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[14898] 燐・恋姫無双 弐(本編完結)
Name: 水虫◆21adcc7c ID:e06686bb
Date: 2011/06/20 20:47
 
 世界は一つ。そこには人が居て、人として生きている。世界を繋ぐ道、などというものは絶対に存在しない。
 
 魔法も無ければ、竜なんて生き物もいない。存在し、その存在が存在するという、抽象的で普遍的な概念に充ち満ちた世界。
 
 それを、『正史』という。
 
 それとは対極の世界として、『外史』というものがある。
 
 正史の中で発生した想念によって、観念的に作られた世界。それは、ひどく不安定で曖昧なもの。
 
 正史の人間によって描かれた物語は、それを支持し、その物語に想念を寄せる。その想念によって、また違う外史が生まれる。
 
 外史は、それに寄せる想念によって枝分かれし、無限に広がっていく。正史の人々の記憶から無くなり、消えてなくならない限り………。
 
 
 
 
「そして! 『三国志』という物語から派生した外史に『基点』として投げ込まれた凡庸な外史の少年、北郷一刀! 元の外史、そして三国志から派生した外史、そのいずれに於いても理不尽で強引な終端を迎えた少年は今、再び新たな外史に降り立った。別れを拒み、自身の想念を新たな世界に反映させた彼は、何を見、何を感じるのか」
 
「……貂蝉、お前真面目な顔して何言ってんだ?」
 
「うふっ☆ 私も剪定者だからねん♪」
 
 何か一人でぶつぶつ言っていた筋肉だるまは、俺が訊いたとたんに、ペロッと気持ち悪く舌を出して、むわっと熱気が飛んできそうな迫力でキャピキャピしたポーズをとった。あくまでもポーズだけだ。
 
「もう“そっち”系の話は勘弁してくれ。左慈も于吉もいないんだろ?」
 
 気持ち悪いのを突っ込むのを我慢して、かろうじて聞き逃さなかった真面目ワードに釘を刺しておく。
 
「あらん、やっぱり私の事は信じてくれちゃってるわけねい? 私とっても嬉しいわん☆」
 
 背筋が総毛立つ。筋肉隆々の巨体をのそりと一歩近付けた貂蝉から、俺は自分でも驚くほどの反射速度で距離を取り、剣の柄に手を掛けた。
 
「何かおかしな真似したら………」
 
 そこまで言ってから、人間とは思えない、斬っても本当に斬れるのか疑わしい鋼の筋肉を見て、
 
「そのもみあげのトレードマーク切り落としてやる」
 
 標的を、ハゲあがった頭に唯一存在するもみあげの三つ編みに変更した(いや、ハゲてんじゃなくて剃ってるのかも知れんけど)。
 
「ヒッ……! しどい、しどいわご主人様〜! 髪は漢女の命なにょに〜〜〜!!」
 
 両手でもみあげを隠しながら、貂蝉はよよよと泣き崩れて背中を丸めた。ただし、絵的にはまるっきりただの岩石である。
 
「……………」
 
 見渡す賑やかな街は、王都・洛陽。前の世界とよく似た、でも違うこの世界で紆余曲折を経て、俺は今、この街をはじめとしたいくつもの領土を治める君主となっていた。
 
 前の世界でも、大陸を統べた後に都として治め、暮らした思い入れの深い街である。
 
「ほら、いつまで岩になってんだ。お前が変な真似しなきゃ済む話だろうが、まったく………」
 
 何で(一応)一般人のこいつと視察に来なきゃならんのか、激しく遺憾だ。……城に暇そうなやつが誰もいなかったからなんだけど……
 
「乱闘だぁー!」
 
「二つ先の通りで、喧嘩だ! 逆上して刃物まで持ち出してるぞ!」
 
「!」
 
 そんな、ある意味呑気な感慨を吹き飛ばす事件の発生を耳にし、俺はすかさず駆け出した。貂蝉は置いてきぼり。
 
 その、向かう先に………
 
「悪の蓮花の咲く所、正義の華蝶の姿あり」
 
 もう見慣れた光景が広がっていた。
 
 民家の屋根の上、日輪を背に雄々しく立つ三人の正義の味方。
 
「星華蝶!」
 
 黄色い蝶の仮面を付けているのは趙雲、真名は星。
 
「恋華蝶………」
 
 紫の蝶の仮面を付けているのは呂布、真名は恋。
 
「散華蝶」
 
 緑の蝶の仮面を付けているのは鳳徳、真名は散。
 
「三人揃って、ただいま………」
 
 三人とも、この世界で俺を助けて、今も一緒にいてくれる、大切な仲間だ。……これは、彼女ら(主に星の)ヒーロー願望みたいなものなのである。
 
「参上!」
「………参上」
「参上」
 
 微妙に揃ってないけど揃えて叫んだ三人は、同時に屋根から飛び降り、乱闘騒ぎを起こしていた連中の前でビシッとポーズを決めた。
 
「たかだか喧嘩程度ならば可愛いものだが、それに刃など持ち出すようならば、この華蝶仮面が黙ってはおらぬぞ?」
 
 今まで乱闘もそっちのけで華蝶仮面を見物していた連中は、槍を片手に眼をギラつかせて睨んだ星華蝶(星)に怯み、戦意を削がれているらしい。
 
 しかし………
 
「どうせ私は馬鹿だよ! 悪かったなぁーー!!」
 
「そんなん言うとらんやろが! 街中で何考えとんねん!」
 
 その人垣の中心から、華蝶仮面をまるっと無視して、鉄と鉄がぶつかる衝突音が飛び出す。
 
 ……何か、聞き憶えのある声だったんですけど。
 
「おーほっほっほ! おーほっほっほ!」
 
 その正体を確かめるより早く、大気を震わす音……いや、高笑いが響いた。
 
「愛と勇気の名のもとに、艶美な蝶が今舞い降りる!」
 
 見れば、星たちが飛び降りた事でもはや注目していなかった屋根の上に、再び蝶の使者が立っていた。……筋肉隆々の、だが。
 
「華蝶仮面二号! ……改め、蝉華蝶、ただいま参上よぉん!!」
 
 要するに、さっき放置した貂蝉だった。空中でぎゅるぎゅると回転しながら、星たちとは違う、人垣の真ん中に飛び降りる。あの巨体で信じられない身軽さだ。
 
「うわぁーーっ!」
 
「キ、キモい……!」
 
「助けてくれぇ!」
 
 乱闘騒ぎをしていた連中も、仲良く肩を並べて逃げ出した。
 
 人垣の晴れた先に、騒ぎの正体が姿を現した。
 
「やっぱりあいつらか………」
 
 俺は額を押さえて頭を振る。……まったく、何をやってんだか。
 
「うっふっふ♪ オイタはダメよん。二人とも、平時くらいは女の子らしくしなくっちゃねん☆」
 
 両者の間で、戦斧と偃月刀をその豪腕で掴み、押さえている蝉華蝶。その両側にいるのは………
 
「はなへ! 私だって……私らってなぁ!」
 
 華雄、真名は舞无(ややこしい)。どうやら、酔っ払っているらしい。
 
「ううう、ウチが悪かった! 悪かったから放せ! 距離近いねん距離が!」
 
 張遼、真名は霞。こっちは酔ってはいないらしく、偃月刀の間合いより近い位置にまで接近している貂蝉に恐々としていた。
 
「(つまり………はぁ)」
 
 俺は大きくため息をついてから、三人(霞たち)の方に近づいていく。
 
「か、一刀!? ちゃうねん! 別に街中で喧嘩しとったわけや……」
「大体わかった」
 
 何やら言い訳がましく抗弁する霞を制して、俺的状況判断を下す。
 
「今日は非番だからと舞无と二人で昼間っから飲みに来たのはいいけど、少し顔が赤くなった舞无を霞が挑発し、二人の負けず嫌いな性格も災いして飲み比べに発展。当然のように先に酔った舞无が暴走して、霞がそれに応戦。悪ノリした周りの若者まで巻き込んで、いつの間にやら大乱闘……て所?」
 
「さ、さすが一刀〜〜! こないなややこしい状況でも見事にお見通しやん〜〜♪」
 
 感動したみたいに手放しで喜ぶ霞だが、重大な勘違いをしている。今の話を認めたという事は、霞にだって非があるのだ。本人気付いてなさげだけど。
 
「霞ちゃんと舞无ちゃんの今月のお小遣い、半分にしますねー?」
 
「頼む」
 
 凄いナチュラルに返事してから、気付いた。
 
「風ぅぅ!?」
 
「? 何でしょう、お兄さん」
 
 いつ接近したのかもわからないのに俺の真横にいたのは程立、真名は風。
 
「風だけではありませんよ」
 
 さらに、その横には郭嘉、真名は稟。
 
「風さん、本当に一流なんですね。わたし達まで……」
 
 そして、稟に隠れるように鳳統、真名は雛里。
 
「おまえらいつの間に近づいた!?」
 
「そんな事よりも、あちらを何とかした方が良いと思うのですよー」
 
 そう返し、風がゆるゆると指差す先で、舞无が戦斧を掴まれたまままだ暴れている。げしげしと筋肉の塊に蹴りを入れていた。
 
「ほら、舞无」
 
「なんだぁぁっ!」
 
 酔っぱらいの説得は不可能。気絶させるのも可哀想だし、放置は論外。というわけで、俺が何とかしなければならないわけで。
 
「うあっ?」
 
「よしよし」
 
 左腕で軽く抱き締めて、右手でその頭を何度も繰り返し撫でてやる。見る間におとなしくなった舞无は、酔いも手伝ってか、気持ち良さそうに目を瞑る。
 
「少し、おやすみしような?」
 
「うん………」
 
 俺の勘違いでなければ、舞无は俺に好意を寄せてくれている。もっとも、本人に直接確認したわけじゃないから決定してないだけで、確信に近いものはある。だからこんな真似が出来るわけだが。
 
「(……はっ!?)」
 
 何か背筋に冷たい視線を感じて振り返れば、何やら皆の様子がおかしい。
 
 視線は冷たいくせに、同時に、全身から炎のようなものを幻視させられる。……何か、怒ってる気がする。
 
「我らが主は随分と豪気でいらっしゃいますなぁ。こんな街中であのような大胆な行為を平然と行えるのですから」
 
 ニッコリと笑う星の瞳は、全然笑ってない。この丁寧な口調は、大抵の場合は彼女が不機嫌だという合図だ。自分が今、華蝶仮面を演じてる事も忘れてるらしい。
 
「いや、その……な?」
 
 何が「な?」なのか自分でもよくわからない事を言いながら後退る俺。
 
 星とは、その……そういう関係になったりもしているわけで、怒る理由は俺だって理解出来ている。
 
 しかし、怒る理由はわかっていても、怖いもんはやっぱり怖い。
 
 大体………
 
『……………』
 
 星や恋はまだ理解出来るけど、他の連中まで様子がおかしいのは不可解だった。
 
「舞无娘、預かっておきましょうかな、と」
 
 そんな中で、散は一人飄々とした態度を保ち、俺の腕で眠る舞无をふんだくり、俺に、星たちがいるのとは反対側の道を指して示した。
 
「で、走る」
 
「了解!」
 
「「待ぁてぇぇーー!!」」
 
 星と稟のハモった叫びと、それに便乗する皆の気配を背中に感じつつ、俺は駆け出す。
 
 
 時には辛くて悲しい戦いもあるけど、騒がしくて、忙しくて、でも嬉しくて、楽しい。
 
 これが今の、俺の居場所だった。
 
 
 
 
(あとがき)
 はじめまして、作者・水虫です。
 
 本作は、同掲示板にある『燐・恋姫無双』の続編という形であり、先にそちらを読まないと、まったく話が繋がらないと思います。
 
 はじめましての方、無印の方から読んで頂けると嬉しいです。無印から付き合ってくださっている方、今後ともお付き合いくださると嬉しいです。
 
 再び第2シリーズを再開しようと思い、まずはプロローグから、張り切ってスタート!
 
 
(注意)
 本作品は、原作キャラの死が内容に含まれます。
 
 



[14898] 六幕・『雪原の死闘』・一章
Name: 水虫◆70917372 ID:e06686bb
Date: 2009/12/21 16:45
 
「ふむふむ、なるほど」
 
 涼州を平定し、洛陽に戻ってきた俺たち。新たに陣営に加わった散の事やら、久しぶりに戻ってきた俺への何かよくわからんしわ寄せやらが一段落した今日……執務室で報告書に目を通す俺と、その脇で仕事する風、稟、雛里の軍師トリオである。
 
「大体は、予想の範疇内……だよな?」
 
 反・北郷連合を皮切りに、諸侯が慌ただしく動き出している。
 
 華琳がエン州を平定し、袁紹が伯珪の領土・幽州への攻撃を開始、伯珪は応戦。
 
 昔言った俺のアドバイスからか、あるいは連合の時の行動からか、人が良くて油断してそうな伯珪も、ちゃんと抗戦に移れているらしい(まあ、連合の時にそうなるよう仕向けたのは俺たちなんだけども)。
 
 ただ、実質足手まといな袁紹はお留守番で、顔良と文醜が出ているらしいし、兵力差もかなりあるから相当厳しいとは思う。
 
 ここで華琳が、顔良と文醜が留守の冀州を狙えば、袁紹の指揮じゃ一溜まりも無いんじゃなかろうか。
 
「その隙を、我々に突かれるのを警戒しているのではないでしょうかー?」
 
「あ、そっか」
 
 俺のモノローグが読まれている事はこの際スルーしつつ、風の言葉に納得する。
 
 こういう他国の報告書読んでると、ついつい自分たちの事を意識し忘れてしまう。
 
 現に俺が留守の間も、風や稟がこうやって抜け目なく諸侯の動きをチェックしてたんだから、警戒するのは間違ってないわけで。
 
「それに、エン州を平定したばかりで曹操自身の領内も万全ではないでしょう。前に一刀殿自身が言っていたように、東北は文字通りの四面楚歌の状態。勝機があってもおいそれとは動けませんよ」
 
 風に続いて、稟が丁寧に説明してくれる。頼りになる先生たちだ。
 
「……袁紹さんが、そこまで読み取っていたわけではないと思いますけど」
 
 最後の雛里の一言で、微妙に落ちた。確かに、袁紹が考えたわけじゃなく、結果的にそうなってるだけだろう。
 
「んじゃ、次行ってみよう」
 
 パラリと別の報告書を広げる。次は孫策だ。
 
「揚州統一。やっぱりこっちも出てきたなぁ」
 
 気になるのは、袁術と密に連絡を取り合ってるらしいって部分くらいか。
 
 ただ、どっちとも前の世界で面識がないから性格がわからない。何を考えているのか、想像の域をでない。
 
「(とりあえず、宛が隣接してる袁術の動きを警戒しとくしかないか)」
 
 後は、まあ劉表には目立った動きはなく。劉璋や張魯への密偵はまだ帰って来ていないらしい。
 
 そして………
 
「(桃香………)」
 
 黄巾の残党相手に都市を守れず、殺された孔融に変わって青州を治め、その黄巾の残党を討ち、それとほぼ同時に徐州の陶謙と同盟関係を結び、大変良好な関係を築いているらしい。
 
「あの子らしいな………」
 
 つい、口から突いてでた小さな呟きに、俺を今更ながらに口を押さえるが、どうやらバッチリ聞かれていたらしい。三人の視線が、俺の持ってる報告書に集中する。
 
「はぁ………」
 
 稟が、やたら疲れたようなため息をわざとらしく吐く。
 
「あくまでも、民を苦しめる者から民を守るためだけに力を使い、たとえ勢力が違っても民の生活を守る者とは手を取り合い、戦いで大陸の平和を目指す事を望まない」
 
 雛里が、独り言みたいにポツポツと語るのは、おそらくは桃香の事。
 
 両国は、ほとんど自由に互いの領内を行き来して助け合っているらしい。実際、そのやり方で青州と徐州を守ってるんだから大したもんだ。
 
「おうおう! 兄ちゃんはそんなあの子に夢中ってか?」
 
「そういう話じゃなくて!」
 
 風の頭の上の宝慧がいらん事を言うから一応否定しておく。……っていうか、宝慧が微妙にイメチェンしている。
 
 胸に太陽のマークがあるのはそのままなんだけど、何か頭にライオンのたてがみみたいに綿が付け足されてる。羊モードだろうか?
 
「ちなみに、陶謙さんは結構なお歳のお婆ちゃんですよー?」
 
「誰もそんな心配してないってば!」
 
 とか言いつつ、微妙にほっとしたのは黙っておこう。うん。
 
「まあ、この場で正式に今後の動向を発表するわけではないですし、劉備とは国も離れていますから、そこまで深く追及する必要はありません。………しかし」
 
 何やら物憂げな仕草でぼそぼそ言ってる稟の不安そうな目は、何故か伏し目がちに俺を見ている。
 
 っていうか、俺が報告書読んでた時は仕事の片手間に応えてた三人が、桃香の話題になった途端全力でこっち見てるのはどういう事?
 
「ところでお兄さんは、本当に星ちゃんに手を出してしまったのでしょうか?」
 
「ッッ……げほっ、ごほっ!?」
 
 風の突然すぎる質問に、平静になろうと飲んだお茶が喉に詰まる。
 
 以前に星が爆弾発言した時は何とか誤魔化したし、星がああいうおかしな発言するのは珍しくもないからてっきり忘れ去ってくれてると思ってたのに……。
 
「な、何でいきなりそんな話に………?」
 
「……桃香さんの話題が出たからだと思います」
 
 言って、雛里は帽子の鐔を両手で下に引っ張って表情を隠す。
 
「以前から星ちゃんは、『自分は恋愛の達人だ』とか、『色恋の相談なら私に任せろ』とか言って、適当な自分理論をひけらかしていたのですが………」
 
 飴をパクリとくわえながら、風がつらつらと語りだす。………星、皆にもそんな感じにバレてたのかと思うと、若干同情の念が……。いや、風が見破って言い触らしたのかも知れん。
 
「最近は寝ても覚めても歩いても踊っても、いやらしいことこの上なしです」
 
 ビシッ! と風の人差し指が離れた俺に突き付けられる。……そう言われましても。
 
「あいつは元からそんな感じじゃ……?」
 
「お兄さんは見る目がないのです」
 
 失敬な。むしろ星の一番可愛い所は俺しか知らない自信があるぞ。
 
「恋愛で持論を持ち出す時も、妙に言う事が現実的になったというか……。たまに話しだしたら口が止まらなくなりますしね」
 
 ……何か、俺が知らない間にとんでもない事が暴露されてる気がしてきた。
 
 稟がそう言うと、風と雛里がウンウンと頷いた。何だろうこの、妙な連帯感を感じさせる三人の雰囲気は。そして、そんな中で異様なまでに浮く……というより矢面に立たされてるような俺。
 
「ところで一刀殿。先ほどから一度も否定していませんね」
 
「…………………あ」
 
 言われて気付く。と言っても、そもそも俺だって真剣に考えた末の行動で、言葉の上だけでも否定する事など出来ないし、嫌なわけだけども。
 
 ……そもそも、何でこんな頑なに隠してんだ俺は? 星との事は、確かに気恥ずかしいけど……決して恥ずべき事じゃないはずだ。
 
 ………よし。
 
「ああ………俺は、星が好きだ」
 
 胸を張ってればいい。後ろめたい事なんてない。
 
『っ……!!』
 
 何故か、皆の空気が急速に強張る。まあ、自分の所の君主のそういう話を気にしないわけもないんだけど。
 
「……それで」
 
 俺の応えが予想の範囲内だったのだろう。わりとすぐに立ち直って、稟が訊いてくる。何だ? さっきのが一番重要な質問なのかと思ってたのに、どういうわけか今の方が切羽詰まってる。
 
「“桃香殿”の事は?」
 
 敢えて、普段は呼ばない真名で桃香を呼んだ稟が絞りだした問いが、それ。
 
 ちなみに、桃香は義勇軍で一緒だった皆に真名は許してる。ただ、稟の方は許さなかったから、普段稟は桃香を真名では呼ばない。
 
 それを今使うのは、どんな意図があっての事なんだろうか。
 
 ……しかし、確かにこれは最初の質問以上に緊張する質問なのかも知れない。
 
 俺は………こういう立場になるのは初めてじゃない。
 
『たかだか女一人を愛することで精一杯の男になど、興味はありませんからな』
 
『国も、愛紗も、朱里も、翠も、みんな存分に愛してくだされ。そして、そこで得たもので私を満たしてもらえれば……何も言うことはありませんよ』
 
『幸いにも、主は私が惚れるほどの佳き男。さして難しいことではありますまい』
 
 前の世界で、星本人から聞かされた言葉だ。
 
「ああ、桃香の事も好きだ」
 
 目を逸らさずに、断言する。言葉に偽りはない。後ろめたいとも思う必要はない。
 
 無責任、で終わらせるつもりもない。きっちりと責任は取る。
 
 俺の真剣極まりない、しかし元の世界の価値観なら殺されても仕方ない発言の後、奇妙に場の空気が弛緩して………俺は執務室から追い出された。
 
 
 
 
「はぁ……よかったぁ……♪」
 
 一刀殿のいなくなった執務室で、最初に響いたのは雛里の安堵極まる呟き。
 
「……あなたは呑気でいいですね」
 
「え? ……でも、ご主人様が星さん一人を生涯の妃に選ばれるより、ずっと良かったんじゃ……」
 
 雛里の言う事は、もっともではある。一国の王が一人の女性しか愛さないなんてあり得ない。自分たちにも可能性が出てきただけ、喜ぶべき所かも知れない。
 
 ただ、一刀殿は元々は単なる私塾で学ぶ……そう、学生だったはずだから、星一人を選ぶ可能性も十分あった。それが不安で、確かめたくもあったのだ。しかし………
 
「あなたは初めて会った時、一刀殿が啄県を治めていましたからね」
 
 でも、私や星や風は、彼とは完全に対等な関係から始めたのだ。主君に選んだのは自分自身とはいえ、「王だから当たり前」と簡単に受け入れるのは少し難しい。……あとは、雛里と私たちの性格の違いか。
 
「稟ちゃんもすっかり素直さんになっちゃって〜」
 
「………風、うるさいわよ」
 
 非常事態というやつだ。それに、もし星一人が選ばれた場合、一緒に悲しみを分かち合いたかった。……杞憂だったみたいだけど。
 
「にしても、やっぱりお兄さんの反応には少し違和感がありましたねー」
 
「………確かに」
 
 元々が一市井に過ぎないにしては、複数の女性を愛する事に対して落ち着きすぎている。というより、前々から一刀殿には不可解な点が多すぎる。
 
 それが、天界という、世界が違う事によるものなのか、何かの秘密によるものなのかは判断出来ない。
 
 何しろ、私たちは一刀殿の素性について知らなすぎるのだから。
 
『あなた達がそれを知る事自体が、彼の重荷にはなっても、救いにはならない』
 
 貂蝉の言葉が、重くのしかかる。もどかしい。
 
「何にも気付いてない舞无が、羨ましいわね」
 
 心底、そう思った。
 
 
 
 
「あ〜あ………」
 
 追い出されてしまった。仕事もまだ途中なのに、後で戻ってきたら丸々残ってたりするんだろうか。
 
「……………」
 
 表情を確認する暇もなかったし、三人がどう感じたのかわからない。
 
 前の世界では、星はもちろん朱里も、この世界の君主が複数の后を持つ事に疑問すら持ってなかった(やきもちは妬かれたけど)。
 
 けど、前の世界とは決起する以前の行動から何から、色々と違いすぎるし、そもそもあの三人とはこの世界で初めて会った。
 
 失望、されたのか………?
 
「ああっ、くそ………」
 
 こういう時に一番相談に向いてそうなのが人外だっていう事に不満を感じながら、俺の足は街へと向かい始める。
 
 
 
 
(あとがき)
 寒い。非常に寒い。
 年末は忙しくなるしで今のうちにせっせと更新(ただ、そろそろ別作の方も更新せねば)。



[14898] 二章・『不遜なやきもち』
Name: 水虫◆70917372 ID:e06686bb
Date: 2009/12/22 05:06
 
「ご主人様ぁ……。いくら私が練達の漢女だからって、想いを寄せる殿方に別の子の事で相談されるのはちょっぴり傷ついちゃうのよねん?」
 
「そういう微妙に現実味のある冗談はやめろ」
 
 冗談だ。冗談に決まってる。冗談に違いない。と、自分に言い聞かせる俺。でないと今すぐ逃げ出してしまいそうだ。
 
「まあ、私も先輩だからねん。ここは涙を呑んで後輩のために知恵を貸しちゃうわん☆」
 
 ……何の先輩のつもりか知らんが、そこは突っ込まない。出来れば、あまりこいつとこのテの話はしたくないのだ。怖いから。
 
 ちなみにここは街の酒屋。こいつ……は今さら説明も必要ないだろうが、貂蝉だ。
 
「つまり何? 稟ちゃん達が怒ってるかどうかが知りたいのん?」
 
「…………………まあ、そうかも」
 
 長い沈黙を経て、俺は歯切れ悪くそう応えた。“俺がどうすべきか”は自分で決める。というより、俺は俺らしく振る舞う事は変えられない。
 
 俺の、女の子への想い方を稟たちが気に入らないと言ったとしても、星や桃香、恋や舞无への気持ちを切り捨てる気はないからだ。
 
 ただ、稟たちが怒ってるって言うなら、せめてちゃんと俺の真剣な気持ちは伝えて……それで、不愉快な思いをさせた事に限っては、謝りたい。
 
「んー………その様子じゃ、わかってなさそうねん」
 
「は?」
 
 あご髭に手を当てて俺を見ながら、貂蝉はそう言った。「漢女は何でもお見通しなのよん」とその態度が物語っている。だからこそ、不可解だった。
 
「悪いけど、その事に関してはノーコメントを通させてもらうわ。誰のためにもならないし」
 
「おーい……。そんな意地悪言うなよぉ……」
 
「意地悪なんか言っちゃいないわよ。本当に皆のためを思って黙秘してるんだからぁ。もちろん、ご主人様の事もね♪」
 
 取り付く島も無い。貂蝉は意味ありげに笑みを作って俺を見る。前科があるから、こいつの黙秘には若干警戒心が働く。
 
「あなたはもう、人を愛する事も、愛される事も知ってるはず。やれば出来るわよん☆」
 
「……わかってるよ。そんな事」
 
 ちょっと、アドバイスをもらおうと思っただけなのに、冷たいやつ。いや、さっきのも実はアドバイスの内なんだろうか。
 
「大体、稟ちゃん達より先に気にする相手がいるでしょうが」
 
「は?」
 
「星ちゃんの事よん」
 
 いきなり何を言いだすかと思えば………
 
「あのな、お前だって前の世界での俺と星の関係くらい知ってるだろ?」
 
 貂蝉の言いたい事をなんとなく察した俺だが、それは的外れだ。星は、全く嫉妬の感情がなかったわけじゃなかったと思うけど、むしろ周りの皆を焚き付けるような事だってしてた。
 
 ……心配なんて要らないと思うんだけど。
 
「あら、前の世界だなんだのって気持ちは、まとまったのかしら?」
 
「あ、ああ……」
 
 思わぬ所で思わぬ話題を振られた。……この世界に来て、最初は二つの世界を混同して考えてた。その後、完全に別物なんだって自分を戒めた。そして、貂蝉にこの世界の話を聞かされてから、またわからなくなった。いや、明確な解なんてない問題。
 
 でも、俺は俺なりに折り合いをつけた。
 
「俺は……この世界の皆は、前の世界の皆の生まれ変わりみたいなもんだって、思ってる」
 
 この解釈が正しいって決まってるわけじゃないし、“生まれ変わり”なんてもの自体が曖昧な表現だ。でも、言葉にする事で認識の助けになったし、俺が前の世界とこの世界の皆に感じてる感覚を表現するには、これが一番しっくりくる。
 
「ご主人様自身がそう解を出したなら文句はないわ。……で、“それを踏まえた上で”星ちゃんの事、考えてみなさい♪」
 
 貂蝉は、俺が迷ってなきゃ何でも良かったらしい。(俺的には)重大な話題をあっさり流されて、また星の話に戻す。
 
 って言うか、今の話は単なる前振りですか。
 
「(生まれ変わりの星……って認識を踏まえて?)」
 
 確かに、俺がこういう問題に直面した時、いつだって星が基準だった。けど、根本的に性格が変わってるわけじゃ………あれ?
 
「心当たりがあるって顔ねん。前の星ちゃんと、態度が違うと思った事」
 
「けど、それは………」
 
 確かに、今の星は俺を一刀って呼ぶし、扱いも違う事多いけど………
 
「それはほら、この世界で過ごしてきた、今までの経緯とかが違うからだろ?」
 
「もちろん、それもあるでしょう。でも、それだけじゃないと私は思うわ」
 
 もったいぶった口調でウインクしてみせる貂蝉。こいつと外史関連の話と恋愛相談の話を同時進行する日が来ようとは……。
 
「記憶の爪痕、その話は前にしたわよねん?」
 
「……今さら話の前提条件をまぜっ返すなよ」
 
 要らん前置きを一つ入れてから、貂蝉は語りだす。
 
「知らされた世界の真実、乗り込んだ神殿、そこで光に呑まれて消えていく愛する男。その時、星ちゃんはどんな気持ちだったでしょうね?」
 
「ッ………!」
 
 前の世界、皆と築いてきた、何より大切なものを失う恐怖と喪失感を思い出して、俺は自分の胸を押さえる。
 
「必死であなたを求めていたでしょう。恥も外聞も捨てて。何より純粋に、自分の気持ちに従って」
 
 消え去る寸前、俺に向かって手を伸ばす星の、泣き崩れた顔が脳裏をよぎる。
 
「星ちゃんの心の奥には、あの時の恐怖と後悔が染み付いている。だから、前の外史のように飄々と振る舞う事が出来ずに、時々気持ちが抑えられなくなる」
 
「………………」
 
 前の世界の星も、完全に素直になってたわけじゃない……と言いたいんだろうか。
 
「恐れているとさえ言えるわね。自分の気持ちを覆い隠して、後悔する事を」
 
「おいおい、ちょっと待てって」
 
 世界の仕組み云々ならともかく、星の気持ちは俺だって十分わかってる。心を通わせた。
 
 そんな俺の反発を見透かしたように、貂蝉は鋭く言い放つ。
 
「これは一番純粋な女心の話。最終的には女にしかわからない部分の話なのよねん」
 
 ビシィッ! と貂蝉のごつい人差し指が俺を指す。……確かに、言われてみれば相思相愛だからって何でもわかるってのは自惚れな気もしてきたけど。それを一応生物学的にはオスに分類されるこいつに言われるのもどうなんだ?
 
「やきもき妬いたり思い切り甘えたり、前の星ちゃんがかっこつけて我慢してた言動……心当たりあるでしょ?」
 
 ………ああ言えばこう言う。心当たりも、なくはないけど。
 
「それ、お前の妄想とかの類じゃないのか」
 
「とにかく、星ちゃんだから全然気にするはずがない。って考えは捨てた方がいいわよ」
 
 俺の疑問はあっさり無視して、貂蝉は結論を出した。前の世界とか何とかの話までしたのに、結論はえらくシンプルだ。
 
 案外、世の中そんなものなのかも知れない。
 
「……………そうか」
 
 おかげで、俺もある意味シンプルな結論が出せそうだ。
 
 
 
 
「そもそも、女一人しか愛せぬ程度の男になど興味はない」
 
 兵の演習から帰って、風呂で汗を流す間もなく軍師三人組に捕まった。そして食堂で半ば強制的な会談。
 
「……え、桃香さんの事、構わないんですか?」
 
 話の内容は、随分と唐突なもの。いや、そう感じていたのは……私だけだったのかも知れん。
 
「構うも何も、私はあやつの妃というわけでもない。とやかく言う問題でもあるまい?」
 
 完全に悟られている前提で話が進んでいたので、私はいっそのこと開き直って対応していた。
 
 何の事はない。以前のように『恋愛の達人』の顔をして、当たり前のように振る舞う。……一刀への特別な感情はあくまでもぼかして。自分でもズルいと思わなくもない。
 
「星ちゃん、無理しなくていいんですよー?」
 
「だから、無理などしておらんと言うに。私はそこまで器量の小さい女ではござらんよ」
 
 心配そうに語り掛けてくる三人。特に稟は、明らかに一刀に好意を持っていて、それでなおこんな話を私にしてくる。その事実が心苦しい。
 
「不満があるなら、一刀殿に言ってみては? あなたの言葉に耳を傾けないとは思えないし」
 
「ふふっ、そういうおぬしらの方が、不満に感じているように見えるがな」
 
 私は意地悪く薄く笑って、三人に余裕を見せる。
 
「「っ……!」」
 
 予想通りの反応だ。いや、風だけはよくわからんか。
 
「私は私。桃香殿は桃香殿。そしておぬしらはおぬしらだ。他人の顔色など窺っても、ロクな事などないぞ?」
 
 私は、席を立って三人に背を向け、その場を後にする。
 
「……………」
 
 そして、三人の姿が見えなくなってから……
 
「あぁぁ〜〜〜…………」
 
 と、額を押さえてかぶりを振る。
 
「(言ってしまった……)」
 
 もう引っ込みがつかない。いや、さっきの言葉も決して嘘ではないし、この状況に理解も納得もしているのだ。………頭では。
 
『お兄さん、劉備さんも好きだ、って言ってたのですよー』
 
「(一刀…………)」
 
 一刀が桃香殿を気にしていたのは、元々知っていた。一刀と閨を共に過ごして以降、それについて言及しなかったのは、怖かったからだ。
 
 あの時、一刀が自分に向けてくれた気持ちが、言葉が、全て嘘になってしまう事が。
 
 そして今、一刀は桃香殿の事も好きだと断言したという。
 
「(怖い………)」
 
 一刀にとって、私はただの欲望の捌け口に過ぎなかったのか。私と想いを交わした事は、一時の気まぐれに過ぎなかったのか。そんな不安が募る。
 
「………無様な」
 
 主の矛であり、盾。その用途が少し形を変えただけで、何もおかしな事などない。槍を預けるとはそういう事だ。まして、私自身が想いを寄せ、求めた相手。何の不満があるというのか。
 
 立場をわきまえないのは、一刀一人で十分だ。道具? 当たり前の事だろう。
 
 ………そう、わかっているのに。
 
「(情けない……)」
 
 こんな利己的な独占欲と、幼稚な不安に駆られている姿など、誰にも見せるわけにはいかない。
 
 私の矜持がそれを許さない。
 
「(私は………)」
 
 それなのに、自分自身を抱くように回した腕が、解けなかった。ぬくもりが欲しかった。
 
『………怖いのかも知れないわね。対等で心地いい今の関係が変わってしまう事が。そして同じくらい、人の上に立つ事で、彼という人間が変質してしまう事が』
 
 いつかの稟の言葉が、胸に楔のように突き刺さる。とても、冷たい。
 
 事実、もう対等な関係ではない。普段の無礼な態度も、皆が一刀の優しさに甘えているだけ。
 
「(もし………)」
 
 本当に変わってしまったのなら、今の一刀にとって、私は……。
 
 
 全てを納得していたはずなのに、未練がましく、図々しく、そんな痛みを感じていた。
 
 
 
 
(あとがき)
 うむぅ、もっとサクサク進めるつもりだったのに、予想外に日常に尺が……。
 まあ、それは更新速度で補うとして、今日の更新を。
 



[14898] 三章・『不安も、不満も』
Name: 水虫◆70917372 ID:e06686bb
Date: 2009/12/23 04:46
 
 俺が中庭に駆け付けた時、すでにそこは修羅場だった。
 
「「ッ……!!」」
 
 頭と同じ高さで、二人の蹴りと蹴りが真っ正面からぶつかり合う。模擬刀とか槍とかを使ってないあたりに、本当の喧嘩っぽい生々しさを感じる。
 
「貴様、大概にッ………!?」
 
 文句を言おうとした星の顔の真横を、恋の左拳が通りすぎる。いや、星が首をひねっただけで、拳は正確に顔の真ん中を狙っていた。
 
「いい加減にしろ!」
 
 その左腕に交叉させるように、星の右の拳撃が奔る。だが、それは恋の顔に届く前に………
 
「ふっ……!」
 
 恋に取られ、そのまま一本背負いに投げ飛ばされる。投げられた星は、宙で器用に体勢を整え、地面に足から着地した。
 
「あの……散? 一体何でこういう事に……?」
 
 そこでようやく、アホみたいに呆けていた俺は口を開いた。
 
「りーだーのちょっとした発言に過剰反応した恋の暴走、って所なようで。まあ、元を正せば原因は一人かな、と」
 
 そんな俺の横でギャラリーと化してるのは、自分の双鉄戟と二人の得物を抱えてのほほんとしてる散。
 
「原因……俺か!?」
 
「ほう……。自覚があるのは結構ですが、それはそれで自信満々みたいでイラッときますね」
 
 どこまでも呑気に、悠長な事を言っている散である。
 
「そんな事言ってないで止めてくれよ!」
 
「他人の恋事に首を突っ込むと、ロクな目に遭わないので」
 
 そんな間にも、二人の肉弾戦は続いている。恋に押され始めたせいか、星もだんだん眼がマジになってきてるし。
 
「まあ、友情を確かめるためには時として拳も必要かな、と。実際、あたしもよく女将と殴りっこを………」
 
「ああっ! もういい!」
 
 本当に大した事だと思ってないらしい散はもう頼らない。案外正論なのかも知れないが、俺はほっとけない。
 
「星! 恋! やめろって!」
 
 全く反応しない。二人とも、目の前の相手に全神経を集中しているようだった。
 
「(くそっ……!)」
 
 考えてみれば、すぐにわかりそうなもんだった。実際に思う所があるらしい稟たちは、それでも結局は、直接の関係はない第三者だ。
 
 でも、恋は違う。俺に好意を向けてくれてる恋には、嫉妬っていう強い感情が湧く。しかも恋は、かなり直情型だ。
 
 前の世界でも似たような事、あったっていうのに………。
 
「やれやれ……。止めたいですか?」
 
「是非とも!」
 
 いい加減見兼ねたのか、置物からクラスチェンジした散が救いの手を差し伸べてくれる。ああ……さすがはお姉さんだ(見えないけど)、頼りになる。
 
「足を揃えて」
 
「? うん」
 
 何か秘策があるらしい散の指示に従って、俺は気をつけの体勢を取り、
 
「顔を前に突き出して」
 
「? うん」
 
 言われた通りに、顔を突き出し……
「よし、ごー」
 
 た瞬間、尻に結構な衝撃を受けて、俺は無防備に前に飛び出した。
 
 そして向かう先は、蹴りや拳が飛び交う二人の間。
 
「散ーーーっ!!」
 
 前言撤回。全っっ然頼りにならん。
 
「!! か、一刀っ!?」
 
 今初めて気付いたみたいな、可愛らしい悲鳴が聞こえた瞬間……何やら柔らかいものに俺は受けとめられた。
 
 視界には、ただ白い肌の色だけが広がっていて……
 
「…………あれ?」
 
 そこで“来るはずの”恐ろしい怒声が来ない事を訝しげに思って、俺は間抜けな声を上げる。体制的に、“俺を受けとめた星”の顔が見えない。
 
 しかし、そんな俺の疑問は、すぐさま吹き飛んだ。背中の方から、何やら殺気のような気配が高まっていくのを感じる。恋だ。
 
「いでっ!?」
 
 今さらと言うか、星は俺を突飛ばして体裁を保つ。俺は無様にしりもちをつく。ここに到ってようやく、俺はいつの間にか喧嘩に水を差す事に成功している事に気付いた。
 
「れ、恋………?」
 
 しかし、状況はむしろ悪化してる気がしないでもない。無表情な恋の瞳の奥で、冷たい炎が燃えていた。
 
「……いつも、星ばかりが、独り占めする」
 
 怒っている。それは間違いないのに、恋の瞳は寂しそうでもあった。
 
「……一刀は、皆の中心にいる。恋のじゃない。わかってる」
 
 その表情を隠そうとするように俯いた恋の前髪が、その寂しげな瞳を隠す。
 
「でも………」
 
 そこまで言って、恋は顔を上げてキッと星を睨む。そこには、理不尽に反発するような憤激が宿る。
 
「星のでもない……!」
 
 バキッ、と音を立てて、恋は拳を握り締める。そのまま一歩踏み出した所で………
 
「っ………!?」
 
 唐突に止まった。ハトが豆鉄砲でも食らったような顔して虚空を数秒眺めて、ぱちぱちと、何度も瞬きした。
 
「…………恋?」
 
 その様子をおかしく感じた俺が声を掛けると、恋はゆるゆると俺を見て、星を見て、俺を見て、また星を見た。その目には、先ほどまでの憤激は無い。何か、おかしな生き物でも見つけたような目をしている。
 
 そのまま星をじーっと見つめてから、口を開いた。
 
「愛、紗……?」
 
「は?」
 
 全く、脈絡ない単語を呟いた。当然のように、星が怪訝な声を出す。そもそも、この世界で俺たちは愛紗に真名を許されてない。
 
 ………けど、俺には心当たりがあった。
 
「(……記憶の、欠片か)」
 
 前の世界で、恋は同じような理由で愛紗に殴りかかった事がある。多分、今のやり取りでその記憶が蘇ったんだろう。
 
 普通なら“あり得ないはずの情景”が頭をよぎっても、それを口に出したりしない。それを言ってしまうのが恋の恋たる所以だろう。
 
「はい、そこまで」
 
 状況が変な形で硬直したのを見計らってか、散が俺たち三人のど真ん中に進み出る。そのままポイッと槍や戟を星たちそれぞれに投げ渡して………
 
「で、一刀は……」
 
 完全に部屋の荷物整理の口調で俺の胸ぐらを掴み……
 
「あっち」
 
「っとわ!?」
 
 星の方に押しつけた。姉御っぽい強引さだ。
 
「まあ、先にけじめを着けるならそっちかな、と。あたしは子供の世話なら慣れてるので」
 
 言って、散は恋の手を取ってぐいぐいと引っ張っていく。
 
 恋は頭上に?をたくさん浮かべながらされるがままだ。……さすが散。完全にペースをものにしてる。
 
 ……しかも、あの口振りからすると、俺と星の事にも確実に気付いてるな。もう稟たちから話を聞いてるとも思えないし……これが人生経験の差か。
 
「(けじめ、か……)」
 
 隣にいる星を見下ろす。確かに、こんな事態にまで発展した以上、もう悠長に構えていられない。
 
 そして、一番俺の態度を不安に感じているのは、星のはずだ。
 
「……星、行こう」
 
 俺は星の手を引いて、どこへともなく歩きだす。星は、恋の行動がショックだったのか、遠慮がちに俺と繋いだ手に視線を向けていた。
 
 ……俺との事で、内輪揉めになるのに抵抗があるのだろう。でも、繋いだ手を放そうとはしなかった。
 
「……………」
 
 貂蝉が言っていた通りだ。全く星らしくない。戸惑いを隠しきれずに、迷っている。
 
 そのまましばらく歩くと、やがて意を決したようにぎゅっと唇を引き結んで………
 
「……どこへ、行く?」
 
 繋いでいた俺の左腕に、両腕を絡めて、寄り添った。
 
「さあ、どこにしようか?」
 
 不謹慎かも知れないけど、そんな仕草が可愛らしく思えて、俺は少しだけ微笑みかけた。
 
 それを直視してうつむく。でも、絡めた腕を解かない星を連れて、俺は目的地も決めずに歩いていく。
 
 
 
 
 いつから、私はこんなに弱くなったのだろうか。
 
 一刀は、寄り添った私を連れて、まるで自慢するように街中を堂々と歩いた(私の、羞恥心からくる被害妄想なのかも知れない)。
 
 ……それでも、結局腕を解く事は出来なかった。放せば、二度とこの手に戻らない気がして。
 
 馬鹿馬鹿しい。そう、わかっていて……なお。
 
 一刀の腕を引っ張って、人目を避けるようにしていたら……いつの間にか森へと歩を進めていた。……静かで、丁度いい。
 
「桃香殿の事が、好きなのか?」
 
「………ああ」
 
 道中、あまり利かなかった口を開き、気にしていた事を訊く。あっさりと応えは帰ってきた。
 
 ……わかっていた。嘘でも、否定する男ではないと。
 
 一刀が応えた瞬間、抱いた腕に力を込めてしまう自分が情けない。
 
「私の事は…………好きなのか?」
 
「もちろん、好きだ」
 
 こんな言葉で、心奪われてしまっては、一刀の真意など掴めない。なのに………。
 
 くらりとよろけた私の動きに合わせるように、一刀は私の肩を抱き、そのまま二人で草地に腰掛ける。
 
 抱いた肩を引き寄せられると、私の頭は、自然と一刀の胸にもたれかかった。
 
「星も、桃香も、恋も、舞无も、皆大好きだよ」
 
 全てが台無しな言葉……のはずなのに、私の気持ちは冷めない。不満を込めて、頭を軽く一刀の胸にぶつけた。
 
「『俺の力で大陸の平和を!』なんて自惚れるつもりはないけど、自分が好きな女の子くらいは、守りたいんだ」
 
 こんな時に、王の理論。私は……もっと一刀個人として話して欲しかった。
 
「俺が好きで、俺を好きな女の子を、幸せにしたいって思う。……でも、軽い気持ちで接してるわけじゃない」
 
 私は、何を不安に思っていたのか。馬鹿馬鹿しくなる。後宮を侍らせて、女を道具のように扱う。そんな王は、当たり前にいる。
 
 ……でも、一刀はそんな男じゃない。はじめから、わかっていた事ではないか。
 
「覚悟は出来てるよ。皆の気持ちも、俺の気持ちも、蔑ろになんかしない。絶対、俺が皆幸せにしてみせる」
 
 堂々と言い放つ。私だけを愛してくれる。そんな言葉ではなかったけれど、胸に深く響いてきた。
 
「………強欲な、男だ」
 
「……うん、わかってる」
 
 私のわがままを通す事は出来ない。今日の、恋の事でよくわかった。
 
 それに、私のために他の娘の想いを切り捨てる一刀を想像出来ないし……そんな一刀を、私は喜べそうにもない。
 
 一刀へ抱いた、我々の噛み合わない想い。この……どうしようもない問題も全て、一刀に任せてやろう。
 
 私たちの、主なのだから。
 
「……甘えたい」
 
「うん、おいで」
 
 一刀の腕の中では、素直になれる。さらに身を寄せて、間近でその瞳を見つめる。……吸い込まれそうだ。
 
「不安も、不満も……嫉妬も、全部俺が拭いさってみせる」
 
「………バカ」
 
 瞼を閉じて、あごを上向ける。その大言のほどを、示してもらうつもりだ。
 
「大好きだよ、星」
 
 唇に唇が重ねられ、頭が蕩ける。今まで築き上げてきた自分自身が、一人の男に染められていくのを感じながら、私は身も心も、全てを委ねた。
 
 
 
 
(あとがき)
 とはいえ、今回は特にあとがく事ないかも。
 あまりにあっさりと“周りが”ハーレムを認めるのもあれなので、必要な回でした。
 
 



[14898] 四章・『知ってる気持ち』
Name: 水虫◆70917372 ID:e06686bb
Date: 2009/12/27 12:31
 
 散は……よくわからない事を言う。
 
『まあ、恋の気持ちはわかる……とは言いませんが、とりあえず一刀を信じて待っていなさい。後で思い切り甘えればいいかな、と』
 
 わからないけど、わかりやすかった。
 
『どうして貴殿は、そんな風に断言出来るのですか?』
 
『ご主人様が、星さんと二人でいなくなった……という事は……』
 
 ……稟や雛里は、そんな風に散に食ってかかってた。
 
『あたしは恋愛経験は無いので、確かに皆さんの気持ちには共感出来ませんけどね。だからこそ客観的に物事が見える、とだけ言っておきましょうか』
 
 散は、何でもお見通しみたいな顔をしてる。恋より年下にしか見えないけど、ホントは恋よりずっと年上って言ってた。落ち着いてる。
 
 その後、玉座の間で、散の言う通りに皆おとなしく待ってた。途中で、霞や風も混ざった。
 
 散と風が作った、一刀の国の札遊びもした。青龍、白虎、朱雀、玄武の四種類の絵柄を、それぞれ十三枚ずつ、番号を書いて用意して、妖術使いの特別な札を二枚用意して遊ぶ。斗蘭符(とらんぷ)って言うらしい。
 
 そんな事をして待ってたら、月が上がってくる時間に一刀が帰ってきた。星は、一刀の腕を寝台みたいにして、仰向けに抱えられてた。
 
 また胸が、チクッて、なる。
 
 でも、それより気になった。一刀が、別人みたいに落ち着いてた。
 
 
 
 
「俺が、好きな皆を幸せにしてみせる」
 
 俺は、星にも告げた決意表明を、皆の前で堂々と宣言する。恋はもちろん、稟たちだって仲間の不和を望んじゃいないだろうから、無関係ってわけじゃない。
 
「うわぁ……。断言したよこの人」
 
 予想通りと言うか何というか、真っ先に散が、わざとらしい仕草で引いてみせる。
 
 ……こいつの事だから、俺の結論すらも読んでいたんじゃないかと、俺は疑ってたりする。
 
「ちょ、何でいきなりそないな事になっとるん……?」
 
 事態をまるで飲み込めてないらしい霞は、結構な狼狽ぶりだ。いつぞやの星の爆弾発言も、冗談だと思ったままだったに違いない。
 
 しかしまあ、ツチノコ並に珍しい『寝てる星』を姫抱っこで俺が連れ帰ったという事実を目の前にしたわけで、無理矢理にでも理解せざるを得なかったんだろう。
 
 口をぱくぱくさせながら、それでも事実を飲み込むように、霞は宙を見つめながら、何度も頷いていた。
 
「「………………」」
 
 稟と雛里は、何だろうか。上手く表現出来ない顔で沈黙を通していた。これは……呆れてるんだろうか。
 
 そんな、何とも言い難い微妙な空気を、二人の師弟が破る。
 
「まあ、お好きなようにすればいいんじゃないですかー? とりあえず、あんまり関係のない風たちは退散させてもらいますねー♪」
 
「近くにいると、何されるかわかったもんじゃありませんし、ね」
 
 風が、稟と雛里の袖を引っ張り、散が星を背負って、霞の手首を掴んで引っ張っていく。そのまま、退室。
 
「「……………」」
 
 残された玉座の間には、俺と恋の二人だけが残された。
 
 
 
 
「ちょ、散! ええ加減放さんかい!」
 
 手首を掴まれていた霞が、強引に手を振りほどく。そういえば、現状を一番理解していないのは彼女だったか。
 
「一体どういう事やねん、これは!」
 
「どうもこうも、先ほど見た通り、『北郷一刀の肉欲祭計画・前編』、ですよ」
 
 夜なのに廊下で騒ぐ霞に、わかりやすく説明するあたし。
 
「わけわからんわ!」
 
 わかりにくかったらしい。でもまあ、さっきの一刀の話は聞いてただろうし、無理に今話す事もないか。
 
「一刀は好きな子を悲しませないって言ってるので、まあ大して気にする事ないのかな、と」
 
「…………うぅ〜〜、そか。そもそもウチにはあんま関係ないしなぁ」
 
 実際、霞が一刀を恋愛対象として見てるのか、あたしにはよくわからない。本人もわかってなさげな雰囲気である。
 
「雛と軍師さんは、安心しましたか?」
 
 師に引っ張られている二人の少女に声を掛ける。恋を除けば、一番今回気を揉んでいたのはこの二人だろう。
 
「はい……♪」
 
 雛は明らかにご機嫌。別に一刀が彼女を好きだと言ったわけではないのだが……。頭がいい割りに抜けてる。
 
「……多少納得いかない部分はありますが、張本人が責任を取れると言っているのですから、良しとしましょう」
 
 対称的なのは軍師さんだ。言葉の通りに納得出来てない……しかしどこか安堵の混じる顔でため息などついている。
 
「まあ、実際口だけとも思えませんけどね」
 
「? 何や散、随分一刀の事買っとるんやな」
 
「買う、というより、ここに現物がありますから」
 
 霞の疑問に応え、あたしは背負ったりーだーをあごで指す。皆の視線が一斉に集まる。
 
「はぅ、うぅ……ん………」
 
 あどけない寝顔を上気させて、その白い肌をほんのりと桜色に染めている。
 
 子供のような純真さと、大人のような艶が同居する、同性のあたしでも一瞬ドキッとするような魅力が溢れていた。
 
 全て、一刀への純粋な恋心が為せる業だろう。そして、これが一刀なりの解。誰一人悲しませない決断。
 
「……まあ、本気で一刀と恋仲になるつもりなら、“こう”なる覚悟はしとくんですね」
 
 まさに骨抜き。旦那は女将の尻に敷かれていたし、やはり一刀がおかしいと見るべきか。理解に苦しむ。
 
『(………コクッ)』
 
 あたしと師を除いたこの場の全員が、りーだーの顔を見ながら、顔を真っ赤にして控えめに頷いた。
 
 
 
 
「(えっ、と………)」
 
 夜も耽る玉座の間に、俺と恋の二人きり。しかも前後の会話が会話であり、何とも言えない緊張が……。
 
「………?」
 
 ……感じてるのは俺だけだけど。
 
 覚悟は決めたし、昼間の顛末を考えれば、すぐに恋のフォローが必要なのはわかってたけど、ここまであからさまに二人きりにされると………。まったく、風と散め。
 
「一刀は、皆、大切……」
 
「ん?」
 
 恋はそんな場の空気などお構い無しだ。俺に言ってるのか独り言なのかわからない口調で呟く。
 
「………恋も?」
 
「……うん、恋も」
 
 恋には敵わない。一瞬で、無自覚に、穏やかな空気に引き込まれてしまう。
 
「俺は恋の事、好きだよ」
 
「ッッ……!!」
 
 自分で訊いたくせに、真っ赤になってうつむいてしまう。……可愛い。
 
「あ………」
 
 愛しい気持ちのまま、恋を抱き締める。腕の中で、小動物みたいに恋の体が跳ねる。
 
 “俺から”抱きつかれたのは、多分これが初めてだからだろう。……“この世界では”、の話だけど。
 
「………恋、これ、知ってる?」
 
「………ん?」
 
 恋の、“普通なら”おかしな言動。けど、そろそろ慣れた。余裕を持って訊き返す。
 
「胸、ふわって、する。むずむずする。一刀、仕事とか、星とか言うと、チクッてする。……これ、恋、知ってる」
 
「………うん」
 
 思った、通り。前の世界の感覚だ。恋は、それをそのまま受け入れてる。
 
「恋は、知ってるかもしれない。……俺も、知ってるから」
 
「……知ってる?」
 
「うん」
 
 誤魔化すように、恋の体を抱き上げる。さっき、星のお姫様だっこを羨ましそうに見てたのを、俺は気付いていた。
 
「部屋に、行こうか」
 
「? ………うん」
 
 ………………
 
 窓から月明かりの照らす寝台に、ゆっくりと恋を下ろす。体は離さない。そのまま覆い被さるように、唇を重ねる。
 
「んっ……ちゅ……かず、と……?」
 
 しばらく唇を合わせて、離した後、不思議そうな声を上げる恋。どこか、夢うつつに瞳が揺れる。
 
「可愛い、恋」
 
「ふあ……!?」
 
 たまらない気持ちになって、思い切り抱き寄せる。俺の頬に、恋のやわらかい頬がぴっとりと触れた。
 
「……俺、恋が欲しい」
 
 唇を奪った後に言う台詞じゃない。でも、恋の気持ちは十二分にわかっていた。
 
「恋……を、欲しい?」
 
 不安になるのは、自分を好きでいてくれているか、わからないからだ。
 
「……うん。こんなに可愛い恋を。俺の恋に、したい」
 
 不安になんかさせない。俺がどれだけ恋を好きか、気持ちを全部ぶつける。
 
「一刀の……恋………」
 
 その響きが気に入ったのか、口の中で何度も繰り返す恋が、たまらなく愛おしい。
 
「一刀が、恋を、欲しい……?」
 
「ものすごく」
 
 我慢するのが厳しい。でも、まだ戸惑いの中で俺の伝えた気持ちを飲み込んでいる恋を……俺はもう少し見守らなきゃいけない。
 
「……一刀に、あげる」
 
 俺の……恋にすればわかりにくい言い回しの意味を、ちゃんとわかってる保証はない。
 
 でも、その瞳が、言葉に込められた響きが、恋の気持ちをダイレクトに俺に伝えてくれた。
 
 俺になら、何をされても構わない。そんな気持ちを。
 
「一刀のに、して……」
 
「恋………!!」
 
 純真無垢に過ぎる想いを受けて、俺は、ありったけの愛情を恋に向けた。
 
 
 その頃………
 
「かず、とぉ………にへへ……♪」
 
 自室で、とある少年を模したぬいぐるみ(自作)を抱き締め、顔を埋めて、何も知らずに幸せな夢に溺れている、銀髪の女がいた。
 
 
 
 
(あとがき)
 ここ最近、ぐだぐだ防止のために端折れる所は端折ってたら時系列がわかりにくかったらしいので、説明を。
 
一・一刀、稟たちと執務室で話をする。星、恋、散は演習。
 
二・一刀、街で貂蝉に相談。ここで星たちが城に戻り、稟たちに話を持ちかけられる。恋はその雰囲気に何か嫌なものを感じながらも退散。
 
三・星のちょっとした発言に恋の繊細な心が暴走、喧嘩に発展。ここで街から戻ってきた一刀が鉢合わせする。
 
四・一刀が星を連れ出す。恋は散に諭され、稟たちも交えて待機。
 
五・一刀、星を連れて帰還。皆に気持ちを表明し、そのまま成り行きで恋と二人きりになる。
 
六・ベッドイン
 
 となります。ちなみに舞无は非番。ずっと自室に籠もって一刀人形の製作に勤しんでました。
 
 



[14898] 五章・『その道を歩くために』
Name: 水虫◆70917372 ID:e06686bb
Date: 2009/12/24 11:46
 
 星の不安や、恋のやきもち騒動も一段落。皆がいつも通りに……いや、星と恋は前よりも元気になって、また日々は巡り始めた(と言っても、あの騒動は稟たちの話を聞いてから丸一日で終結したのだが)。
 
 それから、三日ほど経ったとある日の事である。
 
 
「曹操が?」
 
「遅ればせながら、皇帝の即位を祝したく思い、臣たる自ら足を運んだ次第にございます、だってさ」
 
 華琳の使者がこの洛陽にやって来て、その旨を先んじて伝えてきた。要するに、華琳自身はもう洛陽に向かって来ているという事だ。
 
「貴様な……今は“阿斗”ではない。公私を混同させるでないぞ」
 
「うっ……? これは失礼致しました、陛下!」
 
「……それもよせ、気持ちが悪い」
 
 ちなみにここは協君の私室。協君の注意に、ビシッと敬礼で返したらダメ出しされてしまった。難しいお年頃である。
 
「……して、これをどう見る? 情けない話、朕にはロクな判断がつかぬ。今さら即位への祝辞など、何か裏でもあるのか?」
 
「んー、どうでしょう?」
 
 俺は床にあぐらをかいた状態で首をひねる。寝台に腰掛けてる協君を見下ろす形はよろしくない。礼儀云々じゃなく、でかい相手に見下ろされるのは圧力が掛かるだろうから。
 
「祝辞と言いながら、いきなり都に攻め入って来るのではあるまいな……」
 
「それは無いですよ。曹操の性格的に」
 
「……断言しおったな」
 
「敵ながら、ちょっとした付き合いがあるんですよ。それなりに性格はわかってます」
 
 とはいえ、わざわざ華琳自らが出向いてくるとは、いや、そもそも皇帝即位を祝うなら、人づてなんて真似はしないか。
 
「しかし……随分と面の皮の厚い者だな。あの戦いの後、のこのことこの洛陽に顔を出すとは」
 
 確かに、反・北郷連合を立ち上げた諸侯は、誰一人として即位の祝辞になんて来なかった。いや、連合に参加しなかった勢力も、“魔王・北郷”を恐れてか都には現れない。
 
 とはいえ………
 
「面の皮が厚い、ってわけじゃないですよ。あいつの場合」
 
 後ろめたい事があっても、それを自覚してるなら、逃げずに頭を下げる。華琳はそういうやつだ。
 
 もっとも、あの戦い自体は華琳にとって覇道への通過点だったはずだから、後悔なんてしてるとは思えない。気にしているとすれば、それは……夏侯恩が使ったと思われる毒矢の事くらいだ。
 
「曹操なりに、思う所があるんでしょう。自分自身で出向くほどに」
 
 漢王朝に特別な思い入れが無いのは、前に話した時にわかってる。祝辞は建前だろう。
 
「……それは、貴様にか?」
 
「……ええ、おそらくは」
 
 相変わらず、協君は歳不相応に聡い。でも、俺にとって都合の良い情報だけ伝えるんじゃ、本当に傀儡と変わらないから、正直に話す。
 
「協君への祝辞は、堂々と洛陽に来るための建前みたいなものでしょう。漢王朝に忠実、って柄じゃないですから。……俺と同じで」
 
「……よい。事実、今の王朝は忠節に足る存在ではない。それで、どうする? 素直に祝辞を受けるのか?」
 
 本当なら、決定を俺に委ねるべきじゃない。文面には俺の名前なんて一言も書いてないし。でも、『自分で考えて決めろ』、なんて歳でもないし。
 
「……まあ、“俺の意見を聞いた上で”協君が決めてくださいよ」
 
 そう、前置きしてから、俺は自分の意見を並べた。
 
 
 
 
 懐かしい。いや、そうでもないか。色々な事がありすぎて、随分と久しぶりな気がするだけだ。
 
 王都・洛陽。
 
「何も、華琳様自ら出向かなくても………」
 
「汚れた衣を纏ったままでは、堂々と覇道を歩く事なんて出来はしない。私の矜持が許さないのよ」
 
 私の斜め後方で、未だにぶちぶちと駄々をこねている春蘭が可愛らしい。
 
「危険は百も承知よ。だからこそ、あなたを連れてきたんじゃない」
 
「華琳様ぁぁ………」
 
 褒めてあげると、陶酔したように顔を弛ませた。……今度は逆にいじめてみたくなるような顔ね。
 
 本来なら、こういう護衛は親衛隊である季衣や流琉の役目なのだけど、陛下へ直接ご尊顔を窺う以上、それなりの官位が必要。
 
 魏において、それを持つのは私を除いて春蘭一人。腕も我が軍最強なのだから、問題はないけれど。
 
 しばらく春蘭で遊びながら、あくまでゆっくりと進軍した先の、都の城門。そこで………
 
「よ、曹操」
 
「………………」
 
 呑気極まりない声が、私に掛けられる。こいつには、警戒心というものがないのかしら。
 
「……北郷。あなた、こんな所で何をしているのかしら?」
 
「何って……お出迎え?」
 
「私に訊かないでちょうだい………」
 
 相も変わらずふざけた男だ。今まで気を掛けていたのが馬鹿馬鹿しくなる。
 
「そんな呆れた顔するなって、最低限の礼節ってやつだよ」
 
「あなたがそれを言っても、説得力の欠片も無いわよ。大体、あなた自身が出てくる必要がどこに……!」
 
 何となく頭に来た。その勢いのままにまくし立てようとして、やめた。私は何で宿敵に説教などしてやろうとしているのか、反動で一気に消沈する。
 
「大丈夫?」
 
「……慰めないで。余計に虚しくなるから」
 
 力の弱い勢力が、誠意を見せて取り入ろうとする場合なら、こんな態度も不自然ではない。
 
 だけど北郷は、それに全く当てはまらない。むしろ、魔王として諸侯全てに恐れられている人間。軽率にもほどがある。
 
 ……いや、私がとやかく言う事じゃないのだけれど。
 
「まあいいけど、曹操の軍を街に入れるわけにはいかないから、外で待機させといてくれ。んじゃ、行こうか」
 
 横に華雄を従えた北郷が、人の気も知らないで歩きだした。
 
 
 
 
「何も考えてないわけじゃないって、都に軍は入れられないから、曹操は暗殺とかの心配してたろ?」
 
 城へと続く街道で、北郷は弁明するように喋っている。こんな間の抜けてそうな顔をして、諸侯が集まった連合をバラバラにするのだからわからない。
 
「それで?」
 
「曹操は、俺が真横にいたらいざという時にすぐバッサリやれる。保険が一つ出来るだろ?」
 
「何が保険よ。意味がわからないわ」
 
 天の人間というのは全く理解出来ない。いざという時私に斬られる事が、何の保険になるというのか。
 
「だーかーら! 俺がこうやってりゃ、暗殺とかしませんよって意思表示になるだろ?」
 
「……………」
 
 その発言で、私はようやく、『保険』という言葉が“私に対して”使われていたらしい事に気付く。
 
「(まったく、この男は………!!)」
 
「あなたね……。私がその気になれば、本当にすぐあなたの首なんて落ちるのよ?」
 
「だろうね。けど、曹操はやらないよ」
 
 疑問ですらない、断定だった。忌々しい。
 
「前に言ったはずよ。王とは孤独なもの。敵を信じるなど愚の骨頂よ」
 
「俺も言ったはずだよ。それは君の価値観に過ぎない。俺には俺のやり方がある」
 
 あぁ……今わかった。何故この男を見ていると、イライラするのか。
 
「その甘さのせいで、あなたは大陸を脅かす魔王にまで貶められた。違う?」
 
「まあ、そうだけどね。信じた事を後悔はしてないから」
 
 この男と話していると、私の信じるものを、真っ向から全否定されているような気がするからだ。
 
 以前なら好ましくすら思えたその反発が、今は何故か疎ましい。口ばかり達者な愚者の妄言に聞こえた。
 
「あなたはっ……!!」
 
 大声で怒鳴りつけそうになって、ここが都の街の真ん中である事を思い出して、思いとどまる。
 
「(何をやっているの、私は………)」
 
 こんな事をしに都に来たわけじゃ、ないのに。
 
 後ろでは、春蘭と華雄が武器を握り締めて私たちの様子を窺っている。
 
「…………北郷、あなたは何もわかってはいない。相手が拳を握っていれば、怖くなって殴り返そうと思ってしまう」
 
 自分で、自分が不思議だった。どうして、この男の事になると、私はこうまでムキになるのか。
 
「殴られるかも、殴られるだろう。殴られる前に、殴ってしまえ……。力とはそういうものよ」
 
 私一人が噛み付いているみたいで、無性に気に入らなかった。
 
「殴って、殴って、殴り抜いて……降った相手を私は慈しむわ。そうして、殴る相手がいなくなった先に、平和が訪れる。……たとえ一時のものに過ぎなくても」
 
 一泡、吹かせたくなった。歩くうちに、丁度良く人通りのほとんど無い所に来ていた。
 
「あなたが仲間と呼ぶ部下ならまだしも、宿敵たる私までも信じるなんて、そんな薄っぺらな信頼を掲げるのはやめなさい。そういう口先だけの偽善が、私は一番嫌いなのよ」
 
「俺はこれでも真面目なんだけどね……。ま、偽善ってのは否定しないよ。俺はやりたいようにやってるだけだし」
 
 私は素早く、大鎌・『絶』に手を掛ける。華雄がそれに反応して動いた。春蘭が、その華雄に反応して動く。
 
「「「ッ………!!」」」
 
 一瞬の、交錯。私に向けられた華雄の戦斧を、春蘭の大剣が受け止め、私の大鎌が……北郷の喉元に突き付けられていた。
 
「曹操っ……貴様ぁ!!」
 
「かっ、華琳様!?」
 
 主に突然斬り掛かられた華雄はもちろん、春蘭まで困惑な瞳で私を見る。当然だ、今の私は少しどうかしている。
 
「……………」
 
 春蘭を信じて、敢えて初動を僅か遅らせた。北郷が剣に手を掛け、私はその剣を弾いて、言うのだ。
 
 『ごらんなさい、本当に信じているなら、なぜ私が少し力をかざしただけで剣に手を掛けるのか』、と。その口先の言葉を嘲笑ってやるつもりだった。
 
 しかし………
 
「舞无、興奮しないの」
 
 北郷は剣に手を掛けるどころか、眉一つ動かさずに私を見ていた。特に怯えた様子もない。……どこまでも、思い通りにならない男だった。
 
「はあっ……わかったわよ。今日の所は私の負けよ」
 
 何だか、色々な鬱憤が、どうでも良くなった。ここまでくると腹も立たない。
 
「この街であんまりそういうパフォーマンスしない方がいいぞ。反・北郷連合に参加してた勢力、あんまり良く思われてないから」
 
 またわけのわからない単語を使いながら、北郷は華雄を後ろから抱きしめて押さえている。……何故だか腹が立つ。
 
 まったく、どうやったらこの男は………
 
「(っ……!?)」
 
 そこまで考えた所で、自分の脳裏によぎった言葉に愕然とする。……本当にどうかしている。
 
「非礼を詫びましょう。北郷一刀。先ほどの、そして……連合との戦いで起きた、我が軍の恥を」
 
 そう、あの失態に、少なくとも正面から相対さなければ、私は前に進めない。
 
 だから今日、ここに来た。
 
「もうこの先、我が矜持に恥じる事は二度と無い。高き誇りを持って、覇道を歩む事を誓いましょう」
 
 自己満足、北郷は自分の理想を、そう言った。
 
 結局、私もそうなのかも知れない。
 
 
 
 
(あとがき)
 今回、かなり勢い任せに書いた感が……。あまりにあれだったら書き直しも考慮に入れようかと思いつつ、そろそろ本筋を進め始めます(けど、そろそろ年末で忙しくなる)。
 
 



[14898] 六章・『提案』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:e06686bb
Date: 2010/02/05 08:19
 
「うっ、噂はやはり本当だったのかえ!?」
 
 天幕の下、無駄に豪勢な黄色い着物に着られているような、蜂蜜色の髪の幼女が飛び跳ねる。彼女こそ、名門袁家に名を連ねる袁術だ。
 
「そ、北郷一刀から渡されちゃったんだけど、私みたいな田舎者には不釣り合いなのよねぇ〜」
 
 その正面で、一つの印をこれみよがしに摘んで見せている女。江東の小覇王の異名を持つ孫策だ。その隣には、彼女の右腕たる周瑜の姿もあった。
 
「そ、そうであろそうであろ! 何と言っても皇帝の証! 気品と官位と格式のある……そう、まさに妾のような者にこそ……」
 
「きれー………」
 
 袁術、そしてその家臣にしてお守り役を勤める張勲も、その印を心奪われたように見つめている。
 
 その印こそ、連合を瓦解させる引き金の一つ、玉璽。
 
「そうそう、私もねぇ、袁術ちゃんみたいな偉〜い人がいいと思って♪」
 
「ほ、ホントかぇ!?」
 
 その言葉に、辛抱堪らずと言わんばかりに袁術は飛び付いた。しかし、孫策が摘んでいた玉璽はすいっとその手を避ける。
 
「お嬢様っ!」
 
 危うく地面に口付けしそうになった袁術の体を、張勲が後ろから抱き止める。
 
「でもねぇ、田舎者には田舎者なりに、ささやかな願望はあったりするのよ」
 
「が、願望……?」
 
「そ♪」
 
 目の前に、今まさに崖に落ちる寸前の秘宝があるような焦りに満ち溢れる袁術の顔に向けて、孫策はにっこりと微笑む。
 
「とりあえず命が惜しいかな。それに、私の可愛い兵たちに、無駄な犠牲も強いたくない」
 
「? ……どういうことかえ?」
 
 話の流れは完全に孫策が掴んでいる。だめ押しとばかりに、また袁術の眼前で玉璽を揺らす。
 
 左右に揺らす玉璽の動きに合わせて、袁術の体もゆらゆらと揺れていた。まるでその心をそのまま表現したような動きだ。
 
「多分、これからすぐになるかな……。私たちが窮地に陥ったら、助けてくれる?」
 
「も、もちろん助けるのじゃ! 妾と孫策の仲ではないか」
 
 袁術の眼には、玉璽しか映っていない。
 
「ありがと袁術ちゃん。じゃあ、本当に助けてくれたら、これはあなたに差し上げるわね」
 
 そう言って、孫策は意地悪くゆっくりと玉璽を袋の中にしまい込む。その様を、袁術はおもちゃを奪われた子供そのままの表情で見やる。
 
「信じてるわよ、袁術ちゃん♪」
 
 言い置いて、孫策は天幕を去る。
 
「(馬鹿すぎるわ)」
 
 完全に玉璽に目を奪われ、何一つ疑問を持っていない袁術と張勲に、孫策は口の中だけで小さく呟く。それが二人の耳に届く事はない。
 
 袁術と張勲しかいなくなった天幕で、僅か沈黙が流れ………
 
「くぅ〜〜………七乃! 七乃! ついに夢が……妾が皇帝に……!!」
 
「わーすご〜い! 連合参加前に私が言った無責任な発言がまさか現実に〜!」
 
「うむ! そうであろそうであろ! 妾が皇帝になった暁には、蜂蜜の泉を作って、それを浴びるほどに食すのじゃ!」
 
「わー、さすが美羽様! 天下の皇帝になるって言うのにその俗物的な欲望が素敵すぎます!」
 
「褒めてたも褒めてたも! そうじゃ! 七乃には杏仁豆腐の城を作ってやるぞえ!」
 
「美羽様、ありがとうございます♪」
 
「妾は、妾は皇帝になるのじゃー!」
 
 二人は延々とはしゃぎ続けた。
 
 
 反・北郷連合の戦いの渦中。今から、数ヶ月前の出来事だった。
 
 
 
 
(ヒュン!)
 
 軽快に風を裂いて、剣を一閃させる。うん、青紅の剣に負けず劣らずの振り心地だ。
 
『私が借りを返すまで、それはあなたに預けます』
 
 借りってのは、毒矢を使った事を指してるのか、連合の時に追い返された事を指してるかで意味が変わってくるのが怖い所。
 
「ふっ!!」
 
 少し強めに踏み込んで、体重を乗せて斬り上げる。
 
『夏侯恩は、私に心酔し、その剣を命より大事にしていた。あなたに託せば、少なくともそこらの雑兵に拾われる事は避けられると考えたのでしょう』
 
 俺の腰の青紅の剣をじっと見てから、華琳はこの剣を手渡した。
 
『私があなたを跪かせるまで、少しは剣に見合う男になっておく事ね』
 
 『倚天の剣』。青紅の剣と対を為す宝剣で、『天をも貫く』って意味らしい。
 
「(華琳も、記憶が戻ってたりするのか……?)」
 
 何か、ちょっと様子がおかしかった気がする。何でもかんでもそっち方面に結び付けるのもどうかという気はするけど。
 
「(どうするかねぇ)」
 
 元々、話し合いで納得するような性格でもない。実際、俺も考え方に共感出来る部分はあるし、大陸平定のために武力を行使する事は否定しない。
 
 だから、正面衝突は避けられないだろう。問題はまあ、何て言うか、平たく言えば桃香たちが心配。
 
 華琳は、大陸を自分っていう一つの御旗の許にまとめあげるためなら、武力行使も厭わない。“別なこだわり”はあるみたいだけど。
 
 逆に桃香は、大陸をまとめあげるって目的は同じだけど、その手段に武力を使うのを嫌う。民を苦しめる相手には力も使うけど、華琳はそれには当てはまらない。
 
 あの二人、とことん噛み合わせが悪い。連合の時の凸凹っぷりからもそれは明らかで、しかも俺と桃香の国の間に華琳の国があるという不都合極まりない位置関係だ。
 
「どうだ?」
 
「最高」
 
 石造りの階段に腰掛けて、中庭の俺の素振りを見ていた協君に軽く応える。ちなみに今は政務が終わった後の自主練なので結構夜遅い。子供は寝る時間である。
 
「そちらではない。曹操から、何かおかしな接触はなかったかと問うておる」
 
「んー、どうでしょう? ちょっと変だった気もするし、相変わらずな感じだった気も………」
 
「はっきりせんな」
 
「ごめんなさい」
 
 毒矢の事がずっと頭に引っ掛かっていて、それを精算したかったのかも知れないけど、あいつの言動は謎掛けみたいなのも多いし、何か他に目的があった可能性も捨てきれない。
 
「まあ、無事事なきを得て良かったじゃないですか」
 
「貴様の無礼な振る舞いも、悟られずに済んだし、か?」
 
「う………」
 
 元々が建前だっただろう事もあり、華琳の祝辞は随分とあっさり終了。献上品を置いてその日のうちに帰って行った。
 
「美酒など渡されても、朕は酒の味などわからんのだがな」
 
「まあ、いくら何でも早すぎますよね。俺の故郷だと、未成年は飲酒禁止だし」
 
 滅多にない珍客という出来事に、俺と協君は他愛ない会話を続ける。……そう、この時はそう思っていた。
 
 
 
 
「お久しぶりね、北郷一刀。わざわざ出迎えてくれたりした?」
 
「まあね。……最近は、君主自らが敵地に乗り込むのが流行ってるのか?」
 
「流行る?」
 
「いや、別に」
 
 華琳が祝辞に来た、そのわずか三日後、俺は再び似たような状況下に置かれていた。慌ただしい事この上ない。
 
「私、国に関わる大事な判断は自分自身の眼でしたいのよねぇ。周りは反対してたけどさ」
 
 余裕ありそうなのんびりとした口調で話す、桜色の髪の女。連合との戦いの最中、俺を絶体絶命にまで追い込んだ孫策だった。
 
「策殿の勘は、良く当たるからの。うちの軍師などは文句を垂れておったが」
 
 その隣には、銀髪の長い髪と、呉ではよくいる褐色の肌を持つ女傑。強いのは何となくわかるけど、知らない顔だ。
 
「その周瑜は、一緒じゃないのか?」
 
 二人を伴い、前の華琳の時みたいに城に歩きだす。
 
「今うちも忙しいから、内政で一番頼りになる軍師様にはお留守番をお願いしてるわ」
 
 とはいえ、俺は華琳ほどには孫策の事を知らない。ので、護衛には星と霞が二段構えでついててくれたりする。
 
「久しぶりやのぉ、老いぼれ。あん時は随分世話になったなぁ」
 
 ………人選、ミスった?
 
「何じゃ、張遼か。あいにくと今は剣しか持ち合わせておらんのじゃがな」
 
 こちらさんもやる気満々!? えーと……霞とやり合った呉の将って事は……
 
「あんたが、黄蓋か?」
 
「まあの」
 
 いきり立つ霞と裏腹に、黄蓋は落ち着いたもんだ。俺に対しても特別な悪意は感じない。
 
「霞、相手は使者さんなんだし、ここは戦場じゃない。頼むから落ち着いて」
 
 渋々、といった様子で引き下がる霞。危なかった。これでもう一人が星じゃなくて舞无だったら収拾つかなくなる所だ。
 
「神速の張文遠に……北郷軍の槍使いって事は、そっちの子は……」
 
「お初にお目にかかる。我が名は趙雲。北郷が一の家臣にして、北方常山の昇り龍」
 
 星を選んだのは正解だった。たとえあの時誰かとやり合ってたとしても星なら気にしたりはしないだろうし。
 
「ふぅん……どっちも、戦ったら面白そうね」
 
「……孫策、煽るのやめてくれ」
 
 何とも物騒な発言をしてくれる女だ。誰が押さえると思ってんだか。もっとも、星も、そして霞も空気は読める子だから、今のくらいの挑発には乗らないでくれてるけど。
 
「別に煽ってるわけでも挑発してるわけでもないわ。単なる感想。強い相手を見て血が騒ぐ、武人の本能よ。わからない?」
 
「………俺、武人ってほど強くないから」
 
 そこはかとなく虚しい気分になった。
 
「へぇ、案外話が合いそうやなぁ」
 
「うむ、機会があれば手合わせ願いたいものだ」
 
 何か知らんが、霞と星が共感して、黄蓋も混じって武人談義が盛り上がり始めた。……俺、何かはぶられてる気がする。
 
「………………」
 
 しかも、そのくせ全員が相手への警戒は解いてない。護衛してるんだから当然とも言えるが、歓談してる間に、いつの間にか話す手段が口から剣に変わってた、とかありそうで怖い。
 
 四人の会話を見守る俺には、心休まる暇が無かった。
 
 
 
 
 結局何事もなく城に着き、協君への挨拶も滞りなく終えた孫策。俺もあれから色々と話した。さばさばとした性格はしてるけど、いい奴だ。やっぱり、前の世界で蓮華が慕ってた姉さんなだけある。
 
「正直、ここまで歓迎されるとは思ってなかったなぁ♪」
 
 そして今、普段使われない客用の離れに、俺と孫策は二人で会食をしていた。と言っても、俺と孫策の後ろの両の壁際には、星と黄蓋が立っているが。
 
 ただ二人は、万一に備えて控えている。口を挟む気配はない。いつか、華琳や桃香と理想について語った時も、こんな感じだった気がする。
 
「そのわりには、軽率な行動だったんじゃないか?」
 
「前にも言ったでしょ。私は強いって。それに、護衛が祭だけとは限らないわよ?」
 
 意味ありげに、孫策は口の端をにやりとあげる。そんな悪戯っぽい仕草が妙に可愛い女性だった。
 
「街に一人、隠れてたんだろ? 今も近くに来てるのかな」
 
「あら、バレてた」
 
 少しも悪びれずに、孫策はペロッと舌を出した。ちなみに、もう一人の隠れた護衛の気配を感じたのは、もちろん俺じゃない。
 
 城に戻った時、野生の勘で気配を察知したらしい恋から聞いたのだ。多少は距離があったんだろうけど、それでも星や霞に気付かれなかったあたり、かなりのやり手なんだろう。
 
「でも意味なかったかな。あなた自身がわざわざ私たちを出迎えたのも、“そういう”意思表示だったんでしょうしね」
 
 確かに、少し前に戦った相手だし、警戒するのは当たり前。だから孫策が隠れて護衛を回してたのを責める気は無い。俺がこの世界ではちょっと変なのは自覚してるし、俺のやり方を押しつける気もない。
 
 そのまま、俺の顔をじーっと見つめた孫策は、何を納得したのか、うんうんと頷いている。
 
「やっぱり、決めた」
 
 かと思えば、にやりと笑みを作って、「単刀直入に言うわね」と前置きしてから………
 
「私と組まない? 北郷一刀」
 
 前置き通り唐突に、そう告げた。
 
 
(あとがき)字数足りない



[14898] 七章・『小覇王の告白』
Name: 水虫◆70917372 ID:e06686bb
Date: 2009/12/27 12:33
 
「私と組まない? 北郷一刀」
 
 随分と、唐突な提案だった。
 
「………それ、同盟って意味か?」
 
「そ♪」
 
 比較的友好的だった、今日一日の孫策たちの言動を経てなお、その言葉を『唐突だ』と感じたのには、理由がある。
 
「いいのか? 俺、大陸一の悪者だぞ」
 
 そんな俺の勢力と同盟を結ぶ事が、本当に孫策にとってプラスになるのかっていう、純粋な疑問。
 
「あの戦いで汚名を着たまま勝った、っていう背景があるから、あなたが一番の悪役って事にはなってるけどね。実際、他の勢力だって良い風評を得てるわけじゃないわ。一番の下はだんごね」
 
「……そうなのか?」
 
「あの戦いで、実際にあった事を思い返してみればわかりやすいかしら。風評操作で誤魔化すのも限度があるものね」
 
 あの戦いで、実際にあって、誤魔化しきれない事………
 
 月や詠の事まで知れ渡るわけはないし、華琳の毒矢も、わざわざ言い触らしでもしなければ広まるもんでもない。でも……
 
「なるほどね」
 
 袁紹が同じ連合の同志に攻撃したり、その袁紹に袁術が攻撃したり、戦争規模の大きな動きは、いくら何でも隠せるわけがない。
 
 そう考えると、あの時風評が上がったと言える勢力なんて皆無な気がしてきた。俺の汚名が晴れたわけでもないけど、結局その悪者を誰も倒せてないんだから。
 
「私の所も同じ。暴君北郷と裏取引をして兵を退いたって事になってて、あんまり印象良くないのよねぇ」
 
「………………」
 
 そうなるよう仕向けたのも、俺だ。やっぱり、孫策が俺と組むってのはしっくり来ない。
 
「あれに関してはお互い様。そっちだって、噂の真偽を知った上で連合に参加したんだろ。恨み言言うつもりはないけど、責められる筋合いもない」
 
「ああ、誤解しないでね。前の事を蒸し返したいわけじゃないの」
 
 俺の返しに、孫策は予想もしていなかったという風に目を軽く見開いて、パタパタと手を振って否定する。何か、俺の方が蒸し返したみたいで恥ずかしい気持ちになった。
 
「今、うちの領内では、あなたの風評はさほど悪くない。私の風評を改善するのに、“そっち”の方が手っ取り早かったから」
 
 随分と、多分わざと内容をぼかした孫策の言葉を、俺は数秒考えて……
 
「連合を途中で抜けた事実が根底にある裏取引の噂を誤魔化すより、袁紹たちの内輪揉めをてこにして“連合を悪者にする”方がやりやすかった、って事か………?」
 
 半信半疑に応えた。
 
「そういうこと」
 
 正解だったらしい。にっこりと笑った孫策は、徳利をぐいっと呷る。
 
「事実に勝る流言はないわ。その事実に“ちょっと嘘を混ぜる”くらいが、一番効果的なのよ」
 
 ………なるほど。つまり、実際にあった袁紹たちの内輪揉めを理由に連合を悪者にし、さらに実際に圧政を強いてなかった俺の誤解を解く。
 
 その事実に、『自分に関して』嘘を混ぜる。連合や都の真実を知り、北郷に手を貸して連合を瓦解させた、とか、言い回しはいくらでもあるだろう。
 
 でも………
 
「肝心な部分がまだだろ。それの辻褄合わせのためだけに俺と同盟を組むってわけじゃないはずだ」
 
 そう、結局の所、俺と同盟を組みたがる理由がわからない。天下統一を狙ってるんなら、俺は一番の障壁だ。組むなら、力は同じかそれ以下なのが好ましいはず。
 
「ここに来る前に、袁術の所にも行ったんだろ。そっちが本命なんじゃないのか?」
 
 これは、実はカマ掛けだ。呉からここに来るには、袁術の領地を通らないといけない。それに、度々袁術と連絡を取ってるって報告もあった。
 
「やっぱりバレてた」
 
 むしろ嬉しそうに、孫策は俺の言葉を肯定した。うーん……華琳よりやりづらい感じだ。
 
「(組もうって言うなら、せめて腹くらい割って話を………)」
 
 という言葉が口を突いて出そうになって、自重する。さっきからフライング気味だし、多分………
 
「あなたに投げ渡された玉璽、あれを餌にして袁術と袁紹をかち合わせたの」
 
 やっぱり、孫策は別に隠すつもりってわけじゃない。
 
「あれから、結局あの場では渡さなかった玉璽をチラつかせて袁術から色々と絞り取ったんだけどね。そろそろ堪忍袋の緒が切れる頃合いかな~っと思って、“事のついでに”渡して来たのよ」
 
 言い訳っぽく聞こえるのは、俺の方も警戒解いてないからか。こんな事なら、袁術の話題切り出さずに出方見ればよかった。
 
 しばらく黙って聴く体制に入る。孫策が俺と組みたがる理由がまだだ。
 
「袁術と本気で組むつもりはないわ。……どのみち、あんな器量じゃ長く保たないでしょうしね」
 
 前の世界でもこの世界でも会った事がない袁術の性格を、俺は知らない。でも、玉璽に釣られた話や、今の孫策の評価からしても、結構な小者のようだ。……まあ、袁紹の従妹らしいしな。
 
「袁紹も同じ理由で却下。というより、連合であんな真似する奴と組むのはご免。公孫賛も劉璋も組むには値しない、劉表なんて論外。……曹操も無理ね。あれは、大陸全部飲み込むまで戦い続けるつもりだから………」
 
 俺の、『何で他の勢力じゃなくてうちなんだ?』という内心を読んだように、孫策は丁寧に説明してくれる……が、ここで一つ気になった俺は口を挟む。
 
「大陸全部、ってのは、孫策も同じじゃないのか?」
 
 前の世界で、周瑜は亡き孫策のその遺志を果たすために、蓮華さえ裏切って、俺たちに牙を剥いた。孫策の提案を簡単に信じられない、一番の理由はそれだ。
 
「天下統一が、本当の目的って訳じゃないわ。本心を言うと、天下なんてどうでも良い」
 
 孫策は、俺の目を小揺るぎもせずに真っ直ぐ見据えた。自分の真剣な気持ちを、俺に伝えるかのように。
 
「私はね……呉の民たちが、そして私の仲間たちが、笑顔で過ごせる時代が来れば良いの。天下だの権力だの、そういうのに興味は無いわ」
 
 俺が孫策を見極めるのは、ここしかない。どこまで本気か、嘘偽りが含まれていないか。
 
「天下統一は、そのための手段に過ぎない。そうすれば、一つのまとまった勢力が、庶人に対して画一的に平和を与えられる。……でも、それが私である必然性は無いの」
 
 どこか神妙に、孫策はまた酒を呷る。
 
「民を愛して、その笑顔を守る力があって、そして不要な戦いを望まない相手なら、力を合わせる事も出来るでしょ」
 
 そこまで言って、もう気持ちは伝わったと判断したのか、孫策は破顔してつまみをパクリとついばんだ。
 
「なんてね。要するに、連合の時、敵に回したくないと思ったのと、今回、都とあなた自身を直接眼で見て気に入ったっていうのが理由。……あなた、自分が認めた相手には馬鹿みたいに優しいでしょ?」
 
 ……何を根拠に言ってるんだろうか。今日一日で俺の性格なんてわかるもんなのか?
 
「そんなの見ればわかるわよ。あとは……勘かな?」
 
「勘かよ!」
 
 しかも今、俺考えてる事読まれたような……
 
「北郷の顔は特別わかりやすいのよ♪」
 
 いつの間にか、王の対談って雰囲気じゃ無くなってる。振り向けば、後ろで星がうんうんと孫策の言葉に頷いてるし、孫策の後ろの黄蓋も腕を組んだまま苦笑している。
 
「……北郷じゃなくて、一刀でいいよ」
 
 予想外にもほどがあるが、反・北郷連合からの数奇な巡り合わせを経て、ここに呉との同盟が成立した。
 
 
 
 
「(結局、何だったんだろうな)」
 
 華琳みたいに、前の世界の伯符とは性格が変わってるのか、それとも……前の世界でも伯符の本当の願いはこっちだったのか。
 
「(戦死したって、言ってたもんな……)」
 
 天下を目指す途中、突然死んでしまった伯符の本当の願いを、周瑜が取り違えてしまったのかも知れない。いや、考えても仕方ないけど、そう思うと、切なくなる。
 
 まあ、この世界の皆は、前の世界の皆の生まれ変わりだって考えでいくなら、今の周瑜は伯符と仲良くやってるんだから良しと考えるべきなのか。……やっぱり考えても埒が明かない。
 
「一刀? だらしないなぁ、もう酔っちゃった?」
 
「別に、酔ってないよ?」
 
 何かあの後も今後の物資輸送とか、袁術や劉表の事について話してたりもしてたんだけど、酒もぐいぐい飲んでるから、そろそろキツいかも。
 
 目の前で伯符がハイペースで飲むもんだから、つい釣られてしまった。まだ大丈夫だけど、そろそろ控えないと。
 
 目の前で旨そうに酒を飲む伯符をただ見てるってのが、星には辛いんじゃないかと思わないでもない。よく見ると、黄蓋も辛そうだ。
 
「……孫策殿、我が主はこれで随分と気の多い方ゆえ、あまり挑発なさらぬ方が良い。酔った勢いで手籠めにされてしまいますぞ?」
 
「ちょ、星!? 誤解されそうな事言うなって!」
 
「………誤解?」
 
 酒が飲めない腹いせなのか、あるいは本気なのか、星のジト目が俺をぷすぷすと刺す。
 
 伯符は俺と星を交互に何回か見て……
 
「へぇ、モテるんだ。なるほどなるほど♪ 北郷軍の実態がわかった気がするわ」
 
 何か、色々と間違った感じに納得された。
 
「……何考えたのか知らんけど、それ誤解だから。星との事は否定しないけど、うちは別に皆が皆そうってわけじゃないし」
 
 華琳と一緒にされても困る。確かに星、恋、そして舞无とはそんな感じかも知れないけど、それでも将の半分以上はそういう感じじゃないし。
 
「どうかしらね」
 
 信じてないし。しかし、今の話題で思い出したけど、そういえば……
 
「……なぁ、桃……劉備と組もうとは思わなかったのか」
 
 さっきの話を考えてみれば、俺以上の該当者な気がする。
 
「連合の時、少し話はしたけどね。あれは……ちょっと脆すぎるかな」
 
「……兵力の話か?」
 
 確かにあの時点では弱小もいい所だったけど、青州を押さえた今はそれなりだと思うんだが……。
 
「そうじゃないわ。彼女自身の理想の話よ。あまりに高すぎるし、甘すぎる。確かに求心力や将の質は相当なものだけど、あの徹底的な平和主義は私のやり方とは噛み合わないのよ」
 
 伯符の言葉は、俺が桃香に懸念してる事と、合致していた。
 
「どんなに義理堅くても優しくても、考え方が違えばそこには摩擦が生じる。その摩擦は、いつしか広がって亀裂になる。あの子の無茶な理想は、味方にするには危ういのよ」
 
「………………」
 
 桃香の理想が、間違ってるとは思ってない。でも、伯符の言葉も理解出来る。
 
「……人は、そんなに尊いものじゃない。本来、自分の利を餓犬の嗅覚で嗅ぎ取り、貪り食らうのが人の性質」
 
 俺の言葉を、伯符は黙って聞いてくれている。
 
「唱えた正義に利があれば人は唯々諾々と従うが、利がなくなれば掌返して去っていく。大切なのは情に訴える事じゃなく、その利を念頭に置いて軍を進め、国を治めること」
 
「………ふぅん、やっぱりあなたの方は、よくわかってるじゃない♪」
 
 伯符のその言葉は、俺に向けられたものだろうけど、それは少し違う。
 
「受け売りだよ。俺の、大切な人からの」
 
 それでも、あるいはだからこそ、嬉しかった。
 
 少し後ろを振り向いたら、困惑気味な星の目と、俺の目が合った。
 
 
 
 
(あとがき)
 え~、年末年始はやや忙しくなります。ので、これからしばらく更新が止まりますがご了承を。
 
 まだ六幕のタイトルに触れてもないのに……。孫策同盟をなるたけ納得いくように書いてたら結構長くなってしまった。
 
 



[14898] 八章・『器』
Name: 水虫◆70917372 ID:4ddb6a25
Date: 2010/01/16 07:35
 
「くっそ! また逃げられた!」
 
 陣を囲む柵が破られ、食糧に火を放たれ、不意を突かれた兵たちは一蹴される。
 
 こっちが体勢を立て直す頃には馬蹄の音は闇夜の奥へと遠ざかっていく。
 
「………これで、何度目だ?」
 
「ぐぅ……」
 
「寝るな!」
 
 俺の質問に応えずに舟を漕ぐ風(宝慧)をポスンと叩く。が、今回は眠いのも良くわかる。
 
「コラー! 逃げるな貴様ら! それでも武人か! 正々堂々と戦えーー!!」
 
 一人元気なのは舞无くらいのもんである。
 
「今まで情報戦を第一としてしてきたツケですね。先手を打たれ、対応が遅れてしまった」
 
 申し訳なさそうに眼鏡を押さえる稟も、頭がふらふらと揺れている。それも当然、ここしばらく、俺たちはまともに睡眠を取れてない。……舞无を除いて。
 
「……霞の神速部隊でも捕まえられない?」
 
「準備万端でよーいどん! なら負ける気せぇへんけどな……。流石にこんだけ神出鬼没やと間に合わんわ。……それに、あっちも相当疾いで」
 
「……だよな」
 
 前の世界で、“彼女”と戦った経験は無い。実際に敵に回してみると、ここまで厄介なもんだとは。
 
「………?」
 
 ふと、頬に冷たい感触を感じた。肌に突き刺さるような寒さの中で、一際冷たく。
 
「雪、か」
 
 見上げた空に、その正体を見る。純白の欠片が、黒い空からポツポツと、しかし徐々に勢いを増して俺たちに降り掛かっていた。
 
 
 
 
「う〜、寒いのです〜」
 
「よしよし」
 
 天幕の下、ちゃっかり膝上に座している風ごと包むように毛布を被る。俺も寒いから好都合だ。
 
「……あかんなぁ、このままやったら士気も下がる一方やし」
 
 いつもは肩に羽織を掛けてるだけの霞も、腹丸だしの舞无も、もちろん俺も稟も風も、分厚く着込んだ上から外套まで着てる。
 
「……このままでは、漢中に着くまで士気が保たないかも知れませんね」
 
「稟! 軍師とはいえ、将が容易く弱音を口にするな! 全体の士気に影響するだろうが!」
 
 この悪条件でも元気な舞无が、稟に向けて人差し指を突き付けて、ある意味正論を言い放つ。
 
「つっても、このまま戦い続けて兵に無理さすのも、士気に影響あるやろけどなぁ……」
 
 肩を竦めて応えた霞の言葉もまた、正論。
 
「……………」
 
 
 孫策が、俺たちとの同盟を成立させて、自国へと帰っていった直後の事だ。
 
 漢中の張魯が、俺たちが統治していた涼州に攻め込んだという報告が、天水でそれを食い止めていた西(高順)から届いたのは。
 
 俺たちはすぐに、華琳や袁術が動いた時のために、洛陽に星、恋、散、雛里を残して、援軍に駆け付けた。
 
 攻め込んできた張魯軍の退路を断って挟み撃ちにするように、長安から“がら空きのはずの”漢中に攻め込んだ俺たちは、そこの中途に聳える陽平関に続く途中、予想外のものを目にする事になる。
 
 白銀の『馬』一文字。
 
 張魯の本隊と思われる、六万の大軍が天水を攻めていた事で、逆に、鉄壁の要衝である陽平関を突破するチャンスだと思った矢先に、これだ。
 
 韓遂の反乱によって西涼を追われた馬超……翠は、張魯の許に身を寄せていたわけだ。そして今回戦を仕掛けてきたのも、おそらくは西涼を取り戻したいっていう翠の意思が大きく絡んでいるんだろう。
 
 翠にとっては、俺自身が母親の仇じゃなかろうと、故郷を牛耳ってる時点で敵なんだろうし。
 
 それ以降、西涼兵お得意の散発的な遊撃や奇襲が昼夜問わず繰り返されている。俺たちは夜も満足に眠れず、士気は下がる一方である。
 
 そこに、この雪だ。状況はかなり悪い。まだ漢中どころか、陽平関も突破出来てない。
 
 唯一助かったのは、俺たちが援軍に駆け付けた事で、天水を攻めていた張魯の本隊が引き返したらしい事か。
 
「馬超が張魯の許に居る事を事前に知り、散を連れて来ていれば、あるいは説得も可能だったでしょうか………?」
 
「う〜………ん」
 
 稟に言われるまでもなく、それは考えた。前の世界での事が恋みたいに思いっきり影響してない限り、俺が説得出来るわけもないだろうが、散は違う。
 
 小さい頃から、翠と花(馬岱の事らしい)のお姉さん代わりだったみたいだから、説得は出来たかも知れない。
 
 だが、実際にイメージしてみると………
 
 
『散、馬超を説得して味方に引き込めないか?』
 
『無理かな、と思いますよ』
 
『………何で?』
 
『お嬢はあれで、身内が敵側にいるくらいで考えを変えるほど甘ちゃんではないので。そんな程度の軽い気持ちなら、最初から張魯の手を借りてまで出兵なんてしません。それに……』
 
『それに?』
 
『あたしも女将も、そんなぬるい育て方をした憶えはありませんから』
 
 
「………いや、無理だと思う」
 
 二人の性格を知ってる俺だからか、みょ〜にリアルにイメージ出来てしまう。
 
「俺たちが撤退する瞬間を馬超たちも狙ってるはずだし、何よりこの先常に西方に脅威を抱えとくってのは美味くない。出来れば今回で張魯とは決着つけたい所だよな……」
 
「せやったら、どないする? 今のまま陽平関に力押し掛けるんも無理やないやろうけど、相当な被害になんで」
 
「野営に対する奇襲の連続で、我が軍の士気はかなり下がってますからね〜」
 
 俺の呟きに、霞と風が至極もっともな意見をよこしてくれる。確かに、出来れば余計な大被害は出したくない。
 
 奇襲に対するために、急造の拠点をもう何度も建てようと試みたけど、その建造中にも何度も奇襲を受け、結局失敗している。
 
「……………」
 
 俺は、自分の中にある少ない知識を総動員して、対策を立てる。とりあえず、奇襲続きで疲弊しきった現状を何とかしないと、力押しで陽平関を破る事も難しい。
 
「………稟、風、こういうのって、出来るかな」
 
 出来れば、翠を傷つける事もしたくない。誰にも言えない痛みを、俺は決して口にする事は許されない。
 
 
 
 
「はあっ……はあっ……はあっ……」
 
 北郷には、感謝しなきゃいけない。
 
『袁紹には、気を付けろ』
 
 どういう事かわからないけど、あいつはあの時からすでに、麗羽がこういうこういう行動を取るってわかってたんだ。そして、私に忠告してくれた。だから私は、迅速に事に対処する事が出来た。
 
「公孫賛様! 第三の防柵まで破られました! ここは一時撤退してください!!」
 
 なのに……結局はこれか。私は……この乱世を生き抜ける君主じゃなかったって事か。
 
 騎兵隊の機動力と突破力なら、こちらが上だった。不意を突かれたわけでも、策にはまったわけでもない。ただ、数が違いすぎた。
 
「……ここで退いたら勝ち目は無い。たとえ敗北する事になっても、少なくとも幽州の民を戦火に巻き込む事は無い」
 
「しかし!」
 
「聞こえなかったのか! 討って出ると、そう言ったんだ!」
 
 私を信じてついて来てくれた兵たちには、堪えがたい事だろう。こんな所で終わるのは。
 
「私が死んだら、全員降伏しろ。こんな無能に、死後まで付き合うことは無い」
 
 この中には、北郷に託された啄県の人間もいる。そして私が敗れた後は、私より無能な麗羽が啄県を治める事になる。
 
『見てろ、いつかお前たちが仕えなかった事を後悔するくらい立派な君主になってやる』
 
 いつか悔し紛れに言い返した言葉。今では、自分で笑ってしまう。
 
「……すまないな」
 
 誰に呟いたのか、自分でもよくわからない。そのまま白馬に飛び乗り、睨み据えた先には、荒原に広がる、悪趣味な金色の鎧の群れ。
 
「……ただじゃ死なない。顔良か文醜の一人くらい、地獄への道連れにしてやる」
 
 鞘から剣を抜き、駆ける。こんな無様を晒した私を見捨てずについて来てくれる兵たちを率いて、袁紹軍の兵士を次々に斬り倒す。……キリが無い。
 
「はぁあああ!!」
 
 横に薙いだ一閃が、敵兵の首を宙に飛ばす。返り血が髪を、鎧を汚していく。
 
 馬術には、少し自信がある。何をやっても『普通』と言われる私の、唯一の長所かも知れない。
 
 馬首を左右に揺らし、必死に剣を振るう。時間の感覚すら薄れる疲労の中で、ただひたすらに戦い続ける。
 
「(麗羽は、何を望んでる……?)」
 
 北郷に、桃香に、曹操に、君主として劣っているのは認めよう。でも……
 
「(どうせ、大した事を考えてすらいないんだ)」
 
 自己顕示欲、かも知れない。自分が一番に見られたいだけなのだとしたら……。
 
「(あいつには、絶対に屈したりしない)」
 
 私は、王の器じゃないのかも知れない。それでも、気持ちだけは負けてないと、信じたかった。
 
(ジャーン! ジャーン! ジャーン!)
 
 どこからともなく、銅鑼の音が響き渡る。
 
「助けに来たよ、白蓮ちゃん!!」
 
「数に怯むな! 奴らは浅はかな欲望に駆られる袁紹の手先! 我らとの志の違いを見せてやれ!!」
 
「狙いは顔良、文醜! 頭を潰せば後はホントに烏合の衆なのだ! 皆、鈴々に続けぇーー!!」
 
 遠くて、何を言っているのかまではわからない。でも、風に靡く旗は、しっかりとこの眼に焼き付く。
 
 緑の良く映える、劉旗。
 
「桃、香………?」
 
 
 
 この二ヵ月後、顔良と文醜という袁家の二枚看板を欠いた袁紹軍は、勢いに乗った公孫賛、劉備の連合の猛攻を受け、その兵力差を覆されて敗北する事となる。
 
 
 
 
(あとがき)
 皆さん、新年明けましておめでとうございます。
 
 年末年始でしばらく停止しておりましたが、そろそろ復活といきたいと思います。忘れられてるかと恐々としつつ、久しぶりの更新を。
 
 



[14898] 九章・『行方の知れぬ彼の人』
Name: 水虫◆70917372 ID:4ddb6a25
Date: 2010/01/06 15:35
 
「……………」
 
 本来なら、ボク達が身を寄せている勢力と北郷の勢力がぶつかるのは、避けたかった。陽平関という防壁があるとはいえ、長安と接しているこの漢中に、長く留まるのは危険だ。……でも、
 
『詠ちゃん……。私はもう、私を助けてくれた誰かを見捨てて逃げるなんて、したくないよ……』
 
 ……月が、翠やたんぽぽと仲良くなりすぎた。もう、他の勢力に逃げるという選択肢は無い。
 
「(また、泣かせちゃったな……)」
 
 仕方のない事。月がそう強く望むきっかけを作ったのは、他の誰でもない、ボクなのだから。
 
 韓遂に奪われた涼州を、北郷がボク達より先に奪い取った。翠にとっては面白くない話だっただろう。元々、翠は噂を良くも悪くも信じてはいなかった。
 
 でも、それが本来母親の治めるはずの、彼女自身にとっての故郷でもある涼州を奪ったとあっては、話は別。
 
 翠は度々張魯に願い出て、西涼の奪還への協力を取り付けた。首尾良く北郷を討ったなら、手に入れた涼州以外の領土を全て張魯に差し出す事を条件に。
 
 ボクは翠に裏であれこれと助言をして、事が上手く運ぶように取り計らった。……北郷が連合に勝った時から、歯車が大きく狂い始めてる。もう、翠たちに北郷を倒してもらう他無い。
 
 天水を攻めれば、予想通りに北郷は自身と数人の将を連れて援軍に駆け付けてきた。袁術でも曹操でも構わない、この隙に洛陽を攻めてくれると有り難い。
 
「(翠は、上手くやってくれるかな……)」
 
 翠はボク達が何者なのか知らない。“ただの侍女”のボク達が戦場に同行しないのは当たり前だし、その方が都合が良い。
 
 万一にも、北郷にボク達の存在を気取られるわけにはいかないから。
 
「月………」
 
 月を守るため、そう信じてやってきたボクの行動は、結果として月から笑顔を奪うばかり。
 
「ボクは……」
 
 自分が何を望み、どこに向かっているのか、わからなくなってきていた。
 
 
 
 
「……な~んか、やっぱり気乗りしないよなぁ」
 
「え? 何が」
 
 冷たい朝の空気を切り裂くように、あたし達自慢の西涼騎兵隊が駆ける中、半分独り言みたいに呟いたのを、蒲公英が目ざとく聞き取った。
 
「いや、ほら、相手の不意を突いてちまちま攻撃して逃げるってやり方がさ……」
 
 つい本音を漏らすと、
 
「何バカな事言ってんの! お姉様あっちがあたし達の何倍居るかわかってる!? 正々堂々どころか、単に籠城戦しても負けちゃうの! 真っ向ぶつかって玉砕とか、蒲公英嫌だからね」
 
 打てば響くように文句が返ってくる。詠の受け売りのくせして偉そうに……。あたしは従姉なんだぞ。
 
「だーから、気乗りしないって言っただけじゃんか。詠たちとの約束破る気はないって」
 
 それに、目先のこだわりより大切な事もある。西涼は、母様やあたし達が体を張って守り続けた、かけがえのない故郷。仇の韓遂を倒せなかったのは残念だけど………
 
「西涼を取り戻すため、だもんな」
 
 いきなり現れた余所者に、任せてなんておけない。大体何だ、『天の御遣い』って。無茶苦茶怪しいじゃないか。
 
「散々世話になった張魯殿にも、ちゃんと恩返ししないといけないしな。あんまりわがまま言ってられないか……」
 
 柄にもなくしみじみ語ってしまった後、ハッと気付いて横を見ると、蒲公英が口をぽかーんと開けてこっちを見ている。……しまった。
 
「………お姉様、成長したね。天国のおば様や散ちゃんが見たらきっと喜ぶよ」
 
「しみじみ言うな! 大体、散姉(ねえ)はまだ行方不明なだけだろーが!」
 
 それに、こんな程度で褒めてくれる人たちじゃない。「可愛い可愛い」って別な部分はよくからかってたけど、身内のそういう言葉ほどあてにならないものはない(蒲公英も含む)。
 
「ホント、散ちゃんどこ行ったんだろうねぇ」
 
「……だなぁ」
 
 詠や月に伝言を頼んだ、彼女たちの手を借りなければならないほど、状況は切迫していた。だから、死んだ可能性は十分ある。
 
 でも、あたし達は極力それを考えないようにしていた。
 
「(………いや)」
 
 もっと正確に言えば、死んだと“思えない”んだ。明確に戦死したとされ、墓まで立てられたらしい母様の事でさえ、未だに現実味が湧かない。生死不明の散姉なんてなおさらだ。
 
 ………あんな強い人たちが、死んだなんて思えない。
 
「ま、あたし達が西涼取り戻したって広まれば、お土産持って帰って来るんじゃないか?」
 
「ホント!? 蒲公英可愛い服が良い! お姉様が着るやつ!」
 
「そうそう蒲公英は可愛………は? あたし?」
 
「だってお姉様、ほっとくと自分の服はすっごい適当なんだもん。……あ、散ちゃんもか」
 
「……どっちかって言うと、お前が少数派なんだよ」
 
 母様も、“自分の”服に関しては結構適当だったし。
 
「………馬超様、馬岱様、そろそろ敵陣に到着します」
 
「ああ、わかった」
 
 無駄話が過ぎたか、部隊長の一人に言われ、戒める。こうやって相手を疲れさせるために奇襲を繰り返すのが、詠の助言だ。実際効果覿面だし、一体何者なんだろう。
 
 朝靄を抜け、今日も朝駆けに奇襲を一発ぶちかましてやろうと走った、先で………
 
「………ん?」
 
 目を凝らし、信じられず、擦ってからもう一度見て………
 
「ッ……全軍、止まれ!」
 
 今度ははっきりと見えた。昨日の昼には確かに無かった、今まであたし達が再三に渡ってその建造を阻止してきたもの……紛れもない、“城”がそこに建っていた。
 
「うそ………」
 
「たった一晩で、一体どうやって……?」
 
 雪も降り始め、これからが北郷軍にホントの野戦地獄を味わわせてやれるはずだったのに、これじゃ台無しだ。
 
「……見てくる」
 
「あ! お姉様、蒲公英も!」
 
 兵を伏せ、あたし達はこの不気味な一夜城の正体を暴きに走る。大した危険は無い。あたし達に馬術で勝てるやつなんてそういないはずだから。
 
 …………………
 
「これ………」
 
 蒲公英が、城壁を槍で叩いて、その正体に気付く。あたしも同じく。
 
「……ああ、“氷”だ」
 
 緩くて脆い土質、今までは軽い奇襲で簡単に崩れてしまっていたそれの上から、水を掛けて凍らせ、立派な城にしている。確かにこれなら、小さな手間で素早く城を建てられる。
 
「氷の城、かぁ………」
 
 結構、面白い事を考えるやつだ。北郷一刀本人か、その軍師の考えかはわからないけど。
 
「お姉様、感心してる場合じゃないって! これじゃ条件五分だよ。こっちも城攻めなんて出来ないんだから」
 
 確かに、こんな急増の城とはいえ、あたし達の兵力じゃ城攻めは難しい。何より、騎兵隊の長所が活かせない。
 
「……いや、五分じゃない。あっちは士気が回復すれば、いざとなれば陽平関を力押しで落とせるんだ」
 
 そんな風に苦手な知恵を必死に絞っていると………
 
(ジャーン! ジャーン! ジャーン!)
 
 遠方から、突然銅鑼の音が響き渡る。城からじゃない、これは………
 
「まずい! 戻るぞ蒲公英!」
 
「う……うん!!」
 
 あたし達が伏せていた部隊が、偵察にでも出ていた部隊に見つかったのかも知れない。
 
 その予感は、当たってしまっていた。この時になってようやく気付く。奇襲は、あたし達の専売特許じゃないのだと。
 
 
 
 
「うっし! いつでも行けるで!!」
 
「? 私は最初から行けたぞ」
 
「ま、舞无ちゃんは色々と神経太いので」
 
「誰が太っているか!! 確かに私の胸はやや寂しいが、腰だって細いぞ!!」
 
「……舞无、誰もそんな事は言っていませんよ」
 
「え?」
 
 霞、舞无、風、稟と回って、舞无のビックリしたような顔で締める。うん、ようやくいつものペースだ。
 
「睡眠はバッチリ、今日に備えて皆にも飯をたらふく食ってもらったし……行くか」
 
『応!!』
 
 氷城作戦で、十分に休息も取れた。あの時に霞が奇襲のお返しをしてから三日、翠たちは何のアクションも起こしていない。おかげで反撃する勢いを取り戻す事が出来た。
 
「……………」
 
 城壁の上から見下ろす雪原に、士気を取り戻した兵力・八万。翠たちは精々二万とちょっとだ。一気に撞車で城門をぶち破って雪崩込む。
 
 ……出来るなら、翠には劣勢を悟って撤退して欲しい。乱戦になれば、捕らえる事もなく戦死する可能性は格段に上がる。
 
「ふんっ!」
 
「か、一刀殿?」
 
 気合い一発、いきなり自分の頬を両手で叩いた俺を、稟が変人を見る目付きで見ていた。
 
「何でもない」
 
 相談すら出来ない俺の悩みで周りに迷惑掛けられない。大体それを言ったら、今までの星たち、いや、俺だって戦場でいつ死んでたっておかしくない。翠のその立場が敵に回ったくらいで、何怖じ気づいてんだ俺は。
 
「行こう、迅速に終わらせて、最小の被害で済ませる」
 
「御意」
 
 短く応えた俺と稟。その、城壁からの高い視界に………
 
「(あれ………?)」
 
 吹雪とは違う。煙みたいに白く舞い上がる雪を認めて………
 
「ッ……うそだろ!?」
 
 すぐに、それが乱れない足並みを揃えて走る、屈強な騎馬の一団だと気付く。確認するまでもなく、翠の騎兵隊。
 
「向こうから、真っ正面から突っ込んできた……?」
 
 自殺行為だ。こっちは出陣前で準備万端。兵力差は歴然。将の質だって、こっちには霞と舞无がいる。最小の被害での鎮圧が目的なこっちとしても有り難いけど………
 
「(翠……一体、何を考えて………)」
 
 臨戦体制に入っている俺たちの軍の手前まで、二騎の騎馬が進み出る。
 
 ………懐かしい。長い茶の髪をポニーテールでまとめ、十文字槍・『銀閃』を担ぐ、少し眉毛の太い彼女だ。
 
 勝手に僅か潤む目頭に気付かれないよう、出来るだけ気丈に隣の稟に話し掛ける。
 
「いきなり仕掛けてこないって事は、何かの話し合いのつもりか、な?」
 
 やべ、最後ちょっと涙声に……
 
「……知り合いですか?」
 
「違うって!」
 
 バレた。どんだけ鋭いんだこの眼鏡っ子は。
 
「前々から、貴殿の言動には不自然な点が多すぎますからね」
 
「……何で若干機嫌悪いんだよ」
 
「しかし妙ですね……。今まであれだけ奇襲を仕掛けてきたくせに、今さら話し合いとは考えにくい」
 
 ……あっさりとスルーされたけど、確かに妙だ。というか、話し合う事があるんだろうか?
 
「私は西涼の馬騰の娘、馬超! この度は、天子により任された西涼の地を奪還すべく兵を起こした!」
 
 翠が、静まり返った雪原で、大声を張り上げる。言い分は全く今さらな事。
 
「元より、我らが西涼を追われる原因となった韓遂は既にいない。そちらに言い分もあるだろうが、西涼は本来我らの地、我ら自身の手で守る事こそ我らが正義!」
 
 何とも、似合わない口上だ。そもそも、とっくに戦いが始まった段階で舌戦なんて仕掛けてくる時点で翠らしくない。……華琳みたいに、性格が変わってるのか?
 
「だが、今や膠着した戦局に両軍の兵たちは凍えるばかり、この上は将と将の武によって、この戦いの雌雄を決しようぞ!!」
 
 ……何か、台詞がわざとらしい。誰かの入れ知恵の匂いがする。
 
「馬鹿な事を……。こちらは完全な優勢、わざわざ危険を冒して錦馬超と一騎討ちなんて………」
 
「ふん、良かろ……」
「乗ったぁー!!」
 
 稟が、至極尤な意見を言おうとして、舞无が面白そうに肯定しようとして、霞が遮るように歓声を上げる。振り向けば、もう走りだしていた。
 
『………え?』
 
 駆け出した霞を除いた全員が、遅すぎる疑問符を頭上に浮かべた。
 
 
 
『絶対の窮地になった時、張遼か華雄が敵陣にいたら、一騎討ちを申し込んで。翠の腕前なら、それが一番の活路になる』



[14898] 十章・『激突、錦馬超』
Name: 水虫◆70917372 ID:4ddb6a25
Date: 2010/01/08 18:52
 
「ちょ、ちょっ!? 霞、待てってば!」
 
「反・北郷連合の時は夏侯淵さんや黄蓋さんが相手で、西涼遠征はお留守番。霞ちゃん、随分ふらすとれーしょんが溜まってたみたいですしねー」
 
「だからってこんな、えーと……そう、“りすく”が高い真似を……」
 
「……稟、無理に合わせないでいいよ」
 
 今まさに馬に乗り込もうとしている霞に、皆して駆け寄る。確かに、霞は最近“武人”として暴れてない。
 
『剣には心が宿るんよ。交えた刃から、言葉以上に大切なものが伝わってくる』
 
『常にそこに身を置く事で、生きている事を実感出来る』
 
 ………霞の生き甲斐を知ってるから、止め辛いのも事実なんだけど。
 
「霞!」
 
「一刀………」
 
 呼び掛けた俺に向けられた霞の表情は、思いの外真剣で、俺たちは言葉が続かない。
 
「別に挑発に乗ったわけでも、功を焦ったわけでもない。ウチなりに考えあっての事や」
 
 あの時は、ほとんど反射的に応えていたように見えたけど、霞がでたらめを言ってるようにも見えない。
 
「確かに、今のままでも力押しで陽平関を落とす事は出来る。……それでも、やっぱり互いに大きな被害は出るやろ?」
 
 俺は、無言で頷く。確かに士気が回復して兵力差があっても、関を落とすなら相応の被害は出る。一騎討ちを申し出に来た翠の部隊に、この場で突撃を掛けるわけにもいかない。
 
「ウチと馬超で片つけたる。そうすりゃ、それこそ被害は最小に抑えられる」
 
 それにどうせ、ウチが言わんかったら舞无が勝手に受けとったやろ、と霞は肩を竦める。
 
「大丈夫! ウチの独断で皆巻き込むつもりあらへんし、一刀がおりゃ何とでもなるて!」
 
 霞は騎上から器用に、バシバシと俺の背中を叩く。
 
「見事勝ったらご褒美くれてーな♪」
 
 そのまま柔軟に上半身を伸ばして……
 
(ちゅっ)
 
「っ〜〜〜!?」
 
 額に、口づけられた。
 
「ほな、行こかぁ!!」
 
 一瞬の、柔らかい笑顔から一転。燃えるように笑った霞は、馬を走らせる。
 
「………………」
 
 結局、“霞にも翠にも傷ついて欲しくない”って、言えなかった。……言えるわけないけど。
 
「さて、と………」
 
「いててっ!?」
 
 右から稟が、
 
「んしょ、と」
 
「いででで!?」
 
 左から風が耳を引っ張る。
 
「まったく……。貴殿は何のために付いて来ているんですか。こういう時のためでしょう?」
 
「俺はただのお守りかっ!?」
 
「似たようなものですねー」
 
 ……しまいにゃ泣くぞ。
 
「………まあ、霞だけに好きにさせるのも癪ですね。ある意味、効果的かも知れません」
 
 あごを指先で撫でながら、稟は何やら思考に耽り始めた。……あれか。
 
「くいくい」
 
「痛い! って言うか擬音を口で言うな!」
 
 俺の耳を、自分の背丈に合わせて下に引っ張った風は、無言で指差す。その先に、いつの間にか消えていた、今にも騎乗して突貫しそうな舞无の姿があった。
 
 
 
 
「………………」
 
 円形に、両軍は下がり、中央に戦うのに十分な空間を作り出す。真っ白な雪の彩るそこは、二人の武人が刃を交わすためだけの舞台。
 
 二人の騎馬が、進みでる。
 
「戦る前に、言うとく事がある」
 
「……何だ」
 
「この一騎討ちに懸けるのは、ウチの命と張遼隊の身柄だけ。そっちもおんなしや」
 
 ……霞の言ってた、皆を巻き込むつもりは無いって、こういう事か。
 
「じゃあ、あたしがあんたに勝っても、北郷軍が降参するわけじゃないって事か………」
 
「勘違いすんなや。この一騎討ち、ウチらとあんたらは対等なわけやない」
 
「………わかった。それでいい」
 
 翠が負ければ、馬超隊は負けたのと同じ。逆にうちは、霞とその部隊が捕らえられるのは痛手だけど、それで負けが決まるわけじゃない。わかっていても、受けざるを得ないんだろう。
 
 円を描くように、霞と翠の馬が中央で歩を進める。
 
「軍の命運懸けての一騎討ち。ウチはこういうのを待っとったんや……ゾクゾクするわ」
 
「光栄だね、あたしも……何か肌にピリピリくるぜ」
 
「上等!」
 
 二人同時に、外套に手を掛け、脱ぎ捨てる。それが風に泳いで、地面に触れる、寸前……
 
「「はあっ!!」」
 
 ガキィッ! と火花を散らして、霞の『飛龍偃月刀』と翠の『銀閃』が噛み合う。
 
 ……鳥肌が立った。
 
「神速の張文遠」
 
「西涼の錦馬超」
 
「「参る!!」」
 
 霞が残忍そうに口の端を引き上げて、翠が眼を鋭くギラつかせる。……あそこまで“戦いに酔う”二人を見るのは、初めてかも知れない。
 
「しゃおらぁーーーっ!!」
 
「どおりゃぁーーーっ!!」
 
 馬上で繰り出される刃が、重く鋭い金属音を響かせながら乱れ舞う。技量も膂力も、互いに一歩も退けを取らない。
 
「すっ、げえ……」
 
 思わず、感嘆が口から漏れた。正直、前の世界の経験も踏まえて考えて、霞の方が分が悪いと思ってたけど、十分に互角に渡り合ってる。
 
「……舞无、どう見る? 二人の力量を」
 
 完全にギャラリーと化してる俺は、同じくギャラリーと化してる舞无に訊いてみたが………
 
「……ふんだ」
 
 そっぽを向かれてしまった。霞だけに一騎討ちを許したみたいな流れが気に食わないんだろうけど、拗ねられるのも困る。今は至極真剣な場面だ。
 
 ……少し卑怯な気はするけど、霞を真似して、
 
(ちゅっ)
 
「ッほわぁあ〜〜!!?」
 
 頬に軽く口づけると、予想以上の反応が返ってきた。戦斧を取り落として、両手で口づけられた所を押さえた舞无は、目をパッチリと見開いて顔を朱に染めている。……可愛い。
 
 好意を利用するみたいで気が引けるけど、別に嘘な気持ちじゃないから良しとして、会話を元に戻そう。
 
「霞は、勝てると思う?」
 
「……え? あ、そう、だな。霞が、うむ」
 
 誤魔化すきっかけを見つけたとばかりに、舞无は話題に食い付いてきた。……これで当人はバレてないつもりなんだから面白い。
 
「……私から見ても、完全に互角だ。どちらが勝ってもおかしくない」
 
「やっぱりか……」
 
 霞と同等の使い手である舞无から見てもそうだってのは、不安が倍増する。
 
「恋や星なら、勝てたかな」
 
「恋なら間違いなく勝っただろう。何せ私が上だと認めた唯一と言える武人だ。星でも、かなりの確率で勝てたはずだ。……ただし、“馬上でなければ”な」
 
 舞无って、こんな風に知的な会話出来たんだなぁ、と驚く。
 
「馬術を合わせれば、霞の方が私より上だ。実際、適役だった」
 
「……………」
 
 実力は、互角。霞が、圧倒的に翠を上回っていたなら、無事捕らえてくれるだろうと心配に思う事もなかった。だが、実際に目の前で今も続いているのは、紛れもなく『死闘』。
 
「………………」
 
 でも、もうこうなったら霞も翠も止まらない。俺は、ただ両手を合わせて祈る事しか出来なかった。
 
 
 
 
「(あの流れで、一騎討ちねぇ………)」
 
 戦いの頭にそれを持って来るんやったらまだしも、自軍が不利になってから持ちかける言うんは、虫のええ話。普通はそれが“通る”なんて思わん。実際、馬超も驚いた顔しとった。
 
「(何か、“別の判断材料”が無ければ、な!)」
 
 小さな隙を捉えたつもりで振るった偃月刀に響くんは、肉を裂く感触やなくて、ガツンと響く槍の感触。
 
 すぐさま、槍の穂先が眼前に迫る。突きを避けただけじゃ、十文字槍は躱せん。ギリギリで柄で受け止める。
 
 すごい。体が炎みたいに熱くて、頭がどこまでも冷たく冴えてく。
 
「なあ」
 
「何だよ、喋ってると舌噛むぜ?」
 
 この吹雪の中、ウチらにしか聞こえん程度の小声で話し掛ける。
 
「この一騎討ち、誰の入れ知恵や?」
 
「ッ! ………入れ知恵? 何言ってんだ、これはあたしの考えだ」
 
 ……わかりやすいやっちゃ。この可愛さ、刃から伝わってくる武人の誇り、心の強さ、義に厚い魂。良し決めた。もし“生き残れたら”絶対仲間に引き込んだろ。こんだけの腕前で美少女なら、一刀は二つ返事やし。
 
「質問変えるわ。この一騎討ち、呂布が相手でも持ちかけたか?」
 
「呂布? え〜……と、無いな。確か」
 
 確かて。自分の考えやないの丸分かりやし。……けど、これではっきりした。
 
「おおきに。後は、刃で語ろうや!」
 
「何だってんだよ、まあいいや!」
 
 今までも、話しながら刃は交わしとったけど、それを皮切りにお互い勢いを増す。
 
 たまらん! 今、自分が生きとるんやって、すごく生き生きしとるんがわかる。
 
『長安も西涼も、俺の噂そんなに悪くなかったんだよなぁ………』
 
『それは言えないかな、と。恩を仇で返す形になるので』
 
 何で、洛陽から西涼に掛けての道では、一刀の悪評の影響が薄かったのか。
 
 何でここまで潔い武人の魂を持つ女が、奇襲の連続やら、都合のいい一騎討ちなんて真似をしたのか。
 
「(考えれば、想像はついたんや)」
 
 誰かの入れ知恵、ならそれは誰か? そう、西涼は“あいつら”の故郷。
 
 そして、おそらく一騎討ちの条件に当てはめたのは、ウチと舞无。
 
「(随分、舐めてくれるやんけ。………“詠”!)」
 
 上等。お前の頭でっかちの脳ミソで考えた計算、ウチの偃月刀でぶち破って、その厚顔無恥な鼻へし折ったる。
 
 
 
 
 ………あれ? 霞のあれって、もしかしてそういう意味なのか?
 
 いやいやちょっと待て待て。前の世界でも霞とそういう関係にはならなかったし、自意識過剰なんじゃ。大体霞って普段からスキンシップ激しいし。
 
 そもそも、霞って自分より強い男が好きって前に聞いたぞ? 「貂蝉は?」 って訊いたら殴られたからよく憶えてる。冗談だったのに。
 
 俺、霞よりずっと弱いしなぁ。違うよなぁ、やっぱ。……ご褒美って何だろ。
 
 
 
 
(あとがき)
 モーニング更新を。
 今さらな感じもしますが、今回一つ表明を。
 
 本作の一刀の、『前の世界』で恋人関係になった女性に関してですが、これは作者・水虫の独断と偏見による判断基準なのですが。
 
 一刀と、『恋仲というより別な関係』が適切だと感じたり、あまりにも強引な流れで行為に及んでいた場合は恋仲ではありません。
 
 例えば、鈴々なら恋人というより兄妹な関係の方がしっくりくるし、無印霞が一刀に惚れる要素は薄すぎる、みたいな感じです。
 
 あくまでも私の判断基準なので、読者の方々には納得いかない方もいらっしゃるかと思いますが、本作ではそんな感じです。
 
 



[14898] 十一章・『分の悪い博打』
Name: 水虫◆70917372 ID:4ddb6a25
Date: 2010/01/08 19:25
 
「冗談じゃ、ないわよ……!」
 
 地位や権力を失ったボク達に、それでも付いて来てくれる兵はいた。それは、洛陽にいた頃からの近衛であり、西涼への帰郷を果たしてからはさらにその数を減らした小部隊。
 
 今では、とても戦の規模では役に立たない護衛役に過ぎないけど、それでも情報収集くらいは出来た。
 
『張魯殿の許に、不穏な報告が届いております。真偽は……まだ我々も掴み兼ねていますが……』
 
 翠たちに用意された客人用の離れ。その廊下を早足で抜けて、ボクは本殿に向かう。向かう先は、この漢中の太守・張魯の玉座。
 
「(あり得ない。恋が援軍に加わってなかったのはわかってるし、増援が来たにしても……それが“こっちに伝わるのが”早すぎる)」
 
 翠が、恋以外にやられた可能性なら、なくもない。でも、ボクの密偵より張魯の密偵の方が早いのも不自然だ。選りすぐりの近衛なんだから。
 
 一番可能性が高いのは……北郷軍の軍師の策略。
 
「こんな手に、引っ掛からないでよ……!」
 
 せっかく翠が頑張ってくれているのに、これじゃ全部台無しだ。そうなれば、ボク達に逃げ場は無くなる。
 
「早まらないでよね……」
 
 誰にともなく呟いて、ボクは玉座に駆ける。
 
 
 
 
 漢中、張魯陣営の玉座にて、君主たる張魯自身を含めた、一大会議が開かれていた。
 
「馬超が討たれたから何だというのだ! 確かにやつは勇猛だったが、だからといって今さらやつの存命如何で変わる方針などない!」
 
 張魯の弟の張衛が噛み付くように吠えれば……
 
「落ち着いて考えてみては如何か? あの錦馬超でさえ歯が立たぬ相手、一体誰が太刀打ち出来るというのか。今なら西涼奪還を謳った馬超に全ての責を被せられるが、これ以後の攻撃は言い訳が出来ませぬ。今のうちに降伏すれば、まだ大将軍への示しもつきましょう」
 
 と、楊松が長々と語る。
 
 きっかけは、陽平関で北郷軍を食い止めていた馬超が、呂布に討ち取られたという急な伝令。議題はまさに、今もこちらに迫っているだろう北郷軍への対応。すなわち、国の命運である。
 
「何が大将軍だ! 貴様いつから北郷の犬に成り下がった!?」
 
「これは心外な。『地獄の使者』の風評がただの流言に過ぎぬ事は調べがついております。この事象自体、天子の意思かも知れませんぞ」
 
「黙れ! たとえ噂が虚言に過ぎぬとして、何故我々が成り上がりの怪しい男に頭を垂れねばならん! それに、まだ幼い帝にそのような判断が出来るものか!」
 
 当然、意見は割れる。義憤によって抗戦を唱える者、保身によって降伏を勧める者、また、降伏と抗戦のどちらが“王にとって”危険かを真剣に模索する者、と、様々だ。
 
 まるで場はまとまらず、張魯は眉間をしかめてただ黙するばかり。………そこに、
 
「こら、止め……何だ貴様らは……!?」
 
「どきなさいっての!!」
 
 大扉の向こうで、門番と、数人の男が組み合うような騒がしい音が聞こえて、バァン! と扉が開く。外から、転げるように一人の少女が飛び込んできた。
 
「(何だ、こいつは……?)」
 
 張魯は眉をさらにしかめる。門番は、己の責務として今も飛び込んできた少女を摘み出そうともがいているが、それを阻む男たちは少女を手助けしているように見えるし、自身らは玉座の間に踏み入れようとはしていない。
 
「漢中太守・張魯様。非礼を承知で、何としてもお耳に入れたい事があり、このような手段で会議の場を乱した事をお許しください」
 
 恭しく片膝を着いて、その少女は一礼する。妙だ、と張魯は思う。外からこんな風に強引に入って来たのなら、こんな近くに来られる前に騒ぎになっているし、あの人数で“忍び込んだ”とも考えにくい。
 
「(考えられるのは……馬超の手の者か)」
 
 と、張魯は結論づけた。
 
「無礼者! それがわかっていながら乱入などしてくるとは何事か!? 今は何より大事は会議の最中、早々に………」
「張衛、よい、言わせてやれ」
 
 今にも剣を抜きそうな勢いで怒鳴る張衛を制し、張魯は少女に軽くあごで促す。
 
 少女は頭を下げた姿勢のまま、「恐れながら」と置いてから語りだす。
 
「張魯様は、敵の策略に乗せられております。陽平関は今も健在、馬超は今も北郷を相手に獅子奮迅の活躍で応戦しています。おそらく、馬超が敗れたと張魯様に伝える事で戦意を削ぎ、降伏を促す敵の謀略かと」
 
 少女の言葉に、場はざわざわと騒がしくなる。それも当然、この会議の前提が間違っていると、この少女は言っているのだ。
 
「ふざけるな! 馬超の敗北と陽平関の陥落は、私が直々に調べた確かな事実! 虚言を以てわが君を惑わすのはやめるがいい!」
 
 今度は、楊松が怒鳴った。馬超の敗北は、楊松の放った密偵からもたらされた情報。反論は当然。
 
「そもそも貴様は何者だ! 得体の知れぬ怪しいやつ。そのような者の言葉など誰が真に受けるものか」
 
 鼻で笑うように楊松が言うと、少女は苦虫を噛み潰すように、あるいは覚悟を決めるようにギリッと歯を食い縛って………名乗る。
 
「我が名は賈文和。元・董卓軍の軍師で、今は馬超の客分として迎えられています」
 
 少女……詠にとって、この告白は博打であった。確かに、名乗りもしない、あるいは大した肩書きも無い者の言葉など、誰も信じるわけがない。
 
 もし漢中が、馬超が敗れたなら、詠たちの情報は近い内に北郷一刀にも必ず届き、彼女たちの命運は尽きる。
 
 正体を明かす危険を冒してでも、張魯を説得する必要があった。彼女たちには、自身で動かせる力など無いのだから。
 
「董卓軍の、軍師……?」
 
 次から次に厄介な事が雪崩込んでくるような状況に、張魯は疲れ切った溜め息をつく。すかさず、楊松が弾劾した。
 
「仮にその言葉を信じるとして、董卓軍の軍師の言葉を我らが信じる理由がどこにある! むしろ貴様が、北郷と我らを潰し合わせんと企む他国からの回し者という方が余程信憑性も高いわ!」
 
 楊松の言葉に、重鎮たちは揃って首を縦に振る。
 
「私は、この戦に張魯様が勝利する事を本心から願っております! もし私の言が偽りだと思うならば、今すぐ私をお斬り捨てになればいい! しかし、どうか早まった決断はなさらないでください! 錦馬超は今も、陽平関で死闘を続けています。どうか彼女に救援を………」
 
 床にゴツッと額をぶつけての詠の懇願に、場が静まり返った。誰より早く口を開いたのは、やはり楊松。
 
「わが君! 私とこの小娘、どちらの言葉を……」
「賈駆よ」
 
 それを制するように、君主である張魯の言葉が被せられた。
 
「お前が董卓軍の軍師で、北郷が『地獄の使者』との風評が流言に過ぎぬのなら、何故お前は今、ここにいる?」
 
 重く、静かに、張魯は………怒っていた。
 
「経緯はどうあれ、お前は暴君に仕立てあげられた北郷を見捨てて逃げた。ゆえに今、報復を恐れて北郷を始末したくてたまらない。違うか?」
 
 詠に、返す言葉はない。それは事実だった。言い訳を思い付く余裕すらなく、その言葉は、詠の中で“捨て去ったはずの”良心を抉る。
 
「お前の言葉は何一つ信じられぬ。……地下牢に放り込んでおけ」
 
 ダンッ! と音を立てて、詠は悔しさに任せて床を殴る。
 
「(ちくしょう……!)」
 
 分の悪い、しかしやらねばならなかった賭けに、詠は敗れたのだ。
 
 
 
 
「(月………)」
 
 冷たい地下牢の中、膝を抱えて震える詠が考えるのは一つだけ。事前に“待ち合わせ”をしておいた事で、月は城から遠ざけてある。月の容姿を知られでもしていない限り、捕まる事は無いだろうが……。
 
「(どうか、無事でいて………!)」
 
 疫病神、それが今のボクに一番相応しい言葉だろう。ボクが余計な事をしなければ、月は今も、洛陽で穏やかな日々を送れていたかも知れない。少なくとも、今よりはマシだろう。
 
「(今頃、どうしてる……?)」
 
 ボク自身の事なんて、もうどうでもいい。でも、月はこれから、誰も頼る相手のいない一人ぼっち。心配でたまらない。
 
「………?」
 
 コッ、コッと靴音が近づいてくる。誰だろう、と頭を上げた先に、先ほど見た顔があった。
 
「楊松………」
 
「いいざまだな、賈駆」
 
 思えば、こいつの言動には違和感があったのだ。
 
「あんた……北郷と内通してたのね」
 
「正確にはその軍師・程立様と、だがな。お前には感謝しているよ、漢中を落とす橋渡しに加えて、裏切り者の発見。私が正式に北郷陣営に加わった暁には、どれほどの功績になるか」
 
 ……馬鹿な男。ボクは見せ付けるように嘲笑ってやった。
 
「あいつが、金や出世欲で動く人間を重用するわけないじゃない。どうせ安っぽい賄賂で釣られたんでしょうけど、あんた体よく利用されただけよ」
 
「何とでもほざけ、籠の鳥が。どうせ、今さらお前の言葉など誰も信じやしない。……それはともかく、お前には訊きたい事がある」
 
 楊松はそう言って、鍵を束ねた輪を指先で回した。
 
「洛陽から消えたのは、お前一人ではない。董卓はどこにいる? どんな容姿をしている?」
 
「……知らないわよ。知ってたって、あんたなんかに教えると思う?」
 
「……だろうな。私も素直に教えてもらえるとは思っていない。まあ、体に訊くさ」
 
 そう言って、楊松は好色そうないやらしい笑みをその顔に張りつける。
 
「(う……う、そ……?)」
 
 “体に訊く”、その生々しい響きに、全身が震え上がる。月が無事ならボクはどうなってもいいと決めていたはずなのに、怖くてたまらない。
 
 命は捨てる事が出来ても、清らかさは捨てたくなかったとでも言うのか。自分の調子の良さに、頭の、どこか冷静な部分で呆れる。
 
「どうせお前は死刑確定。拷問代わりにどう扱おうと、誰からも文句などでないだろう」
 
 楊松が、牢の鍵を開ける。でも、ボクの左足には足枷が付いていて、逃げる好機にはなってない。
 
「いや………」
 
 楊松が、近寄ってくる。怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!!
 
 自分の体を庇うように抱きしめて、全身を情けなく震えさせる。目の前の現実を否定したくて、両の目をきつく閉じる。
 
「(ボクに触れていいのは………!)」
 
「え…………」
 
 絶対の窮地で、自分の中に浮かんだ言葉に、愕然とした。自分が……すごく汚らしい存在だと悟って、泣きたくなる。そんな権利は、無いのに……。
 
 思考が、本当に何もかもどうでも良くなる奈落に堕ちる。まさに寸前の事。
 
「…………?」
 
 手の甲に生暖かい液体の感触を感じて、次いで、ぼとりと何かが落ちる音がした。
 
 目を開けば、目の前に立っていた絶望の象徴、楊松の“体が”ぐらりと揺れて、横に倒れる。
 
 その、向こうに……
 
「……逃げよう、詠ちゃん………」
 
 ここに来るまでに、一体何人を手に掛けたのか。全身を血に染め、宝剣を握る、月の姿を見つけた。
 
 
 
 
(あとがき)
 今日も今日とてモーニング更新。
 今回は一刀たちは一切出せませんでした。次は一騎討ち再開なつもりです。ちなみに、今回の話は時系列的には一騎討ちが始まる数日前くらいです。
 
 



[14898] 十二章・『雪原に咲く花』
Name: 水虫◆70917372 ID:4ddb6a25
Date: 2010/01/09 07:07
 
「おっ……!?」
 
 振り下ろされた槍の穂先を、霞が柄で受けた。十字に伸びた刃の一つが、霞の頬を浅く擦めた。
 
「っなろ!」
 
 その槍を振り払う勢いですくい上げた偃月刀の斬撃を、翠を身を屈めて避ける。斬撃から一拍遅れるように、軍服の肩が切れた。
 
 そのまま、ぐるりと馬が円を描くのに合わせて、鏡に映したように二撃、ぶつかる。
 
「………もう、何刻くらい打ち合ってる?」
 
「………さあな」
 
 俺の呟きに、舞无は張り詰めた表情のまま、上の空で応えた。
 
 どっちが、いつ死んでもおかしくないくらいの苛烈な乱撃戦。一撃必殺の刃が、渾身の力を込めた豪撃が、両者の烈迫の気合いがぶつかり合って、それなのに……お互いに擦る以上の手傷を許さない。
 
 もう何合打ち合ったのかもわからない。半日くらいぶっ通しで戦ってるように思う。それでも………
 
「はぁああああっ!!」
 
「っらぁああああ!!」
 
 まだ、決着がつかない。
 
「(見てるこっちの心臓が、保たねぇよ………)」
 
 二人の少女の安否を気遣う俺は、見ているだけで倒れてしまいそうな心労を募らせていた。
 
 
 
 
「くっそ……眼鏡の鼻へし折るて、意気込んでみたんはええけど、あんた強いなぁ……。決着つかんわ」
 
「はあっ……はあっ……まだ無駄話する余裕があんのかよ。そういうあんたも、大概化け物だな」
 
「余裕なんてないよ? それに、ウチより強いんが北郷軍にはごろごろおるさかい。ウチくらいで化け物なんて言うとったら“井の中の蛙”やで」
 
 話しながらも、当然手は休めん。ガンガン打ち合っとるけど……いい加減しんどい、いつもは軽々振っとる偃月刀がもう重くて敵わん。
 
「………それ、結構へこむな」
 
「気にすんなや、上には上がおるっちゅーこっちゃ」
 
 この、打ち合った時にガツンと響く衝撃で得物を取り落としそうになるもんなぁ……。腕力は向こうが上か、ウチよりはまだ余裕ありそうや。これ以上長引くと……ヤバいな。
 
「……あんたほどの武人が従うほどの者なのか? 北郷一刀ってのは」
 
「迷わず肯定しとくけど………どこが? ってのはナシで頼むわ」
 
「何だよそれ」
 
 ガチィッ! て音立てて互いの馬が行き過ぎる。会話のための睨み合いの雰囲気が流れる。……ぶっちゃけ助かった。
 
「剣には心が宿る、ってのがウチの持論や。そんで、いっぺん一刀に真剣で勝負挑んだ事あんねん」
 
「はあぁっ!? ……いや、その持論は理解出来るけど、普通主君に槍向けるか?」
 
「あっ、今の内緒にしとってな。バレたらウチ明日の朝日が拝めんから」
 
 音が聞こえてきそうなくらい分かりやすく、馬超はゴクッて唾を飲み込んだ。我ながら絶妙。今ので、一刀の好かれ具合は一発でわかるやろ。何たって、ご当人が知らんわけないんやから。
 
「まあ、それでガンガン打ち合って、そんでな……」
 
「そんで?」
 
「結局、あいつがどういうやつか掴めんかってん」
 
「…………はぁ?」
 
 懐かしいようで、そんなには経っていない思い出を初めて口にして、予想通りの反応された。まあ、自分でもツッコミ所満載なんやけど。
 
「何でそれで北郷を主君って認める事になるんだよ!?」
 
「なるわ。ウチはこのやり方に誇りを持っとるし、疑っとらん。……要するに、ウチ程度には推し量れん人間っちゅーこっちゃ。これ以上の資格があるかい」
 
「………………」
 
 う〜〜ん、神妙な顔して首傾げられた。やっぱり、同じ武人でもウチは特殊なんやろか。……ま、真剣さが伝わったんなら何でもええわ。
 
「あいつを知りたかったら、直接会って話したらええ。そもそも、人づての評価なんかで納得出来へんやろ?」
 
「……確かにな。馬鹿な事訊いちまった」
 
 ぐっ、と馬超の槍を握る手に力が込められたんがわかった。休憩は終わりらしい。
 
「“生き残れたら”、あんたとは一杯やりたいね」
 
「あ、そっか。生き残れたら、どっちが勝ってもウチら相手の捕虜やもんな」
 
「言っとくけど、勝つのはあたしだぜ」
 
「そうもいかんわ。個人的には勝敗以上に大事なものぎょうさん貰たから満足やけど……大見得切ってもうた手前もあるし、ここで負けたらどこぞの眼鏡の思い通りになってめっちゃムカつくからな」
 
「…………眼鏡」
 
「おしゃべりは終わりや。いい加減決着つけようや」
 
 眼鏡って単語出した途端、馬超の表情が険しくなった。……本格的に“当たり”かも知れん。
 
「(ま、今はそんな場合ちゃうか………)」
 
 二人同時、馬の後足が地を蹴った。
 
 
 
 
「おい……! またペース上がったぞ!?」
 
「黙って見ていろ!」
 
 一度動きが止まったように見えた二人が、今度はさらに激しく打ち合いを始めた。情けなく狼狽してしまった俺を、舞无が一喝する。
 
「霞を信じて、胸を張ってそこにいろ! お前は私たちの主君だろうが!」
 
「舞无………」
 
 張り詰めたように怒鳴った舞无の唇から、噛み切ったのか、血が一筋伝う。
 
 ……そうだ。舞无は、霞とは一番付き合いが長いんだった。
 
「「どりゃぁああーー!!」」
 
 どこにそんな体力が残っていたのか、二人は一騎討ちの初めの時よりもなお苛烈にぶつかり合う。今までが全力じゃなかったわけじゃないだろう。でも、今は……何ていうか、一気に勝負を懸けているような、消える寸前の蝋燭の炎みたいな激しさがある。
 
 それでも、互角。しかし、半日以上も続いた均衡は、次の瞬間に崩れた。
 
「あ………!」
 
 霞の馬が、主人の促すままに体を酷使していた馬が、力尽きたように崩れ落ちる。
 
「(馬の方が、限界なのか………!?)」
 
 落馬して、受け身を取って転がる霞に、翠の銀閃が迫る。
 
「霞ぁーー!!」
 
 
 
 
「(もうちょい気張らんかい! ウチはそない重ないぞ!)」
 
 いきなり体勢が崩れた事にも動揺せず、霞は勢いに逆らわず、ごろごろと雪の上を転がる。
 
「もらったぁ!」
 
 その受け身の動きすらも見越して、翠の槍は霞の動きを捉えていた。馬上から真っ直ぐ、最短距離を穂先が奔る。
 
「何をじゃ、ボケェ!」
 
 しかし、その刺突は、まだ上半身しか起こせていない霞の、偃月刀の柄に止められる。通常の槍の、面積の狭い穂先なら、霞は止め切れはしなかった。十文字槍の幅広い穂先が、この時ばかりは仇となった。
 
「粘るなぁ、おいっ!」
 
「その上から目線が腹立つわ!」
 
 刺突を防がれた翠は、しかし駆けさせていた馬の勢いのせいで連撃が続かない。素早く立ち上がった霞は、偃月刀を上段に構えて迎え撃つ。
 
「(あっちの馬も、限界か………)」
 
 そう見抜いた霞は、軽やかに足を動かす。上方からの激しく、重い豪撃を受け止めながら、ひらりひらりと馬の旋回に負担が掛かる方向に逃げていく。
 
「おわっ! ……麒麟っ!?」
 
 霞の目論見通り、翠が麒麟と呼んだ馬は足をもつれさせて横転。さっきとは逆に、落馬した翠に霞が斬り掛かる。
 
「狙いが見え見えなんだよ!」
 
 しかし、直前までの霞の動きで狙いに見当がついていた翠は、振り下ろされた偃月刀の柄の部分を靴底で蹴り上げた。そのまま飛び起きると同時に、槍が下から上に一閃される。タンッと軽く後ろに跳んだ霞の前髪が、風圧に靡いた。
 
「ぶっ飛べぇえ!!」
 
「喰らえやぁ!」
 
 馬から落ちても二人の勢いは止まらず、連撃と連撃が火花を散らす。白刃がまるで光の帯のように二人の周囲で煌めく。その、危険に過ぎる光は、降りしきる雪に良く栄えた。
 
「(ヤバい………)」
 
 先に落馬してしまった事と、元々の腕力も影響してか、体全体の動きで繰り出される翠の連撃を受ける中で、霞は自身の……翠よりも早く訪れる限界を感じた。
 
 しかし、その霞の目測以上に早く……“そちらが”限界に達する。
 
「「げ………っ!?」」
 
 翠の突きを受けた霞の偃月刀の柄がへし折れ、また、翠の銀閃の穂先にピシイッ! と亀裂が走る。
 
 超一流の武人二人の長い戦いに、馬も武器も、最後までついてくる事が出来なかった。……だが、当然戦いは止まらない。
 
 武器の損傷は……間合いを大きく失った霞が不利。
 
「いよいよ大詰めか……来いやぁ!」
 
「遠慮……しねぇぜっ!」
 
 武器が壊れた瞬間、両者反射的に飛び退いてしまっている。意図せずして、翠の間合い。翠は迷わず、突っ込む。
 
『霞ぁーー!!』
 
 情けない、と評すべき叫びが脳裏に蘇り、霞は笑った。
 
「(負けて、死んだら……泣かせてまうな……)」
 
 全軍の見ている前で、家臣のこっちが恥ずかしいったら無い、“後で殴る”と霞は決めた。
 
「そらっ!」
 
 霞は左手に握る、刃の付いていない柄を思い切り放り投げる。しかし……
 
「そりゃ、当然の狙いだろ!」
 
 翠は勢いを殺さず、動揺もせず、首を捻ってそれを躱した。
 
「……………」
 
 霞は無言で、短くなった柄の先の刃を、胸の前で軽く引いた。肩に掛けただけの羽織の前で結んだ紐が、ぷつりと音を立てて切れる。
 
「“こっち”もかっ!!?」
 
「っ!?」
 
 そのまま、“刃の付いた方の柄”をも、翠に向かって全力で投げ放つ。まさか武器を完全に放棄するとは思ってなかった翠はこれには驚き、つい勢いを殺して、しかし飛んできた刃を槍で弾いた。
 
「勝負やっ!!」
 
「戦場で武器を捨てるかよ! 負けを認めたようなもんだぜ!」
 
 立ち止まった翠に、狙ったように霞は襲い掛かるが、まだギリギリで翠の間合い。もはや霞には、受ける武器すら無い。
 
「武器ならまだあるわい!」
 
「終わりだ!」
 
 翠が、最後の一突きに力を込める。それより一瞬速く、霞は、紐を切った、肩に掛けていた羽織をバサアッ! と広げる。
 
「(目隠しのつもりかよ!?)」
 
 翠は構わず槍を突き出す。羽織ごと串刺しにするつもりで、奪われた視界にも構わず。
 
「!!?」
 
 硬い手応えを感じて、バキィッ! と何かが割れた音がした。と思った時には、翠の下腹部ほどの高さにいた……否、飛び込んで来ていた霞の眼と、翠の眼があった。
 
 羽織で隠して、驚くほどに低く、疾く、霞は翠の懐に潜り込んでいた。
 
 丸腰で、相手もだが、自らの視界も奪って、命知らずに頭から飛び込んでいた。
 
「ッおおおおおおお!!」
 
 屈んだ姿勢から伸び上がるように、霞はもう一つの武器……拳に付けた手甲を、翠の鳩尾に叩き込んだ。
 
「っ……ごふっ……!」
 
 ぐらりと揺れて、錦馬超が崩れ落ちる。ガシャッと音を立てて、潜り込む際に割られた髪留めが雪の上に落ちる。頭のどこかを浅く斬ったのか、髪や額、眼がが、血に染まる。
 
「楽しかったで……錦馬超」
 
 ふらつく体で、崩れ落ちた翠の体を抱き抱える。
 
 爆発するように湧き上がった歓声と雪の中……
 
 髪留めを失った、長く綺麗な紫の髪が、ふわりと解けて、純白の雪原に咲いた。
 
 
 
 
(あとがき)
 今日は調子が良かったからダブルで。もうちょい進める予定でしたが、一騎討ちで全部使いきってしまいました。
 
 



[14898] 十三章・『当たり前みたいに』
Name: 水虫◆70917372 ID:4ddb6a25
Date: 2010/01/09 13:28
 
「……………」
 
 あれ、母様。母様が、呼んでる。そうか、今日は母様が朝御飯を作ってくれたのか。
 
 あたしは手早く寝間着から普段着に着替えて、自分の部屋の扉を開けた所で………
 
「うわぁっ!?」
 
 いきなり目の前に飛んできた木の実(食えないやつ)を、びっくりしつつ受けとめた。
 
「なかなか良い反応ですよ、お嬢。もうあたしが教える事は何もありませんね」
 
「散姉! 朝っぱらから不意打ちはやめてくれよ! っていうか何だよその弟子の成長を見届けた仙人みたいな口振りは!?」
 
「朝御飯が出来たようで。長いツッコミしてないで行きますよ」
 
「っき〜〜……!!」
 
 扉からあたしが出てくるのをわざわざ待ち伏せしてたらしい散姉は、いつものように人を食った態度でてくてくと歩いていく。……何であの人は昔から全然外見が変わらないんだろう。仙人だ、と言われても信じてしまいそうだ。
 
「お姉様ー! また散ちゃんに遊ばれてたねぇ♪」
 
「……お前、木の実避けられなかっただろ」
 
「うっ、それは言わないお約束」
 
 おでこを少し赤くした蒲公英が、どこからともなく現れた。母様の食事……何でだろう、すごく、懐かしい気がする。
 
 ぼんやりそんな事を考えていると、蒲公英が後ろから抱きついてきた。最近は妙にませてきて、こんな風にあからさまに甘える事も少なくなってきたのに……やっぱりまだまだ子供だな、と微笑ましく思う。
 
「どうした蒲公英? 怖い夢でも見たか?」
 
 からかうように言ってやると、腰に回した腕に力が込められた。何だ何だ? 五胡の連中とだって戦ってる蒲公英が、本当に、一体何に怯えてるんだ?
 
 すがりつくように、回した腕の力はどんどん強くなっていく。……いや、え? ちょっと待て。これもう強いっていうか……
 
「いだだだだっ!? ちょっ放せ蒲公英! 折れる折れる折れる!」
 
 蒲公英ってこんなに力強かったっけ? ってかこれ、折れるっていうよりもうすでに折れてないか!?
 
「……う! ……ちょう!」
 
 何か、男の声が聞こえる。誰だこれ。どっかで……ずっと昔にどっかで聞いた事あるような……。
 
「馬超!!」
 
「っ!?」
 
 そこであたしは、“目を覚ました”。
 
 
 
 
「………え?」
 
 目を開けたら、一人の男……いや、少年が、あたしの顔を覗き込んでいた。よく見れば、揺さ振るように両肩を掴まれてもいる。
 
「〇&♯Ω∠☆△!?」
 
 まさに反射。あたしの拳はそいつの顔面を打ち抜く。絵に描いたようなやられっぷりで、そいつは大の字に倒れた。
 
「くおっ……ナイスパンチ……!」
 
「い、い………今何しようとした!? そりゃあたしはどうしようもない不細工な無骨者だけど、それでも相手を選ぶ権利くらいは………」
 
 あれ? わからん。全っ然わからん。今あたしは何を口走ってんだろうか。
 
「そんだけ元気なら、心配無用か」
 
「……だねぇ」
 
 部屋の隅に立っていた蒲公英が、何故か男の呟きに相槌を打つ。あれ? 誰? 何がなんだか………
 
「あーーーーっ!!」
 
 頭の中を駆け巡るように色々思い出し、弾けるように上体を起こして……
 
「ッッ………痛ぅ……!?」
 
 また、さっき夢を見てた時みたいな激痛を腹に感じた。……これ、もしかして。
 
「お姉様、無理して動かない方がいいよ? あばら骨二、三本折れてるみたいだから」
 
 ……やっぱり。いや、そんな事より、
 
「……ここ、陽平関だな」
 
 ここしばらく使っていた、見慣れた情景。そして、見知らぬ少年。
 
「………あんたは?」
 
「はじめまして、ってのはあんまり言いたくないけどね………俺が北郷一刀だよ」
 
 何だか含む言い回しで、予想していたのより二つ三つ上の階級の名前が飛び出した。何で君主がこんな所に一人でいるんだよ。
 
「つまりあたしは……負けたのか?」
 
「……勝った憶えは、無いだろ?」
 
「………まあね」
 
 だからこそ、北郷一刀がこの陽平関に無血入城してるんだ。この様子だと、蒲公英もあたしが負けて即降参か。……まあ、賢明な判断だけど。
 
「何であんた……じゃない、あなたはわざわざ捕虜が起きるのを待ってたんだ? 護衛も付けないで」
 
「心配だったから。それに、馬超たちは、今さら歯向かうような事はしないだろ。霞も大丈夫だって言ってたし」
 
 逆に、君の護衛が付いたくらいだ。って笑いながら、北郷は蒲公英を指差した。……っていうか、恥ずかしい台詞を平気な顔して言うな。
 
 しかし、北郷の行為はそれに止まらなかった。安心と、切なさが混じったような不思議な微笑みを浮かべて、あたしに向かってゆっくり手を伸ばしてくる。
 
「(な!? な!? な!?)」
 
 頭が混乱の極みにあるのに、どこか冷静な部分が告げる。よくわからない、この感じ。………懐か、しい?
 
「無事で、良かった………」
 
 伸ばされた掌が、あたしの頬を柔らかく撫でる。細められた瞳から、涙が一筋。……何で、何で北郷一刀が、あたしのために泣くんだよ……? 意味がわからない。全然意味がわからない。
 
 ただ、この意味がわからない感覚を、心地良いと思ってしまっている自分がいる事も確かで……。
 
「こーんな事もあろうかと」
『ぎゃぁあーー!!』
 
 半ば夢想のような状況にあったあたし、あたしの顔をずっと見ていた北郷、そんなあたし達を目を輝かせて見ていた蒲公英(後でシメる)。その全員が飛び上がって驚いた。
 
 何故なら、あたしの寝台の横(北郷が座っていたのと反対側)にあった、重々しい棺(何故か誰も気付かなかった)の蓋が突然、飛び出すように……じゃなくと飛び出したからだ。
 
「やっほー」
 
『………………』
 
 相変わらずやる気の欠片も感じさせない声色で、その人は棺の中からのそのそと身を起こす。あまりにもあんまりな登場に、誰も反応出来ないでいると、わざとらしく首を傾げた。……っていうか、
 
「散!?」
「散姉!?」
「散ちゃん!?」
 
 見事に三人、声が揃った。呼び方は違うけど。
 
「お前どっから生えて来た!?」
 
「どこかと訊かれれば、棺かな、と」
 
「そういう事じゃなくて! 何でいんの!? 洛陽にいたんじゃ!?」
 
「あなたが全権を任せた雛の判断ですよ。上手く張魯軍の留守を襲えたなら、こんなに時間はかからない。何か不確定な事に巻き込まれてるはず、ってな具合で。主に一刀が軍医の所で話訊いてる時に来ました」
 
「主にって何!? 大体さっきの『こーんな事もあろうかと』は!?」
 
「本当に拘束もしていない捕虜と二人……いえ、三人きりにするわけないでしょう。棺の中で様子を見てたら案の定ですよ。色欲魔」
 
「……お前は誰から何を守ろうとしてたのかね?」
 
「無論、下半身人間から可愛い妹分の貞操を」
 
「あ〜なるほど……出てけ!!」
 
「出てくのはあなたですよ。今からこの部屋は男子禁制なので」
 
「横暴だ!」
 
「どっちが?」
 
 ……何か、ついていけない勢いで二人が言葉を投げ合ってる。感動の再会とは程遠い。え〜と、つまり………
 
「散姉……知り合い?」
 
「ふっ……。よくぞ訊いてくれました。今のあたしはお嬢の知る散姉にあらず、北郷軍が五虎大将軍が一人、鳳令明とはあたしの事です」
 
「勝手に大仰なもんを捏造するな」
 
 散姉の名乗りに、その後頭部をぺしっと叩いた北郷は、すかさず目潰しで仕返しされた。床をごろごろとのたうち回る。……散姉のあの包帯、何だろ?
 
