近頃ある国の首都に珍しい酒場ができたと聞く。
酒場、酒場というには少し趣が違うと有名だ。
本来酒場というと仲間たちと立ち寄り、酒を飲み、料理を口にし、談笑する。
すなわち酒を飲む場所。
それが一般的な酒場だ。
だが件の店はそれらとは一切無縁。
行くならば一人、多くて二人で行くのが望ましいと噂されている。
……興味深い。
この無意味に長い生の中で退屈は死より恐ろしい。
故に興味を引いた事柄にはたとえその先に地獄があろうともとりあえず行ってみる。
そういう、まあ一族の習慣によって私は件の店に寄った。
表通りから二本外れた通り。
表通りほどではないが、それなりに活気がある。
正直、人が多くて息苦しい。
そんな通りにある店の一つ。
店先には店名ではなく、二股に分かれた尾を持つ猫と三日月が描かれた看板が釣り下げられている。
うむ、およそ店名らしきものはない。
どうやらここのようだ。
皆が口を揃えて世の奇人変人有象無象がこぞって立ち寄る店と言う。
ある意味世界の縮図とも採れる場所。
ドアを開けると、そこは別世界だった。
鼻をつく古い木の臭い。薄いがしっかりとある酒の匂い。
人混みの息苦しさも外の喧騒もここにはない。
あるのは歴史の重み、何とも言えない重厚感。そして、静寂。
息苦しいが、悪くない。悪くない、場所だ。
――いらっしゃい。席は自由にしていいよ。
若い。まだ十六、七といったマスターがカウンター越しの向こう側でグラスを磨いている。
改めて店を見渡す。
カウンター席しかなく、席の数もおよそ十程度。
酒場とは思えない狭さだ。
私は真っすぐに壁際の席に向かった。
――ご注文は?
席に着いてしばらくしてからグラスを拭くのをやめ、マスターは穏やかな声で私に問いかける。
彼は本当に、男なのだろうか?
男にしてはひどく細い肢体、艶やかな髪、柔らかな声。
ここいらでは珍しい黒髪は艶やかだ。
何よりその双眸、世界全土でも黒髪黒眼は非常に珍しい。
化粧を施せばそこらの女よりも映えることだろう。
だがその女々しい雰囲気を軽く壊す後ろに陳列された多くの酒。
無言の重圧のお陰でそのような妄想はいとも容易く打ち壊される。
――……では、お勧めを貰おうか。
マスターはなら、と少し考えるとグラスに大きめの氷を入れ、選んだ酒を注ぎ、私の前に置いた。
琥珀色をしたウィスキーは今まで見た宝石の何よりも蠱惑的な色をしている。
グラスを近づけ、匂いを嗅ぐ。
酒特有の匂いに隠れて芳醇な匂いが鼻腔をくすぐる。
様々な匂いの中で感じられる、一年という重み。
長く生きる、それゆえに忘れやすい一年という時。
私たちにとって刹那であるが、それでも一年。過ごすには長すぎる。
春、夏、秋、冬。この酒は多くの時を過ごしてきただろう。
時の重みが私の手に伝わった。
からん、とグラスが鳴る。
なるほど、粋な計らいだ。
重みに囚われた自我を取り戻し、口に含む。
本来なら一息で終わる量だが、ここは敢えて少しずつ。
同時に嗅ぐだけでは分からなかった姿が脳裏に映った。
多くの生命、年月、感情。言葉で言い表せないほどのそれら。
だが、一言で言い表すなら、ああ。
――重い、な。
――口に合わなかった?
――いや、悪くない。むしろ良い酒だ。
――なら良かった。
ただの一口が重い。
私たちは何と一年を、移ろい行く四季を無意味に消費してきたことだろう。
あの軽々しい過去のせいで、ただの酒がとても重く感じる。
静かに差し出される、クッキー。
私は小さくありがとうと呟き、一つ口にした。
ああ、甘い。そして、重い。
酒の年月とは違う、培われた技術の重み。
これが生命、これが年月。私達が忘れやすい、確かな重み。
――マスター、何故これを?
