学校の廊下を歩いていたら見知らぬドイツ軍将校に出会い頭で拳銃を突き付けられた。
――改めて言葉にすると、何とも不条理極まりないシチュエーションである。B級映画でもここまで突飛な展開はそうそう見当たるまい。
……。
……落ち着け。いかに全てを投げ出したくなる程に馬鹿げた状況であれ、現実逃避は駄目だ。思考を放棄してはならない。
まずは事態を正確に認識しなければ。ともすれば取り乱しそうになる頭脳を叱り付けて、精神を鎮める事に全力を尽くす。数秒の後、秘かな努力の甲斐あって動揺の一切が心中から取り払われた事を確認してから、確りと覚悟を決めて、そして俺はようやく眼前の現実と正面から向き合った。
視界に映るのは鈍い黒色の銃身と、冷酷な表情でそれをこちらへ突き付ける正体不明の男。
言うべき事も言いたい事も色々とあるが――何よりも先んじて解決しておくべき問題は、俺のすぐ傍に在った。重々しく威厳を帯びた声音を以って、目の前に広がる背中へと言葉を投げ掛ける。
「蘭。暫し、待て」
「―――…………。……はっ、承知致しました」
全身に凶悪な殺気を漲らせ、“敵”に向けて今にも凶刃を振るいかねない様子だった我が従者を、間一髪のタイミングで抑える。
今の蘭が手にしているのは真剣ではなく、校内における護身用の模造刀だが……氣によるコーティングを施された黒の刀身は、下手な業物など及びもつかない容易さで人体を両断する事だろう。その残虐な破壊性を普段ならば頼もしく思う所だが、今回の場合は些か拙い。問答無用で斬り捨ててしまうには、推察される男の素性があまりにも危険極まりなかった。その辺りの背景を明確にする為にも、まずは情報を引き出さねばならないだろう。
差し当たっての行動方針を瞬時に脳裏に組み立てると、俺は向けられた銃口の無情な黒孔に竦みそうになる心を抑え付けながら、静かな重圧を込めて言葉を紡ぐ。
「貴様。名乗りを上げる手間すら惜しみ、凶器を振り翳すなど――何者かは知る所ではないが、然様な行いは、己が属する軍勢の誇りを貶める蛮行であると知るがいい」
「ふむ。成程、それは否定出来ないな。思えば少しばかり事を急ぎ過ぎたようだ。ならば改めて名乗らせて貰おう――私はフランク・フリードリヒ、誉れあるドイツ連邦軍にて中将の地位に就いている者だ」
眼鏡越しにこちらを睨み据える強烈な眼光はそのままに、男は威圧的に名乗りを上げた。
中将とは、これはまた随分な大物が出てきたものだ。……いや待て、そうではない。
「フランク・フリードリヒ、だと?」
「いかにも」
仮にその名が騙りでないとするならば、俺は途方も無い人物を目の前にしている事になる。稀代の名将、ドイツ連邦の英雄――かつての世界大戦に彼が参戦していれば、冗談抜きに歴史は変わっていたと評される程の将校だ。多少なりとも軍事に関する知識を齧っていれば、誰しも耳にする名前であった。
「……ふん。成程、な」
俺が先程から絶え間なく放ち続けている戦闘レベルの殺気を身に浴びて、まるで動じずに涼しげな表情を崩さなかったのも、この男が真に名乗った通りの人物であるならば寧ろ当然だ。同じ戦場畑出身の忍足あずみよりも優れた武人であるか否かは未だ判らないが――少なくとも殺気への耐性と言う点で見れば、間違いなく彼女をも上回っているだろう。何せ、年季が違う。踏んできた場数が違う。戦場というフィールドの中で過ごしてきた期間が、圧倒的に違うのだ。彼ほどの大ベテランになれば、もはや生半可な殺気など空気中に含まれる成分の一つにまで成り下がっていても不思議はない。
しかし、そのような人物が何故ここに――、と落ち着け落ち着け冷静になれ、少しでもまともに頭を回転させていれば火を見るよりも明らかではないか。例の転入生は果たしてどのように名乗りを上げていたか、思い出してみるがいい。
『――クリスティアーネ・フリードリヒ!ドイツ・リューベックより推参ッ!』
フリードリヒ。ドイツ。これだけの目に見える符合があれば、解答は導き出されて然るべきだ。
「クリスティアーネ・フリードリヒの、血縁者か」
「その通り、クリスは私の強く賢く美しい、自慢の娘だ。判っているならば話は早いな」
クリス、とその名を口にする時だけ表情を柔らかくしながら言い放つ。
さて、これでひとまず目の前の相手の素性は知れたが――しかしそれだけでは出会い頭に拳銃を向けられるという不条理な現象に説明は付かない。続けてこのような暴挙に出た理由を問い掛けるべく言葉を用意していると、重々しい足音を響かせながら、新たな気配が廊下に現れた。それも一人や二人ではない。フランクと同様に黒の軍服を着用した屈強な男達が、合わせて十人。前方と後方に五人ずつ……俺と蘭を挟み込むようにして、やや遠巻きに包囲を形成している。
それだけでも十分に有難くない事態だというのに、追い討ちを掛けるかの如く、彼らは全員が銃火器で武装していた。正面に立つフランクを含め、実に十一もの銃口が、油断なく俺達に向けられている。周囲を囲む軍人達は揃って無表情で、フランク同様の冷徹な殺意と威圧感を叩き付けてくる。全身を襲う凄まじい圧迫感に押し潰されないよう、俺は小さく息を吐いて心の平静を保ちつつ、口を開いた。
「ふん。大所帯で随分な挨拶だ。貴様の部下共か?」
「その通り――ドイツ軍の誇る精鋭部隊、私直属の部下達だ。全員がホッキョクグマとも素手で張り合える歴戦の猛者だよ。君の返答如何では、彼らの戦地で磨き上げた練度を、身を以って知って貰う事になるだろうな」
