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[15269] リリカルってなんですか? (オリ主 転生 原作知識:とらハ3のみ 一部微鬱) ※暁にも投稿
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2013/02/17 10:35

 ペタリとまた一つ『くらもとしょうた』と自分の名前が書かれたネームシールを明日から使う自分の鉛筆に張っていく。
 延々と続けられたこの作業もこれで一時間近く経つ。僕の隣では、僕と同じような作業を同じく延々と続ける親父の姿が。

 仮にこの作業が永遠に続く苦行であるならば、あと三十分も続ければ発狂しそうなほどであるが、流石に分量が多い入学前の準備とはいえ、二人で続ければ流石にそろそろ終わる。

「しかし、早いものだな。もうお前も小学生か」

 親父の感心したような言葉にそうだね、と半ばやる気無げに呟き、僕にとっては延々と続けれた作業に終止符を打つべく、残り僅かとなったまだ名前のついていない道具にネームシールをペタペタと貼り付けた。

 ―――そうか、もう六年か……

 僕はまだニコニコ微笑みながら最後の小学校入学セットにネームシールを張る親父に見えないようにこっそりとため息をついた。
 それは、能天気に笑いながらシールを張る親父に呆れたのではない。明日からの―――二度目となる小学校生活を考えると憂鬱になるからである。

 人生二度目の小学校―――我ながら可笑しいフレーズだとは思うが、事実なのだから仕方ない。別に外国に留学していて天才的な頭脳で飛び級した、とかそんな話ではない。日本の小学校に通うのが二度目なのだ。もっとも、最初の小学校はこの身体ではなかったが。

 自分の納得している理論―――この精神論的な考えが理論といえるかどうかは甚だ疑問で仕方ない―――でいうならば、この現象は、輪廻転生というものだろう。家が仏教だったかどうかは知らない。かといって、キリスト教でもなんでもない。極一般的な日本人のようにクリスマスにはケーキを食べたし、新年には初詣にすら行った無宗教ともいうべき一家だった。しかし、たった一晩でもうすぐ卒業間近という身分から赤子の身に落とされた身としてはそれぐらいしかこの状況を説明できないのだ。

 どうしてこうなったのか、僕には分からない。分かろうはずもないし、工学科だった僕に、授業と個人的な趣味で心理学を一応のレベルでしか学んでいない僕に、こんな精神論的なことを言われても分かるはずもない。しかし、考えなければ、この状況に納得できなければ、僕の頭が狂いそうだったし、なによりも赤子の身―――しかも、目もよく見えない、身体が上手く動かせない―――としては時間つぶしというべき行動の一つとしてこんな哲学的なことを考えざるを得なかったのだ。

 そして、出た結論は、昔の人の言葉をあやかったものだった。

 ―――I think, therefore I am(我思う故に我あり)。

 ついでに決めたこれからの行動指針は、―――ケ・セラ・セラ(なるようになるさ)―――である。結局、赤子の身がようやく歩けるような身になるまで延々と同じようなことを考え続けた結果の結論である。人間、不思議なもので一年以上この身に慣れてくると生まれ持った順応性でこの世界に慣れてしまうらしい。

 まあ、せっかく生まれ変わったのだから生前(?)とは少し違ったことを楽しんでもいいかもしれない。

 前世(?)に未練がないのか、といわれれば、多少はあるかもしれないが、家族が両親ぐらいで、友人もあまり深い付き合いもしなかったし、恋人もいなかった身としては、せいぜい、親より先に死んでしまったなぁ、程度である。

 ともかく、僕は現在の今を受け入れており、明日から二度目の小学生になる。
 入学する学校は、僕が住む町『海鳴市』にある『聖祥大学付属小学校』である。



 ◇ ◇ ◇



 小学校の入学式というのは実に微笑ましい、と上から目線で思ってしまうのは二十歳まで生きてきた記憶があるからだろうか。己の体躯を見れば、彼らと身体の大きさはほぼ変わらないし、目線すらも変わらないのに、初めて見る校舎に緊張し、中には親と離れて泣きそうになっている彼らを見ると、どうしても微笑ましくなってくる。

 僕は保育園時代からの友人―――これだけ物の考えが違うのだから対等の友人というには役者不足かもしれないが、まあ、保育園時代から半ばガキ大将のようなことをやっていた僕の仲間の一人だと考えればいいだろう。

 近所の保育園に行っていた僕だが、やはり精神年齢が高いというのは考え物だ。精神年齢が同じであれば、彼らと同じように駆け回って遊べただろうが、如何せん身体は子供、頭脳は大人を地でいく僕だ。彼らと同じように遊んでいながらも心は、公園で子供を見ている母親のような気分だ。

 急に飛び出さないか、転ばないか、転んだとしても怪我をしていないか、仲間はずれになっている子はいないか。挙げればキリがない。放っておいて自分だけで読書なりなんなりで自分だけの時間をつぶせばいい、とも考えたが、どうやら僕は思っていた以上に子供が好きらしい。当然のことながら、ロリコンといわれるような人種ではない。

 生前の大学でそれなりに付き合いがあった友人が言っていた格言を思い出す。

 ―――可愛いは正義、可愛ければ許される。

 昔の僕はいまいち、意味がつかめなかったが、今ならなんとなく理解できるかもしれない。

 ちなみに、その友人もロリコンという人種ではない、と自己申告していたが、園児が集団下校しているのを見ると目線がそちらに向き、目で追っていた事実を鑑みるととても信じられない。もはや会うことは叶わないが、彼がテレビに出ないことを願うことのみである。

 さて、そんなこんなで、僕は彼らの世話を焼き、時には喧嘩し、時には諭すようなことをやっていたら、気がつけば年長組みをも抑えるガキ大将的な身分に収まっていましたとさ。彼らの母親からみれば、よくできた子供であり、自分の子供の面倒を見てくれる出来た―――出来すぎた子供であり、僕が年長組みになるころには、僕にすべて任せておけば大丈夫という空気が生まれていたのは勘弁して欲しかった。買い物に子供が邪魔だからと言って僕に預けてくるのだから。むろん、下心は当然のように隠してはいたが、片方の手にマイバッグを持っていれば、今から買い物だということぐらいはすぐに分かる。

 過ぎたことを言っても仕方ない。そんな保育園時代をすごした僕だが、転機はどこの小学校に行くかという選択肢が生まれたときだろう。僕の経験からいえば、当然のように公立の小学校に行くのが普通だったのだが、どうやら生まれ変わった地区では、私立の小学校というものがあり、公立か、私立かの二択があるらしい。しかも、その小学校は大学付属で上手くいけば、大学までエスカレーター式でいけるらしい。

 小学校時代から青田買いとは、少子化もここに極まれりだと思った。

 僕としては、公立でも十分だったのだが、どうやら両親としては私立に行って欲しいようだった。親に庇護されている身としては、親の要望に従うほかない。無論、小学校の入学テストなどお手の物。考えなくてもすぐに解ける。一時間程度の時間が与えられたが、十分程度で終えてしまった。
 だが、僕が考えなしに試験問題を解いてしまったのはやや問題があったようだ。記述式の回答さえ求められる問題で中学生レベルの漢字を使ってしまったのも過ちの一つである。気づけば入学料、授業料免除の特Aランクの特待生になっていた。これには両親も驚いた表情をしていたが、まあ、喜んでいたので問題はないだろう。

 そんなこんなで、聖祥大学付属小学校に入学した僕だ。前の保育園からは仲間の半分程度が聖祥大学付属小学校に入学している。その中で僕と同じクラスなのは、目の前で緊張した面持ちをしながらも楽しそうに昨日の戦隊物について話している彼と他二名の女の子である。ちなみにその女の子たちは、初めて身を包んだ真っ白な制服についてワイワイ、キャーキャー言っており、男の出る幕ではないようだ。

 やがて、僕らは教師から呼び出され、名前の順番に廊下に並ばせられた。

 さて、今から退屈な入学式だ。



 ◇  ◇  ◇



 新入生の名前が呼ばれ、校長の短い話があり、校歌を歌う、という実に簡素な入学式を終えた後、僕たちは教室に戻ってあいうえお順に自分の名前が書かれた机に座っていた。このクラスの構成人数は三十人。合計クラスが五クラスあることから考えても百五十人前後が今年の新入生ということだ。

 今からは、自己紹介タイムである。中、高校生になれば、クラス替えのときに必ずあるあれである。ここで目立つか目立たないかで今後のクラスの立ち位置が決まるというものだが、小学生の身分ではそれはありえないようだ。言うことも目の前に立つまだ若い教師によって決められている。それは、『自分の名前』『嫌いなこと』『好きなこと』の三つである。

 自己紹介が進む。僕の順番は『くらもと』であるだけに頭から数えたほうが早かった。今は、ジェンダーフリーという時代なのか、男女の出席番号はごっちゃ混ぜになっている。僕の記憶があるころは、男子が最初、女子が後だっただろうか。個人的な考えを言うと、男女の差別はいけないと思うが、区別ぐらいはしなければならないと思うが、これは今は関係ないことである。

 僕の自己紹介は適当に流しておいた。名前は『蔵元翔太』で、嫌いなことは『暇な時間ができること』、好きなことは『身体を動かすこと』である。生前は、だらだらするのが趣味に近かったが、こちらに来て子供と一緒に遊ぶようになって身体を動かすのもいいものだ、と思い始めた。
 どうやら、近所にはサッカークラブもあるらしいから、機を見て親に入れるように頼んでみようと思う。

 さて、そんな感じで軽く流した僕の自己紹介であるが、僕以外の子はというと、こういうことは初めてなのか、緊張し、つっかえながらも一生懸命に三つの質問に答えていた。しかしながら、こうして自己紹介のときに顔を見るのだが、このクラスの人間は割とカッコイイ、可愛いと形容されるべき容姿を持つ男女が多いように思える。まるで、入学試験の項目に容姿という欄が備え付けられているのではないだろうか、というべきほどに。髪の色も茶色や少し色素の薄い人間のほうが多いという、生前の真っ黒な人間ばかりがいる中で授業を受けていたみとしては信じられない光景だった。

 その中でも一番目立つのはやはり彼女だろうか。今から、自己紹介を始める女の子。長い金髪を後ろに流し、白人の血を引いているのであろう白い肌を見せながら、意志の強い眼光を見せる女の子。

「アリサ・バニングスです」

 そう、彼女―――アリサ・バニングス……ん?

 その名前がどこか引っかかった。記憶の奥底に微妙な違和感。漫画などであれば、何かしらのフラグで、ここで邪魔されるのだろうが、今は自己紹介の最中。自分の考えに没頭しても邪魔する人間など存在しない。だから、自分の内心にもぐりこみ、記憶の泥を探る。

 アリサ、アリサ・バニングス。この世に生まれてから、彼女と出会ったことはない。あんな目立つ女の子なら、忘れろ、というほうが無理である。ただでさえ、僕は前世の経験をもっており、簡単に物事を忘れないという特性を持っているのだから。だが、その特性を持ってしても彼女の名前にかすりなどしない。僕が知っている名前はすべて日本人的なもので外国人のような響きを持った女の子など知らない。

 ならば、前世……? と考えたところで、不意に脳裏にフラッシュバックする光景。

 ―――廃ビル、裸の幼子、虚ろな瞳、白濁に汚された身体。

 その刹那に浮かび上がってきたあまりの嫌悪感を催す光景に吐き気を覚え、口を押さえた。幸いにしてその光景が見えたのは一瞬だったため、すぐにその吐き気はおさまったが、あの光景を見てしまった嫌悪感だけは拭い去れなかった。だが、その光景を見たことで思い出せたこともある。

 ああ、そうだ。あれは……あの光景は―――

 『とあいあんぐるハート3』と題されたゲーム中のCGじゃないか。もっとも、あれはCGというだけに二次元だったが、今、その原型ともいえる彼女を目の前で見てしまったせいか、かなり三次元近い状態で復元された光景を想像してしまった。

 とらいあんぐるハート3―――前世でいわゆる18歳未満お断りのゲームである。僕に『可愛いは正義』という格言を教えてくれた友人の勧めに従ってプレイしたゲームだ。そんな感じで勧められるがままにプレイしたゲームだったが、音楽のある小説という部分が合致したのか、あるいは、剣術という物語の中でしか語れないような背景が気に入ったのか、意外とのめりこんでしまった。三日ほど集中してプレイした結果、すべてのヒロインのエンディングを見ることに成功していた。もっとも物語の内容の細部までははっきりと覚えていない。ヒロインの名前なんかも忘れている。だがアリサ・バニングスの件は、記憶の関連付けでもされたのか思い出した。それは、おまけのシナリオを残すのみといったところで起きた悲劇だ。

 そう、今しがた思い浮かんだCGである。もう既に自己紹介が終わって椅子に座っているが、その彼女がメインのおまけシナリオだ。それが、喜劇ならどれほどすっきりとした感情でゲームを終えられただろうか。残念なことにそのシナリオは喜劇ではなく悲劇。今までの世界観を壊してしまいそうなほどに残酷な陵辱劇だったのだ。

 確か、彼女が陵辱され、殺され、自縛霊となって云々だったように記憶している。細部は覚えていない。何より強烈だったCGのせいで。はて、しかしながら、これだけでは整合性が合わない。アリサ・バニングスという少女だけでは僕がプレイしたゲーム『とらいあんぐるハート3』に絡んでこないからだ。自縛霊というだけにあの巫女さんヒロインだっただろうか。いや、違う。確か最後は、泣いてくれる友人を得て成仏という流れだったような気がするから………

 もう後一歩で思い出せそう、喉までは出ているという状態で考えが止まる。そんな僕の耳に次々と続けられる自己紹介の声が聞こえる。だが、その声も耳に入っているだけだ。頭にはまったく入ってこない。右から入って左に抜けるとはまさしくこのこと。
 バニングスさんより後に自己紹介しているクラスメイトには申し訳なく思うが、この喉に小骨が引っかかったような不快感を拭うためには、考えに没頭しなければならない。こういうとき、知っている誰かに尋ねることが出来ればいいのだが、如何せん、僕のような体験をしている奴なんているはずがない。だからこそ、こうやって一人で頭を悩ませているのだが。

 やがて、クラスメイトたちの自己紹介も終わり、今年一年担任を受け持つことになる女性教師の自己紹介も終わった頃に丁度いいタイミングでチャイムが授業の終わりを知らせていた。
 そのチャイムと同時に担任教師は、十分間の休み時間を告げる。どうやら、次は授業の説明があるらしい。普通なら、さすが私立と驚嘆するところだが、生憎、今の僕は自分の記憶を探っているところだ。

 しかしながら、探り続けて十分以上経つのだが、上手いこと思い出せない。そもそも、プレイしたのはたった一度だけであり、バニングスさんのことを思い出せたのは特徴的な髪の色とあのCGを見たときの衝撃とアリサという名前が上手く合致したからだ。つまり、何かきっかけがない限りこれ以上思い出すことは不可能だろう。だが、そう簡単に切欠なんて―――。

 そう考えている僕の目の前にすぅ、とピンクのリボンでラッピングされた百円ショップで売ってそうな袋を目の前に差し出した。中身はたぶん、プレーンとチョコのたった二枚のクッキー。

 突然、目の前に出された袋に驚いて差し出された方向に顔を向けると、その方向には満面の笑みで袋を差し出す女の子姿が。

「えっと……確か……」

 少し色素の薄い茶色の髪の色にツインテールというには若干短い髪型をした女の子。確か、名前は―――

「高町なのは、なのはだよ」

 名前に引っかかっている僕に女の子―――高町さんは、笑みを浮かべたまま自分の名前を告げる。
 その瞬間、僕の脳裏にどこぞの名探偵のように雷撃が走った。

 ――――っ!!

「あ、ありがとう」

 あまりの衝撃に僕はとりあえず、そんな簡単なお礼を言うことしかできなかったが、高町さんはそれで納得したのか、再度、ニコッと子供が浮かべる特有の笑みを浮かべると「これからよろしくね」と告げて、次の席にクッキーを渡しに行った。

 僕は、とりあえず、受け取ったクッキーを机の中に入れて、先ほど思い至った事実に思考を集中させる。

 ああ、そうだ。そうだ、思い出した。そう、彼女―――アリサ・バニングスという少女の最初で最後の友達は高町なのはだ。彼女がアリサ・バニングスのために泣いたがために彼女は成仏したはずだ。
 ……アリサ・バニングス……だよな? なんだか微妙に違和感を感じているような気がするが、何にせよ彼女があのときの少女と瓜二つであることは間違いない。

 ふぅ、思い出せなかったものが思い出せて、これですっきりした、と思うのもつかの間、今度は別の問題が出てきた。

 ゲームと同じ登場人物。そして、今気づいたが、ゲームと同じ街『海鳴市』。偶然というには出来すぎている現実。不意にたどり着きたくない結論。だが、どうしてもたどり着いてしまう結論。

 つまり―――この世界は『とらいあんぐるハート3』の世界なのか?



 ◇  ◇  ◇



 あの後の授業というか学校の説明がまったく身に入らなかった。放課後、同じクラスになった友人に声をかけられるまで放課後になったことに気づかなかったほどだ。その割りに帰りの挨拶をきちんとしていたり、帰る準備をしていたり、無意識のうちに行動はしていたみたいだが。

 結局、この世界と『とらいあんぐるハート3』のゲームの世界が一緒かどうかについては結論が出なかった。当たり前だ。僕が持っている情報があまりに少なすぎる。こちらが手に入れたカードは『アリサ・バニングス』、『高町なのは』、『海鳴市』だけ。後、僕が覚えている限りのゲーム内の情報としては『世界の歌姫』、『お菓子屋さん』、『高町恭也』、『巫女さん』、『吸血鬼』、『人形メイド』、『剣術』、『空手』、『男の子みたいな女の子』、『関西弁』、『狐』ぐらいである。
 正確な名前が出てこないは、はっきりとした記憶がないからだ。おそらく、アリサ・バニングスのように姿をみたり、高町なのはのように聞き覚えがあるような言葉が耳に入れば連鎖的に思い出せると思うが、今はキーワードのみだ。

 何にせよ、あの物語の舞台は、ここ『海鳴市』だ。もしこの世界があのゲームの世界と酷似しているならば、少し調べればすぐに分かるだろう。

 そう結論付けて、僕は放課後と気づかせてくれた友人とともに帰宅した。



  ◇  ◇  ◇



 ―――結論から言えば、この世界は限りなく黒に近いグレーだった。

 友人に手を振り、帰宅した後、父親からパソコンを借り、僕が思い出したゲーム内の情報に照らし合わせて少し調べた結果、僕が思い出している情報に合致した結果が出てきてしまった。

 世界の歌姫―――フィアッセ・クリステラ。
 お菓子屋さん―――翠屋。
 高町恭也―――高町桃子というパティシエがいたことからいると判断。
 巫女さん―――八束神社。

 流石に『吸血鬼』や『人形メイド』のようなオカルト性が強い情報は正確なものが出てこなかった。インターネットというものなら尚のことである。
 二つ目までは偶然という可能性があるが、三つ目以降は必然といえる。つまり、この世界は限りなくとらいあんぐるハート3の世界にかなり酷似しているということが結論付けられる。おそらく、残りのキーワードもこの街について調べれば分かっていくことが多いだろう。

 しかしながら、この事実が分かったところで、僕の心の中であまり衝撃はなかった。ふぅ~ん、そうだったんだ、という程度だ。なぜなら、僕は既に開き直っているからだ。この世界に生まれて数年悩み出した結論が僕の土台になっている以上、この事実で僕という存在は揺らがない。

 ―――我思う、故に我あり。
 ―――ケ・セラ・セラ。

 この世界が『とらいあんぐるハート3』の世界? だから、どうだというのだろう。少なくとも六年という新しい人生だが、僕の両親が、保育園で過ごした仲間が、今日出会ったばかりのクラスメートが、パソコンの中で動くプログラムのように決められた行動をとっているとは到底考えられない。

 この世界は、僕にとって間違いなく前世の世界と同じく現実で、ゲームのキャラクターと同じ名前の人物がいる程度にしか思えない。たとえ、この世界がとらいあんぐるハート3と同じシナリオを辿るとしても、あのゲームの主人公は『高町恭也』であり、僕ではない。ならば、僕にとってこの世界がとらいあんぐるハート3であるかどうかなんて微塵も関係ないわけである。

 ならば、なぜこの世界がとらいあんぐるハート3の世界かどうか調べたか、というと、単なる好奇心である。それ以上でも、それ以下でもない。

 しかしながら、仮にこの世界がとらいあんぐるハート3の世界だとして、そのゲームのシナリオどおりに世界が動くとすれば、アリサ・バニングスは、あの陵辱劇の被害者になってしまうわけだが。だが、この世界はゲームではない。そうなるとは限らない、ともいえるわけで……つまり、現実の交通事故と同じだ。巻き込まれるかどうかは分からない。だが、人より幾分その可能性が高いという風に考えられるわけで。

 明日から彼女のことを少しだけ頭の片隅においておくことにしよう。

 そう結論付けて僕は、パソコンの電源を切り、そろそろ睡眠を求めている身体に従ってベットの中にもぐりこむのだった。



 続く

 あとがき

 主人公は『とらいあんぐるハート3』しか知りません。『リリカルなのは』? なんですか? それ。という感じです。



[15269] 第二話
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/03 12:17



 この世界が『とらいあんぐるハート3』の世界じゃないか、という疑惑を持って、つまり、入学式から一週間が過ぎた。この辺りになってくると、小学生といえども大小入り混じりながらもコミュニティーというものが出来てくる。つまり、いつも一緒に遊ぶメンバーだったり、いつも一緒に登下校するメンバーである。中学生とかにでもなれば、同じ部活の面々だったりするのだろうが、この身は小学生。必然的に家が近所だったりするメンバーが多い。しかも、まだ低学年のせいか、男女入り混じっているパターンが多々である。

 そんな中で僕は変則的にいくつかのコミュニティーに所属している。どこにでも所属しているが、どこにも所属していないというべきか。なぜ、そんなに変則的かというと、簡単に言えば話が合わないのだ。
 この身は小学生なれど、頭脳は大人。小学生相手に昨日の株価が~、などと話をしてもまったく理解されないわけだ。彼らに通じる話といえば、カードゲームだったり、戦隊物の特撮だったり、アニメだったり、と僕にはあまり肌の合わない内容だったりすることが多々だ。まあ、クラスの中でまったく交流がないというのも日本人の気質からか、不安になるため、彼らに話を合わせるために嗜みながら交流しているわけだ。
 割と所属する時間が多いのは、サッカーや野球など人数がいるスポーツが好きなメンバーが所属するところだろう。後は、まあ、保育園時代にガキ大将のようなものをやっていたときの癖なのか、クラス内の状況を探るために色々なコミュニティーに顔を出すようにはしている。

 その過程で、何人か内気な性格の人間が初見の相手に何も言えずに孤立してしまうなんて事態が発生しかけていたので、気が合いそうなコミュニティーに無理矢理つっこんでやったりもした。大きなお世話かもしれないが、ここで孤立してしまうと辛い小学校時代を過ごしてしまうかもしれない、ということを考えるとやはり世話を焼きたくなるものである。なにより、孤立で弱いというは、最悪の場合、いじめを呼んでしまう場合があるのでやっかいだ。特に僕が世話を焼いた人間は、強くて孤立しているわけではなく、話しかけられなくて孤立しているという消極的な孤立だったわけだから、その可能性が高いと論じざるを得ない。何とかできないなら、放っておくしかないが、僕は割と顔が広いため何とか出来た。

 そして、一週間も経てば、大体、コミュニティーというのも安定してくる。僕が世話を焼いたため、コミュニティーに取り残されたという人間はいないように思える。ただし、二人の例外を除いて。

 一人は、月村すずかという女の子。しかしながら、彼女の場合は、消極的な孤立というわけではなく、望んでそうなったという感じだ。いつも小学一年生が読むとは思えない本を広げていることから考えるに、精神年齢がここのクラスメイトよりも高いのだろう。だからといって、バカにしているわけではなく、他の女の子に話しかければきちんと返答することから考えても孤立しているとは言いがたいのだが。まあ、言えば、一人が好きという人間なのだろう。これで、人の目に怯えているとかだったら、考えるが、どう見ても彼女はそんなタイプには見えないので僕としては心配はしていない。

 そして、もう一人が問題だった。

 もう一人の名前は、アリサ・バニングス。そう、僕がプレイしたゲームの中では、陵辱劇の被害者である。彼女の場合は、月村さんとはまた異なった背景を持って、孤立している。そう、月村さんのように孤立しているなら何も心配はしていないのだが。この世界に気づいた次の日、僕は彼女が心配になって同じ保育園だった女の子たちにバニングスさんを誘うように頼んだのだが、それは失敗した。バニングスさんは、どうやら僕や月村さんと同じく小学校一年生を相手にするには精神年齢が高いようだ。保育園仲間によると『バニングスさんは面白くない』だそうだ。しかし、クラスメイトは彼女たちだけではない。バニングスさんも月村さんのようにどこかで距離を保つか、気の合うコミュニティーを見つけるさ、と楽観視していた。

 しかし、その思いはあっさりと崩されてしまった。彼女はどうやら向こう気が強いようだ。入学式三日目にして女の子のコミュニティーの中でも最大規模のコミュニティーのリーダー格とやりあってしまったそうな。喧嘩というには可愛らしいものであるが、最大コミュのリーダーが彼女を嫌ってしまったという事実は実に痛い。僕は生前も男だったからよくわからないが、どうやら女の世界とは酷く醜いものらしい。特に学校などの閉鎖された空間の中では。僅か小学校一年生にしてその欠片を見ることになろうとは………。それだけでも痛手なのに、彼女の容姿もまた問題を引き起こしていた。つまり、子供特有の排他的思考である。彼女の流れるような金髪と日本人というには白すぎる肌から判断したのだろう。

 ―――自分たちはどこか違うと。

 子供は、素直であるが故に残酷である。どこか違うと判断されたバニングスさんは、皆から敬遠されていた。もしも、彼女の向こう気が強いだけならば、どこかの男の子が多いコミュニティーに入ることも可能だっただろうに。事実、そんな女の子は少ないながらもいる。

 しかし、参ったな。

 僕は一週間経ってからの現状にこっそりとため息をはいた。あれから思い出してきたのだが、彼女が襲われた理由はバニングスさんが一人だったからだ。常に一人。高すぎる精神年齢とその金髪という自分たちは違うという排他的心理により彼女は常に一人だった。だからこそ、狙われた。狙われたしまった。

 それを思い出したのは、つい昨日のこと。事態は既に最悪の事態まできていた。ここで、僕が仲介したとしても彼女がおとなしく従うとは到底思えず、逆もまた然りである。つまり、バニングスさんに限って言えばお手上げということである。しかし、このまま彼女が孤立していくのを見ているだけというのは実に拙い。彼女を取り巻く空気は今のところ、平穏になっているが、彼女の向こう気と徐々に上がっていく年齢を鑑みると実に危険だ。一触即発の空気になるのも近いはずだ。そうなれば、待っているのは、数の暴力という名の現実。ここが私立なだけに退学という事実がありうる事実を考えれば、公立よりも可能性は低いとは思うが………いやいや、そんなことを考慮しないが子供であり、それが一番恐ろしいところである。

 さて、このまま放っておくのはかなり拙い。最悪と言っていい事態だ。しかしながら、介入という手段は封じられた。ならば、その条件下で導かれる解はたった一つしかなかった。

 僕自身が近づいて彼女とコミュニティーを作ることである。
 いくら精神年齢が高くても二十歳までの精神年齢を持つ僕には適わないだろう。彼女の向こう気も僕なら受け流せる。ただ、一点気になるところがあるとすれば、せいぜい性差ぐらいだ。今はいい、だが、これが高学年になるまで続くと、今度は僕とコミュニティーを組んでいること自体が標的になり始める。しかしながら、ゲームとほぼ同じ状況下になりつつある現状ではこれがベターであると考えられる。

 もし、僕が僕だけのことを考えて、ほかを簡単に切り捨てられる人間であれば、アリサ・バニングスとすれ違うだけの人間であれば、彼女のことなど放っておいただろう。彼女がゲームの中で起きた出来事に巻き込まれたとして新聞の片隅に載ったとしても、その記事を読んだ一瞬だけ同情を覚え、一日もすれば忘れてしまえただろう。だが、出会ってしまった。クラスメイトになってしまった。交差してしまった。陳腐な言葉でこの出来事を飾るとすれば、『運命』とでも飾ればいいのだろうか?

 さすがに、なるかもしれない、と知っておきながら放っておくのは良心が咎める。もしも、まあ、大丈夫だろう、で放っておいて、ある日突然ゲームの内容のようなニュースが知らせられれば、きっと罪悪感で一杯になるだろう。後悔するだろう。

 だから、今からの行動はアリサ・バニングスがあの悲劇にあわないようにするためではない。彼女を救おうだなんて大それたことを考えてのことではない。ただ自分が後悔したくないから、胸を押しつぶされるような罪悪感を感じたくないからという自己満足であり、偽善である。

 行動するなら善は急げである。早速、今日の昼休みにでも声をかけてみることにしよう。



  ◇  ◇  ◇



 さて、バニングスさんは何所に行ったのだろうか。

 昼休み、弁当を食べ終わった僕は、バニングスさんを探して、校舎内をうろついていた。本当は始まってすぐに話しかければよかったのだが、その前に元保育園組みの女の子二人に捕まってしまったのだ。

 なにやら、自分でお弁当を作ってきたから味見をしてくれ、とのことらしい。もっとも、作ったのは数あるおかずの中で卵焼きだけだったが。しかも、ところどころ失敗したのか、黒く、砂糖の分量が多かったせいか、砂糖が塊となって残っており、食べれるといえば食べれるが、判定としては『もっと頑張りましょう』だ。もちろん、僕は素直にそんなことは言わなかったが。代わりにもう一人の同じ保育園仲間の連れが、素直に「まずい」と口を出して、作ってきた張本人を半泣きにさせ、もう一人から拳を貰っていた。

 そんなこんなで食べ終わってみれば、昼休みの残り時間は三十分程度。今日のところは、弁当をきっかけに話す機会を作れればいいか、という程度の考えだったので、とりあえず、見つけて適当に話をしよう、とバニングスさんを探していた。

 しかし、あれだけ目立つ容姿をしておきながら、中々見つからない。一体どこにいるのだろう? と思っていたら、あまり人気のない中庭に彼女は―――いや、彼女たちはいた。

 彼女たち、と複数形なのはそこにいたのはバニングスさんだけではなかったからだ。もう一人、追加でいたのは、もう一人の孤高の人である月村さんだった。
 これで、彼女たちがニコニコと穏やかに話しているなら、僕の出番はないな、と立ち去るのみであるが、困ったことにそんな雰囲気ではない。むしろベクトル的には真逆といっていいだろう。剣呑な雰囲気だ。
 具体的な状況としては、バニングスさんが、月村さんの髪の毛を引っ張っている、というどうしてこうなったのか、僕にはまったく理解できない状況だった。良心的な意味で、この状況をこのまま見過ごすことは出来ない。

 僕は、走って現場へと直行した。幸いなことに僕が彼女たちを見たところから現場までは、中庭を突っ切ればすぐに着く距離だ。もしも、規則を守って回り道していたらかなり遠くなるが。もちろん、この状況にそんな規則を守るなんて悠長なことをしている暇はなく、僕は、中庭を突っ切って走りながら彼女たちに近づいた。

 近づいてみて分かったが、状況は遠めで見ているよりも悪いことが分かる。髪の毛を引っ張られていたいのだろう。月村さんは半分涙目になりながら、頭の上のカチューシャを押さえている。一方のバニングスさんは、髪の毛を引っ張りながら、月村さんが逃げられないようにして、執拗に真っ白なカチューシャを取ろうと、いや、奪おうとしている。

「貸しなさいよっ!」
「嫌っ!」

 バニングスさんと月村さんの声からも僕の考えが正解であることは明白だ。

 何が原因でこの状況が始まったか、直感的に理解したが、今はそんなことはどうでもいい。とりあえず、バニングスさんをとめないと。

 髪の毛というのは、筋肉と違って鍛えられず、また、頭皮に直接埋まっているため引っ張られると非常に痛い。どれだけ屈強な男であっても髪の毛を引っ張られて怯まないという人はいないぐらいだ。それは、子供の力であっても同様で。今、月村さんは相当痛いに違いない。

 幸いにしてバニングスさんは白いカチューシャを奪うことに夢中で僕には気づかなかったようだ。月村さんをその痛みから解放するために僕は、月村さんの髪の毛を引っ張っている方のバニングスさんの手首を掴んで、強く握った。
 いたっ! という痛みを訴える声とともに月村さんの髪の毛は解放される。人は手首に何かしらの衝撃が走った際に反射的に手を広げてしまうものなのだ。カチューシャを追っていたほうの手は間髪なく動き回るので捕らえようと思っても不可能だったが、髪の毛を掴んでいるほうの手は、さほど動いていなかったので捕まえるのは非常に楽だった。掴んだ手首は細く、子供特有というか、女の子特有というか、その両方の特性とも言うべく、暖かく、柔らかかった。

 半ば名残惜しいと思いながらも僕は、その手首を離し、髪の毛を離したときに開いた月村さんとバニングスさんの間に滑り込むように身体を割り込ませた。そして、急に髪の毛を離されたことで思わずかがみこみ頭を押さえている月村さんに話しかける。

「月村さん、大丈夫?」

 返事はなかったが、コクリ、と頷いているような動作を見せてくれたことから考えてもおそらく大丈夫だろう。
 だが、問題は背後にいるバニングスさんだ。

「ちょっと! あんたっ!! なにするのよっ!」

 背後から鋭い声。僕は、月村さんの様子を見るためにかがんだ姿勢から、両膝を伸ばして立ち上がり、振り返って僕とあまり伸張の変わらない女の子―――バニングスさんを見た。

 彼女の目は雄弁に怒っています、と語っており、僕に向ける敵愾心で燃えていた。

「なにするのよ、というのは僕のほうだと思うけど。どうして月村さんの髪の毛を引っ張ってたの?」
「あたしがそのカチューシャ見せて、って言ったら嫌だって言ったからよっ!」

 なんとも予想通りな展開なんだろう。ここで、カチューシャぐらい見せてやれよ、というのは完全な部外者。だったら、諦めろよというのは、子供心を分かっていない。

 子供にだって譲れないものがある。それが、月村さんにとってはカチューシャだったというだけだろう。そして、子供というのは往々にしてダメといわれるとどうしても欲しくなるものである。別にどうでもいいものでも、後から捨てるということが分かっているものであっても。その刹那に欲しいと思ったものは、どうしても欲しくなるのだ。それが、他人が持っているものであれば、尚のこと。特にバニングスさんのように向こう気が強い少女であればさらにドンである。

 おそらく、バニングスさんは今まで手に入らなかったものはないのではないだろうか。だからこそ、欲しいと思ったものは何が何でも欲しくなる。たとえ、他人のものであっても。

 やれやれ、そういう躾は、是非とも家族でやって欲しいものである。

「あのね、人のものを力づくで奪ったら泥棒だよ? 月村さんは嫌って言ったんだから、だったら諦めないと」

 僕は、彼女に諭すように比較的柔らかい口調で言った。これがもしも、自分の娘だったら頭を軽く叩きながら怒るのだろうが、生憎ながらバニングスさんと僕の関係はクラスメイトだ。叩いて怒鳴ろうものなら、彼女の親が飛んできてもおかしくない。僕の生前の記憶から鑑みるにいつの時代にもモンスターペアレンツなんてのはいるのだから。せっかく取った特Aの特待生だ。こんなことで棒に振りたくない。授業等々の金額を知っている身としては。

 しかも、彼女は、そこら辺の悪ガキのように頭が悪いわけではない。むしろいいほうに入るだろう。つまり、言い聞かせることも可能であろう、と僕は考えたのだが―――

「別にカチューシャぐらいいいじゃないっ!!」

 返ってきた答えは、実に我侭なお嬢様そのものとも言うべき言葉だった。
 その言葉に僕は、はぁ、とため息を吐かざるを得ない。

 これは、相当甘やかされたのかな?

「それは、バニングスさんから見たら月村さんのカチューシャなんて、そこら辺で売ってるただのカチューシャかもしれないけど、月村さんからしてみれば、バニングスさんの価値は当てはまらないよ。もしかしたら、大切な人から貰った贈り物で、月村さんからしてみれば、とっても大切なものかもしれない。それこそ、バニングスさんに渡したくないほどにね。想像してみよ。もしも、バニングスさんが、お父さんから貰ったものを、例えば僕から無理矢理奪われたどんな気持ち?」

 バニングスさんは、僕が言った状況を想像しているのだろうか、少しだけ思案したような顔になって、すぐに先ほどと寸分違わない憤怒の感情を載せた表情を僕に向けた。

「とってもむかつくわっ!」

 とりあえず、その行動はバニングスさんの中だけの想像だから僕に怒っても仕方ないからね、と思いながら僕は言葉を続ける。

「そういうことだよ。バニングスさんはそのとってもむかつくことを月村さんにしたんだ。止めて当然だよね?」

 僕の問いに彼女は無言。だが、彼女は聡明だ。すぐに僕の意味を理解してくれるだろう。

 ちなみに、僕の諭しだが、残念なことに僕の同級生に同等のことを説いても無駄だろう。まず、価値観という言葉自体が伝わらないのだから。幸いなことにバニングスさんには伝わったみたいだけど。

 やがて、彼女はやや不満げな顔をしながらも、僕に向けていた憤怒の感情は成りを潜めていた。おそらく、頭では納得したが、心では納得できないというものだろう。今はそれでいいのではないか、と思う。こんなものはこれから十年以上続く学生時代の中では何度もあることなのだから。とりあえず、彼女にとらせる行動は一つだ。

「バニングスさん、自分が悪いことしたって分かった? 大体、髪の毛は女の命って格言があるぐらいなんだから、髪の毛を引っ張っちゃダメだよ」

 ついでにもう一つの暴力への自覚を促しながら、僕は振り返り、未だうずくまったままの月村さんに声をかけながら手を差し出した。

「大丈夫?」

「うん、ありがとう。蔵元くん」

 どうやら、僕がバニングスさんと話している間に泣き止んでくれたようだ。目を僅かに赤くしながら、月村さんは、僕の伸ばした手を掴んで立ち上がった。
 立ち上がった月村さんは、バニングスさんと目があうが、どうやら彼女も気恥ずかしいのだろう。月村さんと目が合うと、すぐさま視線を逸らした。

 次もお膳立てしなくちゃいけないのか? まあ、意地っ張りな女の子はそんなもんなのだろう。

 そんな風に納得しながら、僕は、バニングスさんに「ほらっ」と言って先を促した。次に何をすればいいか、彼女は理解しているはずだ。

「……うっ……カチューシャ無理矢理取ろうとしたり、髪の毛引っ張っちゃって悪かったわよ。ごめんなさい」

 途中までは視線を逸らしていたが、最後のごめんなさいは、目を合わせて頭を下げていた。

「うん、もういいよ」

 そんなバニングスさんの謝罪を月村さんは笑って受け入れていた。

「はい、喧嘩はおしまい。これで仲直り、二人は友達だね」

 僕は、両者の右手を取って、強制的に握手させた。もっとも、二人とも、え? と困惑気味だったが、気にしない。こういうことは、適当に強制させたほうが上手く行く場合もあるのだ。特に二人ともクラスメイトから明らかに浮いているから、上手くいくだろう。単なる勘でしかないけど。

「ほら、もう話せるよね? だったら、友達だよ。それに、バニングスさんは最初からそのつもりだったんでしょう?」

 たぶん、そうだ。そうでもなければ、バニングスさんがカチューシャなんかに興味を持つはずがない。単にあれは、話の種にするためのものだったのだろう。たぶん、バニングスさんも一人は寂しくて、でも今更、どこかのコミュニティーに入れてくれ、とはいえなくて、だから、一人だった月村さんに話しかけようと思ったのだろう。もっとも、話しかけたのはよかったが、その先が酷く失敗していたが。

「そ、そんなことはないわよっ!」

 だったら、どうしてこんな中庭に月村さんを追ってきたんだ? とは、聞かない。もう、すでに月村さんはバニングスさんの心情を読み取ってかクスクス笑っているから。

「こら~っ! 笑うなっ!」
「ごめんなさ~い」

 追いかけるバニングスさん、笑いながら逃げる月村さん。

 やれやれ、子供というのは実に簡単に友達になれるんだな。まあ、これで二人は大丈夫だろう。後は明日にでもなれば、友達になっているはずだ。雨降って地固まるじゃないけど、ハッピーエンドと打ってももいいのではないだろうか。
 なにより、僕がバニングスさんのコミュニティーにならなければならないということも避けられて万々歳だ。

 さてと、教室に帰るか、と久しぶりにいいことをした、と思いながらハッピー気分で教室に戻ろうと月村さんが逃げた方向とは逆方向から帰ろうと踵返したとき、その視線に気づいた。
 いつから、視線を向けていたのだろうか? まるで僕たちを隠れてみるように廊下の陰からこちらを見つめる瞳。僕と一度目が合うと、まるでその視線から逃げるように両手を振ってあたふたしながら、階段を登り、その姿を廊下へと消した。

「今のは……高町さん?」

 あの特徴的な変則的ツインテールを忘れられようはずもなく、僕は心当たりのあるクラスメートの名前を呟いた。
 彼女も僕と同じく、彼女たちの喧嘩を見て、それを止めるために顔を出したのだろうか。もっとも、廊下に姿を消した今となっては、確認しようがないが。

 まあ、いいか。と僕は半ば思考を放棄しながら教室へと戻った。


 続く

 あとがき

 彼は気づかない。自分が大きな、大きすぎるフラグを折ってしまったことに。



[15269] 第三話
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/04 21:50



 光陰矢のごとし、とはよく言ったものである。月日はあっという間に過ぎてしまう。
 それが気が休まる暇もなく日々が過ぎていけば、特に。

 僕が、小学校という気の休まる暇がない日々から、ようやく一息つけたのは入学式からほぼ一ヵ月後のいわゆるゴールデンウィークといわれる長期休暇が訪れたときだった。よほどカレンダー的な運に恵まれない限り、普通であれば祭日となる日付と曜日の都合上、長期休暇の間に一日だけ平日があるなんていうゴールデンウィークになるのだが、そこはさすが私立というべきか、平日であろうと学校自体を強引に休暇にしてしまった。つまり公立に通っている面々には申し訳ないが、事実上丸々一週間が休日となるゴールデンウィークの始まりである。

 小学生になってはじめてのゴールデンウィーク。新たに友人になった面々も、保育園時代からの友人もどこかに遠出するらしい。無論、近場で済ませたり、何所にも行かないという連中もいたりするが、年齢が小学校低学年ともあって小数だ。そして、今回、僕の家はその例外に分類されていた。いや、別に親と不仲だとか、貧乏でお金がないなんてことはない。簡単に言うと、僕に弟か妹が出来たってことだ。もう五ヶ月らしいから、あと、五ヵ月後には生まれるはずである。そんな理由で、人ごみだらけのどこかに行くのは危険であるとの判断から、家でのんびりと、という選択になったわけだ。ちなみに、色々子供が出来る云々に関して知識のある僕としては、弟か妹が出来たと聞かされたときは、非常に微妙な気持ちになった。一応、おめでとうといったが、きちんと笑えていたかどうかは定かではない。ついでに、この選択は僕にとっても渡りに船だった。ようやく、誰にも邪魔されずにゆっくりできるからだ。まるで、日曜日のお父さんのような考えだが、そう考えざるを得ないぐらいにここ一ヶ月は過酷だった。

 入学して一週間ぐらいはよかった。誰も彼もが新しい環境に慣れていないためだろうか。特に走り回るということもなく、穏やかというには若干賑やかな程度で日々を過ごせていたから。しかし、一週間を少し超えると、そこからは子供の本領発揮だった。もう少し大人になってくれればいいだろうが、つい一ヶ月前まではスモックを着ていたような面々だ。それが、制服を着たからといってすぐに大人びた行動を取れるはずもない。

 つまり、保育園時代と同じようなことをしなければならない日々がまた始まったのだ。

 廊下で走る奴がいれば注意し、転べば怪我をしていないか確認し、怪我をしていれば保健室へと連れて行き、スカート捲りなんて悪戯をする奴がいれば頭を叩き、スカートを捲られた女の子に謝罪させ、泣いている女の子を慰める。

 これは日常のほんの一例に過ぎない。これ以上のことが毎日起き、その対処に追われるのだ。無論、それを無視して小学生になったという自覚を持ち、少し大人になった連中と一緒に遊んでもいいのだが、どうやら保育園時代の三年程度の間に世話焼き癖がついてしまったようだ。放っておこう、と決意してもその決意は目の前で何かが起きれば、木で出来た小屋のように脆く吹き飛んでしまう。

 しかも、たちの悪いことに子供は元気の塊という言葉を体現するような連中の多いこと。そんな連中の相手だけで僕はくたくただ。職業を選ぶときに小学校の教師だけは絶対にやめようと心に決めた。と、同時に過去にお世話になった恩師に改めて感謝した。

 あと、変わったことといえば、僕がクラスの学級委員長に任命されたことだろうか。僕としては生き物係とか、植物係とかの楽そうな仕事のほうがよかったのだが、なぜか担任教師からの強制で僕になってしまった。後であまりに横暴すぎる、と文句を言いに行ったところ、

 ―――お前が学級委員長になろうがなるまいが、お前のやることは変わらんよ。

 と笑顔で返され、ぐっと言葉に詰まってしまった。事実、その通りになるからだ。おそらく、学級委員長が別の人だったとしても僕は、おそらく似たようなことをしただろうし、教師も学級委員長にやらせるべき仕事をよほどのことがない限りは僕に回してくるだろうことは容易に想像できるからだ。

 教師というのは、意外と生徒を見ているようである。

 ついでに小学校に入学して最初の懸案事項だったバニングスさんと月村さんについてだが、仲良くやっているようだ。登校時に一緒の時間のスクールバスに乗ってきたり、帰り道に手をつなぎながら帰ったりと、きちんと女の子の親友をやっているようだ。性格的な不一致を心配していたのだが、バニングスさんが暴走、月村さんがブレーキ役と役割が別れたことが成功の要因なのだろうか。もっとも、どちらにしても両者ともクラスメイトとは比べ物にならないぐらいに精神年齢が上であることを考えれば、意気投合するのも問題ないのだろうが。ちなみにこの二人、ゴールデンウィークは遠出をするらしい。所々、海外の名称が聞こえたような気がするが、気のせいということにして軽く流しておいた。

 ………海外なんて縁がないからなぁ。

 そんなこんなでゆっくりするために突入したゴールデンウィーク。最初の日は、二階建てのローン数十年の一軒屋である我が家の一室に与えられた自分の部屋で読書などをしながらゆっくりと過ごしたのだが、二日目以降は、常日頃の休日と同じく外でスポーツをしながら遊んだ。もっとも、ゴールデンウィークなだけに人数を集めるのに苦労したが、一部の例外を男女構わず集めれば、遊べるだけの人数は揃うものだ。ゆっくり出来ると喜んでいた僕が、自ら外に出ようと思った理由は他でもない。

 ―――身体を動かさなければ眠れないのだ。

 元気の塊である子供というのは頭脳が大人である僕であっても代わりはないようだ。恥ずかしながら、元気が有り余って仕方ないという状況に追いやられてしまった。あんなに眠れなかったのは初めてではないだろうか。原因は外で遊ばなかったことだと結論付け、僕は外に遊びに出ることにした。そんな理由からゴールデンウィークをいつもの休日と変わりなく過ごしてしまった僕だった。

 そして、サッカーやら野球やらカードゲームやらテレビゲームやら、遊びに遊んだゴールデンウィークもあっという間に過ぎてしまい、月曜日からまた学校が始まった。



 ◇  ◇  ◇



「今日の放課後?」

「うん。お姉ちゃんが蔵元君のことを話したら一度みたいから連れてきなさいって」

 お嬢様っぽい微笑を浮かべながら、どうかな? と僕を誘う月村さん。
 彼女は今日の放課後に月村さんの家のお茶会に僕を誘っているのだ。しかも、主に誘っているのは月村さんのお姉さんらしい。

「あ、別に何か用事があるならいいんだよ? わたしがちゃんとお姉ちゃんには言っておくから」

 僕が驚いて返事をしないのを今日の放課後に予定があり、どうしようか迷っていると勘違いしたのか、月村さんが慌てた様子で僕に言う。しかし、月村さん自身も僕が来てくれるを楽しみにしていたのだろうか、若干寂しそうな表情をして顔を俯けるというのはかなり反則ではないだろうか。夜の闇を流し込んだような黒く艶やかな髪を持ち、雑誌のモデルになってもなんら不思議ではない整った容姿をしている美少女と言っても過言ではない月村さんであれば特に。

 だから、というわけではないが、今日は特に決まった用事もなかった僕は月村さんからの誘いを承諾することにした。

「分かった、行くよ。それで、僕はどうしたらいい?」

 残念なことに僕は月村さんの家を知らない。彼女の家に行くのであれば、誰かの案内が必要である。

「あ、それならあたしが連れて行ってあげるわよ」

「アリサちゃん」

 僕と話していた月村さんの隣にはいつの間にかバニングスさんも立っていた。僕は基本的に話をするときは相手の顔を見て話すからバニングスさんが隣に来ていることに気づかなかった。

 しかし、彼女の言葉から察するにバニングスさんも今日のお茶会に来るのか。

「バニングスさんが? いいの?」

「いいわよ。どうせあたしもすずかの家に行くもの」

 どうやら、僕が考えたことは正解だったらしい。
 そうか、ついでというのならお言葉に甘えさせてもらおう。

「それじゃ、お願いしようかな」

 第一、誘われたところで、行く当てがないのでは問題だし、もしバニングスさんが用事もないに迎えを用意してもらうならば、さすがに気が引けるものの、バニングスさんも今日のお茶会に参加し、僕もついでに拾っていってもらえるとなれば、有り難いという感情以外に浮かぶものはなかった。

「それじゃ、今日の夕方ぐらいでいいかな? お姉ちゃんが帰ってくるのがそのくらいなんだ」

 そう提案してくる月村さんの了解の意を伝えると丁度休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り、月村さんとバニングスさんは自分の席へと戻っていた。

 お茶会ね―――さて、何か持っていくべきだろうか?

 前世とあわせて二十数年の経験を持つ僕だが、お茶会と銘打たれたような上品な会合なんて行った経験はない。これが野郎の飲み会であるなら、酒を持っていけばいいだけなのだが。さすがに、というか未成年飲酒が厳しくなり親父の買い物ですらお酒が変えなくなった今日では到底不可能であり、なによりもお茶会とは全然別物になってしまう。

 う~ん、後でバニングスさんに聞くことにしよう。



 ◇  ◇  ◇



「なにやってるのよ。早く乗りなさいよ」

「え? う、うん」

 時刻は午後四時。場所は聖祥大付属小学校正門前。高学年の小学生が下校している中、好奇の視線を浴びながら僕は、目の前のリムジンと呼ばれる車に身を滑らせた。
 高級車として名前だけは知っているリムジンだが、乗り心地はその有名さにまったく劣っていなかった。僕の家の車とは比べ物にならず、どこかのソファーに座っているような感覚だ。

「鮫島。出して」

 テレビの中でしか聞いたことないようなお嬢様言葉。専属の運転手がいて、その人に命令するなんて、どこの大金持ちのお嬢様? という感じだ。そのバニングスさんの言葉に従ってリムジンはゆっくりと動き出した。さすが、高級車。窓から見る光景は間違いなく車が動いていることを示しいてるのにも関わらず、車内の揺れは殆どないといっても過言ではない。目隠しをされていたら、動いていることにすら気づかなかったかもしれない。

「……ちょっと、何か話しなさいよ」

 初めて乗るリムジンに感激というか、緊張していた僕は呆然と外を見ていたのだが、どうやらそれがバニングスお嬢様には気に入らなかったらしい。不満げな表情を浮かべて僕を見ていた。どうやら、彼女は沈黙が嫌いらしい。

「えっと……バニングスさんの家ってもしかしてお金持ち?」

 彼女のリクエストに答えて沈黙を破った僕の質問は愚問だった。こんな車を持っている以上、金持ちでないわけがないというのに。どうやら、写真や辞典以外で初めて目にしたリムジンというものに舞い上がって頭が働いていないようだ。

「そうね。パパは社長をしてるからお金は持っていると思うわよ」

「そうなんだ」

 ――――話が終わってしまった。どうやら、今の僕の脳みそは絶不調らしい。

「―――あんたは?」

「え?」

「あんたの家のパパはなにしてるの?」

「あ、えっと……僕のお父さんは、○○○って会社の子会社で機器の開発やってる」

「―――その会社、あたしのパパが社長している会社の子会社ね」

 ぶっ、と思わず吹きそうになってしまった。
 なんというシュチュエーションなのだろう。社長―――しかも親会社の―――の娘が目の前に。世の中狭いものだ。しかしながら、考えてみれば、親父の会社はここから二駅ほどで、親会社もその近くにあるのだから、彼女の父親と僕の親父に関係があってもなんら不思議ではないのかもしれない。もっとも、さすがに親会社の社長と子会社の開発部課長の関係とは思わなかったが。
 もしも、これが漫画の世界で言うなら、僕はバニングスさんの機嫌を損ねないようにゴマをすっているところだろう。そして、もし彼女に何かしら気を損ねることをすれば、僕の親父の首が飛ぶのだ。まあ、実際にあったとすればたまったものではないが。

 そんな風に盛り上がるわけでもなく、かといってまったく会話がないというわけでもない。強いていうなれば、お互いが緊張したお見合いのような会話が月村邸に着くまでの約二十分間細々と続くのだった。



 ◇  ◇  ◇



 僕の今の表情を形容するとすればポカーンが正解だろうか。口を開けて目の前の豪邸を見ているに違いない。
 当たり前だ。日本で豪邸と呼べるような洋館を見せられれば誰でも呆然としてしまうだろう。しかも、それが夕日に照らされて、非常に幻想的な雰囲気を醸し出しているなら尚のことである。これで、ツタや植物が壁に走っているなら、魔女の洋館? とも考えられたかもしれないが、洋館そのものは綺麗なものであり、やはり豪邸と呼ぶほかなかった。

 今日は実に驚愕させられる日だ。もしかして、ゴールデンウィーク中に何事もなく遊べたしわ寄せが一気に来ているのだろうか。

「なにやってるのよ? 行くわよ」

 すでにリムジンを帰したバニングスさんが、呆然としている僕の横を通って先行する。
 西洋風の大きな閉ざされた門。一見すれば、誰も彼もを拒んでいるように見えるが、その門柱につけられたインターフォンだけが、来客を許可しているように思える。

 僕だったら緊張して押そうか押すまいか、小一時間悩みそうだが、バニングスさんは、この家に来たことがあるのか実にあっさりと黒い門柱に取り付けられた白いベルボタンをその細い指先で背伸びしながら押した。

 確かに子供が押すには若干高い位置にあるもんな。

『はい、バニングス様と蔵元様ですね。今、そちらに伺います』

 インターフォンから聞こえてきたのは女性の声。抑揚があまりなく、平坦な声から考えると実に落ち着いた感じの女性ではないかと思う。
 彼女は、門にはインターフォントは別に小型のカメラがついているのだろう。誰が来たかをあっさりと見抜き、プツッと何かを切るような音が聞こえて、向こう側との通話は切れてしまった。

 待つこと数十秒、目の前の重い門の向こう側に見える大きな西洋風の左右両方が開く扉の片方をあけて出てきたのは、紺を基調としたワンピース型の洋服の上から白いエプロンドレスに身を包み、頭の上にカチューシャのようなものをのせた――― 一言で言うならまさしくメイドを体現したような姿をした女性だった。

 その女性はカツカツとまるでモデルが歩くかのように素人から見ても綺麗だと思える歩き方で門の近くまで来て、誰しもを拒みそうな門を開ける――――かと思いきや、その大きな門の一部に人が一人だけ通り抜けられそうな別の部分があり、その部分を開いて通り抜けるように促した。

 バニングスさんは、慣れているのか平然と門をくぐり、小市民である僕は、なぜか申し訳ない気持ちになりながら、メイドさんに頭を下げながら―――頭を下げるとニコリと微笑まれた―――門をくぐった。メイドさんは、僕が門をくぐったことを確認すると一部だけ開いていた門を閉じ、歩き方は先ほどと変わらないにも関わらず、僕を追い抜き、バニングスさんをも追い抜いてしまい、最後に豪華な洋館の入り口を開く。先にバニングスさんが躊躇なく入り、次に僕が扉の向こうに見える別世界に頭が朦朧としながらも、何とか玄関に入る。

「ようこそ、月村邸へ」

 メイドさんが玄関に入るときに声をかけ、このときになって、僕はどんな場所に着たのかをようやく把握し、唯一の手荷物である包みを持ってきたことを、それを勧めてくれた母に改めて感謝した。



 ◇  ◇  ◇



 さて、今日は実に驚愕することが多い日だ、と思ったのはついさっきのことだっただろう。今日はもうさすがにこれ以上、驚くことはないだろう、と思っていたのだが、その考えは至極あっさりと覆されてしまった。

 僕とバニングスさんが月村邸にお邪魔し、メイドさんの案内に従って廊下を歩くこと数十秒。案内された先はある一室だった。ここでお茶会が行われるのか、と感慨深く思いながらメイドさんに案内されるままに部屋に入る。そこに広がっていた光景は、僕を今日一番の驚愕に誘ってくれることになる。

 部屋に入った僕らを迎えてくれたのは、リビングと呼ぶには広い部屋。真ん中に置かれた六人は座れそうな大きなテーブル。そして、姉妹だと明白に分かる少女と女性の二人。そのうち、一人は今日のお茶会に誘ってくれた月村さん。そして、もう一人は―――

「あら、あなたが蔵元くん? すずかがお世話になったわね。私が姉の月村忍よ」

 月村さんと同じく夜を流したような艶やかな黒髪を翻し、椅子から立ち上がると僕をまっすぐに見つめて自己紹介してくれる月村のお姉さん。なるほど、姉といわれれば実にしっくりとくる。おそらく、月村さんが成長するとこんな顔の美人になるのだろう。

「本日は、お招きくださりありがとうございました。僕は、月村さんのクラスメイトの蔵元翔太です」

 そういって僕は九十度近くになるまで頭を下げる。ここまで深々と頭を下げる予定ではなかったのだが、周りの空気とあまりの高級感に思わず下げなければならないような気持ちになってしまった。

 これでいいのだろうか? と心臓をバクバク鳴らしながら、こんな洋館でなければ口に出せないようなことを搾り出すようにして言った。これが僕の精一杯だ。もしも保育園時代の友人に聞かせれば、変だといって爆笑してくれるか、まったく意味の通じないか、のどちらかであろう。
 そんな僕の心情を知ってか知らずか、月村さんのお姉さんは、僕の挨拶を聞いてクスッと苦笑していた。
 ちなみに、バニングスさんは一瞬、ポカンと呆けたような表情をした後にお腹を押さえて爆笑している。月村さんは、笑っちゃダメだよ、といいながらも口を押さえているところをみるに、その掌の下では笑っているのだろう。

「あ、これ。手ぶらじゃ申し訳ないので気持ち程度ですが」

 笑っている二人を無視して僕は持っていた包みを取り出し、月村さんのお姉さんに手渡した。

「あら、呼んだのはこっちだからいいのに」

「いえ、本当に気持ち程度ですよ。中身はクッキーなので皆で食べようと思いまして」

 バニングスさんに聞いても「何もいらわないわよ」としか答えてくれないので、母親に聞いてみたところ、とりあえず、家にあったクッキーを持って行きなさいと渡してくれたのだ。
 何でも近くのおいしいお菓子屋さんのクッキーらしい。確か、名前は翠屋だっただろうか。あのゲームにも出てくるお店だが、味は確かだ。特にシュークリームは前世を含めても一番おいしいと断言できるほどである。
 ただし、僕の小遣い程度では月にいくつも食べられないが。

「あら、そう。それじゃ、ノエル、開けて並べてちょうだい」

「はい、お嬢様」

 メイドがお嬢様と呼ぶ。
 前世じゃありえない光景。いや、今の世界でも月村さんと知り合いにならなければ到底触れることのない光景なのだが。
 あまりの出来事についつい月村さんのお姉さんとメイドさんを見てしまった。

「さあ、座って。お茶会にしましょう」

 笑いながら月村さんのお姉さんは僕たちに座ることを勧めてくれる。

 しかし、気のせいだろうか。先ほど感じるこのデジャヴとも言うべきものを感じているような気がするのは。何かを忘れているようなそうでもないような。まるで、天気予報で雨だとつげられながら、傘を忘れてしまったときのような違和感だ。

 はて、本当になんだろうか?

 喉に刺さった小骨ほどではないが、どこか気持ちが悪い違和感を感じながらも僕は勧められるがままに椅子に座るのだった。


 続く

 あとがき

 吸血鬼の本拠地へようこそ。ポカをやらかすかどうかは次回。どっちがいいかな? 物語的には明らかにフラグなのですが。
 A ポカをやらかす  B そんな見え見えのフラグに乗らないぜ!



[15269] 第四話
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2011/05/06 21:14



 紅茶という洒落たものを飲む機会が果たして人生で幾度出会えるだろうか。
 しかも、ティーパックでお手軽簡単な紅茶(笑)ではなく、葉っぱからきちんとした手順を踏んで入れられた紅茶である。
 少なくとも前世とあわせて二十数年生きている僕であるが、そんな機会に恵まれたことは一度もない。
 ただ紅茶をきちんとした手順で入れるだけなら趣味で入れる人は結構いるかもしれない。しかしながら、洋館で、きちんと白い陶磁器のカップとポットで、しかも、メイドさんが入れてくれる―――ただし、一時期有名だったメイド喫茶は除く―――となるとかなり数は限定されるのではないだろうか。

 つまり、僕は今、相当レアなイベントを体験しているわけである。

「どうぞ」

 かちゃりと陶磁器特有の音を立てて僕が座る椅子の前に差し出される高そうな白い陶磁器のカップに注がれた紅茶。その香りは、非常に高級そうで、市販のティーパックの香りしか知らない僕にとってはその匂いだけで緊張させてくれる。本当に紅茶の『こ』の字も知らないような僕が飲んでいいものやら。

「本日のお茶は、ダージリンのファーストフラッシュとなっております」

 ―――アールグレイ、ダージリン。名前だけは知っている。そう名前だけは。
 コーヒーと一緒だ。ブルーマウンテン、キリマンジャロ。名前だけは知っているが、味の違いなどは僕には分からない。コーヒーはコーヒーだし、紅茶は紅茶だ。もっとも、目の前に置かれたカップから湯気を立てている紅茶からは明らかにティーパックとは異なる高級そうな雰囲気を醸し出しているのだが。

「あら、蔵元くん、飲まないの?」

 メイドさんに紅茶を注がれてずっとカップを見ている僕を見て怪訝に思ったのだろう。月村さんのお姉さんが、僕に紅茶を飲むように勧めてきた。
 紅茶を注がれたのはどうやら僕が一番最初らしい。次は、バニングスさん。どうやら、お客さんが先というのは何所も変わらないようだ。さて、参った。このお茶会からホスト(主人)勧められて飲みださないわけにはいかない。しかしながら、僕は今までこんなお茶会なんて参加したことがないわけで―――つまり、何がいいたいのか、というと。

「すいません、飲み方が分からないんですが」

 なにやら高級そうな紅茶が出てくるお茶会である。僕は当然のように何かしらの作法があると思っていた。あの日本式の緑茶が出てくるお茶会のように。僕も詳しくは知らないが、あのお茶会は、茶碗を滑らせる回数なども色々と決まっているらしい。
 だから、僕としては恥ずかしながらもそう言い出すしかなかったのだが、それを聞いて位置的に僕の対面に座っている月村さんのお姉さんは、クスクスと年上の余裕を持って笑っていた。

「そんなの好きに飲んでいいわよ。ただのお茶会なんだから」

「しかし、せっかく丁寧に入れてくださった紅茶なので下手に飲むわけには……」

 笑いながら、適当に飲めと勧めてくれる月村さんのお姉さん。
 しかし、やっぱり適当に飲むことなど出来ない。コーヒーメーカで自動的に作られたコーヒー、ティーパックで適当に蒸らした紅茶ではないのだ。陶磁器のポットにお湯をいれ、最初からカップにお湯をいれ、紅茶を入れたときにカップと紅茶の温度差が出ないようにするなどのきちんとした手順を踏んで入れられた紅茶である。きちんと飲まなければ入れてくれた相手に失礼というものだろう。

「蔵元様、ありがとうございます。しかしながら、蔵元様のお好きのようにお飲みになってください。お客様がお茶会を楽しんでいただくことが我々の仕事ですので」

「そうよそうよ。そんなに堅くならなくていいんだから。それでもって言うなら、ダージリンのファーストフラッシュはそのまま飲むのが一番よ」

 ―――なるほど、そうなのか。

 僕は意を決して、カップを持ち上げ―――陶磁器の熱伝導のせいか若干熱かったが―――ゆっくりとカップを口に運び、紅茶特有の香りに驚きながら、ダージリンのファーストフラッシュという名称の紅茶を口にした。

 ―――苦い、というのが正直な感想だった。だが、飲めないほどではない。一口目をとりあえず口に入れ、そして、もう一口口に入れたところでカップをソーサーの上に戻した。

「あら、飲めたのね。君ぐらいには少し苦いと思ったんだけど」

 半ば悪戯が成功した子供のように笑う月村さんのお姉さん。しかし、客人に悪戯代わりに苦いと分かっている紅茶を出すとは。もっとも、その悪戯も小学生である僕だから通じる悪戯であるが。
 しかし、隣を見てみると月村さんのお姉さんが苦いといいながらも、バニングスさんや月村さんは意外と平気そうにストレートで飲んでいる。

「その割りに二人とも普通に飲んでますけど……」

「あたしは、飲みなれてるからよ。最初は、あんたみたいに飲めなかったわ」

「わたしも最初は飲めなかったかな」

 僕は驚いた。それは、僕が我慢して飲めたことにではない。慣れるほどに彼女たちがこの手の紅茶を飲んでいることにである。庶民と社長令嬢の差はこんなところにも現れるのか。
 僕に出来る唯一の抵抗は、世知辛さを肝心ながら、この紅茶を飲むことだけだった。

「さて、蔵元翔太くん」

「はい、なんでしょうか? 月村さんのお姉さん」

 僕としては普通に答えたつもりだったが、月村さんのお姉さん的には何かしらの不備があったらしい、ガクッと出鼻をくじかれたように、肘を滑らせ、顔には引きつった笑みを浮かべていた。
 はて、僕は何かまずいことをしてしまっただろうか。

「あのね、さっきから思ってたんだけど、蔵元くん少し堅すぎるわね。もうちょっとフレンドリーに行きましょうよ」

「フレンドリーにですか………」

 さて、困った。月村さんのお姉さんは、明らかに大学生、いや、高校生ぐらいである。つまるところ、小学生の僕からしてみれば、雲の上の存在といっていいほどの人だ。そんな人にフレンドリーに、しかも女性。どうすればいいんだろう?

「……すずか、あんたのクラスメイトの男子ってみんなこうなの?」

「ううん、蔵元くんぐらいだよ」

「そうね、こいつぐらいね。後はみんなガキよ」

 僕がどうやってフレンドリーにしようか、と悩んでいるところに三人の会話が聞こえてくる。

 僕が小学生らしくないということぐらいは気づいている。しかし、どうすればいいのだろうか。小学生らしく振舞う? つまり、それは一日中、僕は自分の行動を一つ一つ意識しなければならないということになる。一瞬たりとも気の抜けない日常。とても肩がこりそうだ。その手段を選ぶなら、僕は今やっているように素を出して、ちょっと大人びた小学生と見られたほうがよっぽどマシである。

 閑話休題。

 そんなことよりもどやってフレンドリーにするか、である。

「う~ん、そんなに悩むことないのよ。とりあえず、呼び方を変えてみましょうか」

「呼び方ですか?」

「そう、月村さんのお姉さんなんて長いでしょう? しかも、かなり他人行儀だし。そうねぇ、苗字だとすずかと被っちゃうから、名前の忍でいいわよ」

 ―――忍。

 そういえば、最初にそう名乗ってたな。あの時は、緊張していて殆ど耳に入っていなかったような気がするが。挨拶できただけでも上出来だ。笑われたけど。今は、紅茶のおかげもあってかあのときほど緊張していない。

 そうか、なら月村さんのお姉さんは、月村忍って―――っ!?

 あのバニングスさんのときと同じように不意に脳裏に一瞬だけ映る一枚の絵画。

 ―――洋館の一室。時刻は夜。ベッドの上、半裸で微笑む月村さんのお姉さん。窓から見えるのは満月。ただし、月村さんのお姉さんの瞳は真紅。

 ――――ああ、繋がった。繋がってしまった、というべきか。

 思い出した。記憶の奥底に泥だらけになって埋まっていた記憶が、月村さんのお姉さんの容姿と『月村忍』という名前、そして、物語の舞台となった洋館の雰囲気という要素が重なり合って初めて掘り起こされた。

 ―――月村忍。

 僕がプレイした『とらいあんぐるハート3』のヒロインの一人であり、僕が思い出した記憶が確かなら、月村忍は吸血鬼である。しかし、物語で知られているような吸血鬼ではなかったように思える。にんにくや十字架といったものは出てこなかったはずだし、月村さんのお姉さんは普通に日光の下でも歩いていた。しかし、残念なことに他の細かいことは忘れてしまった。後、せいぜい覚えているのは主人公『高町恭也』と何かしらの契約を結んだということぐらいだ。先ほど、思い出したCGはちょうど、そのシーンのはずで。僕が彼女のルートで一番記憶に残ったところだからだ。その契約がどんな類のものかは細かく覚えていない。

「あれ? どうしたの? 蔵元くん。ずっとこっちを見て。私の顔になにかついている?」

 はっ! どうやら、僕は驚きのあまり月村さんのお姉さんの顔をずっと見ていたらしい。怪訝そうな顔で僕を見ている。それは月村さんもバニングスさんも同じだ。
 変な疑惑をもたれてはまずい、と僕は慌てて否定する。

「いえ、なんでもありませんよ」

 外見は極めて冷静に。しかし、内心は驚きと驚愕にあふれながら、何とか答えた。

 しかしながら、改めて思う。月村さんのお姉さん―――月村忍さんは、吸血鬼であるのか?
 そもそも、僕の記憶が前世の現実ならまだしも、ゲームの中の話だ。だが、ここは現実だ。僕の常識で考えるなら、吸血鬼なんていうのは架空の存在であり、存在しないことになっている。つまり、月村忍さんが、吸血鬼なのはゲームの中だけで、この現実では、普通でもなんら不思議ではないのだ。
 まるで、シュレーディンガーの猫だ。開けてみるまで猫が死んでいるかどうか分からない。つまり、彼女が吸血鬼かどうかなんてことは、彼女自身に僕が尋ねてみるしか方法はないわけだ。
 しかしながら、もしも彼女が本当に吸血鬼であった場合、僕は相当困ることになるだろう。なぜなら、現実に吸血鬼という存在がいたとしても、彼らは頑なに自分の存在を隠そうとするだろうからだ。

 人間は残酷なことに排他的な存在だ。自分と異なるものを許せない傾向にある。
 身体的特徴ですら、簡単にいじめの対象になってしまう。ならば、それが自分たちとよく似た種族であれば? しかも、自分たちの血をすう天敵であるなら?
 答えは簡単。殺戮の始まりである。最後の一人残らず。吸血鬼を殺すエクソシストが唱えるように―――『塵は塵に、灰は灰に』である。
 つまり、吸血鬼が存在していた場合、それを世間に一切知らせることなく生きてきたのだ。しかしながら、世の中生きるうえで自分の秘密が一人にもばれないなんてことは、天文学的確率だ。地球上のどこかでたった一人にはばれてしまうかもしれない。そして、そのばれたときの一番簡単な対処法は? 答えは簡単だ。口封じ。つまり、その人物を殺してしまうことである。『死人にくちなし』とは上手いことを言ったものである。

 そういう理由から、僕は月村忍さんに何も聞かない。第一、聞いて本当のことが分かったところで、僕に何一つとして得はない。むしろ、こんな好奇心から来る疑問で、自分の命を危険に晒したくない。好奇心は猫をも殺すのである。

「紅茶のお代わりはいかがですか?」

「え? はい、いただきます」

 僕が月村さんのお姉さんに対しての対応を考え込んでいる最中に思考に割り込むようにしてメイドさんが、僕の空になったカップに気づいたのか、紅茶のお代わりを勧めてきた。僕に断る理由などどこにもなく、承諾する。

 ああ、そういえば、もしも、あのゲームの通りだと仮定すると、この人は人形なんだよな。

 月村忍というヒロインから連鎖的に思い出した出来事。それは、彼女に仕える『人形メイド』のことである。彼女の名前は確かここに来て一度聞いた記憶がある。『ノエル』といっただろうか。物語で一番印象に残っているのは『ロケットパンチ』だけなのがなんとも物悲しい。

「どうかされましたか?」

「あら~、蔵元くん、ノエルに見惚れちゃったりしたぁ? ダメよ。ノエルは家の大切なメイドなんだから。でも、蔵元くんは、一年生なのにませてるわね~」

 僕が月村さんのお姉さんと同じようにメイドさんに視線を固定したまま、思考にはまってしまったところを二人に見られてしまったらしい。ノエルさんは、ただメイドとしての職務を果たすために。月村さんのお姉さんは、中年親父のようにニマニマと笑いながら尋ねてきた。

「いえ、別になんでもありません」

 そう、極めて冷静に返しながら僕は、ノエルさんが入れてくれた紅茶を一口、口に入れる。

 向こうで「ちぇ~、面白くない」なんて月村さんのお姉さんが言っているが、残念なことにそんなことを言われて、あたふたするような思春期は、向こうの世界では、過ぎてしまったし、こちらの世界ではまだまだ先の話だ。

 そして、そろそろこの苦味にも慣れてきた二口目を口にしながら、続きを思い出す。

 そうそう、確か、ゲームでは、月村さんのお姉さんと人形メイドのノエルさんの二人暮らしで―――

 二人暮らし?

 その単語に思わず、僕の視線は今度は月村さんに固定された。

 ―――月村すずか。

 月村忍さんをお姉さんと呼ぶからには姉妹なのだろう。姉と呼ぶ関係なら従姉妹か? とも考えたが、これだけ顔立ちや髪の色が似ていながら姉妹でないとは考えにくい。
 ということは、僕のゲームの知識が間違っているのか、とも考えたが、うっすらと欠片しか残らないゲームの記憶を掘り起こしても月村すずかという名前を見つけられない。

 さて、証明問題を考える際に『何か』の存在することを証明することは簡単だ。一つでもその存在を示せばいいのだから。だが、いないことを示すのは非常に難しいとされる。なぜなら、すべてを調べなければならないから。
 この場合、すべてのゲームのルート、シナリオ、内容を覚えてなければならないのだが、そこまで僕の記憶力はよくないし、かといってこの世界で『とらいあんぐるハート3』をプレイすることも叶わない。
 つまり、『とらいあんぐるハート3』の世界に『月村すずか』が存在しないと証明することは無理な話なのだ。

 しかしながら、僕としては『とらいあんぐるハート3』のゲーム内で『月村すずか』が存在しようが、しまいが、どっちでもいい話である。所詮、今ではプレイすることも叶わないゲームの話。今の僕になんら影響を与えることはない。今の現実では、こうして目の前にいることが証明されている。つまり、月村すずかは存在する。証明終了である。

 ん? でも、ちょっと待てよ。

 仮に、月村忍がこの現実でも吸血鬼と仮定すると僕とクラスメイトの月村すずかも吸血鬼なのか?
 彼女たちが姉妹とするなら、無理のない話である。むしろ、片方が吸血鬼で、もう片方が吸血鬼でないと考えるほうが変な話である。
 といっても、確認する気のない僕にとってはどうでもいい仮定であるが。

「あら~、今度はすずか? 目移りする男は嫌われるわよ」

「だから、違いますって」

 三度目の正直。月村さんのお姉さんがどれだけ誰かをからかうことに飢えているのか分からないが、ちょっとしつこすぎやしないだろうか。ついでにもう一人のからかわれた張本人は月村さんのお姉さんが言っている意味が分からず小首をかしげていた。

「さて、それで、私に対する呼び方は決まったかしら?」

「……え?」

「え? って、今までそれを考えていたんじゃないの?」

 いえ、あなたが吸血鬼かどうかについて悩んでました、なんていえるはずがない。なるほど、さっきから考え込んでいる僕に注目しながらも話を振ってこず、月村さんとバニングスさんとばかり話していたのは、僕が月村さんのお姉さんの呼び名について考えていると思われていたのか。

 ここで、いいえ、と否定するのは簡単だ。だが、その代わり、何を考えていたのか? と問われる可能性が高い。ここでもまた嘘を重ねることは簡単だが、嘘というのは重ねれば重ねるほどに綻びが出てくるものだ。ならば、話をあわせて誤魔化してしまったほうがいい。

「ああ、そうですよ。そうでした。月村さんのお姉さんの呼び方でしたね」

「そうよ。それで、決まった?」

「ええ、お言葉に甘えて、忍さんと呼ばせてもらいます」

 よもや呼び捨てにするわけにはいかず、かといって、子供がするように『忍』という名前から変なあだ名を考えるわけにもいかない。
 子供というのは変なあだ名を考えることについては天才的である。
 しかし、この場合、考えられるとしたら、どんなあだ名だろうか。『しのちゃん』とか? ダメだな。僕にネーミングセンスはまったくない。

「予想通り手堅くきたわね」

「これ以外に呼び方はないような気がしますが」

「ほら、そこは君の独創力で」

「そこには期待しないでください」

「ちぇ~」

 忍さんの期待をすっぱりと斬り捨てて僕は、注がれた紅茶に口をつける。
 先ほど、ちょこっと考えただけで僕は自分のネーミングセンスに見切りをつけたのだ。

 しかし、あれだ。少し考えると、僕だけ忍さんと名前で呼ぶのは不公平ではないだろうか。

「交換とは言ってはなんですが、忍さんも僕のことを『ショウちゃん』か『ショウくん』とでも呼んでください。友人は皆、そのどちらかで呼んでいますので」

 翔太というのは意外といいにくいらしい。それよりも簡単に『ショウちゃん』あるいは『ショウくん』、または『ショウ』というのが僕の一般的な呼ばれ方だ。この呼ばれ方は保育園時代からの呼び名だ。新しくクラスメイトになった友人もみんなこの呼び方で僕を呼ぶ。
 それに、サッカーなどのスポーツのときは『ショウ』と短いほうが呼ばれやすいしね。

「へ~、なら、そうやって呼びましょう。……って、すずかとアリサちゃんは、蔵元くんって呼んでなかった?」

「うん、そうだね」

「そういえば、そうね」

 それもそうだ。二人とは、友達同士のような会話をした記憶がない。僕が話すことが多いのは我クラスのまだ保育園、幼稚園気分が抜けない連中だ。必然的に彼らとは一歩階段を上っているバニングスさんと月村さんと会話する必要がない。僕が手をかけるようなことがないからだ。せいぜい、最初のときぐらいだろう。
 あのこと以来、僕と二人が会話したことなんて実は両手で数えられるぐらいしかないんじゃないだろうか。

「なら、この機会に呼んじゃいなさいよ」

「まあ、僕としては吝かではありませんが」

 お茶会にまで呼ばれているのだ。ここで友人ではないと否定できる要素はどこにもない。
 それに、最近は僕に注意されたり、諭されたりすることで少しずつ彼らにも自覚が出てきたのか、僕が出て行ってなんとかしなければならない回数は気持ち減っているように思える。
 なにより、僕にだって癒しが欲しいときがあるのだ。気苦労せずに会話できる時間のような癒しが。その癒しとして、彼女たちは合格点以上だと思える。

「いいわよ。呼んであげようじゃない。ショウ」

「ん、わたしも。ショウくん」

「では、僕は、すずかちゃんとアリサちゃんで」

 僕は基本的に友人の女の子は『ちゃん』付けで呼んでいる。

 自分から相手への呼び名というのはその人への距離感を示している。
 『様』などの敬称をつけているときは、明らかに目上の人への呼び方。苗字だけや『さん』付けの場合は、同格の他人。さらに名前やあだ名となれば、友人。だが、名前を呼び捨てとなれば、これはもう距離感的には相当近いものとなるだろう。あえて言うなら、家族や親友、恋人のような仲である。
 だから、僕は基本的に女の子は『ちゃん』付けで呼んでいる。男は呼び捨てだが。

 かれこれ、この世界に生まれて女性―――というには幼すぎるが―――を名前で呼ぶのは何度も経験したのだが、やはり、一番最初に名前を呼ぶときは、それなりに緊張するものだ。

 だが、緊張してでも呼んだ甲斐があったのか、名前を呼ばれた二人としては、満足したらしい。満足げに微笑んでいた。

 酷く世間の格差というものを感じさせてくれたが、友人が二人増えた月村邸のお茶会だった。


 続く

 あとがき

 結局Bでした。しかし、『吸血鬼』かも? と認識はした、ということで。



[15269] 第五話
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2011/05/06 21:14



 さて、僕に友達が新しく増えて、さらに一月が経過した。
 季節は初夏。六月に入ったばかりで梅雨になるのが心配だが、まだまだ春の陽気を残したような日もある。
 先週の施行期間を終え、聖祥大付属小学校の制服も夏服に完全に衣替えした。

 しかしながら、季節が春から初夏へと移行しようとも僕が小学生である以上、やるべきことはほとんど変わらない。
 つまり、学校へ行き、授業受けることだ。そして、今日もその一環で、時刻は昼休み。僕は宿題となっていた算数のノートを集めて担任の元へと持ってきていた。

「はい、先生。これ、宿題のノートです」

「あいよ。そこに置いておいてくれ」

 先生は、書類に向かったまま適当にプリントが無造作に散らかっている後ろの棚を指差した。
 少しは、片付けたほうがいいんじゃないだろうか、と思うが、そんなことを言えば僕にお鉢が廻ってくるだけに何も言わず、素直にノートを棚の上においた。

「ああ、なんなら、お前が採点してくれても構わないぞ」

 立ち去ろうとする僕の背後からまるでからかうような声。

「ご冗談を。それは先生のお仕事でしょうに。先生なんだからきちんと仕事しなくちゃいけませんよ」

 この手の仕事をしたときは、ほとんど毎回からかわれるため、軽いジョークだと知っている僕は苦笑いなしながらもそう返した。
 大体、いつものやり取りだ。
 いつもなら、さらに「そんなこと言わずにさ。お前ならできるだろ?」と続くはずなのだが、今日は違った。
 滅多に見せない真面目な顔をして僕を見ていた。

「そうだな。お前には、もう半分ぐらい私の仕事を肩代わりしてもらってるようなもんだし、これくらい頑張るか」

「先生?」

 その滅多に見せない真面目な表情が、声が、僕はなにかやってしまったのだろうか、と不安にさせる。
 だが、さすがに先生をやっている人は違うのだろうか。僕の不安げな表情から、その心情を見抜いたのだろう。
 慌てていつものようにちゃらけた笑みを浮かべると片手を顔の前で左右に振る。

「ああ、そんな不安そうな顔をしなさんな。別に蔵元が何かしたわけじゃないよ。ただ、本当にお前には私の仕事を半分ぐらいやってもらってるな、と不意に思っただけさ」

「どういう意味ですか?」

 僕には本当に意味が分からなくて聞いたのだが、先生は少しだけ思案するような表情をした後に口を開いた。

「まあ、お前になら大丈夫か。なあ、他の一年生の担任が今、どこにいるか、分かるか?」

 そういわれて、僕は先生の周りの机を見渡してみる。しかし、そこはまるで、まったく使っていないように綺麗に片付けられた机があるだけだ。
 先生に言われて初めて気づいたが、職員室の中で一年生の先生たちが固まっている場所の中で机に座って仕事をしているのは僕のクラスの先生だけだった。

 しかし、それが分かったところでどうしようもない。
 先生の業務というものを僕は知らないので、他の先生たちが何をやっているかなんて分かるはずもない。

「いえ、分かりません」

「他の先生は今頃、自分の担任の教室でお仕事中さ」

 はて、おかしな話である。
 一年生の担任は、必ず自分が受け持った教室で仕事をしなければならない、と明文化されているなら目の前の担任も自分の教室で仕事をしなければならないはずだ。
 だが、こうして、今、僕の目の前で先生は自分の仕事をしている。つまり、強制ではないわけだ。いくら僕の担任が他の先生に比べてちゃらけていたとしても、さすがに職場のルールを破るようなことはしないだろうから。

「おやおや、さすがに特Aクラスの特待生でも分からなかったかい?」

「僕はただの児童ですよ。先生の事情が分かるわけありません」

「いやいや、自分の立場を理解しているお前を一介の小学生に分類できるかといわれれば、甚だ疑問だがね」

 まるで詐欺師を見るような目。
 明らかに教師が生徒に向けてはいけないだろう、とは思うが、その視線は僕の特性を考えると的を射ている。詐欺師のようなというか、詐欺師そのものと言っても過言じゃないからだ。

「まあ、いい。さて、他の先生たちが自分たちの教室に行ってるのはだな、はっきり言うと心配だからだ」

 ―――ああ、なるほど。

 僕は先生のその言葉を聞いて大体把握した。なぜなら、それは僕が昼休みに教室にいながらいつも感じていることだからである。

「お前たちの学年は一年生だ。保育園、幼稚園から小学校というまったく別の環境に放り込まれた子供たち。知ってるか? 一年生の担任をする上で一番大変なことは、きちんと授業の間、席に座らせることなんだ。それに、相手は子供だからな。自制心がない。我慢も知らない。小さな喧嘩なんて日常茶飯事だ。それでいながら、少しでも怪我しようものなら、保護者が飛んできて文句を言う。学校が始まったときから放課後まで気の休まるときが一切ないのが担任ってやつさ。特に今の時期なんて目が離せない」

 その苦労は分かる。なぜなら、僕が現在進行形で感じている苦労だからだ。
 しかも、僕なら、彼らの様子だけを見ればいいのだが、先生たちはそれに加えて自分たちの『教師』としての仕事もあるのだ。
 下手をすると、そこらへんのブラック企業よりもブラックかもしれない。彼らには、本当にご愁傷様、としかいえない。

「まあ、その点、私はかなり恵まれているけどな。お前がいるから」

 僕を見て先生が笑う。
 確かに、僕がいれば、先生は職員室で自分の仕事をしていも何も問題はないだろう。
 他の先生たちの心配事はすべて僕が処理しているのだから。

 しかし、そうだとしても、もし、僕が失敗すれば、その責任はすべて先生が取ることになっているのだが。
 それを分かっていながら、僕に一任して職員室にいるのであれば、僕はこの先生からよっぽど信頼されているのだろう。
 嬉しいというべきか、怠慢するなというべきか。はて、判断に困ることである。

「まあ、もっとも、お前さんがこの話を聞いて、嫌気が差して、もう知りませんっていうなら、私はこの紙の束とノートを持って教室の机で仕事をやらなならんだがな」

 さあ、お前はどうする? と先生の目が聞いていた。

 判断に困ると思ったところで、この言葉。正直、僕にはこの人が心を読んでいるんじゃないか、と疑いたくなる。これが、しょせん、大学までの経験しかない僕と社会で生きている先生との絶対的な差なのだろう。

 だが、しかし、よくよく考えてみれば僕の答えは決まっていた。
 何度も、もうやめようと思ってもやめられなかったことがすべてを物語っているじゃないか。

「いえ、先生はここで黙々と自分の仕事をしていてくださいよ」

「おや、せっかく、お前さんの気苦労から解放してやれる最後のチャンスなのに」

「いやいや、意外と僕は今の立場が気に入っているみたいですから」

 大人の対応とは違って疲れることは確かだ。だが、子供というのは実に感情がストレートに表れて面白い。前世で学んだ工学という当然の結果しか返さない分野とはまったく逆ベクトルの分野であることも関係しているだろう。

「それに、昔からよく言うでしょう。『手のかかる子供ほど可愛い』って」

 確かに、彼らの相手は疲れる。疲れるし、やめたいと思ったことも何度もある。
 それでも、やめられなかったのはやはりこれが一番の理由なのだろう。
 なんだかんだ言いながら、僕には彼らが可愛く思えているのだ。手のかかる奴ほど特に。
 もしも、彼らを可愛いとか好きだとか思えていなければ、こんな立場なんてすぐさま放り出しているに違いない。

 僕の返答に一瞬、ポカンとしていた先生だったが、すぐに表情をとりなして、くすっと笑い、「そうかい、私もだ」と一言だけ僕に言った。



  ◇  ◇  ◇



「ショウくん、次は体育だよっ!!」

 僕の隣に座る友人がよっぽど嬉しいのかわざわざ次の時間の教科を教えてくれる。

 その程度は言われなくても分かっているのだが、彼の目に浮かぶ期待感を前にすると、冷たくあしらうという選択肢は消えてなくなってしまい、「今日はなにするんだろう。楽しみだね」とこちらも乗り気になって答えるしかなかった。

 一年生の間の体育というのは、運動というよりも遊びの時間に近い。楽しみになるのも分かる。かくいう僕も楽しみなのだから。

 答えた後はしっかりと体操服に着替えることを促す。そうしなければ、僅か十分しかない休み時間で着替えて、グラウンドまで出ることなんて不可能だ。
 最初の頃はグランドにしろ体育館にしろ遅れて始まることが多かったが、最近は、開始が遅れると体育の時間(遊びの時間)が減ることが分かってきたのか、着替えるのも早く、遅れて始まることはなくなってきたのだが。

 しかしながら―――周りを見渡しながら思う。

 男女一緒なのはいかがなものか。

 いや、無論、やましい気持ちは何もない。ただ、男女が共に着替えているという事実が三ヶ月経った今も僕を困惑させる。
 まあ、一年生ということもあるのだろう。そういう類の羞恥心が芽生えるのは、早い人で大体三年生ぐらいといわれているし。

「ショウ、あんた何やってんの? 早くしないと遅れるわよ」

 気がつけば、教室には僕とアリサちゃんとすずかちゃんしか残っていなかった。
 しかも、彼女たちは体操服に着替えているのに僕はまだ体操服を着ていない。

 どうやら変なことを考えている間に休み時間は刻一刻と減っていたようだ。時間を見てみると後五分ぐらいしかない。
 走ればギリギリ間に合うか、というレベルである。

「早くしなさいよっ!」

 急かしながらも待ってくれるアリサちゃんとすずかちゃんに感謝しながら僕は急いで着替えた。



 ◇  ◇  ◇



「いっくぞっ!!」

 わざわざ宣言しながら、枠の中を剛速球が走る。

 今日の体育は、ドッジボールだった。クラス内を適当に二グループに分け、外野が三人出るという形だ。
 そんな中で僕は最初から外野に立候補していた。

 もう少し学年が上になれば、強い奴を外に出してさっさと外野をゼロにしてしまって、勝負をつけるなんて戦略が生まれるのだろうが、如何せん、まだまだそういうことには疎い一年生だ。
 しかも、外野がいなくなれば、試合終了というルールを理解しているのかしていないのか、内野であろうとボールを持ったら投げたがる思考にある。
 逆にボールを怖がって必死に逃げる子もいたりして両極端に走るのでバランスが取れているといってもいいかもしれないが。
 ともかく、外野なんていうのはとにかく出番がないもので、ひたすらに人気がない。しかし、外野は出さなければならない。

 僕としては外野としての役割も知っているから、立候補したというわけだ。他の二人はじゃんけんに負けていた。

 さて、外野というのは、両サイドでボールを投げ合っている間は、とにかく暇なのだ。
 自分たちの陣営がボールをとったとしても、外野に投げるなんて意識がないし、まだ、始まったばかりだから相手陣営の密度も濃いので、相手陣地を越えて外野までボールが来ることなんてないし。

 だから、僕はついつい、人を目で追ってしまう。

 ああ、そんなに固まったら、ボールの餌食だぞ。

 ドッジボールというのは、適当に散らばったほうが逃げやすくていいのだ。
 人が固まって団子になっていたら、ボールがきても逃げられないし、ボールが一人に当たると連鎖的に当たってアウトになる場合もある。
 もっとも、近くにいる人を盾にするというのなら話は別だが。

 というか、すずかちゃんがいつも流している髪をポニーテイルにして、すごい勢いで相手陣営を崩していっていた。
 小学生ということを除いたとしてもすごい威力だ。男子と比較しても引けを取らない。というか、明らかに男子が投げるボールよりも威力がありそうなんだが。ちなみに、彼女は僕の敵陣営である。

 とかなんとか思っていたら、僕が危惧したことが起きてしまった。

 つまり、団子状態になったままで人の波が引くことだ。
 これは、味方陣営のエースが投げたボールが不意に取られてしまったときに起きやすい。
 速攻の反撃を恐れてか、ハーフラインに近い人間が急に距離を取ろうとする。だが、すぐ背後には、ボールを恐れて固まっている人間がいるのだ。
 その結果、逃げようとした人間、その場にいた人間がぶつかってしまう。

 ボールを恐れていても、運動神経がよければ、体勢を立て直すことが可能な人間もいるだろう。
 事実、何度か同じようなことが起きても転ぶような人間はいなかった。

 しかし、今回は当たった人間が悪かったというべきだろうか。急に引いた人の波に対応しきれず、ぶつかってしまい、その結果、転んでしまった女の子がいた。しかも、不意にぶつかってしまったせいか、両手をつくことさえ出来ずにズザザーとヘッドスライディングのように滑っていった。
 もしも、体操服がジャージなどの長袖長ズボンで肌が隠れていれば大丈夫だったかもしれない。
 しかしながら、このご時勢にあって、我が聖祥大付属小学校はブルマという恐ろしい選択を取っていたので肌がむき出しだ。
 たぶん、何かしら怪我をしているだろう。早く立ち上がれればいいのだが怪我が酷いのか、あるいは痛いのか、その両方か、中々立ち上がらない。

 しかも、悪いことは重なるもので、体育で身体を動かしている興奮感が視野を狭くしているのか誰一人、彼女に気づいていない。
 頼みの綱の先生に至っても他のクラスメイトが壁になって先生からは死角となって気づいていない。

 と、そこまで状況把握していれば、動き出さずにはいられない。
 本来、僕の目の前のラインを超えてしまえば、敵陣営なので文句を言われても仕方なのだが、そんなものは無視してコートの中に入る。

 幸いにして転んだのは、コートラインの近くだったため、すぐに彼女には近づけた。

 彼女の様子が気になるが、早いところ外に出て行かないと。

 怖いのは、また転んだ時のようなことが起きることだ。今は、両者が投げ合ってるからいいものの。
 今度は、かがんでいる分、踏み潰されるに近い形になってしまう。そうなると大惨事に繋がるかも。

 早く起き上がってもらえばいいのだが、まだ彼女は、かがんだままだ。

 ―――仕方ないか。

 僕は「ごめん」と告げると、かがんでいる彼女の膝の下に手を通して一気に持ち上げた。
 いわゆるお姫様抱っこというやつだが、気にしている暇はない。それよりも、この場にそのままいるほうが怖いのだから。

 彼女は「え、えぇぇぇ?」とか言って驚いていたが、気にしない。背に腹は代えられないのだ。

 しかしながら、僕からしてみれば恥ずかしいという感情はなかった。それよりも優先されたのは、重いという感想。
 女性に対しては失礼だとは思っている。だが、小学一年生である。いくら男とはいえ、この頃の体格はほとんどみんな変わらない。これを重いと思わないわけがないのだ。

 もうダメだ、と思うまで三十秒も経たなかったのではないだろうか。だが、何とか意地でコートの外までは運んだ。
 僕の腕の中で呆然としている彼女を地面に降ろして、手を振る。腕が痺れたように震えていた。

 一方、彼女が抜けたドッジボールだが、彼女が抜けたことも気づかず白熱した戦いが続いていた。

 はぁ、小学生なら仕方ないか、と思いながら、僕は彼女の身体を調べる。
 どうやら、右手は砂で汚れているが無事。左肘と両膝をすりむいたのか、血が流れていた。

「血が出てるね。ちょっと、先生に言ってくるから待っててくれる? 高町さん」

 ドッジボールの途中で怪我をしてしまった女の子―――高町さんは呆然とした顔で僕を見ていたが、コクンと頷いてくれた。



 ◇  ◇  ◇



「はい、ちょっと足を出してもらえる」

 高町さんは、僕の指示に従って足を伸ばしてくれる。その膝の皿の部分がすりむけており、若干出血していた。
 そこに僕は躊躇なく保健室の外に設置してある水道から伸びているホースを使って水を出した。

「―――っ!」

 おそらく、水が当たったときにしみたのだろう。顔をしかめるが、傷を水で洗い流さないほうが怖いので止めることはなかった。

 結局、あの後、先生に高町さんの怪我を伝えたところ、一応、先生が高町さんの怪我を見に来たが、擦り傷だけなこと、本人が大丈夫だ、ということを理由に先生が保健室に連れて行くことはなかった。
 しかし、怪我は怪我だ。保健室に行くよう、にいわれ、保健委員に付き添いを頼んだのだが、あからさまに不満げな顔をしていた。それは、男女いる保健委員共にだ。確かに体育の時間の途中に抜けろと言われたら嫌かもしれない。それが自分の仕事だとしても。だからといって、そんな不満げな顔をしなくても、とも思うが。
 結局、この場合、付き添いを頼んでもしっかり手当てしないだろう、という判断から僕が付き添った。

 そして、今現在、こうして肘と膝の擦りむいた箇所を水で流している。

「痛い?」

「ううん、大丈夫だよ」

 水で流すとき、顔をしかめていたにも関わらず笑ってそういう高町さん。

 高町さん。本名は、高町なのは、だっただろうか。
 入学式の日、自己紹介の後にクッキーを貰った記憶しかない。
 彼女のクラス内での立場は、誰にも深く立ち入らず、かといって離れずだ。
 ある意味で、僕やすずかちゃんと似ている。ただ、すずかちゃんがどこのコミュニティーにも所属しない、という立場を取っているのに対して―――何の因果か、アリサちゃんと親友をやっているが―――僕のようにどこのコミュニティーにも顔を出しているというところから考えるに、どちらかというと僕よりのスタンスなのだろう。
 高町さんがどうしてそんなスタンスを取っているか分からない。だが、個人にはそれぞれ事情があるだろう。
 見たところ、孤立している感じもない。それに問題行動だって起こさない。彼女はクラスの中では優等生に分類されるだろう。だから、僕と高町さんはあまり交わらなかった。

「はい、後は中で手当てだね」

 水で傷口を流してしまえば、後は簡単だ。

 僕と高町さんは、傷口の周りを保健室においてある清潔なタオルで拭って、保健室の中に戻る。

「あ、そこに座ってて」

 血は止まっているようだが、怪我をしている高町さんに保健室に備え付けてある丸椅子に座るように指示して、僕は治療道具を探す。
 僕が知っているこの学校の養護教諭はもうすぐ定年じゃないか、というおばあちゃん先生なのだが、時々消える。
 まったく、少なくとも養護教諭は、放課後までずっと保健室にいるべきだと思う。もしかしたら、職員室にいるのかもしれないが、呼びに行くよりも僕が手当てしたほうが早いので、こうして高町さんの手当てをしているのだ。

「蔵元くんは、すごいね」

「え? なにが」

 えっと、確かここら辺に……あ、あった、ラップはここか。後は、テープと……。

「勉強も出来て、運動もできて、なんだって知ってて、誰にだって優しくて、傷の手当もできて、なんでもできるから」

「なんでもは出来ないよ。僕は僕の出来ることしか出来ない」

 あとは、大げさになるかもしれないけど、包帯も必要かな? でも、ラップが見えているだけよりいいか。

 半ば、高町さんの言い分を聞き流しながら、僕は治療道具を探す。

 僕には僕が出来ることしか出来ない。
 高町さんが僕を何でも出来るなんて思えるのは、まだ学年が低いからだろう。きっと、これから大きくなるにつれて僕にだって出来ないことは増えてくる。
 僕の存在というのは、すごく反則的な存在だ。身分的には子供なのに頭脳は大学生。そんな僕が小学生相手になんでも出来るのは当たり前なのだ。

「わたしも蔵元くんみたいになれたらいいのに」

 どこか羨望するような目で僕を見てくる。
 正直、そんな目で見られたことは人生で一度もないので少し恥ずかしくなる。
 僕は、その目から逃げるように出来るだけ高町さんの目を見ないようにかがんで、膝の手当てを始める。

 えっと、ラップを張って……。

「僕みたいなんてやめたほうがいいよ。可愛くなくなるから」

 たぶん、教師たちに一番可愛くないと思われているのは僕だろう。担任の先生も暗にそういっていた。
 手がかからない子供。確かに口にすればいいものかもしれない。しかしながら、手のかからない子供ほど可愛くないものはないのだ。
 なぜ? といわれても仕方ない。それが親の心というものだ。煩わしい、面倒だ、と思いながらも子供には愛情を持っている。それは、世話を焼き、子供を育てているという実感があるからだろう。
 それに対して、僕の場合は、どうか。僕の場合は、最初から育っているようなもんだ。教えられることなくトイレにだって行けたし、着替えも出来た、一人で寝ることも出来た。手がかからない子供だろう。おそらく、両親は、僕を育てたという実感は少ないのではないか、と思う。この年齢になって弟か妹が出来たのがいい例だ。もしかしたら、僕が穿ちすぎなのかもしれないが。

「それに、誰かになりたいなんて思うもんじゃないよ。ほら、昔の人だって言ってるよ。『みんな違って、みんないい』。多分、高町さんは僕が何でも出来るところをいいところと思ってるんだろうけど、僕みたいになると高町さんのいいところが消えちゃうよ。だから、そんなこと思わないほうがいいよ」

 手当ての最後に包帯を一巻きして、膝の治療は終わり。肘のほうも手早く終わらせた。
 治療が終わるのに必要だった時間は約五分。まったく、何度も同じようなことやってたから手馴れちゃったよ。

「さて、これで終わり。僕は道具を片付けてすぐ行くから、高町さんは先に行っててよ。僕は後で追いつくから」

 僕が話してから俯いて何も話さなかった高町さんだったが、僕の言葉は聞こえていたのか、ゆっくりと立ち上がって保健室の出口へと歩いていった。
 僕は、勝手に出してしまったラップ、包帯、テープを片付けて、保健室の利用履歴を書かなくちゃいけない。
 先生が心配するから早く帰ったほうがいいか。そう思いながら少しだけ慌てて僕は片づけを始める。

 だからだろう、高町さんが出て行く間際「それでも、わたしはいい子じゃなくちゃいけない」なんて呟きが僕に届くことはなかった。


 続く

 あとがき
 なのは、闇増殖中。



[15269] 第六話
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/11 19:36



 年を取ると月日の流れが早くなるという。
 これには、諸説があり、どれが本当か分からない。
 僕が知っている諸説の中の一つには、年を取るを覚えられる時間が少ないから短く感じられるというものだった。これが、もしも正しいとするなら、僕たち小学生は同じ月日だとしても大人と比べて相当長く感じるということになる。
 だが、実際に小学生をやらせてもらっている僕からすれば、この諸説は間違いだと断じられる。
 なぜなら、季節があっという間に過ぎてしまったからだ。

 夏には、プールにキャンプに花火大会、縁日。
 秋には、運動会に写生大会。
 冬には、クリスマスにお正月に雪合戦。

 実に息のつく間がないくらいに目白押しなイベントの数々。
 気を抜けば日常に押しつぶされてしまいそうな勢い。
 もしも、大学生の頃の僕なら確実にどこかでへばっていただろう。
 だが、そこは底なしの元気を持つ小学生というべきか。僕はすべてのイベントをこなし、さらには合間にサッカーや野球などに汗を流すという快挙までやってのけた。

 もっとも、一番大きかったイベントは、僕の弟が生まれたことだろう。秋に生まれた僕の弟は、『秋人(あきひと)』とある意味なんの変哲もない名前を名づけられ―――今、流行のDQNネームとかよりよっぽどよかろうが―――我が家の人気者になっている。
 普通の子供なら、親から愛情が弟に向かってしまったことにすねてしまうこともあるだろうが、生憎、僕は普通ではないのでそんなことはなかった。むしろ、一緒に弟を可愛がっているぐらいだ。ただし、僕に世話を焼けなかった反動か、可愛がりすぎとも思えるが。将来が少しだけ心配である。

 そして、久しぶりにほっ、と息をつけば春。桜が満開の頃、僕は下に新しい一年生を迎えて、二年生へと進級していた。
 去年を懐かしむ間もなく次々にまたイベントが舞い込むのだろうな、と思っていた矢先、早速、舞い込んできた。
 しかも、それはイベントではなく、厄介ごとに分類されることだった。



  ◇  ◇  ◇



 進学してから一月ほど経とうとしたゴールデンウィークに入るちょっと前、ようやくクラス替え―――約半分が入れ替わった―――後のクラスメイトとも慣れてきた頃に僕は、放課後、先生から呼び出された。
 ちなみに、僕のクラスの担任は一年生の頃から変わっていない。

「おっ、来てくれたか、蔵元」

「呼ばれれば来ないわけにはいかないでしょう。さて、何用ですか? 先生」

 また、雑用ですか? と暗に聞いてみる。

 この先生、僕が精神年齢が高いことを知っていながら、奇妙に思うわけでもなく、むしろ、僕が特Aランクの特待生であることを利用して、僕のことを半ば雑用係として使うことが多い。
 小テストの採点なんてざらだ。特に小学生の低学年は、三つ以上の手順を踏む作業は無理だと思っていい。例外は、僕やアリサちゃん、すずかちゃんなどのごく一部だけだ。その中でも、僕は男ということもあって使いやすいのだろう。
 そして、今日もその類だろうと思っていた。しかし、その予想は意外な方向に外れていた。

「蔵元、突然だが、私は昨日、生まれて初めて死を覚悟したぞ」

「……何を言ってるんですか? 突然」

 突然と前置きされていながら、そう聞かざるを得ない状況。
 この平和な、平和ボケしすぎたといっても過言ではないこの日本でいつ死を覚悟するような場面があるというのだろうか。

「まあ、そう言うだろうと思っていたが、とりあえず聞いてくれ」

 そういわれたら聞かざるをない。なにより、僕自身、先生が死ぬ覚悟をするような羽目になった顛末を聞きたいと思っていたから渡りに船だ。

 そして、先生は僕に傍にあった丸椅子に座るように勧めてぽつぽつと昨日の出来事を語り始めた。

「出来事は昨日の放課後になる。
 昨日の放課後は、親御さんとアポが取れててな、会うことになってたんだよ。ほら、覚えてるか? 高町なのはって子。去年はお前と同じクラスだったんだが」

「ええ、覚えてますよ」

 クラスメイトぐらいはいくらなんでも全員覚えている。しかも、まだクラス替えしてからすぐの時期だ。忘れられるはずもない。もっとも、高町さんとはあまり僕と関わることはなかったが。
 その高町さんだが、今年はクラス替えで別々のクラスになった。確か、隣のクラスだっただろうか。

「あれ? でも、隣のクラスなら先生は担任じゃないから会わなくてもいいんじゃ?」

「まあ、そうなんだが。私は一年生の担任の中でリーダーみたいなやつをやらされてるんだよ。お前のせいで」

「なんか、今、ごく自然に僕のせいで責任を押し付けられたみたいな発言があったんですけど」

「ああ、事実だからな。お前がクラスをまとめてくれるから私の仕事が少ない。よって、私がなるべきである。以上」

「僕がまとめている事実はないんですが」

 確かに二年連続で学級委員長だし、色々世話も焼いているけど、まとめているなんて自覚はない。

「はっ、それはお前が他のクラスの状況知らないからいえるんだよ。私のクラスはおそらく、お前が仕切れば、唯々諾々と従うだろうよ。もう、去年の段階で上下関係は出来てるんだ。新しく入った連中も時間の問題だろう。お前がいるだけで、そうそう不都合は起きないだろうさ」

 そういえば、一年生の後半ぐらいから、厄介ごとが起きたら、まず僕に持ってくることが多かったような気がする。裁判長じゃないけど、お互いに事情を話して僕が裁断するなんてことはしょっちゅうだったような。

「というわけで、私も参加しなくちゃいけないわけだ。今となって思えば、担任だけにすればよかった、と後悔してるよ」

 どうやら、これはまだまだ本題ではなかったようだ。とりあえず、僕はコクリと頷いて先を促した。

「で、まあ、高町の親御さんと客室で出会ったわけだが……やけに親御さん両方ともぴりぴりしててな。こりゃ、何かあったのか? と思って隣の担任に聞いてみたら、どうやら高町のやつ不登校になってるらしい」

「不登校ですか……」

 僕は、先生の口から出てきたあまり聞き覚えのない言葉を思わず繰り返してしまった。
 不登校という言葉は僕にとって、あまり馴染みのない言葉だ。幸いなことに僕の周りには、前世も含めてそういう類のことはなかったからだ。

「ああ、もっとも、定義から言うと不登校は30日以上だからまだ10日ぐらいしか休んでいない高町に使うのは適当じゃないんだが……まあ、似たようなもんだ。それで、その親御さんは、高町が不登校になった原因を探りにきたってわけさ」

「風邪とか病気じゃないんですね?」

 小学生というのは抵抗力が低い。だから、特に弱い子は一週間とか普通に休んだりする。僕も小学生の頃は、何度かそういう子のお見舞いに行ったことがある。高町さんは、お見舞いに行ったことないから、去年は一度も休まなかったはずだ。それが、今年になって病気になってたまたま長引いてる、というオチを期待したのだが、先生はあっさりと首を左右に振ることで僕の希望を否定してくれた。

「それなら、何の問題もないだろうよ。だけど、来た以上は問題があったってことさ。なんでも、高町が学校を休む理由は『学校に行きたくない』んだと。その行きたくない原因は分からないらしいが。それで、学校に来たって訳さ」

「いじめがないか? って探りに来たってところですか」

「その通り」

 確かに学校に行きたくない、なんて言葉が娘の口から出たら、親としてはまず第一にそれを疑うだろう。
 しかし、である。僕が学んだ限りでは小学校低学年におけるいじめというのはそうそうない。

 いじめにも標的になる色々なタイプがある。弱いやつ、身体的特徴が目立つやつ、理由を挙げればキリがない。というよりも稀に原因がないいじめというのがあるから厄介だ。『なんとなく』でいじめの標的にされてしまうのだから。
 だが、それらを加味したとしても高町さんはいじめのターゲットにされるようなことはないはずである。彼女は、幅広くどのコミュニティーにだって顔を出していた。逆にどこか一つのコミュニティーと深く付き合うということもなかったけど。

「で、まあ、単刀直入に『いじめとかではありませんよね』と聞かれたわけだが……あのときの父親の目は、怖かったね。私も教師暦二桁になろうかって年で、いろんな親御さんに会ってきたけど、あんな目の人は初めてだ。どっかの社長さんよりも鋭い目をしてたよ。かといって、ヤのつく職業みたいな人にも見えなかったけどな」

「はあ、それはご愁傷様です」

 しかし、父親ともなれば娘は目に入れても痛くないほどに可愛がっているはずだ。しかも、仮にもこういうことに慣れていそうな先生を本気で怖がらせるんだから、溺愛ぶりが目に浮かぶようだ。そんな子が不登校になるなんて先生も本当にご愁傷様としか言いようがない。

「それで、お前に頼みたい用件なんだが」

 ああ、もうそれは言われなくても分かった。ここまで話して、僕が予想した以外の答えだったら、先生はただ愚痴りたかっただけってことになるから。この先生の性格からして、それはない。

「隣のクラスを探って来いって言うんでしょう」

 確かに先生だけでは辛いかもしれない。時々、いじめが起き、最悪の事態になった後、担任の先生のインタビューとかで、教師は事実を知らなかった、ということがある。高校生ぐらいまでのときは、それは嘘だろうと思っていた。だが、意外とそれは事実である場合が多々であることが調べてみて分かる。
 いじめの巧妙化。隠れたいじめというのは実に見つけにくい。しかも、先生も一日中、生徒を監視しているわけではない。つまり、本当に知らなかった可能性が高いのだ。知っているのは、いじめている本人といじめられた被害者、そして、近しい人間だけ。
 そして、事情を聞けるのはおそらく近しい人間だけだろう。いじめた本人もいじめられた被害者も自分からいじめられています、なんて口に出すことはないだろうから。
 だから、僕がやることは近しい人間の口を割ることだ。

「ああ、そうだ。よくわかっているじゃないか。まあ、隣のクラスの半分は元クラスメイトだから探りやすいだろう」

「そうなんですか?」

 確かに半分ぐらいは面子が変わったけど。残りの半分は全部隣のクラスになったのだろうか。まさか、そんな偶然あるはずがない。いや、でもよくよく考えてみれば、クラスの半分も同じクラスになるのがおかしいのか。五クラスあるんだから、同じクラスになる確率は五分の一。つまり、同じクラスの人間は平均で六人ぐらいじゃないとおかしい。
 だけど、僕のクラスはアリサちゃんやすずかちゃんといった十五人ぐらいは前と人間が変わらない。しかも、残り十五人は全員隣のクラスだという。そんな偶然があるはずがない。つまり、このクラス替えは意図的なものなのか?

「おや、お前は知らなかったのか? 月村やバニングスと仲がいいから知っていると思っていたが」

 だが、僕の混乱を余所に先生は知らないことが不思議というような表情を浮かべた。

「この学校のクラスは、成績順なんだ。私のクラスが一番上。次が隣ってな具合にな」

 今、明かされる衝撃の事実。確かに残った面々を思い浮かべてみると学力が高かったような気がする。
 しかし、これって実は生徒に知らせちゃいけないんじゃないかと思う。なにせ、近年、平等、平等と叫ばれる世の中だ。僕には信じられない話だが、小学校の運動会で手を繋いで徒競走とかもあるらしい。
 そんな中でクラスを成績で編成するなんて……

「まあ、秘密といえば秘密だが、公然の秘密ってやつだ。理事とかやってる親を持っている生徒は知ってる奴も多いからな」

 さすが、私立というべきだろうか。公立の生ぬるい小学校とは格が違ったようだ。

「はあ、分かりましたよ。僕は便利屋じゃないんですからね」

「ああ、分かってるさ。頼りになる私のクラスの学級委員長様だろう」

 先生は笑いながら言ってくれたが、改めて、先生にここまで信用される小学生って一体、と思ってしまった。



  ◇  ◇  ◇



 ああ、早くしないと、塾に遅れるな、と思いながら僕は夕焼けの紅に彩られた廊下を歩く。

 実は、去年の夏休みから僕はアリサちゃんやすずかちゃんの勧めで塾に行っている。
 その塾は特殊で、将来偏差値の高い学校を狙うための人の塾らしい。小学一年生にして、文章題が出てくるぐらいのレベルだ。学校の授業やテストでぬるい―――常に満点―――と感じている僕を見て二人が勧めてくれた。
 勉強は楽しいと感じるものではないが、せっかく前世を持っているという利点があるのだ。せいぜい、この頭を錆び付かせないように、と思って僕はその塾に通っている。

 今度から中学生レベルの問題でもやらせてもらうおうか。

 そんなことを考えながら、僕が下足場の入り口へと着くと、その場には見慣れた金髪と黒髪の少女が鞄を持って何かを話していた。僕の友人であるアリサちゃんとすずかちゃんだ。
 一体、どうしたというのだろう。彼女たちもこれから塾である以上は、早く帰るべきだとは思うのだが。

「あっ! 来た来た! ショウっ、遅いわよっ!」

「あ、アリサちゃん、ショウくんは先生に呼ばれてたんだから……」

 僕から声をかけようと思った矢先に僕を見つけて激昂するアリサちゃん。そして、それをなだめるすずかちゃん。いつものやり取りだった。

 さて、アリサちゃんの言葉から考えるに僕のことを待ってるみたいだったけど。

「ほらっ! 早く行かないと遅刻しちゃうわよ」

「え? え?」

 まだ状況把握が出来ないまま、僕はアリサちゃんに手を引かれ、下足場の自分の靴がおいてある場所まで連れてこさせられた。これは、早く履き替えろ、ということだろうか。
 なにがなんなのか、まったく分からない状況で、僕は置いてけぼりにされ、アリサちゃんとすずかちゃんは靴を履き替えている。

 ここは、大人しく靴を履き替えることにしよう。

 理解は出来ないが、自分がやるべきことを把握して、僕は靴を履き替える。僕が、靴を履き替え終わる頃には、既にアリサちゃんもすずかちゃんも履き替えて、出口の近くでやっぱり僕を待っていた。

「あのさ、僕には状況がまったく分からないんだけど」

「ショウのくせに鈍いわね。今日は塾でしょう? だから、あたしの車で一緒に行きましょうってことよ」

 なるほど、それなら、僕を待っていてくれた理由も分かる。だけど、急にどうしたんだろう?

「ふふっ、アリサちゃん、ショウ君が自転車で来てることに今まで気づいていなかったんだって」

「ああ、もしかして心配してくれたの?」

「そうよっ! あたしが勧めたのに帰りに事故にあったんじゃ、申し訳ないじゃない」

 なるほど、確かに塾が終わって帰る時間帯というのは既に日が暮れている。昼間よりも事故にあいやすいのは事実である。
 もっとも、最初は車の予定だったのだが、母さんが妊娠していたのだから仕方ない。親父が帰って来る時間には少し早いし。結果として、僕は自分の手で行くしかなく、となれば、小学生の移動手段なんて歩きか自転車ぐらいしかない。

「だったら、早くあたしたちに言えば、送ってあげたのに」

 そうは言っても、僕も言えば送ってくれるとは思っていなかったのだから仕方ないだろう。
 というよりも、彼女たちが僕のことをここまで親しく思ってくれていることに意外感を感じている。
 確かに、僕たちが友達になったときから話す回数は増えたし、塾では三人で固まって授業を受けているようなもので、他のクラスメイトよりも親密感はあったかもしれないが。

「ほら、早く行くわよっ!」

 だが、ここでぐだぐだ悩んでも仕方ない。せっかく乗せて行ってくれると言っているのだ。しかも、すでに僕が乗ることは決定事項になっているみたいだし。それに断る理由もない。
 贅沢を言うなら、冬休みに入る前には気づいて欲しかったということぐらいだ。冬の自転車は寒くかったな。

 そんなことを考えながら、僕はアリサちゃんとすずかちゃんと共に車に乗り込むのだった。



  ◇  ◇  ◇



 さて、先生に高町さんについて調べてくれ、といわれた次の日の夕方。なぜか僕は『高町家』という表札のついた門の前に一人で立っていた。理由は言わなくても分かるだろう。先生の差し金だ。
 休み時間を精一杯使って隣のクラスを調べた僕だったが、その結果を先生に報告に行くと、その結果を高町家に持っていて欲しいと頼まれたわけだ。表面上は、高町さんを心配してお見舞いに行った同級生として。結果は分かっているのだから先生が直接行けばいい、といったのだが―――

「保護者が教師の調査結果を信じるわけないだろう」

 ―――という言葉と共に一蹴された。

 確かに公式的にアンケートをとったわけでもないので、普通に先生が行っても理解されないことは間違いない。だから、僕に行けというのは何か違うような気がするのだが。

「お前以外に頼む奴がいないんだよ。頼む」

 先生からそうやって拝み倒されては行かないという選択肢はなくなる。僕は仕方なく内申点のアップと引き換えにこうやって高町さんの家へとやってきたわけだ。

 いつぞやの屋敷と違って僕の家と同じような一軒屋だ。僕は、躊躇することなく真っ白いインターフォンのボタンを押した。

 ピンポーンというありふれたチャイム音がなって少し経った後、『はい、どちら様でしょうか?』と聞いてくる女性の声。高町さんの声じゃなさそうだから、おそらくお母さんだろうか。そう思いながら僕は質問に答えた。

「僕、高町さんの同級生の蔵元翔太です。高町さんが休んでると聞いてお見舞いに来ました」

『あら、なのはのお友達?』

 同級生が来たというだけで浮かれすぎではないだろうか、と思わせるほど明るい声で答えてくれる高町さんのお母さん。その声がプツッというインターフォントの通信が切れたと思わせる音がした後、家の中から廊下をスリッパで駆けるような音がして、家のドアが開いた。

「いらっしゃい、えっと、蔵元くんだったかしら?」

 そう言いながら外に出てきたのは、若い女性。おそらく、インターフォンに出たのはこの女性だと思われる。
 もしかして、僕はとんでもない間違いをしてしまったのではないだろうか。どうみても、彼女は高町さんの母親というには若すぎるような気がする。僕が見た限りでは、二十代中盤ぐらいだろうか。
 高町さんのお母さんと口に出さなくてよかった、としみじみ思う。

「わざわざ、ありがとうね。なのはに会っていく? 中に入ってちょうだい」

 なぜか、家の中に招かれた。高町さんの状況からして、友達が来ればもしかして、という希望を持ったのかもしれない。

 はて、なんにしてもこれは好都合だ。ここで玄関先で用件だけを聞かれたとしたら、こんなところでシリアスな話を延々としなければならないのだから。高町さんのお姉さんは何か勘違いしているかもしれないが、ここはこの勘違いに乗っておこう。

「それじゃ、お邪魔します」

 高町さんのお姉さんに導かれるまま、僕は高町家の敷居を跨ぐのだった。


 続く


あとがき
 一年生、二年生編はダイジェストでお送りします。合間のイベントは無印が終わってからになりそう。

 なのはさん、引きこもり中。



[15269] 第七話 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/14 21:23



 高町さんの家は普通の一軒家だった。僕の家と比べてもさほど差はないだろう。
 廊下を歩いて、リビングに案内される。そこにはテーブルがあり、夕食の準備でもしていたのだろう奥の台所からは、おいしそうな匂いが漂ってきていた。

「ここで座って待っててね。なのはに聞いてくるから」

 呼んでくるんじゃないんだ。そんなことを思いながら、僕は案内されるままにテーブルの椅子に座った。
 椅子に座った僕は、ふぅ、ととりあえず息を吐く。先生から高町さんの家の住所と地図を貰ってなんとかここまで来たのはよかったが、バスと徒歩を使った移動はこの身体に結構な疲労を与えたようだ。

 そのまま、待つこと一分程度。僕が入ってきた入り口から少し困った顔をした高町さんのお姉さんが出てきた。

「蔵元くん、だったかしら? ごめんなさい。なのはが会いたくないって」

「そうですか」

 高町さんが会いたくない、といったことに関して、僕は何の感慨も持たなかった。
 仮にこれで僕が高町さんの親友なら、何があったんだろうと心配しただろう。しかし、僕は、高町さんの友人といえるほど関わりを持っているわけではない。去年クラスメイトだった女の子という認識だ。ここにいるのは先生に頼まれたからに過ぎない。
 それに、高町さんのお見舞いという話を使わせてもらったが、これは建前でしかない。本当の目的は高町さんの両親だ。

「あ、でも、せっかく来てくれたんだからケーキでも食べていく?」

 今なら紅茶もつけちゃうわよ、となぜか、紅茶とケーキを勧めてくるお姉さん。僕が表情を崩さなかったのを一体どういう風に思ったのだろうか。

「いえ、結構です。それよりも、高町さんのお父さんとお母さんはいらっしゃいますか?」

 僕の言葉に高町さんのお姉さんは、怪訝な顔をした。

 それもそうだろう。なにせ、妹と同じ学年の男の子が訪ねてきたかと思えば、親がいるか、と聞くのだから。
 もしも、これが先生なら何の問題もなかっただろうが、如何せん、僕はその先生に頼まれてここにいる。

 こんな風になることが予想できたから僕は嫌だったんだ。

 だが、高町さんのお姉さんの口から飛び出した一言から考えれば、彼女が怪訝な顔をしたのは、僕の発言によるものではなかったことが容易に想像できた。

「私がなのはの母親よ」

「え?」

 思わず呆然とした声を出してしまった僕におそらく罪はないはずだ。
 どうやったら、こんな若い母親が出てくるのだろうか。
 いや、だけどよくよく考えてみれば、僕たちは八歳だ。晩婚といわれる今の世の中だが、世の中には早くに結婚した夫婦もいたって不思議でもないわけで、となると二十代半ばの母親がいても不思議な話ではない。うん、そうだ。僕はそう結論付けた。

「どうかした?」

「いえ、ずいぶん、お若いお母さんだな、と」

「小学生なのにお世辞? 上手ねぇ」

 ころころと笑う高町さんのお姉さん、改め高町さんのお母さん。
 今の段階で大学生だ、といわれても僕は信じてしまうだろう。

 しかし、なんだろう? この違和感。若いとは思っているが、なぜか頭の隅で何かが違う、と訴えかけている。何かはまったく分からないが、何かが違う、と。それはまるでアリサちゃんや忍さんのときのような―――

「改めまして。私が高町なのはの母親の高町桃子よ」

 その名前を聞いたとき、今までと同じようにある一場面がフラッシュバックした。

 ―――夕焼けに照らされるお墓と振り返り微笑む高町さんのお母さん。

 ああ、なんで分からなかったんだろう。アリサちゃんのときに思い出したのに。この世界に疑問を持ったときに調べたのに。目の前にいるのは―――。

「翠屋のパティシエさん?」

「あら、嬉しい。うちのこと知ってくれてるのね」

「ええ、まあ」

 まさか、僕が前世でやったゲームとこの世界の類似を調べるために調査した結果です、とはいえず、曖昧に誤魔化すしかなかった。

 しかし、となると、もしかして―――

「あの……高町さんにお兄さんとお姉さんはいますか?」

「なのはから聞いたの? ええ、いるわよ。恭也と美由希って名前の兄と姉がね」

 やっぱりか。

 高町恭也は、『とらいあんぐるハート3』の主人公で、高町美由希というのはヒロインの一人だったはずだ。確か、剣術家の家系で―――流派の名前とかは忘れたけど―――、確か父親は既に仕事の最中で亡くなっていたはずだ。だから、主人公は無茶をして怪我をしていたはずだし。

 もっとも、今、それが分かったところで、僕には今更何の関係もないのだが。
 これは、ただの確認だ。だからどうした、と一笑していい類の。

「それじゃ、高町さんのお母さん。高町さんについてお話があります」

 僕は至って真面目に高町さんのお母さんに告げる。僕の表情から何を感じたかは僕には分からない。ただ、高町さんのお母さんは、ただの子供と思って侮ったような表情はしなかった。むしろ、先ほどまでの緩んだ柔らかい雰囲気から一気に真面目な雰囲気へと引き締められた。
 これが、母親というものなのだろうか。子供のことともなれば、何でも真剣になる。あるいは、高町さんのお母さんが出来た人間なのかもしれない。普通の大人なら、笑って誤魔化していただろうから。

「そう、なのはについての。だったら、士郎さんもいたほうがいいわね」

 ちょっと待っててね、と言い残して高町さんのお母さんは奥に消えていく。
 リビングで一人待たされることとなった僕は、奥に消えていった高町さんのお母さんを見送りながら思う。

 士郎さんって誰だ?

 自問自答するまでもなかった。話の流れから考えれば、高町さんの父親以外にはありえない。名前もどこか聞いたことがあるような気がする。

 ということは、現実では生きているのか。
 すずかちゃんといい、高町さんの父親が生きていることといい、どこか『とらいあんぐるハート3』と類似性はあるものの、まったく同じというわけではないらしい。ゲームの世界とまったく同じというのも、現実に生きているような気がしないので怖いのだけれども。

 そんなことを考えていると、高町さんのお母さんが消えていった奥から入ってくる人影が見えた。
 僕は、座っていた椅子から降りると、テーブルの横に立ち、彼がリビングに入ってくるのを待つ。

 やがて、奥から出てきたのは一人の男性。がっしりとした体格と若い顔立ちだけを見れば、高町さんのお兄さんといわれても納得できそうだ。
 ただ、雰囲気がやっぱりどことなく違う。そこらへんの大学生とはまったく。人生の重み、経験の重みとでもいうのだろうか。それが柔和な雰囲気の中にどっしりと現れていた。

 何はともあれ、自己紹介だ。

「初めまして。高町さんの同級生の蔵元翔太です」

 ペコリと頭を下げる。

「あ、ああ。俺は高町士郎。なのはの父親だ」

 僕の突然の行動に面食らったようだったが、きちんと挨拶を返してくれた。僕の行動に驚くのも無理はない。こんな行動を取る小学生がいたら誰でも驚く。だが、これから話すことは小学生の戯言と取られては困るのだ。

「はい、自己紹介はそこまでにして座ったらどう?」

 そういいながら、高町さんのお母さんは、暖かそうな紅茶が入ったカップをテーブルの上におく。
 僕と高町さんのお父さんは、僕と一瞬目を合わせると、椅子を引いて座り、高町さんのお母さんもその隣に座る。そして、僕は、なんだか緊張したけれども彼らの対面に座った。

 まるで、怒られる子供と大人の構図だな、と全然関係ないことを考えながら、まずは何を話そうと運ばれた紅茶を口にした。
 僕が紅茶を飲む一方で、目の前に座る高町さんのご両親は至極真面目な顔をしていた。やはり、娘に関することだ、と最初に言ったからだろうか。高町さんのお父さんは、高町さんのお母さんから話を聞いたのかな。

 どちらにしても、彼らをこれ以上待たせるのは忍びないと思い、僕は口を開く。

「僕も世間話をしにきたわけではないので単刀直入に聞きます。高町さんの不登校の原因に心当たりはありますか?」

 あまりに単刀直入すぎただろうか。正面に座る二人は、驚いたという表情を子供の僕に隠すことはなかった。いや、あまりに急すぎて隠せなかったというのが正しいのかもしれない。

「……それをどこで?」

「情報源は、先生です。僕が先生から直接聞かされました。お二方が来られて、いじめの心配をされていたので、それを調べるために」

 高町さんのお父さんとお母さんは僕の言葉を聞いてどこか複雑な顔をした。

 娘が不登校というのは、世間体を考えると知られたくない事実ではある。
 それを子供の僕が知っているとなれば、情報源とは大人としか考えられない。彼らが心配したのは、高町さんが不登校ということが周りに知られているのではないか、ということだ。だが、それも杞憂だとわかって安堵したが、一方で、先生がこんな子供に調査を頼んだ、ということでそんな複雑な表情になっているのだろう。

 だが、そんな心情が分かったところで、僕が話すことは何も変わらない。

「はっきりといいます。高町さんはいじめになんてあっていません。これは高町さんが在籍するクラスの全員に聞いたことですので、ほぼ間違いないかと」

 もちろん、正直に高町さんをいじめたか? などと聞くはずがない。そこは、子供なりのコミュニケーションで遠回りに聞いたのだ。まだ小学二年生ということを考えれば、遠回りに聞けば、何の躊躇もなく答えてくれるし、半分は元クラスメイトで結構親しく話せる仲だったことが幸いした。
 そして、話を聞いた僕が出した結論は、先ほど話した通りだ。高町さんは、いじめにあっていない。

 もっとも、それ以外の事実が発覚したのは意外だったが。

「そうか」

 僕の報告を鵜呑みにしたわけではないだろうが、クラス全員というのが利いたのか、あるいは先ほどからの僕の態度が利いたのかわからないが、とりあえずは二人とも安堵してくれたようだった。
 だが、安堵しているところ悪いが、僕は偶然、気づいた事実を彼らに伝えなければならなかった。

「ただ、気になることがあります」

「気になること?」

「ええ。確かにいじめられていない。これは、事実です。ですが、話を聞いているうちに感じたことなんですが、彼女、あまり―――いえ、まったく親しい友達がいないんですよ」

 僕は高町さんを僕と同じタイプだと思っていた。誰とでも仲良くし、等距離を取るタイプの人間だと。
 そう、確かにその通りだった。だが、あまりにその距離が遠すぎるように感じられた。

 僕も確かに高町さんと同じタイプだ。だが、その中でも特別に親しい人間というのはいる。
 元保育園の仲間、サッカー仲間、カードゲーム仲間、勉強仲間。彼らの家に行ったこともあるし、逆に僕の家に来たこともある連中だ。
 だが、一方で高町さんにはそんな人間は一人もいなかった。

 確かに高町さんは誰もが知っていた。誰もが話したことがあった。誰の記憶にも残っていた。
 だが、ただそれだけ。『いる』という事実は彼らの記憶に残ってはいるが、ただそれだけだ。何か記憶に残る会話も行動もなかった。
 まるで、無色透明な人間。つまり、それは『いてもいなくても一緒』という話だ。

 怪訝に思った僕はもっと詳しく聞いてみるとよくわかった。
 高町さんは肯定しかしない。あるいは、常に流される。彼女は彼女の意思を見せない。ただ存在するだけの存在だった。

 確かに自分の意見を言えない人間というのは存在する。だが、それは内気な性格からである。僕が知っている限りでは高町さんは、そんな性格ではなかった。そうでなければ、最初の二週間程度で僕が気がついているはずである。一応、クラス全部に気を配っていたのだから。

 どうしてそうなったのか僕には分からない。
 なにか打算があったのか、もともとの性格だったのか、自分の意見を考えるのが苦手なのか。
 いずれにしても不登校という現状は不可解なものである。なぜなら、それらはすべて高町さん自身が承知の上での行動であり、不登校という結果には決してならない選択だからである。

 どうしてだろう? と僕がこれ以上考えても何も分からないので、僕は高町さんの現状をすべて高町さんのお父さんとお母さんに伝えた。

「―――というわけです」

 僕の話を二人は神妙な面持ちで聞いていた。僕と違って八年間ずっと高町さんを見てきた二人である。何か思うところがあったのかもしれない。

「僕から言えることは以上です」

 少しだけ冷めた紅茶を僕は口に含む。ずっと話していたからだろう。少しだけ冷めた紅茶は乾いた僕の喉を潤してくれた。
 一方で二人はずっと何かを考えるように黙っている。雰囲気は非常に重い。それも納得できる。なぜなら、彼らは今まで高町さんの現状に一切気づいていなかったのだろうから。子供のことに気づかなかった親というのは存外ショックなものだろう。

 しかし、そうなると、高町さんは、友達がいるように家族の中では振舞っていたということだろうか? なぜ? 家族に心配させないために?
 やっぱり分からない。そもそも、彼女に関することは些細なことしか知らない僕が結論を導き出せるわけがないのだ。
 いくら心理学を学んでいたとしても『高町なのは』という少女を知らない僕が彼女の心理を理解するのはこれが限界だった。

 やがて、黙り込んでいた高町さんのお父さんが曇らせていた表情を取り繕ったように笑みを見せてくれた。

「蔵元くん、だったかな。大事なことを教えてくれてありがとう」

「いえ、僕にはこれぐらいのことぐらしか出来ませんから」

 僕にはこれ以上のことは出来ない。

 彼女と友達でも、親友でも、恋人でも、家族でもない赤の他人である僕には彼女と話をするなんて無理な話だし、個人的な興味で心理学に手を出した程度では引きこもりの女の子にカウンセリングなんか到底無理な話だ。

 結局、僕に出来ることなんて、学校で調べたことをこうしてご両親に伝えることぐらいだった。
 後は、彼ら家族の話だ。残念なことに赤の他人である僕にはこれ以上関われることがない。

 伝えることも伝えたので、僕は鞄を手に取り、帰る準備をした。

「それじゃ、お邪魔しました」

「今日は、本当にありがとうね」

 僕が鞄を手にとってリビングから玄関へと移動する時の挨拶、それに応えるように今度は高町さんのお母さんがお礼を言ってくれる。

「あの―――」

 何度もお礼を言ってくれるのが忍びなくて、何か言葉を残そうとした。だが、何を言っていいのか分からない。まさか、こんなところで「ケ・セラ・セラですよ」なんて言えるはずもない。
 僕には引きこもった経験もないし、親になった経験もない。だから、引きこもった子供がいる親にどういう言葉を残していけばいいのか分からない。だから、ありふれた言葉で応援するしかなかった。

「頑張ってください」

 こんな言葉しか出てこない自分が口惜しい。だが、そんな言葉でも嬉しく思ってくれたのだろうか、高町さんのお父さんと母さんは手を振って僕を見送ってくれた。

 高町さんの家の玄関を出て、門戸を出たところで改めて高町さんの家を振り返る。

 ほんの少しの邂逅だったが、それでも高町さんのお父さんとお母さんが人間が出来た人というのは分かった。先生が言っていた死を覚悟したというのは分からなかったが。
 だから、今の僕には祈ることしかできないけれども、彼ら家族が上手くいけばいいな、と思った。



 続く

あとがき
 心理学は統計に基づいて心の動きを推論する学問ですので、ちょっと勉強した程度ではカウンセリングなんて不可能です。

 主人公、結局、何もせずに退出。



[15269] 第七話 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/18 00:06
 高町なのはにとって蔵元翔太とは理想の体現であった。

 幼い頃、彼女の父親が怪我をした。一時は危篤寸前にまでなりかけるほどの大怪我だ。

 だが、彼女の父親はその鍛え抜かれた肉体と精神のおかげか、生き残ることができた。だが、ただそれだけだ。生きているだけ。身体中は怪我だらけで動くこともままならない。
 その結果、家族は看病に忙殺されることになる。しかし、看病ばかりもしていられない。生きるためにはお金が必要で、お金を稼ぐためには働かなければならない。よって、なのはの母親は、パティシエとして翠屋で働き、姉と兄は看病と店の手伝いと家事に忙殺された。
 彼らに余裕がなかったというのは事実だろう。さらに末妹のなのはの相手をしろというのは酷な話だ。

 だが、幼いなのはにその理論が通じるはずもない。幼稚園にも行っていなかったなのはは、寂しくなると母や兄、姉のところへ行ったが、「忙しいから、いい子に一人で遊んでいてね」と相手にされなかった。結局、なのはは必然的に一人で遊ぶことが多くなった。

 そして、一人で遊びながら考える。どうやったら、相手をしてもらえるだろうか、と。

 彼女が出した結論は家族に言われたとおり『いい子であれば、相手をしてくれる』というものだった。

 一人で遊ばなければならない理由が、なのはにない以上、見当違いの結論なのだが、そう思ってしまった幼い彼女を誰が責められるだろうか。

 結局、彼女の父親の治療が完全に回復し、リハビリも終え、復帰するまでの約二年間、なのはは寂しくすごくことが多くなり、彼女が出した『いい子でいなければならない』という結論は心の根底に残ってしまうのだった。

 彼女が定義する『いい子』だが、主に定義は二つであった。すなわち、「誰にも迷惑をかけないこと」と「誰にも嫌われないこと」。
 そのことが根底に残ったまま彼女は幼年期を過ごし、小学校へ入学する。

 彼女が思い描いていた小学校生活とはいかようなものだっただろうか。
 おそらく、どんな想像を描いていたとしても、とても楽しい学校生活を思い描いていたことには間違いはない。

 だが、現実は非情だった。いや、彼女の根底にあるものがそうさせた、というべきだろうか。

 話してくれる子はいた。だが、ただそれだけだ。友達にはなれなかった。
 なぜなら、なのはには今まで友達を作った経験がなかったからだ。それになのが定義した『いい子』が余計に友達を作ることを邪魔する。

 なのはが何か言う前にふと脳裏によぎってしまうのだ。

 ――――自分の意見を言ってしまったら嫌われてしまわないだろうか。

 結局、このことがよぎってしまうため、なのは自分の意見が言えず、流される。誰かの意見に追従すれば、嫌われることはないから。だが、流されるが故に誰の気にも留められず、友達は出来ない。最悪な悪循環だった。

 だが、それでもなのはは、根底の『いい子であれば』を信じていた。いい子であればいつか必ず友達が出来る、と信じていた。彼女自身には自覚はなかったかもしれないが。

 そんな中で、なのはのクラスメイトである蔵元翔太は、まさしく理想の体現であった。

 誰からも嫌われておらず、誰からも好かれ、誰にでも優しくて、誰とでも友達で、頭もよくて、先生からも頼りにされている。

 それは、彼が転生者という二十歳の頭脳と精神を持っていることが大きな要因なのだが、そんなことを知らないなのはにとって、蔵元翔太は彼女が目指すべき姿だった。

 彼をそういう風に見る切欠は、なのはのクラスメイトが喧嘩しているのを止める場面を見てからだ。

 あの時、なのはも動いていた。ただし、翔太とは異なり、土足を嫌って校舎の中を通って中庭を大きく迂回する形でだが。

 そのため、中庭を突っ切った翔太よりも遅れてしまい、結局、なのは喧嘩をとめることはなかった。
 だが、その喧嘩の止め方の一部始終を見ながら思う。自分には無理だと。

 なのはは、止めるにしても、おそらくアリサを叩くことでしか止められなかっただろう。だが、翔太は言葉で止めた。それはなのはにとっては大きな差だった。なぜなら、なのはは、暴力が悪いことだと知っていたから。

 なのはと翔太の絶対的な差を感じてしまった。

 それが切欠となって、なのはは翔太をよく見るようになり、理想の体現者とみなすようになった。

 彼女は、翔太を真似ようとした。しかし、なのはがいかに大人びていようとも、二十歳の精神には追いつかない、追いつけない。

 どうして、あんな風に意見がいえるのだろう。なのはは、嫌われることが怖くて何もいえないのに。
 どうして、あんなに頭がいいのだろうか。なのはは、間違えてはいけないというプレッシャーで、頭が真っ白になってしまうのに。
 どうして、ああも他人に優しくできるのであろうか。なのはは自分のことで手が一杯だというのに。

 結局、なのはは蔵元翔太という影を追うあまり深みにはまってしまった。

 誰にも意見が言えず、ただ流されるまま、存在するだけの存在になってしまい、テストの点数は、前よりも悪い点数は取れないというプレッシャーから、頭が混乱し、さらに点数を下げるという悪循環に陥るという結果に。

 なのはが思い描くいい子とはかけ離れた姿だった。

 しかし、それでも、家族の前ではいい子でいなければならないという強迫観念にも近い根本のせいで、その悩みを口にすることもなく、表面上は平然と学校に通っていた。

 だが、そんな不安と不満を吐き出す場所もなく彼女の心の内に溜まっていく汚濁は、確実に彼女の心のひびを広げていく。
 そして、心の限界が来たのは二年生に進級してすぐのことだった。

 クラスが変わったことは、親しい友人がいないなのはにとってどうでもいいことだった。
 だが、そのクラスで偶然耳にした事実が彼女のひびが入った心にとどめを刺す。

 成績順のクラス替えのことである。

 なのはは、その女の子はクラスが変わったことで母親に怒られたという話を偶然聞き取ったものだ。
 だが、その事実がなのはの心に限界を与えた。

 クラスが下がったということは、成績がそこまで下がってしまったということだ。前は上のクラスだったのに。彼女が理想とする蔵元翔太とは別のクラスになってしまうほどに。

 彼女の理想が手の届かない位置に遠のいてしまったような気がした。

 そして、心の限界がきた次の日、なのは学校を休んでしまう。特に理由なんてないのに、だ。
 心の限界から来た自らの行動。だが、それをもなのはを苦しめる。

 身勝手な理由で学校を休んでしまった自分は、もはやいい子にはなれない。お父さんもお母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも相手にしてくれない。友達も出来ない。誰にも相手にされない。そう思い込んでしまった。

 もはや家族のいい子を演じる気力も学校に行く気力もなかった。

 一日中、ベットの中で過ごす日々。今日でその生活が何日目かなんて覚えていない。今日が何曜日で、何日で何月かなんて時間の感覚もない。

 何気なく一年生のときに進学祝いと万が一のときのために買って持った携帯を開く。
 そこにはアナログの時計があり、現在時刻と今日の日付が示されていた。

 それらを無視して、なのはは携帯のキーの一つを押してアドレス帳を呼び出す。

 そこに記された名前は実に数少ないものだった。

『お父さん』『お母さん』『お兄ちゃん』『お姉ちゃん』『お家』『翠屋』

 以上六つがなのはの携帯に登録された電話番号だった。
 入学する前は、この携帯のアドレスが増えることを想像しながら眠りについたものだ。だが、もうそれも幻想でしかない。
 なのはは電源ボタンを押したままにすると携帯を電源から切った。鳴らない電話に意味はないからだ。

 何気なく携帯を切ったなのはだったが、何をするわけでもなくごろんとベットの上を転がる。目の焦点はあってなく、虚空を見つめているのと変わらない。

 ―――私、なにしてるんだろう。

 自問自答しても答えは出ない。

 そんななのはの耳にドアを三回ノックする音が聞こえた。なのはの部屋は鍵がついており、ずっと鍵をかけたままだ。

「なのは、蔵元くんがお見舞いに来てくれてるけど……」

 蔵元、蔵元翔太っ!

 ローギアだったなのはの脳が一気に加速した。

 絶対、聞きたくない名前だった。なのはの理想の体現者。絶対に追いつけない人。

 もしも、彼のようになれたら、親は、兄は、姉はもっと構ってくれただろうか、たくさん友達ができただろうか、楽しく学校生活を過ごせただろうか。

 何度、思い描いたか分からない。蔵元翔太のようになる自分。だが、それはもはや届かないものだと思い知った。思い知らされた。
 だからこそ、もはや顔も見たくない。彼に憧れてしまうから。もう追いつけないと分かっているのにそんな思いを抱いてしまう自分が惨めだと思うから。

「嫌っ! 絶対に会いたくないっ!」

 もしかしたら、お母さんはびっくりしたかもしれない。こんな声は出したことがなかったから。
 だが、そこまでして拒否する人間なのだ。今の高町なのはにとって蔵元翔太とは。

 やがて、扉の向こう側の気配がなくなった。たぶん、立ち去ったのだろう。この十日間で気配探知だけは上手くなったなのはだった。

 母親の気配がなくなったことを確認してから、またなのはの頭はまたローギアへと移る。そのまま、母親が来る前と同じくどこか虚空を見つめる。なのはの中ですべてが空っぽだった。

 一体どれだけの時間が経過しただろうか。なのはの中で時間の感覚は曖昧だった。

 またコンコンコンと部屋のドアがノックされる。だが、なのははそれを無視した。以前ならば、すぐに応えただろうが、今の彼女はとことん無気力だった。

「なのは」

 父親の呼びかける声の後、ガチャガチャ、とドアを開けようとする音がする。鍵はかけたままだ。当然開かない。
 気配が濃くなり、何をするつもりだろうか、となのはが思ったその刹那、ドンッ! という激しい音を立てて鍵がかかったままであるはずのドアが開いた。
 これには無気力だったなのはもさすがに身体を起こす。ドアの向こう側の廊下に立っていたのは、彼女の父親である高町士郎だった。

 士郎が一歩、なのはの部屋に踏み入れると同時になのはの身体は恐怖で震えた。

 それは、士郎が怒った表情をしているからではない。確かに、彼の表情は真剣な表情であるが、怒気は醸し出していない。
 なのはが恐れているのは、彼の口から発せられる彼女を拒絶する言葉だ。

 『いい子』であれば、相手をしてもらえる。構ってもらえるという思いが根底にあるなのはにとって、最も忌避すべきことは、両親からの拒絶の言葉だ。引きこもったのは、もしかしたら引きこもることで彼らからその言葉を聞かなくてすむと無意識のうちに考えたからかもしれない。

 士郎が一歩ずつなのはに近づいてくる。なのはは士郎が一歩ずつ近づいてくるに従ってずりずりと士郎から距離をとるようにベットの上を移動するが、ベットの上は狭い。すぐに限界が来てしまった。

 あ、あ、あ、と声にならない声をだし、恐怖からカチカチと歯を鳴らすなのは。だが、士郎はそれに気づいているのか、気づいていないのか、ゆっくりと歩みを止めずに歩み寄り―――

 がばっ、となのはを強く抱きしめた。

「ほえ?」

 なのはが自分でも驚くような声を出してしまった。気の抜けたような声。
 士郎の意外な行動の前にはそのような声しかでなかった。てっきり拒絶の言葉がでると思っていたから。だが、抱きしめられた。
 父親の体温がなのはの身体中から感じられた。頭に回されたごっつい手を感じた。それは、なのはが長らく感じたかった父親の温もりだった。

 そして、父親が耳元で囁く。

「ごめんな、なのは。お父さんたち、気づいてやれなくて」

 その言葉を聞いたとき、なのはの心が決壊した。
 今までいい子でいなければならないと守ってきた寂しさが一気にあふれ出した。

「ふぇ、ふぇぇぇぇぇぇぇんっ!!」

 なのはは、泣いた。まるで小さい子供のように。だが、士郎はそれを笑うわけでもなく、ただ抱きしめて髪の毛を撫で続けた。まるで今までの分を取り戻すように。



  ◇  ◇  ◇



 一体どれだけの時間泣いただろうか。やがて気が済むまで泣いたなのはは、11日ぶりにリビングへと顔を出し、心配していた兄と姉にごめんなさい、と言うと彼らに笑顔を見せていた。兄と姉から抱きしめてもらった。なのはが欲しかった温もりが確かにそこにあった。

 そして、今、なのはは泣いた目を真っ赤にしながら、それでも笑顔でホットミルクを飲んでいた。テーブルに座るのは高町家の面々。彼らの表情は前日までとは違って笑顔だった。

 それから、彼らと話をした。学校での友達の作り方が主だった内容だったが、なのはにしてみれば、今はどうでもいいことだった。なのはが一番望んでいたのは、家族との触れ合い。それが、先ほど抱きしめてもらえたことで叶ったのだから。

 しかし、なのはには分からない。少なくとも引きこもっていたなのはは、『悪い子』だったはずだ。だが、彼らは抱きしめてくれた。いや、『気づいてやれなくて』という言葉から考えれば、今まで『いい子』だったことに気づいてくれたのかもしれない。

 どちらにしても、今までのなのはが欲しかったものは手に入れられたのだ。それが嬉しかった。それだけでよかった。なのはは間違いなく今まで生まれてきた中で一番幸せだった。

 ―――――次の士郎の言葉を聞くまでは。

「蔵元くんが教えてくれなかったら、と思うとぞっとするな」

「くらもとくん?」

 なのはのそのときの声は酷く平坦だったはずだ。

 どうして、その名前が出る? 彼らは、なのはがいい子であることに気づいてくれたのではないだろうか。

「ああ、今日、来てくれて大事なことを俺たちに教えてくれたよ」

 それは友達がいないことで悩んでいると結論付けた士郎と桃子が取った配慮だったのかもしれない。子供とはいえ、いきなり友達がいない、ということを聞くのは憚られたため、取った配慮。
 彼らが言う『大事なこと』とははのはの悩みの根幹を意味するのだが、それはなのはにとって異なる意味に聞こえた。

 つまり、先ほどまでのことがすべて蔵元翔太から教えてもらった大事なことなのではないだろうか、という疑念だ。

 抱きしめられたことも、触れ合えたことも、こうして笑っていることもすべて。

 なのはの望んだ理想は、彼らとの心からの触れ合いだ。先ほどその願いは叶ったように感じられた。だがしかし、それが蔵元翔太によるものだとしたら。
 先ほど触れ合った彼らの温もりが虚像のような気がした。

 なまじ、なのはの中の蔵元翔太への評価が高すぎたことが災いした。
 もしも、ここで出てきたのが別の名前だったなら、担任の先生の名前だったなら、あるいは、なのはの精神が子供のままだったなら、過程を無視して結果だけ甘受できるような人間であったなら、なのはの感情もまた異なるものだっただろう。

 なのはにとって彼は理想の体現者であり、何でもできる人間なのだ。ならば、なのはの悩みを見抜いて、両親が先ほどのような行動に仕向けることも可能かもしれない。
 もちろん、それは過大評価で、神でもない彼にそんなことは不可能なのだが、なのはの中でそれは真実になっていた。

 ―――ああ、そうだよね。なのはみたいな『悪い子』にこんな『良いこと』起きないよね。

 隣で士郎が、翔太のことを「できた子供」と称賛している。

 ―――そうだよね。蔵元くんは、なのはと違っていい子だもんね。

 先ほどの触れ合いが『なのは』がいい子だったからではなく、翔太の扇動によるもと思い込んだなのはの絶望は深い。一度喜んだだけに尚のこと。

 ―――もう、いいや。

 そもそもが間違いだったのだ。自分のような『悪い子』が『いい子』になろうとしたことが。

 一度、立ち上がっただけに、もう一度打ちのめされて、さらに頑張ろうという気力は小学2年生の小さな身体にはなかった。

 だから、高町なのはは、家族と触れ合うことも、友達を作ることも―――

「ん? なのは、どうかしたか?」

「なんでもないよ」

 高町なのはは己が望んだことすべてを諦めた。


 続く

あとがき
 注意:本作品のなのはのレベルまでいくと対人恐怖症のレベルです。妄想型? だったような気がする。特に自分の言葉が相手に嫌悪感を与えるって辺りですね。

 リリカルってなんですか? ってタイトルの本作品が主人公ではなく、なのはを指す様になってしまったような気がする。



[15269] 第八話
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/20 22:38



 身に覚えのないことで褒められることほど、気味の悪いものはない。
 怒られるならまだ分かる。人間、誰しも都合の悪いことは忘れてしまうからだ。
 だが、他人から褒められることほどの良い事であるならば、自尊心を高めるためにも細かいことまで覚えているはずだ。
 だからこそ、身に覚えのないことで褒められるのは気味が悪く感じられる。

 例えば、今の僕のように。

「いや、よくやってくれた、蔵元。さすが我がクラスの学級委員長様だ」

「……なんの話ですか?」

 先生がここまで褒めるのは珍しい。なぜなら、先生にとって僕とは特異な存在として認識されているからだ。
 僕がテストで満点を取ったとしても当然。授業中に質問の内容を尋ねて答えられて普通。先生の中での僕の存在はそんな存在だ。
 よって、褒められることなんて滅多にない。なにせ、他の面々であれば、褒められるほどのことは僕にとって出来て当然という風に認識されているのだから。
 その先生が、帰りのホームルームで僕を呼び出して開口一番がこれだ。

「高町の話だよ」

「高町さんですか?」

 その名前を聞いたのはつい最近、というか、昨日のことだ。先生に頼まれて彼女の家に行ったのだから。そこで、先生から頼まれた調査結果と僕が気づいたことを伝えに行っただけだ。
 しかし、それしきのことで褒めるだろうか。ただ、伝えに行っただけなのに。普通なら、「ご苦労」で終わってしまいそうだが。

「今日になって学校に復帰した」

「はぁ、そうなんですか」

 高町さんとは去年クラスメイトだった程度の繋がりしかないので、感想としてはこの程度だ。

 しかし、今日から来てたのか。知らなかった。隣のクラスなので僕の耳には届いてこない。僕が気づいたことが真実なら、彼女には親しい人間がいないから、余計に人伝いに情報が入ってこないのだ。
 だから、僕にとって高町さんが学校に来ているというのは初耳だった。

「そうなんですかって、お前が訪問した次の日から学校に来たもんだから、お前さんがなにかしたのかと思ったんだが」

「先生の勘違いです。僕は、昨日は高町さんのご両親としか話していませんし」

 そもそも、拒絶されたのだが、それは言わなくてもいいだろう。

「なんだ、そうか」

 そう呟く先生の顔には、明らかに褒めて、損した、という言葉が読み取れた。この先生、フランクなのはいいのだが、こんな表情を教え子に見せていいのだろうか。教師として若干問題と思うんだが。

「なに、お前だから問題ない。他の生徒にはこんな態度とらないさ」

 そのまま疑問を投げかけてみたら、返ってきた答えがこれだ。

 確かに、この先生、他の生徒だともっと優しいというか、柔和な態度と言葉になる。理想の教師という仮面を被っているというべきだろうか。もしも、これが二十歳の精神を持つ僕じゃなかったら、確実に先生から邪険にされてるって勘違いすると思う。もしも、この年齢で僕と同等のことが出来たとしても、それは知能が高いだけであり、心は子供のままなのだから。

 僕も二十歳とはいえ、学生だったのだから子供に分類されてもおかしくないと思うが。

「まあ、何にせよ、高町が登校してくれて万々歳だな」

「そうですね」

 その部分に関して、僕は同意した。

 僕には何が原因で高町さんが不登校になったのか分からない。だが、何が原因にせよ、この時期から不登校というのは、これからの人生を考えるとかなりマイナスだ。小学校は義務教育だから出席が足りなくても卒業は出来るだろう。

 現に不登校だったとしても家に卒業証書が送られてくるなんてこともあるらしい。
 それは証書がもらえただけだ。何も学んでいない。もしかしたら、家庭学習で学力だけはつくかもしれない。だが、学校で学ぶべきだった集団行動についてはまったく学んでいない。

 この世界を構成するものは社会という大小さまざまな集団がひしめき合う空間だ。ならば、そこで生きていく術を知らない人間は淘汰されていく。支えてくれる誰かがいなければ生きていけなくなってしまう。それは、自立ではない。依存だ。

 この時期からそんな人生が決まってしまうのは不憫すぎる。
 だから、何にせよ高町さんが復帰したことは喜ばしいことだった。

 僕は彼女について何も干渉していない。きっと、僕が帰った後、あの人が出来ていそうな両親が、僕の話から何かを思い、考え、彼女の不登校を何とかしたのだろう。
 話を聞いて一日で何とかしてしまうとは、家族の絆は偉大だと改めて思い知らされた。いや、学校に来ただけで友達関係のことはまだなんだろうけど。今は家族で試行錯誤しているのかもしれない。だったら、それは家族の絆を深めるものだ。だったら、僕はしばらく何もしないほうがいいだろう。

 それにしても、高町さんが家族と上手くいったのは、来たのはもしかしたら、僕の祈りが通じたのだろうか、と考えるのは自惚れだろうか。



  ◇  ◇  ◇



 高町さんが復帰したと聞いてから数日が経過した。
 今日からは、誰もが楽しみにしているゴールデンウィークが始まる。

 一週間という長期休暇。今年も僕の家は、自宅でのんびりと過ごすことになる。原因は言わなくても分かるだろう。六ヶ月ほど前に誕生した弟である秋人である。生まれて一歳に満たない子供をこの時期の外に連れ出すには危険が多すぎる。
 よって、今年も僕の家は何所にも出て行かず、家で過ごすことが決定されたのだ。

「しかし、ショウは何所にも行かなくてもよかったのか?」

 ゴールデンウィークが始まった日の朝、突然、親父がそんなことを言い始めた。
 僕の親父は、アリサちゃんの親が社長をやっている会社の子会社の開発部に所属している。ちなみに、アリサちゃんのことは内緒にしている。黒い髪にスポーツ刈りにした頭。四角い眼鏡をかけた一般的な中年だ。自慢としてはメタボというには程遠いお腹だろうか。

「え? なんで?」

 僕としては、今更、遊園地とか連れて行かれても困惑するだけだ。

 そもそも、何に乗っていいのかも分からない。ジェットコースターとかなら乗ってもいいかな、と思うが、この身体は小学二年生の平均身長より少し低い120センチしかないのだ。身長制限があるジェットコースターには乗れないものが多いだろう。
 だからと言って、誰にでも乗れるメリーゴーランドやゴーカートに乗るのはさすがに恥ずかしい。この身体が小学生だとしても、だ。

 だが、僕の返答に聞いてきた親父は困惑したような顔をした。

「父さんの友達が今年は、家で過ごそう、といったら息子に泣かれたそうだ」

「そういえば、ショウちゃんはそんなことまったくないわね」

 親父と話していると何故か、母親も入ってきた。
 僕の母親は実に温厚な性格をしており、いつも微笑んでいる。ふわふわのショートヘアが柔和なイメージを加速させている。実際、怒られた事はないのではないだろうか。もっとも、この年になって親から怒られるようなことはしない。

「小さな頃からそう。夜泣きはしないし、着替えも自分で出来ちゃうし、歯磨きも、おまけに勉強だって聖祥大付属の特Aランクの特待生だし、たまにはお母さんの手を煩わせてもらえない?」

「いや、自分で出来るのに何でそんなこと……」

 確かに母さんの言いたいことは分かる。要するに僕がよほど子供らしくないのだろう。他の母親が言うような苦労を母親もしてみたいのかもしれない。しかし、子供にとっては自然であっても、精神年齢が二十歳を超える僕が母親に着替えを手伝ってもらったり、歯磨きをしてもらったりするというのは恥ずかしいことこの上ない。

「それに、僕じゃ出来なかったかもしれないけど、秋人には出来るじゃないか」

 僕のすぐ傍で何が楽しいのか、母親のゴムひもをひっぱりながら、キャッキャッと笑う秋人。
 きっと、これから僕に頼まなくても秋人が僕の分まで母親たちの手を煩わせてくれるはずだ。

「でも」

「いいから、僕の分まで秋人の面倒を見てよ。まあ、手に負えなくなったら僕も手伝うからさ」

 僕が秋人の保育をすることは可能だ。だが、僕は殆ど秋人の面倒を見ていない。母親と父親に任せたきりである。僕の時には体験できなかった育児をやって欲しいと思ったからだ。だから、僕は本当に少ししか秋人の面倒を見ていない。本当は世話もしたいけどそこは我慢だ。

「はぁ、親が子離れする前に子供が親離れするって言うのは寂しいものね」

 そういわれても、もともと親離れしているのだから仕方ない。そういっても両親には感謝している。少なくともこの年齢まで生きてこられたのは両親のおかげだし、自分で言うのもなんだが、気味が悪いといっても過言ではない僕を捨てずに育ててくれたのだから。

 そのことを伝えると親父と母親は揃って笑って「それでも、私たちの子供には違いない」と言ってくれるのだった。



 ◇  ◇  ◇



「ショウ~、これどうなってるんだ?」

「ショウ~、この地図記号ってなんだよ?」

「ショウ~、なんか、答えの文字数が合わないんだが」

 三者三様に僕に同時に助けを求める。しかも、全員同じならまだしも、それぞれ助けを求める教科は異なり、算数と社会と国語だ。

 初日の午後、僕の部屋では、勉強会が行われていた。

 テスト前だからという理由ではない。ゴールデンウィーク中に出た宿題を片付けるためだ。
 長期休暇にかけて大量の宿題が出るのは、中、高校生の頃は当たり前だったが、小学校ではなかった。聖祥大付属小で大量の宿題が出るのは、私立の学校ゆえだろうか。

 その宿題を片付けるために四人が僕の家に来た。
 と言っても僕は既に大半を片付けてしまっているから、もっぱら教える側に周っている。

「はいはい、そこは文章問題だからって、右の計算問題と変わらないよ。数字だけでも下線引いて、もう一度考えること。地図記号は、そこに地図帳の見開き三ページ目。文章題で線の後に来る文章が答えと思わない。そこは、前の文章だから」

 僕は聖徳太子じゃないといいたいところだが、何とかすべての質問に答えることができた。我ながら神業だとは思う。にも関わらず、目の前のクラスメイトたちは、そんなことは出来て当然だ、といわんばかりに―――

「そっか、やってみるわ」
「じゃ、借りるな」
「そうなのか? 1、2、3……おっ、本当だ」

 礼も言わずに自分たちの問題に取り掛かった。先生の話が本当なら、彼らも学年上位30人の中に入るはずなので、きっかけさえ教えてやれば、後は自分たちで何とか出来るのがせめてもの救いだ。もしも、これで手取り足取り教えなければならなければ、僕が後五人は必要だろう。

「大変だな、学級委員長は」

 くいっ、と小学二年生にも関わらず眼鏡をかけているこの中で唯一質問してこなかったクラスメイトが、世話をする僕を皮肉るように言ってくる。

「何で君までいるの?」

 彼の成績はトップ5に入るぐらいに高い。この程度の問題なら、僕に頼ることなく自力でも可能だろう。なのに、なぜか今日の勉強会に彼も参加していた。呼んだのは誰だろう。

「将棋でもしようかと……他のやつらは相手にならん」

「ちょっと待った! ショウはこれが終わったら、バトルカードやるんだからなっ!」

 いや、君はそれよりも早く問題終わらせないと、そんなものする暇ないよ。

 眼鏡の彼の将棋は、彼の趣味と言っていい。ただし、その腕前はもはや趣味の段階を超えているんじゃないか、と思わせる。僕にしても全戦全敗してしまう。今では、飛車、角落ちで何とか相手してもらっている。しかしながら、それでも他のクラスメイトよりもマシらしい。よって、僕とよく対戦することが多々だ。もっとも、僕も負けてばかりもいられないので、本などを読んでいるのだが……やはり、将棋は奥が深い。

 そして、バトルカードだが、こちらは前世にも似たようなものがあった。大学生にもなってこれに嵌っている連中もたくさんいたものだ。学食なんかでよくやっていたのを覚えている。前世では、僕はあまり興味がなかったのだが、今はクラスの男子の半分以上が持っている以上、話に入るためには、多少なりとも嗜むことが必要だったため、今では僕もそのカードを持っている。腕前は中級ぐらい。勝ったり負けたりだ。

 結局、眼鏡の彼の宿題が終わり、後三人が必死に宿題をやっているのを尻目に僕らは将棋をやり―――無論、その間も質問には答えていた―――、彼らが終わった後、バトルカード大戦へとなだれ込むのだった。

 なんだかんだいいながら、君も持ってたのか。



  ◇  ◇  ◇



 二日目は前の日から約束していた連中とサッカーもどき(人数不足、ルール無用のため)で汗を流し、三日目は誰からもまったく連絡が入らなかったため、たまに通っている図書館に出かけることにした。

 膨大な量の本が格納されている図書館。そこは月に三千円しかもらえない小学生の身からしてみれば有り難い場所だった。僕が読みたい本は、その殆どがハードカバーだ。一冊三千円を超えることもざらだ。つまり、一冊を買うのに一ヶ月の間まったくお金を使わず溜めなければならない。事実上不可能だ。だから、こうして無料で本が借りれる図書館は僕にとってありがたかかった。

「あれ? ショウくん」

「え? あ、すずかちゃんか」

 僕がカウンターで本を借りて帰ろうとしたとき、出入り口の自動ドアの付近ですれ違いざまに偶然、すずかちゃんの姿が見えた。
 そういえば、図書館にはよく行くって聞いたことがある。僕もよく、とは言わないが、暇が出来ると来るほうなので、今まで出会わなかったほうが不思議で仕方ない。

「ショウくんはなにか本を借りたの?」

「うん」

 僕は、借りたばかりの本が入っている手提げ袋を彼女に示した。中身は、五冊ほどの本が入っているが、すべてハードカバーなのでそれなりに重い。
 一方のすずかちゃんも手提げ袋の中にいくつか本が入っているようだった。

「へ~、どんな本か見てもいい?」

「いいよ」

 はい、と僕は手提げ袋の中身を開いてタイトルが載ってる背表紙を見せた。

「……えっと、これ、ショウくんが読むの?」

「そうだけど……」

 手提げ袋の中を覗いたすずかちゃんは怪訝な顔をして僕を見てくる。しかも、若干、引いているようにさえ感じる。

 あれ? 何か変なものを借りたかな? とりあえず興味を引いたものを手当たり次第借りたのであまりタイトルを覚えていなかった僕は改めて手提げ袋の中を覗き込む。そこに並んでいたタイトルは―――

『児童心理学入門』『小学生の心と身体の成長』『子供からの手紙悩み相談』『エトランジェ戦記1、2』

 なるほど、これなら確かにすずかちゃんが怪訝な顔をするのは分かる。

 僕は前世で、心理学を独学に近い形で勉強していた。ここでもその名残が出ているのだろう。しかし、すずかちゃんからしてみれば、小学生が小学生の心理学を読んでいるわけだ。すずかちゃんからしてみれば、驚愕ものだな。
 後半の二つは最近になって有名になり始めたファンタジー小説だ。今のところ五冊ほど出ているが、殆ど借りられている場合が多い。今回、借りれたのは運がよかったのだろう。

「えっと、その……これは、ちょっと同年代の人たちがどんな悩みを持ってるのか気になってね」

「う~ん、確かにショウくんって相談受けること多いからね」

 どうやら誤魔化すことに成功した模様。
 偶然とはいえ、半ばクラスの相談役になっていることが幸いしたようだ。

 小学生の悩みは大人から見ればくだらない悩みも多い。だから、親に相談しても、あまり真剣に扱ってくれないことが多いのだ。故に友人に相談するのだが、その友人も小学生、悩んで答えが出ないことも多い。よって、最終的に僕に回ってくる、と。そして、悩みに答えていたら、その話を聞いてまた相談にくるという悪循環になっていた。
 僕としては、心理学的な要素も含んでいるから楽しんではいるんだが。しかし、時々、相談した次の日に悩みを忘れていることがあるから困ったものだ。

「あっ、エトランジェは家に全部あるよ」

 後半の二つを見てすずかちゃんが言う。

 さすがあの洋館の持ち主だな。

 エトランジェ戦記はハードカバーで一冊辺り二千円ぐらいする。つまり、全部読もうと思うと一万円だ。到底手が出せない。しかし、話によると相当面白いらしい。もし、この借りた二冊を読んで面白かったら、後三冊はあるわけだが、図書館に期待するのは無謀だろう。一巻と二巻が借りられただけでも僥倖なのだから。つまり、残りは当分お預けになるわけだ。

「エトランジェ戦記って面白かった?」

「うん、文章も読みやすかったし、面白かったよ」

 なるほど、文学少女と呼んでもおかしくないほど本を読んでいるすずかちゃんの評価だ。面白いという前評判は信じてよさそうだった。なら、僕がこれを読んで続きが読みたくなるのもほぼ間違いないだろう。なら―――

「すずかちゃん、もし、よかったらなんだけど、エトランジェの残り貸してくれない?」

「うん、いいよ。私もお姉ちゃんも読んじゃったから大丈夫」

 たまに他人に本を貸すのが嫌だ、という人もいるけど、どうやらすずかちゃんはその部類には入らなかったようだ。快く快諾してくれた。

「でも、いつ貸してもらおう?」

 問題はそこだった。今はゴールデンウィーク中。すずかちゃんも用事がないわけではないだろう。僕はほとんどないけど。今日、出会えたのが偶然だとするなら、ゴールデンウィークの残りは絶望的だと思っていい。だが、この程度の本なら間違いなく一巻と二巻はゴールデンウィーク中には読み終えてしまう。

「ショウくんはこの後、時間があるの?」

「大丈夫だけど」

 今日は、本当に用事がなかったから、帰って秋人の面倒でも見ながら、本を読もうと思っていたぐらいだ。なんだか、小学生のゴールデンウィークにしては寂しいような気もするが、前半に遠出した面々はまだ帰ってきてないし、後半に遊びに行く面々は逆に今日から出発していないのだから、仕方ない。

 僕の返答にすずかちゃんは、ほっと安堵の息を吐き笑って僕に提案してくれた。

「私が本を返して借りるまで待ってくれるなら、この後、私の家に来るといいよ。その時、貸すから」

「え? いいの?」

「うん、今日は私も時間が空いてたから」

 なら、お言葉に甘えることにしよう。

 結局、図書館で本を選ぶのに付き合い、その後、月村邸で本を借りて、お茶を飲みながら本について雑談した後に帰宅するのだった。



  ◇  ◇  ◇



『ほらほら、何とかいったらどうなのよ?』

『ちょ、ちょっと待って』

 僕は、必死に自分の頭にある少ない語彙の中から言葉を作ろうとしたのだが、それは結局致命的な単語が足りなくて挫折することになる。
 こうなってしまうと、目の前でニヤニヤ笑っているアリサちゃんに太刀打ちできるような手はない。
 僕は素直に両手を挙げて降参の意を示しながら、こういうしかなかった。

『辞書を貸してください』

『しょうがないわね』

 僕が頭をたれるとアリサちゃんは、仕方ないと肩をすくめて和英辞書を貸してくれる。
 ぺらぺらとページを捲り、目的の単語を見つけて、アリサちゃんの質問に答えてみるが、どうもニュアンスが違うらしい。少しだけ単語と単語の並びを訂正され、それを答えとして改めて答えた。

『はい、正解。そろそろ、休憩にしましょう。ずっと話していたから喉が渇いたわ』

『そうだね』

 ちょっと待ってなさいよ、と言い残してアリサちゃんが部屋から抜け出した。

「やっぱり単語をもう少し覚えないと話にならないな」

 アリサちゃんが出て行ったのを見送って僕ははぁ、と大きく息を吐いて思わず独り言を日本語でつぶやいてしまう。

 今、僕はアリサちゃんの部屋で英語を教えてもらっている。正確に言うと英語というよりも英会話だろうが。

 始まりは、僕が塾通いを始めたあたりだろうか。僕たちが通っている塾は進学塾であり、学校では余裕で満点の取れるアリサちゃんでも、さすがに分からない問題がある。しかしながら、僕にとっては簡単に解ける問題なので、いつも教えていたら、そのうち、いつも教えてもらってばかりで悪いので何かないか、と聞かれてしまった。

 そこで、アリサちゃんは英語も日本語も出来るバイリンガルというので、英語を教えてもらうことにしたのだ。

 さすがに僕も大学に行って、しかも工学系なので読むほうは大丈夫なのだが、英会話のほうはさっぱりだ。TOEICもライティングはともかくリスニングがひどかった記憶がある。
 よって、こうして週一か二の割合で英会話を教えてもらっている。

 今日はゴールデンウィークでお休みかと思っていたのだが、一応、昨日確認のためにメールしてみたら、どうやら今日も構わないというので、お邪魔しているわけだ。

 そして、先の呟きに繋がる。文法はともかく単語の量が圧倒的に足りない。工学科の最先端の技術は殆ど英語で書かれているため、よく英語の洋書を読んでいたので、それなりに自信はあったのだが、その自信は最初の一回目で崩れ去った。どうやら技術書に書かれている単語はかなり偏っているようである。

『はい、お茶、持ってきたわよ』

 おっと、アリサちゃんも帰って来た様だ。
 最近気づいたのだが、アリサちゃんはこの時間、実に活き活きしている。最初はその理由が分からなかったのだが、最近になってようやく分かってきた。要するに、僕が徹底的にやり込められているのが楽しいのだ。まあ、塾じゃ立場がいつも逆だから分からなくもないんだけど。

 結局、その日のアリサちゃんによる英会話教室は午後から日が暮れるまで続けられたのだった。



  ◇  ◇  ◇



 ゴールデンウィークも終盤になった今日、我が家にすずかちゃんとアリサちゃんが遊びに来た。目的は秋人だ。
 生まれたばかりの頃、秋人を見に来たがっていたのだが、来た以上、抱いたりもしてみたいだろう。最初は見るだけといっても、絶対そうなることが目に見えていた。だから、せめて首が据わってから、と思っていたらこの時期になったわけだ。

 そして、その二人は今、ゆりかごの中で笑う秋人を見て「かわいい~」とか歓声を上げながら、小さな手に自分の手を絡ませたりしている。この時期の赤ちゃんは近くのものを握る習性があるから。
 小学生といっても女の子だ。やはり母性でもあるのだろうか。

「だっこしてみる?」

 僕の突然の言葉に驚いていたものの、彼女たちはすぐさま笑って頷いた。

 まずは、アリサちゃん。立ったままだと万が一の場合があるので、座らせて秋人を抱かせる。抱き方は僕の抱き方を真似してもらった。やはり、見るのと触れるのでは感覚が違うのだろう。笑いながら秋人をあやしていた。それを羨ましそうに見るすずかちゃん。
 赤ちゃんといえども小学生が抱くには若干重い。そして、大事な弟を床に落とすわけにもいかないので三分程度で今度はすずかちゃんに交代した。やはりすずかちゃんもアリサちゃんと同様に笑いながら秋人をあやしていた。
 肝心の秋人は、状況が分かっているのか分かっていないのか、きゃっきゃっ、と笑っている。

 やがてすずかちゃんも三分程度で秋人をベットに戻してもらう。少し残念そうだったのが印象的だった。

「あ~、やっぱり赤ちゃんって可愛いわね」

「そうだね。私にも弟か妹できないかな」

「そういえば、赤ちゃんってどうやって出来るの?」

「う~ん、私は知らないけど……ショウ君は知ってる?」

 なんとも答えにくい質問をしてくるんだろう。大体、話の流れから気づくな、気づくな、と思っていたのに。これは、芸人で言うところの押すな、押すなよ、というギャグに近いのだろうか。
 さて、しかしながら、まさかここで子供に「赤ちゃんってどうやって出来るの?」と聞かれたときの心情が理解できるとは思わなかった。
 僕は真実を知っているが、それをまさか正直に教えるわけにもいかないだろう。もしも、すずかちゃんのお姉さんやアリサちゃんの両親に知られたら僕の身が危険に晒されるような気がする。

 だから、僕は心の中で彼女たちの両親に謝罪しながらも彼らを生贄に捧げた。

「僕も知らないよ。すずかちゃんのお姉さんやアリサちゃんのパパやママに聞いてみたらどうかな?」

 ショウも知らないんだ、お姉ちゃんに聞いてみよう、とか彼女たちの口から聞こえたような気がしたが、気にしない。気にしたら負けだと思った。

 その後は、三人でショッピングモールへと遊びに出た。アリサちゃんとすずかちゃんは洋服を見てきゃっきゃっ言っていたが、僕には何が楽しいのかわからない。仕方なくジュースを片手に二人を待っていたら、何故か怒られ、後半は僕が着せ替え人形になってしまった。結局、何も買わなかったが。彼女たちは何がしたかったんだろう。

 洋服屋の後はゲームセンター。といっても、そこは男性禁止の場所。いわゆるプリクラといわれる箱物だった。
 合計三回取れるプリクラを一回。アリサちゃんが真ん中、すずかちゃんが真ん中、僕が真ん中の三回だ。
 出てきた写真を見て実に微妙に思う。僕の両サイドで、笑ってポーズを決めている彼女たちと若干引きつった笑みを浮かべている僕。初めてなのだから仕方ない、と自分を慰めながらも、こんな表情しか出来ないのが悲しかった。

 さて、その後はもう時間が時間だったのでそれぞれの家に帰った。

 しかし、困った。このプリクラどうしよう?

 僕の手の中に納まるプリクラ。アリサちゃんとすずかちゃんと僕が真ん中のものがそれぞれある。渡されても僕には貼るようなところがない。まさか、高校の同級生のように携帯に張るわけにもいかないし。仕方なく、僕はそれらを引き出しに入れて後日考えることにした。

 今日でゴールデンウィークは終わってしまうが、なかなか暇じゃないゴールデンウィークだったと思う。去年も似たようなものだったが。さて、明日からは学校だ。休み明けの学校は疲れるものだと相場が決まっている。

 だから、僕は休みにしては少し早めにベットに入って、明日からの学校がどうなるかと思いながら、女の子のパワーに引きずられ疲れた身体を癒すように眠りにつくのだった。


 続く

 あとがき

 ほのぼのな話でも、裏を考えると鬱になる法則。裏を追加しました。

 前回のなのはとの対比が今回の目的でした。やまなしオチなしですが、意図はそんなものです。

 さて、次回からは、無印編へ跳びます。……どうやってなのはを救おう?



[15269] 第八話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/24 13:02



 高町なのはの朝は遅い。

 もう短針と長身が12という数字の上で重なろうか、という時間になるまで彼女はベッドの中で過ごす。
 別に寝ているわけではない。起きる時間としては10時ぐらいにはもう起きている。ただ、起きても何もすることがないから、ベッドの中でぼ~っとしているのだ。
 だが、それも12時が限界だった。何もしてないのにお腹の虫がグーグー鳴っている。
 もしも、お腹が減っていなければ、彼女はきっと夕方まで一日中ベッドの中にいただろう。

 ベッドから降りたなのはは、パジャマからオレンジ色の上着とスカートという私服に着替える。
 パジャマのままでは部屋の外を出たときに少し肌寒いからだ。

 着替えたなのはは、ドア―――士郎が鍵の部分しか壊さなかったので簡単に修理できた―――を開けて外に出る。
 家の中は誰もいないかのように静だった。いや、正確にいえば、誰もいないようにではなく誰もいないのだ。

 トントントンと板張りの階段の冷たさを足で感じながらなのはは二階から一階に降りる。
 そして、予想した通り、一階には誰の姿もなかった。

 ―――今日はゴールデンウィークの一日目だというのに。

 だが、なのははそれを気にする様子もなくリビングへと歩みを進める。
 リビングのテーブルの上には一枚の紙とパンと逆さまに置かれたコップが。

『パンは焼いて食べてね。昼食は冷蔵庫に入れてあります。 お母さん』

 簡単な置手紙だった。

 時刻は、すでにお昼。母の桃子は、とっくの昔に翠屋へ行っている時間だ。
 父の士郎も翠屋だろうか、と考えて、今日からはゴールデンウィークだから士郎が監督をしているサッカーチームの練習をすると言っていただろうか。
 兄と姉は、昨日の夜に仲良く山篭りの準備をしていたから、今日からは山で思う存分剣術の練習をしていることだろう。

 もし、自分にお菓子作りの才能があったら、母は仕事場に連れて行ってくれただろうか。
 もし、自分が男の子だったらサッカーチームに入っていただろうか。
 もし、自分に姉のように剣術の才能があったら、兄や姉についていって山篭りをしていただろうか。

 そう考えて、なのはは思考をそれらの放棄した。
 それは未練だ。すべてを諦めておきながら未だに燻る希望。だが、それもすぐに消えてしまうだろう。なぜなら、なのははもう期待しないことにしたのだから。

 まだ焼かれていない食パンを冷蔵庫に入れ、代わりに昼食を取り出し、冷え切ってしまっているおかずと炊飯器の中にあったおかげで暖かいご飯を盛って朝食兼昼食を食べるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 午後からの予定は何もないなのはは、家から出た。
 別に家にいてもいい。だが、誰もいない家に一人残っているのは、一人ということを強調させるようで嫌だった。

 だが、それは家の外に出ても一緒だった。
 周りを見れば、ゴールデンウィークということで遊びに出る自分と同年代の少年少女。三人から五人のグループでどこかに遊びに行こうといっている。
 それを思わず目で追ってしまうなのは。その光景は、少し前までなのはが喉から手が出るほど望んだ光景だったから。今も羨ましいとは思う。だが、その光景が欲しいとは思わない。その光景を望まない。望んでも無駄だと諦めているから。あのときに思い知ったから、自分ごときがその光景を望むのは高望みが過ぎることを悟ったからだ。
 目で追ったグループを忘れ去るように目を逸らしたなのはは歩みを続ける。

 ――――どこに行こう?

 なのはの心情は迷う。



  ◇  ◇  ◇



 なのはは一人公園のブランコに乗っていた。
 ブランコの近くにある柵の向こう側に見える広場ではなのはと同年代の男女がサッカーボールで遊んでいた。
 なのはが見たことない人間が全員であることから、聖祥大付属小学校の生徒ではないのだろう。

 その光景を目に入れながら、一緒に遊んだような気分に浸った。
 しかし、それも一時間程度のことだ。なぜなら、気づいてしまったから。その気分から抜け出したときの更なる寂寥感に。
 結局、なのはは、すぐにその場から立ち去った。



  ◇  ◇  ◇



 なのはは、自分がいるべき場所、いてもいい場所を探して町中を歩き回ったが、そんな場所はどこにもなかった。
 どこにだって人がいて、どこにだって遊んでいる人たちがいて、一人である自分はそこにいる権利さえ失ったような気がした。
 街中を彷徨い、彷徨い、彷徨い、気がつけば、日が暮れかけている。夕刻だった。

「帰ろう」

 この日、初めて口にした言葉がそれだったことに後でなのはは気づいた。



  ◇  ◇  ◇



 家に帰ると、まず母親が夕飯の準備をしているのだろう。おいしそうな匂いがなのはの鼻をくすぐった。
 手を洗い、リビングへ入ると桃子がなのはの予想通り、夕飯の準備をしていた。

「あら、なのは、お帰りなさい」

「ただいま」

 そのままリビングにいようか、と思ったが、いても特に母と話すこともない。いや、むしろ話しかけられても困る。何もなのはには話すことがないのだから。だから、なのはは逃げるように自分の部屋へと戻った。



  ◇  ◇  ◇



 父親と母親となのはで晩御飯を食べて、テレビを見てお風呂に入って寝た。
 なのはの帰宅後の生活を記せばただそれだけだ。

 起きていても、特になにもすることがないなのはは、ベットに入って電気を消した真っ暗な部屋の中で半ば襲ってきた睡魔に身をゆだねる直前に思う。

 ―――ゴールデンウィークなんてなくなっちゃえばいいのに。

 全国の子供たちが休みを渇望している中、高町なのはだけは、その休みを否定した。
 なぜなら、彼女にはいくら連休が続いたところ何も意味を持たないからだ。

 ―――明日は、どうしよう?

 たぶん、何もしないんだろうな、と思いながらなのはは睡魔への抵抗をやめて、意識を手放した。

 そして、高町なのは己の予想通り、何もしないゴールデンウィークを過ごしたのだった。



 続く

あとがき
 裏をかいてみた。短くてすいません。



[15269] 第八話 外
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/20 22:39



 少なくとも上位30位以下60位以上の三十人で構成された第二学級の担任である彼女からしてみれば、高町なのはという少女は扱いやすい存在だった。
 騒いだり、他の子といさかいを起こしたりしない、授業中の問題にもきちんと答えてくれる物静かで人当たりのいい子というのが彼女の高町なのはに対する印象だった。

 だから、彼女が不登校になったと聞いたとき、何かの冗談だ、と一番思ったのは自分だと彼女は自負している。
 結局、彼女の両親まで来る事態になってしまったが、彼女にはなのはが登校拒否をする原因になんの心当たりもなかった。これは自信を持っていえる。

 少なくともこの学校は、私立の学校だ。風評がすべてといっても過言ではない。そのことは勤務暦十五年の彼女が一番分かっている。だから、この十五年生徒に目を光らせ、いじめなどがないように、あったとしても早いうちから芽を潰せるように努力してきたのだ。

 だから、不登校のことで彼女の両親が来たときには、ご自宅の問題じゃないですか? といいかけたほどだ。
 いや、実際、父親からのあの身も凍るような圧力がなければ、彼女は実際にそう口に出していただろう。彼女はその圧力に屈して、彼女の両親たちには、「こちらで調査してみます」としかいえなかったが。

 果たして、その後日、彼女が登校してきたときは、やっぱり家の問題だったのか、と思った。
 だが、その放課後、彼女は、隣の第一学級の担任から、高町なのはに対する奇妙な情報を手に入れた。

 曰く、彼女には親しい友人がいない。

 どうして、隣のクラスの担任、しかも、蔵元翔太という優秀な生徒にクラスを任せて本人は自分の学級に顔を出さないような教師からそんなことを教えられなければならないのか。
 そう思ったが、よくよく話を聴いてみると、どうやらその情報は蔵元翔太からもたらされたものらしい。

 そんなバカな、と彼女は思う。

 彼女が観察した限りでは、彼女と親しそうに話す人間は何人もいた。それを、親しい人間がいないなんてことがあるはずがない、と。
 そもそも、それがどうかしたというのだろうか。

 友人がいない。ならば、大人である教師から彼女と友達になってあげなさい、とクラスメイトたちに言うのだろうか。
 馬鹿馬鹿しい。それは友情でもなんでもない。大人という絶対強者から強要された友情になんの意味があるというのだろうか。
 たとえ、それで共に遊んだとしても普通の友情ではない。

 『遊んでやっているもの』と『遊んでもらっているもの』の上下関係が成り立つにすぎない。
 子供だからそんなことわからない、と軽んじるのは間違いだ。子供だからこそ、そんな小さな差異が分かる。分かるのではない、彼らはそんな小さなことだからこそ感じ取るのだ。

 だからこそ、彼女は高町なのはを傷つけられないように見守りはするが、友情を促したりはしない。
 それに加えて、彼女が出来ることといえば、せいぜい、友達の作り方を教えるだけだ。

 ああ、丁度いい。ゴールデンウィークに入る前に少しだけ教育しよう。ほんの少しの勇気で友人を作る方法を。
 確かに教え、育てることは自分の仕事なのだから。

 ゴールデンウィークに入る直前の平日。その日の第二学級の日誌の所見欄には一行だけ記された。


 高町なのは経過報告:異常なし。



  ◇  ◇  ◇



 パチパチパチと火が爆ぜる音がする。
 三日月というには少し太りすぎた月が浮かぶ夜。
 周りは深い森で囲まれた河の近くのテントが二つ張られた近くで二人の男女が燃える火を見ながら座っていた。

 一見すると恋人同士の語らいのように見えるが、彼らの腰にある二刀の小太刀それを否定していた。
 彼らの目的は恋人同士の語らいではない。互いをぶつけ合う剣術の修行だ。

 だが、その目的も今日は店じまい。後は眠るだけ、となった後に少しの反省会が終わり、今はその余韻を味わっているところだ。

「………なのは、友達できたかな?」

 唐突に女―――高町美由希が男に問う。

「さて、な。俺には分からない」

 パチパチパチと燃える焚き火に木を加えながら男―――高町恭也は答える。

 彼らが心配しているのは末妹の高町なのはのことだ。彼らの末妹である高町なのはは一時期外に出てこなかった。自分の部屋に閉じこもり、朝食や昼食、夕食のときでさえ出てこなかった。
 彼らも心配はしていたのだが、如何せん対処法が分からなかった。話しかけても答えが返ってこない以上、解決方法は何もなかった。
 何度も家族会議が持たれ、原因を探ったが、原因という原因は見つからず、原因が分からないからなんて理由で可愛い末妹を放っておくなんてことは彼らの選択肢にはなく、心労だけが溜まっていく日々だった。

 彼らに光明を与えたのは、なのはの同級生と名乗る蔵元翔太という男の子だったらしい。
 生憎、美由希と恭也は学校に行っていたため、彼と出会っていなかったため、両親から聞いたに過ぎない。

 彼曰く、なのはには友達がいないらしい。

 そのときの驚愕は筆舌しがたい。

 少なくとも彼らから見て、末妹は、友達が出来ないような性格じゃなかった。我侭も言わず、自分のことは出来るだけ自分でする少し大人びた可愛い末妹。自分たちを頼ってくれないのが少しだけ寂しかったが、それでも外に言えば自慢の妹だ。
 そんな妹に友達が一人もいないなんて家族の誰も想像できなかったに違いない。

 事実、父と母も言いづらそうに、信じられないとも言うようにそれを口にしたのだから。
 そして、さらに恐ろしいことにそれらが事実だったのが、また彼らを驚愕させた。

 彼らの父―――士郎が強行突破でなのはの部屋に突入し、抱きしめたら泣いたというのだから。
 彼らは妹の涙をその時、初めて見たといっても過言ではない。それほど、彼女が泣いた姿を見たことなかったのだから。

 なにはともあれ、その時以来、彼女が部屋に引きこもることはなくなった。しかし、彼女に友達が出来ないという問題は解決していないように思える。

「俺も……何かいいアドバイスができればいいんだが」

 恭也は己の口下手さと人生を半ば後悔した。
 剣術にまい進する毎日。剣術に人生を捧げてきたといっても過言ではない。
 それに、よくよく考えてみれば、自分も友人といえば、赤星勇吾と月村忍ぐらいしか思いつかない。
 しかも、勇吾は剣術における強敵と書いて『とも』と読むような仲だし、忍にいたってはなぜ友人なのか分からない。気がついたらという形だった。話によると一年生の頃からクラスメイトだったらしいが、少なくとも恭也の記憶にはない。

「う~ん、私もあんまり友達いないからなぁ」

 美由希も恭也と同じだ。人生の殆どを剣術に費やし、友人という友人はいない。せいぜい、思いつくのは、神咲那美ぐらいだが、これは友人と呼んでいいのやら。ただの類ともと言ってもいいだろう。お互い核心は話していないが、そんな空気をしている。

 彼らは、剣に人生を捧げてきた所為でなのはの友達がいなくて寂しいという気持ちも分からなければ、なのはに対する友達を作る際のアドバイスも出来なかった。

「俺たちは、なのはに降りかかる火の粉は払うことが出来る。どんな強大な敵からも護ると誓える」

「そうだね。御神の剣は護るための剣だもんね」

「だが、心は護れないとは……情けないことだ」

 本当に不甲斐ない。護るとは、身体だけでは構成されないというのに。すべてを護ってこそ、御神の剣士。だが、恭也にはそれが出来そうになかった。家族の心も護れなくて、誰の心が護れるというのだろうか。

「それは、私も同じだよ、恭ちゃん。だから、せめて片方だけは絶対護れるように強くなろう」

 ぐっ、と拳を握る美由希。それを珍しいものを見たように目を丸くして見つめる恭也。しばらく無言だったが、やがて恭也がくすっと笑い、口を開く。

「……まさか、美由希から諭される日が来ようとはな」

「もぉ~、恭ちゃん!」

「冗談だ。それに美由希がいうことももっともだ。明日からも厳しくいくぞ」

「げぇ~」

 嫌そうに美由希が顔をしかめた後、堪えられなくなったのか、美由希が笑い始めた。それにつられた珍しく恭也も笑う。
 それを夜空に浮かぶ三日月よりも少し太った月だけが見ていた。



  ◇  ◇  ◇



「なのははもう寝たの?」

「そうみたいだな」

 お風呂あがりなのだろう。タオルを頭に巻いた状態で桃子がリビングへやってきた。
 時刻は夜の10時。小学生が寝るには十分な時間帯だろう。
 答えた士郎は、テレビでサッカー中継を見ているようだが、意識は明らかにサッカーには向かっていないように思える。
 たぶん、考えていることは桃子と同じことだろう。

「なのはのこと?」

 ぴくん、と士郎が反応した。おそらくそうなのだろう。いつもは真剣に見ているサッカーでさえ上の空になるぐらいなのだから、よほど心配らしい。

「ああ」

 そう桃子の言うことを肯定すると、士郎は、テレビを消した。
 先ほどまではサッカーの実況が響いていたリビングは一瞬にして静寂に包まれた。

「なのはは、友達が出来たんだろうか?」

「分からないわ」

 そう、それは桃子も士郎も把握していなかった。当然、注意は払っている。
 だが、それでも限界がある。日中は誰もなのはに注意を払えない。
 なぜなら、残念なことも桃子も士郎も一般的には社会人だった。社会人には、当然のように責任がある。
 優先されるべきは心情的には家庭だが、立場的には社会なのだ。

 桃子でいうとパティシエという仕事。桃子一人がいなくなれば、当然他のスタッフの負担が大きくなる。何より、桃子のお菓子を食べにきてくれているお客さんに申し訳ない。
 ただでさえ、なのはが不登校になったときには連続で休みを貰ってしまったのだ。これ以上の苦労はかけられない。なにより、なのはは表向きはいつもどおりなのだから、心配だという理由でオーナーの妻が休めるわけがない。

 士郎は士郎で、サッカークラブの監督兼オーナーだ。もしも、これが、趣味の遊びならまだ家庭を優先しただろう。だが、月謝という形でお金を貰っている以上、お金を払っている親御さんたちに士郎は責任がある。だから、サッカークラブのほうを放置するわけにはいかない。

 だが、そんなものは建前だということを桃子も士郎も自覚していた。

「……どうすればいいんだろうな」

 結局、そこに行き着く。

 彼らには三人の子供がいる。恭也、美由希、なのはの三人だ。
 だが、恭也の幼年期は士郎が武者修行で連れていたため、育てたという感覚が薄い。美由希は、養子だ。しかも、なのはのようなことはなかった。
 実質、なのはが彼らにとってはじめての子育てと言っても過言ではない。
 だからこそ、分からない。こういうとき、どうしたらいいか。

 不登校になったときは、学校にいじめがあるんじゃないか、と思い、学校に赴いた。
 結果は、不発だったが。代わりに得られたのは蔵元翔太という男の子からの情報だけ。
 その情報が確かだということはなのはの態度からも察せられたが、だからこそ、事態が余計にややこしくなった。

 いじめが原因なら学校にまた赴けばよかった。その子供に指導してもらうなり、他の方法なりで決着がついたはずだ。
 だが、さすがに友達が出来ないから、なんとかしてください、なんて学校に訴えるなんて恥知らずな真似は出来ない。だからこそ迷う。

 どうしたらいいのか分からない。

 何より、本当になのはに友達がいないのか分からない。
 あのときの表情から、態度から、蔵元翔太の言葉が本当だということは分かったが、それ以降が昔のままの態度なのだから。

 物静かないい子。我侭も言わない、自分のことは自分でする。

 おそらく外に出せば十分自慢できる娘だろう。

 そう言い切れるだけに士郎と桃子としては、分からなかった。
 だからといって、友達は出来た? と藪を突くような真似もしたくない。
 仮にそれが真実だとすれば、それを突きつけることで、なのはの心を傷つけてしまうかもしれないから。

 なのはの心が知りたい。だが、知るためになのはの心に踏み込むことは躊躇してしまう。

 どうすればいいのか、士郎と桃子には分からなかった。

 娘のことだ、気楽には考えられない。だが、考えれば考えるほど思考の渦にはまり込んでしまうような気がする。
 もし、気落ちしているとかなら、こちらから聞くことも出来る。だが、表面上はいつもどおりなのだ。少なくとも士郎たちの前では。尚のこと手が出しにくい。

「今は見守りましょう」

「……情けないが、それしかない、か」

 本当に心の底から悔しいとは思う。だが、それ以外に士郎たちにはよい考えがないのだ。

 願わくば、彼女に心の底から友人と思える人が現れますように。
 見守ることとは他にそう願うことしかない自分がこの上なく口惜しかった。


 続く

 あとがき
 周りの状況が分からないような感想であふれていたので設定上書いてみた。周囲の人たちのなのはのスタンスです。

 担任教師→教師が友達を強要するのは違うでしょう? 自分でなんとかしてください。
 兄、姉→何とかしてやりたいけど、自分たちも友達いないから、どうしていいか分かりません。
 母、父→何とかしてやりたい、けど、なのはが分かりません。どうしたらいいの?

 家族はとにかくなのはが分からないというスタンスです。だから手が出せない。

 ちなみに、書いている途中で

 両親なのはのことで喧嘩→離婚→なのは、自分のせいと思い込む→BAD END

 というのを思いついた。
 士郎さんと桃子さん以外ならこのENDでもおかしくないと思う。



[15269] 第九話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/24 13:02



 時刻は、子供の寝静まった真夜中。高町家のリビングでは、末妹のなのはを除いた全員がリビングに揃っていた。

「それでは、第五十回高町家家族会議を始める」

 議長は、父親の高町士郎。書記は桃子だ。桃子の前にはB5のノートが広げられている。
 大体、週に一回開かれている高町家家族会議もこれで五十回目。議題は、もちろん、末妹の高町なのはについてだ。

 ゴールデンウィーク前は見守るという結論で落ち着いていたのだが、如何せんそれからなんの進展も見せない。もしも、なのはが自力で友人を作れればよかったのだが、その影も見られない。平日に帰ってくる時間は早いし、休日も外には出ているものの誰かと遊んできた気配もない。ただ、なのはの部屋の本は増えているような気がする。

 さすがに二週間も過ぎると、このまま座して待っているわけにはいかない、とまず父親の士郎と母親の桃子が立ち上がった。彼らがなのはに手を出せないのは、どうしていいのか分からないから。ならば、分かる人間に聞けばいい。簡単な結論だった。
 桃子の母親ネットワークも考えられたが、一度、母親たちに情報が流れるとそのネットワークを介して際限なく尾びれ背びれついて流れる可能性がある。それがなのはにとってプラスに働くか、マイナスに働くか桃子には判断できないため、そう簡単には聞くことはできなかった

 ならば、専門家に聞くしかないだろう。幸いなことに士郎のかつての仕事の関係上、病院関係にはつてが大量にある。そこから、心理カウンセラーを紹介してもらうことは比較的簡単だった。

 問題はここからだった。心理カウンセラーに相談するだけで問題が解決するようなら、世の中で引きこもりや不登校が問題になるはずがない。士郎や桃子が張本人でない以上、カウンセラーに出来ることは高町家に対するアドバイスだけだ。もっとも、高町夫妻にしてみれば、それだけでも十二分にありがたかったのだが。

 ひとまず、彼らは、カウンセラーのアドバイスどおりに計画を実行した。彼らの子供である恭也と美由希も巻き込んで。彼らもなのはの状況を心配していた様子で、もろ手を挙げて賛成してくれた。

 アドバイスの内容は比較的簡単だ。学校以外に同年代との交流を密にすること。もしかしたら、学校には気の合う、波長の合う人間がいないのかもしれない、という予想からだ。たとえ、自分の意見がいえないような内気な子供だとしても、案外数を当たれば波長の合う子が見つかる可能性がある。

 そのアドバイスをもとに高町家は地域の子供の参加が多そうなイベントごとに参加した。
 しかしながら、彼らは知らない。なのはが内気で自分の意見をいえないのではなく嫌われたくないがゆえに自分の意見が言えないのだ、と。それはたとえ、波長の合う子がいたとしても同じだ。
 そして、知らない子であればあるほどのその特徴は顕著に現れ、友人など出来なくなってしまう。たまになのはに興味をもって近づいてきた子供がいたとしても、なのはが何もいえないのを見るとすぐさま興味を失って去ってしまうのだ。
 それはいくつものイベントをこなした今でもそうだ。

 何度目かの失敗で再びカウンセラーの下を訪れたとき、彼は言う。

「もしかしたら、お子さんは、考えがまとまらず自分の考えを言うのに時間がかかっているのかもしれません。もし、そうなら、じっと彼女が意見を言うまで待ってくれるような子が友達になってくれればいいんでしょうが、小学二年生の子にそれを求めるのは酷でしょう。しかも、臆病な性格なら尚のことです。仮に彼女が何かを言うまで待ってくれたとしても、その考えを否定されれば、彼女はさらに臆病になってしまう」

 何か他に手はないのか、と問う士郎にカウンセラーは答える。

「直接、お子さんと話をしてカウンセリングするのもいいかもしれませんが、病院にお子さんを連れてくることはあまりお勧めしません。子供にとって病院は病気になったときに来るもので、恐怖の対象ですので。心の病気と告げられるとさらにショックを受けてしまう可能性も否定できないのです」

 何も感じず、カウンセリングすることも可能かもしれないが、どちらに転ぶかは連れてきてみないと分からないというのだからが悪い。もちろん、何も告げずに騙してカウンセリングを受けさせるという手も考えられたが、子供である以上、敏感に感じ取ってしまう危険性があるため、却下された。その手に関して、子供は大人よりも敏感だ。しかも、下手をすると両親への信頼度がガクンと減ってしまう。
 結局、一度、不登校という結果を目の当たりにしている二人は、連れてきて再度同じ状況になることを恐れて、病院にカウンセリングのために連れてくるという選択を取ることは出来なかった。

 そして、気がつけば季節はめぐり、また春。彼らが努力を続けてもう少しで一年が経とうとしていた。しかし、成果はゼロ。未だに彼女に友達が出来た気配はない。

「でも、クラスが変わったから、新しい子もいるんじゃない?」

「その可能性は高い」

 なのはのクラスは第二学級から変わることはなかった。なぜか、あの事件以来、理数系の教科は上がり、逆に文系教科は軒並み低下。平均すると前と同じぐらいになって、学級が変わることはなかった。だが、なのはがクラスを変わらなくても、第三学級から入ってきたり、逆に第一学級から入ってきたりして入れ替わり立ち変わりだ。そこにはなのはと関係のなかった新しい面々もいるだろう。美由希はそれに期待しているのだ。

「近々イベントもないし、新しいクラスに期待するしかないのか」

「そう、なる……か」

 恭也が結論を出し、士郎は口惜しそうにそう呟くしかなかった。だが、これは仕方ないことだ。

 年度初めというのはどこも忙しい。学校然り、仕事場然り。だから子供が関わるようなイベントが少ない。すぐ近くにゴールデンウィークが待っているのだ。少なくともそれまで目立ったイベントごとはなかった。ゆえに彼らは、新しいクラスでなのはに興味をもって、友人になってくれるのを期待するしかなかった。

 無力、と思いひしがれながらも彼らは足掻くしかなかった。愛する末妹のために。



  ◇  ◇  ◇



 そろそろ日が沈もうかという時間帯。なのはは一人屋上で佇んでいた。
 彼女の視界には、フェンスの向こう側に今にも沈もうか、という太陽の紅に照らされ真っ赤に染まった広大な海が見えていた。
 なのはがいる反対側のフェンスの向こう側からは、聖祥大付属小のグラウンドが見え、放課後ともなれば、男女混じってサッカーや野球に興じている姿が見えるだろう。一年前のなのはだったら、間違いなくそちらを羨望の目で見ていただろう。
 だが、もはやそんなことはなくなった。今は広大な海を見ているほうが、この胸にしくしくと痛む寂しさを埋められるから。自分という人間がちっぽけに思え、胸の寂しさもちっぽけなものだと思えるから。

 期待しないことと寂しいことは同価値ではない。期待しないからといって、寂しさがなくなるわけではない。むしろ、前よりも増したといっても過言ではない。いつか私もと期待してた頃なら、その想像で寂しさをある程度生めることは可能だっただろう。だが、今はもう期待していない。だからこそ、誰かが笑いながら遊んでいるところを見ると寂しくなる。もう叶わない理想の自分を見ているようで。もう諦めてしまった自分は、あそこに入ることはできないのだと分かるから。

 だから、なのはこの海が好きだった。
 大きすぎるから。小さな小さな自分を飲み込んでくれそうだから。

 諦めたその日から通っていた学校に行き場所がなくて、放課後もすぐに家に帰ったとしても自分の居場所がなくて、偶然屋上に来たとき、目の当たりにした広大な紅い海を見たときそう思った。そのときから、この時間の海はなのはのお気に入りだった。
 転落防止用のフェンスをガリッと握り、海を見つめるなのは。その脳裏に何が浮かんでいるかは分からない。ただ、一年前みたいに自分が誰かと遊んでいる姿ではないだろう。なぜなら、彼女はもうすべてを諦めてしまったのだから。

 やがて、日が暮れる。それは、この場に佇める時間の限界を意味している。もう少ししたら用務員の人が屋上の鍵をかけにやってくるだろう。下手に残っていて教師に見つかると色々と厄介なことになる。すべてを諦めたからといってどうでもいいや、と投げやりになっているわけではない。無気力ならば、学校にさえ来ていない。だが、なのははこうして休むことなく学校に来ている。それは、最後の足掻きなのか、むしろすべて諦めているから言いなりになっているのか、それはなのはにも分からなかった。

 なのははベンチに放り投げていた鞄を回収して屋上から去ろうとした。最後にその目に紅ではなく、すべてを飲み込んでしまいそうな黒になった海を見納めて。



  ◇  ◇  ◇



 帰宅したなのはは、いつものように晩御飯を食べ、お風呂に入り、寝るだけという時間になった。
 パジャマに着替え、後はベットにもぐりこむだけ、という瞬間、唐突に眩暈がなのはを襲う。それは、まるでマイクのハウリングを無理矢理聞かされたときのような感覚。しかも、頭の中に強制的に何かを刷り込まれるような感じだった。

 ―――僕の声が聞こえますか!? ―――

 声が聞こえた。聞こえたというよりも頭の中に直接響いたというほうが正解だろうか。聞いたことのない男の子のような声だった。

 ―――僕の声が聞こえるあなた。お願いです! 僕に力を……僕に少しでいいですから力を貸してください! ―――

 何か勝手なことを言っている。なのはは響いてくる声にそう思った。

 ―――お願いします! 時間……が―――

 ブツンとラジオの電源を急に切ったような感覚で声は途切れた。同時になのはの眩暈も治まる。だが、先ほどまでの眩暈がなのはに負担を与えたのだろうか。ぱたんとベットに倒れこんでしまった。

 ―――今の声はなんだったんだろう。

 なのはは考える。だが、思い当たる節がない。

 だが、もしも、なのはに思い当たる節があったとしても無視していただろう。

 なぜなら、彼女は自分が何も出来ないと知っているから。長年努力してきた。いい子であろうとしてきた。だが、失敗した。そして、一年前のあの日に己が望んだことをすべて諦め、いい子であろうとすることをやめた。
 いくつのもしもを望んだだろうか。いくつのもしもを達成しようと努力しただろうか。

 だが、そのすべてが実らなかった。もしも、そのうちのどれかでも実っていたとするならば、自分は何も諦めてなどいない。
 そして、そこから導ける結論は唯一つ。

 高町なのはは何も出来ない人間だ。

 彼女が憧れた蔵元翔太とはまったく逆の存在だ。
 彼は、何でも出来る人間。そして、自分は何も出来ない人間。

 二人を足して二で割れば、普通の人間になるのではないだろうか、そんなことを考えたこともあった。

 だが、彼を憎む気持ちはなかった。
 羨望はある。嫉妬はある。だが、何も出来ない不甲斐なさはすべてなのは自身へと向けられていた。もしも、彼を憎むことができたらなのはの心はもっと楽になっていただろう。

 もう、どうでもいいことだけどね。

 蔵元翔太は相変わらずなのはの中では憧れだ。そうなれたらよかったのに、とは思う。だが、そうなろうとすることは諦めた。羨望半分、嫉妬半分で彼を見ていた一年前までのなのははそこにはもうなかった。

 もう、寝てしまおう。明日からも学校だ。そう思い、ベットにもぐりこんで睡魔にすべてを任せようとしたとき、再びあのときの眩暈がなのはを襲った。

 ―――助けてくださいっ! お願いしますっ! ―――

 うるさいうるさいうるさい。助けて欲しかったのはこっちだ。

 なのはは、不法侵入のように頭に響く声に心の中で反論した。
 助けてくれ。それは、なのはが長年心の中で叫び続けた言葉だ。その言葉は結局、誰からも気づかれることはなく、もはや助けてもらうことは諦めてしまったが。
 その声は過去の自分を思い出させてしまう。まだ、諦めず、明日にはきっと、と明日を望んでいた自分を髣髴させる言葉だった。聞きたくない。

 だから、なのはは無駄だと分かっていても耳を押さえてその声を無視しようとした。

 はやく寝よう。寝てしまおう。寝てしまえば、この声はなくなるから。

 頭に響く『助けてください』という言葉の連続に耐えられなくなったなのはは、それを無視して眠りに就こうとして、次の瞬間に聞こえてきた声に目を覚まされることになる。

 ―――こちら聖祥大付属小学校三年生、蔵元翔太です。これが聞こえる人がいましたら、お願いします。僕たちを助けてください。―――

 最初はどんな冗談だ、と思った。

 助けを求めている。あの蔵元翔太が。何でもできる、あの彼が。
 なのはには、蔵元翔太が助けを求めている光景がとても想像できなかった。

 さらに言葉は続く。

 ―――信じられないかもしれませんが、僕たちは今、バケモノに追われています。魔法でしか倒すことができないのですが、僕には無理でした。お願いします。この魔法の念話が使えるあなたにしかバケモノを倒すことはできないのです。どうか僕たちを助けてください。―――

 その内容を理解するのになのはに少しの時間が必要だった。そして、繰り返される声の内容を理解したとき、なのはの腹の底からこみ上げてくるものがあった。

「あ、あは、あははははははは」

 なのはは声を上げて笑った。こんな風に声をあげて笑ったのはいつ振りだろうか。
 だが、久しぶりに笑える冗談だったのは確かだ。

 あの、あの蔵元翔太が、友達も、勉強も、日常生活も、全部、全部、なのはにとっての理想を体現したあの彼が、無理だったといった。お願いしますといった。あなたにしかできないといった。助けてくださいといった。

 友達も、勉強も、日常生活も、全部、全部なにもかも不可能だったなのはに向かって。
 なのはは、自分がにぃと笑っているのを自覚しながら、パジャマから私服に着替える。

 あの、あの蔵元翔太ができなかったことなのだ。もし、もしも、自分がそれをなしえたなら―――

 一年前に諦めた希望が少しだけ首をもたげた。同時に興味がわいた。
 あの蔵元翔太が無理だというものがどういうものか。それを見てみるのも一興だと思った。

 むろん、あの蔵元翔太が不可能だったことなのだ。もしかしたら、とても危険なことなのかもしれない。それを理解してなお、なのはは行くことを決めた。

 一年前、すべてを諦め、闇の中を彷徨い、どこをどう歩いていいのか分からないなのはにとって一筋の光になるかもしれないと、そう思えたから。



  ◇  ◇  ◇



 なのはは夜の道を走っていた。蔵元翔太に会うために。
 なんとなく場所は分かる。なぜ? と聞かれても分からない。なんとなくの方角が分かるのだから仕方ない。
 それは理解ではなく感覚。彼女は今、魔法というものを考えるのではなく感じていた。

 そして、その感覚が間違っていなければ、彼らはこの角を曲がった先にいるはずだ。
 その予想は当たり、角を曲がるとそこにいたのは一人の男の子、蔵元翔太と彼の肩に乗る見たことがない動物、そして―――


 ――――GYAAAAAAAAAAAAAAN


 真っ黒い見たこともないようなバケモノだった。


 続く

 あとがき
 今時の小学生ってどんな感じなんだろうと思って『こどものじかん』を読んでみた。
 なるほど、OK、理解した。こんな感じがリリカルなんだろうな。

 ルートを考えた結果:
 主人公魔力なし→ユーノ死亡→リリカルなのは 完
 ユーノのみ呼びかけ→なのは無視→主人公、ユーノ死亡→リリカルってなんですか? 完



[15269] 第九話 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/25 22:15



 春夏秋冬。たった四文字。だが、その四文字で一年が表せるのだ。
 実際は、そんな四文字で表せるほど単純なものではなかったが、それでも、四文字で表せるといっても過言ではないぐらい、僕にとっては一瞬の瞬きに近かった。
 一年生から二年生になったときも時の流れが早いと思い、理由を考えたものだ。一つの諸説について考えてみたが、こうしてまた一年経ってもう一つ諸説を思い出した。
 もう一つの諸説は、忙しすぎて一息をつく暇がないから、というものだったが、なるほど、こうして考えてみると的を射ているように思える。

 夏には、プールにキャンプに花火大会、縁日。
 秋には、運動会に写生大会。
 冬には、クリスマスにお正月に雪合戦。

 行事自体は、まったく一年生の頃と変わらないとはいえ、今度は二年生。二年生にもなれば、育ち盛りであるクラスメイトの体力も昨年よりもパワーアップし、さらに今度はお兄さん、お姉さんとして一年生の面倒も見ながら行事に参加しているのだ。もっとも、今年は幾人か、一年生の相手をしながら、年上ということに対して自覚を持ってくれた同級生もいたから、パワーアップした面々の分と自覚を持った面々の分を足し引きすると大変さは一年生と比べると五十歩百歩というところだ。

 もっとも、僕のクラスメイトに対する心労と行事に参加することへの体力は大変だったが、その行事自体は楽しんだから、文句は言えない。
 子供のような行事に僕のような人間が楽しめるのか、と問われれば、答えはイエスだ。子供と思えるようなことも意外と面白いと思える。
 男はいつまで経っても心に子供の部分を残しているというが、僕にも子供の部分が残っていたと考えるべきだろうか。

 そんなこんなで、気がつけば季節はめぐり春夏秋冬。あっ、という間に一巡りし、季節は再び春。通学路に桜が満開になり、さらに新しい年下を向かえた頃―――

 僕たちは、三年生に進学した。



  ◇  ◇  ◇



「……変な夢だな」

 僕の枕元でジリジリジリと激しく自己主張する目覚ましの頭を叩いて止め、僕は先ほどまで見ていた夢についての感想を呟いた。
 これほどまでにしっかりと覚えている夢というのは珍しい。
 一般的に、夢は記憶の整理といわれている。つまり、その日、あるいは昔に体験したこと、あるいは自分の願望をひっちゃかめっちゃかに映像として再生する。それが夢と呼ばれるものだ。その日見た夢で自分の心理状態さえ探れるらしい。
 だが、先ほどまでの夢は、一般的な夢と呼ばれるものとは異なるように思える。

 森の中で一人の男の子が異形の何かと戦う。

 これだけ言うとまるで御伽噺の一説だ。さらに、男の子がその異形に大勝利なら、本当に御伽噺の一説なのだろうが、夢では男の子は、異形に勝てず、その異形そのものを取り逃していた。

 ―――まあ、夢か。

 僕は先ほどまで見ていた夢をそう結論付けて気にしないことにした。夢など気にするものではない。
 しょせん、頭の中で処理されたイメージの残滓に過ぎないのだから。それよりも、今日もまた大変な日々が始まる。三年生に進級したからといって急に彼らが大人びるわけでもないのだから。さらに昨日のクラス替えじゃ、またクラスの半分ぐらいがごっそり入れ替わったことだし。

 そこまで考えて思った。

 ああ、なるほど、分かった。あの夢が示唆したものが。
 おそらく、男の子は僕で、異形の怪物は、新しくクラスメイトになった面々だろう。

 ―――なんてね。

 そんな下らないことを考えながら、僕はパジャマからまだ新学期が始まったばかりで汚れの目立たない制服へと着替えた。



  ◇  ◇  ◇



 時刻は昼休み。春の陽気と言っても過言ではない気温の中、気持ちいい春の日差しを浴びるために僕はアリサちゃんとすずかちゃんと一緒にお弁当を食べるために屋上に来ていた。ところで、僕が通っていた小学校は屋上に鍵がかけられていて立ち入り禁止だったものだが、聖祥大付属小学校は生徒に解放されているらしい。転落防止用のフェンスも完備されており、普通に弁当を食べたりする分には問題ないようである。

「将来の夢か」

 お弁当に入っていたミートボールを口に運びながら僕は先ほど先生が授業の先生が言っていたことを呟いていた。

 先ほどの授業は、社会だった。その中で先生が様々な職業を紹介し、次の授業までに各々が自分の好きな職業について調べるというものだった。そして、最後に先生が言った一言が僕の心に波紋を広げた。

 ――――将来なにになりたいか、今から考えるのもいいかもしれませんね。

 社会の先生の今日の授業の最後の言葉だ。
 聖祥大付属小学校は私立の小学校というだけあって、公立とは違って、担任の先生がすべての授業を行うわけではなく、一つの教科ごとに先生がついている。人は、おおよそ自分の知識の三割程度しか人には伝えられないそうだ。ならば、この方法は確かに効率がいいのだろう。

 ちなみに、今年も担任は一年生のときから変わっていない。

 さて、将来の夢か。僕は一体何がしたいのだろう?

