いていた忍は足を止めた。振り返って、暦に向き直る。
 今の忍は、背も高い。暦は、忍を見上げる形になった。忍の勝ち誇った顔から目をそらすと、豊かな胸が目に入った。

「でも、僕が死ぬと、お前も死ぬわけで……なんていうか、自分で自分の命を救っただけっていうかさ」
「何と、そのようなことを言って、儂のした行いの凄さを損ないおうとは……男らしくないのう。かっこわるいのう」
「うるせえっ! いや、お前、大体、『ちょっと儂は寄るところがあるから先に行っててくれ、何、大した用事ではない、すぐに追いつく』とか言っておいて、どこにいやがった! 僕は、本気でこの世にお別れを告げるかもしれない恐怖の中で、ああ、ろくな人生じゃなかったななんて、思わず走馬燈が頭の中を駆け巡ってたんだぞっ!!」
「……夜の散歩じゃ」
「何でこのタイミングで散歩なんだよっ! おかしいだろ!……あ」

 暦の頭に閃いたものがあった。忍が最近好んで読んでいたものがある。ふむ、なかなか面白いものじゃのうなどと言って、部屋で寝そべりながら、ドーナツを貪りつつ、吸血鬼は現代日本のサブカルチャーに親しんでいた。最近のお気に入りは、ベタベタの少年漫画だ。ピンチになると、強い味方が助けに現れる。
 暦は忍の顔を見た。相変わらず、顔の表情はどこかゆるんでいる。

「な、なんじゃ……」
「……忍、お前、もしかして」

 暦が睨むと、忍は目をそらした。悪戯をした子供の表情だった。

「お前、まさかとは思うが……」

 暦の声が低くなる。声に若干の恨めしさがあった。粘りつくような視線を忍に向ける。

「ち、違うぞ、お前様」
「……口の端にドーナツがついているぞ」
「……ッ!」

 忍は慌てて口の端を手で拭いた。

「いや違う、違うぞ、お前様、そんなことを儂がするはずがないではないか」

 目に見えて、忍は慌てた。態度で自白をしているようなものだった。暦の視線がさらに絡みつくような、恨みがましいものに変わった。

「いやいや、まさかまさか、そんなそんな……儂が実は遠くからドーナツ食べながら、最初から最後まで、一部始終を見ていて、お前様が不意打ちを食らって慌てているところを見て爆笑したり、小娘をかばっている姿を見て、ちょっと羨ましいかもとか思ったり、挙げ句の果てには、よし計画通り、お前様が最大のピンチになったところで、格好良く登場して、格好良く助けだして、恩を売ってやろう……大体お前様はいつもいつも儂のことを軽く見てガキ扱いしおって、その癖、都合のいいときには利用するだけしおって、何気に腹が立つ、それにそれに他の女には随分気を使う癖に儂にはちっとも気を払わん、少しは儂のことも一人前のれでぃとして重んじるべきじゃ……よし、ここは普段の腹いせに少し困らせてやろう、何死ぬわけじゃなし、これくらいの仕打ち許されるじゃろうなんて……善良な儂がお前様に対してそのような悪巧みをするはずがないではないか!」
「……長々しい自白をありがとう、忍。しばらくドーナツ抜きな。あと、今後一切少年漫画読むの禁止で」
「ええっ、そんな……お前様、それはあまりに殺生というものじゃ……このままでは、死んだ花京院が報われないではないか」
「第三部って、中途半端だなっ!! それに、お前は、どちらかっていうと、DIOに感情移入すべきだろ……承太朗がDIO倒して終了だから」
「なにっ! それは聞き捨てならん……どうやって倒すのじゃ?」
「……努力と根性だよ。ジャンプだからな」

 たわいもない会話をして家路を辿る。暦の口から溜息が漏れた。家も間近だった。視界の端に映る我が家に安心を覚えた。全身が鉛のように重く感じられる。
 重いのは身体だけではなかった。心にのしかかる問いがある。
 これまで暦は胸に何度も聞いた。「これ」は正しいのか、と。答えはいつも同じだ。わからないのだ。暦は、その時々、最善と思われる行動を取ったつもりだった。だが、なお事態は悪化した。
 一人の少女の姿が脳裏をよぎる。