フランクの言葉に誇張は無いだろう。こうして一目見ただけでも、この場に弱卒が一人とて居ない事は分かる。紛れもなくプロの軍人、平穏無事な日本に生まれ育った一般学生の手に負える相手ではない。だが、だからと言って簡単に気圧される訳にはいかないのだ。十一もの銃火器に囲まれた現状も、怒り状態の武神・川神百代と真正面から対峙するよりは万倍マシである。俺は弱気な自身を叱咤激励し、あくまで醒めた無表情を作りながら、物々しい雰囲気を放つ軍人達を見遣った。
「精鋭部隊。歴戦の猛者、か。ふん、然様に大仰な肩書きにて武勇を誇る割には、随分と遠巻きな囲みよ。くく、道具に頼らねば何も出来ぬと、自らの姿を以って証明しているのは如何なる訳だ?」
「軍隊とは何よりも効率を優先する組織でね、戦闘を有利に進めるに最適な陣形を取る事は恥でも何でもないのだよ。アウトレンジからの封殺は基本中の基本だ。それに、私はサムライの近接戦闘能力を軽視してはいない――特に今の彼女には、間違っても自分から近寄ろうと云う気は起きないな」
フランクは鋭い双眸を細めて、眼前に立ち塞がる我が第一の従者、蘭を見遣っていた。確かに、俺の目から見ても現在の蘭は相当に危険な状態である。傍に寄るモノは何であれ無惨に斬り捨てる剣の鬼、そのような印象を抱かずにはいられない壮絶な気迫だった。
無理もない話だ――元より森谷蘭は織田信長へと向けられる害意に対し、異常な程に過敏で敏感な性質の持ち主。銃火器という“殺意”を具象化したかの如き代物を主君に向けられて、何の反応も起こさない筈もなかった。先んじて俺が制止したお陰で未だ暴走には至っていないが、しかしこの様子では時間の問題だろう。そう長くは抑えられまい。
「しかし、日本のサムライガールとはこれ程のものか。間合いに一歩でも踏み込めば即座に首が刎ね飛ばされかねないな――実に怖ろしい剣気だ」
「……お褒め頂けるのは光栄ですが、私など未熟の至りです。私が真に有能ならば今頃、あなた方の如く主を脅かす不逞の輩は、悉く鬼籍に入っている事でしょう。この瞬間にも主の“敵”にむざむざと呼吸を許している、自身の不明を恥じるばかりです」
自身の無力に慙愧の念と強烈な怒りを覚えているらしく、蘭は常ならぬ荒々しい語調で言い放った。刃の切っ先と共に凍て付くような冷気に充ちた双眸を向けられたフランクは、しかし何処か楽しげな様子で不敵な笑みを零す。
「ふっ。謙遜を美徳とし、何をおいても主君への忠誠を誇りとするか。まさに私の思い描いていたサムライそのものだ。武士道の範を示してくれる、クリスにとって得難い友となれたかもしれないものを……こうして敵として出逢ってしまった事が残念でならないよ」
本当にそう思っているのならば今すぐ物騒な銃火器と一緒に消え去って欲しいものだ、と切実に思う。屈強な軍人達が発する冷徹な殺気と、暴走寸前の蘭が発する凶悪な殺気に挟まれて、先程から生きた心地がしない。
というかそもそもどういう訳で、俺達は見も知らぬドイツ軍中将に“敵”として認識されているのか、そこをまずは問い質すべきである。
「それで。貴様等は何故、俺を狙う?この身に買った恨みなど数えてすらいないが、異国の軍人に殺意を向けられる覚えはない」
「察しは付いているだろう?君は既に承知している様だが、私の可愛い娘、クリスは今日を以ってこの学園に転入する事になってね。である以上、クリスに害を及ぼす可能性のある学園内の災いの芽は全て摘み取るのが当然だ。そして残念ながら、君はその筆頭として選ばれた人物なのだよ」
「…………」
「故に君には、学園から消えるか、或いはこの世から消えるか。いずれかを選んで貰わねばならないのだよ。納得したかね?」
「…………」
……。
…………。
…………なん、だと……?
いやはや、どのような因縁があるのかと身構えていれば……何の事は無い、殆ど完璧な言い掛かりではないか。納得出来る筈がないだろう。親馬鹿が溺愛する娘を心配するのは結構だが、こちらに矛先が向くとなれば話は別だ。大体、“可能性”の段階で排除に踏み切ろうなどと、性急にも程がある。しかもその決断の結果として正真正銘の軍隊が動くと言うのだから、尚更洒落にならない。
「然様、か。それが理由、か」
親馬鹿に権力を持たせるべからず、である。あまりの理不尽さを前にして盛大に嘆息したくなる気分をどうにか抑え付けながら、俺は確実に呆れの色が滲んでいるであろう醒めた表情で口を開いた。
「……奇怪な話が在ったものだ。未だに貴様の娘と言葉の一つも交わしていない俺を、如何なる基準で選んだのか」
「君は自覚していないのかね?今、こうしてこの場に満ち溢れている殺伐たる空気。このような“殺気”は、本来ならば戦場に特有のもの……平穏な日常には断じて在ってはならないものなのだよ。ましてや子供達の通う学園に平然と存在するなど、許される話ではない。かつて私の部隊に、度重なる戦いの果てに戦場と日常の境界線を見失った男が居た。――結果、奴は所構わず殺意を振り撒き、数多くの悲劇を生んだ。最後にはテロリストとして手配され、私自らが処分する羽目になったよ。……私が何を言いたいか、分かるかね?」
「さて、な」
「一見してそれと判るほどに血塗られた殺気を纏う君のような男は、絶対に看過出来ない危険因子だ、と言う事だよ」
射殺すような視線を俺へと注ぎながら、フランクは静かに言葉を続けた。
「今朝、クリスの付き添いとして学園を訪れた際、私は僅かな殺気を感じ取った。最初は気の所為かとも思ったが、やはり見過ごせるものではなかった。クリスの身に危険が及ぶ事など、万が一つにもあってはならないからな。だからこそKAWAKAMIに話を通す心算で来たのだが――しかしこうして問題の当人と遭遇した以上、もはや余計な手間は必要あるまい。直談判で片を付けるべきだと、そう思ったのだよ。言うまでもなく、交渉は直接行った方が効率的だからね」