「アリサちゃんたちは将来の夢って何か考えてる?」

 僕は、今日、一緒にお弁当を食べていたアリサちゃんとすずかちゃんに聞いてみる。

「う~ん、そうねぇ、あたしは、パパもママも会社の経営をやってるからたくさん勉強して後を継がないと」

「私は機械系が好きだから、工学部で勉強したいな」

 なるほど、とても小学生の答えではないが、納得である。

 もしも、これがアリサちゃんたち以外なら僕は絶句していただろう。なぜなら、アリサちゃんとすずかちゃんたち以外から出るとすれば、サッカー選手やプロ野球選手、お菓子屋さん、お嫁さんなどのファンシーのものだと予想するから。
 そんな中、彼女たちは規格外といっても過言ではない。明らかに周囲と比べて精神年齢が上だ。確かに女の子のほうが、男よりも精神年齢は高いといわれているが、それを考慮しても彼女たちはずば抜けているといっても過言ではない。
 そのせいで、周囲から浮いているような気がするが、彼女たちは周囲に合わせるだけのスキルを持っているので特に問題は起きていないようだ。

「そういうあんたはどうなのよ?」

「僕か―――」

 僕は自分の将来に思いを馳せてみる。

 なぜか奇妙なことに僕は二度目の人生を送っている。前世の僕は親に言われるままに、周囲に流されるように大学まで進学した。大学で選択した学部だって理系科目が少し得意で、パソコンに興味があった、程度で選択したようなものだ。きっと、僕は大学を卒業して適当な会社で働いて、家庭を作るんだろうな、という散漫とした光景しか思い浮かべていなかった。今は、どんな因果が働いたのか、こうしてもう一度、小学生をしているわけだが。

 さて、将来なんてものは、今まで考えたこともなかった。また前世のような進路を選ぶのだろうか。

「僕は何になれるんだろうね?」

「あんたなら何でもなれるんじゃない」

「ショウくんは学年一位だもんね」

 アリサちゃんとすずかちゃんは軽く返してくれる。

 学年一位、その言葉からふと考える。そう、僕は確かに今は学年一位だ。だが、その地位も高校生、いや、もしかしたら中学生までだろう。いくら、大学に行ったといっても、僕は天才ではない。

 十を聞いて十を理解すれば秀才。十を聞いて三を理解すれば凡人。一を聞いて十を理解すれば天才だ。

 ならば、今の僕は確かに天才だろう。一を聞いて十を知っているのだから。だが、僕の本質は天才にはほど遠い凡人だ。今は大学生の知識というチートを使っているに過ぎない。ならば、そのメッキが剥がれるのはいつだろうか? もっとも、僕だってもともとの知識に胡坐をかいているわけではない。確かに僕は凡人だ。だが、凡人でも、勉強の質と量さえ考えれば、成績はそれなりに取ることが可能なのだから。

「あ、そうだ。ショウなら、教師とかいいんじゃない?」

「そうだね。ショウくん、みんなをまとめるの上手だし」

「先生かぁ」

 人と機械。前世は今言われた職業。後者は、前世で関わっていたもの。両者はまったくの逆ベクトルである。この二年間の短い小学校生活で、先生という職業はご勘弁願いたいとは思っているが、人と関わる職業というのも面白いかもしれない。

「ぼちぼち考えるよ」

 ―――十年後、僕は一体どんな将来を描いているんだろうか。



  ◇  ◇  ◇



 そろそろ日が暮れようかという時間帯。太陽が水平線の向こう側に消えようという時間帯。俗に言う夕方に僕とアリサちゃん、すずかちゃんは近くの自然公園を抜けて僕たちが通う塾への道のりを歩いていた。
 最近は、アリサちゃんの車を使うことは少なくなった。おそらく、彼女の精神的な成長なのだろう。自立を望むといえばいいのだろうか。思春期の手前に見られることで、どちらかというと小学校の高学年ぐらいから見られる傾向なのだが、アリサちゃんの精神年齢の高さから考えると妥当なのかもしれない。
 そんな理由で僕たちは、徒歩で自然公園を抜けて塾へと向かっていた。

 適当な話題を振りながら僕たちは自然公園を歩く。途中で、犬に吼えられていたが、アリサちゃんが英語で威嚇するとすぐに静かになっていた。犬には英語が通じるのだろうか。

 それは、ともかく、このまままっすぐ行けばあと二十分もあれば、自然公園を抜けられるというところでアリサちゃんが何故かわき道へと進路を変えていた。

「あれ? こっちだよね」

「こっちのほうが近道なのよっ!」

 なにが嬉しいのか、笑いながら言うアリサちゃん。どうやら彼女の中でこの道へ行くことは決まっていることらしい。
 なるほど、確かに子供はこういう隠れた道が好きだ。大人から見れば非効率。ただ疲れるような道も、近いからという理由だけで行こうとする。少し前に精神年齢が高いと思ったのは気のせいだったのだろうか。

 僕は、隣でどうする? と問いかけるように微笑んでいるすずかちゃんにふっ、と力を抜いた笑みを浮かべる笑みで答えた。
 たぶん、僕たち二人の笑みはありありと「仕方ないな」という言葉が浮かんでいたことだろう。おそらく、アリサちゃんに見られたら、怒られるに違いない。

「ちょっと! なにやってるのよっ!! 早く来なさいっ!!」

 どうやら、僕たちは笑みを見られなくても怒られ運命だったようだ。

 さて、アリサちゃんに追いついて僕たちはわき道を歩き始めた。
 歩いてみて分かったが、整備されているにも関わらず、この道が使われない理由がよくわかる。周りは木々で囲まれており、夕方だというのに薄暗い。それが夕日の紅と重なって実に薄気味悪い雰囲気を醸し出している。

 しかし、この道どこかで見たことがあるような気がするんだけど……気のせいだろうか。

 いわゆる既視感というやつである。だが、僕の記憶が確かなら、この道を歩くのは初めてであり、決して過去に歩いた記憶はない。だが、どこかでこの景色を見たことがあるような……?
 なんだか、頭に残る違和感。最近は特に感じたことはなかったのだが、そう、あれは、アリサちゃんや忍さん、高町さんのお父さんやお母さんを見たときに似ている。つまり、僕のうろ覚えである『とらいあんぐるハート3』の断片を覗き込んだときだ。

 まさか、この場所も『とらいあんぐるハート3』に関係あるのか?

「どうかしたの? さっきからぼ~っとして」

 どうやら、思考に没頭してしまったらしい。もはや、『とらいあんぐるハート3』に関しては、霞がかかった記憶しかない故にこうして考えるときは、周りが気にならないほどに思考の奥深くにいかなければならない。それは確かにアリサちゃんからしてみれば、ぼ~っとしているように見えたのだろう。

「あ、いや、なんでもないよ」

「大丈夫? 風邪とかだったら無理しないほうがいいよ」

「そうそう、あんたなら一日ぐらい休んでも問題ないでしょうし」

「いや、本当に大丈夫だから。それよりも、早く―――」

 行こう、と続けようとして、僕の言葉は途中で止まってしまった。なぜなら、唐突に僕の頭に声が響いたからだ。たすけて、というか細い声が。

「どうしたのよ、ショウ? 本当に変よ」

「……今、声が聞こえなかった? 助けてって声が」

 僕の問いにアリサちゃんとすずかちゃんは顔を見合わせるが、何をいってるんだろう? と明らかに疑問に思う表情が浮かんでいるということは彼女たちは聞こえていないだろうか。

「別に……」

「何も聞こえなかったかな」

「そう……」

 この場に三人もいて、たすけて、という声は僕にしか聞こえなかった。ならば、これは僕の気のせいと断じるべきだろうか。もしも、聞こえた声が切実に救助を求める声でなかったら、僕は早々に気のせいということにしてこの場を立ち去っていただろう。だが、もしも、ここで無視して後日、新聞にこの公園で変死体発見、なんて記事が載ったら後味が悪すぎる。

 しかし、僕だけ聞こえるなんて偶然が―――っ!?

 とか、思っていたら今度は二度目。しかも、今度は、一度目よりもはっきり聞こえた。

「ほら、もう一回、助けてって」

「……何も聞こえなかったわよ」

 呆れたような顔をして僕のほうを見てくるアリサちゃん。その表情にはありありとあんた頭大丈夫? と言いたげな表情が浮かんでいる。

「ねえ、ショウくん本当に大丈夫? お家に帰ったほうがいいんじゃ」

 アリサちゃんはともかく、まさかすずかちゃんにまで言われるとは思わなかった。しかし、本当に聞こえていないとなると、一体どういうことだろうか。二度目は一度目の掠れたような声ではなく、はっきりと『助けて』と聞こえた。さすがにこれをアリサちゃんたちが聞き逃したとは思えない。つまり、立てられる仮説は、僕には聞こえたが、アリサちゃんたちには聞こえなかった。

 さて、そんな偶然がありえるだろうか。離れているなら分かる。だが、僕たちは並んで歩いていたのだ。しかも、アリサちゃんとすずかちゃんの間に僕が入るように。ならば、僕だけ聞こえたというのはおかしな話だ。そう、人知を超えた現象でもなければ。

 人知を超えた存在。それで僕はピンときた。

「……なるほど、幽霊か」

「え?」

「は?」

 僕の出した結論に二人とも呆れたような驚いたような声を上げた。

 だが、僕はあながち間違っているとは思えない。なぜなら、幽霊のような超常現象を肯定するような存在が、今、まさしくここに存在しているのだから。輪廻転生と呼ぶしかない僕が存在しているのだ。ならば、幽霊が存在したところでおかしい話ではないだろう。特にここの雰囲気は幽霊が出るにはぴったりの雰囲気で、時刻は現世と幽世が重なる逢魔時だ。これ以上の状況はない。なにより、彼女たちに聞こえず僕には聞こえるという状況から考えても、何らかの超常現象が働いていると見て間違いないだろう。

「あ、あああ、あんたなに言ってるのよっ! 幽霊なんているはずないじゃないっ!」

 アリサちゃんが明らかに震えた声で僕の言葉を必死に否定している。もしかして、こういった話は苦手だったのだろうか。それなら悪いことをしてしまった。
 それじゃ、すずかちゃんはどうだろう? と白い肌をさらに白くしているアリサちゃんからすずかちゃんに視線を移すとどこか浮かない顔をしていた。

「すずかちゃん? もしかして、すずかちゃんも幽霊とか苦手?」

「ちょっと! 『も』ってなによ!? 『も』って! あたしは全然へいきなんだからねっ!!」

 アリサちゃんが横で喚いているような気がするが、とりあえず、今はすずかちゃんを優先する。だが、すずかちゃんはすぐに僕に気づいたようで、はっ、と顔を上げるといつもの笑みを浮かべてくれた。

「ううん、なんでもないよ。急にショウくんが幽霊とかいうからびっくりしただけ」

「なら、いいんだけど」

 しかし、どうしたものだろうか。おそらく、幽霊というのはあながち間違いではない。僕しか声が聞こえず、アリサちゃんたちには聞こえないという超常現象なのだから。
 ここで、僕たちが取れる道は二つだろう。

「どうする? 進む? 戻る?」

 たぶん、声のした方角から考えるにこのまままっすぐ進めば、その現象に出会うことになるだろう。僕としては、好奇心から進んでみたい気持ちもあるのだが、怖いという気持ちも当然ある。
 僕が一人だけなら、おそらく好奇心が勝って進んだだろう。だが、ここにいるのは、僕だけではない。アリサちゃんとすずかちゃんもいるのだ。僕のわがままで彼女たちの恐怖心を無視するわけにもいかない。

 だが、その心遣いが挑発に見えたのだろうか。

「進むわよっ! 幽霊なんて絶対いないんだからっ!!」

 アリサちゃんが、半ばムキになってしまった。これには苦笑せざるをえないが、すずかちゃんはどうだろうか? と顔を見ると、「仕方ないなあ、アリサちゃんは」という顔をしていたが、反対はしていないようだった。おそらく、彼女も興味自体はあるのだろう。これで、意思の統一はできた。

「それじゃ、行こうか」

 僕は歩き出し、アリサちゃんとすずかちゃんが後からついてくる。ちらっ、と後ろを横目で確認すると、アリサちゃんが、すずかちゃんの腕に自分の腕を絡ませて、ぴったりくっついていた。

 怖いなら、大人しく引き返すといえばいいのに。

 もっとも、それがいえないからアリサちゃんなのだろうが。

 さて、しばらく無言で歩き続ける。時折、カサッと風で木々が揺れると後ろのアリサちゃんが「ひっ」と悲鳴を押し殺すような声を上げていた。意地っ張りもここまで来ると立派なものだと関心する。
 しかし、いつまで経っても僕たちはあの声の主に出会うことはなかった。幽霊らしき姿も見えない。いや、そもそも幽霊は姿が見えなくて、声しか聞こえないという可能性もあるのだが、あの声も聞こえなくなった。もしかして、あれは気のせいだったのだろうか。

「……け、結構進んだわよね」

「そうだね」

「なにもないわよね」

「ないね」

 確認するようにアリサちゃんが一言問いかけてくる。すべてが事実だ。もう少し進めば、この森を抜けてしまうだろう。
 もしかしたら、本当に気のせいだったのかもしれない。

「もう少しで抜けるわよ。ほら、やっぱり幽霊なんて――「あっ!」――きゃっ! なに!? なによっ!?」

 いなかった、アリサちゃんがそう告げ終わる前に僕はあるものを発見してしまった。
 もしも、これが幽霊だったら、声を上げることなんてなかったのだろうが、生憎ながら、見つけたのは幽霊ではなかった。
 見つけたのはきちんと実体を持った生き物だった。後ろでアリサちゃんが混乱してすずかちゃんにしがみついているが、その相手はすずかちゃんに任せるとして、僕は、その見つけた生き物に駆け寄った。

「……怪我してる」

 ぱっと見た感じ、薄汚れているようにしか見えないが、所々細かい怪我をしており、血を流している。しかし、見たことのない動物だ。といっても、僕には細かい動物の種類が分かるほど動物に関する知識が豊富ではない。せいぜい分かるのは猫でも、犬でもなくイタチ系の動物であることぐらいだ。

 しかし、ピクリとも動かないが、こいつは生きているのだろうか。そう疑問に思い、持ち上げてみると、まだ温もりを持っていた。微妙にドクンドクンという心臓の鼓動も掌で感じることが出来る。だが、かなり衰弱していることは間違いない。こうして僕が持ち上げても目を開けないのだから。

 ……もしかして、こいつが僕に助けを求めたのだろうか。

「どうしたの?」

「なによ?」

 ようやく、アリサちゃんをなだめたのか、僕に駆け寄ってくる二人。何かを拾ったところまでは分かったのだろう。だが、それが何かは知らない。だから、僕は、抱いているイタチ(?)を二人に見せた。

「えっ!? なに? 生きてるの?」

「怪我してる……」

「早く動物病院に連れて行ったほうが正解かな。ねえ、携帯で近くの動物病院を調べてくれる」

 はたしてイタチ(?)を見てくれるかどうかは分からないが、素人の僕たちよりもよっぽど面倒を見てくれるだろう。
 あたふたと携帯を開いて、カチカチと動物病院を調べている二人を確認して、イタチを調べてみる。

 毛並みはいいようだ。野生だろうか。しかし、こんなところでイタチが生息しているなんて聞いたことがない。まあ、自然公園だから不思議ではないのだろうが。ん? この宝石は……。

 よくよく調べてみると、イタチの首からは赤い宝石がぶら下がっていた。明らかに人の手によるものだ。だとすれば、こいつは、誰かのペットと考えるのが妥当だろう。

「ショウ! 見つかったわよっ!!」

「うん、わかった」

 なにはともあれ、衰弱しているこいつを連れて行くのが先だと判断した僕たちは、森を抜けてイタチを動物病院へと運ぶのだった。

 続く

あとがき
 主人公はオカルトを信じるタイプです。(己が超常現象なので)



[15269] 第九話 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/01/31 22:24



 幸いにして動物病院は公園のすぐ近くにあったようだ。
 今は、携帯電話に搭載されたGPS機能ですぐに自分の場所と行きたい場所が分かるのだから至極便利になったものだと思う。
 近くの動物病院の名前は槙原動物病院。僕たちは、そこにイタチのような動物を連れ込んだ。

 さらに幸いなことに診察の待ちの患者さんの姿はなく、僕たちが抱えているイタチ(?)を見てすぐに診察してくれた。
 診察の結果、衰弱こそ激しいものの怪我自体は大したものではないらしい。

 その診察結果を聞いて僕たちはほっ、と安堵の息を吐いた。
 これで、もしも、もう手遅れです、なんて言われたら数日は必ずネガティブな状態が続いてしまっていただろう。
 何はともあれ、イタチ君が軽い怪我だったことは喜ぶべき結果だろう。

 診察自体はすでに終わって、これからのことになった。

 そういえば、イタチが倒れて、酷く衰弱していたから、動揺して思わずつれてきてしまって、全然後のことを考えていなかった。
 これが無責任の結果ということだろうか。拾ったところで飼えるかどうか分からないイタチを拾ってしまった。ならば、衰弱しているイタチをその場に放置したほうが正解とでもいうのだろうか。いや、それは違うような気がした。確かに無責任に拾って病院に連れてきたことは拙かったかもしれないが、この行為が間違いだとは思わない。

 さて、連れてきた行為の良し悪しは後で考えるとして現実的なその後だ。
 とりあえず、衰弱が激しいので、この病院で一日預かるような形になるらしい。一日もすれば元気になるらしいが、その際、誰が引き取るか考えて欲しいとのことだ。

 僕たちは一瞬、顔を見合わせて困った顔をしたが、はい、といわざるを得なかった。それが連れてきた僕たちの責任というやつだろう。
 そして、イタチを連れてきた僕たちのもう一つの責任は―――

 僕は、塾の時間を思い出したアリサちゃんたちに急かさせるように動物病院を出たが、その直後、アリサちゃんには先に行くように言って僕は病院の中に引き返した。

「あの」

「あら? さっきの子じゃない。どうしたの? 忘れ物?」

 僕は先生の言葉に首を左右に振ると用件を切り出した。

「お金、お幾らぐらいになりそうですか?」

 そう、お金だ。

 病院は慈善事業ではない。薬にしても包帯にしても診察にしてもお金がかかっているのだ。しかも、動物に対しては保健がきかない。最近は動物に対する保健もあるようだが、当然拾ってきたイタチにそんなものがあるはずがない。つまり、ここで僕が払わなければ、この動物病院に対する収入が一つ減るのだ。子供だからといって、いや、子供だからこそ容赦するべきではないと僕は思うのだが―――

「そんなこと心配しなくてもいいのよ」

 槙原動物病院の先生は膝を曲げ、僕に目線を合わせて優しい声で言ってくれる。誰もが甘えそうな優しい声。この声で動物たちを診ているのだろうか。だとすれば、動物が大人しく診察されるのも、なるほどと納得できる。

「君がしたことはとても尊いことなの。その気持ちを忘れないで。それが私にとって一番の報酬なんだから」

 そういって、僕の頭を撫でてくれる。

 先生の言葉を綺麗ごとだ、と断じるのは簡単なことだろう。確かに僕が動物を拾って病院まで運んで来たことは尊いことかもしれない。だが、それで彼女はご飯が食べられるわけではないのだ。イタチを助けた薬や包帯に使ったお金が降ってくるわけでもないのだ。

 現実的にいうなら、僕はお金を親父か母さんからお金を借りてでも払うべきなのだろう。だが、そんなことは言えなかった。先生の優しい笑みと声に騙されたと言えばそうなのかもしれないが、これ以上何かを言うことは駄々をこねている子供のようで。彼女の優しさを無駄にしているようで。

 だから、僕は、「はい」と素直に頷くことしかできなかった。

 しかしながら、彼女の目的が「生き物を助ける心を持つこと」とすれば、これ以上の教育はないだろう。僕が仮に真っ当な小学生だったなら、いや、その仮定は無駄だろう。今の僕でも立派に思っているのだから。

 次も動物や人を見たら絶対に助けよう、と。

 その後、僕は思い出したようにアリサちゃんの後を追ったのだが、どうやら先生と話していた時間が長かったらしい。塾には遅刻してしまったのだった。


  ◇  ◇  ◇



 塾も終わり、時刻は夜。晩御飯もすでに食べ終わり、後は学校と塾の宿題をやって、少し自分を時間を使って、寝るだけという時間だ。
 僕は、学校の宿題である計算ドリルを殆ど間もなく次々と解いていく傍らで、塾でのノートを使った会話を思い出していた。
 当然、あのイタチ(?)のことである。明日、誰が連れて帰るか、という問題である。

 アリサちゃんの家は、犬が大量にいるので無理。週に最低一回は英会話教室のために通っているので僕も知っている。あの大型犬がいるなかにイタチ君はきついだろう。いつ、彼らの胃袋の中となるか分からない。

 すずかちゃんの家も問題ありだ。アリサちゃんの家が犬なら、すずかちゃんの家は猫だ。しかも、大量の猫。さて、あの大きさなら少し大きなネズミとして追いかけ回されてもおかしくない。

 さて、最後に僕の家。あまり問題がないように思えるが、最大の問題がある。秋人のことである。最近は一歳と半年。最近はどこでもここでも這いずり回っている。少し目を離せば、姿が消えているのだから家族みんなで心配の嵐である。もっとも、僕のように新聞と睨めっこしているわけではないので至って健全な子供である。

 さて、イタチをどうするか、結局、結論が出ることはなかった。
 飼い主を探すか、あるいは誰かが妥協して飼うかは別として、何かしらの対処を考えなければならない。

 いや、待てよ。あのイタチ、小さな宝石を首から下げていたような。そう、それで僕はペットだと思ったんだ。なら、もしかして、本当の飼い主が別に―――っ!?

 いるのか? と思考をめぐらしたところで、突然、頭の中に割り入るように聞こえる声。しかも、聞き覚えがある声だ。そう、忘れもしない塾に行くとき、イタチを見つける前に聞いた声にそっくりだった。その声は塾の帰りと変わらず、助けを求めていた。

 ―――僕の声が聞こえるあなた。お願いです! 僕に力を……僕に少しでいいですから力を貸してください! ―――

 力を貸してください、といわれても困る。この身はただの小学生。多少、普通の小学生よりも知識があるだけの人間に過ぎない。財力があるわけでも、腕力があるわけでもない。助けを求められても何ができるというわけでもない。

 ―――お願いします! 時間……が―――

 ブツンと突然、頭に入ってきた声は、始まりが唐突であれば、終わりも唐突である、といわんばかりに話の途中でバッテリーが切れた電話のようにプツンと切れてしまった。

 さて、最後まで助けを求めていた声であるが、どうしたものか。

 当然、ここで僕が助けに行く義理はない。この声の正体は確かに気になるものの、一晩寝てしまってもう一度声が聞こえることがなければ、数年後に怪談話として思い出せるぐらいだろう。

 そもそも、僕が昼間予想したように幽霊だとすれば、この声はもう助けとと助けを請うものの、もう助けられる状況にない。確か、僕が読んだ限りでは死ぬ間際の無念で地上に縛られる幽霊のことを自縛霊といっただろうか。その類であろう。
 ならば、僕が声の主を見つけたとしても助ける術は既になく、この年になって仮に霊感に目覚めていたとしても、漫画のように突然霊力の使い方に目覚めるはずもないので僕では何の役にも立たない。

 そう、冷静に考えれば、ここで僕が「助けて」と請う声に応える義理は何所にもなく、このまま宿題を終え、昨日読みかけの本を読み、就寝するのが一番であると理性の部分は訴えている。

 だが、だがしかし、夕方の先生の優しい声と笑顔がどこかで再生される。

 ―――君がしたことはとても尊いことなの。その気持ちを忘れないで。それが私にとって一番の報酬なんだから。

 あのときの気持ちを「助けて」という声に誘発されて思い出してしまった。
 どうやら、僕はこのまま布団の中に入ったとしても、この声が気になって眠ることはできなくなってしまったらしい。

 もしかしたら、僕と同じように超常現象の類で、超能力者がテレパシーとか使って助けを求めているかもしれないから。その彼が次の日の朝刊に載っていたら気分が悪いから。動物病院の先生の笑顔を裏切ったような罪悪感に悩まされたくないから。

 一瞬で浮かぶ、かなり無理矢理な理由。だが、そんなこじつけの理由でもなければ、僕は夜の街に繰り出そうとは思わなかっただろう。

 僕は、弟の秋人の世話でてんてこ舞いになっている両親に外出する旨を告げ、薄暗い夜の町に飛び出した。



  ◇  ◇  ◇



 僕は夜の街を走る、走る、走る。
 昼間の人通りが多い時間とは違って、住宅街であるこの近辺は夜になると人通りが殆どなかった。その恐怖を紛らわせるためか、助けてという声に心が急かされているのか、走っていた。

 しかしながら、僕は一体どこに向かって走っているのだろう。
 放課後や休日のサッカーや野球で運動をしているといっても遊びのレベル。そこら辺の小学生よりも体力はあるだろうが、ずっと街中を走れるほどの体力を持っているわけではない。はっはっ、と肩で息をしながら、僕は走っている。声がしたであろう方角に向かって。

 むろん、聞こえてきたのは頭の中であり、声の方角が正確にわかったわけではない。今、僕は確実に勘だけで走っている。女の勘は鋭いと聞いたことはあるが、男の勘も鋭いのだろうか。いやいや、しかしながら、ありえない声が聞こえる僕だ。超能力者やそれに匹敵するだけの勘があっても変な話ではない。

 とにかく、僕は何かに突き動かされるように走っていた。

 そして、たどり着いたのは――――

「槙原動物病院? ―――っ!?」

 なぜここなんだ? と疑問に思っていると、突然不思議な耳鳴りに襲われた。まるで黒板を爪で引っかいたような生理的に嫌悪感を感じさせる音。そして、その音が聞こえた刹那、時が止まった。
 いや、そう形容するのはおかしな話である。時は不可逆で、止まることなど決してありえないのだから。だが、そう形容するしかなかった。
 まず、自然の音が消えた。いくら人通りが少ないといっても車通りがまったくないわけではない。つまり、車の排気音、家庭から聞こえてくる音、庭先の犬が吼える音、野良猫が威嚇しあう音。街中に出るだけで普通は音にあふれている。それらが一斉に止まった。まるで、時間を止めたように。

 ―――どうなってるんだ?

 さすがに自分自身が輪廻転生という不可思議な現象を体験しているとはいえ、この状況に追い込まれれば焦りもする。もしかしたら、僕はとんでもないことに首を突っ込んでしまったのでは? と思っていると、唐突に訪れた静寂を切り裂くようなこれまた突然の爆発音。

「……今度は一体何が起きたんだ?」

 幸いにして僕が超常現象で慌てる時間は短かった。この状況に慣れてくれば、大体のことは許容範囲内だ。
 そして、音がした病院の敷地内を覗いてみると、そこには折れた木と木の上に立っている昼間のイタチと折れた木の下敷きになっている得体の知れない真っ黒い何か。

 ―――なんなんだ? あれは。

 僕は知らず知らずのうちにそれに恐怖を抱いていた。
 蔵元翔太という人間に残っている本能が警告を鳴らしていたのかもしれない。黒い何かが持つ得体の知れない強大な力を。
 僕が得体の知れない何かの持っている力に戦いていると、まるでそれを無視したかのように首から下げた赤い宝石を揺らしながら僕に飛び込んでくるイタチ。突然のことに僕はイタチを反射的に受け取ってしまった。

「ありがとうございます。来てくれたんですね」

 そして、そのイタチは礼を述べた。

「……助けてください、って言われたら来ないわけにはいかないからね」

 もう、この程度では驚かない。今更、イタチがしゃべったところで驚く理由はない。
 それよりも、再起動した思考が問題だった。僕の本能は間違いなくあの黒い何かから逃げることを推奨している。ちなみに、理性も全会一致で逃走案を可決している。

「とりあえず、何か言いたいこともあるだろうが、逃げながらでいいかな?」

 もちろん、返事など聞いていない。なぜなら、下敷きになってもがいていた黒い何かは、僕を十人足しても足りないであろう重量の木を下から持ち上げて立ち上がろうとしていたのだから。
 僕は、イタチの返事を聞くことなく、一目散にその場から逃げ出した。



 ◇  ◇  ◇



 逃げながら聞いた話では、どうやら彼(?)は、何かを探してこの町に来た異世界人らしい。宇宙人とは違うのだろうか、と思ったが尋ねるような余裕はない。しかし、その探し物は、彼自身の力だけでは集めることができず、夕方や今のように助けを求めていたらしい。
 もしかして、集められる目算もなくきたのだろうか。いや、それよりも、誰かの助けを借りないと見つけられない探し物ってなんだろうか。人海戦術なら分かる。だが、あの得体の知れない何かを見た後では、そんなことは言えない。話の流れから明らかに彼があの得体の知れない何かに勝ることができなかったとわかるから。

「つまり、君はあれに勝る力を持つ誰かを探していた、ということかな?」

「そうです」

 いとも簡単に言ってくれる。だとすれば、完全に僕ははずれだ。確かに、輪廻転生という超常現象と体験したという意味では常人とは異なるかもしれないが、あの得体の知れない何かに勝るような力を持っているわけではない。いわゆるサイキッカーやパイロキネシスならまだしも、僕はただの知識が同年代よりも多いただの小学生だ。あるいは、戦国時代の軍師のように知略で勝てとでもいうのだろうか。

「残念ながら、当てが外れたようだね。僕は、何の力も持たない小学生だよ。君の期待に応えることはできない」

「いえ、そんなことはないはずです。僕の声に応えてくれた貴方には力があります。魔法の力が」

 もう驚かないと思っていたが、その考えはいともあっさりと覆された。

 ―――魔法の力。

 魔法。それは、御伽噺の中でしか使われない言葉。もしも、自由にこんなことができたらいいのに、という人々の願望によって生まれた妄想の産物。現代で魔法が使えますと言おうものなら、笑いものになるか、本気で心配されるかのどちらかだろう。
 だが、僕には一笑することができなかった。輪廻転生という超常現象を体験している僕としては。

「でも、残念ながら僕にそんな力があったとしても、今すぐに使いこなせるわけがないよ」

 そう、いくら力があっても使い方が分からなければ宝の持ち腐れだ。
 電気にしても、家電製品の類がなければ、ただのそこに存在するだけのエネルギーに過ぎないのだから。

「ええ、分かっています。だから―――」

 彼が、その次の言葉を紡ぐことはできなかった。
 なぜなら、唐突に気配を感じたから。足音を聞いたとかそんなものではない。なんとなく感じたのだ。ただの男の勘だ。だが、その勘を否定することはできなかった。

 自分の上空に気配を感じて反射的にその場の地面を強く蹴って、道路の真ん中から端っこにイタチの彼を抱きかかえながら、転がるように移動する。我ながら奇跡的な反応に近いと思った。もう一度やれといわれても無理だろう。
 そして、その刹那、先ほどまで僕が立っていた場所にはあの黒い得体の知れない何かが道路のアスファルトを抉って埋まっていた。

 ―――なんて馬鹿げた力。

 一体、アスファルトを抉るなんて芸当がどうやったらできるのだろうか。道路の工事といえば、ドリルのような掘削機をつかってようやく削れる程度。それを一瞬で抉るのだ。そこに秘められた力がいかほどのものか、僕の頭では計算することはできない。ただ、生身の人間が相対すればすぐさまミンチになるような力であることは理解できた。おそらく、あと一瞬、遅ければ、僕はあの抉れたアスファルトの下でミンチになっていただろう。

 それを想像すると今更のように恐怖が腹の底から這い出していた。

「無理だろ。あれに勝る力なんて……」

「そんなことはありません! 貴方の持つ魔法の力とこのレイジングハートがあれば」

 そういって、イタチくんは、首に下げていた宝石を器用にくわえて僕に渡してきた。小さな丸い宝石。だが、不思議と鼓動していて生きているようにも思える。

 今度は鉱物生命体か……?

 だが、答えは違った。デバイスといわれる魔法を使うための魔力を制御する道具らしい。つまり、これを使えば、お手軽簡単に魔法使いになれるということだ。

 だが――――

「やっぱり、無理だよ」

「どうしてですか!?」

 実に慌てたようにイタチくんが聞いてくる。だが、聞かずとも分かるものだろう。僕は、今まで平凡な小学生をやってきたのだ。前世にしても平凡な学生までしか経験していない。戦うといっても子供の喧嘩程度だ。それは戦いとも呼べないものだ。
 そんな僕に急にあの得体の知れない何かと戦ってくださいといわれても無理な話だ。そう、たとえ魔法という名の武器を与えられたとしても、だ。それは、戦場で有名なデザートイーグルを一丁渡されて、さあ、戦って来いといわれているに等しい。そんなことで戦えるはずがない。

 それを告げると、イタチくんは何かを決意したような顔になった。

「―――分かりました。無理を言ってごめんなさい」

「いや、こちらこそ申し訳ない。何もできなくて」

 そう、申し訳ない気持ちで一杯だ。助けて、という声に反応してきたのに何もできないなんて。
 だが、そんな僕の申し訳ない気持ちを汲んだのか、イタチくんは首を左右に振ってくれる。

「いえ、もともと僕が無理な申し出だったんです。だから、ここから先は僕が何とかします」

「何とかします、ってできるの?」

 だが、答えはなかった。おそらく、彼自身も何とかできるとは思っていないのだろう。

「命は賭けてみるつもりです。でも、それでも……もし、何とかできなくて僕が死んでしまったら、貴方は今すぐこの街から逃げてください。これは魔力を持つものを追っています。僕の念話に反応があったのは二人。貴方ともう一人。おそらく、僕が死ぬと、貴方ともう一人の元をこれが襲撃するでしょう」

 ――――っ!?

「ごめんなさい。僕のせいで」

 心底申し訳なさそうにイタチ君が謝る。
 だが、よくよく考えれば、イタチくんが謝る必要はない。むしろ、僕はお礼を言わなければならないのではないだろうか。

「いや、君のせいじゃないよ。君が言うことが本当なら、どちらにしても、僕はこれに襲われていただろうからね」

 そう、イタチ君が仮に助けを呼ばなかったとしても、これにやられていただろう。あの怪我の具合から見ても間違いない。森にイタチの死体が一つでき、そして、その後、僕も襲撃されるのだ。そして、何も知らない僕は無残な屍を晒していただろう。
 ならば、むしろ、彼が助けを呼んでくれたことは、感謝すべきことだ。こうして何も知らないままやられるよりも対抗手段を示してくれたのだから。

「そもそも、君のせいじゃない。君を助けようとしたのは僕自身が決めたことなんだから」

 そう、これに巻き込まれたからといって僕は彼を責めるつもりはない。彼を助けに行こうと決めたのは僕なのだから。イタチくんが助けを求めたから、と責めるのなら、最初から助けになどいかなければいいのだ。そうすれば、何も巻き込まれることはなかったのだから。もっとも、イタチくんの言うことが本当なら、助けに行かなくても巻き込まれていたみたいだが。

 どちらにしても巻き込まれるのなら、抗うしかないだろう。

 先ほどまでの恐怖感を飲み込んで僕は覚悟を決めた。いや、決めざるを得なかっただけだが。先ほどまでは逃げるという選択肢があったが、もう逃げるという選択肢は取れないのだから。背水の陣にでもなれば、人間肝が据わるものだ、と記憶だけなら三十年近くなる人生の中で初めて知った。

「それで、これはどうやって使うの?」

「まずは、契約が必要です。僕の言葉に続けてください」

 言われたとおりに僕は、イタチ君の後に続けて言葉を紡ぐ。


―――我、使命を受けし者なり。
   契約の下、その力を解き放て。
   風は空に、星は天に。
   そして、不屈の心はこの胸に。
   この手に魔法を。
   レイジングハート、セット・アップ! ――――


 真面目に考えれば恥ずかしい言葉。だが、そんなことは言っていられない。僕とイタチくんの命がかかっているのだから。
 さて、呪文を言い終わったのだが、まるで芸人のギャグがすべった時のようにひゅーという風が吹いた様な気がするだけで何も起きなかった。

 何か嫌な予感がしたが、僕は意を決してイタチくんに尋ねた。

「……これで契約は終わり?」

 だが、答えは返ってこない。しばらくイタチくんは考え込むような仕草をして、申し訳なさそうに再度頭を下げた。

「いえ……ごめんなさい。貴方に魔法の力はあるんですが、レイジングハートとは適正がなかったようです」

「つまり?」

「失敗ということです」

 項垂れるイタチ君。いや、項垂れたいのは僕だ。せっかく覚悟を決めたというのに、決めた直後に契約に失敗して魔法は使えないという。もしかしなくても、大ピンチという奴である。
 しかも、間の悪いことに先ほどまでアスファルトに埋まっていた黒い何かがアスファルトを抉ったときの衝撃でばらばらになっていた自身の再構成を終えようとしていた。

「……とりえあず、逃げようか」

「はい」

 僕とイタチ君は、頷くと同時に駆け出した。



  ◇  ◇  ◇



 どうする? どうする?

 僕は背後から追ってくる恐怖を意図的に無視して考えながら走り続ける。どうやら、黒い何かは移動こそそれなりに早いものの思考能力は低いようである。曲がり角になるとどちらに曲がったか、必ず一度立ち止まって考える。つまり、スピードが一瞬ゼロになるのだ。その瞬間を狙って、僕は減速なしで走り続けている。
 しかし、この方法も永久的に続くわけがない。体力という名の限界があるのだから。

「さて、本当にどうしたものかな?」

 ここまで手詰まり感があると他に手が中々思いつかない。
 だが、このままでは、本当にミンチになって死んでしまう。それだけは避けたいのだけれども……。さて、本当に手がないのだが。

 そう思っていたところで、先ほどまでずっと考え込んだ表情をしていたイタチ君が口を開いた。

「……もう一人の方に助けを求めましょう」

「もう一人?」

「ええ、僕の念話に反応があったのは二人です。貴方ともう一人」

「その人に助けを求めるって?」

 なるほど、手がないなら、他から持ってくるしかないということだろう。
 この場を打開するためには、いい考えだとは思う。さらに他の人を巻き込んでいいのか? いや、放っておいたところで、どうせ襲われるのだか今、巻き込んでも問題ない、という思考が生まれ、躊躇したが、それも本当に一瞬だった。

 なんだかんだと理由を立てているが、正直に言うと、僕は他人を巻き込んでも死にたくないのだ。一度、輪廻転生という超常現象を体験し、死んでいると過言ではないものだが、死というものは抗いがたい恐怖を生み出す。そして、その死という恐怖から逃れられる手があるなら、僕は躊躇なく選択するだろう。それが、たとえ他人を巻き込むものであっても。

 巻き込んだことについては後で謝ろう。幾ばくかの御礼をしよう。

 ああ、なるほど、イタチくんと同じ選択を取るしかない状況でようやく彼の心境が分かったような気がした。確かにこんな状況になれば、誰かに助けを求めてもおかしくない。それが助かる希望の光なら尚のこと。

「それじゃ、今度は僕に言わせてもらえるかな?」

「え? 念話ですか? 起動しなかったとはいえ、認証パスワードで貴方もゲスト権限は持っていると思うので、念話程度ならできるでしょうが……」

 その念話というのがあの頭に直接響いた声の正体というのなら、僕にも可能らしい。イタチくんが慌てていたのは分かるが、あれでは誰も助けに来ないだろう。むしろ、不審者だ。できれば、身元がしっかりしていたほうが助けに来てくれる確率は上がるだろう。

「これを持って、話せば良いの?」

 僕は渡されたままの赤い宝石をイタチくんに示した。

「はい、それで大丈夫です」

 なら、助けを求めるとしよう。

 できることなら、僕よりも年上で、男性で、荒事に慣れていて、度胸がある人が来てくれればいいんだが、それは高望みがすぎるだろうな。
 そんなことを思いながら僕は、赤い宝石を握って助けを求めた。



  ◇  ◇  ◇



 助けを求めて、一体どれだけの時間逃げただろうか。そろそろ体力の限界が近かった。
 曲がり角に曲がっては、電柱の裏に隠れて時間を稼ぐといったことの積み重ねて休み休みで足を誤魔化してきたわけだが、そろそろ本当に限界に近かった。

 しかし、助けが来てくれる様子はない。もしかすると、もう一人の人はやはり魔法というものを信じてもらえず来てくれないのだろうか。

 そんな絶望が一瞬浮かんだからだろうか。しっかりと地面を踏みしめていた足が、一瞬、力を失い、もつれてしまった。体勢を立て直すこともできず、結果、転倒。アスファルトの上をヘッドスライディングのように滑ってしまった。

「いつつ……」

「だ、大丈夫ですか!?」

 転んだ僕を心配してくれるイタチくん。幸いにして転び方がよかったのか、打ったところが痛いものの怪我の類はないようだ。
 大丈夫だよ。と言おうとしたところで街灯に照らされていた僕の顔を遮るように影ができた。

「え?」

 ふと、見上げるとそこには見たことある顔が。

「高町……さん?」

 ようやく獲物を見つけたとでも言うがのごとく叫ぶ黒い得体の知れない何かにまったく怯むことなく、高町さんが冷静な目で僕を見下ろしていた。

続く

あとがき
 現時点におけるこのSSの特徴(これから後の話については保証しません):良いことをしたはずなのに悪い結果に繋がる。
 主人公、喧嘩を止める→なのは友達できず
 愛先生、子供を褒める→主人公危険なことに首を突っ込む





[15269] 第十話
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/02/01 22:03



 突然現れた高町さんに気を取られていたのは、どれほどの時間だっただろうか。少なくとも長時間ではないことは確かだ。そんなに長時間もの間、高町さんに気を取られていたとしたら、僕の背後で吼えている得体の知れない何かは、間違いなく僕を襲っていただろうから。

 ところで、ここに来たということは、高町さんが僕とイタチくんにとっての救世主なのだろうか。だとすれば、神様も相当に意地が悪い。僕が望んだのは、荒事に慣れていそうな青年男性だったというのに。どう見ても、高町さんはその条件とは正反対の人間である。

 しかしながら、そんな風に考えている時間はあまりない。

「高町さんっ! こっち!」

 気を取られていたのも一瞬。転倒していた身体を起こし、跳ね上がる力を利用して一気に加速する。その際に高町さんの手を引っ張っていくことを忘れずに。彼女に事情を話すにしても後ろにバケモノがいる状態では話もできない。
 こいつの特徴として、あまり知能が高くないことが分かっている。曲がり角でも曲がった方向を確かめるのではなく、曲がり角で一旦停止をしてから僕のほうへ向かってきたことからも明らかだ。

 今までは逃げることだけで目的にしてきたため、その間も走ってきたが、今は時間稼ぎに使わせてもらうことにしよう。

 幸いにして、この先にあるのは十字路。つまり、僕が逃げる方向は三箇所あるわけで、その選択肢が増える分だけ、時間が稼げる。その稼いだ時間でこの状況を打破する方法を考えなければならない。

「イタチくん、もう一人っていうのは高町さんで間違いない?」

 もしかして、という意味もこめて僕はイタチくんに聞くのだが、その願いは悪い方向へと外れてしまった。

「ええ、間違いありません。僕のなけなしの魔力で封時結界を張ったので。この空間に侵入できるのは魔力を持った人間だけです」

 名前から察するにこの空間を閉鎖する結界なのだろう。それは、現実世界に影響を及ぼさないためか。確かに、逃げてくる間、得体の知れない何かからの触手のようなものから攻撃のせいでコンクリートに穴があいていたからな。もしも、これが見つかれば、明日は大騒ぎだろう。

 そして、魔力を持った人間というのは、僕ともう一人だけだったということか。
 なら、残念なことに高町さんがもう一人の魔力を持った人間だということで間違いないのだろう。

 実に情けないことに僕は精神年齢から言えば年下の女の子に頼らないとこの場を切り抜けることはできないらしい。

 しかし、僕はちらっ、と手を引かれて僕の後ろを走る高町さんを見る。
 彼女は、あの得たいの知れない何かを見て何の感情も抱いているようには見えなかった。今も冷静な目をして僕を見ている。何かを問うような表情もしていないし、困惑している様子もなければ、恐怖に歪んでもいない。
 まるで、感情という器官が停止してしまっているように思える。

 最後に高町さんの姿をきちんと見たのは、一年ほど前だろうか。高町さんが不登校になったときに高町さんの日頃の様子を探りはしたが、探っただけで彼女に直接出会った訳ではない。つまり、クラスメイトだった日々が最後だというわけだ。だが、少なくともそのときはこんな風な表情をするような女の子ではなかったはずだ。一体、彼女に何があったというのだろうか。

 しかしながら、今はそんなことを考えている暇はなかった。僕は、交差点の角を曲がると、高町さんを前に連れてきて、すぐ傍にあった電柱に隠れるようにして、背を預けて、ズルズルとずれてその場に座り込んだ。
 長時間走り続けたせいか、かなり息があがっている。正直、息が整うまで待って欲しかったが、そんな時間も惜しかった。

「高町さん、まずは、来てくれてありがとう」

 正直言うと、もしかすると魔力を持っている僕以外のもう一人は来てくれないんじゃないか、という疑惑を持っていた。なにせ、頭の中に響く声だ。僕は、自分自身が超常現象だから、ある程度信じられたが、普通の人ならまず信じられない。もしも、誰かに言ったとしても、それは都市伝説である黄色い救急車を呼ばれてしまうだけだろう。

 だから、感謝を告げる。まだ、助けてもらったわけではないけれども、来てくれただけで十分嬉しかったから。
 もっとも、ここで下手を打つとこの場にいる全員が死んでしまうわけだが。できるだけ、そんなことは考えないようにした。

「後は、魔法に関してなんだけど……」

 僕は、僕が座り込んでいる隣で大人しくしていたイタチくんに視線を向け、持っていたレイジングハートと呼ばれた赤い宝石を渡す。それだけで僕の意図を汲んでくれたのだろう。僕が未だ持っていた赤い宝石を口にくわえると、高町さんの前に立って魔法に関する説明を始めた。
 さて、これでしばらく僕はお役ごめんだろう。少しの間とはいえ、体力を回復させてもらおう。

 やはり小学生の身体でここまで走るのは無謀だったのだろう。洋服は既に汗でびしょびしょだ。家に帰れたら、もう一回お風呂に入らなきゃな。

 そんな少しの安寧を得た僕は平凡なことを考えながら、高町さんを見ていた。

 まるで、表情の見えない高町さんだったが、イタチくんから赤い宝石を受け取ると、それを真剣な目で見ていた。いや、それは真剣な、と形容するよりも思いつめたという形容のほうが正しいだろうか。何が原因か分からないが、必死という言葉が彼女には似合うように思える。

 一体、初めて出会った魔法というものにここまで必死になれる理由とはなんだろうか。

 僕は、体力を回復させるために休んでいる傍ら、思考をそちらへと飛ばしていた。

 もしかすると、彼女は、魔法を使うことに憧れる女の子だった? だが、そうなると嬉々とした表情を浮かべるならまだしも、イタチくんの言葉を一言一句逃さず聞こうという鬼気迫った表情とまるで赤い宝石が最後の希望のようにぎゅっと握る手を示すものがわからない。

 もっとも、僕が考えたところで正解が分かるわけではない。こうだろうという答えを見つけることはできても、正解を見つけることなどできない。なぜなら、僕は蔵元翔太であり、高町なのはではないから。
 彼女の気持ちを想像はできるが、体感することは不可能だ。その人の感情はその人のもので他人とは共有できないものである。

 さて、そんな下らないことを考えているうちに彼女も赤い宝石との契約ワードの詠唱に入った。
 あのアニメや漫画の中でしか言わないような僕からしてみれば恥ずかしい詠唱を高町さんはつっかえることなく言い切った。
 その詠唱を終えた刹那、変化は始まった。

 ―――Stand by Ready, Set up.

 そんな起動音のようなものが赤い宝石―――レイジングハートから聞こえ、直後、レイジングハートから飛び出した光が大気を振るわせた。
 僕の身体にもビリビリと何かを感じる。まるで、何かの波動を感じているかのように。そして、それがとてつもなく大きなものだということは肌と本能で感じ取ることはたやすかった。

「なんてすごい魔力だ……」

 イタチくんの呟きから、この波動が魔力であることが察せられた。しかも、彼の驚きようから考えるにこの力というのは感じたとおり途方もなく大きなものなのだろう。
 そんな力が渦巻く中、高町さんは困惑しているだろう、と思っていたが、実際は違った。

 ―――彼女は笑っていた。

 まるで念願のおもちゃを手に入れた子供のように笑っていた。

 人が思いもよらない大きな力を手に入れたとき、それが権力だったり、財力だったり、腕力だったりするのだが、そういうものを手に入れたときの主だった反応は二つ。
 一つは、その思わず手に入れてしまった力に困惑し、うろたえてしまうような反応。
 もう一つは、その力に酔ってしまうこと。巨大すぎる力を手に入れてしまったことで、気が大きくなり、その力をむやみやたらと振り回してしまうことだ。

 まさか、とは思うが、高町さんの反応は後者に近いように思われた。

 だが、そんな僕の考えを余所に事態は進んでいく。

「想像してくださいっ! 貴方が魔法を制御するための魔法の杖と身を護る強い衣服の姿をっ!」

 さすがに急に言われても、すぐに想像できるはずがない。現に、高町さんは考え込むように目を瞑った。しかし、それも少しの間だ。高町さんが瞑った目を開くと同時にレイジングハートの光が増し、彼女を覆い包む。

 一体全体中で何が起きているのだろうか。その答えはすぐに出された。

 光が解けると同時に高町さんの姿が見える。ただし、その姿は光に包まれる前とは違っていた。つい先ほどまで着ていた私服とは異なる服装だ。
 聖祥大付属小学校の白を基調とした制服によく似た服を着ている。さらに、彼女の左手には宝石を大きくした宝玉とも言うべきものが先端についた杖が存在していた。

「これが……魔法」

 その呟きは誰のものか。僕のものだったかもしれないし、高町さんのものだったかもしれない。だが、どちらにしても同じことだ。僕が言ったにしても、高町さんが言ったにしても、感じていることはおそらく同じことだろうから。

 呆然とする僕と高町さん。イタチくんは、成功だ、と言って感動しているようにも見える。

 だが、そんなに悠長にしている時間はどうやら僕たちに与えられることはないようだ。

 ――――GYAAAAAAAAAAAAN

 高町さんの魔力解放が引き金になったのかもしれない。上手いこと電柱の影に隠れていた僕たちの姿がどうやら得体の知れないものに知られてしまったようだ。僕の背後から見つけたぞ、といわんばかりの咆哮が聞こえた。

 さて、どうする?

 頭の中で選択肢を租借しながら、僕は電柱の影から離れた。このままでは逃げ道が少ないからだ。道路の向こう側には、確かに僕を追っていた得体の知れない物体が立っていた。

 僕の頭の中には二つの選択肢があった。一つは、今までどおり逃げること。もう一つは、ちょっと情けないけど高町さんに任せて逃げること。だが、対抗手段を持っているのはもはや高町さん以外にありえない。
 しかしながら、対抗手段は持っているものの、その力がすぐに使えるわけではないだろう。僕にはレイジングハートを起動することすらできなかったのだから、その先は分からない。イタチくんにまかせるしかないのだが。

 どうやら、得体の知れない何かは、その選択肢を選択させる暇もイタチくんに説明の暇を与えるつもりはないようだ。

 見つけた、とばかりの咆哮を終えた後に、すぐさま、得たいの知れない黒い部分から伸びた黒い触手をこちらに向かって一直線に伸ばしてくる。そのスピードは目で追えないほどに早いというわけではない。

 だからだろう。高町さんが僕の前に出ることができたのは。

 そうして、僕に背を向けて彼女はかざす。自らが想像した杖を。そして、その杖が告げる。彼女に得体の知れない何かに対抗するための呪文を。

 ―――Protection.

 呪文のように発せられた文言の後に発生したのは、桃色の壁。その壁は高町さんと触手を別つ絶対の障壁のように展開された。
 事実、触手は壁を貫くことはできない。それどころか、触手のほうが力負けして、押し戻されている。さすがにこのままの状況では勝ち目がない、と悟ったのか、得体の知れないものは、自らが伸ばした触手を戻した。

「すごい」

 それは、イタチくんの呟き。
 僕もすごいとは思うが、それが果たして何を基準にしてすごいというのか分からない。魔法なんて見たことないから。

 だが、誰が、教えられて僅か十分で、魔法が使えるというのだろうか。得体の知れない物体と戦うことができるというのだろうか。漫画のヒーローではあるまいに。これが現実だとすれば、答えは唯一つ。

 高町なのはは、魔法に関して言うと、一を学んで十を知る天才だったというだけの話だ。

 高町さんと得たいの知れない物体との睨み続く。得体の知れない物体は、うねうねと触手を動かすことで高町さんを威嚇しているようにも見える。威嚇にしか見えないのは攻めてくる気配がまったくないからだろう。知能が低いとは思っていた分、どうやら高町さんを適わない敵だと認識できるほどには本能的に強いらしい。

 一方の高町さんは、得体の知れない物体に向かって杖を向けているだけ。彼女は、まだ何も使い方を学んでいないはずなのだが。どうやって魔法を使っているのだろうか。本当に謎だった。

 しかしながら、これはチャンスだった。イタチくんが高町さんに状況を説明する絶好の。

「イタチくん、高町さんに魔法の説明を」

「あ、はいっ!」

 僕のその呼び声に反応して、杖を構えたままの高町さんにイタチくんは魔法に関する説明を始めた。僕も初めて聞く話だったが、大まかにまとめると、魔法というのは、術者本人が持つ魔力をエネルギーにし、プログラムを発動させるというものらしい。あのレイジングハートの中には、簡単な魔法が登録されているようだ。簡単な魔法は、思うだけで使えるらしいが、大規模なものになると呪文が必要らしい。そして、その呪文は―――

「心を澄ましてください。そうすれば、貴方の中で貴方だけの呪文が浮かぶはずですっ!!」

 果たして、それだけで使い方が分かるものなのだろうか。実際にレイジングハートを起動できなかった僕には分からない。

 さて、得体の知れない物体―――ジュエルシードとやらの思念体と高町さんの対峙はいったいどれだけの時間がたっただろうか。短かったかもしれない。長かったかもしれない。僕にはいまいち時間の感覚が分からなかった。
 まるで、両者とも動けばやられるという雰囲気を醸し出しており、僕もイタチくんも動くことはできなかった。

 ごくり、と緊張のあまり、つばを飲み込んだ音が周りにも聞こえてそうだ。そして、まるで、その考えを肯定するように直後、状況が動いた。
 思念体が直接、その僕たちよりも大きな身体を生かして突っ込んできた。まるでダンプカーが突っ込んでくるようなものだ。それに対して高町さんの行動は、先ほどと同じだった。

 ―――Protection.

 レイジングハートの声と共に再び現れる桃色の絶対障壁。先ほどは触手で、今度はその巨体が丸々突っ込んできたわけだが、高町さんにはまったく関係のない話らしい。負荷は増えているように思えるが、それでも高町さんは一歩も引くことなくその巨体を受け止めていた。杖をかざし、バチバチと障壁と触手の間で散らしている火花をじっと見ているように思える。

 やがて、高町さんと思念体の力比べは、終わりを告げた。思念体の身体が四方に散らばることによって。しかし、その散らばった欠片でさえ、コンクリートの塀に刺さるほどの硬度と速度を持っているらしい。力は質量と速度で表せることから、欠片でもその力を持っていたのに、それらの塊を一歩も引かずに支えていた高町さんの障壁はいったいどれほどの硬度だというのだろうか。

「……これで終わり?」

「いえっ! まだですっ! ジュエルシードの封印をっ!!」

 塊が散らばった程度では終わりではないらしい。気を抜きかけた僕を叱咤するようにイタチくんの声が響く。確かに、思念体は生きているようだ。高町さんから少し離れたところで、アスファルトを砕くほどの大きな塊から触手が伸びて、欠片を回収している。

 しかし、イタチくんの声に反応した高町さんのほうが行動は早かった。高町さんは、再び杖を構え、抑揚のない声で呪文を紡ぐ。

「リリカル・マジカル―――ジュエルシード封印」

 ―――Sealing Mode.Set up.

 レイジングハートが形を変える。杖の部分から桃色の光による翼が生えている。そして、レイジングハートから伸びる桃色の光の帯が、ようやく回収を終えた思念体の巨体に巻きついていた。それが苦しいのか思念体は、苦しむような声を上げている。

 だが、そんなものはあっさりと無視して高町さんはさらに言葉を紡いでいた。

 ―――Stand by Ready.

「リリカル・マジカル。ジュエルシードシリアル21封印」

 呪文を終えると同時に光の帯は思念体を握りつぶすように思念体を締め上げ、最後には思念体の断末魔と目を開けていられないほどの光を残して思念体は姿を消した。

「これで、本当に終わり……?」

「ええ、封印成功です」

 僕は、ほっ、と胸をなでおろした。なぜなら、これで少なくとも僕にとっての命の危険性はなくなったからだ。もっとも、戦ったのは、高町さんで僕は後ろから見ているだけという情けない結果ではあったが。

 しかしながら、酷い有様だ。アスファルトは陥没しているし、周りのコンクリート塀は、穴だらけ。さらに、思念体の欠片が、飛散したときの余波か、電柱が折れていた。

「さあ、ジュエルシードをレイジングハートに格納してください」

 言われて気づいたが、陥没したところに蒼い宝石が転がっていた。これが、ジュエルシードなのだろう。
 高町さんは言われたとおりに聖祥大付属小の制服に似た服装のまま、蒼い宝石に近づき、レイジングハートをかざすと、蒼い宝石はレイジングハートの中に吸い込まれていった。
 それと同時に今度は、高町さんが光りだす。今度はなにが起きたんだ? と思う間もなく結果は目に見えて分かった。高町さんの服装が元の私服に戻り、レイジングハートは赤い宝石に戻ったからだ。

 高町さんはきょとんとした様子で、赤い宝石に戻ったレイジングハートを見ていた。

「これで、本当に終わりかな?」

「ええ、彼女のおかげで」

 本当に全部、高町さんのおかげだろう。僕は、助けるために飛び出したにも関わらず、情けないことにこの場では、傍観者でしかなかった。結果論からいえば、みんな助かって万々歳なんだろうけど。

「高町さん、本当にありがとう。君のおかげで助かったよ」

 僕は、呆然としている高町さんに肩を叩いてこちらに顔を向けさせると、改めて御礼を言った。彼女がいなければ、僕は間違いなく屍を晒していただろうから。
 その言葉を聞いた直後は、きょとんとしていた彼女だったが、やがて驚いたような表情をしたかと思うと―――

「うんっ!」

 高町さんは、僕が真正面から初めて見る満面の笑みを浮かべたのだった。



  ◇  ◇  ◇



「しかしながら、これはどうしたものかな?」

 僕は周りの惨劇を見ながらぽりぽりと頭の後ろを掻きながらどうにもならない現状を嘆いていた。

 アスファルトが陥没し、コンクリートに穴が開き、電柱が折れている。地震でも起きたのではないか、という状況だった。
 こんな状況が放置されれば、確実に事件になるのは間違いない。

「あ、大丈夫ですよ。この状況はすぐに元に戻ります」

 イタチくんがそういった直後、まるでシャボン玉でも割れたようなパンッという音が鳴り、世界に音が戻った。
 風の音、風が揺らして葉っぱがこすれる音、遠くを走る車の音。世界に生きる様々な音が今更のように蘇っていた。

 そして、先ほどの惨劇は、綺麗さっぱりなくなっており、そこにはジュエルシードの思念体が、暴れる前と同じく綺麗なアスファルトとコンクリート、折れていない電柱が存在していた。

「……すごい、これも魔法なの?」

 高町さんが感心したように呟く。それは、僕も同じ感想だった。明らかに僕が知るエネルギーやら法則を無視した結果のように思えた。

「ある意味では。先ほどのまでの空間は、僕の封時結界の中でしたので。こうして結界さえ解いてしまえば、元通りです」

「そんなこともできるのか」

 素直に感心せざるを得ない。空間だけを切り取るなんて、物理的な概念を超えている。これこそ、まさしく御伽噺やアニメ、漫画の中でしか出てこない魔法そのものではないか。

 高町さんの思念体と戦ったときの魔法といい、今のような魔法といい、実に好奇心を刺激してくれるようなものだ。どうやら、レイジングハートに適正はなかったものの、僕にも魔法自体の才能はあるみたいだから、もし時間があれば、可能な範囲でいいから教えてもらったのに。

 しかし、残念なことにそれは叶わないだろう。

「それで、イタチくんはこれからどうするの? 自分の世界に帰るのかな? あるいは、観光していくつもりなら、この周りでいいなら、僕が案内するよ」

 もう目的のジュエルシードとやらの封印は高町さんが先ほど終了させた。ならば、彼の目的である探し物は、すでに見つかっており、ここにいる理由もないだろう。僕はそう思ったのだが―――

「え?」

「え?」

「……え?」

 三者三様の驚き。上から順番にイタチくん、高町さん、僕だ。

 僕にはなぜイタチくんが驚くのか分からない。もう、彼の目的は終了したはずなのに。それとも、これ以上、ここに留まる理由があるのだろうか。

「イタチくん、君は他に―――「なのはっ!!」

 驚いた理由を問いただそうとした僕の声をかき消すような大声が夜の道路に響いた。
 その声から高町さんの名前を呼んだのは男性のものであることが伺える。あまりの大声に僕たちは、その声の方向を向く。そこにいたのは、肩を揺らしながら全力で走ってくる男性。ぱっと見た感じ、二十歳前後のように思える。

「お兄ちゃん……」

 高町さんの名前を知っていることから、彼女の関係者かな? と思っていたら、案の定だった。高町さんのお兄さんは、僕たちを認識するとすぐさま、全速力でこちらに向かってきていた。

 しかしながら、僕たちが見たときはかなり遠かったのに、その距離を全速力で走って息切れ一つないってどれだけの体力を持っているというのだろうか。そんな彼は、僕たちの元に着くと、すぐさま僕に不審な目を向けてきた。

「……君は?」

「こんばんは、僕は、高町さんの元クラスメイトの蔵元翔太です」

 不審な目を向けられて、動揺してしまえば、不審者ですといっているようなものだ。あえて、堂々と挨拶までつけて自己紹介をおこなう。それが功を奏したのか、高町さんのお兄さんは、僕に不審な目を向けるのをやめてくれた。

「なのは、ダメじゃないか。夜に誰にも言わずに外に出ちゃ」

「……ごめんなさい」

 お兄さんに窘められた高町さんは、素直に謝った。だが、高町さんが外に出たのは、彼女のせいじゃない。むしろ、僕が助けを求めたからだ。高町さんはそれに応えてくれただけ。ならば、僕が何もせず高町さんが怒られているのを見るのは忍びなかった。

「あの、すいません。高町さんのお兄さん。高町さんが外に出たのは、こいつのせいなんです」

 僕は、道路に立っていたイタチくんを持ち上げる。きゅー!? と鳴いたような気がするが、高町さんのためにも我慢してもらうと思う。

「こいつが逃げ出したらしくて、高町さんはそれを追いかけてくれただけなんですよ。街中でイタチなんて珍しいでしょう?」

「それは、君のペットなのかい?」

「いえ、正確には保護しただけです。今日、森の中で倒れていたのを見つけたんです。少し目を離した隙に逃げてしまって」

 正確には動物病院に預けていたのだが、預けていた動物が逃げ出してしまうような動物病院は確実にダメな動物病院だろう。人の口に戸は立てられない。しかも、口コミというのは意外と厄介なもので、一度噂として広まってしまっては手遅れだ。だから、一応、僕が保護していたことにしておいた。
 もっとも、事実の中のちょっとした嘘なので見破られる可能性は殆どないだろう。

「事情はわかった。だが、やはり、夜、勝手に出て行くのは危険だ。今度からは俺たちに一声かけていくんだぞ」

 コクリと頷く高町さん。たぶん帰って怒られてしまうかもしれないが、これで少しは事情が分かってもらえればいいのだが。

「さて、君の家はどこだ? こんな夜だ。ついでに送っていこう」

「……それじゃ、お願いできますか」

 親切心からの言葉なのだろう。しかも、ここで断る理由はどこにもない。むしろ、断ることこそが後ろめたいことを隠しているようで僕には断ることはできなかった。



  ◇  ◇  ◇



 歩いて十五分。それがあの場所から僕の家までの時間だった。

「今日は、ありがとうございました」

「いや、礼には及ばない」

 僕がお礼と同時に頭を下げると、謙遜するように高町さんのお兄さんが言う。ある程度は形式めいたものだが、やらないよりもやったほうがお互いに気持ち良い。

 お互い、形式めいた言葉を交わし終えて、今日はこれで終わりとばかりに背を向けて帰り始めた。

「高町さん」

 僕は高町さんのお兄さんと同様に背中を向けた高町さんに言葉を投げる。

「また明日」

 途中で遮られていた言葉の続きを聞こうという意味も込めて僕は高町さんに別れの言葉を告げた。
 振り返った高町さんは、僕の言葉になぜか少しだけ驚いたような顔をしていたが、すぐに僕がお礼を告げたときのような笑顔になって、うん、と頷いてくれた。

 二人の姿が小さくなり、やがて消える。そうして、ようやく僕は家に入れるようになった。

「さて、君の事はどうやって言い訳しようかな?」

「ごめんなさい。僕のせいで」

「いや、あの場面で助けられなかった分、このぐらいはね」

 僕の家の問題は秋人だけだから、僕の部屋だけしか移動させないと確約すれば大丈夫だろう。

 だが、その考えはどうやら甘かったようだ。いや、イタチくんのことは認めてもらったのだが。僕の頭の中は二十歳に近くても身分も身体も小学生だ。つまり、親としては夜に出歩くなんて言語道断なわけで、この日、僕は生まれて初めて本気で両親に怒られたのだった。



 続く

あとがき
 主人公、ジュエルシードが複数と知らず、勘違いする。
 なのは、魔法依存フラグ ON
 OFFにするため、がんばれ! 主人公!



[15269] 第十話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/02/03 00:15



 高町なのはが、最初に現場に来て最初に目にしたのは、地面にはいつくばった蔵元翔太の姿だった。
 その光景を見て、最初に抱いた感情は、どうしたの? という心配でも、良い気味だ、という見下したものでもなく、よかったという安堵である。
 もちろん、彼がはいつくばっているのを見て安堵したわけではない。まだ、はいつくばるほどに蔵元翔太が危機に陥っていたことに安堵したのだ。

 なのはの中で蔵元翔太は理想だ。

 なのはができなかったことを全てのことをなのはが理想とするようにやってのけていた同級生。彼の噂はクラスが別々になった二年生のときでさえ聞こえてきた。
 成績抜群で、二年連続の学級委員で、クラスの中心で、誰からも嫌われておらず、誰からも気軽に声をかけられ、彼の周りには、常に笑顔があふれていた。

 まさしくなのはが理想とした世界が彼の周りにはあった。

 彼女も一年生の頃はそんな世界を夢見ていた。しかしながら、その世界は、あの日、蔵元翔太との絶対的な差を見せ付けられ、諦めて以来、そんな夢を見ることをやめた。
 そんな世界は、高町なのはを中心としては、決して叶うことがないと悟ったから。高町なのはは何もできない人間だと分かったから。

 それからは灰色の世界を生きてきたなのはにとって、今回の出来事は、確実に最初で最後の希望だ。
 蔵元翔太に勝る何かを手に入れられる最後の希望だった。だからこそ、彼女は安堵した。

 走りながら考えていた。もしかしたら、自分が行った時にはすでに何もかもが終わっているのではないか、と。蔵元翔太が危険に陥ることなどなく、あれはただ自分が生み出した幻聴で、その場にたどり着いたときには蔵元翔太が何の失敗もなく全てを終わらせているのではないか、と。

 だが、たどり着いてみれば、蔵元翔太は、地面にはいつくばっており、背後には翔太のいうバケモノ。

 本来なら、それに恐怖を抱いてもおかしい話ではない。だが、高町なのは限っていえば、彼女はその場に来るまでに想像の中でそれ以上の恐怖を味わってきていたのだ。今更、この程度のことで怯むはずがない。いや、むしろ、彼の言葉が本当だとすれば、蔵元翔太にすら何もできなかったあれに対抗できるのは自分だけ。
 あれを倒すことで蔵元翔太に勝る何かを手に入れられるのだ。ならば、あれは、高町なのはにとっては希望のようにも思えるのだった。

「高町さんっ! こっち!」

 突然、手を引かれた。気がつけば、地面にはいつくばっていた翔太が起き上がり、その反動で駆け出していたではないか。逃げるというのだろうか。まだ、自分は何もしていないというのに。

 本当なら、何のために自分を呼んだんだ、と文句を言うところだったが、それ以上の衝撃がなのはを襲ったため、何も口に出せなかった。

 ―――引っ張られた右手から感じる温もり。人の温もりに。

 右手から感じる翔太の掌の温もりは今までずっと走っていたせいか、なのはよりも温かいように思えた。

 ―――ああ、人の温もりってこんなだったんだ。

 最後に人とを触れ合ったのはいつだっただろうか。もう年単位で誰とも手を繋いでいないような気がする。だからこそ、なのは驚いていた。

 人の手はこんなにも暖かなものだったのか、と。



  ◇  ◇  ◇



 夜の街を二人の小学生が走り、その背後を黒い物体が追いかけていた。奇妙な光景。だが、それに気づくものは誰もいなかった。やがて、少年と少女―――翔太となのはは、曲がり角を曲がり、直後に存在していた電柱に隠れるように身体を滑り込ませた。背後のバケモノがまっすぐ進んでいったのを見るとどうやら、彼らの隠れるという目的は達成したようだった。

「高町さん、まずは、来てくれてありがとう」

 ズルズルと電柱に背中を預けて背中を滑らせ、座り込んだまま翔太は、なのはに礼を告げた。
 ただ、その礼の言葉がなのはに響くことはなかった。なのはにとって、自分はただ呼ばれてきただけで、他に何もやっていないからだ。何も成していないのに礼を言われても嬉しくもなんともなかった。

「後は、魔法に関してなんだけど……」

 きたっ! となのはは思った。なのはが来た目的は蔵元翔太ができなかった何かを成すことだ。それを希望とすることだ。その一部は先ほど聞いていた。すなわち『魔法』という言葉。だから、なのはは先ほどから、いつ魔法という言葉が出るのかを心待ちにしていたのだ。

 翔太が隣で器用に二足歩行しているフェレットに赤い宝石を渡す。フェレットは、赤い宝石を器用にくわえるとそれをなのはに手渡した。

「それじゃ、僕が魔法の説明をさせてもらいます」

 動物が喋った!? という驚きは無論あった。だが、その驚きはもはや今更のようにも思える。このぐらいで驚いているのなら最初に翔太の背後に見たバケモノを見た時点で驚いている。
 さらに、そのフェレットが口にした魔法という言葉が、なのはの驚きを最小限に抑えていた。もはや、なのはの意識の中には魔法という言葉しか興味がなかった。

 フェレットがゆっくりと魔法に関する説明を続ける。それをなのはは一言一句逃さないように神妙に聞いていた。
 なぜなら、それはなのはに残された唯一の希望。今まで闇の中を歩いていたなのはが暗闇の中から抜け出せる最後の希望なのだから。少なくともなのはそう思っている。
 だからこそ、聞き逃すなど間抜けなことで失敗したくない。なのはがフェレットの言葉を聞くのに真剣になるのはある意味必然とも言えた。

「さあ、僕の後に続いて、契約の呪文をっ!!」

 フェレットが紡ぐ言葉をなのはも紡ぐ。


―――我、使命を受けし者なり。
   契約の下、その力を解き放て。
   風は空に、星は天に。
   そして、不屈の心はこの胸に。
   この手に魔法を。
   レイジングハート、セット・アップ! ――――


 その呪文を唱え終えた直後、変化は始まった。

 ―――Stand by Ready, Set up.

 呪文から察するにレイジングハートと名づけられている赤い宝石から機械的な起動音がしたかと思うと、突然の声。それに驚く暇もなく、レイジングハートから桃色の光が発せられる。

「あ、あは、あはははは」

 知らず知らずのうちに口から笑い声を口にしていた。当たり前だ。何も知らないなのはでも分かるレイジングハートから発せられる巨大すぎる力。それは、確実に自分のものだという確信がある。自分の中に秘められた巨大な力。何もできない高町なのはの中に眠っていた力。これを目の当たりにして笑わずにはいられようか。

 ようやく、ようやく、ようやく手に入れたのだ。闇の中をもがいて、彷徨って、溺れて、諦めて、絶望の淵に沈もうとしていたなのが、誰にも、蔵元翔太でさえも追随できないほどの力を。自分だけの、高町なのはだけの力を。

 だからこそ、笑う。笑ってしまう。それは、高町なのが全身で感じていた歓喜を表す唯一の方法だった。

「想像してくださいっ! 貴方が魔法を制御するための魔法の杖と身を護る強い衣服の姿をっ!」

 フェレットが何か言っているのになのは気づいた。どうやら、このままではこの力は使えないらしい。
 ならば、想像する。高町なのはだけの魔法の杖と強い衣服の姿を。

 杖の形は安直なものにした。凝った形を作る時間がもったいなかったから。
 衣服は、聖祥大付属小学校の制服に黒を基調とし、ところどころ赤で装飾されたものが最初になぜか思い浮かんだが、それは即座にやめた。その衣装は、この魔法の力を使うにしてはあまりに無粋。
 この力は、なのはにとって最後の希望だ。願いだ。望みだ。ならば、どこまでも引きずりこまれそうな黒と血のような真紅などは似合わない。願うは、純白。穢れなき純白。それしかありえない。故に、最終的には聖祥大付属小学校と同じような服装になってしまった。だが、後悔はない。これがなのはの望んだ色なのだから。

 やがて、杖と衣装の形が決まると、なのはの周りを光の帯が包み込んだ。その中では、衣服が分解され、彼女の身を護るバリアジャケットが展開されていることだろう。そして、レイジングハートは宝石から形を変え、なのはの想像したとおりの魔法の杖へと変化していた。

「これが……魔法」

 光の帯から解放されたなのはが、自分の変化した衣服とレイジングハートを見て呟く。

 ―――これが、なのはだけの力。

 蔵元翔太でさえ、近づくことができなかった力。それを高町なのはは手に入れたのだった。



  ◇  ◇  ◇



 その後、なのははあの得体の知れないバケモノ―――ジュエルシードの思念体らしが―――と戦った。
 いや、結局は防御しかしていないので戦ったかどうかは非常に謎ではあるが。

 だが、それでも翔太を護ったことには間違いない。触手を防ぎ、思念体の突進を防ぐ。
 恐怖がなかったか、といえば、嘘になるかもしれない。だが、それよりもなのはにとっては、魔法の力を試したいという心のほうが強かった。
 自分の中に感じられる巨大で、力強く鼓動する何かから湧き出る力を。

 それさえ感じてしまえば、思念体など怖くなかった。あれはただの標的。あるいは、なのはが力を手に入れたことを示すための人形のようなものだ。
 現に触手や思念体の突進を防いだときは、笑みがこぼれて仕方なかった。あの蔵元翔太が地面にはいつくばることしかできなかった相手を自分の力でねじ伏せられることが嬉しくて。自分だけの力を確かな形で実感できて。
 翔太に背を向けなければならなかったことが非常に惜しいことをしてしまったと思う。きっとなのはは綺麗に笑えていたと思うから。それを憧れの蔵元翔太に、力を手に入れた最初の自分を見せられないことがとても心残りに感じられた。

 そして、紆余曲折の末、どうにかなのはの魔法の力で思念体を封印できた直後、なのはは誰かに肩を叩かれ、振り返る。
 そこには、ようやく命の危機から解放されて安堵した表情を見せている翔太がいた。そして、彼は口を開く。

「高町さん、本当にありがとう。君のおかげで助かったよ」

 ―――ありがとう。

 最初、なのははこの言葉の意味を理解できなかった。
 久しく言われた感謝の言葉だから。諦めて以来、一年近く言われることのなかった言葉。それを告げられた。あの蔵元翔太から。感謝の言葉を。なのはが持つ、なのはだけの魔法の力のおかげで。

 その意味を理解したとき、なのははあの蔵元翔太からも魔法の力、自分の力を認められたようで、高町なのはという人間を褒められたようで嬉しかった。だから、なのはは胸の内から湧き出てくる歓喜を隠すことなく笑みに変えて頷いた。

「うんっ!」

 この場に鏡を持ってこなかったことが惜しまれた。なぜなら、おそらく、自分は綺麗に笑えているだろうから。



  ◇  ◇  ◇



 後処理は非常に簡単だった。フェレットが、ある一言を呟くとあっという間に壊れていた道路や塀は、元に戻ってしまったから。これも魔法か、と感心して思わず呟いてしまったほどだ。

 なのはとしてはこのまま終わってくれれば文句はなかった。自分だけの力―――魔法の力は手に入れた。後は、この力をどうやって使っていくか、だ。おそらく、同じような相手がいなければ魔法などこの世界では使えないだろう。もしかしたら、もっと他の用途があるかもしれない。それは、目の前のフェレットに聞くしかないのだが。

 ―――魔法を教えてもらおう。

 そう思い、フェレットに声をかけようとしたそれよりも先に翔太が別のことを口にした。それは、高町なのはにとってはとても受け入れられないものだった。

「それで、イタチくんはこれからどうするの? 自分の世界に帰るのかな? あるいは、観光していくつもりなら、この周りでいいなら、僕が案内するよ」

 「え?」と思わず聞き返してしまったのは、決してなのはのせいだけではないだろう。
 せっかく力を手に入れたというのに、振るうのはたったの一回だけ? しかも、フェレットは自分の世界とやらに帰るという。それは、この宝石を返すということ―――つまり、魔法がなのはの手から離れていくということに他ならなかった。

 そんなことは、なのはにとって、とても受け入れられるものでもなければ、許せるものでもない。

 だが、ダメだよ、という否定の言葉を口にする前に、それよりも早くなのはにとって聞き覚えのある声が辺りに響いた。

「なのはっ!」

 声に反応して振り返ってみれば、そこには全力で走ってくるなのはの兄―――恭也の姿があった。

「お兄ちゃん………」

 本当は、自分がようやく手に入れた魔法の力を見て欲しかった。この力でバケモノを倒して、町の平和を護ったと知れば、きっと兄たちは褒めてくれるだろうと思ったから。だが、それは、兄が発しているとある感情の前に遮られた。

 その感情とは―――怒り。

 他人の感情を読むという能力は、なのはが他人から嫌われないために絶対に必要な能力だった。

「なのは、ダメじゃないか。夜に誰にも言わずに外に出ちゃ」

 外に出なかったら、街はきっと破壊されていたのに。蔵元くんは、きっと死んじゃっていたのに。自分は、魔法の力を使って良いことをしたのになぜ、怒られるのだろう。そういう類の不満がなのはの中に芽生える。
 だが、それをなのはは口に出すことができなかった。何か下手なことを言って怒っている兄に嫌われたくないから。だから、なのはは、思っていることとはまったく逆の謝罪の言葉を口にした。

 なのはの中では、どうして? どうして? という言葉が渦巻く。助けたのに。あの蔵元くんを助けたのに、と。疑問と不満。それが溜まる。だが、なのはがそれを口に出せるはずがない。三つ子の魂百までではないが、もはやなのはの人に嫌われたくない、という願望は、魂にまで刷り込まれている。それが兄なら尚のことだ。だから、不評を買うようなことは口に出せない。万が一にでもいい訳と思われたくないから。だから、なのはが言えたのは、やはりごめんなさい、だけなのだ。

 だが、なのはをフォローしてくれたのは、その蔵元翔太だった。

 若干、事実は捻じ曲げられていたが、確かになのはが外に出たのは悪くない、とフォローしてくれていた。
 その翔太が作り上げた事情を聞いて、恭也の怒りが若干和らいだように思える。

 ―――やっぱり、蔵元くんはすごいな。

 なのはは改めて思った。自分には絶対、そんなことはできないから。何もいえないだろうから。だからこそ、兄に物怖じせずにきちんと事情を話せる翔太が羨ましかった。

 その後、なのはと翔太と恭也は、翔太の家に向かって歩く。その間、なのはの間に会話はなかった。翔太と恭也が少し話しているぐらいだ。なのはは時々、翔太の横顔を盗み見ていた。
 翔太の顔はクラスの女子が騒ぐほど格好良いという顔立ちはしていない。ただ、身なりはきちんとしている。寝癖もなければ、服装もよれよれとしていない。身長はなのはよりも少し低いぐらいだろうか。

 極論を言ってしまえば、どこにでもいそうな普通の小学生。特徴らしい特徴もない。それが蔵元翔太だった。

 現場から翔太の家は意外と近かったらしい。十五分ほどで翔太の家に着いた。
 普通の二階建ての一軒屋。なのはの家と比べると若干小さいかもしれない。

「今日は、ありがとうございました」

「いや、礼には及ばない」

 気がつくと、翔太が恭也に礼を述べていた。なのはからしてみれば、その態度を見ていると本当に自分と同い年かと疑いたくなる。それほどまでにできた子供なのだ。蔵元翔太とは。

 そして、なのはたちは帰宅する。だが、背を向けて帰る直前、家の前にまだ立っていた翔太が口を開いた。

「高町さん」

 振り返ると、そこには、笑顔で手を振る翔太の姿が。そして―――

「また明日」

 そう口にした。

 最初、なのははその言葉が理解できなかった。また明日。それは、明日も会おうという約束の言葉。なのはにとって初めての言葉。じゃあね、やさようならなら何度だってある。だが、友達のいなかったなのはにとって明日を約束するような「また明日」という言葉は初めてだった。
 しかも、それは、あのなのはが憧れた蔵元翔太から。

 蔵元翔太からだからなのか、それとも初めての言葉だからなのか、どちらかは分からない。いや、もしかしたら両方かもしれない。
 だが、その言葉は確かになのはを幸せにしていた。なぜなら、なのはにとって憧れだから。こうして別れ際に明日を約束することは。
 それを理解したとき、なのはの心の底から嬉しさがこみ上げてきて―――

「うんっ!」

 自然に笑っていた。



  ◇  ◇  ◇



 なのはは帰って少しだけ両親から怒られた。夜に勝手に外に出るな、と。ただ、翔太のとりなしもあったおかげか、あまり怒られることはなかった。
 怒られた後は、素直にお風呂に入って、ベットに横になる。もう、いつもの寝る時間は過ぎている。
 だが、それでも、なのはの目は冴えていた。当然といえば、当然かもしれない。先ほどまで彼女は魔法という未知の力を手にしてバケモノと戦っていたのだから。

 だが、なのはにとって目が冴えている理由はそれだけではなかった。

 翔太からの「ありがとう」と「また明日」という言葉。なのはが欲しかった言葉。それを思い出すだけでも笑ってしまう。

「え、えへへへ」

 ただの言葉だが、それが嬉しかった。ずっと手に入れたかったから。それを望んでいたから。ずっと手を伸ばし続けていたから。一度、諦めてしまっていたから。だからこそ、嬉しい。

 これも全部、魔法の力のおかげだった。

「今日からよろしくね、レイジングハート」

 ずっと握り締めていたレイジングハートに愛おしそうにちゅっと口付ける。
 もしも、なのはの体力が無限大であれば、頭の中で今日のことをリフレインしていただろうが、あいにく小学生相当の体力しか持たないなのはに体力の限界が訪れていた。だから、今日はお休み。

 一度、それを自覚してしまうと睡魔というのは、急激に襲ってくる。なのはが瞼を閉じる直前、手にしていたレイジングハートが何度か点灯し、赤い宝石の表面に文字を表示させる。


 ――――Good night. My Master.



 続く




[15269] 第十一話 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/02/08 23:36



 激動の一夜が明けた。
 夜に得体の知れない何かに襲われ、魔法が使えるという動物に出会い、同級生が魔法を使ってそのバケモノを退治するというまるでアニメや漫画の中でしかないような出来事。
 一夜明け、朝日が部屋の中に差し込むような時間になっても、昨夜のことは夢だったんじゃないだろうか、と思ったのだが、僕の机の上で、タオルの敷かれたバスケットに入って未だ眠っているフェレット―――イタチではなかったらしい―――を見ると嫌でも昨夜のことが現実であると思い知らされる。

 もっとも、超常現象を体験している僕だから、こんな具合で済んだのだろうが、一般人だったら、現実逃避すらしているのではないだろうか、と思っている。

 だから、高町さんは一体どうしているだろうか、と心配になった。

 なには、ともあれ、放課後にはフェレットくんと高町さんを交えて話をしなければならないだろう。
 僕たちは、関わってしまったのだから。これから、魔法に関わるにしても関わらないにしても、事情が分からなければ、その判断さえ不可能だ。

 もっとも、僕としては、昨夜のことのようなことは勘弁願いたいのだが。



  ◇  ◇  ◇



 おはよう、おはよう、と朝の挨拶がところかしこで交わされる。本当なら、僕も次々に入り口からやってくる友人たちと挨拶を交わし、お喋りに興じたいところなのだが、昨夜の出来事が影を落としていた。
 つまり、フェレットくんに呼び出される前に終わらせる予定だった宿題がまったく終わっていないのだ。幸いにして、宿題の教科が算数で、計算問題だけだったので、なんとか始業前には終わってくれるだろう。

 入り口から次々に入って来た面々は、僕が朝に宿題をやっているのがよっぽど珍しいのか、一瞬驚いたような顔をして、にやっ、と笑うと「今日は雨かな?」なんてことを言う。そんなに珍しいことか、と疑問に思い、よくよく考えてみれば、確かに僕が宿題を忘れるのはこれが初めてじゃないだろうか。
 そんなことを考えながらも僕はカリカリと鉛筆を動かす。次々と計算式が埋まっていく。あともう少しといったところで、背後から声をかけられた。

「おはよう~、って、ショウ、あんたなにやってるの?」

「宿題だよ」

 後十分ほどで始業の時間になりそうだ、という時間になってアリサちゃんとすずかちゃんが僕の席にやってきた。
 彼女たちの席が僕の隣なんてことはない。二列離れた向こう側だ。もっとも、アリサちゃんとすずかちゃんは隣同士ではあるが。彼女たちは、僕が他の友人と話しているときはやってこないが、朝の時間に本を読んでいるときなどは必ずやってくる。
 今日も僕は、下を向いていたので本を読んでいると勘違いしたのだろう。だが、残念なことにやっていることは宿題だった。

「ショウくんが宿題忘れるなんて初めてじゃない?」

「昨日の夜はちょっと疲れることがあって、宿題をやれなかったんだ」

 疲れ具合はちょっとではなかったが。ちなみに、フェレットくんはまだ僕の部屋で寝ている。まだ起きていないと思う。一応、彼の傍に置手紙と地図を書いていたが、気づいてくれるだろうか。もっとも、フェレットくんが気づかなかったら、一度家に帰ればいいだけの話だ。

「ふ~ん。って、あっ! 昨日の夜といえば、あの動物病院で事故があったらしいわよ」

 ……なんだって?

 僕は、カリカリカリと宿題を進めていた手を止めてアリサちゃんの話に耳を傾ける。

「なんでも、病院にトラックが突っ込んだみたいにグチャグチャになってたんだって」

「昨日のフェレット大丈夫かな?」

 だよね、とアリサちゃんもすずかちゃんも心配そうにしている。
 フェレットくんの魔法で元通りに戻ったはずの動物病院がグチャグチャになっているという部分は気になるが、それよりも、いらぬ心配をしている二人のほうが先決だ。

「ああ、大丈夫だよ。昨日の疲れることっていうのは、そのフェレットを追うことだったから」

「「え?」」

「たぶん、檻が壊れたんじゃないかな? 僕の部屋から道路が見えるから。そこからフェレットが走っていたからね。昨日はそれを追いかけてたんだ」

 僕の部屋から道路が見えるのは本当だ。嘘の部分があるとすれば、僕が追いかけたのではなく、呼ばれたという部分だが、いくらなんでもフェレットから呼ばれたといわれても信じられるはずがないだろう。

「それ本当なの?」

「うん、今は僕の部屋にいるよ。朝、来る前にはまだ寝てたけどね」

 わ~、と歓喜の顔が二人に浮かぶ。おそらく、夜の事故の話を聞いてずっと心配してたのだろう。安心してくれて何よりだ。

「それで、そのフェレットだけど、僕の家で飼えるようになったから」

 ただし、僕の部屋限定だが。それ以外だと秋人がフェレットくんをいじめそうで怖い。

 その朗報に二人が沸いていた。当たり前だ。昨日までは、フェレットが手の届かないところに行くものだと思っていたのだから。昨日はフェレットの処遇について話し合ったが埒が明かなかった。アリサちゃんの家は犬、すずかちゃんの家は猫。僕も秋人がいるから無理だと思っていたから。
 もしも、僕たちが無理だったら、あのフェレットはどうなっていたのか分からない。少なくとも自分たちの手の届く範囲にいるのは嬉しいことだろう。喋れるという部分を除いても珍しいペットであることだし。

「それじゃ、名前つけてあげないとね」

「名前?」

 ああ、そうだ。すっかり忘れていた。
 昨日はもう疲れ果てていたから、とりあえずの寝床を作って、すべてを明日に回してしまったせいで彼の名前すら聞いていない。フェレットくんは、自分のことを異世界からやってきたと言っていた。つまり、ある程度の文明が築かれており、固体を示すであろう名前も持っているのだろう。
 ならば、この場で勝手に名前を決めるのは非常に拙いような気がするが、アリサちゃんとすずかちゃんは既に乗り気だった。

「そうねぇ……可愛い名前がいいわよね」

「だよね。あんなに可愛かったんだから」

 昨日の話を聞いていた限りでは、彼は男のように思えるのだが。可愛い名前ということは、女の子風な名前をつけられるのだろうか。
 僕は話の流れについていけないまま、ただ聞いていたが、エリザベスやら女物の名前が並ぶ。

「ねえ、ショウくんはどれが良いと思う?」

「そうよ、あんた一応飼い主なんだから決めなさいよ」

 さて、困った。先ほどから並んだ名前はすべて女物。男であろう彼に名づけるには見当違いだと思うのだが。
 僕は、期待したような表情で見てくる二対の目に視線を向ける。
 明らかに、先ほどから候補に上がった中から選べとその目が語っていた。だが、それでいいのだろうか。そのそも、彼は交流がもてるのだ。万が一、名前がなかったとしても勝手に名づけるわけにはいかない。
 だが、それをアリサちゃんとすずかちゃんに説明することもできない。もしも、僕はフェレットと会話することができるんです、なんていえば、頭がおかしくなったと思われてもおかしくないのだから。

 さて、本当にどうしたものか、と腕を組んで迷っているところに始業を告げるチャイムが聞こえた。

「あ~、もう、チャイム鳴っちゃったじゃない」

「アリサちゃん、名前はゆっくり決めれば良いじゃない」

「まあ、ずっとショウの家にいるなら、それもそうね」

 どうやら、フェレットくんは学校のチャイムに救われたようだった。
 アリサちゃんとすずかちゃんは、勝手に借りていた僕の前と隣の席の椅子から離れると自分の席へと戻っていた。

 ふぅ、と安堵の息を吐いた僕の目の前には、広げられたノートと計算ドリル。

 ―――ああ、しまった。宿題終わってないな。

 それから、五分の間で必死に脳をフル回転させながら、僕は宿題を終わらせた。



  ◇  ◇  ◇



 さて、学校の授業というのは、一週間ごとのスケジュールが決められている。それらに関して殆ど変更はない。例外があるとすれば、災害のとき、あるいは、先生たちの都合があるときだ。そして、今日はその例外に該当していた。
 三年生にもなれば、高学年と同等とはいかないが、それに準ずるだけのコマ数の授業がある。毎日、五コマの授業はある。だが、今日はどうやら先生たちが新年度の職員会議ということで、午前中で授業が終わった。
 私立のためか給食という概念がない聖祥大付属は、授業が終わって短い清掃時間を終えて、簡単なホームルームで終わりだ。ここまでの時間で十二時にもなっていない。放課後に、学校で適当にお弁当を広げて遊んで帰るか、家に帰って一度集合しなおすかは個人の自由だ。
 ちなみに、僕はお弁当を持ってきている。いつもなら、誰か適当な人間を捕まえて一緒に食べるのだが、今日のところは悩まなくてもよかった。先約が昨日の夜に入っているからだ。

 よっ、と机の端に引っ掛けている鞄を手に取ると僕はすぐに教室から出ようとした。しかし、それを呼び止める声が背後から聞こえ、僕は足を止めて後ろを振り向いた。

「ショウ、あんた、今日のお昼はお弁当なんでしょう? だったら、屋上で食べましょう」

 流れる金髪を靡かせて、ちょこん、と弁当箱をつまんでアリサちゃんが言う。その背後には微笑みながら返事を待っているすずかちゃんの姿もあった。
 よくある光景だ。僕はクラス内のグループをうろうろしているので、アリサちゃんたちとも一緒に食べることはある。いや、塾の関係やアリサちゃんの英会話教室や本を借りる関係で―――お金の関係から貸せないことが心苦しい―――すずかちゃんの家に行くことも考えれば、このクラスで一番仲がよく、一緒にお昼を食べる回数も一番多いのかもしれない。

 いつもどおりの僕だったら二つ返事だっただろう。だが、今日は前述したとおり先約―――高町さんのことがあるので、そういうわけにもいかない。なにより、昨日の夜、「また明日」とは言ったものの具体的な時間を言っていなかった。僕よりも早く帰宅されてしまうと高町さんの家まで出向かわなければならなくなる。それはいささか時間の無駄だ。
 ちなみに、昨日の夜そのことに気づいて携帯電話を広げたのだが、よくよく考えれば、僕は高町さんの携帯の番号を知らなかった。しかも、今は個人情報もかなり厳しいものがあって、一年生のときの連絡網にさえ電話番号は載っていなかった。
 もっとも、載っていたとしても自宅の固定電話だから、夜遅くに電話するのはためらわれただろうが。

 さて、そんなわけで、僕は断りの返事をする。

「ごめん、今日は用事があって帰らなくちゃいけないんだ」

「なによ、あたしたちより優先することなんでしょうね?」

 どうやら、アリサちゃんの負けん気が出てしまったようだ。端から見れば、自分を優先しろという自己中心的な言い方に聞こえなくもないが、かれこれ二年以上の付き合いがある僕だ。彼女がこのような言い方しかできないことはわかっている。

「まあ、そうだよ」

 少なくともアリサちゃんたちのお昼と昨日の出来事を天秤にかけると優先すべきは、やはり昨夜の出来事だろう。

 僕が珍しく―――大体アリサちゃんやすずかちゃんにこんな言い方をされると僕は断れない―――あっさりと返事をしてしまったことにうっ、と怯むアリサちゃんだったが、さすがにここまで言われてしまえば、引き止めるほど彼女は子供ではない。

「ふんっ、いいわよ。あたしたちは二人でお昼を食べるからっ!」

「あ、ショウくん、また明日」

 おそらく屋上に向かうのだろう。アリサちゃんは少し怒ったような態度を見せて僕の横を通り抜けて、ドスドスという擬音が聞こえてきそうな歩き方で教室を出て行く。その後ろを困ったような表情をしてすずかちゃんが着いていき、僕の横を通り抜ける前に手を振って別れの挨拶をしてくれた。僕もそれに答えて手を振り、ごめんと心の中で謝りながら二人を見送った。



  ◇  ◇  ◇



 さて、アリサちゃんたちの相手をしていたので、もしかしたら帰ってるかもしれない、と不安になったのだが、幸いにして隣のクラスはまだホームルームが終わったばかりだった。このときばかりは担任の適当なホームルームに感謝である。
 ぞろぞろと教室から次々と生徒たちが出てくる。仲が良い友人なのだろうか。「今日は何する?」などと仲良さげに話しながら出てくる隣のクラスの生徒たち。彼らを注意深く見ていると、やがて僕が目的にしてた人物が出てきた。

 特徴的なツインテールをぴょこんと跳ねさせた少女―――高町さんだ。彼女は、鞄を背負って、どこか元気なさげに俯いて肩を落としているように見える。
 もしかして、昨日のことで疲れているのだろうか。もしかすると魔法とは非常に疲れるものなのかもしれない。生憎、僕は魔法が使えなかったため、そこらへんのことは分からない。
 だが、疲れているとしても、今日の話はしなければならない。なぜなら、高町さんがまだレイジングハートという魔法の制御機器を持っていて、彼女しかこの事態に対処できないとなれば、むしろ決定権を持っているのは高町さんといえるからだ。彼女が話を聞かなければ、何も始まらない。だから、悪いとは思うけど、少しだけ話を聞いてもらおう。
 もっとも、後でなにか甘いものでもご馳走してあげようと思う。疲れたときには甘いものとよく言うし。

 さて、そうと決まれば、早くしないと高町さんを見失ってしまう。だから、僕は彼女を見失わないように後ろから声をかけた。

「高町さん」

「ひゃいっ!?」

 僕は割りと分かりやすく、気配を殺したつもりはないのだが、どうやら高町さんからしてみれば、突然の衝撃だったらしい。あからさまに驚きと分かるような声を出して、飛び上がった。

「ああ、ごめん。もしかして、驚かしちゃったかな?」

 僕はあまりの驚きように困惑しながら謝る。高町さんは、どこか恐る恐るといった様子で後ろを振り返り、僕の顔を見た瞬間、まるで幽霊でも見たように目を丸くして驚いていた。
 まじまじと僕の顔を見ながら、高町さんは無言。一体、どうしたというのだろう?

「……蔵元くん?」

「そうだよ。蔵元翔太だよ」

 やがて、呟くように僕のことを確認する高町さん。本当にどうしたというのだろうか。
 そんな風に僕が顔を見ていたのが悪かったのだろうか、なぜかじわぁっと目が潤んでいるような気がする。

「た、高町さんっ!?」

 僕はあまりに突然の出来事に慌てた声を上げてしまう。困った、まったく意味が分からない。僕は一体なにをしたというのだろうか。肩を叩いただけで女の子を泣かせるようなことはしていないと天地神明に誓っていえるのだが。
 だが、僕の声で気がついたのだろうか。目をぱちぱちと瞬き、ごしっと袖で涙を拭う。袖が通った後、高町さんの顔には笑顔が浮かんでいた。

「えっと、高町さん、大丈夫? 僕何かした?」

「ううん、何もしてないよ」

「本当に?」

「うん、ちょっと目にゴミが入っちゃっただけだから」

 にゃははは、と笑う高町さん。その表情はとても作り笑いのようには見えない。これは、一安心しても良いのだろうか。少し気になるが、ここまで聞いても何も言ってくれないということは彼女には言う気はないということだろう。なら、これ以上、聞き出したとしても無駄だと思うので、とりあえず、この件は保留にすることにした。

「えっと、それじゃ、高町さん、今日はお弁当?」

「うん、お母さんに作ってもらった」

 僕は彼女の返事にほっと胸をなでおろした。もしも、彼女がお弁当ではなく家で食べるのであれば、一度、高町さんの家に行かなければならないからだ。今の状況とこの先の状況が分からない以上、彼女の家でおおっぴらに魔法の話などできない。だから、高町さんがお弁当を持ってきているのは好都合だった。

「それじゃ、公園で食べようか」

 海鳴市にある公園。サッカーや野球ができるほど広いというわけでもなく、ジャングルジムやブランコなどの遊具があるわけでもない、そんな場所。ゆえに平日の昼間はまったく人気がない。早朝や夕方は、ランニングなどをする人がいるが、お昼には本当に人気がない場所なのだ。

 僕は、それでいいかな? と問いかけるように高町さんに視線を合わせると、高町さんはうん、と頷いてくれた。

 さて、フェレットくんはきちんと来てくれているだろうか。


続く

あとがき
 なのはの映画を見に行きました。
 劇場版のヒロインは間違いなくプレシアだと思います(涙



[15269] 第十一話 中
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/02/14 22:03



 結論からいえば、フェレットくんは、きちんと来ることができなかった。
 ただ、手紙は見てくれたようで念話でこちらに話が来た。ただし、僕は聞こえるだけで返事はできない。昨夜、高町さんに話しかけることができたのはレイジングハートの助けがあったからだ。レイジングハートの助けがなければ、僕はただの魔力を持っている一般人に過ぎない。
 フェレットくんは、高町さんに誘導してもらって、僕たちがいる公園へとつれてきてもらい、何とか合流。その後、二人と一匹は公園のベンチの上で隣り合ってお弁当を広げ―――フェレットくんのお昼は僕と高町さんのお弁当のおこぼれ―――お昼を済ませた。
 さて、ご馳走様と手を合わせて、箸をおけば、後はまったりと午後を過ごすというわけにはいかない。

「さて、お昼も終わったところで、詳しく話を聞かせてもらう前に改めて自己紹介しようか」

 今朝気づいたのだが、僕らの自己紹介は後回しにされている。だから、僕は未だにフェレットくんの名前さえ知らない。さて、誰から自己紹介を始めようか、とも思ったが、やはりここは僕が一番だろう。

「僕は、蔵元翔太。友達は僕のことをショウと呼ぶよ。だから、高町さんもフェレットくんもそう呼んでくれると嬉しい」

「分かったよ。ショウ」

「……え?」

 フェレットくんは僕の呼び方をすぐに了承してくれたのだが、なぜか高町さんは驚愕と言う表情を浮かべていた。

「………私が、そうやって呼んで良いの?」

 まるで、触れるのを怖がる子供のように恐る恐る尋ねてくる高町さん。
 僕にはただ名前を呼ぶだけなのにそんなに恐れる理由がよくわからない。だが、恐れていると読み取れる以上は、過去に何かあったのかもしれない。だから、僕はできるだけ安心させるような笑みを浮かべて彼女に言う。

「当然だよ。高町さんが僕なんかと友達になるのは嫌だっていうなら、話は別「そんなことないっ!!」

 実に力強い返事だった。僕は、その返事に気圧されたように「そ、それならショウでいいよ」としかいえなかった。

「う、うん……ショウ……くん」

 やはり、いきなり名前というのは恥ずかしいのだろうか、半分顔を俯け、頬を赤く染めながら、高町さんは僕の名前を呼んでくれた。なぜ、驚いたのか、とか気になるところも多いが、高町さんは嬉しそうに笑っているから良しとしよう。

「それじゃ、次は僕ですね。僕は、ユーノ・スクライア。スクライアは部族名なので、ユーノと呼んでください」

「分かったよ。ユーノくんと呼ばせてもらうよ」

 まるでファンタジーのような名づけ方だ。ファンタジーの中では苗字がなく、ただの村の名前を苗字代わりにしているという話もある。ユーノくんの場合は、それに近いのだろう。

「ああ、それと、もう少し砕けた話し方でいいよ。僕たちと同じぐらいの年齢なんでしょう?」

「あ……うん、分かったよ。これでいい?」

 ユーノくんが伺うように僕に聞いてきたので、頷く。なんだか、同年代から敬語を使われるというのはやはり気まずいものがある。これで少しすっきりした。

「それじゃ、最後は高町さんだよ」

 僕が声をかけると、びくんと肩を震わせていた。何か不安なのだろう。肩を震わせていた。なぜだろう? 単なる自己紹介なのに。だが、やがて決意したような目をして高町さんは口を開く。

「う、うん。高町なのはです。えっと……なのはって呼んでください」

「うん、よろしく。なのはちゃん」

 至って普通の自己紹介だった。一体、彼女はなにを気負っていたのだろうか。僕には分からなかったが、彼女なりの葛藤があったのだろう。結局、ユーノくんはなのはと呼ぶことになった。

「さて、自己紹介も終わったところで、今回のことについて話してもらおうかな」

 僕の言葉にユーノくんは、まるで自分の罪を思い起こす罪人のように目を瞑り、すぐに瞼を開いてつぶらな瞳でこちらを真剣な表情で見てきた。

「うん。今回のことの始まりをすべて話すよ」

 それからユーノくんが語ったことは僕にはにわかには信じられないことだった。

 彼らの一族は、発掘を生業とする一族であるようだ。フェレットが大量に遺跡発掘というのも興味がある。それよりも、一体どうやって発掘しているのだろうか。そのための魔法だろうか。それはともかく、彼らがいつものように遺跡を発掘していると、その中から件の物体を見つけた。そう、問題の根幹であるジュエルシードである。

 このジュエルシードは文献で個数と効果が分かっている。個数は全部で21個。その内、僕たちが持っているのは、ユーノくんがかろうじて回収した一つと昨夜の一つで合計二つ。つまり、後19個残っている。

 効果は、術者の魔力を受けて願いを叶えるというものらしい。ただし、その願いを叶えるという作用は、悪魔の契約にも近いものらしいが。たとえば、運動会で一番になりたいと願うと他の出走者が全員、事故や病気で休み一位になるというひねくれ方だろうか。

 また、その効果のために内包する魔力もとてつもなく巨大であり、彼らの手には負えないということで、この世界の警察にあたる時空管理局とやらに売買というかたちで保存を依頼した。そして、それらに封印を施し、時空管理局に民間の運送屋に運搬を頼んだ。ここまでは順調だった。だが、運んでいる途中で何らかの運搬船が事故にあってしまう。このとき、ジュエルシードは地球にばら撒かれたようだ。

 幸いにして乗組員は全員、救助船で脱出に成功していたらしい。もっとも、成功していなければ、ユーノくんはここにはいなかっただろう。彼らの報告を聞いて、ユーノくんは地球―――彼らの言い方でいうなら第97管理外世界に来たのだから。

「これで、僕の事情は以上だよ」

「なるほどね」

 さて、一気に事情が分かっただけに少しだけ頭を整理する必要がある。

「それじゃ、質問だよ。時空管理局にすべてを任せるってわけにはいかなかったの?」

 聞けば、時空管理局とは警察のようなものらしい。ならば、事故が起きた以上、しかも、運搬の途中ならなおのことユーノくんになんら責任はなく、時空管理局とやらに任せてしまっても良いような気がするが。
 だが、僕の考えとは裏腹にユーノくんはどこか意思が篭った瞳をしていた。

「僕は、発掘の責任者だから。ジュエルシードが地球にばら撒かれたのは、僕のせいなんだ。だから、僕がなんとかしないと」

「いや、でも、運搬の途中で、しかも、事故ならユーノくんに一切責任はないでしょう?」

 事故まで予測しなければならないとなれば、責任者はいくつ首があっても足りなくなる。
 しかし、こうやって声を聞いていると彼は声変わりもしていない子供のような声なのに責任者をやっているのか。ユーノくんは異世界出身で、文化や習慣が違うはずだからそんなものか、と思ってしまうけど、現実的に考えると無謀だと思う。

「そうかもしれない。でも、ジュエルシードは危険なものなんだ。だから、管理局にすべて任せていたら被害が出るかもしれないと思って……」

「どういうこと?」

 管理局とは時空管理局だと分かるが、それでも彼らに任せていると被害が出るというのが意味が分からない。

「管理局はとても大きな組織で、多くの時空を管理しているんだ。だから、とても初動が遅い。さらに言うならジュエルシードの封印がまだ効いていると彼らは思っている。僕も予想外だったけど」

 巨大な組織ゆえの弊害らしい。しかも、どうやら、運搬時にジュエルシードにはきちんと封印がなされていた。だが、それが事故で弱くなってしまっているようだ。封印が効いていれば、危険度は格段に下がってしまう。しかも、魔法がない管理外世界だ。ジュエルシードが魔力に触発されて起動するとすれば、魔法がない管理外世界は、管理内世界よりも発動する可能性が低いと考えるのは妥当だろう。
 これらの理由を考えれば、確かに管理局がいつまで経っても来ないことは理解できる。

 ユーノくんも万が一、と思って地球に来たら、その万が一が起きていたのだから笑えない。なるほど、それならユーノくん一人でこの世界に来たことも納得だ。封印が利いている青い宝石を集めるだけのお使い程度の行動。確かに大人は必要ないだろう。

「なるほどね、了解したよ。なのはちゃんは何か質問ある?」

 さっきからずっと黙って話を聞いているなのはちゃんに話を振るが、彼女は、フルフルと顔を横に振っただけで否定の意を表していた。

「それじゃ、次は今後のことか」

「あの……」

「ん、なに?」

 やや、ユーノくんがその短い手を挙げていた。なにか言いたいことでもあるのだろうか。

「怒らないの? 僕のせいでこんなことに巻き込まれてしまったのに」

 僕は、言いにくそうな声を出すものだから、何を言うかと思えば、こんなことだ。いや、責任感の強いユーノくんからしてみれば、こんなことではないのかもしれないが。
 だが、ユーノくんは少し気負いすぎだと思った。彼がこのままではいずれ責任という見えない重圧に潰されてしまうんじゃないか、とそう思わせるほどに。だから、ここで少しだけでもその荷を降ろすような言葉をかけても決して罰はくだらないだろう。

「怒らないよ。もしも、ユーノくんが来てくれなかったら、僕は死んでいたかもしれないからね」

 僕の言葉にぎょっと驚いたような表情をするユーノくんとなのはちゃん。
 驚くのも分かる。死ぬなんて言葉は簡単に口にして良い言葉ではないから。だが、それでも、おそらくこの結論は間違いではない。

「昨夜のジュエルシードの思念体は、魔力のある人を追ってきたんだろう? だったら、ユーノくんがいなければ、間違いなく僕となのはちゃんが襲われていた」

 はっ、としたような表情をなのはちゃんとユーノくんはした。
 もはや過去のことを仮定しても意味がないものだが、それでも、もしもと仮定すれば、僕となのはちゃんはジュエルシードに襲われており、下手をすると家族をも巻き込んでいたかもしれない。

「だから、ユーノくんが来たことに感謝することはあっても、怒ることはないかな。そもそも、事故なんだし。仕方ないよ」

 死んでしまえば、仕方ないでは済まされないこともあるかもしれないが、こうして、ユーノくんのおかげで僕たちは生きている。ならば、事故は仕方ないで済ませ、これ以上は何も言わない。むしろ、これからを考えたほうが建設的だ。

「だから、もう過去の話はおしまい。これからについて考えよう」

「うん、ありがとう」

 なのはちゃんは、なぜか少し驚いたような表情をしており、ユーノくんは感極まったのか、泣きそうな顔をしていた。
 ユーノくんが背負い込んでいるものが少しでも軽くなればいいけど。さて、このしんみりとした空気はあんまり好みではない。さっさと次の議題に移ることにしよう。

「さて、これからのことを考える前にいくつか質問があるんだけど」

「なに? 僕が答えられることなら何でも答えるよ」

「まず、ジュエルシードって暴走前でも探せるの?」

「大体の場所しか分からないかな。でも、発動すればすぐに分かるよ」

「そうなんだ」

 まあ、全部の場所があっさりと分かるって言うなら、こんなに苦労はしてないよね。暴走前にジュエルシードを全部集めることができるはずだし。

「じゃあ、次にあのジュエルシードの思念体っていうのは、昨夜と同じ連中が出てくるの?」

 もし、すべてが同じ姿形をしているなら、対処法は実に簡単になってくる。ゲームの必勝法と同じだ。同じロジックを使ってくる奴なら、こちらも必勝用の同じロジックを繰り返せば良い。ゲームなら面白みの欠片もないだろうが、これは現実だ。面白い面白くないで対処するのは間違いだ。

 できれば、そうであって欲しいと願ったのだが、無残にもその願いは退けられた。

「たぶん、その可能性は低いよ」

 ユーノくんの話だと、昨夜のあれは、ジュエルシードが大気中の魔力素を吸って励起状態になったものらしい。だが、ジュエルシードの本来の使い方であれば、生物が何かを願った時点で発動するため、その発動させた生物が歪む可能性が高いようだ。
 しかも、生物が発動させた場合、思念体よりも肉体的にも強くなるらしい。あの思念体でもアスファルトを軽く抉る力があったのに。

「ジュエルシードの暴走体に対して物理攻撃は効くの?」

「いや、基本的には効かないと思う。ただ、生物に取り付いて、その生物を強化した形なら効くかも。でも、最終的には魔法で封印する必要がある」

「なるほどね。それじゃ、最後に……魔法について教えていいのはどのレベルまで?」

「……できれば、ショウやなのはぐらいまでにして欲しい」

 なんでも管理外世界に魔法のことを教えるのは法律違反らしい。もっとも、僕たちのような場合は例外当たるらしいが、積極的に教えるのはダメらしい。

「了解。僕からは大体これぐらいだけど……なのはちゃんは?」

 一応、聞いてみるがやはり首を左右に振るだけだった。
 質問がないときというのは、話をまったく理解できなかったか、すべてを理解してしまったかの二通りがあるのだが、僕にはなのはちゃんがどちらに属するのか分からなかった。ただ、後で理解して質問してもまったく問題ないわけだから、今は話を進めようと思う。

「さて、それじゃ、これから僕たちが取れる方針としては三つぐらいかな?」

 僕は右手を上げて三本だけ指を立てる。

「まず一つ目、積極的行動として、まだ封印が効いているジュエルシードを探し当てるっていう方針」

 指を一本折り曲げて、二本にする。

「二つ目、消極的行動として、ジュエルシードが発動したときだけ対処するっていう方針」

 最後にまた指を一本折り曲げて、一本にする。

「三つ目、何もせずに時空管理局が来るまで待つ」

 それぞれにメリット、デメリットがある。
 一つ目の方法は、メリットとして昨夜のような目に会わないかもしれないけど、デメリットとして非常に労力が必要だろう。なにせ場所がきちんと分からないのだから。この海鳴市を歩き回る必要があると思う。

 二つ目の方法は、メリットとして一つ目ほど労力が必要ではないけど、デメリットとして昨夜のような戦いをあと19回繰り返さなくちゃいけない。

 三つ目の方法は、メリットとして労力も戦いもないけど、デメリットとして自分たちの街が壊されちゃうかもしれない。しかも、クラスメイトや家族が巻き込まれる可能性がある。

 どれも一長一短だ。しかしながら、方針を提案していながら実は僕に決定権はない。決定権を持っているのは―――

「どうしようか? なのはちゃん」

「ふぇ? わ、私?」

 突然、話を振られたことに驚いているのか、自分で自分を指差して、授業中に夢うつつのところを教師に当てられたような顔をしている。

「そうだよ。なのはちゃんが決めてくれないと」

 そう、偉そうに何かを提案しているように見えるが、実は僕には決定権がまったくない。現状、僕は、魔力を持っているらしいが、それを魔法という形で使うことはできない。それができるのはレイジングハートを持っているなのはちゃんだけ。つまり、これからの行動を決めることができるのはなのはちゃんだけなのだ。

「え……ショ、ショウくんが決めてよ」

「ダメだよ。これからのことはなのはちゃんが主役なんだ。脇役の僕が決めていいことじゃない」

 他人から決めてもらうことは確かに楽かもしれない。だが、そこには自分の意思がない。ならば、その決定に心血注ぐことができるだろうか。表面上は可能かもしれないが、心底というのはやはり無理だと思う。自分で決断するということが大切なのだ。だからこそ、僕はなのはちゃんが決断するのを待つ。
 もちろん、僕はその決定に従うし、最大限、手伝いはするつもりだ。乗りかかった船というのもあるが、僕から見ればなのはちゃんも小学校三年生の女の子。僕としては心配なのだ。もっとも、現状は僕はむしろ一緒にいるとなのはちゃんから護ってもらう立場になってしまうので、何か手を考えなければ、と思ってはいるが。例えば、レイジングハートなしで魔法が使えないか、とかである。

「えっと……その……」

 さて、なのはちゃんは迷っているのか、僕のほうをちらちらと見ながら唸っていた。
 だが、僕は何も言わない。僕の意見は提示している。ならば、後はなのはちゃんが決めるだけだ。僕はゆっくりと彼女が決断するのを待つしかない。

 やがて、なのはちゃんは意を決したのか、う~、と唸って、閉じていた口を開いた。

「……本当に私が決めるの?」

「なのはちゃん以外には誰にも決められないよ」

 それが契機になったのだろう。気合を入れるようにぐっ、と胸の前に両手を握り、ぐっと身を乗り出して真剣な瞳で、震える声で彼女の意思を告げる。

「わ、私は……ショウくんと、一緒に、ジュエルシードを探したいっ!」

 つっかえつっかえだったが、僕は確かになのはちゃんの意思を聞いた。ならば、僕の返事は唯一つだ。

「分かったよ。僕も手伝うよ」

 できるだけ柔和に言ったつもりだ。そして、僕の言葉を聞いたなのはちゃんは、少し驚いたような表情をした後ににっこりと笑ってくれた。



  ◇  ◇  ◇



「二人とも、ありがとう」

 僕たちがジュエルシードを集めると決めたあと、ユーノくんがご丁寧に頭を下げてくれた。
 だが、僕は何と言っていいか分からない。その決定は僕が決めたわけではなく、なのはちゃんが決めたからだ。僕はその意見に追従しただけ。お礼を言われるべきはなのはちゃんだ。

 だが、そのなのはちゃんは、困ったような顔をして僕の顔を見ていた。どうやら、なのはちゃんも何を言って良いのか分からないらしい。

「お礼を言われるようなことじゃないよ。どちらにしても、ジュエルシードを放っておいたら、僕たちの街に被害が出ていたんだから」

 うんうん、と隣で頷くなのはちゃん。最初から自分で言ってくれるとありがたいのだが。

「さて、しかし、僕たちがジュエルシードを集めるとなると話を通さないといけない人がいるね」

「え?」

 なのはちゃんが、そんな人いるの? といった様子で声をあげ、小首をかしげている。

「ほら、なのはちゃんのお兄さん……ひいてはなのはちゃんの家族に話しておかないと」

 なのはちゃんが選択したのは一つ目の方針。なら、これから放課後は殆どジュエルシード集めに費やされることになるだろう。僕もしばらくは塾を休まなければならないかもしれない。もっとも、塾と街の平和を天秤にかけた場合、街の平和に傾くのは当然の摂理ではあろう。
 もしかしたら、日が暮れる頃までは探す必要があるかもしれない。ジュエルシードは暴走すると非常に危険なものだから。だからこそ、話を通す必要があるだろう。昨夜のこともあることだし。

 それに、もう一つ、なのはちゃんが夜に外出する許可とは別に下心があった。それは、久しぶりに思い出したこと。この世界が『とらいあんぐるハート3』に酷似した事象を持つということ。アリサちゃん然り、忍さん然り、なのはちゃんのお兄さん然りだ。ならば、『とらいあんぐるハート3』の主人公―――高町恭也さんの最大の特徴もあるかもしれない。

 すなわち、彼らが取得している剣術だ。

 ゲームに関するシナリオの殆どを覚えていない僕としては、彼らがどれくらいの強さか覚えていないが、もしかするとジュエルシードに対抗できる―――牽制できる程度でも強ければ、もしも、ジュエルシードの暴走体と戦うときなのはちゃんの負担が減るのではないか、と考えている。

 もっとも、そんなことを考える前に魔法という奇想天外なものを認めてもらうという壁が待っているのだが。

 まあ、ケ・セラ・セラだよね。


続く

あとがき
 ユーノと時空管理局等については細かいところがなかったので勝手に保管です。
 あくまでユーノの話を聞いた翔太の一人称でできているのでご注意ください。
 しかし、長い……後半戦は戦闘です。



[15269] 第十一話 後 修正版
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/02/17 22:32



 所変わって、場所は高町家のリビング。そこは、家族の憩いの場であるにも関わらず、奇妙な空気が渦巻いていた。
 僕の正面には、高町さんのお父さんとお母さん、お兄さん、お姉さんが神妙な顔をして座っている。対して、僕の隣にはなのはちゃんとユーノくん。もっとも、ユーノくんはフェレットなので人数には数えられない。
 傍から見れば、子供に説教する家族のようにも見えないこともない。そのぐらい、なぜかぴりぴりした空気だ。

 なぜ、こんなことに? と思う。

 最初は、翠屋へ向かって、なのはちゃんのお母さんに接触を持った。なのはちゃんについて大事な話があります、と切り出して。そうしたら、奥からなのはちゃんのお父さんが出てきて、彼女の家に向かうことになった。さらに、なのはちゃんの家には彼女のお兄さんとお姉さんがいて、これで見事、高町家が全員集合したことになるのだ。

 さて、しかしながら、こうしていつまでも睨めっこしている場合ではない。誰かが切り出さなければ、話が進まない。だから、僕は全員に注目が集まる中、最初の一言を切り出した。

「まずは、お忙しい中、お時間を取っていただきありがとうございました。これから話すことは、きっと信じられないことかもしれません。驚くこともあるかもしれません。それでも、事実なんです」

 そこでいったん区切り、僕は彼らの反応を見た。驚くことに誰一人揺らいでいなかった。普通の家族なら、子供が何を言っているんだ、と胡散臭いと疑うような視線を向けられてもおかしくないのに、彼らは揺らぐことなく僕に続きを促していた。

 そういうことなら、と僕は安心して昨夜からの流れを余すところなく話した。

 ユーノくんのこと。ジュエルシードのこと。ジュエルシードの暴走体のこと。それらに対抗する手段として魔法があること。現段階で、この近くに魔法を使うためのエネルギー源である魔力を持つ人間は、僕となのはちゃんしかいないこと。しかし、僕は魔法を使うためのデバイスであるレイジングハートを使えず、なのはちゃんしか使えないこと。先ほど、話し合い、僕たちは、ジュエルシードを積極的に集める方針を採ったこと。

 本当はこれらを話すと言った際にユーノくんと一悶着あった。しかし、この世界では、僕たちの年齢は子供であり、保護者の親の許可を貰う必要があるとなんとか説き伏せ、了解を貰ったのだ。いくらなんでも僕たちの年齢では、当事者だけでは決められないだろう。

 僕は、それらを一つ一つを丁寧に話していった。彼らは話の間に口を挟まなかったけど、何かを言いたそうにしていた。
 いや、分かる。僕だって、もしも娘と同い年の男の子から魔法だのなんだの告げられれば、それは妄想に近い類にしか思わないだろう。だからこそ、口を挟まずに聞いてくれた彼らには感謝するしかなかった。

「―――僕からは以上です」

 ぺこりと感謝の意も込めて頭を下げる。
 僕が語り終えた後の高町家の反応は微妙なものだった。僕の説明は確かに詳細なものであり、妄想と切って捨てるには具体的過ぎるのだろう。しかも、その内容になのはちゃんも関わっているとなると、さらに判断は難しくなる。
 さて、ここでもう一押しと思い、僕の膝の上に立っていたユーノくんに続きを促した。

「ご紹介に預かりました、ユーノ・スクライアです。お宅の娘さんを巻き込んでしまって申し訳ありません」

 ペコリと頭を下げるユーノくん。だが、高町家の面々は、フェレットが頭を下げるという芸よりももっと度肝を抜かれたようであったようだ。

「……フェレットが喋った」

 呆然とした様子でなのはちゃんのお姉さんが呟くように言う。当たり前だ。この世界では、動物が人語を喋ることはまずない。百聞は一見にしかずというが、これで少しでも魔法を信じてくれればいいのだが。
 そんな僕の思いを汲み取ってか、ユーノくんはさらに説明を続ける。

「ショウが言ったことはすべて事実です。お願いします、なのはさんの力を僕たちに貸してください」

 ぺこりとまた頭を下げるユーノくん。こんな状況でなければ、フェレットという小動物が頭を下げるというのは非常に愛らしい姿ではあるのだが。

 さて、と僕は高町家の面々の様子を探ってみる。
 正面に座ったなのはちゃんのお父さんは腕を組んで考え事をしているようにも思える。おそらく、先ほどまでの状況を整理しているのだろう。周りの家族はまるで家長の判断を待つように沈黙を保っていた。

 やがて、なのはちゃんのお父さんが腕を解き、手を組んで僕を真正面から見てくる。

「君が言いたいことは分かった。魔法があるというのも事実なのだろう」

 おや、思っていた以上にさっさりと認めてくれた。もう少し、説得しなければならないと思っていたのだが。もしかしたら、なのはちゃんに目の前で変身までしてもらわなければならないと思っていたのに。

「正直に言うと、俺は子供が危険なことに首を突っ込むのは反対だ」

「お父さんっ!?」

 なのはちゃんがお父さんの言い方に驚いたような声を上げる。だが、子供に危険なことには首を突っ込んでもらいたくないと思うのは、親としては当然のことだと思う。たとえ、それが他人の子供であっても、だ。ましてや、魔法など得体の知れないものになればなおさら。

「だが、魔法というものはなのはや君でなければならないのだろう?」

「ええ、そう聞いています」

 ユーノくん曰く、近辺に魔力を持った人間というのは僕となのはちゃんだけなのだ。もし、大人の人が魔力を持っているならば、その人に託しただろう。もっとも、その人の人柄にもよるだろうが。

「本当に俺たちにも魔力がないか試してくれないかい?」

 それは、親としての最後の悪あがきなのだろうか。いや、万が一の可能性にかけているのだろう。
 もっとも、先日のユーノくんの呼びかけに答えていない段階で、彼らに魔力がないことは明白なのだが。だが、自分の娘が首を突っ込むともなれば、それでも諦めきれないのが親心なのだろう。

 だから、僕は、ユーノくんにそっと目配せをした。つまり、試してみようということだ。
 彼は、僕の意を汲んだようにコクリと頷くと目を瞑って意識を集中させていた。

 ―――聞こえますか。ユーノ・スクライアです。―――

 僕の頭の中に聞こえるユーノくんの声。相変わらず、鼓膜を震わせることなく声が聞こえるというのは変な感覚がするものだ。

「どうですか? 何か聞こえましたか?」

 高町家の面々が顔を見合わせるが、誰もが首を横に振る。やはり、誰にも聞こえなかったらしい。

「なのはには聞こえたのか?」

 なのはちゃんの顔を覗き込むように彼女のお父さんが、なのはちゃんに尋ね、彼女はそれにコクリと頷いた。
 その反応を見て、ふぅとため息をつくなのはちゃんのお父さん。

「ユーノくんだったかな? そのジュエルシードの暴走体とやらを封印するのは魔法じゃないと無理なのかい?」

「はい、あれは魔法の産物です。最終的に、封印するには魔法が必要となります」

「でも、封印する前の段階だったら物理攻撃は効くはずだよね」

 え? という表情をする高町家の面々とユーノくん。
 公園での質問で僕は既に確認していた。すなわち、ジュエルシードの暴走体について物理攻撃が効くかどうか。あの時は、ここまでのことは考えていなかった。僕たちの手に負えなくなったら警察でも何にでも駆け込んで銃等でなんとかできないか、と考えていた程度だったのだから。
 まさか、こんなところで役に立つとは。

「う、うん。最終的に封印はできないかもしれないけど、効くか効かないかって言われると……」

「つまり、物理攻撃である程度弱らせて、最後に魔法で封印なんてこともできるんだよね?」

 か、可能か不可能かで言えば、可能かもしれない、とユーノくんは自信なさげに呟くように言う。

 もしかしたら、ユーノくんも確信を持てていないのかもしれない。ジュエルシードの暴走体という存在に対峙するのは初めてだろうし。もっとも、僕の考えで言えば、昨夜の暴走体はコンクリートに穴を開けたり、物質に干渉できていた。つまり、実体が存在するということである。
 つまり、幽霊のような存在ではないため、物理攻撃も効くものと考えられる。

「だったら、俺たちも手伝えるかもしれない」

 え? という声を上げるユーノくんとなのはちゃん。僕は、とらいあんぐるハート3の知識から大体そうじゃないかと疑っていたからあまり驚きはなかった。
 そんな彼女たちを余所になのはちゃんのお父さんは言葉を続ける。

「自分で言うのもなんだが、俺たちは中々に強いと思う」

 コクリと頷くなのはちゃんのお兄さんとお姉さん。
 とらいあんぐるハート3の世界と酷似しているならもしかしたら、と思っていたが、そのもしかしたらが良い方向に当たってくれていたようだった。
 彼らから発せられるどこか剣呑した雰囲気。素人である僕が感じられるほどに触れれば切れるという感じの雰囲気だった。

「しかし、危険ですっ!」

 だが、そんな雰囲気の中でもユーノくんは反対していた。
 ユーノくんは彼らの強さを知らないからだろう。もっとも、僕も彼らが強いということは分かるが、果たしてジュエルシードの暴走体に対抗できるほど強いかどうかは分からない。
 なにせ相手はコンクリートに穴を開け、アスファルトを砕くほどの力を持っているのだ。果たして生身の人間がそれに対抗できるのか? 僕には分からない。

「それは、なのはも変わらない。魔法が使えれば無敵というわけではないだろう? 魔法というのは対抗できる力かもしれないが、危険がゼロというわけではない」

 違うかい? という視線を向けられて、ユーノくんは項垂れるしかなかった。
 確かに、昨夜のことを見ていると魔法を使えても危険なこともあるのかもしれない。昨日は幸いなことに知能があまり高くなかったからプロテクションという魔法一つで何とかなった感があったが、ユーノくんの話では生命体に取り付くこともあるらしい。
 その際に知識というのはどうなるのだろうか。少なくとも昨夜の暴走体よりも賢くなることは間違いないだろう。ならば、この先、なのはちゃんの危険性も増す可能性は高い。
 つまり、なのはちゃんのお父さんが言っていることはただしいのだ。

「でもっ!」

 それでも、魔法を使えない人には……という思いがユーノくんにはあるのかもしれない。
 生憎、僕には魔力があっても魔法が使えないから、ユーノくんが思っていることは分からない。魔法というものがどこまでの可能性を持っていているのか想像できないからだ。
 それに対して、なのはちゃんのお兄さんやお姉さんに関しては、強いということは分かるからユーノくんのみたいに彼らを強く否定できない。

「ユーノくん、とりあえず、一度―――」

 着いてきてもらうよ、と続けようとしたところで、突然、脳裏に電流のようなものが走った感覚がした。
 それは、なのはちゃんも同様のようで頭を押さえていたが、同時にある方向を見つめていた。

「これは……ジュエルシードっ!?」

 ユーノくんが叫ぶ。
 しかし、なんという出来すぎたタイミングなのだろう。

 高町家の面々には一度、着いてきてもらったらどうだろう? という提案をしようと思った矢先の出来事だった。都合がいいといえば、都合がいいのかもしれないが。あまりに出来すぎたタイミングは僕に不安を呼び込む。
 だが、そんなことは考えていられない。なぜなら、これがジュエルシードの暴走した証だというのならば、今まさに昨夜のような思念体が街のどこかにいるということなのだから。
 はっきりいって、話し合っている場合ではない。あんなものが、日中に街中で暴れでもしたら、どれだけの被害が出るか分からない。
 だから、僕は先ほど提案しようと思っていたことをその場でぶちまけた。

「ジュエルシードが暴走したようです。正直、時間がありません。だから、とりあえず見に行きませんか?」

 こうして、僕たちは準備をした恭也さんと美由希さん―――名前で呼ぶように言われた―――と共に反応がある場所へ急いだ。



  ◇  ◇  ◇



「すごい……」

 僕の感嘆の呟きがその場のすべてを示していた。

 ジュエルシードの反応を追ってやってきた場所は、海鳴市にある神社の一つだった。
 恭也さんたちに背負われて―――その方が明らかに早い―――やってきた神社の鳥居をくぐると、その先に広がる開けた場所、その奥に神社。その開けた場所には、倒れた女性と四つ目の異形な形をした大きな犬のような怪物が存在していた。
 ユーノくん曰く、あれが、生命体に取り付いたジュエルシードらしい。生命体を取り込んでいるだけに思念体よりも手ごわくなっているらしい。確かに、見た目からしてかなり恐怖感は感じられる。
 ちなみに、僕たちが到着した直後にユーノくんが昨夜と同じ結界を張り、女の人はこの空間からいなくなった。

 この空間にいるのは高町家の面々と僕とユーノくんだけだ。

「いくよ、レイジングハート」

 一歩前に出るなのはちゃん。情けないことだが、僕には何もできない。魔力があろうとその扱い方をまだ知らない僕は足手まといにしかならない。だから、僕はなのはちゃんに頑張って、と後ろから声をかけることしかできなかったのだが、その一歩前に出たなのはちゃんを制する手が恭也さんから出た。

「なのは、下がっていろ。少しの間、ここは俺たちに任せてくれ」

 それはつまり、彼らの強さが、あいつに通用するか確かめるということなのだろう。

「そんなっ……」

 なぜか驚いているなのはちゃんだが、彼らはこのために来たのだ。だから、僕も後ろから肩に手を置いて、なのはちゃんを下がらせて、一言、頑張ってください、と告げた。

 それからは怒涛の展開だ。

 恭也さんと美由希さんが持っていた小太刀を二本構えたと思ったら、暴走体に突撃、近接戦闘を繰り広げ始めた。
 生憎ながら、素人である僕では、一体なにが起きているか分からない。せいぜい、小太刀を振るいながら、暴走体の爪や牙などの攻撃を避けていることぐらいしか分からない。

 そして、冒頭の感嘆の声に繋がる。

「確かにすごい……でも、このままじゃダメだ」

 僕の呟きを聞いていたのか、僕の肩に乗ったままのユーノくんが深刻そうな声で言う。

「え? ダメなの?」

 僕の目には、恭也さんや美由希さんが押しているようにしか見えない。
 現に、暴走体は、円を描くようにある一定の範囲から動いていない。それは、恭也さんや美由希さんが上手いこと死角をとって小太刀を振るい、暴走体はそれを追いかけるからだ。
 時折、消えたとしか思えないほど高速で動いているような気がする。うっすらと覚えている内容だと、彼らの剣術の中には、高速移動に近い技があったはずだから、おそらくそれだろう。
 どちらにしても、ダメージが一方的に蓄積されているのは暴走体で、恭也さんたちは傷一つ負っていない。まさに恭也さんと美由希さんのワンサイドゲームと言っても過言ではないような展開なのだが、ユーノくんからみると拙いらしい。

「うん、あの暴走体、確かに恭也さんたちの攻撃で、傷を受けてるけど……すぐに回復している」

 確かによくよく見てみると暴走体は刀で斬られているにも関わらず、血が流れておらず、傷口というものが存在していないように見える。つまり、斬った直後に回復しているということだろうか。

 暴走体は傷を負わないが、逆に恭也さんたちに傷を与えることはできない。恭也さんたちは、傷を受けないが、傷を与えられない。なるほど、暴走体を手玉にとってはいるが、倒す術がない以上、千日手に近い。

「やっぱり魔力ダメージがないとジュエルシードは封印できない」

 そんなユーノくんの呟きが聞こえたのか、恭也さんが一気に勝負に出た。鞘から抜いていた二本の小太刀を鞘に一度戻し、直後、白銀の光が煌いたかと思うと、小太刀を納めた恭也さんを仕留めるチャンスとでも思って襲い掛かってきていた暴走体を一気に五メートルほど吹っ飛ばした。
 もう、何がなんだか分からなかった。とりあえず、気づいたら暴走体が吹っ飛んでいた。

 よほどの威力だったのだろう。今まで傷が瞬時に回復していた暴走体が血を流しながら地面に伏している。

 これは……チャンスか?

 そう思っていたのだが、それも一瞬だった。伏していた暴走体が、すぐさま起き上がり、瞬時に血を流していた傷を回復。グルルルルと唸った直後、前足に力を入れているのが伺えた。
 まさか、飛び込んでくるため? と恭也さんたちも思ったのだろう。小太刀を構える。だが、それはある意味的外れな対抗だった。暴走体が考えていたのは、飛び掛るなんてことではなかった。

 バサッ、と何かが広がるような音が響く。

 暴走体の背中から蝙蝠のような翼が生えて、翼を広げたときの音だった。

「どういうこと!?」

「恭也さんたちに適わないとみて進化したんだ。取り付いた生命体の願いが強くなりたい、なら、恭也さんという強敵が現れたから、それに対抗したんだ」

 なんてことだろう。恭也さんたちが魔法を使えずとも戦えることが裏目に出てしまった。

「なのはちゃんっ!!」

 このままだと、恭也さんたちが上空から襲われると思い、なのはちゃんの参戦を願ったのだが、僕が声をかけずともなのはちゃんはそのつもりだったらしい。既に昨夜、見た聖祥大付属小の制服によく似た衣服に身を包み、左手に赤い宝石がついた杖を持っていた。

 なのはちゃんが暴走体を見据えて、手をかざす。それだけで、せっかく翼を生やした暴走体は、その進化の成果を見せることはできなくなってしまった。

 ――――GRAAAAAAAAAAAAAAA

 地面から生えてきた桃色の帯に締め付けられてしまった暴走体は、その桃色の帯から抜け出そうと雄たけびを上げながら、身を揺するが、よほど強く縛られているのだろう。その場から動くこともできない。翼もその場でばたばたと動くだけで、その四肢を地面から離す事もできないようだった。

 すぅ、となのはちゃんがスナイパーのように杖を構える。

「レイジングハート」

 静かに赤い宝石の名前を告げ、レイジングハートは静かに呼びかけに応えるようにAll rightと返す。

 変化は直後に訪れた。杖の先端が分解され、変形し、杖の先端部より少し下から桃色の翼が三つでてくる。赤い宝石の先端に桃色の球体が現れ、キューンと魔力をチャージしているような感覚に襲われる。

「これは……まさか砲撃魔法!? 僕も使えないのに」

 呆然としたようなユーノくんの声が僕の耳に響く。

 どうやらなのはちゃんが行おうとしている魔法は、砲撃魔法という類の魔法らしい。確かにレイジングハートは銃のような形になっているような気もする。
 ユーノくんすら使えない魔法を使えるなのはちゃんに驚きだ。つまり、それは魔法機器であるレイジングハートを完全になのはちゃんが使いこなし、魔法というものを使いこなしていることを意味している。しかも、教師もなしに。昨夜と今日の短時間で、ユーノくんが驚くほどに魔法というものを理解しているなのはちゃんは、やはりこの分野では天才なのだろう。

 僕とユーノくんが驚嘆でなのはちゃんの魔法を見ていたが、やがてなのはちゃんが集中するように瞑っていた目を開いた。

「貫いてっ!!」

 その叫びの直後、桃色の一条の光が暴走体を貫く。その光に包まれた暴走体の額に浮かんだのはギリシア数字で十六。

「リリカルマジカル……ジュエルシード封印っ!!」

 なのはちゃんの呪文と共に桃色の光は太くなり、一気に魔力の塊を吐き出した。

 ――――GRUUUUUUUUUU

 犬のような暴走体は、断末魔の叫び声を上げながら、桃色の光に分解され、直後に残ったのは、小さな犬と元凶である蒼い宝石―――ジュエルシードだけだった。
 分解されたジュエルシードはまるで吸い込まれるようにレイジングハートに流れていき、赤い宝石の中に身を沈めた。

「えへへ、やったよ、ショウくんっ!」

 嬉しそうに笑いながらぐっ、とガッツポーズをするなのはちゃん。

「うん、さすがだね。やっぱり、なのはちゃんはすごいな」

 僕はそんな彼女に素直に賞賛の声をかけるしかなかった。
 胸のうちに魔力を持っていながら、何もできなかった自分を情けないという思いを少しだけ抱きながら。



  ◇  ◇  ◇



 その後は、解放された犬と気を失っていた飼い主さんを介抱し、飼い主さんが気づいた後に解散になった。
 恭也さんと美由希さんは、魔法というものを目の当たりにして、その威力に驚いていた。しかし、どこか浮かない顔をしていたような気がするのは気のせいだろうか。

 結局、恭也さんたちにはジュエルシード捜索に加わってもらうことにした。
 確かに魔法という側面から見れば、恭也さんたちの協力は必要ないかもしれない。だが、それでも今日のことからも分かるように足止めや牽制にはなるのだ。その間に後ろでなのはちゃんが魔法を準備する。
 ゲームで言えば、恭也さんたちは壁となる戦士で、後方で大きな魔法を準備する魔法使いがなのはちゃんだ。

 さらに彼らがある程度、大人であることも僕たちにとっては有り難い事実だ。日が暮れた後に小学生だけで歩くのは危険だ。補導などのことも考えれば、小学生が夜に出歩くことは好ましくない。ただし、恭也さんか美由希さんがいれば、それは多少なりとも緩和される。
 美由希さんは高校生だが、そもそも僕たちは小学生だ。日が暮れるまで探すにしても八時が限界だろう。ならば、高校生の美由希さんが保護者でも大丈夫だろう。もちろん、恭也さんのほうが大学生という身分から考えれば、歓迎なのだが。

 さて、帰宅した僕には、本日最後の戦いが待っていた。

 つまり、なのはちゃんの家と同じく、僕の両親の説得だ。

 僕は現状、何もできない。だが、この事件のきっかけを作ったのは僕だ。ならば、力がある人が現れたから後はお任せします、というのはあまりに無責任すぎる。だから、せめてジュエルシードを探すことぐらいは、手伝おうと思う。暴走体との戦闘になれば、なのはちゃんたちに頼るしかないのだが。

 結果からいうと、両親の説得という戦いには何とか勝利した。僕の粘り勝ちだ。
 条件として、危険なときはすぐに逃げる。必ず携帯で定時連絡する。高町家に挨拶に行く。という三つが付け加えられたが。
 最初は酷く反対されたのだから、ここまでに条件を緩和できたのだから大したものだと自負している。

 ちなみに、魔法に関しては割りとあっさり信じてくれた。原因は、僕だ。小学生で高校生レベルの問題も少し習えば解けるなんて鳶が鷹を生むってレベルじゃないほどの異常さを見せる僕がいるから、魔法なんてもものもあっさり信じてくれた。
 なるほど、と納得してしまう自分が憎い。

 そして、夜、僕はベットに横になりながら、机の上のバスケットの中で寝ているユーノくんに語りかけた。

「ユーノくん、僕に魔法を教えてくれない?」

「え? いいけど、デバイスがないから大変だよ」

「それでも、何か一つに絞れば短い期間でも何とかならないかな?」

「まあ、それならなんとかなるかも……」

 そう、僕は魔法を覚えたかった。
 僕は関係者だ。でも、僕だけが何もできない。恭也さんと美由希さんは身体を張って戦う。なのはちゃんは主力だ。ユーノくんは、結界を張っている。僕だけがなにもしてない。ただの傍観者だ。僕が記録者ならいいかもしれない。でも、僕も当事者だ。ただ、見ているだけというのがとても口惜しかった。

 レイジングハートが使えなかった僕が魔法を覚えるのは大変かもしれない。何もしなくても、ジュエルシードは順調に集まるのかもしれない。それでも、僕の中では何もしないという選択肢はなかった。
 簡単な魔法でもいい。それでも、何かに役立つ魔法を一つでも良いから覚えたかった。もしかしたら、覚えられないかもしれないけど、それでも足掻きもしないというのは間違っているような気がした。

「それじゃ、明日の朝から頼んだよ、ユーノくん」

「うん、デバイスがないからきっちりいくよ」

「望むところだよ」

 僕たちは寝床に入りながら、お互いに笑いあった。


続く

あとがき2
*緑茶さん、mujinaさんのご指摘の通り、翔太の両親への根回しを忘れていました。プロットにはあったのに……修正版です。

あとがき
 恭也の強さが分からなくてアニメ(OVA)を見たが……いや、強すぎる。
 特殊部隊を相手にしても一人でなぎ倒すって……まあ、ある程度強い設定でいきます。

 現時点での魔法のレベルは、ドラゴンボールで言うと
 なのは:孫悟天
 翔太:ビーデル
 ぐらいの差があります。ちょっと例えが古いかも……

 以下、とらいあんぐるハートを知らない人へちょっとした補足

 高町恭也:とらいあんぐるハート3の主人公。黒っぽい服装を好み、趣味も盆栽と若者とはいえない趣味を持つ。
      性格的には冷めた一面を持っているが、なんでも受け入れる広い心を持っている。
      本編の魔法に関しても、割と普通に受け入れている。理由はもう一つあるが、別の機会に。
      高町士郎の実子ではあるが、桃子との間に生まれた子供ではなく、内縁の妻との間に生まれた子供である。
      ゲーム内では、士郎が死んだため、家族のために強くなろうと無理な鍛錬をして膝を壊す。
      本編では士郎が生きているため、膝を壊すことなく御神の剣士をやっている。

 高町美由希:とらいあんぐるハートのヒロイン。見た目の上では文学少女風。
       美由希も桃子と士郎の実子ではなく養子であり、彼らが使う剣術、御神流の本家の生き残りである。
       他の家族はテロの影響で全員死んでいる。(母親は生きているが、今は行方不明)
       恭也を師匠として御神流を継承しようとしている。御神流正当後継者である。
       ゲーム本編との差異はほとんどない。

 御神流:正式名称、永全不動八門一派・御神真刀流小太刀二刀術

 以下、御神流の技(本編登場分のみ)

 神速:簡単に言うと火事場の馬鹿力を自分の意思で起こす技。身体的、神経系的に能力が上昇する。
    この状態になると周囲がモノクロに見え、高速で動くことができる。
    本編の「人が消えたように……」の部分はこの技の発動中である。

 小太刀二刀御神流 奥技之六 薙旋
 二つの小太刀を使った連撃である。抜刀術の一つで、高速に敵を切りつける。恭也の得意技の一つ。
 本編で暴走体を吹っ飛ばした奥義の一つである。



[15269] 第十一話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:0fea2e6b
Date: 2010/02/20 11:30



 ピピピピとカーテンから差し込む朝日を浴びた携帯電話が震えながらアラームを鳴らす。
 その音に反応して、携帯電話が置かれた枕元に布団の中から手が伸びてきて、ピンク色の携帯電話を掴み、布団の中へと持っていってしまった。その直後、布団がばさぁっと舞い上がる。布団の中から出てきたのは、栗色の髪を肩より少し下まで流した小学校中学年程度の女の子。この部屋の主である高町なのはだった。

 彼女は、身体を起こすと急ぐようにベットから飛び降り、ばたばたと着替え始める。掛けてあった制服に袖を通し、下ろしていた髪をリボンで変則的なツインテールにする。それが終わると、顔を洗うためにパタパタパタと駆けながら、部屋のドアを開け、階段をタンタンタンと下りていく。階段を降りきり、リビングに顔を出すとなのはの母親である桃子が朝食を作っており、なのはの鼻をくすぐった。

「あら、なのは、今日は早いわね」

「うん」

 桃子の少し驚いたような声を軽く受け流し、なのはは洗面所へと駆け込んだ。

 桃子が驚くのも無理はない。なのはが起きるのはいつも学校に間に合うぎりぎりの時間。むしろ、自発的に起きてきたことが珍しい。いつもは、美由希か恭也が起こすまで起きないのだから。

 顔を洗ったなのはが洗面所から出てきて、リビングにあるテーブルに座る。彼女が一人で座るのはいつものことだが、目の前に熱々のソーセージと目玉焼きが並ぶのは初めてだ。

「どうしたの? 今日は何かあるの?」

「ちょっと」

 桃子が何かを探るように声を掛けるが空振り。そんなことは知ったことか、といわんばかりになのはは、お皿に盛り付けられた目玉焼きやソーセージをいただきますと手を合わせた後にいつもより明らかにハイペースで口の中に詰め込む。
 はぐはぐはぐという擬音をつけたほうがいいのだろうか。いつものなのははこんなに能動的ではない。のろのろと口に運び、時間ギリギリになって手を合わせるのだが、今日は、一秒も無駄にはできないと言わんばかりに急いでいる。
 桃子が呆然としている間にあっという間になのはの朝食が盛られた皿は空っぽになってしまった。

「ごちそうさま」

 丁寧に手を合わせてお辞儀をしてなのはは、席を離れてパタパタパタと二階に駆け上がると、すぐさま降りてきて玄関に走り、用意していたお弁当を鞄に入れると、いってきます、という言葉と共に外に飛び出した。

「……いったい何があったのかしら?」

 昨日とは違いすぎるなのはに呆然と疑問の声を漏らすしかない桃子だった。



  ◇  ◇  ◇



 朝食を急いで食べたなのはは近くの停留所で聖祥大学付属小学校が動かしているバスに乗り込むと友達と仲良く話している聖祥大付属小の生徒を無視して一人座席に座る。いつもなら、周りの生徒を目に入れたくなくて俯いて、半分夢の中に逃げ込んでいたなのはだったが、今日は、まっすぐ前を見ていた。なぜなら、今日のなのはには希望があるからだ。

 ―――また明日。

 昨夜の去り際の蔵元翔太との単なる口約束。だが、それでも、蔵元翔太が口約束とはいえ、約束を違えるとは到底なのはは思えなかった。だからこその希望。
 ただ、翔太は、時間の指定をしていなかった。朝か、昼か、夕方か。それはなのはには分からない。だが、もしも万が一、翔太が朝のつもりだったら、なのははいつもなら遅刻ギリギリにいくものだから、翔太に会えないかもしれない。
 いや、会えないだけならまだしも、なのはが一番恐れることは、翔太にそれで呆れられることだ。約束も守れない高町なのはだと翔太に認識されることだ。
 だから、今日は今まで一度も使っていなかった携帯電話のアラームも使って起きた。本当なら朝は苦手なのに頑張って起きたのだ。

 やがて、バスはなのはを聖祥大付属小学校へと運ぶ。

 バスから降りたなのはは教室へと一人向かう。まだ、比較的朝が早いためか周りにクラスメイトの姿は見えなかった。それは、なのはがいる教室も同じで、なのはが来るいつも時間なら殆どの人間が来ているはずだが、今日は数人しか来ていなかった。しかも、彼らはよっぽど真面目なのだろう。机の上に教科書とノートを広げてカリカリカリと今日の予習をしていた。もしかしたら、宿題かもしれないが、それはなのはの知る由でもない。
 いつもより、一時間ほど早く教室にたどり着いたなのはは、とりあえず、教室の中に翔太の姿が見えなくてほっとした。どうやら、まだ来ていないようだった。もっとも、なのはよりも早く来た可能性もあるのだが、一生懸命思い出した一年生の頃の記憶を掘り出してみれば、翔太がくる時間帯は、だいたい始まる三十分ぐらい前だったはずだから、可能性は低いだろうと、なのはは考えていた。

 さて、後は翔太が来るまで何をするか、だが、幸いにして自分ひとりだけで時間を潰す方法に関していえば、よく知っていると自負している。鞄からつい最近まで読みかけだった文庫本を取り出して、挟んでいた栞が示すページから読み始める。だが、内容はさほど頭に入ってこない。読んでいたとしても気づけば、一行飛ばして読んでいたりして、いつもよりも明らかにペースが遅くなっていた。

 いや、原因は分かっている。要するになのはは気になって仕方ないのだ。いつ、翔太が来るのか。今までなのはがこのように誰かを待つというのは初体験だ。また、明日といわれて待つ時間。それはまるで友達のようで、なのはにとってはその待つ時間も楽しいものだった。いつ、来るのだろう? と思いながらなのはは、ただ待っていた。

 しかし、なのはの期待を余所にいつまで経っても翔太が表れることはなかった。

 そうこうしている内に朝の始業のチャイムが鳴り響く。どうやら、朝の時間では翔太が来ることはなかったようだ。
 しかし、今日という日は始まったばかりだ。そう、自分を慰めて、なのはは、翔太を待つことにした。

 一時間目の休み時間―――来ない。

 二時間目の休み時間―――来ない。

 三時間目の休み時間―――来ない。

 最初のうちは気丈にきっと次の時間こそは、もう少ししたら、と思っていたなのはだったが、だんだんと不安になってきた。もしかしたら、翔太が来ないんじゃないか、という不安がこみ上げてきたのだ。
 しかし、その思いをすぐになのはは否定する。なぜなら、彼はあの蔵元翔太だ。なのはにとっての理想を体現した人だ。ならば、約束を違えるなんてことは絶対にしない。だから、なのはは次の時間はきっと、と待ち続ける。

 だが、四時間目の休み時間も彼の姿がなのはの教室に現れることはなかった。

 さすがにここまで来ないと、もしかして来ないんじゃないかと不安に駆られる。しかし、ならば、なぜ? という疑問が浮かび上がる。
 一つの可能性としては、翔太が約束を忘れていることだが、それはありえないとなのはは断言する。憧れていたから、理想の体現だったから、一年生の頃、なのはは翔太を観察していたといっても過言ではない。そんな中、彼が約束を破るということはなかった。
 もう一つの可能性としては、昨日の約束を翔太が約束と認識してない可能性だ。

 ―――また、明日。

 なのはが思い描いた妄想の中には友人との別れ際に告げる言葉の一つではあった。なのはにとっては初めて言われた言葉で、約束と思ったのだが、それは翔太からしてみれば、日頃ありふれた言葉で、例えば、友人ではないなのはにも言うほど軽い言葉―――社交辞令に近い言葉だとしたら。

 その考えに至った瞬間、ぞくっ、とした悪寒になのはは襲われた。それは考えてはいけないことだった。
 昨日からなのはは帰り際のその言葉に有頂天になっていたのだ。気分が高揚していつもはかけない目覚ましまでセットして、一時間も早く登校して、昨日の一言を楽しみにしていたのに。それが、実はただの勘違いだとしたら。なのははどれだけ滑稽なのだろう。

 ―――嫌だ、嫌だ、嫌だ。そんなはずない、蔵元くんはきっと来てくれる。

 その考えを頭から消すように左右に振る。
 だが、時間は無常に流れていき、気づけば、帰りのショートホームルームさえ終わりかけていた。
 早く終わって欲しいとなのはは思っていた。早く終われば、隣のクラスに翔太の様子を見に行くことが可能だから。だが、生憎ながら、このクラスの担任は話が長いことで有名だった。だから、第二学級のクラスの帰りのショートホームルームが終わるのはいつも最後だ。

 そして、ショートホームルームの最中、隣からワイワイガヤガヤと何かから開放されたような声が聞こえた。
 隣のクラスのショートホームルームが終わったのだ。隣のクラスが下足場に向かうためには必然的に第二学級の前の廊下を通らなければならない。だから、ばたばたと下足場へと向かう生徒がいる中で、幾人かは足を止め、第二学級が終わるのを待っている。おそらく、第二学級の友人を待っているのだろう。
 こっそりと、廊下を見るなのは。もしも、その中に翔太がいれば、なのはは、安心できただろう。なぜなら、二年生になってから翔太が隣のクラスに顔を出すことなど滅多になかったのだから。つまり、彼が待っているということは、明確な用事があることに他ならない。まだ、昨日の約束を信じているなのはにとってはそれが最後の希望と言っても過言ではなかった。だが、だがしかし、その希望は脆くも無残に砕け散った。

 廊下で待ち合わせているであろう面々の中に翔太の姿はなかったからだ。

 しかも、第一学級の生徒たちは、全員もう教室から出て行ってしまったのだろう。つまり、翔太はなのはのことなど一切気に留めることなく帰宅したということだった。

 その事実がなのはを打ちのめす。ああ、そうだ。信じた自分が滑稽だったのだ。

 ―――また、明日。

 それはありふれた言葉。しかし、初めての言葉。舞い上がり、忘れていた。自分がすべてを諦めてしまっていたことを。しかし、昨夜、魔法という蔵元翔太でさえも適わない力を手に入れてしまったことも起因しているのだろう。彼から繋がれた手が、暖かい言葉がなのはに夢を見せていたにすぎないのだ。
 魔法という力を手に入れようとも、蔵元翔太にとって高町なのははそこら辺の他人と変わらないのだろう。

 結局、期待した自分がバカで滑稽だったのだ。

 そう、そう思っていたからこそ、また、一年前と同じくせっかく手に入れた魔法も忘れて、すべてを諦めて同じように生きる屍のように過ごそうと思っていたからこそ、帰り際に背後から肩に手を置かれ、名前を呼ばれたときは、「ひゃいっ!?」なんて情けない声を出してしまった。もっとも、学校で帰り際で名前を呼ばれることなどなかったので、すっかり気を抜いてしまっていたことも少なからず原因ではあるが。

 そして、振り返って、そこにいたのが、翔太であると確認したとき、思わず泣いてしまいそうになった。
 彼が、社交辞令で「また、明日」と告げたわけではないと分かったから。確かな約束でなのはに告げてくれたことを知ったから。そして、そんな彼を疑ってしまった自分が情けなかったから。

 その後は、泣きそうな顔を見られてしまったが、なんとか持ち前の演技力で誤魔化すことができた。
 すぐ泣いてしまうような情けない女の子と見られたくなかったから。それは、せめて蔵元翔太の前では、良い子でありたいというなのはのせめてもの抵抗だった。



  ◇  ◇  ◇



 初めての経験だった。いや、誰かとお弁当を食べることではない。少なくとも一年生の頃はなのはも誰かとお弁当を食べるようなことはあったのだから。二年生になってからは、あまり記憶がない。教室内にいても、みんなが仲良くお弁当を食べている姿が、目に入るのが嫌で、抜け出していたから。初めてだったのは、こうして会話しながら、お昼を食べるという光景がだ。一年生の頃は、確かに誰かと食べていたが、会話はしていなかった。いくらなんでも、相手が言ったことにただ頷いているだけの行動を会話とは呼ばないだろう。相槌というのだ。
 だが、今日は、違った。翔太はわざわざなのはに話しかけ、答えを待っている。この状況に慣れておらず、舌が回らないなのはは、まごついてしまうが、それでも翔太はなのはが答えるのを待っていた。初めて、なのはは会話らしい会話をしながら昼食を食べたのだった。

 しかしながら、昼食という時間は永続的に続くわけではない。当然ながら、弁当が空になれば、その時間は終わってしまうわけで、終わると、次はお互いに自己紹介に移っていた。その中で、なのはは単純に自分の名前ぐらいを言えばいいか、と気楽に考えていたのだが、途中、翔太がとんでもないことを言い、なのはの度肝を抜いた。

「友達は僕のことをショウと呼ぶよ。だから、高町さんもフェレットくんもそう呼んでくれると嬉しい」

 それは、つまり、蔵元翔太が高町なのはを友達と認めるということだろうか。
 最初、意味が分からなくて、呆然としていたなのはだったが、やがて、気まずそうな顔をして前言を撤回しようとしていた翔太を見て、すぐさま正気に返り、彼の申し出を急いで肯定した。

 嬉しかった。友達と言ってくれたもの、初めてできた友達が蔵元翔太のようないい子だったことも。
 彼と一緒にいれば、自分もいい子になれると思ったから。彼なら、自分に色々なことを教えてくれるような気がしたから。だから、なのはは名前を許可されて、若干緊張しながら初めて名前を呼ぶ。

「う、うん……ショウ……くん」

 呼び捨てはさすがにハードルが高かったのでこれぐらいで勘弁してほしい。しかしながら、なのはは自分で頬が緩んでいるのが分かった。初めての友達だ。かつて、なのはが切望して、熱望して、渇望したものだった。しかも、その相手は、ずっと理想としてきた蔵元翔太だ。文句の言いようがなかった。

 だが、彼女の幸福は今までの不幸をすべて帳消しにするかのように続いた。

 翔太がフェレット―――ユーノというらしい。正直、翔太と友達になれたことで頭が一杯で聞いていなかった。―――と何かを話している。どうやら、今後の方針を決めているようだった。ジュエルシードという危険物を集めるか否か。なのはにとってはどっちでもいい話だった。
 昨夜、助けたのも翔太でさえ適わなかった力を手に入れることで何かが変わるかも、と思ったからだ。現になのはは魔法の力を手に入れて、翔太と友達になれた。それだけで満足だったのだから。これから先は、一年生の頃に友達ができたらやってみたいことを翔太と一緒にやっていければいいな、と思うぐらいだった。

 だが、翔太はなのはに選択を迫った。

「どうしようか? なのはちゃん」

「ふぇ? わ、私?」

 寝耳に水だ。どうして、私が決めなくちゃいけないんだろう、と思った。

「え……ショ、ショウくんが決めてよ」

 そう、翔太が決めればいいのだ。それになのはは、絶対に従うのだから。そもそも、なのはは恐れていた。翔太の意に沿わない意見を言って、嫌われてしまうことが。表面に出さなくても、心の中で僅かに思われるのも嫌だった。せっかくできた友達なのに、こんな下らない選択肢で嫌われるのが嫌だった。だから、選択権を翔太にゆだねるつもりだった。この方法なら少なくとも、翔太に嫌われることはないから。

 だが、翔太は首を横に振る。

「ダメだよ。これからのことはなのはちゃんが主役なんだ。脇役の僕が決めていいことじゃない」

 この言葉になのはは、驚いた。
 今まで、なのはは、主役などになったことはない。主役どころか脇役にすら、いや、下手をすると舞台にすら上がったことがないのかもしれない。何かあれば、他人に流され、自分の意見を言うことなく、ただ隅で目立たないように存在しているだけ。もっとも、誰かに認識されることで存在を定義されるというのなら、認識すらされていなかったのだから、舞台にすら立っていなかったということになるのだろう。
 だが、翔太はなのはに君が主役だ、と告げた。その真意はどこにあるのか分からない。だが、なのはが読み取る限りでは、翔太がなのはを騙してどうこうという話ではなさそうだ。本当に翔太は、なのはが主役と思っているのだ。
 しかし、たとえ、そうだとしても、それはなのはが主役になったのではない。それは、翔太がなのはを主役に引っ張り上げてくれたのだ。もし、赤の他人に君が主役だ、などといわれてもなのはは信じることはなかった。
 友達になろうといってくれた翔太だから。憧れだった蔵元翔太だから、なのはは翔太の言葉を信じられた。

「……本当に私が決めるの?」

 最後の確認。だが、それでも翔太は首を縦に振る。なら、なら、もしかしたら自分が決めてもいいのかもしれない。
 それは、生まれてこの方、ずっと嫌われないように他人の意見に追従してきたなのはが初めて自分の意思を表に出そうとした瞬間だった。

 もしかしたら、嫌われるかも、でも……それでも、なのはの意思が通って欲しいという願望のほうが強くなっていた。

 緊張から身体中に力を入れながら、なのはは緊張から乾いた舌を一生懸命動かしながら、口を動かした。

「わ、私は……ショウくんと、一緒に、ジュエルシードを探したいっ!」

 この意見が受け入れられれば、ジュエルシードを探している時間はずっと翔太と一緒にいられる。初めてできた友達とずっと一緒に。だからこそ、なのははその言葉を口に出したのだ。
 なのはがこれ以上緊張することはないだろうと思いながら口にした一言に翔太は―――

「分かったよ。僕も手伝うよ」

 笑って肯定の意を示してくれた。
 それが、そのことが嬉しくて、なのはは最近になってようやく浮かべるようになった笑みを翔太に真正面から向けることができたのだった。



  ◇  ◇  ◇



 気づいたら、いつの間にか家に行っていて、ジュエルシードが発動して、姉に背負われて、近くの神社まで来ていた。
 本当にいつの間にか、だ。話は翔太と両親が進めるし、なのははいつものように流れに身を任せていたから。もっとも、それは翔太に全幅の信頼を置いていたからだが。
 だが、ジュエルシードの暴走体が目の前にいるならやることは唯一つだ。

「いくよ、レイジングハート」

 そう、自分にしかない力―――魔法の力を使って、暴走体を封印する。ただ、それだけだ。そして、また翔太に―――
 だが、前に出ようとしたなのはは、兄の制止する手によって遮られた。

「なのは、下がっていろ。少しの間、ここは俺たちに任せてくれ」

「そんなっ……」

 驚いた。あれは、あのジュエルシードの暴走体は、なのはが力を示すためのものなのに。あれがいなかったら、なのはは意味がないのに。
 だが、兄にそんなことを言える勇気はまだなのはになかった。ここで何か言って兄に嫌われるのは、嫌だったからだ。
 だからこそ、兄に従い、その場に立ち尽くすなのは。だが、直後、それは後悔に変わる。なのはは兄の制止を無視してでもレイジングハートを起動させ、昨夜のようにさっさと封印するべきだったのだ。

「……うそ……だよ」

 半ば呆然としたような声がなのはの口からこぼれた。
 なのはの目の前で繰り広げられるのは、兄である恭也と姉である美由希が昨夜の思念体とよく似た暴走体と互角に戦っているところだ。ダメージは与えられていないのだが、見ているだけなら確かに互角に見える。
 そして、なのはの耳は隣で同様に見ている翔太の口からこぼれた言葉を拾ってしまった。

「すごい……」

 その声に込められたのは確かな賞賛だった、感嘆だった。それを高町なのは許容できない。
 昨夜と同様に翔太に賞賛と感嘆を与えられるのは自分だけで十分だからだ。いや、それは自分だけの特権であるはずだからだ。魔法の力を持つなのはだけの。
 だが、現実的に翔太は、恭也と美由希に感嘆の声と賞賛の表情をしていた。

 ―――どうして? どうしてこうなった?

 なのはには今の現状が分からなかった。

 翔太と友達になれて、自分がこの件の主役で、魔法の力を使ってジュエルシードを封印して、翔太に温もりをもらえるはずだった。
 だが、今、その温もりの源である賞賛と感嘆を貰っているのは兄と姉だ。

 ―――嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 もし、もしも、このまま恭也と美由希が暴走体を倒してしまったら?
 答えは簡単だ。昨日の翔太の感嘆と賞賛の言葉は二人へと向かい、暴走体が二人でも抑えられることが分かれば、父親である士郎はなのはに危険なことに首を突っ込むなといい自分は決してこの件には関われなくなるだろう。

 ―――取らないで……私がやっと見つけた場所なのに……

 だが、その思いは声にはならない。彼らは戦っているからだ。
 どうする? どうしたらいい? どうしたら、兄たちに自分の居場所を取られない?

 なのはの幼い頭脳が一生懸命に思考する。結果、答えはすぐに見つかった。

 ―――ああ、分かった。私がもっと強くなればいいんだ。

 そう、すべては弱いからだ。強くなればいい。恭也も美由希も歯牙にかけないぐらいに。彼らが足元に及ばないぐらいに。そうすれば、恭也が、美由希が戦う必要もなく、なのはだけでいい。翔太も護りながら戦えるようになれば、彼も安心だろう。
 だから、だから、なのはは強くなろうと強く決意した。

「……レイジングハート、私強くなれるかな?」

 ―――Of course .You desire it.

 レイジングハートから返ってきた答えは《あなたが望むなら》。
 なるほど、ならば高町なのはは望むだろう。誰よりも強くなることを。それが、なのはが望む幸福へと繋がるのだから。

「レイジングハート」

 ―――All right.

 もはや目的を同じくした主従の間には起動ワードなどという無粋なものは必要なかった。名前を呼ぶだけで愛機は起動する。なのはの服が分解され、穢れを知らない純白を基調とした聖祥大付属小学校の制服のようなバリアジャケットが生成される。バリアジャケットの生成が終わった後、なのはの左手には杖の状態へと変化したレイジングハートが確かな重みを持って存在していた。

 昨夜のように暴走体を拘束して封印しようかと思ったが、それには兄と姉が邪魔だ。接近戦な上に高速で動いている彼らの中から暴走体のみを拘束できる自信がなのはにはなかった。せめて止まってくれれば……。そう思っていたなのはに機会が訪れた。
 兄の刀が煌いた瞬間に暴走体が吹き飛んだのだ。しかも、それなりのダメージを負っており、すぐに動けるような状態ではなかった。

 この機会を逃すほどなのはは惚けていない。たとえ、すぐさま傷が癒えようが、背中から翼が生えようが、なのはが拘束することにまったく問題はなかった。

 レイジングハート、となのはが願うだけで、暴走体は地面から生えた桃色の帯に拘束された。魔法の種類で言えば、バインドという魔法の類であることをレイジングハートが教えてくれた。
 そして、すぅとレイジングハートを地面と平行に構える。ここから、あれを封印するためにはそれが正しいとなのはは感覚で分かっていた。レイジングハートがなのはが望むように形を変える。いうなればカノンモード。射撃に適した形だ。
 先端の宝石部になのはから無尽蔵に供給される魔力が集う。その光を見てなのはは笑う。その輝きこそが、なのはの強さを示しているから。兄や姉すら適わなかったあの暴走体を屠る魔法の力が、確かにそこに集っていることを感じ取られるからだ。

「貫いてっ!!」

 なのはの叫びと共に桃色の光が暴走体を貫き、なのはの魔法の言葉と共にジュエルシードは封印された。

「えへへ、やったよ、ショウくんっ!」

 思わずガッツポーズ。あれほど押していた兄や姉さえも適わなかった暴走体を封印したのだから、きっと昨夜のように翔太は賞賛の声を掛けてくれると思ったから。そして、なのはの望みは適う。昔は遠くから見ているしかなかった、皆へ向ける笑みを浮かべて翔太は賞賛の声をなのはにくれた。

「うん、さすがだね。やっぱり、なのはちゃんはすごいな」

 その言葉で、なのはは笑みがこぼれるのを止めることができなかった。



  ◇  ◇  ◇



「あ、ちょっと待って」

 帰り道、別れ際に翔太がなのはを呼び止める。彼は、肩にユーノを乗せてポケットに手を突っ込んで何かを探しているようだった。やがて、取り出したのは、手の平サイズの黒い薄い箱のようなもの。一般的にいうなれば、携帯電話だ。

「なのはちゃん、携帯持ってる?」

 うん、と頷く。

「よかった。昨日、連絡しようと思ったら、僕、なのはちゃんの携帯知らないことに気づいたからね。だから―――」

 ドクン、と心臓が高鳴った。その、後に続きそうな言葉に予想がついたから。それは、携帯という道具を手に入れて以来、なのはが望みながらも、一度も言われたことない言葉。その言葉を言ってくれるような友達を熱望して、切望して、渇望したなのはがようやく手にした友人、蔵元翔太。彼からすぐにそんなが言葉が出てくるなんて、にわかには信じられなくて、だが、翔太は、なんでもないようになのはが望んでも口にされることのなかった言葉を簡単に口にした。

「携帯の番号交換しようか」

 望んでいたはずなのに。そんな風に言われたら、すぐに対応できるように説明書も全部読んだのに。
 翔太からそれを提案されたとき、すぐになのはは動くことができなかった。だが、動きが止まったなのはに小首をかしげた翔太をみて、初めて正気に戻り、いつも制服のポケットに入れっぱなしの携帯を慌てて取り出した。

「あ……ちょっと待って」

 ぱかっ、とピンク色の携帯を開いたなのはは慌てて携帯の電源を入れた。そう、なのははずっと携帯の電源を切っていた。鳴らない電話に意味はない。家族からも番号を登録したものの、かかってきたことは一度もない。なのはもかけたことがない。ならば、携帯が使われることはなく、電源を入れたままにすることは無駄だったからだ。

 電源のボタンを押しっぱなしにして、ようやく時計と日付が表示される。

「あ、できたよ」

「それじゃ、赤外線で」

 すぅ、と翔太が携帯を近づけてくる。しかし、なのはには赤外線の意味が分からない。さすがに説明書を全部読んだといっても二年も前の話だ。すっかり忘れている。

「あれ? もしかして、分からない?」

 コクリと頷く。

 素直に頷くのは戸惑ったが、ここで否定してもっと時間をかけることの方が心苦しかった。だから、なのは素直に頷く。そういうと、翔太は、なるほど、と頷いて、なのはに「ちょっと貸してね」と断わると、携帯をなのはの手から取り、ピコピコと操作し始めた、やがて、はい、と返されると、ディスプレイには「赤外線受信」と書かれていた。

「はい、携帯を近づけて」

「う、うん」

 恐る恐る携帯を近づけると、ぴこんという音と共にディスプレイに「蔵元翔太のアドレスを受け取りました」と表示された。ピコピコと携帯を弄り、アドレス帳を呼び出すと、全部で七件のアドレスが登録されていた。
 『お父さん』『お母さん』『お兄ちゃん』『お姉ちゃん』『お家』『翠屋』そして、つい先ほど登録された名前がそこにあった。

 ―――『蔵元翔太』

 そのディスプレイに新たに表示されたたった一件の名前が、なのはには誇らしく、愛おしく思えた。



  ◇  ◇  ◇



 暴走体を封印して、翔太から褒められ、さらに携帯電話の番号まで交換し、すっかり夢見心地になり舞い上がってしまったなのはだったが、家に帰って晩御飯を食べた後に士郎の部屋になのは一人だけ呼び出されてしまった。
 なんだろう? と疑問に思うものの、かつてないほどに気分が高揚しているなのはは特に気にすることもなく士郎の部屋へと向かう。ドアをノックし、部屋に入るとそこには、真面目な顔をして座っている士郎がいた。しかも、どこか空気が重いような気がした。

「座りなさい」

 士郎に促され、正面の座布団に座る。士郎の部屋は簡素なもので、タンスやらがあるだけで後は畳だ。普通はテーブルがあるのだが、今日はどこかにたたんでいるようだった。

「今日のことは恭也から聞いた。魔法を使ってユーノくんが言っていたジュエルシードとやらを封印したらしいな」

「うん」

「なのは、その魔法の力というのはとても大きな力だ」

 それはなのはも同意だ。なにせ、兄も姉も、あの蔵元翔太も適わなかった力だ。ならば、魔法の力というのは強大なものであることには間違いない。
 なのはがコクリと頷くのを確認して、士郎は言葉を紡ぐ。

「力そのものに善、悪はない。あるとすれば、それは使う人間次第だ。だからこそ、なのはにはその魔法の使い方を考えて欲しい。なのはは何のためにその力を使う?」

 そんなことは、決まっている。ジュエルシードを封印するためだ。そして、翔太に褒めてもらうため、構ってもらうためだ。なのはが魔法を使ってジュエルシードを封印する限り、翔太はなのはの傍にいてくれるだろう。だから、なのはは魔法を使う。ただ、それだけだ。

「それは、なのはの力だ。なのはが決めたことなら自由に使っていいと思う。だが、できれば、父さんは、恭也や美由希が学んでいる剣術―――御神流の理念である人を護るためにその力を使って欲しいと思う」

 何を言っているんだろう? なのはは、一瞬、士郎の言っている意味が理解できなかった。

 ヒトヲマモル、ひとをまもる、人を護る。

 どの口がそれを言っているというのだろう。

 なのはが幼い頃、一人でいることが寂しくて、耐えられなくて、夜に涙で枕を濡らしているときに助けてくれなかった人たちが、構って欲しくて後ろを着いていったり、遊んでと懇願していたのに、「忙しい」の一言でなのはを遠ざけていた兄や姉たちの理念が『人を護る』?
 ならば、幼い頃のなのはは人ではないとでもいうのだろうか。あるいは、護るに値しない子供だったというのだろうか。

 この部屋に入る前まで有頂天だったなのはの気分は今は地の底にまで落ちていた。

 暖かい何かが居座っていた心の中心は、思い出さないようにしていた幼い頃の記憶が思い出され、一気に冷却され、今は寂寥感に支配されていた。しかも、芋づる式にずっと寂しかった頃の記憶が思い出され、なのはの気分は底なし沼のように沈んでいく。

 心が冷たかった。

 今はただ、この部屋にいたくなかった。部屋に駆け込んで枕に頭をうずめて涙を流したかった。だから、なのはは小さく「わかった」と口にして、士郎の部屋を出て、すぐに自分の部屋へと駆け出した。



  ◇  ◇  ◇



 部屋に駆け込み、ドアを閉め、鍵を掛けたなのはは、ボスンとベットにダイブし、枕に顔をうずめて、涙を一滴流した。
 つい、一時間前までは、暖かかったのに、今ではすっかり絶対零度だ。寂しかった。家族以外の誰かの声が聞きたかった。ふと、横を見てみるとそこには久しぶりにポケットから出した携帯が。

 ばっ、と顔を上げるとなのはは急いで携帯を広げ、アドレスを開いて目的の名前を取り出す。

 ―――蔵元翔太。

 なのはは、震えて指を押さえながらも、その番号を選択する。トゥルルルルという呼び出し音が鳴る。

 心臓がかつてないほどに高鳴っていた。携帯電話を使うのが初めてだったからだ。それに、もしかしたら、出てくれないかもしれない。仮に出たとしても何を話せばいいんだろう。様々なことが頭を巡る。だが、三コール目にがちゃっ、という音と共に相手が出た。

『はい、ショウだけど、なのはちゃんどうしたの?』

 ついさっきまで聞いていた翔太の声が携帯から聞こえた。

「え? あ、あの……どうして、私のこと分かるの?」

『いや、ディスプレイに出るよね?』

 何を当たり前のことを、という感じで言われ、くすっ、という苦笑が聞こえた後に『変ななのはちゃん』、と言われた。
 ちょっとした会話。ただ、それだけで先ほどまでなのはの中で絶対零度だった心の中が暖かくなった。それは、翔太の声が昨夜や今日のこととを思い出させるからかもしれないし、初めての友達だからなのかもしれない。
 「へ? そ、そうなんだ」などと差し障りのない言葉を選びながら、なのはは強く思う。

 ―――ああ、この暖かさを絶対に手放したくないな、と。

 彼女の始めての携帯での会話は十分程度で幕を閉じるのだが、それまでなのは笑って会話できたことに満足する。
 それじゃ、お休み。とある種、定型の言葉をお互いに口にして携帯の通話を切る。切る直前まで耳に当てていた携帯をなのはは閉じるとそのまま愛おしそうに胸に抱き、先ほどまでの会話の相手の名前を呟く。

「―――ショウくん」

 今日はなんだかいい夢が見れそうな気がした。


 続く


あとがき
 番号交換のシーンについて
 翔太:何気ない日常であるが故に気にも留めない
 なのは:初めての友人、初めての番号交換



[15269] 第十二話
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/03/07 22:27



「先生、これ、ここに置きますよ」

 学年が上がると変わることがある。だが、同時に変わることがないこともあるのが事実だ。
 こうして、担任の代わりに小テストや宿題を持ってくることは三年目になった今でも変わらない。

「おお、蔵元。いつもありがとな」

 よほど忙しいのだろう。僕に目を向けることなく、カリカリカリと書類を書き続ける先生。もっとも、新学期が始まったばかりのこの時期に忙しくない先生などいるはずがないのだが。

「そう思っているなら、僕にも何かくださいよ」

「なに、お前の内申書はいつも美辞麗句で埋まってるぞ」

「いや、ダメじゃないですか」

 ははは、と笑う先生。

 いつものようなやり取りだった。定型文的なやり取り。だから、僕ははいはい、と言って職員室をそのまま出て行く予定だった。だが、背中を向ける直前、書類に目を落としていた顔を突然何かを思い出しように上げてた。

「ああ、そうだ、蔵元」

 くるっ、と椅子を回して僕の背中に声を掛ける先生。僕は、また何か雑用があるのか、と半ば呆れ顔でまた振り返り、先生と真正面から向き合う形となる。
 僕の予想はある意味で当たっていた。下らない、という部分に対しては。

「お前に春が来たって噂なんだが、本当か?」

「はぁ、春なら今の季節は確かに春ですが」

 僕は先生の言っている意味が分からなかった。そのニヤニヤとまるで初々しいものでも見るような表情もその言葉の意味もすべてが。
 とりあえず、言葉の意味のままにとってみたが、先生は額を押さえて参った、というような仕草を取って見せた。
 はて、僕は何か間違ったことをやってしまっただろうか。

「おいおい、蔵元。お前なら分かってくれると思っていたんだが、私の期待はずれか? 春といえば、あれだ。これだよ」

 そう言いながら小指を立てる先生。今の世代からしてみれば確かに古い仕草だろう。もしかしたら、今の若い世代には通じないかもしれない。だが、輪廻転生という摩訶不思議な体験をしている僕には通じた。そして、同時に先ほどの意味も理解できた。

「ああ、なるほど。そういう意味ですか」

「私には、この仕草が理解できて、さっきの言葉の意味が理解できないお前が分からないよ」

 そういわれても、今の僕は小学生という意識が強くて春が来たといわれても、彼女ができたという思考に結びつかないのだから仕方ない。もしも、僕が中学生ぐらいになれば、まだいくらか思考の回路は繋がったかもしれないが、この身体は小学三年生だ。勘弁してもらいたいものである。

 しかし、その春の意味が分かったとしてもさらなる疑問が出てくる。

「ん? でも、一体、どこからそんな話が出てきたんですか?」

「最近、お前、隣のクラスの高町と毎日帰ってるだろう」

「そうですね」

 最近、僕の放課後のスケジュールは、ジュエルシード捜索で埋まっている。
 あの神社の事件から早一週間近く経とうとしている。その毎日、僕はなのはちゃんと放課後を共にしている。と言っても、途中から恭也さんか美由希さんと合流するのだが。最終的に僕となのはちゃん、ユーノくん、恭也さんか美由希さんの三人と一匹でジュエルシードを探している。

 先生が言っていることも確かだ。しかしながら、男の子と女の子が一緒に帰るなんて小学生の中学年ならまだ普通だろう。僕の友達にだって家が近所だからという理由で一緒に帰っている男女を知っている。それが、なぜ、僕になるとそんな話に流れてしまうのだろうか。

「そりゃ、珍しいからだよ。お前が、毎日特定の誰かと帰ったことなんてあったか?」

 先生の言葉を聞いて考えてみたが、そういえば、僕は特定の誰かと毎日帰宅を共にしたことはない。
 なぜなら、僕はあちこちに顔を出すようにしているからだ。といっても、塾のときはアリサちゃんたち、サッカーなどのときは、男の子の友人といった風に特定のイベントに対して特定の友人というのは決まっている。しかし、毎日同じイベントが続くことはなく、結果として、毎日特定の誰かと帰宅するということはなくなるのだ。

「まあ、そんな感じで蔵元が、珍しく毎日同じ子と帰ってる。しかも、女の子。おお、蔵元に春が来たのか、と女性教師陣の間では噂になったわけだ」

「教師ってそんなに暇人なんですか?」

 しかも、仮にも教師がそんな噂を作って欲しくない。

「なに、女という生き物はいくつになっても恋バナに目がないものなのさ」

「はあ」

 僕は、呆けながら、そう返すしかなかった。先生の言うように女の子は恋の話が好きだということは聞いたことがある。僕が高校生のときは確かに誰々と誰々が付き合ってるなんて話はよく話題に上ったものだ。

「それに、まあ、憧れみたいなものもあるのかもな」

「憧れですか?」

「ああ、子供の頃って純粋な好意だけで恋愛ができるだろう? だがな、大人の恋愛って奴は面倒なんだ。結婚、子供、仕事、家族とかな。純粋な好意だけじゃできないことが多いんだよ。だからこそ、素直に好意を伝えられる子供の恋愛が羨ましいし、楽しそうに見えるんだろうな」

「先生……」

 実に感慨深い話だった。
 僕は結局のところ、経験と知識は大学生並だ。だが、それ以上、つまり、仕事をしている社会人としての経験も知識もない。だから、先生の言葉の端々から垣間見た大人の社会というものに思わず感心してしまった。

「で、結局のところ、どうなんだ?」

「先生……」

 真面目な顔をしていたのにすぐに好奇心を前面に出した表情に対して、先ほどと同じ言葉にも関わらず、感情的には真逆の感情を込めた呟きを吐き出すことしかできなかった。



  ◇  ◇  ◇



 神社での戦いからそろそろ一週間が経とうとしている。これまでに見つけたジュエルシードは全部で五つ。
 何の因果か、神社での戦い以来に見つけたジュエルシードはすべて聖祥大付属小学校で見つかった。一つはプール、一つは校庭だ。これらのジュエルシードは幸いにして暴走前に見つけることができた。

 ジュエルシードの基本的な探し方だが、ただ闇雲に探しているわけではない。ユーノくんやなのはちゃんクラスになるとジュエルシードの大体の気配が追えるようだ。ユーノくんにいたっては探索魔法というもので魔力を持った物体を探索できるらしい。ただし、その範囲は広範囲になればなるほど曖昧になるという。

 そこで、僕たちはまず僕たちの行動範囲に近いところから探っていくことにした。暴走体が危険であることは分かっている。それが人に危害を加えることも。ならば、最初に僕たちの周りの親しい人達の安全から確保したかったのだ。そういうわけでまず学校から探索してもらったのだが、ここでいきなり2個のジュエルシードを発見してしまったというわけだ。

 もっとも、幸運もそこまでで、後はまったく見つかっていないのだが。残りは16個。短時間で見つかればいいのだが、この調子で行くと一月以上かかるかもしれない。塾のことやら周囲へのことを考えるとそれはいささか憂鬱だったが、放っておくわけにもいかないところが、実に性質が悪い。
 しかも、捜索はユーノくんの探索魔法に頼っているものだから、一日で探索できる範囲の狭いこと狭いこと。もしも、海鳴市のみにジュエルシードが散らばっていると考えても、終わりが見えない。
 しかしながら、こんな状況にありながら僕ができることは少ない。せいぜい延々と見つかるかわからないジュエルシードを探し続けることと時空管理局なる組織が一日でも早く来てくれることを願うことだけだ。

 そんなことを考えていたら、目の前の横開きの木でできたドアがガラガラとローラを転がすような音を立てて開いた。開いたドアから出てきたのは我がクラスの担任とは違ってぴしっとしたスーツ姿の女性。第二学級の担任である。この先生が出てきたということは、僕が待っている彼女ももうすぐ出てくるということだ。

「ショウくんっ! ごめん、待った?」

「いや、ついさっき終わったところだから大丈夫だよ」

 僕が待っていた目的であるなのはちゃんが先生が出てきた後、すぐに飛び出すように出てきた。毎回思うのだが、そんなに急がなくても僕は逃げないのだが。一度、そういってみたが、彼女が急ぐことに変化はなかった。飛び出してくることは、そんなに問題でもないので、それ以上言うことはなかった。

「それじゃ、行こうか」

「うん」

 僕が促すと、なのはちゃんは僕に並んで歩き始める。この後は、いつもどおり恭也さんとユーノくんと合流して街中を散策するだけだ。自宅周辺、なのはちゃんの自宅周辺、商店街、学校などの主要な場所はこの一週間でほぼ探索が終わっている。後は、街中などの大きなところと海鳴市の外側である山の中とかである。
 僕としては、山の奥深くなんて場所に転がっているのは勘弁して欲しいものである。なお、もしもそんな森の奥深くにジュエルシードの暴走体が出現した場合は、士郎さんの車で移動することになっている。

 閑話休題。

「さて、それじゃ、今日はどの辺りを調べよう―――ってなのはちゃん?」

「ふぇ、ふぇっ? ご、ごめんなさい。な、なに? ショウくん?」

 昨日までで大体、僕たちが行動する範囲を全部調べ終わっていた。僕で言えば、学校、塾、家の周辺。なのはちゃんは、学校、翠屋、駅前商店街といった場所だ。だから、今日はどこから調べようか? と聞くつもりだったが、どうもなのはちゃんの様子が変だ。
 頭が左右に揺れており、目がトロンとしている。しかも、よくよく見てみれば、笑みを浮かべている顔も青白く、血行がよくないことがわかる。

「なのはちゃん、大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」

 胸の前でぐっ、と拳を握り上下に振り、大丈夫だと豪語するなのはちゃんだが、僕にはそうは見えない。
 しかも、顔が青白いだけではなく、どこかまっすぐ歩けていないような気がする。いや、一歩一歩を慎重に歩いているような感じだ。
 もしかしたら疲労が溜まっているのかもしれない。ここ数日は毎日ジュエルシードを探している。しかも、なのはちゃんにはジュエルシードを見つけるたびに封印を頼んでいるのだ。封印魔法には大量の魔力が必要だとユーノくんが言っていたことも鑑みれば、あながち僕の推測が間違いとも思えなかった。

「―――今日はお休みにしようか?」

 僕から至極当然な提案だ。僕は、さほど疲れを感じていないが、なのはちゃんが疲れているのなら話は別だ。
 ジュエルシードに関していえば、なのはちゃんが中心である。彼女がいなければ、僕たちはジュエルシードを封印することができないのだから。
 ならば、もしかしたらジュエルシードが暴走するかもしれない、と心配して無理に探し回るよりも、なのはちゃんの身体を第一に考えて、休んでもらったほうがいいだろう。

 そのつもりで僕はなのはちゃんに提案したのだが、僕の言葉を聞いたなのはちゃんは足を止めて、先ほどまで浮かべていた笑みを凍りつかせていた。

「なのはちゃん?」

「ダ、ダメだよっ!! ショウくん、どうして―――」

 急に足を止めたなのはちゃんを心配して声をかけるが返事はなく、今一歩近づこうとしたところで、急に先ほどまで浮かべていた笑みを消して鬼気迫る表情で叫んだかと思うと、ふらっ、となのはちゃんの身体が崩れ落ちた。

「―――っ!」

 間に合うかっ!? と思ったが、何とか僕の身体をなのはちゃんと床の間に滑り込ませることに成功した。
 なのはちゃんが倒れてきた衝撃が、僕のお腹にそのままぶつかってきてかなり痛かったが、なのはちゃんがそのまま倒れて頭を打つと僕のこの衝撃よりもさらに大事になることを考えれば、大したことではない。

「なのはちゃん?」

 僕のお腹に頭をうずめているなのはちゃんに声をかけるが、反応がまったくない。青白い顔をしたまま、目を瞑っている。
 感覚的にこれは拙い、と感じるのにさほど時間は必要なかった。すぐに僕は、なのはちゃんを背後に回して背負い、立ち上がる。
 漫画などでは、男の子が女の子を背負うと、女の子が「重くない?」と聞き、苦笑しながら軽いよ、と男の子が答えるシーンがありきたりだが、あれは二次性徴を超えた高校生ぐらいになればの話だ。二次性徴などまだ数年先である僕となのはちゃんの場合、ほぼ成長速度は同じ。いや、女の子のなのはちゃんのほうが早いぐらいだ。
 そんなわけで、僕は自分を背負っているのと同じぐらいの重みを感じながら保健室へ向けて慎重に早足で歩いていた。
 途中で奇異の視線を向けられるが、正直構っていられない。何より、ここで囃したてるような子供は、聖祥大付属小にはいないようだ。

「ショウ、どうした?」

「高町さんが倒れたんだ。第二学級の先生に伝えてくれる、と嬉しい」

 偶然、学校に残っていた男の子の友人に話しかけられ、僕は自分がこれからやらなければならない、と考えていた中で、一番一人ではできないことをその友人に頼んだ。割とクラスの中でも気の良い彼は、分かった、と言うと職員室のほうへと走っていってしまった。
 普通なら廊下は走らないように、と言うところだが、今はそんなことは言っていられない。

 他にも話しかけてくる友人が数人いたが、彼らには保健の先生を捕まえること、僕らの担任にこのことを伝えることなどの仕事を任せて、僕は保健室へ一直線に向かった。



  ◇  ◇  ◇



 僕は、目の前ですぅ、すぅと先ほどよりも若干血行のよくなったなのはちゃんの顔を見ていた。

 あの後、職員室では結構な騒ぎになってしまったらしい。学校で生徒が倒れたとなれば、当然といえば当然なのかもしれないが。
 結局、原因は寝不足による貧血ということが、定年退職間近に見えるおばあちゃんの養護教諭によって分かった。どうやら、この教諭、伊達に年を取っていないようで、脈と顔色を見ただけで、原因を探り当ててしまった。これが、養護教諭としての経験なのだろうか。
 しかも、どうやら、この学校の教師たちもこの教諭を信用しているようで、原因が分かった今となってはすっかり落ち着いている。ただ、第二学級の先生によって高町家には連絡がいっている。病院には行かなくてもいいのか? とは思うのだが、寝ている今は、素直に寝かせて、後で念のため病院に行くことをお勧めされていた。

 僕は、簡単に事情を話して、後はお役ごめんだったのだが、この後は、ジュエルシードを探す予定で何も予定がないことと目の前で倒れて、意識が戻る前、あるいは家族に引き渡す前に消えるのは礼儀として拙いだろうと思い、こうしてベットに寝かされたなのはちゃんの隣に丸椅子を持ってきて、座っていた。

 高町家に連絡がついた後、すぐに僕の携帯にも電話がかかってきて状況を詳しく聞かされた。しかも、口調から考えるに、相当焦っている様子がありありと分かり、なのはちゃんが家族に愛されているんだな、と思わず苦笑してしまったぐらいだ。
 そんなに慌てている彼らを僕は、素直に原因と対処法を伝えて、何とか落ち着かせた。その後の話で迎えに来るのは恭也さんになるらしく、そのまま、恭也さんがなのはちゃんを病院に連れて行くようだ。

「う、ううん……」

 恭也さんが来るまで後三十分ぐらいかな? と考えていると不意になのはちゃんの眉がぴくぴくと動いた。
 どうやら、目が覚めたようだ。

「……しょう……くん?」

 どうやら、目覚めたばかりで意識がしっかりしていないのだろうか。あるいは、寝不足による貧血で倒れたらしいから、まだしっかりと覚醒していないのかもしれない。僕の姿を認識したようだが、名前の呼び方が呂律が回っていないように怪しかった。

「なのはちゃん、大丈夫?」

「……えっと……私は」

 自分の状況を思い出しているのだろうか、少しだけ自分の考えに浸った後、急に何かを思いついたようにがばっ! と上体を起こす。だが、先ほどまで貧血で倒れていたのに急に上体を起こしたのが悪かったのだろう。すぐにふらっ、と倒れて、ぼすんと頭を枕の中に沈めた。

「なのはちゃん、ダメだよ。貧血で倒れたんだから、急に起き上がったりしちゃ。もう少しで恭也さんが来るから、ちゃんと病院に行くといいよ」

「そんなことより……ジュエルシードは?」

 呆れたことにどうやらなのはちゃんは自分の身体の心配よりもジュエルシードの心配をしているらしい。

「今日はお休み。というか、そんなことはどうでもいいよ。なのはちゃんこそ、貧血になるほど寝不足って何やってたの?」

「えっと……」

 なのはちゃんが言いよどんでいた。

 寝不足で貧血と原因だけ言えば、なんだ、で終わりそうなことではあるが、寝不足で貧血になるようなことなど、毎日寝ていれば問題ないし、仮に一日殆ど寝ずに頑張ったとしても貧血で倒れることはない。つまり、ここ最近ずっと無理していたということになる。

 その原因を探らなければ、きっと彼女はまた倒れるだろう。

 だが、なのはちゃんは何も答えなかった。答えにくいのか、あるいは答えられないのか。
 本当はとりたくない手段だったが、なのはちゃんが答えてくれないのなら、仕方ないと割り切るしかない。

「レイジングハート、原因に見当は?」

 ―――Maybe magic practice.

 僕は、なのはちゃんがレイジングハートを首から下げていることを知っている。首から下げる紐はユーノくんから譲ってもらったものだ。
 そして、僕はゲスト権限ではあるが、レイジングハートへのアクセス権限を持っている。だから、こんな単純なことには答えてくれる。何よりマスターの健康管理に関する質問だ。おそらく、答えてくれるものだろう、と思っていた。

「―――やっぱりね」

 もしかしたら、と大体見当をつけていたが、どうやら正解のようだった。これまで、なのはちゃんが貧血で倒れたという話は聞いたことないし、養護教諭に確認しても同じ答えが返ってきた。つまり、なのはちゃんはこれまで倒れたことはなかった、ということだ。
 今日―――ひいていえば、最近と前とで違うところといえば、魔法ぐらいしか思いつかない。そして、それは今、確信に変わった。

 僕たちの存在がなのはちゃんに負担を掛けたのかもしれない。
 現状でいば、魔力を持たない恭也さんはともかく魔力を持っている僕もユーノくんもジュエルシードに対しては無力だ。対抗できるのはなのはちゃんしかいない。それが彼女の負担になっているのかもしれない。

 なのはちゃんに顔を向けてみると気まずそうな顔をして僕から顔を逸らした。

 彼女の負担軽減になるかどうか分からないが、もう少ししたら話そうと思ったことをここで話すことにした。

「なのはちゃん」

 僕の呼びかけに少しだけ布団を被り、顔を上半分を出した状態で僕を見てくるなのはちゃん。

「ちょっと見てて」

 僕は、意識を少しだけ集中させて、胸の奥にある何かから水を掬い上げるようにそれを引っ張ってくる。そして、それ―――魔力と呼ばれるそれを掌へと回すようにして、そこから出力させる際に球を描くプログラムを付与して急造の魔法と呼ばれる形にして顕現させた。

 僕の掲げた掌の上には球状になった白い光を淡く放つ魔力の塊がぷかぷかと浮かんでいた。

 ユーノくんに言わせて見れば低学年の子供が簡単にできる魔法のようなものらしい。これができることで第一段階はクリアらしい。
 もっとも、デバイスといわれるレイジングハートのようなものがあれば、2、3時間で感覚がつかめるものらしいが、何もない僕は一週間近くかかってしまった。だが、ここまでできれば後はプログラム部分になるから、早い人は早くもっと複雑な魔法が会得できるらしい。
 僕がその早い人に部類されるかどうかはともかく、なのはちゃんがこうなっているなら、実践的で簡単な魔法の一つでも早く覚えなくてはいけないだろう。

 僕の魔法とも呼べない魔法を見て、なのはちゃんは目を見開いて驚いてた。

「ど、どうして? どうしてショウくんが魔法を使えるの!?」

 そして、またがばっ、と起き上がったかと思うと、僕に詰め寄って問いかけてくる。その表情はとても必死でなんでこんな表情を浮かべているのか僕には分からない。とにかく落ち着かせるために僕は、なのはちゃんの肩を押さえながらベットの上に座らせた。

「どうしてって……ユーノくんに習って練習したからかな? 僕にも魔力はあったから」

 ユーノくん曰く、僕にもなのはちゃんには到底及ばないもののそれなりの魔力はあるらしい。ユーノくんと同等か少し上ぐらいらしいが。

「で、でも、あの時、『僕にはできないから』って」

「うん、僕にはできないよ。ただ、魔法が使えるだけ。ジュエルシードの封印ができるのはなのはちゃんだけだよ。僕ができるのはお手伝いだけ」

 そう、僕がどう足掻いたとしてもジュエルシードを封印できるほどの魔法を使うことはできない。僕ができることは、なのはちゃんがジュエルシードを封印するためのお手伝いだけだ。神社であの暴走体を縛った―――バインドといわれる類の魔法のようなもので補助するしかない。幸いにしてユーノくんはそちらの補助魔法が専門のようで、僕もその方向性で魔法を覚えていこうと思っている。

「だからさ、もう少ししたら僕もなのはちゃんと一緒にジュエルシードの封印ができると思うから」

「ショウくんと一緒に……」

「そう。だから、こんなに倒れるまで頑張らなくてもいいんだよ」

 僕は、なのはちゃんの肩を押して、再び横にならせた。少なくともあと二十分は恭也さんは来ない。今のなのはちゃんに必要なのは休養だろう。だから、もうしばらく寝ていたほうがいいと思った。

「さあ、もう少ししたら恭也さんが来てくれると思うから、それまでお休み。僕もずっと隣にいるから」

 横になったなのはちゃんはやはりまだ疲れていたのだろう。すぐにうつらうつらと眉を閉じそうになっていた。それでも、僕が布団を肩まで被せてやると、その小さな口でうん、と肯定の言葉を言ってすぐにまた眠りに着いた。



  ◇  ◇  ◇



「うん、それじゃ、また、明日」

 ぴっ、と僕は携帯の通話を切る。携帯のディスプレイに通話時間が簡単に示されて、やがて省電力モードになる。ディスプレイが真っ暗になるのを確認して、僕はパカンと携帯を閉じた。

「はぁ」

 同時に吐き出されるため息。この数十分で非常に疲れたような気がする。

「どうしたの? ショウ」

 机の上のバスケットの中で半ば眠るような形になっていたユーノくんが僕のため息を聞いていたのだろう、心配そうな声で聞いてきた。

「いや、ちょっと大変なことが一杯でね」

 先ほどまでの電話の相手は、アリサちゃんだった。

 アリサちゃんとは先週から少し冷めた関係になっている。冷めているというか、アリサちゃんが拗ねているというか。そんな感じだ。もっとも、一緒にお昼を食べたりするのだが。ちなみに、アリサちゃんの親友であるすずかちゃんとは、あまり変わらない。時々、何かを問いたそうな顔をしている。

 そんな折に入ってきた電話が、僕の二つ上の先輩からの電話だった。
 その先輩はサッカーをやっていたときによく一緒になっていた先輩で、今は五年生。四年生からしか入部できない翠屋FCという地元のサッカークラブに入っており、聖祥大付属小の校庭で行われるお遊びサッカーには顔を出さないが、時々、思い出したように顔を出していろんなサッカーの技を教えてくれる。

 そんな先輩からの電話の用件は、というと、明日のサッカーの試合に来て欲しいらしい。もちろん、助っ人とかいうおいしい役回りではない。僕はどうやら餌らしい。本命は、アリサちゃんとすずかちゃんだった。
 試合の際、応援席に可愛い女の子がいると他のメンバーのやる気―――当然、その先輩も―――が全然違うらしい。確かに客観的に見てもアリサちゃんとすずかちゃんは二人とも美少女に分類される類だとは思う。僕に電話を掛けてきたのは、先輩が僕と一緒に歩いているアリサちゃんとすずかちゃんを見たことがあるかららしい。
 断わることも可能だったが、その先輩は五年生のリーダー的ポジションにいる人で、三年生までは、サッカーの時には一緒にチームを組んだり、場所を分けてもらうように他の人を説得してもらったり、お世話になった人で断わることはできなかった。

 そんなわけで、まずはすずかちゃんに電話。理由は僕がサッカーを見たいかつアリサちゃんと仲直りしたいということにして誘うことに成功。次は難関のアリサちゃん。

 明日は、あたしたちより大事な用事にいかなくていいの? とか、色々言われたけど、ごめんなさい、と仲直りしたいということを話し、簡単に事情も話すからということで、翠屋のシュークリームを奢ることで手を打つことに成功した。
 おそらく、今日で一番疲れたことだろう。

 さて、問題がこれだけなら、後は明日にすべて回せばいいのだが、問題はこれだけではなかった。

 どうやら、聖祥大付属の三年生以下で行われているサッカークラブのようなものに異変が起きているらしい。
 通常、三年生が校庭を使っていると一年生、二年生も一緒にサッカーをやる。だが、最近はどうも三年生だけで独り占めしているらしい。しかも、先に使っていた一年生や二年生を追い払ってだ。

 僕がいたころは一緒に遊ぶという感じで、一緒にサッカーに興じていたものだが。
 どうやら、僕がいない一週間の間に前までは一緒にサッカーに興じていた同級生がリーダーシップを取ってそんな事態になっているらしい。先輩が笑って言うには、下克上だな、なんて言っていた。
 しかしながら、それが本当だとすれば、問題だ。三年生の評判が悪くなるし、3年生になれば、校庭を独り占めできるという悪しき習慣が広がってしまうかもしれない。これもまた何とかしなければならないだろう。

「はぁ、まるで内憂外患のようだね」

「え? なんだって?」

 思わずはいてしまった独り言にユーノくんに聞かれてしまった。僕は慌てて手を左右に振ってなんでもないことをアピールしながら、別のことに話題を振った。

「なんでもないよ。それよりも、今日も魔法の特訓、よろしく頼むよ。先生」

「あ、うん。それじゃ、今日は魔法のプログラムの基礎について―――」

 それから、一時間、みっちり魔法についての講義が続き、明日への若干の不安を感じながら、僕は眠りに就くのだった。



続く
 
あとがき
 次回は、アリサVSなのは!! では、ありません。あしからず。



[15269] 第十二話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/03/08 22:53



 高町なのはの朝は非常に早い。短針が4を、長身が30示す時間に携帯のアラームが鳴り、それで目が覚める。まだ、太陽も昇っていないような時間。辺りは真っ暗だ。しかしながら、なのはは、眠りたいという欲求を自らの意思で振るい払い、起き上がり、私服に着替える。制服に着替えるには早すぎる時間だからだ。

 ―――Good morning my master.

 机の上においた出会って一週間足らずの愛機が、朝の挨拶をしてくれる。それになのはは眠い目をこすりながらも、おはようと返した。

 私服に着替えたなのはは、机の上のレイジングハートを首からかけると朝の冷気でまだ冷たい板張りの階段を降りていく。一階に降りてきたなのはが外を見てもまだ日の出には程遠い時間帯。夜と言っても差し支えのない暗さの中、なのはは躊躇することなく、靴を履くと中庭へと向かった。

「今日もよろしくね、レイジングハート」

 ―――All right.My master.

 レイジングハートの内部に保存されている魔法練習用カリキュラムに則り、なのはは魔法の練習を行う。
 現状、この早朝の魔法練習で実際に習得した魔法は、四つである。
 プロテクション、バインド、ディバインシューター、ディバインバスターだ。なのはの基本戦略は近づくことなく遠距離攻撃のみで勝つというものだ。

 この戦略は、なのはとレイジングハートが考えたものだ。レイジングハートはなのはに砲撃魔法に関する適正を認めたからだし、なのはは翔太を護りながら暴走体と戦うならば、近接戦闘よりも遠距離からのほうが都合が良いからである。
 両者の思惑は少し違っていたが、それでも方向性は同じだったため、なのははレイジングハートが示すカリキュラムどおりに訓練を進めている。

 中庭での魔法の訓練で二時間ばかり費やした後は、シャワーを浴び、制服に着替えて朝ごはんを家族全員が集まって食べる。最初は、滅多に朝食に現れないなのはが急に朝食の場に姿を現すようになって驚いた士郎、桃子、恭也、美由希だったが、一週間もすれば、慣れるもので、最初は会話が少なかった食卓が今ではそれなりに賑やかな場になっていた。
 もっとも、なのはが饒舌に喋ることはなかったが、今まで朝食になのはの姿はなく、会話すらなかったことを考えれば、進歩したといえるかもしれない。特に学校関係のことは気を遣って聞きづらく、もっぱらなのはとの会話は魔法関係になることが多かった。

 さて、この間、実はなのはにはレイジングハートによって強い魔力的な負荷がかけられている。要するに魔力的な要素を強化する魔導師養成ギプスのようなものだ。レイジングハートの持ち主であるユーノが知っている並の魔導師であれば、ろくに動けないものをなのはは三日程度で「もう慣れた」とばかりに特に気にすることもなくなっている。

 基本的になのはが動くとき―――通学時、体育の時間―――などはこの状態だ。

 朝食を食べ終えたなのはは、母親からその日のお昼のお弁当を受け取る。だが、いつもなら笑顔でお弁当を渡してくれる母親の桃子が少し怪訝な顔をしていた。

「あら? なのは、少し顔色が悪いんじゃない?」

「そうかな?」

 実のところをいえば、なのはは少し無理をしている。頭が回らないような気がするし、足元がおぼつかないのも確かだ。だが、もしも、ここでそれがばれてしまえば、桃子は学校に行くことを許さないだろう。ならば、絶対にばれるわけには行かなかった。
 学校は、なのはが翔太に出会える唯一の場所だ。もしも、学校にいかなければ、ジュエルシード探しもなくなり、暴走体に出会う可能性もなくなり、魔法も使えなくなってしまう。それだけは絶対嫌だった。

 だから、なのはは長年鍛えた演技で桃子や家族を欺く。

「私は、大丈夫だよ」

 笑顔で言い切るなのは。なのはにとって幸いなことに幼年期の殆どをいい子であろうとするがために鍛えられた演技力は、なのはを決して裏切らない。桃子は、そう? と怪訝そうにしながらもなのはの言い分に納得したようになのはにお弁当を渡す。
 桃子からお弁当を受け取り、その足で玄関へと駆け出し、いってきます、という言葉と共に家を出た。

 学校に着いたなのはは、自分の席に着くとすぐにレイジングハートが示すカリキュラムを消化する。
 むろん、学校の教室のど真ん中で魔力を漏らしながら実際に魔法を使うわけではない。魔法で戦闘を行うためには必須項目ともいえるマルチタスクの練習だ。
 マルチタスクとは、言葉の通り、二つのことを同時に脳内で処理することだ。つまり、音楽を聴きながら勉強するといったようなことだ。通常の人間なら効率が悪いことになるだろうが、魔導師ともなれば、攻撃しながら次の攻撃。防御しながら回避などマルチタスクを多用する。

 今、なのはは教師の授業をうけながら、レイジングハートが送信する仮想戦闘で魔法の訓練を続けている。レイジングハートが行う仮想戦闘は、魔法を覚えたてのなのはでもクリアできるように簡単なものからレベルアップしている。

 しかし、翔太が以前感じたようになのはは魔法に関しては天才だ。一を聞いて十を知る天才が、千を知るために千の努力をしたとすれば、万の実力がつくことになる。現状のなのははまさしくそれだ。しかし、いくら人間っぽい返事を返そうが、機械であるレイジングハートにそれを伝える義務もないし、比べる対象もいないなのはにしてみれば、万の実力がついているかどうかもわからない。彼女たちは、己がどれほどの高みに登っているか分からず、強くなる努力を続けていた。

 さて、学校が終われば、ようやくなのはが待ち焦がれた時間だ。つまり、翔太とのジュエルシード探し。もっとも、なのはの兄である恭也や姉である美由希やフェレットのユーノがついてくるが、なのはにはあまり関係ないらしい。自分を友達と言ってくれた翔太と一緒にいられるこの時間がなのはにとって至福のときだった。

 その翔太であるが、彼は一年生のときから変わらず人気者だ。なのはが一緒に歩いていると必ずなのはの知らない誰かが、翔太に声をかけてくる。その内容は、放課後、一緒に遊ぼうという誘いだったり、授業で分からないところを聞いたりすることだったが、それらをすべて断わり、なのはと一緒にジュエルシードを探すことを選択してくれた。
 それがなのはにとって、一年生の頃は、なのはにとって理想だった翔太を独り占めできているようで、なのはは優越感を感じていた。

 ジュエルシード探しは基本的に日が沈んだ後も少し続けられる。大体、七時から八時までだろうか。後は、翔太の家の前まで恭也たちが送って―――高町家へ翔太の両親が来たときに取り決められた約束の一つ―――そこで、また明日、と別れる。やっていることはジュエルシードの捜索というありえないことだが、普通の友達とのやり取りのようで嬉しかった。

 帰宅したなのはは、晩御飯を食べてお風呂に入り、また中庭で魔法の練習だ。しかし、それは、大体10時程度で切り上げ、後は部屋に戻って、魔力を高めるために自らの魔力を纏わりつかせる瞑想を行い、短針と長針が数字の12で重なる時間に眠りにつく。

 これが、神社での戦いで恭也たちより強くなればいい、という結論を出した高町なのはの一日だった。



  ◇  ◇  ◇



 ――――早く終われ、早く終われ。

 なのはは、まるで念仏のように早く終われと教卓の横に立つ担任を半ば睨みつけながら繰り返していた。前までは、ショートホームルームをいかに長時間やっていようが、気にならなかったが、ここ一週間ばかりは、無駄に長いこの時間をなのはは嫌っていた。
 このホームルームのおかげでいつも翔太を待たせてしまう。それがなのはには忍びなかった。だから、終わった直後、それを待っていました、といわんばかりに鞄を背負い、ロケットのように飛び出していく。担任の先生の後に続いて教室を飛び出したなのはは、廊下を挟んだ向こう側に立っていた翔太を目にして息切れしそうなほどに急いで駆け寄った。

「ショウくんっ! ごめん、待った?」

「いや、ついさっき終わったところだから大丈夫だよ」

 なのははそれが嘘だということを知っている。隣の第一学級のホームルームが終わるのは非常に早い。今日も十分ほど前に隣のクラスから駆け出していく生徒を見た。だから、翔太が待っていた時間は少なくとも十分以上であることは明白なのだ。だが、それをあえて指摘したりはしない。それが翔太の優しさだとなのはは理解しているから。

「それじゃ、いこうか」

 いつものように笑いながら言う翔太にうんと答えると二人は並んで歩き出した。

 なのはは、恭也と合流するまでのこのちょっとした時間が好きだった。翔太と二人だから。誰にも邪魔されず、友達と二人だけで話す時間が持てることが素直に嬉しかった。もっとも、なのはがきちんと受け答えするにはまだ翔太が相手といえども時間がかかってしまうことが多かったが、翔太はなのはの答えを嫌な顔一つせず待ってくれるので、最近は前よりも短い時間で答えることができるようになっていた。

 だが、そのなのはが好きな時間を楽しむ余裕は今日のところはなかった。お昼を過ぎた頃からだろうか、なのはの視界が安定しないのだ。グルグル回っているような気がするし、こうして歩いている間にも一歩一歩を確認しながら歩かなければ、左右に揺れていたことだろう。
 これがばれるとこの時間がなくなることを本能的に悟っていたなのはは、翔太にばれないようにいつもどおりを装っていた。だが、装うということは、演じるということだ。マルチタスクを練習しているなのはといえども、体調が最悪なときにいつもの実力を発揮できるわけがない。
 結果として、なのはの努力もむなしく、翔太になのはの演技はばれてしまっていた。

「なのはちゃん、大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」

 気丈にもなんでもないう風を装って、拳を握って胸の前で上下させるが、翔太の不安そうな顔を拭うまでの効果はなかった。
 そして、翔太は少し考えたような表情をした後、なのはが考えうる上で最悪の提案をしてきた。

「―――今日はお休みにしようか?」

 それは、この時間を失うということだ。このなのはが一番好きなこの時間を。それだけは嫌だった。毎日、なんの楽しみもなく、屍のように生きてきたなのはがようやく手に入れた時間。それを与えてくれた人から、いとも簡単に投げかけられた言葉。それは、まるで翔太がなのはのこの一番好きな時間を軽く扱っているようで、ひどくショックを受けた。だから、そんな翔太の言葉を否定したくて、なのはは思わず声を上げる。

「ダ、ダメだよっ!! ショウくん、どうして―――」

 どうして、そんなことを言うの!? という言葉は最後まで言うことができなかった。ダメだよっ! と大声で叫んだのがまずかったのかもしれない。あるいは、翔太にこの時間を軽く扱われたことがショックが大きかったのかもしれない。溜まりに溜まった疲労がこの場面でピークを迎えたのかもしれない。
 様々な要因が考えられるものの、高町なのはは、翔太に対して最後まで言いきることなく、意識を暗闇の中へと沈めてしまった。



  ◇  ◇  ◇



「う、ううん……」

 なのはが気を取り戻したのは、倒れてから数時間後のことだった。彼女の視界に最初に入ってきたのは、知らない真っ白な天井だった。

「なのはちゃん、大丈夫?」

 声のした方向に少しだけ首を傾けてみると、彼女がよく知る彼女を唯一友人と言ってくれる蔵元翔太の心配そうな顔があった。その顔を見た瞬間、霧のようにもやがかかっていた意識が一瞬でクリアになる。
 翔太が今日は休みにしようか、といったことを思い出し、それを問いただそうと、上体を起こしたが、不意にまた眩暈が訪れ、上体を起こした瞬間にまた重力に身を任せてベットに身を沈める結果となってしまった。

「なのはちゃん、ダメだよ。貧血で倒れたんだから、急に起き上がったりしちゃ。もう少しで恭也さんが来るから、ちゃんと病院に行くといいよ」

「そんなことより……ジュエルシードは?」

 心配そうな顔をして言ってくれる翔太だったが、それよりもなのはが気になっていることがあった。つまり、今日のジュエルシード捜索のことだ。なのはにとって翔太に魔法が使えるところをアピールできる唯一の行動だ。それが休みになることは、すなわち、機会を一度損失することに他ならない。だから、聞いたのだが、翔太はその問いに少し怒ったような表情をした。一年生のときでさえ、滅多に見たことがない翔太の珍しい表情だった。

 その表情を見たが故になのはは何も言えなくなる。

 なのはが何よりも恐れていることは翔太から嫌われることだ。いや、翔太に限らず不特定多数だが、翔太の場合は、特にという枕詞をつけるべきだろう。だから、そんな風に滅多に見せない怒った表情を見せた翔太になのはは何もいえなくなる。いや、頭の中では先ほどの言葉をいかにして弁解しようか魔法で鍛えたマルチタスクでいくつも同時に必死に考えている。

 もし、ここで翔太がなのはに前のような笑みを向ける条件を出したのならば、なのはは一も二もなく飛びついただろう。

 さらに、翔太の問いに答えないのは、直感で、正直に理由を言えば怒られるとわかっていたから。呆れられると分かっていたから。だが、何も言わないのも状況が悪くなると分かっている。だからこそ、なのはの頭の中では同時に十数の思考が流れていた。

 だが、翔太はなのはが答えないのをみて、今度は別のものへと話しかけていた。

「レイジングハート、原因に見当は?」

 ―――レイジングハート言わないでっ!!