いつの間にやら紅茶を淹れ、優雅に飲んでいたマスターはその問いに少し考え、答えた。
――あなたが何か、大切なものを忘れている気がしたから、かな。
否定できない。
事実として私は今という大切なものを忘れていた。
似て非なる、決して同じではない四季の移り変わり、日の顔、月の表情、星のざわめき。
晴れた日には外に出かける。
雨の日には音を楽しむ。
満月の日には親しき友と酒を飲み。
星の夜に独り思いを馳せる。
大切な、本当に大切なこと。
――何ていうのかな。今を楽しむ、そんなことを。ま、僕が勝手に思ったことなんだけど。
頬を掻き、苦笑する彼につられて私も苦笑する。
全く、至高と言われる存在である私がまさか矮小な人間に劣るとは。
まだまだ私も若造ということか。
――所詮、粋がっている小童の言葉だ。あなたのような人には煩わしいかな?
何を、馬鹿な。
私は無意味に長い年月を消費しただけ。
君は存分に今を生きてきたじゃないか。
むしろ私の方が、粋がっているだけの小者だよ。
その思いは口に出なかったが、彼には見透かされた気がして恥ずかしくなった。
――無意味と、無駄と、無価値と思える時はあっても、そんな時は存在しない。
そうだろうか? 本当にそうなのだろうか?
ならば私の過ごした時間は一体、何だというのか?
――だって、ほら。もし無意味で無駄で無価値な何かが存在するというのなら、世界はつまらないものになってしまうよ。
……ああ、そうだな……
この世に無駄なものも無意味な時も無価値な存在もあるはずがない。
何故なら世界は何よりも、美しいのだから。
悪くない。こういう時も悪くない。
人によっては無駄とも取れる時間。
私にとっては全く無駄ではない。
静かな、包まれるような時が流れる。
多くの者が言う。
己と向き合い、大切な何かを取り戻す店。
今までの自分を見つめ直す場所。
全くだ。全くもって、そうだ。
飲み干すのが惜しい酒の最後の一口を口に含む。
どうやら私はたった一夜にしてこの店の虜になってしまったようだ。
――ありがとう。有意義な時を過ごせた。
代金に感謝の意を上乗せしてテーブルの上に置く。
マスターは穏やかな笑みを浮かべながら、それは良かったと言った。
悪くない。こういう店も悪くない。
そう思いながらドアノブに手をかける。
――ああそうだ。
その足を止めさせるのはやはりマスターの声。
――店を出たなら深呼吸をして空を見上げてみるといい。きっと良いものが見つかる。
何か、などという無粋なことは聞かない。
それが何かが私にわからなくとも、だ。
何せこのマスターの言うことだ。
きっと良いものが、いや見落としていた何かが見つかるのだろう。
不思議と、彼の提案に嫌な気分はしない。
――そうか。
外に出て、ゆっくりと瞳を閉じ、深呼吸をする。
他人の目など一切気にしない。
そして、空を見上げ、瞼を開けるとそこには――――
――ああ……良いものだ、これは。
近かったはずの空がこんなにも遠くに見える。
遠いはずの町並みがこんなにも近くに見える。
されど手を伸ばせば星や月に手が届きそうで……
歩いて帰ろう。どれだけ時間がかかるか分からないが、歩いて帰ろう。
何せ今日は、こんなにも月が綺麗だから。
こんなにも月が綺麗な夜に、空を飛ぶなんて無粋だ。
月は手が届かないからこそ、遠くにあるからこそ、美しくあり続ける。
ありがとう、マスター。
素晴らしいことを教えてくれてありがとう。
我々龍族の寿命は定かではない。
またこの身はとても強靭で、自殺も他殺も許さない。
故に私たちは普段から生き飽いている。
変わらぬ時の中に置き去りにされたことを憎み、容易く変化する四季に嫉妬する。
何度も見る変わらない光景に飽きを覚える。
しかし、彼は私に思い出させた。
四季の素晴らしさ、世界の美しさを。
そして長き生の中で、何よりも長くそれを楽しめることの素晴らしさを。
ただの人間でしかない彼が、世界で最も神に近い龍族である私に、だ。
礼を言おう。
君のおかげで私は再び生きる喜びを得た。
ただ…………私は彼が人であることが残念でたまらない。
たった百年しか生きれない人であることが。
私たちから見れば、その生は余りに短すぎる。
瞬きしかできないほど、短すぎる。
もしも彼のような人が同族であるなら、そして私の隣に立つ者であったならば。
夢のような世界に眩しさを覚える。
