夢。
夢を見ている。
この夢は――こちらに逆留学するころから最近までずっと見ている夢だ。
夢の中で私は楽しそうに笑っている。
そう、それは『夢』を見ている私自身でも経験したことが無いような感じで――
大切な『仲間』が居て。
そして――何より、私の傍には『彼』が居て。
誰よりも居てくれて嬉しい『彼』が居て。
怒ったり、驚いたり、笑ったり。
飾る事無い感情が自然と溢れ出て。
ああ、ここが私の居る場所なんだ、とそんな事を普通に思うことが出来て。
『楽しい』
その言葉がピッタリと当てはまるような空間に、その言葉の定義を寸分狂わず当てはめる事の出来るような所に、夢の中の私は居る。
――でも、楽しい時間は何時も永遠じゃなくて。
気付けば、私の周りには誰も居なくなっている。
誰も居ない。
何も無い。
暗いとかそういうものですらない、闇とも言えない『虚無』の世界。
時間や空間という概念すらなく、さながらブラックホールの中とでも言うべき場所で私は一人ぼっちで居る。
立っているのか、座っているのか、寝ているのか、それすらも意識できないような空間に私は存在している。
そして、『私』という存在が徐々に削り取られていく。
『私』という存在が消失していくのを知覚する。
――そんななか、誰かの手が私に伸ばされているのに気付く。
それを見て、私は涙が出そうになる。
嬉しくて、私を必死に助けようとしてくれることが嬉しくて。
でも――それを握り締める事は出来ない。
どんなに苦しくても、どんなに切なくても、それだけは出来ない。
何故ならそれをしてしまうと、『彼』もこの世界に連れて来てしまうのが解っているから。
出来ない。決して出来ない。
だから私は、その手を握り締める事は絶対にしないで、震える肩を抱いて、「私の事を忘れないで」と願って――消える。
何時もなら、この段階で――『私』が消滅した段階で、この悪夢から目覚める。
汗びっしょりで、寝具や下着にまで痕がつくような状態で目が覚めるはずである。
でも、何故か今日に限って、続きがある。
『消えた』はずの私がまだ存在している。
そして、また、手が伸ばされている。
暖かい彼の手が……。
それでも『彼』の手をつかめない私。
――でも今度はその手が私の手を無理矢理握り、引っ張ってくる。
その手から温もりが、失ったはずの温もりが伝わってくる。
「お前は……俺が、助ける」
そんな思いの激流が私にも伝わってくる。
そして、あの「虚無」から連れ出され、光溢れる世界へと放り出される私。
驚いて手を引っ張った人を見ようとするが、私の手を握っていた『彼』の手の感触が、もう既に無くて。
私は――
○○○
そこで私は目が覚めた。
開いた目に映るのは、真っ白い天井。
「知らない天井ね」
なんとなくお約束のようにそう呟く。
というか、私は今何処に居るのだろう。
清潔そうな白いシーツにベッド。それに何処となく建物自体に染み付いた消毒液の匂い。
辺りを見回してみると、どうやら私は病院に居る=即ち入院しているようだ。
しかし、そこまでの過程がスッポリ抜け落ちている。
何故私が入院なんてしているのか。その理由が浮かんでこない。
そこで――気付く。
ポタポタとシーツの上に落ちるモノ。
私の頬を通って、止め処なく溢れてくる『涙』。
何故かそれは止まることがなくて。
泣いているという事を自覚してしまうと、もう耐えられなくて。
抑え切れなくて。
私は声を洩らして泣いてしまう。
悔しいのか、嬉しいのか、切ないのか、安心しているのか、あの夢のせいなのか。
あらゆる思いがぐちゃぐちゃになって、わけもわからぬまま、私は看護婦さんが駆けつけてくるまで泣き続けた。
○○○
ある程度落ち着いたところで、白衣の男性と、スーツ姿の男性が私の病室に入って来て腰をかける。
「で、えーとまずは挨拶を。一応、貴方の担当医になっている間(はざま)と言います」
白衣の男性がそう名乗る。
「まず、ちょっと目を見るので目を開いてください」
そういってライトみたいのものを当てられる。
「うん、こっちは異常ありませんね。自分の名前は解りますか?」
「え? 名前ですか? 牧瀬紅莉栖です」
…………
その後幾つか質問が続き――
「はい。意識や記憶の混濁もなさそうですし、明日にでも退院は出来ますね」
「ありがとうございます」
そう言って私は頭を下げる。
「で、ここからちょっと詳しく聞きたいのですが……」
そう言って、間と名乗った男性はチラリと隣に居るスーツ姿の人に目を向ける。
「ああ、自己紹介がまだだったな。俺は、明智と言うもので。職業は――刑事だ」
そう言って警察手帳(?)みたいなものを見せてくる。
警察?