 ―――Maybe magic practice.

 なのはが信じていた愛機は、なのはの願いもむなしく、あっさりと主を裏切って、翔太の問いに答えていた。
 その答えを聞いて、翔太がはぁ、とため息を漏らす。

 ―――どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 なのはの頭の中は混乱の極みにあった。なのはの言葉が、翔太の癪にさわり、怒らせ、さらに倒れた原因を知られて呆れられた。その事実がなのはを混乱へと誘っていた。
 このままでは、翔太に、もういいよ、といわれてしまうかもしれない。その不安は、なのはの中で最大の恐怖だ。だからこそ、なのはは必死に考える。この状況を打破するための行動を。だが、そう簡単に脱出できるのなら、苦労などしない。

 ―――でも、それでも考えないと、考えないと、ショウくんに……。

「なのはちゃん」

 そんな風に混乱の極みにあるなのはに翔太が呼びかける。

 ―――もしかして、許してくれるのかな?

 そんな淡い期待を抱いてなのはは被っていた布団から、半分だけ顔を出す。なのはが見たのは翔太がいつも浮かべる優しい笑み。だからこそ、その期待が本当になるんじゃないか、と希望を抱いた。

「ちょっと見てて」

 だが、その希望は、それ以上の絶望で塗りつぶされることになる。

 ぞくっ、と背筋に走る悪寒。それがなのは本来のものだったのか、あるいは魔導師としてのものなのかは分からない。だが、その悪寒を感じた瞬間、なのははとても嫌な予感がした。できれば外れて欲しいと思うほどの大きな嫌な予感。だが、得てしてそういう嫌な予感は当たってしまう。今回も、なのはの嫌な予感は見事的中した。

 翔太が掲げた手に浮かぶ白い光を放つ球体。

 魔法に関して言えば、翔太の数十倍は先に進んでいるなのはは、言われずともその正体に気づいていた。

 それの正体は、魔法だった。

 ―――あ、あ、あ、あ、ああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ。

 あまりの衝撃に声を出すことはできなかったが、胸の内でなのはは叫んでいた。
 目の前の現実が信じられなくて。その現実を作っているのが翔太であることが信じられなくて。

 ―――嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だうそだうそだうそだ。そう、うそだよ。わたしはまだゆめのなかにいるんだ。

 現実が信じられなくて、目の前で起きていることが信じられなくて、信じたくなくて、なのはは現実を否定していた。

 当たり前だ。なのはが翔太と一緒にいられる理由はただ一つ。翔太が使えない魔法をなのはが使えるというただ一点なのだから。そのおかげでなのははあの翔太に賛美の声ももらえるし、あの温かい笑顔も向けられる。もしも、あの蔵元翔太が魔法を使えるようになれば、なのはなど必要なくなり、あの賛美の声も、温かい笑顔もすべてもらえなくなる。一度、あの甘美な感覚を体験をしてしまったからこそ、それを手放すことはなのはにとって考えられないほどの絶望だった。だからこそ、一層目の前の現実を否定したかった。

 だが、なのはの視覚から入ってくる情報が、なのはの魔導師としての資質が、すべてが目の前のリアルを現実だと告げている。

 ―――どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして?

「ど、どうして? どうしてショウくんが魔法を使えるの!?」

 胸の内の疑問は、知らず知らずのうちに声になっていた。いつも、嫌われることを恐れて思ったことを声に出さないなのはにしては珍しい、否、初めてのことだった。そのことに気づかないほどになのはは切羽詰っていた。
 だが、そんななのはの感情を知ってか、知らずか翔太は、身体を乗り出してまで問い詰めるなのはに少し驚きながらも平然と答える。

「どうしてって……ユーノくんに習って練習したからかな? 僕にも魔力はあったから」

 ―――そんなはずない。

 それがなのはの正直な感想だった。

「で、でも、あの時、『僕にはできないから』って」

 そう、あの時確かに翔太は言ったのだ。自分にはできない。なのはにしかできないから助けてくれ、と。もしも、あのフェレットに教えてもらえるだけで魔法が使えるのならば、自分など必要なかったはずだ。
 これは、なのはのくもの糸のような細い希望だった。仮に、これで翔太が、「いや、使えるようになったんだよ」などと答えたなら、なのはは一生、心に残る傷を負うことになっていただろう。せっかく手に入れたと思っていたものも、しょせん、翔太によって簡単に追いつかれるもので、結局自分には何もなかった、と強く認識してしまうものになっていただろから。一度、手に入れてしまったからこそ、その絶望は深い。

 だが、ギリギリのところで、なのはの希望の糸は繋がっていた。

「うん、僕にはできないよ。ただ、魔法が使えるだけ。ジュエルシードの封印ができるのはなのはちゃんだけだよ。僕ができるのはお手伝いだけ」

 よかった、となのはは心の中で安堵の息を吐いた。本当なら翔太の言葉だからと無条件に信じるのは拙い話である。もしも、これが翔太の嘘であれば、なのはの希望はすべて潰えるのだから。だからこそ、なのははしっかり確認するべきなのだ。
 だが、あえて翔太に問いただすことはしなかった。否定されることが怖かったから。ジュエルシードを封印することが、翔太には無理だというこの答えを信じたかったから。だから、あえてなのはは翔太の言葉を確認しなかった。
 だが、今よりももっと強くなるとさらに決意を新たにした。無理だと言いながらも翔太なら、という考えがなのはにあったから。ならば、翔太でさえも追いつかないほどに強くなるしかない。翔太が魔法を覚えようと思わないほどに。

 だが、次の翔太の言葉が、なのはに思いもよらない喜びをもたらす。

「だからさ、もう少ししたら僕もなのはちゃんと一緒にジュエルシードの封印ができると思うから」

「ショウくんと一緒に……」

 それは今まで考えたこともないことだった。ずっと一人だったから。誰かと一緒に何かをした記憶はない。だが、もしも、もしも、翔太と何かを一緒にできたのなら、それはもしかすると喜びを共有することになるのだろうか。翔太と共有する何かを持つことができるというのだろうか。
 翔太と共有する何かという言葉は、なのはにとって賛美の言葉を貰うことと同等程度の甘美な言葉だった。

「そう。だから、こんなに倒れるまで頑張らなくてもいいんだよ」

 翔太は笑顔で、そっとなのはの肩を押して、ベットに寝かせる。横になった瞬間、短時間での驚愕と絶望と希望が入り混じることが多かったせいか、眠気が一気に襲ってきた。

「さあ、もう少ししたら恭也さんが来てくれると思うから、それまでお休み。僕もずっと隣にいるから」

 ―――ずっと隣に。うん、私はもっと魔法頑張るから。だから、ずっとわたしのとなりに……。

 もしも、それが叶うとすれば、どれだけの幸いをなのはに与えてくれるのだろう。

 そんなことを考えながら、またなのはは暗闇の中へと意識を落とした。



  ◇  ◇  ◇



 高町恭也にとって蔵元翔太という少年は実に奇々怪々な存在だった。

 初めて言葉を交わしたのは、ジュエルシードという魔法の存在に彼の妹であるなのはが初めて触れた晩のことだ。小学生しからぬ言葉遣いをする少年に実に面食らったものだ。ジュエルシードという魔法の産物を探す行動に同行する今となっては、さらに翔太の行動を見ることや言葉を交わす言葉を聞いて、時々、小学生ではなく自分と同年代じゃないか、と思うことさえある。

 両親の話によると、あのなのはが不登校だったときに友達がいないという重要なことを教えてくれたのも彼だという。なるほど、普通の小学生なら無理だが、彼なら納得だ、と思ってしまう。

 行動にしても、なのはが歩道をあるいていると必ず翔太が車道側を歩くし、歩道橋を歩くときは一段下にいる。小学生としては考えられない行動だった。もっとも、恭也からしてみれば、なのはに害があるわけではないので、放置している。

 しかしながら、恭也の中で翔太が奇々怪々な存在であることは変わらない。理解できるとも思わないが。
 だが、そんな奇々怪々である翔太であるが、一つだけどうしてもはっきりさせたいことがあった。

「なあ、翔太くん」

「なんですか? 恭也さん」

 なのはが倒れたと聞いて、急いで学校に駆けつけたとき、保健室にいた少年―――翔太と一緒になのはをつれて行き、すっかり日が暮れてしまったので、なのはを背負って、翔太を送っている帰り道、無言だった二人の間の静寂を破るように恭也が口を開いた。

 それは、恭也にとって、いや、高町家にとって一番聞きたいことだった。今までは聞く機会がなかったが、なのはは恭也の背中で寝ているし、自分と翔太の二人しかいない絶好の機会だった。だからこそ、今日は問う。

「君は、なのはの何だ?」

 蔵元翔太という少年の位置づけが高町家には分からなかった。正直言えば、なのはを魔法というファンタジーの世界に誘った張本人でしかないのだが、最近の話の中で翔太に関する会話についてのみなのはが饒舌になるのだ。
 これは、もしかして―――という期待が高町家の中に生まれるのも変な話ではなかった。

「友達ですよ」

 何でそんなこと聞くんですか? といわんばかりに怪訝な顔をして即答する翔太。
 それは、恭也が、高町家の全員が望んだ答えだった。なのはに友人が。それを求めて一年間何かと行動してきたのだ。だから、こうして実際になのはの友人だという少年を前にすると感動もひとしおだった。

 恭也は滅多に浮かべない柔和な笑みを浮かべて、少年とも同年代とも思ってしまう翔太に言う。

「そうか。これからも、なのはをよろしくしてやってくれ」

 ―――父さん、母さん、なのはに友達ができたようだ。

 一刻も早くこの事実を家族に伝えたい恭也だった。



  ◇  ◇  ◇



 アリサ・バニングスにとって蔵元翔太はたった二人しかいない親友の一人だった。

 ぴっ、と携帯の通話を切るボタンを押して、携帯を放り投げるとアリサは、ばふんとベットに向かって仰向けに寝転がった。天井に向けられた顔に浮かんでいるのは、満足げな表情だった。電話がかかってくる前まで、電話をかけてきた翔太に、翔太をつれまわす見知らぬ女の子にむかついていた気分が嘘のようだ。

 先ほどまでの通話の相手は、アリサの親友の一人である蔵元翔太だ。何でも明日、サッカーの試合があるから見に行かないか、という誘いの電話だった。サッカーを見ることは、彼女の父親の影響もあって、好きなのだが、最近の翔太の行動を思うとそう簡単に頷くこともできず、翔太にシュークリームと最近の事情を聞くことを条件に頷いた。

 ―――ショウがいけないんだから。

 アリサにとって翔太は、たった二人しかいない親友の一人だ。だからこそ、最近の自分たちよりも誰か―――聞いた話によると高町なのはという女の子を優先させている最近の行動が許せなかった。聞いても、何をやっているかはぐらかすし、塾に一緒に行こうと思えば、やはり、高町なのはという女の子を優先させる。何より許しがたいのは、週に二回程度の割合で開いているアリサとの英会話も休んだことだ。やはり、高町なのはを優先させて。

 むろん、アリサとて、すべて親友である自分たちを優先させろとは言わない。だが、事情も一切話さずただぽっと出てきた女の子を優先させるのは何かが違うと思う。
 誰かに話せない内容だとしても、自分たちには話してくれればいいのに、と思う。そうすれば、アリサも最大限力になるというのに。翔太は、たった二人しかいない心許せる親友なのだから。

 アリサ・バニングスに友人は少ない。彼女に何か問題があるわけではない。多少、負けん気が強いもののクラスを引っ張っていけるリーダーの気質であるといえるので、むしろ人気者になるだろう。
 だが、ただ彼女の容姿が彼女の友人が少ない原因となっていた。彼女の父親である米国の血を引いた艶やかな金髪。大人であれば、綺麗な髪だと褒め称えるだろう。だが、子供の世界にあって、その金髪はあまりに異質だった。
 足が遅い、頭が悪い、線が細い、なんとなく。そんな理由でいじめに繋がる子供の世界だ。周りが全員、黒髪という日本において、金髪という明らかな異質をして、子供たちは受け入れることなどできなかった。

 アリサも小学校に入る前は、よく金髪ということでからかわれたものだ。そのたび、彼女の母親は、アリサにそんな奴らに負けるな、と教育してきたのだから、アリサの負けん気はそこで形成されたのかもしれない。そんな要因で、アリサには友人が少なかった。また、負けん気も悪いところで顔を出してさらに友人ができなかった。

 しかし、もう一人の親友である月村すずかと親友になれたのは、蔵元翔太のおかげだ。彼があそこで止めなければ、おそらく、自分は一人で寂しい小学校生活を送っていただろう。

 なお、二人ともアリサの金髪については、綺麗だね、の一言で済ませてくれた。同年代の友達から自慢の金髪を褒められることはなかったので、嬉しかったことを覚えている。もっとも、変な事を言ったのならば、アリサと親友などやっていないだろうが。

 アリサとしては、だからこそ自分の異質さを受け入れてくれた親友の二人には、何でも話して欲しいと思っていた。自分が力になれるのだから。翔太に対してその願いは、明日叶いそうである。

「あ、そうだ」

 パタパタとベットから降りたアリサは自分のクローゼットへ駆け寄り、クローゼットを開いて、中身を見る。クローゼットの中は色とりどりの可愛い私服で占められていた。明らかに普段着用ではない。アリサは、この中から明日の洋服を選ぶつもりだ。

 ―――アリサ、その翔太って子ちゃんとキープしておくのよ。

 不意に翔太のことを話していたときの母親の言葉を思い出したからだ。キープというのはよく理解できなかったが、そのキープするという方法の中に翔太と会うときは可愛い洋服を着るように、と言っていたような気がするので、こうしてアリサは明日のための洋服を選んでいるのだ。

「さ~て、どれにしようかしら?」

 久しぶりに親友と遊べる明日を想像して楽しい気分になりながら、アリサは明日の洋服を選ぶのだった。



 続く

あとがき
 高町家、ついになのはに友人ができたことに大喜び。
 アリサにとってなのはは、翔太をつれまわす女の子。



[15269] 第十三話
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/03/08 22:53



 なのはちゃんが倒れた翌日、僕とユーノくんは川原にあるサッカー場へと来ていた。
 今日は、ジュエルシード探しはさすがに休みだ。そもそも、なのはちゃんには今日一日安静にするようにドクターストップがかかっている。だから、恭也さんにも今日は休みだという伝言を頼んでいる。

 さて、このサッカー場だが、テレビにあるようようなスタジアムではない。人工芝なんてものはない上にそもそも芝生ですらないというサッカー場だ。どうやら、今日の試合というのも今度行われる大会前にやる調整代わりの練習試合に過ぎないらしい。

 僕とユーノくんは川原のサッカー場に備え付けられたベンチに座りながら翠屋JFCの面々と桜台JFCの面々の練習を見ていた。途中、最近になってようやく使えるようになった念話―――ただし、短距離のみ―――でサッカーのルール説明なんかもしている。一方で、川原の土手の坂になっている部分にはちらほらと翠屋か桜台かは分からないが、シートを敷いた親御さんたちがちらほらを集まってきていた。
 もう少しで試合が始まるんじゃないか、というタイミングで現れたのは二人の少女。僕が待ち合わせをしていたアリサちゃんとすずかちゃんだ。

「アリサちゃん、すずかちゃん、おはよう」

 僕を見つけたのか、こちらに向かってくる二人に向かって手を振り、歓迎する。

「おはよう、ショウがどうしてもって言うから来てやったわよ」

「もう、アリサちゃんったら。おはよう、ショウくん」

 アリサちゃんの機嫌はまだ悪いみたいだ。少しだけ拗ねたような表情をしており、すずかちゃんはそれを窘めようとしていた。それでも、挨拶だけはちゃんと交わすのだから、アリサちゃんの育ちのよさが伺える。

「アリサちゃんもすずかちゃんも来てくれてありがとう。一人で見に来るのは心細かったから有り難いよ」

 そう、先輩に頼まれたのがアリサちゃんたちを誘った理由だが、僕がサッカークラブに興味があって試合を見たいが、一人で見に行くには心細いからということにしている。すずかちゃんはすぐに了承してくれたが、アリサちゃんは、クラスメイトの男子と行けばいいじゃないか、といわれ、僕は大人しく見たいからアリサちゃんが良いんだよ、というとシュークリームの件などで了承してくれたのが昨日の話だ。

 やれやれ、このシュークリーム代は後で先輩に請求することにしよう。

 さて、しかしながら、である。僕は、思わず上から下までアリサちゃんをじろじろと見てしまった。それが、失礼だと思ったのは、つま先から頭まで見て、アリサちゃんと視線が合った後だった。

「な、なによっ!?」

「あ、ごめん、ずいぶん可愛らしい服を着てるな、と思って」

 アリサちゃんの洋服は、今まで僕が見たことないものだった。基本的に僕たちが会うのは学校だけだが、アリサちゃんに限って言えば、アリサちゃんの英会話が、土曜日になったりすることもあるし、日曜日になったりすることもあるから、私服はそれなりに見慣れていると思っていたが、その洋服は僕が初めて見るものだった。

「うん、似合っているよ」

「―――っ! な、何言ってるのよっ!!」

 ところどころフリルのついた真紅のワンピース型の洋服は欧米の血が入っているアリサちゃんにはよく似合っていて、僕は素直にそれを告げたつもりなのだが、一瞬、金魚のように口をパクパクと開けたかと思うとなぜか怒るように声を荒げられてしまった。

 そんなアリサちゃんの反応に思わず苦笑してしまう。もう二年も友人という関係を続けていれば、この反応が嬉しいことへの照れ隠しということは簡単に見抜けるからだ。
 女の子に可愛いと言うのは、言葉だけみれば恥ずかしいように思えるが、アリサちゃんは、僕からしてみれば妹のような感覚に近いわけで、つまり、小さい子供の洋服が似合っているときに可愛いね、と褒めるときの感覚に近い。

 アリサちゃんは頬を赤く染めてそっぽ向いており、僕はそれを見て苦笑している最中、「もう少しで始まるみたいだよ」とすずかちゃんが教えてくれた。僕は気づかなかったが、確かに両方の選手が、アップを終えて中央線に並ぼうとしていた。

「ほら、行こう」

「せっかく見に来たのに見なかったらもったいないからだからね」

 まだ、テレが残っているのだろうか、不機嫌そうな顔でアリサちゃんは半ば走りながら近くのベンチに座った。

 それを見て僕はアリサちゃんの言葉に苦笑しながらコートの近くに設置されたベンチに座った。座り方は、すずかちゃん、アリサちゃん、僕だ。

「さて、そろそろ、時間ですし、始めますか」

「そうですな」

 近くでそれぞれのクラブの練習を見守っていた監督たちがお互いに頷く。
 僕たちが座っているベンチは、選手たちの控えの傍だから、偶然聞こえた。そして、ここに来て気づいたのだが、翠屋JFCの監督はなんとなのはちゃんの父親である士郎さんだったのだ。翠屋という名前を冠していることから気づいてもよかったのかもしれないが、僕にはやはり恭也さんの父親=剣術家という考えが根付いていたのだろうか。

 少し先に来て士郎さんと顔を見合わせた際、お互いに驚いたものだ。だが、驚いたのも一瞬で、僕は昨夜のなのはちゃんのことを聞いたりする余裕すらあった。さすがに今日のなのはちゃんは、家で休養するようだ。昨日、病院で点滴をうってもらったとはいえ、倒れたとあっては、一日ベットで寝かせておくのが最善だろう。

 さて、お互いの準備も整い、翠屋JFCと桜台JFCの試合が始まった。先攻は翠屋JFCのようだ。『MIDORIYA』と書かれたユニフォームを着た僕よりも一つか二つほど年上の少年たちが桜台JFCのゴールに向かってボールを蹴っていた。

「ねえ、ショウはどっちを応援するの?」

「翠屋JFCだね。僕の先輩がそのチームに所属しているんだ」

 隣に座っているアリサちゃんが、どちらを応援しようか迷っていたのだろう、僕に聞いてきた。その声色に先ほどまでの不機嫌さはない。あれは、ある意味照れなので、それが引いてしまえば、大丈夫なのだ。

「ふ~ん、なら翠屋JFCのほうをあたしも応援してあげるわ」

 そうしてくれると僕もありがたい。僕がここに来た理由は、アリサちゃんとすずかちゃんの両方に翠屋JFCを応援してもらうことなのだから。

「すずかちゃんも、応援してくれる?」

「うん、もちろん」

 アリサちゃんを挟んだ向こう側で静かに見ていたすずかちゃんに本来の目的である応援を頼むといつものように柔和な笑みを浮かべて、快諾してくれた。

 よかった。これでどうやら義理を果たせたようだ。

 しかしながら、確かにここにきたのはアリサちゃんとすずかちゃんを応援に引っ張り出すためだが、僕がサッカーの試合に興味がないか、と聞かれると答えは否だ。やはり、知り合いが出ている試合というのは、実に興味深い。
 僕は、アリサちゃんとすずかちゃんが、頑張れ、と応援していることを確認して目の前の繰り広げられるサッカーの試合に目を移した。

 サッカーの試合というのは、野球のように止まらない。もちろん、ボールが外に出てしまえば話は別だが、常にボールは右に左に動いている。目で追うのは非常に大変だ。特にゴール前ともなれば、人が固まってボールが何所にあるのか分からない。突然、その人ごみの中からボールが出てくることもあるから驚きだ。

 ―――へ~、これがサッカーか、面白いね―――

 僕の膝の上で大人しくサッカーの試合を見ていたユーノくんが感慨深げに念話で頷いていた。

 ―――そうだよ。ユーノくんの世界には似たようなスポーツはなかったの?―――

 ―――う~ん、似たようなものはあったけど、僕は研究と発掘ばっかりであまりやったことはなかったな―――

 興味半分で聞き返したのだが、思ったよりも面白い答えが返ってきた。フェレットがサッカーに似たようなスポーツをやっているというのだ。一体、どうやってやっているのだろうか。個人的には興味が尽きない。
 だが、ここで聞くには少々場違いのように思えた。なぜなら、僕の念話は、つい昨日ようやく送信もできるようになったばかりで短距離でしか飛ばない上に酷く疲れるのだ。この後、さらに体力を使うことが待っている以上、ここで体力を使うわけにはいかない。

 だけど、後で絶対、詳しく話を聞こうと思った。

 さて、サッカーの試合であるが、中々両者共に得点が決まらない。野球のようにホームランが一発出れば一点というものでも、ヒットでこつこつとつなげていけば確実に点数が入るというものでもない以上仕方ないだろう。入るときには入るが、入らないときには入らないというのがサッカーなのだ。その流れを如何様にしてつかめるかが勝負である。
 そして、その流れは今日に関して言うと、幸いなことに翠屋JFCにあったらしい。前半を半分ぐらい過ぎたところで、センターリングで上がったボールを上手いことヘディングで処理して、次の選手がそのままボレーでシュートとしてつなげて、ボールはゴールネットにつきささった。

「きゃーっ!!」

 隣のアリサちゃんとすずかちゃんが手をつなぎながら歓声を上げていた。その気持ちはよくわかる。僕も今のはすごく綺麗に決まったな、と思ったのだから。しかしながら、よくよく見てみれば上手いことボレーを決めたのは、先輩じゃないか。気づかなかった僕も僕だ。
 その先輩は、笑顔のチームメイトに背中を叩かれたりしている。サッカーではよくある光景だ。
 どこから駆け込んできたのかまったく分からなかったことを考えると、走るスピードで勝負していた先輩のスタイルは変わらないらしい。

 その後は、特に荒れた様子もなく前半戦が終了し、五分の休憩の後、後半戦に突入した。

 後半、最初の十分で、いきなり翠屋JFCがギリギリまで攻め込まれピンチになるが、ディフェンダーとキーパーのナイスセーブでゴールに繋がることはなかった。後半は、その後、翠屋JFCがさらに一点決めて試合終了となった。試合の結果は2対0で翠屋JFCの勝利だ。

「よかったじゃない、ショウが応援していたチームが勝ったじゃない」

「そうみたいだね。これもアリサちゃんとすずかちゃんが応援してくれたおかげかな?」

 僕は茶化していう。だが、その可能性もないと言い切ることもできない。先輩曰く、可愛い女の子がいれば、士気が上がるらしいのだから。少し気障に言うとすれば、彼女たちは勝利の女神というところだろうか。

「それじゃ、次は翠屋に行きましょう」

 その話を忘れてくれれば、と思っていたが、アリサちゃんは僕を逃がすつもりはまったくないようで、目で逃げるなよ、と語りながら僕に視線を送ってきた。それを見て、意味がわからないのがすずかちゃんだ。僕が最初に連絡したのはすずかちゃんで、シュークリームや事情の説明等は、アリサちゃんが勝手につけた条件なのだから当然ともいえる。

「うん、分かってるよ。すずかちゃんもシュークリーム食べに行こうよ」

 こういうときは、逆らわないほうが吉だ。すずかちゃんも誘うが、これはアリサちゃんに条件を出されていたときから考えていたことだ。アリサちゃんだけご馳走して、すずかちゃんにご馳走しないなんてことは考えられない。
 だが、すずかちゃんは、案の定、気が引けるような表情をしていた。きっと奢ってもらうということが気まずいのだろう。すずかちゃんは優しいから。

「すずか、いきましょう。ショウが今日までのお詫びに奢ってくれるって言うんだから」

「え? でも……いいの?」

 心配そうに尋ねてくるすずかちゃん。それが僕の懐の心配をしているわけではないことを願いたい。まあ、昨日の夜、母親に頭を下げたのは事実だが。

「いいよ。アリサちゃんだけご馳走するなんてことはできないよ。だからさ、すずかちゃんも来てくれると嬉しい」

 僕がそういうと、少し戸惑ったような表情をしていたが、すぐに笑顔になって、うんと了承してくれた。



  ◇  ◇  ◇



 僕たちの前に並ぶショートケーキが三つ。本来、頼む予定だったシュークリームよりも二倍程度の値段がするそれは、決してアリサちゃんが無理を言って僕に奢らせたものではない。このお店のオーナーである士郎さんの好意によるものだ。

 サッカーの試合が終了した後、翠屋に場所を移そうとしたときに士郎さんが話しかけてきてくれたのだ。応援に来てくれたお礼にケーキをご馳走してくれるらしい。僕だけではなく、すずかちゃんやアリサちゃんもだ。最初は断わったのだが、子供が遠慮するもんじゃない、とまで言われれば断わるわけにもいかず、僕たちはこうして外にある一つテーブルに三人で座っていた。

「さあ、事情を話してもらうわよ」

 イチゴのショートケーキを食べるためのフォークを振りながらアリサちゃんが僕を問い詰めるように威圧する。それを見て事情が分かっていないすずかちゃんは、ショーケーキを一口食べた状態できょとんとしていた。
 事情というのは、もちろん、この一週間のことである。急に塾にもアリサちゃんの英会話教室にも行かなくなったことを聞きたいらしい。それを話すことが今日の条件だったのだから仕方ない。僕は、昨日から考えていたことをポツポツと話し始めた。

 この一週間、塾にも行かなかったのは、あるものを探していたから。探し物は蒼い宝石で、一緒に探している高町なのはちゃんの大事なものであること。僕も探しているのを見て、手伝うことにしたこと。それら色々なことを魔法という事実を隠蔽して、真実と嘘を織り交ぜながらアリサちゃんに話した。

「そんなのなのはって子が探してるだけでしょう!? ショウが塾を休んでまで探す必要ないじゃない」

「必死に探して、困っている子を放っておくわけにはいかないよ」

 正確にいうと困っているのはユーノくんでなのはちゃんではないのだが、ここはそういうことにしておく。それに、アリサちゃんとの付き合いも長いので、僕が基本的に困っている子を放っておけないことも知っているはずだ。事実、アリサちゃんは僕の答えを聞くと、うっ、と返答に困っている様子だった。
 それをすずかちゃんは見ているだけ。僕の味方もしていないし、アリサちゃんの味方もしない。まだもう少し事情が知りたそうだった。

「で、でも、もう一週間も探してるのに見つからないんじゃ、見つかるわけないじゃない」

「でも、探さなければ見つからないよ。買って換えがきくようなものじゃないんだ。だから、探さなくちゃいけない」

 もっとも、探して見つけたとしても封印するのはなのはちゃんの役目だったりするわけで。僕は本当に捜索要員でしかない。最近は魔法の練習も頑張っているのだが、単純な魔法しか使えないし、念話は昨日ようやく使えるようになっただけだ。

「……だったら、いつまで探すのよ。代わりがないからって、見つからなかったらずっと探すわけじゃないんでしょう?」

 それもそうだ。確かにアリサちゃんの言い分にも一理ある。僕の説明だと見つからなければずっと探すということになってしまう。だが、それはありえない。ずっと探すという選択肢は僕の中にはない。そもそも、僕たちが探しているのは、僕たち以外に探す人がいないからではない。時空管理局という警察のような組織がくるまでの中継ぎなのだ。

 ふむ、だったら、アリサちゃんを納得させるために期限を設けてもいいのかもしれない。

 ―――ねぇ、ユーノくん。時空管理局が来るのってどのくらいになるのかな? ―――

 僕は、念話でテーブルの下で、ケーキのスポンジを食べているユーノくんに話しかけた。

 ―――そうだね、もう一週間経ってるから……あと、二週間後には来ると思うけど―――

 ―――三週間もかかるのか……―――

 時間がかかるとは聞いていたが、そんなにかかるとは思っていなかったので、少し驚いた。だが、魔法世界所属のユーノくんがいうのだから大体間違いないだろう。三週間か、だったら、少し余裕を見ておくべきだろう。

「分かったよ。だったら、一ヶ月。それまで探して見つからなかったらなのはちゃんを説得して、探すのをやめる」

「一ヶ月も探すの?」

「大事なものだったら、いつまでだって探したくなるものだよ。だから、せめて区切りを告げる意味でもそれまで探してあげたい。まあ、それまでに見つかるのが一番だけどね」

 もっともジュエルシードは21個あって、そのうち5個はすでに見つかっている。後二週間もすれば、時空管理局が来てジュエルシード探しも引き継いでくれるだろうし。ならば、一ヶ月を区切りにすることになんの問題もない。

 どう? とばかりに僕の答えを聞いたアリサちゃんだったが、少し腕を組んで考えた後、顔を上げた。

「……仕方ないわね。一ヶ月よっ! それまでなんだからねっ! あと、蒼い宝石だったわね。あたしたちも探してみるから」

「ありがとう。見つけたら、すぐに僕に教えてね」

 ここでしまった、と思った。最初に蒼い宝石であると説明したが故に青い宝石、ジュエルシードが危険物だと説明できない。ジュエルシードが触れれば、即発動といったものだとするとアリサちゃんが触れた瞬間にアウトなのだが……。

 ―――触れるだけなら大丈夫だけど、強く願ったりしたらダメかな―――

 ユーノくんに危険性を聞いたところ、どうやらそんなものらしい。しかし、強く願うって、実に発動条件が曖昧だ。こうなったら、彼女たちがすぐに僕に連絡してくれることを願うしかない。
 ここまで話しておいてなんだが、彼女たちが一緒に探すといわなくてよかった、と胸をなでおろした。しかし、そう思ったが、よくよく考えてみるとアリサちゃんとすずかちゃんが一緒に探すというのは無理だ。
 そもそも週の半分が塾で、それ以外は、お稽古事で埋められている。アリサちゃんがヴァイオリンで、すずかちゃんがピアノだっただろうか。つまり、一緒に探すとなれば、休日が主となってしまう。ちなみに、アリサちゃんの英会話教室は、平日が一日、休日の一日の二日で構成されていることが多かった。

「すずかちゃんも、これで納得してくれた?」

「私はもともと、ショウくんに何も聞いてないよ?」

 そうだった。すずかちゃんの基本的なスタンスはこれだ。他人に強く踏み込まない。もちろん、友人としての付き合いはあるのだが、他人の事情というか、内情に強く踏み込んでくることはない。事実、僕が何も言わずに帰ることには疑問を持っていただろうが、アリサちゃんのように問いただしてこないのがすずかちゃんだ。

「そうだけど……僕が何も言わなかったのも確かに悪かったからね。ごめんね、友達なのに今まで何も言わなくて」

「ううん、誰にだって言いたくないことはあるから、大丈夫だよ」

 そういって、いつもの静かな微笑を浮かべてくれるすずかちゃんだった。正直、彼女のあまり個人のことに踏み込んでこないという性格は今の僕にはありがたいことである。もっとも、そのスタンスが良いか、悪いかは別の話ではあるが。

「さ~て、それじゃ、ケーキを食べましょうっ! それにユーノもいることだし」

「アリサちゃん、ユーノくんに触るなら食べた後だよ。動物なんだから」

「分かってるわよっ!」

「もう、アリサちゃん、そんなに急いで食べなくてもユーノくんは逃げないのに……」

 その後、しばらく僕らは久しぶりに友人同士の会話を楽しむのだった。



   ◇  ◇  ◇



 午後、アリサちゃんとすずかちゃんと別れた―――アリサちゃんはお父さんと、すずかちゃんはお姉さんと買い物らしい―――僕は、なぜか翠屋JFCに所属している先輩と一緒に聖祥大付属小のグラウンドへと向かっていた。
 先輩と一緒になった理由は、アリサちゃんたちと別れた僕を見計らってきたからだ。

「それで、どうして、僕たちが話している間、来なかったんですか?」

 聖祥大付属小へと向かうバスの中で僕は先輩に聞いた。

「なんでって、仲良さそうに話してたし、そもそも、あの子たち呼ぶように言ったの俺じゃねえし」

「え? そうだったんですか? でも、電話じゃ」

「俺の先輩だよ。六年生のな。俺には、女の子なんてよく分からないしな」

 サッカーのほうが楽しいし、と呟く先輩。もっとも、小学生としてのあり方なら先輩のほうが正しいと思う。その先輩の先輩たちというのは、ちょうど異性が気になる年頃なのだろうか。まだそれを理解できないことにつき合わせられる先輩がある意味でかわいそうだった。

「………先輩も苦労してるんですね」

「まあな。それより、なんで休日に学校に行ってるんだよ?」

「昨日、先輩が言ってたことが気になりまして」

 そう、昨日先輩が言ったことだ。2年生や1年生を仲間はずれにして、3年生だけでグラウンドを独り占めしている状況ができているこということ。もし、そのことが本当だとすれば、休日である今日も聖祥大付属小のグラウンドは、サッカーで使われ、3年生が独り占めしているはずだ。

 だから、僕はそれを確認するために学校に行くのだが、その話を聞いた先輩もついてくると言い始めた。曰く、面白そうだから、らしい。ちなみに、ユーノくんは、すでに家に帰している。

 さて、学校に到着した僕らが見たものは、サッカーボールを抱えて、グラウンドを独り占めし、サッカーに興じている3年生を見ている低学年の子供たちだった。
 どうやら、先輩が言っていることは本当らしい。僕が来なくなる前までは一緒にサッカーに興じていたはずのクラスメイトまで、この状況が当然のようにサッカーで遊んでいる。

 やれやれ、とこの場合は、誰一人としてこの状況をおかしいと言い出す人間がいないことを嘆くべきか、あるいは、前までのルールを改革してしまうほどのリーダーシップを発揮したクラスメイトを褒めるべきか、本気で悩んだ。

 しかしながら、そんなことで悩んでいる時間はない。現に今でもどこでサッカーをしようと悩んでいる低学年の子供たちがいるのだから。

「さて、どうする? ショウ」

「そりゃ、もちろん、止めますよ」

 ニヤニヤ笑いながら僕に問いかける先輩。どうやら、今回の件で彼が首を突っ込んでくるつもりはないらしい。まあ、それはそれで有り難い。ここはあくまでも3年生の問題なのだから。5年生の先輩が出てくれば収まるだろうが、それは決して解決にはならないだろう。

 僕は、決意を固めるとグラウンドへと駆け出した。目標は、丁度ボールを持っているゴールキーパである。

「はい、ストップ」

「ショウくんっ!?」

 ボールを蹴り出そうとしていたキーパの子の肩を掴んで、試合を止めた。肩をつかまれた子はどうやら、僕に気づいたようだ。

「まったく、何やってるの? 下級生を仲間はずれにして、自分たちだけやるんなんて、そんな格好悪いことやって」

「いや、それは……」

 口ごもるクラスメイト。たぶん、それなりに罪悪感というものがあったのだろう。あるいは、僕に見つかってばつが悪いといったところだろうか。

「ほら、今からでもいいから、あの子たち誘ってあげなよ」

 僕が指差した先には10人程度の下級生。諦めて帰っていなかったことから考えても、来てからあまり時間が経っていなかったのだろう。
 だが、僕の提案に対して同級生たちの反応は芳しくない。サッカーのプレイ自体は止まっているが、互いに顔を見合わせて、どうする? と視線で語っているようだった。

「おい、なに勝手に来て、勝手なこと言ってるんだよ」

 誰もお互いに顔を見合わせて動けない中、一人だけ僕に近づいてくる大柄な同級生がいた。名前は、確か……ケンジくんと言っただろうか。クラスは第二学級なので、サッカーに興じていた同級生という認識しかないのだが、どうやら、この状況を鑑みるに彼がこの状況の首謀者らしい。

「当たり前のことを言ってるだけだよ」

 少なくとも一週間前までは、下級生が現れてもすぐに仲間に入れてサッカーに興じていたルールが存在していた。だが、今はそんなルールはなかったとばかりに下級生を無視している。
 本来なら、このグラウンドは、誰でも使えるものであり、3年生が独占していいものでもない。

「うるせぇっ! ずっと来なかった奴が勝手言ってんじゃねえよっ!!」

 さて、人の交渉において最後で最悪の手は、当然のことながら暴力だ。それは伝家の宝刀に近い。つまり、絶対に抜いてはいけないのだ。取り返しがつかないから。
 しかしながら、子供時代において暴力を使ったいわゆる喧嘩は多い。なぜなら、交渉ができるほどに口が上手くないからだ。言い返すことができず、結果として、伝家の宝刀である暴力をふるってしまう。

 この場合のケンジくんも同様だったのだろう。肩が大きく動くのが見え、直感的に殴られると分かった。もっとも、分かったところで僕が反応できるはずもなく、できることは歯を食いしばって踏ん張ることだけだ。
 直後、頬に強い衝撃が走った。当然、殴られたのだ。僕よりも頭一つ分大きな相手から力任せに殴られたのだ。当然、かなり痛い。幼稚園の頃は、喧嘩もかなりあったが、最近はあまりなく、殴られるのも久しぶりだから余計に痛みがひどかった。正直、吹き飛ばなかったのが不思議なぐらいだ。

 このときほど、僕は自分が二十歳の精神を持っていることを恨んだことはない。もしも、僕が身体と同等な小学生の精神を持っていれば、きっとケンジくんに殴りかかっていただろうから。だが、僕の二十歳の精神がこんな子供に殴りかかるな、と制止をかける。結果、僕は殴られても、その場に立ったままケンジくんを睨み返すしかなかった。

「んだよっ! お前はなんかむかつくんだよっ!!」

 もう一度、振りかぶるケンジくん。だが、その拳が振り下ろされることはなかった。

「やめろよ。さすがに手を出したら、お前の負けだぞ」

 先輩がケンジくんを羽交い絞めにしているからだ。いくら3年生の中で大柄なケンジくんとはいえ、5年生の先輩に適うはずもない。結果、拳は振り下ろされることなく、ケンジくんは先輩の羽交い絞めから逃れようと身をよじるだけだった。

「はなせよっ! あんたには関係ないだろっ!!」

「関係ないかもしれないが、殴られているのを見てるわけにもいかんだろ」

 体力的な問題もあるのだろう。ケンジくんが先輩を振りほどくことはできなかった。やがて、僕が殴られるのを呆然と見ていた同級生たちが僕の周りに集まって「大丈夫?」と声を掛けてくれた。人を気遣う優しさはあるようだ。僕は、彼らに大丈夫、と返したのだが、頬が相変わらずまだ腫れたように熱い。

「あ、ショウ、血っ!」

「へ?」

 ぐっ、と口元拭うと袖口に付着した赤黒い血のようなもの。おそらく、殴られたときに歯で切ったのかもしれない。もっとも、ダラダラ流れているわけではないので、舐めておけばそのうち止まるだろう。

「おい、ショウ。大丈夫か?」

「ええ、まあ、舐めとけば止まりますよ」

 僕からしてみれば、信じられないことだが、先輩はケンジくんを抑えて尚、余裕があるらしい。血を流している僕のことを心配してくれるのだから。だが、さすがに血を流すところまで本気で殴ったケンジくんが許せなかったのだろう。今まで見たこともないような怒った顔をしていた。

「おい、お前、サッカーのことならサッカーでけりをつけろよな」

 突然の先輩からの提案だった。
 話を聞けば、僕の考えに賛同する面々とケンジくんの考えに賛同する面々での試合らしい。僕の場合は、低学年の子供たちも加えて良いらしい。ここに集まっている3年生は15人なので25人になってしまうが、まあ、やっているゲーム自体も最初からルールどおりじゃないから構わないだろう、とのことだ。

 ケンジくんは自信満々にそれに賛同。僕も殴られるよりもよっぽどいいので賛同した。
 結論から言うと、ゲームをするまでもなく僕の勝利が決まった。なぜなら、ケンジくんのチームに集まったのはケンジくんを合わせて5人。僕のチームは低学年の子をあわせても20人。正直に言おう。試合にならない。

 結局、ケンジくんの暴力が首を絞めたような形だ。もっとも、僕の目から見れば先輩の存在も大きいのではないか、と思う。明らかに先輩は僕の味方をしているし。小学生といえど、長いものに巻かれろとはよく言ったものだ。

 その結果を受けて、ケンジくんとケンジくんに味方した4人は、彼が「勝手にしろっ!」と捨て台詞を残して去ったのを追いかけてグラウンドから消えた。
 僕は追いかけるかどうか迷ったが、今の彼に話しかけても殴られるだけだろうというのは、簡単に予想がついたので、落ち着いた明日ぐらいに声を掛けてみようと思う。

「おい、ショウ、やろうぜ」

「あ、はい」

 久しぶりに遊びでサッカーがしたいといい始めた先輩も加えて20人でサッカーに興じることになってしまった。僕としては構わないのだが。
 その日、日が暮れるまで僕は久しぶりにサッカーで汗を流すことになったのだった。


続く

あとがき
 感想数 翔太サイド:約20 裏サイド:約50
 まるで推理漫画のようだ。(解決編の読者アンケートは順位が上がるらしい:バクマンより)

 アリサVSなのはを期待していた人は、ごめんなさい。裏で分かります。



[15269] 第十三話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/03/12 21:48



 高町士郎にとって蔵元翔太とは、大人びた小学生という認識であった。

 高町家を悩ませたなのはの不登校事件の際に解決のための重要な情報を持ってきてくれたのが彼だ。そのときの印象は、ずいぶんと大人びた小学生だな、というもので、一年ぶりに会った彼の印象も変わることはなかった。
 もっとも、二度目の出会いは、一度目の出会いなど比較にならないほどの衝撃的な内容だったが。まさか、御伽噺の中にしか存在しない魔法の存在を語られるとは思わなかった。日の光が当たらない裏の世界のことも知っているつもりだったが、その士郎をして初めて知る事実だ。

 今は、なのはに恭也や美由希という護衛もつけ、魔法の中でも怪我をしないようにしていることで納得している。

 魔法というものを認識して、なのはに特に怪我もなく日々を過ごしている最中、突然の知らせが舞い込んできた。

 なのはが倒れたと聞いたときは、店の中だったにも関わらず、取り乱してしまった。慌てて翔太に電話して逆になだめられたぐらいだ。しっかり者だとその時、認識を新たにした。
 さて、そんな彼だが、なのはが倒れ、病院から帰ってくる途中で恭也が聞いたところによると、どうやら蔵元翔太は、なのはの友達だとはっきり告げたようだ。

 魔法騒動の所為で久しく開かれていなかった家族会議、その中で恭也が確かに発言した。驚きのあまり、「本当か?」と聞いてしまったが、恭也は目を逸らすことなくコクリと頷いた。
 心底、よかったと思った。同時に一年前といい、今回といい、あの子には頼りっぱなしだな、と思ってしまった。だが、それでもなのはに友達ができたことは嬉しかった。
 たった一人かもしれない。だが、そのたった一人を作ることに高町家は一年間、全力で取り組んできたのだ。結局、彼らが授けた機会で友達ができたわけではないが、それでも、友達ができたのだから御の字である。

 さて、これらは人数を増やしていくという工程があるわけだが、一人友人ができれば、そこから輪が広がっていくことを期待した。特に翔太の名前は、学校関係者からは、みんなのまとめ役としてよく聞く名前なのだから。
 下心ありでいえば、彼と友達になれたことは僥倖だった。彼と友人であれば、他の友達とも触れ合う回数が増えるだろうから。そこから、また友人が増えていくことを期待できるかもしれない。

 だからだろう、なのはが倒れた次の日の練習試合のときに翔太が、女の子二人を連れて試合の応援に来たときに思わず翠屋に誘ってしまったのは、そして、翠屋についた後、その旨を家でなのはの様子を見ているはずの恭也に知らせたのは。せめて、これで翔太がつれている女の子たちと仲良くなってくれれば、いや、そこまで贅沢は言わないが、知り合いとしてなのはと話してくれれば幸いだ、と士郎は思った。



  ◇  ◇  ◇



 本日の高町なのはの起床時間はいつもよりも相当遅かった。今日が休日というのもあったのかもしれない。しかしながら、昨夜、恭也から聞いた翔太の伝言が大きな要因であることは間違いないだろう。

 ―――今日はお休みだから、ゆっくり休んでね。

 恭也が翔太の家に送るまで起きることがなかったなのはへの翔太からの伝言らしい。
 なんで翔太の家に着くまでに起きなかったのだ、となのはは自分を責める。昨日は、あまりに嬉しいことがあって、気を緩めて寝てしまった。そのせいで、昨日は翔太に別れの挨拶すらできなかった。不甲斐ないことだ。
 しかも、今日は朝から一緒にジュエルシードの捜索ができると思っていたら、翔太からの伝言だ。つまり、なのはが寝ているのは半ば不貞寝に近い。今日は、魔法を使うことも禁止されているのでいつまで寝ていても問題はない。なんでも、翔太が家族に魔法を使わせないように言ったらしい。

 だが、いくら寝不足だったといっても、昨夜から考えれば軽く20時間以上も寝ているのだ。これ以上、寝ているとまるで目が腐りそうだった。しかしながら、起きたところでなのはにやることはない。倒れる前のなのはの生活は、起床、魔法の練習、学校、ジュエルシードの捜索、魔法の練習、就寝だったのだから、魔法の練習とジュエルシード捜索を禁止されては、学校へ行くか寝るしかない。

 ―――ショウくん、何してるかなぁ。

 特にすることもなかったが、眠たくもなかったのでベットに横になって天井を見上げながら考えるのは、翔太のことだ。そういえば、昨日、看病してもらったのにお礼も言っていない。今度会ったら、言わないと。お礼もいえない子だとは思われたくない。
 そうやって、思い出していくと昨日の翔太の言葉が思い出される。

『ずっと隣にいるから』

 翔太は確かにそういってくれた。

「ショウくんと……ずっと一緒に……」

 それは、実に甘美で、幸福で、素敵な響きだ。翔太の隣にずっといられる。唯一、自分を見てくれる彼がずっと隣にいる。だが、そのためにはもっと、もっと、もっと魔法を強くならなければならない。ジュエルシードの暴走体なんて一捻りにできるぐらいに。そうすれば、きっともっと翔太はなのはを褒めてくれるだろうから。

「えへへ……」

 翔太に褒められる自分を想像したのか、やや緩んだ笑みを浮かべるなのは。

 ―――コンコンコン

 気の緩んだなのはの耳に入るこの部屋のドアをノックする音。続いて聞こえてきたのは、聞きなれた兄の声だった。今日は、なのはを心配して、一日家に残っているらしい。

「なのは、起きてるか?」

「うん」

「そうか。父さんからだが、翔太くんが翠屋に来てるらしいぞ」

 ―――ショウくんがっ!?

 たった今、翔太について考えたなのはが翔太という名前に反応しないはずがない。今まで、寝ていた身体をその名前に反応して上体を起こした。
 しかし、上体を起こして考える。翔太が翠屋にいることが分かったからといって、どうなるというのだろう。今日は、翔太から休むように言われている。ここで、のこのこと翠屋に顔を出して、翔太と鉢合わせしてしまったら、自分は外を出歩いていることになり、翔太からの伝言を破ってしまうことになる。

 もしかしたら、それが原因で嫌われてしまうかもしれない。嫌だ、そんなことは絶対に嫌だ。昨日、せっかく、とても幸せになれう言葉を貰ったのに。

 だが、なのはの心の隅に翔太と会いたい気持ちが生まれていることも確かだった。この一週間、翔太と一緒でなかった日はない。必ず、自分だけに向けてくれる笑みを一日一回は見れていた。だが、今日は見ていない。見られない。それがなのはに確かな寂しさをなのはに与えていた。

 翔太に会いたい。しかし、会うことで嫌われることを考えると、会いにいくことはできない。会いたいが、会いにいけない。なのはにとっては究極の二律背反だった。

 ベットの上でどうするべきか考え込むなのは。会いたい、翔太の顔が見たいと主張するなのはもいれば、翔太に休養日といわれているのに不用意に会って、嫌われたり、呆れられるのはごめんだ、と主張するなのはもいる。

 どちらの言い分も理解できる。簡単に言ってしまえば、快楽を取るか、安寧を取るかである。翔太と会えば、快楽は得られるだろうが、安寧はない。この場に留まれば、安寧は得られるだろうが、快楽は得られない。

 さて、どちらが正しいか。危険性が未知数である以上、ここまでくれば、もはや個人の好みだろう。行動派の人間であれば、多少の危険を承知で前者を選ぶだろうし、慎重派の人間であれば危険を回避して後者を選ぶだろう。

 しかしながら、なのはにはそれを選ぶだけの経験が足りなかった。行動派、慎重派、それらを切り分ける経験がなのはにはない。過去に行動に移して幸いを得られたのなら、行動派を選んだだろう。過去に行動に移して痛い目を見たなら慎重派だっただろう。だが、なのはは行動に移せたことがない。故に、彼女にはどちらを選ぶべきか分からない。

 だから、恭也の一言がなのはの行動を決定付けた。

「父さんが、翔太くんと一緒にケーキをご馳走するらしいぞ」

 この一言でなのはは翠屋に行くことを決めた。

 理由は簡単だ。なのはの父親である士郎が誘っているのだ。つまるところ、士郎の許可が出たことに変わりない。もし、翔太にあって何か言われたとしても士郎の責任にすればいいのだ。そのいわゆる責任転嫁というところまでなのはが計算したかどうかは分からない。なにせ、まだなのはは子供だ。だから、そこまで頭が回ったか分からない。だが、子供であるが故に親という立場からの許可は、なのはが行動する根拠には十分だったのだろう。

 なのはは、恭也からの一言を聞いて、ベットから降りて身支度を始めた。せっかく翔太に会うのだから、身だしなみぐらいはしっかりしたいものである。

 なのはが身支度を終えて、外に出たのは、恭也から声を掛けられて20分後のことだった。



  ◇  ◇  ◇



 胸の鼓動が抑えられない。
 会えないと思っていた休日に不意に出会えるようになった。ただ、それだけでなのはの胸の鼓動は高鳴る。

 ―――会ったら何を話そう。やっぱりケーキの話かな。

 そんなことを考える自分に笑える。つい先週までは、もう何も期待しないと思っていたのに。翔太の前では、なのはも話すことができた。
 それは、今まで話した誰かのように早くと急かすような様子もなく、なのはがきちんと話し終えるまで待ってくれるからである。

 ―――ジュエルシード発動してくれないかなぁ。

 翔太に聞かれれば不謹慎なことをなのはは考える。
 だが、なのはにとっては自然なことだった。そうすれば、翔太に会えた上に、ジュエルシードを封印したなのはは翔太に褒めてもらえるのだから。もし、そうなれば、今日という休日はなんと幸福な日になるのだろう。

 そんなことを考えながら、駅前の商店街を少々早歩きで翠屋を目指すなのは。

 やがて、翠屋が見えて、表のオープンテラスに見慣れた翔太の後姿が見えた。一年生の頃、憧れで見ることしかできなかった翔太の後姿はよく覚えている。彼の姿が見えた瞬間、なのははすぐにでも翔太に会いたくなって、早歩きだったのが、駆け寄るように足を速めて、豆粒程度だった翔太がはっきり見えるようになった頃、「ショウくん」と声を掛けようとして―――なのはは息を呑んだ。

 その場にいたのは翔太だけではなかった。一緒にいるのは、白いカチューシャをした黒髪の女の子と綺麗な金髪の髪を靡かせた女の子。両者ともなのはの目から見ても可愛いと思えるほどの女の子だ。そんな女の子と翔太が、笑いながらテーブルを囲んでいた。そして、テーブルの上に並んでいたのは、ケーキが載っていたであろうお皿が三つ。

 ―――え、あ、あれ……?

 それは、なのはと翔太が一緒に食べるはずのケーキではなかっただろうか。一緒に食べる姿を想像していたのに。翔太はすでにケーキを食べ終えていた。なのはの知らない女の子と一緒に。

 ―――ど、どうして?

 なのはにはこの状況が理解できなかった。翔太に会えると思って翠屋まで来たというのに来てみれば、翔太は他の女の子と一緒になのはと食べるはずだったケーキを既に食べ終えている。

 目の前の状況が受け入れられなくて、どうして、どうして、と疑問が浮かびながら、自分以外と笑いながら話している翔太なんて見たくないのに、なのはの足はその場に縫い付けられたように動くことはできなかった。その結果、なのはの眼は、翔太と翔太と共に笑いあう二人の女の子を見ているしかなかった。
 翔太の様子は、なのはの隣にいるときよりも楽しそうで、なのはに見せている笑みよりも嬉しそうで、なのはが今まで一度も見たことがないような表情だった。

 翔太の初めて見た表情にも愕然とするなのは。

 混乱の極みにあるなのはは目の前の状況が理解できない、理解したくない。

 ―――自分以外の人が隣にいて、翔太が笑っている姿など。

 だが、目の前の状況はリアルであり、なのはがいくら否定しようとも現実だ。

 不意に、不意に翔太と話している金髪の女の子が翔太から視線を外して、なのはの方に顔を向け、彼女となのはの視線が合った。その瞬間、金髪の女の子は何かを理解したように笑った、嗤った、哂った。

 その笑みが、あんたには、翔太を笑わせることなんてできないしょう、あんたなんてお払い箱よ、と言われているようで、翔太の隣になのはがいることを否定されたようだった。結果、それを契機にして、なのははガクガク震える足と手を懸命に動かしながら踵を返して、その場から逃げ出すしかなかった。



  ◇  ◇  ◇



 息を切らして、肩で呼吸をしながら、なのはは当てもなく商店街を走る、走る、走る。途中、足がもつれて、ヘッドスライディングのように地面をすべり、ハイソックスが破れ、翔太に見てもらうために見繕った洋服が汚れてしまうが、それでもすぐに起き上がって、また走り出す。
 とにかく、一秒でもあの場所にいたくなかった。自分が翔太の隣にいることを否定されたあの空間から、少しでも遠くに、一秒でも早く、逃げ出したかった。

「はぁ、はぁ、はぁ―――」

 走りきった先に着いたのは、桜台の登山道だ。ここからは、海鳴の街が一望できた。
 だが、そんなことは、今のなのはには関係なかった。先ほどの情景がなのはの脳裏にフラッシュバックする。

 ―――見たことない表情で笑う翔太。翔太と一緒にいる二人の女の子。そして、なのはを嗤った女の子。

「あ、あはは、嘘。嘘だよね」

 あまりに衝撃的な状況になのはは否定することしかできない。だが、強く否定すればするほどに先ほどの情景は現実としてしか思えなくなってしまった。

 強く否定するということは、その情景を強く意識するということだ。故になのはは、あのときの光景を否定したいにも関わらず、逆に強く意識してしまうほどに刻み込んでしまった。

「なんでっ!? どうしてっ!?」

 否定したいのに、否定できないなのはは、思わず強く叫んでしまう。
 強く先ほどの情景を意識してしまったなのはが縋るべき言葉は、もはや昨日の翔太の言葉しかなかった。

「ずっと一緒にいるって言ってくれたのに……」

 そうだ。翔太は言ってくれた。ずっと一緒にいてくれる、と。あの翔太が嘘をつくはずがない。

 ―――ならば、なぜ? なぜ、翔太はなのは以外の人の隣で笑っていた? しかも、なのはが見たこともないような笑顔で。

 なのはの頭がその答えを見つけるためにフル回転する。そして、しばらくして、なのはは一つの答えにたどり着いた。

 ―――ああ、そうか。そうだったんだ。

 なのはは理解した。ああ、そうだ、実に簡単なことだった。

 昨日と今日の違い。それは、なのはが倒れたか倒れていないか、だ。

 もしも、昨日、なのはが倒れなければ、今日も翔太はなのはと一緒にジュエルシードを捜索していただろう。だから、今日の情景が生まれたのは、なのはが倒れたからだ。
 ならば、翔太と一緒にいるためには、倒れなければいい。そんな不甲斐ない自分にならなければいい。

 そう、実に簡単だった。

「あはっ」

 答えを得たなのはは笑った。

 ―――そうだ、だから、今日はショウくんは休みって言ったんだ。それを破って出てきたなのはが悪いんだよ。

 自分の心を護るために、翔太がなのはの理想であるが故に、なのははそう自己完結した。

 なのはの足は先ほどよりも軽くなって自宅を目指す。当然、帰宅してベッドで横になるためだ。翔太が休めと言ったのだから、休むしかない。

 ―――今日は、休んで、明日からはずっとショウくんとジュエルシードを探して、探して、探して、ジュエルシードを集めて、集めて、集めて、あつめて?

 登山道の入り口付近でなのはは軽やかだった足を止めて、考える。だが、その思考は別の場所から、それ以上考えるな、と警告を送られるが、もはや手遅れだった。その思考は、なのはの中心部分で始まっていたのだから。

 ―――ジュエルシードを集めて、集めて、集めたら……どうなるの?

 なのははあのフェレットの言葉を思い出す。

『ジュエルシードは全部で21個あります』

 つまり、なのはが、ジュエルシードを集めて、集めて、集めて、集め終えたら……

 がしっ、となのはは自分の膝が汚れるの構わず地面に膝をつく。さらに、春だというのにガタガタ身体を震わせ、カチカチと歯を鳴らし、寒さから自分を護るように自分の腕で身体を抱きしめていた。翔太が魔法を使ったときのようだが、今度は絶望の桁が違う。あの時は、翔太が魔法を使おうとも心のどこかで分かっていた。自分には遠く及ばないと。だが、今度は違う。明確な終わりが見えた。見えてしまったのだから。自分の死期を告げられ時の感覚に近い。

 ―――ジュエルシードを集め終えたら……ショウくんは……一緒にいない?

 それは、今日の情景が証明している。ジュエルシードがすべて集まり、魔法が必要なくなれば、翔太がなのはを必要とすることはなくなり、つまり、それは、翔太がなのはの隣にいないことを、今日の状況が日常になることを示唆していた。

 ―――嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、いやだいやだいやだ。

 翔太が魔法を使ったときにも感じた恐怖がぶり返してきた。つまり、翔太の温もりを手放さなければならないかもしれない、ということだ。昔のただ褒められることも、温もりを与えられることもなくなるということだ。それは、すでに翔太の温もりという甘い経験を強いてるなのはからしてみれば、とても受け入れられないことだった。

 ―――そ、そうだ。わざとジュエルシードを見逃せば……

 そうすれば、翔太とずっと一緒にいられる。だが、その考えはすぐに選択肢の中から一蹴された。なぜなら、ジュエルシードを見逃すということは、なのはの不手際であり、それが原因で翔太から見限られては元も子もないからである。

 ―――どうすればいい? どうすればいい? どうすればいい?

 考える。なのはの魔法が見限られることなく、ジュエルシードがずっと存在するような状況。そうすれば、なのはと翔太はずっと一緒にジュエルシードを探すようになり、なのはと翔太はずっと一緒にいられる。

 ―――ああ、そうか。そうだ。こうすればいいんだ。

 抱きしめていた腕を解いて、なのはは立ち上がり、駆け出す。

 答えを得たなのはは、海鳴の街を目指して一直線に駆け出していた。



  ◇  ◇  ◇



 階段を駆け上がり、屋上に着いた瞬間、なのはの顔を強風が叩く。だが、それを物ともせず、屋上の中心へと足を進める。屋上の中心に立ったなのはは、胸元からレイジングハートを取り出す。

「お願い。レイジングハート」

 ―――All right.

 もはや主従の間に契約の言葉などという無粋なものは存在しない。主の言葉に従い、デバイスであるレイジングハートは主の意思に従って、その姿を杖と防護服―――バリアジャケットへと姿を変えた。
 形を変えたレイジングハートを手にしたなのははすぅ、と意識を集中させるために目を瞑る。

 展開する魔法は、いつもの仮想空間で放つ砲撃魔法ではない。むしろ、砲撃魔法のような攻撃とは真逆のベクトルである補助的な魔法である探査魔法をなのはは展開していた。
 むろん、誰からも習っていない。ただ、ユーノが使っている探索魔法をいつもなのはは見ていた。つまり、これは、ユーノが使う探索魔法の見よう見まねである。むろん、普通の魔導師が行えば、失敗してしまうだろう。だが、高町なのはならできる。なぜなら、彼女は魔法という分野に対しては天才なのだから。
 天才が1を学ぼうと思えば、10の実力がついてくる。ならば、今のなのはに不可能はない。彼女がようやく手に入れたものを手放さないためなら、悪魔にだって魂を売っただろうから。

 そこまで求めるなのはに魔法に関して言えば、不可能の文字はない。事実、探査魔法は上手く発動し、なのはを中心にして、北から時計回りに海鳴の街を探査していた。

 北、北東、東、南東、南、南西、西―――

 そこまで探査してようやく引っかかった小さな小さな違和感。普通のなのはなら見逃したであろう違和感。だが、今、その波動を探して小さな信号さえも見失わないようにしていたのだ。故になのはが、それを見逃すことはありえない。

 幸いにして見つけられたジュエルシードの反応になのはは口の端を吊り上げるような笑みを浮かべて、歓喜と共にそれを迎える。

「みぃぃつけたっ!!」

 語尾に音符がつきそうなほどの上機嫌な声を出すなのは。

 なのはが上機嫌なのも無理はない。彼女にとってはこれは賭けだったのだから。見つかれば、翔太が隣にいて笑える日々。見つからなければ、いずれ来る終わりに震える日々。それらを賭けていた。

 そして、彼女は賭けにかった。見つかったジュエルシードはそんなに遠くにあるわけではない。なのはの靴にフライアーフィンを展開して、彼女はビルの屋上から飛び立った。

 なのはがジュエルシードを肉眼で確認できたのは飛び立って5分ほど後の話。白いジャージを着ている男の子と薄紫色のジャージをきている女の子の内、男の子のほうがどうやら持っているようだ。
 なのはは、近くの路地裏に着地すると、物陰から様子を伺った。

 さて、問題はこれからだ。

 地面に落ちていれば、面倒はなかっただろうが、人が拾っているとなると多少問題だ。どうやって手に入れるか。取り出してくれたら、簡単に―――

 今日は、なのはに幸運の女神でもついているのだろうか、いや、きっとこれは翔太の隣にいられなかった不幸の帳消しなのだ。ならば、この幸運の連続も納得できる。

 なのはがそう思うのも無理はない。取り出してくれないかな、と考えていた所に白いジャージを着ていた男の子が、ジュエルシードと思える蒼い宝石をポケットから取り出したのだから。
 それを確認した瞬間、なのはは、物陰から飛び出し、白いジャージの男の子に体当たりを行った。突然、後ろから衝撃を受けた男の子は、当然のことながら受身を取ることもできずにその場に倒れこんでしまう。その瞬間、手にしていたジュエルシードが転がる。
 その隙を見逃すなのはではない。倒れた男の子のことなど知らないといわんばかりにまっすぐジュエルシードに手を伸ばし、手にした瞬間に「リリカルマジカル」と封印魔法をかけた。
 魔法をかけ終わると同時に、即離脱。さすがにそのまま立ち去るのは後味が悪かったので、「ごめんなさ~い」という言葉を残して、その場を風のように去るのだった。



  ◇  ◇  ◇



「あははは、あははははははは」

 なのはは自分の部屋で手にした蒼い宝石を弄びながら笑いが止められなかった。

 ―――これが、これがあればずっとショウくんと一緒にいられる。

 なのはは、このジュエルシードをレイジングハートの中に仕舞うつもりはない。鍵をかけた自分の机の中に隠しておくつもりだ。そうすれば、決して最後の1個は見つからない。見つけられるはずがない。なぜなら、既になのはが手にしているのだから。

「これで、ずっと一緒だよ、ショウくん」

 そう、これでずっと自分と翔太は一緒にジュエルシードを探し続けるのだ。
 だから、もう今日のような情景は絶対に見ることはない。翔太の隣で笑っているのは自分ひとりで十分なのだから。

 ジュエルシードを机に鍵をかけて仕舞ったなのはは、そろそろ寝ようとベットに身を沈めようとして、携帯にメールが来ていることに気づいた。
 すぐに中身を開くなのは。なぜなら、この携帯にメールしてくるような人物は一人しかいない。

『今日は十分休めた? 明日からも頑張ろうね。翔太』

 短い文章。だが、それだけでなのはは満足だった。脳裏に翔太の笑みを浮かべながらなのはは、返事をする。

『うん、頑張ろうね。なのは』



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかにとって蔵元翔太は、不思議な人だった。

 最初に出会ったのは、1年生のときの教室。すずかからしてみれば、彼だけが異様に浮いているような気がした。友人となった今なら分かるが、彼が発している雰囲気は小学生のものとは異なるような気がした。
 これは他人を観察しているすずかだから気づけたことで、もう一人の友人であるアリサからしてみれば、少し変わった男の子というぐらいだろうが。
 翔太は、すずかに近寄ってくることはなかった。他の独りになっている子は、きちんと世話をしているのに。もっとも、それはすずかが望んでいたことで、彼はそれを察してくれただけなのかもしれないが。

 そして、アリサを通して友人になった蔵元翔太だったが、やはり不思議な人だった。年齢と身体が釣り合っていないというべきだろうか。子供と子供の会話なのに彼と同級生が話しているとお兄さんと弟という感じがするのだ。だから、すずかにとって蔵元翔太は不思議な人だった。

 今は、友人としてアリサと同様に付き合っている。だが、すずかには彼らに―――いや、他の人にもだが―――決してばれてはいけない秘密がある。
 それが、彼女が実は吸血鬼の血を引いているということである。正確には吸血鬼のような、というほうが正しいだろうか。書物に出てくるように日光を浴びれば灰になるというものでもないし、流れる水に触れられないということもないし、十字架や聖水、にんにくがダメということもない。ただ、唯一の共通点があるとすれば、血が必要ということである。
 すずかも、三日に一度は輸血用の血液パックから血液を摂取している。

 これはすずかにとってコンプレックスだった。人ではない。人とは違う。
 だから、すずかは、一人を好んだし、一人でいるつもりだった。

 今、アリサや翔太と一緒にいるのは、偶然の産物―――いや、そんな言葉で誤魔化すのはやめよう。やはり、なんだかんだと理由をつけながらもすずかは寂しかったのだ。誰かといるのは怖い。だが、一人は寂しい。だから、結局、すずかが取れた選択肢は、付き合いながらも深入りしないという中途半端なものだった。

 だからだろう、すずかがどこか翔太とアリサの間に浅い溝のようなものを感じていたのは。それは、すずかが引いている所為かもしれない。だが、確実にすずかとアリサ、すずかと翔太よりもアリサと翔太の距離が近いように感じる。それは、そんな気がする程度の違和感だった。
 だが、それを感じていたが故に3年生になって翔太が余所余所しくなり、アリサが不機嫌になり、すずかは傍観している中で、翔太が誘ってきたサッカーの試合の後、アリサと翔太だけが事前に話していたかのように翠屋に行くと聞いたとき、動揺した。

 ―――私は誘われていないのにアリサちゃんとショウくんだけ?

 それは、確実に二人から置いていかれたような気がした。だから、その後、翔太が笑って、すずかも誘ってくれたときは、本当に嬉しかった。まだ、自分は二人から置いていかれないのだ、と。

 その後、翔太の知り合いである士郎さんという人からケーキを奢ってもらい、翔太と別れた後は、姉と一緒にショッピングに来ていた。
 姉は、最近好きな人ができたのか、気合を入れて洋服を選んでいた。すずかは今日は、その付き添いだ。
 そういいながらも、すずかも女の子であり、洋服を見たり、選んだりするのは好きだ。姉の忍が選んでいる間、すずかも忍のように自分用の洋服を見ていた。

 不意に目に止まったのは、黒い可愛いフリルのついたワンピース型の洋服。

 それはいつもなら目に留まらないタイプの洋服だった。

 月村すずかは吸血鬼である。そうであるが故に、彼女は白い服装を好む。身体が穢れているならば、せめて洋服だけでも穢れない白にしようと。
 だから、吸血鬼のシンボルカラーでもあるような黒は絶対に目に留まることはなかった。

 だが、今日、初めて目に留まったのは、やはり午前中のサッカーの試合の前に翔太がアリサの洋服を褒めたことに起因しているのだろうか。
 アリサの洋服も確かに初めて見る真紅のワンピースだったが、すずかも下ろしたての洋服だったのだ。もっとも、色はいつもと同じ白いワンピースタイプだったが故に翔太は気づかなかっただろうが。

 ―――もしも、私がこんな洋服を着たら可愛いって言ってくれるかな?

 思わずそんなことを考えてしまったことをすずかは笑った。
 深入りはしないと決めているにも関わらず、翔太に褒めの言葉を貰おうと洋服を選んでいる自分が可笑しかったからだ。
 しかし、すずかにはどこか淡い期待があった。

 翔太ならもし、ばれても大丈夫なんじゃないか、という淡い期待だ。

 彼のどこか不思議な雰囲気。そして、幽霊という超常現象を自ら口にし、アリサは震えていたのに、翔太はまったく震えもせず、それが至極当然のように受け入れていたことも鑑みるとその期待も不思議ではない。
 あの森で幽霊と翔太が口にしたときは、自分のことではないのに驚いたものだ。自分も超常現象の一人なのだから。

「あら、すずか珍しいわね。それ、気に入ったの?」

「お、お姉ちゃんっ!?」

「いいじゃない。買っちゃいなさいよ。いつも白じゃ、面白みがないでしょう」

 姉の面白がるような顔。もしも、これが翔太に褒められるかどうか、で目に留まったといえば、どんな顔をするだろうか。
 だが、それは想像するだけにとどめた。想像だけでも非常に大変だったのだから、きっと実際に口にすればすごいことになるだろうから。

「それじゃ……うん」

 そっ、とすずかは黒いワンピースを買い物籠の中に入れた。

 ―――これを着たら「可愛い」って言ってくるかな?

 別の意味の淡い期待も込めて。



続く

あとがき
 リリカルってなんですか?

 なのはVSアリサ 第一回戦 アリサ不戦勝



[15269] 第十四話
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/03/25 23:31



 ケンジくんから殴られて、一夜明けた朝、僕は、昨夜の行動を後悔していた。

「……どうしよう? これ」

 鏡で見る自分の顔。そこにははっきりと殴られた箇所が分かるように青黒く痣になって、唇の端が血が固まったようにかさぶたになっており、赤黒くなっていた。
 この怪我で、転んだというような言い訳は効果がないだろう。帰ってきたときは血も止まっていたし、押さえたら痛い、という感覚だったので、放っておいたのだが、まさかここまでになろうとは予想もできなかった。

 このまま学校に行けば目立つこと請け合いだが、休むという選択肢もない。
 はぁ、仕方ない。ガーゼでも張っていくことにしよう。

 目立つことは避けられないだろうが、それでもこの青い頬と赤黒い口の端を晒していくよりも大分マシだろう。そう願いたい。
 とりあえず、学校へはそう対処することにして、口の端がしみるのを我慢しながら、顔を洗い、母さんによって朝食が用意されているリビングへと向かう。

「おはよう」

 おそらく、どこの家でも変わらないであろう朝の挨拶を口にしながら、リビングへと入ると、親父は、新聞を読んでおり、母さんは、毎朝見ているワイドショーを見ながら食パンをかじっていた。
 我が家のルールとして、食パンは自分で焼くことがルールだ。故に親父は新聞を読みながら食パンは食べていない。

「あら、ショウちゃん、やっぱり青くなっちゃったわね」

「ふ~む、やはりすぐに冷やさないと効果がなかったか」

 昨日、帰ってきてすぐに手当てしてくれたのは意外なことに親父だった。どうやら、こういう知識もあるらしい。僕が殴られたときのことを正直に言うと、笑いながら、「災難だったな。まあ、そういう時は吹っ飛ばされたほうが痛くないぞ」と助言まで貰う始末。
 そういわれても、前のときも今回のときも喧嘩に巻き込まれることなんて滅多になかったのだから喧嘩のやり方なんて知らない。踏ん張ってしまったのは、反射的に身体が強張ってしまったからだ。親父の言葉を聞いて素直に飛ばされていたほうがよかったかも、と思ってしまった。

「とりあえず、朝食を食べなさい。手当てはそれからで良いだろう」

 どうやら、親父は僕と同じ結論に達したらしい。自分で手当てするのも大変だと思っていた次第だ。手当てをしてくれるというのなら有り難い限りである。
 とりあえず、言われたとおり、朝食を食べることにしよう。

 ………昨夜の晩御飯と同じく、朝食は口の端がしみて食べにくいことこの上なかった。



  ◇  ◇  ◇



 やはり口元にガーゼという格好は、かなり目立つのだろう。学校に行く最中から教室に着くまで目に付く知り合いにとにかく声を掛けられた。
 僕は、サッカーなどでグラウンドの使用権の折半にいくためか、男の子に限って言えば、上級生にも顔見知りは多い。そのため、同級生からだけではなく先輩に当たる人たちからも「どうしたんだよ?」と聞かれることが多かった。
 しかしながら、ケンジくんのことやここで話して尾びれ背びれがついて学校中を巡ることを考えると簡単に口を開けることではなく、「昨日、ちょっと喧嘩しまして」としか答えられなかった。
 血の気の多い先輩などには「俺が敵をとってやろうか?」と半笑いで言われたが、丁重にお断りすることにした。そんなこんなで、ようやく教室にたどり着いた頃には、後残り5分ほどで始業のチャイムがなろうか、という時間になってしまった。
 もっとも、これは怪我の手当てなどをしていて、遅れたこともあるのだが。

「おはよう」

 がらっ、と挨拶をしながらドアを開くと、いつもより多くの人間が教室にいるようなきがした。それもそうだろう。僕が来る時間はいつもよりも遅いのだから。
 僕が挨拶しながら入ってきたこともあるだろう。一瞬、教室にいる全員の目が僕へと集中した。これはいつものことだ。不意に音がして、自分が知っている音であれば、思わず反射として顔を向けてしまう。普通、それは一瞬だが、今日は違った。全員の顔が僕のほうを向いて固定されてしまっていた。

「え、あれ? どうかした?」

「ショウくん、ガーゼどうしたの?」

 僕の混乱に答えてくれるようにクラスメイトの一人が僕の頬を指しながら怪訝な表情で僕に聞いてきた。

「ああ、これは―――」

 よもや殴られたなどと正直に答えて事を大きくしたくなかった僕は、適当にごまかせるようにちょっとね、と答えて終わらせようとしたのだが、僕が答えるよりも先に口を挟んできたクラスメイトがいた。

「ショウくん、昨日、ケンジのヤツに殴られてたけど、大丈夫っ!?」

 ごまかす前に真実を別の口から語られてしまった。
 もし、僕が誤魔化すことができれば何も問題はなかったはずなのに………。
 子どもゆえの無邪気さがなんとも物悲しかった。

 さて、僕が先に口を出せなかった事実は少し拙い気がしたが、それらはすでに後の祭りだ。それよりも、クラスメイトの子の発言をなんとか誤魔化さないといけない。現に今もクラスメイトの子の発言を聞いて、クラスがざわめいている。

「ちょっと話を―――」

「ショウっ! ケンジってヤツに殴られたの!?」

「アリサちゃんっ!!」

 今日はなんとも話を遮られる日である。
 話を遮ってきたのは、今度は金髪をなびかせて自分の席から駆け出してきたアリサちゃんである。その後ろからは、アリサちゃんが飛び出したのを必死に止めようとするすずかちゃんだった。

「はぁ、そうだよ」

 さすがにここで違うと否定しても無駄だろう。真実はもう他の口から零れてしまっている。一度こぼれた言葉は、拾いなおすことは出来ない。ならば、認めるほかないのである。
 だが、ここで簡単に認めたのは、失敗だったのかもしれない。
 僕が話を肯定した瞬間、アリサちゃんは踵を返して、教室から飛び出そうとしていた。

 拙い、と反射的に悟って手が伸ばせたのは幸いだっただろうか。アリサちゃんの手を掴めなかったら、彼女は隣のクラスに駆け込んでいただろう。

「なによっ!!」

 きっ、と僕をにらんでくるアリサちゃん。彼女が激昂している理由は僕が殴られたからなのだろう。それ自体は大変ありがたいことなのだが、このまま見過ごして、彼女を第二学級に突撃させるわけにはいかない。
 このまま、アリサちゃんを行かせると、僕とケンジくんだけの問題だったはずなのに、彼女まで入ってきてしまう。それは、さらに問題を大きくするだけだ。僕としては、これ以上事を大きくするのは勘弁願いたい。事が大きくなればなるほど、事態を収束させるために払う犠牲は大きくなるのだから。
 今ならば、僕とケンジくんの個人的な喧嘩ということが事が片付くのだから。

 だから、僕はアリサちゃんを引きとめた。

「どこにいくの?」

「決まってるじゃないっ! そのケンジってヤツのところよっ!!」

 どうやら、相当頭に血が上っているようだ。アリサちゃんの中でケンジ君に文句を言いに行くことはすでに決定事項らしい。いや、この気迫から考えれば、四の五の言わずに手が出てしまう可能性もある。

「ダメだよ。これは、僕とケンジくんの問題なんだから」

「あんたの問題なら、あたしの問題よっ! ここで動かなかったら親友として廃るわ」

 なんと男前の返事なのだろうか。もしも、アリサちゃんが男の子なら、実に人情に厚い男の子として、女の子にモテモテだっただろうに。いや、中学生になれば、アリサちゃんたちは女子中学校に行くはずだから、その手の子たちにはモテモテかもしれない。

 さて、そんな数年後のことはどうでもいいのだ。

 確かに、アリサちゃんが僕のことを『親友』だと言いきってくれたことも、僕が殴られたことに激昂してくれたことも確かに嬉しい。だが、今は押さえてもらわないと後々困ることになる。先ほども言ったようにこの手の問題はことが大きくなればなるほどに収束させることが困難なのだ。今は、僕だけが殴られたという一方的な暴力が残っているから、まだ事態は実に簡単だが、これにアリサちゃんが加わると大変だ。僕はケンジくんに暴力を振るわれ、ケンジくんはアリサちゃんに暴力を振るわれ、アリサちゃんと僕は親友という三角関係ができるのだから。
 一般的に社会では、如何様な理由があろうとも暴力は悪という認識である。つまり、ケンジくんとアリサちゃんは悪くなり、僕はアリサちゃんの親友である以上、殴られただけの被害者にはなりえない。
 つまり、落としどころが見つからないのである。だから、できれば、今日にでもケンジくんと話して、この話の落としどころを決めようと思っていただけに、アリサちゃんが介入することだけは避けなければ。

 もっとも、朝の時間に関してだけなら、何とかなりそうだ。

 今も尚、隣のクラスに向けて突撃しようとしているアリサちゃんを引きとめながら、周囲に響く朝礼のチャイムを聞いて僕は安堵の息を吐いた。



  ◇  ◇  ◇



「それで、その怪我の原因を教えてもらうか」

 朝のホームルームの後、僕は担任の先生から呼び出しを受けていた。
 普通の呼び出しなら放課後の場合が多いのだが、今日は、ホームルームが終わった直後だ。1時間目まで5分程度しかない休み時間の間に僕を呼び出した。いや、もしかしたら、1時間目まで食い込んでも構わないと思っているのかもしれない。

「こうやって呼び出すってことは知ってるんじゃないですか?」

 もし、先生が何も知らないとすれば、「ああ、怪我をしたのか」と思われるだけで終わっていたはずだ。だが、こうしてわざわざ呼び出したということは見過ごせない何かを知ってしまったからだろう。
 では、その『見過ごせない何か』とは何か。つまり、僕がこの怪我を負ってしまった原因だ。

「さて、どうだろうな。どちらにしても、本人の口から聞くまで確証は取れないものでね」

 僕の問いに先生は、実に真面目な表情をしていた。怪我の原因を知っているなら納得だ。
 これは、誤魔化せないな、と思った僕は、正直に話すことにした。

「―――というわけで、今朝見たらこの様ですよ」

 僕は、ぴりっ、とガーゼを止めていたテープを外して、青黒くなっているであろう頬を見せた。
 そのときの先生の表情は、眉をピクンを動かす程度のもので、あまり衝撃を受けていないようにも見える。

「なるほどなぁ」

 先生は、厄介なことになった、とばかりにはぁ、とため息を吐く。

「とりあえず、事態は把握した。それで、解決できそうか?」

「ケンジくんのことでしたら、少し話せば分かってくれると思いますよ」

 そう、何も僕は喧嘩したいわけではない。ただ、グラウンドを下級生たちと一緒に使って欲しいと思っているだけだ。それは、僕からしてみれば、極当たり前のことで、昨日は、ケンジくんが頭に血が上っている様子で今、何を言っても通じないと思って追いかけなかっただけなのだ。だから、冷めている今日話せばきっと分かってくれるはずである。

 だが、僕の予想に反して、先生ははぁ、とため息を吐いていた。

「蔵元、お前の言うことは確かに正論だ。私のような教師から見れば優等生みたいな回答だ。百点満点だよ。こうするべきだのべき論で言えばな。大人なら熟考ぐらいはするかもしれないが、相手は小学生だ。べき論では、通じないことも……いや、それ以上にその正しすぎる正論が逆に相手を怒らせることがあることを肝に銘じておくことだな」

 先生からの忠告だった。

 なるほど、そんなことはまったく考えたことがなかった。僕はできるだけ正しいことをやってきたつもりだった。誰かにとっての最善になるように頑張ってきたつもりだった。だが、それが逆に怒らせることになるとは。
 僕も6年程度、彼らと一緒に遊んで、時に叱りながら過ごしてきたわけだが、目の前の先生は、教師として児童と接しているのだ。僕以上に僕らのことを知っているだろう。

 だから、僕は、先生の忠告を心にとどめておこうと思った。



  ◇  ◇  ◇



 昼休み、僕は中庭を歩いて目的の『彼』を探していた。

 今日の昼食は、母親から作ってもらったものをいつもサッカーをやっている面々と共に食べ、その後は、サッカーに興じることにした。昨日の今日だから、やはり僕も加わる必要があると思ったからだ。だが、その心配は無用のようだった。後からやってきた低学年の子供たちも昨日までのように仲間はずれにすることはなかったのだから。

 さらに、昨日ケンジくん側についた4人も気まずそうにやってきた。だが、途中で怖気づいたように足を止め、こちらを見てくるだけだ。おそらく僕たちと同じくサッカーに興じてるクラスメイトたちの中には気づいた子もいるだろう。だが、彼らは彼らを見てみぬ振りをした。
 昨日のことが尾を引いていることは明白だった。おそらく、昨日の最後の試合のメンバー構成のときに敵と味方ではっきりと線を引いてしまったのが拙かったようだ。つまり、クラスメイトたちにとって彼らは敵なのだ。だから、気づいても声をかけない。声を掛ける理由がないと思っているのだろう。

 しかしながら、それでは僕たちもケンジくんたちと変わらない。この場は決して、敵と味方に分けて対立する場所ではない。サッカーで楽しく遊ぶだけの場所なのだから、むしろそういう諍いは排除すべきだ。

 だから、僕は彼らに声を掛けた。

 結局、彼らもサッカーで遊びたいのだが、4人ではどうしようもなくて、途方にくれていたようだ。
 だから、僕は彼らに一緒にサッカーやりたいならどう? と誘った。彼らは僕にそういわれると思っていなかったのか、一瞬きょとんとした表情を浮かべると、どうやって仲間に入れてもらおうと曇らせていた顔を笑みに晴らせていた。

 しかしながら、昨日ケンジくん側に回った彼らが僕を仲介したとしても、僕たち側の仲間に入れてくれ、と言っても無理な話だ。僕はいいだろうが、他の面々が許してくれないだろう。だから、僕は彼らに昨日までの下級生を仲間はずれにしていたことを謝ることで、他の面々を納得させた。
 他の面々も彼らが「ごめんなさい」と謝ると案外、簡単に過去のことは水に流してくれた。子供なだけにごめんなさいの一言で片がついてしまうのかもしれない。これが、高校生や大人になるとそうもいかないのだが。

 さて、ここでようやく僕が中庭にいる理由になる。あと一人、サッカーのためにグラウンドに出てこなかったケンジくんを探しにきたのだ。彼とて、いつまでも僕たちと仲違いするつもりはないだろう。彼が好きなサッカーは一人でできるものではないのだから。
 仮に4年生になって士郎さんの翠屋JFCに入部したとしても、僕側についたクラスメイトたちの何人かも入ることを考えれば、彼らとチームプレイはこのまま放っておけば難しい問題になるだろう。この手の問題は長引けば長引くほど厄介なものである。

 なにより、僕は先生に解決できるといってしまったのだ。もしも、今日の放課後までに解決できなければ、おそらく両方ともの呼び出しだろう。そこでケンジくんが暴力を振るったことを先生から叱られ、僕に謝ることになるだろう。それはおそらく間違いないと思う。
 だが、先生から強要された謝罪に意味はないだろう。その場では取り繕えるかもしれないが、本人が謝る気持ちがなければ意味がない。むしろ、先生という強者による強要では、僕に対する憎悪が増える可能性だって考えられる。そうなると早期解決はきっと不可能になってしまう。
 だから、僕は昼休みという時間に話をするためにケンジくんを探していた。

 彼の姿は、中庭にあった。手に持ったサッカーボールをぽんぽんと校舎の壁に向かって一人で蹴っていた。上手いことに、蹴ったボールは壁に跳ね返りながらもしっかりとケンジくんの足元に戻ってきていた。

 だが、彼のボール捌きを見ているだけで昼休みが終わってしまっては元も子もない。

「ケンジくん」

 僕は一歩踏み出して、ボールを蹴っているケンジくんに声を掛けた。
 ケンジくんは僕に気づいているのか、気づいていないのか、ボールから視線を外さない。だが、僕が声を掛けた後、跳ね返ってきたボールを蹴り上げて、手におさめるとようやく視線をこちらに向けてきた。

「なんだよ」

 不機嫌ということを押さえようともせず憮然とした態度で僕に返答するケンジくん。
 彼の心情も理解できる。昨日殴った人間が、躊躇もなく声をかけてきたのだから。何かあるんじゃないか、と疑ってかかるのは当然だ。

「どうして、仲間外しなんてしたの?」

 いきなり切り込んでみた。僕にはケンジくんがどうして仲間は外しなんて真似をしたのか理解できなかった。
 少なくとも2年生の頃は1年生や3年生の先輩たちと一緒にサッカーで遊んでいたはずだ。つまり、クラスメイト以外ともサッカーで遊ぶことを彼は許容していたはずだ。だが、3年生になってこの様変わり。僕には理解できなかった。だから、問う。

 ケンジくんからしばらく答えがなかった。だが、何かを思ったのか口を開いてくれた。

「お前に関係ないだろ」

「いや、あるよ。僕はそのせいで殴られたんだから」

 僕はことさらにガーゼの部分を強調して見せた。
 それが、彼の反感を買ってしまったのか、ちっと小さく舌打ちをして、ようやく答えてくれた。

「むかついたんだよ。あいつら小さいし、下手だし、遅いし」

 それは下級生の子たちだろうか。だが、それは当たり前だ。つい最近まで幼稚園に通っていた子達と僕たちを比べるにはあまりに無謀。下手なのは当然だ。むしろ、彼らは僕たちと遊んでいく上でだんだん上手になっていくのではないだろうか。ケンジくんだってその中の一人だったはずだ。

「ああ、そうだよ。お前の言うことはいちいちむかつくな」

 僕がその旨を伝えると、なぜかケンジくんは激昂してしまった。今にも僕に掴みかかってきそうだ。

 ああ、これが先生の言っていたことか、とせっかく先生に忠告されたのに無駄にしてしまったな、と思った。

「僕のことは置いといて……楽しくないでしょう? 一人でボール蹴っても」

 ポツンとボールに視線を落とすケンジくん。
 もしも、僕が先輩から話を聞かなければ、僕が介入しなければ、きっと今日もケンジくんはこんなところで一人でボールなんて蹴らずにクラスメイトたちとサッカーに興じていたことだろう。
 それを僕が台無しにした。ケンジくんは、今は一人だ。自分を慰めるようにサッカーボールを蹴っているが、何の解決にもならない。

 ケンジくんからの返答はない。つまり、沈黙が肯定を意味していた。

「きっと、下級生の子たちも同じ思いをしたんだろうね」

 スポーツは基本的に多人数が集まらないと面白くないゲームだ。5人対5人のフットサルといわれるゲームもあるが、面白さは、多人数のそれには及ばない。

「だからさ、こんなところで一人でボールを蹴ってないで、一緒にサッカーしようよ」

 僕の誘いにケンジくんは無言。何かを考えているのかもしれない。だから、僕は何も言わずにケンジくんが何かを言うのを待っていた。
 どれほどの時間を待っただろうか。だが、そんな長い時間ではなかったように思える。ようやく彼は口を開いた。

「でも、どうやって入れてもらうんだよ。昨日の今日だぞ」

 なるほど、確かに昨日は敵対した僕たちだ。いきなり一緒にサッカーをやろうといわれても困惑するだろう。
 だが、解決策がないわけではない。この答えを導き出したケンジくんなら難しい話ではないだろう。

「簡単だよ。一言でいいんだから」

 ―――ごめんなさい。

 謝るときに使う言葉。おそらく、これだけで事態は解決するはずだ。

 結果だけを言うなら、僕たちは昼休み一杯、グラウンドを駆け回り、ボールを追い回したのだった。



  ◇  ◇  ◇



 放課後、先生にケンジくんとの結末を話し、いつものように今は廊下でなのはちゃんを待っていた。

 第二学級の担任先生が出てきた直後に後を追ってきたかのように飛び出してくるなのはちゃん。

「ショウくん、お待たせっ!!」

 昨日はぐっすり休めたのだろう。一昨日見たような青白い顔ではなく、安心できるような笑みを浮かべ、元気一杯に見えた。

「いや、そんなに待っていないよ」

 僕は、なのはちゃんの様子に安堵しながら、いつものように答える。いつもなら、それじゃ、行こうか、と下足場に向かうのだが、なのはちゃんの視線が僕から外れていなかった。いや、正確にいうと僕のある一点を凝視していた。
 その視線の先を追ってみると、僕のガーゼに視線が向けられていることに気づく。

「ショウくん、そのガーゼ、どうしたの?」

 先ほどまで浮かべていた笑みが消えて、心配そうに聞いてくるなのはちゃん。

「ああ、えっと、ちょっとね」

 流石に殴られた跡だとはいえなかった。

「ちょっと?」

 だが、なのはちゃんは僕の曖昧な答えでは見逃してくれないみたいだった。追求するような声で僕に再度問いかけてくる。お茶を濁そうとしても無駄なようだ。はっきりといわなければ、なのはちゃんは納得しないだろう。僕はお手上げだといった感じで、観念して正直に話すことにした。

「昨日、ちょっと喧嘩になっちゃって、殴られたんだよ」

 できるだけ大げさにならないように軽く笑いながら言ったのだが、僕が事実を口に出した直後、なのはちゃんの表情が無表情に変わっていた。

「だれと?」

「え?」

「だれと喧嘩したの?」

 それは、なのはちゃんが僕に見せる初めての感情だっただろう。おそらく、その中身は怒りだと思う。アリサちゃんが烈火のごとく怒り狂うのだとしたら、なのはちゃんは真逆、その怒りを胸のうちに収めて、表面上は穏やかな水面のように無表情になっている。
 どちらが恐ろしいという話ではない。強いて言うなら両者とも危ういというべきだろう。このまま正直にケンジくんの名前を出せば、朝のアリサちゃんのようにケンジくんに喧嘩を売りに行くことは間違いないように思えた。

 僕は慌てて先ほどの発言を取り繕う。

「大丈夫だよ。もう、お互い解決したし、謝ってもらったし、もう大丈夫だから」

 昼休みが終わった後、ケンジくんが僕の隣に立つと、ぼそりと悪かったな、と告げてくれたのだ。僕としては、皆に謝罪した時点で僕の謝罪に関しても終わっていると思っていたので、それで手打ちとなっている。当然、先生にもそれで報告している。
 だから、ここでなのはちゃんに波風を立たせるわけには行かないのだ。

 少しの間、なのはちゃんは無言だった。何かを考え込んでいるようにも見えるが、やがて、顔を上げると彼女の顔は無表情ではなく、最初の笑みを浮かべていた。

「うん、ショウくんがそう言うなら」

 よかった、どうやら彼女は納得してくれたようだった。
 もし、あのままだったら、本当にどうなったか分からない。今回はなのはちゃんの物分りのよさに助けられた形だ。

「よかった。それじゃ、今日も頑張っていこうか」

「うんっ!」

 僕たちは、外へと駆け出す。未だ見つからない残り16個のジュエルシードを捜し求めて。



 続く

あとがき
 正直、今回は、アリサの「親友の廃るわっ!」となのはの「ショウくんがそう言うなら」を言わせたかっただけです。
 今回も裏はあります。次回は、ようやくあの子が登場の回です。



[15269] 第十四話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/03/26 23:18



 アリサ・バニングスは、朝から落ち着かなかった。

 朝のスクールバスの中で一緒になっている親友の月村すずかと話しながらも視線は時々、教卓のやや上方に設置されているアナログ時計へと向けられる。時刻は始業のチャイムが鳴る八時半よりも十分前。それを確認した後、視線をまた下方へと戻し、ある一点へと向ける。
 アリサが視線を向けた席は無人だった。その席はアリサのもう一人の親友である蔵元翔太の席だ。彼がこの時間になっても登校してないことは珍しい、いや、初めてではないだろうか。
 アリサが知る翔太は決して時間に遅刻しない。待ち合わせのときも十分前に集合場所に来ていることが常だ。そんな彼は、学校へは、始業の十五分前までに来ていることが常である。それにも関わらず、今日はまだ来ていない。

 少しだけ翔太のことが心配になる。

 もしかして、風邪を引いたのだろうか。もしかしたら、登校の途中に事故にでもあったのだろうか。気が気ではない。後、5分しても来なかったら携帯に電話をかけてみよう。

 すずかと話しながらも頭の隅でそんなことをアリサは考えていた。

 だが、アリサの心配は杞憂に終わったようだ。始業の5分前に教室に姿を現したのは聖祥大付属小学校の男子の制服に身を包まれたよく見慣れた翔太の姿だった。しかし、いつもどおりの制服姿で現れた翔太だったが、ある一点だけがいつもの、いや、最後に彼の姿を見た昨日の姿とは異なっていた。

 まるで、周りからの視線を隠すように張られた口元のガーゼだ。

 ―――怪我でもしたのかしら?

 しかしながら、肘や膝なら分かる。翔太はサッカーが好きで放課後などもクラスメイトたちとボールを追いかけている姿をよく見ていたから。スポーツに擦り傷など常のつき物だ。学年一番の成績を誇る彼とて例外ではない。いや、学力と体力は別物だ。実際、翔太の体力自体は、平均に勝らず劣らずなのだから。

 さて、それはともかく、翔太のガーゼを気にしたのは、アリサだけではなかった。翔太のガーゼを見たクラスメイトたちが、今まで自分が話していた友達たちと原因について話し合う。

「ショウくん、怪我したのかな?」

 親友のすずかもやはり翔太の状態が気になるのか、心配そうな表情でアリサに聞いてくる。アリサに聞いても、翔太が怪我をしたという事実はアリサもつい先ほど知ったのだから分かるはずがないのだが。
 分からないのなら直接聞けばいい。そう思って席を立とうとしたアリサの耳にある情報が入ってきた。

「ショウくん、昨日、賢治のヤツに殴られてたけど、大丈夫っ!?」

 ―――その事実を耳にした瞬間、アリサの心は瞬時に怒りで沸騰した。

 翔太が殴られた。これだけで、アリサは自分の心が自分の支配下から外れたのを自覚した。そして、その支配を無理矢理自分の支配下に戻そうとも思わなかった。

 周囲から孤立していた自分をきちんと見てくれたたった二人しかいない親友が殴られたのだ。それを許せるはずがない。ここで怒らなければ、一体、いつ『怒り』という感情を爆発させればいいのだろうか。だから、アリサは自分の中で爆発した怒りに従い、まずは事実を確認するために翔太に詰め寄った。そのぐらいの理性は残っていたようだ。後ろですずかが何かを言っているがアリサの耳には聞こえていなかった。

「ショウっ! ケンジってヤツに殴られたの!?」

 一体、自分はどんな人相をしているのか、そんなことに気遣う余裕はなかった。ただ、アリサの表情を見て、翔太が怯んだところを見ていると、どうやらアリサの表情は『怒っています』という感情を余すことなく表現しているようだ。
 そして、彼は、何かを諦めたようにはぁ、とため息を吐いて、実に答えたくなさそうに「そうだよ」と答えた。

 ―――よしっ! 言質はとった。

 それだけ聞ければ満足だった。後は賢治ってヤツに制裁を加えれば、終わりだ。翔太の性格から考えるに一方的に殴られただけなのだろう。彼が殴り返す姿なんて想像できない。だから、殴れない翔太に代わって自分がやりかえすのだ。かのハンムラビ法典にも書かれている。『目には目を、歯には歯を』と。ならば、ここで翔太に代わって賢治を殴りに行くのは決して間違いではない。

 ―――あたしの親友に手を出したことを後悔させてやるんだからっ!!

 アリサの怒りは見ているだけの周囲からはとても想像できないほどだった。

 自分の容姿が原因で距離をとられていた幼少時代。それが続くと思っていた小学生時代。だが、その想像はたった二人しかいないが、親友たちによってまったく別物へと変化した。また、一人で過ごすと思っていた小学生時代は、二人しかいないけれども、親友がいる実に充実し、楽しい日々を過ごせるようになったのだ。ならば、そんな日々を与えてくれた親友が傷つけられたのだ。アリサの怒りは計り知れないものだった。

 だが、アリサの意気込みは、その敵を討とうとした本人によって挫かれることになる。

 教室を飛び出そうとしたアリサの手首を翔太が掴んだからだ。

 手首から感じられる人の温もりで少しだけアリサは冷静になる。そうやってようやくアリサは翔太が少しだけ困った表情をしていることに気づいた。だが、気づいたところでアリサの怒りが完全に収まったわけではない。だから、決して翔太に向かって怒っているわけではないのに、つい強い口調で問うてしまった。

「なによっ!!」

「どこにいくの?」

 翔太の口から出てきた疑問。それはアリサに言わせて見れば愚問だった。だが、翔太は本当に分かっていなさそうだった。

 ―――ああ、そうだ。ショウはこんなヤツだった。

 一年生のときからそう。自分が貶められようが、八つ当たりされようが、柳の葉のように受け流してしまう。今も殴られた張本人だというのにきっと殴られたこと自体は何も思っていないのだろう。それは、彼が誰かを憎むということが苦手なのか、暴力が嫌いなのかアリサには分からない。だが、だからこそ、代わりにアリサが立ち上がるのだ。

「決まってるじゃないっ! そのケンジってヤツのところよっ!!」

 啖呵を切るアリサだったが、翔太はそれを呆れたような表情で受け止め、アリサの行動を否定するように首を左右に振った。

「ダメだよ。これは、僕とケンジくんの問題なんだから」

「あんたの問題なら、あたしの問題よっ! ここで動かなかったら親友として廃るわ」

 そう、翔太が言うことは正論だ。確かに、殴ったのが賢治で、殴られたのが翔太ならば、加害者と被害者でアリサは何も関係ないただの第三者だ。
 だが、だがしかし、自分の大切な親友が傷つけられたのだ。それを見て、何もせず二人の問題だからと手を出さなければ、それは本当に親友を名乗る資格がなくなってしまう。少なくとも、アリサ・バニングスはそう考える。

 翔太とアリサ、お互いににらみ合う時間が続く。だが、不意に翔太が安堵するかのようにアリサの手首を掴んだ手の力を緩め、安堵の息を吐いた。アリサがなんで? と思う前に答えはすぐにアリサの耳に入ってきた。

 始業のチャイム。さすがにこれを無視して隣のクラスに行くわけにはいかない。アリサが動かなくて安心している翔太を余所に、アリサは、悔しげに唇をかむしかなかった。



  ◇  ◇  ◇



「まったく、男の子って単純ねっ!!」

「まあまあ、アリサちゃん。仲直りできたんだからよかったじゃない」

 アリサがあまりの状況に頬を膨らませて怒るのに対して、彼女を宥めるすずか。もっとも、アリサの怒りは、朝のものと比べれば格段に些細なもので、もっと意図的に解釈すれば、拗ねていると言い換えてもいいのかもしれない。

 アリサが拗ねる原因は彼女たちがお昼のお弁当を食べていた屋上から見える景色に関係している。彼女たちがいる場所からはグラウンドがよく見えていた。昼休みも半分ほど過ぎた今、グラウンドでは男子と少しの女子がサッカーに興じていた。小さい子も大きな子もみんな入り混じってだ。
 その中にはアリサとすずかの親友である翔太も当然混じっている。それだけなら、アリサはこんな風に拗ねていていない。彼女が拗ねている原因は、翔太がサッカーに興じていることではないのだ。翔太と一緒にサッカーに興じている同級生が問題だった。

 ―――佐倉賢治。

 昨日、跡が残るほど強く翔太を殴った人物だ。翔太たちがサッカーに興じている中に昨日喧嘩したはずの彼も混じってボールを追いかけているのだ。今朝の段階では、まだ仲直りなどしていない風だったのに。昼休みの短時間で彼らは仲直りしてしまったらしい。
 これでは、朝、憤慨したアリサの立つ瀬がない。確かにすずかの言うとおり仲直りできたことは、良いことなのかもしれないが。しかし、これでは、意味がないのだ。

 ―――ようやく、あたしがショウのためにしてやれることができたのに。

 アリサの最近の不満はそこだった。
 蔵元翔太は、基本的になんでも一人でできてしまう。勉強もクラス内での立ち回りも今日のようなことも。アリサにとって親友とはお互いに無条件に助け合える仲のようだと思っている。だが、アリサは翔太に孤独から救ってもらった。ならば、アリサは翔太に何ができている。そう問いかけても答えは返ってこない。せいぜい、一週間に二回程度の英会話だが、それでは、翔太から与えられたものと等価とは思えない。

 要するにアリサは翔太のために何かがしたかったのだ。

 今回はその絶好の機会だと思ったのだが―――

「やっぱり一人で片付けちゃうんだから」

 アリサの呟きは屋上から風に運ばれフェンスの向こう側へと消えていった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、ようやく出会えたというのにそれに水を差すような翔太の顔に困惑していた。

「ショウくん、そのガーゼ、どうしたの?」

 翔太の前では笑っていたいのに、翔太の口元に張られたガーゼがすごく気になった。ガーゼを張っているということは口元に怪我をしたということだ。その理由になぜか、すごく嫌な予感がした。

「ああ、えっと、ちょっとね」

 まるでなのはの嫌な予感を裏付けるように曖昧に誤魔化す翔太。その表情でなのはは自分の嫌な予感が的をいていることを確信した。だから、翔太に嫌われるとか嫌われないとか考える前につい問い詰めるような声でさらに問いかけてしまった。

「ちょっと?」

 しまった、と思ったときには既に遅い。これで、翔太が誤魔化したのだからなのはには聞かれたくないことだったに違いない。それなのに自分は踏み込んでしまった。ああ、しまった。どうしよう、どうしよう、と半ば混乱したような思考がなのはの中に走る。

 だが、なのはの心配は幸いにして杞憂だったようだ。特に翔太はなのはの発言を気にするようなことはなく、やや気まずそうに頬をかいただけで、嫌悪感を示すことなく口を開いた。

「昨日、ちょっと喧嘩になっちゃって、殴られたんだよ」

「え?」

 翔太の発言が信じられなかった。

 ―――ショウくんが喧嘩? 殴られた?

 それは、なのはにとってとても信じられないことだった。
 蔵元翔太はなのはにとって理想である。あの翔太を追っていた一年生の頃も翔太が主体となった喧嘩など一度もなかった。喧嘩を止めるために仲裁に入るところは何度も見たことがあるが。もし、一年生の頃と同じように仲裁に入った際に負った怪我であれば、そのまま言うはずだ。ならば、やはり翔太が言うようにそれは喧嘩で負った怪我なのだろう。

 だが、翔太の言葉といえども簡単に信じることはできなかった。

 蔵元翔太はなのはの理想で友達で、人に責められるようなことは決してしないからだ。ならば、喧嘩になるようなことがあるはずはない。翔太は常に正しいのだから。だが、翔太が嘘を言うとは思わない。

 思考の袋小路に入ろうとしていたなのはだったが、存外すぐに解は得られた。

 ―――ああ、そうか。ショウくんは、間違った相手に一方的に殴られたんだね。

 なのはにとって、その解にたどり着いたとき、心の底から途方もないほどの怒りがこみ上げてきた。じゅくじゅくと黒い何かがタールのようになのはの心の中を支配していくのが分かった。
 なのはにとって理想である翔太が傷つけられたことは自分が傷つけられるよりも痛いことなのだからその怒りは妥当なのものだ。初めてなのはを友人と呼んでくれた大切な人。初めて携帯電話の番号を交換してくれた大切な人。そんな翔太だからこそ、なのはの中で翔太を傷つけた人間を許さないと思う気持ちは、肥大していく。

 許さない、許さない、ゆるさない、と呪詛のように心の中で繰り返しながら、それでも表面上は醜いそれを表に出さないように気をつけながらなのははさらに問いを重ねる。

「だれと?」

「え?」

「だれと喧嘩したの?」

 翔太を傷つけた誰かをなのはは許すつもりはなかった。翔太が傷ついて、受けた痛みの数分の一を与え、翔太に謝罪させ、もう二度と翔太に手を出さないように言い聞かせるつもりだ。暴力は嫌いだが、力を振るってでも。そのための力はなのはの胸にある小さな宝石の中に宿っている。

 ―――うん、お父さんも人を護るために力を使いなさいって言ってたし。

 そう、これは翔太を護るためなのだ。翔太がこれ以上傷つかないようにするためになのはは自分が持てる力を振るうのだ。

 だが、翔太が次に告げたのは、傷つけた人間の名前ではなかった。

「大丈夫だよ。もう、お互い解決したし、謝ってもらったし、もう大丈夫だから」

 なのはは困惑した。もしも、翔太が傷つけた人間の名前を出したのならば、話は簡単だ。なのはが『お話』に行けばいいのだから。だが、翔太はその件については解決済みだという。

 さすが、ショウくん、と彼を見直す思いがある一方で、それでいいのか、と問いかける部分もある。

 翔太を傷つけるような人間だ。もしかしたら、表面上だけで反省していないのかもしれない。もしかしたら、また翔太を傷つけるかもしれない。もしかしたら、今度はもっと酷いことをするかもしれない。

 様々な不安がこみ上げてくる。

 だがしかし、翔太は既に解決しているという。ここで、なのはが翔太を疑い、問いを続けることは、翔太を信じていないということだ。万が一、そう問い返して、翔太になのはが彼を信じていないと思われ、嫌われでもしたら、事だ。
 せっかく、幸いにして昨日、翔太とずっと一緒にいられる策がなったというのに。ここで翔太に嫌われたら、小さな確率で成功した策も水の泡となり、昨日のような絶望を再び味わうことになるのか。そして、また、あの一人孤独に海を眺めるような日々に戻るというのか。
 既に翔太という友人を持つことで得た甘い蜜を吸ってしまったなのはには、その絶望は耐えられそうになかった。その絶望を再び味わうと想像するだけでも心が拒否反応を起こす。

 だから、なのはは翔太を傷つけた誰かに対する『許せない』という思いにきつく蓋をして心の底に沈めた。そして、これからの翔太と一緒にいられる時間だけを思う。それだけで、なのはの顔には笑みが浮かんでくる。

「うん、ショウくんがそう言うなら」

 そう、翔太がいうなら、この大きな思いにだって蓋をしてやる。

 翔太はなのはの答えに満足したのか、安堵の息を吐くとなのはが一番大好きな笑みを浮かべて、先を歩き出す。

「よかった。それじゃ、今日も頑張っていこうか」

「うんっ!」

 翔太の後を追って隣に立ち、歩き出すなのは。

 ――――さあ、今日もなのはの待ち望んだ楽しい楽しい時間の始まりだ。


続く

あとがき
 裏はこんな感じです。短いです。さて、今度こそ15話です。



[15269] 第十五話 裏 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/04/01 20:08



 高町桃子は、突然リビングに現れた娘の姿に驚いていた。
 時刻は八時。この時間は、ジュエルシードとかいう魔法の宝石探しから戻ってきて、ご飯を食べてお風呂に入って部屋に戻っている頃だ。一度、部屋に戻ってなのはが再びリビングに戻ってくることは今までなかった。
 だが、今日に限って、パジャマ姿に着替えたなのはがリビングに下りてきたのだ。

「なのは、どうしたの?」

「テレビ見に来たの」

 端的にそれだけ告げるとなのはは、リビングに設置された薄型のテレビの前に置かれたソファーにぼふんと座り、リモコンのチャンネルを上から順番に動かしていき、目的の番組に出会ったのか、チャンネルを回す手を止めた。

 今までテレビに一切興味を持たなかったなのはが興味を持った番組とは何だろう? とテレビを覗き込んでみると、そこには、司会者と数人の芸能人がクイズに答えるというありふれた番組だった。内容は、雑学一般を答えるクイズ番組だ。桃子の記憶が正しければ、この番組は結構長いこと続いているはずだ。
 しかしながら、桃子は疑問に思う。このクイズ番組は前々からあったはずの番組だ。なぜ、今更興味を持ったのだろうか。

「なのはがテレビなんて珍しいわね。どうしたの?」

「ショウくんが見てるから」

 ショウ君―――蔵元翔太。息子の恭也からの話によるとなのはの初めての友達だったはずだ。どうやら、なのはは翔太が見ているからという理由で、この番組を見に来たらしい。
 その理由を聞いて桃子も納得した。今から十年以上前の話になるが、確かに桃子も友達が見ているドラマなんかを話をあわせるために興味もないのに見ていた。おそらく、なのはの行動もその類なのだろう。

 ああ、ようやく、なのはも友達ができたのだ、と桃子は改めて実感できた。一年間家族で悩んできたことが報われたような気がした。
 だから、桃子はテレビを真剣になって見てるなのはを微笑ましく見守った後、流れてきた涙を見られないようになのはに背を向けて夕飯の洗い物へと戻るのだった。



  ◇  ◇  ◇



 週に一度は訪れる休日、西洋風の館に住む主である月村忍は、朝から不機嫌だった。
 その不機嫌さを隠すことなく、ソファーに座り、日曜日の真昼間からやっている適当なバラエティ番組を見ながらメイドであるノエルが入れた紅茶を飲んでいた。
 当然、テレビの内容など頭に入っていない。ただ、時間を潰すために適当につけたものでしかないのだから。

 彼女がここまで不機嫌になっているのは、一人の男性のせいである。その男性の名前は、高町恭也。月村忍がずっと前から懸想している男性である。彼と恋仲になるべき奔走している月村忍だったが、あの朴念仁には、中々通用しない。
 それでも、こつこつと好感度を築き上げてきた自信はある。放課後に簡単なデートに誘ってみたり、休日に買い物につき合わせてみたり。もっとも、彼の場合は、友人同士で出かける程度にしか思っていないのかもしれない。

 だが、彼を狙うほかの女の影も見えないし、ゆっくり攻略していけばいいか、と思い続けて早一年。忍からのアプローチにまったく気づかず、忍と恭也の仲は相変わらず友人というカテゴリーから外れていなかった。高校を卒業する間近になると進学してから疎遠になるのではないか、と相当焦ったが、どうにかこうにか彼との縁は繋がっている。

 普通の女なら、一年以上もアプローチを続けて気づかない男など諦めるだろう。だが、月村忍は普通の女ではなかった。彼女には高町恭也でなければならない理由があるからだ。
 そう、一年生のとき、彼の瞳を見て直感的に理解した。彼が持っている闇の深さと器量の広さを。

 ―――恭也なら絶対。

 そういう核心があるからこそ、忍は一年間も彼女の名前のごとく耐え忍んできたのだ。
 だが、そろそろ流石に蹴りをつけたい、と思い、今日に決めようと意気込んでお茶会に誘ったというのに……。

「なにが、『すまない、先約がある』よっ!」

 こんな美女の自宅に誘われておきながら、先約があるから、と軽く断わる恭也に激怒する忍だった。もっとも、彼女が知る恭也であれば、先約を反故にするような性格ではないのだが。しかし、断わるときに一瞬も迷わなかった。忍と先約、その両者を天秤に掛けることなく、恭也は、先約を選択したのだ。
 それが、女の魅力として簡単に負けてしまったような気がして、忍は不機嫌なのだ。

「ならば、お嬢様から告白されればいいのではありませんか?」

 空になったカップに新しく紅茶を注ぎながらメイド服姿のノエルが主人に助言をする。だが、メイドからの助言を主人は、「甘いわねぇ~」の一言で切った。

「女はいつだって告白するよりも、告白されるほうが好きなのよ」

 そんなものなのだろうか? とノエルは考えたが、女―――いや、それ以前に人間ですらない自分が考えたところでせん無きところだろう、と思い、考えないようにした。

 メイドであるノエルが傍に控え、主人である月村忍は紅茶を口に含む。周りから聞こえてくる音は適当につけているテレビの音のみだ。周りは殆ど月村家の私有地であり、この家にいる人間も忍とノエルを除けば、妹のすずか、メイドのファリン、そして、すずかの友人であるアリサだけなのだから。
 耳を澄ませば、忍の下の階からは、女の子特有の高い音の話し声が聞こえる。

「そういえば、今日はショウくんは来てないの?」

「はい、どうやらいらっしゃっていないようです」

 珍しいこともあるものだ、と忍は思った。月村の家でお茶会をするとき、呼ばれるのはアリサと翔太であることが殆どであるからだ。小学生だからだろうか、男女のこだわりは殆どないようだ。それが今日に限ってはアリサだけ。翔太はどうしたのだろうか。

 ―――蔵元翔太。

 忍にとっては不可解な子供である。小学生の割りに態度は、とても子供とは思えない。ちょっと生意気な子供とも違う。子供という免罪符をかざして生意気な子供が多い中、目上の人への態度をわきまえたような奇妙な子供。それが忍の翔太への認識だった。

「ねえ、ノエル。ショウくんが私たちの秘密を知ったらどういう態度を取るかしら?」

「蔵元様ですか? あの方ですか。あまり想像がつきませんね」

 不意にそう思った。忍が恭也を見たときは、すぐに彼女の秘密を受け入れてくれると理解した。それは、彼の心の底で持つ闇を直感的に理解したからだ。同族のような匂いを嗅ぎ取ったといっても良いかもしれない。
 一方で、翔太はどうだろうか。残念ながら、忍の嗅覚が翔太の異常を嗅ぎ取ることはできなかった。翔太は、少し大人びた態度を取る奇妙な小学生である一般人だ。
 だが、夜の一族である彼女たちが常に裏の世界に存在するものたちだけを契約の対象にしてきたわけではない。むしろ、一般人が大半だ。もっとも、契約にたどり着けるような一般人は極少数だが。

「さて、すずかは一体どうするのかしらね?」

 姉としては、願わくば妹が彼に秘密を打ち明けたときは、彼が笑顔で受け入れてくれますようにと思うだけである。

 さて、いよいよテレビも飽きてきた。この手のバラエティー番組は、もう少し年を得てから見るものであり、自分のような若者が見るようなものではない。その結論に至ると忍は近くにおいていたリモコンで、テレビの電源を切った。
 テレビの電源を落としてしまうと忍の周囲は本当に静かになってしまった。小さなBGMとして妹たちの笑い声が聞こえる程度だ。

 しかしながら、テレビに飽きて原電を切ってしまったのはいいのだが、これから何をしよう、と忍は思案した。
 今日は恭也に覚悟を決めさせるためのお茶会ぐらいしか本当に用意していなかったのだ。それが叶わなければ、友人が少ない忍のすることなど、大学の教科書を広げるか、最近取った免許を生かして車を走らせるぐらいしかない。

 本当にどうしたものか、と思案する忍。そこへ先ほど席を外したノエルが、少し慌てた様子で部屋に駆け込んできた。普段、冷静な彼女が慌てるなんてよっぽどだ。何かが起きたに違いない、と確信した忍は気を引き締める。

「お嬢様、侵入者です」

 冷静な従者から告げられた一言は数年に一度あるかないかの一大事だった。



  ◇  ◇  ◇



「ねえ、ノエル、あれ、何に見える?」

「私には猫に見えます」

「そうよね」

 茂みに身を隠しながら、主とその従者は呆然としたような、呆れたような顔で目の前に広がる異様な光景に見入っていた。

 彼女たちが、侵入者の知らせを受け、出てきたのは侵入者を発見した月村家が所有する裏の森。分類で言うならそこは月村家の裏庭という括りになる。なお、彼女たちは侵入者の存在を確認していたが、その姿までは分かっていなかった。

 裏の世界に両足どころか、肩ぐらいまでどっぷり浸かっている月村家には味方も多いが敵も多い。故に敷地内に無数に監視カメラが仕掛けてあるのだが、その中の一台が、今回の侵入者を映し出したのだ。しかしながら、そこに映っていたのは黒いマントと靡く金髪のみ。顔まではしっかりと判別できなかった。

 だが、分からないからといって放置するわけにもいかず、こうして忍とノエルが侵入者の対策に乗り出してきたわけだが、侵入者が映ったカメラから侵入者の進路を導き出し、その進路上であるだろうと思われる地点で待ち伏せしようと思ったところ、彼女たちは不可思議な存在に出会うことになる。

 それが先ほどの彼女たちの発言にある猫である。

 そう、猫である。犬とペットとしての人気を二分し、犬にはないクールなところと猫鍋などで知られるようになった愛らしさで人気の猫である。月村家では、ペットとして猫を飼っている。もっとも、一般家庭で飼える猫の数をはるかに凌駕したに24匹という数の猫ではあるが。

 確かに月村家で飼っている猫の数は多い。多種多様な猫がいる。
 だがしかし、今、目の前にいるような猫は見たことがない。いや、存在しているはずがないのだ。

 ―――高さ10メートルを超える木よりも大きな猫の姿など。

「一体、何なのかしら?」

「分かりません。しかし、もしも、この敷地に持ち込まれた実験動物だとしても、あの大きさをここまで運んでこられるとは到底思えません」

 裏の世界は広く深い。確かに探せば、あのような大きさの猫を作るような実験動物も存在するかもしれないが、よりにもよって月村の敷地内に持ってくるとは考えにくい。しかも、あの大きさだ。今の今まで周囲に一切悟られることがないというのは、不可能に近いだろう。ならば、あの猫はどこから現れたのか、という最初の問題になり、結局は堂々巡りになってしまうのだが。

「猫に侵入者。問題は山積みね」

 しかし、確かにあの猫は大きさが問題ではあるが、危険な行動は一切取っていない。本当に猫がそのまま大きくなったという感じで遊んでいるようにも思える。つまり、月村家には害はないと考えて良いだろう。
 ならば、やはり問題は猫よりも侵入者だ。早く見つけなければならない。万が一、家の中に侵入されたのならノエルがすぐに気づくはずだが、未だノエルから何も反応がないことを考えても侵入者は、月村の邸宅までは到達していないのだろう。ならば、この辺りにいるはずだ。

 近くの木にじゃれている猫を尻目に茂みに身を潜ませ手を顎に当てて考えている忍の網膜の端を突然光が走った。

「っ!?」

 一瞬、敵からの攻撃かと思い、さらに身をかがめて潜める忍とノエル。だが、その考えは見当違いだった。忍の目の端を横切った光は、まっすぐ飛んでいき、少しはなれたところにいる木にじゃれつく猫へと命中した。その光景を呆然と見守るしかない忍とノエル。
 一方、光が命中した猫は、「ミャゴォォォン」と悲痛な声を上げてよろめいていた。

 うわ、痛そう、と思いながらも忍は茂みに隠れたまま光が発射されたであろう方角を見る。光の斜線上である電柱の上に立っていたのは一人の金髪をツインテールにし、黒いマントを羽織った少女。忍の中に流れる異形の血は、普通の人間には見えない距離であろうともはっきりと見えるだけの視力を与えていた。忍の目に映った少女は、外見だけなら監視カメラに映った人物に似ている。

「ノエル」

「適合率99%。監視カメラに映った人物はあの少女だと断定できます」

 当たってほしくない、という希望を少しだけ乗せて全幅の信頼を置くノエルに確認を取ってみるが、返答は無情だった。どうやら、侵入者はあの少女で間違いないらしい。

「……あんな少女が」

 少女だといっても情けをかけるわけにはいかない。裏の世界には外道など腐るほどいる。年端もいかぬ少女を兵士にしたりなどまだ常識の範疇と言っていいぐらいだ。あの猫を襲っている理由は分からないが、あの猫を月村家の護衛だと勘違いしてる可能性もある。ならば、あの猫が倒れた後は月村家の邸宅を狙うだろう。

「ノエル……隙をみて一気にいくわよ」

「了解しました」

 彼女たちは少女の隙を探すことにした。

 茂みの中で少女の動向を伺う。どうやら、彼女はこちらに気づいていないようだ。いや、猫に気を取られているだけも知れないが。

 金髪の少女が手に持っている戦斧を前に突き出す。少女が何かを呟いたかと思うと、黒い戦斧の先端にまた光が集い、球となす。その光はバチバチとまるで雷のように音を鳴らしている。そして、次の瞬間、まるでマシンガンのように次々と打ち出される光。その光景は、長らく裏の世界に浸かっている月村家長女をして不可解なものだった。

 忍はあのような光を発する武器を知らない。効果から鑑みるにスタンガンに近いようなものであるのだが、あれならワイヤー式のスタンガンを使ったほうがまだ使い勝手がいい。

 効率もさることながら、あのようにスタンガンの効果を飛ばせるような武器など忍は知らない。まあ、捕まえた後にでも詳しく聞けばいいか、と細かいことを考えるのをやめた。今は、目の前の状況に集中しなければならない。

 マシンガンのような光を連続で浴びた猫はその巨体に似合わない「にゃごぉぉぉぉん」という断末魔のような声を出して、倒れこんだ。倒れこんだときに地面がずしんと揺れ、同時に何本か木が倒れてしまった。もはや、猫に意識はないように思えたが、少女は非情だった。

 電柱の上から飛び立ち、数本の木の枝を渡った後に地面に降り立つと黒い戦斧を掲げる。同時にまた眩しいほどに集う光の球。サッカーボールよりも大きな球体になったところで、少女はそれを地面に振り下ろした。

 地面にめり込んだ戦斧の先から地面を割りながら横たわった猫へと走る地割れ。その地割れが猫に到達すると、巨大な猫はまるで強力なスタンガンで撃たれたようにビリビリとその身を感電させると「みぎゃあぁぁぁぁぁぁ」という本当の断末魔を残して本当に意識を失った。

 ―――これは、死んだわね。

 猫の冥福を祈りながら、忍は少し離れた場所に無表情で立つ少女に戦慄を覚えた。妹とさほど年が変わらないはずは無表情のまま猫の命を刈り取った。さながら、その辺りに生えている雑草を刈るように。果たして教育がよかったのか、あるいは命というものを重要視していないのか。どちらにしても、本当に手加減をするわけにはいかなくなった。たとえ、人には大きすぎる力である自らの血に流れる吸血鬼としての力をすべて解放したとしても。

 忍が覚悟を決めている間にも少女は、行動を続けていた。再び天に掲げた戦斧から、一発の光が飛び出したかと思うとそれは巨大な猫の上で分散すると光の雨のように猫に降り注ぐ。もはや猫から断末魔が上がることはない。

 断末魔の代わりに猫の身体から飛び出したものがあった。蒼い石だ。その表面に何かギリシア数字のようなものが浮かんでいるのが忍の目から確認できた。しかも、驚くべきことに猫の身体も正常な大きさまで戻っていくではないか。

 少女はそれを見ると安心したように安堵の息を吐き、ゆっくりとそれに近づいていく。

 ―――もしかして、最初からこれが目的だったのかしら?

 彼女の様子を見ていると、その考えも正解のような気がしたが、この月村家の敷地内に無断で侵入した時点で少女は忍の敵だ。それに先ほどから見せている攻撃は特に脅威だ。だから、彼女に気づかれる前に手を打ちたかった。特に今は獲物を仕留めた直後だからだろう。特に気を張っている様子はなかった。

「ノエル」

「はい」

 極めて小声で忍は従者に声をかける。その声に応えて、ノエルは、ポケットから拳銃を取り出した。ノエルはそのまま狙いを少女に定めると続けて三回、引き金を引いた。拳銃から火薬を打つ特有の音はなかった。当然、サイレンサーつきだ。もっとも、それでも耳のいい種族―――忍の叔母のような人狼族の血を引いた人には気づかれてしまうだろうが。

 幸いにして彼女には、そのような特徴はなかったようだ。夜の一族としての特性が知性に発現した忍が作った特性の麻酔銃から放たれた3発の弾丸は、1発はわき腹に、1発は腕に、1発は太ももにそれぞれ命中していた。

 しかし、少女からは血は流れない。なぜなら、ノエルが撃ったのは、睡眠薬入りの麻酔銃だったのだから。一発命中すれば、十分だったのだが、念のため放った三発とも当たってしまった。裏の人間なら避けられることを考慮したのだが、彼女にその素振りはまったく見られなかった。本当に裏の人間なのだろうか。少しだけ疑問が残った。

 パタンと蒼い石を前にして倒れる金髪の少女。最後まで石に手が伸びていたのは彼女の最後の意地だろうか。だが、彼女がその意思を手にすることはなく意識は狩られてしまったようだ。

 用心しながら少女に近づくノエルと忍。近づいても気を抜くことはなかったが、完全に少女は昏倒しているようだった。

 ―――少女は本当に何者なのだろうか。

 それももうすぐ分かる。月村の邸宅の地下にはこういった侵入者用の部屋もあるのだから。そこで何日かかろうとも聞き出せばいいだけの話である。

 さて、この子を連れて帰りましょう。そう言い出す前にノエルが、忍を護るように少女と忍の間に割って入った。

「お嬢様、敵です」

 ノエルが短く更なる敵の来訪を告げる。

「フェイトぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 直後、叫びながら風を切り裂くように忍たちの目の前に現れたのは、赤い髪を靡かせ、鋭い八重歯と頭に生えた獣耳が特徴的な豊満な体格を持った女性。忍たちは彼女の容姿を見た瞬間に一瞬硬直してしまった。それが最大の隙を見せることになるにも関わらず、彼女たちは一瞬、意識を止めるしかなかった。目の前の女性が敵かどうか判断できなかったから。

 だが、その一瞬の硬直が最大の隙であり、敵に逃走の時間を与えてしまった。

 赤い髪の女性は、少女を担ぎ上げると標的であろう自分たちも蒼い石もすべてを投げ出して、逃げることを最優先させるかのように一目散に逃げ出してしまった。待ちなさいっ! と様式美のように叫んでみるが、後の祭りだ。すぐに彼女たちの姿は見えなくなってしまった。後に残されたのは、忍とノエル、子猫、そして、蒼い石だけだ。

「逃しちゃったわね」

 忍は、足元に落ちていた蒼い石を回収しながら呟く。少女が最後まで手を伸ばした蒼い石。宝石のようにも見えるが、忍には真贋が分からない。なぜ、こんなものを手にしようとしたのか。一匹の子猫を殺してまで。
 忍はそう思い、もう冷たくなっているであろう子猫に手を伸ばし、子猫の身体がまだ温かいことに驚いた。どうやら、気絶しているだけでまだ生きているようだ。

「ノエルっ! すぐに病院にっ!!」

「分かりました、お嬢様」

 周りを探査してみても、どうやら敵はもういないらしい。ノエルは、大事そうにまだ温かい子猫を大事そうに抱えて邸宅のほうへと駆け出していった。忍も蒼い石をポケットに仕舞いながらノエルの後を追う。
 しかしながら、彼女たちはなぜ、このような石に手を伸ばしたのだろうか。もっとも、彼女たちの目的が月村家の邸宅ではないということも否定されてはいないのだが。
 彼女たちが逃げた以上は、すべてが闇の中だ。唯一の手がかりは、彼女たちの容姿だけである。そして、彼女の―――特に赤い髪の女性のほうには心当たりがあった。

「帰ったらさくらに連絡を取らないとね」

 人狼族と吸血鬼の血を引く一族の中でも頂点に近い叔母の容姿を思い出しながら、忍は厄介なことにならなければいいのだが、と思いながら小さく呟くのだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかは、困惑していた。これからどうしよう? と。目の前では、親友といってくれるアリサが物珍しそうにすずかの部屋を見ている。今しばらくは、自分の部屋の物珍しさで誤魔化せるかもしれない。アリサが自分の部屋に来ることは初めてなのだから。しかし、それでも稼げる時間など十分程度のものだ。それでは到底時間は足りないだろう。

 ―――はあ、どうしてこんなときに。

 すずかは数年に一度、忘れたときを見計らってやってくるような侵入者に対して不満を漏らしていた。

 ともかく、すずかはどうにかして姉とメイドのノエルが侵入者を撃退してくれるまでの時間を稼がなくてはならない。この部屋ならば、まだ安全だが、他の部屋では危険かもしれないのだから。

 すずか付きのメイドであるファリンも今は警護に出てくれている。もしかしたら、万が一のときは自分も戦わなければならないかもしれない。そう思うと、恐怖で震えてくる。しかし、姉も戦っている以上、自分だけがこの部屋で震えているわけにはいかないのも事実だ。もっとも、今はアリサの相手が最優先事項だろうが。

「すずかの部屋って初めて入ったけど、彩が少ないわね」

「そうかな? 私が白が好きだからかな」

 すずかの部屋は基本的に白を基調としている。彼女の血筋を嫌悪する心が、彼女に穢れのない白を周りに置くことを望ませるのかもしれない。そのため、すずかの部屋はベットもクローゼットもカーペットもカーテンも小物も基本的に白だった。机は木目だったが、それだけが唯一色の付いたものである感じだ。

 だが、しかし、その部屋の中で唯一異彩を放っているものがあった。クローゼットの取っ手にハンガーで掛けてあったフリル付きの黒いワンピースだ。すずかが先日、姉と買い物に出かけたときに買った洋服だ。白が基調となっている部屋の中で、真っ黒なワンピースは目を引いた。むろん、それはアリサとて例外ではない。

 しまった、と思っても後の祭りだった。先週、一ヶ月は高町なのはの探し物に付き合うといった翔太だったが、もしかしたら、休日ならば空いているかもしれない、という思いからお茶会に誘ったときに翔太が来られるならば、着ようと思って掛けておいたのをそのままにしていたのだ。

「すずか~、この洋服どうしたの?」

 むろん、買ったのだが、それがアリサの求める答えとは思えない。すずかの私服は確かに白を基調にしたものが多い。その中でどうして、黒いワンピースを買ったのか、という問いに対する答えがアリサが求める答えだろう。

 だが、その理由をすずかの口から言えるはずもない。まさか、翔太に洋服を褒められたアリサが羨ましくて、つい買っちゃった、などと。

「えっと~」

 視線を宙に泳がせて、すずかは必死に答えを探す。しかし、そう簡単に答えが見つかるはずもない。結局、すずかの口から出てきたのは、適当にお茶を濁すような言い訳に近いレベルの回答だった。

「な、なんとなく? たまには気分を変えても良いかな、って思って」

 自分で言いながら、苦しい、苦しいと思っていた。だが、アリサは、あまり理由には興味がなかったようで、ふぅ~んと呟いただけで、すずかの苦しい言い分には突っ込んでこなかった。黒いフリル付きのワンピースをまじまじと見ていたアリサだったが、不意にすずかに視線を向けて口を開く。

「あたし、これを着たすずかが見てみたいな」

「え?」

 予想外の展開だった。しかし、拒否して先ほどと似たような質問をされるのも拙い。それならば、この場でその洋服を着ることを選ぶ。なにより、すずかもアリサの意見は貴重なものだった。自分以外だと姉の忍にしか評価してもらっていないのだから。普段、着慣れている洋服以外の洋服を着るのは、それなりの勇気が必要だ。

 だが、第三者の太鼓判さえ、あればそれなりに安心できる。だから、翔太に見せる前の前哨戦だと思い、すずかはアリサの前でその黒いワンピースに着替えることにした。

 女の子同士であるわけで、特にアリサに外に出てもらうこともなく、すずかは黒いワンピースに袖を通した。さすがに恥ずかしいのでアリサには後ろを向いてもらっていたが。もっとも、アリサはそれが気に入らないらしく不満げに頬を膨らませていた。

「い、いいよ」

 すずかの声でアリサが振り返る。すずかの洋服を着た姿を見てアリサが満面の笑みに変わる。

「わぁ~、洋服を見たときから似合うと思ってたけど、想像以上に似合ってるわねっ! 可愛いわよ」

「ありがとう」

 ここまで手放しに褒められては、女の子で親友であるアリサが相手といえども多少気恥ずかしかった。

「う~ん、やっぱり、その洋服だと普段とイメージ変わるわね」

「そうかな?」

 すずかには分からなかった。確かに今までは私服はすべて白が基調となっている。そこに突然、真っ黒のドレスワンピースを着れば確かにイメージは変わるのかもしれない。なにせ、着ている洋服の色は真逆なのだから。しかし、前哨戦と定めたアリサの評価は上々。好感触と言っていいだろう。これなら、本選である翔太に見せても大丈夫そうだ。

 ―――ショウくん、可愛いって言ってくれるかな?

 そんな風に考えながら、そろそろこの洋服を脱いで着替えようと思っていた矢先、突然ドアをノックする音。まさか、と思ったが、ノックの音は聞きなれたファリンのものだ。ドアに近づくと慎重に鍵を開け、ドアを開く。ドアを開いた先にいたのは予想通り、メイド服に身を包まれたファリンだった。その表情はやや困惑に近い。

「すずかお嬢様ぁ」

「どうしたの?」

「あ、あの高町様と蔵元様が参られたんですけど、どうしましょう?」

 ―――本当にどうしてこんな時に?

 まさかの本命登場にすずかも絶句するしかなかった。


続く

あとがき
 15話は裏表裏の三本立てです。

 今回、質問が多そうな事項をいくつか。リリカルなのはの設定は曖昧なところがあり、いくつかこの設定で行きますと設定しないと物語が書けないため。

 Q.フェイトは、結界を張らないの?
 A.アニメも映画もフェイト陣営は街中でも結界を張らず堂々と魔法を使っていました。結界を張らないのか、張れないのかは不明ですが、本作でも、結界を張らずに特攻しております。

 Q.バリアジャケットを銃で抜けるの?
 A.バリアジャケットの強度については正確な説明がないため不明。ある程度の衝撃に対する閾値によって衝撃を緩和するものと考えられる。完全に衝撃を遮断するのであれば、歩くことさえ困難、緊急時の治療に支障をきたすと考えられるため。よって本作では、麻酔銃でサイレンサーという衝撃が弱まる要素があったのでバリアジャケットの閾値を下回ったものとする。



[15269] 第十五話
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/04/02 00:05



 なのはちゃんが倒れて一週間経った。その間、僕となのはちゃん、恭也さん、ユーノくんは放課後にジュエルシードを探すために歩き回っているわけだが、最初の一週間と違って成果が全然上がらない。ジュエルシードの捜索を始めて早二週間が経過しているが、集まったジュエルシードの数は5つ。全部で21個あることを考えると約4分の1が集まっていることになる。

 後ろには時空管理局という警察のような組織があることを考えれば、後二週間無駄足になってもいいから、ジュエルシードに遭遇せずに時空管理局にバトンを渡したほうが、平穏ではないだろうか、と考えてしまう。
 もっとも、ユーノくんの話では、ジュエルシードは封印しない限り、意思のある生き物に触れ、願った瞬間に発動してしまうのらしい。ジュエルシードは、まるで不発弾のようなものだ。だから、そんな危険なものを放置するわけにもいかず、封印できるなのはちゃんが探すのをやめるといわない限り、探すのを諦めるわけにはいかない。

 そんなわけで、休日の今日も朝から僕たちは、書店で買った海鳴市の地図を片手に海鳴市を巡っていた。地図を片手にユーノくんをジュエルシードのアンテナ代わりに歩いていると、まるで海鳴市を観光しているような気分になる。子供の頃から住んでいる町ではあるが、少し足を運ばなければならない場所になると、恭也さんでさえ分からないというような場所もある。よくよく考えてみると自分のテリトリーなんていうのは意外と狭いのかもしれない。

 しかしながら、分からないから、といって探さないということはないので、今日もユーノくんを肩に乗せ、隣になのはちゃん、少し後ろに恭也さんというポジションでなのはちゃんやユーノくんと話しながらジュエルシード捜索を行っている。

 ユーノくんとは主に地球のことについて話すことが多い。文化的な違いとでも言うべきだろう。何にでも興味を持った子供のようにユーノくんは次々にあれはなに? これはなに? と尋ねてくる。ユーノくんが遺跡発掘の責任者ということを考えても、知的好奇心が強いということに異論はないだろう。

 なのはちゃんとは、主に本に関する話題が多い。最近は、少し僕がテレビに関する話などをしたせいか、なのはちゃんも興味を持ってくれたみたいで、その手の番組の話もすることが多い。後は、授業に関することだろうか。なのはちゃんは理数系に関しては、天才的と言っても過言でないほど頭が回る。聞けば、学校のテストも満点を取れることもあるらしい。ただし、その代わりと言ってはなんだが、文系教科は壊滅的らしい。

 そんな感じで、僕たちは休日といえどもジュエルシードを探していた。

 ほのぼのと三人と一匹でジュエルシードを探す今日この頃だが、実は今日、すずかちゃんたちからお茶会をやるけど、来られる? と誘われていた。もっとも、僕は最初から一ヶ月は無理だと伝えていたことから、ダメで元々のつもりだったようだが。
 僕がこうしてお茶会に誘われることは珍しいことではない。すずかちゃんの家に本を借りに行ったときでさえ、簡単なお茶会程度は開いてくれるのだから。紅茶を片手に読んだ本について雑談するなんて、なんて優雅な趣味なんだろう。しかし、残念ながら、紅茶も本も借り物という情けなさ。
 それはともかく、今回は頭を下げる形で、今日もジュエルシードを探しているのだが、ジュエルシード探しが終わった後、もし、お茶会に誘われたら、今度は手土産を持っていく必要があるだろうな、とぼんやり考えていた。

 さて、午前中は何も見つからず、近くの公園―――海鳴は適度に都会と自然の調和がとれており、自然公園が近くに結構ある―――で、なのはちゃんのお母さんと僕の母さんが作ってくれたお弁当を食べて、さて、午後からも頑張ろうか、とベンチから立ち上がろうか、というときに、不意に何かを感じた。

 奇妙な違和感というべきだろうか、どんな風に形容するべきか分からない感覚。何らかの違和感である。それは、なのはちゃんとユーノくんも感じているらしい。そして、両者ともある方向を向いて、ユーノくんが口を開いた。

「ジュエルシードが発動したっ!?」

 どうやら、今日は平穏なジュエルシード探しというわけには行かなくなったようだ。しかし、このなんと形容して言いか分からない感覚がジュエルシードが発動した感覚なのだろうか。前の神社のときは欠片も分からなかったことを考えると進歩なのだろうが、なのはちゃんたちみたいに発動した方向すら分からないような曖昧さでは、なのはちゃんに追いつくのはまだまだ無理そうである。

「どこ?」

 僕はこの近辺の地図を広げながらユーノくんに聞く。僕たちがいる場所と方向と距離を照らし合わせれば、どこで発動しているか、地図上ではっきり分かるはずである。僕が広げた地図をなのはちゃんと恭也さんも覗き込む。

「えっと、僕たちがいる公園がここで」

 僕は持っていた赤い水性ペンで丸をつける。

「ジュエルシードが発動したのは、ここからこの方向に……えっと、距離はちょっと遠いかな。翔太の家から学校ぐらいの距離かも」

 基準が僕の学校なのは、おそらく僕が授業中はユーノくんは家にいて、僕と念話で話していることを基準にしたのだろう。一週間前は、短距離しかできなかった念話だったが、一度できるようになるとコツがつかめたのか、距離だけは伸びていった。ならば、他の魔法はどうか? と聞かれると残念ながら、まだプログラムを構築している段階である。

 さて、それはともかく、ユーノくんが言うように僕の家から学校までの距離を直線で書くと―――

「大体この辺りかな?」

 僕が公園からまっすぐ線を引き、ここら辺にありそうだ、と思った場所に丸をつけると、そこは何もない空間が大きく広がっていた。街から少し離れた場所だ。しかも、そこは僕もよく知っていた。なぜなら、一ヶ月に数回訪ねるような僕の友達が住んでいる家の近くなのだから。

「……忍の家の辺りか?」

 同じく地図を覗き込んでいる恭也さんから、意外な名前が出てきた。

 月村忍さん。すずかちゃんのお姉さんだ。気さくな性格で、少し内気気味なすずかちゃんと血の繋がったお姉さんとは思えない。もっとも、姉妹と思えないのは、性格的な面だけで容姿はとてもよく似ている。

「あれ? 恭也さん、忍さんと知り合いですか?」

「ああ、俺の友達だ。君もどうして忍を?」

「僕の友達のお姉さんですよ」

 恭也さんも「ああ、すずかちゃんか」と納得していた様子だった。縁とは奇妙なところで繋がっているものだ。
 さて、それはともかく、僕も恭也さんも結論は一つに達した。つまり、すずかちゃんの家の近くでジュエルシードが発動したということだ。何が起きたか分からないが、早く行かなければならない、という思いが僕の中で生まれた。
 まだ、結界さえ張っていない状態なのだ。つまり、ジュエルシードに対する被害をすずかちゃんたちがこうむることになる。最悪の場合は、怪我だけではすまないかもしれない。それを考えると一刻も早く向かいたいものである。

 その思いは恭也さんも同じなのかもしれない。忍さんという恭也さんの友人も巻き込まれているのかもしれないのだから。僕と同じような思いを抱いてもおかしな話ではない。

「ショウ、早く行かないとっ!!」

「タクシーが早いな。大通りに出ればすぐに捕まるだろう」

 確かに、神社のときのように走って何とかなる距離ではない。むしろ、大通りならば、走るよりもタクシーのほうが早いはずである。

「行こうっ! なのはちゃんっ!」

「うん」

 どこか、少しだけ意気消沈したようになのはちゃんは頷く。一体、どうしたというのだろうか? さっきまではあんなに元気だったのに。

「なのはちゃん? どうかした?」

「ううん、なんでもないよ。それよりも、ジュエルシードを早く封印しないと」

 先ほどの意気消沈した声が嘘のように明るい声を出して、先ほどの言葉を否定する。本当ならもう少し気に掛けたいところだが、なのはちゃんが元気なら、なのはちゃんの言うとおり、確かにジュエルシードの方を優先すべきだろう。

 僕たちは、大通りでタクシーを拾って一路、月村家の邸宅へを向かった。



  ◇  ◇  ◇



 さすがに目的地を告げると車は早い。車があまり混んでいないこと、信号もあまりないことが幸いした。このまま行くと目的地までは15分程度といったところだろうか。
 早く、早くと心の中で急かすものの、僕が念じたところで車の法廷速度を変えられる変えられるわけでもないのだが、それでも念じてしまうのは人だからだろうか。だが、僕が一秒でも早く目的地に着くことを願っている最中、不意にユーノくんが驚いたように顔を上げた。

 ―――えっ!? ―――

 声に出さなかったのはさすがだろう。ただ、念話で突然送られた驚きの声は、何が起きているか分からない僕でさえも驚いてしまいそうな声だった。念話が聞こえない恭也さんは何かあったのか、といわんばかりに首を捻っている。もっとも、原因は僕のも分からないのだが。だが、その答えは僕の隣に座っているなのはちゃんからもたらされた。

「……ジュエルシードの反応が消えた?」

「え?」

 確かに言われて見ると、先ほど感じた違和感のようなものは感じなくなっている。しかしながら、消えたということはどういうことだろうか。

 ―――どういうこと? ―――

 ―――分からない。反応が消えるなんて、ジュエルシードが封印されたとしか考えられないけど―――

 ―――でも、なのはちゃんは隣にいるよ―――

 おそらく、地球上で唯一ジュエルシードを封印できるはずのなのはちゃんは僕の隣に座って、なぜか酷く焦っているような表情をしていた。突然、ジュエルシードの反応が消えたのだ。焦るのも分かるような気がする。

 ―――そうだけど……。でも、反応が消えたってことは、それぐらいしか考えられないんだ―――

 ―――あるいは、ジュエルシードを封印できる誰かがそこにいたか、ってことかな? ―――

 むろん、その場合は、誰が? という話になってくる。なのはちゃんはここにいる。そして、この街では、僕となのはちゃん以外は魔力を持っていないことを確認している。ならば、外から来たとしか考えられない。そこから導かれる解は一つだ。

 ―――時空管理局の人ってことは考えられない? ―――

 ユーノくんの予想では、三週間後という予測だったが、もしかしたら、早く来ることができて、来た瞬間に偶然発動したジュエルシードを僕たちよりも早く封印したとは考えられないだろうか。今のところ、僕の中で一番しっくり来る説はそれなのだが。

 だが、ユーノくんは首を左右に振って僕の考えを否定した。

 ―――それはないと思う。時空管理局の人なら、ジュエルシードに対して結界を張らないということはないから―――

 ユーノくんの話によると地球は、第九十七管理外世界と呼ばれ、魔法文明がない管理外の世界らしい。そこで、魔法を表ざたにすることは通常禁止されている。つまり、時空管理局の名前を背負っている人が魔法を表ざたにする切欠になるようなジュエルシードをそのまま対処するとは考えられないということらしい。

 しかし、そうなると、結論を出すことはできない。ユーノくんはここに一人で来たと言っていたことを考えると、ユーノくんのお仲間ということも考えられないだろうし。

 ―――ここで考えても仕方ないよね。とりあえず、行ってみよう―――

 仮説ならいくらでも立てられる。しかし、いつだって事実は一つなのだ。後、5分もすれば、目的地に着くのだからタクシーの中で考えても仕方ない。むしろ、ジュエルシードの暴走が止まって幸運だった、ぐらいには考えておこう。

 タクシーは僕たちを乗せて目的へと走るのだった。



  ◇  ◇  ◇



「この辺りで間違いない?」

「うん、この向こう側だ。間違いないよ」

 確認のためになのはちゃんに視線を向けてみるが、なのはちゃんもユーノくんと同じ意見なのだろう、コクリと頷いて肯定の意を示した。

 タクシーで月村家の近くまで送ってもらった僕たちは、そこから歩いて月村家の門の前まで歩いていった。そこで改めてユーノくんに反応の有無を確認してもらったのだが、ジュエルシードの反応はやはりなし、ただ痕跡というか、発生したであろう場所は月村家の邸宅の奥に広がっている森で間違いないようだ。

「さて、どうしたものかな?」

 その場で、僕らは頭を捻った。

 幸いにして、この家は、僕にはすずかちゃん、恭也さんには忍さんという友人と呼べる知り合いがいる。つまり、中に入ることは簡単なのだ。問題は中に入った後だ。当然、訪問するからには理由がいるだろう。しかし、まさか、率直に「魔法の石がお宅の森で発動したので確認させてください」とはいえない。だが、誤魔化すにしても森の中に立ち入るだけの理由が必要だ。ある程度不自然ではなく、森の中を自由に捜索できるような理由。

「う~ん」

 なのはちゃんも、恭也さんも、ユーノくんも必死にどうやって森の捜索許可を貰うか考えてくれている。だが、妙案というものは得てして考えるものではなく、閃くものである。そして、今回ひらめいたのは、なのはちゃんだった。

「ね、ねえ、ショウくん」

「なに? 何かいい案がある?」

「う、うん、あのね、ユーノくんが逃げたことにするのはどうかな?」

 僕と恭也さんの視線がユーノくんに集まる。突然、名前が出てきたことに驚き、僕たちの視線を受けて二度驚いているユーノくん。なるほど、僕はいつもユーノくんと喋っていたから、案として出てこなかったが、ユーノくんは傍目から見ればフェレットである。つまり、動物だ。動物は得てして気ままなもの。偶然、逃げ出して、すずかちゃんの家の庭に行ってしまっても仕方ないということか。

 僕たちは、ユーノくんがコミュニケーションが取れる動物だと知っている。だが、すずかちゃんたちはそれを知らない。ユーノくんも普通の動物だと思っているだろう。ならば、確かになのはちゃんの案は十分通用するだろう。

「うん、いい案だと思うよ。僕には思いつかなかったよ」

「えへへ」

 可愛く照れ笑いを浮かべるなのはちゃん。

 本当に言われて見るとすごい案のように思える。これならば、先にユーノくんが森の中にはいって捜索しても不自然ではないからだ。一人になるよりも当然早いだろう。もっとも、逆に懸念すべきことは、ジュエルシードを封印したであろう魔導師のことだが、もし遭遇したとしてもユーノくんは転送魔法が使えるらしいので先行する人物としては最適だろう。

「よし、それじゃ、ユーノくん。そういうことで頼めるかな?」

「うん、分かったよ。何かあったら念話で連絡するからよろしくね」

 こうして、ユーノくんは上手に壁を駆け上がって月村家の裏庭へと姿を消した。

「さて、僕たちは、表門から行こうか」

 恭也さんとなのはちゃんを促して僕たちは、表門についたインターフォンの前に立つ。僕と恭也さん、どちらがボタンを押すか話し合ったが、この場合は、飼い主である僕だろう、ということで僕がインターフォンを押した。
 インターフォンに出たのは、いつものノエルさんではなく、すずかちゃん付きのメイドであるファリンさんだった。僕は、すずかちゃんにフェレットのユーノくんが逃げたので捜索する許可を貰いに着た旨を告げた。

『今、お嬢様に聞いてきますから、少々お待ちくださいね』

 プツッとインターフォンが切れて、待たされること数分、門の向こう側に見える大きな西洋風の左右両方が開く扉の片方をあけて出てきたのは、ファリンさんだった。少し足早に門の前まで来ると、僕たちがいる反対側から小さな門を開けてくれた。

「ようこそいらっしゃいました、蔵元様、高町様、えっと……」

 僕と恭也さんを見て頭を下げるファリンさん。最後に言い淀んだのはなのはちゃんだ。そういえば、なのはちゃんは、この家に来るのは初めてなんだ。ファリンさんが知らないのも無理はない。

「ああ、こっちは、俺の妹のなのはという」

「そうですか、私は月村家でメイドをやっておりますファリン・K・エーアリヒカイトと申します。ファリンとお呼びください」

 頭を下げるファリンさんになのはちゃんは僕の後ろに隠れて、少しだけ顔を出しながらコクリと頷いた。
 それでファリンさんは満足したのか、「こちらです」と告げて、僕たちを先導し始めた。僕たちはそれに続いて歩いていく。僕や恭也さんにしてみれば、いつものことなので特に興味を引かれるものはなかったが、なのはちゃんはこんな大きな家を見るのは初めてなのか、キョロキョロと辺りを見渡していた。その仕草に最初に来たときの僕を思い出すようで苦笑してしまう。

「珍しい?」

「え、う、うん、大きいなって思うよ」

 確かに大きい。しかし、大きさだけで驚いていたなら中をじっくり見たらもっと驚くだろう。僕だって、曲がった階段やシャンデリアなんて海の向こう側の家にしかないものだと思っていたぐらいなのだから。

 やがて、左右両開きの扉の前までファリンさんに案内される。すると、ファリンさんが扉に手をかける前に自然と扉が開いた。

「えっと、いらっしゃい、ショウくん」

 扉を開けた向こう側から少し恥ずかしそうに出てきたのはすずかちゃんだった。

 だが、僕はいつもなら「こんにちは」と返すはずの返事を忘れてしまった。理由は、すずかちゃんが着ている洋服だ。僕のイメージでは、彼女が着ている服は白が殆どだ。少し色がついていたとしてもクリーム色だとか、比較的明るめの色が多かったように思える。だが、ここに来ていきなりそのイメージとは真逆の真っ黒でところどころ白いフリルがついた可愛らしいワンピースで現れたのだから、言葉を忘れても仕方ないと思う。

 本当に女の子は、服装一つ、髪型一つでイメージががらっ、と変わってしまうものである。いつもの洋服なら清楚な感じのイメージが強かったすずかちゃんだったが、黒い洋服はすずかちゃんの夜を流し込んだような黒髪と相まって小悪魔のようなイメージを髣髴させる。

 どちらにしてもすずかちゃんによく似合っていることには変わりない。だから、僕はそれを素直に口に出す。こういうときは、褒めるものだと相場が決まっているのだから。

「初めて見る洋服だけど、よく似合ってるね。うん、可愛いと思うよ」

「あ、ありがとう」

 恥ずかしそうに頬を染めるすずかちゃん。初々しいな、と思う一方で、すずかちゃんのことばかりに構っていられないのも事実だった。

「それで、話は聞いてるかな?」

「うん。聞いてるよ。ユーノくんが逃げちゃったんでしょ?」

 どうやら、ファリンさんから話は上手いこといっているようだ。

「うん、だから、庭を探させてもらいたいんだけど」

「ごめんなさい。今、森には入れないの」

 すずかちゃんの答えに思わず驚いてしまった。すずかちゃんは理由もなく断わるような女の子じゃない。てっきり快諾してくれるものだと思っていたからだ。

「なんで?」

「えっと―――」

「あら、ショウくんじゃない」

 すずかちゃんが理由に言いよどんでいるときに助け舟のように現れたのは、庭の森のほうから現れた忍さんだった。彼女はいつものようにラフな格好で、シャツにジーパンだった。しかし、すずかちゃんが、森に入れないといった理由は忍さんが森にいたからだろうか。

「忍」

「恭也も? 一体、どうしたの?」

 どうやら、ここからは役者を交代したほうがよさそうだ。僕は恭也さんと目配せすると、説明の要員を交代した。恭也さんが忍さんに事情を説明してくれる。恭也さんから説明を聞いた忍さんは俯いて少し考え込んでいたが、やがて顔を上げて口を開いた。

「分かったわ。私の指示に従うなら、捜索してもいいわよ」

 なるほど、もしかしたら、森には月村家の何かが隠してあるのかもしれない。部外者には見せられないものや蔵のようなものがあるのかもしれない。それらに触れてもらいたくないのかも。ならば、すずかちゃんが拒否したのも分かる理由だ。

 どうする? と目で聞いてくる恭也さんに僕はコクリと頷いて肯定を示した。本来の目的であるジュエルシード捜索は忍さんがいてもできるかもしれないし、本命はユーノくんが向かってくれているはずだ。森の中を歩けるだけでも御の字だろう。

「それじゃ、頼めるか?」

「分かったわ。来るのは、恭也とショウくんと……」

「俺の妹のなのはだ」

 忍さんもなのはちゃんと顔を合わせるのは初めてだからか、なのはちゃんを見て首をかしげたため、恭也さんが忍さんに紹介する。

「そう、なのはちゃんでいいのね?」

「ああ、よろしく頼む」

 こうして、僕たちはすずかちゃんとファリンさんに見送られて森に向かった。



  ◇  ◇  ◇



 ―――ユーノくん、そちらの状況はどうだい? ―――

 森を歩きながら、僕は先に向かっているはずのユーノくんに念話を送った。

 ―――ショウ? やっぱり、管理局の人間じゃない。外部の人間だ―――

 ユーノくん曰く、森の中で戦闘の跡を見つけたそうだ。地面が抉れ、木が何本か倒れているらしい。ジュエルシードが発動した方向とも合っているし、ここでジュエルシードを封印するために戦闘が起きたことは間違いない。だが、ジュエルシード自体は持っていかれたのか、見つからないようだ。

 ―――ジュエルシードの反応はないの? ―――

 ―――ないよ。よほど強固に封印されたのか、微塵も感じないよ―――

 ユーノくん曰く、封印には強度があるらしい。ここに来る前はユーノくんが自分で封印を行った。ただし、ユーノくんの魔力で封印した場合は、個人でもジュエルシードの反応が追えるほどの魔力を感じられるらしい。だが、一方で、なのはちゃんの魔力で封印した場合はどうか。答えは、微塵も魔力を感じないほど強固に封印が可能らしい。こうなると、時空管理局が持っているサーチ専用の機械を使っても無理らしい。だから普通は、探知機などをつけるらしいが、今回のジュエルシードにはついていない。

 しかし、そうなると大変な事実が判明してしまった。

 ―――相手は、なのはちゃんほどの魔力を持った魔導師? ―――

 これもユーノくんに聞いた話だが、どうやらなのはちゃんが持っている魔力というのは、かなり強いものらしい。管理世界を見ても稀有なほどに。そんななのはちゃんと同等の魔力の持ち主が相手。しかも、まったく素性の知れない魔導師だ。
 ジュエルシードだけでも頭が痛い問題なのに、それを手に入れようとする時空管理局以外の第三者登場か。

 ―――どちらにしても、もうジュエルシードがないんじゃ仕方ないね。一度、合流しようか―――

 ―――分かった―――

 案内してもらっている忍さんには申し訳ないが、こちらの都合でフェレットのユーノくんとは合流してもらおう。

 やがて、森を案内してもらっている最中に適当なところで、ユーノくんに顔を出してもらい、僕たちを合流した。忍さんは素直によかったね、と言ってくれたが、忍さんの笑顔が胸に痛い僕だった。



  ◇  ◇  ◇



 僕たちが森から出て、月村家の玄関まで出てくると既に太陽が山の向こう側に沈みかけ、紅色の光を発していた。

「忍さん、ありがとうございました」

「きゅー」

 ぺこりと僕とユーノくんが頭を下げる。このお礼には、許可をくれてありがとうという意味とわざわざ付き合ってくれてありがとうという二つの意味が込められている。本当なら忍さんにこんな面倒をかけなくてもよかったのだが。

「あら、ショウじゃない。ユーノは見つかったの?」

 丁度、タイミングを見計らったように出てきたのはアリサちゃんとすずかちゃんだった。すずかちゃんは先ほどの洋服から着替えて、いつもの服に戻っていた。

「ああ、アリサちゃんも来てたんだ」

 そういえば、今日はお茶会とか言っていたようなきがする。なら、僕が来たことで邪魔しちゃったわけか。申し訳ないことをしたものだ。

「一応、あんたも誘ったお茶会だったからね。それよりも、あんたの後ろにいるのは誰よ?」

 アリサちゃんが僕の後ろ……つまり、先ほどから着いてきているなのはちゃんを指差す。なのはちゃんはアリサちゃんの元気のよさに押されてか、僕の後ろに隠れるようにしていた。

「ああ、彼女は、僕の友達で、話していた一緒に探している高町なのはちゃん」

 なのはちゃんをアリサちゃんたちに紹介する。だが、一方的じゃ、不公平だろう。だから、僕はアリサちゃんたちもなのはちゃんに紹介する。

「そして、彼女たちは僕のとも―――親友のアリサ・バニングスちゃんと月村すずかちゃん」

 僕が途中で友達と言いかけたのだが、アリサちゃんの鋭い視線が飛んできたため、急遽言いなおした。どうやら、僕の言葉は間違っていなかったらしく、アリサちゃんは満足げに笑っていた。

「ここで会ったのも何かの縁だから、仲良くしてくれよ」

 なのはちゃんとアリサちゃん、すずかちゃんは異なるクラスだけど、別のクラスに友達がいてもおかしい話じゃないだろう。友達は多いほうが良いだろうし。もっとも、実はここにいる四人は一年生のときは同じクラスだったんだけどね。

 だが、僕の意に反して、アリサちゃんは何故かなのはちゃんに鋭い視線を向けていたし、なのはちゃんもそれに反抗するかのように敵愾心のようなものをむき出しにアリサちゃんを見ていた。

 え? なんで?

 僕にはよくわからない。ここで仲たがいをするほど、彼女たちはお互いによく知らないはずだ。それが、ここに来て急になぜ?

 だが、僕に答えを導き出せるほどの時間を彼女たちは与えてくれなかった。

「ショウ、今から帰るんでしょう? あたしも、帰るから一緒に帰りましょう」

 アリサちゃんの提案を受けて、考える。確かに時間的には夕方で、日が沈みそうだ。基本的にジュエルシード探しは日が沈むまで続けられる。日が沈むと恭也さんが僕を送ってくれるのだ。だが、今日は月村家まで出てきていることを考えると、今から街まで出ると日が暮れるだろう。つまり、今からジュエルシード探しはできない。

 ふむ、なら送ってもらったほうが、恭也さんたちの負担も軽くなるな。

 僕がそう考え、アリサちゃんの提案に乗せてもらうと思い、口を開こうとしたとき、不意に僕の袖が引かれた。振り返ってみると、なのはちゃんが不安げな顔で、まさかの提案をしてきた。

「ねえ、ショウくん、一緒に帰ろう?」

 え?

 僕の頭は混乱した。アリサちゃんとなのはちゃんに一緒に帰ろうと誘われた状態だ。僕にどうしろというのだろうか。ここでどちらかを選ぶと確実に角が立つ。なのはちゃんが言う前に決断すればよかったのだろうが。
 参った、とばかりに僕の心情を理解してくれているだろうすずかちゃんに視線を向けても、にっこり微笑まれるだけで、僕に救いの手を伸ばしてはくれなかった。

 ………一体どうしたらいいのだろうか?



  ◇  ◇  ◇



 ―――どうしてこうなった?

 僕が途方にくれてから数十分後。僕はアリサちゃんの車の中に乗り込んでいた。もちろん、アリサちゃんと一緒に帰るという選択をしたわけではない。僕に救いの女神が舞い降りたのは、少しはなれたところで見ていた忍さんだった。「なら、一緒にアリサちゃんの車で帰れば良いじゃない」という一言だ。

 アリサちゃんは少し渋っていたが、なんとか承諾してくれた。僕も、どちらを選ぶというわけでもなく、両者に角が立つわけでもなく万々歳だったわけだが、なぜか恭也さんが道案内をする、といって助手席に座り、後部座席が僕とアリサちゃんとなのはちゃんだけになってしまったところから歯車が狂ってしまったようだ。

 恭也さんがいれば、少しは抑止力になっただろうが、肝心の恭也さんは助手席だ。

 座り方の順番は奥からアリサちゃん、僕、なのはちゃんという僕を挟んだ形だ。僕としては、女の子二人が並んで座って雑談に花を咲かせてくれればよかったのだが。その目論見は脆くも無残に砕け散った。全然、そんな雰囲気ではない。
 むしろ、アリサちゃんの話が止まらない。僕に対してのみだ。もっとも、話の内容が、塾だったり、すずかちゃんの家でのことだったり、なのはちゃんを絡められないのが事実だ。僕もなのはちゃんに話を振ろうとするのだが、上手くいかない。

 なのはちゃんはなのはちゃんで、アリサちゃんの元気に押されたのか、俯いたままで話し出す雰囲気でもない。僕もアリサちゃんに話しかけられて、返事をしないわけにもいかないので、なのはちゃんだけに構えない。

 そんな感じの雰囲気が、僕の家にたどり着くまでの数十分間続くのだった。



  ◇  ◇  ◇



 僕は、アリサちゃんにお礼を言って、車を降りるとはぁ、とため息をついた。

「どうしたの?」

「う~ん、どうしてアリサちゃんがあんな行動を取ったのか分からなくて」

 できるだけ僕となのはちゃんを話させないようにしていたというか、距離を取らせようとしていたような感じに思えた。例えば、そういう風に仮定できたとすると、考えられる原因は一つだけ考えられる。

「拗ねちゃったかな」

 女の子とは特有の仲間意識みたいのがあるらしい。つまり、僕の親友と豪語してくれるアリサちゃんからしてみれば、なのはちゃんが原因で僕と遊べないと思えば、なのはちゃんはアリサちゃんにとって僕を取った敵になるわけだ。

 先週、一応、理由を話したから分かってくれると思っていたが、頭で理解しても心では理解できないというわけだろうか。ああ、そうかもしれない。アリサちゃんは同級生と比べて大人びているといっても、まだ子供だ。理性で感情を抑えろといっても無理だろう。

「はあ、月曜日からご機嫌とらないとな」

 そうじゃないと、次になのはちゃんと会った時も険悪な雰囲気になってしまうだろう。

「しかし、そうだとすると、今大丈夫かな?」

 僕は海鳴の夜空に浮かぶ星空を見上げながら、アリサちゃんの車で帰っているなのはちゃんとアリサちゃんの雰囲気を心配するのだった。


続く


あとがき
 表から想像できる裏は、どんな感じでしょうか? 次回のメインは車中のアリサとなのはがメイン……かな? あと夜の一族も。

 あと、夜の一族等とらいあんぐるハート3の設定が垣間見えますが、補足説明は必要ですかね?
 御神流については少し書きましたが。まさかググレとはいえないので。必要なら感想と一言くれると次回書きます。



[15269] 第十五話 裏 中
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/04/07 00:10




 高町なのはは、朝から機嫌がよかった。
 今日は休日で、朝から友人である翔太と一緒にいられるからだ。ここ最近のジュエルシードの集まりは確かに悪いが、なのはにとっては、この時間が長引く要因にしかならないのだから望むところである。

 今日も朝から、兄の恭也を伴って翔太と海鳴の街を地図を片手に歩いていた。なのはにとっては住んでいる街でも、ジュエルシード探しを始めてから行った場所は初めての場合が多い。気分は、まるで冒険のようで、なのはの心をワクワクさせていた。

 楽しみといえば、翔太と一緒に見知らぬ土地を歩く冒険気分もそうだが、歩いている途中の会話もなのはにとって楽しみになっていた。なのは自身は話すことは苦手だ。苦手と言ってしまうと語弊があるが、話すのがワンテンポ遅れる。それは、なのはがこれまでの十年足らずの人生の中で、人に嫌われるような言動を極端に嫌うからである。受け答え、あるいは発言する前にどうしても人に不快感を与えないか、嫌われないか考えてしまう。それが、ようやくできた友人である翔太であれば尚のこと。
 だが、翔太は一年生のときになのはの受け答えの遅さに逃げていった同級生とは違い、嫌な顔一つせずになのはの答えを待ってくれる。最近は、大体、翔太が何を言っても不快感を与えていないことに気づいたため、前よりも若干受け答えのタイミングは改善されている。
 その内容の中にはなのはが翔太との会話についていけるように翔太が話題にした内容を覚え、まねをするという涙ぐましい努力もあるのだが。

 それらの甲斐もあって、なのはは一人、家か商店街で過ごす休日とは180度異なる休日を過ごしていた。

 先日までは少し自然が多かった場所を捜索していたが、どうやら段々と海鳴の中心街に近づいている。その証拠に高層ビルが段々と増えてきた。このように自然が多い場所を優先して捜索してきたのは、探索魔法の効率の違いだ。探索魔法は基本的に人がいない方が精度もいし、範囲も広い。なぜなら、中心部には人が多すぎて、彼らの思考がノイズとなって精度と範囲を狭めるからだ。

 なお、今現在も探査魔法はユーノが一人で行っている。なのはも先週、一人でジュエルシードを見つけて封印して以来、探査魔法が使えるようになったが、そのことはまだ誰にも話していない。なのはが探査魔法を使えることを知っているのはなのは自身とレイジングハートだけだ。

 なのはが探査魔法を使って捜索に協力しないのは、なのはが探査魔法を使って協力すると、単純に考えても効率は二倍、いや、なのはの魔力等々を加味すると四倍ぐらいまで跳ね上がる。だが、その代償として捜索時間が短縮されることになる。一見すると、メリットのようにも思えるが、なのはがジュエルシードを探している理由が翔太と一緒にいる時間を過ごすということを考えれば、そのメリットはなのはにとってデメリットにしかなりえないのだ。
 だから、なのはが探査魔法を使えることは内緒であり、現在もユーノ一人で遅々として探査魔法を使って探索している。なお、これからの探索は、市街地に入り人が増えることもあって、さらに範囲が狭まり、時間がかかるらしい。
 渋い顔をしていた翔太には悪いが、なのはとしては望むべき状況だった。

 さて、市街地に入り、住宅街や自然が多い公園とは異なり、娯楽施設が増えてきた。例えば、ゲームセンターなど主たる例だ。なのはにとってゲームセンターなどは未知のものだ。一人でゲームセンターに入るような趣味もなかったし、友人がいなければ、一緒にゲームで遊ぶことはない。さらに言うと、興味がなかったため、ゲームセンターがどのような装いをしているかもあまり知らなかった。

 なのはがゲームセンターの装いを知るようになったのは、ユーノが翔太にゲームセンターについて尋ねたからだ。ユーノがやけにUFOキャッチャーが正面においてある建物を見て、あれは何? と尋ね、翔太が答えたからこそ、なのはもゲームセンターの装いを知ることができた。

 ―――ああ、あれがゲームセンターなんだ。

 一年生の頃、なのはがまだいい子であることを演じようとしていた頃、噂に聞いたことがある。だが、まだ幼稚園から卒園したばかり、小学校に入学した頃のなのはたちにとって、ゲームセンターなんていうのは、危険な場所という認識であり、本当に話でしか聞いたことがなかった。

 だから、初めて見るゲームセンターにUFOキャッチャーともう一つ入り口からずらりと並んでいる箱が気になった。そこから出てきた同い年の女の子がきゃっきゃっ、ワイワイ言いながら楽しそうに何かを見ていたからだ。その光景があまりに楽しそうでなのはは思わず足を止めて見てしまった。

「ん? なのはちゃん、どうしたの?」

 そのことに気づいたのか、翔太が足を止めて振り返る。そして、翔太がなのはの視線の先を追い、納得したように頷いた。

「ああ、プリクラだね」

「ぷりくら?」

 その響きは聞いたことがあった。なのはのクラスメイトたちが休み時間にその『ぷりくら』とかいうものを貼った手帳を広げてお喋りに花を咲かせているのを見たことがある。
 もちろん、今まで友達がいなかったなのははプリクラなど撮ったことはない。話には聞いていたが、どうやって撮るかも知らないし、どんなものかも具体的には知らなかった。

 しかし、翔太がそんなことを知る由もない。なのはが視線で追っていたのをどういう風に勘違いしたのか、ポンと手を叩くと奇妙な提案をした。

「プリクラ撮りたいんだね」

 女の子は好きだからね、とか零しながら、手馴れたようにゲームセンターに歩いていく。え? え? と思いながらもなのはは追いかけるしかなかった。護衛として着いてきている恭也もやれやれ、という態度で後ろからついてきていた。
 慣れたようにゲームセンターに入り、プリクラの大きな機械に入る翔太を見て、もしかして、こんな風に何度もプリクラを撮ったことがあるのだろうか。そう思うと、なぜか胸がチクリと痛んだ。相手は、先週の休日に楽しそうにテーブルを囲んでいた彼女たちだろうかと思うと胸が苦しくなる。

 ―――私は、ショウくんだけなのに……。

 翔太が相手というだけで満足していないわけではない。一年生の頃に憧れだった翔太がなのはのことを友達だと認めて、こうして一緒にプリクラまで撮ってくれるような仲にまでなったのだ。それで満足しないわけがない。だが、さらに欲を言うなら、なのはが翔太だけのように翔太もなのはだけになってくれれば、それは誰にも邪魔されず、ずっと二人でいられるということで、きっとそれは今よりもずっとずっと幸せなことに違いない。

 だが、それはしょせんなのはが夢見る幻想だ。翔太はそれを望んでいない。ならば、なのはも望まない。ただ、なのはと翔太だけの二人だけという空間を夢見るぐらいは許して欲しいものである。

 さて、なのはの願望はともかく、翔太は手馴れたようにプリクラの機械の一台に入るとお金を入れ、カチカチカチと操作を始めた。なのははそれを物珍しそうに見ているしかない。翔太の操作で背後の壁紙が変わったときには酷く驚いたものだ。そんな風にいくつか操作を繰り返すとどうやら撮影の段階に入ったらしい。
 もっとも、なのはには状況が理解できない。翔太の言われるままに機械に入り、操作は任せたまま、フレームがなんとかといわれてもなのはにはまったく分からず、翔太にすべてを任せていたからだ。

 やがて、カウントダウンが始まる。だが、目の前の画面では、周りに白い花が散りばめられ、真ん中の開いた空間に翔太と半分だけ白い花に隠れてしまっているなのはがいるだけだ。このままではなのはが半分だけ切れてしまう形になるのだが、無情にもカウントダウンは止まらない。混乱しているなのはでは状況判断ができなかった。このまま、カウントダウンが終わってしまうのか、と思ったが、カウントダウンがイチ、ゼロとカウントする直前で、翔太がなのはの肩を掴み、翔太に近づけた。
 結果として、なのはの肩と翔太の肩がくっついた状態でシャッターが切られてしまったのだが、それはちょうど周囲を花に囲まれた翔太となのはという形で綺麗にフレームに収まっていた。
 翔太は笑っており、なのはは少し驚いた表情をしていた。

「えっと……これでいい?」

 少しだけ気まずそうに翔太がなのはに尋ねた。おそらく、プリクラがこれでは残念と思ったのだろう。幸いにしてこの機種は取り直しができるようだ。だが、なのははそれを拒否した。せっかく翔太と一緒に撮った初めてのプリクラなのだ。なのはの表情がどうであれ、消すなんてもったいなくてとてもできそうにない。だから、なのはは一枚目をそれで承諾した。

 さらに撮影は続く。だが、二枚目は真ん中にユーノを挟んで、三枚目は後ろに恭也も足した状態で撮った。特に恭也は仏頂面というのはどうなのだろう、と慣れてきた三枚目には演じた笑みを浮かべているなのはは思った。

 三枚のプリクラの撮影が終わり、待つこと五分程度、プリクラといわれるように同じような写真が何枚も写ったものとして出てきた。どうやら、全部で6枚が3セット。合計18枚らしい。三種類をそれぞれ3枚ずつではさみで切って翔太がなのはに渡してくれた。

 気づけば、どれにも落書きがしてあった。なのはと翔太の初めてのツーショットである周囲が花で囲まれたプリクラにはなのはと翔太の洋服の部分に今日の日付と『海鳴市探索にて』という落書きがしてあった。

 なのははそれらのプリクラを胸に抱きながら、一生の宝物にしようと心に決めた。



  ◇  ◇  ◇



 タクシーでジュエルシードが発生した場所へ向かう途中、なのはの心の内は期待と不安で揺れていた。

 期待は、ジュエルシードが発動したことによる期待だ。ジュエルシードを封印できるのはなのはだけ。ならば、ジュエルシードを封印すれば、また翔太に認めてもらえるはずだ。それはなのはにとって至上の喜びである。甘いものを食べたときのように甘美なものである。それを得られるのに期待しないはずがない。

 もう一つの不安は、この場所に向かう途中で翔太が話していた内容によるものである。彼が口にした『すずかちゃん』という言葉。親しみ具合から察するに相当親しい友人なのだろう。親しい友人というのは嫌でも先週の嫌な感情を思い出させる。あの足の下から崩れていきそうな絶望感と不安感。翔太の親しい友人がいるというだけでそれを感じてしまう。自分以外と楽しそうに話しているのを見るのが嫌だった。もしかしたら、ジュエルシードを封印するなのはよりも、彼女を優先してしまうのではないかという不安である。

 それらの期待と不安に揺られている最中、それらを一気にかき消す出来事が起きた。

「……ジュエルシードの反応が消えた?」

 無意識のうちに呟いてしまった。

 そう先ほどまでは頭の隅で嫌というほどに存在を主張していたジュエルシードの反応が不意に消えたのだ。綺麗さっぱりと。いくら意識を集中させて細かく探ったとしても欠片も反応を見つけられない。聞いた話によるとジュエルシードは自然に消えることはない。もしも、消えるならなのはは必要であるはずがない。
 だが、こうして反応が消えた。それが意味するものは―――。

 なのは一瞬、答えを見つけることを拒否した。だが、自然となのはの頭は一番なのはが否定したかった解を導いてしまった。

 ―――なのは以外の誰かがジュエルシードを封印した。

 その結論はなのはにとって脅威だった。翔太に唯一上回るなのはがなのはである存在意義とも言うべき魔法を使うことができる。ひいては、ジュエルシードを封印することができるという要素がなのは以外の誰かも持っているということに他ならないのだから。

 それはなのはにとって脅威だ。もし、もしも、その人もジュエルシードを探していて、もしもなのはよりも優秀だったとしたら、きっと翔太はなのはのことなど捨ててその人へ走ってしまうかもしれない。それは、なのはにとって否定しなければならない現実だった。だが、その現実はタクシーに乗っていれば自然と近づいていてしまう。

 ―――また、またあの絶望感を味わうのか。

 なのはは先週のあのすべてを失うかもしれない恐怖を再び感じていた。座っているためあまり目立たないが、足が震えている。もしも、地面に立っていたなら膝をついて崩れていただろう。それほどの恐怖だ。もし、翔太が近くにいなければ、寒気すら感じ、自分の肩を抱きしめて、温もりを逃がさないようにしていたかもしれない。今、それをかろうじて回避できているのは翔太が隣にいるからだ。誰でもない高町なのはの隣に。だから、まだ温かさを感じられる。この現実が嘘ではないと信じられる。

 壊したくない。失いたくない。

 それがなのはにとっての今のすべてだった。あんな暗かった過去なんていらない。未来もいらない。この翔太の隣に立って温かさを感じられる今だけでいい。この今を壊したくない。失いたくない。

 だから、もしもこの『今』を壊すようなことがあれば、そのときは――――。

 なのはの心の内を知らず、翔太とタクシーを乗せたジュエルシードが発生したであろう土地へと二人を運ぶのだった。



  ◇  ◇  ◇



 ―――可愛い。

 大きな門をくぐって西洋風の左右の扉が開く片方の扉から出てきた少女を見て、なのはは素直にそう思った。

 黒い服を身に纏った女の子。なのははあまり好きではない色だ。黒が穢れているような気がして、理想である翔太の隣に立つには、あまりに不釣合いな気がして。しかし、それらを鑑みてもなのはは、黒いワンピースを身に纏った少女を可愛いと思ったのだ。

 女の子であるなのはでさえそう思ったのだから、翔太は言うまでもない。一瞬、呆けたような表情をしたかと思うと、すぐに取り繕って、彼女を褒めるような言葉を言う。彼女は、その言葉を聞いて頬を染めていた。

 そのやり取りを見て、なのはは何とも形容しがたい感情に襲われた。いうなれば、羨ましいという気持ちが半分、悔しいという気持ちが半分といった感じだろうか。一瞬、呆けた―――いや、見惚れたような表情をした翔太に対しては、怒りのようなものを抱いたが、翔太に怒りを抱くはずがないとすぐにその感情は打ち払った。

 なのはは、自分が可愛らしくないことを自覚している。いや、顔の造詣で言えば、あの桃子の子供なのだから、十二分に可愛いのだろうが、問題は一切着飾っていないということである。なのはが着ているのは、少女のような可愛らしいものではない。近くの量販店で買ったようなトレーナーとスカートだ。着飾る要素など何所にもない。

 ―――お母さんに相談してみよう。

 そういえば、桃子は去年は休みのたびに度々、買い物に行こうと誘われていたのだが、どうせ見せる人もいないし、制服だし、買ってきたもので事足りるから、と拒否してきたのだ。その付けが今来ているといっても過言ではない。もしも、桃子に誘われたときに一緒に買い物に行って、可愛らしい洋服を着ていたら、きっと翔太も褒めてくれるに違いない。

 しかし、買い物ぐらいで翔太と一緒にいられる時間を削るのは勿体無いと思ったが、よくよく考えれば、一緒に買い物に行けばいいのだ。そうすれば、翔太が気に入った洋服だって選べるのだから。

 なのはは、翔太が少女が着ている黒い洋服を褒めているのを見て、黒もいいのかもしれない、と思いながら、今度の休日にどうやって翔太に買い物に誘うかを考えていた。

 なお、なのはが今度の休日に思いを馳せている間に翔太と忍の話し合いで森に行くことが決定しており、我に返ったなのはは慌てて翔太の後を追うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 結局、封印されたジュエルシードも何も見つからなかった。見つかったのは戦闘を行ったであろう跡地のみだった。なのはにとっては、ジュエルシードが見つからなかった以上、あまり興味はなかった。ただ、ジュエルシードを封印したであろう魔導師には危機感を抱いたが、今は見つからない魔導師を気にしても仕方ない。

 それよりもなのはが気にするべきなのは、月村家の邸宅から出てきた先ほどの可愛い洋服を着ていた女の子とセミロング金髪を靡かせた少女の存在だ。特に金髪の少女はなのはに見覚えがあった。
 そう、先週、なのはを笑い、嗤い、哂った少女である。その少女を見たとき、思わず翔太の後ろに隠れてしまった。怖かったからだ。あのときの感情を思い出してしまったから。まるで自分がいないように翔太と少女が話すのも起因しているのかもしれない。

 やがて、話は後ろに隠れているなのはについてに移った。

「それよりも、あんたの後ろにいるのは誰よ?」

「ああ、彼女は、僕の友達で、話していた一緒に探している高町なのはちゃん」

 翔太が金髪の少女になのはを紹介する。

 翔太のなのはの紹介を聞いてなのはの感情は有頂天になる。翔太はしっかりとなのはのことを友達だと紹介してくれたからだ。ただ、それだけでなのはの気持ちは舞い上がる。口に出さずとも分かることであってもしっかりと言葉にして表に出してくれたほうが嬉しいからだ。

 だが、そのなのはの有頂天ぶりも次の翔太の言葉で一気に奈落へと突き落とされる。

「そして、彼女たちは僕のとも―――親友のアリサ・バニングスちゃんと月村すずかちゃん」

 ―――シンユウ?

 一瞬、なのはは翔太が何を言っているか分からなかった。
 翔太は、なのはのことを友達だといった。ならば、目の前の少女たちは? 友達? 違う。翔太ははっきりと口にした。

 ―――彼女たちは親友だと。

 なのはにとって親友という言葉は、辞書には載っていても使われない言葉だった。なぜなら、親友とは友達とは違う。もっと親しい関係だ。友人さえいなかったなのはにとってはハードルの高い存在だ。特になのはの理想である翔太がなのはを友達と言ってくれるのはある種の誇りでもあった。それが、たとえ、魔法というたった一つの要素で結ばれた細い要素であったとしても。

 だが、目の前の少女たちは、翔太の親友らしい。翔太が言うのだから間違いない。自分より高い位置に立っている存在の出現になのはが彼女に嫉妬しないわけがなかった。

 ずっと魔法を頑張ってきたのに。それでも、まだ友達なのに。まだまだ頑張らないとダメなの。そうしたら、ショウくんは自分も親友と認めてくれるのか。

 ―――羨ましい、悔しい、どうして、どうして、どうして?

 疑問、嫉妬、羨望、様々な感情が入り乱れる。だが、なのはが直接それらの感情を翔太やアリサに口にすることはなかった。

 翔太にはそんな暗い、黒い感情を口にして嫌われたくなかったから。アリサにいえなかったのは、翔太が近くにいることもあったが、元来、なのはは見知らぬ誰かと話すのが苦手だ。他人から嫌われる、嫌悪感を抱かれることを極端に嫌うなのはの性格は、自分を嘲笑い、嫉妬の対象であるアリサに対しても有効だった。

 故に、結局なのはができたのは、金髪を靡かせる少女に対して睨みつけるぐらいしかなかった。

「ここで会ったのも何かの縁だから、仲良くしてくれよ」

 翔太が笑いながら言うが、無理だと思った。彼女と自分は相容れない。お互いがお互いを許容しない。
 それを感じ取ったのはなのはの本能ともいうべき部分だ。親友ともいうべき存在だ。おそらく翔太の隣にも立ちなれているのだろう。だが、違う、違う、違う、違う。そこは、今はなのはの場所であり、ずっと譲らない、譲れない場所なのだ。
 だから、翔太が言うことであろうとも彼女となのははお互いをお互いに許容できない。翔太の隣は一つしかないのだから。

「ショウ、今から帰るんでしょう? あたしも、帰るから一緒に帰りましょう」

 不意にアリサがなのはから視線を外して翔太を誘う。
 それは、なのはの睨みを恐れたわけでもない。彼女はなのはを見ていない。まるでいないかのように振る舞い、翔太のみを誘う。

 なのはは、それを心ので似非笑う。今日はまだ日が沈んでいない。つまりジュエルシード探しは続行しているのだ。だから、翔太はすぐに断わり、ジュエルシード探しを再開するだろう。なのはの隣で。だから、何も言わなかった。言うつもりはなかった。結果は決まっていると思ったから。

 だが、なのはの予想に反して、翔太が考え込み始めた。それはなのはの予想外だった。翔太はいつだって、決まっているとは即断即決だ。ならば、この状況で即断しないのは、両者を天秤にかけているからだ。どちらが、正しいのか。
 つまり、翔太にとっては考える要素があったということだ。何所に天秤に掛ける要素があったか分からない。だが、もしも、万が一にも彼がアリサと一緒に帰るなんて言い出したら……。

 そう思うと、自然と手が伸びて、翔太の袖を引っ張り、口に出していた。

「ねえ、ショウくん、一緒に帰ろう?」

 不意に出た言葉だ。正気なら間違いなく口に出せない。だが、予想外に翔太が考え込んだことで、焦ったあまり口に出してしまった一言だ。口に出した後にしまった、と思うが、後の祭りだ。翔太が考えている途中に邪魔をしてしまった。これで、嫌われたら―――

 だが、なのはの不安に反して翔太の表情は嫌悪感を浮かべてはいなかったので、ほっと安堵した。もっとも、さらに困惑した表情ではあったが。



  ◇  ◇  ◇



 結局、翔太となのは、恭也はアリサの車で帰ることになった。できれば回避したかったのだが、翔太が快諾した以上はなのはも従うだけだ。兄は後部座席と運転席が遮られた向こう側の助手席に座り、なのはたち三人は後部座席に翔太を真ん中において座った。

 アリサの車の中は静かで、座っている椅子もソファーのようで快適だったが、まったく楽しくはなかった。いや、それどころか不快だった。理由は、分かっている。アリサだ。
 彼女は、翔太の隣に座り、翔太を独占している。ずっとなのはを空気のように扱い、翔太とだけ話している。なのはにそれを止められるだけの勇気はない。翔太が嫌な顔の一つでもすれば身体を張ってでも止めるのだが、彼は基本的に笑っている。時々、困惑したようになのはに視線を向けるが、すぐにアリサに話しかけられ、視線をアリサに戻す。

 楽しそうに話している翔太とアリサを見ていると心の底がドロドロとした黒いヘドロのようなものが溜まっていく。自分以外と楽しそうに話す翔太を見たくない。そもそも、今はなのはが、なのはだけが隣にいられるはずなのだ。なのに、なのに、なのに、なぜ翔太の隣にいるのがなのはじゃなくて、アリサという少女なのだろう。

 そこは、魔法という翔太に唯一勝る能力で得た場所なのに。どうして、何も持っていない少女がそこにいる。それがなのはにとっては許せないことだった。

 だが、結局、翔太の家について、降り、手を振って別れても、なのははそのことを翔太にもアリサにもいえなかった。

「あ~あ、でも、ショウも災難ね。あんたみたいなのに付き合わされるんだから」

 翔太が降り、車が走り出した後で、後部座席の背もたれに身体を投げ出しながら、金髪の少女は本当に翔太を哀れむような声色で、嫌味ったらしくなのはに向けて言葉を発した。

 だが、なのはにはその意味が分からなかった。翔太の親友というぐらいだ。もしかしたら、事情も聞いているのかもしれない。だが、それにしては、なのはに付き合っているという意味が分からない。なのはと翔太は、海鳴の街を守るために活動している過ぎない。それが、どうしてなのはに付き合うなどという言葉が出てくるのだろうか。

「どういうこと?」

 実に端的になのはは尋ねる。だが、なのはのその返答が気に入らなかったのだろうか、さらに不機嫌になって言葉を続ける。

「なに呆けているのよっ! あんたがなくした蒼い宝石を捜してショウが毎日、塾まで休んで放課後付き合ってるんでしょっ!?」

 微妙に事実とは異なるアリサの発言になのはは嗤った。嗤ってしまった。いや、これは嗤わずにはいられないだろう。
 翔太の意図を理解したから。そして、先ほどの翔太の発言の嘘を理解したから。目の前の女の子の勘違いを知ってしまったから。

 ―――彼女は、翔太の親友なんかじゃない。

 なのはにとって親友とはある種、神聖なものだ。友達すらいなかったのだから、当然なのかもしれない。何でも話せて、悩みも包み隠さない。それがなのはの想像する親友だ。だが、目の前の翔太に親友と呼ばれた女の子は、翔太に嘘を教えられている。それは、つまり、翔太が彼女を親友と認めていないということだ。
 ならば、先ほどの発言はなんだろう? ということになるが、きっと翔太に無理矢理、親友と言わせているのだろうと思った。

 翔太に無理矢理にでも親友と呼ばせ、その位置を確認している彼女が余りに滑稽でなのはは彼女を嗤うしなかった。クスクス、クスクスと。

 だが、アリサはそんななのはが気に入らなかったらしい。明らかに憤怒とも言うべき表情を表に出していた。

「なによっ! なにがそんなに可笑しいのよっ!!」

「別に」

 わざわざ教えてやる義理はない。しかも、翔太がそんな風に教えているのだ。それをなのはが訂正するようなことはない。せいぜい、真実を知らず、翔太から教えられたことを事実だと思い込んで滑稽に踊ればいいのだ。

 アリサはなのはに何か言いたそうだった。だが、なのはに何を言っても無駄だと、悟ったのだろうか。自分を落ち着けるように深呼吸した後、一度はなのはに何か言うために浮かせた腰を再び戻した。

「ふん、あんたが何を考えているか分からないけど、どうでもいいわよ。どうせ―――」

 そこまで言った後で、慌てて自分の口をふさぐ。どうやら、何か意味ありげに言いたそうだったが、しょせん、事実を知らない彼女が言うことだ。負け惜しみに決まっている。だから、なのはは、アリサがなのはと同じようにニヤニヤと嗤っていることも、すべてを無視した。



  ◇  ◇  ◇



 帰宅したなのはは、いつものようにご飯を食べ、お風呂に入り、翔太に勧められたテレビを見て、部屋に戻り、魔法の練習をした後、あとは寝るだけという段階になって机に向かう。
 なのはは、おもむろに机の引き出しから一冊の本のようなものを取り出す。それは、なのはが密に書いている日記だった。四月、翔太と出会った後にあまりにも嬉しくて、その思い出を何か形に残したくて、なのははそれ以来、ずっと毎日のことを日記に書いている。翔太と話した内容、褒められたこと、嬉しかった翔太の言葉などがメインである。

 今日のことを反芻しながら、日記に今日の出来事を書き綴る。今日のメインは当然、プリクラのことだ。そのプリクラは今は大事に机の上の写真立ての中に収められている。本当は、プリクラを写真立てに飾るのはおかしい話なのだが、それ以上に大事にできる場所がなかったのだから仕方ない。
 今度、プリクラ帳を買ってくるのも良いかもしれない。どこかに出かけたときに翔太と一緒のプリクラが増えれば、それはきっとすごく嬉しいことだから。

 そして、話は月村邸での出来事に変わる。その辺りを書こうとすると、なのはの筆が止まる。いいことはまったくなかったからだ。出てきたのは、翔太の親友だと勘違いしている金髪の女の子だけだ。
 あまり思い出したくない彼女だが、車内で不穏なことを言っていなかっただろうか。

 ――――どうせ。

 その後に続く言葉は? どうせ、という言葉の意味を考えれば、なのはを卑下するような言葉なのだろうが、思いつかない。具体的なことは思いつかないが、大体意味は同じだろう。

 ―――どうせ、なのははずっと翔太の隣にはいられない。

 そんな意味を言いたかったに違いない。だが、それはない。それはありえない。翔太がジュエルシードを追う限り、それはありえないのだ。

「そうだよ。これがある限り、ずっと一緒だもん」

 なのはの机の引き出しの一番上にある唯一鍵がかかる場所に厳重に箱に収められた蒼い宝石―――ジュエルシードを見ながらなのはは笑った。
 その笑みを、電灯に照らされ、その宝石が持つ蒼を反射するジュエルシードだけが見ているのだった。



つづく

あとがき
 最後に出てきた日記の名前は『なのにっき』です。

 プリクラは携帯と同じ理由で翔太のほうは描写されていません。
 翔太は撮るの手馴れています。ただし、プリクラコーナーは女の子限定なのでもちろんアリサたちと一緒です。

 さて、実は後一話だけ続きます。このまま書くと30kbを超えそうだったので。
 後一話、アリサ編とすずか編にお付き合いください。



[15269] 第十五話 裏 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/04/25 17:46



 親友である月村すずかの家から出てきたアリサが目にしたものは裏庭であろう森から出てきた四人の姿だ。
 一人は、もう一人の親友である蔵元翔太。一人は、すずかの姉である忍。後、二人はアリサの知らない人物だった。だが、それでも翔太の横に寄り添うように歩いている同年代の少女が高町なのはであろうことは簡単に推測できた。

 アリサ・バニングスは、翔太の隣に寄り添うように歩く少女が気に入らなかった。

 そこは、そこだけはアリサたちのものなのに、我が物顔で歩いている少女が気に入らない。ただ、それだけだ。
 もちろん、アリサだけが翔太の隣を独占しているわけではない。彼にだって他の友人がいることも付き合いがあることも分かっている。親友だからといって、他の友人との付き合いを否定するほど器量の狭い女ではないことを彼女は自覚している。

 だが、それでも、高町なのはだけは例外だった。なぜなら、彼女は、翔太を一人独占しているから。彼にだって友人との付き合いがあろうとも優先順位は明白だった。学校、塾、アリサたちの英会話やお茶会、その他友人。この順番が翔太の中に確立していた優先順位だったはずだ。だが、何の前触れもなく唐突に現れた高町なのは。今まで確立していた優先順位に割り込み、塾やアリサたちの英会話やお茶会よりも上位に割り込んできた女の子。

 如何にアリサとすずかが翔太の親友とはいえ、学校や塾に割り込むことは不可能だった。塾をずる休みして遊びに行くことなんて提案しなかったが、仮に提案しても翔太ならば、反対することは自明だ。だが、高町なのははどんな手段を使ったか、塾よりも高い位置に自分の優先順位を持っていた。

 つまり、アリサは悔しかったのだ。自分ができなかったことを高町なのはがあっさりと実現して、悠々と翔太の隣にいることが。だから、アリサ・バニングスは高町なのはが気に食わない。

「ここで会ったのも何かの縁だから、仲良くしてくれよ」

 アリサとなのはがにらみ合っている間に翔太が言うが、無理だと思った。目の前の少女と自分は決して相容れることはないだろう。お互いにお互いが許容しない。なぜなら、お互いに欲しい居場所は同じなのだから。そして、その居場所は、高町なのはを許容できるほど余裕はない。

 だから、アリサ・バニングスは高町なのはを認めない。認めないがゆえにまるで翔太の言葉が聞こえなかったかのように高町なのはを故意に無視した。

「ショウ、今から帰るんでしょう? あたしも、帰るから一緒に帰りましょう」

 高町なのははあえて誘わない。そもそも、アリサとなのははこの時点で何の関係もないのだ。お互いを許容しないと分かっている。ゆえの無関心。だから、誘わない。アリサが今誘っているのは、翔太ただ一人である。

 アリサは、翔太がすぐに提案に乗ってくるものだと思っていた。もう日が暮れそうだ。後一時間もすれば、完全に太陽は山の向こう側に姿を消してしまうだろう。

 翔太が探しているものは蒼い宝石という。探し物をする上において、暗闇というのは厄介なものだ。見落とす確率が高くなるのだから。しかも、月村の邸宅は郊外にあり、ここから歩いて帰るならば、一時間は軽くかかる。ここまでどうやって来たのかアリサは知らないが、仮に歩いてきたとしてももう一度、歩いて帰るのは無理だろうし、タクシーにしても、小学生が払える額ではないことは確かだ。
 後ろに見える黒い服に包まれた背の高い男性は誰かは知らないが、仮に彼にはらってもらうにしても翔太の親族ではない以上、気が引けるはずだ。ならば、ここでのアリサの誘いは渡りに船のはずなのだが、翔太は即答しなかった。

 翔太が即答しないということは、アリサと帰る以外にも何かと天秤に掛けているということである。何と天秤にかけるかなんて考えるまでもなかった。目の前の少女と帰る以外の選択肢がありえるのだろうか。
 天秤にかけるということは、それに比べるだけの価値があるということだ。それは、一年生のときから親友であるアリサとほんの数週間前からしか付き合いがない高町なのはが天秤に計られるほど同価値を持つことを意味している。

 その意味を理解したとき、不意にアリサの胸の中に恐怖がよぎった。それは、翔太が万が一にでもなのはの方を選ぶことである。
 それは、アリサが高町なのはに負けたようで、アリサよりもなのはのほうが価値があるといわれたようで、翔太が自分の近くから離れていくようで、せっかく手に入れた親友が手から離れていくようでアリサの恐怖を誘った。

 だから、翔太がアリサの手から離れないように、なのはの方へ寄らないように声をかけようとしたのだが、アリサが口開くよりも先にその高町なのはが動いた。

「ねえ、ショウくん、一緒に帰ろう?」

 小癪にも翔太の近くにいる利点を生かして彼の腕まで引いている。高町なのはの作戦は成功したのか、翔太もやや驚いた顔をしていたが、先ほどよりも困惑したような表情を浮かべていた。その表情が意味するところは、おそらく翔太は、アリサと一緒に帰ることを半ば決めていたのだ。だが、ここにきてなのはの横槍。その横槍が翔太の困惑を強くしているのだろう。

 ―――横槍が入らなければ、あたしと一緒に帰っていたのに。

 下唇を半ば噛みながら、アリサは横槍を入れたなのはを睨みつけるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 結局、高町なのはとその兄と一緒に帰ることになってしまった。なんでこんなヤツと、とも思ったが、一緒に帰るという提案はアリサの親友である月村すずかの姉の忍から提案されたもので、簡単に蔑ろにするわけにはいかなかった。それに翔太がこれに賛成したのが、決め手だった。年上と親友に賛成されては、さすがにアリサも反対はできなかった。

 あの時、高町なのはが横槍を入れなければ、後一瞬でもアリサが口を開くのが早ければ、翔太の意思一つで、高町なのは抜きで翔太と一緒に帰られたはずなのに。
 だが、後悔しても時既に遅し。進んでしまった時間は決して戻ることはなく、過去を変えることはできない。だから、せめての意趣返しとばかりにアリサは、車の中で翔太をこれ見よがしに独占した。

 思えば、翔太とこんなにじっくりと話すことは久しぶりで話すネタが尽きることはなかった。もちろん、学校では同じクラスなのだから、話す回数はそんなに少ないとも思えない。だが、一番長く話せる放課後はすべて高町なのはに独占されてしまっているのだ。だから、本当に腰をすえて話すのは先週のお茶会以来ではないかと思う。

 放課後に翔太のいない日々は少しだけ寂しかった。同じく親友のすずかとは一緒にいたのだが、隣に翔太がいない。三人だった塾の行き帰りもすずかとの二人きりだ。三から二。たった一つの減算。だが、その一つはたった二しかないことを考えれば、非常に大きなものだった。
 三人という日々に慣れてしまったアリサからすれば、何か物足りない。すずかが一人いるだけで満足できないわけではないが、三人でいるということに慣れてしまっていたアリサにとって非常に物足りないものになるのは仕方ないことだった。

 ああ、そう。だから、だからこそ、アリサは目の前の少女―――高町なのはが気に食わなかった。満ち足りていた日々を奪った少女だから。たった二人の親友のうちの一人を独占しているから。

 だから、翔太が車を降りた後、思わず悪態をついてしまうのは仕方ないことだった。

「あ~あ、でも、ショウも災難ね。あんたみたいなのに付き合わされるんだから」

 そう、すべては高町なのはに付き合わされるのがすべての始まりだ。もしも、彼女が蒼い宝石など落とさなければ、翔太が彼女を見つけなければ、アリサはきっといつものような放課後を過ごしていたはずなのだから。

 だが、なのはは、アリサの半ば嫌味のような言葉を聞いてもきょとんと呆けた顔をしていた。まるで、アリサが何を言っているのか理解できないかのような表情だった。

「どういうこと?」

 彼女は理解していないのだろうか。翔太が何を犠牲にしてまでなのはに付き合っているのか。そのことが許せなくて、アリサはさらに不機嫌になることを自覚しながら、声を荒げながら、なのはに告げる。

「なに呆けているのよっ! あんたがなくした蒼い宝石を捜してショウが毎日、塾まで休んで放課後付き合ってるんでしょっ!?」

 言った。言ってやった。この勘違いしている彼女に。翔太が何を犠牲にしてまで彼女に付き合っているのか。翔太が好きなサッカーで遊ぶことも、自分たちと塾に行くことも、アリサとの英会話教室も、すずかのお茶会もすべてを犠牲にして彼女に付き合っていることを。

 だが、高町なのははアリサの言葉を聞いて、少し考えた後に、口の端を吊り上げて嗤った。
 まるでアリサをバカにするように。それがどうした、といわんばかりに。翔太がすべてを犠牲にしても自分に付き合うことは当然だといわんばかりに、高町なのははアリサ・バニングスを嗤った。

 その表情が気に入らなかった。不機嫌でしかなかったアリサの表情にさらに怒りが追加された。

「なによっ! なにがそんなに可笑しいのよっ!!」

「別に」

 明らかに何か含むところがあるはずなのに、彼女はそれを否定し、クスクスと嗤う。それがさらにアリサの憤怒に拍車を掛ける。だが、その怒りはある種、怒りを一周させたとでも言うべきだろうか。アリサにある事実を思い出させると同時に冷静になるように促していた。
 そう、アリサは忘れていた。高町なのはが何を嗤っていようとも関係ないことを。翔太と交わしたたった一つの約束を。そう、たった一つの約束。

「ふん、あんたが何を考えているか分からないけど、どうでもいいわよ。どうせ―――」

 ―――どうせ、一ヶ月後には何も関係なくなるんだから。

 危うく口に出すところだった。慌てて口をふさぐ。本当は伝えてやりたい。翔太はなのはにずっと付き合うつもりはなく、後二週間後には、なのはに付き合うことを辞めるつもりだと。だが、今は伝えられない。それは翔太が伝えるべきことだから。彼女を説得するつもりである翔太だろうが、自分が先に情報を与えてしまっては、彼にどんな誤差が生まれるか分からない。

 だから、彼女はなのはに事実を教えたい欲求をぐっと堪えながら、後二週間もすれば終わりを告げることに気づかない高町なのはをニヤニヤと彼女と同じように嗤ってやるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アリサはお風呂から上がり、明日の準備を完璧に終えたところで、ベットにダイブした。枕元に広がるのは温泉の風景が並ぶパンフレットだ。これらは、アリサの父親が経営する会社が持つ保養地である。温泉の旅館を保養地にしていることは珍しいが、アリサの父親の会社の社員であれば、割引がある温泉だ。
 普通、バニングス家のゴールデンウィークは、海外に行くことが多かったが、今年は海外は取りやめて温泉にでもゆっくり行こうという話になっていた。そこは旅館で、多人数の宿泊が可能であり、アリサの友人を連れてきてもいいことになっていた。
 当然、彼女が誘うのは、翔太とすずかの二人だ。彼ら以外にはお泊りで連れて行けるような親しい友人はいないというかなし事実もあるのだが、それらにはアリサは目を瞑って見ないようにした。

 ゴールデンウィークになれば、高町なのはに付き合うこともないだろうし、彼ならきっと二つ返事で頷いてくれるはずである。

 ―――来て、くれるわよね。

 いつもなら、そんなことは微塵も考えないのに、今回ばかりは少しだけ弱気だった。

 ―――大丈夫。どうせ、一ヶ月だけなんだから。

 アリサが弱気になるのは、現状において翔太が何をおいても高町なのはを優先しているからだ。もしかしたら、ゴールデンウィークのときも高町なのはを優先するのかもしれないという一抹の不安がアリサの中にはあった。
 だから、先週の小さなお茶会での翔太との約束を呪文のように唱えるのだ。

 ―――どうせ、一ヶ月だけなのだから、と。

 要するにアリサは不安なのだ。彼女が、親友を持つことも初めてであれば、その親友が一時的とはいえ、離れてしまうことが。確かに翔太とは四六時中一緒にいるわけではない。他の男子の友人たちとの約束を優先させたこともあるが、こんなにたった一人をずっと優先したことはない。だからこそ、アリサは不安だった。

 もう一度、自分の元へと戻ってきてくれるのか、と。

 だが、アリサは、その不安に向き合うことはなかった。いや、彼女の聡明な頭脳はそれに気づいてるのだが、気づかないふりをした。気づいてしまえば、それを見なければならないから。
 今まで、ずっと欲しかった親友が離れていくかもしれない、そんな恐怖に耐え切れる自信がなかったから。

 アリサにとって翔太とすずかは本当に稀有な親友だ。
 靡く金髪、生粋の日本人とは異なる白い肌。本当の意味で、ありのままを受け入れてくれる人間は少ない。幼稚園の頃は、仲間はずれにされていることを同情する人もいて、遊ぼうか? と誘ってくれた子もいるが、違う。違うのだ。アリサが求める友人はそんな同情のような感情の上に成り立つものではない。ありのままのアリサを受け入れてくれる人間だ。
 だが、そんな子は本当に稀有だ。どこかに嫉妬があり、恐怖があり、羨望があり、同情がある。

 違う。違う。ただ、純粋に『友達になろう』と言って欲しかったのだ。それだけがアリサの求めたものだったのだ。

 そして、ようやく見つけた友人は、今では親友となった。

 だからこそ、アリサは手放したくない。孤独から救ってくれた親友を。ありのままに付き合ってくれる親友を。
 そんな彼らを失う恐怖を味わいたくない。だから、アリサは自分の中に生まれている不安を直視しない。目を逸らして、呪文のように、『どうせ、一ヶ月だけだから』と繰り返す。

 今も、ベットの上に寝そべりながら、アリサはゴールデンウィークに行く旅館のパンフレットを見て、きっと楽しいゴールデンウィークになる、とある種確信を抱きながら、笑うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 高町恭也は、今日の昼間に撮られたなのはと翔太、ユーノ、そして自分が写ったプリクラを見ながら複雑な感情を抱いていた。

「あれ~、恭ちゃん何を見てるの?」

 リビングのソファーに座ってプリクラを見ていた恭也だったが、お風呂上りの美由希に声を掛けられた。特に隠すつもりもなかった恭也は、プリクラをテーブルの上を滑らせて、美由希の前まで持っていく。
 美由希は、そのテーブルの上を滑ってきたプリクラを手に取ると花を咲かせたように笑った。

「わぁ~、プリクラだよね。なのはとショウくんとユーノと恭ちゃんだね」

 どうしたの? これ、と聞かれたので、恭也は昼間に撮ったと正直に答えた。その表情は、やはり何かを抱え込んだように晴れることはなかった。

「どうしたの?」

 そのことに気づいた美由希が恭也に尋ねるが、恭也はやや口ごもったかと思うと、考えを巡らせるように天井に視線を向ける。その間、美由希は何も言わなかった。恭也がきっと何か複雑な感情を抱いていることを悟っていたから。何を考えているのかは疑問だが。

 やがて、考えがまとまったのか、恭也はふぅ~、と息を吐き出すと、ポツリと口を開いた。

「いや、確かになのはに友人ができたことをは喜ばしいことだ」

「うん、そうだねぇ~」

 一ヶ月前は、家族みんなで暗い顔でなのはに友人ができないことに暗い顔をしていたのが嘘のようだ。今では、こんな風にプリクラを撮れる友人までできた。

「ショウくんは礼儀正しいし、目上の敬意も忘れない。なのはにも優しいようだ」

「うんうん、最近の子にしては珍しいぐらいできた子だよね」

 だが、そこで恭也は一気に暗い顔になった。そう、確かに喜ばしい。翔太は、なのはの友人としては理想的だといっても言い。ここでもしも、最初にできた友人が、いじめっ子のような存在だったら、嫌味な存在だったら。なのははもっと酷いことになっていたかもしれない。もしかしたら、もう一度、引きこもってしまうかもしれない。それを考えれば、翔太は高町家にとって理想的な友人であることは間違いない。
 だから、だからこそ、ただ一点だけが気にかかる。

「これで、彼が女の子だったら言うことはなかったんだが」

「……きょ、恭ちゃん、それってどうなの?」

 半ば呆れたような声を出す美由希。美由希からしてみれば、深刻そうな表情で考え込んでいた恭也の胸のうちがこんなのだったのだから仕方ない。
 だが、恭也は本気だった。確かに翔太はなのはにとって理想的な友人だろう。ただ一点を除いては。その一点は彼が男の子であることだ。
 恭也の手の内にもあるのだが、最初の一枚。翔太となのはが肩を寄せ合って二人で写っているプリクラを見たときは何ともいえない感情に襲われたものだ。そう、いうなれば、娘に彼氏ができたときの感情というか、複雑な想いだ。恭也が特になのはを気に掛けているせいかもしれないが。

「でも、なのはたちはまだ小学生だよ。中学生とかになれば、話は別だろうけど、聖祥大付属は男女別だから、あんまり気にしなくても良いんじゃない?」

「そう……だな」

 確かに小学生の頃はあまり男女の境はないということを聞いたことはある。自分が小学生のときはどうだっただろうか、と思い返そうとしたが、そのころは父親と一緒に修行をしている光景しか思い出せなかった。
 自分のことは考えないようにして、今はなのはのことを考えることにした。そう、そうだ。なのははまだ小学生なのだ。まるで彼氏ができたときのような感情を抱くことは間違っている。恭也たちからしてみれば、男の子と女の子ということで気になるのかもしれないが、なのはたちは気にしていないのだろうから。

 そう、そうだ。だから、気にしないことにしよう。翔太が男の子でもなのはにとって最初の友人なのだから。

 ようやく自分を納得させた恭也だったが、まるでそれを見計らったかのように美由希が思い出したような口調で口を開く。

「あ、でも、『男と女の間に友情はあり得ない。情熱、敵意、崇拝、恋愛はある。しかし友情はない』って言うね」

「―――っ!?」

 俺はどうしたらいいんだ? とばかりに苦悩する恭也を見ながら美由希は意地が悪そうに笑うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかは、お風呂の中でご機嫌だった。
 理由はいうまでもない。翔太に見せるために買った黒いワンピースを翔太が褒めてくれたからだ。

 今までは、黒は穢れを意味しているようで、自分の身体を揶揄してるようで、あまり気に入らなかったのだが、翔太が褒めてくれたおかげで、これからは暗色系統の洋服も着てみようと思うようになった。すずかとて女の子である。着ようと思える服のバリエーションが増えるのは嬉しいことである。

 しかし、蔵元翔太というすずかの友人は不思議な人である。今までは、姉に勧められようが、ノエル、ファリンのメイドに勧められようが、着ようと思わなかった暗色系の洋服を彼に褒めてもらえたら、という一心で着ようと思ったのだから。

 そういえば、友人になろうと思ったのも彼とアリサが初めてだった。アリサは理由が分かっている。要するに類は友を呼ぶという系列の友人なのだ。彼女はすずかと同じ。違いは、すずかの吸血鬼という特異性は見えないが、アリサは金髪と白い肌という目に見える形で見えるという違いである。だが、アリサと違い、翔太は彼女たちの正反対の人物だといっていい。友人もたくさんいる。だというのに、彼とはこうして友人を続けている。普通の人は、距離をとってきた自分がである。

 確かに彼には他の人とは異なる空気を持っているといい。だが、それだけだ。個性というだけで特異性は持っていない普通の一般人のように思える。だが、それでもすずかは友人を続けている。

 ―――どうしてだろう?

 その問いに対する答えはなかった。だから、翔太のことをもっと知りたいと思った。自分が友人を続けられる理由、あの不思議な雰囲気の理由、幽霊に対して信じている割には恐怖心を抱いていない理由。翔太に対するいろんなことを知りたいと思った。

 そして、すずかは、彼に自分のことを知ってほしいと思った。同時に、その事実を受け入れて欲しいとも。

 過去に抱いた感情。受け入れてくれるかも、という憶測から、受け入れて欲しい、という希望に無意識に変わったことについぞすずかは気づかなかった。

 さて、お風呂を上がったすずかは、廊下を歩きながら、今日一日を反芻していた。姉の話によると襲撃者は撃退できたようだし、洋服は褒めてもらえたし、高町なのはという乱入者がいたが、激動の一日に比べれば些細な一点だ。
 もっとも、アリサとなのはがにらみ合っている間、翔太が助けを求めるように視線を送ってきたが、すずかはそれを微笑で返した。アリサとなのはに挟まれて右往左往している彼に対してなにやらもやもやしたものを抱いたからだ。それが何かなんてすずかは分からない。だが、素直に手を差し出そうとは思わなかった。ショウくんなんて困っていればいいんだ、と思った。

 きっと、それはお茶会を断わって、高町なのはと楽しそうに休日を過ごしていたことに対する意趣返しだ。

 すずかは、そう結論付けて、自分の部屋に戻ろうとしていた。だが、その途中、リビングで天井の電球に対して光を透かすようにして片手に何かを持っている姉を見つける。それは、廊下を歩いていたすずかに鈍い蒼い光を運んでいた。

 その瞬間、すずかの中である記憶が再生される。

 ―――確か、ショウくんが探してるのは……。

「お姉ちゃん、それどうしたの?」



  ◇  ◇  ◇



 月村忍は、八方塞がりになった事態にため息を吐いた。

 襲撃者が人狼族のように獣耳を生やしていたことは、彼女の叔母であるさくらに連絡した。だが、さくらからの情報によると人狼族に心当たりはようだった。

 だが、忍が見た獣耳と尻尾は間違いがないため、さくらは調べてくれることを約束してくれた。そもそも、日本に住む人狼族は数が少ない。もしも、当たりがあれば、すぐに調べがつくはずだ。だが、厄介なのは、その人狼族が『はぐれ』だった場合。その場合、その人狼族は危険人物として群れを追放されたものである。群れで動いていない以上、はぐれである可能性が高いこともさくらは教えてくれた。その場合は、彼女も人狼族として応援に来てくれるようだ。

 もっとも、現段階では何も調べがついていないため、さくらが応援に来てくれることはないようだが。

 彼女の獣耳と尻尾以外で手がかりといえば、忍の前においてある猫の体内から出てきて、少女の目的とも思える蒼い宝石である。

「う~ん、これ何なのかしら?」

 一見するとただの宝石だ。だが、忍の夜の一族としての勘が、これが厄介なものであることを見抜いていた。どこか寒気がするほどに恐ろしいものだということも。だが、見ている分には、本当に蒼い宝石だ。当然、光に透かしてみても。

「お姉ちゃん、それどうしたの?」

 天井の電球に蒼い宝石を透かしていると、お風呂上りなのだろう。髪の毛をしっとりと湿らせた彼女の妹であるすずかが扉の向こうからこちらを覗き、忍の手に握られている蒼い宝石に視線を注いでいた。

「ああ、これ? 拾ったのよ」

 買った、では言い訳にはならないだろう。なにせ一見すると本当に宝石のように見えるのだ。そして、このサイズの宝石を買おうとすると数百万になるはずである。確かに忍の貯金を使えば、買えないこともないが、忍に宝石の趣味がないことはすずかがよく知っている。

 だから、半分、本当のようなことを交えて拾った、といったのだが、忍が答えるとすずかの目の色が変わった。

「もしかしたら、それショウくんが探している宝石かも」

「ショウくんが?」

 忍も翔太のことは知っていた。すずかの友達。どこか不思議な雰囲気を持った少年。からかいがいのない少年。今日、女の子と一緒にペットを探しに来ていた少年。

 ―――そのショウくんがこの宝石を捜してる?