「これはあれですよ。熱々の山菜鍋を誤って頭から被ったのです」
 
 あたしの視線に気付いたのか、散姉は人差し指を立てて得意げにそう言った。
 
 ……全然、感動の再会なんかとは程遠くて、まるで昨日までも一緒にいたみたいに当たり前の態度で……すごく、散姉らしかった。
 
「そ・れ・よ・り、蒲公英はお姉様たちの態度の方が気になるんだけど。絶っっ対初対面じゃないでしょ!?」
 
「ふえっ!?」
 
 すっかり忘れていた事を蒸し返されて、あたしは反応に困る。いや、訊かれても……あたしにも何がなんだか……。
 
「お嬢がここまで流されやすい娘だったとは……。男に免疫の無い世間知らずの娘が、初めて声を掛けてきた悪い男に騙される典型のようで」
 
「誰が悪い男だ!」
 
 あっ、復活した。
 
「あなたの事ですよ、魔王様?」
 
「ぐはぁ……!」
 
 見えない何かに射ぬかれるように、北郷は胸を押さえてよろめいた。
 
 気になる事は、山ほどあったし、今の状況も変だなって思った。
 
「(でも、今は………)」
 
 全然、感動の再会なんかとは程遠くて、すごく“らしくて”、そして……いつもより少し口数の多い散姉と、そして随分腰の低い魔王様と、この穏やかな空気を感じていたかった。
 
 
 
 
「楽しそうですね、向こうは」
 
 ある程度離れた霞の部屋にも、一刀殿や馬超たちの笑い声は届いてきていた。
 
「さっさとウチも混ざりたいわ。下では盛大に戦勝の宴までしとるのに」
 
「なら、手早く続きを話して終わらせましょう。さっきの話」
 
 霞が、馬超とのやり取りの中で、感じ取った影について。
 
「馬超さんの後ろに賈駆さんや董卓さんがいる、って話ですよねー?」
 
 風が、霞の髪を予備の髪留めでまとめながら続きを促した。
 
「確証は無いし、馬超が仲間を売る可能性も無いと思う。……でも、この事は一刀に言うな」
 
「………隠し通せると思っているのですか?」
 
 この期に及んで、霞が賈駆たちを庇い立てしているわけじゃないのは、私にもわかる。むしろ、逆だ。
 
「一刀が二人を見つけた時にどんな態度取るか、想像つかんわけやないやろ?」
 
 ……いくら一刀殿とはいえ、霞は心配しすぎじゃないだろうか。賈駆のせいで大陸の魔王にまでなっているのだ。いくらなんでも………いや、やりかねない。
 
「……どうするつもりですか?」
 
「あれでとことん頑固な所あるからなぁ。ウチは一刀のわがままを説得出来る自信無いから、チクるんなら、説得は稟の仕事やで?」
 
「……何を無責任な」
 
 しかし、確かに………
 
 
『良かった! ……良かっ、た……!!』
 
『ちょっ! おまっ、こないなとこで泣くな! ちゅーか抱きつくな! 恥ずかしいやんけ!』
 
 一騎討ちが終わった直後の、何だかんだで泣きながら抱きつかれるままだった霞を思い返せば、霞が一刀に“勝てない”のは想像がつく。
 
 おそらく彼女も………そうなのだろう。
 
「どうせすぐ顔に出すから舞无にも黙っとくけど………これは元・董卓軍の問題でもある。きっちり、ウチの手でけじめ着ける」
 
 霞の眼は、一騎討ちの時とは別種の光を帯びていた。責任と重圧を背負う、“将”の眼だ。
 
「………いずれ、必ずバレますよ。その時、一刀殿がどう思うか……」
 
「………さあな」
 
 その情景を思い浮べたのだろう。霞の瞳が悲痛に沈む。
 
「誰かがやらなあかんなら、ウチがやってやりたいねん。かつての仲間として……」
 
 かつての仲間。流浪の旅をしていた頃からずっと一刀殿と一緒だった私にはわからない苦悩が、霞の横顔から感じ取れた。
 
「ウチが……詠を殺す」
 
 
 
 
(あとがき)
 今日もダブルを狙ってるクチです。感想返信より更新速度に比重が寄ってる今日この頃。何か筆(指)の滑りが良いのです。
 
 



[14898] 十四章・『苦渋の降伏』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/09/23 18:57
 
「兄上!」
 
「何だ衛、何度言われても決定は覆らん。北郷軍とは抗戦せぬ」
 
 董卓軍の賈駆を名乗る小娘を投獄した後、北郷軍との抗戦はしない事に決議した。頭に血を上らせてその場から飛び出した、弟の張衛が顔を出すのはそれ以来だ。
 
 最後まで抗戦を訴えていた張衛は、この決定に我慢ならなかったのだろう。あの夜から一日経った今夜。それ以降は降伏か、益州の劉璋を頼るかでまとまらない会議が今も続いていた。
 
 今日の所は、と会議を切り上げれば、自室に張衛が怒鳴り込んでくる始末。何だと言うのか。
 
「そうじゃない! 今地下牢で大騒ぎがっ、いや、そんな事より……」
 
 要領を得ない説明を口の中で空回りさせる張衛は、説明するより早いと思ったのか、懐から一枚の書簡を取り出した。
 
「こいつを見てください!」
 
 すぐに冷静さを失うのが弟の悪いくせだと思いながら、私は書簡に目を通す。端に血が滲んでいて気味が悪い。
 
「ッ……衛、これは一体……?」
 
 それは、北郷軍の軍師との間で交わされた密書だった。漢中の張魯……つまりは私に、降伏を促すよう吹聴し、上手く事を運べば千金の褒美を出すと。
 
 その文面は、馬超が呂布に敗れ、陽平関が落とされ、もはや我らに勝ち目なしというもの。……楊松が主張していたものと、同じだった。
 
 まさか………
 
「順を追って説明するから、落ち着いて最後まで聞いてください……」
 
「お前に言われたらおしまいだ。いいから早く話せ」
 
 張衛は、こやつにしては丁寧に話し始めた。
 
「今日の夜、ついさっきです。城の地下牢に賊が侵入し、門番は軒並み斬り殺されました。賊の正体は董卓、賈駆と同様に不穏な輩は皆投獄したつもりでしたが、今まで身を隠していたようです」
 
 ……気になる事や、深く訊きたい事もあるが、ここは最後まで話を訊く。
 
「ただ、その地下牢の守りが事前に手薄になっており、それが楊松の指示である事もわかっています。私は、人払いが狙いだと考えています」
 
 普段から意見の衝突しがちな張衛と楊松、しかしそれでもこれほどまでに穿った見方をする理由は、概ね見当が着く。話の前にこの密書を出してくれたのは助かった。話が、理解しやすい。
 
「……この密書は、その地下牢にて斬り殺されていた楊松の懐にあった物です。おそらく、約定書としての意味も持つこれを処分する事も出来ず、肌身離さず持ち歩いていたものかと」
 
 すでに楊松が死んでいる。さすがにその言葉には動揺したが、それ以上に楊松の行動に腸が煮え繰り返る。張衛の言い方には多分に私情や私見が挟まれているが、今回に限っては間違っていないように思える。
 
 信じていたからこそ、失望と憤激は止まない。……それを表に出す愚は冒さないが。
 
「奴は金や物欲にまみれた男です。危険とわかっていても、その密書を手放せなかったに違いありませぬ」
 
 それはわかっていた。だが、長年仕えた張家への忠誠はそれ以上だとも思っていた。長年禄を受けていたからこそ、だ。
 
「して……董卓はどうした?」
 
 人払いされていたとはいえ、地下牢の番を悉く斬り倒すような使い手ならば、中で捕まっていた賈駆やその部下を解放されたら、逃げ出された可能性も高い。
 
「それが……」
 
 ………………
 
 急遽、玉座の間に重鎮を集め、楊松の裏切りと、馬超の敗北が偽りである事を皆に知らせた。
 
 皆が落ち着きなく騒ぎ始めるが、何がどう変わったとも思えない。張衛を除けば、抗戦を訴える者は一人もいない。
 
「楊松の屋敷から、兄上が褒賞として与えたわけでもない金銀が見つかりました。もはや、奴の離反を疑う余地はありませぬ」
 
 いや、張衛も勢いが無い。重鎮に裏切られた私を気遣っているのか。普段容易く激昂するのも、多くの場合はその過ぎたる忠誠がゆえ……。張衛はそういう男だ。
 
「今、改めて陽平関へと密偵を走らせ、軍の編成も急がせておる。馬超が今も北郷と矛を交えているなら、友軍として我らも兵を挙げるのが理」
 
 話は振り出しに戻っていた。しかも、大幅に出足を遅らせられて。もはや、密偵が情報を持ち帰るのを待つ時間は無い。
 
「お待ちください! ここで兵を出せば、それは北郷軍へ我ら自身の宣戦布告。そうなれば、言い訳が立ちません!」
 
 無論、こういう意見が出る事もわかりきっていた。北郷と内通していたとはいえ、楊松の言っていた事も間違いではない。
 
 むしろ、こう取るべきだろう。あの楊松の進言は、『北郷からの降伏勧告である』と。
 
 だが、私がそれを迷っていたのは……馬超がすでに討たれたと考えていたからだ。
 
「だから何だ。私は馬超の意気に応えて、兵を挙げ、西涼奪還の戦いに応じた。それを信じて今も戦っている馬超を、自らの保身のために見捨てられるか。それこそ暴君どころか、外道畜生にも劣るわ」
 
 感情に任せた利己的な政治などは論外だが、損得を考えるばかりの統治とて誰もついて来はしない。仮にも太守を勤める身の上。そういった道理はこの場の誰よりわかるつもりだ。
 
「日の出とともに出発する。各人、出陣に備えておけ」
 
 しかし、そのこだわりは………日の明けた頃に帰ってきた伝令によって………
 
「伝令! 国境に八万から十万の大軍を確認! すでに関所は突破されています! 牙門旗は十文字、北郷です!」
 
 脆くも崩れ去った。内通者と敵の偽情報に踊らされているうちに、私は友軍を見殺しにしたのだ……。
 
 
 
 
「無理してついて来なくて良かったのに……」
 
「……張魯殿は、あたし達に手を貸して出兵してくれたんだ。なのにあたしの方が無様に負けて、捕虜になって……でも、合わせる顔が無いからって逃げるわけにいかないじゃないか」
 
 あばらが折れて、馬に乗ってるだけでも相当辛いはずなのに、翠はこう言って漢中までついて来た。
 
 相変わらずというか何というか……とにかく、こうして無事に言葉を交わせてるって事自体が、すごく尊いものに思える。
 
 ……あんな寿命が縮むような一騎討ちは出来れば二度とごめんだ。
 
「ま、最低限の筋も通さずに、女将の墓前には立てませんからね」
 
「あー……それわかる気がする」
 
 散がしみじみ呟いて、馬岱が嫌そうに肯定した。
 
 ところで、何で俺は、こんな西涼家族の付属品みたいなポジションで馬に乗ってるんだろう。
 
「………………」
 
 霞、稟、風の三人は結構離れた位置で何やら神妙な顔して話し合ってるし、舞无は先見のための騎馬部隊を連れて先に行ってる。
 
 舞无はともかく、霞たちは何だ? 翠を捕虜にしてから何か様子がおかしいんだけど。
 
 いや、それを言うなら………
 
「……………」
 
 時々黙りがちになる西涼三姉妹も何か妙だ。翠たちは張魯の事があるからわからんでもないけど、散が気になる。
 
 無事翠と再会も果たしたし、もう終わった事でこんな風に上の空になるやつじゃない。ついでに言えば、翠の立場を気遣ってブルー入るほどおセンチなやつでもない。
 
 何ていうか、現在進行形で懸案事項を抱えているような感じだ。いや、むしろ散はそういう類の事でしか悩まない気がする。
 
 ………何だろう、この疎外感。
 
「……散、訊いていいか?」
 
「あうと」
 
 ……こんにゃろう。俺が気にしてるのわかった上で堂々と内緒にしやがって。
 
「あなたには関係ありませんよ……と言いたい所ですが、大いに関係あるかな、と」
 
「「ッ……」」
 
 散の言葉に、翠と馬岱が明らかに表情を険しくした。……俺に関係あるのに、内緒? 知られるとまずい事か?
 
「嘘はつきたくないので。今はこれが精一杯かな、と」
 
 ……ものすごい不安になる言い草だ。でも、訊いてもはぐらかした稟たちよりは正直な応えか。
 
「わかったよ、散の事は信じてる。敢えて深くは訊かない」
 
「……そういう単純な話でもないんですけどね」
 
 散の表情に翳りが差す。この話題に入ってから、翠も馬岱もだんまりだ。
 
 何だこいつら。隠し事を暴くほど無粋なつもりはないけど、隠すならもっと上手く隠せよ。あからさまにやるな。
 
 逆に知られたいんじゃないかと深読みしそうになるだろうが。
 
「一刀ーー!!」
 
「お」
 
 おそらく俺同様に何も知らされてないに違いない舞无が戻って来た。同志よ、一緒に仲間外れの苦しみを分かち合おうじゃないか。
 
「張魯からの使者と行き合ってな。こいつを預かってきた」
 
 そう言って、舞无は一通の書簡を俺に手渡す。舞无に使者って単語、全然似合わねえなーとどうでもいい事を考えながら、俺は書簡の中身に目を通す。
 
「…………うし!」
 
 馬鹿に丁寧な文面をいちいち読み上げるより早く、俺は斜め読みで核心部分を読み取った(どうせ無礼な書き方云々には興味無い)。
 
「願ってもない、結末だな」
 
 まずは城から見える位置に軍勢並べて降伏を促す。それで駄目なら短期決戦、つもりだったけど……向こうから言い出してくれるとは。
 
「入城しよう、張魯は……降伏した」
 
 
 
 
 
「散ちゃん、痛い!」
 
 さっきまでは武器こそ持ってなかったもののフリーダムな扱いだった翠と馬岱だが、いきなり後ろ手に縄で縛られた。犯人は散である。
 
「こっちの方が、張魯と会った時に体裁が良いでしょう?」
 
 なるほど。さすがお姉さん、なかなか良く気がつく子である。……気がついた上で気を遣ってくれるとは限らないのがあれだけども。
 
「あっ、あれかな」
 
 近づいてきた城門の前に、雅やかな衣装の連中を発見した。あれが漢中の重臣たちと見た。ある程度近づいてから兵を止まらせ、俺、散、舞无、いつの間にか追い付いていた霞、稟、風、そして翠と馬岱で進み出る。
 
 ひらりと馬から飛び降りた。
 
「はじめまして、俺が北郷一刀です」
 
 目をまん丸にされた。「降伏を受けた側の態度ではありませんよ」とか稟の呟きが聞こえたけどもう慣れっこだ。
 
「……私が漢中太守、張魯にございます。我々に、北郷様と争う意思はございません。どうか我らの帰順を認め、漢中の民たちをお守り下さい」
 
 張魯と名乗った男は、長く立派な髭を胸まで伸ばす、冷静沈着そうなおじさまだった。歳上に腰の低い態度で接されると、ついこっちも敬語を使いたくなる。
 
「喜んでお受け致します。そして、貴方たちが矜持を曲げても守りぬいた漢中の民の笑顔を守りぬく事を約束しましょう」
 
 顔色を窺うようなやつが半分、保身のために降伏を進言したやつだろう。張魯の方を心配そうに見てるのが半分、こっちは撤退を進言したやつかな。で、こちらさんは………
 
「……………」
 
「……………」
 
 青年くらいの逞し系の男が、思いっきり俺を睨んでらっしゃる。「こんなガキに政治なんて出来んのか、あん!? 周りの将も女子供ばかりじゃねえか」という顔を隠す様子も無い。
 
「……衛」
 
「ッ………」
 
 それに張魯も気付いていたのか、一言で諫めた。無念そうな顔で、しかし頭を垂れる。衛………張衛。弟さんか。
 
「北郷様、寛大なご厚意に感謝致します。ここで立ち話というのも何ですから、城までご案内しましょう」
 
「……はい、お願いします」
 
 元々、漢中の民に善政を敷いていた立派な君主だって話は聞いてた。だから降伏し、戦わずに済む事になったのはそういう意味でも嬉しかったし、今まで一国の太守だった人間が、攻めてきた相手に頭を下げるのも、この世界では大変な事だってのもわかるつもりだ。
 
 実際に目にして、考えは固まってきている。張魯にはその善政を、もっと幅広く敷いてもらいたい。
 
 今は何も知らず、俺たちは………いや、俺は、城に向かって歩みを進める。







[14898] 十五章・『紅蓮の夢』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/09/25 14:03
 
 ボクが余計な事をしなければ、月にこんな辛い思いをさせる事は無かった。
 
 ボクが捕まったりしなければ、月に人殺しなんてさせなくて済んだ。
 
 ボクが足を引っ張らなければ、月一人だけでも逃げる事が出来たに違いない。
 
 月のため、月のため、月のため、月のため………そう考えてボクがやってきた事全部、月を苦しめていただけだった。
 
 月の笑顔も、月の心も、月自身も、何一つ守れなかった。
 
『こいつはもともと居ないはずの奴なんだから。それに、月にはボクがついてるじゃない』
 
『ご主人様がいてくれないとヤダ』
 
 ―――ずっと前から、解ってたはずなのに。
 
『あんたがもし、天に還っちゃって、ボク達の前から消えてしまったらって』
 
『あんたにはどこにも行って欲しくないってことよ!』
 
 あんたがいないと、ダメなんだって……解ってたはずなのに……。
 
『わたしも、ご主人様と詠ちゃんのいない生活なんて考えられません』
 
『……あんたがいないと、月が幸せになれないでしょ。だから、あんたも居なくちゃいけないのよ』
 
 燃え盛る炎の中で、ボク達は温かい夢を見る。取り返しのつかない現実から引き離すような、いつまでも終わりの来ない、幸せな夢を。
 
 
 
 
「やっぱ、へこむな……」
 
「石投げられなくて良かったじゃないですか」
 
 良くねぇよ。と、心中で散の率直な感想に毒づいた。
 
 城までの道すがら、漢中の民の皆さんの視線の痛い事痛い事。やっぱり西涼が特別だったのか、確かに石を投げられたりはしなかったけど、絶望と畏怖の視線が俺たちに向けられていた。
 
 魔王・北郷。という評判を一番強く実感した瞬間かも知れない。おまけにそれで舞无の機嫌まで悪くなるし、踏んだり蹴ったりだ。
 
「……いいもんね、ジャイアン映画版の原理でのしあがってやるから」
 
「じゃいあん?」
 
「元々印象良かったやつがちょっと良い事しても別に大した感動ないのに、元々印象最悪なやつがちょっと良い事しただけで何故かめちゃくちゃ良いやつに見えるという不思議な人間心理だ」
 
 負け惜しみ気味に呟いたら、風が興味深そうに訊いてきた。
 
「人、それをギャップ萌えと呼ぶ」
 
「ほほう……じゃいあんは?」
 
「一度染み付いた不審は、ちょっとやそっとで拭い去れはしませんよ」
 
 興味津々な風、散師弟とは逆に、稟が冷めたツッコミを入れる。何だよ、テンション下がるなぁ。
 
 というか、こいつら何でこんなテンション低いの? せっかく無血入城出来て、霞にいたっては翠と大満足の一騎討ちまで出来たのに一番口数少ないし……って言うか、漢中に着いてから一言も喋ってないんじゃなかろうか。
 
「……いつもこんな調子なのですか?」
 
 そんな、個人的に気になっている事を考えていたら、張魯が呆気に取られたように訊いてきた。
 
「基本、いつもこんなんです。というか、“余所者”の俺は“これ”以外知りません」
 
 言外に元の世界の事を匂わせつつ、肯定。とにかく、うちの方針に慣れてもらって、早く信頼関係を築きたい所。その前に、俺がもっと張魯の事を知る方が先か。
 
「……『地獄よりの使者』などと、どこから吹聴されたものでしょうか。まあ、権力を持つ者は自然、妬み嫉みの対象になりますから、自然の摂理なのかも知れませんな」
 
 褒めちぎり過ぎ。無理もないけど、まだこっちの顔色窺ってる感じだ。にしても、今何か後ろで誰かが動揺した気配が……。いい加減気味悪いな。
 
「なあ、どうでもいいけど………」
 
 文句の一つも言おうと振り返ったら、風と散と舞无ともう一人以外の肩が、ギクッと強張る。そんな分かりやすいリアクションの中に、少し気になるものを見つけた。
 
 一人、俺が振り返った事にも気付かずに茫然と明後日の方を見ている……翠。
 
「………?」
 
 それに釣られて同じ方角を向いてみたら……何だ、あれ。物騒な血の跡があちこちに飛び散ってる、真っ黒な屋敷。
 
 別に黒塗りの……ってわけじゃなくて、丸焦げになってるだけだ。一応外壁が残ってるからかろうじて屋敷だって判るけど、屋根とか崩れ落ちて完全に廃墟以下の代物と化してる。
 
 ……しかも、かなり新しい。
 
「……内輪揉めでもあったんですか?」
 
 降伏を決める時、重鎮たちの間で意見の対立が無かったわけがない。その結果があの焼けた離れなのかも知れない。
 
「ああ、あれは…………」
 
 俺はその時、そんな風に、どこか他人事のように考えていた。
 
 どんどん血の気を失っていく翠と馬岱の顔色にも、気付かずに。
 
 
 
 
「(どうしていれば、よかった………?)」
 
 月を、詠を、恨んだ事なんて一度もない。
 
 詠にとっては月が一番大切だって知ってたし、詠が何もしなくたって反董卓連合が組まれる事も解ってた。
 
「(どうしていれば、よかった………?)」
 
 当然だ。この世界には白装束の奴らがいないとはいえ、俺は前の世界で“それ”を経験してるんだから。
 
「(どうしていれば、よかった………?)」
 
 そう、全部解ってた。
 
 全部解ってたはずなのに、どうしてこうなった?
 
「(どうしていれば、よかった………?)」
 
 現実から眼を背けるように、必死に過去に向かって、同じ言葉ばかりが俺の頭の中で響き渡っていた。
 
 
 
 
 突然現れた董卓軍の賈駆を名乗る娘が馬超軍の健在を主張し、張魯はそれを不審者として投獄した。
 
 その後、何者かが番兵を斬り捨てて賈駆とその部下の脱獄を企て、結果として失敗する。別々の牢に囚われた数人の部下全員を逃がそうとしている間に、張魯の兵が集まってしまった事が原因らしい。
 
 逃げる事も隠れる事も出来なくなった賈駆たちは、馬超たちが貸し与えられていた離れに逃げ込み……自ら屋敷に火を放った。
 
 ―――それが、張魯から聞かされた真実。
 
「っ……ふっ……は……っ!」
 
 聞いた瞬間、一刀殿は駆け出していた。続くように、霞と舞无も。
 
 それからずっと、焼け崩れた屋敷の跡を掘り返している。言葉も交わさず、道具も使わず、一心不乱に。
 
「…………………」
 
 結局、霞の読みが正しかったという事。拘束されていなければ飛び出しそうな馬超や馬岱を見ても、間違いない。
 
「………………」
 
 立ち入れない。そんな空気に圧されて、私と風と散、張魯と張衛はその光景をただ見守っていた。
 
 張魯は……呆気に取られたような顔で見ている。………無理もない。世間で魔王と呼ばれる男が、裏切り者のためにああも取り乱しているのだから。
 
『ウチが……詠を殺す』
 
 そう言っていた霞も、今は完全にあの時の自分の言葉を忘れている。
 
 彼女も、元を正せば董卓軍の将。今の自分とかつての仲間を天秤に懸けて、辛い覚悟を固めていたに違いなかい。
 
「(私は……酷いな)」
 
 今、一刀殿たちが何を考えているのか、或いは何も考えないようにしているのか、全く想像出来ないわけもないのに。
 
「(私は……これで良かったと思っている……)」
 
 霞が月たちを手に掛ける事も、一刀殿が辛い選択を迫られる事もなく“終わった”。
 
 そう、冷静に考える事の出来る自分が、目の前の彼らに比べてとても残酷な人間に思える。
 
「っ…………」
 
 扉と見える木材を放り捨てた一刀殿の手が、止まる。恐怖すら麻痺したような目は真下に向けられ、震える腕がそこに伸びる。
 
「一、刀………?」
 
 張魯に話を聞かされてから初めての、呼び掛け。信じたくない確認を零す、霞の声。
 
 一刀殿は、応えない。
 
「一刀!!」
 
 その沈黙に耐えられないように、舞无が怒声を浴びせる。
 
 一刀殿は、応えない。
 
「……………………」
 
 ただ、瓦礫の中から小柄な人型と見える二つの黒い何かを引っ張り上げ、そのまま抱き締めた。
 
「ま、さか………」
 
 震える背中に呼び掛けても応えは返らず、霞の瞳は何かを悟る。
 
「嘘だぁ!!」
 
 力なく両膝を落とした舞无が、行き場の無い感情を煤けた瓦礫に殴りつける。
 
「……ごめん……っ……ごめん……っ」
 
 何かを、誰かに謝る一刀殿の擦れた声だけが、何度も、何度も、繰り返し響いていた。
 
 啜り泣く背中に掛ける言葉一つ見つからず、私たちはただ黙って見ている事しか出来なかった。
 
 
 
 
 何も知らずに放り込まれた世界で、懸命に生きてきた。
 
 目が覚めたら全部夢だったんじゃないかってくらい現実味のない世界で、俺なりに精一杯生きた。
 
 そんな中で、大切な仲間が出来た。愛する人が出来た。異物だったはずの俺に、確かな居場所が出来た。
 
 ――――でも、それも奪われた。
 
 外史、プロット、起点、定められた結末。俺は最初から最後まで、踊らされていただけだった。
 
「(違う)」
 
 そして、この世界にやってきた。前とよく似た、少しだけ違う世界。誰も俺の事を憶えてない世界。
 
「(俺は………)」
 
 それでも、気付いた。何も失っていないと。皆は確かにここにいると。
 
 外史も正史も関係ない。ここにいる俺たちの想いは本物だと。
 
「(俺は、弱い)」
 
 なのに今さら、こんな事を考えている。結局俺は、逃げ出したいだけなんじゃないか。プロットだの外史だののせいにして、眼を背けたいだけだ。
 
「(解ってる、のに……………)」
 
 ――――認めたくない。俺が二人を殺した事を。
 
 
 
 



[14898] 十六章・『絶望の淵で』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/09/27 09:33
 
「………………」
 
 気付けば、知らない中庭の真ん中に立っていた。随分高い位置で、蒼い月が明るく輝いている。
 
「(………いつ、夜になったんだっけ……)」
 
 漢中に入城して、張魯が降伏して、話を聞いて、瓦礫を掘り返して、それで………どうした?
 
「(全部、夢だった……………?)」
 
 一瞬浮かれた自分を、心底馬鹿だと思う。
 
「あ………………」
 
 自分の服や肌にべっとりとへばりついた真っ黒な煤と脂肪が、嫌でも俺を現実に引き戻す。
 
「…………………………………………いつ、手放しちゃったのかな………」
 
 変わり果てた姿になった二人を抱き締めて、泣きながら謝り続けてたはずだ。
 
 でも……抱き締めた腕を、いつ解いたのか憶えてない。あんなに強く抱き締めてたのに、がむしゃらに縋りついていたのに………。
 
「…………結局、自分がかわいいって事なのか」
 
 前の世界の思い出とか、この世界の出会いとか、どんな気持ちで洛陽を離れたんだろうとか、熱かったのかとか、悲しかったのかとか、色んなものが頭の中でぐちゃぐちゃになってる内に、当の二人を手放してたなんて。
 
「目、覚めた?」
 
「………………霞」
 
 突然掛けられた声に、ぼんやりと振り返る。……何だか、そんな動作だけでも億劫だ。
 
「驚いたわ。ずーっと突っ立っとったかと思ったら、いきなりぶつぶつ独り言しだすんやもん」
 
 ……独り言聞かれてたのも、どうでもいい。何もかもが目障りで、耳障りに感じる。
 
「…………ちょっと、一人にさせてくれ」
 
「もう十分させたわ。あれからどれくらい経った思とんねん」
 
 ちょっと苛立ったような霞の声が、余計に神経に障る。
 
「………ホントに何も憶えとらんのか」
 
「…………………」
 
 ぼんやりとなら、憶えてる気がする。
 
 誰かに呼び掛けられて、誰かが泣いてて、誰かに肩を支えられてた………ような気がする。
 
 思い出して、なおさら一つの気持ちが膨れあがった。
 
「…………ほっといてくれよ」
 
 心配されるのも、支えられるのも、余計なお世話だ。……余計に辛くなる。
 
「………舞无のやつも、大分荒れとったわ。今は泣き疲れて寝とる」
 
 ほっといてくれない。さっきまでほっといてくれてたのに……何でだよ。
 
 ………………やばい。
 
「何で……ッ……」
 
 ―――八つ当たり、しちまいそうだ。
 
「何で助けてやれなかったんだよ!!」
 
「っ………」
 
 俺は、『三国志』って歴史を知ってる。前の世界を……この世界によく似た世界を、経験もしてる。
 
「助けられたはずなんだ! 逃げ回って、追い詰められて、焼け死ぬなんて……しなくて良かったはずなんだよ!!」
 
 月の性格、詠の性格、袁紹の性格、華琳の性格、歴史の流れ、色んな事を知ってた。星や稟、風や雛里……頼りになる仲間もいた。
 
「なのに……っ……」
 
 守れなかった……違う、俺のせいで死んだ。……………俺が……殺した。
 
「……………………あ」
 
 頭に血を上らせて怒鳴り散らした俺は、いつの間にか霞に掴み掛かっていた自分の手を見て、我に帰る。
 
 頭に上った血が、急激に下がっていく。背筋が冷たくなっていく。
 
 全部俺が悪いのに、自分への憤りを、霞にぶつけちまった。あれじゃ、『霞のせいで二人が死んだ』って言ってるのと同じだ。
 
「…………………」
 
 冷や水でも掛けられたように、冷静になる。さっきまで俺は、何やってたんだ。
 
「……………霞?」
 
 今さらのように、初めて霞の顔を見た。目の周りが、少し赤く腫れている。
 
「………………ごめん」
 
 俺だけが悲しいわけじゃない。そんな事にすら、今の今まで気付かなかった。
 
「………ちっとは、スッキリした?」
 
 よく思い返せば、舞无が泣いてたとも言ってた。俺が突っ立っていたのを霞が知ってたって事は……ずっと見ててくれたのかも知れない。
 
「………ごめん。俺が全部悪かった」
 
 まだ気持ちが整理出来たわけじゃないけど、皆に心配や迷惑かけるのは違う。無理矢理にでも立ち直らないといけない。
 
 直角に頭を下げた俺の頭上で、霞がガシガシと頭を掻いてる気配がする。
 
 気になって見上げたら、半眼で睨まれた。
 
「……大変やったんよ? おかしなったみたいに謝り続ける一刀に稟が泣きながら抱きついたり、自棄になった舞无が泣きながら暴れ回ったり、当の一刀はいくら引っ張っても“二人”放そうとせんし。…………忙しゅうておちおち泣けもせんわ」
 
 そこまで言って、霞は蹲る。俺は……どうしたらいいか判らなくて、腰を落として目線の高さを合わせる。
 
 でも、俯いてる霞と眼が合う事は無い。
 
「…………ま、ウチには泣く権利なんて無いねんけどな………」
 
 膝に顔を埋めたままの霞から、虚ろな呟きが漏れる。
 
 霞は董卓軍の将だった。泣く権利も、俺を恨む権利もあるはずだ。
 
 なのに……何でそんな事……。
 
「ウチ、な………」
 
 意を決したように、霞が顔を上げる。思い詰めた、辛そうな顔を。
 
「二人を見つけたら、殺すつもりやった」
 
 言われた言葉が理解出来ず、時が止まる。
 
「はは……おかしいやろ? 自分で殺すつもりやったくせに、張魯に話聞かされて、あないに取り乱して………」
 
 自嘲して自虐する霞を見ながら、俺は霞が当然の事みたいに流した言葉を反芻していた。
 
「(二人を、霞が、殺す………)」
 
 一言一言、噛み砕く。………今まで、考えてもみなかった。
 
「…………瓦礫掘り返しとる時も、『見つかるな』て思いながらやっとったんよ。自分でも意味わからんわ」
 
 そうだ……霞にとっては………いや、『前の世界の経験』なんておかしなものを知らない皆にとっては、二人のせいであの大戦が起きたって思うのが当たり前なんだ。
 
「…………………」
 
 いつからなのか知らないけど、ずっと霞はそんな葛藤を抱き続けてたのか。
 
 話してくれなかったのも、俺を気遣ってか、或いは俺の対応を危惧してか……だろう。
 
 自分の能天気さに腹が立つ。
 
「(ずっと、頑張らせてきたのか……)」
 
 ―――俺が弱いから、情けないから。
 
「あ………………」
 
 目の前で悲しい独白を続ける霞を、抱き締める。こんな弱い俺の、精一杯の力で。
 
「(強くなる)」
 
 もう、大切な人を失わないように、傷つけないように、支えられるように。
 
「(強くなる)」
 
 誓うように、挑むように、心の中で繰り返す。
 
「う……………」
 
 胸の中から、呻くような声が聞こえた。霞の額が押し付けられるのを感じる。
 
「………ッ……」
 
 霞が俺にしてくれた事を、少しでも返せれば。そう思いながら、俺の眼からはまた涙が流れだして来ていた。
 
 ……ホント、情けない。
 
「う……っ……うああぁああぁあああ!!」
 
 二人、泥と煤で真っ黒に汚れた姿のままで………しばらく泣き続けていた。
 
 
 
 
「ほら、いつまで寝てるのよ! さっさと起きなさい!」
 
 起こされる。正確にはとっくに起きてて、温かい布団の感触に拘泥してるタイミングで、布団がひっぺがされる。
 
 さぶい。
 
「詠~~、布団返してくれ~~」
 
「情けない声出してんじゃないわよ。いつまで寝てれば気が済むの?」
 
 返してくれる気配はない。仕方ないからノロノロとした動きでベッドから這い出して、ちょっと厚着に着替え――――
 
「へぅ………」
 
「ばっ、馬鹿! 人が見てる前で堂々と着替えないでよ!」
 
 ようとして、顔面にさっきの布団を投げつけられた。名残惜しいけど、このまま二度寝と行くわけにもいかん。俺は布団をベッドの上に放って、
 
「おはよう。月、詠」
 
「おはようございます」
 
「遅いのよ、挨拶が」
 
 今さらな挨拶を交わした。だらしない俺に対しても変わらず天使の笑顔を浮かべる月と、眉尻を吊り上げて睨んでくる詠が実に対称的だ。
 
「あ、れ…………」
 
 いつも通りの朝、いつも通りの二人。その顔を見ただけで………何故か視界が歪む。
 
「ご主人様、どうしたんですか?」
 
「まだ寝ぼけてるの? さっさと執務室に行かないと、また稟とか星とかうるさいわよ」
 
「あ、うん……わかってる」
 
 目を擦りながら、俺は歩きだす。いつの間にか服が変わっていた事にも気付かない。
 
「…………………」
 
 扉に手を掛けた所で、よく解らない、何とも言えない焦燥に駆られて、振り返る。
 
 月も、詠も、そこにいた。……当たり前か。
 
「心配しなくて、大丈夫ですよ」
 
「ほら、さっさと行っちゃいなさいよ」
 
 月が俺を安心させるみたいに微笑み、詠がデコピンの連打で俺を締め出そうとする。
 
 ……何だか、全部見透かされてるみたいだ。………何を?
 
「!!?」
 
 何の脈絡もなく、いきなり部屋が燃え上がる。赤い炎が渦巻いて、俺を、月を、詠を、呑み込んでいく。
 
「月! 詠!」
 
 二人を抱えて窓から飛び出す。瞬間的にその解に行き着いて、なのに……体が動かない。
 
「わたし、嬉しかったです。ご主人様に、もう一度お会いする事が出来て」
 
 月が、赤い炎の中で微笑み、そんな言葉を掛けてくる。
 
「男のくせに、すぐ泣いたりするんじゃないわよ」
 
 詠が、どこまでも優しいいつもの憎まれ口を利いてくる。
 
「月! 詠!」
 
 どうしても動かない体。かろうじて伸ばせる腕。それを向けた瞬間、眼に見える全てが赤い炎に塗り潰されて―――――
 
 
「……………………」
 
 目覚めた俺の眼に映るのは、ただ白いだけの天井だった。
 
 燃えてもいない。暮らし慣れた洛陽でもない。そして………誰かに起こされたわけでもない。
 
「夢………………」
 
 胸にポッカリと空いた穴に寒々しい風が過ぎたような、強い喪失感。
 
「…………………」
 
 手の甲で、目許を隠す。
 
 まだこんなに水分が残ってたのか。首筋に当たる枕の冷たさを感じながら、俺はそんな事を思っていた。
 
 
 
 



[14898] 十七章・『墓参り』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/09/28 12:14
 
『ちゃんとした手続きも踏まないといけないし、もう少し時間は掛かると思うけど、張魯に任せる仕事はもう決めてる』
 
 予想外、どころではない。頭がおかしいとしか思えない。
 
『俺がいない間の漢中、そして長安の統治を任せる。まだ付き合いは短いけど、人を見る目はあるつもりだから』
 
 自ら降伏を願い出た分、馬超よりは厚遇されるのではと、淡い期待をしていた程度だった。それが、降伏する前よりも広い領土を任せるなどと。
 
『頼んだよ』
 
「…………」
 
 彼らが去った、北の空を見上げる。あれのどこが暴君か。むしろ、王とは思えないほどに甘すぎる。
 
「兄上。郭嘉たちが残していった内政の改正案。早速手配しておきました」
 
「ご苦労」
 
 近寄って報告してきた張衛は、複雑そうな表情を隠そうともしない。
 
 こちらから攻めたとはいえ、漢中を落とした敵に許され、再び漢中、そして長安を与えられた。しかし私はもう王ではなくなった。
 
 真っ直ぐな忠誠と心根を持つ弟は、それゆえに自分がどうしたいかわからなくなっている。
 
「……兄上は、このまま北郷に頭を垂れるおつもりですか?」
 
「頭など、降伏した時にすでに垂れている。それとも、正式に長安と漢中を治めた後に反逆でも起こせと言いたいのか?」
 
 私の非難するような言い草に、張衛は「うっ…」と言って押し黙った。まったく、自分でも整理のついていない言葉を不用意に口に出すな。
 
「確かにそれは不可能ではない。だが、降伏を受け入れ、寛大と呼ぶも生温い厚遇を施した相手に、施された私が牙を剥く事は、たとえ相手が本当の魔王であったとしても、私をそれ以下のクズに貶める行為だ。私を世の笑い者にしたいのか」
 
 自分で言いながら、これでは北郷様の思惑通りだと気付く。人を見る目があるという、何の根拠もない言葉を、私は知らぬ間に証明してしまっていたらしい。
 
「しかし………」
 
 食い下がる張衛の目にあるのは、北郷様への怒りではない。私が王ではなくなった事への未練だった。
 
「王でなくとも、臣であっても、私は民の笑顔を守り、信義を重んじる者でありたいのだ」
 
 張衛は所在ないようにふらふらと定まらぬ自分の手を下げ、何かを飲み込むように目を閉じて数秒黙り、そして目を開いた。
 
「……わかりました。兄上は信義を通し、北郷様にお仕えください。私はその兄上を支えます」
 
「うむ、期待させてもらう」
 
 魔王・北郷の風評改善。南方の劉璋の警戒。今回の事でわかった、保身ばかりを考える信用ならぬ者の異動。正式な任命を待つまでにも、やる事は山のようにある。
 
 
 
 この後、都に帰還した北郷一刀の報告と進言を経て、漢中、長安を任された張魯は、同時に鎮南将軍に任じられる事になる。
 
 
 
 
 戦いに敗けて捕虜になったあたし達は、北郷一刀から降伏を求められて、それをあっさり受け入れた。
 
『ああ、力を貸してくれるなら、西涼は二人に任せてもいいと思ってる』
 
『もちろん、俺に降るのを断固拒否するって応えても、処刑するなんて言わないよ。じっくり考えてくれていい』
 
 ………まあ、降伏要求なんて内容じゃなかったけど。
 
 死んでも従いたくない相手とかじゃ全然なかったし、義理立てすべき張魯殿ももう降ってた。とどめにあり得ないほどの好条件を出されて、断る理由なんてどこにもない。既にたんぽぽが服従状態だった事もあって、あたしは二つ返事で片膝を着いた。
 
 焼け爛れた裏切り者を抱き締めて涙を流し、刃を向けた敵にあっさりと自分の背中を任せる。
 
 ……甘過ぎる。いや、イカれてる。あれのどこが魔王なんだ。
 
「(裏切り者、か………)」
 
 小さくない胸の痛みを感じた所で―――
 
「月たちの事ですか?」
 
 隣を歩いていた散姉が、狙ったみたいに訊いてきた。……いや、あたしがらしくもなく考え込んでただけかも。
 
「……あたしが二人を連れてかなきゃ、こんな事にはならなかったかなって、さ……」
 
 散姉とは家族同然に育った。どうせバレてるんだから、とあたしは正直に胸のモヤモヤを口に出す。
 
 あたし達も利用されてたんだって解っても、やっぱり二人を憎むなんて出来ない。
 
「まあ、二人に伝言頼んだのはあたしですけどね」
 
 重い話題を出したのに、散姉は顔色一つ変えない。手頃な木の棒を探しては振り回してる。……何やってんだ。
 
「ついでに言えば、お嬢が二人を連れてくのも判ってたかな、と」
 
 …………なに?
 
「どういう事だよ」
 
「韓遂が反乱起こす前から二人の素性は知ってたので。後々の事まで考えて、西涼から出した方がいいかな、と。……まあ、結局ああいう事になりましたが」
 
 いけしゃあしゃあと言う散姉の最後の言葉で、どうしても暗くなる。
 
「ま、お嬢のせいとかそういうのは特にないので。必要以上に思い詰める事はないかな、と思いますよ」
 
 励ましなのか慰めなのか、それともただ何となくなのか、よく解らない言い種で散姉はあたしより一歩前に出る。それを追うように、たんぽぽがあたしを追い抜いた。
 
「…………………」
 
 この森の奥、会うのは久しぶりになるな。
 
 
 
 
 
「………ここに、母様が眠ってるのか」
 
 一族皆でよく遊びに来ていた、西涼の南の森の中、父様の墓の横に、一つ墓石が増えている。
 
 小さくて地味だけど、丁寧に作られた墓。派手な墓石を望むような人じゃないから、ちょうどいい。
 
 西涼の民の反発を少しでも抑えるために韓遂が作った無駄に派手な墓から、散姉が移し替えたらしい。
 
「しばらくぶりですね、女将。まあ一杯やりましょうか」
 
 あたし達が、どこかぼんやりしながら墓とその周りを綺麗にした後に立ちすくんでいると、散姉がそう言って瓢箪の栓を抜いた。
 
「……何だろ、まだ実感湧かないや」
 
 父様の時は、こんな事なかった。やっぱり、最期を見届けてないのが原因なのかな……。
 
「おば様、すっごく強いもんね……」
 
 たんぽぽも同じ気持ちなのか、しっくり来ないという顔で徳利を墓前に添えた。それに散姉が酒を注ぐ。
 
「城に帰って少しすれば、嫌でも実感湧きますよ。今はとにかく元気な顔を見せてあげるだけで十分かな、と」
 
 あたしやたんぽぽと状況は違っても、散姉も母様の最期を見たわけじゃないって聞いた。……きっと、散姉自身の経験から言ってるんだ。
 
「ただいま、母様」
 
 今は母様が目の前にいるつもりで言った後、何か言葉が続かない。
 
 「西涼は取り戻したよ」、これはあたしじゃなくて散姉だし、仇も討ててない。「あたし北郷軍として戦うよ」、捕虜になってから帰順したのにこれ言うのも何か恥ずかしい。「元気にしてるよ」、ばっちり目の前にいるのにこれはないな。
 
 よくよく考えれば、母様って真剣な場面ほどどうでもいい事話してた気がする。う~~……ん。
 
「あ」
 
 そうだ、母様が喜びそうな話題があったじゃないか。何せ王である前に武人みたいな人だ。
 
「母様、世の中って広いね。凄く強いやつがごろごろいるみたいだ」
 
 張遼……いや、霞との一騎討ちを思い出す。しかも、霞より強いやつがごろごろいるって言ってたし。
 
「お姉様、『ぐふっ!』とか言って倒れちゃったもんねぇ~。あそこまで追い詰めといて、カッコ悪いたっ!?」
 
「う、うっさいなぁ! だったらお前が戦えば良かっただろ!?」
 
 余計な事を喋ったたんぽぽの頭に拳骨を落とす。確かに母様好みだけどあたしの失敗話でもあった。不覚。
 
「謙遜しなくていいですよ。霞と半日打ち合い続けた末の、文句無しの名勝負だったと聞いてます。直接拝めなかったのが残念かな、と。……まあ、女将が褒めてくれるかはまた別ですが」
 
「う…………」
 
 軍の命運を懸けた大事な一騎討ち。いくら良い勝負したって言っても、それで負けてちゃ……だめだ、叱られる。
 
「大丈夫! おば様も喜んでくれるって! あの時のお姉様、おば様くらい強く見えたもん」
 
 さっきのは冗談だったのか、たんぽぽが笑顔でそう言った。
 
「冗談よせって、あたしが母様に勝てるわけないだろ?」
 
「今の話を聞けば、喜び勇んでお嬢に決闘を申し込んできそうですね」
 
 散姉がそう言うと、情景が簡単に想像出来て、あたしとたんぽぽは吹き出した。あたしが腕相撲で初めて勝った時も、子供みたいにしつこく挑んできて、結局母様が勝つまで続けてたのを思い出す。
 
 散姉が、手に持った瓢箪をあたしに手渡してきた。散姉は基本的に酒は飲まない。瓢箪の代わりに、腰に下げてた竹筒(お茶入り)を取り出した。
 
 散姉が「飲む」と言う場合、大抵自分はお茶なのだ。自分が酔うより、酔ってる他者を見てる方がずっと楽しいらしい。
 
「………まあ、女将が胸を張って自慢出来るような人間になるといいですよ」
 
 あたしが酒を飲む瞬間に、ぼそりと呟いた言葉は、あたしの耳にちゃんと届いていた。
 
 その後、墓前で長い間これまでの事を、恥ずかしい事も含めたあたし達は、馬を走らせて森を出た。
 
「……散姉、洛陽に戻っちゃうんだな」
 
「ええ、西よりも過激な状況のはずの、河北の様子も気になりますしね」
 
 森を抜け、あたし達の方向は分かれる。西涼と、そして大陸の中央へと続く道へと。遠くに野営が一つ見えた。あれはあたしの代わりに西涼を治めてくれてた高順の部隊。散姉は今からあれに合流する。
 
「お嬢の方こそ、迷ってたのでは?」
 
「……………」
 
 迷いを見透かされた事には気付いてたけど、今まで訊かなかったそれを今持ち出されて、少し言葉に詰まる。
 
 確かに、このまま西涼だけ守ってる事が本当に正しいのか、今も迷ってる。……でも、母様が守ってきたこの西涼を、あたし達が守りたい。
 
「……迷ってるなら、残った方がいいですね。最前線に出て上の空では、こちらが困ります」
 
 散姉はそう言って、馬首を返して背を向ける。
 
「しかし、時流は個人の都合に合わせてはくれません。意味はわかりますね?」
 
 顔だけでこっちを向いてそう言った散姉に、あたしはこくりと頷いて応えてみせた。
 
「では、あでぃおす」
 
 白馬が駆けて去って行く。五胡と戦えるようになって、隣で戦えるようになった時は嬉しかった。
 
 いつの間にか、また背中を見るようになってしまった。いつか、あの背中を預けてもらえるようになりたい。
 
 
 
 



[14898] 六幕終章・『背負うもの』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/09/29 17:27
 
『この好機を逃す手はありません。主殿、いざ出陣のご命令を!』
 
 勇ましく最初にそう進言したのは、音々音だった。それに春蘭が大喜びで賛成した。
 
『待て、ねね。西には北郷、東には陶謙、南には袁術がいるんだぞ。いくら冀州の袁紹が公孫賛との戦いで手薄になったとて、そう軽々と動けるのか?』
 
 そう非を唱えたのは、秋蘭だったかしら。凪たちはああいう場面で自分から口を出さないのが珠に傷ね。
 
『北郷は西涼、漢中と西方の連戦に力を注ぎ、とてもエン州に出兵する余裕はないのです。陶謙は自ら戦を仕掛けるほど好戦的な君主ではなく、袁術にはこちらの隙を突けるほどの器量はありません。そして顔良や文醜は公孫賛、劉備と交戦中。これほどの好機は二度とないですぞ!』
 
 秋蘭に体全体を使って反論する音々音の言葉が、少し癇に障ったのを覚えている。
 
『ちょっと待ちなさいよ! 好機好機って言うけど、わたし達だってエン州を平定したばかりでとても万全とは言えないわ。………それに、華琳さまに火事場泥棒になれと言いたいの?』
 
『っ桂花、貴様! 華琳さまを愚弄するか!』
 
『………少し黙りなさい、春蘭』
 
 私を慕うゆえに正確に私の懸念を口にした桂花に、何も判らないままに噛み付く春蘭を、私はいつになく余裕なく制した。
 
 平たく言えば、不機嫌だった。
 
『桂花の言う通り、それが世間の風評でしょうね。……音々音、桂花の言についてはどう思う』
 
 もう反北郷連合の時のような無様は晒さない。誇り高い覇道を進む。そう自身に誓って、あの男にも誓った。
 
 だからこその、不快。
 
『それでも攻めるべきだと思います。群雄割拠の今、名よりも実を取るべき時なのです』
 
 それを理解しているからこその、不快。
 
『己の沽券に囚われて起つべき時を逃すのは、誇り高い王ではなくただの見栄っ張りなのです』
 
 攻めるべきだと解っている。攻めたくないと思っている。そんな二律背反した気持ちを僅かに残して――――
 
「………………」
 
 私は、ここに立っている。
 
 城壁から見渡すのは、先ほどまで闘争に満ちていた戦場。麗羽の無能な指揮の下に大敗を喫し、次々と白旗を上げて降伏し、果ては内側から城門を開いた………名門袁家の金色の軍勢。
 
 戦いの最中にそんな事に気を取られていたわけもないけれど、こうして戦が終息に向かう今になって、少し己の心に向き合っている。
 
「(誇り、か………)」
 
 音々音の言葉には理がある。外聞を気にして虚勢を張る者より、己を信じて胸を張る者の方が遥かに気高く、美しい。
 
 それでも、私は何かが引っ掛かっている。……私自身の心が、この結末に納得がいっていないのかも知れない。
 
「(迷っている暇は、無いわね………)」
 
 私が大陸を統べ、広がり満ちる平和な世界。その時こそ、それこそを、何より大きな誇りにすればいい。
 
 
 
 
 その半刻後、独り孤立して逃走を図っていた袁紹を追跡していた春蘭から、『突然渓谷に落ちた雷によって岩崩れが起き、袁紹を取り逃がしてしまった』という旨の報告を受けて、華琳は旧知の理不尽な天運に呆れ果てたという。
 
 
 
 
 ―――あれから、馬騰の墓参りに行くという散を、新たに西涼の太守を任された馬超、馬岱共々見送って、私たちは今、洛陽に帰る途中、長安に滞在している。
 
「(落ち着け、私……)」
 
 そして今、私は……一刀殿の部屋の扉の前に立っている。
 
 二人の変わり果てた姿を目にした翌日。一刀殿は………少なくとも、傍目には平静を取り戻していた。
 
 しかし……最初の様子から見ても、一刀殿本来の性格から見ても、たった一晩で気持ちを整理出来たとは考えにくい。
 
 一緒にいた霞が何らかの支えになったとしても、だ。
 
「(今、本当の意味で平静なのは私か、風)」
 
 二人と洛陽で共に過ごした時間も大して長くもない。互いに複雑な立場だったから親交も深めていない。
 
 これまでは、腫れ物を扱うように極力話題を避けてきたけれど、いつまでもこのままでいいわけがない。
 
 ……洛陽で星や雛里……そして恋と再会するまでには、一刀殿を立ち直らせないと。
 
「(………よし)」
 
 自分を鼓舞するように握り拳を作った私は、そのまま扉を軽く二回叩く。『のっく』と言う、天界に於ける礼儀作法のようなものだそうだ。
 
「開いてるよ」
 
 危惧していたものとは異なる、到って普通な声に呼ばれて、私は扉を開いて中に入った。
 
「…………………」
 
 部屋に灯りは点いていなかった。だが、十分に明るい。全開にした窓から差し込む月明かりの中に椅子を移して、一刀は腰掛けていた。
 
「……珍しいですね。一人で酒飲とは」
 
「たまにはね。……あ、寒いなら窓閉めようか?」
 
 その手に杯はなく、徳利だけが軽く持たれている。私に気を遣って立ち上がろうとする一刀殿をやんわりと制して、私は歩み寄る。
 
 一刀殿が座っている位置からは月は見えない。淡い月光の中に居たいだけのようだった。
 
「呑む?」
 
「付き合いましょう」
 
 仄かに赤みの差した顔で、一刀殿は徳利を左右に振る。私は机の上に使われる事なく置かれていた杯を取って、差し出した。
 
 星や霞に付き合ったり、皆で酒宴を開いたりする事はあっても、一刀殿がこんな風に一人で酒に浸っているのは珍しい。
 
「(部屋で一人になった後に泣いている、とかじゃなくて良かったけど……)」
 
 これはこれで、何だか落ち着かない。上手く会話のきっかけが掴めない。
 
 一刀殿の斜め横に椅子を持って来て座った私は、何となく庭を眺める。
 
「……霞はともかく、舞无は立ち直るのに時間が掛かるかもね」
 
「え………」
 
 切り出すきっかけを探していた私に、一刀殿の方からまさかの話題を振ってきた。
 
「稟が皆を心配してるのは、判ってるつもりだけど?」
 
 得意気な顔で薄く笑った一刀殿は手にした徳利を一気に呑み干して、後ろ手に次の徳利を掴んだ。
 
 らしくない。………酔ってる?
 
「酒に逃げている、というわけですか」
 
「さあ。そういうつもりじゃなかったけど、実際どうかな。もしかしたらそうなのかも知れない」
 
 つい、責めるような言い方をしてしまった私に応える一刀殿の表情は、酔ってはいても自己を失っている色ではない。
 
 何故か、チクリと胸が傷んだ。
 
「大丈夫、なんて言えないけどね。月と詠の事ならまだしも、俺まで皆の心配の種になるわけにいかないからさ」
 
 大人びた笑顔が似合わない。少し見惚れて、しかし似合わない。
 
「…………………」
 
 裏切り者の死にいちいち心傷めていてはキリが無い。もし生きていたら、むしろ一刀殿自ら処罰を下すのが道理。洛陽に帰って恋たちに心配を掛けるつもりか。
 
 そんな理屈を胸に、一刀殿を立ち直らせに来たはずの私は………
 
「二人の事を忘れる、という事ですか?」
 
 全く馬鹿な事に、そんな詰問を投げ掛けていた。
 
 『主君としてどう在るべきか』、という理屈とは別に、『一刀殿としてどう在って欲しいか』、という個人的な気持ちが自分の中に在った事に……私はこの時になって“気付かされた”。
 
 撤回しようとして、でも口には出せず、自分でも無様に思うほどに狼狽えている私を見て、一刀殿は可笑しそうに笑った。
 
「二人を忘れるなんて、有り得ないよ」
 
 主君としては真逆の解を返されて、何故か私は安堵する。笑われた腹立ちが一瞬で失せるほどに。
 
「でも、引き摺ってたら地面に擦れて二人も痛いし、周りの皆も心配する。だから………」
 
 励ましに来たはずなのに、いつの間にか逆になっている。
 
「ちゃんと、抱えて歩いて行くよ」
 
 強がりなのかどうかすら判らない笑顔に、『心配するな』と言われた気がして……何だか色々とどうでも良くなった。
 
 私たちが心配すればするほど、この男は無理をする。理解では全くない確信を得て、私は椅子の上に脱力した。
 
 ――――途端、
 
「おうおう、相変わらず気障だな兄ちゃん?」
 
「「ぎゃあああぁああぁ!!」」
 
 窓の縁からニュッと生えた見慣れた人形に声を掛けられて、私と一刀殿は揃って叫んだ。
 
 そんな私たちの反応など初めから無かったかのように、人形………を乗せた頭が現れ、窓の縁にあごを乗せた。
 
「ホウケイ が 一体 あらわれた」
 
 よく解らない登場を果たしたのは、私たちのよく知る人物。
 
「ふ、風! あなたいつからそこに!?」
 
「……もしかして、ずっと待機してたのか?」
 
 何故か私は必要以上に慌て、一刀殿は心底呆れた。風はその反応もやはり無視して、ぶるっと身を震わせる。
 
「まあ積もる話は後にするとして、そろそろ風を中に入れて貰えませんか? 体の芯から凍えてしまいそうなのですよー」
 
「わざわざ寒い中で覗き見なんてしてないで、素直に扉から入ってくればいいのに…………」
 
 一刀殿は、案の定の応えを返す風の両脇に手を入れて、『高い高い』をするように抱え上げて部屋に招き入れて窓を閉めた。
 
 ………よく考えれば、風も私と同じ立場なのだから、似たような事を考えていても不思議じゃなかった。
 
「あれくらいの付き合いの人間の死までいちいち抱え込んでたら、いつか潰れてしまいますよ? お兄さん」
 
「………ナチュラルに話題を戻したな」
 
 寝台の上で布団をぐるぐると装備する風に、溜め息しか出ない。案外、心の機微に関しては風の方がずっと理解があるのかも。
 
「浅い付き合いってわけじゃ、ないんだけどな……」
 
「はい?」
 
「何でもないよ。ま……潰れそうになったらよろしく」
 
「はいはーい♪」
 
 二人のやり取りを脇に、私は杯に並々と酒を注ぐ。
 
「(どうせだから、今日は思う存分酔ってやろう)」
 
 そんな、不思議な気分だった。
 
 
 
 



[14898] 七幕・『群雄踊る』・一章
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/09/30 23:56
 
 わたしに徐州を託す。そう願った陶謙さんの言葉を、わたしは断れなかった。
 
「玄徳ちゃん………」
 
 そんなつもりで歩み寄ったわけじゃない。わたしにそんな資格があるのかも、勝手に頷いていいのかどうかも判らなかった。
 
 だけど………
 
「もう一つ、お願いが、あるんだよ………」
 
 いつも通りの陶謙さん。いつも通りの笑顔。……だけど、声が弱々しい。
 
「何ですか? 何でも言ってください、わたし……頑張っちゃいますから」
 
 両手で包んだ手を握り返す力が、弱々しい。冷たい。助けを求めて、わたしは華陀さんに目を向けて……首を振られた。
 
「お婆ちゃんって、呼んでくれないかい……?」
 
 せっかく仲良くなれたのに、一緒に平和な世の中を作って、笑い合えると思ったのに……。
 
「……うん、お婆ちゃん」
 
 手を握ったままそう言ったら、陶謙さん……お婆ちゃんは、にっこりと……嬉しそうに笑った。
 
「何だか、嬉しいねぇ……」
 
 笑顔と一緒に細められた目が―――そのまま閉じられる。握り返してくれていたお婆ちゃんの指が、力を失う。
 
「お婆ちゃん……?」
 
 呼び掛けても、返事をくれない。応えが欲しくて強く握った手には、今までとは違う冷たさがあった。
 
「お婆、ちゃん………」
 
 安心したみたいな寝顔は、本当に……寝てるようにしか、見えないのに……
 
「う……っ……うわああぁあああぁあぁ!!」
 
 本当の家族に縋るみたいに、わたしは子供みたいに泣きじゃくるしかなかった。
 
 
 
 
 誰にも判る得たもの、一握りだけが知る失ったものを伴う西方の遠征が終わり、一刀たちは王都・洛陽への帰還を果たしていた。
 
 北の公孫賛を攻めた袁紹はエン州の曹操に背後を突かれて領土を失い、公孫賛は援軍として参戦した劉備共々、まんまと出し抜かれた形となる。
 
 潤沢な資金と脅威的な数を誇る袁紹軍を打ち破った公孫・劉の両軍が戦果として得たものは、あまりに乏しい。
 
 それから程なくして徐州を治めていた陶謙が病によって世を去り、劉備が実質的にその役割を引き継いだ。
 
 緊張の度合いを増していく河北の一方で西涼・漢中と西方の連戦を続けた北郷勢力は一時の休息を迎え、国力回復のため内政に務めていた。
 
「…………………」
 
 主君を含めた遠征軍の帰還から二週間経ったある日の夜、小柄な少女が都の城の廊下を歩いていた。
 
 魔法使いのような三角帽子を目深に被る内気な少女、北郷軍の三軍師の一人たる鳳統こと雛里である。
 
 その表情には悩み……とはいかないまでも、どこか釈然としないような色が浮かんでいる。
 
「(………考えすぎ、かなぁ)」
 
 当然、彼女も月と詠の身に起こった事は伝え聞いている。元々心優しい性分であるため、初めの二日ほどは知己の二人の死に枕を濡らした雛里だが、今では気持ちの整理をつけている。
 
 ゆえに、彼女の心に引っ掛かっているのは月たちの事ではない。
 
「(恋さんや舞无さんの方が心配なのは、確かだけど………)」
 
 目に見えて元気がないのは、恋と舞无の二人。一刀にそんな様子は見られない。
 
「(ご主人様……)」
 
 仕事中に上の空なわけでもなければ、口数が減ったがわけでもない。笑顔も見せるし、どこか落ち着いた風韻を纏うようにもなった。
 
 傍から見れば、何の問題も懸念もない。むしろ以前より品行方正になったとさえ言える。
 
「(気のせい、だよね)」
 
 そう、心配などないはず。だからこの漠然とした不安は錯覚。雛里は自身に言い聞かせて、しかし眉を八の字に曲げた。
 
 いつも通りに接してくれているはずの、大好きな主君。そこに何故か、隙間風のような寒々しさを、一方的に感じる。
 
 もはや理屈ではなかった。
 
「っ…………」
 
 いつの間にか広がっていた景色に気付いて、雛里は唐突に足を止める。知らず足を向けてしまっていたその場所は、一刀の私室へと続く回廊。
 
 気の小さい少女は、何だか悪い事をしているような気分になりながら、足音を殺してそのまま進む。
 
 何故そうするのか、という明確な解を持たないまま、雛里は一刀の部屋を目指す。
 
 こと軍略や内政に於いては天才的な手腕を発揮する彼女も、自分を含む個々人の対人関係に於いては未成熟な少女に過ぎない。
 
 程なく辿り着いた部屋の前、扉の下から見える灯りが、中に人がいる事、この夜分にまだ起きている事を示している。
 
「(誰かと一緒、なのかな……?)」
 
 最近の一刀の朝は早い。以前はサボりがちだった早朝鍛練を欠かさずこなしている事もあって、夜に一人で部屋に戻ればすぐに就寝している事を雛里は知っていた。
 
 その推測は、そば立てた耳に聞こえる話し声によって肯定される。
 
「シンデレラが落として行ったガラスの靴を手掛かりに、王子様はシンデレラを見つけ出し、二人は結婚して幸せに暮らしました。めでたしめでたし」
 
「……何故その皇子は靴がなければ少女を見つけられん。服装程度で見分けられなくなるような相手を、本当に愛しておったのか?」
 
「そうだね。物語自体はここで終わりだけど、これが架空じゃなかったらこの後修羅場が待ってるかも」
 
 聞き間違えるはずもない優しい声音と、常ではまず聞けない弾んだ声音。
 
「(………皇帝陛下?)」
 
 一人は考えるまでもなくこの部屋の主、そして雛里はもう一人も判った。
 
 そもそも、一刀の私室に出入りする男性など“あの方”くらいだ。さらに言うなら、その声は声変わり前の子供のものだった。
 
「(物語? 天の国の?)」
 
 会話が続くうちに声量が小さくなっていき、雛里はついつい扉にへばりついて耳を押し付ける。
 
 しかし、やはり訪れた時間が遅かったのか、終わりの時間はすぐに来た。
 
(カツ……)
 
「ッ――――――!!」
 
 部屋の中からの小さな足音を確かに聞いて、雛里は声にならない絶叫を上げた。然る後に、小さな手足を懸命にばたつかせてその場から離脱する。
 
「? 誰だ?」
 
 雛里が曲がり角の向こうに消える寸前に、協君をおぶった一刀が部屋から出てくる。
 
 夜闇の中の慌ただしい影を一刀はギリギリで目にしていたが、それが何者かまでは視認出来なかった。
 
「むにゃ……何だ……?」
 
「………いや、何でもないよ」
 
 眠そうな背中には軽く応えて、一刀は協君の私室に足を向ける。
 
 この城に潜入出来るような刺客が、自分たちに気取られるはずもない、という事実からの確信あるからだ(ついでに言えば、気取られるというほど判りにくくなかった)。
 
 一刀が歩き去る反対側、曲がり角の向こう……うつ伏せに転んだ状態で、雛里が泣き声を必死に噛み殺していた。
 
 
 
 
 CASE・1 霞の場合。
 
「あー……言いたい事は解るねんけどなぁ……」
 
「………けど?」
 
「それ、ウチのせいかも知れんなぁって」
 
「? どういう事、ですか……?」
 
「………ごめん。あんまし言いたないわ」
 
「そう、ですか……」
 
 
 CASE・2 稟の場合。
 
「……洛陽に戻る前、私も貴殿と同じような事を考えたんですけどね」
 
「それで、何か思いついたんですか……?」
 
「思いついたと言うか、直接話して感じたのは………」
 
「……はい」
 
「いつも通りに振る舞っているのが最善ではないかと。気を遣えば気を遣うほど、固い意識を持たせてしまうような気がするのですよ」
 
 
 CASE・3 風の場合。
 
「星は何でも知っている。黄河も何でも知っている」
 
「………??」
 
「まあ、お兄さん自身気付いてるか怪しい気もしますし。傷ついた男の背中を涙を飲んで見守るわたし、け・な・げ。みたいな方向でここは一つ」
 
「あの………つまり、どういう事でしょう……」
 
「ちっぽけな男のぷらいどってやつがあんだよ! ここは兄ちゃんの顔を立ててやんな、な?」
 
「……よく解らないけど……解りました」
 
 
 CASE・4 散の場合。
 
「結構じゃないですか。こんな時代で、おまけに戦争を左右する決定権まで持ってる人間にぶるー貫かれてもウザイだけかな、と」
 
「でも……やっぱり無理をされていては……」
 
「男が見栄を張るのは女が化粧をするのと同じ、と女将がよく言ってましたよ?」
 
「そういうもの、なんでしょうか……」
 
「ま、あたしは最初から心配なんてしてないからアテにならないんですけどね」
 
「散さーん………」
 
「サンサン……この呼ばれ方はどうなのかな、と」
 
 
 CASE・5 星の場合。
 
「あいや解った」
 
「まだ何も言ってないのに解ったんですか……?」
 
「凱旋以来、無理をしているが実際は元気のない一刀を元気づけたい。その為に知恵や力を貸して欲しい、と。まったくもって健気なことよ」
 
「あうぅ…………」
 
「むぅ……しかし、傷心の男を慰める術となると……」
 
「妙案がおありですか………?」
 
「うむ。ズバリ、枕事だ!」
 
「ち!?」
 
「何を驚く。誰しも、心に傷を負えば人肌恋しくなるもの。となれば、雛里のその花開く前の肢体でもって一刀を慰………」
「真面目に考えてくださーーーーい!!」
 
 
 CASE・6 貂蝉の場合。
 
「あらん、何かしらん?」
 
「ひ―――――!!」
 
 
 
 
 ………ほとんど誰も真面目に話を聞いてくれなかった。
 
 わたしは陛下にお勉強を教えながら、今日の昼間の事を思い返して沈み……
 
「………なるほど」
 
 休憩中にそれを指摘され、陛下に洗い浚い白状させられていた。
 
 恋さんや舞无さんの方が重症だとは思うけど……ご主人様が元気にならないと、二人も元気になれない。
 
 わたしは、そんな気がする。なのに………
 
「何を憤慨する事がある。朕はむしろ、貴様らが少し羨ましい」
 
 わたしの話を聞いた陛下は、そう言って腕を組み、小さな頭を納得に揺らした。
 
「朕は、気付かなんだからな」
 
「(あ…………)」
 
 そう言われて、初めて気付いた。
 
 あんな言い方しかしていなかった皆だけど、ご主人様が無理をしている事に気付いてなかった人は、一人もいなかったという事に。
 
 
 
 



[14898] 二章・『いめちぇん』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/10/03 05:12
 
 まだ冬を越えない、肌を刺すような早朝の冷気にも負けず、城の中庭で駆け回る影二つ。
 
「気迫が足りん!」
 
 一人は、比類なき剛力で木槍を振り回す舞无。
 
「っ……わかった!」
 
 一人は、その豪撃にも怯まず木刀で捌く一刀。
 
 いや、捌くというほど格好の良いものではない。以前なら無様に逃げ回っていた局面で、逃げずに踏み止まっているだけ。
 
 当然――――
 
「が………っ!」
 
 凌ぎ切れない。武器の強度自体に差はないのに、舞无の一撃は一刀の木刀をへし折り、返す刀で肩を強く打ち据えた。
 
「あっ! ………だから、私は加減など出来んと言っただろうが」
 
「痛うぅ……でも、それくらいじゃなきゃ特訓にならないだろ」
 
 打たれた肩を押さえて片膝を着く少年に駆け寄る舞无に、一刀は痛みを堪えて笑顔を見せる。
 
「新しい木刀取ってくるから、ちょっと待っててよ」
 
「……いや、今日はもういい。上がりにするぞ」
 
「え、でもさっきは気合いが足りんとか……」
「それはそれ! これはこれだ!」
 
 その笑顔を怒声で打って、舞无は木刀を取りに行こうとする一刀を追い払った。付き添いたい、肩の傷の手当てをしたい、そんな気持ちに駆られた舞无の足は結局出ないまま、追いたてられた一刀の背中を見送るに留まった。
 
「………………」
 
 一人残された中庭で、舞无は白い溜め息を吐く。それは一刀に向けられたものにも、自分に向けられたものにも思えた。
 
「(何か、おかしい)」
 
 元々考える事が苦手な事もあり『何が』、という事までは解らない。しかし一刀の様子はどこかおかしい、と舞无は思う。
 
「(………優しい男だからな)」
 
 そして、いくら鳥頭でも原因には想像がついた。彼女自身、まだ立ち直りきれていない自覚はあった。
 
「ふんっ!」
 
 パンッ! と両手で自らの頬を張る。冷たい外気も手伝ってかなり痛い。武人として生きている身で何をいつまでも、と自身を奮い立たせる。
 
「(こんな時に、私がしっかりしないでどうする!)」
 
 舞无は、一刀が自分に好意を抱いていると思っている。以前、川に溺れた舞无に人工呼吸を施した一刀の行動を、独自の思考回路によって誤解したのがその原因なのだが、今回はその勘違い癖が前向きに働いている。
 
 武人として、女として、何に於いても単純かつ真っ直ぐなのが彼女の良い所だ。
 
 今回もそう。惚れた男を立ち直らせる、という目標が生まれれば、迷いも憂いも吹き飛ばして驀進出来る。
 
「よーし! 私はやるぞぉー!」
 
 具体的に何が出来るのかは考えつかず、とりあえず舞无はしばらく戦斧を風車のように回し続けた。
 
 
 
 
 今日は所謂“警邏の警邏”。街の治安を守るために徘徊してるわけじゃなく、街の治安をちゃんと守れているか、を見極めるために視察に来ている。
 
 と言っても、俺じゃ欠点に気付かないかも知れないし、まともな改善案を出せる自信も無い。
 
 だから頭が良くて、かつ護衛としても申し分のない星も一緒だったんだけど、何か騒動があったらしくて、星はこそこそと姿を消した(華蝶仮面になるつもりだろう)。
 
 俺もそこに向かおうとした所で、目の前に巨漢が立ちふさがった。
 
「あらん、ご主人様じゃなぁい?」
 
「おはよう、貂蝉」
 
 明らかに意図的に俺の前に出てきた貂蝉は、いかにも偶然といった様子で巨体をくねらせる。
 
「久しぶりねぇ。最近お城に籠もりっきりみたいだったから………はっ! もしかしたらば、わざわざわたしに会いに街まで? いやぁ〜ん☆」
 
 久しぶり……そんなに久しぶりかな。
 
「今日は視察だよ。まあ、元気そうで何よりだけど」
 
 何の気なしに応えたら、何故か貂蝉は俺をじ〜〜っと見てきた。……俺、何か変な事言ったか?
 
「ホントに元気ないみたいねん。まあ、ご主人様の性格や立場なら仕方ないのだけど」
 
 …………え?
 
「俺、元気ないように見える?」
 
 別に凹んだり沈んだりしてないと思うんだけど。洛陽に戻ってからそんな事言われたの、こいつが初めてだし。
 
「元気ないわよん。かく言うわたしもご主人様の滾りに滾った突っこみがなくちゃ、不完全燃焼で夜も眠れないんだから!」
 
 断定。って事は、他の皆にもそんな風に見えてるんだろうか。
 
「気にすんなよ。別に落ち込んでなんてないから」
 
 申し訳ないけど、正直勘違いだ。霞に散々情けないトコ見せて、俺は俺なりに気持ちを整理した。実際落ち込んでもないし、心配される事なんて無い。
 
「…………………」
 
「…………………」
 
「……何でそこで黙るんだよ」
 
 観察するみたいな貂蝉の視線が落ち着かない。………って、そうだ。星を追い掛けないと。
 
「俺、そろそろ行くよ。お前はやらなくていいのか? 華蝶仮面」
 
「もちろんすぐ行くわよん。真打ちは遅れて登場するものなの」
 
 落ち着かない会話を切り上げる意味でも、俺は貂蝉の横をすり抜けて走り去る。
 
 そしてそのまま十メートルくらい進んだ所で、
 
「ご主人様ぁ!」
 
「なに!?」
 
 少し大きめの声で呼び止められた。立ち止まる気にもならなくて、首だけで振り返る。
 
「しあさって、仕事空いてる!?」
 
 突然の問いに、俺は軽くスケジュールを思い返して………
 
「空いてない!」
 
 即答して、今度こそその場を後にした。
 
「……………困ったものねぇ」
 
 俺が去った後の貂蝉のぼやきは、当然聞こえなかった。
 
 
 
 
 それぞれがそれぞれの仕事を終えて、夜。私たちは数人連れ立って外食に出ていた。
 
 もちろん全員というわけではないし、午前の視察で仕事が遅れたという理由で一刀殿と雛里は執務室に残った。
 
 結果として揃ったのは、私、霞、散、風の四人。奇しくも、陣営の中では比較的精神年齢の高い面々だ。
 
「そっか、皆のトコにも雛里が来たんか」
 
 その道中、霞がぼんやりと呟く。どうやら雛里は私だけでなく、色んな人に相談して回っていたらしい。
 
「舞无娘も今朝、一人でてんしょん上げてましたよ。揃いも揃って過保護なようで」
 
 霞の呟きに、散がわざとらしく肩を竦めた。てんしょん……は何となく解るけど、愛娘て。
 
「稟ちゃんは参加しないでいいんですかー?」
 
「……何よ、参加って」
 
 あの時、窓の外で話を聞いていたはずの風は、知ってるくせに私にそんな話を振って来た。
 
 もちろん素直に反応してやるつもりは無い。
 
「だって、ねぇ?」
 
 何が『ねぇ?』よ! と怒鳴りたかったけれど、釣られたように集まった視線に尻込みしてしまう。
 
 その視線は、以前は後ろで結われていた……今は解いて流している私の髪形と、眼鏡の掛かっていない顔に向けられている。
 
「単なる気分転換です。他意はありません」
 
 霞や散に毅然と言い放つ。下手に勘ぐられるのも不本意なので、私は話題を戻す事にした。
 
「一刀殿は、私たちに心配を懸けるのを何より嫌いますから。余計な気遣いは、却って逆効果です」
 
 雛里に応えたのと同じ言葉を告げると、皆に納得の気配が漂う。霞だけが気まずそうに視線を逸らした。
 
「ま、男はタコ殴りにして伸ばすものですしね」
 
「……タコ殴りて、それもどーなんよ」
 
「元々、風たちのきゃらじゃないですしねー」
 
 無遠慮なまでの優しさは、無垢な子供に任せよう。何となくそんな空気を共有しながら、私たちは飯店に入る。
 
 料理も酒も美味しい、知る人ぞ知る隠れた名店。私も風に教えられて初めて知った。
 
 私と風は古い付き合いだし、散は風と仲が良い。酒が入って上機嫌になった霞も交えて、私たちは楽しい一時を過ごす。
 
 一刀殿を中心に回る私たちだが、時々はこんな……女だけの時間も悪くはない。
 
 丁度、私がそんな感慨を抱いた時だった。
 
「ん?」
 
 飯店の入り口から、馴染みの顔が現れた。それは良かったのだが、続くもう一人が問題だ。
 
「せせせ星!? どうしてこんな所に!」
 
「………酔いが醒めたわ」
 
 星と一緒に岩の塊……もとい、貂蝉がやってきた。私たちだけじゃなく店中がどよめく。
 
「おう、丁度良かった。少し話したい事が……稟、か?」
 
「もー! 女の子同士で楽しそうにしてるじゃない。どうしてわたしも誘ってくれなかったのよん!」
 
 寄るな、筋肉。
 
「この季節の夜にほぼ全裸で外を歩くとは……一体どんな生物ですか、貴殿は」
 
「オ・ト・メ・よん☆」
 
「…………………」
 
 これの仲間だと思われるのは不本意極まりないが、せったく卓に並んだ料理や酒を置いて去るのも惜しい。
 
 頬をひきつらせる霞や私をよそに、平然としている星や風や散があっさり化け物を席に着かせてしまった。
 
 この変態どもめ。
 
「おぬしが眼鏡を外すとは、どういう風の吹き回しだ?」
 
「呼びましたかー?」
 
「「呼んでない」」
 
「むー………」
 
 私と星に即答されてむくれる風をよそに、再び会話を再開する。
 
 星……というより貂蝉が持ってきた話題は、慮外に興味を惹かれるものだった。
 
 笊のように杯を重ねる星と霞(ついでに貂蝉)。全く呑もうとしない風と散。ほどほどにしか呑めない私。
 
 その日の夜、明日からの動向予定に花咲かせる私たちは、結局深夜まで語り明かしていた……らしい。
 
 翌朝、鼻血塗れの自室の床で、私はそう聞かされた。
 
 
 



[14898] 三章・『さぷらいず』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/10/03 17:55
 
 窓越しに月明かりの差し込む寝台の上、まだ薄暗い夜半に、少女の目蓋がピクリと動く。
 
 誰かに起こされたわけでも、おかしな気配を感じたわけでもない。何となく目が覚めてしまったのだ。
 
 薄く開かれた紅い瞳、月明かりに輝く水色の髪。趙雲こと、星である。何故か覚醒してすぐに目が冴えてしまった彼女は、枕代わりにしていた男の二の腕で頬を擦った。
 
 白い寝台と白い布団に覆われた二人は、一糸纏わぬ生まれたままの姿。
 
「(………一刀)」
 
 少し顔を上げて、愛しい主君の顔を眺める。安らか……とは言えない寝顔に手を伸ばして、掌を頬に当てる。
 
「…………………」
 
 月は、詠は、一刀を暴君に仕立て上げて保身を謀り、逃げた。少なくとも星は裏切りだと感じ、他の皆も同様の気持ちを抱いた。
 
 しかし一刀は、そんな二人の為に涙を流し、傷ついた。君主としては不器用に過ぎる。
 
「(だからこそ、か………)」
 
 今この時も強く惹かれる自分の心を見つめて、星は微かに自嘲する。まったく厄介な男に惚れたものだ。
 
「(………そう、“だからこそ”)」
 
 裏切った仲間の死でさえ傷ついてしまう一刀だからこそ、仲間に心配を懸けないために心を押さえつけてしまう一刀だからこそ、そして……そんな一刀を愛したからこそ、放っておけない。
 
「………お前はお前のままでいい」
 
 見上げていた頭を優しく引き寄せ、掻き抱く。
 
 格好悪くてもいい、情けなくてもいい、八つ当たりをしてもいい、ただ……強がらないで欲しかった。
 
 在りの儘の一刀でいて欲しい。もし傷ついてしまっているなら、自分の全てを使って癒してやりたい、慰めてやりたい。
 
 どうしようもないほど、狂おしいほど、張り裂けそうなほど溢れだしてくる想いを、星は穏やかな微笑みとして現す。
 
 いつしか、眠ったままの一刀の腕が星の背中に回されていた。無意識ゆえか、一刀は子供が泣き付くように目の前の胸に顔を埋める。
 
「私たちが、ついているからな………」
 
 子を慈しむ母親のような微笑みと手つきで、星は一刀の背中や頭を撫で続けた。
 
 ―――いつまでも、いつまでも。
 
 
 
 
「………え?」
 
 星が部屋に忍び込んでた翌日の朝、執務室に直行した俺に告げられたのは、全く予想だにしない言葉。
 
「だから、今日は一刀殿の仕事はないと言ったんですよ」
 
 扉から入った途端、稟、風、雛里の三人でバリケードみたいに壁を作って、そんな事を言ってくる。
 
「……でも、ならその机の上に積んでるのは何だよ」
 
「あ、あれはわたし達の担当です。ご主人様にお手伝いして頂く事は……」
 
「俺の分担ないんなら分けてよ。手伝うから」
 
「兄ちゃん、これ読めるかい?」
 
 昨日は俺も含めて皆随分気合い入れて仕事やってたのに、何でいきなり? 風に到っては、紙切れに大きく文字を書いて見せてきた。
 
「『空気』。……俺、空気読めてない?」
 
「全然ですねー。そこで普通に読んだ挙げ句わざわざ訊き返すあたり、かなり読めてません」
 
 そのまま三人揃って俺をぐいぐいと押して、執務室から締め出した。
 
「何なんだよ……」
 
 『仕事あるか?』って訊いて『空気読め』って返って来たって事は、実際には仕事があるって事……だよな。
 
 つまり仕事はあるけど、俺にはやるな、と。
 
「………気遣わせちゃったのか?」
 
 非番でもないのに無理矢理休ませられるってのは、そういう事じゃないのか。もしかして星も……その時の俺はそんな風に考えていたのだが―――――
 
 中庭に行けば…………
 
「お~っと、手が滑った~」
 
 足を踏み入れる前に散の短戟が飛んで来て、危うく刺さる所だった。
 
 厨房に行けば………
 
「見るなぁああーー!!」
 
 俺が入ったのが女湯か何かかと錯覚するくらいの勢いで、舞无に追い返された。
 
 仕方ないから自分の部屋で一休みしようかと思ったら………
 
「立ち入り禁止や」
 
 何故か霞が門番になっていた。
 
「今日は忙しい。暇を持て余しているなら、たまには街に出ればどうだ。視察や警邏ではなく、な」
 
 協君にまで締め出される始末。何だか城のどこにも俺の居場所がない気がして、協君に言われたままに街に出たら…………
 
「ご・しゅ・じ・ん・様ぁああ~~ん☆」
 
 貂蝉に、珍しく本気で追い回された。
 
 最初は休め、っていう無言のサインなのかと思ってたけど、やっぱり違う気がする。全然休めてないし。
 
「(ホントに、何なんだ)」
 
 心配懸けてたんなら情けない、とか思ってたのが馬鹿みたいだ。……むしろこれは、避けられてるのか? いやいや、だったらいくら何でも俺の部屋からまで締め出されるわけがない。
 
「…………あ」
 
 貂蝉から逃げ回って歩いていたその場所には、見覚えがあった。そういえば、随分久しぶりに来る気がする。
 
「恋ん家か」
 
 今日は恋に会ってないし、当然追い返されてもいない。居ないかも知れないとは半ば思いながら、俺は庭に足を踏み入れていた。
 
 …………………恋?
 
「……っちゃぁ」
 
 すっかり、忘れてた。去年は黄巾討伐の旅の途中でそれでころじゃなかったけど、忘れてたわけじゃなかったのに。
 
「(そりゃ、おかしいって言われても仕方ないよな)」
 
 要するに、そんな大事な事も忘れてしまうくらい、俺は余裕がなかったって事だ。
 
 特に意識してたわけじゃないけど、自分の事で手一杯だった……いや、自分ばっかりだった。そういう事になるんだろう。
 
「………………」
 
 急に、怖くなった。漢中からの俺は、一体皆の目にどんな風に映ってたんだろう。………幻滅されてたり、するんだろうか。
 
 さっき僅かに頭を過った『避けられてる』ってイメージが、急に現実味を帯びる。
 
「恋ー、恋ー!」
 
 それはそれとして、今は恋だ。プレゼントは用意してないけど、丁度暇だし………
 
「…………丁度?」
 
 ……いや、考え過ぎだろ。霞も舞无も知らないはずだし。俺も言った憶えはない。
 
 返事の代わりにやってきたセキトに裾をくわえられて、俺は屋敷の中にお邪魔する事にする。
 
 居ないかも知れないと思ってたけど、この様子だと多分居る。セキトがただ戯れつくんじゃなくて、引っ張って中に連れ込もうとしてるから。
 
「…………恋」
 
 そして、やっぱり居た。まだ寒い季節だからか、広い居間のような部屋の中で動物たちに埋もれて、恋は丸くなっていた。
 
「……………はぁ」
 
 気が抜けたって言うか、何て言うか。『前』は自分からアピールするくらい意識してたのに、今の恋は全く無頓着だ。
 
 ………或いは、そんな気分になれないのかも。恋は純粋な分、月と詠の事で傷ついていそうだから。
 
「……ゆっくりおやすみ、恋」
 
 起こすのも可哀想だ。今は気持ち良さそうに寝ている恋の頭を撫でて、起きたら城に連れて行こう。
 
 今日、俺を無理矢理休ませたお返しに、皆の仕事も一休みさせて、大騒ぎしてやろう。
 
 『前』だって判明したのは急な話だったんだ。やってやれない事は無い。
 
「…………♪」
 
 僅かに頬を緩める恋の寝顔を見ていたら、時間が経つのなんてあっという間だった。
 
 
 
 
「目標は屋敷を出発。腕など組んでイチャつきながら街に直行。今さら思い出したようで、点心を大量に買い込んでました。このぺーすだと、も少し急いだ方が良さげかな、と思います」
 
 見張り担当の散の報告を受けて、舞无と雛里の包丁捌きが加速する。二人のやる気の矛先が活かせる結果となったのは歓迎すべきか。
 
「む~……お兄さんが思い出したとなると、せっかくのさぷらいずが台無しになってたりしませんかねー?」
 
「あれで気配りは出来る方です。思い出したというなら尚更、気取られるような軽挙は慎むと思いますよ」
 
 中庭に場所を移すと、見えない一刀の動向を考察する風と稟。この時の為にと頑張った二人の仕事の速さには感服する。
 
「さて、後は料理が出来るのを待つばかりか」
 
 かくいう私も既に兵の訓練を終え、秘蔵のメンマを用意している。
 
「あーーーーっ!」
 
 どことなく昂揚するような空気を、霞の大声が台無しにした。まったく無粋な。
 
「どうした、藪から棒に」
 
「酒! 酒の用意が出来とらんねん!」
 
 なん……だと……?
 
「風~、酒の用意は出来とらんの?」
 
「今日の主役は酒呑みませんしねー」
 
「く……っ」
 
 何という……。そうだ、そもそもこの陣営の重鎮は、どちらかと言えばあまり呑まない者が多い。
 
「来ましたよ」
 
 中庭の壁の上に立っていた散が、主役の到来を告げる。不覚……! 時間切れか! あまり上質とは呼べないが、貯蔵庫の酒で我慢するしかない。
 
 酒の代わりに涙を呑んで、私と霞は二人の到来を待つ。二人より僅か早く前菜を運んできた舞无と雛里、そして風と稟も同様。
 
 私が張った幕を開いて、姿を現した二人に―――
 
『誕生日おめでとう!』
 
 祝いの言葉を浴びせた。む、恋の驚く顔など、何とも珍しい。
 
「な、何で………?」
 
 先手を打たれて狼狽える一刀。こういう間抜け面を見るのも久しぶりか。
 
「自分が気を遣われた、とでも思いましたか? 自意識過剰も甚だしいようで、なるしすと」
 
「お、思ってない! そうじゃなくて、俺……言ったっけ?」
 
「それを自意識過剰というのだ。恋の事は自分しか知らないと思っている辺りが、な」
 
 つい嬉しくなって、散と一緒になって苛めてみる。……と、そこで天から声が降って来た。
 
「わ・た・し・よん!」
 
 
 幕を軽々と飛び越えて、重々しい塊が中庭に落ちて来た。招かざる客……と言いたい所だったが、その背中には………
 
「おっ……おぉっ!」
 
「酒やぁー♪」
 
 風呂にでも使えそうな大きさの酒壺。しかもこいつは中々酒の味を解する人間(?)。前言撤回、よく来た貂蝉。
 
「……完全にダークホースだった」
 
「……黒馬、でしたっけ?」
 
 わけのわからん事をぼやいている一刀と風の後ろに、私は見た。
 
「……………ありがとう」
 
 私の眼にもはっきりそうだと判る、恋の笑顔を。
 
 どんな憂いも悲しみも払い清めてしまうような、純粋無垢な笑顔だった。
 
 
 
 
(あとがき)
 原作無印では、恋が川で泳いでたから恋の誕生日は冬ではないと思いますが、本作ではこの時期となってます。そもそも原作では季節が変わらないから何とも言えませんが。
 
 



[14898] 四章・『結ばれる小指』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/10/04 14:23
 
 雛里と舞无の手料理と俺が買い込んで来た点心を、恋と舞无と散が大食い大会でもするような勢いで平らげ、浴びるように酒を呑む星と霞と貂蝉に稟が潰されたり、風がいつもより三割増しで宝慧喋りしたり、程よく皆に酒が入ったところで協君がやって来たり、誕生パーティーは随分賑やかなものになった。
 
 貂蝉って予想外の情報源があったにしても、俺より皆の方がよっぽどしっかりしてたって事だ。……今さらか、そんなの。
 
「………恋」
 
「………?」
 
 今は宴会の後片付けを終えて、何となく、俺と恋は鐘楼の上に腰掛けていた。夜の寒さを凌ぐため、厚手の掛け布に二人で身を寄せてくるまって。
 
「楽しかった?」
 
「……(コクコクッ)」
 
 訊くまでもなかったか。あんな恋の笑顔は、前の世界でも見た事ないし。
 
「(約束、守れたのかな………)」
 
 『前』の、恋の誕生日。また来年もお祝いをしようって約束をして………
 
『来年も誕生日会、やろうな? みんなで』
 
 ……約束どころか、世界ごと失った。生まれ変わった皆は、俺との記憶を忘れてしまった。
 
『あんたにはどこにも行って欲しくないってことよ!』
 
『私も離れたくないです………』
 
 ……二人との約束も、守れなかった。
 
「………ごめんな」
 
「……?」
 
 こうやっていちいち沈むのを、引き摺ってるって言うんだよな。口先だけもいいトコだ……って、自覚出来るだけマシになったのかな。
 
 胸の中の葛藤は口に出さずに肩を強く抱いても、恋は特に文句は言わない。………恋は思った事をそのまま口にするから、俺も不思議と隠し事が出来ない。
 
「…………………」
 
 恋の小さな頭を抱いて、俺の表情を見られないようにする。今、恋の澄んだ瞳で見られたら……霞の時の二の舞になりそうだ。流石にあれほど酷くはならないと思うけど。
 
「………………」
 
「………………」
 
 そのまま、言葉を交わすでもなく月夜を見るでもなく、じっと恋の頭を抱き続けていた。スンッ、と気持ちよさそうに鼻を鳴らす音が聞こえる。
 
 解っていても、解っていなくても、恋は何も言わないでくれる。そんな甘えと、見くびりがあった。
 
 ―――だからだろう。
 
「……………一刀」
 
「っ……」
 
 ただ名前を呼ばれただけで、こんなに動揺してしまうのは。
 
「……一刀は、偉い」
 
 身体を離して、眼と眼を合わせて、腕を伸ばして俺の頭を撫でる恋。不慣れな言葉の意味するものは、俺にも解らない。
 
「……恋も、月も、詠も、本当だったら、斬られてる」
 
「え…………」
 
 意味が解らなかった。百歩譲って月と詠の事ならともかく、俺が恋を斬る理由なんてどこにもない。
 
「たくさんの人が傷つくのが戦争。みんな、傷つきたくないから相手を倒す。でも………」
 
 黄巾の乱で霞や恋と出会って、それからずっと一緒にいる。心当たりを辿って、ようやく気付いた。
 
「……一刀は不思議。一刀の周りには、たくさんの人が集まってる」
 
 これは、きっと………
 
「敵だった人も、元から仲間だった人も……一刀の周りでは、みんな楽しそう」
 
 この世界の話じゃない、前の世界の話だ。
 
「……みんな、一刀が、大好き」
 
 記憶の混濁とか、矛盾とか、きっと恋は考えてもいないだろう。……ただ、強く理解する。励まされてる、って。
 
「全部守れるわけじゃない。でも、一刀は……たくさんのものを守ってる」
 
 決して得意じゃない言葉を並べて、懸命に俺を元気づけてくれている。
 
「………ありがとう」
 
 強く、強く、抱き締める。恋は嘘を吐かない。これは、恋の気持ちを言葉にしてくれたもの。
 
 だからこそ、嬉しかった。
 
「(強くなる)」
 
 不確かな決意の上から、さらに決意を重ねる。こんな俺でも何かを守れる、そう思ってくれる皆のために。
 
「強くなるよ」
 
 何の根拠も確信も無い。いや、何をやっても絶対なんてあり得ないって解ってる。
 
 ―――それでも、守りたい。
 
「来年も誕生日会、しような?」
 
「…………うん」
 
 恋を、皆を、皆と過ごせる、こんな穏やかな日々を。
 
「約束だ」
 
 小指を、恋の小指に絡める。見つめ合う恋の顔が、赤く染まった。
 
「………ずっと、一緒」
 
 皆がいれば、どんな壁だって越えて行ける。それを恋に、教えてもらった気がした。
 
 
 
 
 反北郷連合の戦い、青州の平定、突然兵を挙げた袁紹さんの軍相手に、白蓮ちゃんと共同戦線。……そして、お婆ちゃんとのお別れと、徐州の継承。
 
 これまでも目が回るくらい色んな事があったけど、朱里ちゃんが言うには、これからが本番みたい。
 
 みんなが手を取り合えばすぐにでも戦いなんて無くなるはずなのに、どうしてこんな風になっちゃうんだろ……。
 
 ……まあ、それはそれとして――――
 
「玄徳さまー!」
 
 今は警邏の真っ最中。徐州の子供たちも、わたしを仲間に入れてくれてるみたいで嬉しい。
 
「……桃香さま」
 
「あ、あはは……ちゃんとするよ? 警邏」
 
 一緒に来てくれてる愛紗ちゃんも、あんな怖い目で睨まなくてもいいのに。子供たちが怯えちゃうよ。……わ、わたしが怖がってるとかじゃなくて。
 
「愛紗ちゃんも、一緒に遊ぼ?」
 
「結構です。今や桃香さまは一国を束ねる御方。万が一にも危険が及ばぬよう眼を光らせるのが私の役目なのですから」
 
 わかりやすい言い訳をする愛紗ちゃん。子供たちに混ざるのに気後れしてるだけって解ってるわたしは、その手をちょっと強引に引っ張って輪の中に入れた。
 
「と、ととと桃香さま!?」
 
「ほらほら♪ 子供たちの笑顔を守るのだって、わたし達の大事なお仕事だよ」
 
 最初は怖がってた子たちも、真っ赤になって慌てふためく愛紗ちゃんに安心したみたいに飛び付いた。
 
 うんうん、佳きかな佳きかな♪
 
 この笑顔と幸せを噛み締めていると、どうしても欲張りなわたしが顔を出す。こんな光景が、大陸中に広がればいいなぁ、って。
 
 曹操さんとも、孫策さんとも……そして、一刀さんとも。
 
 平和な世の中になって、こんな風に穏やかな街で、腕なんか組んじゃったりして………
 
「えへへ……♪」
 
「? 桃香さま、何を笑っておいでですか?」
 
「そういうのでは全くなくて!」
 
 つい調子の良い空想をしちゃって、愛紗ちゃんに見咎められる。ダメダメ! ここで赤くなったら皆に遊ばれる!
 
「な、何して遊ぼっかー? 駆けっこ? 蹴鞠?」
 
 必死に誤魔化して子供たちに混ざったわたしは、この後に一つの出会いを迎える。
 
 
 
 
「…………ふぅ」
 
 石造りの階段に腰を下ろして、私は疲れを抜くように溜め息を吐く。
 
 戦いのそれとも事務のそれとも別種の気疲れが、自分でも驚くほど私の体力を奪っていた。
 
「(まったく、桃香さまは………)」
 
 決して不満ではない呆れを抱いて、子供たちに手を振る背中を見る。どうしてこんな時だけ元気いっぱいなのか、不思議なものだ。
 
 あれでこそ、桃香さま、とは思うものの、出来ればこういう時は私を傍観者にさせて欲しい、とも思う。
 
 私は、桃香さまや子供たちの笑顔を遠巻きに見ているだけで十分幸せだ。
 
「………ん?」
 
 ふと、広場の脇を見る。途中から輪から外れていた少女が、キョロキョロと落ち着きなく辺りを見回し………あ、泣いた!?
 
「どうしたの? お母さんが見つからないの?」
 
 と思った時には、もう桃香さまが駆け寄っている。私も遅まきながら駆け付ける。
 
 少女は桃香さまにあやされながら、ぐずぐずと言葉にならない言葉を繰って、しばらくしてようやくちゃんと喋る。
 
「ぐすっ……お母さん、迎えに来てくれるはず、なのに……暗くて……」
 
 要するに、母親とはぐれたわけではなく、ただ単に黄昏の暗さと孤独に不安を覚えたという事か。
 
「大丈夫♪ すぐにお母さん来てくれるから、それまでわたし達とお話しよ?」
 
 膝を折って目線の高さを合わせ、柔らかく頬笑む。それだけで少女の泣き声はピタリと止んでしまった。
 
 まったく、桃香さまには敵わない。
 
「どうして途中から皆と遊ぶのを止めたの?」
 
 ちょこんと少女の隣に腰掛ける桃香さまは、大きな子供にしか見えない。これを全て自然体でやっているのだから恐ろしい。
 
 私も倣って腰を下ろす。至近に自分より大きな者が立っているのは、それだけで圧力になってしまうと聞いた。
 
「うん……この間、おこづかいで買ったご本、読みたくなって」
 
「ご本?」
 
 少女のためを思っているのか、本当に好奇心で訊いているのか、小首を傾げるその仕草からは判断がつかない。
 
 そして、少女は持っていたその本を……我々に向けた。
 
 『天界語遊戯 著・宝慧』
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 それの意味に私が気付くより早く、桃香さまの目の色が変わる。私が何らかの言葉を掛けて諌めるより早く、桃香さまの両手が、がっしりと少女の両肩に掛けられた。
 
「ねぇ、お願い教えて。それどこで売ってたの?」
 
「ぎょ、行商のおじさん。もうこの街には居ないと思うけど」
 
「そ、そんなぁあ~~…………」
 
 異様に真剣な瞳で少女に詰め寄った桃香さまは、その返答に崩れ落ちた。
 
「桃香さま、あまりに威厳が……」
「お願い! その本を譲ってぇ……!」
 
 私の苦言を遮り、桃香さまは再び少女に詰め寄った。切実に潤む瞳が痛々しい。
 
「でも、これおこづかいで………」
 
「ね、ねえ! 何か欲しいもの無い! お人形は? お菓子は? 綺麗なお洋服とかは?」
 
「う~ん、どうしようかなぁ……」
 
 さっきまで泣いていたのが嘘のように、少女はもったいぶった素振りを見せる。桃香さまの必死さの足下を見られたようだ。……ではなく!
 
「桃香さま! いくら何でも子供を買収など……」
「じゃ、全部!」
 
「買った!」
 
 ………結局、私の諌言の一切は届かず、桃香さまは本当に様々な品を貢いで手持ちの金を全て失った。
 
 しかし、それでも何かをやり遂げたように天界語の本を誇らしげに掲げる桃香さまに、私は呆れるよりも涙が出た。
 
 
 
 



[14898] 五章・『南方の異変』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/10/06 13:15
 
 いつもと変わらない王都の一日。特に示し合わせたわけでもなく、ただそれぞれが仕事の合間に訪れた中庭で、一刀と愉快な仲間たちは集まっていた。
 
「新刊の執筆ですか、師よ」
 
「まだ書き記してない単語も多いですから。というわけで皆さん、お茶を溢したりしないように気を付けて下さいねー」
 
 東屋に座ってお茶を嗜むのは、風、稟、雛里の軍師らに加え、星と散。
 
「うりゃあぁーー!」
 
「っ!」
 
「逃げるな一刀! それでも男か!?」
 
「だっておまっ、刃潰してようと斧で殴られたら死ぬだろーが!」
 
「受け止めてみせろ!」
 
「無茶言うなーー!」
 
「問答無用ーーー!」
 
 広い中庭で舞のような剣戟を咲かせるのが、霞と恋。そして逃げ回る一刀を追い掛けているのが舞无である。
 
「……舞无さん、楽しそうですね」
 
「わかりやすい生物ですからね。にしても一刀……敵わないまでも立ち向かう程度の根性見せろと」
 
「凹ませたままの方が良かったのではないですか」
 
「ふっ、心にも無い事を」
 
「稟ちゃんは天邪鬼さんですからねー」
 
「……“うっかり”お茶を溢してしまいそうですよ。メンマと紙の上に」
 
「!? う~……………………ぐー」
 
「………メンマの、茶漬けか。それはそれで」
 
 高笑いを上げる舞无を雛里が見つめ、逃げ回る一刀を散と稟が酷評し、その稟を星と風がからかい、逆襲を受ける。
 
「さて、あたしも午後の演習の前に腹ごなししようかな、と。りーだー、付き合ってもらえますか?」
 
「ん……? いいだろう。一度手合わせしてみたかった」
 
「年増相手と、加減しなくていいですよ」
 
「自分で言うか……。言われずとも、そんな生温い槍は持ち合わせておらんよ」
 
 そんな、一刀らを肴に興じた雑談がしばらく続いた後、そう言って散と星が立ち上がる。丁度その時、遂に舞无が一刀を追い詰めた。
 
「ちょこまかと逃げ回りおって、それでも武人か!」
 
「違うっての! って言うか中庭から逃げ出さなかっただけ褒めてくれ!」
 
 下から掬い上げるように振り上げた戦斧の一撃が一刀の模擬刀を撥ね上げる。舞无はさらに踏み込み、がら空きになった胴に狙いを定めた。
 
「(ヤバい……!)」
 
 一刀は自分が打ちのめされる様を明確に予見して、しかし腕は痺れて咄嗟に動いてくれない。
 
 出来たのは、危機感のままに後退る事だけ。結果として、岩に足を取られてバランスを崩した。
 
「うわっ……!」
 
「もらったぁ!」
 
 仰向けに倒れる動きの生んだ全くの偶然によって、一刀は舞无の突きから逃れた。だけでなく、足で体を支えられなくなった必然とも言える反射で、舞无の戦斧の柄を掴んだ。
 
「え………」
 
 一刀が足を取られたのは、中庭を飾る池を囲んで居並ぶ石の一つ。舞无は体重を乗せて突きを放ち、倒れこむ一刀にその柄を掴まれた。
 
「うお!?」
 
「きゃあっ」
 
 一刀と、思わず女性としての悲鳴を上げた舞无が縺れ合うように倒れる先はつまり…………細々とした薄氷の浮かぶ池。
 
『あ…………』
 
 書き物をしていた風、茶器を片付けようとしていた雛里、一足先に午後の演習の準備を始めようとしていた稟、変わらずぶつかり合っていた恋と霞、今まさに初合を弾けさせていた星と散、誰もが注目する中で、二人は盛大に水柱を上げて池へとダイブした。
 
『…………………』
 
 微妙に反応しづらい空気が場を支配した後、やはりというか何と言うか、最初に起動を果たしたのは雛里。
 
「ご、ご主人様~~!」
 
「舞无ちゃんはするーですか」
 
 そしてすかさずツッコミを入れるのも風だった。
 
「………寒中水泳」
 
「いやいや、そりゃちゃうやろ、恋」
 
「まあ、十分準備体操はしていましたから、死にはしないでしょうけど」
 
「こんな半端な時間に風呂は沸かしてませんよ」
 
「ふむ、水も滴る……というやつか」
 
 無責任な声援を浴びる一刀の耳に、「くちゅん……っ」と可愛らしいくしゃみが届いた。
 
 
 
 
「ぷはぁー! やっぱ一汗かいた後はこれやなー♪」
 
 稟、雛里、散も交えての城外演習も終わり、それぞれの部隊が帰還する頃、霞は一人、森の奥地で小さな酒壺を傾けていた。
 
 別に酒を呑むために隊を副官に任せたのではない。小用で離れて一人になったついでに呑んでいるだけだ。流石に兵たちの前では呑めはしない。
 
 もちろん今の行動も稟あたりに知られるとうるさいから内緒である。
 
「あー、砂埃だらけで気持ち悪。もうちょい暖かったら水浴びでも出来んねんけどなー」
 
 丁度いい大きさの岩肌に胡坐をかいて座っていた霞は、戯れに紐の先に括り付けた酒壺を振り回し……
 
「あんたもそう思うやろ?」
 
 手放した。霞の背後、壺の飛んだ先で………
 
「ぎゃあ!」
 
 壺の割れる軽い音と、中年間近の男の悲鳴が聞こえた。“ずっと霞を見張っていた”、額を割られて顔面を血塗れにした男は蹲り、顔を上げた時には偃月刀がその首筋に当てられている。
 
「動いたら斬んで」
 
 男に、そして“男を遠巻きに見ている輩”に告げて、霞は獰猛な笑みを浮かべた。
 
 恋の誕生日に散が獲ってきた猪は美味かった。自分も熊か何かと遭遇出来ればいいな、などと考えていた霞は、思わぬ獲物に舌なめずりなどしてみる。
 
「(見張りが少ない、この分なら全部足しても百……いや、五十もおらんか)」
 
 演習の怒号や砂煙に怯えて森に引っ込んでいた山賊だろう。屶を手に震える目の前の中年男をとりあえず蹴り飛ばして振り返り、霞は舞いのように偃月刀を踊らせた。
 
「かかって来ぃや! 弱いもん苛めて物掻っ払うんは出来るくせに、女一人は遠巻きに眺めるしか出来んのかい!」
 
 威嚇と挑発。そもそも山賊が女一人を狙う体勢としては連中の警戒は強すぎる。自分が何者かある程度察しが着いているのだろうと推測しての挑発だった。
 
 怒り狂って向かって来るなら良し、怯えて竦むならそれも良し。要するに、霞はもう暴れる気満々なのだ。
 
 万の精兵をも凌ぐ、などという言葉を証明出来るとすれば、それはおそらく彼女が死ぬ時だろう。しかしたかが山賊の百人足らず、彼女一人でやれない事は無い。
 
「(でも、森ん中追い回すんは大変やろーなぁ……)」
 
 いくら強かろうが彼女の体は一つ。散り散りに逃げられれば全員捕まえるのは骨が折れる。
 
 ゆえに霞は―――
 
「ホラホラどないしてん! そないなへっぴり腰でよう山賊なんてやっとんなぁ! 外道なら外道の意地ゆうもん見してみい!」
 
 出来れば纏めてかかって来てくれんかなー、などと望み薄に考えながら罵倒していた。
 
 その希望は………
 
「…………お?」
 
 予想外にあっさりと、叶った。それまで隠れて霞を見ていた山賊の何人かが堂々と姿を現し、一人がどこかへ駆け出した。おそらくは仲間を呼びに行ったのだろう。
 
「(………何や、こいつら?)」
 
 槍や剣を持っている者はごく僅か、ほとんどの物は木斧や竹槍、鍬や屶などの、武器とも呼べない武器を手にしている。
 
 はっきり言って、兵士どころか山賊にすら見えない。ただの村人のようだった。
 
「……自分ら、ホンマに山賊?」
 
「……そ、そいつを放せ!」
 
 霞の質問には応えずに賊の一人が指したのは、霞が先ほど蹴倒し、気絶させた男。それで霞は、山賊たちが逃げ出さない理由に思い到る。
 
「何や、悪党のくせに随分可愛えトコあるやんか。その心意気に免じて………」
 
 仲間に呼ばれて、次々と山賊たちが駆け付けてくる。不意を突いて霞の背後から斬り掛かった青年が、返り討ちとして受けた裏拳に鼻を潰されて吹っ飛んだ。
 
「半殺しで許したるわ」
 
 半刻も待たず、四十三の哀れな男たちが泡を吹いて天を仰いでいた。
 
 
 
 
「で、自分ら何で山賊なんてしてん?」
 
 ウチをこそこそ見張っとった奴らは、見た目だけやのーてホンマに山賊っぽくない奴らやった。
 
 戦い慣れとらんっちゅーより、脅ししかした事ないみたいな。酷い奴は棒立ちのまんましばかれとったもんな。
 
「へ、へい姐さん!」
 
「誰が姐さんやねん」
 
 まるでウチがお山の大将みたいやんけ。
 
「『へい』やのーて、何で山賊なんかしとるんかって訊いとんの」
 
 山賊の皮も被りきれとらん市井。おまけに仲間一人見捨てられん考え方。今までぎょうさん山賊はのしてきたけど、こいつらはちょい違和感ある。
 
 半日は起きんようにどついた連中とは別に、ウチは最後の一人だけは眠らせんかった。そのまま縛り上げて話聞きながら歩かせとる。
 
「あの、俺たちこれからどうなるんでしょう?」
 
「知らんわ。取っ捕まえたやつの処罰決めるんはウチの担当やないねん」
 
 残すやつ間違ったかも。動揺しとるんは解るけど、こいつ耳ついとんのか?
 
「ここです」
 
 なんて話しながら獣道を抜けた所で、連中のねぐらに到着。……なーんか、手作り臭い山小屋が並んだ、山ん中ってのを差し引いてもへんぴな場所。
 
 その周りには、女子供が二十人くらい。
 
「……家族連れの山賊か?」
 
「へい。お上は私腹を肥やして宮殿を飾り、民は高い税金を課せられ、安い給金で徴兵され、家族と引き離され、耐えられなくなった俺たちは、同じ思いの仲間と徒党を組み、家族を連れて山賊に身をやつしたんです」
 
 ようやくウチの質問に応えたか。……ちゅーか、いかにも悲劇っぽく語っとるけど、ちょい聞き逃せん話やったぞ。
 
「ええ加減な事ぬかすなドアホ! いつ一刀がそないな弱いもん苛めしたっちゅーねん!」
 
 城外の邑とかまでは政治の手が行き届いとらん、とかはあるんかも知れんけど、それやと重税とか私腹肥やすとかおかしい所が出てくる。
 
 大体、一刀だけならともかく、稟や風や雛里までおってそないな酷い事になるとは思えん。
 
「? かずとって……」
 
「天の御遣いだの地獄の使者だの言われとるウチの大将や! すっとぼけんな!」
 
 呆けとる男の胸ぐら掴み上げて凄んでも、不思議そうな顔を崩さん。……本気でわからへんのか?
 
「……俺、北郷一刀の事なんて一言も言ってませんぜ?」
 
「言ったやろが思っきり!」
 
 このまま絞め殺したろか、ホンマ。
 
「だ、だって俺らは洛陽の南……宛から落ち延びて来たんですぜ!?」
 
 それ早よ言えや、ウチはそう言ってそいつを放り投げた。
 
 
 
 



[14898] 六章・『偽帝討伐』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/10/07 15:43
 
「袁術が………?」
 
「らしいで。嘘ついとるようにも見えんやったしな」
 
 昨日の演習が終わった後、何やら霞は一人で面白い事してたようで。真夜中に百人足らずの山賊を引き連れて帰って来た。
 
 曰く、宛の袁術が突然皇帝を名乗って贅沢三昧。元から酷かった生活が輪を掛けて酷くなり、雁首揃えて都に逃げて山賊にくらすちぇんじしたらしい。
 
 何だっけ。連合との戦いの時に一刀が孫策に投げた玉璽……を、孫策が袁術にあげたんだったか。
 
 自分がまだこの陣営に居なかった時の成り行き(又聞き)を朧気に思い出しつつ、何か面倒になってきたので放棄する。
 
 にしても、皇帝て。随分とまたあぐれっしぶなようで。
 
「………なるほど」
 
 一刀は大して驚いてない様子。この状況を予測出来るほどキレる男じゃない気もしつつ、あたしはぐるりと部屋に集まった面子を見渡した。
 
 皆、一様にあたしと同じ感想を持ってるらしい顔をしている。
 
「ッ……ごほっ、げほ!」
 
 ちまみにここは一刀の私室。昼間に池に落ちた一刀は、一刀のくせに一丁前に風邪を引いてだうんしているようで。
 
 同じ目に遭ったはずの舞无娘は清々しいくらい元気に爆睡していたというのに、情けない。
 
 そのへたれの背中に手を回して支えるように、雛が小さい体で頑張っていた。このはーれむ野郎。
 
「今や朕の血族が大陸を統べているなどとは到底言えぬ……が、それでも下種にくれてやるほど安い肩書きではない」
 
 袁術の蛮行にいたくご立腹なのは、まだ小さいものほんの皇帝陛下。形の良い眉を鋭く歪めて……目を伏せた。
 
「……されど、まだ若輩の朕に満足な判断が下せるとは思うておらぬ。貴様の良きに計らえ」
 
 怒りを自制して、一刀に目を向けた。帝とはいえ………子供っぽくない子供だ。
 
 その健気な言葉を受けた一刀は、自分の脇の下の雛を見て、軍師さんを見て、師を見て、ついでにりーだーを見てから口を開いた。
 
「降伏勧告とかしたら、聞いてくれるかな」
 
「無駄ですね」
 
 間を置かずに切って捨てる軍師さん。さすが、眼鏡がなくても知的なようで。
 
「民や友軍の事を考えていた張魯殿の時とは場合が違います。暴政を敷いて私腹を肥やす統治者というのは、自らの保身を何よりも優先します」
 
 軍師さんの説明を、雛が引き継いで………
 
「皇帝を名乗った上で降れば自分がどうなるか、それを考えれば、とても降伏なんて出来ません。……ご主人様のような考え方をするのは、桃香さんくらいだと思います」
 
 そして師が締める。
 
「平気で皇帝名乗るくらいですから、そもそも自分が敗けるなんて想像もしてないのかも知れませんねー」
 
 しかし、蛇足のように漏らしたりーだーの一言が、一番の決め手だったようで。
 
「何せ袁術は、袁紹の従妹だからな」
 
「あー………」
 
 一刀は心底納得な声を上げた。袁家ってそんなに残念な連中なのかな、と。そういえば袁紹って、見事に空中分解された連合のりーだーだったか。
 
『…………………』
 
「……な、何?」
 
 そのたいみんぐで、あたしと霞と恋以外の視線が一刀を刺した。一刀じゃなくても何事かと思う。
 
「お兄さんは相変わらず、あんばらんすですねー」
 
「連合の時は訳知り顔で袁紹や曹操を手玉に取ったかと思えば、袁術に関しては何も知らない。知識が妙に偏っています」
 
「恋の誕生日を一刀と貂蝉だけが知っていたというのも、妙な話だしな」
 
「う………」
 
 雛を除いた古株三人に問い詰められて、一刀が詰まる。詰まって、頭を押さえて寝台に沈んだ。……何ですかね、この疎外感。
 
「……イジメちゃ、ダメ」
 
 どこまで演技か判らない状態で横たわった一刀の前に、恋が立ちふさがる。
 
 ………ホントに皆、甘やかしますね。
 
「で、どないする? 西の連戦で国に負担掛かっとるし、しばらくは内政優先って事になっとったけど」
 
「うちは最近戦い続きでしたし、寒い季節の功城戦はあまり美味くありません。東には冀州を手中に収めた曹操さんがいて、ついでにお兄さんが風邪でだうんです」
 
 頭でも痛いのか、不快げに眉根を寄せる一刀。その一刀にセキトを乗せる恋を一瞥して、霞が話題を戻す。すかさず補足する師が眩しい。
 
「偽帝討伐を梃子にして風評改善を狙うのも悪くありませんが、それならもう少し待って袁術の悪業が広まった後の方が効果的です」
 
 あたし的にも軍師さんの意見が合理的な気がするけど、どうせ一刀の事だから………
 
「でも、今の段階でもう脱走者が出るくらい酷い状況なんだろ。風や稟の言う事は判るけど……やっぱり袁術は放っておけない」
 
 ほら来た。まあ、今さら突っ込む気にもならないかな、と。しかしまあそれはそれとして………
 
「出陣はいいとして、あなたは連れて行きませんよ。普段に輪を掛けて役に立たない以上、そこでのたうち回ってればいいかな、と」
 
「ひでぇ……」
 
 釘は刺しておく。同情はしない。風邪なんて引く方が悪い。
 
「………………」
 
 何やら変な視線を向けてきた一刀に目潰しを食らわせようとして、あたしの手首は恋に掴まれた。惜しい。
 
「……わかった。総大将は星、参謀は雛里。それから風、恋、舞无、散で出陣。霞と稟は俺と一緒に洛陽に残る。……って感じで、いいかな?」
 
 主君のくせに伺いを立てるように顔を覗き込む一刀に、雛は帽子で紅潮した顔を隠してこくこくと頷いた。……萌える。
 
「それと、散………」
 
「ん?」
 
「一つ、頼まれてくれない?」
 
 寝汗に濡れた引きつったにやけ顔を見せられて、あたしは今度こそ鮮やかな目潰しをキメた。
 
 
 
 
「十からの使者、か。ふむ……一体何用じゃろうのう?」
 
 祭が、呑気にあごを撫でている。けど、今はまだ輸送や援助もあんまり円滑に行える状態じゃないし、わりと深刻な用件かも知れないって私は思う。
 
「皇帝の名を借りての理不尽な要求、という可能性もあります」
 
「蓮華、先入観で物事を判断しないの。それとも、私の眼はそんなに信用ないのかしら?」
 
「そ、そういうわけでは………」
 
 蓮華は相変わらず頭がお堅い。まあ、本当ならそれくらいが丁度いいのかも知れないんだけど。
 
 扉が開き、思春と明命に迎えに行かせていた使者が入ってくる。短い黒髪に顔の半分を包帯で隠した少女。
 
「お久しぶりね、鳳徳」
 
「おや? ちゃんと自己紹介した憶えは無いんですが」
 
「一刀に紹介はしてもらったからね」
 
「なるへそ」
 
 奇妙な相槌で納得したらしい鳳徳が、外套の中から一通の書簡を取り出す。
 
「早速ですが、うちのぼすから手紙を預かって来ましたので、読んでもらえるかな、と」
 
「……ぼす?」
 
「主君の事です」
 
 何語? とか、「かな」って、読まないとあなたが困るんじゃ? とか、そういう疑問を飲み込んで、私は書簡を受け取る。
 
 鳳徳の奇妙な言動が蓮華とか冥琳の警戒心を高めちゃってる気がするなぁ。
 
「………へぇ」
 
 手紙の内容に、私は隠そうともせず、いかにも面白そうに声を出す。そのまま冥琳にも手渡した。
 
「偽帝・袁術、か……。玉璽を手にしたからといって本当に皇帝を自称するとは、馬鹿もここに極まれりね」
 
 それを読んだ冥琳も、私と同じ感想を抱いたみたい。皇帝を名乗るなら、それを周囲の誰もが認める大徳と実績が必要。そうでなければ不必要な反感を買うだけ。そんな事もわからないなんて。
 
 やがて、この場にいる全員が書簡の内容を頭に入れた頃、鳳徳が口を開く。
 
「豫州を押さえれば、両国の国交もかなり円滑になりますし。そちらにとっても悪い話じゃないかな、と」
 
「そぉねぇ……」
 
 嘘じゃないと思う。袁術ならやりそうな事だし、わざわざ使者を鳳徳にしたのも、他国の謀略だと疑わせないための念押しって所かしら。
 
 チラッと冥琳に目配せをすると、迷わず首肯が返ってきた。今回は冥琳も大賛成。何と言っても……“私たちの元々の方針”と利害が一致する。
 
「わかったわ。一刀にもよろしく伝えてちょうだいな」
 
「了解。これであたしも肩の荷が降りたってやつですね」
 
 最初から重荷に感じてなかったように見えたけど………。
 
「まあ、今日の所はうちでゆっくりしていって。丁度美味しいお酒が入ってるから」
 
「むしろあたしはお茶がいいです」
 
 素直に要求する鳳徳の返事に、祭がホッとしたように肩を落とした。
 
 
 
 
「……………………」
 
 いつもと同じ部屋。いつもと同じ城。しかしどこか霧が掛かったようにぼやけた光景の中を、私は歩いていた。
 
「まったく、ご主人様は」
 
 目を離すとすぐに執務室を逃げ出される。昨今では少しは自覚が出てきたかと思った途端、これだ。
 
 また月に鼻の下を伸ばしているのか、恋に振り回されているのか、鈴々や翠に唆されているのか、星や紫苑に誑かされているのか………。
 
「………………」
 
 想像していたら、段々腹が立って来た。大陸を統べる王たる御方が、仕事を放り出してあちらこちらで色目を使って、不謹慎にもほどがある。
 
 ………………などと、自分の想像を勝手に事実にすり替えつつ、無理な言い訳を繰りながら肩を怒らせる私。
 
 ……自分でもどうかと思わなくもないが、これもそれもご主人様が悪い。
 
 私を変えたのも、私を掴んで放さないのも、全てあの方なのだから。
 
「(でも…………)」
 
 こんな私でも、いいのだと思う。大願を果たした今、私の願いは一つだけなのだから。
 
 向かう先、日の当たる温かな中庭に、鈴々が、星が、翠が、紫苑が、恋が、月が、詠が、そして……ご主人様がいる。
 
 彼が振り返る。私は手を伸ばして…………
 
「ご――――っ」
 
 ――――跳ね起きるように、手を伸ばしていた。
 
 いつもと同じ部屋。いつもと同じ城。いつもと同じ、“徐州の”私の寝台の上。
 
「………どうかしている」
 
 夢の中というのは、おかしなものをおかしなものと認識出来ないから始末が悪い。
 
 ……いや、あんな夢を見る事自体がどうかしている。私の主は劉玄徳ただ一人。
 
 大体、趙雲や呂布はともかく、誰だ? 月だの詠だの紫苑だの。
 
(ズキ……ッ)
 
「っ…………」
 
 頭が、痛い。寝起きだからだろうか。欠伸もしていないのに、一滴の雫が頬を伝った。
 
 
 
 



[14898] 七章・『その頃、徐州』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/10/08 09:53
 
 反・北郷連合の戦いがあって、白蓮ちゃんと一緒に袁紹さんと戦って、おばあちゃんから徐州を託されて、休む暇どころか目の前の事もちゃんと出来ない内に、大陸は目が回るくらいにどんどん動いてく。
 
「袁術さんが……皇帝を?」
 
 袁紹さんとの戦いで疲弊した国力が回復してない、おばあちゃんから受け継いだ徐州もまだ安定を見せない。そんな忙しい日々に、また新しい問題が舞い降りてきた。
 
「はい。宮殿を建て替え、私腹を肥やし、民はそのために税金を搾り取られる。しかも勝手に国号を変えて自らを皇帝を自称する。許されざる所業です」
 
 愛紗ちゃんが思いっきり眼を釣り上げて、静かに、お腹に怒りを溜め込んでるみたいに言った。
 
 そう、連合の時に少しだけ会った袁術さんが、一刀さんとは違う、明らかな反逆にでたらしい。それも、自分から大々的に広めてるみたい。
 
「あ~、美羽さまか~。別に悪気があるわけじゃないと思うんだけどな~」
 
「……猪々子。お前偽帝の肩を持つわけではあるまいな?」
 
「そういうわけじゃないんですけど……多分、自分がやる事が周りに与える影響を全然わかってないんじゃないかと……」
 
「袁紹さんの従妹ですもんね………」
 
「悪気がなければ何でもしていいってもんじゃないのだ」
 
 猪々子ちゃんが能天気にぼやいて、その猪々子ちゃんを愛紗ちゃんがキツく睨んで、斗詩ちゃんがふぉろーにならないふぉろーをして、朱里ちゃんが肩を落として、鈴々ちゃんが一言でまとめた。
 
 鈴々ちゃんの言う通り、“わからなかった”で済む問題じゃない。それで苦しむのは、何の罪もない民なんだから。
 
 今のわたし達に余裕なんてない事くらいわかってるけど………
 
「やっぱり、黙って見てられないよ。今も苦しんでる人たちがいるってわかってるんだから」
 
「ええ! それでこそ桃香さまです!」
 
「「おー!」」
 
 わたしの言葉に、愛紗ちゃん、そして鈴々ちゃんと猪々子ちゃんが手を上げて賛成してくれた。反対に、朱里ちゃんが困った顔をする。
 
「そうすると、問題点が、大きく分けてあります。一つは、まだ我が国は冀州での死闘で疲弊した国力を十分に回復出来ていない事。もう一つは、我々が出陣する隙を突かれる危険です」
 
 愛紗ちゃんの不満そうな視線を受けて、朱里ちゃんは怯んで、そこで一度止めて……けど、気を引きしめた顔をしてまた口を開く。
 
「呉の孫策さんが淮南に兵を集めているとの報告が入ってますし、エン州には曹操さんがいます。小沛から袁術領内に攻め込んだ時、南方と西方からの脅威に対抗する手段がないんです」
 
「守りに十分な兵を残して出陣出来るほどの余裕、無いですもんね~」
 
 朱里ちゃんの意見を肯定するように、たいみんぐ良く斗詩ちゃんが合いの手を打つ。
 
「他国の民を救うために自国の民を危険に曝しては意味が無い。理屈はわかるが……」
 
 愛紗ちゃんの表情は複雑。理解は出来るけど納得は出来ないって感じかな。………そうだ!
 
「孫策さんと同盟を結んで共同戦線を張るっていうのはどうかな?」
 
 呉は、孫策さんの急速な制圧でまだ不安定だって聞くけど、それでも孫策さんが一つにまとめる前よりずっと国は豊かに、民の生活は穏やかになっているって聞いた。だったら戦う理由は無いし、白蓮ちゃんやおばあちゃんみたいに分かり合いたいと思う。
 
「(本当なら、曹操さんとも………)」
 
 そうは思うと同時に、連合の時の事を思い出してわたしは唇を噛む。
 
「……呉では、北郷一刀ではなく連合側が悪者という事になっています。おそらくは、内通していた掛けられた嫌疑を払うより、そちらの方が都合が良かったのでしょう。……孫策が我らと手を結ぶとは到底思えません」
 
 わたしの提案に、今度は愛紗ちゃんが苦い顔をして反対した。袁術さんと戦うのは賛成でも、孫策さんと手を結ぶのは反対っていうのが愛紗ちゃんの考えみたい。むぅ~、前から思ってたけど、愛紗ちゃんは疑り深すぎな気がする。
 
「その点は愛紗さんと同意見です。連合で少しお話して以来、我々に関心を持ってらっしゃらないように見えましたし……何より、我々と手を結ぶ事が、あちらにとっての利に繋がるとは思えません」
 
 朱里ちゃんが、愛紗ちゃんの意見をさらに補足する。……わかってた事だけど、人と人がわかり合うって難しい。
 
「(ッだめだめ! 弱気禁止!)」
 
 戒めのつもりで、ぱちんと両手で自分のほっぺたを叩く。
 
『それでもわたしは……出来るって信じてる! 皆が手を取り合って、そうやって大陸を平和に出来るって信じてる!!』
 
『だからわたしは……理想を捨てない!!』
 
 わたしの背中を押してくれた、大好きな人に、わたしはそう強く誓ったから。次に会った時は、少しはかっこ良く立っていたい。
 
「………桃香さま?」
 
 ふと気付いたら、わたしの反省もーどが皆に注目されていた。うぅ……恥ずかしいよぉ。
 
「問題は、淮南に兵を集めている孫策さんの標的がどこなのか、です。我々と同様に袁術さんを狙っているなら、下丕に兵を回さずに済みます。当面は孫策さんの動向を逐一探る事が肝要かと」
 
 止まった軍議を再開するように切り出した朱里ちゃんが、うまい具合にまとめてしまった。……まあ、今は孫策さんとちゃんと話し合う機会を作る事が大事かも知れない、かな。いきなりじゃ、さっき愛紗ちゃん達が言ってた通りになりそうだし。
 
「……あのさ、まとまった話に水差すみたいで悪いんだけど……」
 
 猪々子ちゃんが、ポリポリと後ろ頭を掻きながら言い辛そうに切り出す。何だろ?
 
「もしさ、麗羽さまが美羽さまを頼って豫州とか荊北にいたりしたら、どうなんの?」
 
『……………あ』
 
 その場にいる全員が、声を揃えて口を開けた。ちょっと楽しいかも……ってそういう場合じゃなくてぇ!
 
「し、しかし、袁紹と袁術は犬猿の仲なのではないか? 連合でも争っていただろう」
 
「美羽さまが一方的に麗羽さまに苦手意識持ってるのは事実ですけど、路頭に迷ってる麗羽さまを見捨てたりはしないと思いますよ。一応従姉ですし」
 
「むしろ、『ついに麗羽の弱みを握ったのじゃー!』ってなりそうだよなぁ」
 
「あ、わかるわかる」
 
 愛紗ちゃんの希望的観測を、斗詩ちゃんと猪々子ちゃんが世間話みたいに否定する。それが……
 
「………わたし達以外の勢力に捕まったら、袁紹さんの命の保証は出来かねます」
 
 朱里ちゃんのとっても現実的な一言で、石みたいに固まった。
 
「よっし、今行こうすぐ行こう走って行こう!」
 
 そして、すぐに再起動。猪々子ちゃんや鈴々ちゃんのこういう所見てると、何だか楽しくなる。
 
「待て猪々子、さっきの話を聞いてなかったのか? まずは孫呉の動向をだな………」
 
「関係ないね! テメェこそ忘れたのかよ、あたい達が仲間になった条件!」
 
 愛紗ちゃんの制止で、逆に猪々子ちゃんはひーとあっぷする。
 
 そう、袁紹さんと白蓮ちゃんの戦いで、わたし達が白蓮ちゃんの援軍として駆けつけた時……真っ先に猪久子ちゃんと斗詩ちゃんを捕まえた。
 
 そして、冀州を制圧した時に、袁紹さんはどさくさに紛れて姿を眩ました。それまでずっと捕虜扱いだった二人が仲間になってくれる条件が、『袁紹さんを見つけても危害を加えない事』。
 
「お、落ち着いてください! まだ袁紹さんが袁術さんの所にいるとは限らないじゃないですかぁ!」
 
 興奮する猪々子ちゃんの腰にすがりつくように体をへばりつかせて、朱里ちゃんが頑張って止める。
 
「あ、そっか」
 
 ポンッと手を打って、猪々子ちゃんはあっさり納得して、朱里ちゃんと愛紗ちゃん、ついでにわたしがこけた。
 
「と、とにかく……情報とか準備が不十分なまま動いたら、却って争いを大きくしちゃうかも知れないから、慎重に。……って事でいいのかな?」
 
「はい♪」
 
 やや自信なくまとめたわたしの言葉を、朱里ちゃんが快く支持してくれた。自信になるなぁ。この話の流れに乗って……
 
「孫策さんと同盟は難しい?」
 
「ええ、先ほど申し上げた通りです。むしろあちらがこちらを狙っている可能性もありますし……」
 
「じゃあさじゃあさ、一刀さん!」
「「ダメです」」
 
 さりげなく会話の流れに乗せたのに、間髪入れずに反対された。ひどい。
 
「何を言っているのです! 我々が連合に加わって北郷一刀に戦いを挑んだ事をお忘れか。今さら同盟など受け入れるはずがないでしょう」
 
 愛紗ちゃんも朱里ちゃんも、一刀さんの事になると頑なに警戒するんだよねぇ……。皇帝即位のお祝いに都に行くのもダメって言われたし。
 
「でも、最終的に孅滅戦にならなかったのも一刀さんのおかげだもん」
 
「あれは、北郷さん本人が毒で倒れてしまいましたから、あちらにとっても利があったからです。我々を快く思っているわけではないと思います」
 
 頬を膨らませて怒ったようにあぴーるしても効果無し。
 
「利ならあるよ。同盟して仲良くなれば、戦争なんてしなくて済むし、余計な犠牲も出さなくていいでしょ?」
 
「その理屈が通用する相手ですか!」
 
「十は、連合との戦い以降西方に遠征し、涼州や漢中を制圧しています。これを見る限り、北郷さんは曹操さんに近い種類の人間。桃香さまの理想に諸手を上げて賛同してくれるとは思えません」
 
 畳み掛けるように愛紗ちゃんと朱里ちゃんが一刀さんのダメ出しを始めた。……二人とも、一刀さんの人となりは知ってるくせに、何で。
 
「………………」
 
 いくら愛紗ちゃんや朱里ちゃんでも、一刀さんの悪口を言われるのは……やだ。ありったけの不満を込めて、上目遣いに睨んでみる。
 
「拗ねてもダメです。大体、国も離れている現状で十と同盟してどうするのですか。今は目の前の事にもろくに対処出来てない状態なんですよ?」
 
 もっともらしい言葉並べちゃって、愛紗ちゃんだって十分私情が入ってるくせに。……愛紗ちゃんが嫌うような人じゃないと思うんだけどなぁ……。
 
「もし孫策さんが袁術さんを攻めるなら、わたし達が大兵力を動員する必要はありませんから、曹操さんへの警戒に最低限の守りは備えられると思います」
 
 悪くなりそうな雰囲気を、朱里ちゃんが無理矢理話題を変えて断ち切ろうとしてくれる。
 
 ………納得出来ない部分はあるけど、確かに今は目の前の事に集中しなきゃいけない。
 
「じゃあ、とりあえず密偵を出しましょうか?」
 
「すぴー」
 
 斗詩ちゃんは、長い会議に飽きてしまったのか、膝の上で眠る鈴々ちゃんの頭を撫でながら、そう言った。
 
「あっ、コラ鈴々! そこはあたいの場所だぞ!」
 
「文ちゃんのじゃないってばぁ~………」
 
「んにゃ……?」
 
 
 孫策さんが袁術さんと戦うつもりなら、そこに希望がある。
 
 連合の時には、出来なかった事。偽帝討伐という共通した目的を前に、今度こそ互いの信頼関係を築ければ……愛紗ちゃん達の言っていた理屈を覆せるかも知れない。
 
 わたしは、拳をぎゅっと握り締める。“わたしの戦い”に向かう、わたしなりの気合いの入れ方だった。
 
 ――――でも、わたしの理想の為の関門は、思ってた以上に大きい。
 
 この二日後、冀州の曹操さんが白蓮ちゃんに出兵したという報告がわたしの耳に届く。
 
 
 
 



[14898] 八章・『箱庭の中の三日天下』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/10/09 16:13
 
「皆、行っちゃったのか………」
 
 伯符の所に援軍の要請に行ってくれた散が戻って来て、オーケーが出たと判った途端に星たちは出陣した。
 
 俺は見送りもさせてもらえなかった。代わりに、皆が顔を見に来てくれたくらいだ。
 
 鍛練で圧倒された挙げ句に池に落ちて寝込んでるって、自分でもかなり情けない。
 
「“行っちゃった”とは何ですか。袁術を討つと決めたのはあなたでしょう」
 
「うぅ……ごめん……」
 
 出陣どころか仕事一つ出来ない。今は稟が俺の部屋の机で政務をやりながら………合間を見ては俺の様子も見てくれてる。
 
 文字通りに頭が上がらない。なんかぐらぐらするし、喋ってる自分の声すら頭に響いて気持ち悪い。何より体がだるい。
 
 いや違う違う、今は稟や皆に申し訳ないって話で。
 
「……仕事、忙しい?」
 
「戦時下な上、人手も足りないんです。忙しくないはずがないでしょう」
 
 気になって声を掛けたら、思わぬカウンターが。申し訳ない以上に居たたまれなくなって、俺はのそのそと布団から這い出した。
 
 稟がこの部屋で仕事してるのは、もちろん俺の看病のためなんかじゃない。そういうのは侍女の人がやってくれてもいいし、ぶっちゃけ寝てるだけなんだから放置してくれてもいい。
 
 稟がここにいるのは、稟が俺より遥かに有能だろうと、形式の上で俺の了承が必要な書簡とかがあるからだ。
 
「…………あれ?」
 
 ……別に、それでも稟がここで仕事する必要なくないか? 俺の了承が要るのなんて後でまとめて持って来てくれればいいんだし。
 
「何を起き上がっているんですか?」
 
「うおっ……!?」
 
 熱に浮かされた頭でちょっと考え事をしてる間に、机に座ってたはずの稟の顔が目の前にある。
 
「眠くないのは解らなくもありませんが、それでも横にはなっていて下さい」
 
「…………はい」
 
 有無を言わさぬ半眼で睨まれて、俺はおとなしく寝台に戻る。……怒ってる、んだよな? なのに微妙に上機嫌に見えるのは気のせいか。
 
「少しは熱は下がりましたか?」
 
 横になった俺の額に手を当てた稟は、ふと気付いたように手を引っ込めた。まあ、手袋してたら体温計れないしな。
 
「じっとしていて下さい」
 
 だから、手を引っ込めた稟は手袋を外すのかと思った。でも、稟は手袋ではなく眼鏡を外して………
 
「ッッ!?」
 
 自分の額を、俺の額にコツンと当てた。俺はあまりに予想外な稟の行動に呼吸を忘れる。一歩間違ったら、簡単に口と口が触れ合ってしまうほどの近距離。俺の視界には、瞳を閉じた稟の目蓋しか見えない。
 
「………まだ熱いですね」
 
 息が詰まるような……いや、正しく詰まっていた数秒を経て、目の前で青い瞳が姿を見せ、そして呆気なく離れた。
 
 ……風邪じゃなくても、頭部が熱いのは仕方ないと思う。
 
「(にしても………)」
 
 髪を下ろした、眼鏡も掛けていない稟を見つめる。まあ、女の子がイメチェンするのがおかしな事とは思わないけど……稟ってちょっとお堅いから違和感が………。特にグラスレスに。
 
「何ですか?」
 
「い、いや……何でも…っ…ごほ、げほっ!」
 
 胸の動悸を悟られないように咳払いで誤魔化そうとしたら、本気で咳き込んでしまった。落ち着け、俺。
 
「………………」
 
 いつも所構わず鼻血出す稟が、あれだけ俺に接近して平然としてる。………俺だけドキドキしてるのが馬鹿みたいだ。
 
「……私と二人では、落ち着きませんか?」
 
「………え」
 
 見透かすように言葉を零した稟が、踵を返して部屋から出ていく。俺はその背中を何がなんだか解らないまま見送って、追い掛けようとして、思った以上に動いてくれない体に気付いて、止める。
 
 稟の眼鏡も仕事の書類も机の上に置きっぱなしだ。すぐに戻って来るだろう。
 
「…………………」
 
 稟の負担、出陣した星たち、この動きに対して諸公がどう動くのか、色んな悩みの種を飲み込んで、今はさっさと風邪を治そう。
 
 白衣の天使が戻って来るまでの間に、俺はそんな風に自分の中で結論づけた。
 
 
 
 
「一刀が動いた、か。それじゃこっちも、予定通りに事を進めましょう」
 
 一刀の使者から開戦の報告。密偵から、豫州の兵が西方に向かって大規模に動き出したって報告が同時に入った。一刀が宛に攻め込み、袁術が援軍を呼んだって事ね。
 
「北郷が袁術を攻めて兵を宛に集める。我らは手薄になった豫州を呑み込み、隙あらば宛に向かう豫州軍の背後を突く。こちらにとっては良い事尽くめね」
 
「“そっち”じゃないわよ。なに腹黒く考えてんだか」
 
「やる事は一緒でしょ。私だけ悪者みたいに言わないで欲しいものね」
 
 冥琳の言う事ももっともだし、一刀が兵を出せば連動して動くって手紙に書いたのは私。でも、私が言いたかったのはそっちじゃない。
 
「ね、姉さま……。本当に五万の兵しか連れていかないおつもりですか?」
 
「あら、私が冗談言ってるように見えた?」
 
「そ、そうではなく……いかに北郷と挟撃を掛けるとはいえ、もう少し連れて行かれた方が………」
 
 蓮華は私たちの身を案じてるんだろうけど、残念ながらちょっと的外れかな。
 
「権殿、今はご自分の心配をなさった方が良いな。権殿の役目、よもや忘れたわけでもあるまい?」
 
「そ~そ、さっき冥琳が言ってたみたいに、私たちの方はかなりおいしい条件で戦うんだから、心配なんていらないわよ」
 
 淮南に集めた兵力は、総勢で十四万。この内五万しか袁術にぶつけないのには、徐州の劉備に備えるって以上の理由がある。
 
「これから先の呉の安寧のため、重要なのはあなた達の働きの方よ。わかってる?」
 
「うんっ♪ 心配しないで、蓮華お姉ちゃんにはシャオがついてるんだから!」
 
「あら頼もしい。蓮華も見習わないといけないわね?」
 
 末の妹、小蓮。
 
「お、お任せ頂いた大任に、お寄せ下さった信頼に、我が全力でお応えします!」
 
 新参の軍師、亞莎。
 
「当然です。姉さまに任されたこの呉、必ず守り抜いて見せます」
 
 そして、おそらく私以上に王としての資質を備えた妹、蓮華。
 
「穏、蓮華たちを支えてあげてね。私たちがいない所で軍を任せるのは初めてだし、緊張しちゃうと思うから♪」
 
「はいはーい♪ お任せくださーい」
 
 この三人は、呉の新星。私や冥琳にもしもの事があれば、この呉を背負う者。もしもの事が無くても、“世が世なら”私よりも呉の王に相応しいはず。
 
 江東には豪族が多いし、私の武力制圧に不満を抱く輩も多い。だから私が兵を率いて国を空ければ、野心を抱く者は必ず発起する。
 
 今回の出撃で一番大事なのは、袁術を倒す事でも、豫州を手に入れる事でも、内側の不穏分子を取りのぞく事でもない。
 
 小覇王・孫策がいなくても、呉は崩れない。江東には虎の娘、孫仲謀ありと知らしめる事。
 
「じゃ、呉の未来は若い者に託して、私たちはお友達との約束を果たしに行きましょ」
 
 豫州を通じて十と繋がれば、これからの呉の発展にも繋がる。……一度、蓮華と一刀を会わせてみるのも悪くないかも知れない。
 
 
 
 
「大変です! 陛下! 大将軍!」
 
「何じゃもう、朕は今おやつを食しておる所なのじゃぞ?」
 
 玉座で何もしないで杏仁豆腐をパクパク食べてるお嬢様を眺めていると、いきなり兵隊さんが駆け込んで来た。も~、お嬢様ったら『朕』だって、相変わらず似合ってなくて可愛いぞ☆
 
「それどころではありません! 北方より十万を越える大軍が怒涛の勢いで攻め込んで来ています! 早くご指示を!」
 
 わー、たいへんだー。……え?
 
「なっ、な……何じゃと!? 朕は皇帝なのじゃ! この大陸で一番偉いのじゃぞ!? なのに何故朕の国が攻められねばならんのじゃ!?」
 
 相変わらず思い込みの世界で生きてる美羽さまは可愛くて仕方ないんだけど……ちょっと洒落になってないかなぁ……。
 
「北って言うと、北郷さんですよね? 関の兵隊さんは一体何をやってたんですか?」
 
「何の連絡も無いうちに、突然現れたのです。おそらく、一人残らず捕われたか……殺されたか」
 
 敵は十万以上の大軍。全く抵抗せずに降伏って所かなぁ。美羽さま人気無いし。
 
「とりあえず、大至急豫州の方に援軍の要請に行っちゃってください。とても宛の兵力だけじゃ持ち堪えられませんから」
 
「は……はっ!」
 
 けど、それって別に北の関に限った話じゃないんだよねぇ。うちの今の兵力……六万くらいだっけ?
 
「七乃よ! 身の程知らずの反逆者に目にもの見せてやるのじゃ!」
 
「いやぁ~~、それちょっと、っていうか絶対無理ですってばぁ~………」
 
 相手はよりによって天の御遣いだの地獄の使者だの暴君だの魔王だの、大仰な仇名ばっかり持ってる大陸最強の北郷軍。……援軍が来るまで持ち堪えられれば恩の字じゃないかな~。
 
「何を弱気な事を言っておる! 朕は仲国の皇帝、七乃はその大将軍じゃぞ!? 懲らしめて懲らしめて、二度と朕に逆らえないようにたくさんおしおきしてやるのじゃ!」
 
「だから無理だって……」
「何か言ったかえ?」
 
「いえ、何も。頑張ってきまーす♪」
 
 こうなったら、戦うしかないかー。とりあえず出鼻だけ挫いてさっさと尻尾巻いて城に逃げちゃおう。冬だし、籠城した方が絶対向こう嫌がるはずだし。
 
「頑張れ七乃! 負けるな七乃! 朕をしっかり守るのじゃぞ!」
 
 美羽さまの声援を背中に浴びながら、私は兵隊さんと一緒に玉座の間から出る。そしてしばらく歩いて城壁の上に来て、遠くに薄ら見える影を捉えた。……あれ、全部敵兵? 十万どころか十五万くらいいそうなんですけど………。
 
「あのー、ちなみに敵将が誰とか解ります?」
 
「出城の物見の報告によると、趙、華、程、鳳が二色、深紅の呂旗も確認されています」
 
「………………」
 
 あははははは♪ ………美羽さま連れて逃げる準備しとかなきゃ……。
 
 
 
 



[14898] 九章・『悩める覇王、迷える子羊』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/10/10 12:40
 
「……あれが、宛か」
 
 ここに来るまでに突破した関の、あまりにも呆気ない降伏。袁術の求心力の無さもその要因の一つであろうが、それ以上に兵自身の余裕の無さが見て取れた。
 
 それほど貧しい生活を強いられているのか、徴兵され、ろくに訓練もしないうちに国境に詰め込まれたか。
 
「………………」
 
 一刀なら、こういう時どうする? 私は一刀に総大将を任された。一刀の代わりとしてここにいる。
 
「……籠城戦になると、わたし達もそうですけど、宛の皆さんにも負担を強いる事になりそうですね」
 
 雛里も同じ事を思っていたのか、私にそう言ってくる。そう、今は私が進言を受けて、判断を下す立場にある。
 
「民の心も袁術さんから離れているでしょうから、上手くやれば扇動する事も出来そうですねー」
 
 続いて、風の進言。……一刀なら、被害を最小限に止める。しかし、降伏を促しても受け入れるとは思えん。なら、被害を小さく、迅速に決着をつける。
 
「…………来る」
 
 恋の呟きとほぼ同時、城壁のあちこちから旗が上がり、城門が開いていく。
 
「来た、虎に噛み付く窮鼠来た、これで勝つる……でしたっけ?」
 
「もしくは、れっつぱーりー、ですねー」
 
「こ、言葉の意味はよくわからんが、とにかく凄い自信だな」
 
 ……散、風、舞无。こんな時に遊ぶな。というより、
 
「……散、戦場で棺に籠もるな。どれだけ不吉で後ろ向きな行動を取っている」
 
「いや、さぶかったので」
 
「我慢しろ。全軍に惰気が伝染する」
 
 こやつらの余裕が腹立たしいやら頼もしいやら、複雑な気分で眺めてから、私は敵軍を睨み付ける。
 
「抜刀!」
 
 私が槍を掲げると、後ろに控える大軍勢が剣を、槍を掲げる。
 
「敵は自らを皇帝と名乗る不遜な愚者にして、私欲のために民を苦しめる外道! 今! 我らはその悪業を打ち砕かんとここにいる!」
 
 私、散、舞无、恋、これほどの勇将が先陣を切れば、恐れるものなど何も無い。
 
「都で待つ真帝、そして我らが主に勝利を! 偽帝に虐げられし民に平穏を!」
 
 力の差を見せ付ける、示威。
 
「皆の命、私が預かる。北郷十文字軍、突撃ぃぃーー!!」
 
 
 
 
「やはり、雪蓮様や冥琳様の仰っていた通りになりましたね」
 
「わっかりやすい連中~、これって、シャオ達相当舐められてるって事だよねぇ?」
 
 亞莎や小蓮の言う通り、淮南に兵を集中し、姉さまが豫州に向けて出兵したと同時に、揚州各地で有力豪族が叛旗を翻した。
 
 姉さまが制圧する前は、庶人が飢え、一部の豪族や役人が私腹を肥やすという不条理な統治が為されていたのだから、我欲のみを考える一部の人間が姉さまに不満を抱いていても不思議ではない。
 
「半分以上の兵がまだしっかり残っちゃってるんですけどねぇ~♪」
 
 相変わらず能天気に見える穏だけど、今はとても頼もしく見える。まともに軍を任されるのが初めてな私の弱気が、そう見せているのだろうか。
 
「徐州の劉備が下丕の兵を他に移動させたようです。我々が内乱の鎮圧に備えていたのを、見抜いていたのでしょうか?」
 
 亞莎の報告は、私たちには好都合な、しかし不信な劉備の動き。私たちが淮南に兵を集めていた事に気付いてないはずはないと思うのだけれど……。
 
「さすがにそこまでお見通しって言うのは、ちょっと考えにくいですねぇ~。それに、私たちが淮南の兵を内に向けたからって警戒を解く理由にはなりませんから。劉備さんの方でも、のっぴきならない事が起こったって事じゃないですかねぇ~」
 
 悪戯っぽく笑いながら、まるで問題でも出しているように穏は亞莎に言った。
 
「劉備が危険を承知で動かなければならない事態……曹操、ですか?」
 
「は~い、正解~♪ 今はまだ直接関係ないですけど、曹操さんの方にも小まめに密偵を出しておいた方がいいかもですねぇ~」
 
 ……覇王、曹操。確かに穏の言う通り、姉さまが豫州を治める事になれば、直接対峙する可能性も高い相手。……姉さまは、そこまで考えて北郷との同盟を思い立ったのだろうか。
 
「もー、穏も亞莎も余裕見せすぎ! 今シャオ達がやるべき事はそれじゃないでしょ? 目の前の事に集中しようよ!」
 
「……小蓮の言う通りね」
 
 情けないが、先の先を見据えて手を回すのは頼もしい軍師たちに任せる事にしよう。
 
 今は………
 
「我らの孫呉を守る。欲に駆られた反逆者たちを、姉さまより預かりしこの『南海覇王』で斬って捨てる!」
 
 姉さまがこの剣を、一番重要な役割を私に託した意味を、私はわからねばならない。必ずその思いには応えてみせる。
 
 でも………
 
「呉に真の平和をもたらすため、皆、私に力を貸してくれ」
 
 この剣のように、後の者に全てを託して、自身は笑いながら死地へと飛び込む。姉さまのそういう所が、少しだけ嫌いだった。
 
 
 
 
 北郷軍が、孫策軍が、偽帝として悪名を広める袁術に向けて兵を挙げている頃、それぞれの道を前に足を踏み出そうとしている二人の王が、在る。
 
「官は廃れ、黄巾の乱などという愚行が起こり、そして今、権力闘争を具現化したような群雄割拠の時代が来た」
 
 一人は、我欲と保身に満ちた官宦の世界で育ち、それに対する怒りを誇りへと変えて立ち上がった少女。
 
「わたしにこの剣を握る資格があるかなんて判らない。……でも、わたしの周りだけが笑顔で居られても意味が無いって、気付いたから」
 
 一人は、王者の血を引きながら庶人の中で生き、一握りの幸福を大陸に広げんと立ち上がった少女。
 
「大陸を再び一つに束ね、脆弱な漢王朝に代わり、王たるに相応しい者がその上に立つ。……その為には、理想を貫く力が要る。そんな事は解っている。……でも」
 
「世の中には、わたしなんかよりずっと凄くて優しい人たちがいっぱい居るってわかった。だから、皆で力を合わせれば戦いなんてすぐに終わる。……そう思ってた」
 
 どちらも、強い想いと信念を自分自身として掲げ、この乱世に飛び出した。
 
「……劉備と公孫賛を餌に、麗羽の背中を突き崩した。そして、偽帝の暴挙に目を背けて公孫賛に牙を剥いている。……今の私は、あの頃思い描いていた誇り高い覇王足り得ているの?」
 
「そんなに簡単な事じゃなかった。あんなに強くて立派な曹操さんでさえ、戦いを止めてくれない。わたしの理想は、夢物語みたいに難しいものなのかも知れない」
 
 岩より硬い自身の決意と、人の意思など路傍の石にも介さない現実が、二人の純粋な心を軋ませる。
 
 大志を持って立ち上がった二人は迷い、足掻いて、乱世に踊る。
 
「「それでも私は、理想を捨てない」」
 
 それぞれの想いは噛み合う事なく、互いの心に爪を立てる。
 
 
 
 
 袁術が皇帝を名乗って好き放題やってるって噂が私の耳に届いてすぐに、曹操のやつが、私の治める幽州に侵攻してきた。
 
 前までの私なら、そんな事を考えもしないであっという間に国を落とされていただろう。……だけど、今の私は麗羽の事もあって、ある程度の心の準備が出来ていた。
 
「ふぅ………」
 
 兵力では明らかに下回ってるけど、騎馬隊の攻撃はちゃんと戦果を上げてる。でも、それも気休めなんじゃないか? そんな不安がまとわりついて離れない。
 
「(大丈夫、私にだって……勝ち目はあるはず)」
 
 私も、曹操も、麗羽との戦いからほとんど時間が経ってない。こっちも国力が回復したとは言えないけど、曹操は冀州に入城したばかり。信頼や連携どころか、指揮系統すら満足に確立していないはず。
 
「(確かに曹操は英雄の器かも知れない、数も質も劣っているかも知れないけど、敗けるわけにはいかないんだ)」
 
 自陣の天幕で、景気づけに酒を一杯飲み干す。……どうも、調子が悪い。
 
 これが、救国の英雄じゃなくて一角の太守だって趙雲に言われた私の器だって事か。
 
 自分の領地内の問題解決や発展を切り盛りしてるいつもの私と、今、曹操と勢力同士の戦いをしている私、その温度差が、ひどく肌に合わない。
 
 いや、一角の太守にさえ事さえなれてるのかどうか……。曹操がこんなに早く攻めて来なかったとして、それが出来ていたかも怪しいもんだ。
 
「麗羽よりマシかも知んないけどさぁ~……、私も十分無能だよなぁ……」
 
 どうせ私なんか、私なんか………。
 
 何故か無性にうじうじしたくなった私は、机に突っ伏してぐりぐりと人差し指を机に押し付けながら回した。
 
 別に酔ってるわけじゃないけど、愚痴を零したくなる時だってある。
 
「公孫賛さま! 緊急の伝達が!」
 
「ッ……入れ! どうした、曹操軍が動いたか!?」
 
 こんな風に、慌ただしく天幕の外から呼び掛けられるのにも慣れた。しかも、そのほとんどの伝達が、終わってみれば既に手遅れだった、という類のものが多いから始末が悪い。
 
「それが、国境に平原の劉備軍が現れまして……援軍に来たから通して欲しいと」
 
「(桃香が………?)」
 
 私は、その報告のおかしな点を訝しんだが、ひとまず頷きで返す。
 
「わかった、すぐに通せ」
 
 偽帝を名乗って圧政を強いる袁術をどうしたのか。何故わざわざ平原を経由してここに姿を現したのか……。
 
 
 
 



[14898] 十章・『矛と盾』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/10/25 15:22
 
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
 
 肌寒い回廊を走って、私は美羽さまの部屋に向かう。
 
 初戦で、やっぱりって言うか惨敗した私たちは、城に逃げ帰った後、寒い季節なのを良い事にずっと籠城を決め込んでいた。
 
 援軍が来るまでの辛抱だし、うまくすれば諦めて帰ってくれるかなー、とか思ってたのがついさっきの事。
 
 締め切ってたはずの城門が開いて、北郷軍が雪崩れ込んで来たらしい騒ぎで、私は目を覚ました。
 
 いつの間にか工作兵が入り込んでたのか、むしろ内側からうちの兵や民が扉を開けたのか……。
 
「(お嬢様、人気ないからなぁ~………)」
 
 まあ、この際原因はどうでもいいや。今重要なのは、このままだと私もお嬢様もおしまいって事。
 
「美羽さまー!」
 
 私室の扉を蹴り開けて、布団にくるまってるお嬢様を発見。片手で布団をひっぺがして………
 
「おはようございまーす♪」
 
「むぎゃっ!?」
 
 もう片方の手に持っていた、壷に入れていた炭や灰を盛大にひっかけた。
 
 奇声を上げてるお嬢様も可愛いけど、今ばっかりはあんまり遊んでもいられない。
 
 痛そうに目を擦ってるお嬢様は無視して、私はその無駄に派手な金色の髪をクシャクシャと混ぜて灰を練り込む。
 
 可愛いぞ、この灰かぶり姫♪
 
「七乃! いきなり何をするのじゃ!?」
 
 怒声を右から左に聞き流して、私は美羽さまの部屋を漁る。え~と、玉璽と~、後は路銀が心配だから、嵩張らなくて高値で売れそうな装飾品を、っと。
 
「聞いておるのか七乃! 目が痛い、汚れがベタベタで気持ち悪いぞ! 風呂に入れてたも!」
 
「お嬢様」
 
 多分、本当にお嬢様の味方なのは私一人。もう一刻の猶予もない。私は膝を落としてお嬢様に目線を合わせつつ、薄汚い外套をかぶせて………
 
「南の楽園に興味、ありません?」
 
 口から出任せを囀った。
 
 
 
 
「………どういう事だと思う?」
 
「援軍、と呼ぶには些か以上にお粗末ですね。……まあ、我らにとっては好都合ですが」
 
 傍らの秋蘭に問い掛けると、概ね私と同様の感想が返ってきた。
 
 眼前に居並ぶ深緑の軍勢、風に棚引く『劉』の牙門旗。
 
 日の出と共に、目障りな騎馬隊でこちらを撹乱してくれた公孫賛軍に攻め入ろうとしていた私たちの陣の前に、それは隠す気もなく敷かれていた。
 
 軍勢の規模や統率が粗末だと言っているわけではない。公孫賛軍と私の魏軍の間に横に伸ばしたその陣形がはっきりとお粗末。
 
 あれでは、劉備軍が壁になって公孫賛軍は戦えない。劉備軍も二軍に挟まれ、互いに友軍の動きを殺すだけの布陣。
 
 とても公孫賛との連携を考えての事とは思えない。……だから、おそらくあれは“援軍ではない”。
 
「あまり……佳い予感はしないわね」
 
 ふと、反北郷連合の時の事を思い出す。あの子はあの時も、無茶苦茶なやり方で戦いを止めようとしてきた。
 
 限度を知らない、私とはまるで種類の違う英雄。
 
「………………」
 
 別に、恐れているわけではない。この布陣が何らかの罠だとして、それによる打撃を警戒しているわけでもない。
 
 良い予感ではなく、佳い予感がしない。……何か、不愉快な確信があった。
 
「っ……出て来ました」
 
 凪に言われて見てみれば、敵軍の中心から一人進み出てくる女。
 
 海のように澄んだ青い瞳と、長く柔らかい桃色の髪。見間違えるはずもない、劉玄徳。
 
「……まだ銅鑼こそ鳴らしていないとはいえ、敵軍の前に君主がノコノコと……馬鹿なのでしょうか」
 
「……さあね。それを今から確かめに行こうかしら」
 
 桂花の実に常識的な感想に軽く応えて、私は劉備に倣って進み出る。
 
 後ろで春蘭や桂花が騒いでいる声がするけど、私が最前列を越えるとその声も遠退いていった。きっと秋蘭や季衣たちが止めてくれているのだろう。
 
「(そう………)」
 
 劉備が臆する事なく姿を見せているのに、私が隠れているつもりはない。たとえ何かを企んでいようと、同じ条件ならば生きるのは私だ。
 
「……お久しぶりです、曹操さん」
 
「そうね、反北郷連合の時以来かしら」
 
 互いの声が届く距離、人の命など容易く呑み込む軍勢を背にして、私たちは対峙する。
 
 気負いと緊張に満ちた、けれど敵意の無い劉備の瞳が、言葉よりよほど雄弁に彼女の意志を私に伝える。そして案の定―――
 
「曹操さん、わたしはここに……戦いに来たわけじゃありません」
 
 劉備はそう言う。麗羽が兵を挙げた時には公孫賛と共に戦ったと聞いていたから、少しは成長したのかと思えば。
 
「曹操さんは、袁紹さんとは違います。自分の名誉や欲望のためじゃなくて、弱い民たちを守るために戦ってる!」
 
 劉備の言葉を、私は肯定も否定もしない。胸の前で拳を作る少女は、構わず続ける。
 
「わたしも、白蓮ちゃんも、孫策さんも、一刀さんも同じです。……だから、もう戦う理由なんて無いんです」
 
 確かに、この子にとってはその通りなのだろう。だけど、それが全ての人間に当て嵌まると本気で考えているのかしら。
 
「同じ願いを持ってる、強くて、凄くて、優しい人たちが、こんなにたくさん居るんです。手を取り合えば、乱世なんてすぐに……」
「同じじゃないわよ」
 
 不愉快、という以上に形容し難い痛みを胸に感じて、私は劉備の言葉を遮った。
 
 まるで無垢な子供に現実を突き付けるような罪悪感。まったく馬鹿な感傷を振り払って、私は劉備を睨みつける。
 
「手を取り合えば、か………。詭弁はそれで終わり?」
 
 その一言だけで、私の意志は伝わった。劉備は悲しそうな眼で私に食ってかかる。
 
「どうして……! 曹操さんだって罪もない人たちが虐げられてる世の中を変えたいから、立ち上がったはずなのに……どうして無意味な戦いを選ぶんですか……!?」
 
 優しい子。純粋で、優し過ぎる子。……だけど、それは許されない。純粋なままで、王を名乗るなど許されない。
 
「なら訊くけれど、今、皇帝の御旗の許で束ねられているはずのこの大陸は、平和と呼べるかしら? 黄巾の乱が起こったのは、何故?」
 
「ッ……それは……」
 
 劉備とて、脆弱な官に任せてはおけずに立ち上がった英雄の一人。私の気持ちが全くわからないはずがない。だからこそ、その甘い考えが許せない。
 
「皇帝の名の許、一つに束ねられていた漢王朝ですら、ここまでバラバラに崩壊した。それを、あなたはバラバラなままで真の平和を得られるなどと言っている。そんな仮初めの平和など、私は求めてはいないのよ」
 
 劉備とて愚かではない、それが解っていないはずがない。何より腹立たしいのがそこだった。
 
 この子は、自分の理想の困難を……いや、不可能を知りながら、それを目指して邁進している。
 
「…………どうしても、信じる事は出来ませんか」
 
「詢いわよ。私は、あなたの絵空事の理想には付き合えない」
 
 私の憶測を、一変して静かになった劉備の態度が肯定した。劉備の言葉が指しているものを理解した私は、間髪入れずに突き放す。
 
「………………」
 
「………………」
 
 長い沈黙が続く。俯いた劉備の表情は、前髪に隠されて見えない。私は何も言わない。私から伝えるべき事は全て伝えたから。
 
「……悲しいです、曹操さん」
 
 それだけ言って、劉備は顔を上げる。目尻に涙まで溜めているくせに、眼だけは死んでいない。
 
「解り合えるって思ってた。一緒に未来を目指して、皆で笑い合って……曹操さんなら、解ってくれるって思ってた……」
 
 ……何年ぶりかしら、他人から失望を向けられたのは。
 
「それは残念だったわね。……で、遠路遥々“駄々を捏ねに来た”あなたは、これからどうするのかしら」
 
 私の皮肉には何の反応も示さずに、劉備は緩やかな動きで……剣を抜いた。
 
「戦います」
 
 さっきまで喚いたとは思えない、淀みも揺らぎもない決意表明。私はそれを鼻で笑う。
 
「お笑い草ね。あれだけ理想を並べて戦いを否定していたくせに、自分に迎合しなかった者は迷わず斬り捨てるか」
 
「ホントは、戦いたくなんてなかった。……でも、何がなんでも戦いによる征服を選ぶのなら……わたしはあなたを放っておけない」
 
 矛盾している。彼女も、そして私も。
 
「本当に大切なものを、見失うわけにはいかないんです。曹操さんの誇りが、戦いを求め続けるなら……」
 
 一瞬その瞳が、私ではない誰かを映したような気がした。
 
 とにかく、劉備にとっての私は……黄巾党や袁紹らと同じ、平和に害なす悪党になったのだろう。
 
「(それでいい)」
 
 我は乱世の奸雄なり。目指す頂は覇王、進む道は覇道。ただ……その先に永い安寧と笑顔が在ればいい。
 
「わたしは戦う、大切なものを守るために……!」
 
「来なさい。我が道を阻むもの全て、薙ぎ払ってあげる」
 
 刃と刃が交叉する。それは戦いと決別を顕す儀式のように、高く、遠い音を奏でた。
 
 
 
 



[14898] 十一章・『後宮の少女たち』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/11/02 20:46
 
「楽勝でしたねー」
 
「ちょっとばかし不完全燃焼です」
 
 衝突らしい衝突も見せずに武器を捨てて投降する袁術軍を見て、風さんが目を細め、散さんが(多分)つまらなそうにぼやく。
 
「ふっ、安心しろ。退屈そうなお前たちには、これから私と共に豫州まで行ってもらう」
 
「む……藪蛇だったかな、と」
 
「星ちゃんも元気ですねー」
 
 そう言って風さん達に笑い掛ける星さんも、何だか槍の穂先が落ち着かない。
 
 王都から宛に攻め込んだわたし達は、袁術軍の統率力と求心力の無さに目をつけて工作兵を忍び込ませ、暴政に苦しんでいた民たちを扇動して固く閉ざされていた城門を内側から開いた。
 
 その直後にわたし達の兵が流れ込んだ時点で、袁術さんに不満を持っていた兵を始めとしたほぼ全ての袁術軍が降伏して、わたし達は簡単に勝利出来た。
 
 わたしは被害が少なく済んで良かったと思うけど、星さんや散さんは不満みたい。
 
 不謹慎だとも思うけど……解っていても抑えられない武人の血、というものなのかも知れない。
 
 ………理解は出来ないけど。
 
「ところで、舞无と恋の姿が見えんが」
 
「舞无娘なら、『私が袁術を倒して戦功第一だー!』とか言いながら爆走してましたけど」
 
「……舞无さんに、顔の知らない相手を見つけられるんでしょうか?」
 
 続く星さん達の話に、わたしが控え目に割って入る。失礼にならないように疑問の形にしたけど……皆も同じ気持ちだったみたいで、綺麗に揃えて首を振った。
 
 溜め息混じりに部下に舞无さんの応援を命じた星さんが次に目を向けたのは……わたし。
 
「雛里、恋はどうした?」
 
「え、えっと……」
 
 それはわたしが今回の行軍で恋さんと一緒だったから当然だけど……わたしもついさっき恋さんを見失ってしまったから。
 
「…………(じゅるり)」
 
 遠く、炊き出しの行われているその場所で、恋さんが涎を垂らしている事なんて、わたし達には知る由もなかった。
 
 わたしと恋さんと舞无さんに戦後の宛を任せ、星さん達は豫州へと再度の進軍を始める。
 
 約束通りに兵を起こした孫策さんと一緒に袁術軍の残党を掃討したとわたしが知るのは、それから五日後の事だった。
 
 
 
 
「………よく考えたら、袁術とやらの顔がわからん」
 
 一足先に袁術を討ち取ってやろうとここまで一直線に走って来たが……どうしよう。
 
「えぇい! 自ら皇帝など名乗る不届き者だ、どうせ、えっと、それっぽい派手な椅子とかに座ってるに違いない」
 
 とりあえず城まで行けば何とかなる! そう思い直して、私は再び颯爽と走りだす。
 
「うわっ、女!?」
 
「待ってくれ! 命だけは………」
 
「邪魔だあぁ!!」
 
 ごろごろと邪魔臭くうろついている金鎧共を問答無用に蹴散らして進む。………そういえば私の部下達がついて来てない。あいつら、この程度の速度にもついて来れんのか。今度鍛え直してやる必要がある。
 
 袁術軍も何と手応えの無い。まるで逃げ散る蜘蛛の子ではないか。男のくせに。
 
「(男、か……)」
 
 何気なく思い浮かべた言葉から、不意に連想してしまう。……私が池に落としたせいで風邪を引いたのに、私はほったらかしでこんな所にいる。
 
 何故、霞が留守番で私が出陣なのだ。……私のせいなのに。
 
「(っ……ダメダメ!)」
 
 戦場で他の事に気を取られるなど、以前の私なら考えられなかった。……でも、悪い気はしない。
 
「さっさと終わらせて…………」
 
 目の前に群がる、中隊程度の雑兵。私は加速する。『金剛爆斧』が唸りを上げて風を裂く。
 
「一刀の所に帰るんだあぁぁーー!!」
 
 私自身惚れ惚れする連撃を受けて、金ピカ共が面白いように吹っ飛ぶ。無駄に派手な鎧のおかげで死んではないようだが、まあもう逆らう気も起きまい。
 
 ………あれ? 最初から戦意喪失してたような気も…………気のせいか。
 
「ふっ」
 
 何にせよ、絶好調だ。今なら恋にも勝てる気がする(勝った事ないけど)。ちょっと得意になって、前髪を払ってキメてみる。鏡が欲しい。
 
「のわぁああぁあ!?」
 
「たたたた助けてーー!!」
 
 …………人が悦に入ってる時に無粋な。
 
 叫び声の方に目を向ければ、土煙を上げて走って来る暴れ馬。……乗ってるのは、女と子供?
 