(僕はあいつまで……あいつくらいは……)

 ひたぎは家に送り届けた。
 別れ際、じゃあね、また明日と彼女は言った。暦は返す言葉を持たなかった。苦笑いでその場をごまかす暦にひたぎは微笑んだ。ずるいわね、阿良々木君と言って、彼女は口を寄せてきたのだった。
 暦は驚いて目を見開いたが、抵抗はしなかった。目を閉じて何かを訴えかけるような表情をひたぎはしていた。絡まった舌が湿った音を立てた。やがて唇を離すと、ひたぎは黙ってきびすを返し、家に入った。
 振り返ると、忍が胸の前で腕を組んで、しかめ面をして立っていた。
 暦は、唇に指をあてて、ひたぎの感触を思い出す。

「なんじゃ、お前様、バカ面をして……大方、あの小娘との口づけでも思い出しておるのじゃろうが……昨日は昨日で別の女の匂いをまき散らせながら帰ってきおったし……ほんに鬼畜じゃとは思っていたが、お前様はきっとろくな死に方をせんな」
「……それにはうちも同感やな。おどれはろくな死に方をせんよ。だから言ったやんけ、おどれがどんな価値観持とうと、どんな正義感持とうと勝手やけれど、そんな理想を他人に押しつけんなや……この事態を招いたのは、間違いなくおどれ本人やで」