 そこまで考えて、忍は不可思議な違和感に気づいた。

 この宝石を手に入れたのは襲撃者が来て、宝石を狙ってきていたから。そして、翔太たちが着たのはその直後。ペットが庭に逃げたからという理由だった。しかも、すずかの話によると彼らはこの宝石を捜しているようである。もちろん、翔太が探している宝石とは違う可能性もある。

 だが、襲撃者が来た直後に訪ねてきた翔太たち。偶然と片付けるにはあまりに出来すぎた偶然。むしろ、宝石を捜しにきた。ペットはその理由付けという形のほうが納得できる。どうやって、彼らがこの宝石のことを知ったかは別としてだ。

 とりあえず、なにやら興奮気味のすずかにこの宝石のことは翔太に伏せているように言った。もしかしたら、違うかもしれない。こんな宝石なら、捜す以外にも捜索願をだしているから、警察に届ければ彼の元に届くから、と半ば言い聞かせて。言い聞かせた後は、すずかを部屋に戻らせた。

 まさか、妹の友人を疑うところをすずかに見せたくなかったからだ。

「まさかショウくんがね」

 今回、訪ねてきたのは、翔太、恭也、彼の妹の三人である。忍は、恭也が御神流の剣士として裏の世界に関わりを持っていることを知っている。すずかの話とこの宝石を結びつけたときに最初に候補に挙がるのは、裏の世界とも関わりがある恭也だろう。だが、そう考えると問題がいくつか出てくる。
 まず、翔太と彼の妹の存在だ。恭也だけが関わっているだけなら、彼らを連れて行く必要はない。むしろ、忍が見たような人狼族と戦うなら、子どもは足手まといである。
 次に、御神流という剣術のあり方だ。彼らの信念は『人を護る剣』である。爆弾テロより前は、『不破流』という御神流の裏に位置づけられる流派があったらしいが、こちらは恭也が継いでいる御神流とは異なり壊滅している。その御神流の信念である『人を護る剣』が、果たして自ら動くだろうか。
 以上の二つの理由を鑑みるに、むしろ注目すべきは、恭也よりも翔太だ。翔太がこの蒼い宝石をターゲットにしていて、その護衛に恭也を雇ったというほうが筋が通っている。彼の妹が付随しているのは、彼女にも御神流を伝えるためだろうか。

 だが、しかしながら、それでも尚、疑問が残る。月村という名前は裏からこの土地を支配する一族だ。当然、住人もある程度は把握している。それは、月村の危機になる人間という意味だが。だが、その名前の中に『蔵元』なんて名前はなかった。忍の勘からしても翔太は、ただの人間だ。

 だが、襲撃者の直後に恭也を護衛にした翔太の来訪。それがすごく気にかかる。忍の勘が何かがあると告げていた。だから、月村家、夜の一族としての役目を果たすため、忍はノエルを呼び命令する。

「ノエル、蔵元翔太について徹底的に調べて」

 ノエルは忍の命令に頭を下げることで応える。

 さて、と忍は笑った。これで、翔太がもしも裏の人間との何らかの関わりがあれば、面白いことになる、と。



続く

あとがき2
 確かに忍の考察に恭也が入っていないのは不自然なので追加。
 恭也は翔太の護衛と認識。翔太だけがあぶれるので、調査という考察です。

あとがき
 全部で30話になりました。ここまで続けられたのも皆さんの応援のおかげです。ありがとうございます。
 三ヶ月ぐらいだから、大体三日に一話ぐらいですね。よく書けたな、と思います。感想も1000を突破してますし、嬉しい限りです。
 あ、就職活動も無事に終わりました。

 さて、次回は温泉……はなくなって、都心でのVSフェイトです。
 これからもよろしくお願いします。



[15269] 第十六話
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/04/21 20:57



 月村家でジュエルシードの反応を見つけながら、ジュエルシード自体は見つけられなかった休日から数日後のゴールデンウィーク前にある奇妙な連休。僕の前世の記憶が正しければ、ゴールデンウィーク前にはこんな連休はなかったはずだが、この世界では存在するのだから仕方ない。

 さて、本当なら朝からジュエルシード探しに奔走している僕たち四人なのだが、今日は毛色が違った。今日は四人ではなく、六人だ。追加の二人は美由希さんとなのはちゃんのお母さんである桃子さん。おばさんと呼ぶにはしり込みしてしまうような若さを保っている桃子さんをおばさんと呼ぶことはできず、桃子さんという呼称で納得してもらっている。

 前回からあまりにジュエルシードの発見率が低いための人海戦術の投入か? とも思ったが、真相は異なる。もしも、人海戦術なら僕たちはこんなところでベンチに座ってなどいない。

「長いですね」

「こんなものさ」

 僕と同様にベンチに座る恭也さんは慣れているのか、なんでもない風に答えてくれる。僕だって女の人の買い物が長いことぐらいは知っている。ただし、それは知識で、だ。実際に遭遇するとなると確かに長い。ただ待つだけという時間が無性に長く感じるのかもしれないが。

 そう、なぜか今日、僕たちはショッピングモールへ買い物に来ていた。買い物と言っても日用雑貨品ではない。なのはちゃんの洋服だ。なぜ、こんなことになったのか分からない。気づいたら、僕たちはショッピングモールにつれて来られていた。ちなみにユーノくんは一人でこの周辺を探ってもらっている。僕と恭也さんはそれに着いていくべきかと思ったが、桃子さんと美由希さんがそれを許してくれなかった。

 なぜ? と問いかけても、明確な答えは返ってこなかった。ただ、美由希さんが答えてくれたことが気になる。美由希さん曰く『君のせいだから』ということらしい。

 こうやってなのはちゃんの洋服を買うためにショッピングモールに来た理由はどうやら僕にあるらしい。しかも、待っている間に恭也さんから聞いたのだが、なのはちゃんがこうやって洋服を買いに来ることは今までなかったようだ。

 その二つの要素から考えるに、僕に付随して洋服に関する出来事になのはちゃんが遭遇して今日の予定を決めたということになるだろう。そう考えると、見つかる解は一つしかない。つまり、先週の月村邸のことだ。すずかちゃんが見せたあの黒いワンピースのような洋服。それを見てから? いや、それなら、『僕』に理由があるとは考えられない。ならば、すずかちゃんに対して僕が行った行動が原因ということだろうか。そうだとすると、僕がすずかちゃんの洋服を褒めたことぐらいしかない。

 なるほど、僕の想像でしかないが、確かに筋は通っているだろう。なぜ、僕がすずかちゃんの洋服を褒めるとなのはちゃんも対抗するように洋服を買いに来るのだろう、と疑問を持つほど鈍感ではない。理解はできるが、その言葉を口に出すのは恥ずかしいものだ。もっとも、なのはちゃん自身はその感情に気づいていないだろうし、そもそも、それをきちんとした言葉で定義できるかどうかも疑問である。

 なのはちゃんたちのような小学生、つまるところ思春期前の僕たちが明確に『恋』を自覚できるか、というと甚だ難しい。なぜなら、『恋』の根源にあるものは、恋は下心、愛は真心というように異性に対する感情だからだ。僕たちの年齢は、男女の境はできるはじめるものの、明確に意識するのは難しい。意識したとしても自分の中で完結してしまうものである。なぜなら、思春期のような二次性徴前の僕たちには、異性に触れたい、というような感情が薄いからである。だから、特別な関係―――つまり、恋人関係になろうとしない。よって、自分の中で完結してしまうのだ。

 きっと、なのはちゃんはこのことには気づくことはなく、感情は薄れていくだろう。人の心は移ろい行くものだから。将来、大人になったときに『私の初恋はショウくんだったんだよ』と酒の肴にでもなれば上等だろう。

 僕がこの事態について考え、ある程度結論をだしたところで、洋服売り場からなのはちゃんが、まだ試着段階のシャツとスカートを持ってきて、嬉しそうに笑いながら自分の身体に合わせて僕に見せてくる。

「ショウくん、ショウくん。似合うかな?」

「うん、可愛いと思うよ」

「えへへ」

 なのはちゃんに対して何もすることはないと判断した僕にできることは、桃子さんに選んでもらったのであろう可愛らしい洋服を持ってきたなのはちゃんに褒めの言葉を送ることぐらいだった。



  ◇  ◇  ◇



 連休から数日後。僕たちは海鳴の街の中心に位置するビル郡を走り回っていた。太陽はとっくに水平線の向こう側に消えている。いつもなら、日が暮れれば帰宅する僕たちだが、今日はそういうわけにはいかなかった。久しぶりにユーノくんがジュエルシードの反応を見つけたからだ。

 さすがにジュエルシードの反応を見つけておきながら、また明日、とはいかない。ジュエルシードはいつ、誰の手に渡るか分からないのだ。しかも、万が一、他人に渡ってしまうと甚大な被害が出る可能性が高い。ユーノくん曰く、生物の中でも人というのはジュエルシードに触れたときの発動効果が高いらしい。だから、放置するわけにはいかず、なのはちゃんの家と僕の家に連絡して、今日は日が暮れておきながらも探索を続けているのだ。

 だが、闇雲に探しても仕方ないので、ある程度目星はつけている。もしも、目立った場所に落ちているなら、誰かが拾っているだろう。なにせ、外見上は蒼い宝石なのだ。興味をそそられず誰も拾わないというのは変な話だ。だから、落ちているのは、ビル郡の道路の真ん中ではなく、路地裏に近い場所だろうという推測を立てて捜索している。

 近くにあることが分かっているのにぞろぞろと群れて探す必要はない。ある程度の距離をとりながら、今はユーノくん、僕と恭也さん、なのはちゃんというチームで三手に分かれていた。お互い、あまり離れず、すぐにいけるような距離で探している。

 ユーノくんが反応を見つけてから一時間近く探している。だが、中々見つからない。見つからなければ、誰も拾ってないさ、と高をくくっているものだが、反応があるとすぐに誰かに拾われてしまわないか、と不安になってしまう。だから、僕と恭也さんは黙々とジュエルシードを探していた。

 そして、路地裏に入ること十数本目、なんとなく違和感を感じて覗き込んだポリバケツの裏に僕は目的のものを見つけた。ポリバケツの影に落ちていたそれは路地裏の隙間から入ってくるビルの光を蒼く反射していた。

「恭也さん、見つけました」

 近くで僕と同じようにジュエルシードを探していた恭也さんを呼ぶ。恭也さんは僕の声を聞いてすぐに飛んできた。

「どれだ?」

「これです」

 僕は、近くに落ちているジュエルシードを指差した。すぐ近くにジュエルシードが落ちているのに拾い上げないのは、僕の願いにジュエルシードが反応してしまうことを防ぐためだ。すぐに触れてどうにかなるというわけではないだろうが、万が一僕が思ったことを願いと受け取ってしまうことが怖い。僕の目の前にある宝石は、その淡く輝く蒼とは異なり、触れれば爆発する不発弾のような危険性を孕んでいた。

 ―――なのはちゃん、ユーノくん、ジュエルシードを見つけたよ―――

 恭也さんを呼んだ僕は、すぐに念話でなのはちゃんとユーノくんに知らせる。早くこいつをなのはちゃんに封印してもらわなければならない。なのはちゃんもユーノくんもすぐにこちらに来るようだ。

 ようやくジュエルシードが見つけられて一安心といったところだが、見つけたからといって簡単に気を抜くわけにはいかなかった。先日の月村邸でのことがあるからだ。僕たちが知らない魔導師がどうやら地球にいるからだ。今回は僕たちが早かったが、もしかしたら、次の瞬間にも目の前にあるジュエルシードを狙ってくるかもしれない。

 もっとも、魔導師が本気で僕たちを狙ってきたら勝つことは無理なのだが。

 確かに恭也さんは強いかもしれない。だが、それは地球人相手だ。恭也さんの師匠である士郎さん曰く、銃ぐらいならなんとかなるが―――この時点でなにか色々おかしいような気がする―――魔導師に空を飛ばれたらおしまいらしい。何より魔法という物理的なもの以外だと歯が立つかどうか分からないし、そもそも刀が通るかどうかも分からないのだから。

 そして、僕は論外だ。確かに魔力はある。だが、なのはちゃんみたいな才能はなかったようで、ようやくシールド系の魔法であるプロテクションが使えるようになったぐらいだ。ちなみになのはちゃんはプロテクションの魔法を一時間で使いこなしていた。もっとも、ユーノくん曰く、デバイスがあったおかげともいえるらしい。デバイスなしで魔法を組むというのは非常に難しいようだ。

 相手にならないことは分かっている。しかし、分かっているが、気を抜くわけにはいかない。もしかしたら、僕のプロテクションで一瞬だけでも時間が稼げるかもしれない。その間になのはちゃんが来てくれるかもしれない。最初から諦めているよりもマシだろう。だからこそ、恭也さんも気を抜いていないのだから。

 もう少しでなのはちゃんもこっちに来るといった時にその違和感は唐突に訪れた。影からじっと見られるような違和感。目に見えない何かを感じたときのような違和感。最近で言うと一番近いのはジュエルシードが発動したときだろうか。そうだとすると、この違和感はもしかして―――。僕の予想を裏付けるようにユーノくんから念話が入ってくる。

 ―――ショウっ! 気をつけて! 誰かが結界も張らずに魔法を使ってるっ!! ―――

 やっぱり! と思うと同時にその違和感は現象として僕の目の前に現れた。月や星が見えるような夜空にも関わらずゴロゴロと鳴る雷。明らかに不自然すぎる現象。しかし、僕はその現象を説明できることを知っている。すなわち、これが別の魔導師の魔法ということである。路地裏から見える表通りの人々もなんだ? といわんばかりに空を見上げている。恭也さんもこの異変を感じ取って備えている。

 そして、その雷はまるで何かを探るような探査針のように地面を穿ち、やがて僕の真上にも落ちてくる。

 拙い、と本能的に感じた。僕の真下にはジュエルシードがあるのだから。もしも、この行動が別の魔導師の仕業だとすると、この雷は当然、ジュエルシードを見つけるためのものだろう。ならば、この雷をジュエルシードに当てるのは拙いと思い、僕は雷に対して覚えたばかりの魔法を発動させる。

「プロテクション!」

 淡く白い光を放つ円形の盾が僕と雷を遮るように展開される。これで、防いでくれるか!? と思ったが、思った以上に上手くいかないようだ。僕のプロテクションは紙のようにいとも容易く破られ、幾分威力の落ちた雷が僕に向かって落ちてくる。

「いつっ!」

 まるで、静電気が走ったときのような衝撃が走り、同時にその雷はジュエルシードにも走ってしまう。ジュエルシードの変化は唐突だった。僕の真下にあったジュエルシードは今まであったようなただの宝石ではなく淡く蒼い光を放っている。魔法を覚えた手の僕でも感じられるほどの魔力の奔流だ。

 ジュエルシードから魔力の奔流を感じた直後、何か別の世界に入ったような違和感を感じると同時に周りの雑踏もラジオのスイッチを急に消したように消えた。おそらく、ユーノくんが広域結界を張ったのだ。とりあえず、これで一安心だ。話によるとこの広域結界はユーノくんが結果以内に取り込む人間を取捨選択できるらしいのだから。

「ショウくんっ!!」

 ユーノくんが広域結界を張ったのを感じて安心した直後、聖祥大付属小のバリアジャケットを着たなのはちゃんが杖を抱えて、路地裏に駆け込んでくる。

「なのはちゃんっ! これっ!」

 僕は今にも暴発しそうな淡い光を放つジュエルシードをポケットのハンカチで包みなのはちゃんに投げ渡した。それだけでなのはちゃんは僕の意図を悟ってくれたのか、空中に浮いたジュエルシードに向けて「リリカルまじかる」とお馴染みの封印呪文を唱えてくれる。桃色の光に包まれたジュエルシードは今までの暴発しそうな危うさをその宝石の中に収めて、またただの蒼い宝石へと戻った。その宝石はそのままレイジングハートの元へと吸い込まれていった。

「ほっ、間に合った。ナイスタイミング、なのはちゃん」

 僕は安堵の息を吐いた。あのままだとジュエルシードが暴発しそうだったし、なにより、件の魔導師が来るかもしれなかったからだ。それを考えれば、なのはちゃんが来たタイミングは実にナイスタイミングだったといえるだろう。

「しかし、やっぱりすごいね。あんなの簡単に封印しちゃうんだから」

「そ、そうかな?」

 僕の褒めの言葉になのはちゃんは、照れたように笑っていた。

 事実、淡い光を放っているだけのジュエルシードだったが、そこから漏れ出す魔力は驚異的だったように思える。それをいとも容易く封印してしまうとは、デバイスの補助があったとしてもすごいことだと思う。ちなみに、ユーノくんは発動しかけのジュエルシードを封印することは、レイジングハートの助けがあったとしても難しいらしい。だから、どれだけすごいことなのかは想像するまでもなかった。

「終わったのか?」

 いまいち魔法に詳しくない恭也さんが周りを警戒しながら近づいてくる。さすがに先ほどまで雷が鳴っていたためか、小太刀を抜いてはいなかった。

「はい、とりあえず、表に出ましょうか」

 いつまでもじめじめした裏路地にいる必要はない。なにより、この結界の中には魔導師の攻撃はないのだから安心して外に出られるだろう。恭也さんとなのはちゃんは、僕の提案に賛成したようで頷いて路地裏の出口へ向かって歩き出した。

 路地裏から出てみると、そこは異様な世界だった。さっきまで車通りが激しかった道路には一台も車が走っていない上に人が一杯だった歩道にも誰もいない。さながらゴールドラッシュの後に取り残された廃墟のようだった。建物がまったく壊れていないことがさらに恐怖を煽る。まるで、地球上で生きている人間が僕たちだけのようで。もっとも、ユーノくんの話によると時空間をずらすだけだから、この空間に僕たちしかいないのは事実なのだが。

 しかしながら、疑問に思う。いつまでユーノくんはこの結界を発動しているのか、と。少なくともジュエルシードは封印が終わった。これで別の魔導師たちはジュエルシードを追えない筈だ。先週の月村邸のように。だが、ユーノくんが結界を解く気配はない。

 きょろきょろと周囲を見渡してもユーノくんの姿は見えなかった。

 ―――ユーノくん? ―――

 ―――ショウっ! ごめん! そっちに魔導師が―――

 念話で語りかけて返ってきた返事はやけに物騒なものだった。その真意を問いただそうともう一度念話で話しかけようとしたとき、僕となのはちゃんを後ろに下がらせるように前に出てくる腕があった。考えるまでもない恭也さんの腕だ。今までにないほどに真剣な目つきをして、腰にある小太刀に手を伸ばしていた。

「―――下がってくれ。敵意を持ったヤツがくる」

 恭也さんの答えを証明するように僕たちしかいないはずの空間に現れる一つの影。その影は、ジュエルシードを見つけた路地裏から程なく離れた陸橋の上に降り立った。

 影の正体は少女。アリサちゃんのような金髪をツインテールにし、まるでスクール水着のように身体にフィットする黒い服とパレオのように巻かれた短い桃色のスカートと肩から黒い外套を身に纏う少女だ。しかし、その右手に持つのは可愛らしい少女が持つには似つかわしくない漆黒の戦斧だった。

 彼女が、件の魔導師なのだろうか。大人のような魔導師を想像していたのだが、少女だったものだから予想外もいいところだった。

 恭也さんが今にも小太刀を抜きそうで、なのはちゃんもレイジングハートを構える。情けないことに僕にできることは、二人に前線を任せて後ろに下がることだけだった。

「―――ジュエルシードを渡して」

 黒い外套を羽織った少女からの要求は極めてシンプルだった。だが、要求があったからといって、はい、分かりました、と簡単に渡すわけにはいかない。ユーノくん曰く、これはロストロギアといわれるものの中でも高ランクの危険なものに分類されるものらしい。それを突然出てきた魔導師に簡単に渡せるわけがない。

「君は一体誰!? どうしてジュエルシードをっ!?」

 僕は彼女たちに問いかける。見た目が僕たちと同じ年代の子どもであるし、いきなり問答無用で襲ってこなかったところをみると話が通じるかも、と思ったからだ。だが、その考えは蜂蜜のように甘く、幻想のようにいとも簡単に打ち砕かれた。

「話す必要はない」

 それが彼女の答えで、これ以上、話すことはないといわんばかりに金髪の少女は陸橋から飛び立つ。鎌のように形を変えた戦斧を右手に、月をバックに降り立つ少女は、まるで死神のようで。その少女の目的は間違いなくジュエルシードを持っているであろうなのはちゃんだった。

「なのはちゃんっ!」

 僕から少し離れた場所に立つなのはちゃんを心配して声を上げる。恭也さんも少女の目的が分かって、少女となのはちゃんの間に割って入る。

 すでに恭也さんは小太刀を抜いていた。街灯の光を反射して鈍く光る小太刀。恭也さんが持つのは真剣だ。こちらの銃刀法は前世の僕がいた世界とは若干異なり、免許があれば、携帯も可能らしい。魔導師が敵かもしれないと分かって以来、恭也さんは木刀も携帯することを考えたが、ユーノくんの助言でそれはなくなった。魔導師は普通、なのはちゃんの聖祥大付属小の制服のようなバリアジャケットを身に纏うのだが、それは通常ある程度以上の衝撃をカットしてくれるらしい。それは、もちろん斬撃もだ。だから、傷つける心配をせずに小太刀を振るえるようだ。

 しかし、黒い少女の武器は魔力でできた刃の鎌だ。果たして魔力と物質が打ち合えるのだろうか。

 だが、その心配は杞憂だった。

 ―――protection

 静かになのはちゃんが持つ宝石が描く文字。それは、僕が唯一覚えている魔法と同種の魔法だ。ただし、硬度はまったく異なる。なのはちゃんから放たれた防御魔法は、近くで守る恭也さんと一緒になのはちゃんと黒い少女の間に鉄壁を作り、黒い少女の一撃を受けた。

 反発し合うなのはちゃんの魔力と少女の魔力。結局、黒い少女の一撃がなのはちゃんの防御を破ることはできず、無理と判断したのか、黒い少女はいったん後ろに下がり、道路に着地する。

 睨み合うなのはちゃんと黒い少女。

 恭也さんはすっかり蚊帳の外だった。仕方ない。そもそも、武器が打ち合えるかどうかすら謎なのだから。

 緊迫しあう空気。そこに不意に肩に重みを感じた。ある意味、慣れた重みは間違えようがない。ユーノくんだ。

「ユーノくん、これは一体どういうこと?」

「ごめん、あのまま結界の外に出していたら周りへの被害がどうなるか分からなかったから彼女たちも取り込んだんだ」

「それなら、それで教えて欲しかったよ」

 そもそも襲ってくること事態が予想外であり、急な出来事に対処したユーノくんこそ褒めるべきかと思ったが、せめて教えてくれればいいんじゃないかと思った。だが、ユーノくんもそれは気にしていたらしい。顔を下げて謝罪の言葉を口にする。

「ごめん。でも、こっちも大変だったんだ。―――って、あれ? ここにいるのは彼女だけ?」

「??? そうだけど―――」

 ユーノくんの怪訝そうな顔に言葉の真意を問いただそうとしたとき、なのはちゃんと黒い少女の状況が動いた。

 最初に動いたのはなのはちゃん。急に地面を蹴るとそのまま靴に羽を生やすと空高く飛翔する。その速度は速く、あっという間に二十階建てのビルの屋上まで空高く舞い上がっていた。一方の黒い少女は、なのはちゃんが空高く舞い上がったのを見て、恭也さんに視線を移し、僕に視線を移したが、一瞥しただけで、なのはちゃんと同じように地面を蹴ってなのはちゃんを追うように空へと飛翔した。

 黒い少女が追うことを確認したなのはちゃんは、まるでここから離れるように高度を保ったまますごいスピードで飛翔する。地面を走るよりもはるかに速いスピード。黒い少女もなのはちゃんに置いていかれるものか、とばかりになのはちゃんを追いかけるようにして空を翔る。

 考えなくても分かった。黒い少女は、こちらとの話し合いを拒否した。このままでは確実に魔法を使った戦いに発展しただろう。なのはちゃんは、僕たちに被害が及ばないように戦う場所を移したのだ。

「ちっ、追うぞ、ショウくん」

 恭也さんもそれを理解したのだろう。なのはちゃんたちが飛び立った方向へと駆け出そうとした。

 しかし、僕は足が動かない。恐怖で震えているわけではない。このまま、僕が行ってもいいのか、という疑問があるからだ。そもそも、僕は、ジュエルシードの暴走体のような人でないものに向けた暴力なら躊躇はないのだが、彼女は明らかに言葉が通じる人間だった。先ほどは問答無用で斬りつけられたが、もしかしたら、という思いがまだあるのだ。

 これは、僕が平和主義者だからというわけではない。モラルのようなものだろう。現代の日本では、幼い頃から暴力は最大の悪だと教えられていた。そのため、『三つ子の魂百まで』というわけではないが、暴力は悪だと意識下に刷り込まれている。だからこそ、躊躇させる。

 恭也さんなどは、護るために振るう力に対して覚悟ができているから、躊躇はしないだろう。黒い少女がなのはちゃんに危害を加えると分かれば、恭也さんは幼い子どもであろうとも躊躇しないはずだ。

 僕が弱いのか、恭也さんが強いのか。ここで問答するつもりはない。

 そもそも、僕が恭也さんを追いかけたところで、使える魔法はプロテクション一つだけ。役立たずもいいところだ。むしろ、僕が狙われたときが厄介な的になってしまうだろう。ならば、僕はこのままここに残ったほうが得策なのだろう。

 少し前を駆け出している恭也さんに結論を告げようと口を開こうとしたとき、不意に恭也さんの足が止まり、あたりを警戒し始める。同時に恭也さんに襲い掛かる赤い影。

「フェイトのところには向かわせないよっ!!」

 赤い影は、恭也さんに奇襲のように殴りかかる。だが、恭也さんは最初から影の気配を知っていたのか、あっさりと拳を避けていた。それを見て、赤い影も奇襲が破れたと思ったのだろうか、ヒットアンドアウェイの要領で恭也さんから距離をとる。

 僕から見ると恭也さんを挟み、道路に着地した赤い影の正体は女性だった。豊満な身体を見せ付けるようなタンクトップに短すぎるズボン。口から見える八重歯が勝気な雰囲気と顔立ちに拍車を掛けていた。これだけならお姉さんで通じたのかもしれないが、彼女は人間と異なる部分があった。ストレートのセミロングを靡かせる頭の頂点にちょこんとある獣耳とお尻の辺りから出ている尻尾である。

「あれは……」

「たぶん、黒い女の子の使い魔だ。僕もさっきまで襲われていたんだ」

 使い魔。ファンタジーの世界ではよく聞く話だ。なるほど、魔法そのものがファンタジーの代物であるのならば、確かに使い魔がいてもおかしい話ではない。それに僕らの邪魔をするのも納得だ。彼女がどう思っているか分からないが、僕たちが魔法使いだと認識しているなら、僕たちの増援は確かに好ましいものではない。使い魔でもなんでも使って妨害するのが理だ。

「……お前は、何者だ? どうして、俺たちの邪魔をする?」

 僕が聞きたいことを恭也さんが代理で目の前の獣耳をつけた女性に問いかけてくれる。だが、彼女の答えは鼻で笑うことだった。

「はんっ! あんたたちには関係ないね。フェイトの邪魔は絶対にさせないっ! あんたたちはあたしがここでぶっ倒すっ!!」

 ざっ、と足を引き、拳を構える獣耳の女性。どうやら、何を聞いても答えてくれないようだった。それは、恭也さんも分かったのだろう。相手が構えたのを見て、恭也さんも腰の小太刀に手を掛ける。

「永全不動八門一派・御神真刀流小太刀二刀術、高町恭也。推して参る!!」

「なんだかよく分からないけど、あんたは邪魔なんだよっ!!」

 小太刀と拳が交差する。僕の目の前で、剣士と使い魔の戦いの火蓋が切られたのだった。



  ◇  ◇  ◇



 恭也さんと獣耳の女性との戦いは一進一退の攻防戦だった。

 恭也さんの小太刀が煌くが、獣耳の女性のバリアジャケット―――至って普通の服に見えるがバリアジャケットらしい―――のせいで殆どダメージがない。
 片や、獣耳の女性の拳は、恭也さんにいとも容易く避けられていた。聞いた話だと『神速』という奥義は、周りがグレーの空間になり、ゆっくりに見えるらしい。交通事故を起こした瞬間のようなものだろう。それを利用すれば、敵の攻撃を避けることは容易いらしい。だから、獣耳の女性の攻撃は恭也さんには当たらない。

 攻撃せどダメージはなく、決着の兆しはまったく見られない。お互いに疲労だけが溜まっているようだ。もしも、獣耳の女性がなのはちゃんのように遠距離の攻撃ができれば、恭也さんもやばかったのだろうが、どうやら獣耳の女性は遠距離攻撃ができないらしい。

 確かに魔法は使っていたが、それもプロテクションやチェーンバインドのようなものだ。ただし、魔法を使うときは、それなりの隙が生じるため、魔法は避けられた上に手痛い一撃を貰っていた。一瞬で、一体どれだけの斬撃が走ったのか、素人の僕にはまったく分からなかった。ただ、軽く吹き飛んだところを見ると威力は推して知るべきである。もっとも、そんな一撃を貰って平然と起き上がる獣耳の女性にも驚きだが。

 だが、その戦いの決着は不意に訪れた。

「フェイトっ!?」

 戦いの最中、突然、あらぬ方向を向いて誰かの名前を叫ぶ獣耳の女性。そして、その隙を恭也さんが逃すはずもない。今まであけていた距離を一気に詰め、気を抜いた獣耳の女性に何らかの技を決める。獣耳の女性は、ぐふっ、といったような腹から空気を無理矢理出されたような声を出して、少し離れたところまで吹き飛ぶ。

 今まですぐに起き上がったのだが、今回は明らかに大きな隙だったため、恭也さんも威力の大きな技を打ち込めたのだろう。今までよりゆっくりと起き上がってきた。ただ、それでも怪我をした様子はない。

 そして、僕たちをきっ、と睨みつけて、どこか悔しそうに顔をゆがめ、たんっ、と地面を蹴るとそのまま空へと飛び立った。

「待てっ!」

 恭也さんが叫ぶが、時既に遅し。空を飛ぶ女性に追いつけるはずもなく、恭也さんは渋々といった様子で諦め、小太刀を鞘に納めた。

「どうしたんでしょうかね?」

「さあな。それよりも、なのはを追おう」

 僕も恭也さんも彼女が飛び立った理由は分からなかったが、それよりも確かになのはちゃんが気になった。あれからかなり時間が経っている。なのはちゃんは無事だろうか。もしも、恭也さんのように戦ったのだとすると、怪我をしていなければいいのだが。

 幸いなことに僕の心配は杞憂に終わった。少し、なのはちゃんが飛び立った方向に向かって走っていると、上空に見慣れた聖祥大付属小の制服を着たなのはちゃんを見つけたからだ。なのはちゃんも僕たちを見つけたのだろう。すぐに方向を変えて僕たちの目の前に降り立った。

 見たところなのはちゃんに目立った外傷はないようだ。ただ、聖祥大付属小の制服のようなバリアジャケットがところどころ黒く煤けていたが、それだけだった。

「大丈夫っ!? なのはちゃんっ!!」

 見た目は何もなくても怪我はしているかもしれない。そう思って、声を掛けたが、なのはちゃんは元気そのもので、いつも見せる嬉しそうな笑顔を見せてくれた。それを見て、ほっと安堵の息を吐ける。それは恭也さんも同じようだった。

「それで、あの少女は?」

「あの子? 急に襲ってきちゃったから返り討ちにしちゃった」

 あはは、とばつが悪そうに頭をかいて笑うなのはちゃん。いや、笑い事じゃないんだけど。しかし、やっぱり襲われたのか。

「そうなんだ。あの子には気の毒だけど、なのはちゃんに怪我がなくてよかった」

 薄情かもしれないが、僕にとってはあの黒い少女よりもなのはちゃんのほうが大事だ。あの子には悪いが、ここはなのはちゃんが怪我もなく、あの黒い少女を返り討ちにできたことを喜ぼうと思う。

「うん、平気だよっ! それよりも、ほらっ、これっ!!」

 そういってなのはちゃんが嬉々として取り出したのはジュエルシードだった。

「これ、どうしたの?」

「たぶん、先週のだと思う。あの子が持ってたから、貰っちゃった」

 やっぱり、あの子だったのか、という納得とどうやってもらったんだろう? という疑問が同時に湧き上がってくるが、あまりにあの子の登場で考えることが多くなってしまったので、後回しにした。

「あの子から? やっぱり、なのはちゃんはすごいや」

「えへへ~」

 満足げに笑うなのはちゃん。

 しかしながら、本当にすごいと思う。なのはちゃんが魔法に触れて一ヶ月も経っていないのだ。それなのに、あの黒い少女を返り討ちにしてしまうほどの実力を得てしまった。魔法を学んでいる僕だから分かる。なのはちゃんは魔法に関して天才だ、と。これが本物だ、と。

 なのはちゃんがいてくれてよかった、と心の底から思う。なのはちゃんのおかげでこの海鳴は間違いなく助かっている。もしも、なのはちゃんがいなかったときなど想像もしたくない。

 しかし、黒い少女や獣耳の女性のような敵も現れた。そろそろ、子ども手には余る事態に突入しようとしていることは僕でも分かる。そろそろ、事件が発覚して三週間が経とうとしている。ユーノくんの話が確かならそろそろ時空管理局とやらが現れてもおかしくないはずだ。

 だから、僕は一刻でも早く時空管理局が来てくれないものだろうか、と願うのだった。


続く


あとがき

 次回はなのはVSフェイト。十分に覚悟してお待ちください。



[15269] 第十六話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/04/23 21:19
注意:今回はなのはVSフェイトは十二分に覚悟してお読みください。戦闘、暴力シーンが嫌いな方は読み飛ばしてください。表の結論だけでも十分です。





 高町桃子は、突然の娘の言葉に困惑していた。

「要するに可愛い洋服が欲しいのね?」

 確認するように末娘のなのはに問いかけると、うんうん、と力強く何度も頷くなのは。原因はよく分からないが、どうやらなのはは可愛い洋服が欲しいらしい。あまりに唐突で初めての出来事に困惑していた桃子も段々と頭が回ってきた。

 末娘であるなのはがこんなことを言ってくるのは初めてである。前々から何度か洋服を買うためになのはを誘ったことがあるが、そのときは、拒否された。今、なのはが着ている洋服は、桃子が仕方なくディスカウントストアで買ってきた適当なものだ。もっとも、それなりにデザインは気にしてはいるが。

 なのはが突然、こんなことを言い出した原因に心当たりがないといえば、嘘になるだろう。原因として考えられるのはたった一つしかなかった。すなわち、最近、なのはと友好関係を結んでいる蔵元翔太である。現在、彼以外には友人がいないことを桃子は知っているし、家族が言っても聞かなかったなのはが突然、こんなことを言い出すのは、翔太ぐらいしか考えられなかった。

 しかしながら、翔太が原因だとするとずいぶん、微笑ましいことだ。もしも、翔太が女の子であれば、翔太のような洋服が欲しいとねだるだろう。だが、彼は男の子。彼の洋服に憧れたとしたら、『可愛い』などという形容詞はつかないはずだ。つまり、なのはは翔太に対して可愛らしい自分を見せたいのだろう。ずいぶんと女の子らしい思考で安心した。

 もっとも、その思考に至るには何かの切欠が必要なのだが、息子の恭也に聞いても思い当たる節はない、という答えが返ってきた。もともとそういった方面には疎い恭也のことだ、思い当たる節がないのではなく、気づかなかっただけだろう。桃子はそう結論付けた。

 なのはに「分かったわ。今度の連休に買いいきましょう」と言うと、桃子にも分かるぐらいに上機嫌に自分の部屋に戻っていった。桃子はその後姿を見送ると炊事場の片づけへと戻る。当然、今度の連休を桃子も楽しみにしていた。美由希はもう高校生で着飾るという年ではないし、そもそも洋服などに対する意識は低い。ゆえに、桃子はもしかしたら、なのは以上に連休を楽しみにしているのかもしれない。娘を着飾ることを面倒だと思う母親などいないのだから。



  ◇  ◇  ◇



 高町美由希は、一生懸命に洋服を選んでいる妹を微笑ましく見ていた。

 今日の主役は彼女の妹である高町なのはである。美由希は面白そうだから着いてきただけである。案の定、翔太もついてきで面白いことになっていたが。彼には、なぜ、この場にいるのか分からないということを問いかけてきたので、「君のせいだよ」と答えておいた。

 事実そうなのだから仕方ない。先日、兄である恭也に答えたときは、半ば冗談だったが、どうやら嘘から出た実になってしまったようだ。
 家族会議で改めて、桃子が今日のことを話したときの兄の恭也と父の士郎は頭を抱えていたのが印象的だ。まだ小学生で、ただの予想でしかないのに、もしも中学生ぐらいになって彼氏の一人もできてしまったときはどうなるのだろうか。

 しかし、そこまで考えて思う。

 ―――あれ? 私って小学生に負けてる?

 よくよく考えれば、美由希はなのはのような甘酸っぱい記憶はない。幼い頃からずっと剣に、剣と共に生きてきた。それ以外の道を知らないというほどに。美由希が通う風芽丘学園が共学の学園だが、異性との出会いもない。一番気になる異性が兄である恭也という時点で女としてどうなのだろうか、と疑問に思ってしまう。
 もっとも、実際には恭也とは血のつながりはなく、正確には従姉妹という繋がりなので、恭也との間に恋心が芽生えたところでまったく問題はないのだが。しかし、この気持ちは兄を慕う気持ちとも言えるし、剣の師匠としての気持ちとも言えるし、異性としての気持ちもある。まるでサラダボールのようによく分からないのだ。

 恭也に恋人ができれば、また違った感情が浮かんでくるのかもしれないが。もっとも、恭也は恭也で異性との付き合いは殆どないようだから、この気持ちを確認するのもまだまだ先になりそうだ、と美由希は洋服を翔太に見せるなのはを見ながら思った。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、ここ数日上機嫌だった。

 連休中は、可愛い洋服を母親から買ってもらい、翔太にも「可愛いね」と褒めてもらった。
 そこから先日の休日のように名前を忘れてしまった金髪の少女の邪魔が入ることもなく、平日の放課後もずっと一緒にいられる。まさしく、なのはが望む日常だった。

 ―――ずっと、今が続けばいいのに。

 もちろん、それは無理なのは分かっている。月日は流れるもので凍結できるものではない。だが、『今』を保つための手段はすでに確保している。今しばらくは、きっとこれが日常であるとなのはは確信していた。

 さて、今日は久しぶりにジュエルシードの反応をユーノが見つけたため、日が暮れてもジュエルシードを捜索中だ。本当なら、翔太と一緒に探したいところだったが、日が暮れてしまったため、一刻も早く見つけ出すため今は三手に分かれている。一緒にいられる恭也を羨ましく思ったものの、チーム分けをしたのは翔太なのだから、なのはに異議を出すという選択肢はなかった。

 ならば、少しでも早くジュエルシードを探して翔太と一緒にいる時間を長くするべきだと思い、なのはは現在、夜の海鳴の街の中心街を奔走していた。翔太の推測が確かなら、表通りにはジュエルシードは落ちていない。だから、なのははビルとビルの間にある裏路地を行ったりきたりしながら、ジュエルシードを探していた。

 ―――近くにある。

 なのはもそれは分かっていた。ジュエルシードが近くにあるときの違和感が、なのはの中にも確かにあったからだ。

 ―――早く、早く、早く。

 早く、ジュエルシードを見つけて翔太と一緒にいたい心がなのはを逸らせる。幸いなことになのはのその願いはすぐに叶うことになった。

 突然、なのはの頭に響いたのは、翔太からの念話だった。

 ―――なのはちゃん、ユーノくん、ジュエルシードを見つけたよ―――

 さすが、ショウくん、と思う一方で、自分で見つけたかったな、という思いがある。だが、どちらにしてもジュエルシードを封印できるのは、なのはだけだ。それにジュエルシードが見つかったのならば、遠慮なく翔太の隣に行けるのだから文句があろうはずもない。

 なのはは夜の街を翔太がいるであろう方向に向けて駆け出す。ジュエルシードを封印した後の帰り道、翔太とどんなことを話そうか、と考え事をしながら。たくさんの人が行きかっている道であろうともマルチタスクが使えるなのはにとってしてみれば、考え事をしながら走るなど朝飯前のことだ。

 だが、それでも複数のことを同時に行っていれば、本来気づくべきことにも気づかないこともある。今回の場合もそれだった。

 ―――ショウっ! 気をつけて! 誰かが結界も張らずに魔法を使ってるっ!! ―――

 ユーノからの突然の念話にえ? と、意識を周囲に向けてみると確かに魔力が周囲に拡散している。翔太のものでも、ユーノのものでも、ましてやなのはのものでもない。第三者のものだ。そして、考えられる第三者とは、先日の休日の犯人以外には考えられない。

 なのはの代わりに成りえるかもしれない魔導師。なのはにしてみれば、今を壊す敵である。

 もし、目の前にいるなら、おそらく戦うことになるだろう。だが、今は目の前に犯人の姿は見えず、広範囲に魔力が拡散していることから犯人が使う魔法はおそらく広範囲に至る魔法なのだろう。そうだとすれば、翔太が危険だということはすぐに理解できた。

 だから、なのははレイジングハートを起動させ、止めていた足を動かして、再び駆け出す。翔太が襲われたとしても自分が助けるために。だが、なのはが翔太を護るにしても多少、タイミングが遅かった。

 翔太がいるであろう路地裏に入ったなのはが見たものは、天空から落ちてくる雷に対してプロテクションという防御魔法を展開しているようだった。翔太が正式な魔法を使えることにも驚いたが、なのはからしてみれば、翔太のプロテクションなど紙のようでしかない。事実、魔法の雷は、翔太のプロテクションをもろともせず、貫通してしまったのだから。

 翔太のプロテクションで威力をそがれた雷を受けて、いつっ、という痛みを堪えるような表情を見て、声を聞いた瞬間、なのはは一気に頭に血が上った。

 ―――ショウくんが痛がってる? 傷つけた? 誰が? 誰が?

 考えるまでもない。なのはの障害となるかもしれない魔導師以外には考えられない。
 この瞬間、なのはの頭の中に障害となるであろう魔導師を許すという選択肢は、塵芥と化した。代わりに件の魔導師に対して絶対に許せない、という怒りが沸々と湧き出してくる。
 もしも件の魔導師にであったならば、少し痛めつけた後に、もうジュエルシードに関わらないと言わせ、そこまでにしておこうと思っていたが、翔太を傷つけた以上、『少し』という形容詞は綺麗さっぱりなくなってしまった。

 本当なら、すぐにでも件の魔導師を探したいのだが、今はそれよりも翔太の足元にあるジュエルシードが先決だった。翔太の足元にあるジュエルシードは、今までのものとは比べ物にならないほどに魔力を放出しているのだから。

「ショウくんっ!!」

「なのはちゃんっ! これっ!」

 入り口で止めていた足を再び動かして、駆け込むと翔太がハンカチで包んだジュエルシードを投げてくるのが見えた。それだけでなのはは翔太が何を求めているのか理解した。当然のように「リリカルまじかる」とジュエルシードを封印して、レイジングハートの宝石部分にジュエルシードを収めた。

「ほっ、間に合った。ナイスタイミング、なのはちゃん」

 先ほどの痛がっていた表情とは一変して、安堵した表情になっていた。それだけでなのはは安心する。翔太があまり痛がっていないことが分かったから。もっとも、件の魔導師に対する処遇は変わらないが。

「しかし、やっぱりすごいね。あんなの簡単に封印しちゃうんだから」

 感心したように話す翔太。たったこれだけで、なのはの心は先ほどまで怒りで血が上っていたことも忘れて、有頂天になる。先ほどまでの暗く沈んだ感情はすっかり消えてしまい、魔法を使わずとも空を飛べそうなぐらいになのはの心は軽くなっていた。

「そ、そうかな?」

 だが、それ以上に憧れていた翔太に褒められることで照れてしまうなのはだった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、逃げていた。

 追ってくる相手は、件の魔導師と記するべきなのはと年の変わらないであろう少女だ。黒い服に金髪を靡かせて自分の跡を追ってくるのを確認しながら、なのはは逃げていた。
 あの場では、この手が一番だと思った。翔太の近くで戦うことは可能だった。だが、可能なだけだ。万が一にでも流れ弾が、翔太にいかないとも限らない。翔太を傷つけることはなのはが一番望むべくことではない。だから、空を飛んで逃げた。幸いにして彼女の目的は、ジュエルシードのようだから逃げれば追ってくると踏んでいたのだが、正解だったようだ。

 しばらく飛んだ後、海鳴の中心街の中でも無数の高層ビルが立ち並ぶ中心街の中心でなのはは足を止め、振り返り、件の魔導師と相対した。黒い外套とツインテールの金髪を靡かせ、なのはから十メートル程度はなれたところで止まる少女。
 彼女の金髪が、先日の休日に初めて顔を合わせ、翔太の親友と勘違いしている少女を髣髴させる。件の魔導師というだけで嫌な感情が胸を締め付けるのに、さらに神経を逆なでするようだ。

「ジュエルシードを渡してください」

 すぅ、と威嚇のように死神の鎌のような形をしている戦斧を向けられる。だが、なのははそれに怯むことはなかった。これから戦う相手に怯むことは負けを意味することを本能とも言うべき部分で理解していたからだ。

「ねえ、なんで私がショウくんの傍から離れたと思う?」

 なのはの言葉が聞こえたのか、怪訝そうな顔をする少女。だが、もともとなのはは相手に答えを期待していない。この場に逃げて、いや、おびき出した理由を伝えるためだけだ。

「ショウくん、暴力嫌いなんだ。だから、あなたと戦ってるところ見られるの嫌だし」

 翔太は、元来から優しい性格をしている。そうでもなければ、殴った相手を話し合いだけで許して、一緒に遊ぶなんてことはできない。本来、関係ないことを手伝うなんてことはできない。なのはに毎日付き合ってくれるなんてことができるはずもない。

 何が言いたいんだ? とばかりにそれを尋ねようと口を開く黒い少女を遮ってなのは、それに―――と続ける。

「あなたの目的なんてどうでもいい」

 なぜなら、彼女にいかなる理由があろうとも、同情も、同調も、反発もしないからだ。

「あなたの名前なんてどうだっていい」

 なぜなら、これから打ち負かし、もう二度と顔を合わせることもない少女の名前を知ったところで時間の無駄だからだ。

「あなたの力なんてどうでもいい」

 なぜなら、少女が如何様な力を持っていようとも、なのはが叩き伏せることは絶対だからだ。

 なのはが少女に対する意気込みは、負けない、という決意ではない。負けたくない、という願望でもない。負けてはいけない、という禁忌だ。

 なのはにとって黒い少女は、もしかしたら、自分の居場所を奪うかもしれない魔導師であり、ジュエルシードを持っているであろう魔導師であり、そして、何よりも翔太を傷つけた魔導師なのだ。
 どれをとってもなのはにとっては負けられない理由だった。だからこそ、これから始まるであろう魔法戦闘の中で少女に対する感情は、負けてはいけないという禁忌なのだ。

 すなわち、なのはにとって―――

「あなたは私の敵だ」

 すぅ、と黒い少女と同じようになのはがレイジングハートを構える。

 魔法少女同士の戦いの幕が切って落とされた。



  ◇  ◇  ◇



 フェイト・テスタロッサは、目の前の名前も知らぬ白い少女に戦慄していた。

 戦いの幕が切って落とされて、少しの時間が経過した。お互いに牽制のように射撃魔法を打ち合うものの避けたり、防御魔法で防御したりと決定打にならず、お互いに無傷だった。

 しかしながら、無意味に射撃魔法を打ち合っているわけではない。フェイトは、白い少女の力量とタイプを測っていた。
 白い少女の力量は、動きがどこか機械的ではあるが合理的な判断が早く、飛行魔法も速い上に防御魔法も堅い。つまり、端的に言えば、相当に強い。しかも、唯一隙を見出せそうだった機械的な動きをしている部分も戦っているうちに少しずつ修正しているようだった。
 彼女のタイプだが、おそらくは、遠距離を得意とする魔導師だろう、とフェイトは判断していた。一度、距離を詰めようと高速で移動したのだが、彼女は近づかれるのを嫌がるようにすぐさま距離をとったのだから。

 そこまで判断してしまえば、フェイトの取れる戦術は数が限られている。そもそも、彼女の得意とする距離は中、近距離だ。このまま、遠距離の戦いに徹しられ続ければ、いずれジリ貧になることは目に見えていた。

 彼女の使い魔であるアルフが彼女の仲間を何所まで足止めできるか分からない以上、早く勝負をつけなければならない。だから、フェイトは自分の判断が間違っていないか、確認するように数度、フォトンランサーによる射撃魔法を打ち込み、ブリッツアクションで高速に近づくなどの戦術を行った後、勝負に出た。

「フォトンランサー」

 今までの打ち合いのように四発のフォトンランサーを白い少女に向けて打ち込む。今までの打ち合いならば、白い少女の射撃魔法を捌きながら隙を見つけようと探るのだが、今回は違う。直射型であるフォトンランサーの特性を利用して、一緒に白い少女の元へと近づく。ある程度近づいたら、ブリッツアクションで死角を取り、鎌のような魔力刃を発生させるサイズフォームで決着をつけるつもりだ。

 だが、フェイトの作戦は、最初から崩壊した。

「なっ!?」

 今までなら白い少女は、飛行魔法を使って高速で動き回りフォトンランサーを避けていたはずだったが、今回は直射型であるフォトンランサーにまるで自分から当たりに来るように一直線に突っ込んできた。想定外の動きにフェイトは、動きを止めてしまった。

 動きを止めたフェイトは、頭の中で高速で作戦を組み立てるものの、白い少女は、このままいけば、フォトンランサーが全弾命中する。確かに白い少女の魔力は高く、バリアジャケットの防御力は高いだろうが、全弾命中すればダメージは避けられないはずだ。防御魔法を使ったとしても全弾を防御しきれる可能性は低い。つまり、どちらにせよ、彼女は多少なりともダメージを喰らうはずだ。ならば、弱ったところを叩けばいい、と彼女の愛機であるバルディッシュをサイズフォーム変えて、フォトンランサーの行く末を見守る。

 フォトンランサーはフェイトの予想通り、白い少女に全弾命中。直後、雷属性の付与のためか、閃光と煙。このまま白い少女が墜ちてくれれば、楽なのだが、フェイトの予想通り、白い少女は彼女の杖を構えたまま、白煙を割って飛び出してきた。彼女の姿は、フォトンランサーを多少なりとも受けたのか、白いバリアジャケットはところどころ黒くすすけている。だが、そんなことはフェイトにとってはどうでもいい。白い少女は、フェイトを敵と呼んだが、フェイトにとっても確かに白い少女は敵なのだから。誰かを傷つけるという行為自体に胸は痛んだが、フェイトが想う母親のことを思えば、その胸の痛みはないも同然だった。

 飛び出してきた白い少女の一撃を受け止めようとバルディッシュを構えるフェイト。白い少女が杖を振り上げ、振り下ろす瞬間にあわせてバルディッシュを振り下ろした瞬間――――白い少女の姿が消え、バルディッシュの鎌は、宙を切り裂いた。

 ―――消えたっ!?

 正直、フェイトが背後からの一撃を受け止められたのは、彼女に近距離戦闘の適正が高かったからに過ぎない。ぞくっ、と背筋から這い上がる悪寒に対応した結果が偶然、彼女の一撃を受け止めたに過ぎなかった。

 だが、幸いにして白い少女の一撃を受け止められたフェイトだったが、頭の中は混乱していた。

 ―――まさか、この子は近接戦闘が得意?

 いや、だが、戦いの中で掴んだ情報は確かに白い少女が遠距離戦闘が得意だと告げていた。しかし、だとすると彼女の行動が理解できない。近接戦闘が得意でなければ、フェイトに近接戦闘を挑む意味もわからないし、フォトンランサーによるダメージを受けてまで近接戦闘を挑む意味がないからだ。

 とにかく、フェイトは一旦冷静になるために距離をとろうと白い少女をバルディッシュで、突き飛ばした直後、反転。そのまま距離を取ろうとしたのだが、それは不可能だった。いつの間に設置されたのか、フェイトの後ろには白い少女が使っていた射撃魔法が四つ、フェイトを待ち構えるように浮かんでいた。

 拙いっ! と思った瞬間には次々と桃色の球体がフェイトを襲う。彼女の魔法は、フェイトのフォトンランサーのように直射型ではなく、誘導制御型だ。ただ避けるだけでは、いつ背後を取られるか分からない。だから、襲ってくる桃色の球体をフェイトは一つ一つバルディッシュの鎌で切り裂き、完全に壊すしかなかった。背後にいるはずの白い少女が気になったが、今、彼女はこの魔法の制御に思考を向けているはずで、別の魔法は使えないはずだ。だから、フェイトは一つ一つ、白い少女の魔法を壊すことに専念した。

 四つの内、最後の一つを切り裂き、改めて白い少女から距離を取ろうとした瞬間、衝撃は上から来た。

「ぐっ!」

 右肩に打ち込まれる容赦のない一撃。フェイトの移動力確保のため薄いとはいえ、生半可な衝撃は通さないはずのバリアジャケットを抜いての重い一撃。
 衝撃で、仰向けになりながら墜ちるフェイトの目に入ったのは、八つの桃色の射撃魔法を身体の周辺に身に纏う白い少女の姿だった。

 このままでは、直撃してしまうと思ったフェイトはバルディッシュでなぎ払おうと右手を動かそうとしたが、先ほどの一撃による痛みで右腕を動かすことができず、仕方なく左手で防御魔法を展開するものの、フェイトはおそらく防御魔法が打ち破られることを理解していた。
 しかしながら、直撃よりマシである。たとえ喰らったとしても立っていればいい。フェイトにとって、この一戦は決して負けられないのだから。

 ―――そう、私は負けない。負けられない。母さんのためにもっ!!

 フェイトの予想通り、防御魔法は四つの射撃魔法を耐え抜いたところでガラスのようにひび割れ、霧散した。直後、目に飛び込んでくる四つの射撃魔法。対抗する手段は一つもなく、歯を食いしばって耐えるしか方法はなかった。

「かはっ!」

 二発は、腹部、一発は先ほど一撃を受けた右肩、一発は顔面に命中していた。だが、それで意識を失うことはなかった。フェイトの負けられないという精神力の勝利だ。今のフェイトの状況は、右肩が動かず、満身創痍と言っていいかもしれないが、心は折れていなかった。フェイトには決して負けてはいけない理由があるのだから。

 だが、空中で姿勢を立て直したフェイトが目にしたのは――――

「ディバイン――――」

 まるで、最後に残った心さえも折るかのような圧倒的な桃色の光とその向こう側で勝利を確信してフェイトを嗤う少女の笑みだった。

「バスタァァァァァァァっ!!」

 圧倒的な桃色の光の奔流に巻き込まれたフェイトは、抵抗という最後の心さえ折られて、その濁流の中で意識を落とした。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、墜ちた黒い少女を警戒しながらも軽い高揚感に包まれていた。

 ―――2万と746。

 その数字は高町なのはが、レイジングハートによるシミュレーションでクリアした訓練の数だ。無数のパターン数とレベルを組み合わせることでそれだけの数字が用意できた。訓練のためになのはは翔太と一緒にいる時間以外のすべてを費やした。授業を受けながら、夕飯を食べながら、お風呂の入りながら。時に魔力ギプスとも併用することで、確かにそれはなのはの糧となっていた。
 普通の人ならば、なのはの無謀ともいえる努力を戒めるだろうが、レイジングハートは有能なAIがあるといえども、しょせん機械であり、有能なAIであるからこそ、マスターの命令に最大限従おうとする。つまり、その数字は、強くなりたいというマスターである高町なのはの願いに最大限に答えた結果だった。

 そして、その成果が今、なのはの前に転がっていた。

 意識を失った黒い少女は、十メートルほどの上空から意識を失い、道路のアスファルトに叩き落されていたが、バリアジャケットのためか、息はしていた。だが、その水着にも似たバリアジャケットはボロボロで、ところどころ破れ、露となった皮膚から血が流れていた。彼女の金髪もくすんでおり、まさしく満身創痍という出で立ちだった。

 そんな黒い少女を見ても、なのはは決して警戒を解くことなく、背後に八つのディバインシューターを展開させ、ディバインバスターの発射準備をした状態でホールドし、黒い少女に近づく。黒い少女はなのはがある程度近づいてもまるで意識を戻さない。それを確認したなのはは、まるで磔のように両手首と両足首にバインドをかける。右手首にバインドをかけた瞬間、殴った箇所が痛むのか、顔をしかめたが、意識を取り戻すことはなかった。

 たとえ、意識を取り戻して反抗されてもすぐさま対応できるような状態にして、なのはは黒い少女の意識を取り戻させるため、彼女のわき腹を足蹴にし、身体を揺らす。何度か繰り返すが、黒い少女は意識を取り戻す様子はなく、仕方なく少し強めにつま先でわき腹を抉るように蹴った。

「がっ!」

 わき腹は肋骨に守られていないため、衝撃が内臓に直接響く。さすがの黒い少女もその衝撃には耐えかねたのか、ぼんやりと意識を取り戻していた。なのははそれを確認した直後、レイジングハートのディバインバスターの発射口を彼女の顔に近づける。

 まるで刀の切っ先を突きつけたような感じなのだろうか、黒い少女の表情が恐怖で固まっていた。だが、それを気にせずなのははなのはの敵に要求を突きつけた。

「ジュエルシードを渡して」

 そう、なのはの考えが正しいなら、黒い少女は少なくとも一つはジュエルシードを持っているはずだ。
 あれは、なのはが翔太に褒めてもらうために、なのはが翔太に必要としてもらうために絶対に必要なもの。だから、目の前の黒い少女が、自分よりも弱い黒い少女が持っていていいものではない。あれはすべて自分が持つべきものなのだから。

「い、いやだ」

 だが、黒い少女の答えは拒否だった。いや、その答えは大体予想していた。だが、もしも答えが肯定であれば、なのはの苦労が多少、軽減されるだけだ。

 黒い少女の答えを聞いたなのはは、屈んで黒い少女の右手に握られた戦斧に手を伸ばす。なのはがレイジングハートにジュエルシードを仕舞うように彼女のデバイスにジュエルシードを仕舞っていると思ったからだ。だが、手を伸ばし、握ったところで黒い少女が戦斧から手を離さない。

「離して」

 なのはが睨みつけるものの、黒い少女が戦斧を手放すことはなかった。

 何度か同じことを繰り返すが、黒い少女が離すことがないということが分かったのか、なのはは気だるそうに立ち上がると足を上げ、痛めているであろう黒い少女の右肩を思いっきり踏みつけた。

「ぐぁぁぁ」

 痛みで顔が歪む黒い少女。だが、なのはは一切躊躇を見せずにさらに抉るようにグリグリと足を動かす。ぐっ、や、あっ、という悲痛な声がなのはの耳を揺らしたが、足を止めることは決してなかった。そして、二、三度、足をグリグリと動かすことを繰り返した後、再び足を振り上げ、黒い少女の右肩を踏みつけた。

「がぁぁ」

 痛みに耐えかねたのか、黒い少女の右手からカランカランという金属がアスファルトの上を転がるような音を出して戦斧が転がる。それを見たなのはは黒い少女の右肩から足を離し、少し歩いて戦斧を手に取り、語りかける。

「ねえ、ジュエルシード出して」

 だが、戦斧からも答えはなかった。

「そう」

 そのことに対してもなのはは冷静な目のまま呟くと、まるでそれが自然な動作のようにディバインシューターを一つ操作し、少し離れた黒い少女の腹部に命中させた。ぐっ、という耐えるような短い悲鳴が黒い少女から漏れた。

「お願いして、答えないたびに一つずつあなたのマスターにディバインシューターを命中させるよ。残り七つあるから、全部命中させても答えなかったときは……」

 すぅ、とディバインバスターをホールドしたままのレイジングハートを黒い少女に向ける。
 ディバインシューター八発とディバインバスター一発。非殺傷設定である以上、黒い少女が死ぬことはないだろう。だが、魔力ダメージは計り知れないものがある。もちろん、それでも出さなければ何度もこの動作を繰り返すだけだ。

 だが、ここまでやっても戦斧は何かに悩むように答えはなく、ジュエルシードを出すことはなかった。

 ―――仕方ない、もう一回かな?

 そうなのはが考え、もう一発、ディバインシューターを操作しようとしたとき、レイジングハートが点滅し、戦斧に告げた。

 ―――Please putout the JS. My master is serious.

「ダメっ! バルディッシュっ!!」

 バルディッシュと呼ばれた戦斧を制止するマスターの言葉。だが、レイジングハートの言葉が契機となったのだろう。戦斧は何かを諦めたように、瞳のような宝石の部分から一つのジュエルシードを放出した。放出されたジュエルシードはなのはの手の中に収まる。手の中に収まったジュエルシードを見て、なのは満足そうに笑った。

「あ、あああ」

 ジュエルシードを放出した戦斧を信じられないといった様子で見つめる黒い少女。だが、ジュエルシードが手に入ったなのはには、もはや魔法で勝った黒い少女も彼女の獲物である戦斧も無用の長物だった。
 だから、なのはは、自分の手に持っている戦斧を処分しようと思った。理由は簡単だ。これがある以上、もしかしたら黒い少女はもう一度、ジュエルシードを目指してくるかもしれないから。それは翔太との時間を邪魔することを意味する。なのはの中でも優先度が最重要であるその時間を邪魔するなど、とても許せることではなかった。だから、なのはは、これを処分しようと思った。

「ディバインシューター」

 なのはの声に従って動く桃色の球体は、なのはの手から離れた戦斧を弾いて、上手い具合に上空へと運んでいく。ガン、ガン、ガンと音を立て、射撃魔法の反動によって上空へと運ばれる戦斧。それに向けてなのはは、レイジングハートの発射口を向ける。それを見て黒い少女もようやくなのはが何をしようとしているのか理解したのだろう。バインドによって動かない手足をばたばたと動かし、口を開く。

「やめろ、やめろ、やめろ」

 黒い少女の口からうわごとのように呟かれる制止の言葉。だが、それもなのはの耳には届かないようで、制止する様子など一切見せることなく、レイジングハートのホールドしていた4つの環状魔法陣がなのはの魔力を増幅、加速させる。標的である戦斧はおもちゃのようにガン、ガン、ガン、とディバインシューターに打ち付けられ、もはや罅だらけだった。

 もはや後一押しで完全に壊れるであろうそれに終止符を打つべく、なのははレイジングハートを構えた。

「ディバイン―――」

「やめろぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 黒い少女の絶叫。だが、それがなのはの耳に届くことなく、なのはは最後の言葉を口にする。

「バスタァァァァァっ!!」

 レイジングハートの先端から発射される光の奔流。黒い少女の意識を刈り取った砲撃魔法は一直線に戦斧へと雪崩れ込み、黒い少女の愛機であった戦斧を塵に返す―――ことはなかった。桃色の光の奔流が直撃する直前、戦斧を守るように立ちはだかる一つの影をなのはは見落としていた。

 その黒い影は、戦斧を銜えると地面に降り立ち、まだレイジングハートを構えたままのなのはに突進してくる。突然の乱入者になのはは対応することはできず、黒い影の突進を避けることはできなかった。

 あまりの衝撃に吹き飛ばされるなのは。バリアジャケットのおかげであまり痛みはなかったが、それでも魔法の制御が一瞬、甘くなったのは確かだ。その一瞬を突かれたのだろう、黒い少女を拘束していたバインドは解かれ、痛みを堪えるなのはが目にしたのは、大型犬ほどの大きさだったはずの影が成人女性ぐらいになり、黒い少女を抱えて飛び立つ姿だった。

 一瞬、追おうかとも思ったが、すでに姿は見えなくなっており、今から追っても追いつくことは不可能と判断した。

「ふぅ」

 疲れたようなため息を吐く。だが、心の中は満足感であふれていた。

 自分の居場所を奪うかもしれない魔導師に勝つことができた。叩き伏せることができた。彼女が持っていたジュエルシードも手に入れることができた。逃がしたのは拙かったかもしれないが、もう一度立ち向かってくるというのなら、もう一度叩き伏せるだけである。

「さあ、ショウくんのところにか~えろっと」

 ジュエルシードを手に入れたことで褒めてくれる翔太の想像をしながら、なのは上機嫌で戦場跡から踵を返すのだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村忍は頭を抱えていた。

「はぁ~、本当、どうしたものかしら?」

 翔太が怪しいと睨んで早一週間近くが経とうとしている。だが、彼を念入りに調べても彼が裏の事件に関わっている証拠は見つけられなかった。彼の周囲にしてもそうだ。父親も母親も祖父も祖母も、家系を調べたが全員が一般人。平々凡々の中流家庭だった。真っ白も真っ白もいいところだった。

 だが、そうでいながら、最近の翔太の行動はその白を灰色にしてしまう。

 翔太を疑う契機となった宝石に関してすずかをもう少し問いただしてみると、翔太はなのはの手伝いをしているとすずかたちに説明しているらしい。だが、翔太が裏に関わる家系ではない以上、一般人であるはずの翔太を巻き込むことはありえない。なのはが翔太を手伝うことはあっても、翔太がなのはを手伝うことはない。正確には手伝えることはない。だから、忍はこの件に関しては翔太が嘘をついていると判断した。

 だが、翔太の家と高町家については何も繋がりがなかった。昔の『御神』と『不破』についても同様だ。これで、もしも探しているのがこの蒼い宝石でなければ、恭也が関わっていることも子どもの面倒を見ている兄として片付けられたのだが。この宝石を捜しているのならば、恭也も裏の人間としての護衛と見るほうが自然だろう。

 そして、翔太が探しているらしいこの宝石。忍のほうで調べてみたが、科学的に見るとただの石だ。もっとも素晴らしい加工技術で現存の加工技術では、ここまで綺麗に宝石を加工することは不可能だが。調べる方向を変えて、この街に住む退魔士に見てもらったところ、やはり大きな力を宿していることが分かった。ただし、霊力でもなければ妖力でもないという奇怪な回答だったが。安心できることに、この宝石は安定しており、簡単に暴走することはないようだ。怖いもの見たさから、暴走した場合を聞いてみたが、軽く街が根こそぎなくなると聞いて聞かなければよかった、と思ったのは記憶に新しい。
 さて、そんな宝石に関わろうとしている翔太が真っ白であるはずがない。ちなみに、退魔士として『蔵元』という苗字に聞き覚えは大家である神咲家にもなかった。

 極めつけは、今日の出来事だ。海鳴の街に現れた気象衛星に写らない雷雲と雷。それが確認された直後、業界の中でも優秀とされている尾行屋が翔太たちをロスト。一時間に渡り、尾行屋は彼らを見失っていた。彼曰く、煙のように消えたらしいが、退魔術の中でも隠密の術はあろうとも、煙のように消えることは不可能だ。つまり、退魔術以外の何らかの技術を使ったと思われる。

 これだけなら、しばらく翔太を調べればいいのだが、さらに状況をややこしくしたのは、彼女の叔母であるさくらだ。さくらに頼んでいた人狼族の調査が終わり、報告を聞いたところ、日本からはぐれ者は出ていないらしい。欧州から流れてきたものか、とも思ったが、欧州もここ数十年単位ではぐれ者など出ていないというのだから驚きだ。つまり、忍が見た人狼族はさくらが知る人狼族以外からの流れ者ということになる。この件も踏まえて数日後にさくらが月村家に来ることになってしまった。

 正直、忍は八方塞だった。翔太は、調べても証拠は一切現れず、状況証拠のみが積みあがっていく。現状も一緒に報告したさくらにはそれが一層、不気味に思えるらしい。今度、さくらが来たときに翔太も呼び出すことになってしまった。
 それで、もしも翔太が裏の人間ならばいい。だが、だが万が一にも本当にただの人間だったら。当然、翔太に夜の一族による契約を迫るだろう。そして、彼が拒否すれば、夜の一族の記憶を彼からすべて消すしかない。そうやって、彼女たちは生きてきたのだから。
 だが、それは単純に月村すずか、月村忍のことを忘れさせるということに繋がらない。人間の記憶はいい加減であるが、だからこそ、同時に記憶の封印も解けやすい。故に月村に関する人から記憶を消さなければならない。近くで言うとアリサ・バニングスも対象になるだろう。つまり、すずかは一瞬でたった二人しかいない友人を両方とも失うのだ。

 しかし、だからといって、今、海鳴で起きている何かが自然に解決することを待つこともできない。月村はこの海鳴を中心とした土地の裏側を治めている。治める以上、力を示すことは必要だ。それが単純な力だったり、権力だったり、お金だったりもするが。それらの中で一番舐められては困るのは意外にも単純な力だ。これを失うとすぐさまこの土地を狙う様々な組織から急襲されるだろう。それを避けるためにも早期解決、あるいは介入が必要だった。いや、もしも年度初めという忙しい時期でなければ先日の連休中にでも両親は翔太を呼び出していただろう。

 あちらが立てば、こちらが立たず。忍の苦悩は続きそうだった。


あとがき
 戦闘シーンは難しいです。



[15269] 第十七話 改訂
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/04/30 21:16



 黒い少女が襲ってきた日から二日が経過していた。最初は、捜索時にまた襲ってくるんじゃないか、と不安になり恭也さんが必要以上に気を張ってくれていた―――僕たちは襲撃者をあらかじめ知るような魔法はまだ使えない―――が、それも取り越し苦労に終わってしまった。黒い少女と獣耳の女性は、まるで先日の襲撃が嘘だったようにまったく音沙汰がなかった。

 しかし、彼女たちがジュエルシードを狙ってきたのは確かなことであり、力づくでも手に入れようという意思が見て取れた。そこまで必死になる以上、何らかの理由があるのだろうが、それをぺらぺらと話してくれる様な様子でもなかった。僕は、彼女たちの対処には困った。もともと、僕は暴力は好きでない。前回はなのはちゃんが返り討ちにしてしまったが、本当なら会話で解決すれば幸いなのだ。もっとも、現状では正当防衛と割り切って戦うしか選択肢は与えられていないようだったが。

 胸に不安を抱きながらジュエルシードを探すこと二日目、日が沈みかけ大地を紅く染める夕日が現れるころ、本当ならジュエルシードを捜索するために街の中心部にいるであろう時間帯に僕はなぜか学校の自分の教室にいて、数十枚の紙の山と格闘していた。
 それは、一人ではない。隣には僕の友達の一人であるすずかちゃんもいる。彼女と僕は、互いに数十枚の紙と格闘していた。格闘していたといっても、一枚一枚二つ折りにするだけだが。

 この紙の山の正体は、月に一回発行される図書館便りだ。いつもならA3一枚程度で終わってしまうはずの図書館便りだが、今月はゴールデンウィーク前ということもあって、司書の先生が頑張ったらしい。そのしわ寄せが僕たちに来てしまったわけだ。
 本来なら、すずかちゃんともう一人の図書委員でやる作業なのだが、もう一人の男の子は逃げてしまったようだ。僕が放課後、なのはちゃんと一緒にジュエルシードを探しに行く直前に紙の山を運ぶすずかちゃんと出会った時にそう聞いた。
 数十枚の紙を五束。ひたすらに二つ折りにし続ける単調作業。ある意味、苦行でもある。見かねた僕は、すずかちゃんを手伝うためになのはちゃんを先に行かせて後から合流することにした。すずかちゃんは当初、渋っていたが、僕がクラス委員ということを建前に押し通した形だ。

 しかしながら、なぜか僕とすずかちゃんしかいない教室の空気が重い。

 よくよく考えてみれば、今日のすずかちゃんは少し変だった。今日は、すずかちゃんとアリサちゃんと一緒にお昼を食べたのだが、そのときも何か考え込むようにすずかちゃんは、いつもにも増して口数が少なく、元気がないというべきだろうか。今も、半ば意識ここにあらずといった様子で、ひたすらに単調作業を続けている。

 いったいどうしたというのだろうか? 悩みがあるなら相談してくれればいいのに。

 しかしながら、もうすずかちゃんとも3年の付き合いだ。彼女がそう簡単に表に出すような性格ではないことは知っている。学校生活上で、思い当たる悩みならば気軽に聞けるのだが、こんな状況になったのは今日のこと。昨日の帰りまでは普通にアリサちゃんと一緒に塾に行っていたことを考えると昨日の夜に何かあったと考えるべきだろう。つまり、家庭の事情である可能性が高い。そうなると厄介だ。家庭の事情に気軽に踏み込んでいいものか、と思う一方、友達なら気に掛けてるぐらいはいいんじゃないか、と思うところもある。難しい問題だ。

 そんな風に考え事をしながら作業をやっていた罰が当たったのだろうか、不意に右の人差し指が熱くなった。

「いたっ!」

 思わず人差し指を口に運ぶ。人差し指からは血の味がした。

 どうやら、紙で指を切ってしまったらしい。少しの間、人差し指を口の中で転がした後、口から離し、人差し指を見てみると綺麗にスッパリと横一文字に指を切っていた。傷口からはじくじくと血が溢れ、ずきずきと傷口が痛んだ。だが、鋭く切っていることから、血もすぐにとまるか、と考え、傷口を押さえようとハンカチを探そうと左手をポケットに入れたとき、僕の右手から声がかかる。

「ショウくん、大丈夫?」

 横を見てみると、そこには心配そうな顔をしたすずかちゃんがいた。だが、心配されるほどではない。確かに血も出ているが、しょせん紙で切った傷口だ。そんなに深くないし、血は流れるかもしれないが、明日にはよくなっているだろう。
 すずかちゃんに心配掛けないように笑いながらそう答えようとしたのだが、次の瞬間にはそんなことを答える余裕などなくなってしまった。

 不意に僕の手首を掴んだかと思うと人差し指をそのまますずかちゃんの口の中に含んでしまったからだ。

 あれ? と思う暇もなかった。不意の出来事にあっけに取られてしまった僕はなんの抵抗もできなかった。ただ呆然としていても感覚がなくなったわけではなく、特に指先のような神経が集中している場所は感覚が鋭く、すずかちゃんが僕の傷口を舐めている舌の感触がやけに生々しく感じられた。

 少し温かく、絡まってくる舌の感触に加えて唾液が絡んでくる感触は、僕の思考能力を根こそぎ持っていってしまった。すずかちゃんに声をかけることもできず、ただ彼女が僕の指を加えて傷口を舐め続けるのを見ながら、うるさいぐらいに高鳴る心臓をバックミュージックにして、ただただ呆然としているしかなかった。

 いかほどの時間が経ったのか、僕の呆けた思考回路ではまったく測定ができなかったが、やがてゆっくりと名残惜しそうにすずかちゃんが僕の指を離す。今まで口内にあった指が外気に触れて少し冷たく感じたところで、ようやく僕の思考回路は正常に動き出し、改めてすずかちゃんに声をかけようとしたのだが、正直、なんて声をかければいいのだろうか悩んだ。

 ありがとう、ではないだろうし、ごめんなさい、でもないだろう。なんで? と理由を問うのもバカらしい。ならば―――と考えていたのだが、僕が口を開くよりも先に僕の指からを口を離したすずかちゃんと目が合った。彼女の目はどこか焦点が合っていないようなトロンと蕩けたような目をしており、どこか様子がおかしいことに僕は気づく。熱にうなされているというか、意識がはっきりしないというか、そんな感じの印象を受ける。むしろ、それは僕の状態のような気がするが。

 すずかちゃんの様子が心配になった僕は、再度声を掛けようとしたのだが、今度も失敗した。考えが別の方向に引っ張られたわけではない。単に口から声が出なかったのだ。声を発しようとしても喉が動かないとも言うべきだろうか。しかも、動かないのは口だけではなかった。身体全体が金縛りにあったように動かないのだ。

 転生という現象や魔法に出会っていなかったら、僕はもっと混乱しただろう。だが、経験が人を強くするというのは本当らしい、僕はどうにか冷静を保つことができた。だが、冷静になったからといって事態が好転するわけではない。むしろ、冷静に考えられる分、余計に混乱したというべきだろうか。なにせ、原因が見つからないのだから。助けを求めようにもそのすずかちゃんの様子すらおかしい有様。

 いったい、どうしよう? と悩んでいたところにすずかちゃんから動きがあった。

「……もっと、ほしい」

 そういいながら、ゆっくり近づいてくるすずかちゃん。

 僕の聞き違いでなければ、彼女はもっと欲しいと呟いたような気がするが、一体なにが欲しいのだろうか。僕が彼女に与えたものなど何もないはずだが。

 そんなことを考えている間にも、瞳を紅くしたすずかちゃんがゆっくりと何かを求めるように両手を広げて近づいてくる。避けようにも僕は身体の自由が一切利かない状態であり、なすがままになるしかなかった。やがて、ゆっくりとした動きだったが、すずかちゃんは僕に抱きつくように身体を寄せ、両手を後頭部に回す。人が抱きついたときの体温を身体全体で感じながら、身体自体は動かないのに感触だけはあることを恨んだ。同時にすずかちゃんは首元に顔を寄せているのか、彼女の熱にうなされたような、興奮しているような息遣いで彼女の息が僕の耳をくすぐる。

 だが、恥ずかしさを押さえて、冷静に物事を考えられたのはそこまでだった。何が起きているのか把握しようとしている最中、急に首筋に注射を刺したときのような痛みを感じる。その傷口から血が流れるのが分かり、同時に傷口に這う舌の感触も感じられた。

 そこまで状況が進んでようやく一つの事柄を思い出した。彼女の姉である忍さんのこと、そこから派生する僕の前世の記憶のこと、吸血鬼のこと。そう、僕は知っていたはずだ。すずかちゃんのことは直接知らなくても予想はしていたはずだった。

 ―――月村すずかが吸血鬼であることを。

 彼女たちがどの程度の能力を持っていたかなどはすっかり記憶の果てではあるが、人の血が必要だったことは覚えている。今、僕の血を舐めている理由が、すずかちゃんが吸血鬼であることに起因しているにしても、なぜこのタイミングで? という疑問はある。僕とすずかちゃんの付き合いは3年目だ。もしも、僕の血を吸うタイミングを見計らっていたというのならば、いくらでも機会はあったはずだ。もしかすると、昨日から悩んでいたのはこのことに起因するのか。

 色々、考えを巡らしたかったのだが、彼女に吸われる血の量がどうやら僕の身体に対して限界に達してしまったらしい。まるで睡魔に襲われたように瞼が重たくなる。ゆらゆらと揺れる僕の視界から見えるのは、すずかちゃんの闇のように黒い髪の毛だけだったが、不意に視界が動いた。僕の身体は相変わらず動かないことから、どうやらすずかちゃんが僕に体重を掛けすぎて椅子のバランスが崩れてひっくり返っているというのが正解らしい。ドスンという衝撃と共にすずかちゃんの体重を身体全体で受け止めることになり、非常に痛かった。だが、同時に金縛りが解け、身体に自由が戻る。もっとも、血の吸われすぎで、身体を動かすことはできなかったが。

 すずかちゃんもその衝撃で正気に戻ったのか、すぐに僕の上からどいてくれた。立ち上がったすずかちゃんの顔からは熱にうなされたような表情はなくなっていた。代わりに信じられないようなものを見るような瞳と口の端から流れる僕の血が彼女の顔を支配していた。

 どうしよう、どうしようという混乱と不安がすずかちゃんの表情から見て、取れ、僕は大丈夫だよ、と声を掛けてあげたかったのだが、僕の身体はその行動を許すことなく、先ほどから襲ってくる睡魔にあっさりと降伏してしまい、一言も口に出すことなく僕は意識を失うのだった。



  ◇  ◇  ◇



「ショウくん! ショウくんっ!!」

 誰かが僕を揺らしている。うっすらと開けた瞼の向こうには心配そうに僕を覗き込むなのはちゃんの顔があった。ぼんやりと意識が戻った瞬間、僕は肌寒さを感じて一気に意識が覚醒した。

 顔を上げたときに僕は状況を把握した。

 どうやら、僕は腕を枕にして寝ていたようだ。最後に覚えている情景の太陽はすっかり山の向こう側に姿を隠しており、辺りはまっくらだ。教室もすっかり闇に包まれている。

 だんだんと僕はこの状態になる前の状況を思い出していた。すずかちゃんがいるような気配はない。代わりにいるのはなのはちゃんだ。僕の目の前にはまるで途中で作業を放置したようにプリントの山が残っていた。あまりに自然すぎて、先ほどまでのことは嘘じゃないか、と思う一方で人差し指に張られた猫がプリントされた可愛らしい絆創膏だけが、先ほどのことを事実だと告げていた。

「ショウくん、大丈夫?」

「あ、うん」

 一体、どうなっていたかを思い出していた矢先に声をかけられ、半分気のない返事をしてしまった。だが、なのはちゃんはそれでも満足してくれたようで、安堵の息を吐いていた。ところで、なんでジュエルシードを探しているはずのなのはちゃんがここにいるのだろうか。

 理由を聞いてみると、あまりに僕からの連絡が遅くて様子を見に来たらしい。僕のポケットに入れたままの携帯電話を見てみるとなのはちゃんと恭也さんからの着信履歴が20件程度並んでいた。確かにこれだけ電話してでなかったら、何かあったんじゃないかって心配するだろう。

「いったい、どうしたの?」

 正確なところは僕が聞きたいところである。だが、まさかすずかちゃんに血を吸われちゃいました。彼女は吸血鬼です。なんていうわけにもいかず、疲れたところで寝ちゃった、と答えておいた。だが、その回答もある種の墓穴だったようで、なのはちゃんにはショウくんも無理しちゃダメだよ、と怒られてしまった。前回、なのはちゃんが倒れたときのことを言っているらしい。

 ごめんね、と謝って僕は、教室から出るために立ち上がった瞬間、視界がぶれた。がくん、と膝に力が入らず椅子に再び座ってしまう。まるで立ちくらみだ。先ほど、血を吸われたことが原因とするなら、完全に貧血だろう。

「ショウくんっ!? 大丈夫っ!?」

 オロオロと心配そうな表情で駆け寄るなのはちゃんに対して大丈夫だから、と制止を掛ける。どうやらいつもどおりに動こうとしたのが間違いだったらしい。血が足りなのだから、ゆっくり立ち上がるべきだった。あまり激しい運動もするべきではないだろう。

「お兄ちゃん、呼ぶ?」

「……そうしてもらえるかな」

 おそらく、今の僕が歩いたとしてもよっぽどゆっくりになってしまうだろう。ならば、格好を気にせずに恭也さんに手伝って貰ったほうがいい。身体はともかく幸いにして意識ははっきりしているのだから、それを幸運と思うべきだ。

 その後、なのはちゃんから恭也さんを呼んでもらい、僕は恭也さんに背負われて学校を出た。当然、恭也さんからは、何があった? と聞かれたが、何もありませんよ、と押し通した。何か言いたそうだったが、恭也さんも僕が何も言うつもりをないことを悟ったのだろう、そうか、と一言だけで後は何も言わなかった。

 恭也さんに背負われ、職員室以外に明かりのついていない聖祥大付属小を出たのは七時前だった。校門近くの守衛所を出ようとしたとき、一人の人物が僕たちの正面に立ちはだかるようにして現れた。

「蔵元様、恭也様、なのは様、こんばんは」

「ノエル、一体どうしたんだ?」

 立ちはだかるようにして現れたのは、現代では特殊な喫茶店以外ではお目にかかることはないだろうエプロンドレスに身を包んだ月村家のメイドであるノエルさんだった。僕としては、月村家にはすずかちゃんの用事で行くことが多いのでファリンさんのほうが親しいのだが、ノエルさんを知らないわけではない。

「蔵元様、ご同行願いますか?」

 それは、丁寧な言い方でありながら、有無を言わせない威圧感が感じられた。もっとも、近いうちに接触があることは恭也さんの背中にいながら考えていたことなので、あまり驚くことはなかったが。

「分かりました」

 きっとこれは避けて通れない。ここで拒否したところで、きっと無理矢理にでも連れて行く。いや、恭也さんがいるからそれは無理にしても帰宅した後にでも彼女たちが直接乗り込んでくる可能性は否定できない。なにせ、彼女たちの絶対に漏れてはいけない秘密が一人の小学生とはいえ漏れてしまったのだから。

「ちょっと待ってくれ。ショウくんは気分が悪いんだ。明日じゃダメなのか?」

 恭也さんの背中から降りようとしていたとき、恭也さんが僕の体調を慮ってくれたのかノエルさんに対して一言言ってくれるが、ノエルさんは恭也さんの提案を首を左右に振ることで拒否した。

「申し訳ありません。蔵元様を連れてくるのはお嬢様の絶対命令ですので」

「忍の?」

 怪訝な顔をする恭也さん。確かに状況を理解していなければ、意味の分からないことだろう。しかも、体調が悪くても無理矢理連れて行くみたいなことを言っている以上は、よっぽどのことだと思うのが普通だ。しかし、これが忍さんからの命令ということは、やっぱりあの人も吸血鬼だったんだな、と改めて確信できた。

「ノエル、どういうことなんだ?」

「申し訳ありません。私はこの件に関して話すことを禁じられていますので」

 後は、忍様に聞いてください、と暗にノエルさんは語っていた。ノエルさんはある種メイドの鏡みたいな人だ。その人が、話すことを禁じられている以上、この件に話すことはないと考えられる。恭也さんも何を言っても無駄だと分かったのか、考え込むような表情をしていた。きっと、忍さんが僕にここまでする用事を探っているのだろう。だが、想像がつくはずもない。

「恭也さん、ありがとうございます。僕は大丈夫ですから」

 ある種、これは僕とすずかちゃん、ひいては僕と月村家の問題ではある。いや、問題にしなければならないだろう。彼女たちが僕が知っているように今まで恭也さんにも秘密にしてきた問題なのだから。忍さんが恭也さんに話していないのはきっと理由があるのだから。

「さあ、ノエルさん、行きましょう」

「はい」

 情けないことだが、僕はノエルさんの手を借りて、近くに停めていた車の後部座席に乗り込んだ。ノエルさんが運転席に回っている間、僕は後部座席の窓を開けて不安そうな顔をしている恭也さんとなのはちゃんに顔を合わせた。

「ショウくんっ! 大丈夫なの? もしも、嫌々なら―――」

 なのはちゃんが僕の心配をしてくれるのはありがたいのだが、これは避けては通れない道だと分かっている。だから、僕がいえるのは、一言だけだった。

「大丈夫だよ。だから、また明日。なのはちゃん」

 なおも心配そうに僕を見つめるなのはちゃんをできるだけ安心させるように僕は笑って別れを告げた後、車はゆっくりと走り始めるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 車の中は静謐な空間だった。ノエルさんはもともとメイドとして傍に控えるという立場からだろうか、口数が多いわけではなかったし、僕も今は考えに没頭したかったからだ。

 こうして月村家に呼ばれた以上は、どうやら僕と話をするつもりらしい。ノエルさんが小学校の前で待っていたのは、僕が他の誰かに話さないための予防策だろうか。そして、肝心の話す内容だが、やはり『契約』とやらについてだろうか。もはや記憶の彼方と言っても過言ではない記憶を辿れば、ぼんやりと覚えている契約の二文字。吸血鬼という言葉に付随してついてきた言葉だ。

 確か『とらいあんぐるハート3』では、主人公―――つまり、恭也さんが忍さんと恋仲になったときに聞かれたようなきがする。受け入れなければ、ゲームとしての物語は成り立たないわけだが、これを拒否した場合、どうなっただろうか? えっと……そう、確か記憶を消されるとかなんとかだったような気がする。もっとも、確証はないが、確か殺されるような終わり方ではなかったことは確かだ。

 さて、僕のスタンスだがどうするべきだろうか。僕としてはすずかちゃんが吸血鬼だったところで特に気にしない。それをいうなら、僕は生まれながらにして前世の記憶を持ち、今では魔法使いの卵なのだから。いわゆる一般人と異なるという点で言えば、僕のほうが上なのかもしれない。

 しかし、それは僕の考えだ。向こうはそうは思わないかもしれない。そのための『契約』だろう。

 それにその点が弱みとなっているのなら、僕がそれを握っているというのは、すずかちゃんにとっても僕にとっても居心地が悪いだろう。もしかしたら、今まで通り友達として付き合えないかもしれない。それは、少し寂しい。すずかちゃんは、周りの子たちと違って精神年齢が高い上に本の話なんかもできる稀有な友達なのだから。

 ならば、知らないことにしよう。向こうだって、僕が知らないことにすれば、丸く収まるはずだ。すずかちゃんも僕に遠慮することはなくなるだろう。魔法のこととか話せれば、対等にもなるのだろうが、ユーノくんの了解を貰わなければならないうえにこれ以上、魔法について知っている人間が増えるのはユーノくんにとっても都合が悪いだろう。本来なら、僕たちのような魔法技術を持たない人に魔法を教えることはユーノくんたちの法で違法らしいし。

 こちらが知らないことにすれば、向こうも暗黙の了解としてくれるはずだ。僕は知らない。つまり、僕は誰にも話す意思はなく、秘密にするということだ。向こうも追及してこないし、秘密がばれることもないのだから。相手が見知らぬ人ならまだしも、僕と忍さんの間にはそれなりの信頼関係はあるはずだから、おそらく大丈夫だろう。

 そんな風に考えをまとめながら、僕は月村家の門をくぐった。



  ◇  ◇  ◇



 結論からいえば、僕の考えは甘かったと言わざるを得ない。

 僕を出迎えてくれたのは忍さんだった。だが、その会談の場にはもう一人在席していた。彼女たちの叔母である綺堂さくらさんだ。もっとも、さくらさんは忍さんたちの叔母という割には非常に若かったが。会談は、僕たち三人で進んだ。
 ある程度経った現在、さくらさんから感じる威圧感は確実に部屋の温度を2度は下げていたし、彼女から本気の視線を向けられた瞬間、背筋に悪寒が走り、今も冷や汗が止まらない。

 何でこうなったか分からない。僕は車の中で考えたとおり、白を切って暗黙の了解としてお互いに丸く治めるという方向で忍さんとさくらんの会話を進めていたのだが、何度か「知らない」と繰り返したところで、さくらさんに視線を向けられ、先ほどから感じる威圧感をぶつけられたのだ。

「ショウくんだったかしら? もう一度、聞くわね? あなたは、私たちの秘密を知ったわね?」

 僕に向けられた視線は間違いなく狩人のもので、もしも今度も「知らない」と答えれば、力づくにでも本音を聞かされるだろう。まるで、僕が知っていることに確信を持っているような言い方なのが気になるが、先ほどまでの問答の間に不備があったのだろう。

 ともかく、ここでもう一度「知らない」という度胸があれば、この場は切り抜けられたのかもしれないが、彼女から感じる威圧感を前にして知らない、と答えられるような勇気は僕にはなかった。まさしく、今の僕は腹を見せた犬のような状態だ。つまり、完全な降伏状態。

「さすがに白を切れませんね。はい、その通りです」

 僕がさくらさんの言葉に肯定の意を示すとほっ、と忍さんとさくらさんが同時に安堵の息を吐いた。それはもしかして、僕のことを手に掛けなくてよかったと安堵したのだろうか、と思うと肝が冷えるなんてレベルの恐怖感ではないので考えないようにした。

「そう、よかったわ。素直に答えてくれて」

「ははは」

 答えたというか、答えさせられたというほうが正しいような気がするが。僕は渇いた笑みを浮かべるしかなかった。

 たった一言、それをいうだけだったのに僕の喉はすっかり渇いており、手も冷や汗でぬるぬるだった。僕は、手の冷や汗をズボンで拭うと渇いた喉を潤すためにノエルさんが入れてくれた紅茶を口に含んだ。

「それで、君は何者かしら?」

「へ?」

 さくらさんからの質問の意味が分からなくて、僕は間の抜けた声を上げてしまった。

「普通の小学生が取り乱しも怯えもせず、私たちの前に現れて、しかも、白を切ろうなんてありえるはずないでしょう。いくら君が大人びているといっても、その態度はあまりに異常すぎる」

 まさか、異常とまでいわれるとは思わなかった。いや、異常なことには変わりないのだが。だが、僕が抱えている秘密のうち二つは話すわけにはいかなかった。もっとも、吸血鬼の家系だから片方ならまだしも、もう片方は信じられないだろう。だから、僕はこちらに関しては完全に白を切ることにした。

「買いかぶりすぎですよ。僕はちょっと大人びているだけの小学生ですよ」

「そう。……これを見てもそういえる?」

 まるで悪戯をたくらむ少女のような笑みを浮かべると忍さんに目配せし、忍さんは上着のポケットから『それ』を取り出した。

「それはっ!?」

 思わず僕は過剰に反応してしまった。なぜなら、忍さんのポケットから取り出され、テーブルの上に差し出されたのは僕たちがここ一ヶ月近く探していたジュエルシードそのものだったのだから。

 なぜ、これがここに? と思うと同時に思い出すのは、少し前のジュエルシードの反応が突然消えたときのこと。なのはちゃんは黒い少女から貰ったジュエルシードが月村家で見つけたものだと言っていたが、事実は違ったようだ。どうやら、なのはちゃんが黒い少女から貰ったのは、黒い少女が別のところで見つけたジュエルシードだったらしい。

 どうして、これを? と忍さんたちに尋ねようと視線をテーブルの上のジュエルシードから忍さんたちに移したところ、彼女たちが的を射たというような笑みを視界に映すことになる。
 この時点でようやく僕は、自分の落ち度に気づいた。突然、出てきたジュエルシードに思わず反応してしまったが、あの質問の後に僕の反応は、僕がジュエルシードに関係していることを証明していることに他ならない。

「どうやら、これに見覚えはありそうね。そうよね、これは君が御神の剣士を護衛にしてまで探していたものなのだから。それで、君は何者なの? どうして君はこれを探してるの? 今、この街で何が起きてるの?」

 さて、どうやらさくらさんたちには僕が知っている以上のことがありそうだ。そもそも、僕は彼女たちがこの事件に首を突っ込んでくる意味が分からない。さくらさんたちの様子を鑑みるにこのジュエルシードの危険性は分かっているようだし。
 これは、少し腹を割って話すしかないのだろうか。そうなると、ユーノくんに聞かないと拙いかな。

「ちょっと待ってください。そちらだけ答えを求めるのは不公平です。ここはお互い隠し事なしで話しませんか?」

 本当は忍さんたちの事情だけ聞ければいいのだが、それでは埒が明かない。狸と狐の化かしあいでは話が進まない。そもそも、僕はそこまでの話術を持っているわけではない。だから、僕は念話でユーノくんに了解を得て、忍さんたちとの対談に臨むのだった。

 対談の中で分かったことは、忍さんたちが夜の一族といわれる吸血鬼―――正確には違うらしい―――であること。その身体能力と魔眼という能力ゆえに地域特有の霊術的なことにも関わっていること。驚いたことにこの世界には幽霊が実在し、それを退治するための霊能力者もいるらしい。それらは総じて裏と呼ばれること。恭也さんの剣術―――御神流も裏の一部であること。月村家は海鳴の裏の総括を任されていること。ジュエルシードは襲撃者が狙っていたことなどが分かった。

 こちらから話したことは、ジュエルシードという外の世界の異物が21個あること。それらを発掘した責任者であるユーノくんのお手伝いをしていること。魔法が使えること。主力はなのはちゃんであること。時空管理局という魔法世界の警察がくるまでの中継ぎであること。襲撃者とは先日争ったことなどを話した。

 僅か数時間で僕が今まで知らなかった世界を垣間見ることになってしまった。

「なるほど……そちらの事情は分かったわ」

「ええ、僕もまさかそんな世界があろうとは夢にも思いませんでした」

 世界には表と裏があって、霊能力者がいて、吸血鬼もいて、こっそりと世の中を操作しているなんて思春期の妄想じゃあるまいし、とは思うものの目の前に現実があるのだから仕方ない。

「それで、獣耳を持った女性もいたのね」

「はい、どうやら黒い少女の使い魔のようですが」

 なぜか、さくらさんは黒い少女と一緒に居た獣耳を持つ女性を非常に気にしていた。僕が獣耳の女性が黒い少女の使い魔と告げるとひどく落胆した様子だったが。

「それじゃ、忍。あなた、明日からショウくんたちと一緒に捜索しなさい」

「「えっ!?」」

 驚いた声は、僕と忍さんだった。

「この一件は大きくなりそうだから、月村も関係してないと顔が立たないわ。私たちが後ろ盾になるのもいいけど、これだけ大きな力を持つ宝石ですもの。神咲家やらが出張ってくる可能性もあるから私たちが直接出たほうがいいわ」

 僕たちにお墨付きを与えるよりも、月村家の誰かが同行したほうが都合がいいというわけか。神咲というのは分からないけど、月村家と同じく裏で管理している一族の一つなのだろうか。

 さくらさんの言葉を聞いて忍さんは困惑したような表情をしていた。

「何か問題でも?」

「え? だって……恭也も一緒なんでしょう?」

「ええ、そうですよ」

 美由希さんは高校三年生ということも相まってか、中々放課後に自由になる時間はない。そのため、比較的時間が取れる大学生の恭也さんが殆どだ。美由希さんが出てくるのはたまの休みぐらいだった。

「私、恭也に話すときは契約のときって決めてたのに」

「あら、それじゃ、恭也くんが去年の集まりであなたが言ってた子?」

 さくらさんが尋ねると忍さんは顔を真っ赤にしてコクリと頷いた。

 はて? 契約? そういえば、僕にも聞き覚えがある単語だ。しかし、先ほどの情報交換の中では出てこなかった単語でもある。

「あの、契約って一体なんですか?」

 思い切って聞いてみると、さくらさんは簡単に答えてくれた。
 つまり、簡単に言うと婚約の儀式のようなものだ。自分の秘密を話し、永遠に一緒にいることを約束する誓いの様なものらしい。ちなみに、これを拒否すると魔眼という能力で記憶を消されてしまうらしい。しかも、この範囲が非常に大雑把で、僕の場合だとすずかちゃんが僕の血を吸った場面だけではなく、『月村すずか』という人間に関連することがすべて消されてしまうらしい。つまり、次の日から赤の他人なのだ。実にリスキーな契約である。

「あれ? ってことは、忍さんって恭也さんことが好きだったんですか?」

「そうやってストレートに言わないで」

 あまりにストレートに言いすぎたせいか、忍さんは真っ赤になった頬をさらに赤く染めて俯いてしまった。確かに誰かに自分の意中の人を指摘されるのは非常に恥ずかしいものだ。

「そろそろ、年貢の納め時ではないでしょうか」

 傍に控えていたノエルさんが悪戯っぽい笑みを浮かべて、それに―――と言葉を続ける。

「おそらく、明日にでも恭也様はお嬢様に今日のことを聞きますよ」

 ああ、なるほど。確かに僕が連れて行かれる前の会話は、詳しいことは忍さんに聞け、と言ってるとも取れなくもない。ノエルさんにしては冷たい言い方だな、と思っていたが、そんな裏があったとは。

「ノエルゥゥゥゥゥゥっ!?」

 忍さんの驚いた声を挙げ、僕たちはその声を聞いて笑った。最初の空気とは打って変わって和やかな雰囲気にこの場は包まれるのだった。

 さて、しばらく笑いがリビングを包んだ後、しばらくしてさくらさんが佇まいを正した。

「蔵元翔太くん、今回は、一族のすずかが申し訳ないことをしたわね。謹んでお詫び申し上げるわ」

 そういうと、さくらさんも忍さんもノエルさんも深く頭を下げてくれた。

 すずかちゃんの吸血事件のことをさしているのだろうが、今の会談の中で驚くことや明らかになったことが多すぎて半ば忘れていたが、ここにきたのはそれが始まりだった。
 気にしてないといえば嘘になる。最初はそれなりに驚いたわけだし。だが、こうやって僕よりも大人の人に頭を下げられては何も言えない。そもそも、何かいうつもりもなかったが。

「はい、確かに受け取りました」

「よかったわ。すずかには後から私がちゃんと言っておくから」

「そうしてください。もう一度同じことがあったら辛いですからね」

 血を吸われること自体に忌避感はないのだが、この貧血の状態というのはちょっと辛い。今は、かなり回復したが、最初は歩くこともままならなかったのだから。

「あなたにはお詫びの品を送るからよかったら受け取ってちょうだい」

 どうやら、お詫びの品までくれるらしい。拒否してもよかったのだが、お詫びの品を拒否するのは謝罪を拒否している風にも取れるから、無下に断わるわけにはいかない。だから、僕は「楽しみにしておきます」と言うしかなかった。もっとも、下心ありで言うなら、彼女たちのような人たちからもらえるお詫びの品はそれなりに楽しみだった。



  ◇  ◇  ◇



 コンコンコンと僕は目の前の部屋のドアをノックする。だが、応えは返ってこなかった。部屋の中の主はすずかちゃんだ。どうやら帰ってきてから、忍さんたちに一通り事情を話したあと、部屋に閉じこもっているらしい。僕は、すずかちゃんのことが気になっていたので、帰る前に許可を貰ってすずかちゃんの部屋の前に立っていた。

「すずかちゃん、翔太だけど……聞いてる?」

 応えはなかった。だが、おそらく彼女は部屋の中にいるのだろう。だから、僕は答えが返ってこないのも気にせず、言葉を続けた。

「話は忍さんから聞いたよ。少し驚いたけど、僕はすずかちゃんを拒絶しないから。今日のことも気にしないで……っていうのも無理だろうから、僕は献血したぐらいに思っておくよ。すずかちゃんも輸血されたぐらいに思ってくれていいから」

 あの記憶はなかったことにはできない。ならば、せめて軽い気持ちになれるように思っていたほうが気が楽だろう。

「今日はもう遅いから帰るけど、また明日学校で。今は少し忙しいから無理だけど、もう少ししたら片付くと思うから、そのときは今までのお詫びとかもあわせてお茶会とかやりたいね。お勧めの本とかも読みたいし」

 最近は読書の数も減ってしまった。ジュエルシードの捜索に加えて、魔法の練習に時間を割かれるからだ。時空管理局が来れば、もう少し読書の時間も増やせるだろう。そのときは、ここ一ヶ月ぐらいで新しくできたであろうすずかちゃんの本を読むのもいいのかもしれない。

「それじゃ、また明日」

 僕が背を向けて部屋の前から立ち去ろうとしたとき、制止の声はドアの向こう側から聞こえてきた。

「待ってっ!」

 その声は、すずかちゃんの声に他ならず、僕は足を止めてドアに向き合う。

「ショウくんは、私が怖くないの?」

 半ば震えるような声で、恐怖と不安に彩られた声色で恐る恐るといった様子ですずかちゃんが尋ねてくる。だから、僕はその恐れを断ち切るように間髪入れずに答えた。

「怖くないよ」

 すずかちゃんの心理は大体理解できた。彼女は、吸血鬼―――というよりも他人と違うことにコンプレックスに思っているのだろう。身体的な特徴ではない。ある種の体質に近いコンプレックス。治す事のできないコンプレックス。だからこそ、それを知られたとき、僕から逃げた。傷の手当はしてくれたみたいだけど。

 ここで僕が拒絶したなら、彼女に一生もののトラウマを刻んでしまうところだったかもしれない。
 それに、先ほどの言葉は嘘ではない。驚きはしたが、すずかちゃんのことが怖いとは思わない。

「どうして?」

 実に不思議がった声色の疑問。おそらく、すずかちゃんはずっと正体が知られたら拒絶されると思い込んでいたのだろう。もっとも、ホラーなどに出てくる吸血鬼はすべからく嫌われるし、畏怖の対象として書かれるのだから、仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。

 僕は彼女の質問に答えるために礼儀としては誤っていると知りながら質問で返した。

「すずかちゃんは、その力で僕を無理矢理襲うの?」

「そんなことしないよっ!!」

 ドアの向こうから聞こえる間髪入れない否定の声。

「だからだよ。すずかちゃんとはもう2年の付き合いだよ。そんなことは知ってる。だから、僕はすずかちゃんが怖くない」

 小学生のときの同級生が高校生で再会したときに不良だったとして、小学生のときの記憶のまま話しかけてきたなら、その同級生を怖いと思うだろうか。怖いという感情は浮かばないだろう。彼が自分にはそんなことをしないと分かっているから。僕も同じ理由だ。

 それに―――と僕は続けた。

「すずかちゃんに秘密があるように僕にも秘密があるんだ」

 もったいぶるように数泊おいて、僕はすずかちゃんに自分の秘密ともいえない秘密を告げた。

「実は、僕は魔法使いなんだ」

 ドアの向こうですずかちゃんが息を呑むのが聞こえた。うそ、という信じられない呟きも。

「もっとも、まだまだ卵だけどね」

 茶化すように言う。これで、少しでもすずかちゃんの気持ちが明るくなってくれれば儲けものなのだが。

「そうなんだ、それじゃ、今度魔法見せてね」

「簡単な魔法しか見せられないけどね」

 僕の願いが叶ったのか、ドアの向こうから聞こえてきたのは悲壮に満ちた声ではなく、笑いを含んだ声だった。僕の言葉を冗談と受け取ったのかどうかは分からないが。

「それじゃ、僕は帰るから。また明日、学校で」

「うん、学校で」

 すずかちゃんの声色からもう大丈夫、と確信を持った僕は、すずかちゃんに別れを告げて、月村家をノエルさんの車で後にするのだった。


続く

あとがき2
 確かにこれだけ見ると月村家悪役なので、謝罪を追記。
 メインしか書かなかったのが仇になりました。

あとがき
 プロットを考えるとこのタイミングしかこの話を入れられなかった。



[15269] 第十七話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/05/06 21:22



 月村すずかは、姉の言葉が信じられなかった。

「え……? 嘘だよね、お姉ちゃん」

 嘘だといってほしかった。冗談よ、と苦笑交じりで言ってほしかった。だが、すずかの願いは届かない。真剣な顔をして姉の忍は首を左右に振ったからだ。

「どうしてっ!? どうして、ショウくんに私たちのこと話すなんてっ!」

 ことの始まりは、お風呂にも入って本でも読んで寝ようか、という時間帯に忍に呼ばれたことからだった。忍に呼ばれたすずかは最初は、軽い気持ちで彼女の前に座ったのだが、話が進んでいくにつれて簡単に聞き逃せる事態ではないことに気づいた。
 なにせ会話の内容は、彼女の中では禁忌であった自分の一族について、たった二人しかいない友人の一人である蔵元翔太に話すということなのだから。それが何を意味するのか、姉に分からないはずはないのに。

「すずか、落ち着きなさい。さっきから言ってるけど、ショウくんもこちら側の可能性が高いのよ。それを確かめるために話すだけよ」

「でも、絶対じゃないんでしょう?」

「それは……」

 忍が言いよどむ。もしも、翔太がはっきりとすずかたちのような裏側に所属する人間なら、所属している組織などが詳細にわかっているはずだ。月村、否、夜の一族というのは裏の世界では頂点に近い存在であるのだから。だが、忍はそれを一言も口にしない。ただ、裏側に属する人間である可能性が高いといっているだけだ。もしかしたら、白である可能性もあるのだ。

 すずかにとって蔵元翔太は、たった二人しかいない友人の一人。人と関わることを避けていたすずかにできた、しかも、自分のことを受け入れてほしいと思っていた人物なのだ。このまま彼と付き合っていけば、自分のことを話すこともあったかもしれない。彼と関係を深めるにはすずかの一族の問題は避けては通れないのだから。
 だが、それもすずかの想像の中では、ずっとずっと先の話であるはずだった。少なくとも小学生の間はまったく関係のない話だったはずだ。それが、突然、降って湧いた話だ。すずかが拒否反応を起こすのも無理のない話だった。

 その後も二人で言い合うが、話は平行線のままだった。
 片や月村が裏側を治めている海鳴の街で起きていることを正確に把握したいという夜の一族としての立場を取る忍とせっかくできたお友達を万が一にも失いたくないすずか。どちらも譲らず、妥協点を見出せず、平行線が続く。

「お姉ちゃんのバカッ!!」

 いくら話してもこちらの言い分を理解してくれない姉に憤っていつもは使わないような言葉を捨て台詞にすずかはその話し合いの場を後にした。後ろから忍の待ちなさいっ! という言葉が聞こえたが、そんなもので制止させられることはなかった。

 話し合いの場を後にしたすずかは自分の部屋に戻り、ベットに倒れこむ。今の話が嘘だったらいいのに、と思いながら。

 もし仮に、翔太が裏側に所属する人間だとしたら、それはすずかにとって喜ばしいことだ。自分のような存在も容認してくれるだろうから。
 それに十に満たない幼い年ながらもすずかは、月村が治める土地で裏側の事件を把握するのは大事だということが分かっているし、翔太とアリサ以外のクラスメイトならどうぞご自由に、というだろう。

 だが、翔太とアリサだけは、失いたくなかった。万が一、まったく裏側には関係なくて、あのバケモノを見る目で見つめられることが嫌だった。記憶を消されて、自分を赤の他人に見られることが嫌だった。一人になるのが嫌だった。

「どうしよう?」

 すずかの明晰な頭脳は、このまま自分が拒否してもいずれ翔太との会談があることを理解していた。一族の大事と自分の我侭。天秤に乗せたとき、どちらに傾くなど考えるまでもない。すずかの友人など、夜の一族から大事の前の小事なのだから。
 忍の言い分を受け入れても、拒否しても導かれる結果は変わらない。だが、翔太の立場がはっきりしない以上、万が一にでも翔太がなにも関係ない人間である可能性があるのなら、その結果は回避したかった。

 だから、すずかは考える。夜の一族と蔵元翔太の会談という結果を回避する方法を。だが、経験が浅いすずかに回避する方法など簡単に見つけられるはずもなく、考え込んでいるうちにすずかは自分のベットの上で眠りに落ちてしまった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはにとって一番大切な時間は放課後の数時間だった。

 なのはにとって唯一の友人である、友人と言ってくれる翔太と一緒にいられるこの時間、この時間だけがなのはの心のよりどころだ。この時間を得ることを思えば、辛い朝の訓練にも耐えられたし、いくらでも強くなろうと思える。だからこそ、この時間を邪魔する子にいい感情が浮かぶはずがない。

 なのはが翔太の隣を歩きながら、下足場へ向かっている途中、職員室の方向から重そうにプリントの束を持って歩いている少女が目に入った。なのはの覚えが正しければ、昨日、ジュエルシードが発動した家に居た子だったはずだ。あの金髪の子と一緒にいたような気がする。そして、憎たらしいことに翔太の親友を自称する子だったことを思い出していた。

 そんな重そうな紙の束を持って運んでいる女の子を翔太が放っておくはずがない。その少女に翔太が駆け寄り、何かを話していた。どうやら、図書委員の仕事で大量の紙の束を運んでいたらしい。

 そんなのどうでもいいから、行こうよ、となのはは翔太に言いたかった。だが、なのはが翔太に対してそんな風に言えるはずがない。その女の子と話している翔太だったが、もし、その子と話すことを中断させて、翔太を不快にさせたら、それはなのはにとって一大事だ。だから、こうして事情を聞いている翔太の後ろ姿をなのは見ているしかなかった。

 話が進むにつれて漏れ聞こえる声で、どういう状況か分かってきた。つまり、彼女はもう一人の図書委員に逃げられて、一人で図書館便りを作らなければならないらしい。

 嫌な予感がした。いや、それは確認に近い。なのはがよく知る翔太ならば、こんな状況で、彼女に別れを告げるという選択肢はないと知っていたから。それでも、それでも、なのは、黒髪の彼女よりも自分を選んでほしいと願った。だが、その願いが届くことはなかった。

「ごめん、なのはちゃん、僕、すずかちゃんを手伝ってから行くから、先に行って探しててくれないかな?」

 ―――その子がやる仕事なのに。逃げた子が悪いのに。どうしてショウくんが。一人で作らせれば良いのに。これからショウくんと一緒にいられる時間なのに。

 なのはの中にいくつもの不満が生まれる。だが、それを翔太に言うはずもない。手伝うということは、翔太が決めたことだ。翔太が決めたことに否と言えるはずがない。だから、なのはは演じる笑みで翔太に告げる。

「うん、分かった。早く来てね」

 その笑みの下にどうしようもない苛立ちを隠しながら。



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかは、翔太が手伝ってくれることに歓喜と困惑を隠せずにいた。
 もう一人の図書委員に逃げられたのは腹が立つ。気づいたら逃げ出していたのだ。彼は、本が好きで図書委員になったわけではなく、なりたかった委員会に入れなかったためにじゃんけんでこちらに回ってきたのだから、あまりやる気がないのは納得できるが、それでも作業はきちんとやって欲しいと思う。

 正直、この作業を一人でやるのは億劫だったので、翔太が手伝うと言い出してくれたのは有り難かった。だが、同時に昨夜の姉の言葉が、すずかの胸の中に棘として刺さる。もしかしたら、もうすぐ失うかもしれない友人にどう接して良いのか分からなかった。
 昨夜から今日までずっとどうやったら翔太を会談に行かないように仕向けられるだろうか、と考えていたが夜の一族特有の頭脳を使っても名案は中々生まれない。
 今日もずっと考え込んでいたのだが、どうやらその空気を翔太は感じ取ったようだ。いつもなら他愛もない話をしながら進めるであろう作業も今日は無言で黙々と行われていた。
 その気遣いが有り難い反面、寂しいという感情も生まれた。もしも、すずかが何も考え込んでいなければ、きっと翔太は最近読んだ本や取りとめもない話をすずかにしてくれるだろう。気を使ってくれるのは分かるが、無言というのはただただ寂しいだけだった。

 それに気づくと同時にもう一つのことにも気づいてしまった。つまり、万が一、夜の一族との会談の後、翔太が白だと分かれば、あるいは、黒だとしても会談の内容が失敗すれば、この状態がずっと続くのだと。翔太にとって月村すずかという存在は、好意でも、嫌悪でも、嫉妬でも、羨望でもない、ただの道端に転がる石ころのような無関心だ。
 もはや名前で呼んでもらう事も叶わず、赤の他人として扱われる。それが日常に変わるということを示していた。

 ―――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だよぉ。

 それに気づいたすずかは心の中でそれを拒否した。人を近づけまいとしていたすずかにようやくできた心を許せる友人。昨日までは一緒に笑って、名前を呼んで、他愛もない話をしていた友人が次の日から赤の他人になる。それは、幼少の頃にコンプレックスで自らの殻に閉じこもり孤独だったすずかがここ二年の友人がいる生活に慣れてしまった今、その孤独は、耐え切れるものではなかった。

 どうしよう、どうしよう、と紙の束を無意識のうちに二つ折りにしながらすずかは考える。だが、その問いは昨夜から繰り返している問いだ。ここ数分で答えがでるほど簡単なものではない。だがしかし、それでも、と一筋の光明を探してすずかは考える。

 必死に考え込みながらも手を動かすすずかの耳に不意に翔太の声が耳を打った。

「いたっ!」

 久しぶりに聞いた声が痛みを訴える声というのも何とも色気のないものだが、それでも痛みを訴える声に反応しないわけがなかった。慌てて、すずかが翔太の方を見てみると、翔太は右手の人差し指を銜えていた。

「ショウくん、大丈夫?」

 ちょうど、口から人差し指を離し、何かを探すようにポケットに手を突っ込んだ翔太に声をかけるすずか。同時に目に入ったのは、翔太の人差し指だ。第一関節より上の腹の部分が紙で切ったのだろう、少し切れており、そこから血が流れているのが目に入ってきた。

 それは無意識の行動だった。怪我をしたときの対処法をすずかが実行したのか、あるいは彼女の中に脈々と流れている吸血鬼の血が反応したのか分からない。だが、気がつけば、すずかは翔太の手首を手に取り、未だ血の流れる人差し指を銜えていた。傷口を舐めるように舌の上で転がす。同時に舌の上で感じられるのは、翔太の傷口からじくじくと流れている血の味だった。

 その血の味を感じたとき、すずかの体が沸騰したように一気に熱くなった。今まで考えていたこともすべてどこかに吹き飛び、ただ翔太の傷口から流れる血の味を味わうことしか考えられなくなっていた。
 しばらく、翔太の血の味を味わっていたすずかだったが、やがてその味に慣れてきたのか、少しずつ考えるという能力が戻ってきた。もっとも、その思考回路もまるで酔ってしまったようにはっきりとしないものだったが。

 ―――あれ? 私……なにやってるんだろう?

 ぼんやりと戻った意識の中で考える。その間も翔太の血の味を堪能していた。しかし、その血の味がすずかに何をしていたかを思い出させる。

 ―――ああ、血だぁ。

 それはすずかにとって忌むべき行為だったはずだ。だが、今の酔ったような思考回路では忌むべき行為への嫌悪感を感じることはなかった。そんな中ですずかの中に生まれた先ほどの疑問への一つの解答があった。つまり、どのようにしてすずかを忘れないようにするか。

 ―――嗚呼、そうか。忘れられないようにすればいいんだよ。

 たとえ恐怖でもいい。たとえ忘れられようとも、すずかを見れば即座に思い出せるような何かを魂にまで刻んでしまえばいい。そうすれば、翔太はすずかを忘れない。それがたとえ、嫌悪と恐怖であってもだ。
 その解答は、すずかが望んだ結末への解答ではない。だが、酔ったような思考と血を味わうことで生まれたもう一つの欲求を正当化するためのものなのかもしれない。

 つまり、すずかが今、行っている吸血という行為は恐怖を刻むにはおあつらえ向きだということだ。

 すずかは、しばらく舐めたせいか、あまり血が流れなくなった翔太の指から口を離すと自らの力の一部である魔眼を生まれた本能によって解放するとまっすぐ翔太を見つめた。彼にかける命令はたった一つでいい。すなわち―――

 ―――動くな、と。

 すずかが願うだけで、彼の身体は動かなくなった。そして、彼女が忌み嫌いながらも彼女の一部である吸血鬼としての本能がまっすぐ口を翔太の首筋へと近づける。普段は隠している鋭い八重歯を生やし、狙いを定めると翔太の首筋へと噛み付く。
 噛み付いた場所からじくじくと染み出してくる彼の血液。彼がうわ言のように何かを言っているが、今のすずかの耳にはまったく何も入ってこなかった。ただ、彼の血を飲むことだけに意識を集中させていた。

 口から流れ込んでくる翔太の血液は、おいしかった。まるで芳醇なワインのような香りを漂わせ、喉越しはいつも飲んでいる輸血用のパックとは比べ物にならなかった。

 しばらくは、それに集中していたのだが、集中しすぎたとでも言うべきだろう。気づかないうちに彼女は翔太のほうへとしなだれすぎたのか、翔太が座っていた椅子のバランスが崩れ、ゆっくりと傾いていってしまった。そのまま、二人は重なりながら床に叩きつけられるように転んでしまう。

 それが転機だった。椅子ごと倒れこんでしまった衝撃で、すずかの思考回路がいっきに元に戻った。当然、今まで何をしていたかを正確に記憶したままで。今まで自分がバケモノである部分を忌み嫌っていたすずかがそのことを許容できるはずがない。

「あ、あ、あぁぁ」

 倒れこんだ格好からはすぐに起き上がることができたが、目の前にある惨劇を目にして、すずかは声を出すことができなかった。
 椅子と共に倒れこみ、首筋からまだ染み出すように血を流す翔太の姿。

 何が恐怖でもいいから忘れないようにする、だ。そんなことは意味がない。すずかが望んだのはただ忘れてもらわないというだけではなく、今日という日々の継続だったのに。それだけを望んでいたのに。それを自分で粉々にしてしまった。もしかしたら、回避できたかもしれない未来を自分で作ってしまった。

 すずかの頭の中は混乱しており、現状把握だけで一杯一杯だった。だが、夜の一族として吸血行為は当然のことで、それが原因だろうか、一部冷えたように冷静だった部分がすずかに次の行動を取らせていた。混乱する頭で身体を必死に動かして、翔太を椅子に座りなおさせ、机にうつ伏せの状態にし、人差し指からまだ血が流れているのを見て自分のポケットにあった絆創膏を張っておいた。これで、翔太が夢だったと思ってくれればいいのに、と甘い幻想を抱くが、冷静な部分がそれを即座に否定する。

 とりあえずの片づけを混乱する頭で行ったすずかは、今すぐにでもこの場を離れたかった。自分が犯した罪から逃げるために。どちらにしてもこんなことになった以上、姉に言わなければならないと思いながら。携帯電話を使えばいいのだろうが、今のすずかはそんなことに気を使う余裕もなく、お稽古のために待ってもらっているノエルの元へと駆けるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 妹のすずかからありえない報告を聞いた月村忍はため息をはきながらソファーに沈み込んだ。

 どうしよう、どうしよう、と動揺しているすずかに対しては部屋に戻っておくように言った。あのままでは、何をするか分からない上にいたとしても邪魔になるからだ。

 すずかが忌み嫌っている吸血という行為に陥った理由を忍は考えていた。思いついたのは主に三つだ。
 一つは、すずかの精神状態だ。昨日の翔太に関すること。今朝は忍を避けるように学校に出たからよく分からないが、それでも友人を失いそうになった恐怖に不安定だったことは容易に想像できた。

 一つは、時期が悪かった。よくよくカレンダーを見てみると今日は吸血の日だ。吸血と言っても街中に出て人を襲うわけではない。輸血用の吸血パックからストローを刺して飲むのだ。つまり、先ほどまでは吸血が不足していたといっていい状態なのだ。吸血は夜の一族にとって吸血は人間の三大欲求―――睡眠欲、食欲、性欲―――に匹敵するほど耐え難いものである。叔母のさくらは一時期吸血を拒否しても生きられたが、それは人狼族の血が入っているからだ。忍やすずかがまねすれば、一ヶ月もしないうちに吸血事件として海鳴の街を騒がせるだろう。

 最後の一つは、時間帯だ。一時間ほど前といえば、ちょうど日の入り手前であり、逢う魔が時である。昼と夜の境目であり、精神的な不安定さに拍車をかけたのかもしれない。

 もろもろの理由が考えられるが、原因追求をやっている時間はない。クラスメイトに夜の一族のことがばれたのだ。夜の一族としては一大事だ。なにせ、ここから事実が漏れていけば、一族存亡の危機にさえ陥ってしまうのだから。

 ―――さて、どうしたものかしらね。

 忍は考えをめぐらせる。相手はすずかの同級生。つまり、小学生だ。これが普通の小学生であれば、すぐさま確保して魔眼で記憶を操作して、家族に仕事と引越し代金もろもろを渡してあっさりと解決するはずだった。だが、相手は蔵元翔太。現在、月村家がマークしている小学生で、昨日の侵入者と関係があるであろうと見受けられている人物。簡単に記憶を消しておしまい、とはならない。

 ―――はあ、本当、ややこしい。

 本当ならもっと穏便にことは運ぶはずだったのに。妹の暴走のせいで、事態が急展開だ。もっとも、その原因を作ったのもある点から鑑みれば自分なのだから、自業自得とも言えるかもしれないが。

 とりあえず―――この件に関して少し関わっている綺堂さくらに連絡しようと忍はソファーから立ち上がった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは自分の部屋で突然降ってきた事実に驚愕していた。

 事の始まりは、今日の夕方、先日の屋敷のメイドが翔太をつれて帰ったことに起因している。あの場は、翔太が大丈夫というから見送ったが、その後、やはり翔太のことが気になった。
 翔太が大丈夫という以上は、その言葉を信じるべきなのだろうが、やはりメイドの強引さが目に付く。翔太も素直に仕方ないとしたがっていたことも気になる。もしかして、何か弱みでも握られ、無理矢理連れて行かれたのではないか? そういう疑念がなのはの中に生まれたのも無理はないことだ。
 だが、そんなものは何もなく本当に大丈夫だったとしたら? それは、翔太の言葉を信じなかったなのはの翔太に対する裏切りである。もしかしたら、それが原因で嫌われるかもしれない。今までの関係を壊してしまうかもしれない。
 万が一にでも翔太に嫌われるかもしれない可能性が以上、なのはが直接出向いて手を出すわけにはいかなかった。

 そこで、相談したレイジングハートが出したのは、サーチャーと呼ばれるものを放出する魔法だ。これならば、魔力をもたないあのメイドたちには見破られない上に翔太も気づけないほどの魔力で翔太の様子を見ることができる。今のなのはにとってうってつけの魔法だった。

 月村家の場所は覚えている。すぐになのははサーチャーを飛ばし、そして、先の驚愕に繋がる事実を知る。

 ―――先日に出会った少女の一人が吸血鬼というバケモノだったという事実に。

 その事実に呆然としたのも一瞬、すぐさまレイジングハートを起動させ、杖を片手に窓から飛び出そうとした。あの場所は、吸血鬼というバケモノたちの巣穴。翔太がその場にいたらどんな危害を与えられるか分からない。しかも、既に翔太はあのすずかといわれていた女の子―――なのはの中では姿と名前が一致しなかった―――に血を吸われた後だという。

 ―――許せない。

 そのことを聞いて燃え上がったのは憤怒の炎だ。なのはにとって翔太はかけがえのない友人であり、なのはを唯一認めてくれる人なのだ。そんな翔太を傷つけられて、怒らないわけがない。
 今すぐにでも空を飛んで月村家へ向かおうとしたなのはの足を止めたのは意外にもその翔太だった。

 翔太が月村家からの謝罪を受け入れたからだ。それは翔太が月村家を許すといっていることに他ならない。

 さすが、ショウくん、と翔太の器の大きさを賞賛する気持ちがある一方で、強制的に連れて行かれ、相手のフィールドで断われず、無理矢理言わされているのではないか、騙されているのではないか、と疑念が沸いてくる。だからこそ、動けなかった。前者の場合、ここでなのはの力を振るうことは、翔太の決定を反故することを意味しているからだ。
 しかも、前者であることを裏付けるように翔太は、彼女たちと笑って会談している。

 これで本当に今すぐ、月村家に向かって力を振るうわけにはいかなくなった。なのはの力は、翔太に嫌われるために振るわれるものではない。翔太とずっと一緒にいるために、翔太から褒められるために使われるものなのだから。

 だから、なのはは起動させたレイジングハートを再度元の宝石に戻し、窓に足を掛けた状態だったが、再びベットに腰掛け、様子を探るようにした。

 どうやら、翔太はすずかという子のところへ向かうようだ。サーチャーに後を追わせ、そこでなのはは思いがけない言葉を聞くことになる。

 ―――また明日、学校で。

 それはなのはにとって大切な言葉だ。初めて翔太からかけられた言葉だ。友人として夢に見ていた言葉だ。
 それをすずかという少女は簡単に翔太から投げかけてもらっている。

 ―――どうして、どうして、どうして?

 彼女は、翔太を傷つけた元凶なのに。吸血鬼なんてバケモノなのに。どうして、彼女は翔太からあんなにも簡単になのはがずっと夢に見ていた言葉を再びかけられているのだろう。

 それがなのはには疑問で、羨ましくて、悔しくて、忌々しくて、様々な感情が渦巻く。その中で一番大きかったのは、口惜しさだ。だが、それを晴らす方法はなかった。いや、力はある。だが、今、翔太は笑っている。そこへなのはが力を振るえば、嫌われるのは目に見えている。だから、なのはは動けなかった。

 翔太がメイドが運転する車に乗り込んだのを見送ったなのはにできたことは、下唇を噛んで、胸の底からじくじくと溢れてくる口惜しさに耐えることだけだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村忍は、終わったぁ、という安堵感と共にどさっ、とソファーに座り込んだ。

「ふぅ、終わったわ」

「そうね」

 翔太の会談は、比較的上手くいったというべきだろう。情報は取れたし、こちら側の事情を言いふらすつもりも、脅すつもりもなさそうだ。上手く行き過ぎて怖いような気がするが、今は喜ぶべきだと思った。
 だが、それにも関わらず叔母―――というには若すぎるが―――のさくらは浮かない顔をしていた。

「どうしたの? 浮かない顔して」

「いえ……あの子、最初から私たちのこと知ってたんじゃないかと思ってね」

 突然のさくらの言い方にしばし言葉を忘れてしまう忍。それもそうだろう。事情は先ほど説明したばかり。彼がこちら側というよりも秘密にすべき世界に無意識のうちに飛び込んでしまったのは、つい一ヶ月程度前。それまでの彼の経歴は調べたように真っ白だ。しかも、飛び込んだ後の一ヶ月はほとんどが海鳴の街の捜索に使われている。一体、どうやって彼が夜の一族のことを知ったというのだろう。

 だから、忍はさくらの言葉を笑い飛ばした。

「そんなわけないじゃない」

「だったら、彼の態度になにも感じなかった? 血を吸われて、半ば強引に連れてこられて、脅すように言質をとった。それでも彼はこちらに対して友好的な態度を崩さなかった。なぜ? 私が脅すように睨んだときも、怖がっていたけど、その後から恐怖の色を見せることはなかったわ。むしろ、納得しているみたいだった。仕方ないか、と」

 確かにいわれてみると疑念が沸いてくる。半ば脅すような会談になってしまったのは、公的機関のように夜の一族が舐められるわけにはいかないからだが、そのことに関してもまるで心得ているように動揺を見せなかった。いくら翔太が大人びた小学生だからといってもありえないような気がする。二年間、妹の友人として付き合ってきたから当然のように思っていたが、やはり翔太の態度は異常なのだ。

「彼にはまだ裏があるような気がするわ。だから、忍。彼を警戒しておいてね」

「え? まさか、そのために?」

「保険よ。あそこまでして友好的な態度を崩さなかった以上、こちらに他意はないんでしょうけどね」

「それじゃ、ジュエルシードを渡さなかったのは?」

 実は、忍たちは翔太にジュエルシードを渡していなかった。魔力を持っていない月村家が持っていても無用の長物だ。いや、町一つが崩壊しかねないほどの力を持っているものなど、災厄の種にしかならないよう気がするのだが、さくらは渡さなかった。翔太もこればかりは少し渋ったが、最終的に渡すことを約束に今回は引き下がった形だ。

「それは、時空管理局という組織に対するカードね。時空すら超えるんですもの、技術もすごいんでしょうね」

 つまり、交渉の糸口にしようというわけだ。迷惑料ともいう。
 現状、夜の一族が経営するグループにおいて技術の知的財産というのは出し惜しみするほどに存在している。メイドをしているノエルという機械人形一つ見てもそこに込められた技術など現在使われている技術とは天と地ほどの差があることが分かる。だが、持っていて損はない。何よりも技術という点から見れば、忍も興味深いところではあった。

「それにファーストコンタクトは大切よ」

「なるほどね。了解したわ」

 やはり夜の一族でも幹部に近い人は考えが違うわ、と一手一手に対する考え方の違いを見せられて降参とばかりにもろ手を挙げるしかない忍だった。

「あ、ところで、お詫びの品ってなんだったの?」

 不意に思い出した翔太との会話の中の一言。だが、忍はそんなことは初耳だった。だから、聞こうとずっと思っていたのだ。そして、さくらからの答えは―――

「大人なら現金が一番なんでしょうけどね、彼は断わりそうだったから、物にしておくわ」

「へ~、で、何を送るつもりなの?」

「彼も血が足りないでしょうからね、最高級のレバーを送るわ」




  ◇  ◇  ◇



 翔太にまた明日の言葉を告げたすずかはベットにうつ伏せに飛び込んだ。

「あは、あははははは」

 先ほどの会話を思い出したのか、思わず笑みがこみ上げてくるすずか。

 もう終わったと思っていた。翔太の記憶は消され、明日からはただの赤の他人として接するのだと思っていた。だから、忍に事情を話してからは、ずっと一人でベットに蹲って絶望のうちに泣いていた。悲しくて、翔太に申し訳なくて、明日からが怖くて、それらを思うだけで涙が止まらなかった。

 だが、状況は翔太がすずかの部屋を訪ねてきたときから変わってしまった。なぜそうなったのか分からない。だが、確かに翔太は部屋にやってきた。いつもの静かな落ち着いた声と共に。
 一瞬、自分が見ている夢だと思っていた。だが、違った。手の甲を抓ってみても痛かったし、気配は確かに感じられたから。信じられなかったが、それでも確かに翔太はそこにいた。しかも、すずかにとってさらに信じられない言葉を口にした。

 ―――僕はすずかちゃんが怖くない。

 自分が魔法使いという冗談まで用意してすずかを受け入れてくれた。

 嬉しかった。秘密が、自分が吸血鬼だということがばれてしまったら、きっと拒絶されると思っていたから。ずっとそう思っていたから。だが、その考えを翔太が真正面から壊してくれた。

 ―――また明日。

 その言葉がまだすずかの中に残っている。明日からも今日と同じ日々が送れるかと思うと嬉しい気持ちがこみ上げてくる。
 ここで初めてすずかは自分が泣いていることに気づいた。もう泣く必要はないのに。嬉しいときでも涙が流れてくるものだと小説の中でしか知らなかったことを体感していた。

 それがおかしかった。泣く必要なんてどこにもないのに。明日からも今日と同じ日々が送れるのだから。朝はアリサと一緒に登校しよう。教室で翔太と合流して、まずは今日のことを謝ろう。お昼のお弁当を一緒にしよう。放課後は塾へと向かおう。休日は時々お茶会をやってもいい。そういえば、今まで一回もないが、一緒に図書館に行くのもいい。

 明日からも同じ日々が続くという安心感が生まれると次々と湧き出してくるやりたいこと。だが、そこでふと気づいた。

 ―――今までと一緒? 本当に?

 違う。違う。少なくとも今までと一緒ではないだろう。翔太は、自分の秘密を知った。それでも、受け入れてくれた。ならば、ならば―――

 ―――もっと、仲良しになってもいいのでは?

 今までは、心のどこかでブレーキがかかっていた。それはもしも、万が一にでもすずかの正体がばれてしまったときに別れが辛くなるから。だから、できるだけ仲良くならないように、深入りしないようにすずかは努めてきた。だが、翔太に対してはもうそのブレーキを踏まなくてもいいのではないだろうか。彼は自分の正体を受け入れてくれたのだから。

 本当は、友達と一緒にやりたいことが一杯あった。だが、それは危険性を考慮して見送ってきた。でも、明日からは、翔太と一緒にそれができるのではないだろうか。もっと、仲良くすることができるのではないだろうか。アリサが呼ぶように親友になれるのではないだろうか。

 すずかの中でたくさんの期待が膨れ上がる。あんなに酷いことをしたのに。受け入れてくれた翔太ならそれが可能なような気がして。だから、すずかは泣きつかれて、まどろむ意識の中で思った。

 ―――もっと、ショウくんと仲良くなりたいなぁ。

 そんなことを思いながら眠りにつくすずかを窓の向こう側から満月に近い月だけが見守っていた。
 彼女にいと高き月の恩寵のあらんことを。



続く

あとがき
 吸血鬼の幸せを願うには最後の一文しかないと思います。
 次回はフェイトのおしおきからです(裏からです)



[15269] 第十八話 裏 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/05/11 22:14
注意:フェイトさんが酷い仕打ちを受けているので、罵詈雑言、暴力が嫌いな人はこの話を読み飛ばしてください。次回でも状況は説明します。少々気分を上げて読むことをお勧めします。



 アルフは、言いようのない怒りを抑えながら、主であるフェイトの湿布を変えていた。

「いたっ」

「ああ、ごめんよ、フェイト」

 湿布を変えている途中、怪我をしている部分に触れてしまったのだろう。フェイトが痛そうな素振りを見せ、アルフが申し訳なさそうな声を挙げる。フェイトに湿布を張っている部分は、一番手ひどくやられた右肩。そのほかの部分も打ち身やら擦り傷やら満身創痍だったが、一番酷い右肩に比べればそれほど酷いとはいえなかった。
 一番手ひどくやられた右肩は、バリアジャケットが功を奏したのか骨に異常はなかったが、それでも相当打ち付けられたようで、未だに肩より上に腕が上がらない状態だった。

「なあ、フェイト……あんな鬼婆のためにまだ続けるのかい? こんな怪我しても連絡一つよこしてこないヤツのためにフェイトが頑張ることないって。それにまたあの白いヤツに遭遇したら、今度はこんな怪我じゃすまいかもしれないよ。ねえ、二人で逃げようよ。あたしは、フェイトがいてくれればいいんだから」

 怪我をしているフェイトの肩に包帯を巻きながらアルフが進言する。

 主であるフェイトが怪我をしてもジュエルシード探しを諦めないのは彼女の母親のためだ。だが、アルフはフェイトの母親―――プレシア・テスタロッサ―――が好きではなかった。フェイトに魔法の勉強を強要したにも関わらず、寂しがっているフェイトに顔さえ見せない母親。そんな母親のためにフェイトが傷ついてまで何かする必要があるとは到底思えなかった。

 アルフの進言を聞いたフェイトは少し困ったような顔をしてアルフの頭を撫でる。元来が狼だったこともあってだろうか、頭を撫でられるのが気持ちいいアルフは目を細めてフェイトの手を受け入れていた。

「ごめんね、私がしっかりしないからアルフに心配掛けちゃう」

 アルフに向けていた視線を少し上の棚に向けるフェイト。そこには一つの写真たてがあった。フェイトの母親であるプレシアと今のフェイトよりも幼い感じの少女が並んで立って写っている。その写真に写ったプレシアは少女の肩に手を置き、穏やかに微笑んでいて、傍目から見ても娘を愛している母親だと分かる。

 その写真を一瞥してフェイトは、でも―――と続けた。

「私は母さんの願いを叶えてあげたいんだ。母さんのためにも、そして、多分、私のためにも」

 それはアルフも分かっている。フェイトが彼女の母親の笑みをもう一度取り戻すために、そのために必死に頑張っていることを。夜、眠る時間も削って広域探査を行い、ジュエルシードを必死に探し、慣れない地球での生活を送っていることを。

 だが、そんなに必死に頑張っているフェイトだったが成果はまったく上がっていなかった。現在、フェイトの手持ちのジュエルシードは0個。必死に探しているのに、努力しているのに一つもジュエルシードを得ることは叶わなかった。いや、正確には何度か機会はあったのだが、ことごとく邪魔が入ってしまったのだ。

 一つ目は、ある家の庭で猫に憑依しているのを見つけ、封印までは上手くいったのだが、現地の人間に邪魔されて結局、ジュエルシードを得ることはできなかった。そのときは、フェイトは丸一日半眠り続けて、アルフはこのままフェイトが死んだら、と生きた心地がしなかった。

 二つ目は森の奥で見つけた。近くに温泉といわれる施設があり、フェイトと一緒に入浴し、ジュエルシードも見つけることができた。だが、そのジュエルシードは昨日戦った白い魔導師に奪われてしまった。

 アルフが昨日の戦闘で見た光景は身の毛がよだつ光景だった。

 白い魔導師は、バインドでフェイトを拘束しながらデバイスを誘導弾でお手玉のように上空に打ち上げ、止めとばかりに収束魔法の発射準備に入っていた。もしも、あそこでアルフが割って入らなければ、現在自己修復中のバルディッシュは粉々に砕け散っていただろう。そして、一番恐ろしかったのは、バルディッシュを守った後に見た白い魔導師の表情。彼女の表情からは敵意しかなく、その目は何物も吸い込みそうな深い闇の色を浮かべていた。
 あの白い魔導師は、バリアジャケットがそこそこ煤けていたとはいえ、フェイトを満身創痍にしてしまうような魔導師だ。おそらく、時空管理局の執務管クラスなのだろう。そんな魔導師がどうしてこんな管理外世界にいる? そんな疑問が浮かんだが、逃げること最優先でこのアジトに逃げてきたのだ。
 アルフの狼としての本能に従った結果だったが、帰って来てフェイトの怪我の具合を見ると、それは正解だったようだ。あのまま、アルフが勝負を挑んでも負けは確実。フェイトと共にやられていたのはほぼ間違いないのだから。

 アルフは、フェイトと一緒に逃げたかった。おそらく、ジュエルシードをこれからも探す以上、あの白い魔導師と戦うことになるだろう。だが、アルフとしてはもう二度とあの白い魔導師とは戦いたくなかった。フェイトを容赦なく叩き伏せた相手だ。今度も同じ、いやもしかするとそれ以上の結果になるかと思うとぞっ、とする。

 だからこそ、アルフは、この件から逃げることを進言するのだ。主であるフェイトの願いが分かっていながら。なぜなら、アルフが望むのはただただ主であるフェイトの幸せ。彼女が心の底から笑っている姿なのだから。



  ◇  ◇  ◇



 フェイト・テスタロッサは、不安と喜びの間で揺れていた。

 不安は、母親から言われたジュエルシードの回収が一つも叶えられていないこと。喜びは、久しぶりに母親と会えることだ。どちらが強いとも言えない。久しぶりに母親の声が、顔が見れることに喜びを感じる部分が多いときもあれば、一つもジュエルシードが得られなかった、と告げて悲しむ母親を思うと不安になる部分もある。

 だから、それらの不安な部分を和らげようとフェイトは、使い魔のアルフと一緒に買い物に行っていた。

「しかし、こんなものであの人が喜ぶかね?」

 フェイトが大切そうに持っていた袋を持ち上げ、不思議そうな顔をする。

 袋の中身は、近所で有名なお菓子屋さんで買ったシュークリームだ。おいしいと評判だから、きっと母さんも気に入るはずとフェイトが時の庭園に行く前に買いに行ったものである。

 使い魔であるアルフはどうやら母親のことが嫌いらしい。それがフェイトにとっては悲しかった。自分は、こんなに母親のことが大好きなのに。アルフのことも大好きだからこそ、フェイトは母親のことも大好きになってほしかった。

 ―――今回のことで少しでもアルフが母さんのこと好きになってくれたら良いな。

 そう思いながら、フェイトは母親が待つ時の庭園への扉を開いた。



  ◇  ◇  ◇



 プレシア・テスタロッサは、目の前で震えている少女が口にした言葉が信じられなかった。そう、いくら失敗作とはいえ、そこまで酷いはずがない。ただの聞き間違いだろうと思い、もう一度、聞き返す。

「ごめんなさい、フェイト。母さん、ちょっと聞こえなかったみたい。もう一度、答えてくれるかしら? ジュエルシードはどうしたの?」

 尋ねるプレシア。だが、目の前の流れるような金髪をツインテールにした少女はオドオドと俯き、身体を震わせるばかりで、何も答えない。いや、答えてはいる。かすかに口を開いているのが分かる。だが、その声は聞こえない。聞こえるほど大きな声ではない。

「聞こえないわ。フェイト」

 ツカツカと近寄ると、フェイトと呼んだ少女の顎に手を当てて無理矢理、俯いていた顔を上に向け、まっすぐフェイトの目を覗き込むようにしてもう一度問いかける。

「ジュエルシードはどうしたの?」

 しばらく覗き込むが、フェイトの瞳は左右に振れ、不安に揺れていたが、やがてゆるゆると口を開いた。

「……一つもありません」

 ようやくフェイトが口にした言葉の意味を理解した瞬間、反射的にプレシアの手は動いていた。

 パシィンと頬を叩く音がプレシアとフェイトがいる空間に響き渡る。反射的に動いた手で力の限り叩いた結果、成人女性とはいえ十に満たない幼い女の子が耐え切れるはずもない。プレシアが叩いた衝撃で、フェイトは後ろに飛ばされ、床に倒れこむが、すぐに女の子座りで叩かれたせいで赤く腫れた頬を押さえながら、何かをぶつぶつと呟いていた。

 一方、思わず反射的とはいえ、全力を出して叩いてしまったプレシアは、肩で息をしていた。それは怒りのせいか、あるいは、彼女が病に冒された身体で急に全力で動いたためか分からない。しかし、それを気にした様子もなく肩で息をしながらも怒りの形相でプレシアはフェイトを見下していた。

 フェイトが呟く言葉は耳を澄ませば聞こえてくる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―――」

 まるで壊れたテープレコーダーのように「ごめんなさい」を繰り返すフェイト。だが、それがプレシアの癇に障る。プレシアが聞きたいのは謝罪ではないのだから。だから、プレシアは怒りに満ちた厳しい声を出しながら問う。

「どうしてなのっ!? どうして、ジュエルシードを取って来れないのっ!?」

 半ばヒステリックな声にびくっ、とフェイトが体を震わせるが、それでも震える声でかろうじてプレシアの問いに答えた。

「……魔導師がいて……負けました」

「まけ……た?」

 先ほどまでのヒステリックな声はどこにいったのやら。今度はプレシアが気が抜けたような声で呆然と呟くようにして声を出した。

 実際、プレシアは気が抜けてしまったのだ。フェイトが口にした事実を信じられなくて。ジュエルシードが広範囲に散ってしまって見つけられなかった等の言い訳ならまだ信用できただろう。だが、にわかには信じられなかった。それを信じてしまうことは、つまりプレシアが彼女のために使う時間と命を削ってまで育てたフェイトに意味をなくしてしまうからだ。

 だが、無情なことにフェイトがいった言葉を真実だと結論付けるだけの証拠が彼女の肩から覗いていた。真新しい白い包帯。怪我を負った証拠だろう。おそらく、彼女が言う魔導師につけられた傷。彼女が負けたであろう証拠。

 それを結論付けてしまったとき、抜けてしまっただけの怒りに匹敵する。いや、それ以上の怒りがプレシアの底から浮かんできた。

「巫山戯たこといわないでっ!!」

 ツカツカとフェイトに近づいたかと思うと、胸元を掴み上げ、無理矢理立たせると再び先ほどと同じように今度は逆の頬を叩く。プレシアの急な行動にフェイトになす術もなく衝撃で倒れこむ。そんなフェイトに向かって、いつの間に用意したのかプレシアは、鞭を片手に振り上げていた。そして、それを振り下ろす。ぴしっ! という音と共に鋭い鞭が幼い少女の柔らかい人肌に赤い筋を残す。

 鞭が振るわれるたびにフェイトの痛みに耐えるような声が響く。

 それを何度も、何度も繰り返しながらプレシアは無限に胸の奥から湧き上がってくる怒りをフェイトにぶつけていた。

 そう、本当に巫山戯た話だ。管理外世界の惑星にいる魔導師に負けた? そもそも管理外世界に魔導師がいる可能性は殆どない。あるとすれば、犯罪者が身を隠すために潜んでいる可能性や、犯罪組織がアジトにしている可能性だが、そんな場合も考えてフェイトを一流の魔導師に育ててきたのだ。

 だが、フェイトが告げた結果は、それをすべて無駄にするような結果だった。プレシアが『彼女』のために、『彼女』のためだけに使うはずだった時間と魔力を使ってまで育てた結果だった。
 もしかしたら、プレシアはフェイトにそれなりの期待をしていたのかもしれない。『彼女』と顔立ちが同じだから。声が同じだから。瞳が同じだから。外見は同じだから。それでこそ、お人形のように。だから、彼女の面影を追ってプレシアはフェイトに期待していたのかもしれない。

 しかしながら、その期待も肩透かしだ。しょせん、失敗作は失敗作でしかないことの証明にしかならなかったというだけの話だ。
 その結論に達したとき、プレシアは鞭を振るのをやめていた。

 もう終わった? と伺うように身体中に赤く腫れた筋のような鞭の痕を残しながらフェイトは顔を上げる。そんな彼女の前髪を近づいたプレシアはがしっと鷲掴みにするとそのまま彼女の体を荷物のように引きずる。
 前髪を無理矢理引っ張られるためだろう。痛みを堪えるような表情をしながらもフェイトはプレシアが引っ張る方向に向かって足を動かしていた。
 プレシアは痛みを堪えるような表情をしているフェイトを一切気にする様子はなかった。なぜなから、もはやプレシアにとってフェイトは失敗作という烙印を押された本当の人形でしかないのだから。

 これからプレシアが連れて行こうと思っている場所は、彼女に真実を告げるための場所。本当は、彼女にとって神聖な場所にこんな失敗作を連れて行くのは気が咎める。だが、このまま失敗作を捨てるのはプレシアの気が収まらない。失敗作を育てるためにプレシアは失敗作から母さん呼ばわりされるのを我慢してきたわけではないのだ。

 プレシアは、フェイトの勘違いした瞳が嫌いだった。母さんと呼びかける声が嫌いだった。愛おしい彼女に似ている顔立ちが嫌いだった。だが、それでも彼女のためと我慢してきたのだ。しかしながら、その我慢も先ほど失敗作が、自らを失敗作と証明したところで限界を超えた。
 このまま掴んだ手の先で痛みに顔をゆがめている失敗作を捨ててしまうのが正解なのだろう。だが、プレシアは少しでも彼女が勘違いしたままなのが許せなかった。フェイトがプレシアの娘だと思っているのが許せなかった。なぜなら、プレシアの娘は『彼女』一人だけなのだから。

 だから、これから向かう場所は、プレシアにとって神聖な場所だが、フェイトの勘違いを正すための場所なのだ。失敗作を失敗作だと自覚させる場所だ。

 フェイトの髪の毛を引っ張ったまま誘導すること五分程度。いつもプレシアがいる部屋のさらに奥にフェイトを誘導する。ここはフェイトを一度も入れたことがない場所。入らないように言いつけている場所。そんな場所につれてこられて驚いているようだったが、プレシアはそれを気にすることなく、フェイトを奥に連れて行く。

 そして、連れてきた場所は、プレシアにとって神聖な場所。唯一、彼女を見ることができる場所だった。

「……あ……あ……」

 髪の毛を離した瞬間、フェイトはどさっ、という力を抜けたような音を立てながら床に女の子座りで座りながら、呆然とした様子で目の前にある水槽を見ていた。
 フェイトが目にしている水槽の中に浮かんでいるのはプレシアにとって最愛の娘。フェイトと同じような金髪を水槽の中で泳がせながらたゆたう眠り姫。

 呆然としているフェイトを余所にプレシアは、彼女が入った水槽に近づき、愛おしそうに水槽の壁面を撫でる。

「……わ、私?」

 目の前に現れた自分とそっくりな人間を目の前にしてフェイトが呟く。だが、呟いたフェイトにプレシアは鬼をも殺せそうな鋭い視線をフェイトに向け、彼女をひっ、と怯えさせる。

「馬鹿なこと言わないでっ! あなたのような失敗作とアリシアを一緒にしないでっ!!」

「アリ……シア?」

 フェイトがプレシアにとって最愛の娘であるアリシアと失敗作であるフェイトを同一視することが許せなかった。フェイトとアリシアではまったく違うものなのだから。

「そうよ。私の唯一の娘、アリシア。あなたのオリジナルよ」

「え……?」

 まるで意味を理解してないような声でフェイトが呟く。

 ―――ああ、これだから失敗作は嫌いだ。

 そう思いながら、次にフェイトが浮かべるであろう絶望の表情を思い描き、プレシアは嗤いながらフェイトに事実を告げた。

「まだ分からないの? あなたは私が作ったアリシアの贋物。アリシアを蘇らせようとした私が作った失敗作よ」

「にせ、もの? しっぱいさく?」

 プレシアの口から聞かされた事実が大きすぎたのか、フェイトの口から出てくる言葉はもはや抑揚はなく、彼女の目はどこか焦点があっていなかった。
 だが、そんなフェイトを目の前にしてもプレシアの口はとまらない。むしろ、フェイトを追い詰めるためにさらに言葉を続ける。

「そうよ。せっかく、あなたにはアリシアの記憶をあげたのに全然ダメだった。だから、失敗作」

 プレシアはフェイトを見ようともせずにアリシアだけを見つめ、水槽の奥にあるアリシアの頬に当たる部分をフェイトに一度も向けたことのないような愛おしそうな表情をしながら撫でる。

「アリシアはもっと優しく笑ってくれた。アリシアは時々、我侭も言ったけれど、私のいうことをよく聞いてくれた。アリシアは私にもっと優しかった」

 プレシアはここで改めて向き直り、もはや「あ、あ、あ」という音しか出さない失敗作を見ながら今まで手駒として使うために口に出さなかった言葉を口にした。

「ねえ、フェイト。あなたは私の娘なんかじゃないの。アリシアが蘇るまでの間、私が慰みに使うアリシアによく似たお人形。それ以外の何者でもないの」

 ここまでは先ほどまで思っていたこと。だが、今はそんな風には思っていなかった。フェイトを見る目を愉快なものを見る目からまるで汚物でも見るような見下すような鋭い目をして、さらに言葉を投げつける。

「でもね、主の言うとおり踊らないお人形はいらないの。ねえ、分かってる? フェイト、あなたに言ってるのよ。私がジュエルシードを手に入れさせるために使わせた魔力も時間もすべてが無駄。あなたに母さんと呼ばれるたびに虫唾が走るのを我慢したのも無駄。我慢してあなたを娘としてあなたの名前を呼ぶのも無駄。ああ、違ったわ。あなたの名前はただのあなたを作ったプロジェクト名よ。名前ですらないわね」

 少しずつ目の前で項垂れているフェイトの瞳が色をなくしていくのを見ながらプレシアは愉快そうに嗤っていた。フェイトが、最愛の娘であるアリシアの姿が同じだけの失敗作を壊すのが、勘違いしている失敗作が壊れていくのが少しずつ壊れていくのが愉快でたまらなかった。

 だから、最後の最後にプレシアは今のフェイトの評価を告げた。

「いえ、お人形としてすら踊れないなら、あなたはもはやお人形以下ね。ただのゴミだわ」

 そう、お人形は主が思うように踊ってこそ価値があるのだ。持ち主の思うように喋らない、踊らない人形はただのゴミである。だから、捨てるしかない。
 フェイトを捨てれば、プレシアには手駒ないことを分かっていながらプレシアはフェイトを捨てることに躊躇しなかった。これ以上、彼女を使うことをプレシアは許容できなかったのだ。
 天才ともいえる頭脳はフェイトを捨てることを良しとしていないのに、プレシア・テスタロッサという個人感情では、もはやこれ以上、フェイトを使うことを許容しなかったのだ。

 よほどショックだったのか、フェイトはプレシアの言葉を聞くとバタッと倒れた。それを見てもプレシアは一切、動揺を見せずに言い放つ。

「ゴミが。ここは、アリシアが眠る場所よ。汚れるでしょうが」

 目の前に横たわるゴミを捨てようとフェイトに浮遊魔法を掛けようとした瞬間、その闖入者は声を荒げ、拳を振り上げながら乱入してきた。

「この糞ババアァァァァァっ!!!」

 ふぅ、とゴミの使い魔はやっぱりゴミね、と思いながらプレシアは瞬時にシールドを張るのだった。



  ◇  ◇  ◇



 フェイト・テスタロッサは今、目の前に広がっている光景が信じられなかった。

 時の庭園で迎えたのは、母親であるプレシアの憤慨だった。無理はない。ジュエルシードを回収してこいといわれて一つも回収できなかったのだから。だから、フェイトは甘んじてプレシアからのおしおきを受けた。

 これが終わった後、ジュエルシードをたくさん回収すれば、きっと母さんは優しく笑ってくれるから。私にもきっと優しくしてくるから。アルフにもきっと優しくしてくるから。

 そう信じていた。だが、その信じていたものは目の前の光景で粉々に砕け散っていた。

「……あ……あ……わ、私?」

 目の前に浮かぶ水槽の中の少女。それは、彼女が姿見で見る自分と瓜二つだった。だが、その言葉を母親であるプレシアは鬼の形相で持って否定した。

「馬鹿なこと言わないでっ! あなたのような失敗作とアリシアを一緒にしないでっ!!」

「アリ……シア?」

 フェイトが初めて聞く名前だった。あの少女の名前だろうか。だが、あの少女と自分が同じ姿をしている理由は一体なんだろう? 様々な疑問がフェイトの中で生まれてくる。だが、そのことを聞く前にプレシアが口を開くほうが早かった。そのとき、プレシアはフェイトが記憶の中を探って見た事ないほどに歪んで嗤っていた。

「まだ分からないの? あなたは私が作ったアリシアの贋物。アリシアを蘇らせようとした私が作った失敗作よ」

「にせ、もの? しっぱいさく?」

 フェイトはプレシアが何を言っているか理解できなかった。いや、理解しているが、理解したくなかったといったほうが正解かもしれない。彼女の中に眠る本能ともいうべき部分が、プレシアの言う言葉を理解することを拒否していた。

 だが、フェイトが拒否しようとプレシアの言葉は止まらない。

「そうよ。せっかく、あなたにはアリシアの記憶をあげたのに全然ダメだった。だから、失敗作」

 プレシアが口にした言葉は、つまり、フェイトという人間の全否定だった。今までフェイトが信じてきたものの全否定だった。
 それを理解した、理解してしまった瞬間、フェイトの心の中の床がすべて崩れ落ちたような錯覚を感じてしまう。

 今、プレシアがいった言葉を全部嘘だといってほしかった。信じたくなかった。拒否したかった。

 だが、そんなフェイトの心を弄ぶかのようにプレシアは言葉を綴った。

「アリシアはもっと優しく笑ってくれた」

 ―――私は母さんの前で優しく笑えなかったのか。

「アリシアは時々、我侭も言ったけれど、私のいうことをよく聞いてくれた」

 ―――私は母さんの言うことを聞けなかったのだろうか。

「アリシアは私にもっと優しかった」

 ―――私は母さんに優しくなかったのだろうか。

 プレシアがアリシアというフェイトが知らない少女と比べるたびにフェイトの中の何かが少しずつ削られていくように感じられた。

 それは、フェイトにとっての存在意義。今まで、母さんの笑ってくれるように、母さんが自慢できるような娘になれるように、と頑張ってきたのに。たった今、プレシアはそのフェイトの思いをすべて否定した。目の前で眠っているような少女に劣るとはっきり口にした。

 フェイトの記憶の中に残る母さんはそんなことは言わなかった。いつでも優しく笑って、フェイトにも優しく接してくれて、愛してくれた。いや、だが、その記憶さえも贋物。アリシアという目の前の少女の中から抜き出されたものに過ぎない。

 ―――なら、私は何を信じたらいいんだろう?

 もはやはっきりした言葉を口に出すことすら叶わないフェイトの思考回路。彼女の思考回路は、もはやどうして? 私は何? という疑問と今まで信じていたプレシアから告げられる心を削る言葉に絶望と悲しみしか感じていなかった。

「ねえ、フェイト。あなたは私の娘なんかじゃないの。アリシアが蘇るまでの間、私が慰みに使うアリシアによく似たお人形。それ以外の何者でもないの」

 この言葉でフェイトの『心』という鏡はパリンという高い音を立てて粉々に砕け散った。

 今まで母親であるプレシアに認められるために、ただそれだけのために生きてきたフェイトが張本人であるプレシアから存在を否定された。存在意義を失った心が壊れるのも無理もない話しだった。

「でもね、主の言うとおり踊らないお人形はいらないの。ねえ、分かってる? フェイト、あなたに言ってるのよ。私がジュエルシードを手に入れさせるために使わせた魔力も時間もすべてが無駄。あなたに母さんと呼ばれるたびに虫唾が走るのを我慢したのも無駄。我慢してあなたを娘としてあなたの名前を呼ぶのも無駄。ああ、違ったわ。あなたの名前はただのあなたを作ったプロジェクト名よ。名前ですらないわね」

 まるで、粉々になったガラス片をさらに靴で踏みつけて粉にするようにプレシアの言葉はフェイトの中に響いてくる。聞きたくなかった。耳をふさぎたかった。これ以上、心を壊さないで、と叫びたかった。
 だが、それさえも億劫なほどにフェイトの中は空虚だった。心というガラスを割られた中身は空っぽだった。

「いえ、お人形としてすら踊れないなら、あなたはもはやお人形以下ね。ただのゴミだわ」

 ―――あはははは、私、ゴミだって……。

 もはや、なんの感慨もなく、フェイトは自己の評価を受け入れた。プレシアからの言葉はもはや空虚を埋めることなく、ただ風のように通り抜けていくだけだった。

 その言葉を聞いてフェイトは身体に力を入れることも億劫になり、ばたりと倒れた。鞭で打たれた傷口が熱を持っており、ひんやりとつめたい床だけが、フェイトを癒してくれそうな気がした。

「ゴミが。ここは、アリシアが眠る場所よ。汚れるでしょうが」

 ―――もう、どうでもいいかな。

 母親に人形と、無駄と、ゴミといわれ、フェイトは自暴自棄になっていた。もはや母親に認められることはなく、生きる意味もない。だから、捨てるという言葉を聞いても抵抗することもなかった。このまま、安らかに眠れればいい。

 そう思い、フェイトは目を閉じるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アルフは、突如流れ込んできた絶望と悲しみに涙を流すことで耐えながら必死に時の庭園を走っていた。

 フェイトとアルフは確かに主従の関係で、精神リンクで繋がっており、感情を共有することもある。だが、それは少しの話で、微々たる物だ。だから、涙が流れるほどに大量の感情が流れてくるということは、よほど大きな絶望と悲しみをフェイトが感じていることが分かる。

 だから、アルフは主のフェイトを探していた。

 感情が流れてきた瞬間、フェイトが入るはずの部屋に殴りこんだアルフだが、そこにフェイトの姿なかった。仕方なく、精神リンクでフェイトの魔力を追って、走っているところだ。
 そして、たどり着いたのは、いつもはフェイトと共に入ることを禁じられた部屋。そこには確かにフェイトとアルフが気に喰わないプレシアの気配を感じた。

 ―――きっと、あの婆がフェイトに酷いこといったんだ。

 そう決め付け、突入しようとしたアルフの優秀な聴覚が聞き取ったのはプレシアの声だった。

「ゴミが。ここは、アリシアが眠る場所よ。汚れるでしょうが」

 その言葉を聞いた瞬間、アルフの中で堪忍袋が盛大に破れた。もはやフェイトの気持ちも何もかも気にせず、ただただプレシアのいけ好かない顔を殴ることだけを決意し、部屋に殴りこむ。

「この糞ババアァァァァァっ!!!」

 アルフにとって渾身の一撃だったはずだ。だが、それをプレシアは―――過去に大魔導師と呼ばれた魔導師は、いとも容易くシールドで受け止めてしまった。バリアブレイクの性質を持っているアルフの拳をだ。

 だが、それでもアルフには言いたいことを言えるのは変わりない。

「どうしてだよっ!! フェイトは頑張ってきたじゃんかっ! どうして、あんたはそんなフェイトをゴミなんて言うんだよっ!!!」

 心からの叫びだった。母さん、母さんとフェイトが頑張っているのを知っている。だからこそ、きつく当たられているフェイトが不憫で仕方なかった。認めてやらないプレシアが嫌いだった。そして、ゴミ扱いするプレシアに殺意すら覚えていた。

 だが、その言葉にプレシアが動揺することもなく、ただ、はぁ、と億劫そうにため息をはくだけだった。

「ゴミの使い魔はゴミということね。頑張ってきました、褒めてください? 結果が伴わない努力に意味はないわ。ただそれだけよ。ゴミはゴミらしく消えなさい」

 ただ、それだけを言うとプレシアはシールドを張りながら攻撃魔法を用意する。プレシアが、フェイトが得意とする雷系の魔法だ。しかも、その進路上にはアルフだけではなく、フェイトもいる。だが、プレシアにとって一石二鳥の結果であれ、躊躇する理由にはならないようだった。

 このまま、攻撃の寸前までバリアブレイクでプレシアのシールドを解析して、シールドを破り、殴る方に賭けるか、それとも、殴るのは諦めてフェイトを護るか、の二択がアルフの中に浮かぶ。
 だが、その結果は考えるまでもなかった。アルフは使い魔だ。フェイトがいる限り護るのが使い魔だ。
 だから、アルフはフェイトを護るようにフェイトに覆いかぶさり――――

「根性だけは認めてあげるわ」

『Plasma Smasher』

 紫の雷がアルフの背中を貫く。焼けるような痛みを感じながら、アルフは組んでいた魔法を起動させる。その魔法は転移の魔法。もっとも、場所までは正確に固定できなかった。ただ、ジュエルシードが落ちたであろう海鳴という街の中のどこかには設定できたのだが。

 ―――フェイト。フェイトは絶対あたしが護るからっ!!

 フェイトを腕の中に抱きながらアルフは、必死に雷に耐え、時の庭園から転移するのだった。


続く

あとがき
 プレシアさんの狂気度、三割り増し。



[15269] 第十八話
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/05/19 21:32



 すずかちゃんの―――というよりも、月村家が実は吸血鬼の家系だということを知ってから二日が経過していた。その間に何も変わらなかった、とはとてもじゃないが言えなかった。

 まず、秘密を知った次の日、朝一番にすずかちゃんが血を吸ったことについて謝ってきた。さすがにこれは教室などで簡単にできる話ではないから、朝から誰も来ないような校舎裏に連れて行かれてだが。そのとき、一緒に登校していたアリサちゃんが訝しげな表情をしていたので、着いてこないものか、とひやひやしたが、すずかちゃんが内緒のお話と釘刺したおかげか、ついてくる様子はなかった。すずかちゃんの謝罪に関しては、既にさくらさんから謝罪も貰っているので、当然のように受け入れたのだが、そのときの心底安堵したような表情は、もし許してもらわなかったらどうしようという不安が相当のものだったことが伺えた。

 そして、後は普通の一日―――とは、問屋がおろさなかった。なぜか、すずかちゃんからのスキンシップが増えた。そのことに気がついたのは、昼食の時間。彼女が昼食を誘ってくるのは僕の記憶が正しければ、初めてだったはずだ。さらに、昼食のときも僕の隣に座り、できるだけ体を近づけてきた。僕としては気恥ずかしかったのだが、結局、すずかちゃんが離れることを許してくれなかった。これだけならまだしも、お弁当の中身を交換だとか、食べさせあいとか提案してきたが、さすがに後者は拒否した。僕たちを見るアリサちゃんの冷たい目が痛かった。

 しかしながら、急にこんな行動を取るすずかちゃんは一体どうしたのだろうか? とふと午後の授業中に考えてみた。そもそも、僕とすずかちゃんのパーソナルスペース―――他人との距離で不快な感情を抱かない距離であり、親しいほど近い―――は、友人程度の距離だったはずだ。それが、もはや定義だけで言うなら家族に近い距離まで許している。さて、原因はなんだろうか? と考えてみたが、どう考えても原因は一つしか考えられない。そう、昨日のことである。

 吸血鬼という迫害されるのに十二分すぎる理由を僕は自分の魔法と出自のこともあり、簡単に受け入れてしまった。それだけの器が出来上がっていた。僕からしてみれば、すずかちゃんのことを受け入れるのは、呼吸をするように至極当然のことだった。それを拒絶する理由とも考えていなかった。しかしながら、相手からしてみれば、おそらく予想外だったのだろう。あのときに見せた不安そうな顔とさくらさんたちの小学生に対しての圧力等―――ただし、僕のはジュエルシードの件も考えれば、特別だと思う―――を考えれば、彼女たちの秘密がどれだけ重大なものか分かろうというもの。

 つまり、すずかちゃんにとって僕は、いじめられっこに救いの手を差し出した友人ということだろうか。なるほど、その立ち位置なら、すずかちゃんの僕に対するパーソナルスペースが近づくのも分かる。それに年齢のことも関係しているのだろう。小学三年生、男女の仲を気にするには微妙な年頃だ。お弁当のことだって、女の子同士ならよくやっているのを見る。つまり、友人の延長上なのだ。彼女にとっては。僕は男だけど。

 今は、初めての相手で浮かれているだけなのだろう。二、三日もすればきっと前と同じか、少し距離が縮まった程度で収まるだろうと僕は考えることにした。もっとも、二、三日しても収まらなかったときは別の考えを持たなければいけないが、今は様子見である。

 学校面での変化は、すずかちゃん関連が主である。アリサちゃんが少し不機嫌だったのが気になるが、おそらく急に変わったすずかちゃんに戸惑っているだけだろう。事情を知っている僕でさえ戸惑っているのだから。

 さて、ジュエルシード捜索に関してだが、忍さんとノエルさんが合流した。話では忍さんだけの話だったのだが、戦力強化という面から見て、ノエルさんが随行していた。

 なんでも夜の一族には能力の一部が秀でることが多いらしい。それは、身体能力だったり、魔眼だったり、回復力だったり様々なようだ。その中でも忍さんはどちらかというと知力に能力が現れたらしく、自動人形であるノエルさんも忍さんが僕と同じ年齢の頃に一人で修理したらしい。話によると今では殆ど見ることのできないオーバーテクノロジーが使われているはずなのにすごいを通り越していると思う。

 すずかが中学生ぐらいだったら、すずかに託すんだけどね、と忍さんは笑いながら言う。すずかちゃんは、身体能力に能力が現れている。しかも、月村の一族の中でも忍さんたちは純血の夜の一族でその能力の発現の仕方はかなり高いらしく、すずかちゃんの身体能力は小学生にして並みの成人男性以上の力が出せるらしい。なるほど、ドッジボールのときの異様な力強さはそれが原因だったのか、と思わぬところで納得してしまった。

 忍さんたちの参入に恭也さんは無言で、なのはちゃんはどこか訝しげな視線を向けていた。魔法のことは秘密なのに急に一緒にジュエルシードを探す、といわれてもさすがに無理なのだからこれから慣れていけばいいと思う。

 なのはちゃんには、夜の一族のことは伏せて、魔法のような能力を使える組織の人たちと説明した。彼女たちが使えるという魔眼だけ見れば、あながち嘘ではないのだから大丈夫だろう。しかも、忍さんたちの話によると霊能力者も存在するというのだから驚きだった。

 なのはちゃんはそれでいいとして、恭也さんはノエルさんが昨日仕向けたように大学のほうで忍さんから話は聞いたらしい。僕がなのはちゃんに事情を説明するときに、忍から話は聞いた、と言っていたから。さて、ここで気になるのは忍さんと恭也さんの仲なのだが……。他人の色恋沙汰に首を突っ込むのは危険なので特に何も聞かなかった。もっとも、二人の様子から鑑みるにあまり恋人という雰囲気を醸し出していなかったから、忍さんが振られたか、告白しなかったかのどちらかだろう。二人が気まずい雰囲気でもなかったことを考えると後者の可能性が高いと僕は思っている。

 忍さんたちが仲間に加わったこと以外、特に変わったことはなかった。護衛に忍さんとノエルさんが増えたぐらいだろう。これで、ノエルさんが仕事服―――メイド服だったら相当目立っただろうが、きちんと私服だったので注目度も変わらなかった。

 しかしながら、最初は僕となのはちゃん、ユーノくんの三人だったのが、今では知り合いなどをあわせると二桁に登る人数が手伝っているのだからずいぶんと大事になってしまったと思う。最初は、ジュエルシードが大変なものだから、とりあえず、なんとかできるならなんとかしよう、という軽い気持ちだったのに。月村家のような夜の一族という裏の世界にまで半分足を突っ込んでしまう事態になってしまったのだから。

 ジュエルシードが全部集まって、いや、そのまえに時空管理局が来れば、前と同じ生活に戻れると気楽に考えていたが、今ではもうそれは叶わない夢なんじゃないか、と思う。できるだけ前と同じになればいいな、と思う。

 その日の晩、さくらさんが言っていたお詫びの品が届いた。最高級のレバーだった。ノエルさんという料理人つきで。これは、血を回復しろ、という意味なのだろう。うん、まさか、血を回復してまた吸わせてという暗喩ではないことを願うばかりである。



  ◇  ◇  ◇



 忍さんとノエルさんがジュエルシード捜索隊に参加した次の日。今日は休日だ。だがしかし、ジュエルシードを捜索するのに休みはない。しかも、平日なら放課後が主になり、二、三時間がせいぜいだが、休日なら一日中探せるのだから。そんなわけで今日も母さんが作ってくれたお弁当を持って、捜索隊は海鳴の街を歩き回る。
 だが、もうすぐ一ヶ月近く探しているのだ。それで集まったジュエルシードは七個。月村家に預けてあるジュエルシードを合わせると八個となる。

 実は、月村家のジュエルシードは忍さんたちに預けたままだ。なんでも、自分たちの縄張りに落ちてきたものを対価もなしに渡せないらしい。これが個人と組織の違いなのだろうか? と思うが、きちんとなのはちゃんの魔力並で、封印されている以上、滅多なことでは発動しないとユーノくんのお墨付きを貰ったので、ならば、と預けている。

 そんな風に探し続けた休日。お昼には、なぜかなのはちゃんが昨日のすずかちゃんのように自分のお弁当の中身を食べさせようとしてきたが、恭也さんが見ている目の前でそんなことができるわけもなく、丁重に断わった。なのはちゃんは最後まで残念そうだったが。それよりも、恭也さんが興味なさげな表情をしながらもこちらを気にしていたのにこっそりと笑えた。忍さんとノエルさんは微笑ましい笑みで見てくれるので逆に恥ずかしかったが。

 さて、お昼を食べた僕たちは、またジュエルシード捜索を再開したのだが、問題が発生したのは、お昼と夕方の境目のような時間帯だった。午前中は太陽が燦々と輝いていたのだが、お昼を過ぎた辺りから急に曇り、ついに懸念していた雨が降ってきたからだ。

 今日の天気は晴れだと思ったし、なにより、午前中は晴れていたため誰も傘を持っていなかった。

 近くにコンビニでもあればよかったのだろうが、今日は海鳴の中心街から離れた住宅街を中心に探していたため、近くにコンビニはなかった。一番近い店でも十分程度の時間が必要だ。だが、それならば十五分ほど走れば僕の家があった。僕の家に行けば、シャワーや乾燥機もある。それならば、と僕たちは蔵元家へと足を向けることにした。

 僕とユーノくんはノエルさんに、なのはちゃんは恭也さんに背負われて、住宅街を風のように駆け抜ける。いや、本当に風のように駆け抜けているのだから恐ろしい。まるで車の中に乗っているように目まぐるしく変わる周りの風景。この人達が、吸血鬼、機械人形、剣術家と普通とは一線を画した人間だと僕は改めて実感した。しかし、この速度では、僕の家までは、僕の足で走って十五分だったのだが、このスピードなら五分もしないで到着してしまうかもしれない。

 まあ、その分、濡れないから遅いよりもずっといい、そう思っていたときだった。曲がり角を曲がった先であまり出会いたくなかった人物を目に入れてしまったのは。

 最初に気づいたのは恭也さん。僕の家を知っているために先頭を走っていたため、彼女たちを目に入れるのも最初だったわけだ。恭也さんが止まったことに気づいて、忍さんとノエルさんも足を止める。そして、僕はノエルさんの背中から降り、改めて彼女たちを目に入れた。獣耳と豊満な身体を持った女性が一人の少女を背負い、雨に打たれながらのろのろと歩いている光景を。

「ショウくん……」

「うん」

 獣耳を持った女性と背負われている少女には見覚えがある。忘れるには印象が強すぎる。なぜなら、彼女たちはジュエルシードを狙って、僕たちを襲ってきたのだから。しかし、なんというか、あの時とは違って覇気がないようなきがする。背負われている少女は、意識がないようだし、なにより着ている服もボロボロだ。そして、背負っている女性は服はまともだが、ペタンと垂れた獣耳と力が入っていない歩き方といい、先日の襲ってきたときは様子がまったく違った。

 しかし、それが罠じゃないと誰も言いきれない。彼女たちが襲ってきた事実が消えることはない。だから、恭也さんが小太刀に手をかけるのも、なのはちゃんがレイジングハートを起動するのも、ノエルさんと忍さんが銃を構えるのも仕方ないことなのだろう。何か様子がおかしいといいたかったが、戦えない僕が口を出せる問題ではないので、一歩引いて展開を見守ることにした。

 獣耳が僕たちに気づいたのは、僕たちよりもワンテンポ遅れてからだった。俯いていた顔を上げたかと思うと、僕たちに気づいて、顔面を蒼白にする。まるで、恐ろしいものにでもであったかのように。そして、すぐに我を取り戻したかと思うと何かを決意したような表情をした。これを襲ってくる前兆と感じたのか、恭也さんたちは迎撃体制に入ったが、それは見当違いだった。

 ちっ、と小さな舌打ちをすると獣耳の女性は、反転、後に駆け出した。

 誰もが思っても見ない行動に呆気に取られたが、最初に動いたのは恭也さんだった。すぐさま彼女たちを追いかける。次がノエルさんと忍さん。同じく獣耳の女性を追いかける。幸いにして彼女の足はさほど早いとはいえない。ありえない速度をもつあの人たちが追いつくのは時間の問題だろう。

 そう思っていたのだが、恭也さんたちが追いつくまでもなく決着がついてしまった。

「チェーンバインドっ!」

 僕の肩に乗っているユーノくんからの魔法。僕も少しだけ教えてもらったバインドよりも強力な拘束魔法。それが発動し、地面から生えた翡翠色の魔力鎖が獣耳の女性の足に絡みついた。急に絡みついた鎖に獣耳の女性は対応できなかったのだろう。急につんのめったような体勢になり、背中の少女の体重が枷となったのか、そのまま倒れこんでしまった。

 次に彼女が背負った少女を胸に抱くようして上半身だけ起き上がったときには、すでに恭也さんも忍さんもノエルさんも彼女を囲うように立っていた。ノエルさんと忍さんは銃のようなものを構えて、恭也さんは小太刀に手をかけて、そして、僕たちは少し離れたところからはのはちゃんがレイジングハートを構えていた。

 彼女は寒さのせいか、あるいは敵対していた僕たちに囲まれたせいなのか、ガタガタと全身を震わせていた。だが、胸に抱いた金髪をツインテールにした少女を守るように胸に抱いて、目線と鋭い八重歯だけで虚勢とも取れる威嚇をしてくる。それが自分が傷ついても少女を守る母親のようで、見ているだけで胸が痛む光景だった。

 しかしながら、傍目からみれば、この場合、悪人は僕たちではないだろうか。

 震えながら少女を守るようにして抱きかかえる女性を銃と小太刀と魔法の杖で脅すように囲う僕たち。

 ダメだ。完璧に悪役だった。これは止めないとまずいと思った。幸いにして似たような感想は恭也さんたちも抱いているらしい。あまりに違いすぎる、と。忍さんとノエルさんは話によると月村家でジュエルシードが発動したときにみているはずなのだが、やはりそのときとは様子が異なるのだろう。頻繁に恭也さんに問いかけるように目配せをしていた。だが、恭也さんも事情が分からないのだろう。困惑した様子で、何かを答えられるような雰囲気ではなかった。

 一触即発の雰囲気ではまったくないが、恭也さんたちは動きがないように囲み、獣耳の女性はこちらに手が出せないのか、威嚇するだけで動く様子はない。雨が降りしきる中、ただただ時間だけが無意味に過ぎていく。
 四月の下旬、後一週間程度でゴールデンウィークが始まろうか、という時期であっても、四月の雨は相当冷たい。このままでは全員風邪をひいてしまう。特に僕やなのはちゃん、そして女性の胸の中に抱かれている僕と同じぐらいの少女は子どもなのだ。風邪をひく確率は相当高いものとなるだろう。だから、そうならないためにもこの場を打開するために提案する。

「あの、このままじゃ、お互いに風邪ひいちゃいますから、一度僕の家に行きませんか?」

「だが、大丈夫なのか?」

 恭也さんはあまり僕の提案には賛成といえないようだった。もしかしたら、僕の家族を心配しているのかもしれない。彼女たちが暴れたならきっと僕や母さん、親父、秋人は抵抗できずにやられてしまうだろうから。恭也さんが強いといっても四人は無理なのだろう。だが、僕としてはこの様子を見て、彼女たちが暴れるとは考えられなかった。

「私は、できればショウくんの提案に賛成かな」

「確かに、このままの状態が好ましいものとは思いません」

 忍さんは賛成、ノエルさんは消極的賛成といったところだろうか。忍さんたちもたぶん、彼女たちが暴れた場合も考慮しているのだろう。だが、忍さんたちが持つ麻酔銃は確か彼女たちに効いたと聞いているから、それによる安心かもあるのかもしれない。

「なのはちゃんは?」

「私はショウくんの言うことに従うよ」

 間髪いれずに答えてくれたところ見ると、どうやらなのはちゃんは賛成らしい。前回の戦闘では、返り討ちにしてしまったなのはちゃんだ。彼女がこんなに自信満々だと心強いものがある。さて、多数決でいけば一度、僕の家に行くことは決定だが、やはり暴れられるかもしれないという心配があるのはあまりよろしい話ではない。

 だから、できれば彼女たちにも納得してほしかった。

「ねえ、お姉さん」

「……なんだい」

 渋々といった様子で口を開いてくれる獣耳の女性。一応は会話が成り立つことに安心した。口すら開いてくれなかったら誘うことすらできなかったのだから。

「僕たちについてきてくれませんか? あなたが抱いてる彼女も風邪ひいちゃいますよ? 僕の家なら温かいと思いますし、このままこう着状態が続くよりもずっといいと思います」

 僕の提案にしばらく考える。家というのは明らかにアウェーだ。そこに連れて行くというのだから、彼女が悩むのも無理もない話だ。普通に考えれば、彼女たちは捕虜。何をされてもおかしくないのだから。

 雨の音だけが存在する空間で再び彼女が口を開いたのは、しばらく経ってからだった。彼女の中でどんな葛藤があったのかわからないが、彼女にとっては重大な決断だったのだろう。

「……わかったよ。私はどうなってもいい。何でも答えてやるよ。だから……だから、フェイトだけは助けてくれっ!!」

 フェイトというのは少女の名前だろうか。まるで懇願するように全員を見つめる女性。それに否と答えられるほど僕たちは薄情じゃないし、本気で頼んでいる人の願いを無下にできない。

「わかった。その少女の安全は保障しよう」

 それで納得したのか、警戒は解かないものの、恭也さんが獣耳の女性に手を差し出す。獣耳の女性も警戒していたが、やがて諦めたような表情をして、少女を胸に抱きかかえたまま恭也さんの手を取って立ち上がった。

 こうして僕たちはまた風を切るような速度で一路、蔵元家を目指すのだった。



  ◇  ◇  ◇



 僕の家のリビングは重々しい雰囲気に包まれていた。この場にいるのは、僕、なのはちゃん、ユーノくん、恭也さん、忍さん、そして、獣耳の女性だ。親父はまだ帰宅していないし、母さんとノエルさんにはフェイトと呼ばれた少女の世話をしてもらっている。着替えや布団に寝せたり、あとはあまりいい気がしないが、怪我の治療もだ。

 帰宅後、この人数には驚いたものの母さんは、すばやく行動してくれた。女性陣―――なのはちゃん、忍さん、ノエルさん、獣耳の女性―――は、お風呂に入れて、その間に洋服はすべて乾燥機にかけ、男性陣―――僕と恭也さん―――は暖房の前で、タオルで水気を取り着替えた。僕の着替えは自分の家なのであるのだが、恭也さんには当然ない。親父のを、と思っていたのだが、サイズが違いすぎた。親父は細身の身体であり、恭也さんは鍛えぬいたがっちりした体格である。サイズが合うはずもない。仕方なく、下着だけは最初に乾燥機にかけ、上着等はジャージを羽織るだけで我慢してもらった。

 女性陣の服が乾き、お風呂から出てきた頃には、夕方だった時間帯はすっかり山の向こうに日が落ちた時間帯になっていた。

「さて、それじゃ、まずはあの子と自己紹介からしてもらえるかしら?」

 この重い空気を払うように忍さんができるだけ明るい声で、会談の口火を切った。こういった会議は、口火さえ切ってしまえば、後は流動的に何とかなるものだ。
 もっとも、会議の司会役は忍さんで、話していたのは殆ど獣耳の女性―――アルフさんだったが。

 さて、アルフさんの話を簡単にまとめると以下のようになる。

 魔導師―――フェイトちゃんが、使い魔のアルフさんとジュエルシードを集めていたのは彼女たちの母親の命令だった。だが、その母親というのが酷い母親でいつもフェイトちゃんをいじめていた。アルフさんからしてみれば、そのことに相当憤っていたのか、母親―――プレシアさんを相当言葉で罵っていた。そして、ついさっき、プレシアさんに呼ばれ、時の庭園という拠点に行ったフェイトちゃんが、プレシアさんから相当酷いことを言われ―――この部分の詳細は分からないらしい―――捨てられるように時の庭園を追い出されたようだ。命からがら転移魔法で転移した場所は、海鳴のビルの上で、この地球で拠点にしている海鳴の隣の市へ帰る前に僕たちに見つかった。

「―――これで全部だよ」

 全部を聞いた僕たちの反応はただの静寂だった。いや、正確には何を言っていいのか分からないという感じだ。アルフさんから聞いた話だから鵜呑みにするわけにはいかないということは分かっている。だが、フェイトちゃんの怪我を見れば、信憑性はかなりあるといっていいだろう。医療の知識があるノエルさん曰く、頬の腫れは明らかに打たれた跡だというのだから。

 もし、彼女たちが純粋にジュエルシードを狙って悪事を働こうとする人達ならよかった。やっぱり、悪い人だったんだ、と納得できた。だが、現実は、虐待されながらも母親のために頑張る少女だった。彼女の母親であるプレシアさんが何を考えているか分からないのはおいていたとしてもだ。フェイトちゃんには襲われたという感情よりも同情心のほうが強いため罪悪感を感じてしまうのだ。襲ってきた当初は何も事情が分からなかったとしても。

「……ずいぶん、重い話を聞いちゃったわね」

 人にはそれぞれ事情があるというが、これは重すぎた。さすがの忍さんもこれには気まずそうな顔をしていた。虐待という言葉はニュースではよく聞くが、目の当たりにすることは少ない。しかし、今、現実として目の前に落ちてきた。もしかしたら、忍さんは母親からということもあって女性として何か思うところがあるのかもしれない。

 なのはちゃんは大丈夫だろうか? と思って隣に座っているなのはちゃんの様子を伺ってみたが、神妙な顔をしているが、意外と平気そうな顔だった。

「でも、あなたたちはもうそのプレシアさんのところには戻らないんでしょう?」

「当たり前だよっ!! あんなヤツのところになんて戻るもんかっ!!」

 忍さんの言葉によほど心外だったのか、憤慨という言葉が似合うほどの形相をしてアルフさんは忍さんの言葉を否定した。忍さんはその答えが予想できていたのか、あるいは、自分が思ったとおりの返答を返してくれたからなのか、ニッと笑う。

「そう、それで、これからどうするつもりなの?」

「え? あたしは、フェイトと二人で暮らせればいいと思ってただけだけど……」

 実に歯切れの悪そうに言うアルフさん。もしかしたら、母親から捨てられるように追い出されたのは、彼女たちにとっても予想外だったのかもしれない。だから、これからのことなんて考えていなかった。まずは、地球のアジトに戻ること。それを最優先していたようだ。

 だが、もしも、この先、地球で暮らすとすると、それは非常に甘い考えだといわざるを得ない。

「それで、仮にこのままこの街に住むとして……お金は? 学校は? 住所は?」

 アルフさんは、忍さんの矢継ぎ早な質問に頭の上にクエッションマークを浮かべていた。
 しかし、忍さんの言うことも最もなことだ。このまま彼女たちが住むには障害が多い。

 まずは、お金。これがなければ生活はできまい。しかし、彼女たちは魔導士なので、盗みなんかも簡単にできてしまうかもしれない。次に、学校や住民票等の問題。フェイトちゃんが僕たちと同じ年齢だとすると学校に行っていないのは、まずい。確実に補導対象になる。しかし、そうなると、戸籍も住民票もないフェイトちゃんは不法滞在者と同じ扱いになるだろう。しかし、強制送還もなにも帰る国がないのだからさらに問題だ。とにかく、このまま生活するとしても、問題は山積みだった。

「そこで、提案なんだけど……あなたたち私たちに保護されない?」

 忍さんが言っている意味が分からないのか、アルフさんは小首をかしげていた。それを見て、仕方ないといった感じで忍さんは続ける。

「あのね、あなたたちをこのまま解放したとして、暮らしていけなくなったときに魔法を使って悪さをされたら、私たちのところにも責任が来ちゃうの。だから、保護って名目で監視下においたほうがいいわけよ。もちろん、一般家庭並みの生活は保障するわ。どう?」

 忍さんの提案を受けてう~ん、と腕を組んで考えるアルフさん。まあ、当然だろう。今まで敵対していた組織が保護という名目で世話をするといわれてすぐに飛び込むとも思えない。罠の可能性だってあるし、今以上に汚い仕事をやらされる可能性だってあるのだから。

 結局、アルフさんが答えを出せなかった。フェイトちゃんと話をさせてほしいらしい。確かに、よくよく考えるとアルフさんは、使い魔で主はフェイトちゃんなのだ。使い魔であるアルフさんが勝手に決めるというわけにはいかないのだろう。

「ちょっと待ってください」

「え? なに? ユーノくん」

 今まで発言しなかったユーノくんが短い手を上げる。

「あなたたちは、管理世界の人間ですよね? ここに住むつもりなら時空管理局の許可を得ないとダメなんですが……。それよりも、管理世界で暮らしたほうがいいんじゃないですか? 魔導師なら引く手あまたでしょうし」

 ここで、さらに選択肢が広がった。なるほど、確かに彼女たちが魔導師である以上、ユーノくんたち側の世界の人間であることは間違いない。ならば、アジトがあるが、暮らしにくい地球よりも、元の世界のほうが暮らしやすいのかもしれない。

 選択肢がもう一つ増えた。だが、こればかりは、フェイトちゃんが起きなければ話にならないだろう。

 とりあえず、話し合いはそれで一段落ついた。後はフェイトちゃんが起きなければ、何も始まらないということで、今日のところは、ノエルさんがフェイトちゃんの治療を終えたら帰るそうだ。帰りはタクシーを呼ぶらしく、恭也さんとなのはちゃんも同乗して帰ることにしたようだ。

 さて、話し合いが一段落ついてから、僕たちが適当な雑談に花を咲かせていた頃、不意にリビングへ繋がる扉が開いて、ノエルさんが顔を出した。

「アルフ様、蔵元様、フェイト様が目を覚まされましたので、お二人だけよろしいでしょうか?」

 フェイトちゃんが目を覚ましたらしい。しかし、二人だけとはどういうことだろうか? その答えは、僕がフェイトちゃんが治療されている部屋に行くとすぐに分かった。アルフさんはノエルさんの言葉を聞くとすぐに飛び出していた。場所が分からないだろうと思っていたのだが、彼女の獣耳が示すようにイヌ科の動物が元らしい。僕に案内されるまでもなくフェイトちゃんが治療されている部屋へと駆け込んでいた。

 フェイトちゃんが治療されている部屋は客間として使われている部屋であり、親戚がきたときに使われている。布団もあるし、丁度良いだろということで使われている。

 僕がノエルさんより一歩前を歩き、部屋に向かったのだが、入り口でなぜかアルフさんが立ち止まっていた。

「どうかしましたか? アルフさん」

 答えがなかったので、僕はアルフさんの横から部屋に入る。そこで見た光景は、寝るために解かれたのかツインテールだった金髪を流した僕と同じぐらいの女の子が傍らに座っていた母さんのお腹に顔をうずめ、甘えるような声で「母さん」と口にしている光景だった。

 秋人が生まれる前ぐらいから髪を伸ばし始め、今ではロングと呼べるほどの髪になった母さんは、どういうこと? と困惑した様子だということが一目で分かる。無理もない話しだ。目を覚ました少女にいきなり母さんと甘えられるのでは意味が分からないのも無理はない。なるほど、これで僕とアルフさんだけが呼ばれたのか理解した。

「……フェイト、なにやってるんだい?」

 ようやく正気に戻ったのか、アルフさんが心底分からないといった様子で搾り出すように声を出す。おそらく、彼女もフェイトちゃんのこういう光景を見るのを初めてだったのだろう。

 だが、僕たちの予想に反して、フェイトちゃんの反応は激しいものだった。

 アルフさんの口からフェイト、という名前を聞くと、ビクンっ! と肩を震わせ、母さんのお腹にうずめていた顔を上げると疑問に満ちた表情で口を開く。

「アルフ、何言ってるの? フェイトって誰? 私はアリシアだよ」

 あれ? 何かがおかしいと思ったのは僕だけではないはずだ。アルフさんもそんなバカな、という驚愕に満ちた表情をしていた。

「フェイトこそ何言ってるんだいっ!? フェイトは、フェイトで、私の大好きなご主人様だろうっ!?」

 フェイトの言葉が信じられないのか、アルフさんはフェイトちゃんに近づき、肩を握ってフェイトちゃんの名前を何度も呼ぶ。果たして、それがスイッチだったのか、疑問に満ちていた表情はすぐに怯えに彩られた表情に変化した。

「フェイト? ふぇいと、ふぇいと? あ、あ、あ、ああぁぁぁぁぁ。ちがう……ちがう……ちがう。私はフェイトじゃない。にせものじゃない。ごみじゃない。アリシアだ。そうだよ。母さんに嫌われるフェイトじゃない。捨てられるフェイトじゃない。ねえ、そうだよね、母さんっ!」

 縋るように僕の母さんに問いかけるフェイトちゃん。さて、これは一体どういうことだろう。僕もアルフさんもノエルさんも、当然、母さんも事情が把握できない。だから、母さんは何も答えられない。だが、答えないという答えはさらに事態を加速させる。

「ねえ、どうして? どうして答えてくれないの? 贋物だから? ゴミだから? ちがう、ちがう、ちがうよ、母さん。私はアリシアだよ。そうだよ、フェイトじゃない、アリシアだ。ねえ、そうでしょ。私はアリシアだよね?」

 拙い、とそう思ったのは、彼女の虚空を見つめるような虚ろな瞳を見たからだろうか、あるいは、彼女に瞳に浮かぶ一滴を見たからだろうか。どちらにしても、何も対応しないのはまずいと思った僕は、フェイトちゃんに近づいた。

「そうだね、君はアリシアだ。贋物じゃない。ゴミでもない。ただのアリシアだよ。ねえ、母さん?」

 贋物やゴミという言葉が何を意味するか分からない。だが、この場合は、とりあえずの肯定だ。ここで否定すれば、彼女の精神は確実に不安定のまま固定されてしまうだろう。今は、とりあえず、この不安定な状態を脱出するためにも彼女の言うことを肯定するしか選択肢はなかった。そして、それは僕だけでは力不足であり、最後の一押しには母さんの言葉が必要だった。

「ええ、そうね。アリシア」

 アリシア―――その言葉も分からない。だが、母さんは僕のアイコンタクトが通じたのか、彼女が望む名前を呼んでくれた。そして、それを聞いたフェイトちゃんは安堵の表情が広がり、先ほどの虚空を見つめるような瞳ではなく、力強さが戻ってきていた。

「さあ、まだ疲れているんだから寝ましょうね」

「はい、母さん」

 母さんも先ほどの彼女の行動に何かを感じたのか、今は寝ることを勧める。そして、母さんのことは信用できるのだろう。フェイトちゃんは笑顔でそれに応えて、布団をかぶるようにして再び横になる。それを見届けて、僕はアルフさんとノエルさんと一緒に部屋を出た。



  ◇  ◇  ◇



 状況を説明したリビングはまたしても暗い雰囲気を醸し出していた。今度は、ノエルさんも加えた形だが。
 聞いただけでは確かに状況は分からないかもしれないが、実際に見た僕からしてみれば、確かに異様だった。

 フェイトという名前は確かに彼女のものなのだろう。ならば、アリシアという名前は何所から来た? アルフさんに聞いても分からないという。ならば、彼女と彼女の母親にあった何かなはずだ。あと、ゴミという言葉。これは侮蔑の言葉なのだから、虐待のときに浴びせられた言葉なのだろう。

 先ほどの表情を見るに彼女は完全にフェイトという人格を捨てていた。最初は本気でフェイトという名前に聴き覚えがなかったようだから。さて、そう考えると、ちょっと危険かもしれない。アルフさんの話によると彼女は虐待を受けていたという話だから、もしかしたら、彼女は二人目の人格を作ろうとしているのかもしれない。

 二重人格。言葉だけなら聞いたことがあると思う。これが起きる原因については、よく分かっていない。しかし、通説の中には、幼い頃、虐待や酷いことを受けていると、その現実から逃避するためにもう一人の自分を作るというのがあった。つまり、虐待を受けているのは自分ではなく、そのもう一人なのだと、だから痛くない、と思い込むことでもう一人の人格ができるというものだ。

 この場合は、本人がすべての痛みを背負って、アリシアという新しい人格が、新しい自分になろうとしているようだが。しかも、僕の母さんを母さんと勘違いして。しかし、これが正しいのか分からない。似たような症例で上げただけだから。まだ、フェイトちゃんの記憶とリンクしているところもあるところを見ると、一歩手前の酷い現実逃避という感じにも見える。

 やはり付け焼刃の知識ではこんなものか。近いうちに専門家に見せる必要があるだろう。

 結局、この場では何も決まらず、とりあえず、我が家にフェイトちゃん―――アリシアちゃんを置くことを決定した。なぜなら、母さんがアリシアちゃんの母さんとみなしているからだ。ここで離れ離れにして暴れられても困るという理由で。

 母さんも親父もとりあえず了承した。母さんも女の子に甘えられて悪い気はしないらしい。しかも、養育費のようなものは、月村家が出してくれるというのだから了承しない理由はなかった。警察などの対応もやってくれるというのだからいたせりつくせりだ。これがもしもプレシアさんによって考えられた罠だとしたら、アリシアちゃんを本当に傷つけているのだから苦肉の策もいいところである。だが、アリシアちゃんの母さんに甘えるときの安堵したような表情とアルフさんの憤慨を疑いたくはなかった。なにより、ジュエルシードを狙っているなら、僕たちの家よりもなのはちゃん宅を狙うだろうから。そういった考えもあって、僕もアリシアちゃんの受け入れに賛成した。

 そんな経緯で、我が家に一人家族が増えました。



  ◇  ◇  ◇



 奇妙な経緯で家族が増えた次の日の夜。なぜか、僕は自分の部屋ではなく、母さんと親父の部屋で久しぶりに川の字になって寝ていた。いや、川というには縦線が多いが。なぜなら、親父、僕、アリシアちゃん、母さんの順なのだから。もっとも、親父はまだいないから川であっているのかもしれない。

 ここで、僕が寝ている経緯は簡単だ。アリシアちゃんがねだってきたからだ。お兄ちゃんというのも大変だ。なぜ、僕がお兄ちゃんなのかというとフェイトちゃんが起きた後の母さんの説明に起因する。

 フェイトちゃん―――アリシアちゃんが起きたのは、恭也さんたちが帰ってから数時間後だった。最初は、母さんにだけ甘えていたが、僕に気づくと母さんの影に隠れて怯えるように「誰?」と問うてきた。そこで、母さんはなぜか僕を兄と説明。結果、アリシアちゃんからの僕への呼称は「お兄ちゃん」になってしまった。そのときに、「私は、妹がほしかったけど、お兄ちゃんでも嬉しい」と言っていたが、どういうことだろうか? ちなみに、妹はいないが弟はいるということで秋人を見せると意外と大喜びだった。

 さて、そのアリシアちゃんだが、家族が嬉しいのか、虐待の記憶しかない反動か、特に母さんか僕に甘えてきた。母さんのほうが優先度が高いが。今日もまさか一緒にお風呂に入ったりする羽目になろうとは思いもよらなかった。しかも、こうして一緒に寝ることになろうとは。傍から見れば可愛い妹なのかもしれないが。

 しかし、アリシアちゃんにはやはり不安定な部分がある。ちょっとした失敗。例えば、今日の朝食のときにお手伝いでお皿を運んでいたとき、まだ体力が回復していないか、よろけて誤ってお皿を割ってしまった後、慌てて素手でお皿の破片を拾おうとした。しかも、そのときの目は虚ろで、色をなくしており、怯えたように「ごめんなさい、ごめんなさい」と呟きながら。

 さらに、奇妙なことにアリシアちゃんは右利きなのに左利きのように振舞うことだ。まるで、記憶と体の整合性が取れないように奇妙な感覚を覚えたように左手を振っていた。特に僕たちを見て使おうとしていたお箸は右利きなのに左手で使うことは困難なのに左手で使うことに固執していた。

 あと、アルフさんは、アリシアちゃんを心配そうに世話を焼きながらも、どこか様子が違うアリシアちゃんに戸惑っているようだった。ちなみに、彼女は今は元の姿である狼になってリビングで寝ている。さすがにあの姿は刺激が強すぎたらしい。親父に。危うく家庭崩壊だった。

 明日は、アリシアちゃんが病院に行く日だ。さて、どうなるだろうか。

 しかし、そろそろ本当に時空管理局には来てもらいたいものだ。彼らならもしかしたらフェイトちゃんとアリシアちゃんのことも分かるかもしれない。プレシアさんのことも分かるかもしれない。いや、だがしかし、彼らが来たら、アリシアちゃんたちはどうなるのだろうか。ユーノくんの話によると地球は管理外世界なわけで、アリシアちゃんたちのような管理世界の人間は暮らせないんじゃないだろうか。

 時空管理局が来ればすべてが分かることだが、考えずにはいられない。まだ、たった一日とはいえ、アリシアちゃんは僕の可愛い妹なのだから。


 そして、アリシアちゃんが妹になって二日後―――ついに時空管理局は姿を現すのだった。


続く

あとがき
 二重人格の原因はあくまでも一例です。こういう説もありますよ、程度で考えておいてください。
 裏はアリサ、すずか、恭也、アルフ、プレシア、なのはでお送りします。



[15269] 第十八話 裏 中
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/08/03 21:42



 アリサ・バニングスは突然の親友の行動に困惑していた。

 時はお昼時、誰も彼もがお弁当箱を取り出して友人と今日はどこで食べようか、と相談している。教室で食べようとしてる者もいれば、今日は天気がいいので中庭で食べようとしている者もいる。アリサも今日は天気がいいので教室よりも屋上で食べたいと思っており、いつも一緒に食べている親友の月村すずかと一緒に屋上へ向かおうとしたのだが、彼女の姿は既に彼女の席にはなく、何所に行ったのか、と周りを見渡してみれば、アリサのもう一人の親友である蔵元翔太の下へと行っているではないか。

 アリサは翔太を誘うことはやぶさかではない。だが、すずかは今まで翔太を誘うことがあったとしても自分に一言言ってから一緒に誘っていたはずだ。それが、今日はアリサよりも翔太を優先して誘っている。この三年間で一度もなかった事態に驚いていた。

「あ、アリサちゃん。今日のお弁当、ショウくんも一緒だけどいいよね?」

「え、うん。もちろんよ」

 驚いている間にすずかが翔太と一緒に弁当を食べる約束を取り付けたのか、いつもの朗らかな笑みを浮かべて翔太がすずかの後ろに立っていた。その翔太は、アリサが視線を向けると弁当箱を持ち上げ、お邪魔するよ、といわんばかりに微笑んだ。

 ―――まあ、ショウは、他の人と食べることも多いから先に声をかけただけよね。

 クラス全体の殆どの人間は、いつもお昼を食べるメンバーは決まっている。そのグループがくっついて大きくなったりすることはあるものの、基本的に崩れることはない。そんな中、翔太だけは異様だった。まるで渡り鳥のようにいくつかのグループを歩きわたる。今日はここ、今日はここ、と二日続けて同じグループで一緒に食べることはなかった。理由はよく分からない。一度、聞いてみたところ、少し考えて後に「まあ、世話好きの物好きかな」とはぐらかされてしまった。

 そんなわけで、誘ってもあまり乗ってこない彼を捕まえるのは結構難しかったりするのだが、今日のすずかは成功したようだった。どちらにしても、翔太と一緒にお弁当を一緒にできることは少ないのでアリサとしても嬉しかったりする。

「それじゃ、行きましょう」

 アリサはすずかと翔太と一緒に屋上に向かう。屋上までの道のりは授業のことだったり、夜のテレビの内容だったりするのだが、その中でアリサは朝から気になっていたことを聞いた。

「ねえ、そういえば、朝の話ってなんだったの?」

 今朝、すずかと翔太は二人だけでどこかに向かおうとしていた。どこかに行くものだから、授業の準備であればアリサも手伝おうと申し出たのだが、「内緒のお話」といわれたのだ。誰にだって秘密はある。それが分かっているから、アリサも無理を言わなかった。だが、理解するのと気にならないのは意味が異なる。だから、二人が何を話したのか気になった。もしかしたら、今なら話してくれるかもしれないと期待して。

 だが、翔太とすずかの二人は困ったように顔を見合わせて、すずかだけが口を開く。

「ごめんね、アリサちゃん。これは私とショウくんだけの内緒のお話だから」

 今朝と同じようにあしらわれた。親友としては話してくれないことが少し悲しかった。しかし、そこまで言われては、これ以上聞くことなどできない。だから、アリサは「そう」と呟いて退くしかなかった。

 それからは、アリサの湿っぽい雰囲気を払うようにアリサから明るい話題を振る。二人もアリサの意図を察してくれたのかその話に乗ってくれた。一度話が弾めば先ほどの気まずい雰囲気はすっかりどこかへ消えてしまい、屋上につくころには三人で笑いあっていた。

 屋上は同じように昼食を食べようという生徒が存在していた。これはもしかしたらベンチが空いてないかもしれない、とアリサは屋上の出入り口から見たとき思ったものだが、幸いにして一つのベンチが空いていた。たった一つだが、三人で座るには十分な広さを持っている。

 アリサたちは、誰かに取られるよりも先にと思い、駆け出してベンチに座った。最初に座ったのはアリサ。この三人で食べるときは定位置であるベンチの真ん中に座る。そして、右手に翔太。左手にすずかが三人で食べるときの定位置だった。だが―――

「え?」

 思わずアリサは声を挙げてしまった。すずかがアリサの目の前を横切ったからだ。

 自分の右手の位置はすずかのために空けている。だが、それにも関わらず、すずかはアリサの右手に座っている翔太の右手に座ってしまった。アリサがすずかのためにあけていたスペースよりもずっと狭い翔太の隣に。しかも、狭い場所に座った弊害で、すずかと翔太の距離は殆どないと言える。くっついて座っていると言ってもいい。困惑している翔太に対して、すずかはそれに不平不満を漏らすどころか、なぜか嬉しそうに笑っていた。

「ごめん、アリサちゃん。少し向こうに行ってくれないかな?」

 アリサがすずかの行動に呆然としていると申し訳なさそうに翔太が言ってくる。いつもなら、アリサがすずかにこっちに来ればいいじゃない! と怒鳴るところだったが、すずかの不可解な行動に混乱していたアリサはあっさりといつもはすずかが座っている位置に体をずらしてしまった。

「ありがとう」

 そして、いつもアリサが座っている位置に翔太が。翔太が座っている位置にすずかが来る形で昼食が始まった。

 いただきます、と手合わせてお弁当を口にする。アリサのお弁当は小さいが、家のコックが作ってくれたものでどのおかずもおいしいものだった。そうやって、お弁当に舌鼓を打っていると隣から想像もしない会話が聞こえてきた。

「ショウくん、これおいしいんだよ。だから、はい」

「え? いや、はいって……それはちょっと」

 非常に困惑した翔太の声。いつも、冷静なショウが困惑するのは珍しいな、と二人の方に視線を向けてみると、スペースがあるにも関わらず殆ど翔太とくっつくような距離に座ったすずかが自分のお弁当から取り出したおかずを箸に挟み、それを翔太に向けて差し出していた。それを困惑した表情で見つめる翔太。

 ―――え? なにこれ? どうなってるの?

 これには当事者でないはずのアリサも困惑してしまった。

 お弁当からおかずを取り出して食べさせるなんてすずかのキャラではない。少なくとも今まで一度もない。アリサがすずかのお弁当や翔太のお弁当からおいしそうなおかずを取ることはあっても逆はなかった。だが、目の前で繰り広げられている光景は、今まで一度もなかった光景が展開していた。

 少なくとも昨日まではすずかの様子は普通だった。違うのは今日の朝から。あの二人が内緒の話をしてからだ。一体全体、本当に何を話したのだろうか。混乱と困惑と疑問でおそらく翔太と一緒に食べたのに一番口数の少ない昼食になってしまうのだった。

 それからも、すずかの様子は変わらなかった。お弁当を食べた後の休み時間もやたらと翔太と一緒に話したがる。しかも、笑顔が多い。すずかが声を出して笑うことなんて珍しいのに、翔太と話している間は、その珍しいことが何度も起きていた。一回の会話で一年分ぐらい。よほど機嫌がいいのか、とアリサも会話に加わるのだが、アリサが会話に加わった途端、すずかの様子は元に戻ってしまう。翔太と二人だけで話している間だけ、すずかの様子が変わるのだ。

 そのことに気づいたとき、アリサの胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。

 お昼休みが終わった後もすずかの様子が変わることはなかった。ちょっとした小休憩にもすずかは翔太の元へと駆け寄り、取り留めのない話をする。それは、今まで席が近くだったアリサとすることが多かったはずなのに。

 すずかの様子が変わったことが気になったアリサは放課後、翔太がいつものようになのはという少女と一緒に探し物にいってしまい、アリサとすずかだけの通学路ですずかから何とか内緒の話を聞きだそうとしていたが、頑なにすずかは笑顔で「内緒だよ」と音符がつきそうな弾む声で話の内容をアリサに決して話すことはなかった。

 帰宅してからもアリサはすずかの様子が気になって仕方なかった。内緒といわれれば気になるのが人の性だ。だが、アリサにはすずかの様子があんなにも変わってしまう理由が見出せなかった。たった一日ですずかから翔太への態度が変わる理由など見当がつかなかった。それに翔太も仕方ないという感じで受け入れていたのも気になる。つまり、すずかの変化の理由を翔太は知ってることなる。

 となれば、やはり気になるのは朝の翔太とすずかの内緒の話だ。

 何を話したのだろうか。気になる。気になるが、放課後のすずかの様子では教えてくれる気配はゼロといっていい。ならば、翔太なら、と思ったが、すずかが話さない以上、翔太が素直に話してくれるとも思えない。八方塞がりだった。だが、どうしても知りたかった。胸の奥に感じた小さな痛みを知るためにも。

 そんな悩みを持ったまま休日前ということで早く帰宅できた母親と一緒に食事をしたのが拙かったのだろうか、眉をひそめた表情をしながらフォークで食事を運ぶアリサを心配した母親が声をかけてくる。

「アリサ、浮かない顔してどうかしたの?」

「え……」

 一瞬、アリサは答えに戸惑った。一緒に食事することなんて殆どないのに、その殆どない機会に悩みを相談していいものだろうか、と思ったからだ。しかし、アリサが抱いている悩みは、もはやアリサ個人でなんとかできる範疇にはない。悩み続けてもいい答えが見つかるわけでもないし、本に答えが載っているわけでもない。だから、アリサは母親にすずかと翔太のことを話すことにした。

「あのね、ママ―――」

 それからアリサは母親に翔太とすずかの話をした。朝の内緒話から二人の様子がすっかり変わってしまったこと。すずかがお弁当の時間に翔太にしたこと。休み時間にも小さな時間を見つけて翔太とお喋りをしていたこと。今日一日、アリサが疑問に思ったことをすべて母親に話した。
 アリサの母親は、子どものこんな話なんて適当に聞き流すかな、と思っていたアリサだったが、意外なことに目を輝かせてアリサの話を聞いていた。

 そして、すべてを聞いたアリサの母親は、わざとらしく腕を組んでう~んと唸ったあとゆっくりともったいぶって口を開いた。

「そうね、すずかちゃんが様子が変わった理由は分かったわ。内緒の話の内容もね」

「本当っ!? ママ」

 アリサには母親の言うことが信じられなかったが、いつでも自信満々なアリサの母親が嘘でこんなことを言うはずがない。だから、母親が出した答えにアリサは期待した。

「すずかちゃんは、翔太くんが『好き』なのよ。だから、内緒の話はきっと『告白』ね」

 最近の小学生はませてるわね、と母親は付け加えるが、アリサには母親の言っている意味が理解できなかった。

 好き、というのであれば、アリサは翔太もすずかも好きである。なにせ二人しかいない親友なのだから嫌いなわけがない。告白という意味に対しても何か重大なことを伝えるということは分かる。つまり、すずかが翔太に好きだと伝えたということなのだろう。だが、なんとなく母親の言っている意味はそうでないような気がするのだ。

「ねえ、ママ、それってどういう意味?」

 アリサの問いにアリサの母親は、一瞬、きょとんとした後、声を出して笑い、アリサの頭を愛しげに撫でる。食事中なのに、と思いながらも母親に頭を撫でられるなんて何時ぶりだろうか、とアリサは母親の手を受け入れていた。やがて、母親はアリサから手を離し、笑いながら言う。

「あはははは、アリサにはまだ早かったかしら? すずかちゃんはね、翔太くんのことが特別に好きなのよ。そして、それを恋っていうのよ」

「特別な好き? 恋?」

「そうよ、綺麗な女になるには必須事項だから覚えておきなさい」

 アリサには母親のやけに愛いげなものを見守るような柔らかい笑みが印象的だった。

 夕食後、お風呂も済ませてあとは寝るだけとなったアリサはベットに飛び込んでうつ伏せになりながら夕食のときの母親の言葉を考えていた。

「特別な……好き? 恋?」

 定義は分かった。だが、それがどんなものなのか分からない。理解できなかった。母親がいう恋というものはあんなにも人を変えてしまうものなのだろうか。そして、すずかの変化を受け入れていた翔太も『恋』を理解していたのだろうか。

 分からない、分からない、分からない――――

 分からないことがアリサにとって苛立たしくて、不満で、そして、不安だった。

 ―――特別な好き。恋。

 それらを分かっているすずかと翔太がアリサとは違う別の関係になったような気がして。二人が理解できているものが理解できない自分がいて。二人から置いていかれたような気がして。

 アリサは胸に漠然とした不安を抱いていた。それが、胸の小さな痛みだった。

「……でも、変わらないわよね」

 そう、たとえ二人の関係が変わったとしても、アリサとすずかの、アリサと翔太の関係は変わらないはずだ。親友という関係は変わらないはずだ。変わってほしくない。

 翔太とすずかとアリサ。三人の関係が変わってほしくない。それが、それだけがアリサの願いだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかは、晴れ晴れとした気分で教室の窓の向こうに見える青空を見ていた。

 「気持ちが変われば、見える風景も変わる」とは、いつか読んだ本の一節だが、本当のことだと実感した。昨日までは、明るい青空を見るたびに自分の中にある呪いを消し去ってほしいと思っていたのに、今は素直な気持ちで晴れた青空を見ることができるのだから。

 彼女は、今朝、昨日の大事件を起こしてしまった翔太に校舎裏で素直に頭を下げた。昨日は確かに許してもらえるとは言っていたが、血を倒れるほどに吸ってしまったのだ。面と向かって謝らなければ気がすまない。なにより、まだすずかの心の中には怯えがあった。昨日はあまりの出来事に気が動転して、思わず許してしまったが、一日経って冷静になるとやはり自分を怯えているんじゃないか、という恐怖だ。

 だが、そんなすずかをあざ笑うかのように翔太は、笑顔ですずかを許してくれた。

「ショウくんは、私が怖くないの?」

 改めての質問。念を押すような最後の質問だった。昨日は扉越しだった。だが、今日は顔を合わせている。その中ですずかは確かなものが得たかった。そして、翔太は、すずかの望んだ答えをくれたのだ。

「昨日も言ったけど、大丈夫。僕はすずかちゃんを怖いなんて思ってないから」

 その答えで改めて救われた気がした。今まで嫌われることが怖くて、バケモノと恐怖の瞳を向けられることが怖くて、人と距離を置いていたすずかが初めて距離を近づけてもいいと言われた気がした。

 翔太の答えに安堵したすずかだったが、今度は逆になぜか翔太が慌て始めた。

「すずかちゃん? 泣いてるの?」

「え……あ」

 翔太に言われてすずかは初めて自分が泣いていることに気づいた。だが、それは昨日、帰ってから流した涙とは違う。その涙を流させる感情はまったく別物。逆ベクトルのものである。だから、すずかは笑う。自分にこんなに嬉しいと思わせてくれた彼に、せめてものお礼にと思いすずかは笑った。

「えへへ、大丈夫だよ。ショウくんの言葉が嬉しかっただけだから」

 きっと、自分は今までで一番の笑顔を浮かべられているとすずかは思った。

 改めて許してもらったすずかは昨夜、ベットの中で感じたとおりもっと翔太と仲良くなりたかった。だから、お昼に誘い、お弁当の中身を交換した。本当なら、食べさせあいっこもしたかったが、これは翔太が恥ずかしがって拒否したためできなかった。

 食べさせあいっこができなかったことは残念だったが、すずかがずっと本当の意味での友達ができたらやりたいことを半分はやれて満足だったし、翔太と一緒に過ごす時間は今まで以上に楽しかった。今日は翔太の表情一つ一つの感じ方が今までとは違った。慌てる翔太もおいしそうに食べる翔太もちょっとした雑談に笑う翔太もすべてが今まで以上に特別に思えた。

 学校が無事に終了し、翔太を見送ったすずかはアリサと一緒に帰宅した。家に帰ったすずかをファリンが出迎えてくれた。姉である忍ともう一人のメイドであるノエルは珍しくいないようだったが、今日から翔太のジュエルシード捜索を手伝うと言っていたことを思い出した。

 本音を言うとすずかも手伝いたかったが、あくまでも忍が着いていくのは夜の一族としての立場だ。それをすずかが担うにはまだ小さいといわれた。たとえ、すずかが月村家次期当主候補であろうとも、だ。単なる手伝いとして行ってもすずかは大人以上の力は出せるもののそれだけだ。戦い方を知っているわけではない。それを学ぶのは小学校を卒業してからの予定である。つまり、今のすずかは戦闘になった場合、足手まといでしかない、といわれたため、大人しく帰宅したのである。

 ―――ショウくん、大丈夫かな?