「交渉?くく、笑わせる。恫喝の誤りだろう」
「恫喝を手段とした交渉、だよ。考えてもみたまえ。君は娘が通う学校の何処かに、地雷が仕掛けられていると知ったらどうする?命よりも大切な愛娘を、そんな危険極まりない所に安心して通わせられるハズが無いだろう。少々強引な手段を用いてでも、早々に地雷を撤去しようと考えるのは当然ではないかね」
「ふん。危険が在ると予め理解しているならば、避ける努力を怠らねば済む話よ。目に見える地雷へと自ら突撃する――然様に愚かな娘ならば、俺は要らん。精々、派手に散れば良かろう」
俺の物言いの何かが気に入らなかったらしく、フランクは眉間に皺を寄せて、不機嫌そうに目をギラつかせた。
「どうも君には人間らしい情というものが欠けている様だね。所詮、子を持った経験の無い青二才には私の娘を想う心は判らんよ。無用な問答をしてしまったな」
「全く以って、同感だ」
駄目だ、手に負えない。そもそもにしてまともに話が通じる相手ではなかった。俺とは価値観も思考形態も何もかもが食い違い過ぎていて、文字通りに論外だ。俺がどれ程巧みに言葉を操った所で、この親馬鹿軍人は決して折れないだろう。精神の根底に巣を張った頑固さを取り払うのは、俺の弁舌では不可能だ。
…………。
まあ、いい。対話による解決が失敗に終わった所で、特に何も問題は生じない。何の告知もなくいきなり銃口を向けてくるようなイカれた相手だ、元より説得で乗り切るのは望み薄だろうと見込んで、交渉決裂の未来は真っ先に想定していたのだから。このような事態に備えての対策は既に練り終えていたし、実の無い会話の最中に手も打ってある。
要するに―――
「そうか。あくまで学園を去る気は無いのだな。ならば已むを得まい、残念だが実力を以って排除させて貰うとしよう。恨むならば他でもない、“柔軟さ”を捨てた君自身の愚かさを」
退屈な“時間稼ぎ”は、この辺で十分だ。
「――Guten Tag, Leutnantsgeneral(こんにちは、中将さん)」
鈴を転がしたような澄んだ声音で紡がれた、流暢なドイツ語。場違いに愉しげな、あたかも歌うような声を廊下に響かせたのは、この場に居合わせている何者でもなかった。
「なっ――――」
フランクが驚愕と焦燥を初めて表情に滲ませながら、声音の発生源を向き直ろうと素早く身を翻し掛けた瞬間――廊下に面した空き教室の窓ガラスが、甲高い音響を伴って砕け散る。その光り輝く飛沫の中から一本の白い腕が伸びて、蛙の舌を思わせる俊敏さで獲物の首を絡め取り――恐るべき膂力でその身体を壁際へと引き寄せた。背中がコンクリートの白壁に叩き付けられると同時に、破れた窓から二本目の腕が現れ、今度は蛇の如く首筋に巻き付いて締め上げる。
「かはっ……!?」
「うふふふ、捕まえた!ああ動いちゃダメだよ?私の一顧傾城と形容すべき美貌を是が非でも視界に収めたいっていう気持ちは分かるけど、後ろを振り向こうとするのもNG。人間、いつでも前向きに生きないとね」
「……っ」
苦悶に表情を歪めながら、フランクは一瞬たりとも躊躇う事無く自らの拳銃を床へと放り捨てた。漆黒の銃身が、重々しい音響を伴って廊下を転がった。そうして自由を得た両手を己が首筋へと伸ばし、背後からの拘束から逃れようともがき始める。
「ぐっ、何だ、この腕力は……!」
しかし―――抵抗は無意味。巻き付けられた細腕による拘束は、見た目に反した強固さで、如何に足掻いた所で僅かたりとも緩まない。フランク・フリードリヒは疑いなく白兵戦においても百戦錬磨の戦士であり、並の膂力による拘束ならば自力で解く事も出来ただろうが……今回の場合は相手が悪かった。
何せ、襲撃者の正体が“氣”の扱いを習得した人外級の武人とあっては、もはや形勢逆転の望みは皆無と言ってもいい。誰の目から見ても紛う事なき、“詰み”である。
あまりにも突発的に遂行された奇襲に、彼の部下達は為す術もない様子で硬直している。今まさに中将を襲っている下手人を銃撃しようにも、二人の距離が密着し過ぎているのだ。誤射の可能性を考えれば迂闊に動けないのだろう。
「ほらほら、いい加減に力の差は分かったでしょ?暴れても無駄だって理解したなら、潔く諦めちゃいなよ。あんまり往生際が悪いとこのままポッキリへし折って、人生ジ・エンドにゃん!しちゃうよ?」
破れた窓ガラスの向こう側、空き教室の中から顔を覗かせながら、明智ねねは底意地の悪い笑顔で言い放った。
「……これは、どういう事だ?この私を含め、全員が……攻撃を受ける瞬間に至るまで、敵の気配を見逃していたとは」
脱出は不可能と悟ったのか、抵抗の手を止めて、フランクは当惑の呟きを零す。ねねは彼の後ろでにんまりと厭らしい笑みを浮かべながら、嘲る様に言い放った。
「うふふふ、ちょーっとばかり後方不注意なんじゃないかなぁ、中将さん。取り巻きの皆さんも迂闊だね。目の前のご主人とランに気を取られるあまり、周辺の警戒が疎かになってなかったかな?お陰で笑っちゃうくらい簡単に奇襲を掛けられたよ。まぁ、手を伸ばせば届く距離にご主人みたいな悪鬼羅刹も裸足で逃げ出す魔人が立ってたら、どうしたってそっちに集中したくなるって言うのは良―く分かるけどさ」
「……。つまり、この空き教室内にあらかじめ兵を伏せていたという事か……?いや、私達の遭遇はあくまで偶然の産物、それは有り得まい。ならば一体」