 聞いたことのある声だった。
 視界の向こう、自宅の門の前に人影が一つある。

「久しぶりやのう、鬼畜なお兄やん」

 影縫余弦が門扉の上に立っていた。

 ●

 ひたぎは家に帰り着くと、シャワーを浴びた。
 温かい湯が肌を流れていく。時折、その温かさが身に沁みることがあった。身体を洗うときに、肌に残る縄の跡に気がついた。くっきりとした痣になっている。ひたぎは、その一つ一つを指で撫でて確かめた。
 唇には、暦の感触が残っている。衝動的にした行為だった。考える前に、身体が動いていた。
 また明日と言ったとき、暦が困った顔をしたのだ。胸に浮かんだのは、逆上であり、同時に目の前の男に対する愛おしさだ。
 別れたときの顔を思い出す。泣きそうな顔をしていた。悪いな、戦場ヶ原、お前まで巻き込んじまって。耳元で、そんなことを小声で呟いていた。
 暦は何も語らなかった。
 街に出ているという吸血鬼のこと。
 羽川翼のこと。
 そして、神原駿河のこと。
 聞きたいことは、いくらでもあった。しかし、聞くことによって、明らかにするのが怖かった。暦は自ら語り出しはしなかった。ひたぎは、それに甘えたのだった。
 湯船に身を浸けて沈めた。温かいお湯に全身を包まれて、身体とともに、心がほぐれていくのがわかった。ようやく冷静さを取り戻したひたぎの脳裏に、一つの疑問が閃いた。
 なぜ暦はエピソードを殺したのだろう。
 あれは、ひたぎの知る阿良々木暦ではなかった。忍は判断を暦に委ねていた。心臓を取り出した時点で死んだも同然の身だったが、最終的に死の宣告を下したのは暦だった。そして、暦は、迷いなくエピソードの死を決めた。
 自分が生きたいからなのだろうか。
 暦を待つまでの間に、エピソードは、退屈しのぎのためか、ひたぎに一方的に話した。街に出る吸血鬼の始末に来たのだと男は言っていた。さらに、既に一人、吸血鬼ハンターが始末されていると付け足した。ならば、エピソードを殺さなければ、吸血鬼である暦は死ぬ。だから殺した。そういう立論は可能だ。
 だが、ひたぎはそれを首肯する気持ちになれなかった。どうしても腑に落ちないのだ。暦は今日ひたぎのために命を捨てた。あれはひたぎの知る阿良々木暦だ。自分の生を肯定できずに、他人の生を無条件に肯定するろくでなし。ダメ人間であるがゆえの、無条件のお人好し。暦が自分の命に執着しているという想定は、理屈が合わない。暦ならば、自分の命を狙う敵の命を自分よりも優先するだろう。
 湯船から出て、タオルで身体を拭く。水玉が汗とともに身体から垂れ落ちて、床を濡らした。ひたぎは丹念に身体のあちこちを拭いた。
 あるいは、自分のためなのだろうか。自分が再び人質とならないように、暦はあの男を殺したのだろうか。この理由は、一応納得できるものだった。
 だが、それでもひたぎには疑問が残る。
 確かに、暦は、あのとき躊躇いはしなかった。しかし、その表情にあったのは、苦悶と哀しみだ。目を細めて、頬を歪めて、暦は首を振った。他に道がないことを知っている顔つきだった。
 そもそも、無差別に暦が人を傷つけることは考えにくかった。学食で翼に言った言葉は冗談に近い。暦は人を傷つける前に、自傷なり自殺をする類の人間だ。好きこのんで、人を襲い、吸血行為を楽しむなどということがあるだろうか。
 憂さ晴らしという単語がひたぎの脳裏に閃いた。そして、すぐに否定する。確かに、最近の暦が学業も就職活動も上手くいっていなかったのは事実だ。どういうきっかけがあったのか、数ヶ月前からは学校の授業にも顔を出さなくなった。しかし、もし暦が人を傷つけることで憂さが晴れるような人間ならば、ひたぎの苦労は格段に減ったことだろう。人を助けることでしか、自分の価値を確認できない暦だからこそ、ひたぎは施す術を持たなかったのだ。
 付き合う中でひたぎが繰り返し暦に説いたのは、自分を愛することだった。ひたぎは、暦に自分の好きな男を好きになって欲しかった。暦に暦を認めさせたかった。しかし、いかに力を尽くして言い聞かせても、達成することができなかった。暦の中で、阿良々木暦という存在の価値はゼロに等しい。それが悔しくて哀しくて口惜しくて苛立たしくてたまらず、ひたぎは時折癇癪を起こした。そういうとき、暦は決まって、ひたぎの感情の暴発の原因がわからず、困り果てた表情を作り、苦笑しながら時が過ぎるのを待っていた。
 大体、あの羽川翼を阿良々木暦が傷つけるだろうか。病室で今も眠る友人の首もとにあった傷をひたぎは思い返す。間違うことのできない牙の跡は、生々しい略奪を思わせた。翼を昏倒させ、入院させたのは、明らかに第三者の悪意だ。暦が翼に悪意を抱く。その想定をひたぎは受け入れることができない。
 理由。
 畢竟、ひたぎの疑念は一つに収束する。
 暦が街で他人の血を吸い、始末屋を殺し、翼を傷つけるような理由。
 浴室から出て自室に向かう。
 自室の光景と空気を懐かしく感じた。ほんの一日空けただけなのに、数年ぶりに我が家に帰ったような心地がする。
 机の上に放り出したままの携帯の電話の電源を入れると、数件のメッセージが入っていた。

「……え?」

 いずれも、同一の番号からのものだった。
 その番号は懐かしい。
 だが、その懐かしさは遠く、懐古の念より当惑が強い。
 ひたぎは、リダイヤルのボタンを押した。



[12843] Lovefool-12【化物語SS】
Name: shizu◆92b8a26e ID:4c6244f4
Date: 2010/11/07 01:56
 ●

 暦に別れを告げてから、神原駿河は一度だけ男と付き合ったことがある。
 寂しくなかったといえば嘘になる。
 自分で決意をして、暦に別れを告げた。だが、失ってみて、駿河は暦をいっそういとおしく思ったのだった。

「阿良々木先輩、私たちはもう会わないほうがいいと思うのだ」

 確かに、そう思った。
 暦への思いは、きっと自分を溶かしてしまう。その確信に変わりはなかった。
 しかし、卒業式が終わって、三年生になったとき、駿河は愕然とした。
 学校のどこを探しても暦がいない。そんな当たり前の事実を確認して、全身が震えた。

「ああ、さよなら、神原」

 暦の最後の言葉を駿河は何度も頭の中で繰り返し再生した。駿河の視線をまっすぐに受け止めて、寂しげに睫毛を伏せながら、暦は別れを告げた。彼女は、その意味をゆっくりと頭と心に浸透させた。