 昨日、そういえば、翔太は自分を魔法使いと呼んでいた。魔法が使えるなら大丈夫だと思うが、それでも心配だった。翔太はすずかの秘密を知っても友人関係を続けてくれる唯一の友人なのだから心配しないはずがない。だが、心配する以外にすずかができることはない。だから、考えてみた、何かできないか、と。

 しかし、そう簡単に思いつくはずもなく、考えた末にすずかは、メイドのファリンとノエルに相談することにした。そこで、年長のメイドであるノエルが提案してくれたのだ。彼女の中でもそれはグッドアイディアと思えるようなものを。

「そうですね。でしたら、手料理などどうでしょうか?」

「お料理?」

「はい、すずかお嬢様の手料理を蔵元様に食べていただくのです」

 なるほど、確かにそれは言い考えだ。だが、それを実行するには一つだけ大きな問題があった。

「私、お料理作ったことない」

 確かにノエルの案のお弁当の中に自分の手料理を入れることはいいアイディアだと思った。食べさせあいっこを拒否した翔太だったが、自分で作った料理ならもしかしたら了解してもらえるかもしれない。それに、自分で作ってもらったものを食べてもらうのは嬉しいことだ。少なくともファリンもノエルもそういっている。だから、自分もそれを感じたくて、翔太に自分の作ったものを食べてもらいたくて、ノエルの案を呑んだのだ。

 だが、作れないからといって諦められないすずかは、ノエルとファリンに料理を教えてもらうことにしたのだ。

 ―――ショウくん、食べてくれるかな?

 自分の手料理を食べてもらえる光景を想像しながらすずかは、今日よりも翔太ともっと仲良くなれることを願うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 高町恭也は、目の前の友人である月村忍が告げた事実に驚きを隠せずにいた。

「本当なのか?」

「嘘言ってどうするのよ」

 確かに、と恭也は思ってしまう。この場で嘘が言える状況ではないだろう。しかも、自分が吸血鬼であるなどという傍目から見てみれば妄言にしか聞こえない事実を。

 恭也が忍に話させたのは、昨日の翔太を半ば有無を言わせず月村家へ連れて行った理由だ。理由もなく忍が翔太を拉致に近い形で連れて行ったとは思いたくなかった。こんな自分に友人でいてくれる人なのだから。しかし、それでも中途半端に済ませるつもりもなかった。

 蔵元翔太は、恭也たちがずっと思い悩んでいたなのはの最初の友達だ。恭也も翔太の性格も行動も気に入っているし、彼が大切な妹の最初の友人でよかったと思う。ただ、最近、なのはが口を開けば、ショウくんが、ショウくんが、と彼の名前を連呼するのは、いささか気にかかってはいるが。

 大学でであった忍にそのことを切り出すと、連れてこられたのは、大学の近くにあるカラオケハウス。そこを二時間で部屋を取った。どうしてこんなところに? と思ったが、カラオケハウスというのは防音が聞いているうえに個室で、さらに防音であっても多少は漏れ聞こえる音楽の所為で内緒の話をするのに都合がいい場所なのだ。

 流行のポップミュージックのカラオケを背景に聞いた話はおいそれと外で簡単に話せる内容でないことは確かだった。

 なにせ、月村忍が夜の一族といわれる一族の一員で、吸血鬼だというのだから。昨日の件も彼女の妹のすずかが翔太の血を吸ったということで緊急的に呼び出したという話だった。
 彼女の言うことに整合性はある。翔太は自分で歩けないほどに体調不良だったし、それを貧血と結論付けると、血を吸われたというのは、荒唐無稽ではあるが、理にかなう説明だ。

 だが、しかし――――

「いまいち信じられない?」

「ああ」

 正直な感想だ。いきなりそんなことを言われても信じられるはずがなかった。何か隠していて誤魔化そうとしているんじゃないか、と思えるぐらいだ。友人を疑うのは気分が悪いと思いながらも、心は冷静に忍を疑っていた。もしかしたら、恭也の中に流れる裏の暗殺者としての血がそうさせるのかもしれない。

 だが、そのことに気づきながらも忍は嫌な顔せず、どうしよう、と悩んでいた。

「実際に血を吸って見せるのがいいんでしょうけど……嫌よね?」

「当たり前だ」

 血というのは実は人体にとっては毒薬である。コップの半分ほどの血を飲んでしまえば、胃の中身をすべて吐き出してしまうほどに。だから、恭也の血を実際に吸わせれば、それを栄養素として扱ってしまえば、忍の言うことを信じられるのだが、さすがに血を吸われるのは勘弁してもらいたいところだった。

「だったら、もう一つのほうでいきましょう」

「もう一つ?」

「そうね、恭也。私の目を見て」

 つぅ、と顔を近づける忍。美女といってもいいほどに整った顔が近づいてきて少し戸惑ったが、それでも言われるがままに目を見つめる。忍の瞳が一瞬、血のような赤に変わったと思ったのは気のせいだろうか。そして、その気のせいを感じた次の瞬間にまた忍は元の位置に戻った。

「それじゃ、恭也。私が頼んだ飲み物は何でしょう?」

「何って……」

 あれ? と自分でも思った。忍がすべてを話し終えた後、喉が渇いたと飲み物を頼んだのだ。電話でカウンターに頼んだのは自分で、恭也はウーロン茶を頼み忍は―――思い出せなかった。電話をかけて何かを頼んだところまでは覚えている。だが、その内容が思い出せなかった。

「私の力の一つで魔眼よ。今は古典的に記憶を失わせてみたんだけど、どう? 信じられそう」

「―――信じるしかないだろうな」

 古典的だったが、ここまで正確に忘れ去られたら認めるしかなかった。そして、丁度、恭也が降参するように忍の発言を認めた後、部屋の入り口付近に空いている小さな窓口から二つのグラスが急に出てきた。歌っている最中に邪魔しないためのシステムで、ここに勝手にジュースなどを置いていくのだ。二つのグラスの中身は、一つは恭也が頼んだウーロン茶、そしてもう一つは、忍が頼んだアイスコーヒーだった。

 先ほどは思い出せなかった頼んだ飲み物だったが、もう一つのグラスがアイスコーヒーだと認識した瞬間、まるで風船が割れて風船の中に隠されたものが分かったようにはっきりと忍の頼んだものを思い出したのだ。

「……なるほどな」

「思い出した? さっきは簡単だったから切欠があれば、すぐに思い出せるタイプの魔眼なの」

 そういいながら、恭也が持ってきたアイスコーヒーに口をつける。

「それで、恭也も私たちのことを知っちゃったから答えて欲しいの」

「何を?」

「………恭也は、私たちのこと怖いと思う?」

 恭也は少し考えたが、それでも忍の問いには首を横に振って答えた。

 確かに最初に言われたときは驚いたかもしれない。しかし、それは当たり前だ。友人が吸血鬼だというのだから。驚かないほうがどうかしている。だが、それだけだ。彼女が恐ろしいとは思わなかったし、ああ、そんなものもいるんだ、程度の認識だった。これが普通なのかどうか分からない。もしかしたら、自分も裏といわれる世界に片足を突っ込んでいたせいなのかもしれない。だが、どんな理由にせよ恭也は忍のことが怖い、恐ろしいと思うことはなかった。

「よかった」

 ほっ、と安堵の息を吐く忍。そういえば、先ほど、恭也に問いかけたとき、忍が瞳が恐怖で揺れていたような気がする。もっとも、彼女が拒絶されるようなことを告白した後なのだから、当然なのかもしれない。

「それで、ここからが本題なんだけど……」

「何だ?」

 昨日のことはすべて聞いた気がする。だが、忍はこれが本題ではないという。一体他になにが残っていただろうか、と恭也が頭をめぐらせ、答えにたどり着く前に忍が先に口を開いた。

「私たちのことを話した相手には、私たちのことを話さないように契約を結んでもらうんだけど―――」

「大丈夫だ。俺は誰にも話さないさ」

 忍が話したことが明らかに秘密に値することは分かっている。翔太のことを聞いたとき、彼女は夜の一族のことを話してくれた。それが自分への信頼から来るものだと分かっている以上、誰にも話すつもりはなく、墓まで持っていくべきだと思う。契約というのは秘密を漏らさないためのものだろう。彼女たちの秘密が決して外部に漏らせない、漏らしてはいけないものだとすると納得できる処置ではある。

 だが、契約の話が出てきた後、忍はなぜか口をもごもごさせて、視線を恭也から逸らして、頬を赤く染めながらようやく決心したように口を開いた。

「契約はね、夜の一族の誰かと関係を結んでもらうことになるの。それで……恭也は私のことどう思ってる? ただの女友達? それとも―――」

 それとも、の後に続く言葉を問いかけるほど恭也は無粋ではないつもりだ。だが、ある種の婉曲的な告白とも言える言葉に恭也は衝撃を覚えていた。確かに忍は恭也にとって数少ない友人ではあるがそれ以上に見たことなどなかった。一緒にいて心地よいとは思うが、友人の延長線上で、異性として綺麗だと思ったことはあるが、それはあくまで恭也の男としての意見で、高町恭也として月村忍を意識したことがあるか? といわれると疑問である。

 言われて見れば、確かに同じクラスになって席が隣になってから一緒に帰ることも、どこかに行くことも多くなったような気がしたが、ちょうどその頃はなのはのこともあり、あまり外に目が行っていなかったこともある。事実、休日に誘われてもなのはの方を優先させていたのだから。

 もし、今、なのはのことがなければ、恭也は答えを出すためにしばらく時間を貰うだろう。自分が月村忍に抱いている想いは友情なのか愛情なのか。だが、今は生憎ながらジュエルシードのことがある。それ以外に目を向ける余裕があるわけでもないし、二つのことを同時にこなせるほど器用でもない。

 そして、それ以外にも彼女の最初の友人である翔太のこともある。今は順調とはいえ、いつ二人の仲がこじれるか分からない以上、彼らを見守っておきたい気持ちも強い。もしかしたら、なのはのために自分ができる何かがあるかもしれないと思うから。

 だから、時間もなくやることもある以上、高町恭也として月村忍に返せる答えはなかった。

「ねえ、何か言ってよ」

 婉曲的な告白とはいえ、何も答えが返ってこないのは不安だったのだろう。忍が瞳を不安に揺らして問いかけてきた。本当なら答えたくはなかった。恭也の答えは「答えがない」という答えで、不誠実にも思えたから。

「すまない。答えは保留でもいいだろうか?」

 それが恭也が忍に返せる精一杯だった。もっと時間があれば、余裕があれば、答えは違ったかもしれない。だが、現時点で返せる答えはそれしかなかった。

「は?」

 忍の目が点になる。当たり前だ。告白したつもりが、答えが保留だというのだから。だが、恭也は忍が伝えたくれた想いを無下にしたくなかった。自分の中にある想いと向き合いたかった。だが、それには時間が足りない。だからこその保留。

「いつまで?」

「……少なくとも今の件に蹴りがつくまで」

 それからなら考えられる。翔太のこともあって、なのはの件も今までよりも緩やかになるだろう。翔太経由で、女友達もできてくれればいいのだが、と思う。だから、それからなら彼女への想いへの答えも返せるだろうと思うから。もしかしたら、嫌われるかもしれない、とも思ったが、忍ははぁ、と呆れたのかため息を吐く。

「はぁ、まあ、今日は振られなかっただけましと思うわ」

「……いいのか?」

「だったら、今すぐ答えを返して、って言ったら返してくれるの?」

 それは無理だった。少なくとも友人だと思うが、忍といると心地いいのも事実なのだ。だからこそ、迷っている。迷うということは別の想いがあるということだ。だからこそ、考えたかった。

「はい、だから、この話はおしまい。後は恭也が答えを返してくれるのを待つだけ」

「すまないな」

 本当にそう思う。そして、恭也の答えに笑って忍は、いいわよ、と言ってくれた。本当に有り難いことだと思う。

「ところで、話は変わるが、昨日の件、きちんとショウくんに謝ったんだろうな?」

「もちろんよ。さくら―――私の叔母がお詫びの品まで送るって言ってたし」

「そうか」

 それだけが気がかりだった。彼も小学生なのだから、きっと無理矢理あんなことをされて、さぞ傷ついたと思うから。謝罪をして、侘びの品まで送っているなら、彼なら大丈夫だろうと恭也は思った。

「さあ、後一時間ぐらいあるし、歌いましょう」

「……俺は、歌なんて知らないぞ」

 恭也の抗議にも関わらず、忍は結局、恭也と一緒に残りの一時間をカラオケボックスで過ごした。


 ―――次の日、件の侘びの品がレバーだと知って、さすがに絶句し、それは拙いだろう、と思った恭也は忍に翠屋のシュークリームとケーキを持っていかせるのだった。



続く

あとがき
 アルフ、プレシア、なのはは次回で。



[15269] 第十八話 裏 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/05/21 20:35



 アルフが気がついたのは、見慣れないビルの屋上だった。雨が降っているのか冷たい雫が頬を打っていた。
 緊急的な大雑把な転移魔法だった割には人目につかない場所という点では上出来であると思った。

「フェイトっ!?」

 場所はよかった。ただ自分が助かっただけでは意味がない。自分自身よりも大切な主であるフェイトの具合が気になった。アルフが存在している以上、フェイトが死んでしまったということはないのだろうが、死んでいないというだけでは意味がないのだ。だから、彼女の胸の中で抱かれるように眠っているフェイトを見つけてアルフは安堵の息を吐いた。

「よかった」

 これで一安心といったところだが、安心したからといって油断するわけにはいかない。冷たい雨が降りしきるこの天気の中、長時間外にいれば体調を崩してしまうだろうから。だから、一刻も早くこの海鳴にいる間、拠点としていたマンションに戻る必要があった。

 あそこであれば、最低限の食料はあるし、眠る場所もある。あのクソ婆から解放された以上、フェイトは自由なのだ。これから何でもできる。フェイトが望むならなんだって。だから、今はとりあえず、あのマンションに戻ることにした。

「フェイト、ちょっと我慢してくれよ」

 眠っているフェイトをアルフは背負い、アルフは人目につかないようにビルとビルの隙間を飛び降りた。そのまま着地すれば大怪我は逃れられないだろうが、アルフは使い魔だ。飛行魔法程度なら使うことができる。飛行魔法を使って無事に地面に着地したアルフは、そのまま路地裏から出るように歩き始める。だが、その瞬間、急に力が抜けた。まるで、支えであった柱が抜かれるようにガクンと膝を折ってしまうほどに力を入れられなくなった。

「あ、あれ?」

 それはアルフにとって初めての経験だった。だが、その原因はすぐに分かった。
 フェイトだ。彼女の背中で死んだように眠るフェイトが、アルフが力を入れられない原因だった。

 アルフとフェイトは使い魔という主従関係で繋がっている。正確にはアルフは生命体ではない。狼だった死体を基にした魔法生命体であり、その生命の根源はフェイトの魔力である。つまり、フェイトが弱り、魔力供給も困難なほどになれば、アルフの力が入らないのも無理のない話だった。

 急に力が抜けた原因ははおそらく最後の飛行魔法だろう。次元転移魔法でアルフの中の魔力はほぼ限界値ギリギリだったのだ。供給魔力が足りなくなった最後の一押しをしたのは、間違いなく最後の飛行魔法だった。

「くっ……」

 だが、アルフは動かしにくい身体に鞭打って歩き始めた。この雨が降りしきる中、この場に留まるのはフェイトの体力をさらに削る羽目になる。そうすると、なおアルフは動けなくなる。ならば、今は多少無理してもマンションに戻るのが最善と思ったからだ。

 だが、どうやらアルフは大雑把な転移魔法で最後の運を使い果たしたようだった。

 ―――どうして、あいつがここにいるんだいっ!?

 常日頃、ジュエルシードを探しているなら考えられないわけではなかったが、しかし、いくらなんでもここで出会わなくてもいいだろうに、とアルフは己の不運を呪う。

 アルフが力が入らない身体を動かしながら、街中を歩いている最中に出会ったのは、フェイトをボロボロに叩きのめしていた白い魔導師一行だった。彼らを視界に入れたとき、アルフの顔から血の気がうせた。あの白い魔導師のどこまでも吸い込みそうな黒い瞳を思い出したからだ。今度、また出会ったら今度こそやられる、と思っていたアルフから血の気が引くのは当たり前だろう。

 ―――逃げよう。

 その結論に至るのに時間は必要なかった。すぐさま踵を返し、走り出そうとしたところで、背後から三つの気配。だが、それにも関わらず一目散に逃げることを選択する。もしも、万全だったなら十二分に逃げられただろうが、この身体では無事に逃げられるだろうか。

 ―――だけど、フェイトだけは絶対護る。

 それが、アルフの使い魔として、いや、アルフとしての決意だった。

 だが、想いだけでは現実を覆すことは難しかった。逃げ出した直後に少年の肩にいたフェレットが魔法を使ってきたからだ。拘束用の魔法であるチェーンバインドは、術者の腕前が高かったのか、精密な動きでアルフの足首に絡みついてきた。今のアルフに翡翠色のチェーンバインドから即座に離脱できる手段があるわけがなく、せいぜいできた反抗は、背負っていたフェイトを胸に抱きこむことだけだった。

 次に起き上がってみれば、アルフは、囲まれていた。奇妙な形をした剣とフェイトを一日半眠らせた筒、そして最大の恐怖ともいえる白い魔導師のデバイスがアルフを狙っていた。完全な詰みといえる。だが、それでも、それでもフェイトだけは、とアルフは虚勢をはり、牙を見せ、唸る。

 アルフに怯えたとは思えない。何せ、目の前にはフェイトを圧倒した魔導師がいるのだから。だから、なぜ襲ってこないのか分からなかった。しかし、だからといって逃げられるはずもなかった。

 ―――隙があれば逃げてやるのに……。

 アルフはそう思うが、囲まれている人間を見ても、白い魔導師を見ても、その可能性はゼロに等しい。逃げられない。襲われない。恐怖と緊張感がアルフの心をじわじわと締め付けてくる。もしも、これが戦術というなら、考えたヤツは相当意地が悪いやつだ、とアルフは思った。

 そんな恐怖と緊張感に包まれる空間の中を割るように前に出てきたのは、一人の少年。アルフの周りにいる人間とは違って一見無力そうな少年だった。顔にはこちらを安心させるような柔らかい笑みを浮かべている。一体、何をするつもりなのか、とアルフが身構えていると少年が口を開いた。

「あの、このままじゃ、お互いに風邪ひいちゃいますから、一度僕の家に行きませんか?」

 アルフが驚くような提案だった。自分たちは彼らにとって敵であるはずで、ここで倒されるならまだしも、こちらを心配した上での提案だった。自分を囲んでいる連中も中には反対していそうな人間もいたが、おおむね少年に従っていた。そして、アルフが一番度肝を抜かれたのは白い魔導師の言葉だ。

「私はショウくんの言うことに従うよ」

 ショウというのが彼の名前だとして、彼女は少年に従うという。アルフの狼としての本能から言えば、弱肉強食。アルフはフェイトには決して逆らえない。ならば、目の前の一見無力そうな少年も、フェイトをボロボロにした白い魔導師を従えるほどの強さを秘めているとでも言うのだろうか。

「ねえ、お姉さん」

「……なんだい」

 白い魔導師を従えるほどの少年の問いかけに答えないという選択肢はなかった。

「僕たちについてきてくれませんか? あなたが抱いてる彼女も風邪ひいちゃいますよ? 僕の家なら温かいと思いますし、このままこう着状態が続くよりもずっといいと思います」

 自分の陣地に連れ込もうというのは罠だろうか。もしも、そうだとすれば、自分の身も、いや、自分のことなどどうでもいい。それよりもフェイトの身も危うい。しかし、ここで断わることもできない。だから、だから、アルフが考えた末の結論は、

「……わかったよ。私はどうなってもいい。何でも答えてやるよ。だから……だから、フェイトだけは助けてくれっ!!」

 フェイトの絶対的な安全の確保だった。

 それからの流れはこちらが拍子抜けしてしまうほどだった。フェイトにもアルフにも危害を加えられることはなく、ただ、尋問のように質問を繰り返されただけだ。クソ婆についての情報は隠し立てするほどのこともなかったのですべて正直に話した。しかも、もしも、地球で暮らすなら援助するとまで言ってくれた。もっとも、自分たちは管理世界の人間なので、時空管理局とやらの許可が必要らしいが。

 これで、フェイトが無事なら文句なしだったのだが、世の中はそんなに上手くできていないようだった。

 目が覚めたフェイトは、アルフが大好きなフェイトでありながらフェイトではなかったのだから。

 ―――正気に戻ってくれよ、フェイト。目を覚ましてくれよ、フェイト。また、アルフって呼んでくれよ。

 そういいたかった。だが、フェイトの名前を出せば、フェイトが―――アリシアが不安定になる。まるで壊れてしまったように。だから、白い魔導師を従える少年―――翔太にもフェイトの名前は出さないように言われてしまった。

 そして、翔太の家に保護された次の日。フェイトは朝に目を覚まし、もしかしたら、元に戻っているかも、というアルフの希望を粉々に打ち砕いてくれた。だが、それでも大切なご主人様には変わりないわけでアルフは、フェイトの―――アリシアの世話をすることにした。もっとも、彼女は翔太の母親に酷くなついていたが。起きたフェイトは翔太の姿も探していたが、彼は今日もジュエルシードを探しに出たらしい。

 さて、フェイト―――アリシアが起きて確認したことだが、アリシアは実にちぐはぐな記憶を持っていた。アルフを使い魔として認識している。母さんを翔太の母親と認識している。バルディッシュの記憶はなくなっていた。魔法を使えることを知らなかった。おかげで、自己修復中だったバルディッシュは大切にアルフが管理している。

 朝ごはんを食べたアリシアは、警察署とか言う場所に連れて行かれた。昨日、一緒にいた忍という女性も一緒にだ。昨日は腫れていた頬はすっかりよくなっていたが、鞭で叩かれた場所は治っておらず、警察官といわれる人間が、顔をしかめていた。後は、翔太の母親が何かを話していた。身元引受人だとかなんとか、捜索願がなんとか。アルフには一切理解できなかったが。

 そして、時間は流れて南中した太陽が傾きかけた時間帯。頭上には昨日の雨が嘘のように晴れ渡った空が広がっていた。

「アルフ~、手伝ってよっ!!」

 そんな青空の下、自分の名前を呼ぶ大切なご主人様。フェイト―――アリシアは、翔太の黒いジャージといわれる衣服に身を包み、庭に置かれた物干し竿に支えられた洗濯物の下にいた。アリシアが手伝いを申し出て、翔太の母親が洗濯物を入れてくれるように頼んだのだ。だが、物干し竿は、翔太の母親の身長にあわせてあるらしく、フェイトの身長では届かない。だから、アルフを呼んでいた。

「はいよ」

 フェイトであるが、アルフが知るフェイトとは微妙に異なるフェイト。だが、それでもご主人様には違いないとアルフは彼女のお願いに従っていた。アルフは、アリシアに言われるがままに下から物干し竿の高さまで持ち上げる。持ち上げられたアリシアは嬉々として洗濯ばさみを取って、衣服を自分の腕の中に入れていた。

 フェイトの嬉しそうに洗濯物を取り込む表情を見てアルフは複雑な気持ちになる。アルフは、フェイトのこんな表情を見たかったはずだ。彼女の笑う顔を心から望んでいたはずだ。だが、今のフェイトはフェイトでありながらフェイトではない。だからこそ、複雑な気持ちになる。喜んでいいのか、彼女がフェイトじゃないことを悔やむべきなのか、アルフには分からなかった。

 そんなことを考えていたせいだろうか、アルフはフェイトが洗濯ばさみを外した直後に、自重に耐え切れず、物干し竿から落ちていく衣類に気づけなかった。フェイトも手を伸ばすが、届かない。結局、そのまま蒼い衣服は地面に落ちてしまった。昨日の雨で泥になっている地面の上に。

「あ、あ、あああああぁぁぁぁぁ」

「ど、どうしたんだい? フェ―――アリシア」

 アルフから逃れるようにばたばたと体を動かし、アルフの腕から解放されたフェイトは、地面の上に落ちてしまった衣服を慌てて拾うと一生懸命、衣服についてしまった泥を落とそうとする。泥は拭っただけでは取れず、もう一度洗濯するしかないのだが、それでも執拗に拭い、落とそうとする。

 アルフにはフェイトの行動が分からなかったが、似たような症状は今朝も見ていた。誤ってお皿を割ってしまったフェイトが見せた表情が今のような表情だった。絶望に彩られ、目から焦点を失ったような表情。ただただ、自分の失敗をなかったようにするフェイトの行動。今朝のときは、割れたお皿を素手で片付けようとしていた。翔太の割り込みで幸い怪我はなかったが。

 そして、そのとき、決まって呟くことは一つだけだ。

 ―――――「ごめんなさい」

 今のアリシアも屈みこみ、取れることのない泥を払いながら、ごめんなさい、ごめんなさいと念仏のように繰り返している。
 こうなってしまえば、アルフにできることはなかった。アルフが声をかけても反応しないのだ。この事態を収集できるのはたった一人だけだった。アルフがその人物を呼びに行こうとしたとき、彼女が様子を見に来たのか、庭に顔を出した。

「あらあら、どうしたの?」

「か、母さん」

 そう、フェイトが現状、反応するのは翔太の母親だけだった。

「ああ、洗濯物を落としちゃったのね」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 状況を把握した翔太の母親と翔太の母親にひたすら謝るアリシア。その表情は、今朝と変わらず絶望に彩られていた。翔太の説明によると、彼女のこの症状には、母親―――プレシアからの虐待の記憶があるかららしい。今もフェイトを苦しめるあのクソ婆がアルフは忌々しかった。

 そんなフェイトを翔太の母親は抱きこむように背中に手を回す。

「大丈夫よ。また洗濯すればいいんだから。でも、次からは気をつけてね」

 その声は慈愛に満ちており、優しかった。

「私は捨てられない?」

「ええ」

 翔太の母親の言葉に安心したような表情をするフェイト。せめて、せめて、とアルフは思う。彼女のような優しさがあのクソ婆にもあったら、フェイトはもっと幸せになれたのではないか、と。彼女が望んだ幸せが手に入ったのではないかと。

「それじゃ、もう少し手伝ってね」

「うんっ!!」

 翔太の母親に頭を撫でられ、目を細めるフェイトの幸せそうな表情を見るとアルフはこのままでいいのではないか、と思う。たとえ、フェイトがフェイトではなくても、あの辛い記憶がなくなり、幸せならば、それでいいのでは、と。なぜなら、アルフが求めるのはフェイトの笑える幸せだけなのだから。

 さて、今度は衣類を落とすことなく無事に洗濯物を部屋の中に入れてしまった後、何気なしに翔太の母親が口を開いた。

「この後、あなたたちの洋服を買いに行きましょうか」

「え? わ、悪いよ」

 遠慮だった。ただでさえ、自分たちはお世話になっているのだ。しかも、フェイトがあんなことになって負担がかかっているはずなのにこれ以上迷惑はかけられなかった。フェイトの分はお願いしたいところだが、自分はバリアジャケットにもなっているタンクトップと短パンで十分だった。

「行くわよね」

「……はい」

 翔太の母親の眼力に負けてしまった。そこには確かな意思があった。フェイトを見ていたような慈愛が篭ったものではない。明確な意思だ。

「そう、よかったわ。その格好だと、また変身してもらわないといけなかったから」

 それは、昨夜、翔太の父親が自分の格好を見て、「け、獣耳のお姉さんっ!?」と叫んだことと何か関係があるのだろうか。その後、翔太の母親に耳をつねられていたが。昨夜は、それを見た翔太に何とかならないか? といわれて狼姿で寝た。

 しかし、と先ほどとは違った感情でアルフは、家の中に戻ろうとする翔太の母親の背中を見る。その感情は怯えだった。
 翔太は白い魔導師を従える。だが、翔太の母親は翔太でさえも従えるのだ。つまり、アルフの中のヒエラルキーは、翔太母>翔太>白い魔導師>フェイト>アルフだった。白い魔導師を従える翔太でさえ恐ろしかったのに、それを従える母親がいるとは。つくづく、地球は恐ろしいところだと実感するアルフだった。



  ◇  ◇  ◇



 プレシア・テスタロッサの寝起きは最悪だった。

「また、あの夢……」

 夢の残滓をふるい落とすかのように頭を振る。もはや見慣れた夢とはいえ、気分がいいものではなかった。むしろ、最悪だ。
 あのときの夢とは、悪夢。あの実験機が暴走したときの記憶だ。その夢の中でプレシアはプレシアを責める。

 どうして、あのとき会社に逆らってでも転移させなかったのか、と。

 仕事などどうでもよかったはずだ。お金などどうでもよかったはずだ。だが、現実は、会社に従い、一番大切なものを失ってしまった。幸せだったはずの生活は一瞬で泡となって消え去ってしまった。あのときの感情は今でもプレシアの胸を締め付ける。

 だからこそ、プレシアは前に進むしかない。もう一歩のところまできているのだ。後は、ジュエルシードを手に入れるだけでいい。それだけで、失った時間が戻ってくる。アリシアとの約束を果たすことができる。アリシアの笑顔を見ることができる。

 今までそれだけの願いを、妄執を、妄念を糧に生きてきた彼女は、もはやそれ以外のことを考えられなくなっていた。

 だから、今まではアリシアと同じ形をしているというだけで気が咎めた失敗作の処分を行うことができた。あれが処分できたのは、彼女の許容範囲を超えたからだろう。存在することは許せても、失敗したことまでは許せなかった。

 人形は主の思うがままに装うからこそ人形としての役割を果たせるのであり、言うことを達成できない人形はもはや人形ですらなく、ただのゴミだ。だから、プレシアはフェイトと呼んでいた人形を捨てることができた。アリシアと同じ形をしたものをゴミとはいえ、処分することは胸が痛むかと思っていたが、むしろ、すっきりしたという感情のほうが大きかった。

 ああ、そうだ。プレシアは嫌いだったのだ。アリシアと同じ髪で、同じ声で、同じ姿で、母さんと呼ぶ失敗作が。もしかしたら、一度はそれに希望を持っただけに尚に嫌いだったのかもしれない。だが言えることは、プレシアは、ずっと、ずっとあれが大嫌いだったのだ。ただ、それを駒として使えるというただ一点のみで傍においていただけだった。

 だが、駒として使えない以上、処分するのは当然であり、あの姿を見ないだけで、あの声で聞かないだけでプレシアは清々していた。そう、プレシアに必要なのは、あのような贋物ではなく、本物のアリシアだ。ただそれだけでいいのだ。

 そして、それはもう手に届く範囲まできている。ジュエルシードを手に入れる。ただ、それだけだ。だが、それが難しい上に残された時間は少ない。病に蝕まれた身体のことを考えれば、この機会が最後のチャンスだろう。

 寝床から起き上がったプレシアは栄養剤で朝食とも呼べない朝食を済ませ、いつもの場所で思案する。どうやってジュエルシードを手に入れるか、である。

 選択肢の一つとしてプレシアが出て行くというのが考えられる。だが、即座に却下。病魔に蝕まれた身体では、いつ倒れるか分からない。そもそも、そんなことができるならば、あのような失敗作、即座に処分している。

 あるいは、この時の庭園内部に数多く設置された傀儡兵を落ちたと思われる街に落とすか。単純な人海戦術だからこそ短時間で済むメリットがある。街に住んでいる人間が死ぬかもしれないが、そんなことは知ったことではない。アリシアにもう一度会うためなら幾人だって殺してやる。むしろ、彼らはアリシアが蘇るための生贄になれるのだから喜ぶべきである。
 しかし、これも却下せざるを得ない。大量の傀儡兵を動かせるのは、時の庭園内部にある動力炉と直結しているからである。もし、この動力炉から切り離して使うとすれば、非常に大量の魔力が必要だ。だが、プレシアにそれだけの魔力は使えない。ゆえに却下だ。

 そして、もう一つは、あのゴミが負けたという魔導師の存在である。ゴミが負けた魔導師が地球にいることは分かっている。だが、地球は管理外世界であり、正規の魔導師がいるとは考えにくい。特に管理局の人間であれば、質量兵器で互いを牽制しているこの星になどいないだろう。それを隠れ蓑にした犯罪組織だろうか。ならば、手はあった。犯罪組織がジュエルシードのようなロストロギアを集める理由は金だ。その一点尽きる。幸いにしてプレシアの手元には大量の金があった。特許として毎年莫大な金が入ってくるし、研究の副産物だけで一財産稼げたのだから。
 なるほど、これなら上手くいきそうだ。だが、その交渉のためには、まずジュエルシードを探している魔導師を探さなければならない。

 プレシアは、その魔導師を探すために地球に動力炉の魔力を使ったサーチャーを降ろした。

 件の魔導師は意外にも簡単に見つかった。そもそも、地球では魔力を持つ存在が少ない。ジュエルシードを見つけたという街で見つけたのは、たったの二人と一匹だ。そのうち一人と一匹はAランク程度の魔力を持ち、もう一人はSランクを超えた魔力を持っていた。数名、魔力を持っていないものが随行しているが、これは現地住民だろう。

 おそらく、魔力から考えるにゴミが負けたのは、Sランクの魔導師だろう。だが、ここで疑問がわいてきた。彼らは何者だろうか、と。様子を伺うに一匹が探索魔法を使っている。つまり、こちらは管理世界の人間だろう。ならば、他の二人は? 現地住民だろうか。だが、そうだとすれば、魔法のない世界の住人にあのゴミは負けたことになる。なるほど、失敗作はやはり失敗作だったということだ。

 彼らが管理局の人間ならば、あのゴミも管理局の人間に負けたと言うはずだ。なにせ、彼らには最初に身分を提示しなければならないという規則があるのだから。

 さて、どうしたものか。犯罪者なら金だと思っていたが、どうやら現地住民らしい。ならば、他に手立てを考えなければ、と思っていたプレシアだったが、彼らを交渉のテーブルにつけるために観察しているうちに気がついた。

「ん?」

 Sランクの魔力を持つ少女から奇妙な違和感を感じた。その違和感の原因を見つけるために観察を続け、しばらく観察することでその違和感の原因に気づいた。そして、それに気づいた瞬間、腹の底からこみ上げる笑いをとめることはできなかった。

「あはははは、あははははははははははっ!!」

 ああ、簡単だった。交渉の糸口はすぐさま見つかった。なぜなら、おそらくあのゴミに勝ったであろう魔導師は自分と同じだからだ。周りは気づいていない様子だったが、プレシアはすぐに理解した。視線先を見つめるときの彼女の瞳。ただそれだけでプレシアは、彼女を理解した。

 つまり、彼女はプレシアと同じくただ一人を求める人間だったということである。ならば、いくらでも交渉の余地はある。

 もしも、プレシアが同属でなければ気がつかなかった。彼女が同属でなければ突破口は見つけられなかった。偶然にしては低い確率だった。プレシアにはこれが神の采配であるように思えた。

 笑い続けるプレシア。彼女の頭の中からは既にフェイトのことなど抜け落ちており、ただただ復活したアリシアと取り戻すべき時間のみが空想されるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはの手の中に収まっていたプラスチックの白い箸がバキッという音を立てて真っ二つに割れた。

「……なに……これ」

 なのははサーチャーから送られてくる翔太の姿を見て思わず呟いた。

 時刻はお昼時。なのははお昼は周りで友人と一緒に食べているクラスメイトが羨ましくて、諦めたなのはには手が届かないものを見せ付けられているようで、悔しくて、だから、教室でお昼を食べることはなく、いつも人気のない場所で一人でお昼を食べていた。今日は校舎裏の日陰になっている場所でお昼を食べていた。

 ご飯を食べるとき、なのはいつも翔太のことを考えている。今はどんなお昼をたべているのだろうか。今日の放課後はどんな話をしようか。翔太はどんな話をしてくれるだろうか。翔太に関連する色々なことだ。

「あ」

 その最中、なのはは不意に思いついた。思いついてしまった。それはある記憶を基にして思いついたことだった。つまり、あのバケモノの家を覗いたときのことだ。あの時、なのはは翔太にばれることなく翔太の様子を伺うことができた。ならば、今も同じことができるんじゃないだろうか。翔太と一緒にご飯を食べることはできない。だが、サーチャーで翔太の顔を見ながら食べることはできるだろう。気分だけでも翔太と一緒なのは実に楽しいことだと思った。

 だが、サーチャーが映し出した光景は、思いもよらない光景だった。あろうことか、翔太と一緒にお昼を食べていたのは、バケモノと自称親友の二人。しかも、バケモノは血を吸っておきながら甘えるように翔太の方に身体を寄せ、しかも、手ずから自分のお弁当のおかずを食べさせようとしている。

 その光景にどうして、自分はそこにいないのか、という悔しさとそんなことができるバケモノを羨ましいという思いが重なり、歯がゆく思っていると思わず力を入れすぎたのかつい箸を真っ二つにしてしまった。

 ―――バケモノなのにショウくんに近づかないでよっ!!

 だが、心の叫びはサーチャーを通して聞こえることはない。それどころかなのはに見せ付けるように猫のように身体を近づけお弁当を食べていた。見れば見るほどに悔しさと羨ましさをが募り、ポツンポツンとどす黒いな何かが蛇口を閉め損ねた水道のように胸の中に少しずつ溜まっていく。

 少しの間見ていたが、やがて見ていられなくなってサーチャーを消した。残ったのは、ジメジメした暗い場所でただ一人、お弁当を広げている自分だけ。

 惨めだった。どうして、どうして、どうして、となのはは自問自答する。

 翔太の血を吸うようなバケモノがあんなに楽しそうに食べているのに自分はただ一人で、こんな場所で食べているんだろう、と思う。自分は翔太に褒められるために色々頑張っているのに。しかし、なのはに何かできるわけもなく、今までの翔太との思い出を脳裏に描きながら、真っ二つに折れてしまったプラスチックの箸で黙々とお昼ごはんを食べるしかなかった。

 放課後、自分だけが、魔法を使える自分だけが翔太と一緒にいられる時間。今日からはおまけが二人ほど増えたが、彼女たちはなのはの兄と一緒に歩いているためなのは別に気にすることはなかった。

 次の日、この日は休日で、朝から翔太と一緒だった。魔法と出会う前は休日など何もすることがない日だったのだが、最近は、一日中、翔太と一緒にいられるため休日が待ち遠しくなっていた。翔太と一緒に海鳴の街を歩き回る。

 隣を歩けることが嬉しい。翔太との何気ない会話が楽しい。翔太と一緒にお昼を食べられるのが嬉しい。嬉しくて、つい昨日、バケモノがやっていたのと同じように自分のお弁当の中身を自分の手から食べてもらおうと思ったのだが、翔太が恥ずかしがって無理だった。

 ―――恥ずかしがらなくてもいいのに。

 だが、無理強いして嫌われたら大変だ。だから、なのはは無理強いはせずに、そう、とあっさり引いた。

 午後、午前中は晴天だったはずの空が崩れ始め、ついに雨が降ってきた。運の悪いことに住宅街を探していたため、どこにも避難する場所がなかった。そこで、翔太が彼の家へ行くことを提案してくれた。どうやら家は近いらしい。翔太の提案に賛成した全員で翔太の家へと向かう。

 なのはが翔太の家に行くのは初めてで、このときばかりは急に振り出した雨に感謝してもいいぐらいだった。

 その翔太の家へ向かう途中、思いがけない人物たちと出会う。

 ―――黒い敵だった。

 なのはが倒した黒い敵が、あの時、黒い敵を連れ去った女性に背負われてなのはたちの前に姿を現した。様子がおかしいことに気づいていたが、それがどうした。彼女は、翔太を傷つけた敵だった。だから、なのはは油断することなくレイジングハートを構えていた。翔太の声があればすぐにでも魔法が撃てるように。

 しかし、今回はなのはの出番はなかったようだった。自分どころか兄や着いてきた二人で何とかなっているのだから。それでも何かあったらいけないと、なのはがレイジングハートを構えるのをやめることはなかったが。状況は硬直状態に入り、それを破ったのはやはり翔太だった。

「あの、このままじゃ、お互いに風邪ひいちゃいますから、一度僕の家に行きませんか?」

 敵にも優しい言葉をかけられるのは、さすがショウくんと思うなのはだったが、もしかしたら、敵がその翔太の優しさに付け込んで牙をむくかと思い、やはり油断はしない。少し翔太が何かを話し、なのはの方を振り向く。どうやらなのはに翔太の意見に対する答えを聞きたいようだった。それに対してなのはが考える時間は必要なかった。なぜなら、答えは問いかけられる前から決まっているから。

「なのはちゃんは?」

「私はショウくんの言うことに従うよ」

 当たり前だ。翔太は何時だって正しい。ならば、諦めてしまった自分が反対する理由はどこにもなかった。

 その後、あれよあれよという間に話は進んでいき、気がつけば、黒い敵は、翔太の家に住むことになっていた。

 ―――え……あれ? なんで? なんで? なんで?

 翔太が決めたことだから口は出せなかったが、なのはは黒い敵が翔太と一緒に住むことに納得がいかなかった。
 あの時、魔法を使った戦いで勝ったのはなのはで、負けたのは黒い敵だ。だが、その黒い敵はなのはが欲しい翔太に一番近い場所を手に入れてしまった。
 しかし、やはり昨日のお昼のようになのはが口を出せるはずもなく、またなのはの胸の中に水時計のように少しずつどす黒い何かが溜まっていくのだった。

 黒い敵が翔太の家に住むようになった次の日。この日も休日で、朝から翔太と一緒にいられた。それは嬉しかったが、なのはが翔太と一緒の家に住んでいない以上、夜まで一緒にいられない。日が暮れればお互いの家に帰らなければならない。
 夜、黒い敵が翔太を傷つけないか気になったなのはは、翔太の家にサーチャーを飛ばした。

 そこで見た光景は、先日に引き続き、なのはにとって衝撃的だった。

 黒い敵と一緒に夕飯を食べる翔太。食後にソファーでくつろぐ翔太と黒い敵。さらには、一緒にお風呂にまで入っている。もっとも、翔太は黒い敵の肌を見るのが恥ずかしいのか、背を向けていたが。

 ―――巫山戯るなっ!!

 あまりの光景に絶句し、声を出せないなのはは、心の中で叫んでいた。

 ―――なぜ? なぜ? なぜ? なぜ?

 魔法での勝者は自分だ。敗者は黒い敵だ。それにも関わらず、どうして黒い敵はなのはにとって欲しいものをすべて手に入れているっ!? 翔太とずっと一緒の生活。それを手中に収めているのだろう。また、滾々と湧き出る水のようにどす黒いものがなのはの胸の中に溜まっていった。

 もはや、なのはの心の中に溜まったどす黒いものは、容量限界ギリギリだった。そのどす黒い何かの正体は、嫉妬とも羨望とも言えるもの。翔太の周りにいる人間がなのはの欲しいものを次々と手に入れていくのを見て、湧き出る負の感情だった。

 最初は、名前を呼ばれるだけでよかった。携帯電話でお喋りするだけでよかった。一緒にジュエルシードを探すだけでよかった。だが、人の欲望とは無限である。なのはは、もっと、もっと、もっと翔太と仲良くなりたかった。黒い敵やバケモノがやっているように一緒にお弁当を食べたり、一緒に手を繋いで帰ったり、一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たり、一緒に、一緒に、一緒に……。

 なのはが望むようにもっと翔太と一緒になるためにはどうしたらいいだろうか。なのは考える。答えは意外と簡単に見つかった。

 ―――もっと、ショウくんと仲良くなればいいのかなぁ?

 ならば、もっと、もっと、もっと翔太と仲良くなるためにはどうしたらいいだろうか。

 魔法が強くなればいいのかな? 一緒にいる時間が長くなればいいのかな? ジュエルシードがもっと暴走すればいいのかな? あるいは―――


 ―――彼女たちがいなくなってしまえばいいのかな?


 そう、もしも彼女たちがいなくなってしまえば、翔太が見てくれるのは自分だけだ。ああ、そうなれば、もっと、もっと仲良くなれるだろう。翔太が自分だけのものになる。

 ―――なのはだけの翔太。

 その言葉は実に甘美なものだった。

 だが、それがすぐに不可能だと気づき、愕然とする。確かにそれを可能とする力は持っている。魔法を使えば可能だろう。だが、それでも、バケモノと一緒にいることを決めたのは翔太。あの黒い敵と一緒にいると決めたのは翔太。ならば、そこになのはの意思で介入し、それらを排除することは、翔太の意思を蔑ろにしているだけである。つまり、なのはには実質、不可能だといえた。

「こんばんは」

 自分の浅はかな答えに落ち込んでいたなのはの背後から声をかけられ、なのはは驚きながらも背後を振り返った。背後にはいつのまにいたのか、一人の女性が佇んでいた。黒髪を背後まで伸ばし、ローブのような服と外套を羽織った奇妙な女性だ。
 そして、同時になのははその女性から感じる並々ならぬ魔力を感じて、すぐさま胸元のレイジングハートを起動させ、先端を女性に向けた。

「ああ、誤解しないでちょうだい。私は、あなたの敵じゃないわ」

 信じられなかった。突然、部屋の中に入ってきた女性をどうやって信じろというのだろうか。だから、なのはは無言で女性に杖を向け続けた。

「まあ、信じないなら信じなくてもいいわ。でも、話は聞いてちょうだい」

 本当にどうでもよさそうになのはの態度を断わると、女性は、唐突に話を切り出してきた。

「私は、あなたが持っているジュエルシードが欲しいの」

 ジュエルシード。その単語に反応しないわけはなかった。同時に先ほどの言葉が嘘だと分かった。なにが敵じゃない、だ。なのはにとってジュエルシードを狙う人間は誰だって敵だった。だから、なのはは無言でディバインバスターの準備をする。集束される魔力が杖の先端に集う。だが、女性はその様子に一切怯えることなく言葉を続けた。

「なにも、ただでではないわ。ねえ、あなた―――」

 そこで言葉を切り、女性はなのはを誘うような妖艶な笑みを浮かべる。

「あなたと彼だけの世界が欲しいとは思わない?」

 その言葉に思わずディバインバスターの魔法をキャンセルしてしまう。なぜなら、その言葉は先ほどまでなのはが考えていたことと同質のことだったからだ。

「ショウくんと私だけの世界?」

 なのはが魔法をキャンセルし、呟いたのを見て意を得たと思ったのか、女性は笑みを強めてさらに言葉を続ける。

「そう、あなたと彼だけの二人の世界」

 それは、実に甘美な誘いだった。翔太となのはの二人だけの世界。それが実現できれば、どれだけ嬉しいだろうか。なのはだけの翔太。翔太だけのなのは。それが実現する世界なのだから。なのはが欲しいと思ったものがすべて手に入る世界を彼女は提案してきた。だが、とすぐに思う。

「無理だよ。そんなこと―――」

 そんな方法があるならなのはだって探している。だが、世界を作るなんて不可能だ。翔太の周りにいる人間をいなくなってしまわせることさえも不可能なのだから。だが、なのはの呟きを受けてまた女性は愉快、愉快といわんばかりに笑みをさらに強め、続けた。

「不可能ではないわ。この大魔導師の名を持つ私ならね」

「大魔導師?」

 聞き覚えのない言葉だが、なんとなくすごいということは分かった。彼女から迸る魔力はなのはよりもはるかに上だと言うことが分かったし、なのはのことを魔導師と呼んだユーノというフェレットの言葉を借りるなら自分よりも高みにいて魔法を使える女性なのだろう。

 ―――魔法。

 なのはが欲しいものを、望んだものを与えてくれた力。なのはが縋るべき最後の希望。それをさらに上手に使える大魔導師という存在。

 もしかしたら、という思いがなのはの中で生まれるのも無理もない話だった。

「あなたと彼だけの世界が欲しいとは思わない?」

 無言のなのはを見下して、大魔導師が口の端を吊り上げて嗤う。彼女の言葉は、なのはにとって甘い、甘い、甘い誘惑だった。

「欲しいとは思わない? 誰にも邪魔されず。あなたと彼だけのたった二人だけの世界が」

 大魔導師は嗤う。まるでイヴに知恵の実を食べるように唆す蛇のように。

「また、ジュエルシードが集まった頃に来るわ。小さな魔導師さん」

 それだけを言い残して大魔導師は消えた。

「私とショウくんだけの世界……」

 大魔導師と呼ぶ女性が消えて、なのはは一人呟く。まるで夢のような言葉だ。翔太となのはだけの世界。それが実現すればなんと素晴らしい世界なのだろう。
 翔太と二人だけの世界であれば、いつでも一緒にいることができる。一緒にお弁当と食べることも、一緒に手を繋いで歩くことも、一緒にお風呂に入ることも。なのはが望んだすべてが手に入るかもしれない世界だった。

「……あは、あは、あははははははははははっ!!」

 その甘美な世界を夢見て、なのはは胸の奥から笑いがこみあげてくるのを感じ、声をあげて笑うのを止めることができなかった。


続く

あとがき
 混ぜるな危険

 プレシアの評価
 アニメ:酷い母親だな……
 映画:彼女も被害者か……
 小説:……誰か、彼女を救ってやってください。



[15269] 第十九話
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/05/30 23:55



 アリシアちゃんを保護してから二日が経過した。

 一日は休日だったが、今日は休日明け初日の学校だ。アリシアちゃんはなのはちゃんのお父さんの伝手で医者を紹介してもらっているので、今日は母さんと一緒に病院にいく予定だ。もっとも、表面上の虐待のような跡だけは、救急病院で見てもらっているので薬と包帯で治療してもらっているが。なにせ、あの傷跡は見ているこっちが痛くなる。擦過傷で鞭のようなもので叩かれた結果らしい。

 今日の病院は健康診断やアルフさんが言うフェイトちゃんの存在を確かめるためのものに近い。

 さて、アリシアちゃんのことは母さんに任せるとして、現状、僕は目の前の敵と戦わなければならない。

「これ、私が作ったんだ」

「……おいしそうにできてるね」

 さも当然のようにはい、と綺麗に焼けた卵焼きを箸に挟んで、僕に差し出してくるすずかちゃん。休日を挟んだから少しは収まっているだろう、と考えたのだが、どうやら僕の考えが甘かったようだ。さりげなく隣に座るアリサちゃんに助けを求めようと目を合わせてみるが、アリサちゃんはこちらを注意深く観察するように見ているだけで僕を助けるつもりはまったくなさそうだった。

 いや、その前にこの状況を助けるという意味さえ分からないのかもしれない。女の子同士の昼食ならこのくらいは当たり前らしいから。だから、アリサちゃんにしても普通のことで、助けるという選択肢はないのだろう。

 さて、断わろうにも、笑顔で箸を向けてくるすずかちゃんの笑みには、断わるという選択肢を断固として許さないというような強い意志さえ見える。気迫とでも言おうか。もしも、ここで断わったとしても、おそらく「いいえ」を選択しても無限にループする選択肢のような状況になりかねない。

 覚悟するしかないのか……。

 ちょっと、いや、かなり恥ずかしかったが、断わるという選択肢を選べなかった僕は、大人しく箸に挟まれた卵焼きを口に運ぶ。口に入ってきた卵焼きは、やや甘かったが許容範囲内。卵焼きの砂糖や塩加減というのは、家庭によって千差万別だから、もしかしたら、これが月村家の卵焼きの味なのかもしれない。それにしても、これだけ甘いのに焦げた様子が見られないのがすごいと思った。

「どうかな?」

 自分で作った料理の味がよほど気になるのか、ワクワクしているようなドキドキしているようなそんな半々の表情を見せながらすずかちゃんは僕に問う。

 さて、どう答えたものか。少なくとも拙いとは到底答えられない。だが、ここで手放しで褒めると明日も作ってきそうで怖い。一番恐れているのは、これが常態化することだ。毎日この状態。耐えられそうになかった。結局、目の前で僕の答えを目をきらきらさせて待つすずかちゃんをこれ以上待たせるのも限界だった僕は、常態化することが分かっていながらも素直に答えるしかなかった。

「う、うん、十分おいしかったと思うよ」

 僕の素直な回答にすずかちゃんは顔を綻ばせて喜ぶのだった。



  ◇  ◇  ◇



 あの後、すずかちゃんはあれもこれもと僕に箸で渡してきたため、昼間は恥ずかしい思いをしながら昼食を食べた。もっとも、全部渡すとお弁当のおかずがなくなるので、僕の中からいくつかすずかちゃんに渡した。ただ、誤算はその時、すずかちゃんが口を開けてきたことだろう。さすがにそれは回避した。

 さて、不気味だったのが、やはりアリサちゃんだ。僕の助け馬に入るように暴れてくれてもよかった―――いや、いつもなら自分だけが仲間はずれになっていれば、暴れたであろうアリサちゃんが今日は静かに観察するように僕たちを見ていたのだから。何かあったのか? と問うことはできなかったけど。

 すずかちゃんの相変わらずのテンションと静かなアリサちゃんという不思議な昼食を過ごした後、少しばかりの授業を受けて放課後。相変わらず放課後は、ジュエルシード探しだ。教室を出た後、隣のクラスのなのはちゃんと合流して、聖祥大付属小の近くの公園で恭也さん、忍さん、ノエルさん、ユーノくんと待ち合わせだ。彼らと合流した後、今日の捜索範囲を決めるのだが、今日はその必要がなかった。

 なぜなら――――ジュエルシードが発動したからだ。

 それを感じたのは、なのはちゃんとユーノくんだった。まるでタイミングを計ったように僕たちが集まった直後にジュエルシードは発動した。すぐさま、僕がもっている地図を広げて場所を確認する。その地図の殆どは赤い斜線で塗りつぶされていたが、まだ捜索していない場所となのはちゃんたちが感じた方角から大体の場所を確認した。

 ジュエルシードが暴走した場所は―――海の近くにある公園だ。

 まだ海側が捜索していないので、そこにあったジュエルシードが発動したのだろう。場所を確認した僕たちは、その場所へと急行する。僕は恭也さん、なのはちゃんはノエルさんに背負われて、風のように。忍さんやノエルさんが早いのは分かるが、それに追いつける恭也さんは本当に人間なのだろうか。

「――――広域結界発動!!」

 やがて、ジュエルシードが結界作用範囲内に入ったのか、ユーノくんが広域結界を発動させる。同時に周りの雑音がなくなる。今まで隣を歩いていた街の人も道路を走っていた車も。僕たち以外の人の気配がなくなってしまった。何度見てもこの結界という魔法は驚く。一人も人間がいなくなるのだ。街はまるでゴーストタウン。不気味というほかない。

 だが、誰もいなくなったのは、これ幸いとでも思ったのか、恭也さんたちは、歩道を走っていたところを今度は道路を駆ける。そのおかげかどうか分からないが、目的地に着いたのは結界を張った五分後だった。

 海浜公園についた僕たちが見たのはゲームの中に出てくるモンスターの人面樹のような生物(?)が暴れている姿だった。それは、周りのベンチやゴミ箱や柵を自らに生えた枝などで次々に壊していく。ユーノくんの結界が間に合っていることを願うだけだ。

「たぶん、木にジュエルシードが取り付いたんだ」

「でも、どうして怒ってるのかな?」

「なんでだろう?」

 ジュエルシードが今、暴れている人面樹に取り付いたのは間違いないだろう。だが、ジュエルシードは願いをかなえる宝石。ならば、木に意思があるかどうかは分からないが、その願いに答えるはずだ。まさか、自然破壊をしている人間に怒りを示したいとでも願ったのだろうか。

「俺たちが、あの枝をひきつける。その間に封印を頼んだぞ、なのは。忍、ノエル、いくぞ」

「わかったわ」

「了解」

 恭也さんが端的に作戦を告げ、小太刀に手をかけた状態で人面樹にせめていく。忍さんもノエルさんも恭也さんに続いた。

 どうするつもりなのだろうか? と思ってみていると、人面樹が恭也さんたちに気づいたのか、幹に浮かび上がった人面部分が恭也さんたちを見据える。やがて、恭也さんたちを認識した人面樹は、Woooooooonという叫び声を上げて鞭のようにしなる枝の標的を恭也さんたちに変更した。

 ―――危ないっ!!

 そう思ったのだが、その認識はどうやら恭也さんたちを甘く見ていた証拠だったらしい。
 鞭のようにしなる複数の木の枝を恭也さんも忍さんもノエルさんも危なげなく避ける。避ける。避ける。それは彼らが曲芸師といっても何の偽りもなさそうなほどに見事なものだった。

「見惚れてる場合じゃなかった。なのはちゃんっ!」

「うんっ!」

 僕の声だけで状況を理解してくれたのだろう。なのはちゃんは、レイジングハートを起動させる。もっとも、なのはちゃんのバリアジャケットは殆ど制服と変わらないから起動させる前と起動させた後では彼女の手に持つものが宝石か杖かの違いしかないのだが。

 杖を構えたなのはちゃんは、きっ、と人面樹を睨みつけるとたたたっ、と前に駆け出す。

 恭也さんたちは敵の陽動。なのはちゃんは封印の要。そして、僕はなにもできない。魔法はなのはちゃんほど使えないし、恭也さんたちのように動けるわけでもない。だから、せめてできることをしようと思った。

「なのはちゃんっ! 頑張って!!」

 応援ぐらいしかできない自分が少し情けないと思った。こんなことしかできないのか、と思った。だけど、なのはちゃんは、僕のそんなちょっと沈んだ感情を払拭するように振り返って笑顔で応えてくれた。

「うんっ! 私、頑張るねっ!」

 そういうとなのはちゃんは靴にピンクの羽を生やして空へと飛び立つ。僕はそれを見上げる形で目で追った。空に飛んだなのはちゃんは、空中で静止すると杖を構え、照準を恭也さんたちと遊ぶように枝を振るう人面樹へと向ける。

 恭也さんたちは、相変わらず傍から見る限りでは簡単に枝の鞭を避けていた。恭也さんたちに注意が向いている人面樹は、空に浮かんでいるなのはちゃんに気づくことはなかった。

 空に飛んだなのはちゃんが何かを呟くように口を動かした直後、レイジングハートから太いレーザのような桃色の光が吐き出され、まっすぐそれは人面樹に向かい、恭也さんたちを追いかけることに夢中になっていた人面樹はなんの抵抗もなく桃色の光線を受け入れるように命中した。

 桃色の光線が命中した人面樹は、恭也さんたちを襲う直前のようにWoooooonという断末魔を上げ、ちょうど人面樹の顔の辺りから蒼い宝石を一つ吐き出す。その宝石は導かれるように空に浮いているなのはちゃんの元へと向かい、そのままレイジングハートの宝石部分へと飲み込まれた。

 どうやら封印は上手くいったようだ。

「どうやら、うまくいったようだな」

 先ほどまで人面樹の気を惹いていた恭也さんたちが僕の元へと戻ってきた。しかし、この人たちはあれだけの運動をしておきながら汗一つかいていないのはどういうことなのだろうか。

「ジュエルシードの暴走体って初めて見たけど毎回こんな感じなの?」

「そうですね。怪物や巨大犬だったこともありますけど、流れは大体こんな感じです」

 忍さんからしてみれば、もしかしたらあっけないと感じたのかもしれない。その表情は物足りないと語っていた。どうなのだろうか。最初の怪物や大型犬と比べるのはどうかと思う。最初の怪物は確かに大変だったが、それは最初で魔法があまり使えなかったという理由がある。今は、なのはちゃんの魔法も強力になったし、恭也さんたちのアシストもある。正直、恭也さんたちが近距離で相手をしながら遠距離からなのはちゃんの狙撃というのは、一番消耗が少ない攻略パターンなのかもしれない。

「ショウくん! やったよっ!」

「うん、見てたよ。今回も成功だったね」

 空から降りてきたなのはちゃんがずいぶんと嬉しそうだったので、僕は思わずハイタッチをするつもりで片手を挙げていた。だが、なのはちゃんにはその意味が分からなかったのか、きょとんとして何の反応も返してくれなかった。

 これでは僕が片手を上げたただのバカになってしまう。

 思わず冷や汗が背中を流れる。まるで、ギャグをすべってしまった芸人というのはきっとこんな感じなのだろう、と僕は思わず思ってしまったぐらいだ。

 その様子が可笑しかったのだろう。忍さんがくすっ、と笑うと僕に助け舟を出してくれた。

「なのはちゃん、こうするのよ」

 忍さんがそういった直後、僕の挙げた片手に勢いよく彼女の右手を当ててパチーンと気持ちのいい音がする。その代わり、僕の手はじんじんと痛かったけど。それを見たなのはちゃんも合点がいったのか、うん、と頷くと改めて手を挙げてパチンと僕の手をなのはちゃんの左手で叩いた。

 今までこんなことをやったことがなかった僕はようやく成功したハイタッチに思わずあはは、と照れ隠しの意味をこめて笑ってしまう。それにつられたのか、なのはちゃんもにゃはは、と笑っていた。それをまるで微笑ましいものを見るかのような表情で見てくる恭也さんたちが少し痛かったが。

「それじゃ、結界を解きますね」

 ジュエルシードも封印したことで事態は収まったとみていいだろう。だからだろう、ユーノくんは広域結界を解いた。ユーノくんが結界を解いた途端、周りの空気が変わる。海風が公園の木を揺らし、海からの波の音が聞こえていた。幸いにして、ジュエルシードが発動したのは、学校が終わった直後だったので、まだ完全に日が沈むということはなく、三分の一ほどを水平線の向こう側に沈めているだけだった。

「それじゃ、今日はもう帰りましょうか?」

「そうですね」

 忍さんの提案に僕は頷いた。

 本当なら日が沈むまで捜索は続けられる。だが、今日はもう一つとはいえ、ジュエルシードを封印した。僕はまったく何もやっていないといっても過言ではないが、恭也さんや忍さん、ノエルさんは動いただろうし、なのはちゃんも封印魔法を使ったので疲れているだろうという判断からだろう。

 僕たちの空気は完全に帰宅ムードになっていたのだが、そこに横槍が入ってきた。

「申し訳ありません。少しお時間よろしいでしょうか?」

 不意に僕たちに向けてかけられた声。全員が反応して声がした方向を向いてみると、そこには髪から瞳まで黒く、さらに念を入れたように黒い外套のような服に包まれた僕と同じぐらいの身長の男の子が立っていた。そして、もう一つ目を引くのは彼が右手に持っている杖のようなもの。形は異なるがなのはちゃんが持っているレイジングハートと同じような感じがする。

「あなたは誰?」

 僕たちと彼の間に走った緊張のようなものを破る口火を切ったのは忍さんだ。その後ろに控える恭也さんとノエルさんもこっそりと彼が何をしてもいいようにお互いに得物に手をかけていた。

 だが、彼はそんな二人に気づいたのか、気づいていないのか声をかけられたときから変わらない仏頂面を崩すことなく淡々と答えるのだった。

「僕は、時空管理局執務管、クロノ・ハラオウン。あなた方が持っているジュエルシードについて事情をお聞かせ願いたい」

 彼が名乗った時空管理局という名前に僕は驚いた。

 考えてみれば、そろそろユーノくんがジュエルシードを見つけて一ヶ月近く経とうとしている。最初の予想が三週間程度ということだったから、時期的には間違いなくあっているだろう。だから、僕は、ああ、ようやく来てくれた、という思いで一杯だった。

 だが、僕の感情とは裏腹に忍さんや恭也さんたちは気を抜いていなかった。むしろ、鋭くなっているといっても過言ではない。一体、どうしたのだろうか?

「あなたが時空管理局の人?」

「はい」

 この通り、といわんばかりにクロノ・ハラオウンと名乗った彼は、手の平を向けると名刺のようなものを何もない空間に映し出した。その名刺には、時空管理局執務管、クロノ・ハラオウンと書かれており、その技術は、彼が魔法世界の出身者であることを明確に示していた。

「ユーノくん、彼は本物なの?」

 その問いで、どうしてまだ忍さんたちが緊張を解いていないか分かった。忍さんたちは、アリシアちゃんのように僕たちと時空管理局以外の第三者が語っていないか疑っているのだ。確かにアリシアちゃんの例から鑑みてもその確認は、必要なのかもしれない。

「少し確認してみますね。すいません、僕が通報した方の名前を教えていただけますか?」

 ユーノくんの問いにクロノさんは、少しだけ目を瞑ったかと思うと、すぐにまた目を開いて、一人の名前を口にした。目を閉じたのは、おそらく念話のためだろう。ということは、彼は一人ではないのだろうか? 時空管理局が警察のような役割をしているなら、確かに一人とは到底考えられない。

「ええ、間違いありません。彼は時空管理局の執務管だと思います」

 どうやら、クロノさんが答えた名前は間違いないらしい。それでようやく彼が本当に時空管理局の人間だと分かったのか、忍さんたちも緊張を解いたようだった。

「さて、分かってもらったようなので、案内しましょう。僕たちが使う次元航行艦アースラへ」



  ◇  ◇  ◇



 ―――圧巻。

 彼が言う時限航行艦アースラとやらに転移魔法で案内された先の光景を表すにはその一言だけで十分だった。僕たちの文化とは異なる雰囲気。周りの雰囲気は艦というだけあって室内というよりもどこか船のような感じではあったものの地球にある船独特な揺れやエンジン音はなく、停泊している船に乗っているという感じが近いだろうか。いや、船とあらかじめ説明されていなければ、どこかの建物と思い違いしてもおかしくないほど、次元航行艦アースラとやらは異様で圧巻だった。

 もしも、僕が普通の子どものような感性を持っていたとしたら、秘密基地のような雰囲気に喜んだかもしれないが、生憎ながら精神年齢だけなら二十歳なだけに異様な雰囲気と圧倒的な感覚で、ぽかんと呆けるしかなかった。

「さあ、艦長が待っていますので案内します」

 僕たちを先導するようにクロノさんは歩き出した。だが、少し歩き出したところで何かを思い出したように振り返る。

「ああ、そうだ。そこの君、元の姿に戻ってもいいんじゃないか?」

「そうですね。ずっとこの姿だったから忘れそうでしたけど、ここなら……」

 そういうとユーノくんは僕の肩から飛び降り、いつも結界やチェーンバインドを使うときの魔方陣を自分の足元に展開させ、彼の身体が光り、その光りが収まる頃には、フェレットだったユーノくんの姿はなく、代わりに僕と同じぐらいのハニーブロンドの髪を持ち、どこかの民族衣装のような衣服に包まれた少年が立っていた。

「……え? ユーノくん変身できたんだ」

「そんなわけないだろうっ! こっちが元の姿っ!!」

 ああ、なるほど、といわれて初めて納得した。僕は彼がフェレットの一族と思っていたが、どうやらそれは間違いで人間の形態から魔法でフェレットの姿に変身していたらしい。確かにフェレット姿で発掘なんておかしな発想だ。よくよく考えれば、アルフさんだって人間状態から狼に変身するんだからおかしい話ではない。もっとも、彼女の場合は、狼が本来の姿らしいが。

「フェレット姿も可愛いけど、こっちも中々美少年じゃない」

 まるでからかうような忍さんの言葉にユーノくんは顔を真っ赤にしていた。その反応がさらに忍さんを喜ばせるとは思わずに。

「あ~、照れてる。初心ね~」

 ユーノくんが忍さんの言葉に真っ赤になって俯いたのをまるで獲物を見つけた肉食獣のように目を光らせた忍さんはさらに追撃を仕掛ける。それにさらにこれ以上、赤くならないんじゃないかというほどに真っ赤になるユーノくん。このままずっとからかわれるのかな? と思ったのだが、クロノさんのこほん、というわざとらしい咳でみんなの注目がクロノさんに移った。

「すいません。あなた方の間で何かしら行き違いがあったようですが、艦長が待っているので先に案内してもいいですか?」

 クロノさんの言葉に正気に戻った僕たちは、これまでの行いを反省し―――特に忍さんが恭也さんに怒られていた―――今度こそクロノさんの案内に従って時空航行艦アースラの中を歩いていく。五分ほど案内されてたどり着いたのは、案内される途中、いくつも並んでいた普通の扉の一つだった。

「さあ、奥に艦長がいます」

 そういって開かれた先の光景は、これまでから想像したような背後に大きなスクリーンが並び、大きな机に肘を突いた中年の男性が座っているような光景ではなく、なぜか日本特有の獅子嚇しの音が響き、お茶会でも開けそうな和の雰囲気だった。しかも、ご丁寧に桜吹雪まで舞っている。

「……ここって船の中ですよね?」

 今までの雰囲気も異様だったが、ここの雰囲気は異質だった。あまりに他の場所とは雰囲気が違いすぎる。もしも、これが僕たちを出迎えるために用意してくれたとなれば、恐縮するしかないのだが。

「その通りです。この部屋は私の趣味なの」

 僕の問いの答えは部屋の中にいた唯一の人物から返ってきた。

「ようこそ、アースラへ。艦長のリンディ・ハラオウンです」

 ライトグリーンの髪をポニーテイルにし、時空管理局の制服のようなものに身を包んだ女性は僕たちを出迎えるように微笑むのだった。



  ◇  ◇  ◇



「そう、大変だったわね」

 まるで、その苦労をいたわるように重々しい雰囲気で呟くリンディさん。

 部屋の中に用意された畳と座布団の上に座った僕たちは、各々の自己紹介の後、これまでの事情を彼らに話した。ユーノくんがジュエルシードの暴走体に襲われ、僕たちに助けを求めたところから、今日の人面樹の戦闘までだ。語り手は主にユーノくんだ。そもそも始まりはユーノくんで時空管理局を呼んだのはユーノくんなのだから、下手に僕たちが出しゃばるよりもいいと思ったからだ。

 彼らは何の疑問も挟まず黙々とユーノくんの話を聞いていた。そして、聞き終わっての感想は、先ほどのようなものだ。そこにはとりあえずの相槌ではなく、確かな同情のようなものが読み取れた。ユーノくんの話ではジュエルシード等を保管するのが彼らの仕事らしいから似たような仕事もしたことがあるのかもしれない。

 さて、話はひと段落だが、ここで一つ僕は聞いておかなければならないことがある。

「少しいいですか?」

「はい、どうぞ」

「アリシアちゃんの件はどうなるんでしょうか?」

 そういえば、僕はアリシアちゃんの件の処遇を聞いていなかった。彼らが警察のような役割を担っているというのなら、アリシアちゃんには何か処罰が下るのだろうか。そもそも、ユーノくんによると管理世界の人間が管理外世界に勝手に来るのは違法らしいし。

 だが、僕の問いにリンディさんは難しい顔をした。

「そうね、少し事情を聞いてみないと分からないけど……お咎めなしね。彼女に罪があるとすれば、管理外世界の違法渡航だけど、軽く事情を聞く限りでは親に無理矢理という形でしょうし、ジュエルシードを狙っているプレシア・テスタロッサの情報がもらえれば、司法取引で無罪になるでしょうね」

「それじゃ、このままこの世界に住むことは……?」

「手続きをすれば可能だわ。ただ、この事件の参考人として少し管理世界に来てもらう必要があるかもしれないけど」

 ああ、そのとき、症状について調べてみるのもいいかもしれないわね、と付け加えた。

 それを聞いて僕は安堵した。彼女と暮らしたのはたった三日程度だが、彼女はすでに僕たちの家族だ。お兄ちゃんと呼んでくれるアリシアちゃんは確かに僕の妹である。この場で別れ別れになるのはかなり寂しい。だから、艦長と言えばかなり上官だと予想できる。そんなリンディさんが太鼓判を押してくれたのだからおそらく大丈夫だろう。

 確かに魔法関係で医療が進んでいるならアリシアちゃんも見てもらうべきなのかもしれない。ただ、魔法で心の問題まで何とかなればいいのだが。

「しかし、ごめんなさいね。もう少し早く来られたらよかったんだけど……」

「言い訳するわけじゃないが、こちらも混乱していたんだ。ジュエルシードを運ぶ輸送艦の事故。次元犯罪者による事件の線でも捜査はしたんだが、事故という結論になった。しかも、ジュエルシードは運ぶ前は封印処理がされていて、落ちた先は魔法技術のない管理外世界だ。これが管理世界ならもうちょっと迅速に行動できたんだが、結果的に危険度が低くなってしまい、初動が遅れたんだ。さらに、報告では君が民間協力者として先行したことになっていたしね。まさか、封印が解けていたなんて」

 おそらく、ジュエルシードの封印が解けて暴走していることは、彼らにとっても予想外だったのだろう。最初は、ユーノくんも封印された石を拾うだけだと思っていたといっていたから。しかも、それを回収するためにユーノくんが先行してたら、後からでもいいか、となって遅れるのも仕方ないのかもしれない。

「だけど、私たちが来たからにはもう大丈夫よ。残りのジュエルシードもこのアースラがあれば、すぐ見つかるでしょうし。今後、このジュエルシードの回収については時空管理局が全権を持ちます」

 それは、僕にとっては願ったり叶ったりだ。そもそも、僕たちが協力したのは、彼らが来るまでの中継ぎということであり、彼が来た以上、僕たちはお役ごめんであることは間違いない。なのはちゃんも危険な目にあうことはないし、ジュエルシードの件が片付けば、少なくとも余裕ができてアリシアちゃんやすずかちゃんのことももう少し構ってあげられる。

 もっとも、さすがにこれだけの出来事だ。今までのことを全部忘れてというのは無理そうだが。

 恭也さんと忍さんの表情を伺ってみても、特に疑問を持っていないようだった。

「それでは、細かいところは明日説明するとして、明後日から今までのことは忘れて元の生活に戻ってください」

 思えば一ヶ月よりも少し短い時間だったが、やけに濃密な時間を過ごしたような気がする。もっとも、魔法というありえないものに触れて、実際にそれを基本とはいえ、使えるようになったのだから、その一ヶ月が今までと同じように感じるはずもなく、当然、薄いはずもなかった。

 明後日からはまた普通の小学生か、と思うと少し侘しい気持ちもあるが、彼らが来た以上、これ以降は彼らの仕事である。僕たちがこれ以上関わるのはお門違いというものだろう。だから、「分かりました」と頷きかけたところで、それよりも先に僕の隣から聞こえた声が、僕の言葉を遮った。

「そんなの嫌だよっ!!」

 隣から聞こえたのは、なのはちゃんの切羽詰ったような声。

「なのはちゃん?」

 ちゃぶ台をひっくり返すように今までの話の流れのすべてをなのはちゃんは否定した。

 この状況が僕には分からなかった。彼らの登場はなのはちゃんにとっても待ち望んだものであるはずだ。もう、ジュエルシードの暴走体と戦うことなく、普通の小学生に戻れるはずなのだから。だから、僕にはなのはちゃんが彼女たちを否定する意味が分からなかった。

 そうやって僕が呆けている間にも話が進んでいく。

 なのはちゃんの否定するような言葉にむっとしたのか、クロノさんは、表情を固くして口を開いた。

「次元干渉に関わる事件だ。民間人に介入できるレベルの話じゃない」

 聞いた話によるとジュエルシードは時空干渉型であり、時空震という恐ろしい現象を起こす引き金になるんだそうだ。特に複数集まって正確な手順を踏めば、複数の世界が壊れてしまうほどの災害。僕には規模が大きすぎて、その規模を想像することはできなかったが。

 だが、その言葉で怯むなのはちゃんではなかった。

「……私より弱いあなたが解決できるとは思えない」

「なのはちゃんっ!!」

 さすがにその言葉には僕はすぐに反応した。僕たちとクロノさんは初対面に近い間柄だ。なのはちゃんがいくら魔法が強いからといって、その言葉はさすがに失礼すぎると思った。

 まるで大人が子どもを叱るように僕は、なのはちゃんを見据える。僕に睨まれたような形になったなのはちゃんは、なぜか酷く怯えていた。それはあまりに僕が想像した表情とは違っていた。普通、子どもが何かしら悪いことをして大人から睨まれれば、自分のやっていることが正しいと思っている以上、不満げな表情になるはずだ。だが、なのはちゃんはまるで僕に怯えるような表情をしていた。

「すいません、クロノさん、妹が失礼なことを」

 僕がなのはちゃんを見据えている間に恭也さんが先にクロノさんに頭を下げていた。恭也さんならなのはちゃんの肉親である以上、頭を下げる理由があるだろう。少なくとも僕が頭を下げるよりも妥当だ。

「いえ、気にしていませんよ」

 恭也さんの謝罪にクロノさんが笑顔で大人の対応をしてくれて助かった。これで、もしも、根に持つ人だったら困ったことになっていただろうから。

 もっとも、身長は殆ど変わらないから、おそらく同年代なのだろう。しかし、そう考えると管理世界、魔法世界というのは大人になる年齢がえらく早いのだな、と思う。ユーノくんにしても僕と同じぐらいの年齢で発掘の責任者だし、クロノさんはこの船の偉い人らしいし、まだ二十代前半ぐらいにしか見えないリンディさんも相当若いように見受けられる。

 そんなことを考えていたからだろうか、僕は不意にリンディさんが口を開くのに気づかなかった。クロノさんが答えた後、何かを考えるように人差し指を顎に当てていたリンディさんは不意に口を開くととんでもないことを提案してきた。

「……そうね、なのはさん。もしも、クロノの強さに疑問や不満があるなら、模擬戦でもやってみる?」



  ◇  ◇  ◇



 目の前のスクリーンの中では桃色の弾幕が三次元の軌道を描きながら恐ろしい勢いで走っている。状況を表すなら桃色の弾幕が三、景観が七ぐらいだろうか。その弾幕を空中でまるで舞うように避ける黒いバリアジャケットに身を包んだクロノさん。その様子は弾幕の中を余裕で避けながらゲームをクリアしていくシューティングゲームのゲーマーのようにも思える。

 実際、これまでの戦いの中でクロノさんはなのはちゃんからの攻撃を一度も受けていない。何度か当たったように見えたこともあるが、それもきっちりシールドを張って防御していた。

 やがて、なのはちゃんはクロノさんにまったく当たらないのに痺れを切らしたのか、自分自身にいくつもの弾を纏わせてクロノさんに向けて突貫する。一直線かと思われたその軌道はとても歪であり、フェイントのつもりなのだろう。纏ったままの合計八発の弾は発射されることなく、なのはちゃんを守る衛星のようになのはちゃんの傍らに存在する。それが発射されたのは、クロノさんとの距離がかなり縮まってからだった。最初に発射されたのは、四発。やや時間をおいて残り八発。

 クロノさんは、それをまるで規定路線のように易々と最初の四発を避けると残りの四発は、鞭のようなもので一閃した。その間になのはちゃんはクロノさんに距離を詰め、レイジングハートを振りかぶったかと思うと直後、彼女はスクリーンの中から一瞬姿を消した。次に現れたのはクロノさんの背後。振りかぶったままのレイジングハートがそのまま振り下ろされ、クロノさんに直撃するかっ!? と思ったが、そうはならなかった。レイジングハートは振り下ろされることはなく、なのはちゃんは、振りかぶったままの体勢で動きを止めてしまった。そのなのはちゃんの両手両足には彼女の動きを拘束するような蒼い光の輪。この模擬戦の中で何度も見たバインドだ。

 そして、動けないなのはちゃんの喉元に突きつけられるクロノさんのデバイス―――S2U。

『はい、模擬戦終了。勝者、クロノ・ハラオウン』

 僕たちが見ている管制塔のようなところに響くオペレータのエイミィさんの声。この声を聞くのも七回目だった。そう、別室で行われているなのはちゃんとクロノさんの模擬戦も七回目なのだ。本当なら一回で終わるべきなのだろうが、なぜかなのはちゃんがまるで遊びをせがむ子どものように『後一回』と繰り返すため、クロノさんがそれに付き合うような形で延々と七回も続いてしまった。

 本当にクロノさんには頭が上がらない。恭也さんや僕も何度か止めようといったのだが、なのはちゃんは聞かない。

 ―――「次は勝てるから」

 なのはちゃんはそう繰り返す。確かに模擬戦の時間も長くなっているし、恐ろしいことになのはちゃんがこの短時間で段々と強くなっているのは間違いないのだろう。だが、それでもクロノさんは遠く及ばない。余裕は一切崩さないし、必死という風にも見えない。レベル百の魔王に立ち向かうのにレベル二十から二十五に強くなっても負けという結論が変わらないと同じだ。

 おそらく、なのはちゃんは次も「次こそ」というだろう。だが、それもそろそろ限界だ。スクリーンの向こう側のなのはちゃんはまるで親の敵を見るような目でクロノさんを睨みながら、肩で息をしている。気力はあるが、体力と魔力が追いついていないのだ。六回目が終わった時点で殆どそれは分かっていた。だから、恭也さんと相談して七回目で終わらせると話していたのだ。

「なのはちゃん、もうクロノさんが強いことは分かったよね? ねえ、もうクロノさんに任せよう」

『……なんで? なんで、そんなこと言うの?』

 僕の言葉に返ってきたのはなぜか疑問だった。なぜ、そんなことを言うのか。それは、ジュエルシードのようなロストロギアを集めるのが彼らの仕事で、僕たちの仕事ではないからだ。それに僕たちは子どもで、できるなら危険なことには首を突っ込むべきではない。だからこそ、僕は彼らに任せるべきだと思うのだ。

 だが、僕がその答えを返すことはできなかった。なぜなら、空に浮かんでいたなのはちゃんが不意に糸が切れたマリオネットのように身体から力を抜き、地面に向かって落ち始めたからだ。

「なのはっ!!」「なのはちゃん!?」

 僕と恭也さんはなのはちゃんを心配して同時に叫ぶ。だが、その心配も無用だったようだ。なのはちゃんの身体は地面に叩きつけられる前にクロノさんによってお姫様だっこのような形で受け止められたからだ。

 ふぅ、と安堵の息を吐く僕と恭也さん。

「クロノくん。なのはがまた迷惑をかけたようで申し訳ない」

『いえ、こちらも久しぶりに歯ごたえのある訓練のようで助かりました。長期間の航行は勘が鈍りますからね。あと、どうやら彼女は、体力と魔力が尽きただけのようです。少し眠ればすぐに回復するでしょう』

 七回も全力で模擬戦をすれば、いくら多いといわれるなのはちゃんの魔力もなくなるのだろうか。そして、そのなのはちゃんを相手にして少し息を切らせるだけのクロノさんはさすがだ。時空管理局の執務管がどれだけすごいのか分からないが、相当強いのはなんとなく理解できた。

「リンディさんも申し訳ない」

「いえ、クロノもこの艦にいる間は、訓練できないと嘆いていたからいい機会でしょう」

 艦長席のようなところに座ってなのはちゃんとクロノさんの模擬戦を見ていたリンディさんが微笑みながら言う。

「とりあえず、今日のところはなのはさんを連れて帰ったほうがいいでしょう。また、お話は続きは明日しましょう」

 なのはちゃんのことで迷惑をかけてしまった僕たちは、リンディさんの言葉に否ということはできず、はい、と従うしかなかった。



  ◇  ◇  ◇



 すっかり日が落ちてしまい、空には月と星が輝くような時間帯。いつかのように恭也さんがなのはちゃんを背負い、僕たちは道を歩いていた。忍さんとノエルさんは先にタクシーで帰った。乗せてもらえる予定だったが、人数が増え、二台になるのは忍びないと思い、僕たちは歩いて帰ることにした。また、ユーノくんはこの場にはいない。今日はアースラでお世話になるようだった。

 僕と恭也さんは無言で道を歩く。だけど、考えていることは大体分かる。なのはちゃんのことだろう。

 僕にはどうしてなのはちゃんがクロノさんと模擬戦をしてまでジュエルシードに固執したのか分からない。だけど、僕の中でジュエルシードの件はもはや時空管理局の彼らに任せるべきだという結論が出ている。餅は餅屋であるべきで、彼らがこの場に来た以上、僕たちがこの件に関わるのは終わりで、後は事後処理のときにでも結果を聞かせてもらえれば十分だと思っている。

 そう、なのはちゃんの理由がなんであれ、僕は彼らに任せるべきだと思うのだ。だが、そう考える一方で、なのはちゃんのことが気になるのも確かだ。どうして、あれだけジュエルシードに固執するのか。前なら子どもの癇癪のようなものだ、と割り切っていただろう。前世ともいうべき僕が子どもの頃はどうだったかはもうはっきりとは覚えていないが、子どもは間違っていようが、自分の道を主張するものだから。だが、今はそういう風には割り切れない。思い出すのは先生の言葉だ。

 ―――正論がいつだって正しいとは限らないということだ。

 ああ、僕が言うことは間違いなく正論なのだろう。ロストロギアというものは、時空管理局に任せるべきなのだから。だが、その正論はなのはちゃんにとっては、正しいものではなかった。正しいものであれば、クロノさんと模擬戦などしなくてよかったのだから。だから、その疑問を解決するために僕は唯一事情を知っていそうな人に尋ねることにした。

「恭也さん」

「なんだい?」

「どうして、なのはちゃんはあそこまで固執したんだと思いますか?」

 恭也さんは僕の問いに無言。しばらく考えるように夜空を見上げていた。だが、その時間は少しで、やがて何かを決意したような顔つきになり僕を真正面から見てきた。何かを試すような目。だから、僕も視線を逸らさず応えた。

「ショウくん、これは君を信頼して話すことだ。なのはには俺が話したことを言わないでほしい」

「はい」

 真剣な声に僕も真剣に応えた。なにがあるのか僕には分からない。だが、それはきっとなのはちゃんにとっては大変なことなのだろう。

「なのはにとって、君は初めての友達なんだ。だから、今日までの時間がとても楽しかったんだと思う」

 ―――え?

 僕には最初、恭也さんが言っている意味が分からなかった。

 僕がなのはちゃんにとって最初の友達? それは僕にとってありえない答えだからだ。

「そ、それはおかしいですよ。だって、なのはちゃんは二年生のとき以来ちゃんと学校に来てるじゃないですかっ!?」

 あのとき、友達がいないのことが原因で、不登校になったと判断し、伝えたのは僕だ。その次の日にはなのはちゃんはちゃんと学校に来て、それからずっと不登校にならず学校に来ている。だから、僕はあの時以来、なのはちゃんにも友達ができたものだと思っていた。僕が把握しているのは自分のクラス内ぐらいで、さすがに隣のクラスまでは余裕がなかったのでちゃんと確認はしていないが。

「そうだな。なのはがきちんと学校に行った理由は俺にもわからない。もしかしたら、なのはも学校で友達を作ろうとしていたのかもしれない」

「そんな……」

 僕は恭也さんからもたらされた事実に愕然とした。もしかして、なのはちゃんは、一人であの教室で友達を作ろうと頑張っていたのだろうか。いくら余裕がないからといっても僕は、その後なのはちゃんのことを調べておくべきだっただろうか。あるいは、幼稚園時代からまだ縁のある第二学級の子にもう少し強く言っておくべきだっただろうか。

 だが、後悔しても過ぎ去ったときは戻すことはできない。

 嘘だと思いたいが、恭也さんが言うことを鑑みれば、確かになのはちゃんが固執するのも分かる。彼女が固執していたのはジュエルシードじゃなくて、僕と遊んでいる時間なのだろう。だから、時空管理局にその時間を奪われると思ったから、あんな手段に出てしまった。

「……恭也さん、僕はどうするべきでしょうか?」

 分からなかった。この事件はもう時空管理局に任せるべきだと思う。だけど、なのはちゃんのことを聞けば、このまま引き継いでいいのか? と思う。それとも時空管理局に引き継いで、なのはちゃんのことを今まで以上に気に掛けるべきなのだろうか。僕には結論が出せなかった。

 だが、僕が真剣に悩んでいるのを恭也さんは今までの表情を崩して微笑みながら言う。

「……ショウくんはショウくんのままでいいさ。ショウくんと友達になってのなのはは楽しそうだった。少なくとも一ヶ月、後ろから見ていた俺はそう思った。だから、ショウくんはショウくんが思うがままでいいさ」

 そこで少し悪戯っぽい笑みを浮かべて言葉を続ける。

「まあ、少しは今まで以上になのはのことも気に掛けてくれたら兄としては嬉しいがな」

 恭也さんの笑みを見て、ああ、やはり兄というのは偉大なのだな、と思う僕だった。



続く

あとがき
 先生のアシストと恭也のファインプレー。まさか、ケンジくんの事件がここで絡むとは誰も予想できなかったはず。
 なのはの救済の方程式が出来上がってきました。
 裏は、アリサ、アルフ、クロノorリンディ、なのはでお送りします。



[15269] 第十九話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/06/03 21:15



 アリサ・バニングスは未だに悩んでいた。先日、母親から言われた言葉が脳裏から離れないからだ。つまり、特別な好きを示す恋とは何ぞや? ということである。

 特別な好きといわれてもアリサからしてみれば、親友である月村すずかも蔵元翔太も両者とも好きだし、母親も父親も好きだ。同じ『好き』だという言葉だが、果たしてそこに違いがあるのだろうか。少なくともアリサが実感する上ではあまり違いが分からなかった。どれも同じように思った。

 だが、同じであれば、すずかが翔太に感じている好きを『恋』などと称さなくてもいいだろう。
 すずかと翔太は分かっている。しかし、自分だけが分からない。それは不安だった。自分だけがおいていかれているようで。だから、アリサは土日の二日間を『恋』という単語を調べるために使った。

 最初に調べたのは国語辞典。そこに載っていた意味は、【恋:特定の異性に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること】とある。これだけで、なるほどと納得できるようであれば、最初から悩みはしない。

 ―――特定の異性に強く惹かれる?

 その意味を考えてみる。状況だけで考えるなら、なるほど、すずかは翔太【特定の異性】に強く惹かれているのだろう。だが、分かったことはそれだけだ。母親が予想した内容を裏付けるようなことになっただけで、アリサが恋というものを理解できるまでには至らなかった。

 次の対象は、電子的な情報であるインターネットで調べてみるか、と検索サイトで単純に『恋』という検索ワードだけで調べてみたが、ヒット件数が多すぎて探すのをやめた。検索サイトの場合、上位に示されているものが合致する場合が多いというが、恋占いなどが上位に示されており、アリサの求めている情報ではなかった。

 さて、辞典もダメ、インターネットもダメ、だからといってすずかに聞くのは負けた気がして嫌。いきなり八方塞な様な気がした。だが、アリサにはまだ頼るべき存在が家の中にいるのだ。アリサは決意するとその人物の元へと駆け出した。

「ママっ!」

「なに? アリサ」

 今日は休日。いくらアリサの母親が経営者といえども休日には家にいるものである。アリサにとって頼るべき存在は母親しかいなかった。
 自分の部屋にいたアリサの母親は、突然入ってきた娘に驚いたようだが、基本的に笑顔でアリサを迎え入れていた。迎え入れたアリサの母親は、アリサの話を静かに聞いていた。アリサの話を全部聞いた母親は、すべて合点がいったように大きく頷くとアリサにこう提案する。

「それじゃ、本屋に行こうか」

 なぜ、本屋なのだろうか? とアリサは思ったが、アリサ自身になにか案があるわけでもなかったので、母親に従い、二人で本屋に向かう。そこで母親が買ったのは数冊の本。可愛らしい絵が載っており、すずかや翔太が読むほど分厚いものでもなかった。

「これを読めば少しは分かるんじゃない?」

 笑ってそういってくれた。こんな本を読んで本当に分かるのだろうか? と思うアリサだったが、どちらにしても、アリサには母親に頼る以外に道はなかったのだ。ここは、母親を信じてみようと早速家に買ってまず一冊を手に取った。

 ゆっくりページを読み進めるアリサ。すずかや翔太ならもうちょっと早く読めるのかもしれないが、アリサには無理だった。一度、彼らがどうしてそんなに早く本が読めるのか、と尋ねてみたこともあったが、答えは、慣れの一言だった。残念ながら、アリサはすずかや翔太ほど本が大好きというわけではなかったので、慣れるほど読むことができなかった。

 休日の二日を使って母親から渡された本を読破したアリサはいよいよ意味が分からなかった。

 そこに書いてある物語はすべて『恋』が絡んだ物語だった。
 笑える物語があった。悲しい物語があった。切ない物語があった。怖い物語があった。たくさんの形の恋があった。
 だかららこそ、アリサは混乱する。たくさんの意味がありすぎて。どれが本当の恋なのか分からなくて。すずかたちの形はどれにも当てはまらないような気がして。どれにでも当てはまるような気がして。

 さて、これだけ調べたのに結局何も分からずに休日を終えてしまったアリサだったが、これで諦めるような性根ではなかった。『恋』が分からなければ、一人だけ置いていかれるような気がするから。すずかに負けたような気がするから。

 だから、休日開けの次の日。すずかたちの恋を理解するためにアリサは観察をするためにすずかたちを目を皿のようにして観察した。すずかが休み時間に翔太に話しかけている様子もお昼ごはんのときに翔太に手ずから食べさせているところも。

 結局、丸一日、すずかと翔太の様子を観察したアリサだったが、観察しただけで分かるようなら苦労はしない。分かったことといえば、先日の休日に読んだ本の内容と似たような場面がいくつか見受けられたことだけだろうか。

 その日の授業も終わり、放課後。アリサは、未だかつてないほどにイラついていた。

 ―――分からない、分からない、分からない。

 学業レベルでいうと翔太には僅かに劣る部分があるとはいえ、アリサは十二分に秀才と呼ぶにふさわしい頭脳を持った少女だ。ゆえに今まで学校や塾レベルでも悩んだことは殆どなく、少しヒントをもらえればすぐに問題を解くことができた。
 だが、今、アリサが悩んでいる問題は、答えがまったく見つからず、未だかつてない経験にアリサはいい加減にイライラしていた。もしも、もう少しアリサが気楽な性格であれば、あるいは翔太たちが大切な親友でなければ、アリサがここまで悩むこともなかっただろう。だが、アリサが負けず嫌いで、翔太とすずかが親友であるがゆえにアリサは悩みを放棄することはできなかった。

「どうした? バニングス。なんだか、イラついているようだが」

 ふと振り返ると、そこに立っていたのはアリサたちの担任だった。アリサのあまり見せない態度を怪訝に思ったのだろう。
 いつもはどちらかというとアリサの親友である翔太に用事が多い担任で、優等生といえるアリサはあまり話しこんだことはないのだが、アリサにとっては渡りに船だった。目の前の女性は先生なのだ。つまり、自分の悩みも知っているような気がした。

「先生、教えて欲しいの」

「ほう、バニングスが、か? 話してみるといい。私が教えられることなら教えよう」

 すぐ傍にあったほかの生徒の椅子を引っ張り、担任はアリサの話を聞く体勢に入った。それを有り難いと思いながらアリサは自分の悩みの内容を話した。

「ふ~む、それは難しい問題だな」

「先生でも?」

 アリサの話を聞いた担任は、難しい顔をして顎に手を当てて唸る。それを見てありさも不安になった。先生でも解けない問題なのか、と。だが、アリサの不安げな表情を見て、慌てたように前の言葉を否定する。

「いや、難しいのとはちょっと違うかな。正確には答えがないから答えられないというのが正解か」

「どういうこと?」

 今まで答えを探してきたアリサの悩みが答えがないことといわれてアリサは混乱する。ならば、今まで国語辞典や母親が買ってくれた本に載っていたものは何だったというのだろうか。その疑問に答えるように担任は言葉を続けた。

「バニングスが探していることは人によって千差万別なのさ。恋を麻薬のようなものと言う人もいる。楽しいものという人もいる。悲しいものという人もいる。切ないものという人もいる。感じ方なんて人それぞれ。だから、私はバニングスに対しての答えはない。バニングスに答えられるとしたら―――」

 そういうと担任はアリサの胸を指差した。

「バニングス、おまえだけだよ。バニングスが恋だと感じたことが答えだ。それが楽しいか、悲しいか、切ないか、私には分からない。だから、言えることは唯一つだけだ」

 そういうと担任はアリサの胸を指差していた手を戻して楽しいものでも見たようにカラカラ笑いながらいう。

「焦るな、少女。女の子である以上、避けては通れない道だ。ある日突然わかるかもしれないし、ゆっくりと分かるかもしれない。だから、焦らず、おまえだけの恋を見つければいい」

 ―――あたしだけの恋……。

 その言葉は、酷くアリサを揺さぶった。

 そう、アリサはアリサだ。すずかではない。おそらく、すずかはすずかだけの恋を見つけたのだろう。それが翔太だっただけの話である。だが、それはすずかであり、アリサではない。アリサはアリサだけの恋を未だに見つけていない。

 ああ、なるほど。それでは、見つからないわけだ。分からないわけだ。なぜなら、アリサは今まで自分の外に答えを求めてきた。だが、違った。答えは、アリサの中にしかないのだから。

「……先生、ありがとう。少しだけ分かったような気がする」

「いやいや、私は先生だからな。生徒の疑問に答えるのは当然のことだ」

 いつもは頼りないように見える先生の緩い笑みが、そのときはとても頼りがいのあるように見えた。



  ◇  ◇  ◇



「お兄ちゃん、動いちゃダメ」

「わかったよ」

 うんざりするような口調でソファーに座りなおす翔太を見てアルフはこっそり隠れて笑った。正面から笑うのはさすがに悪いと思ったからだ。

 翔太がジュエルシードの捜索から帰って来て、晩御飯を食べた後から、翔太はアリシア―――フェイトのお絵かきにつき合わされていた。どうやら、昨日の休日に買ってもらった色鉛筆と画用紙が気に入ったようで、午前中もずっと画用紙に絵を描いていた。

 その時気になったのはフェイトが右手ではなく左手で色鉛筆を握っていることであり、しかも、普通であれば右利きの人間が左手で書くのは難しいはずなのに書いた記憶があるように多少ぎこちないながらもきちんと書けていたことである。

 もう一つ気になったのは、昼間、フェイトが画用紙に書いていたのはフェイトと翔太の母親である。ロングの黒髪と柔らかい笑み。フェイトもその隣で笑っている。当然、絵描きのように上手ではないが、要所は押さえた子どもらしい絵である。そして、フェイトと翔太の母親だけではなく、その傍にちょこんと存在する猫のような動物がいた。フェイトにその動物のことを聞いてみたが、フェイトは、あれ? といった様子で首をかしげていた。フェイトが無意識のうちに書いたものである。

 アルフにはその姿に見覚えがあった。

 ―――リニス。

 灰色の毛を持つ猫のような動物。かつてのフェイトの教育係にして、思い出したくもないあのクソ婆の使い魔である。

 だが、フェイトとしての記憶をなくしているフェイトがどうして彼女を知っているのだろうか。いや、それを言うなら、なぜフェイトは、彼女の人間体ではなく、本来の姿を書いているのだろうか。フェイトの教育係としていたときは人間体の格好が多かったというのに。

「できた」

 食後の翔太の犠牲もあったのだろう。どうやらフェイトの絵は完成したらしい。後ろから覗き込んでみるとフェイトとアルフ、翔太の母親、翔太の父親、翔太が画用紙一杯におしくら饅頭をするようにぎちぎちに書かれていた。

「へ~、僕にも見せてよ」

 そういいながら、モデルとして今まで動けなかった翔太がソファーから立ち上がり、フェイトの傍へと近づき、画用紙を覗き込もうとしたのだが、翔太の目に入る前にフェイトは、画用紙をパタンと閉じてしまった。

「見せてくれてもいいのに」

「恥ずかしいからダメ」

 不満げな顔をする翔太にフェイトはまるで画用紙を守るようにぎゅっと画用紙を抱き込む。自分には見られてもいいのだろうか、と思うのだが、それだけフェイトとの距離が近いと思っておくことにした。しかし、フェイトに画用紙が抱き込まれるととてもじゃないが、翔太は手を出すことはできない。

「どうしても?」

「どうしても」

 頑なに拒否するフェイトを見ると翔太も無理にはいえないようだ。ふぅ、とため息を吐いて再びソファーにその身を沈みこませた。もしかしたら、もともとあまり興味がなかったのかもしれない。

「翔太~、アリシア~、お風呂に入っちゃいなさい」

「は~い」

 翔太の母親の要請に元気よく返事したのはフェイトだ。逆に翔太は嫌そうな顔をしている。フェイトと一緒に暮らすようになって、一緒にお風呂に入るように言われるたびに翔太はいつも嫌そうな顔をしている。お風呂が嫌いなのだろうか、と思ったこともあったが、聞いてみれば、なんでもフェイトと一緒にお風呂に入るのが嫌なようだ。兄妹が一緒にお風呂に入るのがどうして嫌なのだろうか? アルフにはいまいち理解できないことだった。

「ほら、お兄ちゃん、行こう」

 ソファーに座ったままの翔太の手を引っ張って無理矢理立ち上がらせるフェイト。翔太もそれに逆らわない。いや、逆らっても無駄だと分かっているのだ。最初は、かなり逆らったが、フェイトが泣き出し、さらには翔太の母親に怒られて以来、翔太は半ば諦めの境地に立っているといっても過言ではないのではないだろうか。

 いつもは、兄貴風を吹かせ、子どもに見えない翔太が唯一子どものように見えて、こみ上げてくる苦笑を先ほどの面白い笑みとは違って苦笑を隠せないアルフだった。

「それじゃ、あたしも一緒に入ろうかね」

 魔法生命体とはいえ、お風呂にぐらいは入る。それにアルフはこれでもお風呂は好きなほうだ。もちろん、人間形態だ。そもそも、家庭のお風呂は、狼などが入るように作られていないため、狼姿で入るのはいささか無理があった。

「アルフも一緒にお風呂っ!」

「……勘弁してくれ」

 アルフの主であるフェイトは大喜びだったが、なぜか翔太は、ガクリと肩を落としていた。なにか不都合があるのだろうか。確かに三人で入るにはいささか手狭だが、フェイトと翔太はまだ子どもなのだ。アルフが人間形態で入ったとしても余裕があるはずだ。

 少し翔太が抵抗したが、結局、後でアルフが入るのもお湯がもったいないということで、三人でお風呂に入ることになった。もっとも、翔太は目を瞑って一切、こちらを見ようとはしないのが不審な行動といえば、行動だったが。

 さて、お風呂にも入ってやや時間も過ぎた頃、フェイトは眠くなったのか、いつも翔太の母親と一緒に寝ている寝室へとやってきた。本当なら翔太の母親と一緒に寝ているのだが、今日はまだ翔太の母親が家計簿とやらをつけている最中ということで、今日はアルフと翔太がフェイトが寝付くまで一緒にいることになった。

 ちなみにアルフはいつもは、リビングで狼形態になって寝ている。翔太は自分の部屋があるのものの、最近はフェイトと一緒に寝ており、自室のベットはあまり使っていないようだった。

 寝室で布団に包まれたパジャマ姿のフェイトは、よほど眠かったのか、布団に包まれた途端に寝息を立てて眠り始めた。

「ねえ、アルフさん」

「なんだい?」

 フェイトを起こさないための配慮なのだろう。フェイトを挟んだ向こう側で寝ているはずの翔太が小声でアルフに話しかけてきた。アルフは、最近、ようやく見ることができた安らかな寝顔で眠っているフェイトの頭を撫でながら答える。

「今日、時空管理局の人が来たよ」

「そうかい」

 思ったよりも衝撃はなかった。ジュエルシードを集めている頃なら、まだ衝撃はあったのかもしれない。なぜなら、管理局に逆らってジュエルシードを探さなければならないのだから。だが、今はこうしてフェイトはジュエルシードを探すこともなく安らかに眠っている。だから、あまり管理局のことは頭になかったのというのが正確なのかもしれない。

「アリシアちゃんのことを話したよ。どうやら管理外世界の無断渡航で、少し罪があるらしいけど、アリシアちゃんの母親のことを話せば、司法取引で無罪になるらしい」

 それを聞いてアルフは、ほっと胸をなでおろした。確かに言われて見れば、管理局に何も言わずに管理外世界に来ているのだから当然、その分の罪がある。だが、あのクソ婆のことを話すことでフェイトが無罪になるのであれば、アルフは洗いざらい話すつもりだった。

「後は、事情聴取とか病院とかあって一度、管理世界の方に行かなくちゃ行けないみたいだけど、それが終わって手続きすれば、このまま僕たちと一緒に暮らすこともできるみたいだよ」

「なるほどねぇ」

 翔太の言葉に相槌を打ちながらもアルフは考えていた。つまり、今の言葉は、アルフに問いかけているのだ。このまま残るか、あるいは管理世界に行くか。それはアルフの一存で決めることはできない。だが、このままであれば、翔太の母親を母さんと慕っているフェイトはこの家に残ることを選択するだろう。いや、それ以外の選択肢があるとは考えにくい。もしも、翔太の母親から引き離そうとするとあの症状が出ることも考えられる。

「なあ、一つ聞いてもいいかい?」

 翔太からは無言の肯定。そう、これだけは聞いておかなければならない。

「あたしたちがいて、迷惑じゃないかい?」

 そう、この家族にとって自分たちは突然現れた異物だ。一時的なものなら許容することはできるだろう。だが、仮にそれが恒久的に続くとなると事情が変わってくる。もしも、迷惑だといわれれば、アルフは何とかしてフェイトとフェイトが幸せになれる道を探すつもりだった。

 アルフの問いに翔太は少しう~んと考えるような間をおいて再び口を開いた。

「迷惑なんかじゃないよ。俗物的なことを言えば、お金は月村家から入ってきてるし、アリシアちゃんの戸籍も裁判所に認められればすぐにできるしね。後は、親父と母さんだけど……親父は娘ができて頬緩みっぱなしだし、母さんも女は自分だけだったから、アルフさんとアリシアちゃんが、来て嬉しいと思うよ」

 いや、むしろ、母さんなら離れようとしても離してくれないかもね、と笑いながら言う。

「それじゃ、あんたは?」

「僕? 僕は全然迷惑じゃないよ。同い年だけど、妹ができるのも反対じゃない。まあ、お風呂とかは本当に勘弁して欲しいんだけどね」

 最後は本当にうんざりした様子だったが、それは嫌々というよりも気恥ずかしさだろう。

「そうかい」

 どうやら翔太の家族はお人よしらしい。こんな風に転がり込んできた人間を信用して、ややこしい事情を持つことを分かっているのに受け入れてくれるのだから。だが、それはアルフにとって非常に有り難かった。どうやら、翔太の家族は、アルフたちがこのまま家族になることを悪くないと思ってくれているらしい。ならば―――

 ―――このまま、ここで暮らせれば一番なのかね。

 フェイトの今まで見たこともないような安らいだ寝顔を見て、アルフはそう思うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 クロノ・ハラオウンは、疲れたと思いながらアースラの管制塔に入った。
 そこでは、クルーの一人で、クロノとも縁のあるエイミィが一人作業をしていた。後ろから覗き込んだコンソールから見るにどうやら今日の模擬戦をまとめていることが見て取れた。

「わっ! クロノくん、いるならいるって言ってよ。びっくりしたじゃない」

「それは、すまないことをしたな」

 おそらく、コンソールの画面で反射する姿で自分を確認したのだろう。驚いて、椅子を回して自分と向き合う形になったエイミィにクロノは素直に謝罪した。

「まあ、いいけどね。それで、今まで何やってたの?」

「スクライアの子とジュエルシードの所有権やらについて話してきた」

 本当なら接触がもてた今日にでもその話をしたかったのだが、意外とややこしいことになっていたためジュエルシードの話はできなかったのだ。

 事故が起きたのはスクライア一族から管理局に運搬する最中。ジュエルシードは売買の形で発掘したスクライア一族から管理局が購入した形になっている。管理局としては、ジュエルシードのような次元干渉型は、すぐにでも手に入れたいのだが、奪うような形で徴収すれば、スクライア一族との軋轢にもなりかねない。故に売買の形。ロストロギアを売買するのはどうなのだ? という議論はあるが、日常的に人員不足に悩まされる管理局としては、ロストロギアの発掘などに割ける人数がいるわけもなく、スクライア一族としても発掘したロストロギアを怪しいところに売るわけにもいかないので、お互い旨みのある取引としてこのビジネスモデルは成立していた。

 今回はそれが問題をややこしくしていた。発掘した直後の所有権は、スクライア一族。ジュエルシードが到着して、受取書にサインすれば、所有権は管理局。だが、今回は輸送中の事故なのだ。当然、ジュエルシードのようなロストロギアを運ぶ以上、相当の保険はかけていたので、スクライア一族は保険会社から莫大なお金を得ることになるだろう。だが、ジュエルシードというAクラスのロストロギアが21個も紛失してしまったのだ。保険会社も査定がおいついておらず保険金はもらえるだろうが、まだ保険金は降りていない。

 それはともかく、お互いに所有権を受け渡す途中で、保険金も降りていないため、所有権が宙に浮いたままになってしまったのだ。スクライア側は、管理局から代金は受け取っているが、管理局側はジュエルシードを受け取っていない、スクライア側は所有権を手放しているが、管理局側は所有権を受理していない。

 なぜ、これが問題になるかといえば、所有権がどちらにあるかによって、現地住民への謝礼金の支払いがどちらになるかが決まるからだ。管理局としては、スクライア一族に払った以上のお金は払いたくない。スクライア一族としても、ジュエルシードの代金と保証金を減らしたくない。ということで、ジュエルシードの所有権をお互いに譲る形となってしまった。もしも、ジュエルシードが見つからなければ、スクライア一族は保険金を受け取り、管理局は支払いの代金を返金という形になったのだろうが。

 もっとも、お互いに所有権を譲り合っていては、埒が明かないので、発掘責任者のユーノと執務官のクロノの協議の結果折半という形でなんとか収まった。

「それで、謝礼はどうするの?」

「それがまた問題だな」

 管理世界の住民なら規定の謝礼金を支払っておしまいだろう。管理世界の通貨はそれぞれ管理局で交換できるのだから。だが、今回は相手が管理外世界の住民だ。つまり、管理局の通貨は使えない。だからといって、ジュエルシードほどのロストロギアの謝礼金を金などの貴金属で払おうとすると、相対的な価値を持つこの世界の金の相場を崩してしまう。それは、管理局が定めた法に過干渉という意味合いで違反してしまう。

 だからこそ、クロノは頭を悩ませていた。もっとも、謝礼の内容は、明日の交渉次第だろう。

「それで、エイミィは何をしてたんだ?」

「今日の模擬戦の解析だよ」

 そういって、キーボードをカタカタッと叩くと管制塔の大画面にクロノとなのはという少女の模擬戦の様子が表示された。

 杖を振るい、桃色の光に包まれた少女が黒い少年に果敢に戦いを挑む様子が映し出されていた。

「すごいよね。この子、平均魔力値だけで言うならSクラスだよ」

「確かに魔力はすごいが………それだけだな」

 そう、だからこそ、魔力で劣るクロノはあの少女に七回も勝てたのだ。

 白い少女―――なのはといっただろうか、彼女の戦い方は綺麗だった。綺麗すぎた。おそらく、彼女に対人経験はないのだろう。シミュレーションばかりのはずだ。だからこそ、型にはまった綺麗な戦い方をしていた。シミュレーションをあのインテリジェントデバイスで行っていたとしても、パターンには限りがある。そして、シミュレーションに従い綺麗に戦う以上、執務官としての経験を積んできているクロノが負ける理由は何所にもなかった。

 綺麗であるが故に、教科書どおりに対処するが故にクロノにはなのはの次の行動が分かるのだ。次の行動が分かる以上、なのははクロノの手の平の上で踊っているに過ぎなかった。

「しかし、あれで魔法を習い始めて一ヶ月なんていったら、管理局の何人が辞表を出すかな」

 最初は耳を疑ってしまったが、信じられないことに彼女が魔法を習い始めて一ヶ月しか経っていないというのだ。もっとも、最初は信じられなかったが、模擬戦を勧めていくうちにそれが信じられるようになった。

 高町なのはは成長のスピードがありえないほどに早い。クロノの動きにも模擬戦の三回目には目で追うようになり、五回目ぐらいには半ば反応できるようになっていた。わざとシミュレーションにはありえないトリッキーな動きを取り入れたというのに同じ手が綺麗に決まることはなかった。

 最年少に近い管理局の執務官であるクロノでさえ、彼の恩師の使い魔に何度も叩きのめされ、身体で覚えたというのに彼女は、一回の痛みで、クロノの動きをものにしてしまうのだ。それは、シミュレーションとはいえ、一ヶ月であれだけ強くなるはずだ。

「う~ん、この子が協力してくれたら今回の事件も楽に解決しそうなんだけどね~」

「だろうな」

 エイミィの言葉には賛成だ。この戦力をもしもアースラが使えるとすれば、それは多少腕は落ちるもののSクラスの魔導師が存在することになるのだから、楽にならないわけがない。

「だが、取りたくない手ではある」

「そうだね」

 クロノとエイミィは同じ思いだった。

 彼女は、いくら強いといっても齢十の子どもなのだ。しかも、この世界では、十歳はまだ初等教育を受けている最中というではないか。それを言えば、ユーノも十歳であるが、彼は文字通り世界が違う。世界が違えば文化もしきたりも異なる。ユーノの世界では、十歳でも戦力になれば大人なのだ。だが、この世界は違う。管理世界やユーノの世界とは異なり、十歳はまだまだ子どもなのだ。だからこそ、クロノとエイミィはこれ以上、関わってほしくなかった。

 ―――それに、少し気になることもあるしね。

 言葉には出さないもののクロノにも気になることがあった。

 杖をあわせたものだけが分かる感覚とでも言おうか、彼女と杖を交わしたときに感じた魔力に込められた強い感情。敵意とも恐怖とも不安とも取れるその感情。敵意は分かる。彼女がクロノを自分よりも弱いといった以上、何かしらの理由から自分に敵意を抱いていたのだろう。子どもといえば、おもちゃを取られただけで怒るのだから、魔法を取り上げられそうになって怒った、といえば説明がつくかもしれない。だが、恐怖とは? クロノに理由が分からない以上、答えの出しようもなかった。

 もしかしたら、彼女は魔法が使えなくなることで何か失うものがあるのかもしれない。

 もしかしたら、魔法に関わらなければ、そんな恐怖を、不安を感じなくてもよかったのかもしれない。

 もしも、魔法に関わってしまったことで何かしらの影響を受けてしまったというのならば、管理世界の治安を守る執務官として申し訳なく思うのと同時に彼女が魔法を失っても幸せを得られることを願うしかなかった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはが目を覚ましたのは夜も遅い時間帯だった。

 ―――あれ? 私………どうしたんだっけ?

 彼女が目を覚まして最初に目に入れたのは、見慣れた自分の部屋の天井だった。まだ意識がしっかりと覚醒していないなのはは、どこかだるい身体に少し力を入れて、意識が覚醒しないながらも上半身を起こす。彼女の身を包む衣服が制服からパジャマに替わっているのだが、そのことにまだ意識がはっきりしないなのはは、気づくことはなかった。

 上半身を起こしたなのはは、ここが自分の部屋であることを確認すると、未だはっきりしない意識の中で状況を整理し始めた。

 ―――ショウくんとジュエルシードを探して、ジュエルシードが暴走して、封印して………あれ? どうなったんだっけ?

 そこから先がはっきりしない。まるで、そこから先を思い出すことを拒否するかのように。その先を思い出そうとするとガタガタと身体が震える。だが、一度辿り始めた記憶の線はいくら拒否してもその先を思い出させることになってしまった。

 ―――時空管理局の人が来て、アースラとか言う船にいって、そして、そして、私は、わたしは、わたしは……あ、あの黒い人に……

 その先を考えることができなかった。それを考えてしまうと、なのはの意思が壊れてしまいそうだったから。その結果はなのはの禁忌に触れるものだったから。だが、なのはは思い出してしまったのだ。ゆえにそれから目を背けることはできても頭の中にこびりついてしまう。いくら現実を否定しても、目の前にぶら下がる現実は変わらない。

 つまり―――高町なのはがクロノ・ハラオウンに負けたという現実は。

 負けたという現実は認めたくない。認められない。だが、それはなのはが目を背けようが逃げようのない現実だった。

「あ、あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁっ」

 魔法で誰かに負けてしまったという現実は、なのはをパニックに導いてしまう。口から出る音はなのはの心の悲鳴だった。

 パニックと恐怖に支配されたなのはは、ベットの上で膝を抱えて体操座りのような体勢で、身を守るように体を小さくしていた。だが、心の内から湧き出してくる恐怖のせいだろうか、なのはの肩はガタガタ震えているし、カチカチと口も震えて歯が鳴っていた。

 ―――負けた、負けた、負けた、負けた、まけた、まけたまけたまけたまけた。まけてしまった。

 なのはの中で思考がループする。

 魔法で誰かに負けること。それはなのはにとっての禁忌だったのだ。だからこそ、今では3万を超えるシミュレーションにも耐えられたし、苦手な早起きにも耐えられたのだ。それも全部、負けないことで翔太と一緒にジュエルシードの捜索をするために。

 だが、今のなのはは、クロノに負けてしまった。あの時空管理局の執務官を名乗る青年に。

 彼と対峙したとき、なのはは勝てると思っていた。彼から感じられる魔力は明らかに自分よりも小さかったから。それにジュエルシードを集める上で戦ったことも、あの黒い少女に勝てたこともなのはにとっては自信の一部だったのだろう。
 だが、それはなのはの勘違いだった。いや、魔力で判断したことが間違いだったのかもしれない。現になのはは、クロノに負けたのだから。

 このままではクロノが言ったとおりになってしまう。それが、なのはにとって一番恐れることだった。

 ―――明後日から今までのことは忘れて元の生活に戻ってください。

 今までのことを忘れて、元の生活に戻る。それは、なのはにとっては、魔法に出会う前の生活に戻るということだ。
 あの暗く沈んだ闇の中にあるような生活に。なんの楽しみもなく、喜びもなく、光もない。あの生きた屍のような日々に戻るということである。
 それは、翔太との生活の中で、褒められる喜びと認められる嬉しさを知ってしまったなのはには耐えられないことだった。そんな生活に戻るぐらいなら悪魔と契約してでも今の時間を護るために戦うことを選ぶだろう。

「どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしようどうしようどうしようどうしよう」

 がりがりと親指の爪をかみながら出口のない迷路を迷うようになのはは起死回生の一手を探していた。だが、そう簡単に見つかるはずもなかった。しかし、見つけなければならない。なのはが今の時間を護るために。タイムリミットは明日の夕方までだろう。それまでになんとしてでも探さなければならない。

 そして、先ほどの思考の一部が起死回生の一手のためのヒントを与えてくれていた。

 ―――悪魔と契約してでも。

 ふと、なのはの虚空を見つめていた視線がある一点を凝視する。そこは、なのはが愛用している学習机だ。その中でも特に見ているのは、学習机に付属している鍵がかかる一番上の引き出し。正確にはその中に大事に仕舞われている中身だ。

「みつけた……」

 なのははうわ言のように呟きベットから降りるとふらふらと夢遊病者のようなおぼつかない足取りでまっすぐ鍵のかかった学習机の引き出しへと歩く。彼女の机なのだ。鍵のある場所など分かっている。隠すように仕舞っていた鍵を取り出すとなのはは躊躇せずに鍵を回して引き出しを開けた。

 そこに鎮座しているのは、小さな箱。その中身は、それ一つで海鳴の街を灰燼にできるほどの力を秘めた蒼い宝石。

 なのはの手がゆっくりとその箱に伸び―――

「これが……あれば……」

 なのはの小さな手は、願いの叶うといわれる宝石が仕舞われた箱を手に取るのだった。



つづく


あとがき2
 保険の話でアドバスを貰ったので修正。ありがとうございました。

あとがき
 ついに四十話……続いたな、と思います。
 なのはさんのJSと強化フラグ回収。



[15269] 第二十話 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/06/19 22:20



 時空管理局が来てから一夜が明けた。

 昨夜はアルフさんに事情を話し、アリシアちゃんの処遇をどうするべきか話し合った。

 アルフさんは、ただアリシアちゃんの幸せを願うだけみたいで、最終的なことは口に出さなかったが、僕たちの家に残りたいようなことを言っていた。僕としては、妹ができたようで嬉しかったので、むしろ望むところである。どちらにしても、結論を出すのは今日の放課後に時空管理局の人と話してからだろう。

 アリシアちゃんのことはそれでいいとしても、問題はなのはちゃんのことである。昨日、帰り道で恭也さんから聞いたことが本当ならば、色々と考えなくてはならない。とりあえず、これからのなのはちゃんとの関わり方だろう。

 たとえ、初めてであろうが、初めてでなかろうが、なのはちゃんが僕の友達であることには変わりない。彼女が、あそこまでクロノさんに突っかかったのは、僕と一緒にいられる時間が少なくなるからだろう。確かにジュエルシード探しが終われば、塾だって行かなくちゃ行けないし、他の面々と遊ぶ機会も増えるだろう。これまでのように毎日なのはちゃんとだけの時間を毎日取るというわけにはいかない。

 ならば、どうするべきか。一番楽な方法は、なのはちゃんが僕以外に友達を作ることであろう。だが、それが簡単にできるなら、僕が不登校の件に関わってから一年も友達ができないなんてことにはならないはずだ。これが簡単にできると思うのは避けたほうがいい。

 簡単な方法があるとすれば、僕が第二学級の子になのはちゃんの友達になってくれるように頼むことだが……。それでは、僕への義理でなのはちゃんの友達になっているようなもので、本当の意味で友達と呼べるのか甚だ疑問である。だが、最初の切っ掛けはともかく、それで友達になれることもあるのかもしれない。だが、逆に友達になれないとなったらどうなるだろう? 一年も失敗しているのだ。さらに傷にならないだろうか。ともかく、確実ではないのであまり使いたくない手である。

「ショウくん? 何か考えてる?」

「あ、すずかちゃん……」

 考え事をしているうちに授業は終わってしまったらしい。その割りに黒板に書かれていることはきちんとノートに書いているのだからマルチタスクとは実に役立つスキルである。

「お弁当食べよう?」

 そういって、すずかちゃんが持ってきてるお弁当をつまんでみせる。最近、すずかちゃんの秘密を知ってしまって以来、すずかちゃんは僕を毎回、お昼ご飯に誘ってきている。しかも、食べさせようとしたり、おかずを交換したり、今までにない行動を取ってくる。どうやら初めて秘密が共有した友人ができて浮かれている状態がまだ続いているらしい。二、三日と思っていたがもう少し上方修正して一週間ぐらいをみるべきだろうか。

 あれ、しかし、今、すずかちゃんの言葉でふと思ってしまった。

 ―――なのはちゃんは今までお弁当はどうしているのだろうか?

 友人がいるなら一緒に食べていることだろう。だが、恭也さんの言を信じれば、彼女は今まで友人がいなかったのだ。ならば、なのはちゃんは、一人で食べているのだろうか? いや、まさか………いくらなんでも………。

 一度、気になれば、それを振り払うことができなかった。

「ごめんね、すずかちゃん。今日は先約があるから」

「そうなんだ。残念だな。それじゃ、明日は一緒に食べよう?」

 すずかちゃんからのお誘いを断わり、あまりにも早い先約に頷き、僕はお弁当を持って教室を後にした。

 教室から出た僕は、隣の第二学級に足を運び、入り口からなのはちゃんの姿を探す。教室では、皆、お弁当を広げており、仲間内でワイワイ言いながら食べていた。そんな中で一人で食べていれば目立つはずだが、一人で食べている子はいないようだった。もしかしたら、恭也さんの言うことが実は気づいていないだけで教室にも友達がいるのでは? と希望測のようなことを思い、ちょこんと跳ねるようにした特徴的なツインテールを探してみたが、結局、見つかることはなかった。

 さて、後、お昼ごはんを食べる場所として考えられるのは中庭か屋上である。どちらを先に行くか迷ったが、屋上からであれば、中庭が見渡せるため、先に屋上を優先した。お昼休みが始まって五分。早い人は二十分ぐらいで食べてしまうので僕は少し急いで屋上に行く。

 屋上に着いた僕は、食べている面々を見渡してみるが、やはりなのはちゃんの姿は見えない。屋上から中庭を見てみるが、少なくとも一人で食べている人はいないようだった。もしかしたら、中庭で友人と食べているのか? と思ってみたりもしたが、やはりこれも僕の希望でしかないのだろう。

 さて、後はどこで食べているのだろうか? と屋上の入り口付近で考えてみる。本当なら携帯でも使えればいいのだが、授業が行われている時間の携帯電話の使用は禁止されている。隠れて使っているものもいるが、もしも、なのはちゃんが電源を入れていなければ意味がないので、確実とはいえない。

 あれ? 待てよ。携帯よりも確実に繋がる方法を僕は知っているじゃないか。

 ―――なのはちゃん? 聞こえる? ―――

 思いついた僕は早速、なのはちゃんに向けて念話で話しかけた。相手に強制的に話しかける形になる念話だから、大丈夫かな? と思ったりもしたが、なのはちゃんからの答えは意外にもすぐに返ってきた。

 ―――ふぇっ!? え? どうしたの? ショウくん―――

 なのはちゃんは突然の僕の言葉に驚いたようだった。それもそうだろう。お昼休みに僕からなのはちゃんに話しかけたことは今まで一度もないのだから。

 ―――お昼ご飯を一緒に食べようと思って探してたんだけど、見つからないから。今、どこにいるの? ―――

 ―――え? えっとね……い、今は中庭だよ―――

 あれ? と思った。僕が屋上から見たときは、一人で食べている子なんて一人もいなかった。つまり、なのはちゃんは誰かと一緒に食べているということだろうか?

 ―――友達と一緒に食べてる? それなら、僕は遠慮するけど―――

 ―――そ、そんなことないっ! 大丈夫だから。私一人だから。ショウくんも来てっ! ―――

 ………改めて屋上から見てみるが、やはり一人で食べている子はいない。つまり、これはなのはちゃんの嘘ということになる。だが、食べている場所について嘘をついてどうなる? 何か意味があるのだろうか? あるいは、僕にはいえない場所で食べていた? あまり気にしないほうがいいのかもしれない。

 ―――わかった。僕も中庭に行くね―――

 ―――うん、待ってるから―――

 なのはちゃんとの念話を一度、切り、僕は中庭に向かうことにした。少しゆっくりとした歩調で。



  ◇  ◇  ◇



 中庭に到着し、少し首を振って、周囲を確認すると日当たりのいい場所から少し離れた木陰になのはちゃんの姿を発見した。

 中庭に設置してあるベンチがすべて埋まっているからだろう。木陰の石段に腰掛けたなのはちゃんは僕のことを待っていていてくれたのか、お弁当の包みをもったまま周囲を伺っているように見える。その様子が、飼い主を待つ犬のように見えると思うのは失礼なのだろう。

「なのはちゃん、お待たせ」

「ううん、待ってないよ」

 まるで漫画の中にあるようなデートのワンシーンみたいだなと思いながら、少しずれて僕が座る場所を開けてくれるなのはちゃんの好意に甘えて彼女の隣に腰掛けた。

「それじゃ、食べようか」

「うん」

 包まれていた弁当箱を取り出し、おかずとご飯の二段組になっている弁当箱を開き、手を合わせて、いただきますといった後、僕たちはお箸を手にとって、おかずに手を出した。

 手を合わせた直後、ちらっとなのはちゃんのお弁当箱を見てみると少しだけ手をつけた跡があった。つまり、なのはちゃんはここに来る前にどこかで一人で食べていたわけだ。教室でも、中庭でも、屋上でもないどこかで。しかし、それを問うつもりは僕にはなかった。

 さて、本当ならここで放課後のことについて話さなければならないのだが、いきなりそれでは、この先が暗いものになる可能性がある。だから、最初はジャブのようなもので会話を始めることにした。

「なのはちゃんのお弁当おいしそうだね。桃子さんが作ってるの?」

「え? う、うん」

 これは会話の切っ掛けにしたものの事実だったりする。さすが、お菓子屋とはいえ料理に関わる人である。なのはちゃんのお弁当はまるで遠足のときのように色鮮やかで、見た目としても楽しめるようなものになっていた。

 ………もしも、これが友人のいないなのはちゃんのためにちょっとした切っ掛けになれば、毎日頑張っていたとしたら、母は強しという言葉が浮かばずにはいられない。もっとも、さすがに穿ちすぎだとは思う。いや、それほどまでに恭也さんの言葉が衝撃的だったのだが。

「………少し食べる?」

 僕が少し考え事をしている間、顔を動かさなかったのをお弁当の中身をじっと見ていると思ったのか、なのはちゃんがはい、とお弁当箱を差し出してきた。そこにはまだなのはちゃんが手をつけていないおかずの数々が残っていた。

「それじゃ、一つだけ」

 まさか、なんの興味もなく見ているだけでした、なんていうことはできず、僕は誤魔化すようにお弁当の中から卵焼きを一つ箸につまんだ。もちろん、まったく興味がなかったわけではないのだが。卵焼きを選んだのは、このおかずが一番、家庭の味が出ると思ったからだ。

 口に運んだ卵焼きは、ふんわりとしていて僕の家よりも若干甘い味がしたが、甘すぎるというわけでもなく、素直においしいと思える味だった。

「おいしいね」

 僕がそういうと、なのはちゃんも嬉しそうに笑ってくれた。

 それはともかく、貰ってばかりも悪いので、僕は自分が食べていたお弁当箱をなのはちゃんに差し出した。

「お返し。なのはちゃんもお一つどうぞ」

「じゃあ、私も一つ」

 そういってなのはちゃんが手を出したのはお弁当の定番であるミートボールだった。手作りと冷凍食品では、格が違うようで大変申し訳ないような気がしたのだが、なのはちゃんは笑って、おいしいね、と言うのだった。

 その後は、放課後と同じように僕たちは昨日のテレビの内容や家で読んだ本の内容などを話した。お弁当を食べ終わった後も。幸いにして座っていた場所は、木陰だったため、実に快適だった。

 昼休みも後残り二十分ぐらいになったとき、会話の途切れを見計らって僕は考えていた話題を口にした。

「ねえ、なのはちゃん。今日の放課後のことだけど………やっぱりジュエルシードのことは時空管理局の人に任せたほうがいいと僕は思うんだ」

 今日の放課後、僕たちはもう一度、彼らと会うことになっていた。そこで、改めてジュエルシードの引渡しなどを行うことになっている。僕としては、そこでジュエルシードには完全に手を引きたいと思っている。なのはちゃんの希望には添えられない形にはなるだろうが。それでも、やっぱり、ジュエルシード集めは非常に危険だと思うからだ。彼らが来た以上、プロである彼らに任せるべきなのだ。彼らの強さについては計らずもなのはちゃんが証明してくれた。

 僕の言葉になのはちゃんは考えるように俯いたまま何も答えなかった。

 なのはちゃんは何を考えているのだろうか。恭也さんの話が確かなら、彼女は僕と一緒にいる時間を作るためにジュエルシードに関わろうとしているはずだ。だから、完全にジュエルシードの件から手を引く僕の提案には素直に肯定できない。

 ならば、代わりを用意してあげればいい。僕と一緒にいられる理由を。本当なら、なのはちゃんが自分から僕と遊ぶことを言い出せればいいのだが、それができれば、なのはちゃんも友達がいないなんてことにはなっていない。つまり、なのはちゃんは性格上の理由と友達がいないという環境から、どんなふうに誘えばいいのか分からないのだ。だから、『ジュエルシード』という理由にこだわる。だから、ジュエルシードから完全に手を引くことに肯定できない。よって、最初の結論になるのだ。

「ねえ、なのはちゃん」

「な、なに?」

 何も言わないことで怒られると思ったのだろうか。肩をビクンと震わせて、なのはちゃんは俯いていた顔を上げた。

「ジュエルシードの件から手を引いたら僕に魔法を教えてくれないかな?」

「魔法を?」

 なのはちゃんが不思議そうな顔をして聞いてきた。それもそうだろう。ジュエルシードの件が終わってしまえば、魔法などこの世界では意味がないのだから。だが、それでもいいのだ。これはただの理由なのだから。

「うん。ユーノくんが先生をやってくれたおかげで、プロテクションとチェーンバインドは使えるようになったんだけど、まだまだ使える魔法もあると思うんだ。この世界では、生きていく上では必要ないかもしれないけど、こういうのが使えるのは夢なんだよね」

 普通の男の子からすれば魔法が使えるというのは、すごい、という驚嘆と感動ものだろう。だから、この言葉も説得力があるはずである。

「でも、ユーノくんも時空管理局の人も帰っちゃうから、なのはちゃんしかいないんだ。だから、僕に魔法を教えてくれないかな?」

 もちろん、クロノさんたちに許可は貰わないとダメだけどね。と付け加えるのを忘れない。

 なのはちゃんは最初、僕が言ったことを理解できないように呆けたような表情をしていたが、やがて、理解したのか、明るい笑顔で頷いてくれた。

「うん。うん、もちろんだよっ!」

 その声は、今までの中で一番弾んだ声だった。



  ◇  ◇  ◇



 放課後、僕は、なのはちゃんと連れ添って昨日、クロノさんと出会った海鳴海浜公園へときていた。僕たちが到着した頃には先に待っていた忍さんと恭也さんとノエルさんとアルフさんが既に待っていた。

「すいません、待ちましたか?」

「いや、大丈夫だ」

 僕たちはどうしても学校という場所に行っている以上、その場所に拘束されてしまう。それを言うと、恭也さんや忍さんは、大学があるはずなのだが、大丈夫なのだろうか? しかし、前世の頃の記憶を辿ってみても大学とは強制的に勉強させる場所ではなくする場所だ。出欠も自分の責任。授業も選択だ。下手をすると授業に出なくても代返などで何とかなる。

 もっとも、恭也さんたちの性格から考えるに、きちんとしていることは間違いないだろうが。

 それはともかく、今日は時空管理局の人達との話し合いだ。本当なら事情を知っている高町家の皆さん、僕の家族も来る必要があったのだが、さすがに仕事や家事、子育てがあるため出席が不可能だった。そのため、恭也さんに一任している。それは僕の家の責任についても同じだ。それは昨夜、電話でお互いに確認した。

 最初、蔵元家代表は僕でも大丈夫、みたいな話になりかけていたのだが、小学生という身分で一任するのは相手を軽んじているという風に見られなくもないので、僕も口は出していいことにはなっているが、最終決定は恭也さんが握ることになった。

 忍さん、ノエルさんは月村家代表だ。事情も知っている上にジュエルシードを一個だけとは所持しているのだからこの話し合いにも参加する意義がある。

 そして、アルフさんはアリシアちゃん―――フェイトちゃんの代わりだ。記憶を失って、母さんを本物の母さんと思っているアリシアちゃんに代わって事情聴取を受けに来たのだ。

 これが今回の話し合いの面々だった。やがて、昨日、こちらと決めた時間になって、バリアジャケットと同じ黒いシャツと黒いジーパンに身を包んだクロノさんが公園に姿を現した。しかし、名は体をあらわすというが、クロノさんは黒が好きなのだろうか。

「お集まりいただき、ありがとうございます。では、早速行きましょうか」

 クロノさんの案内に従って、僕たちは再びアースラへと案内された。クロノさんの案内で、昨日と同様に威圧感のある廊下を渡った後、やはり昨日と同じ部屋に通された。しかも、部屋の内装も変わることはなかった。さくら吹雪が舞い、純日本風のような部屋。お茶会を行うような部屋から変化はなかった。

 その部屋の中心に座っているのは、ライトグリーンの髪の毛をポニーテールにしたこのアースラと呼ばれる船の艦長―――リンディさんだった。その隣には管制塔のオペレータだったエイミィさんが分厚い資料を持って座っており、さらにその奥には、ハニーブロンドの人間形態のユーノくんが座っていた。

「あら、皆さん。ようこそ、アースラへ。どうぞ、お座りください」

 僕たちはリンディさんの勧めに従って用意された座布団に座った。

「ああ、申し訳ない。使い魔の……」

「アルフだよ」

 僕たちと同じく座布団に座ろうとしたアルフさんだけが、クロノさんに呼び止められていた。

「それでは、アルフさん。あなたは別件になるので、別室でお話を伺っていいでしょうか?」

「……分かったよ」

 渋々といった感じでアルフさんは別室で話を聞くことを認めていた。

 クロノさんに引率されて出て行くアルフさんの背中を見ながら僕は大丈夫だろうか、と心配になってしまった。時空管理局が警察のようなものと聞いたからだろうか。密室での取調べという言葉にいい思いがしないのは。昨日、クロノさんから感じた人柄からすれば、大丈夫だとは思うが、アルフさんも僕の家族の一員と言ってはいいほどに馴染んでいるので心配にならずにはいられなかった。

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。事情を聴くだけだから」

 僕の心配した視線を感じたのだろうか、湯飲みを傾けていたリンディさんが僕の内心を見透かしたような言葉を投げかけてくれた。

 その言葉を鵜呑みにすることは、さすがにできないが、気休め程度にはなった。もっとも、万が一のときは、念話でも何でもいいから僕たちに知らせることを伝えてある。

「さて、それでは、話し合いを始めましょうか」

 僕たちの手元にお茶とお菓子が運ばれた後、リンディさんの仕切りで僕たちの話し合いは始まった。

「まずは、現状把握からいきましょう。現在、ジュエルシードは、なのはさんが9つ。忍さんが1つ。合計10個のジュエルシードの封印に成功しているという認識でよろしいでしょうか?」

 その問いに僕たちは頷く。

「通常、私たちの世界で、ロストロギアを回収していただいた場合は、ロストロギアの階級によって謝礼金をお支払いして、ロストロギアを引き取っているのですが……あいにく、この世界は管理外世界で、通貨が手に入りませんでしたので、金などの貴金属でお支払いしようと思うのですが、いかがでしょうか?」

 リンディさんの言葉に僕たちは驚いていた。謝礼金がもらえるとは思っていなかったからだ。僕たちが活動したのはお金のためではない。動かなければ、僕たちと海鳴の街が危なかったからだ。僕の感覚でいえば、ジュエルシードは危険物で、どちらかというと早く引き取って欲しい代物だったのだが、まさか謝礼がでるなんて夢にも思っていなかった。

 され、我らがリーダはどうするのか? と思って横目で隣に座っている恭也さんに話しかけてみる。

「……恭也さん、どうしますか?」

「いや、この展開は俺も予想外だ」

 僕たちが事前に話した内容では、せいぜい魔法に関する注意を受けて、ジュエルシードを引き渡して終わりだと思っていたのだ。後は、せいぜい全部終わった後に僕たちにも教えてもらえるようにお願いするぐらいかと思っていたのだ。
 謝礼金なんて頭の隅にもなかった。だからこそ、こうやって悩んでいるわけだが。

「申し訳ありません。率直にお聞きしますが、それはおいくらぐらいになるのでしょうか?」

 恭也さんが先陣を切って聞いた。確かに、謝礼金がもらえるということで混乱していたが、いくらもらえるか、が問題である。小額なら手間賃かアルバイト感覚でもらえるかもしれない。

「そうですね、昨夜のうちに調べたあなたがたの金やプラチナなどのお値段から換算した値ですと、このくらいになりますね」

 すぅ、とエイミィさんの手から差し出された紙を見る。そこに載せられた値は、やたらゼロがついていた。あまり数えたいとは思わないが、数えれば間違いなく親父の年収を超える額がそこには書かれていた。

「これが全額ですか?」

「いえ、ジュエルシード1つあたりの値段です。そうですね、これに実際に集めていただいた謝礼が入りますので……一番下の額になりますね」

 この言葉に僕は絶句した。ジュエルシード1つで親父の年収を超えるお金と交換。しかも、謝礼が入って一番下に書かれた数字はもはや見たくもない数字だった。大きすぎて愕然としてしまうのである。お金とはある種の力である。故にあまりに額が大きすぎるとそれには恐怖に似た何かを感じてしまう。僕が庶民だからかもしれないが。

「もしかして、少なかったでしょうか? もう少しであれば、私の権限で増額も可能ですが」

「いえ、結構です。むしろ、多すぎます」

「そうですか?」

 僕たちが愕然としていたのにそれを少ないと落胆していたと勘違いしたのだろうか。とんでもないことを言ってきた。さすがに恭也さんもすぐさま拒否していたが。しかも、恭也さんの多すぎるという発現に意外そうな顔をしていたのだから。

「ジュエルシードの危険度から考えれば、妥当な額です」

「いえ、俺たちはお金のためにやっていたわけではありませんので……」

「しかし、受け取っていただけなければ、私たちも借りを作ったことになりますので困ります」

 謝礼金を値下げするという驚いた交渉を行う僕たち。実に奇妙な光景だが、それだけこの額は多すぎるのだ。莫大なお金を不意に受け取った人の人生は酷く簡単に壊れてしまう。宝くじなどで一等などの大金が当選したとき、換金しない理由で上位にあったのは、莫大なお金を得ることへの恐怖である。それをはるかに超える額なのだからしり込みするのも当然といえるだろう。

 その後、話し合いは続いたが、お互いに平行線。あまりお金を受け取りたくない高町家、蔵元家と借りを作りたくない時空管理局。結局は、恭也さんが折れて、全額受け取ることにした。忍さんの「お金はいくらあっても困らない」という台詞で折れたようだ。

 高町家と蔵元家の分配方法は、後で話し合うことにした。もはや額が大きすぎてあまり考えたくないが。

「それでは、これらの書類にサインを……」

「ちょっと待って、私たちはまだ了承してないわよ」

 恭也さんたちの話し合いは終わったのだが、それに待ったをかけたのは月村家代表の忍さんだった。月村家はジュエルシードが一個だから額に不満でもあるのだろうか? と思っていたが、そうではなかった。

「私たちはお金はいらないわ。その代わり、欲しいものがあるの」

「聞きましょう」

 忍さんが欲しいものがあるといったとき、少しだけリンディさんの目が細くなり、柔和な笑みの裏側に鋭いものが見えたような気がするが、忍さんはそれに気づいたのか気づいていないのか、平然と続きを口にした。

「あなたたちの技術の一部を要求するわ」

「そうですね。どういった類のものをご所望で?」

 僕からしてみれば、それは盲点だったのだが、リンディさんはむしろ納得したように頷くとさらに深いところまで聞いてきた。それは、忍さんの願いを了承したということだろうか。

「具体的には、この紙に書いてある問題を解決するための技術ね」

 もしかして、忍さんはこの流れになることを読んでいたのか、忍さんがちらっと横目でノエルさんを見ると、最初から用意していた紙を持っていたバッグの中から取り出して、リンディさんの目の前に差し出した。それは、いろいろ図が書いてあり、設計書といったほうが正しいような紙の束だった。

「拝見しましょう」

 パラパラと紙の束を斜め読みするように見るリンディさん。

 しかし、あれだけの資料を斜め読みしただけで理解できるのだろうか。いささか疑問だったが、僕の疑問など知らずに最後までリンディさんは資料を読み終えていた。

「細かいところは分かりませんが、本局に問い合わせて問題がないようでしたら、技術をお教えしましょう。ただし、その内容によってはお教えできないこともありますので、ご了承くださいね」

「ええ、分かったわ」

「ふぅ、これで謝礼については終わりですね。後は、これからのことですけど―――」

 謝礼金の話が終われば、後は僕たちが予想した通りの内容だった。つまり、魔法はみだりに使わないこと。魔法世界について語らないこと。ジュエルシードを見つけても、時空管理局に報告して関わらないことなどだ。

 僕たちのほうからも、彼らの要望を了承した代わりに、すべてが終わった後に知らせてもらうこと。アリシアちゃんのことで協力してもらうことなどを約束してもらった。

「これで手続きは以上です。お疲れ様でした」

 すべてについて話し合いが終わった後、僕と恭也さんと忍さんがそれぞれリンディさんが差し出した紙にサインを求められた。内容は、お互いに契約内容を履行します、といったような内容だった。それにサインが終わった後、リンディさんとエイミィさんが深々と頭を下げた後、僕たちも釣られるように頭を下げた。

 ともかく、これで終わりだ。ジュエルシードに関することは、全部終わったと思っていいだろう。残り11個のジュエルシードがあるが、それらを回収するのはクロノさんたちの役割だろうし、僕たちの出る幕はないはずだ。

 命を狙われたところから始まったジュエルシードに関する事件は、結局、僕に魔法という存在を教え、なのはちゃんやユーノくんという新しい友人とアリシアちゃんとアルフさんという新しい家族を迎え入れられた実りあるものだったんじゃないかと思う。

「それじゃ、なのはさん。私たちにジュエルシードを渡してもらえるかしら?」

 すべてが終わった後、なのはちゃんにリンディさんは、手を差し出してジュエルシードを求める。当然だ。彼らはこれを求めて、これを正式に手に入れるために話し合いを行ってきたのだから。

 だが、なのはちゃんは無言。リンディさんの求めに応えることはなかった。

「なのはちゃん?」

 さすがに僕も不審に思って声をかけるが、やはり反応はない。少し間をおいてもう一度声をかけようと思ったとき、なのはちゃんは俯いていた顔を上げて、覚悟を決めたような顔つきをして口を開いた。

「ジェルシードを渡す前にもう一度……もう一度だけあの人と戦わせてください」

「なのはちゃんっ!?」

 なのはちゃんの小さな桃色の唇から紡ぎだされたのは、僕を驚かせるのに十二分な内容だった。まさか、もう一度クロノさんと模擬戦をさせろなんて。一体、何を考えているのだろうか。

「―――もう一度だけでいいのね?」

「リンディさんっ!?」

 てっきり止めてくれると思っていたのにリンディさんは、はぁ、とちょっと憂鬱そうなため息を吐いた後、なのはちゃんの意思を確認するように尋ね、なのはちゃんはリンディさんの問いにコクリと頷いてしまった。

 なのはちゃんが望み、リンディさんが頷いてしまった以上、僕がとめることはできない。昨日に引き続き、クロノさんとなのはちゃんの模擬戦が実現してしまった。しかしながら、昨日、七回も連続で負けたなのはちゃんだ。何か秘策があるのだろうか。

「なのはちゃん……大丈夫なの?」

 僕の心配そうな声を分かってくれたのだろうか、なのはちゃんは両腕でガッツポーズのようなポーズをとった後、笑いながら少し自信の見える笑みで言う。

「大丈夫だよ。だから、見ててね。ショウくん」

 その自信の見える笑みに一抹の不安を覚えてしまうのだった。



  ◇  ◇  ◇



「なのはさん。今回は一回だけですからね」

『はい』

 昨日と同じように画面の向こう側に写ったなのはちゃんがリンディさんの念を押すような声に答える。

 そして、彼女と相対するのは、やはり昨日と同じ黒いバリアジャケットに身を包まれたクロノさん。彼の顔は、どこか戸惑ったような表情で、それでも仕方ないと、どこか諦めたような感情が浮かんでいた。

 それもそうだろう。昨日、七回も連続で勝った相手に今日も相手にしなければならないというのだから。しかも、それが上司であるリンディさんからの命令では諦めるほかない。

 しかし、どうしてなのはちゃんは今日も模擬戦を望んだのだろうか。昨日は、僕との時間であるジュエルシード捜索のための時間を取られたくないからだったはずだ。勝てば、このままジュエルシードが捜索できるから、と。しかし、今日は理由がない。あの契約書にサインした以上、僕たちはこれ以上、ジュエルシードに関わることはないのだから。

 もしかしたら、けじめなのかもしれない。最後に気持ちの整理をつけるための。少なくとも兄である恭也さんはそう思っていた。だから、止めなかったとも。それならいいのだが、なのはちゃんの自信の見える笑みを見たときの一抹の不安は一体なんだったのだろうか。

 僕の不安を余所に事態は進む。

「それでは、なのはさん、準備してください」

 そう、クロノさんはバリアジャケットに着替えていたのになのはちゃんは、まだ学校帰りで聖祥大付属小の制服のままだった。レイジングハートもまだ宝石のままだ。

 なのはちゃんは、リンディさんの声に促されたように胸元にぶら下がっているレイジングハートを手に取るとそれを掲げるようにして、小さな宝石を起動させるためのワードを口にする。

『レイジングハート――――セット・アップ』

 その声と同時になのはちゃんは桃色の光に包まれていた。

 ―――刹那、ドクンと僕の胸が震えたような気がした。

「え?」

 その鼓動を感じたのは、僕だけではなかったらしい。誰もがどこか動揺したような表情を見せていた。今の鼓動は一体? と疑問に思っていたが、答えはすぐに管制塔のオペレータをやっているエイミィさんのどこか焦ったような声で分かった。

「なに……これ? なのはちゃんの魔力増大っ! 魔力ランクS+……SS-、SS……まだ増大っ!」

 管制塔が騒がしくなり、全員の注目が目の前のスクリーンに注がれていた。なのはちゃんのバリアジャケットへの換装が長い。いつもはすぐに光の繭は解かれるというのに今日に限ってはその繭の中身は中々姿を現さず、エイミィさんの魔力増大の報告だけが不気味に管制塔に響いていた。

 やがて、ゆっくりと上から勿体つけるように桃色の光の繭が解けていく。

 そして、中から姿を見せたのは、いつもの聖祥大付属小のような白いバリアジャケットに包まれたなのはちゃんではなかった。

 まず最初に現れたのは、ちょこんとツインテールには短いといえる髪ではなく、黒いリボンで結われた腰まで届くような立派なツインテール。そして、なのはちゃんが身に纏うバリアジャケットは、白を基調としたものではなく、聖祥大付属小のデザインにメカメカしい部品をつけたものである。その中でも一番の変化は、その色だ。純白だったバリアジャケットは、どこか夜を思わせるような黒を基調にし、血を思わせる赤で胸元辺りに文様が描かれたものへと変化していた。そして、なにより一番の変化は―――

「………あれが、なのはちゃん?」

「なのはちゃんってまだ九歳だったわよね?」

 呆然とした僕の声に忍さんが確認のように恭也さんに問う。答えは当然、肯定だ。その恭也さんも信じられないものを見たような表情をしていた。

 そう、なにより一番の変化は、なのはちゃんの姿だ。バリアジャケットや髪型といったような細かいところではない。九歳だったはずのなのはちゃんは、身長が急激に高くなり、子どものような体型は豊満な女性のものへと変化し、美少女だった顔立ちは、美人と呼ぶのが適当な顔立ちになっていた。年齢で言うなら恭也さんたちと同じような年齢だろう。

「魔力パターンは間違いなくなのはちゃんです。ただ、魔力は……SSSランクです」

 エイミィさんも己の職務である以上、データを報告しているのだろうが、信じられないものを見たように声を震わせながら報告していた。

 その声に呆然としてしまう管制室。僕にはその魔力ランクとかの意味は分からないが、彼らが呆然とするのだから、よっぽどのものなのだろう。

『さあ、模擬戦を始めよう』

 誰もが呆然とする中、唯一、当事者のなのはちゃんだけが、口の端を吊り上げた笑みで、クロノさんとの模擬戦の始まりを告げるのだった。



つづく

あとがき
 後編へ続く



[15269] 第二十話 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/06/16 00:11



 クロノさんとなのはちゃんの模擬戦。いや、果たしてそれは模擬戦と呼称してもいいものだろうか。

『さあ、始めよう』

 そう呟くように口にしたなのはちゃんは、リンディさんの「待ちなさいっ!」という制止の声も無視して、クロノさんから距離を取るようにはるか上空へと飛び立った。それを見て、なのはちゃんの変身ともいうべき変化に呆然としていたクロノさんも、なのはちゃんがやる気満々なのを見て、意識を切り替えたようにカード型のデバイスをなのはちゃんのレイジングハートのように杖に変化させて、構えた。

 クロノさんが戦う体勢に入ったのを見て、大人になったなのはちゃんはクロノさんを上空から見下しながら笑っていた。それが楽しいことのように。おもちゃを見つけた子供のように。

 二人の間と僕たちにも緊張感が漂う。次になのはちゃんが何をするか分からないからだ。もう、クロノさんは自分から仕掛けるつもりはないらしい。管制塔では、固唾を呑んで、二人を無言で見つめ、エイミィさんがなのはちゃんが大人になった原因を探るためか、すごい勢いでキーボードのようなものを叩く音だけが静かに鳴っていた。

 僕たちは動くことができなかった。あまりの事態に動揺しているというほうが正しい。何も考えられない。パニックで訳が分からないときは、頭が空っぽになるというが、まさしくその状態だった。それになにより何をしていいのか分からない。なのはちゃんの下へ向かうべきなのだろうが、なのはちゃんが戦っている訓練室の場所を僕は知らない。リンディさんに聞ける余裕があるとも思えない。よって、僕ができるのはここで事態の推移を見守ることだけだった。

 不意に、その緊張感を破るようになのはちゃんがレイジングハートを掲げるように突き出す。その瞬間、レイジングハートを中心として展開される弾、弾、弾、弾。一つが二つ。二つが四つ。四つが八つという風に次々と増えていくなのはちゃんの魔法弾。昨日もシューティングゲームのような弾幕だと思ったのだが、今のなのはちゃんの弾幕は、それに輪をかけてすさまじいものとなっていた。

 気がつけば、なのはちゃんの周りは、なのはちゃんが作った桃色の魔法弾で一杯。クロノさんの視点から見るスクリーンでは、空が二、魔法弾が八といった情景で、その中に一人佇む黒いバリアジャケットのなのはちゃんだけが異様さを醸し出していた。

『アクセルシューター、シュート』

 水面のように静かな声で、指揮者のようにレイジングハートを振り下ろし、彼女の周りに浮かぶ魔法弾に命令を下す。その命令はおそらく唯一つだ。つまり、見下しているクロノさんを狙うことだろう。

 僕の予想を裏付けるようにアクセルシューターといわれた魔法弾の数々は、一直線にクロノさんめがけて走り始めた。その弾速は、昨日の模擬戦で見たときよりも間違いなく速くなっていた。クロノさんの上空から振り下ろされた魔法弾が着弾するまでの時間は僅か。数秒あるかないかだろう。おそらく数百ものアクセルシューターが地面にほぼ同時に着弾した瞬間、アクセルシューターが爆発し、煙が訓練室の下のほうに充満すると同時に僅かだがアースラが揺れた。

「まさかっ! 結界で包まれている訓練室ごと揺らすほどの威力なのっ!?」

 揺れることは予想外だったのか、リンディさんがモニターの中の光景を見ながら叫ぶ。それだけで、今のなのはちゃんの魔法弾の威力がどれだけ桁違いか分かろうというものである。

 しかし、それだけの爆発に巻き込まれたはずのクロノさんは大丈夫なのだろうか。

 だが、どうやら心配は杞憂だったようだ。爆発の際の煙の一部から飛び出してきた黒いバリアジャケットは間違いなくクロノさんだったから。あのアクセルシューターの中をどうやって掻い潜ってきたのか僕には分からないが、さすが執務官というべきなのだろうか。

 必殺に近い魔法をかいくぐられてなのはちゃんも困っているのかな? と思ったが、違った。モニターの向こう側のなのはちゃんは煙の中から飛び出してきたクロノさんを見て笑っていた。まるで、それを期待していたように。どういうことだろうか。僕はあの魔法で蹴りをつけるものだと思っていたのだが。

 煙から飛び出したクロノさんは一直線になのはちゃんに向かう。おそらく、接近戦で勝負するつもりなのだろう。なのはちゃんは基本的に遠距離から中距離の魔法を使う魔導師だ。僕が知る限りでは、なのはちゃんは近接での魔法を知らないはずだ。だから、クロノさんもそれを見切っての勝負なのだろう。

 しかし、ここで先ほどの笑みが分かろうとは思わなかった。

 一直線になのはちゃんの元へ向かっていたクロノさんの動きが止まった。その両手、両足には桃色の紐が動きを束縛するように絡まっている。あれは、僕が知っている魔法と同じであれば、バインドといわれる魔法である。なるほど、あの笑みの意味は、これだったのだろう。クロノさんが近接戦闘を仕掛けてくるところまで読んでいた。おそらく、いつものクロノさんなら気づいたかもしれないが、この状況で気づけ、というのも酷な話である。

 そして、なのはちゃんは、バインドで身動きが取れないクロノさんに向けてすぅ、とレイジングハートの先端を向けた。クロノさんもバインドから抜けようともがいていはいるが、抜け出せる気配はない。

『いくよ、レイジングハート』

 ―――All right.My Master.

 なのはちゃんの呼び声にレイジングハートは応える。それが引き金だったようにレイジングハートの宝石の部分を頂点として、環状魔方陣が展開されていた。

『ディバィィィィン』

 レイジングハートの内部で高まる魔力をその場にいた誰もが感じただろう。僕だってモニター越しにも関わらず、魔法をあまり理解しているといえるわけでもないのに、レイジングハートを見ているだけでぞくっ、とした震えがくるのだから、魔法をよく知っているこの場の管制塔の面々はいわずもながである。

「っ! 総員っ! 対ショック姿勢っ!!」

『バスタァァァァァァァッッッ!!』

 リンディさんがその場にいた全員に何かに捕まるように告げたのと同時にレイジングハートから桃色の光が発射される。それは一筋の光となりながら少しは離れた空中で磔になっているクロノさんに向けて一直線に向かう。

『くっ!』

 さすがにその魔力は拙いと思ったのか、クロノさんは磔になったまま正面に三枚のシールドのようなものを展開するが、なのはちゃんの魔法の前には焼け石に水だった。まるで水に濡れた和紙でも破るように易々とシールドが貫かれ、なのはちゃんの魔法は、クロノさんに直撃する。クロノさんを貫いた魔法はそのまま訓練室の壁に直撃―――直後、ずんっ! という先ほどのアクセルシューターのときとは比べ物にならないほどの揺れが僕たちを襲っていた。

 周りからきゃっ! という悲鳴やぐっ! と何かに堪えるような声が聞こえた。僕もその一人で目の前にあったコンソールの端にしがみつくようにして何とか揺れから耐え切ることができた。

 何とか体勢を整えて急いで画面に目を向けてみると、そこに写っていたのは、絶対的な勝者として宙に佇むなのはちゃんと落ち葉のように落ちていくクロノさんの姿だった。

「クロノっ!」

「クロノくんっ!」

 あのまま落ちれば大怪我ということが分かるのか、リンディさんとエイミィさんがクロノさんの名前を叫ぶ。室内と言っても訓練室はそれなりの高さがあり、普通にクロノさんが磔にされていた位置から落ちれば、あの世行きは逃れられないだろうが、クロノさんは幸いにしてバリアジャケットを着ている。だから、大丈夫だとは思うのだろうが。だが、その心配すら無用だった。空中から落ちていたクロノさんだったが、地面に激突する直前、トランポリンのように桃色のシールドが現れ、クロノさんを受け止めたからだ。

 桃色ということを考えれば、なのはちゃんの魔法なのだろう。そこで改めてなのはちゃんに視線を向けたが、大人になったなのはちゃんは、クロノさんが地面に落ちるのを確認した後、空中からゆっくりとクロノさんに近づく。まさか、これ以上まだ何かするつもりなのか、と一瞬、管制塔に内に緊張が走ったが、心配は無用だったようだ。

 クロノさんに近づいて、完全にクロノさんに意識がないことを確認したなのはちゃんは、ずっと浮かべている笑みをさらに強めて言う。

『勝った………あははははははっ! 勝った! 勝ったっ!』

 誰もがそれを異様なものを見るような目で見ていた。僕は何ともいえない不思議な気分だ。もしも、これがなのはちゃんが元のなのはちゃんのような子どもがやれば、無邪気に喜んでいるといえるだろう。だが、目の前のスクリーンに写るなのはちゃんは、大人と言っても過言でもない年齢なのだ。子どものように喜ぶという動作がなんともちぐはぐだった。

 しかし、なのはちゃんはそんなに負けたことが悔しかったのだろうか。いや、それだと昨日の恭也さんの言葉がおかしくなる。あれは、僕との時間を作るための勝負だったはずだ。ならば、今日のお昼に約束したとことでなのはちゃんの目的は達せられたはずなのだ。だから、今回のようにクロノさんとの模擬戦の勝負にこだわる必要はないはずだ。

 もしかして、僕はまだ何か見落としている、あるいは、まだ僕の知らない何かをなのはちゃんは抱いているのだろうか。

『ショウくんっ! 見てたっ! わたし、かっ……た……よ』

 突然、考え事をしている最中に名前を言われて驚いたが、それよりも驚いたのは、僕に勝利報告している途中で、なのはちゃんが糸が切れた操り人形のようにふっ、と支えを失い、前のめりに倒れたことだ。しかも、倒れる途中で再び桃色の繭に包まれ、今度は短時間で再び姿を現したが、今度は真っ白な聖祥大付属小の制服と元の年齢のなのはちゃんだった。

 だが、そんなことはどうでもよく、それよりも倒れたことが気になった。

「なのはちゃんっ!?」

「なのはっ!!」

 さすがにこれは兄である恭也さんも気になったようだ。もしも、訓練室の場所が分かっていたら、すぐにでも駆け出していただろう。僕だって駆け出していたはずだ。だが、場所が分からない今はスクリーンを見ているしかない。

 逆にリンディさんにしてみれば、今が好機だったのだろう。クロノさんが落ちたときから呆けていたが、我を取り戻したように指示を出す。

「すぐにクロノ執務管となのはさんを救護室へっ! 急いでっ!」

 その指示で止まっていた時が動き出したように管制塔が慌しくなった。他の職員に指示を出すもの。今の指示が聞こえていたのか、スクリーンの向こう側では、訓練室に雪崩れ込むように入り込んでい来る数人の職員の人達。彼らによって担架のようなもので運ばれるなのはちゃんとクロノさん。彼らが運ばれる先は救護室とやらなのだろう。

 やがて、それらの作業を見守ったリンディさんは、改めて振り向き、僕たちと真正面に向き合う。その表情は、話し合いのときの柔和な笑みは消え去り、触れれば切れるような真剣な表情が浮かんでいた。それもそうだろう。明らかに先ほどのなのはちゃんは異様だ。時空管理局たちの人たちよりも長く一緒にいる僕でさえもそう思う。

 そして、その原因を僕たちが知っていると思っても別段不思議な話ではない。だから、僕は、リンディさんが次に口にする言葉も簡単に予想ができた。

「―――少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」

 リンディさんの問いという名の強制に僕たちには、はい、という肯定の言葉以外を持ち合わせてはいなかった。



  ◇  ◇  ◇



 さて、リンディさんから話を伺いたいといわれた僕たちだが、なのはちゃんについてならむしろ、僕たちが聞きたいぐらいだ。なにがどうなれば、あんな変化が起きるのか僕たちが知りたい。少ししつこいぐらいになのはちゃんのことを聞いてきたリンディさんだったが、僕たちが本当に何も知らないことを悟ったのか、「分かりました」という言葉で質問を打ち切った。

「あの……」

「あ、はい、なんでしょう?」

「なのはちゃんはどうなるんでしょうか?」

 僕たちが、一番興味があるのはそこだった。クロノさんを模擬戦で下したのは、模擬戦だったということで大丈夫だろうが、あの変化だけは説明がつかない。僕たちも説明することができない。何らかの魔法が働いていることは容易に想像できるが。しかし、彼らの驚きようからしても、なのはちゃんの状態が普通の魔法では説明できないことを物語っていた。だからこそ、なのはちゃんの処遇が気になった。

 だが、その僕の問いに対してもリンディさんは少しだけ考え込むような仕草をした後、口を開いた。

「そうですね。今は意識を失っていますし、あんな状態になりましたから、検査も必要でしょう。なんにしても意識を取り戻したからと言って、すぐにご帰宅させることはできないと思います」

 リンディさんの回答は予想通りといえば、予想通りだった。あの姿になったなのはちゃんを見て、すぐさま帰宅させることができるというのはありえない。それになにより、あれが魔法に関係しているというのであれば、彼らに見てもらったほうがいいというのは正論だ。なにせ、こちらには魔法文明がない上に門外漢なのだから。だが、だからといって、それじゃ、後は任せました、というわけにはいかないだろう。

 信頼していないわけではないが、彼らとは知り合ってまだ二日だ。すべての信頼を置くには時期尚早だろうと僕は見ている。

「あの……それじゃ、僕も付き添っていいですか?」

 だから、僕はなのはちゃんの傍にいることにした。万が一と考えているが、彼がなのはちゃんに手を出せないように監視ぐらいはできるだろう。そして、それは僕だけではなく、恭也さんも同様の気持ちだったらしい。恭也さんも僕の申し出の後、続いて同じことを申し出た。

 僕たちの申し出に対して、リンディさんは、今度はあまり考えることなく、許可を出してくれた。彼らが何を思っているか分からないが、ともかく、なのはちゃんの傍にはいられるのだから文句は言わないことにしよう。

 許可をもらえれば後は行動あるのみだ。今日は、家に帰るつもりで家を出てきた。なのはちゃんに付き添うとすれば、今日は帰ることができないだろう。ならば、一度家に連絡するべきだ。それに僕が着ている服はまだ制服だ。着替えも必要になるだろう。連絡のついでに一度帰ろうかな。

 僕の出した結論だが、恭也さんたちも同様だ。なにより、恭也さんは今日の結果を士郎さんたちに報告しなければならないだろうし、なのはちゃんのことも報告しなければならないだろう。もしかしたら、僕よりも大変かもしれない。

 そんなことを考えていた矢先、僕たちが話し合いをやっている部屋に入ってくる人影が三つあった。一人は、ユーノくん。一人はエイミィさん、そして、最後の一人は意外な人物だった。

「失礼します」

 その先頭に立っていたのは、黒いズボンとシャツを着たクロノさんだった。なのはちゃんと同じように救護室に運ばれたはずなのだが、もう目が覚めたのだろうか。

「クロノさん、大丈夫なんですか?」

「ああ、魔力ダメージだけだったからね。身体はなんともないんだが、魔法を使うことは、ちょっとの間、無理そうだ」

 クロノさんは苦笑いしながらしれっと答えたが、中身を吟味してみると、それは意外と大変なことのように思えた。魔法を使うことができないって、大げさなことなんじゃ。なのはちゃんの友人としては責任の一端を感じてしまうのは僕が日本人だからだろうか。僕はその罪悪感に耐え切れず、クロノさんに頭を下げた。

「すいません。まさか、なのはちゃんがあんなことになるなんて……」

「気にしないでくれ。あんなことは誰も想像できなかったさ」

 先のことは、クロノさんの中では既に割り切ったことらしい。本当に気にした様子がないように笑っていた。それを見て少しだけ安心する。もしも、引きずっていたりしたら、どこか大変な事態につながりそうな気がしたからだ。

「それよりも、君にユーノが用事があるらしいぞ」

「え?」

 クロノさんに促されて、指を指された方向を見てみると、申し訳なさそうにユーノくんが立っていた。

「どうしたの?」

「うん、少しショウに手伝って欲しいことがあるんだ」

「手伝って欲しいこと?」

「うん、ちょっとね。ここじゃ、説明できないからちょっといいかな?」

 ジュエルシードの件なら今の段階では、時空管理局が携わるはずだ。魔法に関しても、今は魔法が使えないクロノさんならまだしも、僕のお師匠様とも言えるユーノくんに対して僕が手伝えることは殆どないはずなのだが。だが、僕が考えたところで、頼みごとが分かるわけもない。そもそも、ユーノくんが無理難題を言ってくるとは思えないし、多少、無理なことでも友人の彼の頼みならば、無下に断わるつもりはなかった。

「分かったよ。どこに行けばいいの?」

「うん、着いてきて」

 僕を先導するように先を歩くユーノくん。僕は彼についていこうと思ったのだが、その前にやることがあった。

「恭也さん、そういうわけですので、僕は少しユーノくんを手伝ってから行きます」

「分かった。それじゃ、俺たちは出口の近くで待ってるから、終わったら着てくれ」

「え? でも……」

 それは流石に気が引けた。なにせユーノくんのことを手伝うとは言ったが、その手伝いがどれだけの時間がかかるか分からないからだ。僕たちが来たのが夕方だ。もしかしたら、もう日が暮れてしまっているかもしれない。それを考えると時間は有限だといってもいいだろう。だから、僕のために待つ時間を作るのは心苦しかった。

「あ、大丈夫だと思うよ。すぐに終わるし」

 どうしよう? と困っていた僕に救いの手を差し伸べてくれたのはユーノくんだった。彼の言葉から推察するに、どうやら手伝いと言っても簡単なものらしい。少しなら待ってもらうのもいいかな? と思って、僕は待ってもらうことにした。

 そんな調子で、僕はユーノくんと一緒に恭也さんたちとは途中まで一緒に用事があるという場所へと向かうのだった。



  ◇  ◇  ◇



 僕の目の前で眠り姫のように髪の毛を解いたセミロングのなのはちゃんが、つい数時間前のことなどなかったような安らかな寝顔で寝ていた。

 僕がいる場所は、アースラに用意された一室だ。客室なのだろうか。ベット以外には特に何もなく、本当に寝泊り専用の部屋のように思えた。

 一時は救護室で寝ていたなのはちゃんだったが、救護室のベットは硬く、治療には向いているが、眠るには不向きらしい。なんでも、診察の結果、なのはちゃんは、魔力切れなどではなく、ただの寝不足だったようだ。それで模擬戦が終わった後で緊張が切れてしまい、眠ってしまった、と。

 最初のほうで心配されていた魔法の変身による後遺症のようなものは一切見当たらず、本当に寝ているだけというのが結論だった。その結果に安心するべきだろうか、あるいは、何もなかったことに驚くべきだろうか。もっとも、あの変身とも言うべき原因が分からない以上、僕には何とも言いようがなかった。

 ちなみに、救護室にいた保険医のような先生に尋ねてみたところ、回答は分かりません、だった。自分が診察したのはなのはちゃんだけで、少なくともなのはちゃんには何の問題もないことだった。しかし、だったら、なのはちゃんの変身は一体なんだったのだろうか。

 僕が考えても仕方ないことだが、家への連絡は、本当に短時間で終わったユーノくんの手伝いの後、偶然、居合わせたアルフさんに任せた。よって今の僕は、なのはちゃんの傍にいること以外は手持ち無沙汰になってしまったので、考えても仕方ないことと思いながらも、思考をそちらに向けてしまうのだ。ちなみに、ユーノくんの手伝いは、単純にレイジングハートへアクセスすることだった。最初に作った僕のユーザ権限でアクセスすることができると、なぜかユーノくんとユーノくんと一緒にいた技師の人は驚いていたが。

「んっ……んん……」

 さて、どうして、なのはちゃんは変身できたのか、という命題に対していくつかの選択肢を考えかけたところで、突然、なのはちゃんの眉が動き、起きる直前のような声を出した。その予想は正しかったのだろう。僕が上から覗き込むのと同時になのはちゃんはゆっくりとその瞼を開いた。まっすぐ、なのはちゃんの大きな瞳が僕を見つめてくる。

「え……あれ? ショウ……くん?」

 まだしっかりと意識が覚醒していないのだろうか、ややはっきりしない様子でなのはちゃんが問いかけてきた。

「おはよう、なのはちゃん。そうだよ、翔太だ」

「えっ!!」

 掛けられた布団を跳ね除けるような勢いで、上半身を起こすなのはちゃん。上から覗き込んでいた僕だったが、危うくヘッドバットを喰らうところだった。幸いにして間一髪避けることはできたが。

「えっと……私、アースラに来て……そうだ、あの人と模擬戦をして……」

 起きたばかりで記憶が混濁しているのだろうか、一つ一つ思い出すようになのはちゃんは今日のことを口にする。あの模擬戦のことも。何か反応を見せるのだろうか、と思って注意深く観察する。だが、僕が予想していた方向とはまったく逆方向の反応をなのはちゃんは見せてくれた。

「あ、そうだっ! ショウくんっ! 私ね、あの人に魔法で勝ったよっ!! 見ててくれた?」

「あ、うん」

 無邪気に笑いながら僕に報告してくれるなのはちゃん。あまりに彼女が無邪気に笑って言うものだから、あのときの事実はそんなに重いものではないのではないだろうか、という疑念すら沸いてくる。だが、そんなわけがない。誰も彼もが呆気に取られた事態だ。重大な事件でないわけがない。

「ショウくん?」

 僕が心配そうな表情をしていることが気になったのだろうか、なのはちゃんも心配そうな声で僕に声を掛けてくれた。一度は聞こうか、あるいは聞くまいか、悩んだが、このまま知らないでは済まされないと思い、僕は意を決してなのはちゃんに尋ねる。

「ねえ、なのはちゃん」

「なに? ショウくん」


「あの模擬戦でなのはちゃんが成長したのは何だったの?」


 僕の問いにびくっ! と肩を震わせ、僕から目を逸らして、一言呟く。

「魔法……だよ」

「嘘だね」

 僕はなのはちゃんの言葉を一言でそう断言した。

 僕となのはちゃんの友人としての付き合いは一ヶ月足らずだが、本当のことを言うときに目をそらすような子じゃないことぐらいは知っているつもりだ。だから、目を逸らして言うということは、何かしら後ろめたいことがあるからに違いない。

「僕に本当のことを教えてよ」

 促すようにできるだけ優しい声で声を掛ける。だが、なのはちゃんからの反応は芳しくない。逸らしたままの視線で、時折、僕の表情を見るためか、ちらっ、と僕を見てくる。その様子は、まるで悪戯が見つかった子どものようである。

「ね、怒らないから」

 子どもがこういう態度に出るときは、相手に様子を伺っているときだ。もっとも、様子を伺った後の反応は子どもによって異なるが、反応を見守るという点では同じだ。なのはちゃんの様子からは何かしら不安に思っている様子が伺えたので、僕は安心させるような意味で笑みを浮かべたまま、本当のことを言うように促した。

「……本当なの? 嫌ったりしない?」

「本当だよ。約束する」

 現時点で、僕は怒ったりするつもりはなかった。ましてや、嫌ったりなど。

 僕が約束するという言葉を発したためだろうか。なのはちゃんはゆっくりと空気を吸い込み、やがて、意を決したような表情をして、彼女は、その小さな口を開いて、真実を僕に告げてくれた。


「ジュエルシードを使ったの」


 ―――――言葉を失うとはまさしく、このことだろうか。

 ジュエルシードを使った? 最初は、彼女なりのジョークだということを疑った。だが、それにしては悪質だ。ならば、本当のことだと思ったほうがいい。だが、そうだとすると、一瞬、怒らないと言いながらも怒りが沸いてきた。なのはちゃんは、集める過程で、あれが危険なものだという認識はあったはずだ。

 それを使ったというなのはちゃんに怒りが沸いてきたが、約束もあるし、事情も聞いていないので、僕はその怒りを静めるために一度、大きく深呼吸して怒りを静めて再度、尋ねた。

「どうして、そんなことをしたの?」

 あれが危険なものという認識がない状態なら仕方ない。だが、彼女は知っていたはずだ。あれは、危険なもので暴走の危険性すらあり、願いも見当違いな方向に叶えるということを。そうと知りながら手を出したなのはちゃんの事情を僕は知りたかった。

 やがて、僕の真剣な目を見たからだろうか、なのはちゃんは、重い口をゆっくりと開いた。

「だって……魔法で負けたら、ショウくんとは一緒にいられないから」

「え?」

 なのはちゃんの言葉を不思議に思った。一緒にいられないというのは、どういうことだろうか?

 僕のその疑問に答えるようになのはちゃんはぽつぽつと続きを話し始めた。

「私は、ショウくんみたいに頭よくないし、ショウくんよりも身体が動かせるわけじゃないし、ショウくん見たいにみんなから頼りにされているわけじゃない。私には、魔法しかショウくんに頼られることないの。だから……だから……負けられないの。魔法だけは」

 それは、なのはちゃんの独白だったのだろう。もしも、恭也さんからなのはちゃんの背景を知らなかったら、僕は彼女の独白の意味が分からなかったのかもしれない。だが、恭也さんから事情を聞いている今、僕は彼女が言っている意味が理解できた。

 なのはちゃんの最初の友達が僕だった。

 ならば、それよりも以前はどうだったのだろうか。なんの努力もしていなかった? そういうわけではなかったのだろう。だが、それでも友達ができなかった。その原因をなのはちゃんは自分自身に感じてしまった。何もできないから。さらに、僕という友達ができた切っ掛けが魔法だったというのも彼女の考えに拍車をかけたのだろう。

 だが、それは、間違いだ。なのはちゃんが言うことは、つまり、友人に理由を求めているのだから。例えば、あいつはお金持ちだから、宿題を写させてくれるから、大きなグループの取りまとめだから、そんな理由で、友人になるのと変わらない。友人に利益を求めている。もしかしたら、もう少し大きくなれば、そんな中で友人を作ることになるだろう。

 しかし、僕たちはまだ小学生だ。小学生なのに、そんな理由で友人になるなんて悲しすぎる。せめて、子どもといえる年のうちは何の考えもなく、何の理由もなく友人を作ってもいいのではないかと思う。だから、僕は、なのはちゃんは考えを改めるべきだと思った。

「はぁ、なのはちゃん、僕がなのはちゃんと友達になったのは、魔法が使えるからじゃないよ」

「え?」

「魔法の力はもしかしたら切っ掛けかもしれない。だけど、それにこだわったつもりはないよ。僕よりも頭がよくなくてもいいよ。身体が動かせなくてもいいよ。僕がなのはちゃんと友達になったのは、なのはちゃんだからだよ。だから、魔法で負けても気にしなくてよかったんだ」

 僕の言葉を聞いて、なのはちゃんは驚いたような表情をしていた。もっとも、魔法のおかげで僕と友達だったと思っていたなら、それは根本から考えを覆すものなのだから仕方ないだろう。

「ほんとう、なの?」

 やや震える声で、訪ねてきたなのはちゃん。信じられないのも無理はないのかもしれない。ここ一ヶ月はそのつもりだったのだから。だが、それは間違いなのだと教えるために僕は、頷いた。

「うん。だから、クロノさんに負けても何も心配なんていらなかったんだ。それでも、僕となのはちゃんは友達なんだから」

「それじゃ、ショウくんとずっと一緒にいられるの?」

「うん」

「一緒にお弁当食べてくれる?」

「うん」

「一緒に手を繋いでくれる?」

「うん」

「一緒にお風呂に入ってくれる?」

「いや、それは」

 流れで、うん、と言いかけたが、言葉の内容を考えるとさすがに拙いと思い、頷くことはできなかった。だが、それを口にした瞬間、なのはちゃんが、やっぱりといった感じで表情を歪めるので、僕は慌てて訂正せざるを得なかった。

「ああ、うん、うん、いいよ」

 再び笑顔。肯定した瞬間に何かを売り渡したような気がしたが、気にしないことにした。

 僕が肯定した後、それが全部だったのだろうか、なのはちゃんは、何も言わなくなった。だが、笑顔を僕に向けたまま、その大きな瞳から小さな雫を流し始めた。言うまでもなく涙だ。それは一つ流れ出したのを皮切りに次々と雫が流れ始めた。

「なのはちゃん、泣いてるの?」

「あ、あれ?」

 僕の指摘で初めて気づいたようになのはちゃんは、急いで袖で涙を拭う。だが、それでは間に合わないほどに次から次に涙は流れる。最初は拭っていたなのはちゃんだったが、やがてダムが決壊したように声をあげて泣き始めた。

 これは、放っておけないと思った僕は、なのはちゃんが寝ているベットの上に上がり、なのはちゃんを抱きかかえるようにして背中を何度か叩いてやった。なのはちゃんが泣いた理由はよく分からない。もしかしたら、僕の言葉が何かしらの琴線に触れるものだったのかもしれないし、利益による友人じゃないことに安心したのかもしれない。

 その涙がうれし涙だとしても、泣いているときは人肌が安心できるものだ。だから、何も言わず、僕はなのはちゃんの背中をぽんぽんとあやすように叩きながら泣き止むのを待っていた。

 なのはちゃんが泣いていたのは、どのくらいの時間だっただろうか。ずっと胸を貸していたものだからよく分からない。だが、それだけの時間を掛けただけあって、ようやくなのはちゃんは泣き止んでくれた。

 泣き止んだのを確認して、僕が離れると、なのはちゃんは目を真っ赤にして、照れたように笑っていた。

「え、えへへ……」

「もう、大丈夫?」

 僕の問いになのはちゃんはコクリと頷いてくれた。

「ふぅ、よかった」

 それで、話が途切れてしまった。別に話すことがないからだ。とりあえず、なのはちゃんが変身した理由が分かったが、これを話すのは明日になるだろう。少なくともことが大きすぎる。まさか、ジュエルシードを使っていたなんて。非常に拙いような気がする。何とか、矛先を逸らせないか考えておく必要があるかもしれない。

 そんなことを考えていて、無言の時間があったからだろうか、思考の海から再びなのはちゃんを見てみると、半ば舟をこいでいた。そういえば、なのはちゃんが寝ていた理由は寝不足に近いものだった。泣くという行為は意外と体力を使うのだ。だから、また眠くなったのかもしれない。

「なのはちゃん、眠いなら寝たほうがいいよ」

 起きていてもやることがない。ならば、なのはちゃんの体力を考えても寝たほうがいいだろう。なのはちゃんのこともこの後、来る予定の恭也さんたちにも知らせないと拙いだろうし、一度外に出る必要があるかもしれない。そう考えていたのだが、不意に袖を引かれたような気がした。

「なに? なのはちゃん」

 よく見ると寝る体勢になったなのはちゃんが僕の袖を引いているだけだった。何か用事があるのだろうか? と思って尋ねてみると、なのはちゃんは、とんでもないことを口にした。

「あのね……一緒に寝よう?」

「えっと、それは……」

 まさか、家でアリシアちゃんといわれたことと一緒のことを言われるとは思わなかった。ここで拒否することは簡単だ。だが、拒否すれば、また、なのはちゃんは泣きそうな表情に顔をゆがめるのだろう。それを考えると事実上、拒否権はないのと同じだった。

「はぁ、分かったよ」

 僕がそう答えるとなのはちゃんは、嬉しそうな顔をして、少しだけ僕のためにスペースを空ける。幸いにしてというか、なんというか、この部屋のベットは、子どもの僕らからしてみれば、大きすぎるもので二人で寝るには丁度いいものだった。僕は靴を脱いで、なのはちゃんの布団の中にお邪魔する。せめての抵抗で僕は天井を見ることにした。

「それじゃ、なのはちゃん、おやすみ」

「うん、ショウくん、おやすみ」

 まるで安心したような声のおやすみ。しかも、よほど眠かったのだろうか、その後、すぐにすぅ、すぅ、という寝息が聞こえてきた。

 もう少ししたら、出て行って恭也さんたちを迎えようと思っていた僕だったが、服が掴まれている僕には、このベットから出られる術はなかった。恭也さんが来たら助けてもらおうと思ったのだが、驚いたり、色々と僕も疲れていたのかもしれない。なのはちゃんが眠りに入った数十分後、僕もまた夢の世界へと旅立つのだった。


つづく

あとがき
 さて、裏ではどうなっているかな?



[15269] 第二十話 裏 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/06/22 21:44



 その日、高町なのははいつものように校舎裏で一人、お弁当を広げて食べようとしていた。つい、数日前に行ったサーチによる翔太の姿を見ながらお弁当を食べ、一緒に食べている気分を味わおうという計画は今日は実行していない。翔太が彼女たちと一緒に食べている姿を見てしまうと、また箸を折ってしまいそうだからだ。また、彼女たちが楽しそうにお弁当を食べている姿を見ていると、校舎裏の暗いジメジメした場所で一人、お弁当を広げている自分が如何に惨めかを見せ付けられるような気がするというのも大きな理由の一つだろう。

 だから、今日もなのはは暗い校舎裏で一人お弁当箱を開ける。開いたお弁当箱の中身は、パティシエールであるなのはの母親が作っただけあって相変わらず彩り鮮やかなお弁当だった。だが、そんなことはなのはには関係なかった。その彩がいくら色鮮やかであろうとも、その彩を共有できる友人がいるわけでもない。見ているのは自分一人だけだ。ならば、お腹の中に入ってしまえば、彩りも何も関係ないのだから。もしも、お弁当中身が日の丸弁当のものであったとしてもなのはは気にしないだろう。

 お弁当に箸をつけること数口、今日もこのままお弁当を食べてしまって、昼休みが終わる寸前までここでぼ~っとしながら過ごすんだろうな、と信じて疑わなかった。だが、変化は唐突に訪れるものだった。

 ―――なのはちゃん? 聞こえる? ―――

 なのはの頭の中に響いたのは念話という魔法で告げられた言葉。その言葉に聞き覚えは当然あった。なぜなら、その声は、なのはが毎日耳にしたくてたまらない人の声なのだから。

 ―――ふぇっ!? え? どうしたの? ショウくん―――

 学校の時間の最中に翔太が魔法を使ってくるのは初めてだ。もしかして、何か問題が起きたのではないだろうか。例えば、ジュエルシードが発動してしまうような。それは、それで嬉しい。昨日、時空管理局とやらと接触したとはいえ、まだ、翔太はジュエルシードに重きを置いているはずだ。ならば、このまま二人で学校を抜けるというようなことも―――

 だが、それはなのはの勘違いだった。

 ―――お昼ご飯を一緒に食べようと思って探してたんだけど、見つからないから。今、どこにいるの? ―――

 その言葉を聞いて、一瞬、自分は校舎裏でお弁当を食べながら夢の世界にでも突入したのかと思った。まさか、翔太がそんなことを言い出すとは夢にも思わなかったからだ。なぜなら、なのはと翔太と知り合ってから一ヶ月、こんなことは一度もなかったから。翔太がお昼に誘ってくるなんてことは、なのはにとって想定の範囲外で、呆けてしまうのも無理もないことだった。

 だが、翔太が誘ってくれるのにいつまでも呆けているわけにはいかない。念話に答えようとして、やめた。

 このまま素直に校舎裏と言っていいものだろうか? という疑問がわいてきたからだ。せっかく翔太が誘ってくれたのに、こんな暗いところで一緒にお昼を食べる。それは、せっかくの楽しみが半減しているような気がした。だから、なのは無難にお昼を食べる場所として名高い場所を自然と選んでいた。

 ―――え? えっとね……い、今は中庭だよ―――

 中庭ならいつも誰かがお昼を食べている。それに、中庭で誰かと一緒にお弁当を食べるというのはなのはの夢見ていた光景の一つでもあるのだ。その夢を翔太と一緒にできるなんて、なのはにとっては天にも昇る思いだった。

 その後、少し翔太と話した後、なのは急いでお弁当箱を再び包んで、中庭へと駆け出した。もしも、なのはよりも翔太が早く着いてしまっては、嘘がばれてしまうからだ。それは、嫌だった。きっと、今まで何所で食べていたのか聞かれるだろうから。あんな暗い場所で一人で食べていたなんて、なのはは翔太に知られたくなかった。

 小走りで中庭についたなのはは愕然とする。なんとか、翔太よりも早く着くことはできたのだが、生憎ベンチが一杯だった。ゴールデンウィーク前の春の陽気な気候だ。しかも、天気は晴れ。外で食べる人が多いのも納得だった。一瞬、場所を変えようかと思ったが、すでに翔太には、中庭だと告げている。他の場所に変更するわけにはいかなかった。

 どこか、座る場所はないだろうか、と見渡してみれば、花壇のために積み上げられたコンクリートが目に入った。そこは、木陰で誰も座っていない。ベンチのように制服がまったく汚れないということはないだろうが、座れないことはない。だから、妥協案としてなのはは、そこに座った。

 座って、今か、今かと翔太を待つなのは。その期待は、裏切れることなく、なのはがコンクリートの上に座ってすぐに校舎の方向から姿を現す翔太の姿を見つけた。

「なのはちゃん、お待たせ」

「ううん、待ってないよ」

 そういいながら、なのはは翔太が座る場所を確保するために少しだけずれた。翔太は、なのはの気遣いに気づいたようで、なのはに向かって微笑むと、なのはの隣に腰を下ろした。彼の膝の上にはなのはと同じく自前のお弁当をと思えるものがあった。

「それじゃ、食べようか」

「うん」

 翔太の声で二人ともお弁当箱を開けて、箸を握る。このときばかりは、なのはは、母親の彩り鮮やかなお弁当に感謝した。少なくとも翔太と一緒に食べても見劣りしないからだ。一緒に食べるのに質素な感じなお弁当であれば、もしかしたら、彼に悪い印象をもたれるかもしれないからだ。

 翔太が隣にいながら嬉しいはずなのに、一年生の頃であれば、いい子の仮面を被って誰かと一緒に食べたことがあるというのに、このときだけは、何を話していいのか分からなかった。だから、無言で食べていたのだが、翔太がなのはのお弁当を覗き込んでいると思うと突然口を開いてきた。

「なのはちゃんのお弁当おいしそうだね。桃子さんが作ってるの?」

「え? う、うん」

 今は友達付き合いのないなのはでも、この振りのようなものは分かっている。一年生のときの経験で分かっているというべきだろうか。おそらく、翔太のことだから、何も話せないなのはに話の切っ掛けを作るための言葉なのだろう。

 そう思うと、気を使ってくれる翔太の心遣いが嬉しくて、こんな自分を気に掛けてくれる翔太に申し訳ない気持ちが浮かんでくるが、せっかくの切っ掛けなのだ。これに乗らないという選択肢はなかった。

「………少し食べる?」

 間違ってないだろうか? と思いながらもなのはは、お弁当を翔太の方に差し出す。なのはの行動を見て、翔太がなぜか少し驚いたような表情をしていたが、「それじゃ、一つだけ」と数々のおかずの中から卵焼きに箸をつけて、口を運ぶ。

 租借する翔太の顔を伺いながら、作ったわけでもないなのはが何故か緊張していた。

 ―――もしも、口に合わなかったらどうしよう?

 そんなことを考えるなのはだが、それは取り越し苦労だ。なのはの母親はお菓子専門とはいえ、料理人なのだ。そんな彼女の料理の味が拙いわけがない。それを証明するように卵焼きを食べた翔太は笑顔になり、「おいしいね」と言ったのだから。

 その後、なのはも翔太のお弁当の中から一つのおかずを貰った。それは、ミートボールであり、どこにでもあるはずの味なのだが、翔太のお弁当から貰ったからだろうか、いつもよりもおいしく感じた。

 それを皮切りにして、二人の会話は弾んだ。話の内容は取りとめもない話ばかりだ。例えば、昨日のテレビの内容だったり、読んだ本の内容だったり、放課後、ジュエルシードを探しながらする会話となんら変わりない内容だった。

 だが、それでもなのはは降って湧いた時間に幸せを感じていた。本来なら放課後限定の翔太との時間。それが学校の昼休みの短い時間とは言え、味わえるのだから文句の言いようもなかった。今日は、時空管理局との話し合いと昨日のこともあり、少しだけ緊張していたが、今だけはいつものように緊張していなかった。

 しかし、そんな幸せの時間も長く続かなかった。不意に、笑っていた翔太の顔が真剣なものになり、口を開く。

「ねえ、なのはちゃん。今日の放課後のことだけど………やっぱりジュエルシードのことは時空管理局の人に任せたほうがいいと僕は思うんだ」

 その翔太の言葉はなのはにとって衝撃的だった。

 なぜなら、それが意味するのは、翔太にとってなのはの価値がなくなってしまったことを意味するからだ。それはなのはにとって受け入れられない結論だった。

 やはり昨日負けたのが拙かったのだ。負けたから、翔太はなのはではなく、時空管理局を選んだ。だが、だがしかしである。なのはの手の中には昨日なかったものがある。これがあれば、昨日負けたあの黒い人にも負けない自信がある。それだけの力を手に入れた自負がある。

 だが、それを翔太に言って納得してもらえるだろうか。ただ負けないだけの力を手に入れたといっても、証拠を示さなければ、それはただの戯言に過ぎない。それで翔太が納得するとは到底思えない。だが、それを考えるならば、翔太に力を見せる機会は一回しかない。

 いや、何を恐れる必要がある? 今度は負けない。負けれらない。負けないだけの力はすでにこの手に。

 なのはが、いかに翔太に自分に魔法の力を示すことを考えている最中に、翔太はなのはが考えているなにかを勘違いしたのか、不意に優しい笑みを浮かべると、切り出してきた。

「ねえ、なのはちゃん」

「な、なに?」

 どうやって、力を示そうと考えている最中に声をかけられれば、さすがに驚く。だが、その次の言葉がよりなのはに驚きを与えた。

「ジュエルシードの件から手を引いたら僕に魔法を教えてくれないかな?」

「魔法を?」

 翔太の提案を不思議に思う。なぜなら、魔法の先生という立場ならユーノという存在が既に翔太にはいるからだ。それになのはの先生とも言うべき存在はレイジングハートのみであり、なのはが先生といわれる立場になるにはまだまだ実力不足のように思えたからだ。

「うん。ユーノくんが先生をやってくれたおかげで、プロテクションとチェーンバインドは使えるようになったんだけど、まだまだ使える魔法もあると思うんだ。この世界では、生きていく上では必要ないかもしれないけど、こういうのが使えるのは夢なんだよね」

 そこで翔太はいつも大人びたような落ち着いた笑みではなく、悪戯を考えるような子どものような笑みを浮かべた。その表情は、翔太が浮かべるにしてはかなり珍しいもので、なのはからしてみれば、不意に滅多に見られない翔太の表情が見られて嬉しい限りだった。

「でも、ユーノくんも時空管理局の人も帰っちゃうから、なのはちゃんしかいないんだ。だから、僕に魔法を教えてくれないかな?」

 嗚呼、嗚呼、となのはの心は翔太の言葉を聞いて歓喜に震えていた。

 翔太は期待してくれる。昨日、あんなに無様に負けてしまったにも関わらず、翔太は魔法に関してまだ、なのはに期待してくれているのだ。それを喜ばずしてどうするというのだろうか。ゆえに、なのはの胸の内は、翔太に未だ、魔法に関しては期待されている事実に歓喜で一杯になっていた。

 時空管理局が来てしまったら、魔法に関して用済みになったら、もう、必要とされないと思っていたなのはからしてみれば、それは朗報以外の何ものでもなかった。

 だから、なのはは、その提案を喜んで快諾する。

「うん。うん、もちろんだよっ!」

 久しぶりに自分でも笑顔になれた瞬間だと思った。

 同時に胸に宿る決意。それは、次は絶対に負けられない、というなのは自身への誓いだ。こんななのはに期待してくれる彼のために無様な真似は見せられない。昨日、禁忌ともいうべきものに手を出してでも手に入れた力もある。だからこそ、なのはは絶対にもう負けることは許されていなかった。



  ◇  ◇  ◇



 アルフが案内された部屋は、隣の部屋のように純日本風になった部屋ではなく、普通の机と椅子がおいてある部屋だった。執務官のクロノが先に座り、アルフは、クロノに促されるままにクロノの対面の席に座った。

 アルフは、時空管理局の執務官を前にして緊張していた。当たり前だ。相手は、あの時空管理局の執務官で、アルフが命を投げ出す覚悟で、戦いを挑んだとしても万が一にでも勝てる可能性はないだろう。

「そんなに堅くならなくてもいいさ。今日は本当に話を聞くためのものなんだから」

 まあ、話の前にこれでもどうぞ、とクロノは、緊張しているであろうアルフのために隣の部屋で翔太たちが飲んでいるとお茶と甘い茶菓子を一緒に出した。

 本当に手を出してもいいものだろうか、と悩んだアルフだったが、クロノを見ても、手元の書類を確認しているだけで何も話そうとする素振りは見せない。つまり、本当にアルフが少し落ち着くまで何かを話すつもりはないのだろう。

 ならば、遠慮することもないか、とアルフはお茶菓子の一つを手にとって口に運ぶ。それは、どちらかという苦味のあるお茶を紛らわすための甘いお菓子だったが、それがアルフの舌にあったのか、非常においしく感じた。つい最初の一口がおいしくてパクパクパクと一気に口にしてしまう。

 思わず目の前の執務官を忘れて口にしていたが、お皿の上にあるお菓子が全部なくなり、お茶で一息ついた時、ようやく執務官のクロノの顔が入ってきた。彼はまるで信じられないものを目にしたように驚いたような表情をしていた。

 それに気づいて、アルフは顔を赤くしてしまう。敵地と言ってもいい場所で、暢気にお菓子を口にしていれば、それは驚きもする。しかも、先ほどまではクロノにびびっていたという事実があれば、殊更だ。

 しかし、それを緊張を解すという観点から考えれば、いいことだったのかもしれない。事実、クロノも苦笑を隠そうとはしなかったが、アルフが座るだけでは開こうとしなかった口を右手にペンを持ちながら開いたのだから。

「さて、それじゃ、君が知っていることについて話してくれないか?」

「その前に、フェイトの保障はしてくれるんだろうね?」

 そう、アルフが望むのはただその一点のみだ。この場にいるのはフェイトが笑って過ごせる未来を手に入れるためだ。そうでなければ、アルフは時空管理局なんてものに目をつけられる前にフェイトと一緒に逃げていただろう。今、この場にいて、プレシアのことを話そうとしているのは単にフェイトが笑っている今を未来まで続けるために過ぎない。

 それはクロノも分かっているのだろう。アルフの確認に大きく頷いた。

「ああ、約束しよう」

 アルフは、クロノを信じられるか? と思ったが、信じなければ、話は続かない。なにより、翔太に確認した限りでは、誠実そうな人だから大丈夫という太鼓判を貰っている。ならば、その翔太の人を見る目を信じてみようと思った。

「分かったよ。あんたを信用するよ。それじゃ、話そうか」

 ―――プレシア・テスタロッサについて。

 アルフは、ご主人様であるフェイトの母親のプレシアを時空管理局に売るように情報を渡したことについて、良心呵責も何も感じなかった。そもそも、アルフは、フェイトをいじめるプレシアが嫌いだったのだ。プレシアのことを話すことが、フェイトの幸せに繋がるのなら、そこに躊躇も何もなかった。

 それから二十分ばかり、アルフは、間にクロノの質問を受けながらプレシアについて話した。

「―――というわけで、あたしたちは、翔太の家に厄介になってるのさ」

「なるほど、な」

 クロノは、アルフのほうを見ずに手元の書類に目を落としながら、アルフの話に納得したような言葉を零した。

 アルフの予想が正しければ、クロノが持っているのは時空管理局が調べたプレシアに対しての情報であるはずだ。アルフが獅子身中の虫ではないか、と疑うことに不快感を覚えない。なぜなら、それが正常な感覚だろうから。無条件に相手を信頼することは尊いとは思うが、愚かであることには違いないのだから。

 さて、それはともかく、クロノが納得したような言葉を零したということは少なくとも、アルフが今、話した内容は信じてもらえたようだ。これからクロノは一体どういった反応に出るのだろうか、とアルフがクロノの様子を伺っていると、不意にクロノは、書類から目を離し、アルフをまっすぐと見つめてきた。その黒い瞳に浮かんでいるのは、迷いだろうか。

「どうしたんだい?」

 圧倒的強者は、クロノだ。そんな彼が、何かに迷うということが信じられなくて、アルフは、先に口を開いてしまった。

 アルフに心配をかけてしまったことを悔やんだのか、クロノは、一つ大きなため息を吐いて、はっきりアルフを見ながら口を開いた。

「君に話すべきか迷っている事項が一つだけある」

「フェイトに関わることかい?」

 アルフの問いにクロノは、間髪いれず頷いた。

 もしも、処遇に関することならアルフに告げるべきだろうし、機密なら告げるべきではない。ならば、微妙なことなのだろう。つまり、今のアルフの話の中でアルフが知ることがないフェイトの秘密とか。

 アルフは、自分が知らない事実が何かあることを知っていた。なぜなら、現状に対してピースが足りないからだ。確かにあんなに慕っていた母親に捨てられたことはショックだろう。だが、それだけであんな症状になるだろうか。それに、分からないことが色々ある。

 フェイトが名乗っている『アリシア』とは誰なのか。フェイトが言う『贋物』とは? 『ゴミ』とは? 分からないことだらけだ。

 だから、アルフは、アルフが知らない事実こそが、これらの言葉を解明するための鍵だと思っていた。そして、それを目の前の青年は知っているのではないか。持ち前の獣の本能と女の勘で、その辺りを嗅ぎ取っていた。

「教えてくれよ。フェイトに関することなら知っておきたい」

「………本当にいいのかい? もしかしたら、開かないほうがいい箱なのかもしれないよ」

「それでも、だ。あたしは、フェイトの使い魔なんだから」

 そう、アルフはフェイトの使い魔だ。たとえ、今、彼女がアリシアと名乗っていようとも、その事実は変わらない。あの結んだ契約が未だに有効である以上、アルフはフェイトの使い魔なのだ。使い魔は、主の分身。だからこそ、アルフはフェイトのことを知って起きたかった。

 アルフの真剣な表情が伝わったのか、クロノは何かを考えるように一度目を瞑った後、再び口を開いた。

「分かった。心して聞いてくれ」

 まるで、覚悟を促すような言葉にアルフはゴクリと緊張しながらつばを飲み込むと続きを待った。

「単刀直入に言おう。プレシア・テスタロッサにフェイトという名前の子どもはいない」

「は? ちょ、ちょっと待ってくれよっ! どういうことだい!? フェイトは、確かにいるよっ!」

「君がいることからも、ユーノの話からも彼女の存在は確認している。顔写真でも確認を取った。だが、それは記録上、ありえないんだよ」

 クロノの言葉に得体の知れない恐怖を感じる。それ以上、踏み込んではいけないと、使い魔になりながらも若干残った獣の本能がその先を聞くな、と警告する。だが、だが、フェイトを護る以上、避けては通れない道だ、とアルフは危険と知りながらもさらに一歩踏み込んだ。

「ど、どういうことなんだい?」

「プレシア・テスタロッサに確認された子どもはただ一人だけだ。そして、その子どもの名前は―――アリシア・テスタロッサ」

 これが写真だ、と差し出された書類には、確かに今のフェイトよりも少し幼い感じの少女が写っていた。

 その名前を聞いたとき、アルフの全身から力が抜けた。なぜなら、その名前は、フェイトが現在使っている名前だからだ。ならば、フェイトは最初から偽名だった? アリシアが本当の名前だった? だが、それではやはり腑に落ちない。なぜ、フェイトという名前を使う必要がある? 普通に娘なら最初からアリシアでいいはずだ。だが、プレシアも、教育係のリニスもフェイトという名前を使っていた。

 不可解だ。ならば、その先にさらなる事実があるはずだ。

 アルフが落ち着くのを待ってくれていたのか、クロノはアルフが先を促すように目を合わせたのを皮切りにしてさらに言葉を続ける。

「その娘、アリシア・テスタロッサは、26年前、次元航行エネルギー駆動炉ヒュウドラの暴走事故により死亡が確認されている」

「は?」

 クロノの言葉に理解が追いつかず、アルフは疑問の声を上げてしまった。アリシアが死亡しているというのなら、今のフェイトは一体、何者だというのだろうか。だが、今度はアルフが落ち着くのを待ってくれない。まるで、その先にアルフが求める答えがあるといわんばかりに。

「アリシア・テスタロッサが死亡した後、プレシア・テスタロッサは、いくつかの研究で成果を上げている。そして、最後に携わった研究は、使い魔以外の人造生命体の創生。そのプロジェクトの名前は―――F.A.T.E、だ」

 クロノの口から次々と出てくる信じられない事実にアルフは呆然としてしまった。心の整理がつかない。人造生命体? F.A.T.E? なんだ、それは? なんなんだ、それはっ!?

 アルフの胸のうちはプレシアに対する憤りで一杯だった。

「……話は以上だ。ご協力に感謝します」

 そのアルフの胸の内が理解できたのか、クロノは話が終えたことを告げると、立ち上がり、部屋から出て行こうとする。部屋から出て行く直前、クロノから告げられた事実によって呆然としていたアルフに背後から声をかける。

「君も色々と考えることがあるだろう。ここは自由に使ってくれて構わない。何か飲みたいなら食堂へ行くといい。僕の名前を出してくれれば、飲食はできるはずだ。地図の端末はゲスト権限で使えるようにしておく」

 それだけを告げると、クロノは部屋から出て行った。おそらく、アルフを一人にしておくのが彼なりの優しさなのだろう。事実、それは一人で考え事をしたいアルフにとっては有り難かった。何も雑音が入らず、今はただ、一人だけで考えたかった。

 暗い部屋に取り残されたアルフは、一人考える。

 クロノの話が事実なら、フェイトは、アリシアではないはずだ。それにフェイトが錯乱したときに言う『贋物』の意味も分かる。筋書きとしては、プレシアが、アリシアを求めてフェイトを作ったということだろう。だが、フェイトはアリシアではなかった。フェイトはフェイトだった。

 だが、それをプレシアは受け入れることができなかった。だから、プレシアは、あんなに慕うフェイトを虐げた。そして、最後にはジュエルシードを集めることができなかったフェイトをゴミのように捨てた。

 それが、アルフが想像した筋書きだ。

「巫山戯るな。巫山戯るなっ!!」

 アルフは怒っていた。自分勝手にフェイトを生み出し、自分の思い通りにならなかったからといって、虐げ。最後まで奴隷のように扱い、ゴミのように捨てたプレシアに。

「あの子が……あの子が何をしたって言うんだいっ!!」

 フェイトは、ただ生み出されただけだ。ただ、それだけ。フェイトがプレシアを母と慕うことに嘘はなかったし、彼女がプレシアの笑顔を見るために頑張っていたことを使い魔であるアルフは誰よりも知っていた。だが、それを一切見ることなく、プレシアはフェイトがアリシアではない、という事実のみで否定した。フェイトをゴミのように捨てた。

 アルフにとって絶対に許せないことだった。

 だが、その怒りの裏で、その事実を知ってしまったアルフは、逆に捨てられてよかったのではないか、とも思った。あのまま、プレシアの元で虐げながら生きるよりも、今のように翔太の家で笑って過ごせている今のほうが幸せではないか、と思った。

「そうだ。あの子は、幸せになるべきなんだ」

 今まで不幸だったから、というわけではない。だが、誰にだって幸せを求める権利はあるはずだ。望む権利はあるはずだ。そして、アルフの幸せはフェイトが笑っていること。だから、アルフは自分の幸せのために決意を新たにした。

 それは、使い魔になったときから続く決意だが、その決意をさらに強くする。

「あの子は絶対、あたしが護る」

 そう、もうプレシアとは無関係なのだ。プレシアが許せないのは変わりない。だが、もう関係ないやつに怒りを抱くのはエネルギーの無駄だ。今は、フェイトの幸せのみ。ただ、それだけを求めよう。そして、その過程で絶対にフェイトを傷つけない。護りきってみせる。それが、アルフの新たな決意だった。

 アルフが決意を新たにした後、プレシアに対する怒りでエネルギーを使ったアルフは、クロノに言われたとおり、食堂へ向かい、クロノの名前で軽食を取った。

 軽食というだけあって少量の食事をぺロリと食べ終えた後、翔太たちの話し合いは未だ続いているのだろうか。終わった後には連絡をもらえるように管制塔の人に告げてあるから大丈夫だと思うが、と心配しているところに突如、館内放送が響いた。

『総員っ! 対ショック姿勢っ!!』

 いきなりなんだっ!? と思った次の瞬間、時空空間にいるはずの船が大きく揺れた。幸いにして注文していた食べ物は、食べ終わっていたから問題はなかった。アルフ自身は、何とかテーブルにしがみつき、椅子から落ちることはなかったが。

「い、一体、何が起きたんだい?」

 独り言のように言ってみるが、誰も答えてくれない。食堂なだけあって、調理場はより混乱している様子で、誰に聞いても分かりそうになかった。片づけを手伝おうかとも思ったが、職員でもないアルフが手伝えることはなく、できることといったら、食器を片付けることぐらいだった。

 艦が大きく揺れ、アルフが食堂を出た後、管制塔と連絡が取れず、仕方なく直接出向くしかないか、と向かっていると偶然にもこちらに走ってくる翔太と出会うことができた。

「翔太、どうしたんだい?」

「あ、アルフさん」

 走りながらも、息を切らしていない翔太を呼び止めたアルフは簡単に事情を聞いた。

 こんなにも大きな艦を揺らすあの少女に驚いたものだが、彼女は、あの暗い瞳を持つ少女だ。揺らすほどの魔法が使えたという事実にはあまり驚くことはなかった。それはともかく、翔太が今日はこの艦であの少女を看るというので、アルフは着替えと両親への連絡係を買って出た。転移魔法を使えるアルフは、その役目にうってつけだからだ。

 通信で艦長であるリンディに了解を得ると、アルフはトランスポートの近くで翔太と待っていた恭也たちと合流して、翔太の家へと帰宅した。その後、翔太が時空管理局という艦に泊まることを告げ、着替えを準備して、再びアースラへと向かった。着替えをさっさと渡したアルフはとっとと蔵元家へ帰宅。翔太の父親、母親、フェイトと一緒に晩御飯を食べ、フェイトと一緒にお風呂に入ったとはあっという間に就寝の時間になってしまった。

「………ねえ、アルフ」

「ん? なんだい、フェ、アリシア」

 いつもの部屋で布団に横になり、フェイトの髪を手櫛で梳きながら、アルフは優しい笑みでフェイトに応える。

「今日はお兄ちゃんいないの?」

 いつもなら、布団に横になっているのは翔太、フェイト、アルフの三人だが、今日はフェイトとアルフだけだった。どうやら、フェイトはそれが寂しい様子だった。だが、それは仕方ないことだ。翔太が向こうを選んだのだから。本当ならフェイトを選んでこちらに来て欲しいという思いもあったが、あの状況で友人を放っておく翔太は翔太ではないような気もした。

「翔太は、別のところだよ」

「どうして? お兄ちゃんも一緒がいいよ」

 さて、どうしよう?

 アルフは素直なフェイトに弱い。たとえ、今はアリシアと名乗っていようとも、彼女はフェイトなのだから。

 フェイトがお兄ちゃんと一緒がいいというのは、やはり寂しいからだろうか。翔太をつれてくることはできない。だから、アルフはせめてもの寂しさを紛らわせる意味で、ぐっ、と抱き寄せ、その豊満な胸の中にフェイトを抱き寄せた。

「明日からは一緒に寝てくれるさ。だから、今日はこれで我慢してくれるかい?」

 そういいながら、アルフは優しくフェイトの髪を撫でながら、ぽんぽんと背中を優しく叩く。

「う……ん…。アルフ、あった、かい、ね」

 もう半分寝る体勢に入っていたフェイトだ。人肌の温かさと頭を撫でられる心地よさは、すぐにフェイトを眠りの世界に誘っていた。あどけない表情で眠るフェイトを見ながら、微笑ましいものを見るような笑みを浮かべてしまうアルフ。つい、一週間前はこんな風にあどけなく寝る時間などなく、死んだように深く2、3時間眠るしかなかったというのに。今の彼女の表情からは、その頃の面影はなく、また今日、聞いたような思い過去を背負ったような様子も垣間見えない。

 知らない―――いや、フェイトのあの言葉から察するにフェイトは知っている。だから、正確には思い出せないことは幸せなのだろうか? 自分の過去を知らないことは幸せなのだろうか?

 それはアルフには分からない。だが、このあどけない寝顔は幸せの証だと思うことにした。

「幸せになろうね、フェイト」

 今日、新たにした決意を言葉にしながら、フェイトを護るように胸に抱き寄せたまま、アルフもまた眠りにつくのだった。


つづく

あとがき
 裏も前後編。
 あと、なのはさんの食事場所は校舎裏です。



[15269] 第二十話 裏 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/06/24 22:01



 クロノは、目の前の人物に戦慄していた。

 こうして、相対しているだけで、彼女の魔力の圧力に屈しそうになる。心が折れてしまいそうになる。全身の毛穴はあわ立ち、まるで極寒の寒さの中に裸で立たされているような怖気を感じる。クロノが、彼女と相対していられるのは、単にこの艦の執務官というプライドと前日の勝利の記憶があったからだ。それらがなければ、クロノはすぐにでも頭を垂れて、許しを請うていただろう。

 しかし、彼女―――高町なのはは、クロノ内心をまったく知らないようにそこに佇むだけでクロノに圧倒的な威圧感を与える。

 その闇のように黒いスカートと洋服も血のように赤い文様も、すべてがクロノの執務官としての本能に警告しか与えない。そもそも、少女だったはずのなのはが大人になっていることがおかしいのだ。確かに変身の魔法で大人になることは可能だ。だが、それが原因で魔力が上がるなんてことはありえない。ありえるとすれば、もともと大人で子どもの姿に変身しており、リミッターを切るなど、もともとの力を隠していた場合だろうが、彼女は現地住民であり、魔法とは縁がなかったはずだ。だから、この可能性はありえない。

 ――― 一体、どうなっているんだっ!?

 きっと、管制塔の誰もが問いたいこと。だが、それを一番、声を大にして問いたいのは、きっとこうして相対しているクロノに違いなかった。

 本当ならこの場を撤退したいところだ。

 魔力がすべてではない。それが信条のクロノであっても、目の前の存在に勝てるとは到底思えない。思えるはずがない。

 くそっ、と心の中で悪態つきながら、一体、この状況をどうやって収めるかを考える。

 逃げる。不可能だ。そもそも、彼女は自分との模擬戦を言い出したという。ならば、逃げ出そうとしたところで、彼女からは逃げられないだろう。

 制止の声をかける。それは、先ほどから彼の母親であるリンディ・ハラオウンが続けている。だが、彼女はそれに耳を傾けようともしない。

 どうする? どうする? と不安だけが募る中、不意に目の前で佇んでいるだけだった彼女が飛んだ。空に向かってまっすぐと。まるで、吊り上げられたようにまっすぐ、上空に持ち上げられるように。ある程度、高さに到達した彼女は、眼下に位置するクロノを見下していた。その目は、暗く、一切の光がなく、絶対零度の冷たさを宿していた。まるで、親の敵でも見るような瞳だった。

 その瞳に見据えられて、クロノは蛇に睨まれた蛙のように身動きできず、背筋にソクッと悪寒が走った。

 かろうじて杖を構えられたのは、執務官になる前に受けた地獄のような特訓の日々と執務官として過ごした日々の賜物だろうか。

 だが、杖を構えられただけでは、話にならない。次の彼女の行動に対応しなければならないのだから。ここまでくれば、クロノは腹をくくるしかなかった。絶えず襲い掛かってくるSSSランクの魔力の重圧を腹の底に力を入れることで跳ね飛ばし、彼女の姿を目に入れるだけでくつくつとこみ上げてくる恐怖心に無理矢理蓋をして、クロノは彼女と対峙する。

 魔力の大きさから言えば、クロノと大人になったなのはの関係は蟻と象といっていい。つまり、気づかないうちに踏みつけられてしまうほどの力の差がある。だから、クロノが勝つために取れる戦法は一つだけだった。つまり、最初の一撃を避けながらの電撃戦。欲を言えば、最初の段階で奇襲をかければよかったのだが、この段階ではもはや奇襲にはならない。

 だから、クロノは杖を構えて、最初の魔法を待つ。ほどなく、大人に変身したなのはは杖を掲げる。

 昨日の模擬戦から考えれば、彼女の適正は砲撃魔法だということは予想できた。ならば、彼女の攻撃も射撃系の魔法だろうと予想する。その予想は、見事的中する。なのはの周囲にまず桃色の魔力光で構成されたスフィアが八つ浮かぶ。

 ―――よし、あれなら、なんとか。

 おそらく、一発でもまともに喰らえば、クロノのバリアジャケット程度なら貫いてダメージを与えるだろう。だが、八発程度であれば、避ける自身はあった。だが、クロノの予想が当たった、と喜んだのもつかの間、さらに数は増える。今は、倍になって十六のスフィアが浮かんでいた。

 ―――ま、まだ何とかなる。

 さきほどよりも自身のほどは落ちてしまうが、十六程度であれば、なんとか避けられると思った。だが、クロノの不安を裏切るようにさらに桃色のスフィアは、さらに増える。十六発が三十二発に。

 ―――おいおい、どこまで増えるんだ。

 嫌な汗がクロノの米神に流れる。嫌な予感は段々と上昇していく。そして、その予想もまた悪い方向ではあるが、的中した。

 最初は八発しかなかったはずのスフィアは、今では、数え切れないほどまでに増えていた。クロノが見上げた空には、桃色のスフィアと訓練室の天井の割合が七対三だった。

 ―――これを避けろ、と?

 無理だ、とかろうじて残っているクロノの中に残っている冷静な部分が告げる。だが、避けなければ、クロノに生き残る道はない。残る一つの手としては、最初から、スフィアの一つに当たって、この模擬戦を終わらせるという手がないわけではない。それは、自分から負けに行くという方法だ。

 だが、この方法をクロノが取れるわけもなかった。彼は執務官だ。執務官は、時空管理局の中でも一握りしか与えられない役職。難関の試験と実技を乗り越えた先に手に入れた役職。そして、彼は執務官という役職の中で修羅場を越えてきた自負もある。だから、魔法とであって僅か一ヶ月の少女に最初から負けを認めるなんて手が取れるはずもなかった。

 ―――避ける。避けてみせるっ!!