警察が私に何の用が――
「君に聞きたいのは、他でもない――一昨日のことについてだ」
一昨日?
「え、ちょっと待って下さい。一昨日のこととか急に言われても……。まず今日って何日でした?」
「7月30日ですよ」
そう間さんが相槌を入れてくれる。
「ということは7月28日の事ですよね」
ということは私は約1日半ほど気を失っていたのか。
まだ気を失っている間の記憶がちゃんと張り巡らせてない。
記憶喪失になったらこんな感覚がずっと続くのだろうか、なんて科学者っぽい事を考えながら、思考の回転ピッチを上げていく。
「君は一昨日、ラジオ会館で血塗れに中倒れているのを救急車によって運ばれたんだが、それは覚えているかい? 君自身には外傷はなかったんだが」
そう明智と名乗った男が問いかけてくる。
ラジオ会館。
血塗れ。
――そうだ。
全部思い出した。
あの日。7月28日。
パパに会いに行って。
パパに論文を盗られて。
そして殺されそうになって。
そして――そして。
――『あの人』が私の代わりに刺されたんだ!
「あ、あの人はどうなったんですか!?」
思い至った瞬間、私は反射的にそう叫んでいた。
「あの人ってのは、誰の事だい?」
「トボけないでください! 私の代わりに刺されたあの男の人のことです! 無事だったんですか!?」
私がそう言うと、間さんと明智さんは互いに目を見合わせる。
そして、間さんが私に――
「牧瀬さん。落ち着いて聞いてください。この病院に運ばれたのは――というよりあのラジオ会館で倒れていたのは――あなた一人です」
○○○
「嘘じゃないです!」
そう、嘘なんかであるはずが無い。
噴き出す血。
むせ返るほどの焦げた鉄のような匂い。
生暖かいその液体の感触。
1日以上経過した今でもつぶさに思い出せる。
あんなリアルで生々しいものが嘘や幻であるはずがない。
全部、私が覚えている限りの事を二人に話した。
ドクター中鉢が自分の父親であること(どうやら明智と名乗った刑事は捜査によってその事実については知っていたようだけど)。
その父親に会いに行った事。
自分もタイムマシンの論文を書いてきたこと。
その論文を見せたところ、パパが自分のモノにしようとしたこと。
それによって揉めて、殺されそうになったこと。
殺されそうになった私を、『あの人』が助けてくれた事。
パパが取り出したナイフで『あの人』を刺した事。
その直後私が気を失ったこと。
思いつく限り、全ての事を話した。
「いや、嘘だって決め付けては居ないよ。少なくとも俺はね」
そう言って明智さんは一度言葉を区切り、缶コーヒーに口をつける。
ああ、私も喋りすぎて少し喉が乾いた。
出来ればドクターペッパーでも飲みたい気分だ。
「君が倒れていた血溜まりの血液成分が君のものじゃないのは解っているし、君にも外傷は無い。それにこの1日半ほどの捜査時間だけで、ドクター中鉢が事件後返り血を浴びて走り去っていく目撃証言が結構な数取れてる。その上ドクター中鉢はちょうど事件後から行方を眩ましている。だから君の言うとおり、誰かがドクター中鉢に刺されただろうことは予想はしている」
「だったら――」
「『被害者』も行方不明なんだよ」
「え!?」
「言葉どおりの意味だよ。君が刺されたと言った人間が何処にも居ないんだ」
「ど、どういうことですか!?」
「我々の方が尋ねたいくらいだよ」
「て、手がかりとかはないんですか!? そもそもあの出血量なんだから何処かに移動したら血痕が――」
「血痕は我々も追った。ラジオ会館から予想できる付近全てを洗い出した。だが、血痕は『ラジオ会館の屋上』で忽然と消えてしまっているんだよ」