「ここらには民家もあるのだぞ、人騒がせな」
 
 本当なら無視して袁術を探したい所だが、放っておくわけにもいかん。私は突進してくる馬にも逃げず、戦斧を高々と振り上げて………
 
「どりゃあああっ!!」
 
「ふぎゃあっ!?」
 
「あーれー!」
 
 馬の足下近くの地面に、盛大に打ち下ろした。驚いた馬が前足を振り上げて啼く。すかさず私はその手綱を握り、黙らせた。
 
 ついでに女子供が馬の背中から投げ出されたが、まあ良し!
 
「ふっ、ふえっ、七乃ぉ、膝を擦り剥いたのじゃあぁー!」
 
「あらあらお嬢様ったら、ほーら、痛いの痛いの飛んでけー! ほら痛くなくなった♪」
 
「痛いのじゃー!」
 
 まあ良………………私が泣かせた、のか? い、いや! 私は間違ってない……はず、だ。
 
 気を取り直して……
 
「お前たち、何をやってる。兵以外は家に隠れていろと通達があったはずだぞ」
 
 あの羊人形がそう言っていた。
 
「あー、そ、そう何ですかぁ? あはは♪ 私たちの所にはそんな話届いてなくって……」
 
 青い髪の女の方が、何故かへらへらと妙に引きつった笑顔で応えた。……それにしても汚い身なりだ。袁術とやらは本当に民に辛い生活をさせてきたらしい。
 
「この先には私たちの兵たちもいる。暴れ馬で突っ込んだりしたら、刺し殺されても文句は言えんぞ?」
 
「げっ、この先もダメなん……じゃなくて、馬とかあまり乗りなれてなくて、すいません(いつも命令してるだけだし)!」
 
 なら乗るな。まったく、この忙しい時に………ん?
 
「………おい、この馬、かなり上等なもののようだが……貴様らのか?」
 
 毛並みも体躯も、貧しい一市井が飼える馬には見えん。
 
「当たり前じゃ。この国にあるものはすべっ!? むぐぅうー!」
 
「ウフフフ、まあお嬢様ったら、口の周りが汚れてますよ? 私が拭いてあげますねー♪」
 
 いつの間にか泣き止んでいた子供が何か言おうとした矢先に、女がその口を拭う。塞いでるようにも見えるが、まあ気のせいだろう。
 
 しかし、何故こいつらがこんな馬を………
 
「(は……!)」
 
 突然、うちの眼鏡(最近掛けてないが)の言葉が蘇る。
 
『少しは空気を読んでください』
 
 言いづらそうにしている女。避難勧告が届いていなかった事実。薄汚れた身なり。そして城の方から慣れない馬で走って来た二人。
 
 ………なるほど、空気を読む。つまり“察しろ”という事だな?
 
 ……………………
 
『うへへ、この国の女はみーんな俺の物だぜ!』
 
『そんなっ、嫌! こんな小さな妹まで!』
 
『この皇帝袁術さまの後宮にしてやるって言ってんだよ、嬉しいだろうが』
 
『『嫌ぁあああぁあぁ!!』』
 
『お姉ちゃん、私たちいつになったら自由になれるの? もう何年もお外に出てないわ』
 
『………大丈夫よ。いつか必ず、私があなたを救ってみせるわ。だから……いくら身体を奪われても、心だけは手放さないで』
 
『何、この騒ぎは? 銅鑼の音……戦争が始まるの?』
 
『……好機だわ。この騒乱に乗じて逃げましょう』
 
『危ないよお姉ちゃん! 戦いが終わるのを待とう? 逃げた事がバレたら殺されちゃう!』
 
『ダメよ。どっちが戦いに勝っても、私たちに自由は来ないわ。為政者なんて、皆私たちを弄ぶ悪魔だもの』
 
『お姉ちゃん……』
 
『大丈夫、あなただけは、絶対に守りきるわ』
 
『ううん……死ぬ時は、一緒だよ』
 
 ……………………
 
「……………ぐすっ」
 
「……七乃、何故こやつはいきなり涙ぐんでおるのじゃ?」
 
「何か勝手な事想像されてる気がしますけど、丁度いいからやらせときましょ」
 
 …………そうか、袁術に囚われて慰みものに。だから何も信用出来なくなって、混乱に乗じて……
 
「七乃ぉ、寒いし眠いしもう嫌なのじゃ。城に連れ帰ってたも」
 
「ダメですよぅ、そんな事したら、蜂蜜だらけの南の楽園に行けなくなっちゃうじゃないですか♪」
 
「むぅぅ~~………」
 
 あの眼鏡に感謝しなくてはならんな。危うく私は、無神経に繊細な心の傷を抉るところだった。
 
「わかった! お前たちの無念と雪辱、この華雄が受け継いだ! 犬畜生にも劣る下種な偽帝、袁術を八つ裂きにしてやる!」
 
「何じゃむっっ、うぅ~~!」
 
「頼もしいです♪ 是非ぐちゃぐちゃのドロドロのさらさらにしてやっちゃってくださいね♪」
 
 がぜん燃えてきた。………ところで、口を拭う時はもっと上手くやってやれ、それでは息が出来んだろうに。
 
「えっと、ちなみに袁術は民から巻き上げたお金で食っちゃ寝食っちゃ寝してる脂ぎったぶよぶよの中年ですから♪」
 
「むー! むー! むー!」
 
 思わぬところで袁術の容姿がわかった。子供が何故か暴れているが、まあいい。
 
「さあ見ていろ! 私が悪逆非道の偽皇帝を倒す雄姿を!」
 
 挑むように、私は戦斧を悪趣味なほど派手な城へと差し向ける。外見がわかればこっちのもの。刻んで潰して獣の餌にしてやる。
 
「そうだ。お前たち、良かったら………」
 
 一刀なら(私に首ったけだし)、袁術のような真似はしない、身の上を聞けば侍女くらいにはしてくれる。
 
 そう言おうとした私の口は、止まる。振り返った時、二人の姿はすでに無かった。
 
「…………………」
 
 あの二人も、いつか人を信じられるようになれるのか? そんな事を考えながら、私はそれ以降振り返らずに城を目指す。
 
 そして袁術は見つからず、その夜……………私は無念と申し訳なさに泣いた。
 
 
 
 
(あとがき)
 忘れられてそうで不安な作者・水虫です。私生活がガラリと変わってまだ慣れませんが、再び執筆を再開しようと思います。おいそれとパソコン使えなくなったので、今までほどの更新速度は望めませんが、頑張ってきます。
 
 



[14898] 七幕終章・『覇王の御座』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/11/08 17:32
 
『白蓮ちゃん……この戦い、わたしに預けて欲しいの』
 
 これほどの大軍勢が荒野を埋めてるって言うのに、刃がぶつかる硬い音が滑稽なくらいに良く響く。
 
『突然やってきて無茶な事言ってるのも、白蓮ちゃんが曹操さんと正面から戦いたくないのも……解ってる』
 
 私は手にした剣を高々と差し上げて、大声で号令を掛ける。
 
『でも……信じたいの。戦いなんてしなくても、皆が力を合わせれば、平和な世界が創れるって』
 
 私は……こうなる事を覚悟してた。曹操のやつが、人に言われてあっさり兵を退く姿が想像出来なかった。
 
『責任は、取るよ。もし………曹操さんが……剣を納めてくれなかったら……』
 
 見てるこっちが苦しくなるような顔でその言葉を絞りだした桃香に………
 
『白蓮ちゃんの代わりに、わたし達が戦う』
 
 頷いて返したのも私だ。
 
「(馬鹿だよなぁ……お前は………)」
 
 桃香たちがやられれば、次は私たちの番なんだ。……いや、そうじゃなくても……
 
「(見殺しに出来るわけないだろ……!)」
 
 私を筆頭に、白馬の群れが突き進む。前方に広がる深緑の軍勢が、水面を切るように道を開く。
 
 ……流石、桃香は頼もしい仲間を連れてる。
 
「(無謀だと思う。綺麗過ぎるとも思う。無茶苦茶だとも思う。……それでも、馬鹿に出来ない)」
 
 放っておけないって、力になってやりたい。そう思わせる優しさ、ひた向きさ。それが……桃香の力。
 
「こうなったら、とことん付き合ってやるよ」
 
 はっきりとした言葉でも、絶望的な実感でもない。あまりにも呆気なく、そして自然に………
 
 私は、私が王じゃない事を理解した。
 
 
 
 
「七乃ー、朕は蜂蜜水が飲みたいのじゃ」
 
「またそんな事言ってー、蜂蜜なんてそんなほいほい買ってたらあっという間に路銀使い果たしちゃいますってば。というわけで、普通のお水で我慢してくださいね♪」
 
 行商の樽に身を隠して宛から逃げ出した私とお嬢様は、とりあえず揚州とは正反対の西へ向かう。まだ全然行き先とか決まってないけど、とりあえずこのまま旧都・長安あたりに向かってみるつもり。
 
「ぐむぅ……何故帝たる朕がこのような思いをせねばならんのじゃ、大体この水、そこの川で取ってきた物であろう。こんなの嫌じゃ」
 
 城から持ち出した高価な装飾品とかを、偶然出会った結構な美形さんにぜ~んぶまとめて売っちゃったから、実はそれなりに懐豊かなんだけど……蜂蜜よりも宿代とかに回した方が建設的だし。美羽さまを守るのってもう、ホントのホントに私一人になっちゃったから、悪ノリもほどほどにしないと。
 
「……美羽さまぁ、前から思ってたんですけど……」
 
「何じゃ?」
 
「その『朕』って、全然似合ってません♪ 何か響きも卑猥ですし」
 
「ッッッッ!!?」
 
 私の暴露に、美羽さまは石みたいに固まった。確かに美羽さまが増長に増長を重ねるのは見てて楽しかったけど、この先、人前で自分の事『朕』なんて言ってたら命がいくつあっても足りない。我慢我慢。
 
「もう私たちはぜ~んぶ放り出して南の楽園目指してるんですし、美羽さまは前みたいに『妾』しかないですって。間違いなく」
 
「そ……そうか?」
 
 増長もいいけど、こうやって上目遣いに私を見る美羽さまもアリ。妾、も不味いような気がしなくもないけど、そこまで直して良い子ちゃんになられても困る。
 
「と、いうわけで♪ 張り切って長あ……」
「あ~~ら、そこにいるのは、美羽さんに張勲さんではありませんの?」
 
 私の意気込みを遮るように、どこかで聞いたような声が背中から掛けられた。ふと意識を前に向けてみると、ガタガタブルブルと震えて固まってるお嬢様。
 
「ど……どちらさまでしょぉ~~?」
 
 嫌な予感を半分くらい確信しながら、私は恐る恐る振り返る。そこに……
 
「……袁紹さん、ですよね? 痩せました……?」
 
 予想通りの人が、予想に反した格好でそこに立っていた。自慢の金髪のクルクルは瑞々しさを失って萎み、あの無駄に高価な金ぴか鎧もどこへやら。
 
「………色々ありましたの、色々……」
 
 私の問いに、袁紹さんは応えになってるのかなってないのかわからない返し方。何か悟ったような遠い目で、虚空を見る。
 
 え~、と……。冀州って曹操さんあたりに攻め落とされたのかな? 取り巻き二人もいないし。
 
「………………」
 
 とりあえず、触れないでおいてあげましょうか。……と思ったのも束の間、袁紹さんはこんな時でも相変わらずな、口元に手を添える高飛車な仕草で偉そうに切り出した。
 
「わたくし、南方にあると言われる伝説の楽園を目指して旅をしている最中ですの。ここでお会いしたのも何かの縁。お二人も、旅の供に加えて差し上げてもよろしくてよ?」
 
 その言葉に、今まで震えて固まってたお嬢様が弾けるように覚醒する。
 
「なっ!? 何故妾らが麗羽について行かねばならぬのじゃ!? 大体、南の楽園にたどり着くのは妾らじゃ!」
 
 と、至極もっともな反論。……っていうか、あれ? 南の楽園って、ホントにあるの? 私が適当にでっち上げた話だったはずだけど、袁紹さんも知ってたって事は………。
 
「あら、元々目的地は同じでしたのね? だったら話は早いですわ。とりあえずは長安に向かって路銀と物資を確保して……」
「な~にが路銀の確保じゃ。そんなもの、妾の名声を以てすれば……」
「甘ったれるんじゃありませんことよっ!!」
 
 私そっちのけの従姉妹の言い争いが、袁紹さんの大喝で一度止まる。
 
「世の中、そんなに思い通りになるもんじゃありません! 自分ばかりではなく、周りにも目をお向けなさい? 生きる事、それ自体が戦いなんですからねっ!」
 
「は……はい………」
 
 袁紹さんの言葉に度肝を抜かれたのは、美羽さまだけじゃなく私も同じ。袁紹さん……世間の荒波を乗り越えてきた?
 
「さあっ! この辛く苦しい乱世を、共に力を合わせて乗り越えましょう!」
 
 ……まあ、それはそれとして、心細いのもあるんでしょうけど……。
 
 あ~あ、私とお嬢様の二人旅が~……。
 
 
 
 
「空が綺麗だなぁ」
 
 火照った体を大の字に開いて寝転がると、朝の冷えた空気が肌に気持ちいい。……まあ、代わりにあちこち痛むけど。
 
「だらしないな~、一刀は♪ ま、病み上がりな事やし、今日はこの辺でやめとこか」
 
 俺を見下ろしてけたけた笑う霞が、脇に掻い込んでいた偃月刀(模擬刀)をくるんと肩に担ぐ。
 
 しばらく寝込んでたし、久しぶりに体動かそうと思って霞に付き合ってもらったんだけど、見事にボロボロにされた。……鈍ってなくても勝てやしないんだけど。
 
「まったく、こんな朝早くからよくやりますね。手が痛くて政務に障った、なんて言い訳は聞きませんよ?」
 
 回廊の石段に腰掛けたまま、呆れたような、でもどこか楽しそうな声で稟が釘を差す。
 
 そんな他愛無い仕草もやけに可愛く見えて、少しの間稟に見惚れてたら……
 
「……せや、大変やった」
 
 やたら苦渋に充ちた呟きと共に、霞が大きく息を吐き出した。
 
「ただでさえ星たちが出掛けて忙しい時に、一刀に続いて稟まで寝込んでんからなぁ………」
 
「「っ…………」」
 
 罪悪感という名の刃物が、俺の胸に突き刺さる。見てみれば、稟も動揺してる。……なるほど、今、俺もこんな表情してるのか。
 
「ウチが化けモンと協力して忙しく警戒しとった時に、一体何をしとったら風邪が移るんやろなぁ~、ナニをしとったら」
 
「「すいませんでした」」
 
 チクチクと痛い視線を飛ばす霞に、俺と稟は揃って頭を下げた。
 
 普通なら、あの状況で風邪移るなんてそこまで珍しくないんだけど……訊かれた稟が鼻血出すんだもの、そりゃバレるわ。
 
「ま、それはもうええねんけどな。元気になったみたいやし」
 
 謝られて、霞はあっさりいつもの人懐っこい笑顔を見せる。霞が粘着質じゃなくて良かった。ホント。
 
「よっしゃ、気張んで~。星たちが戻って来た時、仕事大量に残しとったら悪いもんな!」
 
「おう」
 
「はい」
 
 星たちが袁術軍を破り、伯符と挟撃して豫州の残党を平らげたって報告があったのが、つい昨晩の事。
 
 伯符との交渉も星や風が巧くやってくれたみたいで、何もかも良い方向に進んでる気がする。
 
 ―――その時の俺は、そんな風に思っていた。
 
 
 
 
 北方に於ける曹操軍と劉備・公孫賛連合軍の戦いは苛烈を極めた。
 
 兵力で勝る曹操軍を、諸葛亮の用いる神算鬼謀の戦術と公孫賛率いる白馬騎兵の機動力が翻弄し、しかし統率された魏の精兵は混乱の中でも将の、そして王の言葉を忠実に貫いた。
 
 王と王の信念と未来は懸けた戦いは続き、そして決着を見る。
 
 劉備・公孫賛軍の敗走という結末を以て。
 
 王都にいる、国境に強い警戒を敷いていた北郷一刀の耳にこの報が届いたのは、それから一週間後。
 
 ――覇王・曹操が、実質的な北方の覇者となった後の事だった。
 
 ―――理想はひび割れ、誇りは歪む。二つの心はしかし砕けず、一つの道を突き進む。
 
 叶う日を、或いは安らぐ場所を求めて。
 
 
 
 



[14898] 八幕・『蝶・恋姫無双』・一章
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/11/11 22:15
 
 市井を巻き込む事を避け、城外に敷かれた布陣で敵を待つ、深緑の牙門旗がある。
 
「こいつぁ…負け戦ですな」
 
 もう幾度目かの乱戦を経て、諦観したようにそう呟く大柄の男、周倉。劉備軍に名を連ねる武官の一人だ。
 
「……………………」
 
 独り言とも取れる言葉に、桃香は口をつぐんだ。「まだ戦える」、そう言う事は簡単だが、その行為一つに何千何万の“死なずに済むかも知れない”命が左右されるのだ。
 
 河北に於いて曹操軍と激突した劉備軍は、一進一退の攻防の末に敗れ、勢いに乗った魏の精兵はここ徐州にまで攻め込んで来ている。
 
「将軍や軍師さまも戻って来ませんし、もう勝ち目なんてないですぜ。俺みたいな奴にだってそれくらい判ります」
 
 度重なる連戦と敗走の中で散り散りになってしまった愛紗、鈴々、朱里、猪々子、斗詩、そして白蓮。
 
 今この徐州を守っているのは、君主である桃香と武官の周倉、後は元々淘謙に仕えていた文官と兵たちのみ。
 
 望まぬ剣を抜き、平和な世界のために戦った末の……敗北。それでも決して潰える事なくそこに在る理想を胸に、桃香はしばし眼を瞑る。
 
 “今は勝てない”。決して生半可なものではない苦渋を飲み込んで、桃香はその事実を噛み締める。
 
 周倉の言葉は、戦場で将が使っていい類のものではない。だが、厳然たる事実だった。
 
「じゃあ、逃げちゃおう」
 
 桃香は折れない。華琳が差し伸べた手ならば、彼女は大喜びで取る事だろう。しかし、それが相手を力で従わせるために振りかざされる刃である以上、桃香が屈する事は無い。
 
 だからこその選択を。
 
「お断りさせてもらいます」
 
 周倉は、考える素振りすらなく拒んだ。
 
「玄徳さま、どうやら俺はどこまで行っても卑しい山賊のままらしい」
 
 硬直した桃香の方を見ずに、周倉は空を見上げてクックッと笑いを漏らす。
 
「俺たちは将軍たちの腕っぷしに惚れ込んでついて来ただけでさ。徐州を守りたいなんて大層な事を考えてるわけじゃねぇ、ましてや玄徳さまや“曹操さま”の御心なんて測り知れるはずもねぇ」
 
 幅の広い帽子の鍔を押さえて、目を隠す。
 
「そこまでして戦う理由なんて、俺たちにゃ無いんですよ。これ以上は付き合いきれねぇ、さっさと行っちまって下さいよ。……玄徳さまがいたんじゃ、俺たちは曹操さまに尻尾振る事も出来やしねぇんですから」
 
 そんな仕草の一つ一つに、言葉以上に伝わる何かに、桃香は身を震わせ、歯を食い縛る。
 
 そして――――
 
「いってきます!」
 
 溢れる気持ちの全てを込めて、或いは隠して、眩しい笑顔でそれだけを口にして、桃香は背を向け走りだす。
 
 
 
 
「行っちまったな」
 
 もはや見えない主君の背中を見つめて、周倉はどこか楽しそうな溜め息を吐く。次いで、思い切り空気を吸い込み、大喝として吐き出す。
 
「てめぇら!! わかってんな!!?」
 
『応!!』
 
 些か以上に言葉足らずな“頭領”の言葉に疑問の欠片すら持たずに、兵たちは揃えて応えた。
 
 それだけで十分だった。予想以上の、今まで気付かなかった頼もしさに、周倉は満足そうに口の端を引き上げる。
 
「俺たちが従うのは関将軍とその主君の玄徳さまだけだ。それは死んでも変わらねぇ!!」
 
『応!!』
 
「曹操の野郎に野蛮な山賊の底力見せてやんぞ!!」
 
『応!!』
 
「一寸でも長く牙門旗を守りぬけ! それが玄徳さまを生かせる一番の方法だ!!」
 
『応!!』
 
 解りきった言葉を一つ一つ投げ掛け、応える。自分たちの生きざまを刻み付けるような行為、そこから生まれる戦意は、遠方に見えてくる土煙へと向けられる。
 
「(貴女の戦いは、こんな所で終わりやしないでしょう?)」
 
 絶対的な死が迫っているというのに、周倉の胸中は自分でも不思議なほどに落ち着いていた。
 
「(関将軍がそう簡単にくたばるわけがねぇ。まだまだ希望は消えちゃいねぇ)」
 
 否、それも正確ではない。死を予感する震えの代わりに、血が沸くような昂揚と武者震いがあった。
 
「(貴女がいれば、希望は消えないんですよ。玄徳さま)」
 
 残せるものがある。それもとびきり大きな、この大陸を照らす太陽。
 
「(後は頼むぜ、色男………!)」
 
 話した事も、見た事すらない憎たらしい少年に吐き捨てて、周倉は軍勢を引き連れて駆け出した。
 
 
 …………………
 
 
 徐州が魏軍の手によって陥落した日から五日。
 
 人目を避けるように森の中を進む一人の少女の姿がある。長く柔らかな桃色の髪と、海のように青い瞳を持つ少女、劉玄徳……桃香だ。
 
 力なく俯いて歩くその顔には、別れる仲間たちに見せた強い笑顔の面影はない。ただただ悲痛と無念だけがその総身に漂っている。
 
「………今日は、ここで休もうか」
 
 手綱を引いて隣で歩いていた馬に話し掛けて、桃香は薪を拾い集める。これ以上暗くなると、薪拾いも難しくなる。
 
 薪を拾いながらも、桃香の頭の中ではあの戦いの事が……否、これまでの戦いの事がぐるぐると回り続けていた。
 
「(わたし……何してるんだろ……)」
 
 ふと、薪に伸びた自分の手を見て、もう何百回と繰り返した問いを自らに投げ掛ける。
 
 黄巾党を倒せば、皆で笑って暮らせると無邪気に思っていた日々。
 
 反北郷連合を経て味わった、この群雄割拠の時代の本質。
 
 人と人が手を取り合って生きていければ、平和な時代を掴み取れる。当たり前のように心に持っていた、優しい夢。
 
「(曹操さんにも、解って欲しかった……)」
 
 無謀なまでの愚直さで華琳の前に立ち、あらん限りの願いを説いた。……だからこそ通じると信じた想いは、届かなかった。
 
『一番大切なものを、見失わないで』
 
 辛くて、悲しくて、切なくて、それでも歯を食い縛って桃香は戦った。
 
 あくまで戦いを求める華琳を許す事は不可能だった。そして何より………
 
「(何も守れなかった………!)」
 
 大切なものを守るため。その願いも虚しく響く。
 
「あ……………」
 
 何度目か、薪を拾い、元の場所に戻って来ると、先ほどまで一緒だった馬が姿を消していた。
 
 桃香は繋ぎ忘れた、と考えるより先に、これで良かったかも知れない、と思う。
 
 馬草を手に入れるアテも無い。あのままでは飢え死にさせてしまっていたかも知れないから、と。
 
 そのまま薪を組んで、手折った綿花と火打ち石を使って火を起こす。
 
 そして、膝を抱いて座り込む。
 
「………はふ」
 
 ゆらゆらと揺れる火を見ていると、色んなものが見えてくる。
 
「…………………大丈夫かな」
 
 死す時は同じと誓い合った二人の義妹。こんな自分を名君だと慕ってくれた天才軍師。敵としてまみえて、しかし楽しく頼もしい仲間になってくれた袁家の二枚看板。
 
「わたしが、余計な事しなかったら……」
 
 戦いを止めて、わがままに付き合わせるどころか命運を共にする結果になってしまった盟友。
 
「ごめんなさい……おばあちゃん……」
 
 実の祖母のように良くしてくれた温厚な太守。そんな彼女に託され、守る事の出来なかった徐州。
 
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 
 そして、桃香を信じて付いてきて、敗北してしまった周倉ら臣下。
 
 あの後、本当に周倉たちが曹操の軍門に降ったのかどうか、桃香に知る術はない。
 
 降っていて欲しいと思う。しかし生存を確信出来る根拠などなかった。
 
「………わたし、ホントに何も出来ない王様なんだ」
 
 絶望を通り越した虚無を感じて、呟く。涙もでない。
 
 何一つ守れなかった。手の中に残っているのは背負える程度の手荷物と、宝剣『靖王伝家』のみ。
 
 何が王者の証かと、いっそ叩き折ってしまいたくなったが、そうするだけの気力すら涌いて来ない。
 
 しかし――――
 
「………………」
 
 そうして目を向けた先に、見つける。正確に言えば思い出す。
 
 手荷物の底に手を入れて、取り出した。開いて、読む。
 
「………ちゃんす、好機、勝機。ねばーぎぶあっぷ、諦めない事。ほーぷ、希望。びりーぶ、信じる」
 
 何も考えずに、並べられた文字列を口に出していく。
 
「ひーろー、英雄。ひろいん、女の子の英雄、もしくは英雄の恋人。どりーむ、夢」
 
 そうしている内に……………
 
「……っ…………」
 
 枯れたとさえ思っていた涙が、ぽろぽろと零れだす。悲しみや寂しさのような明確な形を持たない、ごちゃ混ぜになった感情の発露だった。
 
『皆、そんな桃香が大好きなんだよ』
 
『どんな願いでも、叶えるためには力が要るんだ。“そうなればいい”って思うだけなら子供にだって出来る』
 
『君を信じてついてきた皆を裏切るような事は、しないで欲しい』
 
 隠す事のなかった泣き声は嗚咽に変わり、いつしか深い呼吸となる。
 
 泣き止んだ……とは言い難いが、目尻に涙を溜めて、桃香は懸命に耐えていた。
 
「(……立ち止まってちゃ、ダメだよね)」
 
 孤独と不安に押し潰されそうになっていた心に支えを見つけて、少女は立ち上がる。
 
「会いたいな……」
 
 それでも抑えきれなかった淋しさが、一言口を突いて出た。
 
 
 
 



[14898] 二章・『龍は未だ死なず』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/11/23 08:19
 
「………………」
 
 ……三国志なら、徐州を失った劉備は袁紹の所に身を寄せて、関羽はしばらく曹操の客将になって袁紹軍と戦う。そんな流れだったはず。
 
「………………」
 
 でも、この世界では既に袁紹は華琳に攻め滅ぼされてるし、何の手掛かりにもならない。
 
「………………」
 
 『前の世界』で『劉備』の立場だった俺の経験も、アテにならない。袁紹を滅ぼしたのも、華琳を打ち破ったのも俺たちだ。参考にすらならない。
 
「…………………」
 
 前の世界とこの世界は違う部分もかなりある。だけど、『前の世界で俺が大丈夫だったんだから』って意識が心のどこかにあったのかも知れない。
 
「(愛紗……鈴々……朱里……桃香……それに伯珪……)」
 
 皆の姿を思い浮かべると……月や詠とダブってしまう。
 
 何とかする事が出来たんじゃないか、そんな……今さらどうしようもない事ばかりが何度も何度も頭の中で回り続ける。
 
 そんな思考の海から…………
 
「お兄ちゃん、また暗い顔してるぅ。えいっ!」
 
 やけに可愛らしい、聞き覚えのない女の子の声と………
 
「ふおぉおおぉお!?」
 
 耳をついばむ柔らかい唇の感触が引っ張り上げた。
 
 思わず自分でもよくわからん動きをした俺は、振り上げた足(ってか膝)を机の内側に強打して蹲った。……かなり痛い。
 
 痛む膝を擦りながら恐る恐る振り返ったそこに――――
 
「ふむ……反応としてはなかなか悪くない」
 
 何か満足そうな顔で頷いてる星がいた。……えっと………今の、お前か?
 
「さっきの『お兄ちゃん』て……星?」
 
「はて、何のことやら」
 
 もったいぶった言い回しで笑みを深める星に、これ以上の追及の無意味を知る。
 
 いや、それ以前に……
 
「一体いつの間に部屋に入って来たんだよ……」
 
 ここは執務室じゃなくて俺の部屋。机の場所から扉は丸見えだし、星が入って来たらすぐに気付く。
 
「入るなら窓じゃなく普通に扉から入って来てよ」
 
「失敬な、私は普通に扉から入ったぞ。ご丁寧に“のっく”までして、な」
 
 ………え?
 
「マジでか」
 
「無論だ。いくら呼んでも反応がないから、思わずそういう趣向なのかと疑ったぞ」
 
 どういう趣向だ、とは思ったけど、ちょっとツッコミ入れる気にならなかった。
 
 つまり星は堂々とノックまでして扉から入り、堂々と俺の後ろに回り込んで悪戯をした。俺はそれに気付かなかった、と。
 
 うっわ………
 
「……おぬしに“気にするな”、と言うのも無理な話か」
 
「ごめん………」
 
 おどけた態度から一転。星の紅い瞳が真っ直ぐに俺の目を見る。よくわからない気持ちのまま、俺はほとんど反射的に謝っていた。
 
「謝らずとも良い。……それに、妙な強がりをしなくなっただけマシよ」
 
「星に隠し事は出来ないもんなぁ」
 
「よく言う」
 
 じとっとした眼でたっぷり十秒俺を睨んだ星は、軽く肩を竦めて硯に水を流し……ておいっ!
 
「何やってんだ!」
 
「身が入らぬ内にやる仕事など非効率甚だしい。こんな美人が気晴らしに付き合ってやるというのだ、もう少し嬉しそうにしろ」
 
「強引に話進めるなよ!?」
 
 俺の首根っこを掴んで引きずっていく星。こんな強引なのも珍しいけど……やっぱり気を遣わせてるのか。
 
「……案ずるな」
 
 小さい呟きが、それでもはっきり耳に届く。
 
「あの者らは、そう簡単に天運に見放される輩にござらんよ。それは一刀……おぬしが一番良く解っているのではないか?」
 
 声音だけを聞けば、余裕を持っているようにも聞こえる。だけど俺を引きずる星は振り返らない。目を見せようとしない。
 
 ……それだけで、解った。
 
「……ああ、そうだな」
 
 気休めでしかないのかも知れない。いや、気休めだと思う。
 
 それでも、不安や絶望に呑まれないためには、信じるしかない。
 
 確信も根拠もない。それでも信じる事しか出来ないなら、信じよう。
 
「(愛紗……鈴々……朱里……伯桂……桃香……)」
 
 ―――必ず生きて、また会えるって。
 
 
 
 
「ぐすっ……うぅぅ…………」
 
「朱里ちゃん、元気出して? ね?」
 
 魏軍との戦い。進路も退路も断たれて陣形を崩された無茶苦茶な乱戦の中で、わたし達はただ生きる事だけを考えて必死に逃げ延びた。
 
 勝つどころか、桃香さまの安否を確認する余裕すらなくて、わたしと文ちゃんが助けられたのは一番近くにいた朱里ちゃんだけ。
 
「あたいらだって生きてんだから、絶対愛紗や鈴々だって逃げるくらい出来てるって!」
 
「………桃香さまと白蓮さんは?」
 
「それは………わかんない?」
 
「うわぁああ〜〜ん!」
 
 そして、戦場から逃れて徐州を目指す途中に立ち寄ったこの村で、わたし達は徐州が曹操さんに落とされた事を知った。……って言うか文ちゃん、もっと気を遣ってあげなきゃダメじゃない。
 
「大丈夫大丈夫! あたいと斗詩だって麗羽さまがどこ行ったかなんて全っ然わかんないけど、死んだなんて思ってないぜ?」
 
 ………麗羽さまと桃香さまを同じ感覚で語るのは何か違う気がするけど、朱里ちゃんは顔を上げてくれた。
 
 文ちゃんは気を遣ってるとかじゃなくて本気でそう思ってるから、そういう言葉は却って心に響く。
 
 文ちゃんの能天気を、わたしも少し見習った方がいいのかな……。
 
「……軍師失格です。義勇軍の頃から桃香さまや皆で築き上げてきたもの……全て失ってしまいました。こんな結末を迎えないために知恵を搾るのがわたしの役目なのに……」
 
 最近気付いたけど、朱里ちゃんって結構卑屈。しかも思い詰める性格みたいで、一度沈んだらどこまでもどこまでも落ちていく。
 
「(まあ、今回ばっかりは堪えるか〜………)」
 
 昔からの仲間は誰一人生死すら判らない。今まで積み重ねてきたものも全部奪われて、傍にいるのは降将で付き合いの短いわたしと文ちゃんだけ。
 
「(麗羽さまも、今の朱里ちゃんみたいな気持ちだったのかな……)」
 
 急に心配になってきちゃった。何だかんだで元気にやってる気しかしないけど、あれで寂しがり屋だし。
 
 それに、麗羽さまから見たらわたし達って死んだ風に思われてるのかも……。
 
 麗羽さまがそういうのをどう考えてるかとかは、さっぱりわからない。
 
 でも……今は朱里ちゃんを元気づけなきゃ。
 
「そんな事ないよ。朱里ちゃんの策が無かったらわたし達、曹操さんに太刀打ちなんて出来なかったもん。一人残らず皆殺しにされてたかも」
 
「そーそ。何はともあれこうして生き残れたんだし、もっと景気の良い顔しろって! なっ?」
 
「はうっ!?」
 
 わたしの言葉尻に繋いで、文ちゃんが元気一杯の笑顔でバンバンと朱里ちゃんの背中を叩く。便乗して、わたしも朱里ちゃんを背中から抱き締めてみる。
 
「ああっ! あたいのおっぱいが〜〜!」
 
「文ちゃんのじゃないってば〜………」
 
「はわっ、はわわわ………!」
 
 何だか目を回して慌ててる朱里ちゃんの頭を、帽子越しに撫でる。
 
「(可愛いなぁ……)」
 
 妹とか出来たら、こんな気分なのかも。
 
「文ちゃんじゃないけど、ここは素直に喜ぼうよ。生きてさえいれば、やり直せる事もいっぱいあると思うから」
 
 口に出したら拗ねちゃいそうだけど、正直子供に言い聞かせるみたいな気持ちで語り掛けた。
 
 そうして、朱里ちゃんはしばらく黙り込んで……
 
「くすっ」
 
 小さく笑って、わたしの胸から飛び出して、振り返った。
 
「その通り……ですね。過去の失敗を教訓にするのは大事な事ですけど、そこで歩みを止めるわけにはいきません」
 
 わたしの言葉を、わたしが込めた以上の意味で受け取っちゃったらしい朱里ちゃんの顔が、良い意味で強張ってる。
 
「桃香さまがわたしが見定めた通りの御方ならば、猪々子さんの言う通り、きっと生きています。まだ……諦めるには早すぎるのです!」
 
「おー!」
 
「お、おー!」
 
 何かに火が点いた朱里ちゃんに、文ちゃんがノリノリに、わたしがちょっと戸惑いながら乗る。
 
 ……少しは元気、出たのかな。
 
 
 
 
「おっちゃん、春巻と焼売を十個ずつ追加なのだ!」
 
「こら鈴々、そんなに食べるな! 宿代が無くなるではないか!」
 
「そうなったら野宿すればいいのだ。鈴々は食だけあれば生きていけるもんね」
 
「獣かお前は!」
 
 悲しむ暇も無いとはこの事だ。徐州は落とされ、桃香さまや朱里たちの行方も知れないというのに、鈴々のあまりに呑気な態度に引き摺られて感傷にも浸れん。
 
 しかし、緊張感の無さを叱り飛ばす気になれないのも事実だった。……義姉として、若干の引け目がある。
 
『止めるな鈴々! たとえ敵わずとも、我らの思いの丈を我が青龍刀に乗せて魏の分からず屋共に刻みつけてくれる!』
 
『お姉ちゃんは絶対こんな所で死なないのだ! これからも頑張らなきゃいけないお姉ちゃんの傍に、愛紗がいなくてどうするのだ!!』
 
 ……武人として潔しと、安易な討ち死にを選ぼうとしていた私を止めたのは、普段私が口うるさく説教をしている鈴々だった。
 
 何より……鈴々の方が桃香さまを信じ、そして諦めていなかった。
 
 今は、あまりしたり顔で小言を並べるのも憚られる。それに……気楽に振る舞ってはいるが、鈴々とて桃香さま達の事が心配ではないはずがない。
 
 わざわざ口に出して確認するまでもなく、私たちの当面の目的は桃香さまとの再会だ。
 
 しかし………
 
「………………」
 
 手掛かりなら、ある。徐州という帰るべき場所は失ってしまったが、行く場所が無くなったわけではない。
 
 つまり、桃香さまならどこに行くか、を考えればいい。
 
 生きていない場合の事など考えない。もしもの時はあの時の誓いに準ずるだけだ。
 
 死す時は同じ。冥土の果てまで御供するまでの事。
 
 しかし………
 
「………………」
 
 心当たりならある。あまり考えたくはないが、桃香さまが真っ先に向かいそうな所がある。
 
 ……そして、朱里もきっと同じように考えるだろう。
 
「……ご主人様」
 
「にゃ?」
 
 何故か意味不明な言葉を漏らした自分の口を、私は慌てて塞いだ。
 
 
 
 



[14898] 三章・『輝く蹄』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/11/16 22:16
 
「親父、お茶とお菓子」
 
「へい」
 
 見事に曹操にやられてからもう一週間。わたしは唯一とも言える長所の馬術で何とか生き延びていた。
 
 城は落とされ領土は奪われ、もう一人の兵士すら傍にはいない。別に桃香を恨む気なんてない。
 
 幽州軍だけで曹操に勝てたとは思えないし、本来桃香には直接の関係はなかったんだから。
 
「どうしてるかなぁ………」
 
 わたしの騎馬隊は一撃離脱の奇襲戦法を取ってたから、桃香たちがあれからどうなったとかは全くわからない。
 
 何もかも失って身一つになったわたしは、特にアテや考えもなしに南を目指して旅を続けていた。
 
 今さらわたしに何か出来る事があるとは思えないし、生きてても虚しいだけのような気もしつつ、魏領にいたら危ないっていう漠然とした意識から旅を続けていた。
 
 自分が君主の器じゃないって事は、もう身に染みて解ってる。再起したとしても無駄な犠牲が増えるだけ。
 
 ならせめて、誰かに仕えて尽力するか? 桃香は行方すら知れない。孫策はちょっと信用出来ない感じがするし、北郷には……今さらそんな調子の良い事言えるわけもない(会った瞬間に捕まえられてもおかしくない)。
 
 そんな……解の出ない自問自答ばかりを繰り返してる。
 
「はあぁぁ~~………」
 
 酒でも呑みたい。軟弱な精神でわたしがそんな事を考えている時、それは起きた。
 
「この店に来るのも久しぶりだな!」
 
「まあ、この街に来る事自体久しぶりだからな。だがあまり食べ過ぎるなよ姉者、一息入れたらすぐに出発だからな」
 
「少し腹に物を詰め込んだくらいで音をあげるようなヤワな鍛え方はしていないぞ。桂花じゃあるまいし」
 
 赤い服の女と青い服の女が、茶屋の扉を開けて入って来る……って!
 
「(おいおい嘘だろ!?)」
 
 見間違えるはずがない。額から撫で上げた長い黒髪と蝶の眼帯、不自然に片側だけ長い水色の前髪、あいつら……曹操の腹心の夏侯姉妹じゃないか!
 
「(よりによってなんて奴らに……徐州の制圧に向かったって聞いてたから油断した!)」
 
 どうする。こんな店の中じゃとても逃げられない。逃げ回った挙げ句に背中から斬られるくらいなら、いっそ正々堂々……
「お待たせしやした、お客さん」
 
「あ、ああ……ありがとう」
 
 空気読めよ親父! 少しでも目立ちたくないのに!
 
 そう思った時―――
 
「おーい、注文していいかー?」
 
 夏侯惇の声が、親父を呼んだ。……つまり、わたしも見られた。
 
「(終わった……)」
 
 どこか諦観にも似た気持ちを抱いて、わたしはゆっくりと振り返る。
 
「(………あれ?)」
 
 夏侯惇は、何食わぬ顔で店主に注文をしている。夏侯淵も同じく。確実にわたしを視界に入れているはずなのに、何の反応も示さない。
 
「(もしかして……行ける……?)」
 
 半信半疑に思いながらも、こんな所に居たんじゃ生きた心地がしなかったわたしは、さりげなく机の上に代金を置いて、そそくさと店を出て行こうとして………
 
「待ちなお客さん、勘定がまだだぜ」
 
「(親父ぃぃーー!)」
 
 親父に肩を掴まれた。食い逃げ疑惑の掛かったわたしに視線が……あっ、今目が合った。終わった、絶対終わった。
 
 そう……思ったんだけど……。
 
「代金なら机の上に置いてる! 釣りは要らないから!」
 
「おっと、そいつはすいやせんでした。しかしいいんですかい、菓子にも茶にも手ぇつけてらっしゃらねぇようですが?」
 
「急に体調が悪くなったんだ。失礼する」
 
 そんな、すごく日常的な会話を経て………
 
「…………………」
 
 わたしは何事もなかったように、死地から抜け出した。抜け出す事が出来た。造作もなく。
 
「(……いや、助かったんだけどさぁ)」
 
 何か釈然としないものを感じながら、そんな現状はその先も続く。
 
「流琉ー! あっちに面白そうな店あるよー」
 
「待ってってば季衣!」
 
 うわっ、あいつらも見た事あるぞ! とか。
 
「何でたまの休日にあんたなんかの顔を見なくちゃいけないのよ!」
 
「ねねは新しい天界本を買いに来ただけなのですっ、迷惑してるのはむしろこちらの台詞ですなー」
 
「何が天界本よ! あんたいつから敵の回し者になったの? 華琳さまに報告して死刑にしてもらわなくっちゃ」
 
「主殿ならとっくにご存知なのです。活躍を独占したいのは解りますが、過ぎた嫉妬は見るに耐えませんなー」
 
「何ですってこのちんくしゃ!」
 
「ちんきゅーきーーっく!!」
 
 曹操の軍師だよな、あいつら! とか。
 
「沙和、真桜、お前たち、またこんな所で仕事を放棄していたのか……」
 
「おー凪、ええ所に! ちょい聞いてぇな~、この新しいからくり夏侯惇将軍なぁ~」
 
「もうずっとこの調子で語り続けてるの。沙和もう限界、凪ちゃん変わって欲しいのー………」
 
「お前たち………いい加減にしろーーー!!」
 
 戦場で終われた事ある! とか思いながら、冷や汗を流す日々を送り………
 
「…………………」
 
 ………そして、結局何事もなかった。旅先でいちいち曹操の武将や軍師に出くわす運の悪さにも泣きたくなるけど……それ以上に………
 
「ちょっとくらい気付けよぉーー!」
 
 そんなに影が薄いのかわたしは!? そんなに印象に残らないのかわたしは!? バッチリ視界に入ってるのに全然気付けないくらい地味なのかわたしは!?
 
 街から外れた山道の真ん中で、わたしは絶望に打ち拉がれる。
 
 見つかって殺されるのはそりゃ困るんだけど、ちょっとくらい、誰か一人くらい気付いてくれてもいいじゃないか!
 
 確かに黄巾の乱の時も連合の時もこの前の戦いでも桃香のおまけっぽかったのは認めるけど……もうちょっと何かこう……ん?
 
「…………ーん!」
 
 ……聞こえる。叫び声? 女の子……しかも聞き覚えがあるような。
 
 わたしは草の根を掻き分けて声のする方に進んでいく。乱世の混乱に乗じて好き勝手にやらかす外道はどこにだっているもんだ。
 
 愛紗や鈴々と比べたら凡才もいいトコのわたしだって、そんじょそこらの山賊風情に負けるほど弱くない。
 
 そして、見据えたその先で、桃色の影が勢いよく倒れた。
 
「きゃうっ!」
 
 間の抜けた鳴き声と共につまづいた女の子は……
 
「(桃香……!)」
 
 徐州を落とされてから行方知れずになっていた盟友……桃香だった。
 
 安心感から何かが込み上げてきて、すぐにでも呼び掛けたいのに声が出ない。
 
 でも、それがある意味で幸いした。わたしは状況を把握する機会を得た。
 
 痛そうに膝を押さえながら振り返った桃香の視線の先に……“わたしは追撃者”の姿を見つける。
 
 粗末な剣と鎧をつけた男が三人。……賊にも兵士にも見えない中途半端な出立ちだ。
 
「へへっ、ようやく捕まえたぜ、劉備さんよ」
 
「だからわたし劉備じゃありませんってば! え~と~~じゅりえっとです!」
 
「じゅ……? まあいいや。俺は昔、黄巾党にいたんだよ。遠目にだけど義勇軍の頭張ってるあんたを見た事もある。とぼけたって無駄だぜ」
 
「テメェの首を差し出せば、曹操さまからたんまり褒美が出るだろうよ。恨みはねぇが死んでくれ」
 
 好き勝手にほざいて、男たちは剣を桃香に突き付ける。桃香も、腰の宝剣を構えて威嚇する。
 
 わざわざ『劉玄徳』を捜し出して曹操に突き出そうなんて考える連中だ。それなりに腕に覚えはあるんだろう。そんな奴らが三人。……桃香には少し荷が重いな。
 
 わたしは剣を片手に飛び出そうとして……思い止まった。
 
 あれをやろう。
 
 
 
 
「何だテメェは!?」
 
「わたしの名は白馬仮面! 自らの白き輝きに薄められし影を取り返す事を誓った、復讐の戦士!」
 
 肩に掛けた短い外套を翻し、同じく白い仮面で素顔を隠した女戦士が、桃香を庇うように前に飛び出す。
 
「………白バカ?」
 
「………白バカ?」
 
「そこで切るなよお前ら!」
 
 男たちに混ざって、さりげなく桃香までが首をかしげながら呟いている事実が涙を誘う。
 
「だって、なぁ……?」
 
「じゃあいいよもう仮面白馬で。はい仮面白馬仮面白馬」
 
 途端になげやりになる仮面白馬。昨今の不幸続きで些か以上に情緒不安定になっている。
 
 気を取り直して、仮面白馬は剣を男たちに突き付ける。
 
「自分勝手な欲望のためにか弱い少女の命を奪わんとする外道共よ! この仮面白馬が、輝く蹄も高らかに成敗してやる!」
 
 口上を終えると同時に、仮面白馬は踏み込んだ。普通の……しかし常人からみれば凄まじく鋭い斬撃が、先頭に立っていた男の剣を根元から切り飛ばした。
 
「せいっ!」
 
 続けざまに振り上げられた爪先が、鈍い音を立てて男のこめかみを抉る。
 
 何が起きたのかもわからない間に受けた衝撃と激痛は、男の戦意を削ぐには十分だった。
 
「ちきしょう! 覚えてやがれ!」
 
「何が復讐の戦士だ! 落ちぶれた太守なんざ庇いやがって」
 
「お前らなんか曹操さまに殺されちまえ!」
 
 負け犬の遠吠えを残して去って行く男たちの背中を見送って、仮面白馬は剣を鞘に納める。
 
 キンッ、と鳴る鍔鳴りの音がわざとらしいくらいによく通る。
 
「カ…カッコいい~………」
 
「ホ、ホントか!?」
 
 しかし凛々しい雰囲気も一瞬。桃香のほへ~っとした呟きに、仮面白馬は喜色満面に振り返る。
 
「目立ってたか!? 地味じゃないか!? ちょっとは役に立ちそうか!?」
 
「はいっ、とっても目立ってましたよ、仮面白馬さん!」
 
 満面の笑顔で手を握り合う二人の姿はどこか滑稽だ。何はともあれ、仮面白馬には長い葛藤の中で僅かな光を見る結果となった。
 
 しかし………その後がいけなかった。
 
「そうかそうか! やっぱりお前はいい奴だなぁ、“桃香”!」
 
 それまでにこやかだった桃香の顔が一瞬にして険しく曇り………
 
「勝手に真名を……」
 
 桃香とは思えないキレの良い動きで握った手を掴み上げ、そのまま引いた腕を仮面白馬の体ごと背負い………
 
「呼ばないでください!!」
 
 そして、仮面白馬の意識は暗転した。
 
 彼女が気絶している間に、好奇心に負けた桃香によって“白蓮”の正体がバレた事は言うまでもない。
 
 
 
 



[14898] 四章・『発覚』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/11/24 17:29
 
「………………」
 
 道行く人が皆……とは言わないけど、結構な割合で振り返る。もちろん、俺一人ならここまで注目される事なんてまず無い。
 
「えっと……星?」
 
「何か?」
 
 俺と一緒にいる星が、明らかに人目を引いてる。本人は全く気にしてなさそうだけど。
 
 ゆったりとした艶やかな白の着物の上から、透き通るような水色の羽衣を纏う姿は、いつもの格好みたいに肌が多く見えてるわけでもないのに、不思議な色っぽさがある。……かなり。
 
 普段の星ならまずしないような艶姿と、俺と腕を組んで肩に頭を預けるような仕草。
 
 『趙雲将軍』を知ってる人間なら自分の目を疑い、知らない人間でもその魅力だけで思わず振り返ってしまう。
 
 今の星は、そういう存在だった。
 
「都の話題を独り占め、か。ふふっ、なかなか悪くない気分ですな」
 
 気晴らしって言葉に嘘はなかった。この星、かなりノリノリである。
 
「もうちょっと人目を気にしようぜ。俺は正直恥ずかしい」
 
「おや、主はこの私を隣に侍らすのを恥ずかしいと仰るのか」
 
 ……あー、こいつズルい。意地悪そうに『ニヤリ』って顔しても、俺が否定出来ないって解ってるあたりかなりズルい。
 
「大体、何でまた敬語なんだよ。機嫌悪いの?」
 
「たまには気分を変えてみるのも悪くないと思いまして。さしづめ今の私は、没落し、悪の魔王に無理矢理娶られた哀れな貴婦人……といった所ですかな」
 
 ……素直に夫婦とか恋人とかいう発想は出ないのかね、君は。
 
 けど………
 
「そうだな」
 
 たまには、いいか。
 
「毒を食らわば皿までってね。どうせサボるんなら思い切り楽しむか!」
 
 妙な事を言うのはいつも通りだけど、今日の星の笑顔はいつもよりずっと“含み”が無い。
 
 せっかく女の子らしい部分を見せてくれる星との時間を満喫しないのも勿体ない。
 
「あ…相変わらず開き直りは一人前ですな」
 
 突然肩を抱き寄せられて、星はちょっと吃る。さっきまで振り回されてたから、してやったりな気分だ。
 
「しかし………」
 
 星は俺の顔をじ〜っと見てから………
 
「……この話し方、隔意なく話すと不思議と違和感が無い」
 
 何だか考え込むように呟いた。まあ、不思議に思うのも無理ない。最初はただの荷物持ちだったし、この世界で星は俺に敬語なんてほとんど使ってなかったんだから。
 
「……さあね。前世で星が、俺にそういう話し方してたのかも」
 
「……ほう」
 
 誰が聞いても冗談にしか聞こえない俺の言葉に、星は満足そうに溜め息を吐く。
 
 ―――そして、伸ばした両腕を俺の首に絡めて………
 
「ッッ!?」
 
 その桜色の唇を、俺の唇に押し当てた。
 
「んむっ……ふぅ……」
 
 触れる、なんて生易しいものじゃない。頭を抱え込んで放さず、食らいつくように唇を重ね、積極的に舌を絡ませる。
 
「(えっ!? あっ! おっ……!?)」
 
 完全にパニック状態になった俺には、星の唇の感触と、目の前で閉じられた瞼に揃う睫毛しか認識出来ない。
 
「ぷはっ……」
 
 やがて、星は息苦しさから唇を離す。半ば放心状態で呆ける俺は、考えもまとまらないままに手を伸ばして……軽く飛び退いた星に躱された。
 
「ふふん、間の抜けた顔をしているぞ」
 
 ここら辺で、頭が追い付いて来る。要するに、人目も憚らずにディープキスされて、周りからメチャクチャ見られてる自分たちに気付いた。
 
「お、お前なぁ……!」
 
 これじゃ完全に馬鹿ップルだ。顔が赤くなってるのがはっきり判るくらいに熱い。……っていうか、星の顔も赤い。
 
「これで互いに一本ずつ、痛み分けといったところか」
 
「何の話だよ……」
 
 そもそもいつ俺が一本取った。赤面するくらい恥ずかしいくせに、何故差し違える覚悟で俺をおちょくる。
 
 そんな色んなツッコミも、意地悪というよりは楽しそうな星を見てるとどうでも良くなって来る。
 
「あらん、星ちゃんってば天下の往来で昼間っからご主人様とイチャついちゃって! わたしも混ぜてぇ〜〜〜ん☆」
 
 寄るな化け物。
 
「羨ましいか、反対側の腕なら組んでも良いぞ」
 
「許すな!」
 
 途中で死ぬほど濃い奴に出くわした事を除けば、心底幸せな時間だった。
 
 ―――だけど、俺は気付かなかった。
 
「…………………」
 
 そんな俺と星の姿を、茫然と見ていた仲間の存在に。
 
 
 
 
「まったく、一刀殿は………」
 
 今日何度目かという不満を漏らしながら、私は城の回廊を歩く。
 
 どうせ劉備殿の事で上の空にでもなっているだろうと思って様子を見に行ってみれば、上の空どころか仕事をほったらかしにして当人は姿を消していた。
 
 そして日が暮れる頃に、綺麗に着飾った星と二人で帰って来た。
 
 ちょっとでも心配した私自身も含めて腹が立ったので、散々小言を聞かせ、今は(当然)残しておいた仕事の山を星と二人がかりで片付けさせている。
 
 拙いながらも最近政務に尽力してくれている陛下の爪の垢でも飲ませてやりたい。
 
「まったく、一刀殿は…………」
 
 口癖になりつつある台詞をまた口にして、私は疲労に任せて肩を落とした。
 
 うちの陣営には変り者が多すぎて、いつだって私や雛里のような真人間が苦労するように出来ている。
 
 日頃大変な分、もう少し報われてもいいはずだ。
 
『いつも迷惑ばっかり掛けて、ごめんな?』
 
 謝るくらいなら、態度で示して下さい。
 
『ほら、そうやって眉間に皺を寄せない。綺麗な顔が台無しだ』
 
 あっ、ダメ…気安く女性の顔に……綺麗だなんて……そんな軽口に騙されませんよ。
 
『ホントは嫌がってなんか無いくせに、稟の体はこんなに悦んでるんだよ』
 
 ダメ! こんな場所で……そんな淫らな……!
 
『本当に? やめていいの?』
 
 あっ……うぅ……ごめんなさい。素直になりますから……意地悪しないでぇ………。
 
「何でやねん!」
 
「痛っ……は! ここは……?」
 
 後頭部に突然走った軽い痛みと同時に、私の周りの景色が変わっていた。
 
 おかしい。私はさっきまで玉座の間で一刀殿に………。
 
「目が覚めましたかー?」
 
「………風?」
 
 聞き慣れた、間延びした声に振り返ると、竹筒を握った風が立っていた。
 
 ……よく見れば、ここは風の部屋。さっきのおかしな口調は……風?
 
「たまには霞ちゃんでも見習って、鋭いツッコミでもと思いましてー」
 
 見習う部分を明らかに間違ってるわよ。それより………
 
「どうして私が風の部屋に居るんですか。私はさっきまで取り込み中だったはずなのに、何か急用でもあるんですか?」
 
「やれやれ、鼻血の海に沈む前に助けてあげたというのに、何とも酷い言われようなのです」
 
「ま、元気だせ風! 稟が妄想爆発させるのは今に始まった事じゃねーだろ」
 
「それもそうですねー」
 
 ……あなたはぬいぐるみと一緒に何を納得してるのよ。
 
 ………………………………………………妄想?
 
「(またやった……?)」
 
 風の何気ない一言に思い到って、私はガックリと両掌を床に着いた。
 
 時々ある、記憶の前後が飛んでいたりする時、私は鼻血を噴いて気絶してたり妄想の世界に浸って帰って来てなかったりするらしい。
 
 最後に正気だったのは………………回廊を歩いていた時? どちらにせよ、風の部屋に私が居る理由が解らない。
 
「ん」
 
 そんな私の心を読んだように、風が私たちの右の方を指差した。
 
 指差す先に………
 
「ひっく……ぐすっ……」
 
「……舞无?」
 
 さっきは気付かなかった寝台の上、布団の端から銀髪が僅かに覗いている。
 
 机に並んでいる徳利の数を見る限り、大分呑んでいるみたい。
 
「いい大人が、何を泣いているのですか?」
 
「泣いてないもん!」
 
 何が“もん”ですか。
 
「もうずっとこの調子なのですが、風はあまりお酒も呑みませんし、そろそろ稟ちゃんに交代して欲しいと思ったり、思わなかったり」
 
「何で私が泣き上戸の相手をしなければならないのですか」
 
 大体、私と舞无はお世辞にも仲がいいとは言い難い。しかも舞无の酒癖は、多分うちの陣営で一番悪い。
 
「………ぐぅ」
 
「寝るな!」
 
「おぉ!?」
 
「自分で拾って来たんなら、最後まで自分で面倒を見ればいいでしょう」
 
「それは聞くも涙、語るも涙の出来事でー」
 
 ……聞いてない。風はこうなると押しが強い。こうやってのらりくらりと話を躱しながら強引に話を進める。
 
「わっ!?」
 
 私がもう半分諦観した気持ちになった時、いつの間に布団から這い出して来たのか、舞无の両手が私の足首を掴んだ。
 
「めがねー、お前も付き合え! 呑まずにやっていられるかぁ!」
 
「……もう眼鏡じゃないと何度言えば解るんですか」
 
「うるしゃい! わたひの酒が呑めないって言ふのくぁ!?」
 
「…………はぁ。わかりましたよ、付き合えばいいんでしょう? 付き合えば」
 
「うん!」
 
 鬱陶しくまとわりついてくる舞无と、さりげなく杯に酒を注いで差し出してくる風の姿に、私は今日の睡眠時間を節約する事を諦めた。
 
 
 
 



[14898] 五章・『色仕掛け』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/11/25 19:26
 
「うっ……うぅ……一刀のうあきものぉぉ……!」
 
 机に突っ伏してさめざめと泣く舞无を余所に、私は隣の席の風と言葉を交わす。元から会話が成立しにくい相手なのに、酔いまで入るとまともに話など出来はしない。
 
「つまり、一刀殿と星が街中でイチャついているのを目撃して、傷心しているという事ですか」
 
「まあ、平たく言うとそんな感じですかねー」
 
 意外性の欠片もない事実に『何だ……』という言葉が思わず口を突いて出そうになる。基本的に悩み事などなさそうな舞无が酒に逃げる理由など限られているとは思っていたが、寸分違わず予想通りだ。
 
「ところで、“浮気者”とはどういう意味ですか?」
 
 (バレバレだったとはいえ)舞无が一刀殿に想いを明かしたという話は聞いていない。確かに一刀殿の節操の無さにはホトホト呆れるが、一刀殿の恋人でも夫婦でもない舞无が一刀殿を“浮気者”呼ばわりするのは違和感がある。
 
「えっ……? いや、それは……」
 
 訊かれた舞无は、顔を赤くして俯きながら指先をモジモジと遊ばせる。
 
 訊いて欲しいのか欲しくないのか、どっちなんですか、貴殿は。
 
「舞无ちゃんのは所謂、勘違い系一目惚れなのです」
 
「誰が勘違い系だ!」
 
 モジモジしている内に風に先を越されて、舞无が怒鳴る。……やっぱり言いたかったのね。
 
「あれはまだお兄さんが洛陽の警備隊長だった頃、滝壺に飲まれて溺れた舞无ちゃんを助けようと、お兄さんはその唇から息を…………」
「な、なっ……なななななな何で貴様が知ってる!?」
 
「風はこう見えて何かと一流なので〜」
 
 真っ赤になって喚き散らす舞无と、相変わらずの寝呆け眼でとぼける風を見ながら、私は風の説明を反芻する。
 
 警備隊長……舞无が突然一刀殿への態度を変えた時期か。そういえば、黄巾の乱の頃はそれほど意識しているようには見えなかった。
 
 舞无が溺れて、一刀殿が息を……要するに人工呼吸をした、と。そして惚れたと。
 
「……勘違い系ですね」
 
「だから違うと言っているだろうが! あの胸の高鳴りと熱は確かに恋の芽生えだった!」
 
 ……それは溺れたからでしょう。しかも、今自分が恥ずかしい台詞を口走っている事に気付いていますか。……まあ、私は空気が読めるからそっとしておいてあげますけど。
 
「初めての口付けだったのだ! 初恋だった。なのに……なのに……っ……」
 
 それまで大声を張り上げていた舞无が、尻すぼみに勢いを失くす。弱々しく紡がれる声の端から嗚咽が漏れる。
 
「ふえぇ〜〜ん……一刀のばかぁ〜……!」
 
 そしてまた泣く。始末に負えない。
 
「そうだと思ってはいたけど、彼女は一刀殿の女性関係については……」
 
「今朝のでーとを見たのが初めてのようですねー」
 
 風の返答に頭を抱える。一刀殿の惚れっぽさは、下手をすれば一兵卒から一市井まで知っているほどの周知の事実。それを将軍の身で全く気付いていなかった舞无。客観的に見れば笑い話とも取れるほど間抜けな話だが、本人にとっては深刻な問題だろう。
 
 ……少しだけ、可哀想になってきた。
 
「まだフられたと決まったわけではないのでしょう? 一国の主が複数人の妻を娶るなんて普通の事なのですから」
 
「そんなついでみたいなのヤダ」
 
 慰めるつもりで肩に置いた手を、舞无はいじけた仕草で払いのけた。
 
「(人が優しくしてれば………)」
 
 大体、舞无の抱えている悩みなんて私や星たちだって持っている。つくづく厄介な男に惚れたものだと割り切るしかない。
 
 何故、並外れた鈍感で気付いていなかっただけの舞无を慰めてあげなければならないのか。
 
「納得出来ないのなら、さっさと諦めてしまえばいいでしょう。ただ……本当に一刀殿が貴殿を含めた私たちと“ついで”のように接しているのかどうか、もう一度よく考えてみなさい」
 
 私にとっても他人事ではない。つい私情が混ざって多弁になる。
 
「それに、想いを伝えもせず、ロクに振り向いてもらう努力もしていないくせに一身に寵愛を受けたいなどと、虫が良すぎるとは思いませんか」
 
 慰めるつもりが、いつの間にか咎めるような言葉を吐いてしまった。そう気付いた時にはもう、舞无は遣る瀬なさそうに小さくなっている。
 
 痛い所を突いたような気がしなくもないが、今のが私の本心。気持ちを伝えてもいないのに愛して欲しいなんて、卑怯だ。
 
 勇気を出して告白に踏み切った私にはそう思えた。
 
「そう、まさにそれですよ、稟ちゃん」
 
 舞无が黙り込んだ隙を窺っていたかのように、風が両手を叩いて私に話し掛けて来る。
 
「詰まるところ舞无ちゃんは、お兄さんの気を惹きたいのです。まあ、諦めたいというなら話も変わって来るのですが……」
 
 簡潔なようでもったいぶった言い回しをする風に水を向けられた舞无が、犬が水を払うようにブルブルと首を振る。……はあ、やっぱり諦めませんか。
 
「ここは一つ、風邪で弱りきったお兄さんを『なーす服』で見事に籠絡した稟ちゃんの知恵を借りたいとー………」
 
 ちょっと!?
 
「だから何であなたが知ってるんですか!」
 
「空は何でも知っている。風も何でも知っているー♪」
 
 さすがに焦って風の口を塞ごうとしたけれど、遅かった。私の肩にミシミシと細い指が食い込む。痛い。
 
「………今の話、詳しく聞かせろ」
 
「……酔いはどうしたんですか、酔いは」
 
「醒めた」
 
 いつになく物静かな舞无が、今までで一番怖かった。
 
 
 
 
 春も近づき、少しずつ暖かくなってきた城の中庭で、和かな雰囲気に合っているのかいないのか判別の難しい熱気が立ち込めていた。
 
「むっ!」
 
「……遅い」
 
「隙あり!」
 
「……別に隙じゃない」
 
 右から散の戟が、左から星の槍が襲い掛かるも、恋はそれを容易くいなして反撃に転じる。
 
「ほへ〜………」
 
 火花が散り、斬撃が乱れ飛ぶその光景を間抜けに口を開けて眺める。星や散も俺にとっては遥か格上の達人なのに、恋はその二人を同時に相手して息も乱れていない。
 
「金取れるぞ、この稽古」
 
「無粋な事言いなや、ウチらの剣は見せもんちゃうで」
 
「それくらい凄いって事だよ。他意は無いって」
 
 東屋に腰掛けて呟いた俺を、隣に座る霞が睨んだ。別に本気で客を集めようなどと考えてはいなかった俺は、慌てる事もなく弁解する。
 
「霞さんは、参加しないんですか?」
 
「それ、俺も思った」
 
「相手がおらんやん。あれの横で一刀と遊ぶ気にもならんし」
 
「遊ぶて」
 
 一緒にお茶をしていた雛里(俺も)の質問に、ある意味もっともな返答。
 
 確かに、本気の星たちの横で俺が棒切れ振り回しててもチャンバラにしか見えないけど………
 
「二人掛かりでも旗色悪いぞ。霞も混ざればいいじゃないか」
 
 むしろ見てみたい。
 
 前の世界で、恋は愛紗、鈴々、翠の三人と(稽古で)戦って勝ち抜いた。四人目の星の地味に卑怯な戦法に敢えなく負けたけど……素人目に見ても恋は前の世界より強くなってる。
 
 三対一だと、どうなるんだろう。そんな淡い好奇心は返る霞の言葉に費える。
 
「んー……恋が強いんは解るんやけど、やっぱ寄って集って言うんは好かんわ」
 
 そりゃそうだ。と霞の性格と合わせて納得した。霞は普段は結構おちゃらけてるけど、武に対しては真摯だし。
 
 そんな他愛無い雑談を続けている間に、勝負が動いた。
 
「ふ…っ!」
 
「おっと……!」
 
 間隙を縫うように救い上げた恋の一撃が、散の戟を宙高く弾き飛ばした。
 
 その動作から繋げるように、恋は方天画戟の石突きを振るう。しかし、散もそこまでトロくない。
 
 バックステップで石突きを躱すと同時に、腰に差していた短戟を二振り、早撃ちのように投げ放つ。
 
 至近から放たれたそれさえも、恋は素早くぺったりと地面に張りつくように躱した。
 
 そして、恋が起き上がるよりも早く―――
 
「せいっ!」
 
 星の槍が、頭上から振り下ろされた。さすがに決まったと俺が思った瞬間………
 
「……だから、隙じゃない」
 
 信じられない事に、恋はまともに膝も着いていないような不安定極まりない体勢から振るった戟で、星の一撃を払いのけていた。………いや―――
 
「もらった!」
 
 払いのけていない。恋の戟とぶつかる瞬間に星が槍の柄を回し、龍の髭にも似た飾り紐が恋の戟の先を絡め取っている。
 
 恋が武器を封じられたその時、狙っていたかのように落ちてきた双鉄戟が散の手に収まり―――
 
「ふぃにっしゅ」
 
 完全に背後を捉えた散の突きが………
 
「っ……!」
 
 またしても弾かれる。矛先の腹を叩くように振り上げられた……恋の踵に。
 
「……危なかった」
 
「くっ!」
 
 既に過去形な一言と共に、恋は地面に着いた片手を軸に一回転。水面蹴りで星の足を払い、バランスを崩した星を担ぐようにして………
 
「……えいっ」
 
 一本背負いでぶん投げる……散に向けて。
 
「「きゃふっ!?」」
 
 ぶつかり、絡み、もつれるように星と散は転がった。そして起き上がる頃には丸腰の二人に矛先を突き付ける恋の姿。
 
「勝負あり、だな」
 
「……頼もしい限りです、本当に」
 
 雛里と顔を見合わせてしみじみと頷く。思い出すように、雛里の眼が真剣な色を帯びた。
 
「……近い内に始まるだろう曹操さんとの決戦にも、皆さんの力は不可欠なものになるはずですから」
 
「………………」
 
 血の気が引くように、空気が重くなる。……そう、華琳の目的は天下統一。
 
 これまでの経緯や、桃香が納めていた徐州を攻め落とした事から考えても、戦いはまず避けられない。
 
「……不安要素ばかりではありません。揚州を押さえた今、呉との相互援助も円滑に行えるはずですから」
 
「……うん、頼りにしてる」
 
 元気づけるようにそう言ってくれる雛里の頭を、帽子の上から撫でてやる。……ホント、俺は恵まれてる。
 
 だからこそ思う、みんながいれば何だって出来るって。
 
 
 
 
「こんなの唾つけとけばります」
 
 稽古を交えた小休止を終え、それぞれがそれぞれの仕事に戻っていく。
 
「駄目だって、女の子なんだから顔の傷とかちょっとは気になるだろ?」
 
「あたしの場合は元から潰れてますし、そもそもあなたに“女の子”なんて呼ばれる歳でもないんですが」
 
 恋との稽古で顔を打たれた散を連れて、一刀は自分の部屋へと向かう。そこには、「暇だから」とついて来た霞の姿もある。
 
「わかっとらんなぁ一刀は、傷は武人の勲章やで。ウチらはそれを誇りに思う事はあっても、恥じる事なんてないねん」
 
「そーいう暑苦しいかてごりーに括られるのも複雑かな、と思いますが」
 
 一刀の部屋に向かう理由は簡単だ。そこに塗り薬があるからである。鍛練やその他で日常的に傷だらけになる一刀は、自室に薬箱を常備している。
 
「それと怪我の治療しないのとは別問題だろ? 大体………」
 
 一刀が扉に手を掛け、開く。その瞬間を待ち構えていた“彼女”は、霞や散が同伴している事にも気付かずに覚悟を決める。
 
「おっ、おかえりなさい!」
 
 銀の髪と琥珀の瞳。身紛う事なき華雄こと舞无。しかし服装がおかしい。
 
 料理の際に用いる前掛け……現代で言うところのエプロン……しか着けていない。
 
 わざとらしいくらいの内股で、恥ずかしいくらいに女の子然とした様相のまま、舞无は羞恥を振り払うように叫んだ。
 
「おおお風呂にするご飯にするそれともわたし!!?」
 
『………………』
 
『………………』
 
『………………』
 
「………何か言え」
 
「ちぇんじで」
 
「……息継ぎくらいしぃや」
 
 次の日、舞无は一日部屋から出てこなかった。
 



[14898] 六章・『来訪、虎の姫』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/01 16:56
 
「………………」
 
 緊張している。弱音を吐くつもりはないし、課せられた使命は必ず果たしてみせる。……だが、どうしても強張ってしまう心臓や顔の筋肉に気付かないフリも出来ない。
 
「蓮華さま、御顔の色が優れないようですが」
 
「……何でもない。少し日の光に当たり過ぎただけだ」
 
 わたしの心中など思春にはお見通しだろうと解っていても、強がるしかない。そうする事でしか弱い己を律する事が出来ない。
 
「(北郷、一刀……)」
 
 連合に於いては刃を交え、今は雪蓮姉様の判断によって同盟を組んでいる相手。今から向かうのは、その北郷が帝共々手中に納めている王都・洛陽。
 
「(董卓を追放して都の実権を握った、という袁紹の言葉を真に受けたわけではないけれど……)」
 
 それでも、天下を狙える人間である事に変わりはない。我ら孫呉を利用し、裏切り、制圧しようという野心が無いと何故言える。
 
 いや、そういう力があるというだけで、絶対に警戒しなければならないはずだ。
 
「(姉様らしくもない………)」
 
 いい加減に見えて、姉様はそういう部分は心得ているし、“嗅覚”も鋭い。なのに、北郷に対してはあまりにも無用心だ。
 
「(……何を考えているのか、さっぱりわからないわ)」
 
 最近になって、解った事がある。
 
 姉様は、自分よりもわたしの方が王に相応しいと考えているという事。だからわたしを危険な戦場から極力遠ざける事。そして……だから自分は平気で死地へと飛び込むという事。
 
 わたし自身にそんな自覚はないが、姉様や冥琳、祭たちの言動の端々からそういった意図が感じ取れる。
 
 その姉様が、たかだか援助物資の輸送入に関する取り決めの使者にわたしを選んだ。
 
 『わたしを無防備に北郷の許に向かわせても心配ない』と思っているという事? だとしても、わざわざわたしを使者に選ぶ理由にはならない。
 
『そんなに一刀が呉を滅ぼさないか心配? そーねー……あっ、そうだ! ならいっそ、蓮華が一刀の子供を孕んで来るとかは? そうすれば次代の孫呉は確実に大陸の支配者よ♪』
 
 ……あれは冗談だと信じたいが、勢い余って『わたしの意志を無視するのか』と反論した時の―――
 
『無視するわよ。あなたの意志なら尚更ね』
 
 ……あの、鋭い眼が頭から離れない。
 
 政略結婚。孫呉の娘として生まれ、その宿命に誇りを持って懸命に生きて来たはずなのに、その言葉はどこか他人事のように響いた。
 
 これまで、家族として互いに愛情を持って生きて来て、わたしは今も変わる事なく姉様が大好き。……だからこそ、甘ったれた衝撃と……反発があった。
 
「見えて来ました」
 
「っ…………」
 
 王都・洛陽が遠方にその姿を現す。……今はつまらない事を考えている場合じゃない。
 
 孫呉の使者として相応しい礼節と威厳を以て、役目を果たす時なのだ。
 
 
 
 
「はじめまして、でいいのかな」
 
「お初にお目にかかる。我が名は孫権、呉王・孫策の実妹であり、此度は孫呉の使者として参った」
 
 ……本当に久しぶりの、蓮華。
 
 華琳や伯符にはそれなりに早い時期に会う事が出来てたけど、蓮華に会うのは前の世界以来だ。
 
 自然と顔が緩む。
 
 反董卓連合で初めて顔を合わせて、白装束に操られた魏軍との戦いでは助けてくれて、周瑜の策に乗せられて戦い合った。
 
 それから、捕虜になった蓮華と仲良くなって、呉の地を任せて、左慈たちとの最後の戦いに駆け付けてもくれた。
 
 そして…………
 
「(……“今度は”、守らないとな)」
 
 伯符も生きてる。周瑜も生きてる。今度はあんな終端を迎えたりはしない。
 
「ニヤニヤしたり急に強張ったり、相変わらず百面相がお好きなようで」
 
「ふおぅ……!」
 
 隣の散にほっぺたを(大分痛く)引っ張られて我に帰る。ちなみに今は恒例の出迎え中。同伴が散なのは、前に使者として呉に行ってもらった時に僅かなりと面識があるからだ。
 
 で………
 
「…………………」
 
 蓮華の横にはやっぱり思春。気のせいか、前の世界の時より警戒されてるような……
 
「…………………」
 
 ……気のせい違う。眼つきがかなり怖い。懐かしさに任せて迂闊な事したらスッパリ殺られるかも知れん。
 
 ごほんっ、と咳払いをしてから……
 
「俺は北郷一刀、一応同盟国の君主って事になる。よろしくね」
 
「ああ、貴公が我らに害を為さぬ限りに於いて、我らも互いに有益な関係を築きたいからな」
 
 なるべくフレンドリーに挨拶したつもりだったけど、何か軽いジャブで返された気がする。
 
 にしても……
 
「(貴公、ねぇ……)」
 
 固い、激しく固い。……でも、逆に俺には余裕が出来た。
 
「(緊張してるのか)」
 
 何だか、初々しくて微笑ましい。伯符の時よりずっとやりやすいし、そもそも警戒も腹の探り合いもする気はない。
 
『……わたしは、覇道などという修羅の道に興味はなかった』
 
 蓮華の本質的な願いは解ってる。俺がそれをちゃんと理解していれば、誤解や確執は起こらない。
 
「立ち話もなんだし、城に行こうか。仲間が歓迎の支度して待っててくれてるんだ」
 
「……仲間?」
 
 思春が眉を僅かに上げる。……まあ、確かに将軍や軍師に料理を頼むっていうのは異例だよな。
 
「心遣い感謝する。しかし宮廷に向かうのならまず、天子にお目通り願いたい」
 
「ああ、それなら大丈夫。陛下も歓迎会には出るって言ってたし。でもその前に………」
 
 俺が軽く差し伸べた手を、蓮華はたっぷり二十秒ほど躊躇ってから、握る。
 
 たとえ世界が変わっても、記憶を失くしても、俺は俺で、蓮華は蓮華だ。
 
「今度は、“俺個人”としてよろしく」
 
 結び直すまでもない。繋がっている。そう、信じてる。
 
 
 
 
「ふぅ…………」
 
 流石、帝の住まう王宮。呉にあるそれより一回り大きな庭園でわたしは、一人冷たい夜風に当たっている。
 
「(………まるで身内の宴会ね)」
 
 歓迎会とやらの式場で陛下と軽く挨拶した後(こんな事でいいのか不安になったが、陛下は料理の味見に忙しかった)、わたしと北郷は両国の貿易について駆け引きなど馬鹿馬鹿しくなるほど円滑に話を終え、その後は思わず尻込みしてしまうほどのばか騒ぎだ。
 
 ……途中で乱入してきたあの筋肉の塊は結局何なのかしら。
 
 緊張、疲労、酒気、視覚的な気分の悪さ、それらを払うために一人で外に出た。
 
「酔った?」
 
「少しばかり、な」
 
 その背後から、聞いているこちらの気が抜けるほど暢気な声が掛けられる。
 
 二人きりだと言うのに、思わず警戒するのが馬鹿馬鹿しくなってくる……から、意識的に自らを戒める。
 
「賑やかなものだな、貴公の陣営はいつもこうなのか?」
 
「大体ね。性格の濃い連中が揃ってるから」
 
 あれが、他国の使者を欺くための擬態なら大したものだ。
 
「…………………」
 
 何故だか、北郷がわたしの顔をじっと見ている。まるで探られているかのような錯覚に陥って、わたしは自分でわかるほどに表情を強張らせてしまった。
 
「わたしの顔に、何か付いているか?」
 
「いや、逆。おでこの赤い点が無いんだな〜って」
 
 赤い、点……?
 
「あれは孫家の後継が額に刻む証のようなものだ。別に孫家の人間が皆あれを刻んでいるわけではない」
 
 まさか黒子か何かとでも思っていたのか、この男は。
 
「あー、それで前はついてたのか」
 
「……貴公とは初対面のはずだが、何を言っている」
 
「いや、こっちの話。それより、その“貴公”ってやめない? 壁作られてるみたいで嫌だし」
 
 本当に馴れ馴れしい男だ。しかも全く隠す気がない。これが演技なら相当に食えない男だが…………よし。
 
「よく、人に無用心だと言われないか?」
 
「しょっちゅう。でも、君は信用していいって思うから」
 
 ……よく、相手の眼を見てそんな台詞を堂々と吐けるものだ。
 
「なら訊くが、ずっと甘寧がわたし達を見張っている事に気付いているか?」
 
「え゛?」
 
 その言葉に、北郷は面白いくらいに狼狽する。辺りをキョロキョロと見渡して、思春の姿がない事を確認してから、わたしに恨みがましい眼を向けてくる。
 
「居ないじゃん」
 
「戯れだ、許せ。だが、もし本当にこの場に甘寧が居た場合、貴公は容易くその首を奪われていたかも知れない。それでも無用心ではないと言えるか」
 
「言えるよ?」
 
 至極当然。そんな北郷の返事に唖然となる。やや有利に立ったと思っていた先の余裕がたちまち吹き飛んだ。
 
「ここで孫権が俺に何かすれば、俺たち(十呉)の同盟は決裂して戦争が起きる。君は、絶対にそれを望まない」
 
 初対面の人間にわたしの何が解るというのか、そんな怒りすら湧かないほど、荒唐無稽な告白だった。
 
「(…………………本気、だわ)」
 
 真っ直ぐにわたしを見てくるその眼を、奥の奥まで見透かした。
 
 その上でわたしは彼が嘘を吐いていないと判断“させられた”。
 
 あの眼は、思春がわたしへの忠誠を口にする時と同じ。それほど淀みなく澄んでいる。
 
「………何故、姉様がお前を簡単に信用したのか解った」
 
「ようやく“貴公”が無くなった」
 
 そんな事でいちいち嬉しそうな顔をするな。大体、“お前”呼ばわりされる方が嫌なものではないの?
 
「お前が、姉様以上に簡単に心を開いたからなのだな」
 
「……どうだろ。あいつの場合、何考えてるのかわからないトコあるからなぁ」
 
 難しそうな顔をして、北郷は首を捻る。……それには心底同意するわ。
 
「……少しはリラックス出来た?」
 
「りら……何?」
 
「ずっと、『呉の使者として侮られるわけにはいかない。だが同盟国との関係を円滑にするには、悪印象を持たれるのも良くない。友好的且つ威厳を持った態度を見せねば!』みたいな顔してたから」
 
「…………………」
 
 北郷、一刀。
 
「……お前も、姉様と同じだな」
 
「へ? 何が?」
 
「何を考えてるのかさっぱりわからない、という事だ」
 
 凄いのか凄くないのか、聡明なのか馬鹿なのか、話してみてもよくわからない。ただ………
 
「少し話しましょうか。あまり宴に混ざる気分じゃないわ」
 
 懐かしさにも似た不思議な安心感が、この男の存在を強く認めていた。
 
 
 
 



[14898] 七章・『亡くした人』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/11/30 22:32
 
 会うのは初めて、それは間違いない。
 
「だけど、そんなに簡単に援助を約束していいの? あなたが呉にそこまで助力する理由でもあるの? それに……他国の問題への過干渉は感心しないわ」
 
 いくら考えても理由は解らない。だけど……懐かしい。話しているだけで、とても安心する。
 
「何言ってるんだよ、そのうち俺たちで大陸全体の問題と向き合わないといけないのに、これくらいで過干渉どうこう言ってられないだろ?」
 
「……“俺たち”というのは?」
 
「ん~……星たち、桃香たち、伯符たち、後は……これからの頑張り次第かな」
 
 こんな事を、平然と言ってのける。怪しいという表現すら生温いと頭では解っているのに……疑う気にもならない。
 
 そんな自分が解らない。
 
「真名で言われても解らないわ。……本当に非常識な考え方をするのね、あなたは」
 
「元が余所者だからさ。それでも大分染まって来たつもりだったんだけど」
 
「……思い違いよ、それは」
 
 そんな心に抗するように努めて真面目な話題を出しては見るけれど、主導権は完全に一刀が握っている。
 
 これが水面下での腹の探り合いなら、わたしは容易く手玉に取られている事になる。
 
 利益を求めて他国に干渉するための薄っぺらな甘言。普段のわたしなら、絶対にそう思っているはずなのに………。
 
「思っていたより普通だなって、最初にあなたを見た時はそう感じたわ」
 
「へぇ……ん? なら会う前はどんな風に思われてたんだ?」
 
 口が不思議なほど動く。渇きに水を求めるように………
 
「天の遣いを名乗り、都の実権を握り、地獄の使者に貶められ、悪辣な手段を以て連合を瓦解させた男。………もっと不気味な印象を持っていた」
 
「……改めて聞くと胡散臭いな、俺」
 
 まるで――――
 
「………………」
 
「孫権?」
 
「……いや」
 
 不意に心に浮かんだ言葉を、わたしは口にしないまま飲み込んだ。
 
「何でもないわ」
 
 ―――まるで、亡くなった大切な人と話しているようだ、なんて。
 
 
 
 
「ごひゅりんはま、ヒック……また知らない女のひろろ……」
 
「……雛里、酔ってるだろ」
 
「酔ってまふ……ごひゅりんはまに……」
 
「そんな台詞誰に習った!?」
 
「せーさんれふ!」
 
 あれからしばらく、重要な話から他愛もない話をわたしと続けていた一刀は、フラりとやってきた鳳統に捕まった。
 
 泥酔して足取りの覚束ない鳳統に縋りつかれながら、一刀は片手を上げて「ちょっとごめん」とわたしに言って宴会に戻って行く。
 
「………………」
 
 わたしは一刀と共に宴会に戻る事はせず、月明かりに照らされた広い庭園をゆっくりとした歩調で回る。
 
 そして、一刀が宴に戻ってから十分な時間が過ぎた頃に、“呼ぶ”。
 
「思春」
 
「ここに」
 
 打てば響くように声が返って来る。声を便りに振り向けば、さっきから普通に視界に入れていたはずの木の影に思春が立っていた。
 
 目の前にいるというのに、まるで霧か朧のように気配が希薄。これが隠密を旨とする思春の本領だ。
 
「いつから見ていたの?」
 
「この都に入ってから、一瞬たりとも蓮華さまから眼を離した憶えはありません」
 
「(やはり、か)」
 
 思春の居場所を知っていたわけでも、その気配に気付いていたわけでもない。
 
 それでも、確信があった。
 
 魔王と怖れられる男の治める都で、思春がわたしを放っておくはずがないと。
 
「彼をどう見る?」
 
「余程の大物か、類稀な阿呆か、いずれにしろ変わり者ですね」
 
 思春の言葉に心から頷く。一刀は結局、最後まで思春の存在に気付かなかった。
 
 身を守る術も持たずに平然とわたしと二人になり、その首を無防備に差し出していた事になる。
 
 もはや演技とは思えないが、しかし命を狙われる可能性に気付いていなかったとも思えない。
 
『君は、絶対にそれを望まない』
 
 ……あんな理由で、簡単に相手に手を広げて歩み寄る。解っている、一刀はそういう男だと。
 
「静観を貫いてくれたのは、ありがたかったわ」
 
「蓮華さまが途中から語調を変えられましたので、それを静観の合図と受け取りました」
 
 ………………え?
 
「語調?」
 
「……お気付きでなかったのですか。奴の事を名で呼んでもいたようですが」
 
「え? えっ!?」
 
 意外そうな思春に言われて、わたしは自分の言動を振り返る。
 
 ……そういえば、途中から全然違う喋り方をしていたような。そうだ、“一刀”とも呼んでいた。
 
「(なっ、なんで……)」
 
 口にしていた事に気付かなかった。頭の中で彼を指す時も当たり前のように“一刀”と呼んでいた。
 
「ほ、北郷の将たちが皆そう呼ぶから、つい……っ!?」
 
「……いえ、私に抗弁して頂いても」
 
 咄嗟に出た言い訳に、思春も眉を困ったように潜める。自分でも苦しいと思うけど、他に理由が思いつかないし……。
 
「ところで……」
 
 わたしが少し動転していたその時、思春の眼が鋭く細まる。その視線の先はわたしの……後ろ?
 
「いつまでそこに隠れているつもりだ?」
 
「きゃっ!?」
 
 思春が睨んだその場所に、いつからあったのか、幅の広い黒塗りの棺が転がっていた。……何故、こんな所に棺が?
 
 そんなわたしの疑問を余所に、棺がゆっくりとその蓋を開く。
 
「おや、バレた」
 
 悪びれもせずに顔を出したのは……趙子龍。
 
「盗み聞きとは……趣味が良いとは言えんな」
 
「それはお互い様というものだ。そうした理由も含めて、な」
 
 殺意すら籠もった思春の眼光をそよ風のように受け流して、趙雲は薄く笑う。笑って、わたしに眼を向けた。
 
「もっとも、無用の心配だったようですがな」
 
 軽く頭を下げ、「では、私も宴に戻ります。失礼」と断ってから、趙雲は棺を引きずって戻っていく。
 
 棺の端の方にHOUTOKUと書かれた不思議な紋様が見えた気がした。……あの棺、何?
 
「部下の方は、主ほど無用心ではないようですね」
 
「……彼女たちの苦労が忍ばれるわ」
 
 一刀の非常識を支える趙雲の背中に、姉様に振り回されるわたし達の姿を重ねて、親近感にも似た同情を抱く。
 
 覗き見については、別に咎めるつもりはない。こんな庭園の真ん中で隠し話もないものだ。何より趙雲の言った通り、隠れていたのはお互い様。
 
 でも……
 
「思春、趙雲に気付いていながら、あんな意地悪な質問をしたの?」
 
 語調が変わってしまっていた事、彼を一刀と呼んでしまっていた事、それを思春に指摘されて狼狽えた事、それらを見られていた事と趙雲の意味深な笑みを思い出すと……少し恥ずかしい。
 
 でも思春は………
 
「…………………………………いえ、実は趙雲の存在に気付いたのは、蓮華さまと話している最中でした」
 
 長い沈黙を挟んで、申し訳なさそうにそう言った。
 
「思春が、本当に気付いていなかったの?」
 
「……恥ずかしながら」
 
 ……………………………………あの棺、本当に何なのかしら。
 
 などと、どうでもいい事を考えてしまっている頭を振って切り替える。
 
「………思春、わたしも姉様と同じように、北郷を信じてみようと思う。それが呉と、この大陸の未来に繋がると」
 
 これから呉へと帰り、『姉様の気まぐれ』を皆が肯定的に思えるように働き掛ける。
 
 信頼出来る盟友と有益な利害関係を長く続けていけるのならそれは、少なくとも覇道などより余程魅力的な道であるように見えた。
 
「御意の儘に。ただ……」
 
「ただ?」
 
「釘を刺しておく必要は、あるかも知れません」
 
 思春がボソリと呟いた一言は、小さくてよく聞き取れなかった。
 
 
 
 
「水…………」
 
 あれからしばらくして、蓮華と思春をそれぞれ客室に案内した後も、俺を含めた何人かは飲み続けていた(風と散と恋以外)。
 
 自分が酔っ払った時でもやっぱり俺が皆のフォロー役になる法則でもあるのか、ふと小用から戻ったら皆潰れてた。
 
 散と風は酔ってもないくせに棺の中で二人して寝てるし、俺は一人一人を部屋まで運んで寝かしつけ(貂蝉は放置したけど)、さっきようやく自分も寝ようかと思ったところで……気持ち悪くなってきた。
 
 元々酔ってたのにおんぶや抱っこで何往復もしたんだから無理もない。
 
 というわけで現在、俺は水差しでももらおうと廊下を千鳥足で歩いているのだ。
 
「水…………」
 
 頭フラフラする。こんなに酔ったの久しぶりかも。
 
「飲め」
 
 寝言みたいにぼやいた俺の前に、器に注がれた水が差し出された。
 
「あ、サンキュー」
 
 頭回らないまま、差し出されたそれを一気に飲み干してから………
 
「(ん? 誰?)」
 
 と気付く。
 
 手にした水から視線を上げて、俺にこの水を寄越してくれた人物を見つけた。
 
「……………甘寧?」
 
「酔っ払いと話すつもりはない。少しは正気に戻ったか」
 
 予想外の人物の登場に、俺の思考は大分クリアになっていく。言われなくても一応正気なつもりだけど。
 
「一応大丈夫。どうしたの? 廁?」
 
「……………………」
 
 無視された。しかも、何だか値踏みするような不躾な(で良いんだっけ)視線で頭から足先までジロジロと見られる。
 
「……何か、用?」
 
 流石に落ち着かなくなった俺は、若干引きつり笑いを浮かべながら訊いて…………
 
「貴様は、孫権さまを愛しているか?」
 
 不意打ちかつヘビーなクロスカウンターをお見舞いされた。
 
 
 
 



[14898] 八章・『この命に替えても』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/03 21:31
 
「貴様は、孫権さまを愛しているか?」
 
「…………………」
 
 脅迫じみた有無を言わさぬ口調と、口にするロマンチックな単語との温度差がデカい。
 
「えっと………?」
 
 酔いなんかすっかり醒めたけど、素で思考が追い付かない。何で思春がいきなりこんな事を?
 
「質問に応えろ」
 
 睨まれて、まるで剣先を喉元に突き付けられているみたいなプレッシャーを感じる。
 
 ヤバい。ごちゃごちゃ考えて時間を掛けるだけで斬られそうだ。……いや、そもそも考える必要なんて無いか。
 
「ああ、愛してる」
 
 何はともあれ、俺の解は決まってる。たとえ思春の意図を知っていて、それを回避出来る回答があったとしても、これに関しては嘘を吐く気がないから。
 
「……そうか」
 
 複雑そうな溜め息一つ、気を取り直して思春は俺を睨み付ける。その表情を訳すなら、『ここからが本場』といった感じ。
 
「それは孫権さまを妻に迎え、十呉一丸となって大陸を束ねる、という意味でいいんだな?」
 
 ……まさか、思春の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。呉が本当の意味で心を開いてくれるのは、まだまだ先だと思ってたし。
 
 ……が、俺は思春の意図を取り違えていた事を続く言葉で知る。
 
「孫権さまだけを愛し、決して悲しませず、夫として誇れる男で在るという意味でいいんだな?」
 
「…………へ?」
 
 確認っぽい口振りの脅迫だった。怖がるより先に呆気に取られた俺に、思春はさらに続ける。
 
「貴様は常識外れな女好きだと聞いている。愛しているなどとのたまいながら、孫権さま以外の女にうつつを抜かすなどという事は……もちろん無いだろうな」
 
 ちょ……っ!?
 
「誰がそんな事言った!? 宴会の時か!」
 
 星、風、霞、その辺りか? そういう話題を平然とぶっちゃけそうなのは。
 
「鳳徳だ。前に呉に使者として訪れた時に勝手に色々と教えてくれた」
 
 あんにゃろ……陰で何言ってるかわかったもんじゃねー。
 
 と、とにかく! 今は思春の誤解を解かないと。
 
「あいつに何聞いたのか知らないけど、俺は常識外れとか言われるほど色ボケてないから!」
 
 そう、俺が女好きというより、俺の周りに魅力的な子が多すぎるだけだ。
 
「そうか。それはつまり、孫権さまだけを愛するという意味で良いんだな」
 
 少し安心したように釘を刺されて、しかし俺は―――
 
「だが断る」
 
「……………何だと」
 
 さっきより三割増しに冷たい眼光。だけど俺は退くわけにはいかない。
 
「……もう一度だけ言うぞ。孫権さまだけを愛せ」
 
 ついに命令形ですか。怖いぜ思春。でも退かん。
 
「俺は孫権の事を本気で愛してる。だけど、星や恋、桃香に関羽、稟、舞无、風、雛里、散、霞、翠、孔明……同じように大好きな子だっているんだ」
 
「十分多情ではないか!」
 
 ……ごめんなさい、言ってて俺も自分でそう思いました。
 
「かも、知れない。だけど……いや、だからこそ、嘘でも皆を“好きじゃない”なんて言いたくない。俺が皆を好きだって気持ちを、嘘にしたくない」
 
 俺の気が多いのは……まあ認めるとしても。俺が皆に抱いてる気持ちを軽いものだと思われるのは絶対に嫌だ。
 
「……言い残す言葉はそれだけか?」
 
「……言い残す、ですと?」
 
 目の前で膨れ上がった刺すような殺気に、俺は反射的に半歩退った。そこを一筋の紅い光が奔り、剣圧で前髪が揺れる。
 
 確認するまでもなく、思春の斬撃。
 
「うおわぁっ!?」
 
 遅すぎる悲鳴と共に、俺は大きく二、三歩バックステップ。そんな俺に、思春は太刀を逆手に持って歩み寄って来る。
 
 ………何か、青白い炎が幻視出来る。
 
「落ち着け! ここで俺を斬ったら……えーっと、せっかく上手く行ってる同盟の話がパーになるぞ!?」
 
「貴様のような軽薄な男と共に行けば、孫呉の未来は地に堕ちる。安心しろ、“貴様の大好きな”孫権さまは、私が命に替えても都から救い出してみせる」
 
「だから待てって! まずその剣を置こう? 話せばわか……」
「問答無用ーーー!」
 
 言葉通りに容赦なぬ襲いくる鋭い斬撃の初撃を何とか受けて、二撃を跳び退いて躱す。この人マジなんですけど!
 
「あまり動くな、苦しんで死ぬ事になるぞ」
 
「こんな死に方認めるか!」
 
 手摺りに足を掛け、中庭にジャンプ。三十六計逃げるに如かずだ。
 
「逃げるか卑怯者!」
 
「逃げるわ! 大体何で甘寧が俺と孫権の仲人なんかやってんだよ!? しかもメチャクチャなやり方で!」
 
「今から死ぬ貴様に教える必要はない」
 
「ふざけんな! 何でそんなワケわからん理由で死ななきゃならないんだよ!」
 
「刺されても文句の言えん立場だろうが貴様は! それとも蓮華さまのみを愛すると誓うか!?」
 
 思春が追って来る。受けるだけで精一杯の斬撃が俺に止めどなく振り抜かれる。だけど……
 
「俺は命懸けでこの想いを守りきってみせるぅ!!」
 
「ならば死ね! 愛する女の手で逝けぬのは不服だろうがな」
 
「俺、甘寧の事も好きだぞ?」
 
「っ……やはり死ね!!」
 
「何でだよ!?」
 
「会ったばかりで何が『好き』だ! 貴様それでよく想いが軽くないなどとほざけるな!」
 
「それ誤解だって! そう思われるのも仕方ないけどちゃんと理由があるんだってば!」
 
「もはや聞く耳持たん! 我が『鈴音』の錆となれ!」
 
 俺と思春の(一方的に)命を懸けた鬼ごっこは、真夜中の騒動を聞き付けた蓮華が駆け付けるまで続いた。
 
 
 
 
 思春が一刀を追い回している光景を、中庭の片隅に縦に置かれた棺が覗いていた。
 
「あっはっはっは♪ さっすが一刀やなぁ、腹痛い!」
 
「助ける必要なさそうですね。彼女が本気なら、一刀はとっくにあの世行きかな、と」
 
 その棺の蓋が開き、中から二人の女性が出てくる。一人は霞、一人は散。両者共に北郷軍五虎将に数えられる人物である。
 
「霞も、潰れたわけではなかったようで」
 
「あんなんで潰れるほど酒に弱くないよってな」
 
「りーだーは?」
 
「今ごろ孫権の部屋でも見張っとんのやろ」
 
 霞と他愛ない会話をしながら、散は手にしていた短戟を背中の鞘に納める。もはや必要ない、という意思表示だ。
 
「とりあえず『孫権だけが好き』と言っとけばいいでしょうに、根っからのはーれむ野郎なのかな、と」
 
「はーれむ言うんはよーわからんけど、見たまんまやろ。ただのアホやで」
 
「さりげにあたし達の名前も混じってましたしね」
 
 言いにくい事をさらっと口にして、近い内に一刀を酷い目に遭わせようかな、と考えている散は、眠たそうに大きく欠伸をする。
 
「あたしはこれで失礼します。子供の遊びに付き合うのはしんどいですから」
 
「ほーい。ウチはもうちょいあの追っ駆けっこ見物しとるわ」
 
「霞も若いですね、おやすみなさい」
 
 眠い、と言ったわりには妙に足取りの軽い散の背中を見送って、霞は一人、一刀と思春の鬼ごっこに目を向ける。
 
「文字通り自分の撒いた種や、精々気張りぃな、一刀」
 
 その一言だけに万感を込めて、呷った酒のせいにして満面の笑みを浮かべる。
 
 世界を美しく照らす月明かりが、一段と綺麗な夜だった。
 
 
 
 
「それじゃ孫権、甘寧、また」
 
「……貴様、死ぬ寸前まで痛めつけたはずなのに、何故夜が明けたら平然と我らを見送っている」
 
「割といつもの事だしなー……」
 
 思春の不機嫌そうな問いに、一刀が何でもないように応えた。……あれがいつもの事って、一体普段どんな生活を送っているの?
 
 それよりも……
 
「興覇、何か隠しているのではないだろうな」
 
 少し厳しい口調で再確認する。昨晩、何か慌ただしい音を聞き付けてわたしと、偶然行き当った趙雲とが向かってみたら、一刀が死にかけていた。
 
 何でも、一刀がいきなり思春の真名を呼んだ、と一刀本人が言うものだから、それ以上深くは訊けなかったけれど、そもそも何故あんな時間に思春と一刀が会っていたのかは謎のままだ。
 
「滅相もありません。私はただ、この浮ついた不埒者に相応の鉄槌を下したまで」
 
「酷い言われようだ」
 
「何か言ったか」
 
「とんでもございません」
 
 思春が太刀の柄に手を掛け、一刀が背筋を伸ばす。……とても一国の主の振る舞いではないわ。
 
「こやつが女に追い回されるのはいつもの事、そして大抵は自業自得。孫権殿も気にせぬ事です」
 
「まあ……そちらが納得しているのなら良いのだが」
 
 趙雲の言葉に、わたしは渋々引き下がる。はぐらかされているのは一目瞭然だし、気になる事が幾つもある。
 
 だけど……時間が無い。
 
「こほんっ……!」
 
 思っていた以上にわざとらしい咳払いに自分で気まずくなりつつ、わたしは一刀の方へと向き直る。
 
 そんなわたしの意図を察したのか、一刀がいつもの緩い笑顔でわたしを見る。
 
「今度はこっちが遊びに行くよ。大陸が平和になった後にでも、ね」
 
「わ、わたし達は別に遊びに来たわけではない。それに……」
 
 昨日の夜、一刀と別れた後からずっと考えていた事を……口にする。
 
「…………蓮華でいい」
 
「え………いいの?」
 
「昨日からわたしは、いつの間にか何度もあなたを“一刀”と呼んでしまっていたからな……。盟友となる以上、対等な関係でありたい」
 
 昨日程立に聞いた話だと、天の国では親しい者しか“名”を呼ぶ事はしないらしい。それはつまり、わたし達でいう真名と同じようなものなのだろう。
 
 わたしの一大決心を受けた当の一刀は、釈然としないようにポリポリと頬を掻いていた。
 
「気持ちは嬉しいんだけど、俺の“名前”ってこっちの真名とは結構ニュアンス違うよ? 確かに仲良くもない奴に呼ばれたら『馴れ馴れしいなこいつ』くらいは思うけど」
 
「……良いのだ。少なくとも、わたしはそれを真名だと認識していたのに呼んだ。そこに大きな意味があるのだから」
 
「………無理してない?」
 
 気遣うような、労るような視線が、今はただただ腹立たしい。
 
 そんなわたしの気持ちを代弁するように、趙雲が一刀の足を踏んだ。……彼女、北郷軍一の忠臣だと聞いていたのだけど。
 
「じゃあ、有り難く呼ばせてもらうよ、“蓮華”」
 
 途端―――――
 
(ドクンッ)
 
 一際大きな胸の鼓動と………
 
『……私を女として認めるならば、私のことは真名で呼んで欲しい』
 
『これで私は……んっ、ただの女になれたんだ』
 
『ああ……一刀……初めての人があなたで良かった……』
 
 頭の奥に響く、“わたし自身の声”。
 
「(これは……なに……?)」
 
 一瞬視界が眩むほどの自失から―――
 
「蓮華?」
 
「はいぃっ!」
 
 覗き込んでくる一刀の顔が引き戻す。鼓動がうるさい、顔が熱い。
 
「わかったなら良い! では、わたしはこれで失礼する!」
 
 この顔を見られたくなくて、わたしはそのまま背を向けて呉を目指す。
 
「わかりやすい御方だ」
 
 聞こえるように漏らす思春の一言は無論無視する。
 
「(認めたくないものね)」
 
 結局姉様の思惑通り、それを認めたくなくて、わたしは自分の気持ちに薄っぺらな蓋をする。
 
「(また会いましょう、一刀………)」
 
 子供のように手を振っている姿を振り返りもせず確信して、心の中だけで再会を約束した。
 
 ――――そう、近すぎる再会を。
 
 
 
 



[14898] 九章・『嵐の前』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/06 22:21
 
「……これからどうなるのかなぁ」
 
 いつもの仕事風景、いつもの執務室、いつもの顔ぶれ。蓮華と別れた翌日のそんな一時に、俺は少しナーバスな呟きを漏らす。
 
 半分以上独り言だったのに、皆の瞳が一斉に俺に集まった。
 
「どうもこうも、曹操を倒せば終わりでしょう」
 
 『仕事中だから』と装備している眼鏡を軽く押し上げた稟が、俺が言葉にしなかった部分も正確に読み取ってくれる。
 
「……今やこの大陸に、曹魏を越える王も勢力も存在しません。彼の国を打ち破る事が出来れば、太平はすぐそこです」
 
 胸の前でギュッと両の拳を作る雛里にも、並々ならぬやる気が感じられる。
 
 ……確かに、前の世界でも白装束や周瑜が引っ掻き回したりしなければ、華琳と決着を着けた時点で大陸は平定したも同然だった(正確には、道士に操られた華琳を助けたんだけど)。
 
 伯符と手を結び、蓮華も気を許してくれた(と思う)今、最大の障壁は曹魏だけ。
 
 理屈は解るんだけど………
 
「うん、その曹操の出方がどうなるかなぁって思ってさ」
 
 そう簡単に行くかどうか。前の世界でも華琳には随分苦しめられた。
 
 気付かれないよう秘密裏に国境に兵を集めてたのも見抜かれ、勝った勢いで攻め上ったら補給路を断たれて追い返されたなんて事もあった。おまけに、兵法の基本である『敵より多くの兵を』って鉄則でも、悉く上をいかれていた。
 
 そんな状況でも勝ち続けられたのは、間違いなく愛紗たちのおかげだ。
 
 ………そして、愛紗や鈴々、朱里に支えられていた桃香は、負けた。
 
「曹操さんもお兄さん以上にはいぺーすでぱーりーしてますからねー。いくら北を制したと言っても……というより、制した直後だからこそ今は動けないと思うのですよ」
 
「……風、解る言葉で話してくれる?」
 
 やっぱりいつも通りにのほほんと、けど重要なアドバイスをくれる風の頬っぺたを、稟が手遊びのように引っ張る。
 
 ………華琳は今、動けない。俺たちも連戦続きだったとはいえ、魏ほど無茶な戦をしてたわけじゃない。
 
 つまり――――
 
「攻めるなら今、って事か」
 
 声が無意識に強張った。多分、顔もそんな感じ。
 
「……我が国も決して万全の状態とは言えません。でも、この機を逃せば魏は河北の豊かさを力に変え、太刀打ちの出来ない怪物へと成長するでしょう」
 
 不安に揺れていた俺の言葉を、いつもは弱々しい雛里が力強く肯定する。
 
「(弱音吐いてられないな……)」
 
 前の世界での俺の居場所にいる桃香が、俺が前の世界で勝てた華琳に負けた。
 
 『俺がいたから前は勝てた』なんて馬鹿馬鹿しい自惚れは毛ほど持ってない。
 
 今の桃香の傍には星も、恋も、翠も紫苑もいなかったんだ。それに華琳だって前の世界とは違う。
 
 “世界が違う”。前みたいに上手く行く保証なんてないし、不安も当然ある。
 
 でも………
 
「(ここにいる皆だって、愛紗たちと同じくらい頼もしいもんな)」
 
 そう思ったら、不思議なくらいに緊張が抜けた。
 
「曹操はもはや漢王朝には屈するまい。貴様の裁量に任せる。朕の名を使って正義を名乗るも構わない」
 
「皇帝陛下のお墨付きか、心強いね」
 
「………貴様、からかっているのではあるまいな。いや、からかっているだろう」
 
「からかってなんかないよ。本当に感謝してる」
 
 そうやって協君にもみあげを引っ張られて痛い思いをしていた時に、“それ”が俺たちを呼ぶ。
 
「(ああ……前の世界は、随分俺の都合のいいように流れてたんだな……)」
 
 後に俺は、そんな言葉をしみじみと噛み締める事になる。
 
 
 
 
「………………」
 
 迷っているつもりはない。私は華琳さまの剣であり盾。そもそも考える必要すらないのだ。主に使われる武具自体の意志など無用のものなのだから。
 
 それでも、どこか憂いにも似た感情を抱きながら、私は城の回廊を歩いていた。
 
 皆が事に備えて奔走し、民は明白な戸惑いと恐れを抱く中、華琳さまの姿は見えない。
 
 別に何日も姿を消していたというわけではない。朝から一度もお見かけしていない、ただそれだけの理由で、私は無理矢理時間を作って華琳さまを探していた。
 
「(自室にも執務室にも玉座の間にも居られなかった。街に出られているなら、少し時間が足りないか)」
 
 流石に街中を探すほどの暇はない。むしろ華琳さまが視察以外で街を回っているのなら私の心配は無用のものだったと結論づけて、私は城をもう一回りしようとして…………
 
「(あ………)」
 
 その御姿を見つけた。広い庭園の中程にある東屋に座り、何か書物を読んでいるようだ。
 
「(休憩の妨げにならなければ良いのだが……)」
 
 などと思いつつも、私はやや早足で華琳さまの許へと向かう。姉者と違って本心を“表に”出さない事には慣れてはいるが、さて。
 
「ねぇ、秋蘭」
 
「はい」
 
 私が近づいてすぐ、華琳さまは書物に目を向けたまま私に声を掛ける。おそらく、私が華琳さまを見つけるより先に私の存在に気付いていたに違いない。
 
「私たちが立っているこの大地は、丸いのだそうよ」
 
「…………は?」
 
 透明な笑顔を浮かべた華琳さまの脈絡のない発言に、私は無様な返答を返してしまった。
 
 不覚……しかし、大地が丸い? どういう事だろうか。
 
「限り無く広がる世界に比すれば私たちは矮小に過ぎ、それゆえに大地の形すら解らない、という事らしいわね」
 
「失礼ですが……何の話か理解しかねます」
 
「読んで御覧なさい」
 
 薄く笑って、華琳さまは読んでいた書物の表紙を私に見せる。これは……
 
「『天界常識論 “それでも地球は回る” 著・宝慧』……何でしょう、これは」
 
「音々音に借りたのよ。城の蔵書は全て読んでしまったしね」
 
 何でもない事にように言ってのける華琳さま。しかし……これは……。
 
「まだ……あの男に拘っておられるのですか……」
 
「あら、妬いてくれているのかしら?」
 
「そこまで不遜……には“なりたくありません”よ」
 
「ふふ……正直な子は好きよ」
 
 北郷一刀。思えば、華琳さまの様子がおかしくなったのも奴との接触がきっかけだったようにも思える。……ただ、それを言うなら“時代が動きだしてから”だ。考え過ぎだとは思うが。
 
「私との戦いで死に損なう事が出来たなら、この手にする価値はあるのか。それとも……手にした瞬間にその価値の全てを失ってしまうものなのか……。掴み取るまで解らないのが興とも言える。……見方によっては、これも執着というのかしら?」
 
 常と変わらない余裕と覇気を纏わせて、華琳さまは私の眼を見る。……逸らせない。
 
「御意の儘に。華琳さまのお望みとあらば、彼の者の首を落とすも鎖に繋ぐも私たちが叶えましょう」
 
 結局、私は出過ぎた言葉を飲み込む事にした。……いや、その必要性を感じなくなった。
 
「しかし華琳さま……この妖しげな教典に書かれている与太話を信じておられるのですか?」
 
「信じている、というわけではないけどね。作り話にしても、これだけ趣向を凝らせていれば中々面白いと思わない?」
 
「確かに」
 
 二三、他愛ない話を続けてから、華琳さまは所用で席を外された。
 
 立ち去る背中。小さな……しかし誰より広く大きく映るその背中を、私は静かに見送る。
 
「(心配、無用か)」
 
 敵わない。絶大の信頼を伴った安堵を得て、私は決意を新たに進み出す。
 
 
 
 
 秋蘭と別れ、再び一人になった華琳は……城の鐘楼の上、城壁よりもなお高いその場所に立っていた。
 
「………………」
 
 少し冷たく、強い風に頬を撫でられて、少女はただ遠くを見る。
 
 波紋一つ揺れない水面のように静かな横顔からは、一切の感情が読めない。だからこそ芸術とも見える一枚の絵画のようだった。
 
「己が立つ大地の事すら解らない、小さな人の身……か…………」
 
 儚く、微笑む。やはりそこに心の揺らぎは広がらない。
 
「それでも、足跡くらいは見えるものね」
 
 水のように、風のように、火のように、空のように、形は無く、しかし多様な顔を持つ。
 
「……ここまで来たのよ、引き返せない道を」
 
 誰にともなく零れた言葉は、儚く、しかし深い。
 
 遥か続く彼方を見つめる少女の心を、誰一人として知る術は無い。
 
 ―――その心を持つ少女自身にさえも。
 
 
 
 
 いつものように朝起きて、以前は一人で食べていた朝食を食堂で誰かと摂る。
 
 それは朝稽古で傷だらけになった一刀だったり、その一刀を叩きのめした趙雲だったり、食事の匂いに誘われてやってくる呂布だったり、時折学問を教えてくれる軍師たちであったりする。
 
 拙く、質問ばかりで皆の手間を増やしながらも政務に携わる。しかしそれを活かさぬつもりはない。
 
 一つ一つの事柄、文面に並ぶ一字一句について思考を巡らせ、考える。
 
 役に立っているなどとは言えん。しかし充実した何かがある。
 
 誰も近寄れぬ高貴な存在として“飼われていた”時とは違う、生きているという強い実感。
 
「(む………)」
 
 不意に、これが夢だと気付いた。代わり映えせぬ日常を夢にまで見るとは、眠った気がせん。
 
 苦笑混じりにそう思った瞬間、目に映る光景の全てが紅蓮の炎に包まれた。
 
 夢だと判っているくせに、朕は無様なほどに狼狽えてしまう。
 
 そして―――――
 
 
 
 
 夢から覚めて、その先に見たモノを忘れた。
 
 
 
 



[14898] 十章・『隠されし爪』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/09 22:26
 
「………これでもう何日だ?」
 
「二週間くらいですねー。……ぐぅ」
 
「寝るな!」
 
 蓮華が洛陽から呉に戻ってすぐ、華琳との決戦の準備に掛かろうとしていた俺たちの出鼻を挫くように一つの報告が舞い込んで来た。
 
『蜀の劉障が、漢中に向けて一大決起の許に兵を挙げた。応戦したが、敵には優れた将が揃っており、状況は思わしくない。可及的速やかに援軍をお頼み申し上げたい』
 
 概ねそんな内容の、張魯からの援軍要請。俺たちはすぐに動ける兵を集めて、霞を筆頭に恋、稟、舞无に統率を任せて出陣してもらった。
 
 そして、霞たちが遠征に出てから二日と経たない内にさらなる悪報が届く。―――すなわち、曹魏から王都に向けての出兵。
 
 魏がこれ以上巨大な勢力にならない内にこっちから仕掛ける予定だったのに、逆に先手を打たれた。
 
 雛里たちの話を信じるなら、華琳はとても兵を起こせる状態じゃないはずだけど……それでも無視するわけにもいかない。
 
 俺、星、風の三人は都に散、雛里、協君を残して兵を率い、虎牢関に籠もって魏軍に応戦した。
 
 ……というか、している最中だ。
 
「矢を射掛けろ! 煮え湯を浴びせろ! 城壁に誰も上らせるな!」
 
 今日二度目の襲撃。遠くから近づいてくる夏侯の旗印に向けて、城壁の上から皆が矢を嵐のように斉射する。
 
 虎牢関の城壁は高く、硬い。おまけに地形が守りに向いていて、普通に戦う分には真正面からぶつかるしかない。
 
 城壁を登ろうとしても登り切れずに途中で落とされ、城壁を破ろうとしてもちょっとやそっとじゃびくともしない。
 
「(難攻不落って、こういうのを言うんだろうな)」
 
 前の世界では恋が自分から打って出てくれたのが幸いしたけど、こっちの手の内にあるとこんなに頼もしい物は無い。
 
「(でも……いや、だからこそ………か)」
 
 華琳が、それを解ってないとは思えない。虎牢関の防御力は連合の時に経験してるはずだから、なおさらに。
 
「(一体、何を考えてる………?)」
 
 そんな、もう幾度となく繰り返した疑問を反芻する俺の視界を……
 
「―――――――」
 
 声を上げる間すら許さず、鈍色の鏃が埋め……
 
「はっ!」
 
 次いで、紅い軌跡が払った。
 
「うわっ!?」
 
 遅すぎる悲鳴を上げて跳び退る俺は……砦の下から矢を射られて、それを星の槍が払い除けてくれた、という一連の出来事に今更のように気付いた。
 
「城壁の上だからと気を抜くな。戦場での気の緩みは即、死に直結する」
 
「ご、ごめん!」
 
 かなり本気で、しかし静かに怒る星に睨まれて、俺はすぐさま頭を下げる。
 
 確かに気が抜けてた。………危うく、死ぬトコだった。
 
「………こんな高所にいる人一人の頭を正確に狙い射つとは、流石と言うべきか」
 
 星の感嘆に促されるように下を見ると、矢と兵士のごった返す戦場でも一際目立つ青い影。……秋蘭か。
 
(ジャーン! ジャーン! ジャーン!)
 
 とても突破に繋がるとは思えない功城戦をしばらく続けて、銅鑼の音と共に魏の軍勢が引き上げていく。
 
 その光景を……
 
「むー……」
 
 風が、相変わらず飴をくわえたままで、難しい顔をして見送ってる。
 
「……妙だな」
 
 それは星も同じ。秋蘭……というより、華琳の行動に違和感を覚えてるのは俺だけじゃない。
 
「いつかのように、遠方から間道を抜けて都を目指すつもりか?」
 
「曹操が二度同じ手を使うかなぁ」
 
 星の考えにもイマイチ信憑性が無い。連合の時に華琳たちが通った間道は遠回りな上に大軍で通るには不向きだ。
 
 それに、当然今度は俺たちも相応の準備をしてる。……そして、やっぱりそれを華琳が解ってないとは思えない。
 
「ふむ……これをどう見る。軍師殿?」
 
「そうですねー………」
 
 俺にも星にも解らない。当然頼りにするのは我らが頭脳。
 
「囮、もしくは罠、ですかねー」
 
「どゆこと?」
 
「本来消耗戦を一番避けたいのは曹操さんのはずですし、何より、曹操さんが袁紹さんのような無謀な功城戦を繰り返すわけもないのです。とすれば、別の狙いがあるという事になるのですが……」
 
 風はそこで区切り、また眠そうな顔になる。
 
「考えられるのは、ここに十軍を引き付けておく事、もしくは隙を見せて関から兵士を誘き出す事、この二つが有力かとー」
 
「う~ん……」
 
 風の説明はよく解る。でも………
 
「引き付けておく事が狙いならば、既に我らは奴らの術中にある事になる。今すぐにでも攻勢に転じるべきだ。しかし、誘きだす事が狙いならば迂濶に打って出るわけにもいかん。……厄介だな」
 
 そう。星の言う通り、あっちの狙いがどっちかによって採るべき行動が変わって来る。大した問題の解決になってない。
 
「風はどうすればいいと思う?」
 
「風はこのまま籠もってるのがいいと思うですよ?」
 
 即答だった。
 
「その心は?」
 
「引き付けておく事が目的なら、狙いは別にある……という事になるのですが、都には散ちゃんや雛ちゃんもいますから。ここで風たちが半信半疑で飛び出す方がよっぽどりすくが高いのです」
 
「そう、かなぁ……」
 
「籠城戦とは、そういった心の迷いとの戦いでもあるのだ。常に敵の脅威に曝される環境の中で、少しずつ神経が削られて行く」
 
 風に合いの手を打つように星が被せる。この二人がそう言うなら、きっとそうなんだろう。
 
「そして、疲労と焦燥に駆られた指揮官が判断を見誤る。それこそが奴らの狙いかも知れんな」
 
 当て付けがましくそう言って面白そうに眼を細める星に、ギクッとなる。心に迷いが出てる指揮官って……まさに今の俺の事だよな。
 
「だ、大丈夫だって。常に平常心を忘れずに、だろ!」
 
「流れ矢にも注意するのですよ?」
 
 何だか子供扱いされてるような気がして、俺は二人に背を向ける。……実力ならともかく、気構えで足引っ張るのは嫌なもんだ。
 
「………………」
 
 風や星の言い分はよく解ったし、こうやってあれこれ考えてるのも敵の思うつぼって気がしなくもないけど……
 
「(……………何だろう)」
 
 ――――何か、重大な見落としをしてる気がする。
 
 
 
 
「くっ、何だこの統率と練度は……!」
 
 姉様の使者として洛陽に赴き、一刀と出会った。その帰りの道中……呉へと帰る中途の豫州・許晶で、わたし達は突然兵を挙げた魏軍と抗戦していた。
 
 袁術の暴政から解放されたばかりの民に要らぬ不安と圧力が掛かるのを嫌ったわたしは、城から打って出て魏軍と正面からぶつかった。
 
 だけど………
 
「これが……本当の軍隊……」
 
 甘かった。わたしがまともに戦場の指揮を取るのはこれが二度目だが……姉様に不満を抱いていた豪族共の暴動を鎮圧した時とはまるで違う。
 
 兵の一人一人が鍛え抜かれ、それら全てが連携を以て“徒党”ではなく“軍”として機能している。
 
 豪族や江賊どころか、わたしの部隊とも格が違う。否応なく認めざるを得ない……はっきりとわたしは、圧倒されていた。
 
「孫権さま、ここは一時撤退を!」
 
「しかし……!」
 
「ここで兵を犬死にさせれば、守れるものも守れなくなります。お辛いでしょうが、堪えて下さい」
 
 こんな時でも冷静に支えてくれる思春に気を遣わせている。……そんな自分に腹が立つ。
 
「っ……全軍、一時退却する! 無駄に命を散らすな!」
 
「甘寧隊は殿を勤める! 我らが玉を守り抜け!」
 
 当然のようにそう続けた思春に、わたしは思わず噛み付きそうになって……自制した。
 
 これ以上、わたしの未熟で困らせるわけにはいかない。
 
「(わたしに、出来るの………?)」
 
 姉様もいない。冥琳も祭も穏もいない。傍に居る旧臣は思春一人。
 
 それでも………
 
「(弱気になるな! わたしは江東の虎の娘、孫仲謀だ!)」
 
 負けられない。呉の……いや、大陸の平和がすぐそこまで来ているのだから。
 
 
 
 
「………………」
 
 この二年余りで、随分色んな事があった。大陸中で黄巾の乱が起こって、天の御遣いの降臨、先帝の逝去、群雄の決起、韓遂の反乱、そして……母様との別離。
 
「……それからも、色々あったっけ」
 
 散姉とも離ればなれになっちゃって、月や詠と一緒に張魯殿の厄介になって、霞と戦って……月たちとも死に別れて、今はこうして西涼にいる。
 
「少し前まで、そんな事考えもしなかったのにな……」
 
 母様にぶっ飛ばされて、たんぽぽが泣き言言って、散姉に遊ばれて、五胡の連中をやっつけて、毎日馬で駆け回る。
 
 そんな日々がいつまでも続くって、何の不安もなしに漠然と思ってた。
 
「結局あたし馬鹿だから、実際にそうなるまで何も気付けないんだ」
 
 ここにこうしている事もそう。西涼を取り戻すって事ばかり考えてて、そっから先は空っぽだった。
 
 ニコニコ笑いながら槍をブン回してくる母様が、見えた気がした。
 
「いつまでも、後ろばっか向いてられないよな」
 
 見下ろす墓石に、桶から一掬い水を掛けて洗う。……しばらく来れなくなるから、雑草とかも抜いとこう。
 
「……西涼にいたからって、昔に戻れるわけじゃないんだな」
 
 どこかにそんな気持ちがあったんだと思う。だからこそ、打ちのめされたんだと思う。
 
 母様は戦って、死んだ。散姉は西涼を取り戻して新しい戦いに歩を進めた。あたしは……周りの状況に振り回されてただけ、あたしだけが大甘だった。
 
「そろそろ一人前のつもりだったのにさ……」
 
 『十年早い』。目の前の墓石からそんな声が聞こえた気がした。
 
「……母様、あたし行くよ」
 
 槍を担いで、あたしは母様に背を向ける。いつも背中を追い続けていた母様に、あたしの背中を見せて、振り返らずに歩きだした。
 
 
 
 



[14898] 十一章・『暗雲』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/11 21:26
 
「呉からの使いが通ったら、適当に追い回して泳がせるのよ。あんたの馬鹿一つで魏全体の動きが狂うんだから」
 
「…………おう」
 
 もう何度目か数えるのも馬鹿らしい。天幕の中には私、春蘭、そして音々音。何で私がこいつらと一緒にいなきゃいけないのよ。
 
 しかもこの猪女、返事の歯切れが悪い。
 
「人の話聞いてるの?」
 
「聞いている。大体その話はもう二回目だろうが! 貴様私を子供か何かと勘違いしてるだろう!」
 
 ……………二回目?
 
「子供以下じゃない……」
 
「何か言ったか?」
 
 あーうるさい。本当ならこんな奴らとじゃなくて華琳さまと一緒にいたいけど……最近少し物憂げにされている事が多いし、どんな顔をしてお傍に擦り寄ればいいか解らないし……何より、この馬鹿に釘を刺すのを怠れない。
 
「しかし、兵力増強と人心掌握……相反する二つの人事を見事にやってのけましたなぁ。……些か以上に“りすく”が高い気もしますが」
 
 出た。目の上のたんこぶ。何よ梨酢苦って。
 
「………私は奴らは嫌いだ。どいつもこいつもヘラヘラと浮き足立って……魏の精兵の矜持はどこに行ったと言うのだ」
 
「華琳さまなら問題なく飼い馴らすわよ。懸念なんて一つもないわ」
 
 ……まあ、感情的には珍しく春蘭に同意するけど。あの下品な連中(男)、華琳さまへの忠誠とあいつらへの関心を取り違えてるんじゃないの?
 
「こういう時のために今まで飼い殺しにしておいたのです、ここで役立ってもらわなければ。主殿は時節を見極めるに聡い方ですなぁ」
 
「あんたのそのいちいち偉そうな態度が前から気に入らなかったんだけど」
 
「奇遇ですなぁ、ねねも変態軍師は嫌いなのです」
 
 こいつっ、今度爬虫類だらけの落とし穴に……って、こいつ相手なら実力行使で十分か。尻の皮が剥けるまでひっぱたいてやる。
 
「お前たちの好き嫌いなどどうでもいい。それより何より……華琳さまだ」
 
 春蘭の奴が唯一の取り柄(欠点でもあるけど)の元気を無くしてるのも調子が狂う。
 
「心配要らないって言ってるでしょ。あんたは作戦を忘れなきゃいいのよ」
 
「…………作戦?」
 
 ……………こ・い・つ~~~~!!
 
「ちんっ、きゅーっ、キーーーーック!!」
 
 私の気持ちを代弁するように、ねねの両足蹴りが春蘭の顔面に直撃する。機先を削がれた私は、華琳さまの事でいつも以上に物忘れに磨きが掛かっている馬鹿の教育をねねに任せて天幕を後にした。
 
「………………」
 
 こんな時でも、どんな時でも、空だけは変わらない。
 
 ただただ綺麗で、ただただ冷たい。
 
「(懸念、か………)」
 
 心当たりが無くはない。だけど理解出来るわけでも、その必要があるわけでもない。
 
「(あの時の事が、尾を引いていなければいいけど………)」
 
 王たる華琳さまが抱える重圧は、私たちが想像出来る領域を遥かに越えているのだから。
 
 
 
 
「どういう事だ、それは」
 
 決して小さくはない動揺を必死に押し殺して、わたしは目の前で片膝を着く明命に問い返す。
 
「時期を同じくして荊州の劉表が全軍を率いて挙兵し、孫策さまは今も交戦中です。ですから……」
 
 そこで明命は、言い辛そうに押し黙った。促すまでもない、そこから先はさっきと同じだ。
 
 『すぐに援軍を回す事は出来ない』
 
 それが、援軍要請の応えを持って来た明命の報告だった。
 
 確かに、劉表と交戦中の姉様がこちらに兵を送る余裕が無いのは解る。荊州での水上戦では余計に小回りが利かない事も。しかし………
 
「揚州の兵だけで、どうやって魏の強軍を凌げと言うんだ……」
 
 思春の言う通り、わたし達だけで魏軍を撃退する事は難しい。……だけど、姉様がそういう判断を下したのも仕方ない。むしろ、劉表が全戦力を掛けて攻勢を掛けている最中に明命を寄越してくれただけ有り難い。
 
 いずれにしろ―――
 
「(わたしが、何とかするしかない)」
 
 無いものねだりをしても仕方ない。弱音を吐いてなどいられない。
 
 わたしが戦歴の浅い未熟者だろうと、ここに知恵を絞ってくれる軍師がいなくとも、どれだけ曹操が強敵だろうと、戦って勝つしかない。
 
「(でも、まともに戦っても――――)」
 
 脳裏に過るのは、最初の接触で迎撃に出て、完膚無きまでに叩き伏された敗戦の記憶。
 
 情けないが、あの戦いから魏軍の“何か”を引き出す事が出来たわけではない。ただあしらわれ、狼狽える内に崩された。
 
 再戦したとしても、勝ち目は薄い。
 
「籠城戦にも限界があります。最悪、民が内側から城門を開いてしまうかも知れません」
 
 そう、魏軍に敗退して城へと引き返してからわたし達はずっと籠城を続けている。だが、揚州は袁術の暴政から解放されて日が浅く、呉への信頼も育んでいない。
 
 そこに、今回の籠城戦。不安と恐怖と不信に呑まれた民草が、いつどんな行動に出るか解らない。
 
 わたしの採るべき選択は――――
 
「………明命、一つ頼まれてくれるか?」
 
「っ……御意!」
 
 ――――これしか、無い。
 
 
 
 
「ふわぁ………こんな事なら、舞无ちゃん辺りと交代しとけばよかったですかねー?」
 
 あれからさらに五日。日に何度か襲撃される籠城生活の続く虎牢関で、いつも寝たフリしてる風の本気の欠伸と愚痴が漏れる。
 
「風と舞无じゃステータスが真逆だろ。ほら、シャキッとする」
 
 確かに舞无は滝に打たれながらでも寝れるくらいに図太い神経をお持ちだが。
 
「はい、ラジオ体操第一! イチニッ、サンシ!」
 
「むー……ニーニ、サンシ……」
 
「……お前たち、もう少し緊張感というものを持ったらどうだ?」
 
 城壁の上で二人並んで、爽やかな風と朝日を受けつつラジオ体操を始めた俺と風を半眼で眺めて、星が疲れたように溜め息を吐く。流石の星も疲れて来てる、のかな。
 
「こういう時に気抜いとかないと、いざって時に大失敗しそうでさぁ」
 
「まあ、弓の弦も張り詰めたままにしておくと脆くなるものだが……」
 
 割りとあっさり納得した星は、石壁のちょっと高くなってる部分にちょこんと座る。
 
 こういうトコ、星は愛紗より柔軟なんだよな。……………愛紗、か。
 
「(無事……だよな……)」
 
 そう思う事しか出来ない自分が悔しい。けど、今はそんな自己嫌悪に浸ってる場合じゃない。
 
 大陸さえ平和になれば、きっとすぐにまた会える。そんな希望を頭の片隅に置いて、俺は城壁の上から遠方を見据える。
 
 秋蘭は関から見える場所には陣を敷かない。しかも相当厳重な警戒網を張ってるみたいで、こっちが物見を放ってもかなりの頻度で帰って来ない。
 
 帰って来ても、せいぜいが陣を張ってる場所を特定した……程度の情報しか持ち帰れないらしい。
 
 それでも魏軍の動きが今一つ読めない俺たちは、夜の内にまたも密偵を出していた。今もこうして帰って来ないか見て………あっ、帰って来た!
 
「随分急いで戻って来るな……って、あれ?」
 
 孤影が近づいて来るにつれて、段々その姿がはっきりしてくる。馬に比べて人が小さい……っていうか、あれ……
 
「……少女のようだが」
 
「出した密偵は男だったはずですよ?」
 
「だよなぁ」
 
 三人揃って顔を見合わせる。俺たちが出した密偵じゃない、とすると、魏軍からの使者か何かだろうか? そんな疑問は、女の子の姿がさらに近づく事によって払われる。
 
「……何か、ボロボロだな」
 
「ですね~」
 
 そんなやり取りをしてる間に、女の子は城壁近くまで接近し……旗を掲げて大声を張り上げる。
 
「我が名は周泰! 呉の姫、孫権の使いで参りました! 北郷一刀様に火急の報せあり、開門を願います!」
 
 周泰……なるほど。
 
「開けよう」
 
「良いのか? 周泰などという名前、聞いた事もない。魏の罠かも知れんぞ」
 
「いや、それは無いよ」
 
「随分はっきり言い切りますねー?」
 
「前に曹操の城に行った時、彼女の顔はなかったからだよ」
 
 ホントの理由は、周泰ってのが呉の将軍の名前だと三国志の知識として知ってたからだけど、それをいちいち説明すると長くなるし厄介な事にもなりかねないので、俺は無難な応えでお茶を濁す。
 
 ―――この後の選択が大局を左右する事になるなんて、この時の俺は知る由もなかった。
 
 
 
 



[14898] 十二章・『悪夢の再来』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/15 05:57
 
「本命が揚州だとは思わなかった………」
 
 周泰ちゃんが命懸けで知らせてくれた蓮華の危機に、俺はなるべく表情に出さないようにして口惜しさを噛み殺す。
 
 守りは万全。だから誘いに乗らないのが正解だと思ってたけど、それは“俺たちに限っての話”だった。
 
「出るのですか?」
 
「当然、すぐに準備するよ」
 
 やや乗り気じゃなさそうな風に、俺は即答で返す。足止めだって判った以上、もう迷う理由なんて無い。
 
「このまま籠城を続けているのが、一番堅実なのは確かなのですが………」
 
 風の言葉に、周泰ちゃんの顔が露骨に強張る。しかし、風はさらに続けた。
 
「まあ、この場合は仕方ないですねー。外交的にも、お兄さんの性格的にも」
 
「ごめん」
 
 一言だけ謝って返す。周泰ちゃんが体全体で安心してるのが複雑だ。
 
 蓮華を助けたいってだけで援軍に駆け付けるわけじゃない。ここで蓮華を見捨てれば、せっかく結んだ呉との同盟も台無しになり、敵対国が増えて太平が遠退く。……それ以前に、魏に勝てなくなるかも知れない。
 
 もちろん、『援軍を出した』って体裁を整えるためだけの部隊を出す気もない。………やっぱり、放っておけないから。
 
「蓮華は今も籠城中?」
 
「え、あ……はい」
 
「オーケー、急ごう」
 
 流石に飛び入りのこの子に部隊は任せられない。道案内も兼ねて俺の横に居てもらおう。
 
「というわけだ。風、しばらく虎牢関は預けるぞ?」
 
「まったく、やれやれだぜ」
 
 正義の味方(星)はわざわざ説得するまでもない。宝慧にも渋々了承を貰い、俺と星は出陣準備に取り掛かる。
 
 
 
 
「くぅ………!」
 
 耳にうるさいほどの馬蹄の中で、俺は必死に馬にしがみつく。気を抜いたらあっという間に抜き去り+置き去りにされてしまいそうなほどの強行軍。景色が飛ぶように流れる。頑張れ俺、負けるな俺。
 
「あの……大丈夫ですか?」
 
「だいじょぶだいじょぶ…………今はまだ」
 
 俺の隣を馬で駆けるのはさっきまでボロボロだったはずの周泰ちゃん。出陣準備の間に軽く休んで手当てしただけで平然とこの強行軍についてくるとは、流石“周泰”ってところか。
 
 まあ、今さらこの世界の女性陣のデタラメなスペックくらいで驚かんけど。
 
「そっちこそ大丈夫? さっきまでかなり参ってたみたいだけど」
 
「孫権さまが奮戦している時に、そんな軟弱な事を言ってはいられません。それで……その……」
 
 それでもキツくないはずないと気を遣ってみたら、“そんな事より”って顔で言いづらそうに言い淀む。何だ?
 
「あの……確認を取るようで失礼かとも思うのですが……」
 
「何が?」
 
 横向きながらこのスピードって、結構辛い。どうしても急かすような口調になってしまう。
 
「真名の……事なのですが……」
 
 ………ああ、それか。
 
「ちゃんと蓮華から許してもらったよ。本人に確認してくれてもいい」
 
「そう……なのですか」
 
 まだ信じられないって顔で周泰ちゃんは押し黙る。まあ、蓮華があんな短い間に真名を許してくれたのは俺的にも予想外だったし、無理もないか。
 
「胡散臭いのは百も承知だよ。でも、今だけは信じて欲しい。蓮華を助けるために」
 
「っ……はい!」
 
 元気よく返事をしてくれる周泰……“ちゃん”はもうよそう。素直ないい子だ。
 
 会話も一区切り着いたところで、俺が再び馬にしがみつく地蔵になろうとした………その時だった――――
 
「あっ!」
 
「(何だ………!?)」
 
 無数の何かが風を切るような、それでいて羽虫の群れが飛び立つような音が俺の耳に届く。
 
「駆けろ! 遅れた者は黄泉路を進む事になるぞ!!」
 
 まだ状況を把握出来てない俺、そして後方に続く兵たちに先頭を走る星の怒声が響く。
 
「ッ………!」
 
 考える事すら放棄して、俺は一心に馬を走らせた。即断即決、こういう状況で星を疑うくらいなら俺は自分の頭を疑う。
 
 そして――――
 
「ぎゃあっ!」
 
「痛えっ!?」
 
「ぐあぁーーー!」
 
 ただただ必死に星の背中を追い掛けて走る俺の耳に、断続的に響く何かが突き刺さる音と、遥か後方から聞こえる兵たちの悲鳴。
 
 そこでようやく俺は、行軍中の俺たちに向けて、山なりに矢の斉射を受けた事に気付いた。
 
「何だ!?」
 
 思わず首を巡らせて、周囲の状況を確認する。旗も何も見えないけど、東の林道からあからさまな……大勢の人の気配。俺でも判るくらいに剥き出しな。
 
 これは…………
 
「周泰! 君が追い回されたのはまだ先だって言ってたじゃないか!」
 
「あ、あの時はこんな場所じゃなかったんです!」
 
 秋蘭しかいない。でも、周泰が嘘吐いてるとも思えないし、そんな理由もない。
 
 周泰を取り逃がしてすぐに陣を移したのか?
 
「(対応が早すぎる……!)」
 
 騎馬隊の全速で秋蘭の部隊を掻い潜る予定が大幅に崩れた。実際、無茶ってほど公算がなかったわけじゃないのに。
 
「このままじゃいい的だぞ……!?」
 
「……仕方ない」
 
 小さな舌打ちと共に、星が僅かに速度を緩めて俺の隣に並ぶ。俺と違って、それほど動揺してないように“見える”。
 
「殿は私が引き受ける、一刀は急ぎ駆け抜けろ!」
 
 っ……それって―――
 
「星を置いて行けってのか!?」
 
「ここで隊を旋回させてはそれこそ“いい的”だ。それに……私を誰だとお思いか?」
 
 おどけて口調を変えた星が、余裕たっぷりに口の端を釣り上げた。……ったく、こいつは!
 
「絶対、生きて戻って来いよ!」
 
 こんな状況じゃなかったら、力いっぱい抱き締めてる。いつだって俺に勇気をくれる、愛しい女(ひと)を。
 
「だから、誰にものを言っている?」
 
 不敵に笑って号令を掛け、星は馬首を返して進路を変える。
 
 俺は振り返らない。速度も緩めずにそのまま駆け抜ける。
 
 ―――何かがおかしい。この時、俺はそう気付くべきだった。
 
 
 
 
 星と引き離された後、俺たちは再び敵の伏兵を受けて離脱した。
 
 蓮華の待つ許晶が一刻を争う事態だという事もある、引き返しても乱戦になってしまう可能性が高い、という事もある。
 
 けど俺は、最終的には星を信じるという結論の許、そのまま一直線に許昌を目指し、そして………
 
「見えた!」
 
 辿り着いた。遠く聳える許昌の城、そして今まさに攻め込まんとしている魏の軍勢。タイミングとしては、悪くない。
 
「このまま敵軍に背後から突撃する。頼りにしてるよ周泰、自慢じゃないけど俺弱いからな!」
 
「りょ、了解しました!」
 
 この二日ほどで結構打ち解けた周泰に、俺は男としては情けない言葉を放る。
 
 別に周泰が隊を指揮してるわけじゃないけど、周泰が最前線で敵を薙ぎ払ってくれれば兵の皆も勢いづくってもんだ。
 
 旗は『許』と『典』、か。季衣と……誰だろ、名字だけじゃ確信が持てない。
 
「全軍、突撃ーーーーーー!!」
 
 どちらにしろ、この状況を活かさない手は無い。魏軍はまだ許昌に届いていない、このまま魏軍が背を向けたままなら俺たちは背後を突けるし、反転してきたとしても蓮華が俺たちに合わせて打って出てくれれば背後を取れる。
 
 挟撃出来る。蓮華なら、この機を見逃す愚を冒さない。
 
 その信頼に応えるように、前後不覚になって進軍を止めた魏軍の目の前で、許昌の門が開いて赤の軍勢が躍り出る。
 
「(さすが!)」
 
 その光景に力を得て、俺が腰から剣を抜き放った時に、“それ”は起きる。
 
(ジャーン! ジャーン! ジャーン!)
 
 背後から、
 
(ジャーン! ジャーン! ジャーン!)
 
 東から、
 
(ジャーン! ジャーン! ジャーン!)
 
 西から、銅鑼の響き渡る。背筋が凍るような寒気に襲われ、振り返った俺の眼に、尋常じゃない大きさの粉塵が映り、ほどなくその根源が姿を現した。
 
 『夏侯』、『李』、『楽』、『荀』、『陳』、『徐』、それらの旗を勇ましく抱える群青の大軍勢。
 
 壮観、その一言に尽きる。俺は数秒、恐怖も忘れてその光景に見入っていた。
 
 そして、一気に覚醒する。
 
「こっち(釣り)が本命かよ!?」
 
 許昌攻めすら、虎牢関から引きずり出すための餌だったのかも知れない。
 
 だけど、それより何より、おかしい事がある。
 
「(どうなってんだよ………)」
 
 虎牢関を攻めていた秋蘭の軍、俺たちに奇襲を仕掛けてきた伏兵部隊、許昌を攻めていた季衣たちの部隊、これだけでも、想定していた規模を越えている。
 
「(数が、多すぎる)」
 
 いくら冀州、幽州、徐州、青州を手中に治めたって言っても、領土拡大からすぐに軍が強くなるわけがない。
 
 むしろ、桃香や伯珪たちとの戦いで華琳は戦力を大きく削られ、すぐには立て直せないはずだった。
 
 なのに……何だよ、これは……。
 
「(………何万いるんだ、あれ)」
 
 何がなんだか、わからない。
 
 
 
 
「あ〜あ、ちぃ達こんな血生臭い所で何やってんだろ」
 
 戦場から遠いどこかで、青い髪の少女が憂鬱な溜息を零した。
 
「仕方ないわ、私たちには曹操と取り引き出来る材料がないもの」
 
 紫色の髪の少女が、それに淡々と応え………
 
「太平妖術の書だっけ、あれがケチのつき始めだったよね〜」
 
 桜色の髪の少女が肩を竦めた。
 
「でも、このまま終わる『数え役満☆しすた〜ず』じゃないでしょ?」
 
「もちろん♪ 歌うために歌うのがわたし達なんだから!」
 
「………姉さん達、お願いだから軽率な行動は慎んでね」
 
 黄巾の乱という形で大陸全土を巻き込んだ圧倒的な求心力が今、覇王の剣となって牙を剥く。
 
 
 
 



[14898] 十三章・『怒涛』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/15 21:54
 
「ほ、北郷様……」
 
「止まるな! ここで止まったら完全に囲まれるぞ!」
 
 立ち止まる暇もない。考えを纏める余裕もない。とにかく、ここで進軍を止めたら四方から囲まれてしまうという事だけを強く意識した。
 
「狼狽えるな! 浮き足だてばそれこそ敵の思うつぼだ。俺たちの方針は変わらない、眼前の敵を打ち破って活路を開く!!」
 
『応!!』
 
 俺の……似合わない、精一杯に強がった号令に、兵の皆は間髪入れずに応えてくれる。
 
 予定通りに蓮華と挟撃で目の前の季衣の部隊を打ち崩して、その足で許昌に入って一度体勢を立て直す……それがベスト、か?
 
「(初めてだ、こんなに気持ちが覚束ないのは…………)」
 
 前の世界からずっと、俺の傍にはいつだって頼りになる仲間が居てくれた。……でも、今はいない。俺がどれだけ自分を信じる事が出来てないか、よーく判る瞬間だ。
 
 体が硬い、汗が冷たい、背筋がうすら寒い、視界が不安定にぼやけて見える。
 
 だけど………
 
「(やるしかない…………!)」
 
 歯を食い縛って気合いを入れる。ここで頑張れなきゃ、俺が普段からやってる事は自己満足にすらならない。
 
 俺が、俺を許せなくなるから。
 
「皆の命、俺が預かる! 剣を握れ、槍を掲げろ、身の慄を打ち払え!」
 
 張り上げる鼓舞は、俺自身に向けたものでもあった。意図しなくても、頭は嫌なほど冷えている。後はビビらず冷静になれるかだ。
 
 気合い十分な怒号に背中を押されて、俺は剣を片手に先頭を駆ける。その隣に周泰が並ぶ。
 
 城から打って出た蓮華の軍と、背後から速攻を掛けた俺たち。完璧に思えた挟撃が成立するより早く………魏軍が“前後に”割れた。
 
 『許』の旗を持つ部隊が蓮華の軍に、『典』の旗を持つ部隊が俺たちに向かって“正面から”ぶつかる。
 
「(………くそっ!)」
 
 元々こうなるように仕組まれてたのか、それとも咄嗟の事態にも即応出来るほどよく訓練されてるのか、どっちにしても厄介極まりない。
 
「はあああぁあぁ!!」
 
 迫り来る穂先を切り飛ばしながら、俺はがむしゃらに咆えた。
 
 ここで止められたら、皆死ぬ。その恐怖心すらも必死に力に変えるように。
 
 
 
 
「敵前線、崩れました!」
 
「よし! このまま行くぞ!」
 
 実際には3分と経っていないはずの、でも俺たちには途方もなく長く感じた死闘が、季衣の部隊の前線を打ち崩した。
 
 奇襲は叶わなかったが、元々兵を二分して戦えるほど季衣の部隊は大軍じゃない。蓮華は………まだか。
 
「気を緩めるな! まだ活路を開いたわけじゃないぞ!」
 
 季衣の部隊を蹴散らし、突破した勢いを活かして、俺たちはそのまま『典』の旗を掲げる軍を後ろから強襲する。
 
 元々蓮華の軍と鎬を削っていた所に背後から突撃されて、『典』軍は季衣共々軽い混乱状態に陥った。
 
「(よし……!)」
 
 紙一重ではあったけど、何とか上手く行った。混乱状態の魏軍を蹴散らしながら通り抜け、俺たちは一旦距離を取り、そこで………
 
「……え…………」
 
 俺たちの一撃離脱よりも一足早く、許昌の城門へと引き返していく呉軍の姿を見た。
 
「北郷様! 先ほどの魏の伏兵が包囲網を展開、包み込むように迫って来ています!」
 
「っ……それでか」
 
 周泰の叫びで一瞬の動揺が消し飛ぶ。乱戦状態にあった俺たちよりも、正面衝突だった蓮華たちには魏軍の動きがよく見えていた。だから無理に混乱した典軍に攻勢を掛けずに素早く退いてるのか。
 
 季衣らの部隊が混乱した事もあって、赤い軍勢は首尾よく堅固な城門の内側へと逃げて行く。本来なら俺たちも呉軍と合流して一度許昌に入るのがベストだった、けど………。
 
「……全軍反転! 敵陣の隙を突破して、この窮地から離脱する!」
 
「ほっ、北郷様? わたし達は入城しないのですか? 孫権さまなら同盟軍も迎え入れてくれますよ!」
 
 俺の無謀気味な指示に、周泰が驚いたように叫ぶ。確かに俺もそうしたかったけど………
 
「ダメだ、このタイミングじゃ間に合わない」
 
「孫権さまは盟友を見捨てたりしません!」
 
「蓮華は呉を誰より大切に思ってる。俺たちを助けるために自国の民を危険に曝したりしないよ」
 
 このまま城門に向かえば、俺たちと一緒に魏軍まで迎え入れてしまう可能性が極めて高い。蓮華がそれを是とするわけもないし、俺もそれが正しい判断だとは思わない。
 
 つまり、このまま城に向かっても鎖された城門と魏の大軍に押し潰されて全滅するだけだ。
 
「あ……え………う………」
 
「君は俺の仲間である前に、蓮華の臣下だ。戻るなら今のうちだよ」
 
 周泰一人なら、呉軍が城門を閉じる前に合流する事も可能だと思う。
 
 ………本音を言えば、生きてこの場を切り抜ける自信もない。彼女が付き合う義理もないだろう。
 
 しかし………
 
「い、いえ。此度の戦で呉の魂を疑われたくありません! 微力ながら、身命をとして北郷様を御守りします」
 
「………そっか、ありがとう」
 
 周泰の勇ましい言葉を、俺は抗弁する事もせずに受け入れた。俺たちが援軍を出した公的な理由と同じように、彼女たち呉にとっても俺を見殺しには出来ないんだろう。
 
 非常識なりにそれくらいは判るから反論もしないし、本音を言えば付いてきてくれるのは物凄く頼もしい。
 
「死ぬ気で生き残ろうな」
 
「はい!」
 
 元気の良い返事を貰って、俺は馬首を返して軍を旋回させる。狙いは囲まれて孅滅される前に一点突破で包囲から離脱。けど…………
 
「(………どこを抜ける?)」
 
 うちの騎兵部隊だって練度じゃ負けてない。周泰も恋や星ほどではないけどかなり強い。でも……魏軍も強い。
 
 単純に将の実力だけでは判断出来ないし、何よりあの旗の中で俺が確信出来るのは春蘭と桂花だけだ。旗にフルネーム書いとけよ、くそっ!
 