 意気込んだクロノの決意がなのはに届いたのか、彼女はまるでクロノの姿をあざ笑うように口の端を吊り上げて笑う。その余裕めいた笑みが、さらにクロノの決意を強くする。

 そして、賽は投げられた。

 なのはが掲げたレイジングハートが指揮者のタクトのように振り下ろされる。なのはという指揮者に従い、桃色のスフィア―――アクセルシューターはクロノを倒すための音楽を奏でるように急降下していく。

 クロノは、そのアクセルシュータを一つ一つを見て、それぞれの軌道を確認する。どこか、抜けられそうな場所、密度が薄い場所を探して。それを判断する時間は一瞬。だが、確実にクロノは、アクセルシュータの密度が薄い場所を見つけた。その場所は三箇所。空の殆どを覆うほどのアクセルシュータにしては多いような気がしたが、細かいことを考える時間をなのはは与えてくれない。

 どちらにしても、このまま考えていても、あの恐ろしい数のアクセルシュータの餌食になるだけだ。それならば、罠と分かっていようとも、そこに突っ込むしかなかった。

 覚悟を決めると、クロノは地面を蹴りだして、アクセルシュータの密度の薄い場所へと突入した。いくら、密度が薄いとは言えども、アクセルシュータがまったくないわけではない。周りに比べて少ないというだけだ。クロノはその場所を真正面に三層構造でプロテクションを張りながら突撃する。

 一層目は、真正面からまっすぐ飛んできたアクセルシュータの餌食になった。二層目は、二発のアクセルシュータに耐え切ったが、それが限界だった。三層目は、アクセルシュータ群を抜ける直前に一発の餌食になり、砕け散った。三層のプロテクションは確かにクロノの魔力を大きく削った。だが、その甲斐あって、何とかアクセルシュータ群を抜け切ることができた。同時に、クロノに命中しなかったアクセルシュータ群が、訓練室の地面に命中。アクセルシュータの同時多発の影響により、訓練室の低い位置は桃色の爆煙に包まれ、クロノもそれに包まれてしまった。

 いや、これは逆に好機だと思った。煙に巻かれている間は、少なくともなのはは自分の位置が分からないだろうから。もっとも、サーチ類が飛ばされているなら話は別だが、戦闘経験が少ない彼女ならその可能性は低い。ならば、これで奇襲に近い効果が得られるはずだ、と思い、クロノは、慎重にかつ大胆に煙の中から飛び出した。その位置は、なのはへの最短距離。

 一撃、一撃だけでも決められればっ――――

 そう思いながら、まっすぐなのはに向かって空を翔る。クロノに対してなのは無反応。あのアクセルシュータ群で倒せたと思っていたのか、あるいは、あれだけの量のアクセルシュータを放出したのだ。もしかしたら、術後の硬直なのかもしれない。どちらにしても、クロノにしてみれば、好機以外のなにものもでもなかった。

 それは、彼にしてみれば、珍しく勝利を焦ったのかもしれない。未だになのはから発せられる魔力に恐れ、一刻も早くこの模擬戦に幕を下ろしたいと焦った結果なのかもしれない。いつもの彼なら、気づいたかもしれない。だが、今の彼は、それらの理由から普通ではなかった。普通であろうとしていたが、心のどこかで焦っていた。だからこそ、気づかなかった。

 空中のクロノが取るであろう進路すべてに仕掛けられたバインドの数々に。

 ビシッという音と共にクロノの両手、両足が動かなくなる。そのまま、まるで磔にされたキリストのように無防備に体を晒す。

 ―――バインドっ!? 何時の間にっ!?

 そう、時間はなかったはずだ。アクセルシュータからクロノが突撃するまでは。もし、可能であったとすれば、アクセルシュータを放ちながら同時並行でクロノの進路にバインドをばら撒いたとしか考えられない。

 ―――そんな、ばかな……。

 クロノは、なのはの魔法のセンスに戦慄した。いくら、魔力が大きかろうとも彼女は魔法とであって一ヶ月の素人であるはずだ。それが、あれだけの量のアクセルシュータを操り、また同時にバインドすら仕掛けるという執務官の彼をして戦慄させるほどの魔法技術。それらを成した少女だった女性が笑みを浮かべてバインドで磔にされたクロノに近づいてくる。

 クロノはその笑みに嫌な予感を覚えた。

 彼の執務官としての本能が、魔導師としての本能が、いや、もっと原始的な人間の獣の本能が、彼女に対して最大限の警告を送ってくる。

 ―――拙い、拙い、拙い、拙い。

 焦りばかりがこみ上げてきて、がちゃがちゃ、と魔力をこめた両手でもがいてみるが、SSSの魔力という文字通り桁違いの魔力で作られたバインドはクロノの魔力程度ではびくともしなかった。そんな彼をあざ笑うようになのはは、まっすぐクロノに向けて彼女の杖を構える。

「いくよ、レイジングハート」

 ―――All right.My Master.

 彼女の杖が応えた瞬間、彼女の魔力が急激に高まる。今まで、彼が相対した魔導師の誰よりも高い魔力だ。

「ディバィィィィン」

 もはや冷や汗が流れるなんて悠長な段階はとうに通り過ぎていた。その魔力の高まりは、ある種の死刑宣告だ。それを前にして生きた心地がしない。しかも、両手両足がバインドで拘束されていれば、尚のことだ。無駄と悟りながらも未だにバインドの拘束から逃れようともがくクロノの脳裏に何故か、今までの半生が走馬灯のように流れていた。

「バスタァァァァァァァッッッ!!」

 それは、桃色の光の濁流というべきだろう。視界を埋め尽くす圧倒的な力が込められた桃色の光。それは死刑を執行する死神の鎌のように段々と迫り来る。

「くっ!」

 無駄だ。無駄だと分かっていながらも、迫り来る死の恐怖からクロノは三層のプロテクションを展開する。だが、それはまるで、そこに何もなかったようにあっさりと貫かれてしまった。クロノの魔力を絞りきった全力のプロテクションだったのだが、SSS魔力を前にしては、ないも同然の防壁だったようだ。

 そして、クロノは視界一杯に染まる桃色の光とSSSの魔力によって生じる痛みによって一瞬で意識を失うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 レイジングハートは木の葉のように落ちていくクロノを見て満足していた。昨日の決断は間違いではなかったと。そのように判断しながら、彼女は昨夜のことを回想する。

 まるで、祈りを捧げる聖女のように十字架の代わりにジュエルシードを握って祈りを捧げるレイジングハートのマスターである高町なのは。

 だが、残念なことになのはがいくら祈りを捧げようとも、願いが叶うことはないことをレイジングハートは知っている。

「……どうしてっ!? どうしてっ!? どうしてなのっ!?」

 半狂乱になったようになのはは、ジュエルシードに語りかける。だが、それにジュエルシードは応えない。いや、正確には応えられない。なぜなら、ジュエルシードを封印したのは、Sランクの魔力を持つなのはだ。その封印の深度は、次元航行艦が持つ魔力サーチすら捕らえられないほどである。故に、彼女の願いはジュエルシードに届かない。

「お願いだから、私の願いを叶えてよ」

 縋るように、願うようになのははジュエルシードに望みをかけていた。

 その姿を見て、レイジングハートは悔やむ。なのはがこんなにも強く願っているのは、模擬戦の敗戦であることは容易に想像できたからだ。なのはは全力だった。あの戦いの中でも成長しながらもクロノには届かなかった。いや、なのはが魔法とであってから一ヶ月ということを考えれば、善戦しただろう。

 だが、善戦しただけでは意味がないのだ。善戦しようが、あっさりと敗北しようが、結論は変わらない。高町なのははクロノ・ハラオウンに敗北したという事実は変わらないのだから。

 そして、勝利に導けなかったのはレイジングハートにも責任の一端があると思っていた。シミュレーションで数をこなすことに終始してしまい、戦いの中の揺らぎにまったく反応できなかったからだ。シミュレーションと実戦の違いと言ってしまえば、それだけだが、もしも、レイジングハートがそれを既に学んでおり、なのはに指導していたなら、もしかしたら勝敗は逆だったかもしれない。

 そもそも、望まれた勝利を与えることこそがデバイスの本懐だ。そして、あのときほど、なのはが勝利を望んだ瞬間はなかった。だが、その瞬間にレイジングハートはマスターに勝利を与えることができなかった。だからこそ、悔やむ。勝利を与えるはずのデバイスではなく、ジュエルシードに頼るなのはを見て。

 だからこそ、レイジングハートは決意した。

 ―――Master, please give me the JS.

「……レイジングハート?」

 レイジングハートの要求になのはは怪訝な顔をした。当たり前だ。レイジングハートの中には九つのジュエルシードがあるからだ。だが、それでも尚、望む。確かにレイジングハートの中の一つを使っても望みは叶えられるかもしれない。だが、あえて、なのはが持つジュエルシードを欲しがるのは、そのジュエルシードにはなのはの願いが乗っているからだ。

 だから、レイジングハートは、もう一度繰り返した。

 ―――Master, please give me the JS.

 もう一度同じ言葉を繰り返したレイジングハートになのはも何かを感じ取ったのだろう。首からかけているレイジングハートを首から外して、机の上に置き、なのははレイジングハートを覗き込むように顔を近づけた。

「レイジングハート、ジュエルシードをどうするの?」

 問うなのは。だが、レイジングハートは説明できない。いや、説明するのは可能だが、非常に長い時間が必要となるだろう。しかし、そんな悠長な時間はないはずなのだ。だからこそ、レイジングハートは一言告げた。

 ―――Trust me, my master.

 信じて。その一言だけだ。それは、僅か一ヶ月だけかもしれないが、マスターとデバイスの間で築かれた関係なのだろう。なのはは、やがてふっ、と肩の力を抜くと、ジュエルシードをレイジングハートに近づけた。

「分かった。私は、レイジングハートを信じるよ」

 ―――Thank you.

 信頼を貰った以上、応えなければならない。

 レイジングハートはすぅ、となのはが近づけたジュエルシードを飲み込むと、そのジュエルシードを使って己の改造を始めた。

 ジュエルシードを安置する場所を確保。ジュエルシードの膨大ともいえる魔力を支えられる魔力線を配線し、レイジングハートの回路と直結。さらに、先の戦いの中で確認された回路の最適化を開始。

 それは、ジュエルシードを使ったレイジングハートの強化だった。

 ジュエルシードは、人の願いをかなえる魔力の塊と言っても過言ではない。その構造は、願いによって魔力回路を生成し、ジュエルシードに内包された莫大な魔力を使って魔法を使っているのだ。つまり、用途によって形を変える魔法回路と思っていい。そのジュエルシードが願いどおりに動かず、暴走するのは、願いを抱いたもののノイズと漠然さによるものが大きい。

 つまり、強くなりたいと思っても、どこを? どうやって? どうやって? という具体性がないのだ。強さの定義は千差万別。つまり、あまりに漠然とした願いであるが故にジュエルシードは正確に発動せず、おおよそで魔法回路が発動してしまう。暴走するのももっともだ。

 ノイズというのは、思考の多様性だ。願いをこめている間、そのことだけを考えているとは限らない。その願いとは別の思考がノイズとなり、別の方向性に発動する原因となるのだ。故に猫などの獣の本能に近い単純な思考をした動物であれば、正確にジュエルシードが発動する可能性は高い。

 よって、レイジングハートは己の中にジュエルシードを内包する。内包されたジュエルシードはレイジングハートの中で動力部のような働きをする。次元震すら起こせるほどの魔力を使えるようになるのだ。なぜなら、いくらインテリジェンスデバイスであり、AIが組み込まれ人間のように受け答えしようとも、突き詰めてしまえば、機械なのだ。

 よって、人間のようにノイズや漠然とした思考はない。物事は正確にかつ単一にジュエルシードに願いという形で組み込まれ、ジェルシードはその命令によって魔力を供給する。この場合、なのはのリンカーコアに供給するのだが。

 さて、レイジングハートはジュエルシードを己の中に組み込みながら、組み込んだ後をシミュレーションした結果、困ったことが起きた。レイジングハート自身に困った原因があるわけではない。原因はなのはだ。

 現状、なのはの力量はほぼ限界と言ってもいい。いや、鍛えればまだまだ伸び白はあるだろうが、現状の体格、および体力等を鑑みると今の状況がベストなのだ。つまり、ジュエルシードから供給することができる魔力は無駄、いや、それどころか、なのはの身体に無理な負担をかけるだけにならない。

 しかし、それでは、宝の持ち腐れになってしまう。せっかくレイジングハートが使える魔力がまったくの無意味になってしまう。それではダメなのだ。だから、レイジングハートは解決策を検索し、見つけた。

 つまり、耐え切れないなら、堪えられるようにすればいいだけの話だ。

 魔力は有り余るほどの存在している。ならば、有り余った魔力の一部をなのはを強化するために使う。その方法はユーノが使う変身魔法を応用して、成長させたように見せかけ、ジュエルシードからの魔力に耐え切れるようにする。そのためには、今の年齢のままでは不都合が生じるので、最盛期である二十歳前後が最適であろうとレイジングハートは予想した。

 そうと決まれば、レイジングハートは早速行動する。なのはの現在のデータから最盛期であろう二十歳前後の身長等を予測。それを変身魔法のデータとして入力する。ついでに、それらは、ジュエルシードを使ったモードを発動したときに自動的に発動するように設定する。そうすれば、無理することなく、このジュエルシードが組み込まれたレイジングハートを十全に使えるはずだ。

 そして、その結果は、いうまでもなく木の葉のように落下していくクロノの姿が証明している。

 過去の敗北を乗り越え、レイジングハートは、マスターに勝利を捧げられたことに満足していた。



  ◇  ◇  ◇



 リンディ・ハラオウンは、あまりの事態に頭を抱えて悩んでいた。

 今、この場に集まっているのは、リンディ、クロノ、エイミィの三人だ。管制塔の中でもトップレベルの人間が集まっているといっても言い。会議に近い形でテーブルを囲んでいる理由は、言うまでもなくSSSランクの魔力を発動させたなのはについてだ。

 その被害者といってもいいクロノは先ほど、目を覚まし、こうしてなのはの処遇を決める会議に出席していた。

「それで、クロノ。調子はどう?」

 あれほどの砲撃を喰らったのだ。非殺傷設定であるといっても、多少の弊害は残っているはずだ。その程度によってもなのはの処遇は変わる。なぜなら、クロノはこのアースラの切り札なのだ。クロノの不参加はアースラの戦力に影を落とすことは必死だった。

 リンディの問いにクロノは案の定、暗い顔をして答えた。

「すいません、艦長。どうやらリンカーコアの方にダメージがいったようで、二、三日は魔法が使えないようです」

「そう」

 それは軽いといえば、軽いのかもしれない。SSSランクの魔力を持つ魔導師の魔力砲だ。リンカーコアが潰れてもおかしくはないはずだ。それを考えると、もしかするとなのはは、手加減したのかもしれないとリンディは思った。

「それで、彼女の魔力が上昇した原因は分かったの? エイミィ」

 クロノの調子を確認した後は、エイミィに聞く。彼女の魔力は異常だ。一日であれほど魔力が上がるはずがない。隠していた、という可能性もあるが、終わった後の勝利に浮かれる様子から考えて、もしも使えるのなら、昨日の段階で使っていたはずだ。それが今日になって初めてお披露目したとあれば、何か別の原因を考えるのが普通だ。もっとも、この場合、非常に限られているが。

 案の定、その予想が当たっていたのか、クロノに続いて少し暗い顔をしてエイミィが口を開く。

「はい、先ほど技術部から。やはり、原因はジュエルシード。それが彼女のデバイス、レイジングハートに組み込まれていました」

 予測していたとはリンディは驚いた。ジュエルシードが使われているというところまでは予測していた。だが、それはあくまでもなのはの身体に作用するような形だと思っていたのだ。それが、デバイスに組み込むとは。しかも、デバイスに組み込むとなれば、デバイスに関する知識も必要なはずだ。管理外世界の住人である彼女がどうやって?

 その疑問に答えたのもエイミィだった。

「どうやら、レイジングハートが自らジュエルシードを取り込んだようです。ちなみに、ジュエルシードは、レイジングハートと一体化しており、無理に外そうとするとレイジングハート内部のジュエルシードと反応して大規模次元震の可能性があるそうです」

「……単体で次元震が起こせるなんて、ずいぶん危険なデバイスもあったものね」

「はい。しかも、もともとの持ち主であるユーノくんの権限は削除されており、現状、権限が存在するのはマスターのなのはちゃんとユーザーの翔太くんだけのようで……さらに厄介なことに自動帰還機能も内蔵されているようです」

 なんとも危険なデバイスになったものだ、とリンディは思った。

 ジュエルシードを内包するデバイスでありながら、取り上げることもできない。取り上げたとしても、きっとレイジングハートは自動的になのはの元へ帰還するだろうから。ならば、マスター権限を持つ人間を増やそうかと思えば、権限の制御権すら奪っている様子。

 ここまで来ると、もはや、レイジングハートはデバイスではなく、一つのロストロギアといっても過言ではないような気がした。

 さて、この現状を踏まえてどうするか? リンディは腕を組んで考える。

 この事態になる前までは、とにかくジュエルシードの回収を最優先し、終わった後になのはに魔法学校の講習を勧めてみるつもりだった。魔法が扱える以上、最低限の扱い方と注意事項ぐらいは知っておくべきだと思ったからだ。二週間ほどの短期講習で、この世界の夏季休暇であればお釣りがくるほどの期間だから大丈夫だろうと踏んでいた。しかも、そこで、魔法について興味を抱いてもらえれば御の字だった。

 高町なのはが今の状況になる前のSランクという魔力は時空管理局にとって、とても魅力的だった。10歳という年齢でSランクなのだ。これが成長すれば、SSランクも夢ではない。そんな強大な戦力を手放せるほど時空管理局は人材に恵まれているわけではない。

 もっとも、現状では、彼女は子どもだ。ミッドチルダでは異なるかもしれないが、少なくともこの世界ではまだまだ子どもだ。だから、将来的にはともかく、今の年齢で、リンディは、時空管理局に勧誘をするつもりはなかった。

 しかし、現状が変わってしまった。

 SSSランクの魔力を自在に操る魔導師。喉から手が出るではなく、必ず手を出すに変わってしまった。それは、時空管理局だけではないだろうが。

 そもそも、時空管理局の法律の中にはAAAランク以上の魔導師が管理外世界で見つかった場合、管理世界で保護するとある。これは、時空管理局が人材を確保したいという側面も確かにあるが、それ以上に犯罪組織から保護するという側面も確かにあった。目が届きにくい管理外世界だ。だが、稀に魔力を持つ人間が出てくる。持つ魔力が少なければ何も問題はないが、それが強大であった場合、犯罪組織によって誘拐され、使われるという場合が、少なくないのだ。だからこその保護。

 もともと、なのはの魔力であれば引っかかっていたが、この世界の状況とリンディが定期的に接触を持ち、後見人になるということで誤魔化そうと思っていた。だが、今はもはやその手は使えないだろう。

 史上最高と言っていいSSSランクの魔力を使える魔導師。この事件を報告すれば、なのはの存在は、間違いなく時空管理局にその存在は知れ渡り、もしかしたら、無理矢理にでもその力を手に入れようとする輩が出てくるかもしれない。時空管理局は大きな組織だ。たくさんの人間が集まれば、様々な考え方が存在し、考えの近い人間が集まり、派閥ができる。その中には確かに強行派も存在するのだ。彼らが、彼女の存在を知れば、犯罪者扱いして己が正義のために無理矢理働かせる可能性も考えられた。

 だが、いくら力が使えようとも、高町なのはは10歳の子どもなのだ。住み慣れている故郷を無理矢理離れさせるなんてことはしたくないし、犯罪者扱いされて心に傷を負わせたくもない。

 ―――さて、どうしたものかしらね?

 なのはの処遇について決めなければならない。それが提督としての役割だから。

 時空管理局において、遠く離れた地域において一刻も早い判断が求められることがある。そのため、現地での指揮系統は逆ピラミッドになっている。つまり、リンディの判断が、時空管理局の判断となるのだ。さすがに犯罪者の裁判などは無理だが。

 ふと、エイミィとクロノに顔を向けてみれば、心配そうな顔をしていた。彼らもなのはのことが心配なのだ。彼女の力は確かに強大で、怖い。だが、同時に彼女は護られるべき子どもなのだ。そもそも、もっと早く動いて、彼女が魔法に出会っていなければ、こんなことに巻き込まれなかったのだから。

 こんなはずじゃなかった世界とは息子が言った言葉だっただろうか。

 そう、自分たちのように悲しい思いをする人間を一人でも救えるように。助けられるように。そのために時空管理局に所属しているのだ。そして、その理念はハラオウン派と呼ばれる派閥の人間の考えに近い。

 ―――悲しむ者に救いの手を。

 だが、今回の件は、あまりにも―――。

 そう思っているリンディの元に一本の通信が入る。どうやら、なのはが目を覚ましたようだ。

 なのはの部屋は監視している。今回の部屋に泊めるという処置も好意というよりも、なのはの危険性を考えた確保に近かった。体外的には治療ということにしているが。

 話題の中心であるなのはが目を覚ましたらしい。そして、今、あの部屋には翔太もいたはずだ。さて、目が覚めた彼女は、彼とどんな会話をするのだろうか。もしかしたら、この事態を判断できる何かが聞けるかもしれない、とリンディは部屋の様子を映してもらった。

 そこから始まる会話の一部始終。

 なのはがジュエルシードに手を出した理由がそこにあった。ああ、やはり彼女は子どもなのだ、とリンディもクロノもエイミィも納得した。あまりに純粋すぎる理由。打算の中で生きてきた大人には理解できないかもしれない感情。それが正しいとはいえない。だが、まだ彼女の心が純粋であるとするなら、まだ矯正が可能だろう。

 だから、リンディは決断した。

「今回のことは事故とします。ただし、なのはさんにはクロノが動けなくなった責任となのはさんの性格を判断するためにジュエルシード事件を手伝ってもらい、その経過をもって、ジュエルシード事件終了後にもう一度、判断します」

 これは様式美だ。ジュエルシード事件を手伝ってもらい、彼女が力を持っていても問題ないことの証明とする。さらにジュエルシードを集めていた理由を彼女の正義感から来るものへと上申し、リンディが後見人となることで手打ちにするのだ。魔法世界と関わるかどうかは将来、彼女が決めればいい。

 リンディの判断にクロノとエイミィが嬉しそうにはいっ! と応えるのだった。




  ◇  ◇  ◇



 高町なのはが目が覚めて最初に目にしたのは、たった一人の友達である翔太の姿であった。

「え……あれ? ショウ……くん?」

 まだ半分寝ぼけた頭を必死に動かしながら、ありえない夢のような情景を呟いてしまう。そう、ありえない。目が覚めたとすれば、ここは自分の家であり、翔太が自分の部屋にいるなんて状況は考えられないからだ。考えられないはずだった。

「おはよう、なのはちゃん。そうだよ、翔太だ」

「えっ!!」

 だが、目の前の翔太はなのはの願望に近い呟きにきちんと応え、しかも笑ってくれた。あまりの驚きようになのはは、思わず上半身を飛び上がるように起こして、まじまじと翔太を見つめる。それはなのはの願望が見せている幻想ではなく、本物の翔太だった。目が覚めて、一番最初に見られたのが翔太で嬉しい気持ちがこみ上げてくるが、同時にどうして、翔太がどうしてここにいるのか? という疑問が浮かび、なのはは寝る直前までを思い出し始めた。

「えっと……私、アースラに来て……そうだ、あの人と模擬戦をして……」

 なのはは昨日の汚名を濯ぐためにクロノとの模擬戦を申し出たのだ。それが認められて、そして、昨夜手に入れた力を使って―――。

 一つ一つを丁寧に思い出していきながら、なのははついに一番大切なことを思い出した。昨夜は、それだけを願い、願った果てに強大すぎる力を手に入れ、なのはは彼女自身の願いを叶えた。それが嬉しくて、汚名を濯げたことが嬉しくて、それを翔太に褒めてほしくて、主人に褒めてもらう飼い犬のようになのはは笑顔で翔太に報告する。

「あ、そうだっ! ショウくんっ! 私ね、あの人に魔法で勝ったよっ!! 見ててくれた?」

「あ、うん」

 笑顔で報告するなのはは、当然、翔太が褒めてくれるものだと思っていた。いつものように「さすがだね、なのはちゃん」と。だが、なのはが想像したのと違い、なぜか翔太は顔を曇らせていた。まるで、なのはの勝利が嬉しくないように。

「ショウくん?」

 怪訝に思ったなのはは翔太に問い返す。だが、翔太はそれでも応えない。初めてのことだった。翔太はいつだって、なのはの言葉には笑顔で応えてくれた。応えてくれないなんて初めてで、だから、なのはは何か失敗してしまったんじゃないか、と不安になってしまう。

「ねえ、なのはちゃん」

「なに? ショウくん」

 不安が段々と募っていく中、ようやく翔太がまるで覚悟を決めたような表情をしてなのはに応えてくれた。ようやく応えてくれた翔太になのはは、自分の中の不安が勘違いだったと思い込ませ、蓋をして、笑顔で応じる。だが、その蓋をしたはずの不安はすぐに飛び出すことになる。


「あの模擬戦でなのはちゃんが成長したのは何だったの?」


 翔太の問いになのははどきっ! とした。

 そう、なのはも分かっている。ジュエルシードを使うのは危険なことだったと。だが、それ以上になのははクロノに勝ちたかったのだ。悪魔と契約するようなことになっても。危険性を認知していたからこそ、翔太に問われたなのはは、初めて視線を逸らして翔太に答えた。

「魔法……だよ」

「嘘だね」

 だが、なのはの嘘はすぐに翔太に見破られる。いや、そもそも、翔太に嘘をつこうとしたことが間違いだったのだ。彼になのはごときの嘘が見破られないはずがない。すぐになのはは翔太に嘘をついたことを後悔した。

 だが、翔太の顔をうかがいながらも考える。果たして、本当のことを言っていいものだろうか? ジュエルシードに手を出したなんていったら嫌われないだろうか。嫌われないためにジュエルシードを使ったのに、それで嫌われたら本末転倒だった。

 だからこそ、なのはは翔太の問いに答えたくても答えられない。

「僕に本当のことを教えてよ」

 優しい声でなのはに囁くように翔太は言う。なのはは、意識しなければ、自分で自分を戒めなければ、その声に応えて本当のことを口にしそうになってしまった。だが、簡単に口には出せないのだ。翔太がどういう反応をするのか分からないから。翔太に嫌われるなんて、絶対に嫌だから。

 だが、そんななのはの心を見透かしたように翔太は、言葉を紡ぐ。

「ね、怒らないから」

 翔太に嫌われたくないなのはは、その言葉に縋りたくなった。口にしないで嫌われるよりも、正直に口にしてしまったほうがいいのかもしれない、と思ってしまった。翔太の浮かべる笑みは確かにいつもよりも優しい笑みだ。その笑みを信じたかった。だから、なのはは最後に確認するように小さな声で翔太に問う。

「……本当なの? 嫌ったりしない?」

「本当だよ。約束する」

 間髪入れない翔太の答えになのはは安心した。少なくとも翔太が嘘をつくなんて考えられない。だからこそ、なのはは正直に答えようと思った。だが、それでも万が一を考えると覚悟が必要だった。大きく息を吸って、覚悟を決める。翔太が口にした約束を信じて。


「ジュエルシードを使ったの」


 言った。言ってしまった。真実を口にした後、なのはは翔太の様子をおずおずと確かめた。約束が確かなら、翔太は怒っていないはずだから。だが、真実を口にした後、翔太の表情を確認したなのはは、ひっ、と息を呑んだ。

 なのはが見たのは翔太が怒っている感情だった。いや、正確には翔太はそれを隠そうとしていたが、いい子であろうと人の顔色を伺って生きてきたなのはだ。いくら隠そうとも、しかも、たった一人の友達である翔太の感情だ。なのはが読み取れないわけがなかった。

 ――――どうしよう? どうしよう? どうしよう、どうしよう。

 やはり正直に口にするんじゃなかった、となのはは後悔した。きっと、なのはが口にした真実は、翔太の許容範囲を超えていたのだ。その考えに至ったなのはは、翔太に嫌われてしまうんじゃないか、と恐怖した。先ほどの翔太との約束に縋りたかった。怒ってないよね? と口にしたかったが、それがさらに翔太の怒りを逆なでするのではないか、と考えると口には出せなかった。

 どうすれば、翔太に嫌われずにすむか? と考えていたところで、翔太が気持ちを落ち着けるように大きく深呼吸して、少し落ち着いたような表情になって、翔太は再び問う。

「どうして、そんなことをしたの?」

 ―――どうしよう? 正直に答えたほうがいいのかな?

 もう、なのはにはどうしていいのか分からなかった。嘘をついても翔太に嫌われそうだったし、正直に言っても翔太に嫌われそうだった。どうするべきか? と考えるなのはだったが、すぐに答えなければならないような気がして、すぐに辻褄のあう答えも見つけられなくて、なのは正直に答えることにした。先ほどの翔太の正直に答えれば怒らない、嫌わないという約束に縋って。

「だって……魔法で負けたら、ショウくんとは一緒にいられないから」

 そう、それが理由だ。魔法以外に翔太に必要とされる理由がないなのはは負けられない。負けてはいけない。なぜなら、それは翔太にとってなのはが必要でなくなるということだから。だから、クロノに負けないために、勝つためにジュエルシードを使ったのだ。

「え?」

 その答えがよほど予想外だったのか、翔太は意外そうな声をあげた。

 え? どうしたの? と、翔太の予想外な反応になのはも何もいえなくなった。翔太の様子を観察するに怒っている様子もないようだ。ただ、驚いているという感情がありありと伺えた。もしかして、言葉が足りなくて、何か別の意味に取ってしまったのだろうか、と不安になってなのはは、さらに続けた。

「私は、ショウくんみたいに頭よくないし、ショウくんよりも身体が動かせるわけじゃないし、ショウくん見たいにみんなから頼りにされているわけじゃない。私には、魔法しかショウくんに頼られることないの。だから……だから……負けられないの。魔法だけは」

 そう、だから、なのはは今まで友達ができなかった。翔太以外は。

 翔太のように頭がよければ、友達ができたかもしれない。

 翔太のように身体が動かせれば友達ができたかもしれない。

 翔太のように誰からも頼りにされれば、友達ができたかもしれない。

 それは、憧憬だった。翔太を一年生の頃からずっと見てきたなのはの。いい子である翔太がたくさんの友達に囲まれている情景を憧れで見てきたなのはの。

 だから、翔太と友達になれたたった一つの秀でた部分。つまり、魔法だけは負けられなかった。

 自分に友達ができなかったのは、頭が悪かったから。

 自分に友達ができなかったのは、運動神経が鈍いから。

 自分に友達ができなかったのは、誰からも頼りにされないから。

 だからこそ、初めて友達ができた理由である魔法だけは、それだけはなのはの中では死守しなければならない絶対防衛線だった。

「はぁ、なのはちゃん、僕がなのはちゃんと友達になったのは、魔法が使えるからじゃないよ」

「え?」

 だが、そんななのはの独白を否定したのは、意外にも翔太だった。しかも、なのはにとって信じられない一言も加えて。

 信じられない、信じられない、と翔太の言葉を初めて信じられないと思ったなのはは、翔太が口にした言葉を初めて否定した。

 なのはと翔太が友達になったのは、あの夜だ。ジュエルシードの暴走体に襲われた夜。初めてなのはが魔法を使った夜。そこからなのはと翔太の友達づきあいは始まった。それは、翔太が魔法を使えず、なのはが魔法を使えるこそ始まった関係。だからこそ、なのはは、翔太との関係は魔法で繋がっていると考えていたのだ。

 そんな風に驚くなのはに翔太はさらに言葉を続ける。

「魔法の力はもしかしたら切っ掛けかもしれない。だけど、それにこだわったつもりはないよ。僕よりも頭がよくなくてもいいよ。身体が動かせなくてもいいよ。僕がなのはちゃんと友達になったのは、なのはちゃんだからだよ。だから、魔法で負けても気にしなくてよかったんだ」

 ―――嘘だ、嘘だ、嘘だ、うそだ、うそだうそだうそだ。

 なのはは、翔太の言葉を否定する。なぜなら、翔太の言葉を肯定することは、今までのなのはの考えを否定するものだからだ。それで友達ができるなら、なのはが一人も友達がいないのはおかしいからだ。

 だが、その一方で、翔太の言葉を信じたい自分がいた。

 だから、なのはは掠れたような声で翔太に確認する。

「ほんとう、なの?」

 否定して欲しかった。今までの自分のままでいられるから。

 肯定して欲しかった。翔太を信じたかったから。

 相反する感情がなのはの中に浮かぶ。両者を望みながら答えを待つなのはに翔太は笑って答えた。

「うん。だから、クロノさんに負けても何も心配なんていらなかったんだ。それでも、僕となのはちゃんは友達なんだから」

 ―――何も心配いらない? 魔法に負けてもよかった? 何もなくてもよかった?

「それじゃ、ショウくんとずっと一緒にいられるの?」

 そう、そういうことだ。魔法がなくなれば、なのはが翔太に勝るものは何もない。それでも友達でいてくれるということは、なのはとずっと一緒に友達でいてくれるということだ。そして、その問いに翔太は、やはり笑顔で答えてくれた。

「うん」

 笑顔で応えてくれる翔太に甘えるように次々と欲望が浮かんできた。ずっと友達であるなら、可能であろうことだ。それらを確認するように一つ一つなのはゆっくりと口にした。

「一緒にお弁当食べてくれる?」

 ―――あの翔太と親友を称する二人のように。

「うん」

「一緒に手を繋いでくれる?」

 ―――いつか見た友達同士のように。

「うん」

「一緒にお風呂に入ってくれる?」

 ―――あの敵だった少女のように。

「いや、それは」

 今まで笑顔で答えてくれた翔太だったが、急に顔が曇った。

 その表情を見て思う。やはり、そんな都合のいいことなんてなかったのだ。今まで応えてくれたのは、翔太なりの慰めだったのだろう。だが、それでもなのは満足だった。慰めであろうとも、翔太が自分を心配してくれたのだから。

 だが、それでも、やはり悲しいものは悲しいが。

「ああ、うん、うん、いいよ」

 だが、すぐに翔太は肯定してくれた。なのはが望んだことを、友達として望んでいたことを肯定してくれた。ここまで応えてくれてようやくなのはは、何もないなのはと友達になるという翔太の言葉を信じられるようになった。

 嗚呼、嗚呼、となのはの心が歓喜で打ち震える。

 翔太が、翔太だけが何もない自分と友達になってくれる。そのことがただただ嬉しかった。

 今まで自分の周りにいた人は、何も持っていないなのはとは友達になれなかった。だが、翔太だけが別だった。そのことがただただ、嬉しかった。今までずっと望んでいた友達。その答えはすぐ目の前にあった。

 ―――ショウくんが、ショウくんだけが、何もない私を見てくれる。ショウくんだけが、私の友達になってくれる。もう、ショウくん以外のなにもいらない。必要ない。ショウくんだけが私の友達なんだ。

 もう、他の人などどうでもよかった。必要なかった。なのはが求めた友達は目の前にいるのだから。

 本当の意味でのたった一人だけの友達ができた。それだけで、いい子であろうと自分を演じていた時間が、寂しいと枕を濡らした時間が、すべてを諦めた時間が、すべてが報われたような気がした。

「なのはちゃん、泣いてるの?」

「あ、あれ?」

 翔太の言葉で初めて自分が泣いていることに気づいた。嬉しかったのだ。今まで生きてきたたった九年間の中で一番。なのはの倍以上生きている大人から見れば、些細なことなのかもしれない。だが、それでもなのはは涙を流すほどに嬉しいのだ。

 翔太という名の友達ができたことが、嬉しくて、嬉しくて、涙を止めようと思っても、涙を流す原因である歓喜がなのはの心を振るわせ続け、底なしに湧いてくる。だから、涙を止めることはなのはにもできなかった。

 そんななのはが突然、ふわっ、と温かいものに包まれた。それは、人肌の温かさ。そして、ここにはなのは以外にはもう一人しかいない。翔太だ。翔太がなのはを抱き寄せたのだ。なのはの耳にドクン、ドクンという翔太の心音が聞こえる。なのはを落ち着けるようにぽんぽんと優しく背中を叩いてくれる。

 そんな抱き寄せてくれる翔太の優しさが嬉しくて、なのはにここまでしてくれる翔太が愛おしくて、それを自覚するとまた歓喜が溢れてきて、なのはは声をあげてしばらく泣いた。

 どのくらいの時間泣いただろうか。それはなのはには分からなかった。ただ、目が腫れたように痛いのは分かっていた。

 泣きやんで、翔太の顔を見ると照れくさくなって、思わず、えへへ、と笑ってしまった。

 それを見て、「もう大丈夫?」と声をかけてくれる翔太。その優しさが胸に染みてまた泣きそうになったが、なんとか我慢して、コクリと頷いた。

「ふぅ、よかった」

 本当に安心したような笑みを翔太が見せたので、なのはは心配をかけてしまったと申し訳ないような気分になり、翔太がそこまで自分を心配してくれることが嬉しかった。

 一連のやり取りを終えたなのはは、まるで夢見心地になったようにふわふわとした感覚に襲われる。一般的に言えば、眠気なのだが、幸せ一杯で頭にお花畑ができていると言っても過言ではないほど幸せななのははそれに気づかなかった。

「なのはちゃん、眠いなら寝たほうがいいよ」

 そう翔太に言われて初めて気づいたぐらいだ。確かに眠い。だが、今はまだ眠りたくなかった。この幸せをかみ締めていたいから。この気持ちをまだまだ感じていたかったから。今日はまだ翔太と離れたくなかったから。だが、それでも生理現象である眠気に勝てる気配はなかった。だから、なのはは、眠い頭で考えてようやく一つの考えに至った。

「あのね……一緒に寝よう?」

「えっと、それは……」

 そういえば、これも友達になったらやりたかったのだ。あの敵の少女と同じように翔太と一緒の布団で眠りたかった。翔太にお願いするようにじっと見つめる。やがて、翔太はその視線に負けたようにはぁ、と諦めたようにため息をはくと自棄になったような笑みを浮かべながら口を開く。

「分かったよ」

 翔太が受け入れてくれたことが嬉しくて、眠い頭でありながら、すぐに行動に移して翔太が眠る場所を空ける。そこに翔太が渋々といった様子だったが、身体を滑り込ませてきた。

「それじゃ、なのはちゃん、おやすみ」

「うん、ショウくん、おやすみ」

 横を見れば、翔太の横顔。眠りに着く瞬間まで、翔太の横顔を見つめられる。そのことが何よりも嬉しかった。

 先ほどのことを思い返しながら、なのははふわふわとして幸せな気分に包まれながら、翔太の横顔を見つめる。

 ―――私のたった一人の友達……。もう、ショウくんだけでいい。ショウくんだけがいい……。

 ギリギリまで離れる翔太に近づくために、翔太の洋服の裾を握り、翔太の温もりと匂いを少しでも感じるようにして、なのははそれらに包まれながら、幸せ一杯の空でも飛んでいるかのような浮かれた気持ちのまま、目を瞑り、人生の中で一番幸せを感じられた一日を終えるのだった。


つづく

あとがきは、感想掲示板にまとめて書くようにしました。余韻を感じたままどうぞ。できれば、一言残してくれれば嬉しいです。



[15269] 第二十一話 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/07/03 11:47



 僕のその日の目覚めはあまりすっきりしないものだった。僕が別段、低血圧であるわけではない。なぜか、眠りが浅かった時のような感覚だ。なんで、低血圧なんだろう? と理由を考えながら、まだ重い瞼をこすりながら考えていると上半身を起こした僕の隣から声が聞こえてきた。

「おはよう、ショウくん」

「あ、うん。おはよう?」

 隣から聞こえてきた挨拶に思わず、そのまま当たり前の返事を返してしまったが、その途中からふと、どうして、僕の部屋に人がいるんだろう、という疑問が浮かんでしまって語尾が上がってしまった。起きたばかりで焦点が合っていなかった目が、ようやく眠気より慣れてきたのだろう、ぼやけていた情景がはっきりと分かるようになると僕の隣にいたのが、いつものツインテールというには短い髪を下ろしたなのはちゃんだということが分かった。

 はて、なぜ、なのはちゃんが僕の部屋にいるのだろうか? と周囲を見渡しながら考えてみたが、どう見ても、真っ白な部屋でベット以外には殆ど何もないといってもいい簡素な部屋は、僕の部屋ではなかった。

 一瞬、考え込んでしまった僕だったが、すぐに昨日の夜の記憶を掘り起こすことができた。

 ああ、そうだった。昨日は、なのはちゃんの様子が心配で看病して、なのはちゃんの本音を聞いて、そのまま一緒に寝ちゃったんだ。

 女の子と同じベットで寝るなんて、よくよく考えれば、恥ずかしいことなのかもしれないが、幸いにして僕たちは、まだ年齢が二桁も達していない年齢。まだまだ、恥ずかしいと思えるほど心が成長していない。しかし、ならば、僕は精神年齢だけなら二十歳であるはずなのだが、それでも浅いながらも眠れたのは、身体に意識が引っ張られたのか、あるいは、僕がなのはちゃんと友人と思いながらも妹に近い感覚を持っているからなのか。多分、両方だろう。現にアリシアちゃんとは同じ部屋で寝ても普通に眠ることができるのだから。さすがに毎日だと慣れたと言い換えてもいいのかもしれないが。

 なんだか、慣れてはいけないものに慣れてしまったような気がする。

 深く考えるのはやめよう。僕の中の何かにすごく深い傷を負ってしまいそうだ。

 あ、そういえば、今は何時なのだろうか?

 ふと、眠る前に枕の傍に置いたままの携帯電話に手を伸ばして、時間を見る。携帯電話の時計が示していた時間は、僕が毎日起きる時間よりも一時間程度早かった。なるほど、少し眠いのは、ベットが変わって眠りが浅いだけではなく、一時間早く目が覚めたからなのか。

 寝なれている家のベットなら二度寝を考える頃だが、このままなのはちゃんの隣で二度寝ができるほど図太い根性をしていない。だから、僕は、改めてなのはちゃんに向き直って提案する。

「このまま、ここにいても仕方ないから、リンディさんたちのところに行こうか」

「うん」

 僕の提案にあっさりと笑顔のまま返事をするとなのはちゃんと僕はベットから降り、ベットの真下に置かれている靴に足を通した。艦内は、基本的に土足らしい。僕と逆方向に下りたなのはちゃんは、ベットの端を回って、ピンク色のパジャマのまま僕の前に立った。

「ショウくん、行こう」

 笑顔のままなのはちゃんは、手を差し出す。その手が意味することが分からないわけではない。ただ、なのはちゃんの意図が分からなくて戸惑ってしまったのだ。昨日までのなのはちゃんは、こんな行動にはでなかったはずなのだが、と頭を回してみれば、昨日との違いは明確だった。

 ――― 一緒に手を繋いでくれる?

 そのなのはちゃんの言葉に頷いたのは僕だ。おそらく、なのはちゃんは、愚直に僕の言葉を信じたのだろう。だから、屈託のない笑みで、僕を信じきったような笑みで手を差し出してくる。

 とてもじゃないけれども、僕にはその笑みを裏切れるような度胸はなかった。

「うん、そうだね」

 だから、僕は、なのはちゃんに頷きながら、なのはちゃんが差し出した手を取るのだった。僕の手が触れると同時に僕の手は、子ども特有の柔らかさと暖かに包まれた。そして、ぎゅっ、と力を入れられる。そんな風に力を入れなくても、僕は逃げないのにな、と思いながらなのはちゃんに顔を向けると、なのはちゃんは、えへへ、と照れ笑いを浮かべていた。

 女の子と手を繋ぐのは、さすがに恥ずかしかったが、今更なのはちゃんが手を離してくれる理由もなく、また、このまま立ち止まっていても仕方ないので、僕はなのはちゃんを先導する形で先に歩き始める。なのはちゃんは、僕の隣を嬉しそうに歩いていた。

 並んで部屋から出た僕たちは、まず食堂に行くことにした。僕もなのはちゃんもお腹がすいているからだ。当然といえば、当然だった。なぜなら、僕らは昨日のお昼から何も食べていないのだから。しかし、困ったことに僕となのはちゃんはこの広い艦内のどこに食堂があるのか分からない。どこぞの施設のように案内図があればいいのだろうが、そんなものは見つかりそうになかった。

 さて、どうしよう? と曲がり角で悩んでいた僕たちに救いの手を差し伸べてくれたのは、なのはちゃんの様子を見に来たのであろうクロノさんだった。

「やあ、おはよう。なのはさんは、気分が悪いとかないかい?」

 さわやかな挨拶の後、なのはちゃんの身体を気遣うクロノさん。昨日、あれだけ一方的にやられたのに、普通になのはちゃんと接することができるクロノさんは、さすがだった。これが執務官という職業なのだろうか。

 一方、なのはちゃんは、クロノさんの質問に首を横に振って答えていた。その答えにクロノさんは安堵の息を吐いていた。そんなに心配していたのだろうか。

「それはよかった。ところで、お腹はすいていないか? 今、君たちのお兄さんが食堂で朝食をとってるから一緒に食べに行くといい」

 そういえば、昨日は、あのまま寝ちゃったから、恭也さんとはもう一度会ってないんだよね。士郎さんや桃子さんたちにどうやって説明したかは分からないが、どうやらきちんと来てくれていたようだ。その辺りも含めて聞くべきだろうか。しかし、その辺りはともかく、今はなのはちゃんの元気な様子を見せるほうが先なのかもしれない。昨日、倒れたなのはちゃんを一番心配していたのは恭也さんなのだから。

「分かりました。でも、すいませんが、食堂への場所を教えてくれませんか?」

 僕たちが食堂の場所を知らないことを失念していたのか、クロノさんは、しまった、というような表情をしていた。

「すまない。そういえば、君たちには教えていなかったな。ちょうどいい、もう少ししたら僕も朝食に行こうと思っていたんだ。先に済ませることにしよう。こっちだよ」

 教えていないことを失念していたことへの照れ隠しなのか、クロノさんは、ガシガシと掻くとその場で踵を返して、僕たちを先導するように歩き始めた。僕となのはちゃんは、クロノさんが見せた表情に顔を見合わせて笑い、アヒルとひよこのようにクロノさんの後ろをひょこひょこと着いていくのだった。

 その後、歩くこと五分程度で、大学の学食のような食堂に着いた。どうやら、時間的には朝食の時間帯だったようで、他にも数人の職員のような人たちがトレーをもって並んでいた。クロノさんの案内に従って、僕たちは、同じようにトレーを持って列に並ぶ。さすがにそのときには、もう手を離していた。なのはちゃんは少し離れがたいような表情をしていたが、さすがに手を繋いだままトレーを持つことはできない。

 職員の人たちが明らかに場違いな子どもである僕たちに視線でも投げかけてくるかと思ったが、あまりその手の視線を感じることはなかった。物珍しさに一瞥すことはあっても、それ以降は、同じ人が視線を向けかけてくることはなかった。むしろ、僕たちを目に入れないようにしているような気さえする。

 まさかね、と、僕は自分の中の想像を笑ってしまった。僕たちのような初対面の子どもに、そんなことを考える人はいないだろうと思ったからだ。おそらく、時空管理局という組織の中で、じろじろ人を見るものでもないという教育でも受けているか、あるいは、みんな、朝食に目がいっているのだろう、としか考えなかった。

 列に並んでいるとやがて僕たちの順番が来た。トレーに載せられたのは、野菜が使われたサラダとロールパンが二つとベーコンと目玉焼きのセットだった。これだけあれば十分すぎるほどで、むしろ、子どもの僕には多すぎるぐらいだと思った。

「飲み物はそこから好きなものを取ってくれ」

 先に配られたクロノさんが待っていてくれたのか、空のコップを僕たちに渡しながら指差した先には、ドリンクバーのようなものがあり、そこから適当に飲み物を選べるようだ。その中身は、コーヒーから牛乳、オレンジジュースと多岐に渡っていた。その中から僕はコーヒーを、なのはちゃんはオレンジジュースを選ぶ。ちなみに、クロノさんのトレーの上のコップには牛乳が並々と入っていた。

「それじゃ、席に着こうか」

 そういって、クロノさんが案内してくれたのは四人がけの席。しかし、そこには一つの人影があり、先客がいるようだ、と思っていたが、その人影は僕がよくよく見知っている人の影であった。

「恭也さん?」

 そういえば、さっき、クロノさんが、恭也さんが先に食堂にいるようなことを口にしていたような気がする。

 テーブルの上に置かれたトレーの上にはさすがというべきか、僕たちよりも二倍はあろうかという量の食事が乗っていた。もしかしたら、食堂の人も体格に合わせて料理を盛っていたのかもしれない。

「ショウくんとなのはとクロノくんか。おはよう。なのはは大丈夫か?」

 僕の呼びかけに反応して、恭也さんは、フォークを止めて、僕たちのほうへと振り向くと、少し驚いたような表情をして、朝の挨拶をした後、心配そうな顔をして、クロノさんと同じようになのはちゃんを心配していた。恭也さんの問いへのなのはちゃんの答えは、クロノさんと同じだ。うん、と縦に頷くだけだった。

「そうか。それならいいんだ」

 安心したようにそう呟くと、ここで食べるんだろう? と自分が座っているところから少しだけ奥にいって、僕たちが座るスペースを空けてくれた。なのはちゃんは、きっと恭也さんの隣に座るだろうと思って、恭也さんとは対面する位置に座った。そして、おそらく、僕の隣にはクロノさんが来るだろう。だが、その予想に反して、僕の隣に座ったのは、なのはちゃんだった。なんで? という意味をこめて、なのはちゃんを見てみるが、その意味が分からなかったのか、なのはちゃんは少し小首をかしげて、ニコッと機嫌がよさそうに笑うだけだった。

 どういうことだろう? と半ば、助けを求めるように恭也さんとその隣に座ったクロノさんに視線を向けてみるが、二人とも何もいうことはなく、むしろ、この状況を受け入れ、まるで、暖かいものを見守るように苦笑しているだけだった。

 何かを言いたかったが、何を言ってもこの状況が改善される見込みはまったくないので、僕もこの状況を受け入れることにした。僕はなのはちゃんが隣に座ることに対してなんら不都合はないのだから。

 手を合わせて、いただきます。僕となのはちゃんは手を合わせて、フォークを持った。地球の―――日本の文化を知らないクロノさんだけが、僕たちの行動を不思議そうな目で見ていたが、少し説明したら、「なるほど、聖王教会の祈りのようなものか」と納得していた。

 いつもと比べると量が多い朝食が無言ではじまった。そもそも、なのはちゃんは口数が多いほうではないし、僕は、口に入れたまま話すようなことはしないので、基本的に話を振られない限りは無言だ。それは、クロノさんも恭也さんも同じなのだろう。四人がけのテーブルに座っておきながら、無言の朝食がもくもくと進んでいた。

 なにも話さずに朝食を食べたのが功を奏したのか、思っていたよりも早く朝食が終わってしまった。

「さて、これからのことだが……君たちはまずは着替えたほうがいいな」

 そう、よくよく考えると僕たちはまだパジャマ姿なのだ。さすがに、このままというわけにはいかないので、クロノさんの言うことには賛成だった。

「それで、その後の話になるんだが、普段の君たちはどうしてるんだ?」

「今日は平日なんで、学校ですね」

 なんだかんだとある日常だが、まだ今日は平日なのだ。もっとも、後数日すれば、ゴールデンウィークに突入して、一週間以上の休みに突入するのだが。

 どうして、そんなことを聞くのだろうか? と思っていたら、クロノさんは腕を組んで少し考えた後、何かの結論を出したような顔をして口を開いた。

「わかった。本当は、君たち―――いや、正確にはなのはさんには話があったんだが、学校があるなら、そちらを優先したほうがいいな。学校が終わった後にでも話があるんだが、構わないか?」

 僕たちはクロノさんの問いに諾と答えた。僕たちは、放課後はいつもジュエルシードを探していたのだから、時空管理局の彼らが来てくれた以上、なにもすることはないのだ。だから、何も問題はなかった。

「それじゃ、これを君たちに渡しておこう」

 そういって、渡されたのはレイジングハートのようなビー玉のようなもの。僕となのはちゃんの前にそれぞれ差し出された。

「なのはさんのレイジングハートは、僕たちが預かっているからね。デバイスがないと僕たちと連絡が取れないだろう? だから、代わりのデバイスを君たちに貸しておくことにするよ。学校が終わったら、これで連絡を取ってくれ」

 なるほど、連絡手段の代わりか。確かに今までは、レイジングハート経由か、彼らからの接触を待つしかなかったのだ。それを考えれば、連絡手段があるというのは有り難い。そんなわけで、僕たちは遠慮なく、デバイスを受け取ることにした。

 その後は、学校に行くには時間が余っていたので、クロノさんの助言に従ってお風呂を貸してもらった。なんと、このアースラには何故かお風呂があって、しかも。24時間入れるのだとか。やはり、こういった艦内で、長期間の航行にはストレスが溜まるというし、お風呂などのストレス発散は必要なのだろう。お風呂に入る際、なのはちゃんも一緒に入ってこようとして焦った。他の人もいるから、と何とか説き伏せたが、なのはちゃんの目は本気だったのだから恐ろしかった。

 お風呂に入ってさっぱりした僕たちは制服に着替えた後、トランスポートの場所まで来ていた。学校への道具は昨日のうちに準備済みだ。なのはちゃんのほうも気になったが、それは恭也さんがしっかりと準備してくれていた。だから、僕もなのはちゃんも準備万端で、しかも、アースラの人たちの好意で、学校の屋上に転移してもらえることになった。

 学校へと出発する前、なんと僕たちを見送るためにクロノさんとリンディさん、エイミィさん恭也さんが来てくれた。

「なのは、お弁当だ」

 今から行こうとする前に恭也さんがなのはちゃんにお弁当を手渡していた。そういえば、なのはちゃんのお弁当を見て、思い出したが、今日のお弁当はどうしよう? 大学生や高校生にでもなれば、学食という手段があるのだろうが、さすがに小学生にその手段はない。後で、母さんに電話してみることにしよう。いくらなんでもクラスの中でおかずを集めて回るわけにはいかないだろう。

 なのはちゃんにお弁当を渡した恭也さんは、なぜか僕の方に向き直って、がしっ、と肩をつかまれ、真剣な表情で僕を見据えたまま口を開く。

「翔太くん、なのはのことを頼んだぞ」

 それは、兄としての心配なのだろう。昨日、あんなことになったのだから、当然といえる。僕もなのはちゃんにはできる限りのことはするつもりだったから、笑って応えた。

「任せてください」

 僕の返事に満足したのか、恭也さんは真剣な表情から笑みに変えると、ポンと頭を軽く撫でるように叩いて、僕から離れていった。

「「いってきます」」

「はい、いってらっしゃい」

 クロノさん、リンディさん、エイミィさんに見送られて、僕たちはトランスポートの中で魔力の光に包まれるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 登校時間は一秒にも満たないほどの時間だっただろう。転移魔法によって屋上に転移したのだから当たり前だ。登校する時間はいつもどおりの時間であり、お昼は昼食を食べる学生で賑わう屋上もさすがに朝から顔を出している学生は誰もいなかった。

「行こうか」

 こんな場所にいつまでも用事はない。だから、僕はなのはちゃんに声をかけて、屋上から階段へと続く扉のノブに手をかける。それと同時にノブに手を伸ばした逆の手に感じる温かい感触。それは、朝にも感じた温かさであったが、あまりに唐突のことだったので、その温もりの持ち主であるなのはちゃんに顔を向けてみるが、彼女はほにゃっとした柔らかい笑みで僕の視線を受け流すような笑みを浮かべていた。

 僕としては、別に片手が塞がっていても今は問題がない。だから、そのままにして、僕たちは教室へと向かうことにした。

 屋上から教室への移動はさほど時間がかかるわけではない。時間にしてみれば、五分よりも短い時間だろう。その間、僕たちの間には今更ながら、僕がなのはちゃんの体の心配をしたり、あまり無理をしないようにと小言だったりしたが、なのはちゃんは何故かそれを嬉しそうに聞いていた。

「それじゃ、僕はこれで」

「………うん」

 教室の前まで来た僕たちは分かれる。僕が第一学級で、なのはちゃんは第二学級なのだから仕方ない。だが、なのはちゃんは名残惜しそうな表情をし、先ほどまで僕と繋がっていた手を僕との温もりを忘れないようにもう片方の手で包み込むようにしていた。

「………私もショウくんと同じクラスだったらよかったのに」

「えっと、なのはちゃんも頑張れば一緒のクラスになれるんじゃないかな?」

 昨今のゆとり教育といわれるいわゆる皆平等という教育に対して喧嘩を売るようにこの学校は、完全な実力主義といっていい。クラスは完全に成績順だ。だから、僕と一緒のクラスになろうとすれば、なのはちゃんが上位30位以内に入ってしまえばいい。一年生の頃は、同じクラスだったのだ。それが不可能とは思えない。

 なのはちゃんは僕の言葉で、ようやくその事実を思い出したのか、表情を輝かせていた。

「うん、ショウくんと同じクラスになるために頑張るね」

「あ、うん。頑張って。僕も応援するから」

 勉強するのは悪いことではない。僕が力になれるというのであれば、協力を惜しむつもりはない。

 なのはちゃんの協力するといった後は、さすがにこのままずっと教室の前で話し込むわけにもいかず、僕はなのはちゃんと別れて、自分の教室へと向かった。

 しかし、教室に行きながら、僕は朝からのなのはちゃんの態度を不可解に思っていた。昨日までは、あんなに積極的に触れ合ってこなかったはずだ。なのに、今日の朝からはやけに積極的に僕に触れてくる。原因として考えられるのは、やはり昨夜のことだろう。それ以外に考えようがないのだが。

 さて、この状況で僕が一番危惧するべきことは、僕という友人だけで満足して、他に友人を作ろうとしないことだ。僕はなのはちゃんの友人をやめるつもりはないが、何時までも一緒にいられるとは限らない。この世の中、いつ死んでしまうかもしれないし、確実なことを言えば、中学校は、男女別なのだ。今までのように気軽には会えなくなるだろうし、その頃は思春期にも入っているだろう。それらを考えれば、僕だけが友人というのは非常に拙い事態である。

 ふむ、何とかして僕以外の友人を作れればいいのだが。

 少なくとも、昨日のことで、利害だけが友人を作る理由ではないことがわかってくれたはずだ。ならば、これからも友人ができる可能性が出てきたといえるだろう。なのはちゃんが自分から友人を作ってくれればいいのだが、それができていれば、友人がいないなんて事態にはならなかっただろう。ならば、手助けしてあげるべきか。だが、どうやって?

 少しだけ頭を回したが、そう簡単に名案なんてものが浮かんでくるはずもなく、僕はすぐに答えを出すことを諦めた。それに、なのはちゃんの友人のことも大切だが、昨日のことを鑑みて、時空管理局への対応も考えなければならない。

 なのはちゃんが、ジュエルシードに手を出してしまったのだ。彼らからしてみれば、それは大変なことに違いないだろう。つまり、なのはちゃんに何かしらの処罰のようなものが下るかもしれない。しかし、なのはちゃんは彼らが言うところの管理外世界の住人だ。彼らの法の範囲内なのかも不明。つまり、詳しいところは、今日の放課後だろう。クロノさんの話もそれに違いないのだから。

 ある程度のことに予想を立てて、大変なことが並んでいるな、と嘆息つきながら僕は教室の扉を開いた。

 教室の中は、いつもどおり、大半の人が来ていた。クラスメイトとおはようと挨拶を交わしながら僕は自分の席を目指す。

「おはよう、アリサちゃん、すずかちゃん」

「おはよう、ショウくん」

「おはよう、ショウ」

 僕は鞄を下ろしながら、すぐ近くの席であるアリサちゃんたちと挨拶を交わす。アリサちゃんとすずかちゃんが話している。それはいつもの光景であり、特段言うべきことは何もない。彼女たちと挨拶を交わした後、僕は自分の席に座り、今日の時間割の教科書を机の中に仕舞う。朝のホームルームが始まるまで、十分ほどの時間。僕は、鞄の中に入れてある文庫本でいつものように時間を潰そうと本を広げようとしたとき、アリサちゃんがすずかちゃんと伴って僕の席に近づいてきた。

「ちょっと、ショウ。話があるんだけど」

「なに?」

 話があるんだけど、と切り出してくるアリサちゃんは珍しい。いつもなら、いきなり話の流れに巻き込むような話をしてくるはずなのに。何か真剣な話なのだろうか、と身構えて読もうとしていた文庫本を机に仕舞いながら、近くの席の椅子を借りて座るアリサちゃんに視線を合わせた。

 しかしながら、真剣な話なのかと思っていたが、視線を合わせたアリサちゃんの顔は笑っており、何か良いことでもあったかのように満面の笑みだった。

「ショウっ! あんたゴールデンウィークは空いてるんでしょう? 温泉に行くわよっ!」

「ごめん、全然話が分からない」

 すぐ間近に迫ったゴールデンウィークに関することなら、まだ分かる。だが、それがどうしてアリサちゃんと温泉へ行くことへと繋がるのだろうか。

「アリサちゃん、最初から説明しないとショウくんも分からないよ」

 アリサちゃんの隣に座るすずかちゃんがフォローしてくれるが、すずかちゃんはもう話を聞いているのだろうか。彼女は事情が分かっているようだった。そして、その話については、すずかちゃんも承知しているようにアリサちゃんと同じように笑みを浮かべていた。

「あ、そうね。あのね、今年のゴールデンウィークは旅行は温泉に行こうってことになって、日本だからすずかとショウも招待していいって。だから、ゴールデンウィークに温泉に行くわよっ!!」

 もう、それはアリサちゃんの中では規定事項なのだろう。僕はなにも返事をしていないのに彼女は既にその気だった。

 そもそも、ゴールデンウィークの旅行というのは家族旅行ではないのだろうか。それにも関わらず、僕たちが同行していいのだろうか?

「えっと……それは、僕たちが一緒に行ってもいいの?」

「いいわよ。パパとママにはもう了解は取ってるんだから」

 だから、褒めなさい、といわんばかりに胸を張るアリサちゃん。

 いやいや、せめて僕の予定とか聞こうよ、と思ったが、よくよく考えたら、僕はゴールデンウィークには何所にも行かないってアリサちゃんに話しているんだった。一年生のときも二年生のときもだ。だから、三年生の今でも同様だと思っても不思議ではない。すずかちゃんが先に話を知っていたことから考えると、いつも旅行に行っているすずかちゃんには先に承諾を得ていたのかもしれない。

「いつ行くの?」

「ゴールデンウィークの終わりのほうで二泊三日よ」

 もしかしたら、アリサちゃんの家ではゴールデンウィークの頭のほうで仕事が入ってしまったのかもしれない。だから、今年は海外などではなく、日本国内の温泉なのか。アリサちゃんの家の内情はさておき、やはりゴールデンウィークの家族旅行に同行するのは気が引けるのは確かだ。しかしながら、ゴールデンウィークも間近に迫ったこの時期に旅館などの予約を取ることはほぼ不可能だろう。それを考えると、もう予約などは済んでいるのだろう。このギリギリまで黙っていたのは、アリサちゃんが僕を驚かせるためなのだろう。

「ちなみに、拒否権は?」

「……ショウはあたしたちと一緒に行くの嫌なの?」

 一応、僕が尋ねてみると、アリサちゃんは僕の想像に反して、急に気弱になったように不安そうな顔をしてきた。いつものように強気で、ないわよっ! といわれれば、多少は反骨精神も生まれようものだが、さすがにこの表情を前にして、嫌とは言えない。これが計算なら女は怖いと思うのだが、さすがに三年生ではありえないか、と思いながら、退路がすべて絶たれたことを自覚した。

「そんなことないよ。分かった。親と相談してOKだったら、行くよ」

「うん、それでいいのよっ!」

 さすがに他の家族との旅行ともなれば、親に相談しないわけにはいかないだろう。アリシアちゃんのこともあるし。もっとも、反対されても、目の前で笑みを浮かべているアリサちゃんのことを考えれば、親を説得しないわけにはいかないだろう。

 僕が承諾したので、計画は立ったと考えて言いのだろう。楽しみだね、と顔を見合わせるすずかちゃんとアリサちゃん。

 しかしながら、条件付とはいえ、承諾した後で思った。費用や交通手段はどうなるのだろうか? その辺りをアリサちゃんに聞いてみたところ、いく温泉の場所は車で一時間ぐらいの場所で、アリサちゃんの家の車で送ってくれるらしい。さらに費用についてだが、なんとホストであるアリサちゃんの家が全額もつらしい。なんでも行く場所はアリサちゃんの会社の保養地で、割引が利く上に部屋単位の値段だから子どもが二人増えたところで増額はあってないようもので、気にしないようにとのことだった。気にしないで、といわれても気にしないわけにはいかない。仕方ないので、菓子折りの一つでも持っていくことにしようと僕は決めた。

 やがて、その旅行について話していると朝のホームルームの時間になってしまい、アリサちゃんとすずかちゃんは席に戻る。

 僕は、担任が来るまでの少しの時間、この人生でははじめての温泉旅行というものに思いを馳せながらも、その前に片付けなければならないジュエルシード関連のことを思うと思わずため息を吐いてしまう。

 ジュエルシードのこともできれば、温泉旅行までに片付いてしまえばいいのだが。

 せっかくの旅行なのだ。楽しいものにしたい。だから、僕はジュエルシード事件の早期解決を切に願うのだった。


つづく







あとがき
 なのはの覚醒。アリサの反撃。
 あとがきは、少しスペース空けて掲載。



[15269] 第二十一話 中
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/07/14 20:11



 僕が接客室に呼ばれたのは丁度二時間目の授業が終わった後のことだ。母親が来ているからという理由で授業が終わった後、接客室に来るように授業を担当していた先生から呼ばれたのだ。さすが、大学付属の私立なだけあって、普通の学校にはなさそうな保護者用の接客室がある。私立の学校にとって保護者はお金を落としてくれる大事なお客様だ。粗相があってはいけないのだろう。

 二時間目と三時間目の授業の間の休み時間は15分しかない。だから、廊下を少し早足で接客室へ向かいノックの後に部屋に入ると、そこには、あらあら、と言いながら僕の担任と話す母さんと弟の秋人を抱えているアルフさんと秋人の相手をしているアリシアちゃんの姿があった。

「あら、ショウちゃん」

 入室した僕に最初に気づいたのは母さんだった。相変わらず家でも浮かべている柔和な笑みを僕に向ける。

「ずいぶん、学校で頑張ってるみたいね。母さん、鼻が高いわ」

 コロコロと笑う笑みがいつもよりも上機嫌に見えたのは、おそらく先生から色々といわれたからだろう。僕が視線を先生に向けてみると、やり遂げたような笑みを浮かべてこっそりとサムズアップしていた。

 いや、何を話したんですか? 先生。

 先生が話した内容が少しだけ気になったが、それを聞いている時間はない。幸いにして次の時間は移動教室などではないため、しばらくは大丈夫だろうが、それでも授業が始まるまでには戻りたいのだ。授業の途中で入ると悪目立ちしてしまうから。だから、僕は先生と母さんの話を無視して話を進めることにした。

「それで、学校まで来た理由は?」

「ああ、そうね。ショウちゃん、お弁当忘れてるでしょう? だから持ってきたのよ」

 母さんは、自分が持っていたバッグの中からいつも僕が持ってきているお弁当の包みを取り出した。

 あ、そうだった、と今更ながら、僕は自分がお弁当を持ってきていないことを思い出す。本当なら昼休みの前に電話してみようと思っていたのにこうして持ってきてもらえるとは。わざわざ来てくれたのなら申し訳ないように思える。

「ほぉ、蔵元が忘れ物とは珍しいな」

「まあ、たまにはそんなこともありますよ」

 珍しいものを見たといわんばかりの先生に対して僕は、曖昧に笑いながら受け流した。まさか、昨日の夜は家に帰っておらず、別の場所から直接学校に来たなんてことは言えないからだ。

 その僕の笑みを先生は、恥ずかしがっていると都合よく解釈してくれたのか、それ以上、何も言わなかった。その代わり、視線を僕から母さんの隣に座っているアリシアちゃんに移す。アリシアちゃんは、彼女の隣に座っているアルフさんの腕に抱かれた秋人の目の前で指を動かしながら、それを言葉にならない声を出しながら追いかける秋人で遊んでいた。

 アリシアちゃんは基本的に昼間は家にいるので、秋人とはもうとっくに仲良しだ。下手をしたら、僕よりもお姉ちゃんをやっているかもしれない。

 そんなことを考えていると先生が、手招きをして僕を呼び寄せ、耳元で囁くようにとんでもないことを尋ねてきた。

「……ふむ、蔵元の親戚か? ずいぶん、若い母親だな」

 ―――その発想はなかった。

 確かによくよく見てみれば、秋人を抱いたアルフさんは、その体つきもあって、秋人の母親に見えないこともない。しかし、ずいぶん若い母親だが。いわゆるヤンママとでもいうやつだろうか。しかし、いくらなんでも、その誤解はまずい。対外的にアルフさんはペットの扱いで登録しているのだから。

「ち、違いますよ。秋人は僕の弟で、アリシアちゃんは、僕の妹です」

「弟の話は確かに書類上で見たことがあるが、妹のほうは初耳だな。腹違いか?」

 何気に親父の名誉が危機だった。

「違います。色々、あったんです」

 さすがに、その内容を先生といえども話すことはできない。なにより、先生が納得できるとは思えない。だから、曖昧にごまかすことにした。先生も大人だ。そうやって誤魔化すような言葉を言えば、あまり簡単に踏み込んでは来ないだろう。

「……そうか」

 案の定、先生は何かを言いたそうだったが、それでもどうやら、そのことは素直に飲み込んでくれたらしい。

「ねえ、ねえ、お兄ちゃん、お話終わった?」

 僕と先生の会話が途切れたタイミングを見計らっていたのだろう。アリシアちゃんが、秋人に相変わらず指を追わせながら、僕のほうを向いていた。その瞳は何かに興味を抱いたのか、興味津々といったようすできらきら輝いていた。

 うん、と僕が彼女に頷くとアリシアちゃんはまるで堰を切ったように話し始めた。

「ここってすごいね。みんな同じような洋服着て、一つの部屋に集まって、遊んだりするのかな? 楽しそうだね。お兄ちゃんが行ってるなら、私も行きたいな」

 ニコニコしながらアリシアちゃんは、学校に行きたいという。そして、それに怪訝な顔をしたのは、先生だ。

「ん? 蔵元、彼女は……」

「色々あるんです」

 先生が言いたいことであろうことを先読みして言葉短く答えた。

 先生がいいたいことは分かる。アリシアちゃんの外見年齢からすると義務教育の途中であることは間違いない。ならば、学校に行っていないということは、ありえないのだ。しかしながら、ここで、アリシアちゃんの戸籍がまだ登録されていない問題がある。住民票等々の登録もまだ終わっていないので彼女は、書類上は存在しない少女なのだ。登録されれば近所の公立小学校から案内が来るだろう。

 アリシアちゃんがこの学校に来たいというのは問題ない。問題は編入試験が受けられるほどにアリシアちゃんの学力があるかどうかだが。

「ねえ、アリシアちゃん、ここは、遊ぶだけじゃなくて、勉強もしなくちゃいけないんだよ」

「う~ん、勉強?」

 僕が言ったことを唇に人差し指を当てて考えるアリシアちゃん。だが、すぐに合点がいったのか、にぱっ、と笑うと口を開いた。

「大丈夫だよ。私、勉強するの好きだから」

「そう、じゃあ、頑張って勉強しようか」

 アリシアちゃんがどこまで勉強ができるか分からない以上、この学校に入学しようとは簡単にいえない。ここは私立なのだから、試験を超える必要があるからだ。ただ、彼女が望むなら僕はアリシアちゃんがこの学校に通えるように手伝おうと思う。

「うん、頑張って、お兄ちゃんと一緒に通うよっ!」

 笑顔で言ってくれるアリシアちゃんを微笑ましく思う僕だったが、後でアリシアちゃんの学力が下手をすれば、僕以上であることが判明するなど、このとき夢にも思うはずもなかった。

 この後、先生から編入試験の案内を貰った母さんは、僕の休み時間も終わったこともあって、先生に頭を下げてアリシアちゃんとアルフさんと秋人と一緒に聖祥大付属小を後にし、僕はそれを手を振って見送るのだった。



  ◇  ◇  ◇



 どうしてこうなったんだろう?

 僕はまるで現実逃避をするように原因を考える。だが、その原因について思い当たることは何一つとしてなかった。しかし、何かしら原因があってしかるべきなのだ。僕が知る限り、彼女たちが何の原因もなくこんな風になるとは考えられないのだから。

「はい、ショウくん、今日も作ってきたんだ」

「ショウくん、お母さんの卵焼き好きだったよね? はい」

 両側をなのはちゃんとすずかちゃんに挟まれ、両側からおかずを挟んだ端を差し出される。しかも、お互いに目を合わせるとそこはまるで火花が飛び散るような剣呑な雰囲気だ。まさしく両手に花という状態だが、これはそんな微笑ましいものではない気がする。さっきから、やたら冷や汗がとまらないし。

 しかも、こんなとき場を収めてくれそうなアリサちゃんは、じと目で無言でこちらを見て観察するように伺っている。

 どうしてこうなったのか? 原因を探るために僕は両方からありがとう、とそれぞれの料理を自分の弁当箱の中に入れながら、この昼食会の始まりを思い出していた。

 きっかけは、お昼休みが始まった直後だった。昼休み直前の授業の教科書を机の中に仕舞っているところ、僕よりも早く片付けてしまったのだろう。パタパタとすずかちゃんが以前よりも少し大きめのお弁当箱をもって僕の席に近づいてきた。あの大きさから考えるにどうやら今日も少し多めに作ってきたらしい。

「ショウくん、お弁当食べよう?」

「あ、うん」

 僕の予想通りの言葉を口にしながら、まるでお弁当を協調するように掲げながら笑顔で言う。すずかちゃんの笑顔を見ながら、僕はぼんやりとそういえば、昨日、約束していたな、と昨日の昼休みを思い出していた。

 さすがに昨日はなのはちゃんのこともあって、約束のことは曖昧になっていた。もしも、すずかちゃんよりも先に誰かが僕をお弁当に誘っていたら忘れていたかもしれない。約束したのに、それを破るのは子どもの世界とはいえ、いや、子どもの世界だからこそ最悪だ。だから、僕はすずかちゃんが一番最初に話しかけてくれたことに胸をなでおろしながら、休み時間に母さんたちが持ってきたくれたお弁当箱をを手にして席を立った。

 すずかちゃんとお弁当を食べるときはアリサちゃんも同席するのが暗黙の了解だ。だから、まだお弁当を取り出していたアリサちゃんの席へと近づく。

「アリサちゃん?」

「ええ、行きましょう」

 アリサちゃんはいつもどおりの小さなお弁当箱を手にして、僕たちに並んだ。

 さて、食べることは決まったのだが、食べる場所が問題になる。教室でもいいのだが、今日の天気は適度に雲がある晴天だ。こんな天気の日は、基本的に屋上か、中庭で食べることが多い。もちろん、春爛漫な今の季節だからだ。

 今日はどっちにする? とすずかちゃんとアリサちゃんに伺っている途中、不意に僕だけに聞こえる声が響いた。

 ―――ショウくん? ―――

 その正体は念話だ。この学校で少なくとも僕と念話で話せるのは、なのはちゃんしかいない。僕は、マルチタスクでアリサちゃんたちと話をしながら、なのはちゃんと念話を交わすことにした。

 ―――なに? なのはちゃん―――

 ―――あ、あのね。一緒にお昼ご飯食べよう? ―――

 念話とは、基本的に思念波で思っていることがダイレクトに伝わる。もちろん、考えていることが全部伝わることではなく、念話に載せたいと思っていることだけだ。それにも関わらず、なのはちゃんの念話には緊張の色が手に取るように分かった。

 そういえば、なのはちゃんから誘われるのは初めてだな、と思いながら、やっぱり昨日のことが原因なのだろうな、と僕は思った。

 現時点で、本当の意味で友人といえるのは僕だけだ。だが、それでは、あまりに味気なさ過ぎるだろう。だから、早く他にも友人を作って欲しいんだけどな……とそう考えたところで、僕の脳裏にある考えが浮かんだ。

 つまり、僕の隣にいる彼女たち―――アリサちゃんとすずかちゃんだ。

 彼女たちは、自前の精神年齢の高さからか、お互いに友人を作っておらず、二人で1グループを作っている。もしも、これが5人や6人なら、1人入れることは不可能だ。もはやそこで固定してしまっているから。だが2人ならば、他の人数のグループに入れるよりも楽だろう、と考えた。

 しかも、彼女たちはお互いに面識があるはずだ。もっとも、前回はアリサちゃんが拗ねたような形になって、不機嫌になっていたが、それでも何度か僕と一緒に遊べば、時間が解決してくれるだろう。すずかちゃんはあの時、特になんの変化も見せていなかったし、もしかしたら、アリサちゃんの間に入ってくれるクッションになってくれるかもしれない。

 そう考えて、僕はなのはちゃんとの昼食を了解し、アリサちゃんたちとも一緒の昼食を考えたのだが、まさか、すずかちゃんとなのはちゃんがお互いに張り合うようにお弁当を僕に差し出して、二人の間に火花が散るような雰囲気になるとは夢にも思わなかった。

 なんでこうなったんだろう? と考えてみる。

 すずかちゃんがお弁当を差し出してくるのは、つい数日前―――正確には僕がすずかちゃんの一族を知ってからだ。この行動を僕は、彼女が彼女の一族を知っても友人でいてくれることに対するお礼―――あるいは、彼女の予想を覆す人物がいることに舞い上がっての行動だと考えている。

 正体を知られれば、忘れられる、あるいは、怯えられるという恐怖は幼い子ども心にどれだけの負担だったのか、僕には想像もできない。だが、彼女の舞い上がり方から考えれば、その負担は僕の想像以上に重かったのかもしれない。

 一方、なのはちゃんがすずかちゃんに張り合う理由は、やはり昨日のことが尾を引いているのだろう。彼女の流した涙が本物である以上、彼女が望んだのはやはり、なんの利害関係もない友人だったはずだ。恭也さんの話から考えれば、なのはちゃんはそんな友人を探していたのか、諦めていたのか分からない。

 だが、少なくとも僕という友人ができた。しかも、昨日の今日だ。そんな友人が、他の子―――この場合は男の子でも女の子でも変わらない―――と仲良くしていれば、せっかくできた友人を取られたくない、と考えるのは至極妥当だろう。

 つまり、少なくとも二人を引き合わせるのは時期尚早だったのだ。磁石の同極を近づけてしまったようなものだ。早くなのはちゃんに僕以外の友人を―――と逸ってしまったのが原因だろう。しまった、と後悔してももう遅かった。まさしく、覆水盆に返らずだ。

 次々とすずかちゃんのお手製のおかずが差し出され、それに対抗するようになのはちゃんも自分のお弁当からおかずを取り出す。まるでお互いに競い合うように。二人とも敵愾心丸出しだった。

 お昼時なんだから、少しはあわせようよ、と考えてしまうのは僕が二十歳の精神年齢を持っているからだろうか。

 基本的に子ども―――思春期に入る前の子どもの世界は狭い。自分が中心といっていい。だから、我侭も簡単に言うし、自分がやりたいことに忠実だ。これが、思春期にも入るとやがて社会の中で自分が孤独であることに気づく。そして、人は孤独を恐れ、故に人を求めるようになる。その処世術として他人に合わせる、といったような意識が生まれるのだ。

 つまり、今の二人に周りに合わせろ、といっても理解できないことは容易に伺えた。

 しかしながら、今更、やっぱり別々に食べようとはいえない。二人には、もうおかずはいいから、とおかずをお裾分けしてもらうのはやめてもらったが、お互いに自分のご飯に箸をつけずに僕を見ていた。

 僕がすずかちゃんのおかずに箸を動かせば、なのはちゃんが反応し、なのはちゃんのおかずに箸を伸ばそうとすれば、すずかちゃんが反応する。

 僕は一体、どれから食べればいいんだろうか?

 あ、あははは、と自分でも分かる引きつるような笑みを浮かべながら、この場にまるで自分は蚊帳の外ですよと平然な顔をしているアリサちゃんに助けを求めるような視線を向けてみるが、彼女は僕と目が合うと、あたしは知りません、といわんばかりに顔を逸らされてしまった。

 これは、困ったな。

 結局、なんとか必死に、二人とも不快にならないように気を使いながらおかずを選ぶように昼食を食べるしかなかった。おそらく、前世もあわせて、一番気を使った昼食だっただろう。しかも、その所為で、おいしいはずの昼食の味はまったく感じられず、散々な昼食になってしまったのだった。



  ◇  ◇  ◇



 一日の中で一番疲れたんじゃないだろうか? という昼休みを過ごし、午後の授業が終わった後、僕はなのはちゃんと合流して、アースラへと向かっていた。

 アースラには既に恭也さんと忍さんとノエルさんが控えており、すでに僕たちを待ち構えていたように話し合いのテーブルはできていた。しかし、それは前回のように典型的な日本庭園風の部屋ではなく、どこかの会社の会議室とでも言いたくなるような部屋だった。

 片方のサイドに地球組、もう片方にリンディさんたちアースラ組みが座る形だ。アースラ組みの参加者は、リンディさんに加えて、クロノさん、エイミィさん、ユーノくんだった。一様に誰も彼もが硬い表情をしている。それだけで、これからの話し合いが厳しいものになるであろうことが容易に伺えた。だからだろう、恭也さんたちも彼らに釣られるような形で表情が硬いのは。

 そんな堅い空気の中、おもむろにリンディさんが立ち上がった。

「それでは、皆様、お集まりいただけたようなので、始めさせていただきます。まず、昨日のなのはさんに関する件ですが―――」

 ふ、とその場にいた全員の視線がなのはちゃんに集まる。とつぜん、その場にいる全員から見つめられるような形となり、なのはちゃんは、びくんと肩を震わせると肩を小さくして、身体を丸めるような形で小さくなった。

「あれが、なのはさんの持ちうる力であれば、いささか強力すぎますが、問題はありませんでした。しかしながら、なのはさん……あなた、自分のデバイス―――レイジングハートにジュエルシードを使いましたね?」

 冷たい空気がその空間を支配する。だが、おかしいことにそれだけの重大な事実にもかかわらず、忍さんも恭也さんも驚いたような表情をしていなかった。アースラ組みの人たちは、この事実を知っていたから分かるのだが、なぜだろう?

 そんな僕が浮かべた疑問を余所にコクリとなのはちゃんが頷いたのを確認するとリンディさんは言を続けた。

「ジュエルシードは、A級のロストロギアです。一つのジュエルシードだけで次元震という世界を滅ぼしかねない現象を起こすことができるような代物です。それを一個人が手にしてしまった。そもそも、ロストロギアを一個人で使用することは時空管理局の法律では重罪です」

 なのはちゃんを責めるように淡々と話すリンディさん。なのはちゃんも自分が悪いと知っていて、責められるのが辛いのだろう。小さくちぢこめた身体をさらに小さくして、外圧から耐えているようにも見えた。

 リンディさんの言うことは至極当然だ。ジュエルシードの大きな力というのは理解できる。だからこそ、僕たちは魔法をあまり使えないにも関わらず町中を探し回っていたのだから。そんな力を一個人が手に入れてしまった。確かに許されるべきことではないのだろう。

 だが、それでも、何とかしたかった。なのはちゃんも、悪用しようと思って使ったわけじゃないのだ。だから、罪が一切ないわけではないが、それでも―――、と思ってしまうのは彼女が僕の友人だからだろうか。あるいは、僕が甘いだけだろうか。

 しかし、この空気の中、何を口にすることもできず、次のリンディさんの言葉を待っていた。

「なのはさん、あなたが選べる贖罪の道は二つだけです。一つは、その力で時空管理局に貢献するか、あるいは、拘留所で一生、監視を受けるか」

 さあ、どちら? とリンディさんの目はなのはちゃんに問うていた。

 しかし、そんな酷な問題になのはちゃんが簡単に応えられるわけがない。その証拠になのはちゃんは今にも泣きそうな顔になって、助けを求めるように僕のほうを向いていた。

 確かに、リンディさんたちの時空管理局の法律に照らし合わせれば、そうなのかもしれない。だが、それでも、と思ってしまう。そして、なんとかするためには今のタイミングで、嘆願するしかない、と。だから、僕が立ち上がろうとした瞬間、リンディさんの顔が真面目な顔から笑顔に変わった。

 え?

 その表情の変わり様に勢いがそがれてしまった僕は、立ち上がるタイミングを見失ってしまった。行き場のない決意をもてあましているところで、笑顔のままリンディさんは口を開く。

「と、本当なら言うところですが、今回は、なのはさんの年齢等々の様々な要因を鑑みまして、不問とします。ただ、なのはさん、覚えておいて。あなたが手にした力は、あまりに大きい、大きすぎる力なの。だから、無闇に使ってはダメよ。貴方はその力を自覚して、自制しなければならない。大丈夫よね?」

 ………なるほど、そういうことか。

 行き場のない決意を心の隅に追いやり、僕はこの話の流れをようやく把握した。

 おそらく、恭也さんたちは最初からこの処分を聞かされていたのだ。だからこそ、リンディさんが言うことを何も言わずに聞いていた。なにせ、家族の一員が犯罪者扱いされ、連れて行かれるかもしれない瞬間だったのだ。家族として言うこともあっただろう。それを無言で見守っていたのは、これがなのはちゃんに自分が手に入れた力を分からせるためのお芝居だとしたら納得できる。

 どうやら、僕も一杯食わされたようだった。

 まるで諭すようにリンディさんがなのはちゃんに問いかけ、なのはちゃんは一瞬、気が抜けたように放心していたが、リンディさんの問いかけに正気に戻ったようにはっ、となると「はい」と小さく口にした。

 それを聞いて、リンディさんは大きく頷くと、席に座り、いくつかの資料をエイミィさんから受け取っていた。

「さてと、それじゃ、いくつか確認事項ね。なのはさん、レイジングハートを呼んでみてください」

「………レイジングハート、来て」

 リンディさんの言葉を不可解に思っていたのか、小首をかしげていたなのはちゃんだったが、やがていわれとおりやってみようと思ったのか、手の平をかざして、レイジングハートを呼ぶ。その次の瞬間、かざした手の平の上に小さなビー玉大の宝石のようなものが現れた。

 これには、恭也さんたちも驚いたように目を見開いていた。もちろん、僕もだが。

「ジュエルシードを取り込むことでレイジングハートは完全になのはさん専用となりました。このように引き離されてもなのはさんが呼べばすぐに手元に戻すことができます」

 これはある意味では安心できることではないだろうか。なにせ、ジュエルシードを取り込んだのはレイジングハートだ。そのレイジングハートはなのはちゃん以外に使うことができない。つまり、セーフティ機能がついた核弾頭のスイッチのようなものだろうか。

「他にもジュエルシードを取り込むことで機能がいくつか増えているようですが、それはレイジングハートから直接教えてもらったほうがいいでしょう。そして、次になのはさんには、魔法の講習を受けてもらいたいと思います」

「講習……ですか?」

 なのはちゃんが、リンディさんの口から出た単語の意味が分からなかったのか、そのまま聞き返す。

「そうです。その力を手に入れた以上、魔法の力を無視することはできないでしょう。だから、なのはさんには魔法の講習を受けて欲しいのです。幸い、この世界には夏休みという長期休暇があるようですから、その中で二週間程度でいいのです」

 なるほど、つまり自動車免許取得の合宿のようなものだろう。短期集中講座といってもいいかもしれない。確かに使い方を知らない力ほど怖いものはない。一度、きちんと学ぶことはなのはちゃんにとってもいいことだろう。

 なんて、他人事のように思っていたのだが、思わぬところからキラーパスがきた。

 リンディさんがなのはちゃんに合わせていた視線を僕に合わせたと思うと、そのキラーパスが投げられた。

「そして、それには翔太さん、君も受けませんか? フェイト―――アリシアさんの検査とかもそのときに行えたら、と思っているの。この世界では、あなたたちのような年齢の子どもには保護者が必要でしょうから」

 なるほど、僕はついでということだろうか。アリシアちゃんの検査ということなら、母さんが着いていくだろう。そして、リンディさんはその母さんを保護者としたい、ただし、なのはちゃんと母さんでは何の関係もないから、間に僕が入れば問題ない、と。そして、その空いた時間に僕にも魔法の講習を受けてみては? ということなのだろうか。

 さて、どうしよう? と講習を受ける対象であるなのはちゃんに視線を向けてみると、実に期待の篭った眼差しで僕を見つめていた。

 一人では心細いのだろうか。だが、どちらにしても、僕も魔法には興味があったのだ。魔法について学ばせてくれるというのであれば、言葉に甘えることもやぶさかではない。

「それでは、僕もお願いします」

「そう、よかったわ」

 僕の答えを聞いていくつか手元の書類に書き込んだかと思うと、リンディさんは、また視線をなのはちゃんに戻した。

「さて、次が殆ど最後になりますが……なのはさん、悪いのだけれど、ジュエルシードを集めるのをもう少し手伝って貰ってもいいかしら?」

 あれ? と僕は、リンディさんの言葉に首をかしげた。なぜなら、彼らは、ジュエルシードについてはこれから時空管理局が全権を持つといっていた。つまり、後は彼らが責任を持って回収してくれると思っていたからだ。

「クロノ執務官があなたとの模擬戦で思った以上のダメージを受けちゃって、ジュエルシードの封印ができないのよ。他の人だと少し危険で、だから、封印を手伝って欲しいの」

 どうしかしら? と尋ねるリンディさんだが、これでは答えは一つしかないのと同じだ。なぜなら、穿ってみれば、貴方の所為だから手伝って、といわれて同じなのだから。せっかく終わると思っていたのに、なのはちゃんは―――と様子を伺ってみると、彼女は何故か嬉しそうにしていた。

 あ、あれ?

「はいっ! 頑張りますっ!」

 まだ魔法を使って危険な目に合うかもしれないというのに、なぜかなのはちゃんは元気一杯に嬉しそうにリンディさんの提案を受けていた。これにはリンディさんも虚をつかれたのか、少し引きつった笑みで、「え、ええ、よろしくね」と取ってつけたように言うしかないようだった。

「ああ、もちろん、こちらの職員もつけますので、危険はさほどありません。というよりも、今のなのはさんが危険に合うような事態は殆どないと思います」

 心配そうな顔をしていた恭也さんに対していったものなのだろう。しかし、その心配は無意味なものだ、といわんばかりにリンディさんはなのはちゃんの手元にあるレイジングハートを見た。

 確かに危険になれば、あの大人のなのはちゃんモードが発動するのだ。たいていの問題は解決してしまうだろう。そもそも、魔法の力であのなのはちゃんに傷つけられる存在がはたしているのか? 甚だ疑問だった。

 さて、しかしながら、なのはちゃんが手伝うというのであれば、僕も手伝うべきだろう。始めたのは僕となのはちゃんだ。ならば、最後まで付き合うべきであろう。

「はい、すいません。僕も手伝いたいんですけど……いいですか?」

 僕の突然の提案に誰もが―――いや、なのはちゃんを除く全員が驚いていたが、リンディさんは、少し顎に手を当てて考えると、にこっと笑みを浮かべて言う。

「了承」

 こうして、僕となのはちゃんのジュエルシード捜索はもう少しだけ続くことになるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 話し合いが終わった後、僕となのはちゃんはクロノさんに案内されてアースラの一室へ案内されていた。そこは倉庫のようなもので、いくつか鍵のかかったボックスが並んでいた。中身が何なのか僕たちには知る由もない。だが、物珍しさに周りを見ていたが、やがてクロノさんがそのボックスの一つを開くとその中から、一枚のカードを取り出し、僕に差し出してきた。

「これを君に貸そう」

「これは?」

「デバイスだ。本当は武装隊の隊長クラスの支給用デバイスで、汎用性があるから君にも十分に使えると思う」

 クロノさんのさらなる説明によると、デバイスとは魔法を使う際の補助器のようなもので、レイジングハートのようなインテリジェンスとクロノさんのデバイスであるS2Uのようなストレージデバイスがあるようだ。僕が借りたデバイスもストレージデバイスで、武装隊という戦うための部署の隊長クラスの人たちが使う支給用のデバイスだ。

 隊長用なんて借りて大丈夫なのかな? と思ったが、どうやら僕の魔力を考えるを隊長クラスのデバイスでないと壊れる可能性もあり、隊長クラスのデバイスの能力を十全に使えるらしい。しかも、ユーノくんの指導でデバイスなしで、いくつか魔法が使える僕にとってストレージデバイスは実に相性のいいデバイスで、相当の戦力強化が見込めるようだ。

「いいんですか? こんなものを借りて」

「構わない。というよりも、むしろ借りて欲しい。本当なら、僕たちの仕事だったんだ。それを現地の君たちの力を借りなくちゃいけないんだから、これぐらいはむしろ当然のことだよ」

 さわやかに言ってくれるクロノさんが眩しくて、同時にあんな目にあってしまったことが申し訳ない気持ちに襲われてしまった。それはなのはちゃんも同じ気持ちだったのだろう。少しだけ俯いていた。

「さて、君たちには封印を手伝ってもらうわけだが、捜索はこちらのアースラを使って行うから、君たちはジュエルシードが見つかったときに封印に行ってくれるだけでいい。だから、ずいぶん時間が空くことになるんだが、どうだい? もし、よければ僕が君に魔法を教えてあげようと思うんだが」

「いいんですか?」

 本当なら休養しなければならないクロノさんには申し訳ないような気がしたが、デバイスの使い方も分からない僕からしてみれば、願ったり叶ったりである。

「ああ、教えることも僕としては勉強になるから構わないよ。ただ、実戦はできないけどね」

 悪戯っぽい笑みを浮かべられて、僕も釣られて笑ってしまった。しかし、クロノさんがそこまで言ってくれるなら、受けないわけにもいかないだろう。だから、僕はクロノさんの申し出を受けることにした。

「それじゃ、よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げる僕。それを見て、なぜかなのはちゃんもオロオロとした後にペコリと頭を下げていた。それを見て、クスクスと笑うクロノさん。

 経緯はともかく、ユーノくんに続いてクロノさんという二人目の魔法の先生ができた瞬間だった。




つづく










あとがき
 すずかVSなのは ドロー



[15269] 第二十一話 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/07/21 23:39




 時空管理局の人たちの話し合いも終わり、本格的な調査は明日から、ということで帰宅した僕は、親父を抜いた家族全員で晩御飯を食べていた。ちょっと前なら僕と母さんだけの寂しい食卓だったが、今はアリシアちゃんとアルフさんを加えた四人で食事しているため、寂しいというような雰囲気はない。ちなみに、秋人は昼間の散歩で疲れたのか、今は部屋で寝ている。

 座っている位置は、長方形の四角いテーブルに対して、長い一辺にアリシアちゃんとアルフさん、その正面に僕。短い一辺に本来なら親父、もう片方に母さんが座っている。

 アルフさんは目の前の食事をがつがつ食べ、アリシアちゃんが楽しそうに今日のことを話してくるのを聞きながら、そういえば、とふとあることを思い出していた。

「ねえ、母さん、今年のゴールデンウィークは特に用事はなかったよね?」

「そうね。まだ、秋人が小さいから今年も無理でしょうね」

 去年よりも大きくなったとはいえ、まだ秋人は一歳半ぐらいだ。そんな秋人をどこかに連れて行くのは無理があるだろう。いや、連れて行けるかもしれないが、本当に楽しめるかどうかは疑問である。だから、どこかに行く予定はなし、と。

 その後にチラリとアリシアちゃんのことを見たのは、彼女のことも考えてだろう。まだ、この家に着てから一週間も経っていないのだ。本人と話しているとそんなことは忘れてしまいそうなぐらいに馴染んでしまっているが。そんな彼女を慮れば、いきなり家族総出でどこかに出るよりも家で親睦を深めたほうがいいのだろう。

 しかし、よかった。もしも、何か予定を立てていたら、計画が崩れるところだったから。

「それで、ゴールデンウィークにアリサちゃんの家族から温泉旅行に行かないか、って誘われてるんだけど、行ってもいいかな?」

「アリサちゃんって、何度か家にきた女の子よね?」

 アリサちゃんとすずかちゃんは一応、母さんとは面識があった。過去に家に何度か遊びに来たときに顔を合わせているからだ。僕の家に来る友人は多いもののアリサちゃんの名前は、友人たちの中でも海外風ということもあって覚えていたのだろう。

「そうだよ」

「ご迷惑じゃないかしら?」

「一応、電話してみる?」

 流石に、他の家庭にお世話になるのに子どもだけの話で進めるのは拙いだろう。お世話になるのだから保護者同士の会話はどちらにしても必要だろう。アリサちゃんのお母さんは経営者で急がしいとは聞いていたが、夜に帰ってこられないというわけではないらしい。時々、一緒にご飯を食べているという話も聞いたことがある。だから、アリサちゃんに電話すれば、取り次いでもらえるだろう。

「そうね、後で電話してみましょう」

 話をしてくれるということは、どうやら反対ではないようだ。

 母さんの反応を見て、僕はほっと胸をなでおろした。アリサちゃんのあのときの顔をみれば、とてもじゃないが、行けないとは口に出せなかったからだ。電話の内容如何では、反対される可能性も考えたが、そもそも、誘ってきたのはアリサちゃんのほうなのだ。両親に対しても説得ができていると考えるのが妥当で、母さんが言い出したのも礼儀的な意味だろう。

「ねえ、お兄ちゃん、温泉ってなに?」

 僕がそんなことを考えていると、ご飯を食べながら僕と母さんの会話を聞いていたアリシアちゃんが不思議そうに聞いてきた。

「ん? ああ、アリシアは知らないのかねぇ? 大きなお風呂のことさ」

「へ~、大きなお風呂かぁ」

 アルフさんの言葉からきっと僕の家のお風呂をそのまま大きくしたような光景を思い浮かべているのだろう。

 本当なら僕が答えようと思っていたのだが、それよりも先にアリシアちゃんの隣に座っているアルフさんが、アリシアちゃんに答えていた。それを聞いたアリシアちゃんは何かを感心したような声を上げていた。アリシアちゃんが知らないのは、管理世界という別世界から来たからと思っていたが、それよりも、アルフさんが知っている事実に少しだけ驚いた。

「ねえ、お兄ちゃん」

 やけにきらきらと期待の篭った視線で僕を見つめてくるアリシアちゃん。それだけで、次の言葉が容易に想像することができたが、言葉を割るのも悪いと思い、そのまま続く言葉を聞く。

「私も、行きたいなぁ~」

「それは、無理」

 アリシアちゃんの言葉は予想通りすぎて、僕は間髪いれずに不許可の言葉を口にした。が~ん、とでも言いたそうにコミカルにしょげるアリシアちゃんを見て、少しだけ罪悪感に駆られるが、こればかりは仕方ないことである。

 もしも、これが僕らだけで立てた個人的なもの―――小学生という身分を考えると到底不可能だが―――であれば、アリシアちゃんを連れて行くという選択肢がありえるかもしれない。だが、今回の旅行は、アリサちゃんの家族旅行におまけで連れて行ってもらえるようなものだ。とてもじゃないが、アリサちゃんに対して、アリシアちゃんもお願いできませんか? なんて、ずうずうしいことはいえない。

 それに、温泉旅行ということは、どこかの旅館なのだろう。それを考えると子どもひとり分とはいえ、今更、一人増やすというのは不可能だろう。そういった事情を考えるとアリシアちゃんが僕と同行することはほぼ不可能だといえる。

「え~」

 そんな事情が分からないアリシアちゃんは不満の声を漏らす。しかし、不可能なものは不可能なのだ。さて、どうやって納得させるか? と考えているところに母さんから助け舟が入った。

「アリシアちゃん、ショウちゃんと一緒に行くのは無理だけど、母さんと一緒に銭湯に行きましょうか?」

「銭湯?」

「温泉じゃないけど、大きなお風呂のことよ」

 海鳴には公衆浴場という形で一つだけ大きな銭湯があった。仕事帰りや海辺をランニングして汗をかいた人たちをターゲットとしているらしく、客入りはそれなりだと聞いている。母さんは温泉の代わりにそこへ行こうといっているらしい。もっとも、正確にいえば、温泉と銭湯では、色々異なる部分が多いのだが、アリシアちゃんは、大きなお風呂という説明の部分に興味があったらしい。

 少しだけう~ん、と考えていたかと思うとすぐにぱあ、と顔を輝かせると、うん、と大きく頷いた。

 どうやら、彼女の中で、僕と母さんを天秤にかけた葛藤はどうやら母さんの方に軍配が上がったらしい。

 それはそれで、悲しいものがあるというか、なんというか、という感じであるが、あのまま、ごねられる、あるいは、最終的に泣かれるよりもいいか、と自分を納得させ、丸く収まったことを喜びながら、残りの晩御飯に手をつけるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 僕となのはちゃんがジュエルシードの捜索に協力するようになって三日が経過した。

 世間ではすっかりゴールデンウィークに突入し、僕たちの学校も9日という長い長い休暇に入った。この休暇に入る直前にアリサちゃんからは温泉旅行を絶対に忘れるな、と釘が刺されるし、夜には必ず一回メールが入ってくる。幸いなことにアリサちゃんとのお母さんと僕の母さんとの電話会談は円満に終わったらしく、快く了承を貰っている。

 さて、世間では行楽地が賑わっている、高速道路が渋滞している、新幹線の乗車率が100%を越えているなどの情報がニュースを賑わせている最中、僕たちは、というと――――

「おい、そっちいったぞっ!」

「任せろっ! オラオラオラッ!!」

「って、全然利かねえ……」

 僕の目の前で、大きな怪鳥を相手にするためにバリアジャケットに身を包んだ3人の武装隊の人たちが、空を飛びながら魔法をぶっ飛ばしていた。さながら、映画の怪獣大決戦のようだ。

 場所は、海鳴市の端の方に位置する森林地帯。そこでジュエルシードの反応を見つけた僕となのはちゃんは、武装隊の人たち6人とユーノくんと一緒に出撃していた。本来なら、暴走する前のジュエルシードを相手にする予定だったのだが、鳥の巣にあったジュエルシードを手にする直前に巣の主にその現場を目撃され、怪鳥が召還されてしまったのだ。

 ユーノくんの見立てでは、僕たちは宝物を横取りする敵と認識されたらしく、力を求めたため、怪鳥に進化してしまったらしい。野鳥なだけに本能に忠実であるらしく、比較的願いに添う形でジュエルシードが暴走してしまったようだ。今は、それを何とかするために前衛の3人の武装隊の人たちが頑張ってくれている。

「ショウ、次に動きが止まったときに一気に行くよ」

「分かったよ」

 僕は、ユーノくんの言葉に従って、タイミングを見定めるために僕のデバイスになって三日目の支給用ストレージデバイスをぎゅっと握った。

 この怪鳥退治の作戦は至ってシンプルだ。3人でかく乱し、動きが止まったところで、同じく3人のチェーンバインドで拘束。そして、最後は、僕たちの後ろで待機しているなのはちゃんの封印砲撃魔法で封印するというものだ。ちなみに、なのはちゃんには、武装隊の人が2人護衛としてついている。いや、力量で言えば、必要ないのかもしれないが。

 そんなことを考えている間に、連係プレイで怪鳥を上手いことかく乱していた武装隊の人たちの魔法弾の一発がいい具合に急所に入ったのか、怪鳥が一瞬、よろけて動きがとまった。

 その隙を見逃すほどユーノくんの判断は甘いものではなかった。

「今だっ!!」

 チェーンバインド、という拘束用の魔法を発動させる引き金を三人同時に唱和する。それと同時に怪鳥に向かって七本の鎖が飛ぶ。一本は白い魔法色、三本は翡翠色、三本は青色だった。それらは狙いを違うことなく、僕たちの呪文と同時に退いていた武装隊の人たちの近くを通って、目標であった怪鳥に絡みつく。まさしく雁字搦めという言葉のまま、ギャァァァァァといかにも怪鳥という声を上げて怪鳥がもがくが、さすがに五本のチェーンバインドを振りほどけるほどの力はないようだった。

「なのはちゃんっ!!」

 この隙を逃すわけにはいかない。

 僕は後ろを振り向き、後方で待機しているなのはちゃんに声を送る。振り返ったときに見えたいつもの白い聖祥大付属の制服のようなバリアジャケットに身を包んだなのはちゃんは、待っていました、といわんばかりに今まで集中のために瞑っていた目を開き、くるくるとレイジングハートを回すとその杖先をもがく怪鳥へ向ける。

「ディバィィィィン――――」

 杖先で桃色の環状魔方陣が魔力の増幅と加速を行い――――次の瞬間、その杖先からなのはちゃんの必殺の一撃が、光の濁流となって放出された。

「バスタァァァァァッ」

 光の奔流は、僕たちの真上をすごい速度で駆け抜けたかと思うとそのまま、寸分違わずチェーンバインドで拘束されていた怪鳥を貫く。なんだか、なのはちゃんのディバインバスターに貫かれる直前、怪鳥のもがき具合がより一層激しくなったような気がするのは、怪鳥もあの魔法の威力を悟っていたからだろうか。

 それは、ともかく、貫かれた怪鳥は、なんの抵抗をすることもできず、その巨体からジュエルシードを吐き出すと、おそらくもともとの大きさであろう鳥に戻り、そのまま、森に落ちていく。そのまま、落ちれば鳥にとって見れば大惨事だろうが、攻撃役だった武装隊の人たちの一人が鳥を上空でキャッチするとジュエルシードが入っていた巣の中へと戻していた。

 一方、怪鳥から吐き出されたジュエルシードは、まるで持ち主に従うように吸い込まれるようになのはちゃんの傍へと移動し、レイジングハートの宝石の部分に飲み込まれていった。

 なにはともあれ、これで封印完了である。

 僕は、やったね、という意味をこめてなのはちゃんに近づいて右手を高く上げると、今回はなのはちゃんも分かってくれたのか、にぱっ、という笑顔を浮かべると僕と同じように右手を高く上げるとパチンとハイタッチを交わすのだった。



  ◇  ◇  ◇



「ご苦労様。今回も上手く行ったようだね」

 僕たちがアースラの管制塔へ帰ると、それを待ち構えていたようにクロノさんがいて、僕たちの苦労をねぎらってくれた。

 あの事件から四日経っている現在、クロノさんも段々と魔法が使えるようになっているらしい。まだ本調子じゃないから、フルスロットルで魔法を使うわけにはいかないだろうが。

「お疲れさま。今回も上出来よ」

 クロノさんの後ろに立っていたリンディさんも僕たちをねぎらってくれるが、正直言うと、あまり疲れたという感覚はない。

 なぜなら、僕がやったことは、後ろのほうで見守り―――飛行魔法は、三日でなんとか覚えられた。幸いにして適正があったらしい―――ユーノくんの指示でチェーンバインドを一本だけ発動させただけだ。ユーノくんやもう一人の武装対の人たちとはどうしても見劣りしてしまう。そして、今回の作戦の中で一番危険なのは前線の武装隊の人たちだろうし、一番の肝は、封印魔法が使えるなのはちゃんだ。だからこそ、お疲れさまといわれても、あまりストンと胸に落ちないのだろう。

 そのようなことをリンディさんとクロノさんに伝えてみると、クロノさんとリンディさんは苦笑し、隣で聞いていたなのはちゃんは頬を膨らませていた。

「そんなことないよっ! ショウくんは、すごいもんっ!」

「え、いや……」

 あんな怪鳥を一発で封印できるような魔法を軽々と使えるなのはちゃんに言われても、と思うのだが、彼女の迫力に思わず納得してしまいそうになる。しかし、一部の冷静な部分が、そんなことないから、と彼女の言葉を否定することでなんとか平静を保つことができた。

 ふぅ、と落ち着くためにため息を吐いているとクロノさんがとんでもないことを口にした。

「いや、なのはさんの言うこともあながち間違いじゃない」

 僕の今の魔法の師ともいえるクロノさんが、なのはちゃんの言葉を肯定する。

「管理世界に来たことがない君は分からないかもしれないけど、いくら過程を飛ばし、デバイスの力を借りたからと言って、魔法を学び始めて一ヶ月で、そこまで魔法が使えるようになっているのはすごいよ」

 そうなのだろうか? 僕の見本がなのはちゃんしかいないから、できて当然という感覚が強かったが、どうやらそれは間違いらしい。クロノさんたちの世界で見てみれば、もしかしたら、僕も才能がある部類なのかもしれない。

「それに武装隊の人たちは専門の学校を卒業して、現場に何年も経っているような人だ。君が彼らと同等の働きをするようなら、彼らの立つ瀬がないだろうね」

 だから、悩むことはない。君は僕からみればよっぽど上出来だ、と現場に立っているクロノさんに言われて、ようやく、そんなものか、と思うことができるようになった。

「さて、それはともかく、ちょっと来てくれないか?」

 管制塔のテレポーターの近くに立っていた僕たちだったが、管制塔の奥―――エイミィさんが座っている大きなモニターがある場所へと場所を移そうとしているのだろう。リンディさんを先頭にして移動を始めた。そのちょっとした合間に僕はふと思い立ったことがあって、少し早足でクロノさんの隣に並ぶと、少し後ろを歩いているなのはちゃんに聞こえないように小声でクロノさんに問う。

「あの僕で上出来なら、なのはちゃんはどう表現できるんでしょうか?」

 すでにジュエルシードを封印できるような魔法が使え、クロノさんたちが来るまでにジュエルシードと同等に戦い、アリシアちゃんとも戦って、返り討ちにし、さらには大人モードになれば、クロノさんさえ圧倒してしまう実力の持ち主だ。クロノさんがなのはちゃんをどう表現するのかな? と単なる興味を抱いて聞いたのだが、僕がそう尋ねた瞬間、クロノさんは少し引きつった笑みを浮かべて、僕に答えてくれた。

「そ、そうだね、なのはさんを表現するなら―――非常識かな?」

 非常識―――なるほど、確かに僕のレベルで上出来というのであれば、彼女はもはや天才の域を超えているのだろう。彼らの常識が一切通用しない存在であるが故に非常識と称することになる。人につけるにはあまりにあれな内容ではあるが、思わず納得してしまうほどの説得力があるから不思議である。

「さて、これを見てください」

 僕がクロノさんのなのはちゃんに対する評価を吟味している間に全員がモニターの前についてしまった。モニターの前についたクロノさんは、僕の質問を振り払うように首を振るとエイミィさんに視線を合わせ、みんなの注目を集めるように手を振り、モニターへと注意を向ける。

 クロノさんの声と同時に映し出されたのは、海鳴市の地図といくつかの光点。その光点の数は15.現在集まっているジュエルシードの数と同等だった。あと、おそらく僕たちが捜索した範囲なのだろう。オレンジ色に塗りつぶされた部分が広範囲にわたって存在していた。

「翔太の地図の協力により、ジュエルシードの早期の発見に成功しました。残るジュエルシードは6つ。しかし、計算から鑑みるにジュエルシードはこの範囲以上から出ていることは考えにくい」

 モニターの海鳴市の地図に大きな円弧が描かれ、赤く塗りつぶされる。それは、海鳴市の中心街を中心としており、外円は、森林地帯から海の部分も大きく塗りつぶされていた。

「よって残りのジュエルシードは海の中と考えられます。しかし、地表部分と違って海の中は魔力探査が通りにくいので、少し時間が必要です。しかも、一つ一つでは効率が悪いのでここで一気に6つを見つけることにします」

 海の中のジュエルシードをどうやって封印するのか興味が湧いたが、それはどうやら後回しになりそうだった。まさか、なのはちゃんの砲撃魔法で海上から力ずくで封印するわけではないだろうから。

「これからの方針は以上です。なにか質問は?」

「しばらくってどれくらい必要なんですか?」

 僕が一番知りたいのはそこだった。今日は、9日しかないゴールデンウィークの初日だ。アリサちゃんとの温泉旅行を考えると一週間以上、かかるといわれると非常に困った事態になってしまう。

「そうだね。アースラの機能を全部探索に使うだろうから遅くとも二日後には見つかるはずだよ」

「そうですか」

 クロノさんの答えに僕は安堵の息を吐いた。二日なら余裕で終わっているはずである。ゴールデンウィークの宿題はすでに終わっているし―――配られるのはゴールデンウィーク前なので、休みに入る前に終わらせた―――温泉旅行まではゆっくりできるだろう。

「他に質問もないようですので、今日はこれで解散します。お疲れ様でした」

 お疲れ様でした、とその場の全員が重なって、僕たちはその場から解散した。

「ショウくん」

 ジュエルシードの捕獲に向かっていた全員が解散、あるいは、それぞれの役割に戻った後、なのはちゃんが僕に話しかけてきた。本来なら、この時間はクロノさんによる魔法訓練が入っていたのだが、今日はジュエルシードの捕獲が三件も入ったので中止となった。よって、訓練の後に入っていた予定を前倒しにしたのだ。

「分かってるよ。場所は……食堂を借りようか?」

「うんっ!」

 これから入っていた予定というのはなのはちゃんのゴールデンウィークの宿題を教えることである。なのはちゃんの成績は、理数系は極端にいいのだが、逆に国語や社会といった文系はお世辞にもいいとはいえない。本を読むのに何でだろう? とは思うのだが、悪いのだから仕方ない。それに同じクラスになるために協力するといったのは僕だ。教えて、と言ってくるなのはちゃんの願いを断わる理由はどこにもなかった。

 それになのはちゃんは文系科目が悪いとはいえ、第二学級だ。教え甲斐のない生徒などではなく、むしろ教え甲斐のある生徒だったため、僕も少しなのはちゃんに宿題を教えるのが楽しくなっていた。やはり、自分が教えることで、誰かが物事を理解してくれるというのは嬉しいものである。

 さて、今日はどんなことを教えようかな? と考えながら、僕となのはちゃんはアースラの食堂に向かうのだった。



  ◇  ◇  ◇



 ちゃぽん、という音共にラウンドガーターという360度包囲型の防御魔法に包まれた僕たちは海の中へと沈んでいった。目標は、この真下の海底にあるはずのジュエルシードだ。

 海底の捜索から二日経過した今日。クロノさんの言ったとおり、6つのジュエルシードが海底から発見された。反応からすると間違いないようだ。それらを封印するために僕たちは、シャボン玉に包まれるような形で防御魔法を展開して海底へと向かっていた。本来であれば、武装隊の人かユーノくんが防御魔法の役割だったのだが、封印魔法を使うなのはちゃんが僕を推薦したため、僕が出ることになった。

 万が一を考えれば、僕ではないほうがいいのだが、万が一がおきれば、なのはちゃんが何とかできるため、僕でもまったく問題がないようだ。それに水深などから考えれば、武装対の人では少し不安があり、ユーノくんは万が一のために海上に待機してもらっている。いざとなったら転移してもらうのだ。

 そんな万全な体制で、僕たちは今、海底への小旅行を楽しんでいた。海ならば水着になるのが妥当なのかもしれないが、目的が目的であるだけに僕は武装隊のバリアジャケット、なのはちゃんも聖祥大付属の制服のようなバリアジャケットに身を包まれたままだ。もっとも、旅行と言ってもアースラによる封時結界に包まれたこの海域は僕たち以外の生物はいないので海の景色しか楽しめないが。加えて、海という壁が海上の音も消してしまい、隣のなのはちゃんの呼吸する音すら聞こえてきそうなほどに静かだった。まるで、この世界には僕となのはちゃん以外には誰も存在しないようだった。

「なんだか、二人だけの世界みたいだね」

 僕がそんなことを考えていたからだろうか、あるいは、なのはちゃんも似たような感想を抱いていたのかもしれない。不意に、なのはちゃんが僕に向けて、何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべて言う。

「そう、だね」

 僕も似たような感想を抱いていたから、なのはちゃんの感想には頷くしかないのだが、なのはちゃんの嬉しそうな満面の笑みと違って、僕は嬉しいというよりも寂しいというような感情を持っていたので、なのはちゃんへの返事は歯切れの悪いものになってしまった。それを疑問に思ったのだろうか、なのはちゃんは少し小首をかしげて不思議そうに僕に尋ねてきた。

「どうしたの? ショウくんは、こんなのは嫌?」

「う~ん、嫌というわけじゃないけど……寂しいよね」

 なのはちゃんと二人だけになることは、最近は多いような気がする。勉強するときだって、なのはちゃんの部屋を使うこともあるし、勉強の後にクロノさんとは別に魔法の練習をすることだってある。そのときは、なのはちゃんとは二人きりだ。だが、二人きりというだけで、周りに誰もいないか? といわれるとそうではない。あくまでも二人だけの空間というだけで外には生活音に溢れている。だが、今のこの世界は、本当に二人だけの世界のようで、僕たちの他には気配も音もない。本当に二人っきりの、二人だけの空間だ。それは、いつも音に溢れている僕からしてみれば、とてもとても寂しい気分になってしまうのだ。

「……そうなんだ」

 僕の答えに少しだけ、残念そうに、しかし、何かを考えるような表情をするなのはちゃん。

 なのはちゃんにとって僕は初めての友達だ。しかも、一年生の頃から数えて初めてだ。つまり、丸々二年間でようやく得た成果とも言える。人なので成果というのは微妙だが。だからこそ、僕を手放したくないと考えるのも自然な流れだろう。つまり、なのはちゃんはこの状況を肯定してもらいたかったのかもしれない。

 その感情は今は仕方ないのかもしれない。求めていたものを手に入れれば、手放したくないのは当然だから。だが、それも今だけだろう。他に友人もできれば、その感情が向かう先が僕以外にも出てくる。そうなれば、きっとこんなことを考えることもなくなるはずだ。

「さあ、さっさと片付けてしまおう」

 残りは6つもあるのだ。さっさと片付けてしまわないと日が暮れてしまう。今は太陽が南中する直前だ。日が暮れた海には流石に潜りたくない。そんな僕の思いが通じたのか、先ほどまで思案顔になっていたなのはちゃんも笑みを浮かべてくれた。

「うん」

 それから、数時間後。僕たちは海底に沈んだ6つのジュエルシードを無事に封印することに成功し、ゴールデンウィークの中日である今日の夕方になのはちゃんのレイジングハートのジュエルシードを除けば無事に21個のジュエルシードの蒐集が終わったのだった。



  ◇  ◇  ◇



 ジュエルシードの蒐集が終わった日の夜。僕は、いつものように母さんが寝ている部屋に僕とアリシアちゃんとアルフさんで一緒に布団に入っていた。アリシアちゃんが真ん中の歪な形の川の字だ。最初の頃は、なんとなく後ろめたい気持ちがあったが、今ではもはや慣れてしまった。僕の部屋の存在意義は何なのだろう? と考えてしまうことがある。たまには部屋のベットも使ってやらないと、と思う。

「ねえ、アリシアちゃん」

「なに? お兄ちゃん」

 半分寝ぼけ眼になっていたアリシアちゃんに僕は話しかける。それは、不意に思いついたことだった。

「明日のお昼にちょっとしたパーティーをやるんだけど……アリシアちゃんも来る?」

 ジュエルシードを無事に収集し終わった記念の打ち上げのようなものだ。海岸で行うバーベキューがメインで、食材は月村家の人たちが集めてくれるらしい。武装隊の人たちも皆が集まって行うちょっと大規模なものだ。

 ただ、確かに全部終わったのだが、一つだけ、気にかかっていることは、アリシアちゃんのお母さんであるプレシアさんのことであるが、ジュエルシードを集めている間、まったく手を出してこなかった。下手をすると最後のジュエルシードのときに手を出してくるのではないか、とドキドキしたが、その襲撃もなかったため、アリシアちゃんを手放した以上、手札がなく諦めたのではないか? というのがリンディさんたちの見方だった。もっとも、気を抜くつもりはまったくなさそうで、すべて揃ったジュエルシードは20個をまとめてアースラのロストロギア専用の保管庫に収納された。その部屋は魔法防御、物理的防御がともに生半可のものでは破れないらしく、リンディさんは自信を持って大丈夫と胸を張っていた。ここはリンディさんを信じるしかないだろう。

 僕が悩んでいるのを余所に、アリシアちゃんは、少し考えた後、にぱっ、と太陽のような笑みを浮かべるとと元気に答えてくれた。

「うん、行くっ!」

 アリシアちゃんの答えを聞いて、アルフさんが微笑ましいようなものを見るような笑みを浮かべていた。アリシアちゃんの答えを聞いて僕は、安心していた。明日のパーティーには、父さんや母さんたちも呼ばれているのだ。だから、アリシアちゃんだけが残るわけにはいかない。

 それに、なのはちゃんと年齢が近いアリシアちゃんを紹介するいい機会だと思ったのだ。すずかちゃんは失敗してしまったが、アリシアちゃんなら、僕の妹というだけで、特に心配がなさそうだった。確かに襲ってきたという過去があるが、それは今のアリシアちゃんではない。そのことさえ、なのはちゃんに言って聞かせれば、アリシアちゃんが僕以外の初めての友人になれる可能性もないわけではないだろう。

「それじゃ、今日はもう寝よう。明日に差し支えるといけないからね」

「うん」

 もともと、彼女は眠かったのだろう。僕の言葉に素直に頷くと同時にうとうとと瞼を閉じ始めていた。僕はそれを微笑ましい小動物を見るような気分で見守っていたのだが、不意にアリシアちゃんの向こう側に同じように寝ていたアルフさんの耳がぴくぴくと動くとがばっ! と起き上がって部屋のある一点を睨み始めた。

「どうしたの?」

 突然の行動に驚いた僕はアルフさんと同じように身体を起こして聞いてみる。だが、アルフさんは、僕の方向を向くことはなく、警戒するようにある一点を見つめたまま、鋭く叫んだ。

「翔太っ! フェイトを抱いて下がってっ!!」

 ガルルルルと彼女が本来の姿である狼のように吼え始めたのを見て、僕は尋常ではない事態になることを悟って、眠そうにしているアリシアちゃんを抱いて、アルフさんの後ろに庇われるような位置に移動した。

 それと同時にアルフさんが睨んでいたある一点が、蜃気楼のようにゆがみ、紫色の魔力光によって部屋が包まれる。その魔方陣はクロノさんとの魔法の練習中に見たことがあった。僕の記憶が確かであれば、ユーノくんが実演してくれた転移の魔方陣だ。僕がそれを確信すると同時に、転移の魔法で転移された人物が姿を現す。

「こんばんはぁ」

 魔方陣から出てきたのは二人。一人は、紫の髪の毛を腰の辺りまで伸ばし、露出の高い服に身を包んだ女性。魔女という言葉を体現したような女性だった。そして、もう一人はその魔女に仕えるような形で半歩後ろに立っていた猫耳を生やした女性だ。

 魔女のような女性は、にぃというような意地の悪い笑みを浮かべたまま、僕を庇うように立っているアルフさんを一瞥すると面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「あら、ゴミの使い魔じゃない。どこかで野垂れ死んでいるかと思ったのに、こんなところで生きているとはね」

 ゴミ? どこかで、聞いたことがあるような表現だな……、と僕が思い出していると、突然、僕の胸に抱かれているアリシアちゃんが、自分自身を抱くようにきつく両手で抱きながらガクガクと病気のように震えている。

「ど、どうしたの? アリシアちゃんっ!?」

 突然、現れた女性も気になったが、それよりも、義妹であるアリシアちゃんのほうが気になった。明かりの少ない僕の部屋ではあるが、それでもはっきりと分かるぐらいにアリシアちゃんの顔は真っ青になっていた。しかも、眠そうにしていた目は今でははっきりと見開かれ、何かを呟いている。

 何を呟いているのか、と耳を寄せようとしたのだが、それが許されることはなかった。

「……アリシアですって? 坊や……今、それをアリシアと呼んだの?」

 心臓が止まりそうなほどの怒気を僕に浴びせながら、魔女の女性は問う。だが、僕には彼女の問いに答えられなかった。答えられるほどの余裕を持つことができなかった。アルフさんが庇ってくれているにも関わらず、それを物ともしない彼女の怒気が酷く恐ろしかった。

「坊や、それをアリシアと呼ぶの? 巫山戯ないでっ!! それは、ゴミよっ!! アリシアにも、人形にもなれなかったただのゴミっ!」

 僕には、彼女が何を言っているか、分からなかった。だが、魔女の言葉を聞いてさらにアリシアちゃんの震えが大きくなった。さらに自分を護るように二の腕まで回された手は自分を逃がさないようにきつく握られており、爪が食い込んだのかそこから血が流れ始めていた。しかも、呟いていた声が少し大きくなっていた。

「違う違う違う違うちがうちがうちがう、わたしはゴミなんかじゃない、贋物じゃない、捨てられてない、わたしはアリシア。フェイトじゃない、アリシアだ。お兄ちゃんの妹でアキがいて、アルフがいて、母さんがいて、わたしは、わたしは、わたしは……」

「バカを言うなっ!! おまえはアリシアなんかじゃないっ! あなたはただのゴミっ! 贋物にすらなれなかったただのゴミよっ!」

 アリシアちゃんの呟きが聞こえたのか、魔女の女性はアリシアちゃんの自己催眠のような呟きをかき消すような形相と声で、アリシアちゃんの声を否定する。アリシアちゃんのすべてを否定するように彼女は叫ぶ。

「あ、あ、あ、あああああああああああああっ!!」

 ぽろぽろと涙を流しながら、魔女の言葉に耐えるように叫ぶアリシアちゃん。僕はその姿を見ていられなくなって、思わずそのままアリシアちゃんを抱きしめた。だが、彼女は叫ぶことをやめず、僕にはどうしようもなかった。

「糞婆ぁぁぁ!!」

 彼女の言動が許せなかったのか、僕たちを護るように立ちはだかっていたアルフさんが動いた。そのしなやかな動きは、まるで狼が得物を仕留めるときのようにすばやいもので、誰も反応できないと思っていた。当の本人である魔女でさえ。しかし、この場にはもう一人いることを僕はすっかり忘れていた。

「チェーンバインド」

 その声と同時に黄色の魔力光の鎖に縛られるアルフさん。その魔法は間違いなくチェーンバインドだった。アルフさんもそれから逃れようともがくが、その鎖が外れることはなかった。

「アルフ、無駄ですよ。あなたに魔法を教えたのは誰だと思っているのですか?」

「リニス……あんた……」

 どうやら、従者のようにしたがっていた猫耳の女性は、リニスという名前らしい。しかも、アルフさんと既知のようだ。一体、どういう関係なのだろうか? と考えていたが、どうやらそんな暇はないようだった。

 チェーンバインドで繋がれたアルフさんを尻目に魔女が近づいてくる。

「そうそう、ゴミのことなんてどうでもいいのよ。本当の用事は、貴方なのだから」

「僕には、あなたに用事なんてありませんよ」

 彼女の用事はどうやら、僕らしい。僕は必死に抗おうとするが、恐怖に怯える本能の下にある冷静な部分では、彼女に抗うことは無駄だと判断していた。

「そう、でも、あなたの意思なんて関係ないの」

 すぅ、とリニスと呼ばれた女性に目配せすると彼女は、僕に近づいてきた。逃げようとするが、胸に抱いているアリシアちゃんを放すわけには行かない。よって、殆ど逃げられもせず、僕は彼女に首根っこをつかまれ、片手で持ち上げられる。僕がアリシアちゃんを抱いていた腕も、彼女の細腕からは考えられないほどの力で無理矢理振りほどかれた。

 僕に抱かれたアリシアちゃんは、ガタガタと震え、虚ろな目をしながら、ちがう、ちがうと壊れたテープレコーダのように繰り返すだけだった。

「翔太っ!!」

 アルフさんが叫ぶが、彼女たちはそれを意に返さない。僕も暴れるが、リニスさんの腕から逃れることはできそうになかった。

「申し訳ありませんが、少し大人しくしてもらえますか?」

 逃げられないとはいえ、うっとおしかったのか、その言葉の直後、アルフさんと同じようにチェーンバインドで僕も芋虫のように拘束されてしまった。

「さあ、もうここに用事はないわ。帰るわよ」

「はい」

 彼女の言葉と同時に僕たちの真下に彼女たちが出てきたときと同じような魔方陣が展開される。おそらく、これも転移の魔方陣だ。もしかして、どこかに連れて行かれるのか? と恐怖に駆られる僕を見て、魔女は、何か面白いことを思いついたように笑い、ゴミと呼んだアリシアちゃんの方に視線を向ける。

「ああ、そうそう。これでもう本当に会うこともないでしょうから言っておくわ」

 そういうと話を聞いていないだろうアリシアちゃんに向かって、魔女は意地の悪い、アリシアちゃんが壊れることが本当に嬉しそうな笑みを浮かべながら、崩落の呪文を唱えるように口を開いた。

「おまえのことなんて、最初から大嫌いだったのよ」

 その魔女の言葉に反応して、アリシアちゃんは大きくビクンと身体を震わせると、虚ろだった目を見開く。

「あっ、あっ、あっ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああああああああああああっ」

 まるで壊れる間近の断末魔のような絶叫。それほどの不安に駆られるような声だった。

「フェイトっ!」

「アリシアちゃんっ!」

 呼ぶ名前は違えど、心配するような声が彼女に向かって僕とアルフさんの声が同時に飛ぶ。

 くそっ、と思わず悪態ついてしまう。

 こんなときに魔法を使えない僕が歯がゆい。今日のジュエルシードの探索で殆どの魔力を使ってしまったのだ。いや、正確にはあるのだが、これ以上、魔法を使っても発動しないだろう。デバイスがあったとしても同様だ。だが、なんとか抜け出そうと身体を動かすのだが、これも上手くいかない。アルフさんも同様に抜け出そうとしているが、やはりリニスと呼ばれた女性のチェーンバインドが解けることなかった。

 一方、魔女は、僕たちの行動が相当不快であるように顔をしかめていた。

「リニス、ゴミをアリシアと呼ぶような口は閉じてしまいなさい」

「はい」

 その声と同時に僕は、首筋に強い衝撃を受る。

 首筋から受けた衝撃は綺麗に脳を揺らしたのか、ものすごい眠気が襲ってきたように瞼が重くなってしまった。だが、それでも目の前で絶叫を上げ続けるアリシアちゃんを心配する。

 ありしあちゃん……。

 だが、結局、僕にはどうすることもできず、アリシアちゃんの断末魔のような絶叫を聞きながら、意識を一気に闇の中に落としてしまうのだった。


つづく













あとがき
 プレシアさん、忘れた頃に登場。



[15269] 第二十一話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/07/29 21:29



 誰かに食べてもらう料理が楽しいと言ったのは、ノエルだっただろうか、ファリンだっただろうか、と月村すずかは朝の早い時間に目の前のフライパンで音を立てている卵焼きを見ながら思った。傍では、月村家のメイドであるノエルとファリンが傍に仕えていた。料理を作り始めた当初こそ、心配そうにはらはらと見ていたが、最近は特に何も言われることなく作れるようになってきた。

 すずかが、お弁当を作ろうと思ったのは、なんのことはない、翔太のためである。正確には彼とより仲良くなるためである。翔太にすずかの中の最大の禁忌である吸血鬼の秘密がばれてしまった後、彼女にとっての最大の禁忌をあっさりと受け入れてくれた翔太ともっと仲良くなりたいと思っていた。

 翔太と仲良くなることは決して悪いことではない。だから、思い立ったが吉日とばかりにすずかは、仲良くなるための行動を考えた。だがしかし、そのための方法を考え付くのは容易なことではなかった。なぜなら、すずかが思いつくようなことはもうすでに翔太と一緒に行っているからだ。

 お茶会、買い物などなど彼女の趣味である読書等を参考にした仲良くなるための方法は大半が実行済みだった。しかも、仮に今までやっていないことがあったとしても、それらの方法は総じて、今は無理なことが分かっている。なぜなら、翔太は今、別の女の子の手伝いをしているからだ。平日、休日問わず、塾すら休んでだ。そのおかげで、すずかと翔太の時間は一ヶ月前と比べると相当目減りしている。しかし、彼女との時間がなければ、このような事態になっていなかったであろうことを考えれば、なんたる皮肉だろうか。

 そんな風に考えても仕方ない。どうせ、そんな異常事態もあと少しで終わるのだから。以前、アリサが別の女の子について問いただしたときに翔太は、一ヶ月だけだといった。ならば、すずかはそれを信じるだけだ。まさか、途中でやめろとは言える筈もなかった。

 それよりも、如何に翔太と仲良くなる方法を考えるほうが先決だった。だが、考えたところで、簡単にその話が浮かぶはずもなく、少しの間、一人で悩んでいたすずかだったが、やがて、区切りをつけると誰かに相談することにした。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったものである。ただ、相談する相手は選ばなければならなかった。まさか、友人のアリサに相談できるはずもない。ならば、と考えたとき、浮かんできたのは、月村家のメイドであるノエルとファリンだった。ある程度、翔太とすずかのことを知っており、かつ深入りしないような人物。相談するにはうってつけのように思えた。

 それを思いついたすずかは早速相談。ノエルとファリンの仕事の合間を狙って相談した結果、少し腰をすえて話をしようということになり、紅茶と共にテーブルを囲んだ。そして、しばしすずかの相談内容を話した後、おもむろにノエルが提案する。

「そうですね。でしたら、手料理などどうでしょうか?」

「お料理?」

「はい、すずかお嬢様の手料理を蔵元様に食べていただくのです」

 すずかはノエルの言ったことを咀嚼するように少し考えた。ノエルの言っているように手料理が果たして翔太と仲良くなるための一手になるのだろうか。言われて見れば、確かにお弁当の中身の交換などは友人同士でしか行わないようなことだ。その食べてもらう料理が自分の手料理であれば、自らが作った料理をおいしいといってもらえれば、それはきっとすずかも嬉しくて、もっと仲良く慣れるかもしれない、とすずかは思った。だが、それを実行するためには一つだけ問題があった。

「私、お料理作ったことない」

 すずかは、自他共に認めるお嬢様である。厨房に立つ必要がなかったすずかは、料理を作ったことなど一回もなかった。もしも、すずかが中学生ぐらいになれば、料理の一つでも作れなければ、となっていたかもしれないが、今はまだ小学生なのだ。作れなくてもある種当然ともいえた。

 だが、そんな心配を見通してか、ノエルは、微笑みながら言う。

「お嬢様、大丈夫です、私たちがお教えしますから」

 ね、とノエルはファリンの方に向き直り、ノエルに話を振られたファリンは、飲んでいた紅茶を慌てて飲み干し、カップを置いたと思うと、コクコクと頷くのだった。

 こうして、すずかは、ノエルとファリンの手助けを借りながら少しずつ手料理を習い、お弁当のおかずを一つずつ作っていくことにした。幸いにしてすずかには、料理の才能が皆無というわけではなかったらしい。少しの教えで妥当といえるレベルまでは簡単に作れるようになっていた。

 そして、練習の果てに作れるようになった卵焼きを翔太に初めて食べてもらった。その卵焼きを翔太はおいしそうに食べてくれる。感想もおいしいの一言だったが、すずかはそれだけで満足だった。確かにノエルが言うように仲良くなりたい人に手料理を食べてもらって、おいしいといってもらえるのは嬉しくて、心の真ん中に淡い光が灯ったように温かくなる。思わず、顔が笑顔になってしまうほどに。

 その気持ちをもう一度、感じたくて、翔太にもっと自分の手料理を食べてもらいたくて、仲良くなりたくて。すずかは毎日、新しいおかずに挑戦しては、お弁当に詰めていくことにした。懸念事項としては、今までよりもお弁当のサイズが大きくなってしまうことだろうか。しかも、残念なことに翔太と毎日一緒に食べられるわけではない。それは前からそうだった。自分とアリサは常に一緒だが、翔太は、いつもすずかたちと一緒ではないのだ。クラスの男の子と食べることもあるし、他の女の子と食べることもある。

 本当は、自分たちと一緒に食べて欲しいし、お弁当のおかずも食べて欲しい。だが、そんな我侭も簡単にはいえなかった。すずかの目的は、仲良くなることであり、我侭を言って嫌われては本末転倒だからだ。だからこそ、すずかができる唯一の抵抗はせめて、明日の約束を取り付けることだけだった。もっとも、翔太用に作ってきたおかずの処理にも困るのだが。

 そして、約束を取り付けた日の昼食。翔太は約束を違えることなく、すずかたちと一緒に昼食を食べてくれた。ただし、お邪魔虫つきではあるが。

 彼女は、翔太が食べる場所に選んだ中庭にいた。しかも、それは偶然ではなく、まるで翔太と約束したように翔太の姿が見えると座っていた石段からわざわざ立ち上がり、彼に向かって手を振っていた。そんな彼女の視界にすずかたちが入ると、まるで転がる石ころを見るような目ですずかたちを見ていた。だが、それも一瞬のこと。今ではもう翔太しか目に入らないといわんばかりに彼の隣に子犬のようにじゃれ付き、自分の隣に座るように促していた。

 そんな彼女の態度にムカッと頭にきてしまうのは仕方ないことだと思う。ずるい、という感情が胸のうちを占めてしまうのも。

 最初に約束したのはすずかたちであり、彼女はおまけのはずなのだ。それなのに、まるで最初から自分だけしか約束していないように振舞うのだろうか。それが腹立たしくて、昨日からずっと新しい料理を練習して、食べてもらうことを、感想を貰うことを楽しみにしていたすずかが思うことはたった一つだけだった。

 ―――邪魔だなぁ。

 そう、翔太の隣に座ってお弁当を開こうとしている彼女は、すずかにとってただの邪魔者でしかなかった。しかも、あちらも似たようなことを思っているのだろう。まるですずかとアリサがいないように振舞っているのだから。いや、それどころか、彼女の冷たい視線は、まるでココから消えてくれ、といわんばかりの敵愾心むき出しの視線だった。

 そんな彼女の態度にすずかはなるほど、と納得した。

 ―――遠慮なんていらないよね。

 もしも、相手がそれなりの態度であれば、すずかも自重するつもりだった。お弁当のおかずは勧めるつもりだったが、それなりの距離感で昼食を過ごそうと思っていた。だが、相手の態度を見るにそんなことをする必要はないようだった。

 だから、すずかは彼女に対抗するように空いていたもう片方の翔太の隣にくっつくように腰を下ろした。それを見て、彼女は驚いたように目を見開き、非難するような視線を送ってきた。もしも、すずかが普通の人間であれば、悪寒の一つも走っていたかもしれないが、しかしながら、すずかは吸血鬼だ。だからこそ、すずかは真正面からその視線を受け止め、逆に相手に非難するような視線を送った。

 翔太を挟んで、まるで火花が散るような視線のぶつけ合い。お互いがお互いに相手を邪魔と思っている。だが、退かない。退けない。すずかの中の想いは、そんなに容易く退けるほど軽いものではない。ずっと、心の中で求めてきた―――いや、すずかの一族なら誰でも求めている自分を受け入れてくる人なのだ。だからこそ、仲良くなりたい。もっと、もっと、もっと。だからこそ、この場で、退くことはできなかった。

 やがて、視線を飛ばしあっていた二人だが、翔太もそれに気づいたのだろう。仲を取り持つように二人の間に入って、口を開いた。

「ふ、二人ともご飯を食べよう」

 そう、それが目的だったのだ。相手が邪魔とはいえ、目的を忘れてしまっては本末転倒だ。だから、すずかは、そうだね、と相槌を打って、以前よりも少しだけ大きな弁当箱を開き、その中の一つである卵焼きをつまむと翔太の目の前に持っていった。

「はい、ショウくん、今日も作ってきたんだ」

 すずかにとって一番最初に作れた料理であり、一番最初に翔太においしいといってもらえた思い出の料理だ。だからこそ、毎日、新作と一緒に必ず卵焼きを作ってきていた。いつもであれば、すずかの弁当箱の中から翔太の弁当箱の中に移すのだが、彼女がいる手前、対抗するように見せ付けるように、すずかはわざと自らの箸で卵焼きをつまみ、翔太の口へと持っていった。

 突然のすずかの行動にさすがに面食らったのか、翔太はその場から動くことなく、呆然とした様子ですずかの箸につままれた卵焼きを見ていた。その表情が面白くて、すずかは卵焼きを押し付けることもなく、ただ翔太がそれを口にしてくれるのを待っていたのだが、それは彼女に隙を与えるだけに過ぎなかった。

 すずかが弁当箱から卵焼きを取り出したのを見ると慌てた様子で、彼女も自分の弁当箱の中から卵焼きを取り出すとすずかと同じようにやはり卵焼きをつまみ、それを翔太に差し出していた。

「ショウくん、お母さんの卵焼き好きだったよね? はい」

 自分と同じような行動。そんな彼女にすずかは真似するな、と鋭い視線を送るが、彼女はその視線を何所吹く風とあっさりと受け流し、まるで、すずかなどいないかのように自分の卵焼きを勧めていた。無視するな、とは思ったが、それで彼女に注意を向けていて翔太への注意が散漫となってしまっては意味がない。

 それに、そもそも、そんなに慌てる必要はなかったのだ。すずかは彼女の手作りだが、彼女は彼女の母親の手作りなのだろう。自分よりも明らかに上の、すずかのメイドであるノエルやファリンよりもはるかにおいしそうなお弁当だったのだから。もしも、これが彼女お手製という考えは、信じたくなかったので選択肢から消した。

 自らの手作りと母親のお弁当。力量の差は歴然としている。おいしい、おいしくない、という問題ではない。そこに篭った想いだ。

 彼女のメイド曰く―――料理の最大のスパイスは、想いですよ―――なのだから。だからここ、翔太に食べてもらうために作ってきた料理が彼女の料理に負けるはずがないとすずかは思っていた。

 結局、お互いに意地の張り合いのような形になってしまい、翔太からはおいしいという一言はもらえたものの彼女との決着がつくことはなかった。

 そして、その日の夜。すずかはノエルから借りた『今日のおかず百選』という本をベットの上でうつ伏せになりながら読んでいた。明日からはどんな料理を作ろうか、と悩んでいたのだ。時期の悪いことにもうすぐゴールデンウィークだ。ゴールデンウィークの後半には、翔太たちと一緒に温泉旅行に行くことが決定しているが、それまでは、翔太と会えない日々が続き、お弁当も食べてもらえないのだ。だからこそ、厳選しなければならない。

 もっとも、ゴールデンウィークが終わった頃には、彼女の用事も終わっているだろうし、今日のように焦る必要はないだろうが。

 だから、安心してすずかはゴールデンウィークまでの間に翔太に食べてもらう料理をページを捲りながら考えていた。できるだけ、おいしそうな、翔太が喜んでくれるようなものを選びたかった。

「ふふふ、ショウくん、喜んでくれるかな?」

 彼のおいしいよ、という言葉を思い浮かべながらすずかはページを捲る。

 そのすずかのにやけきった笑みを窓の向こう側で煌々と太陽の光を反射する白銀の月だけが見守っていた。



  ◇  ◇  ◇



 アリサ・バニングスは、その日も夜になると自室にあるカレンダーの今日の日付にバツ印をつけていた。カレンダーの最後のバツ印の一週間後には、丸印が三つ並んでいる。この日はゴールデンウィーク中にアリサが計画した親友との温泉旅行の日付である。その日が楽しみでアリサは、その計画を立てた日から一日千秋の思いで指折り数えていた。その旅行もあと一週間に迫っていた。

 しかし、残念なことに、その旅行までの一週間はゴールデンウィークで親友とはまったく会えない日々が続くのだが。それでも旅行を思えば、寂しくない、とアリサは旅行のことを思い、笑顔のままばふっとベットにダイブした。

 ベットにうつ伏せになったアリサが考えることは温泉で何をしようか、ということである。枕元に転がっているパンフレットは既に何度も確認済みである。行く予定になっている旅館には、温泉はもちろんのことながら、露天風呂やゲームセンター、スポーツセンターなどもあるし、近くには温泉街もある。二泊三日という予定ではあるが、予定を立てていなければ、あっという間に時間が過ぎてしまうだろう、とアリサは考えていた。

 あっちに行こう、こっちもいいかもしれない、と考えているアリサだったが、親友であるすずかと翔太と一緒ならば、どこでも楽しいのだから問題ない、と思っている。だが、そんなアリサの気持ちに水を差すようにアリサの一部分が問いかける。

 ―――本当に?

 その自問自答が投げかけられたとき、アリサの心臓がドクンと大きく跳ねた。

 分かっている。分かっている。あの時から微妙に齟齬が起き始めたような自分たちの関係を。すずかが翔太のことが好きなのだろう、と推測し始めた頃から微妙に変わっている自分たちの関係だ。表面上は、自分たちの関係は、まったく変わっていない、と自分に言い聞かせるアリサだったが、すずかが翔太に感じている恋ってなんだろう? とすずかを観察していたアリサは、すずかのアリサと翔太に対する態度の違いをはっきりと感じていた。

 以前は、すずかの態度にアリサと翔太の間に明確の差はなかった。友人に対する態度。だが、すずかの態度には、明らかに優先順位は、翔太のほうが高くなっていることを感じていた。確かにアリサの読んだ本の中には、『恋は盲目』なんてことわざがあったものだが。

 ―――ショウもすずかに恋したらどうなるのかな?

 不意に思いついた、思いついてしまった疑問。アリサの優秀といえる頭脳は、ちょっと待って、と心が制止の声をかける前に答えを探してしまった。その答えを少しだけ覗き込んでしまったアリサは、もう一度、ドクンと心臓が先ほどよりも大きく高鳴り、背中につめたい汗が流れるのを感じていた。

 すずかと翔太がお互いに恋をして、お互いしか見えなくなれば―――その方程式から導き出される解は、極めて簡単なものだ。

 ―――アタシハマタヒトリニナル?

 嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だいやだいやだいやだ、とアリサは、その仮定を否定する。不意に思い出されるのは、あの友人が一人もおらず、ずっと一人だった小学校に入学する前の自分。あの孤独な時間に戻るのだけは絶対に嫌だった。

 ―――大丈夫、大丈夫、大丈夫。ショウは、すずかに恋してない。

 そう、すずかと一緒に翔太のことも観察していたのだが、翔太のすずかに対する態度はまったく変わっていない。すずかの変わった態度にやや戸惑っている感じはあるものの、アリサに対する態度も同じだし、すずかに対する態度も同じである。だから、大丈夫、大丈夫とアリサは自分に言い聞かせていた。

 だが、一度、ネガティブの方向に転がってしまった思考は、またしても最悪を想像してしまう。

 ―――今は、大丈夫かもしれない。なら、未来は?

 未来のことなど誰にも分からない。可能性ならば、いくらでも論じることができるだろうが、決まった未来を言い当てることは不可能だ。翔太がいつ、誰に恋するか、など分かるはずもない。もしかしたら、明日かもしれない、明後日かもしれない。あるいは、大人になってからかもしれない。相手は、すずかかもしれない。クラスメイトの女の子かもしれない。未来に翔太が出会う女の子かもしれない。あるいは、先日の昼食会に土足で入り込んできた高町なのはかもしれない。

 最悪を想像して、アリサはすっかり忘れていたなのはの存在を思い出していた。すずかだけではなく、もう一人翔太に恋する女の子。高町なのは。すずかをずっと見ていたアリサには彼女が翔太に恋していることを見抜いていた。だからこそ、許せなかった。

 自分たちの関係がおかしくなった切っ掛けは、翔太が高町なのはに付き合うようになってからだ。翔太の生活サイクルが変わってしまってからだ。アリサが読んだ本の中にもあった。失って初めて気づくものがある、と。すずかは、生活サイクルが変わってしまった翔太と会えない日々が続いたことで恋に気づいたのではないだろうか。ならば、もしかしたら、高町なのはに絡まず、翔太がずっと同じ生活を続けていれば、すずかは恋に気づくことはなかったかもしれない。こんな風に思い悩むこともなかったかもしれない。

 いくら、高町なのはと翔太の付き合いはゴールデンウィーク前で終わってしまうとはいえ、すずかの中に灯った感情が、なのはの中に灯った感情が消えるわけではない。だから、高町なのはは、翔太との付き合いが終わった後でも翔太に付きまとおうとするだろう。もしかしたら、それが原因となって、翔太が高町なのはに恋してしまうかもしれない。

 それだけは嫌だった。翔太はアリサの大切なたった二人しかいない親友だ。それが一ヶ月前に急に出てきた女の子しか目に入らなくなるなんて、考えただけでも最悪だった。ならば、相手がすずかならば、いいのか? と問われれば、それも嫌だと思う。また、一人になるのは絶対に嫌だったから。

 ならば、ならばどうすればいいのだろうか? どうなれば、いいのだろうか?

 アリサの優秀な頭脳は、解を探して、そして、あっさりと見つけてしまった。

 ―――ああ、そうか。簡単じゃない。

 アリサは自分で見つけた満足の行く答えに満面の笑みを浮かべた。

 ―――ショウが、あたしに恋すればいいんだ。

 そうすれば、すずかも翔太も一緒にいられる。あたしは一人じゃない。ずっと、三人一緒にいられる。

 その答えを出したアリサは、先ほどまで思い悩んでいたことが嘘のように晴れやかな気持ちになれた。そう、アリサが出した答えなら、アリサはまた一人にならない。ずっとアリサとすずかと翔太は一緒にいられる。そこに高町なのはの姿はないが、そもそも、彼女は一ヶ月だけの関係なのだから関係ない。

 ―――うん、うん。これでいい。これがいい……。

 先ほどまで思い悩んでいたことが解決して、アリサは急に眠気に襲われて、満足の行く解が得られていたため、それに抗うことなく、アリサは夢の世界へと誘われるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはの世界は、昨日とは色が違った。

 翔太と一緒にいる時間以外は灰色のように色あせて見えた景色が、今は眩しいぐらいに輝かしい。まるで、世界が違ったように。ああ、いや、確かに違ったのだろう。高町なのはの世界は一日で変化した。隣で寝ている蔵元翔太という唯一の友人を手にしたことで。

 なのはは、眠い頭を必死にたたき起こして、隣で寝ている翔太の顔を目に焼き付ける。なのはの唯一の友人の姿を。

 短い黒髪。整ってはいるが、何所にでもいそうな風貌で、あどけない表情で眠っている翔太は、なのはにとって掛け替えのない大切なものだった。彼の顔を見忘れることがないように、となのははじっと翔太の姿を目に焼き付けるように見つめる。

 どのくらいの時間が経っただろうか。なのはには分からない。翔太の顔を見ることは時間を忘れていられるから。少なくとも少なくない時間が経った後、翔太はゆっくりと瞼を開けて、寝ぼけ眼で起き上がりながら、なのはを見てきた。

 残念と思いながらも、なのはは、翔太におはよう、と挨拶を交わす。未だに寝ぼけているのか、翔太ははっきりとしない頭で返事を返してくれたが、やがて、頭も完全におきたのか、少し驚いたような表情をしていた。いつもはしっかりとしている翔太だが、寝起きの少し呆けた表情を見られてなのはとしては内心笑いながらも、いつもは見られない表情を見られて嬉しいかった。

 それから、なのはにとって夢のような時間が始まる。

 翔太と一緒に手を繋いでアースラの中を歩き、朝食を食べ、学校へ行く。これは本当に現実なのだろうか、とこっそり翔太に知られないように何度も夢ではないことを証明するために手をつねってみたのだが、そのたびになのはの手の甲には鋭い痛みが走り、これが現実だということを教えてくれた。それが嬉しくて、なのは手の甲の痛みに笑うという奇妙なことになってしまったが。

 しかし、そんな夢のような時間も少しで終わりだった。教室の前、翔太となのはのクラスが違うのだから別れるのは当然のことなのだが、それでももの悲しい気分になってしまう。今までくっついていたのだから尚のこと。そんななのはの気持ちを慮ってくれたのか、一緒のクラスだったらいいのに、と零したなのはに翔太は笑いながら慰めるように口を開いた。

「えっと、なのはちゃんも頑張れば一緒のクラスになれるんじゃないかな?」

 その翔太の言葉でなのはは、この学校のシステムを思い出した。上位三十名だけがなれる第一学級。翔太と一緒のクラス。運だけではない。ただの学力による力でもぎ取ることができるシステム。二年生の頃は、そのシステムの所為で第二学級に来た事実を知ってしまったなのはだったが、今はそのシステムに感謝していた。自分の努力次第では、翔太と同じクラスになれるからだ。

「うん、ショウくんと同じクラスになるために頑張るね」

「あ、うん。頑張って。僕も応援するから」

 嗚呼、嗚呼、となのはは朝から何度目か分からないほどに天にも昇るような気分だった。

 ―――ショウくんが応援してくれるっ!!

 それだけでやる気が先ほどの三倍だった。チャンスは、四年生に上がるときだが、絶対に同じクラスになるために頑張らなければならない。翔太の応援を無駄にすることなどできるはずがないのだから。だから、なのはは、いつもならサーチャーで翔太の教室を覗くことをやめて、苦手な国語の教科書を開きながら、漢字の書き取りを始めた。

 さて、朝の出来事からいつもよりも集中して授業を受けながらあっという間に過ぎてしまった午前中の授業。今は、昼休みで、お弁当の時間だ。なのはは幸いなことに翔太と昼食の約束を取り付けることに成功していた。待ち合わせ場所は昨日と同じ中庭。そこで、なのははお弁当を用意しながら、今か、今かと翔太を待っていた。

 そして、翔太が中庭に入ってきた気配。なのはは兄たちのように武術の達人ではないので生身の人間の気配を探ることなどできない。だが、魔法に関しては天才的な才能を持っている。故に、翔太を求めているなのはの本能が無意識のうちに翔太の魔力を感じ取っていたのだ。

 立ち上がり、翔太が見えるようにその方向を向いたなのはの視界に入ってきたのは、翔太とそれ以外の二人の女の子だった。どこかで見覚えがある顔。片方は親友を名乗る金髪で、もう片方はバケモノだった。

 ―――なに、それ。

 なのはが想像していたのは、翔太と二人だけの昼食だ。それ以外の誰も必要ではない。だからこそ、翔太がつれてきた二人の女の子は、なのはにとって邪魔者以外の何者でもなかった。しかも、よりにもよって、翔太の親友を自称する金髪と翔太を傷つけたバケモノなのだから、なのはの機嫌は決していいものではなかった。

 ―――消えてくれればいいのに。

 そう願うが、その願いが叶うことはなかった。もしも、翔太が見ていなければ力づくでも翔太と二人の昼食の時間を作るのだが、翔太が近くで見ている以上、それは無理だった。しかも、二人は翔太が連れてきたのだ。なのはの勝手にするわけにもいかなかった。

 仕方ない、我慢しよう、と思ったのは、昨日から幸せな時間が続いているなのはの甘さか。あろうことかなのはがバケモノと呼称している少女は、せっかく翔太のためにとっていた席の隣に座り、自分のお弁当のおかずまで勧め始めた。しかも、聞けば、そのお弁当は手作りらしい。それに対して自分は、確かにおいしいお弁当ではあるが、母親である桃子のものだ。果たして、どちらが勝者か。それはなのはには分からなかった。

 その日の昼食は、せっかく翔太との昼食なのにあまり楽しいとは思えなかった。

 くそっ、くそっ、と悪態づくが、終わってしまったことを悪態づいても仕方ないのだ。それよりも、なのはの意識は放課後へと向いていた。今日も翔太と一緒にジュエルシードの捜索だ。魔法の訓練でもいい。どちらにしても、翔太と二人の時間であることには代わりなのだから。それだけを思い、なのははお昼の出来事でささくれた自分の心を慰めていた。

 さて、なのはの予想通り、放課後はアースラで魔法の訓練とジュエルシードの回収が待っていた。翔太と一緒にいられうrのは十分嬉しいのだが、相変わらずいる邪魔者が余計だった。クロノ然り、武装隊の面々然りだ。魔法の訓練もなのはがいれば十分なのに。ジュエルシードの封印だって、なのはだけでいいのに。そう思うのだが、翔太がクロノは管理世界の執務官だから。武装隊は護衛が必要だよ、というのだから仕方ない。翔太が言わなければ、彼女は絶対に頷いていなかっただろうが。

 そんな日々が続いたある日、ついに最後のジュエルシードの回収が始まった。場所は海底。翔太の防御魔法によって覆われたまま海を潜るのだ。いつもは武装隊の面々が一緒だが、今日は本当に翔太と二人だけの空間。それがなのはにとっては本当に嬉しかった。

 ぽちゃんという音を残して、なのはと翔太を包んだ防御魔法が海に沈む。久しぶりに本当の意味で、翔太と二人だけの空間に立ったなのはの心臓はドクンドクンと自分の心臓ではないかのように高鳴っていた。封時結界と海中ということもあってだろうか、音もなく水面から差し込む明かりだけが辺りを支配していた。本当にこの世界はなのはと翔太の二人だけの世界であると見まごう空間だった。

 それが嬉しくて、自分の望みが叶ったようで、思わずなのはは口にしていた。

「なんだか、二人だけの世界みたいだね」

「そう、だね」

 そのなのはの言葉に答えた翔太の表情はどこか微妙だった。

 もしかして、翔太は自分と二人だけの世界は嫌なのだろうか。自分はこんなにも嬉しいのに。自分の歓喜の十分の一だけも伝えられたら、なのはがどれだけ喜んでいるか分かってもらえるのに、となのはは思ったが、いくらなんでもそれは無理だった。だから、なのはは直接聞くことにした。

「どうしたの? ショウくんは、こんなのは嫌?」

「う~ん、嫌というわけじゃないけど……寂しいよね」

「……そうなんだ」

 少し考えた翔太の答えを聞いてなのは考える。

 ―――嫌じゃない。つまり、ショウくんは、私と一緒にいるのは嬉しいんだっ!

 それだけでなのはの心は打ち震えていた。翔太がかつてのなのはよりもなのはを受け入れてくれているような気がして。あの本当の友人になった頃よりも親密になったような気がして。

 だが、それだけを喜んでもいられない。なぜなら、翔太は、それだけではなく、寂しいと口にしたのだから。

 その翔太の言葉からなのはは一つの結論を出した。

 つまり、なのはとショウくんの二人だけの世界になるには時期尚早なのだ。もっと、ショウくんがなのはのことを好きになって、親密になって、自分と二人だけになっても寂しくなくなれば、そうすれば、ショウくんだって、なのはと二人だけの世界になってもそんなことをいわなくなるだろう、と。ならば、なのはがやることは簡単だ。もっと、自分がショウくんを好きになればいい。そうすれば、ショウくんはもっと自分を好きになってくれるはずだ。だって、ショウくんは何もない自分と友達になってくれるぐらい優しいんだもん。

 なのはと翔太だけの二人だけの世界。それを夢想して、なのはは頬をだらしなく緩ませていた。

 そんななのはに翔太の声がかかる。

「さあ、さっさと片付けてしまおう」

 おっと、となのはは意識を戻す。どうやら海底についたようで、ジュエルシードを見つけたようだ。今は、まだ時期尚早ということが分かった。ならば、いつか、いつか必ず、と思いながらもなのはは今だけはジュエルシードに集中することにした。

 その日の晩、なのはは、ベットにもぐりこんで昼間のように頬を緩ませていた。

 今日の昼間の海底調査ですべてのジュエルシードを集め終わった。そのため、明日は簡単なパーティが開かれる。それが終われば、ようやくなのはは翔太と一人占めできる。お邪魔虫は次元の彼方へと行ってしまう。それが嬉しくて、なのはは頬を緩ませていた。

 ―――あ、明日のパーティは、ショウくんにお料理食べてもらう。

 バケモノが翔太に手料理を食べさせているのを見て、なのはは、それを羨ましく思っていた。どこかその行為に負けたような気がして。だから、なのはは、その日の晩から桃子に料理を習っているのだ。桃子は少し驚いたような表情をしていたが、それでもなのはに料理―――卵焼き―――を教えてくれた。最初は、砂糖の入れすぎななどで、焦がしていたが最近は、ようやく綺麗にできるようになっていた。

 ―――ふふふっ、ショウくん、おいしいって言ってくれるかな?

 いや、きっと言ってくれるだろう。彼は優しいから。翔太がなのはの料理を食べて、おいしいといっている姿や声はいくらでもなのはの脳内で妄想できる。だが、所詮、それは妄想に過ぎない。やはり、実際に言ってもらいたいものだ。だから、少しでも明日が早く来るようになのはは、今日はもう眠ろうと思い、部屋の電気を消したところで、不意に魔力を感じた。

 いつか感じたことがある魔力。それを感じた瞬間、枕元においていたレイジングハートを手に取り、即座にセットアップ。魔力の反応がある方向に杖先を向ける。杖を向けた瞬間、なのはの部屋が紫色の光で包まれる。その光の中からいつかの女性の声が聞こえた。

「こんばんは」

 なのはの部屋に展開される魔方陣。そこから出てきたのはいつかの再現。そう、なのはが魔女と呼んでいる女性の登場だった。

「約束どおり来たわよ。どう? ジュエルシードを渡してくれない?」

 対価は、翔太と二人だけの世界。

 以前なら、彼女の提案に飛びついていただろう。だが、今のなのはがそれに飛びつくことはない。既になのはにとって翔太は唯一の友人なのだ。もう翔太を疑うことはない。二人だけにならなければ、友達ではなくなると疑うことはない。だからこそ、彼女の提案に飛びつかない。いや、それどころか、彼女の提案は邪魔なものでしかなかった。なぜなら、二人だけの世界はなのはの中では時期尚早と出ていたからだ。

 だから、なのはは、警戒するように自分の周りにアクセルシューターを八つ展開した。

 それを見て、魔女の表情が歪む。

「それが答え? あなたは欲しくないの? 彼との二人だけの世界が」

「いらない」

 彼女の言葉に簡素な答え。しばし、にらみ合う二人。それは、魔女がなのはの意思を確認しているようにも見えた。

 やがて、魔女は、ふっと表情を緩ませると、諦めたように大きくため息を吐いた。

「はぁ、あなたが頷いてくれれば余計な労力は必要なかったのだけどね」

 魔女は、にぃ、と口の端を吊り上げるようにして嗤った。

「仕方ないから、もう一人の彼にお願いに行くことにするわ」

 その魔女の発した『彼』の部分にビクンと反応するなのは。まさか、まさか、まさか、と思う。しかし、ジュエルシードに関係した彼といえば、なのはは一人しか思いつかない。なのはは、嫌な予感がして、待てっ! と静止の声をかけようとした。だが、伸ばした手は届かず空を切るだけだった。また、転送の魔方陣でどこかへ移動したのだ。

 どこへ? 考えるまでもなかった。

 すぐさま、なのはは翔太の家にこっそりと配置しているサーチャーから映像を読み取る。そこに写ったのは、なのはの黒い敵とその使い魔、翔太。そして、先ほどまで自分の部屋にいた魔女と見知らぬ女性だった。なのはには二人が何かを言い争っているようにも見えた。

 ―――ショウくんっ!

 なのはから見ても、翔太が聞き危機に立たされていることは容易に想像できた。だから、すぐさま、なのははパジャマからバリアジャケットの聖祥大付属の白い制服に換装すると自分の部屋の窓を開け、星空が舞う夜空へと身を投げ出した。普通なら自由落下だろうが、なのはは、魔法使いだ。窓から飛び出したなのはは、そのまま靴に生やした羽を使って空をすごい速度で一直線に翔太の家へと向かって飛ぶ。

 その間も、サーチャーから送られてくる映像は、翔太の部屋の様子を映し出していた。

 チェーンバインドで拘束される使い魔。何かを叫んでいる黒い敵。そして、魔女の連れに捕まる翔太。

「ショウくんっ!!」

 飛びながら叫ぶが、それが翔太の部屋に届くはずもない。気だけが早るなのははレイジングハートに命じて、さらに速度を上げる。もうすぐ翔太の家に着くという前にサーチャーの映像は、なのはにとって最悪の場面を映し出した。

 翔太の首筋に衝撃がくわえられると、意識を失ったように項垂れ、そのまま、三人の姿が消えてしまう映像だ。

 なのはは、この映像を信じたくなかった。まさか、翔太が攫われるなんて。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、となのはは繰り返しながら空を飛ぶ。これが夢であればいいのに、とそう願いながら。そう、目が覚めたら自分の隣には、翔太がいて、おはようと自分に笑いかけてくれて、一緒に朝食を食べて、一緒に学校に行くんだ。

 だが、翔太の家についたなのはが目の当たりにしたのは、間違えようのない現実だ。

「あ、あ、あああ」

 なのはの口から絶望の色がついた声が漏れる。

 翔太の家についたなのはが、空いている窓から侵入した寝室で見たもの。それは、虚ろな瞳で倒れこんだ黒い敵。バインドされたままの使い魔。そして、もぬけの殻となってしまったいつも翔太が寝ている布団だけだった。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああああああっ!!」

 なのはの絶望に染まった絶叫が、ゴールデンウィークの夜空に響くのだった。


つづく





[15269] 第二十二話
Name: SSA◆ceb5881a ID:de8c662e
Date: 2010/08/12 19:25



「………っ。ここは?」

 僕が目を覚まして最初に発した言葉は、僕が現在寝転がっている場所についてだった。だが、当然、その問いに返ってくる答えはなかった。だから、仕方なく僕の五感で感じられる要素から予想するしかないのだが、それも不可能のようだった。

 僕が寝転がっている床は、まるで廊下のリノリウムのように冷たく、堅い。何時間、寝ていたか分からないが、それなりの時間を寝ていたのだろう、身体中が痛い。今は仰向けで寝ているわけだが、見える天井は高く、薄暗くて、天井が確認できなかった。いや、天井に光はないのだろう。周りが薄暗い緑色に発光している。

 さて、本当にここは何所なのだろうか?

 どうしてこうなったのか? 僕の記憶は意外にもはっきりしていた。端的に言ってしまえば誘拐されてしまったのだが、そのことへの心配はあまりなかった。これは、ここ一ヶ月の魔法やらなんやらの出会いで鍛えられたのだろうか。こんな状況に陥っておきながらも、自分でも大丈夫だろうか? というぐらいに落ち着いていた。むしろ、自分の心配よりも、ここに攫われる前のアリシアちゃんやアルフさんの状態のほうが心配なぐらいだ。

 さて、どうしよう? と僕は、仰向けに寝転んだまま考える。

 魔法は………使えないようだ。幸いなことに僕は、デバイスなしでも多少の魔法は使える。使えるといっても、プロテクションなどの初歩的な魔法なので、この場で役立つとは思えないが。魔法のプログラムはかけるのだが、魔力を通すシークエンスで失敗してしまう。魔力が拡散するとでも言うのだろうか。原因は……おそらく、首にある首輪のようなものか、後ろ手で拘束されている手首に巻かれた手錠のようなもののどちらかだろう。デバイスがあれば、なんとか、とは思ったが、就寝前を狙われたため、クロノさんから預かったデバイスを持っているはずもなかった。

 物理的に逃げ出す―――知らない場所で無闇に歩き回るのは危険だ。なにより、僕の両手は不自由極まりない。こうやって、仰向けになっている場合には、手が痛いぐらいで済んでいるが、逃げ出そうとしてこの建物の中を歩き回るにはやや不自由だろう。

 さて、本当にどうしたものか、といい加減仰向けになって寝ているのも手首が痛くなったので、腹筋と少しの反動をつけて起き上がった後、胡坐で座り込んだまま考える。

 座り込んだ状態で、首を回して周りを見渡してみると、最初の予想は当たっていたようで、天井部分にはまったく光がない。あるのは、周りの人が入れるほどのポットの中の水がエメラルドグリーンに光っているぐらいだ。それが部屋の一部を照らしており、やや不気味に思えた。

 どうしたものか? と考えても答えが出ないという結論を出した僕は、諦めて誰かが来るのを待っていようと、決めたところでそのタイミングを見計らっていたようにこつこつと足音を立てて誰かが奥からこちらに向かってきているのが分かった。

 足音がする方向に視線を向けていると、やがて影の中から姿を現したのは、僕も見覚えがある姿だった。

 全体を黒を基調としたドレスのような服に包まれた紫の髪の毛を肩先まで伸ばした女性。忘れられるはずもない。僕を攫った本人なのだから。そんな彼女は、影から姿を現したかと思うと、起きている僕を一瞥して、意外そうな口調で口を開いた。

「あら、もう起きていたのね」

 その言葉に僕はどんな返事をすればいいのか思いつかなかった。そもそも、彼女は、僕にとって見れば誘拐犯なのだ。そんな彼女から声をかけられて軽々しく返事ができるわけがないし、そこまで神経が図太いわけがない。しかしながら、アリシアちゃんにあんなことを言った彼女に怯えた顔を見せるのも癪だったので、僕にできた反抗は、彼女を睨みつけるぐらいだった。

 もっとも、彼女からしてみれば、子どもの戯言に近いことだったのだろう。僕が睨みつけたところで、彼女は特に反応した様子もなく、少し興味深げに僕を見た後、周りにあるシリンダーのようなものを一つ一つ点検するように見ていた。

 彼女の後姿を見ながら僕は考える。彼女の目的は何だろうか? 目的は僕のようだが、魔法を使うことを考えると、管理世界側の関係者なのだろう。ならば、管理外世界の住民である僕の重要度など低いはずだ。だから、僕には彼女の目的が分からなかった。いや、そもそも、彼女は誰なのだろうか。アルフさんの知り合いであろうことは伺える。そして、アルフさんが口にした糞婆という罵るような口調。

 ああ、そうか、と僕はアルフさんが、そんな口調で罵る唯一の相手を思い出した。

 ―――プレシア・テスタロッサ。

 アリシアちゃんの本当の母さんだ。

 アルフさんがあんなふうに嫌悪丸出しで叫ぶのは、プレシアさんぐらいしか思いつかない。アリシアちゃんと始めてであった日に事情を話してくれたアルフさんから考えてもおそらく間違いないと思う。あの時、アルフさんはアリシアちゃんに何か悲しいことがあって、絶望していたというが、僕が攫われる直前のようなことを慕っていた母親から言われれば、ショックも受けようというもの。

 しかし、そうなると、よくわからないのが、プレシアさんが口にした言葉だ。

 アリシアになれなかった、人形でもない、ゴミ。それらの言葉はすべてアリシアちゃんを保護した日の夜に最初に彼女が否定していた言葉だ。ならば、それらがプレシアさんから投げつけられたのは間違いないだろう。しかし、分からないのは、その原因だ。

 アリシアになれなかったとはどういう意味なのだろうか? 人形すらなれなかったとは?

 プレシアさんの言葉の意味を考えてみるが、僕が考えても意味がないことは容易に想像できた。なぜなら、その問いに答えるべき要素がまったく足りないからだ。だから、僕の妹があんなに取り乱した原因が知りたくて、気がつけば、僕はそのことを口にしていた。

「どうして、アリシアちゃんにあんな言葉を言ったんですか?」

 返ってきた返事は、ヒュンという高速で空気を切る音とパシンッという皮を叩いたような音と熱と痛みを持った頬だった。返事が返ってくることは期待していなかったが、まさか、鞭が飛んでくるとは思ってもみなかった。いつの間に手にしたのか、プレシアさんの手には黒い鞭が握られており、先ほどまでは無表情だった顔には、憤怒の表情が浮かんでいた。

「……坊や、あれをアリシアと呼ぶなと言った筈よ」

 その声は静かに、だが、確かに怒りを内包していた。だが、プレシアさんが僕に怒っているように僕だってプレシアさんには怒りを抱いているのだ。あんな風にアリシアちゃんを叫ばせた相手に好意をもてるか? といわれれば、答えは否だろう。

 だから、僕は頬の痛みもあまり気にせず、睨みつけるようにして言い返した。

「お断りします。僕にとって、彼女はアリシアちゃんだ」

「違うわっ! あれは、アリシアじゃないっ! あれは、だたのゴミよっ!」

 あんなに可愛い妹をゴミ呼ばわりされて怒らない兄がいるだろうか。僕は、おそらくこの世界で生まれて初めてというほどに彼女に怒りを抱いた。彼女も憤怒の表情で叫んでいるが、僕も負けじと叫んでいた。

「彼女がゴミなわけがないっ! 彼女はアリシアちゃんだっ!」

「違うっ!」

「アリシアちゃんだっ!」

 まるで、子どもの喧嘩のように叫ぶ僕たち。構図だけを見れば、ガルルルルとお互いに吼える犬のようなのだが、内心はマグマのように煮えたぎっている怒りで翻弄されている。だが、あれだけ怒っていたプレシアさんが、不意に力を抜いて、にぃ、と不気味に笑った。

「そうね、あなたは本当のアリシアを知らないから、そう言えるのよね」

 本当のアリシアちゃん?

 そんな疑問を僕は抱いたが、それを飲み込んで考えるだけの時間を彼女を与えてはくれなかった。

 彼女は、それだけを言うと、僕に背中を見せて、通路の奥に向かって歩き出した。僕について来いといっているのだろうか? と思ったが、そんな甘いものではなかった。

「うわっ!」

 背中を見せたプレシアさんを尻目に、彼女の言葉の意味を考えようとしたのだが、急に首が引っ張られ、プレシアさんが歩いていった方向に倒れこむ。よくよく見てみれば、僕につけられた首輪からプレシアさんに向かって伸びる紐が確認できる。まるで、犬のリードのように僕は引きずられているわけだ。一体、彼女の細腕にどんな力があるのだろうか? と問いたくなるほどに僕は仰向けのまま、床を引きずられていく。そこに僕の意思が介在する余地はまったくなかった。

 どのくらい引きずられたのだろうか。いい加減、首が痛くなってきた頃、ようやく彼女の足が止まった。僕は、引きずられていたせいで首に食い込んだ首輪の圧迫から解放され、二、三度咳き込んだ後、うつ伏せの状態から、背筋を利用して頭を上げた。

 僕が顔を上げて目にしたのは、通路の奥、まるで通路の終わりを示すようにひときわ大きなシリンダー。そのシリンダーを極上の宝石を愛でるように撫でるプレシアさんの姿。そして、そのシリンダーの中身は、エメラルドグリーンの液体をゆりかごにして眠る一人の少女の姿。その少女は、僕がよく知っている妹と同じ髪をしており、同じ顔をしていた。

「アリシア……ちゃん?」

 彼女の姿を目に入れた瞬間、僕はその姿が信じられず、脳で処理しきれる限界を超えて、考えていることが、そのまま口に出ていた。ただし、その声は自分で聞いておきながら、力がまったく感じられず、弱々しいものだったことは言うまでもない。それほどまでに僕は目の前の状況が信じられなかったのだから。

 だが、プレシアさんにとっては、僕の呟きは別の意味で捉えられたらしい。

「そうよっ! この子がアリシアよっ!」

 まるで自慢のおもちゃを自慢する子どものように目を輝かせながら、それでも、そのシリンダーの中身のアリシアちゃんを見つめる瞳は、優しい母親のように慈愛に満ちていた。

「アリシアは、あれよりももっと優しく笑ってくれたわ。我侭も言ったけど、それでも私の言うことを聞いてくれた。それに……アリシアは、私にもっと優しかったもの」

 恍惚とした表情で、愛でるようにシリンダーを撫でるプレシアさん。

 だが、僕の脳は、彼女の言ったことを理解できなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。

 アリシアちゃんと瓜二つな少女。姉妹という意味で似ている訳ではない。鏡のようにそっくりな二人。そんな可能性として考えられるのは、彼女たちが一卵性双生児である場合、つまり、双子である場合だ。しかしながら、その場合、彼女の言動に一貫性がない。アリシアちゃんが、目の前の少女の贋物という表現が合わないからだ。だから、双子ということはないだろう。

 ならば、他の可能性は? と僕の知識を探った結果、可能性として一つだけ考えられた。

「まさか―――」

 僕はその可能性が信じられなくて、思わず声を上げていた。

 ―――クローン技術。

 地球では禁忌とされる技術。いや、牛や羊ではすでに適応されているという話は聞いたことがあるが、人間に適応された例は聞いていない。倫理的にも色々考えなければならないからだ。僕も、この考えは馬鹿げていると思う。もしも、アリシアちゃんと目の前の少女が一緒に現れたとしたら、一番最初に考えた双子説が有力だと考えるだろう。

 だが、目の前の少女の状態が、後者の説を押していた。

 大きなシリンダーの中で眠るように漂う少女。不自然な点はいくつもあった。彼女は、なんの器具もつけずに水中を漂っている。人が水中で生活することができない以上、水中で漂うのならば、酸素を送り込む器具が必要だ。だが、彼女にはそれがない。仮に魔法の力で、あの液体に酸素が含まれており、呼吸をすることが可能だとしよう。だが、それでも、不自然なのだ。なぜなら、目の前の少女は呼吸をしていないのだから。

 通常、人間が呼吸をしている以上、胸が上下する。もっとも、体操座りのような体勢で、自らを包み込むように漂う少女の胸を見ることは不可能だが、それでも胸が動いていれば、水中である以上、少しぐらいは身動きしてもいいはずである。だが、彼女にはそれがない。

 簡単に言うと、おそらく彼女は生きてはいない。目の前にあるのは生命活動を終えた魂の抜け殻だった。

「……あなたは、一体何を望んでいるんだ?」

 思わず、僕は目の前の魔女に問いかけていた。

 いや、薄々ながら分かっているのかもしれない。なんとなくという予想はある。目の前の息をしていない少女。プレシアさんの言動から推測したアリシアちゃんの生まれた理由を考えると、判るような気がした。だが、それが信じられなくて、思わず僕は問いかけていたのだ。

 僕の問いを聞いた魔女は、嬉しそうに口の端を吊り上げて笑うと、大事を発表するように両手を広げて、宣誓するように声を上げる。

「何を望む? 決まっているじゃない。取り戻すのよっ! 失ってしまったこの子との時間をっ!」

「……バカな。そんなことできるわけがない」

 この子との時間を取り戻す? それが可能であるとすれば、この子を生き返らせるか、あるいは、時間を戻すことぐらいだろう。だが、いくら魔法とはいえ、そこまでのことができるのだろうか?

 そんな僕の疑問に答えるようにプレシアさんは、揚々と答えてくれた。その目は、まるで狂人のように狂気に支配されており、彼女の思考は唯一つのことしか考えられないようになっていることを、僕に教えてくれた。

「できるのよっ! そのために私はずっと研究を重ねてきたのだからっ! そして、もうすぐ、その願いは叶う。ジュエルシードとアルハザードによって」

 それを口にした後、プレシアさんは、目の前で眠るように漂うアリシアちゃんとの日々を思い浮かべたのか、堪えきれないように、くくくく、くはあっはっはっはっ! と笑い始めた。

 僕は突然、笑い出した彼女に呆然としながらも、彼女の言葉から彼女の目的を考える。ジュエルシードを求めていたのは知っていた。あれは願いをかなえるようなものだ。つまり、ジュエルシードに目の前のアリシアちゃんの蘇生を願うのか? いや、ユーノくんの言葉によると人の願いは確かに大きな力を与えるけど、どうしても歪曲した願いになってしまうと聞いている。それに、プレシアさんが口にしたのは、それだけではない。

 ―――アルハザード。

 その名前が示すものを僕は知らない。如何せん、魔法側の知識が低すぎるのが問題だ。しかし、彼女に直接問いかけても答えが返ってくるとは思えなかった。とりあえず、僕としては分かる分からないはともかく、知りたいことは知れた。

 そう、少なくとも、僕は僕自身の安全を確保しなければならなかった。今の会話でプレシアさんの目的は、ジュエルシードと分かった。これで、もしも、僕の身体なんかであれば、実験とかに使われて身の危険を感じなければならなかったが、目的がジュエルシードならば、少なくともアースラと交渉するまでは、僕の安全は確保されているだろう。人質は無傷でなければその価値を下げるのだから。

「プレシア」

 さて、僕にできることは、このまま大人しくしておくことか、と床に転がったままじっとしたのだが、しばらくした後、コツコツという床を叩く音の後、抑揚のない声がプレシアさんを呼んでいた。僕が引きずられた通路の奥から登場したのは、プレシアさんと一緒に現れていた猫耳の女性だった。

「準備が整いました」

「そう。分かったわ」

 先ほどまでの高笑いはどこへやら。真面目な顔になったプレシアさんは猫耳の女性と入れ違いになるように、僕の横を通って、通路の奥へと消えていった。

「大丈夫ですか?」

 そういいながら、僕を起こしてくれる猫耳の女性。僕は、彼女の突然の行動に驚いてしまい、思わずありがとうございます、と口にしていた。

 起こされて座ったままの僕と傍に立ったままの猫耳の女性。僕も彼女も話さないものだから、ひときわ大きなシリンダーの中で眠るアリシアちゃんの気泡が浮かび上がるボコボコという音だけが周囲を支配していた。誘拐犯と誘拐された身。とても気まずい雰囲気だった。しかし、それを感じているのは僕だけなのだろうか。佇む猫耳の彼女は、涼しい顔をして、僕の隣に立っていた。

 なんだか、緊張している僕のほうがバカらしくなって、力を抜き、不意に気になっていたことを尋ねてみようと思った。

「あなたが、アルフさんに魔法を教えたというのは本当ですか?」

「ええ、本当です。本来であれば、私はフェイトの教育係だったのですが、途中で使い魔になったあの子にも教えました」

「フェイト?」

 聞きなれない名前に僕が思わず問い返すと、彼女はやはり顔色一つ変えずに衝撃の事実を告げた。

「ええ、あなたがアリシアと呼ぶプレシアの娘であるアリシアを素体としたF.A.T.Eプロジェクトの成功体です」

「F.A.T.Eプロジェクト?」

「クローン技術と記憶転写を基にした生命プロジェクトの一つです。しかしながら、クローンとしての複製には成功しましたが、記憶の転写は上手くいかず、失敗に終わり、プレシアは彼女をフェイトと名づけました」

 あまりに驚くべきことの連続に思わず言葉を失って、絶句してしまう僕。

 僕の予想は、どうやら当たっていたようだが、嬉しくない。だが、これで、すべてが一つに繋がった。アリシアちゃんがうわ言のように言っていた贋物、失敗作という言葉の意味が。つまり、それらは、母親であるプレシアさんから投げかけられた言葉なのだろう。F.A.T.Eプロジェクトとしての失敗作、彼女の本当の娘であるアリシアちゃんの贋物という意味。先ほどの狂気に取り付かれたように娘を愛していたのだろう。蘇らせたいというほどに。彼女の願いをかけたプロジェクトが失敗したときの失望感はいかほどか、子どもをもったことがない僕には分からない。

 しかし、その絶望感は分からないが、自分で生み出したアリシアちゃんに責任を持たないのとは意味が違うだろう。いくら、彼女が望んだ結果とは異なるとはいえ、捨てていいものではない。ましてや、あんな状態になるまで言葉を叩きつけていいはずがない。クローンとはいえ、彼女は一人の人間なのだから。

 それを考えると、僕は一刻も早く、アリシアちゃんの隣に行ってあげたくなった。もっとも、この状況を打開しない限り不可能なのだが。

 しかし、僕単独では不可能だろう。誰かの助けがなければ、不可能だ。だが、果たして時空管理局の人たちは助けてくれるだろうか。僕を人質にジュエルシードを得るつもりだろうが、時空管理局の人にとって、僕にどれだけの価値があるのだろうか。

 少なくとも僕は彼らの言うところの管理外世界の住人だ。ならば、彼らが護る義務などなく、はっきり言ってしまえば、僕などは切り捨てられてもおかしくない存在だった。そう考えると、もしかして、このまま見捨てられるのではないか? という恐怖がこみ上げてくるが、リンディさんやクロノさんの人柄を思い出して、なんとかその恐怖心を追い出す。

 本当、僕はどうなるんだろう?

 そんなことを考えていたからだろうか。急に隣に佇んでいた彼女の猫耳がぴくぴくと動いた。何か、起きるのだろうか? と思ったのもつかの間、急に彼女が元の道を戻るように歩き出したかと思うと、それに釣られるように僕も首を引っ張られた。それは、まるでここに連れて来られるときに似ている。

 あの時も立たせることなく連れて行かれたが、今回も同じだ。歩けるのだから、せめて立ち上がらせて欲しいと思うのだが、首輪が引っ張られている以上、何も言うことはできず、僕は物のように引きずられながら、どこかへと連れて行かれるのだった。

 引きずられること数分、たどり着いたのは、ちょっと大きな部屋だった。視界の端に映ったのは木製の机だった。

『ショウくんっ!!』

 そして、引っ張られて連れて来られた部屋に響いたのは、ここで聞くはずのないなのはちゃんの声だった。その声に釣られて、前と同じように背筋を利用して顔だけ上げてみると、床から少し上の方に窓のように広がる大きなウインドウ。そのウインドウの向こうには、僕の姿を見たからか、安心していそうな表情をしているリンディさんやクロノさん、そして、心配そうななのはちゃんが映っていた。

「さあ、これで分かったでしょう。この子は無事よ。ジュエルシードを渡しなさい」

『待ちなさい。貴方はジュエルシードなんてロストロギアを何に使おうというの?』

 どうやら、先ほど姿を消したのは彼女がリンディさん、ひいては時空管理局の人と交渉するためだったのだろう。だが、交渉とは言っても警察のような時空管理局の人がそう簡単にジュエルシードという危険物を渡せるはずもない。だから、リンディさんが用途を聞いたりしているのは交渉。お互いの妥協点を見つけているのだろう。だが、そんな交渉がまどろっこしいのか、プレシアさんの顔には明らかな苛立ちが見え隠れしていた。

「……ごちゃごちゃ五月蝿いわね。大人しくジュエルシードを渡せばいいのよ」

 そういうとプレシアさんは、ちらっ、と猫耳の彼女のほうを一瞥していた。それに頷いたかと思うと彼女は、僕の方につかつかと近づいてくるのと同時に、後ろ手に回っていた両手の手首が一瞬だけ自由になり、そのまま天井から鎖のようなものでつるされた。まるで磔にされるように空中に浮かぶ形だ。

 突然の状況に、頭の処理が追いつかない。だが、状況は呆けることを許してくれず、僕よりも一歩間を空けて、目の前に立った猫耳の彼女は、まるでそれが自然な動作であるように右手を振り上げ、躊躇なく、それを僕の顔面に叩き込んできた。

 拳が命中すると同時に鋭い痛みが走る。

 殴られた衝撃にショックを受けながらも、僕の耳は窓枠の向こう側から悲鳴のような声と僕の名前を呼ぶいくつかの声が確認できた。どうして、殴られたか分からない僕は、え? え? と混乱するだけだったが、さらに状況は加速する。

 右頬の痛みが退く前に今度は、左の頬に痛みと熱。今度は左が殴られた? と疑問に思う暇もなく、次は腹部。右のわき腹、左のわき腹、また右頬、今度は鼻と次々に鋭い痛みが走り、キーンと耳鳴りのように鳴る耳は、やはり向こう側の悲鳴のような声を捕らえていた。

 しかも、目の前の猫耳の女性は、楽しそうでもなく、辛そうでもなく、作業のように無表情で、淡々と殴ってくるのだから、僕がどうして殴られるのか分からない。ましてや、僕はマゾといわれる人種でもないので、痛みに快楽を覚えるわけでもなく、自分が悪いわけでもないのに、ごめんなさい、と謝りたくなってきた。

 まるでサンドバッグのように殴られる僕だったが、不意にぴたりと痛みがやんだ。どうなったんだ? と思うが、目の上が腫れているのだろう。はっきりと目の前の状況を見ることができなかった。しかし、これで殴られなくなった、という安堵のためだろう、一気に気が緩んでしまった。

 どさっ、という音と共に倒れる僕。床に転がされるような形になるが、リノリウムのような床のひんやりと冷たい感覚が、殴られて熱を持っている僕の肌には優しく感じられた。

 どれだけそうしていただろうか、またしても首が引っ張られる。

 顔を上げると、僕を無表情に僕を見てくる猫耳の女性。また、殴られるのか? と恐怖を覚えていたが、彼女が口にした言葉はそうではなかった。

「行きますよ」

 どこに? という問いも許されず、ずるずると引っ張られる。もはや身体中の痛みから反抗する気力もなく、ずるずると引きずられる。成すがまま成されるがまま、引っ張られた僕が連れて来られたのは大きなホールのような場所。そこの中心に彼女が立つと僕たちの周りは、黄色い光に包まれた。

 魔法? と思ったが、次の瞬間には周りの風景が一変していた。こういう魔法に僕は心当たりがある。転送魔法だ。つまり、僕はどこかに連れて来られたのだろうか? だとすると、どこに? と疑問に思う間もなく、聞き覚えのある声が僕の耳を打った。

「ショウくんっ!!」

 間違いではなければ、その声はなのはちゃんのものである。ならば、ここはアースラなのだろうか? そう思い、痛む顔を上げて少しだけ頭を上げてみると、リンディさんがジュラルミンケースのようなものを猫耳の女性に渡していた。その顔は、苦虫を潰したように渋いものだった。

 だが、その表情に気づいているのか、気づいていないのか、猫耳の女性は、淡々とそれを受け取り、丁寧にもペコリと頭を下げるとまたしても、先ほどと同じように黄色い魔方陣に包まれていた。今度は、僕を連れて行くことなく、一人で姿を消した。

「ショウくんっ! 大丈夫っ!?」

 彼女が姿を消すと同時に駆け寄ってきたのは、なのはちゃんだ。しかも、制服姿のまま。いや、もしかしたら、それはバリアジャケットなのかもしれないけど。僕の視界からは、涙をボロボロと流しながら、オロオロと心配そうに僕を見つめるなのはちゃんが見えた。

 心配かけちゃったなぁ、と思いながら、少しでも彼女の心配が収まるように痛む顔で、無理矢理笑みを作る。

「あははは……、ちょっと身体中が痛いかな」

 笑っているが、冗談抜きで本当に痛い。おそらく、猫耳の女性は一切手抜きをしなかったのだろう。本当に容赦なく殴ってくれたものだ。それを少しサッカーで遊んでいるぐらいの小学生が受けたのだ。痛くないわけがない。むしろ、骨が折れていないか気になる。

「えっと、えっと……そ、そうだっ! 病院っ! 病院に行かないとっ!!」

「いや、それよりも、僕のほうが早いよ」

 なのは、ちょっとずれて、となのはちゃんを少しだけ横にやって入ってきたのは、ハニーブロンドの髪を持つ男の子であるユーノくんだった。彼が僕に手をかざすと緑の魔力光が僕を包み、少しずつ痛みが引いてきた。

「回復魔法だよ。専門の人に比べると回復力は低いけど大丈夫だと思う。今、クロノが、医務室の人を呼んでるから、少しの間、僕の魔法で我慢して」

「いや、十分だよ。ありがとう……さっきよりも、かなり痛みが引いてきた」

 少しだけ余裕ができた僕は、周りを見渡す。確かにここはアースラの内部で、先ほどジュエルシードと思えるジュラルミンケースを渡していたリンディさんは小さな窓枠を見て何か指示を飛ばしていた。おそらく、プレシアさんを追うために指示しているのだろう。まさか、そのままジュエルシードを渡すわけがないのだから。

 ユーノくんの魔法のおかげだろう。かなり痛みが引いてきて、僕以外のことにも注意が向けられる余裕ができたとき、アリシアちゃんはどうなったんだろう? と思い出した。彼女は、プレシアさんが現れたとき、あんな状態になっていたのだ。どうなったのか、と気になるのは当たり前のことだろう。

「ねえ、そういえばアリ―――」

 彼女の行方を傍で治療してくれているユーノくんかなのはちゃんに聞こうと思ったのだが、その途中で、突如、ガタガタガタとアースラ船内が揺れる。

「エイミィっ! 状況報告っ!!」

『艦長っ! 小規模の次元震ですっ! 震源は、時の庭園内部っ!!』

「―――まさかっ! ジュエルシードを使って? でも……なら、彼女の目的は?」

 突然、地震のように揺れた艦内は慌しくなり、近くで指示を飛ばしていたリンディさんが慌てたような表情でエイミィさんに状況を確認していた。その内容を細々と聞いていた僕は、リンディさんの独り言も聞いていたのだ。そして、あの場所で聞いた彼女の目的を口にしていた。

「アルハザード……彼女はそういっていました」

 僕が伝えた言葉にリンディさんは、驚いたような表情をする。

「本当なのっ!? 翔太くんっ!!」

 鬼気迫るというような感じでリンディさんは近づいてきて、僕に問いただしてきた。

「え、ええ。そこで、アリシアちゃんとの時間を取り戻す、と」

 僕には意味のわからない単語の羅列だったが、リンディさんたちのような魔法の知識を持っている人からしてみれば、意味の通じる単語だったのだろう。僕の言葉を聞いたリンディさんは慌てたようにエイミィさんに再び指示を飛ばし、次に別のウィンドウを広げてクロノさんに指示を飛ばしていた。

 その形相からして、かなり緊急事態だということが分かった。

 こんな事態で、僕に力があれば、手伝えるのだが、と思うが、生憎ながら僕程度の力では足手まといになることは明白だった。そもそも、痛みが引いてきたとはいえ、僕はけが人なのだし。

「翔太っ! 大丈夫か?」

 今度はクロノさん。ようやく痛みなしで動かせるようになった首を動かしてみると、後ろに二人ほどの局員さんとストレッチャーのようなものを引き連れてクロノさんの登場だった。

「すまない。僕たちが油断したせいで、君に痛い思いをさせてしまった」

「いえ、僕なんて予想できなかったでしょう」

 そう、今でも僕は分からない。時空管理局にとって僕など管理外世界の住人であるのだから、一番価値が低いはずである。限られた人員しかない彼らが僕にまで気を配るのは不可能だろう。まさか、と突かれた形になってしまった訳だ。

「すまない。謝罪は改めてだ。後のことは任せてくれ。君は、医務室で十分に傷を癒してくれ。そこに君のご両親とアリシアがいる」

「ああ、そうですか」

 よかった、と安堵した。どうやら、アリシアちゃんはここに運ばれていたようだ。もっとも、普通の病院に運ぶには少々、問題がある子だったが。

 そんなことを考えている間にも、僕は局員の人によってストレッチャーのようなものに寝かされていた。このときには既にユーノくんの治療は終えており、僕自身も痛みはかなり引いていた。僕の隣に寄り添うように近づいてきたのはなのはちゃんだ。彼女の表情は相変わらず心配そうにしており、晴れていない。

「なのはちゃん、僕はもう大丈夫だよ」

「本当?」

 それが本当だということを証明するように僕は、今度は痛みに耐えることなく、うん、と笑顔で応えた。それを見て少しは安心したのか、なのはちゃんは、泣きはらしたであろう赤い目を持った顔を心配そうな表情から少し笑顔に変えてくれた。

 やっぱり、女の子の顔は、泣いている顔よりも笑っているほうが思うのは、僕が男の子だからだろうか。

 何はともあれ、これで一安心と思ってしまったのが拙かったのだろうか。安心してしまった僕に強烈な眠気が襲ってきた。おそらく、寝る前だったこと、向こうで緊張していたこと、色々な要員が重なったためだろう。

 だが、急に眠気に襲われた頭を何とか鞭打って、なのはちゃんに何とか最後の言葉を言う。

「ねえ、なのはちゃん、ちょっと眠くなったから、少し寝るね」

「うん、分かった。ショウくんは、ゆっくり休んでて。大丈夫だよ。私がちゃんとやっておくから」

 半分寝ぼけていた僕はなのはちゃんの言葉の意味を理解することができなかった。もはや、意識は半分ほど夢の中なのだから。だから、僕は、なのはちゃんの言葉に曖昧に頷くことしかできなかった。

 そして、なのはちゃんの笑みを納めた次の瞬間には、僕の残り半分の意識すら夢の世界へと誘われるのだった。



  ◇  ◇  ◇



「んっ……」

 次に目を覚ましたときに最初に目に入ったのは、親父の顔だった。目覚めとしては最悪だ、と思ってしまうのは、男の子ならば、仕方ないことだろう。まだ半分寝ぼけたままの頭で、どうにか上半身を起こすと周りを見渡して、ここがアースラの内部であることが分かった。おそらく、クロノさんが言っていた医務室だろうということは簡単に予想できた。

「おっ、目を覚ましたか」

 ショウが、目を覚ましたぞっ! と誰かを呼ぶ親父。その正体はすぐに分かった。パタパタと駆けるように寄ってきたのは、ふわふわの髪を持つ母さんだったからだ。

「ショウちゃんっ! 無事で、よかったわっ!」

 僕の両親はあのリンチのような場面を見ていないのだろうか。実は、リンチで怪我だらけでした、なんていうと母さんは泣きそうだから、僕は黙っておくことにした。

「アリシアちゃんも、全然目を覚まさないし、ショウちゃんまで目を覚まさなかったら、と思っていたのよ」

 だが、どうやら僕の気遣いは無駄だったらしい。すでに母さんは泣いていた。母さんの涙を見ると、申し訳なさがこみ上げてきて仕方ない。

「ごめんなさい」

「いいのよ。あなたが無事なら」

 そういって、抱きしめてくれる母さん。母さんの胸の中で安心してしまうのは、僕の体がまだ子どもだからだろう。この甘い匂いに安心してしまううちはまだ子どもなのだろう。だが、まあ、今はそれでもいいか、と思うことにする。

 傍からみれば、感動の再会なのだろうが、いつまでもこの甘さに浸っているわけにはいかない。僕よりも母さんには寄り添ってもらわなければならない子どもがいるからだ。

「ねえ、母さん、アリシアちゃんは?」

「え? そこで寝てるわよ」

 母さんの視線の先には、いつもツインテールにしている髪を下ろしたまま横になっているアリシアちゃんの姿があった。僕は、ちょっと、と言って母さんの腕を解くと、患者用のベットから降り、彼女のベットの隣に立つ。そこから見る彼女の顔に生気はなかった。虚空を見つめる瞳に生きる気力がまったくと言っていいほどなかった。

 無理もないかもしれない。人は、自分がどこに立っているか分からずに生きていけるほど強くない。だから、家族を、他人を求める。今の彼女は、唯一の家族であったプレシアさんからすべてを否定された形で、存在意義を見失っているのだろう。だが、それは間違いだ。彼女は既に手に入れているのだから。

「ねえ、アリシアちゃん。僕は、君の事を知ったよ」

 僕の言葉に反応したのか、ピクンと肩が動く。反応してくれただけ、まだ救いがある、と思い僕はさらに続けた。

「でも、そんなことは関係ないよ。君は、アリシアで、僕の妹なんだから」

「妹?」

「そうだよ。アリシアちゃんが、あの人から、贋物といわれても、失敗作といわれても、アリシアちゃんじゃないと叫んでも、僕は、君をアリシアちゃんだと叫ぶし、君が僕の妹であることも絶対に否定しない」

 今までピクリとも動かなかったアリシアちゃんの首がゆっくりと僕のほうへと向いた。その瞳には少しだけ光が戻っているような気がする。

「でも、私は……ゴミって言われたんだよ」

「それでも、君は僕の妹だ。アリシアちゃんだ。母さんにも僕にも甘えて、アキの面倒を見てくれるお姉さんで、蔵元家の長女だ。それは絶対に誰にも否定させない」

 僕の手は自然とアリシアちゃんの頭へと伸びていた。そして、ゆっくりと優しく彼女の頭を撫でながら子どもに言い聞かせるようにできるだけ優しい声で言う。

「ねえ、だから、何も不安がることないんだよ。誰がどんなに否定しても、僕は否定しない。君がアリシアちゃんであることも、僕の妹であることも。君は、安心して、ここにいていいんだ」

 そう、彼女は、自分のすべてが否定されて、立ち位置が分からなくて不安で、不安で、その不安に押しつぶされてしまっていた。ならば、彼女を安心させる術は、一つしかない。彼女を肯定してあげればいい。確かな立ち位置を示してあげればいい。それだけで、彼女はきっと安心できるだろうから。

 やがて、撫でられるままだった彼女は、まだ不安が残る瞳でまっすぐに僕を見つめながら問う。

「本当に? 本当に私は、ここにいていいの?」

「もちろん、アリシアちゃんは僕の妹だからね」

 そうやって、断言してあげることでようやく彼女は安心したのだろう。彼女の瞳の中から不安の色はようやく消えて、僕の家で浮かべていた向日葵のような笑みを浮かべてくれた。

「うんっ!」

 その表情を見て、ああ、よかった、と安堵する。僕の中では既に彼女は妹のような存在だったらしい。一週間も一緒の家に住んで、一緒に寝たりすれば、当然なのかもしれないが。だからこそ、失うことは考えられなかった。もしかしたら、僕は彼女にお礼を言うべきなのかもしれない。僕の妹という立ち位置を受け入れてくれて、ありがとう、と。いや、それは正確ではないのかもしれない。なぜなら―――

「そうよ、アリシアちゃんは、私の娘なんだから」

「俺の娘でもあるがな」

 いつの間に僕の背後にいたのやら、母さんと親父が似たようなことを言う。

 そう、正確に言うと、僕の妹という立場ではない。蔵元家の家族とでもいうべきだろう。

「アリシアちゃん」

「ん?」

「ありがとう」

 だから、僕は、その感謝の意を精一杯こめて、彼女にありがとうと告げた。僕の言葉を聞いて、最初はきょとん、としていたアリシアちゃんだったが、やがて、笑顔のまま、うん、と精一杯頷いてくれた。もしかしたら、分かっていないのかもしれない。だが、それでもいいと思った。無理に理解する必要なんてないのだろうから。彼女が僕の妹である限り、これからも何度だってこの言葉を口にする機会はあるだろうから。

 そして、それは、さて、と、と一息ついた瞬間を狙ったように起きた。突然の揺れ。また、次元震か? と思うのと同時にしがみついてくるアリシアちゃんの身体を護るように抱き寄せる。

 その揺れは、僅か数秒のこと。落ち着いたところで、一体どうなってるんだ? と思ったが、医務室に情報が降りてくるはずもない。ただ、周りには所狭しとモニターがあることにはあるのだが。どれか一つでも映らないだろうか、と思っていると僕たちの傍にある一台のモニターが僕の願いを受け取ったように急に電源が入って、何かを映し出していた。

「なんだ? これは」

 そこに浮かんでいたのは、まるで島のようなもの。それが、どこかの空間に浮かんでいた。

「あ……」

 まるで、何かを思い出したように呟くアリシアちゃん。これは、何? と尋ねようとしたが、事態は、そう簡単にそんな時間を与えてくれなかった。僕がアリシアちゃんに問う前にモニターに変化が起きたからだ。まるで、島全体を下から上に槍で貫いたように走る一条の光。それを起因として、島全体がボロボロと壊れていく。その光景を食い入るように見つめるアリシアちゃん。

 そして、彼女は、ポツリと一言だけうわ言のように漏らした。

「さようなら、母さん」

 それは、アリシアちゃんのプレシアさんとの決別なのだろうか。ただ、アリシアちゃんが呟きながら僅かに流した涙が、すべてを物語っているような気がした。だから、僕は何も言わず、彼女を抱き寄せた。君は一人ではない、と伝えるために。君の居場所は、ここにもある、ということを伝えたくて。

 僕の伝えたいことが伝わったのか分からないけど、アリシアちゃんは、僕に抱き寄せられて少し驚いたような表情をしていたが、すぐに今まで見せてくれた笑顔の中で一番輝いている笑みを見せてくれるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 その日、海鳴の海岸には数多くの人間が集まっていた。誰も彼もが、鉄板で焼かれた肉や野菜を手にとって談笑している。中には地球産のビールは、ミッドチルダと違う、と言いながら何本も飲んでいる兵が居た。

 今日は、ジュエルシードの事件が終わった後の打ち上げだ。事件が終わって一日しか経っておらず、後処理が色々残っているが、昨日の事件は、それなりにアースラの乗務員の面々に疲労を与えたらしく、これからの英気を養うためとして、打ち上げを行っているのだ。

 それで、大丈夫なのか? と思ったが、昨日の次元震の影響でしばらくは彼らも帰られないから時間は十二分にあるとクロノさんが教えてくれた。

 そんな打ち上げは、海岸でのバーベキュー大会だ。人数が人数なだけに相当数の鉄板や食材が必要だったが、そこは、月村家が後援してくれている。参加者にはなのはちゃんの家族や僕の家族も参加している。月村家からは、すずかちゃんも来るかと思ったけど、今日は忍さんだけらしい。

「ねえ、ショウくん、このお肉焼けてるよ」

 そういいながら、お皿に大量の肉を持ってきたのは、なのはちゃんだった。後から聞いたことなのだが、なのはちゃんは、僕を看た後、なんと、あの時の庭園という場所に手伝いとして時空管理局の面々と突入したらしい。もっとも、彼女の魔力の関係もあり、お手伝いというよりも、むしろ、主戦力として働いたらしいが。

 危険なことを……、とも思ったが、なのはちゃんの助力がなければ、次元震に巻き込まれて地球はなかった、といわれれば、文句もいえなかった。結果よければ、すべてよし、というが、その感覚に近いのだろう。

「お兄ちゃんっ! 私も持ってきたよ」

 そういいながら、お皿からこぼれそうなほどに野菜や肉を持ってきたのはアリシアちゃんだった。

 アリシアちゃんが体調が回復したのは喜ばしいことだ。フェイト、という名前で恐慌状態に陥るかどうかは、まだ試していないが、わざわざ、恐慌状態に陥るかどうか、と試す必要はないだろう。ちょっとした失敗程度では、アリシアちゃんが取り乱すこともなくなった。僕たちの言葉で彼女の立ち位置がしっかりしたものになって安定したというのであれば、喜ばしいことだ。

 さて、アリシアちゃんとなのはちゃん。年も近いこの二人。せっかくの機会だから、二人とも仲良くしてくれれば、と思うのだが―――。

「……私がショウくんに持ってきてるんだから、あなたが持ってきたのは要らないよ」

「ふんっ! お肉ばっかりじゃ、ダメだもんっ!」

 ガルルルル、と威嚇するような声が聞こえそうなほどににらみ合う二人。

 僕の考えは、脆くも崩れ去ってしまっていた。二人が顔を合わせたときから何かを張り合うように、仲たがいするようにお互いを挑発し、威嚇しあう。今日であったばかりなのにどうして、こうやって仲たがいできるのだろうか? と考えるが、この騒がしい状況の中、考えがまとめられるはずもなかった。

「ショウくんっ! はい、食べてっ!」

「お兄ちゃんっ! こっちのほうがおいしいよっ!」

 同時に差し出されるお箸。

 どちらかを選べというのだろうか?

 僕は助け舟を求めるために母さんや親父、リンディさん、クロノさん、エイミィさんという大人の面々に懇願するように顔を合わせてみるが、彼らは微笑ましいものをみるような目でこちらを見ており、助け舟を出してくれる気配はなかった。

 はぁ、この事態どうやって収拾つけようか、と僕は悩む。

 現状、切り抜けるにはかなり労力が必要とする状況ではあるが、何はともあれ、一ヶ月にも及ぶこのジュエルシード事件は、こうして幕を閉じたのだった。



 無印 おわり

 A'sへつづく












あとがき

 というわけで、無印 表 おわりです。裏が二話ぐらいになるかもしれませんが、それで完全におわりです。
 さて、無印が終わると外伝ちっくなものを書こうと考えていますが、読んでみたいシーンとかありますかね?
 絶対に書くっ! とはいえませんが、それはっ! とくれば、書きますので。

 では、裏のなのはさんをお楽しみに。



[15269] 第二十二話 裏 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/08/15 00:41



 アルフがリニスのバインドから抜け出したのは、プレシアが姿を消した五分後のことだった。

 熟練者のバインドであれば、強制的な解除など不可能に近い拘束魔法を五分で破壊したのだから、アルフとしては誇るべきことなのかもしれない。もっとも、これはリニスがアルフの師匠であり、魔法のプログラムを知っていたからこそ、できた芸当である。もし、他の魔導師のバインドならば、倍以上かかったかもしれない。しかし、いくら師匠の魔法でプログラムを知っているからといっても、五分という時間は快挙である。

 しかしながら、それを誇るような余裕をアルフは持ち合わせていなかった。

「フェイトっ!!」

 彼女がフェイトと呼ばれると情緒不安定になることも忘れて、アルフは心配そうな表情を浮かべてフェイトに駆け寄った。

 倒れこんだフェイトを抱きかかえるアルフ。見た目の上では、外傷は見当たらない。だが、その心の中までは分からない。フェイトは何も映さない虚ろな瞳で虚空を見つめているのだから。まるで生きることを放棄したようにフェイトは、アルフが呼ぶ名前にも何も反応しなかった。これでは、まるで生きた人形のようだ、とあの思い出したくもない糞婆の言葉を思ってしまった。

 そんなバカな考えを頭を振り、追い出しながら、次の行動をアルフは考えていた。

 フェイトのことは気がかりだ。このままにはしておけない。だが、それと同じぐらいに気になるのは、翔太の行方だ。どうして、プレシアが翔太を誘拐する必要があったのか、アルフには分からない。確かに翔太は、プレシアが欲していたジュエルシードを集める手伝いをしていたが、それだけだ。ジュエルシードそのものを持っているわけでも、ジュエルシードを管理している時空管理局にとって重要な人物であるわけでもない。翔太を誘拐したところで彼らに何も旨みがないはずなのだ。

 そして、最後に気になるのはバインドを解く直前に聞こえた叫び声だ。あの声は忘れもしない。あの白い魔導師―――高町なのはのものである。少し気になったアルフが窓の向こう側を見てみると、そこに佇んでいたのは、白いバリアジャケットに身を包まれ、幽鬼のように薄い存在感で宙に浮かんでるなのはの姿だった。もしも、アルフが魔法の存在を知らなければ、今のなのはを幽霊と勘違いしていてもおかしくはない。

 見開かれた瞳は、虚空を見ており、その小さな口からは、何かをぶつぶつと呟いているように思える。口の形から察するに翔太の名前を呼んでいるようにも聞こえた。

 ―――まさか、プレシアが誘拐するところを見たのかい?

 それは、なのはにとってどれだけの衝撃か、アルフには分からない。ただ、日頃の様子を伺っていれば、彼女が翔太になついているか分かる。それに、彼女と最初の接触で、敵に回ったフェイトをあれだけ痛めつけた少女なのだ。今は、翔太が誘拐されたショックで呆然としているような気がするが、彼女が正気に戻ったとき、どうなるか、アルフには想像がつかなかった。

 ―――あの糞婆、虎の尻尾を踏んでいきやがった。

 いい気味だ、と思うアルフの聴力に優れた耳が、先ほどの物音を聞きつけたのだろう、この部屋に近づいてくる翔太の母親の声を捕らえていた。段々と声が近づいてくるところから考えるに彼女は、この部屋に近づいているようだった。

「さて、どうやって、説明したもんかね?」

 今のフェイト―――アリシアの状況。窓の外のなのは。そして、翔太が誘拐された事実。

 それらを翔太の両親に説明しなければならないということを考えて頭が痛くなるアルフだった。



  ◇  ◇  ◇



 リンディ・ハラオウンに翔太誘拐の一報が入ったのは、事件が起きた三十分後だった。それを早いと見るか、遅いと見るかは人によるだろうが、なのはに渡していた緊急用のデバイスを使ったアルフの報告により、艦内は騒然としていた。

 当然といえば、当然だった。なぜなら、ジュエルシードは既にすべて収集しており、20個のジュエルシードはアースラの艦内にあるのだから。プレシアがジュエルシードを欲しており、フェイトという手駒を送り込んできていたことを知っていたため、収集が終わった今でも第二種警戒配置にはしているが、それは収集し終えたアースラを襲撃するのではないか、という考えに基づいた警戒であり、翔太やなのはに関する警戒ではない。

 だから、誰もが予想外の一報に慌てたのだ。そして、それはリンディも同様で、なのはのデバイスを使って通信してきたアルフを見たときは、フェイト―――アリシアに関して何かあるのか? 程度にしか考えていなかったのに突然、翔太がプレシアに誘拐された、などと聞かされれば、驚いてしまうことも仕方ないことだろう。艦長席で、リラックスしながら、砂糖が飽和量限界まで入った緑茶を飲んでいたリンディが、漫画のように緑茶を噴出さなかったのは、女性のたしなみ故だろう。

 こほっ、こほっ、と咳き込みながらもアルフの一報を聞いたリンディは、その情報の確証を取り、すぐさま艦内全域に第一種警戒態勢―――戦闘配備を発令した。行動は、翔太の誘拐という不可解なものではあるが、今回の事件の中核であるジュエルシードを狙うプレシアが動いたのだ、一当てあると考えるのが当然だろう。

 第一種警戒態勢に騒然となりながらも、各部署に連絡を取りながら動く管制塔と整然と動く艦内を心強く思いながらリンディは、管制塔の一番上に備え付けられた艦長席に身を沈ませる。半分ほど減っている先ほど飲んでいた緑茶の湯飲みを手に取り、少しだけ冷めた緑茶を口にしながらリンディは考える。

 ―――プレシアの目的はなに?

 それは、当然のことながらアルフが考えたことと同様のことだ。

 翔太という手札を手中に収めたプレシアだが、そのカードはアースラにとってエースでもなければ、ジョーカーでもない。つまり、こちら側にとって切り札足りえないのだ。確かに子どもで地元住民ということを考えれば、できるだけ巻き込みたくない類の人間だが、管理内世界の人間に比べれば、優先度は下がる。

 もっとも、翔太の重要度が高かろうが、プレシアの要求に乗ることなどできやしない。なぜなら、それが弱みになるからだ。アースラだけではなく、時空管理局全体の。一度、犯人の要求に屈してしまえば、それは汚点で終わってしまう。他の犯罪者がもしかしたら、自分でも、と思ってしまえば最悪だ。ダムに空いた小さな穴のようなアースラのたった一回の行動で、時空管理局全体が瓦解してしまうかもしれないのだ。それだけは避けなければならない。だから、アースラは決してプレシアの要求に応えることはないだろう。

 ―――それはプレシアも知っているはず。ならば、なぜ?