「…………」
「全く、わけのわからない事件だよ。そんな状況だから、上は『事件』として扱うかどうかも決めかねているようだし――」
明智刑事が何か言葉を続けているが、私には届かない。
行方不明。
そんな馬鹿な。
あんな出血量で、何処かに動くなんて自殺行為もいいところだ。
下手をしたら、いや、下手をしなくても失血死する恐れがあるだろう。
”――そもそも、アイツは他人には「何でも相談しろ」なんて言いながら、なんで自分が抱える厄介ごとに対しては、何時も何時も自分一人が背負うとするのよ! なんで自分だけが危ない橋を渡るような行動を起こすのよ!”
……え!?
私は今、何を思った?
――歩道橋の上。
――夕日で赤く染まる空。
――打ちのめされてしゃがみこむ誰か。
――その姿を見ていられなくて、声をかける私。
何か重要な事を今、思った――いや、感じた気がする。
しかし、さっきよぎった思いも、すぐに雲のように霧散してしまう。
何か重大な事を、忘れちゃいけない思いを、感情を忘れているような気がする。
心の中にあるのは喪失感。
本能が私に何かを囁いている。
明智刑事が「ドクター中鉢の君への暴行に対しての被害届を出してくれれば――」とか「何か新しい事を思い出したら連絡を――」という言葉を言っているが、それに生返事を返しながら私は思考の海へと沈んでいった。
○○○
病院から出た後、真っ直ぐに滞在している御茶ノ水のホテルに帰ってベッドに体を埋める。
そこそこ高級なホテルだけあって、質のいいベッドがもたらしてくれる心地のいいスプリングの感触が私の背中を包む。
ああ、でもこのベッドで寝るのは今日が最後なんだ。
明日からは一人暮らし。
――退院した直後にママに電話をした。
どうやら私からの連絡の少しくらい前から、警察を初め色んなところから連絡があったみたいで、何があったかの説明自体はすぐに解ってくれた。
正直に、最初から全て打ち明けた。
パパに会いに行ったこと、論文を書いたこと、その論文を盗まれそうになって口論になったこと、パパが私を殺そうとしたこと、パパが私に向けて言ったこと、パパが私に対して抱いていた敵愾心のこと、私を助けてくれた『あの人』のこと、その人が消えていなくなってしまったこと。
――そして私が『あの人』と会いたいと思っていること。
もの凄く心配されていた。
当たり前と言えば当たり前だ。
自分の娘を、別居中とはいえ自分の夫が殺そうとしたんだから。
ママは「ゴメンね」と言っていたけど、謝るのは私の方だ。
パパの事を許すつもりはない。もうこの先「父」と呼べることはないだろう。
パパがやったことは例えどんな理由があったとしても、研究者として、いや人間としてやってはいけないラインを超えている。
そして、その行動に至った主因は間違いなく、パパの、牧瀬章一自身の資質だと思う。
だけど――私自身に何の責も無いかと言われたらそれは確実にNoだろう。
たとえ私に悪意は無くても、あの人をあそこまで追い詰めたのは私だ。
その上、あの人がそこまで追い詰められている事に気付かなかったのも私だ。
ママには恨み辛みをぶつけられても仕方が無いと思った。「貴方のせいでこんなことになった」と言われても仕方が無いと思った。
でも、ママはそんなことを気にするでもなく、ただただ私の心配だけをしてくれた。
不覚にも泣きそうになった。
――その後、ママから今すぐ戻ってきて前みたいに一緒に暮らさないかと聞かれたが、それについては断った。
ママと暮らしたくないわけじゃない。
向こうで研究しながら、ママと笑って暮らす。