「あはは、何を難しく考えちゃってるのさ。空き教室の入口は一つじゃないんだ――当然、私がこうして破った窓の反対側には、グラウンドに面した窓が存在する。そこから侵入して室内待機、そんでもってタイミングを窺って腕を伸ばせば……アラ不思議、ドイツ軍中将の生け捕り完了!くふふ、天資英邁なこの私に掛かればちょろいお仕事だよ」
「反対側の窓、だと?ここは二階の筈だがね」
「うん。それがどうしたの?かる~くジャンプしたら届く距離じゃないか」
「…………」
現在の状況は、先程ねねが得意気に披露した通り、木を隠すなら森の中――その格言に倣った結果である。“織田信長の放出する強大にして凶悪な氣”というバックアップが存在する場所であれば、ねねの有する優れた気配遮断スキルは更にワンランク上のものへと進化を遂げる。銃声飛び交う戦場にて小石が転がっても誰一人としてそれと気付かぬと同様、織田信長の殺気を正面から浴びている状況にあって、限界まで隠蔽されたねねの気配を悟るのは至難の業だ。初見の時点でこの主従の合わせ技による奇襲を看破出来る武人など、世界でもトップクラスの強者に限定されるだろう。
フランク・フリードリヒは将校としての部隊指揮や作戦立案の分野では比類ない優秀さを誇るのかもしれないが、幸いにして武人としての純粋な戦闘能力に於いてはそこまで突出していなかった。まあ当然ながら一般人の域を出ない俺如きよりも遥かに強いが、しかし蘭やねねと比較すれば幾らか下回っているだろう。とは言っても実力の全てを完全に測り切れていた訳ではないので、奇襲が通用するか否かは博打の部分もあったが――無事、作戦成功だ。日頃から“指令”の打ち合わせを密にしておいて助かった。
俺が常に見た目偉そうなハンドポケットのスタイルを貫いているのは、断じて伊達や酔狂ではない。“プライドが高く、相手のレベルに合わせて自ら力を制限する程の自信家”という織田信長のキャラクター付けによって、対峙する相手に違和感を覚えさせる事無く、“両の手を相手の死角に置き続ける”事を可能にしているのだ。その工夫によって得られるアドバンテージは並々ならぬものがある。携帯電話という文明の利器を最大限に活用すれば、僅かに指先を動かす程度の動作で、多種多様な指示を、それも人知れず従者へと届ける事が出来る。操作の手順に慣れ、ボタンを押す順番を正確に暗記しておきさえすれば、ディスプレイを視界に収める必要すらないのだから、これ以上に手軽で便利なアイテムは無いだろう。
例えば今回の場合、俺がねねにコールしたのは想定パターンの十七、即ち「気配を絶っての奇襲を実行・トップをねらえ」といった内容の指令だった。かくして指令を受け取ったねねは、あまりにも異質で個人特定の容易な織田信長の“氣”を辿る事で戦闘の行われている地点を把握し、校舎という複雑な地形を活かして敵部隊の視界に入らない様に注意しながら、抜き足差し足忍び足のステルス状態で奇襲に最適なポイントへの到達を果たし……そして現在の状況に至る訳だ。
「…………」
「…………」
こちらはねねという手駒が敵方のトップをすぐさま葬れる状態にあり、あちらは一斉射による数の暴力によって引き金を弾くだけの動作でカタを付けられる状況。故に両陣営共に、下手な動きは取れない。高まる殺気だけが衝突を繰り返し、火花を散らす。かつてない程に緊迫した空気が広がっていく。
かくして事態は睨み合いの続く膠着状態へと陥り、廊下を埋め尽くすのは痛いほどの静寂。機を計るべく、誰もが息を殺して沈黙を守っている、空白の時間。その間に、俺は次なるステージへと思考を及ばせていた。
さて、一方的に狩られる側だった最初に比べると圧倒的に有利な立場を掌中に収めた俺達だが、しかしここで満足し、思考を止めてはならない。未だ問題の全てが解決した訳ではないのだ。と言うよりも今回の場合は、ただ戦闘面における勝利を得ればいいと云う単純な話ではない――最も肝要なのはこれから先の対応である。
「ふむ。確かに目の前の敵に注意を割き過ぎたのは確かだが」
フランクは慮外の奇襲を被った衝撃から立ち直った様子で、落ち着き払った声を上げた。
「しかし、例えそうだとしても、私のみならず部下達の眼すらもことごとく掻い潜るなど、只者には成し得まい。実に恐るべき隠密能力……成程、これが日本の誇るニンジャの実力か。いや、確か女性の場合はクノイチと呼び分けるのだったな。聞きしに勝るニンジュツ、見事と賞賛する他ない……!」
「いや、忍者でもくのいちでもないから。それ2-Sのメイドさんの専売特許だから」
「サムライとクノイチを従えるトノサマか――流石にKAWAKAMIの名を冠する学園、私の想像を超える武士で溢れているな」
「……あー、なんだか訂正するのも面倒だからノーコメントで。やれやれだ、話を聞かない人は苦手だよ、全く。……さて、それはともかくとして」
辟易した様子で呟くと、一転、ねねは背筋の凍るような酷薄な笑みを口元に湛えながら、依然として身動きの取れないフランクの部下達に視線を巡らせた。
「キミ達がもうお役御免だってコトは状況見れば判るよね。さあさあ部外者はお帰りの時間だよ。罪も無い生徒達が怯えちゃうと可哀相だからさ、軍属の皆さんは取り敢えずそのおっかない銃火器と一緒にさっさと学園の外まで退去してくれないかな。でないと――うふふ、ついうっかり、私の手元が狂っちゃうかもしれないよ?」
妖艶さを含んだ猫撫で声で囁きながら、ねねはフランクの首筋にほっそりした指先を滑らせた。仄かな光を纏った五指は、氣を用いた強化が施されている証拠だ。硬気功の技法によって刃物と同等の硬さと鋭さを付与された爪先が、人間の柔皮を易々と切り裂き、滲み出た血液によって真紅の色に染め上げられていく。