 覚えている限りの過去の誘拐事件等の調書等から動機を推測してみるが、しばらく考えた後、リンディは、プレシアの動機を推測することをやめた。考えても仕方ないと言うことが分かったからだ。そんな中、確信していることが二つある。

 一つは、少なくとも誘拐された翔太が危害を加えられることはないということだ。誘拐という事件の特性上、人質の安全は絶対だ。誘拐事件にとって人質というファクターは、交換するものという最重要なもので、それに危害が加えられれば、せっかくの人質も意味を成さないからである。魔法が実在する以上、変身魔法や幻惑魔法等の心配も考えられるが、前者は本人しか知らないことを聞くのが当たり前になっているし、後者に関しては、映像を介した場合、揺らぎが発生するため、やはり見破る事が可能だ。

 そもそも、通常、誘拐というのは綿密な計画の下に成り立っている。殺害するということは、確かに証拠を残さない上では、有効な手段かもしれないが、取り返しがつかず、ばれてしまえば、綿密な計画のために浪費した時間と金が水の泡になるのだ。よって、人質は基本的に傷つけないのが管理世界でも主流ではある。

 もう一つは、焦らなくても、いずれプレシアのほうから連絡を取ってくるということである。彼女が欲しているのは、アースラの艦内にあるジュエルシードだ。それを交換するための交渉を行うためには、必ずこちらとコンタクトを取らなければ、始まらないからである。こちらから連絡を取る手段がない以上、彼女からのコンタクトを待つしかないだろう。

 ちなみに、プレシアのアジトと考えられる時の庭園だが、アルフから聞き出した直後にその座標を調べたが既にその座標には何もなく、別の座標に移ったと考えたほうがいいだろう。そのため、こちらからはプレシアからのコンタクトを待つしかない状況だ。

 その際、何が起きても大丈夫なように艦内全域に万全の準備をするようにという通達を終えたリンディの元に一つの通信が入る。

 どうやら、アルフ、アリシア、なのは、翔太の両親、恭也、忍といった地球側の関係者が全員集まったようだった。その中で、明らかに様子のおかしいアリシアを医務室に運ぶように指示を出してリンディは管制塔に一言告げて艦長席を後にする。翔太の両親やなのは、恭也、忍に状況を説明するためだ。

 管制塔を出たリンディは、地球側関係者を集めた会議室のような部屋へと向かっていた。その部屋に入った途端、その部屋にいた全員の注目がリンディに集まる。それを軽く受け流しながら、リンディは、翔太の両親の様子を伺った。母親のほうは、心配でたまらないという表情を浮かべており、父親はそれを支えるように彼女の肩を抱いていた。ただ、支えている彼も心なしか、肩が震えている。子を持つ親としては、彼らの心情は理解できる。子どもが誘拐されたなどと聞かされれば、ショックだろう。だから、彼らの心配が少しでも軽くなれば、と思い、リンディは最初に彼らに声をかけることにした。

「翔太くんのご両親ですね。今回は、翔太くんを我々の管轄のことに巻き込んでしまい、申し訳ありません」

「いえ。あの……それよりも、ショウちゃ―――翔太は、大丈夫なんでしょうか?」

「それについては、大丈夫かと。犯人の目的ははっきりしておりますので。それを手に入れるための鍵である翔太くんを傷つけるような真似はしないでしょう」

 それはある種の目安だが、絶対とはいえない。だが、それでも心配を少しは和らげることができたのであろう。彼らはリンディの言葉に少しだけほっとした表情を浮かべていた。

 リンディは、それから翔太の両親に目下全力で捜査中であること、なんとしてでも無事に翔太を取り戻すことを説明した。それらに対しては、翔太の両親は、よろしくお願いします、と頭を下げるだけだった。

 その後、彼らはもう一人の娘であるアリシアのことが気になったのか、彼女の行方を聞いてきた。リンディは、ここで気を揉んでいるよりも、アリシアといたほうがいいだろう、と判断して、局員の一人を呼び出して医務室に案内させることにした。彼らに自由に医務室や食堂や客室を自由に使わせることに許可を出して。

 さて、翔太の両親の話は終わった。残りは、三人だ。だが、その三人が一筋縄でいくとは到底思えなかった。彼らに視線を向けてみれば、案の定、疑わしいものを見るような視線をこちらに向けていた。もしかしたら、彼らは、誘拐事件等における自分たちのような組織の行動を知っているのかもしれない。それを翔太の両親の前で口にしなかったのは彼らの優しさだろう。

「話は聞いての通りです。翔太君の捜査には全力を尽くしています」

「確実に翔太くんを助けてくれるんでしょうね?」

 それは、まるで時空管理局側の態度を試すような恭也の鋭い視線だった。だが、リンディとて伊達に長年、時空管理局に勤めて、提督という地位にまで出世したわけではない。常人であれば、怯みそうな視線を微笑みと共に受け流し、「当然です」と答えた。もっとも、これは社交辞令ではない。翔太は魔法の世界である管理世界には関係なく、善意で手伝ってくれた少年なのだ。できる限り助けたいと思うのは当然だ。

 しばらくにらみ合うような無言の時間が続くようだったが、やがて根負けしたのは恭也だった。

「分かりました。あなた方を信じます。翔太くんの救出をよろしくお願いします」

「はい、分かりました」

 さて、とりあえずの話は終わった。あとは彼らをどうするか、である。彼らは翔太の両親のように直接関係はない。つまり、アースラにいなくても問題がないということである。この先は、きっとアースラとプレシアとの対決になるだろう。魔法が使えない彼らがいても、言い方は悪いが、この状況で部外者は、邪魔になるだけだ。だから、進展があれば、そのとき連絡するという形を取ろうとしたリンディの耳になのはの呟くような声が聞こえた。

「……ショウくんのことが一番早く分かるのはどこ?」

 今まで俯いて、暗い表情をしていたなのはがポツリと漏らした言葉。彼女も心配で仕方ないのだろう。あの事件の後の部屋の様子を知っている身としては、容易に想像できることだ。それは、なのはの処遇に関して説明したとき、あの部屋の様子を映した映像を見た恭也も同じ思いだったのか、リンディと視線を合わせること数秒。お願いします、といわんばかりに軽く頭を下げていた。

 翔太の誘拐に関しては、アースラ側の落ち度があったことも事実だ。全部、集まったことで気が抜けていたのかもしれない。完璧を求めるなら、彼らの安全も確保するべきだったのだ。そんな負い目があるからか、リンディは、大人しく席に座っておくことを条件に管制塔にいることを特別に許可したのだった。

 それから、無駄な時間が過ぎていく。状況は待つしかないとはいえ、何も動きがない状況で待ち続けるというのは、非常に辛いものだ。アースラの艦内でも最初の三十分程度は、緊張感が保たれていたが、今ではその緊張感を保つことも難しくなってきている。その空気を読んだのだろうか第一種警戒態勢から準第一種警戒態勢へと移行させた。少しは気が休まる時間ができることだろう。しかしながら、武装隊や後方支援などの部隊はいいものの、管制塔のメインスタッフたちは今も休むことなく動いていた。

 その管制塔の一番上の艦長席では、リンディが自家製の緑茶を口にしながらことが動くのを待っていた。

 ―――もしも、この状況がプレシアの策略なら大したものね。

 一度、大きな事を起こしておきながら、次に何かあると思わせておいて、何も行動を起こさず相手を疲弊させる。疲弊しなかったとしても、一度ピークに達した緊張感は一時にしても平時よりも下がってしまう。そこを突くつもりなのかもしれない。

 様々な策略の効果と相手の考えが伺えるが、どれも決定的ではなく、分かっているのは相手にイニシアチブを取られているということだけだ。

 あまり芳しくない状況を考えて、はぁ、と心の中でため息を吐くリンディ。表立ってため息を吐かない、吐けないのは、彼女がこの艦内でのトップだからだ。トップがため息などはいていては、組織全体に伝播してしまう。それでは、士気を保つところではない。もしも、この状況で攻め込まれでもしたら、立て直すのにそれなりの時間が必要だろう。

 気を落ち着けるためにももう一杯、と空になった湯のみを手に持ち、再度、砂糖が飽和限界まで入ったお茶を作ろうとしたリンディの耳にエイミィの鋭い声が響く。

「艦長っ!! アンノウンからの通信、来ましたっ!!」

 正体不明の相手からの通信。状況を考えるに相手はたった一人しか思い浮かばない。

「繋いでちょうだい」

 お茶を再度作るために立ち上がろうとした腰を再び下ろして、エイミィに通信を繋ぐように指示する。その場にいる全員が緊張した面持ちで正面に展開されるモニターに注目する。その注目の中、通信がつながれ、モニターに現れたのは、一人の女性。リンディが資料に添付された顔写真よりも若干、年を取っているように思えるが、それでも、モニターに映った彼女は間違いなくリンディたちが連絡を待っていた相手―――プレシア・テスタロッサに相違なかった。

『こんばんはぁ、アポイントメントもなしにごめんなさいね』

 モニターに現れたプレシアは、どこかの暗い室内の中、嗤いながら通信に現れた。嗤っている。その状況にリンディとしては驚嘆を覚える。相手はプレシアという個人であるはずなのだ。個人で時空管理局という屈指の組織に相対しているにも関わらず嗤えるプレシアに恐怖にも似た驚嘆を抱くのだった。

 だが、アースラの艦長として彼女の恐怖に屈するわけにもいかない。

「そうね、今度からは、アポイントメントをお願いするわ」

 嗤うプレシアに対して、微笑みのポーカーフェイスで様子を伺うリンディ。微笑を浮かべながらも、リンディはプレシアの様子をつぶさに伺っていた。どんな変化も見落とさないように。

 しばらく二人のにらみ合いのような、距離を測るような沈黙を保つ。お互いに様子を伺っているのだ。切り出すタイミングを。だが、そのタイミングを得たのは、リンディでもプレシアでもなかった。

「ショウくんを返せっ!!」

 小さな女の子の少し甲高い声が、管制塔に大きく響いた。それが通信相手であるプレシアにも聞こえたのだろう。視線を艦長席から少し離れた場所に設置された特別席へと移していた。その視線の先にいたのは、白い制服に包まれたなのはの姿。プレシアの姿に興奮したのか、今までは大人しく座っていた席から立ち上がって、モニターの向こうに見えるプレシアを睨みつけていた。

 そんななのはの心情を慮れば、そういいたくなるのは分かるが、いくらなんでも単刀直入すぎる。だが、翔太のことも考えれば、時間を長引かせるのも、やっかいだ、と考え、リンディは、自分を落ち着けるようにふぅ、と大きく一度深呼吸すると、強大な敵に立ち向かうように意思を持った視線をプレシアに向けた。

「そうね、回りくどいやり取りはなしにしましょうか。それで、要求は何かしら? プレシア・テスタロッサ」

 最後に一言軽いジャブを放つリンディ。最後のジャブに対してプレシアの反応は少しだけ眉をしかめただけ。だが、すぐに納得したように頷いた。

『そうか、そっちにはあれがいたわね。そう、なら、話は早いわ。ジュエルシードをすべて渡しなさい。あの子と交換よ』

「その前に翔太くんは無事なんでしょうね」

 要求はこちらの予想通りだったため、誰も動揺はなかった。それよりも、大切なのは、人質となっている翔太の無事だ。誘拐事件においては当然のことだ。だが、それにも関わらず、リンディの対応にプレシアは、なぜか事が上手く運んだかのようにニタァと意地の悪い笑みを浮かべた。それに嫌な予感がするリンディ。だが、それを悟らせるわけにはいかない、と微笑を崩すことはなかった。

『彼は無事よ。そうね、見れば分かるでしょう』

 やけに待遇が言い。こういう場合は、交渉の一巻として、無事を見せる代わりに何かを要求するのが交渉だ。特にジュエルシードは、一個だけ存在するようなタイプのロストロギアではない。複数個から成るロストロギアなのだ。一個を渡す代わりに翔太の無事を確認させるぐらいはしそうだが。

 いや、考えすぎなのかもしれない。プレシアは研究者だった。リンディたちのようなプロではないのだ。だから、交渉のやり方も知らないのかもしれない。それに何より、何もせずとも無事を確認させてくれるのだ。ここで何か言うよりも無言を保つほうが利があるとリンディは考えた。

 待つこと数分、画面の端から現れたのは、一匹の使い魔。猫をベースにしたのだろう、リンディがよく知る知人の使い魔のように猫耳が頭のてっぺんに立っていた。そして、彼女が飼い犬のリードのように持っている魔法で作られた紐の先には、首輪をつけられ、後ろ手に縛られた翔太の姿があった。

「ショウくんっ!!」

 それを見て最初に叫んだのは、なのはだ。しかも、管制塔一杯に響くような大声で。だから、管制塔のいた誰かが上げようとした声を上げることはできなかった。人質に目隠しや後ろ手に縛ったりすることは考えられても、まさか動物のように首輪までつけるとは。さすがにそこまで想像していなかったリンディは翔太の無事な姿に安心しながらも、絶句していた。その隙を突くようにプレシアは、畳み込むように言葉を紡いだ。

『さあ、これで分かったでしょう。この子は無事よ。ジュエルシードを渡しなさい』

 プレシアの再度の要求で、リンディは我に返る。そう、次にそうくるのは当たり前だった。気を取り直したリンディは、少しだけ心を落ち着けて、プレシアに問う。

「待ちなさい。貴方はジュエルシードなんてロストロギアを何に使おうというの?」

 渡しなさい、といわれて、「はい、分かりました」とはいかない。翔太の無事が確認された以上、ここから先は交渉だ。相手と自分の妥協点を見つけて翔太を返してもらう。どこまで妥協できるか分からない。最悪、条件の如何によっては、翔太を切り捨てることを考えなければならないかもしれない。もっとも、それは最悪であり、考えたくもない結論ではあるが。

 だが、リンディは、忘れていた。相手は計算された誘拐の犯罪者ではなく、ただの研究者だったことを。こちらがプロだからと言って相手がプロとは限らないことを。

 リンディの言葉は誘拐という事件においてはセオリー通りだっただろう。だが、プレシアにとっては、余計なことに首を突っ込んでくる言葉に聞こえたのだろう。プレシアは、嗤っていた表情を不快なものに変えていた。同時にそこから感じるのは、明らかな苛立ちだった。

『……ごちゃごちゃ五月蝿いわね。大人しくジュエルシードを渡せばいいのよ』

 怒っているような低い声。その様変わりしたようなプレシアの様子にリンディは、焦る。怒りは、冷静な判断を失わせる。なによりも、この状況においては怒るには早すぎる。もっと様子を伺うと思っていたのだが。

 突如として、過程を通り越して、何歩か先に進んでしまった状況にリンディの思考が追いつかないうちに状況に変化が訪れた。苛立ったようなプレシアが、使い魔を一瞥すると、その使い魔が動き出したのだ。何かするつもりなのか? と疑問符を浮かべてみていると、転がされていた翔太の後ろ手に結ばれていたバインドを解いて、そのまま天井につるしてしまった。まるで、磔にされたように空中で固定される翔太。

 その行動にどんな意味が? と思っていると、翔太を空中に吊るした使い魔は、拳を振りかぶり、そのままその拳を翔太の顔面にたたきつけた。

「プレシアっ! あなた何をっ!?」

 管制塔にいくつかの悲鳴が上がる。その間にも翔太は殴られ続けられていた。まさか、人質を傷つけるような行動に出るとは思っていなかったリンディは、同時にいくつも起こった違反に驚きながらも、プレシアを諌めるような口調で、無抵抗の子どもを殴るような非道に激昂し、艦長席の手すりを叩いて立ち上がりながら、叫ぶ。

 だが、プレシアは、そのリンディの激昂に対して、まるで喜劇を見たように笑う。隣では、無抵抗な子どもが殴られているというにプレシアは気が狂ったように笑っていた。

『あーはっはっはっ! あんたたちがごちゃごちゃと五月蝿いからよ。素直にジュエルシードを渡せば、この子を殴るのをやめてあげる』

 どう? と問いかけるプレシア。

 卑怯な、と思うリンディ。だが、それに肯定することはできない。だが、目の前のモニターで繰り広げられるのは、無抵抗な子どもが殴られ続ける残酷なショーだ。思わず、分かったから、やめてくれ、と叫びたくなるのを拳を握り、耐えるリンディ。どうする、どうするべきか、どの手が最善手か、と考えるリンディ。

「艦長っ!!」

 プレシアの連絡によって武装隊とのやり取りを中止してきたクロノが、リンディに何かを訴えかけるように声をだす。彼もわかっているのだろう。打つ手が少ないことに。プレシアのいる場所が分かっていれば、クロノや武装隊を突入させることも可能だった。だが、相手の座標が分からない以上、その手を取ることはできない。

『さあさあ、どうするの? かわいそうに、あなたが、ジュエルシードを渡さないから、この子も殴られ続けるわね』

 まるでリンディを煽るような口調で言うプレシア。管制塔の職員の中には、モニターに映される残酷なショーに耐え切れなかったのか、モニターから視線を逸らす者もいる。早く決断しなければ、なによりも、翔太の身も危ないだろう。だが、どうする?

 リンディの頭の中でいくつかの可能性とその先の結果を読み出す。だが、どの手もメリットよりもデメリットのほうが大きい。

『さあ、彼を助けたかったらジュエルシードを渡しなさい』

 まるで悪魔の囁きのように続けるプレシア。その誘惑に乗りそうになる自分を必死で律するリンディ。だが、その悪魔の囁きに乗ってしまう者が一人だけいた。

「本当に? ジュエルシードを渡せば、ショウくんを助けてくれるの?」

 その言葉に、その場にいた全員の注目が集まる。その言葉を発したのは、この管制塔の中にいるたった一人の子どもだ。つまり、高町なのはに他ならない。彼女は、翔太への暴行シーンが衝撃だったのか、どこか虚ろな目をして、請うような声でプレシアに問いかける。その問いに、プレシアは会得したような笑みを浮かべた。

『ええ、勿論』

 そのプレシアの言葉を聞いて、ゆらぁ、と幽霊のように身体を動かすなのは。

 ここにきて、ようやくリンディは、プレシアの目的が分かった。最初からリンディなど相手にされていなかった。プレシアは、時空管理局と交渉するつもりなどなかった。最初から狙いはただ一人だったのだ。

 ―――高町なのは。

 プレシアが彼女と翔太の関係をどこで知ったのかリンディは分からない。だが、確かに彼と彼女の関係を知っていれば、翔太になにかあれば、なのはが動くのは容易に想像できるだろう。そして、同時に彼女が手に入れた力について知っているなら尚のことだ。

 失策だった。最初からなのは相手と分かっていれば、遠ざけて―――いや、その場合でも何か理由をつけてなのはを連れてきていたに違いない。最初から目的はなのはなのだから。

 今は、管制塔から出て行こうとしているなのはをクロノが呼び止めているが、彼女が本気になれば、クロノなど道端に転がる石ころとなんら変わりない。だからといって、このままなのはを行かせて、無策でプレシアにジュエルシードを渡すことはできない。だから、リンディは決断した。

「わかったわっ! ジュエルシードを渡します。ただ、厳重に保管にしてあるので一時間、待ってもらうわ」

『ダメね。五分よ』

「短いわ。三十分」

『十分』

「二十分」

 時間について交渉を続けるリンディ。ここでできるだけ時間が欲しいのは確かだった。策を考えるだけの時間が必要なのだから。

『十五分。それ以上は待てないわ』

 本当は、保管庫から持ってくることなど、リンディの権限承認さえあれば、五分もかからない。三倍の時間。これで手を打つべきであろう。

「分かりました。十五分で」

『ふふふっ、それでは、十五分後に会いましょう』

 策が成ったような不敵な笑みを浮かべてプレシアは通信を切った。隣で行われていた翔太への暴行は、リンディがジュエルシードを渡すことを承諾したときに既に止まっていた。とりあえず、この場はプレシアに完敗だった。ふぅ、と力を抜きながらリンディは艦長席に沈み込む。だが、気を抜いている時間はあまりない。残り十五分で何かしらの策を考えなければならないのだから。

「艦長……」

 気遣うようなクロノの声。その言葉は執務官としての言葉か、あるいは、息子としての言葉か。どちらにしても、少しだけリンディの心を軽くしてくれた。だが、同時にリンディの心をがりがりと削る視線もある。クロノの隣にどこか恨みがましくリンディを見てくるなのはの視線だ。

 その目は、どうして、翔太をあんな目にあわせた? と言っているようにも思える。それに関しては、素直に謝罪するしかないのだが。プレシアがあんな行動に出るとは予想できなかった、など言い訳にしかならないだろう。

 だが、参った。最初は、翔太を攫ってどうするのか、と思っていた。時空管理局にとって翔太は、エースにもジョーカーにならないというのに、と。だが、違った。ジョーカーは存在していた。高町なのはという魔力ランクSSSで、ロストロギアを操る規格外の魔導師が。そして、彼女に対するエースは、翔太だ。最初から、プレシアはそれを狙っていたのだ。プレシアが、翔太たちと接触した記録がなかったから、なのはについても知らないことが前提だったが、この策を考えるに彼女はどこかでなのはたちの関係を知ったとしか考えれなかった。

 さて、それらについては、後で考えるとして、今は策を考えなければ、今ので三分も無駄にしてしまったのだから。

 どうしたものかしら? と頭を捻りながら、考えるリンディ。

 贋物を渡す。却下。それを予想していないほどプレシアは甘いものではないだろう。それを先ほどのやりとりで理解した。万が一にでも贋物だと分かったときに翔太に危害を加えるように何かしらの細工が施されている可能性すらあるのだから。

 本物を正直に渡す。却下。それは、時空管理局という中でもご法度だ。到底受用できる案ではない。

 ならば、取れる手は二つの間の折衷案である。つまり、本物を渡しながらも、それを使えないようにする。先ほどの会話から察するにプレシアはアースラに転移してくるつもりらしい。ならば、その後の転移を追えば、彼女がアジトにしている時の庭園へとたどり着けるはずである。よって、翔太を取り戻した後、すぐさま、強襲でジュエルシードを回収する。短い時間ではそれしか考えられない。

 ただ、気がかりなのは、彼女もそれぐらいは予想していると考えるべきであるという点である。それならば、何らかの対策を打っていると思ったほうがいい。例えば、時の庭園ごと転移するなどだ。だが、あれほどの質量を転移させるとなれば、相当時間が必要となるだろう。あれだけの質量を転移させるほどの魔力エネルギーを一気に溜める手段がなければ。

 そこまで考えて、リンディは、その魔力エネルギーを一気に溜める手段に心当たりを見つけた。つまり、ジュエルシードだ。あれほどのエネルギーを使えば、確かに一気に転移させるだけの魔力エネルギーを溜める事が可能だろう。

 八方塞か、とも思ったが、諦めることなど考えてはいけない。だから、さらに考えをめぐらす。要するにジュエルシードを使って転移するつもり、あるいは、何らかの手段を使って脱出するつもりにしても、ジュエルシードが使えないようにすればいいのだ。

 ―――どうやって?

 考え付くのは簡単だったが、それを実現するのは難しいように思えた。そう、目の前でこちらの出方を見ている少女を視界に写すまでは。彼女を見た瞬間にリンディの頭の中に単純だが、効果が見込めそうな策が思い浮かぶのだった。



つづく



[15269] 第二十二話 裏 中
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/08/19 00:45



 プレシアとの通信から十五分後、リンディたちは、転送ポートの前でプレシアと翔太が現れるのを待っていた。こちらの測定である十五分から遅れること二分。転送ポートが黄色い光に包まれ、転送魔方陣の中からプレシアの使い魔と思われる女性と飼い犬のように首輪で鎖に繋がれた翔太が現れた。

 大丈夫だろうか、と翔太の様子を伺ってみるが、殴られた影響で顔が腫れており、おそらく衣服の下もあざだらけだろうが、意識はある様子なので、一安心といったところだろうか。

「ショウくんっ!!」

 彼が姿を現した瞬間、リンディの隣に立っていたなのはが駆け寄った。危ないから、ととめようと思ったが、今の彼女を止めることは不可能だろう。使い魔の女性もとめるつもりはないらしく、駆け寄るなのはを相手にしている様子はなかった。使い魔という割にはずいぶんと感情面が薄い使い魔だ、とリンディは思った。

 翔太のほうはなのはと後ろに控えている回復要員のユーノに任せることにして、リンディは自分の仕事を遂行することにした。

「ジュエルシードを」

 すっ、とリンディが右手に持っていたアタッシュケースを持ち上げた。この中に入っているのは、アースラ側が保持している二十個のジュエルシードである。それらが入ったアタッシュケースを一歩前に歩み出て、受け取った猫耳の使い魔は、アタッシュケースに何かしらの魔法をかけて真贋を確認している様子だった。

 疑わずとも、それは本物だ。そう思いながら、早くこの使い魔が巣へ帰ることを望んでいた。

「確かに。受け取りました」

 その一言だけ言うと、その使い魔は右手を一振りする。それだけで、翔太の首についていた首輪が外れた。どうやら、リンディの予想は当たっていたようだ。もし、贋物を渡していたら、あの首輪が爆発してもおかしくはない。贋物を用意するという愚策を取らなくてよかった、とリンディは胸をなでおろす。

 そんなリンディたちを尻目に使い魔は、転送ポートへと戻り、再び転送魔法を発動させる。黄色い魔力光に包まれながら猫耳の使い魔は一礼する。

「それでは、皆様、失礼いたします」

 実に無機質な声と共に猫耳の使い魔は、ジュエルシードが収められたアタッシュケースを手に消えた。

 その直後、リンディの鋭い声が響く。

「エイミィっ!!」

『分かっていますよっ! 転送魔法の魔力痕から、座標割り出しっ!!』

 それは、信頼するオペレーターへの命令。その信頼に応えるようにエイミィも、オペレーター席のキーボード上を踊るように指を動かしながら猫耳の使い魔の追跡を開始する。待つこと十数秒。小さなモニターの向こうのエイミィの顔が輝いた。

『見つけたっ! 座標確認っ!』

 読み上げられた座標は、恐ろしいことにアースラからあまり離れていない位置だった。舐められているとしか思えない行動だが、その怒りは、彼女の逮捕に全力を尽くすことで晴らすべきである。

「武装隊っ! 強襲準備っ!!」

 既に準備は整っているのだろう。逐一の投入などしない。最初から全部隊を投入させる。今、医務室に翔太を運ばせるための局員を呼んでる執務官であるクロノも同時に。この強襲かつ奇襲は時間との勝負で、しかも敵地なのだ。出し惜しみをしている場合ではないことは誰もがわかっていた。

 完全装備に身を包まれた全武装隊が次々と転送ポートの前に整列するのを見届けて、突入の命令を出そうとしたとき、それは起きた。

 ぐらっ、とアースラ全体が揺れる。地上でなら、地震と勘違いしそうな一揺れ。それはたった一度だけで収まった。当然のことながら、次元空間内で地震などありえない。ありえるこんな揺れはたった一つだけだ。

「エイミィっ! 状況報告っ!!」

『艦長っ! 小規模の次元震ですっ! 震源は、時の庭園内部っ!!』

 予想通りの結果だった。この状況で、震源地が彼女のアジト以外に考えられない。そして、このタイミングで原因が考えられるとすれば、信じられないことだが―――。

「―――まさかっ! ジュエルシードを使って? でも……なら、彼女の目的は?」

 次元震は、大規模なものになってしまえば、周囲一体の平行世界を消滅させるほどの威力を持つものだ。それを起こす意味が分からない。ジュエルシードを使って次元震を起こしたところで待っているのは、消滅の二文字だけである。

「アルハザード……彼女はそういっていました」

 不意にリンディの耳を打つ、独り言のようなか細い声。その声の方向を見てみれば、ユーノによって回復魔法を受けている翔太の姿があった。

 翔太の言葉を信じるなら、プレシアの目的はアルハザードである。だが、リンディはその目的が信じられなかった。なぜなら、アルハザードは失われた魔法の都。御伽噺の世界にのみ存在するはずの世界だからだ。しかし、その一方で、状況は翔太の言葉を肯定していた。

 魔法の都、アルハザード。そこには、不老不死、時間逆行といった夢物語にしか思えない魔法の数々が存在したといわれる魔法の都。だからこそ、アリシアという娘を亡くしている彼女の目的に符合する。さらに、アルハザードは次元の狭間に沈んだとされる都だ。ならば、ジュエルシードによる次元震によってたどり着くという推測も立てられる。

 しかし、その考えもリンディは信じられない。状況証拠による推測による推測。常人であれば、考えられないほどの無秩序な計画を前提にした推測だった。だが、もしも、この推測が事実だとすれば、一刻の猶予も許されないことは明白だった。

「本当なのっ!? 翔太くんっ!!」

「え、ええ。そこで、アリシアちゃんとの時間を取り戻す、と」

 間違いない、と見るべきなのだろう。自分が仕掛けた策が生きている間は大丈夫と太鼓判を押せるが、それもどこまで時間稼ぎになるか、リンディには予想ができなかった。だから、本当に一刻の猶予も許されなかった。早く、武装隊に突撃命令を出さなければ、と思ったところに緊急入電が入った。

『艦長っ! 時の庭園内部に魔力反応多数っ! Aランクの魔力反応……50、60、70。まだまだ増大中ですっ!』

 こちらの対応が一歩遅かったことを悔やんで、くっ、と唇を噛む。これがアースラの部隊が強襲することを読んでの迎撃態勢であることは明白だった。

「エイミィっ! 武装隊に突入命令をっ! クロノもすぐに出撃させるわっ!!」

 医療局員を連れてきたクロノを見ながら命じる。こちらがプレシアを確保するのが先か、あるいは、プレシアがリンディの策を破ってから、次元震を起こすのが先か。チキンレースのような模様になってきてしまった。

『了解っ!』

 頼もしい声と共に通信が切れる。翔太が医務局員によってストレッチャーで送られ、それに付き添うように動くなのはを見送って、リンディは管制塔へと足を向けた。これからきつい戦いが始まることを予感して、自分も出ることになるだろう、と予感に近い確信を得ながら、歩き始めるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 武装隊が突入して、十分。かなり厳しい戦いにリンディは、眉をしかめながら戦況を見守っていた。突入回廊は、何とか確保した。だが、突入して最初の大広間の確保が中々できない。クロノとこの状況を見て今までフェイトの元に居たアルフが補助で、プレシアの元へと向かえた唯一の救いだが、それ以外に状況は好転していない。むしろ、悪化しているように思える。もし、クロノがジュエルシードを得たとしても、退路が確保されていなければ、逃げられない。プレシアと戦った後に突貫できるような余力がクロノに残っているとは思えない。限定とはいえ、相手はSSランクなのだから。

 ―――あと一つでもカードがあれば……。

 ないものねだりだが、そう望まずにはいられない。もう一つだけでも切り札が、あれば戦況はこちらに傾くというのに。戦力という形でいえば、翔太の両親と共に待機していた恭也や忍が参戦を希望してくれたが、いくらなんでも魔法が使えない、しかも、局員でもない人間を参戦されるわけにはいかない。

 その方向性で言えば、もう一人だけ、脳裏によぎる影があったが、それを振りかぶって、その考えを捨てた。それは、考えてはいけないことだからだ。いくら戦力が足りないからといっても、子ども―――しかも、現地の住民にそんなことを頼むわけにはいかない。それは、リンディの時空管理局員としてのプライドだ。

 だが、だが、しかし、向こうから参戦を希望してきたら?

 そんな甘い誘惑を肯定するかのようにリンディの後ろに一人の人影が立った。

「リンディさん」

 少し高い子どもの声。そんな声を出せるのは、アースラの中では二人だけだ。一人は、翔太。だが、彼は今、医務室で寝ている。そして、もう一人は―――

「なに? なのはさん」

 普通なら返事もできないはずの事態に返事をしてしまったのは、先ほどの甘い誘惑が頭の隅に残っていただろうか。そして、なのはは、リンディが望んだ言葉を紡ぐ。

「私も、あそこに行きます」

「―――っ!」

 淡々と意思の燃える瞳でまっすぐリンディを見つめながら、なのはは言う。それを受けて、リンディは、彼女が望んでいた言葉なだけに絶句する。当たり前だ。こうも易々とリンディの想像が具現化すれば、絶句したくもなる。

 この場合、リンディは、ダメだとなのはの提案を拒否するべきなのだろう。だが、時間がないのも事実。戦況が悪いのも事実。このまま、負けてしまえば、ここら一帯の次元世界が消滅するのも事実。アースラが沈むもの事実。いくつかの事象を挙げてみても、リンディのプライドやもろもろの事情を棚上げにしてでもなのはの提案を肯定するべきだといっていた。

 ここが決断時なのだろう。なのはが子どもである。現地住民である。拒否する理由はいくつもある。だが、それ以上に世界を救うという大義名分の下、リンディは、それらの拒否の理由に目を瞑った。

「……お願いできるかしら」

 苦渋の決断だった。

 だが、なのはは、はそれを慮ったのか、あるいは、状況を理解して最初からそう答えることが分かっていたのか、彼女は、淡々とはい、とだけ答えて、管制塔の後ろに特別に設置してある転送ポートへと足早に向かった。

「なのはさんっ!!」

 そんな彼女の後姿にリンディは、一声かけられずにはいられない。それは、巻き込んでごめんなさいという言葉だろうか。いや、それ以上に必要な言葉があった。

「必ず、戻ってきてね」

 リンディの言葉に大きく頷いてなのはは、転送ポートへと入る。それを確認してエイミィがキーボードを叩き、転移座標を時の庭園へとあわせ、なのはを時の庭園へと送り込んだ。

 送り出したリンディは、戦況が映されたモニターへと視線を向けて、刻一刻と悪くなる戦況を見ながら、なのはが無事に切り抜けられることを祈らずにはいられなかった。



  ◇  ◇  ◇



 アルフは、懐かしいというほど離れていない時の庭園の内部をアースラ執務官のクロノ・ハラオウンと一緒に駆けていた。

 アルフが協力したのは他でもない。プレシアが動き始めたからだ。フェイトを放っておくのは確かに気がとがめたが、フェイトの傍には翔太の両親がいる。彼らにならフェイトを安心して預けられる。だから、アルフはアルフにしかできないことをするためにこうして道案内を買って出ていた。

 クロノと並んで走るアルフ。先ほどまでは、ウジャウジャと出てきていた傀儡兵の姿も見えない。それはアルフたちが、下層へと突入したからだろう。彼らが今向かっている場所は、アルフがここに住んでいた時代にプレシアに決して入るなと言い含められていた場所だ。

 本当にそこにプレシアたちはいるのだろうか、と思っていたのだが、サーチを投げることもなく肌に刺すように感じる高密度の魔力から考えるにどうやら正解だったようだ。クロノもそれを感じ取っているのか無言でアルフについてきていた。

 傀儡兵に邪魔されることもなくなった通路を走破することは簡単だった。上層、中層での戦いが嘘であるかのようにいとも容易くたどり着いたのは大きな扉の前。ここから先には決して行かないようにと言い含められたその入り口である。ここから先には何があるかアルフにも分からない。だが、それでも、彼女は進まなければならない。

 バンッ! という音共にアルフが扉を蹴破る。扉の向こう側に何が待っているか分からないため、警戒を怠ることはなく、クロノもデバイスを構えたままだった。だが、扉を開けた直後の奇襲はなかったようで、それらの準備は杞憂に終わった。

 しかしながら、奇襲がなかったにも関わらずアルフはその場を動くことはできなかった。

 扉の向こう側は、一つの大きな部屋だった。机と様々な機械が並んでいるだけの部屋。そして、部屋の真ん中には一つの人影が存在していた。

 猫耳を頭の頂点につけた使い魔の女性。アルフの師匠ともいえる存在―――リニスがお客様を迎えるように手を合わせて立っていた。そんな彼女をアルフは、敵意を持った視線で睨みつける。だが、その視線を気にもせず飄々とリニスは受け流している様子だった。

「執務官とアルフですか。これは予想外です。てっきり、あなた方は上層で傀儡兵を相手にしていると思ったのですが」

「何を言っているんだいっ!?」

 入ってきたクロノとアルフを一瞥して、なにやら考えた後にポツリと呟いた言葉の意味が分からず、アルフは苛立ちながら、リニスに尋ねる。だが、その問いに簡単に答えが返ってくるはずもなかった。

「あなた方には関係のないことです。それよりも―――」

 すぅ、とリニスの目が細められる。お客様を迎えるような安穏した雰囲気から肌を刺すような鋭い雰囲気へと変わった。臨戦態勢に入っていることは明白だ。その空気に煽られてクロノはデバイスを、アルフは拳を構える。

「申し訳ありませんが、ここから先は立ち入り禁止となっておりますので、お帰り願います」

「はっ! そんな訳にはいかないねっ! こっちはプレシアに用があるんだっ!」

 帰らなければ、力ずくにでも、という雰囲気を醸し出しているが、そんなリニスの言葉をアルフは鼻で笑う。笑いながら、アルフはこっそり、小声で隣に立つクロノに対して話しかけた。

「リニスの向こう側に見える通路があるだろう。ここにリニスがいるってことは後は一本道なはずだ」

「だが、君だけでは……」

 クロノがたった一人で戦おうとしているアルフを心配するように顔を曇らせるが、クロノの気遣いは余計なお世話というものだ。最初からアルフは彼女に話があった。プレシアにも言いたいことはあった。だが、それよりも、この師匠ともいえる彼女のほうに用事があるのだ。だから、プレシアはクロノに任せることにした。

「余計な心配はいらないよ。時間がないんだろう。ここはあたしに任せて、あんたは先に行きな」

 アルフの言葉もまた事実。現状は、制限時間付きのチキンレースに近いのだから。だから、クロノは一瞬、逡巡した後、頼んだと残して一気に駆け出した。

 だが、それを暢気に見逃すようなリニスではない。すぐさま、クロノの動きを妨害するように動き始め、その無手の拳がクロノを襲う直前にクロノとリニスの間に割って入るようにアルフが拳を片手で受け止めた。アルフの行動に一瞬だけ眉をひそめるリニス。その一瞬の隙の間であろうとも、クロノはそのまま駆け出し、通路の奥へと消えていった。

 それを見届けて、もはやクロノを追うのは目の前のアルフを何とかしないといけないと思ったのだろう。リニスはアルフから距離を取るように数回のバックステップで距離を取って、アルフにとって馴染みのある構えを取った。

「いいでしょう。先にあなたから黙らせることにして、彼を追うことにしましょう」

 リニスの言い方が、いかにもアルフをすぐさま片付けるという風に聞こえて、アルフの神経を逆なでにする。そもそも、アルフは、フェイトの件やら、翔太の件やらで色々鬱憤が溜まっているのだ。今のリニスの言葉は、アルフが堪忍袋の尾を切るのに十分だった。

「はっ! あんたは確かにあたしの師匠だったかもしれないけどさ、弟子はいつかは師匠を越えるもんだよっ!!」

 先に仕掛けたのは、アルフ。お互いに武器は、その拳のみ。故に戦闘は近接戦闘が主になる。

 拳を交わす二人。いや、正確には攻めているのはアルフで、それを無表情で鮮やかに捌いているのはリニスだった。二人の間には、まるで予定調和のようにある種の流れが見られる。それもそうだろう。彼らは師匠と弟子なのだ。アルフがリニスの戦い方を読めるように、リニスとてアルフの戦い方を読める。

 何度、拳を捌かれただろうか。黙らせるといっておきながら、リニスが手を出してくることはあまりなかった。ただ、その数少ない一手は、確実にアルフの隙を突いており、アルフが捌けたのは、どれもここに来るまでに傀儡兵を相手にした戦闘の高揚感によって集中力が増していたからに他ならない。もしも、最初の戦闘がリニスであれば、最初の隙を突いたリニスの一撃で、彼女の宣言どおり、アルフは黙って床に沈んでいただろう。

 このままでは、埒が明かないと思ったのだろう。一旦、仕切りなおすためにアルフはリニスと距離を置いた。リニスは、あえてそれを追わない。お互いに構えたままにらみ合う。

 不意にアルフの脳裏をよぎったのは、まだ何も知らなかった時代の出来事。フェイトがいて、アルフがいて、リニスが魔法を教えていたあの頃の記憶だった。あの頃のリニスは、目の前に立つリニスのように無表情ではなかった。妹を見守る姉のように優しく微笑んでいたものだ。フェイトにも、そして、アルフにも。

「……何があんたを変えたんだい」

 思わず、ポツリとこぼれてしまった疑問。目の前のリニスが、リニスと認めたくなかったが故の呟きだった。だが、それは独り言というには少々、声量が大きかったらしく、猫耳を持つリニスの耳にも届いていた。

「アルフ、あなたはF.A.T.E計画を知っていますか?」

「………ああ」

 突然、口を開き始めたリニスを警戒しながらも、アルフは聞きたくもない忌々しい計画の名前に頷いた。

 頷いたアルフに対して、リニスは、まるで教師のようによろしい、とでも言いたげに頷くと先を繋いだ。

「使い魔とは異なるコンセプトで人工生命体を作る計画がF.A.T.E計画です。ならば、その計画のために必要なことは? まず、最初に研究することは、使い魔の契約魔法とは? ということを知ることから始まります」

 『使い魔とは異なる』というのが命題なのだ。異なるものを作る際に先行研究を調べることは、研究においては重要なことである。それは優秀な研究者である、いや、優秀な研究者ゆえにプレシアは、使い魔の魔法に関して研究したことだろう。

「その研究の過程で、いくつかの使い魔の契約魔法について成果を出しました。その一つが、私です。本来、機械のように命令を受諾するか、あなたのように人と変わらないタイプの使い魔しかできなかったのですが、そこに感情を排除した柔軟な使い魔を作る契約魔法をプレシアは、成果として出しました」

 前回のプレシアは、私をリニスとして作ったためにあなたと同じタイプの使い魔でしたがね、とリニスは付け加えた。

「つまり、姿形、記憶は同じでも、あなたの目の前の私とあなたの記憶の中にある私は同じとは思わないほうがいいですよ。私も前の私の感情が理解できない部分が多々ありますから」

 理解できない感情を抱いた他人の記憶を見せられるということは、まるで映画を見るようなのだろうか。アルフには、そんなリニスがよく分からなかった。だが、分かったのは、目の前のリニスが、アルフの記憶の中にあるリニスとは異なる存在であることだ。

「……そうかい」

 アルフの中で何かが吹っ切れたような気がした。目の前の存在が、リニスとそっくりなのは否定できない。もしかしたら、と心のどこかで思っていたのも事実だ。だが、リニスの口から自分はリニスではないということを聞かされた瞬間、アルフの中で、過去のリニスと目の前のリニスが等式で結ばれる要素が一切なくなった。

 そうだ、最初から考えれば、それは当然の話なのだ。フェイトにあんなことを言うプレシアに我慢できるような彼女ではなかったはずなのだから。あの場で、従者のように大人しく従っていたことこそが何よりの証拠。それなのに、どうして自分は躊躇していたのだろうか。

「それじゃ、あんたを遠慮なくぶっ飛ばせるねっ!!」

 一切、遠慮がなくなったアルフは、今度こそという気概を振りかぶった拳に乗せてリニスに飛び掛った。その速度は、先ほどよりも鋭く、速い。だが、その拳がリニスに届くことはなかった。その拳がリニスの顔面に届く直前にアルフの手首は、幾重もの鎖に絡みつかれているのだから。

「なっ!?」

 ―――チェーンバインド。

 アルフも使える拘束魔法。それを教えたのはリニスであり、アルフもそれを使えることを知っていた。だが、魔法を発動した気配はなかったはずだ。そんな、アルフの疑問を読み取ったのだろうか。種明かしするようにゆっくりと動き、振りかぶった拳をチェーンバインドによって無理矢理、下ろさせながら口を開く。このとき、アルフは既に他の場所から発生したチェーンバインドによって縛られており、身動きができない状態になっていた。

「あなたのお喋りに無意味に付き合ったわけではありません。あなたに気づかれないように慎重に構成してしましたからね。しばらく、時間が必要だったのです」

 策が成ったというのに、嬉しそうに微笑むでもなく、こんな策に引っかかってしまったアルフを蔑むわけでもなく、淡々と無表情のままリニスは、教え子に諭すような口調で言った後、近接戦闘中では、とてもできないほどに大きく振りかぶり―――

「それでは、先の宣言どおり、黙ってもらいましょう」

「かはっ!」

 その拳を躊躇なく、アルフの鳩尾にめり込ませた。使い魔とはいえ、痛覚もあり、生命体に近い活動をしている。鳩尾に叩き込まれた拳によって肺にあった空気を強制的に吐き出されたアルフは、一瞬で酸欠状態に陥り、そのままリニスの宣言どおり気を失いそうになった。

 どさっ、と倒れる身体。上手く呼吸ができない体は、意識を保つことを放棄しており、今は気力で持っているようなものだ。だが、それも長く続くこともない。

「―――おや、もう一人のお客様ですか」

 アルフが完全に意識を失うまで見守っているつもりだったのだろう。だが、それはカツン、カツンと一定のリズムで刻まれる足音によって中断された。誰かが、上層からあの傀儡兵の群れを抜けてやってきたのだ。

 援軍が嬉しいのは確かだ。だが、生半可な援軍が来たところでリニスに適うはずもない。

 ――― 一体、誰が来たんだ?

 そう思って、少しだけ頭を動かすが、援軍の正体を知るよりも、アルフの気力が限界を迎えるほうが早かった。ただ、最後に見えたのは、黒い靴とスカートの端だったような気がした。



  ◇  ◇  ◇



 リニスは、感情をなくしたにも関わらず、目の前の存在に恐怖を覚えていた。それはリニスが使い魔にされる前身だった山猫に残っていた本能だったのだろうか。それは、間違いなく目の前に存在に平伏しろと告げていた。だが、使い魔になったことで得た理性がそれをとどめていた。

「申し訳ありませんが、ここから先は立ち入り禁止となっております」

 本能からくる恐怖を必死に押し込みながら、平坦な口調でリニスは目の前の存在―――黒いワンピース型の赤い文様が描かれたバリアジャケットに包まれた彼女にそれを告げた。

 だが、彼女はそれを聞いていないような気がする。ただ、何かに耐えるようにギリギリと拳に力を入れていた。

 もしかして、そこに転がっているアルフの仲間で、仲間がやられている怒りに震えているのだろうか? とリニスは思った。そうだとすれば、アルフを連れて引き返してくれればいいのだが、そう簡単にいくはずもなかった。

「もしも、アルフを「五月蝿い」

 それは酷く低い声。聞いたものは一言で分かる。その声に内包されているのは、純粋な怒りだ。

「あなたは、ショウくんを傷つけた。私の大切な友達を傷つけた。だから―――」

 ああ、彼の仲間だったのか、などと感心するような時間をリニスには与えられなかった。なぜなら、その言葉を言い終わる前に彼女の姿が不意に消えたからだ。いや、違う。彼女が消える直前に感じた魔力の揺らぎ。高速移動の魔法を使ったに違いない。そこまでは判断できた。だが、それ以上の判断を与える時間などなかった。

「壊す」

 すぐ目の前に彼女が現れたと思った次に瞬間、腹部に衝撃が走った。

 殴られたと気づいたのは、あまりの衝撃に身体を折ったあと、目の前に拳が迫っているのを確認した後だ。さりとて、腹部への痛みで怯んでいるところへの拳が避けられるはずもなく、リニスの顔面は、彼女の拳を受け入れ、あまりの衝撃に空を飛ぶように吹き飛んでしまう。そのまま、壁にぶつかるかと思ったが、叩きつけられるような衝撃はなく、代わりに身体中に何かが巻きつくような感覚。殴られた跡が焼けるように痛いが、それを我慢して目を開いてみると身体中が、桃色の魔力光で縛られていた。

 レジストしようと頑張ってみたが、足掻きようがないほどの魔力で構成されたバインドを解くことなどリニスの卓越した魔法をもってしてもできるはずがなく、カツン、カツンと死神のように近づいてくる彼女を見ていることしかできなかった。

 やがて、近接戦闘には最適な位置まで近づくと彼女はポツリと言う。

「43。ショウくんが、あなたに殴られた回数だよ。だから―――それまで、壊れないでね」

 にぃ、と口の端を吊り上げて嗤いながら、リニスにとって絶望的なことを口にする。

 ちょっと待ってください、という制止の声をかける暇もなく、またしてもリニスの顔面に衝撃。次は、肩、胸、二の腕、鳩尾、わき腹。上半身を殆ど間隔をおかずに殴り続ける。

「あはっ、あはははははははっ!!」

 バインドで縛られ、無抵抗のリニスを殴りながら、彼女は声を上げて嗤う。リニスの返り血で自らの拳が汚れようとも。まるで、子どもが無邪気に虫を殺すように。

 上半身から痛まないところがなくなった頃、あれだけ継続的に感じていた痛みを不意に感じなくなった。

「―――起きてよ」

 パシンッと脳を揺らすように平手打ちで文字通りたたき起こされるリニス。どうやら、痛みのあまり気を失っていたようだ。だが、気絶の前に感じていた身体中からの痛みがなくなっていた。まるで回復魔法で傷が癒されたように。

「壊れないでって言ったよね」

 まるで恨むような口調で彼女は言うが、それは無理な話だ。あれだけの痛みを感じておきながら、気絶しないなどということは、生命体をやめたはずの使い魔であるリニスでも不可能なのだから。

「……どこまで数えたかな」

 回数を覚えていないのか、思案顔になる彼女。どうやら、先ほどまで殴っていた回数を忘れてしまったらしい。そのまま、忘れてくれれば、幸いなのだが。そう思ったが、彼女がたどり着いた答えはより残酷だった。

「まあ、いっか。最初からで」

 無邪気な女童のような笑みで言う彼女に恐怖をプログラムされていないはずのリニスの表情が、身体の奥底から湧き出してくる恐怖で固まり、引きつるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アルフが次に目を覚ましたのは、気を失って一体どれだけの時間が経った頃だろうか。それは、アルフには分からなかった。ただ、しょせん酸欠で一時的に意識を失っていただけだ。殴られた箇所は多少痛むが、それだけで、意識をはっきりさせるようにアルフは頭を振りながらゆっくりと起き上がった。

 気絶する前に仕掛けられたバインドが解けていることに気がつきながら、周囲を見渡す。もしも、リニスがいたとすれば、すぐさま捕まえられる可能性が高いからだ。そして、周囲を見渡したアルフは確かにリニスを見つけた。ただし、床に倒れ、満身創痍の状態だったが。

「リニスっ!?」

 気絶する前までは、傷一つなかったはずなのに、今はその真逆の状態だ。本当は敵であるはずの彼女に駆け寄る必要はないのに、満身創痍で床に倒れているリニスを目にした瞬間、思わず駆け寄ってしまったのはアルフの中にあるあの懐かしい記憶があるからだろう。

 駆け寄ったアルフは、うつ伏せに倒れているリニスを仰向けの状態にする。その過程で、気がついてしまったことにアルフは思わず、ひっ、という悲鳴を上げてしまった。まず、リニスの怪我の状態だ。長袖を着ていたから分からなかったが、左右の腕の関節がいくつか増えており、曲がってはいけない方向に曲がっていた。また、仰向けにしたとき、胸元に付着していたのは赤黒い液体に気づいた。言うまでもなく、リニスの血である。その証拠に彼女の口元は、どこかが切れたのだろう、血が流れた後があったのだから。いや、それよりも顔全体も腫れており、目元には蒼痣になっているところもある。

 リンチでも受けたような酷い怪我の様子に生きているのか? と疑問を持ったアルフだったが、そもそも考えてみれば、その問いは愚問だ。なぜなら、使い魔という存在はそもそも死んでいるのだから。彼女たちが死ぬときは、契約の内容を遂行したときか、主からの魔力供給が途絶えたときだけだ。

 もっとも、これだけの怪我を負えば回復するのにかなりの時間が必要になることも確かだ。

「……気がついたのですね」

 仰向けにされたときの衝撃で、怪我に響いたのか、ひゅー、という薄い呼吸音で懸命に呼吸をしながら、呟くようにリニスが小さく口にする。目があまり開いていないのは目の周りが腫れているためだろう。

「酷くやられたもんだね」

 あまりに酷い怪我に顔をしかめながら言うアルフ。

 一体、誰にやられたのだろうか? と思ったが、予想したところで意味がない。リニスを倒した誰かは、今ここにいないということは、クロノを追ってプレシアの元へと行ったのだろう。自分は、どうするべきか? と迷ったが、今にも事切れてしまいそうなリニスを目の前にして、プレシアの元へ応援に行くか、ここに残ってリニスを見張るべきか悩んでいた。

「さて、どうしたもんかね?

 そんなときだ。時の庭園全体が大きく揺れたのは。まるで、アースラの内部で感じたような次元震のような揺れ。

「な、なんだいっ!?」

 だが、それに答えてくれるものはなく、代わりにアルフが感じたのは、プレシアの部屋へと続く通路から人がやってくる気配。まさか、プレシア本人がやってくるのか!? 先に向かったクロノは? と疑問に思っているアルフの前に通路の向こう側から姿を現したのは、頭から血を流しながら、息を切らせたクロノだった。

「クロノっ!?」

 リニスほどの満身創痍ではないとはいえ、かなり酷い怪我だった。急いで近づこうとしたアルフをクロノは手で制する。どうやら、見た目には酷いものだが、自力で動ける程度の怪我だったらしい。

「撤退だ」

 どうしてここに? という疑問に答えるようにクロノは端的に事を口にした。

「プレシアは?」

「なのはさんが相手にしている。悔しいが、あんな魔法戦に加勢はできない」

 執務官というプライドにかけて地元住民の女の子に頼るしかないという状況は、悔しいのか、吐き捨てるように言うクロノ。なのはという言葉に少し驚いたアルフだったが、心のどこかでは納得していた。なぜなら、リニスをここまでボロボロにできるのは確かにクロノを除けば彼女ぐらいしか思いつかないからだ。

「彼女のためにも退路の確保が必要だ」

「ちょいと待っておくれ」

 急いでクロノが行こうとしているのを呼び止めてアルフは、リニスの元へ近づく。

「よっ、と」

 アルフはリニスに肩を貸すように起き上がらせた。その際、怪我が痛んだのか、リニスは顔をしかめる。だが、そればかりは我慢してもらわなければならない。こうでもしなければ、彼女を連れて行くことなどできないのだから。

 元々仲間だから、という単純な理由で助けるわけではない。彼女にはプレシアのことに関して供述してもらわなければならない。フェイトに罪がないようするにためにも。そう、そのために連れて行くのだ、とアルフは自分に言い訳するようにしてリニスをアースラへと連れて行こうとした。

「……アルフ、私はここに残ります」

 それをリニス自身が拒否する。だが、そもそも、彼女に拒否権はない。だから、次の言葉がなければ、アルフは無理矢理にでも彼女を連れて行っていたことだろう。

「プレシアからの魔力供給が切れました。間もなく私は消えるでしょう」

「なっ!?」

 リニスの言葉に驚くしかない。使い魔にとって主からの魔力供給は文字通り生命線だ。それが切られた以上、待っているのは、機能停止、使い魔にとっての死でしかない。

「それに、一応は、二度も仕えた主ですし、ここには前の私の分も合わせて思い出が多いですから」

 だからこそ、ここに残りたいと彼女は言う。アルフは一瞬、逡巡した後、肩を貸した腕を外し、部屋の壁に寄りかかるようにしてリニスをゆっくりと下ろした。おそらく、自分がリニスと同じ立場であれば、同じようなことを頼んだだろうから。使い魔である以上、それがどんな主であったとしても最期は、主の近くで迎えたいと思うだろうだから。それがたとえ、プログラムされた擬似生命体とはいえ。

 アルフの気遣いが嬉しかったのだろうか。今まで無表情だったリニスが少しだけ、笑って、ありがとうございます、といった。

 それを見届けた後、クロノが急かす様にアルフの名前を呼ぶ。最期の別れが名残惜しいが、それでも彼女はここで消え、アルフはあの世界でフェイトと共に生きていくのだ。だから、ここでお別れ、彼女はアルフの思い出の中で生きていくだろう。そう考え、いい加減に見切りをつけ、リニスに背中を見せたアルフの背後からリニスの最期の言葉が聞こえた。

「ああ、そうだ。前の私が最期に思ったことをあなたに伝えておきます」

 その時、なぜかアルフはリニスに対して背中を向けているのに、彼女が感情を持っていないのにも関わらず、リニスが笑っているような気がした。

「『フェイトをよろしく頼みましたよ』」

 ああ、当たり前だろう、と心の中で返事をしながら、アルフは待っていたクロノと共に退路を確保するために時の庭園を後にするのだった。



  ◇  ◇  ◇



 プレシア・テスタロッサは苛立っていた。

「どうしてっ!? どうしてなのよっ!!」

 目の前の二十個のジュエルシードと緑色の液体に包まれたアリシアを前にして、時の庭園の最下層でプレシアは叫んでいた。心の中では、なぜ? なぜ? なぜ? と自問自答する。理論は正しいはずだ。本物のロストロギアであるジュエルシードもこうして規定個数以上の数が揃っている。それにも関わらず、プレシアの計画通りに進まない。

 プレシアの計画通り動いていたならば、既にジュエルシードは閾値以上の魔力を共鳴させ、暴走させ、大規模な次元震を起こしてプレシアたちをアルハザードへ誘っているはずなのだ。それなのに、目の前のジュエルシードはある程度の魔力を共鳴反応で発生させるものの一定値以上の魔力を発生させることはなかった。

 自分の数年かけた魔方陣が間違っているのかと思ったが、その可能性は何百というパターンに渡ってデバッグしたはずだ。その可能性は低いといわざるを得なかった。後は、ジュエルシードの封印が解けていない可能性を考えたが、先ほどからプレシアの魔力を外部から与えているのだ。プレシアの魔力は全盛期よりも劣ったとはいえ、限定のSSランクは伊達ではない。アースラにいるのは最高でも高町なのはのSランクが最高のはずだ。つまり、プレシアの魔力で解けないはずがないのだ。

 だからこそ、自分の計画が発動しない理由が分からない。

 ここまでは順調だった。途中で、自分が作った人形が使い物にならないというアクシデントはあったが、それは即座に斬り捨てることと、計画の修正だけで後は、面白いように上手くいったものだ。まるで、天が、運命が、プレシアにそれを望んでいるように。だからこそ、最後の最後で、こんなことで躓いている事が許せなかった。

「私は、すべてを取り戻す。アリシアとの過去も未来も、すべてを。そう、こうでなかったはずの世界のすべてを手に入れるために」

 それはまるで自分に言い聞かせるような言葉。いや、実際に言い聞かせているのだ。これが、これこそが、アリシアという最愛の愛娘を失っても生きられた最大の柱なのだから。取り戻す、手に入れる。過去を、明日を、すべてを。それだけが、プレシアの望みであり、願いであり、すべてだった。

 だが、それを否定するものもいる。

「世界はいつだって、こんなことじゃないことばかりだよ」

 いつの間にこの部屋に入ってきたのだろうか。カツン、カツンと足音を立てながら、黒い執務官のバリアジャケットに包まれた少年がプレシアに近づいてきていた。

「それに対して、どう足掻こうが、個人の自由だ」

 アリシアを失ったという世界の理不尽をプレシアは受け入れることはできなかった。だから、足掻いた。もがいた。取り戻そうとした。

「だが、それのために誰かを犠牲にする権利はどこの誰にもありやしないっ!!」

 それは、彼の宣言だったのだろう。力強い言葉だった。

 だが、その言葉をプレシアは受け入れる事ができない。

 犠牲? 知ったことではない。何を犠牲にしようとも、利用しようとも、プレシアはすべてを取り戻すのだ、手に入れるのだ。だから、ジュエルシードを使うことで、次元震を起こすことでたくさんの犠牲がでることも承知の上で計画を進めた。すべては、アリシアを蘇らせるという至上の目的のために。

「時空管理局執務官クロノ・ハラオウンだ。プレシア・テスタロッサ。あなたを逮捕する」

 すっ、と彼が持っているデバイスを構える。

 それに対して、プレシアは、一時、彼が何を言っているのか理解できないように動きを止め、やがて、表情を憤怒に彩られたものへと変える。アリシアと失った時間を取り戻すことを邪魔しようという相手なのだから。それらは、すべてプレシアにとって排除するべき敵だった。

「いいわ、坊や。少し遊んであげる」

 プレシアが杖を手に取る。まるで、餌を目の前にした蛇のようにチロリと舌をだし、妖艶に笑うとプレシアは、静かに忠告する。

「だから、これで終わるなんてつまらない真似はしないでね」

 ―――フォトンランサー・ファランクスシフト。

 プレシアの周囲に四十を越えるフォトンスフィアが一気に展開される。それを見て、クロノは度肝を抜かれたように驚いた表情をしていた。彼の反応はある種、当然といえた。その魔力量、魔法の難易度、どれをとっても無詠唱で展開できるはずの魔法ではない。それにも関わらず、プレシアはトリガーワードのみで展開していた。

 驚くクロノの反応を面白がるように笑うとプレシアは、無慈悲に容赦なく、最後の言葉を口にした。

「ファイア」

 四十七個のフォトンスフィアから毎秒八つのフォトンランサーがクロノに向けて発射される。それが、八秒。つまり、合計三千八のフォトンランサーがクロノを襲っていた。個人に対しては過剰ともいえる火力。いくらクロノが執務官とはいえ、まともに喰らっていれば、非殺傷設定であったとしても、意識を失うことは逃れられないだろう。

 三千発を越えるフォトンランサーを放った後、魔法の爆発の衝撃でおきた煙がはれた時、クロノは額から血を流し、ところどころ爆発の衝撃でバリアジャケットが煤けていたりするものの、プレシアの予想に反してそれなりに無事だった。

 ほぅ、と感心したような声をあげるプレシア。おそらく、プレシアの言葉から攻撃が来ることを予想してすべての魔力を防御魔法に集中したのだろう。全身から血を流している姿を想像していたのだが、思ったよりも楽しめそうだ。

 もっとも、先ほどのフォトンランサー・ファランクスシフトをまともに防御しただけで、ほぼ限界が見えているようなものだが。だが、そのほうが八つ当たりには丁度よかった。

 にぃ、と罠に飛び込んできたネズミを愚か者、と罵りながらプレシアは嗤う。

 そもそも、ジュエルシードを奪えば、時空管理局が乗り込んでくる。それは予定調和のように当たり前のようだった。ならば、それに対して対策をしないほどプレシアはバカではない。しかも、そのための時間はたくさんあったのだから。プレシアにとってこの部屋はある種の要塞だ。いたるところに刻まれた魔法をアシストする魔方陣。ほぼ無限に魔力を供給するロストロギアに匹敵する時の庭園の動力炉と直結しており、無限に魔法を唱える事が可能となっている。しかも、これでも尚、プレシアはまだ隠し玉を持っている。もっとも、目の前の少年に使う必要はなさそうだが。

 それからは、プレシアの狩りの時間だった。先ほどのような大規模な魔法を使うことはなかったが、中級魔法でいたぶるようにクロノに魔法をぶつける。クロノもそれが分かっているのか悔しそうにしながらも、反撃の手立てが見つからず避けることに集中している。もしかしたら、プレシアの魔力切れを狙っているのかもしれない。

 だが、それも無駄なことだ。この場所において、プレシアの魔力は無限と言っていいのだから。

 しかしながら、そろそろ遊ぶのも飽きてきた。そもそも、プレシアには崇高な目的があるのだ。アリシアとの時間を取り戻すという崇高な目的が。後一歩で、その時間は手に入れられる。だから、もうそろそろ遊ぶのも終わりにしようと思った。そう思って、クロノにとって最期に聞く魔法になるであろうトリガーワードを口にしようとしたとき、プレシアの脳裏に念話が入ってきた。

 ―――プレ……シア。申し訳………ありま…せん。そちら……に、もう一人……行かしてしまいました。―――

 せっかく、もう一度使い魔にしてやったのに、使えない使い魔だ、とプレシアは思った。もっとも、一人が二人になったところで変わらないだろう。なぜなら、あの傀儡兵の山を越えてこられるとすれば、それは、執務官であるクロノか、あるいはプレシアが目をつけた高町なのはしかありえないと思っているからだ。

 なのはが来たところで所詮Sランクの魔力。対してプレシアは、SSランクの魔力を自在に扱える。どう考えてもアドバンテージはプレシアにあった。しかし、目の前のクロノと協力されても面倒だ。だから、さっさと目の前のクロノは片付けてしまおうと先ほど中断した魔法を唱えようとして、またしても中断することになる。

 今度はリニスからの通信ではない。気づいた、気づいてしまったからだ。この部屋にゆっくりと近づいてくる莫大な魔力を持ったものの存在に。少なくともプレシアはこんな魔力を持つ存在を知らない。思わず目の前のクロノの存在を忘れて、クロノに蹴破られた部屋の入り口を見てしまう。

 カツン、カツンという足音と共にゆっくりと姿を現した彼女の姿をプレシアはどことなく知っていた。なぜなら、彼女は常に見張っていたから。彼女という存在を。翔太という餌がどれだけ彼女にとって効率的か、ということを調べるために。だから、少し成長したとしてもプレシアは彼女の名前を呼ぶ事ができた。

「高町なのはっ!!」

 夜を流したような漆黒と血のように赤い文様に包まれた魔導師が、下種なものを見るような目でプレシアを見ながら、そこに立っていた。



つづく



[15269] 第二十二話 裏 後 《無印 完結》
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/08/29 17:33
注意:なのはVSプレシアは十二分な覚悟をもって読んで下さい。




 アースラの管制塔の頂上にある艦長室に用意された特別室に座りながら高町なのはは翔太の名前を呼んでいた。

 ―――ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん、ショウくん。

 それがまるで聖句のように、彼の名前を呼べば、彼の無事が保障されるように。

 翔太の事が心配でならないなのはは、忙しそうに動き回りながらプレシアの動きを探っている局員を見ながら、早く、早く、と急かしていた。しかしながら、なのはが心の中で急かしたところで情報が舞い込んでくるはずもなく、無情にも刻々と時間は過ぎていく。

 結局、なのはが望む情報が登場したのは、翔太が誘拐されてからかなり時間が経った後だった。

『こんばんはぁ、アポイントメントもなしにごめんなさいね』

 モニターに映されたのは、なのはも知っている顔だ。親の仇ともいえるほど憎い相手。プレシア・テスタロッサだった。なのはは、顔には出さずとも、睨みつけるような視線でプレシアを見ていた。声が出せなかったのは、翔太を攫った本人を前にして燻っていた怒りに火がつき、その感情で心を支配されたからだ。

 糾弾するとか、叫ぶとか、訴えるとか、そんなことを思いつくこともなかった。ただただ、目の前の相手に対する怒りで胸が一杯だったのだ。

 だが、睨みつけたところで何も変わらない。怒りの炎は、一瞬燃え上がったが、そのままさらに燃え上がることはなく、少しだけ沈下して、ようやく物事考えられるようになって初めて、なのははプレシアに抗議の声を上げる事ができた。

「ショウくんを返せっ!!」

 それはなのはにとっては必死の叫びだった。

 なのはにとって翔太とは、幼い頃からずっと渇望していた唯一の友人なのだ。彼が手の届く場所にいない。それだけで、なのはは、不安でしかたなかった。不安だから求める。翔太を手の届かない場所へと連れて行ったプレシアに対して怒りを抱いているのだ。

 だが、そんななのはの必死の叫びもプレシアには届かない。むしろ、なのはが怒りの裏側に必死に不安を隠しているのを見抜いているようにニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべていた。しかし、それも一瞬のことで、アースラの艦長であるリンディに話しかけられてからは少しだけ不快そうな表情をするのみに留まっていた。

 なのはが蚊帳の外に置かれ、プレシアとリンディが会話を続けている。なのはが間に割って入らないのは、自分が割って入ったところで、翔太が返ってくる可能性が高くなるわけではないと理解しているからだ。

 やがて、その交渉が上手くいったのだろう。なのはにとって、待ち望んでいた瞬間が訪れた。翔太がモニターの向こう側に現れたのだ。バインドで縛られているとはいえ、五体満足な翔太の姿が見られてなのはの心は、歓喜に躍る。

「ショウくんっ!!」

 だが、その歓喜は、すぐに絶望へと変わる。

 翔太がバインドによって吊るされたかと思うと、不意にプレシアの使い魔が、翔太を殴り始めたのだ。初めは顔面、次に腹、わき腹、腕、鳩尾、また顔面。それらを見て、なのはは驚きのあまり声を出す事ができなかった。

 ―――え?

 なのはは状況が理解できていなかった。翔太の無事な姿を見る事ができたと思った矢先、目の前で翔太が、無抵抗に殴られているのだ。しかも、一発ではない。何度も、何度も、何度も。まるでリンチのように容赦なく翔太は殴られ続けていた。

 ―――やめて……、やめてよぉ……。

 翔太が殴られ、モニター越しに、翔太の痛みに耐える声や肺の空気を無理矢理吐き出されるような声は確実になのはの心にダメージを与えていた。だから、茫然自失に近いなのはは、心の中で弱々しく、やめてと訴えることしかできない。

 翔太が殴られる場面など見たくはなかった。一刻も早くあの場所から翔太を助けたかった。翔太を助けるためならなんでもするのに、となのはは思った。そんななのはに悪魔の囁きのようにプレシアの声が聞こえる。

『さあ、彼を助けたかったらジュエルシードを渡しなさい』

 その誘いになのはが乗らないわけがなかった。彼女の頭の中にはあの状況から翔太を救い出すことしか考えていないのだから。

「本当に? ジュエルシードを渡せば、ショウくんを助けてくれるの?」

『ええ、勿論』

 その場の全員の視線が集まっていたことなど、なのはは意に介さない。彼女にとっての最優先事項は翔太であり、彼らのことではないから。だから、必死に翔太と集めたジュエルシードなどどうでもよかった。翔太と天秤に乗せるまでもない。むしろ、あんな石ころごときで翔太が帰ってくるなら安いものだと思っていた。

 ジュエルシードはどこにもって行っただろうか? ああ、そういえば、とアースラの一画に安置されていたことを思い出したなのはは、プレシアにジュエルシードを渡すために動くことにした。だが、それを良しとしない者もいる。艦長席の隣に設置された席から立ち上がったなのはの手を掴んだのは、いつの間にか管制塔に来ていた執務官のクロノだった。

「どこに行くつもりだい?」

 疑問系で問いながらもクロノはなのはの行き先が分かっているのだろう。固い顔をして、瞳には、なのはを行かせないという強い意志が宿っていた。それは、執務官としての彼のプライドなのだろう。だが、そんなものはなのはにとって何も関係がなかった。

「……邪魔をするの?」

 なのはの問い。その答えの如何によっては、クロノは彼女の敵だった。そう、敵だ。翔太を取り返す邪魔をする者は全員敵。それが高町なのはの見解。もしも、邪魔をするというのであれば、彼女が持てる力で排除するつもりだった。前回の時と同様の二の鉄を踏まないように。その証拠にクロノに掴まれた腕と反対側の手は首からぶら下がっているレイジングハートへと伸びていた。

「それは……」

 なのはの問いにクロノは言い淀んでいた。彼の中には彼なりの葛藤があるのだろう。だが、そんなことはなのはの考慮の中に入っておらず、早くして欲しい、となのはは思っていた。早く翔太を取り戻さなければならないのだから。

 無言のにらみ合い。なのはにとってクロノの優先順位などないに等しい。だから、もうこれ以上は待っていられない。さっさと振り切ってジュエルシードをプレシアに渡してしまおう、と結論付け、レイジングハートにセットアップを命じようとした時、クロノに助け舟に入るようにリンディがなのはとクロノの間に割って入った。

「はいはい、ごめんなさいね。なのはさん、翔太くんを返して貰うためにジュエルシードを渡すことにしました」

「艦長っ!?」

 リンディの突然の宣言。それを聞いたクロノは、驚いたような咎めるような声をあげるが、リンディは、クロノの声を飄々と受け流し、視線をなのはから外すことはなかった。なのはは、リンディからの言葉を聞いて一安心していた。プレシアとリンディの間にどんなやり取りがあったか分からないが、なのはにとってはどうでもよかった。

「でも、そのまえに少しお願いがあるのだけど」

 いいかしら? と問うリンディになのはは、一も二もなく頷いた。翔太が返ってくるのであれば、何でもするつもりだからだ。

 じゃあ、とリンディが案内したのは、ジュエルシードが安置されている一画。そこからリンディが少しだけ機械を操作して取り出したのは、レイジングハートに内蔵されている一個を除いた二十個のジュエルシードが安置されているケースだった。そのケースを開き、二十個のジュエルシードをなのはに見せながら、リンディは頼む。

「なのはさん、これをジュエルシードの力を使って封印してくれないかしら?」

 目の前のジュエルシードはなのはのSランクの魔力によって封印されている。それをさらにジュエルシードを使った状態のなのはで封印しろ、ということなのだろうか。SSSランクの魔力で封印されたジュエルシードはもはや、堅牢な鎧に包まれた状態と変わらないのだが、いいのだろうか? と少し疑問に思ったのだが、翔太が返ってくることで頭が一杯だったなのはは、特に問うこともなく二十個のジュエルシードに封印を施した。

「ありがとう、これで時間稼ぎには十分ね」

 その呟きが何を意味するかなのはは知らない。知るつもりもなかった。なのはが考えていることは、唯一つ。はやく翔太が返ってこないかな、ということだけである。

 なのはの願いが叶ったのは、ジュエルシードに封印を施してすぐだった。転送ポートに移動したリンディと一緒についていくと、すぐに転送ポートが黄色い光に包まれて、猫耳を持った使い魔とバインドで縛られた翔太が現れた。翔太が視界に移った瞬間、なのはの意識の中には翔太のことしか頭になかった。本来であれば、今すぐ消したくなるほどの怒りを抱いているはずの使い魔の事でさえ、目に入らないほどに。

 近寄った翔太の姿はなのはの目から見ても痛々しいほどだった。顔は全体的に腫れており、口からは血を流している。腕などは、ずっと縛られていた影響か、うっ血しており、さらには殴られた影響で痣になってる箇所さえある。おそらく、服を捲ればもっと酷い惨状がなのはの目に入るだろう。だが、翔太の惨状は、服を捲るまでもなくなのはが涙を流すには十二分だったらしく、翔太の痛々しい姿を視界に納めた瞬間からなのはの両目からはぽろぽろと涙が流れていた。

「ショウくんっ! 大丈夫っ!?」

 大丈夫でないことは、見たらすぐに分かるものだが、そう問わずにはいられない。だが、そのなのはの優しさが心地よかったのか、翔太は腫れている顔を無理矢理笑みを浮かべるようにして笑いながら―――顔を動かしたとき痛かったのだろう、笑みは若干引きつっていた―――「あははは……、ちょっと身体中が痛いかな」と冗談交じりのような言葉を口にする。

 それがなのはを心配させないための強がりであることは目に見えて明らかだ。そんな翔太の気遣いとも思える部分がすごいな、と思いながらも、今はそれどころではなく、翔太の怪我の手当ての方が先と気づいた。

「えっと、えっと……そ、そうだっ! 病院っ! 病院に行かないとっ!!」

「いや、それよりも、僕のほうが早いよ」

 翔太となのはの間に入ってきたのは、ユーノだ。最初、なのはは何するんだっ!! と憤っていたが、ユーノがかざした手の平から翔太に当てられる淡いエメラルドグリーの光を見て、憤りを収めた。怪我=病院という等式はなのはの中では常識だ。だから、なのはが関わっている力は魔法という存在を忘れていた。

 エメラルドグリーンの光を当てられた翔太の傷がゆっくりと治っていき、翔太の表情も安らかなものへと変わっていくのが分かる。だが、それでもなのはは心配だった。彼女は、翔太が殴られている場面を目撃しているのだ。あれだけ何度も殴られているのに本当に大丈夫だろうか? と心配してしまうのは仕方のないことだろう。

 はらはら、と心配を拭うことはできず、翔太の傍にいるなのは。だが、そんな彼女を気遣ったのか、ユーノの回復魔法を受けていた翔太がまだ傷が治ったばかりで弱々しく笑いながらもなのはに言う。

「なのはちゃん、僕はもう大丈夫だよ」

「本当?」

 翔太は、優しいから、なのはを心配させないために言っているんじゃないか? という疑惑が湧き上がってくるが、なのはの確認に強く頷いてくれたことから、なのはは翔太を信じ、ようやく心配を拭う事ができ、少しばかりの笑みを浮かべる事ができた。なのはの笑みを見て、翔太も先ほどよりも笑みを強くしてくれた事がなのはにとって何よりも救いだった。

 それから、本当はずっとついていようか、とも思ったが、そうすることはなく、医務の局員が運ぶストレッチャーの上で眠ってしまった翔太を通路の途中で見送って、医務局とは反対側へと踵を返した。なのはにはやらなければならない事ができたからだ。

 今、なのはの内心は、怒りという名の炎が轟々と盛大に燃え盛っていた。それは、翔太という心配事と不安がなくなって、翔太が誘拐される場面を見てからずっと燻っていた怒りに火がついただけのことだった。その怒りは当然、翔太を誘拐したプレシア、あんな惨状になるまで殴った使い魔に向いている。そして、もう一人、その怒りは自分自身にも向いていた。

 前人未到のSSSランクという魔力を手に入れておきながら、翔太が誘拐されるのを防ぐことができなかった。助ける事ができなかった。殴られているのを見ていることしかできなかった。不甲斐ない。不甲斐ない。不甲斐ない。あれだけの力を望んだのはなぜだ? 翔太と一緒にいるためだ。それを役立てる事ができなかった不甲斐ない自分にもなのはの怒りは向いていた。

 それを濯がなければならない。なにより、翔太に言ったのだ。

 ―――私がちゃんとやっておくから、と。

 痛みを与えなければならない。翔太はたくさんの痛みを与えられたのだから。

 粛清しなければならない。彼女たちは、なのはにとって一番大切なものを傷つけたのだから。

 壊さなければならない。もう二度と翔太を傷つけないように。傷つけようとは思わないように。

 そのためには、あの場所に行かなければならない。モニターの向こう側に映る戦場へと。そこへ行くことには普通なら、恐怖を伴うものだが、今のなのはは怒りが心の大部分を占めており、恐怖を感じる隙間などない。だから、なのはは、リンディに宣言するように言う。

「私も、あそこに行きます」

 少し驚いたような表情をして、それから考え込むような表情をするリンディ。もっとも、なのはからしてみれば、彼女がどんな答えを出そうが、あの場所に行くことは決定事項だ。リンディに許可を得ようと思ったのは、翔太と「ちゃんとやる」と約束したからだ。この場所の一番偉い人はリンディで、だから、彼女から許可を貰えば、ちゃんとやっていることになるだろう、とそう考えたのだ。

 やがて、リンディが何かを決意したような表情をして、口を開く。

「……お願いできるかしら」

 とりあえず、リンディが出した答えに満足しながら、はい、と答えてなのはは背後にある転送ポートへ行くために踵を返した。

 自然と口の端が釣りあがるのを自覚していた。これからのことを考えれば、これから、翔太の敵を討ちにいくと考えれば、笑みがとめられないもの無理もない話だ。

「行くよ、レイジングハート」

 ―――All right! My master!!

 この力は、この時のために――――なのは、出陣す。



  ◇  ◇  ◇



 武装隊の隊長は、現場で戦況を見ながら、この状況の悪さに悪態つかざるを得なかった。

 今回の強襲で使える部隊は、五人一組の小隊が二十五部隊。総勢百二十五人。部隊規模で言うなら中隊規模はあり、中規模の犯罪組織を制圧するには十分な戦力であるはずだった。だが、その戦力が今やたった一人の犯罪者に押されている。

 理由は、わらわらと蟻のように湧いてくる傀儡兵だ。しかも、たちの悪いことに一つ一つがAランクの魔導師並みの力を持っている。武装隊の平均魔導師ランクはBランクだ。一番ランクの高い隊長の自分でもランクA+であり、傀儡兵一体に対して、武装局員が三人でようやく立ち向かえる程度である。

「隊長っ! 三番隊に負傷者三名っ! 戦線が維持できませんっ!」

「予備の十八番隊と交代。負傷者の回収と後方での治療急げ。さっき後方に下げた六番隊は?」

「今は回復して予備戦力で後方支援中です」

 負傷者が増える中、こうして戦線が維持できているのは、突入の際に手伝いで来ているユーノという子どものおかげだった。彼の結界魔法と回復魔法を併用した魔法により、負傷者がでてもすぐに回復できるため、なんとか戦線が維持できているようなものだ。

 しかし、その回転も限界を迎えるのが目に見えている。限界を迎えるのが先か、なんとかかろうじて送り出したクロノが戻ってくるのが先か。それだけが問題だった。

 次々と舞い込んでくる負傷者の報告。予備の戦力を確保しながらなんとか穴埋めを続けるが、それも限界に徐々に近づいている。破綻の兆しが段々と見えてくる。そうなれば、部隊の士気も段々と下がってきてしまう。士気が下がった部隊がまともに戦闘行為ができるわけがない。

 ―――参ったな。こりゃ、どうするか?

 気合を入れるのは簡単だ。だが、気合と根性だけで切り抜けられるほど現場は甘いものではない。確かな裏づけが欲しいものだ。何か起死回生の策はあるだろうか? と頭を捻らせていた部隊長の下に一本の朗報が入った。それは、管制塔オペレータのエイミィからの通信だった。

『部隊長っ! そっちに助っ人がそっちに向かったよっ!!』

 その言葉に首をかしげる部隊長。アースラに最初から全戦力を投入することは決まっていたことだ。故にアースラに残っている戦力はないはずだ。だが、エイミィが嘘を言っているようには見えない。どういうことだ? とは思うが、答えはすぐに現れた。

 それは、武装隊が突入のときに蹴破った扉から悠々と現れた。まるで影のように黒い衣服―――否、バリアジャケットに身を包まれ、栗色の髪をツインテールにした一人の女性の姿。その左手には、その黒と赤い文様からは想像もつかない桃色のデバイスが握られている。

 彼女の姿を捉えたとき、部隊長の心臓がドクンと大きく震えた。

 彼女を視界にいれる。ただそれだけで、部隊長の体が彼女から淡く発せられる魔力の圧力に恐怖を覚えていた。

 突然の乱入者に最初に反応したのは傀儡兵たちだ。武装隊の面々に襲い掛かる前に後方で待機していた傀儡兵たちが一斉に襲い掛かる。一気に五体。武装隊の戦力で言うなら十五人分の戦力だ。それは百二十五人の部隊を率いる部隊長をもってしても、負けてしまうほどの戦力だ。だが、それを黒い乱入者は一瞬で蹴散らした。

 何が起きたか部隊長には分からなかった。傀儡兵が襲い掛かったと思った次の瞬間には、襲い掛かった五体の傀儡兵は、ほぼ同時に粉々に砕け散っていたのだから。

 どうなってやがる? と度肝を抜かれている部隊長を余所に黒い乱入者は、広間を見渡すと一言何かを呟いていた。口の動きから読み取れた言葉は二文字だった。

 ―――邪魔。

 その言葉の意味を理解したとき、部隊長の口からは全前線部隊にむかって、下がれっ! という命令を出していた。

 直後、乱入者の周囲に無数のアクセルシューターが展開され、広間を縦横無尽に桃色のアクセルシュータが走り回る。それらは、傀儡兵を貫き、穿ち、粉々に粉砕する。

「隊長っ! これは……」

 状況についていけない部下が尋ねてくるが、それは自分が知りたい事実だった。だが、一つだけ確かな事があった。

「助っ人だそうだ」

 そして、その助っ人とこの圧倒的という言葉すら生ぬるい状況を起こせる助っ人にたった一人だけ心当たりがあった。武装隊の間でまことしやかに囁かれていたロストロギアを取り込み、SSSランクの魔力を持つ少女のことだ。噂によるとクロノ執務官すら圧倒したというが、尾びれ背びれがついたものだろう、と思っていたのだが、この状況を見るにどうやら噂は真実だったようだ。

 ヒュンヒュンと空を切るように広間を駆け巡るアクセルシュータ。傀儡兵も乱入者が最大の敵だと見定めたのか、彼女に向かって、襲い掛かるがことごとくが彼女の半径十メートル以内にたどり着くことなく、ただの粉々になった物体と化していた。その様子をただ見ているしかない武装隊の面々。いや、正確にはそれしかできないというところだろうか。無用意に動けば、空間を蹂躙しているアクセルシュータにぶつかってしまうかもしれない。傀儡兵を一撃で粉々にするようなアクセルシュータだ。誰もそれを喰らいたくはなかった。

 彼女の登場から五分。武装隊の二倍はあったはずの傀儡兵は、次々と桃色のアクセルシュータに蹂躙され、ついに広間からすべての傀儡兵が駆逐された。それを確認した乱入者の彼女は、空間内に存在していたすべてのアクセルシュータを消す。そして、粉々になった傀儡兵が転がる広間を悠々とゆっくりと歩き始めた。向かう先は一直線にクロノが消えた通路の先だ。

 彼女の前には武装隊の面々もいたが、彼女を恐れるように素直に道を空ける。その様子はまるで、彼女のために用意された花道のようだった。

 だが、それを阻むような地響きが広間を襲う。広間の壁を壊しながら現れたのは、襲ってきた傀儡兵よりも二周りほど大きな傀儡兵だった。背中には大きな発射台を背負っている。それを黒い彼女は一瞥しただけだった。まるで意に介さないといわんばかりに。

 相手にされない事が腹立たしかったのか―――傀儡兵に意思があるかどうか不明だが―――まるで、ムキになったように背中の発射台を彼女に向ける。だが、それでも彼女は意に介さずすたすたと歩き続ける。段々と魔力を集束しはじめる発射台。その魔力はAAAランクに相当することを部隊長である彼は肌で感じていた。

 それでも対策をとろうとしない彼女。武装隊の誰かが「危ないぞっ!」と叫ぶが、助けにははいらない。入れない。無闇に助けに入れば、むしろ邪魔になることが分かっているからだ。

 そして、とうとう、発射台からAAAランクの魔力が集束された砲撃魔法が発射された。その魔力の奔流はまっすぐ彼女へと向けられる。だが、それに対して彼女はようやく反応を見せたと思ったが、それでも右手を軽く上げるだけだ。そして、一言だけ呟く。

「プロテクション」

 彼女の手に平に沿うように、彼女を護るように円形の盾が形成される。誰がどうみても初歩的な防御魔法であるプロテクションであった。普通に考えれば、初歩的な防御魔法であるプロテクションで、あの砲撃魔法が防げるとは到底思えない。思えないのだが、規格外の魔力を漂わせている彼女なら、あるいは、と誰もが考えているからか、その様子を固唾を呑んで見守る以外に武装隊の面々が取る行動はなかった。

 そして、ついに砲撃魔法と防御魔法が激突する。平均的な武装隊が張った防御魔法であれば、あっという間に吹き飛ばされるだろうが、彼女はその常識をいとも容易く破り、彼女の足元が広間の地面に数センチ沈み込むような衝撃を受けながらも、微動だもせずにその砲撃魔法を受けきってしまった。

 砲撃魔法を受けきった彼女は、すぅ、と視線を大きな傀儡兵へと向ける。その視線を受けて、その傀儡兵が後ずさったような気がした。意思がないはずの傀儡兵が彼女に怯えるように。それを気づきもせずに彼女は、すぅと左手に持っていたデバイスを向けると静かにトリガーワードを口にする。

「ディバインバスター」

 まるで魔力が爆発したような音共に放たれる先ほどの集束魔法と比べても遜色がないほどの砲撃魔法。怯えたように後ずさった傀儡兵だったが、正気に返ったようにシールドをはるが、それは無意味に終わった。まるで、そこにシールドなんて存在しなかった、と言わんばかりに水で濡れた和紙のようにシールドを軽く粉砕すると彼女のディバインバスターはあっさりと傀儡兵を貫き、粉砕してしまった。

 その結果を見届けると彼女は、何事もなかったようにまた歩き始める。

 ただ、それを見送ることしかできない武装隊の面々。通常であれば、救世主とも言うべき援軍に対して湧き立つところだろうが、彼女が見せた力が異様だった。自分たち百二十五名の武装隊が一致団結して、それでもなお劣勢を強いられていた相手に対して、まるで埃でも払うように一掃されてしまえば、彼らの立つ瀬がない。状況についていけず呆然としているというのが正直なところだった。

 そんな彼らを尻目に彼女は、まるで何事もなかったかのように平然とすたすたと歩みを続ける。武装隊の面々ができたのは、クロノがプレシアの元へ向かった通路に消えた彼女を呆然と見守ることだけだった。

「おいっ! 何をやっているっ! 広間を確保しろっ!」

 傀儡兵がいなくなったこの瞬間こそが絶好の機会なのだ。いくらほうけているからと言っても、その隙を見逃す理由は何所にもなく、全武装局員に部隊長は一喝する。その一喝が利いたのか、彼らは雷にでも打たれたようにビクンと身体を震わせると、正気に戻ったようにきびきびといつものように動き出した。今の一瞬の光景はなかったことにするようだった。

 部隊長の彼は、彼女が消えた通路の先を見ながら思う。

 ―――SSSランクの魔導師。まさか、本当に実在していたとは。

 花道を通って黒い少女が奥へと消えた通路を一瞥して、感慨深く思う部隊長だった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、時の庭園の通路をゆっくりと一歩、一歩踏みしめるように進んでいた。本当なら、すぐにでも飛んで行きたい気持ちがある。しかしながら、そうしてしまえば、プレシアやその使い魔を見た瞬間に砲撃で攻撃してしまいそうだった。だが、それではダメなのだ。彼女たちには、翔太を傷つけたことを後悔してもらわなければならない。一瞬で片付けることなどあってはならないことなのだ。

 だから、高ぶる自分の気持ちを押さえるように一歩、一歩踏みしめながら時の庭園の中を進んでいた。

 時折、思い出した頃に襲ってくる傀儡兵を鎧袖一触で倒しながら、時の庭園の通路を強大な魔力が反応する方向へと向けてまっすぐと歩き続ける。そして、ついになのはが望んでいた最初の邂逅が訪れた。

 壊れた扉を通った向こう側。そこに彼女は、お客様を迎えるメイドのように立っていた。なのはが忘れもしない。翔太を殴っていた使い魔―――リニス。それがなのはの目の前に立っていた。もはや、恋する少女のようになのはの視界には猫耳の使い魔しか目に入らない。床にアルフが転がっていたが、彼女を気にするような余裕もなのはにはなかった。

「もしも、アルフを「五月蝿い」

 リニスの言葉を遮る。彼女の言葉を聞いているような猶予を与えるつもりはなかった。今にも爆発しそうなこの怒りの感情の憤りをぶつけたくて仕方ないのだから。だから、なのはは、宣言するようにリニスに告げる。

「あなたは、ショウくんを傷つけた。私の大切な友達を傷つけた。だから―――」

 レイジングハートによって魔法を展開する。有り余るほどの魔力は、術師によるトリガーワードさえ必要とせずに発動した。

 ―――フラッシュ・ムーブ

 なのはの足元に推進力となる魔力を送って、その場所を基点として一気にトップスピードまで加速する。その速度は、一瞬で視界から消えるほどに速い。そのため、目の前のリニスは、なのはを見失ったような表情をしている。しかし、相手も優秀なようですぐになのはが高速移動魔法を使ったことに気づいたようだが、遅い。彼女が気づいたときには、なのはは使い魔の懐に入り込んでいた。

「壊す」

 即座に身体強化魔法を展開し、兄によって教えられていた人を殴る際の拳の握り方を実践する。ぎゅぅと握られた拳は、驚くべき力を秘めていることを物語っていた。強く、強く握られた拳をなのはは、躊躇することなく、リニスの腹部へと叩き込んだ。

 ぐふっ、という肺から空気を吐き出すような音共に吹き飛ばされるリニス。当然のことからこの程度で終わらせるつもりはなかった。むしろ、これは序章。始まりの鐘を叩いただけに過ぎない。

 吹き飛ぶ彼女へ向けてすぐさまなのははバインドを展開。モニターの向こう側の翔太がされていたように猫耳の使い魔を雁字搦めにする。まるで蜘蛛の巣に捕らわれてしまった獲物のようにもがくリニス。しかし、なのはのSSSランクとしての魔力を使ったバインドが解けるはずもなく、それは無駄な抵抗に終わっていた。

 これから、宣言どおりに猫耳の使い魔を壊すために近づきながらなのはは愛機に問う。

「ショウくんが殴られたのは何回だったかな?」

 ―――Forty three.

「ふ~ん、そうか」

 ならば、最低でもそれだけは必要だろう。彼女には、翔太が感じた痛みを感じる必要がある。もう二度と翔太を傷つけようとは思わないようにする必要がある。翔太を傷つけたことを後悔させる必要がある。

 だから、なのははそのために猫耳の使い魔に近づいて、告げる。痛みを感じさせるために。後悔させるために。二度と傷つけようとは思わないように。

「43。ショウくんが、あなたに殴られた回数だよ。だから―――それまで、壊れないでね」

 これから、翔太の敵が討てると思うと思わず口の端が持ち上がる。にぃ、と嗤うのをやめられない。リニスが何か言いたそうだったが、それを聞くつもりなどなく、無視して彼女は、リニスを壊すための作業に取り掛かった。

 身体強化され、兄によって教えられた殴り方を忠実に守ったなのはの拳は一発、一発がコンクリートさえ粉砕するほどの威力を持っていた。それを一切手加減することなく、躊躇することなくリニスに叩き込む。顔面、腹部、わき腹、腕、鳩尾。上半身のいたるところに叩きつける。リニスを殴ってくるたびに返ってくる肉を殴る感触。その感触を拳のグローブ越しに感じながら、笑みがこぼれるのをとめられなかった。

「あはっ!」

 ショウくんの代わりにこいつを粛清している。ショウくんのためにリニスを殴っている。ショウくんの敵を殴っている。ショウくんの役に立っている。ショウくんの、ショウくんの、ショウくんの、ショウくんの――――

「あはははははははっ!!」

 翔太のために力を振るっている。その事実がなのはのテンションを上げる。調子に乗って、さらに殴る速度を上げながら、狂ったようにリニスを殴り続けるなのは。だが、その動きが不意にとまった。最初は殴られても反応があったリニスの反応が一切なくなったからだ。殴るのをやめてなのはが、リニスを覗き込むと彼女は、激痛のためか意識を失っていた。

 面白くなさそうにリニスの頬を軽く二、三度叩くなのは。しかし、ダメージが大きいのかリニスが目を覚ます気配はまったくなかった。どういうことなかな? と小首をかしげるなのは。そこに助け舟に入るようにレイジングハートの言葉が入る。

 ―――Her damage is very big.

「ふ~ん、そうなんだ」

 ならば、次の部屋に行こうとは考えないなのは。そもそも、まだまだ、なのはは彼女から翔太への謝罪の言葉も聞いていないし、翔太以上の痛みを与えたとも思っていない。まだまだ、消化不良なのだ。だから、なのはは考えた。

 ―――なら、ダメージを減らせばいいよね。

 なのはは、レイジングハートを通して新しい魔法を展開。その魔法は、翔太の傷を治していたユーノが使っていた魔法。いわゆる回復魔法といわれるものだ。それをなのはは誰からも習うことなく、見よう見まねで、レイジングハートに内包されたジュエルシードの助けを借りながら実現していた。

「―――起きてよ」

 回復魔法をかけた後、なのはは、再びリニスの頬を叩く。今度は少し強めに。パチンと音を立てる程度に強くだ。回復魔法をかけたのが功を奏したのか、今度はリニスは目を覚ました。手間をかけさせないでよ、と思いながらなのはは言う。

「壊れないでって言ったよね」

 そう、リニスは翔太に与えた痛み以上の痛みを感じなければならない。後悔しなければならない。翔太を二度と傷つけようと思わないようにしなければならない。それまで壊れることは許されない。許さない。それだけ告げて、改めて再び壊す作業に入ろうとしたなのはは考えた。

 何度、リニスに痛みを与えたのか忘れていたからだ。

「……どこまで数えたかな? ねえ、レイジングハート覚えてる?」

 後半は愛機に問いかけるように小声で。レイジングハートから返ってきた答えは実になのは好みだった。

 ―――Sorry.I forgot.

「まあ、いっか。最初からで」

 嗤う。嗤う。嗤う。まだ、彼女に痛みを与えられることに喜びを。リニスの表情が明らかに恐怖を抱いているように歪んだことを喜んで、なのはは笑いながら、またリニスを殴り始めた。

 何度、殴って、回復させてを繰り返しただろうか。いつしか、回復させるも元々なのはが会得していたわけではない魔法だ。回復量よりも蓄積したダメージが上回ってしまい、回復魔法をかけてもボロボロになったままのリニスが残されるようになってしまった。

 ピクリとも動かないリニスを見て、なのははバインドを解く。バインドが解かれたリニスは、糸の切れた操り人形のようにドサッと床に倒れこんでしまった。そのリニスのショートヘアとも言うべき髪を屈んで掴んだなのはは、そのまま持ち上げて、なのはの目の前へと持ってきた。

 掴まれた髪が痛いのか、あ、あうぅ……といううめき声のような音を口から出し、もはや意識が朦朧としているのか、虚ろな目で、しかし、どこか恐怖を含んだ瞳でリニスはなのはを見ていた。本当なら彼女が壊れるまで続けたいところだが、もう十分に痛みは与えただろうし、次もまだ残っている。だから、ここら辺が潮時だろうとなのはは思っていた。

「ねえ、ショウくんに何か伝えることある?」

 少し考える素振りをし、それからゆっくりとか細い声を出しながら口が動いた。

「ご……べん……なさい」

 確かに言った。ならば、もういいや、となのはは思った。それ以外の単語を口にしていたら、後二、三回は繰り返そうと思っていたが。

 リニスの口から謝罪の言葉を聞いたなのはは、掴んでいた髪を放し、重力に引かれてリニスの頭が床に落ちるのも気にせず、立ち上がり、リニスが塞いでいたと思われる通路へと目を向けた。その向こう側から感じられるのは、強大な魔力。おそらく、もう一人の、黒幕とも呼べるプレシアが向こうにいるのだろう。

 そう見当をつけるとなのははまた、ゆっくりと歩みを進めた。

 プレシア・テスタロッサに、痛みと後悔と粛清を与えるために。



  ◇  ◇  ◇



 クロノ・ハラオウンは目の前で展開されている魔法戦を見て、なんだ? これは、と今までの常識が壊れそうになっていた。

 なのはがこの部屋に踏み込み、プレシアが最初に手を出したことから始まった魔法戦は、過激の一途を辿っていた。

 次々と打ち出される射撃魔法と砲撃魔法。それらの威力はSSランクを軽く超えている。クロノが喰らえば、バリアジャケットを展開しているとはいえ、間違いなく一撃で意識を失ってしまうほどの威力を持っている魔法が雨のように降り注いでいる。信じられないことに目の前の二人は、それらを防御魔法で遮っていた。幸いにしてクロノは、蚊帳の外と認識されているのか、その場に存在しないように扱われているため、今のところ被害はない。

 しかしながら、この魔法戦に参戦しろといわれても、SSランクの魔法を軽々と防いでいるプレシアにダメージが与えられるとは到底思えないし、だからと言って、なのはの代わりに防御に回るにしても、クロノの防御魔法など軽く紙のように容易く破られることは目に見えて明らかだった。

 つまり、今、この場でクロノができることは一つもないといってもいい。

 プレシア・テスタロッサと高町なのは。その二人とクロノ・ハラオウンの間には隔絶した魔法の才能という確かな差が存在していた。努力だけでは届かない領域が目の前で展開されていた。

 この場で自分に何ができるか? 常に冷静であれ、と鍛えられた頭脳で考えるクロノ。だが、その頭脳で導き出した解は最悪だった。現状の自分は負傷。魔法戦に参加できる見込みなし。そこから導き出される解答は、速やかな撤退だった。邪魔にしかならないのであれば、せめて身を引くのが、クロノができる限界だった。

 ―――しかし、それができるか?

 自問自答の解は否、否だった。もしも、なのはが彼と同じく時空管理局員であれば、この場を任せて撤退という道も選べただろう。だが、目の前で戦っている彼女は、地元住民で、しかも、まだまだ子どもなのだ。そんな彼女にすべてを任せて撤退など、クロノにはできない。

 だが、だが、なのはに任せるという以外の道が見つからない。いくら考えてみても、プレシアに対抗できる手段は見つからない。

 クロノの脳裏に撤退の二文字が踊る。だが、理性では納得できても、感情が納得できない。

 どうする、どうする? と考えていたとき、魔法を打ち合っていたなのはから突然の念話が入った。

 ―――邪魔―――

 容赦のない一言だった。分かっている。自分がこの場において邪魔なことぐらいは。なのはが自分に飛んでくる流れ弾さえも処理している事にも気づいていた。明らかに自分がこの場にそぐわないことも気づいている。

 それでも―――、と思うのだクロノ・ハラオウンは。こんなはずじゃなかった未来を一つでも減らそうとしている少年は、自分よりも幼い少女が戦いの場に身をおくことを、身をおかざるを得ない状況にしてしまった自分を許せやしないのだ。

 しかし、自分がこの場にいることでなのはの邪魔になっていることも事実。彼女を阻害しているのもクロノであることもまた事実だった。

 ―――分かった。僕は撤退する―――

 クロノの苦渋の決断だった。悔しさのあまり下唇を噛み切るようにかみ締めながらなのはに撤退の連絡を送る。なのはからの連絡はない。それほどまでに白熱しているのだろう。

 撤退することでしか彼女の負担を軽減できない自分を悔しく思いながら、クロノは去り際にせめてもの言葉を残す。

 ―――頼む、勝ってくれっ!! ―――

 年下の女の子にそんな言葉しか残せず、いくつかの次元世界の命運をそんな少女の双肩に背負わせてしまうことに悔しさを感じながら、クロノは屈辱にまみれた撤退を実行するのだった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、プレシア・テスタロッサとの魔法戦を忌々しく思っていた。

 なのはの想像の中では、こんなはずではなかったからだ。すぐにでも決着をつけて、すべての黒幕であるプレシアに自分のやったことを分からせるはずだったからだ。

 しかし、現実は、プレシアと高ランク魔法を打ち合っているのが現状だ。フォトンランサーを打てば、アクセルシュータで迎え撃ち。ディバインバスターを打てば、サンダーレイジで迎え撃たれる。お互いの隙をついた魔法もプロテクションなどで防がれる。お互いに互角といっていい魔法戦だった。

 そして、忌々しく思っているのはプレシアも同じようだった。

「……本当は、使うつもりなどなかったのだけれど、仕方ないわね」

 フォトンランサーを打っていたプレシアの足元にミッドチルダ式の魔方陣が展開される。それを怪訝な表情で見ながら、なのはは油断しないように身構える。しかし、それは現時点では、なのはの杞憂でしかなかった。

「さあ、起動しなさい。『ヒュードラ』」

 プレシアの声をキーとして、部屋全体がゴウンという何かしらの機械が動き出したような音に包まれる。何が起きたか分からないなのは。そして、変化は直後に現れた。

 プレシアから感じる魔力反応。展開された魔法は、フォトンランサーとサンダーレイジ。その二つの魔法が同時に起動される。しかし、これは、難しい話ではない。魔導師であれば、並列魔法など使えて当然だからだ。なのはも当然使える。しかし、どちらかが一発でも魔法を喰らうと拙いという状況で、これは悪手だ。

 なぜなら、プレシアの魔力的に考えても同時に展開できるSSランクの魔法は二つ。仮にランクを落としたと仮定しても、なのはのバリアジャケットを貫くことは不可能だ。だから、この二つの魔法を避けた直後になのはが魔法を放てば、間違いなくプレシアに直撃させることができる―――はずだった。

 だが、フォトンランサーとサンダーレイジを捌いた後、放ったディバインバスターは、残っていたフォトンランサーを蹴散らしながら、プレシアへと一直線に向かい、直撃するかと思った直後にプロテクションの魔法に阻まれた。

 ―――なんで?

 今までの魔力データからいえば、プレシアの魔力はSSランクの魔法を三つ同時に発動できるほどの魔力はなかったはずだ。もしも、最初からあれば、出し惜しみすることなく使っているはずだ。なぜなら、なのはの魔力はSSSランク。SSランクのプレシアが出し惜しみするような余裕はないはずだ。

 そこから導き出される解は、一つだけ。つまり、プレシアの魔力が増えたということである。

 なのはが知る由はないが、なのはの回答は、正解だった。プレシアが起動させたヒュードラ。それは、プレシアの忌々しき過去を、こうでなかった今を作り出した因縁の魔道機関。それをプレシアは回収し、改修し、時の庭園に組み込み、切り札にした。そこに込められた思いは、過去との決別か。あるいは、ヒュードラを完璧に作れば、アリシアが返ってくると考えたのか、それは分からないが。

 プレシア自身の魔力、時の庭園、そして、ヒュードラという三つの魔力を使えるようになったプレシアは、この部屋に限って言えば、SSSランクに届くほどの魔導師になっていた。しかも、これらの動力機関は、魔力の生成はそれ自身が行い、魔法の補助は部屋に敷き詰められた魔方陣が行っている。プレシアはただの魔法の発射台であり、身体への負担は最小限であるように開発してあった。

 そこからプレシアの猛攻が始まった。

 三つのSSランクの魔法をほぼ同時に撃ってくるプレシアに対してなのはは、防戦一方になるのも仕方なかった。SSSランク魔導師とはいえ、攻撃魔法を同時に三つも捌ける魔力を持っているわけではない。

「あはははっ! さっさと墜ちなさいっ! そして、私はアリシアと一緒に旅立つのよっ! アルハザードへっ!!」

 プレシアの目に宿っているのは狂気。だが、一方で、なのはの目に宿っているのは怒りだった。

 ―――そんなことのために………ショウくんはっ!!

 たかだか、そのアルハザードとかいう場所へ行くために翔太が殴られ、傷を負わされたのかと思うと、なのはの心の中の怒りがさらに激しく燃え上がった。

「あなたはっ! 絶対に許さないっ!!」

「今のあなたに何ができるっていうのよっ! さっさと墜ちなさいっ!!」

 プレシアが言うことは事実だ。今のなのはには防戦しかできることがない。時間を稼いで相手が焦ったところに一撃入れるかどうか、というところである。しかし、防戦一方になることがなのはの望んだ展開ではない。やがて、現状が忌々しく思ったなのはは、乾坤一擲の反撃に出ようと一瞬、防御を緩めたのが拙かったのかもしれない。その隙を突かれた。突かれてしまった。

 レイジングハートを持っている手を紫の光が強制的に動かした。なぜ? と思って左手を見てみるとそこには囚人のように黒い腕輪のようなものが存在していた。バインドだった。おそらく、プレシアが攻撃魔法を撃ちながらもこっそりと紛れ込ませていたものだろう。

 磔になったように両手を広げてバインドに縛られるなのは。だが、そのなのはに焦った様子は見られず、バインドをかけたプレシアを睨みつけるだけだった。

「油断したわねっ!」

 まるで己の勝利を確信したように笑うプレシア。だが、そのプレシアをなのはは見ていなかった。ただただ、悔しかった。なのはにとってプレシアは翔太を傷つけた最たる黒幕だ。こんなヤツに負けたくなかった。こんな状況になっているのは許せなかった。プレシアは、翔太を傷つけたことを後悔しなければならいなはずだった。だが、現状は、なのはは囚われの身になっている。

 ―――力が、力が欲しい、となのはは願った。

 プレシアを、どんな敵であっても一蹴できる力をなのはは望んでいた。翔太をあらゆる敵から守るために。どんな敵にも打ち勝てるように。そして、そのなのはの願いに彼女の愛機は反応する。

 ―――Do you desire the power?

 答えは勿論、Yesだ。力だ。強い力が欲しい。

 ―――All right. I gift the power for you.

 だが、どうやって? そんな疑問が浮かぶなのはだったが、彼女は、レイジングハートを信頼することにした。前の時だって、レイジングハートはなのはに確かに力を与えたのだから。そんなやり取りをしている最中に事態は急速に展開している。プレシアが同時に三つの魔法を準備しているからだ。

「さあ、これで終わりよっ! 高町なのはっ!」

 ―――フォトンランサー・ファランクスシフト
 ―――サンダーレイジ
 ―――プラズマ・ザンバー

 どれも高ランクの魔法であり、プロテクションもできない状態で喰らえば、SSSランクの魔導師であるなのはとて無傷では済まないであろう魔法の数々だ。それらの魔法が、一直線になのはへ向けて飛んでいき――――なのはがいる場所に直撃した。



  ◇  ◇  ◇



 プレシア・テスタロッサは同時にSSランクの魔法が同時に三つも直撃したのを見て、勝った、と確信していた。相手がいくらSSSランクの魔導師とはいえ、SSランクの魔法を同時に三つを直撃して生きているはずがない。忌々しき過去の遺産であるヒュードラでさえも使って掴んだのだから。

 しかし、それでも、プレシアはほんの一欠けらだけ残った可能性を疑って構えを崩すことはなかった。確かに高町なのはは、SSSランクだった。だが、それでも奇怪な点がいくつもあるからだ。急に成長した身体と魔力。どちらも短期間で成長するとは思えない。どうやったかは研究者であるはずのプレシアですら分からなかった。

 だから、その点が気味悪くて。小骨が刺さったような違和感を拭えなくて、プレシアは油断しなかった。それは結果として功を奏することになる。

 カツン、カツン、という足音が不意に聞こえた。

 同時に直撃した魔法による爆発。SSランクの魔法は床を打ち砕き、煙を巻き上げている。その向こう側から音が響いてくる。

 カツン、カツン、とゆっくりと。

 ―――まさかっ!? そんなはずないっ!!

 その音の正体を考えて、自分でその考えを否定する。それはあってはいけない事実だからだ。それはプレシアの常識を崩壊させる思考だからだ。だが、そんなプレシアの思考を無視して、煙をカーテンを開くようにして漆黒のワンピースと赤い文様のバリアジャケットに包まれた魔導師―――高町なのはが現れた。

「なぜっ!? なぜっなぜっなぜっなぜっなぜっなぜっっ!?」

 その問いに目の前の高町なのは答えない。煙の向こう側から出てきたときに一瞬だけ足を止めたが、また何事もなかったように近づいてくる。

 先ほどの三発の魔法も何もかもなかったように歩いてくるなのはに戦慄を覚えないはずがない。恐怖を覚えたプレシアは、周りの補助用の魔方陣を使って、自分の中でも最強の魔法を起動させる。

 ―――トライデントスマッシャー

 三つ矛のように分かれた直射砲撃がなのはに向かって一直線に飛ぶ。そして、着弾地点であるなのはに命中する直前で結合し、三つの威力を保ったまま雷の力を宿した力はなのはへ向かい――――まるで、寄ってきた虫でも払うように手首のスナップだけで、その魔法をかき消した。

 その光景にプレシアは声が出せなかった。

 SSランクの、しかも、雷の力を帯びたプレシアの手持ちの魔法の中でも最強の威力を持つ砲撃魔法だ。それを、虫でも払うかのような動きだけで、相殺した。プレシアには、どうしても信じる事ができなかった。

 ―――今のは何かの間違いよ。

 そう思い、今度はフォトンランサー・ファランクスシフトを展開する。四十以上のフォトンスフィアから秒速十発で発射されるフォトンランサー。それらを魔力の続く限り発射する。まるで、マシンガンのようになのはに殺到するフォトンランサー。

 しかし、なのはは、今度は追い払うような真似さえしなかった。フォトンランサーを生身で受け、それでも、何事もないようにまっすぐプレシアの元へカツン、カツンと向かってくる。

「あああああああああああああああっ!!」

 その光景についにプレシアは叫び声を上げる。

 ―――なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜっ!?

 次元世界の中でも高位の存在である竜ですら倒せそうなほどの魔力を注いでいるはずなのに、それでも倒れない高町なのはに恐怖を覚えたプレシアは、自分、時空の庭園、ヒュードラのすべての魔力を使って三つの魔法を同時に展開するつもりだった。だが、そこまでなのはも許してはくれなかったようだ。

 魔法が発動する直前、魔力が霧散した。気がつけば、自分の両手、両足は桃色のバインドで縛られている。

「くっ」

 しかし、それがSSランクのプレシアに外せるはずもなく、目の前のなのはの手の動きに従ってプレシアを縛ったバインドは、プレシアを部屋の上空へと連れて行く。

 何をするつもりなのか? そう思ったプレシアだったが、その答えはすぐ出た。彼女は自分に向けて杖を構え、その杖先には、見ただけで卒倒しそうな魔力の塊が集っているのだから。それは、今までの魔力の大きさとは比べ物にならないほどの大きさだ。なのはが使っていたアクセルシュータの数十倍の大きさだった。まるで、星でも打ち壊せるほどの。

 あれを喰らえばひとたまりもないことは分かっている。しかしながら、プレシアには逃れる術がなかった。バインドからも、この状況からも。精々、できることといえば、障壁を張ることぐらいだが、あれは、生半可の障壁ではないと同じだ。

 どうする? どうする? と考えても答えは出ず、無情にもカウントダウンはゼロを告げ、高町なのはのデバイスから人を丸呑みしそうなほどの太さの砲撃魔法が発射される。その魔力の大きさを見て、プレシアは、自分の希望が潰えたことを悟った。悟ってしまった。

「た、高町なのはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 結局、プレシアにできることは、光に飲み込まれる直前に恨みと怨念の篭った声で敵の名前を叫ぶことだけだった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、魔法が直撃する直前、この場にそぐわない愛機の弾む声を聞いた。

 ―――Twenty JSs are taken!!

 ―――OK. Next encode the JS. Program JS system restart. Sirial from I to VI wakeup.

 その声が聞こえた直後、JSプログラムによってシリアル番号1から6番までのジュエルシードによって、なのはの身体中から魔力が迸った。6つ起動したジュエルシードのうち、1つはレイジングハートの強化、1つはなのはの身体の強化、残り4つが魔力タンクとなっている。それらの魔力が、まるで、鎧のようになのはを覆うように展開される。それが、ただの漏れでた魔力だと誰が信じられるだろうか。だが、それが実際に起きていた。その魔力による鎧は、なのはに届くはずだったSSランクの魔法すべてを遮断していた。

「ふっ、ふははははははははははっ!!」

 自分の奥底から感じる力を実感して、なのはは笑い声を上げることをとめられなかった。

 これが、これこそが、なのはの求めた力だったからだ。なのはに敵対するすべてのものを一蹴できるほどの力。翔太をずっと、かすり傷一つなく守れる力。それが確実に手に入った実感だった。

 ああ、そうだ。だから、まずは手始めに――――あの魔女を壊そう。

 そう思い、なのははプレシアに近づく。途中で、小賢しい程度に射撃魔法がなのはを襲ったが、魔力の鎧の前にそれらはすべてかき消されていた。なのはからしてみれば、豆鉄砲を受けたほどの威力しかない。

 だが、いくら痛くないからと言っても、数千もの射撃魔法を受けるのは、さすがに煩わしい。だから、三つ同時に魔法を展開しそうになっていたプレシアをバインドで縛って、上空へと持っていった。粛清だけなら、地上のままでもよかったのだが、ついでにプレシアの力の源になっているものも壊そうと思ったのだ。

 今のなのはにはそれがはっきりと感じられた。時の庭園の最上部と中心部に置かれた動力機関。ロストロギアに近い時の庭園の動力とヒュードラだろう。それらを壊すついでにプレシアに粛清を与えるのだ。ならば、魔法はそれにふさわしいものでなければならない。

 空中にプレシアを固定したなのはは、すぅ、と杖を構える。

 同時に杖先に集まる魔力。今までの戦闘の中で使われず空中を浮遊している魔力の残滓を集めて、魔法と成す。なのはが好んで使うディバインバスターの進化魔法だ。その名も―――

「スターライト――――」

 ぶんっ! とレイジングハート振りかぶる。口の端が釣りあがり、笑うのを止められない。そして、何か喚いているプレシアにめがけて、レイジングハートをまっすぐと振り下ろした。

「――――ブレイカーっ!!!」

 直径がなのはの身長ほどありそうな球体から放たれた砲撃魔法は、上空のプレシアを飲み込み、貫いた後、勢いが衰えることなく、まっすぐ時の庭園を貫く。なのはたちがいる場所は最下層であり、それが最上層部の動力源めがけて撃たれたのだ。外から見れば、時の庭園全体が撃ち抜かれたように見えるだろう。

 その砲撃がどれだけ続いただろうか。数分の砲撃の後、砲撃の光は収まり、砲撃の音が鳴り響いていた先ほどとは打って変わって静寂が訪れた。時折、パラパラと貫いた部分が崩れるような音が聞こえる。それ以外のひときわ大きな音はたった一つだけだ。ドサッという人が床に叩きつけられたような音。バインドから解き放たれたプレシアが落ちた音だった。

 なのははプレシアに近づく。まだ、呼吸音が聞こえる辺り、生きているようだ。なのはの砲撃魔法は非殺傷設定であったため、死ぬことはないはずだ。もっとも、SSSランクを軽く超える魔力に当てられたプレシアは、リンカーコアはずたずただろうから、魔導師としては死んだも当然かもしれない。

 そんなプレシアの襟首を持ち上げると、なのはは少し離れた大きな容器がある場所の近くまで持っていく。そのエメラルドグリーンの液体の中に安置されているのは、忌々しくもなのはの唯一の友人である翔太の妹に納まった黒い敵だった。

 どさっ、という突然、襟首から手を離した所為でプレシアがまたしても床に叩きつけられる。その衝撃で、んんっ、という声と共にどうやらプレシアは意識を取り戻したようだった。

 ゴキブリのようにしつこいな、と思うなのはだったが、どうせ意識は回復させるつもりだったのだ。余計な手間が省けたと思うようにした。

 プレシアが何かを言いたそうになのはに視線を向ける。だが、プレシアが何かを言い出す前になのはは容器のガラス表面に掌で撫でるように触れる。

「ねぇ、これ、大切なものなんだよね?」

 プレシアに笑みを向けながら、なのはは問う。なのはの笑みに恐怖を抱いたように顔を歪めるプレシア。

「や、やめてちょうだい。アリシアに触れないで……」

 まるでアリシアと呼ばれた少女を求めるようにプレシアが手を伸ばす。だが、身体が上手く動かないのだろう。起き上がることもできず、プレシアの手は宙を泳ぐだけだった。それを見て、なのはは笑みをさらに強めながら、ふ~ん、と関心ありげに言う。

「よほど大切なんだね。戦いの中でも守ってたもんね」

 なのはは気づいていた。自分の後ろに流れ弾がいかないようにプレシアが守っていることに。だからこそ、これが大切なものだということに気づいていたのだが。そのまま、なのはは、日常会話の続きのように何気なしに切り出した。

「ねえ、これ、壊したらどうなるかな?」

 今度こそ、プレシアの表情は恐怖で引きつった。

「や、やめてっ! な、なんでもするわっ! だから、それだけは……か、彼のことも謝るから、だから、お願いっ!」

「う~ん」

 人差し指を顎に当てて少しだけ考える振りをするなのは。なぜなら、最初から答えは決まっているからだ。

「やだ」

 なのはの答えはシンプルだった。だが、それを聞いたプレシアは、その答えが信じられないように驚愕で満ちていた。

「なっ!」

「だって、言ったでしょう―――」

 地面にはいつくばり、平伏するようなプレシアを愉快に思い、嗤いながらなのははプレシアに告げる。



 ――― 絶 対 に 許 さ な い って。



 直後、なのはの掌から簡単な射撃魔法が発射される。それは、いとも簡単に容器の表面を貫いた。だが、その貫いた穴は掌よりも小さく、しかしながら、容器という密閉された空間に空いた穴からは、そこからちょろちょろと中に入っていた液体を垂れ流していた。

「あっ、あっ、嗚呼嗚呼あああああああああああああああああっ!」

 動かないであろう身体を無理矢理鞭打つようにして、動かし、スプリンターのスタートダッシュのように駆けたプレシアは、邪魔だ、といわんばかりになのはを押して、アリシアの入った容器に縋りつくようにして小さく開いた穴を必死に塞ぐ。プレシアが掌で塞いだことで確かに液体が流れ出るのは僅かに止まっていた。

 しかし、その状況をなのはが素直に許すはずがなかった。

「ほらほら、急がないと全部出ちゃうよ?」

 そういいながら、次から次に細い射撃魔法を打ち出す。それらは決して中のアリシアに当たらないように、しかし、容器に穴を開けるように。空いた穴の数は合計十四。それらの穴から液体から流れ出る。それを必死に止めようとするプレシア。しかしながら、人間の手は二本しかない。どうやっても十四もの穴を防げるはずもなかった。

「あはっ! あはっ! あはははははははははっ!!」

 容器から出る液体を止めるために必死に踊るようにして動くプレシアを見ながらなのはは嗤っていた。その姿があまりに滑稽で。大切なものを守るために行動しておきながら、まったく守れていない彼女の行動を見て。少しずつ、カウントダウンのように大切なものを失うことへの恐怖を感じているであろうプレシアの恐怖を想像して。なのはは嗤っていた。

 やがて、空いた穴からすべての液体が垂れ流れるのにさほど時間は必要なかった。容器の周りには流れ出た液体と打ちひしがれたプレシア。そして、容器の中には、糸の切れた人形のように崩れ落ちたアリシアの姿だけだった。

 そのプレシアの姿を見て少しだけ気が済んだなのは。だが、だがしかし、こんなもので終わってはいけない。プレシアはすべての黒幕なのだから。

 ―――こいつがいなければ、ショウくんが傷つくことはなかった。あの黒い敵がショウくんの妹になることもなかった。

 全部全部プレシアの所為だった。だから、こんなものでは許せそうになかった。

 そんなプレシアの隣に立ち、なのはは、打ちひしがれているプレシアに追い討ちをかけるように言う。

「ねえ、知ってる? 井戸の深さを知るときに石を落とすんだって」

 それが何だと言うの? と平常のプレシアなら言うだろう。だが、今のプレシアが返事をできるはずもなかった。何も返事しないプレシア。それを面白くない、と思いながらもなのはは言葉を続ける。

「この下の虚数空間の深さってどのくらいだろうね?」

 にやぁ、と嗤うなのはにプレシアがようやく反応する。その顔にはまさかっ!? という驚愕の表情が浮かんでいた。それから、プレシアが反応するよりもなのはのほうが早かった。手を伸ばすプレシア。しかし、それよりも先に指先から発射された射撃魔法で容器の床を壊すなのは。

 アリシアが入った容器は重力に従って斑模様の人が本能的に恐怖を覚えるような虚数空間に向かってゆっくりと落ちていく。何とかアリシアの身体だけでも、と手を伸ばすプレシア。もしも、そのまま手が届いていれば、プレシアの手はアリシアの手を掴んでいたかもしれない。だが、それはなのはの足によって阻止された。

 ずだんっ! と踏み込むような音共にはのはによって踏みつけられる伸ばしたプレシアの手。プレシアの手はアリシアに届くことはなく、プレシアの目の前で虚数空間へとゆっくりと落ちていく。落ちたアリシアの容器は、ゆっくりと虚数空間に落ちていき、遠近法に従い段々と小さくなっていき、やがてその姿を虚数空間の中に消していった。

「あ、あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああああ」

 プレシアの慟哭。それをなのはは心地のよい音楽でも聴くように満足げに聞いていた。やがて、プレシアは意識がなくなったようにプツリと行動するのをやめる。生きる意志がなくなったとでも言うべきだろうか。もっとも、なのはにしてみれば、どうでもいいことだが。

「さあ、帰ろうっと」

 なのはは、プレシアの首に翔太がされていたようにバインドを巻きつける。それから天井の自分で空けた大きな穴を見た。あそこからなら飛べばすぐに出口に向かえるはずだからだ。それに、その穴が原因なのだろう。時の庭園自体が揺れていた。もはや、この庭園も長くないと見るべきだった。

 ―――ショウくん、褒めてくれるかな?

 帰った後の翔太がどんな言葉で褒めてくれるか、楽しみで頬を緩めながら、なのはは首にバインドを巻きつけたプレシアを片手に時の庭園を後にするのだった。



  ◇  ◇  ◇



 リンディは、医務室の様子を映したモニターを何ともいえない表情で見ていた。

『さあ、アリシア、今日はどんな髪型にしようかしらね?』

 モニターの向こう側では、今回のPT事件の首謀者であるプレシア・テスタロッサが慈愛に満ちた表情で金髪の子ども用の人形の髪を梳いている様子が映し出されていた。

「……これが、事件の結末か」

 リンディはそう呟くと、プツリとモニターを切った。

 プレシアがあんな様子になったのは、医務室で金髪の人形を見つけたときからだ。診察を受けていたプレシアがあの人形を目にした途端、なんとしてでもあの人形を手にしようと暴れ、その人形を渡すと大人しくなり、しかも、その人形をアリシアと呼びだしたのだ。ちなみに、人形は負傷者に子どもがいたときのことを想定しておいてあるものだった。

 ミットチルダに帰って検査しなければ分からないが、彼女が心を病んでいるのは間違いないだろう。

 なのはの報告によると戦闘の余波で、プレシアはアリシアを失ったらしい。もっとも、それがどんな状況なのか、民間協力者のなのはには、報告用のカメラがないためわからない。だが、時の庭園が崩壊するほどの戦闘だったのだ。そのすごさはカメラがなくとも分かる。

 おそらく、ミッドチルダに送られた彼女は、そのまま病院へ運ばれ、そこで残り少ない命を終えるのだろう。医務局員の話によると彼女には大きな病が体を蝕んでいるらしいから。おそらく、今回、こんな事件を起こしたのは彼女に残された時間が少なかったからだろう。

 人形を娘と勘違いしたまま終える命。それが幸せかどうか、リンディには分からなかった。それはリンディが考えるべきことではないからだ。幸せかどうかは、主観だ。今の彼女の主観がどうなっているか分からない以上、彼女が幸せかどうかが分かるはずもなかった。

「ロストロギアの事件で、死者なし……ね」

 人が絡まないロスロギア事件でも少なくとも死者が数人は確実に発生するというのに、今回の事件では軽度の負傷者が数十人。これは奇跡とも言える数字だった。おそらく、リンディも自らの力でこの数字を出していれば、自らを誇れていただろう。だが、実際は―――

「殆ど、なのはさんの協力のおかげですけどね」

 いつの間に部屋にいたのか、クロノがリンディの独り言に反応していた。しかも、その言葉はリンディですら頷かざるを得ないほどに的を射ていた。

「そうね」

 高町なのは―――彼女の協力がなければ、最終的な死傷者がゼロということも、負傷者がゼロということもロストロギアであるジュエルシード二十個が返ってくることもなかっただろう。いや、そもそも事件が解決できていたかどうかも怪しい。もしかすると地球もろとも次元断層の中に消えていたかもしれない。

「……母さん、僕、帰ったらアリアとロッテにもう一度鍛えなおしてもらおうと思います」

 それは、クロノなりの決意だった。今回、撤退する―――いや、綺麗な言葉ではなく、正確に言うと逃げることしかできなかった自分を恥じた言葉だった。自分が如何に力が足りないか自覚したから。だから、もう一度、初心に帰って師匠に鍛えなおしてもらおうと思ったのだろう。

「そう、頑張りなさい」

 艦長ではなく、母さんと呼んだ、クロノの気持ちを汲んで、リンディは母として先ほどモニターに映っていたプレシアのように慈愛に満ちた微笑をクロノに返すのだった。



  ◇  ◇  ◇



 白いカーテンの向こうの月の光を反射しながら、二十一個のジュエルシードがクルクルとなのはの周りを踊るように周る。

「あはっ! あははははははははははははっ!!」

 これが、なのはの手に入れた力だった。比類なき力。誰からも、翔太を守るためになのはが手に入れた力だ。

 あの時、レイジングハートが取った手法はジュエルシードの共鳴を応用したものだった。ジュエルシードには共鳴するという特性がある。それを利用して、レイジングハートの中にあるジュエルシード基点して、残りのジュエルシードを取り込んだのだ。そもそも、封印魔法はなのはの魔力を使ったもの。呼び込むのも簡単だった。ちなみに、管理局に渡した二十個のジュエルシードは、力を抜き取った魔力が空のジュエルシードだ。魔力本体は、レイジングハートの中にあった。なお、魔力がないのを時空管理局は封印魔法の所為だと思っている。

 プレシアとの戦闘で見せた力になのはは満足していた。これならば、翔太を守れる、と。絶対に傷つけることはない、と。今は、憎々しい黒い敵と一緒に寝ているが、その黒い敵では絶対にできない力を手に入れたのだ。

 ―――ただ、甘えるだけのあんたとは違うんだから。

 なのはは、ぼふん、とベットにダイブする。今日のことを思い出して、えへへへ、とこぼれてくる笑みをとめられなかった。

 プレシアとの戦闘から帰った後、翔太は、なのはにほっとしたような笑みを向けて、本当に無事でよかった、と言ってくれた。すごいね、なのはちゃんは、とも言ってくれた。それだけで、なのはは満足だった。

「ずっと……一緒だからね……ショウくん」

 さすがに疲れたのか、半分閉じかけた瞼のまま、寝言のように言いながらなのはは眠りについた。その周りを二十一個のジュエルシードが月の光を反射しながら、クルクルと、繰る繰ると、狂狂と周るのだった。





 無印 終わり

 A'sへ









あとがき2
負傷者の記述を修正しました。
最終的には回復魔法で回復できる軽症者が数十名ということです。

あとがき
 長かったですが、これで本当に無印終わりです。
 無印編を完結できたのは皆様の応援のおかげです。
 ありがとうございました。



[15269] 第二十三話 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/09/28 00:20



 ジュエルシードを巡る事件の解決から二日が経っていた。

 つまり、今日は、事件の打ち上げの次の日であり、アリサちゃんから誘われた温泉旅行の出立日である。我ながら、事件が解決してから二日しか経っていない強行軍で、しかも、事件でプレシアの使い魔にボコボコにやられていただけに母さんと親父からは心配されたが、怪我に関してはユーノくんとアースラの医務局の人からは太鼓判を貰っているし、昨日の夜にアリサちゃんからの時間などの確認のメールに『楽しみにしているね』と返信してしまったのだからしかたない。

 そもそも、温泉旅行をあれだけ楽しみにしていたアリサちゃんとの約束を守らないわけにはいかないだろうし、僕だって楽しみにしていたのだ。怪我も完治している以上、行かない理由は何所にもなかった。そんな理由で母さんと親父を納得させることに成功した。

 しかしながら、最大の敵がまだ我が家には残っていることを僕はすっかり忘れていた。そう、新しく家族になった妹のアリシアちゃんだ。

 事件が解決してから、母さんか僕にカルガモの子どものようにくっついて回るアリシアちゃんだっただけに、僕が二日以上も家にいないというのは不安になるようだ。確かに事件が終わってから二日しか経っていないのだ。アリシアちゃんが不安なのは仕方ないのかもしれない。

 しかしながら、僕が一緒に行くことすら彼女の好意によるものなのだ。それをさらにアリシアちゃんの分まで頼むことなどできやしない。父さんたちが僕と同じ場所に泊まろうにも、このゴールデンウィークの最終日に近いところで旅館に飛び込みで泊まれるはずもない。よって、アリシアちゃんはお留守番するかしないのだが、それを説明した後のアリシアちゃんの泣き顔が実に罪悪感を感じさせてくれた。

 それを何とか振り切り、お土産を買って帰ってくることやかえって来た後のことを色々と約束して、何とか我慢してもらえることになった。アルフさんが僕とアリシアちゃんのやり取りを見ながら苦笑していたが、助けてくれてもいいのにと思ったのは、至極当然のことだと思う。

 何にせよ、温泉に行くために問題がなくなった僕は、玄関の前でアリサちゃんの迎えが来るのを待っていた。待っているのは、僕と母さん、親父だけだ。アリシアちゃんは拗ねてしまったのか、寝室で引きこもっている。もっとも、アルフさんがいるからあまり心配はしていないが。

 昨日は納得してくれたはずなんだけどな。

 出る前に一言声をかけておいたが、返事はなかった。帰ってきたらフォローがかなり必要になるだろう。お土産も奮発したほうがいいかもしれない。

 そんなことを考えていると約束の時間よりも五分前にピンポーンというありふれたチャイムが鳴る。おそらく、アリサちゃんたちだろう、と予想を立てながら、僕がドアを開けるとドアの向こう側にゴールデンウィークの中では久しぶりに顔を合わせるアリサちゃんが立っていた。

 おはよう、とお互いに挨拶を交わす僕とアリサちゃん。昨日までは、魔法に関する事件という非日常の中にどっぷりと浸かっていたというのに、魔法とは関係ないアリサちゃんと平然と挨拶を交わせることに内心で苦笑していた。アリサちゃんと挨拶を交わした後、別に挨拶を交わす相手に少し見上げるような形で目を向ける。その相手は、アリサちゃんよりも一歩後ろに立っていた。

「おはようございます。デビットさん、梓さん」

 アリサちゃんの少し後ろに立つ短い髪のアリサちゃんとそっくり―――いや、遺伝的には、こちらがアリサちゃんに伝わった金髪とアメリカ人に見られる白い肌で美青年といえるアリサちゃんのお父さんであるデビット・バニングスさんと一児の母とは思えないほどの若さを保ち、日本人の大半が持っている艶やかな黒髪を流したアリサちゃんのお母さんである梓・バニングスさんだ。

 二人との面識は、アリサちゃんの英会話教室で休日に家にお邪魔したときに既にあった。顔を合わせたのは久しぶりだったが、僕が相変わらず小学生には似合わない固い挨拶をしているためか、デビットさんと梓さんはどこか困ったように苦笑していた。

「ああ、おはよう。翔太くん。今日からよろしく頼むよ」

 朗らかに笑いながらデビットさんが、僕の頭を撫でるように手の平を頭の上においていた。

 デビットさんは、見た目は生粋のアメリカ人ではあるが、日本語も堪能でネイティブと変わらない程度の会話ができる。最初は、僕も片言の英語で挑戦してみたものだが、苦笑と共に「日本語で大丈夫だよ」といわれたものである。

「それと、君の後ろにいるのは、ご両親かな?」

 デビットさんに言われて、後ろを振り向いてみると、いつの間に来ていたのか、母さんと親父が立っていた。母さんは、既に梓さんと僕の携帯越しで話した事があるからか、にこやかに笑いながら手を振りあっているが、親父のほうはまるで未確認生命体でも見たかのような衝撃を受けたような表情で固まっている。金魚のように口をパクパクさせながら、まるで信じられないといっているようなものだ。

「……親父、どうしたの?」

 さすがに様子がおかしいと思って話しかけたら、突然がしっと首に腕を回され、ヘッドロックのような体勢のまま、ちょっとすいませんね、と一言残して、僕は親父の手によってリビングの影まで連れ去られてしまった。リビングについた親父は僕を解放すると、腰を落として目線を僕に合わせて実に真剣な顔で聞いてきた。

「なあ、あの人は、本当にデビット・バニングスさんで間違いないんだな?」

「うん」

 おかしなことを聞く親父だな、と思っていたのもつかの間、なぜか急に頭を抱えて蹲り始めた。

「ど、どうしたのさ?」

「……あの人は、俺の会社の親会社の社長なんだ」

「あ……」

 そういえば、そうだったのを忘れていた。親父が言うまですっかり忘れていたが、そういえば、そんな話も聞いたような気がする。今の今まですっかり忘れていたが。しかし、原因がはっきりすれば、親父がこんな風に慌てるのも分かる。一平社員と社長の心の距離というのは、銀河系ぐらいに離れているらしい。アメリカなどでは距離が違うのかもしれないが、生憎ながらここは日本であり、その心の距離はそんなに間違ってはいないだろう。

 そんな人が目の前に現れたのだから、それは慌てるに違いない。

「あっ、って、知ってたなら教えてくれよっ!!」

 確かに知っていれば、心の準備もできただろう。だが、僕としてはあまりそれは関係ないような気がする。なぜなら―――

「大丈夫じゃない? デビットさんだって、会社の―――しかも、子会社の社員なんて覚えてないよ」

 そう、親父は子会社の社員として、デビットさんの顔は知っていたのかもしれないが、デビットさんが親父の顔を知っているとは思えない。親父の地位が、子会社の幹部や社長ならともかく一部署の長程度では、知らないだろう。

 慌てていた親父は僕の言葉で少しだけ落ち着きを取り戻したのか、うむ、と考えるような顔つきになってようやく冷静に戻ったようだった。それもそうか、と呟いているところから、僕の言葉で納得したようだ。

 ある意味、正気に戻った親父は、僕を伴って玄関先へと戻ることになる。親父の行動に怪訝な顔をしていたデビットさんと梓さんだったが、親父が誤魔化すようなにこやかな笑顔で、近づき右手を差し出した時点で大事ではなかったのだろうと判断したのだろう。デビットさんは、親父の右手を握っていた。

「ご迷惑をおかけすると思いますが、息子をよろしくお願いします」

 何所にでも見られるようなありきたりな言葉を交わしていたデビットさんと親父だったが、いつまでも玄関先で井戸端会議のように話しているわけにもいかない。アリサちゃんも何所となく不機嫌になりかけて苛立っているのが分かるから。彼女からしてみれば、楽しみにしていた旅行をこんなところで足止めを喰らっているのが気に食わないのだろう。

 そんな空気をデビットさんと梓さんは感じたのか、母さんと親父と話を切り上げて、玄関先に停めてあるいつも使っているリムジンよりも一回り大きな車へと向かう。

 僕も最後に母さんと親父に手を振ろうと振り返ると、母さんと親父のほかに見慣れた顔を二つ。僕を見送ることを嫌がったアリシアちゃんと彼女に付き合っていたアルフさんだ。母さんの影に隠れるようにこっそりと見送るアリシアちゃんだったが、こちらを見ながらこっそりと手を振っていた。

 そんな姿を微笑ましいな、と思いながらも僕はアリシアちゃんにも手を振って家を後にした。

 車へと向かった僕を出迎えてくれたのは、鮫島さんという数ヶ月前までは塾へと送り迎えをしてくれた執事さんと先に乗り込んで待っていたすずかちゃんだった。

 僕たちは車の窓越しにおはよう、と先のアリサちゃんのように挨拶を交わす。ゴールデンウィーク中に会えなかった間の積もる話もあるだろうが、その時間は今から温泉地へ向かうまでに十二分にある。だから、今は出発することを優先するべきだった。だから、僕とすずかちゃんはそれ以上、何も言わずに鮫島さんがドアを開けてくれるのを待って、アリサちゃんに先に座るように道を空けた。

「なにやってるのよ? 早く乗りなさいよ」

「え?」

 道を空けた僕に対して返ってきた答えは、実に怪訝なものだった。数ヶ月前まで僕たちが車に乗せてもらっている間、常にアリサちゃんの席は真ん中だった。それが規定位置とでもいうように。だから、今回もその例に違わず真ん中にアリサちゃんが来るように道を空けたのだが、意外なことに僕に早く乗るようにというお達しだ。

 どうしたのだろうか? という疑問や、どうしようか? という迷いが生まれたが、ここで手間取っている時間もない。先に乗りなさいよ、と目で促すアリサちゃんの後ろには早く乗らないのだろうか? と怪訝に思っているデビットさんと梓さんもいるからだ。

 しかも、考えたところで、単なる席順だ。もしかしたら、アリサちゃんも気分で窓際がいい時だってあるのかもしれない。

 そんな風に自分を納得させて、僕はすずかちゃんの隣へと乗り込んだ。続いてアリサちゃんが。いつもならそこでドアは閉まるのだが、今日は一回り大きな車だ。後部座席には六人乗れるようになっている。僕たちが座っているシートと目の前の進行方向とは逆向きに座れるシートだ。そこにデビットさんと梓さんが座って、今度は本当にドアが鮫島さんの手によって閉められた。

 ドアが閉められた後、少ししてエンジンがかかるような音がしてゆっくりと車は出発する。車は動き出したというのに車内の揺れは驚くほど少なかった。これは、鮫島さんの運転技術がすごいのか、この車がすごいのか。おそらく、両者だとは思うが。

「ショウくん、久しぶりだね」

「うん。そうだね」

 僕の右隣から僕の顔を覗き込むようにしながらすずかちゃんが話しかけてきた。もっとも。僕とすずかちゃんが会っていなかったのは、ゴールデンウィーク中の数日でしかない。これを久しぶりというのかは甚だ疑問ではあるのだが、毎日顔を合わせていたのに、突然数日顔を合わせなかったら、確かに久しぶりになるのかもしれない。

「ショウくんは、今日までゴールデンウィークは何やってたの?」

 興味津々と言った形ですずかちゃんが笑顔で問いかけてくる。しかしながら、その問いに答えられるはずもなかった。まさか、魔法事件に巻き込まれて、ジュエルシード探しながら、誘拐されて、リンチをうけて、助け出されたなんて話せるはずもない。

 いや、そもそも、すずかちゃんの方にその話はいっていないのだろうか。少なくとも忍さんは知っているはずだけど。そこらへんを僕は知らない。すずかちゃんへの情報はどうなっているかを知っているのは忍さんだけだ。もっとも、すずかちゃんが知っているとしても、この場にデビットさんや梓さんがいる限り、容易に口に出すことはできないのだが。

「なのはちゃんの手伝いかな」

 その答えはあながち間違いともいえないだろう。すずかちゃんやアリサちゃんに今まで言っていた内容と相違ないのだから。少なくとも嘘は言っていない。

「あっ! そういえば、ショウっ! ちゃんと片付いたんでしょうねっ!!」

 僕の言葉に反応して割り込んできたのはアリサちゃんだ。すずかちゃんとは逆サイドに座っているアリサちゃんを見てみると、彼女の表情は、怒りというか、それに近い表情に染まっていた。やはり、そもそもゴールデンウィーク前に温泉旅行前の数日で、開いている日があれば、遊びに行こうという誘いをジュエルシードの件で蹴ったのが拙かったのだろうか。

「うん、大丈夫。ちゃんと片付いたよ」

 そんなことを考えながら、僕は安心させるようにアリサちゃんに言う。少なくとも事件が片付いていなければ、僕はこの場にはいないのだから。

「そう、ならいいわ」

 少しだけ安心したようにほっ、と息を吐くと満足したようにシートの背もたれに体重を預けていた。

「じゃあ、すずかちゃんとアリサちゃんは何をしてたの?」

 一応、すずかちゃんの問いに答えた僕だったが、今度は僕の順番だった。幼くても女の子なだけあって、彼女達はお喋りが好きだ。きっと、この長いとも短いともいえる道中、面白く今日までのことを語ってくれるだろう。大丈夫、時間はたっぷりあるはずだから。

 僕の思ったとおり、僕が問いかけると同時に彼女達は我先に、堰を切ったように話し始めたが、聖徳太子ではない僕は同時に話を聞くことはできない。だから、順番に、となだめながら、温泉地までの道中、彼女達の話を聞くのだった。



  ◇  ◇  ◇



 車で揺られること数時間。すずかちゃんとアリサちゃんの話もそろそろ尽きようか、という頃、僕達は目的地と思われる温泉宿の前に降り立っていた。その温泉宿は、ほわ~、と思わず呆然と見上げてしまうほど立派なものだ。昔ながら旅館のような空気を漂わせながら、その在り方は高級感に溢れている建物だった。本当に僕みたいな人間が泊まっていいのだろうか? と疑問を抱いてしまうほどだ。

 しかし、そんな僕とは対照的にアリサちゃんやすずかちゃんは平然としている。当然、デビットさんや梓さんもだ。僕以外の誰も彼もが、そこに泊まる事が当たり前という感覚を持っており、危うく僕は旅館に入ろうとしている彼らにおいていかれるところだった。

「ショウっ! 何やってるのよっ! おいてくわよっ!!」

 アリサちゃんの叱るような声にようやく我に帰った僕は慌てて、アリサちゃんたちの後を追うのだった。しかも、すずかちゃんに呆然としているところを見られたのか、クスクスと小さく笑われてしまったことに気づき、少しだけ恥ずかしかった。

 こういう場所に不慣れな僕としてはアリサちゃんたちの後ろをとことこと着いていくしかなく、デビットさんに先導されるように僕達は温泉旅館の暖簾をくぐった。

 外見は立派だが、内装は地味だった。そんなことはなく、外見同様、内装も立派なものである。すべて木製でできており、雰囲気を大事にしているか、旅館の人たちは皆、和服だった。デビットさんが手馴れた手つきで、チェックインカウンターで手続きしている間、僕は外装を見たときと同様、呆然と周りを見渡すしかない。

「お荷物をお持ちします」

 内装を見渡している僕に突然、旅館の人が話しかけてきて、思わずビクンっ! と反応してしまった。まさか、話しかけられるとは思っていなかったのだ。しかも、荷物をお持ちしますといわれるとは夢にも思っていなかった。前の世界と合わせてもこんな場所にとまったことがない。泊まったとしても普通の旅館であり、そこは自分の部屋まで荷物を持っていかなければならなかったものだ。もっとも、僕が泊まった事がないだけで、普通の旅館でもそういうサービスがあるのかもしれないが。

 そう、サービスなのだろう。だから、僕は慌てることなく荷物を渡せばいいのだろうが、慣れていない僕は、よろしくお願いします、という言葉と共に肩から下げていたボストンバッグを旅館の人に渡した。僕の態度が初々しかったのか、屈んで僕に声をかけてきた旅館の人は、クスクスと微笑ましいものでも見たような笑みを浮かべて、「はい、確かに」という言葉と共に荷物を受け取り、アリサちゃん達の荷物と同じ場所に僕のバッグも持っていく。

「それじゃ、行こうか」

 手続きが終わったのだろう。鍵を受け取ったであろうデビットさんが仲居さんの案内を受けて部屋へと向かっていた。

 部屋にたどり着いた僕は、また驚くことになる。僕が知っている旅館というのは修学旅行程度が精々だ。十畳程度の部屋に五、六人が寝泊りできる程度の部屋だ。だが、この旅館の部屋は三部屋あった。二部屋はおそらく寝室に相当するのだろう。もう一部屋はテーブルが真ん中においてあることを考えると居間に相当するのだろう。高級旅館なのにテーブルの真ん中にミカンがおいてあるのが何ともシュールに感じられた。

 しかも、驚きはそれだけではなかった。居間からは外に出る事ができ、小さな庭のような場所には、大人であれば、二人か三人程度しか入れない小さなお風呂があった。いわゆる家族風呂というやつだろうか。さらに、そこから見える風景は絶景で、山々が見渡せる風景になっていた。

 どこをどうみても非の打ち所のない高級温泉旅館だった。本当にこんなところに泊まっていいのだろうか。しかも、費用はアリサちゃんの家の好意で、ただである。一般庶民的な感覚しか持っていない僕としては不安にならざるをえなかった。

 もしも、僕が大人、あるいはそれに順ずる中高生なら、まだ幾分か費用について問うこともできただろう。だが、この身は未だに小学生。果たして、問う事はいささか不可解だ。ともすれば、僕の両親が問うように言われたと勘違いされても困るものである。しかし、気になってしまう。前世の経験が、僕の人生にとってプラスなのは間違いないだろうが、今、この瞬間だけはその経験が恨めしかった。

 やがて、預けていた荷物を持った仲居さんが、僕達の荷物をもってやってくる。荷物の一つ一つが広くて大きな部屋に置かれる。その中でも僕のボストンバッグは一番小さいといえるだろう。しかしながら、女性の旅行は荷物が多くなると聞くから、当然といえば当然なのだろう。

 それぞれが荷物を取り入れて、さて、どうしようか? というな雰囲気が流れ始めた頃、おもむろにデビットさんが切り出した。

「温泉に来てやることは一つしかないな。温泉に行こうか」

 ご尤もである。温泉に来ているのに温泉に行かない道理はない。当然ながら、反対する人間は一人もおらず、満場一致で温泉へ行く事が決定した。

 ―――よもや、温泉に入る前にひと悶着あるとは思いもよらなかったが。

「一緒に行けばいいじゃないっ!」

「いやだっ!」

 温泉の前、『男』と『女』の暖簾が靡く前で、僕とアリサちゃんが言いあっていた。いや、正確にはアリサちゃんが僕を女湯のほうへと連れ込もうとしていた。現状、僕の手首を引っ張って連れ込もうとしているのだから間違いない。

 もしも、僕が普通の小学生の精神年齢であれば、大人しくアリサちゃんたちと一緒に女湯へ入っていたかもしれない。小学三年生というのは段々と異性との壁ができる年齢だから、僕のように拒否するか、安易に一緒に入るという選択肢を選ぶかは、確率的には半々ではあるが。しかしながら、僕は二十歳に近い精神年齢を持っているのだ。彼女達に欲情するようなバカな真似はないが、『女の子と一緒にお風呂に入る』という事象そのものを拒否したい。たとえ、アリシアちゃんと一緒に入った事がある事実があろうとも、自発的に入れば、それは越えてはいけない一線を越えたような気分になる。

「なんでよっ!」

「だって、僕は男だよ」

 いくら性別の垣根が低いからといって、一緒に入れるのはやめてほしい。それに、数年後、この事実が発覚したときは火を噴くほど恥ずかしくなるの目に見えているのだから、僕がここで拒否することは、将来のアリサちゃんとの仲を考えれば妥当なのだ。

 しかし、現状、そんな考えはアリサちゃんには通用しない。

「いいじゃないっ! ほらっ!」

 不意にアリサちゃんが指差した先には一枚の注意書き。

『九歳以上のお子様のご入浴はご遠慮ください』

 そんな風にかかれた張り紙。ついでに、男湯のほうは逆に『女の』に書き直されて同様の張り紙が張ってある。この旅館でのボーダーラインは九歳のようだ。

「あたしたちは八歳だから何も問題ないわよ」

 そういわれると確かにそうなのだが。しかし、ここで認めるわけにはいかなかった。僕の男としての沽券にかけて。

「でも、僕の誕生日は七月だから、四捨五入すれば、九歳だからやっぱりダメだよ」

 僕の年齢は、八歳と十ヶ月。そもそも、十進ではない年月を四捨五入として考えることは間違いなのだが、小学生ならば、こんな屁理屈もありだろう。中学生以上に言えば、笑われること間違いないだろう。いや、そもそも、中学生レベルになれば、一緒に入ろうという思考回路すらなくなるのだから何の問題もない。

 一歩も引かない僕とアリサちゃん。どちらかに援軍が来れば問題ないのだろうが、梓さんは微笑ましいものを見るように微笑んでいるし、すずかちゃんはどっちに味方していいのか分からないようにオロオロしているように見える。

 そして、援軍は思いもよらない方向からやってきた。

「アリサ、ここは翔太くんの意思を尊重してやってくれないか」

 ぽんと僕の肩に置かれる大きな手。見上げてみれば、笑いながらデビットさんが僕の背後に立っていた。僕からしてみれば、想いもよらない援軍だが、有り難いことこの上ない。

「そうじゃないと、私一人で入ることになってしまうよ」

 半分、からかっているような口調ながらもデビットさんはそういってくれた。確かにデビットさんが女湯に入る事ができない以上、僕が女湯のほうへ行ってしまえば、デビットさんは一人で温泉に入らなければならないだろう。

 さて、アリサちゃんはどんな反応をするかな? と見守っていると、アリサちゃんは、僕とデビットさんを交互に見ながら、明らかに悩んでいた。おそらく、先ほどまでの主張を通したいが、そうするとデビットさんが一人になることを気に病んでいるのだろう。今は、天秤が揺れている状態。どちらかに少しでも衝撃があれば、そちらに振れてしまうだろう。

 そして、デビットさんはその一押しを口にした。

「なに、今日はともかく、明日は一日あるんだ。明日、一緒に入ればいいじゃないか」

 問題の先送りにしかならない言葉だ。だが、それはアリサちゃんをとりあえず納得させるには十分だったのか、少しだけ顎に手を当てて考えた後、明らかに納得が言っていないような声で結論を下した。

「し、仕方ないわね。パパがかわいそうだから、今日は譲ってあげるわ」

 おそらく、これがアリサちゃんの精一杯の優しさなのかもしれない。父親であるデビットさんにぐらいはもう少し優しくてもいいんじゃないだろうか、と思うのだが。もっとも、僕としては日常生活の中で慣れており、そんな素直になれないアリサちゃんの態度に笑みが浮かぶぐらいだ。

 それは、アリサちゃんの後ろにいるすずかちゃんと梓さんも同じなのだろう。口元を隠してはいたが、むしろ、その所為で笑っている事が、十分に分かってしまった。

「それじゃ、決まったことだし、行こうか」

 この決定を逃すほど愚かではない。自分にとって都合のいい決定がなされたなら、即決行だ。僕とデビットさんは男湯へ、アリサちゃんとすずかちゃん、梓さんへ女湯へと「じゃ、また後で」と手を振りながらお互いに姿を消すのだった。



  ◇  ◇  ◇



「おおぉ……」

 脱衣所で服を脱ぎ、室内のお風呂へと入り、そこで体を洗う際にデビットさんと分かれた僕は、体を洗った後、この旅館の自慢にもなっている露天風呂へと行ってみた。まだ時間が早いせいか、あるいは偶然か、露天風呂には誰一人いなかった。僕が感嘆の声を上げたのは、そこからの風景によるものだ。

 山々に囲まれているせいか、海鳴にいるよりも若干早い日暮れ。夕日が山間に姿を消そうとする一瞬を目にする事ができた。そこは、夜と昼が入り混じる逢う魔が時。不安定な時間。消え行く一瞬だけの時間。だからこそ、この時間が尊いもので、儚いもので、美しいと思えるのかもしれない。

「いつまで、風景に見入っているのかな?」

 突然、背後からそんな風に声をかけられた。その声には聞き覚えがあった。当たり前だ。先ほどまで一緒に行動していたのだから。

「早く入らないと、風邪を引いてしまうよ」

 背後から近寄ってきたデビットさんは僕にそう言いながら、湯船に浸かる。デビットさんが言うことも尤もだ、と思い、僕もデビットさんに続いて湯船に入った。湯船の温度は少し熱いぐらいだが、温泉に入るのならば、このくらいがちょうどいい、と僕は思う。湯船に浸かった瞬間、思わず、はぁ、と疲れたような声を出してしまうのは僕が日本人だからだろうか。

 デビットさんと僕が並んで湯船に浸かり、無言の時間が流れる。果たして、傍から見れば、僕達はどんな関係に見えるだろうか。近くで入っているのだから無関係の赤の他人とは思われないだろうが、しかしながら、親子というには肌の色が違いすぎる。デビットさんは白人なので、アリサちゃんと同じく白い肌だった。背後から近づいてきたため、少ししか見えなかったが、体つきは男としては十分に鍛えられたといっていいほどの肉体だった。細身である親父よりも男らしいというべきだろう。どちらかというと、デビットさんの体つきに憧れてしまうのは、僕が男の子だからだろう。

「さっきはありがとうございました」

 僕とデビットさんの間の静寂を破ったのは僕のお礼の言葉からだった。

 先ほどのアリサちゃんからの誘いに助け舟を出してくれたデビットさんには、お礼を言っておかなければならないと思ったからだ。もしも、あそこでデビットさんが助け舟を出さなければ、僕は今頃、女湯で目を瞑りながら湯船に浸かっていただろう。アリシアちゃんのことから考えても、僕の意思が弱いのは分かっているからだ。だからこそ、僕はデビットさんにお礼が言いたかった。

 僕のお礼に対してデビットさんは、驚いたように目を丸くするとすぐに声を出して笑い出した。

「はははは、そんなことか。いや、あれは、私の勝手もあったんだよ」

 そこまで言うと、デビットさんはまっすぐ僕の目を見て、真剣な表情で告げる。

「ありがとう」

 先ほど僕がデビットさんに告げた言葉。それを今度はデビットさんが僕に告げていた。しかしながら、僕にはデビットさんが僕にお礼を言う理由を見出せない。僕が怪訝な顔をしているのが分かったのか、デビットさんはさらに補足のために言葉を続けた。

「アリサのことだよ。あの子のことについて、私は君にお礼を言おうと思っていたんだ」

 アリサちゃんについて僕にお礼? 僕がアリサちゃんに何か特別なことをした記憶は特になかった。

「あの子と友達になってくれて、ありがとうと言いたかったんだ」

「それは、お礼を言われることではありませんよ」

 そんなことで、お礼を言われるいわれはない。いや、むしろ友達になったことで、お礼を言われるべきではないと思う。なぜなら、友達になることは一方的な享受ではないからだ。お互いに望むことによって友達は成り立つのだから。だから、デビットさんがお礼を言うのであれば、僕もアリサちゃんにお礼を言うべきだろう。友達になってくれてありがとう、と。

 だが、僕の言葉にデビットさんは首を振っていた。

「君にとってはそうかもしれない。だが、あの子の親として、私は君にお礼を言いたい。いや、君のような子どもがいることに、かな」

 そういうと、デビットさんはもはや逢う魔が時というのは少し遅い時間となり、暁が二割、夜空が八割の空を見上げながら思い出すような表情をしながら言う。

「あの子は私の血が色濃くでてしまった。そのことで苦労をかけることも多くてね」

 確かにアリサちゃんの容姿は、デビットさんの血を色濃く継いでいるといってもいいだろう。輝くような金髪と白い肌は、大半が黒髪、黄色人種の日本人とはかなり異なる。アリサちゃんの存在は、真っ白なキャンパスに落とされた一滴の色の異なる雫のようなものだ。いわゆる異色の存在。もっとも、外国人の容姿をしていることなんて、年齢が重なれば、あるいは、中学生や高校生になれば、まったく関係がなくなるかもしれない。しかし、子ども時代にはやや不利な側面があるだろう。他と異なるということは、容易にいじめの標的になるのだから。そこまではいかなくても排他的にはなってしまうかもしれない。デビットさんの言うことは、おそらくそういうことなのだろう。

「聖祥に入学したときも心配で、毎日夕食のときに聞いてみたものだが、数日は不機嫌そうにするだけだったが、ある日、すずかちゃんの話が出てきてね、その後は君の話も出てくるようになった。親としては君達のような子がいて安心したわけだよ」

「僕とアリサちゃんが友達になったのは偶然ですよ」

 そう、偶然だ。僕が、『とらいあんぐるハート』というゲームの中で彼女の容姿によく似た子が陵辱されていたシーンを覚えており、一人にするのが拙いと思って、目をかけていたに過ぎない。もし、僕があのときに思い出していなかったら、きっと彼女に目をかけることはなく、あのすずかちゃんとアリサちゃんの諍いに割っては入れたとは思わない。

 もしかしたら、僕が手を出さなくても彼女達は、友達になれたかもしれない。今となっては、あの時僕が手を出さなかったらどうなっていたか、それは分からない。僕には確認する術はない。

「だが、君とアリサの出会いが偶然としても、それが現実だよ」

 そう、今が現実なのだ。僕とアリサちゃんが友達なのは変わりない。あの時、目をかけていなかったら、割って入らなければ、という『たられば』を論じたところで意味のないことだ。過去を変えることは誰にもできないのだから。

「だから、親としては、これからもあの子をよろしく、というべきだな」

「いえ、こちらこそ、色々お世話になっていますからね。僕もアリサちゃんに飽きられないようによろしくお願いしますね」

 友人とは一方通行の関係ではないのだ。お互いに持ちつ持たれつの関係なのだ。だからこそ、一方的な感謝は成り立つべきではないし、一方的なお願いが成り立つべきではない。だから、僕は悪戯を楽しむ子どものように笑みを浮かべてデビットさんに言うのだ。

 僕の言葉に一瞬、豆鉄砲を食らったように呆然としていたデビットさんだったが、意味を理解したのか、急に笑い始めた。そして、ひとしきり笑った後、目尻に溜まった雫を拭うを笑みを崩さずに口を開いた。

「君のような子が友人でよかったよ」

「それは恐悦至極です」

 相手は、会社をまとめる社長として頂点に立つような大人だ。そんな人から認められて、恐縮しないわけがない。しかも、デビットさんは親父の親会社の社長なのだから。もっとも、そのことをデビットさんは知らないだろうが。このことは知らないほうがいいだろう。細い関係でもあるとしれば、何かしらの問題が発生するかもしれないから。

 僕のかしこまったような言い方に、僕達は顔を見合わせて笑った。傍から見れば、いい迷惑だろうが、今は誰もいない。だからこそ、こうやって人目を気にせずに笑う事ができた。

「そういえば、君はサッカーをやっているらしいね」

「ええ、まあ、嗜む程度には」

 クラブに入っているわけではない。お遊びだ。だが、それでも主に外で遊ぶときはサッカーだ。だから、興味があるとはいえるかもしれない。テレビでもサッカーの試合はそれなりに面白いとは思うし。マニアというほどに嵌っているわけではないのだが、それなりに話はできると思う。

 だが、それでも、デビットさんには嬉しかったのだろう。先ほどよりも笑みを強めて興味津々と言った様子で顔を輝かせていた。

「おおっ! そうか。私もサッカーは好きなのだが、周りに話せる相手がいなくてね」

「そうなんですか。僕でよければ、話し相手になりましょうか?」

 それが引き金だったのだろう。僕とデビットさんは、なぜか温泉の湯船に浸かりながらサッカーについて語り始めた。Jリーグについてや、効率的なフォーメーション。前回のワールドカップについてなどのサッカーの話題なら何でもござれ、という感じだ。

 しばらく語ってデビットさんは満足したのか、ふぅ、というため息と共に満足げな表情になりながら一言、ポツリと零した。

「やはり男の子はいいな……」

「え?」

「いや、私はどちらかというと息子がよかったのだ。いや、もちろん、アリサは可愛いとは思うが、こういう風に息子と趣味ついて語るのも悪くないと、君と話していてそう思った」

 その目はいるはずのない息子へと向けられているのか、慈愛に満ちていた。

 なら、作ればいいんじゃないですか? というのは、簡単だ。僕が本当に子どもなら簡単に言っていただろう。だが、そう簡単にいえない理由もある。アリサちゃんの両親はお互いに社長という立場で忙しいはずだ。それにデビットさんが本気で欲しいと思えば、作らない理由はないだろう。お金はあるだろうし。だが、それでも未だにアリサちゃんに妹なり弟なりいないのは、それなりの理由があるのだろう。少なくとも他の家庭に口を出すことはできない。しかしながら、デビットさんの表情は、少しだけ可哀そうな気がした。少なくとも趣味を語り合える同士がいないのは、辛いことだというのは前世のことで分かっている。

 だから、僕は前述の言葉を飲み込み、代わりの言葉を口にした。

「だったら、僕が話し相手になりますよ。僕もサッカーの話題は好きですから」

「おおっ! そうかっ! だったら、もう少しだけ付き合ってくれるかな?」

「ええ、よろこんで」

 それから、僕達は、お互いに半ばのぼせるような時間までサッカーについて熱い論議を交わすのだった。傍から見れば、もしかすると親子に見えるかもしれない僕達の会話をすっかり日が沈んでしまい、墨を流したように広がる夜空に瞬く星空だけが見ていた。


つづく












あとがき
 誰のための旅行なのだろうか。



[15269] 第二十三話 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/10/07 23:19



 旅館に着てから一夜が経過していた。

 昨日の夜は、温泉に入った後、部屋で晩御飯を食べた。晩御飯は、山間だからだろう。山の幸が使われた鍋料理だった。外見と内装どおり高級旅館だからか、料理は絶品と言っても過言ではなく、もう二度と食べることはないだろうと味わっておいしくいただいた。

 ご飯を食べ終わった後は、少しゆっくりアリサちゃんたちとお喋りしていたのだが、寝るにはまだ早いという時間帯だったので、旅館にあるという卓球場へと向かうことにした。高級旅館とはいえ、温泉旅館と卓球は切っても切り離せないものだったらしい。そこで展開されたのはすずかちゃん無双だった。今まで忘れていたが、そういえば、彼女は『夜の一族』だ。そのせいで、体力は有り余っているのだろう。まさか、見えないスマッシュを見られるとは夢にも思わなかった。

 そんなこんなで卓球で汗を流し、もう一度温泉に入って、ゆっくりして一日目は終了。寝る前に布団の順番で少しだけもめることになったが、それ以外はつつがなく楽しい一日だった。しかし、なんで僕は女の子に挟まれて寝る羽目になるんだろう。これが中学生や高校生なら大変なことになっただろうが、幸いにして僕達は小学校の低学年だ。何の感慨も生まれることなく、寝る直前の卓球が堪えたのか、すぐに眠ってしまった。

 さて、温泉旅行も二日目だ。

 僕の寝起きは悪いほうではない。すっきり起きれるタイプだ。すずかちゃんも似たようなタイプだったらしく、起きるのに苦労はしていなかったが、アリサちゃんは少しだけ寝起きが悪いのか、五分程度しょぼくれた目をしばしばさせていた。

 朝食は、他の部屋でバイキング形式で食べた。過去にビジネスホテルで同じように朝食をバイキング形式で食べた事があるが、少なくともそこよりも味は段違いだった……と思う。なにせ、もはや記憶の彼方に近いような記憶だ。しかしながら、おいしかったのは事実だ。

 さて、朝食を食べた後、どうするか? という話になった。

「パパもママも行くわよね?」

「パパとママは部屋にいるから、アリサたちだけで行ってきなさい」

 デビットさんの言葉にアリサちゃんは、え~、というような表情をする。

 今からどうしようか? という話になってアリサちゃんが主張したのは、温泉街に行くことだった。温泉街とっても、温泉が並んでいるだけではなく、お土産屋などが並んでいる商店街のようなものだ。中には、宿無しの温泉だけの施設もあるようだが。温泉旅館がある以上、そこに来るお客さんを見越して店が立つのは当然のことだ。アリサちゃんはそこへ行こうと提案していた。

 僕とすずかちゃんとしてはアリサちゃんの提案に異論はない。むしろ、ここがどんな場所か分からなかったため、下調べもしていない僕達からしてみれば、アリサちゃんの提案はむしろ有り難かった。そもそも、この周辺は山ばかりで目立ったレジャー施設もなさそうだ。それは、この温泉からの風景を守るためなのか、あるいは単純に採算を見込めないからなのかは分からない。

 それはともかく、今はアリサちゃんが了解を取れた僕達とは他にデビットさんと梓さんも一緒に連れ出そうと画策していたところだったが、それは不発に終わったようだ。アリサちゃんの要請に笑いながら僕達だけで行ってくれ、というデビットさん。梓さんもデビットさんの意見に賛成なのか、同じように笑いながらアリサちゃんを見ていた。しかし、アリサちゃんとしては、デビットさんと梓さんの返事が気に入らないのだろう、頬を含まらせて不満を表していた。

 僕としてはデビットさんたちの気持ちは分かる。彼らがここに来た理由は、休暇のためだ。決して疲れるためではない。日本人としては休暇に観光をぎっちり詰め込んで休暇なのか、疲れにきたのか分からないスケジュールを組むが、今回の場所が温泉地であることを考えても目的は、休むことなのだ。

 そんな日を子どもに付き合って、疲れたくないと考えるのも仕方ないことだろう。これが、もしもアリサちゃんだけならば、デビットさんたちも付き合ったのかもしれないが、今日は僕とすずかちゃんがいる。時間もお昼だし、場所は観光地。危険は少ないと考えてもいいだろう。もしかしたら、このために僕達を誘ったのかもしれない、と思わず邪推してしまう。

 もっとも、目的がそれであっても、僕としては連れてきてもらっているのだから文句は言えない。

 さて、アリサちゃんも、子どものように―――彼女は子どもであるが、「とにかく、行くのっ!」と理由にならない理由をつけながら、デビットさんと梓さんをひっぱて行きそうだったので、僕はアリサちゃんに近づくと怒っているような、懇願しているようなアリサちゃんの肩を叩いて言う。

「アリサちゃん、とりあえず、僕達だけで行こうよ」

 ね? と遊びにでも誘うような口調で言う。僕が提案した後、少しだけう~ん、と悩む。どうやら脈はありそうだ。そう思ったのだが、やや心残りがあるように、でも……と呟くアリサちゃん。彼女がそんな反応をするかもしれないことは既に織り込み済みであり、だったら、と僕は妥協案を挙げた。

「最初に僕達だけで、行って、夕方ぐらいからデビットさんたちと行くのはどう?」

 デビットさんたちの予定を勝手に決めてしまうのは心苦しいが、それでも、朝からつき合わされるよりも十分に休めるはずだ。それにせっかくの家族旅行に家族の時間がないのは、アリサちゃんからしてみても不憫だと思うからだ。だから、少しの時間だけでもいいからアリサちゃんとデビットさん達の時間を確保したかった。

 それでいいですよね? と僕が視線を送ってみると、デビットさんと梓さんは顔を見合わせて、少し苦笑した後、確かに頷いてくれた。

 僕が提案してからう~ん、と唸っていたアリサちゃんだったが、ようやく決心したのか、顔を上げて口を開いた。

「仕方ないわねっ! ショウの言うとおりにするわ」

 アリサちゃんが相変わらずな言い方で、僕の提案に乗ってくれた。これでデビットさんたちの休息時間を取ることもできるし、アリサちゃんの時間も取る事ができる。かなりベターな着地点ではないだろうかと思う。

 さて、決まれば後は善は急げである。アリサちゃんの気が変わらないうちにさっさと外に出てしまったほうがいい。

「それじゃ、行こうか」

 僕はアリサちゃんの肩を押しながら出口へと向かう。「ちょ、ちょっと! ショウ!?」なんてアリサちゃんが戸惑っているような気がするが、聞く耳を持たないといわないばかりに僕はアリサちゃんの戸惑ったような声を無視したままアリサちゃんの肩を押す。その様子を見て、すずかちゃんがクスクスと笑っているのに気づいたが、意識すると恥ずかしくなるので意図的に受け流した。

 そして、僕とアリサちゃんとすずかちゃんは、いってきます、という声と共にデビットさんと梓さんがまだいる部屋から飛び出した。



  ◇  ◇  ◇



「なるほど、これがデビットさんたちが着替えなくていいといった理由か」

 旅館の入り口で、僕は一人納得していた。

 温泉旅館というだけあって、部屋着として温泉地特有の白と黒のストライプのような浴衣が用意されていた。やはり温泉といえば、浴衣だろう。旅館に来た直後に温泉に入ったものだから、僕達は基本的に浴衣で過ごしたことになる。しかし、さすがに外に出るのはこの格好は拙いだろう、と思って今朝、出かける前に着替えようと思ったのだが、それをデビットさんたちに止められたのだ。

 その必要はないから、と。

 確かに外には部屋着である浴衣で出歩いている人もいるが、さすがに浴衣では身動きが取りにくい。だから、着替えようと思ったのだが、執拗にそれを停められ、僕のほうから折れて、浴衣のままアリサちゃんたちと一緒に外に出ることにした。しかし、デビットさんたちが着替えなくてもいいという理由は、旅館から出る直前に分かった。

 どうやら、この旅館では、部屋着とは別に外出用の浴衣の貸し出しもしているようだ。出る直前に仲居さんそれを言われて、僕はなるほど、と納得した。つまり、デビットさんたちはこのサービスを知っていたのだ、と。

 浴衣など基本的には、縁日などの一日ぐらいしか着る機会はない。しかも、ゴールデンウィークのこの時期で、山奥にあるこの場所では多少肌寒いのでは? と考えたのだが、どうやら生地は分厚いものをつかっており、肌寒いとは感じないつくりになっているようだった。

 もっとも、女の子にはそんな理由はあまり関係なかったようで、飾られている色とりどりの浴衣に目を奪われたように、きゃいきゃい言いながら好みの浴衣を選んでいた。どうやら柄にも色々あるようだ。もしも、僕が女の子であれば、三人寄れば姦しいという状況を作っていたのだろうが、生憎ながら僕は男だった。だから、僕は手早く近くにあった黒い浴衣を選んで、さっさと着替えてしまった。

 ちなみに、僕の浴衣というのは、下はズボンタイプで、腰紐で締めるタイプだったので特に着付けなど必要はなかった。

 一方、女の子であるアリサちゃんとすずかちゃんは、やはりというか、時間がかかるものである。女の子の着替えに時間が必要なのは、年齢がいくつであっても変わらないようだ。現に僕は、更衣室に消えたアリサちゃんとすずかちゃんを着替え終わった後もぼ~っ、と椅子に座って待っている。

 それから、どれだけ待っただろうか。総じて楽しい時間というのは一瞬で、待つ時間は長く感じられるので正確な時間は分からない。だが、それでも一時間以上待ったということはないだろう。精々、十五分ぐらい。その程度待って、ようやく目の前の更衣室のカーテンが、シャーとレールを走る音と共に開かれた。

「どう……かな?」

 最初に戸惑ったように姿を現したのは、すずかちゃんだった。彼女は、藍色を基調にして、薄紫色をした花をあしらった浴衣を着ていた。僕が雑誌などでよく見るような髪の毛をアップにした様子はなく、すずかちゃんの長い髪は流したままだ。

「うん、可愛いと思うよ」

 本当に愛らしいと思う。もっとも、それは妹から感想を求められたときのような気持ちであり、恋愛漫画の中にあるような年頃の女の子が意中の男の子に尋ねられ、答えるようなものとは色が違う。まあ、僕の精神年齢を鑑みれば、当然のことではあるが。

 そう、ありがとう、と少し照れながらも言うすずかちゃんに続いて、その隣の更衣室のカーテンがすずかちゃんの時と同じような音を立てて開いた。

「どうよっ!」

 すずかちゃんの少し控えめな態度とは百八十度ぐらい違っていそうな態度で出てきたのは、アリサちゃんだ。彼女は、白を基調として薄桃色の花をあしらった浴衣に身を包んでいた。髪はやはりすずかちゃんと同じくアップにした様子はなく、流したままだ。

 そういえば、前世の頃、縁日や花火大会などでどうして、女性は髪を上げるのだろうか? と疑問に思った事があったが、僕の友人曰く、うなじが色っぽいから、と答えていた。あの時は、なるほど、と納得してしまったが、今にして思えば、それは僕達の理由であり、彼女達の理由ではないのではないだろうか。

 さて、そんなことはどうでもよくて、すずかちゃんと同じように感想を求めてきたアリサちゃんに僕は、女の子はどうして、こうも評価がきになるんだろうか? と思いながらも、すずかちゃんと同じように差し障りない答えを返していた。

「……ショウ、めんどくさくなってない?」

 もしかしたら、アリサちゃんは、更衣室の向こう側で僕がすずかちゃんに答えた回答を知っていたのかもしれない。いまいち信じられない、と言いたそうな疑いの表情で僕を見ていた。しかし、それは誤解だといっておこう。少なくとも彼女達が着こなしているのは間違いないのだから。

 ―――僕が女の子を褒める語彙が少ないことは認めるが。

「そんなことないよ。うん、可愛いよ」

「まっ、今回はショウを信用してあげるわ」

 尖った言い方だが、口元には笑みが浮かんでいるのだから、喜んでいると思ったほうが言いのだろう。ありがとう、と素直にお礼がいえないのは照れくさいからなのか。僕とすずかちゃんはアリサちゃんの性格を知っているから、裏に隠れた感情を悟って、お互いに見合って仕方ないな、という感じの意味をこめて苦笑する。

「あっ、そうだ」

 全員が浴衣に着替えて、いざ、温泉街に出発というタイミングで、アリサちゃんが何かを思い出したように自分が持ってきていたポーチから何かを取り出していた。アリサちゃんの手の平に納まる感じの金属の光沢を持った四角い箱のようなもの。すぐにそれがコンパクトタイプのデジタルカメラだと分かった。

 確かに旅行といえば、写真かもしれない。僕もそう思ったのだが、今回来る場所は温泉である。温泉で写真を撮るのは何か違うだろう、と思った僕は、親父から貸してやろうか? という言葉を断わったことを思い出していた。しかし、僕とは違ってアリサちゃんは持ってきていたようだ。

 デジカメを手に少しだけ周囲を見渡して、すぐ傍を通った仲居さんを呼び止めていた。

 アリサちゃんが呼び止めると、彼女が手に持っていたデジカメと着替えた僕達を見てすぐに納得がいったのか、手馴れたようにデジカメを手に取ると僕達に並ぶように指示してくれる。

 並んだ順番は、アリサちゃん、僕、すずかちゃんだ。僕が真ん中でいいのだろうか? と思ったが、特に他意はなかった。偶然に並んだだけだ。写真の画面全体に僕達を収めようとしたのか、あるいは面白がっているだけなのか、仲居さんはやたらと僕達にくっつくように指示を出し、肩がくっつくぐらいの位置でようやくシャッターを切った。念のためにもう一枚。

 写真を撮り終わった後、仲居さんが、デジカメをアリサちゃんに渡しに来てくれた。なんだか、微笑ましいものでも見るような笑顔で。

「はい、これ」

「ありがとうございます」

 僕とアリサちゃんとすずかちゃんは唱和して、仲居さんにお礼を告げる。彼女たちはこれが仕事なのかもしれないが。僕たちからお礼を言われた仲居さんは、「どういたしまして」といった後、僕たちを見渡して、ふっ、と笑って口を開いた。

「あらあら、君、両手に可愛い花を持っているわね」

 にっこり笑いながら、それだけ言うと、ほほほほ、と袖で口元を隠しながら、仲居さんは、次の仕事があるのだろう。別の場所へと行くために去ってしまった。その場に残されたのは、仲居さんの言葉に呆然としている僕とアリサちゃんとすずかちゃんだけだ。

「両手に花って……あたしたち花なんて持ってないわよね?」

 アリサちゃんは、国語の成績はいいのだが、さすがに小学生が両手に花という言葉を知っているわけではなかった。僕は当然知っているとして、すずかちゃんも知っているのだろうか。少し照れたような表情をしていた。

「ねえ、ショウ、どういう意味かしら?」

 純粋無垢な瞳で僕に聞いてくるアリサちゃん。だがしかし、ここで素面で説明できるほど僕の面の皮は厚くない。だから、誤魔化すように済ました顔で僕は「さあ?」と答えた。

「それよりも、早く行こう。時間がなくなっちゃうよ」

 まだまだ、夕方までは相当時間があるにも関わらず、早くこの話題を打ち切りたいため、誤魔化すようにアリサちゃんを急かして僕たちは温泉旅館を飛び出すのだった。



  ◇  ◇  ◇



 温泉旅館の目の前に広がる温泉旅館の客をターゲットにした商店街とも言うべき温泉街を僕達は歩いている。こういう場所で、先陣を切るのは決まってアリサちゃんだ。彼女は、楽しそうに僕とすずかちゃんよりも二歩ぐらい先を駆けていく。

 浴衣にも関わらず大丈夫なのだろうか、と思うかもしれないが、僕たちの履物はスニーカーだ。浴衣には付き物の下駄をはいていない。今日は、温泉街を探索するため、長時間歩くことになるだろう。それなのに普段から履きなれない下駄など履いては、足が痛くなるのは目に見えている。だから、僕たちは浴衣にスニーカーという格好で外を歩いていた。外見上は小学生なので勘弁願いたいところだ。

「なにやってるのよっ! 早く来なさいよっ!」

 旅館で貰ったパンフレットを片手にアリサちゃんが大きく手を振りながら僕たちを呼んでいる。僕とすずかちゃんは、いつもの事ながら、思わず苦笑して、まるでアリサちゃんの親のような―――いや、兄や姉のような気分になりながら、呼ばれるままにアリサちゃんの下へと歩き出した。

 さて、温泉街というのは、思ったよりも広い事が分かった。もしかしたら、海鳴にある駅前商店街よりも大きいかもしれない。しかし、色合いはかなり異なる。当然といえば、当然だが。こちらは観光客目当て、駅前商店街は地元住民目当てなのだから。駅前の商店街は、生活に密着した晩御飯などの材料のための店や喫茶店がほとんどであるが、こちらはお土産屋や昼食を食べる店がほとんどだった。雰囲気的には京都の清水寺の前の坂道にある土産屋のような雰囲気だ。もっとも、あそこほどゴチャゴチャしている訳ではないが。しかし、よくよく考えれば、旅館の中にも昼食を食べる店はあるが、高級旅館なだけあってそれなりの値段がする。ならば、外に安い外食店があってもなんら不思議でもない。

 そんな温泉街を僕たちはパンフレットを片手に回っていた。温泉街には付き物の温泉饅頭を専門に扱っているお店。源泉の温泉を利用した温泉卵を売っているお店。温泉にはまったく関係ないだろう、といいたくなるようなお土産を売っているお店。そんなお店を冷やかしたり、時にはお土産を買ったり―――僕はアリシアちゃんとアルフさんへのお土産を忘れるわけにはいかなかった―――まるで、温泉街のお店をすべて制覇するような勢いでお店をはしごしていた。

 適当なお店でお昼を済ませ―――特にこだわりはなく、手打ち蕎麦を食べた―――午前中の続きだ、といわんばかりにお店を回っていた僕たちだったが、もう少しで全部の店を回れるんじゃないか、といった直前でアリサちゃんが足を止めている。

 どうしたんだろう?

 顔を見合わせながら、すずかちゃんと一緒にアリサちゃんが足を止めている場所に行ってみると、そこで個人的に作っているのかわからないが、小さなシルバーアクセサリーを売っている行商の人が居た。路上に布を広げて飾っているアクセサリーは数は多く、その一つ一つが形が異なるが、精々ワンポイントにしかならない程度に飾りは小さい。もっとも、飾りが小さいだけに値段も手ごろで、一番大きなワンコイン程度の値段でしかない。

 彼女達も幼くても女の子ということだろう。小さく輝くアクセサリーを前にして彼女達の目も輝いていた。しゃがみこんで一つ一つ眺めているアリサちゃん。その隣にはいつの間にか一緒にすずかちゃんもしゃがみこんでアクセサリーを見ていた。

「いらっしゃい。ゆっくり見て行ってくださいね」

 僕たちが覗き込んでいることに気づいたのだろう。これを作ったであろうと思われる年の若い店主が僕たちを迎えてくれた。人の良さそうな顔であり、客商売には向いていると思われる。しかし、彼といえども僕たちにはあまり売るつもりはないようだ。僕たちが何かをしないように見ているだけで、商売のために声をかけるつもりはないようだ。

 そもそも、この温泉街には僕たちのような子どもは珍しい。いや、いないこともないが、それでも親子連れであり、僕たちのように子どもだけというのは珍しい。だからだろう、彼が売るつもりがないのは。興味を持ってくれただけ御の字といった様子だった。微笑ましいものを見るような目でアリサちゃんたちの様子を見守っていた。

 しかし、彼女達が興味を持ってくれたことは僕にとってチャンスだった。

「ねえ、どれが好き?」

 僕は、彼女たちと同じようにしゃがみこむとおもむろに切り出した。僕の言葉にアリサちゃんとすずかちゃんは、僕の突然の言葉にえ? というように驚きの表情を浮かべていた。

 たぶん、そんな顔をするだろうな、と思っていた僕は、彼女達が僕の想像通りの表情を浮かべたものだから思わず苦笑して、もう一度同じ言葉を口にする。

「だから、どれが好き? プレゼントするよ」

 そう、プレゼントだ。

 アリサちゃんには今回の旅行について何かしらのお礼をしようと思っていた。確かにお金などを払っているのはデビットさんたちかもしれないが、そもそも、アリサちゃんが僕たちを誘ってくれなければ、実現しなかった旅行だ。アリサちゃんにお礼する意義は十分にあるだろう。

 すずかちゃんは、日頃のお礼だ。僕では手の届かないハードカバーの本を借りているのだから。すずかちゃんは、自分も読む本だから、気にしなくても言いというかもしれないが、それでも、お礼をしたいという気は常にあった。

 もっとも、僕には女の子に何をお礼としていいのか分からなかったから、今日まで延びてしまったが。だから、ここは都合のいい機会だったというわけだ。

「本当なのっ!?」

 アリサちゃんとすずかちゃんの反応は本当に対照的だった。嬉しそうに喜ぶアリサちゃんに対して、申し訳なさそうながらも、少し嬉しさが見え隠れするすずかちゃん。

「うん、本当だよ」

 どうやら、喜んでくれたようでよかった。僕が下手に何かを選ぶよりよかったのではないだろうか。後は、アリサちゃんたちが選んだものを買うだけだ、と安心していたのだが、そうは問屋はおろさなかった。

「でも、あたしたちが選んだのをショウがプレゼントするっておかしいわよね?」

「そういえば……」

 安心していた僕に対して不意打ちを仕掛けるようにアリサちゃんがにぃ、と意地悪く笑う。まるで、僕が選ばずに済まそうと思っていたことを見透かしたように。なんとなく、嫌な予感がして、それを回避しようと口を開こうとしたのだが、時既に遅しだった。

「だから、ショウが選んでよ」

「僕が?」

 うん、と笑顔で頷くアリサちゃん。

 無理だ。僕に選ぶことなんてできるはずがないと、助け舟を求めるようにすずかちゃんに視線を移すが、彼女は、微笑んだまま首を軽く横に振って、僕の視線の意味を分かっていながら否定の意を示した。アリサちゃんが手加減してくれるはずもなく、すずかちゃんにも断わられた僕は、藁でも掴むように目の前の店主に懇願の視線を送ったのだが、目が「さっさと選んでやれ」と言っていた。参ったことに他に援軍はなく、四面楚歌の状況で、アリサちゃんからの提案を呑まざるを得なかった。

 さて、しかし、どうしたものか? 生憎ながら、僕にお洒落の感性などは求めないで欲しい。着る洋服には、それなりにお洒落というものに気を使っていたが、どうも僕はアクセサリーなどに興味が持てず、適当に首からぶら下げている事がほとんどだったのだから。

 三段ぐらいで並んでいるシルバーのアクセサリーの山を順番に見ていく。さすがに適当に選ぶわけはいかないだろう。しかし、いくら悩んでも僕の感性が成長するわけではない。ここは一つ覚悟を決めるしかないようだった。

 ふむ、と一呼吸おいて、彼女達のイメージに合いそうなものを選ぶ。「それでいいのかい?」と店主のお兄さんが聞いてきたので、はい、と答えて財布から千円札を取り出し渡した。どうやら、小銭はおまけしてくれるらしい。

 店主の兄ちゃんから受け取ったアクセサリーをそれぞれアリサちゃんとすずかちゃんに渡した。

 アリサちゃんには太陽をあしらった様なアクセサリーを、すずかちゃんには三日月をあしらったようなアクセサリーだ。感性がない僕には彼女達の各々のイメージにあったものを選ぶしなかった。果たして僕の感性は正しかったのだろうか? と下手をしたら受験のときもドキドキしながら彼女達の反応を待つ。

「へ~、いいんじゃない?」

「うん、いいと思うよ」

 ―――よかった。どうやら喜んでくれたようだ。

 受け取ったアリサちゃんとすずかちゃんがアクセサリーを見て笑顔で受け取ってくれたことで、ようやく僕は安心してほっ、と息を吐く事ができたのだった。

 ちなみに、そんな僕の様子を見ながら店主のお兄さんが苦笑していたことに僕はまったく気づくことはできなかった。



  ◇  ◇  ◇



 満天の星空の向こう側に浮かぶ月を見上げながらふぅ、と息を吐く。この辺りは山奥で民家が少ないためか、星の数が海鳴よりも多く見え、夜空に浮かぶ月がいつもよりも輝いて見えた。

 あのプレゼントの後、旅館へデビットさんたちを呼びに行き、僕たちは周ったお店の中で面白いものが売っていた場所をメインにして回った。僕たちのセンスがよかったのかどうかは分からないが、どうやらデビットさんたちは楽しんでくれたようだ。もっとも、デビットさんの場合は、少し顔が赤くお酒の匂いがしたから、少し酔っていたのかもしれないが。

 その後は、浴衣を返し、お風呂に入って、晩御飯を食べて、また卓球をやって、お風呂に入った。まるで昨日の焼き直しのようである。いや、違うことといえば、最初のお風呂だけだろうが、しかしながら、思い出したくはない。あれは赤面ものだった。アリサちゃんたちも数年後に思い出せば、赤面ものだろう。その時、僕が責められても仕方ない。強引に誘ったのはアリサちゃんだからだ。しかし、今日も卓球をするとは思わなかった。アリサちゃんがすずかちゃんへのリベンジを諦めなかったのだから仕方ない。もっとも、アリサちゃんがすずかちゃんに勝てることはなかったが。

 さて、残りの時間は持ってきていたトランプで適当に過ごして、就寝―――だったのだが、疲れているはずなのに眠れず、こうして夜の散歩へと繰り出したのだ。小学生が寝る時間としては十分だが、大学生だった記憶のある僕としてはまだ時間的には十二分に許せる日付が変わる直前のような時間帯だ。外に出るわけではなく、警備がそれなりにしっかりしている旅館の内部なら大丈夫だろう、と思って散歩に出かけた僕は、中庭にベンチ都合のいいベンチを見つけてこうして月を見上げていたわけだ。

 奇妙な癖のようなものだった。前世の頃からだ。飲み会の帰りや友人宅からの帰り道。一人でこうして夜空に浮かぶ月を見上げる事が。しかも、そのときに限って小難しいことを考えてしまうのだ。例えば、哲学のような。

 人生とは何か? どうして、僕は今ここにいるのか? 生きる意味って何だろう?

 考えても答えが出ないことであるとは承知しておきながら、それでもそんなことを何故か考えていた。そして、今も考えている。

 ―――どうして、僕はここにいるんだろう? と。

 それはもう考えても仕方ないことだし、幼い頃から考えていたことで、僕の中の答えは持っている。要するに気にしない、という正解には程遠い答えではあるが。

 もっとも、これ以上、考えて頭がおかしくなりそうだから、僕は思考を意図的に他の場所へと誘導する。

「明日には帰るのか」

 残念なような、我が家が恋しいような。旅行の終わりとは何ともいえない空しさが募るものである。旅行が楽しければ楽しいほど尚のことである。この旅行が終われば、学校という現実が待っているのだから。

 人生が楽しいことだけで埋められればいいのに、と子どもでも思わないことを思ってしまった。だが、不意に自分の中にその言葉に反論が生まれた。人生が楽しいことだけであれば、それは日常であり、楽しいことを楽しいとは気づくことはないだろう、と。辛いこと、悲しいこと、きついことがあるからこそ、楽しいと思えるのである。

 世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい。

 つまり、同じようなことだろう。世界が美しいもので埋め尽くされているならば、それを美しいということに気づくことはない。ただそこにある普遍なものであるはずだ。世界には美しくないからこそ、美しいのだ。

「って、何を考えてるんだろう?」

 小難しいことを考えないために思考を誘導したはずなのに何故か、またしても小難しいことを考え始めていた。これが月の魔力というものだろうか? 月には人を狂わせる魔力があるというから。ヨーロッパの方に残る狼男然りだ。

 しまった。まただ、と思って、何か別のことを―――考えるべきことを考えている僕に不意に声がかかった。

「ショウ、なにしてるの?」

「―――アリサちゃん?」

 声の持ち主は、足元に置かれた淡い光に照らされながら薄暗い闇の中から出てくる。そこに立っていたのは、僕が出るときには布団の中に入っていたはずのアリサちゃんだった。どこか不安そうな顔をしながら闇の中から出てきたアリサちゃんはゆっくりと僕のほうへと近づいてきた。

「座ってもいい?」

「あ、うん」

 僕の隣に座るアリサちゃん。疲れているのか、あるいは、眠たいのをおしてきているのか、いつもの彼女の快活さは鳴りを潜めていた。

 僕とアリサちゃんの間に無言の時間が少しだけ流れる。当たり前だ。こんな夜中に散歩している途中で見つかって、何を話せというのだろうか。しかも、アリサちゃんがいつもどおりならまだしも、鳴りを潜めたように大人しいのだからどんな対応をするべきか僕も悩んでいた。

 しかしながら、その静寂を破ったのは、僕ではなくアリサちゃんだった。

「ねえ、ショウはチュウしたことある?」

「ぶっ!」

 突拍子もない言葉に思わず噴出してしまった。驚きのあまり、僕は昨日の親父のように口をパクパクしているだろう。

 さて、突然、アリサちゃんがこんなこと言い出したのは何でだ? と疑問に思い考えた結果、答えはすぐに出てきた。

「もしかして、あの池の庭に行ったの?」

 僕の問いにコクンと頷くアリサちゃん。もしも、彼女が僕を追ってきたのであれば、確かに遭遇した可能性は十分にある。

 この旅館には中庭が二つあって、一つは僕たちがいる中庭であり、もう一つは真ん中に大きな池がある中庭だ。同じようにベンチがおいてあり、足元を淡く照らす程度の明かりしかない。僕も朝の案内図に書いてあったことを思い出し、向かったのだが、行って後悔した。なぜなら、そこにはカップルしかいなかったからだ。

 しかも、足元を照らす程度の淡い光しかなく、彼らの目からは闇の中にいる僕の姿や他の人たちの姿はよく見えないのだろう。彼らは自分達の世界に入っていた。つまり、人の目を憚ることなく―――とは言っても、それぞれが自分の世界に入っていたのだから、人の目などないに等しいのだが―――いちゃついていたというわけだ。

 そんな姿に驚いて、僕はこの場に逃げてきたわけだ。この場には幸い、僕と同じように数人ののんびりしたい男性や女性がちらほらいるだけだ。なぜ、池がある中庭がカップルに人気か、というと、真ん中の池に夜空がちょうど写しのように映って実に綺麗だからだ。むしろ、差別化のためにこの中庭を作っている感じがする。

「ないよ」

 とりあえず、無言になった空間を壊すためにアリサちゃんの質問に答えた。半分正しく、半分嘘ではあるが。

 蔵元翔太としての経験はないが、前世ともなれば、話は別である。女の子との交際経験がまったくなかったわけではない。もっとも、今となっては、子どものような付き合い方だったが。高校時代だから仕方ないだろう。

「そうなんだ」

 僕の答えにそうやって受け答えた後、やや考えるような仕草をして、アリサちゃんは意地悪っぽい笑みを浮かべて口を開く。

「ねえ、チュウってどんな感じなのかしら?」

 試してみない? と笑みを浮かべて後にアリサちゃんは目を瞑って、顎を上げる。中々、堂に入った仕草だ。

 突然すぎる展開に思わずうろたえてしまった僕だが、すぐに気を取り直した。これが、同世代だった女性にやられれば、ドキドキするだろうが、如何せん、彼女は小学生だ。例えば、少しませた子どもが、知識を仕入れてきたようなものだ。生憎ながら、小学生に迫られて興奮するような性癖は持っていない。

 さて、しかしながら、アリサちゃんの態度をどう取るかが問題だ。パターンは二つ。

 一つは、本当に興味から試している場合。小学校三年生といえば、少しずつではあるが、異性への興味が出てくるものだ。男であれば、女性の胸に興味を持ったりするようなものだ。特に女の子の場合、男よりも心の成長が早いから、アリサちゃんもそういうことに興味があるのかもしれない。

 そして、もう一つは、全部を理解している場合だ。キスの意味も何もかもを、だ。

 もっとも、どちらの場合にしても、僕の対応としては変わらないのだが。

 僕は、アリサちゃんの顔に自分の顔を近づけるようなことはなく、代わりに少しだけ体を寄せ、同時に親指で押さえた中指を彼女の額に近づける。少し重心を前にかけながら、中指の射程圏内に右手が入って、少しの間、中指に力を溜めて、親指による支えを外す。力をこめた中指は、親指による支えがなくなり、力を解き放つように跳ね、アリサちゃんの額を直撃した。

 パチン、という心地よい音がアリサちゃんの額から響いた。

「いたっ!」

 反射的に痛みがした額を両手で押さえるアリサちゃん。閉じられていた目はすっかり見開かれていた。よほど痛かったのか、半分ほど涙目になりながら、何するのよっ! と言わんばかりに僕を睨みつけていた。

 しかし、悪いのはアリサちゃんだ。だから、僕はその彼女の睨みつけを意に返さず、よっ、と座っていたベンチを降りながら言う。

「ダメだよ。試すようなことでそんなに簡単にそんなことしちゃ。そういうのは、もう少し大きくなって、アリサちゃんが本当に好きになった男の子にやらないと。ファーストキスは女の子にとって大切なものなのだから」

 少なくとも男である僕はそう思っている。もしかしたら、男のほうがロマンチストというから、僕がそう思って欲しいと思っているのかもしれないが。

 だが、僕の言葉に意外とバツの悪そうな顔をして、ごめんなさい、と蚊の泣くような声でアリサちゃんは謝罪の言葉を口にする。

 僕としては、そこまで攻めたつもりはないのだが。自分を大切にして欲しいと思っただけで。だが、謝るほどに反省してくれたなら僕としては満足だった。だから、その場の空気を取り払うように僕は笑顔で手を差し出した。

「さあ、帰ろう。風邪引いちゃうよ」

 いくら春とはいえ、夜の空気はまだ肌寒い。上着を羽織っているとはいえ、長時間いれば、風邪を引いてしまうかもしれない。ゴールデンウィークの旅行が、風邪で閉められるのもいかがなものだろうか。だから、もうそろそろ帰ろうと思った。手を差し出したのは、淡い光しかなく、足元が危ういからだ。

「そうね、帰りましょう」

 差し出した手をアリサちゃんは、笑顔で取るのだった。



  ◇  ◇  ◇



 次の日、僕たちは、鮫島さんが運転する車で海鳴の街へと帰っていた。

 昨日の夜は散歩した効果が出たのか、部屋に帰って、すぐに寝る事ができた。もっとも、それでも寝る時間が遅かったのか、少し寝坊してしまったが。アリサちゃんにも影響が出てしまい、今朝は昨日の朝よりも手ごわかった。しかも、よほど眠かったのか、今も僕の隣で寝ている。車の揺れというのは眠りを誘うものだから仕方ない。ただ、僕の肩を枕代わりにするのはやめて欲しいものだが。デビットさんたちにも笑われるし。しかし、起こすのも忍びなく、そもそもの原因は僕にあるため、追い払うこともできなかった。

「ねえ、ショウくん、昨日の夜、アリサちゃんとどこかに行った?」

 不意にすずかちゃんが、アリサちゃんを起こさないように小声で僕に尋ねてくる。

「うん、寝付けなかったから少し散歩にね。少しお話をして帰って来たけどね」

 気づいていたんだ、と僕が言うと、どうやら僕たちが帰って来たときに物音で起きたらしい。もっとも、眠たくて、その場で追求することはやめたようだが。

「私も誘ってくれたらよかったのに」

 不満そうな顔で言うすずかちゃん。やはり仲間はずれは悲しいものがあるのだろう。しかし、あの時は、アリサちゃんもすずかちゃんも眠っていると思っていたのだ。僕の勝手で起こすのは忍びなかったし。

 次に何かをするときは絶対にすずかちゃんも誘うことを半ば無理矢理に約束させられてしまった。

 その後は、海鳴に帰るまで小声でずっとすずかちゃんと温泉旅行の思い出や、最近話していなかった新刊についてなどについて会話を続けていた。時折、何か寝言のように言うアリサちゃんの表情を観察しながら。

 車で移動すること二時間近くで、ようやく海鳴の町につく。どうやら最初に僕の家に行ってくれるらしい。それが一番効率がいいようだ。

「本当にありがとうございました」

「いや、こちらとしても楽しかったよ」

 荷物を下ろしてもらった僕は、車内に残ったデビットさんと梓さんに最後の挨拶をしていた。最後が閉まらなければ、せっかくの楽しい思いでも、後味の悪いものになってしまうだろうから。だが、僕の挨拶に、やはり似合わないなあ、というような感想が見える苦笑をデビットさんは浮かべている。

「そういってもらえると嬉しいです」

「本当だよ? また、サッカーについて話せると嬉しいね」

「機会があれば」

 そんなまるで社交辞令のような言葉を最後にして、デビットさんたちの車は今度はすずかちゃんを家に送るために再び発進した。すずかちゃんとは明日の学校で会うことを約束して。僕は、彼らの車が見えなくなるまで見送った後、自分の体ほどあるボストンバックを抱えて、自分の家のドアに向かう。

 さて、手をかけて、ドアを開こうとした瞬間、逆に自動的にドアが開いた。

 ―――え?

 そんな風に驚いていると開いたドアの向こう側から弾丸のように突っ込んでくる少女が。その少女は、ツインテールにした金髪をなびかせながらタックルのように僕にぶつかってきた。それは、相手が手加減したのか分からないが、何とか彼女を認識して、ふんばった甲斐があったもので、彼女―――アリシアちゃんのタックルの衝撃に耐え切る事ができた。

 僕の胸に顔を埋めたアリシアちゃんは、しばらくそれを堪能するようにうずめた後、顔を上げて―――行くときの不満顔は何所へやら、笑顔で僕を迎えてくれた。

「おかえりなさいっ!」

 ふと、アリシアちゃんから視線を外してみれば、玄関にはアリシアちゃんの態度に苦笑しているアルフさんの姿も見えた。彼女もきっと苦労してくれたのだろう。まあ、僕としては、行くときはふくれっ面だったアリシアちゃんがこうして笑顔で迎えてくれたことが嬉しいのだが。だから、僕も笑顔でアリシアちゃんに応える。

「うん、ただいま」

 ―――こうして、僕の二泊三日の温泉旅行は、つつがなく終わりを告げたのだった。


つづく















あとがき
 月は見ていたか。



[15269] 第二十三話 裏 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/10/08 01:07



 アルフは、目の前の現状に困り果てていた。今日は、翔太が温泉旅行に出発した日だ。前日まで色々我侭を言いながら、半分瞳に涙を浮かべながら、翔太に旅行に行くなと訴えていたフェイト―――もとい、アリシアだったが、なんとか翔太がアリシアを納得させたはずだった。

 『はず』というのは、昨夜は確かに納得していたはずなのだが、今朝になるとまた再発していたからだ。布団からは出てきて、身だしなみも整えているのだが、まるで拗ねたように翔太の言葉に反応することはなかった。それでも気になるのか、翔太の視線を盗むようにちらっ、ちらっ、と翔太の様子を伺っていたが。

 その様子が、自分が拗ねていることで翔太の気を引こうとしている事が嫌でも分かってしまう仕草に思わず笑いがこみ上げてきたものだ。しかしながら、その仮面を被っていられたのは、翔太が家から出て行く直前までだったようだ。

 本当は気になるのに気にならない振りをしていたアリシアだったが、翔太が出発する直前に弾けるように玄関まで飛び出したアリシアは、別れを惜しむように翔太に手を振っていた。翔太の母親の影に隠れていたのはアリシアの最後の意地だろう。それさえも、アルフにとっては、可愛らしいと思える仕草に他ならなかった。

 翔太が出発した車が見えなくなるまで見送っていたアリシアだったが、やがて車が見えなくなった頃、翔太の両親に促されるように家に入った。それでも、アリシアの瞳が翔太の消えた方向を最後まで見ていたことをアルフはしっかり見ていた。

 翔太を見送った後、アリシアは翔太が本当にいなくなってしまったことに不貞腐れたようにソファーの上で膝を抱えながら、興味もないはずのテレビを見ている。アルフは、どこか寂しそうにも見える主を見守るようにアリシアが座るソファーの近くに座っていた。

 何をするわけではない。ただ、そこにいるだけ。

 ―――誰かが隣にいる。

 その事実がアリシアの寂しさを少しでも癒すことを願って。だが、それ以上のことはできない。それ以上、何ができるのかわからない。今、何を話しかけてもアリシアの耳には聞こえないだろう。アリシアと繋がっているラインがアリシアの言いようのない寂しさを感じるだけにアルフにはそれがはっきりと分かった。

 アリシアとアルフの間には、テレビから流れる乾いたような笑い声だけが響く。酷く居心地が悪い。しかし、主の寂しさを感じている以上、アルフにはこの場から逃げるという選択肢はなかった。居心地が悪かろうが、この場にいることは決定事項だ。

 そんな、二人に気づいたのだろうか。外で洗濯物を干していたはずの翔太の母親が空になった洗濯籠を持ったまま、アリシアに近づき、ゆっくりとアリシアの隣に座った。

「あらあら、寂しそうな顔して、どうしたの? アリシアちゃん」

 そして、包み込むように肩に手を回すと胸に抱き寄せる。もう片方の手ではアリシアの長い金髪を撫でていた。そんな翔太の母親の手が気持ちよかったのだろうか。日向ぼっこする猫のように目を細めた後、アリシアは独り言のようにポツリとつぶやいた。

「お兄ちゃんは、ちゃんと帰ってくるかな?」

 これはまた、異なことを聞くものだ、とアルフは思った。翔太にとってここは、帰って来るべき『家』であるはずだ。彼がこの家以外の何所に帰ってくるのだろうか。それは翔太の母親も同様のことを思ったのだろう。少しびっくりしたような顔をしていた。しかし、すぐにふっ、と優しい顔になると、優しく言い聞かせるような声でアリシアに言う。

「大丈夫よ。ショウちゃんはちゃんと帰ってくるわよ」

「ほんとう?」

 いつもなら、すぐに信じてしまうはずの翔太の母親の言葉。だが、初めてアリシアは、彼女の言葉を聞き返した。アルフは、それに驚いたものだが、翔太の母親はそれに動じることなく、笑顔で、ええ、と断じて、だって―――と続ける。

「この家には、私も、お父さんも、秋人も、アルフさんも、そして―――アリシアちゃんもいるんだもの。ショウちゃんが帰ってこないはずがないわ」

 その語りかけるような声は果たしてアリシアに届いたのだろうか。おそらく、届いたのだろう。うん、と小さく頷くのがアルフにも見えたから。それを確認した翔太の母親は、うん、と頷くとアリシアの頭を二、三回、ぽんぽんと優しく叩くと、だったら、と続けて口を開いた。

「アリシアちゃんが、そんな悲しい顔をしていたら、ショウちゃんも悲しくなるわ。ショウちゃんがいなくても楽しくいきましょう」

「うんっ!」

 泣いていた烏がなんとら、というヤツだろうか。アリシアの表情からは、悲壮に満ちた表情は鳴りを潜め、今は満面の笑みが浮かんでいた。やはり、母親は偉大だ、とアルフが思うのはおそらく間違っていないだろう。

「それにしても、アリシアちゃんはショウちゃんが大好きなのね」

「うんっ! だって、お兄ちゃんは私を受け入れてくれたもん。妹だって言ってくれたもん」

 そう、と受け止める翔太の母親の顔は愛おしいものを見るように優しい微笑だった。

 アルフは、アリシアの言葉にようやく、アリシアが翔太に懐いていたことに納得した。

 そうだ。そうだったのだ。アリシア―――フェイトは、すべてを否定された。母親だったプレシアによって。フェイトという存在を否定されたのだ。だからこそ、今のアリシアという仮面を被ったフェイトが生まれたのだが。それさえも、否定されたとき、最初にすべてを受け止めたのは、受け入れたのは確かに翔太だった。それは、一種の刷り込みのようなもの、というべきなのだろうか。アルフにはいまいち分からなかったが、喉の奥に刺さった小骨が取れたような気分だった。

「それじゃ、今から勉強して、ショウちゃんが帰ってきたら驚かせてましょうか」

「私、平仮名は全部書けるようになったよっ!」

「そう、なら、今度はカタカナね」

 そういいながら、翔太の母親はアリシアの手を引っ張って別の部屋へと消えていった。おそらく、最近勉強している読み書きの練習だろう。言葉は何とかなってもさすがに読み書きぐらいは練習しなければならない。本来なら面倒だと思うのだろうが、幸いにしてアリシアにとって学ぶということは苦痛ではないらしい。もっとも、翔太に褒められるというのも、嫌いではない要因だろうが。

「さて、あたしはなにするかね?」

 一方で、アルフはあまり勉強が好きではない。そんなことよりも、オオカミ形態になって日向ぼっこでもしたほうが時間的には有意義だと思っている。しかし、翔太の母親にはアリシアの相手をさせておきながら、自分が悠々と日向ぼっこしているというのは気が引ける。向こうがそう思っていないにしても、アルフは居候であることには代わりがないのだから。

「……アキの相手でもしてあげようかな」

 アルフたちが着てから歩けるようになっていた秋人は、目を離すとすぐにどこかへ行ってしまう。好奇心は旺盛なようで、柵がついたベットから離れるとヨチヨチと歩き出すだのだから気が抜けない。翔太の母親はアリシアの相手をしている。ならば、秋人の相手を自分がするのは間違いではない。

 そんなことを考えながら、アルフは秋人のベットがある部屋へと足取り軽く向かうのだった。



  ◇  ◇  ◇



「しかし、翔太くんは相変わらず面白いな」

 真昼間から日本酒をお猪口で呷りながら、上機嫌な声で笑いながら夫であるデビットが言うことに梓・バニングスはゆっくり微笑んでいた。それは、梓も同意見だったからだ。

 おそらく、デビットが言っているのは先ほどのことだろう。

 渋る自分達に対して、一緒に行きたい愛娘であるアリサ。意見の違う二人の真っ向対決だった。ここで、巻き込まれた普通の小学生ならば、アリサの味方をするか、あるいは焦れて、アリサを連れて行ってくれるだろう、と見越していたのだ。それが、まさか、折衷案を作って提示してくるとは思わなかった。しかも、目線だけとはいえ、了承まで取ってくるとは。

 梓とデビットが翔太と出会っている回数というのは実はさほどあるわけではない。当然といえば、当然だ。家が近所というわけでもないし、翔太が英会話でアリサの家にお邪魔しているとはいえ、極めて常識人である翔太が日が暮れた後、長々と友人の家に、しかも、異性の家にいるわけがない。よって、出会ったとしても、偶然、梓が定時で帰れる時間や日取りが合わず、休日に遊びに来たとき程度だろうか。

 それでも、アリサの日頃の会話の中や、その少ない出会いの中で彼が非凡であることは分かっていたつもりだったが、ここまで根回しのような事ができるとは夢にも思わなかった。翔太の外見は小学生なのだから仕方ないだろう。そういえば、昨日は、必死に一緒にお風呂に入るのも嫌がっていたな、と思い出した。

 もしかしたら、一緒に入ったほうが面白かったかと思うと、昨日はアリサの方に味方したほうがよかったのではないか、と少しだけ後悔した。

「それに、サッカーの話ができるのがいい」

「ああ、そういえば、言ってたわね」

 会話の中で出てきたというよりも、あれは、アリサの愚痴ともいうべきだろうか。曰く、彼がサッカーの約束をしてしまい、一緒に帰る事ができなかった、という類の愚痴だ。そのときは、「あんまり束縛すると嫌われるわよ」と言いつけておいたが、アリサの性格からして、それを覚えているのは数日だと確信していたが。

 幸いだったのは、彼が、アリサの我侭というか、気が強い部分を受け流せる程度に大人だったということだろうか。一日、彼の様子を見ていたが、翔太はどうにもアリサを友人というよりも妹のような、年下の手のかかる子どもを見ているような、そんな態度を取っているようにも見える。体はアリサたちと同じようにも関わらず、どうしても彼が年上に見えてしまう事がある。人を見る目は経営者として鍛えてきたつもりだから気のせいではないだろうが。

「それにしても、すずかさんと翔太くんとアリサは友人に恵まれた」

「そうね」

 コクリとお猪口にもう一杯、注がれた日本酒をゆっくり口にしながら感慨深げにデビットが呟くのを梓も手元のお猪口にほんのり残っていた日本酒を一気に飲んだ後、デビットの呟きを肯定した。

 アリサの容姿は殆ど白人と言ってもいいぐらいだ。梓とデビットのダブルであるはずなのだが、目に見える容姿は白人のそれに近く、その事が子ども達に忌避感を感じさせるのだろう。幼稚園時代のアリサにはまったくといっていいほど友達がいなかった。逆にその容姿からいじめられるようなことが多く、泣いているアリサに梓が発破をかけたものだ。もっとも、それが原因であの気の強さが生まれているとするならば、もう少し考えるべきだっただろうか、と梓は今更ながらに思っている。

 それはともかく、小学生になってもアリサは大丈夫だろうか、と心配していたが、そんな心配の中でアリサに友人ができたことは喜ばしいことだった。

 月村すずかと蔵元翔太だ。

 アリサの口から友人と思われる彼らの名前が出てきたときは、思わずアリサを抱きしめてしまうほどの喜んだものだ。しかし、アリサの性格をよく知っている梓は彼らとの友情が簡単に壊れやしないか、と心配したものだが、二年以上も続いているところを見るとどうやら杞憂だったらしい。

 それは喜ばしいことだった。

 もっとも、昨日一日、付き合ってみて、彼らの性格を考えれば妥当ともいえたが。彼らの性格は温厚そのもの。アリサの激しい気性も受け入れられる、あるいは受け流せるのだから。

「ほら、梓も。せっかく翔太くんたちが作ってくれた時間だからな」

「ええ、そうね」

 そういいながら、徳利を傾けるデビットの酒を空になったお猪口で受ける。そう、デビットの言うとおりだ。翔太が作ってくれた時間は、夕方までとはいえ、短いのだから。この短い時間で英気を養うことにしよう。

 地元の銘酒を口にしながら梓は思った。

 ―――アリサたちは楽しんでるかしら?

 彼らが楽しんだ証拠は、梓が帰宅した後に気づいたアリサの胸元で揺れるアクセサリーが証明しているだろう。



  ◇  ◇  ◇



 ゴールデンウィークも残り三日となった休日、日課となっている早朝の魔法訓練を終えた高町なのはは、教科書と課題のノートを広げて机にかじりついていた。

 ゴールデンウィークの課題が丸々残っており、三日で終わらせなければならないのだ。本当なら、ゴールデンウィークの間に少しずつやればいいのだろうが、なのはのゴールデンウィークは、アースラで翔太と一緒に大部分をすごしているため、宿題をやる時間が、やる気がまったく湧かなかった。宿題よりも、翔太と一緒に何かをすることに注力を向けていたのだ。

 過去二回のゴールデンウィークは、友達もいないなのはにとって時間はたっぷりあるものであり、宿題は時間つぶしのいい材料にすぎなかった。だが、今年は、翔太がいる。なのはが心の底から望み、手に入れたたった一人だけの友達である翔太が。

 魔法に関する事件とはいえ、ほぼ一日中、一緒にいられる時間は至福の時間だった。その時間を与えてくれたことだけを考えれば、あの魔女に感謝してやってもいいかもしれない、と考える程度には。もっとも、彼女がやったことは決して許すことはないが。

 なのはが魔女と呼ぶプレシアが翔太にやったことを思い出すと今でも腹が立つ。怒りを解消するために何かを殴りたくなる。しかし、今はそれよりも、目の前に広げられた問題集のほうが優先だ。理数系の科目はまだいい。しかしながら、なのはにとって鬼門となるのは文系科目だ。特に国語は一生懸命に考えなければ分からない。考えても分からない問題があるほどだ。

 いつもなら、適当に考えたところでやめるのだが、今年ばかりはそういうわけにはいかなかった。なぜなら、なのはには目標があるからだ。来年、翔太と一緒のクラスになるという大きな目標が。そのためには、学年で三十番以内に入らなければならない。クラス分けの成績は、テストだけでは決まらない。宿題の提出状況などを鑑みられるのだ。そのため、たかが宿題といえども手を抜けない。

 問題が解けない苛立ちから目を逸らすように、なのはは机の隅に置かれた携帯電話に目を向ける。

 過去には、電源すら入れず、机の上におくだけという状況になっていた携帯電話も、今では、その役目を果たすべく、充電もされており、電源もしっかりと入っていた。過去のなのはからは考えられないが、翔太という友人ができたなのはからしてみれば、それは当然のことだ。

 なぜなら、その携帯電話はなのはと翔太を繋いでくれる機械なのだから。

 着信履歴やメールの受信履歴を見れば、そこには蔵元翔太の名前しか並んでいない。さらに言うと着信履歴や受信履歴に比べて発進履歴や送信履歴は驚くほど少ない。もっとも、相手がすべて蔵元翔太という点は変わらないが。

 基本的には電話は着信履歴が残っていた場合、メールは返信しかしていないのだから当たり前だ。

 なのはは未だに恐れている。もし、自分から電話して、そのタイミングが悪くて翔太に嫌われてしまったら? メールの文章で彼を怒らせてしまったら? そう考えるとなのはから電話やメールをするのを躊躇してしまうのだ。過去に何度か挑戦しようとしたが、そのたびに指が振るえ、結局断念してしまう。

 そして、それは本当の意味での友達になった今でも変わらない。いや、むしろその傾向は強くなったというべきだろう。なにせなのはからしてみれば、ようやく手に入れた本当の友達だ。自分の不手際で失いたくない。だからこそ、自分からは動かない。動けない。

 ―――私もショウくんみたいに『いい子』だったらなあ。

 度々思う。もしも、翔太のように何も間違わなければ、いい子で誰にも嫌われる事がなければ、なのはだって、自分から彼に電話する事だってできただろう。しかし、なのはにはできない。なのはは翔太ではないからだ。彼女にできることは彼のようになりたいという羨望の眼差しを向けることと自分からは間違えないように彼が近づいてきてくれるのを待つことだけだ。

 前は前者しかできなかったことを考えれば、大きな進歩だとなのはは思う。

 ―――ショウくん、今何してるかな?

 不意にそれがきになった。彼のことを考えていたからだろうか。あるいは、昨日のパーティー以来、彼の声を聞いていないからだろうか、姿を見ていないからだろうか。どれでもよかった。とにかく、今のなのはは翔太の事が気になって仕方なかった。

 今までなら、この感情を押し殺して、どうせ、できない、と投げやりになっていただろう。だが、今は違う。

「えへへ」

 やりかけていた宿題も放り出してなのはは、翔太の姿を見られることに期待して笑いながら一つの魔法を展開する。

 探索魔法(サーチャー)を改良して新しく作った魔法だ。サーチャーはなのはの意思で動かさなければならなかった。だからこそ、プレシアに攫われたとき、翔太の家以上に翔太の行方を追うことができなくなっていた。その反省を生かして作った新しい魔法は違う。ただ、翔太のみをターゲットとした魔法であり、翔太を追う様に作ってある。さしずめ、監視魔法(ウォッチャー)というべきだろうか。もっとも、なのはにとっては用途のみが大切であり、名前など決めていないが。

 なのはは、ウォッチャーが映し出す映像に翔太の笑顔が浮かび上がることを想像していた。ある意味で言えば、その想像は間違っていなかったのだが、ウォッチャーによって映し出された映像をなのはが受け入れるにはしばらく時間が必要だった。

「………え?」

 なのはがようやく色のない声を出せたのは、その映像を見てから数秒の時間を要した後だった。

 ウォッチャーが映し出した映像は、確かになのはが想像したとおりに笑顔で誰かと話している映像だった。そう、その程度の映像であれば、なのはがいつも見ていた映像を変わりない。しかし、その映像に映っていた誰かが問題だった。

 一人は、長い金髪を持つ親友を自称する女。もう一人は、長い黒髪を持つ吸血鬼だ。

 他の翔太の友人ならともかく、その二人だけは許せなかった。一人は、翔太の親友を偽る女だし、もう一人は翔太の血を吸い、傷つけたようなバケモノだ。そして、なにより許せないのは、彼女達がそんな事実を棚に上げて、楽しそうに笑っており、翔太も一緒に笑っていることだった。

 そこにいるのはなのはであるはずなのに。そこにいたいのはなのはなのに。それ以外の人物が居座っている事が、なのはの心にドロドロと黒いものを蓄積させていく。同時に、彼が笑っている場所に自分がいないことに怒りがこみ上げ、自分自身でイライラが募る。

 その苛立ちを、鬱憤をもてあますなのはを余所にウォッチャーに映し出される翔太たちは、車に乗ったままどこかへと運ばれていたが、やがて、車が止まる。どうやら彼らの目的地に着いたようだった。彼らが車で移動していることから、どうせ塾かどこかだろうと高をくくっていたなのはだったが、実際についた場所を見て、驚くこととなる。

 なぜなら、そこは、なのはもテレビでしか見たことないような高級旅館だったからだ。

「なっ!!」

 ウォッチャーを介しているとはいえ、それを初めて見たなのはは驚愕する。しかし、それは彼らの目的が旅館だったということではない。翔太と金髪の女とバケモノの目的が旅行だったという一点になのはは驚いていたのだ。そういえば、隣には見知らぬ大人がいる。彼らがこの旅行の保護者なのはなのはにも簡単に想像できた。

 楽しそうに荷物を下ろしながら金髪の女や黒髪の吸血鬼と話す様子をなのはは羨望の眼差しで見ていた。

 友達と一緒に旅行へ。その言葉は、一人だったなのはにしてみれば、夢のような言葉だ。

 どうして、自分があの場所にいない? どうして、あの場所にいるのがあの二人なのだ?