それは幸せと呼べるだろう。
でも、警察の人達に、パパの行方が見つかるまで、長距離の移動は出来るだけ避けて、所在を明らかにして欲しいと言われていたし――
何より。
何より、私が『あの人』に会いたいと、会わなきゃいけないと思ってるから。
何故かは解らない。
この説明できない感情が私にも解らない。
だからママにも上手く説明できない。
言葉足らずで、まるで子供が玩具を強請るかのように話し方。
科学者の肩書きを返上するようなぐらい、滅茶苦茶で理論立ってないような――感情論とも呼べないようなモノ。
でも、それでも、何処か共感できるような部分があったのだろうか。ママは折れてくれた。
一つ、途中で投げ出さない事。
一つ、1週間に2回以上連絡を入れ、また、何か進展があっても即座に連絡を入れること。
一つ、自分で一人暮らしをすること。
この三つを守るなら、日本に居ても良いと言ってくれた。
それだけでなく、伝手で住居を用意して暮れた上、菖蒲院への逆留学の延長やヴィクトル・コンドリア大学への説明の手伝いまで行ってくれた。
嬉しいと同時に、18歳にもなって未だに完全におんぶに抱っこな状態にかなりの情けなさも感じる。
天才少女なんて呼ばれても、生活能力が超絶に低いってのは女としても凹むことだ。けど自分だけじゃまともに何も出来ないのは事実。
本当にママには感謝してもしきれない。
日本でいう「足を向けて寝られない」という状態だ。
――だから、全部終わった後、ママとは一度ちゃんと話をしよう。
どれだけ感謝しているか、ママが今までどれだけ私の支えになってきたか、ママの娘として生まれてきてどれだけ嬉しいか、ちゃんと伝えよう。
もう"あの時"のように伝えたい事、伝えなきゃならない事を言えないで後悔するのは嫌だ。
「――え?」
――まただ。
また何か『知らないはずの経験』が脳裏によぎった。
振り下ろされる彼の手。
消えていく自分。
私の姿を焼き付けるように見開かれる彼の眼。
私も――のことが――
最後に伝えられなかった、口に出来なかった自分の思い。
「……何なのよ、これ」
自分にとって何を意味するのか解らない――なのにとても強烈な『思い』がフラッシュバックする。
その情景が何なのか解らない。何を意味するのか解らない。
英語を知らない人間が見る英語の本のように、私には理解できない何かでしかない。
なのに『魂』がそれを大切なモノだと叫んでいる。
「……脳科学者が『魂』なんて笑えるわね」
自嘲気味にそう呟いてみるが、一笑に付すことは出来ない。
それほどまでに今のは鮮烈なモノだった。
「私が『あの人』を探そうとしている理由と関係あるのかしら……?」
どうなのだろうか。解らない。
全て気のせいで片付けられるようなレベルの話だ。
でも、何故か胸が締め付けられるような感情に覆われる。
これは『後悔』なのだろうか。
これは『期待』なのだろうか。
そんな風に考えを張り巡らせながら、私は眠りに落ちていった。
○○○
退院してママと話をした次の日。
そこから数日は大忙しだった。
菖蒲院への挨拶に大学への連絡やパパの講演会前までに書いていたレポートの送付と説明。
入居の手続きを終えたら、即最低限の家具や必需品を揃えるために家具や家電屋さん巡り。
新しい住居はT3と呼ばれる末広町や秋葉原に近い高層マンションだ。
そして新しい生活の準備が一段落した後すぐさま始めた『あの人』を探す行動。
それから約3週間。
8月22日の朝。
昨日は散々な日だった。
朝から何か嫌な予感はしていたのだが。
全身を毛虫を這うような予感。
何か大切なものが壊れてしまうような悪寒。