「…………っ!」
上司の首筋から滴り落ちる生温かい鮮血に、部下達は無言ながらも明らかな動揺を示した。ねねの本気を悟ったのだろう。ここで退かなければ或いは中将の命が無いかもしれない――最悪の可能性を各々の脳裏に思い浮かべ、狼狽を面に浮かび上がらせる。そんな彼らの浮き足立った有様に対し、
「うろたえるなァッ!!」
歴戦の軍人すらも竦み上がらせる威厳を伴って、フランクの怒号が叩き付けられた。部下達をねめつけるギラついた眼光、全身より溢れ出る威圧感、初老に差し掛かった男のそれとは到底思えない。
「ドイツ軍人たる者、敵に自ら付け入る隙を見せるような無様を晒すものではない。余計な雑念を排し、心静かに私の命を待つがいい」
彼は自身の出血に対して些かも動揺を示す事は無く、至って平然たる表情のままで俺へと語り掛けた。
「さて。良いのかね?中将たる私を害すれば、君達は即座にドイツ軍の精鋭部隊による徹底的な殲滅行為に晒される事になるが。いや、話は単に君達だけの問題に留まらず、家族や友人、そして間違いなく国家そのものを脅かす結果となるだろうな。そういった責任を負うという自覚はあるのかね?一時の感情に任せて長い人生を棒に振るか否か……冷静に考えて答えを出す事だ」
喉元に刃を突き付けられても、揺らがない。あくまで堂々たる態度を貫いて、捕虜の身とは到底思えない重圧を込めて淡々と宣告する。その恐ろしい程の胆力、疑いなく中将の肩書きに相応しいと云えるだろう。
「……下らぬ」
しかし――気に入らない。
前触れもなく唐突に他人様の領域へと押しかけてきておいて、自分勝手且つ傍迷惑な理屈を押し付け、あまつさえ武力と権力を背景にして意に沿わぬ退学を強要するという理不尽な横暴……それらは勿論だが。
何よりも――その程度の矮小な圧力を以って織田信長を恐喝出来るなどと小賢しく謀っている浅慮が、酷く腹立たしい。その程度の陳腐な恫喝を以って俺の意志を挫けるなどと思い上がっている傲慢が、何処までも許し難い。
「茶番は終わりだ。これ以上の侮りは、赦す事能わぬ」
募る苛立ちは心中にて燃え盛る赫怒の炎へと変じ、燎原の焔へと化していく。
「権勢を頼み、多勢を頼む匹夫風情が」
だが、そこで怒りに身を任せて見境なく暴れ回るような事はしない――少なくとも俺のやり方は、そうではない。煮え滾る感情の全てを制御化に置き、心身の内側にて漆黒の殺意へとコンバート。万人を凍えさせる純然たる殺気へと換えて、外界に向けて放出する。
「俺を、舐めるな……ッ!」
低く唸るような重々しい怒号と同時、空間に歪みが生じる。
それは、日常における許容限界量を遥かに超越した、“戦術”レベルの威圧だった。
我慢も遠慮も既に不要。堰を切られ、解き放たれた殺意の奔流は瞬く間に廊下を荒れ狂い、行き場を求めて校舎を浸蝕する。余程の緊急時を除き、学園内における使用を自ら禁じていた、果てしなく本気寄りの殺気――まず間違いなく学園の敷地内に留まっている全ての人間に遍く伝播し、総身を戦慄させた事だろう。
「ぐぅっ、これは――!?」
であるならば、織田信長の視界に映るような至近距離に立っていた者達が、そのまま無事に立ち続けていられる道理などない。それは戦場を渡り歩いた歴戦の軍人と言えども例外ではなかった。確かに“慣れ”は殺気という概念に対する抵抗力を構成する要素の一つだが、しかしただ慣れているだけでは、織田信長の本気の威圧を打ち消すには足りない。精神面・肉体面の何れかにでも隙があれば、殺意の奔流はその部位を侵入口として容赦なく這入り込み、鋭利な牙で獲物の意識を食い破るのだ。結果、レジストが追い付かなくなった者から順に、一人、また一人と意識を刈り取られてゆく。
放出の瞬間から十数秒が経過した時点で、廊下に立っている人影は半数以下に落ち込み、更に十数秒が経つと、己の足で床を踏みしめているのは僅か四人となっていた。織田信長、森谷蘭、明智音子、そしてフランク・フリードリヒ。彼の部下達は既に全員が等しく気を失い、廊下に倒れ伏している。強制的に意識を奪われながらも、誰一人として己の得物を手放している者が居ないのは流石と云えよう。
「くくっ……」
そして、俺は尚も容赦なく殺気を迸らせながら、口元に嘲笑を貼り付けて、この場に残された唯一の威圧対象を冷たく鋭く睨み据える。
「多少は身の程を弁えたか?下郎」
伸し掛かる重圧と凍て付く冷気の両者に晒されたフランクは、尚も呑み込まれず頑強に意識を保っていたが、しかしその表情には隠し切れない動揺が浮かび上がっていた。死屍累々と廊下に転がる部下達の姿を前に、驚愕と共に口を開く。
「……幾多の戦場を経験してきた我が軍の精鋭を、手足すらも用いずに――!?その気迫、今に至るまで隠していたとでもいうのかっ!」
「ふん。現在の俺はこの川神学園に籍を置く身。如何に窮屈であれ、学生としての領分を守らねばならん。故に脆弱な学生共に合わせる為、己が力に枷を施し、威を抑えつつ日々を過ごしているが――其れに乗じて図に乗るような愚劣な輩が相手となれば、容赦は無用よ」
「容赦、だと……。最初から手加減されていたというのか、我々が!あたかも子供と遊ぶ大人の図の様に、掌で転がされていたと?ふざけるな――そのような現実を、認めろと言うのか!」
所詮、相手はたかが学生だと侮っていた面も少なからずあったのだろう。フランク・フリードリヒは紛れもないプロの軍人で、それも英雄と呼ばれる程の優れたキャリアを有する将校だ。未だ成人を迎えてすらいない若造を相手に良い様に遊ばれるなど、プライドが許す筈も無い。怒りと屈辱に顔を歪め、歯を軋らせるフランクに、俺は冷然と見下すような視線を送った。