「(どうする……どうする………)」
 
 薄い所なんて無い。あったとしても罠かも知れない。弱点なんてわかんねぇ。……でも、このままうろうろしてるのが致命的だって事だけは判る。
 
「(…………ん?)」
 
 パニック寸前の頭を必死に落ち着かせて少しでも判断材料を探す俺は……映る視界に一つ閃く。
 
「全軍駆けろ! 目指すは軍旗は『夏侯』! 敵を蹴散らし俺の背中を目指して走れ!!」
 
「北郷様!? 夏侯惇は魏武の大剣とまで呼ばれる曹操軍最強の将ですよ!」
 
「知ってるよ、だけど………一か八かだ」
 
 確信は無い。じいちゃん家で読んだ本と、実際に見渡すのとじゃわけが違う。
 
「……あれは『八門金鎖の陣』だ。『生門』から突入して『景門』を抜ける。最強の部隊を切り崩して混乱に乗じよう」
 
 もしかしたら、あれは『八門金鎖』じゃないのかも知れない。例え『八門金鎖』だとしても、俺が正確に『門』を見抜ける自信もない。おまけに、突入中に春蘭本人に見つかったらお慰みだ。
 
 それでも俺は……半信半疑な見解を、敢えて断言する形で言った。ここで俺が自信なさげな態度見せたっていい事なんて一つもない。
 
 生兵法は大怪我の元って言うけど、今は藁にも縋りたい。……って言うより、他に縋るべきものがない。
 
「遅れるな! 止まるな! 脇に逸れるな! ただ俺が進んだ足跡を駆け抜けろ!!」
 
『応!!』
 
 恐くても、無謀でも、迷わない。こうなったら死に物狂いで突っ走ってやる。
 
 
 
 
「な、何故一刀は敵軍に向かって行く!? 兵力の差が判っていないのか!」
 
 民の不安と兵の疲労も最早限界に近づいていた、もう何度目かの功城戦。
 
 明命の報せが届いた事を証明するように、十の軍旗を掲げた騎馬隊が魏軍の背後に現れ、我々の窮地を救った。
 
 しかしそれを待っていたかのように現れた大量の魏の伏兵が、我らに撤退を余儀なくさせた。とてもまともに戦って勝てる数ではない、それを一刀も判っているはずなのに、彼は軍を反転させて魏の大軍に突貫していく。
 
 わたしはその光景を、許昌城の城壁の上から呆然と眺めていた。
 
「………英断かも知れません」
 
「っ……どういう事だ!」
 
 言い知れない苛立ちを、常と変わらず平静な思春にぶつけてしまう。あれが英断? 単なる無謀ではないか。
 
「仮に北郷がその背に“魏の大軍を引き連れて”許昌を目指したとして、蓮華さまは彼の者らを入城させましたか?」
 
「!? それ、は………」
 
 わたしはこれまで状況把握に精一杯で、そんな判断をする余裕がなかった。
 
 ―――思い返してみても、あの時一刀が間に合っていたかどうか判らない。
 
「(間に合わなかったら、わたしは……どうしていた……?)」
 
 口をつぐんだわたしが解を見つけるよりも早く、思春がその口を開く。
 
「蓮華さまが最終的に採るだろう選択を、北郷は悟ったのかも知れません。だから、我らを頼る事をしなかった」
 
「………………」
 
 思春の言葉は、推測の域を出ない。当然だ。わたし達はそんな風に決め付けられるほど一刀の人となりを知っているわけではないし、一刀にとってもそれは同じだろう。
 
 ………止そう。今は、これから我々がどうすべきかを考えるべきだ。
 
 我らの危機に駆けつけ、我らの心情まで見透かして一刀は魏軍へと立ち向かっていった。
 
 ………ならば、わたしの採るべきは――――
 
「(貴方が命を懸けてくれた好機を、最大限に活かす事………!)」
 
 
 
 
「すりー、つー、わん………ふぁいやー!!」
 
『ふぁいやぁああーーー!!』
 
 風の号令に合わせ、虎牢関の城壁から矢の嵐が降り注ぐ。
 
 決して少なくはない矢の雨は、しかし迫り来る津波のような群青の群れの前では霞んでしまう。
 
「むー………」
 
 難しい顔で唸る風の眼下で、城壁へと辿り着いた魏兵らが犇めいていた。
 
 彼らはその手に剣を持っていない。槍も、弓も、斧も持ってはいない。
 
 その手に在るのは降り注ぐ矢を払い除ける盾と、泥を目一杯に詰め込んだ土嚢。
 
 鎖を伸ばして城壁を登るでもない、破城槌で以て城門を破ろうとするでもない。魏の軍勢は土嚢を城壁に投げつけては後方の味方と入れ替わりに退がる、という作業を延々と繰り返していた。
 
 矢に倒れた味方がいれば、その屍すらも土嚢の山の一部とし、城壁へと架かる山の礎とする。
 
「消耗戦を嫌がっているのは曹操さんの方かと思っていたのですが、はてさてー」
 
 油を浴びせて火矢を射かけても、上から土嚢を被せて鎮火する。高く聳える虎牢関に対してこんな戦術が採れるのは、長い時に渡る準備と兵数の賜物。
 
「…………………」
 
 風はしばらく考え込むように目を瞑り、そして開く。
 
「皆さん、虎牢関に火を掛けちゃってくださいー。少しでも魏軍の足を止めて、風たちは洛陽まで撤退するですよー!」
 
「し、しかし御使い様も趙将軍もまだ……!」
 
「お兄さんがいたらこうすると思うのです。ほら、敵が城壁を登り切る前に着火しますよー」
 
「わ、わかりました!」
 
 関が、空が、紅く染まる。
 
 戦いから逃れるために放たれた炎は、しかしこれから燃え上がる大陸の戦乱を表すように激しい紅蓮を灯していた。
 
 
 
 



[14898] 十四章・『断腸の決意』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/15 22:02
 
「面目次第もありません」
 
 自ら後ろ手に縛られた姿で、春蘭は私の前に膝を着く。よほど強く責任を感じているらしい。
 
「何が魏武の大剣よ、あんな無勢にあっさり捌かれるなんて、だから猪武者は嫌なのよ」
 
「…………………」
 
 桂花の意地悪な言い草にも反論一つない。本当に真っ直ぐなんだから。
 
「桂花の言いたい事も解るけれど、ここはむしろ敵を素直に評価すべきでしょうね。絶望的な局面で冷静に陣の弱点を見抜く戦術眼と、それを春蘭の部隊相手にやってのける決断力と実行力。……少し見縊っていたわね」
 
 君主のくせに義勇軍の頃から前線で戦っていたという経験が活きたのか。大軍に囲まれ、逃げ場を失いながらも平静な判断力を保つというのは、口で言うほど簡単な事じゃない。
 
 そして、そんな危うい戦術を綻びなく実行出来るほど、北郷に対する兵の信頼が厚いという事。
 
 ―――そうこなければ、つまらない。
 
「では、華琳さま……」
 
「勝敗は兵家の常よ。春蘭、それほど強く責任を感じているのなら、そんな姿で首を差し出すよりも、戦場の働きで汚名を晴らす事を考えなさい」
 
 窺うような秋蘭への何よりの応えとして、私は春蘭の縄を大鎌の先で軽く断つ。
 
 こんな事で大事な魏武最強の大剣を斬り捨てるなんて馬鹿馬鹿しい事はない。
 
「っ……か……必ずや!!」
 
 感極まったようにひれ伏す春蘭を見下ろして、桂花が小さく舌打ちをした。………あなたねぇ。
 
「さあ立ちなさい、魏の戦士たち。この戦いこそが、古きを打ち破り新しい時代を迎える華々しい幕開けとなるのだから」
 
 北郷軍を破り、鉄壁を誇る虎牢関を抜けた。後は盾を失った王都に容赦なく矛を突き立てるだけ。
 
 そして、それこそが魏と大陸の命運を左右する。私が切り開く覇道の先に、乱世の終結した世界が広がっている。
 
 
 
 
「と、言うわけなのです」
 
 突然虎牢関から戻って来た師の報告が、静寂に包まれた玉座の間に淡々と響く。
 
 魏の揚州への侵攻。一刀とりーだーの出撃。突然増大した魏の大軍と虎牢関の放棄。……そして、出撃した二人の部隊が戻っていないという事。
 
 まあ、相手が相手だし、こういう事もあるのかな、と。
 
「雛ちゃんなら、曹操さんの上を行ったでしょうか?」
 
「……いえ、魏軍がそこまで力を得ているという可能性はわたしも考えていませんでした。……きっと、風さんと同じ対応をしたと思います」
 
 雛と師の会話も耳に入って来ない様子で、陛下が何やら眼を泳がせている。少し水を向けて見ようかな、と。
 
「終わった事は一先ず置いといて、これからどうするのかな、と。話を聞く限り、魏軍はすぐにもこの洛陽に攻め込んで来るようで」
 
「っ…………」
 
 背筋をビクッと固まらせて、自失から醒めた顔がじわじわ青ざめて来た。………皇帝陛下だろうと子供は子供、おまけに相当依存していた一刀が行方不明では仕方ない。
 
 雛も動揺しているようで、師も無表情ながらに責任を感じているかも知れない。……ここは年長者のあたしがしっかりすべきしちゅかな、と思いつつ、頭使うのは専門外。
 
『…………………』
 
 そんなこんなで沈黙が続く。師も雛も黙って何か打開策を考えているようで、しかしそんな簡単に思いつくわけもない。鉄壁の虎牢関を抜けた大軍を洛陽で倒す、というのはかなり厳しいのかな、と。
 
 霞たちもいつ帰って来るか判らないし………まあ、降参するのは腹立つからあたしは断固反対派。
 
 勝ち目が薄いのが判っているからこその解の出ない沈黙が…………
 
「ただいま~………」
 
 大扉を開きつつのいつもの気抜けぼいすに破られた。
 
「ぎゃあああ!?」
 
 間髪入れず、あたしの短戟が火を吹き唸る。侵入者の頭のやや上でグッサリ突き刺さった刃から、パラパラと茶髪が零れた。
 
「いきなり何すんだよお前は!?」
 
「あたし一流の『おかえりなさい』です。気に入って頂けたようで何よりかな、と」
 
「気に入ってねぇ!!」
 
 つくづくしりあすの出来ない男……北郷一刀があたしに怒鳴る。限りなく空気を読まないあたしの行動にふりーずしていた皆さんが、この辺で再起動を果たした。
 
「ご………」
 
 一番、雛。
 
「ご主人様ぁああ~~~~~!!」
 
「わっ、雛里!?」
 
 体ごと飛び込むようなたっくるで抱き付き、一刀を支点にするように一回転。……しゃいなんだかあぐれっしぶなんだか。
 
 二番……と言いたい所だけど、基本的にここにはくーるなめんばーが揃っているので、おーばーりあくしょんは雛一人………かと思いきや――――
 
「ご主人様ぁああ~~~~~ん!!」
 
「うわぁっ!?」
 
「ふぎゃん!?」
 
 あたしの目の前を、浅黒い塊が猛すぴーどで通過した。“それ”は一刀に着弾する寸前でかうんたー気味に前蹴りを受けて蹲り、しくしくとべそをかく。
 
「うぅ………ご主人様のイケズぅ。感動の再会を鼻血で迎えるなんて、いくらわたしでも傷ついちゃうんだから……! ちょっとは空気ってものを読みなさいよぉ!」
 
「お前がな………」
 
 何で城に民間人のあなたがいるんですか、貂蝉。しかも、思いっきり前蹴りをもらったのに口ばかりで鼻血なんて出ていない。……うーん、あいあんぼでぃ。
 
 その時――――
 
(フ………)
 
 吐息ほどに小さく、やけに頼もしい苦笑が聞こえた、気がした。
 
「相変わらず悪運が強いようで何よりなのです。お兄さんに何かあったら、恋ちゃんや舞无ちゃんあたりに殺されてしまいそうでしたのでー」
 
「いや、実際死ぬかと思ったけどな。生きてるのが不思議なくらい」
 
 師の悪態(?)に対して、安心させるようにういんくをして見せる一刀。あの顔、腹立つ。
 
「…………………………………それで、星は?」
 
 それまでの態度から一変して、一刀は長い間を空けてその質問を口にした。
 
 多分、ここにいない時点である程度解っていて、だからこそ恐る恐る訊いていると思われる。
 
 ……この分だと、一刀もりーだーの行方を知らないのかな、と。
 
「……そっか」
 
「……? 意外と反応薄いですね。心配ではないのですか?」
 
 確認を取るまでもなく、一刀は僅かに眼を伏せて納得して見せた。この甘ちゃんの事だから、もっとわーわー騒ぐと思っていたのに。
 
「あいつを誰だと思ってるんだよ。北方常山の趙子龍だぞ」
 
 不敵な笑顔、解りやすい強がり。……まあ、いいけど。
 
「……それより、風がいるって事は、虎牢関も抜かれたんだな」
 
「お咎めなら受けるですよ?」
 
 一刀の短い確認に、師は当然の応えを返して、当然のように一刀は首を振る。師もそれ以上つっこまない。大した相互理解なようで。
 
「問題は曹操軍の規模と到着するまでの時間、そして対策だ。………俺が交戦した部隊だけでも、想定してた数よりかなり多かった」
 
 そのまま話はさっきの軍議に戻り、雛や師、ついでに一刀がああでもないこうでもないと意見を交わし合う。
 
 しかし最終的には、兵を二分して霞たち共々劉障に差し向けた今の戦力では、予想外の増強を遂げた魏軍に対抗するのは難しい、という結論に帰結する。
 
 まあ、一刀が増えたくらいでこの状況をあっさり解決出来るとは思ってなかったけど。
 
「……鳳統、一つ訊く」
 
 そんな堂々巡りを断つように、それまで沈黙を守っていた陛下が口を開いた。
 
 こういう時はいつも「若輩の身で満足な判断は~」とか言いながら自重している陛下が、どういう風の吹き回しなのか。
 
「この一戦を凌げば、体勢を立て直す事が出来れば、曹操と戦う事は可能か?」
 
 小さな身に、健気なまでの気迫と覚悟が満ちている。さすがは幼くとも皇帝陛下といった所か。
 
「……魏軍の突然の変容の原因は解りません。ですが、我が国の総力を万全に発揮出来さえすれば……必ず勝機はあるはずです」
 
 雛の言葉に力強く頷いて、今度は一刀に問い掛ける。
 
「一刀、曹操は覇道を歩む修羅ではあっても、弱者を虐げる外道ではない。それが貴様の評で良いのだな」
 
「それは保証するけど、さっきから一体何を……?」
 
 一刀の質問には応えず、陛下は「よし……」と呟き、天を仰ぎ、次いで前を見た。
 
 そして一言――――
 
「遷都だ」
 
『……………はい?』
 
 陛下の口にした言葉に、一刀(と貂蝉)を除く全員が間抜けな声を上げた。
 
 セント……せんと……遷都?
 
「これより朕らは洛陽を離れ、長安を新たな都として再起を図る。守れぬものを守るために無謀な戦いを挑む事はこの劉協が許さん」
 
 大真面目に言い切る陛下。これを言い出したのが一刀ならあたし達もここまで驚きはしなかっただろうが、まさかの陛下。
 
「……この街は漢室十二代の歴史と伝統を持つこの国の首都です。それを……手放すって言うんですか?」
 
「漢の時代など、黄巾の賊徒に大陸を蝕まれた時に既に終わっている。今守るべきは古き伝統ではない、新たな時代を拓く力と民そのものだ」
 
 恐々と確認する雛に、迷い無く断言する陛下。………何だか、考え方が誰かさんに染まって来てる気がする。
 
「………いいんだね?」
 
「……構わん。それに、捨てるわけではない。必ずまた、戻って来る。朕がこうした理由の一端でも理解しているのなら、それに応えて見せよ」
 
 漢十二代の歴史を誇る王都、それに誰より深い思い入れを持っているはずの陛下がこの決断を下したというのは、どれだけ重い選択なのか……。
 
 膝を曲げて陛下と目線の高さを合わせている一刀には解っているのか。
 
 ……こういう空気、あたしには馴染めないかな、と。
 
 
 
 



[14898] 十五章・『予知』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/16 22:15
 
「困った………」
 
「人気者は辛いねぇ、兄ちゃん」
 
「……笑えねーよ、風」
 
 協君の一大決心を組み、一時洛陽を放棄して撤退する事を決めた……までは良かったけど、それを実行する段階で早くも詰まった。
 
 今の戦力では魏軍に勝てない事、それに伴い、協君の勅命に従って都を長安に移す事、そして必ず再び戻って来る事を洛陽の皆に説明し、街中に触れも出した。
 
 しかし…………
 
「とはいえ、彼らの朝廷への忠誠と貴様への信望を蔑ろにも出来まい。迷っている時間こそ惜しい」
 
 民の皆の動揺は凄まじかった。先祖代々住む土地が大切な人、建てた店で軌道に乗って商売をしていた人、苦労して開墾した田畑を持ってる人、一人一人がそれぞれの、決して無視出来ない事情と生活を抱えている。
 
 それを差し引いても…………俺たちについて行きたいと願い出る人たちが続出した。
 
 気持ちは凄く嬉しいし、長安でも人口が増えれば当然街は発展する。……だけど、兵士のみで編成された軍隊と、女子供や老人を交えた民間人では行軍(?)速度が全然違う。
 
 つまり、連れて行けば華琳から逃げ切る事が出来なくなる可能性が極めて高い………いや、確実に捕まる。
 
 でも、街を治める太守として洛陽を守りきれずに手放す俺たちが、『おとなしく曹操の支配を受け入れろ』なんて口が裂けても言えない。
 
「どうせ見捨てて行くなんて選択は無いんでしょう。うだうだ言ってないでシャキシャキ動いたらどうですか、この野郎」
 
「お前も毒吐いてないで少しは考えろ!」
 
 考え無しに一目散に逃げたからってどうにかなるもんでもない。………やっぱ、時間稼ぐしかないか。
 
「……協君は雛里と一緒に一番前の部隊で市井の皆を先導。風は中軍、散は殿を指揮して……“南の宛を”目指してくれ」
 
「………宛?」
 
 俺としてもリスクが高くてあまり採りたくない方針だったけど、散の言う通りもう時間が無い。大体、どんなやり方にしたところで市井の足が急に速くなるわけもないんだし。
 
「結構遠回りになるし、その分、民の皆に負担が掛かるのも解ってるけど……馬鹿正直に西を目指しても逃げ切れないだろ」
 
「……宛を経由して長安を目指すといっても、逃げ切れるものでしょうかー?」
 
「確実に見つかるかな……というより、さっきの役割分担に一刀の名前がなかったのですが」
 
 風も散も訝しげに目を細める。……そう、足の遅い民を連れてればどうやったって追い付かれる。なら、見つけられても追われない状況を作ればいい。
 
「俺は騎馬隊を率いて西に向かう。……そうすれば、曹操は確実に俺の方を追ってくる」
 
「「ッ……!?」」
 
 協君と雛里の肩が、露骨に強張った。二人の性格を考えたら無理もない。そして他の二人の反応も予想の範疇だ。
 
「……お兄さん自身が囮になるつもりですか?」
 
「囮って言うより、餌かな」
 
「そんなの一緒の事です!!」
 
 罵倒にも似た大声で雛里が俺を怒鳴る。でも、雛里が一番俺の意図を解ってくれてるはずだ。
 
「それでカッコいいとか思ってるのかな、と。はっきり言って、呆れて物も言えないんですが。もちろん、悪い意味で」
 
 ……こいつ(散)、いつか泣かす。
 
「俺以外が西に向かっても曹操を引き付けられない。逆に、俺が南に向かえば曹操は俺を追って来ると思う。軽率なのは百も承知だけど、この役は―――」
「確かに、一角の将や軍師では彼奴の目を引く事は出来まい」
 
 何とかかんとか説得しようとする俺の言葉を、協君の力強い一言が遮る。何だ?
 
「だが………朕ならば話は別だ」
 
「…………………」
 
 何か俺、マジで協君に悪影響与えてないか。言いたくないけど、あんまり俺を見習わない方がいいと思うぞ。
 
 それに……解ってない。
 
「協君」
 
 膝を落として目線を合わせ、両肩に手を置いて言い聞かせる。高圧的にならないように、それでも大切な事を伝えるために。
 
「それは、絶対ダメだ」
 
「何故だ。……仮にこの危機を乗り切ったとしても、貴様を失っては朕が生き残っても無意味だ。ならば……っ…貴様何をする!」
 
 子供が賢すぎるってのも考えものだ。後ろ向きに積極的な協君の頭をがしがしと掻き回して黙らせる。
 
「魏軍がどうして急激にその数を増やしたのかは解らない。だけど……曹操は何か取り返しのつかないものと引き換えに力を得ている気がする」
 
 確信も根拠もない、単なる勘だ。同意を求めて向けた視線に、雛里が応えてくれる。
 
「……はい。兵とは無から生まれるものではありません。どんな方法で兵力を増やしたとしても、無理な徴兵は人心に不安を、国力に低下をもたらします」
 
 無理な徴兵、か。何だか華琳らしくない気もするけど、とにかく雛里の同意は得られた。
 
「だからこそ、曹操は協君を狙ってるはずなんだ。叛逆者じゃなく、帝を擁した正規の官軍だって風評と権利が欲しいんだよ」
 
 いずれにしろ華琳は、袁紹、伯珪、桃香、そして今回も、次々と戦いを自分から起こしてる。
 
 躍起になって都に攻め込んで来たのも、その辺の事情からじゃないだろうか。
 
「だから陛下はダメで自分はおーけーですか。立場が解ってないのはどっちなのかな、と」
 
「オッケーなわけあるか、俺は犠牲になる気も犬死にする気もさらさら無いぞ」
 
 半眼で睨んでくる散の鼻先に人差し指を突き付けて胸を張る俺。一に協君や皆、二に人民、俺は二の次。王一人生かせば成り立つような国ならいっそ華琳に降伏した方がいい。俺より華琳の方が有能なんだから。だけど、俺たちの国はそういう形で成り立ってない。
 
 ……って言い分もあるけどそれはそれとして、そんなホイホイ殺されてたまるか。だから機動力の高い騎馬隊で出るんだよ。
 
『…………はあぁ~~』
 
 ややの沈黙を経て、一同揃って、深い深い溜め息を木霊させる。
 
「え~と、納得してくれた?」
 
「お兄さんは言い出したら聞きませんから、風はもう色々諦めたのですよ」
 
 正直、すまん。前にも似たような台詞聞いたな。
 
「ご主人様ぁ……ぐす………」
 
「雛里も泣きそうな顔しないの。絶対生きて帰るから」
 
 こっちはもっとすまん。下手すると協君以上に幼く見える雛里の頭を撫でる。
 
「……………………」
 
 とか思ったけど、やっぱり協君の方が子供だった。さっきまでの威勢はどこに行ったのか、歳相応に青ざめて震えてる。
 
「………………」
 
 協君は後継者絡みの御家騒動に巻き込まれて、父親も病で亡くしている。だから……協君にとって俺は家族みたいなもんだ。
 
 普通の子供のように駄々を捏ねて縋らない事が精一杯。……そんな顔。
 
「近いうちに………」
 
 何を言っても気休めにしかならないこの状況で、その気休めの大切さを俺は知ってる。
 
「子供が子供らしくいられる世の中に、しような」
 
「……………………………………子供扱い、するな」
 
 見栄を張るのは大人の仕事だ。努めて明るく俺は笑い、協君は涙声で返事をくれた。
 
 そのやり取りが終わるのを待っていたように、散が手の甲で軽く俺の胸を叩く。
 
「“子供”のお守りは大人の仕事かな、と。面倒ですが、あたしも付き合いましょう」
 
 付き合うって………。
 
「ダメだって。今、洛陽にいる豪傑は散だけだろ。協君や人民の側からは外せない」
 
「ご心配なく。あたしより凶悪なぼでぃーがーどをつけますから」
 
 何やら意味深な言い回しをした散は、高々と右手を上げ、パチンッ! と指で軽快な音を鳴らす。
 
 途端――――
 
「おーっほっほっほ! おーっほっほっほ!」
 
 身の毛もよだつ高笑いが聞こえて、天井から岩のような塊が降って来た。
 
「愛しき人を守るため、艶美な蝶が今舞い降りる! 華蝶仮面二号改め、蝉華ぢょ……!?」
 
 長口上を最後まで聞かず、俺は右ストレートをその鼻っ柱に叩き込む。
 
「いきなり何するのよん!」
 
「こっちのセリフだ。雛里と協君が怯えてるだろうが」
 
 二人は早くも俺の背中に隠れてガクブル状態になっていた。俺もあまり触りたくなかったけど、ここは二人のためにと勇気を振り絞ったのだ。
 
「散ちゃん、いくら強くても民間人を戦わせるのはどうかとー」
 
「有事の際には民に槍を持たすくらいはありかな、と。それに彼は民間“人(?)” ですし」
 
「ちょっとそれどういう意味よん。彼って誰? わたしは漢女よ?」
 
「他意はありません」
 
 アホな登場と掛け合いはともかく、頭は何とかシリアスに。……確かに貂蝉は散どころか恋にだって匹敵するくらい強い、けど――――
 
「………やっぱ、無理じゃないか」
 
 民間人がどうとかそういう問題じゃなくて、俺には深刻な懸念があった。
 
「何よぉ、わたしだってこんな可愛らしい男の子を守るためなら、一肌も二肌も脱いじゃうわよん?」
 
「え………?」
 
 でも、そんな懸念を無視するように貂蝉は軽々と引き受けた。その事情に俺は頭を捻る。
 
「…………………」
 
 俺の懸念、貂蝉の性格と態度。それらを数秒頭の中で巡らせて―――
 
「………わかった。なら、軍の最後尾は蝉華蝶に任せて、散は俺と一緒に来てくれ」
 
 俺はそう結論を出した。
 
 
 王都が忙しなく動きだし、皇帝と、民と、歩兵と、軍師と、オカマと、そして恋の友達が、南を目指して旅立っていく。
 
 そして、俺は再び命懸けの戦場に立つ。
 
 
 
 



[14898] 十六章・『誰に認められる為でもなく』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/18 23:18
 
「妙ね………」
 
 戻って来た斥侯の報告、斥侯が何事もなく戻って来れたという事実、その双方に華琳さまは眉を潜める。
 
 たとえ兵力で上回っていようと北郷軍は侮れない。華琳さまを含めた皆の総意に基づき、我々は洛陽の遠方に陣を構えていた。
 
 それも仕方ない。張三姉妹の公演によって兵を著しく募ったとは言っても、そのほとんどが少し前まで鍬や鋤を持っていた若輩者。
 
 士気の高さは類を見ないほど高いが、練度や連携は御粗末極まりない。
 
 如何に数の脅威を敵に見せつけ、穂先に据えられた歴戦の精兵を活かすか。それと同時に、如何にあの……新兵たちの恐くなるほどの士気の高さを直接的にぶつけて活かすかが肝要になる。
 
 それは裏を返せば、どんな些細な綻びが統率を乱すか判らないという事だ。
 
 これでも、慎重過ぎるという事はない。しかし………
 
「何を考えているのかしら」
 
 戻って来た斥侯の報告は、そんな我々の警戒を空回りさせるものだった。
 
 『洛陽の前に、北郷軍の兵は一人もいない』
 
 虎牢関を落とされた今、どんな無能でも王都の危機を予測出来るはず。なのに兵の一人も配していない、敵の密偵に易々と情報を持ち帰らせる。
 
 これは………
 
「罠……でしょうか」
 
「あり得るわね。……虎牢関を抜いた今、急いて事を仕損ずる事もないか。……桂花」
 
「御意。密偵の数を倍にし、より広範囲の索敵を行わせます」
 
 袁紹でもしないような無警戒な北郷軍の動きが殊更不気味に映り、私たちはさらに二の足を踏む事になった。そして、その結果として得られた実状に驚愕させられる。
 
 洛陽周辺に伏兵は無し。それどころか城壁の上にさえ兵の姿が見えない。その代わり、洛陽よりやや西方に一つの陣地を発見した。……旗は、十文字の牙門旗。
 
「籠城戦、というならまだ解るのですが……やはりただの馬鹿なのでしょうか」
 
 桂花は『男は馬鹿で下品で低俗な生物』という持論からそんな事を口にするが、さすがにそれはないだろう。
 
 北郷一刀……華琳さまが少なからず関心を向ける男。意味もなく都から離れているはずがない。
 
 かといって、伏兵がいない以上罠があるとも考えにくい。
 
「鉄壁を誇る虎牢関を突破されたのです。籠城しても時間稼ぎにしかならない事を解っているのでしょうなぁ」
 
「………時間稼ぎ、か」
 
 ねねの曖昧な分析を反芻して、華琳さまはしばし考え込み――――
 
「このまま洛陽に向かうわよ。城兵が潜んでいたとしても、薙ぎ払って突破しなさい」
 
『はっ!』
 
 そう、決定を下された。
 
 
 
 
 予感は、あった。
 
「罰当たりめ! この洛陽を一体何だと思ってやがる!」
 
 既に北郷軍が洛陽を完全に放棄していた事、ではない。
 
「帰れ逆賊! 自分が朝廷の臣である事すら忘れおって!」
 
 功城戦をする必要すらなく都に入城出来た事、でもない。
 
「王都・洛陽を、漢室十二代の歴史を返せ!!」
 
 洛陽を占領し、そこに足を踏み入れる際に起こる……これを。
 
「てめーらのせいで御使い様は……皇帝陛下は……っ!」
 
「馬鹿っ! 余計な事しゃべんじゃない、殺されちまうよ!」
 
「いや、俺は言うぞ! あいつらさえいなきゃこんな事にはならなかったんだ!」
 
「ほんごーしゃま、いっちゃったぁあ~~……!」
 
「帰れ! この叛逆者ぁ!!」
 
 十の名を背負う兵士ではない、華琳さまが救わんとしている民草たちからの……罵言雑言の嵐。
 
「(あの時と、同じだ………)」
 
 エン州を落とした時も、冀州を落とした時も、幽州を落とした時も、こんな事にはならなかった。
 
 だが……徐州。劉備を下して領土を奪った時も、これと全く同じ現象が起きた。
 
「っ……」
 
「華琳さま!!」
 
 種々雑多に投げつけられてくる物の内の一つ、どこからか飛んで来た小石が………華琳さまの額に、当たった。
 
「貴様らぁっ!!」
 
 一瞬で頭に血が上る。誰が石を投げたのかも解らぬまま、私は衝動的に弓に矢をつがえていた。
 
 今にも放たれそうになっていた一矢を―――
 
「やめなさい!!」
 
 華琳さまの振るった大鎌の一閃が、弾いた。冷たく、激しく、強烈な怒りを伴った眼光に打たれて、私は急速に熱を失い、我を取り戻した。
 
 私と同じように足を踏まれて止められている姉者や、ねねに蹴り飛ばされて転がっている桂花の存在にも、今更のように気付く。
 
「(………しまった)」
 
 私は……本質的には姉者とさして変わらない。そう自覚しているからこそ普段から自分を律しているというのに……。
 
「(華琳さまの御心は、以前から聞いていたはずなのに……!)」
 
 自分で自分に腹が立つ。華琳さまの御心を知っていながら私憤を抑えきれなかった自分自身が許せない。
 
「………楽進、李典、于禁」
 
『は、はい……!?』
 
「“制圧”しなさい。あまり手荒に扱わないようにね。私は春蘭たちを連れて宮に向かう」
 
『っはい!!』
 
 あくまで淡々と告げた華琳さまの命を受け、三羽烏が裏返った声で応えた。
 
「…………………」
 
 罵声と投擲される物の雨を意に介さず、華琳さまは一人で足を進め出す。私は、姉者は、桂花は、ねねは、何も言わずに後に続いた。
 
「…………………」
 
 “あなた達には任せられない”。その背中に、言葉以上に強くそんな意志を伝えられながら。
 
 
 
 
「………………」
 
 王都の宮殿。その広大な玉座の間を悠然と進む華琳の表情には、喜悦や優越の欠片も宿ってはいない。
 
 それは、まだこの場所が本当の意味で自身の御座となったわけではない事を理解しているからか、或いは別の理由からか。
 
 鉄の意志からなる仮面の内側の感情を悟れる者はこの場にいない。
 
「皇帝を連れて洛陽を放棄、か。相変わらずやる事が無茶苦茶ね、あの男は」
 
 常と変わらぬ余裕と覇気を持って楽しそうに喋る少女に、その臣下らは揃って口をつぐんだ。
 
 何を言えばいいのか解らない。華琳はそんな臣下たちの内心に当然気付いて、当然無視する。
 
「都の人口がかなり減っているようね。……あれだけ慕われているのなら、ついて行ったとしても不思議はないか」
 
 それは作戦会議というよりも、状況確認に近いものだった。
 
 密偵に探らせた都の内外の状況、それを分析した上で王たる華琳がどんな判断を下すかを彼女の武具たる臣下らは待っている。
 
「北郷が西に陣を張っているのは私をそちらに引き付けるため。……見縊られたものね……いや、買い被られているのかしら」
 
 常と変わらないように見えて、今の華琳の言葉はどこか独白染みていて異質だ。
 
「私が貴方の思った通りに動くと、本気で思っているの?」
 
 その事に華琳自身気付いてはいるが、うまく矯正が利かないでいる。
 
「秋蘭は真桜、沙和、流琉、柳葉の部隊を率いて十文字の旗を落としなさい。春蘭は音々音、季衣、凪と共に南方へと進軍」
 
「南方……ですか?」
 
「北郷一刀が西に誘っているという事は、そこに天子はいないでしょう。自身を囮にして天子と人民を逃がしたとすれば、残る逃げ道は南しかないのです」
 
 華琳の命令の意図が読めずに訊き返した春蘭に、横から音々音が呆れ顔で説明する。
 
「君主自らが囮に? そんな馬鹿な話があるわけがないだろう」
 
「馬鹿はあんたよ。北郷一刀が連合相手に最初にやった事、憶えてないでしょ」
 
 春蘭に悪態をつきつつも、桂花も心の奥では同じ感想を持っていた。玉を敵の矛先に差し出すなど、軍師でなくとも理解に苦しむ判断だ。
 
「そういう男よ。私は桂花と共に洛陽に残り、慰労と鎮圧に努める。春蘭は帝を、秋蘭は北郷をそれぞれ連れて来なさい。ただし春蘭は、帝と共に移動しているだろう民草には危害を加えない事」
 
「「はっ!」」
 
「吉報を待っているわ。皆、奮励努力せよ!」
 
 華琳の激が魏の戦士たちを打つ。誰に認められる為でもない、救うべきもののために修羅の道であろうと毅然と立つその誇り高い姿こそが、彼女らに何よりの力を与える。
 
 
 
 
「動き出したようですね」
 
 都から西に離れた陣地で、一組の男女が遠く砂煙を視認する。
 
「思ったよりもたついてくれたな。この間に協君たちが少しでも進んでてくれてるといいんだけど……」
 
 片割れの男、北郷一刀に、片割れの女、鳳徳こと散が訊ねる。これから死闘に身を投じるというのに、二人とも不思議と落ち着いていた。
 
「意外と心配してないようですね。魏軍があちらに向かう確率も低くはないでしょうに……それだけ貂蝉の腕を買っているのかな? と」
 
 散の疑問は、最初は協君や人民を守るために自分をあてがうつもりだったはずで、しかも最初はやはり反対だったように見えた一刀が、どうしてあっさりと自分の同行を許したのか、というものだ。
 
 貂蝉との不明確な関係も含めての、純粋な好奇心でもある。
 
 貂蝉の実力を知っている散が適当につけた“あたり”を、しかし一刀はあっさりと否定した。
 
「いや、逆だよ。そういう点に関しちゃ俺はあいつを全く信用してないし、あいつが俺たちの為に魏軍と戦ってくれるなんてこれっぽっちも思ってない」
 
「へ?」
 
 それも、あまりにも予想外な答えで。さすがの散が呆気に取られた声を出す。
 
「あいつはきっと……物語に大きく干渉したり、流れを変えたりする事は“出来ない”。それでも何だかんだで面倒見のいいヤツだから、何かヒントはくれると思うんだ」
 
「……何を言ってるのかさっぱりかな、と。遂に本格的におかしくなりましたか?」
 
「違うっての。話半分に聞いといてくれ」
 
 続けるぞ、と一言置いて、一刀はまた口を開く。別段、理解して欲しいとも思っていない。
 
「でもあいつは、散に殿を任された時にあっさり引き受けた。戦うつもりもなくて、俺たちを陥れる事もしたくない……だから判った」
 
「何がですか」
 
 散にはわけが解らない。一刀は嬉しい確信に笑みを強める。
 
「散がいなくても、そして貂蝉がいなくても、協君たちは無事に逃げ切れるって事さ」
 
 後は俺たちだけだ。喉元まで出かかったその言葉を、一刀は寸での所で呑み込んだ。
 
 
 
 



[14898] 十七章・『推参』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/23 06:04
 
 魏軍の侵攻を受け、必ず来る再起の時に願いを込めて、皇帝・劉協、そして彼と北郷一刀を慕う都の民草は南方の宛へと向かう。
 
 そこからさらに西方を目指す長く辛い旅になる上、彼らは魏軍の追撃に見舞われていた。
 
「…………宛には、まだ着かぬのか」
 
「はい……。お身体は平気ですか」
 
「朕の事などよい。……しかし、このまま民に過酷な旅を強いるのは心が痛む。女子供や老人もいるというのに」
 
 その流軍の先頭で、疲弊した協君と雛里が言葉を交わす。協君はまだ幼い上に、決して身体が丈夫な方ではない。それは雛里も同様だ。
 
 それでも口にするのは民草の心配。しかし行軍を遅らせる事は出来ない。
 
 一刀が自身を釣り餌に魏軍を引き付けた行いが無為になったわけではない。半数以上の魏の大軍が西方を目指し、南に向かったのはそのさらに半数だ。
 
 それでも、魏の軍勢は既に撤退軍に半分手を掛けていた。弱者に過度の負担を掛けると解っていても、速度を落とす事は出来ない。
 
「あの者に殿を任せて、本当に大丈夫なのか? 素人目に見ても化け物染みて……いや、化け物なのは判るが……」
 
「華蝶仮面は散さんと一緒に街を守っていた正義の味方ですから、武に関しては超がつく達人だと思いますけど………」
 
 協君と雛里がいるのは軍の先頭、そして人民を挟んで中軍は風、そして最後尾に(軍を指揮しているわけではないが)貂蝉がいる。それゆえ、先頭の協君らに魏の追撃に曝されている最後尾の兵たちや貂蝉の情報が届くのは最も遅い。
 
 不安ばかりが掻き立てられて、しかしひたすら南を目指す以外に出来る事はない。おまけに、貂蝉に関してはあまりにも謎が多すぎる。
 
 命を懸けて戦う兵も、最早信じてついて行くしかない民も、そして彼らの信頼と意識を預かる導き手らも、押し潰されそうな重圧に神経を削られながら歩いていく。
 
「…………あれは?」
 
 立ち向かわずに背を向ける、それでも紛れもない戦いを続ける彼らの前に――――
 
「お待ちしてました」
 
 七つの影が進み出た。
 
 
 
 
「何故だ! 何故今すぐ奴らに追撃を掛けん!」
 
 一方、撤退軍に追い付き、帝を連れ去るように命じられた春蘭の部隊も、協君らが懸念したほどの激しい攻勢に出ているわけではなかった。
 
 正確には、攻勢に移れずにいた。
 
「今行けば民草にも甚大な被害が出るのです。………正確な敵戦力も判り辛いし、思った以上に面倒な戦になりそうですなぁ」
 
「おのれ、人民を楯にするとは卑怯な……!」
 
「……どちからと言うと、必死に逃がそうとしているように見えますが……」
 
「ねね達にとっては好都合なのです。殿の軍のみを蹴散らした後に早足で追い越して回り込み、帝と人民を都に連れ戻せば良いのですから」
 
 春蘭、音々音、凪。彼女らは既に号令一つで撤退軍の尾に食らい付く事が出来る。しかしそれによって起きると予想される乱戦は同行している民草をも巻き込みかねず、それは彼女らの主にとっても彼女ら自身にとっても望むものではない。
 
 おまけに、前方に続くのは広く深い樹海。ただでさえ兵と紛れて民の位置が掴みにくい上に、撤退軍は小さな穴に吸い込まれるように細い山道へと逃げ、その姿を深緑の天幕へと隠して行く。
 
「(ええいっ、まだ戦ってはダメなのか……!)」
 
 覇道を進む魏にとっても、皇帝を迎えて大義を得る事は大きな意味がある。歯噛みするような焦燥に駆られながら、春蘭は撤退軍の後ろ姿を睨み付けていた。
 
 そうして追撃部隊にとって恐ろしく長い時を経て、遂に撤退軍の“全てが”樹海の奥に姿を消す。
 
「よし、全軍進軍開始!!」
 
「ちょっ! あんな兵を伏せやすい地形に何の策もなしに突っ込むつもりですか!?」
 
「殿が消えるまで待ったのだ! もう先方はどこまで行っているかわからん! これ以上待っていられるかっ!!」
 
 意気揚々と号令を掛けた春蘭は、尚も苦言を並べる音々音を一喝して黙らせた。二人が目上である事、自分が義勇兵上がりで軍略に然程優れていない事を自覚している凪は、黙ってそれに追従した。
 
「続け、魏の精兵たちよ! 敵が伏していようが関係ない! 道阻む者全て蹴散らせ!」
 
 駆ける春蘭を筆頭にして、魏軍が山道に雪崩れ込む。当然、凪も音々音も春蘭に続いている。
 
「(まあ、仕方ないですなぁ)」
 
 危険を冒してでも先を急ぐ。この状況でその判断が間違っていると断定も出来ないので、音々音はそれ以上強く諌めはしなかった。………この時は、まだ。
 
 
 
 
「(おかしい……)」
 
 春蘭を追って必死に馬を走らせながら、音々音は今の状況に思考を巡らせていた。
 
 狭い山道、追って来る軍勢、北郷軍は少しでも長く時間を稼ぎたいはず。……にも関わらず、追撃部隊が山道に突入しても矢の一本すら降って来ない。
 
 まだ敵影こそ見えていないが、この調子では魏軍も無事に山道を抜けてしまう。
 
「(威圧に耐えられず、なりふり構わずただ逃げた? いや、それは無いのです。程立や鳳統、北郷軍の軍師がそれほど無能とは…………)」
 
 ただ真っ直ぐに逃げるよりも、地形を活かした奇襲を掛けて攪乱した方が遥かに時間を稼げる。
 
 音々音はそれも十分に解った上で春蘭を強く止めなかった。この追撃部隊が黄巾の乱から戦い続けている精兵のみで編成されている事も考慮しての判断である。
 
 しかし、慮外に山道に何も仕掛けられていない事が却って音々音に警戒心を抱かせていた。
 
 やがて山道も抜けようかというそこに辿り着いた時――――
 
「っ……な!?」
 
 道に立ちふさがるように待ち構えている七つの影が、春蘭の疾走を止めた。
 
 全く予期出来ない光景に、驚愕のあまり思考が止まる。
 
「へっへ~、驚いてる驚いてる♪」
 
 一人は、金の鎧を纏い、身の丈ほどの大剣を肩に担ぐ緑髪の少女。
 
「文ちゃん、お願いだからあんまり調子に乗らないでよね」
 
 一人は、こちらも金の鎧を纏い、同色の大槌をその手に握る、黒髪を切り揃えた少女。
 
「にゃはは、二人はこんな時でも相変わらずなのだ」
 
 一人は、一丈八尺の蛇矛を持つ、赤い髪の小柄な少女。
 
「久しぶりだな、夏侯惇。いつかの借り、ここで返させてもらおう」
 
 一人は、自身の象徴とも呼べる青龍刀を構えた、黒く長い美髪を片端で束ねた少女。
 
「…………………」
 
 一人は、戦場の中であまりに場違いに琴を奏でている、平らな帽子を被った金髪の少女。
 
「忘れるなよ、わたしもいるからな! 絶対忘れるなよ!」
 
 一人は、緊張しながらも自己主張を忘れない普通の女性。
 
 そして――――
 
「…………………」
 
 両手で握った王剣を正眼に構えて目を瞑る、桃色の長い髪を持つ少女。その閉ざされていた瞳が、開かれる。
 
「……この道は通しません。どうしても通るって言うなら……」
 
 意志を示して、言葉で伝えて――――
 
「わたし達が、相手になります」
 
 徐州より追われし大徳・劉備軍、推参。
 
 
 
 
「退きましょう」
 
 背後から掛けられた音々音の言葉が春蘭には信じられず、しばしの沈黙を経て思考が理解に至ると同時に、振り向いて怒鳴りつける。
 
「っ貴様は馬鹿か! 帝どころか、以前取り逃がした宿敵まで揃いも揃って目の前にいるというのに、ここで帰れとはどういうつもりだ!!」
 
 河北に於ける大戦で取り逃がした桃香を含めた劉備陣営の将たち。今まさに斬り掛かろうとしていた矢先の音々音の制止は、春蘭の闘志を甚だしく阻害した。
 
 無論、音々音もそれで黙ったりはしない。
 
「何の策もなしに、たった七人で殿などするはずがありません。挑発に乗れば、必ず手痛い打撃を被る事になるのです」
 
 春蘭に説明をしながら、音々音の視線は一人静かに琴を弾いている朱里へと向けられている。
 
 河北での戦い。己の用兵と軍略に絶対の自信と実績を持っていた音々音は………完膚なきまでに敗北した。
 
 戦そのものは魏の勝利に終わったが、数で圧倒的に上回っていた魏軍が劉備軍から受けた被害は相当なものだった。
 
 先見で一つ一つ上を行かれ、思いも寄らぬ用兵と奇策に虚を突かれ、必殺の策も軽々と捌かれて逆撃を受けた。戦には勝っても、軍師としての知略戦で音々音は完全に敗けたのだ。
 
 だからこそ、音々音は確信する。神参鬼謀の諸葛孔明が、こんな無意味な自殺行為をするはずがないと。
 
「(こんな偶然があるはずがありません。とっくに北郷軍の傘下に降っていたとは、迂闊だったのです)」
 
 眼を凝らす。琴を弾く朱里の遠く背後で、僅かに不自然に草木が揺れた。
 
「(やはり伏兵。とすれば狙いは………)」
 
 桃香らのあまりに突飛で不可解な登場は、却って音々音に冷静さと慎重さを取り戻させた。そして、遅まきながらそれに気付く。
 
『難道行くに従って狭く、山川相迫って草木の茂れるは敵に火計あるべし』
 
 自分が北郷軍の軍師ならば、自軍を大きく上回る敵に何を以て対するか。
 
「(火計……!?)」
 
 自身が導き出したその解に、音々音の背筋に寒気が走る。
 
 虎牢関の敗走、洛陽の放棄と逃走、北郷一刀の無謀な囮、それら全てが、ここに魏軍を誘き寄せるための布石だったようにすら思えて、嫌な予感は爆発的に膨らんでいく。
 
「何かある、だと? そんな曖昧な事をいちいち気にして戦が出来るか! お前のような臆病者が軍の士気を落とすんだ!」
 
「果たして臆病はどっちですかなぁ」
 
 憤る春蘭に、音々音はわざとらしく肩を竦めて見せた。
 
「許昌では北郷一刀を取り逃がし、今回こそ汚名返上しなければならない。功を焦って失態を怖れているのはどちらかと訊いているのです」
 
「貴様……っ!」
 
 図星を突かれ、春蘭が音々音の胸ぐらを掴み上げた。しかし音々音は絞められるままに言葉を続ける。
 
「それでまともな判断が下せるつもりですか。お前の自尊心のために、主殿から預かっている兵を死地に追い込むとでも?」
 
「ッ………」
 
 春蘭を納得させるための方法は心得ている。彼女の崇拝する主君の名を使って、怒れる武人を宥めすかす。
 
「参謀であるねねの進言を取り入れるように、とも言われてましたなぁ」
 
「っ……~~~~」
 
 矜持、怒り、未練、恐怖、羞恥、屈辱、忠誠。あらゆる感情に胸の中をぐちゃぐちゃにかき回されて、春蘭は長い葛藤を経た後に――――
 
「………撤退だ」
 
 滅私奉公の選択をした。
 
 
 
 



[14898] 十八章・『兆』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/22 19:26
 
「かたじけない。しかし、よくあの混戦の後に私一人を見つける事が出来たな」
 
 焼け朽ちた虎牢関から少し離れた山の奥。猟師が狩りの為に設けたであろう山小屋がある。
 
「元々わたしは、そういう隠密行動が得意ですから。隠れる事が得意な分、隠れる側の行動も読みやすいんです。……正直、運が良かったというのも大きいですけど」
 
 キツい匂いのする薬草を磨り潰し、傷口に塗り付け、その上から包帯を巻く。応急措置にしては十二分な手当てを受け終え、水色の髪の少女は傍らの槍を握った。
 
「ともあれ、ご無事で何よりです」
 
「私は、な……。散り散りになった兵たちはどうなったか判らん。……負け戦とは惨めなものだ」
 
 自嘲気味な笑みを零す少女の顔に、しかし自虐の色は浮かんでいない。立ち上がり、身体の調子を確かめるように槍を振るう。
 
 一瞬二撃。鋭い刺突と斬撃が風を切り、紅い光跡を残した。軽く調子を確かめただけのその所作に、黒髪の少女は息を呑む。
 
「さて、おぬしはどうする? もう十分に呉国の義と矜持は証明してもらったと思うのだが」
 
「いえ、でも……って、どこに行くんですか! 傷口が開いてしまいますよ!」
 
 当然のように立ち上がった水色の少女を、黒髪の少女はあたふたと止めようとする。その慌てる様子を面白そうにクスリと笑い、水色の少女は蝶の羽を思わせる白の衣を纏った。
 
「あの阿呆の事なら、おぬしがこれ以上気に病む必要はござらんよ。餓狼の牙に自ら首を曝す鹿を守れなかったとして、“見捨てた”などと誰が思う」
 
 励ますような、そして誰かを呆れるような水色の少女の言葉に、黒髪の少女はしばし俯いて口をつぐみ………
 
「………………」
 
 そして意を決して語りだす。語るべきか判らなかった、そんな間を挟んで。
 
「…………大切な、方なんですね」
 
「………何か?」
 
 敢えて聞こえないフリをして、水色の少女はとぼけた。黒髪の少女は続ける。
 
「蓮華さまが真名をお許しになったわけが、解ったような気がします。……いくらでも自身を守る方法があるのに、民と臣下を守るために自ら命を懸ける。武に秀でているわけでもないのに。………勇敢で、そして優しい方です」
 
 しみじみとそんな言葉を並べる黒髪の少女に…………
 
「…………はぁ」
 
 水色の少女は、酷く感情の籠もった溜め息を吐いて壁に手を着いた。次いで、「馬鹿を言うな」と言わんばかりに黒髪の少女に詰め寄る。
 
「何が勇敢なものか。奇抜で大胆なら何をしても良いというものではない。どんな状況であろうと国を司る主が死地に飛び込むなど兵法で言えば下の下だ。優しい? あれはただ我が儘なだけよ。自分の優先順位を押しつけた挙げ句に我を通す。だから自分を囮になどと馬鹿な事を平然と口にする。そもそもあやつの“大切なもの”はあまりに広すぎるのだ。誰彼構わず懸想しては『好きだ』などと宣い、しかもそれが本音だから尚さら質が悪い。あやつの『大切なもの』全てを守ろうとしていては盾も槍も全て心臓になってしまうというものだ」
 
「は……はい………」
 
 堰を切ったように日頃の鬱憤を並べ立てられ、黒髪の少女は呆気に取られた返事しか返せない。
 
 ひとしきり文句を言ってすっきりしたのか、水色の少女はクルリと背を向け、戸に向かう。
 
「………だから放っておけんのだ。厄介極まりない」
 
「!?」
 
 並べ立てられた多くの言葉よりも、背中越しに零れたその一言に重みを感じた黒髪の少女は、直感的に気付いた。反射的に止める。
 
「無茶ですよ! そんな体で、たった一人で、一体何が出来るっていうんですか!」
 
 彼女の主に頼まれ、彼女を助けに来た少女である。このまま行かせられるわけがない……“のに”………
 
「何が出来る、か。まったくもってその通り。だが………」
 
 水色の少女は振り返る。不敵に微笑み、黒髪の少女に流し目を送る。
 
「己が文字通りの万夫不当の武人かどうか、試すもまた興とは思わんか?」
 
 その軽薄な態度とは裏腹な強い瞳の光に打たれて、黒髪の少女はその背中を見送る事しか出来なかった。
 
 
 
 
「どうした盲夏侯! たった七人に怖れをなしたか! それでも魏武の大剣か!」
 
「鈴々は逃げも隠れもしないのだ! 本気出してあげるから、かかって来ーい!」
 
「あたいが怖いのかー! このデコっぱちー! 後退りハゲー!」
 
「えっ、と………ばーーか!」
 
 愛紗、鈴々、猪々子、桃香の罵声を受けて………
 
「ぐ…ぬう……ぎっ………!」
 
「挑発です。あんな手に引っ掛かってはそれこそ物笑いですぞ?」
 
 唇の端から血が滲むほどの屈辱に耐え、春蘭率いる追撃部隊は引き上げて行く。
 
「(やはり我らをはめるつもりですか。そう何度も同じ手には乗らないのです)」
 
 たった七人にも関わらず執拗に春蘭を挑発する劉備軍を観察し、音々音はより強く自分の判断に確信を持った。
 
「(主君まで引き連れて琴など弾いて、ぱふぉーまんすが過ぎましたな)」
 
 今も静かに琴を奏でる朱里を睨み、春蘭同様に心の中で雪辱の炎を燃やして、音々音は春蘭を宥めながら引き返して行った。
 
『…………………』
 
 琴の音も止み、ほんの少し前まで一触即発の戦場だった山道に、耳に痛いほどの静寂が広がって…………
 
「ふ……へえぇぇぇ」
 
 聞く者全ての力が抜けるような吐息に破られた。その発信源たる桃香は、緊張の糸が切れたようにぺたんと地べたに座り込む。
 
「死ぬかと思ったよぉ~」
 
「というか、悪口の程度がかなり低くなかったか? ばーかは無いだろ、ばーかは」
 
「にゃはは、お姉ちゃんは普段悪口なんて言い慣れてないからなー」
 
「文ちゃんのが一番酷かった気がします」
 
「なんだよー、白蓮さまも斗詩もやらなかったくせに。ノリ悪いよなー」
 
「ねー♪」
 
 桃香の物腰が砕けたのを合図とするように、各々が常の調子で口を開く。その相変わらずな様子に軽く目眩を覚えつつ、愛紗は朱里に歩み寄った。
 
「しかし、本当に七人相手に魏軍が撤退するとはな」
 
「陳宮さんは知略も洞察力も備えた優秀な軍師です。だからこそ、以前の敗戦を基に慎重な判断を下すだろうと確信していました」
 
 自分に驚嘆と称賛を向けられたと気付いて、朱里も平静を繕った仮面を捨てた。本来、敵軍を前にして平然と琴など弾ける性格ではないのだから、今までは必死に無理をしていたのだ。
 
「しかし、朱里にしては珍しく一か八かだったんじゃないか。追撃部隊の大将が夏侯惇だって判った時は、正直肝が冷えたぞ」
 
 言葉通りに額の冷や汗を拭って、白蓮も朱里に話し掛ける。今回の功労者を称えて、同時に説明を求めて、皆が近づいて来る。
 
「兵も持たない今のわたし達ではこれが精一杯でした。それに、あまりその心配はありませんでしたよ」
 
 怪訝そうに首を傾げる桃香、愛紗、白蓮、斗詩。あまり興味なさそうな鈴々、猪々子に、朱里は穏やかな笑顔を向けた。
 
「曹操さんは人物の力量を見極めて使う才覚に優れています。直情型の将のみを部隊に配する事はまずしません」
 
 こうなる事は必然だった。そんな朱里の言い様に、愛紗は背筋が冷えるのを感じた。
 
 軍略や兵法、天文や政策どころか、大した面識も無い敵軍の将たちの能力や心理まで正確に見抜いて実際に手玉に取る朱里の頭脳に、味方ながらに畏敬の念を覚えたのだ。
 
 そんな天才軍師を称える声は、さらに後ろからも掛けられる。
 
「まあ、普通はあの大軍をハッタリで追い返したりしようとは思いませんけどねー。お姉さんの行動力を、孔明ちゃんがうまくさぽーとしてる感じでしょうか?」
 
「風ちゃん!」
 
 茂みの中から服の裾を気にしながら現れた風。同時に、手足に枝葉を縛り付けた北郷軍の兵士が十数人程度立ち上がる。
 
「風ちゃんもお疲れさま。付き合わせちゃってごめんね」
 
「そもそも他人事ではありませんし、受けただめーじは腰がちょっと痛くなったくらいですから、気にしなくていいですよー」
 
 桃香らは兵を持っておらず、貂蝉にも兵の統率は任せられない。風が交代でここにいるのもある意味必然だ。
 
 草木を揺らして伏兵を“匂わせる”には、僅かなりとも数は必要だったから。
 
「………よく、我らの協力を受け入れる気になったな」
 
 些か以上に壁を作りながら視線を逸らして言うのは、愛紗。反北郷連合で戦った経緯もあり、以前から再三『北郷軍との和解は不可能』と桃香に進言していた愛紗だ。
 
 風の対応が信じられない上に気まずく思うのも無理からぬ事だった。
 
 対する風は、まったくの自然体。
 
「そもそも風が許す許さん決める事じゃねーからな。まあ、稟やら散やらは結構うるさく言うかもだけどよ」
 
 宝慧まで駆使して緊張感を破壊する。嫌な事はサクサク忘れる性格だ。そして風は柔軟性に富んだ軍師である。反北郷連合の際の成り行きも、時代の必然として受け入れていた。付け加えれば、あの時の“悪あがき”も憶えている。
 
「ね! だから言ったでしょ?」
 
 嬉しそうに愛紗にそう言って、桃香は風の手を取ってくるくると回りだす。
 
「(そういえば、義勇軍だった頃からこの二人は仲が良かったな………)」
 
 北郷軍と再び手を取り合える好機にはしゃぐ主君の姿に、胸中に並々ならぬ心配を押し隠しているはずの主君の姿に、漠然とした不安を感じる愛紗は……
 
「(北郷、一刀……)」
 
 もう一つ、自身の心の矛盾した動きに戸惑っていた。桃香が一刀に関わる事を好ましくないと思っているはずなのに、何故か北西の空が気になって仕方ない。
 
 ―――居ても立ってもいられないほど。
 
「大丈夫だよ、愛紗ちゃん」
 
 そんな愛紗に、桃香は微笑み掛ける。想いを寄せる男が今も死地にあると知って、平静を保てるような人物ではない。それなのに、不安の欠片も感じさせない笑顔で。
 
「(強く、なられた)」
 
 ついて来て良かったと心底から思う。なのに…………
 
「信じよう、絶対一刀さんに生きてまた会えるって」
 
 愛紗の心の暗雲は晴れず、ただ広がり続けるばかりだった。
 
 
 
 



[14898] 十九章・『蒼い影』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/23 22:20
 
 血飛沫が舞い、絶えず剣戟の音と怒号と悲鳴が鼓膜を揺らす。
 
 自分の体が熱いのか冷たいのかすら判らない極限状態の中で、とっくに体力の尽きた体を懸命に動かして一刀は戦っていた。
 
「(怖い………)」
 
 そんな感覚など麻痺している。いや、自覚した瞬間に死が口を開けて襲い掛かって来る窮地で、何故か一刀はその言葉を噛み締める。
 
 機動力の高い騎兵部隊でひたすら遊撃と撤退を繰り返す。騎馬に於いては大陸最強を誇る北郷軍にとってそれは最も得意な戦法であるはずだったのだが、ただでさえ自軍を遥かに越える大軍勢に対する精神的、肉体的重圧は楽観出来ない上に、長期に渡る虎牢関の籠城戦、虚を突かれて命からがら逃れた許昌での死闘を経て、北郷軍の精兵たちの気力も限界を迎えていた。
 
 終われ、捉まり、喰らいつかれ、終には編成を崩された乱戦へと縺れ込んだ。
 
 周りにどれほどの味方がいるのかも判らない。ただ激流の中で翻弄される木の葉のような自身を自覚しながら、一刀は必死に足掻き続けているのだ。
 
「うがぁあ!」
 
「げあっ!?」
 
 力の入らない体を自身の腕に振り回されながら、自分に槍を突き出して来た魏兵を力任せに槍ごと叩き斬る。
 
「こいつっ!」
 
「はあああっ!」
 
 その背中を狙って剣を振り上げたもう一人の胴を振り向き様に薙ぐ。
 
「(……あれ、どっちに逃げればいいんだったっけ………)」
 
 降り掛かる火の粉をがむしゃらに払い除けて命を繋ぐ行為を続ける内に、東西南北どころか左右すら判らなくなる。
 
「北郷様、ご無事で………!」
 
「馬はこちらです!」
 
「あっ、ありがと」
 
 先ほど、やられそうな味方を助けようと飛び降りた馬を、十軍の兵士が引っ張って来てくれた。一刀は軽く礼を言ってそれに跨がった。その直後――――
 
「貴様が北郷一刀か?」
 
「あ……」
 
 たった今、一刀を案じて駆け寄って来た二人の兵士の首が、一刀の目の前で血を噴いて飛んだ。
 
 鮮血の帳の向こうから、その凶刃の主が姿を現す。僧のような黒の法衣と頭巾で顔以外の部分を隙無く覆い隠した少女。その少女が殺戮の軌跡のように血糊を引いた大斧を振るっている。
 
「この乱戦に在って大将首に巡り合えるとは運が良い。強運だ」
 
 敵だ。それも、おそらくは将軍。一刀がその事実に気付き、馬首を返そうと手綱を引く………が、遅い。
 
「くたばれ」
 
 無防備な一刀の横面に向かって、目にも止まらぬ速さで穂先が奔り―――
 
「ほい」
 
 横からの双鉄戟に軌道を外され、空を切る。
 
「散!?」
 
「いい歳こいて迷子にならないで下さい。あたしはあなたのお母さんじゃないんですよ」
 
 颯爽と現れ、いつもの減らず口を並べながらも、散は嵐のような連撃を繰り出している。
 
 その激しい猛攻をかろうじて捌きながら、黒衣の少女は無理矢理後退させられた。
 
「で、走る」
 
「うおっ!?」
 
 双鉄戟の穂先が一刀の馬の尻をチクリと刺した。堪らず、馬は全速力で散が狙った先……西方へと駆け出していく。
 
 突然の疾走に慌てて馬にしがみつく一刀を見るでもなく、散は戟を黒衣の少女へと向けていた。
 
「何だ貴様は……!」
 
「通りすがりの三十路です」
 
「……なるほど、真面目に応えるつもりはないというわけか」
 
「人に名を訊く時は自分から。礼儀知らずはお互い様なようで」
 
「なるほど……いいだろう!」
 
 二人、視線と同様に噛み合わせていた刃を乱暴に弾き、僅かな距離を取る。
 
「我が名は徐晃。名を聞かせろ、死にゆく者よ」
 
「鳳令明。覚えなくていいですよ、お嬢さん」
 
「どこまでもふざけたガキよ!」
 
 大斧が唸りを上げ、双鉄戟が風を裂く。二人の間を乱れ飛ぶ斬撃が火花を散らし、他者の踏み入る事を許さない絶技の応酬が始まった。
 
 平時であれば芸術とさえ呼べる剣の舞はしかし、命が灯火のように容易く散っていく戦場の中では大した意味を持たない。
 
 当然、二人もそこに執着するはずなどなかった。
 
「秋蘭さま! 北郷一刀を見つけました!!」
 
「っ……近くに他の将までいたようで」
 
 刃を交わしながら張り上げた徐晃の叫びが、僅か離れた秋蘭に届く。散が舌打ちしながら掬い上げた戟の一振りを、徐晃の柄が受けた。
 
「! あれか……っ!」
 
 剣戟の音や怒号の嵐が吹き荒ぶ乱戦の中で、秋蘭は徐晃の叫びを正確に拾った。そして一人高速で走り去る騎馬の後ろ姿もその視界に収める。
 
「普通ここは、武功を焦って自分が行くしーんじゃないかな、と」
 
「私個人の武功など、覇王の見据える未来に比すれば塵芥ほどの価値もない」
 
 無欲な判断を前にして、散は顔には出さずに苦虫を噛み潰す。秋蘭が弓を引くより速く徐晃を退けるなど不可能だ。……仕方なく散は、左手で戟を敵の大斧に叩きつけながら、右手を背中に回した。
 
「(届く)」
 
 一刀の背中を見つけるや否や、秋蘭は即座に弓を引く。まだ彼が射撃の間合いにいる事を確信し……
 
「(背後か……。この距離で胴体を狙えば、死ぬ事はないだろう)」
 
 主の意向に刹那思考を巡らせてから―――
 
「(当たり所が良ければな)」
 
 必殺必中の矢が放たれる……はずだった。
 
「!?」
 
 歴戦の戦いの中で培われた“勘”に従い、秋蘭は上体を反らせた。一瞬前まで彼女がいた空間を、銀光を撒いて短戟が貫いた。
 
 秋蘭に自体にはかすり傷一つつきはしなかったが―――
 
「っ……しまった」
 
 矢を放つための弓弦が切れている。これでは一刀を狙えない。
 
「余計な事を……一騎討ちの最中に余所見とは、余裕だな!」
 
「ホントは首狙ったんですけどね」
 
 徐晃と打ち合いながら間隙を縫って短戟を投げ放った無名の将に僅か感銘を受ける秋蘭だったが、そこで思考を止めはしない。
 
 散の命になど最初から興味はない。狙うは北郷一刀ただ一人。弓弦を切った程度、時間稼ぎにもなりはしない。
 
「李典、于禁、典韋! 北郷一刀を追え! 見事生け捕りにした者は戦功第一は間違いないぞ!!!」
 
『は、はいっ!』
 
 涼しげな容貌からは想像出来ない大音量が戦場に響いた。その命令は、奇しくも乱戦の中で秋蘭の指示を仰ごうと集結していた三人の将に届く。
 
「止めなさい!!」
 
『応!!』
 
 散が似合わない大声で周囲の兵に号令を掛ける。それほど切羽詰まった状況だという事だ。
 
 散は徐晃の相手で精一杯。一刀を守る将はいない。しかし…………
 
「どかんかーい!」
 
「押し通ります!!」
 
「邪魔する奴は片っ端からその股間の汚いのを削ぎ落としてやるのー!」
 
 三人の将の率いる魏兵の突撃を、弱りきった北郷軍の兵士が止められるはずもない。そもそも数が違うのだ。
 
「諦めろ、天下は既に曹魏のものだ」
 
「勝負は蓋を開けるまで判らないものですよ」
 
 顔色一つ変えずに減らず口を並べる散に………打開策は無かった。
 
 
 
 
「(どこに逃げた……?)」
 
 乱戦と一口に言っても、それは北郷軍の視点から見た乱戦である。
 
 今の状況は、敵味方が入り乱れて混乱を極めた孅滅戦ではなく、陣形も統率も崩されて身動きの取れなくなった北郷軍を、魏軍が各個撃破しているような状態だった。
 
 有体に言えば、魏の統率はそれほど乱れてはいなかったという事になる。
 
「(たとえこいつらを全滅させても、北郷一刀に逃げられては………)」
 
 一度退がり、弓の弦を張り直した秋蘭は、戦場の兵の動きを注意深く観察していた。
 
 北郷一刀を捕えたという報が無い事を悔やむべきか、取り逃がしたという報が無い事を喜ぶべきか判別がつかない。一刀の追撃を任せた真桜らの部隊の姿も未だ確認出来ていなかった。
 
「………ん?」
 
 そうして戦場を見渡していたから、秋蘭はすぐに気付く事が出来た。魏軍の後曲、一刀がいるはずもないその場所がやけに騒がしい。
 
 様子見をしようかと思った矢先に、丁度よくそちらの方向から大慌てで駆けて来る騎馬を見つけた。騎馬は「伝令! 伝令ー!」と叫びながら近づき、馬から飛び降りて秋蘭の前で膝を着く。
 
「何があった? 前線も突破されていない今、後曲に混乱など起きようがないだろう」
 
 秋蘭は、一瞬脳裏を掠めた嫌な予感を、別の言葉を口にする事で否定する。
 
 前線を固めるのは歴戦を潜り抜けた魏の精兵。しかし後曲にいるのは数を多く見せる事を主眼に置いた練度も経験も浅い新兵の軍。奇襲で背後を突かれようものならたちまち大混乱に陥る。
 
 しかしそんな事は百も承知で慎重に軍を進めて来たのだ。この期に及んで伏兵に背後を取られる事などあり得ない。
 
「そ、それが………」
 
 だが、秋蘭のそんな確信に反して、伝令兵は怯えるように言い淀んで………
 
「後曲が東方より敵の強襲を受け、虚を突かれた新兵らが陣形を乱し始めまして………」
 
 あり得ない現実を報告した。だが、秋蘭が本当に驚愕するのはその後だ。
 
「一体どこに伏兵が隠れていた? 敵の規模は? 軍旗は?」
 
「潜伏場所は解りません。軍旗も掲げておりません。規模は………」
 
「規模は?」
 
「規模は………一人、です」
 
「……………………は?」
 
 数秒自分の耳を疑って呆けた秋蘭は、我に帰ってすぐさま伝令の言葉を再確認する。
 
「もう一度言ってみろ。……敵の数は?」
 
「ひ…一人です……。突然東より駆けて来たかと思えば、鬼神の如き槍捌きで瞬く間に兵たちを薙ぎ倒ぷあっ………!?」
 
 最後まで聞かず、秋蘭は伝令の頬を張り飛ばした。呆れてものも言えない。
 
「貴様らはそれでも魏の兵か。いちいち私に指示を仰がなければそんな事も満足に判断出来んのか。そやつがどれほど強いか知らんがたかだか一人、さっさと数で包囲して引っ捕えて来い」
 
「は……はいぃっ!」
 
 有無を言わさぬ冷たい眼光に打たれ、その伝令が来た道を引き返そうとした時………新たに伝令が秋蘭の許に向かって来ていた。
 
 先ほどと同じように、しかしより動揺と混乱を滲ませた新たな伝令が、秋蘭の前に膝を着き………
 
「単騎にて我が軍後曲より強襲を掛けた何者かはなおも抗戦中! 中軍……突破されました」
 
「………な…に……?」
 
 秋蘭の表情が、今度こそ凍り付いた。
 
 
 
 



[14898] 二十章・『北方常山の昇り龍』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2010/12/28 18:33
 
「うわあぁ! 何だこいつはぁ!?」
 
 押し寄せる津波にも似た十何万という魏の大軍。その中を一つ、蒼い影が駆け抜ける。
 
「てんほーちゃん! 俺に力を!」
 
 風のように疾く、その道を阻む者は煌めく真紅の閃光に誘われて瞬く間に屍へと変える。
 
「ビ、ビビるな! 相手は一人だ! 一斉に掛かれば………」
 
 一人は一人だ。数で押し切れば犠牲の果ての勝利も得られた事だろう。だが、最初に掛かれば真っ先に死ぬと判っていて自ら飛び込める猛者は少ない。勇気を振り絞って前へ出た者もその圧倒的な強さと向かい合った瞬間に身を竦ませる。
 
「恐れる者は背を向けろ」
 
 突き出される槍衾を、襲い来る刃の群れを、吹き荒れる矢の嵐を、彼女はまるで舞い踊る蝶のように鮮やかにいなす。
 
「恐れぬ者はかかって来い」
 
 その槍は龍の顎。その刃は龍の爪牙。敵する者を抗う事すら許さずに噛み砕く無双の一撃。
 
「我が名は趙子龍! 一身是刃なり!!」
 
 星雲纏いし蒼き昇龍が今、世に天に駆け昇る。
 
 
 
 
「(馬鹿な………)」
 
 遠く、信じられない光景に秋蘭は眼を奪われていた。
 
「(……趙、子龍)」
 
 黄巾の頃より、雑軍の将でありながらその用兵と武勇によって数多の賊徒を屠り世に名を馳せた、知勇兼ね備えた北郷一刀の右腕。
 
「(己がどれほど無謀な行いをしているか、自覚していないのか……!)」
 
 どれほどの武を誇ろうと、個人の力量で大局は動かない。そんな事は誰でも知っている。
 
「(何がお前にそこまでさせる……)」
 
 今の星は秋蘭にとって、慢心に溺れて犬死にに走った愚かな将と嘲笑すべき相手であるはずだった。
 
 しかし――――
 
「(何と………)」
 
 しかし――――
 
「(美しい……)」
 
 その姿に、秋蘭は今の状況と互いの立場をも忘れ……感動すらしてしまっていた。
 
 強さ、凄さ、熱さ、冷たさ、美しさ、危うさ、儚さ、怖さ、気高さ、切なさ、激しさ、それら全てであると同時に、そのどれでもない。
 
 この姿を形容する言葉が見つからない。武人として、女として、羨望や嫉妬すら遥か越えて憧れすら抱いてしまう。
 
「(お前は………)」
 
 そして、彼女の忠誠心は“だからこそ”の解に辿り着く。
 
「(ここで逃せば、いずれ必ず華琳さまに立ちふさがる壁になる……!)」
 
 弓の弦が引き絞られる。その白羽から指が離れて………必殺の一矢が飛び――――
 
(キィン!)
 
 まるで矢など見ていなかったはずの星の槍に弾かれた。
 
「――――――――」
 
 紅の瞳が、琥珀の瞳を捉える。
 
 
 
 
「くっ、そ……!」
 
 周りには既に味方は一人としていない。がむしゃらに逃げ回ってしまったため、元来た道を戻って散を探すという事も出来ない。
 
 散を見捨てて逃げる、という選択肢は一刀にはない。しかしもう、散が逃げきれたのか手遅れなのかも判らない。たとえ散が窮地にあり、その場所に行けたとしても、自分が行く事で足を引っ張る事になる可能性の方が高い。
 
 などの思考を頭の隅で巡らせながら、一刀は無我夢中に逃げ回っていた。
 
「どけぇ!!」
 
 再び西を見失った、というわけではない。しかしもはや真っ直ぐに西を目指すという事自体が不可能だった。
 
 息つく暇もなく襲ってくる死の脅威が迫る度に活路を模索し、そこに飛び込む。その繰り返し。
 
「大将首、もらっ……」
「邪魔だ!!」
 
 騎馬に乗った部隊長らしき男の突き出す槍を捌き、すれ違い様に首を飛ばす。その事に動揺した周りの兵を馬で蹴散らして突破した。
 
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
 
 いくら逃げても、いくら斬っても、一向に状況が好転しない。いつまで経っても溢れんばかりの敵に呑まれそうな死地が続くばかりだ。
 
「っだああああ!!」
 
 それでも足掻く。足掻き続ける。並み居る敵を斬りまくって駆ける一刀は…………
 
「はあっ……はあっ……あれ……」
 
 いつの間にか、自分の周囲一帯に敵兵の姿が無い事に気付いた。包囲を突破したわけではない。
 
 まだまだやや離れた所には魏軍が円を描くように一刀を取り囲んでいる。
 
 ―――そして、上を見上げて一刀は気付く。
 
「………げ」
 
 山なりに、自分の周囲目がけて矢の雨が射ち上げられている事を。
 
「うおおぉおおぉーーーー!?」
 
 泡を食って全力疾走で矢の範囲外から逃れようと一刀は駆け……辛うじて逃れるが――――
 
「っ……!」
 
 風に流された矢の一本が鎧の背中に、一本が肩に突き刺さった。とはいえ、悠長に痛がっている余裕などない。
 
「ッはあああああ!!」
 
 じわじわと広がる痛みに歯を食い縛って耐え、剣を片手に手近な兵を蹴散らさんと咆えた一刀………の――――
 
 
「っ―――――」
 
 軍馬の足の一本が、斬り落とされた。馬上の一刀は何が起こったのかも判らぬままに投げ出され、地面に叩きつけられて何回転もしてからようやく止まった。
 
 そして、直後―――
 
「御命頂戴、なのー!!」
 
「っ!?」
 
 頭を割る軌道で降って来た刃を、一刀なりに死線を越えて来た事で培った勘が止めた。
 
 倒れたまま上体だけを起こした不安定な体勢。顔を上げればそこには、眼鏡を掛けて後頭で髪を三つ編みにしたソバカスの少女。その手には鋭利な双剣が握られている。
 
「(女の、子……!?)」
 
 前の外史からの一刀の直感が警鐘を鳴らす。目の前にいる少女が、三国志に名を馳せる将なのではないか、と。
 
 そして、それは正しかった。
 
「恨みはないけど……」
 
 一刀が止めた物とは違う、もう一方の剣が一刀を串刺しにせんと引かれている。
 
「死んで欲しい……の!?」
 
 一刀は反射的に上体を引いて、その反動で足を振り上げ、少女……沙和の顎をはね上げた。
 
 沙和が怯んでいる隙に横に転がって窮地を脱し、慌てて立ち上がって剣を正眼に構える。
 
「っ~~~もう怒った! 女の子の顔蹴るなんて男としてサイテーなの!」
 
「俺もヤだけど、そうも言ってられないんだよ!」
 
 こんな状況でも罪悪感が出てしまう自分の性分に呆れながらも、そんな事を気にする余裕は全く無い。
 
 近くに味方は居らず、馬の足は斬られ、目の前には敵の将。逃げられる状況ではない。一刀は覚悟を決めて……先手を打つ。
 
「きゃっ……!」
 
 上段に振り下ろされた剣を、沙和は双剣を頭上に構える形で受け止める。その一太刀で、一刀は一つの推測を得た。
 
「(この子、そんなに強くない……?)」
 
 疑問を確かめるように、何より生き残るために、一刀は続け様に斬撃を繰り返す。
 
 沙和も当然のようにそれを捌き、斬り返し、両者の剣は鎬を削って火花を散らす。
 
「(やっぱり……)」
 
 そして一刀の疑問は確信へと変わる。日頃自分が稽古をつけてもらっている星や恋、霞や舞无に比べれば、目の前の少女は明らかに弱い。
 
 決して一刀より明らかに弱いというわけではないが、それでも十分互角に渡り合えている。それが何よりの証拠だった。
 
 そして、絶対の危機に思われたこの邂逅が一刀の命を永らえさせる結果となる。
 
「くっ……この!」
 
「やっ、はっ、なの!」
 
 一つ間違えれば、僅か気を抜けば死に直結する一騎討ち。しかし、それによって周囲の魏兵の動きは止まっている。
 
 自軍の将にまかり間違っても傷を負わせないため、そして手柄を横取りする不遜を避けるため、彼らは逃げ道を塞ぐ壁としての役割に撤していた。
 
 そして、その異質な兵の動きが何よりの光明……すなわち、“目印”になった。
 
「一刀―――――!!!」
 
 聞き馴れた声が、聞き馴れない激情を帯びて一刀の耳を打つ。聞き違えるはずがない。
 
「…………ぷ」
 
「ひゃあ……!?」
 
 紙一重の攻防の中、疲れ切った体に力が湧いてくる現金な自分を笑って、一刀は渾身の一撃で沙和を無理矢理後退させる。
 
 そうして得た距離と余裕で、力の限り呼び返す。
 
「星―――――!!!」
 
 遠く、相変わらずの……否、一刀でさえ見た事が無いほどの苛烈さで敵兵を薙ぎ倒して駆けて来る愛しい少女。
 
「(生きててくれた……)」
 
 ただそれだけで、何故彼女がここにいるのかという疑問も、無事にここから生還出来るかという不安も気にならなくなる。
 
 思っていた以上に自分が単純な人間だったのだと思う一刀だった。
 
 ――――しかし、一刀と沙和の一騎討ちを目印に出来たのは星だけではない。
 
 星の周囲から、波が引くように兵が退がる。“将の邪魔”をしないために。
 
「そこまでです!!」
 
「っ!?」
 
 一刀を見つけた一瞬の気の緩み。それを狙い澄ましたかのように巨大な円盤が星に放たれた。
 
「く……っ」
 
 躱せず、尋常ではない重量を持つその一撃を星は槍の柄で受けた。………が、受け切れずに馬から弾き落とされる。
 
 何とか受け身を取って片膝を着いた体勢の星に、円盤を放った流琉ではないもう一人の将……真桜が迫る。
 
「秋蘭さまの仇や!!」
 
「っ……しまった」
 
 迫り来る螺旋槍。しかし星は受け止められない。先ほどの流琉の一撃で…………直刀槍・『龍牙』は中途から折れてしまっていた。
 
「受け取れ!!」
 
 蒼い光を放つ何かが、弧を描いて星へと向かって行く。それが何かを確認もせずに、星は声だけを信じてそれを掴み取り―――
 
(ガキィッ!!)
 
 間一髪。真桜の刺突を受け止めた。その刀身に蒼い煌めきを放つ、『倚天の剣』と対を成す一刀の持つもう一振りの宝剣。
 
 『青紅の剣』
 
「星!!」
 
 星が落馬した時すでに、一刀は『青紅の剣』を投げ渡すと同時に走っていた。
 
 その背中を沙和が追っている。星もそれを見て一直線に一刀の許へと走る。その背中を真桜が追っていた。
 
「「……………」」
 
 言葉は無くても眼だけで通じる。掛け声は無くても互いの呼吸を知っている。
 
 一刀と星は互いの許へと辿り着いた。しかし皮肉にも互いの体が背後に迫る敵を隠してしまっている。
 
 一刀は、星は、触れ合うより早く右足を大きく踏み込んだ。肩をぶつけると同時に預け合う。
 
 預けた肩を支点に、二人はまるで合わせて一つの駒のように半回転して―――――
 
「「はぁあああ!!」」
 
 一閃。剣の生んだ光が円を描いて、背後に迫る脅威を斬り裂いた。
 
 
 
 



[14898] 二十一章・『あなたを守る』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:2c1fa4c6
Date: 2010/12/27 23:08
 
 一刀と星。鏡に写したように背中を預けた二人の剣閃が生んだ円形の光跡が、それぞれの背後を脅かしていたものを斬り裂く。
 
 星の『青紅の剣』が沙和の双剣をまとめて斬り飛ばし、一刀の『偉天の剣』が真桜の胴を薙いだ。
 
「痛……た……っ!」
 
「真桜ちゃん!!」
 
 真桜の持つ螺旋槍は一刀の宝剣よりも長い。間合いの差によって致命傷を免れた真桜だが、それでも深手には変わりない。堪らずその場に崩れ落ち、その首を敵刃に曝す。
 
「っ……恨むなよ!」
 
 一刀が剣を振り上げ、一思いに命を断つ一撃のため軸足に体重を乗せた。
 
「させません!」
 
「うわっ!?」
 
 一秒にも満たないその刹那に、横合いからの豪撃が割って入る。滑り込むように飛んで来た円盤が一刀と真桜の間に放たれ、その大地を砕く。
 
 その間を逃さず、武器を失った沙和は星から距離を取りながら大回りに真桜の許へと回り込んだ。
 
「真桜ちゃん、大丈夫……!」
 
「あぁ……あかんコレ、めっちゃ痛い……」
 
 沙和に助け起こされながら、真桜は傷口を手で押さえる。指の隙間から血糊が溢れて手を腹を赤く染めていく。
 
「まだ助かるはずです、急いで手当を!」
 
「で、でも……」
 
「この場は私が引き受けます! 早く!」
 
 『電磁葉々』の一撃を牽制にして一刀の前に立ちはだかる流琉が、激を飛ばして沙和を促す。どのみち、手傷を負った真桜と得物を失った沙和がいても役には立たない。
 
 対する一刀と星も、無理を押して二人に止めを刺す理由は無い。追撃が来ないと判断するや、一目散に駆け出していた。
 
「………………」
 
 周泰に会えたのか、何故こんな所で孤軍奮闘していたのか、気になる事はたくさんあるが、それを確認している場合ではない。
 
 だから一言。
 
「無事で良かった……」
 
「……人の心配が出来る立場か」
 
 星にも、言いたい事は山ほどあった。でも、こうして近く触れ合えるだけでどうでも良くなってしまう。
 
 一刀を救おうと限界以上の力を発揮していた先ほどよりも、さらに力が湧いてくる。
 
「“我ら”は主に守られるほど弱くない。こちらの気持ちも考えずに虚勢を張るのはただの独り善がりというものだ」
 
「ごめん……」
 
 まったくの正論を受けて、一刀は苦笑いで謝るしかなかった。そして、星が“我ら”を強調した意味にも気付く。
 
 『散なら自力で何とかする。あやつを信じて自分が生き残る事だけを考えろ』。ただの説教ではない、言外に隠された意思を正確に汲み取って一刀は剣を強く握った。
 
「行くぞ!」
 
「ああ!」
 
 そして再び、戦場に蝶が舞い踊る。主より預かった宝剣を手に、星は軽やかに衣を靡かせた。
 
 流琉も武人。己の力で敵将を討ちたいという矜持はある。だが彼女は、先ほどからの星の動きを目の当たりにし、より確実に覇王より賜った使命を遂行する手段を選んだ。
 
 大声を張り上げて周囲の魏兵を促し、数と連携によって一刀らの命を刈り取りに掛かる。
 
 しかし―――――
 
「貴様らごときがこの私を止められるか!」
 
 数多の魏兵が蝗の如く襲い来る凶刃の嵐を―――
 
「我が名は趙雲、天より舞い降りた遣いを護る最強の槍!」
 
 蒼い光が縫っていく。倒すどころか誰一人触れる事すら叶わず、糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。
 
「その身の不遜を悔いるがいい」
 
 無人の野を駆けるが如く、昇龍の牙が主の道を斬り開き、仇為す者を薙ぎ払う。
 
「死出の手向けに見せてやる。趙子龍が槍武の舞い、その眼に篤と焼き付けぃ!!」
 
 止まらない。止められない。見惚れるほどに美しい蒼光の剣舞が過ぎた場所には、死神に魅入られたかのような死屍累々の黒塊が積まれていく。
 
「剣でも、強いんだな………」
 
「得物が変わった程度で我が武の粋は曇りはせぬよ。それにこの剣……素晴らしい切れ味だ」
 
 一刀は、まるで自分だけが別世界にいるような感覚の中で、その剣舞を存分に眺めていた。
 
 敵が一刀に近づく事さえ許さない。そして星が駆けた後には屍しか残らない。一刀はその背中について行く事しか出来ない。
 
 一刀が茫然となるのも無理もない。星自身でさえ、これほどの武を発揮出来た己を知るのは初めてなのだから。
 
「ひ………っ!?」
 
 流琉の統率する包囲を抜けた先、騎馬に跨がった大柄な部隊長が、星の紅い瞳に射抜かれて小さな悲鳴を漏らす。
 
「な、何やってやがる! 長槍で一斉に突き殺しちまえ!」
 
 恐怖に引きつった声で部下に命令を下す男を責めるのは酷というものだろう。虎を前にした鼠に震えるなというようなものだ。
 
「一刀!」
 
「! わかった!」
 
 長槍の穂先が剣山となって迫る。一刀は星の呼び掛けに応じて彼女の前に飛び出し――――
 
「はっ!」
 
「んがっ!?」
 
 その背中を肩を踏み台代わりに、星を宙へと舞い上がらせた。ついでのように強く頭を踏みつけられて、一刀はうつ伏せに地面に倒れた。紙一重の差で、倒れた一刀の頭上を槍衾の刃が過ぎ行く。
 
 そして星は、その白き衣を羽のように広げて蝶の如く飛び上がっていた。
 
「はいはいはいはいーーーーっ!!」
 
 そして中空で伸身のまま体を捻りながら数回転。雑草でも刈るように槍衾を斬り飛ばし――――
 
「うわぁああぁあぁ!!」
 
「っやあ!」
 
 馬上の将をも斬り倒していた。そして着地と同時に周囲の兵を屍に変える。
 
 一刀が鼻を押さえながら起き上がった時、そこには馬の手綱を引いた星が立っていた。
 
「………………」
 
「ふっ、惚れ直したか?」
 
 目に見えて圧倒されている一刀に、星は得意気に頬を緩める。
 
「……ああ、ホントにカッコいい」
 
 不謹慎なまでの余裕にこれ以上ないほどの頼もしさを感じて、一刀は手綱を受け取った。
 
 太い四白の足と白点のついた額を持つ、素人目に見ても立派な名馬だ。
 
 兵が星の威圧を受けて迂濶な攻撃を仕掛けられない内に、一刀は手早くその馬に跨がった。
 
 もちろん、一刀一人で馬に乗って逃げるわけもない。二人乗りで行けるか? などと思いつつも、一刀は星に手を伸ばす。
 
「ほら、星」
 
「うむ………」
 
 そうして、二人の手と手が触れ合う。
 
 ――――直前。
 
「…………………え?」
 
 ガツッ、と硬く短い音が聞こえた。鋭い痛みを感じた。眼前の星の顔が凍り付いた。何事かと視線を下げた一刀の眼に……信じられない、否、信じたくない物が映る。
 
 自身が身に付けている鎧の、左胸から“生えている”……一本の矢。
 
「あ……れ……?」
 
 広がっていく痛みと、血と共に流れ出ていくような虚脱感。次第に薄れてゆく意識の中で…………
 
「一刀!!」
 
 少女の悲痛な叫びだけが、やけに鮮明に響いていた。
 
 
 
 
「っ…………」
 
 力を失い、崩れ落ちそうになる一刀の身体を星が支える。
 
 いつかのように、またいつかのように、半身をもがれるようなとてつもない喪失の恐怖に襲われながら………星は必死に己を保っていた。
 
「(……脈は、ある……呼吸も、している……左胸……鎧の上からなら……深手ではない? ……出血は………)」
 
 今解る断片的な情報を必死に整理する。今、一刀はまだ生きている。生かす事が出来るはずだ。そこに死力を尽くす。
 
「く……っ!」
 
 矢の角度から狙撃手の姿を眼で追って、星はそこに一人の将を見つけた。
 
 脇腹からだくだくと血を流し、足元すら覚束ない体で……しかし確かに弓を握って、こちらを睨み殺さんばかりに見ている覇王の左腕。
 
「(生きていたのか……!)」
 
 秋蘭の抱える傷は、ここに到る道程で星が負わせたものだ。死んでいてもおかしくないほどの深手のはずなのに、よもやそのまま一刀の命を狙いに来るなどとは思いも寄らなかった。
 
(ギリッ………)
 
 正義のためではない。誰かを守るためでもない。今、星ははっきりと私情から来る殺意を秋蘭に抱く。抱いて……しかし斬り掛かる事はしない。
 
 自分が何を最優先にすべきか解っているという事もある。だがそれ以上に、怒りを恐怖が上回った。
 
「(急がねば……)」
 
 もはや一刻の猶予もない。一寸でも疾くこの死地から逃れ、一刀の命を繋がなければならない。
 
(ギンッ!)
 
 さらに放たれる矢を剣の一振りで弾いて、星は一刀を後ろから抱き抱えるように騎乗した。
 
「……星…一人、で………」
 
「…………………」
 
 意識があるかどうかも定かではない一刀の口から、弱々しい呟きが聞こえた。
 
 星とて、理性では解っている。一人で逃げ切る事すら不可能と言っても過言ではないこの状況で、怪我人を守りながら逃げ切れるわけがない。
 
 しかし………………
 
「“あなた”は私が守る」
 
 理屈だけで納得出来るなら、最初からこんな厄介な男に惹かれなどしないのだ。
 
「無謀と言われる事を現実にしてこそ、真の英傑というものだ。……今しばらく、堪えてくだされ」
 
 どこか、自分ではない自分と溶け合うような……それでいて真に己を取り戻していくような奇妙な感覚に星は囚われる。
 
 それもすぐに振り払って、星は馬を駆けさせた。
 
 無謀だろうと不可能だろうと守り抜く。握る剣に魂を込めて、愛しい想いを力に変えて………星は単騎、魏の大軍へと挑む。
 
 
 
 



[14898] 二十二章・『“星”』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:2c1fa4c6
Date: 2010/12/27 23:18
 
 こんな感覚は、前にもあった。
 
『無論。我が槍をあなたに託しましょう』
 
 見知らぬ情景、言った憶えのない言葉、聞いたはずのない囁き。
 
『我らが命を預けるに足ると思えるような、心も体も捧げられると思えるような人物になっていただくのが、何より一番かと』
 
 自分が自分で無くなっていく。自分の中に知らない自分が入り込んで来る。
 
『ほら。早く口をお開けなさい。私の理性が保てているうちに!』
 
 そんな時、決まって漠然とした不安と困惑に包まれている自分に気付く。
 
『それに、私が見込んだ相手でもなければ抱いたりするはずがないでしょう。胸を張るところです』
 
 だが………今は違う。
 
『迷うようならお前の前に立ったりしないよ。星』
 
『別に星との取引のためにやったわけじゃないよ。俺がやりたいからやっただけなんだし』
 
『あの時と同じさ。星が俺の事を褒めてくれた意味は解るようになったけど、やっぱり俺が褒められるべき所じゃない』
 
 気にしている場合ではないというももちろんある。……だが、この異常な状況がそうさせるのか、限界など忘れてしまったかのように力が湧く。魂が騒ぎ奮い立つ。
 
 疑問が消えたわけではない。自分自身に対する言い知れぬ恐怖もある。だが……それもいいだろう。
 
『……さあね。前世で星が、俺にそういう話し方してたのかも』
 
 それが力に変わるなら、それで一刀を救えるなら、魔に魂を売って修羅にもなろう。
 
「死地に在って夢幻に酔う、か。我ながら酔狂に過ぎるな」
 
 ―――必ず守る。……“今度こそ”。
 
 
 
 
「ぐ……うっ……」
 
「秋蘭さま!」
 
 その比類なき忠誠と使命感から来る気力だけで立っていた秋蘭が、ついに力尽きて膝を着く。
 
 ようやく追い付き彼女を支えた流琉は、慌ててその脇腹の傷を押さえた。しかし流れ出る血が止まらない。腕や足ならまだ止血もしやすかったのだろうが、脇腹では手で押さえる程度の事しか出来ない。
 
「秋蘭さま、早く馬に乗って下さい! これ以上は命に関わります!」
 
 自分を慕って肩を貸してくれる流琉の姿は、今の秋蘭には見えていなかった。
 
「(どこ、に………)」
 
 命を賭して放った一矢。彼女の執念そのものと言える一撃が何を残したのか、それだけに関心が向いている。
 
「馬鹿な………」
 
 探して、見つけて、そして驚愕する。
 
 秋蘭が射倒した一刀を抱き締め、四白の足を持つ名馬を駆り、趙子龍は再び駆け出していた。
 
「(あれは、本当に人間か……? いつになったら底が見える……?)」
 
 大の男一人を抱えて、どうして戦う事が出来るというのか。否、常人でなくとも逃げる事すら叶わないだろう。
 
 秋蘭は自らの使命が達成されたと確信していた。―――しかし星は止まらない。
 
 死に瀕した一刀を片腕に抱きながら、その絶技は陰るどころかさらに苛烈に、流麗に研ぎ澄まされていく。
 
 誰も止められない。仕留めるどころか追い回す事も、食い止める事すら叶わない。蒼き影は無人の野を駆けるが如く血の雨を降らせて走り去って行った。
 
「華琳、さま………」
 
「死んじゃ嫌です! 秋蘭さまぁ!!」
 
 謝罪か、懺悔か、無念か、忠言か、敬愛する主君の真名を言い残して………秋蘭の意識は無明の深淵へと墜ちていった。
 
 
 
 
「はあっ……はあっ……はあっ……」
 
 脇目も振らずひたすら西へ、星は馬を走らせ続ける。その剣舞は欠片ほどの衰えも見せず、やはり止められる者はいない。
 
「ちぃ……!」
 
 持久力の配分などまるで考えていない。否、考えられない。こうしている間にも一刀が死に近づいているかも知れない、その事実が焦燥を燃やす。
 
 槍を失った事が却って幸いしたのかも知れない。一刀を抱えて片手で扱うのは『青紅の剣』の方が取り回し易い。
 
 槍よりも間合い近い分防御に長け、連撃の回転も疾くなる。何より迫る凶刃を容易く断ち斬る切れ味がある。
 
 だが―――――
 
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
 
 いくら精神が鍛え抜かれていようと、いくら気力が充実していようと、いくら想いが強かろうと………肉体の限界というものがある。
 
 何百、何千の敵を屠って来ただろうか。既に日輪は遠く西方に深く沈み、世界を夕焼け色に染めていた。
 
 ただでさえ先の戦いで手傷を負っていた上に、星はここまで数十万にも上る魏の大軍勢の中を単騎で駆け抜けて来たのだ。
 
 人の想いも命もまるで意に介さない残酷な現実が、星と一刀を追い詰めていた。
 
「(体が重い……)」
 
 蒼き剣舞はその精彩を欠く事はない。しかしそれは残り少ない力を無理矢理絞りだしているに過ぎない。
 
「(視界が霞む……)」
 
 後先考えずに薪をくべ、猛火を燃やし続ける行為。激しく燃え上がるその炎は……薪が尽きればあっという間に消えて失せる。
 
「(開いた傷口が、痛む………)」
 
 それでも――――
 
「っ……まだ……まだぁ……!!」
 
 星は止まらない。汗だくになるほど火照った体とは対称的に冷たい、腕の中の大切な男。その存在が諦める事を許さない。
 
「我は無敵―――」
 
 駆け抜ける。限界も無謀も関係ない。決して最期まで諦めない。
 
「我が槍は無双―――」
 
 白刃の煌めきが、道阻む者を貫く蒼光の槍と化す。
 
「喰らえ、趙子龍の一撃を――――!!」
 
 嵐のように激しく、そして流星のように儚い渾身の光が、敵兵を斬り刻んで吹き飛ばした。
 
「ッはああああああああ――――!!」
 
 突き破り、薙ぎ払い、駆け抜ける。命の炎を燃やすような全身全霊の猛攻が―――遂に――――
 
「は…………」
 
 光明を……斬り開いた。無謀としか思えない、無限とも思える奮戦の果てに……星はそこに辿り着いた。
 
 黄昏を越えて夜を迎えようとしている薄暗い世界に、しかし、確かに……無人の荒野が広がっている。
 
「(やった……!)」
 
 敵の包囲を完全に抜けた。たとえようもない安堵が、繋ぎ止めて来た全てが報われた喜びが、星の内心に喝采を呼び起こす。
 
「もう少しだ、頑張れ一刀……!」
 
 完全に意識を失っている一刀の頬に触れて、その弱々しい吐息を確かめる。
 
 生の喜びを噛み締めるにはまだ早い。その事実に裂かれるような切なさを湛えながら、星は一刀を強く抱き締めて前を見据える。
 
 そして―――――
 
「あ…………」
 
 絶望を見つけた。暗がりの向こうから、星たちの行く手を阻むように無数の影が馬蹄を響かせて走って来る。
 
「(これまで、か………)」
 
 限界を越えた死線を潜り抜けて掴んだ希望。その直後に嘲笑うように立ちふさがった絶望。
 
 抗う術なく折れてしまいそうになる心を………
 
『主……!』
 
「っ!?」
 
 星の中に在る未知の想いが、支えた。
 
「(………諦めるものか)」
 
 まだ指に力が入る。剣を握る事が出来る。息をしている。心臓の鼓動が止まっていない。
 
「この趙子龍の命在る限り、我が主に指一本とて触れられると思うな!!」
 
 その咆哮と同時、目前まで迫っていた騎馬の群れが―――――割れた。
 
「…………な」
 
 星を避けるように縦に割れた騎馬たちは、二人に見向きもせずに駆け抜けていく。
 
「これは、一体……」
 
 高速で通り抜ける大軍に戸惑いを隠せない星は、過ぎゆく黒き群れの中に“それ”を見つけた。
 
 黄昏の中でも僅かな光に輝く……白銀の『馬』一文字。天に掲げる錦の御旗。
 
「西涼の錦馬超、いざ………参るぜぇえーーー!!」
 
 苦渋と喪失の道程を越えて、今……白銀の姫君が乱世へと槍を振りかざす。
 
 
 
 
 時を僅か、遡る。
 
「(秋蘭さまが……!?)」
 
 総大将が斬られたと無様に狼狽する兵たちの喧騒が、一騎討ちの最中の徐晃の耳に届いた。
 
 無論、徐晃はそれで余所見をしたり、動揺を顔にだしたりはしないが……僅かに精彩を欠いた。
 
 それを散は見逃さない。
 
「すきやき」
 
「ぐ……っ!?」
 
 打ち合いの間隙を縫って、散の双鉄戟が徐晃の首目がけて突き出される。徐晃も明確な隙を生んだつもりなどなく、双鉄戟は徐晃に直撃こそしなかったが、月牙の一端がその肩を捉え、深々と刺さる。
 
 たまらず落馬した徐晃を無視して、散は気だるげに馬首を返した。
 
「待て貴様、私はまだ戦えるぞ! 逃げるのか卑怯者!!」
 
「知らないのかな、と。女は歳取るとズルくなるんですよ? ……あたしは昔からこんなんですけどね」
 
 これ以上徐晃の相手などしていたら逃げ道が無くなる。散は律儀に徐晃をおちょくってから颯爽と姿を消した。
 
「おのれ………」
 
 ギリッ、と、徐晃の奥歯が軋む。
 
「この屈辱忘れんぞ……鳳令明!!」
 
 大勢の前で恥をかかされた、主君より賜った使命を邪魔された、何より武人としてこれ以上ないほどコケにされた。
 
 雪辱の炎を燃やしながら、徐晃は混乱した兵の鎮静へと向かう。
 
「キリキリ走りなさい、野郎共」
 
『らじゃー!!』
 
 生き残った手勢を連れて敵地を走る散と―――
 
「真桜ちゃん頑張るの! もうちょっとで……」
 
 深手を負った真桜を連れて軍医の許へ向かっていた沙和が…………
 
(バッタリ)
 
 出会った。
 
「しゃる・うぃー・だんす。……でしたっけ?」
 
「イヤぁああ! またなんか来たのぉおーー!」
 
 沙和一人でなら、無様に逃げ出す事はしなかったかも知れない。しかし沙和は既に深手を負っている真桜を救うために、味方の陣の中をがむしゃらに逃げ回った。
 
 指揮官である将のその行動が全軍に不安を加速度的に広め、ただでさえ混乱を極めていた魏軍の統率は遂に崩れた。
 
 ――――この一刻後、恐慌状態の魏軍は錦馬超率いる西涼の騎馬隊の痛撃を受け、雪崩を打つように逃走を開始する事となる。
 
 
 
 



[14898] 二十三章・『盃に乗せた契り』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:2c1fa4c6
Date: 2010/12/29 20:59
 
「どういう事だ……?」
 
 突然の出来事に、星は頭がついて行かない。新たな敵軍に道を阻まれ、それでも退かずに立ち向かう覚悟を決めた矢先……屈強な騎馬隊は星と一刀に道を譲るように駆け抜けていた。
 
 確認し損ねた先頭で勇ましい雄叫びが聞こえる。
 
「(………錦の馬旗)」
 
 この先にあるはずの螢陽城は、他国と隣接しているわけでもないため治安維持に足りる以上の兵は配していない。
 
 そもそも援軍を待てる余裕も呼べる余裕もなかったのだから、西方から助けが来る事自体おかしな話である。
 
「ええぃ! 誰かこの状況を説明出来る者はおらんのか!」
「ここにいるぞ!」
 
「ひゃっ!?」
 
 さして応えを期待してもいない独白に間髪入れず返されて、逆に星は面食らった。
 
 その反応に満足そうな笑みを浮かべて、馬に乗った小柄な少女が駆けて来る。
 
「げ……! ご主人様だいじょぶ!?」
 
「心の臓には達していないが、深手には変わりない。……おぬしは?」
 
「錦馬超の従妹の馬岱! ……って、自己紹介は後にした方がいいですよね?」
 
「ああ、ご同行願えるかな」
 
「合点!」
 
 味方と確信出来れば、それ以上の会話は全て後回しだ。星は蒲公英と数十の騎馬を引き連れ、余力の精一杯で馬にしがみつきながら螢陽城を目指した。
 
 
 
 
 所変わって螢陽城。医者の手により胸の矢を抜き血を止めた一刀を休ませて、星は蒲公英の手当てを受けていた。
 
「西涼の錦馬超、か……。まるで予期していなかったため、正直肝が冷えたぞ」
 
「ビックリしたのはこっちですよ。洛陽に異動申請の使者出したら『み、都に敵の大軍がぁ!!』って飛んで帰ってくるし、急いで駆け付けたらご主人様、胸から矢生やして真っ青な顔で寝てるし」
 
 西涼の錦馬超の勇名は星も知っている。群雄が一挙に集う連合に参加しなかったという歴史の変化がその名の蔓延を阻害してはいたが……散という仲間、霞と渡り合ったという伝聞から、より直接的な人物像を得ていた。
 
 ただ先ほどは、あまりに異常な状況であった事と全く予期していなかった事ですぐに解に行き着けなかったのだ。当人同士が顔を合わせた事もない。
 
「よくあの暗がりで、我らが味方とすぐに判ったな」
 
「そりゃ判りますよ。あんな大軍の中から一騎だけ飛び出して来て『趙子龍!』って叫ぶんだもん。……でも、何であんな所で孤立してたんですか?」
 
「ああ、それは………」
 
 くるくるとよく喋る蒲公英に、星はここに至る顛末を説明する。
 
 魏軍の襲来。許昌での離別。虎牢関の陥落。王都からの撤退。一刀の無謀な作戦。慌ただしく変化した事象を自分で再確認する意味も含めて、丁寧に順序立てて話していく。
 
「ようやく包囲を抜けたと思った矢先に現れたのが貴公らというわけだ。……礼が遅れたな、ありがとう」
 
 と、それらの経緯を話し終えたところで、星は不審な光景を目にする。
 
「? ………馬岱?」
 
 星の話を黙って聴いていた蒲公英が、下を向いてぷるぷると震えていたのだ。
 
「数十万の大軍に一人で突っ込んで……何人も敵将を討ち倒して……怪我したご主人様まで抱えて単騎駆け………」
 
「ど、どうした……?」
 
 何やらブツブツと言っている。俯いた表情が前髪で見えなくなっている事も合わせて殊更不気味で、星は恐る恐るその肩を揺すった。
 
「………………か」
 
「か?」
 
 そして――――
 
「カッッッコいいぃぃーーーーーー!!!」
 
「!!??」
 
 爆発。
 
 耳をつんざくかと思うほどの大歓呼が城中を震わした。クラクラと揺れる頭を押さえながら、星は力無く立ち上がる。蒲公英はお構い無しにその両手を自分の両手で挟んでキラキラした眼で星を見上げる。
 
「決めました! これからあたしの事は蒲公英と真名で呼び、義妹としてお扱いください!!」
 
 ビシッと佇まいを直した蒲公英は、どこから取り出した物か、徳利の酒を盃に注いでいく。そしてスチャッと正座しつつ互いの前に盃を置いた。
 
 呑んでくれ、という事らしい。
 
「ふむ……義姉妹の盃、というわけか……」
 
 あまりの急展開に星は困惑する。いきなり真名を許され義妹にしてくれと言われても、まだ蒲公英とは今日会ったばかりで人となりもロクに知らない。しかしこうして尊敬の念を向けられるのは純粋に嬉しいし、今も鼻腔を擽る香りが美酒である事を知らせてくれる云々。
 
 しかし結局――――
 
「………………」
 
 まだ幼さの残る無邪気な瞳で憧れを向けられて、星も蒲公英の前に腰を下ろした。
 
「我が名は趙雲、字は子龍。そして真名は星だ。盃を受けるぞ、たんぽぽ」
 
「姓は馬、名は岱、字は伯瞻。よろしくお願いします、星姉さま!」
 
 互いに盃を持った腕を組み、特別な意味を持つ美酒を口へと運ぶ。
 
 蒲公英は翠をお姉さまと呼んではいるが、実際には従姉なので然したる問題はなかった。
 
 盃の酒を一口に呑み干すと、蒲公英は満足そうに立ち上がって慌ただしく槍を握る。
 
「義姉妹の契りを結んだ後に不躾とは思いますが、たんぽぽはそろそろ行かなければなりません」
 
「ああ、くれぐれも無茶はするなよ」
 
 一刀の安否を見届けるため、そしてより正確な状況把握を互いに行うために一旦は螢陽城までは同行した蒲公英だったが、従姉である翠は先陣を切って突貫し、家族同然の散も戦場で戦っている。
 
 ただ黙って待っているわけにはいかなかった。
 
「星姉さまも来てくれる?」
 
「いや、私は………」
 
 明るく無邪気にそう問われて、星は横目に寝台を見る。そこには、先ほどの蒲公英の大音声でも一向に目を覚ます気配のない一刀が、呼吸さえも辛そうに寝込んでいた。
 
「わかってますよぉ。冗談だってば」
 
 当て付けがましい含み笑いを漏らしながら、蒲公英は軽やかに身を翻す。口元に当てた手の下には、『ニンマリ』とした笑みが浮かんでいるに違いない。
 
「ゆっくりしていってね!」
 
 意地悪なのに憎めない笑顔を新しい義姉と未だ目覚めぬ主君に向けて、蒲公英は再び戦場へと舞い戻る。
 
 
 
 
「お、追い返しちまったぞ、あたしら………」
 
「何か様子がおかしかったけど、たんぽぽ凄い? よくやった?」
 
 日が沈み、そして昇るまでの間続いた激戦の後……潮の引くように魏の人海が撤退した後の荒野で、翠と蒲公英は茫然とそれを見送った。
 
 あの大軍を撤退させるほどの大打撃を与えたような実感はなく、また魏兵はまだまだ海のように溢れていたはずだ。
 
 それでも魏軍は退いていく。
 
 実状としては、練度の低い後曲から星に単騎で突き崩され、次々と将を討ち取られて統率を失い、さらに散に追われた沙和と真桜が味方の陣をがむしゃらに逃げ回った事で全軍が恐慌状態に陥り、おまけに翠たちの強襲を受け、あげくの果てに闇夜が戦場を包んだ事で同士討ちまで始まってしまった、というものなのだが、翠たちにそこまで判るはずもない。
 
 何はともあれ、撤退戦ではあるが間違いなく大健闘。しかし…………
 
「残ったのは、お前たちだけか………」
 
「すいません……っ将軍は……将軍は自分たちを逃がそうとして……くうっ……!」
 
 本格的な同士討ちが始まる前に離脱を遂げた鳳徳騎馬隊。その中に……散の姿はなかった。
 
「………………」
 
 またいつもの様に平然と現れる。そんな気休めに等しい予感も、あれほどの大軍勢を前にした後では抱く事が出来ない。
 
 人の未来を、痕跡を、命を、蝋燭に灯した火よりも呆気なく奪い去ってしまう。……そんな戦場の常識を、翠と蒲公英はかつてないほど強く実感していた。
 
 あれほどの数の人間が徒党を組む光景を、初めて目の当たりにしたのだから。
 
「散姉…………」
 
 荒野を血に染める死屍累々の亡骸に、大切な家族を重ねてしまう。
 
 ある者は首を刈り取られ、またある者は臓腑を撒き散らし、勇猛を奮った者も無様に逃げ惑った者も、全て等しく悲惨な姿を晒す。
 
「…………探そう」
 
 その翠の言葉が、何処かに逃げた散を宛て処なく探すという意味ではなく、出来れば見つかって欲しくないという願いを込めて亡骸を漁るという意味だと、その場の誰もが理解した。
 
 戦場は広い。一先ず一周駆けながら亡骸を確認しよいと馬に乗ろうとした蒲公英の視界の端に………
 
「え…………?」
 
 “それ”は映った。物言わぬ屍と化したはずの魏兵の山が、僅かに動いて――――
 
(ガタンッ!!)
 
「きゃあああーー! おばけぇえーー!!」
 
「ば、馬鹿! 苦しい………!」
 
 勢いよく飛び上がった。女の子なら当然の反応として悲鳴を上げた蒲公英に抱きつかれ、翠の首がいい感じに締まる。
 
「幽霊なんかいるわけないだろ! まだ息のある奴がいたんだよ!」
 
 そんな蒲公英をひっぺがし、翠は十文字槍・『銀閃』を斜に構えた。
 
「来るなら来いよ、今度こそ楽にしてやるぜ」
 
 隙無く構えて死体の山を睥睨する翠だが、幽霊擬いの何者かは動く気配がない。
 
 それどころか、注意深く観察しても息のある者の姿が確認出来ない。明らかに命を保てない傷を受けている者、その眼に生気が無い者、体が硬直している者、黒光りする棺、どう見ても生きているようには………………
 
「………………………………………………棺?」
 
 死者が棺に入れられるのは別におかしな事ではない。しかし討ち死にした者がその場で棺に入れられるわけもない。どう考えてもおかしい。
 
(ギイィ………)
 
「よ」
 
「“よ”、じゃねー!」
 
 そして、棺の中から久方ぶりの無表情がさも当然のように出て来る。
 
 翠は思わず感動も感傷もなく突っ込んだ。
 
「何で当たり前みたいに死体に埋もれてんだよ!?」
 
「かなりのかおすだったので、逃げ切れないかな、と思いまして」
 
「それじゃ何で棺なの? 散ちゃん」
 
「『死んだフリしてやり過ごそうとしてたら馬に踏まれて死にました。てへ』、なんて地味じゃないですか」
 
「「………心配してたのが馬鹿らしくなってきたんだけど」」
 
 かくして北郷十文字軍の撤退戦はその幕を下ろす。これが後に、天を抱擁で迎えた魔王と、天に挑み掛かる覇王の戦いの前哨戦として世に知られる事となる。
 
 
 
 
(あとがき)
 ケイ陽城は本当は違う字なのですが携帯で変換出来ず、あまりカタカナ書きするのも好きじゃないので似た漢字で代用しました。宝ケイや青コウの剣の時と一緒のパターンです。
 
 



[14898] 八幕終章・『泡沫』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:2c1fa4c6
Date: 2011/01/08 17:04
 
「げ・ん・き・に………なぁれぇえええーーーーーー!!」
 
「ぐ……っ」
 
 赤い髪の青年が、その背後に熱意と情熱を燃やして倒れたままの二人に鍼を突き刺した。
 
 普通ならば誰もが警戒して然るべき奇行だが、つい先ほど二人……秋蘭と真桜の傷を見事という他ない手捌きで縫い止めた腕を目の当たりにしては、その“治療”を止める気にはならなかった。
 
 特に、スパッと横一筋に斬られた真桜と違い、脇腹を刃先で抉られた秋蘭の歪な傷口さえも綺麗に塞いでしまったのは正に神業と呼ぶほかない。
 
「(最初は死ぬほど不安だったけど、やっぱり任せて正解だったの)」
 
 視界に入れるも憚られる筋肉の塊を刹那だけ見て、沙和はそれでも胸を撫で下ろす。
 
 撤退途中の大軍の前に、化け物を侍らせた医者を名乗る青年が現れた時はどうしようかと思ったものだが、これで秋蘭たちの命は繋がった。
 
「これで二人は、助かるんだな?」
 
「油断は禁物だ。傷口が活性化して発熱するかも知れないし、縫合が済んだからといって激しく動けば当然傷は開く。当分は絶対安静を心掛けてくれ」
 
「相変わらず見事な手前よな、ダーリン。もう何度も見ているというのに、この純情な胸がきゅんとなったぞ」
 
「医者に出来るのは救える命を繋ぎ止める事だけだ。自分の体を大事にするのは、患者自身の仕事だぜ?」
 
 脅しにも似た徐晃の確認にも怯まず、青年……華佗は片目を閉じて歯を光らせる。洛陽では毒矢に倒れた一刀を救い、徐州では老衰に倒れた淘謙を看取り、そして今、魏の二将の傷を癒す。医者に国境はないのである。
 
「さあ、次は戦争で負傷した兵隊たちの所に案内してくれ! 卑弥呼、手伝ってくれるか?」
 
「うむ! 愛しいオノコの為ならば、むさ苦しい男の五十や六十、軽く担ぎ上げて見せようではないか」
 
 そして身分の差も無い。病魔を滅して人々を救う五斗米道の継承者は、今日も今日とて己が正義を貫くのだった。
 
 
 
 
「………話は解ったわ」
 
 王都・洛陽の玉座に腰を下ろし、華琳は自らが配した将たちの口から使命の顛末を聞いていた。
 
 帝を連れ戻さんとしていた春蘭たちの前に行方不明だった劉備軍が立ちはだかり、そのあからさまな誘いに乗って策に陥る事を危惧した音々音の進言に依って追撃を中止した事。
 
 つまりは失敗。
 
 そして北郷一刀を捕縛、或いは抹殺しようと兵を率いていた秋蘭たちの部隊もまた、たった一人の豪傑と西方よりの援軍によって虚を突かれ、瓦解し、敗走した事。
 
 つまりは失敗。
 
 おまけに徐晃は軽傷、真桜は重傷、秋蘭は瀕死の怪我を負い、星に馬を奪われ殺された張虎を含む多くの武官が戦死、兵にも数万の被害が出るという有様だ。
 
 敵の策を警戒して追撃を止めた春蘭たちに戦果は無く、敵の策を警戒しつつ追撃に撤した秋蘭たちは手痛い逆撃を受けた。
 
 どちらの非を責め、どちらの是を認めるという問題ではない。それぞれの局面で相手に上をいかれただけの事だ。
 
 その判断次第では秋蘭同様に多大な被害を受けていた可能性も考慮し、華琳は春蘭や音々音を罰するつもりはない。
 
 勝敗は兵家の常。また命を賭して北郷一刀に一矢報いた秋蘭も華琳は咎めない。
 
 だが………
 
「前に出なさい、于禁」
 
 それぞれがそれぞれの思いを抱えて裁定を待つ中、華琳はその一人のみを姓名で呼んだ。
 
 進み出た沙和の前で、華琳は大鎌・『絶』を閃かせる。
 
「何故あなただけが呼ばれたかは解るわね」
 
「………はい」
 
「せめて、私手ずからその首を落としてあげる。光栄に思いなさい」
 
「お待ちください、曹操様」
 
 その死神の鎌が振るわれるのを、厳かな佇まいを保っていた徐晃が制した。
 
「何か不服? 柳葉」
 
「此度の失態、敵に敗れた無様を晒したのは于禁のみにございません。制裁を下すと仰るなら、この私にも下して頂きたい」
 
 徐晃……柳葉(ヤナギハ)の重々しい言葉は、しかし当事者ではないがゆえに的を外す。
 
「単純に敗北を責めているわけではないわ。私が許せないのは、将たる者が自軍の兵の前で無様に逃げ回り、結果恐怖を伝染させてその多くを死なせた事よ」
 
 『命を惜しむな、名を惜しめ』。誇り高い魏軍に弱卒は必要ない。まして将たる者がその矜持を汚して逃げ回るなど許されない。
 
「………………」
 
 沙和自身も、そんな事は百も承知だった。それでも……親友を救う為に選択した行為。
 
 彼女らは皆、そんな誇り高い覇王にこそ惹かれてついて来た。誰もが沙和を庇いたくても庇えない。
 
 だが、たった一人の例外が口を挟む。
 
「ねねは于禁の処刑には反対ですなぁ」
 
 かつては何進の下に居た、今の朝廷に見切りをつける形で陣営に加わった、音々音。彼女だけは、華琳に心酔し、華琳を全肯定したりはしない。
 
「……理由を聞きましょうか」
 
「此度の戦には勝利し、王都・洛陽を奪取する事には成功したのです。しかし帝も北郷一刀も取り逃がし、当初の想定に届く戦果は得られていません。北郷軍は再び息を吹き返す事でしょう。対して我々は多くの武官を失い、磐石の体勢を築いたとは言えません。来るべき決戦を控える今、これ以上優れた将を損なうのは得策ではないという事です」
 
「…………………」
 
 自身も帝を取り逃がしている身で、或いは不遜とも取れる音々音の言に何を思ったのか、華琳はしばしの間黙り込み――――
 
「………音々音の言を容れましょう。生かしておくに足る名誉の挽回を待たせてもらう。処遇は追って伝えましょう。……下がりなさい、“沙和”」
 
「は、はい……!」
 
 そう口にした。沙和とは別に己の腑甲斐なさを感じていた皆に向けて手を振るい、凛々しくその胸を張る。
 
「聞いた通りだ、魏の刀剣たちよ。来るべき決戦に向け、今の憤怒を悔恨を忘れるな。真なる天下を掴むため、その牙を爪を研いでおけ!」
 
 その本質に誰を近付ける事も許されない孤独な覇王。目指す正義の先に在るのは栄光か、はたまた犠牲か。
 
 
 
 
「うわっ、また射って来よった。全軍迂廻! 矢の範囲から逃げんでぇ!」
 
 張魯の援軍として漢中に出向いた霞たちの部隊は、熾烈な戦いの末に侵攻して来た蜀軍を撃退していた。
 
 蜀を治める劉障は暗愚な太守であり、ゆえに蜀軍にも大した人材はないと判断していたのだが、敵の将は予想を越えて戦慣れしていたのである。
 
 だが北郷軍も数々の死線を潜り抜けて来た大陸有数の精鋭部隊。攻めて来た蜀軍を追い返し、その背後に追撃を掛けていた。
 
「(くっそ、これ以上逃げられたら馬で追えん! どないしよ……)」
 
 中軍に恋と稟を据え、霞はその神速の騎兵部隊で敵の背を追う。だが撤退も見事なものだ。がむしゃらに逃げず弓の斉射で威嚇し、簡単に近寄らせない。
 
 天然の要害・蜀。馬の機動力の活きない地形へと、敵軍は鮮やかに逃げ込んだ。
 
 蜀軍の逃げ込んだ山林地帯を前に二の足を踏む霞に、後方から舞无の歩兵部隊が追い付いて………否、追い抜いた。
 
 それとほぼ変わらない機に伝令が駆け、霞の許に辿り着く。
 
「郭嘉さまより伝令です! 敵の撤退の狙いは騎兵の動きを封じる地形への誘導である可能性が高く、深追いはするなとの………」
「ギリギリ遅いわ!!」
 
 既に走り去った舞无の歩兵部隊の方を見ながら、霞は八つ当たり気味に伝令に怒鳴った。
 
 実際は稟の指示が遅かったわけではなく、霞の部隊の足が疾過ぎて伝令が追い付かなかったのだが。
 
『―――――――!!』
 
「あんのアホ! もうちょい考えて行動せぇや!」
 
 案の定、山の方から喧噪と怒号が木霊する。しかし騎馬隊で山林の細道に入っても馬首を返して逃げる事も出来ず、最悪戦う事すら許されずに狙い撃ちにもされかねない。
 
 舞无がまんまと罠に掛かったと思われた矢先――――
 
(ジャーン! ジャーン! ジャーン!)
 
 東の樹海から銅鑼の音が鳴り響き、無数の矢が空を奔った。舞无を伏兵が潜む地形へと呼び込み、騎馬隊で合流する事も難しい霞と分断し、霞の騎馬隊をも狙い射つ。
 
 このテの戦いに慣れている。稟の言う通り、深追いは分が悪い。
 
「お前らさっさと引き返して中軍と合流せぇ! ウチはアホの首根っこ引っ掴んで来るさかい!」
 
 漢中を守れた時点で当初の目的は達成している。これ以上深追いして兵を損ずるのは美味くない。霞は部隊を副官に任せ、自分は山道など無関係に軽やかな馬術で以て舞无を追う。
 
「(一刀連れて来れば良かったんかなぁ………)」
 
 武勇にも知略にも秀でた能力の無い一刀だが、その柔軟で奇抜な発想と臨機応変な判断力は霞も認めている。何より舞无の手綱は基本的に一刀にしか握れない。
 
 無い物ねだりしながら駆ける霞の前に………
 
「お待ちになって」
 
 矢ではなく、言葉が放られた。
 
 
 
 
「…………………」
 
 何も無い暗闇を、一人で歩き続ける。……いや、何も無いって言うより、全てが在るのかも知れない。
 
「(何だ………?)」
 
 見えているのに入って来ない。届きそうで届かない。そんなもどかしい群体が俺の周りを取り巻いている。
 
「(俺は……どうしたいんだ……?)」
 
 知りたいようでもあるし、知るのが怖いような気もする。何も解らないから判断のしようもない。
 
 ワケが解らないものに自分がどんな気持ちを向けているのか、どんな気持ちを向けるべきなのか……。
 
「(………皆、こんな気持ちだったのかな)」
 
 自分の思考の倒錯具合にも気付けない。
 
「       」
 
 見えない何処から、誰かに呼ばれた気がした。
 
「――――――!?」
 
 途端、唇に柔らかい感触が押し付けられた。周りの歪みが治まっていく。世界に色が戻って来る。
 
 何かに引き上げられるような不可思議な感覚に呼び起こされて…………
 
「お目覚めですか? 我が主よ」
 
「……おはよう、星」
 
 目覚めた俺は、吐息が掛かるほど近くにいた少女に笑い掛けて――――その奇妙な夢を忘れた。
 
 
 
 



[14898] 九幕・『絆の果てに』・一章
Name: 水虫◆21adcc7c ID:8985ce85
Date: 2011/01/08 17:18
 
 無駄に広く造られた玉座の間、趣味の悪い装飾に彩られたその場所で、癇癪気味な怒声が響く。
 
「百歩譲って張遼どもに遅れを取った事は目を瞑ろう……だが! 撤退を始めた敵軍に追撃も掛けず見送るとはどういう事だ! 背後から突き崩して攻め登れば漢中を落とす程度の戦果は挙げられたのではないか!? 申し開きがあれば言ってみろ!!」
 
 蜀の中枢たる成都。そして眼下の三人に叱責を飛ばしているのは……蜀の王・劉障。
 
「(戦も知らん小僧が、知った風な口を利く)」
 
 三人の一人、長く柔らかな銀髪の妙齢の美女・厳顔は心中でうんざりとぼやいた。
 
「(あれほど戦慣れした連中が、馬鹿正直に背中を見せるわけがなかろうが)」
 
 先の戦い……漢中へと攻め上った厳顔らは、援軍として現れた精鋭と矛を交えた。張衛率いる漢中軍相手に優勢に戦を運んだ蜀軍だったが、その援軍の力を前に形勢をひっくり返された。
 
 分が悪いと判断するや、厳顔らは軍を後退。蜀の地形を活かした戦法に切り替えるために敵を誘きだした。そこから戦の主導権を取り戻そうか、という段になって………北郷十文字軍は唐突に全軍を退き、厳顔らはそれを見送ったのだ。
 
「(むしろ、あのまま向かって来てくれた方がまだ戦り易かったわ)」
 
 その咎を、彼女らは今、主君から受けている。
 
「敵の撤退は罠だと判断した。無駄な被害を抑えるために深追いは避けたまでだ。別に敵に臆したわけではない」
 
 劉障の顔も見ずに明後日の方を見ながら、一部のみに白を持つ癖のある黒髪の少女……魏延は、面倒そうな仕草を隠そうともせずに返した。
 
「(焔耶の奴、よく言う)」
 
 そんな魏延……焔耶を横目に見て、厳顔は劉障に見えないように苦笑する。戦場で誰より追撃を促していたのは、他でもない焔耶なのだから。
 
「何が無駄な犠牲じゃ! 戦に勝てぬ兵卒など何の価値も無いわ! ああどうする……力を取り戻した北郷が余に復讐を考えたら……いや、考えるに違いない。恐ろしい……考えるだけでも恐ろしい。余はどうすればいいのじゃ……」
 
 もっとも、焔耶の言葉など劉障には届いていない。怒りに赤く染めていた顔を今度は蒼白にして、頭を抱えて蹲る。
 
「(貴様は最初から何もしとらんだろうが、さっさとお開きにせんか)」
 
 そんな劉障を、厳顔は今さら矯正出来るともしてやろうとも思わない。当に見放した哀れな小僧を見下して、今夜の晩酌に思いを馳せる。
 
 それは他の二人、焔耶ともう一人も同じはずだった。
 
 ―――しかし、そのもう一人の発言がこれまで続いてきた蜀の形に波紋を呼ぶ。
 
「………わたくしから一つ、提案がございます」
 
 長くきめ細かな紫色の髪を靡かせる一児の母。姓は黄、名は忠、真名は紫苑。
 
 前の外史に於いて、一刀の仲間として戦った女性だった。
 
 
 
 
「鎧の上からとはいえ、私の矢は確かに北郷の胸を捉えていました。……存命か否かは、判りかねます」
 
「そう……」
 
 寝台の上、半身だけを起こした寝間着姿のままで、秋蘭は主に一部始終を語る。秋蘭の本心は、こんな姿で主に対したくないと思っているのだが、当の華琳が「気にするな」と言っているのだから是非もない。
 
「おそらく生きているでしょうね。死んで当然の窮地から抜け出した時点で、あの男は天運を得ているわ。……いえ、真に畏れるべきは魔王の右腕……趙子龍か」
 
 特に残念そうでもなく感慨を漏らす華琳。その最後に出た名前に、秋蘭の表情が目に見えて曇った。
 
 それを見逃す華琳ではなく、また見逃されると思う秋蘭でもない。武人としては恥に等しい吐露を、迷いなく打ち明ける。
 
「恐ろしい……そんな感情すら抱けませんでした。敵として目の前にいるというのに、数多の同胞が屠られているというのに……私は見惚れてしまっていた」
 
 敵陣を駆けて殺戮の刃を振るう、恐ろしくも美しい蒼き死神。脳裏に焼き付けられたその姿を思い出して、癒えていない脇腹に痛みが走る。
 
 もう自分は、武人として役に立たないのではないか。そんな秋蘭の不安を………
 
「それでも貴女は戦い抜いた。趙雲の勇猛も、私への愛には敵わなかったという事かしらね」
 
 余裕の笑みと頬に添えられた手が、いとも容易く吹き飛ばした。
 
「(本当に、敵わない………)」
 
 まったく今さらの、幾度となく繰り返した感慨をまた噛み締めて、思う。ついて来て良かったと。
 
「馬超というのは……確か西涼の馬騰の娘だったわね。馬騰と一緒に死んだとばかり思っていたわ」
 
 そんな秋蘭の感慨など、華琳は意にも介さないだろう。たとえ口に出しても、「当たり前の事でしょう」と不敵に応えるのは解り切っている。
 
 だから秋蘭も、勉めて当たり前に華琳の在り様を受け入れた“事にして”会話を続ける。
 
「柳葉を馬鹿にした鳳令明というのは何者かしら。聞かない名前だけど……」
 
「連合の時には無かった名前です。馬超と同じく西方の将か、或いは在野の士か……いずれにしろこの一年の間に北郷陣営に加わった者でしょう」
 
 確かに、北郷軍の有能な人材は侮れない。しかし、それ以上の懸念はむしろ内側にある。
 
「………知られたでしょうね」
 
「………はい」
 
 魏軍の兵の半数以上が、まだまだ練度の低い弱輩で構成されている事。星が単騎で大軍を突破出来た最大の要因もそこにある。
 
 星の実力や決死の覚悟、闇雲な突撃ではなく、指揮官たる将を次々に屠って指揮系統を混乱させた作戦もその一因ではあるのだが、やはり個人の力で大局は動かない。
 
 それが動いたのは、大局そのものが元々危うい綱の上に成り立っていたからに他ならない。
 
 そして、それを知られた。知られたからには狙われるだろう。
 
「まだまだ覇道を終えるには早いみたいね。ついて来れるかしら?」
 
「無論です」
 
 誰よりこの覇道を終わらせたかったのは、他でもない華琳だ。それを良く理解しているからこそ、秋蘭は淀みなく返した。
 
『何も感じていないのか』
 
 そんな言葉、口にするまでもない。
 
 
 
 
 洛陽を脱し、南の宛を経て、長安を目指す。
 
 一刀や協君を慕ってついて来た民草を伴っての旅は、魏軍の追撃部隊に追われた事も相まって、かなり厳しい長旅となった。
 
 その行軍の中に、徐州を失い行方不明になっていた桃香たちも加わっている。
 
「雛里ちゃん、あれから元気にしてた?」
 
「……うん。色々あったけど、やっぱりわたしはご主人様について来て良かったって思う」
 
「そっか……。後悔がないなら何よりだよ」
 
 黄巾の乱以来の旧交を暖め直す朱里と雛里。
 
「結局ここでも麗羽さまの手掛かりは無しかぁ~」
 
「はは……まあ、心当たりがあった方がまずかったと思うけど……」
 
 相変わらずの主君の行方不明に不満と安心をそれぞれ感じる猪々子と斗詩。
 
「お前、強いんだなぁ……気持ち悪いけど……」
 
「言うに事欠いて気持ち悪いって何よぉ! こ~んな美女を捕まえて、失礼しちゃうわ」
 
 ここに至る道程で共に山賊を蹴散らし、他愛ない会話に騒ぐ鈴々と貂蝉。
 
「でも不思議だよね~、“ちきゅう”が丸くて“うちゅう”に浮かんでるんなら、反対側の人とか落ちちゃわないのかな?」
 
「それは所謂、万有引力の法則というやつなのですー」
 
「ばんゆーいんりょく?」
 
「勉強不足ですねー、お姉さん」
 
「おいお前たち……可哀相な人と思われるぞ」
 
 義勇軍の頃から地味に仲が良かった事、共通の話題を持っている事から打ち解けている桃香と風。会話に混ざれない白蓮。
 
「騒ぐなセキト、長安はもうすぐだ。後少しの間くらい我慢せんか」
 
 桃香たちの存在を無視するように恋のお友達の相手をしている協君。
 
 そして―――――
 
「…………………」
 
 一人沈黙を通し、しかしイライラソワソワと落ち着きの欠片もない愛紗。
 
「ご主人様が心配?」
 
 そんな愛紗に、貂蝉が声を掛けた。
 
「きゃっ……!? 寄るな筋肉!!」
 
 筋骨隆々の巨漢の接近に、愛紗は反射的に距離を取る。こんな化け物に“ご主人様”などと呼ばれている一刀に対して、また何とも言えない疑心が湧く。
 
「まあ、あなたの場合無理もないと思うけどねん。意志が固すぎて振り回されてる感じかしら?」
 
「勝手に私を解った様に語るな。馴れ馴れしいぞ貴様」
 
 取りつく島も無い愛紗の態度にも、貂蝉は特に動じない。むしろ意味深に笑ってしなを作る。
 
「まあ、恋する乙女は硝子のように繊細で複雑だもの、あんまり深く訊いちゃうのも野暮ってもんよね」
 
「…………………」
 
 貂蝉の戯言に、愛紗は返事もしない。しかし、頭の中では大いに反応してしまっていた。
 
「(恋……? 誰が、誰に? …………馬鹿馬鹿しい)」
 
 何かを振り払うように、必要以上に口汚く否定して……自分の言葉が胸に刺さる。
 
 不快な痛みに眉をしかめる中で、ふと……愛紗は思った。
 
「(恋する乙女は繊細、か…………)」
 
 なら、と思い……何故か貂蝉に訊ねる。どうしてこの怪物に相談などしているのか、誰かに訊かずには居られないのか、本人にその自覚はない。
 
「繊細なら……どうして平気でいられる。どうして、笑顔でいられるのだ」
 
 極力言葉を省いた、ともすれば独り言とも取られない言葉だが、その真意を察する事など、生粋の漢女たる貂蝉には造作もない。
 
「それだけ彼女が強いって事でしょ。……でも忘れちゃいけないのは、王様である前に、武人である前に、一人の女の子だって事。」
 
 チクリと、また愛紗の胸が痛む。
 
「百聞より一見よん、見てごらんなさい」
 
 促されて、愛紗は視線を巡らせる。―――いつの間にか、桃香の姿が消えていた。
 
 
 
 
「はあっ……はあっ……はあっ……」
 
 街の影が小さく見えた時、わたしは一人で駆け出していた。
 
 使いの人から、事前に安否は聞いてた。今のわたしの立場が非常に微妙な事もよく解ってる。
 
 でも……居ても立ってもいられない。体が勝手に動いてた。
 
「(一刀さん……)」
 
 今までカッコつけてたのに、全部台無し。どうしてわたしってこうなんだろう。
 
 そんな反省も全部、“また今度”になっちゃう。
 
 街が見えて、門が見えて、そこに………見間違えるはずのない人影が見えた。
 
 息が切れて足がツリそうに痛いけど、気持ちだけが前に出る。込み上げてくる衝動が抑えられない。
 
 疲れも痛みも全部無視して走り続けたわたしは、なのに………
 
「あ、う………」
 
 あと数歩、という所まで近づいた場所で、情けなく失速した。
 
『構えろ、桃香!』
 
『今さら停戦を持ちかけるくらいなら、どうして連合に参加した?』
 
『最初から信じられないような相手に、どうしてそんな強引なやり方で停戦が出来ると思った?』
 
『どんな理想でも、叶えるためには力がいるんだよ。“こうなればいいな”って思うだけなら子供にだって出来る』
 
 気持ちだけが先走って、何も考えてなかった。本人を目の前にして、どんな顔をすればいいのか解らない。何を言えばいいのか解らない。
 
「あの……その……えぇと……」
 
 恥ずかしい。みっともない。心が、凄く脆くなっていくのが解る。やっと会えたのに、わたし何してるんだろう。
 
「(泣きそう……!)」
 
 切なくて、もどかしくて、俯いてしまいそうになったわたしの全てが―――――
 
「(あ…………)」
 
 柔らかく、包まれた。
 
「おかえり、桃香」
 
 言葉の意味が、温かさが、どうしようもなく染み込んで来る。
 
「ただいま、一刀さん………」
 
 ようやく、強く、実感出来た。
 
 ―――あなたの傍に、帰って来れたんだって。
 
 
 
 



[14898] 二章・『でーと日和』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/01/12 18:14
 
 あれから一月。目も眩むくらいに忙しい日々が過ぎた。
 
 ただの異動ならここまで忙しない事にはならなかったのだけど、洛陽から多くの民草も連れて来たから、仕方ない。
 
 家も、畑も、お店も、これまでの生活全てを捨てて来た人がたくさんいるから。
 
「お疲れ様です、雛里」
 
「稟さん」
 
 漸く皆さんの身の振り方が一段落着いて、机に突っ伏していたわたしに、稟さんがお茶を差し出してくれた。熱いから気をつけながら両手で持って、ちびちびと口に運ぶ。
 
「貴殿は働き者ですね。もう少しワガママになっても良いと思いますが」
 
「いえ……わたしだけが忙しかったわけじゃないですし、足手まといに……なりたくありませんから」
 
 あまりに忙しくて、劉備陣営の皆さんの処遇はまだ決まってない。そんな微妙な立場の中で、朱里ちゃんも……他の皆さんも頑張ってくれた。
 
 西涼から駆け付けてくれた翠さんやたんぽぽちゃんも、まだ慣れていない環境で頑張ってくれた。
 
 ……それに、ご主人様も。先の戦いで大怪我した上に、星さんや舞无さんや稟さんや……何故か関羽さんにいっぱい殴られた体で、いっぱい頑張ってくれた。
 
 ……自業自得だって皆は言うけど、やっぱりお痛わしい。
 
 あれから、星さんは少し雰囲気が変わった。敵軍の中を単騎駆けしてご主人様を救い出した時に、何か心境の変化があったのかも知れない。
 
 舞无さんはああだから、考えても仕方ない気がする。
 
 稟さんは…………
 
「………………」
 
「? ………私の顔に何か?」
 
「い、いえっ、別に!?」
 
 面と向かっては言えないけど………結構……情緒不安定だと思う。
 
 でも一番解らないのは………関羽さん。ご主人様に心を開いているようには見えないのに、どうしてご主人様の無茶を怒るのかな。
 
 ………ちょっとだけ、嫌だな。
 
「…………あ」
 
 そういえば今日、ご主人様はどうしていないんだろう。
 
 そんな気持ちが顔に出てたのかも知れない。稟さんはわたしの顔を見て苦笑した。
 
「一刀殿なら、今日は…………」
 
 
 
 
「休みだぁあーー!!」
 
 中庭の真ん中で右腕突き上げて咆える俺。一時のテンションに任せた行動が恥ずかしくなって、周りを挙動不審に見回す。……よし、誰にも見られてない。
 
「最近メチャクチャ忙しかったもんなぁ……」
 
 軽くハイになってたのが一瞬で醒める。こう、疲れがズッシリ溜まってる感じだ。せっかくの休みが勿体ない! みたいな考えも湧かない。
 
「……ここ、いい感じだな」
 
 東屋の後ろの茂みの裏に、日陰と日射しのコントラストが絶妙なベストプレイスを見つけた。
 
 誰か暇なやつを探して遊びに行こうか、とかは無しの方向で。今日の俺は恋を目指す。昼間っから日向ぼっこに興じる……なんて贅沢なんだろう!
 
「…………何か老けた思考回路だな」
 
 これも全部疲れてるせいだ。俺は木陰で大の字に転がり、春の陽気を全身で受け止める。
 
 あぁ~……気持ち良い。最近は怪我のせいで風呂も満足に入れなかったし、この脱力感久しぶり。
 
「(あっという間に寝れそう………)」
 
 柔らかい芝生に全身を沈み込ませる感触と、自分の意識が沈んでいく感覚がダブる。
 
 ――――――が、
 
「………………………………………………………」
 
 眠れない。不眠症とか、ベッドじゃないと眠れないとかじゃなく、何かモヤモヤした何かが突き刺さって気になって眠れない。
 
 平たく言えば………
 
「(……見られてる)」
 
 別に俺の個室でもないし、こんなトコで転がっといて「見るな」は無いけど、気になるもんはやっぱり気になる。
 
「(侍女の子、とか?)」
 
 まあ、用があるなら声掛けて来るだろうし、用が無いならいつまでも観察したりはしないだろう。
 
 俺は気にせずそのまま惰眠を貪る事にした。そんな俺に――――
 
(そ~~………)
 
 何か、気配が近づいて来る。俺は寝返りを打って横向きになり、耳を地面につけた。
 
(ソソッ…ソソッ……!)
 
 抜き足差し足、のつもりなんだろうけど、地面越しに足音が丸わかりだ。
 
「(こういう事するのは………)」
 
 星や霞、散(あと、何故か風も)あたりなら俺に接近を悟らせない。恋や稟ならコソコソ近づいたりしない。となると、雛里、舞无、協君、後はあの子が有力かな。
 
 コソコソじわじわ、気配は俺に近づいて来る。………ちょっと、遊んでみようか。
 
「うぅ~ん……」
 
「!!!?」
 
 寝言っぽく唸ってみたら、物凄い驚いた気配が伝わって来た。今のリアクションで誰だか確信ついたけど……ちょっと楽しくなってきた。
 
「……………………」
 
 今度は死体のように動かなくなる事にする。俺が寝てると思って油断したところで、逆に驚かしてやる。さあ来い、桃香。
 
「………………はふ」
 
 俺が内心でほくそ笑んでるとも知らずに、零れるような溜息は随分近くまで迫っている。顔、ニヤけてないよな?
 
「一刀さーん………」
 
 起こしたいのか起こしたくないのか判断しにくい、恐る恐るな呼び掛けをくれる。当然、俺は狸寝入りを決め込む。
 
「寝ちゃってる……最近、忙しかったもんね。仕方ないか……」
 
 残念そうに、そんな言葉が耳に届いた。……いかん、悪戯仕掛けられたらお茶目な逆襲に移るはずだったのに、段々「狸寝入りでした」って言いだしにくい雰囲気に。
 
「かわいい寝顔……♪」
 
 楽しそうに頬っぺたをつついてくる。大いに異論を挟みたいところだけど、それどころじゃない。寝たフリ保つのに必死だ。
 
「…………………」
 
 ややの間を置いて、頬っぺたをつついていた指はそのまま下に下りて来て、俺の唇をなぞる。
 
「……きす、しちゃったんだよね……この唇に……」
 
「っ……」
 
 思い出される情景と…………
 
『……忘れないで下さいね。さっき一刀さんがわたしに言ったみたいに、あなたを大好きな人だって、たくさん居るっていう事』
 
 熱っぽい声色が………
 
「一刀、さん………」
 
 寝たフリしたままの俺の鼓動を加速させる。心臓の音が、うるさい。
 
 いよいよ寝たフリだって言いだし辛くなってきた時…………
 
「(っ~~~~~~!?)」
 
 頬っぺたに、両手が柔らかく添えられた。内心でひたすらパニクる俺の鼻先に、微かに当たる吐息。
 
「(ど、どうする!?)」
 
 このまま寝たフリしてて良いのか? そんな騙し討ちみたいな真似……いや、待て? この状況はむしろ桃香の闇討ち……って違う違う! 問題なのはここで俺が起きたら今までの盗み聞き(?)してたって事がバレて……でもこのまま黙ってたらさらに罪を重ねる結果になるんじゃ?
 
「(どうする!?)」
 
 ………などと、狸寝入りのままで煩悩と純情と罪悪感に挟まれている俺に訪れたのは―――キスなどではなく………
 
「か・ず・と・さん?」
 
「んぎっ!?」
 
 頬っぺたを両側に引っ張られる痛みだった。あっさり狸寝入りがバレた俺の眼前には、半眼で顔を膨れさせた桃香。
 
「顔、真っ赤だったよ? 寝たフリしてたんですね」
 
「いや…これは…その………なあ?」
 
 何が『なあ?』なのか、自分でもさっぱりだ。俺の寝たフリを最初から見抜いてたのなら結構な悪女だけど、桃香の方も恥ずかしそうに顔を赤らめてるあたりからして、本当に気付いてなかったらしい。
 
 恥ずかしそうに、拗ねたようにそっぽを向いた桃香が横目でこっちを見た瞳に……僅かな不安が覗いた。
 
「(何で、そんな顔……?)」
 
 窺うような、遠慮するような……もっと言えば怖がってるような、そんな顔だ。
 
「………もしかして、お邪魔だった?」
 
「へ? 何で?」
 
 上目遣いに予想の斜め上な事を訊かれ、俺は間抜けな声を上げる。さっきの俺の下心満載な行動から、何でそういう結論に行き着くのかさっぱり解らん。
 
 兎にも角にも、桃香にこんな顔させたくない。衝動的に伸ばした手で、桃香の手を取る。
 
「何で、そう思ったんだ」
 
「だって……一緒に居たくないから、寝たフリでやり過ごそうとしてたんでしょ。最近ずっと忙しかったし……やっぱり、お邪魔だったかなって……」
 
 ……………あー。なるほど、そういう風にも取れるのか。俺が悪ふざけを企んでたって知らなかったら、『寝たフリして無視』してると思われても仕方ない。
 
 ……にしても、桃香ってこんなにマイナス思考だったっけ。
 
「……お昼寝の邪魔しちゃったね。わたし、もう行くから!」
 
「ストップ」
 
 解りやすい強がり、無理のある笑顔で逃げようとする桃香の手を、強く握って引き止める。あんな顔させたまま、放っておけるわけがない。
 
「せっかくまた会えたのに……今まで忙しくて、ゆっくり話す時間もなかったよな」
 
「え………?」
 
 惚けたように振り返った眼に、解りやすく期待の色が浮かぶ。へばって昼寝に突入しようとしてたさっきまでの俺を殴ってやりたい。仕事以外にもやり残してる事、やりたい事はたくさんあるのに。人間、やっぱり余裕を無くしたらダメだ。
 
「この後お時間よろしいですか? お嬢さん」
 
「それって……でーとの、お誘い?」
 
「そ」
 
 わざとらしく気取って恭しく頭を下げた俺に、桃香はまだどこか遠慮気味に渋る。
 
「邪魔じゃ、ない……?」
 
「もちろん」
 
「でも、お昼寝してたよ?」
 
「誰かさんのおかげですっかり眼が冴えちゃったよ」
 
「もうっ、意地悪」
 
 少しむくれて、でも楽しそうに、桃香はぴょこぴょこと俺の隣に並び、腕を絡めた。
 
「喜んで、お付き合いさせてもらいます♪」
 
 花が咲くような笑顔に、俺は数秒見惚れる事になる。
 
 
 
 



[14898] 三章・『愛紗の受難』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:5d3ce992
Date: 2011/01/13 21:10
 
「何ぃ! 今日は北郷殿が休みだと!?」
 
 立ち上がって机をバンッ! と叩く愛紗の魔の手から、星はまだ中身の残っている皿を素早く持ち上げて救う。
 
「大声で喚くな。致し方ないとはいえ、主もここ最近は働き詰めだったのだ。たまの休みくらいで何を騒ぐ。……食事くらい落ち着いて摂れんのか」
 
「別にそれに反応したわけじゃない! ああ……それで朝からあんなに…迂闊だった…ただ休日を楽しみにされているとばかり……」
 
 星の醒めた対応も、周囲の「何事か」という視線も耳に入らず、愛紗は何やらブツブツと一人で呟いている。星は「やれやれ、昼食くらいもっと味わって食えんのか」という顔で肩を竦める。
 
「そういえば今日は桃香殿も休みだったかな? なるほど、今頃二人は旧交を暖めている……というわけか」
 
 その言葉に、愛紗は思考の海から引き戻された。呑気に茶を啜っている星を敵意も露に睨み付ける。
 
「この際だからはっきり訊こう。おぬしは……いや、おぬしに限らず、この陣営の臣らは北郷殿をどう想って接している」
 
 唾を飲み込み改まって質問する愛紗とは対称的に、星は面白そうに片方の眉を上げるだけだ。わざわざ一度立ち上がり、愛紗の肩に手を掛けて座り直させる。
 
「男女の機微には疎いかと思っていたが、存外に鋭いではないか。……いや、目ざといというべきか?」
 
「質問に応えろ」
 
「その前に料理を食べろ。せっかくの逸品が冷めてしまうではないか」
 
 今一つ会話の運びが噛み合わない星に苛立ちを覚えつつ、愛紗は餃子を一つ口に運んだ。
 
「どうだ? 中々に美味だろう」
 
 そして、非常にイイ笑顔で訊ねる星に構わず、これで満足かと言わんばかりに詰め寄るのだ。
 
「そんな事より、私の質問にはっきりと応えろ」
 
 そんな愛紗の態度に、星は少し詰まらなそうに眼を伏せたが……すぐに余裕を取り戻して薄笑いを浮かべる。
 
「ならば、じわじわと勿体ぶって応えてやるとしようか、あやつの愛人として」
 
「いきなり応えているではないか!」
 
「おや? これは失敗」
 
 星はわざとらしくおどけて見せる……が、愛紗はそれに怒る余裕すらない。みっともなく取り乱し、星の首根っこを掴んでガクガクと揺さ振る始末だ。
 
「あ、愛人という事は……つまり北郷殿は誰か正室を娶り、あまつさえおぬしを側室に迎えたと……そういう事か!!?」
 
「いや、そういうわけではないのだが……“愛人”という言葉の持つ、この何とも言えぬ背徳の響きが実に佳い。うむ!」
 
「何が『うむ!』だこの変態女ぁ!!」
 
 今にも青龍刀を抜きそうなほど熱くなっている愛紗に首を揺らされても星は動じず、むしろ愉快そうに高笑いまで上げ始めた。
 
 その姿に気勢を削がれた愛紗は、へなへなと脱力して椅子に座り込む。
 
「ほれ、水だ。……にしてもおぬし、そういつも鼻息荒くしていて疲れんか?」
 
「お前がからかうような事ばかり言うからだ」
 
「失敬な。私はいつでも到って真面目!」
 
 漸くまともに対応してものらりくらりと躱されるだけと悟ったのか、それとも単に疲れただけか、愛紗は差し出された水を力なく受け取る。
 
 一息に器の半分ほど水を飲んだ愛紗は、悪い意味で落ち着いた瞳で水面を見つめながら、零す。
 
「……お前ほどの武人が、忠誠に不純な動機を混ぜたのか」
 
「相変わらず頭が固いな、お前は。戦う理由は多ければ多いほど良いではないか。愛する男と敬愛する主君が同じになれば、主命に命を賭ける事が悦びとなる」
 
 しかし、それに連れて星の眼の色と声音に、どこか真剣なものが混ざっていく。
 
「……その相手が、別の女にうつつを抜かしていても、か」
 
 その空気を、愛紗も鋭敏に察知する。対処も理解も出来ない陰鬱な悩みが、ただの一言に重く含まれていた。
 
「私は私。桃香殿は桃香殿。交わす想いも重ねる時間も別のものよ。それをすり替えるほど愚かではないさ。……それに、これはこれで悪くはないぞ? 常に競う相手が犇めいているゆえ、己の女を磨く気概には事欠かぬからな」
 
「……………………」
 
 軽く、しかし自信に満ちた星に……愛紗は何も応えない。軽薄とさえ取れる星の姿勢が少し……羨ましいと感じる己の感情を決して認めず、それに主君にして義姉たる桃香を当てはめる事はさらに忌避する。
 
 後ろ向きに一直線な愛紗に溜め息を一つ零して、星は言葉を続けた。
 
「やれやれ……姉馬鹿殿も結構だが、行き過ぎるとただの無粋だぞ? 独りよがりの過保護が空回り、結果的に桃香殿を傷つける事になる」
 
「………独りよがりだと?」
 
「桃香殿は主の在り様などとうの昔に解しておるよ。そんな事は百も承知で健気に咲き誇る花一輪、これを邪魔するのを無粋と言わず何と言う?」
 
「…………………」
 
 さらに愛紗は押し黙る。愛紗が星に口で勝てるはずがない、という性格的な問題以前に、そもそも当事者である桃香の行動が星の弁舌を肯定しているため勝ち目など初めから無いのだ。
 
 愛紗も理屈では解っているのだ。自分の行為が桃香の望みと相反している事を。……しかし、心は納得してくれない。もどかしさにも似た痛みが愛紗の胸を掻き毟る。
 
 そんな愛紗に、星は微かに笑い掛ける。
 
「とはいえ、気になるというのも解らんでもない。いつかのように我々二人で主らを見張ってみるか?」
 
 いつもの愛紗なら、「職務中に何をふざけた事を」と一蹴している場面だろう。しかし今回ばかりは事情が違う。
 
「そうと決まれば話は早い。今すぐにでも二人の足跡を………」
 
 愛紗は水を得た魚のように立ち上がった。その行動に、今まで余裕を見せていた星は眉を潜め、間髪入れずに諫める。
 
「だから待てと言うに、まだ料理が残っておるだろうが」
 
「この期に及んで何を悠長な。店主、馳走になった。味は悪くなかったぞ」
 
 今度は星の制止に耳を貸さずに勘定を済ませようと愛紗は店主に声を掛ける。
 
 その愛紗の前で、店主は―――何も言わずに焼売の皿を差し出した。
 
「…………え?」
 
 勘定を済ませようとしていたはずなのに、何故か差し出される追加の料理。状況が飲み込めず戸惑う愛紗を置き去りに、星と店主は全く同時に親指をビシィッ! と立てた。
 
「この趙子龍、店主が遥々洛陽からついて来てくれた事を心から嬉しく思うぞ」
 
「趙将軍なくして我が店の存続もありません。地獄の果てまで御供させて頂きやすぜ!」
 
「うむ、良く言った! 共にこの道の極みまで辿り着こうぞ!」
 
「????」
 
 近寄り難い……否、近寄りたくない熱を漲らせる星と店主に疑問符を多量に浮かべつつ、愛紗は気圧されるように一歩………
 
「待てぃ!」
 
「わぁっ!?」
 
 後退ろうとして、白蛇の如く伸びた星の腕に捕まった。ここが運命の分かれ目と、愛紗は後に知る事になる。
 
「関雲長殿? 店主が丹精込めて作った逸品を、よもや残して去るつもりではあるまいな」
 
 シャキシャキコリコリとした歯応えを持った、美味しい餃子に焼売、炒飯、ラーメン。そう思っていた。
 
「いくら将軍様とはいえ、そいつは許せねぇ。しっかり完食してっておくんなせぇ!」
 
 ラーメンを食べていたのは星だった。やや引きつつもそれは他人事だからと放置した。しかし改めてみると……全ての料理がどこか茶色に見えた。
 
「そもそもメンマとは、一流のメンマ職人が自らの足で樹海の奥地へと足を運び、その慧眼によって選りすぐりの筍を見いだし、それを絶妙な味付けの下に昇華させた代物! 一時の激情に任せてそれを無碍に扱うなどとはあまりに不遜な行い!」
 
「そうだ! メンマに謝って下せぇ!」
 
「謝れ! メンマの神様に!」
 
 全ての料理にふんだんにメンマを盛り込むここは……都から遥々移店を遂げて復活した、メンマ好きの、メンマ好きのための、メンマ好きを広げるメンマ専門飯店・『メンマ園』。
 
 この後、事前に星から呼び出しを受けていた恋、鈴々、猪々子、斗詩、白蓮が加わり……愛紗が店を出る頃には、既にその瞳から光が失われつつあったという。
 
 
 
 
「演習場でしか歌えないってどーいう事よ!」
 
 ちぃ姉さんが怒る気持ちも解るけど、私に怒鳴られても困る。
 
「今後は募兵活動は中止して、魏軍の士気を向上させるために歌え。それが曹操の考えよ」
 
 私は単に、命令をそのまま伝えてるだけなんだから。
 
「せっかく公演出来るようになったと思ってたのに……悔しいなぁ」
 
 滅多に笑顔を崩さない天和姉さんでさえ、はっきりと肩を落としてる。
 
 捕虜の身に自由は利かない。私たちは曹操に生かされている。生き方を選べない。
 
 ずっと籠の鳥で、漸く大勢の前で歌う事が出来た時はまだ良かった。利用されていても、歌う事が出来たんだから。
 
「(………でも)」
 
 私たちの歌は、人を惹き付けるためじゃなく、殺し合いに向かわせるためのものになってしまった。
 
 今はまだいい。歌う場所を選べなくても、歌そのものを汚されても、生きてさえいればやり直せる。
 
 ………でも、いつかは? 戦乱が終わり、曹操が天下を握って……私たちに利用価値が無くなったら?
 