それとともに感じる、なんというか『レールの上を"走らされている"』ような感覚。
自分で何かを選択するのではなく、選択肢すら与えられない、運命に"流されている"ような感じ。
そして、そういったものを裏付けるように――
ラジオ会館付近をもう一度調べに行って見ようという矢先に『パパがロシアに亡命した』なんて連絡が入ってきた。
その後、また警察から事情を聞かれたり、外務省だか公安だかよくわからない人たちからも事情を聞かれたり、大学へも事情を説明しなきゃいけなかったり、ママにももちろん連絡を入れなきゃいけなかったり(ママの方も色々と聞かれたりしたらしい)。
こんなゴシップにつき物のマスコミという人種からの被害はほとんど無かっただけマシとは言え、一日中対応に掛かりっきりでとても疲れた。
しかし、娘の論文を盗んだ挙句、そんなものを手に亡命なんて、あの人は一体何を考えているのか。
自己意識の肥大もここまで来ると痛々しすぎる。しかも肝心の論文は飛行機火災で焼失してしまったと言うオチつき。
@ちゃんねるでも見ないような酷いネタだ。
だが、これはネタなどではなく現時に起こったこと。
最も酷いと言えるような形で――私はパパに裏切られたのだ。
漫画やアニメのように、すれ違っていた親子が絆を取り戻す。そんなことは現実では起こらなかった。
パパが私に抱いていたのは「愛情」などではなく「憎悪」だった。
こんな風になった以上、もう二度と私とパパは、まともな形で交わる事が無いだろう。
パパとの和解が叶わない可能性については予測はしていた。
だが、その一方で「もしかしたら」という思いを――それこそ漫画やアニメのようにといった思いを抱いていたのも事実だ。
だから正直、もっとショックを受ける――最悪、研究者と言う立場を捨ててしまうような行動に出ることもあり得ると自分でも思っていたのだが……。意外と冷静に受け止める事が出来ている自分に驚く。
――いや、今はパパへの思いなんかよりも『あの人』の方だ。
自分の冷静な思考の切り替えに少し嫌気が差しながらも考える。
ハッキリ言ってこれについては手詰まりだった。
あの明智とか名乗った刑事の話からある程度予想していた事だが……。
まず最初に、病院をあたってみた。
あのラジオ会館を中心として、同心円状に徐々に範囲を広げながら、色んな病院に聞いて回った。
幾つかの病院はプライバシーを理由に最初は応じてくれなかったが、この三週間近く根気よく足を運んで教えてもらうことも出来た。
しかし結果は全くの空振りだった。
何処にもあの日運ばれた中には『ナイフで刺されたような患者』は居ないということらしい。
全くの謎だ。
そもそも何故血痕が屋上で消えていたのか。
考えられる可能性として『あの人』があの直後死亡して、パパが連れ去ったと言う可能性。
この可能性は考えるだけで何故か体が震えてくるぐらい恐怖感に襲われる。
『あの人』が死んでいるという光景は例え想像の中でも、何故かしたくない。
だが、まあそういう主観的なこととは別に、目撃証言によりこの可能性はまず皆無。
これについてはパパ以外の人間が行ったという可能性も低いだろう。
当日の人の多さと、私が救急車で運ばれるまでの時間を考えると不可能だ。
それこそ物質を移動させるような超能力でもない限り。
それとも『あの人』自身がそこからテレポーテーションでもしたのか?
それとも、あんな傷をその場で治療したと言うのか? それこそBJみたいに。
いや、それともBJみたいな闇医者がこの近くに居るのだろうか。
だったら『あの人』は血で血を洗うような裏世界の住人?