「くくっ、己の言が如何に虚しいものであったか、骨身に沁みて理解が及んだであろう。俺にとっては一国の軍勢如き、所詮はいずれ片付けるべき障害の一つに過ぎぬ。貴様らが捲土重来すると云うならば、俺は将来の手間が省ける慶事を祝うのみよ」
大法螺もここまで来れば立派なものだと我ながら感心しながら、俺は傲然と言い放つ。
少なくとも表面的には自信と確信、余裕と覇気に満ち溢れているであろう俺の言葉を受けて、フランクは大きく息を吸い込んで激情を鎮め、額に浮かんだ汗を手で拭ってから、静かに口を開いた。
「……成程、納得したよ。私にしてみれば最も危険な存在であろうと認識していた君が、予想に反して何一つとして動きを見せなかったのは……そもそも動く必要が無かったからという事か。我が軍の誇る精鋭部隊でさえも、自ら手を下す必要すらない――と」
「……くくっ。配下に経験を与える事も、統率者に求められる役割が一つだ」
是とも否とも答えを明瞭にはせず、あくまで只の一般論を語る事で返答とする。
実際の所を言えば、俺には彼が思っているような余裕があった訳ではない――先程の如く、場慣れした軍人にすら影響を与えられる規模の殺気を放つとなれば、発動の準備にも相応の手順を要する。それこそ出会い頭に問答無用で一斉射撃を受けていれば、その時点で詰んでいたのだ。音速を超えて飛び交う銃弾の行方に干渉出来るほど、俺は人間を辞めてはいないのだから。
それに見ての通り、威圧によって部下を一掃出来たとは言っても、肝心の司令官の意識を断つ事は不可能だった。ねねの奇襲で首尾良く仕留められていなかったなら必然的に正攻法で闘う羽目になっていた訳だが、そうなるとここまで余裕の勝利は収められなかっただろう。
とまあ、そんな各種の裏事情を正直に暴露する必要もなし、相手の方から勝手に勘違いして過大評価してくれるならばそれに越した事は無い。誤解の種は積極的に撒くものだ、わざわざ回収するなど有り得べからざる愚行である。
「……ふっ」
俺の小賢しい意図を知る由もないドイツ軍中将殿は、自分の中で何かしらの答えを出したのか、妙に清々しげな表情で小さく笑みを漏らした。
「私とした事が、敵戦力を測り損ねるとはな。多少の無理を推してでも、マルギッテだけは伴ってくるべきだったか……。だが、偵察を軽視したのは立派な敗因の一つ。騎士の誇りに掛けて見苦しい言い訳はするまい。日本が世界に誇る武士と言えども、所詮は学生と少しばかり甘く見過ぎていたようだ――私の、完敗だよ」
フランクは誤魔化しの無い口調で、潔く自身の敗北を認めた。
そして、僅かに眉を顰めながら俺を見つめ、感情を窺わせない淡々とした問い掛けを発する。
「さて。それで、君は私をどうするつもりかね?まあ問うまでもなく、日本の合戦における敗将の末路は一つ、か。やれやれ、私も軍人だ、戦地に果てる覚悟は出来ているとは言え、クリスが私の跡を継いでくれるまでは壮健でありたかったものだ」
「……ふん。先も言ったが、俺は学生の立場に縛られる身。本来であれば“敵”は悉く滅するべきではあるが、此処は川神学園の領内。仮にこの場にて貴様の命を奪ってみた所で、不利益を被るのは俺自身に他ならん」
「それは、見逃す、と言う事かね?」
「然様。甚だ不本意ではあるが、な。だが、さりとて不問に付すは論外」
何せ銃火器で散々脅かされたのだ。疲労と心労に見合う成果の一つも挙げられないとなれば、骨折り損のくたびれ儲けもいい所である。最低限、二度と同じ事態が繰り返されないような形で事後処理を行う事だけは必須だった。
では、その為に必要な要素とは一体何であろうか?
「此度の闘争に然るべき決着を付ける手段は、元より唯一つ」
答えは明瞭――調停者の存在、である。
この場に向けて急速に迫り来る“氣”を感じ取り、俺は悟られない程度に口元を歪めた。これで俺の抱く、とある憶測が正しいという“確証”が得られた事になる。ならば、残すは最後の行程のみ、か。思考を巡らせる間にも気配は接近を続け、慌しい足音が階段を駆け上ってくる。
「一体何事だ!――こ、これは……!?」
愛用の鞭を手に携え、息を切らせながら登場したのは、厳粛な雰囲気を全身に纏う女性。2-F担任、鬼小島こと小島梅子である。彼女は階段の踊り場に立ち尽くし、驚愕のあまりか目を見開いて硬直していた。
さて、改めて現在の状況を確認してみよう。廊下には銃火器で武装した軍服姿の男達が死屍累々と転がっており、その中央では蘭が強化した摸造刀を油断なく構え、更にはドイツ軍中将が窓から伸びたねねの腕によって拘束されている。成程、まともな感性の持ち主ならば思わず処理限界を超えてしまっても仕方の無い光景だ。
「フム。どうやら全員、気絶しているだけのようダ。“氣”に中てられたみたいネ」
「あ~あ、はいはい分かってましたよ、どうせまたお前さんの仕業だろーと思ってたさ。……オジサンそろそろ真剣で泣いてもいいよな?」
鬼小島に数瞬遅れて姿を見せたのは、壮年の男性二名だった。一人は川神院師範代にして川神学園の体育教師、ルー・イー。もう一人は我らが2-S担任、宇佐美巨人である。
ルーが冷静に軍人達のコンディションを探る横で、巨人は肩を落として疲れ切った溜息を零していた。
「……B棟から弓道場まで届く程の規格外の殺気だ、あらかじめ予想は出来ていたが……やはりお前達か、織田!」
鬼小島は我に返ると、怒鳴りながらキビキビした早足で俺達の方へと歩み寄ってくる。手元で存在感を主張する鞭と、こちらを鋭く睨み据える厳しい双眸が何とも言えず不吉であった。