「…………………」
 
 未来が暗くて、何も見えない。歌が好き、ただそれだけで生きる力を持てた頃が懐かしい。
 
「(私は……私たちの夢を捨てられない)」
 
 
 
 
 ――――籠の鳥は啼き続ける。いつか大空に飛び立つ日を夢見て。
 
 
 
 



[14898] 四章・『大好き』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:5d3ce992
Date: 2011/01/15 22:02
 
「美味しかったねー♪」
 
「だろ?」
 
 暖かい木漏れ日の差し込む森の中で、俺と桃香は食べ終えた弁当箱を包み直しながら満足感に満ちた溜め息を零す(俺のは月賦、とかいうツッコミは無しの方向で)。
 
 いざデート、と決めた俺と桃香だったけど、突発的な思いつきなだけに完全なノープランだった。
 
 とはいえ、そんなのは大した問題じゃない。黄巾の乱の最中に出会って、反北郷連合とかで長く離ればなれだった俺と桃香は、こんな風に二人で『日常』を過ごした事は一度もなかった。
 
 だから、桃香と一緒ならそれだけで嬉しいし、楽しい。それを直接伝えたら、桃香は非常に嬉しそうに賛成してくれた。
 
 ………ので、二人でのんびり出来そうな森の中をデートスポットに決めて、さあお弁当でも持って繰り出そうかと食堂に向かって………舞无と風に出会った。
 
 正直、舞无が泣いて逃げ出したり、逆に強烈なアッパーカットくらいは貰う覚悟を決めたんだけど、実際にはそんな事はなかった。
 
 騒ぎだす直前の舞无に風が何事か耳打ちしたかと思えば、何故か背後に炎を燃やした舞无は「ちょっと待っていろ」と言い残してから、二人分の弁当をマッハで作成してくれた。
 
 桃香に弁当箱を渡した時の「フフン」と妙に勝ち誇ったような顔が気になるけど……風のヤツ一体何言ったんだ。
 
「でも意外ー、華雄さんって武芸一筋っていめーじだったけど、こんなにお料理上手だったんだ」
 
「元々は素人だったみたいだけど、この一年で急激に伸びたんだよ」
 
 正直、俺もビックリした。舞无のヤツ、またレベルアップしてやがる。
 
「……………わたしも練習しよっと」
 
「ん? 何?」
 
「う…ううん! 何でもないよ!」
 
 何か小さく呟いた桃香は、誤魔化すようにパタパタと両手を振る。……何だろ、気になる。
 
 答えを催促するサインとしてジ~~っと視線を送ってみたけど………
 
「ね! 遊ぼ!」
 
 無駄でした。誤魔化しの駄目押しに、桃香は俺から背を向けて軽やかに駆け出す。
 
「(ま、いっか……)」
 
 本当に楽しそうにスキップしている桃香を見ていると、ちょっとした疑問なんて気にならなくなる。
 
「んしょっ」
 
 膝上(むしろ太股?)まである長いブーツを無造作に脱ぎ捨てて、桃香はピョンと小川に足を踏み入れた。
 
 露になった白い生足にドキドキしつつ、俺も水辺に駆け寄る。
 
「(まるで子供だ)」
 
 無邪気にはしゃぐ姿にそんな感想を抱きつつ、同じ姿に別の想いも重ねた。
 
 陽光を浴びて清らかな水に立つ、穢れ一つ知らないような清廉な女の子。明るくて、優しくて、強い………ひまわりみたいな桃香。
 
「(眩しいな……)」
 
 可愛いとか、綺麗だとか、そういう印象も受けたけど、やっぱりこの言葉が一番相応しい気がする。
 
「一刀さんも早くー、冷たくて気持ちいいよー!」
 
「今行くってば」
 
 桃香に倣って、俺も靴を脱いで小川に入る。桃香と違ってズボンが濡れるけどまあいいや。
 
 初めて川遊びをするみたいにテンションの高い大きな子供に苦笑しつつ、俺も川の水を掻き分け進む。
 
「もう春だって言っても、水に濡れたら冷えるからな。転ばないように………」
 
「えぃや♪」
 
 若干愛紗の気持ちになりつつ小言を並べようとした俺の顔面を、早速冷たい水が打った。
 
 ほー……そうかそうか。そういう趣向か、桃香。
 
「あははっ♪ 水も滴る佳い男だね、一刀さん♪」
 
「面白ぇ、俺の川遊び経験値を舐めるなよ桃香!」
 
 などと強気なセリフを言ってみた俺に、桃香は情け無用の水飛沫をお見舞いしてくれる。
 
「やったな!」
 
「捕まらないもーん!」
 
 とはいえ、ホントに桃香をずぶ濡れにするわけにもいかない。挑発みたく水を掛けてくる桃香と迫り来る俺の、戯れるような追いかけっこが開始された。
 
「おっ……っと……!?」
 
「鬼さんこちら♪ 手の鳴る方へ♪」
 
 桃香は意外なすばしっこさで逃げ回る。しかし、いくら俺でもおっちょこちょいの桃香に負けるわけにはいかん。
 
 普段星とか霞とかに手玉に取られてる鬱憤を今ここで晴らす!
 
「うりゃあ!」
 
「なんの!」
 
 一気に波を立てて詰め寄る俺。……けど、それがいけなかった。
 
 桃香は、急接近した俺から慌てて逃げようとして―――
 
「え……きゃ!」
 
 水中で何かに足を取られ、後ろ向きに倒れそうになる。その光景を、俺の眼がスローモーションに捉えていた。
 
「っとぉ!」
 
 次の瞬間。俺は自分でも軽くビックリするほどの瞬発力を発揮し、小川にひっくり返る寸前だった桃香の体を、腰に手を回すようにして抱き留めていた。
 
「だから気を付けろ……って……」
 
 ……が、状況は別の意味でマズい事になっていた。互いの息が掛かるほど近くにある桃香の顔が、俺の眼しか見ていない桃香の瞳が、緊張事態で麻痺してた俺の脳に警鐘を鳴らす。
 
 今、俺は……桃香を、思いっきり抱き締めていた。
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 桃香は何も言わない。俺も、金縛りにあったように動けない。一瞬とも永遠ともつかない沈黙を経て――――
 
「一刀、さん………」
 
 桃香は俺の首に両手を回し、祈るように両の瞳を閉じる。
 
「桃香………」
 
 何を求められているか、それが解らないほど鈍くもないし、何より俺自身がそれを望んでいた。
 
「………………好きだ」
 
 躊躇う理由は何もない。俺は腕の中の桃香を強く抱き寄せ……その唇に自分の唇を重ねた。
 
 
 
 
「大丈夫?」
 
「うん。まだちょっと辛いけど……嬉しいから」
 
 樹木に背を預ける少年、に、隣から体を預けるように寄り添う少女。
 
 気遣う以外に為す術の無い犯人に、桃香は強がりではない笑顔を向けた。平気というわけではないが、その笑顔は余裕や虚勢とは別の感情から来るものだったのだから。
 
「何だか……夢みたいだ」
 
 一刀はまだ青い空を仰いで、感慨深げに声を漏らす。
 
 これまで……一刀と桃香の間には様々な紆余曲折があった。愛紗や鈴々、朱里の主君として現れた桃香に、一刀も当初は複雑な感情を抱かざるを得なかった。共に黄巾党と戦う流軍の日々で想いの萌芽が芽生え、しかし再会した二人は群雄割拠の幕開けの前に引き裂かれた。
 
 二人がそれぞれの死線を越え、長い旅路の果てにこうして寄り添っていられる事が……一刀には夢のような奇跡に思えたのだ。
 
「夢なんかじゃないよ。……ホントは、ずーっと前からこうして居たかった」
 
 桃香は幸せそうにそう零した後、一転して膨れっ面を一刀に向けて拗ねてみせる。
 
「一刀さん、わたしの事どう思ってるか言ってくれなかったし」
 
「え?」
 
 本気で解らない。そんな一刀の態度に、ますます桃香はお冠になる。
 
「きすしたのもわたしからだったし……ずっと不安だったんだよ?」
 
「あー……でも、あの時は桃香が不意打ちして逃げたんじゃ……」
 
「う……だって……恥ずかしかったんだもん。それに……応えを聞くのが少し……怖かった」
 
 拗ねていたはずの桃香が思わぬ逆撃を受けて言い淀む。……が、その恥じらう姿が堪らなく愛らしく、一刀はその肩を抱き寄せた。
 
 それだけで、桃香の心を覆う殻がパラパラと剥がれ落ちていく。剥き出しの心を曝すのが少し怖くなって、桃香は体を反転させ、一刀の胸に額を押しつける事で顔を隠した。
 
「お別れして……連合で戦って……ずっと離ればなれで……一刀さんがわたしの事をどう思ってるのか……ずっと不安だった……」
 
「………うん」
 
 一刀もその表情を見ようとはしない。震える少女を抱き締めて、柔らかな髪に顔を埋めて、優しく背中を撫で続ける。
 
「……天界語も、いっぱい勉強したの。……そうしてると、少しでも近付けるみたいな気がして……いっぱい元気が出て……」
 
「………うん」
 
 一刀はただ、受け止める。こんなにも自分の事を思ってくれる少女の告白を、大切に胸に刻む。
 
「あんな無茶な事して……一ヶ月もちゃんと話せなくて……一刀さんの、ばか」
 
「ごめん」
 
 桃香の事を心配していたのは一刀も同じ。忙しかったのもお互い様。それでも一刀は謝罪する。
 
 男が女の子を泣かせたら、どんな理由があっても謝らなければならないのだ。
 
「……大好き」
 
「うん……」
 
 張り詰めていたものが解けていく。暖かな睦事と互いの温もりを感じながら、二人はいつしか微睡みの中に沈んでいった。
 
 
 
 
「…………………」
 
 日輪が傾き、朱色が世界を染める中で、二人の少女が一つの光景を眺めている。
 
「どうやら邪魔立ては叶わなかったようだな、姉馬鹿殿?」
 
「………最初から、邪魔立てするなどと言ったつもりはないぞ」
 
「ふっ、よく言う」
 
 一人は透き通るような水色の髪を、一人は流れるような黒い髪を持つ少女。二人が見据える先には、一組の男女。
 
「私は……桃香さまがかどわかされはしないかと………」
 
「心にも無い事を。固さも悋気も大いに結構だが……少しはそれを表に出さねば武器にならんぞ?」
 
「………何が言いたい」
 
「目ざといのはお互い様、という事さ」
 
「意味がわからん」
 
「少しは自分で考えろ。己自身の気持ちだろう」
 
 二人は男女に声を掛けない。そこに映る一枚の絵画を崩そうとしない。
 
「黄昏時まで少し間があるな。どうだ? 一杯付き合うか」
 
「付き合わん!」
 
 共に在る至福を讃えて寄り添い眠る恋人たちを邪魔する事など、二人には出来るはずもなかった。
 
 



[14898] 五章・『白馬の名に懸けて』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:5d3ce992
Date: 2011/01/18 15:07
 
 洛陽からの移民も一段落して、漸く政務も通常運転に乗り出したある日……っていうか桃香とデートした翌日。
 
 俺は久しぶりに中庭でひっくり返っていた。
 
「相変わらず虚弱なようで」
 
「……鳳徳先生、三途の川が見えました」
 
「よろしい。ついでに素潜りして、なんか珍しい物でも狩って来て下さい」
 
 久々の朝稽古相手は散。……と言っても別にマンツーマンじゃなくて、散、翠、たんぽぽの西涼トリオに俺が混ぜてもらった形だ。
 
「……容赦無いな、散姉」
 
「……あたし達、あれでも一応手加減されてたんだね」
 
 翠とたんぽぽの同情の視線が「痛そうだけど他人事だし」みたいでヤな感じだ。
 
「まったく。またりーだーの足手まといになりたいようで。もしくはひろいん願望でもあるんですか。ぷりんせす・一刀」
 
「プリンセスて」
 
 しかし……散の言う事ももっともだ。敵陣の中を趙子龍が単騎駆けで生還……と言えば、三国志的には劉備の子供(幼児)が救い出されるエピソード。
 
 つまり………あの時の俺は正に、救い出される赤ん坊ポジション。
 
 「死ぬつもりはない」とか皆の前でカッコつけといて、あれは無い。流石に凹んだ。
 
 だからこそ、皆に叱られても仕方ないと思った。特に星には頭が上がらない。
 
 ……そういえば。
 
「…………………」
 
「何か?」
 
「いや、別に……」
 
 俺が自業自得の制裁を受けたあの時、俺に対してある意味一番シビアなはずの散の言い分が、こうだ。
 
『あたしは別に殴りませんよ。心配された、とか勘違いされても不愉快なので』
 
 ……で、病み上がりの俺にスパルタである。相変わらず思考が読めない。
 
 もしかして………
 
「さっきから何ですか。そんなにこの包帯の下が気になるのかな、と」
 
「いや…………何だかんだ言っても少しは心配してくれたのかなー、と」
 
「人の語調を真似しないで下さい。それにあたしの扱きがキツいのは、単にあなたが鈍ったからそう思うだけですよ」
 
 淡い願望だった。散は一足先に東屋で休んでいたたんぽぽの隣に腰掛け、朝飯に持参した炒飯おにぎりを頬張る。くそぅ……片想いは辛いぜ。
 
「でも、そんな言うほど弱いんかねー?」
 
「うひゃあ!?」
 
 いきなり耳元で囁かれた声+頬っぺたに触れた冷たい竹筒の感触に、俺はビックリして飛び起きた。
 
「あっはははは♪ ビビり過ぎやろ一刀」
 
 そこに、いつから稽古を見ていたのか……機嫌良さそうに笑う霞がいた。オーバーリアクションが恥ずかしかったので、差し出された水を無言で受け取る。
 
「あ、それあたしも思った。確かにあたしらに比べたら下っ手くそだけど、散姉が言うほどご主人様酷くないんじゃないか?」
 
 そんな俺を脇に置き、翠がさっきの霞の言葉に食い付く。………って、何か話が予想外の方向に。
 
「また皆さん甘やかしますね。これは煽てるとすぐ調子に乗るたいぷですよ」
 
「これって言うな」
 
 散の言い回しにはきっちりツッコミつつ、俺は翠の言葉を反芻する。俺……褒められた? 武術を?
 
「おいたんぽぽ、試しにお前、ご主人様と手合わせしてみろよ」
 
「えぇ!? ヤダよ、今お姉さまと手合わせしたばっかりじゃん!」
 
「“この北郷一刀と手合わせする者はいるか?”」
 
「ここにいるぞ! ……は!? しまった!」
 
 翠がたんぽぽを煽り、嫌がるたんぽぽはその習性を散に利用されてあっさり罠にはめられた。……何とも、付き合いの長さを感じさせるやり取りだ。
 
「頑張れー、たんぽぽー!」
 
「星姉様!?」
 
 いつの間にか―――
 
「一刀さーん、ふぁいとー!」
 
「桃香!?」
 
 ギャラリーまで出来ていて、後には退けなくなる。
 
「ああもうっ! こうなりゃヤケだ! 戦るぞたんぽぽ!!」
 
 そうして、俺とたんぽぽの模擬戦の幕が上がった。
 
 
 
 
「「うっそ………」」
 
 俺とたんぽぽの、『信じられない』という声が重なる。
 
 静止画のように映る世界で、ヒュンヒュンと風を斬り裂いて“模擬槍”が地面に突き刺さった。
 
「一刀さん強ーい!」
 
「………偉い」
 
 無邪気にはしゃぐ桃香、控え目に褒めてくれる恋。
 
「………たんぽぽ、お前明日から地獄の特訓始めるからな」
 
「その前にまず、尻を出しなさい」
 
 呆れたように額を押さえる翠、無表情の中で眼だけを鋭く光らせる散。
 
「へぇ……言ってみただけやったんやけど」
 
「むぅ………増長せねばいいが……」
 
 素直に感心して面白そうに笑う霞、何やら呟きながら複雑そうに眉をしかめる星。
 
「手紙で呼び出されて来てみたら……何の騒ぎだこれ?」
 
 一人、何やら他の観客とは様子が違う白蓮。
 
 そんな外野の声をどこか遠くに聞きながら、最後の一太刀の姿勢のまま固まっていた俺とたんぽぽは………遅すぎる再起動を果たす。
 
「俺……勝った、のか………?」
 
「ちょっ! 今の無し! もう一回! 今のはちょっと油断しただけですから!」
 
 不服満々に後ろの翠に抗議するたんぽぽを余所に、俺は現実感を確認するように、手の中の模擬刀を握り締める。
 
 これは………素直に嬉しい。心のどこかで無駄かもと思い続けて来た積み重ねの結実。赤ん坊級のお荷物を演じた後なのも手伝って……こう、込み上げてくるものがある。
 
「ご主人様! もう一回もう一回!」
 
「見苦しいぞたんぽぽ、今日のところはお前の敗けだ」
 
「めいんげすとも来たようですし、一先ずお開きにしようかな、と」
 
「ぶーっ」
 
 膨れっ面で食い下がるたんぽぽを翠がひっぺがし、散がだめ押しに頭をポンと押さえた。俺としてもこの貴重な一勝は勝ち逃げしときたいから好都ご………なに?
 
「散、メインゲストって何?」
 
「朝練なんて余興に過ぎません。あたしには、決着を着けねばならない相手がいるのです」
 
 突如、散の纏う空気が一変する。いつもの掴み所の無い雰囲気とも、戦闘モードに入った時の冷たい雰囲気とも違う。何というか………似合わない熱気を漲らせている。
 
 ………決着?
 
「……また物騒なこと企んでないだろうな」
 
「お望みとあらば、“必殺関羽!”とか叫んでみようかな、と」
 
「やめて! あの子すぐ本気にするから!」
 
「あたしも軽くマジですよ。どうにもあの方を見てると血が騒ぐようで」
 
 三国志では、魏の将になった鳳徳は関羽との激戦の末に敗れ、武人としての最期を遂げている。……前の世界で愛紗も呂蒙の旗に妙なリアクション取った事があったし……まさか正史の影響とかなのか?
 
 せっかく桃香や愛紗たちと和解出来たのに、こんなんで関係拗れるとか冗談じゃないぞ。
 
「ま、冗談はさて置きます」
 
「冗談かよ!?」
 
「めいんげすとは彼女では無いのですよ」
 
 ……言われてみたら、ここに愛紗の姿は無い。散はさっき「メインゲストは来た」って言ってたっけ。
 
 ……って、つまりターゲットは別にいるって事じゃないか。何の解決にもなってねぇ!
 
「さて、と」
 
「待てー! 因縁つけんなー!」
 
 止めに入った俺の手首を赤子のように捻って、散は中庭のど真ん中に舞い降りた。そして、威圧的に双鉄戟の石突きで大地を打つ。
 
「表に出て下さい、白馬長史」
 
 ………予想の斜め上の名前が出た。
 
「……いや、ここもう表だけど。この挑戦状、お前が書いたのか?」
 
「モチのロンです。積年の決着、今こそ着けようかな、と」
 
 若干戸惑いながら手紙らしき紙切れを振って見せる白蓮に、散が意味不明な事を言いながらガンたれてる。
 
「白蓮ちゃん、鳳徳ちゃんと面識あったの?」
 
「いや、一月くらい前に初めて会ったはずだけど………」
 
 白蓮に心当たりは無い。……何か、この会話おかしくないか?
 
「散、積年の決着ってなんだよ?」
 
「あたし達には、切っても切れない因縁があるのですよ。二人の出会いの遥か昔から」
 
「お前……それっぽいこと言いたいだけだろ」
 
「どこぞの気障野郎と一緒にされたくないかな、と」
 
 ………気障野郎って、もしかして俺? いやいや、気障じゃないだろ、俺は。
 
「……よく解らんが、帰っていいか? 北郷」
 
「ああ、うん、いいんじゃない?」
 
「勝手に帰さないで下さい」
 
 関わりたくないオーラ全開の白蓮に軽く応えた結果、俺は弁慶の泣き所を押さえてのたうち回る羽目になった。
 
 ………が、まあこんなのは慣れっこだ。ほどほどに苦しんでから復活する。
 
「で、何だよ因縁って。いい加減な理由でケンカ売ってるんなら正義の味方呼ぶぞ」
 
 言いながら星とアイコンタクト取ろうとして……やめた。あいつも、すっごい悪戯したそうな顔してるし。
 
「白馬長史と白馬将軍。この大陸に『白馬に乗ったお姉さま』は二人要りませんから」
 
「「そんな理由かよ!」」
 
 俺と白蓮のツッコミが綺麗にハモった。何かと思えば単なるキャラ被り?
 
「“そんな”は心外かな、と。こう見えてあたしも結構焦ってます。居場所を勝ち取るための戦いなので」
 
 …………こいつ、鉄面皮の下でいつもこんな事ばっかり考えてんのか。
 
「あたしにとってきゃら被りは死活問題かな、と」
 
「被ってねぇーー! やっぱりくだらん理由じゃねぇか!!」
 
 むしろくだらなすぎる。こんな理由で熱血してたのかよ。
 
「とあるるーとから、『白馬鹿面』という正義の味方を気取る性癖もあるとの裏も取れてます。華蝶仮面散号としても、やはり野放しには出来ないかな、と」
 
 桃香が明後日の方を見ながら口笛を……吹けてない。散のチラ見に、星が仰々しく頷いている。
 
「………子供相手だからって、手加減しないからな」
 
 ちょ……!?
 
「白蓮も何やる気になってんだよ!?」
 
「止めるな北郷! 白馬まで失ったら私は……私は……!」
 
「散も考え直せ、歳下の女の子だぞ!」
 
「心配無用かな、と。弱い者イジメは……まあ、好きですけど、チャンバラする気はありませんから」
 
 俺の説得も虚しく、散と白蓮は翠やたんぽぽ、何故か霞まで伴って去って行く。
 
 当然ほっとけるわけがないので、俺はその背中を追おうとして――――
 
「…………………」
 
 両手両足を、がっちりホールドされた。右腕に星、左腕に桃香、そしていつから居たのか、両足それぞれに雛里と協君。
 
「放して……」
 
「わたしも気になるけど、今日はお仕事があるでしょ?」
 
「昨日も女を侍らせて優雅な休日を過ごされていた主が、まさか今日も怠業なさるおつもりか?」
 
 だって心配じゃんか!
 
「ダメ……です……」
 
「働け貴様」
 
「はーなーせぇー!」
 
「ま、事の顛末はウチが見届けたるから安心しーな♪」
 
 俺の解消されない心労と不安を置き去りに、散たちの背中は遠くなっていく。
 
 ――――予断だが、これから数日、星や恋の特別メニューによって俺は“身の程”というものを骨身に刻み込まれる事になった。
 
 



[14898] 六章・『乾坤一擲』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/01/21 21:32
 
「ふんふん………」
 
 見渡し慣れた玉座の間、見渡し慣れた皆の顔、珍しいのは段差下で窮屈な姿勢で屹立してる高順(だっけ?)と、私が読んでる手紙。
 
 内容はまあ、自国の偵察と高順の態度で大体わかってた事だったけど、私は一先ず………
 
「れーんふぁ、一刀無事だってさ。良かったわね♪」
 
 あれから元気の無かった可愛い妹に生存報告してあげる事にした。
 
「ホンッ………ごほんっ! 何故私を名指しなんですか姉さま!」
 
 手拍子で『本当ですか!?』って言おうとした蓮華は、他国の使者の高順の姿を見てギリギリで自制した。いや、自制しきれてないか。……うーん、面白い。
 
「だって蓮華ってばあれからずーっと元気無かったじゃない? 妹の心配の種を真っ先に取り除いてあげる優しいお姉さまなのよ、私は♪」
 
「伯符、それくらいにしておきなさい。使者の前よ」
 
 冥琳に怒られた。羞恥心だか何だかで爆発寸前の蓮華を見てると、もうちょっとからかいたくなるんだけどなぁ〜。
 
「はーい……。ありがとね、高順。客室を用意してるから、今日はゆっくりしていって頂戴」
 
 意外だったのは、劉備と公孫賛の生存と助力くらい。一刀は……前の戦いで呉が自分を助けなかった事に関して恨み言一つ書いていなかった。まるで……こちらの事情も意図も全て見透かしているかのように。
 
「一刀に伝えて頂戴。呉の大切な玉を救ってくれてありがとうって。……呉の人間は、受けた恩を忘れないわ」
 
「御意。……必ずや御遣い様にお伝えします」
 
 恭しく頭を下げた高順は、亜莎の案内について玉座の間を後にする。
 
 そして、広間が身内だけになった途端―――
 
「姉さま! 何ですかさっきの態度は! 使者の前で恥ずかしい!」
 
 蓮華が爆発した。ちょーっとからかっただけなのに大袈裟なんだから。
 
「こっちが心配してたのが伝わって良かったじゃない。淡白な反応する方が同盟国としてどうかと思うわよ?」
 
「だからと言ってわたしをダシにする事ないでしょう! 最後の一言だけで充分ではないですか!」
 
 言い合いしてたら長くなりそうだし、話題逸〜らそ。
 
「にしても、よく何十万って大軍相手に囮なんてして生き延びられたわね〜。見直したわ」
 
 実際、高順の態度を見る前まではこれも意外だった。明命の話を聞いた分には、死んでても不思議じゃないと………いや、正直死んだと思ってた。
 
 明命が最後に見たのは、一刀を救けに向かった趙雲。……ふ〜〜む。
 
「………まさか、趙雲が一人で北郷一刀を救い出したとか思っていないだろうな?」
 
「あら? “まさか”なんて随分な言い草ね。恋する乙女は強いわよ〜。ね、れーんふぁ♪」
 
「知りません!!」
 
 ちょっと水を向けただけで、蓮華は顔を真っ赤にしてから当て付けがましく靴音を響かせて玉座の間から出て行った。
 
 うーん……。
 
「最初は冗談のつもりだったんだけど、あそこまでムキになるって事は……」
 
「うむ、本気かも知れんな」
 
 年長者の祭に太鼓判を押されると、より確信が強くなる。
 
「でも、今までお姉ちゃんが男の人好きになった事ってあるの?」
 
「おそらくありません、が、見れば解るでしょう?」
 
「……確かに、わっかりやすいかも」
 
 小蓮や冥琳も話に乗って来た最中も………
 
「………………」
 
 思春一人が、やけに仏頂面だった。明命も顔赤くして会話には混ざれてないけど、別に思春みたいな不機嫌さは無いのに。あの子は蓮華大好きだしね〜。
 
「まあ、当の蓮華様が乗り気なら何も問題ないではないか。北郷一刀も生き延びたらしいしの」
 
「問題ならあるわよ〜、祭。一刀、ああ見えてすっごいモテるんだから。うかうかしてたら蓮華でも―――」
(バンッ!!)
 
 やけに大きな音を立てて扉が閉まった。ふと見渡したら、いつの間にか思春の姿が消えてる。
 
「悪ノリし過ぎたかしら?」
 
「あながち冗談でもないだろう? 蓮華さまが北郷に懸想しているのなら、政略結婚の話も現実味が出て来る」
 
 ……実際、一日二日で誰かを好きになるほど惚れっぽいとは思わなかったけどね。
 
 それに…………
 
「思春って、あそこまで過保護だったかな……?」
 
 私の素朴な疑問に、誰も応えを返してくれなかった。
 
 
 
 
「はぁ………」
 
 新都・長安の西通りを、美しい黒髪を揺らして一人の少女が歩いている。
 
 劉玄徳の家臣として帝に同伴してこの街にやって来た……美髪公・関羽こと愛紗である。
 
 もう、今日何度目かという溜め息を零すその姿は、実際の身長を一回りほど小さく見せる。
 
「(あの馬鹿者め、警邏の最中にどこに消えた)」
 
 今日、西通りの警邏を担当するのは愛紗と鈴々。しかしここには愛紗の姿しかない。
 
 最初から一人だったわけではなく、ついさっきまでは一緒だった。鈴々がいきなり消えた理由は不明だが、見失った理由は愛紗自身解っていた。
 
「…………………」
 
 今日一日。愛紗は心ここに在らずで考え込む時間が増えていた。……それも、かなりに頻繁に。
 
 だからこそ、普段なら見逃さない鈴々の奔放な行動を見逃した。
 
「(………桃香さま)」
 
 そう、この瞬間にさえも―――
 
「(北郷、一刀………)」
 
 昨日見た光景が脳裏に甦り、不可解な苦悩がその胸を苛む。
 
「(……杞憂だ)」
 
 首を振って、胸のざわめきに蓋をする。それがつまらぬものと決めつける。
 
「(桃香さまの気持ちが確かなら……それが太平の未来に繋がるのなら……何を悩む事があるというのだ)」
 
 幾度となく出した結論。もう解決したはずの問題。それでも愛紗は繰り返す。
 
 繰り返す意味さえ解らぬままに。
 
 その思考の海から―――――
 
『っーーーーー!!』
 
「な、何だ!?」
 
 地鳴りのような歓声が、愛紗を引き上げた。音を辿れば、一際広い建物から歓声は聞こえていた。
 
「何だ、あれは……?」
 
 広い、が、高くは無い。柵のような役割しか持たない石の段差で縦長に造られた建物。多忙な日々を過ごし、西通りを歩くのは今日が初めての愛紗は知らない建造物だ。
 
「競馬場ですよー?」
 
「わあっ!?」
 
 そして、突然背筋を指先でなぞられて悲鳴を上げる愛紗。振り返れば奴がいる。
 
「てっ、程立? 一体いつの間に……!」
 
「風はこう見えて何かと一流なので。それより……鈴々ちゃんなら中ですよー?」
 
「………た、助かる」
 
 平然と神出鬼没な振る舞いをする風に深入りしては危険、と愛紗の本能が告げていた。
 
 何とも奇妙な組み合わせの二人は、並んで競馬場に入って行く。
 
 劉備陣営の微妙な立場をどこまで解っているのかいないのか、愛紗の隣を歩く風はひたすら無言だった。
 
 そして……人垣を抜ける。
 
「いぃよっしゃあぁーー!!」
 
【第五れーすを制したのは“神速”を謳われる張文遠将軍! 今回は大本命が頭角を表しましたが、次はどうなる!?】
 
 紺碧の風が駆け抜けると同時に、歓呼のような叫び声が愛紗の肌をビリビリと震わせた。
 
 ちゃっかり両耳を塞いでいる風と、仕草が実に対称的だった。
 
「ちょ、張遼まで参加しているのか……?」
 
 愛紗も流石に唖然とする。北郷五虎将にも名を連ねる霞までが選手として出ていようとは思いもよらない。
 
 しかし―――
 
「霞ちゃんだけではないですよー」
 
 そんな風の言葉を肯定するかのように―――
 
「ちっくしょー! あそこで出遅れなきゃ……!」
 
「まだまだ後半があるじゃん、お姉さま」
 
「やりますね、白馬鹿面」
 
「バカ面って言うな! 仮面白馬だ仮面白馬!」
 
 翠、たんぽぽ、散、そして白蓮。続々と愛紗の視界に姿を現して行く。
 
「ぱ、白蓮殿まで……」
 
「話に因ると、散ちゃんが白蓮さんに挑戦状叩きつけたらしいですよ?」
 
 あまりにもあまりな状況についていけない愛紗の眼に、本来の目的が映る。
 
「いぃやったわよ鈴々ちゃん! これで1.5倍よん!」
 
「大金持ちなのだー!」
 
 それは、岩石にも似た異形の肉塊の肩に立っていた……平たく言えば鈴々。
 
「ちぇー、大本命なんかに賭けてもちょっとしか儲からないじゃんか。男ならどーんと大穴狙いだろ?」
 
「減るよりいいじゃない。それに文ちゃん、いつから男になったの?」
 
 視線を少し下げると、他にも見知った顔が二つほど。
 
「…………………」
 
 愛紗は肩を怒らせて歩み寄り、鈴々を捕まえようとして………届かなかったので、青龍刀の柄で足を払った。
 
「にゃっ!?」
 
 そして、頭から着地するより早く足首を掴んだ。
 
「変なものに乗るな鈴々! ……ではなくて、警邏を抜け出して何をしている! お前に賭け事など出来る金は持たせていないはずだが?」
 
「げぇ! 関羽!?」
 
「やかましい!」
 
 義妹に「関羽」呼びされて、愛紗は掴んでいた足首を放す。必然として、鈴々は脳天を地面に打ち付ける羽目になった。
 
「っ〜〜〜〜〜!? いったいのだぁ! 鈴々がお馬鹿になったら愛紗のせいだからね!」
 
「そういう台詞は、少しは日頃から頭を使うようになってから言え! それより、その金は一体どこから………」
「あたしのがま口からかな、と」
 
 騒がしく姉妹喧嘩を繰り広げる愛紗と鈴々。その横合いから、平坦な声が掛けられる。
 
 競争を終えて戻って来た選手たち……その先頭を歩いていた散から。
 
「……鳳徳殿? この馬鹿者が迷惑をお掛けしたようだが、こやつに金など与えないで頂きたい!」
 
「カッコいい所を見せたかった形です。あたしは常に、誰かのお姉さん的ぽじしょんを狙ってますから」
 
「こやつは私の義妹だ!」
 
「おや、先約有りだったようで。残念無念」
 
「知っているだろうが!?」
 
 何故、こう、北郷陣営には人を喰ったような輩が多いのだ、と内心でぼやきつつ、愛紗は何とも形容し難い闘志に燃える。
 
 理由は解らないが、この包帯少女を見ていると武人の血が騒ぐのだ。
 
 その血を抑え込むように、愛紗はこの場で一番平和な顔に声を掛ける。
 
「白蓮殿がこのような競技に参加するとは思いませんでした」
 
「言いたい事は解るよ。共に戦場を駆ける軍馬は、私たちにとって戦友も同じ。それを見世物にするなんて許せない、だろ? 私も最初はそう言ったけどさ。………走ってみたら、外野の都合なんてどうでもよくなるもんだな」
 
 愛紗の心情……というより少し前の自分の心情をなぞって、白蓮は肩を竦めて見せた。
 
 果ては―――――
 
『おみこしワッショイ! おみこしワッショイ!』
 
「おーほっほっほ! おーほっほっほ!」
 
 怪しい仮面を着けた高飛車な女を乗せた筋肉御輿までやってくる始末だ。
 
「す、凄いぞ七乃よ! これだけあればどれほどの蜂蜜が買える事か……!」
 
「も〜お嬢様ったら、買い物一つした事ないくせに知ったかぶっちゃって。可愛いぞ、この世間知らず♪」
 
 派手な金髪をクルクルと巻いた女と、それを縮めたような子供、付き人らしき青髪の女、それぞれが怪しい仮面を着けている。
 
 何とも面妖な光景だった。
 
「本来ここは、ああいう輩から金を巻き上げる所なんですけどねー」
 
「……風、それちょいぶっちゃけ過ぎや」
 
「いいなー、あたいは小遣い使い切ったってのにさぁ」
 
「あたしに賭けるってんなら、ちょっとくらい貸してやるぜ? その代わり、今晩はお前の奢りでな」
 
「またもパクりなようで。どうしてやりましょうか、あの金髪」
 
「……民間人に手を出すなよ」
 
「あの髪型……どこかで見た事あるような……」
 
 少女の悩みを置き去りにして、日々は平和に過ぎて行く。少なくとも、この一時は。
 
 



[14898] 七章・『最近の趙将軍』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/01/21 21:33
 
 欲望と緊張渦巻く競馬対決の後、北郷軍と劉備軍の混成集団が街を行く。
 
「結局……霞ちゃんが三勝、散ちゃんとたんぽぽちゃんと白蓮さんが二勝、翠ちゃんが一勝。なかなかのでっどひーとでしたねー」
 
「うぅぅ……錦馬超のウソつきー!」
 
「うっせーうっせー! 小遣い分は猪々子が自分で外したんだろーが!」
 
 竹に書いた戦績を見てフムフムと頷く風、惨敗に泣く猪々子、敗北に喚く翠。
 
「翠ちゃんは前半、霞ちゃんに張り合って消耗した上に三敗しちゃったからねん。実際、霞ちゃんも後半は一度も勝てなかったもの」
 
「お嬢もまだまだ精神面が未熟なようで。駆け引きや強かさなら、花の方が二枚は上手ですよ」
 
「あれはびっくりしたよなぁ。それまで全然だったのに、最後の二本綺麗にかっ攫って……。正直、あと一勝くらい取れると思ってたんだけど」
 
「えへへー♪ ちょっとはカッコよかった?」
 
 貂蝉、散、白蓮、蒲公英。それぞれがそれぞれの健闘を検討しながら、悪意なく(散以外)プスプスと翠の心に刃物を投げる。
 
「まーまー♪ あの接戦でウチが敗けとったら戦績真逆やったわけやし、そんなに凹まんでええやん!」
 
「それが一番悔しいんじゃんかよー………」
 
 快活に笑った霞が、そんな翠と強引に肩を組み、その頬っぺたをクイクイと引っ張る。
 
「で、結局晩ごはんはどうなるの? 猪々子は外しちゃったから頼りにならないのだ」
 
「鈴々テメー表出ろ!」 
 
「ここもう表だよ、文ちゃん。晩ごはんならわたしが持つから喧嘩しないの」
 
「さっすがあたいの斗詩!」
 
「いいのかー!?」
 
「うん。たんぽぽちゃんのおかげで稼がせてもらえたし。それにこういう苦労しないで手に入れたお金って、大事に取っておく物じゃないから」
 
 そんな和やかな一同の中に、愛紗の姿は無い。職務優先を理由にあの後すぐに競馬場を去った彼女だが、鈴々を連れて行かなかったあたりに別の理由を思わせる。
 
 二つの陣営が一つになっていく。その感覚を無意識の内に避けたのかも知れない。
 
「でも散ちゃん、『白馬』の称号どうなるの? 散ちゃんも白蓮さんも二勝ずつだけど……」
 
 蒲公英の何気ない一言に、白蓮は息を飲む。そう、今回の競馬のそもそもの発端は、二人の白馬対決から始まっていたのだ。
 
 白蓮の側からは、散の横顔は包帯しか見えない。それが余計に緊張の度合いを増す。
 
 しかし――――
 
「いえ……気が変わりました。白馬の称号は、普通に可愛い歳下の女の子に譲る事にしようかな、と」
 
 そんな白蓮の緊張を裏切り、散はあまりにもあっさりと勝利の栄冠を譲った。白蓮はツルリと滑って地面に口付け、勢いよく立ち上がる。
 
「譲るのかよ! って誰が歳下だ! いちいち普通ってつけなきゃ褒められないのか!?」
 
「元気なのは良い事ですよ」
 
「人の話を聞けよーーー!!」
 
 その後、自然な流れで貂蝉を省き、かしましい少女たちは食事に向かう。
 
 後日、縞馬(塗装)に乗って現れた散の姿に、白蓮がひっくり返ったのはまた、別の話。
 
 
 
 
「むにゃ……んふふ……♪」
 
「すぅ……すぅ……」
 
「桃香も寝ちゃったか………」
 
 左の膝に桃香、右の膝には恋の、小さな頭が乗っている。そして正面には星。
 
 今日一日仕事を頑張って、恋の屋敷の縁側で月見酒。それが今の状況。
 
「両手に花、か。主もまったく罪な男よ」
 
「……恵まれてるよな、ホントに」
 
 茶化すように頬笑む星に、敢えて大真面目に応えてやる。本当に……こういう時間を持てる事が、何より得難い幸運だと思う。
 
「……やれやれ、そこで素直に肯定するか。どこぞの鉄の女にも見習わせたいものですな」
 
 桃香がいて、恋がいて、星がいて、皆がいる。その幸せを噛み締める。……でも、最近ちょっと気になる事が。
 
「えっ、と……星、怒ってる?」
 
「? そのように見えますかな?」
 
「……いや、全然」
 
 星の、異変だ。洛陽からの撤退戦以降、何だか雰囲気が変わった。
 
 一番判りやすい具体例は………
 
「いや、だって敬語使うから……」
 
 そう、敬語の頻度だ。星が俺に敬語使ったり『主』って呼んだりするのは初めてじゃない。
 
 ……けど、頻繁でもなかった。機嫌が悪い時にわざとそれをアピールするみたいに使う事はあっても、日常的に使うものじゃなかったはずだ。
 
 なのに、最近はふと気付けば敬語を使ってる。
 
「ふむ……主は私に、馴れ馴れしく“一刀”と呼ばれる方がお好みか?」
 
「う〜〜〜ん、どっちも捨て難い!」
 
「私もそれと同じよ。時には趣向を変えて接するのもまた佳い、と貂蝉も言っていたしな」
 
 ころっと口調を変えて、星は悪戯っぽく口元に指を当てた。
 
 う〜〜ん………
 
「星……変わったよな」
 
「そうかな?」
 
 本当は、少し違う。俺が思ってるのは、変わったというより………
 
「何か余裕が出てきたっていうか、らしくなってきたっていうか……」
 
 “ダブる”んだ。前の世界で過ごした、星の姿に。
 
「変わったのに、らしくなってきた、か……。まるで今までがらしくなかったように聞こえるな」
 
「そういうつもりで言ったわけじゃ……」
「解っているさ」
 
 不味い事を言ったかと焦る俺の言葉を、星の白い指先が唇に触れる事で止めた。
 
「自分でも、未だ掴みかねているのだよ。……それでも、悪い気はしない」
 
 言葉通り、晴れやかな表情で星は片目を瞑って見せる。そして閉じた片目が開いた時、両の瞳に妖艶な色が揺れた。
 
「それとも……平静を気取らずにもっと悋気を露にしろ、という意味でしたか。だとすればこの趙子龍、些か配慮に欠けておりましたな」
 
 その瞳が、いつの間にか目の前にある。……いや、視界を埋め尽くす。そうと気付いた時にはもう、俺は唇を奪われていた。
 
「んっ……ちゅ……ふぅ………っ」
 
 差し込まれる舌に応えて、俺も半ば反射的に舌を絡める。数秒の接吻を経て名残惜しくも唇を離すと………そこに、うっとりと蕩けたような星の顔。
 
「無垢な少女らの夢見る上で、このように情熱的な口付けを交わすのは……なかなか、そそるものがありますな」
 
「ばっ……お前なぁ!」
 
「ははは……っ」
 
 見惚れて動けなくなっていた俺も、星の問題発言で正気に戻る。……そう、今も俺の膝を枕にして、桃香と恋が寝てるんだ。
 
 慌てる俺に満足したのか、星はひょいっと俺から離れて立ち上がる。……タチが悪い。
 
「今夜は些か無粋に過ぎる。灯した微熱は、次の夜伽まで燻らせておいてもらおうか」
 
「からかうなよ……」
 
 狙っておあずけを食らわせた水色の小悪魔は、俺に背を向けて下駄を履く。………やっぱり、戻って来てる気がする。
 
「今宵は佳い酒を馳走になった。……次は、敬愛する主に酔いたいものですな」
 
「………お前、貂蝉から変なセリフ教わるのやめた方がいいぞ」
 
「ふふっ、それは私が決める事だ」
 
 心底ご機嫌に振り返った星は、軽い足取りで駆け出し……一度、立ち止まる。
 
「一刀」
 
「何?」
 
「…………ありがとう」
 
 背を向けたままそう言って、星は今度こそ夜の闇に消えて行った。
 
「……………ありがとう、か」
 
 星が何の事でお礼を言ったのかは解らない。でもその一言は、百の戯れ言よりも重く、深く俺の心に響いた。
 
 
 
 
「…………………」
 
 あれから……数十万の大軍の中から一刀を救い出してから、私の中で何かが変わった。
 
「(楽しい)」
 
 華蝶仮面として振る舞う時にも似た昂揚が身を震わせている。こういう私も悪くない。
 
 それに―――――
 
「ふふっ」
 
 つい、笑みが零れる。これほど自分の力と想いを確信出来た事は、未だかつて無かった。
 
「(一刀………)」
 
 想いが溢れて、止まらない。彼の全てが愛おしい。私の全て、彼のために捧げたい。
 
 そんな衝動に突き動かされて、同時に思う。それも全て、一刀が生きてここにいてくれるからだと。
 
 だから、『ありがとう』。
 
「…………………」
 
 これほど愛しく想える男に出会えた事、その男が死地から戻って来てくれた事。双方が等しく奇跡。
 
「私も、女か……」
 
 熱に浮かされたとしか思えないような発想が、次から次に湧いて出る。とっくに、手遅れなのだろう。
 
「……………ふふっ」
 
 ただ、嬉しい。生きてあの人が傍にいてくれる事が、これほどまでに。
 
「何なのだろうな、この気持ちは」
 
 自分がこれほど臆病だとは思わない。……だが、もはやこの得体の知れない衝動を拒絶する気にはなれなかった。
 
「…………愛しています、我が主」
 
 見上げた夜空に輝く銀月の光が―――――何故か少し、恐ろしかった。
 
 



[14898] 八章・『足りない何か』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:ec8f6a96
Date: 2011/01/22 10:32
 
「しょっ、と………」
 
 両膝に二人の頭を乗っけてたから、丸一時間くらい立つ事も出来なかった。
 
 散歩中のセキトを寝呆けた恋が抱き枕にしなかったら、下手すりゃ一晩中あのままだったかも知れん。
 
 恋はその場で丸まっちゃったし、動物たちが天然の布団になってくれてたから安心………というより、寝てる恋を無理に起こすと俺の命が危ない。
 
 仕方ないので、桃香だけでも客室の寝台までお姫様抱っこで運び、そのまま横にした。
 
「………………」
 
 酒が入ったからだろうか、桜色に火照った肌とか、寝息の零れる唇とか、やけに色っぽく見える。
 
「………酒、弱かったんだな」
 
 別にそれほど意外でもなかったけど、何となくそう思う。寝顔をよく見たくなって、前髪にそっと触れ………
 
(ぴくっ)
 
 ……たら、桃香の目蓋が少し動いた。ヤバい、起こしたかも。
 
「スー……スー……スー……」
 
 杞憂だった。桃香は変わらず一定の間隔で寝息を漏らす。……いや、これは。
 
「………………」
 
 桃香の眼は開かない。眠りから覚めない。僅かにあごを上向けた体勢は、どこかキスをせがんでいるようにも見えた。
 
 ………なるほどね。
 
「………そんな風に無防備にしてると……悪戯するぞ?」
 
 また、今度は桃香の肩がぴくっと揺れる。みるみる内にトマトに変わっていく桃香の顔に、俺は詰め寄って………
 
「ひゃん!?」
 
 人差し指で頬っぺたをつついた。眠りを邪魔されたというにはオーバーなリアクションで桃香は飛び起きて………寝台から落ちる寸前で俺にキャッチされる。
 
 ……こないだの俺、こんな感じだったのか。
 
「随分と早いお目覚めですね、お姫様?」
 
「うぅ〜……いじわる」
 
 おどけて笑い掛ける俺を、寝たフリ桃香は恨めしげに、上目遣いに睨んでくるけども、全く怖くない。むしろ可愛い。
 
 寝たフリしてた動機を考えると、なおさらに。
 
「いつから起きてたの?」
 
「………べっどに下ろされたあたり」
 
 下を向いて俯いたまま、可哀想なくらい赤くなる桃香。……さすがに罪悪感が湧いて来た。
 
「少し夜風に当たろうか」
 
 まだ眠りたくない気分だった。俺は桃香の手を引いて、もう一度庭に出る。
 
 
 
 
「ふー、気持ちいいねー♪」
 
 庭に出る頃には、桃香は羞恥心から復活していた。伸びをするように両手を上げて、軽やかにクルクルと跳ねる。
 
「また酔いが回るよ?」
 
「そしたら一刀さんに運んでもらうから平気だもーん♪」
 
 ……いや、そもそも最初から酔いが抜けてないのかも。
 
「はれ……?」
 
 覚束ない足取りで、フラりと桃香はよろける。もう………
 
「ほら」
 
「ふぁ……」
 
 こうなるのは予想の範疇だ。真後ろから肩を抱いて、そのまま支えた桃香ごと腰を下ろす。
 
 後で「あたまいたいー……」って言いだすのは眼に見えてるんだから、少しおとなしくしててもらう。
 
 それに、今日はそもそも月見酒にぴったりの綺麗な夜なんだし、二人でこの静けさを楽しみたい。
 
「あったかい……」
 
「…………………」
 
 桃香は、されるままに体を預けた。嬉しそうに俺の胸に頬を寄せる。
 
「……桃香は甘えんぼだね」
 
「一刀さんはこういう女の子、嫌い……?」
 
「ううん、嬉しい」
 
 安らかに身を任せて、不安に瞳を揺らして、甘えるように眼を閉じる。桃香の表情は、コロコロとよく変わる。
 
「楽しいね……」
 
「……うん」
 
 噛み締めるように、同意を求めるように、桃香は呟く。
 
「こんな時間が……ずっと続けばいいのにね……」
 
 その幸せが、心の底からのものだからこそ――――その声色に、切なさが過る。
 
「そうする事が出来たら、いいのにね……」
 
「………………」
 
 言葉にしなかった桃香の悔しさが、痛いほどに伝わってくる。
 
 キツく、でも弱く俺の服を握り締める小さな手が、力無く震えていた。
 
「桃香………」
 
 反北郷連合、袁紹と、そして華琳との戦い。……一緒に黄巾賊と戦っていた義勇軍の時とは違う。あれから……桃香は何度も残酷な現実と向き合って来たはずだ。
 
 ―――そして、傷つき、敗れて……ここにいる。
 
「曹操さんとも……本当は戦いたくなんてなかった。辛くて、悲しくて、情けなくて……それでも……戦ったの」
 
 いつも、眩しいほどの笑顔を見せてくれる桃香。彼女を信じる皆に、勇気と元気を与えてくれる桃香。―――いつだって、皆の光であらねばならない桃香。
 
「でも……ダメだったの。わた、し……なにもっ、守れなかった……!」
 
 そんな…強くて、誰よりも優しい桃香が、自分の弱さを曝け出している。
 
「わたし……間違ってたの……? 力が無いと、何一つ変えられないの……?」
 
 桃香にとって……俺だけにしか、見せる事の出来ない弱さ。俺だけにしか受け止められない、桃香の痛み。
 
 その事実に気付いた。
 
「桃香………!」
 
 力いっぱい、腕の中の桃香を抱き締める。どうしようもなく、この女の子を守りたいと思った。
 
 でも…………
 
「どうしていれば、良かったの……」
 
 今の桃香は、見知らぬ土地で道に迷った子供と同じだ。求めているのは、慰めでも優しさでも無く……進むべき解。
 
 でも、俺には………
 
「………応えられない」
 
 俺の解を桃香に押しつけても意味が無い。何より……桃香の理想は高過ぎる。叶える方法なんて考えつかない。
 
 そして――――
 
『どんな理想でも、叶えるためには力が要るんだよ。“こうなればいいな”って思うだけなら子供にだって出来る』
 
 桃香に“壁の存在”を突き付けたのは、他でもない俺だ。
 
 それでも俺に出来る事は……ただ、本音で向き合う事しかない。
 
「一刀さんも、戦うの………?」
 
「………うん、戦う」
 
 俺の応えを予想していたのだろう。桃香は俯いたまま、消え入りそうに訊いてきた。予想していても、辛いものは辛いはずだ。期待を裏切られた瞬間に、僅かに爪を立てられる。
 
「覚悟は決めた、はずだったのにね………」
 
 未練がましい自分を笑う。まるで脱け殻のような一言だった。
 
「桃香」
 
 俺はそれ以上続けさせない。まだ、本当に伝えたい事を伝えていない。
 
 俺の胸に顔を埋めて表情を隠す桃香を、少し強引に引き剥がす。イヤイヤをして往生際悪く顔を見せたがらない桃香の両肩に手を置いて………
 
「桃香」
 
「っ………」
 
 もう一度。小さく……でも、より一層心を込めて呼んだ。
 
 漸く、桃香と眼が合う。涙を溢れさせて泣き腫らしたその表情を、俺は脳裏に強く焼き付ける。
 
 この涙を……涙の意味を、決して忘れないために。
 
 そして………ゆっくりと口を開く。
 
「俺は……自分が絶対に正しいなんて思った事はない。桃香と同じだよ。いつも迷ってばかりだし、後悔する事もたくさんある」
 
 ………守れなかった人もいる。
 
「『俺は万能じゃない』、『全ての人を救う事なんて出来ない』……そう考えて行動してたくせに、失った後になって考えるんだ。『あの時ああしていれば、救う事が出来たんじゃないのか』って」
 
 俺の言葉に従って、桃香が自分の理想を捨てる。……それはきっと、間違ってると思うから。
 
「俺だって間違ってるかも知れない。諦めてしまってるのかも知れない。……だからその時は、桃香が俺を叱って欲しい」
 
 前の世界で愛紗に言った言葉。それを今、桃香に告げる。
 
「俺に出来ない事も、桃香になら出来るかも知れない。桃香に出来ない事を、俺が出来る事もあるかも知れない」
 
 無責任かも知れない。割り切ろうとしていた桃香に、さらなる苦悩を背負わせる事になるかも知れない。
 
 それでも――――
 
「桃香が俺を信じてくれたように、俺も桃香を信じたい」
 
 これが、俺の偽りの無い本心だったから。
 
「………………」
 
 長いような短いような静寂。俺はただ、見開かれた海色の瞳をじっと見つめていた。
 
「一刀さん………」
 
 その瞳が、柔らかく細められる。そこに、さっきまでの悲痛な感情は見て取れない。
 
 桃香が俺の胸に飛び込んで来る。でも今度は、泣き顔を隠すためじゃない。
 
「わたし、頑張るから………」
 
「………うん、頑張ろう」
 
 俺は桃香の、桃香は俺の、足りない何かになるために。
 
 ―――強くなる事が出来るのだろうか。
 
 
 
 
「………………」
 
 まるで比翼の鳥のように抱き合う二人の姿を見るでもなく、動物に埋もれた紅の少女は目蓋を開いていた。
 
「(………一刀)」
 
 嫉妬はある。羨望もある。欲求も不満もたくさんある。それでも少女は、「……邪魔はしない」と自らを律していた。
 
 しかし、二人の会話は少女の予想を越えて深く、重いものへと変わっていった。
 
 そして、桃香を羨む以上に、改めて思い知る事になる。
 
「(………偉い)」
 
 昔のままで、少女………恋が惹かれた姿のままで、一刀はそこに立っていた。
 
「(……好き)」
 
 理屈も言葉遊びも恋は興味を持たない。ただ自身の想いを強く抱き締める。
 
「(………後で、布団に潜り込む)」
 
 贔屓をきっちりと根に持ちつつ、恋は浅く短い眠りに向かった。
 
 



[14898] 九章・『決戦に向けて』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:5d3ce992
Date: 2011/01/23 16:07
 
 王都・洛陽の陥落からしばらくの時が過ぎ、一刀や皇帝を慕ってついて来た民たち共々流れ込んだ長安の日々も、ようやく落ち着きを見せ始めたある日の事。
 
 執務室で真剣な顔を突き合わせている、大陸有数の頭脳たちの姿があった。
 
「しかし解らないのは、やはり魏の軍事活動ですね」
 
 今では執務中のみ掛けている眼鏡を軽く指先で押し上げる稟に、風が緩やかに相槌を打つ。
 
「星ちゃんがハジけてた時、兵の様子がおかしかったそうですがー?」
 
 風に水を向けられた星が、当時はがむしゃらで曖昧だった記憶を探るように言葉を紡ぐ。
 
「うむ。敵陣を単騎で凛々しく駆け抜けた際に気付いたのだが……兵の練度に大きく差がある。一刀がいた前曲の魏兵は練達の近衛に等しい空気を纏っていたのに対し、後曲の兵は呆れるほど御粗末だった」
 
 それをゆっくりと飲み込んで、雛里が控え目に口を開く。
 
「……徴兵したばかりの兵が未熟なのは、別段おかしな事ではありませんが……」
 
「そもそもその徴兵自体が曹操らしくない……と言いたいのだろう」
 
 その言葉尻を継いだ協君が、じろりと一刀に半眼を向けた。コクコクと揃って首を縦に振る一刀と桃香の姿が、より一層一同の呆れを助長させる。
 
 二人がそう主張する理由が、敵国の主君の人格に対する評価から来ている事を皆が解っているからだ。
 
「しかし確かに、“らしくない”ですね……」
 
 だから、もちろん稟がその言を肯定するのは別の理由からである。
 
「戦で征した地で間を置かずに徴兵などすれば、その都市の人心は離れてしまう。……曹孟徳ほどの人物が、それを解っていないとは思えないのですが……」
 
 議題はそこに集約される。
 
 華琳がそんな愚行を冒すはずがない、だから兵力では引けを取らない。当たり前のように抱いていたその認識を覆されて、一刀らは敗北を喫したのだ。
 
「だから、そんな無茶苦茶な徴兵を曹操がしたとは思えないんだよ」
 
「なら一刀殿は、街や邑から人を駆り出さずに兵力を生み出せるとでも言いたいのですか」
 
「そういう経験もあるけどなー……」
 
「はい?」
 
「いや、何でもない」
 
 前の世界で無尽蔵に湧いて出た白装束を思い出して、一刀はすぐにかぶりを振った。そして改めて自分の意見を表明する。
 
「制圧した都市から人を集めたって部分は俺も疑ってないよ。……でも、曹操が人民をそんな無理矢理戦に駆り出すのがイメージ出来ないって言うか……」
 
「つまり……治めたばかりの都市で、人民の不満を買わずに兵を集めた、という事ですかー?」
 
 と言っても、感じた事をそのまま口に出しているだけで酷く曖昧だ。その曖昧な意図を、風が分かりやすく纏めてみる。
 
「そんな都合のいい事を実現するには、人民を根こそぎ惹き付けるような絶大な求心力が必要です。……曹操がそこまで人心を掴んでいるとは思えません」
 
「……やっぱ難しいか」
 
 稟が肩を竦めて、そこで議論は止まってしまう。魏が強引な徴兵など行ったとするなら、遠くない未来、その業によって自ら破滅の道を辿るだろう。
 
 仮にそうなら悩む事も無いのだが、そんな楽観を許さない威厳が華琳にはあった。
 
「(う〜〜ん……)」
 
 自分のあごに指を当て、桃香は深い思考に耽る。先ほどからの会話で、何かが頭の隅に引っ掛かっていた。
 
「(………あっ)」
 
 そして思い至る。
 
「絶大な求心力って言えば……あれ、凄かったよね、白蓮ちゃん!」
 
「あれって……ああ、あれか」
 
 そして、実は居た白蓮と顔を見合わせて両手を叩く。いかにも『気になってた事を思い出しただけ』といった様子の二人は、しかし議論が止まってしまっていた一同の注目を集める。
 
「桃香、あれって?」
 
「うん。わたし達、ちょっと前までエン州で旅してたんだけど、すっごく楽しそうに歌う女の子たちがいたの」
 
 既に雑談のノリである。
 
「何だっけ? え〜、と………そうだ! あいどるぐるーぷ!」
 
 しかし、その会話を聞いていた風の瞳がキラリと光る。
 
「数え☆役満しすたぁず!」
 
 他愛ない雑談の中から、最大の謎が解けた瞬間だった。
 
 
 
 
「………旅芸人の一座、ですか?」
 
「それが魏の求心力の正体、とでもいうのか?」
 
「え? え?」
 
 雛里と協君が訝しげな顔をし、情報発信源の桃香はよく解っていないらしい。
 
 にしても、アイドルグループか。完全に意表を突かれた。……とはいえ、前の世界にそんなのいなかったし、三国志の知識からそんなの連想するのは無理があるだろ、とは思う。
 
「歌と踊り……本当にそんなもので人が集まるものでしょうか」
 
 稟がそう思うのも解らんでもないけど………
 
「「甘い(ですねー)」」
 
 俺と風がツープラトンで切って捨てる。
 
「甘いぞ稟、ライブ会場に充満するあの熱狂と大音量はちょっと言葉に出来ん。軽く引く」
 
「ホントに凄いんだよ? 声援が肌に響いて怖いくらいなんだから!」
 
「稟ちゃんはらいぶの一つも見た事の無い世間知らずさんですからねー」
 
「あなたも見た事ないでしょうがっ!」
 
 俺、桃香、風で稟の認識を改めに掛かる。風までまるで見た事ある感じで得意気にしてるのが地味にシュールだ。
 
「………そんなに、なんですか?」
 
「え? 私?」
 
 おずおずと雛里が確認を要求した相手は、白蓮。……俺や桃香の主観は信用出来ないのか、軽くショックだ。
 
 白蓮はしばらく考え込んでから…………
 
「………本当に凄かったよ。そういう観点で見れば、人気取り自体を目的にしてる分、桃香や北郷よりもあいつらの方が上かも知れない」
 
 と、チラッとこっちを見ながら言った。……あの言い方だと、“かも知れない”はリップサービスだろう。
 
 天の御遣いって虚名を使ってたり、都市によっては地獄の使者とか言われてたりで求心力って言葉が今一つ当て嵌まらない俺はともかくとして……桃香以上か。どうやら俺の持ってるライブのイメージは、この世界でも再現されてるらしい。
 
「……なるほど。しかし、元より曹操の自滅を待つような消極策を取る気はないのでしょう。問題は魏軍が増大した原因よりも、強くなった今の魏軍をどうするか、という事です」
 
 稟も、白蓮が言うと疑問を持ちつつも納得した。……でも、原因がどうでも良いって事はないと思う。
 
 相手が強くなった原因が解れば、こっちもそれに合わせた対策が取れるかもだし。
 
「それは良いあいであかも知れませんねー」
 
 そんな俺の心をナチュラルに読んで、風が賛同してくれる。もうこれくらいじゃ今の俺は驚かない。
 
「あっちが人気取りをするなら、こっちもそれに対抗すれば良いのです!」
 
「む?」
 
 アメをくわえたままの風が、ズビシッ! と星を指差した。なにゆえ?
 
「あちらが『数え役満☆しすたぁず』ならば、こちらは翠ちゃん、たんぽぽちゃん、そして最近たんぽぽちゃんの義姉に納まった星ちゃんを加えて、『西涼馬乗り☆しすたぁず』を結成するというのはどうでしょう?」
 
「………ふむ」
 
 また突飛な事を言い出した。たんぽぽはともかく、翠がそんな柄かと。そして星はと言うと……少し黙った後、俺を横目で見てきた。何?
 
「せっかくだが、私は遠慮させてもらおう。武人として、有象無象の男に媚を売るような振る舞いをする気にはなれん。もっとも―――」
 
 ……そこで何故、俺を見ながら意地悪そうに笑うのでしょうか。
 
「親愛なる主が嫉妬に狂った姿を見られるのならば、それもまた一興だが……如何ですかな、北郷一刀殿?」
 
 そう来たか。稟とか桃香とか雛里とか協君とか風とか白蓮とか……要するに全員の白い視線がプスプスと刺さる。
 
 俺が何をしたと? 星は星で面白そうな顔してからに。こういう時は…………話題を逸らそう。
 
「でも西涼三姉妹で行くんならさ、むしろ星より散の方がしっくり来ない?」
「来ませんよ、馬鹿ですか」
 
 間髪入れず真後ろから否定が………って。
 
「うおぉ!?」
 
「若い子に混じって年増が踊るわけないじゃないですか。ナメてるのかな、と」
 
 振り向けば、棺から生えた散がいる。
 
「それはともかく、最近出過ぎなのでそろそろ退散しようかな、と。ちなみに他の皆は、演習終わってお風呂なようで」
 
 それだけ言い残して、散は棺に戻っていった。そして瞬き一つした後にはもう棺は消えている。
 
 ………どんな手品だ。
 
「何をしに来たのだ? あやつは」
 
「……俺が訊きたいよ」
 
 そもそも何であいつだけ風呂にも入らずにこっち来てんだか。……でも雰囲気がいつもの三倍刺々しかったし、ホントにやりたくないんだろうな。あいつなら余裕でサバ読めると思うんだけど……まあ、キャラじゃないか。
 
「貴様ら、馬鹿話はそのくらいにしておけ。朕とて歌や踊りに詳しいわけではないが、思いつきで人を魅せられるほど易い事ではなかろう」
 
「「はーい……」」
 
 協君に叱られた。元々大して本気でも無かったのか、風も俺と一緒に即座に謝る。
 
 今まで会話のノリについて来れなかった雛里が、このタイミングで咳払いをした。
 
「……いずれにしても、わたし達も先の戦いで大きな犠牲を払ってしまいました。敵に隙があるのなら、そこを突いて迎え撃つ事は可能だと思いますが、こちらから討って出るのはあまりに危険です」
 
 ……要するに、守りに回った魏を倒すのは厳しいって事か。でも―――
 
「それって、曹操の方から攻めて来る事はないって事?」
 
「星ちゃんが死ぬほど暴れましたからねー。曹操さんも、自軍の内情を知られた事には気付いているはずなのですよ」
 
 俺の疑問に風が応えてくれる。確かに、華琳が攻めるつもりなら一月も間を開けたりはしないかも。
 
「先の大戦は、一見すると魏軍の圧倒的な優勢に見えますが……その実、曹魏にとっても博打に近いものだったのでしょう。この上、外れると判っている塞を振るとは思えません」
 
 さらに稟。俺は話について行くのがやっとで、ただ頷くしかない。
 
「こちらから討って出られない理由はもう一つある。先の戦いで敗れた一因がそれだ」
 
 流石に星は理解出来てるらしい。ので、必然的に生徒は俺と桃香、白蓮、そして協君になる。
 
 俺たちが討って出られない、理由………。
 
「………曹操と向き合った時、背中ががら空きになるって事?」
 
「よく出来ましたー」
 
 風が俺の回答にパチパチと拍手をくれるけど、何だか褒められてる気がしないような……。ま、いっか。
 
「今はまだ我々も、曹魏も、決戦に向かう準備が足りません。来るべきその日に向けて我らが採るべきは……力を蓄え、そして後顧の憂いを除く事。つまり先に獲るのは――――」
 
 稟が机の上に地図を広げる。それを皆が、取り囲むように覗き込む中で――――
 
「―――天然の要害、蜀」
 
 大陸の南西を、細い指が差した。
 
 



[14898] 十章・『貴方の隣に立つために』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/01/30 06:07
 
「(寒い…………)」
 
 じめじめと薄暗い地下牢の壁に背を凭れ、紫色の艶やかな髪の女性は身を震わせる。
 
「……やつれたな、紫苑」
 
「女としては、身が細くなった…って言って欲しいわ、桔梗」
 
 そんな弱りきった紫苑に、格子の外から桔梗が話し掛けた。冗談を言える程度の気力がある、という事にまずは安堵する。
 
「ふん、そんな不健全な絞り方があるか。見ろ、肌は乾いて自慢の乳房まで萎んでおるわ」
 
「う……鏡を見るのが怖いかも」
 
 肩を落とす紫苑を、桔梗は小さく鼻で笑った。それで軽い挨拶は終わり、桔梗は深く溜め息を吐く。
 
「もう一月以上か……。璃々に嘘を吐き続けねばならん儂の身にもなってみろ。幼子の淋しがる姿ほど胸の痛むものはない」
 
「頼りになる友達を持って幸せねぇ、私は……」
 
「ぬかせ」
 
 桔梗がドスンと牢に背を向けて腰掛け、その格子越しに紫苑もまた背を預ける。
 
 桔梗は仏頂面のままで、紫苑の方を見もせずに竹の水筒と握り飯を手渡した。今の状態は、“紫苑自身以上に”桔梗には納得出来ないものだからだ。
 
「……ぬしらしくもない。何故降服など進言した? こうなる事は判りきっておっただろうに。まだ謀反でも企てた方がマシな結果が得られたはずだ」
 
「……そんな事は出来ないわよ。確かに劉璋さまは名君とは呼べないけれど、あの方から“立場”を得られなければ、わたし達だって何も出来なかったかも知れないもの」
 
 そう。漢中に侵攻した蜀軍が撃退されて程なくした頃、紫苑は主君・劉璋に十国への降服を進言した。
 
 それが劉璋の不興を買い、以来紫苑はこの牢の中に閉じ込められている。桔梗や焔耶が取り成さなければ、処刑されていた可能性すらあった。
 
 だからこそ桔梗は納得いかない。
 
「義理堅いのは“らしい”がな。だが、まだ理由を聞いておらんぞ。何故……降服などと言い出した?」
 
 謀反を起こさなかった理由などさして気にもならない。母親に相応しい優しい気質を持つ彼女ならば当然の言葉。しかし……いずれ来るだろう敵と刃も交えず頭を垂れるなど、“黄漢升”としてはあり得ない。
 
 紫苑はその問いに僅か間を置いてから、逆に桔梗へと問う。
 
「桔梗……あなたはおかしいとは思わないの? 本当に北郷一刀が噂通りの暴君なら、張文遠、呂奉先、華雄、張魯。元々北郷の部下でもなかった人間が、今も彼の力になっているはずがないわ」
 
 霞たちと直接手を合わせ、“彼女らならば北郷の首など容易く獲れる”という認識を共有していると確信しているからこその言葉。
 
 ……だが、それで丸め込まれる桔梗ではない。
 
「魔王の下にいた方が美味い思いが出来る、という彼奴らなりの事情ではないのか。生憎と実力は認めても、人柄まで見極めた憶えはないぞ」
 
 当然の事として返された応えに、紫苑も内心ではもっともだと思っている。しかし現に、彼女は罪人として獄中にいる。
 
「……実はね、あの戦いの渦中……張遼と話したの」
 
「っ……戦の最中にか?」
 
「……ええ、裏切り者と揶揄されても文句は言えないわね」
 
「………それで、どうじゃった」
 
 予想外の紫苑の告白に驚くも数瞬、桔梗はすぐに続きを促す。そんな彼女に、紫苑は背を向けたまま微笑み掛けた。
 
「とても真っ直ぐな、熱くて強い眼をしていたわ。……彼女たち、北郷一刀が大好きなんですって」
 
 相変わらずのその笑顔は………桔梗に、呆れを呼んだ。
 
「そんな理由で小僧に歯向かい、獄に繋がれ、璃々を泣かせる。……それが本当にぬしの望みなのか?」
 
「本当に、どうしてかしらね。でも……信じてみたくなってしまったのよ」
 
 話が噛み合わない。否、話にならないと言う方が正確か。二人の会話は平行線を辿る。
 
「天より舞い降りた平和の使者、か? 何を夢見がちな小娘のような戯言をほざいている。これまで腐るほど“権力者”を見てきただろうが」
 
「そうよ桔梗……だからこそ、それを変えたいと願う者が現れても不思議じゃない」
 
「それが北郷一刀だと? 仮に噂通りの悪僧でなかったとしても、権力闘争のどさくさに乗じて覇権を握った成り上がりには変わりない」
 
 紫苑には、その理由も判っていた。つまり……見ているものが違うという事。
 
「なぁ紫苑……儂らは劉璋という愚君の下で、それでも儂らなりに必死に戦ってこの蜀を守って来た。それをどこの馬の骨とも知れん輩に任せるなど我慢ならん」
 
 話は終わり、そう示すように桔梗は腰を上げた。その背中に、紫苑は静かに語り掛ける。
 
「桔梗………この大陸は変わりつつある。権力の中で足掻き続ける時は終わりを迎え始めている。……私には、そう思えるの」
 
「全て憶測に過ぎんな。悪いが儂には、ぬしほど楽観的な選択は出来ん。何より………」
 
 一度だけ振り返った桔梗の顔には――――
 
「最高の戦が、すぐそこに待っている」
 
 獰猛で不敵な笑みが、貼りついていた。
 
 
 
 
「よしよし」
 
「ブルッ!」
 
 頭を撫でながら人参を食わせてやると、嬉しそうに長い鼻を俺の顔に擦りつけてくる。……鼻水つくから正直やめて欲しいけど。
 
「でっかい馬だなー、ご主人様のか?」
 
「俺の……って言っていいのかなぁ」
 
 もちろん、しきりに感心してる翠じゃない。俺が手綱を引いてる馬の話だ。
 
「? どういう意味だ?」
 
「いや、元々俺が乗ってた馬ってわけじゃないんだよ。成り行きで俺が世話してるけど」
 
 そう、こいつはあの洛陽からの撤退戦で星が敵将から分捕った馬だ。俺と星の二人を乗せて敵軍のど真ん中から生還を果たしたパワフルなサラブレッドである。
 
 こいつからすれば拉致されたような形になるんだろうけど、割とすんなり懐いてくれて一安心だ。
 
 ……なんて事を思ってたら、翠が何かウズウズした様子で俺を見てる。
 
「ならさ、この馬あたしに預けてくれないか? 絶対一流の名馬にしてご主人様に返すから!」
 
 パンッと両手を合わせて「お願い!」する翠。どうやら、西涼魂に火が点いたらしい。……でもなぁ、せっかく今まで世話して来たのに、次会った時に「誰こいつ?」って顔されるの嫌だしなぁ。
 
 そんな風に俺が渋っていると――――
 
「やめた方がいいと思うですよ?」
 
「ひゃ!?」
 
 どこからともなく風が出た。
 
「何で?」
 
「四本全ての足が白いのを『四白』と言い、凶馬の証。おまけにこの子は額に白点があり、これは『的盧』と呼ばれる最凶のだーくほーすなのです」
 
「的盧………マジか」
 
「って言うかご主人様もちょっとは驚けよ! 今どっから出てきた!?」
 
 興奮気味に話の腰を折る翠。風に関してはまあ、俺は今さらこんなんで驚かない。
 
 ……にしても、的盧か。三国志的には有名な名前だし、俺も名前くらい知ってたけど………
 
「お兄さんも、お乗り換えした方が良いと思うですよ?」
 
「いや、でも………」
 
 それでもこいつは命の恩馬。窺うように顔を覗き込んでみたら、俺たちの会話が理解出来てるはずもないのに悲しげな顔してるように見えてしまう。
 
「いや、俺あんまりそういうの信じない質だから」
 
「でもよー兄ちゃん、そいつに乗った途端にブッスリ胸を射抜かれたんじゃねぇのかい?」
 
 風の頭上から、宝慧が痛い所を突いて来る。何で見て来たみたいに解ってんのか激しく謎だ。
 
「だ、だからあれで不吉はラストなんだよ!」
 
「だといいけどな」
 
 確かに胸射抜かれたのもこいつの上だけど、奇跡の生還を果たしたのもこいつのおかげだ。四足と額が白いってだけで放り出す気にはなれない。
 
「ヒヒンッ♪」
 
 会話を解ってるはずもないけど、的盧は嬉しそうに啼いた。
 
 
 
 
「よしっ、準備完了!」
 
 新しい天界の本も風ちゃんに貰ったし(まだ売られてないのも含む)、手荷物は完璧。他の必要な荷物も昨日の内に馬車に積んだ。よしよし。
 
「……長いようで短かったなぁ」
 
 この部屋ともしばらくお別れ、かぁ。一刀さんが都を取り戻したらそっちに移る事になるだろうから、そんなに落ち込む事ないのかも知れないけど……やっぱりちょっと淋しいな。
 
「…………………」
 
 一刀さんと一緒に、同じ城で過ごして、皆で笑って……夢みたいな時間だった。……でも、そんな夢をずっと見られるようにするために、今は行かなきゃ。
 
「よい、しょっ……!」
 
 うっ……全巻入ると流石に重い。旅の合間に読もうと思ってたけど、ちょっと馬車に乗せようかな。
 
 そんな事を考えながら部屋を出て、廊下の曲がり角に差し掛かった所で……
 
「あ、愛紗ちゃん」
 
「………お持ちします」
 
 待ち伏せ(?)してた愛紗ちゃんが、青龍刀の柄でひょいっとわたしの荷物を拾い上げた。
 
「こんな所でどうしたの?」
 
「い、いえっ! たまたま通りかかっただけですから!」
 
 嘘ばっかり。あんな何も無い回廊で立ってる理由なんて思いつかないもん。
 
「じ~…………」
 
「な、何でしょう……」
 
「じ~~…………」
 
「擬音を口で言わないで下さい!」
 
 あいこんたくとで責めてみたら、愛紗ちゃん凄く嫌がってる。何を慌ててるんだろ?
 
「………………………桃香さま」
 
「ん、なーに?」
 
 観念した愛紗ちゃんの前で、わたしは出来るだけ柔らかい態度になる。一応お義姉ちゃんなんだから、こういう時くらいしっかりしないと。
 
「此度の異動……まさか、私に気を遣っての事ですか?」
 
 ……………わたしが悩みの種だった。でも、ちょっとよく意味が判らない。
 
「? どういう事?」
 
「で、ですから……私がいつまでも北郷陣営と距離を取っているから、桃香さまが気を遣って異動を提案したのではと……!」
 
 ……考えてもみなかった。愛紗ちゃん、そんな風に思ってたんだ。……こういう時、ちょっぴり臆病な愛紗ちゃん。
 
「あはっ、そんなわけないよ。そういう理由ならわたし、一刀さん達から離れようなんて思わないもん。むしろ、一緒に遊ぼうとする!」
 
「そ……そうなのですか。……しかし、それなら何故……?」
 
 愛紗ちゃんが不思議に思うのは、一応解るつもり。わたしだって、一刀さんと離れたくないって思うし、凄く淋しいのも本当。
 
 だけど――――
 
「今のままじゃ、何もかも一刀さんに頼っちゃいそうだもん。全部背負わせたくない……だから、わたしに出来る事から始めたいって思ったの」
 
 諦めない。もう一度頑張ろうって思った。……また絶望するかも知れない。また守れないかも知れない。
 
 でも――――
 
『桃香が俺を信じてくれたように、俺も桃香を信じたい』
 
 大好きな人が信じてくれる………それなら、叶えるしかないって思えるから。
 
「…………桃香さまは、本当に………」
 
「あ……あははは……♪」
 
 わたしのそんな気持ちと原因に愛紗ちゃんが気付いてる。それが何だか気恥ずかしくて、とりあえず笑って誤魔化した。
 
「…………………」
 
 愛紗ちゃんが苦しそうに唇を噛む。その仕草だけで、解るものがある。
 
「次に会う時は、ちゃんと一刀さんと仲直りしようね!」
 
「えっ? と、桃香さま………!」
 
 わざと気になる言い方をして、わたしは先に走って行く。
 
 城を抜け、街を抜け、門に辿り着く。そこに……大好きなあの人が待っていた。
 
「一刀さーん!」
 
 離ればなれは辛いし、淋しい。それでも、きっとわたしは戦える。
 
 気持ちが繋がっていれば、どれだけ離れていても勇気を貰える。
 
 だから――――
 
「行ってきます!」
 
 わたしは旅立つ。
 
 ―――胸を張って、貴方の隣に立てるわたしになるために。
 
 



[14898] 十一章・『窮鼠の牙』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:6f83cbf5
Date: 2011/02/07 18:34
 
 長安の南門。旅立つ者と見送る者を合わせて、北郷軍の皆が勢揃いしていた。
 
 来るべき曹魏との決戦に向けて、俺たちはその標的を蜀へと定めた。より勢力を広め、万全の状態で華琳と戦うため。そして……決して善政を敷いているとは言えない劉璋の治世を正すため。
 
 ……と、俺がそんな御大層な台詞を吐くのは我ながら違和感バリバリだけど、これは前の世界から愛紗たちが願ってる事だ。ついでに言えば……華琳や蓮華とは違って、『信頼して蜀を任せられる』という気持ちを、俺は劉璋に持てない。
 
 儀礼的に降服勧告はしてみたけど、例によって応えはノー。『今の官は魔王北郷に支配されている。古くから劉家が任されて来た蜀を退けなどと帝が仰せられるはずがない』、だそうな。
 
 俺の悪名と協君の存在によって、相手は大義名分を好きに得られる状態にあるのかも知れない。
 
「蜀を治め、大陸の半分以上を味方につければ、いくら悪名と言えど瞬く間に消えて失せるですよ?」
 
 俺の心境を読んだかのようなタイミングで、風が上目遣いにこっちを見る。
 
「風が言うなら、そうなんだろうな」
 
 西涼、漢中、そして蜀を手中に納めれば、大陸の西方は制した事になる。伯符は孫呉で俺を悪く言ってないって話だし、それに……………
 
「桃香殿が心配ですか?」
 
「う……ま、まあね」
 
 半眼で稟に睨まれる。桃香が自ら異動を願い出たのは、宛と新野。曹魏と、荊州の劉表、それぞれの国境に位置する都市だ。
 
 そんな危険な場所に桃香が自分から向かった理由は、想像に難くない。
 
『俺に出来ない事だって、桃香になら出来るかも知れない』
 
 ………心配じゃないと言えば嘘になる。俺の無責任な言葉が桃香を失う結果を呼んだら……そう考えるだけでゾッとする。
 
 そして―――
 
「(それでも、桃香なら………)」
 
 その気持ちも、決して嘘じゃない。尊い願いも、危うい生き様も、全部引っ括めて『桃香』なんだ。
 
「………信じて、待つ」
 
「………恋、あの時起きてたろ」
 
「……………………内緒」
 
 俺の脇の下からズボッと頭を出して来た恋の髪を、ちょっと乱暴にわしゃわしゃと掻き回す。……恋の言う通り、俺は信じて待つしかない。………………いや。
 
「待ってるだけじゃ駄目だよ。……俺たちも、前に進まなきゃ」
 
 恋と、桃香と、愛紗と、星と、皆と……何の気兼ねもなく穏やかな時を過ごす。そんな未来に辿り着くために。
 
「……一刀は、そのままでいい」
 
「……ありがとな」
 
 無邪気な瞳でそんな事を言われると、何だか気恥ずかしくなる。それに、恋の言葉に甘えてるわけにもいかないから。
 
「人前で堂々とイチャつかんで欲しいんやけど? ったく、どいつもこいつも」
 
「…………?」
 
 霞のツッコミが耳に痛い。まるで解ってなさそうな恋が羨ましいぜ。
 
「恋……しばしの間、一刀の背中は預けるぞ」
 
「………任せる」
 
「何故恋に言う! それは私の仕事だ!」
 
「耳元で喚くな」
 
 星が恋の胸を叩き、舞无が星に怒鳴る。そう、今回の遠征に総戦力を注ぎ込むわけじゃない。
 
 いくら華琳がすぐには動かないだろうって予測があるとはいえ、それで油断して前と同じ轍を踏むわけにはいかない。当然、長安の守りにも相応の戦力を残しておく必要が出てくる。
 
 まず、前に漢中で戦った経験もある事だしと、恋、霞、舞无が決まった。……で、霞からの要望で俺も参戦(前の時、何か厄介な事があったらしい)。最初は星も加わる予定だったけど、王都撤退戦での活躍ぶりを聞いた舞无に反対された。“功績を立てる機会は平等に”という風の意見もあって、星は留守番組に決定。
 
 後は、蜀の地形に一番詳しい雛里も同伴する予定だったのを、これは俺が反対で押し通した。鳳統と蜀攻めと言えば『落鳳破』の悲劇だ。この世界が既に三国志とは全然違う歴史を辿ってるって言っても、縁起が悪い事に変わりないし、避けるに越した事はない。……で、その代役として稟と散が行く事に。
 
 というわけで、今回のメンバーは恋、霞、舞无、稟、散、おまけで俺だ。
 
「貴様らには、勅命を果たすという大義名分がある。その利を活かし、一早く蜀の人心を得よ。劉璋の信用が元より低いものであるならば、さして難しい事ではあるまい」
 
 相変わらず歳不相応な聡明さで、協君が低い所で胸を張っている。遷都を決めた時といい、最近の協君は目覚ましい成長期である。
 
「うん、すぐに帰って来るよ。乱世なんて、長引かせるべきものじゃない」
 
「さらっと大口叩きますよね、あなたは。足下掬われても知りませんよ」
 
「……散はすぐ揚げ足取るよな、ホント」
 
「意地悪お姉様ですから」
 
 何故か勝ち誇ってる確信犯は置いといて、俺は少しの別れを告げる皆に向き直る。
 
「留守は任せるけど……気をつけて」
 
 
「任せとけって。また懲りずに曹操のヤツが攻めて来たら、あたしの槍で真っ二つにしてやるよ」
 
「うわ……お姉さま調子に乗ってる。すっごい不安」
 
「んだとぉ!?」
 
 強気な笑顔を見せてくれる翠と、いつもの掛け合いに興じるたんぽぽ。
 
「……御武運を、お祈りしています」
 
「あまり時を浪費するなよ」
 
 解り易い心配を見せてくれる雛里と協君。
 
 そして………
 
「何度もしつこいみたいだけど、気をつけてくれよ。星は時々無茶するから」
 
「まさかそれをお主に言われるとは、な。……しかし、主命とあれば是非も無い。望みとあらば、地獄の門番すらも討ち倒してご覧に入れましょう」
 
 この上なく頼もしい言葉を聞かせてくれた星に手を振って――――
 
「いってきます」
 
 ―――俺たちは旅立つ。その先に待ち受ける未来に、今はまだ一抹の不安すら感じぬまま………。
 
 
 
 
 成都より北方の蜀の要害・綿竹関にて、二人の将が酒を飲み交わしていた。
 
「蜀軍は連戦連敗。……剣閣も抜けられたか」
 
「くそっ、ワタシ達ならこうも容易く敗れたりしないのに……!」
 
 一人は厳顔こと桔梗。一人は魏延こと焔耶。いずれも蜀を代表する名将である。
 
「どうかな……。正直、当初の見立てより十軍は遥かに強く、勢いがある」
 
「何を悠長な事を言っているんですか! このままでは本当に手遅れになってしまいますよ」
 
 北郷軍が蜀攻略の兵を挙げて数週間。この大戦に向けて誰よりも闘志を燃やしていた二人は、前線に向かう事も許されずにこの成都に続く最後の砦を守っていた。
 
 蜀主・劉璋は、先の漢中侵攻戦での撤退、そして彼女らと親しくしていた紫苑が降服を進言したという経緯によって桔梗と焔耶への信用を失い、二人を此度の戦に重用しなかったのである。
 
「まあ待て焔耶。儂は何も兜を脱いだわけではないぞ? 正面からぶつかれば儂らもただでは済まん、と言っておるだけだ」
 
「……では、籠城戦を?」
 
「いや、それも悪あがきにしかならんだろうな」
 
 二人がその牙を燻らせている間も十軍の攻勢は続いた。山兵戦に長ける蜀軍を相手に初戦こそ苦戦を強いられたが、局地戦を重ねる毎に実戦経験の違いが如実に現れ、次々と城や砦を落として行った。
 
 今や破竹の勢いを得た北郷軍を止めるのは、歴戦の精鋭でも難しい。
 
「真っ向勝負でも籠城戦でもないなら、一体どうするつもりなんですか」
 
「こちらから攻め上り、敵の背後を突くのだ。“迎え撃つ”などと余裕を持って構えていては、逆にこちらが飲み込まれる」
 
 悪辣に笑った桔梗の真意に気付き、焔耶は僅かに眼を見開く。
 
「軍令に背き、綿竹関から出る……と?」
 
「その通り。たとえ軍令に背こうと、結果として蜀を守れれば小僧も文句はあるまい。……何より、『命令を守って国を守れませんでした』など笑い話にもならん」
 
 今から成都の劉璋に許可を求めていたのでは間に合わない。間に合ったとして、劉璋が桔梗の提案を受け入れる保証もない。
 
 だからこそ桔梗は、己の判断一つで兵を動かし、国を守ろうと決めた。焔耶も元々、劉璋ではなく桔梗に信を置いている。迷う様子もなく当然それを受け入れる。
 
「しかし……背後を突くと言っても、一体どこからですか?」
 
「無論、生半可な奇襲で崩せるとは思っておらん。軍略も智謀もあちらが上、ゆえにこちらは……“地の利”を最大限に活かす」
 
 思わせ振りな口調にもどかしそうな表情を浮かべる焔耶に、桔梗は不敵な……それでいて意地悪そうな笑顔を向けた。
 
「戦う前に命を落とすかも知れん。それでも儂について来るか?」
 
「それも、戦いの内でしょう」
 
 その真意すら確認する事なく、焔耶も見事なまでの信頼で応えたのだった。
 
 
 
 
「二将軍は何と?」
 
「相変わらず無茶をする奴らだ。読んでみろ」
 
 北郷軍を相手取り、劣勢に追い込まれている蜀軍前線の天幕で、一人の青年が手紙を副官に投げ渡す。
 
 彼の名は張任。その智謀機略は衆を越え、桔梗や焔耶に並ぶ蜀の名将である。大陸一、二を争う北郷軍を相手に辛うじて蜀軍が持ち堪えているのも、一重に彼あってのものだと言っても過言ではない。
 
「!? これは………お止めした方がよろしいのでは……」
 
「もう遅い、この文は相談ではなく報告だ。奴ら疾うに綿竹関を放り出して強行軍を始めている頃だろう」
 
 主命を蔑ろにする桔梗のやり方に憤りを覚えながら、張任は返された手紙をもう一度眺める。
 
「奴らなりに蜀を守ろうとしての行動か。生きて成し遂げられるとは限らんが……犬死にさせるには惜しい事も確かだ」
 
 もちろん、張任は桔梗らの独断専行に合わせて作戦方針を変えるつもりはない。だが奇しくも、張任の思惑と桔梗の思惑は噛み合っていた。“また”見抜かれているかも知れないという張任の迷いを振り切らせるには絶好の報せだったと言える。
 
「後は……天が誰に味方するか………」
 
 天幕を出て空を見つめる張任の眼に、荒れ狂う雷雲が映った。
 
 



[14898] 十二章・『水龍の顎門』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/02/09 13:20
 
 豪雨降り注ぐ蜀の山間を、俺たちは歯を食い縛って進む。
 
「嵐でも来てんのかよ、これ……」
 
「山の天気は変わり易いようで。こういう事もあるのでしょう」
 
 雨音で互いの声も聞こえにくい中、俺と散は気晴らしに言葉を交わす。
 
 蜀への侵攻戦を始めて数週間。俺たちは今も険しい山道を行軍中である。今の編成は前曲に霞と舞无、中軍に稟と恋、そして後曲に俺と散。ちなみに、最後尾に俺って配置だけは開戦から一貫したスタンスだ。
 
「皆、大丈夫かなぁ……」
 
「何度目ですか。そんなに舞无娘たちが信用ならないのかな、と。……あたしのコレも何度目ですかね」
 
 蜀の兵は山での戦いに慣れていたのに対して、うちは騎兵を中心とした平地戦が得意。だから山兵戦で序盤はてこずったけど、やっぱりうちの軍も強い。
 
 恋たちがその武勇で皆の底力を引き出し、稟の用兵が悉くこっちに有利な状況を作り出し、俺たちは度重なる蜀軍との戦いに全て勝って来た。
 
「でも、油断出来ないだろ。あっちはまだ余力を残してるんだし」
 
「余力……ああ、前に霞たちと戦り合った三将軍の事かな、と。確かにまだ顔を出してないようで」
 
 ……そう、どういう事情かは知らないけど、前の戦いで漢中に攻めて来た……霞たちが一目置いてた三人が何故か前線に姿を見せないのだ。
 
「特に黄忠は要注意だ。弓を持たせたら恋にも退けを取らない。届かない場所から的にされたら、霞たちだって一溜まりもないだろ?」
 
「……なんか見てきたように語りますね。あなたもあたしと同じで、あの時は洛陽にいたはずじゃないかな、と」
 
「う゛………と、とにかく要注意なんだよ!」
 
 口が滑ったのを誤魔化して、胡散臭げな視線には雨を盾にして気付かないフリをする。
 
 前の世界で俺の仲間だった、紫苑。最初にその名前を聞いた時は驚いた。だって前の世界では楽成城の城主だったし、三国志の“黄忠”は韓玄の部下。そしてこの世界ではどこにいるのかと思ってたら、まさかの劉璋の部下。俺も人の事言えないけど、紫苑も大概無軌道だよな。
 
 俺の(我ながら説得力に欠ける)主張に、散は妙に意味深に宙を見つめて………
 
「戦う事になれば、ですけどね」
 
 これまた意味深に呟いた。
 
「どういう意味だ?」
 
「権利者というものが皆、あなたやちわわと同じだと思ったら大間違いかな、と。有能な人間を効率よく使える君主というのは、あなたが思っているより稀なんですよ。天界育ちのあなたには、ピンと来ないのかも知れませんけどね」
 
 ちわわ……ああ、桃香の事か。確かに俺は桃香とか華琳とか蓮華とか伯符とか、どっちかと言うと異例な君主ばっかりしか知らない。……けど、今突っ込むべきなのは………
 
「“使う”とか言うなってば」
 
「……そこに突っ込みますか。まあ、言い方なんてどうでもいいんですが」
 
 良くねーよ。そしてそこで何で呆れる。大事なトコだろうが。
 
 俺の言いたい事はまるっと流して、散は話を戻しだす。
 
「無能な主君の下で才能を腐らせる人間は少なくありませんから。理由までは解りませんが、『何か気に入らない事があった』とかで手柄を立てる機会を奪われても……それほど不思議じゃないかな、と」
 
 ……………え?
 
「マジで?」
 
「まじです」
 
「そんな理由で?」
 
「『漢中で逃げときながら、よくもおめおめと帰って来れたな。罰として百叩きにしてやんよ』……とかあったかもですね」
 
「…………………」
 
 何だか紫苑が心配になってきた。散の言葉がまるっきり推測に過ぎないとしても、嫌な可能性が頭にこびりついちまった。
 
「それで敗けてもいいって事か……?」
 
「というより、臣下の能力を正しく理解してない……ってトコかな、と。正直、ここまでボロ敗けするまで切り札を隠しとく理由が解りません。……ま、いずれにしろあたし達にとっては好都合なようで」
 
 散の言い分も、理屈としては解る。解るけど………
 
「……………………」
 
 何だか胸騒ぎがする。俺の心を映すように、空は激しく荒れ狂っていた。
 
 
 
 
「恋、何か気配を感じますか?」
 
「………風がうるさくて、わからない」
 
 所変わって、北郷軍中軍。稟が恋の野生の勘を頼る。しかし流石の恋も、嵐に近いこの天候で気配を掴むのは至難のようだ。
 
「(霞たちの行軍速度が早い。こちらも前に合わせて急ぐべきか、それとも前進を諫めるべきか……)」
 
 大自然に囲まれた蜀には、細く、険しい道が多数存在すし、今、北郷軍が進むのもその一つである。
 
 これらの道は、細く険しいが故に大軍が進むには不向きだ。一度に通れる人数が限られ、必然的に軍は長蛇の列を作る。前後の連絡も取りにくく、数の利も著しく失われる。
 
 この状況下で敵の奇襲を受ける危険を、稟は十二分に理解していた。だからこそ、慎重に軍を進めたいと考えていた。
 
「(しかし………)」
 
 同時に、今も前線で敵を追いたてている霞たちの状況にも思考を巡らせる。敵を見つける度に軍師の判断を仰いでいては勝機を逸してしまう。そして、こういった連絡の取り辛い状況では前曲の将の判断の重要性はより顕著になる。
 
「(………ここは、霞を信じましょうか)」
 
 前曲を指揮しているのが舞无一人ならまずしない判断を稟は下す。霞ならば敵の伏兵を十分に警戒した上で攻勢に出ているはずだ、という信頼あればこそ。
 
「(天も我らに味方してくれているようですしね)」
 
 この戦いで稟が最も恐れていたものの一つが、火計だ。草木生い茂る難道で火の海に見舞われれば、逃げる事も出来ずに焼け死んでしまう。しかしそれも、この悪天候ではまず不可能だ。
 
「前曲に続きましょう。これ以上陣線が伸びるのが一番良くない」
 
「………わかった」
 
 前曲との間を詰めるように、稟と恋は軍を率いて山を駆け降りる。
 
 谷間へと下り、前曲を追って次の山へと歩を進める中途で、稟はやや意表を突かれた。
 
「これは………」
 
 地図では確認出来なかった一つの河川と、それに架かる橋。確かにさして大きくもなく、近隣に住む人も居ないため、地図に記されていなくても然程不思議でもない。
 
「(しかし……思慮外だったのも事実)」
 
 無理からぬ事とはいえ、稟は頭の中で今後の方針を練り直す。この橋のように、北郷陣営にはその存在すら知る由もない情報が、戦局を左右する事態もあり得るのだ。
 
「…………?」
 
 ふと、微かに覚えた違和感に、稟は思考を止めた。濁った水が暴れる茶色の川を見ながら、今……自分が感じた違和感が何なのか探る。
 
 それが見落としてはいけない、何か致命的な穴であるように思えたからだ。
 
「…………あっ」
 
 そして、気付く。
 
「水嵩が、少ない……?」
 
 悪天候は今日に限った話ではない。少し前から散発的に雨天は続いていた。それなのに……この川は“堀”に対して水量がやや少ないくらいに見える。
 
「(気にし過ぎでしょうか……いや、何か嫌な予感がする)」
 
 どうしても見いださなくてはならない。そんな気がして稟は雨にも構わず地図を広げた。
 
「………………」
 
 この川がこの先の山頂に続いているのなら……そこには斥侯を放っていない。かなり険しい道であるはずだが、それでも………人が通れないほどではない。
 
「(もしそうだとしたら、まずい……!)」
 
 一つの仮説、当たっていては困る危険な可能性に行き着いた稟の耳に………
 
「………何か、来る」
 
 それを肯定するかのような、恋の険しい声音が届いた。
 
 それは恋だけに止まらず、間を置かず稟の……そして兵たちの耳にも響く。
 
「!? これは………」
 
 雨音よりも遥かに大きく、重く、怖気を誘う水音が押し寄せて来る。
 
「ッ……逃げる!」
 
 恋の叫びはしかし遅く、見開かれた稟の眼に、木々を飲み込み駆け下りて来る圧倒的な怒涛が映る。
 
「水……攻め……っ」
 
 高所に避難する時間すら与えられず、稟や恋を含めた北郷軍中軍は………人為的に生み出された大自然の猛威に呑み込まれた。
 
 
 
 
「将軍、上手くいったのでしょうか……」
 
「わからん。これまで同様見抜かれていた可能性もあるが……ここで躊躇っては千載一遇の勝機を逃がすかも知れん」
 
 河川の上流。塞き止めていた堰を破壊した蜀将・張任が部隊の副官に曖昧な返事で応える。
 
 これまで幾度となく北郷軍軍師の稟に裏を掛かれ、痛撃を受けて敗退してきた張任にすれば、揺るがざる自信など持てるはずもない。
 
 今にも、水攻めを予期した北郷軍がこの場に強襲を掛けてくるかも知れない……そんな不安も決して少なくないのだ。
 
 だが張任は……ここに向かう前に確認した情報で、“最低限”の効果は得られたと確信もしている。
 
 これまで続けた誘因の計によって、最悪でも前曲とそれ以外を激流によって別つ事は出来たはずなのだ。
 
「しかし流石は張任将軍。川の水で以て敵軍を裂くなど……私どもでは到底思いつきませなんだ」
 
「本来ならば、水攻めではなく火攻めをするつもりだった。しかしこの豪雨………ある意味天の導きかも知れんな」
 
 北郷軍がこの河川の存在を知らなかった事、前曲の霞たちが“どこにでもある”川の存在を稟に報せなかった事、火攻めでは恐らく失敗していた事。張任はそれら全てを知らない。
 
 この豪雨と、蜀軍が唯一十軍に勝る地の利が、彼らを千載一遇の勝機へと導いたのだ。
 
 だが、これでもまだ必殺ではない。
 
「蛇の身を二つに断ったとて、尾も頭もまだ動く。我らもぐずぐずしてはおれんぞ」
 
 険しい川の上流に密かに百の人夫を向かわせ、河川まで敵を誘きだす事は出来ても、万の兵を北郷軍の後ろに回らせる事は不可能だ。それはこれまでの連敗で嫌というほど思い知っている。
 
 故に張任は、いつも後曲に控える一刀を……この勝機の中でさえも狙う事が出来ない。
 
「後は奴らに懸ける他ない。……俺たちは俺たちの最善を尽くすまでだ」
 
 つまり張任の部隊が位置するのは川の南側……攻撃出来るのは霞たち前曲の方だ。
 
 北郷一刀を狙う事が出来るとすれば、それは十軍が思いも因らない場所から警戒を掻い潜り、背後を取れた部隊だけ。
 
「(蜀人の気骨を、見せてみろ)」
 
 張任は遠く、まだ存命かどうかも定かではない同胞に心中で呼び掛ける。
 
「二将軍は、無事に陰平を越えられたのでしょうか………」
 
「……さあな。あれは凡そ人が通れる道程ではない。退くも進むも叶わず、朽ち果てているかも知れん」
 
 だが……そんな険阻な間道だからこそ、北郷軍が無警戒である可能性も低くはなかった。
 
「だが……魔王の喉笛を噛み切るとすれば奴らしかおらん」
 
 策の成功如何、同胞たちの生死、解らない事だらけのまま、しかし蜀軍は立ち止まってはいられない。
 
「我らは我らで、出来る事を全力で為すだけだ」
 
 ――砂時計が動きだす。限られた時を、少しずつ、少しずつ……砂として落として行く。
 
 



[14898] 十三章・『闇夜の逃避行』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/02/12 16:37
 
「ほぅ………何とも見事な水攻めの計よ。張任な奴もまだまだ若造と侮っておったが、少し見直してやらねばならんな」
 
 北郷軍の中軍が決壊した怒涛に押し流される光景を、僅か離れた、一際高い山頂から見ている女傑がいる。
 
「えぇ……桔梗さまの無謀な行いよりよっぽど利口ですよ……」
 
「お前もしつこいのぉ、全て納得づくでついて来たのだろうが」
 
「それはそうですが、限度というものがあるでしょう! 生きて突破出来たのが奇跡じゃないですか!」
 
 その脇に従い、言い合いをする少女共々……無論、北郷軍の人間ではない。
 
「不可能とした思えんからこそ効果的なのだろうが。そして今まさに絶好の勝機。苦労した甲斐があったというものだろう?」
 
「ええ、こうなったら北郷一刀の首の一つでも獲らないと割に合いません」
 
「はっはっはっはっ! その意気じゃ!」
 
 魔境とすら呼べる陰平の難道を抜け、決死の行軍の果てに北郷軍の背後へと回り込んだ……桔梗と焔耶の一軍であった。
 
 
 
 
「何だ!? いきなり川が……!」
 
 北郷軍前曲。今しがた自分たちが渡ったばかりの河川が激流へと変じて中軍を飲み込む光景に……舞无が驚愕の声を上げる。
 
「中軍が……くそっ! この雨のせいで川が決壊したのか……!」
 
「……あんな瞬間的に川が増水するわけない。誰かが上流で川を塞き止めとったんや」
 
「誰だ! そんなふざけた真似をした奴は!?」
 
「敵に決まっとるやろが!」
 
 同じく、隣に並ぶ霞もその光景に苦虫を噛み殺す。伏兵にも奇襲にも十分注意して軍を進めていた霞だったが、川の様子にまでは気がつかなかった。
 
 ……いや、仮に霞が川の水嵩に気付いていたとしても、この水攻めを回避出来たかどうか。
 
 勢いに乗って攻め上がるのは容易いが、流れに逆らって退く事は難しい。ましてこの一帯は険しい山々に覆われて道は狭く、異変に気付いても後続との押し合いになってしまう。
 
 霞が水攻めに気付いれば、中軍の代わりに前曲が犠牲になっていた事だろう。
 
「……やってくれるやんけ」
 
 慣れない地形、攻めにくい細道、稟ですら知らなかった河川の存在。北郷軍を四方から苦しめる蜀の大自然。
 
 地の利が敵にある事は百も承知で備えていた北郷軍だが、それでもなお上を行かれた。
 
 昨今の連勝による油断、この一帯を早く抜けねばという焦燥、眼前の敵を逃がすものかという将兵の士気、それらが僅か、知勇に優れる霞の判断を誤らせた。
 
「ええぃ! 四の五の言っていられるか!」
 
 後曲と切り離された。その事に強い危機感を覚え、激流に飛び込もうとする舞无を………
 
「アホか! 何しようとしてんねん!」
 
「放せ霞! 恋はともかく、一刀が危ないかも知れないではないか!」
 
「ちっとは落ちつかんかい! 川飛び込んでも何の解決にもならんわ!」
 
 霞が後ろから羽交い締めにして止める。単純な腕力なら舞无の馬鹿力が勝るため、霞も必死だ。
 
「落ち着いてなどいられるかぁ!」
 
「そもそも自分、泳げんのやろが!!」
 
「……………あ」
 
 あまりに根本的な事実を思い出させられ、舞无もようやく止まった。『どうしようどうしよう』と助けを求めて来る舞无に、霞は両肩に手を乗せ、顔を見合せて言い聞かせる。
 
「頭切り替え。一刀なら大丈夫や」
 
「何故そんな事が判る」
 
 内心の不満を隠そうともしない舞无に、霞は宥めるような口調で懇々と説く。
 
「ええか? ウチらは確かに一本取られたけど、今まで昼寝しながら軍進めとったわけやない。近隣に伏兵がおらんか注意しながら攻めとったやろ?」
 
「……そうだったのか」
 
「そーなんや! そんなウチらが、いくら何でも大軍が後ろに回り込むんを見逃すわけがない。ちゅーか、そんな大軍でホイホイ通れるんなら端からこんな行列なんぞ作っとらん」
 
「…………つまり?」
 
 舞无の物分かりが悪いのは慣れている。霞は額を押さえて頭を振りたくなるのをグッと堪えて、結論を告げる。
 
「いくら軍を二つに割ったかて、奴らは一刀を狙えんっちゅーこっちゃ。仮に百人千人が回り込めたとしても、そんくらいなら散の部隊でどうにでもなる」
 
「……なるほ、ど? わかった! つまり一刀は大丈夫という事だな!」
 
 今までの懇切丁寧な説明は一体何だったのか、明らかに解ってないくせに解った感じに誤魔化そうとしている舞无に色々と諦めて、霞はその表情を引き締めた。
 
「恋と稟は……ウチらが今から慌ててもどうしよもない。あいつらが簡単に死ぬとも思えんし、信じて待つしかないわ」
 
「おう、恋がたかが水遊び如きにやられるものか」
 
 霞が飛龍偃月刀を、舞无が金剛爆斧を握り締める。
 
「奴らが狙うとしたら、背水の陣を“背負わされた”ウチらの方や」
 
「今までの劣勢は演技、というわけか。ふんっ、丁度いい。あまりに歯応えが無くて退屈していたところだ」
 
「せやな。セコい小細工でどうにかなるもんかどうか、ウチらの力骨の髄まで刻み込んだるわ」
 
 遠方より響く銅鑼の音に、霞と舞无は一際獰猛な笑みをその顔に浮かべる。
 
 この時、霞は……人跡未踏の陰平から敵軍が背後に回り込んでいるなど、夢にも思っていなかった。
 
 
 
 
「はあっ……はあっ……はあっ……」
 
 悪夢。そんな言葉が頭の中を巡り続ける。
 
 突然川が激流に変わり、恋と稟を含めた中軍をど真ん中から断ち切った。
 
 それからほぼ同時、来るはずのない背後から『厳』と『魏』の旗が突然現れて……進路を断たれた俺たち後曲を強襲した。急に軍を反転させる事は出来ない。水攻めと奇襲の二連撃で後曲はあっという間に混乱に陥り、多くの兵が狭い道で押し合い、崖から落ちる者、逃げ場を失う者が多発し……後曲は目も当てられない大乱戦に包まれた。
 
 やがて日が落ち、敵味方の区別すらつかなくなる。夜の森は一段と暗くて………俺はいつしか、完全に孤立してしまっていた。
 
 ふと気付けば、周りに敵しかいなかったのだ。
 
「(皆……大丈夫かな……)」
 
 いつの間にか雨の止んだ森の中。茂みに隠れ、木の幹に背を預けながら、そんな事を思う。
 
 激流に飲まれた恋と稟、その水攻めで分断された霞と舞无、乱戦の中ではぐれてしまった散……皆がどうなってしまったのか、俺には全く解らない。
 
「俺の、せいだ……」
 
 軍が伸びてしまう事も、地形が不利だって事も、解り切った事だったはずだ。
 
 狭い道。大軍の利が活かせなくても力押しで進んだのは、それがこっちの不利にはならないと思ったからだ。質ならこっちが上、最前線を霞たちに任せればむしろ被害が少なく済むと思ったし、事実……俺たちは今まで圧倒的に勝って来た。
 
 軍議の時、あんな川の存在は話題にも上らなかった。誰も知らなかった。
 
 蜀の地形に詳しいと言っていた雛里を……俺がくだらないジンクスを理由に連れて来なかったからだ。
 
 そして……突然背後に現れた、回り込めるはずのない蜀軍。
 
 俺たちは背後を取られないように、慎重に慎重に軍を進めて来たはずだ。……だから、伏兵にやり過ごされたとは思えない。
 
 だけど、俺はその可能性に気づかなきゃいけなかった。
 
「(陰平だ。あそこから、回り込まれたんだ)」
 
 剣閣に立てこもった姜維率いる蜀軍の防御に攻めあぐねた魏軍が、決死の覚悟で自然要塞の陰平から成都に攻め入り、劉禅があっさり降伏する。三国志に於ける蜀漢滅亡のシナリオ。
 
 時期も、状況も、軍も、回り込む方向も全然違う。そもそも三国志なら陰平をあんな数で渡れていない。それでも……俺は気づかなきゃいけなかった。
 
 その気になれば、陰平から敵軍が背後に回れるって可能性に。
 
「俺がもっと、しっかりしてれば……!」
「あんまり自惚れないで欲しいかな、と」
 
 ―――突然、耳元に声が聞こえた。
 
「わぷ……!?」
「大声出さないでくださいね」
 
 そして振り向くと同時に、口を塞がれた。まだパニックな頭で、冷静にその犯人を見てみれば………
 
「……散?」
 
「よ」
 
 乱戦の中ではぐれてしまった、こんな時でもいつもと変わらない散だった。
 
「あなたも軍師さんも、目玉二つ耳二つの人間です。一つの失敗もしない人間なんていないんですよ、“天の御遣い様”」
 
 当て付けみたくそう言われて、俺は初めて、さっきの独り言を聞かれていたと知る。
 
「でも……」
「今は責任探ししてる場合じゃないかな、と。いつまでもへばってないで立って下さい」
 
 クイクイ、と指を動かして起立を促す散に従い、俺は立ち上がる。
 
 確かに今は、そんな場合じゃない。多分、不器用な散なりに慰めてくれてるんだとも思う。………けど。
 
「(それを言い訳に開き直るわけには、いかないよ)」
 
 そう、俺の中だけで結論づける。この失敗を、犠牲を、絶対に忘れちゃいけない。
 
「(強くなるって、決めたんだ)」
 
 だけど、その前に死ぬわけにもいかない。何がなんでも生き残ってやる。
 
「無事で良かった。でも散、この暗い中でよく俺を見つけられたな」
 
「あなたの行動ぱたーんは読みやすいですから。大方、怒涛に流された恋と軍師さんの安否が気になって川下を目指していたんでしょう」
 
「…………………」
 
 完全に馬鹿を見る眼で、散は自分の縞馬の綱を引く。……いや、目立たないようにするためか、散の縞馬は縞模様の上から泥を塗りたくられてるけど。
 
「買いかぶりだよ。正直、ここがどこなのかもさっぱり解ってないんだから」
 
「……褒めた憶えはありませんが。まあ、結果として見つけれたから良んですけどね」
 
 俺も的盧に跨がり、暗い夜道を注意しながら走らせる。散が先導してくれるから、さっきまでよりずっと走りやすかった。
 
 行き止まりに差し掛かったり、迷ったり、敵兵に遭遇したり、険しい山道を右往左往しながら俺たちは逃げる。
 
 散と合流出来たと言っても、この状況で反撃に移るのは無理だ。一度体勢を立て直さないとどうしようもない。
 
「………お」
 
 東への道を断崖沿いに進んでいた俺たちは、漸くほどほどに拓けた道を見つけた。
 
 二つの絶壁に挟まれるように、或いは狭間を作るように、一本の道が出来ている。
 
「ここは確か、地図に乗ってましたね。ここを抜ければ、少なくともさばいばるからは脱出出来そうかな、と」
 
「……狼煙か何かで、味方に知らせられないかな。『こっちに逃げろ』って」
 
「敵まで呼ぶつもりですか。アホなこと言ってないでさっさと行きますよ」
 
「………だよなぁ」
 
 何か妙案のきっかけになるかも知れない、とダメ元で言ってはみたけど……やっぱりダメか。
 
「何度も言うみたいですけど、他人の心配してる場合じゃないでしょう。あなたに何かあったら、あたしが舞无板あたりに殺されるんですが」
 
「……わかってる。行こう」
 
 止めていた歩を進める。散が軽く馬首を返した……その時―――――
 
(ズンッ!)
 
 何かがめり込むような生々しい音が聞こえて……
 
「ヒヒィーン!!」
 
 散の縞馬が嘶き声を上げて崩れ落ちて………
 
「散!!」
 
 投げ出された散が、勢いよく地面に叩きつけられた。
 
 



[14898] 十四章・『本当の願い』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:cc32c781
Date: 2011/02/12 16:39
 
「散!!」
 
 何があったか解らない。俺は的盧から飛び下りて、地面に叩きつけられた散に駆け寄る。
 
「大丈夫か……!」
 
「受け身は取りました。……にしても、油断していたようで」
 
 明らかに受け身なんて取れてない。震える体で、自力で起こそうとしている散の上体を抱き抱える。
 
「……油断?」
 
「っ………!」
 
 俺の質問に応えず、散は横たわったままの姿勢から短戟を明後日の方向へと投げ放つ。
 
 それが中空で弾け飛んで………短戟とは別の、重たい何かが雨で抜かるんだ地面に突き刺さる。
 
「これは………」
 
 黒金の、杭。よく見れば、それと全く同じ物が散の……すでに絶命した縞馬の胴体にも突き刺さっていた。
 
「狙撃……?」
 
 俺が気付いて、寒気を覚えるのを待っていたかのように、草の根を掻き分けて泥土を踏む足音がこっちに迫って来る。
 
 でもまだ、距離がある。
 
「立てるか散、逃げるぞ!」
 
「ダメです。今背中を見せたら、さっきの杭で串刺しにされます」
 
 らしくもない弱音を吐きながら、散は双鉄戟を杖代わりにして立ち上がる。………まさか……
 
「散、その足……!」
 
「馬の血です」
 
 暗くて気付かなかったけど、散の脚衣にどんどん黒ずんだ染みが広がっていってる。
 
 馬の血だけとは思えない。さっき馬に刺さった杭が、散の脚にも傷を与えてたんだ。
 
 しかもこの様子だと………かなり深い。
 
「……やっぱりバレますか。そういうわけで、がら空きの背中くらいは守ってあげますから、さっさと行ってください」
 
 流石に無理のある嘘だと観念して、散はそんな事を言った。けど………
 
「行けるわけないだろ!」
 
「足手纏いはごめんだと言ってるんです」
 
「そんな風に思わない!」
 
「あたしが思います。いいからさっさと行けってんですよ。殴られたいのかな、と」
 
 そんなの聞けるわけがない。言い争ってる俺たちに、三度の狙撃が飛んで来た。
 
「邪魔すんな!」
 
 今度は見える。俺は飛んで来た黒金の杭を抜き放った剣の一振りで叩き落とす。………と、
 
「ぐわっ!?」
 
 それを見計らうように、左の頬に鈍い痛みが走る。ンのヤロ、ホントに殴りやがった。
 
「邪魔はあなたです。わかったら今すぐ消えて下さい」
 
「うるせー」
 
 殴られたくらいで諦めるか。睨み殺さんばかりの散の視線を無視して、俺は散を的盧に乗せるべく無理矢理抱え上げた。
 
「……あーあ、アホな事やってる間に追い付かれた」
 
「……こっちの台詞かな、と。ここまで誰かに呆れたのは生まれて初めてですよ」
 
 木々の生い茂る闇夜の奥から、蜀軍の鎧に身を包んだ兵士たちがわらわらと現れる。……正確な数が全然掴めない。
 
 ただその筆頭に、明らかに将らしき二人がいる。
 
 柔らかい銀髪の女傑に、不揃いな髪色の少女。………この二人が、厳顔と魏延ってわけか。
 
「この暗い中、あれだけ離れたあたしを射ますか。なかなか良い腕ですね」
 
「本当ならそっちの坊主を狙うべきだったのだがな。流石に暗くて見誤ったわ」
 
 散が俺の胸を肘で強打して、片足で着地する。そして双鉄戟を女傑に向けて威嚇する。誰がどう見ても、戦える体じゃないのに……。
 
「さてどうする? この期に及んで悪あがきでもするか。それとも……」
 
 銀髪の女傑が余裕綽々に俺たちに語り掛けて来る。その眼が一瞬、鋭い色を放ち――――
 
「部下を楯にして逃げるか!」
 
 次の瞬間、大振りの刃が付いた奇妙な武器から、黒金の杭が撃ち出された。
 
 標的は俺でも散でもなく………的盧。けど―――
 
「くっ!」
 
 逃がさないために馬を狙う。それくらい俺にだって判る。杭は的盧に届く事なく、俺の剣に軌道を逸らされて的外れな方へと飛んだ。
 
 散を見捨てて、俺だけ逃げる? …………はっ。
 
「冗談。死んでも御免だね」
 
 俺は剣を正眼に構えて、少し前に出ていた散に並ぶ。横で散が、うんざりしきった、深い深い溜息を吐いた。
 
「……家臣の為に死を選ぶか。どのみち逃げられんと諦めておるのか、それとも桁外れの馬鹿なのか」
 
「超絶的な馬鹿ですよ。多分死んでも治りません」
 
 僅か面白そうに眼を見開いた女傑に、何故か横から散が応えた。……はいはい、どーせ馬鹿ですよ。前の世界からさんざん言われてる事だ。今さらそれを反論する気もないけど……
 
「家臣じゃない、命より大切な俺の仲間だ。それに……死ぬつもりなんてないさ」
 
 そこはキッチリ、否定しておいた。すると………
 
「この状況で勝てるとでも思っているのか!? 舐めるのも大概にしろ!」
 
 今まで口を開かなかった、もう一方の敵将である少女が怒鳴った。
 
「さあね、戦ってみなくちゃわからないだろ」
 
 強がりだって事は自覚してる。だけど……諦めるつもりはない。どうにか散を的盧に乗せて、二人乗りで逃げられないか? ……くそ、あいつら騎兵を連れてない。あれじゃ馬を奪えない。
 
「あたしも戦りますよ。今度こそ文句は言わせません」
 
「……ああ、一緒に戦おう。絶対生きて帰るんだ」
 
 戦える体じゃない事は、俺にも散自身にも解ってる。だけど俺が我を通したのと同じように、散にも散の意志がある。
 
 なら……一緒に戦う。俺は俺の、散は散の守りたいものを守って……皆の所に帰るんだ。
 
「……これが魔王の正体か。紫苑の見立ても案外馬鹿に出来んな」
 
 紫苑……。その名前を女傑の口から聞いて、思う。彼女がこの場にいなくて良かった……戦う事にならなくて良かった、と。
 
「黄忠が俺を、どんな風に言ってた?」
 
「死にゆく貴公に話しても仕方あるまい。……それより、なぜ紫苑が黄忠だと知っている?」
 
「今から死ぬアンタに話しても、仕方ないだろ」
 
「ふっ、そうか」
 
 逃げるにしろ、隠れるにしろ、この二人が敵に健在な限り不可能。俺は直感的にそう確信する。
 
 だから紫苑がいなくて良かったと思った。……いや、紫苑なら仲裁でもしてくれたのかな。
 
 益体もない仮定が浮かぶ自分の脳みそが、少し可笑しかった。
 
「その度胸と胆力だけは認めてやる。だが……この場から生きて去れるなどと思い上がるな!」
 
 業を煮やした敵将の少女が、ごつい金棒を威嚇のように一振りして咆えた。
 
 ――――それに、
 
「………死なせない」
 
 声が、返った。俺の………“後ろから”。
 
「―――――――」
 
 聞き違えるはずのない、静かで心の和む声音。
 
「…………恋」
 
 稟と一緒に激流に呑まれたはずの恋が、いつ現れたのか、拓けた絶壁の間道の真ん中に立っていた。
 
 そう……確かに、立っている。
 
「恋……!」
 
 生きてた! 生きててくれた! その事実に、熱い何かが込み上げて来て泣きそうになる。
 
「これでますます、逃げるわけにいかなくなったな」
 
 恋は馬に乗っていない。あの怒涛に流されたんだろう。……これで徒歩が三人、馬一頭。でも俺は、この状況に絶望を感じない。むしろ、自然と口の端に笑みが浮かぶ。
 
「………恋が、守る」
 
「ああ、一緒に戦ってくれ!」
 
 今なら、どんな事だって成し遂げられる気がする。恋が、敵将に向き直った俺の隣に並ぶ。
 
 ――――そして、次の瞬間。
 
「―――ッ!?」
 
 鳩尾に、硬くて重い衝撃が走る。それが……恋の方天画戟の石突きだと、一瞬わからなかった。
 
「が……はあっ……」
 
 肺の酸素が一気に叩き出されるような感覚。呼吸が出来ない、視界が霞む、気が遠くなる。
 
「れ……ん……?」
 
 ここで気を失えば、何か掛け替えの無いものを失ってしまう。そう確信しているのに、暗闇が否応なく俺の意識を鎖す。
 
「どう…して………」
 
 精一杯の力を振り絞って、何かを掴む。
 
 ―――俺には、たったそれだけの事しか出来なかった。
 
 
 
 
「………………」
 
「………………」
 
 恋と、散。二人の間に、僅かな沈黙が下りる。
 
 散には、今の恋の気持ちが痛いほどに解っていた。……当然、その行動の意味と、そこに示された意図にも。
 
「………いいんですか」
 
「………いい」
 
 散の問いに小さく応えて、恋は気絶した一刀を的盧に乗せる。
 
 一刀が気絶した事で、“一刀一人を逃がす”という選択肢は無くなった。……いや、一刀が起きていたとしても、その選択肢は無かっただろう。
 
 二人を残して自分だけが逃げるという行動を一刀が採るはずがない事は、先のやり取りを見ても一目瞭然だ。
 
 今の散では時間稼ぎすら出来はしない。そして………気絶した一刀を連れて逃げる“誰か”が必要だった。
 
「………また、泣かせる事になりますよ」
 
 “一刀を連れて逃げろ”。言外に示した恋の意図を疾うに理解していながら、散は恋の心を揺さ振る。
 
 彼女にしては歯切れの悪い、悪あがきにも似た行為。しかし恋は…………
 
「…………いい」
 
 それを“笑顔で”受け入れた。
 
「……“泣ける”なら、その方が、いい」
 
 その姿があまりに儚くて、今にも消えてしまいそうで……散は無用の言葉を重ねてしまう。
 
「二度と会えなくなりますよ。言葉も交わせない、触れ合う事も出来ない。………本当にそれで、満足ですか」
 
「………違う」
 
 恋はそれさえも、穏やかに否定した。
 
「……この先に、稟がいる」
 
「…………………」
 
 今度こそ散は、言葉を失った。同時に覚悟を決める。恋のそれに遥か及ばない、しかし残酷極まる覚悟を。
 
「……ずっと、一緒」
 
「…………………………………そう、伝えておきますよ」
 
 ―――散は的盧に跨がり、走りだす。一度も振り返る事なく、戦場から背を向けて。
 
 
 
 
 水龍の顎門にその身を呑まれ、木の葉のように人の身を振り回す激流から抜け出し……恋の体力も既に限界を迎えていた。膝が揺れる、足元が覚束ない、しかし――――
 
「みすみす逃がすと思うか!」
 
 駆け去る的盧の背中に、桔梗の豪天砲が咆える。空気を貫いて放たれた黒金の杭はしかし、中空で二つに断たれて弾け飛ぶ。
 
 紅き鬼神が振るう、天下無双の斬撃によって。
 
「………指一本、触らせない」
 
 少女はゆっくりと振り返る。その眼光が、蜀の誇る二人の猛将を捕えた。
 
「……ここから先は、誰も、何も、通さない」
 
 空気が凍り付く。氷よりなお冷たい、無慈悲な深紅の炎によって。
 
 愛しい少年を守るため、無垢なる少女は冷徹な紅蓮を燃え上がらせる。
 
「………死にたい奴から、かかって来い」
 
 紅蓮の劫火は止まらない。
 
 ―――燃え尽き消える、その刻まで。
 
 



[14898] 十五章・『ずっと一緒』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:cc32c781
Date: 2011/02/10 21:25
 
「…………………」
 
 夜の闇も、ぬかるんだ地面もまるで関係なく、散は絶壁の間道を駆けて行く。
 
 痛む足で凶馬の腹を蹴り、その腕に仲間が命を懸けて守った少年を抱いて。
 
「………………」
 
 誰が見ているわけでもないのに、散は俯いて顔を隠す。
 
『あの娘たちを、守ってくれる?』
 
 長めの前髪が顔に貼りつき、その無表情を上から隠した。
 
『先に行って、待ってるわよ』
 
 その胸に、家族同然に育ったかつての主君の姿が去来する。
 
「……………はぁ」
 
 疲れた。疲れきった、そんな溜息が零れる。
 
 敵に背を向け、仲間を見捨てて、自分は戦場から逃げ出す。それはどれだけ残酷で、どれだけ惨めなものだろうか。
 
 それでも散は立ち止まらない。振り返らない。歩を止める事もない。
 
「…………まったく」
 
 ただ―――――
 
「………揃いも揃って、あたしに嫌な役を押し付けますね」
 
 そんな……空虚な一言だけが漏れ出た。
 
 
 
 
「(何だ……これは……)」
 
 目の前に映る光景、己の肉眼が見ているそれが、桔梗には信じられなかった。
 
 津波のように押し寄せる蜀の精鋭たち、それが泡沫のように呆気なくその命を散らしていく。
 
 ある者は胴を串刺しにされ、ある者は頭蓋を砕かれ、ある者は首を飛ばされ、ある者は脳天を唐竹のように割られ、血飛沫を上げて瞬く間に肉塊へと変えられていく。
 
 どれほど腕の立つ武人でも、数の前には無力なものだ。絶え間無く襲い来る暴力の嵐に体力を削られ、自らが積み上げた屍によって動きを阻害され、いつしか力尽きる。
 
 しかし目の前の少女は、斬り倒した死体を盾にも足場にもし、その技は今もなお精彩を欠く事なく振るわれていた。
 
 激流に攫われ、戦う前から既に体力の限界を迎えていたにも関わらず。
 
「(これが、武の極みというものなのか……)」
 
 前言に偽りは無い。誰一人その横を抜けられない……どころか、方天画戟の間合いに入った瞬間には絶命していた。
 
 最早強いという言葉でも、恐ろしいという言葉でも形容出来ない。
 
 研き抜かれた武人の技巧ではない、血に餓えた獣の暴威でもない。まさに鬼神と呼ぶに相応しい神懸かった『力』。
 
「(血雨を降らせ、屍を踏み躙る様の……なんと似合う娘か……)」
 
 桔梗は既に、完全に魅せられていた。見ている内にどこまでも引き込まれていってしまうような、底の見えない天下無双の武に。
 
「(それほどの武を以て、只一人の男を守るか………)」
 
 桔梗は本能的に悟る。目の前に在る力は、信念無き刃では決して辿り着く事の敵わない高みであると。
 
 戦の享楽に酔うだけの自分には決して届かない極みなのだと。
 
「………素晴らしい」
 
 思わず称賛が口から漏れ出る。これこそ、長らく武の道を歩いて来た桔梗が目指していた理想の姿。………否、想像した事すらなかった究極の姿。
 
 ただの強さではない。“決してこの先に行かせない”という金鋼石よりも硬い執念が、その全身全霊の戦いぶりから伝わってくる。
 
「(そこまで………)」
 
 桔梗は初めて目にする。誰かの為に、これほどまでに強くなれる人間を。
 
 そんな桔梗の内心には気付かずに、焔耶は苛立ち混じりの怒声を上げる。
 
「たった一人を相手に何をやっている! ぐずぐずしていたら北郷一刀に逃げられるだろうが!」
 
 その声で桔梗は正気に還る。しかし……僅かに遅かった。
 
「ワタシが片をつけてやる!」
 
「止せ焔耶! お前の勝てる相手ではないと解らんか!?」
 
「桔梗さま、将たる者が何を弱腰な事を言っているんですか!」
 
 焔耶が巨大な金棒を振り上げて走りだす。桔梗の制止は、彼女を止める事は叶わなかった。
 
 そして焔耶は――――
 
「……弱い奴は、死ね」
 
 鬼神の間合いに、その足を踏み入れた。
 
 
 
 
 弾け飛んだ松明が屍と化した人間の脂を燃やし、燃え広がった炎が戦場を照らす。
 
 血と炎に彩られた地獄で一人、紅い少女は戦い続けていた。
 
『………一刀は不思議。一刀の周りには、たくさんの人が集まってる』
 
 一振り、また一振りと戟を振るう度、深紅の華が血雨を降らせる。
 
『(一刀がいれば、恋は天下無双)』
 
 降り注ぐ赫い雪が、少女の紅い髪をさらに濃い血の色へと染めていく。
 
『全部守れるわけじゃない。……でも一刀は、たくさんのものを守ってる』
 
 絶命させた者を踏みつけ、しかし少女は体勢を崩さない。怯まない、退がらない。
 
『……みんなのことが、好き。でも、でもね?』
 
 紛れもない天下無双。しかし鬼神の如き力を誇る彼女も、一人の人間。限界を越えて酷使し続けた手が、足が、体が動かなくなっていく。
 
『……一番好き』
 
 稲妻のような剣閃は翳り、既に少女の斬撃は力任せに振り回すだけのものへと成り果てていた。
 
「(一刀………)」
 
 それでも少女は、戦う事をやめない。命在る限り戦い続ける。
 
『……平和になっても、ここにいていいの?』
 
 ずっと独りだと思っていた。自分は強いから、独りでも生きていけると思っていた。
 
『恋、ご主人様と一緒にいる』
 
 そんな孤独から、救い上げてくれた男(ヒト)がいた。
 
『……それで、誰からも守ってあげる』
 
 いつかのように、またいつかのように、少女は戦い続ける。
 
『約束する。平和になってもずっと、もし悪いヤツが来たら……恋が守るから』
 
 大好きな少年を守るために、愛しい想いを力に変えて。
 
「(……一緒にいる)」
 
 霞む視界の向こうから、無数の矢が飛んで来る。既にそれを捌ける体でも、避けられる数でもない。
 
『一緒にいさせて、ご主人様』
 
 終端を迎える刹那。蘇る、大切な思い出の中に………
 
『恋!』
 
 愛しい笑顔を、見つけた。
 
 
 
 
『―――ずっと、一緒………』
 
 
 
 



[14898] 十六章・『赫い雪』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:ec8f6a96
Date: 2011/02/12 17:47
 
「桔梗さま……!」
 
 届いているかも解らない叫びを、焔耶は何度も繰り返す。
 
「どうしてっ……どうしてワタシを……!」
 
 その呼び掛けは……眼を閉じ、背中に受けた傷から血を流して横たわる桔梗へと向けられていた。
 
 血気に逸って敵わぬ敵に挑み掛かった自分を庇った……桔梗へと。
 
「らしくないですよ……こんなの……どうして……!」
 
 依然として眼を開かない桔梗を揺さ振りながら、焔耶は自分の周囲の異変に気付く。
 
 鬼神・呂布へと攻撃を続けているはずの蜀兵たちの怒号……どころか、戦いの音すら消えていたのだ。
 
「何をしているお前たち! 敵を休ませるな!」
 
「し、しかし……」
 
 一番至近にいた弓兵が、恐慌しきった声で返事にならない返事を返す。
 
 あらゆる焦りと苛立ち、無力感を振り払うように、焔耶は顔を上げて………
 
「そんな……馬鹿な……」
 
 そこに、あり得ないものを見た。
 
 戦火と屍の山を背にし、血雨を浴びて紅く染まり………何より、その全身に数多の矢を受けながら……紅き鬼神は立っていた。
 
「………化け物」
 
「将軍! 鬼のように強い上に不死身では勝ち目がありません! ここは退きましょう!」
 
 蜀兵どころか、焔耶まで……戦意を完全に喪失していた。
 
 背後に回った蜀の部隊の兵数は万を越える。しかし今この場に生き残っている兵は最早百に満たない。
 
 いくら強くとも数で押しまくれば勝てる。千載一遇の勝機を逃して蜀に未来は無いと息巻いた結果が、この地獄を生んだ。
 
 戦意など、奮い立つわけがない。
 
「……お前の眼は節穴か、焔耶……」
 
「っ! 桔梗さま……!?」
 
 助け起こした腕の中から声が聞こえて、焔耶は涙声でその名を呼ぶ。
 
 呼ばれた桔梗は、まるで眩しいものを見るかのような瞳で恋を見ていた。
 
「死してなお……主の盾か。……本当に、最期の最期まで見事な娘よ……」
 
「死して、なお……?」
 
 桔梗の言葉が少しずつ染み入り、それを理解した時……焔耶は気付いた。
 
「なんて………」
 
 それはある意味、不死身などよりよほど畏敬の念を抱かされる姿。
 
「なんて、やつだ……」
 
 一歩たりとも退かず、倒れる事も、戟を下げる事も……まぶたすら閉じる事なく……呂奉先はその生を鎖していた。
 
 命が燃え尽き、体が屍となってもまだ……敵を睨み、恐れさせ、この道を守っているのだ。
 
「くくく、はははは…………!」
 
「桔梗、さま……?」
 
 誰もが言葉を失うこの状況で、唐突に、抑えきれないように笑い出した桔梗を、焔耶は訝しげに見やる。
 
 致命傷をその身に受けているはずなのに、焔耶を見返す桔梗の表情は穏やかですらあった。
 
「可笑しいな、焔耶。武に生きて幾星霜……よもやこんな年若い娘に“憧れ”を抱こうとは……これが笑わずにいられるか?」
 
「桔梗さま、もう喋らないで下さい……!」
 
「………喋らせてくれ、これが、最期だ……」
 
 外気に触れ、雨に濡れて体が冷えているのは互いに同じ。それなのに……焔耶の手は、抱き抱えている桔梗の体が、どんどん冷たくなっていくのを感じていた。
 
「……だが、見たか? 儂はあの天下無双の斬撃から、友を一人守ってみせた……」
 
「命を縮めます! もう喋らないで下さい!!」
 
 絶叫と呼べる懇願。それには応えず、桔梗は焔耶の手を握る。
 
「……死ぬ時は戦場と決めていた。そして……これ以上無い相手に斬られて終わる。……そんな湿っぽい顔を見せるな」
 
 次いで、その目尻に溜まった雫を拭う。いつも豪快で放埒だった桔梗に似合わない優しい仕草が、焔耶の胸を引き裂かんほどに締め付ける。
 
「……なあ、焔耶……儂は今になって……紫苑の言葉を理解出来る……」
 
「紫苑の……言葉……?」
 
 桔梗は横たわったまま空を仰ぐ。星空、月夜、青空、何でもいいから最期に拝みたかったが故の行為だったが……空は風情の欠片も無い曇天だった。
 
「……ああ、儂も………」
 
『家臣じゃない、命より大切な俺の仲間だ』
 
『………また、泣かせる事になりますよ』
 
『……ここから先は、誰も、何も、通さない』
 
「……儂も……新しい時代を、見てみたかった…………」
 
 焔耶の顔に伸ばされていた手が……落ちる。静かに瞼が、瞳を鎖す。
 
「桔梗、さま……?」
 
 焔は呼び掛け、揺する。それを何度も繰り返す。
 
「……桔梗さま……っ…起きて、ください……」
 
 そうすれば、先ほどのように……あっさりと目を覚ましてくれると思ったから。
 
「見たいというなら……一緒に見ましょう……新しい…時代、を……一緒に………」
 
 本当に、ただ寝ているように見えた。朝になれば当たり前のように目覚める、そんな眠りにしか見えなかった。
 
「だから……っ…起きて下さい……起きて…ください……」
 
 信じられない、信じたくない。それでも……桔梗が目覚める事は二度と無い。
 
「桔梗さま………っ」
 
 
 
 
 蜀の山嶺に、季節外れの雪が降る。
 
『―――一刀』
 
 それは立ち込める血煙に触れて赫い雪を敷き、その上から純白を積もらせる。
 
 白い光華が降り注ぐ。
 
『―――さよならじゃない』
 
 穢れ一つ知らない、それでいて……罪も、痛みも、悲しみも、全て覆い隠してしまうような……
 
『―――恋は、ずっと、一緒』
 
 どこまでも優しくて、どこまでも残酷な白雪が。
 
 
 
 
 ――――寒いと、そう思った。
 
 歯の根が合わない。体が震える。雨の中に一人で立っているみたいに、冷たくて居心地が悪い。
 
「(……ああ、これ夢か)」
 
 何の気なしにそう気付いて、自分の感覚が間違っている事にも気付く。
 
 これは寒いんじゃなくて、悲しいんだと。
 
「(……何が、悲しいんだ?)」
 
 解らない。でも悲しい。辛くて、寂しくて、情けなくて、体に力が入らない。
 
「(……どうして、悲しいんだ?)」
 
 解らない。解りたくない。なのにどうして……こんなに心細いんだろう。
 
「(あ…………)」
 
 俺の胸の真ん中に大きく昏い穴が空いた。両手でそれを塞ごうとしても、穴は一向に消えてくれない。
 
 『消せるわけがないだろう』と突き付けるように俺の胸に居座っている。
 
「(嫌な夢だな……)」
 
 夢だと判っているのに、平気な顔で笑い飛ばす事が出来ないのは、どうしてだろうか。
 
 闇の中、それと同じく沈んだ気持ちで漂っていたら…………
 
『――――――――』
 
 誰かに呼ばれた、気がした。
 
 
「…………………」
 
 目を開けて最初に、薄汚い屋根の骨組みが映った。体を起こすと、欠伸もしていないのに目尻から一筋の水が流れる。
 
「………目が覚めましたか」
 
 声がした方を見ると、俺には顔も向けずに囲炉裏で燃える火を静かに見つめてる、稟。
 
 ……………稟?
 
「稟っ! 無事だったのか!」
 
 鈍器で叩き込まれたみたいに、今の状況を思い出す。
 
 蜀を攻めてる最中、水攻めで中軍から分断されて、背後から奇襲を受けて逃げ回った。
 
 その激流に飲み込まれたはずの稟が、無事にこうして俺の前にいる。
 
 でも、稟は………
 
「…………ええ、恋に…………救けられました」
 
 やけに感情を感じさせない声で、弱々しい返事を返した。
 
「そっか、恋に救けられ……て…………」
 
 ……………恋?
 
「……………俺、は」
 
 思い出すな。思い出せ。二律背反する言葉が頭の中で馬鹿でかく響く。
 
『さてどうする? この期に及んで悪あがきでもするか』
 
『さあね、戦ってみなくちゃわからないだろ』
 
『この場から生きて去れるなどと思い上がるな!』
 
『………死なせない』
 
 ………………何で、稟しかいないんだよ?
 
「…………………………………恋は?」
 
 口に出した瞬間、何故か後悔する。身体中の血が一気に引いていく。
 
「……………………」
 
 稟が応えてくれない。ほんの数秒の沈黙さえ……今の俺には我慢出来ない。余裕が無い。
 
「っ! 一刀殿!?」
 
 慌てる稟に返事もせずに立ち上がり、小屋の戸から外に出ようとして………
 
「………どこへ行くんですか」
 
 両手を広げた稟に、道を塞がれた。
 
「決まってるだろ。恋を探しに行く」
 
「彼女がした事を、無駄にするつもりですか」
 
 ………何で、邪魔するんだよ。
 
「どいてくれ………」
 
「どきません」
 
「どけよ!」
 
「どきません!!」
 
 埒が明かない。今はこんな所で稟と言い合いなんかしてる場合じゃないっていうのに……!
 
「……いいよ、勝手に通る」
 
「あっ……!?」
 
 立ちふさがる稟の腕を掴んで、力任せに押し退ける。そのまま外に出ようとする俺の腕を、稟が体全体でぶら下がるように引き止めた。
 
「今から行って……何が出来ると言うのですか。一刀殿に何かあれば、恋を犬死にさせた事になるんですよ!」
 
 …………………犬死に?
 
「勝手に決めつけんなよ! 恋が無事かどうかなんて、行ってみなくちゃ判らないだろ!?」
 
「“判らないから”! 行かせるわけにはいかないんですよ!!」
 
 恋はきっと生きてる。今も苦しんでるかも知れないのに………何でわかってくれないんだよ!
 
 もういい、このまま引き摺って……………
 
「ッ―――――!?」
 
 漸く外に出たと思った瞬間………焼けるような痛みを感じて、視界がすっ飛んだ。
 
 仰向けに倒れてから、顔面を思い切り殴られた事を知る。
 
「…………散?」
 
「…………恋から、伝言を預かっています」
 
 殴り倒した俺の前にしゃがみ込み、散は目線を合わせて俺の眼を真っ直ぐに見た。
 
「『………ずっと、一緒』」
 
「っ………!?」
 
 散の………いや、恋の言葉が……俺が眼を背けていたものを、否応なく気付かせる。
 
 恋がその言葉を、どういうつもりで使ったのか…………解りたくないのに、解ってしまった。
 
『……強くなるよ』
 
 そう約束したのに、俺は…………
 
「…………っ」
 
 ちっぽけな自分の手に目が行って、俺はそこにあるものに気付いた。
 
 知らずの内にずっと握り締めていた物。あの時………俺が唯一掴み取れた物。
 
「……………恋」
 
 恋がいつも方天画戟の柄の先に付けている、小さなセキトの人形。
 
 ………………違う。
 
「……帰って来たじゃないか。濁流に呑まれても、恋はちゃんと帰って来た」
 
 俺が助けたかったのは…………。
 
「恋は天下無双だろ? やられるわけないじゃないか………」
 
 俺が本当に、守りたかったのは………。
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 稟も、散も、俺の言葉を肯定してくれない。何も言ってくれない。手の中の人形が……形見に見える。
 
「嘘だ…………」
 
 誰か、嘘だって言ってくれ。悪い夢だって、悪夢の続きだって言ってくれ。
 
「ウソだぁああぁあああぁああ―――――!!!」
 
 ――――いくら叫んでも、いくら泣いても、何一つ変わってはくれなかった。
 
 



[14898] 十七章・『臣たる者』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:5d3ce992
Date: 2011/02/16 20:33
 
「ご、ごめんなさい星さん。お忙しいところをお手伝いして頂いて………」
 
「別に構わんよ。部屋で一人で呑む酒よりも、仲間と交わす月見酒の方が美味いものさ」
 
 一刀たちが蜀の遠征に向かってしばらく経った今日、恋の“友達”の世話当番が回って来た雛里に助けを求められて、私と風は恋の屋敷を訪れていた。
 
 訊けば、大型犬に餌をやるのが「一緒に食べられそう」で怖いらしい。狙っているのかと疑いたくなるほどこちらのツボを突いてくる。
 
 いかん。可愛いものを見ると………ついついイジメたくなる。
 
「気持ちは解りますねー。風も前に一回やって、お兄さんに叱られました」
 
「うむ。是非涙目で恨めしげに見上げてもらいたくなる」
 
「えっと、あの……お二人は一体何の話をしてるんですか………?」
 
 とはいえ、本当にイジメたら容易く傷ついてしまうだろう。仕方ないので、空想の内に止めておく。
 
 そういうわけで、恋の友達に夕食を与えたついでに、私たち三人は恋の屋敷の庭を借りて月見酒に興じていた。
 
 洛陽にあった物には劣るとはいえ、この屋敷もなかなかに広い。まったく、一刀の恋贔屓には呆れてものも言えん。
 
「……もう一月以上か。蜀の兵は戦の経験も浅く、霞たちを相手にすれば瞬く間に崩れるかと思っていたが……存外てこずっているようだな」
 
「思ったより強敵だった、と漢中戦の後で霞ちゃんも言ってましたしねー」
 
 思えば、初めて出会ってからこれほど一刀と離れていた事は無い。あれは己の能力を過信しているわけでもないのに平然と無茶をするから………少し、落ち着かない。
 
「……やっぱり、わたしも行くべきだったでしょうか」
 
「そもそもお兄さんは、何であんなに必死に雛ちゃんの参戦に反対したのでしょうか?」
 
「あやつの言動が不可解なのは今に始まった事でもあるまい。推察するだけ徒労というものだ」
 
 二人の疑問に私は早々に匙を投げる。あまりこの話題を蒸し返すと、雛里が『わたしは足手まといなのでしょうか』などと言いだしかねない。一刀の意図までは計りかねるが、少なくとも雛里を軽んじての判断ではないとは断言出来る。
 
「我らの使命は、主が不在の新都を覇王の手から守護する事。一刀の事は恋や稟たちを信じるしかなかろう」
 
 こうして気を揉まれる事自体、彼女らからすれば不本意だろう。私が話を纏めて杯を持ち上げた―――その時。
 
「ウォオオーーン!」
 
「ニャァーー!!」
 
「ヒィイーーン!」
 
 我らの周りで寛いでいた犬猫たちがいきなり騒ぎ始めた。その鳴き声はどこか悲しげで、聞いているこちらの胸が痛くなるような響きを持っている。
 
 それらは皆、一様に南方の空を見ていた。
 
「っ………あれは」
 
 それに釣られて目を向けた時、私たちの視線の先で一筋の流星が奔った。
 
 ………私も天文にまで明るくはないが、少なくとも良い予感はしない。
 
「………風、雛里。今の流星は?」
 
 傍ら、北郷軍が誇る賢者たちに問い掛けてみれば、二人とも険しい顔で南方の空を睨んだまま。
 
 その反応だけで、私が動くには十分だった。
 
「……雛里。主命に背く形になるが、付き合うか?」
 
「はいっ!」
 
 いつも控え目な雛里が、力強く応えてくれる。それが私の不安を煽った。
 
「『判断は任せる』とも言われてますから軍令違反にはなりませんが……あんまり兵力は裂けないですよ?」
 
「なに、五千……いや、三千預けてくれれば十分だ。それで十分戦える」
 
 不安を感じているのは同じだろうに、風は冷静に自分の役割に撤してくれる。
 
「願わくば、これがただの徒労に終わるように祈るとしよう」
 
 不敵に笑って見せるものの、不安を感じる自身の心ばかりは誤魔化せそうになかった。
 
 
 
 
「………ここまでか」
 
 諦観に満ちた溜め息が、槍を握る青年の口から漏れ出た。
 
 濁流と化した河川によって分断された十軍前曲。背水の陣を強いられ孤立したその軍に対して勝負に出た蜀将張任の部隊は………激戦の果てに真っ向から打ち破られた。
 
 多勢での機動に不自由な蜀の地形が、今度は霞たち前曲に味方した。埋めようのない“力の差”の前に蜀軍は敗れたのだ。
 
 残るのは、「劉璋さまに危機を報せよ」と生き残った兵たちを逃がし、殿に残った張任ただ一人。
 
「いや、褒めてやる。正直ここまでやるとは思っていなかった」
 
「体張って兵を逃がす、か。ええなぁ自分、カッコええやん」
 
 その前に立つのは、北郷五虎将に名を列ねる武人……霞と舞无だ。そして北郷軍前曲も被害こそ受けたが未だ健在。
 
 張任にとっては絶望的……どころではない。“もう終わっていた”。
 
 そんな張任に、霞は穏やかに声を掛ける。
 
「結果は敗けやけど、アンタはようやったで。これだけ戦えば、誰に恥じる事も無いんと違うか?」
 
「…………何が言いたい」
 
 霞の不可解な問いに、張任は片方の眉を吊り上げる。そんな仕草に構わず、霞は続けた。
 
「そう怖い顔しなや。これでも認めとるんよ? “このまま死なすのは惜しい”てな」
 
 そこで、張任も霞の言わんとする事を理解した。理解して………鼻で笑った。
 
「自軍に楯突き、大きな被害を与えた男が惜しいだと? 馬鹿も休み休み言え」
 
「そういう馬鹿なんよ、うちの大将は。あんたが望むなら、ウチから口利いたってもええで」
 
 その反応を当然のものと流して、霞はさらに言葉を重ねる。
 
「貴様ほどの武人に惜しまれるのは光栄だ。……だが、俺はその提案を受け入れる事は出来ない」
 
 霞と同じく穏やかな笑顔を浮かべて、張任はそれを拒絶した。
 
「……劉璋の器が判らんわけやないやろ。何でそこまで肩入れするんや」
 
「さあな……。だが俺は、勝敗によって主君を都合良く変えるほど器用じゃない」
 
 霞の遠慮の無い問いに、この……どこまでも不器用な青年は薄く自重する。
 
 張任は霞の言葉を肯定も否定もしない。そんな事は些事に過ぎない。確かに言える事は、彼にとって……それは命を懸けるに値するという事だけだ。
 
「俺は蜀に忠誠を誓った。これまでも、これからも、それが覆る事は無い」
 
 そして、それだけで十分。
 
「本当の臣は二君に仕える事は無い。ここが俺の、死に場所だ」
 
 その一言を合図に、張任は槍を突き付けて構える。その挙措から“戦う”という意志が言葉以上に明確に伝わって来た。
 
「………己の生き様を貫くか。いいだろう」
 
「舞无?」
 
 感嘆にも似た呟きと共に、舞无が一歩進み出る。後ろ手に霞を制して、舞无は戦斧を軽く振るった。
 
「手を出すなよ霞、こいつは私が殺る」
 
 その不器用な生き様に、舞无は僅か自分を重ねた。武人としての己を追い求めていた自分を。
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 これ以上の言葉は無粋。互いの間合いの僅か外で、張任と舞无は得物に誇りと喜悦を乗せる。
 
 穂先を敵に向けて息を飲む張任。それに対して、舞无は刃先を下げ、相手に背中が見えるほどに戦斧を“溜めた”。隠す気など全くない……馬鹿正直なまでの必殺の構え。
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 空気が重く、張り詰めていく。技の応酬の中で隙を見つけた者が勝利する乱撃戦とは違う。
 
 獣が獲物を狙うような剥き出しの殺意の交錯。派手な動きはまるで無い、だがこの硬直が動く時……一瞬でどちらかが獲物の喉笛を掻き斬る。
 
「(ただでは死なん)」
 
 兵卒の槍衾に貫かれても仕方のない状況。張任は舞无に密かな感謝を捧げ………だからこそ全身全霊で挑む。
 
「(あの構え……威力は類を見ないだろうが、あれではどんな斬撃も大振りになってしまうはずだ)」
 
 そして……硬直が解ける。
 
「(ならば……!)」
 
 張任が大きく踏み出す。舞无のそれとは真逆の、構えた穂先を前進と共に突き出す小さく無駄の無い刺突。
 
 舞无の一撃が繰り出されるより疾くその命ごと貫く槍の穂先。
 
 だが――――――
 
「はあぁぁあーーー!!」
 
 そんな張任の、間違いなく正解を選んだはずの一撃は……届かなかった。
 
「っ―――――」
 
 小さく鋭く、大振りの構えを取る舞无に向かって伸ばしたはずの槍は、伸ばしたと同時に宙に舞う。
 
 間違いなく大振り。しかし張任の常識を遥か越える速度で豪撃が弧を描き、小さく鋭く突き出した張任の槍を斬り飛ばしたのだ。
 
 彼の両腕ごと、鎧ごと、身体ごと。
 
「がっ……あぐぅ……!」
 
 肘から先を失い、腹部と口から夥しい血を撒き散らして、張任はその場に両膝を折る。
 
「礼を……言…う………」
 
「……お前は、間違いなく生粋の武人だった」
 
 気高い魂を持つ者ならば、己が理想とする姿を追い求めるのは至極当然。
 
 二人の間にある大きな差は……巡り合えた主君の違い。
 
「己を誇り、永の眠りに就け!!」
 
 再び振りぬかれた戦斧の一撃が、最早苦しみの中で死を待つだけだった張任の首を刈り取る。
 
 その一撃を以て、戦いの幕は下りた。
 
 奇策と死力を尽くして北郷軍に一矢報いた蜀軍は、しかし力及ばず敗退。
 
 この戦いによって蜀は主戦力の大半を失い、事実上の完全敗北を迎える。
 
 



[14898] 十八章・『君が好きになってくれた俺』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:6b87a2f4
Date: 2011/02/16 20:35
 
「どうすれば……どうすれば……」
 
 蜀の中枢たる成都の玉座の間で、王である劉璋が“いつものように”頭を抱えていた。
 
 曹魏の出陣と時を同じくして漢中に攻め入った蜀軍は撃退され、その後に逆襲に現れた北郷軍の迎撃に向かった張任率いる主軍は……事実上の壊滅。
 
 最後の砦であったはずの綿竹関も“何故か”もぬけの殻であった為にあっさりと敵の入城を許してしまった。
 
 今の劉璋は、ただとどめを刺されるのを待つばかりの憐れな家畜に等しい。
 
「劉璋さま、これ以上の抗戦は民に負担を強いるばかりです。ここは潔く、降服なされては……?」
 
「今さら何を言う!? 北郷に降ればどんな目に遭わされるか知れぬと言ったのは貴様らではないか!」
 
 文官の一人が控え目に申し出た進言に、劉璋は半狂乱で喚き返した。
 
 悪名高い北郷に降れば、一度楯突いた劉璋は殺されてしまうだろう。それは劉璋に限らず、蜀の重鎮らの共通した認識であった。
 
「しかし我が軍は兵力の大半を損ない、また張任、厳顔、魏延ら頼れる将もおりません。この上戦っても、無駄な犠牲を出すばかりかと」
 
「ならば貴様は、余に民の為に死ねと言うのか!」
 
 また別の武官が口を挟む。詰まる所、勝つ事がもはや不可能である以上、蜀の選択は二つに限られる。
 
 すなわち、死ぬまで戦うか、降服して裁量を北郷一刀に委ねるか。
 
「くそぅ……こんな事ならば黄忠が降服を進言した際に降っておれば、まだ北郷一刀の心象もめでたかったであろうに……」
 
 うなだれる劉璋は……しかし、自らが漏らした繰り言の中に、一筋の光明を見つける。
 
「おおっ、そうじゃ……!」
 
 その瞳は、追い詰められた人間が見せる狂気に近い光を帯びていた。
 
「元はと言えば、彼奴らが漢中にて敗走したのがそもそもの発端。その責を取らせて何が悪いか」
 
「………はぁ」
 
 劉璋の言葉の意味が飲み込めず、家臣一同は揃って首を傾げる。桔梗と焔耶は行方も知れず、紫苑は一月以上前から地下牢に幽閉されている。
 
 今さら責任を取らせる事が、どう状況の打破に繋がるのかが解らない。
 
「黄忠を極刑に処し、その首を北郷一刀に差し出すのじゃ。『此度の戦は、全て謀反人であるこやつが元凶だ』と言ってな」
 
『!?』
 
 これには、劉璋に長く仕えている臣下たちも息を飲んだ。
 
 降服を進言した紫苑に、全く正反対の事実を着せて責任を逃れようとしている。
 
 死を前にして剥き出しとなった劉璋の本性に、誰もが唖然として言葉を失う中で………
 
「そんな事はワタシがさせない」
 
 静かに、玉座の間の大扉が開いた。
 
 乱れた黒髪に不揃いな白い前髪、肩に担いだ異形の金棒。そこにいる誰もが知るその少女は、先の戦いで死んだと思われていた………焔耶。
 
「魏延っ、貴様よくもおめおめと帰って来れたな! 度重なる失態と無礼、もはや我慢の限界じゃ!」
 
「…………………」
 
 憤激の言葉には応えず、焔耶はただ劉璋を睨み付ける。そして、一歩、また一歩と近づいていく。
 
「こやつの首を刎ねよ! 黄忠の代わりにこの敗戦の責任を取らせるのだ!」
 
『…………………』
 
 主君の命令。しかし誰一人動こうとしない。
 
「不相応な栄光に目が眩み、一度危地に陥れば長く蜀に尽くして来た紫苑さえゴミのように切り捨てる。………もう、誰も貴様になど従いはしない」
 
 一瞬たりとも眼を離さず、武器を構えたまま一歩一歩近づいて来る焔耶の姿に……劉璋はようやく理解した。
 
 今、自分がどういう状況に置かれているのかを。
 
「や、やめ……っ!?」
 
 信じられない。“自分が殺されようとしている”という状況が信じられない。
 
 拒絶の意を表して両手を突き出し後退る劉璋は、そのまま腰を抜かすようにしりもちを着いた。
 
「桔梗さまは……死んだ」
 
「たっ、助け―――」
 
 死に物狂いで背中を向けて逃げようする劉璋。焔耶は一足飛びにその行く手に回り込み………
 
「ごぶぅ……!」
 
 金棒の一振りで胴を殴り飛ばした。くの字に曲がった劉璋はゴロゴロと床を転がり、柱の一つにぶつかって止まる。
 
「げぅ……はぁ……ううぅぅ……!?」
 
 肋骨を折られ、内臓を潰され、劉璋はしばらくそのままの体勢で悶え苦しんでいたが、ほどなく事切れて動かなくなった。
 
「(桔梗さま………)」
 
 焔耶の醒めた瞳は、物言わぬ屍と化したそれを見下ろしてはいたが……心は、どこか遠い所を見ていた。
 
「(貴女が彼らの中に何を見たのか、ワタシにはまだ解らない)」
 
 まるで自分には見えない何かを、目を凝らして探すように。
 
「(でも……見ていて下さい。あなたが見たいと願った世界を……この大陸の、新しい時代を……)」
 
 遺された少女は先達の意志を継ぎ、仇敵に蜀の未来を預ける。
 
 ―――見つめたその手が、これ以上ないほど汚れて見えた。
 
 
 
 
 恋の奮戦によって一命を取り留めた一刀達は、川の増水が治まると共に分断された霞や舞无の軍と合流した。
 
 散り散りになった後曲の兵を集め、多くの犠牲を払って切り開いた山道を抜けて、綿竹関に入城した。
 
 そこで……待った。何日も何日も、旗を掲げて恋が戻って来るのを待ち続けた。山狩りもした。恋と最後に別れた場所も探した。
 
 だが………恋はいない。戻って来ない。
 
 そんな日々を過ごす内に、長安から援軍として駆け付けた星と雛里が綿竹関へと辿り着く。
 
 成都を目前にして軍を進める事もなく停滞を続ける北郷陣営の下に、それはやって来た。
 
 蜀軍からの、降服の意を伝える使者だった。
 
 
 
 
「これが、降服の証だ」
 
 北郷軍の重鎮らの視線を一身に受けながら、使者として綿竹関にやって来た焔耶は、手にした白い包みを広げて床面に置く。
 
 それは……蜀の君主・劉璋の首。
 
「………何のつもりだ」
 
 静かに、冷たく、一刀は焔耶に意図を問う。話を聞く限り、目の前の少女がおとなしく敵に屈するとは思えない。さらに言うなら、北郷陣営は劉璋の顔を知らない。
 
「ワタシ達は、蜀の未来を貴方に預けると決めた。もう抵抗の意思は無い」
 
「だから、どういう風の吹き回しだ」
 
 わかりきった常套句には取り合わず、一刀は僅か語調を強めて繰り返す。
 
「………厳顔さまの、遺志だ」
 
「………………そう」
 
 “事の顛末”は既に聞いている。一刀はそれだけ訊けば十分とばかりに、何かを抑えるように目を伏せる。
 
「……降服? 今頃になっても頭を下げれば、それで許されるとでも思っているのか?」
 
 僅かな沈黙。それに割り込むように、怒りで震える舞无の声が割って入った。
 
「死は元より覚悟の上だ。蜀の統治さえ受け入れてくれるなら、ワタシ自身はどうなっても構わない」
 
「……いい度胸だ。なら今すぐ、お前の首もそいつと同じにしてやる……!」
 
 言葉通りに諦観した眼で応えた焔耶に、舞无は殺意と共に戦斧を向ける。
 
 一触即発のその空気を…………
 
「わかった」
 
 一刀の虚ろな一言が、嘘の様に破った。
 
「降服は受け入れる。蜀の統治は黄忠に任せようと思ってる。魏延も蜀に残って、彼女を助けてやってくれ」
 
『っ…………』
 
 この言葉に、北郷軍の誰もが……それぞれの感情で絶句した。“あの時”居合わせただけの焔耶でさえも。
 
「……っ……か……」
 
 絶句による静寂は、長くは続かない。一刀の言葉に真っ先に反応したのは………やはり、舞无。
 
「一刀ぉおおぉお!!」
 
 怒鳴りつけ、胸ぐらを掴み、一刀を乱暴に床に引き倒す。胸ぐらを掴んだまま馬乗りになり、額をぶつけるほど詰め寄る。
 
「自分が何を言っているか解っているのか! こいつは恋を殺したんだぞ!?」
 
 背中を強打され、睨み殺さんばかりの視線を向けられても……一刀の表情は変わらない。
 
 まるで人形のように感情を感じさせない。
 
「俺たちは怨恨を理由に戦ってるんじゃない。翠や蒲公英にそうしたように、蜀の皆にも力になってもらう」
 
 舞无の唇の端が切れて、血が流れた。
 
「今までだって、犠牲が出なかったわけじゃない。それが……恋を失ったからって、裁量を変えるわけには…………」
「そんな物分かりのいい言葉など聞きたくない!! お前にとって……恋はその程度の存在だったのか!!?」
 
 その眼の端に、悔し涙が滲んだ。激情のままに振り上げられた拳が………
 
「舞无っ!」
 
 霞の制止も聞かずに………
 
(ガンッ!!)
 