――そうか、私はもう阿良々木先輩に会えないのか。

 自分で言い出しておきながら、その意味を本当にはわかってはいなかった。そんな自分がおかしくて、四月の最初の登校日、駿河は声を出して笑った。
 毎朝、登校するとき、駿河の目は暦を探して動いた。昼休み、購買に連なる廊下を歩きながら、駿河が探すのは暦の後ろ姿だった。放課後になると、無駄とわかりながらも、屋上から手当たり次第に歩き回らずにはいられなかった。
 そうして、駿河は数週間を過ごした。やがて、ついに別れを理解した。
 それは明確な痛みを伴なう認識だった。
 いなくなって、暦はなお駿河の心を惑わせた。その度合いは、会っていたときよりも激しいものだった。壊れた機械のように、駿河の心は暦の声と表情を繰り返し繰り返し再生するのだった。
 目を開けたくない。それが当時の駿河の痛切な願いだった。
 目を閉じれば、暦の顔と声を思い浮かべることができる。そして、その存在は少なくとも駿河にとっては肌で感じられるのだ。
 瞼を開けたときに五感で感じる物理世界を駿河は憎んだ。そこでは暦と会うことができないからだ。夜、訪れる夢は最も甘美な一時と化した。そこでは暦は以前とかわりなく、駿河と話し、笑い、そして戯れる。
 駿河は、次第に日中に微睡むことが多くなった。昼と夜の区別が怪しくなり、友人と会話するときにさえ、放心することもあった。
 そんな駿河の様子を見かねたのか、ある日、友人が言った。

「ねえ、駿河に紹介して欲しいっていう男の子がいるんだけど、ちょっと試しに会ってみない? 気晴らしにいいと思うんだ……ほら、駿河って、一途過ぎるから」

 友人は、あいまいな笑みを浮かべながら駿河に言った。言下に断りを入れようとして、駿河はふと思ったのだった。
 ひょっとしたら、暦を忘れることができるかもしれない、と。
 駿河のファンだったと最初に自己紹介した、その男との付き合いは平板なものだった。
 男と付き合うのは初めてのことだったが、平均的な付き合いだったと思う。最初は駅のファーストフードで食事をし、やがてともに遊ぶようになった。登下校をともにするようになり、時にはカラオケに興じて夜を過ごすこともあった。
 我を忘れるほど楽しいわけでもないが、時間を潰すには都合がいい。男と過ごす間、駿河は暦のことを考えずにすんだ。その意味で、自分は男を利用していた。今となっては、駿河は、男に対して、申し訳なく思っている。男は、目に喜びを宿らせて、駿河との時間を楽しんでいたからだ。男が率直に嬉しさを表すとき、駿河の胸は罪悪感に痛んだ。
 男の呼び方が神原さんから駿河さん、そして駿河へと変わった頃、季節は夏を迎えていた。

「なあ、一緒に花火でも見に行かないか? 浴衣でも着てさ」

 男の誘いに頷いて、駿河は祖母に頼んで久しぶりに浴衣を着た。
 会ったときから、男の様子はどこか浮ついていた。変に浮かれている。目に嬉しさとともに興奮の色があった。

「すげえきれいだ……駿河と一緒に花火に来られて、すげえ嬉しい」

 男が感嘆の溜息をついたとき、駿河は反応に困った。男の気持ちに対応するものが、胸のどこを探しても見当たらなかったからだ。男といても、心は何も動かない。単に時間を潰しているだけ。kill time。 駿河にとっての男の価値はそれ以上でもそれ以下でもなかったのだ。