「それに、そちらの方は……クリスの父君ではないですか。何故ここに……この惨状は一体、どうした事ですか?」
「ふむ。貴女は確か、2-Fの担任の」
「ええ、ご息女のクラスを受け持っている小島です。それで、一体何が――」
「説明の必要は無い。徒労と云うものだ」
真面目な顔で事態を把握しようと努めている鬼小島に向けて、醒めた語調で無愛想に言い放つ。途端に飛んでくる強烈な眼光をどうにか意識の外に追いやって無視しながら、俺は虚空に向かって嘯いた。
「わざわざ言われずとも判っているだろう――無粋な覗き見は存分に楽しんだ筈だ。俺の気が変わらぬ内に疾く姿を見せるがいい」
強烈な威圧感を伴って響き渡る、俺の呼び掛けに対しての返答は無い。
ただ、一陣の微風が廊下を吹き抜け――次の瞬間には、またしても新たな人影がその場に出現していた。
豊かな髭を蓄えた、飄々たる雰囲気を漂わせる老人。
川神学園学長にして川神院総代、武道界の生ける伝説こと川神鉄心のお出ましである。
「それまで!勝者――、……っといかんいかん、これは決闘の作法じゃったの。ワシ間違えちゃった、てへっ」
「死ね」
「ちょ、老人に向かってなんちゅーむごい暴言を吐く奴じゃ。まったく、最近の若者は怖いのう。大体、お前達が毎日のように決闘の立会いにワシを呼び出すのが原因なんじゃから、少しは労わらんか」
「それもまた学長の務めだろう。自らの定めたルール、文句を付けるは詮無き事よ。……さて、もはや長居は無用、随分と時間を無為に費やした。この上、面倒極まる後始末にまで付き合う気は無い。承知しているとは思うが――“借り”は返して貰うぞ、川神鉄心」
傲然と言い放つと、俺は返事を待たずに踵を返した。学園の最高戦力たる教師勢も、ドイツ軍中将もその場に捨て置いて、一顧だにせず歩を進める。蘭は礼儀正しく深々と教師陣に頭を下げながら、ねねは悪戯っぽい流し目をフランクに向けて送りながら俺の後に続く。
「な、待て!誰が去っても良いと言った、お前には聞きたい事が山ほど」
「構わん。放っておくのじゃ、小島先生。あやつの振舞いは、今回に限りワシが許す」
「しかし、私だけならばまだしも、学長に対してあの態度……あまりにも不遜が過ぎます!前々から感じていましたが、織田には目上を敬う心があまりにも欠けている。教育者として放置する訳にはいきません!」
「まあまあ、いいじゃありませんか梅子先生。大体、あいつは説教如きでどうこう出来るタマじゃないと思いますがね。なんせガキの頃から、俺みたいな大人のありがたい助言にも馬耳東風でしたからねぇ。筋金入りって奴ですよ」
「だからと言って諦めて投げ出してもいいと?大体、奴は2-Sの生徒、宇佐美先生の管轄でしょう。付き合いが長いというならば尚更、甘い顔をせず日頃からもっと厳しい教育的指導を――」
何やら後ろで一悶着起きている様だが、しかしもはや俺には関係の無い事だ。後は野となれ山となれ。何なら焦土になってくれても一向に構わない。振り返る事も足を止める事もせずひたすらに歩き続けると、やがて彼らの声も届かなくなった。
それでも立ち止まらず、足早に歩を進める。途中、擦れ違った生徒達が恐慌の悲鳴を上げてへたり込んでいたが、それらにも関心を寄せる事はない。
そして数分後、川神学園の校門に辿り着くに至って、俺はようやく僅かに歩調を緩めた。
周囲に人の目が無い事を確認してから、足を止めて、深呼吸で気分を鎮める。
「うーん、なかなかに荒れてるねぇ、ご主人。今のご主人の顔見たらコズミックホラーな邪神も裸足で遁走するんじゃないかなってレベルだよ。おおこわいこわい」
ここまで黙々と俺の後ろを付いてきていたねねが、普段通りの能天気な調子で口を開いた。その緊張感に欠ける顔面をジロリと睨みつつ、俺は低く押し殺した声を上げる。
「……ネコ。俺が何よりも我慢ならぬ事は何か、判るか?」
「そんなの簡単だよ。イージー過ぎて欠伸が出るね。ずばり、フルネームで呼ばれるコト!正解でしょ」
「違う」
鬱陶しいドヤ顔で胸を張っているねねの解答を冷たく切り捨てる。いやまあ違うと言うほど違う訳ではないというかそれはそれで最高に我慢ならないのだが、とにかく今回求めている答でないのは確かだ。
「えー。じゃあ、食後の楽しみにしていた和菓子を勝手に食べられるコト?」
「違う。それは三日前のお前の所業だろう」
あの時ばかりは、大好きな魚の餌にしてやろうか、と真剣に思ったものだ。もしも蘭が念の為にと予備分を用意していなければ、今頃俺の手足が一本欠けていたかもしれない――まあその程度には我慢ならない事ではあるが、それもまた求めている答ではない。
というか分かっていて言っているだろう、と冷酷な視線を向けると、ねねは僅かに顔を引き攣らせながら、神妙な調子で口を開いた。
「ま、おふざけはこの辺にして。――“試されるコト”、だよね。あ~成程ね、それはイライラするのも当然かぁ。ご主人ってば、変なところでプライド高いもんね。人を試すのは構わないけど、自分が試されるのは我慢ならない。くふふ、相変わらずの自己中っぷりだ、世界はご主人を中心に回ってると言っても過言ではないね」
ニヤニヤと小賢しい笑みを浮かべる従者第二号を黙殺して、俺は歩みを再開した。
そう、俺の不機嫌の理由はまさに其処にある。“試される”だけでも十分に不快だと言うのに、それに加えて余計な手間を押し付けるとは――川神鉄心、本当に腹立たしいジジイだ。立場の問題なのか武人としての興味なのか教育者としての関心なのか、真実は奴しか知り得ないが……何にせよ、俺にとって傍迷惑である事には違いない。