 硬い音を立てて、打ち下ろされた。
 
 一刀の………顔の横に。
 
 今も変わらず表情を持たない、一刀の顔の横に。
 
「う……うぅ……っ」
 
 怒りの矛先をどこに向ければいいのか解らない。こんな風になってしまった一刀の真意が解らない。
 
 未熟な心は激情に振り回される事しか出来ず、そして……遂に決壊する。
 
「うわぁああぁあぁあ!!」
 
 大粒の涙を溢しながら、舞无は広間から走り去る。一刀はそれに視線でさえも追わず、緩慢な動作で立ち上がってから周りを見回した。
 
 雛里が泣いている。稟の頬に涙が伝っている。霞が苦しそうに唇を噛んでいる。散が黙って舞无の背中を見ている。星は……真っ直ぐに一刀の眼を見ている。
 
「…………………ごめん」
 
 小さく、本当に小さく、一刀は仲間に謝罪を告げた。
 
 
 
 
『………二人にして、もらえないか』
 
 そう言って、一刀は小さな一室に一人残った。………否、一人ではない。
 
 そこには、棺に眠るもう一人がいる。
 
 塩に塗れた棺の中、清められた姿で眠る……紅の少女。
 
 一刀が愛した、恋という真名を持つ少女。
 
「…………………」
 
 その頬に、一刀は掌をそっと添えた。日溜まりのように温かかった彼女の肌が……今は嘘のように冷たい。
 
「なあ、恋…………」
 
 ここには誰もいない。一刀と恋、二人だけ。
 
「俺……………」
 
 そう、二人だけしか、いない。
 
『たくさんの人が傷つくのが戦争。みんな、傷つきたくないから相手を倒す』
 
『……一刀は不思議。敵だった人も、元から仲間だった人も、一刀の周りでは皆楽しそう』
 
『全部守れるわけじゃない。でも……一刀は、たくさんのものを守ってる』
 
『みんな、一刀が大好き』
 
『……一刀は、そのままで良い』
 
 色んな事を、思い出す。抑えていた感情の奔流が、堰を切って暴れ出す。
 
「……恋が好きになってくれた俺のままで、いられてるのかな………」
 
 応えが返る事は無い。
 
 悔恨、悲嘆、寂寥、憤怒、憎悪、喪失。それら張り裂けんばかりに膨れ上がる感情を噛み殺して……
 
 今は安らかに眠る少女に、強くなると約束した少年は……今この時だけ、泣いた。
 
 二人だけの冷たい空間で、少年のむせび泣く声だけが………いつまでも途絶える事なく響いていた。
 
 



[14898] 十九章・『反骨の士』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2011/02/17 22:44
 
「……お待ちしておりました。あなたが、北郷一刀様?」
 
「ああ、“はじめまして”」
 
 蜀軍の降服を受け入れた北郷軍は、綿竹関より歩を進め、中枢たる成都へと入城した。
 
 地獄の使者たる悪名によって人民に不安を与えないかという懸念はあったが、叛乱と同時に民衆を味方につけていた焔耶によって幾分かの風評操作が行われていた。
 
 統治者が変わっても、今より悪くはならないだろう。そんな共通の意識が大きい。何より……主君たる劉璋よりも焔耶や紫苑の方が民の信望を集めていた。
 
 そうして入城した成都にて、一刀らを出迎える紫の髪の女性……紫苑。
 
「……少し、やつれたね」
 
「え………?」
 
「いや、何でもないよ」
 
 “初対面”のはずなのに妙な事を言いだす一刀に、紫苑は僅か眼を見開いた。
 
 それを軽く首を振って否定して、一刀は既に決めていた言葉を告げる。
 
「魏延から話は聞いた。……それで、当面は君に蜀の統治を任せたいと思う」
 
「………はい?」
 
 一刀にとっては当然の判断でも、紫苑にとってはそうではない。劉璋に降服を進言して投獄されていたとはいえ、降将にいきなり傘下に治めた都市の全てを任せるなど正気とは思えない。
 
「……どうして、そこまで私を見込んで下さるのですか?」
 
「俺たちは長くここに留まれない。そして……君になら任せられると思った」
 
 刑罰を受けても仕方ない身の上で、あり得ないほどの待遇。それを素直に受け取るよりも、驚愕や困惑が先に立つ。
 
 常の一刀なら、そんな紫苑の心情に気付いて安心させただろう。だが、今の一刀にそんな余裕は無い。紫苑もまた、桔梗という同胞を失っているという事実も、失念していた。
 
 返す言葉も、質問の応えになっていない。
 
「……私には、荷が勝ちすぎる問題と思うのですけれど」
 
「もちろん、君に全てを背負わせるつもりは無いよ。だけど今は……この乱世が終わるまでは……君が蜀を支えて欲しい。魏延も力になってくれる」
 
 温情と信頼の言葉を淡々と並べる一刀の裁量に………
 
「その事ですが、異論があります」
 
 稟が、小さく口を挟んだ。
 
「一刀殿のやり方は既に理解していますし、その意思は尊重したい。一刀殿がそこまで見込まれるなら、私も黄忠に関して否はありません。……ですが、魏延だけは話が別です」
 
「それは…………」
 
 “恋の仇だからか?”一刀はそう口に出そうとして、やめた。言葉にする事で自分の気持ちが揺れてしまうのが、怖かった。
 
 しかし、そんな一刀の臆病な懸念は“当然”外れる。
 
「禍根などではありませんよ。ただ純粋に、“危険だ”と言っているんです」
 
 言わんとしている事を掴みかねている一刀に構わず、稟は続ける。
 
「これまでは劉璋に仕えて禄を貰い、我が軍との戦にも参戦していたにも関わらず、一度蜀軍が劣勢になれば主君を斬って敵に降る。……こんな人間を内に引き込んでは、いつ寝首をかかれるかわかったものではありません」
 
「っ……!?」
 
 まったく遠慮容赦のない稟の見立てに、少し離れた場所から会話を聞いていた焔耶が絶句する。
 
 我が身可愛さに選んだ決断などでは決して無い。だが……彼女の決断が蜀軍が事実上の敗北を迎えた後である以上、そう取られても仕方ないのもまた事実。
 
 だが…………
 
「……俺は信じるよ。それに、俺たちに力を貸して降服してきた魏延を斬れば、この先……誰も仲間になんてなってくれない」
 
 一刀は、そんな稟の進言に首を振る。
 
「ですが……!」
「俺は魏延の気持ち、解るような気がするんだ」
 
 珍しく声を荒げた雛里の抗議を遮って、一刀は薄く……微笑んだ。
 
 弱々しい、触れたら壊れてしまいそうな……脆い笑顔で。
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 誰も、何も、言えなくなる。これまで朧気で掴みかねていた一刀の心に、皆が否応なしに気付かされる。
 
 そもそも一刀の強がり程度で隠し通せるほど浅い関係でも、浅い傷でもなかったのだ。
 
 しかし…………
 
「………やれやれ」
 
 唯一人、星だけが……仕方ないと言わんばかりに溜め息を吐いた。
 
「稟も雛里も何を騒ぐ? 今さら驚くような光景でもあるまいに」
 
 飄々と、この場に於いてはある種異様なまでに、星の態度はいつも通りだった。
 
「魏延よ、一刀の馬鹿さ加減に感謝するのだな。だが………」
 
 その軽い仕草から、一転。舞うように回転させた『龍牙』の刃先が……焔耶の首に皮一枚埋まった。
 
「ゆめゆめ忘れるな。お前が再び主に牙を剥こうものなら、我が神槍が光より疾く貴様の喉笛を抉る」
 
 氷より冷たく、刃より鋭く、星の眼光が焔耶を射抜く。
 
 冷や汗が焔耶の頬を伝う。おとなしく受け入れたわけではない。不意の事とはいえ……“反応出来なかった”のだ。
 
「……言われるまでもない。そんな恥を重ねるくらいなら、ワタシは今ここで桔梗さまの後を追う」
 
「……ふむ、結構」
 
 それに“怯えたわけではない”返事に満足したのか、星の殺気は嘘のように霧散する。
 
「さて、私も長旅で些か疲れた。戦後の処理は明日以降にして、今日はもうお開きとしようではないか」
 
 どう見ても疲れてなどいない星は、身勝手に、強引に、皆を玉座の間から追い立ててる。
 
 ―――誰にとっても、時間が必要だった。
 
 
 
 
「「…………………」」
 
 二人、墓石の前で黙祷を捧げていた焔耶と紫苑が、ほぼ同時に眼を開く。
 
 友を守り、遺志を託して散っていった……桔梗の墓石。
 
「(これで良かったのでしょうか……桔梗さま)」
 
 返るはずのない問いを心中で投げ掛けて、焔耶はじっと墓石を見つめる。
 
「不思議な方だったわね、私たちの新しいご主人様は……」
 
 傍ら、紫苑は桔梗にか焔耶にか、感慨深い呟きを漏らす。
 
「………そうですね」
 
 まだ北郷一刀という人間を理解したとは到底思えない。しかし不思議か、と問われれば全く同じ印象を持ったので、焔耶は一先ず肯定で返した。
 
 初めて会った時の姿。今のどこか空虚な姿。どれが本来の北郷一刀なのかも解らない。
 
「御館は……ワタシの気持ちが解ると言った。あれはどういう意味なんでしょう」
 
 わざわざご主人様と呼ばず御館、と言い直した焔耶が可笑しくて、紫苑は薄く微笑む。
 
「あなたが桔梗の遺志を継いだように、ご主人様にも守りたいものがあるのよ。……きっと」
 
「……随分、はっきりと言い切りますね。初対面ではなかったんですか」
 
「どうしてかしらねぇ……私にも解らないけど、そんな気がしたの」
 
 紫苑の言い回しは曖昧模糊であるにも関わらず、どこか不思議な説得力がある。
 
 年長者としての言葉に、重みが宿っている。
 
「………………」
 
 まだ計りかねている。理解したなどとはとても言えない。
 
 だが…………
 
「(北郷、一刀か……)」
 
 桔梗が見たものの一端が、焔耶には見えた気がしていた。
 
 
 
 
「ふんっ! やあっ!」
 
 成都の城内にも入らず、僅か離れた森の中で、一人の少女が一心不乱に戦斧を振り回す。
 
 あれ以来、一刀の顔を見ようともしない舞无だった。
 
「(どうして………)」
 
 無論、成都の軍議にも参加していない。黙々と荷物のように軍の隅について来て、今ここにいる。
 
「(どうして………!)」
 
 これまで過ごした恋との日々、一刀の笑顔、それら大切な思い出が……あの時の一刀の人形のような顔に塗り潰される。
 
「(どうしてっ!)」
 
 行き場の無い憤怒を樹木にぶつけ、戦斧の一撃で薙ぎ倒す。もう何本目か、巨木が音を立てて崩れ落ちた。
 
「はあっ……はあっ…………はぁ……」
 
 しかし……いくら力任せに暴れたところで、気が晴れるわけもない。
 
 虚しさと淋しさだけが残って、力の抜けた掌から戦斧が零れ落ちた。
 
「……気ぃ済んだか?」
 
「ダメだ、済まん………」
 
 その背中に、半刻ばかり静観を貫いていた霞が声を掛ける。
 
「……自分も、一刀にとって恋が軽い存在やって、本気で思っとるわけやないやろ」
 
「…………………」
 
 霞の確認にも、舞无は何も返さない。納得出来ない、したくないという剛情が誰の眼にも見て取れる。
 
「ったわ!?」
 
 霞はそんな可哀想な肩を抱いて、自分もろとも無理矢理に座らせた。
 
 互いが同じ方向を見ている、顔色を窺えない。話しにくい事を話すための体勢だった。
 
「一番辛いはずの一刀が、健気に歯ぁ食い縛って堪えとるのに……それでウチらが泣いとったら報われんやろ。一刀も……恋も」
 
「……………報われる、だと?」
 
 宥めるようなその言葉が、舞无の神経を逆撫でる。
 
「死んだ人間が何をされれば報われると言うのだ! 恋は死んだ……もういない……っ……」
 
 形相を変えて掴み掛かった舞无は……そのまま力無く崩れ落ちる。
 
「私……まだ一度も恋に勝ってないのに……っ……恋はもういないんだ……!」
 
「…………………」
 
 胸に縋りついて泣きじゃくる舞无の背中を、霞は優しくさする。母が子供にするように、何度も何度も。
 
「一刀が一番辛いのだって解ってるもん……! でもっ……あんなのヤダァ……!」
 
「………ああ、そやな」
 
 全く繕わない、剥き出しの悲哀。今の一刀とは真逆の姿。
 
「……ちょっとはアンタを見倣うくらいで、丁度ええのにな………」
 
 純粋な心は傷つきやすい。現実を受け入れるのにも時間が掛かる。
 
 そう出来る事に小さな羨望を覚えながら、霞は見守る立場に徹し続けた。
 
 ―――日が沈み、涙が枯れても、ずっと……。
 
 



[14898] 九幕終章・『消えない傷』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/02/20 07:08
 
 成都の庭園の東屋。いつまでも泣き止まない雛里に付き添っていた稟の許に………今まで姿を見せなかった散がやって来た。
 
「空いてますか」
 
「……私は何も言っていませんが」
 
 稟の返事も待たずに、散は稟の膝で眠る雛里の顔を覗き込む。泣き疲れて眠ったその目元は、涙で少し腫れていた。
 
「……こういう時、子供は損ですね。自分を誤魔化して受け流す事が出来ませんから」
 
「むしろ溜め込まずにわんわん泣いた方がいいって見方もあるかな、と思いますよ。良いすとれす発散になるらしいので」
 
 机を挟んで向かい合わせに、稟と散は挨拶代わりの会話を交わす。おそらく、成都にいる北郷陣営で一番“大丈夫”なのはこの二人。
 
 その片割れである散が、ドンッと机に酒壺を置いた。
 
「というわけで、呑りますか」
 
「……貴殿は酒は呑まないのでは無かったんですか」
 
「たまにはアリかな、と」
 
 またも返事を聞かずに、散は酒を杯に注いで差し出す。勝手な行動に多少ムッとはするものの、稟はそれを素直に受け取った。
 
 稟も……少し呑みたい気分だった。
 
「………………」
 
「………………」
 
 二人、静かに杯を重ね続ける。
 
 あの時……散が不覚を取らなければ、稟が敵の目論見を看破していれば、こんな事にはならなかったかも知れない。
 
 しかし……誰もその事で二人を咎めない。いっそ罵声でも浴びせてくれた方が楽になるのかも知れないが、それは罪悪感を和らげるだけの自己欺瞞に過ぎないのだろう。
 
 稟も、散も、それを解っている。だから互いに言及する事も無い。
 
 不意に、散がぼんやりと口を挟んだ。
 
「何を考えてんですかね、あの大馬鹿は」
 
「一刀の事ですか」
 
「ええ」
 
 稟の確認を肯定して、散はまた酒を呷る。胸の奥に靄が掛かったようにスッキリしない。
 
「それでもああいう馬鹿は嫌いじゃなかったんですけどね。今は……なに考えてんだかさっぱり解りません。あそこまで魏延を庇う理由があるのかな、と」
 
 王のくせに、自分が犬死にすると判りきっている状況でさえ仲間を切り捨てない馬鹿な男。それが……仲間の仇を己を殺してまで許す。
 
 二つの姿が散の中で一致しない。同一人物と思えない。
 
「………別に、魏延を庇ったわけではないと思いますよ」
 
「じゃ、別の理由が?」
 
 しかし稟には、何となく解っていた。曖昧な感覚……しかし確信に近いそれを散にきっぱりと告げる。
 
「一刀殿が、今でも恋の事を好きだからです」
 
「……………………」
 
 しばし呆気に取られていた散だが、ややあってから溜め息を吐いて椅子に座り直す。
 
「納得いきませんか」
 
「いえ……単純な理由で却ってスッキリしました。軍師さんみたいな知的たいぷが言うと、妙な説得力がありますね」
 
 流石に一刀に直接問いただす気にはなれなかったが、一番一刀と付き合いの長い一人である稟の言葉で十分だった。
 
「普段ああでも、一刀殿は誰より強いですよ。こんな事で己を見失ったりはしない」
 
 一杯。
 
「惚気にしか聞こえないかな、と。それに、“こんな事”って割りには壊れかけてるみたいですが?」
 
 また一杯。
 
「勘違いしないで下さい。恋を軽んじているわけではありません。ただ、誰も報われない行為を追って、さらなる喪失を重ねる愚者ではないと言っているだけです」
 
 さらに一杯。二人は次々に杯を重ねる。
 
「確かに、あれほど復讐って言葉が似合わない男も他にいませんけどね。…………にしても」
 
 しかし…………
 
「……酔えませんね」
 
「………ええ、不味い酒です」
 
 いくら呑んでも、二人は酒に溺れる事は出来なかった。
 
「…………………」
 
 そんな稟の膝の上、微睡みの中で二人の会話を耳にしながら、雛里は思う。
 
「(……ご主人様は、優しいご主人様のまま……)」
 
 だからこそ、悲しい。
 
「(……どんなに悲しくても、恋さんのためなら堪える事が出来る……)」
 
 だからこそ、傷が癒える事もない。
 
「(……ご主人様が自分を見失うとすれば、それはきっと……)」
 
 だからこそ、二度と繰り返してはならない。
 
 
 
 
 成都の城壁。高い場所から北方の空を眺めていた少年の頬を、涼やかな風が優しく撫でる。
 
 まるで慰められているかのような気分になって、少年……一刀は、頬を煩わしそうに擦った。
 
 擦って……その後であまりの余裕の無さに落胆する。安定しない自分の心を嘲笑うように、渇いた吐息が漏れた。
 
「………やっぱり、上手く笑えてなかったかな」
 
「零点だ」
 
 トン、と軽い音を立てて、一刀の背後に白い影が降り立つ。
 
 鐘楼の上から一刀が気持ちの整理をするのを待っていた……星。
 
「そもそも慣れぬ事をしようとするのが間違いだ。感情を殺して仮面を被るなど、一刀には似合わんよ」
 
 返す言葉もなく、一刀は苦笑いを浮かべるしかない。まったくいつも通りに振る舞っている上に、こうして他の誰かまで見守っている星に比べて、自分のなんと腑甲斐ない事か。
 
 今も、まともに星の顔を見られない。
 
「……恋と、約束したんだ。強くなるって………」
 
「………左様か」
 
 一刀に自分の顔は見えない。だから、あの時己がどんな笑顔を作っていたのか、本人にはわからない。でも……それを見た皆の顔ははっきりと見えていた。
 
「これで……よかったんだよな……」
 
 胸の痛み、心の渇き、皆の悲しみ……堪えれば堪えるほど判らなくなる。自分らしい自分が、自分が何かを守れているのかが。
 
 外壁も支柱も失い、脆さを弱さを隠しきれない一刀の独白を…………
 
「……ふぅ、呆れたな。全て承知の上で肩肘を張っているのかと思っていたのに、未だ迷っておいでか」
 
 星が、どこまでも軽い嘆息で払う。払って、一刀の肩を掴み、強引に正面から向かい合った。
 
 綺麗な紅の瞳が、一刀の瞳の奥の光を探す。
 
「顔を上げろ、胸を張れ。貴方は……天下無双が愛した男なのだから」
 
「…………!」
 
 強い言葉が、優しい瞳が、空っぽになった胸の奥で限り無く鮮烈に響いた。
 
 これ以上己が傷つく事を怖れて作った壁を砕いて、独り彷徨っていた一刀の迷いを打ち晴らして。
 
「……………そっか」
 
 小さな、力の無い納得。しかしその中に“一刀”が居る事を確信して、星は穏やかに頬笑む。
 
 俯いた顔を上げ、無限に広がる青空を見据える一刀の背中に、小さな重みが凭れ掛かった。
 
「情けなくてもいい、みっともなくてもいい。ただ……己一人で背負い込む事だけはやめてくだされ」
 
 心地良い重みと穏やかな声音が教えてくれる。決して独りにはしないと。
 
「痛みを感じる事も、涙を流す事も、全て含めて貴方だ。そして……それこそが貴方の強さ」
 
 背中合わせに、右手が左手に重ねられる。
 
「そんな北郷一刀を、我らは慕い、愛したのですから」
 
「………っ…………」
 
 触れ合った掌から伝わる体温が……泣きたくなるほど暖かかった。
 
 一粒。
 
 一粒だけ……涙が一刀の頬を流れる。雫は緩やかに零れ落ちて……一刀の右手を濡らした。
 
 その中に在るものを見つめて、一刀は思う。
 
「(恋…………)」
 
 この痛みこそが、彼女との約束を果たせている証だと言われて……少し、救われた気がした。
 
 でも…………
 
「(もう一つの約束は、また破っちゃったな………………)」
 
 消えない傷と癒えない痛みを胸に刻み、それでも日々は巡り続ける。
 
 半年の時を経て………覇王との最後の決戦へと繋がっていく。
 
 



[14898] 十幕・『乱世の終焉』一章
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/02/24 19:50
 
 一刀ら北郷軍が大きな痛みと喪失と引き換えに蜀の地を制圧してほどなく、劉表の治める荊州にて内紛が勃発した。
 
 その実体は、主君である劉表が重病を患った事によって浮き彫りとなった、後継者争いである。
 
 劉表には二人の子供がいた。一人は、今は亡き先妻の娘・劉キ。もう一人は、今の妻が生んだ劉ソウ。
 
 長女の劉キは聡明だが病弱。弟の劉ソウはまだ幼く、とても後継者など務まらない。悩んだ末、劉表は『家は長子が継ぐのが世の理』と、劉キを後継者に選んだ。
 
 しかし、その決定に不満を持つ人間が二人いた。劉ソウの母である蔡夫人、そして……その兄に当たる蔡瑁だ。
 
 蔡瑁は劉表が病死するや否や、劉表の遺言を揉み消して甥である劉ソウを王位に着かせようと画策した。
 
 蔡瑁が元々位の高い将軍だった事もあり、荊州は乱れに乱れた。誰が敵で、誰が味方かも判らない。権力闘争の果てに謀殺される事を怖れた劉キは……内ではなく外に助けを求めた。
 
 これまで度々劉表に同盟を働き掛けて来た、新野の劉玄徳。徐州から逃げ延び、北郷軍に匿われた桃香である。
 
 桃香はすぐに立ち上がった。蔡瑁の行為を明確な反逆であると糾弾し、外部から積極的に介入したのだ。
 
 元々、蔡瑁の立場を考えればこの内紛の発端が彼の恣意によるものだという事は誰にでも判る。劉キが桃香という味方を得た事で、これまで蔡瑁を怖れて頭を垂れていた旧臣たちは次々と劉ソウから離れて行った。
 
 あっという間に内紛は終結し、捕えられた蔡瑁は位を剥がれて平民に落とされた。桃香の口添えもあり、自分の意思が介在する余地が無かっただろう劉ソウは罪を問われず、姉弟はその手を取り合う。
 
 内紛は終結したが、今回の事で『自分では荊州を守れない』と痛感した劉キは、王として荊州の地を桃香に託す決断をする。
 
 かくして天下は分かたれた。桃香と雪蓮に、一刀と争う意志は無い。西南の十呉と東北の曹魏………大陸の覇権を巡る最後の決戦が、すぐそこにまで迫っていた。
 
 
 
 
「…………………」
 
 暗くて冷たい、沼のような場所に……私は一人立っている。
 
 周りにいるのは、人間。少なくとも人間の形はしている。けれど……私には溝鼠か屍鳥にしか見えない。
 
「(醜い………)」
 
 汚い泥の中で他の生き物を食い物にして、汚らしい我が身を浅ましく守ろうと足掻く畜生の群れ。
 
 私は……そんな場所に立っている。
 
「(………普通なら、ここから逃げ出したいと願うのでしょうね)」
 
 でも私はそうしなかった。こんな汚い泥の中でも懸命に生きて、そして……食い物にされてしまう哀れな生き物がいる事を、知っていたから。
 
「(私が、変えてあげる)」
 
 ここから逃げ出す事は容易い。けれど、敢えて私はこの場所に留まる。穢れた沼から抜け出すのではなく、穢れた沼を清廉な泉に変えるために足掻く。
 
「(焦るな………)」
 
 でも、まだ力が足りない。今、周りに犇めく畜生共を駆逐しようとすれば、逆に私が喰い散らされてしまうだろう。
 
 何年も何年も、虫酸が走るこの世界で力を蓄え………そして私は立ち上がる。
 
 手にした大鎌で人の皮を被った餓鬼畜生を斬り倒し、沼から穢れの源を断つ。
 
 ………思っていたほど、簡単な事ではなかった。背中を見せれば喰いつかれる。油断すれば引き裂かれる。両足にまとわりついた泥に体力を奪われる。
 
「(………半端な覚悟じゃ、何も変えられない)」
 
 戒めて、歯を食い縛って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って………………沼に見えたはずのそこは、いつしか海ほど巨大に見えた。
 
「(…………なに?)」
 
 がむしゃらに戦い続けていたら、目の前に………一羽の鳥が舞い降りた。
 
 雲一つ無い青空から飛んで来た無邪気な鳥が、優しい音色で囀っている。そうしているだけで、世界は綺麗になれると言っている。
 
「(………笑わせないで)」
 
 どこまでも綺麗な白い鳥。だけど………この世界には似合わない。
 
「(そんな事で変えられるなら、どうして私は戦ってると言うの……?)」
 
 今は、貴女の姿が目障りで仕方ない。そんな思考に囚われて、不意に………私は止まってしまった。
 
 振り返って、眼を向けて……漸く気付く。
 
「(………そんな事で変えられるなら、どうして…………)」
 
 自分の周りに、血と屍しか無い事に。
 
「(私の手は、こんなに血に塗れているの……)」
 
 ……………………
 
 
「…………酷い夢」
 
 寝汗の不快な湿り気に目を覚ます。たかが夢、と笑い飛ばしたいところだけれど、この時期にこんな夢を見る……という事自体が気に入らない。
 
 迷いなんて、疾うの昔に捨てている。“こんな事”解りきっている。なのにこんな夢を見る、なのにこんなに汗をかく。自分が弱くなったような気がして気に入らない。
 
「もうすぐよ………」
 
 夢などではなく、現実で血に塗れた掌を見つめ、それを誇らしく握り締める。
 
「………もうすぐ、新しい時代が始まる」
 
 ―――誇り高い覇王。いつだって、それが私なのだから。
 
 
 
 
「…………………」
 
 城壁の縁から、遠く、北方の空を眺める。この先に……私たちの命運を分ける最後の戦いが待っている。
 
「(今度は、私たちがお前を助ける番だ)」
 
 心の中で自分に言い聞かせても、虚しさが残る。あの時のように、私は何も守れないのではないか。まして………
 
「(だから、なのかしら)」
 
 まだ今一つ馴染まない額の刻印に触れて、思う。私がこれを受け継いだ意味を。
 
「……ねぇ、思春。姉様はどうして、こんな時節に王位を継承させたのかしら」
 
 後ろも向かずに、そこにいるはずの親友に相談してみる。打てば響くように応えが返って来た。
 
「……こんな時節だからこそ、ではないでしょうか。蓮華様は万一にも失ってはならない呉の珠玉。その戒めとして」
 
「………私が珠玉、か………」
 
 思春の応えに、胸に小さな痛みが走る。姉様は昔からそうだ。何かにつけて私に玉を任せて、自分は平然と死地に飛び込む。
 
 『蓮華さえ生きていれば、自分に“万一”があっても構わない』。姉様の行動の端々からそんな思惑が見えて………そういう所が昔から嫌いだった。
 
 これから始まる大戦も………王位を明け渡した姉様は、唯一人の孫伯符として先陣をきる。……私に、呉の未来を委ねて。
 
「蓮華様が待っていて下さるからこそ、我らは安心して戦いに行けるのです。貴女の存在そのものが、呉の礎なのですから」
 
「…………そう」
 
 慰めではない、思春の心からの言葉もどこか複雑に思えてしまう。
 
 出来る事なら―――
 
「(私も貴方と肩を並べて、未来を切り開きたかった………)」
 
 ―――せめて信じて待とう。今の私に許されているのは、それくらいしかないのだから。
 
 
 
 
「そこだー! 行けー! って言うか助けて~!」
 
 地面に描かれた円の中から、桃香さまは一生懸命に何か叫んでいる。
 
 見張りと思われる男児二人を警戒し、“味方”は桃香さまを助け出せずにいた。
 
 『助け鬼』と呼ばれる天界の遊びらしいが、そんなに面白いのだろうか? 桃香さまはとても熱中している。
 
「…………………」
 
 こんな時節だというのに、桃香さまは常と全く変わらない。明るく、元気で、町を歩けば子供に慕われ、一緒になって楽しく遊び、常に笑顔を絶やさない。
 
 そう……こんな時だと言うのに………。
 
「あ~あ~、負けちゃったー」
 
「負けなければ、いつまで経っても終わりが来ないではありませんか。それにこの法則では、“鬼”の人数を少し減らさないと対等とは言えません」
 
「そうかなぁ?」
 
「そうです」
 
 味方が全員捕まってしまった桃香さまが、嬉しそうに肩を落としてこちらにやって来た。捕まってからはおとなしく助けを待つしかなかったのに、どうしてあんなに熱中出来るのか。
 
「愛紗ちゃんも混ざれば良かったのに」
 
「走力に差がありすぎます。それに私は……上手く子供に合わせる自信がありません」
 
 いくら桃香さまでも、子供より足が遅いわけがない。子供たちが遊びを楽しめるように加減して、そんな子供たちを見て自分も楽しむ。……私には真似出来ない。
 
「じゃあさじゃあさ! あんまり体力とか関係ない遊びならいいでしょ? かくれんぼとかならどうかな」
 
 天下を分ける大戦を前に、穏やかな覚悟を決める器も、真似出来ない。
 
「………辛くは、ありませんか?」
 
「んー…………?」
 
 気付けば、そんな質問を口にしていた。怖くないはずも、不安が無いはずもない。
 
 ずっと夢見ていた平穏と、これまで育んで来た大切な全てが今、同じ秤の上に乗っているのだから。
 
 桃香さまは少し白を切るように宙を仰いで、やはり……穏やかに頬笑んだ。
 
「……怖くない、なんて言ったら嘘になっちゃうね。本当なら、曹操さんとだって戦いたくないもん」
 
 そう……桃香さまは、曹操を一人の王として認めている。……いや、敬っているとさえ言える。
 
 勝敗如何に関わらず、この戦いは桃香さまにとって悲しみしか生まない。
 
 私は、許せない。桃香さま自身が許されても、桃香さまの優しさを踏み躙る曹操を……私は許せない。
 
「でも……このまま何もしなかったら、いつまでも戦いは終わらない」
 
 それでも、桃香さまの表情に悲痛の色は見えない。それどころか、何かを見つけたような晴れやかさまで垣間見れる。
 
「愛紗ちゃんや鈴々ちゃんと立ち上がった時と、同じだよ。目の前で誰かが傷つくのが解ってて、黙ってるなんて出来ないもん」
 
 あの頃と同じ。そう告げる桃香さまの横顔は、あの頃とはまるで違って見えた。
 
「逃げたくない。わたしにだって、きっと出来る事があるはずだから」
 
「(ああ…………)」
 
 明るく、強く、そして誰よりも優しい。見る者全てに力を与える、太陽のような方。
 
「(貴女を主と仰いで、良かった………)」
 
 今までも、これからも、ずっと貴女について行く。私の主は、桃香さま唯ひと――――
 
「ッッ………!?」
 
 不意に………頭が割れるように痛みだす。そしてそれ以上に……胸が、痛い。
 
「(……………っ馬鹿馬鹿しい!)」
 
 その痛みに、私自身に、愕然とする。
 
 たった今、桃香さまへの尊敬の念を強く抱いたというのに……私は………
 
「(今のは……一体………)」
 
 “桃香さまの臣である私”に、強い胸の痛みを覚えていた。
 
「………愛紗ちゃん?」
 
 気遣わしげに私を見て来る桃香さまの姿が………
 
『愛紗……?』
 
 ――――誰かと、重なって見えた。
 
 



[14898] 二章・『今ここに在るものを』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/02/26 20:37
 
「ん~……………」
 
 睡眠中の頬に、ペロペロと撫でるような生暖かい感触を覚えて、北郷一刀は目を覚ます。
 
「セキトー……あと五分………」
 
「わうっ!」
 
 往生際悪く枕に顔を埋めた父親の耳を、セキトは肉球で軽くはたいた。「わかったよ、もう……」と、一刀は目を擦りながらノロノロと起き上がる。
 
「お前は昼寝してるから朝辛くないんだろうけど、俺はこれでも忙しいんだからな?」
 
「くぅん?」
 
 悩み一つ無さそうな小動物を脇下から抱え上げて睨んでみるも、当のセキトは可愛らしく首を傾げるだけだ。憎めない奴である。
 
「顔洗って来るから、先に庭に皆集めといて」
 
「わん!」
 
 元気の良いセキトの返事を聞き、一刀は寝台に手をついて体を起こす。これから、朝練の前にセキトらに朝食を与えなければならないのだ。
 
「…………もう、半年か」
 
 忘れる事などあり得ない想いを握り締めて、一刀は静かに自分の剣………その柄を見た。
 
 
 
 
 セキトらの朝食の最中、音も無く一刀の背後に影が降り立つ。
 
「一刀様」
 
『ッッ!!?』
 
 その呼び掛けに、一刀とセキトらはビクッと背中を震わせた。ここは長安の恋の屋敷。城と違っていつも誰かが居るわけではない。
 
 振り向けばそこに、褐色の肌と長い黒髪を持つ少女。
 
「みっ、明命? 相変わらずの忍者っぷりだなぁ」
 
「……にんじゃというのは良く判りませんが、城ではなくこんな屋敷に忍び込むくらい、盗人にだって出来ますよ。私が言うのも僭越に過ぎますが、一刀様は少し無用心過ぎです」
 
「ははっ、よく言われる。……でも、俺がここに出入りしてなかったら人和と会う機会も無かったかも知れないし、結果オーライでいいじゃん」
 
 耳に痛い忠告を苦し紛れに誤魔化して、一刀は未だに石化している動物たち……の、先頭にいたセキトにデコピンを張る。
 
「って言うか、お前らは野生の本能忘れ過ぎだからな」
 
 明命の能力を差し引いても頼りない獣たちに、一刀は落胆を禁じ得ない。仮に泥棒が侵入して来ても、平気な顔して戯れつきかねないから始末が悪い。
 
「この子たち皆、一刀様が飼っているんですか?」
 
「飼ってるってより、家族だよ。俺はこいつらの父親みたいなもんだから」
 
 お父さん、いつかそう呼ばれた事を思い出して、一刀は眼を細めた。その横顔に、何か立ち入り難いものを感じて、明命も口をつぐむ。
 
 そんな明命の様子に気付いているのかいないのか、一刀は何気なく重要な話を始めた。
 
「人和たちは、やっぱり?」
 
「はい……。一月ほど前から河北の公演に従事しているようです」
 
「……そっか。なら、やっぱり綱渡りになるんだろうね」
 
 たったそれだけ、短い確認だけで話は終わり、一刀は剣の柄に眼を向ける。釣られて、明命もそれを見つけた。
 
「戦場に持ち出す剣に、子犬の人形を付けているんですか?」
 
「うん、可愛いストラップだろ? あげないけど」
 
 彼を守って散っていった少女がそうしていたように、そこにはセキトの人形が結びつけられていた。
 
 
 
 
 これから始めるもののために、今在る全てを噛み締めるように、一刀は長安を練り歩く。
 
 まず目についたのは、祭りのような賑わいを見せている演習場。ふらりと足を向けて見る。
 
「一刀やーん♪ どないしたん?」
 
「ちょっと散歩ってトコ。霞たちも、随分賑やかだな」
 
 そこに居たのは、霞、散、そして白蓮。兵たちに酒と牛肉を大盤振る舞いし、飲んで騒いでのお祭り騒ぎである。
 
「平たく言うと、最期の晩餐かな、と」
 
「縁起でも無い事言うなよ!」
 
「おや、そうやって過剰反応するって事は、また随分と怯えてるようで。縞無し」
 
「縞無しって言うな!」
 
 相変わらずの散と白蓮のやり取りを聞き流せずに、一刀は散の手首を掴み、そのまま抱き寄せた。
 
「冗談でも、そういう事言わないでくれよ」
 
 縋るような懇願を受けて、二人の時が数秒止まり、また弾けたように動き出す。
 
「ごふっ!?」
 
「所構わず発情しないでください……と言うか、あなたの態度の方がよっぽど死亡ふらぐになってるんじゃないかな、と」
 
 一刀の鳩尾にめり込む、散の鉄拳によって。
 
「オ……オーケー、それがお前だ……」
 
「何も殴る事ないだろ……いや、今のは北郷も悪いけど」
 
 腹を押さえて地に伏す一刀を、かがみ込んだ白蓮が指先でつつく。せっかくの穏やかな緊張感を台無しにされて眉をしかめた霞は、溜め息混じりに一刀を助け起こす。
 
「ま、最期の晩餐ってわけやないけど、これからこいつらには大仕事してもらうわけやん? 美味い肉と酒で騒ぐくらいさしたっても、罰当たらんと思ったんよ」
 
「確かにね………」
 
 今度の相手は、大陸の半分を手中に治めた曹魏。誰も彼もが命懸けで戦いに臨む事になる。その中でも、霞たちの部隊は一際危険な役割を担うのだ。
 
 立ち上がる頃にはけろっと回復していた一刀は…………
 
「(ありがとう……)」
 
 宴の妨げにならないように心の中で礼を告げて、小さく頭を下げた。
 
 
 
 
 一刀の徘徊は続く。町中を歩いていたら、見知った顔が三つ並んでいたのを幸いにと、甘味処に誘う事にする。
 
「珍しいですね、一刀殿の奢りとは」
 
「あ、あの……わたしは自分で……」
 
「雛ちゃんも気にしないでいいのですよ? あれなら、風がお兄さんの来月のお小遣いに少し色つけときますからー」
 
 稟、雛里、風。北郷軍の誇る三軍師である。
 
「いいっていいって。三人は軍略の本とかで金使うだろ? 俺は食い物以外で金掛ける事ほとんど無いし、たまには持たせてよ」
 
 少ない小遣いで背伸びしてみる一刀。三人とも一刀にとっては恋人でもあるのだ。男として、小さな見栄の一つも張りたい所であった。
 
「ホントに色欲以外は無欲だよなー、兄ちゃん」
 
「……いちいち人をスケベ扱いしないと気が済まんのかね、風さんや」
 
「風は何も言ってないですよ?」
 
 悪口を宝慧のせいにしてすっとぼける風の頬っぺたを、一刀は軽くつまんで伸ばす。そんな一刀に、稟は醒めた視線を向けるばかりである。
 
「事実ではありませんか。これだけ見境無しに手を出しておいて、まさか自分が女好きではないとでも思っているのですか」
 
「うっ……そりゃ確かにちょっと気が多いのは認めるけど、見境無しってのは心外だぞ。誰でも好きになるわけじゃないんだから」
 
「………ちょっと…………」
 
 風がからかい、稟が呆れ、一刀がいじけて、雛里が庇い……きれない。他愛ない会話がしばらく続き、ほどほどに和んだ後……雛里が、不安を抑え切れないように真面目な話題を持ち出した。
 
「……“曹軍百万”、勝てるでしょうか……」
 
『……………………』
 
 静寂が、場を支配する。雛里は自分の失言に気付いて口を押さえるが、既に遅い。
 
 しかし……それはそもそも失言ではない。
 
「勝てるよ」
 
 現実に迫る脅威から目を背けるのは逃避でしかない。一刀は不安に揺れた表情で……しかしはっきりと断言する。
 
「桃香がいて…雪蓮がいて…皆がいる。俺さ……今なら、どんな事だって出来るような気がする」
 
 強がりでは決してない。馬鹿がつくほどの信頼が生み出す心強さ。
 
「そんな事を言いながら、自分も限界以上に頑張ってしまうのがお兄さんがお兄さんたる所以なのです。………風はまだ納得してないのですよ?」
 
 承諾はしたが納得はしてない。そんな風の膨れっ面に、一刀はバツの悪い苦笑いを返すしかない。無茶も無謀も百も承知で、それでもやると決めた事だったから。
 
「けど……正直もっと反対されると思ったんだけどなぁ」
 
「一番大切な時に貴殿を信じる事が出来ないなら、私たちは今ここには居ませんよ」
 
 止めて欲しいのか欲しくないのか判らない。複雑で自分勝手な一刀の愚痴を、稟は可笑しそうに笑う。
 
「……英雄と夢想家の違いは一つ。遠大な言葉を現実のものとするか否か、です。ご主人様がわたし達を信じて決断して下さったように、わたし達もご主人様を信じています。ご主人様が、この大陸の未来を切り開く方なのだと」
 
「それは…………」
 
 雛里の過ぎた言葉に、「俺は英雄なんかじゃない」と言い掛けた一刀は、その言葉を飲み込む。
 
 事実はどうあれ、雛里の気持ちを否定する権利は無い。そして……懸けられた信頼から逃げずに、受け止めたい。そう思ったから。
 
 その代わり、言葉は選ぶ。
 
「うん……皆で、勝とう」
 
 どこまでいっても、王らしくはなれない一刀だった。
 
 
 
 
「うらぁあああ!!」
 
 荒々しい轟音を響かせて、巨木がズルズルと崩れ落ちる。その凄まじい一撃を辛うじて避けた二つの巨影が、ドスンと音を立てて着地した。
 
「ぬぅ……! 漢女道を極めし我ら二人と互角に渡り合うとは、ぬしこそ真の武人……否、武士よ!」
 
「これで修行は間に合ったのかしらん、舞无ちゃん?」
 
「ああ……ひとまずこれで、“完成”した」
 
 二つの巨影は………卑弥呼と貂蝉。そして、二人の前で戦斧を振るうのは北郷五虎将が一角……華雄こと、舞无。
 
「お疲れ」
 
「かっ、一刀!?」
 
 そんな三人組に、林の影から静観していた一刀が声を掛ける。突然の恋人の登場に舞无は焦る。
 
「卑弥呼、いつ長安に来てたんだ?」
 
「うむ、近い内に大きな戦があると聞き、ダーリンが放っておけぬと言うのでな」
 
 そんな会話の最中にも焦り、手拭いで必死に汗を拭き取り、焦れったくなって小川まで一直線に走りだす。
 
「………何やってんの、あの子」
 
「も~ご主人様ったらホントに無神経なんだから! 好きな人の前で汗だくなままなんて我慢出来ない、そんな繊細な漢女心がわからないのん!?」
 
「俺は汗くらい気にしないのに………」
 
「それでも漢女は気にしてしまう、気にしてしまうものなのだ!!」
 
「どーでもいいけど、さっきから微妙に字、違わないか?」
 
 元々、化け物に会いに来たわけではない。一刀は小川に駆け出した舞无の後を追う。
 
 
 
 
「…………………………………すまん、またやった」
 
「それはいいけど、一人の時には気を付けろよ。助けが来なかったら洒落にならないし」
 
「…………うん」
 
 汗を洗い流すため小川に飛び込み、そのまま溺れた舞无と、そんな舞无を救出した一刀。
 
 冷えた体を寄せ合って、二人川辺に腰を下ろす。
 
「修行、随分頑張ってたみたいだけど……無理してない?」
 
 高鳴る胸と火照る体を落ち着かせるように、舞无は川面に流れる紅い花弁を見つめていた。
 
 その紅と、肩に触れ合うぬくもりが、固い決意を思い出させる。
 
「もう……恋に勝つ事は二度と出来ない。それでも私は……強くならなければならない」
 
 ギリッと、拳が強く握り込まれる。
 
「……私が守る。恋の代わりに、私が一刀を守るんだ……!」
 
 武人として、女として、決着をつける事が出来なくても負けられない。それは舞无の意地だった。
 
 その固い左拳を、一刀の右手が柔らかく包む。
 
「誰にも、恋の代わりなんて出来ないよ」
 
「っ…………」
 
 その一言に一刀が込めた、恋への愛情。それに鋭い胸の痛みを覚えて、そんな自分を嫌悪する。
 
 しかし…………
 
「それは……舞无も同じだ。恋は恋しかいないし、舞无は舞无しかいない。誰かの代わりになんて、なれるはずがない」
 
 そんな痛みも苦しみも、少年の一言一言が容易く解きほぐし、包み込んでいく。
 
「舞无は舞无として、生き方を選べばいいんだよ」
 
 解は、とっくに出ていた。
 
「一刀を、守る」
 
 愛のために。
 
 ―――ただそれだけで、命を懸けて戦える。
 
 



[14898] 三章・『子供騙し』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/02/28 20:27
 
「…………………」
 
 自室の寝台の上に寝転がり、まだ幼い皇帝は指先で一つの金印を遊ばせる。
 
 龍を模したその印は………玉璽。長らく皇族の手元から離れていた帝の証。
 
「(………本当に“これ”は、曹操の差し金ではないのか)」
 
 洛陽の井戸で一刀が見つけたそれは、連合との戦いの渦中で雪蓮に渡り、さらにその後袁術に渡り、そして何故か劉璋の手に渡り、蜀制圧と共に協君の許に帰って来た。
 
 後に紫苑に聞いた話によれば、己の安全が最優先で滅多に野心を抱く事のなかった劉璋が、漢中侵攻を決めたきっかけが“それ”だったらしい。
 
 玉璽と共に劉璋に天命を授け、その野心を呼び起こさせた一人の占い師。最初は、それが姿を眩ました袁術の手の者ではないかという意見も出たのだが、相談を受けた雪蓮に「あの子にそんな知恵は無い」と断言されている。
 
『……やり方が“らしくない”んだ。それに曹操が新しい王朝を創ろうとしてるなら、簡単に玉璽を手放すとは思えない』
 
 呉軍でも荊州軍でもない、ならば魏軍ではないか? そう訊いた協君に、一刀は躊躇いなく首を振った。
 
 一刀本人には、そういった妖しい輩に心当たりがある。しかしそれは『前の世界』の話であり、この世界ではあり得ない……と、貂蝉からお墨付きも貰っていた。
 
 未だに、その占い師の消息は掴めていない。そもそも『全身を外套で隠した青年』だけでは情報が少な過ぎるのだ。その占い師が外套一つ脱ぐだけで手掛かりが無くなってしまうのだから。
 
「(ならば……“勢力”と呼べる手合いではないのだろう。我らは劉璋とは違う。懲りもせずに世迷い事を吹いて回れば、即座に処断して終わりだ)」
 
 兎にも角にも、それらは全て大事の前の小事として片付けられる。天下を分ける戦を前にして、占い師一人に気を懸けてなどいられない。
 
「…………………」
 
 協君は徐に立ち上がり、部屋の壁に飾られていた宝剣を手に取る。
 
「(曹操が打倒せんと志すのが、腐敗しきった漢王朝だと言うのなら………朕も、向き合わねばなるまい)」
 
 傷一つ無く、血の一滴も吸った事の無い細身の剣は………幼い少年の手には、十分過ぎるほど重かった。
 
 
 
 
「はっ! この! っりゃあ!」
 
「どうしたどうした! そんなんじゃご主人様にも勝てないぞ!」
 
「………そこで俺を引き合いに出すなよ」
 
 城の中庭。二人の従姉妹が鍛練に励む姿を、一刀は和かにお茶をすすりながら眺めていた。
 
 模擬槍が交叉し、金属音を響かせ、少女らの汗が飛び散る。
 
 しかし、それも終わりを迎える。
 
「だッ!!」
 
「あっ!?」
 
 乱舞の最中、一際鋭く奔った翠の一振りが、蒲公英の模擬槍を叩き落とした。これが……本日の十本目に当たる。
 
「はい、これで今日はおしまい! 段々よくなって来てるじゃんか、たんぽぽ」
 
「あ~あ、また一本も取れなかった~………」
 
 快活に笑う翠の賛辞も余裕から来る嫌みにしか聞こえない。不貞腐れ気味にペッタンと座り込む蒲公英の肩を一刀は軽く叩き、ついでのように手拭いを掛けた。
 
「拗ねない拗ねない。たんぽぽの事も、頼りにしてるよ。もちろん、翠も」
 
「えへへ……♪」
 
 褒められた途端に笑顔になる。一刀がこうする事まで計算づくだったのではないかと思うほど変わり身の早い蒲公英だった。
 
「あたしら新参の降将だけどさ。それでも……“ここ”は大好きなんだ。絶対に負けたくないって思うよ」
 
「ご主人様もいるし?」
 
「たたたたたんぽぽーー!!」
 
 しんみりと眼を逸らしながらの翠の決意も、たんぽぽは軽く茶化して逃げ回る。頼もしい事この上無い。
 
「今さら隠してどうすんの? たんぽぽはご主人様大好きだよ♪」
 
「だからお前はどうしてそういう恥ずかしい事を大声で言えるんだよ!?」
 
「だって、お姉様みたいに騒ぐ方がよっぽど恥ずかしいもん」
 
「*Σ♪∇☆○♂!?」
 
 ほどほどに翠を打ちのめしてから、蒲公英は軽い足取りで一刀に駆け寄って来た。からかいのタネにされた一刀としては、曖昧な苦笑いを見せるしかない。………というより、翠が過剰に恥ずかしがるせいで、一刀も妙に気恥ずかしい気持ちになってしまっていた。
 
「これが最後って言うなら、たんぽぽだって足手まといになりたくないしね。ご主人様や星姉様に、格好いいトコ見せなきゃだもん」
 
 悪戯好きな笑顔に僅か、健気な覚悟が垣間見える。
 
「………ありがとな」
 
 万感の想いを込めて、一刀はその一言を二人に贈る。
 
 
 
 
 街から外れた一つの墓地、一つの墓石の前で……蒼い髪の少女が黙祷を捧げる。墓前に添えられているのは肉まんと……ここに眠る少女に良く栄える、深紅の花。
 
 すぐ後ろで、同じように祈りを捧げる主の気配を感じながら、少女……星は、しばしの冥福を続ける。
 
「ここに、居たんだな」
 
「一刀が仲間の許を訪れ回っているのは聞いていたし、最後にここに来る事も解っていたからな。……少し、張り合いたくなった」
 
 どこまで本気か解らない。相変わらず掴み所の無い空気を纏う、星。
 
「珍しいね、星がそういう事言うの」
 
「おや、らしくもなく感傷的になってしまったか」
 
 寂しくて、どこか優しい。残された者だけが感じる風が、二人を肌寒く包み込む。
 
「……少しだけ……恋が羨ましい……」
 
 零れるように、小さく、吐息と共に星の本心が紡がれる。愛する主と、尊敬する仲間の前だからこそ。
 
「私が消えたら………恋のように、主の心に居座る事ができますか……?」
 
 冗談の中に一滴混ざる本心に、一刀は……胸を刺されるような恐怖を覚えた。その気配を感じて、星は満足そうに眼を伏せる。
 
「俺は……もう……」
 
 一刀の脳裏に、決して忘れる事など出来ない姿が去来する。月、詠、そして恋。一刀が愛し、求め、失ってしまった……大切な人。
 
「誰一人、仲間を失いたくない……!」
 
 身を切るような苦しみから絞り出された、強過ぎる切望。そんな痛みを感じる少年だからこそ、星は強く、愛しく想う。
 
「主にとって一番大切なのは、王朝の復興でも大陸の安寧でもなく、“我ら”ですからな」
 
 魂の命ずるまま、言の葉を紡いでいく。
 
『俺が一国の主だから、皆が周りにいてくれるってのは解ってる。だから俺にとって、国なんてものは……みんなといるための道具でしかないんだ』
 
『みんなと一緒に幸せにやっていけるなら、屋台の親父だって国の王だって何だって構わないのさ。たまたま皆が一番幸せになれる手段が、一国の主だったってだけでね』
 
 心の奥深くに眠る、言葉に出来ない確信に従って。
 
「こんな自分勝手な君主を、見限ったかい?」
 
 そんな星に、一刀もまた……いつかと同じように訊き返した。いつかと同じ応えが返ると願って。
 
「………主は、ずるいですな」
 
 その願いは、叶えられる。一刀と星、双方が望む事によって。
 
「そんな事を言われては、命を懸けてお仕えするしかないではありませんか」
 
 過去をなぞるのはそこで終わり、一刀は再び願う。あの時よりずっと強く、ずっと強く想いを込めて。
 
「星は……死なないでくれよ……」
 
 それは、星も同じ。
 
「言ったでしょう。貴方が望むなら……地獄の門番すらも、討ち倒してご覧に入れると」
 
 自身どころか、少年の恐怖をも吹き飛ばしてしまうような不敵な笑みを浮かべて……星は静かに剣を抜いた。
 
「それほど不安に思うなら、一つ試してみましょうか?」
 
 一刀に、そして恋の墓石に見せるようにして、星は一つの石塊に目を向ける。
 
 そして、何のつもりか解らない一刀の前で、一閃―――鋭く石を断ち斬った。
 
「? 何を………」
 
「願を懸けたのですよ。我らが大望、もし叶うならばこの石よ斬れろ、と。見事に真っ二つですな」
 
 子供騙しな安心のさせ方、でも……そんな心遣いが嬉しくて、一刀は頬笑む。
 
「では、主も。これから大陸の未来を切り開こうという御方が、石一つ斬れぬのでは話になりませんからな」
 
 石など斬った事は無い。でも今はこんな子供騙しがどうしようもなく頼もしくて、一刀は勧められるままに剣を抜く。
 
「(恋………行って来るよ………)」
 
 その柄頭に、形見の姿を認めて――――
 
「(きっと、勝つから―――――)」
 
 一筋の光が、石を斬り裂く。
 
 その“子供騙し”が残した軌跡は、一刀と星の思い出として刻まれ……後に十字紋石と呼ばれる事となる。
 
 それぞれがそれぞれの想いを抱いて、己が背負うものを見つめて……乱世の終焉へと彼らはその足を進めて行く。
 
 



[14898] 四章・『新たな時代』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/03/02 17:06
 
 眼前に広がり満ちるのは、覇王の名の下に剣を取った群青の獣たち。
 
 曹軍百万、と言えどそれは魏領全体の兵力。先駆けて北伐を開始した呉軍と戦う為の兵、そして時を同じくして王都に攻め込む劉備軍に対する為の兵を割いてなお……大地を埋め尽くすその勇壮。
 
「(流石に、壮観だな…………)」
 
 絶望的とも呼べる脅威を目の当たりにして、一刀は小さな苦笑を浮かべた。魏の大軍の中で孤立無援の戦いを演じた事もある一刀にとって、これは主観的な恐怖を呼び起こす要素にはならない。
 
 そもそも一刀は、『前の世界』から自軍より遥かに数で勝る大軍とばかり戦って来たのだ。今さら怯むわけもない。
 
「…………………」
 
 それでも、一刀の冷静な部分ははっきりと恐怖を感じていた。勝ち目の薄さ、そして敗けた時に失うものを思えば、体の底から震えが走る。
 
 しかし同時に、震える体を支えてくれる存在も感じていた。
 
「さて、鬼が出るか蛇が出るか………」
 
「そんな可愛らしいものならこちらも楽なのですが………随分と落ち着いておられるな?」
 
 怖れるものは何も無い。そんな気持ちを込めて、一刀は星に笑顔を向けた。彼女に教わった、どこまでも不敵な笑みを。
 
「落ち着きもするさ。俺には、百万の軍勢よりよっぽど頼りになる仲間がいるんだから」
 
「ふっ、その意気だ」
 
 身を奮い立たせ、決戦に臨む気概を組む一刀らの視線の先で、魏の軍勢が中心から割れた。
 
 己の為に開かれたその道を、一人の少女が威風堂々と進み出る。その背に大軍を従え、時代そのものに挑み掛かるような覇気を充溢させて歩く魏王……曹操。
 
「我が名は曹孟徳! この乱世を終わらせんが為に立ち上がった奸雄なり!」
 
 己の名を叫び、奸雄と称し、華琳は誇らしく胸を張る。
 
「私は世に生を受けてより今まで、この大陸の姿を目の当たりにして来た! 大陸の未来を導き、束ねるはずの朝廷の下、人々がどのような暮らしを強いられて来たかを目にして来た! 」
 
 朗々と、その口から彼女の正義が語られる。
 
「黄巾の乱は何故起こった! 民を扇動した張角のせいか? 違う! 人道を踏み外した心弱き庶人のせいか? 違う!! 真に裁かれるべきは、それほどまでに人々を追い詰めた漢そのものにある!!」
 
 敵も味方も、その口上を引き込まれるように聞いていた。
 
「官に歯向かう逆賊と呼びたければ呼ぶがいい! この身にどれほどの悪名がつき纏おうとも、私はこの泰平に安寧と泰平をもたらしてみせる!!」
 
 かつて地獄の使者と呼ばれた一刀の悪名を利用し、囚われた帝を解放するという大義名分も掲げない。それは紛れもなく、王朝と時代への挑戦だった。
 
 瞬間――――――
 
『―――――――!!』
 
 大地を埋める魏の軍勢が、大気を震わせるほどの歓呼を響かせる。その歓声をただ手の一振りで制し、華琳は敵軍を睨み付けた。
 
「堯は天下を舜に譲り、舜もまた天下を禹に譲り、成湯は桀王を退け、武王は紂王を討ち、漢は秦を受け継いだ。天子よ、貴殿にこの大陸を憂う御心が在るならば、これ以上の血を流す無為を悟るだろう」
 
 おとなしく降伏しないなら、この地を血に染める。華琳の脅迫を受けて―――――
 
「この舌戦……応じますか、一刀殿?」
 
「やめとく」
 
 一刀は、稟の提案に肩を竦めて首を振る。言葉を並べて止まるくらいなら、華琳は最初からこんな戦争を起こさない。とっくに桃香が止めていたはずだ。そんな……二人の王に対する、信頼にも似た確信があった。
 
「口喧嘩に付き合ってやるつもりはない……悪者扱いされてるこっちの軍までヒートアップしてるから、今さら鼓舞の必要もないしね」
 
「お兄さんに掛かれば、舌戦も口喧嘩ですか。ま、あながち間違いでもないですけどねー」
 
 王の呼び掛けに口を挟むつもりはないのか、風も他の仲間も遠回しに肯定の意を示すが……一人、そうは言えない人物がいた。
 
「ならば、朕が応えよう」
 
 漢王朝の未来を占うこの大戦に、初めて自らの足を踏み入れた……協君。
 
 『どうぞ』と揃えて手を差し出す重鎮らに見送られて、協君を乗せた輿が軍の先頭へと進む。
 
「曹孟徳。官の横行、人々の苦渋、貴様の言う通り、それは王室の不徳の致すところだ。漢十二代の永きを経て、王朝は見る影も無く衰退した」
 
 協君はそうなってしまった事実、何も出来なかった無力を肯定と共に噛み締めて、しかしそこで終わらない。
 
「だからこそ、朕はこの大陸を王朝の手によって救いたいと無力なこの身で立ち上がった。地に落ちた龍は、天雲を巻いて空高く駆け昇ったのだ」
 
 己を龍に、義兄を雲に見立て、協君もまた今の自分たちを誇る。
 
「皇族の罪はその血を引く朕が背負おう。だが、乱れた世を正さんと、及ばぬこの身に力を貸してくれた者らの歩んで来た道程を蔑する事は……この皇帝、劉協が許さん」
 
 幼いその身に似合わない、皇族の矜持と風格を漲らせて、協君は毅然とそこに立つ。
 
「私は王朝への忠誠よりも、人々の安寧を選ぶ。どうあっても帝位に拘泥されると言うのであれば……お覚悟を」
 
「その眼に確と焼き付けるがいい、生まれ変わった漢王朝の姿を」
 
 互いが揺るがざる決意を持つが故の当然の帰結として、真っ向から意思は違える。
 
 一刀が言っていた通り、協君もこうなる事は解っていた。解っていても……黙っていられなかった。
 
 銅鑼の音が響き渡る。照りつける日輪の光の下、乱世の終焉を告げる最後の決戦の幕が、遂に切って落とされる。
 
 
 
 
「……思った以上に、粘りますね」
 
「ええ、これまでと同じように見ていたら、こちらが手酷い痛手を被るわ」
 
 数十万にも上る兵力と研鑽された練度を誇る魏の精兵を相手に一歩も退かずに応戦する北郷十文字軍に、桂花が唸り、華琳が表情を引き締める。
 
 まるで軍全体が一個の生物であるかのように滑らかに動き、魏の陣形を悉く崩し、数の優位をモノともせずに攻め立てて来る。
 
 曹魏とて優れた兵法家と厳しい訓練を重ねた兵を有しているにも関わらず、連携や用兵に於いて明らかに上を行かれていた。
 
「これが北郷軍の将や軍師の本領……いや、あの男が臣下の力を限界以上に引き出しているのかしら。以前とは完全に別物……流石ね」
 
「っ…………」
 
 宿敵に送る華琳の率直な賛辞に、桂花は悔しそうに爪を噛む。華琳が自分以外の誰かを褒める事自体、彼女にとっては面白くないのだ。
 
 それが……“自分を上回った敵”を称賛している。自分が華琳にとって有能な軍師であらねばならないのに、これほど悔しい事は無い。だが……言い返す事が出来ない。それほど明確な差があった。
 
「しかし……この兵力差で正面から戦いを挑むなんて、兵法の初歩で十軍は我らに劣っています」
 
「それも流石よ。この兵力差で一歩でも退けば、たちまち飲み込まれてしまうという事を良く理解している。消極策では、万に一つの勝機も失ってしまう」
 
 桂花の苦し紛れの反論に軽く返しながら、「けれど……」と華琳は思う。
 
「(ちょっとやそっとの駆け引きで覆される戦況ではない事も確か)」
 
 桂花の言う事も正論ではあった。開戦前に確固たる兵力差をつけた時点で、魏軍は前哨戦に完勝したようなものなのだから。
 
「(さて、時代は誰を選ぶのかしらね………)」
 
 それでもこのまま終わるはずがない。不思議な確信を持って、孤独な覇王は戦場を見据える。
 
 
 
 
「(まったく、味方ながら恐ろしい)」
 
 驚くほど“想定通り”の奮闘に、星は内心で称賛を通り越して呆れる。
 
 こうまで敵の動きを手玉に取れるものなのか、その動きを逆手に取れるものなのかと、自らが体現している最中にも関わらず信じ難い。
 
 風、稟、そして軍略の天才・雛里。彼女らに掛かれば、魏の精兵すらも烏合の衆に見えてしまう。
 
「(とはいえ………)」
 
 魏の猛攻は時と共にその苛烈さを増している。半端な小細工など吹き散らさんばかりの底力が、徐々に北郷軍を押し込み始めていた。
 
「予想以上に手強いな。もうちょっと押さえ込めると思ったけど………」
 
 星の隣で、一刀も同様の感想を抱いていた。まだ………勝負に出る段階ではないのに、このまま押し切られれば勝機を失う。
 
「(仕方ない)」
 
 全てが全て想定通りにはいかないなら、臨機応変に戦うしかない。一刀は大声で付近の風へと指示を叫ぶ。
 
「西涼の騎兵隊で敵前曲を切り崩す! タイミングは風に任せるから、翠と蒲公英に準備を………」
「伝令です! 軍師さまから、『おっけーなのです』と!」
 
「早ぇ!」
 
 が、風の方が一刀より遥かに戦局を見極めるに敏である。一刀が指示を出す呼吸すら先取りして伝令を飛ばしていた風に戦慄を覚える。
 
 などと悠長な事をしている場合ではない。星に引っ張られるように一刀も走り、瞬く間に隊列が組み変わる。
 
 そうして開かれた空間を、砂塵を巻き上げて力強く騎馬の群れが駆け抜けて行く。
 
 その先頭を走るのは無論、西涼の誇る勇猛な姫君。
 
「速く、速く、ただ速く! 行け! 馬孟起の友たちよ!!」
 
「たんぽぽだって将軍なんだから、なめないでよね!!」
 
 翠と蒲公英を筆頭に、速く、雄々しく、力強く、馬轍が大地を踏み締める。
 
 ――――しかし。
 
「何だ、あの槍の長さ………」
 
 その進む先に居並ぶ光景に、一刀は思わず息を呑む。北郷軍と時を同じくして隊列を組み替えた、魏軍の前曲。その手に握られている、通常より明らかに長い槍の長さに。
 
 あれでは、騎兵の突撃など格好の餌食でしかない。
 
「……こちらの主力が騎兵なのは曹操とて百も承知。敵を知るのは、何も我らばかりではないという事か」
 
 星も表情に出さずに敵を分析する。がむしゃらに槍衾に突っ込むような真似はしなくても、今から隊列を再編する事は致命的な隙を生むだろう。
 
「止まるなたんぽぽ! このまま行くぞ!!」
 
「いっけぇえーーー!!」
 
 白銀の猛進は止まらない。必ず来る“それ”を信じて。
 
 不意に、羽虫にも似た音と無数の影が、天空高く舞い踊る。
 
 それは山なりに西涼の騎馬隊を飛び越えて、魏の長槍部隊へと正確に降り注いだ。
 
 常の物より遥かに長い尺度の長槍を持つ魏兵は、もちろん盾など持てるわけもない。なす術も無く無防備のまま、“雨のような矢の斉射”を受けてしまう。
 
「曲張比肩の弓の味、その身に篤と味わわせてあげましょう!」
 
「元より斬られて当然の身。御館の為、そして桔梗さまの為、ここで惜しみ無く振るわせてもらう!」
 
 矢を放ったのは、西方より来たる豪傑の部隊。この決戦の直前、お咎め覚悟で集結していた新たな同志。
 
「紫苑! 魏延!」
 
 その寸分違わぬ援護射撃に、一刀は喝采を張り上げる。
 
 無防備のまま矢嵐を受け、流石の魏の前曲も怯み、倒れ―――――
 
「しゃおらぁーーーー!!!」
 
 荒々しい白銀の乱舞を追い打たれた。
 
 



[14898] 五章・『歌姫の誇り』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/03/04 19:33
 
 洛陽と長安。新旧二つの都の間で十と魏が天下の命運を懸けた決戦に臨んでいる。しかし曹魏に戦いを挑んでいるのは、何も北郷一刀率いる官軍のみではない。
 
 時を同じくして、洛陽の南……宛からも、深緑の旗を掲げて劉備軍が立ち上がっていた。
 
「……あまり、ぐずぐずしてはいられんか」
 
 主君から洛陽の全軍の指揮権を委ねられている秋蘭は、赤々と染まる東方の空を見て表情を苦くする。
 
 今や北郷軍に属していると言っても過言ではない劉備勢はもちろん、同盟国たる孫呉もこの大戦に参加している。
 
 東の空を照らす赤い光が、もし遠大な火計によるものだとするならば、それは………味方が生んだ炎ではない。
 
「劉備と孫策……いくら数で勝ろうと、英雄二人を相手取るのは流石に分が悪いのです。潰すなら今のうちかも知れませんなぁ」
 
 参謀として付き従っている音々音も、同様に警戒の色を強める。眼前の劉備軍に押し勝っているとはいえ、決して楽観出来る相手ではない。
 
「しかし深追いは禁物なのです。兵力で劣ると解った上で、諸葛亮が何の対策も講じないとは思えません」
 
「解っているさ。だが………このまま長引かせる方がさらに厄介な事になりそうだ。それが敵の狙いという可能性も捨て切れん」
 
 そんな事は百も承知で、秋蘭は敢えて音々音の意見と逆の可能性を口にする。
 
 以前、王都から逃げ出す帝を追っていた音々音は、朱里の存在を警戒するあまりに追撃の手を止めた事がある。
 
 後に調べてみれば、あの時点の劉備には軍と呼べる兵力は無く、伏兵を仕掛けるような真似は出来なかったはずだという。つまり音々音は、本来なら捕えられる帝をみすみす取り逃がしたという事になる。
 
 再び、同じ轍を踏むわけにはいかなかった。
 
「このままじゃやられちゃう……! 全軍退くのだぁー!!」
 
 前線が崩れ、劉備軍が退いて行く。選択の時は来た。罠を怖れて後手に回るか、勝機に食い付いて痛手を被るか。どう転ぶにも危険が付き纏う決断に、しかし秋蘭は迷わない。
 
「追撃を掛ける! ここで劉備軍に壊滅的な打撃を与えるのだ!」
 
「待って下さい、あまりに引き際が良すぎるのです!」
 
「解っているさ」
 
 音々音の進言に頷いて、しかし秋蘭は全軍を突撃させる。魏の大軍に追い立てられて逃げる劉備軍前曲は……“案の定”二つに割れて、割れたそこには弩を構えた部隊が迎撃の準備に移っていた。
 
「(構わん……!)」
 
 秋蘭はそれで軍を止めない。それどころかさらに激しく攻めるよう檄を飛ばす。
 
 元々、無傷で勝てるような相手ではない。多少の犠牲を払う事になろうとも、ここで劉備軍さえ再起不能にしておけば、後に来るだろう呉とも有利に戦える。
 
 肉を斬らせて、骨を断つ。秋蘭がこの選択をしたのは、劉備軍が十軍より、呉軍より、遥かに弱いからだった。
 
 一度徐州からの敗走で戦力を全て失い、荊州を手中に収めてからも日が浅い。数も練度も十分であるはずがない。
 
 また、魏軍本隊を相手にしている北郷軍が劉備軍に兵を貸している可能性も低い。
 
「(鈍重な床子弩などを迎撃に持ち込んでいるのがその証拠……!)」
 
 床子弩という兵器は強力な貫通力と飛距離を誇るが、連射性能は弓に劣り、その大きさ故に機動にも障る。
 
 威力や精度が使い手の力量に依存し、長期間の訓練を要する弓と異なり、弩は誰が使っても短期間で同等の戦果が挙げられる。
 
 それが、劉備軍が訓練不足な農兵を多数動員しているという事実を秋蘭に気付かせた。
 
 もちろん、農兵の腕でも大威力を与えられるのが弩の特性である以上、多少の被害は覚悟しなければならないが、初撃を凌いで接近してしまえば、弩兵は逃げる事すら難しくなる。
 
「(あの程度の数ならむしろ、即断即決で突撃を掛けた方が被害は少なくなるはず)」
 
 それら、己の知識と観察眼で導き出した秋蘭の選択は―――――
 
「な……………」
 
 予想を越える光景によって、大きく裏切られる。
 
 槍の様に太く、強く、そして……蝗の大群のような無数の矢の嵐。
 
「どういう事だ、これは………!」
 
 一本一本の威力が高いのは解っていた。だが、この数はあり得ない。
 
 目の前に見える弩兵部隊が放つだろうと秋蘭が想定していた数に数倍するほどの矢が、木の葉を攫う濁流の如く魏軍を貫いて行く。
 
 しかも、連射に不便なはずの弩の猛撃が……いつまで経っても止まらない。
 
「河北での敗戦から半年と二月………」
 
 劉備軍の弩兵部隊を率いて、朱里は自身が改良し、実戦に応用した“それ”の威力を誇る。
 
「あの頃のままのわたし達だと、思わないで下さい!」
 
 振り上げた手を、魏軍に向かって振り下ろす。
 
「『連弩』!!」
 
 盾も鎧もまるで効かず、長大な矢が魏兵を為す術もなく蹂躙していく。これでは完全にただの的だ。
 
 近付けない。矢の差し合いに転じても分が悪い。
 
 この難局を打破せんと―――――
 
「秋蘭さま、私達が行きます!」
 
「流琉、しっかりついて来なよー!」
 
 流琉と、季衣。本来ならば華琳の親衛隊を勤める二人の豪傑が駆け出した。
 
 魏の精兵らが近付く事すら許されない強力な矢の嵐を縫うように、小柄な影が劉備軍へと切り込んで行く。
 
 そして……………
 
「“あれ”、吹っ飛ばせばいいんだよね」
 
「手加減要らないからね、季衣!」
 
「わかってるって!」
 
 遂にその間合いに、連弩を捉えた。鉄球が唸りを上げ、円盤が風を裂いて、兵器ごと敵兵を薙ぎ倒さんと奔る。
 
 大木をも小枝のようにへし折る超重の一撃は…………
 
「どっせぇーい!!」
 
「えやぁ!!」
 
 届かなかった。鉄球は大槌によって大地に埋め込まれ、円盤は運悪く紐を巻く一番脆い部分に大剣を通された事で……真っ二つに割れて地に落ちる。
 
 悠然と彼女らの前に立ちはだかるのは、今でも自分たちが何者なのかを示すように金の鎧を纏った袁家の二枚看板。
 
「へっへーん! 一発勝負であたいに勝とうなんざ百年早いってーの!」
 
「うぅ……手が痺れるよぉ……」
 
 猪々子と、斗詩。
 
 一縷の望みを懸けた季衣らの特攻が食い止められる様を見て、秋蘭は苦渋の選択を迫られる。
 
 このままでは、ただ被害を拡大させる一方だ。季衣らと二枚看板の勝敗如何に関わらず、今もなお連弩の脅威は魏軍を蝕み続けている。悠長に決着を待つ余裕は無かった。
 
「季衣、流琉、一度退け! 体勢を立て直す!」
 
 言うが早いか、魏軍は迅速に隊を反転させ始める。季衣と流琉の部隊を殿に、連弩の射程から一度逃れるために。
 
 そうするしかない、せざるを得ない状況を作り出した劉備軍は、当然この背中を逃さない。
 
「(一刀さん………)」
 
 この時のため、一軍を率いて待機していた桃香は、静かに眼を閉じ……また開いた。
 
「(絶対、この戦いで終わりにしようね)」
 
 あまりに儚い命の散華を、自分の手がこれから生み出す地獄を思い……胸に張り裂けんばかりの痛みを抱いて。
 
「(“勝って”、終わりにしてみせる)」
 
 それでも戦うと決めた。矛盾と偽善を背負って、それでも願いが届くと信じて、夢にまで見た未来のために。
 
 強い、見違えるほど強くなったその横顔を見て………義妹たる軍神も何かを思う。
 
「この戦が未来を決める! 兵どもよ、我らの手に、大陸の平和が懸かっていると心得よ!!」
 
 この戦が終われば、きっと……全てを笑顔で受け入れられる。そんな願望にも似た想いを乗せて。
 
「全軍っ、突撃ぃーーーー!!」
 
 
 
 
「………随分と遅かったですね。間に合わないかと思いましたよ」
 
 魏の大軍相手にまるで怯む事なく奮戦を続ける前曲から目を離さないまま、稟は背後に声を投げる。
 
「ちょっと、そんな言い方ないんじゃないの。ちぃ達が今までどれだけ苦労して来たと思ってるわけ?」
 
「昼も夜も馬車で猛だっしゅだったもんね~………。お姉ちゃんもうヘトヘト……」
 
「姉さん達、文句言ってる暇は無いの。切り替えて」
 
「「はーい」」
 
 そこにいた二人の少女が文句を並べ、一人の少女がそれを諫める。……が、そもそも稟が話し掛けた相手はその三人ではない。
 
「すいません。魏に悟られないように彼女たちを連れ出すには、開戦ギリギリまで動けなかったものですから」
 
 この三人を河北から遥々抜け出させて来た、呉将・明命に対してだ。
 
「構いません。元々計算していなかった戦力ですし、間に合わなかった時は我々だけで戦っていただけです」
 
 いくら大戦に意識が集中していたとはいえ、魏の監視を掻い潜って連絡を取るのは並大抵の事ではなかっただろう。
 
 彼女だからこそ成し得た偉業。そんな明命に労いの言葉を掛けて、稟は今度こそ話題の三人……その三女へと目を向ける。
 
「正直に言えば、本当に来るとは思っていませんでした。貴殿方の立場を考えれば、曹魏の勝利をおとなしく待つ方が遥かに安全ですから」
 
 当然と言えば当然の疑惑。おかしいのは一刀の方だと解っている少女は、特別腹を立てる事もない。
 
「武人や軍師に理解して欲しいとは思わないけど……歌姫には歌姫の誇りがあるの」
 
 簡潔に、しかし強く、自分たちの意地だけを伝える。
 
 稟も、今さら彼女らを疑っているわけではない。ここで彼女らが妙な気を起こせば、囲まれた十軍兵士に八つ裂きにされてしまうのだから。
 
「えらそーなクチ利いてられるのも今の内よ。魏軍なんて、ちぃの魅力で丸ごと骨抜きにしてあげるんだから」
 
「えー……みんながメロメロなのは、お姉ちゃんにだと思うんだけどなー?」
 
 一刀と面識すら無い残り二人にはそこはかとなく不安も感じるものの、ここまで来たらやるしかない。
 
 
 
 
「? ………あれは、何のつもりかしら」
 
 西涼騎馬隊の強襲を許し、局地戦ながらも押し込まれている前曲と前曲のぶつかり合いの向こう………北郷軍の中軍からゆっくりと進んで来る長大な影に、華琳は首を傾げる。
 
 四輪によってジリジリと進んで来る塔とも見える木組みの兵器。井欄と呼ばれる、功城戦に於いて高さの優位を得るための物だ。
 
「あの高さから、我々に矢を射かけて来るつもりでしょうか」
 
「そのわりには、一向に矢が飛んで来る気配がないわ」
 
 そもそも、機動力が命とも言える北郷軍が野戦で扱う兵器としては違和感がある。
 
 井欄は相変わらず矢の一本も放つ事なく、ジリジリと前へ前へ進み………
 
 そして―――――
 
「北郷軍が……退がった」
 
 これまで魏の大軍相手に果敢に立ち向かい続けて来た北郷軍前曲が……唐突に軍を退げた。
 
 押し込まれ、退がらされていた魏軍との間に、僅かな時間空白が出来る。
 
 その空白に――――
 
「みんなーーーー!!」
 
 井欄の上から、戦場の怒号にも負けない快活な大声が割り込んだ。
 
「……どうして、ここに………?」
 
 その大声が響くよりも早く、華琳は井欄の上に並ぶ三つの影を確認していた。
 
 居るはずのない人間が、あり得ない場所で、魏の大軍に手を振っている。
 
「もう少し、利口な子たちだと思っていたのだけどね」
 
 白の舞台衣裳を揺らし、戦場を異質な空気に包み込む。その魅力で乱世の引き金にまでなった歌姫。
 
「わたしのために戦わないで! なんて言っちゃったりして~♪」
 
 張三姉妹。又の名を………数え役萬☆しすたぁず。
 
 



[14898] 六章・『神速白馬陣』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/03/07 15:24
 
「わたし達ー! 曹操さんの所じゃもう歌えないのーー!!」
 
 桜色の髪を靡かせる長女・天和。
 
「今までちぃ達、あいつにひっどい目に遭わされてたんだから!!」
 
 青い髪を側頭で結った次女・地和。
 
「もう一度、皆のために歌いたいよ!」
 
 不揃いな長さの紫髪の三女・人和。
 
 本来ならば魏の庇護下で夢を広げているはずの歌姫が今、十文字の旗を掲げて戦場に立っている。
 
「お願い! これ以上わたしのために悪者になるのはやめて!!」
 
「皆の血で染まった大陸で、私たちは歌えない!」
 
「ちぃ達を、新しい夢の舞台に連れて行って?」
 
 愛好者殺しの嘆願が向けられているのは、直下の北郷軍ではない。その北郷軍と向かい合っている……魏の大軍だ。
 
 その歌と踊りで大陸の東北を魅力して来た三姉妹の呼び掛けは、魏軍に並々ならぬ動揺を呼び―――
 
「…………あれ?」
 
 しかし、それだけ。熱狂に駆られた魏兵が三姉妹のために立ち上がる……という、地和と天和の思い描いていた光景へと繋がらない。
 
「なっ、なんでー!? みんな、ちぃ達のために集まったふぁんでしょ!」
 
 今の魏は自分たちあったればこそ、と強く自負していた地和は、この結果に甚大な衝撃を受けた。それは天和も同じなのか、口に出して「がーん」と言っている。
 
 対称的に、華琳は三姉妹の思い上がりを醒めた眼で睥睨していた。
 
「浅はかね。王たる者が、国の武力たる兵の手綱をいつまでも預けておくわけがないでしょう」
 
 熱狂に酔って集まった弱卒も、剣を握る意味を持たなければ厳しい訓練になど耐えられない。積み重ねた日々が、強靭な気骨と真摯な忠節を育む。
 
 そして……そういう者ほど強烈に惹きつける風格こそが、華琳の覇王たる所以。
 
 しかし――――
 
「私たちの役目は、反乱を促す事じゃない。クサらないで続けましょう、姉さん達」
 
 三姉妹が中枢から遠ざけられた時点で、華琳をよく知る一刀はこの結果を予期していた。当然、敵兵を扇動して寝返らせようなどと欲を掻くつもりは初めから無い。
 
 そう聞かされていた人和も同様、慌てたりはしない。
 
「ん〜っ、なーんか納得出来ない」
 
「兵隊だろうとふぁんを取られたりしたら、張三姉妹の名折れよ」
 
「うん……だから、歌いましょう」
 
 そんな理性とは裏腹に、歌姫としての意地がある。相手が覇王であろうと、闘争と狂気に支配された戦場であろうと、“人気”で負けてはいられない。
 
「新曲・『十文字の牙門旗』、聴いていって下さいね♪」
 
 戦場の中で踊る歌姫。前代未聞の公演を遠く見ながら、華琳は僅か眉尻を落とした。
 
「(黄巾終結以来、私を見てきたあの子たちの応えが、これか)」
 
 しかし、憂いている暇は無い。兵の反乱など起こらなくても、魏軍にもたらされた動揺と混乱は大きい。
 
「このままあの三人を裏切り者として討てば、味方の士気の低下は避けられないでしょうね」
 
「……はい。むしろあの三人は北郷に攫われて脅迫されている、と触れ回るべきかも知れません」
 
 そして……十軍にとって、その動揺と混乱で十分。それが“合図”にもなった。
 
(ジャーン! ジャーン! ジャーン!)
 
「っ……今度は何!」
 
 華琳が混乱した軍を鎮静化しようとした矢先、どこからか銅鑼の音が響き渡る。状況を把握しきれない華琳の下に、ほどなくして一人の伝令が駆け付けて来る。
 
「北方の山間より敵伏兵部隊が出現! 中軍は横撃を受け、隊列が崩れています!」
 
「伏兵……?」
 
 半ば予想していた事とはいえ、華琳には疑念が残る。相手は数が少ないのだから奇襲は当然の戦術。それが判っていたからこそ索敵に手は抜かなかった。
 
 そしてそれ以前に、華琳は北郷軍の兵力を凡そ把握している。目の前にいる本隊以外に、戦力らしい戦力が残っているとは思えない。
 
 ……が、現実として魏軍は混乱に乗じた奇襲を受け、まだ華琳の預かり知らぬ事ではあるが、部隊長が三人討たれている。
 
「兵数は?」
 
 そうして聞かされる敵兵の数に、その数がもたらす戦果に、後に華琳は驚愕を覚えさせられる事となる。
 
「数揃えたら見つかってまうからなぁ」
 
 所変わって、中軍だけでも十万を越える魏の大軍に切り込む特攻隊。その先頭で……北郷五虎将が一人、霞が不敵に笑う。
 
「今週はちょっとハジケようかな、と」
 
「もう残念だとか言わせない! わたしも歴史に名を残すぞ!」
 
 その右で縞馬に乗る同じく五虎将の、散。左で気炎を巻き上げる元・幽州太守の白蓮。
 
 そしてその後ろに続くのは、騎兵隊。騎馬対策に魏が講じた長槍もまるで意に介さず、無人の野を駆けるが如く魏軍を蹂躙する騎兵隊。
 
 その数は……僅か千にも満たない。
 
「八百おれば十分や。世に謳われた張文遠が神速、目ん玉ひんむいてよう見ときぃ!」
 
 だがそれは、ただの騎兵ではない。兵の全てが壮麗な白馬に跨がり、その髪に鶩の羽根を差した八百人の戦乙女たち。
 
 霞の部隊の中から選りすぐられ、西涼式の騎馬訓練を重ね、白蓮自慢の白馬隊を乗りこなした……まさに大陸最強最速の八百騎。
 
「我が紺碧の張旗に続けぇーーーー!!!」
 
 研ぎ澄まされた刃は分厚い肉を突き破り、覇王の心臓へと穂先を伸ばす。
 
 
 
 
「すっごーい、何あれ?」
 
 遠く、凄絶な矢の嵐で魏の大軍を追い立てる劉備軍の奮闘を眺めて、雪蓮は場にそぐわない間延びした感嘆を漏らした。
 
 その遥か後方では、東方の魏軍が遠大な火計に飲まれて煉獄の中で奔走している。
 
「連弩と呼ばれる連発式の弩だ。本来実戦に活用出来るような代物ではないはずだが……諸葛亮あたりが手を加えて改良したか」
 
 冥琳もまた、期待以上の働きをする劉備軍に関心を示す。無為な闘争をこれ以上なく嫌う桃香の人柄を知っていた事もあり、これは嬉しい誤算であった。
 
 何より、天機が大きく味方している。
 
「ねーねー、急いだら、奴らが洛陽に引き返す前に挟み撃ちに出来ないかしら?」
 
「際どいところだが……まさかお前が先頭きって飛び出すつもりではないだろうな、雪蓮?」
 
「あら、もちろん行くわよ。そのために、蓮華に王位も『南海覇王』も託して来たんだから」
 
 その天機に躊躇わず飛び込もうとする親友に、冥琳は明るい溜息を漏らす。もう“王なのだから”と諫める事も出来ない。
 
 孫呉の王ではなく、ただ敵を喰い散らす虎として、雪蓮はこの戦場に立っているのだから。
 
「命の賭け所は間違ってないつもり。ここで躊躇するくらいなら、初めから乱世に名乗り出たりしないわよ」
 
「止めても聞かないだろう。だが……一人では行かさんからな」
 
「もーっ、だから冥琳って好き♪」
 
 この乱世に終止符を打つため、妹が安心して平和な世を築けるようにするため、虎の牙が唸りを上げる。
 
 
 
 
「………最悪ですなぁ」
 
 取る行動取る行動が全て裏目に出る現実に、音々音が弱音ではない実感を吐き出す。
 
 劉呉両軍を相手にする事を避けるために追撃を掛けた劉備軍には迎え撃たれ、劉備軍の殿として残った季衣と流琉も戻って来ない。
 
 まだ劉呉合わせても兵力差を覆されたわけではないはずだが、明らかに分が悪い。
 
「…………………」
 
 これまでも、魏軍は決して順風満帆に勝利を治めて来たわけではない。襲い来る百難を苦戦の末に乗り越え、生き残った結果……大陸最大の勢力にまで上り詰めたのだ。
 
 だが秋蘭は今……かつてない危機感と焦燥に苛まれている。
 
 華琳と肩を並べる英雄を相手にしているという実感が、戦慄となって総身に染みていく。
 
『貴女が不要だから連れて行かないのではないわ。貴女の力を認めているからこそ、この王都の守りを任せるのよ』
 
 それでも……負けられない。主君が寄せてくれた信頼に、命を懸けて応えなければならない。
 
「一度、城に戻って攻勢を凌ぎましょう。勝負を急いでいるのはあちらの方なのです。わざわざ相手に合わせてやる必要はありません」
 
「しかしまだ………いや………そうだな」
 
 民に負担を強いる籠城戦は避けたいところではあったが仕方ない。音々音の進言に僅か躊躇ってから、秋蘭は承諾の意を示した。兵力で上回っていようと、余裕を持てる相手ではない。
 
「呉軍が東方の攻略に向かわずここに来たという事は、都の戦力を釘付けにするつもりか、或いは主殿の決戦に横槍を入れるつもりなのでしょう。ここは一度守りに撤し、もし奴らが洛陽に構わず西に向かうようなら、その時こそ討って出て強襲を掛けてやれば良いのです」
 
「………うむ」
 
 先ほどの攻防も、自分の見立てに慢らず音々音の忠告を聞いていれば、少なくとも今よりはマシな状態が保てていたはず。
 
 秋蘭は全軍を引き連れ、一目散に洛陽へと向かう。
 
 背を向けた相手に益々勢いづく劉備軍に追われながら撤退する秋蘭の眼が――――
 
「(あれは…………)」
 
 赤い鎧兜に身を包んだ、呉の強行軍を遠方に捉えた。その進路を追えば、部隊の目指す先は秋蘭たちと同じ。
 
「(あと少し判断が遅れていたら………)」
 
 自分たちは背後を取られて挟み撃ちに遭っていた。
 
「(だが、間に合う)」
 
 危うい綱渡りではあったが、敵の動きは看破したのだ。このまま行けば、自分たちは背後を取られる事なく入城出来る事も確信する。
 
 しばし、競走でもするように両軍は洛陽に向かって走り―――――
 
「………?」
 
 異変に気付く。敵軍に追われた味方が近づいて来ているというのに、洛陽の城門がいつまで経っても開かない。
 
 近づいて、近づいて、近づい………そして、遂に辿り着いてしまった。城門の開かないまま。
 
「私は曹軍の夏侯淵だ! 城兵、何をやっている!? 早く開門しろ!!」
 
 怒声を張り上げても応えは無い。代わりに聞こえて来るのは、戦火から逃れていたはずの都市から響く喧騒と怒号。
 
「まさか……都の民が反乱を起こしたとでもいうのか……」
 
 信じたくない想像が口を突いて出る。
 
 華琳の歩む道が覇道である以上、理解を得られない事も覚悟はしていた。
 
 ………だが、動乱に脅かされた人々を救い、大陸に泰平をもたらすため、その手を血に染め、辛酸を舐めて戦い続けて来た想いは………いつか必ず報われると信じていた。
 
「(それなのに……)」
 
 信じたくない。認めたくない。それでも門は開かない。
 
 逃げ込むはずの城門に逃げ道を塞がれた秋蘭たちに、劉呉の兵が襲い掛かった。
 
 



[14898] 七章・『蒼き飛龍』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/03/09 17:25
 
「…………………」
 
 人和たちの登場で動揺した上に霞たちの奇襲をモロに受けて、魏軍は混乱してる。
 
 相手の用兵や陣形も手玉に取って流れは常にこっちが掴んでる……のに………
 
「っ…………」
 
 傍らで、雛里が袖を強く握り締めるのが眼に入った。
 
 黄巾の乱からずっと一緒に戦ってる俺には解る。これだけ綺麗に策が決まっても戦局を覆せないっていうのは、雛里にとっても初めての経験だ。
 
 これまでの流れは全てこっちが掴み、怖いぐらい一方的に戦を運んでるはずなのに……押せば押すほど絶望の色が濃くなっていく。
 
 「数が減らない」、「まだこんなにいるのか」、そんな言葉ばかりが湧き上がる。
 
「(……おまけに、こっから先は運の要素がかなり強い)」
 
 最後までこの調子で、あの華琳を出し抜く。そんな事が本当に出来るのか?
 
 不安は広がるばっかりで、でも、俺も雛里もそれを口にも顔にも出したりはしない。
 
「まだか! まだ行ってはダメなのか!?」
 
「ダメ」
 
 まだ無理な攻勢には回れない。お前の出番は、もう少し先だ。
 
 
 
 
 白い旋風が、群青の獣を吹き散らして駆け抜けて行く。圧倒的な兵数を物ともせず、八百の白馬が敵を蹴散らして走り去る。
 
「っ……早速“合わせて”来たか!」
 
 しかし、魏軍もやられてばかりではない。予想だにしない少数騎兵の奇襲に虚を突かれたにも関わらず、中軍の陣形が迅速に組み変わり、敵陣深く切り込んだ霞たちを閉じ込めるように包囲していく。
 
「だから言っただろ! 曹操自身も戦上手なんだよ!」
 
「経験者の言葉は貴重やなぁ。けど……定石通りに潰せるウチらやないで!」
 
 大軍に囲まれて孤立無援。本来ならばこれ以上なく危険な状況に追い込まれながら、霞は全く動じない。
 
 “こう”なっても切り抜けられる実力と覚悟を備えた精鋭を募ったのだから。それに――――
 
「星がやったんに比べりゃ、こんなん全然大した事ないわ!」
 
 飛龍偃月刀が唸りを上げ、神速の斬撃が血風を巻き起こす。鍛え抜かれた魏の精兵を羽虫のように屠る霞の姿は、もはや獣を越えていた。
 
 それは龍。その牙を見る者に畏怖と震撼を、その背中を見る者に勇気と武者奮いを与える、神速の蒼龍。
 
「止めれるもんなら、止めてみぃ!!」
 
 勇猛にして凄絶な背中に続いて、白蓮を含めた白馬の群れが進撃する。
 
「(凄い奴やなぁ、恋、自分は…………)」
 
 大地を埋める敵の大群と戦いながら、力強い味方に背中を守られながら、霞は思う。
 
「(たった一人で、戦い抜いたんやもんなぁ)」
 
 今の自分のように誰かの力を借りるでもなく、かつての星のように敵の包囲からただ抜け出すでもなく、襲い来る数の暴力を全て真っ向からたった一人で受けとめた友達の、強さを。
 
 だからこそ――――
 
「(同じ五虎将のウチらが情けないトコ見せたら、天下無双の名に傷がつく)」
 
 “こんな所”で負けられない。
 
「邪魔やぁぁーーーー!!」
 
 中軍だけでも、十万を越える魏の包囲に見舞われながら、霞ら八百の騎兵は獅子奮迅の活躍を続け、激戦の果てにその陣を突き破る。
 
「よっしゃぁ!!」
 
 僅か八百の騎兵を相手に撹乱され、完全に勢いを失った魏の大軍を背後に見ながら、霞は拳を握って喝采を叫ぶ。
 
 最大の目的にこそ届かなかったが、この戦果が北郷軍の勝利に繋がると信じて、己の快挙に純粋な笑顔を浮かべる。
 
「霞! まずい!」
 
 その笑顔が………
 
「散の奴がいない!!」
 
 焦燥に駆られた白蓮の一言で、凍り付いた。
 
 
 
 
「やはり白馬の中に縞馬一頭、ってのは目立ち過ぎたのかな、と」
 
 また一人、武官の槍を捌きながら散はやる気のなさそうな溜め息を漏らす。
 
「覚悟!」
 
「いざ尋常に勝負!」
 
「あの鳳徳と刃を交えるは武人の誉れ!」
 
 と、このように一騎討ちを挑まれては“決着を待たずに”次々と相手が入れ替わる、という攻防を、散は先刻から延々と繰り返していた。
 
 片っ端から討ち取れればむしろ散にとっても好都合なのだが、揃いも揃って散を相手にしても数合は打ち合えるほどの手練ればかりだ。
 
「そこ、通してもらえませんか。すけじゅーるが詰まってるので」
 
「そうはいかん。易々と“玉”が獲れると思うなよ」
 
 その筆頭たる徐晃こと柳葉に、散はうんざりしながら双鉄戟を向ける。要求への応えは当然、否。
 
 背後に見える『師』の牙門旗が、事実以上に遠く見えた。せっかく“きんぐ”を見つけたというのに、後一歩の所でちぇっくめいとに届かない。
 
「次は俺が相手だ!」
 
 そうしている内に、また違う武官が散に挑み掛かって来た。そして数合打ち合って、また退がる。
 
 そのやり取りに、絶対的な優位に立っている柳葉の方が苛立ちを募らせていた。
 
「(いつになったら、疲れを見せる……?)」
 
 本来なら自分自身の武でいつかの借りを返したい柳葉が、大義のためにそれを押し殺して、あからさまに散の体力を削る戦法を取っているのだ。
 
 なのに………散の戟捌きは未だに陰る気配が無い。
 
「ちぇすと」
 
「っこの……!」
 
 こうして自分も一騎討ちに参加しているのに、だ。本気で最後まで死合いたいという抗い難い欲求が湧き上がるも、無理に相手をするのは命令に反する。それが何より苛立ちを募らせる。
 
 敵陣で孤立した将と、その将を包囲した将。奇妙な均衡を崩したのは………
 
「貴様ら! 一体なにをやっている!?」
 
「っ春蘭さま!?」
 
 突如割って入った、魏武の大剣の大喝だった。
 
「最前線に立たれているはずの春蘭さまが、どうして………」
 
「どうしてはこっちの台詞だ! 華琳様の懐に敵が飛び込んだ後、何故いつまで経っても包囲が解けん!? あの程度の数をたちどころに孅滅出来なかったとでも言うのか!」
 
 春蘭の怒声に、柳葉は返す言葉も無く唇を噛む。奇襲部隊の本隊である霞たちには包囲を突破され、今も孤立した敵将一人を仕留めきれずにいるのだから。
 
「…………間に合って良かった」
 
 春蘭は、半年前の戦いで秋蘭の身に起きた事を忘れていない。都から逃げ出した北郷一刀を仕留める“だけ”の追撃戦だったはずなのに、たった一騎の豪傑の手によって何が起こったのかを。
 
 その悪夢が今の華琳と重なり、春蘭をこの場所へと駆り立てていた。
 
「………貴様か、華琳様に牙を剥いたのは」
 
 春蘭の殺気に満ちた視線が散を射抜く。散はその隻眼、次いで柳葉、そして一定の距離を保って自分を取り囲む武官らを見渡して………
 
「これは流石に、大ぴんちというやつですか」
 
 大げさに肩を竦めた。竦めて、しかし観念するような性格でもない。
 
 耳に、何やら聞き慣れた馬蹄の音を拾っていたという事もある。
 
「我が名は夏侯元譲! この大剣に斬られて死ぬ事を光栄に思え!」
 
 燃え盛る炎のように荒々しく春蘭が向かって来るに合わせて、散は双鉄戟を……………高々と放り投げた。
 
「な………」
 
 迫り来る猛将を前に武器を手放す奇行に、僅か機先を削がれた春蘭の動揺。
 
 そこに―――――
 
「おどれはアホかぁーーーー!!」
 
 紺碧の一撃が、風よりも速く割って入った。その一撃が春蘭を止めるのも待たず、散は両手を背中に回し、帯紐から短戟を二振り……矢の様に左右に投げ放ち、状況について来れていなかった武官二人の命を奪う。
 
「せっかく包囲を突破したのに、また戻って来たのかな、と。霞も大変ですね」
 
「自分のせいやろが! なに考えとんねんホンマ!?」
 
 春蘭の刃を止めた姿勢で怒鳴りつける霞に、散は上から降って来た双鉄戟を掴み、指す事で示す。
 
 覇王・曹操の御旗を。
 
「……ウチは二度とゴメンやで、あないな後味悪い勝ち戦なんて」
 
「しかし、おかげさまで目的は漏れなく達成出来そうです。後はせいぜい、生きて帰りましょう」
 
「……生きて帰ったら絶対殴ったるからな、覚悟しとき」
 
「おー、怖」
 
 散の孤立した理由を知った上でやはり怒る霞と、腹立たしいほど口の減らない散のやり取りから数拍遅れて、白蓮を筆頭にした白馬の群れが飛び込んで来た。
 
「わたしも忘れてもらっちゃ困るぞ! ホントに!」
 
 屈強な騎兵が鮮やかな連携を見せ、散を包囲していた残りの武官を瞬く間に一掃し、その突撃は……一直線に『師』の旗を目指す。
 
「行かせるかぁ!!」
 
「ウチが、っな!」
 
 主君を守らんと馬首を返す春蘭の前に、霞が立ちふさがり………
 
「邪魔を……!」
 
「今度はサシで戦りますか」
 
 柳葉の前には散が立ちはだかった。二人の援護を受けて、白蓮は百の騎兵だけをその場に預けて一気に脇を抜ける。
 
「貴様ら……生きて帰れると思うなよ!」
 
「ふっふーん、どうやろ? いっぺん抜け出した包囲やしなぁ♪」
 
「さっきとは違う。今は私がいるからな」
 
「そ。それがウチらには好都合なんよ」
 
 漸く迎えた強敵との対峙に喜悦の笑みを浮かべる霞。
 
「望む所だ。いつかの借り、今わたし自身の手で返してやる」
 
「…………………」
 
「? 何を黙っている」
 
「いえ……おりきゃら同士のたいまんとか、需要無いだろうなー、と思ってました」
 
「怠慢が……何だと?」
 
「というわけで……来なさい、しーえむの間に終わらせますよ」
 
「よくわからんがいいだろう。勝負を急ぐのはこちらとて同じこと!」
 
 窮地を救われ、俄然調子を取り戻した散。二人の奮闘に応えるかのように………北郷軍前曲に一つの旗が翻る。
 
 



[14898] 八章・『漆黒の華旗』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/03/19 20:04
 
「くっ……兵の士気が下がって来ている」
 
 大軍で以て攻め続けているにも関わらず、いつまで経っても押し切れない。全く自分たちの戦いをさせてくれない北郷軍の手腕に、凪は悔しげに拳を握り締める。
 
「どうして天和ちゃん達が………」
 
 今も井欄の上で歌い続けている友達らを遠く見て、沙和も眉を八の字にして情けない声を漏らした。
 
 先の戦いの失態で警備隊を外され、禄を落とされ、張三姉妹の世話役を任されていた沙和にとって、彼女らは気の合う友人だったのだ。
 
 河北へ公演に向かう際に別れた天和たちと、こんな形で再会するとは思いもよらない。
 
 ……だが、今はそれを悲しんでいる余裕など無い。
 
「っく〜〜、やっぱ春蘭さま抜きやとキッツイわぁ……!」
 
 神速白馬隊の奇襲を受けた中軍……そこにいる華琳を救うため、春蘭は前曲を三人に任せて後退してしまった。
 
 魏武の大剣と謳われる最強の将がいない今、彼女ら三羽烏が前曲の砦なのだ。
 
「…………お?」
 
 不意に、真桜は敵の隊列が組み変わるのに気付いた。正面からの突撃を隠そうともしない蜂矢の陣。
 
「! 今だ!」
 
 その変化に、凪も気付く。真っ直ぐに突っ込んで来る相手ならば数の利を活かして迎え討てる。単純な戦力ならこちらが勝っているのだから。
 
 素早く迎撃に移らんと身構える三羽烏の視線の先で……軍旗が一つ、翻る。
 
 漆黒の中で武骨に光る、『華』一文字。
 
 それが―――――
 
「うらぁぁーーーーー!!!」
 
 地鳴りのような怒号と共に、砂塵を巻き上げて走りだした。
 
「行くぞお前ら! 愛のために!!」
 
『愛のために!!』
 
 その先頭を走る銀髪の女戦士が、迎撃に転じた魏の精兵を…………蟻のように蹴散らして行く。倒すどころか、足止めすら出来ずに吹き飛んで行くのだ。
 
「っ……泣き言なんて言ってられない! 何がなんでも私たちが止めるぞ!」
 
 凪が勇んで叫びを上げ、他の二人も竦む足を黙らせて首を縦に振った。
 
 今にも逃げ出してしまいそうなほど震え上がっている魏兵の誰より前に立ち、三人は敵将………舞无に得物を向ける。
 
 銀髪の武神が握っているのは、斧だった。重心が先端に偏っているため、普通なら両手でも扱いの難しい戦斧。それを“両手に一本ずつ”、片手で軽々と振り回している。
 
「唸れ『金剛双爆斧』! 今こそ修行の成果を見せる時だ!!」
 
 琥珀の瞳をメラメラと燃やし、恐ろしい膂力を誇る武神が突撃して来る。
 
「一斉に行くぞ!」
 
「卑怯とか言ってられる相手やないしな……!」
 
「誰が死んでも……恨みっこ無しなの!!」
 
 三人寄れば春蘭にも劣らぬ活躍を見せる三羽烏が、差し違える覚悟で同時に挑み掛かり――――
 
「雑魚は引っ込んでいろぉーーーーー!!!」
 
 悲鳴を上げる事すら許されず蹴散らされ、宙を舞った。
 
「ふん、安心しろ……峰打ちだ」
 
 得意気な舞无の決め台詞はもちろん三人に届く事はなく、魏軍前曲は蜘蛛の子を散らすように崩壊した。
 
 
 
 
「………馬鹿と鋏は使いようですね」
 
 舞无の勇猛果敢な活躍を眺めながら、稟は額の汗の粒を拭う。直線的な陣を敷く事で敵将を呼び込んだのは稟の考えだが、まさか一瞬で三人まとめて片付けるとは思っていなかった。
 
「でも、ここで攻めない手はありません」
 
「怖いくらい思い通りに行きましたねー」
 
 雛里と風の言葉が、勝負を決める時が来た事を教えてくれる。
 
 どんなに頑丈な槍があっても、巨大な岩壁を粉砕する事は出来ない。でもそれが広大な湖を封じる“堰”だったとしたら? 舞无という最強の槍が開けた亀裂に、十文字軍という名の激流が流れ込み、それまで小揺るぎもしなかった堰も耐え切れず決壊してしまう。
 
 今の両軍の状況がまさにそれだった。ただ、岩壁に亀裂を入れるための槍が………実際には岩をも断ち斬る金剛の斧だったというだけだ。
 
「ならば、我らも舞无に続くとするか」
 
『応!!』
 
 星の言葉に、翠、蒲公英、紫苑、焔取が勇ましく応える。巨大な怪物を相手に、ただ力任せに挑んでも勝ち目は無い。だから、敵が喉元を曝け出すこの時まで強引な攻勢には移れなかった。
 
 だが……今は違う。
 
「……必ず、生きてまた会おう」
 
 仲間たち一人一人に眼を向け、ただそれだけを頼んだ一刀に……星もまた多くは語らず、一言のみを残す。
 
「御武運を」
 
 この戦いに本当の意味で勝利するため、新しい時代を生きるため、一刀は仲間を信じ、託し、そして………自身の戦いに身を投じる。
 
 気持ちは、痛いほど強く一つになっていた。言葉は多くは要らない。
 
 先駆けた舞无を追うように、星は颯爽と一刀に背を向けた。貴方を信じている、心配などしていない。そう告げるかのような背中を。
 
「聞け、北郷の勇者たちよ! これが乱世の幕を引く最後の戦い! 我らの手で、泰平の未来を切り開くのだ!!」
 
 十文字軍第一の将、趙子龍の号令が、長らく敵の猛攻を凌ぎ続けて来た北郷軍を奮い立たせる。
 
「我らは神に遣わされた天兵なり! 敵を恐れるな! 仲間を信じろ! さすれば道は開かれる!!」
 
 それに目を細め、誇らしく見届けて、しかし一刀は共に戦えない事に胸を痛めたりはしない。戦う場所は違っても、一緒に戦っているのだと解っている。
 
「今こそ反撃の狼煙を上げる刻! 全軍っ……突撃ぃいーーーー!!」
 
 それぞれがそれぞれの使命を帯びて今、十文字の逆撃が始まった。
 
 
 
 
「はあぁああぁあ!!」
 
「っりゃああぁ!!」
 
 大剣と偃月刀が交叉し、火花を散らし、嵐にも似た斬撃が乱れ飛ぶ。
 
 曹魏最強の夏侯元譲、北郷五虎将の張文遠。二人の豪傑が、昂揚と喜悦の中で互いの武を高め合う。
 
「ははっ、オモロイなぁ……! やっぱ戦はこうやないとあかんわ!」
 
「確かにな………だがっ、私はこれ以上お前と遊んでいる暇など無い!」
 
 敵地の渦中に在って笑う霞とは対象的に、春蘭には焦りにも似た感情が見える。
 
 ここで暴れる事が役割の一端である霞と、こうしている事自体が不本意な春蘭。流れを掴んでいる者と流れを掴んでいない者との違いである。
 
「ふぁーいと、おー」
 
「自分は何を遊んどんねん!」
 
「おや、横槍入れていいのかな、と」
 
「それはイヤや」
 
 その近辺で、つい先ほど柳葉を倒した散が近辺の百の騎兵を統率している。すぐにでも華琳の許に駆け付けたい春蘭にとっては、看過出来ない状況だった。
 
 そして、さらに戦局は動く。
 
「前曲が……!?」
 
「驚く事ないやろ。あんたが他人任せにしたトコなんやから」
 
 先ほどまで春蘭を筆頭に数の利を活かして攻め続けていたはずの前曲が、恐慌に陥り、陣形を乱して崩れていく。こうなる事が解っていたと言わんばかりに、霞は口の端を意地悪く引き上げた。
 
 敵の本隊が、華琳にも届きかねない。そう気付いた春蘭は――――
 
「くそっ!」
 
「あ! 逃げる気ぃか!?」
 
 迷う事なく霞に背を向け、一目散に引き返す。前曲を突き崩した何者かをすぐに討ち取り、指揮系統を回復させるために。
 
 馬術ならこちらが上、と春蘭を追おうとした霞の目に………映った。
 
 魏の大軍を押し退けて雄々しく翻る、漆黒の華旗が。
 
「我が武、二天にして一流なり!」
 
 その先頭を走る、銀髪の武神の姿もまた、同様に。
 
「我が武の前に仰天せよ!!」
 
 呆れるほどの突撃力で魏の前曲をぶち抜き、そのまま中軍に突っ込もうとしていた。
 
「………ウザイくらい張り切っとんなぁ」
 
「なんか叫んでますね」
 
 霞も散も、やや呆気に取られたように眺める。そして春蘭は……真っ直ぐに舞无に向かっていた。
 
「よくも華琳さまの軍を………誰だあれは」
 
 二本の戦斧を振り回す、見た事もない豪傑を、春蘭は睨み殺さんばかりに見る。
 
 出来の悪い記憶力で『華』の旗から連想しようとするも、出て来ない。
 
「誰だろうと関係ない、これ以上好き放題に暴れられてたまるか!」
 
 怒りのままに叫び、真っ正面から舞无に対峙した春蘭は、何故か………失った左眼が疼いた。
 
 向かい合う銀髪の武神の姿が……刹那、深紅の鬼神と重なった。
 
「うらああぁぁーーーーー!!」
 
 一合。春蘭の大剣と左の戦斧がぶつかり………大剣が折れ飛んだ。春蘭がそう気付いた時には―――――
 
「デコはすっこんでろぉぉーーーーー!!」
 
 右の戦斧が、鎧の上から春蘭を殴り飛ばしていた。薄れゆく意識と浮遊感の中で、春蘭は自らに勝った者の名を口に出す。
 
「華……雄………」
 
 背後で地に落ちた春蘭の、擦れるような呟きを確かに聞いて、舞无は背中越しに言葉を贈る。
 
「華雄だと? 誰だそれは。これからは………」
 
 戦斧を格好良く振って、首だけで振り返って、舞无は不敵な笑みを浮かべる。
 
「武蔵と呼べ!!」
 
 高々と突き上げた戦斧が、陽光を受けて眩しく光り輝いていた。
 
 
 
 
「(これは……何……?)」
 
 前曲が崩れ、敵の本隊が雪崩れ込み、戦場は統率も連携も無い大混戦に包まれていた。
 
 ……いや、統率が取れていないのは魏軍のみ。北郷軍は敵味方入り乱れるこの状況でも道標にして支柱たる名将の存在によって味方を見失わず戦っている。
 
 本来ならば、魏の統率もちょっとやそっとの攻撃では崩れたりはしない。なのに、実際はこの有様だ。
 
「(凪、真桜、沙和、春蘭、柳葉………皆、どうなったの)」
 
 北郷軍同様に将が健在ならば、ここまでの混乱状態には陥らない。この地獄が示す意味を悟って、華琳は血の気を引かせた。
 
 いくら強大だとしても………今の魏軍は、首をもがれたトカゲと同じ。
 
「(有象無象の賊徒ではないのよ。数十万の兵力差を持つ魏の精兵を相手に、こんな事が出来るものなの……?)」
 
 用兵も、武勇も、華琳の持つ常識の尺度を明らかに越えていた。開戦前は考えもしなかった未来が頭を過る。
 
「(負ける……?)」
 
 ただでは済まないとは思っていた。大きな犠牲も覚悟した。だが……総勢百万の軍勢が敗北するなどと誰が思うというのか。
 
「(いや………)」
 
 馬鹿馬鹿しい弱音を、華琳は頭を振って振り払う。今は敵の勢い任せの奮闘が功を奏しているだけ。未だ厳然たる兵力差は存在しているのだ。
 
 この混乱を鎮圧して体勢さえ立て直す事が出来れば、もう北郷軍に余力は残らないだろう。
 
「(絶対に負けられない。私が選んだのはそういう道なのだから)」
 
 志を新たに、右も左も解らない戦場を見渡した華琳の眼に……………
 
「え――――――」
 
 遠く、劉と呉の旗が映った。
 
 



[14898] 九章・『勝利の定義』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/03/19 20:05
 
「まさか、あなたと肩を並べて戦う日が来るなんてね。ちょっと信じられないわ」
 
 見た事が無いくらい激しい戦場を二人で見ながら、孫策さんは可笑しそうに笑った。でもわたしは、そんな風に思われてたのが少し寂しい。
 
「わたしは信じてましたよ。いつかきっと、こんな日が来るって」
 
 孫策さんや曹操さんみたいな強くて優しい人と、戦わなくちゃいけないって事の方がよっぽど変。
 
 ………そんなわたしの考えが簡単に通じないって解ってても、やっぱり悲しい。
 
 でも……今はこうして、力を合わせて戦える。
 
「……本音を言っちゃうと、今でもあなたの事は危険だと思ってるのよ。内に引き込むには光が強すぎて、ね」
 
「そ……そうなんですか………」
 
 と思った途端にそんな事を言われて結構しょっく。孫策さんの言いたい事は抽象的でよく解らないけど、完全に心を開いてくれたわけじゃないのは解った。
 
 でも、解らない事もある。
 
「じゃあ……どうして一緒に来てくれたんですか?」
 
 洛陽の戦いが大勢を喫した後、決着を待たずに兵力を割いてここに駆け付けたのはわたしの提案。それに賛成して、危険を承知で兵力を二分してくれたのが孫策さん。
 
 信用してない相手と一緒に危ない橋を渡るなんて、普通は出来ないと思うのに。
 
 そんな気持ちが顔に出ちゃってたのかも知れない。孫策さんはわたしの顔を横目に見て、クスッて笑った。
 
「勘違いしないでね、信用してないわけじゃない。むしろ私が想像する通りの“劉玄徳”だって信頼してるからこそ危ういの」
 
「えっ、と〜……?」
 
 孫策さんの言い回しはやっぱり難しくて、喜んでいいのか悲しんでいいのか解らない。ただ、その横顔に悪い印象は受けなかった。
 
「でも……それももうどうでもいい事なんだけどね」
 
「どうでもいいん、ですか?」
 
「そ。だってあなたの危うさを受け止めるのは、私じゃなくて一刀だもの」
 
 それだけ言って、孫策さんは先に歩き出す。言いたい事は言った、後ろ手に振られた掌から、そんなめっせーじを受け取る。
 
「さて、と。相変わらず派手にやってるわね、一刀は」
 
「にゃー……鈴々たちが来なくても勝ってたかも知れないのだ」
 
「四方から敵を裂くぞ。統率を完全に崩してしまえば、いくら曹操と言えどこの形勢を覆す事は出来まい」
 
「……ああ、決着をつけてやる!」
 
 孫策さん、鈴々ちゃん、周瑜さん、愛紗ちゃん。皆との間の少しの距離が、何だかとても遠く感じた。
 
 勇ましく戦える皆に対する引け目ってだけじゃない。この戦いに対する勝ち負けの意識が、わたしだけズレている気がする。
 
「(一刀さんは、どうなのかな………)」
 
 この大戦に勝つ事が、本当に曹操さんに勝つ事になるのか……ずっとそれを考えて来た。
 
 考えて……でも、戦わないと何も守れない現実に流されて来た。
 
 “でも”――――
 
「…………朱里ちゃん」
 
「はい」
 
 戦いに向かう皆の背中を見送りながら、わたしは朱里ちゃんに教えを乞う。
 
 きっと……一刀さんも、同じ事を考えてると思うから。
 
 
 
 
「お前の野望も、ここまでだ!」
 
 星、舞无、霞、散、翠、蒲公英、紫苑、焔耶に加えて、愛紗、鈴々、雪蓮、思春ら。戦乱に名を馳せた英雄たちが部隊を率いて、混迷を極めた魏の大軍を四方八方から分断して行く。
 
「身の程を弁えなさい。あなた如きに阻まれるほど、私の覇道は軽くないのよ」
 
 もはや敵味方の区別すら困難なほどの大乱戦の中で、華琳は懸命に大鎌を振るっていた。
 
 その命を狙うのは、白馬に跨がる秀才・白蓮。
 
「(劉備や孫策が西方から来たという事は……洛陽は、秋蘭はどうなった……?)」
 
 刃を交える最中にも、華琳の思考は千々に乱れていた。
 
 これ以上ないほど最悪の状況。僅か一つでも歯車が狂えば圧倒的な兵力に圧し潰されていた、奇跡にも近い綱渡りを……北郷軍は、その実力と天運で掴み取った。
 
「(侮っていたつもりは、無かったのだけどね……)」
 
 絶望的な戦局。しかし華琳は歯を食い縛り、戦い続ける。誰が相手だろうと、どんな苦難だろうと、真っ向から打ち破って勝利してこその覇王。
 
「(そうでなければ、意味が無いのよ……!)」
 
 だが、心意気だけで軍を立て直す事など出来はしない。華琳の奮闘を嘲笑うように一本の流れ矢が飛来し、その騎馬の後ろ足に突き刺さった。
 
「っ!?」
 
「もらった!」
 
 軍馬が暴れ、華琳は体勢を崩す。その隙を逃さず振るった白蓮の剣を華琳は寸での所で躱し………そのまま落馬した。
 
 地に投げ出された華琳に、白蓮はトドメを刺そうとして―――――
 
「させるかぁ!」
 
 一人の将に食い止められる。白蓮は名も顔も知らぬ将ではあったが、流石に総勢百万にも上る魏軍。春蘭や秋蘭ばかりが将ではない。
 
「お逃げ下さい、華琳さま! このような状況では、いつ御身に危険が及ぶかわかりません!」
 
 どこまでが敵でどこまでが味方か解らない。いつどこから凶刃が迫って来るか解らない。華琳の窮地を目の当たりにして、桂花は懇願に近い絶叫を上げた。
 
 だが、華琳は聞き入れない。
 
「逃げろ? 冗談じゃないわ。ここで私までいなくなれば、一体誰が軍を立て直せると言うの」
 
 誰に憚る事も無く、己の力と正義を大陸中に誇ったのだ。旧き時代を打ち壊し、誰もが認める大陸の覇者とならなければならない。
 
「私は逃げない。敗北して敵に背中を見せるなど、私の誇りが許さな……っ!」
 
 噛み付くように前を見た華琳の視界が、頬に走る痛みと同時に…………横に“飛んだ”。
 
「…………ここで貴女が死ぬ事で、一体誰が報われるのですか」
 
 横に向かされた顔を、華琳は緩慢な動作で前に戻す。
 
 信じられなかった。“あの桂花が”、自分に手を上げたという事が。
 
「ここで背を向ける事で、華琳さまの覇道が潰えるわけではないはずです。貴女さえいれば、魏は何度でも立ち上がる事が出来る」
 
 華琳を崇拝し、いつもその意向に沿うように尽力して来た桂花が、眼に涙を溜めて、声を震わせて、華琳を叱っている。
 
「生きて下さい、華琳さま。負ける事が許されないなら尚の事、生きて……必ず、勝って下さい」
 
「…………………」
 
 華琳はしばし、大して痛くもない頬を確かめるように何度も何度擦りながら、泣きじゃくる桂花を見て………小さく、吹き出した。
 
「選びぬいた名器に叩かれたのは、生まれて初めてよ」
 
「どんな罰も甘んじて受けます。華琳さまが生きていてくれるなら」
 
「その言葉、よく憶えておきなさいよ。男の文官達に朝から晩まで弄ばせるくらいじゃ済ませないから」
 
「…………………」
 
 途端に青ざめる桂花を意地悪く笑って、華琳は近くにいた兵士から馬の手綱を受け取る。
 
 その笑顔に、先ほどまでの頑迷さは無い。
 
「この場は私が引き受けます。これほどの乱戦では、敵も戦場を把握しきれてはいないはず。この混乱を活かして、華琳さまは敵の眼を逃れて下さい」
 
「……私の許可無く死ぬ事は許さないわよ。覇道が続く以上、あなたにはまだやってもらう事が山ほど残っているのだから」
 
「……御武運を」
 
 死ぬな、という命令に対する応えではない言葉を返して、桂花は自分が被っていた頭巾を外し、それを華琳に被せて豪奢な金髪を隠した。
 
「…………………」
 
 耐え難いほどの屈辱、惨めなまでの敗北感、そして未だ戦い続ける部下たちに後ろ髪を引かれながら、華琳は乱戦の砂塵を抜け、戦場を外れた山間へと駆けて行く。
 
 
 
 
「(………無様ね、華琳)」
 
 目深に被った頭巾の下で、華琳は己を嘲う。
 
 あれから、華琳は逃げ込んだ山間で幾度となく敵の襲撃を受け、命からがら逃げ延びた。
 
 戦場から逃げた華琳を、敵の部隊が追撃して来たわけではない。逃げる先逃げる先に伏兵部隊が現れ、待ち構えていたかのように食らい付いて来たのだ。
 
「(魏軍が瓦解する事も、私がこの場所に逃げ込む事も、全てはあの男の掌の上の出来事だったと言うの……?)」
 
 そうでなければ、こんな場所に予め兵を伏せたりなどしない。
 
「(でも……私は生きている)」
 
 その事に僅かな優越と、それより遥かに大きな空虚を覚えて、華琳は静かに眼を臥せた。
 
 空虚を覚える事の意味に、華琳自身は気付かない。………否、気付いてはいけない。
 
「(立ち止まれない………)」
 
 もはや周りには十数の兵しか残っていない。何かを求めるように見上げた空は、既に夕焼け色に染まっていた。
 
 そして……もう一つ見つけたものがある。
 
「あれは……炊煙?」
 
 兵糧を炊きだす際に上る白煙が、朱色の空に薄らと漂っていた。その煙は、華琳の眼前で二つに別れた道……その一方の先から上っている。
 
「………まだ、天は私を見放してはいなかったようね」
 
 そう呟いて、華琳は“炊煙の上る左の道”へと歩を進める。
 
「曹操さま!? そちらの道には、また敵が待ち構えているのでは………煙が上がるという事は、敵がいるという事です!」
 
 たまらず慌てた声を上げる女兵士に、華琳は呆れたように肩を竦めた。
 
「待ち伏せをするのに、わざわざ自分の位置を教えるはずがないでしょう。あれは炊煙を焚く事で左の道を警戒させ、右の道へと誘導させるための物。つまり……実際に手薄なのは、左の道の方なのよ」
 
 これが凡百の相手ならば、炊き出しの煙で自分の位置を曝す愚昧な伏兵と侮っただろう。だが、華琳には北郷の将がそんな御粗末な失敗を冒すとはどうしても思えなかった。
 
 逆に強く確信する。これは失敗ではなく、罠なのだと。
 
「(とは言っても、“どちらにも”伏兵はいるのでしょうけどね)」
 
 覚悟を決めて、華琳は進む。たとえ兵は少なくとも、必ず突破してみせると。
 
 何が待ち受けていようと怯まない。そう構えていた華琳の心は――――
 
「っ…………」
 
 全く容易く、騒めいた。進む先に立っていた……一人の少年の姿によって。
 
「何故…………」
 
 炊煙の元で待ち構えていた事に、驚いたのではない。今さら裏を掛かれようと驚きはしない。
 
「何故あなたが、ここにいるの………」
 
 しかし、あり得ない。よりにもよって、彼がこんな所にいるという事があり得ない。
 
 華琳の疑念、憤慨、軽蔑、それら全てを痛いほどに解った上で………
 
「相手が君じゃなかったら、俺もこんなやり方は選ばないんだけどね」
 
 少年は…………
 
「終わりにしよう、曹操。俺とお前の……二人で」
 
 ―――北郷一刀は、剣を抜いた。
 
 



[14898] 十章・『何かを誇れと言うのなら』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/05/04 07:32
 
「待ち伏せをするのに、わざわざ目立つような真似をするはずがない。きっと曹操なら、そう判断すると思ったよ」
 
 だからわざと自分の居る場所で炊煙を焚いた。そう語る一刀を、華琳は醒めた瞳で睥睨する。
 
「とりあえず見事と言っておくわ。……それで、どうして貴方がここにいるの」
 
 思考を読み越された事に関しては、華琳は今さら驚かない。悔しいが、これくらいは当たり前のようにやりかねない男だ。
 
 しかし、ここを敵軍の大将が通ると解っていたとして……どうしてよりにもよって北郷一刀がここにいるのか。
 
「呆れて物も言えないわ。貴方……義勇軍だった頃と何も変わっていないのね」
 
 曹孟徳を討つ人間が北郷一刀本人である必要性など無い。それどころか、せっかく敵の君主を追い詰める為に敷いた布陣の意味を自ら壊しているとさえ言える。
 
 華琳と一刀は今、等しく大将首を獲れる状態にあるのだから。
 
 それは否定しないけどね、と肩を竦めた一刀は、しかしそこから言葉を続ける。
 
「ここで君を殺せば、いずれ大陸は統一出来る。でも……戦乱はまだ続く。曹孟徳を失った魏の臣は、絶対に俺たちを受け入れてくれないから」
 
 澱み無く、まるでそうなるという確信があるような一刀の言葉。だが……華琳にはそれが何故か煩わしく思えた。
 
「……どうしてそんな事が解るの」
 
「ただ強いだけの王に、大陸の半分を治める事なんて出来ないよ」
 
 相手の本質を見透かす……という以上に感じる、根拠の無い信頼。それが、今の華琳には到底受け入れ難いものに映る。
 
「それで? まさかとは思うけど、私を説き伏せに来たというわけではないでしょうね」
 
 まず、最も聞きたくない言葉が出ないよう釘を刺す華琳に、一刀は小さく首を振った。
 
「言葉で君を止められるんなら、とっくの昔に桃香が止めてる。それじゃ……納得しないんだろ?」
 
「ええ。話し合いで得られる程度の平和など、平和とは思えないもの」
 
「そう。だから……お前の流儀に合わせてやる」
 
 差し向けられた一刀の剣に、華琳の大鎌が伸びる。二つの刃は、まるで神聖な儀式を行う前の儀礼のように―――――
 
「決着をつけよう、“華琳”」
 
「受けて立ちましょう、“一刀”」
 
 静寂に包まれた森の中に、涼やかな音色を響かせた。
 
 
 
 
 大鎌の刃先が生んだ風が、一刀の髪を紙一重の所で撫でる。
 
「見違えるほど成長した。合戦の最中はそう思ったけれど、どうやら買い被りだったようね」
 
 そして、一刀が反撃に転ずるよりも速く華琳は大鎌を返し、振り下ろした。
 
「ここで全ての戦いを終わりにする。言葉は立派に聞こえるけれど、それは本当に貴方が命を懸けてするべき事かしら」
 
 辛うじてそれを止めた一刀だったが、細く鋭く伸びた鎌の刃先が、一刀の二の腕に食い込んでいる。
 
「貴方は何もかもを求め過ぎている。たとえ乱世の終焉を遅らせる事になるとしても、より確実な勝利を選ぶべきだった。まして、勝てたはずの戦で主君の命を危険に曝すなんて論外」
 
「それ、もう飽きるくらい言われた」
 
 一刀は強く踏み込み、力任せに、噛み合った大鎌ごと華琳を後方に弾く。今度は一刀の剣先が華琳に届いたが、華琳は冷静に二の腕の腕輪でそれを受けていた。
 
「逆らう者は残らず叩き伏せ、屈伏させてこその“統一”よ。私を討つ事で魏の民が反抗するというのなら、むしろ貴方はまだ乱世を終わらせるべきじゃないわ」
 
 少しずつ、華琳の大鎌が怒気を帯びる。斬撃は振るわれる毎に苛烈さを増していき、一刀は防戦一方に追い込まれていく。
 
「前にも言っただろ。それは華琳の理屈で、俺のやりたい事とは違う」
 
「なら……貴方も“あの子”と同じように、曖昧で生温い結束を望むと言うの?」
 
 それは、対等の王として目の前に立ちはだかる男への……自分をここまで追い詰めた男への、失望という名の怒りだった。
 
「皇帝という御旗の下、一つに束ねられていた漢王朝ですら……見る影も無く崩壊した。それを……薄っぺらな話し合いや、不確かな信頼で平和に出来るとでも言いたいの?」
 
 己の手を血に染め、修羅の道を歩いてでも民に平穏をもたらす。その覚悟こそが、華琳にとって絶対の『王の資格』。
 
 それを問われた一刀は………
 
「出来るよ」
 
「……………は?」
 
 迷う素振り一つ無く、即答で否定した。しばし呆気に取られた華琳の胸に、遅れて、沸々と苛立ちが湧き上がる。
 
 自分の生き方の全てを否定されているようで、堪らなく不愉快だった。
 
 一刀はそんな華琳の心情を理解した上で、さらに真っ向から否定する。
 
「逆らう奴を全部打ち負かして、頂点に立ったお前が大陸を平和にする?」
 
 今度は一刀が、怒っていた。怒りを握る剣に込めて、思い切り叩きつける。
 
「自惚れるなよ。その小さな背中に背負えるほど、この大陸は軽くない」
 
 一刀が、
 
「『俺なら出来る』とでも言いたいの? 自惚れているのはそちらではないの!?」
 
 華琳が、一振り一振りに剥き出しの感情を乗せて振り回す。
 
 武の極みとも、流麗な舞とも違う。だがその打ち合いは、どんな豪傑の一撃よりも重い異彩を放っていた。
 
「まさか。俺はそんな大層な人間じゃない。特に頭が良いわけでもない、別に腕が立つわけでもない。自信もなくて、迷ってばっかりで………どうしようもない過ちも、何度も繰り返して来た」
 
 失ってしまったものを想って、癒えない傷に痛みを感じて、それでも一刀は下を向かない。
 
「人の上に立つ者は、常に己を誇らなければならない。誰もが敬服する威厳を持たなければならないのよ……!」
 
 その瞳を……華琳が鋭く睨み付ける。
 
「だけど!」
 
 一刀も退かない。噛み合った刃越しに、二つの眼光がぶつかり合う。
 
「こんな俺を……支えてくれる仲間がいた。一人じゃ何も出来ない俺が今ここにいるのは、皆がいてくれたからだ」
 
 誇り。投げ掛けられた問いに、今なら胸を張って応える事が出来る。
 
「俺に何かを誇れって言うなら、俺は俺の仲間を誇る」
 
 鍔迫り合った刀身が、大鎌の柄を滑る。湾曲した刃が首に迫るのも構わずに………一刀は剣を振り切った。
 
「「ッ………!?」」
 
 紙一重。走った剣閃が弧を描き、華琳の側頭……ではなく、髑髏の髪飾りを粉砕する。
 
「っ……他者に縋り、他者を誇り、自身を卑下するような男が、何故ここに立っている! 何故、王として私の前に立ちはだかる!」
 
 髪が解け、鮮やかな金色が流れ出た。“わざと外された”、その事に尋常ならざる屈辱を覚えて、華琳は忌々しげに残った髪飾りを引き抜く。
 
「俺が誇りに思ってる皆が、こんな俺を慕ってくれてるんだ」
 
 咆える一刀の肩口には、決して浅くは無い傷が血を滲ませていた。
 
「だったら! 命懸けでカッコつけるしかないだろうがっ!!」
 
「はあぁ!? 貴方ホンッットに馬鹿じゃないの? よくそんな頭の悪さでここまで生き残って来れたわね!」
 
 呆れを通り越して腹も立たない。
 
 互いに振り切った斬撃が激突し、二人弾かれるように距離を取った。
 
「最初っから言ってるだろ。俺が戦う理由は自己満足なんだって」
 
「理解不能よ。何でそんな人間が大陸を救おうとするの。貴方……要するに身内が好きなだけじゃない」
 
 もうまともに相手をする事が疲れたとでも言うように、華琳は大きく脱力した。
 
 対称的に、一刀は堂々としたものである。
 
「俺さ、人を見る眼にだけは自信があるんだ。どこかでたくさんの人が苦しんでるって解ってて、平気でいられる子なんて……俺の仲間にはいない」
 
 そんな仲間を、そんな仲間を得た自分を誇って、一刀は不敵に笑う。
 
「そんな優しい皆と、“本当に”笑い合う為なら……この広い大陸だって救ってみせる」
 
 いつか華琳が“小さい”と言った戦う理由。それは、大陸の命運を懸けたこの場に及んでも……変わる事は無かった。
 
「(成長したのに変わってない、か………)」
 
 前の世界で星に言われた言葉を思い出して、一刀はこんな時だというのに小さく吹き出した。
 
「(やっぱり、よく解らない)」
 
 言葉の意味も、そもそも自分が本当に成長出来たのかどうかさえ、一刀には今一つ実感が無い。
 
 しかし……悪い気はしなかった。
 
「……………………」
 
 やりたい事しかやっていない。本当に、呆れるくらい自分勝手な男。でも……その願いそのものは子供のように真っ直ぐだった。
 
 あまりにも純朴に過ぎる、とても王とは思えない姿に、華琳は不覚にも僅かほだされて……だからこそ、再び冷厳な仮面を被る。
 
「やっぱり貴方は何も解っていない。理由が何であれ、永の平和を築くつもりならば……それ相応の覚悟が必要なのよ」
 
 もはや怒りの感情は失せた。こんな馬鹿だからこそ多くの者が集まったのだろうと、半ば投げ遣り気味に納得も出来る。
 
 しかし………それが戦いをやめる理由にはならない。
 
「戦う事でしか、平和な未来を得る事は出来ないのよ」
 
 一刀が華琳を殺すつもりがないのならば、尚更。
 
 
 仲間を誇る少年と、己を誇る少女。二つの信念が交錯するその場所に、三つの影が集結の兆を見せていた。
 
 



[14898] 十一章・『決着』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/03/21 17:41
 
「今になって駆けつけるくらいならっ、どうして最初から護衛に就かない!」
 
 薄闇の差す森の中を、三人の少女が駆けて行く。
 
「勘違いするな。私は一刀を護りに行くのではない。一刀の戦いを見届けに行くのだ」
 
 ここに到る道中で崖に阻まれ、彼女らはその身一つで“そこ”を目指す。
 
「それでも臣下か!?」
 
「信じて待つのも、臣下の務めだ。大体、おぬしにとやかく言われる筋合いは無い」
 
「っ………!」
 
 水色の少女と黒髪の義妹が言い合う喧騒を背中に置いて、もう一人……王たる少女はただ沈黙を守っていた。
 
「はあっ……はあっ……はあっ……」
 
 決して体力に恵まれているわけではない少女は、言い知れない胸騒ぎが命ずるままに……自身でも驚くほどの速さで走る。
 
 息が切れても、心臓が弾けそうでも、手足がいくら重くても、ひたすら速度を上げていく。
 
「(一刀さん……!)」
 
 いま急がなければ、絶対に後悔する。そんな、不思議な確信があった。
 
 
 
 
 黄昏の静寂に包まれて、二人の王が向かい合う。
 
 言葉だけでは、華琳の心に届かない。武力が王たる資質ではない以上、華琳が一騎討ちなど受けるはずがない。
 
 だから一刀は、これに懸けた。これまで生きて来た全てを刃に乗せて、互いの想いを真っ正面からぶつけ合った。
 
 それでも、華琳は戦う事をやめはしない。
 
「どうして……そこまで覇道に拘るんだ」
 
 無為な血を望むような少女では決してない事を、一刀は誰よりも良く知っている。
 
 一体何が、華琳をそこまで戦いに駆り立てているのか。“かつての華琳”を知っている一刀にさえ、解らない。
 
「それが必要な事だからよ。誰より優れた王が、絶対の力を以て人を動かす。そうして……初めて安寧はもたらされる」
 
 そう信じて来た。今でも信じている。これからも変わらない。
 
 華琳は地を蹴り、大鎌を翻した。
 
「天から来た貴方には、理解出来ないのかも知れないわね。権力というものが持つ、本当の意味が」
 
「っ!?」
 
 一振り。
 
「自分に賄賂を贈らなかったというだけで、相手を一族もろとも根絶やしにした人間を見た事がある?」
 
「く……っ!」
 
 また一振り。
 
「明るい笑顔で近づきながら、平然と毒酒を勧めて来る人間は? 己の保身の為なら恩人や肉親だろうと躊躇わず裏切る人間は?」
 
 まるで現実の厳しさを教えてやると言う様に、華琳の斬撃が一刀を襲う。
 
「そんな理不尽で残酷な所業が、権力さえ持てばいとも容易く出来てしまう。だから私は決めた。誰より強く、誰より高みに立つ事を」
 
 『お前は甘い』。言葉が、刃が、痛みを以て一刀に語り掛けて来る。
 
「仲間? 信頼? この大陸の事を何も知らないくせに………甘ったれた戯れ言を並べないで!」
 
 死神の鎌が唸りを上げる。魔王の首を刈り取らんと奔った一撃は――――
 
「ぐぅ……っ」
 
 命には届かず、一刀の顔から血飛沫を散らした。鼻の横から耳にまで続く傷から、真っ赤な鮮血が流れ出る。
 
「終わりよ………!」
 
 そこで止まらない。命に届かなかった刃を翻し、華琳はさらに大鎌を振り下ろした。
 
 そして―――――
 
(ガギッ………!)
 
 刃が、止まる。大鎌の細く鋭い刃先を、一刀は剣の腹で的確に受けていた。
 
 放っておけば失血で倒れてもおかしくない傷を負いながら、全く怯む様子は無い。
 
「そうやって……一人で戦い続けるのか」
 
 刃の下から、一刀の瞳が華琳を射抜いた。恐怖に歪んでいるわけでも、怒りに燃えているわけでもない。言葉に出来ない色を宿した瞳に……華琳は思わず後退る。
 
「俺は、華琳が何を見て生きて来たのかなんて知らない。君が言う通り、権力が持つ意味なんて解ってないと思う」
 
 今度は一刀が剣を振り上げ、走りだす。
 
「そんな俺でも、はっきり言える」
 
 踏み込み、打ち下ろし、叩きつけた一撃が……華琳の小さな体を弾き飛ばす。
 
「現実を見てないのは、お前の方だ」
 
 華琳は一刀の剣を受け止めている。なのに……止めきれない。
 
「過去に囚われるな、眼を逸らさずに今を見ろ」
 
「(重い……!)」
 
 体重でも膂力でもない“重さ”。一刀の剣に宿る、受け止めきれないほどの何かを、華琳は痛いほどに感じ取る。
 
「っ……!?」
 
 不意に背中に何かが当たり、華琳は自分がいつの間にか追い詰められた事を知った。その目前に、剣を握る一刀が迫る。
 
「雪蓮が、蓮華が、桃香が! 本当にそんな薄汚い人間に見えるのかよ!!」
 
「!?」
 
 一閃。咄嗟にしゃがみ込んだ華琳の頭上で、白い光が横一文字に払われた。
 
 転がるように逃れた華琳の前で、樹木が音を立てて崩れ落ちる。
 
「洛陽で、徐州で……勝った後に何が残った。“それ”が、本当に華琳の望んだものだったのか?」
 
 振り返る一刀の横顔から流れた紅い雫は、本当に血だったのだろうか。
 
「もう……誰かを信じてもいいだろ?」
 
 華琳は何を思ってか、小さく首を振って……薄く笑った。
 
「……それが甘いと、言っているのよ」
 
 とても、とても寂しそうに。
 
「(もう……後戻りは出来ないのよ)」
 
 緩慢な動きで立ち上がり、やはり……大鎌を一刀に向ける。
 
「その甘さが……貴方から全てを奪うわよ。あの天下無双でさえ、無惨に錆び落ちたようにね」
 
「っ…………」
 
 眼に見えて、一刀の空気が一変した。失血で朦朧とした意識に、剥き出しの感情が顔を出す。
 
「(あまりにも多くの犠牲の上に、立ってしまった)」
 
 逆鱗に触れた、その事を確認して……それでいいと華琳は思う。
 
「(だから……負ける事は許されなかった。勝つ事でしか、皆の死に報いる方法が見つからなかった)」
 
 非情になれと、華琳は一刀に願う。
 
「来なさい、貴方の全てを打ち砕いて……私が天下を手に入れる」
 
 永遠とも思える、長い……長い静寂を経て―――
 
「…………………………………………………………………残念だ」
 
 一刀は、腸のねじ切れるような声を……搾りだした。もう、言葉は要らない。何一つ、届かなかった。
 
「………………」
 
「………………」
 
 最期の対峙に向けて、二人は同時に駆け出した。
 
「(もう………)」
 
 熱くて、冷たくて、痛くて、霞掛かった意識の中で…………
 
『ご主人様……ありがとうございます』
 
『あー、もうっ! こんな奴をどうして好きになっちゃったりしたのよ、ボクはっ!』
 
『……ずっと、一緒』
 
 一つの想いが、一刀を強く、衝き動かす。
 
「(もう……誰も失いたくない)」
 
 振り上げた剣撃が、華琳の大鎌を弾き飛ばす。
 
「(お前が、俺から皆を奪うなら………)」
 
 華琳の体が泳ぐ。一刀には……剣を返す余裕がある。
 
「(俺は………)」
 
 信頼、愛情、恐怖、躊躇、葛藤、絶望、あらゆる感情の嵐の中で振り回されて………
 
「(お前を―――!!)」
 
 一刀は剣を………振り下ろした。
 
「ッだめええぇぇーーーー!!」
 
 その先に……深紅の華が咲いた。
 
 
 
 
「(いつからだろう………)」
 
 心の何処かで、気付いていた。
 
 私が歩く道が、本当に私の望む未来に続いているのか。
 
 その疑念の欠片は持っていた。
 
「(でも……認めるわけにはいかなかった)」
 
 数え切れない命が消えた。私に従い、私を信じて、犠牲になっていった。
 
「(私が過ちを認めたら、私を信じてついて来た者たちはどうなるの?)」
 
 引き返す事の出来ない道を選んだ。だから……認めるわけにはいかなかった。
 
 認める事は敗北に同じ。敗北は即ち、裏切りと同じだから。
 
「(今になって、こんな事に気付くとはね)」
 
 降って来る刃の動きが、やけに緩やかに見える。死を前にするとは、こういう感覚を言うのかしら。
 
「(ごめんなさい)」
 
 私は覇王にはなれなかった。
 
 でも……私の正義は一刀が継ぐ。誰より優れた王として、大陸の頂に立ってくれる。
 
「(もう……いいのよね……?)」
 
 命の尽きるその時まで、私は覇道を貫くと決めた。でも……それも終わり。
 
「(さよなら………)」
 
 誰に、何に向けたのか解らない別れを告げて……私は静かに眼を閉じた。
 
 ―――己の過ちも、敗北も、全て受け入れて。
 
 でも――――
 
「ッだめええぇぇーーーー!!」
 
 終わりは、来なかった。
 
 突然の柔らかい衝撃。耳に痛い悲鳴。思わず開いた視界に、桃色だけが広がっていた。
 
「と………」
 
 一刀の声が、震えている。その声に……さっきまでの狂気は無い。
 
「桃香ァ!!」
 
 代わりに満ちた悲痛な叫びが、私を押し倒すように抱き締めているのが誰かを教えてくれた。
 
「…………どう、して?」
 
 背中に回して触れた髪に、生暖かい血が付いている。
 
 劉備は手を着いて体を起こし、漸く見えるようになった私の顔に……何も言わず、笑顔を向けた。
 
「…………………」
 
 死を前にして、私は己の敗北を認めてしまった。
 
 立ち止まってしまった以上、振り返ってしまった以上……これ以上この道を進む事は、出来ない。
 
 もう……戦えないわね。
 
「……私の………負けよ………」
 
 本当に……どこまでも思い通りにならない娘。
 
 
 
 
 限界まで見開かれた金の瞳に映ったのは……一人の男が、敬愛する義姉を斬り倒す姿だった。
 
 



[14898] 十幕終章・『一人じゃない』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/03/23 19:56
 
「…………………」
 
 目が覚めても、最初は闇だけしか見えなかった。天井……って言うのかな。天幕の天辺を、内側から見上げてる。
 
「………ここは」
 
 薄暗い天幕の中を、燭台の小さな灯りが照らしてる。
 
「あっ、おはよう。一刀さん」
 
 その影の向こうから、愛らしい瞳が俺を覗き込んで来た。
 
「………桃香?」
 
「気分はどう?」
 
 何がなんだか解らない俺の額に触れながら、桃香はもう片方の手で自分の額にも触れる。う~ん、って唸る姿が何だか可愛くて、俺は小さく吹き出した。
 
「(ああ……そうだ……)」
 
 そして、何の気なしに上げた顔に痛みを感じて、思い出した。
 
 ………倒れた桃香を抱き起こして、喚いて、叫んで………ダメだ。自分が何やってたのか思い出せない。多分……ロクな事してなかったと思う。
 
「俺……いつ気を失ったんだ」
 
「あの後すぐ。一刀さん、血を流し過ぎてたみたい」
 
 ………でも、この手にはっきり残ってる。桃香を斬った……感触が。
 
「………大丈夫、なのか?」
 
「全然へーき! 星ちゃんがすぐに止血してくれたし、どっちかって言うと一刀さんの方が危なかったんだから」
 
 両腕でグッと力こぶを作るようなポーズを取って、桃香は自分の元気をアピールした。
 
「………………」
 
 少しずつ、染みてくる様に、安堵と後悔が広がっていく。
 
「傷の縫合だって、わたしは風ちゃんにやってもら……きゃっ!」
 
「……………………良かった」
 
 自分が抑えられずに、俺は桃香を力いっぱい抱き締めた。………怖かった。桃香を失う事が。もう会えなくなる事が。
 
 ………そうなりかねない元凶を作った自分が、許せない。
 
「良かった……!」
 
 上ずった鼻声が出てしまう。寝間着越しに触れた背中に包帯の手触りを感じて、胸が痛んだ。
 
「………ねぇ、一刀さん」
 
 俺の背中を何度も撫でる小さな手が、何よりも強いものに思えた。
 
「わたし……一刀さんの“足りない何か”に、なれたのかな……」
 
「当たり前、だよ」 
 
 不安そうな問い掛けに、間髪入れずに即答する。桃香が……自分の行為に疑問を持つ必要なんか無い。
 
「良かったぁ……、ホントは不安だったの。余計な事しちゃったんじゃないかな、って」
 
「そんな事、あるわけないだろ!」
 
 的外れな不安を、思わず大声で否定してしまう。俺だけだったら、そう思うとゾッとする。
 
「俺は結局……本当の意味で華琳に勝つ事は出来なかった。桃香がいたから………桃香が、勝ったんだ」
 
 手が、震える。桃香が笑ってくれるから、この程度で済んでるんだ。もしあのまま、華琳を手に掛けていたら……乱世は続き、犠牲は増えて、俺は一生後悔していた。
 
「……違うよ」
 
 穏やかな声音が、心地好いぬくもりが、俺を優しく包み込む。
 
「わたしは、わたしに出来るほんの一握りを果たしただけ。……一番頑張ったのは、一刀さんでしょ?」
 
 誰より優しくて、誰より強い……のに、それを誇らない。ただ、いつも誰かの事を想ってる……そんな、女の子。
 
「それでも何かご褒美くれるって言うなら、今夜はずっと……こうしてて良い?」
 
 桃香は重たい空気をパッと払い、徐に俺の布団に潜り込み、腕に抱きついて来た。
 
「背中が痛くて仰向けに寝られないから、抱き枕! 前から一度してみたかったの」
 
 猫みたく、気持ちよさそうに擦り寄って来る。
 
「………敵わないな、桃香には」
 
「えへへ♪」
 
 初めて会った時は、複雑だった。俺の方が異端だって事も忘れて、まるで自分の居場所が奪われたような気分を味わった。
 
 ………でも今は、とても強く思う。
 
「君に会えて、良かった………」
 
「……うん、わたしも」
 
 まだ全部が片付いたわけじゃない。すぐにやらなきゃならない事が山ほどある。でも、今くらいは足を止めたかった。
 
 “また”、この大陸に平和を取り戻せたんだから。
 
 言葉も無く、どちらともなく、俺たちは顔を寄せ合って――――
 
「わっっ!!」
「「ッッ……!!??」」
 
 声にならない絶叫を上げながら、慌てて離れた。破裂しそうな心臓を押さえつつ、声がした方を見てみれば………
 
「しぇ、雪蓮……?」
 
「と……華琳さん?」
 
 悪戯が成功して満足気な顔した雪蓮と、醒めた半眼を俺たちに向けている華琳がいた。
 
「……お楽しみのところ悪いのだけれど、少し時間を貰えるかしら」
 
「ありゃりゃ、これは蓮華も分が悪いわね~。帰ったら煽ってやらないと♪」
 
 しかも、一部始終を見られてた感じ。これは……かなり恥ずかしい。桃香にいたっては、既に頭から布団を被って完全防御体勢だ。
 
「………寝ないで待ってます」
 
 などと消え入りそうな声で言いながら、布団から手だけ出して手旗で「いってらっしゃい」している。
 
「………………」
 
 さっき桃香は、華琳の事を真名で呼んでた。つまり……桃香とはもう話す事は話したっ、て事だ。
 
 呼ばれてるのは俺……か。
 
「……わかった。行こう」
 
 俺は華琳の眼を直視出来ないまま、その背中に続く。
 
 
 
 
 意識が戻って、桃香がいて、まるで夢の続きみたいな感覚だったけど……漸く目が覚めて来た。
 
「華琳は解るけど、雪蓮は何で?」
 
「護衛兼立会人♪ 私ほどの適役もいないでしょ?」
 
「確かに、ね」
 
 自分がした事、自分が出来なかった事。それを……否が応にも自覚させられる。
 
 何より、目の前にいる華琳の姿に。
 
「口を挟むつもりはないから安心なさいな。なーんか、私たちの知らない所で決着ついちゃったみたいだしね」
 
 少し離れて、気に背中を凭れて、雪蓮はそれきり口を閉ざした。確かに……雪蓮なら一足飛びに華琳を斬れる距離だ。
 
 そして……未だに半眼のままの華琳が、俺と向き合う形になる。
 
「……………………」
 
「……………………」
 
 沈黙が、重い。平衡感覚がおかしくなったみたいな錯覚を感じる。でも………俺は、眼を逸らしちゃいけない。
 
 目が合って、華琳は何に向かってか肩を竦めて……嘆息した。
 
「貴方が気絶する前にも言ったと思うけど……私の負けよ。魏の国も、民も、臣も、そして私も……貴方の好きになさい」
 
 負けた。そんな……全然似合わない台詞を口にする華琳の表情は、どこか晴れやかに見える。
 
 けど――――
 
「……その言葉は、俺が受け取るべきものじゃない」
 
 俺には、そんな資格は無い。
 
「華琳が負けを認めたのは、桃香だろ」
 
 ずっと自分の理想を阻んで来た宿敵でさえ、身を挺して庇う。そんな桃香の優しさに打たれて、華琳は降参したんだろう。
 
 ………俺には、出来なかった。
 
「俺は……君を殺そうとした。違う正義を力でねじ伏せる。他でもない俺の手で、華琳のやり方を肯定しようとしたんだ」
 
 要するに、俺は華琳に………負けたんだ。華琳が本当は優しい事も、華琳を殺せば戦いが続く事も解っててなお……仲間を失う恐怖に勝てなかった。
 
「恋が慕ってくれた、星が教えてくれた、皆が信じてくれた想いに……応える事が出来なかった」
 
 いくら言葉を重ねても、いくら刃を交えても、断固として覇道を貫こうとする華琳の姿が、怖かった。
 
 華琳だって、守りたい一人だったはずなのに、俺は………切り捨てようとした。それが何より………悲しい。
 
 懺悔に近い俺の独白を聞いて、華琳は………
 
「………貴方、人の事は何でも見透かしたように語るくせに、自分の事は何も解っていないのね」
 
 完全に馬鹿を見る眼で、呆れていた。真剣な話を茶化されたみたいで、ちょっとムッと来る。
 
「何がだよ」
 
「はぁ……あのねぇ、貴方が本気で私を殺すつもりで剣を振り下ろしていたなら、その間に割って入ったあの子が、あんな軽傷で済むはずがないでしょう」
 
 ……………なに?
 
「でも、俺はあの時………」
 
「自覚が無いのなら、無意識の手加減なのでしょう。いずれにしろ……貴方の甘さは死んでも治らない、という事よ」
 
 さも当然のようにそう言われても、俺には今一つ実感が湧かない。湧かないけど………
 
「もしかして、慰めてくれてる?」
 
「事実を言っているだけよ。斬撃を受けたあの子自身が、一番良く解っているはず。戦場で敵を斬る事を恥じるなんて、私には理解の外だけどね」
 
 その華琳の言葉で、俺はさっきの桃香を思い出す。
 
『余計な事しちゃったんじゃないかな、って』
 
 あれは、そういう意味だったのか? でも、それは……
 
「それでも、あの子が私の逃げ道を塞いだ事に、変わりはないけれど」
 
 俺が弁解するより早く、華琳が付け加えた。ならば、と俺も別な言葉を口にする。
 
「華琳を敵だなんて思ってないんだよ。俺も、桃香も」
 
「でしょうね。善人というより狂人よ、もう」
 
「酷い言われ様だ」
 
 本音か気休めかは解らないけど、気持ちは少し軽くなった。ついでに、気になった事を訊いてみる。
 
「逃げ道を塞いだって、何?」
 
「誤解してそうだから言っておくけど……私は別に、あの子に庇われて心変わりしたわけじゃないわ。ただ、私が選んだのは……一度立ち止まったらもう進めない道だというだけの事」
 
「………………」
 
 何でそれが負けを認めた理由になるのか、俺にはさっぱり解らない。でも、言葉の意味自体は解る。
 
 俺も……同じ立場だから。
 
「………………一つだけ、教えて」
 
 一瞬、耳を疑った。華琳とは思えないほどか細い声。
 
「引き返せない。死ぬまで立ち止まる事の許されない道を選んで……立ち止まってしまった私は、どうすればいいの」
 
 知らない場所で迷子になった幼い子供のように、弱々しい華琳。張り詰めていたものが切れ、支えを失った心が……華琳の精神を不安定にしている。
 
「止めたのは貴方たちよ。……教えて頂戴」
 
「……………………」
 
 華琳はずっと、孤独の中で戦って来た。弱音を吐く事も、迷う事すら自分に許さずに。
 
「引き返す事なんて、無いよ」
 
 そんな不器用な華琳に、返す言葉は決まってる。
 
「立ち止まったからって、背負ってるものが失くなったわけじゃない。だから……これからも進まなきゃいけない」
 
 数えきれないほど、多くのものに支えられて生きている俺たちだから。
 
「華琳が魅せて来た夢を、目指して来た未来を、これからも追い掛ければいい」
 
 遠回りをしても、過ちを冒しても、罪を背負っても、やるべき事があるはずだ。
 
「だけど…………」
 
 手を差し伸べる。この小さな体に背負うものを、少しでも分けてもらうために。
 
「これからは、一人じゃない」
 
 時間を懸けて、躊躇いがちに、小さな力で、それでも………
 
 ――――手と手は確かに、繋がれた。
 
 
 
 
 戦乱の刻は終端を迎え、大陸には平穏が訪れる。
 
 しかし決着の歪みは僅かな波紋を呼び、止まった時間は軋みを上げる。
 
 紡がれた絆と重ねた時間の全てを乗せて、ここに終局の幕が上がる。
 
 



[14898] 終幕・『夢花火』一章
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/04/01 16:20
 
 満天の星が輝く夜の空を、一人の少女が飛んでいた。
 
「やったー!」
 
 桃色の髪を靡かせて、両手をいっぱいに広げてクルリと回る。奇怪な現象に疑問も抱かずに、幼い頃からの夢が一つ叶ったと無邪気にはしゃぐのは、やはりというか桃香である。
 
「ふぁ〜……きれーだなぁ〜………」
 
 中空で背泳ぎしながら、桃香はより近く見える星々の美しさに見惚れる。戯れに見つけた雲に抱きつくと、布団よりもずっと柔らかかった。
 
「でも……ちょっとお腹空いてきちゃったかも」
 
 こんな所に食べる物などあるわけないと、桃香は眼下を見下ろした。獲物を仕留める鷹の構えを取る彼女は今、心の中では超一流の狩人である。
 
 しかしその時………
 
「あれ?」
 
 ポンッ! と気の抜ける擬音を立てて、星が変身した。とてもとても美味しそうに熟れた桃の実に。
 
「いただきまーす♪」
 
 それを桃香、丸かじりである。この世の物とは思えない美味しさ、天上にも昇る甘味。桃香はまだまだ食べたいと思う。
 
「って、また出た!?」
 
 そんな桃香の望みに応えるかのように、隣の星が桃化した。それを桃香、丸かじりである。
 
 次から次に桃の実を召し上がる桃香。その数が七つに上ったところで……
 
「ハッ……!」
 
 ふと気付き、桃香は周囲を見渡した。上下左右、まんべんなく視線を巡らせても、やはり……あるべきはずの物がない。さっきまではあったのに、だ。
 
「わたし…………」
 
 あった物が無くなっている。それはつまり―――
 
「北斗七星食べちゃったーーー!?」
 
 雷に撃たれたような衝撃。それと同時に、宙に浮いていた桃香を支えていた不思議な力が消失した。
 
 螺旋を描き、妙にゆっくりと、桃香は奈落の底へと落ちて行き………
 
「ごごごごめんなさいーー!!」
 
 とまあ、当然夢なわけで。桃香は布団から飛び起きて誰もいないのに平謝りを繰り出した。
 
 そして朝日が差し込む明るい自室を見て、今までのあれそれが夢である事を悟り、安堵の溜め息を長々と溢す。
 
「えへへ、でも……楽しい夢だったなぁ〜」
 
 呑気に幸せな気分に浸ってから、最近の習慣として……南の空を見た。
 
「愛紗ちゃん、どうしてるかな………」
 
 屋根で羽を休めていた鶴が、広い空へと飛び出した。西へ、西へと、真っ直ぐに。
 
 大陸を包んでいた乱世が終結を迎えてから、一月の時が経っていた。
 
 
 
 
 ピンセットにも似た器物がその先端を摘み、繊細な動作で引き抜いていく。しかし、細いそれが傷の中を這い回るような感触に……
 
「痛てて……っ!?」
 
「暴れると手元が狂うですよ?」
 
 一刀は思わず呻いた。寝呆け眼で一刀の顔から糸を抜く風は、どこか楽しんでいる様にも見える。
 
 糸というのは、華琳との決闘の際に一刀が負った傷を縫合した物だ。
 
「にしても凄いな、風は。桃香の傷も風が塞いだんだろ?」
 
「風は何かと一流な上に、日々進化してるのでー」
 
 褒められて機嫌を良くした風が、一刀の上着を脱がせに掛かる。もちろん、肩の傷を見るためだ。
 
「悪かったわね。色男の顔に傷をつけて」
 
「別にいいよ。皆と違って傷ついて困る顔でもないし、却って男前になったかもね」
 
 華琳に色男と呼ばれて、一刀はおどけるように笑う。傷の事など欠片も恨んではいないし、からかわれている事も解っているからだ。
 
「どうかしらね。そっちで鼻息荒くしてる子にでも聞いてみれば?」
 
「ああああああ荒くにゃんかしれらい!?」
 
 突然水を向けられて、黙々と半裸の一刀を凝視していた舞无が狼狽する。
 
 そんな他愛ない日常の一幕を繰り広げるこの場所は、冀州のギョウ。その町外れに位置する華琳の別邸である。
 
「舞无ちゃ〜ん、そうやって劣情に満ちた視線で見られてると、風もやりにくいんですがー」
 
「だっ、だからそんなんしてないもん!」
 
「………もん?」
 
 桃香、雪蓮は現朝廷に反抗の意思は無く、華琳もまた……大戦の敗北によって降服した。
 
 事実上の統一を迎えた大陸は、緩やかに生まれ変わろうとしていた。
 
「大した女好きね、一刀も」
 
「華琳にだけは言われたくない」
 
 一刀は華琳を伴い、自ら魏領を回ってその事実を示す旅を続けている。護衛に舞无、相談役に風、そして……慰問としての役割を兼ねた張三姉妹を連れて。
 
「そうだそうだ! あのデコと猫耳はどうにかならんのか。いつもいつも物陰から鬱陶しい」
 
「「何だとぉ(ですってぇ)!?」」
 
「………春蘭、桂花、下がっていなさい」
 
 大陸中に泰平の到来を報せ、今の漢王朝の在り様を識らしめる。そういった表向きの理由もあるにはあるが、これは多分に一刀の我儘も内包していた。
 
『皆が救ったこの大陸を、俺自身の眼で見ておきたいんだ』
 
 とはいえ、連合との戦い以前からの悪名は完全に払拭出来ていない。それを払う意味でも、純粋な視察の意味でも、一刀自身が慰撫を施して回るのは悪く無い。
 
「華琳様! 私はこんな男が華琳様の真名を呼んでいること自体、納得出来ません!」
 
「そうです! いくら敗北したと言っても、真名はその人間の本質を表す神聖な名。それまで穢されるなんて許せません!」
 
「私が私の真名を誰に許そうと勝手でしょう。どうしてあなた達に許可を取らなければならないのかしら」
 
「「う………!?」」
 
 既に明確な敵がいなくなった事もあり、きちんと護衛と参謀を連れて……という条件付きで、一刀は旅を続けていた。
 
「結局、最後まであの調子だったわね。あの子たちは」
 
「とことん性格が合わないんじゃないですかねー?」
 
 その旅も、今日で一つの終わりを迎える。魏領は既に回り終え、一刀は一度、都として返り咲いた洛陽へと帰還する。
 
 どう話が拗れたのか、舞无、春蘭、桂花の三人は取っ組み合いの喧嘩に突入していた。
 
「…………………」
 
 一刀を見送ったら、また統治者としての日々が始まる。似て非なる王道が始まる事を、華琳はとても奇妙に思う。
 
『貴様がかつての王朝に抱いた憤激は、この先の時代を築く為に不可欠なものだ』
 
 本来ならば極刑が当然。その首を大衆に晒して今の王朝の力を見せつけるべき反逆者。そんな華琳に下ったのは、あり得ない厚遇と使命。
 
『冒した罪を償いたいと言うなら、死に逃げず、生きて……その志を未来に繋げ』
 
 協君もまた、一刀が命懸けで生かした人間を、むざむざ死なせるつもりなどなかったのだ。
 
『誇り高い貴様にとって、生き長らえて降将となるは死に勝る屈辱かも知れん。それでも……やってくれるか?』
 
 華琳の反逆を怒るでもなく、憐れむでもなく、協君は眼を伏せ………
 
『……すまなかった』
 
 その一言を、告げた。
 
 まだ記憶に新しい感慨を思い返し、華琳は傍ら……己がただ一人愛した男を見る。
 
「……陛下も、随分と貴方に毒されたようね」
 
「? なんだよ、突然」
 
「何でも無いわよ」
 
 変わる事は簡単ではないけれど、変わろうとする事は出来る。
 
 ―――静かに閉じた目蓋の奥で、華琳は自分に言い聞かせた。
 
 
 
 
「っ………!?」
 
 何かに怯えて、弾けるように覚醒して、そして……それまで見ていた夢を忘れる。
 
 ……こんな事を、もう何百回繰り返しただろうか。
 
「…………………」
 
 残っているのはいつも、酷く疲弊した自分の体と、不快な寝汗に染みた布団だけ。
 
 いや……憶えていないだけで、私は本当は解っている。
 
『あなた達ほどの力があれば、もっとたくさんの人を救えるはずです』
 
 目蓋を閉じれば、あの光景が蘇る。
 
『我ら三人、姉妹の契りを結びしからは……』
 
 桃香さまは、その悲願を成就された。理想と現実の壁に苦しみ、矛盾と苦汁を飲み込んで前に進み……泰平の世を勝ち取った。
 
『願わくば、同年同月同日に死せん事を!』
 
 そして……愛する殿方と共に、この大陸を変えて行く。
 
 それは、私の幸せでもある。こうなる事を切に願った。こんな未来を目指して青龍刀を振るった。
 
 なのに………今の私はなんだ?
 