「夜遅いからさ、駿河の家まで送っていくよ」

 花火が終わって、人混みをわけて電車に乗り込み、家路をたどるとき、二人は無言になった。しかし、理由が違った。男の沈黙には、込められた意味があった。対して、駿河の沈黙は、目の前の存在に何ら語りかける言葉を持たないためのものだ。沈黙に意味はなく、それは無と呼ぶにふさわしい。
 家にたどり着く寸前、無言のまま、男は駿河の体を抱きしめた。駿河はそれを予期していたが、抵抗しなかった。自分には応える義務があると思ったのだ。数カ月の間、男は駿河に尽くした。彼は自分の時間を駿河のために費やし、あらゆる形で駿河に好意を訴えた。そして、自分はそれを拒絶しなかった。そう頭で考えて、駿河は男の背に手を回した。
 背に感じる男の手の力が強まった。男の身体が密着し、強く押し付けられる。一枚の薄い布越しに男の身体を生暖かく感じた。男が強く興奮しているのがわかった。
 駿河の頭の中を去来するものがあった。
 それが何か、駿河にはすぐにわかった。自分はそれを忘れなければならない。そう自分で決めた。それは自分には手に入らない、手に入れてはいけないものだ。そして、自分を狂わせる存在。自ら別れを告げた。
 そのとき、駿河は、頭の中に浮かぶ像に気を取られていた。
 男の手がおとがいに伸びて、あ、と思う間もなく、次の瞬間には唇を奪われていた。
 驚いて目を見開く駿河の視界に、震える男の睫毛が飛び込んできた。目を閉じて、一心に男は自分を受け入れて欲しいと訴えていた。一瞬、その有様にいじらしさを感じた。
 だが、押し付けられた男の唇に駿河が連想したのは、這い回る蛞蝓だった。気持ち悪さに顔が歪んだ。いつの間にか、力を込めて、男の身体を突き放していた。

「……ごめん。でも、俺、本当に駿河のこと、好きだからさ」

 闇の向こうで、男が呟いた。

「うん、私も好きだよ」

 義務感から、そして、そう言うのが最も迅速に男から離れる術だと直感的に悟って、駿河は男の好意を肯定した。
 罪悪感に胸が疼いた。また、好きでもない相手に好きだといえる。そんな事実に駿河は単純に驚いた。
 その日以降、駿河は男との連絡を絶った。

 なぜ、そんなことを今になって思い出しているのだろう。
 駿河は自室で自嘲する。
 おそらく、これから自分がする行為の意味を再確認するためだと彼女は思う。
 それを自分は確実に成し遂げなければならない。ためらうことは許されない。迅速にことを終える必要がある。そのためには、改めて決意を固めなければならない。

――私は阿良々木先輩が好きだ。

 そう言い切るのに、駿河にためらいや迷いはない。素直にそう思えるのだった。あえて言葉に装飾を施して気持ちを偽る必要もなかった。そのことを駿河はとても嬉しく感じる。暦と交わした行為の一つ一つの甘美さは純粋で強く駿河の胸をうつ。喜びを分かち合う。交歓という言葉に相応しいものを暦は駿河に与えてくれたのだ。
 それは、何十年生きようと、味わえないかもしれない、一寸の曇りもなく、本当にそこにあると信じられる生の実感だった。引き比べて、暦と別れて以来、単に薄く薄く引き伸ばされていただけの時間を思うと、駿河は慄然とした思いを抱く。阿良々木暦は、神原駿河の生に意味を与えた。平板な時間は暦とあるとき、神聖なものとなる。暦とともにあるとき、駿河は自分が本物の神原駿河になると思えるのだ。

――だから、私はやらなければならない。

 ひたぎとの約束の時間は近い。
 蔵の奥深くから探し出した日本刀を駿河は胸に抱えている。
 刀身を鞘から引き抜いて、部屋の明かりにかざした。鉄の重さを手に感じる。刀身は光を反射して、鈍い輝きをたたえている。研ぎ澄まされた鋼の光沢に駿河は吸い込まれそうになる。それは純粋に人の死を望む無機物だった。すぐに肌で理解した。これは人の肉を切り裂くことのできる道具だ。
 掌に力を入れて、柄を握り直した。
 光のなかで、刃紋が煌めいた。
 この刀は、蔵の奥で眠っていたものだ。箱書きには、駿河には読めない文字で銘が記されていた。きっとこの刀には人の血を貪った歴史がある。
 刃先に指を試みに当てると、スッと肌が切れて血が垂れた。
 指を口に含むと、血の味が舌に広がった。血の匂いが鼻をつく。胸がひどく騒いだ。まるで酒にでも酔ったような心地だった。
 どうやら自分は興奮しているらしい。そのことにようやく気がついて苦笑する。
 呼吸を落ち着けて、駿河は刀身を鞘にしまった。

「さて、戦場ヶ原先輩は時間にうるさいからな。そろそろ行くとしよう」

 ●


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