何と、その素晴らしきことか。
されど現実は非情で、あの人は人であると突き付ける。
彼を眷族にすれば私たちと同等の生を手にするだろうが、それだけは止そう。
不思議と彼が今の彼であることを私の中の何かが望んだ。
たとえその先に永遠の別れが存在すると分っていても。
悪くない。
この刹那とも思える短い時を心に然りと刻むのも悪くない。
まるで短い生を精一杯生き足掻く人のように、私もこの短い時を生きよう。
彼がなくなるのは惜しいが、私には今が、先にある明日が何より愛おしい。
こんな気にさせるのは彼が初めてだ。
そして、本来作るはずの無い、作れば悲しみしかないことが分かっているから作らない人の友も。
……ああ、そういえば名前を聞き忘れたな。
名乗ってもいなかった。
今度、聞けばいいか。
そう、次の機会に。
それを考えると自然と頬が緩んだ。
そんなことを思いながら私は家へと帰った。
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何の因果かファンタジーな世界に来てしまって早五年近く。
少しばかり若返っていたのにも、竜や魔王や魔法が存在するこの世界にも驚いた。
正直、驚くのに飽きたほど。
それから文明が存在し、どういうわけか言葉は通じることが分かるとすぐに使えない携帯、硬貨を高く売り払い、資金を作った。
そして表通りは目立つという理由から、外れた三番通りにあった廃屋を占拠、改修。
これが違法である場合、即刻牢獄だからね。
売ってはいなかったので買ってはいないが、使っていた人がいなかったから別にいいよな?
むしろ今となっては出て行けという人がほしい。
四十秒で支度して出て行くから。
まあ今経営しているようなバーとしてオープンしたのが四年半前。
それから、口伝えで噂が広まり、いつの間にやら人外魔境とも取れる妙な店へと……
そのくせして良く閑古鳥が連呼している。
来客0で閉めることなんて良くあることだ。
それでも店を維持できるのは一重に洒落にならないほど金払いの良い客が常連であるせいとしか言いようがない。
未だに今一つ金の価値を把握しきれていない僕だが、金貨一枚を軽々しく払っていく人を見て異常だと思うぐらいの常識はある。
分かり易く言おう。
金貨一枚というのは庶民が一年間さほど遊ばずにのんびり暮らしてお釣りが来る価値がある。
一般的な酒場が一日で儲けれる純利益の限界が銀貨二十数枚だ。
金貨は銀貨1000枚と等価である。
明らかに酒一杯とつまみ少々の価格をオーバーしていないか?
ひどい時には金貨百枚以上に至る宝石や宝物を置いて行く客もいる。
これなら迷惑でも金を払わない客の方が嬉しい。気が楽だ。食い逃げしてくれ。追わないから。
考えてみよう。
ただの酒一杯に一兆円を払う客。
どう考えても"閉めたら……分かっているな?"と脅しているようにしか採れない。
そんなわけで今日も定時となり、問題の客0で喜々として店を閉めようとした時だ。
来客である。泣きたい。
それもガチの御方だ。
鈍感な僕でもわかる、意識しなければならない圧倒的存在感。
見事、としか言いようのない肉体美は性別年齢関係なく目を惹くところがある。
身に纏う服および装飾品も審美眼がなくてもわかるほど高級。偽物の可能性はない。
それを軽々しく着こなす様は嫉妬を忘れて羨望を覚える。拍手を送ろう。
これは……応対を間違えればやられるかもしれない。
立った四年で鍛え上げられたセンサーが最高のレッドアラートを鳴り響かせる中、僕はいつも通りを装った。
その人はしばらく入り口で内装を評価した後、真っすぐに壁際の席へと向かった。
鋭い瞳は今は店ではなく僕へと向けられている。
かなり怖い。
恐怖を紛らわすために苦しまぎれに注文を問う。
――……では、お勧めを貰おうか。
艶のある声。確かにこんな人に身を委ねるのも一種の快楽だろう。
だが僕は対象外だ。決して命以外で許されることはないに違いない。
とにかくお勧め。
下手なものを選べばすぐに泣くことになる。
それは嫌だ。故に妥協しない。
結局選んだのは秘蔵、100年物の、家宝にしたいぐらいの最高級ウィスキー。
飲み方は、ロックでいい。いや、ロックがいい。
その方が絵になる。
気に入ってもらえるとありが――――たくもない。
こんな人が常連になればさらに胃が痛む日々が始まってしまうじゃないか!