「(何をやっているんだ、私は……!)」
 
 桃香さまが北郷殿を慕っている事など、今さら疑う余地が無い。かつて抱いていた北郷殿への疑念も、私の誤解だったとしか思えない。
 
「(なのに何故……心が晴れない!?)」
 
 原因は、自分でも解っている。あの時の……あの光景……。
 
 桃香さまが北郷殿の剣を受けて、血を撒いて倒れる姿。
 
 あれが……眼に脳裏に焼き付いて離れない。
 
「(私は……こんなにも弱かったのか……?)」
 
 北郷殿が敵意を持って桃香さまを斬ったわけではない事くらい、頭では解っている。
 
 桃香さまが北郷殿を止める為に飛び出した事も、頭では解っている。
 
 あんな事で、二人の絆が揺らぐ事などあり得ないと、頭では解っている。
 
 “のに”…………
 
「(無様だ)」
 
 肉眼に映った一枚の絵画に翻弄されて、解りきっている本質とさえ向き合えない。
 
「(自分が、解らない)」
 
 怖い。繕う事すら出来ず、ひたすらにそう思う。
 
 桃香さまが、怖い。
 
 北郷殿が、怖い。
 
 そして何より……自分自身が怖い。
 
「(私は……どうしてしまったというのだ……)」
 
 次に二人の顔を見た時、自分がどんな行動を取ってしまうのか……全く解らない。
 
 ―――それが、途轍もなく恐ろしい。
 
 



[14898] 二章・『待っている人』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/03/28 21:18
 
「では先生、よろしくお願いします!」
 
「は、はぁ……」
 
 前掛け(エプロン)と三角巾を着て準備万端になった桃香が、同じく準備万端の斗詩に頭を下げる。
 
 場所は厨房。花嫁修行の一環として料理を習おうとしている桃香の今日の課題は、無難に炒飯である。
 
「斗詩ー、まだー?」
 
「頑張れお姉ちゃーん!」
 
 既に食卓では、猪々子と鈴々が箸で茶碗を打楽器のように叩きながら待っている。
 
 そんな、実に平和な日常の光景の中で、一人表情を曇らせている少女がいた。
 
「…………………」
 
 劉備軍の頭脳たる軍師である、朱里だ。その悩みの種は……少し前ならば当たり前のようにこの場にいただろう一人の将についてである。
 
「(愛紗さん………)」
 
 桃香の義妹にして、劉備軍第一の将。しかし、その姿は今ここに無い。
 
「(……一体、何があったんですか)」
 
 大乱が終結して、すぐの事だ。愛紗は桃香に、異動申請をした。
 
 荊州の中枢たる襄陽から、益州でありながらまだ十の管轄下にない永安へと。
 
 蜀と荊州の間の円滑な交流の為、また、統治者のいない空城である永安に治安と善政を敷く為。愛紗が口にしたもっともらしい理由が建前でしか無い事は、誰の眼にも明らかだった。
 
 愛紗は……桃香と眼を合わせる事さえしなかったのだから。
 
 そんな、納得出来るはずがない愛紗の理不尽な要望を………
 
『……わかった。でも、後で全部話してね』
 
 桃香は何も訊かずに受け入れ、見送った。愛紗が何を思ってあんな事を口にしたのか、それを受けた桃香が何を思ってそれを許したのか、朱里にも察する事が出来ない。
 
「(やっぱり、北郷さんでしょうか………)」
 
 しかし、想像は出来た。以前から愛紗……否、客観的に見れば朱里自身も、一刀に対する時はどこかおかしかった。
 
 そして、あの戦いの最中に桃香が負傷した理由、それを愛紗が目の当たりにしていた事も、朱里の耳には入っていた。
 
「(愛紗さんは……ううん、私たちは……)」
 
 おそらく、自分の中にある感情を認めたくなかったのだろう、と、朱里は自分を分析する。
 
 単なる好意以上の感情を……桃香以外に持つ。二心にも似たその事実を、認めたくなかったのだろう、と。
 
 しかし、桃香が一刀の妃となる事が内定した今となっては、そんな心配事も意味を為さない。
 
 一抹の寂しさを覚えながら、朱里は諦観に近い納得をした。
 
 ―――それが、二月前の事。
 
「ぐふっ……!」
 
「に゛ゃ…ぁ……」
 
「あ、あれ……?」
 
 朱里が思案に暮れている間に、桃香の料理の試作品が完成していた。ロクに料理の味も解らないはずの猪々子と鈴々が、机に突っ伏して痙攣している。
 
「お、おかしーなぁ、そんなに…………あぐっ」
 
 そして、遅すぎる味見を果たした桃香自身も倒れる。
 
「…………桃香さま」
 
 もちろん、桃香や鈴々らも愛紗の事は気に掛けているし、朱里とて四六時中沈んでなどいられない。今、朱里だけが愛紗の身を案じているのは、まだ彼女の耳にしか届いていない案件があるからだ。
 
 朱里を桃香を助け起こして水を差し出した。そして………切り出す。
 
「愛紗さんの、事なんですが………」
 
「っ……うん」
 
 気分の悪そうな顔の色が、その一言で別の色に変わった。日頃周囲の人間に心配を懸けないよう顔に出す事はないが、その平静の裏では誰よりも気に掛けていたのだから。
 
「永安に着任してから二月、病と称して公務にもほとんど顔を出していないそうです」
 
「!? それって大変だよ! 早くお医者さん呼ばないと!」
 
 朱里の言わんとしている事を誤解して慌てる純粋過ぎる桃香に、朱里は静かに、付け加える。
 
「しばらく前に訪れた華佗さんの話では……気の病だそうです」
 
「気の、病………」
 
 桃香だけでなく、耳を傍立てていた三人も言葉を失う。あの生真面目な愛紗が、実際に病に冒されているわけでもないのに公務を手放しにしているなど、想像もしていなかった。
 
「…………そっか」
 
 怒るでもなく、桃香は切なげに眼を伏せる。それだけ酷い状態なのだと、実際に見てもいないのに悟って、胸を傷める。
 
 しかし、そんな桃香に、朱里は軍師として進言を重ねなければならない。
 
「いつまでもこんな状態で放っておくわけにはいきません。他の臣下に示しがつきませんし、我が軍全体の信用に関わります」
 
 この報告書自体、愛紗の部下が必死に誤魔化して隠し通そうとした結果、これほど遅くなったのだ。愛紗がどんな状態にあるとしても、これ以上野放しには出来ない。
 
 しかし桃香は………
 
「大丈夫。すぐにいつもの愛紗ちゃんに戻るから」
 
 笑顔で、静かに首を振る。
 
「でも………」
「愛紗ちゃんが苦しんでる原因は、きっとわたしにもあるんだよ」
 
 朱里の言葉を遮り、桃香は窓から遠く南の空を見つめた。
 
「そして……愛紗ちゃんが待ってるのは、きっとわたしじゃない」
 
 その先にいるのが、悩み苦しんでいる義妹だけではない事に、桃香だけが気付いている。
 
「すぐに、皆で笑い合えるようになるよ」
 
 穏やかで、見えない何かが見えているような微笑みに……朱里たちは何も言えなくなった。
 
 力強いわけでも理路整然としているわけでもないのに、不思議と言う通りにした方が良いと思える風韻がある。
 
「お昼ご飯どうしよっか………これは流石に食べられないし」
 
 愛紗が苦しんでいる理由も、それがすぐに何とかなる事も解っている。そんな余裕すら感じられる桃香に、他の皆も肩の力を抜く。
 
「昼の巡回まで時間もないですし、練習はまた今度にして、今日は私が作りますよ」
 
「「ありがたやー」」
 
「うぅ……早くお料理出来るようになりたい」
 
「す、すぐに出来るようになりますよ」
 
 斗詩が頼もしく前掛けを着け、そんな斗詩を鈴々と猪々子が拝み倒し、そのあからさまな態度に桃香がしょげて、朱里が慰める。
 
「みんな、何か要望はある?」
 
「鈴々、肉まーん!」
 
「餃子の気分!」
 
「わっ、私は皆さんに合わせますから」
 
「何か酸っぱい物!」
 
『…………………』
 
「……え? なに?」
 
 少しずつ迫る自らの変化に、桃香はまだ気付いていなかった。
 
 
 
 
 魏領全体への慰撫を終え、一度王都・洛陽へと帰った一刀は、長安、西涼、漢中と視察に回り、蜀の成都へとやって来ていた。
 
 ちなみに、一度帰還した際に再度人選が変更され、舞无と風は洛陽に残り、代わりに星、翠、蒲公英が同行した。
 
 また、西涼の視察に出向いた際に五胡との散発的な紛争が続いていると聞き、自身らの故郷という事もあって、翠と蒲公英は一時西涼に残った。
 
 元々、星は相談役も護衛も兼任出来る知勇に優れた将である。一刀は星と張三姉妹を伴い、視察の旅を続けていた。
 
 そして現在…………
 
「ま、まだ頭がクラクラしますわ………」
 
「まあ、初めの内は慣れぬだろうな」
 
 額を押さえて左右に揺れる紫苑と、その姿に以前の自分を重ねて同情……はせずに、けらけらと笑う星を連れ………
 
「すー……すー……すー……」
 
「璃々ちゃん、寝ちゃったのか」
 
 背中に紫苑の娘・璃々を負ぶり、一刀は成都の街道を歩いていた。
 
「まあ、あれだけ全力ではしゃげば疲れもするでしょう」
 
「ふふ、璃々があれだけ楽しそうにしていたなら、出向いた甲斐があったというものですわ」
 
 紫苑がくたびれ、璃々が騒ぎ疲れているのは、大宴会と呼ぶも生温い熱狂と感動の渦に呑まれたからだ。すなわち……『数え☆役満しすたぁず』の公演である。
 
「っと、あそこだっけ」
 
「では、私たちはここで。ご主人様、璃々をこちらに」
 
 天和たちと待ち合わせしていた店を見つけ、紫苑が一刀に向けて両手を広げる。しすたぁずと約束していたのは一刀のみ。何より璃々をちゃんと寝かせるために、紫苑は同席するわけにはいかない。
 
「……………ん」
 
 離されるのを拒むように、小さな手が一刀の服を掴んでいる。たったそれだけの事が温かくて、一刀は優しく頬笑んだ。
 
 紫苑や星も、また同じ。
 
「まるでお父さんみたいですわね、ご主人様」
 
「子供……か」
 
 片や目を細めて、片やどこか憧れにも似た溜め息を吐いて、眠れる天使を見ていた。
 
 
 
 
「一刀ってば、おーそーい!」
 
「もう先に食べ始めちゃってるわよ」
 
 飯店に着いた一刀と星を、ここしばらくの旅暮らしですっかり馴染んだ三つの顔が出迎える。
 
「お疲れ様、三人共」
 
「メンマならちゃんと頼んであるから」
 
「おおっ! さすがに手際が良いな、人和」
 
 乱世の終結以前から一刀と直接の面識を持っていたのは三女の人和のみで、最初こそ媚を売るような態度を取っていた天和と地和だったが、人和から聞いていたのか、それとも自身の眼でそう判断したのか、出会って三日もした頃には素の態度が出ていた。
 
 一刀としても、壁を作られるよりも我儘に振り回される方がずっと良いから構わない。
 
 ………舞无とは最後までそりが合わなかったが。
 
 戦乱が終わったばかりの大陸を癒すため、何より自分たちの夢のため、三姉妹は一刀と共に行く。
 
 しかし…………
 
「いい加減休ませてくれないと身が保たないってば!」
 
 食事を進める中、地和からそんな言葉が飛び出す。
 
「おぬし達が好きでしている事だろうに」
 
「でもー、せっかくおっきな街に来たんだし、三、四日ゆっくりしてもいいと思うなー」
 
 それに天和も便乗する。もうずっと都市を転々と移動しながらの公演が続いているのだから、当然疲労も溜まっているのだ。
 
 しかし、別に馬車馬のように働かせているわけでもなく、また公演はともかく一刀の視察はあまりのんびりと構えていられない。
 
 しかし………
 
「……そうだな。三人には随分助けてもらってるし、少しくらいなら罰当たらないか」
 
「「やったー!」」
 
 一刀はしばらく何かを考え込んでから、あっさり承諾した。天和と地和が大喜びで手と手を高々と叩き合う。
 
「いいの?」
 
「まあ、良いのではないか。せっかくの旅の楽しみくらいなければ、大義に尽くす甲斐も無い」
 
 人和が窺うように訊き、星も特に反対はしない。こういった時、星は比較的大らかだ。
 
 和気靄々と食卓を囲む皆に………
 
「明日、ちょっと買い物に付き合ってくれない?」
 
 珍しく、一刀からそんな事を言い出した。
 
 



[14898] 三章・『届かなかった手を』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/04/01 16:19
 
「これは?」
 
 手始めに、少々露出の大きな服を胸に当て、此れ見よがしに一刀の顔色を見てみる。
 
「ちょ、ちょっと際ど過ぎるんじゃ……」
 
 ふむ、これは駄目……いや、私には似合わない? いやいや、他の者に見せたくないのかも知れん。
 
「これは?」
 
「おぉっ、良いんじゃない? 星が普段あんまり着ないタイプだし、結構新鮮かも」
 
 これは正解。あまり懐に余裕があるとは思えんし、この一着で勘弁してやるとしよう。
 
 私は流水の描かれた緩やかな衣をそのまま……一刀に押し付けた。
 
「あのー……星さん? これは一体?」
 
「着て見せて差し上げる、と言っているのですよ。何か文句でも?」
 
「………ないっす」
 
 ヤバいか? いや、まだ大丈夫。などとブツブツと独り言を並べながら、一刀は私が渡した服の勘定を済ませに行った。
 
「言っとくけど、これ以上は出せないからな。他にも買いたい物あるんだから」
 
「解っておりますよ」
 
 常ならこのまま店を出て、洒落た飯店でも探すところだが……私は店を出ようとはしない。
 
 そんな私を怪訝そうに見てくる朴念仁に、わざと呆れを強めた視線を送ってやる。
 
 まったく、まだ買い物は済んでおらんだろうに。
 
「………で、誰にですかな?」
 
「……………へ?」
 
 一刀は暫く間抜けな顔で固まってから。
 
「うぇっ!? な、何で!」
 
 喧しく騒いだ。本当に、この男は。
 
「何故も何も、日頃の一刀を知る者ならば誰にでも推測が着く」
 
 長旅の休養として作った時間で、一刀が私物の買い物に我らを付き合わせるなど考えられない。むしろ「どこにでも付き合うよ」と言う男だ。
 
 それが「買い物に付き合ってくれ」などという事は、私や張三姉妹以外の女の為に決まっている。
 
「だから、天和たちは買い物に付き合ってくれなかったのですよ」
 
「そ……そうなん?」
 
「ええ」
 
 あやつらは今頃、蜀の絶景を見下ろしながら優雅に温泉に浸かっている。
 
 惚れた男の、他の女の為の贈り物選びなど、面白かろうはずもない。だからこそ……多少の見返りは求めさせて貰った。
 
 『自分に好意を持たれている』事を前提とした思考が出来るようになったのは進歩だが、隠し事が下手なのは相変わらずだ。
 
「えー、と……ごめん」
 
「謝らずとも良い。……それより、一体誰への贈り物か?」
 
 一刀が物を贈る女。洛陽で帰りを待っている風や稟たち、初めて会った時から親交が深まる一方の呉王・孫権、敵であった時からその人格を認め合っていた魏王・曹操。例を挙げればキリが無い。
 
 一刀が無言で懐から取り出した一通の手紙の差出人の名前は……その中でも最有力の人物の物だった。
 
「(桃香殿、か……)」
 
 乱世の渦中。別勢力であるがゆえの確執や距離が在ってなお、我ら臣下とは異なる……何か特別な絆を一刀と持った女性。
 
 わざわざ蜀の地で贈り物を探すくらいの事はしても不思議ではない、私にとっても好敵手と呼ぶに申し分無い相手だ。
 
 しかし、意外性に欠ける。これが意表を突いて白蓮殿あたりだったらもっと面白味も出たであろうに。
 
 などと我ながら勝手な事を考えながら手紙を読み進めて行く内に……
 
「………関羽が永安に異動?」
 
 その内容に、私は自分の予想とのズレを感じ始める。これでは、まるで……
 
「まさか、関羽に?」
 
「? そだけど?」
 
 それが何? と言わんばかりに首を傾げながら肯定する一刀。しかしこれは………かなり意外だ。
 
 一刀は確かに以前から関羽を気にしていた節はあったし、一刀が気付いていたとは思えんが……私の眼力はあの石頭の欝屈した想いを見抜いていた。
 
 しかし……まだ真名すら許されてもいない女の為に、わざわざ蜀の地で贈り物を選ぶとは。
 
 予想外と言えばこれ以上無いほど予想外だが、不思議と面白味が……いや。
 
「なるほど、あの眉間の皺を取ってやるわけですか」
 
「そんな大袈裟なもんじゃないよ。……俺が会いたいだけだから」
 
 それもまた一興か、と薄笑いを浮かべる私を見ずに、一刀はどこか遠くを見ていた。
 
 ……相変わらず、女と見れば節操なくクサい台詞を吐く。
 
「あの関羽が自分から桃香の傍を離れるなんて、普通なら考えられない。何となくだけど……凄く苦しんでるような気がするんだ」
 
「ふむ………」
 
 一刀の曖昧な直感を聞いて、私は再び手紙に視線を落とした。文面からは、関羽が苦しんでいる事や、一刀にそれを何とかして欲しいといった類の事は読み取れない……が、確かに妙だ。
 
 柔軟性の欠片も無い忠誠心があやつの最大の特徴であり悩みの種であると見ていたが、自発的にこんな行動を採るという事はのっぴきならない事情があるのか。……或いは、あのとき居合わせた事が原因か。
 
 いずれにしろ………
 
「(一刀にしては、聡過ぎる)」
 
 いや、少し違うか。確かに一刀はお節介だが、仮に関羽が苦しんでいると解ったとしても、“自分なら何とか出来る”と離れた地から息を巻くほど極端ではない。
 
 それでも尚、こんな曖昧な手紙で行動を起こすという事は………
 
「気付いておいででしたか、いつになく鋭敏ですな」
 
「……鋭いとか以前の問題なんだけどね」
 
 やはり、か。私や桃香殿を除けば、本人を含めて誰も気付いていなかっただろうに……この鈍感男が、関羽の好意を見抜いていたとは。
 
 ……しかし、妙な言い回しだ。
 
「そう思えるのは、星のおかげでもあるんだよ」
 
「? どういう………」
 
 含みのある言い回しに問い返しても、一刀はまた女性物の服が並ぶ一画に逃げるように向かっていた。
 
「やれやれ」
 
 しつこく追及する気も起きず、私も服を選ぶ一刀の横に並ぶ。女性的な感性が必要なのは間違いないし、口出しくらいはしてやるが、選ぶのはあくまでも一刀本人でなければ意味が無い。
 
「あのテの武骨者は、まともに女性らしい服を着た事があるかも怪しい。その反面……“可愛くありたい”と憧れめいた気持ちは持っているものだ」
 
「………ありがと、星」
 
 唸りながら服の山と睨み合う一刀に軽く助言を挟んだら、面と向かって礼を告げて来た。
 
 既に対価は受け取っているのだから、不要のものではあるのだが。
 
 その後も暫く、あーでもないこーでもないと悪戦苦闘を続け、そろそろ店を変えようかという段になって………
 
「……………あ」
 
 不意に、一刀の視線が止まった。魅入られるように手にした一着の服は……楚々とした造りの可愛らしい青の衣。
 
 少しおとなし過ぎるような気もするが、いかにもあの石頭が憧れそうな印象も受ける。
 
 少し想像してみたら、これしかないと言うほどにピッタリなように思えた。
 
「これにする」
 
 と、私が感性を褒めてやるより早く、一刀は私に意見も求めずに即決した。
 
「……せめて意見くらい訊いてもらわねば、私が同行した意味が無いのですが」
 
「あ……ごめん」
 
 謝って、しかし撤回するつもりはないらしく、一刀はその服を手に小走りで店主を探しに行った。
 
「………まったく、妬けますな」
 
 そんなにその服を、関羽に着て欲しいのですか。
 
 
 
 
 成都にて張三姉妹や部隊の者らに休息を与え、贈り物として服を買い、私と一刀は蜀の山道を駆けていた。
 
 永安は紫苑の管轄から外れていたとはいえ、益州に属する都市。大所帯でなければ成都から直接向かう事も出来る。
 
 巴城を抜け、関所を抜け……永安に入ろうかという所まで来て――――
 
「………主、どうして我らは花摘みなどしているのでしょうか」
 
 花畑で仲良く座り込んでいた。別に和に寛いでいるわけではない。私の隣では、一刀が「これも違うこれも違う」と血眼になって何かを探していた。
 
「紫の花が欲しいんだ。本当は髪飾りが良かったんだけど、それは売ってなかったし」
 
 ………どこまで完璧な仕上がりの晴れ姿を妄想していたのか、この男は。
 
「どうしてそこまでしてやる必要がある。服選びに付き合い、こんな無駄な道中の護衛を勤め、おまけに花摘みまでしろと? 納得のいく理由があるのだろうな」
 
 語調を変えて、キツく睨んで、私は一刀を問い詰める。関羽の気持ちは大方理解しているが、だからと言って一刀がここまでしてやる理由にはならない。
 
 わけも解らぬまま振り回されるこっちの身にもなって欲しいものだ。
 
 一刀は長い沈黙を続けてから、躊躇いがちに口を開く。
 
「……ホントはずっと、傍に居て欲しかった」
 
 懐かしむように、寂しがるように………
 
「でも、“それ”が正しい事なのか解らなかったし、愛紗の為になるのかも判らなかった」
 
 そもそもそんなの出来っこ無かったんだけどね、と一刀は自らを嘲う。
 
「なるべく考えないようにしてたんだ。愛紗がそれを望まないなら、俺は独り善がりに苦しむだけだって思ったから」
 
 そこで私は、一刀が関羽の真名を呼んでいる事に気付いた。
 
「そんな俺の弱さが……愛紗を苦しめてたのかも知れない」
 
 いや、それも言い訳か。一刀は頭を振って言い直す。
 
「俺自身が、彼女との絆を諦められないんだ。平和を掴んだ今になって……“傍に”愛紗がいない事が、凄く寂しい」
 
 傍……というのは、単純な距離の意味ではないだろう。私は直感的に確信する。
 
 やはり………一刀は明らかに、関羽に対して相当に深い愛情を抱いている。
 
「あの時、届かなかった手を……もう一度伸ばしたいんだ」
 
 自身の掌を見つめて、深い悔恨と未練を握り締める。
 
 その姿がどこか遠いものに見えて、私は掛ける言葉を失った。
 
 目の前に居るのに、一刀が遠い。まるで自分だけが蚊帳の外に追い出されているような錯覚さえ覚える。
 
 そんな私の眼を……一刀は穏やかに見た。ここにいる、私の眼を。
 
「星にまた……手が届いたみたいにね」
 
 そう言って一刀は、私の手を取る。とても、とても嬉しそうに。
 
「(今なら………)」
 
 応えてくれるのではないか。今までのらりくらりとはぐらかして来た不可解な言動の理由を、話してくれるのではないか。
 
 そんな衝動のままに口を開こうとした私を……一刀は見ていなかった。
 
 その焦点は私の背後……東の空に向いている。
 
「……何だ、あれ?」
 
 私もそれを追って振り返れば、青い空を濁らせて、黒い煙が立ち上っていた。
 
 通常の生活で出る煙にしては……些か以上に大き過ぎる。
 
「行ってみよう、星!」
 
「承知!」
 
 私と一刀は立ち上がり、矢の様に駆け出した。
 
 背を向けた場所に、人の居なくなった花畑に、見つけられる事の無かった一輪の花が………ただ静かに、咲いている。
 
 



[14898] 四章・『夢の終わり』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:870f574a
Date: 2011/04/01 16:21
 
「ッ………!?」
 
 十の細い指が、爪を食い込ませて私の首を締め付ける。抵抗しようとその手首を掴んでも、凄まじい力に全く敵わない。
 
「(誰……っだ……!)」
 
 そんな一言すら声に出せず、自分を地面に押し倒している者の顔を睨んだ。
 
 薄らと闇に霞むその顔に眼を凝らして……私は驚愕した。
 
「(桃香、さま………?)」
 
 見た事もないような悲しそうな顔で、泣きながら……桃香さまが、私の首を締めている。
 
「どうして……あんな事をしたの?」
 
「ッ……か……!」
 
 不明瞭な問い掛けと共に、首をさらなる剛力が蝕む。一瞬意識が遠退き、しかし何とか歯を食い縛って耐えた時……目の前には違う顔があった。
 
「(北郷、一刀……!)」
 
「裏切り者」
 
 憤怒、悲痛、悔恨、何よりも失望を湛えた瞳が、私を蔑んでいる。
 
「(助……けて……)」
 
 死への恐怖とは別の、私にも理解出来ない得体の知れない戦慄に……情けなく、誰かに何かに救いを求める。
 
 ―――だが、誰も助けてなどくれない。
 
「約束……したのに……っ」
 
 先ほどまでと違う声に、観念して閉じていた瞳を開けば………
 
「ずっと一緒に居るって、約束したのに……!」
 
 ――――そこに、“私”がいた。
 
 
 
 
「うわあぁ!?」
 
 怯えるように身を起こして、震える自身の体を抱き締める。そうして私は……夢から覚める。
 
「…………もう、嫌だ」
 
 起きていても、解の見えない馬鹿な事ばかり考える。眠りに落ちれば、自分自身の悪夢に苛まれる。
 
「………こんな時間が、一体いつまで続くのだろうな」
 
 どれだけの時間を、この狭い部屋の中で過ごしたのか。自らの役目も果たさず、民に何を返すでもなく、部下に全てを押し付けて、桃香さまや鈴々らには心労を掛け、ただ死人のようにそこに在る。
 
「これでは……私が打倒しようとしていた官の横行と何も変わらぬではないか」
 
 時間が解決してくれる。そう言い聞かせて……既に二月以上経つ。もう、気付いている。この欝屈とした靄は、忘れる事の出来る類のものではない。
 
「(自分から踏み出さなければ、何も変わらない)」
 
 解っていて、それでも怖い。私はどうなっても構わない。そんな覚悟なら決められる。恐ろしいのは………桃香さまを傷つけてしまう事。
 
「(……手紙を書こう)」
 
 随分と、時間と心配が掛かってしまったが、やはりこれしかない。
 
 たとえ私が桃香さまにお会いして、どのような行動を取っても深く傷つかないように、十分な心の準備をしてもらうための、手紙。
 
 自分だけで己を律する自信を取り戻したかったが、このままでは永遠に桃香さまの許に戻れない。
 
 酷く重い体を引きずって、机に向かって歩き始めた。
 
 ―――その時だった。
 
「関将軍! 関将軍、おられますか!」
 
「っ……何事か!」
 
 慌ただしい足音が近づいた後に、扉の外から焦った声が私を呼んだ。
 
「南方の邑より、何者かの襲撃を受けたと救けを求める者が。既に斥侯も放ち、城壁から黒煙も確認済みです!」
 
 聞かされた報告に、背筋が凍るのを感じる。
 
「わかった。動ける部隊をまとめておけ、私もすぐに出る!」
 
「はっ!」
 
 私は本当に、何をやっているのか。部下たちの方がよほど優秀だ。
 
 素早く着替えて、青龍刀を手に取り、私は部屋から飛び出した。
 
「すぐに動ける者だけでいい! 武器を持って私に続け!」
 
 軍馬に跨がり、兵を引き連れ、城から討って出る。城外にも邑は幾つも存在している。今襲われているのはその内の一つだ。
 
「(待っていろ)」
 
 風を受けて馬を走らせながら、私は思う。
 
「(私は、動けるではないか)」
 
 誰かを救う為なら、己の正義の為なら、刃を取って走れるではないか。
 
「(私は……自分を取り戻す!)」
 
 ―――その誓いが、全く別の意味で果たされる事を……この時の私は知る由も無かった。
 
 
 
 
「(これは……何だ……?)」
 
 辿り着いた先に、目指していた邑はあった。畑は荒らされ、家は赤い炎を発てて燃え上がり、惨殺された村人の屍が血の海を作っている。
 
 敵らしい影は一つも見当たらない。既に邑は全滅したと言ってもいい。
 
「(間に合わなかった、のか……?)」
 
 賊徒による略奪だとばかり思っていた。金品や食糧を奪う事が目的なのだから、民が軍の到着まで耐えてくれれば、無差別な殺戮は起こり得ないだろうと思っていた。
 
 だが……現実は違う。
 
 辺りに散乱した武具にも、鎧にも、私は見覚えがある。何より……この旗は……。
 
 ―――ホンゴウ、カズト。
 
「(違う! そんなはずがない!)」
 
 振り上げた刃を下ろす場所を見失い、それがあり得ない場所に向かっていくのを感じる。
 
「関羽!!」
 
 名を、呼ばれた。その声が誰のものなのか気付かぬようにしながら、私はゆっくりと振り返る。
 
 ――――何故、ここにいる。
 
「何があった。誰か生き残ってる人は……」
 
 聞こえているのに、聞こえていない。
 
 馬から飛び降りて駆け寄ってくる北郷一刀に、私はゆっくり、ゆっくり、近づいて行く。
 
 ――――罪も無い民たちを惨殺した。
 
「(違う………!)」
 
 心が、体が、バラバラになったように言う事を聞かない。
 
 ――――桃香さまを裏切った。桃香さまの想いを踏み躙った。
 
 何かが囁く。それに誘われるように、体は北郷一刀に向かって行く。
 
「(やめろ………!)」
 
 止まらない。止められない。
 
「これ以上ッッ、私に入って来るなぁああぁああーーーーーー!!」
 
 
 
 
 血が、一粒……頬に触れた。
 
『あなたを……愛しているからです』
 
 一粒、また一粒と……血雨が私を染めていく。
 
『ああ……染めて下さい、あなた色に……』
 
 ―――私は今、何をした。
 
『……大切にします、髪飾り……』
 
 ―――どうして私は、血に染まっている。
 
『わたしのご主人様への愛情も、変わらぬものの一つです』
 
 ――――ご主人様。
 
『わたしは常に、隣であなたを見てきましたよ。あなたと共に歩んで来られた事を、誇りに思います』
 
 ―――私の……たった一人の、ご主人様。
 
『わたしの心は、これからもあなたと共に在ります。大願を果たした今………それがわたしの、ただ一つの願いです』
 
 ―――どうして、倒れているのですか。
 
『離さないでいて下さいね、もう少し、このまま』
 
 あ、ぁ……あぁ、あ…………
 
 
 “私が殺した”
 
 
 
 
「うわぁあぁああああぁあああぁぁああアァアアァア―――――――――――――――!!!!」
 
 
 
 
 長い夢は終わり、止まった時間が動きだす。
 
 掛け替えの無いものを取り戻し、取り返しのつかないものを抱いて、少女の慟哭が響き渡った。
 
 



[14898] 五章・『遺された者』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/04/05 19:41
 
 ―――何も、考えられなかった。
 
「主………?」
 
 頭の中が真っ白になって、何をすれば良いのか解らなかった。
 
「主………?」
 
 兵の動揺も、愛紗の悲鳴も、遠い世界の物のように聞こえる。
 
「主………?」
 
 呼び掛けても、呼び掛けても、応えは返らない。
 
「主………?」
 
 抱え起こした主の体を伝って、白い衣が赤黒く染まっていくだけ。
 
「主………?」
 
 主の体が、少しずつ熱を失っていくだけ。
 
「主………?」
 
 ここにいるのに、まだ温かいのに、返事をしてくれない。
 
「主………?」
 
 何度繰り返しても、いつまで経っても、応えは返らない。
 
「主………?」
 
 ―――こんなに、こんなに……呼び掛けているのに………。
 
 
 
 
 北郷一刀、永安の地にて逝去。
 
 天より降り立ち、乱世を終焉へと導いた英雄の死に、大陸中が嘆き、涙を流した。
 
 一人の少年の喪失が、泰平を迎えた大陸に波紋を呼ぶ。波紋は止め得ぬ流れを持って、いずれ大きな津波へと姿を変える。
 
 形式として行われた豪壮な葬儀に、彼の遺体は無い。真の葬送は彼が愛した仲間のみで小さく、静かに行われた。
 
 その葬列の中に……北郷一刀第一の臣として大陸中に名を轟かせた趙子龍の姿は無かった。
 
 
 
 
「何故だ! 何故今すぐにでも荊州に兵を向けん!?」
 
 舞无の拳が、大広間の石柱に叩きつけられる。その気迫に圧されて、雛里が怯えるように後ろに下がってしまう。
 
「待って下さい。あの桃香殿が、本当に叛旗を翻したとは思えません」
 
「理由などどうでもいい! 奴らが一刀を殺したんだ!!」
 
 諫めた私を、怒り狂った眼で睨んで来た。感情任せに物を言える舞无が腹立たしく、羨ましい。
 
 こんな時でも冷静に物事を見られる自分の性質が、酷く蔑むべきものに思えてくる。
 
「ぼりゅーむ下げてくれないかな、と。やかましくて敵わないので」
 
「……口の利き方に気をつけろ。劉備の前に貴様を血祭りにあげてもいいんだぞ」
 
「やりますか、いいですよ。お互い様なら八つ当たりもアリですから」
 
 そんな舞无と、普段より更に刺々しい口振りの散が、二人で玉座の間を出て行く。
 
 泣きそうな顔でそんな二人を引き止めようとした雛里の袖を、風が掴んだ。
 
「と、止めなくて、いいんですか………?」
 
「こんなんで本当に殺り合うくらい阿呆なら、それこそ死んだ方がええ」
 
 そして、霞が顔も向けずに投げ遣りな言葉を放る。家族同然なはずの翠や蒲公英でさえ、全く止める素振りを見せない。
 
「…………………」
 
 皆の中心にいた一刀殿が、いない。悲しみと怒りの中で支えを失い、自分を見失って……バラバラになっていく。
 
 陛下に到っては、葬儀の日から自室に閉じこもり、誰とも会おうとしない。
 
「(どうして、こんな事に………)」
 
 悲嘆に暮れて全ての思考を手放そうとする心とは裏腹に、頭の一部が解を探している。
 
 桃香殿はもちろん、下手人である関羽も……本来ならこんな事をする人間ではないはずだ。
 
 一刀殿を殺害した直後、錯乱した関羽は悲鳴を上げてその場から走り去り………星は一刀殿の遺体を抱いたまま自失していたらしい。
 
 関羽が率いていた部隊の……投降した兵らの言だ。気になるのは、滅ぼされていた邑に散乱していたという……我が軍の武具や軍旗。
 
「(……………星)」
 
 星は今も、この場所にはいない。張三姉妹と共に一刀殿の棺を洛陽まで運んだと同時に、どこかに姿を消してしまった。
 
 ……ある意味、彼女が一番気に掛かる。
 
 あの星が、一刀殿を守れなかった責任から逃れる為に身を隠すなど考えられない。必ず、別の理由がある。
 
「………………」
 
 あの星に限って、という考えとは別に、“もしかしたら”と思わずにはいられない。
 
 星が弱さを見せる相手は一刀殿だけだったはず。だから私には断言出来ない。
 
「(………あなたまで、いなくなりはしませんよね)」
 
 “後を追っていない”と、言い切る事が出来ない。
 
「…………………」
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 誰もが口を閉ざし、重苦しい静寂に支配された空間に――――
 
「随分、情けない顔が並んでいるわね」
 
「っ………!」
 
 余裕と自信に満ちた声が、響いた。振り返れば、舞无たちが開けっ放しにしていた扉から、小柄な少女が進み出て来ている。
 
 敗れてなお衰える事の無い威厳と覇気を漲らせた眼を持つ、魏の王。
 
「曹操………」
 
 その後ろに夏侯姉妹を従えて、豪奢な金髪を揺らして、悠然と歩み寄って来る。
 
 今や彼女も一刀殿の臣。その死を弔いに来たとしても不思議ではないが……まさか……。
 
「……………ふぅ、ん」
 
 霞を、雛里を、風を、翠を、蒲公英を、私を無遠慮に見てから、曹操はつまらなそうに鼻を鳴らした。
 
 その態度が、霞のささくれたった神経に障ったようだ。
 
「何しに来た? まさか一刀が居らんようなったからって、また覇道がどうとか吐かすつもりやないやろな。ウチらが言う事聞くとでも思っとんのか?」
 
 苛立ち任せにだが、霞が私の懸念していた事を口にする。
 
 一刀殿亡き今、幼い陛下を誰かが支えなければならない。この状況で、まだ野心を捨てていなかったとしたら、曹操が十の全権を掌握しようとする可能性は十分にある。
 
「……そうね。必要とあらば、私が一刀の代わりを勤めるのも吝かではないわ」
 
 それどころか、この一連の悲劇は曹操が意図して起こしたものなのではないか、と私は考えた。
 
「でも……こんなしみったれた部下は要らない」
 
 見下すような曹操の言いざまに、霞の眼が吊り上がる。武人でもない私でさえはっきり判るほど、殺気が大きく膨れ上がる。
 
「男が一人死んだだけで、これほど腑抜けてしまうなんてね。こんな者たちに敗れた自分が恥ずかしいわ」
 
 そして、霞………より先に、翠が激昂した。一瞬で曹操の目の前に飛び出し、その胸ぐらを掴み上げる。
 
「………取り消せよ」
 
 何より、一刀殿の死を軽んじられた事に、怒っている。
 
「今の言葉、取り消せよ………!」
 
 男が一人。曹操にとってはその程度の事でも、我々にとっては……掛け替えの無い存在だった。
 
「貴様っ、華琳様に……!」
「春蘭、黙りなさい」
 
 それでも曹操は動じない。いきり立つ夏侯惇を黙らせ、眉一つ動かさずに翠を見つめている。
 
 その唇が、さらなる言の葉を紡ぎだす。
 
「一刀は言っていたわ………」
 
 静かに、厳かに、何かを懐かしむように。
 
「自分に何かを誇れと言うなら、己の仲間をこそ誇ると」
 
 それは何処か、子を宥め、叱る、親の風韻にも似ていた。
 
「嘲笑いたくもなるわよ。あの男が絶対の信頼を寄せるあなた達が、こんな有様なのだから」
 
 怒りが、悲しみにすり変わる。いつしか、曹操の胸ぐらを掴む翠の手にも、力が抜けていた。
 
「毅然と在りなさい。一刀が誇り、一刀が愛した貴女たちでいてあげなさい」
 
 声にも、表情にも、弱さの欠片ほども出てはいない。それでも、解った。
 
「でなければ、一刀に笑われてしまうわよ」
 
 悲しいのだと、この人も……一刀殿を愛していたのだと。
 
 
 ぶつけようのない怒りと絶望が渦を巻き、再び静寂が場を包み込んだ。
 
 
 
 
「…………………」
 
 少し強い風の吹く城壁の上に、華琳は一人立つ。
 
 春蘭も秋蘭も下がらせ、己一人で風に吹かれている。
 
「(……時間の問題ね)」
 
 先のやり取りからそう結論づけ、華琳は小さく溜め息を吐いた。
 
 今回の事が桃香の意志ではない事も、これから起こるだろう事を一刀が望まない事も、華琳は誰よりもよく知っている。
 
 それでも……止められないと悟った。
 
「(何が“人を見る眼に自信がある”よ)」
 
 そして、呆れる。
 
 誇りに思うと胸を張った仲間の想いの深さなど、きっと一刀はその半分も理解出来てはいないのだろう、と。
 
「…………………」
 
 手紙を読んでも、どこか他人事のように思えていた。あの一刀が死んだなど、どうしても信じる事が出来なかった。
 
 そんな華琳も……今日、目の当たりにした稟たちの姿に、漸く実感する。
 
 ―――北郷一刀は、もういないのだと。
 
「…………解らないものね。この私を打ち負かしたほどの男が、こんなにも呆気なく終わってしまうなんて」
 
 小さな手を、握り締める。
 
 あまりに儚い命の脆さに、怒りと痛みが込み上げて来る。
 
 ――――不意に、
 
「………嘘つき」
 
 雫が一粒、零れた。
 
 ついさっき、翠たちに偉そうな物言いをしたのは自分自身だと、解っているのに。
 
「一人じゃないって……言ったじゃない………」
 
 それなのに、止める事が出来ない。
 
「嘘つき…………!」
 
 大粒の涙が溢れ、とめどなく零れ落ちる。
 
 ―――誰にも見えない、誰にも見せない、その場所で。
 
 



[14898] 六章・『あの夜の月』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/04/09 15:17
 
 耳に痛いほどの静寂の中で、草木を踏む音がいやに大きく響く。夜の森という暗闇を進むのは、一つの小柄な影。
 
「…………………」
 
 北郷軍が誇る軍略の天才、雛里。小さな提灯を手にして、彼女は一人夜の森を行く。
 
「(……暗くて、怖い)」
 
 常の彼女なら、いくらここが大陸の王都であり、官軍の本隊があり……皇室の私有地とされている場所とはいえ……夜の森に一人で出歩くような危険な真似はしない。
 
 安全を考慮した理屈の面からも、単純に怖がりな性格の面からも、しない。腕の立つ、親しい仲間の誰かに同行を願うだろう。
 
 だが……今の雛里にはそれが出来ない。
 
「ふ……うぇ……」
 
 誰も彼もが、愛しい人との突然の別離に傷ついている。自分が縋りついた結果、相手の傷口を抉る可能性を思えば、とても言い出せなかった。
 
「でも………」
 
 そして、兵を護衛として連れて来る事も出来ない。これから雛里が向かう先は、限られた者しか知らない、知ってはいけない場所だから。
 
「(………どこにいても、心細いのは変わらないから)」
 
 ならば、自制すればいい。少なくともこんな夜中に行く事はない。
 
 ――――それでも、雛里はここに来た。
 
「会いたい………」
 
 自分たちに空いた、埋めようのない空虚、寒々しいすきま風しか無い空白、苦しくて、悲しくて、寒くて、寂しくて……我慢出来なかった。
 
「ご主人様………」
 
 会いたい。たとえそれが……墓石だとしても。
 
 木々の狭間を抜ける先、穏やかで雄大な川と温かな緑に囲まれたそこに……かつて、皆で楽しく過ごしたそこに、一刀は眠っている。
 
 もちろん、今や大陸の英雄となった一刀を“対外的に”埋葬するための豪壮で巨大な墓は今でも建築中だ。
 
 だが、一刀の本当の亡骸はここにある。権力を振りかざす事を嫌い、ただ仲間たちと笑い合う時間を大切にしていた北郷一刀を知る雛里たちは、それが一番良いと考えた。
 
 この方が、一刀は喜んでくれると思ったのだ。
 
「(もう、少し………)」
 
 力無く足を動かして、そろそろ一刀の許へ辿り着こうかという所まで差し掛かった、その時―――
 
(ザクッ)
 
「!?」
 
 静寂の中に響く音に、雛里は飛び上がるように驚愕した。
 
 突然、至近から音が聞こえたという類のものではない。それは雛里の存在などまるで無視するように、遠くで今も音を出し続けている。
 
「(ど、どう……どうしよう……!)」
 
 もし悪人だったら、袋に詰められて売り飛ばされてしまうかも知れない。
 
 雛里は提灯の明かりを消して、潜り込むように近場の草陰に隠れた。
 
「(どうして、ここに人が………)」
 
 今、この場所は皇室の私有地となっている。無関係な人間が足を踏み入れただけで罰せられるというのに、一体誰が。
 
 何も知らずに迷い込んだ民間人ならまだ良いが、ここに人など来ないと知らずに眼をつけた悪人なら……雛里は身を守る術が無い。
 
「(このまま、音を立てないように、逃げ……!)」
 
 ふるふると震えながら、そこまで考えた時……雛里は、ふと気付いた。
 
 この……土木作業でもしているかのような音と、その方角に。
 
「っ………!」
 
 まさか、いや……間違いない。
 
「(…お墓を……掘り返してる……)」
 
 確信して、雛里の中に業火のような怒りが湧き上がる。
 
 英雄や皇族の墓には、遺体と共に金銀財宝が埋められる。
 
 誰が、どこで一刀の墓の在処を知ったのかは解らないが……墓を荒らす目的など他に考えられない。
 
「(ご主人様の……お墓を……っ!)」
 
 許せない。その気持ちのままに、雛里は傍に落ちていた棒切れを握り締める。
 
 相手が誰だろうと、雛里が勝てる見込みなど無い。音を殺して逃げた方がいい。こんな事をしても一刀は決して喜ばない。
 
 だが……理屈ではないのだ。
 
「(絶対……止めてやる……!)」
 
 息遣いを殺して、足音を忍ばせて、雛里は一刀の墓へと近づいて行く。
 
 木剣にも遥か劣る棒切れと、か弱い少女でしかない雛里。せめて、背後から後頭部を思い切り強打するしかない。
 
「(………………人を殴った事なんて、ないけど)」
 
 震える手足を奮い立たせて、雛里は這うように接近して……遂に、見つけた。
 
「(一人………)」
 
 一刀の墓の前に佇む、一つの輪郭。木々の影に紛れて顔どころか背丈すらも解らないが、確かに一人……白い影がそこにいる。
 
 その一人が…………
 
「………雛里か」
 
「え………」
 
 耳に慣れた声で、雛里の真名を、呼んだ。
 
 長い、長い沈黙が下りて……月がその角度を変える。
 
 そうして、月明かりに照らされて現れた姿は……雛里がよく知る、仲間の一人。
 
「星…さん……?」
 
 一刀の死を見届け、これまで皆の前から姿を消していた……星。
 
「ここで………」
 
 その星が……一刀の墓を暴いている。
 
「ここで何をしてるんですか!!?」
 
 ぐちゃぐちゃに乱れた雑多な感情全てを籠めて、雛里は今まで出した事がないほど大きな怒声で星を打った。
 
「…………美しいな」
 
 そんな雛里の方を見ようともせず、星はただ……夜空に浮かぶ月を見上げている。
 
「あの夜の月も、あんな風に綺麗で……冷たかった……」
 
 静かで、綺麗で、でも……何も読み取れない声音。
 
 雛里の中で渦巻いていた感情が、急速に悲しみという一つの色に塗り替えられていく。
 
 月光に照らされたその姿が、まるで幻のようで……触れたら壊れてしまいそうで、怖くなってしまった。
 
「星さん……どうしちゃったんですかぁ……」
 
 思わず漏れ出た涙声に……星は漸く、雛里に顔を向ける。
 
「なに、これを届けようと思ってな」
 
 飄々と、悪戯っぽく、不敵に、雛里のよく知る星の顔がそこに在った。
 
 白い衣を墓土で泥まみれにして、月光の中で幻のように佇んで……声と表情だけが変わらない。
 
 それが、雛里の眼には、より一層異質なものに映る。
 
 その星が、軽く持ち上げて見せた物。
 
「倚天の、剣……?」
 
 生前の一刀が華琳から受け取り、それからは常に腰に差していた宝刀。一刀の棺に埋葬された物の中で、唯一金銭的な価値を持つ物。
 
 だが、たとえ何があっても……星が金目当てに一刀の墓を暴くはずがない。
 
 何より、“届ける”とはどういう事か。
 
「心配せずとも、私は狂ってなどいないようだ。ついさっき、それを確信した」
 
 言って、星は円匙を放り捨てて背を向ける。闇夜の森の中……雛里にはそれが、星が堕ちていく深淵の入り口に見えた。
 
「どこに……どこに行くんですか」
 
 それなのに、去り往く背中に掛けられたのは、そんな擦れた言葉だけ。
 
「案ずるな、主命を果たしに行くだけさ」
 
 星は振り返らずに、迷いの欠片もなく返した。
 
「……預けられた主命を、今度こそな」
 
 自らの誓いを、果たせないままの約束を、一刀への愛を果たす為に………
 
 ―――星は再び、夜の闇へと姿を消した。
 
 
 
 
「星さん………」
 
 どれだけの間、そうして立ちすくんでいただろうか。あまりにも立て続けに起こる衝撃的な出来事に、雛里は完全に自失していた。
 
 星が何を考えているのか、一刀の次に付き合いの長い雛里にも、まるで解らない。
 
 本人は狂ってなどいないと言っていたが、雛里にはそれを素直に鵜呑みにする事は出来なかった。
 
 いっそ幻だったと思いたいが、星が捨てていった円匙も、掘り返された墓も、厳然たる現実としてそこに在る。
 
「お墓………」
 
 まとまらない頭でそれだけを思って、雛里はノロノロと緩慢な足取りで一刀の墓に近づき―――
 
「…………え」
 
 開け放たれた棺の中を見て、言葉を失った。
 
 誰が? どうして? 星ではない。彼女が剣一本だけを手にここから去った事は、雛里がその眼で確認している。
 
「どう、して………?」
 
 霞が贈った杯、舞无が作ったぬいぐるみ、雛里と一緒に川で遊んだ時の綺麗な小石、風の書いた小説、稟の掛けていた眼鏡、そして星が持ち去った、星の剣と対を成す倚天の剣。
 
 皆で、散愛用の棺に入れた“他の物”は全て在った。しかし……棺が本来納めるべき者が、いない。
 
「……………ご主人様が、いない」
 
 
 ―――北郷一刀が、いなかった。
 
 
 
 
「(痛い………)」
 
 自分の体に刻まれた、大きく深い傷。それが痛くて堪らない。
 
「(何で……こんなに痛いんだ)」
 
 どうして自分が、こんな傷を負っているのか。少年は思い出せない。
 
「(血が、熱い……)」
 
 傷口から溢れだす血が、止まらない。冷たくなっていく体に、自分自身の血がやけに温かかった。
 
「(悲しい、のかな…………)」
 
 血と共に、何かとても大切なものが流れ出ていくのみ感じた。傷口を両手で押さえてみても、何の意味もなかった。
 
 中身が全て抜け落ちて、自分が皮だけしか残っていない薄っぺらな存在になってしまったかのように感じる。
 
「(……寝てる場合じゃ、ないはずなのに)」
 
 体を支えていられない。膝を着き、次いでうつぶせに倒れてしまう。
 
(ユサユサ……)
 
 何かが、少年の肩を揺する。たったそれだけの事で……少年は悪夢から緩やかに覚醒した。
 
「………起きない」
 
 平坦な声が、聞こえた。
 
 理不尽に重い目蓋を開けても、白いシーツしか映らない。
 
(ジリリリリリ!!)
 
 耳元でやかましく、目覚まし時計が鳴り響く。
 
「(あ、部活の朝練……)」
 
 などと、少年……北郷一刀は、何の気なしに思った。のも束の間―――
 
「………うるさい」
 
 再び声が聞こえて、メキョッ、と哀れな音が聞こえて、目覚まし時計は沈黙する。
 
 ―――そう、声。
 
 ただそれだけの事が、何故か物凄く重要な気がして………
 
 一刀は気怠い体を回して、見た。
 
「………起きた」
 
 
 
 
「……………………恋」
 
 
 
 
 穢れ一つ知らないような無垢な深紅が、一刀の瞳を捉えた。
 
 



[14898] 七章・『恋の春』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/04/09 17:19
 
「……っ………」
 
 やけにノロノロと、俺は腕を伸ばす。何でこんな事をしてるのか解らない。伸ばした指先が震えてる。
 
「れ、ん………?」
 
 そこにいる女の子の頬に、指先が触れた。滑らせるように、掌全体で頬を包む。
 
「恋………」
 
 恋はただされるままに、俺の手に腕に頬擦りするだけ。
 
「恋………」
 
 名前を呼んで、触れて、撫でて、引っ張って……確かめるように何度も。
 
「恋が……いる……」
 
 当たり前の事。別に珍しくも何とも無い事のはずなのに……俺はどうしようもなく心を揺さ振られてる。
 
 そこが……限界だった。
 
「う……っ………!」
 
 がむしゃらに、襲い掛かるように恋に抱きついて……泣き付いた。
 
「うわぁぁああぁぁ!!」
 
 胸に縋りついて、子供みたいに泣き喚いて、ただひたすら恋の存在を確かめる。
 
「………よし、よし」
 
 恋の手が、後ろ頭や背中を、優しく撫でる。
 
「(何やってんだ、俺は………)」
 
 意味がわからん。彼女でもない女の子に抱きついて、泣き付いて………これじゃ迷子になった幼児と変わらない。
 
「あああぁあぁああぁ……!!」
 
 頭では解ってるのに、体は全然言う事を聞かない。いつしか俺は、考える事すら放棄した。
 
「……ずっと、一緒」
 
 泣きじゃくる俺を、恋は咎める事もなくあやし続ける。
 
 俺の奇行が治まるまで、その優しい愛撫は止む事はなかった。
 
 
 
 
「ホンットごめん!!!」
 
 恋を放してベッドから飛び降り、額を床にぶつけるように押しつけて謝罪。
 
 俺が、正気に戻って最初に取った行動。……ひらたく言えば土下座だ。
 
 今の俺には床しか見えない。て言うか、恋の顔を見るのが怖い。
 
「(一体なにをしてんだ俺はーーーー!?)」
 
 今さら後悔しても遅い。これまで築き上げて来た恋の信頼もパーだ。
 
 朝、無邪気にも起こしに来てくれる可愛い女の子に言葉もなく抱きつく鬼畜。それが今の俺。
 
 酒に酔って過ちを冒すのってこんな感じなんだろうか。しかも、さっきの俺はバッチリ素面だったのに自制出来なかった。
 
「(どうしようどうしようどうしよう!?)」
 
 一も二も無く土下座したけど、この後どうすりゃいいんだ? 友達同士のハグとかいうレベルじゃなかったし、確実にセクハラだ。
 
 女を騙してヤリ逃げしまくるような最低ヤローよりはマシなのか? それとも問答無用で飛び付いた分アウトなのか?
 
「(って、そうじゃないだろ!!)」
 
 思考がおかしな方に逸れてしまった。俺はゆっくり、顔を上げる。
 
 大事なのは恋の心象。ここは『何でもするから許してください』しか無い。
 
「はふ………」
 
 ……若干、顔が赤い? 不満っぽい表情な気がするのは、まあ……いきなり好きでもない男に抱きつかれたら不満どころじゃないだろうけど。
 
「恋! あの……」
「……学校」
 
 俺の『何でもするから許してください』を遮り、恋はパタッと携帯を開いて俺に時間を見せた。……うん、ヤバい。
 
「……遅刻、する?」
 
 ……恋さん、何ですかその“?”は。何で『一緒に遅刻する? 恋は別にいいけど』みたいな感じなんですか。
 
「急ぐぞ恋! この話は、えっと……放課後するから! 絶対うやむやにしないから!」
 
 俺としては、心の準備する時間が出来たような。もしくは死刑執行までの恐怖の時間が伸びたような気分だ。
 
 学校で及川に相談しよう。ムカつくけど、あいつ彼女いるし。
 
 顔洗ってる時間も、朝飯食ってる時間も無い。寝る時に着てたTシャツの上に制服を着て、下に履いてたジャージを………
 
(…………じー)
 
 脱ごうとして、興味深そうに俺の着替えを見てる恋の視線に気付いた。
 
「……あの、恋。ちょっと部屋の外で待ってて? ソッコーで着替え終わるから」
 
「見たい」
 
 直球だった。しかも、珍しく間が無い。
 
「(恋って、男の着替えとかに興味あったんだな)」
 
 しみじみと奇妙な感慨を覚えながら、俺は恋の背中を押して部屋から追い出して下もすぐ着替える。
 
 カバンを引っ掴んで、財布と携帯を――――
 
「………あれ?」
 
 と、そこで俺の手は止まる。使い慣れた自分の携帯に、奇妙な違和感を覚えたからだ。
 
「このストラップ………どこで買ったんだっけ」
 
 携帯にぶら下がってる、ウェルシェ・コーギーのストラップ。ずっと前から付けてるみたいな一体感があるくせに、どこで買ったか思い出せない。
 
 そもそも、何で俺がこんなラブリーなストラップ付けてんだ。どう考えても恋とかの方が似合うだろ。
 
 瞬間―――――
 
「っ…………!」
 
 頭の奥で、鈍い痛みが響く。その正体は掴めないまま、大した事じゃないと割り切って、俺は携帯をポケットに突っ込んで駆け出した。
 
 
 
 
「間に合うな、これ………」
 
「(………コク)」
 
 大慌てで寮を飛び出して、しばらく猛ダッシュをかました後、俺と恋は開き直ってのんびりと歩いていた。
 
 どうせもう部活の朝練には確実に間に合わないし、ここまで来ればホームルームには歩いてても間に合う。
 
 ……なんか思ったより余裕がある。俺ってこんなに足速かったっけ?
 
「(そもそも、どんだけ長い間泣いてたんだよ、俺は……)」
 
 結構早めに目覚ましセットしてるはずなのに、朝練は丸潰れ。それだけ、起きてから出発までの時間が長かった計算になる。
 
「………♪」
 
 下手に二人で歩く時間が出来た分、どんな態度でいればいいのか判断し辛い。そんな俺の複雑な心境も知らず、恋ははにかみながら手を繋いで来る。………ヤバい、可愛い。
 
「(てゆーか、怒ってなくないか……?)」
 
 冷静に考えたら、恋ってこういう事に無頓着ぽいって言うか……少なくとも根に持つタイプには見えない。
 
 心配し過ぎだったか? とにかく、恋が傷ついてたり怒ってたりしてないなら、それに越した事はないんだけど。
 
「(………に、しても)」
 
 さっきから、周りの視線が妙に気になる。
 
「……………………」
 
「……………………」
 
「……………………」
 
 聖フランチェスカ学園は、近年男女共学になったお嬢様高校で、男子生徒はまだ多くない。
 
 おまけに恋はそうそうお目に掛かれない美少女だし、キャラもちょっと特殊だから目立つ。そんな恋が男と手を繋いで登校してたら注目されても仕方ない。
 
 けど……………
 
「(見られてるの、“俺”じゃないか?)」
 
 俺たち、というより俺が見られてる気がする。しかも単なる好奇心というよりも、「つい見ちゃった」みたいな。チラッと目が行って、すぐ逸らす感じだ。………なんか気分悪い。
 
 とか思ってる間に―――――
 
「れれ、恋っ!?」
 
 俺と手を繋いでた恋が、腕組みにシフトした。体全体でぴっとりと擦り寄って、安心しきったように眼を瞑る。
 
「…………あったかい」
 
 ……ヤバいぞ、俺。本日二度目の過ちを冒してしまいそうだ。
 
 歩きにくいとか、眼を瞑ってると前が見えないとか、そういうの完全度外視して、恋は俺に身を預けて来る。
 
 当然のように、周りの視線は黄色い喝采に変わった。
 
「………………」
 
 何でだろう。恋とこんなに接近するのは初めてのはずなのに、この状態が……凄く自然なものに思える。
 
 恋の体温が暖かい、それが……それだけが、とても尊いものに思える。
 
「………今日は、恋の」
 
 俺が、って事か? いい加減にしないと勘違いするぞ、流石の俺も。って言うか、今日はって何?
 
「……頑張ったから、ご褒美」
 
 気持ちよさそうに頬擦りしてる、恋。可愛いんだけど、恥ずかしい。
 
「が、頑張ったって、何が……?」
 
 つい、そんな言葉が口を突いて出る。朝の事なら、頑張ったとかご褒美とか当てはまらないような気がするんだけど。
 
 訊いた俺を、恋は不思議そうにじっと見つめてから………
 
「………憶えて、ないの?」
 
 そう、言った。
 
「……だから、何が?」
 
 恋はしばらく黙り込んでから、徐にぶんぶんと首を横に振る。
 
「…………いい」
 
 小さく、はっきりと。
 
「……憶えてないなら、いい」
 
 何が良いのか、恋はそれきり、また眼を瞑る。
 
「………恋はずっと、いるから」
 
「……………………」
 
 恋の言葉が要領を得ないのは、今に始まった事じゃない。
 
 でも、何か……俺にとっても恋にとっても、重い言葉な様な気がする。
 
「………ありがとな」
 
 今は、こう返すのが………一番だと思った。
 
 
 
 
「おーっす、及川」
 
 クラスが違う恋と別れて、自分の教室に向かう廊下で、いきなり探してたツレを見つけた。
 
 今からじゃ時間的に微妙だし、相談は昼飯食いながらになるだろうけど。
 
「おはよーさん……って」
 
 何の気なしに片手を上げて挨拶した及川の顔が、露骨に引きつる。何だよ。
 
「かずピー……その顔どないしたん?」
 
「は? 顔?」
 
「エラい事になっとんで、ホレ」
 
 いつもみたく、自分には彼女がいるからって馬鹿にしてる感じ……じゃないな。何か痛々し物でも見るみたいな顔してやがる。
 
 朝は顔洗う時間なかったけど、隈でも出てんのか?
 
「顔がなんだよ」
 
 差し出された手鏡を覗き込む。こいつ、男のくせに日頃からこんなもん持ち歩いてんのか。
 
「…………げ」
 
 大袈裟なリアクションだと思いながら鏡を覗き込んで、絶句。鏡に映ってたものは……俺の予想を大きく越えていた。
 
 鼻の横から耳まで届く、白く変色した一本。古傷……としか呼べないものだった。
 
「うっわ……何だこれ」
 
「かずピー、どこのヤーサンに絡まれたん。いや、包丁持った変質者か?」
 
「絡まれてねー!!」
 
 お前はアホか。仮に昨日変質者に襲われたとして、一日でこんなデカい傷が塞がるわけないだろが。
 
「んじゃ何なん、それ?」
 
「それは………あれ?」
 
 言い返そうとして、俺も解を持ってない事に気付く。古傷は古いから古傷って呼ぶんだよ、なぁ。
 
「昨日まで、あった?」
 
「いんや」
 
 及川に訊いても応えは変わらず。いつこんな怪我したんだ? つーか朝、俺が見られてたのってこの顔のせいか! 恋も教えてくれればいいのに!
 
「まあ、良かったやんか、かずピー」
 
 ポンポンと、及川が俺の肩を叩く。
 
「……何がだよ」
 
 応えながら、俺は軽く眼を細める。なんか腹立つ顔してたからだ。
 
「顔に傷ついても、泣く女がおらんのやから♪」
 
「フンッ!」
 
 イイ笑顔で予想通りなセリフをほざいた及川の腹に、俺は躊躇いなく肘をぶち込んだ。
 
 



[14898] 八章・『違和感の交錯』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/04/11 05:42
 
「「ッ………!!」」
 
 右腕と左腕が交叉して、互いの頬に拳が鈍い音を立ててめり込む。
 
 一瞬の硬直の後、二つの人間の一方……小柄な人影が力無く崩れ落ちた。
 
「やりますね。もう……あなたに教える事は何もないようで…うっ……」
 
「お前に何か教わった憶えは無い」
 
「ツレないですね」
 
 大の字になって満天の星空を仰ぐのは、散。殴られた頬を押さえながら、そんな散を見下ろしているのは舞无である。
 
 些末な事で互いの機嫌を損ねた二人は、今の今まで拳と拳の激闘を演じていた。
 
「ロクに食事も採ってないとか聞いてますけど、意外と元気なようで安心しました」
 
「……それを知ってて喧嘩を売った挙げ句、負けたのか。最悪だな」
 
「お嬢と花には内緒にしといて下さいね。カッコ悪いんで」
 
 相変わらず感情の起伏に乏しい瞳で夜空を見ている散の横に、舞无も女の子座りでしゃがみ込む。
 
 全力で体を動かした後の心地よい疲労感が、じくじくと体のあちこちに疼く痛みすら気にならなくして二人を包んでいた。
 
「……痛い憂さ晴らしだ」
 
「あたしは酒よりはマシかな、と思いましたけど」
 
 舞无は本気で頭に来ただけだし、散も別に舞无の為を思って喧嘩を始めたわけではない。
 
 互いに、お互い様なら八つ当たりしてもいい、と開き直った結果だった。
 
「忘れる事が出来ないんなら、せめて紛らわすしかないでしょう」
 
 復讐ってのもなんせんすですしね。そう言ってわざとらしく肩を竦める散に、舞无は弱々しく俯くだけ。
 
「私は…嫌だ………」
 
 そうして、ポツリと零す。怒りに任せて露にした感情は、鎮火と共に別の感情に摺り代わり、隠す事が出来なくなる。
 
「っ……一刀がいなきゃ……ヤだ………」
 
 手の甲で両目を隠して、メソメソと泣く。怒りが覆い隠していたか弱い姿。純粋であるがゆえの傷つき易さに、散は何も言葉を返さず、視線を逸らした。
 
 忘れるどころか、誤魔化す事すら出来ない。彼女の……彼女らの心に空いた穴は、それほどに深く大きい。
 
「(本当に、どいつもこいつも………)」
 
 散は心中で、口汚く吐き捨てる。遺される側の気も知らずに逝ってしまう者らに、もう届く事の無い罵声を。
 
 舞无の啜り泣く声だけが暫くの間つづき………
 
「終わりました?」
 
「うわあぁあぁ!?」
 
 唐突に、驚愕の叫びへと変わる。原因は、舞无の背後から声を掛けた散より小柄な少女。
 
「終わりはしましたけど、何の解決にもならなかったようで」
 
「また泣いちゃってますしねー」
 
「泣いてない!!」
 
 この世界で、星や稟と同じく、一刀と最も長い時を過ごして来た……風。
 
 こんな時でも……否、こんな時だからこそ、風は常と変わらぬ姿でそこに立っている。
 
「お使い、お願い出来ますか?」
 
 唯一違うのは、睡魔に揺られたような間延びした声……それが無い事だけだった。
 
 
 
 
「かずピー……ちょい空気読みやホント。冗談にあない本気でどつかんでもええやん?」
 
「お前がオーバーなんだろ。そんなに力入れてないぞ、俺は」
 
「嘘やー! 朝食ったもん戻すか思うたでオレは!」
 
 俺が肘鉄食らわした腹を押さえながら、及川がフラフラと隣を歩く。ツッコミ一つで大袈裟な。
 
「あー、俺も彼女欲しいなー!」
 
 敢えて誰をとは言わんけど。
 
「あんじょう気張りや、人生の落伍者くん」
 
「……もっかいしばくぞ」
 
「応援してるよ、僕たち友達じゃないか!」
 
 世渡り上手な奴め、そしてお前の標準語ってキモいな。
 
「いや実際、かずピーはもっと積極的にならんと始まらんよ? 一度しかない青春に竹刀ばっか振り回しとったらどんなイケメンでも彼女なんて出来へんて」
 
「………………」
 
 微妙に的を射てる気がするから、反論せずに黙っとく。
 
「ええか、かずピー? 青春時代はたったの三年しかないねんで? 一に恋あり! 二に友情あり! 三四と五にはセックスありや!」
 
 前言撤回。
 
「猿だねぇ」
 
「おうさ! 猿さ! 猿だとも!」
 
 めげないし。けど……今朝の俺ってまさに猿そのものだったんじゃなかろうか。
 
「やっぱ若い頃は猿やないと男やないからなっ!」
 
 断言しやがった。
 
 ある意味清々しいまでの及川の猿っぷりが恥ずかしいやら羨ましいやら。そんな事を考えてたら………
 
「(…………あれ?)」
 
 何となく、違和感を覚えた。
 
「………なあ、及川」
 
「さー、かずピーも一緒に青春を謳歌しよーやないか! まずはかずピーの彼女探してダブルデートからや!」
 
「前にも、こんな会話しなかったっけ?」
 
 一人でテンション上げてる及川の言葉は完全に流して、俺は違和感の正体を及川に訊いてみる。
 
 それに及川が応える………より先に――――
 
「なに朝っぱらからアホな会話してんのよ!」
 
「痛っ!」
 
 教室の前で待ち構えていた後輩のカバンが、よそ見していた俺の頭をパコンと打った。
 
 叩かれたトコを擦りながら、そこにいる二人の姿を認めた俺は――――
 
「あ……ぁあ……」
 
 本日二度目の、暴走を喫する事になる。
 
 
 
 
「あ……ぅ……」
 
 おかしい。何だろう、この状況は。
 
「へぅ………」
 
 部活の朝練をサボった部員に、マネージャーとして一言文句を言ってやろうと、二年の教室までやって来た。あくまでもマネージャーとして。
 
 そんなに珍しい事じゃない。上級生の階に来るのに緊張しながら、月がおろおろついて来るのもいつも通り。
 
 ―――なのに、何でこうなった?
 
「う……くっ、うぅ…………」
 
 自分の顔のすぐ横に、男のくせにわんわん泣いてる一刀の顔がある。
 
 ボクがそっちを向くだけで、頬っぺたに……その……唇が当たるくらい、近くに。
 
 ボクと反対側では、月が全く同じ目に遭ってるはずで……。
 
「(な! なっ! なぁ………!?)」
 
 ボクは大いに、大いに慌てていた。頭に血が上って、まともな思考が出来ない。抵抗する事も忘れて棒立ちになるだけ。
 
「(なっ、なん、何で………!?)」
 
 そんなに強く叩いたわけじゃないし、さっきのよりキツい仕返しなら今まで何度もしてきた。
 
 そもそも、ちょっと痛かったくらいでこんな大泣きするなんて考えられない。
 
 結論………どうしてこうなった?
 
「(どう、しよ………)」
 
 スゴい力で、でも柔らかく抱き締められてる。背中に回された腕の感触に、「ああ、やっぱりこいつも男の子なんだな」とか、当たり前の事を考えていた。
 
「(………なんか、落ち着くな)」
 
 抗い難い安心感に、何もかも忘れて眼を瞑ろうとした、その時――――
 
「はっ!?」
 
 ボクは漸く、正気に帰る。周りから集中放火されてる、上級生たちの視線によって。
 
「いつ、まで…………」
 
 今の状況そのものへの羞恥心、さっきまでのボク自身の思考回路への不覚という名の怒り。それら全てを振り払うように―――
 
「いつまで抱きついてんのよおォォーーーー!!」
 
「ぶがっ!?」
 
 ボクの渾身のアッパーカットが火を吹いた。
 
 スローモーションみたいにゆっくりと一刀が倒れた直後、ドッと拍手と歓声が湧き上がる。
 
「…………なぁ自分、同じフるにしてももっとソフトにフれんのか? 俺、かずピーが不憫でならんわ」
 
 クラス中の注目を浴びてるボクに、一刀の友達の及川が生暖かい眼でそんな事を言って来た。まったくもって冗談じゃない。
 
「うっさい! 仮に今のが真剣で情熱的な愛の告白だったとして、何で二人同時に抱きつくのよ! それだけで死刑には十分でしょうが!」
 
 そう……百歩譲ってこのセクハラがボクだけだったら、そして人目が無かったら、泣いてる相手を殴り飛ばしたりはしなかった………と思う。
 
 でも! よりによって、ボクの……ボクの可愛い可愛い月にまでーー!
 
「え、詠ちゃん……私は、その……気にしてないから」
 
 ………月、何で顔が赤いの? 恥ずかしいからよね、そうだと言って?
 
「スマンかずピー、猿っちゅーても同時攻略はダメて、先に言っとくべきやった」
 
 的外れな謝罪をしながら、及川は一刀に楽しそうに親指を立てる。バカばっかり。
 
 当の一刀は、「また、またやった……」とかブツブツ言いながら打ち拉がれてる。謝りなさいよ。
 
「北郷……若いのだから盛る気持ちも解るが、場所くらい弁えろ」
 
「違います、そういうんじゃないんですって!」
 
 いつの間にか来ていた桔梗先生の言葉に、一刀は両手を振って言い訳する。………まだ目が赤いし、目の周りが腫れてる。
 
 ちょっと可哀想だったかも………いや、あそこで誰かが止めないと収拾つかなかったし、あれで良かったんだ、うん。
 
「月、詠、ぬしらはさっさと自分の教室に戻れ。北郷は昼休みに生徒指導室に来るように」
 
「は、はい………!」
 
 まだ一刀を心配そうに見てる月の手を引いて、ボクは自分の教室へと歩きだす。
 
「(気のせい、よね………)」
 
 嬉しかった、そんな風に感じるわけがないんだから。
 
 
 
 
「ふぅ…………」
 
 報告書ばかり見続けて疲れた目頭を押さえ、私は椅子に深く腰掛ける。
 
 やはり……あの時期、あの周辺の我が軍の部隊が独断行動をしたという記録は残っていない。
 
 永安で邑を襲撃した犯人は、別にいる。
 
 呉ではないだろう。彼女らが今の待遇に不満を持っていたとは思えないし、何より一刀殿を慕っていた。
 
 野心で言えば魏が一番疑わしいが、昨日の曹操を見ている分にはそれも考えにくい。今もこの宮殿にいるのに、陛下を懐柔しようとする動きも見せない。
 
 つまり…………
 
「(誰かが、いる)」
 
 魏でも、呉でも、おそらく荊州軍でもない。どこにも所属していない何者かが。
 
 私が動くより先に、既に風が手を回してくれていた。……それで全て丸く治まるとは思っていないが、何もしないより余程良い。
 
 何より、許せない。野放しにしておけない。
 
「(後は、星か……)」
 
 我々が曹操に諫められた昨夜の夜更け、一刀殿の墓の前で雛里が星に会ったという。
 
 星は一刀殿の剣だけを持って、また姿を消したらしい。その夜に、一刀殿の愛馬・的盧、そして風の部屋の天界語の本の幾つかも消えたようだが……おそらく星の仕業だろう。
 
 ………消えた一刀殿の亡骸も、見つかっていない。
 
「星……あなたは何を考えているの」
 
 生きていた事を喜べばいいのか、友人が己を見失った事を嘆けばいいのか、私にはもう判らない。
 
「一刀殿…………」
 
 助けを求めても、応えが返る事はない。
 
 



[14898] 九章・『罪の無い子』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/04/13 20:00
 
「桃香さま………」
 
 心配そうに声を掛けてくる朱里に、桃香はただ首を振る。
 
 自室の寝台の上で膝を抱えて塞ぎ込むその姿は、あまりにも弱々しかった。
 
「愛紗ちゃんが、そんな事するわけない………」
 
 生死を共にと誓い合った義妹が、人生全てを捧げた少年を殺した。その残酷過ぎる現実を、受け入れられずにいた。
 
「するわけ、ないもん…………」
 
「…………………」
 
 朱里は何も言えずに、口をつぐむ。朱里とて何かの間違いだと思う。そんな報告を鵜呑みにしたくない。
 
 だが……そんな都合は相手に通じない。こうしている間に、いつ北郷軍が兵を挙げて攻めて来るかわからない。
 
「桃香さ……」
「出て行って!!」
 
 再び呼び掛けようとした朱里を、桃香とは思えないほど荒々しい怒声が打った。
 
「…………………」
 
 朱里はやはり何も言わず、退室して扉を閉めた。どうする事も出来ない己の無力に、腹が立つ。
 
「(桃香さま………)」
 
 真犯人を捜すと怒り狂う鈴々を抑えるのも、そろそろ限界だ。愛紗を罠に掛けた何者かが永安近隣に潜んでいるとしても、こんな時期に国境で兵を動かせば瞬く間に孅滅される。
 
 勝ち目が無い、以前の問題だ。戦になどさせるわけにはいかない。
 
「(愛紗さん………)」
 
 何よりの問題は、当の愛紗が未だに姿を現さない事。兵の報告だけでは信じられない。事の真偽が判らない。仮に愛紗が本当に一刀を手に掛けたとして、桃香が愛紗を処断するかはまた別の問題だが。
 
 そして、愛紗一人の命で事態が治まるのか。いや………黒幕を見つけ出したとしても、北郷軍が止まる保障は無い。むしろ、止まらない可能性の方が高いだろう。
 
 もう、何をしても取り返しがつかない。それほど、北郷一刀という人間の持つ影響力は大きかった。
 
「(ご主人様………!)」
 
 呼んだ事の無いはずの呼び方で朱里は一人の少年を呼ぶ。失ってから思い知らされる、掛け替えの無い人を。
 
 
 
 
「コクれ」
 
 昼休み、恋の事を相談した及川の第一声が、これだ。
 
 ちなみに、何で桔梗先生に呼び出されたはずの俺に昼休みがあるのかと言うと…………
 
『何で脱ぎ出すんですか!』
 
『ん? 欲求不満なのではないのか。色欲任せに女生徒を襲うくらいならいっそ、と思ったのだがな』
 
『……普段どーいう眼で俺を見てんですか』
 
『まあ、それは半分冗談として、ほれ』
 
 という経緯だった。結局、からかわれた挙げ句にエロ本渡されただけ。何であんな人が教師になれたのか激しく謎だ。………いや、厳重注意とか反省文とかより千倍マシだから良いんだけど。
 
「つーか、そこまでされて何で手ぇ出さんの。何が遅刻なん? 草食系剣道小僧とかヒくわー」
 
 で、俺は及川と屋上で昼飯食ってるわけだけど……腹立つなコイツ。
 
「そういう雰囲気じゃなかったんだよ。大体、付き合ってもないのに飛び掛かれるか」
 
「飛び掛かっとったやん。お猿さん♪」
 
「ぐはっ!?」
 
 苦し紛れの反論に強烈なカウンターを食らって、俺は購買のパンを取り落とした。ああ……まだ一口しか食ってなかったのに。
 
「恋……月……詠……」
 
 そうだ……俺は一日に三人の女子に抱きつく男。しかも月と詠はダブルで、さらには泣きながら。
 
「最悪だ………」
 
 俺は……これからどうしよう、そしてどうなってしまうのだろう。
 
 暗い未来が、大口を開けて俺を待っている気がした。
 
 そんな俺の後頭部に…………
 
「なに被害者面して落ち込んでんのよ!」
 
 パコンッ、と水筒が軽く打ち付けられた。その声に、ツッコミに、俺は恐る恐る振り返る。
 
 そこには予想通り…………
 
「ったく、反省するくらいなら最初からやるんじゃないわよ」
 
 詠と、
 
「え、詠ちゃん。もうよそうよぉ………」
 
 月と、
 
「………お腹空いた」
 
 恋の姿。この三人は仲良しだけど、恋だけが一コ上で俺と同級生だから、昼飯は教室以外の所で食べる事が多いのは知ってたけど………迂濶だった。まさかここに来るとは。
 
 位置的に恋たちが見えてたはずの及川を見ると、心底楽しそうにニヤけてやがる。
 
「まぁまぁかずピーも、せっかく恋ちゃんら被害者一同があづぶっ!?」
 
「………真名で呼ぶな」
 
 で、俺が何か言う前に恋の右ストレートを食らって吹っ飛んだ。憐れなヤツ。
 
 ………マナって何だ、ファーストネームの事か。
 
 その時――――
 
「っ…………」
 
 知らない情景が、脳裏に過る。
 
『……私が守る。恋の代わりに、私が一刀を守るんだ……』
 
 ずぶ濡れで、膝を抱えて、思い詰めた表情で小川を見ている……銀髪の女の子。
 
「(………誰、だ?)」
 
 一瞬過っただけの姿を、何故か思い出さなきゃいけない気がして、必死に記憶を探る。でも……見つからない。
 
「あの……先輩……」
 
「え? あ、ああ……」
 
 思考の海に沈む俺を、おどおどと前に出た月の声が呼び戻す。……赤面しながら眼を合わせてくれないのが、結構つらい。
 
「お弁当、少し多めに作って来たんですけど……えと……一緒に、食べませんか?」
 
「……………………なに?」
 
 言って、月は下を向きながら弁当箱を差し出して来る。何て可愛い……じゃなくて―――
 
「俺を………許してくれるのか?」
 
 あまりの心の広さに、また泣きそうになっていると………
 
「あの……ビックリは、したけど……嫌じゃ、なかったですから……」
 
 強烈な追い討ちが来た。俺まで顔が熱くなる。
 
「言っとくけど、ボクは許してないんだからね。月がどうしてもって言うから見張りに来てるだけなんだから」
 
 そして、お約束よろしく詠の指先が俺の額をしつこくつつく。
 
 罪悪感と気まずさが消えたわけじゃないけど、こんな日常の中にいる事が………どうしてか、堪らなく嬉しい。
 
『いただきます』
 
 ―――何でこんなに、嬉しいのかな。
 
 
 
 
「はぁ? わからない?」
 
「いや、ホントごめん。けどマジで俺にもわからん」
 
 なにフザケてんの? という顔で見下ろしてくる詠に、そして月と恋に、俺は正座で平謝り。
 
「あれだけ泣いて抱きついといて、理由も解らないっての?」
 
「何て言うか、胸の奥から込み上げてきたって言うか………体が勝手に動いたって言うか……」
 
 せっかく詠が弁解のチャンスをくれたってのに、悲しいかな……俺にも自分が解らない。
 
「……言いたい事はそれだけかしら?」
 
 当然のリアクションとして、詠がファイティングポーズを取って軽快なステップを刻みだす。
 
 これはグーが来るなー、と悟りにも似た覚悟を固めていると………
 
「………よしよし」
 
 恋が、何故かとても優しい顔をして俺の頭を撫で始めた。気が削がれたと言わんばかりに、詠もファイティングポーズを解く。
 
 恋の挙動が読めないのはいつもの事だけど……今日は五割増しで不可解だ。今までの話で、俺の頭を撫でるような要素が一欠片でもあったか?
 
「………恋が守る」
 
 そんな俺(たち)の疑問もまったく気にせず、恋は俺の頭を撫で続けている。
 
「…………………あの、オレは?」
 
 恋に一撃もらって立ち上がれない及川の呟きは、俺たちには届いていない。
 
 
 
 
「………こっちもか」
 
 昼休みが終わってからは、いつもと代わり映えのしない授業風景が続き、放課後になった。
 
 当然のように剣道場に向かって更衣室に入った俺は、着替えの最中に自分の体を見て……驚かない。今日は色んな事がありすぎて、これくらいじゃもうビビらないというべきか。
 
「(いい加減、うす気味悪いんだけどな)」
 
 顔だけじゃない、身体中傷だらけだった。特に胴体が酷い。左肩から右脇腹まで、ぶっとい傷が一直線に伸びている。……で、これも全て塞がってる。
 
「……つーかコレ、致命傷だろ」
 
 この傷が刻まれた時の事を考えるとゾッとする。出血多量で止血する間もなく息絶える……どころか、一発で即死するんじゃなかろうか。
 
 なおさら、生きてる人間にこんな傷がついてんのが謎だ。……憶えがないから他人事にしか感じられないのが難だけど。
 
 でも、一番不思議なのは…………
 
「…………………」
 
 この傷を見てる、俺自身だ。
 
 わけも解らずにこんな傷がついたら、誰だって戸惑うのが当たり前だ。なのに……俺は全然悲観してないらしい。
 
 この傷が消えればいいって気持ちが、全く湧いて来ないんだから。
 
「………モヤモヤする」
 
 考えても考えてもキリが無いから、気持ちを部活に切り換える事にした。
 
「さーって、今日こそ勝つぞー!」
 
 と、気合いを入れてから……
 
「………誰に?」
 
 自分自身に訊き返す。何だろ……なんか、誰かに勝つ事を目標にしてたような気がするんだけど……俺がそんなに果敢に挑んでる相手っていたっけ?
 
「だーもう! メンドくせー!」
 
 こういう時は思い切り体動かすに限る! 今日はランニングでも筋トレでも何でも来いだ。
 
 モヤモヤを振り払うように更衣室から飛び出した俺が目にしたのは………
 
「あの、その……お願い、します……」
 
「…………はい?」
 
 全身をキッチリ胴着に包んだ、愛らしいマネージャーの姿だった。
 
 
 
 
「…………………」
 
 鏡の前で、笑顔を作ってみる。一刀さんが好きだって言ってくれた、わたしの笑顔。
 
「…………酷い顔」
 
 すぐに目を向けていられなくて、顔を背ける。こんな女の子……一体誰が好きになるもんか。
 
「愛紗ちゃんが……一刀さんを憎んでた?」
 
 そんな事、あるわけない。わたしは知ってる。愛紗ちゃんは……一刀さんが大好きだった。
 
「でも………もう遅いよね」
 
 たとえ仇を見つけたって、星ちゃん達は納得しない………するわけない。
 
 ………一刀さんは、もういないんだから。
 
「一刀さん………」
 
 会いたい。どうしようもなく会いたい。
 
 会えない。どんなに願っても会えない。
 
 わたしの理想は、願いは……いつだって冷たい現実に阻まれる。
 
「………ごめんね」
 
 そっと、自分のお腹を撫でる。この子は何も悪くないのに、生まれさせてあげる事さえ出来ない。
 
「せめてあなただけは、助けてあげたかった……」
 
 悲しくて、寂しくて、虚しくて、情けなくて………
 
「ごめんね………」
 
 涙が、止まらなかった。
 
 



[14898] 十章・『約束を果たす時』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/04/16 20:46
 
「まだ……官軍は動かないのか」
 
 石造りの要塞の大広間で、豪奢な椅子に腰掛けた青年が溜め息を溢す。
 
 その姿は紺色の外套に包まれ、隠されている。
 
「まあいい、北郷一刀さえいなくなれば……漢王朝が真の実権を握るのも時間の問題だ」
 
 独り言とも取れる言葉に、居並ぶ幹部らが首を縦に振る。何とも仰々しい出立ちは、青年の趣向に沿っていると言えた。
 
「(あわよくば、中山靖王の末裔などと嘯く村娘にも消えて貰いたいところだが……今は僕らも下手に動けないからな)」
 
 樹海の奥地とはいえ、ここは荊州と蜀の国境に位置する砦。極度の緊張に晒されているこの場所で迂闊に動けば、瞬く間に孅滅されてしまうだろう。
 
「(これから、どうする)」
 
 ずっと北郷一刀への復讐と、漢王朝の再興の事ばかりを考えて来た青年は、見えない明日を遠く見つめる。
 
 このまま山賊など続ける意味は無い。……どころか、生かしておく理由も無い。欲しかったのはたった一度、邑一つを皆殺しにするだけの戦力。それさえ済めば……汚らわしい山賊風情など用済みだった。
 
「(………名を、捨てるか)」
 
 新たな旅立ちを秘かに決意した、その時―――
 
「っ…………」
 
 耳に小さく、喧騒の音が届いた。
 
「な、何の騒ぎだ……?」
 
 喧騒は勢いを増して………
 
「喧嘩か……!?」
 
 広く、大きく………
 
「違う、これは……」
 
 そして………近くなっていく。
 
 唐突に、或いは必然に―――――
 
『っっ!!?』
 
 広間に備え付けられた大扉が、轟音を立てて吹き飛んだ。
 
 急に差し込んだ逆光の向こう側から、一筋の刃が矢のように奔り――――
 
「うお……っ!?」
 
 玉座に座る青年の外套……その頭巾部分を千切り飛ばした。
 
 そこから………鮮やかな菫色の髪が溢れる。
 
「ごろつき集めてお山の大将ですか。丁度いいトコに収まったようで」
 
 影が一つ、二つ、三つ、次々と足を踏み入れて来る。元々……こんな雑軍と砦でどうにか出来る相手ではない。
 
 その先頭から、“旧知”が相も変わらぬ冷淡な声を投げ掛ける。
 
「また殺しに来ましたよ、韓遂」
 
 端正な顔が、屈辱と苦渋に歪んだ。
 
 
 
 
「また随分と、引っ掻き回してくれましたね」
 
 西涼で敗戦を喫した韓遂は、逃走の最中に恋の部隊に追撃を受け……最期は追い詰められた崖から突き落とされた。
 
 誰もがその死を疑わず、存在を忘れ去っていた男が……今、こうして目の前にいる。
 
「劉璋に玉璽を渡した占い師ってのも、あなたですね」
 
 既に失った、目の前の散に奪われた右腕を押さえて、韓遂はジリジリと後退る。
 
 場違いなほど平静に口を動かしているのは散一人。蒲公英も、舞无も、振り切れる寸前の怒りに身を焦がして口を開く余裕が無い。
 
 そして……舞无の撒き散らす怒気が、場にいる全ての敵を竦み上がらせていた。
 
「沈黙は肯定と採りますが、いいのかな、と」
 
 ここで何も言わなければ、瞬く間に死を迎える。生存本能に衝き動かされるままに口を開いた韓遂の声は………
 
「ぼ、僕は………」
 
 憐れなほどに、震えていた。その態度こそが、崩され、曝け出された彼の心を如実に物語る。
 
「官軍に背いた憶えなど、無い」
 
 声量を上げていく韓遂の言葉は、開き直りというよりも……自暴自棄に近かった。
 
「お前たちだって解っているはずだ! 漢王朝の再興など仮初めのもの、実権を奪われたままの空虚な栄光だと!」
 
 届かないと知りつつ、韓遂は叫ぶ。自分の意志を、自分の正義を、ただ主張するために。
 
「僕は天下の覇権を、在るべき場所に還そうとしただけだ!」
 
 天より舞い降りた御使い。大陸を一つに束ねた英雄。そんな事は韓遂にとって何の意味も持たない。
 
 本来なら帝が浴びるべき名声を、帝が握るべき覇権を、北郷一刀が得ている。
 
 彼にとって、それは何にも勝る反逆だった。
 
「前にも言いましたが…………」
 
 そして、そんな韓遂の主張もまた―――
 
「あなたと議論する気は無いんですよ」
 
 一刀の仲間にとって、何の意味も持たない。
 
「いくぞ!!」
 
 舞无の咆哮が、戦いの時を再び動かした。………否、それは戦いなどではない。
 
「うぉおおおおおーーーーー!!」
 
 怯え、逃げ惑う賊徒を、荒らぶる獣が追い掛け、喰い千切る……残虐で圧倒的な狩り。
 
 天の御使いが誇った生粋の勇者らを前にして、立ち向かっていける命知らずはこの場にいない。
 
「(殺っ……される……!)」
 
 我先にと逃げ惑い、押し合い、絡み合い、結果として肉の壁と化している部下という名の捨て駒を尻目に、韓遂は広間の奥へと走りだす。
 
 壁に掛けられた絵画を引き千切り、そこに隠されていた彼だけの抜道へと飛び込む。
 
「(僕は………)」
 
 覚悟していた。事が露見すれば、北郷軍の将が乗り込んで来ると解った上での決行だった。
 
「(僕は、ただ………)」
 
 だというのに、いざ現実にそれを前にして……震えが止まらない。足が揺れて、歯の根はガタガタと騒ぎ続ける。
 
「どけぇ!!」
 
 敵も味方も関係ない。残された隻腕で剣を振るい、道を塞ぐものを半狂乱になって斬り倒しながら韓遂は走る。
 
 そして―――――
 
「あ…………」
 
 終わりの時が、来た。
 
 辿り着いた馬小屋の前に、待ち構えていたかのように一人の少女が立っている。
 
「母様を……」
 
 後頭で束ねた茶の髪を揺らし、十文字の槍を携える西方の麒麟児。
 
「ご主人様を………」
 
 韓遂にとって義理の姪に当たる少女………錦馬超。
 
「返せぇえええぇえぇーーーーー!!!」
 
 白銀の光が心臓を貫き、その命を瞬きの内に刈り取る。咳き込むように血の塊を吹き出した韓遂の瞳が虚ろに揺れて……それきり動かなくなる。
 
 呆気ない……あまりにも呆気ない、最期だった。
 
「お嬢! ………あ」
 
 その惨めな屍を、遅れてやって来た散、舞无、蒲公英も目の当たりにする。
 
「…………ホント、何なんだろうな」
 
 そうするしかないとでも言うように、翠の横顔には渇いた笑みが浮かんでいた。
 
「黄巾党も、諸侯連合も、あの曹操だって打ち負かして、大陸を一つにしたご主人様が…………」
 
 誰もが、同じ気持ちだった。どうしてこうなったと、不条理な運命を呪わずにいられない。
 
「こんな奴の……っ…せいで……!」
 
 元凶は討った。仇は取った。そんな事で、無念が晴れるはずもない。
 
 ―――失ったものは何一つ、戻って来はしないのだから。
 
 
 
 
「………懐かしいな」
 
 泰山の麓に聳える雄大な城塞。我らが最期に戦った、白装束の者たちとの決戦の地。
 
 おかしなものだ。これほど壮大な建造物が築かれているというのに、誰一人としてこの地の存在を知らぬとは。
 
「(だが……この異質さこそ、私が求めていたもの)」
 
 冷たかった体に熱が戻って来るのを感じる。柄にも無く昂揚する自分に気付く。
 
「おぬしはここで待っていろ。長旅、ご苦労だったな」
 
 自慢の体躯と脚力で私を運んでくれた一刀の愛馬・的盧に、束の間の別れを告げる。これより先は、馬で越えられる道とは思えん。
 
「…………静かだな」
 
 薄暗い廊下を進みながら、私は泰山の頂上部を目指す。
 
 ―――目指しながら、色々な事を思い出す。
 
『こうして、私の背を預けられるほどの男になった、という意味ですよ。身も、心も………』
 
 あの月夜の逢瀬も、また。
 
『……主は、天界にお戻りになりたいか?』
 
 どうして自らそんな言葉を口にしたのか。……きっと、「違うよ」という応えを求めての事だったのだろう。
 
『……一人で居なくなる事だけは、絶対しないでくださいませ』
 
 乞うように、そんな懇願が続いたのだから。
 
『天界に戻りたければ、お戻りくだされ。けれど、愛紗や鈴々を置いていく事だけは、絶対に許しませぬ』
 
 根拠の無い自信。
 
『ふふ、私は惚れた男をみすみす手放すほど、甘い女ではありませんよ?』
 
 薄っぺらな虚勢。言い知れない不安に反発するように、強い言葉を使ったのを憶えている。
 
 それでも……私は誓ったのだ。
 
『もし私や彼女らを置いていくような事があれば、私が皆を率い、如何なる手段を使ってでも天界に討ち入りますので、お覚悟を』
 
 そして―――――
 
『俺からも頼む。この命令、お前に預けておくから…………』
 
 あの瞬間、誓いは約束へと変わった。
 
「滑稽な………」
 
 自分で自分に笑ってしまう。あれだけ大言を吐いて、あれだけ愛を囁いておいて………こんな事になるまで、思い出す事すら出来ないとは。
 
「だが……今からでも遅くない」
 
 光の回廊を、抜ける。
 
 泰山の頂に……この世のものとは思えぬ気配を漂わせる神殿が、変わらず……そこに佇んでいた。先客が一人、いたようだが。
 
 無尽蔵に増殖する敵兵、刻一刻と迫る世界消滅の時、そして……白光に呑まれて薄れゆく主。
 
 全ての悪夢を内包したこの場所に、私は再び戻って来た。
 
「……皮肉なものだ。あの時、我らから全てを奪い去ったこの場所が……今は唯一つの希望とは」
 
 預けられたままの約束を、今こそ果たすために。
 
「そう思うだろう、愛紗?」
 
 ―――私たちは、ここにいる。
 
 



[14898] 十一章・『星と愛紗』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/04/29 16:49
 
 上方に空だけが広がる泰山の頂、異質な空気を撒き散らす神殿の前に………二人の少女が立っている。
 
 一人は趙子龍。二つの外史に渡って、運命の糸を手繰り寄せて北郷一刀に仕えた少女。
 
 一人は関雲長。かつての外史に措いて北郷一刀を常に支え続け、この外史で歪みに苦しみ続けて来た少女。
 
 同じ想いを抱き、異なる道を歩んで来た二人が今……一人の少年を求めて相対している。
 
「………真名を許した憶えは無いな。趙子龍」
 
 緩やかに振り返りながら、愛紗は星と向かい合う。
 
 何かを押し殺すような、どこまでも感情を見せない金色の双眸で。
 
「本当に憶えが無いか?」
 
 そんな愛紗に、星は意味深げに唇を歪めた。愛紗は僅か、目元を険しく尖らせる。
 
「どういう意味だ」
 
「私もお前も……今という大事に、このような秘境にいる。それだけでは解にならんか?」
 
 星は一つの確信を持って、愛紗に不敵な笑みを見せる。
 
 今ここに立っている。それ自体が何より深く、互いの状態と目的を雄弁に物語っていた。
 
 探り合いは無意味。そう告げた星に対して、しかし愛紗は…………
 
「そうか………」
 
 何かを確かめた、そんな風に一度だけ眼を伏せてから――――否定を告げる。
 
「私にそんな憶えは無い。真名を許しなく呼ぶ事の意味は、解っているだろう」
 
「…………………」
 
 怒気を漲らせて青龍刀を構える愛紗を、星は黙って見つめ返す。
 
「………やれやれ」
 
 言動があまりにも噛み合わない、それが星に全てを悟らせた。
 
「行くぞ趙雲。理不尽に命を奪われた民の無念、ここで晴らさせてもらう」
 
 悟って、改めて思う。………本当に馬鹿な女だと。
 
「まったく、世話の焼ける」
 
 憤怒、悔恨、憎悪、哀切、そしてそれら負の感情を上回る唯一つの想いを乗せて……星は龍牙を翻す。
 
「来い、その濁り眼を晴らしてやる」
 
 異なる世界で、誰より近くで、一人の少年を支えて来た二人の英傑。
 
 その複雑に絡み合う信念が今……刃と共に交錯される。
 
 
 
 
「よ、よろしくお願いします………」
 
 更衣室から戻って来たらば、剣道場の真ん中で待ち構えている月の姿。これはどういった趣向でしょうか。
 
「詠、どゆこと?」
 
 月はマネージャーであって部員じゃない。もう一人のマネージャーである詠の方を見てみたら、何故か勝手に勝ち誇ってらっしゃる。
 
「どうもこうもないわよ。月もたまには体を動かさないと鈍るから、ちょっと付き合って欲しいってだけ」
 
 そして、思わせ振りな顔でしらばっくれやがる。まあ……あの詠が俺の不祥事をうやむやにするわけないとは思ってたけど。
 
 けど……これはないだろ。
 
「お前な、防具つけてたって痛いんだぞ? 月みたいな可憐な女子高生相手に竹刀振れるかよ!」
 
 俺に対するお仕置きの一環だと推測は出来るけど、一体何考えてんだ。確かに普段から女子部員相手でも全力でやってるけど、月だぞ月! か弱い小動物以外の何者でもないだろーが。
 
「別に振りたくないなら振らなくて良いわよ?」
 
「………………」
 
 意地悪そうに、そして心底楽しそうに鼻を鳴らす詠の姿に、俺は全てを悟る。
 
 こいつ、アレだ。俺が手を出せないのを良い事に、月自身の手で俺に制裁を加えさせようとしてるんだ。詠の中では、自分へのセクハラ<<<月へのセクハラ位に怒りの度合いが違うみたいだし。
 
「あの………本気でお願い、しますね……」
 
 しかも、どんな口車を使ったのか知らんけど月も乗り気だし。
 
「………………いいよ」
 
 やったろうじゃねーか。でも、みすみす詠の掌の上で踊ってやるつもりは無い。
 
「(全部、捌き切ってやる………!)」
 
 ………そんな事を考えていた時期が、俺にもありました。
 
 
 
 
「って強いのかよぉおおぉおーーーー!!」
 
 嵐にも似た竹刀の猛襲攻め立てられながら、一刀の絶叫が響き渡る。その情けない悲鳴に、詠は満足そうに頷く。
 
「ゆ、月ちゃんのイメージがぁ………!」
 
 その隣で、及川が面白い顔で驚愕していた。すかさず詠のタオルがしなる。
 
「痛っ!?」
 
「馴れ馴れしくファーストネームで月を呼ぶなァ! てかアンタ何で居んのよ」
 
「いや、そろそろアレやろ。部活終わった後にかずピーと一緒に探そかと」
 
「アンタ参加する気!? どんだけ図々しいのよ!」
 
「いや~、だってかずピーも男子一人じゃ肩身狭いやろーと思ってなぁ~」
 
 などという他愛ない会話は、激しくぶつかり合う竹刀の音によって断ち切られる。
 
 詠と及川だけではない。見学している部員全員の目を釘付けにする月の剣道………否、剣術だった。
 
「にしても、あれ何なん? ゆ……董郷ちゃんのイメージと違い過ぎるんやけど」
 
「なに言ってんだか、あのギャップが良いんじゃない。強いのに、でも優しくて可愛くて、守らずにはいられなくなるような愛くるしさが」
 
 律儀に(睨まれて)月を名字で呼び直した及川に、詠は自分の事のように得意気に語りだす。無論、その間も一刀は必死に応戦し続けている。
 
「ふっふっふっ、一刀ごときが月の剣から逃げ切る事は不可能! せいぜい全身青血だらけにならないように気をつけるのね!」
 
 いい感じに悪役が板について来た詠は、いっそ清々しいまでの高笑いを上げる。
 
 その高笑いが――――
 
「………でもかずピー、さっきからまだ一本も取られとらんで」
 
「…………へ?」
 
 唐突に萎んで、止む。
 
 静かになった剣道場に、ただ竹刀のぶつかる乾いた音だけが断続的に響き続けている。
 
 確かに、一見すると月の猛攻に押されまくっているように見えるが……一刀はまだ一太刀も受けていない。
 
「そういやかずピーも、実家が剣術道場とか言っとったけど………」
 
「そっ、それにしたっておかしいでしょ……!?」
 
 詠の感じたものと全く同じ疑念を、当の一刀自身も感じていた。
 
「(う、おぉ………?)」
 
 予想の遥か斜め上の実力を魅せる月に対する驚愕ではない。そんなものは、ギリギリの打ち合いの緊張の中で霧散してしまった。
 
 だから違和感は、別のところにある。
 
「むっ!」
 
 竹刀を振るう度、
 
「はあっ!」
 
 竹刀を躱す度、自身の剣に一刀は戸惑う。
 
「(俺、いつの間にこんな強くなってたんだ………?)」
 
 反射だけで、自分のイメージ以上の動きが出てくる。自分の技量に当然のように違和感を憶えるが、同時に不思議な納得がある。
 
 “しっくりくる”のだ。
 
「うりゃあ!!」
 
「っ!?」
 
 感覚の齟齬が埋まると共に、動きにキレが増していく。今度は一刀からも攻勢に移る。相手が月である事も今ばかりは関係ない。ただただ仕合に集中し、没頭している。
 
「「っ~~~~!!」」
 
 もはや剣道という競技の原型を留めていない両者の剣に、詠や及川を含めた誰もが息を呑んで見守る。
 
 拮抗する打ち合いはひたすらに速さと激しさを増していき………そして、唐突に終わりを迎えた。
 
「「あ……っ!」」
 
 二本同時に破裂音を立てた、両者の竹刀によって。
 
「はぁ……はぁ……はぁ……っ」
 
「はぁ、はあっ……はぁ……」
 
 忘れていたかのように、防具の下で汗が噴き出す。いくら吸っても足りないように呼吸を繰り返す。それだけ、二人とも勝負に夢中になっていた。
 
「あ、ありがとうございましだっ………!?」
 
 半ば以上呆けて挨拶する一刀……の脳天に、タオルの弾丸が突き刺さる。犯人は言わずと知れた詠である。
 
「あ~ん~た~ね~! もし月が怪我でもしてたらどうするつもりだったのよ!」
 
「お前がけしかけたんだろーが! 言ってる事ムチャクチャだぞおい!」
 
「うっさいバカ! 大体なんであんたが月と互角にやり合えてんのよ!」
 
「それは…………」
 
 ガミガミと言い合う中、不意に詠が口にした疑問に……一刀は応えられない。解を持っていない。
 
「(何か、忘れてる……?)」
 
 今朝から続く自身の異変。その原因は突き止められないまま何かが起きて……そして順応だけは早い。その実感が、一刀に一つの憶測を抱かせた。
 
「………あんた、今日はもう帰っていいわよ。皆が練習にならないから」
 
 そんな思案の海から、詠の突然過ぎる発言が一刀を引き上げる。
 
「何だよそれ、何で俺がいたら練習にならないんだよ」
 
「“あのまま”じゃ、誰も練習に集中出来ないの」
 
 そう言ってピッと向けた詠の指の先を追えば……明らかに部員ではない、制服姿の少女が一人。膝を抱えてジーッと待ち構えていた。
 
 そう、見学しているわけでも待っているわけでもない。まだかまだかと、正しく“待ち構えて”いる。弓道部のエース兼幽霊部員の赤髪少女・恋だ。
 
「いや、でも……」
 
「あのままにしとくわけにもいかないでしょーが」
 
「行ってあげて下さい、先輩………」
 
 詠と月に追い立てられて、一刀は更衣室に急ぐ。もちろん…………
 
「………あり、オレの予定は?」
 
 及川の都合には誰も頓着しはしない。いや、言葉にしないまでも、一刀は僅かに意識を向けた。
 
「(今日は、及川と一緒の方が良かったんだけど…………)」
 
 そろそろ猶予は少ないし、こればかりは恋を同伴させるわけにもいかない。
 
「(プレゼント、何にしよ?)」
 
 恋の誕生日が、この週末に迫っていた。
 
 
『……いたい。……に、会……い……』
 
 ――――誰かの声が、聞こえた気がした。
 
 



[14898] 十二章・『双龍、天を翔る』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/05/04 07:32
 
「「はあっ!!」」
 
 歴史に残る事の無い白亜の戦場で、天下に轟く技と技が鎬を削り合う。
 
 星の武は華麗に尽きる。その鮮やかな体技は見る者全てを夢幻へと誘う蝶の舞踊。秘された龍牙が、幻惑の内に敵の魂を狩り取る。
 
 愛紗の武は鮮烈に尽きる。強く、激しく、重く、疾く。研ぎ澄まされた青龍の爪は鉄をも斬り裂き、その牙は如何なる敵をも噛み砕く。
 
 二つの剣閃が光の軌跡を無数に刻み、唸る凶刃が風を裂き、噛み合う牙が火花を散らす。
 
 嵐のような乱撃戦であるにも関わらず、完璧な調和すら生み出す拮抗した戦いは、まるで剣舞でも演じているかのような錯覚を抱かせる。
 
「はぁあああああ!!」
 
 だが、互角の力を有する二人の力量の中に在る歪みを、見る者が見れば気付いただろう。
 
「ッオオオオォォ!!」
 
 技でも力でも無い、強さ。己の実力を限界を越えて引き出す意志が、一方には在って、一方には無かった。
 
「見切った!!」
 
 柳の落葉のように斬撃を躱す星の足運びを、打ち合いの中で愛紗が捉えた。青龍刀が風を巻いて奔り、白い影を断ち斬り、散らす。
 
「甘い!!」
 
 爆ぜたのは、緩やかに流れる星の袖の袂のみ。大振りの隙を縫うように、星の槍が小さく疾く逆撃を繰り出す。
 
「く………っ!」
 
 槍の穂先は愛紗の顔面を貫かんと迫り………鼻先で止まった。咄嗟に構え直した青龍刀が双刃の間に滑り込み、間一髪で槍を止めたのだ。
 
「だあっ!!」
 
 そのまま力任せに青龍刀を押し切ろうとする愛紗に、星は抗わず逆らわず………逆に僅か身を退いて、体を捻るようにいなす。
 
 捻った体をそのまま回転させて振るわれた星の横薙ぎを、愛紗は上体を大きく反らして避けた。
 
 星は円運動の延長として、愛紗は不安定な体勢を反動で起こすように―――
 
((ガッ!!))
 
 互いの頭部を狙った蹴撃が、鏡移しに衝突し、制止した。間髪入れず、両者は龍牙と青龍刀を全力で振り抜き……ぶつかり合った衝撃の反動を利用して距離を取る。
 
 間合いを開けて星と向かい合う愛紗の頬に、思い出したように一筋の紅が流れた。
 
「つまらんな、今のお前には敗ける気がせん」
 
 軽口を叩く余裕など無い。むしろ実力自体は伯仲している。だが……星の言葉は慢心でも強がりでも無い。
 
 武人にとっては屈辱以外の何物でもない侮蔑を受けて……しかし愛紗は反論しない。ただ静かに、青龍刀を構え直す。
 
「………この一撃で、最期だ」
 
 何らかの決意を瞳に宿す愛紗。
 
「ふっ、そう上手くいくかな」
 
 この期に及んでも不敵な笑みを浮かべる星。
 
 必殺の構えを取る二人を取り巻く空気が、冷たく、重く、痛いほどに張り詰めていく。
 
 一瞬とも永遠とも思える硬直を――――
 
「やぁああああ!!」
 
 先に破ったのは、星。両手にしっかりと握り締めた槍を……体ごと、全身全霊を以て突き出す。
 
「うぉおおおおお!!」
 
 その刺突を……愛紗の青龍刀が下から掬い上げるような袈裟斬りで迎え撃つ。
 
 二つの刃が交叉して―――――
 
(キィン!!)
 
 硬い音と共に宙に撥ね上げられたのは……星の龍牙。
 
「(馬鹿な―――!?)」
 
 それを信じられないような眼で見た“愛紗”は…………刹那、見失う。
 
「(何処に―――っ)」
 
 そして、見つける。足幅を広げ、体を沈めて、背中を見せるほどに体を捻った星の姿を。
 
「(槍は、囮か―――)」
 
 背中を見せて斜に構える姿勢、相手には視認出来ない所から。
 
「(これで…………)」
 
 ―――宝剣の光が、愛紗の視界を埋めた。
 
 
 
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 刹那の衝突は終わり、再び場を静寂が満たす。二人の時は止まっている。
 
 低い姿勢から青紅の剣を伸ばす星と、その刃を首筋に当てられた愛紗、という光景のままで。
 
 中空を回転し、落下と共に白亜の大地に突き刺さった双刃が……戦いに終止符を打った。
 
「………これで、少しは気が済んだか」
 
 何事も無かったかのように身を起こした星は、愛紗の首筋から刃を外し、鞘に収める。
 
「さっさと行くぞ。こんな事をしに来たわけではないのだろう」
 
 そして愛紗の横を通り抜けて、神殿へと歩を進める。その足を――――
 
「なぜ………」
 
 か細く震える少女の声が、止めた。
 
「なぜ斬らない!!!」
 
 押し留めていた感情が爆発する。それは怒声と言うよりも、悲鳴に近いものだった。
 
「なぜ……平然とそんな事が言える………」
 
 愛紗は振り向かない。星の方を見ない。顔を上げる事すら出来ず俯いている。
 
「私は……自分が、許せない………!!」
 
 だが、その涙声と……血が滲むほど握られた両の拳が、彼女の心を如実に物語っていた。
 
「………やはり、か」
 
 予想と違わぬ愛紗の姿に、星は呆れたように肩を竦める。
 
 『かつての自分』を取り戻していなければ、この地に来る事すら出来はしない。そうでなくとも、あの時の愛紗の言動はあまりにも不自然すぎた。猿芝居にもほどがある。
 
「私がここに来たのなら、もう自分が生き続ける理由は無い、とでも思ったか?」
 
 自分を取り戻していながら、あんな言葉を吐いて星を煽る理由。星がそれを察するのは、それほど難しい事ではなかった。
 
「私に斬られて、死ぬつもりだったか」
 
 強い信念は力になる。今の自分では星に勝てない。星には、無抵抗なかつての仲間を斬る事は出来ないかも知れない。
 
 先ほどまでの言動が、今の姿が、そんな愛紗の意図を正確に星へと告げていく。
 
 推測が確信へと変わり、今の愛紗の心を知った星は………
 
「臆病者め」
 
 そう、吐き捨てる。未だに顔を上げられない愛紗の背中に向けて。
 
 予期せぬ侮辱に、敗北してから初めて愛紗は振り返った。依然、眼を合わせる事はしない。
 
「………そうする事しか、出来ないではないか」
 
「違うな、お前はただ怖いだけだろう」
 
 消え入りそうな“言い訳”を、星はにべもなく切って落とす。
 
「主に捨てられる事も、主に許される事も、主に会う事さえも、恐ろしくて堪らない。そんな今の状態から逃れる為に、楽になろうとしている」
 
 愛紗がした事、愛紗がしようとした事、今の愛紗の姿、その全てが許せず、星は辛辣な言葉を投げ掛ける。
 
「…………………」
 
 一方的に決めつけられて、なのに愛紗は黙り込む。否定する事も、肯定する事も出来ない。
 
「いま全てから眼を背けて安易な死を選べば、お前はこの上……三つの罪を重ねる事になる」
 
 凡百の悪人相手ならば、こんな事を言いはしない。どんな罪を冒そうと、仲間だから。そして、一刀の愛する女だから……星はその手を引くのだ。
 
「三つの、罪……?」
 
「桃香殿への裏切り、主への裏切り、そして……お前自身への裏切りだ」
 
 星は槍を翻し、こちらに顔を向かせるようにその穂先を愛紗の喉元に突き付けて…………
 
「もし、それら全てを承知の上で死を選ぶというなら……私が息の根を止めてやる」
 
 から、外す。
 
「だが……それは全てを見届けてからだ。お前はここに、何をしに来た」
 
 星は問い掛ける。愛紗の口から言わせなければ、意味が無い。
 
「私が訊いているのは、おぬしの気持ちだ」
 
 決して嘘ではない、しかし本当でもない……そんな応えを星は求めてはいない。求めているのは……愛紗をこの地に駆り立てた、心の奥底から湧き上がる、たった一つの想い。
 
「……い、たい……」
 
 頑なに鎖していた心の壁が、遂に決壊する。大粒の涙が、ぼろぼろと愛紗の頬を伝う。
 
「もう、一度……ご主人、様に……会いたい……!」
 
 『関羽』という鎧で守り続けていた本質。弱くて、臆病で、ただ愛する人と共に在る事を願う『愛紗』。
 
 それでいいと、星は思う。自分の弱さを知らない者に、本当の強さなど掴めはしないのだから。
 
「………これ以上、主を苦しめるな」
 
 膝を折って子供のように泣き続ける愛紗の肩に、星は優しく手を掛ける。
 
 求めた言葉に、応えは返らない。無理も無い。今はそれでいいと思う。
 
「共に行こう、我らの主の許へ」
 
 ―――立ち止まりさえ、しなければ。
 
 
 
 
 神殿最奥の大広間。かつての外史に於いて、世界消滅の儀式が行われたこの場所に……星と、愛紗は戻って来た。
 
 あの時とは違う。左慈はいない、于吉もいない。朱里も、鈴々も、翠も、紫苑も……一刀もいない。
 
「………思い出すな」
 
 悔やみ切れない敗北が脳裏に蘇り、星は切なく唇を噛む。
 
 誰も彼もが一刀を求めて走りだし、障害である左慈には目もくれず……結果、誰も一刀に手が届かなかった。
 
 愛しい主が白い光に蝕まれる絶望は、今でもその身を震わせる。
 
「ああ、だが……確かに在る」
 
 朱里はいない、鈴々もいない、翠も、紫苑も一刀もいない。だが……確かに在る物がある。
 
 物語の突端にして象徴。そして終幕の象徴として作られた……一枚の銅鏡が。
 
 星と愛紗が望みを賭けた、存在する事を願った、たった一つの希望が。
 
「……私たちは、ご主人様が孤独に耐えながら守り抜いた理を……破ろうとしているのだな」
 
「お前は主の行動全てを肯定的に取り過ぎる。案外、思いつかなかっただけかも知れんぞ」
 
 誰も自分を憶えていないこの世界に、一人で放り出された一刀が、この地を目指さなかった理由を、今の二人が知る術は無い。
 
 思い詰めるように眼を伏せた愛紗とは対称的に、星は軽く失礼な憶測を立ててみる。
 
 時折思いがけない発想をする事はあっても、基本的にはどこか抜けている男というのが星から見た一刀である。
 
「再び戻って来れる保障は無い。それどころか、この先にご主人様がいるのかも解らない。それでも……行くんだな」
 
「無論だ」
 
 既に自分が行く事は決めていた愛紗の確認に、星は一切迷う事なく返した。
 
「勝算が無いわけではない。少なくとも、この外史は『北郷一刀の死』という終端を望んではいないのだから。それに何より…………」
 
 作られた世界・外史。星も、愛紗も、一刀も、この世界そのものも……正史と呼ばれる世界の誰かが生み出した存在。
 
 『物語には必ず突端と終端がある』。剪定者たちはそう言った。だが……一刀が死んだ今もなお、世界は変わらず存在している。
 
「我が魂の帰る所、北郷一刀の傍を措いて他に無い。そう信じていれば、怖れるものは何も無い」
 
 墓を暴いた夜……一刀の遺体は“星の目の前で消えた”。まるでその死を否定するかのように。
 
「信じろ、願え、思い描け。我らの想念が、正史にまで届くように」
 
 星の右手が、鏡に触れる。
 
「ご主人様………」
 
 愛紗の左手が、鏡に触れる。
 
 触れた場所から光が溢れ、二人を、そして神殿全てを呑み込む渦へと変わる。
 
「(あ―――――――)」
 
 何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。あの時と………同じ。
 
 だが……全てを再現するわけにはいかない。もう二度と、愛しい人と引き裂かれたくない。
 
『私は惚れた男を逃すほど、甘い女ではありませんよ』
 
「(届け………っ!)」
 
 星の想い。
 
『約束したのにっ……ずっと、ずっと一緒にいるって……約束したのに!!』
 
「(繋がれ!!)」
 
 愛紗の想い。
 
 絆だけを頼りに、一途な願いをただただ籠めて。
 
『外史を越えろ!!!』
 
 
 ―――光は揺れて、弾けた。
 
 



[14898] 十三章・『絆の代償』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:ec8f6a96
Date: 2011/05/04 07:34
 
 真っ白な光の向こうから、誰かが手を伸ばして来る。
 
『ご主人様っ!』
 
 それが誰なのかは、解らない。だけどその必死な声に駆り立てられて、俺も限界まで手を伸ばす。
 
『愛しい人……私の全てを捧げられる、愛しい人』
 
 狂おしいほどの想いが………
 
『私の存在する理由となったあの人が、消え去るなんて認めない!!』
 
 切な過ぎる叫びが、俺の中に濁流みたいに入り込んで来る。
 
「(俺は―――――)」
 
 誰なのかも思い出せない。眩しい光で顔すら見えない。
 
「(怖い)」
 
 心の底からそう思う。そこにいる、名前も解らない誰かと引き裂かれるのが………怖くて怖くて堪らない。
 
『行かないでっ! 帰って来て!!』
 
 離れたくない―――離れたくない―――離れたくない―――離れたくない。
 
 ただそれだけが、俺の中で止まる事なく溢れ出して来る。
 
「―――――――」
 
 自分で叫んだはずの名前が、俺には解らない。
 
 そして―――――
 
『一刀さま………っ!』
 
 ――――俺は、夢の世界から覚醒した。
 
「…………………っ」
 
 見慣れた天井と確かな現実感が、今は酷く虚しいものに思えて仕方ない。センチメンタルか、俺は。
 
「…………………」
 
 寝起きの割りにははっきりとした意識で何も無い天井に向けて手を伸ばす。………意味なんてないって、解ってるのに。
 
「もう少し、だったんだよな………」
 
 あと少し、手を伸ばす事が出来ていたら………届いてた。そしたら……どうなってたんだろう。
 
「………どうもするわけ、ないか」
 
 たかが夢。こんなに思い詰めてる事自体が、少し変なんだ。………そう考える頭とは裏腹に、俺は自分の伸ばした手から眼が離せない。
 
「(………あれは、誰だったんだ)」
 
 伸ばした手をそのまま額に持って行って、しばらくそのまま記憶を探っていたら………もう一方の腕にモゾモゾとした感触が。………またか。
 
「おはよ、恋」
 
「………はふ」
 
 捲った布団から、愛らしい寝呆け眼が覗いて来るのもこれで三度目、もう驚きもしない。
 
「(恋…………)」
 
 俺がやらかしたあの日から、恋はとにかく四六時中俺と一緒にいる。授業中に平然と俺のクラスに来る事もしばしばだ。そして叱られるのは俺という不条理。
 
「…………………」
 
 恋は時間を見る為に携帯を取り出してから、そこに付いてるストラップを寂しそうに眺める。「恋の」と一言言ってから俺の携帯からむしり取った、あのコーギーのストラップだ。
 
「………セキトは、元気?」
 
「せきと?」
 
「………何でもない」
 
 珍しく寂しそうな顔になって、恋は俺の胸に額を押し付ける。危機感が足りない……とはもう思わない。無邪気に懐かれてる………とももう思わない。俺だって馬鹿じゃないんだ。
 
『? ……恋は一刀の』
 
 とか言われたり、
 
『…………………』
 
 無言で桔梗先生に貰ったエロ本捨てられたり、
 
『………“一刀”と“ご主人様”、どっちがいい?』
 
 なんて訊かれれば、いい加減きづく。「ご主人様で」と応えた後で詠にしばかれたのも、今ではいい思い出だ。
 
「(恋の誕生日に、告白しよう)」
 
 と、決めたまでは良かったんだけど………一つだけ問題がある。
 
「(………プレゼント、どうしよう)」
 
 そう、恋が張りついている限り、俺は恋へのプレゼントを買いに行けないのだ。
 
 
 
 
 時を僅か、遡る。
 
 一刀の死によって大陸に落ちた悲しみと怒り、晴らされる事なく蓄積されるそれら負の連鎖に耐える王都・洛陽に、南方からの使者がやって来ていた。
 
 広い玉座の間を険しい顔で進んで来るのは、今や呉の王として家督を継いだ孫仲謀……蓮華。その斜め後ろに付き従うのは、彼女の右腕たる思春。
 
 予期せぬ客人を、稟、風、霞、雛里、そしてあれからも都に滞在を続けている華琳と、春蘭、秋蘭が迎えている。
 
「なぜ貴様がここにいる、曹操」
 
 ただでさえ険しかった顔立ちを不快に歪めて、蓮華は欝屈とした怒りをかつての敵へと向ける。
 
 華琳はそれを当然、涼しい顔で受け流す。
 
「見届けに来ただけよ。私を討ち破った男が、一体何を残すのかをね」
 
 飄々と意味深な言葉を返す華琳を蓮華は睨み付けて……しかしすぐに視線を外す。元々が八つ当たりに近い怒りだった上に、華琳に用があったわけではないからだ。
 
「こんな時節に遠路遥々、呉王自らが一体何の御用ですか」
 
 その確信を、稟の問いが突く。蓮華の鋭く、そして溢れる憤怒を隠そうともしない瞳が、稟のそれを捉えた。
 
「……本来なら、わたしが口を出すつもりはなかった。一刀と共に歩んで来たお前たちの手に任せるべきだと、そう思っていたからだ」
 
 蓮華が何を指して言っているのか、誰もが即座に理解する。解らないはずが、ない。
 
「なのに………っ」
 
 固く握られた拳が震える。噛み締めた奥歯が軋む。抑え続けていた怒りが爆発する。
 
「なぜいつまで経っても動かない! 一刀の命を奪った奴らを、いつまで野放しにしておくつもりだ!!」
 
 激しい怒声が大広間を揺らす。常の彼女からは想像もつかない、虎の如き咆哮。
 
 稟は……内心で密かに驚愕する。自分たちの事で精一杯だった事を差し引いても、蓮華が自ら洛陽まで……それも、明らかな彼女自身の感情で自分たちを弾劾しに来るとは思ってもいなかった。
 
 一刀は蓮華に、蓮華は一刀に好意を持ってはいたが……共にした時間はあまりにも短かったからだ。
 
「ウチらかて、本音を言えばすぐにでも動きたい。けど……事の真偽がハッキリするまで、不用意な真似出来んやろ」
 
 辛いのは自分たちも同じ。なのに人も気も知らず糾弾してくる蓮華に、霞が怒りを押し殺して諭す。
 
 それに、稟も続いた。
 
「あの劉備がこんな事を望んでいたとは、我々にはどうしても思えないのですよ。もし裏で糸を引いている人物がいたとしたら、ここで短絡的に劉備を討てば、それこそその者の思うつぼです」
 
 さらに、風。
 
「いま、我が軍自慢の精鋭が調査に向かっているところなのです。なので、もうしばらく様子を見てもらえませんか?」
 
 そして最後に、雛里が言葉を投げ掛ける。
 
「ご主人様が生きていたら……こんな戦いを望むとは思えません」
 
 皆……心の根底では蓮華と同じ気持ちなのだ。辛くて、悲しくて、情けなくて………一刀を奪った全てを、恨まずにはいられない。
 
 それでも、見てきたから。愛する者を失っても、禍根や復讐に囚われる事なく自分を貫いた一刀の姿を、見てきたから………歯を食い縛って堪えている。
 
 だが………蓮華には通じない。
 
「………それは北郷軍の理屈だ。呉の民は、同胞を傷つけ、奪った者を決して許さない。何者かに欺かれた結果だとしても、それは変わらん!」
 
 愛するが故に堪える者、愛するが故に怒る者、愛しているのに奪ってしまった者。それら、どうしようもない人の心というものを見つめながら、華琳は内心で語り掛ける。
 
「(ほら、見なさい)」
 
 大言を実現する事もなく先立った少年と、運命に抗って、抗って、弄ばれ続ける少女に。
 
「(人の心は、そんなに簡単なものじゃないのよ)」
 
 強ければ、優しければ、それだけで解り合える。戦いなど起こらない。…………“そんなわけがない”。
 
「(………皮肉なものね。その愛情で皆の心を繋ぎ止めていた貴方が……いま、誰よりも大きな火種になろうとしているなんて)」
 
 残酷な運命を嫌みとして投げ掛ける。それが……自分を打ち破り、自分を惑わせ、そして……突然いなくなってしまった彼への、ほんの小さな仕返しにすらならないと知りながら。
 
「何が“呉の民は”やねん! いきなり出てきて勝手な事ぬかすんやないわ!」
 
「だったら! お前たちはこのまま一刀の死を忘れ、何事もなかったように劉備を許して生きていこうと言うのか!!」
 
「誰もんな事言うとらんやろが! ええから外野は黙っとれ!」
 
「貴様っ……たかが一将軍の身で、口の利き方を弁えろ!」
 
 いつしか霞の頭にも血が上り、蓮華との口論は激情任せの怒鳴り合いへと変わる。蓮華に対する態度に、護衛として口を挟まなかった思春まで身を乗り出す始末だ。
 
 本来ならば助け合うべき味方同士の諍いに、終には雛里が泣き出し、稟が宥める。
 
 舞无たちが後少し早く戻っていれば、蓮華らが訪れて来たのがこんな時節でなければ……最悪の事態は回避出来たのだろうか。
 
 それは想定する事の無意味な、起こり得なかった未来に過ぎない。
 
「しょ、将軍………荊州からの使者が、今……」
 
 大扉から入って来た兵の、その一言で………
 
「どけっ!!」
 
「あっ! ちょぉ待て!」
 
 真っ先に、蓮華が兵を押し退けて走りだす。それを霞たちが、そして華琳たちが追って駆け出す。
 
「(嫌な予感がする……………)」
 
 華琳は、背中に冷たい怖気が走るのを感じていた。いや、それは予感というより確信だったのだろう。
 
 今……劉備軍が何を口に出しても、それが事態を好転させるとはどうしても思えなかった。
 
 その予感は………的中する。
 
『っ…………!?』
 
 荊州の使者に会おうと走り出した蓮華、霞ら、華琳たち。辿り着いた先で見た光景に、誰もが言葉を失う。
 
 荊州の使者と思われる女兵士が、脇腹を血に濡らして床をのた打ち回っている。
 
 それを見下すように立っているのは、まだ年端もいかぬ少年だった。
 
 小さな身の丈にそぐわない剣を手に、何かに憑かれたような空気を纏う……子供。
 
 一刀が死んでから、誰とも会わずに自分の殻に閉じこもっていた……協君だった。
 
「漢王朝第十四代皇帝、劉協の名に於いて……ここに勅命を下す………」
 
 血に濡れた剣を手に、幼い帝が振り返り、蓮華らを見た。
 
「逆賊、劉玄徳の首を上げよ!!」
 
 ―――堰は崩れ、流れ出す。運命られた刻が、濁流となって押し寄せて来ていた。
 
 



[14898] 十四章・『虚ろな傀儡』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:5d3ce992
Date: 2011/05/05 15:28
 
 光の中から、誰かが手を伸ばして来る。
 
『主っ!』
 
 また、この夢だ。
 
『私を置いて……どこに行くおつもりですか!』
 
 前とは違う、誰か。同じなのは、置かれている状況と向けられて来る想い。そして……俺から彼女に向ける気持ち。
 
『そんな事、絶対に許しませんよ……っ!!』
 
 愛しくて、だからこそ切なくて、届かない自分の手が憎い。
 
『無様でも、情けなくてもいい! この手に主を掴みたい……!』
 
 こんなに求めているのに、こんなに別れが苦しいのに………どうして、俺は名前も解らないんだ。
 
『惚れた男を手放すほど甘い女ではないと、主に言ったではないか……っ!』
 
 もしかして、俺は…………今在るものを守ろうとしているわけじゃ、ないのか?
 
 そう思った時………
 
『離しませんよ、今度こそ』
 
 ―――声が、すぐ傍で聞こえた…………気がした。
 
 
「ーーーーーーー!!」
 
 まず初めに、自分自身の大声が聞こえて………
 
「うわぁ………」
 
「クスクス」
 
「ビックリしたぁ、なに?」
 
 教室中の視線を独り占めしてる自分に気付いた。俺は自分の机を叩いて勢いよく立ち上がった姿勢で固まってるし、これはつまり…………
 
「北郷、居眠りまでなら大目に見てやっていたが……そんなに儂の授業を邪魔したいか? ん?」
 
 …………そういう事、だよなぁ。桔梗先生が指先で弄んでるチョークが怖すぎる。
 
「いえっ、ホントすいませんでした! どうぞ続きを!」
 
 逃げるように着席。あーもう、俺絶対いま顔赤い。居眠りまでならともかく、叫び声は恥ずかし過ぎる。
 
「かずピー剣道し過ぎやって。夢ん中までしとんのか?」
 
「………うっせーよ」
 
 隣の及川が激しくウザイ。とはいえ、実際は剣道よりよっぽどメルヘンっぽい夢だったので適当に誤魔化しておく。
 
「でも『せーーーい!』は無いわぁ。どうせなら『めーーん!』とか『こてーー!』とかのがおもろかったのに」
 
「せ、い………?」
 
 俺、そんな事を叫んでたのか。なら、もしかして………
 
「………星って、言うのかな」
 
 及川の勘違いが、意外な所で役に立つとは。あんなに知りたがってたのに、何だか拍子抜けだ。
 
「(でも……やっぱり、知らないな)」
 
 星って名前が解っても、やっぱり俺はその娘を知らない。もう少しで見えそうな気がした顔も、目が覚めた後だと余計に朧気な感じがする。
 
 あれは、夢の中にだけ出てくる変なキャラクター的なやつなのか? あんなに俺が必死なのも、夢だからこその理屈無しの衝動みたいなもんなのか?
 
「(何でこんなに、気になるのかな………)」
 
 最近ではすっかりお馴染みの思考の海に、俺は、一人で喋り続ける及川のメガネにチョークが刺さるまで沈み続けた。
 
 
 
 
 放課後、恋からのメールが届いてすぐに、俺は及川を買い物に誘った。
 
 メールの内容は、平たく言えば「今日は先に帰る」だ。何でも週に一度、隣町の野良たちと会う日らしい。俺にとっては渡りに船、部活をサボってプレゼント買いに行こうと思ったんだけど…………
 
『今日はデートがあるんよねぇ、デ・ェ・ト、が。悪いけど、買い物ならかずピー一人で行ったって♪』
 
 とか、上から目線で言いやがった。ちょっと彼女がいるくらいであんにゃろう。もし俺が大一番に成功したら、これまでの屈辱を倍にして返してやる。
 
 あいつの“今の”彼女がどんなのか知らんけど、恋以上の美少女なんてそうそういるわけがない。
 
「…………緊張してきた」
 
 とにかく、まずはプレゼントだ。俺は及川より遥かに頼れる協力者がいる事を思い出して………早足に廊下を進む。
 
 ……………………
 
「はあっ? 買い物に付き合え?」
 
 そう、恋の幼なじみにして同性。恋が喜びそうな物も熟知してそうな、月&詠である。
 
「何であんたの為に、部活サボってまでそんな無駄な事しなくちゃなんないのよ。ボク達、もう恋のプレゼント用意してるんだけど?」
 
 詠が素直に協力してくれないだろう事も予想してたけど、今回に限ってはいくらでもやりようはある。
 
「頼む! 俺って言うより、恋の為だと思って!」
 
「う……………」
 
 詠は結構づけづけと物は言うけど……基本的には面倒見のいいお人好しだ。しかも月や恋に対してはストレートに甘やかす。
 
 俺の頼みはダメでも、恋の為なら折れてくれるはず。いや……むしろ折れて下さい。
 
「詠ちゃん、わたしは……いいよ?」
 
「さすが月!」
 
「はぁ……もう、すぐコイツを甘やかすんだから」
 
 優しい上に詠と違って素直な月の了解の相乗効果で、俺は強力な助っ人を二人も得た。
 
「わかったわよ、アドバイスはしてあげる。でも、最終的にはあんたが選びなさいよ? じゃなきゃプレゼントの意味なんて無いんだからね」
 
「ははー」
 
 頭を深々と下げて、大袈裟に感謝してみる。ホント良い後輩を持って幸せですよ、俺は。
 
「なら早速いこうぜ。俺、カバン持つからさ」
 
「いい心掛けね。丁寧に扱いなさいよ」
 
 フフン、と鼻を鳴らす仕草にも腹が立たない。差し出された詠のカバンを受け取ろうとして――――
 
「ッ………!!?」
 
「ちょっ!? 言ったそばなら何やってんのよ!」
 
 取り落とした。刺すような視線を背中に受けて、意識が完全にカバンから外れた事によって。
 
「(何だ、今の……!)」
 
 詠に返事をするのも忘れて、俺は弾かれるように振り返る。そして……見つけた。
 
「……………………」
 
 廊下の突き当たり、曲がり角に位置する場所で……一人の男子生徒が俺を見てる。いや、睨んでる。
 
 間違えるわけがない。隠そうともしない剥き出しの殺気が、今も俺を捉えて離さない。
 
「(誰だよ、あいつは…………)」
 
 見た感じ、背は低いけど俺と同学年。目立つ白髪に整った顔立ち。おまけに……立ち姿だけでも、相当“使える”のが一目で判る。
 
 だけど、そんな目立つ容姿以上に際立つのが、眼だ。
 
 こんな冷たい視線、今まで感じた事が無い。背筋が寒い、鳥肌が治まらない、冷や汗が噴き出して来る。
 
「………………」
 
「………………」
 
 声を出す事すら躊躇われるような睨み合いが続き、それは……やけにあっさりと終わった。
 
「ちっ」
 
 唾でも吐き捨てそうなほど忌々しげに舌打ちして踵を返した、男子生徒によって。
 
 曲がり角にいた事もあり、そいつは一秒経たずに俺の視界から消える。
 
「………あんな奴、うちの学校にいたっけ」
 
 もしかしたら……俺が一方的に気圧されてただけで、あいつにとっては威嚇ですら無かったのかも知れない。
 
 素で怖ぇ。キレたうちのじいちゃんより遥かに怖ぇ。でも………あんな奴がいたら、顔くらい憶えてそうなもんだけど。
 
「二年生の顔なんて憶えてないわよ。でも……感じ悪い奴だったわね」
 
 武道と無縁な詠にも、あいつがガンくれてたのはわかったか。月に至ってはさらに顕著だ。
 
「あの、先輩……何であの人が睨んでたのかは知らないですけど、あまり……関わらない方が……」
 
「ああ……ぜんぜん勝てる気がしない」
 
 あいつの眼にあったのは、敵意なんて生易しいもんじゃなかった。あの場で殴り掛かられるかと本気で思ったくらいだ。
 
 いや………むしろ生命の危機を感じた。
 
「何が“勝てる”よ。言っとくけど、ボクがマネージャーしてる内は剣道部で不祥事なんて起こさせないんだからね」
 
「りょ~かい」
 
 月と詠と一緒に、恋へのプレゼントを選ぶ。楽しい放課後の始めにケチをつけられた感は拭えなかった。
 
 
 
 
「………………」
 
 誰もいない校舎の屋上から、一人の少年が世界を見下ろしている。
 
 世界そのものに向けられていた失望の眼差しは、自身の掌に移され……激しい怒りへと変わる。
 
 まるで、自分という存在を認める事を拒むように。
 
「とうとう、肉体まで具現化してしまいましたか」
 
 その背中に、妙に艶の籠もった怪しい声が掛けられる。白髪の少年以外には誰もいなかったはずの屋上に、いつの間にか一人の青年が立っていた。
 
 雰囲気も気色も異なる二人に唯一共通しているのは、額に刻まれた色違いの紋様のみ。
 
「わざわざ口に出さなくても解る。ムカつく事を再確認させるな」
 
「それは失礼」
 
 少年は振り返りもせず青年に当たり散らす。八つ当たりに等しい怒声を、青年はむしろ嬉しそうに受け取った。少年の眉間の皺がさらに深まる。
 
「貂蝉の手でこの世界に放逐されて、正史ではどれほどの時が流れたのか………少しずつ、自分の存在が薄れていくのを感じてはいたんですけどね」
 
 青年は呆れるように、或いは自嘲するように両手を広げた。
 
 実際には、彼らが放逐されたのは『世界』などというはっきりとしたものではなかっただろう。
 
 曖昧で形を持たない想念の残り滓が、ただ忘却されて消滅を待つだけの“空間以下の何か”だった。
 
 それが起点を経て、基点を軸に、幾つかの楔によって固定され、外史として確立してしまった。
 
 少年や青年を含めた想念ごと、一つの世界として。
 
「奴のせいで物語は始まり、奴によって終端は阻まれ、消滅を待ち侘びていた所に………また奴だ」
 
 どこまで邪魔をすれば気が済むのか。そもそも貴様さえいなければこんな茶番劇は始まる事すら無かったのに。
 
 そんな怒りが、少年の腸の奥で煮えたぎる。
 
「北郷、一刀……!」
 
 キツく握り締めた拳の中で、爪が掌の皮を突き破って血を滲ませる。
 
 その姿に青年はゾクゾクと背中を震わせ、口の端を引き上げる。
 
「しかし、弱りましたね。老人たちがいなければ、消滅の儀式を行う事は出来ない」
 
「ちっ、偉そうに文句ばかり並べてやがったジジイ共が。自分たちだけであっさり消滅しやがって」
 
 自分たちで物語を紡ぐ事は出来ない。その存在理由は外史の否定。物語を見守り、ただ裁定を受け入れる貂蝉とは……同種にして対極の存在。
 
「俺たちには、物語を紡げない、か………」
 
 己という存在の空虚さを、痛いほどに噛み締めて………少年は空を見る。
 
「………だったら、導いてやろうじゃないか。物語を紡ぐ者を」
 
 ―――一縷の希望を怨敵に賭ける。それすらもまた、虚しい。
 
 



[14898] 十五章・『白光の雁』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:5d3ce992
Date: 2011/05/12 05:37
 
 全てを覆い隠すような光の海の中を、長い間……漂っていた気がする。
 
 自分という存在すら希薄に感じる恐怖を押し退けて、一心不乱にただ一人を求めた。
 
 絆は標、想いは翼。全てを捧げた少年を求めて、雁のようにただ……飛んで行く。
 
 
 
 
「……きろ、起きろ愛紗!」
 
「う…………っ」
 
 肩を揺すられる感覚に覚醒して、真っ先に感じたのは、頬に当たる冷たくて硬い感触。
 
「っ……ご主人様!?」
 
 目蓋を開くより先に思い至った名前を叫び、顔を上げれば……紅い瞳が目の前にあった。
 
「残念ながら、私だ」
 
 そうして目を覚ました愛紗と、それを薄笑いで見る星。愛紗はすぐに、自分たちが何をしたのかを思い出して……辺りを見渡す。
 
「ここは……私たちは、一体……」
 
「とりあえず五体満足で済んでいるようだ。私もさっき起きたばかりで、状況把握が追いつかん」
 
 自分が横たわっていた、小綺麗に整えられた石造りの床。周囲に定間隔で植えられた木々、そしてこの一帯の中心で水を噴き出す何かを愛紗は視界に入れる。
 
「あれは間欠泉……なのか? ここはどこかの豪族の庭園?」
 
 地面から……否、細長い石像の先端から水を噴き出す何かを見て、愛紗は目を丸くする。
 
 そんな愛紗に向けて、星は得意気に人差し指を立てて見せる。
 
「あれは“噴水”と呼ばれる物だ。そしてここはおそらく、豪族の屋敷などではない。“公園”と言う公共の広場のような場所だろう」
 
「こ、公共!? だが……なぜお前にそんな事が解る?」
 
 星の自信満々な解説に、愛紗は驚愕と疑念を等量に覚える。間欠泉などそう簡単に得られる物ではない。あんな便利な物があれば日々の水には事欠かないし、苦労して井戸を掘る必要もない。
 
 そんな物を、誰も彼もに解放しているなど信じ難い所業だ。
 
 何より、なぜ自分は見た事も聞いた事もないような物の説明を、星が流暢にしているのか。
 
 そんな愛紗の疑問はしかし、星を視界に入れた瞬間に凍結する。星が左手に持つ、一冊の書物によって。
 
 『天界に順応する百の方法 著・宝慧』
 
「旅立つ前に、風の部屋から拝借して来た。道中で予習も済ませてある」
 
 その存在は、愛紗も知っている。愛紗の義姉である桃香が、一生懸命にこの連作を集めていたのだから。
 
 そして、その意味するところにも行き着く。
 
「星は……ここがご主人様の元居た天の世界だと、そう言いたいのか?」
 
「元々、可能性の一つとして考えてはいた。あの神殿で……貂蝉が最後に言っていた言葉を憶えているか?」
 
 戸惑う愛紗に、星は質問を返す。最後の戦い……左慈や于吉との対峙を思い出して、愛紗は必死に記憶を辿る。
 
「……ご主人様の想念が、新たな外史に繋がる……というやつか」
 
「そうだ。時に愛紗よ、おぬしは自分が見た事も聞いた事もない情景を……鮮明に思い描く事が出来るか?」
 
 質問を繰り返し、自発的に解を口に出させる事で、星は愛紗に理解を求める。
 
「! ……そういう事か」
 
 そして元来聡明な愛紗も、星の言わんとしている事に気付いた。
 
「もちろん、主が知る小説や伝記などを基にした世界が生まれる可能性もあった。だが……主にとって、自身が体感した世界は二通りしかない」
 
 事実、愛紗らが“作られた”世界は……一刀の持つ三国志の知識が基になって生まれた。その日の昼に、及川と軽く話題に出したというだけの理由で想念が引き出された。
 
 しかし……鏡の光に呑まれて消滅を覚悟した一刀が、何を強く思い浮かべたか? 結果として、一刀は愛紗らと出会った世界と酷似した世界を作り上げた。
 
 より一刀にとって“身近”な外史が新たに生まれた可能性は低くないと、星は踏んだのだ。
 
 そうでなくとも、星が事前に準備出来る世界は二通りしかなかったわけではあるが。
 
「ここが………ご主人様の故郷」
 
 今さらのように、実感が湧いて来る。光景が、空気が、そして白い光を抜けた余韻が伝えて来る。
 
「正確には、“天界の知識が通用するらしい別世界”だ。まだ確かな判断は出来んよ」
 
 自分たちが、外史の壁を越えたのだと。ここが別世界なのだと。
 
「ここに……ご主人様が、いるのだろうか」
 
 未だ夢幻を漂っているかのような愛紗の呟きに…………
 
「無論だ」
 
 星は、迷い無き断定で応える。
 
「言っただろう。我が魂の帰る所……主の傍を措いて無いと」
 
「………ふふっ、そうだったな」
 
 頼もしく笑う星に、愛紗も薄く頬笑んで見せる。
 
 結ばれた絆は鏡を抜けて、二人に外史を越えさせた。その強い想いはきっと、正史にまで届いている事だろう。
 
 必ず存在している。この世界のどこかに。
 
「(今の私に……貴方と出会う資格があるのかは判らない)」
 
 愛紗は届く事の無い言葉を、胸の内で綴る。
 
「(憎まれている? 捨てられる? それとも……………)」
 
 自分が殺めてしまった、最愛の主君が、今……何を思っているのか解らない。会う事への恐怖が無いと言えば嘘になる。
 
 それでも―――――
 
「(会いに行きます。もう一度、貴方に)」
 
 愛紗は歩き出す。
 
 贖罪の為でも、一刀の為でも無い。ただ、会いたい気持ちにその身を任せて。
 
 
 
 
「な、何だここは……まるで城塞都市ではないか……!」
 
 公園を抜けてすぐ、無数の石塔が居並ぶ街の光景に愛紗は叫ぶ。内心では同様に動揺しながらも、星は本をめくる作業に余念が無い。
 
「落ち着け愛紗。あれは“びる”と言う民間の建造物だ。城塞どころか、軍事施設ですらない」
 
「民間!? 天界では、一市井があのような巨大な建造物を所有するのか!」
 
 いちいち喧しく騒ぎ立てる愛紗に、星は溜め息一つ。今後の心構えを説く事にする。
 
「愛紗、まずはその青龍刀をしまえ。天の国……少なくとも主の故郷では戦は無いと聞いている。だからこの国で武器を持つ行為は“じゅうとうほういはん”として罰せられるのだ」
 
「武器を持つ事さえ、だと? ならば武人はどうなる、剣は武人の魂だぞ」
 
「戦そのものが起こらん環境なのだ。武人と呼べる者も絶無に等しいのだろう」
 
 星とてこの世界に来るのは初めてなのだ。愛紗と同じく疑問や戸惑いも持っている。しかし……それでも素早く順応するしかない。
 
 納得いかない態度で青龍刀をしまう愛紗の鼻先に、星は人差し指を突き付けた。
 
「良いか、この世界に於いて、我らは右も左も判らぬ異邦人だ。早く主を見つけたいと思うなら、余計な面倒事に関わるべきではない」
 
「あ、ああ。そうだな………」
 
 少し本を読んだくらいで先達顔をしている星に言いたい事が無いわけではないが、迫力に圧されるように愛紗は頷く。
 
 それに気を良くした星は更に続ける。
 
「その為には、我らが異邦人であるという事は隠しておいた方が良い。下手に目立って人の目を引くような事態は避けたい」
 
 闇雲に探し回って見つかるものではない。まずはこの世界を知る事が肝要だと星は主張する。それには、群衆に紛れるのが一番手っ取り早いとも。
 
「まずは服だ。ただでさえ我らの美貌は人目を惹きつけるのに、場違いな服装では余計に目立ってしまう。私に到っては、誰かに破られたせいで袖がボロボロだ」
 
「う…………」
 
 半眼で見られて、愛紗は怯む。神殿の一騎討ちで星の袖を破ったのは他ならぬ愛紗である。
 
 とは言っても、どちらにしろ着替えの必要はあっただろう。一刀でさえ、あの服を着ている事で賊に狙われた事があるのだ。
 
 この世界に於ける二人の服装は……はっきり言って目立ち過ぎる。
 
 『いちいち騒ぐな』と念を押してから、星は愛紗を連れてアテも無く歩き出した。
 
「…………………」
 
 愛紗は言われた通り、騒がず慌てず、道行く人を見ながら星に話し掛ける。
 
「天の人と言っても、皆が皆ご主人様の様に光り輝く服を着ているわけではないのだな」
 
「あれは“ぽりえすてる”という材質で作られた服らしいが、あまりあれを手掛かりにせん方がいいな。天界ではさほど珍しい物でもないようだ」
 
 奇抜な服装を珍しそうに見る愛紗に、星は予習の成果を見せ付ける。一刀探しに使えそうな項目は、特に重点的に調べている。
 
「天界での主は、“学校”という私塾の一学徒に過ぎなかったと聞く。『北郷一刀』と訊いても判らぬ者がほとんどだろうし、『陽光に煌めく服を着た男』というのも特徴にならん」
 
 実際、星にとってはそれが一番の悩みの種なのだ。人に所在を訊ねようにも、一刀の特徴は『やや長身の少年』のみ。聞き込みで捜し出す事が絶望的に思えて来る。
 
 星や愛紗は、ただ歩いているだけでこれでもかと視線を集めているというのに。
 
「そうか…………」
 
 あまり芳しくない情報に、愛紗は眉を八の字に潜める。僅か俯いて前方から注意を逸らしたのがいけなかったのか、或いはどちらにしろ同じだったのか…………
 
「愛紗!」
 
「!?」
 
 “それ”は来た。細い道を抜けてややの大通りに出た途端………鉄の塊が勢いよく襲い掛かって来たのだ。
 
 愛紗は慌てて跳び退り、その突進を躱した。パーーーッ!! とけたたましい音を上げながら、鉄の塊は去って行く。
 
「敵襲か!? 星、退路を………」
 
 素早く青龍刀を取出し、構えた愛紗の言葉は……そこで絶句に塗り潰される。
 
 先ほど愛紗を襲った何かと同形の鉄塊が、大通りの中心を埋めるほどに犇めいていたからだ。
 
「くっ、既に我らの事がどこからか漏れて痛っ……!」
 
 未知の兵器の群れを前に、愛紗は苦々しげに奥歯を噛み締める。その後頭部を……星が軽快な音を立ててはたいた。
 
「だからここに兵器は無いと言っておるだろうに。あれは“自動車”と呼ばれる車の一種だ」
 
「車? だが、馬も牛もいないではないか」
 
「詳しい構造は解らんが、炎や雷の熱を利用して動いているようだ」
 
 偉そうに解説をしている星の瞳も泳いでいる。何とも信じ難い光景だった。
 
「て、天界の人間とは……雷さえも自在に操ると言うのか………?」
 
 愛紗は驚愕と同時に、納得もする。ほとんど街全体の道が石畳にされている事を、ずっと奇妙に思っていたのだ。
 
 これほど広大な範囲に石床を敷くのは相当に大変な労力を伴うだろうに、なぜこんな真似をするのかと。
 
 しかし、こんな乗り物がこれほどに普及しているのなら(なんとか)頷ける。馬や徒歩ならそれほど関係がないが、車なら走り心地に多大な影響が出るだろうから。
 
「そして、さっきのも敵襲ではない。こんな乗り物が普及している国だからこそ、道を歩く際には密な決め事が定められているのだ」
 
 愛紗の手を引いて“歩道”に引き戻し、星は自分に解る範囲で天界の決まり事を説明していく。
 
 もちろん、そんな二人の姿は衆人の注目の的である。
 
「これが“白線”……これが“横断歩道”……そしてあれが“信号機”……なるほど……」
 
「納得する前に刀をしまえ! 刀を!」
 
 ………一刀を探す二人の旅は、早くも前途多難の様相を呈していた。
 
 



[14898] 十六章・『迫る悲劇』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:ec8f6a96
Date: 2011/05/12 05:42
 
「まず右を確認する」
 
 言われた通りに、愛紗は右の方を向く。
 
「そして左も確認する」
 
 言われた通りに、愛紗は左の方を向く。それは星も同様だった。
 
「良いか、こういった事故は御者と歩行者の双方の不注意が重ならねばそうは起きん。『信号機が碧だから大丈夫』などという油断が悲劇を生むのだ」
 
 神妙な顔で語る星に頷きを一つ返して、愛紗は正面に向き直る。
 
「そして車が来ていない事を十分に確認した上で、車に見えやすいよう………」
 
 そこには、梯子のような模様の白線が描かれた路面があった。いわゆる、横断歩道である。
 
「高々と手を上げて横断する!」
 
 おかしな格好をした美少女二人が、目一杯に手を上げて横断歩道を渡っていく。実にシュールな光景だった。
 
「……星、何だか余計に目立っているような気がするのだが」
 
「むぅ? ちゃんと注意書の通りに実践しておるはずなのだが……何を間違えたか」
 
 そんな二人の視線の先で、信号機の碧が明滅を始めた。そこに移される紋様は、歩行者に横断を許す印。
 
「! いかん、急げ愛紗!」
 
「そうか、あれが赤に変わったら“自動車”が……!」
 
 鉄塊が迫り来る事を危惧した二人は、即座に一陣の風と化す。信号が変わるまでにかなりの余裕を残して、二人は横断歩道を渡りきった。
 
 途端、湧き上がった拍手が二人を包み込む。いつの間にか、ギャラリー紛いの人垣が形成されていた。
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 物珍しそうな呟き、生暖かい視線、励ますような拍手、それらを受ける二人の間に……何とも形容し難い空気が下りる。
 
「…………さて、行くか」
 
「っ〜〜〜〜〜〜!!」
 
 明後日の方を向いて、これまでの一連の流れを無かった事にしようとしている星の手を引いて、羞恥に顔を真っ赤にした愛紗が走り去って行った。
 
 ……………………
 
「目立つべきではないのではなかったのか!」
 
「……はてさて、何の事やら」
 
 所変わって、やり場の無い羞恥心の矛先を星に向ける愛紗。星はと言えば、微かに頬を染めながらやはり視線は余所を向いてすっとぼけている。
 
「誰も我らのような渡り方はしていなかったぞ! 金輪際、お前のいい加減なにわか知識などアテにせん!」
 
「いきなり車に撥ねられそうになっていた人間がよく言う。お前一人ではあっという間に屍か犯罪者になるのがオチだ」
 
「なんだと!」
 
 ガミガミと口喧嘩を始めた二人に、やはり周囲の人間の好奇の視線が集まりだす。その事に二人も気付く。
 
「……やはり、この格好のままではどうしても人目を引いてしまうな。どこかで服を調達しよう」
 
 誤魔化すように愛紗が切り出し………
 
「そうだな、………む、いや待て」
 
 それに応えようとした星が、固まる。何事かと眼を向ける愛紗に、星は平静を装って告げた。
 
「よく考えたら、ここと下界では通貨が違う。今の我らは一文無しだ」
 
 思い知らされた事実に、二人揃ってガックリと肩を落とす。そしてその様子がさらに人の目を集めるという悪循環である。
 
「先が思いやられるな…………」
 
 せっかく天界に渡って来れたというのに、ここに来て手詰まりな現状に愛紗は歯噛みする。しかし………
 
「! ………いや、そう悲観する事もないかも知れんぞ」
 
 当然同じ気持ちであろうはずの星が、何やら意味深に笑う。それを怪訝に思い、愛紗は顔を上げた。
 
「目立つのも存外悪くない。見ろ愛紗」
 
 そして、星の指差す先を……見る。
 
「いきなり“アタリ”だ」
 
 そこに、見つけた。見間違えるはずがない、陽光に煌めく純白。それだけでは手掛かりにならない事は宣告承知だが、細部の作りまで瓜二つ。
 
「ご主人様と………同じ服!?」
 
 
 
 
「これは?」
 
 一つ見せれば、
 
「もう持ってる」
 
 ダメ出しを頂き、
 
「これは?」
 
 も一つ見せれば、
 
「それも……あった気がします」
 
 ダメ出しを頂く。恋のプレゼントを選ぶためにこの……入るのも尻込みするようなファンシーショップに入ってから、そろそろ一時間が経とうとしていた。
 
「このゴリラは?」
 
「……あんた、それ貰って嬉しい?」
 
 別に優柔不断なわけじゃない。むしろ積極的に協力者たち(月と詠)に提案を繰り返してはいるんだけど………軒並み「それ、もう恋は持ってる」と来た。
 
 まだ店のぬいぐるみが全滅したわけじゃないけど、残ってるのは控え目に見ても可愛くない。
 
「………ぬいぐるみは諦めるか」
 
「懸命な判断ね」
 
 日頃から生の犬猫と戯れてる恋なら、喜んでくれるだろうと思ったけど……甘かった。何でも、普段から女子にバンバンプレゼントされてるらしい。
 
 気持ちは解る。ぬいぐるみに埋もれて昼寝する恋とか……和む。
 
「結局収穫無しかー……」
 
「空振りしなかっただけ有り難く思って欲しいものね」
 
「そりゃもう」
 
 わざとらしく肩を竦める詠に相槌一つ。俺一人ないし俺と及川だったら、多分ここでダブった奴を買ってしまってた可能性は高い。
 
 せっかく渡しても「………それ、持ってる」とかなったら目も当てられないところだった。
 
「服で良いんじゃないの? 恋、服はそんなにたくさん持ってないわよ」
 
「う〜〜ん……いや、服はやめとく」
 
 詠が的確なアドバイスをくれはするんだけど、俺はそれをやんわりと否定した。
 
 事前に教える気はないけど、俺にとっては単なる誕生日パーティじゃない。告白しようと腹を括った一世一代の大勝負。出来れば……半分消耗品みたいな服とかじゃなくて、ずっと手元に残るような物がいい。
 
「恋さんは……先輩に貰う物なら、何でも喜ぶと思いますよ?」
 
「そう言ってもらえると自信になるなぁ」
 
「……自信?」
 
「いや、何でもない」
 
 月のフォローについ本音が漏れ、案の定詠が怪訝な目を向けて来たので、若干挙動不審に流す俺。
 
 特に良い案が浮かぶでもなく、俺たちはあーでもないこーでもないと話し合いながら、街を物色しながら練り歩く。
 
 そして………ふと、一つの物が眼に止まった。
 
「? 何かあったの?」
 
 詠の言葉に返事もせず、俺は吸い寄せられるようにガラス越しにそれを見つめる。
 
 特に目立つような物じゃない。いつもの俺なら気にも留めずにスルーしてるような物だけど……何故か、強烈に惹きつけられた。
 
「………………うん」
 
 そして、こうしてじっくり見てみると、我ながら中々悪くないチョイスに思えてくる。
 
 恋がこういうの着けてるの見た事ないけど、きっと喜んでくれる。………いや、こういうのを贈って喜んで貰えないなら、それはきっと………俺の失恋を意味する。
 
「これにする」
 
 ―――何か、前にも……こんな事があった気がした。
 
 
 
 
「…………………」
 
 もう何度目か、華琳は一枚の書面を眺めながら溜め息を吐く。他にする事が無いのだ。
 
「(いつかはこうなる、と思っていたけどね)」
 
 荊州の……つまり桃香の使者が持って来たその書簡、事態を動かす引き金となってしまった。
 
 丁寧な文面で一刀の死を弔い、また彼女が統治していた永安で事が起きた事に対する謝罪が延々と連ねられている。そこまでなら、単なる“形式的な手紙”に過ぎなかったが………その後がいけなかった。
 
 すなわち、関雲長の弁護と助命嘆願。
 
「(陛下が怒るのも、無理ないわね)」
 
 今の状況で桃香が何を言おうと、それは復讐心を煽る結果にしかならないと思っていた。だが実際の桃香の“要求”は、その中でも最悪に類するものだ。
 
「(でも、こんな手紙を送って来るという事は、もしかして関羽は………)」
 
 華琳が一つの憶測に思考を巡らせていると、軽く戸を叩く音がしてから扉が開く。
 
 そこから、肩までの茶髪を揺らして一人の少女……稟が入って来た。
 
「どうなったのかしら」
 
 その暗い表情に大体の察しはつきながら、華琳は一応確認を取る。やはりというか、稟は力無く首を振る。
 
「(もう、どうやっても止められないか)」
 
 桃香の使者に重傷を負わせたあの日、華琳を含めた一刀の重鎮らは協君に考え直させようと必死に説得を試みた。
 
 “せめて、舞无たちが戻るまでは待とう”と。その説得が逆にいけなかったのかも知れない。
 
 今……この洛陽に皇帝はいない。
 
 なかなか首を縦に振らない稟たちに業を煮やした協君は、丁度居合わせた蓮華と共に呉へと行ってしまった。
 
「劉備を討つという考えを、変えるつもりはないそうです」
 
「………そう」
 
 事の真相を突き止め、韓遂を討った舞无たちが帰還し、その報告を持って呉へと説得に向かった蒲公英への応えが、これだ。
 
「陛下がここまで感情的な行動を取るとは思ってなかったわ」
 
「陛下は……まともに親と過ごした時間を持っていません。地位を気にせず陛下を守り、育てて来た一刀殿は……陛下にとって、実の家族以上の存在だった」
 
 どれだけ聡明だろうと、どれだけ強かろうと、協君はまだ子供なのだ。簡単に……何色にも染まる。
 
 理不尽に兄を奪われた悲しみは、協君を瞬く間に憎しみへと染めた。
 
 誰とも会おうとしなかった長い時間、彼は一人、自分自身の心と戦い続けていたのだろう。
 
 ………だが、それも限界を振り切ってしまった。
 
「お手上げね」
 
 遠からず、呉の軍勢が“勅命”の名の下に荊州に攻め入る事だろう。
 
 手向かう者は逆賊となる。無論、華琳も稟もそんな事をする理由は無い。
 
 そんな事をして、せっかく大陸を一つに束ねて再興した漢王朝の形を崩せば、たちまち乱世に逆戻りだ。
 
 稟たちが避けようとしていた犠牲より、遥かに多くの犠牲が生まれる。
 
「こんな戦いが、何を生むというのでしょうか」
 
「…………………」
 
 応えを求めない稟の独白に、華琳も返事を返さない。
 
 一刀がもしこの結末を知れば、どれほど嘆く事だろう。そう思うと胸が張り裂けそうになる。
 
 憎しみは憎しみを呼び、さらなる戦いを引き起こす。一刀の持論が、今なら痛いほどに理解出来る。
 
「止められるとしたら、それは一刀だけなのでしょうね」
 
 言っても仕方ないと解って零した華琳の言葉に……やはり稟も、応えを返さなかった。
 
 



[14898] 十七章・『いざ、擬態』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/05/14 18:05
 
「(間違いない)」
 
 自分たちを物珍しそうに眺める群衆。その人波の奥に、星は一人の少年を見つける。
 
 やや色素の薄い茶の短髪。眼鏡。背は一刀より少し低めだろうか。だが、星が目をつけたのはその容姿ではなく、服装だった。
 
「ご主人様と……同じ服!?」
 
 星に促され、同じく気付いた愛紗は驚愕の声を上げて…………
 
「っ………」
 
 次の瞬間には、鬼の形相で歩き始めた。あまりの迫力と形相に、押し退けるでもなく人が道を開けていく。
 
「えっ、えっ? オレ!?」
 
 少年……及川 佑は混乱していた。彼女との待ち合わせ場所に向かう最中、世にも珍しいコスプレイヤーの掛け合いなど目撃し(物凄い美少女だった事もあり)、遠巻きに眺めてはいた。
 
 眺めてはいたが、それは及川だけではない。しかし眼前の黒髪の少女は端正な顔立ちを憤怒に歪め、明らかに“及川を”睨み付けている。
 
 わけがわからぬままに後退ろうとした憐れな少年の胸ぐらを、愛紗の右手が瞬く間に掴み上げた。
 
「貴様っ……その服をどこで手に入れた! その服を着ていた方を、一体どうした!!?」
 
「ちょ、えっ、服ぅ!?」
 
 それら一連のやり取りを後方から見守っていた星は、無言でつかつかと愛紗の背後に追い付き、後頭部をはたく。
 
 大方、『この少年が一刀から追い剥ぎをした』とでも愛紗は考えたのだろうと星は察する。
 
 確かに元の世界ならその発想は間違ってはいないのだが、ここは天界(仮)である。
 
「何をする!」
 
「まずその手を放せ。お前に任せていてはせっかくの手掛かりを失いかねん」
 
 頭をはたかれても胸ぐらを放そうとしなかった愛紗の腕を叩き、星は相変わらず混乱している及川に向き直った。
 
 少し前なら、星も愛紗と同じ行動を取っていたかも知れないが、生憎と予習は万全なのだ。
 
「連れが失礼をした。『せんとふらんちぇすか学園』の学徒とお見受けしたが、相違無いか?」
 
 そんな星も、自分の口調とイントネーションがかなり浮いているという自覚はなかったりする。
 
 ご主人様の服を奪った(ように見える)人間に丁寧に話し掛ける星の行動が愛紗は解せない。
 
「どういう事だ、星」
 
「主の“学校”では、通う際に学徒が身に付ける衣服を“制服”と呼ばれる物に統一する。つまりこの御仁の服は、主の服と作りが同じだけの別物という事だ」
 
 愛紗に視線だけ向けて説明する星は、「ただし………」と続ける。
 
「重要な手掛かりである事に変わりはない。何せ同じ私塾に通っているという証なのだからな」
 
 星と愛紗は、怖いほど大真面目に眼を光らせる。そんな二人の様子は、及川からすれば当然不可解の一言に過ぎる。
 
 頭が回らないままに、「あっ、そういや質問されとったんやっけ」とボンヤリ考え、応えた。
 
「確かに聖フランチェスカの生徒やけど………」
 
 肯定した瞬間、水色の少女が力強くガッツポーズをかまし、次いで隣の少女とハイタッチに到る。
 
 そうしてから、何事もなかったかのように至極大真面目な顔で及川に詰め寄った。平静に見えてその実必死なのか、些か顔が近すぎる事に気付いていない。
 
「(こっ、こりゃまた…………!!)」
 
 遠目に見たら美人だが、近くで見たらそうでもなかった……という話は間間ある。しかし星は真逆、見れば見るほどその美貌を思い知らされる。
 
 自然、及川の鼻の下は嘴の如く伸びて――――
 
「はっ!?」
 
 直後、及川は背筋に寒気を覚えた。幾度となく失恋を繰り返してきた彼だからこそ感じる事の出来る波動。
 
 絶望の足音を耳元で聞きながら、及川は壊れた人形のように振り返る。
 
 そこに…………
 
「………あんまり遅いから、様子見に来てみたら………」
 
 赤黒い波動を撒き散らす、ツインテールの女の子が立っていた。
 
「信じてたのに、今は私だけだって言ったくせに………!」
 
 何やら盛大に誤解しているらしい少女……改め、及川の彼女は、ゆらりゆらりと近づいて来る。
 
「ちょっ、待って! これにはワケが……!」
 
 そして、何故か言い訳男の代名詞みたいなセリフを律儀に口走った及川は…………
 
「タスくんのアホォーーーーー!!」
 
 ゴルフのフルスウィングのようなフォームで振りぬかれたハリセンの一撃を受け、☆になった。
 
 彼女の泣き去る声を背中に聞きながら、ボロ雑巾のようにぐちゃりと地面に落ちる。
 
「………小さな恋の花が、また一つ散ったか」
 
 涼やかな風に前髪を揺らしながら、星は小さく呟いた。
 
 
 
 
「う、うぅ………!」
 
 及川の両手が、両膝が、彼の気持ちを全身で表現するように地に落ちる。あまりに惨めなその背中は、流石に同情を禁じ得ない。
 
「そう落ち込むな。あの様子なら、まだ破局と断ずるには早いやも知れんぞ?」
 
 人の気も知らずに励ましてみる星。もちろん、自分が元凶であるという自覚は無い。
 
「これで失恋通算……何度目やっけ? とにかくオレは……オレは……」
 
 及川は傷ついた。深く、深く傷ついた。心にはポッカリと大きな穴が空いている。
 
「この空白を! 君に埋めてもら………」
「お断りさせて頂こう」
 
 また一つ、小さな恋の花が散った。再び落ち込む及川………の眼前の地面に――――
 
「うひゃぁ!?」
 
 痺れを切らせた愛紗の青龍刀の石突きが、硬い音を立てて突き刺さる。
 
「ご主人様は……どこにいる」
 
 傷心した及川に同情を感じないでもないが、ただでさえ一刀への手掛かりを目前にしているのだ。おまけに及川のあまりにも移り気な態度を見て完全に気遣いの気持ちは消えてしまっていた。
 
 もはや“訊く”、ではなく“脅す”、にしか見えない愛紗の姿に、星は「やれやれ」と肩を竦める。
 
 『ご主人様』では、通じるものも通じない。
 
「話を戻させてもらおうか。貴公が『せんとふらんちぇすか』の学徒であるのなら……北郷一刀という名に覚えはないか?」
 
「うぇ? かずピー?」
 
 先ほどは遮られた、決定的な質問。応えは奇妙なあだ名だったが……まず肯定と見ていい。
 
 二人の胸が、期待と歓喜に大きく高鳴る。すかさず、愛紗が及川に詰め寄った。
 
「知っているのだな! 本当に……ご主人様がいるんだな!」
 
 見知らぬ世界、消える事の無い罪の意識。押さえ込んでいた不安と恐怖が、捉えた一筋の光明に塗り替えられる。
 
「(やはり、近くにいてくれた)」
 
 そんな愛紗の姿に、星は己を重ねる。どれだけ天界の知識を身につけようと、どれだけ自分の愛を信じていようと………不安が無いわけがない。
 
 それでも星が平静を保てているのは……やはり、愛紗の存在が大きい。
 
 一刀が死んで、どれだけの悲しみを、空虚を、痛みを、苦しみを………涙を、重ねて来ただろうか。
 
「連れて行ってくれ。我らを、一刀の許へ」
 
 ―――ようやく会える。ただその気持ちだけが膨らんでいく。
 
 
 
 
 星と二人。ご主人様の学友を名乗る及川殿の後について、我らはそこにやって来た(“けいたい”に出ないとか何とか、よく解らない事を言っていた)。
 
 随分と上品な庭園の敷かれた領地に足を踏み入れ、歩を進めた。そこにはご主人様と同じ服を来た男性が何人か見受けられ、及川殿の言葉が虚偽ではないらしい事を確信する(星が何故か女子ばかり眺めているのは気に掛かったが)。
 
 そうして遂に辿り着いた……ご主人様のいるという一つの建物の前で、及川殿は窓を覗き込んだ。
 
 …………が、
 
「あり?」
 
 及川殿が漏らすのは、疑問の声。焦れったくなった私たちも覗き込むが……そこには、全身を柔そうな鎧で包み、竹のような物を振り回す者が何人もいるだけ。
 
 念入りに網のような兜の奥を一人一人確認したが、やはりご主人様はいない。
 
「………どういう事だ」
 
 知らず漏れ出た冷えた言葉が、及川殿に突き刺さる。この地の様子からして嘘ではない、とは思うものの、どうしても責めるような口調になってしまう。
 
「…………………………あ」
 
 そこで及川殿は、何かを思い出したように掌の上に拳を落とした。
 
「そういや今日……部活サボって買い物行くとか、言っとったような……」
 
 瞬間的に、青龍刀を握る手に力が入ってしまった。ダメだ、斬ってはいけない。
 
「………それで? 一刀様は一体どこにおられるのかな?」
 
「か、買い物のばば場所までははは………」
 
 “ご主人様”では通じない為、恐れ多くも名を呼んで訊ねる。出来るだけ穏便に訊いたつもりだったのだが、私はそんなに恐ろしい顔をしているのだろうか。及川殿は泣きそうになっている。
 
 必死に何か四角い物を弄んだ後で耳に当て、しばらくしてから消沈した。
 
「かずピー出ません! どうか命だけはご勘弁を!」
 
 あの箱からご主人様が飛び出すとでも言いたいのだろうか。天界人はよく解らない事を言う。
 
「無理を言ってすまないが、心当たりを順に案内してはもらえないだろうか。一刻も早く、お会いしたいのだ」
 
 それでも、この男がご主人様に繋がる最大の手掛かりなのだ。出会えた事には感謝せねば。
 
 ここにご主人様がいないのなら長居は無用。再び動き出そうとした私を―――
 
「まあ待て、愛紗」
 
 ずっと黙って何か考え込んでいた星の一言が、止めた。
 
「急げば事が早く進むとは限らん。気持ちは解るが、おぬしは少し焦り過ぎだ」
 
 言われ、反論出来ない。自分が焦れているという自覚はあったから。
 
「ここまで来たら、闇雲に探し回るより“寮”で帰りを待つ方が確実だ。…………時に及川殿」
 
 星が何かよく解らない事を口にし、及川殿がコクコクと頷く。とにかく……ご主人様に会えるという事だろうか。
 
 それから、星と及川殿は不可解な単語を並べながら、「お前は少し待っていろ」と言い残してこの場を去り………しばらくしてから戻って来た。
 
 何をしに行っていたのか? そんな問い掛けは不要だった。星の姿が、既に解を示していた。
 
「フフン、どうだ愛紗。似合うだろう?」
 
 陽光に煌めく純白の衣。脚衣ではないし、随所に相違も見られるが、それは男女による違いだとすぐに解る。
 
「さ、さっきから女子ばかり見ていたのは……これか!?」
 
「はっはっは! 羨ましいか、主とお揃いだ」
 
 勝ち誇ったように星は笑い、回って見せる。ふわっと浮かんだ腰布がやけに可憐で腹が立つ。
 
 星の手には、もう一着おなじ物が抱かれていた。
 
「(ご主人様と……お揃い………)」
 
 私はまた一つ、星に大きな借りを作る決意を固める事となる。
 
 



[14898] 十八章・『外史を越えた誓い』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:240ee466
Date: 2011/05/17 14:26
 
「でも、良かったんですか? 先輩が自分で選んだから、わたし達……あんまりお役に立てなかったと思いますけど………」
 
 公園のベンチに並んで座りながら、月は自分の手にあるクレープを遠慮がちに見ている。流石に月は謙虚だ。
 
「いいのよ月。こいつの為に時間使わされた事に変わりないんだから」
 
 月は俺に訊いたのに、何故か詠が偉そうに応えた。………そりゃ、詠の言う通りだし? 二人がいなかったら多分、もう恋が持ってるぬいぐるみとか買っちゃってたと思うけど……もうちょっと、なぁ? それ地味に高いんだぞ。
 
「「いただきまーす」」
 
 詠の言葉に俺が頷くと、二人揃って嬉しそうに(俺が奢った)クレープにかぶりついた。……うん、可愛いから許す。
 
「………あ、着信入ってる」
 
 俺は二人と違ってクレープ無し。片手で缶ジュースをちびちび啜りながら携帯を見てみたら、着信履歴に同じ名前がいっぱい並んでた。
 
 マナーモードにしたまんまだったか。つーか、及川?
 