私立川神学園というロケーションは、正しく川神鉄心の領域。そしてあの爺自身が、一個の生きる兵器として世界に警戒される程の化物だ。ならば――ドイツ軍の英雄率いる軍人が、殺意に満ちた銃器を手に学園の敷地内に押し入り、そして織田信長と対峙するという異常な状況を、誰よりも先んじて察知していない筈が無かった。全校に影響が及ぶ殺気を運用してまで“呼び出す”必要すらなく、恐らくは最初から全てを観察していたのだろう。
教師の役割がどういうものか、などと自分勝手に定義するつもりはないが――まず間違いなく言えるのは、教師には生徒の心身を守る義務があるという事だ。相手が危険であればあるほど、その義務を果たすべきである事は言うまでもない。にも関わらず、川神鉄心は織田信長に迫る悪意と害意と殺意とを、手をこまねいて傍観していた。目的は恐らく、織田信長の武力と、そして精神性とを確認する事、といったところか。
俺としても観られている可能性については最初から考慮していたが、しかし悟っていたところで何が出来ると言う訳でもない。織田信長のキャラクター性を考えれば、敵を前にして早々に助けを乞う訳にもいかないのだから。結局は自力で切り抜ける羽目になってしまった。その結果、あのジジイの目論見は見事に果たされた形になる。まあもっとも、武力に関しては晒すような手札など元より持ち合わせていない以上、試されたのは精神性のみだが――それだけでも“貸し”とするには十分だ。
望む通りに織田信長の行動パターンを探れたのだから、相応の代価を支払うのが当然だろう。
『“借り”は返して貰うぞ、川神鉄心』
そして今回の場合、俺が望む報酬は最初から決まっている。すなわち“調停”だ。報酬と言うか、どう考えても学長として当然の義務なのだが、少なくともそれだけ果たしてくれれば文句は言わない。手に負えないモンスターペアレンツへの対処は、教職員の永遠の課題にして責務である。
「ふん。何とも、傍迷惑な災難があったものだ」
貸し借りに関してはそうした形で清算すれば良いが、しかしこうして胸に残された苛立ちはどうにも消化しかねる。やはりこういう時は至高の甘味たる和菓子を食して心を癒すに限るな――と算段を巡らせた所で、先程から蘭の声を聞いていない事に気付いた。
背後を振り返ってみれば、俺の三歩後ろの定位置にて、何やら暗い顔で悄然と俯いている。
「如何した。蘭」
「信長さま……、あの、蘭は、――いえ、何でもございません……」
「……」
言葉通りに受け取る輩はよほどの愚か者だろう。依然として暗い表情で答える蘭の声は弱々しく、誰の目にも明らかな程に沈み込んでいた。
まず間違いなく何事かあったのだろうが、しかし蘭はこれで頑固な奴だ。変人扱いされるほど織田信長に対して献身的な忠臣たる森谷蘭だが、話したくない事に関してはなかなか口を割らない一面も持っている。このような路上で問い詰めてみたところで無意味だろう。
「ならば、道は一つ」
うむ、何はともあれ、何をおいても重要なものは和菓子だ。和菓子の上品な甘味を噛み締めれば蘭も顔を綻ばせずにはいられまい。善は急げ、との至言も存在する事だし、仲見世通りへと急ぎ足を運ぶとしよう。
国境を越えたドイツ軍の襲来に最初はどうなる事かと思ったが、どうにかこうにか無事に解決出来た事だ。勝利の後に食す和菓子の美味はひとしおだろう、と俺は積もった鬱憤を忘れて、愉快さに口元を吊り上げる。
まさか、このフリードリヒ家に関わる騒動が、未だ解決していないどころか――先の一件が更なる波乱の序幕に過ぎなかったのだという、そんな残酷な現実を俺が思い知らされるのは、まだ先の事であった。
~おまけの弓道部~
「織田信長、相変わらずプレミアムにぶっとんだ“氣”ね。姿も見えないのに、気配だけで肝が縮んだわ……」
「あはは、みんな練習どころじゃなくなっちゃったね、ウメ先生も血相変えて飛び出しちゃったし。だけど椎名さんだけは集中を切らしてないのよね、さすがはウチ一番の有力株」
「……集中力には自信がありますから。というか、周囲の雑音にいちいち集中を途切れさせてるようじゃ弓使いは務まらないんで。正直、笑い事じゃないと思います」
「ちょ、キャプテンに失礼じゃないですかね椎名センパイ!だいたい、いきなり顔を出すようになったクセに上から目線で説教垂れるなんて、プレミアムに失礼な話ですよ」
「あの、武蔵さん、私は気にしてないから、ね?椎名さんがやる気を出してくれたのは嬉しいし、言ってる事だって何も間違ってない。……そうだ、ウメ先生はいないし、折角だから……椎名さん、良かったら私たちに色々と教えてくれないかな?天下五弓の一人にアドバイスを貰えるなんて、願っても得られないチャンスなんだし!」
「……私の弓は実戦重視の弓術で、皆が修めたいのは弓道。あまり深い助言は出来ないけど……それでも良いなら」
「うん、それで十分だよ!ありがとう椎名さん。うわぁ嬉しいなぁ、去年に椎名さんが入部してから、ずっと一緒に部活動したかったの。改めてこれからよろしくね」
「ふっふっふ、すぐに技術を盗んで追い抜いてあげますから、気を抜かないでくださいね?椎名センパイ。プッレ~ミアムな私は弓の道でもトップを目指すんだから!」
「……しょーもない」
いざ書いてみると想像以上に文量が嵩んだので、やむなく二分割。という訳で異例ながらBパートに続きます。
毎度の事ながら、感想を下さった皆さんに心から感謝を。これからも気が向いたら一言でも良いので書き込んでやってください。モチベーションの維持にダイレクトに影響します。
それでは、次回の更新で。