それも、嫌だ。
その人は絵になる仕草で差し出されたグラスを口に近づけていく。
先ず匂いを楽しみ……固まった。
暇だ。意識を覚醒させるためにも紅茶でも淹れよう。濃いめで。
しばらくして客は氷がグラスにあたる音で意識を取り戻し、酒を口に含んだ。
もしも僕が無関係な観客ならその動作一つ一つに見入っていただろうに。
――重い、な。
しばらくして呟かれた言葉に僕は素早く遺書の内容を纏めていく。
遺書の内容を纏めるのにはもう慣れた。
最初に記すことは常に一つ。
"平穏に生きたかった。"
――口に合わなかった?
――いや、悪くない。むしろ良い酒だ。
――なら良かった。
第一段階、きっとクリア。
けれどグラスを見つめる客。
何か足りないものがあるのだろうか?
少し考える。
……ああ、そうかつまみか。
クッキーでいいか。
――ありがとう。
酒だけでは酒を楽しむことができない。
そういうこともある。
クッキーを食べたその人はまた黙り込んだ。
誰か、良く効いて即効性のある胃薬ください。
副作用はこの際文句を言わないから。
――マスター、何故これを?
不意の質問。
これは酒を指すのか、それともつまみを指しているのか分からない。
どちらでも正直返答に困る。
どちらも元々理由は存在しないから。
………………胃がきりきりと痛む。
もういいや。思いつくままに答えてしまえ。
それで死んだならそれも良し。
むしろこの地獄から我が身を解き放ってくれ。
――あなたが何か、大切なものを忘れている気がしたから、かな。
今更ながら臭いセリフだ。
――何ていうのかな。今を楽しむ、そんなことを。ま、僕が勝手に思ったことなんだけど。
――所詮、粋がっている小童の言葉だ。あなたのような人には煩わしいかな?
そういうと客は顔を伏せた。
死亡フラグですね、わかります。
せめて首を洗って遺書をしたためる時間ぐらいください。
もう僕は反省を止めた。
決意した僕の口は止まることを知らず、意思とは無関係に言葉を並べる。
――無意味と、無駄と、無価値と思える時はあっても、そんな時は存在しない。
――そう、だろうか?
――だって、ほら。もし無意味で無駄で無価値な何かが存在するというのなら、世界はつまらないものになってしまうよ。
――ああ……そうだな…………悪くない。
どうやら僕は決定的な死亡フラグを逃したようです。また死ねなかったスイーツ(笑)。
何かを得たのか、客は嬉しそうに酒を飲み始めた。
今更ながら、首、繋がっているよね?
うん、繋がっている。繋がっているよ……
奇跡だ。今生きていることが奇跡だ。
今なら怪しい宗教のいるはずの無い神様でも心から信じれる気がする!!
――ありがとう。有意義な時を過ごせた。
て、抜かったァア!!
短時間でこんなにも胃を痛めさせる人が常連になると正直困る。むしろ嘆く。
どうすればいい? どうしたらいい?
悩む。考える。神よ! 僕に救いを!!
この時、脳裡に電流が走る。
――ああそうだ。店を出たなら深呼吸をして空を見上げてみるといい。きっと良いものが見つかる。
ここで僕の変人っぷりを絶賛アピールすればきっと呆れて二度と来なくなるはずだ!
――そうか。
ありがとう、どこかの今孔明。
君のおかげで僕は一つ平穏への道を間違えずに歩めた。
さて、片付けを――――
パタン、といおうドアが閉まる音で我に返る。
目の前にあるのは金貨なんてちゃちなものじゃない。
拳大の、金塊。
正直に問おう。どう処分しろと?
まあいい。二度と来ない客の文句は言わない。
はぁ……明日は客が来ませんように……
できれば貧乏神辺りが店が潰れるまで居座ってくれるとありがたい。
一月後、僕はこの世界全ての神々と悪魔を親の仇の如く恨むことになる。
あのガチレズ女帝様オーラ天上天下超銀河天元突破中の女性、ティオエンツィア――愛称ティア、むしろそう呼ばないと窓ガラスが割れる、はここの常連となってしまった。
ちなみに僕の名、ユウキ・カグラは言わなければ殺すというオーラを放たれながら聞かれました。
マジ迷惑な客だ。
――ああ……悪くないな。
しかも金払いが良いと問題の有り過ぎる。
ますます僕は店を閉めれない。
誰かいっそ、僕を殺してください。