「あいつ、今日は彼女とデートなんじゃなかったのかよ」
 
 女とデートしてる最中に俺に電話掛けて来るような奴でもない。……って事は、ドタキャンでもされたか。
 
「………憐れ及川」
 
 悪いが、もうお前の協力は必要ないのだよ。もしお前がフラレてて、そして俺が明日フラレたら、その時は一緒に心行くまでアルコールに溺れようぜ。
 
「どうかしました?」
 
「いや、何でもない」
 
 俺の独り言に目をぱちくりさせる月に軽く手を振る。買い物の事じゃないかも知れんが、どうせ後は帰るだけだし、寮で声掛けてやれば済む事だ。
 
「それより、二人はどんなプレゼントにしたんだ?」
 
「料理」
 
 何の気なしに訊いてみたら、詠がぶっきらぼうに応えた。こいつ……プレゼントは用意出来てるとか言っといてそれかい。
 
「恋と言えば食欲、動物、最強でしょうが。変に奇を衒っても仕方ないのよ」
 
 ………遠回しに、俺のプレゼントにケチつけられてる気がする。我ながらナイスチョイスだと思ったんだけどなぁ。
 
 恋に紫が似合うのは、いつも巻いてるスカーフで実証済みだし。
 
「さて、そろそろ帰ろ、月」
 
 月とほぼ同時にクレープを完食した詠が、幾分機嫌良さそうに月に声を掛ける。俺が対象外なのはご愛嬌だ。
 
「んじゃ、送って行きますか」
 
 詠らしいと言えばそうだけど、俺としても「ハイまたね」とはいかない。もう暗くなり始めてるし、連れ回してた当事者でもある。
 
「何よあんた、ついて来る気なの?」
 
「女の子二人で夜道歩かせるわけにいかないだろ。ボディーガード気取らせてくれよ」
 
 もう少し二人と一緒にいたかった事もあり、気を遣うって以上に図々し物言いになってしまった。結果―――
 
「……あんたが一番危険人物じゃない」
 
 超ジト眼で睨まれた。これはつまり、アレか。抱きつき事件か。
 
「えーと……詠さん? まだ根に持ってらっしゃいますか?」
 
「当たり前でしょ。痴漢されても抵抗出来ない子の気持ちが初めて解ったわよ」
 
 俺が抱きついてもしばらくされるがままだったのは、そういう心境だったのか。………よく買い物になんて付き合ってくれたな。
 
「せ、先輩…! 冗談ですから、そんなに本気で落ち込まないで下さい! 詠ちゃんも意地悪言わないで……!」
 
 俺と詠の間に立って、月があたふたとフォローしまくる。そんなに凹んだ顔してたのか? 俺。
 
「はいはい、月に免じて冗談って事にしといてあげるから。さっさと行くわよ」
 
 俺の様子をとてもとても楽しそうに見届けてから、詠は先頭に立ってスキップ気味に歩き出した。……くそう、そんなに俺を苛めて楽しいか。
 
「(でも……実際ありがたいよな)」
 
 その背中を見ながら、思う。詠のさっきの言葉は冗談っぽいけど、もし本気だとしても何の不思議もない。
 
 だって、普通あんな事したら引くだろ。怖がられたり、距離取られたりしてもおかしくない。
 
 ………でも、二人はこうして、俺と一緒にいてくれる。
 
「……………ありがとな」
 
 聞こえないくらい小さく、お礼を言った。胸の奥が温かくなる。
 
 恋がいて、月がいて、詠がいる。自分が十分過ぎるほど恵まれてるって思う。
 
 ――――なのに。
 
「(…………寂しいって思うのは、何でだろう)」
 
 明確な解を持たないまま、漠然とそう感じた。
 
 
 
 
「うーん…………」
 
 月と詠を女子寮に送り、夜道を一人歩く俺。聖フランチェスカは元々はお嬢様学校(女子高)だったから、女子寮は学校にえらく近く、逆に男子寮は歩いて15〜20分くらいは掛かる。
 
 でも、何だか違和感があった。
 
「(………女子寮って、もっと近くじゃなかったっけ?)」
 
 同じ問いを詠にしたところ、「あんた何言ってんの?」と返された。……まあ、俺より月や詠の方が詳しくて当たり前だし、実際そこに女子寮はあったんだけども。
 
「ま、どーでもいっか」
 
 男子寮ならともかく、女子寮の場所なんて俺にはあんまり関係ないし。何より、男子寮の方が学校から全然遠いし。
 
 あっ、でも明日は関係あるな。恋の誕生日パーティー、女子寮でやるらしいから。
 
「……………………」
 
 意識したら、緊張して来た。明日……恋に告白する。もしフラレたら、今まで通りに付き合って行く事は出来ない。この温かい場所を失う。
 
 確信に近いものはあるけど、それで不安が完全に消えるわけじゃない。
 
「(……すげーな及川、お前はいつもこんな事をサラッとこなしてんのか)」
 
 不覚にもちょっと尊敬してしまった。俺は人生初の告白……しかも相手から散々アプローチ受けた後だってのにビビってるのに比べて、あいつ勇者だ。
 
「(落ち着け俺、今から緊張してもしょうがない)」
 
 告白するのは明日の夕方以降、パーティーが終わってからだ。こんなガチガチな気分じゃ空気壊すし、リハーサルする気もない。恋に言葉を飾るのは無意味と判ってるから、告白はストレートにすると決めてる。
 
 空を見よ、この雄大な星空に比べたら、俺の悩みのなんとちっぽけな事か。
 
 どこまでも高い空に吸い込まれそうになる感覚を味わいたくて、立ち止まって上を見上げる。
 
 その先に、月があった。
 
「…………………」
 
 怖いくらい綺麗に光ってるのに、凍てつくほどに冷たい銀月。
 
 ………悩みが吹っ飛ぶどころか、やけに寒々しい靄が胸の奥に下りちまった。
 
 まだ言葉になってなかった、曖昧なままの俺の気持ちを―――
 
「………寂しい?」
 
 前方からの、聞き違うはずのない声が……正確に捉えていた。
 
 ………そうだよな、女子寮からの帰り道なんだから、出くわしても不思議じゃない。
 
「恋……………」
 
 犬猫と戯れた帰りだからか、両手には大量のゴミ袋を持って……恋はそこに立っていた。
 
「………寂しくないよ」
 
 寂しいかって俺に訊く恋の方が、よっぽど寂しそうな眼をしてたから……反射的に俺はそう返した。
 
 そう、平然と返した。………はずなのに、その声は自分で驚くくらい暗かった。
 
「っ……恋!?」
 
 あまりに自然に、そうする事が当たり前であるように、恋は俺の胸に飛び込んで来た。
 
 何か……恋らしくない必死さを感じる。
 
「………憶えてなくても、いい」
 
 小さな手が、俺の服を掴む。
 
「………どこにいてもいい」
 
 寒空の中、自分の存在で俺を暖めてくれるみたいに、恋は近く、近く寄り添う。
 
「恋がずっと、守ってあげる」
 
 胸の中の呟きは、誓いのように鮮烈に響いた。そこに籠められた気持ちも同様に、俺の心に響く。
 
「(言おう………)」
 
 企画倒れもいいトコだけど、この一瞬を見送りたくない。今……こうまでして気持ちを伝えてくれている恋に、何も返さないなんてしたくない。
 
「俺、さ………」
 
 恋の肩に手を添えて、そっと体を離す。不思議そうに首を傾げる恋の瞳を、一心に見つめる。
 
「恋に……伝えたい事があるんだ」
 
 ストレートに行くって決めてたくせに、いざとなると焦れったい言い回しになる自分が嫌になる。
 
「(でも、せっかくだから………)」
 
 プレゼントと一緒に言葉を贈ろう。そう思ってカバンを漁り――――それに触れた。
 
『……大切にします。髪飾り………』
 
 誰かの声が、頭に響く。恋じゃない、誰かの声が………。
 
「(何やってんだ、俺は…………)」
 
 今すぐカバンから取り出して、恋に渡せ。そして告白しろ。
 
 心の中でそう言い聞かせても、俺の手は一向にカバンから動かない。
 
「れ、ん……っその………!」
 
 ―――頭の中が、真っ白になった。
 
「また明日な!!」
 
 誤魔化すように叫んで逃げるように駆け出す。何でそんな行動を取るのか、自分でも理解出来ない。
 
「(何がしたいんだよ、俺は………!!)」
 
 自分で自分が許せない。走りながら胸に満ちるのは、ひたすら後悔だけだった。
 
 ………目の前であんな行動を取られて、あからさまに逃げられて、恋はどう思っただろう。
 
 拒絶したと思われたかも知れない。傷つけてしまったかも知れない。そう思うと、酷く胸が痛む。
 
「(恋…………)」
 
 そんな後悔ばかりを繰り返しながら、俺はノロノロと男子寮を目指して、自分の部屋の扉を開けた。
 
 そこに―――――
 
「……………え」
 
 二人の美少女が、いた。
 
 



[14898] 十九章・『戻って来た場所』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/05/19 19:15
 
「…………………」
 
 学校の女生徒から聖フランチェスカの制服を手に入れ、完全に天界人に扮した星と愛紗が一刀の部屋に辿り着いてから、それなりの時間が経っている。
 
 寝台の残り香や教本の名前から、ここが本当に一刀の部屋だという事は判ったが、まだ確信には到っていない。
 
 自分たちを陥れる罠とも限らない、という理由で、及川は引き続き行動を共にさせられている。星や愛紗にも少しばかり罪悪感が湧かなくもないが、どうせ同じ建物に住んでいるのだ。そこまで気にする事もない。と考えた。
 
 彼女らも必死なのだ。
 
「ふむ………」
 
 そんな星は、初めて目にする“てれびじょん”の前に張りついていた。画面の中では、特撮番組の正義の味方らが精巧な着ぐるみに制裁を加えている。
 
「主もまったく人が悪い。天界の“緋色”と言うのは、演劇の役者に過ぎぬのではないか」
 
 風の書いた本と及川に聞いた情報を基に、星はまだ見つからぬ探し人に文句を垂れる。
 
 因みに“緋色”とは、一刀が口にした“ヒーロー”という単語を星が誤解しただけの呼び名である。
 
 紛う事なき正義の味方・華蝶仮面を自認する彼女にとって、役者と同列視されるのは甚だ遺憾だ。
 
 繰り返すが、彼女らも必死なのだ。
 
「………そのわりには、飽きもせずに見入っているではないか」
 
 最初こそ“恐ろしいほど精密な紙芝居”に驚きを隠せなかった愛紗だが、今は見向きもしない。正確には、その余裕が無い。
 
「慌てふためいて事が上手く運ぶなら、いくらでもそうするがな。おぬしこそ、少しは落ち着いたらどうだ?」
 
「…………………」
 
 この部屋に入り、時が経つに連れて、愛紗は目に見えて平静さを失っていった。
 
 落ち着きなく貧乏揺すりを繰り返していたかと思えば、熊のように忙しなく部屋の中を歩き回る。
 
 一刻も早く一刀の存在を確認したいという焦燥と、いざ再会を前にして尻込みしてしまう怖れが……一刀の私室という環境下に置かれる事で一気に膨れ上がっている。
 
「(やれやれ)」
 
 そんな愛紗の心情を痛いほどに理解して、星は構わず“あるばむ”を開く。
 
 ここから先は自分が口を挟んでも意味がない。愛紗自身が向き合わねば何も変わらないと解っているから。
 
 開いた本の中には、まるで鏡に写したような絵がたくさん並んでいる。“かめら”でとった“しゃしん”だそうだが、今一つ良く解らない。
 
 解るのは、ここに映っているのが一刀の過去だという事のみ。差し当たって、それだけ解れば十分である。
 
「え~……と、ものっそい今さらなんやけど、ええ?」
 
「? 何か?」
 
 半ば忘れられたように部屋の隅にいた及川が、控え目に挙手し、アルバムを眺めていた星と、相変わらず歩き回っていた愛紗が振り返った。
 
「お二人とかずピーは、一体どんな関係なのでせうか……?」
 
「ああ、彼女だ」
 
 窺うように放った問いに返った即答に、及川が石化する。愛紗はと言えば、星の意味不明な返答に疑問符を浮かべている。
 
「星、彼女とは一体誰の事だ」
 
「天界の若者は、恋人にそういう呼称を使うらしい。まあ、妻と言っても過言ではないがな」
 
 そもそも一刀との関係を問われて、彼女と返すのはおかしい。そんな愛紗の疑問に、星はさらりと応える。
 
 粉々に崩れ落ちる及川には構わず、愛紗は視線で星を責めた。“僭越に過ぎる”と。そんな非難を、星は素知らぬ顔で受け流す。
 
 この世界の一刀は、一介の学生に過ぎない。臣下と名乗れば不審に思われてしまう。………という理由だけでもないが。
 
「(しかし、少し妙だな………)」
 
 一刀の恋人と呼ばれ、またその事で思考の海に沈む愛紗を眺めながら、星は別の事を考える。
 
 星個人としては、今の状況は決して悪いわけではない。一刀の死を目の当たりにし、一人絶望の淵に沈んでいた頃に比べれば雲泥の差だ。
 
 神殿で愛紗と合流出来、死……どころか、消滅さえも覚悟した外史の超越も為し得た。行き着いた先で、たとえ一生掛かっても見つけだすと決めていた一刀とも……僅か一日足らずで再会を果たせそうな気配だ。
 
 この成り行きに不満などあろうはずがない。思った以上に順調に事が運んでいるのも、それだけ自分たちの想念が強く反映されたのだと納得出来る。
 
 気になるのは、その過程。
 
「(……そういう事、なのだろうな)」
 
 諦観にも似た気持ちを抱いて、星が眼を閉じた時――――
 
(ガチャリ)
 
 ―――部屋の“どあのぶ”が、回った。
 
 
 
 
「……………え」
 
 自分の部屋の扉を開けた所で、一刀はあらゆる意味で完全に停止した。
 
 鮮やかな水色の髪とルビーみたいな紅の瞳の美少女。艶やかな黒髪と金の瞳の美少女。制服からしてフランチェスカの女生徒と思しき二人が、一刀の部屋に居座っている。
 
 まるっきり思考が追い付いていない。
 
「あ……ごっ……しゅ…」
 
 目を丸くしたまま、棒立ちで動かない一刀の正面で、愛紗は擦れた声を漏らす。
 
「(ご主人様が……いる………)」
 
 ずっと会いたかった。今すぐその胸に飛び込みたい。愛していると叫びたい。震えるこの身を抱き締めて欲しい。
 
 どんな顔を向ければいいのか。自分に彼を主と呼ぶ資格があるのか。罪深きこの手で、彼に触れる事は許されるのか。自分の存在は……彼を傷つけるだけなのではないか。
 
 二つの相反する感情に引き裂かれて、愛紗はその場に縫い止められる。
 
 近づきたくても、竦んだ足は動いてくれない。俯きたくても、瞳は愛しい人から離れようとしない。
 
「(すぐそこに、ご主人様がいるのに………)」
 
 今の自分の在り様そのものが、堪らなくもどかしい。退く事も、進む事も出来ず、ただ立ち尽くす事しか出来ない。
 
 いつしかその頬を、一筋の涙が伝っていた。
 
「……一つ、貸しだ」
 
 割りを食う長女のように憮然とした星が、その背中を押してやる。……ただし乱暴に、足蹴で。
 
「あ………っ」
 
 踏張る事も忘れた愛紗が、全く無防備に倒れこむ。一刀の胸の中へと。
 
「っ…………」
 
 懐かしい香りが、鼻腔を擽る。
 
「うぁ……ぁ……」
 
 求めていたぬくもりが、柔らかく包み込む。
 
 躊躇いが、葛藤が塞き止めていた本心は―――
 
「………あい…しゃ…………?」
 
「ッ―――――!!」
 
 真名を呼ばれる事によって、決壊した。
 
「ごしゅ、じ………っ!」
 
 呼び掛けを返す事すら、叶わない。
 
「う……うわああぁぁあああぁああぁああーーーー!!!」
 
 ようやく辿り着いたそこに縋りつき、愛紗はただ……子供のように泣いた。
 
 
 
 
「………………」
 
 わんわんと泣きじゃくる胸元の少女を見つめながら、一刀は今の自分の状況を考える。
 
「(………………うん、わからん)」
 
 無駄だった。
 
 恋に告白しようとして、最悪に近い形で失敗して………部屋に帰って来たら、見知らぬ美少女が二人。
 
 しかも、その内の一人はいきなり泣き出し、自分の胸に縋りついている。
 
「(あいしゃ……って、なんだ?)」
 
 勝手に口を突いて出た自分の言葉が引き金のように思えたが、一刀にはその単語に憶えがない。
 
 ようやく思考が回復しても、女の子が泣き止まないので会話も出来ない。……というより、今は何もしないのが正解に思えてならなかった。
 
「…………………」
 
 少女の背中に回した腕を、解きたくない。いつまでもこうしていたい。
 
 健全な青少年らしい欲求とは何か違う、切なくて穏やかな気持ちで、一刀はそう思った。
 
「…………ふむ」
 
 黒髪の少女を胸に抱いたまま、一刀は後ろにいる……先ほど黒髪の少女を蹴飛ばした水色の少女を見た。
 
 少しだけ苦しそうに、しかしそれ以上に微笑ましげに眼を細めている。
 
 そして……………
 
「スンっ……スン……」
 
 ようやく愛紗が少し落ち着いた段になったのを見計らって、“彼”は口を開く。
 
「……オレはもう何を信じたらええん。彼女ほしーくせに修行とか剣術とかちょっとキモいこと言っとるオレのかずピーはどこ行ってしもたん?」
 
 そう、半ば忘れられた存在として、いつの間にか復活を果たしていた及川である。
 
 一刀は、安心させるように愛紗の背中を優しく叩きながらゆっくりと引き剥がして――――
 
「あべしっ!」
 
 その顔面に、足裏を綺麗に叩き込んだ。
 
「なにすんねん!」
 
「いや、ツッコミ待ちなのかと思って」
 
 及川の抗議を、一刀はまるで意に介さない。ひっくり返った及川の方は向かず、再び愛紗と星に向き直り…………
 
「で、誰だよこの子たち。見ない顔だけど」
 
 そう、言った。場の空気が、一瞬にして凍り付く。
 
「………え………?」
 
 愛紗が間の抜けた声を溢し、
 
「主…………?」
 
 星が、その表情を固くする。
 
 信じられない。否、信じたくない。そんな……絶望を拒む表情に。
 
 二人のそんな様子に気付かず、一刀の意識は及川との会話に向いている。
 
「って、かずピーの彼女なんやろ?」
 
「………もっぺん蹴るぞ、お前」
 
「いやいやいや! ボケとんちゃうから! 現に抱き合っとったやん!」
 
「いやっ、それは…えっと………」
 
 すぐ傍に自分たちがいるのに、外史をも越えてようやく巡り合えたのに………一刀がこっちを向いてくれない。
 
 二人には………それが、何より重く、堪えた。
 
「…………我らの事を、お忘れか?」
 
 それでも星は、自ら絶望の蓋を開ける。確かめずにはいられない。
 
「…………え?」
 
 返って来たのは、完全に虚を突かれたかのような、困惑。『自分がそんな事を訊かれる』とは、露ほどにも思っていなかったという表情。
 
 ………確定だった。
 
「そん、な………」
 
 弱々しく両膝を着いた愛紗が、乞うような眼で一刀を見上げる。
 
 嘘だと言って欲しい。そんな切なる願いに……一刀は返す言葉を持たない。
 
 星と愛紗を絶望が包み、二人のただ事ならぬ様子に一刀と及川も閉口する。
 
 無力で、壊れそうで、重苦しい静寂が、四人の時を止めてしまっている。
 
 ―――しかし、止まった時を動かす者がいた。
 
「…………………」
 
 その少女は、開きっ放しになっていた扉から、無遠慮に足を踏み入れ、音も無く現れる。
 
 そして――――
 
「! 星、愛紗」
 
「「っ……恋!?」」
 
 ―――もう一つの再会を、果たす。
 
 



[14898] 二十章・『この空の下でも』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/05/21 18:28
 
「なんでオレがかずピー部屋に泊めたらなあかんのやろなぁ~」
 
「………しょーがないだろ。俺の部屋、恋たちに取られちゃってんだから」
 
「………オレ、関係ある?」
 
 薄暗い部屋の中。ベッドの上から及川の不平不満が飛んでくる。俺は床で雑魚寝。
 
「お前があの二人連れて来たんだろーが」
 
「だからかずピーの知り合いなんやろ。とぼけても無駄やぞ」
 
 あの二人に引っ張り回された挙げ句に彼女に逃げられた(らしい)こいつには同情するけど、俺に当たんなと言いたい。知らんっつっても全然信じないし。
 
「(………何だってんだよ、今日は)」
 
 『恋の友達』という一言説明の後、俺は自分の部屋から締め出された。あんな別れ方したばっかだから気まずい、とか、俺を追って来たのか、とか……思うヒマもない。
 
 しかも、今晩はそのまま三人俺の部屋に泊まるそうな。予想外過ぎる流れについて行けん。
 
「(恋の友達、か………)」
 
 俺を探してたらしい、二人の女の子。……まるで、生き別れになった家族と再会したみたいだった。
 
『………我らの事を、お忘れか?』
 
 そして俺の態度を見た時の、あの辛そう顔。……及川が信じないのも無理ないか。あんな“赤の他人”、いるわけないもんな。
 
「(俺が………忘れてるのか………?)」
 
 だんだん自信がなくなって来て、必死に自分の記憶を掘り返している内に……いつしか俺の意識は微睡みに呑まれていった。
 
 
 
 
「こうして主のいる世界だ。おぬしがいても、それほど不思議ではないか」
 
 一刀の部屋で、三人の少女が輪を作っている。もはや大抵の事では動じなくなってしまった星は、恋に小さく問い掛ける。これは“確認”でもあった。
 
「………?」
 
 恋は小さく小首を傾げた。判別し辛い反応に、愛紗が問いを重ねる。
 
「恋は我らの事を……元の世界の事を、憶えているのか?」
 
「(………コクッ)」
 
 今度は首を縦に振り、肯定。恋は外史の理を把握しているわけではないが、愛紗たちの言いたい事は理解出来る。
 
「………月や詠もいる。けど……憶えてない」
 
「なんと………」
 
 予想だにしていなかった状況に、星は小さく驚嘆を漏らす。
 
 恋は一刀を逃がす為に単身で蜀の軍勢に立ち塞がり、その命を散らした。月と詠は逃避の果てに業火に巻かれて焼け死んだ。
 
 一刀を含め、前の世界で命を落とした者ばかりがここにいる。この外史は死後の世界なのかと、星に思わせる状況だった。
 
「………二人は?」
 
 今度は恋が問い返す。不都合が無ければ大抵の事には頓着しない恋も、今回ばかりは無関心ではいられない。
 
「我らは主を追ってこの世界に来た。心配せずとも、記憶はある」
 
 手段や過程には興味を持たないだろう恋に合わせた、短絡的な説明。結果的に……愛紗が一刀を手に掛けた事は隠される。愛紗の表情が、悲痛に歪む。
 
「………そう」
 
 やはりと言うか、恋はそれ以上深くは訊いて来ない。単純に、友達にまた会えた。一緒にいられるという事を喜び、頬笑む。
 
「……………あ」
 
 そこで、恋は思い出したように声を上げた。視界に入った一つの物に気付き、四つんばいに近づく。
 
 一刀の、カバン。
 
 恋は元々、一刀の様子が心配で追い掛けて来たのだ。そしてあの時、何か嬉しい事をしてくれそうな気配だった一刀は……カバンの中に手を入れた後、逃げ出した。
 
 恋はまったく無遠慮にカバンを漁り出し、あからさまに浮いた存在を見つけ、引っ張り出した。
 
「………プレゼント?」
 
 小綺麗な紙とリボンで包装された、小さな箱だった。
 
「恋に……?」
 
 その見立てが勘違いなどとは思わない。恋もずっと、明日という日を楽しみにしていたのだから。
 
「恋、それは何だ」
 
 主君の私物を勝手に漁るな、という注意より好奇心が勝り、星が横から覗き込んだ。それは愛紗も同様、止める間もなく恋が取り出した物を食い入るように見ている。
 
「……誕生日の贈り物」
 
 箱を見つめたまま、恋は簡潔に応えて、続けた。
 
「でも……渡そうとして、一刀が逃げた」
 
 あからさまな誤魔化しを残して走り去る一刀の背中を思い出し、恋は眉尻を落とす。星と愛紗も、一刀らしからぬ行動に顔を見合わせた。
 
「開ける」
 
「ちょっと待て、そんな勝手に……!」
 
 流石に止めに入ろうとする愛紗だが、恋は構わずリボンを解いていく。下手に手を掴んだりすると包装紙が破れてしまいそうで、愛紗は制止出来ない。
 
「………………」
 
 恋だって、本当は一刀の手で渡して欲しい。だが、あの時の一刀の背中を思い出すと………何故かそれがいけない事のように思えた。
 
「っ…これは………!?」
 
 そして封は開かれる。箱の中に在るのは、紫の花を模した髪飾り。
 
 ―――かつての世界で、一刀が愛紗に贈った物だった。
 
 
 
 
「天界の夜は、華やかだな………」
 
 寮の屋根に上り、ややの高地から街を見下ろしながら、愛紗は終わろうとしている今日に想いを馳せる。
 
 たくさんの事があり過ぎて、心がちゃんとついて来ていないような感覚が先に立つ。
 
「…………………」
 
 冷たい夜風に、艶やかな黒髪が靡く。見下ろす夜景は美しく、まるで色とりどりの星空をそのまま地に敷いたように幻想的だ。下界ではまず目にする事は叶わぬだろう。
 
「下は、な」
 
「…………星か」
 
 その背に常と変わらぬ調子で声を掛けた星が、愛紗の隣へと並ぶ。
 
 単にお節介をしに来たわけではない。眠れないのは、愛紗だけではないのだ。
 
「上はそれほど華やかでもない。主の言っていた通りだな、私は……この空は好きになれん」
 
 星の視線を追って、愛紗も上方に広がる空を見る。地上の光が強すぎて星光は霞み、排煙が月を陰らせていた。
 
 愛紗はそれに応えず、再び顔を俯かせたまま、口を開く。
 
「……前の世界で我らと再会したご主人様も、こんな気持ちだったのだろうか」
 
 漏れる呟きは、星に向けているようにも、ただの独り言のようにも聞こえる。
 
 愛する人との思い出が、絆が、全て嘘になってしまったかのようで……とても……堪えていた。
 
「………おそらくな。今から思い返せば、全ての不自然な言動も納得出来る」
 
 応えを求めてはいなかったのだろう。星の言葉に、愛紗は口をつぐむだけ。
 
 記憶を取り戻した時から、解っていた。前の世界で、一刀は自分たちとの思い出を背負って戦っていた事を。
 
 星も、愛紗も、自分たちが心のどこかで一刀に甘えていた事を痛感していた。
 
 自分たちは無様に全てを忘却したくせに、一刀が記憶を失う事など考えもしていなかったのがいい証拠だ。
 
「恋は憶えているのに、どうして…………」
 
「……それはわからん」
 
 今度は解を求めている愛紗の問いに、しかし星も応えられない。
 
 これまでの事象を顧みれば、『銅鏡を介して外史を渡った者が記憶を保持出来る』……という考え方が妥当だが、自分たちや一刀はともかく、恋はその仮説に当て嵌まらない。
 
 そもそもが理の外の現象。“理”屈自体、存在しないのかも知れない。
 
「主は………誓いを忘れ、思い出を失った我らにも、変わらぬ愛を注いでくれた」
 
 聞いた事もないほど優しい星の声に、愛紗は振り返る。どんな暗闇の中も進んで行けそうな、強い瞳がそこにあった。
 
 その瞳が言っている、今度は自分たちの番だと。
 
「記憶など無くとも、どんな世界であろうとも、主と共に歩んで行ける。私が私である限りな」
 
 今の自分には眩し過ぎる。そんな気持ちを痛いほどに感じて、愛紗は星から眼を背けた。
 
 見ている方が切なくなるような愛紗の姿に、星は軽く吐息を漏らした。そう簡単に整理出来るほど、愛紗の傷は浅くないと解っているから。
 
「主がいる、恋がいる、月が、詠が……そしておぬしがいる」
 
 一刀に会いたい。ただその想いだけでここまで来た。
 
 最悪、あの銅鏡に触れた瞬間……誰の記憶からも消え失せ、命どころか存在すら失う事も覚悟していた。
 
 外史を渡ったら、同じ世界にいるかどうかも判らない一刀を、一生を費やしても見つけだすと決めていた。
 
 もちろん……“会った後の事”など、考えている余裕はなかった。
 
 それは今でも変わらない。たった一つの希望があった前の世界とは、違うのだ。
 
 心残りが無いと言えば嘘になる。だが、二人は全てと引き換えに一刀を選んだ。
 
「こんな空の下でも、笑って生きていけるさ」
 
 ―――だからこそ、掴み取った大切な人を、決して放す事はない。
 
 



[14898] 二十一章・『呉王の怒り』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/06/06 20:23
 
「劉備の事は、趙雲たちに任せるんじゃなかったの?」
 
 責めているわけでもない姉の言葉が、やけに煩わしく感じる。
 
「韓遂ってのが糸を引いてたみたいだし、戦まで起こす必要はないんじゃない?」
 
 劉備を王都に出頭させ、北郷軍の人間に裁かせればいい。そう言って聞かせる雪蓮を、蓮華はキツく睨み付ける。
 
「刑罰を受けると判っていて、ノコノコ現れるはずがないではありませんか。それこそ時間の無駄です」
 
 使者を送り、使者を待ち、返答を躱され、報復の時は遠ざかる。今の蓮華には、そんな時を過ごす気にはなれなかった。
 
 あれだけ待っても自ら洛陽に来なかった桃香が、義妹を庇うような手紙を送って来た。兵を挙げる理由には十分だ。
 
「……しかし、劉備の徳は地域によっては北郷以上に知れ渡っています。北郷の仇討ちという正当な理由があるとはいえ、民がそれを信じるかどうか」
 
 わざわざ自分たちが泥を被る危険を冒すべきではない。そう諭す冥琳にも、やはり蓮華は取り合わない。
 
「見損なったぞ冥琳! いつからそんな腑抜けた事を言うようになった!」
 
 どころか、激昂する。大陸を統一した直後と言っていいこの時節に事を荒立てる意味を、蓮華が解っていないはずがないのに。
 
「ちょっと落ち着きなさいよ、蓮華。別に劉備を許せって言ってるわけじゃない。ただ、やり方は他にいくらでも………」
「“孫伯符”!」
 
 呆れたように嗜めようとした雪蓮の声を遮って、回廊に蓮華の怒号が響く。豹変……と言っても過言ではない蓮華の様子に、雪蓮は眼を丸くする。
 
「これは呉王としての決定……否、今や皇帝陛下自らの勅命でもある。たとえ姉と言えど、口を挟む事は許さんぞ」
 
 吐き捨て、蓮華は早足に歩き去る。残されたのは、小さくない衝撃に茫然とする雪蓮と冥琳だけ。
 
「あの蓮華さまが、お前にあんな口を利くとはな」
 
「……相当本気だったみたいね。何が呉王としての決定なんだか」
 
 その怒りの感情こそが、一刀を失った悲しみを物語っている。けしかけた雪蓮でさえ、これほどとは思っていなかった。
 
 何と言っても、蓮華が一刀と接触した機会は、数えるほどしかないのだから。
 
「さて、どうする。劉備が徹底抗戦すれば、呉軍もただでは済まないだろうが………」
 
「どうもこうも、止まらないでしょ、あれは。後は劉備次第ね」
 
 難しそうな顔で顎を撫でる冥琳に、雪蓮は身振りでお手上げと示す。
 
「劉備次第、か……」
 
 この様子では、蓮華が思い止まる事はまずない。となると、犠牲を最小限に抑えられるかどうかは……“裁かれる側”の対応に掛かっている。
 
「それで、何とかなると思うか」
 
「なるんじゃない? 劉備も蓮華も、そこまで馬鹿じゃないわよ。……きっと」
 
 予測でも勘でもなく、願望の形で発せられた雪蓮の言葉に、冥琳はまた一つ陰鬱な溜め息を溢した。
 
 
 
 
「………………」
 
 後味の悪い怒声の余韻に眉を顰めながら、蓮華は早足に練兵場に向かう。
 
 様々な感情が胸中で入り乱れて、自身の心が掴めないままに。
 
「(………解っている)」
 
 その中で一際強く彼女に呼び掛けてくるのは……制止。理性が“やめろ”と告げている。
 
『それは王として賞賛に値することだ。だがこの戦いの裏を見抜けなかったあなたの罪は重い』
 
『孫呉の本拠地において孫家の旗が降ろされ、周の旗が揚がりました! 周瑜将軍による謀反と思われます!』
 
『……いつかこうなるだろうと。……そういう予感はあった』
 
 記憶ならぬ記憶が、彼女の心に語り掛けて来る。
 
「(私には……劉備を裁く資格などない)」
 
 北郷一刀という大陸の光を散らしたか、呉の数多の将兵の命を散らしたか………違いはそれだけ。或いは、全てを予期していながら捨て置いた自分の方が罪深いかも知れない。
 
 記憶と記憶が混在する不可思議な夢幻の中で、蓮華はそんな事を思う………否、感じる。
 
「(だけど………)」
 
 歯止めが利かない。憎しみを抑えられない。
 
 ―――止まる事など、出来はしない。
 
 
 
 
「(……またか)」
 
 真っ暗な空間に自分が立っている。寝る前に考え事をしてたせいか、これが夢だとすぐに判った。
 
 夢くらい誰だって見るし、普段ならそんなこと気にも留めないんだけど……どうもこの夢は特別な気がする。
 
「また……ってわけじゃないのかもな」
 
 今までの夢は、細かい違いこそあったけど状況的には共通点が多かったけど、今は違う。
 
 何より大きな違いは、夢に入り切っていないトコか。起きてる時と遜色ないくらいに意識がはっきりしてる。
 
 あの夢じゃなかった事を、喜ぶべきなのか悲しむべきなのか………。
 
「夢……ああ、そうか」
 
 不意に、気付く事があった。恋の友達らしい、あの二人の女の子の事。
 
「星……って、あの子の事なのか……?」
 
 授業中に飛び起きた俺が叫んだ(らしい)名前と、昨日恋が呼んでいた女の子の名前が一致する。
 
 となると……あの子は、夢の中で必死に俺を求めていた女の子……なのか?
 
「……予知夢?」
 
 自分で呟いてから、んな馬鹿なとツッコミを入れる。仮にこれからあの子とそういうシチュエーションになるとしても、それじゃ“今”あの子が俺を知ってる理由にならない。
 
 過去にああいう事があって、それであの子が俺を探しに来たって方がまだ辻褄が合う。
 
「ならあの愛紗って子が、もう一つの夢の子か?」
 
 似たような二つの夢に、違う女の子が出てきた。もし片方が正解なら、もう一人の方もそうなのかも知れない。
 
「…………………」
 
 夢で見た二人に、昨夜見た二人を重ねて見る。
 
「…………マジか」
 
 自分でイメージして、自分で驚く。重ねて見る……というより、重ねようとしただけで………陽炎みたく曖昧だった夢の姿が克明に描き出されたから。
 
 取り留めの無い空想遊びくらいのつもりだったのに、もうあの二人の姿以外で回想出来ん。
 
「………ま、いっか」
 
 重大な事に気付いた気がしつつ、俺は安易に考える。あの子たちは俺の部屋に泊まってるわけだし、確認ならいくらでも出来る。
 
 ずっと燻ってた胸のモヤモヤの正体が掴めたようで、少し気持ちが軽くなった。
 
「(けど……もしホントに知り合いだったとしても、昨日の態度で忘れてたのバレバレだよなぁ)」
 
 気まずい、どうしよう。考えてもしょうがない事をぐるぐると考えていた俺の耳に…………
 
「っ………ぐす……」
 
「………?」
 
 小さく、か細く、声が届いた。何だか……むせび泣いているようにも聞こえる。
 
「(あ――――)」
 
 振り返れば、そこに女の子がいた。何も見えない暗闇のはずなのに、膝を抱えて蹲るその少女だけ、何故かはっきりと見える。
 
「………泣いてるの?」
 
 顔を隠してむせび泣く、知らない女の子。見ているだけで胸が痛くなってきて、気付けば俺はその子の前で膝を下げていた。
 
 ………女の子は、何も応えない。
 
「どうして、こんな事になっちゃうのかな……」
 
 嗚咽混じりに漏れだす呟きは、俺に向けられたものとは思えない。
 
 俺の声なんて聞こえていないとしか思えない、独白だった。
 
「愛紗ちゃん………」
 
「ッ……」
 
 目の前の少女の口から、さっきまで思案に暮れていた子の名前が出て、思わず息を呑む。
 
「ねえ、大丈………」
「助けて……」
 
 もう一度かけようとした俺の言葉は、遮られた。切実と呼ぶには悲痛過ぎる懇願によって。
 
「……………助けて、一刀さん」
 
 ―――顔を上げて、名を呼ばれた。
 
 それに驚くより早く、その顔を確認する事も出来ないほど早く………少女の姿が一瞬にして遠退いた。
 
「――――――!!」
 
 手を伸ばして自分が叫んだ名前も、解らない。空から落ちる何かを見るような絶望の後に――――
 
 
 
 
「………………」
 
 目が覚めた。……結局最後はこういうオチかよ。途中から夢だってこと忘れてたし。
 
「(………一つだけ、判った事がある)」
 
 夢っていうのが深層意識の現れだとして、おそらく俺はこう思ってる。“足りない”って。
 
 認めよう。広い砂漠で水を求めるようなどうしようもない渇望が、俺の中に確かに在る。
 
「っ………?」
 
 上半身を起こそうとして、出来なかった。左腕が妙に重くて手を着く事すら適わなかった。眼を向ければ………
 
「……すぅ……すぅ……」
 
 俺を部屋から締め出したはずの恋が、当然みたく俺の腕を抱き枕にして、安らかな寝息を立てている。
 
「………………」
 
 その寝顔に、今だけは告白の失敗だとか、昨日の女の子とか、そういった事を忘れて、俺は眼を細めた。
 
 たった今認めた自分の心が、疑わしくてしょうがない。
 
「………こんなに、満たされてるのにな」
 
 それでも………俺はもう、否定出来ない。焦りにも似た淋しさが、今でも渦巻いている事を。
 
 



[14898] 二十二章・『予感』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/06/06 20:26
 
 シュワシュワと奇妙な音を立てる黒い液体を口に運び、味わう……と呼ぶには短すぎる一瞬の後に―――
 
「くはぁ………!」
 
 星は口にした物を吹き出した。
 
「な、何だこれは……無数の針に舌先を刺されるような……これが天界酒!?」
 
「……いや、コーラだけど」
 
 手にしたアルミ缶を信じられないような眼で凝視する星に、一刀が横から小さくフォローを入れる。
 
 星と愛紗。それに恋を伴ってのお出掛けからもう何度目かという一刀の驚愕である。
 
「(どんな育ち方してきたんだ……てか、てんかいしゅって何?)」
 
 朝に顔を合わせてすぐ、一刀は自分と二人の関係について訊ねたのだが……
 
『口で話してすぐに納得出来る話でもない。というより……我らから話を聞くだけでは意味が無いと言うべきか』
 
 と、昨夜より少し固さの取れた口調で、かなり意味深にはぐらかされた。しかも、一刀の預かり知らぬ所で、本日の(一刀を含めた)スケジュールまで決まっていた。
 
 斯くして、四人の平凡にして非凡な町内散策は始まったのだ。
 
「(何となく変り者だろーなとは思ってたけど、ここまでとは………)」
 
 見るもの全てが珍しいらしく、どこを歩いてもキョロキョロと落ち着かず、稚拙な質問を繰り返す。字も読めないらしく、外国育ちかとも思われたが、そのわりに言葉は通じる。……口調はかなり古めかしいが。
 
「甲羅……ですか? そんな風には見えませんが」
 
「甲羅じゃなくてコーラ、ジュースだよ」
 
「重酢……なるほど」
 
「(まだなんか間違えてる気がする………)」
 
 星の態度に興味を示した愛紗が横から顔を覗かせ、一刀の説明にどこか間違った解釈で納得している。何だかこんなやり取りも楽しくなってきている一刀であった。
 
「愛紗……学生が学生に敬語を使うのは可笑しいと言ったろう? 何の為に制服を調達したのか判らぬではないか」
 
「………そういうお前は、順応が早過ぎだ」
 
「フフン、私は『一刀』と呼んでいた期間の方が長いからな」
 
「くっ………!」
 
 何やら勝ち誇る星の足下では、カランコロンと下駄が軽快な音を鳴らしていた。もちろん星には、自身が擬態に失敗しているという自覚など露ほども無い。
 
 『どういうセンス?』とツッコミたいけどツッコミ辛い空気である。
 
 ちなみに聖フランチェスカで生徒同士が敬語を使うのは、別に珍しくも何とも無かったりする。
 
「………やっぱ、うちの生徒じゃないんだよな?」
 
「(……コク)」
 
 我関せずの姿勢でクピクピとカルピスを飲んでいた恋は、一刀の問いに小さく頷いて応える。友達……と自称するわりに非協力的な恋だった。
 
 そんな恋は、やはりマイペースに、公園の東屋に腰掛ける憩いの時間に終止符を打つ。
 
「………ごはん」
 
 の一言と共に立ち上がり、数歩先んじて歩いてから、促すように一刀や星らに目配せを送る。
 
 その仕草が、何だか散歩を催促する仔犬みたいに見えて、一刀は小さく吹き出した。吹き出して、頭上に疑問符を浮かべる恋の隣に並んで歩きだす。
 
「…………………」
 
 ―――その背中に向けられる視線の意味には、気付かないままに。
 
 
 
 
「まだ迷いは晴れんか」
 
「!」
 
 じっと一刀の背中を見ていた愛紗に、星が横から声を掛けた。心を見透かしたかのような指摘に、愛紗は思わず眼を見開く。
 
 振り向いて視線を合わせて、また逃げるように眼を背けた。
 
「……本当に、このままで良いのだろうか」
 
 星だから、ある意味誰よりも対等な人間だからと、愛紗は自分の心情を吐露する。
 
 こうして世界を越えて、記憶を失った一刀と歩いていく………その事に、何の疑問も持たないはずがない。
 
「……本音を言えば、怖かった。もう一度ご主人様と会って、どんな言葉を受けるかを考えると……堪らなく怖かった」
 
 それが憎悪であれ、包容であれ、今の愛紗にとっては刃となって突き刺さった事だろう。だが……ようやく出会えた一刀は、愛紗の罪どころか、愛紗という人間そのものを忘れてしまっていた。
 
 裁かれる事すら許されない愛紗の心は、行き場を失くして今も彷徨っている。
 
「…………………」
 
 そんな愛紗に、星はやはり解を示さない。示せないと言った方が正しいだろうか。
 
 だから……というわけではないが、星は静かに別の事を考え始める。
 
「記憶…か………」
 
 結果は変わらないかも知れない。否、変わらないだろうと星は思っている。
 
 ならば、そんな行為に意味などあるのだろうか。一刀を徒に傷つけるだけではないのか。
 
「(迷っているのは、私も同じか………)」
 
 ―――外史を越え、その先の道に闇を見る二人の少女の間に……残された者らの名が出る事は無い。
 
 
 
 
「(もぐもぐ………)」
 
 相変わらずの食欲で、恋がファミレスの皿を積み上げていく。
 
 一応のプランとしては、俺が恋を連れ回してる間に誕生日パーティーの準備を進める手筈になってるんだけど………
 
「(いま食べ過ぎて、晩が入らないなんて事は………ないか、恋に限っては)」
 
 だったら、問題なんて月初めなのに氷河期を迎えてる俺の財布くらいのもんだ。………今月どうしよ。
 
「これが“ぱへ”か。この白い物体は一体……?」
 
 シカモ、何故か誕生日でも何でもないだろうお二人さんの飯代まで俺持ちっていう。
 
 イチゴパフェをつついてる星が不思議と可愛いから良いけど。………とか思う時、「ああ、男って悲しいな」と痛感する。
 
 まあ実際、恋の食費に比べたら全然大した事ない。……ファミレスでメンマ頼もうとした時は驚いたけども。
 
「(………楽しいな)」
 
 今、確かにそう思える。かなり変り者だし、俺を探してた理由とかも教えてはくれないけど……この二人に会えて良かった。
 
 そう思えた……からかも知れない。
 
「愛紗も、何か頼んだら?」
 
 どこか遠慮みたいな壁を張ってる愛紗に、少し不満を感じたのは。
 
 冷静に考えれば、単に俺が馴れ馴れしいだけなのに。
 
「ですが、ご主人様……私は……」
 
「それとさ、星も言ってたけど敬語なんて使わなくていいよ、同い年なんだし」
 
 けど、何だか居心地が悪かった。初対面でいきなり抱きついて来たり、名前で呼んで欲しいとか言うわりに……愛紗は、俺とほとんど眼を合わせてくれない。
 
「とりあえず、ご主人様は勘弁して。北郷でも一刀でも、好きに呼んでいいから、ね?」
 
 だから……もっと近づきたいって、強く思った。
 
 出来る限り軽く、明るく笑い掛けたつもりだった。
 
「っ……………」
 
 ………でも愛紗は、何故か苦しそうに唇を引き結ぶ。それが……自分でも不思議なくらいやるせなくて、もどかしい。
 
「(こんな顔、して欲しいわけじゃないのに………)」
 
 こんなに苦しそうな顔をする理由が解らない事が、それを何とかしてやれない事が………悔しい。
 
 その時、不意に気付く。
 
「………………」
 
 愛紗の隣でパフェをつついてたはずの星の、まるで探るみたいな視線に。「何?」と眼で訊ねてみると………
 
「……いや、何でもござらんよ」
 
 さっきまでのが嘘のような微笑で、あっさりはぐらかされた。
 
「まったく、お前が塞ぎ込む事で一刀に心労を掛けてどうする。少しは学習しろ」
 
「そういう問題では……あっ、待て!」
 
 そのままメニューを手に取り、勝手に愛紗の分まで注文する星。次いで――――
 
「…………ん」
 
 一掴み、ポテトを愛紗の口に持っていって「ん」する恋。無駄に重苦しかった空気が、あっという間に霧散した。
 
「はは…………」
 
 恋の仕草に顔を赤らめながらポテトを食わされてる愛紗を見ながら、俺はさっきまでの自分を笑う。
 
 たかが昼飯の他愛ない会話に、一体何を張り詰めて考えてたのやら。最近どうも、調子がおかしい。
 
「月、詠! こっちこっち!」
 
 星たっての希望で待ち合わせをしていた二人の到着に手を振りながら、俺は妙な感傷を振り払う。
 
 今はただ、この時間を楽しもう。そんな風に考えた時――――
 
『………会いたいよ』
 
 誰かの声が、聞こえた気がした。
 
 
 
 
 あの後も俺たちは、本来なら誕生日パーティーの準備に専念するはずの月と詠まで連れ回して、平和な休日を存分に堪能した。
 
 恋がゲームセンターでパンチングマシン壊したり、星に遊ばれた詠が軽くヒステリー起こしたり、愛紗がデパートのエスカレーターから転落しそうになったり、昨日怒らせて電話にも出てくれないらしい彼女を探し回る及川を見かけたりと、まあちょっとしたハプニングこそあったものの、十分以上に楽しい一時だったと言える。
 
 今日は恋に楽しんでもらう為の一日。その恋がずっとご機嫌だったんだからオーライだ。
 
「………で、結局誰なのよ? あの二人」
 
「星と愛紗。かなりの変わり者」
 
 そして迎えた誕生日パーティー。一応サプライズのつもりだったんだけど、今日一日お姫様だった恋の行動を鑑みると、察して……はいなかったにしても、期待はされていたんだと思う。
 
「それは知ってるわよ。何者かとか、どういう関係かとか、そういう事を訊いてんの」
 
「知らん。つーか、恋の友達って言うからてっきり詠たちとも友達だと思ってたのに………」
 
「ボクだって知らないわよ」
 
 小判鮫よろしくついて来た星と愛紗も交えて、女子寮のパーティーは盛大に行われた。事前に他の子に買い出しを頼んでた月と詠がその手腕を発揮し、恋は昼間にあれだけ詰め込んだとは思えない健淡家っぷりを見せてくれた。
 
「いい気なもんよねぇ、“ご主人様”とか呼ばせて鼻の下伸ばしちゃってさ~」
 
「だから呼ばせてねー! そんな汚物を見るみたいな眼で俺を見るな!」
 
 右を見れば、恋は変わらずホールケーキにかぶりつき、その隣で愛紗はメロメロになっている。
 
「ま、どうでもいいけど………プレゼント渡したの?」
 
 左を見れば、月が星にメンマを要求されてオロオロと困り果てている。
 
「………こんな状況で渡せるかよ」
 
 そして俺は、窓際で夜風に当たりながら詠と尋問めいた雑談を続けていた。
 
 あまり触れられたくない話題をピンポイントで突かれ、俺は適当な言葉でお茶を濁す。………昨日の失態の事は隠して。
 
「どーだか」
 
 そして詠のジト眼は、俺の薄っぺらな誤魔化しを見抜いている……ような気がする。
 
「………悲しませたら、承知しないから」
 
 眼を合わさずに小さく呟いた詠の一言は……確かに、俺の耳に届いていた。
 
 



[14898] 二十三章・『告白と口付け』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/06/06 20:30
 
「(落ち着け………)」
 
 冷たい夜風を頬に受けながら、俺は自分に言い聞かせる。
 
「(いつもの恋に比べたら、こんなの何でもないだろうが)」
 
 女子寮のだだっ広い庭の片隅。一本の木の下で、俺は恋と向かい合っている。
 
 この状況は、俺が作り出したもの。全ては、昨夜にやらかした大失敗をやり直すため。俺の気持ちを伝えて、新しい関係を始めるため。
 
「(恋人になるか、疎遠になるか……どう転んでも、今まで通りじゃいられない)」
 
 黙りこくってる俺を、恋は何も言わずにじ~~~っと見ている。ある意味、ありがたい。
 
「(ビビんな、たった三文字じゃねーか!)」
 
 だからって、いつまでも黙ってんじゃ白けるなんてもんじゃない。けど……心臓がヤバい。剣道の大会の試合前よりヤバい。
 
 それでも………言う。絶対言う。死んでも言う。昨日みたいな馬鹿は、何があってもやらかさない。
 
「俺は…………」
 
 そう固く言い聞かせて、俺は遂に口を開く―――。
 
 
 
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 夜の闇に消えて行った二つの影を見送って、二人の少女は寮の屋根の上で宴の余韻に浸る。
 
 言わずもがな、星と愛紗だ。まだとても、何の抵抗もなく安らかな眠りに就けるほど悟ってはいない。
 
「楽しい宴だったな」
 
「………そうだな」
 
 特に、愛紗は。
 
「主は、恋と交わした約束を果たせなかった事を甚く悔いていた。こんな形でもそれが果たされたというのは、仲間として素直に喜ばしい」
 
 もう二度と会えないと思った―――自身がその手に掛けた―――一刀との、穏やかで、和かな一時。
 
 それは紛れもなく幸せな時間。だが……いや、だからこそ、それをそのまま甘受する事が出来ない。
 
「私は…………」
 
 星に喝を入れられ、尻を叩かれるようにここまで来た。少しは前に進めているのかも知れないが……やはり、静かになると考えてしまう。
 
「どうすれば……良いのだろうな……」
 
 この和かな世界で、全てを忘却した一刀と共に生きて行く。それを自分に許す事が……どうしても出来ない。
 
 裁きを委ねるべき一刀は、愛紗の罪を忘れている。だから愛紗は……いつまでも解を見いだせない。
 
「己の道は己で決めろ。……せいぜい、独り善がりにならぬようにな」
 
 こんな問答を、もう何度繰り返しただろうか。意地悪で優しい星は、やはり解を示さない。
 
 だが……今ばかりは、星も少し、いつもと様子が違っていた。
 
「………………」
 
 愛紗の苦悩する様を見て、星も頭を悩ませる。だがそれは……単に愛紗を心配しているといった類のものではない。
 
「………星?」
 
 他者に弱みを見せる事の無い星が、どこかぼんやりと虚空を見つめている様子に、愛紗は怪訝そうに振り向いた。
 
「なあ、愛紗よ……」
 
 まさにそれを待っていたと言わんばかりに……
 
「おぬし、処女か?」
 
「…………………………………………は?」
 
 言った。
 
「はあぁーー!?」
 
 あまりに突拍子も無く、ふざけている(としか思えない)発言に、愛紗は真っ赤になって大声を上げた。迷惑千万である。
 
「お、お前っ……こんな時に何を不埒な……!?」
 
「応えてくれ」
 
 が、星の表情は至って真剣だ。あまりに真摯な様子に、逆に愛紗が気圧されてしまう。
 
 そして、渋々く口を割る。かつて幾度となく一刀と重ねた夜を思い出しながら。
 
「………知らないわけが、ないだろう」
 
 が………
 
「阿呆か。誰もそんな古い話はしておらん」
 
「阿っ……!? お前が応えろと言うから応えたんだろうが!」
 
 無論、星はそんな話はしていない。そもそも彼女らは、一刀と初めて出会った世界で二人一緒に夜伽を勤めた事もあるのだ。愛紗の言うように、知らないわけがない。
 
「今そこに、膜があるかと問うておる」
 
「ま、ま……まく……?」
 
 星の、相変わらず真剣極まる視線を下半身に向けられ、愛紗は堪らずスカートの裾を押さえて後退る。
 
 星の意図はやはり掴めない……というより、理解不能だ。
 
「そ、そんな問いに何の意味が………」
「在るのか、無いのか?」
 
 いつもの様に人をからかって遊んでいる……にしては楽しんでいるように見えない星に、愛紗はやはり押し切られ………
 
「………………ある」
 
 顔から火が出るような羞恥に耐えて、消え入りそうな声で告白した。
 
「……なるほど。やはりそうか」
 
 そんな愛紗の葛藤など完全に捨て置いて、星は納得したような呟きを残し、そのまま何か考え事をしながら立ち去って行った。
 
 残ったのは、とても恥ずかしい思いをさせられた愛紗一人。
 
「な、何だったのだ…一体………」
 
 結局、星の意図は解らぬまま。自分の羞恥は何の為だったのかという虚しさだけを胸に愛紗はうなだれる。
 
 その背中を………
 
「………愛紗」
 
「………恋、か」
 
 柔らかい掌が、撫で擦った。
 
 
 
 
「あーあ………」
 
 夜道を通り、寮の自室に帰り、布団に潜り込んだ一刀の……わざとらしい落胆が静かな部屋に響く。
 
『恋が好きだ』
 
 今まで恋愛を他人事のようにしか考えて来なかった少年にしては、勇気を振り絞った告白だった。
 
『………♪』
 
 告白して、恋が嬉しそうに擦りついて来たまでは、何の問題もなかった。一刀が思っていたよりリアクションがやたら軽かった、というのは気に掛かったが、それくらいなら大した問題ではなかった。
 
『(あっ、そうだ……プレゼント)』
 
 極度の緊張で順序を間違えた一刀が、遅まきながら誕生日プレゼントを取り出した時、それは起きた。
 
『………………』
 
 取り出したプレゼントを、恋に手渡せない。あの時の感覚が再び一刀を襲い、それを見透かしたように………
 
『…………ダメ』
 
 恋は、一刀から距離を取り………
 
『それは、恋が貰っちゃ、ダメ………』
 
 そう告げて、逃げるように走り去って行った。
 
 取り残された一刀が、ちゃんと告白の返事をもらっていない事に気付くのは、それから10分ほど後の事である。
 
「あれって、まだフラれたわけじゃ……ない、よな?」
 
 こうして、喜んでいいのか悲しんでいいのか微妙な心境で帰宅した一刀は……判断の難しい寡黙少女の内心ばかり考えながら悶えているのだ。
 
「ま……すぐに解るか」
 
 それも無駄な葛藤だと知り、一刀は手足を広げて開き直る。
 
 いくら悩もうと、もう告白はしてしまったのだ。恋の顔色を窺っても仕方ない。それに……ある種の信頼がある。
 
 少なくとも、恋があんな態度を取るのは一刀の他にいないのだから。
 
「(……起きたらまた、変わらない一日が始まる)」
 
 その事に淋しさと安らぎを感じながら、一刀は意識を己の深遠へと手放す。
 
 また変わらない明日が来る。この瞬間、一刀はその未来を……疑ってすらいなかった。
 
 
 
 
「………………」
 
 薄暗い部屋の中に、僅かな光に淡く浮かぶ白い影が、舞い下りる。
 
 無用心は相変わらずだ。そう影は……星は、思う。
 
「(ここが、主の世界ですか)」
 
 音を殺してベッドに腰を下ろし、腹が立つほど呑気な寝顔にそっと手を添える。
 
「(今日一日、この世界で生きる貴方を見て……解を出そうと決めておりました)」
 
 愛しさを籠めて頬を撫でると、心地良さそうに表情を緩める。その仕草が、幼子みたいで可愛らしい。
 
「(だが……それは自惚れだったようだ)」
 
 解は見つからなかった。初めから、見つかるはずなどなかったのだ。
 
 穏やかな世界。普通に生きれば、まず戦いを必要としない世界。何を思い煩う事もなく、仲間との笑顔を守っていける世界。
 
 ここで……本来の居場所で生きて行く事が、一刀の幸せかも知れない。そう思ったのも事実だ。
 
 だが……そうじゃない。
 
「(貴方の幸せを、貴方の正義を、私が決める道理など無い)」
 
 いつか記憶が戻った時、自らの忘却が受け入れ難い過去を生んだと知れば……一刀はどう思うだろうか。
 
 必ず、深い悲しみと後悔に囚われる。……今の愛紗のように。
 
 『忘れていたのだから仕方ない』、そんな渇いた台詞を吐く男は……星の愛した北郷一刀では断じてない。
 
 無様でも、惨めでも、仲間の為に最後まで足掻き続ける。
 
 欲張りで、諦めが悪くて、誰よりも優しい……そういう男だ。
 
「(だから私も、諦める道を選びません)」
 
 及川から一刀の現状を聞いた時、星は既に一つの憶測を持っていた。
 
 前の外史から離別した一刀が、自分たちとの別れを受け入れてのうのうと学生生活など続けるだろうか、と。つまりそれは……こちら側から外史を越える術は無いという事なのだろう、と。
 
 しかしその憶測は……“記憶を失った一刀”という慮外の結果によって覆された。そして皮肉な事に……その結果が今、微かな希望として残っている。
 
 一刀の記憶さえ戻れば、或いは……という希望として。
 
「(私が今からする事は、貴方の平穏を壊す結果を生むかも知れない)」
 
 星はその可能性を、無きに等しいものと思っている。一刀はそもそも、自らの意志で世界を渡ったわけではないのだから。
 
「(それでも、私は……)」
 
 決意する。
 
「(貴方はきっと、忘れてなどいない)」
 
 星は初めから、ある種の違和感を覚えていた。それが今日という一日を経て、愛紗への問いを経て、確信へと変わった。
 
 頬に残る刃の古傷を撫でながら、やはり、と思う。
 
 この傷は、魏との決戦の渦中に華琳がつけたものだ。そう……“その傷が残っている”。
 
「(今の主は、以前の我らと同じに見えて少し違う。より色濃く、かつての自分を残している)」
 
 初めて一刀と出会った世界で、一刀に捧げたはずの純潔を……愛紗は今、持っている。つまり、肉体の状態は継承されていなかった。だが、一刀は違う。
 
 それだけでは断定は出来なかったが、今日一日行動を共にして、“初対面の人間”に向けるものではない愛情を幾度となく感じて、悟った。
 
 一刀は……一刀の死を目の当たりにするまで覚醒出来なかった自分たちとは違う、と。
 
「(外史を越えた私なら、二つの世界を繋ぐ架け橋になれるかも知れない………否、なってみせる)」
 
 記憶を取り戻しても、悲しみしか残らないかも知れない。
 
 月と詠が死に、恋が一刀を守る為に己が身を捨て、愛紗が錯乱の果てに愛する男を斬り殺す。
 
 そんな過去、思い出したいはずがない。そして、世界を渡る術を知らなければ、一刀は“あちらの結末”を指をくわえて……見る事すら叶わないのだ。
 
 何一つ、良い事など無い。
 
 “それでもやる”。
 
「起きて下さい、主……」
 
 愛しい気持ちを、求める想いを、共に歩む意志を乗せて……星は自身の唇を、眠れる主君のそれに重ねた。
 
 



[14898] 二十四章・『泡沫の向こうに』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/06/06 20:32
 
「私は……ご主人様をこの手に掛けた」
 
 今まで口にしなかった自身の罪を、愛紗は恋に懺悔として語った。
 
 広げた両手を見つめる金の瞳は、焦点が定まらず小刻みに揺れている。
 
『私にあれを受け取る資格は無い』
 
 その一言から始まった独白は、自分の顔を両手で覆って膝を着く愛紗……という事態を以て幕を引いた。
 
「許せなければ、私を斬れ。お前には……その資格がある」
 
 戦いの日々を忘れて平和な世界に暮らす一刀には言えなくても、記憶を保持している恋になら言える。言わなければならない。
 
 恋が命懸けで守った想い人を、誰より一刀を慕っていると自負していたはずの愛紗が……殺したのだから。
 
「………斬らない」
 
 愛紗の言葉に、恋は表情を変えぬまま首を振る。そこに殺意は無い。
 
「……恋たちが喧嘩すると、ご主人様が悲しむ」
 
 いつかと同じ言葉が、あの頃と全く変わらない響きを持って、愛紗の耳に届いた。
 
「………本当に、単純な物の考え方をするな、恋は」
 
 敢えて“ご主人様”という呼び方をした恋に、愛紗は渇いた微笑を向ける。
 
 そこに在るのは、失意と羨望。罪悪に苛まれて出口の見えない自分への失望。あの頃と同じように一刀の傍にいる恋や星が、どうしようもなく羨ましい。
 
「ここならもう……戦わなくても、泣かなくてもいい」
 
 拙い言葉で恋は愛紗を支える。これからは、ずっと一緒なのだから。
 
「……一刀と、一緒にいてあげる」
 
 その言葉は、自分の意志表明のみではない。愛紗に対する導きでもあった。それに気付いて、しかし愛紗は応えられない。
 
「(私は…………)」
 
 簡単に解を出せない。易々と割り切れるほど軽い咎ではない。
 
 しかし世界は彼女を待たない。淡々と、残酷に、ただ在るがままに時を刻む。
 
 ―――迷える少女の脆弱心を、置き去りにして。
 
 
 
 
「ん……っ」
 
 瞳を閉じて、唇を重ねる。その瞬間、走るように無数の光景が、言葉が、流れ込んで来た。
 
「(痛ぅ………!)」
 
 私が知らない筈の情景が脳裏に流し込まれたかと思えば、次の瞬間には気味が悪いほど唐突に“それが何だったのか”解らなくなる。
 
 唯一意識に残るのは、“私”に関わる光景のみ。それは恐らく、これが私の記憶ではないからだ。
 
 流入と忘却の奔流に意識が揺さ振られ、頭が割れそうに痛む。
 
「(だがっ……これで良い!)」
 
 今まさに、私という存在が一刀を呼び覚ます扉となっている。言葉では説明出来ない、感覚だけの確信を得る。
 
「(怖れるな!)」
 
 精神が破壊される。そんな危機感をねじ伏せて、私は主の頭をがむしゃらに抱き締め、貪るように唇を吸う。
 
 気を抜けば……恐怖に駆られて離れてしまいそうになる我が身を押さえつけるように。
 
「(ある、じ………)」
 
 想像を絶する痛みの中で、皮肉にも……心を削り取る記憶の奔流が、私を支えていた。
 
 その中に混じる、私との思い出と、私への想いが。
 
 私は……これほどまでに、主に想われていたのか………。
 
「(だからこそ、手放しはしない……ッ)」
 
 もはや、正義の為でも一刀の為でもない。こんなにも温かい想いに満ちている北郷一刀を、何がなんでも取り戻したい。
 
 私は、そんな剥き出しの願望をひたすらに高める。それこそが、主の記憶を手繰り寄せる最大の術だと悟っていたから。
 
 我を忘れて主を求めている私と、そんな自身をも冷静に使う私。二つの私が混在しているような気分だ。
 
「(主―――――!!)」
 
 闇とも光ともつかない意識の最奥で、青白い炎が燃え上がった。
 
 
 
 
「…………………」
 
 何も無い暗闇を、一人で歩き続ける。……いや、何も無いって言うより、全てが在るのかも知れない。
 
「(何だ………?)」
 
 見えているのに入って来ない。届きそうで届かない。そんなもどかしい群体が俺の周りを取り巻いている。
 
「(俺は……どうしたいんだ……?)」
 
 知りたいようでもあるし、知るのが怖いような気もする。何も解らないから判断のしようもない。
 
 ワケが解らないものに自分がどんな気持ちを向けているのか、どんな気持ちを向けるべきなのか……。
 
「(………皆、こんな気持ちだったのかな)」
 
 自分の思考の倒錯具合にも気付けない。
 
「       」
 
 見えない何処から、誰かに呼ばれた気がした。
 
「――――――!?」
 
 途端、唇に柔らかい感触が押し付けられた。周りの歪みが治まっていく。世界に色が戻って来る。
 
 何かに引き上げられるような不可思議な感覚に呼び起こされて…………
 
「お目覚めですか? 我が主よ」
 
「……おはよう、星」
 
 “俺”は目覚めた。
 
 
 
 
「………………」
 
 自分に覆いかぶさっている、余裕すら感じさせる星の頬に、一刀はそっと手を伸ばす。
 
 暗闇では判りにくかったが、星は髪が濡れるほどに全身汗だくになっていた。
 
 相変わらず我が強くて意地っ張りな彼女だと、一刀は柔らかな溜め息を漏らす。
 
「主……?」
 
 何も言葉を口にしない一刀を、星が僅かに不安を覗かせて見つめた。
 
 一刀は――星とは比べるべくもないが――混乱する頭で、しばし逡巡する。
 
 「おはよう」の次に掛ける言葉は、何であるべきかを、だ。そしてやはりと言うか、それに帰結した。
 
「……ありがとな」
 
 優しく、穏やかで、少し大人びた微笑み。
 
「っ………」
 
 それだけで、十分だった。星は俯き、間髪入れずに頭を一刀の胸に押しつける。
 
 今……どんな顔になっているか、わかったものじゃない。見たくもないし、見られるなど論外だ。
 
「っ……ッ………」
 
 同様に、何か言う事も叶わない。口を開けば、情けない声が漏れ出てしまう事はわかっていた。
 
「……ありがとう」
 
 再び礼を告げて、一刀は胸の中の星を包み込む。何度も何度も、小さく震える背中を撫で擦る。
 
 全て解っているような生意気な態度に、小さな虚勢を張っている事が……何だか馬鹿馬鹿しくなって………
 
「ふ……ひっく………!」
 
 ―――ほんの少しだけ、星は泣いた。
 
 
 
 
「記憶は、戻られたようですな」
 
「お互いに、ね」
 
 星が落ち着くまで待ってから、念の為にと確認されて、一刀は可笑しそうにそう返す。
 
 全てを思い出してから省みれば、星たちの変化にも当然気付く。記憶が戻っていなければ、この世界に来れるはずもない。
 
「…………………」
 
 一刀の軽口に沈黙を返し、星は表情を暗くする。一刀には見えていない。一刀が着替えると言うから、二人は背中合わせに部屋の反対側を見ている。
 
「…………………」
 
 星らしくもなく、二の句が継げない。さっきまでは一刀が自分を取り戻した事で頭がいっぱいだったが、時間を置けば否が応にも思い出す。
 
 場合によっては、一刀はこれから……記憶を取り戻したが故の苦しみを背負う事になるかも知れないのだ。
 
 そんな馬鹿な考えを、星は頭を振って追い払う。
 
「(主は……我らよりもずっと強い。それがどんな結果を生もうとも、自らの過去に潰されたりするものか)」
 
 それら全て承知の上でした事。今さら何を躊躇うのか。………そう思って、振り返った先に―――
 
「………よし、行くか」
 
 陽光に煌めく衣を纏った天の遣いが、そこにいた。
 
「帰ろう、俺たちの世界に………」
 
 



[14898] 二十五章・『元気でな』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:5d3ce992
Date: 2011/06/11 19:03
 
 ずっと悩み続け、星に尻を叩かれ、恋に励まされ、それでも……それでも私は、自分の気持ちに決着をつけられずにいた。
 
 きっと……この靄を払う事など出来はしない。仮にいつ死ぬ事になろうと、一生背負って生きて行くのだろうと、心のどこかでそう思っていた。
 
 そんな……悠長に、心の準備も何も出来ていなかった私の前に、嘘のようにあっさりとそれは来る。
 
 今夜は自分の部屋に来いと恋に手を引かれ、その途中で星の姿が無い事に気付いた。
 
 寮の敷地内のどこにもおらず、我らは慌てた。景色一つとっても異質なこの世界では、星のような異邦人はいとも容易く道に迷ってしまうと。
 
 他に心当たりが無かった事もあって、ご主人様の部屋に向かう私と恋は、その道中で………邂逅を果たす。
 
 星と共に歩いて来る………ご主人様と。
 
「おはよ………」
 
 照れ臭そうに頬を掻きながら、ご主人様はそう言った。私はそれだけで……たったそれだけの仕草だけで、悟った。
 
「あ………ぅ………」
 
 申し訳ありませんでした。許して欲しいとは言いません。どのような罰も覚悟しております。
 
「あ…っ……」
 
 言うべき言葉は、いくらでもあるはずなのに………その欠片すらも形に出来ない。
 
「………愛紗」
 
 ご主人様が、近づいて来る。記憶を取り戻したご主人様が……私に斬り殺されたご主人様が……近づいて来る。
 
「い、や………」
 
 万の敵兵にも勝る恐怖に駆られて、私は情けない声を漏らして後退る。
 
 歯の根が合わない。冷や汗が止まらない。足が震えて、立っている事すら危うい。
 
「嫌ァ……!」
 
 この場から、今すぐ逃げ出してしまいたい。目の前に在る現実を拒絶して瞳を固く閉じた私は―――
 
「ぁ…………」
 
 優しく、けれど力強く、体の自由を奪われた。目の前に凶刃が迫る寸前のように、時が凍り付く。
 
 そして――――
 
「………ごめん」
 
 狂ってしまいそうなほどの恐怖は、ご主人様のほんの小さな呟きで、凍結し………
 
「辛い思いさせて、ごめん………」
 
 細雪となって散り溶け、消えていく。耳元で囁く一言一言が、いとも容易く私の心を落ち着けていく。
 
「(………ああ)」
 
 ご主人様だ。
 
 そんな当たり前の事を、これ以上なく強く思う。
 
 弱さも、脆さも、愚かさも、汚さも、全てを呑み込む温かさ。私の心を乱す事も、落ち着ける事も、簡単にやってのける。
 
「(変わらない………)」
 
 私の全てを捧げた、愛しい人。こんな愚かな私にも……彼に刃を振るった私にも……変わらず、あの頃のままの愛で。
 
「(………敵わない)」
 
 私はもう、自分がどんな種類の涙を流しているのか解らなかった。
 
「どうして………」
 
 思考は千々に乱れたまま、ご主人様の服の背中に手を回し、縋りつく。
 
「どう、して………」
 
 もっと別の言葉を、言うべきだったはずなのに。私はそんな馬鹿な言葉を吐いていた。
 
「私をっ…抱き止めていて下さらなかったのですか……!」
 
 ご主人様の、悲しみの中に……何故か、僅かの満足を覗かせた謝罪を聞きながら――――
 
「………ごめん」
 
 ―――私は弱い。その事実を、私は痛いほどに噛み締めていた。
 
 
 
 
「………落ち着いた?」
 
「………(コク)」
 
 上ずった声を聞かれたくないのか、愛紗は声を出さずに首肯する。首肯して……恋や星に見られていた事を今更ながらに思い出して、慌てて俺から離れた。
 
「(愛紗………)」
 
 そんな他愛ない光景を、俺は万感の想いで見つめる。
 
 世界が変わって、俺は愛紗の仲間ではなくなった。愛紗は桃香の忠臣として、俺を警戒し、時には戦った。俺が桃香と和解してからも、ずっと心を開いてくれなかった。
 
 その愛紗が……思い出を取り戻して、こうして俺の傍にいる。
 
「……ありがとう」
 
「ご主人様……私はっ………!」
 
 お礼を言われて、弾けるように顔を上げた愛紗を……俺は首を横に振る事で制止した。
 
 『礼を言われるような事は何もしていない』。そんな言葉は聞きたくない。
 
「今、愛紗はここにいる。俺と一緒にいてくれる」
 
 ………愛紗はずっと、苦しんでいた。桃香への忠誠と親愛、俺への形に出来ない想いの狭間で。
 
 ………判っていたはずだ。世界の全てがリセットされたわけじゃない事も、一途な愛紗が記憶の残滓を簡単に受け入れられない事も。
 
『どうして私をっ…抱き止めていて下さらなかったのですか……!』
 
 愛紗の言う通りだ。俺が……救ってあげられなかった。ずっと苦しめていた。
 
 それでも愛紗は、外史を越えてここにいる。それが……言葉にならないくらい、嬉しい。
 
「それだけで、十分だよ」
 
 愛紗をあれほど追い詰めたのは、俺だ。だから……愛紗が罪を感じる必要なんて無い。
 
「私…は……っ」
 
「やれやれ、また泣くつもりか? いつまで経っても話が進まんのだがな」
 
「誰が泣くか……!」
 
 愛紗の表情がまた歪んだところで、星が涼しい顔で愛紗をからかう。……さっきまで自分も泣いてたくせによくもまあ、流石と言うか何と言うか。
 
「…………♪」
 
 愛紗がのいたのを見計らって、恋が素知らぬ顔で俺の腕に擦り寄って来る。今までのやり取りなんてどこ吹く風だ。
 
「……………恋」
 
 恋にもまた、愛紗と同じ気持ちを、より強く抱く。蜀の戦いで、俺を逃がす為に……死んでしまった恋。その恋が……こうしてここにいる。
 
 どこか気持ちが落ち着いてるのは……あの時、大泣きしちまった後だからだろう。
 
 けど……記憶が戻った今だから言いたい事は、ある。“けど”………
 
「ありがとな」
 
 それは、言わない。“あの時”の事は忘れられない。怒っていると言ってもいい。でも……俺に恋の意志を否定する権利なんて無いから――――
 
「(…………もう、あんな事しないでくれよ)」
 
 その言葉は、胸の内にしまっておく。代わりに……俺がさせない、と自分自身への誓いと変える。
 
「…………恋」
 
 恋の意志は否定出来ない。ついさっき自分が浮かべた思考に、少なくない不安を感じながら………それでも俺は言わなきゃならない。
 
「一緒に帰ろう、俺たちの世界に」
 
 ―――たとえその先に、避けられない別離が待っているとしても。
 
 
 
 
「なに………言ってんの?」
 
 ずっと黙って話を聞いていたボクが、漸く絞りだした一言は、そんな意味を為さない言葉だった。
 
 別の世界? 三国志? 元を正せばボクもそこの住人で、今から一緒に帰ろう? ………夜中に女の子の部屋に押し掛けて来て、何ねぼけてんのよ。
 
 何が腹立つって、こいつが未だに怖いくらい真剣な顔を保っている事。月が本気にするじゃない……って言うより、してるじゃない。後ろの二人もグルかしら。
 
「言いたい事はそれだけ? なら、歯を食い縛るのをオススメするわよ」
 
 忠告一つ、ボクは愛用の抱き枕で素振りを始める。慌てて、つまらない悪戯を仕掛けようとした事を謝る一刀を予想したんだけど…………
 
「…………………」
 
 一刀は無言。重い空気に月が縮こまってるのに、表情を変えようとしない。……ここまで引っ張られると、笑えない。
 
「……これからすぐにでも、俺たちは行く。だから、二人の意志を訊いておきたかった」
 
 ボクの知らない、どこか大人びた顔。そこから連想される考えを、ボクは一顧だにせず切り捨てた。
 
「……勝手にすれば? 引き出しに飛び込むなり音速を越えるなり好きにすればいいじゃない。それで別の世界とかに行けるものならね」
 
 もしかしたら……なんて馬鹿な考えには耳を貸さない。ここで真に受けてついて行けば、及川あたりが出てきて大笑いするに決まってる。
 
 そう思ってるはずなのに……何故か心臓が締め付けられる様に痛んだ。
 
「俺はっ……!」
 
「痛っ!?」
 
 突然、両肩を乱暴に掴まれた。今まで一刀に……いや、誰にもこんな事をされた事はなくて、ボクは顔を背ける事すら忘れて固まった。
 
 そして、見る。
 
 ボクを、月を、泣きそうな顔で見ている、一刀を。ボクの肩を掴んでいた手が、弱々しく離される。
 
「ご主人様………」
 
「………わかってる」
 
 心配そうな愛紗の声を、腸を捻じ切るような声が制す。
 
 そして―――
 
「へぅ…っ」
「きゃ…っ」
 
 ボクと月は、一刀の腕の中に抱き竦められていた。
 
 あの時と同じ、でも……あの時とは、全く別の意味が籠められているような、抱擁。
 
 あの時は……認めたくないけど……心が温かくなった。でも今は……凍えるほど冷たい。
 
「………………………………………元気でな」
 
 これが最後。
 
 体が離れた瞬間、そんな言葉が頭を過った。
 
 抱き締めて、離れて、一刀はそのまま背中を向ける。惜別を押し殺しているのが、顔を見なくても解った。
 
「何、で………?」
 
 冗談に決まってる。そう自分に言い聞かせても、全くと言っていいほど心に響かない。
 
「先輩……嫌ぁ……」
 
 月が、泣いてる。両手で顔を覆って座り込んでる。
 
「……悲しませるなって、言ったじゃない……!」
 
 月は泣いてる。ボクは怒ってる。なのにどうして……こっちを向かないのよ。
 
「何でよぉォーーー!!!」
 
 振り返らない、どこかへ行ってしまう背中に……見送れば、二度と戻る事のない背中に飛ばせた罵声は………自分でも嫌になるくらい、情けなかった。
 
 
 
 
『ここが……ご主人様の本当の居場所なのではないのですか』
 
 顔色を窺うようにそう訊いた愛紗に、俺は首を横に振った。
 
『ここは……俺が元々いた世界じゃないよ。よく似てるけど、別物だ』
 
 ここには及川はいるけど、不動先輩はいない。他にも居たはずの見知った顔がいくつも無くて、代わりにいないはずの人間がいる。ここは……俺が生まれた世界じゃない。
 
『それで……本当によろしいのか?』
 
 俺の覚悟を確認する星に、俺は頷いて応えた。
 
 “現代”に未練が無いと言えば嘘になる。だけど……それ以上に大切なものがある。
 
「本当に、後悔はありませんか」
 
 そして今……もう一度俺に問う星に、俺は………………肯定を返す。
 
「二人にとっては、ここが“自分の世界”なんだ。……俺に、それを奪う権利なんて無い」
 
 今なら、こうなって良かったって心から思える。だけど………初めて左慈と戦った時、初めて外史に流れた時、俺に選択が許されていたのなら……俺は、自分が生まれた世界を選んでいた。
 
「たとえ世界が違っても、二人が笑ってられるなら……その方がいいんだ」
 
 だから、これで良かったんだ。
 
 そう………俺は自分に言い聞かせる。そうしなければ、また気持ちが揺れてしまうから。
 
「………遅れた」
 
 背中に大きな、唐草模様の風呂敷包みをしょって………“恋が出てくる”。
 
 俺たちと、一緒に行く為に。
 
「(ずっと、声が聞こえてた)」
 
 星がいる。愛紗がいる。恋がいる。そして……待っている人がいる。
 
「急ごう。桃香が、待ってる」
 
 ―――絶対に助ける。これから向かう先に、何が待っていようと。
 
 



[14898] 二十六章・『突端と帰結』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:5d3ce992
Date: 2011/06/11 19:17
 
「…………………」
 
 一人先頭を歩く主の背中を見ながら、私は先ほどの会話を反芻する。
 
「(まあ、誤りであると断言も出来ぬのだがな……)」
 
 愛紗の様を見て何も感じぬのか。本当に月たちを想うならば、攫ってでも連れて行ってやるべきだ。
 
 ……という意見はあるのだが、実際に口にはしていない。私も、「主は完全に記憶を失っていない」と薄々感付いていながら、なかなか行動に移せなかった。
 
 ………そして行動に移した後でも、これが正解だったとは言い切れん。
 
 あれは相手が主だったからこその決断。仮にあれが愛紗だったなら、私は記憶を取り戻させようとはしなかったろう。
 
 同時に、己の道は己で決めるべきだという持論も当然捨てていない。……だからこそ、捨て置いているわけだが。
 
「(私は私で、為すべき事を為すだけ)」
 
 主の経緯と我らの経緯から推察するに、こちらとあちらでは、時の法則すら同然ではない。
 
 それでは急がねばならぬ理由を、私たちは既に主に聞いている。故に、既に主に倚天の剣を渡しているのだ。
 
 主があれを抜くような事態は想定したくないが、今回ばかりは「我らに任せて退いていろ」とは言えない。
 
「………ここから、始まったんだ」
 
 辿り着いたそこは、思っていたよりずっと近くにあった。なんと、せんと・ふらんちぇすかの敷地内だ。
 
「……歴史資料館?」
 
「あの理事長はいないのに、これが残ってるってのも妙な話だよな」
 
 愛紗が、珍しく我らでも読める文字を音読し、主はどこか皮肉そうに笑う。“元の世界”と比べているのだろうか。
 
「……恋は、入った事ない」
 
「俺もだよ。……だから怖いんだ」
 
 細められた瞳に、言葉とは裏腹な闘志が見える。明確な敵を意識している証拠だ。
 
「こんな穏やかな世界に居た頃から、無茶ばかりしていたのですか」
 
「あの時は、そんな自覚なかったんだけどね」
 
 この場所で、あの銅鏡を持ち去ろうとしたあやつに対して、主は木剣一つで挑み掛かったらしい。無謀にもほどがある。
 
 いや、過ぎた事はいい。大切なのは、ここが主の元いた世界と同じであれば……あの銅鏡もここに在るという事。
 
 問題なのは……あやつが、この世界にもいるという事。
 
「また、我らの前に立ちはだかるか……」
 
 愛紗が神妙な顔で呟く。無理もない。
 
 左慈―――。
 
 我らから全てを奪い去ろうとした怨敵の片割れ。恐怖と憤怒に身が震えるのは私も同じだ。
 
「貂蝉のやつ、いい加減なこと言いやがって」
 
 主が憎々しげに吐き捨てる。訊けば、もう左慈らが我らの物語に介入する事はない、といった類の話を聞かされていたらしい。
 
 と言っても、そもそもあやつは味方とは言いきれぬ間柄だ。私も泰山に向かう際、貂蝉の助言を仰ごうとは考えなかった。
 
「でも……どうやって入ろうか?」
 
 並木から並木に隠れて移動しながら、我らは歴史資料館とやらに接近して行く。
 
「どうやっても何も、正面から入れば良いのでは?」
 
「見られると都合が悪いと言うなら、鍵を破るなり壁を登るなりして忍び込めばよろしい」
 
「監視カメラとか警報装置とかあるだろうし、あんまりそういうのはなぁ……」
 
 愛紗と私の至極もっともな意見にも、一刀はあまり気乗りしないようだ。亀羅……玄武のような怪物だろうか。
 
「いや、むしろそれしかないか」
 
 然して、一刀は歴史資料館に歩み寄る。全く隠れる素振りもなく、正面から堂々と。
 
「すいませーん」
 
 どころか、しゃあしゃあと見張りに声を掛けた。今までの隠密行動は何だったのか。一人で行かせるわけにもいかず、我らも木の陰から出て追従する。
 
「ちょっと昼にここで、部屋の鍵を失くしてしまったみたいなんですけど、少しだけ確認させてもらえませんか?」
 
 そう来たか。
 
 無難、かつ地味に、一刀は中に入る手段を選んだ。結果的に愛紗の方の案を採用されたようで面白くない。
 
 その時―――
 
「「………っ!」」
 
 背筋を、形容し難い怖気が走る。それは隣の愛紗も同様に見えた。
 
「北郷、一刀……」
 
「へ………?」
 
 そして、この場の誰が行動を起こすよりも疾く―――
 
「が……っ!?」
 
 見張りの男が吹き飛び、硝子に叩きつけられて罅を入れた。一切の迷いなく振るわれた恋の拳に、顔面を強打されて。
 
「ちょ、恋っ!? いくら何でも……」
「違う」
 
 珍しく間を開けず、恋が主の抗議を遮る。未だ気づいていないのは主一人、まったくもって世話が焼ける。
 
「………ヒトじゃない」
 
 恋の呟きを肯定するかのように、倒れた男は砂とも錆ともつかぬ物体となって崩れ去る。
 
 ……確かに人の気配ではないと思ったが、こうして実際に眼にすると薄気味が悪い。
 
 こんな妖術じみた力を使う輩に、私は一つしか心当たりが無い。
 
「…………………」
 
 漸く悟ったのか……主は何も言わず、歴史資料館に足を踏み入れる。“自動どあ”が自然に開き、主を内に招き入れた。
 
「……カメラもブザーも動いてない。入って来いって事か」
 
 それが何故だか、姿見えぬ魔物の顎門のように思えた。
 
「ふっ、歓迎されているという事か。結構な事ではありませんか」
 
 臨むところだ。今の私に―――怖れるものなど何も無い。
 
 
 
 
「……歴史資料館? あんな場所で何するつもりよ」
 
 木の陰から顔だけ出して、詠ちゃんが先輩たちの様子を見てる。わたしは、詠ちゃんの背中の大荷物が邪魔して見えない。
 
「詠ちゃん……どうしてコッソリ後を尾けたりするの?」
 
 わたしだって放っておくのは嫌だけど、こんな事しなくても、直接話せばいいと思う。というより、わたしは早くそうしたい。
 
「出ていっちゃ、ダメ?」
 
「ダ・メ」
 
 駄目みたい。
 
「ここで出て行ったら、ボクたちがあいつを追っかけて来たみたいじゃない」
 
「………違うの?」
 
「違うの!」
 
 ……何も違わないと思う。こんな時まで、意地を張るなんて。
 
 ……わたしも、先輩の話を全部信じたわけじゃない。信じろって言われて、信じられるような話じゃなかった。
 
「(でも、先輩は……)」
 
 少なくとも、先輩は本気だった。本気で……わたし達と、お別れするつもりだった。
 
「だったらどうして、そんな大荷物……」
「そっ、それは……ボク達が部屋を空けてる間に火事とか起きたら大変だから……!」
 
 それなのに、詠ちゃんは意地を張ってる。言い訳にもならない言い訳をしながら、こんな所でコソコソしてる。
 
 でも……意地を張る必要があるって事実が、わたしはこの時、とても気になっていた。
 
「詠ちゃん………」
 
 こんな時なのに……ううん、こんな時だから、確かめたくなった。
 
「な……なに?」
 
 名前を呼んだだけ、強く言ったわけでもない。でも……詠ちゃんは、わたしの気持ちをすぐに解ってくれる。
 
 わたしの事、何でも解ってる……大切な親友。だからこそ、はっきりさせたい。
 
「先輩の事……好きなの?」
 
 嫌いじゃない事は知ってる。好きな事も知ってる。でも……“すき”なのかは解らない。
 
 わたしも、詠ちゃんも、今までそういう事、なかったから。
 
「…………好きじゃ、ないわよ」
 
 ………好きなんだ。
 
 わたしが思った言葉をそのまま口に出そうとした、その時………
 
「が………っ!?」
 
 誰かの呻き声が聞こえて、わたし達は思わず、木の陰から完全に身を乗り出して先輩たちの方に目をやった。
 
「「っ!?」」
 
 そして、言葉を失った。
 
 恋さんに殴り飛ばされた警備員の人が、灰みたいになって消え去る。
 
 そんな……信じられない光景を眼にしたから。驚きが強すぎて、叫び声すら出なかった。
 
「何……あれ……?」
 
 二人揃ってよろめいて、丁度良くお互いに身体を預ける形になって、何とか踏み止まる。
 
 そんな事をしてる間に、先輩たちは歴史資料館に入って行ってしまった。残っているのは、恋さんが置いていった風呂敷包みだけ。
 
 ………荷物を置いていったって事は、これからもっと危ない事、するのかも知れない。
 
「…………行かなきゃ」
 
 それでも、詠ちゃんはゆっくりと歩き始める。こんな怖い光景を見ても、先輩を追い掛ける。
 
「……やっぱり、好きなんだね」
 
 わたしと、詠ちゃん、同じ人を……好きになっちゃったんだ。
 
「………好きじゃない」
 
 詠ちゃんは、必死に首を振って否定する。
 
「好きじゃない……あんなヤツ好きじゃない! でも………」
 
 詠ちゃんの場合、それは肯定と同じ。本当に……本当に好きなんだ。
 
「あんなお別れなんて、絶対…絶対認めないんだから………!」
 
「………うん!」
 
 少しだけ聞けた詠ちゃんの本音に、わたしも元気よく返して、歩きだす。
 
 複雑な気持ちも、怖い気持ちも確かにあるけど、後悔だけはしたくない。
 
 だってこれは、わたし達の……初恋なんだから。
 
 



[14898] 二十七章・『存在否定』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/06/20 20:26
 
 ―――くだらない。
 
『描きなさい、貴方の想念を』
 
 ―――どんな物語だろうと興味は無い。それが作られたものに過ぎない以上、全て等しく愚劣極まる茶番劇でしかない。
 
『この世界は、この世界に生きる人たちのものだろ!』
 
 ―――それが茶番劇だという事すら気付かずに踊り続ける傀儡ども。虫酸が走る。
 
『私たちに出来る事なんて何一つ無い。ただ全てを享受し、裁定を待つだけ』
 
 ―――全てを否定する。何もかも消えて無くなればいい。……俺がそう願う事すら、傀儡としての役割に過ぎない。
 
『願わくば否定を』
 
『願わくば肯定を』
 
 ―――反吐が出る。結局最後は正史の裁定に委ねるしかない。突端も終焉も、全ては偽りでしかないのだから。
 
『お前が本当に否定したいのは、この世界じゃないんじゃないのか』
 
 ―――それでも俺は、この外史を否定する。それが俺の、存在理由なのだから。
 
 
 
 
 聖フランチェスカなのに馴染みの無い、一度しか来た事の無い建物の廊下を進む。
 
 ……あの時何を考えていたのか、今じゃさっぱり思い出せない。それくらい、本当に軽い気持ちだった。
 
 課題の感想文を書くため、そんなちっぽけな理由で来たんだから当然だ。……でも、それが俺の世界を変えた。
 
「(女の子を助けたいから、異世界に渡る。……昔の俺が聞いたら、大声で笑ってるトコだよな)」
 
 離れていても、気持ちは繋がってる。……なんて、気取った言葉で誤魔化すつもりはない。
 
 どっちを選んでも別れはあって、どっちを選んでも俺は後悔していたと思う。
 
 この世界で、星や愛紗、恋、それに……月や詠と生きていく。そんな人生も悪くないって思う。

 
 だけどやっぱり……それは出来ない。
 
「(桃香が、待ってる)」
 
 死に別れた恋人と、また離れ離れになるのは凄く辛い。だけど……また恋人を死なせるのは、絶対に嫌だ。
 
 薄暗い廊下の先、朧気な記憶を辿って行き着いた一室。その扉の隙間から、隠そうともしない明かりが漏れ出ている。
 
「(あの時は、得体の知れない何かに巻き込まれて外史を越えた)」
 
 今度は、自分の意志で世界を越える。誰に強制されたわけでもない、俺自身の選択で。
 
「久しぶりだな、北郷」
 
「二度と会いたくはなかったけどな」
 
 ―――俺たちの踊らされて来た全ての因果に、決着をつけて。
 
 
 
 
 広々とした展示スペース。居並ぶガラスケースに納められた骨董品の数々。そんな一室の最奥には、忘れるはずのない敵。そして探し求めた銅鏡。
 
「儀礼的に訊いておきましょうか。何をしにここへ?」
 
 気持ち悪さが一段と増して見える、スーツ姿の于吉。
 
「俺たちの世界に帰る。その銅鏡を使って、外史の突端を開かせてもらう」
 
「そうやってまた繰り返すのか。これは世界を守る物でも、世界を渡る道具でもない。お前は身を以て知っているはずだ」
 
 そして初対面と同じ、聖フランチェスカの制服を来た……左慈。
 
「終わりなんかじゃない。それは俺が誰より良く解ってる」
 
 星があっちから持って来てくれた倚天の剣を鞘から抜いて、俺は一歩一歩近づいて行く。
 
 最初から話し合いなんか出来るとは思ってない。俺が守りたいものと、こいつらが消したいものが同じである以上、どうあっても相容れる事はない。
 
「………誰より解っている、だと?」
 
 明らかに空気が変わった。そう感じた時には―――
 
「ッうお!?」
 
 投げ放たれたナイフが高速で俺の顔面に迫り、寸での所で弾いた時には―――
 
「くたばれ」
 
 憎悪の炎を宿した冷たい声が、“下から”聞こえていた。一瞬にして懐に潜り込んだ敵は、俺が視認するより早く―――
 
「!? ……ちぃ!」
 
 蹴り飛ばされ、受け身を取りながら床を転がる。
 
「一刀に、触るな」
 
 左慈を蹴り飛ばした恋は小さく呟き、そして襲い掛かる。それを頼もしいとか思う暇もなく、あっという間に“戦い”は始まっていた。
 
 他力本願と笑わば笑え。油断してたつもりはないけど正直、俺はフォローが入るのを確信していた。
 
「相変わらず短気な奴………」
 
「ご主人様、お下がり下さい!」
 
 愛紗が、星が、庇うように俺の左右前方で得物を構える。その間にも、恋と左慈の戦いは続いてる。
 
「どけぇ!」
 
 左慈の蹴撃が恋の頬を掠めれば………
 
「っ……どかない」
 
 恋の拳が左慈の前髪を揺らす。両手足が目まぐるしく繰り出される、眼で追う事も厳しい攻防………でも、判る。
 
「嘘だろ………」
 
 得物がない素手同士とはいえ、あの恋が……押されてる。
 
「(そうだ………)」
 
 こいつは、あの貂蝉とだって素手で互角に渡り合う奴だった。
 
「紛い物とはいえ、天下無双を名乗るだけはあるな」
 
「……名乗ってない」
 
 鋭い回し蹴りが、一足飛びに下がった恋の眼前の空間を斬り裂く。それとほぼ同時―――
 
「恋、使え!」
 
 星の呼び掛けと共に一筋の紅い光が奔り、
 
「お前に用は無い、消えろ!」
 
 後ろを見もせずに伸ばした恋の手に、吸い込まれるように納まった。
 
 一瞬。
 
 後退した恋に追い討ちを掛けようと迫っていた左慈と恋の影がぶつかり―――
 
「死ね」
 
 俺には、光の筋が瞬いたようにしか見えなかった。
 
 すれ違い様、赤黒い鮮血が飛沫を上げる。バラバラに四肢を裂かれて転がる、左慈だったものによって。
 
「………軽すぎる」
 
「むっ、人の愛槍に文句をつけるな。貸してやっただけありがたいと思え」
 
 恋の手に握られてるのは、星の直刀槍・『龍牙』。さっき投げ渡された物だ。
 
 にしても、何て言うか………
 
「さすがは恋、見事な武ですね」
 
「ホントにね……」
 
 愛紗と一緒に、称賛を漏らし合う。いい感じに虚を突けたとはいえ、槍を持った途端にこれかよ。
 
 頼もしいとか誇らしいとか思うより、ついつい呆然としてしまう。
 
 ……って、そんな場合じゃない。俺は気を取り直して、于吉に剣を向ける。
 
 ………が、
 
「やれやれ、貴方はいつもそうやって血気に逸る」
 
 仲間を殺された于吉は、まるで動揺していなかった。その意味を、俺は直後に知る。
 
「……ムカつくんだよ。この茶番劇を生み出した元凶が、全部わかったような顔で好き勝手にほざいてるのがな」
 
 あり得ない所から返された、声。咄嗟に離れて振り返れば、半ば予想していた光景がそこに在る。
 
「俺たちはこの程度では死ねないんだよ……忌々しい事にな」
 
 恋に斬り殺されたはずの左慈が、何事もなかったように立っている姿。手足はもちろん、傷一つ、服に汚れすら付いちゃいない。
 
 ……斬っても死なない。そういや、華琳がそんなこと言ってたような。
 
「英傑三人が相手か…………おい」
 
「解っていますよ。とは言うものの、私一人では出来る事にも限りがありますが……」
 
 名前すら呼ばずに求めた左慈に、于吉は嫌な顔一つせずに応えて、一言唱えた。
 
「『増』」
 
 そして、さらなる驚愕が俺たちを襲う。左慈が復活しても変わらず床に転がっていた手足が、もぞもぞと動きだした。
 
 四つの肉塊はもぞもぞと動き、斬られた断面から這い出るように肉が生えて来る。元の四肢の質量なんて軽々と越えた血肉は形を成し、さらに四つの肉体を生み出した。
 
 そこに立つのは、さっき復活した奴を含めた……五人の左慈。
 
『こんなところか』
 
 同じ声が、五つ、重なる。
 
 本能的に俺たちは離れ、一ヶ所に固まった。
 
「化け物め……!」
 
 愛紗が吐き捨て、
 
「……気持ち悪い」
 
 恋が嫌悪に眉を歪め、
 
「臆するな。如何に数を増やそうと、本物は一人のはずだ」
 
 星が青紅の剣に手を掛ける。俺もまた、あまりの反則っぷりに腹を括る。
 
「本物だと?」
 
 一人の左慈が鼻で嘲う。その手に鉄棍が現れた。
 
「世界の理に触れて、まだそんな戯れ言を並べるか」
 
 一人の左慈が罵る。その手に曲刀が現れた。
 
「本物などいない。“全て偽物だ”」
 
 一人の左慈が呟く。その手に鉤棍が現れた。
 
「ここにいる全ての俺も、自分を唯一無二と信じて疑わないお前らも、そしてそんな俺たちを内包する世界そのものも………」
 
 一人の左慈が呪う。その手に双節棍が現れた。
 
「一つとして本物など存在しない。………この世界がどれほど虚ろに作られているか、少しは理解出来たか? 傀儡ども」
 
 そして武器を持たない左慈が、俺を蔑む。
 
「……………はぁ」
 
 可哀想な奴。絶対に相容れない敵だけど、そう思わずにいられない。
 
「見せてやるよ。お前が否定するものが、本当に虚ろかどうかを」
 
 星がいる、恋がいる、愛紗がいる。今の俺に……怖いものなんて何も無い。
 
 



[14898] 二十八章・『想念の墓場』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/06/20 20:29
 
 斬っても死なないと言うなら、相手にするだけ無駄。自分たちの目的は左慈らを倒す事ではないのだから。
 
 目配せ一つでその意識を共有した一刀ら四人は、団結して走りだした。
 
 前方に恋を、左右に星と愛紗を、そしてその中央に一刀を据えて、一直線に銅鏡を目指す。
 
 銅鏡に触れるのは一刀。そしてその時、一刀に全員がしがみついておく事。これはここに来る前から決めていた事だった。
 
 自我を蝕まれるような奔流に耐えて外史を越えるには、どこまでもがむしゃらに求める心……愛こそが必要。それが、初めて“自発的に”外史を越えた星と愛紗の見解だった。
 
 つまり、この役割は一刀にしかこなせない。既に愛する人が傍らにいる他の者には不可能だと考えた。
 
 しかし……それらは二次的な理由に過ぎない。全ては直感に基づく不確定な推測。あんな常識の通じない物に触れて、何が起こるかなど解ったものじゃない。
 
 だからこそ。“何が起きても一緒に”と決めていた。
 
「………どけ」
 
 突き出された恋の方天画戟を、一人の左慈が曲刀で受け止め、お返しとばかりに別の左慈が鉄棍を恋に振るい、愛紗が止める。
 
 さらに星が、そして残る左慈らが攻勢に回り、両軍の間に乱撃による火花が乱れ飛ぶ。
 
 そんな、“三対四の攻防”を“飛び越えて”―――
 
「でっ!?」
 
 五人目の左慈が、星たちの後ろにいた一刀の顔面を蹴り飛ばした。
 
「ご主人様!」
 
「大丈夫!」
 
 蹴られながらも自ら頭を引いて威力を殺していた一刀が、受け身を取りながら愛紗の悲鳴に応える。
 
 一刀を守る布陣は、あまりに呆気なく崩れた。
 
「(嫌な予感ばっかり当たる)」
 
 内心で一刀は舌打ちを溢す。この五人の左慈は、その全てが一刀らの知る左慈と寸分違わぬ実力を有しているようだった。
 
 いくら星たちでも、一刀を守りながら戦える相手ではない。
 
 その証拠に、今も一刀の援護に回れずにいる。曲刀の左慈と双節棍の左慈が、二人掛かりで恋を、鉤棍の左慈と鉄棍の左慈がそれぞれ星と愛紗を足止めしていた。
 
 当然―――
 
「今度こそ、終わりにしてやるよ」
 
 残る一人。武器を持たぬ左慈が、一刀の前に立っている。
 
「終わらないさ。あの時だって、そうだったろ」
 
 戦るしかない。僅かな昂揚と共に覚悟を決めて、一刀は剣を振るって飛び出した。
 
「ああ……あの物語は潰れず残り、新たな物語が『想造』された」
 
 一振り―――
 
「あの結末を否定した正史の人間の想念を使って、貂蝉は俺たちを“ここ”に放逐した」
 
 また一振り―――
 
「形に為らない想念の残滓。物語に関わる事なき可能性の欠片。俺が望んだのは、こんな結末じゃなかった」
 
 以前の外史にいた頃よりも、遥かに研ぎ澄まされた一刀の剣を……左慈は、涼しい顔でいとも容易く躱していく。
 
「くそっ!!」
 
「挙げ句の果てに、またお前だ」
 
 そしてまた、一刀の剣が空を斬り、同時に左慈の言葉に燃え盛る憤激が混ざり―――
 
「ぐ……!?」
 
 一刀は避ける間もなく、左頬に焼けるような痛みを受けて吹っ飛んだ。
 
「何なんだよ………」
 
 雪像のような無表情の中、瞳だけを憎悪に燃やして、左慈は一刀を見下す。
 
「何なんだよ、お前………」
 
 見下して、歩み寄って………立ち上がった直後の一刀の腹を蹴り飛ばし、また這いつくばらせる。
 
「お前が軽々しい正義感で邪魔しなきゃ、物語は始まる事もなかった。そして……漸く物語から外れて消滅を待っていたのに、またお前のせいでこの様だ!」
 
 立ち上がっては殴り倒され、斬り掛かっては躱され、蹴り飛ばされる。
 
「お前さえいなければ、俺はこんなくだらない世界に縛られる事もなかった!」
 
 何度挑んでも剣は悉く空を斬り、逆に左慈の攻撃は一刀を一方的に痛めつけていく。
 
「そしてまた、新たな物語を作り出そうとしている。そうやって、お前は永遠に繰り返すつもりか!」
 
 額を割られた額から血が流れて視界を妨げ、散々に切れた口内に鉄の味を噛み締め、身体中を苛む激痛に耐えながら………
 
「(……“たったの”、五人?)」
 
 一刀は、必死に思考を巡らせていた。
 
「(増やす対象が左慈だから、なのか? でも、ならあの時は何で増やさなかった?)」
 
 そう、泰山の決戦では、それこそ何万という兵を一瞬で増殖させてみせたはず。だが、今はたったの五人。
 
 そしてその五人すら、最後の対峙では増やさなかった。
 
「(何でしない……いや、出来ないのか?)」
 
 そう考えた時―――
 
『鏡を破壊する儀式をするには―――』
 
『私一人では、出来る事にも限りがありますが』
 
 一つの事実に、辿り着いた。
 
「だったら……お前は何で俺の邪魔をするんだよ!!」
 
 剣を振り抜くと同時に、叫ぶ。それは当然のように外され、逆撃として放たれた蹴りを……今度は直撃されず何とか肩で受ける。
 
「あぁ!?」
 
「何で俺に……物語に関わるのかって訊いてんだよ!」
 
 受けて、お構い無しにさらなる連撃に繋げる。僅かに意表を突かれた左慈の袖口が浅く斬られた。
 
「お前には、本当なら于吉以外にも仲間がいた。だけど今はいない。違うか?」
 
 再び、左慈の拳が一刀の顔面を襲う。しかし一刀は怯まず、頭突きをそれにぶつけた。
 
 脳が揺れ、額から血が吹き出し、だが眼の色は死んでいない。
 
「そしてそれは……正史の記憶に、印象に残らなかったから。“物語に深く関わらなかったから”だ!」
 
「ッ……!」
 
 図星を突かれて表情を歪める。そんな左慈の直情が有り難い。
 
「そんなに消えたきゃ引っ込んでろよ。地味にしてれば、正史の人間だっていつかお前の事を忘れてくれるぜ」
 
「黙れ! 外史の否定こそが俺の存在理由だ!!」
 
 一刀にとって、この挑発には敵の戦力を探る以上に大きな意味がある。
 
「(“儀式”ってのは完成してない……!)」
 
 星と愛紗がこの外史に渡って来た。そう判った時点で、違和感はあった。あの銅鏡は、突端と終幕の象徴。外史を渡る扉などではあり得なかったはず。
 
 ―――そう、かつて外史で一刀が触れた時のように。
 
 しかし、それこそが左慈らの“儀式”によるものだったとしたら? 何の邪魔もなかったからこそ、星と愛紗は外史を越えられたのだとしたら?
 
「(確信した……俺たちは“帰る”事が出来る!)」
 
 それはそのまま、今の一刀らの希望に繋がる。
 
「行くぞ左慈ぃ!!」
 
 思い切り剣を振りかぶる。当たるはずのない大振り。
 
「無駄だ、お前の剣は当たらない」
 
「だろう……なっ!」
 
 そう、“左慈には”。
 
 一刀の剣は大きく弧を描いて―――
 
「な………!?」
 
 一刀の傍らのガラスケースを粉々に砕いた。粉砕された硝子の破片が、細雪のような光の粒となって左慈に襲い掛かる。
 
「貴様……!」
 
「くらえェ!!」
 
 硝子の破片に手や顔を傷つけられ、堪らず眼を閉じた左慈に、一刀は今度こそ当人に向けて剣を振るい―――
 
「!!」
 
 ―――躱される。
 
 眼を閉じたまま、前宙の要領で跳び上がった左慈は……芸術的なまでに鮮やかに一刀の剣を躱していた。
 
「惜しかったな」
 
「そうでもねーよ!」
 
 だが、“それでいい”。
 
 一刀は剣を躱された事には眼もくれず、突っ込んだ勢いそのままに駆け抜けていた。
 
「行かせるか…っ…」
 
 それを確認し、すぐさま追撃に転じようとした左慈の頭に、何か硬い物がぶつけられる。
 
「行け、主!」
 
「助かった!」
 
 攻防の最中、一瞬の隙に乗じて放たれた……星の下駄である。
 
 その隙に一刀は、部屋の最奥に納められた銅鏡……には向かわず、僅かに逸れて―――。
 
「おや、私ですか」
 
 擦れ違い様、避ける素振りすら見せない于吉を一太刀で斬り捨てた。
 
 これで死なない事など百も承知、だが………
 
「皆、走れ!!」
 
 左慈の『増殖』の元凶がこの于吉だとすれば……。その推測は、的中していた。
 
「はぁああああ!!」
 
 愛紗が、
 
「お見事……!」
 
 星が、
 
「………行く」
 
 恋が、糸を失った操り人形のように不自然に動きを止めた左慈らを、一撃の下に葬った。
 
 葬って、走りだす。愛する人の背中を追い掛けて。
 
「はっ!!」
 
 仲間たちの足音が近づいて来るのを背中に聞きながら、一刀はガラスケースを割り砕く。
 
 割り砕いて、手を伸ばして…………
 
「(届いた………!)」
 
 遂に、触れた。
 
 あの時と同じ。しかし全てを再現するわけにはいかない。
 
「皆………」
 
 鏡から光が溢れ出すより早く、一刻も早く、仲間の許に駆け寄ろうと振り返った先に……見る。
 
 既に再生を果たした五人の左慈が、星たちの背中に各々の武器を投げつけている様を。
 
「避けろぉ!!」
 
 その声に従って、星たちはそれぞれ背後からの強襲を防いだ。
 
 それを見て、安堵して、今さらのように一刀は気付く。
 
「(光が、出ない……?)」
 
 新たな外史の突端となるはずの鏡が、自分の手の中で、何の反応も示さない事に。
 
「な、何で……がっ!?」
 
 信じられない。隠し切れないその感情に思考を止めてしまった一刀の側頭を、左慈の右足が弾く。
 
 思わず手放された銅鏡は、いとも容易く左慈の手に渡る。そしてそのまま、やはり何事もなく復活していた于吉へと投げ渡された。
 
「貂蝉から聞かされていなかったらしいな。この世界は外から中への一方通行。……やはり、お前でも無理だったか」
 
 静かに、ただただ残酷に、外史の理は一刀を拒む。
 
「(銅鏡に触れても、帰れない………?)」
 
 肯定も否定もそこにはない。打ち捨てられた者を、零れ落ちた者を内包して、新たな解を基点に求める。
 
 



[14898] 二十九章・『久遠』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/06/20 20:31
 
「お前がこの外史を否定すれば、或いは……。そんな風に考えていたんだがな……」
 
 膝が脇腹にめり込み、肋骨が嫌な音を立てて軋む。
 
「これで本当に、貴様を生かしておく意味も無くなった。最初からこうしておけば良かったんだ」
 
 くの時に曲がり、下がった顎に拳を打ち下ろされて、もう何度目か床を転がる。
 
「(貂蝉のやつ、手出し出来ないようにしたって……こういう事かよ……)」
 
 朦朧とする意識の中で、そんな自分をどこか他人事のように見つめながら、一刀は渇いた笑いを漏らす。
 
 やっと届いた唯一の希望が、手の中で泡沫に変わって消えてしまった。
 
「(いや、まだだ………)」
 
 絶望するにはまだ早い。何か方法があるはずだ。
 
「死ねよ、北郷一刀」
 
 以前の一刀なら諦めていた。だが、教えてくれた人がいた。
 
 天下を分ける決戦の最中。華琳を斬るしかないと諦めた一刀を、止めてくれた人の声が……今も一刀に聞こえている。
 
「っ……!?」
 
「……待ってろよ、桃香」
 
 再び打ち下ろされた拳を、片膝を着いたままの一刀が受け止め、掴む。掴んで、押さえて……逆の手に握った剣で斬り返した。
 
「やれるもんなら、やってみろよ」
 
 浅く……しかし確かに、一刀の剣が左慈を捉える。左肩から右脇腹まで袈裟斬りに、左慈の体から鮮血が染みだした。
 
「お前……本当は俺を殺す事なんて、出来ないんだろ」
 
「っ!?」
 
 一刀の言葉が、傷の痛み以上に鋭く左慈を刺す。
 
 思えば、ずっと違和感があった。
 
「あの世界にいた頃から、お前が俺を殺そうと思えば、いくらでも方法はあったはずだ」
 
 それなのに、わざわざ回りくどいやり方で、月の両親を人質に取り、華琳を操り、冥琳をけしかけた。
 
「だけどそうしなかった、出来なかった。お前らには、物語を紡ぐ事が出来ないから」
 
 だから主人公を殺す事も出来ない。物語に大きな影響を与える事は出来ない。
 
「お前も同じだ。たとえどんな物語を紡ごうと、それは結局偽りでしか無いんだからな!」
 
 なのに左慈は……幾度となく一刀を殺そうとした。定められた筋道を見届ける事しか出来ないはずなのに。
 
「お前みたいに、何もかも否定して自分すら認めなかったら、そりゃ生きててもつまんねぇだろうよ」
 
「………黙れ」
 
「お前に比べたら、どっかの筋肉ダルマの方がよっぽど楽しそうに生きてるぞ」
 
「黙りやがれ!」
 
 突き出された拳を、一刀はもはや怖れない。
 
「がっ……!?」
 
 自身に直撃するより速く、真っ正面から殴り飛ばした。強い想念が正史を通じて具現化する……それこそが、外史。
 
「正史も外史も関係ないんだよ。『世界にとって自分が何なのか』なんて、きっと誰にも解りやしない」
 
 仮に、正史にも決められた運命と呼べるものが存在するとして、人がそれを知る術は無い。
 
「だけど、それで絶望したりしない。確かにそこに存在してるんだから」
 
 悩んで、迷って、悔いて、翻弄されて生きて来た一刀だからこそ、解る。
 
「お前が本当に否定したいのは、この世界じゃないんじゃないのか」
 
「――――――!!」
 
 自分でも気付いていなかった心の裏側を貫かれて、左慈は言葉にならない絶叫を上げた。
 
 それを合図とするかのように――――
 
「ッオオオオォォーーーーー!!!」
 
 青龍の咆哮が建物を震わせた。全身全霊……正に魂魄そのものを込めた一撃を以て、愛紗の刃が鉄棍ごと左慈の一人を両断する。
 
「でかした! はあっ!!」
 
 そして一番至近にいた、星と戦う鉤棍の左慈の左腕をも斬り落とす。愛紗のくれた勝機を逃す星ではない。たちどころに眼前の左慈を葬り去る。
 
 それと同時―――
 
「ふっ!!」
 
 恋の方天画戟が、眼前にいた二人の左慈の片割れを、双節棍を繋ぐ鎖ごと唐竹のように裂く。
 
 裂いて、そのまま地を這うような低姿勢で于吉の懐まで飛び込み―――
 
「渡せ」
 
 于吉の手にしていた銅鏡を、下から蹴って撥ね上げる。
 
「ご主人様!」
 
「わかった!」
 
 愛紗が青龍刀を振るって猛然と襲い掛かり、一刀の前から左慈を追い払う。
 
「さらば、天上の世界よ!」
 
 星が、ガラスケースを踏み台にして高々と舞い上がる。
 
「これは! そうか……貴女が……ッ!?」
 
 戸惑う于吉を蹴り飛ばして、恋は来るべき瞬間に向けて駆け出す。
 
「…………………」
 
 一刀は見上げる。ゆっくりと弧を描いて降って来る、突端と終焉の象徴、そして……その向こうにいる水色の少女を。
 
「(これを壊せば、もう二度と外史は巡らないのかもな………)」
 
 これこそが、左慈たちの真の狙いなのかも知れない。そんな考えが頭を過って、しかし躊躇いは無い。
 
 ―――一刀にとって、今ここに在る全てが疑い様の無い“本物”だから。
 
「扉が閉ざされているのなら………」
 
 星の剣が振り上げられる。
 
「斬り開いてやればいい」
 
 一刀の剣が構えられる。
 
「「砕け散れ!!」」
 
 青紅倚天。二つの剣閃が交叉し、去り往く世界に光を刻む。
 
 ―――描かれたのは、燦然と輝く至高の十文字。
 
 
 
 
 いつかのように、またいつかのように、膨らむ白光が一刀を包み込む。
 
「皆……早く……っ」
 
 蘇るのは、悪夢。愛する者らと引き離され、思い出の全てを踏み躙られる恐怖。
 
「一刀……!」
 
 この瞬間の為に駆けていた恋が、勢いそのままに一刀に飛び付く。
 
「主っ」
 
 続いて、一刀と共に銅鏡を断ち斬った星が、懸命に一刀へと手を伸ばす。
 
 その光景があの時と重なり、しかし異なる。今度は………届く。
 
「せ………」
 
 星。そう呼んで手を握ろうとした一刀の視界から、愛する少女の姿が消える。
 
 横合いから星を突き飛ばした愛紗によって。
 
 どうして? その言葉が口から出る事はない。―――何故なら、一刀は見た。
 
「愛、紗………?」
 
 愛紗の胸から“生えている”―――曲刀の刃を。星を庇った愛紗が、左慈の凶刃を受ける光景を。
 
「愛紗ぁあああぁあーーーーー!!」
 
 曲刀が引き抜かれた傷口から鮮血が噴き出し、一刀を、恋を、恋の手に掴まれた星を濡らす。
 
「(落ち着、け……っ!)」
 
 自失する寸前の心を、一刀はギリギリの所で持ち直した。
 
 他でもない、愛紗を救う為に。
 
「(諦めない……!)」
 
 斬殺された一刀でさえ、外史を越えれば生きていた。
 
「諦めるな! 愛紗!!」
 
 だったら、今の愛紗だって救う事が出来るはずだ。
 
 手を、足を、体を、意識を、存在そのものを引きずり込まんとする白い光に逆らって、一刀は懸命に手を伸ばした。
 
「ご主、じ…ん……様…………」
 
 口から血を流し、生気の薄れた瞳で一刀を見る愛紗の手が、弱々しく伸ばされる。
 
「一緒に帰ろう! 俺たちの世界へ!!」
 
 あの時止まってしまった物語を、もう一度。
 
 無我夢中で伸ばされた手は、愛紗の手に届き……………
 
 ―――しかし何も掴めなかった。
 
 愛紗が、一刀の手を、避けた。
 
「もう一度……貴方に会えて……嬉しかった……」
 
 抑え切れない涙の中で、精一杯に浮かべた頬笑み。―――喜びだけを乗せようとして、少しも上手く出来ない頬笑み。
 
「愛紗………?」
 
 どうして避けるのか。どうしてそんな笑顔を浮かべるのか。どうしてそんなに………寂しそうなのか。
 
 理解して……しかし決して認めたくないのに――――
 
「嫌だ………」
 
 わかってしまった。
 
「愛紗ぁあああぁあーーーーー!!」
「主!!」
 
 切なくて、儚くて、悲しい……最後の笑顔が、光の向こうに消える。
 
 もう戻れない世界に手を伸ばす一刀を、星が必死に、抱き留める。
 
 ここで気持ちを後ろに向ければ、世界の狭間で形無き想念となって消えてしまうと、解っていたから。
 
「愛紗………」
 
「主!!」
 
 自分のせいで愛紗が死んだ。そんな、人間として当たり前に抱く感情を、星は必死に押し殺す。
 
「愛紗………」
 
「主!!」
 
 押し殺して、叫ぶ。壊れたように愛紗の名を呼ぶ一刀に、ひたすら呼び掛け続ける。
 
「愛紗………」
 
「一刀!!」
 
「主!!」
 
 恋が叫ぶ。星が叫ぶ。全ては………一刀に生きて欲しいから。
 
 その呼び掛けに、一刀は…………
 
「俺、は……………」
 
 
 
 
「はぁ……はぁ……はぁ………」
 
 光に包まれていく空間の中、とっくに息絶えていても不思議ではないほどの重傷を受けながら……少女は倒れない。
 
 か細い呼吸を繰り返し、生気の無い瞳を決して閉じず、確かに“敵”を捉えていた。
 
「我が、名は……関羽! 北郷一、刀……第一の…臣……!」
 
 こんな事をしても、意味は無いのかも知れない。何が変わるわけでもないだろう。
 
 それでも愛紗は……死ぬまで戦う事を選んだ。
 
「我が一撃をッッ……天命と心得よぉぉォォーーーーー!!!」
 
 外史の狭間で奔流に呑まれながら、少女が何を憂い、何を想い、何を願ったのか。
 
 穢れの一つも知らない白い花が、誰にも見られる事の無い渇いた大地に一輪………淋しそうに咲いていた。
 
 



[14898] 三十章・『蒼天の向こうへ』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/06/20 20:40
 
「悲しくないの?」
 
 誰かが俺に、語り掛ける。悲しくない。俺はそう応えた。
 
「悔いる事はありませんか?」
 
 誰かが俺に、語り掛ける。後悔なんてない。俺はそう応えた。
 
「………泣かないの?」
 
 誰かが俺に、語り掛ける。泣かないよ。俺はそう応えた。
 
「相変わらず、ご主人様は嘘が下手ですね」
 
 誰かが俺に、語り掛ける。そうかもね。俺はそう応えた。
 
 ちっぽけな人間だから。本当は悲しくて、後悔してて、泣きたかったとしても………今だけは、俺は自分に嘘をつくんだ。
 
 
 
 
「…………………」
 
 城から少し離れた前方に、物凄い数の呉軍が迫って来てる。
 
 これはわたしの招いた結果。少しでも……この子の為にって、悪あがきをした結果。
 
 わたしがもっと早く都に行ってれば、ここまで大きな事にはならなかった。
 
「(………ううん、そうじゃない)」
 
 愛紗ちゃんの苦しみを、しっかり理解してあげてたら、こんな事にはならなかった。感付いてたのに、全部一刀さんに任せて………何もかも失った。
 
「(情けないよね、わたしお姉ちゃんなのに)」
 
 それを解ってたのに、わたしは悪あがきした。今まで、わたしの言葉でたくさんの人が命を落として来たのに………この子の存在を知ったら、死ぬのが、とても怖くなった。
 
「(………わたしと、一刀さんの赤ちゃん)」
 
 この世にたった一つ残された、一刀さんの欠片。
 
「(ごめんね………)」
 
 貴方は何も悪くないのに、貴方のせいにしちゃって。……でも、それももう、おしまい。
 
「(お母さんが、一緒だからね)」
 
 鈴々ちゃん、朱里ちゃん、斗詩ちゃん、猪々子ちゃん。これまでわたしを支えてくれた皆が、わたしの言葉を待ってる。
 
「これがわたしの、君主としての最後の命令です」
 
 皆の気持ちは解ってる。だけどわたしは、やっぱりワガママみたい。
 
「みんなは、生きて」
 
 上手く笑えてるかな。こんな時なのに、わたしはそんな事を考えていた。
 
 
 
 
「一刀がこれ見たら、何て言うやろな」
 
「どうもこうも、お兄さんがいたらこんな事になってませんよ?」
 
 霞がぼんやりと呟いて、風が小さく応えた。
 
「星姉様……どこ行っちゃったんだろ……」
 
「ほっとけよ、こんな時に姿消すような奴なんか」
 
 蒲公英が俯いて、翠が吐き捨てる。
 
「………あの星さんが、理由も無く姿を消すとは思えませんが」
 
「こんな時に外せない用事なんて、あたしには想像つきませんけどね」
 
 雛里はどこか現実逃避気味に思案に暮れて、散が肩を竦める。
 
「…………………」
 
 舞无に至っては、すっかり憔悴しきった様子で沈黙を保っている。もうずっと、まともに食事を採っていないらしい。
 
 それぞれ態度に違いこそあれ、皆別人のように覇気が無い。
 
「………それで、なぜ貴殿がここにいるのですか、貂蝉」
 
「あらん、稟ちゃんったらツレないわねぇ。空気を読んで静かにしてたのに、邪魔者扱いするの?」
 
 いつもと変わらない軽口が、異様に神経に障る。何度追い払ったか数えていないが、その度に懲りずに戻って来るから諦めた。
 
「わたしにも結末は解らないわ。だけど外史には無限の可能性がある。星ちゃんはそれを良く解ってるわよん」
 
 何より、こうして時折思わせ振りな事を口走るから始末が悪い。
 
「………貂蝉、貴殿は星の居場所を知っているのですか」
 
 星が、私たちにも言わなかった行き先をこの化け物に話したとは考えたくないけれど。
 
「直接聞いたわけではないわ。心当たりがある、とだけ応えておきましょうか」
 
「話しなさい」
 
「後で、ね。もっとも、わたしが話す必要があれば、だけど」
 
 埒が明かない。星の事は後でどんな手段を使っても訊き出すと決めて、私は正面に眼を戻す。
 
 これから始まる、後悔しか生まないだろう凄惨な戦いを見届ける為に。
 
 
 
 
 尋常ならざる熱気を撒き散らす呉の軍勢。その一画に近寄る少数の騎兵の姿があった。
 
「ごきげんよう、孫伯符」
 
「あら、久しぶりね、曹操」
 
 魏王たる華琳、そしてかつては呉王だった雪蓮の、熱くも冷たくもない対面である。
 
「説得するなら、相手が違うわよ?」
 
「今さら私の言葉で勅命が覆るものでもないでしょう。ただ……ここの方が良く見えそうだと思っただけよ」
 
 この場には、春蘭もいれば祭もいる。しかし誰もが、二人の王に礼を持って会話に入ろうとはしない。
 
「宿敵の最期を見届けに来たって事?」
 
「………まあ、当たらずとも遠からず、と言った所ね」
 
 それだけ言って、二人は黙って肩を並べる。後は見届けるだけ、死を目前にした桃香の解と……復讐の果てに行き着いた蓮華の解を。
 
「…………嫌な空ね」
 
 どす黒い暗雲が、空を一片も残さず覆い隠していた。
 
 
 
 
「…………………」
 
 向かい合うのは、深緑の軍勢と赤の軍勢。だがこれは、決して戦いではない。
 
 否、戦いにさせはしない。
 
「…………………」
 
 深緑の群れから進み出る、たった一人の少女が。
 
「わたしが、劉玄徳です」
 
 決して張り上げているわけではない静かな声が、津波のような兵の集う戦場で、驚くほど凄絶に響く。
 
「この国は、掛け替えの無い人物を失ってしまいました。乱世を終焉へと誘い、この先の大陸を平穏に導くはずだった方。……天の御遣い、北郷一刀様です」
 
 それは、戦乱の日々で桃香が得た強さ。何より困難な理想に立ち向かうと決めた、揺るぎない決意。
 
「その喪失は、誰にとっても許せるものではないでしょう。それほどに彼の人は尊く、誰より多くの人に愛されていました」
 
 しかし、その決意も今となっては虚しい。今の彼女に出来る事はただの懺悔でしか無いのだから。
 
「それでも、今ここには、他でもない御遣い様の築いた平穏が在ります。罪の無い、明日を生きるべき命が、たくさん在ります」
 
 だが、桃香は戦う。最後の最後まで、守りたいものを守る為に。
 
「此度の惨劇、全ては我が不徳の致す所! 裁きを受けるべきは、この劉玄徳ただ一人!!」
 
 ―――一粒、雫が落ちる。魏王が呟いた。
 
「………やはり、それが貴女の解なのね」
 
 ―――一粒、雫が落ちる。かつての呉王が眼を鋭く細めた。
 
「蓮華、後は貴女次第よ」
 
 ―――一粒、雫が落ちる。呉王が唇を噛んだ。
 
「っ…………」
 
 ―――一粒、雫が落ちる。一人の義妹が叫びを上げる。
 
「ヤだ……お姉ちゃんが死ぬなんて……ヤだぁああーーー!!」
 
 ―――一粒、雫が落ちる。一人の軍師が俯く。
 
「桃香さま……初めてご命令に背きます」
 
 一粒。
 
「……すいません、麗羽さま。あたいら、一足先に逝かせてもらいます」
 
 一粒。
 
「桃香さま一人死なせて、めでたしめでたしってわけにはいかないもんね、わたしも文ちゃんも」
 
 一粒。
 
「一刀……すまんなぁ」
 
 一粒。
 
「………今日のお兄さんは、真っ黒でご機嫌斜めですね」
 
 一粒。幾つもの雫が重なって、それらは雨へと姿を変える。
 
「……貴様の命一つが、一刀の命と等価だとでも言うつもりか」
 
 幼き皇帝が剣を抜く。
 
「しかし……それしか無いようだ」
 
 そして、告げる。
 
「かかれぇ!!」
 
 赤の軍勢が、雪崩を打って襲い掛かる。それと同時に、雨は豪雨へと姿を変えた。
 
「…………………」
 
 怒号と雨音だけに音を支配された空間が、一人立ちすくむ桃香に、別世界に迷い込んだかのような錯覚を与える。
 
「(どうして、こんな事になっちゃったのかな…………)」
 
 自身の下腹部を撫でながら、そう思わずにはいられない。
 
 誰もが笑顔で。ただそれだけを願って戦い続けて来たはずなのに。
 
「(愛紗ちゃん……)」
 
 義妹は傷つき、
 
「(一刀さん……)」
 
 愛する人は奪われ、
 
「(そして………)」
 
 今また、生まれるはずだった命さえも潰えようとしている。
 
「………神様って、意地悪だね」
 
 全てを受け入れたフリをして、桃香は空を見上げた。
 
 そこには変わらず黒雲しかない。
 
「…………え?」
 
 ない―――はずだった。
 
「晴れ間………?」
 
 それは東の空に見えた。桃香の脳裏に、唐突に古い記憶が去来する。
 
『東方より飛来する流星は―――』
 
 黒天を斬り裂いて、その軌跡に鮮やかな蒼天を広げて――――
 
『天の御遣いを誘いし翼なり』
 
 眩ゆい光が、天空を翔る。
 
 姿が見えたわけではない。予測していたわけでもない。なのに……桃香は思わず叫んでいた。
 
「一刀さん!!!」
 
(ッッッッッ!!!) 
 
 涙声の叫びに応えるように、流星が頭上で一際強い輝きを放ち、落雷の様に大地を抉り、曇天を吹き散らす。
 
 空に残るのは、見る者の心すら洗い清めてしまうような、どこまでも高い蒼天。
 
「空が………」
 
 華琳が、
 
「晴れた……?」
 
 蓮華が、眼を見開いてそれを見た。
 
 そしてもはや誰にも止められないと思われていた軍勢を、立ち塞がった流星の爆発が止めていた。
 
「かつて戦乱に呑まれた大陸を救うため、多くの者が命を落とし、それらの尊い犠牲の上にこの大平が在る」
 
 燃え盛る青白い燐火の中から、朗々と宣布が群衆に述べられる。
 
「天の御遣いの名に於いて、これ以上無益な血を流す事は許さん」
 
 陽光に煌めく衣を纏い、その左右に同種の衣を着た青紅の天女を連れて―――
 
「ここに乱世の幕を引く! 剣を下ろせ、天の子らよ!!」
 
 ―――北郷一刀、再臨。
 
 
 
 
「はあっ、はあっ、はあっ」
 
 どうして生きているのか。
 
「はあっ、はあっ、はあっ」
 
 なぜ、今まで姿を見せなかったのか。
 
「(もう、少し……!)」
 
 訊きたい事はたくさんあって、でも、その全てが些末な事に過ぎない。
 
 少なくとも、今の桃香にとってはどうでもいい事だった。
 
 彼が振り返る。どこか辛そうな笑顔で、自分を迎えてくれている。
 
「ただいま、桃香……」
 
 だから桃香は、その胸に飛び込んで―――
 
「おかえり、なさい…………」
 
 その一言を、言いたかった。
 
 



[14898] 再見・『燐』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f6bb011e
Date: 2011/06/20 20:38
 
 ―――拝啓、愛紗ちゃんへ。
 
 それからの事について、ここに少し書き記します。
 
 当たり前と言えば当たり前なんだけど、あれから暫くはすっごく大変だったの。
 
 流星が降って来たり、一刀さんが生き返ったり、恋ちゃんが生き返ったり、普通じゃ有り得ない事がいっぱい起きたからね。
 
 勅命の撤回、わたしの免罪、一刀さんは必死に駆けづりまわってくれた。星ちゃんは、それも男の仕事だって笑ってたけど、本当に大変だったと思う。
 
 思うっていうのは、わたしは何しても自己弁護にしかならなかったから、無力な軟禁状態……って、書いてたらまたへこんできた。
 
 朱里ちゃんの話だと、韓遂って“解りやすい悪役”の人がいたから、情報操作はそれほど難しくなかっただろうって。
 
 むしろ、身内を納得させる方が難しいはずだって言ってたし、実際に一刀さんも相当苦労したみたい。
 
 絶対に納得しないと思ってたのは、二人。孫権さんと皇帝陛下。
 
 孫権さんは一刀さんの話を聞いた後で、「私にはお前を裁く資格はない」って、辛そうな顔で言ってくれた。
 
 何でも『前の外史』で似たような状況になって、一刀さんに許された事があるんだって。
 
 他にも心当たりある人が結構いるみたい。う~ん、正史とか外史とか、説明されたけど今一つピンと来ないんだよね。
 
 陛下の方は、まだ解決してない。わたしを許してない、とかってわけじゃないみたいだけど……色々複雑なんだと思う。
 
 皆もあんな戦いを望んでたわけじゃない。ただ、誰かに怒りをぶつけずにいられなかったんだ。
 
 ………って、一刀さんが言ってた。
 
 色々あったけど、わたし達はやっと一つになれた。まだわだかまりが消えたわけじゃないけど、これから解り合っていけるって信じてる。
 
 いつか、愛紗ちゃんにも見て欲しい。そして……その輪の中に入って欲しい。
 
 信じる気持ちはきっと届く。それが外史だって言うなら、わたしはいつまでだって待ってる。
 
 愛紗ちゃんが帰って来てくれるのを、ずっと待ってるよ。
 
 ―――桃香より。
 
 
 
 
「ふぅ…………」
 
 書き上げた、どこにも出す宛ての無い手紙を、わたしは引き出しにしまい込む。
 
 淋しさと罪悪感を、同じくらい胸に抱いて。……手紙に、どうしても、書けなかった事がある。
 
 こんなの、書いても書かなくても何かが変わるわけじゃないんだけど……やっぱり書けなかった。
 
(コンッ、コンッ)
 
「あっ、開いてますよ!」
 
 のっくの音にビックリして、覗かれるわけないのに引き出しに鍵を掛ける。開いた扉から、水色の髪と純白の着物が見えた。
 
「もう一度花嫁衣装の寸法を合わせたいそうなので、ご足労願えますか?」
 
「あっ、うん、わかった」
 
 星ちゃんに、もう何度目かわからない寸法合わせに呼ばれて、立ち上がる。わたしが難しい衣装を頼んだのが悪いんだけど。
 
「やはり、式の前日ともなれば浮き足立つものですかな」
 
「うん、ちょっとね」
 
 そう……わたしは明日、一刀さんのお嫁さんになる。ここは荊州でも、洛陽でもない。
 
 幽州、啄群。わたしと、愛紗ちゃん、鈴々ちゃんの三人で、義姉妹の契りを交わしたあの桃園で……わたし達は結ばれる。
 
 場所は変わり、純白の花嫁衣装……うえでぃんぐどれすに身を包んで、わたしは口を開いた。
 
「ねえ、星ちゃん」
 
 こうして、花嫁衣装に身を包んでいると……どうしても考えちゃう。
 
「今のわたしを愛紗ちゃんが見たら、どう思うかな………」
 
 もし、わたしがいなかったら―――。
 
 やっぱり愛紗ちゃんは、一刀さんに仕えていたと思う。親愛と恋愛の間で苦しむ事もなく、誰より一途に一刀さんを支えていたに決まってる。
 
 わたしの存在が愛紗ちゃんを苦しめて来た。わたしのせいで、愛紗ちゃんは恋人から引き離されて……亡くなった。
 
 そんなわたしが、一刀さんのお嫁さんになろうとしているのを見て……愛紗ちゃんは、どう思うだろう。
 
「羨み、妬み、悔しがり……それでも祝福してくれるでしょう」
 
 自信たっぷりに、星ちゃんはそう断言した。
 
「どうして、そう思うの?」
 
「貴女より長い付き合いですからな。あやつも、腹の膨れる前にと、それくらいの気遣いは心得ておりますよ」
 
 ……説得力はあるけど、それで気が晴れるわけじゃないな。
 
 やっぱり、愛紗ちゃんから直接言ってもらわないと意味が無い。
 
「(もしその時が来たら、どんな言葉でも受け止めよう)」
 
 今はそう納得して、気持ちを切り替える。明日は、わたしの人生で一番の笑顔でないといけない。
 
「そういえば、鈴々の姿が見えませんが?」
 
 星ちゃんも、そんなわたしの気持ちの変化を汲んで、話題を変えてくれる。
 
「鈴々ちゃんなら、西通りの鴻家のお屋敷に行ってるよ。むかし懇意にしてたんだって」
 
「鴻家……鴻家と言えば、大層美しい令嬢がいると聞きますな。道を歩けば誰もが振り返らずにはおれん、清楚そのもののような娘だとか」
 
 わたしもその噂は聞いた事がある。とは言っても、星ちゃんより美人な女の子なんてそうそういないと思うけど。
 
「名前、何だっけ?」
 
「確か……芙蓉姫です」
 
 綺麗な名前。……ふんだ。わたしだって負けてない……もん………。
 
「一刀さんは?」
 
「あれも姿が見えぬのです。通行手形を持たぬ怪しげな三人組が関所を越えたとの報告もあり、あまり出歩くなと言っているのですが」
 
 気まぐれでわがままな旦那様に一喜一憂する未来を思い浮かべて、わたしと星ちゃんは自然と笑い合っていた。
 
 
 
 
「この辺り、だったかな………」
 
 何も無い荒野を歩いてると、何となく独り言が漏れた。
 
 幽州啄群。桃香と愛紗が姉妹の契りを交わした場所。そして……俺が、初めて愛紗に出会った場所。
 
「こんな感じで、グースカ寝てたんだっけ。しかも二度寝」
 
 同じ事をすれば、同じ事が起きる。そんな気がして寝転んでみる自分が……相当バカに思えて来た。
 
「…………………」
 
 寝転がって、空に手を伸ばす。届かないものを求めるように。
 
 ―――瞳を閉じれば、思い出す。
 
『わたしを愛してくださるのはあなたなのです……。ええ……そう思えば怖くはない……』
 
『そんなの……嫌ぁ、わたしの気持ちを疑わないでください……っ!!』
 
 可愛くて、臆病で―――
 
『ええ、ええ。どうせ私には用などないでしょうともっ!』
 
『いいんですか、わたしがご主人様を嫌いになってしまっても』
 
 意地っ張りで、やきもち妬きで――――
 
『……大切にします。髪飾り……』
 
『わたしの心は、これからもあなたと共に在ります。大願を果たした今……それがわたしのただひとつの願いです』
 
 心を結び合わせた、大切な半身。
 
 ずっと俺を支えてくれて、ずっと俺のせいで苦しんでいた愛紗に………
 
「(俺は……何かを返す事が出来たのかな……)」
 
 鏡はもう無い。外史は巡らない。泰山の頂には……鏡どころか神殿すら無くなっていた。
 
 もう二度と―――会えない。
 
「…………………」
 
 どれくらい、そうしていただろう。懐かしい思い出からいつまでも抜け出せずに、時間を忘れていたような気がする。
 
「………帰ろうかな」
 
 眼を開けて、上体を起こす。起き上がった目線の先に……ちょうど一輪の花が見えた。
 
 乾いた荒野にも負けずに咲く、健気で強い白い花。
 
「何て名前の花だろ」
 
 俺が何の気なしに呟いた言葉に――――
 
「芙蓉」
 
 後ろから、応えがあった。
 
 こんな広い荒野で接近に気付かないくらいに自失していた………そんな事は、どうでもいい。
 
「不思議ですよね。本当なら、こんな場所に咲く花ではないんですよ」
 
 胸の動悸が押さえられない。希望と恐怖を抱きながら、緩やかに振り返る。
 
 この声が……俺の願望の呼んだ幻聴でない事を信じて。
 
 そして――――
 
「こんな所で寝ていては、風邪を引いてしまいますよ?」
 
 ―――そこに、いた。
 
 買うだけだと意地を張っていた空色の衣に身を包んで、似合わないと意固地に拒んでいた髪飾りで綺麗な黒髪を彩って。
 
「………どうして、ここに」
 
 色んな感情がごちゃ混ぜに溢れて、そんな言葉しか出ない。
 
「失ったものを取り戻す為……だと、思います」
 
 俺の曖昧な問いに、少女は律儀に応える。
 
「私の名は、芙蓉。この花に因んで、義母がつけてくれた名前です。……私には、ここで拾われる以前の記憶が無い」
 
 その言葉が、彼女が失ったものを、今の彼女の在り様を示していた。
 
「ここに来れば、何か思い出せるような気がして……足を運ぶのも、実は一度や二度ではないんです」
 
 それでも彼女はここにいる。ここで、俺に頬笑んでくれている。
 
「……おかしい、ですよね。初めてお会いした方に、こんな話をするなんて。自分でも不思議です」
 
 急に恥ずかしくなったのか、頬を赤らめて視線を逸らす。
 
 その仕草は、ずっと、彼女がそうなる事を怖がっていた……どこにでもいる、普通の女の子。
 
「あなたは、どうしてここに?」
 
「………君と、同じだよ」
 
 それでも、解る。
 
「大切な人に、会いたかった」
 
 俺が愛した、君だって。
 
「俺の名前は、北郷一刀」
 
 手を差し出す。それに少し眼を見開いて、しかし彼女は手を取った。
 
 今度こそ、届いた。
 
「一緒に帰ろう、愛紗」
 
 もう二度と放さない。何があっても離れない。
 
「……………はい」
 
 記憶なんて無くても、心はずっと繋がっている。だから……届いた。
 
「いつまでも、貴方の傍に……。私の愛しい…一刀様……」
 
 ―――穢れ一つ知らない花のような笑顔が……一輪、咲いた。
 
 
 
 
 外史は巡り、繰り返す。誰かの想いが消えない限り。
 
 青白い燐火は燃え上がる。誰かの奇跡に誘われて。
 
 ―――それは突端と終焉を繰り返し、在るべき居場所を取り戻す物語。
 
 



[14898] (あとがき)
Name: 水虫◆21adcc7c ID:870f574a
Date: 2011/06/20 20:46
 
 こんにちは。作者・水虫です。
 
 弐部に渡り、二百話近い長さの長編となった『燐・恋姫無双』。本編で書ききれなかった場面や外伝、後日談などの話は別枠で書く事になると思いますが、長編としては今回で完結となります。
 
 まず、本作にお付き合い下さった皆さんに、感謝の言葉を述べさせてもらいます。ただでさえ長いといえのに、更新停止や度重なる改訂。至らなかった点も相当にあったと自覚しております。
 
 そんな中で、このあとがきまでついて来てくれた皆さん、ありがとうございます。
 
 この『燐・恋姫無双』。これまで完結させてきた作品ではここまで感想板が荒れる事がなかった事もあり、正直何度も心が折れかけました。それでもここまでやって来れたのは、この作品を読み、時に声援をくれた皆さんのおかげだと思っています。
 
 本作の……特に終幕からの展開には不満を抱く方も多いかと思いますが、この作品が無印から始まった恋姫無双のSSである以上、やらねば嘘だと思っていました。初期構想の段階で確立していました。
 
 話が冗長にならないように終盤で削った描写は、番外編の形で書く形となります。
 
 現在、私に次連載を始める予定はありませんが、本作や既に完結させている作品の外伝は書くので、またそちらでお会いする事はあるかも知れません。
 
 最後にもう一度、この作品を読んでくれた全ての人々に無上の感謝を。
 
 


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