「酷い妄想だわ……。"アイツ"みたいに中二病じゃないんだから……」
ん?
自然と口に出た明らかにおかしい言葉。
「またなにか――」
そう、まただ。
病院巡りに関しては手がかりを掴めなかったが、収穫が皆無と言うわけでもなかった。
まあ、それは収穫と呼べるようなものなのかは定かではないが――例の『ありえない記憶』である。
例えばさっきの様に不意にわけのわからない言葉が口に出たり。
例えば件のラジオ会館をもう一度調べに言った時。
ラジオ会館を見上げている時に感じた、『私の知っているラジ館と違っている』と違和感を覚えたり。
あの事件があった日、人形を拾った階。あそこを調べている時に物悲しい既視感を感じたり。
他にも、この秋葉原の町を詳しく知っているはずが無いのに、何故か意識するより前に自分の足が知らないはずのお店へと向かったり。
駅前の旅行ポスター。その中の『青森りんごツアー』というのを見て、大切な約束がすっぽかしてしまったような気持ちになったり。
自分は18年一貫した記憶を持っているが、それとは別の記憶を持った『私』が私の中に居るような感覚だ。
世界とズレているというか。
「ああ、駄目ね。解らない」
そう言いながら頭を振る。
気持ちの悪い感覚だけど、しょうがない。
一瞬思い浮かぶ情景ですら、数瞬後には形すら思い出せなくなる。
いくら考えようとも、何時もの如く、月を掴もうとしているかのように全く手が届かない。
気を取り直して、新聞の社会面に目を落とすと、『ラジオ会館付近でナイフによる傷害事件が発生。通り魔の犯行か?』なんて記事が目に入る。
「これが1ヶ月前に起こっていれば話は簡単なんだけど……」
被害者の人には申し訳ないが、率直にそう思ってしまう。
「というか思考がオカルト染みて来てるわね」
良くない傾向だ。特に科学者としては。
取りあえず、昨日は関係各所に連れ回された疲れで、着の身着のままで寝てしまったからシャワーを浴びよう。
そうすればある程度無駄な思考も一緒に流されて、頭もスッキリするだろう。
完全に自分が自由に動けるのは、菖蒲院の夏休みが終わるまでの後1週間。
それまでに私の目的は達せられるだろうか?
いまいち自身を持てないまま、私は浴室へと足を向けた。
○○○
茹だる様な夏の暑さも過ぎ、季節が秋本番へと移ろい行く9月20日。
パパが亡命して約1ヶ月たったこの日。
菖蒲院への通学など、8月までの生活とは習慣の変わった生活にようやく慣れ始めたが、精神の方は疲弊しきっている。
正直な話、心が折れそうだった。
この一ヶ月間、あても無く秋葉原を歩き続ける毎日。
今日も敬老の日だったので一日を使って歩き続けていたが成果は皆無である。
最近では"有りえない記憶"の方もあまり想起されない。
そもそも『あの人』は確かドクター中鉢の発表を聞きに来ていた筈。
その知名度を考えれば、この町以外からやって来たという可能性も大いにある。
それなのにどうして私はこの町に拘っているのだろうか。
都内だけでなくもっと他の県から来ている可能性も否定しきれないのに。
――でもその一方で私の中の『何か』が『あの人』はこの町に居るとずっと囁き続けている。
そう確信を持っている。
でも、最近じゃその確信も信じ切れなくて――
不安。
孤独。
焦り。
まわり全てが自分よりも年長者しか居なかったアメリカでも、ここまで心細いと感じたことは無かった。
まるで世界から私だけが取り残されたような感覚に襲われる。
けれど『あの人』を探そうとするのを全く止める気は無い。
もし、ここで止めてしまうと私の大切な何かが永久に失ってしまいそうで――
本当、どうして私は『あの人』にここまで固執しているのだろうか。
つい先日、ママに電話した時に「恋人の帰りを待ってる乙女みたい」なんて冷やかされたけど。
本当に何故だろう。
思い出すのは初めて会った時のこと。
ラジ館の階段の踊り場。
私に対して「……俺は、お前を助ける」と言った時。
そして――パパに殺されそうになったとき、私の代わりに刺されて。
思い出しても震えが出るほど血塗れで、明らかに自分の命が危ないと言うのに、
私に対して「お前は……俺が、助ける」と言った時。
その時の表情を思い出すと、胸が締め付けられるような切なさと、胸が熱くなるほどの嬉しさが込み上げてくる。
今にも泣きそうで切なさそうなでありながら、何処か誇りを持った顔。
絶望も希望も全てをひっくるめて呑み込んだような顔。
どんな経験をしたらあんな顔が出来るのだろうか。
どうして私なんかをあんな顔でじっと見つめてくれるたのだろうか。
私が抱いている『あの人』に対するこの感情は何なのだろうか。
「……会いたい」
言葉に出すと、もう止まらなかった。
あの病院で流した日以来の涙が出てくる。
止めようにも止めようもなく。ただただ、私の頬を熱い液体が流れる。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
貴方が誰なのか私には解らないけど。
どうしてこんなにも感情が掻き乱れるのか解らないけれど。
私は貴方に会いたい。
牧瀬紅莉栖は貴方に会いたい。
私は泣き疲れて眠りに落ちるまで、その思いを抱き続けた。
○○○
――それは、約束。
――二人でした、約束。
忘れないで、と願ってした約束。
覚えていて、と願ってした約束。
私の存在を彼に刻み付けるように。
観測者によって時間の流れは違う。
だから二人の時間はとても短くて。
――私のファーストキスは、微かにドクターペッパーの味がした。
○○○
顔にひんやりした感触を感じて目が覚める。
首を上げると、顔の右半分が突っ張ったような感覚が走る。
辺りを見回すと、こけたドクタペッパーが目に映る。
どうやら、昨日飲み差しのままにしていたこれが、零れたみたいだ。
顔だけでなく髪もパキパキになっている。
だが、そんな事よりも、今は――
夢を見ていたような気がする。
内容は全く思い出せないけど、とても大切で、とても幸せな夢だった気がする。
何かが起きそうな予感がある。
「……本当にらしくないわね。科学者が『予感』なんて曖昧な物に根拠を求めるなんて」
でも、笑みが止まらない。
顔が緩むのを止められない。
泣き疲れて寝入った昨日から何の進展もない上、朝からドクターペッパーを零して顔も髪もベチャベチャなのに。
客観的に考えれば、嫌な予感はしても、いい予感なんてするはずがない状況なのに。
それなのに、今日も『あの人』を探そうと思う。
顔を上げてもう一度立ち上がってみようと思う。
時計を見ると、もうお昼近い時間。
平日だから学校はあるけど、申し訳ないが今日は自主休校ということで。
時間が時間でもあるし、何よりこの予感に身を任せたいという思いがある。
昨日までの諦念とは全く違った感情に突き動かされながら、私は出かける準備をした。
○○○
足の向くままに秋葉原を歩く。
この方向だとラジ館付近に出るだろう。
しかし、昨日までのぐちゃぐちゃと悩んでいた思考が嘘のようにクリアになっている。
よく解らない夢一つで、こんなに心の持ちようが変わる。
本当に自分は現金な女だ。
買い物帰りの人たちで溢れる中、そんな事を考えていた瞬間――
目に入ったのは、私の脇を通り過ぎる特徴的な白衣。
――それは、どうしても会いたいアイツが何時も身に着けていた物。
咄嗟に振り返る。
そこには居るのは――
私より頭一つ高くて。
髭をちょっと伸ばしていて。
何時も何時も白衣を着ていて。
どうしても会いたかった人が立っていた。
未来の確定しない世界の中。
それは折り重なる偶然。
宇宙規模の奇跡で。
私たちは"再会"をした。