 羨ましい。妬ましい。悔しい。様々な感情が入り乱れる中、苛立ちとどす黒い何かで一杯になった心は、それ以上、その情景を見ることを拒否したため、ちっ! という舌打ちと共にウォッチャーからの映像をぶった切ると心の中にある燻るような苛立ちをぶつけるためにゴールデンウィークの課題へと向き合うのだった。



 さて、一夜明けてなのはは再びウォッチャーへと映像を繋いだ。金髪の女や黒髪の吸血鬼が楽しそうにしている映像を見るのは、あまり見たくないのだが、それよりも翔太の様子が気になるのだ。だから、彼女達をあまり視界に入れないように気をつけようと思いながら、なのはは懲りずにウォッチャーへと映像を繋ぐ。

 映像に映ったのは、黒染めの浴衣に身を包んだ翔太の姿だった。

 ―――かっこいいな……。

 聖祥大付属の制服姿の翔太もかっこいいとは思うが、見慣れない格好だからだろうか、それ以上に翔太がかっこよく見えてしまった。その様子を見られただけでも懲りずに映像を繋いだ甲斐があろうというものだ。もっとも、その後に出てきた金髪の女の浴衣姿と黒髪の吸血鬼の浴衣姿は蛇足もいいところだったが。

 その後は、温泉街なのだろうか、商店街のようなところに彼らは繰り出した。なのははできるだけ翔太のみを映す出すようにウォッチャーを調整し、彼が楽しそうに商店を回る映像を余すところなく楽しんでいた。彼が笑っている表情を見るだけでなのはの心は軽くなり、楽しくなる。昨日のささくれていた感情が嘘のようだ。

 ただし、時折、翔太のみを映すように調整しているにも関わらず、くっつくように体を寄せ、近づいている金髪の女や吸血鬼は邪魔というほかなかったが。しかし、それでも常に彼女達が入っていた昨日よりもましだった。

 もしも、彼がこのまま何事もなく商店を回るだけで終わっていたなら、なのはも翔太の笑顔を堪能する午後を過ごせただろう。だが、そうは問屋はおろさなかった。

 急に翔太たちが足を止めて、屈みこみ何かを覗き込んでいた。何を覗き込んでいるのだろう、となのはが気になって映し出してみるとそれは、シルバーアクセサリーといわれるものだ。今まで、そんなものに興味がなかったなのはは、一つも持っていない。

 ―――ショウくんはこういうのに興味があるのかな?

 もしも、彼がそういうものに興味があるのなら、なのはも一つぐらい買ってみてもいいと思った。もしかしたら、なのはが身に着けることで、翔太の興味が引けると思ったからだ。あるいは、彼に似合いそうなものをプレゼントするのもいいかもしれない。誕生日が過ぎていなければ、の話だが。

 しかし、話はそう簡単ではなかった。翔太が両隣に向かって微笑みながら何かを言っていた。その内容までは分からない。なぜなら、ウォッチャーは音声を送るようにできていないからだ。何を言ったんだろう? となのはが考えていると、翔太は不意に難しい顔になってシルバーアクセサリーを選んでいるように見えた。

 やがて、翔太が手にしたのは、月と太陽を模った二つのシルバーアクセサリーだ。それをお金を払って受け取ると、隣にいた二人の女の子に手渡していた。その場にいる翔太の知り合いの女の子は、あの金髪の女と黒髪の吸血鬼だけだ。

 なのはの頭がそれを理解した瞬間、一瞬で心の中を嫉妬心と苛立ちとなのはにも分からない感情が支配し、その苛立ちやその他もろもろの感情に従うように、なのはは振り上げた拳を一気に机へと叩き付けた。

 ドンッ!! と小学生の女の子が机を拳で叩いたにしては大きな音が鳴ってしまった。それもそうだろう。無意識のうちになのはの拳は魔力によって強化されていたのだから。だから、机が多少へこむほどの威力であろうとも彼女の拳にはなんら影響はなかった。

 しかし、机を叩いたにはしては大きな音が鳴りすぎた。

『なのは~、なんか大きな音がしたけど、どうかしたの?』

 ドアの向こうで姉の美由希が聞いていたのだろうか。コンコンというノックの後に彼女の言葉が聞こえてきた。しまった、と後悔しても遅い。しかし、この状況を知られるわけにはいかないなのははすぐさまいい子の高町なのはの仮面を被り、返事をする。

「ううん、少しこけちゃっただけ」

『大丈夫?』

「うん」

 それだけで、どうやら納得してくれたらしい。ドアの向こう側から姉の気配が遠ざかっていくのが分かった。その事実にほっとすると再び、ウォッチャーの映像へと目を移す。そこには翔太から渡されたシルバーアクセサリーを早速つけて、翔太に見せびらかしている金髪の女と慎ましく見せている黒髪の吸血鬼の姿があった。

 その光景を見ながらなのはは思う。

 どうして、彼女たちなのだろうか? と。どうして、自分ではないのだろうか? と。

 なのはにとって翔太は友人であるという事実だけで、何者にも変えがたい存在だ。もしも、彼一人とその他百人とどちらを選ぶか、といわれれば迷わず翔太を選ぶ。彼のためなら何でもしてあげたいと思うし、彼の願いならなんだって叶えてあげようと思う。彼が傍にいてくれるなら。そう、翔太はなのはにとって傍にいてくれるだけで、友達でいてくれるだけで十分な存在なのだ。

 だから、なのはからプレゼントを願うことは決してない。だが、それは翔太からのプレゼントが欲しくないという意味と等価であるという意味ではない。もしも、彼女達と同じように翔太からプレゼントを貰ったなら、それはきっとなのはにとって一生の宝物になるだろう。いや、そうするつもりだ。

 だから、なのはにとってそれほどの価値があるものを貰って、無邪気に喜んでいる彼女達が羨ましかった。それを当然と思っている彼女達が妬ましかった。

 それ以上、彼女達が浮かれている映像を見たくなくて、そんな彼女達を見て、微笑ましそうに笑っている翔太を見たくなくて、なのはは静かにウォッチャーからの映像を切った。そういえば、昨日もこんな感じでウォッチャーからの映像を切ったな、と思いながら。

 もしかしたら、彼女達はなのはを苛立たせる天才なのかもしれない、と思いながら、今も胸の中に燻り、ドロドロと蠢く黒いものを解消するためになのはは自らの愛機を手にとって外に出た。外で思いっきり魔法でもぶっ飛ばせば、少しはこの気持ちが晴れるだろうか、と思いながら。



「ショウくん寝ちゃった」

 ウォッチャーからの映像を見ながらなのはは呟く。

 魔法を思いっきりぶっ放すことで多少は気が晴れたなのはは、夜になって再び翔太の様子を伺っていた。確かに彼女達を見るとイラつくなのはだったが、逆に翔太が笑っているところを見ると心が安らぐのだ。できるだけ彼女達を視界に納めなければ、確かに翔太はなのはにとっての清涼剤になっていた。

 そんな彼も眠ってしまった。彼に釣られるようになのはもふぁ~、と大きく欠伸をする。

 高町なのはの就寝時間は意外にも早い。なぜなら、彼女は朝が早いからだ。彼女の早朝魔法訓練は欠かせない日課になっている。その分、夜が早いのは自然の摂理ともいえた。もっとも、今日はゴールデンウィークということもあって少しだけ遅い時間に寝ているが。

 しかし、翔太が寝てしまった以上、彼女が無理して起きている理由はない。既にお風呂に入って眠る準備が万端だったなのはは、ベットの中に入って部屋の電気を消す。元から無理して起きていたのが祟ったのか、ベットで横になるとすぐに眠気は襲ってきた。この分だとすぐに眠れそうだ。しかも、直前まで翔太の顔を見ていたのだから今日はいい夢が見れそうだった。

「おやすみ、ショウくん」

 ウォッチャーの中の翔太におやすみを言うとなのはの意識はすぐに夢の中へと誘われた。ウォッチャーの中に映し出された翔太と同じくすぅ、すぅという小さな寝息を立てて、寝てしまった。

 なのはがそれ以降の光景を見なかった事が幸か不幸か。それは空に浮かぶ月だけしか知らなかった。



つづく



[15269] 第二十三話 裏 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/10/19 21:05



 アリサ・バニングスは鼻歌を歌いながら、明日からの温泉旅行に向けて準備をしていた。洗面用具、着替えなどなど、男の子から比べれば幾分多い荷物を手際よくバッグに詰めていく。ゴールデンウィークなどの長期休暇に彼女が旅行へ行くことは初めてではない。その経験が十分に生きているのだろう。どこか、思考が準備よりも明日のことに馳せているのにその手が止まることはない。

 明日は、あれをして、これをして、ああ、あれも忘れちゃいけないわよね、とパンフレットを見ながら考えた行動計画をもう一度、思い出していた。アリサが持っている温泉街と泊まる旅館のパンフレットには書き込みと丸印がいくつも書き込んであった。どれだけアリサがこの旅行を楽しみにしてるかが手に取るように分かろうというものだ。

 アリサがこの旅行を楽しみにしてるのもある意味当然だった。アリサは今まで、友達で泊りがけで旅行というようなイベントを体験したことはない。仲のいい女の子同士の小学生ならば、お泊り会なども考えられるが、アリサの親友は、月村すずかと蔵元翔太の二人だ。どう考えても、そんなイベントを企画する側ではない。一番可能性があるとしたら、それはやはりアリサ本人ということになるだろう。

 今までは運が悪かったのか、星のめぐりが悪かったのか、そんな機会が中々巡ってこず、結局明日の旅行が友達の中での初めてのイベントということになる。だからこそ、アリサのテンションはいつもりも上がっているのだから。なんにしても初めてというのは興奮を伴うものである。

 だが、そんなテンションもピークに達すれば、ある時点で急にストンと落ちてしまう一瞬がある。つまり、一気に冷めて冷静なる瞬間だ。それが、アリサには準備が終わり、バッグのファスナを閉めた時点で訪れた。一度、浮かれていた熱が冷め、冷静になるとアリサは、すっかり準備が完了したバッグの前でうむむ、と唸り始める。

 冷静になった瞬間、アリサは不意に自分の目的を思い出したからだ。

 ―――翔太に自分のことを好きになってもらう。

 それは、彼女の親友である月村すずかと蔵元翔太がお互いがお互いを好きにならずに三人一緒にいるための対策だったのだが、如何せん、その方法が分からない。そもそも、その前に前提条件として『好き』という感情が分からなければ、アリサに手を打つ手段がない。着地点が分からないのに道筋が描けるわけがないのだ。

 できることならすぐにでも『好き』という感情を理解したかったアリサだったが、担任からは、既に答えを貰っている。それはアリサはアリサだけの恋があるということ。つまり、翔太に好きになってもらうためには『翔太の好き』を理解しなければならないのだろうが、自分自身の好きさえ理解できないアリサが『翔太の好き』を理解できるとは到底思えなかった。

「はぁ、どうしようかしら?」

 そう悩んだところで、解決策など何もない。アリサが考えていることは暗闇の中を闇雲に歩いているようなものだ。突然、光明が見えるかもしれないが、暗闇の中を歩き続けるかもしれない曖昧なものである。ならば、アリサにできることなど数少なかった。

 精々、翔太がすずかを『好き』にならないこと、自分が早く『好き』を理解することぐらいである。後は考えても仕方ない。

 そう思ったアリサは、普段はまったく信じていない神様に都合よく祈ると、再び明日からの旅行にテンションのエンジンを上げ、枕元においてあったパンフレットに手を伸ばすのだった。



  ◇  ◇  ◇



 次の日の天気は、まるでアリサを祝福するように旅行日和の快晴だった。旅行もきっと上手くいくと思わせるような雲ひとつない青空が広がる天気だ。のんびり車に移動する母親の梓と父親のデビットを急かしてアリサは車に乗り込む。最初の目的地は二人の親友のうち、月村すずかのほうだ。温泉旅館への経路等を考えるとそれが最適らしい。もっとも、そこらへんはすべて執事の鮫島に任せているから、アリサもデビット、梓も詳しいことは分からなかったが。

 すずかの家に着くと月村家のメイドであるノエルが出迎えてくれた。すずかが出てきたのは、彼女達が出迎えてくれたすぐ後だ。おそらく準備は既に済んでいたのだろう。アリサと同じぐらいのバッグを肩にかけたすずかが姿を見せた。

 おはよう、と笑顔で、お互いに挨拶を交わし、すずかが乗り込んでくる。荷物は既にトランクの中である。さて、すずかが合流したところで、旅館へ行くために拾っていくのは翔太だけとなった。アリサを乗せたリムジンは、静かに月村邸から出発し、蔵元家へと進路を取る。

 翔太の家までの短い道のりで、アリサとすずかはお互いに情報を交換する。この短いゴールデンウィークに何をしていたか、を。アリサは、近くのショッピングモールに母親と出かけたことぐらいだろうか。普通なら外国へ旅行へ行ったりするのだが、今年は父親のデビットの都合がつかなかったので仕方ない。代わりにすずかと翔太を誘って温泉旅行にいけるのだからアリサとしては文句の言いようもなかった。

 すずかは? と尋ねてみると、彼女も似たようなものらしい。どうやら、今年はどこかに出かけることを姉の忍が嫌った様子で、今年のゴールデンウィークは珍しく、本を読むなどして静かに休日を満喫していたらしい。

 その話を聞いて、それなら、誘えばよかった、とアリサは後悔した。今年もすずかはどこかに出ているのだろう、と勝手に勘違いしてしまったのが原因だった。さらに言うと、旅行中は携帯の電源を切っておくことは当然なので、携帯で確認を取ることもなかったのだ。

 まあ、後悔しても仕方ないか、とアリサは気分を切り替える。どうせ、これから三日間はずっと一緒にいるのだ。ならば、前半に遊べなかった分まで取り戻すように遊べばいい。そう考えると、段々とこの旅行が楽しみになってきて、ワクワクがとまらない。まだまだ、旅館にすらついていないというのに。

 はやく、はやく、と急かすアリサの心に応えるように翔太の家に着いたのは、すずかの家を出発してから十五分程度のことだった。何度か来た事がある翔太の家の門が見えた。本来であれば、すずかと同様に翔太を拾うだけでいいはずなのだが、翔太の両親からの願いで、アリサの両親と挨拶することになっており、一度車を降りるようだった。

 それにアリサがついていく必要はなかったのだが、先ほどから感じているワクワクに後押しされるような形で、アリサもデビットと梓についていった。残念なことにアリサには無駄としか思えない井戸端会議のような会話が交わされ、一刻も早く出発したいアリサは、苛立ちを感じてしまったが、それが功を奏したのか、アリサの母である梓がいつも費やしている井戸端会議よりもかなり短い時間で、話を切り上げることができた。

 翔太を伴って車へと乗り込もうとしたとき、不意にアリサは足を止めて考える。

 このまま自分が先に乗れば、すずか、アリサ、翔太の順番に座ることになる。ある意味、いつもの座り方だ。もしも、何事もなければ、アリサもこの順番を好み、そのまま乗り込んだことだろう。だが、状況が少し前と異なる。その原因は、すずかだ。アリサが悩んでいる『恋』が彼女を変えたのか、すずかはアリサと翔太を比べた場合、翔太に話しかける傾向が強くなってしまう。もしも、このまま乗り込めば、すずかは、自分を挟んで翔太と話をしてしまうのではないだろうか。そんな懸念が生まれたのだ。

 真ん中に座っていれば、話に入ることは難しいことではないだろうが、最初から自分を挟んで会話されてしまえば、ものすごく疎外感を感じてしまう。ならば、とアリサは乗り込もうとした足を止めて、道をアリサが乗り込むのを待っている翔太に譲った。

「なにやってるのよ? 早く乗りなさいよ」

「え?」

 ちょっと逡巡する翔太だったが、やがて諦めたようにアリサよりも先に乗る。それを見届けてアリサが、デビットが、梓が順番に車に乗り込んだ。乗り込んだのを鮫島が確認したのか、ドアがばたんと閉じられた後、ゆっくりと車は発進する。車が発進したというのに揺れが少なかったのは運転手である鮫島の運転の腕であるが、アリサにとっては普通のことなので、特に気にすることはなかった。

「ショウくん、久しぶりだね」

「うん。そうだね」

 車が走り出した途端、さっそくすずかが翔太に話しかける。やっぱり、と思うと同時に二人だけで話されると、何所となく疎外感を感じてしまう。話に加わりたいと思っても、まだ話題が始まってすらおらず、入るタイミングをうかがうことしかできなかった。

「ショウくんは、今日までゴールデンウィークは何やってたの?」

「なのはちゃんの手伝いかな」

 もしかしたら、着くまで二人で話するのかな? と心配していたアリサだったが、思ったよりも話に入る切っ掛けはあっさりと訪れた。ついでに、アリサも聞きたかった事が聞けて一石二鳥だ、と内心喜んでいた。

「あっ! そういえば、ショウっ! ちゃんと片付いたんでしょうねっ!!」

 アリサが急に割り込んできたような形になってしまい、彼女が入ってきたことに少し驚いた表情を見せていた翔太だったが、すぐにいつもの笑みを浮かべながら言う。

「うん、大丈夫。ちゃんと片付いたよ」

 その言葉を聞いてアリサは、ほっ、と胸をなでおろした。もちろん、翔太が約束を破るとは思っていなかった。それでも、もしも、何かあれば、助けるというのがアリサの知る蔵元翔太という人間だ。万が一、片付かなくて、高町なのはが、助けて、とでも言えば、翔太は間違いなく助けるために動くだろう。一ヶ月という約束を守るために、助けてと懇願する高町なのはを袖にするのは、アリサの親友である蔵元翔太ではない。もっとも、翔太はちゃんと一ヶ月という約束を守って片をつけてくれたが。

 心の底からよかった、と思った。

 いつまでも続くと思っていたアリサの日常。その色を変え始めたのは一ヶ月前からだった。

 最初に変わったのは翔太だ。翔太が、高町なのはに構うようになった。塾やアリサとの英会話教室さえ休んで。つまり、それは高町なのはが、絵に書いたような真面目君である翔太が塾やアリサとの英会話を休んでまでも構う価値があるということだ。おそらく、アリサが頼んでも翔太は先約があれば、それを優先しただろう。親友である自分でさえも優先するような価値がある高町なのはが許せなかった。

 しばらくは、すずかと二人で過ごす日常になってしまった。それでもいいい、と思っていた。すずかがいれば、それでも一人ではないからだ。しかし、それが続いたのも二週間ほど前までだった。急にすずかの態度が余所余所しくなった。翔太の前であれば尚のこと。まるで、アリサが目の前にいないように。翔太しか目に入らないように振る舞い始めたすずか。

 すずかの態度が変わったのを恋と知って。もしかしたら、このままアリサだけになるかもしれないと思って、アリサは、その事実を恐れていた。このまま、自分ひとりだけで、以前のような関係が空中分解してしまうのではないか、と心配していた。

 だからこそ、アリサは内心で翔太に自分を好きになってもらおうと考えているのだが。もっとも、その方法は現在模索中である。

 だが、その恐怖も、不安も、心配も、今日で終わりだ。高町なのはの用事を終えた翔太はきっと、以前と同じように自分とも付き合ってくれるだろう。すずかのことは少しだけ不安だが、それでも自分と一緒にいることを嫌がっているわけではない。だったら、きっと元に戻れるはずだ。一ヶ月前と同じような関係に。

 その後は、ゴールデンウィーク前半のことで盛り上がっていく。きっかけは翔太からだったが、少し前と同じような空気になって、アリサは少しだけ嬉しくなり、心が躍った。昔のように三人でお喋りしながら、きっと、この三日間も楽しいものになるに違いない、とアリサはある種の確信を抱いていた。

 そんな彼女達を乗せた車は、一路、温泉旅館へ向けて速度を上げて向かっていた。



  ◇  ◇  ◇



「わ~、綺麗っ!」

 アリサ・バニングスは温泉から見える風景に歓声を上げていた。同時刻、隣の男湯で翔太が、同様の風景に呆けていたことはまったくの偶然だが。

 アリサたち一行が、温泉地についたのはつい先ほど。フロントでこういう場所には不慣れなのか、いつも落ち着いている翔太がオロオロしていて、珍しいものを見た気分になった。もしも、彼が外国のアリサが泊まるようなホテルに行ったらどうなるのだろうか。ここよりもサービスが行き届いているのだから。そんな翔太を想像して少しアリサは、笑ってしまった。幸いなことに翔太に気づかれることはなかったが。

 そして、チェックインして、すぐに温泉へと向かった。温泉旅館に来たのだから当然だ。そして、アリサが三人でこの旅行を楽しむということを決めた以上、お風呂も三人ではいることは、彼女の中で確定事項だったのだが、なぜか、翔太に酷く嫌がられてしまった。もしも、翔太が頑なではなく、やんわりと断わったのであれば、アリサも仕方ないか、と諦めるような部分があっただろう。だが、翔太が強く、頑なに拒むものだから、そんなに親友である自分達と一緒にお風呂に入るのが嫌なのか、と勘ぐってしまい、無理にでも連れ込もうとしてしまった。

 しかしながら、そのアリサの思惑は、アリサの父であるデビットによって阻止される形になってしまったが。三人で一緒に入れないことは確かに残念だったが、その代わり、明日の約束は取り付けることに成功した。そう、明日もあるのだ。だから、焦ることはない。そう、アリサは自分に言い聞かせた。

「アリサ、いつまでも外にいると風邪をひくわよ」

 母親の梓に言われてみれば、確かに現状はバスタオル一枚の一子纏わぬ姿だ。誰かに指摘されて自覚すると、急に肌寒さを感じたような気がした。せっかくの旅行なのに風邪をひいては、意味がないと、アリサは急いでバスタオルを頭に巻いて、体を洗った後、ゆっくりと湯船に浸かる。温泉というだけあって、いつも浸かっている家のお湯よりも若干熱いような気がしたが、慣れてくれるとその温度も気持ちよく感じられた。

「はぁ、気持ちいいわね」

 いつも忙しそうで、疲れているはずの母親も温泉が気持ちいのか、ゆったりと蕩けるような表情をしている。梓を挟んだ向こう側にはすずかもいるが、彼女も気持ちいのだろうか、ゆったりと力を抜いて、ふぅ、と息を吐いて、目の前の自分が綺麗と絶賛した風景を見ていた。

 アリサ、梓、すずかと無言で並んで温泉に浸かる。傍から見れば、自分達は親子―――すずかとアリサは姉妹に見えるだろうか、とアリサは考えた。いや、どちらかというと梓とすずかは親子に見えるかもしれないが、アリサは余所の子と思われるかもしれない、と思ってしまった。すずかと梓は黒髪に対して、アリサは金髪という決定的な違いがあるからだ。梓の夫が金髪と知らなければ、梓とアリサが親子と思われることはないだろう。

 もっとも、それはアリサが内心で、自分の容姿―――金髪と白い肌に対してコンプレックスのようなものを持っているだけであり、よく見れば、アリサと梓は顔のつくりがよく似ていることが分かる。金髪と肌の色を除けば、間違いなくアリサは梓の娘だった。それにアリサ自身が気づくことはできないが。

 そんな暗い感情がアリサの胸の中に漂い始めたのを感じて、それを払拭するようにアリサはばしゃばしゃと顔を洗って、その感情を洗い流した。そんな感情は小学校に入る前にとうに克服したはずだからだ。今、再び起き上がってきたのは、きっと不安だった時期から、再び元に戻ろうと期待しているからだ。

 暗い感情を顔を洗うことで、すっかり洗い流したアリサの目に不意に梓の胸が目に入った。大きく膨らんだ梓の胸が、だ。続いて自分の胸に目を落としてみる。次にすずか。二人ともストンという擬音が似合うようにまったく膨らみなどなかった。年齢を考えれば当然なのだが、アリサからしてみれば、梓もすずかもアリサも性別で言えば『女』なのに、どうして違うのか? と気になるところだ。

 そんなアリサの視線に気づいたのだろうか、梓が悪戯っぽい笑みを浮かべて、アリサに話しかけた。

「胸が気になるの?」

 コクリ、と頷くアリサ。その言葉に釣られて、すずかも気になったのか、梓の胸を凝視していた。ペタペタと自分の胸を触ってみても、そこには何もない。そんな二人を見て梓は面白いものを見るように笑っていた。

「二人とも心配しなくても大きくなったら、自然と胸も大きくなるわよ」

 あははは、と笑いながら梓は隣に座っていたアリサを抱き寄せる。急に抱き寄せられたものだから、アリサはバランスを崩し、お湯が少しだけ口の中に入ってしまったが、現状はそれどころではなかった。抱き寄せられたアリサは、肌を合わせる形で梓の胸に触れているわけだが、それが自分のものと違って非常に柔らかいのだ。我が母親ながら、非常に不思議なものだった。

「特にアリサは私の娘なんだから」

 にんまりと笑う梓。先ほど考えていた事が見透かされたようで、アリサは少しだけドキッとしたが、偶然だったのだろう。顔をこわばらせたアリサに、どうしたの? と不思議そうな顔をしているのだから。

 なんでもないわ、とアリサは誤魔化し、梓の腕から逃れると再び風景に視線を移し、ふぅ、と息を吐きながら思った。

 ―――そっかぁ、大きくなるんだ。

 平らな胸をこっそりと触りながら、アリサはまだ見ぬ将来に思いを馳せるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アリサ・バニングスは、四方を仕切られた更衣室の中で、渡された浴衣に着替えていた。アリサが選んだ浴衣は、すずかとは対照的な白の明るい色だ。前は、主に白を好んでいたすずかだったが、最近はどうやら暗い色も好み始めたらしい。そういえば、あのワンピースを着てからだろうか。白が好きだ、と言っていた彼女が暗色系の服も着るようになったのは。今回も、すずかは黒を基調とした浴衣を選んでいた。

 だから、アリサは、コントラストではないが、反対の白を選んだのだ。そもそも、翔太もすずかも黒で、さらに自分も黒を選んでしまえば、非常に暗い集団になってしまう。せめて一人だけでも彩が欲しいではないか。一人だけ暗色系の浴衣ではないとはいえ、バランス的には、アリサが白というのは間違いではない。

 そんなことを考えていたためだろうか、着替えるのに手間取ってしまったようだった。隣の更衣室で着替えていたはずのすずかの声がアリサの更衣室の布越しに聞こえたからだ。

「どう……かな?」

「うん、可愛いと思うよ」

 恐る恐るといった様子のすずかに対して、少し間を置いて翔太の褒める声が聞こえた。翔太がすずかの浴衣を褒めたことに気を取られながらも、アリサは着替えるスピードを上げた。アリサとすずかが同時に着替え始めたはずなのに片方だけ遅いというのは、気になるからだ。早く着替えなければ、と思いながらアリサは手の動きを早めていく。それから間もなくアリサは浴衣に着替え終える事ができた。

 やや気がせきながらも、少し乱暴に更衣室のカーテンを開く。

「どうよっ!」

 思ったよりも大きな声が出てしまったらしい。突然のアリサの声に驚いたような表情を見せながら、翔太とすずかの視線がアリサに向けられる。

 見られているという視線に人というのは意外と敏感だ。翔太とすずかの視線が自分に向けられているのが分かる。特に翔太は上から下まで順番に見ているようだった。上から下まで見た翔太は再びアリサに視線を合わせるといつも浮かべている笑みのままで言う。

「うん、似合ってると思うよ」

 翔太の口から出てきたのは間違いなく褒め言葉なのだが、どこか聞き飽きたような感じがする言葉だった。例えば、アリサが下ろしたての洋服を着てくると翔太は殆どそのことに気づくのだが、毎回出てくる言葉は似たような言葉だ。自分ならすずかの洋服はもっと褒められるというのに。

 そのことに不満と疑惑を持ってしまったアリサは思わず、ジト目で翔太を見てしまう。

「……ショウ、めんどくさくなってない?」

 図星をつかれて少し正直な人間なら表情が引きつるとか、肩が動くとかリアクションを返しそうだが、翔太の場合は、アリサの疑惑を受け流すように表情を一切変えることはなかった。

「そんなことないよ。うん、可愛いよ」

 まるで付け加えるような言葉。だが、おそらくそれは本音なのだろう。ただ、翔太は褒めるべき言葉が少ないのだ。だからこんな風になってしまう。それを改めてアリサは理解した。できれば、もっと数を増やして欲しいとは思うが。しかし、それが翔太といえば、それまでだ。無理してまで飾って欲しくないというのも本当だから。

「まっ、今回はショウを信用してあげるわ」

 だから、今回は許してやることにした。きっと、次も似たような事があったら、似たようなことを考えて許すんだろうな、と心の隅で思いながら。

 それから、三人で記念撮影をして、目的である温泉街へと飛び出した。

 アリサが前日までに調べた中に当然のように温泉街についての調査も入っていた。面白そうな場所。楽しそうな場所。興味があるものがありそうな場所。冊子に挟まれた地図の中にきちんと印がつけられていた。

 その中には、当たりも外れもあった。想像していたよりも面白い場所。想像していたよりもつまらない場所。期待はしていなかったが、意外にも楽しめた場所。様々な場所があった。もっとも、一番効果的だったのは三人一緒だったからというのがあるのかもしれない。何も考えることなく、ただ三人で遊ぶ事が楽しくて、きゃーきゃー言いながら、彼らは温泉街を駆け巡った。

 さて、そんな最中、不意にアリサの目に止まったのは、路上に広げられた布の上で、昨日と同じく快晴となり、雲ひとつない空から燦々と照りつける太陽の光を反射する金属だ。もっと注目してみるとそれは、チェーンに繋がれたいわゆる首から下げるアクセサリーのように見えた。

 アリサとて、まだ小学生とは言え、女の子だ。いや、むしろ小学生の女の子だからだろうか。そんなものへの興味は人一倍だった。だからこそ、足を止めて屈みこみ、アクセサリーを覗き込む。三人は全員子どもだけで見ているだけでは何か言われるだろうか、と不安だったが、店主はどうやら気のいい人物だったようで、「いらっしゃい。ゆっくり見て行ってくださいね」と迎え入れてくれた。

 それならば、遠慮なく見て行こうとアリサは考える。アリサの興味を引くような可愛いものもあれば、カッコイイといえるようなものまで様々なものがあった。案外、どんな顧客にも対応できるようにしているのかもしれない。

「ねえ、どれが好き?」

 興味深く、目移りしながら見ていたアリサの耳を不意に翔太の声が打った。

 突然の翔太の声に思わず驚きの表情と共に翔太の顔を見てしまう。そうすると彼はまるで悪戯が成功したように笑い、さらに続けて、驚くようなことを口にした。

「だから、どれが好き? プレゼントするよ」

 ―――ぷれぜんと、プレゼント、プレゼントっ!?

 アリサが翔太の言葉を理解するまでに若干の時間を要した。あまりに突然すぎる言葉に彼女が状況を理解するのに時間を要しただけだったのだが。だから、理解してしまった瞬間、思わず「本当なのっ!?」と身を乗り出して翔太に聞いてしまった。彼も身を乗り出したアリサに若干驚きながらも頷いてくれる。

 翔太の言質を取って、アリサの心は歓喜に震える。理由はよく分からないが、どうやら翔太がこの中の一つをプレゼントしてくれるというのだから。もしかしたら、これが、母親に聞いた男の甲斐性というやつなのかもしれない。だが、しかし待てよ、とアリサの中でブレーキがかかる。

 翔太は言った。どれが好き? と。つまり、それは翔太はプレゼントをアリサたちに選ばせるつもりなのだろう。だが、それは違うだろう、とアリサは思った。お金を出すだけがプレゼントの意味ではないだろう、と。プレゼントする人が選んでこそ、物に価値が宿るのだから。もしかしたら、翔太にはセンスの自信がないのかもしれない。だが、それはそれで乙なものだ。

 だから、アリサは翔太を窮地に追いやる一言を口にする。

「でも、あたしたちが選んだのをショウがプレゼントするっておかしいわよね?」

「そういえば……」

 しかも、幸いなことにすずかも同調してくれたようだ。顎に人差し指を当てて、考え込むような仕草をしながらアリサの考えに同調するような言葉を出してくれた。そして、翔太が困ったような表情をすることを期待して二人してニヤニヤと彼を見つめる。

 翔太は彼女達の想像を裏切らないように困ったような表情を浮かべながら、後頭部をガシガシと掻いた後、真剣な表情で考え込むように真剣な目でアクセサリーを見始めた。そんなに真剣にならなくてもいいのに、とは思うが、本気で選んでくれているようで、それはそれで嬉しかった。

 やがて、少し時間をかけてようやく翔太は二つのアクセサリーを選んだ。それらの会計を済ませて翔太はアリサとすずかにそれぞれアクセサリーを手渡す。

 アリサに手渡されたのは太陽をあしらったアクセサリーで、すずかに渡されたのは月をあしらったアクセサリー。センスはそれなりで、やはり男の子だからなのだろうか、可愛いというよりもカッコイイに部類されるようなアクセサリーだった。だが、それでも翔太が真剣に選んでくれたものだ。異論があろうはずもなかった。

「へ~、いいんじゃない?」

「うん、いいと思うよ」

 アリサが気に入ったように、どうやらすずかも気に入ったようだ。アリサの意見に同調していた。

 手渡されたアクセサリーは早速、首からかけられる。首にかけたとき、金属が持つ冷たさだろうか、やや首筋がヒヤッとしたが、それもすぐに収まり、胸元へと視線を落とす事ができた。そこには先ほど翔太からプレゼントされた太陽をあしらったアクセサリーが、空からの太陽の光を反射してその光沢を輝かせていた。

 ―――初めて貰った翔太からのプレゼント……。

 大切にしよう、とアリサは思うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 なんでこんな面倒なことをするのだろうか? とアリサ・バニングスは、部屋の庭に設置されたお風呂に浸かりながら思う。

 温泉街の散策から帰ってきたアリサたちは、今度は大きな露天風呂ではなく、庭に設置されているいわゆる家族風呂の中に身を沈めていた。身体にタオルを巻いたままで。さらに髪の毛をお風呂につけるのはマナー違反なので髪の毛にまで巻いている。それは、アリサもすずかも同じだ。

 そう、現状、家族風呂に身を沈めているのは、アリサとすずかと翔太だ。昨日の約束どおり、こうして三人で一緒にお風呂に入っているわけだ。デビットと梓は、というと家族風呂というのは三人家族程度を想定しているらしく、子ども三人が入れば、大人は一人しか入れない。どちらが入っても角が立つなら、入らないことにしようという結論に至ったらしい。

 もっとも、アリサにしてみれば、目的は三人でお風呂に入ることだからなんら問題はなかったわけだが。

 彼女達がタオルを巻いているのは、翔太の必死の抵抗があったからだ。一緒に入ることは了承したからせめてタオルを巻いてくれ、と懇願されてしまった。

「温泉にタオルをつけるのはマナー違反じゃないっ!」

 そう憤ったのはアリサだ。少なくとも、アリサはそう教わっていた。しかし、彼曰く、何事も例外があるのだという。その例外の理由は? と聞くと、恥ずかしいからだ、という。アリサにはまったく意味が分からなかったが。どうして、恥ずかしいのだろうか? と思う。まあ、他人ならどうだろうか? と思う心はアリサにはあるが、相手は翔太だ。何も気兼ねすることはないと思うのだが。

 そう思ったが、結局、梓のとりなしでアリサたちが折れることとなってしまった。しかも、面倒なことに頭にまでタオルを巻いて。

 そんな少しの混乱があって、ようやく三人でお風呂に入ったのだが―――

「ちょっと、ショウっ! 背中向けてたら意味ないでしょうっ!」

 そう、翔太はなぜかずっとアリサとすずかに背中を向けるような形でお風呂に浸かっていた。一応、声をかければ応えは返ってくるのものの、これではまったく意味がない。昨日の垣根を越えた向こう側といるのと何が違うのだろうか。アリサの目的は一緒にお風呂に入ることだ。それは、何も同じ湯船に浸かることだけではない。例えば、大きな温泉には劣るものの、部屋から見える山々に沈む夕日というのは一見の価値があるだろうし、それを三人でお喋りしながら見るのは楽しいと思う。だが、こうして翔太は、自分達からも背を向け、風景からも背を向けている。まるで、何もかもを拒絶するように。

 ―――それが、アリサの癇に障った。

 翔太の態度が、行動が、何もかもが。

「ええいっ! こんな風にタオルなんて巻いてるからよっ!」

 たかだかタオル一枚。だが、それすらもアリサには自分達と翔太を隔てる壁のように思えて仕方なかった。だから、まずは自分の体に巻きつけられたタオルをスパンと外す。水を吸ったタオルは少し重かったが、勢いよく外したのが功を奏したのだろう。遠心力を得たタオルは鞭のようにお風呂の淵にパチンという音を立てて叩きつけられた。

「すずかっ! ショウのタオル外すから押さえてっ!」

「うん、分かったよっ!」

 え? という声を翔太が出すが、もう遅い。そのときには背後に回ったすずかが、翔太のわきの下から腕を通して拘束するような形になっていた。ばしゃばしゃとお湯をかき分けて、翔太に近づくと腰に巻かれたタオルの結び目に手を伸ばす。やめて~、と翔太が叫んでいるような気がしたが、それはハエを追い払うように無視して、あっさりと翔太のタオルはするりと解けてアリサの手の中にあった。そして、すぐさま淵ではなく、少し遠くにタオルを投げ捨てる。これで、取りに行くことはできないはずだ。

「まったく、何を恥ずかしがってるんだか」

 こうして、何一つ身に纏っていない今でも別になんてことはない。翔太だけは一生懸命、見ないように顔を背けていたが。

「ほら、見なさいよ」

 そんな翔太を無理矢理首を動かして、ある方向を向けさせる。それは山間部に今にも太陽が沈みそうな綺麗な風景だった。もう明日の昼には帰るのだからきっともう見れない刹那の風景。昨日見たときから思っていたのだ。これを三人で見たらきっといい思い出になると。

 少しだけその景色から視線を外して翔太に目を向けてみると先ほどまで叫んでいたことも忘れて、景色に見入っているように思える。

 それを見てアリサは少しだけため息のように息を吐きながら思う。

 ―――まあ、ちょっとばたばたしちゃったけど、これもいい思い出よね。

 思い出は、静かなものよりも若干、騒がしいほうがきっと思い出に残るだろう。刹那にしか見る事ができないはずの景色を完全に夕日が沈むまでの間、三人は無言でお風呂に浸かるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アリサ・バニングスの心臓はまるで壊れるのではないだろうか、と思うほどに高鳴っていた。原因は言わなくても分かる。先ほど見た光景だ。

 今の時刻は、月が南中しそうな時間。すでに全員が布団にもぐりこみ、寝入っているはずの時間。だが、それにも関わらず、隣の布団がごそごそと動き出し、がらっという音と共に次に外に出て行くような音がした。トイレだろうか、と思ったが、部屋にトイレはあるので外に出る理由が分からない。

 気になってアリサはすぐさま隣の布団の持ち主―――翔太の跡を追う。

 急いだのが幸いだったのだろうか。彼の姿は簡単に見つける事ができた。本当なら、声をかければいいのだろうが、こんな夜中に何所に行くのだろうか? という興味のほうが勝ってしまい、結局、探偵のように彼の後を追うことにした。

 黙々と時折、案内板に目を向けて彼が向かったのはこの旅館が有する中庭だった。アリサがパンフレットを見たときも旅館の中庭についても書いていたが、何か面白いものがあったのだろうか? と思い出しながら変わらず、彼の後を追うアリサ。

 しかし、中庭について思い出す前に中庭についてしまったアリサは、そこで思いがけないものを目にしてしまった。

 空に浮かぶ月を写した水面。ベンチの下に淡くともされた光。その光に照らされた男女。二人の顔の距離はゼロと言っていい。彼らの唇は重なっているのだから。しかも、彼らは二人の世界に入っているのだろうか。アリサに気づいた様子はなかった。

 思わず、足を止めてしまうアリサ。彼女が、彼らの行為を理解するのに数秒が必要だった。ちなみに、彼女が追ってきた翔太は、その光景を目にすると一瞬、足を止めたが、すぐに踵を返して別の場所に向かっているようだった。思考回路が停止していながらも、少しだけ動いていた思考回路で、さすがだ、と翔太を褒めながら、ようやく再起動を果たし、全力で動くようになった思考回路で彼らの行為を理解したアリサは、顔を真っ赤にしながら、その場から逃げ出した。おそらく、翔太が向かった方向に向けて。

 ドクンドクンとありえない速度で鼓動を刻む心臓を押さえながら、何所をどう歩いたか分からないが、とりあえず開けた場所に着いた。そこは、先ほどの中庭のような場所で、されども池はない。雑草と石畳があるだけだ。

 そこに設置されたベンチの一つにアリサの探し人が居た。

 ベンチの背もたれに体重を預け、顔は月を見ているのだろうか上を向いている。しかし、その表情はいつもの笑みを浮かべておらず、珍しくぼぅとしているような表情だった。珍しいものを見た、と思いながらも、今はこの心臓の鼓動の中一人でいることが怖くて、アリサは翔太に近づくと声をかけた。

「ショウ、なにしてるの?」

「―――アリサちゃん?」

 アリサがここにいるのは意外だったのだろう。アリサの声に反応した翔太は驚いた顔でアリサを見ていた。そんな翔太を無視して、アリサは翔太の隣に座る許可を貰い、隣にストンと座り、しばしの静寂の後に不意に切り出した。

「ねえ、ショウはチュウしたことある?」

 ぶっ! と翔太が噴出すのが分かった。確かに不意打ちにしては、やや威力のありすぎるようなものだったかもしれない。

 アリサも、そのことについては承知している。しかしながら、聞きたかったのだから仕方ない。

 先ほどの彼らが何をしていたか、その行為の意味は分かっていた。確か、キスというものだ。ただ、それを言うのは恥ずかしいので、チュウという言葉になってしまったが。

 好きという行為を表す行為。アリサだって、梓がデビットにしているのを見たこともあるし、アリサがデビットや梓にしたことだってある。だが、あれとは意味が違うだろう。アリサのはあくまでも親愛。だが、彼らのはアリサが知りたくて仕方ない『恋』という感情に起因するものだからだ。

 翔太に聞いたのはなんとなくだ。いつもなんでも知っているような翔太であれば、もしかしたら、と思ってしまうのだ。

 だが、翔太の答えは、NOだった。その翔太の答えにアリサは少し残念なような、少し嬉しいような複雑な感情だった。もしかしたら、そのときの体験を教えてもらえば、『好き』が分かるかも、と期待したところもあったし、翔太が自分よりも先に進んでいないとわかって安心したところもある。

 だからだろう、自分でも考えもしないうちに言葉が出てきたのは。

「ねえ、チュウってどんな感じなのかしら?」

 言ってから、何を言ってるんだろう!? と慌てたが、すぐに、いい考えじゃないか? と思ってしまった。

 好きという感情を表すキスという行為。ならば、もしかしたら、キスをすれば好きという感情が理解できるかもしれない、と思ったからだ。だが、アリサは、好きという感情とキスという行為が、不可逆ということに気づいていない。それが不可能だということに。

 だが、先ほどその行為を見てしまったのと、夜という雰囲気がアリサの肩を押したのか、先ほど見た行為と漫画や小説の中で見たことを思い出しながら、目を瞑り、顎を上げた。

 これでいいのかしら? と不安になる。目を瞑ってしまい、翔太の姿が見えないから尚のことだ。しかも、目を瞑ってしまったことで余計な事が頭に浮かんでしまう。

 ―――あれ? このままチュウしたら、鼻ってぶつからないのかな? 口が合わさったらどうやって息するんだろう? どんな感触がするのかな? やっぱり柔らかいのかな?

 色々なことを想像するアリサ。だが、次にアリサを襲った感覚は、期待したような柔らかい唇の感触ではなく、おでこに感じた痛みだった。

「いたっ!」

 思わず声を上げ、痛みが襲った部分を両手で押さえる。こんなことをするのは、この場には当然一人しかない。隣に座っていたはずの翔太だけだ。アリサは翔太を攻めるような視線を向けるが、翔太は悪びれた様子は一切なかった。それどころか、どこか苦笑するような時折みせる大人びた笑みを浮かべていた。

「ダメだよ。試すようなことでそんなに簡単にそんなことしちゃ。そういうのは、もう少し大きくなって、アリサちゃんが本当に好きになった男の子にやらないと。ファーストキスは女の子にとって大切なものなのだから」

 ベンチから、降りた翔太が、アリサの前に立って、諭すような柔らかいような声で言う。話の内容はよく分からなかったが。

 本当に好きも何も、その感情が分からないのだから仕方ない。しかし、そういえば、似たような事が漫画や小説にも書いてあったような気がする。その『ふぁーすときす』というのは聞き覚えがあったからだ。まあ、翔太が言うのだからそうなのだろう、と長年の付き合いの中で積みあがった信頼の元、翔太の言葉を信じることにするアリサ。

「さあ、帰ろう。風邪引いちゃうよ」

 一足先に下りた翔太が手を差し出してくる。翔太が自ら手を差し出してくるのは珍しい。いつもは照れて、滅多に手を繋ごうということはないのに。だから、そのもの珍しさに笑みが浮かび上がってきて、「そうね、帰りましょう」という言葉と共にアリサは翔太の手を取った。

 翔太に手を引かれながら部屋に戻る途中で考える。

 果たして、自分が『好き』という意味を理解する日が来るのだろうか。それが、アリサにとっては楽しみなような、不安なような、くすぐったような複雑な感情で。さりとて、それは遠く未来のことかもしれなくて。だから、どんなふうになるのかアリサには分からなかった。

 ただ、いま一つだけ確かなことは、繋がれた右手から感じる温もりは確かなものであるということだけだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかは、夜の一族としての能力を全開にしながら、自分に与えられた部屋へと戻っていた。まるで、今まで見てきた光景を振り払うように。

 すずかが目を覚ましたのは偶然ではない。彼女の血に宿る夜の一族としての特性だ。夜の一族というだけに夜の気配には敏感になる。特にアリサと翔太の二人が少しだけ時間を置いて両者とも外に出て行けば、気づかないはずがない。

 ―――お散歩かな?

 そう思って、少しだけ時間を置いてからすずかも部屋を出て、後を追いかけた。アリサと違って不幸だったのは、出るタイミングが少しずれたのか、すずかが翔太とアリサの二人を見失ってしまったことだ。しかしながら、日付も変わろうという時間。こんな時間に子どもが行ける場所は限られている。

 遊技場は当然アウト。温泉に道具を持っていくはずがない。ならば、場所は外しかなかった。

 外に出たすずかは、まるで空に浮かぶ月に誘われるようにまっすぐ中庭への道を歩いていた。夜の一族の血が活性化しているのだろうか、外に出たすずかは、普段なら聞こえない遠くの声も聞こえ、普通の人間なら見えない暗闇でさえ、猫のようにはっきりと見る事ができるようになっていた。

 最初は、池があるほうの中庭へと行こうとしたのだが、そちらには大人が多すぎる。一方で、もう一つの中庭には人の気配が殆どなかった。ならば、向かったのはそっちだろう、とすずかは当たりをつけて、また歩みを続ける。やや歩くとすぐに目的としていた中庭へと出る事ができた。

 ぐるりと周囲を見渡すと足元を照らすような少しの明かりと片手で数えられるほどのベンチしかない。簡素な中庭だった。そんな中、その数少ないベンチに座る男女。いや、背の低さから言えば、男の子と女の子というべきだろうか。普通なら見えないかもしれないが、夜の一族としての彼女の目は確かに夜でもはえる金髪と整った顔立ちを持つ横顔を視界に捕らえていた。

 彼らを見つけられた事が嬉しくて、すぐに駆け寄ろうとしたすずかだったが、なんだか二人の空気がおかしいことに遠目からでも分かった。どうしたんだろう? と思わず足を止めてしまったが、すぐに状況が動き出す。

 不意にアリサが目を瞑って上を向いたのだ。まるで、何かを望むように。その『何か』をすずかは知っていた。彼女が読む小説の中でも時折出てくる表現。

 ―――え? キス?

 そう、まるでアリサの仕草は翔太にキスをねだっているようにしか見えなかった。このとき、すずかはアリサの年齢のことなど既に忘れていた。驚きのあまり足を止めてしまったすずかだったが、すぐに再び動き出すことにある。ただし、それは踵を返し、もと来た道を戻ることになるのだが。

 その契機は、翔太がアリサのキスをねだるような仕草に応えるように顔を近づけ始めるのを見てしまったからだ。

 これから、先を予想して。これから先が見たくなくて。だから、すずかは目の前の光景から逃げ出すように。目の前の光景を否定するように。その場から動くために足を動かしたのだった。

 部屋に戻ったすずかは、すぐに布団にもぐりこむ。夜の一族としての身体能力のおかげだろうか、汗一つかかず、短い時間で戻ってくることができた。布団を頭の上まで被りながらすずかは先ほどの光景を否定する。

 ―――ショウくんとアリサちゃんが……キス?

 すずかは、少なくともキスという行為に対してはアリサよりも理解していた。もっとも、理解しているだけで、したいと思ったことはないが。確かにすずかは翔太と仲良くなりたいと思っているのは確かだ。だから、今回の旅行も楽しみだったし、今日の浴衣も翔太に合わせて黒を選んでみたし、月の形をしたアクセサリーをプレゼントされたときは、飛び上がりたいほどに嬉しかった。

 だから、すずかは今の光景を信じたくはなかった。夢だと思いたかった。だからこそ、こうして布団にもぐりこんでいる。

 ―――そう、夢だよ。うん、明日になったら普通に朝が来て、みんなで帰るんだ。

 眠気は襲ってこない。だが、それでも、今見た光景が夢だと信じたくて、すずかは、夢の世界へと逃げ出した。



 ◇  ◇  ◇



 明けて翌日。車に揺られて数時間で帰宅した月村すずかは、荷物をファリンに預けて、それからをよく覚えていない。姉の忍に旅行について聞かれたような気もするし、晩御飯を食べたような気がするし、お風呂に入ったような気がする。分かっているのは、今はすでに寝巻きに着替えており、後は寝るだけという状況だけだ。

 部屋にお風呂に入り、部屋に入ったすずかは、一直線にベットに向かい、倒れこむようにベットに寝転がった。すずかにしては珍しいことだ。

「……本当のことだったんだ」

 数時間ぶりに言葉を口にしたような気がする。

 本当のことというのは、昨夜のことだ。帰宅途中の車の中ですずかは、なけなしの勇気を振り絞って昨日のことを聞いた。できれば、ずっと寝ていたよ、と翔太が言ってくれることを期待して。しかしながら、答えはすずかの期待を裏切って、アリサと一緒にいたことを告げるものだった。キスのことを口にしていなかったが、キスという行為は口にすることはないだろう。目の前にアリサの両親もいることだし。

「……ショウくんとアリサちゃんって恋仲だったんだ」

 それを口にしたとき、すずかの中でズキンと痛みが走った。その正体は、すずかには掴みきれていない。だが、そのことを考えようとするとまるで、それを邪魔するように痛みが走るのだ。だが、認めないわけにはいかない。すずかは昨日の夜、彼らがキスしている光景を目にしてしまったのだから。

 すずかにとってキスという行為は、恋仲である男女がするものである。

 それをはっきりと認めた、認めてしまったとき、まず、浮かんできたのは、羨ましいという羨望と自分が望んでいる以上のものを既に得ているという憎々しさだ。それから、次々に浮かんでくる。

 どうしてアリサの位置にいるのが自分ではないのだろうか? いつの間にアリサとショウくんは恋仲になったんだろう? アリサちゃんは、私がショウくんと仲良くなりたいのを知ってたの? だから、いつもと違ってショウくんを私の隣に? 車の中でも? お布団のときも? もうアリサちゃんはショウくんと恋仲だから? 余裕なの?

 頭の中がぐちゃぐちゃする。心の中は、ジクジクとどす黒い何かが染み出し、ドロドロとそれはすずかの心の中を這いずり回り、気持ち悪い。何より、今の自分の感情が一切コントロールできず、分からない事が悔しく、苛立たしかった。

 ―――分からない、わからない、ワカラナイ。

 何もかもが分からなかった。翔太に対してどんな反応をすればいいのか、アリサに対してどんな態度を取ればいいのか、自分がどうしたのか、自分の中の感情は一体何なのか、分からなかった。

 いや、正確にはわかりたくなかったのかもしれない。アリサはすずかにとってもお友達だったから。ただ、それでも黒いくらい感情が浮かんでしまうのは、翔太とアリサでは優先度が違うからだ。アリサに対しては何も話していないが、翔太は自分に関するすべてを話し、受け入れてくれた。

 その違いだが、大きな違いだ。だからこそ、すずかは、アリサを気にせず翔太と仲良くなりたいと思ったのだから。

 そう、すずかは心の奥底では、既に選択しているのだ。どちらかを捨てなければならないならば、どちらを捨てるかなど。

 しかし、それに気づかない。気づかない振りをしている。自分が捨てられると思っているものに、自分が一番欲しい翔太の隣という場所を取られているという事実を認めたくなくて。自分の中にそんな黒い感情があることを否定したくて。

 もう、嫌だった。何も考えたくなかった。考えれば考えるほどに、心の中からジクジクと染み出してくるどす黒い何かは増えていき、ドロドロとした黒いものも這いずり回る。考えれば考えるほどに苦しくなり、頭が痛くなる。もう嫌だった。何もかもが。

 だからだろう、夜の一族としての自分が確かに心の隅で小さく囁くような声が聞こえてしまったのは。

 ―――もう、簡単に解決しちゃえば?

 何を馬鹿なことを。と思うが、これ以上聞きたくなかった。逃げ出してしまうのは最適な答えだったから。確かにすずかは選んでいる。だが、だからと言ってそう簡単に捨てられるわけがない。だが、それでも、この苦しさから逃げ出したくて、故にその甘言に乗ってしまうかもしれなくて、でも、それも嫌で。

 だから、別の場所にすずかは、逃げ出した。昨日と同じく夢の中へと。そこはきっと優しい場所だから。

 自分の感情が理解できなくて、コントロールできなかった事が悔しかったのだろうか、よほど苦しかったのだろうか。眠りに着いた彼女の瞳から一筋の雫がこぼれる。それは、重力に従い頬を伝い、顎を伝って、雫となって零れ落ち、すずかがお守りのように握っているアクセサリーの一部に零れ落ちた。

 その光景を彼女が握るアクセサリーと同じ形をした月だけが、はるか上空から見守るように見ていたのだった。


つづく













あとがき
 少女の弱さは何を得るためだろうか。



[15269] 第二十四話
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/10/30 23:50



 蔵元翔太の父親である蔵元宗太の朝は、おそらく大多数の父親の起床平均時間と比べると普通より若干遅い程度のものだろう。いつものように昔ながらのジリジリと鳴る目覚まし時計によって起こされ、ポンと目覚まし時計の頭を叩いて、主が目覚めるまで延々とベルを鳴らす働き者を停める。

 このまま横になっていれば、もう一度、夢の世界へと旅立つであろうことは容易に想像でき、一家を支えるものとして、それはできぬといつものように上体を起こし、キョロキョロと周囲を見渡した。残念ながら、この部屋で寝ているのは自分ひとりだけだ。おはようと挨拶しても返してくれる妻も子どももこの部屋にはいなかった。

 数年ほど前までは、宗太は、妻と子どもの翔太と、翔太が一人部屋を欲しがるようになってからは、妻と一緒に寝ていたのだが、一ヶ月ほど前から、宗太は自分ひとりで寝ることになっていた。

 その原因は、息子の翔太が拾ってきた(?)子ども―――宗太にとっては娘になるアリシアである。彼女が妻と翔太と寝ることを望んだため、宗太は一人で侘しく寝る羽目になってしまった。いや、正確にはアリシアが直接の原因であるとはいえない。直接の原因は、むしろ、アリシアと一緒に寝ることを望んだ彼女のペット―――これまた疑問系なのだが―――のアルフという女性だ。

 もしも、アルフがアリシアのような子どものような容姿をしていたならおそらく彼は、妻や息子と一緒の部屋で寝起きしていただろう。だが、彼女の容姿は、どうみても二十歳前後の女性にしか見えず、しかも、女性的な魅力に溢れているといってもいい。さらに、宗太を困惑させるのが、彼女の普段着―――タンクトップと短いジーパン―――だ。まるで、彼女の魅力を見せ付けるかのような服装。そして、何より見過ごせないのが、彼女の頭に生えている犬耳とお尻から生えている尻尾だろう。

 まあ、なんというか、彼がまだ学生だった頃、そういう類の十八歳未満お断りの漫画を集めたこともあるし、こっそりとヘアバンドを隠し持っているなんてこともある。

 つまるところ、アルフの豊かな胸やショートパンツから見せ付けるようなムチムチの太ももと彼の隠している趣味を刺激するような犬耳と尻尾という大学院を卒業し、就職してから結婚、子どもと順調な人生を歩み、三十台半ばという男性にとって、いつ理性が切れるか分からない状況において、野獣の前に餌をおくことはできない、という理由から宗太は一人寝ることを余儀なくされた。

「……起きるか」

 一人で寝ていることについて考えることの虚しさを悟って宗太は、布団から起き上がって、着替えるためにパジャマの第一ボタンに手をかけた。

 会社勤めとはいえ、しょせん男である。化粧も何も必要ない宗太は、顔を洗って、髪をセットして、ひげをそって、リビングへと顔を出した。リビングのテーブルには既にいいにおいをさせているトーストがちょうど焼き終わっているようで、妻と翔太がテーブルに座って朝食を先に食べていた。

「おはよう」

 宗太が、朝の挨拶をしながらリビングに入ると翔太と妻は、ほぼ同時におはようと挨拶を返してくれる。自分が起きる時間は小学生と同じか、と思うと思うところがあるが、彼が学校に出る時間と自分が仕事に出る時間が同じなのだから仕方ない。

 ふと、パジャマ姿のまま、トーストをかじりながら、おそらくは牛乳のほうが多く比率があるであろうカフェオレを飲む息子について考える。

 こうやって見てみると、どこにでもいる普通の息子だ。しかしながら、その中身は、近所の私立小学校で首席になるほどの頭脳を持っているというのだからにわかには信じがたい。

 いやいや、よくよく考えてみると、自分の息子は幼稚園の頃から、どこか普通とは異なっていた。いや、容姿や体格で言えば、平均、平凡という言葉がよく似合うのだが、こと人間関係については奇妙な事が多かった。頼りにされるガキ大将気取りというよりも、どこか兄的立場を装っているような気がした。自分がゴミを捨てるときに一緒になった近所の住人から、それなりに評判だったのだ。彼の息子の翔太は。主に子守の名人としてだが。

 もっとも、それだけなら、多少、人を率いる才能のようなものがあるのだろうか? と考えるだけでよかったのだが、自分の息子の異常さを感じざるを得なかったのは、聖祥大学付属小学校の試験を受けたときだろうか。宗太としては、どこでもよかったのだが、ご近所の勧めもあり、翔太に聖祥大付属小学校を受けさせることにしたのだが、まさか、入学試験で特待生になろうとは、夢にも思っていなかった。しかも、最高クラスだ。受験の翌々日に呼び出されたときはなんだろうか? とビクビク怯えながら妻と小学校にいったものだ。

 さらに言えば、三年間、誰にも主席を譲らないというのだから大したものだ。確かに塾には、翔太の希望で行かせているが、塾に行くだけで主席が取れるようであれば、誰もが一番になっているだろう。

 これらの異常性に対して、宗太が翔太に思うところは―――特になかった。

 彼が自分の息子であることには間違いないし、せいぜい鳶が鷹を生んだと考えるか、妻の遺伝子が相当に優秀だった、ということだろう、ということぐらいだろうか。ちなみに、彼自身は自分自身をあまり信用していないため、自分の遺伝子による影響とはまったく思っていない。

 それに宗太は、頭がいいだけで、どうにかなるほど社会は甘いものではないことをよく知っている。確かに翔太は何にでもなれる可能性を秘めているだろう。難関といわれる国家公務員第一種とて、医者とて、弁護士とて、翔太の頭脳がそのままで、彼が真面目に勉強すれば、なれないものは何もないだろう。

 だが、それだけだ。彼がノーベル賞を取れるか? と聞かれれば取れると自信を持って言うことはできない。なぜなら、天才は既存の概念を壊すことができるが、秀才は学び取ることしかできないからだ。今の翔太は、学校の問題やテストに関して答えられるというだけである。自分の息子が本当に天才か、どうか分かるとすれば、それは十年以上先の大学で自分の研究を始めたときや社会に出てからだろう。

 もしかしたら、翔太はその前に自分に向けられる重圧に潰れてしまうかもしれない。十年後、昔、僕は天才だったんだ、と過去の栄光に縋るかもしれない。そんなときに支えたり、現実を見ろ、と殴り飛ばすのが父親としての自分の役目だと宗太は思っている。

「ん? どうかした?」

 どうやらぼんやりとしすぎてしまったらしい。息子に怪訝な顔で見られてしまった。確かに朝のリビングで、朝食を食べる姿を父親からじっと見られるのは気分がいいものではないだろう。もしも、自分が父親から見られたら、有無を言わず殴り飛ばしてしまいそうなぐらいだ。

「いや、なんでもないさ」

 誤魔化すようにそういうと、自分の指定席になっているリビングのテーブルの位置に座る。少し考え事をしていた時間はトーストが焼きあがるのに十分な時間だったのだろうか、座ると同時に横から皿の上に差し出されたのは、焼きあがったばかりのトーストだ。

「ありがとう」

「いえいえ、毎朝のことだから」

 自分も食べている途中だろうに、と思いながら中座して自分のトーストを焼いてくれた妻に感謝しながら宗太は手を合わせて、いただきます、といった後に焼きたてのトーストに手を伸ばした。妻と子ども三人を養う大黒柱として、今日も一日しっかりと働くために。



  ◇  ◇  ◇



 蔵元翔太の母親である蔵元翔子が朝、目覚めて最初に目にするのは、二人の息子と最近できた新しい二人の娘の寝顔だ。一番下の息子である秋人はまだ柵がついているベッドですやすやと寝ている。次女であるアリシアは長男の翔太がよほど好きなのだろうか。抱き枕のように彼に抱きついている。五月のゴールデンウィークが終わったばかりのまだ春を匂わせる季節とはいえ、さすがに体温の高い子どもに抱きつかれるのは、暑いのか、少しだけ翔太は寝苦しそうな表情をしていた。そして、一番最後に長女(?)とも言うべきアルフは、まるで自分は関係ない、といわんばかりに少し離れた場所で手足を投げ出して寝入っていた。

 ここ数日、毎朝の日常となっている光景に少しばかり苦笑すると、彼らの朝食を作るために翔子は、ゆっくりと起き上がった。

 朝は戦争だ、といったのは誰だっただろうか。朝食を作り―――とは言ってもトーストだが―――自身も朝食を食べる。言葉にすれば簡単なのにやるのは非常に忙しい。起きる時間が大体固まっているとはいえ、若干のずれがある。そのずれの間に一度に二枚までしか焼けないトースターと焼き加減を考えながらトーストを焼くのだから、朝は翔子にとっても大変なのだ。

 しかも、話によると小学生の子どもを持つ一般的な家庭では、これに加えて子どもの準備も加わり、体が二つあっても足りないというほどに多忙になるのだから翔子からしてみれば、信じられないことこの上ない。もっとも、蔵元家の長男である翔太は、まったくと言っていいほどに翔子の手を煩わせることはなかったが。

 この話をすると翔子は近所の同じ年頃の子どもを持つ奥様方からは羨ましがられるものだが、翔子としては、もう少し手がかかるほうがよかったかもしれないと思う。

 傍から見れば、翔子の息子である翔太は、できすぎだ。

 近所では有名な私立の小学校である聖祥大付属小学校に通いながら、成績は一位を維持し、さらには人をまとめる能力さえあり、我侭を言って自分達を困らせることもない、手伝いも率先してやってくれる。まさしく完璧に近いいい子だといっても過言ではないだろう。

 しかしながら、翔子からしてみれば、翔太は、もちろんいい子に育ってくれたのは嬉しいが、少し手がかからなすぎて物足りないというのが本音だった。近所の井戸端会議でも、自分の息子や娘に対して、不平や不満を言う人がいるが、それが少しだけ翔子には羨ましかった。もっとも、それは隣の芝生は青いというヤツかもしれないが。

「母さ~ん」

 庭で少し考え事をしていた翔子は、新しくできた娘が自分を呼ぶ声で正気に戻った。声の方向を見てみると、アリシアの身長の半分ほどはあるほぼ一杯になった洗濯籠を抱えたアリシアがこちらに向かって歩いてきていた。その足取りは、洗濯籠が重いのか少しふらついており、アリシアの背後を心配そうにアルフが見守っている。

 本当にアルフの耳と尻尾がなければ、年の離れた姉妹と言ってもいいぐらいの構図だった。

 正確には、魔法使いと使い魔だっただろうか。彼女達はそんな関係だ。もっとも、やはりココに来てからの様子を鑑みるにやはり主従というよりも姉妹と言ったほうが適切なような気がする、と翔子は考えていた。

 殆ど我侭という我侭を聞いたことがない翔太からの初めての我侭は彼女達を蔵元家で引き取ることだった。アリシアとは最初に出会ったときからなぜか母親と勘違いされ、その関係から保護はしていたが、まさか引き取るとは思っていなかった。

 もちろん、アリシアから本当の娘のように母さん、母さんと呼ばれるのは嬉しかった―――息子が二人もいると娘も欲しくなる―――し、彼女の境遇を考えれば、同情する余地がないわけではない。しかしながら、それでも、と躊躇しなかったか? といわれれば、嘘になる。

 子ども一人とはいえ、育てるのは大変なのだ。それなりの責任も生まれてくる。養い、育てることがどれだけ大変なことか、翔子は、分かっているつもりだった。むろん、翔太の性格や態度から考えれば、まだ分かっていない事のほうが大変だし、育て上げた経験もないが、大人であり、それなりのことを経験している以上、安請け合いはできない。

 しかしながら、夫である宗太と一晩話し合った結果、アリシアが見せる笑顔や、楽しそうな声を聞いて、家族として過ごした以上、彼女を手放すことはできないという結論に落ち着き、育てていこう、ということで解決した。

 現在は、彼女を記憶喪失の女の子として戸籍を作る手続きを行っている最中であり、彼女の戸籍が出来次第、養子縁組を組むことになるだろう。ちなみに、アルフは、人としての手続きを取っておらず、大型犬として登録されている。

「母さん、もって来たよっ!」

 アリシアが翔子に声をかけて一分ぐらい経っただろうか、ようやくアリシアは翔子の足元に洗濯籠の山を持ってくることができていた。アリシアは、自分の成果を主張すると共に少しだけ期待したような笑みを浮かべていた。

「うん、頑張ったわね」

 翔子はその期待にこたえるように屈んで、アリシアと視線を合わせるとガシガシと少しだけ乱暴に頭をなで、自分の胸元に抱き寄せる。彼女の体温は子どもだからだろうか、胸元から感じる体温は、大人よりも温かかった。アリシアは翔子から抱きしめられたのが嬉しかったのか、あるいは褒められたのが嬉しかったのか、へへへ、と笑っていた。

 数秒ほど抱きしめた後、これでおしまい、と言って、立ち上がる。まだまだ、仕事はあるのだから。

「ねえ、アリシアちゃん。晩御飯は何がいい?」

「え? う~ん、と」

 洗濯籠から洗濯物を渡す手を止めずにアリシアは、色々な料理を思い浮かべているのか考え始めた。これが、この子の可愛いところだ。翔太ならきっと、なんでもいいよ、で終わらせているはずだから。

「う~ん……ハンバーグかなぁ?」

 実に定番だった。だが、それがいい。ちょうど、昨日はメインが魚だったことを思い出し、しばらく肉系統を出していないこともあってか、今日はアリシアのリクエストどおりにしよう、と思った。

「そうね、じゃあ、今日はハンバーグにしましょうか」

「やた~!」

 バンザーイと両手を挙げて喜ぶアリシア。一つ一つの動作が、子どもらしくて実に可愛らしい、と翔子は思った。やはり、彼女を引き取って正解だった、と。もちろん、子どもが一人から急に四人に増えるのだから大変だが、彼女にはその苦労をいとわないほどの価値がある、と心の底からそう思った。

「え? 今日は肉なのかい?」

 縁側においた秋人を膝の上に乗せてあやしながら、アリシアとの会話を聞いていたアルフが、ピクンと耳を動かして肉という単語に反応したのか、声を上げた。さすが、本性がオオカミなだけはあると思う。

 まあ、何はともあれ、今日はハンバーグなのだ。確か、翔太も嫌いではなかったはずだ。基本的に好き嫌いがない翔太だが、よくよく見れば、好みだってきちんと把握できる。

 さてさて、我が家の食欲旺盛な子ども達のためにも、今日も料理を頑張りましょうか、と晴れた空の下、翔子は思うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 雨宮桃香にとって、蔵元翔太とは、ヒーローだった。

 彼女と彼の出会いは、彼が懇意にしている仲間の中で一番古株と言っていいだろう。なぜなら、桃香は翔太の近所に住む子供の一人で保育園時代からの仲間なのだから。あの頃の仲間は半分ぐらいが聖祥大付属小学校に来ていたが、翔太が所属する第一学級に残っているのは、一握りの四人になってしまった。

 桃香が、翔太にテレビに出てくるようなヒーローのような感情を抱いたのは、彼女が保育園時代の頃だ。あれは、とある休日のことだった。桃香と彼女の友人である瀧澤夏希と一緒に公園の砂場で遊んでいるときだ。一生懸命積み上げた砂の山の下にトンネルを通そうとしていた彼女達は、夢中になっていたためか、彼女達にこっそりと近づいてくる影に気づくことはなかった。

 だから、彼女達がその影に気づいたときは既に逃げることが不可能な状態だった。

 ハッハッハッと舌をたらしながら、尻尾を引きちぎりかねないほどに振る中型の犬がいつの間にか、桃香たちの近くにいた。さて、保育園の五歳児にとって中型の犬というのは、意外と大きく感じる。身長との相対的なもので見れば、大人が大型犬に相対するようなものだろうか。

 そんなものが近くに来れば、今まで一生懸命に作っていた砂の山が壊れることになろうとも一直線に逃げ出すのは無理もない話だ。現に振り向いてその犬がいることに気づいた桃香と夏希は逃げ出した。砂の山も何もかもを蹴飛ばして。それほど怖かったのだ。

 しかし、偶然、近くにいた犬というのは人懐っこい犬だったのだろうか。桃香たちは気づかなかったかもしれないが、首輪をしていることからも簡単に推測できた。人懐っこい犬の前で、いくら怖かろうが逃げるのは逆効果である。悪気がない犬は、遊んでもらえるものと思ってしまい、喜んで逃げ出す彼女達を追い掛け回す。

 しかし、それは犬側の都合であり、子どもの桃香たちからしてみれば、どうして追ってくるのっ!? という悲鳴を上げたいに違いない。現に、彼女達は涙で頬を濡らしながら必死に公園の中を逃げていた。

 逃げる桃香たち、追いかける犬。

 この構図が壊れるためには、犬が疲れるか、あるいは、桃香たちが疲れて逃げられなくなるか、あるいは―――

「こっちっ!」

 第三者の介入である。

 逃げ惑う桃香と夏希からしてみれば、それは地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようなもので、藁にも縋る思いで、彼女達は介入してきた第三者に手を伸ばした。もっとも、それは今まで公園をグルグル逃げ回っていたのを進路を変えて、第三者の背中に隠れただけだが。

 背中に隠れた桃香と夏希を庇うように前に立ったのは、救いの手を伸ばした第三者。その背中を見ながら、桃香は、物語の中でしか見られないヒーローを思い出していた。

 そんなヒーローこと蔵元翔太との出会いから五年余り。公園で、犬から救われてから、何かあるたびに彼女は彼女のヒーローである翔太に頼る事が多くなっていた。それを友人の夏希はいい顔をしなかったが。近所に住んでいて、気が弱く、すこしとろいところがある桃香を守ってきた自覚が彼女にあったからなのだが、鈍感な桃香はそれに気づくことはなかった。

 そんな彼女達も小学三年生になっていた。

「しかし、桃も料理上手になったよね」

「そう……かな?」

 桃と呼ぶ親友の夏希に応えながら、桃香は首をかしげる。確かに最初に比べれば、上手になっているだろう。最初に作ったときは、形も上手に作る事ができず、砂糖の量も多すぎる、焼き加減は無茶苦茶で、お世辞にも上手とはいえなかった。それを翔太に食べさせ、あまつさえ、褒めてくれるものだと思っていたのだから度し難い。もっとも、彼はわからないように婉曲的に言ってくれたが。

 しかしながら、残念ながら、もう一人の幼馴染は、遠慮することなく「まずい」と口にしたため、桃香の心を抉り、思わず半泣きになってしまい、夏希に懲罰的な意味で鉄拳を喰らっていた。あの時は、申し訳ないことをしてしまったと思っている。

「まったく、ショウもバニングスや月村さんなんかじゃなくて、あたしたちと一緒に食べれば、桃のおいしいお弁当がもらえるのに」

 納得いかない、というような表情で、夏希が言う。おそらく、夏希はもう数少ない同じクラスの保育園時代からの友人として一緒に食べに来ないのが不満で仕方ないのだろう。しかも、今、一緒に食べているのが夏希とあまり仲のよくないアリサ・バニングスなのだから仕方ない。

 気性で言えば、夏希もアリサも烈火と言っていいだろう。火と火がぶつかれば、炎になる。つまり、激しくなるのだ。よって、夏希とアリサの仲はよろしくない。その切っ掛けは、翔太が持っていたのだから因果なものだ。

 あれは小学校一年生の頃、アリサと仲良くして欲しいと頼まれた夏希が翔太の言うことだから、と仕方なく話しかけたところ、アリサに袖にされたときからその因果は始まっているのだから。もっとも、桃香が考えるにそれだけではなく、翔太が、クラスメイトの誰よりもアリサを気にしたところが、気に食わないんじゃないだろうか、と思う。

 ―――バニングスさん綺麗だもんね。

 別にその感情に含んだところはないだろう。女友達としても、自分よりも綺麗な、可愛い女の子を気にされては立つ瀬がない、やるせないという感情だ。しかし、桃香が思うに夏希はアリサと並び立っても良いんじゃないか、と思う。顔立ちは整っているし、ストレートの長い黒髪はポニーテイルにされており、活発な性格の彼女には似合っている。

 それに対して、自分は普通だ。可愛いとはよく言われるが、それは桃香が平均身長よりも低く、小柄であるためだろう。これで髪でも長ければ、話は別だろうが、若干垂れ目ぎみな目とショートカットの髪型がそう感じさせるのだろう。身長が欲しいな、というな彼女の切実な願いだった。

「ショウくんだったら、近いうちに私達と一緒に食べるよ」

 不満そうに言う夏希をなだめるように桃香が言う。今日は確かにアリサたちと一緒に食べているが、彼は一つのグループで一緒に食べることは、ないといっていい。渡り鳥のように日によって食べる相手を変えるのだから。もっとも、一年生の頃は、隔てなく誰かと食べていたような気がするが、三年生になって、少しだけ変わったのか、特定のグループとは一緒に食べないことも多くなってきていた。彼女からしてみれば、幼馴染と一緒に昼食が食べれる機会が増えていいことだが。最近は、もう一人の男の子の幼馴染も一緒に食べる事がなくなっているし。

 ―――あ、今日の卵焼きは会心のできだ。

 そうね、と納得したように頷いた夏希を余所に桃香は、今日の卵焼きのできに満足しながら、夏希と同じように頷くのだった。



  ◇  ◇  ◇



 玖珂隼人は、机の上に置かれた将棋版を見ながら唸っていた。少し顔を上げると、隼人と同じぐらいの年齢である少年が、うっすらと笑みを浮かべてこちらを見ていた。それだけで、彼―――蔵元翔太が、こちらの手を読んでいることを知らせるには十分だった。

「俺の負けだ」

「ありがとうございました」

 負けを認めてペコリと頭を下げると、相手の翔太もペコリと頭を下げた。

 じゃらじゃら、と磁石でくっつくタイプの将棋版をもう一勝負とばかりに並べながら、隼人は、一年生の頃から友人とも言える立場であり、最近急激に将棋が強くなってきた蔵元翔太について考えた。

 友人と呼んでいいのか分からないが、目の前の同級生は隼人にとって不思議な人だった。頭がいいのは分かっている。しかし、それを鼻にかけることはなく、むしろ、お前、天才だな、といわれると微妙な顔をする。もしかしたら、そういう風に言われるのがあまり好きではないのかもしれない。

 さらに、翔太は、クラス内の厄介ごとに顔を突っ込む事が多い。何か問題があれば、西に東に。隼人であれば、しょせん他人事だし、面倒だから放っておくのだが、翔太はいちいち、首を突っ込み、何とか円満に解決しようとする。殆どの場合は、翔太が仲介することで問題が解決している。そんな光景を担任も見ているのか、翔太への信頼が高い。

 そんな風に面倒を見て、担任にも信頼が高いせいか、クラス内の翔太の評価は高い。ただし、そんな風に仲介することや、担任に気に入られることに反感を持つものもおり、前者を親翔太派とすると反翔太派も見られる。

 男子においては、親翔太派と反翔太派の割合は、七対三ぐらいだ。ゴールデンウィーク前は、サッカーなどが好きな外で遊ぶ組のなかで、翔太があまりサッカーにでなくなったのをいいことに反翔太派が、扇動することで、割合を六対四ぐらいにしていたが、それも三日天下に近い。結局は元の鞘に戻るように割合も戻っていた。

 ちなみに、反翔太派になる理由としては、真面目な態度が気に食わない、というヤツと翔太が比較的まだ女子と仲が言いことを揶揄して、それが気に入らない連中とが大半だ。

 隼人自身は、親翔太派よりではあるが、何かあれば、味方をしてもいいか、ぐらいである。もっとも、隼人の幼馴染の三人は、親翔太派と呼んでもいい。

 駒を並べながら、少し視線を避けてみると机の上でカードゲームを広げている隼人の幼馴染たち。本来なら、カードゲームなどの遊び道具は、もって来てはいけないはずで、見つかれば没収となるのが学校の規則だったが、一度、見つかったときに翔太が庇い、さらに、カードゲームの利点―――戦略などを考えて、柔軟な発想が……などと言っていたような―――などを訴え、さらには将棋やオセロが許可されていることと絡めて、いくつかのルールを整備することで認めさせたことがある。

 それ以来、彼らは翔太に全幅の信頼を置いているといっても良いだろう。

 一方、女子のほうは、というと隼人にはよく分からない。傍から見ただけではよく分からないからだ。翔太が昼休みに女子のグループを渡り歩くと彼を邪険にするところはない。しかしながら、それでも、翔太に陰口を叩いている女子もいるものだから、おそろしいものだ。昼休みには、笑顔で一緒にお弁当を食べていたというのに。放課後、偶然忘れ物を取りに返ってきたとき、残っていた女子が話していたのを聞いて、もしかして、自分と話しているときも内心は、と思うと女子が怖くなった隼人だった。

「それじゃ、もう一局、打とうか」

 すっかり将棋版の上に並び終えた駒の中で、先ほどの勝ちに気をよくしているのか、笑いながらパチンと『歩』を動かす。それに隼人は無言で相対する。翔太の『歩』に対して『飛車』を動かす。次は、翔太がパチン、隼人がパチンと時間を置くことなく次々と駒を動かしていく。序盤は早いものだ。お互いに手が分かっているから。

 だから、注意深く思いながらも、隼人は、不意に考える。

 将棋において、確かに隼人を相手にできる同級生は翔太しかいなかった。しかしながら、それでも勉強してきた隼人にそう簡単に適うはずもなく、翔太との戦歴は、大体十局打ったのなら、七勝三敗ぐらいで推移していたはずだ。それが、四月の中旬ぐらいから、段々と翔太の勝率が上がり、今では、翔太のほうが勝ち越すということのほうが多くなってきているように思える。

 ゴールデンウィークの間に勉強でもしたのだろうか? しかしながら、翔太は隼人ほど将棋に興味があるというわけではなさそうだし、自分に勝つためだけに将棋の勉強をするとは到底思えなかった。だが、それでも戦歴には確かに翔太が強くなった証拠が残っている。どんな勉強をしたのか分からないが、とにかく強くなっているのだ。

 ―――次こそは勝つ。

 それは、勉学で後塵を拝している隼人が持っている最後のプライドとでも言うべきものだった。



  ◇  ◇  ◇



 お先に失礼します、と言葉を残して三年生第一学級の担任である橘京子は、自らの職場である職員室を後にした。島とも言うべき同じ学年の担任が殆ど残っている中をだ。京子は、担任を持っている先生達よりも早く帰っているため睨まれていることは知っているが、仕事が終わってしまったのだから仕方ないだろう。何もしないのに残業代をつけるのも申し訳ないし。

 そんなことを考えながら、京子は仕事場である聖祥学園の職員出口から出て、グランド沿いに設置された駐車場へと歩いていた。授業中であれば、どこかの学年が使っているであろうグラウンドも最終下校時間を過ぎた今は、誰もいない。規則で言えば当たり前の光景だが、少し前は、まだ遊んでいる児童がちらほらと見かけられたものだ。そのたびに、自分か警備員の人が注意して回っていたものだが。だが、今日は誰もいない。

 原因は、分かっている。おそらく、彼が帰ってきたからだろう。

 そんなことを考えながら、京子は自分の車に乗り込み、キーを回す。アクセルを踏むと中古で買った軽―――しかも、後部座席が狭い貨物車がゆっくりと走り出す。

 聖祥大付属小学校を出て、車の流れに乗りながら、京子は彼について考えた。

 蔵元翔太。京子が担任をしているクラスの学級委員長をしており、三年生の中でトップの成績を誇るいわゆる天才に属する人間だ。

 他の担任たちは、翔太を見ると天才だともてはやすが、担任として他の先生よりも身近に接してきた京子から言わせて貰えば、翔太は、どこか異質だった。

 彼と出会ったのは、教師として赴任して三年目の春。それまでの態度が認められたのか、第一学級の担任に選ばれたときだ。

 小学校一年生。昨日までは、自由に幼稚園や保育園で遊んでいた子どもが一つの小さな教室に押し込められ、机を並べて、勉強するという突然の環境の変化に襲われる学年だ。普通の一年生なら、これからのことにワクワクしていたり、突然の環境の変化に不安げになっていたりする。そんな中、一人、落ち着いた様子を見せていたのが、蔵元翔太だった。

 彼の異質さは、京子がクラス内を観察するたびに強くなっていった。

 さて、小学校一年生の先ほども述べたように子どもだ。しかも、学校という立場に慣れていない。まず最初に覚えさせるのは机に長時間座って大人しくすることだ、というほどに。そして、もう一つ大切なことは、子どもに舐められないこと、そして、信頼させることだ。

 子どもというのは、半ば本能で生きているようなもので、まだ成長途中だ。だから、大人の言うことを誰でも聞くとは限らない。むしろ、舐められて、格下に思われればクラスが立ち行かなくなる。彼らに舐められないための一番簡単な方法は、腕力的に勝っていることを教えることだが、これをやると放課後に彼らの両親から呼び出されたり、減給、最悪は懲戒になるため、決してできない。

 つまり、雰囲気と態度でなんとかするしかないのだ。京子の女子高、女子大時代の姉御と呼ばれて送った青春時代が幸いしたのか、彼女がクラスの子どもから舐められることはなかった。

 次は、彼らの信頼を得ることだ。この方法は、ある種簡単だ。休み時間や昼休みに彼らの傍にいるだけでいい。一緒に食事するのもいい。だが、それを全員にするのは無理だ。だからこそ、狙い撃ちにしなければならない。そう、子どもとはいえ、彼らとて人間だ。つまり、グループができている。近所だったり、同じ保育園、幼稚園だったり。

 そして、グループである限りリーダーが必ず存在する。彼らを狙い打ちにすればいいのだ。

 だから、京子は、彼らを観察することにした。誰が、どんなグループがあって、誰がリーダーかを見極めるために。それを見極めるには一週間ぐらいか、と考えていた京子だったが、予想外の事態に驚くことになる。

 京子が確認したのは、大小さまざまなものだったのだが、それが整理されていくのだ。例えば、聖祥大付属小学校は公立ではないため、当然他の校区からやってきて、一人になっている例もある。何人か確認していた京子だったが、それがなくなっていくのだ。どこかのグループに属するようになっていた。

 自然と? だが、それにしては二、三日でそういう風になるものだろうか? 若干謎だった。もしも、班作りなどやって、何かしら作業をやらせれば話は別かもしれないが、まだそんな段階ではない。ゆっくりと慣れていく段階なのだ。グループに属するほどのつながりは考えにくかった。

 その原因を探っている最中で、名前が挙がってきたのが、特待生として入学した天才と称される蔵元翔太だ。

 彼の手引きでグループに属するようになっている子が多かった。しかも、適当に突っ込んだわけではなく、趣味や性格を考慮されていた。確かに、子どものほうが警戒心は薄く、一緒にいる時間が長いかもしれないが、小学校一年生の男の子にそれが可能だろうか。いくら、天才といわれる子でもだ。

 興味を持った京子は、蔵元翔太と話してみたが、そこでも彼の異質さは拭いきれないものになっていた。彼と話しているとまるで、同年代の後輩と話している気分になる。敬語を使っているとしても、頭の回転や気の利きかたは、小学一年生の子どもとはとてもいえなかった。

 結局、どうしてだろう? と原因を探っているうちにクラスの殆どのグループは翔太によって掌握されたに近かった。特にグループに斡旋して、仲間に入れたというのが利いたようで、それから京子が考えたように各グループのリーダーと交流を持ったことが決定的だった。

 前者は、グループを斡旋したことによる恩があり、後者は頭を抑え、グループ全体に翔太への影響力を持たせることができる。大人であれば、ここに利害関係やら関係してくるが、翔太に関して言えば、勉強に関して右に出るものはいないのだ。その点でも利害は一致するだろう。

 さて、クラスのグループを殆ど掌握したに等しい翔太を学級委員長にしない手はない、とばかりに翔太を学級委員に任命したのはいいのだが、彼は使い勝手がよすぎた。

 宿題の回収を頼めば、名簿つきで誰が提出していて、提出していないのか分かるし、提出していない人に関してもいつまでに出すという期限が書いてある。彼は気遣いができる人間だった。他の担任たちは、宿題の提出に関しても四苦八苦しているというのに。

 しかしながら、そうなるとやはり違和感は強くなる。頭がいい奴がいてラッキーで終わるほど能天気な頭を京子はしていない。だが、疑問を感じようとも蔵元翔太は、明らかに小学生で、そこに疑問の余地はない。だからこそ、ここまでできる翔太に違和感を感じるのだが。

 それに気になるのは彼の性格だ。子どもといえば、どこか自分の我が出る部分が必ずあるはずなのだ。だが、彼にはそれがない。ルールの上に自分を置いているというべきだろうか。やるべきことを淡々とやっているという感じだ。だからこそ、サッカー少年との諍いに繋がるのだ。あれは、あれで翔太にとってはいい経験だろう、と京子は思っているが。

 それに、三年生になって、彼らも心が成長してきたのか反骨精神も生まれてきたようで、翔太が掌握していたグループのいくつかに反翔太派も生まれているようだ。それに拍車をかけたのは四月の一ヶ月間、彼が隣のクラスの高町なのはと一緒に行動したためだろう。

 グループのいくつかは隣のクラスと仲良くする翔太が気に食わないという連中もいるようだし。やはりクラスという枠組みの中で隣のクラスと仲良くすることは、裏切りに感じるのだろうか。これが、普通の奴ならまだ納得がいったのだろうが、やはり翔太ということで、リーダーが靡いた、というのは納得がいかないらしい。

 この歪みはまだ微々たるものだ。男子のほうもサッカー少年との諍い以来、段々と修復されているし、ゴールデンウィークが終わって以来、また彼も関係の修復しているようだから。

 ―――あいつはこれをどう捌くのかな?

 あの小学生しからぬ態度を取る少年がどうやって、この状況を切り抜けるのか、京子からしてみれば、楽しみでしかなかった。上手くやって、雨降って地固まるもよし、修復不可能になって、対立するもよし。何事も経験である。平穏な日常は楽だろうが、成長しない。大きく成長するのは困難を乗り越えたときなのだ。

 今でも小学生とは思えない態度を取る少年が、どういう風に成長するのだろうか? と考えると自然とこみ上げてくる笑みをとめられず、京子は車を運転しながら、クククッと小さく笑うのだった。


つづく












あとがき3
誤字が多くてすいません。修正しました。ver3

あとがき
 ある者たちのモノローグ



[15269] 第二十四話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/11/13 18:57



 エイミィ・リミエッタはアースラの管制塔にある自分の席で、カタカタと指自身に意思のあるような手つきでコンソールを叩いていた。

 現在、エイミィが乗船している次元航行艦アースラは、第九十七管理外世界―――通称、地球から離れられずにいた。確かに、アースラの目的であるジュエルシードの回収は完了した。ジュエルシードを悪用しようとしたプレシア・テスタロッサも逮捕する事ができた。アースラの任務自体は完了しているといってもいいだろう。

 それが、なぜ、アースラが地球の付近に停泊する必要があるのか。それは、プレシアが時の庭園で起こした小規模の次元震が関係していた。次元航行艦とは、文字通り次元航路を渡るための船だ。元来、次元航路というのは、非常に不安定なもので、次元航行艦そのものには、非常に高度な技術が使われている。しかしながら、その技術を持ってしても、次元震が起きた後の次元航路を航海するなんて自殺行為を行うことはできない。

 安全を考えるならば、次元航路が安定するまで待ったほうが無難だ。それに、次元航路は渡れなくても次元通信そのものは行う事ができるため―――回線速度は遅いが―――仕事には殆ど支障がなく、時空管理局にも連絡がいっている。その結果、小規模ではあるが、次元震がおきたことを鑑みて、経過報告と安全を考慮して、一ヶ月の停泊が命じられたのだ。

 もちろん、地球の外部に存在してるとはいえ、魔法によって地球側からは確認できないようになっている。見つかれば大変なことになるのは目に見えているからだ。

 そんなわけで、今のエイミィは降って湧いたような休みを謳歌―――できるはずもなかった。事件が解決して、そのまま一ヶ月の停泊が命じられたのだ。やることはないように思えるが、実際は、解決した事件の報告書やら、調書の確認、および証拠の管理と一ヶ月分の仕事は残っている。

 いつもなら、この忙しさは、事件の中で散って逝った戦友たちの悲しみを忘れるためのものだが、今回は、負傷者のみで死者がゼロというA級ロストロギア事件としては史上初といっていいほどの快挙のため、今は、この航海が終わった後のリフレッシュ休暇を目前にした最後の山というところだった。

 ―――まあ、それもこれも、あの子たちの協力のおかげかな?

 ちょうど事件の資料が今回の事件に関わった民間協力者のところに差し掛かったためか、エイミィの脳裏に二人の少年少女が映る。今回の事件の最功労者といってもいい二人のことを。

「何をしているんだ?」

「あ、クロノくん」

 不意に背後に現れた影を不審に思うこともなく、その声に聞き覚えのあったエイミィは、その正体を悟ると振り向きもせずに次々に文字が現れる画面に視線を合わせたままクロノの問いに答える。

「今は、事件の資料を作っているところだよ。ほら、あの子たちの」

 エイミィがそう言うと、軽くコンソールを叩いた後にクロノたちの目の前にあるモニターに今回の事件に協力した少年のプロフィールが映し出される。

 ―――蔵元翔太

 ―――魔力ランク:A

 ―――習得魔法:プロテクション、チェーンバインド

 ―――この事件のきっかけとなったユーノ・スクライアと最初に出会った現地住民。ユーノ・スクライアが所持していたインテリジェンスデバイスこそ起動はできなかったものの、ユーノ・スクライアによって魔法の基礎を習い、魔法を習得。さらに空戦適性もあり。後述される高町なのはと協力してジュエルシード収集に協力。我々と接触後は、武装隊の隊長デバイスを用いて、後衛隊員として活躍。後日、ミッドチルダにて初心者魔法講習を受講予定。

「管理外世界の子にしては、珍しいよね」

 翔太のプロフィールを見ながらエイミィが言う。

 管理外世界というのは魔法技術がない世界を指す。魔法技術がない世界というのは、基本的に魔力がない人間が大多数を占める世界であり、その中で魔力を持つものは稀有であり、また、魔力を有していたとしても滅多なこと―――たとえば、偶然、時空管理局に接触する―――などでなければ、自覚することない。

 しかし、エイミィのその言に対して、クロノは軽く首を横に振った。

「いや、第九十七管理外世界に関して言えば、そうでもないのかもしれない」

「どういうこと?」

「グレアム提督は、この世界の出身だし、ミッドチルダの中でも特別に第九十七管理外世界特有の名前を持っているものもちらほら見かけるからね。もしかしたら、第九十七管理外世界というのは、管理外世界の中でも特別なのかもしれない」

 さらにクロノが語るには、要するに分岐点なのだと。もしかしたら、第九十七管理外世界というのは、魔法文明をもってもおかしくない世界であるが、歴史の分岐点で彼らは魔法を選ばず、今の機械による文明を選んだのかもしれない、と。

 だが、クロノの説明にエイミィはあまり興味がなかったのだろう。ふ~ん、と軽く流すように相槌を言うと、さらにコンソールを叩いて、次の情報をだした。今回のジュエルシード流出事件は、彼女抜きに語ることはできないといえるほどに重要な人物である少女の情報を。

 ―――高町なのは

 ―――魔力ランク:S(SSS)

 ―――習得魔法:アクセルシューター、ディバインバスター、他

 ―――蔵元翔太と同じく第九十七管理外世界の住民。ユーノ・スクライアが所持していたレイジングハートを使ってジュエルシードの封印に協力。さらに、ジュエルシードを取り込んだレイジングハートにより、魔力ランクSSSまで引き上げる事が可能。この件に関しては、レイジングハートの独自の判断によるものとし、事故と認定。さらに、我々と接触後、協力的な態度により、魔法世界への召還等は必要ないものと考えられる。最後にジュエルシードの奪取を企んだプレシア・テスタロッサからジュエルシードを取り戻した件や厳重な封印魔法による補助など、この事件への貢献は多大なものになる。

「本当、なのはちゃんがいなかったら、危なかったよね」

「そうだな」

 もしも、なのはがいなかったら、と想像してしまったのか、エイミィは深刻そうに呟き、不機嫌そうな顔でクロノが同意する。

 クロノが不機嫌になるのももっともだ。彼は、プレシアとの戦いの最中、逃げるという選択肢しかとれなかったのだから。彼女に、わずか八歳のなのはに託すことしかできなかった。いくら、最年少で執務官試験に合格した天才と称されようとも、アースラの切り札といわれようとも、事件を解決できなければ意味がないのだ。

「なのはちゃんどうするのかな?」

「彼女が決めるさ。確かに彼女の魔力ランクを考えると、時空管理局に来て欲しいのは事実だが、強制はできない。翔太くんと一緒に初心者講習に来てもらって、彼女が魔法に興味をもって、その力を平和のために使いたいというのであれば、僕たちも協力できるが」

「あはは、その可能性はなさそうだね」

「そうだな」

 クロノが言った可能性を全否定するように一笑するエイミィとそれに同意するクロノ。

 ジュエルシード事件の最中、アースラでの映像を見ていたエイミィだからこそいえるのだ。蔵元翔太と高町なのはの友達になったシーンを見てしまえば、彼女が翔太と離れて、単身で魔法世界に来ることは殆どないといえるだろう。もっとも、翔太が来るといえば、話は別だろうが。

「まあ、どちらにしても、彼らは魔法を知って、学んでしまった。一度、ミッドチルダにくることは悪いことではないだろうさ」

 何事も経験だ。新しいことに触れることは悪いことではない。なにせ、彼らの住人であれば、誰も触れる事ができないはずの世界に触れられるのだから。特に彼らのような若い感性であれば、尚のこと経験による恩恵は大きなものになるだろう。そのクロノのいいように同意するようにエイミィもそうだね、と頷いた。

 少なくとも文明そのものの方向性が異なるのだから、彼らからしてみれば、遊園地に迷い込んだに近いものになるかもしれないが。

 さて、これらの続きをまとめようとコンソールの上を再び指が踊ろうか、というときに不意に今までエイミィと同じくモニターを見ていたクロノが時計を見た後にふっ、と踵を返した。

「あれ? クロノくん、どこか行くの?」

 エイミィの記憶が正しければ、彼は今のところ、休憩時間であり、別の部屋にいくことは不思議ではないのだが、彼に関して言えば、殆どを管制塔ですごすため不思議に思ったのだ。

「ああ、ちょっとね。翔太くんとなのはさんが、魔法を教えて欲しいってことだから、少し指導にね」

「へぇ~、そうなんだ」

 素直に感心するように言うエイミィ。執務官である彼が指導というのは、珍しい。時空管理局では、指導する立場にある職員だっているが、執務官はその類ではないからだ。もっとも、翔太やなのはは、管理外世界の人間で、しかも初心者なので、誰が教えても一緒なのかもしれないが。

「ああ、教えているのは基礎だけど、僕も復習になるからね」

 そういえば、彼はジュエルシードの事件が解決してから、自分の魔法の腕を磨くことに注力していたように思える。よほど、事件で自分が何もできなかった事が悔しいのだろう。

 確かに何事においても基礎は大事だという。しかも、教える―――自分が知っていることを伝えるというのは難しいものだ。そのためには理解している必要があるのだから。そして、魔法の知識の理解は、自分を理解するということで役立つ。つまり、彼らに教えることでクロノに損はないのだ。

 もっとも、それじゃ、と手を上げて管制塔を去るクロノの足取りが軽い理由はそれだけではなさそうだが。

「やっぱり、年下の子を教えるのは面白いのかな?」

 クロノは、彼の両親による魔力と彼の師匠によるもので、執務官という地位に十代の初めでたどり着いた天才だ。当然、周りの年齢は彼よりも年上が大多数を占める。後輩も同輩も先輩もみんな年上。そんな中で、今回の翔太やなのはのことは、年下の後輩ができたようで、彼にもはじめての経験であり、もしかしたら、それが楽しいのかもしれない。

「もしも、クロノくんに弟か妹がいて、『お兄ちゃん』って呼ばれたらどんな顔するのかな?」

 あのクールな顔をデレッと崩すことはないだろうが、少なくとも恥ずかしそうな顔をするのではないか、と思うと自然と苦笑が浮かんでくるエイミィだった。



  ◇  ◇  ◇



「分かりました。それでは、失礼します」

 プチンという音を残して真っ黒になったモニタを前にしてふぅ、とユーノ・スクライアは大きく息を吐いた。

 今まで、ユーノは、スクライア一族の長老と次元通信を使って会話していたのだ。なにせ、一応、長老には話をつけて出てきたとは、いえ、ここまで大事になるとは思っておらず、次元震の影響で今まで報告できなかったからだ。

 詳細な報告はスクライア一族に戻ってからになるだろうが、それでも、ジュエルシードが回収できたこと、無事であることを伝える事ができたユーノは、肩の荷を下ろしたような気分だった。

 まさか、こんな大事になるとは思っていなかったユーノとしては、とりあえず、一族に心配と迷惑をかけることがなくなって一安心といったところだ。

 もっとも、ユーノとしては、己の責務を果たしただけだろうが、スクライア一族は、ユーノを時空管理局と協力して、事前に被害拡大を食い止めた功労者として称えられているため、己の責任感から休暇―――遺跡発掘終了後は休暇が与えられる―――を返上してまでジュエルシードを追ったことで、リーダーとしての責任感を評価していた。

 さて、管理局から次元通信を借りていたユーノは、報告が終わった途端に暇になってしまった。なぜなら、時空管理局からしてみれば、ユーノは、ジュエルシードという時空管理局が管理するはずのロストロギアの事件に巻き込まれた被害者なのだから。アースラの中では時空管理局の局員ではなく、単なるお客さんなのだ。そんな彼がやることは殆どないといってもいい。

 もちろん、アースラの内部には、長期間の航行に耐えられるように娯楽施設もあるのだが、自分は働いていないのに、娯楽施設で遊ぶというのは気が引ける上に、その施設で一緒に遊ぶような相手もいない。よって、ユーノが娯楽施設に顔を出すことは、殆どなかった。時折、気を利かせたクロノが誘うぐらいだ。

 余った時間のほとんどをユーノは、自らの実益と趣味をかねた考古学的な書物を読む時間に当てている。現に、事件が解決してから彼が読んだ書物の数は、発掘の合間に読んだ本の冊数を軽く越えている。しかも、時空管理局の内部に保存されている書物が多数登録されているため、ユーノがスクライア一族にいる間には手に入らないような希少本もあるというのだから、ある意味では、ユーノにとっては幸せな空間ともいえた。

 ―――さて、今日はどの本を読もうかな?

 そんなことを考えていたユーノの耳を突然、通信が入った呼び出し音が打つ。

 はて? とユーノは首をかしげる。ユーノがいるのはアースラのゲストルームだ。通信自体は、誰でもできる。しかし、アースラの中でユーノに通信を入れてくる人物というのは限られてくるのだ。せいぜい、クロノかエイミィ、リンディぐらいのものだろう。しかし、彼らは、仕事中であるはずだ。自分に通信を入れてくるとすれば、事件の調書の類に関することであろうが、それは既に終わっている。

 考えたところで、答えが出ないと悟ったユーノは、とりあえず通信に出てみることにした。

「はい」

 通信の通話ボタンを押した後に出てきたのは、見慣れた顔。アースラのオペレータであるエイミィの笑顔だった。一体、彼女が何用だろうか、と考えたところで、ユーノの考えを読んだようにエイミィが口を開く。

『あ、ユーノくん、お友達から電話だよ』

 お友達? スクライアの友達だろうか? とも思ったが、よくよく考えれば、スクライアの内部で次元通信なんて通信料がバカ高い通話ができるはずがない。ならば、考えられる相手は一人だけだった。

 その人物を思いつくと同時にエイミィが勝手に通話を通したのだろう。『Sound Only』という文字と共にこの一ヶ月で聞きなれた声がそこから聞こえてきた。

『あ、ユーノくん? 今日って時間あるかな?』

 今日は、昨日読んでいた時代よりも新しい時代の本を読もうと思っていたのだが、それはどうやら後回しになりそうだった。

「うん、大丈夫だよ。ショウ」

 通話の相手は、この一ヶ月で新しくできた友人であり、彼の命の恩人であり、魔法の弟子であり、一ヶ月の同居人でもある蔵元翔太だった。

 ユーノにとって蔵元翔太とは、命の恩人である。最初の呼び声に応えてくれたという意味で。もしも、あの時、翔太が応えてくれなければ、ユーノはあのジュエルシードの暴走体によってミンチにされていた可能性が高い。もちろん、直接戦ってくれたという意味では高町なのはも命の恩人かもしれないが、彼女はどちらかというと、ユーノというよりも翔太の呼び声に応えたという意味合いのほうが強いだろう。故に翔太は、ユーノにとって命の恩人なのだ。

 もっとも、それだけではなく、時空管理局が来るまでの間、居候させてもらったり、魔法を教えていたりするので、単なる命の恩人とは一線を画しているとは思うのだが。

 さて、そんな翔太が一体何の用事なのだろうか? と。ジュエルシード事件が解決してから一週間、彼とは特に交流はなかったはずだ。彼に連絡先は教えていたが。そんなことを考えているユーノに答えるように笑顔のまま翔太が口を開いた。

『そっか。じゃあ、サッカーに行かない?』

「はい?」

 そして、そのまま翔太に連れられて、気づけば翔太が通うという聖祥大付属小学校のグラウンドに立っていた。

 グラウンドには総勢二十人ぐらいの男女が入り混じっていた。サッカーというスポーツの特性上、男の子のほうが多いが、ちらほらと女の子の姿も見える。その背丈もまちまちで、年齢層はかなりあるようだ。

 その中で、ユーノは翔太と一緒のチームに所属しながら、センターラインの近くに立っていた。

 ―――えっと、ボールをゴールに入れればいいんだっけ?

 事前に翔太に説明されたルールを反芻する。それ以外にも正式ではないルールがいくつかあり、例えば、転んだら、その場で一旦ゲームをとめる、とかスライディングはなし、などといったルールだ。スポーツが主体の遊びとはいえ、しょせん、遊びなのだ。細かいルールには縛られないということだろう。

 そんな風になれないサッカーという遊びに四苦八苦しながらも何とか慣れてきたユーノ。突然、翔太が連れてきた外国人風の容姿に驚いていた子ども達も、遊んでいる間にそのことはすっかりと忘れてしまっていたようだ。チームメイトは気軽にユーノと呼ぶようになったし、パスも回してくれるようになっていた。

 そもそも、ユーノは遺跡の発掘で、体力や腕力などは同世代の子どもと比べてはるかに発達しているほうだ。そのため、少し慣れれば、ユーノは長い間、サッカーで遊んでいる子どもよりも戦力になっていた。

 それになによりおも、ユーノの明晰な頭脳は、サッカーの本質を理解しつつあった。

 ―――なるほど、陣取りゲームに近いのかな?

 要するにサッカーとは、いかに誰にも邪魔されずにボールをゴールまで運ぶか、ということが命題だ。それに関していうなれば、ユーノはほぼ、天才的だった。数手先を読むということだ。流れが読めれば、何所に来るかが分かっていれば、ユーノがノーマークでボールを受け取ることは容易い。

 結局、三時間ほど走り回った結果、ユーノは三点を得点するというハットトリックを達成して、またね、と一緒に遊んだ子ども達に惜しまれるようにして聖祥大付属小学校のグラウンドを後にした。

「どうだった? 楽しかった?」

 海鳴の町の由来にもなっている海に沈む夕日が彼らを照らす中、海岸沿いをユーノと一緒に隣を歩いていた翔太が聞いてきた。

「うん、そうだね。楽しかったよ」

 よくよく考えれば、あんなふうに体を動かすことが久しぶりだったように思える。最近は、本を読む事が殆どだったから。少しだけ体力が落ちていることも今日のことで少しだけ分かった。スクライア一族に帰れば、おそらくまた発掘の日々が始まるというのに。このままでは、足手まといになってしまうかもしれない、と危惧したユーノは、明日からクロノたちが使っているトレーニングルームを使わせてもらおうと心に誓った。

「それに―――うん、あの子達の相手をするのも楽しかった」

 ―――スクライア一族に戻ったようで、という言葉はユーノの胸の中でこっそりと呟かれた。

 スクライア一族というのは、発掘の一族で、主な産業は遺跡から発掘された品物による売買だ。ロストロギアを時空管理局に売ることもある。その発掘の主な人員は当然、若い男ということになる。昼間、男は発掘へ、女は家事に追われるのがスクライア一族だ。ならば、子どもの世話は? というと、子どもがやるのが一般的だった。

 今日のサッカーにおいて、小さい子から大きい子まで入り混じって遊ぶ姿は否応なしにユーノにスクライア一族でのことを思い出させるのに十分だったということである。軽いホームシックのようなものである。

 少しだけ垣間見せたユーノの寂しそうな表情に気づいたのか気づいていないのか、翔太は、ユーノの楽しかった、という言葉を聞くと、ただ、よかった、と呟くのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アリサ・バニングスは、とても機嫌が良さそうな様子で、母親である梓と一緒に夕食を食べていた。

 彼女の機嫌がいい理由は、明白だった。今日は、4月に入ってからは休止されていた翔太との英会話教室が開かれていたからだ。一ヶ月ぶりともなると翔太も、思い出すまでに少し時間が必要な様子ではあったが、慣れてくれば、休止する前と同じような光景が繰り広げられることとなっていた。

 久しぶりに二人だけの英会話教室にアリサが心躍らないわけがない。なぜなら、それはアリサにとって翔太との絆のようなものだから。もっとも、それはアリサにとって翔太から塾の宿題等を教えてもらっている御礼の意味もあったのだが。そして、英会話教室の中で聞いたのだが、来週から塾にも復帰するようだ。

 だんだんと一ヶ月前と同じような状況が戻ってきたため、アリサは内心かなり喜んでいた。

 それに最近は、もう一人の親友であるすずかも翔太ばかりを気にすることもなくなってきたようで、アリサとも前のように話をするようになっていた。すべてが歯車がかみ合ったように上手く回っているようで、それが、アリサの機嫌のよさにさらに拍車をかけていた。

「アリサ、ずいぶんご機嫌な様子だけど、何かあったの?」

「別に何もないよ」

 にこにこといつもの二割増しほどの笑顔で晩御飯を食べているのが気になったのか、梓が尋ねるが、なんでもないようにアリサは否定する。そう、アリサにとってこの状況は特別なことではないのだ。むしろ、一ヶ月前までの状況こそが特別だった。翔太がいて、すずかがいる一ヶ月以上前のことこそがアリサにとっての普通。今は、その普通に戻りかけているだけなのだ。だからこそ、アリサは、別に何もないと答える。

 しかしながら、当然、梓はアリサの言い分を信じていなかった。目は口ほどにものを言う、とでもいうのだろうか。アリサの笑顔は、隠しきれない喜びを示しており、何もなかったなどといわれても信じられる要素はどこにもなかった。しかし、子どもが親に対して隠し事をするなど当たり前のことだ。嬉しいことであれば、語りたがる子どももいるかもしれないが。

 だからこそ、梓の興味は、別のところへと移った。つまり、アリサの胸元で輝くアクセサリーに。

「あら? アリサ、それどうしたの?」

 少なくとも梓が買ってあげた記憶はない。アリサが買うアクセサリーは、梓と一緒に買い物へ行ったときに買うものがほとんどであり、梓が見たことがないアクセサリーはないはずだった。だが、目の前にその例外があった。今気づいたのだが、気づいてみれば、最近はそればかりつけているように思える。

 梓から指摘されたアリサは嬉しそうにへへへ、と笑う。その表情には、話したくてしかたながないという意図が簡単に見て取れる。

「あのね、温泉に行ったときにショウからプレゼントしてもらったんだ」

 アリサが、よくよく考えてみれば、翔太からプレゼントを貰ったのは初めてだ。いや、誕生日会などでプレゼントを貰ったこともあるが、それはケーキやクッキーといった食べ物などの形に残るものではなく、今回のアクセサリーのように形に残るようなものをプレゼントされたのは初めてだった。

 アリサが嬉しそうにプレゼントされたアクセサリーを掲げながら、梓は興味津々と言った様子でそのアクセサリーを見つめる。その表情は、ニヤニヤと何かをからかうように笑っている。

「ほぉ~、プレゼントされたのは、アリサだけ?」

「え? ううん、すずかも一緒だったけど」

 突然の質問に訳が分からず、素直にアリサがそのように答えると、なぁ~んだ、と言って、ふっ、と興味をまったく失ってしまったようにアクセサリーから視線を外していた。

「アリサだけじゃないのね」

 若干、残念という色を含んで梓が呟くように言う。それは、もしも翔太がアリサだけにプレゼントしたというのであれば、それは好意の表れで、アリサが最近悩んでいた『恋』というものに繋がると思っていたからだ。

 そんな梓の考えも分からず、アリサは、翔太がすずかとアリサにプレゼントするのが、どうして残念なのだろうか? と思ってしまった。アリサにとってアリサとすずかと翔太の仲がいいのは、喜ぶべきことで残念がることではないというのに。

 そんなことを考えていると不意に、梓があっ、と何かを思い出したような声を上げた。何事だろうか? とアリサが少し顔を上げると心配そうな表情をして梓が尋ねてきた。

「そういえば、アリサ、旅行の最終日の夜、翔太くんと一緒に散歩に行ったらしいけど、何かあったの?」

 それは梓が帰り道、すずかから聞いたことを覚えていたためだろう。もっとも、アリサは寝ていたためその事実を知らないが。不意に聞かれた質問にアリサは困った。梓としては、わざわざ外に出たのだから何かイベントがあったとか、星を見るスポットがあったとか、それを二人で見に行ったとか、そういう話を期待していたかもしれない。

 しかし、アリサの脳裏に浮かんだのは、あの場面だけだった。思い出す僅かなでこの痛み。元々、外国の文化を家庭にもっているアリサだ。年齢のことも、恋愛という成熟しきっていない心では理解できない感情を相まって、キスという行為に対して恥ずかしいという感情を抱かないアリサはことの重大さに気づかず、あっさりとその日のことを口にした。

「ショウにチュウしてみない? って言ったわよ」

「ふ~………ん? ぶっ!! げほっ、げほっ」

 最初は軽く流そうとしていた梓だったが、途中からことの重大さに気づいたのか、アリサがいつも見ている格好いい梓とは違っていた。飲んでいたものが、気管に入ってしまったのか咳き込む梓。せめての抵抗は、とっさに手を被せる事ができることだっただろう。

「もうっ! ママ、何やってるのよ」

 あんたが、何言ってるんだ!? と娘に向かって言いそうになるのに必死に堪えて、ナプキンで口元を拭くと、つい先ほどまでの母親の痴態を気にしないように夕飯の続きを口にしていたアリサに核心を問う。

「それで……チュウはできたの?」

「ううん、ショウが、ファーストキスは大切なものだから、本当に好きになった男の子としなさいって」

 アリサの中であの時のことは、キスを断わられたという風には思っていない。なにせ、もともとアリサは『好き』という感情を理解するという目的だったものであり、キスという行為の元来の目的を果たすようなものではなかったからだ。そもそも、アリサがその意味を理解していたかどうかも怪しい。だから、翔太が断わったことはアリサに何の傷も残していなかった。

 一方、母親である梓は、あっけらかんと答える娘に安心したような、不安を抱いたような複雑な気分だった。翔太に釘を刺されたようだったが、さらに刺しておく必要があるかもと母親としての責務を果たすために口を開いた。

「あのね、アリサ。翔太くんが言ったことは正しいわよ。いい女が簡単にキスとか許しちゃダメよ。簡単にそんなことばっかりしていたら安い女に見られちゃうからね。分かった?」

「うん」

 アリサが真面目に頷いたのを見てほっ、と安心する梓。娘が誰を好きになるか分からないが、不幸にはなってほしくないのだから。そう簡単に体の一部とはいえ、安い女にはなってほしくなった。もっとも、勿体つけて、けちな女にもなってほしくないのだが、そんな恋の駆け引きは、ある一定の年齢がくれば、誰でも体験することだ。娘も後、四、五年もすれば、体験するだろう。女は恋の数だけ綺麗になるというし、不幸にならない恋愛をして欲しいものだ、と親心ながら思うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかは、食後に入れてくれた紅茶を飲みながら、ふぅ、と小さくため息を吐いていた。その表情は浮かない。何か楽しい事があっても、すぐに沈んでしまう。それはあの旅行から帰ってきてからだ。原因は分かっている。あの夜の散歩を盗み見てしまったからだ。

 あの旅行から帰ってきてからすずかは、気分が浮かない日常を過ごしていた。

 楽しかったはずの翔太の昼食も、翔太の隣に座って、翔太の顔を見るとあの夜のことを思い出してしまう。どうしても、アリサと翔太のキスシーンが浮かんできてしまい、前のように仲良くなろうと積極的に翔太に話しかけることもできない。

 すずかの中で燻っているのは、アリサと翔太の関係だ。二人は恋人同士なのか。いや、そうでなければ、あの夜のことは理解できないのだが。しかし、すずかが翔太と仲良くしようとしたとき、アリサが妨害する様子は見えなかった。普通、恋人である翔太に他の女の子が近づこうとすれば、忌避するものではないのだろうか。少なくとも本にはそう書いてあった。あるいは、それはアリサの余裕だったのだろうか、翔太が絶対に自分と仲良くすることはないという。

 そのことが知りたくて、むしろ翔太よりもアリサに話しかける機会が多くなり、前と同じようにアリサに話しかけるようになったのは何とも皮肉な話だ。

 しかし、アリサと話せば話すほどに訳が分からない。翔太との関係を探ろうとしてもまったく分からない。傍から見ても友達同士のように思える。一体、どういうことなんだろうか?

「ふぅ……」

 翔太とアリサの関係がわからなくて、あのときの光景が頭から離れなくて、そして、何よりも自分の感情が分からなくて、それらの不安に押しつぶされそうになってすずかは一人、大きくため息を吐いてしまうのだった。

「あら、大きなため息はいてどうしたの?」

 そんな様子を見かねたのだろうか。晩御飯を食べた後、自室に戻っていたはずの姉の忍がリビングへとやってきた。ノエル~、私のも紅茶、というとすずかの対面に腰掛ける。彼女の表情は、すずかの表情とは対照的にこの世のすべてが楽しいと言わんばかりに満面の笑みを浮かべていた。

「お姉ちゃんは、楽しそうだね」

 すずかにしては、珍しい嫌味だった。いや、それは親類に対する甘えなのかもしれない。何もかも分からないというのは、不安なのだ。不安が長くなればなるほど蓄積される。心の中に黒いものが沸々とドロドロと溜まっている。だが、そんな嫌味が通じないほどに忍は、舞い上がっていたのだろう。あはは、と笑うと忍が上機嫌な理由を語りだした。

「実は、恭也と付き合うことになりましたっ!」

 一瞬、すずかは、忍が言っている意味が分からなかった。

 ―――付き合う? お姉ちゃんが? その前に、恭也さんって誰?

 忍はそんなすずかの混乱には気づかないように、そのときの様子を話していた。しかし、その話は、混乱中のすずかには右から左へと通り抜けるものであり、殆どが記憶に残ることはなかった。しかし、やがて、混乱も収まってきて、冷静に考えられるようになるとすずかは一つの答えにたどり着いた。

「―――お姉ちゃん」

「ん? 何かしら?」

「キスってもうしたことあるの?」

 そう、すずかのたどり着いた答えとは、そこだ。付き合うという表現が、恋仲になるということぐらいは、さすがにすずかも知っている。そして、恋仲であれば、キスをした事があるのではないだろうか、と考えたのだ。そう、あの夜の翔太とアリサのように。ならば、その忍から何か聞ければ、自分の不安に何か答えてくれるのではないだろうか、と思ったのだ。

 突然の質問。だが、忍は慌てる様子もなく、今まで楽しく笑っていた表情を潜めて、面白いものを見つけたような笑みを浮かべるとすずかの質問に答えた。

「そうね、あるわよ」

「―――っ! じゃ、じゃあ」

「あなたがそんなこと聞くなんて珍しいわね。何かあったの?」

 やっぱり、と思って、続きを問おうと思ったすずかだったが、先手を打ってきたのは忍だった。尋ねられてすずかは悩む。正直に言うべきかどうか。すずかとしては、できるだけ隠したかった。しかし、物事を正確に伝えなければ、すずかが知りたいことも知れないかもしれない。そう考えると悩む。

 しかし、結局、これ以上、悩むということに耐えることは考えられず、すずかは意を決して忍にすべてを話すことにした。忍の表情にからかうような表情を見出す事ができずに。

「―――なるほどね」

 すずかから話を聞いた忍はそういうと、残っていた紅茶をすべて飲み干すようにカップを傾けて、テーブルの上に空になったカップを置く。すずかも、ずっと話していたため乾いてしまった喉を潤すために紅茶を口にする。思ったよりも長時間話していたのか、暖かかった紅茶は、すでにぬるくなってしまっていた。

「それで、あなたはどうしたいの?」

「え?」

「だから、あなたは結局、アリサちゃんと翔太君の関係を知って、どうしたいの? 翔太くんと仲良くなりたいの? それとも」

 そこで言葉を切ると忍はすずかを試すようにまっすぐと見つめて、少し間をおいて続きを口にする。

「アリサちゃんと翔太くんが付き合っているから、あなたは距離を置くの?」

「それは……」

 すずかはただ、分からない事が不安だった。あの夜の事が不安だったのだ。なぜ、不安だったのか。その答えは、忍がすでに出していた。つまり、すずかは怖かったのだ。アリサと翔太が恋仲であることで、すずかが翔太から距離を置かなければならないという事が。

 今までの努力が水の泡になるから、というわけではない。彼は、翔太はすずかにとって初めての人だからだ。夜の一族であることを知りながらも受け入れてくれた。もしかしたら、もう一生、すずかの前には姿を現さないかもしれないほど稀有な人だ。だから、すずかはもっと仲良くなりたかった。たとえ、アリサという恋仲になるというほどに仲のいい女の子がいたとしても。

「私は―――」

「ああ、言わなくてもいいわ。大体分かったから」

 答えを口にしようとしたのだが、それを忍の手によって止められる。そんな分かりやすい顔をしていただろうか? と思うすずかだったが、思い悩んでいたのは事実だ。ならば、表情に出ていてもおかしくないか、と思うことにした。

「それにしても……まあ、意外でもなかったけど、すずかが翔太君に恋をするなんてね」

「え?」

 すずかにとって忍の言葉の一部が信じられなかった。そして、驚きの声を上げたすずかをくすっ、と仕方ないなぁ、というような苦笑を浮かべると半ばからかうような口調で口を開く。

「やっぱり気づいていなかったのね。他の女の子と男の子がいちゃついて不安になるなんて『恋』しかないでしょうに」

 ―――これが、恋?

 姉の言うことを疑うわけではないが、すずかには信じられなかった。なぜなら、すずかの感情は、すずかが知るような恋という感情とはかけ離れていたからだ。すずかが、知るような恋は、もっと素敵で、素晴らしいもので、ドキドキするようなものだったからだ。こんなに不安に押しつぶされそうで、泣きたくなるような感情とは思っていなかった。

「まあ、大変でしょうけど、頑張りなさい。恋は戦争よ」

「せ、せんそう?」

 また、物騒な単語が出てきたものだ、とすずかは思う。だが、忍は重々しく頷く。

 そういえば、恭也さんという人とお付き合いする、なんていっていたから、姉はきっと、戦争を勝ち抜いたのだろう、と思った。

「そうよ。まあ、翔太くんの場合、アリサちゃんが一番の障害かな? 応援してるから頑張りなさいね」

「う、うん」

 とりあえず、姉の迫力に押されるように頷くすずかだったが、どうやって頑張ればいいのか皆目見当もつかない。ついでに言うと、アリサと翔太はすでに恋仲なのだから、既に負けているのではないだろうか? とも思ったのだが、忍の前でそんなことはいえなかった。

 それになによりも―――今は、初めて自覚したこの『恋』という感情を今だけは、ただかみ締めたかった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、今、自分の表情を鏡で見るとこれ以上ないぐらい崩れているんだろうな、という自覚を持っていた。

「なのはちゃん? 聞いてる?」

「あ、うん。もちろんだよっ!」

 事実だ。なのはが翔太の声を聞き逃すはずがない。

 少しだけ不審に思ったようだったが、翔太はそれ以上気にすることはなく、なのはの目の前に広げられているテキストの上に指を這わせて説明の続きを始めた。

 そう、今、翔太となのはは勉強をしているのだ。場所は、高町家のなのはの部屋。なのはと翔太はなのはの部屋で、なのはの机の上にテキストを広げて、二人っきりで勉強をやっていた。もっとも、元来、勉強机というのは、二人で勉強できるようにできてはない。それを二人で一つのテキストを見ているのだ。必然的に二人の距離は密着するほどに近くなっている。

 なのはの真横には、下手すれば翔太の吐息が聞こえてきそうなほどに近い距離に顔があり、肩は完全に触れ合っており、そこから翔太の温もりが伝わってくる。幼い頃からいい子でいなければ、と思いながら、人に深く踏み込むことに恐怖心を抱いていたなのはにとって人がこんなに近くにいるのは家族以外では、初めてであり、しかもその相手は、なのはの唯一の友人である翔太なのだ。否応なしにも彼女の心は歓喜で震えていた。

 こうなった経緯は実に簡単だ。ゴールデンウィークが終わった後の休日。約束どおりなのはが翔太に魔法を教えるという日になったことから起因する。魔法の訓練は長時間続けようにも翔太の魔力が長続きせず、午前中で終わってしまった。そこで、まだ翔太と別れたくないなのはが、勉強を教えてっ! と言ったところ、翔太がそれを快諾したのだ。

 場所は、なのはの部屋。翔太は高町家に行った経験はあるが、なのはの部屋に行くのははじめての経験だった。なのはは、自分の部屋に翔太が来ると分かって、心が弾むほどに踊った。部屋での一時を想像して、思わず呆けてしまうほどには。

 しかしながら、それで大騒ぎになったのはなのはだけではない。なぜなら、なのはは今まで友人がいなくて、家族会議が毎週のように開催されていたのだ。そんななのはが、友人を連れて家にやってくる。確かに翔太を連れてきたこともあったが、それは魔法関連のことだ。今回は、友人としてやってくるのだから、程度が異なる。

 よって、翠屋に出勤していない恭也と美由希は、なのはから連絡を受けてそわそわしていたのだが、翔太と部屋で二人っきり、という状況に舞い上がっていたなのはが気づくことはなかった。

 さて、なのはが机に座って、その横に椅子を持ってきて、横からテキストを覗き込むように座る翔太。少なくともなのはにとっては至福の時間だった。この時間が永遠に続けば良いのに、と思えるほどには。しかしながら、いつだって邪魔者は現れるものだ。

「なのは~、お菓子もってきたよ~」

 がちゃっ、とドアを開けてやってきたのは、なのはの姉である美由希だ。お盆の上には、翠屋のものであろうシュークリームとストローの刺さったオレンジジュースが入っていた。

「お姉ちゃん……」

 邪魔しやがって、というような意味をこめて睨みつけるが、美由希とて御神流の剣士である。なのは程度の小娘の嫉妬など柳に風という感じで軽く受け流し、仕方ないなぁ、という笑みを浮かべていた。

「はいはい、それじゃ、ここに置いていくから」

「ありがとうございます」

 ごゆっくり~、と言葉を残して出て行く美由希に対して翔太がわざわざ椅子から降りて、お礼を言う。そんな翔太に、いいよ、いいよ、といわんばかりにひらひらと手を振って美由希は、そそくさとなのはの部屋から出て行った。

「それじゃ、せっかくだし、食べようか?」

「……うん」

 ―――せっかく、ショウくんが近くにいたのに……。

 そんな風に残念がるなのはだが、しかしながら、食べ終われば、また同じ状況になるのだから、と自分に言い聞かせて渋々ながら椅子から降りて、カーペットの上に置かれたお盆の周りに座る。いただきます、という声と共にシュークリームに手を伸ばす翔太となのは。

 なのはからしてみれば、翠屋のシュークリームは食べ飽きたというほどに食べてきたシュークリームだったが、翔太からしてみれば、違ったらしい。おいしい、と言いながら顔を綻ばせていた。翔太が喜んでくれたなら、なのはに文句はない。なのはにとっての至福のときを邪魔したのは許せないが、翔太が喜んでくれたので、良しとすることにした。

 さて、たった一つのシュークリームとコップ一杯のオレンジジュースだ。話しながら食べたとしても三十分もあれば食べ終わってしまう。それからは、またテキストの前に座った。週末で宿題がたくさん出ていた事が幸いした。まだ終わる気配がなかったからだ。

 また、先ほどと同じように座る。横を向けば、少し動けば翔太の頬となのはの頬が近づきそうな距離の翔太の顔。そんな翔太の頬にクリームがついていることに気づいた。おそらく先ほどのシュークリームだろう。

「ショウくん、動かないでね」

「え?」

 なのはの声に反応して翔太が動きそうだったので、先手を取って手を動かす。頬のクリームを掠め取るように手を動かし、翔太の頬についていたクリームを拭い取ると、指についたクリームをそのまま自分の口へと放り込んだ。

「え? あ、え?」

「どうしたの?」

 翔太の味でもするかな? と思ったが、残念なことに味は変わらずクリームの味だった。それよりも、口をパクパクと金魚のように動かしている翔太のほうが気になる。彼の顔に浮かんでいるのは羞恥の表情。照れの表情は見た事があるが、なのはも見た事がない珍しいものだった。

「い、いや、なんでもないよ。ほ、ほら、次の問題をしよう」

 少しだけ翔太の態度が気になったが、それでも翔太の言うとおり、次の問題に目を落とした。最初のうちのは挙動不審だったが、すぐにもとの翔太の態度に戻っていた。肩と肩が触れ合うほどの距離にいる翔太。なのはの至福の時間が戻ってきた。

 そう思っていたのだが―――

「なのは、ジュースのお代わり持ってきたんだが」

 今度は、兄だった。ジュースが入っているのであろうパックを持っている。

 また、邪魔してっ! と姉よりもきつく睨みつけるが、やはり御神の剣士なだけあって、なのはの視線にピクリともしなかった。しかし、それでも邪魔に思われていることだけは分かったのか、はいはい、と言いながらお盆の上においてった空になったコップにジュースを入れるとそれだけで、恭也は去っていった。

 せっかく入れてくれたのだから、と机の上にジュースを持ってくる翔太。少し離れただけだが、それでもなのはとしては肩の温もりが消えるのは寂しかった。

 しかしながら、これ以上、邪魔は入ってこないだろう、と思いながら翔太の隣で勉強を続けるなのは。勉強のペースは、なのはからしてみればゆっくりなものだった。本当ならもっと早く解くことだってできただろう。しかしながら、それは至福の時間を短くする自殺行為でしかない。この時間を一秒でも長く感じたいなのはが早々と問題を解くはずがないのだ。

 なのはが、翔太の温もりや近くにいる気配やらを堪能し、邪魔もこれ以上入らないだろう、と思っていた。そう、そう思っていた矢先だった。二度あることは三度あるといわんばかりにガチャっ、となのはの部屋のドアノブが回ったのは。

「なのは、翔太くんが来てるって聞いたけど」

 入ってきたのは姉でも兄でもなく母親の桃子だった。

「あ、お邪魔してます」

「いらっしゃい、翔太くん」

 とても三人の子どもがいるような年齢に見えないような若さのまま笑う桃子。翔太からは背後になるためわからないが、なんで邪魔するの、といわんばかりになのはは桃子を見ていた。それが分かったのだろうか、桃子は早々に用件を切り出す。

「翔太くん、晩御飯、食べていかない?」

「え? でも」

 親戚でもない家の晩御飯を一緒にするというのは、確かにハードルが高いかもしれない。しかしながら、なのはにとっては、これは翔太と長くいるための絶好のチャンスだった。

「ショウくん、食べて行ってよ!」

「う~ん」

 しばらく考え込んでいたようだったが、なのはが押すこともあったのだろうか。それに桃子が再三誘ったのが、原因かもしれない。大人からこんなにお願いされては無闇に断われないだろうから。もっとも、なのはにとってはどっちでもいいことで、大事なことは翔太がなのはの家の晩御飯を一緒にすることだった。

 桃子が出て行って以降は、邪魔も入らず、なのはは翔太と一緒に宿題を片付ける事ができた。本来の宿題以上に週明けからの予習も含めてだ。本当は宿題ではないのだが、翔太の近くにいたいなのはが少しでも一緒にいる時間を長くするための苦肉の策だった。

 宿題が終わり、晩御飯もなのはの隣で食べた翔太。翔太が隣にいる時間はなのはにとってすべてが至福の時間だ。本当に、このままなのはの家で暮らしてくれないかな? と思うほどには。しかしながら、翔太の家は別にある。つまり、至福の時間にも終わりがあるということである。

 晩御飯を食べた翔太は、一時間程度、恭也や士郎、美由希、桃子を交えながら話した後、迎えに来た翔太の父親とアリシアという黒い敵と一緒に帰ってしまった。なのはは、それを翔太の姿が見えなくなるまで見送るしかなかった。

 翔太を見送ったなのはは、自分の部屋に戻ってきた。パタン、という音共にドアが閉まる。

 先ほどまでなのはに至福の時間を提供していたはずの部屋は、先ほどまでは打って変わって寒い部屋へと変貌していた。翔太というたった一人がいないだけでここまで寒くなるのか、というほどになのはにとっては寒い部屋だった。先ほどのことを思い返せば、尚のこと。

 次にあの至福の時間を味わえるのはいつだろうか? それを想像すると絶望したくなる。少なくとも明日、明後日というわけではないだろうから。つい最近までは毎日、翔太との時間があったというのに。やはり、ジュエルシード事件など解決するべきではなかっただろうか、とまで思ってしまう。

 はぁ、とため息をついたなのはの目に入ったものがあった。それは、机の上に放置されたままのコップ。そういえば、勉強していた途中で晩御飯に呼ばれたため、そのままだったのだ。手前にあるのが翔太のもので、奥にあるのがなのはのものだ。

 不意になのはの手が動く。コップを片付けるためではない。なのはの目的はコップに刺さったままのストローだった。

 ―――ショウくんがさっきまで使ってたもの……。

 まるで花の蜜に誘われる蝶のようにふらふらと翔太が使っていたストローへと向けて顔が動いていく。やがて、ストローの先に口が届きそうになったとき、口を開き―――そのまま、翔太が使っていたストローを銜える―――直前で正気に戻った。

 ―――な、なにやってたんだろう?

 確かに翔太が使っていたものを銜えるというのは魅力的なものに思えたが、それはやってはいけない一線を越えるようで、なのはの中に残っていた常識がそれを留めた。

 まるで、先ほどのことを忘れるように、誤魔化すようにぶんぶんと首を横に振ると、もうこんな変な気分になるのは、ごめんだといわんばかりに、この危険な代物を早く処分しなければ、といわんばかりに、さっ、とコップを二つ掴むと先ほど入ってきたドアからドタドタと慌てて下の階へと降りていった。

 机の上の桃色のハンカチの上に鎮座するレイジングハートだけが、その様子を見つめるのだった。


つづく







[15269] 第二十五話
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/11/29 22:19



 ゴールデンウィークもすっかり終わってしまい、春というには少し暖かくなり、梅雨入りの模様を見せ始めた六月上旬になった。

 ジュエルシードを巡る事件も終結してから、すでに一ヶ月が経過している。つい最近まで地球の近くに停泊していたアースラだが、どうやらようやく時空管理局の本局へと帰れるようだ。次元航路が不安定だから、と言っていたが、魔法関する知識が基礎的なものしかない僕にはよく分からない話である。結局、簡単に説明してくれたユーノくんの言葉に従い、海が荒れているから帰れない、程度に理解しているが。

 最後だから、と挨拶に来てくれたクロノさん、リンディさん、ユーノくんと別れの挨拶を交わし、八月の下旬に魔法世界へと行くことを約束して、なのはちゃんや恭也さん、忍さんと一緒に彼らを見送った。二ヵ月後には再び会うことにはなっているのだが、それでも別れは寂しいものである。もっとも、今後の予定などを連絡するために次元通信機というものを預かっているので、ユーノくんやクロノさんとはいつでも連絡を取れる状態ではあるのだが。

 そして、もう一つ。申請していたアリシアちゃんの就籍申請が家庭裁判所に受理された。申請してから一ヶ月だから早いのか遅いのか僕にはよく分からない。だが、これでアリシアちゃんには戸籍と住民票ができたわけだ。戸籍上の名前はアリシア・テスタロッサで作られているが、これは仮名というらしい。そもそも、アリシアちゃんの本当の身元は、文字通り世界が違うため見つかるはずがないのだが。

 戸籍を手に入れたアリシアちゃんは、すぐに僕の両親と普通養子縁組を組んだ。組んだのはいいのだが、アリシアちゃんの名前が外国人のような名前だったためだろうか、『蔵元アリシア』となるわけだが、どうにも違和感が拭えない。それを言うなら、アリサちゃんのお母さんだって『梓・バニングス』なのだが。まあ、すぐに慣れるとは思うが。もっとも、アリシアちゃんは、僕らと同じ苗字になったのが嬉しいのか、やたら嬉しそうに笑っていた。

 さて、アリシアちゃんが事実上の家族というわけではなく、書類上も国から正式に家族として認められた以上、一つの問題が浮上してきた。それについては、僕一人で解決することなど到底不可能であるため、こうして放課後に僕はある場所へ向かって歩いていた。

 目的地は、あまり児童が行きたがらない場所でもある職員室。職員室と卒業生か、あるいは上級生が工作の時間に作ったのだろうか、木材で作られた可愛らしい看板に迎えられて、僕は職員室のドアを開けた。聖祥大付属小学校の職員室は教室を二つか三つほど壁をぶち抜いたといわんばかりに広い。六学年十学級すべての担任を合わせただけでも六十人必要であり、さらに学科ごとの先生や中間管理職の先生を合わせるとさらに人数は拡大する。よって、職員室は一学級の児童の数よりも多くなるため教室がいくつか必要になるほどに広いのだ。

 所狭しと机が並べられる中、僕は網の目を縫うように慣れた足取りで職員室を進んでいく。僕が一年生の頃からずっと学級委員をやっていたおかげともいえるのかもしれないが、そのせいで職員室の先生とは殆ど顔見知りで、机の配置ぐらいは覚えている。そのため、迷いなく進む事ができるのだ。

 僕たちの担任である―――橘京子先生のもとへ。

 先生の机の傍にたどり着くと、相変わらず先生は、机の上でカリカリと仕事をしていた。もっとも、放課後に用事もないのに残るような先生もいないので、仕事をしていないわけがないのだろうが。

「先生」

「……ん? ああ、なんだ、蔵元か。どうした? 今日は提出物はないはずだが」

 先生の何気ない言葉に僕は、はぁ、とため息を吐いた。

 確かに僕は、学級委員長をやっていて、提出物を持ってきたり、ちょっとした雑用のために先生と接触する機会は多い。しかし、小学生であれば、ちょっとした雑談のために先生に話しかけることもあるだろうに。僕の場合は、その可能性が最初から潰されているのだろうか。

「違います。今日はちょっと相談があるんです」

「相談?」

 僕がその言葉を口にすると同時に顔はこちらに向けながらも手は、ちらちらと確認することで仕事を続けていた先生が、初めて手を止めて、椅子を回して僕のほうに体を向けてきた。どうやら、きちんと話を聞いてくれるらしい。

「なんだ、クラス内で問題でも起こったか?」

「え? いえ、クラスでは特に問題はありませんけど」

 先生の言葉に少しだけ疑問を覚えた。

 ただ、少し相談があると言っただけで、どうしてクラス内での問題と思ったのだろうか? 学校生活や私生活での問題かもしれないし、もっと他のことかもしれない。どうした? ぐらいで聞いてくると思ったのだけど。もしも、先生が学校以外でのことは教師の仕事の範疇外で相談されても困る、というような先生ならそういう聞き方もしてくるだろうが、この先生はそんな先生ではないことは三年の付き合いの中で知っている。

 つまり、先生は、今のクラスの中で僕にとって相談するような事が起きることを把握していることになるが―――と、そこまで考えたところで、先生が何を言いたいか、少しだけ分かった。

「ああ、なるほど。僕に反感を持っている子たちのことですね」

 こっそりだが、彼らの存在は隼人くんと夏希ちゃんから聞いている。先生は、おそらくその子たちが何か問題を起こしたと思ったのだろう。

 僕がそのことを指摘すると、先生は本当に呆れたようにはぁ、とため息を吐いた。

「私は、蔵元と話していると、あんたが小学生だってことを忘れそうになるよ」

「忘れないでください」

 確かに頭脳は大学生レベルだろうが、身体は小学生なのだ。見た目が大事なのは言うまでもない。それに僕には大学生の記憶があるなんて言ったところで、信じてはもらえないだろうし、変人だと思われるのも勘弁願いたい。だから、僕は自分が小学生であることを主張するのだ。

 それはともかく、先生の疑念を晴らしておくべきだろう。

「あの子たちのことなら大丈夫ですよ」

「ほぅ、なんでだ?」

 少し興味深そうに先生は笑う。どうやら僕の解答に興味があるようだ。もっとも、僕が何かしたわけではないのだが。

 隼人君による男子の現状は、僕に味方してくれる子が、大体男子の三分の二程度―――中立も含めばだが。三分の一が僕に反感を持っている子ということになる。しかしながら、反感を持っている子たちの中で、全員がまとめられるような子はいないようで、二、三人程度が三グループあるらしい。二人か三人でできることなど高が知れており、せいぜい僕を無視したり、学級委員長の仕事の足を引っ張るぐらいだろう。前者は、僕から話しかけるような事が少なくなるだけだし、後者は、作業の邪魔―――宿題の提出を渋るなど―――は、自分の成績を落とすだけだ。だから、男子に関しては問題がない。

 一方の女子のほうだが、どうやら僕が反感を買ったのは四月の事が大きく影響しているようだ。僕が隣のクラスのなのはちゃんと仲良くした事が、彼女達にとって裏切りに見えたらしい。幸いにして、僕は夏樹ちゃんとは幼馴染で、クラスの中では結構大きなグループのリーダー格なので、女子が結束して、僕に報復をなんてことにはならなかったようだ。それに僕に利用価値があることも幸いしたようだ。確かに算数とかは、最後の最後に難しい問題が出るので、僕がよく教えているけど、まさかそれに救われるとは思わなかった。よって、せいぜい陰口程度で済んだらしい。

 男子のほうは少しだけ気づいていたけど、女子はまったく気づかなかった。まさか、彼女達の笑顔の下にそんな暗い部分があったなんて。ちなみに、両方の要素がなければ、女子達は結束して男子も巻き込んで、僕は半ば村八分になりかけていたようだった。げに恐ろしきは、幼いとはいえ、女の子たちの性質だろう。男の僕にはまったく分からないが。

「―――というわけで、女子のほうとも少しずつ改善しているので、まあ、大丈夫でしょう」

 夏樹ちゃんのアドバイスに従って、少しだけクラスの女子と話す時間を持つようにした。これで、こちらのグループを優先してますよ、とアピールするらしい。その甲斐あって、少しずつ確執はなくなっているといっていいだろう。といっても、僕が時間を増やしたというよりも夏樹ちゃんの手引きによるところも大きいのだが。あの子は、姉御肌だからなあ。

「ふむ、なるほどな。分かった」

 学校は小さな社会とはよく言ったものだな、とポツリと零した先生。僕も同じようなことを考えていた。前世での僕の小学校時代なんて覚えていない。だが、こんなにも深いものだっただろうか? と。大学生までの記憶しかないが、それでも似たようなことはあった。もっとも、僕の付き合いは男が多かったので、女子の暗い部分は噂でしか聞いた事がなかったが。

「それで、結局、蔵元の相談とはなんだ?」

「ああ、そうでした。実は、編入について聞きたかったんですよ」

 そう、僕が先生に聞きたかったのは編入のことだ。アリシアちゃんは見た目的には、まだ小学校を卒業しているとは思えない。もっとも、正確な年齢は、今となっては分からない。ちなみに、誕生日は、アリシアちゃんが僕と同じがいいと強固に主張したため、七月の僕と同じ日になっている。年齢も同じくだ。よって、書類上は、僕とアリシアちゃんは双子の兄妹となっているわけだ。

「編入? お前の親戚でも引っ越してくるのか?」

「いえ、僕の妹ですよ」

 僕が妹と口にすると、先生は少しだけきょとんとしたような顔になった。当然だ。僕の家族構成の中には、妹なんていなかったのだから。それが、突然小学校に編入するような妹がいるといわれても困惑するだけだろう。

「ああ、思い出した。一度だけ会ったことがあるな。あの訳ありの妹ちゃんか」

「そうです。あの妹ちゃんです」

 先生の言い方に苦笑しながら、僕は答えた。しかし、いつまでも訳ありで通せるほど優しいものではないだろう。なにより、入学を考えている以上、ある一定ラインまでは説明しなければならないことは必須だったので、僕は魔法などを省いて少しだけ説明した。

 アリシアちゃんを拾ったこと。我が家で保護したこと。今回、正式に養子縁組を行い、書類上も家族になったこと。義務教育が必要で、聖祥大付属に入学を考えていることを話した。

 アリシアちゃんに義務教育が必要である以上、今は公立に通っているか? と尋ねられれば、答えは否だ。アリシアちゃんが見た目的にも外国人であることは疑いようがない。よって、役所に相談して公立に通う場合は二学期にしてもらい、現在は自宅で僕の昔の教科書を使いながら日本語と小学校一年生、二年生の勉強をしている。

「それで、どうですかね?」

「ちょっと待て。蔵元妹の学年は?」

 先生の問いに僕が同じ学年です、と答えると、ちょっと待て、と言い残して椅子を降りると後ろの棚をガサガサとあさり始めた。え~っと、これでもない、あれでもない、と次々に書類の入った紙袋を出す先生。もしかして、整理していないのだろうか。およそ、五つほど紙袋の中身を確認した先生はようやく目的のものを見つけたのだろう。あ、これだ、と声を上げると、その紙袋を手に再び座った。

「喜べ。お前のせいで、私は学年主任だからな。編入の窓口は私なんだ」

「それは、好都合です」

 少し棘のある言い方。まるで、僕のせいで別の仕事が発生したと言わんばかりだ。それは正解なのだろうが。だから、僕も皮肉って返してやると、お互いに顔を見合わせて、はははは、と笑った。

「さて、これによるとだな。編入試験は、夏と秋の二回行われ、どちらかしか受けられない」

「……そうですか」

 おそらく、夏の編入試験で落ちた生徒が秋に再び受けられないようにするための処置だろう。しかし、この規定であるとアリシアちゃんは、最速で夏の編入試験しか受けられないようだ。僕の見立てが正しければ、今のアリシアちゃんでも合格しそうではあるのだが。

 確かにアリシアちゃんはこの世界に来てから数ヶ月しか経っていない。しかし、日本語の中で平仮名とカタカナは完璧に習得しているし、今は漢字を勉強しているが、記憶力もいい。特に算数は―――いや、数学はすでに高校生レベルまでいっているのではないだろうか。だから、合格する可能性は高いと思っていた。

 その可能性があるなら、できるだけ早く試験を受けて、聖祥大付属に入学してほしかった。彼女は、夕飯の後など、僕の話を聞いて目を輝かせているから。おそらく、学校を楽しい場所としてみているのだろう。憧れているのかもしれない。だから、できるだけ早くと思っていたのだが、規則なら仕方ない。夏休みが終わった後、魔法世界のあとのほうがゆっくりしているかな? と色々考えているところで、不意に先生の声が割り込んできた。

「ちょっと待て、但し書きがある」

「但し書き?」

「ただし、以下のものは特別に試験を行う、あるいは試験を行わず編入することができる。1.特別な事情により、学校に通わなければならないもの。2.緊急性を要するもの。以上である」

「アリシアちゃんはどちらかに該当するんですか?」

「まあ、1のほうには該当するだろうな」

 確かに、記憶喪失で、戸籍ができて、義務教育が必要であるため、といわれると特別な事情といわざるを得ないのだろうか。しかし、2番目の意味があまりよくわからないのだが。

「2は、おそらく公立に通っている児童がいじめなどが原因で、聖祥大小をセーフティネットで使うためだろうな。だから、『2に該当するものは試験を課さない』、と書かれてるから」

「なるほど」

 私立学校であるが故に校区に縛られることはない。しかも、スクールバスまで運行している。少し遠くでも通うことは可能だ。だから、地域のセーフティネットとしては十二分に活用する事が可能だろう。緊急性を要するとは、つまり、すぐにでも転校できる環境が必要ということだろう。

「まあ、本当は、面倒だから夏にしろ、と言いたいところだが、蔵元には、クラスの世話を焼いてもらっているからな。今回は、1のケースで進めておいてやるよ」

「ありがとうございます」

 たぶん、さきほどの僕の落胆したような表情でも見られてしまったのだろう。めんどくさい事が嫌いな先生にしては珍しく、動いてくれるようだ。ただし、借りは高くつきそうだが。

「ほら、これに必要事項を記入して持ってくるといい。後は、パンフレットやら、色々だ」

 ぽんぽんぽんと渡される冊子の数。編入試験について色々書かれていたり、聖祥大付属小学校のパンフレットだったりする。先ほど取り出した紙袋の中にまとめて入っていたのだろう。似たようなものがいくつか先生が取り出した紙袋の中にも見える。実は、編入に関する扱いの冊子は以前に貰っていたのだが、一つだけ貰わないというもの悪いような気がしたので、素直に受け取っておくことにした。

「分かりました。本当にありがとうございました」

「なに、良いってことよ。蔵元にも教師らしいところを見せてやる必要もあるしな」

 くくく、と少しだけ意地が悪そうに笑う先生。もっとも、僕が先生が先生であることを忘れたことはないのだが。まあ、それはともかく、これで用件は終わりだ。早く母さんやアリシアちゃんにこのことを伝えようと、僕は先生から貰った冊子を脇に抱えて、回れ右をしたのだが、動こうとした瞬間、先生に肩を掴まれた。

「ちょっと待った!!」

 僕が振り返ると先生が、少しだけバツが悪そうな顔をしていた。おそらく、さっきかっこいいことを言ったのに、こうして呼び止めてしまったため、気まずいのだろう。

「なんですか?」

 せっかくかっこよかったのに、という落胆を少しだけ声の色に乗せて先生に言うと、先生はバツが悪い顔そのままに視線を宙に泳がせて、やがて意を決して口を開く。

「いや……ちょっと、あれ片付けるの手伝ってくれないか?」

 情けない声で頼まれて、先生が指差した先には、パンフレットを出すために散らかした棚と、たくさんの書類が所狭しと床に散らばっていた。

 おそらく、先生にもう一度頼むと、再び書類が必要になったとき、今以上に散らかってしまうだろう。先生もそれが分かっているから僕に救援を頼んでいるのだ。ついさっきは、編入をごり押ししてもらった恩がある。だから、僕は仕方ないな、というため息を吐くと、まずは床に散らかっている書類を集めることから始めるのだった。



  ◇  ◇  ◇



「遅いじゃないっ!」

 僕が職員室から帰宅のために直接下足場へと行くと、そこには二人の少女が誰かを待つかのように立っていた。そのうちの一人は、先の言葉で分かるようにアリサちゃんであり、その傍らに寄り添うように立つのは、すずかちゃんだった。

「あれ? 待っててくれたの?」

 今日の話の流れが分からなかったため、今日は誰とも約束せずに帰りのショートホームルームが終わった後に直接、職員室へと赴いていた。だから、今日はこの後、一人で帰るだけだと思っていたのだが、どうやら予定とは違った方向になりそうだった。

「うん、だって、ショウくん誰とも約束していなかったでしょ? だから、一緒に帰られるかな? って、思ったから」

 僕の問いに答えてくれたのはすずかちゃんだった。

 すずかちゃんは、最近、変わったように見える。いや、容姿や性格ではなく、態度が。ちょっと前までは、僕とアリサちゃんとすずかちゃんが集まるとアリサちゃんが中心になって話を進める事が多かったのだが、今ではすずかちゃんが中心になる事も半々ぐらいだ。さらに、休日などに図書館や雑貨屋へ行こうと誘われる。これが、アリサちゃんも一緒なら問題はないのだが、僕と二人だけの場合がほとんどだ。

 これらの態度が変わったことや今までを加味すると、どうやらすずかちゃんが、僕に吸血鬼の事がバレて、浮かれているかもしれない、なんて考えは木っ端微塵に砕けたと考えていいだろう。アリサちゃんと話してると明らかに間に入るような行動も見て取れる。ここまで露骨に行動されて、気づかないほど鈍感ではないつもりだ。

 自惚れでもなければ、多分、すずかちゃんは僕のことを好きなのだろう。初恋だと考えてもいいのだろうか。しかしながら、思い出せば、たぶん、なのはちゃんも似たような想いを抱いていると考えると、僕のどこがいいんだろうか? と思ってしまう。

 それはともかく、すずかちゃんへの対策は、なのはちゃんと同じく現状維持だ。なのはちゃんのときも考えたが、普通は僕たちの年代では『恋』を認識することはきわめて難しい。『好き』という言葉を簡単に口に出せる年代だ。もう少し年上になれば、簡単に口に出せるほど軽い言葉ではなくなるだろう。

 さて、ここで奇妙なのは、すずかちゃんの行動だ。なのはちゃんも同じような想いを抱いているはず―――これで間違いだったら恥ずかしいことこの上ないが―――なのに、すずかちゃんは、まるで中学生や高校生のような態度を取ってくる。僕たちの年代であれば、自分で自己完結するか、あるいは、友達に話すぐらいで、交際という段階まで持っていくことは稀だ。たとえ、あったとしても、言い方は悪いが、『ごっこ』になってしまうことは仕方ないだろう。そこまで、心も体も成長していないのだから。

 ならば、すずかちゃんとなのはちゃんの態度が異なるのはなぜか? たぶん、すずかちゃんに入れ知恵をした人間がいるはずだ。そして、僕はその人間に心当たりがある。すずかちゃんの姉―――忍さんだ。すずかちゃんの家にお茶会に行ったとき、本人から直接聞いた話だが、最近、恭也さんと男女交際を始めたようだ。それは素直に『おめでとうございます』お祝いの言葉を言う事ができるのだが、妹にまで入れ知恵をしないで欲しいと思った。

 もっとも、忍さんの性格から考えると、妹を本気で案じているのか、遊んでいるのか分からないところがあるが。忍さんだって分かっているはずだ。いくら、同年代よりも大人びた態度を取る事ができる僕でも、普通に考えれば、男の子である僕が―――通常、精神年齢や心の早熟というのは、女の子のほうが早い―――『恋』などできるはずがない、と。いくらすずかちゃんが頑張ってもハムスターの車輪のようにからからと空回りするだけ、だということに。

 それでも、諦めないのは、いつもの態度から僕が『恋』できると感じているか、あるいは、ありえない話であるが、僕が二十歳の精神年齢をしていることに気づいているか、ということである。前者は少しだけ可能性があるかもしれないが、いくらなんでも後者はありえないだろう。

 どちらにしても、現状は、すずかちゃんの好意には気づかないことにする、という方針は変わらない。確かに、すずかちゃんからの好意は嬉しいが、それは、例えば、アリシアちゃんに『お兄ちゃん、好きっ!』といわれるのと大して代わりはない。そもそも、二十歳の精神年齢を持っている僕がすずかちゃんに本気で恋などできるはずがない。だから、現状維持なのだ。

「って、あれ? ショウ、何持ってるのよ?」

 すずかちゃんに、そうだね、一緒に帰ろうか、と話したところで、不意にアリサちゃんが僕の脇に抱えている小冊子たちに気づいたようだった。

「ああ、これ? 編入の手続きのための書類だよ」

 別に隠すようなものではなかったため、あっさりと答えたのだが、僕が正直に答えた瞬間、アリサちゃんとすずかちゃんの顔色がさっ、と変わった。何か変な事を言っただろうか? と自分の発言を鑑みるが、別に変な事を言ったつもりはない。分からない僕は、どうしたの? と尋ねる前にアリサちゃんとすずかちゃんが詰め寄ってきた。アリサちゃんにいたっては、僕の肩を掴むほどだ。驚く僕を余所に、アリサちゃんたちは慌てた様子で口を開いていた。

「ちょっと! ショウ、どっかに転校するのっ!?」

「ショウくん、転校するのっ!?」

 ああ、なるほど。

 僕は、アリサちゃんたちの疑問を聞いて、ようやく彼女達が何を言いたいかを把握した。つまり、アリシアちゃん用の編入手続きを僕のと勘違いして、僕が聖祥大付属小から転校すると勘違いしたわけだ。ああ、そういえば、確かにアリサちゃんたちはアリシアちゃんのことを知らないのだから、編入といわれたら、僕のものと勘違いするのも無理もない話だ。

 しかし、勘違いと分かっている僕は、失礼な話だが、アリサちゃんたちの本気で焦っている顔を見ると思わず笑いがこみ上げてくる。

「何笑ってるのよっ!」

「ご、ごめん。違うんだ。これは、僕のじゃないんだよ。これは、僕の妹の編入用の書類だよ」

 僕の話を聞いて、妹の存在を初めて知ったであろうアリサちゃんとすずかちゃんは、目をパチクリさせて驚くばかり。まあ、それもそうだろう。弟のアキの存在は知っていただろうが、妹の存在は知らず、さらには編入というのだから。

「ちょ、ちょっと! どういうことよっ! アキ以外に知らないわよっ!!」

 案の定、アリサちゃんが吼えた。ここで説明しても別に構わないのだが、それでは時間がかかる。なにより、少し込み入った事情なのだ。さて、どうしようか? と考えたところで、いい案が浮かんだ。要するに百聞は一見にしかずなのだ。

「ねえ、今から僕の家に来ない?」

 僕の提案にアリサちゃんとすずかちゃんは顔を見合わせて首をかしげるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 聖祥大付属小から僕の家の帰り道で、僕はアリシアちゃんについて先生に説明したのと同程度の説明をアリサちゃんとすずかちゃんにした。アリサちゃんもすずかちゃんも、僕の話をまるで信じられず、胡散臭そうな目で見ていたが、何度も言うことでとりあえずは納得してくれたようだ。まあ、無理もない。よくよく考えれば、どこの小説の話だ? というほどの話なのだから。もっとも、本当は、魔法などが絡んでくるためもっとファンシーな話になるのだが、そこまでは説明できなかった。

 そんなことを話していると、僕の家の前に着いた。僕が先導するような形で僕は、ただいま~、という言葉とともにドアを開いた。その後に続く、お邪魔します、というアリサちゃんとすずかちゃんの声。それを確認しながら、靴を脱いでいると、リビングのほうから聞こえてくるドタドタと廊下を駆けてくる音が聞こえる。こんなに走るのは誰だ? と考えるまでもない。この家には、そんな人物は一人しかいないからだ。

「お兄ちゃんっ! おかえりっ!」

「おっと」

 流れるような金髪をツインテールにして、翻しながら駆け込んできた速度そのままで僕にぶつかるように抱きついてくるアリシアちゃん。どうやら、温泉に旅行に行ったときからこれが気に入っているのか、僕が帰ってきたときは、抱きついてくる事が多くなった。僕としては、質量がほぼ同じのアリシアちゃんが抱きついてくるのはかなり苦しいものがあるのだが。そこは、兄としての威厳のために耐えるようにしている。

 いつものように抱きついてきたアリシアちゃんを離していると不意に背後から視線を感じた。ああ、そうだ。アリシアちゃんを二人に紹介しないといけないな。

「ほら、アリシアちゃん、僕の友―――親友のアリサちゃんとすずかちゃんだよ」

 途中で、アリサちゃんのきつい視線を浴びて言い換えながら、僕はアリシアちゃんにも自己紹介するように彼女達の前に出すのだが、途中で、怯えたように僕の服を掴んで隠れるように背中に回ってしまった。

「え? あ、アリシアちゃん?」

 こんな態度のアリシアちゃんは初めてだったため、動揺してしまったが、もしかして、アリシアちゃんって人見知りするのだろうか? そういえば、家族以外に紹介するのは初めてだ。だから、アリシアちゃんが人見知りをするなんて考えた事がなかった。これは、二重の意味で都合が悪い。目の前のアリサちゃんとすずかちゃんの視線も不味いし、これから学校に行こうというのに人見知りのままでは困るからだ。

 だから、僕は心を鬼にして、アリシアちゃんを背後から肩を掴んで無理矢理僕の前に持ってくる。その際、僕の友達だから大丈夫と囁きながら。僕の言葉にどれだけ効果があったか分からないが、ちょっとだけ僕を見た後、まっすぐアリサちゃんとすずかちゃんを見ることはできずに下を向いていたが、それでも絞り出すような声を出した。

「く、蔵元アリシア……です。……………よろしく」

 自己紹介というには足りず、自分の名前と最後にとってつけたような挨拶を言っただけだが、それでアリシアちゃんとしては、限界だったのだろう。それ以上、何か言葉を口にするようなことはなかった。

 二人の反応はどうかな? と見てみると、最初に動いたのは、すずかちゃんだった。

「アリシアちゃん……でいいかな? 私は、月村すずかよ。ショウくん―――あなたのお兄さんの友達よ」

 まるでアリシアちゃんを安心させるような声で、すずかちゃんが一歩出てきてアリシアちゃんに自己紹介する。すずかちゃんの優しい声は、アリシアちゃんの人見知りに効果があったのか、少しだけ顔を上げて、すずかちゃんをちょっと見るとコクン、と頷いた。

「ああっ! もうっ! 暗いわねっ! あたしはそういうの嫌いなのっ! あたしは、アリサ・バニングスよ。ショウの親友なんだからっ!」

「う、うん」

 無理矢理、顔を持ってきて真正面から見るアリサちゃん。多少、いや、かなり強引だが、こういうほうがいいのだろうか? すずかちゃんの優しい笑顔とアリサちゃんの強引な前の向かせ方。僕にはどちらが良いのか分からなかったが、とりあえず、自己紹介は済んだようだった。

「それじゃ、リビングに行こうか」

 自己紹介が済んだ後は、いつまでも玄関にいる必要などない。それよりも、座って話をしたほうが良いだろう、と判断した僕は、アリシアちゃんたちを連れてリビングへと向かう。リビングのテーブルの上には、アリシアちゃんが勉強をしていたのか、社会の教科書とドリルとノートが広げられており、向こうにある台所では、母さんが晩御飯の準備をしていた。アルフさんは見かけなかったが、おそらく、子ども部屋でアキの子守でもしているのだろう。………最初に話す言葉が、アルフさんを見て、『ママ』だったら、母さんショック受けるだろうな。

 そんなくだらないことを考えていると、母さんが僕たちに気づいたのか振り返った。

「あら、ショウちゃん、おかえりなさい。って、今日はずいぶん華やかね」

 おそらく、後ろのアリサちゃんとすずかちゃんのことを言っているのだろう。母さんに見られた二人は頭を下げて、お邪魔します、と頭を軽く下げる。この辺りは、さすが、資産家の子どもなだけあってしつけが行き届いてるな、と思う。そんな二人に、はい、いらっしゃい、というと、台所にある食器棚からグラスを四つ取り出す。

「オレンジジュースでいいかしら?」

 どうやら、飲み物を入れてくれるらしかった。何かを話すにしても飲み物は欲しいと思っていたところだ。実に有り難い提案だった。だから、僕はお願い、と言い、アリサちゃんたちは、ありがとうございます、というと再び頭を下げていた。

 さて、と僕はいつもの定位置―――アリシアちゃんの隣―――に腰を下ろすと、忘れないうちに伝えておこうと思っていたことをアリシアちゃんと母さんに伝えることにした。

「ねえ、母さん、アリシアちゃん。聖祥大小の編入は大丈夫だって」

「あら、そうなの。よかったわね、アリシアちゃん」

「うん、やった~っ! これで、お兄ちゃんと一緒に学校に行って、同じクラスで勉強できるっ!」

 母さんは、少しだけでも編入のルールを知っているのか、僕から大丈夫という言葉を聞くと意外そうな顔をしていたが、すぐに微笑みに代わり、アリシアちゃんは、近くにアリサちゃんとすずかちゃんがいるのを忘れてしまうほど嬉しかったのだろうか、いつもどおりの態度で学校にいけることを喜んでいた。

「でも、同じクラスになるか、分からないわよ?」

 アリシアちゃんが喜んだ内容に釘を刺すように言うアリサちゃん。確かにアリサちゃんが言うことは正論だ。僕と同じ学年とはいえ、同じクラスになるとは限らない。確かに現時点で聖祥大小への合格は間違いないと思う。算数、国語、理科、社会の四教科が試験科目であるが、それらに関していえば、算数と理科は満点が取れると思うから、後は、国語と社会だが、これが、流石に二年分となると大変だ。特に社会は、文字通り世界が違うところから来たのだから、ゼロから覚えなおしだ。編入試験までにどこまで覚えられるか、僕にはまったく分からなかった。

「え……そうなの? お兄ちゃん」

 アリサちゃんの言葉を聞いたアリシアちゃんは、先ほどまでの喜びが嘘のように少し沈んだ声で、僕に確認してくる。ここで嘘を言って同じクラスになれなかったら、おそらくアリシアちゃんの落ち込みは、最底辺まで落ちてしまうのではないだろうか、と考えた僕は正直に言うことにした。

「そう、だね。確かに同じクラスにはなれないかもしれないね」

 でも、学校にいけるからいいじゃないか、と口にしようと思ったのだが、その言葉を口に出すことはできず、アリシアちゃんの声に遮られることになった。

「そんな………お兄ちゃんと一緒じゃないと意味がないのに………お兄ちゃんと一緒じゃなきゃ……」

 その声は小さい声だったにも関わらず、全員に聞こえてしまうほど暗く、重く、沈んだ声だった。先ほどまでの喜びで溢れていたリビングとは打って変わって今度は、アリシアちゃんの空気に引きずられるように沈んだ空気が蔓延しそうになる。

「で、でも、クラスは、成績順だから、アリシアちゃんの編入試験の成績によっては、同じクラスになれるよ」

 暗くなった雰囲気を払拭するかのようにすずかちゃんのフォロー。確かに、他の小学校とは違って、僕たちの学校は、成績順のクラス編成になっている。公にはされていないものの、公然の秘密というやつである。だから、すずかちゃんの言うとおり、成績によっては、同じクラスにはなれるのだ。

 それは、僕も考えていた。しかし、僕と同じクラスになるためには、平均で九十点は欲しいところである。算数と理科は大丈夫だろう。しかし、国語と社会をそこまで持っていくことは難しいと僕は思う。だから、僕はたぶん、なのはちゃんと同じクラスである隣の第二学級になると思っていた。もしも、アリシアちゃんがそのクラスになったときは、なのはちゃんと友達になってくれるかも、と考えていたのも事実だ。

「よしっ! そんなにショウと同じクラスになりたいなら、あたしが勉強を教えてあげるわっ!」

「えっ!?」

 少し驚いた様子のアリシアちゃん。当たり前だ。つい先ほどまで他人だったアリサちゃんからそんな言葉が出れば、驚きもする。しかし、アリサちゃんは、別の方向に取ったらしい。

「なによ、信じられないっていうの? あたしは、これでもショウの次の二番手の成績よ」

 といっても、本当に僅差だ。小学校の問題では、四教科で、一問か二問程度の差しかないのが困る。小学校で気が抜けない事態になろうとは、予想もしていなかった。これが、塾のハイレベルになると流石に余裕ができてくるのだが。

「だったら、私もお手伝いしようかな」

 次に名乗りを上げたのは、すずかちゃんだ。すずかちゃんも第一学級に安定してなれるほどに成績はいい。おそらく十手の中には入っているだろう。すずかちゃんはアリシアちゃんと逆で算数が少しだけ苦手なのだ。それさえ治せば、一気に順位が上がることは間違いない。

「うん、それじゃ、アリシアちゃん、お願いしてみたら?」

 どうしよう? というような視線を送ってきたので、僕は、彼女達の申し出を快諾するように言葉を促す。たぶん、僕がやっても同じような形になるだろう。しかし、それではせっかくアリシアちゃんに友達ができそうな機会をきってしまうことになる。それに、学校に編入する前に人になれる必要があるだろう。最初は、手近な人になってしまうが、仕方ない。いきなり見知らぬ人の中に放り込まれるよりもましだろう。

「さあ、ショウの許可は貰ったし、ビシバシいくわよっ!」

「アリサちゃん、あんまり厳しくしちゃダメだよ」

「あらあら、楽しそうね」

 僕の許可を貰ったことでアリシアちゃんも快諾したと思ったのか、張り切る、いや、張り切りすぎるアリサちゃん。アリサちゃんの行動を微笑みながら、とめようとするすずかちゃん。そして、急な事態に目を白黒させながらも必死についていこうとしているアリシアちゃん。しっちゃかめっちゃかな状況におっとりとした微笑とともにオレンジジュースが入ったグラスを四つ、お盆に入れて持ってくる母さん。

 そんな状況を僕は、苦笑と共に見守るのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アリシアちゃんの編入願いを出して、二週間が経とうとしていた。

「今日は、面白いお知らせがある」

 朝のショートホームルームの最中、不意に先生がそんな言い方で切り出してきた。同級生達は、なんだろう? と困惑の表情を浮かべていたが、大人しく先生の続きを待つようにしたようだ。

「今日から、新しい友達が一緒に勉強することになった」

 そう転入生の紹介だ。さて、ココまで来て、誰が来た? と騒ぐ僕ではない。もっとも、周りはそうではなく、ガヤガヤと騒ぐことになってしまったが、それも先生が手を叩くまでだ。パンパンと手を叩くと途端に静かになる教室。それを満足そうに見渡しながら先生は、入り口に向かって声をかける。

「入っておいでっ!」

 その声と同時にドアが開く。教室の誰もがそこに注目する。教室の入り口を開けてまず最初に目に入ったのは、このクラスには一人だけいる彼女と一緒の流れる金髪。それを大きなリボンでツインテールにしている。次は、その小さいながらも整った顔立ち。確かに可愛い女の子が多いクラスではあるが、それでも頭一つは抜き出ているといってもいいだろう。身内の贔屓目を抜いてもそれは間違いないと思う。現に、クラスの何人かは、ぼ~っと呆けた顔をしていることだし。包まれている服は聖祥大付属小の白い制服。それが、彼女には実に似合っていた。

 入ってきた彼女が教卓の隣に立つと、先生は黒板の高い位置に名前を書く。彼女が直接書かないのは、身長が届かないからだろう。

『蔵元アリシア』

 和名と西洋の名前が入ったちょっと違和感を覚える名前が黒板に書かれる。と同時に僕にも視線が集まる。当たり前だ。同じ苗字をしているのだから。だが、それは仕方ない。なぜなら、彼女は僕の妹なのだから。

 そう、アリシアちゃんは先週の土曜日と日曜日に行われた四教科と面接の編入試験に合格した。もっとも、面接は最低限の確認のみで大半は、四教科の試験のみで九割決まってしまうらしいが。その面接試験の後に聞いたのだが、どうやらアリシアちゃんは少しだけ国語と社会の点数のせいで第一学級になれる点数には足りなかったらしい。しかし、かなり高等な問題が入っているはずの算数と理科で満点を取ったため、アリシアちゃんの成績を伸ばすためには、第二学級では力不足ということで第一学級に編入という形になったらしい。

 アリサちゃんのスパルタとすずかちゃんと優しい授業は無駄にはならなかったようだ。本当に足りなかったのは一部で、それ以上だったら、さすがに第一学級にはできなかったという話だから。

 さて、教卓の隣に立ったアリシアちゃんはその整った顔を不安そうにしていた。アリシアちゃんは、人見知りをしているのだから仕方ないのかもしれないが。一緒に勉強している時間が長かったおかげもあるのかアリサちゃんとすずかちゃんとは、割と普通に話す事ができるようになったアリシアちゃんだが、やはりこうして赤の他人の前にくると不安になるらしい。よくよく見ると今にも涙がこぼれるかもしれない、というほどに目が潤んでいるようにも見える。

 しかし、それも意を決してクラスを見渡した瞬間なくなった。その潤んでいたはずの視線は、まっすぐと僕を捕らえていた。先ほどまで不安一色だった表情に笑顔が浮かぶ。そして、嬉々とした声で口を開いた。

「あっ! お兄ちゃんっ! 私、同じクラスになれたよっ!!」

 ぶんぶん、と大きく手を振るアリシアちゃん。

 うん、嬉しいのは分かる。分かるけど、それは休み時間とかにして欲しかった。今は、自己紹介の最中で、注目するのは僕だけじゃないのに。

 しかし、そんな僕の心の願いが届くはずもなく、アリシアちゃんは、何か悪いことした? といわんばかりに小首をかしげ、同世代の女の子がお兄ちゃんと呼ぶことに違和感を持っている同級生が僕に疑惑の視線を向けてくる。いや、一部―――アリサちゃんは、ざまあみろというようなニヤニヤとした笑みを浮かべ、すずかちゃんは仕方ないなぁ、という笑みを浮かべていた。

 そんな中、僕にできることは、誤魔化すように、ははははと乾いた笑みを浮かべることだけで、その笑みを浮かべながら、これからもっと大変になるのかな? と心のどこかで確信するのだった。



つづく
*学校では、兄妹が同一クラスにならないなどの配慮をおこなっておりますが、作中の聖祥大付属小学校は、完全な成績順なので、翔太とアリシアは同じクラスになっております。
















あとがき
将を射んと欲すればまず馬を射よ



[15269] 第二十五話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/11/29 22:18



 アリサ・バニングスは、突然、親友である蔵元翔太によってもたらされた話に驚いていた。

 そもそも、アリサは、翔太に今日は何か用事があるのか、聞いて、もしも何もなければ一緒に帰ろうと思ったが、すでに翔太は教室から姿を消していた。もっとも、そのこと自体は別におかしく思う必要はなかった。彼は何か用事があれば、アリサたちに別れの挨拶だけを告げて、その用事へ向かうのだから。今日だって、すでに別れの挨拶は告げていた。だから、今日は何か用事があるのか、と諦めてもう一人の親友である月村すずかと一緒に帰ろうと思ったのが、彼女はそれを拒否した。

「え? どうしてよ? 何か用事があるの?」

「ううん、でも、ショウくん待ってようかな、と思って」

 すずかの返答にあれ? とアリサは思った。塾のときは一緒に帰るが、翔太がふらっ、と放課後に消えることは珍しいことではない。そのときは、もう既に別の場所へと向かっているはずだからだ。つまり、いくら待ったところで、翔太が戻ってくるはずがないのだ。

「待っても無駄じゃない? ショウなら、もうサッカーか、他の子のところにいってるんじゃない?」

 一年生か二年生のときであれば、翔太が他のところに遊びに行くといえば、サッカーがほとんどだったが、最近は、サッカーだけではなく、カードゲームや果ては、他の女の子と遊ぶことも多くなっていた。翔太の親友としては、他の子と遊ぶぐらいなら、自分達と遊べば良いのに、とは思うが、親友だからこそ翔太を束縛したいとは思っていなかった。

 翔太は、自分とは違って、たくさんの友達がいるのだから。それを考えると少しだけ胸が痛くなる。しかし、これでいいのだ。アリサからしてみれば、欲しいのは、たくさんの友人ではなく、二人の誇れる親友なのだから。

 だが、アリサの返答に対してすずかは、きょとんと首をかしげた。

「あれ? ショウくん、今日は誰とも約束してないから用事はないはずだよ」

「……なんで、そんなことすずかが知っているの?」

 翔太に直接聞いたなら分かるが、今日はほぼ一日アリサと一緒にすずかはいたのだ。翔太とも休み時間に話したが、その間に翔太の放課後の予定など話にあがっていなかった。つまり、アリサが聞いてないということは、すずかも知らないはずなのだ。

 しかし、アリサの疑問を聞いたすずかは、少しだけ考えるような仕草をした後、何かに納得したようにふ~ん、と呟いた。

「なによ?」

「別になんでもないよ」

 すずかの呟きの裏に含んだものを感じたアリサは、問いただそうとするが、それをすずかはいつもの柔らかい微笑で受け流していた。そのすずかの表情から、嘘だ、と直感的にアリサは思ったが、もう一度すずかの真意を問いただす前にすずかが身を翻し、教室から出て行こうとしたため、もう一度問いただすことはできなかった。

 先ほどのすずかの態度に不安を覚える。自分が理解できない何かが含まれているような気がして。だが、今はそれを考えている時間はなかった。こうしている間にもすずかは教室の入り口で自分を待っているのだから。たぶん、自分の気のせいだろう、と先ほど感じたものを棚上げして、待ちなさいよっ! と声を上げて、自分の鞄を引っつかんでアリサはすずかの元へと向かった。

 すずかと共に下足場へと向かったアリサは、その場で翔太が来るのを待つことにした。いつもなら、他愛もない話に花を咲かせているところだが、先ほど感じた違和感がどうにも会話を楽しませない。結果、無言のまま、壁に背中を預けた状態で、翔太を待つことになってしまった。

 考えてみれば、最近のすずかは少し前とは態度が異なる。温泉旅行から帰ってきて以来、休日にすずかと翔太が自分抜きで一緒に遊ぶ機会が多くなっているような気がする。週明けの月曜日に会話の中で最初に聞いたときは仲間はずれにされたようで、酷くショックを受けてしまったものだ。

 その後、当然、どうして、自分も誘ってくれなかったのか? とすずかと翔太に詰め寄れば、きょとんとした顔をして、行った場所が図書館だから、と返されるのだから、文句の言いようもない。

 確かに、すずかや翔太たちのように本を読むことを趣味にしていないアリサがあんな本に囲まれた場所に行っても面白くない。それどころか、無数の本に囲まれて楽しそうに読みたい本を選別する二人の邪魔をしてしまうだろう。現に一度、すずかと一緒に図書館に行ったときは、すずかがあれもこれも、と選ぶものだから、いつまで選んでるのよっ! と怒ってしまい、困ったような表情で、すずかに切り上げさせてしまった過去もあるのだから。

 それを考えると、むむむ、と唸ってしまう。確かに仕方ないかもしれない。理屈の上では納得している。しかし、感情が納得できない。すずかと翔太が二人で出かけているのに、自分だけが誘われないなんて、納得できるはずもない。だから、次は、三人でどこかに出かけようと約束して、その場は解散となっていた。

 しかし、その約束はまだ果たされていない。それどころか、先週もすずかは、どうやらまた翔太と一緒に図書館に行ったようである。すずかに言わせれば、読み終わった本を返すため、ということらしい。翔太がそれに加わったのは、誘ってみたところ、翔太も本を読み終わっていたからだ、と。筋は通っている、通っているが、どこか釈然としない。

 隣でどこか、ワクワクしながら嬉しそうに待つ親友が考えている事が、最近分からないアリサだった。

 さて、待つこと十分程度だろうか、すっかり放課後の時間を過ぎてしまった人気のない廊下を職員室のほうから歩いてくる人影が見えた。よくよく確認しなくてもその人影が翔太だということは、直感的に理解できた。

「遅いじゃないっ!」

 すずかの奇妙な態度に対する不安と本当に翔太が来たことへの驚きと苛立ちに思わず声を荒げてしまったのは仕方ないことだろう。もっとも、アリサが声を荒げることは珍しいことではないためか、翔太は、少し驚いたような顔はしたものの、不快な顔一つすることなく、笑って受け流していた。

「あれ? 待っててくれたの?」

 やはり、翔太は誰にも放課後の予定を言っていなかったのだろう。だからこそ、ここで待っていた自分達を不思議そうな表情で見ていた。すずかが待つって言ったから、と答えようとしたアリサだったが、その前にすぅ、と前に出てきたのは、隣にいたはずのすずかだった。

「うん、だって、ショウくん誰とも約束していなかったでしょ? だから、一緒に帰られるかな? って、思ったから」

 割り込むような形で入ってきたすずかは、どこか嬉しそうに翔太に近づく。割り込まれたようで面白くないアリサだったが、どちらにしても答えることは一緒だったため、まあ、いっか、と流すことにした。それよりも、気になるものがアリサの目に入ってきたからだ。

「って、あれ? ショウ、何持ってるのよ?」

 翔太の右手に持っている抱えられたいくつかの小冊子だ。残念ながら、アリサの位置からは小冊子のタイトルは見えることなく、内容までは伺えなかった。それは、ちょっとした好奇心だった。どうせ、明日にでも配られるものを翔太が先に手に入れたとか、そんなものだろう、と。だからこそ、次に何気なく翔太の口からもたらされた答えは、アリサに衝撃を与えた。

「ああ、これ? 編入の手続きのための書類だよ」

 ―――編入?

 最初、アリサは、翔太が言った言葉の意味を理解できなかった。しかし、それも一瞬だ。アリサの優秀な頭脳は次の瞬間には必死に頭を動かしていた。そして、編入という言葉の意味を正しく理解した瞬間、アリサの背中にゾクッと冷たい何かが走った。その正体は、途方もない不安と恐怖だ。

 アリサが望んでいるのは、すずかと翔太とアリサがずっと一緒にいる現実と未来だけだ。そこから、誰かが欠けることなど考えていない。考えたくもない。だが、翔太の一言によって、その考えが誘引された。翔太が目の前から消えてしまうかもしれない未来。手を伸ばしても届かないかもしれない未来。ようやく手に入れた親友が消えてしまう未来。

 今まで考えるまでもなかった未来が、翔太の一言によって現実味を帯びたものをなってしまい、アリサの心の中は、不安と恐怖で一杯になってしまったのだ。

 だからこそ、慌てて、翔太に詰め寄ると思わず肩を掴んでしまった。しかし、それを悪い、と思う暇もなくアリサは慌てて真意を確かめようと問い詰めるような強い口調で言葉を口にしてしまう。

「ちょっと! ショウ、どっかに転校するのっ!?」

「ショウくん、転校するのっ!?」

 アリサの視界には入っていなかったが、それはすずかも一緒だったのかもしれない。アリサと同様に慌てた様子で翔太に詰め寄っていた。

 しかし、そんな二人の心配を余所に翔太は、最初は、どうしてアリサとすずかが驚いているのか分からなかったのか、きょとんと呆けた顔をしていたが、やがて状況を理解したのか、笑いをかみ殺していた。

 ―――こっちは、こんなに不安なのにどうして笑えるのよっ!

「何笑ってるのよっ!」

 翔太が笑っている事が癇に障ったアリサは怒りをぶちまけるように怒鳴る。しかし、そこまでやってようやく分かったのか翔太は、申し訳なさそうな顔をして、ようやく口を開いた。

「ご、ごめん。違うんだ。これは、僕のじゃないんだよ。これは、僕の妹の編入用の書類だよ」

 先ほどからショウの言葉は不可解なものばかりだ、と翔太の言葉を理解したアリサは思った。確かにアリサは、翔太の弟である秋人の存在は知っている。首が座ったから、と家まで見に行った事もあるぐらいだ。しかし、妹の存在は知らない。いったい全体どういうことなんだろう? と翔太と問い詰めてみると、翔太は軽く考えた後で、妙案を思いついたといわんばかりに顔を輝かせて口を開いた。

「ねえ、今から僕の家に来ない?」

 説明もなしにどういうことだろうか? と思ったアリサだったが、説明は行く途中でおこない、実際に見たほうが早いという結論に達したため、アリサとすずかは、翔太の提案どおりに翔太の家に向かうことにした。

 翔太の家へと行く途中、アリサは翔太の口から見知らぬ妹について説明を受けた。しかしながら、いくら親友の翔太の口から利かされているとはいえ、内容は突拍子もないものだ。そこらへんの小説でも読んだほうがいいんじゃないだろうか、と思えるほどだ。しかし、翔太が意味もなく嘘を言うとは思えない。信じられないが、信じるしかないという感じである。

 そして、翔太が言葉が真実だったというのは、翔太の家について、彼の家にお邪魔したときに飛び込んできた少女を見たときに分かった。

 翔太が、ただいま、と口にするとほぼ同時に駆け込んでくる少女。彼女は、そのまま、まるでタックルの練習でもしているかのように翔太に突撃する。少女の姿を見た瞬間、アリサは、その姿に目を奪われた。彼女が可愛いから―――確かに世間一般からしてみれば、彼女は十二分に美少女に分類されるだろうが―――ではない。あまりに似ていたからだ。自分に。

 長い金髪をツインテールにして靡かせながら、黄色人種よりも白い手を伸ばして翔太に抱きつく彼女は、アリサと同じだということを教えるには十分な存在だった。

 そのアリサと同じ少女の名前は、蔵元アリシアというらしい。翔太の背後に隠れるようにして顔をだけを出しながら、彼女は、オドオドとした様子で、どこか頼りなく消え入るような声で自己紹介を行った。その暗い様子がアリサには、気に入らなかった。自分と同じような存在が、そんなに怯えたような、オドオドしているような表情をしている事が。

 ―――その姿が、もしかしたら、歩んでいたかもしれない自分の姿と被ってしまったから。

 だから、その暗さを吹き飛ばすように、アリシアに活を入れるように名乗る。

「ああっ! もうっ! 暗いわねっ! あたしはそういうの嫌いなのっ! あたしは、アリサ・バニングスよ。ショウの親友なんだからっ!」

 アリサは思わず、アリシアを無理矢理、前を向かせたが、それが正しいかどうか分からない。ただ、自分と同じような存在が下を向いて暗い表情をしている事が許せなかったのだ。多少強引でも前を向いたほうがいいはずだ。少なくても下を向いていても、目の前に広がっているかもしれない光には気づかないのだから。

 さて、自己紹介が終わった四人は、そのまま蔵元家へのリビングへと向かう。アリサがこの家に来たのは、初めてではない。もはや数えるのが億劫な程度には来ている。

 リビングでアリサを迎えてくれたのは、相変わらずふわふわした微笑を浮かべている翔太の母親だ。アリサは、翔太の母親の微笑が好きだった。すべてを包んでくれそうで、温かそうで。もちろん、アリサの母親である凛とした表情もカッコイイとも思うが。種類が違う二つの笑みに優劣はつけられそうにない。

 合計六人が座れるテーブルに翔太とアリシアが、すずかとアリサが隣り合って対面に座ると、翔太が編入の話をし、アリシアがそのことをアリシアが喜んでいた。しかしながら、アリサが、同じクラスになれるかどうか分からない、という発言から状況は一変した。してしまった、というべきか。

 先ほどまでは、無邪気に明るかった彼女の表情は、アリサの一言と翔太の肯定の一言の後にずぅん、と落ち込んだ表情で、ぶつぶつと呟くような小さな暗く重い声で言う。

「そんな………お兄ちゃんと一緒じゃないと意味がないのに………お兄ちゃんと一緒じゃなきゃ……」

 沈みきった重い声は、アリサの背筋をゾクッと凍らせるには十分な声だった。なぜなら、アリサには、アリシアが抱えている不安が理解できるから。アリサは、いつだって、テストが終わった後にはちらっ、とその考えが脳裏をよぎってしまう。

 万が一にでも解答欄がずれていたら、計算ミスをしていたら、他のみんなが自分よりもいい点数を取っていたら、何らかの要因によって自分の成績が下がってしまったら。それは翔太とすずかと別のクラスになることを意味している。そして、翔太とすずかと離れてしまったら、自分はきっと一人になってしまうだろう。翔太やすずかのような自分を受け入れてくれる稀有な友人が隣のクラスにも偶然にもいるなんて都合がよすぎる。

 だからこそ、アリサは点数が落ちないように必死に頑張っているのだが。

 だから、アリサはアリシアの不安が分かったし、自分と同じような存在である以上、力になってあげたいとも思った。よって、アリサがその言葉を口にしたのは無意識でもあり、必然でもあるのだろう。

「よしっ! そんなにショウと同じクラスになりたいなら、あたしが勉強を教えてあげるわっ!」

 翔太の妹であるというのであれば、アリサにとっても他人事ではない。なにより、自分と同じような容姿をしているアリシアが不安そうにしているのだ。どうしても自分と被ってしまい、それじゃ、頑張って、と放っておくことなんてできるはずもない。

 それに、アリサの提案にすずかも賛成したのだ。おそらく、明日からは、アリサとすずかでアリシアを鍛える日々が始まるだろう。場所はもちろん、蔵元家であるはずだ。ならば、そこに翔太がいることも間違いではないだろう。ならば、翔太とアリサ、すずかの三人が同じ場所にいる時間も増えるはずだ。一緒にいる時間が増えれば、きっと心の隅で感じている不安も違和感もきっと払拭して、楽しいものにしてくるはずだ。

 アリシアにどうやって、勉強を教えようか、と話し合っている中、アリサは明日からの勉強会に胸を躍らせるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかは、今の自分の感情をもてあましていた。

 姉の忍の助言によって自らの気持ちを自覚したのはいい。だが、しかしながら、そこからどうやって動いて良いのか分からなかった。姉は、『恋は戦争だ』なんていっていたが、アリサと殴りあうなんて訳にはいかない。そんなことをすれば、恋なんて感情は木っ端微塵に消し飛んでしまうだろう。

 分からないならば、聞けばいい。確かにすずかは、己の持つ血のせいで他人と積極的に交流しようとは思わなかったため、友人はそれでこそ、翔太とアリサぐらいしかいないが、恋に関しては、友人よりも頼りになる存在がいる。最近、恭也と交際を始めた忍だ。いわば、彼女は戦争の勝者なのだ。ならば、どうすればいいのかなんて、簡単に分かるだろう。

 そう軽く考えて、忍にどうすればいいのか、聞いたすずかは、少しだけそのことを後悔した。

 確かに忍の話はすずかにとって必要ないろはが揃っているだろう。しかし、間に入る忍の彼氏である恭也の自慢話というか、彼がいかにカッコイイのかということを語る時間をもう少しだけ短くしてくれれば、すずかにとってすべてが有意義な時間になっただろう。ちなみに、忍の話の後、疲れた様子を見せていたら、ファリンが、忍の話は惚気話というらしい。

 忍の話の中で惚気話は、すずかから多大な体力を奪っていたが、それでも得られたものは少なくない。少なくとも、どうやって恋というものを戦い抜けばいいのかぐらいは、分かった。

 まず、大事なことは二人の時間を増やすことだ。忍はデートと言っていたが、その定義は実に難しい。男女の二人で遊びに行くことと定義する人もいれば、恋仲の男女が行くこととも定義する人もいる。どうやら曖昧なものらしい。しかし、そこは、恋する乙女であるすずかだ。せめて自分ぐらいは、と少なくともすずかはデートのつもりで翔太を図書館へと二人だけで連れ出した。

 すずかが図書館をデート場所に選んだのには、理由がある。前々から翔太と一緒に図書館に行きたかったというのはうそではない。しかし、それ以上の理由としては、アリサだ。他の場所、例えば商店街へのウインドウショッピングなどを選択すれば、きっとアリサが勘ぐってくるだろう。どうして、自分を誘わなかったのか、と。翔太とアリサがキスをするような仲であれば、当然だ。

 しかしながら、図書館であれば、その構図は少しだけ変わる。少なくとも図書館の中では、静かにというのが不文律だ。だが、アリサはそんなに静かにしているような性質ではない。長時間、図書館の静寂には耐えられないだろう。これが、翔太とすずかとなれば、話は異なる。翔太もすずかも本を読むのは半ば趣味のようなものだ。いくらでも時間は潰せる。場所が図書館というだけでアリサを誘わない理由としては十分なのだ。だからこそ、すずかは翔太とのデートには図書館を選んだ。

 翔太との図書館は、すずかが思い描いていたものよりもずっと素敵なものだった。

 自分がお勧めの本を翔太に勧め、翔太もお勧めの本をすずかに勧める。お互いに読んだ本があれば、この本は面白かった。あのシーンが面白かった。タイトルだけで選んでみたら、面白くなかった、など話題に尽きることはない。しかも、先ほど述べたように図書館では静かにが不文律だ。自然と声は小声になるため、お互いに顔を寄せて話すことになる。それは、少しだけ動けば、あの日の夜のアリサと翔太と同じように唇が重なるような距離。ドキドキしない方がおかしかった。ただ、翔太が平然としていたのが、気にいらなかったが。

 すずかが、翔太への恋心を自覚して、少しだけ翔太の印象が変わった。彼がすずかに向かって笑ってくれると嬉しいし、もっと、その笑顔を見てみたいと思う。温泉で貰ったアクセサリーをつけていて、可愛いよ、といわれたときは、どきんと心臓が跳ねたのではないか、というほどにドキドキしたし、彼の一挙一動が気になって仕方ない。

 すずかは、恋という感情に底なし沼のようにずぶずぶと沈んでいくのを自覚しながらも、それを心地よいとも感じていた。

 しかしながら、恋心は、そんな嬉しい感情だけをすずかに与えてはくれなかった。

 前までは、翔太がどんな女の子と話していようとも、気にならなかったが、今はではいちいち気になるようになっていた。クラスメイトの女の子と嬉しそうに歓談しているだけで、ムカッ、としてしまうのだ。そんな子と話さないで自分ともっと話して欲しいと思ってしまう。

 もちろん、そんなことをすれば、翔太から嫌われることは目に見えているので、ぐっと我慢しているが、我慢すればするほど、心の中で今のすずかには分からない何かが溜まっていくような気がするのだ。もっとも、それは、翔太と二人だけで話をすれば綺麗さっぱり消えてしまうのだが。

 それは、たとえ、相手がアリサでも同じようになってしまう。いや、翔太とアリサの関係を知っているだけに、クラスメイトの有象無象の女の子とは不安は比べ物にならないが。しかし、それを表には出さない。出せない。少なくとも、アリサはすずかにとって得がたい友人であることは間違いないのだから。

 さて、そんな日々を送っているすずかは、現在、翔太を下足場で待っていた。今日は、翔太が誰とも約束していない事が分かっていたからだ。

 しかし、隣で少しだけ苛立っている様子が伺えるアリサが気になった。翔太が用事がないことをどうして知っているのか? と尋ねてきたアリサだが、そんなものは、少しだけ翔太の様子を伺っていれば分かることである。

 誰かと用事がある場合、翔太はその用事がある相手と一緒に外に出る。男の子であれば、サッカーである事が大半だし、女の子と一緒であれば、そのグループの中の誰かの家にお邪魔したりするのだろう。時には、教室に残っていつまでも女の子と話していることもある。

 だが、今日に限っては、翔太は一人で外へと出た。一ヶ月前までなら、隣のクラスの高町なのはと会うのだろうか、と思っていたが、あれから高町なのはとは一週間に一回ほどの頻度で会っているが、それは決められた曜日であり、それは今日ではなかった。もしも、何かしらの用事があるとすれば、誰かに言付けていくだけに翔太の用事は職員室かどこかで、一人であることは容易に想像できることである。

 そんなことにアリサが気づいていないとは思えない。自分でさえ、翔太の様子が気になって仕方なく、授業中でも気を抜けば、翔太のほうを見ている事があるのだ。すずかと同じ感情を抱いているであろうアリサが気にならないわけがないと思っていたが、違うのだろうか。

 もしかしたら、姉の言っていたことが本当かもしれない、とすずかは思った。姉の忍が語ったのは、あの恋心を自覚した次の日だっただろうか。アリサと翔太の二人が恋仲かもしれない、と姉に伝えたときの言葉だ。

「もしかしたら、あの二人、『恋愛ごっこ』かもしれないわよ」

「『恋愛ごっこ』?」

「そう、いくらあの二人が、子どもとは思えないほどに頭がよくてもまだ三年生だもの。恋を考えられるとは思わないわ。まあ、私達は、心身の早熟が早いから、ちょっと早いとは思うけど、すずかのことは間違いじゃないとは思うけど。で、話を戻すと、もしかしたら、恋愛というよりも、恋愛ごっこみたいな軽いものかもしれないわね」

 それだけを言うと、忍は、

「だとしたら、あなたにもまだまだ勝ち目はあるわよ」

 と茶目っ気たっぷりに言ってくれたものだ。

 もしかしたら、とは思うことはあっても、それをあまり本気にはしていなかった。本気にして、実は自分と似たように本当に恋愛について考えられていたら、目も当てられないからだ。少なくとも、アリサと翔太に関して言えば、自分と同じく規格外かもしれない、という考えは到底捨てられなかった。

 しかし、自分の恋心を自覚して、今のアリサの発言を聞いたすずかは、忍の言葉もあながち嘘ではないかもしれない、と思うようになっていた。いや、そうであってほしいと願っているのかもしれない。もっとも、断定するには、まだまだ、情報が足りないことも事実ではあるのだが。少なくとも希望は持てるようだ、とすずかは思った。

 さて、もしかしたら、翔太が転校するかもしれない、なんていう背筋が凍るような誤解によるハプニングはあったものの、翔太には妹がいる、という爆弾発言を受けて、蔵元家へと足を運んでいた。

 道すがら、翔太から妹発言の真意を説明してもらうが、なるほど、聞けば聞くほど、どこかの小説にでもなっていそうな物語だ。ヒロインは翔太の妹で、主人公は、翔太だろうか。小説であれば、そこから家族愛をテーマにした話に広がっていくも良し、義理の妹と兄が恋に落ちていく話に転がって行くも良しである。

 自らの恋心を自覚してからは、恋愛小説に嵌っているすずかからしてみれば、後者の物語を読みたいとも思うが、主人公が翔太でヒロインが妹では、なんとなく腹が立つ。もっとも、それは自らの想像であり、いくら腹を立てたところで意味のないものではあるのだが。

 そんな説明を受けているうちに、蔵元家へと到着した一行。いったい、いつ翔太の新しい妹とは会えるのだろうか、と思っていたが、翔太の妹との対面は意外と早かった。というよりも、到着してすぐだった。

 ただいま、と告げた翔太に突撃してくる一つの塊。その塊は翔太に抱きつくように飛びつく。最初は動いていたため分からなかったが、動きが止まれば、翔太をお兄ちゃんと呼ぶ人物の詳細が分かった。翔太の妹―――彼女の容姿は、すずかが想像してものとは、まったく違っていた。

 そう、翔太が妹というものだから、すずかは自然と極一般的な日本人の妹を想像していたのだ。だが、彼女の容姿はどちらかというとアリサのような白人に近い。しかも、夜の一族の血を色濃く継いでいるはずの自分の容姿に負けず劣らずの容姿だ。

 彼女の義理の妹と容姿に対してすずかの中の恋心が警鐘を鳴らす。彼女のような存在が、四六時中、妹として一緒にいるのだ。乙女としては警戒しないほうが無理だといえる。しかしながら、ここで敵愾心丸出しというのは、翔太の心証にいいとは到底思えない。何より、すずかとアリサを認識して、雨の中捨てられた子犬のように震える彼女―――蔵元アリシアに真正面から敵愾心丸出しで相対しようとは到底思えない。

 だから、怯えているような彼女を安心させるように優しい声で、しかし、どこか釘を刺すような言葉ですずかは声をかけた。

「アリシアちゃん……でいいかな? 私は、月村すずかよ。ショウくん―――あなたのお兄さんの友達よ」

 ここでアリシアと仲良くなることはメリットこそあれ、デメリットはない。むしろ、仲良くできないほうが問題だ。翔太が陰口を叩くとは思えないが、それでもアリシアが、もしもすずかのことを嫌って、それを翔太に言えば、すずかの印象は多少とはいえ、悪くなってしまうだろう。だから、すずかは、敵愾心はありませんよ、優しい声と微笑をアリシアに向けた。

 それに多少の効果はあったのだろう。アリシアは、まだ様子を伺うようだったが、それでもコクリと頷いてくれた。まだまだ、彼女の心を許してくれるような距離ではないようだが、少なくともその切っ掛けはつかめたと思うべきだろう。

 その後、アリサも多少乱暴な態度だったが、自己紹介を済ませ、全員で蔵元家のリビングへと向かう。まだ、アリシアは警戒心を解いていないのか、翔太に抱きつくような格好だ。いい加減にしろ、とは思うが、それを表には出せない。何せ翔太からみれば、アリシアは妹なのだから。少なくとも態度では、彼女を女の子として意識しているような仕草は見えなかった。それに少しだけ安心し、すずかは、リビングのテーブルに座る。

 翔太の母親に挨拶を交わし、しばし歓談のときという感じで、その話の中でアリシアの編入の話が出た。その話の中で、アリシアは、翔太と同じ教室になれることを望んでいるようだが、それは現実的ではない。普通の学校なら、可能性はあっただろうが、聖祥大付属小学校は、完全な成績順だからだ。

 しかし、アリシアは翔太と同じクラスになれない事がよほどショックだったのか、暗い声で俯いてしまう。その様子を見て、すずかは慌てて、フォローに回った。

「で、でも、クラスは、成績順だから、アリシアちゃんの編入試験の成績によっては、同じクラスになれるよ」

 しかし、そのフォローはあまり効果がなかったようだ。当然といえば、当然の話だ。翔太が所属しているのは、第一学級。三年生の中でもトップ三十人が集うクラスだ。そこに先日まで記憶喪失だった少女が入れるか、といわれれば、甚だ厳しいといわざるを得ないだろう。もしも、彼女が日本人で、言葉や文字が完璧なら話はことなるだろうが。

 さて、どうやってフォローしたものか、と思っていると突然、アリサが声を上げた。

「よしっ! そんなにショウと同じクラスになりたいなら、あたしが勉強を教えてあげるわっ!」

 アリサがどのような意図をもって、それを提案したのか分からないが、少なくともすずかにとって、それは良い考えであるように思えた。

 正直に言ってしまえば、アリシアが編入試験で、どのような成績になり、どのクラスに編入されようともあまり興味はない。確かに彼女の沈んだ表情を見ると可哀そうとは思うが、まさか試験を代わりに受けるなんてことができるはずもない。せいぜい、できるのは応援ぐらいだと思っていた。

 すずかが、アリサの考えを良いと思ったのは、その理由があれば、毎日、蔵元家へ来ても問題がなくなるからだ。いくら、すずかが翔太と友人とはいえ、簡単に家にお邪魔することはできない。しかし、この大義名分があれば、時間ができたときに翔太の家に来ても問題がなくなるのだ。ついでに、これで第一学級に編入できれば、翔太とアリシアの印象もよくなるに違いない。翔太の妹の印象というファクターがどのような影響を与えるか分からないが、少なくとも嫌われているよりも、いい印象をもたれたほうが、メリットは大きい。だから、すずかもアリサの考えに賛同するような声を上げていた。

「だったら、私もお手伝いしようかな」

 翔太の家に来る事ができるということは、翔太と一緒の時間が増えるということだ。それはすずかにとって願ってもないことであり、嬉しいことでもある。単なるクラスメイトでは、一緒にいられないような時間に翔太と一緒にいる事ができるのは、どこか一種の優越感を感じる事ができて、すずかは明日から日々が楽しみになるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、勉強の息抜き、とばかりに解いたばかりの問題集を閉じて、レイジングハートを片手に翔太につけているウォッチャーを起動させて、驚きのあまり、言葉を失った。

「……どう、して?」

 呆然となったなのはの口から出てくるのは疑問の声。

 なのはがウォッチャーを介して見たのは、なのはが黒い敵と呼ぶ忌々しくも翔太の妹という羨ましい地位に納まったフェイト―――もとい、アリシアと翔太の親友を自称している許しがたいアリサ、そして、翔太の血を吸うバケモノのくせにいけしゃあしゃあと翔太の隣に寄り添うすずかが、一つのテーブルを囲んで勉強している様子だった。

 アリシアが悩んでいるのか、すずかが隣で助言を行い、アリサは、どうしてわからないのよ~っ! とでも叫んでいるのだろうか、激昂しているように片手を振り上げている。その様子を自分も宿題なのだろうか、ノートを広げながら、苦笑と共に見守っている翔太の姿が映し出されていた。

 翔太と誰かが映っているだけなら、なのはここまで呆けることはなかっただろう。なぜなら、翔太の周りは、人で囲まれているから。なのはにとって、翔太がそうであることは当たり前のことだし、翔太ほどのいい子が人気者ではないはずがないので、それは許容範囲内だ。

 だが、だが、しかし、目の前の映像は、予想外だった。翔太と一緒の家に住んでいるだけでも、羨ましいと思えるのに、それどころか、アリシアは、翔太の親友を自称する女とバケモノの女とはいえ、まるで友達のように囲まれている。

 それは、間違いなく、なのはが小学校に入学する前に描いていた、二年前に諦める前まで描いていた絵と同じようなものだった。友達に囲まれて、楽しそうに笑いながら、時に泣いてもいい、それでも、友人と呼べる人たちと囲まれて何かをする。なのはが思い描きながらも実現できなかった絵だった。

 ―――あいつは敵なのにっ! 敵のくせにっ!!

 悔しさのあまり、血が出そうなほどに唇をかみ締める。なのは気づいていないかもしれないが、左手にもまるで、悔しさを耐えるかのように強い力が篭っていた。その目の前の光景に目を離せずいたなのはだったが、不意にバキッという音共に左手に鋭い痛みを感じる。

「あ……」

 あまりに強い力が篭りすぎたのだろうか、なのはの左手に握られたシャープペンシルは、握っているところから粉々になっていた。粉々になった際に鋭い破片で切ってしまったのだろうか、手の平にはいくつか小さく裂けた場所があり、そこから血が少しだけ流れていた。

 ―――どうして、私は……。

 思わず涙が流れそうになった。

 確かに、自分は蔵元翔太のようにいい子にはなれなかったかもしれない。だから、二年前のあの日にすべてを諦めた。今も翔太以外のすべてを諦めている。なのはにとっての友人は翔太だけで、なのはが憧れて、彼のようになりたいと願い、なれなかった彼だけが友人である事が奇跡なのだから。これ以上望むことは間違っている。

 今のなのはの心の中は、不安と悔しさと悲しさでささくれていた。なのはの心はギリギリだ。確かに翔太という安息を得てはいたが、ジュエルシード事件のときと比べると逢瀬の時間は短い。せいぜい、週に一回から二回の魔法の練習ぐらいだ。それ以外は、なのはは、魔法と勉強の時間に費やしていた。

 簡単に言うと翔太分が足りないのだ。あの翔太の隣にいるだけで、翔太と話しているだけで、得られる安息の時間が、心休まる時間が、心が満ち足りる時間が圧倒的に足りないのだ。それは、ジュエルシード事件を通して、翔太とほぼ四六時中一緒という時間を経験してしまったがためなのかもしれない。

 なのはは、片手に握っていたレイジングハートをいつもの定位置である桃色のハンカチの上に戻し、自然と自分の筆箱から一つの半分ほど使われた使いかけの消しゴムを取り出す。

「ショウくん……」

 その消しゴムを胸に抱く。この消しゴムは、翔太がなのはに勉強を教えるために来たときに、忘れていったものだ。それをなのはが、自分のものにして、自分の筆箱のなかに入れているのだ。もちろん、次の日に忘れていなかったか、と尋ねてきた翔太には、新品のものを渡している。最初は、渋っていたが、いいから、と無理矢理渡したのだ。それを翔太が使っていることをなのはは、ウォッチャーで確認済みである。自分がプレゼントしたものを大切に使ってくれているようで、それだけでなのはは嬉しくなる。

 なのはは、消しゴムを胸に抱いて、翔太があの指を這わせて使ったであろうことを想像して、少しでも、あの翔太の隣にいるときの空気を得ようとする。翔太が使っていたものが、今は自分の中にある。それだけで、少しでもあの空気を感じたいのだ。もちろん、本物に比べれば、微々たるものだが、今の光景を見せられたなのはの心のささくれた部分を治すには少しでもあの翔太分が必要だった。

 どのくらい、そうしていただろうか、目を瞑っていたなのはは、不意に目を開けて、「よしっ!」と気合を入れなおした。本当なら、いつまでも翔太が使っていた消しゴムを抱いていたかったが、消しゴムを使って翔太を感じれば、感じるほど、消しゴムに残った翔太の香りが減るような気がして、あまり多用はしたくないのだ。

 机の引き出しから、新しいシャープペンシルを取り出したなのはは、いつの間にか血が止まっている左手でシャープペンシルを握りなおし、再び宿題となっている問題集に目を落とす。来年こそ、来年こそは、ショウくんと一緒のクラスになるっ! となのはにとっては、大きな希望を抱きながら。

 その様子を、やはり机の隅にある桃色のハンカチの上からレイジングハートだけが見守っていた。



つづく



[15269] 第二十六話 起
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/12/26 22:32


 光陰矢のごとし、とはよく言ったものである。アリシアちゃんが、僕のクラスに編入してきてから早数ヶ月が過ぎようとしていた。

 意外と人見知りをする事が分かって、どうなることか、と心配していたが、僕の幼馴染の夏希ちゃんや桃香ちゃんの助けを借りて、どうにか女の子グループと対立することなく、クラスに溶け込むことに成功していた。もっとも、アリシアちゃんと一番、仲がいいグループになったのは、やはり、最初に一緒に居た時間が長かった事が幸いしたのか、アリサちゃんとすずかちゃんだったが。

 アリシアちゃんは、どちらかというと、すずかちゃんよりもアリサちゃんとの仲が良いように思える。アリシアちゃんは、物静かという感じではないから、アリサちゃんとフィーリングがあうのだろう。時折、休日には、アリサちゃんの家に行ったりもしているようだ。

 僕は、というと、あまり変わりはない。相変わらず、先生にはこき使われ、クラス内の諍いをとめたり、サッカーに興じたり、塾に行ったり、アリサちゃんの英会話教室を開いたり、すずかちゃんと図書館に行ったり、なのはちゃんと魔法の練習をするのも変わらなかった。

 息をつく暇もないような、そんな日々を過ごして、気がつけば、あっ、というまに小学生の一年間の中で最大のイベントである夏休みが目前に迫っていた。そして、目前に迫っていた、と思えば、すぐに夏休みになってしまうのは、僕が時間を確認するのが難しいほどに忙しいからだろうか。気がつけば、通知表を片手に一学期の授業を終えていた。

 あまりにあっさりとしすぎて、あ、今日から夏休みか、といつもと同じ時間に起きてカレンダーを確認した後にしみじみと思ったものだ。

 夏休みの過ごし方など、千差万別だろう。例えば、ひたすらに遊び、最後の一日か二日程度で宿題を終わらせる人、ついには宿題を終わらせずにいる人。最初に宿題を片付けてしまい、心置きなく遊ぶもの。

 僕は、一番最後のタイプだ。何か残っていると気分よく遊べないからだ。しかしながら、聖祥大付属小は、私立のレベルの高い学校だけあって、宿題の量が半端じゃない。僕が全力で、朝と夜に計画を立てて片付けたとしても、二週間は必要なほどだ。そんな宿題を僕は、時にアリサちゃんやすずかちゃんと、時にはアリシアちゃんと、時には隼人くんたちと一緒に片付けていた。

 もっとも、宿題だけをやるのでは夏休みの楽しみはないと同義だろう。宿題の合間に、僕は夏休みの楽しみである海やプール、縁日、花火大会などのイベントごとにも参加していた。

 さて、イベントや毎日、外などで遊んでいれば、意外なことにも過ぎ去っていく時間は早い。お盆に祖父、祖母の家に挨拶に行ったかと思えば、残る夏休みは半分を切っていた。

 クロノさんから連絡が入ったのは、後半分しかないのか、とカレンダーを見ながら、残り日数を数えているときだ。もちろん、連絡の内容は、夏休みに、と約束していた魔法世界へのご案内だ。主な目的は、そこで初級の魔法講座を受けることであるが。クロノさんの連絡によると、受け入れの態勢が整ったから、都合のいい日付を教えて欲しいとのことだった。

 もともと、クロノさんの世界へ行くことは、予定に入っていたため、夏休みの後半の予定は空いている。アリシアちゃんも予定は入れていないはずだ。母さんは、今のところは、専業主婦だからいつでもいいはず。残念ながら、親父は、二週間も休暇を取ることは許されず、今回はお留守番である。結局のところ、僕たちのほうは、都合はいつでもつけられる。その旨をクロノさんに伝えると、すぐに旅行日程が提示された。どうやら、あちらである程度考えてくれたらしい。

 魔法世界への旅行は二週間を予定。そのうち、魔法の初級講習は10日間だ。残りは、四月の事件の調書を取るためや観光に費やせるらしい。旅費に関しては、クロノさんたちがすべて請け負ってもらえるとのこと。あちらの世界のお金がないだけに有り難いことだった。

 すべての連絡事項を話し終えて、クロノさんとの通信を終えた。向こうからの迎えは、二日後の朝に来てくれるようだ。それまでに準備を整えなければならない。

 さて、なのはちゃんへの連絡や旅行の準備をしていれば、二日程度はすぐに過ぎる。

 そして、クロノさんから連絡があった二日後の朝。初めてクロノさんたちと遭遇した海鳴海浜公園が待ち合わせ場所だった。今、この場所に集っているのは、今回のメインである僕となのはちゃん、アリシアちゃん、アルフさん。保護者として、母さんと恭也さん。そのおまけとして、母さんに抱かれているアキ。そして、見送りとして、なのはちゃんのご両親、親父が海鳴海浜公園に集まっていた。

 四月のいつか、クロノさんが僕たちに話しかけてきた場所で、向こうから指定された時間になった途端、見覚えのある魔力光が扉のように円を描いて浮かび上がり、その中からクロノさんとリンディさんが姿を見せた。彼らの姿は、四月の事件の最中みた服装とは異なり、僕の近所のデパートで売っているようなカジュアルなものだ。

「やあ、久しぶりだね。元気だったかい」

「はい、お久しぶりです。クロノさんこそ、お元気でしたか」

 そんなありきたりな挨拶を交わしながら、僕とクロノさんは握手を交わす。よくよく見てみれば、母さんたちも同じようにリンディさんと挨拶を交わしており、保護者役のなのはちゃんの両親もリンディさんと話している。お互いに頭を下げているところを見ると、たぶん、「お世話になります」とか「よろしくお願いします」といったようなことなのだろうが。

 僕に続いてクロノさんは、なのはちゃんにも同様に手を差し出し、挨拶を交わしていたが、なのはちゃんは、ただ一言、不機嫌そうに「よろしく」と答えただけだった。クロノさんが不愉快そうな顔をせずに微笑みを浮かべていたのは、大人の余裕なのだろうか、なのはちゃんのつれない態度にも何も言うことはなかった。さらに続いて、最後にアリシアちゃんに挨拶と共に手を差し出したのだが、今度はなのはちゃんよりも露骨にクロノさんを避けて、僕を盾にするように背後に隠れる。やはり、初対面の人は苦手なようだ。

「えっと……翔太くん、彼女は」

「すいません、少し人見知りするんですが、母さんか、僕がいれば大丈夫ですから」

 少しの時間、一緒にいて相手が自分に害しないと分かれば、アリシアちゃんも警戒を解いてくれるのだが、その少しの時間は人によって異なる。すぐに仲良くなる人もいれば、一週間ぐらいで仲良くなる人もいる。だが、少なくとも近くに信頼できる人―――僕か、母さんがいれば、まったく口も開かず、警戒心むき出しということもない。

「アリシアちゃん、この人は、大丈夫だから」

 そういって、背中に隠れていたアリシアちゃんを正面に出すと、クロノさんは、もう一度、これから二週間よろしく、という言葉と共に片手を差し出した。それに対して、アリシアちゃんは、不安がるように僕とクロノさんを交互に視線を移し、やがて、おずおずと片手を差し出して、やや触れるか、という距離でクロノさんの手に一瞬だけ触れると、蚊の鳴くような声で「よろしく」と返していた。ちょっと気の短い人なら、不愉快そうな顔の一つでも取っていいのだろうが、クロノさんは、人が良いのか、「ああ、よろしく」と笑顔で返していた。

 その後は、他愛もないお互いの近状報告を行っていた。しかしながら、日常が事件に満ち溢れているわけではない。本当に他愛もない話をクロノさんとしていた。アリシアちゃんは、まだ警戒モードだし、なのはちゃんもどこか不機嫌そうで口を開きそうにないため、僕しか相手ができないというのが正直なところだ。

 さて、クロノさんの主な相手は、僕たち子どもだったようで、大人への対応はすべて、リンディさんに任せていたらしい。しかし、その対応もひと段落ついたのだろう。頃合を見て、「クロノ」と名前を呼んでリンディさんが僕たちの間に割り込んできた。

「それじゃ、行きましょうか」

 リンディさんのその声が、切っ掛けだったのだろう。自然と魔法世界へ行く人たちは、リンディさんとクロノさんの周りに集まり、留守番組は、自然と一歩距離を取ったような形になる。

「なのは、気をつけてね」

「恭也、なのはを頼んだぞ」

「母さん、翔太、アリシア、病気とかには気をつけるんだぞ」

 留守番組から口々に告げられる見送りの言葉に笑顔で、手を振りながら応えていた。それを微笑ましい表情で、見ていたリンディさんだったが、いつまでも別れを惜しんで時間を費やすわけにはいかない。だから、リンディさんは、頃合を見計らって一言だけ告げた。

「行きます」

 それが、僕たちを魔法世界へと誘う一言だった。



  ◇  ◇  ◇



 魔法世界への旅行。一体どうやっていくのだろうか、と二十歳という精神年齢をしていながらワクワクしたものだが、僕の期待を裏切るように魔法世界への道のりは実に簡易なものだった。アースラと同じく次元転送にて、クロノさんたちの職場である本局といわれる場所へと転送された。本局といわれるだけあって、その建物は非常に大きく、これが次元空間に浮かんでいるというのだから、僕の理解をはるかに超えていた。そこから、今度は映画で見たことあるような時限転送装置に乗せられて、また転移。どこかのビルのような建物に転送され、そのビルから一歩外を出れば、目的である魔法世界―――ミットチルダへの到着だった。

「これが……魔法世界か……」

 ビルの自動ドアから外に出た僕は感慨深く呟いた。

 おそらく、月に初めて足を踏み入れた人間は同じような感想を抱いたのだろうな、と勝手に想像した。もっとも、僕が踏んだ大地は、地球とほぼ同じなものではあるが。

「ショウくん、どうしたの?」

「ん、これが、魔法世界かぁ、ってね」

 僕より少しだけ遅れて出てきたなのはちゃんが、物珍しく風景を見ていた僕を見ながら尋ねてきたので、視線を移さず何気なしに答える。僕を見習ってか、彼女も僕と同じように辺りを見渡す。そして、一言ポツリと零す。

「あんまり海鳴と変わらないね」

 がくっ、と体を崩しそうな感想ではあるのだが、的を得ているのだから仕方ない。そこからの風景は、地球とほぼ変わらない。高いビルが乱立し、窓ガラスが太陽の光を反射している。しかし、さすが魔法世界、というべきだろうか、近年問題となっているヒートアイランド現象のような室外機による生ぬるい暑さを感じることはなかった。それどころか、日本の夏のようにじめっとした暑さではなく、からっとした暑さで、不意にそよぐ風が涼しさを感じさせてくれる。ただ、一つだけ大きく変わるとすれば、空だろう。いや、空が青ではなく紫をしているというわけではない。空に見えるのは、青に間違いない。しかしながら、その青の中に浮かぶ衛星の数が地球とは異なった。通常、昼の月ぐらいしか見えないが、魔法世界では、少々異なるようで、十を越える衛星を確認する事ができた。

 ついでに所要時間、わずか一時間で来られたことから考えても、次元転送という技術を知らなければ、目隠しされて近所に車で連れて行かれたといわれても不思議ではないだろう。地球人では初めて次元世界を超えて旅をしたにも関わらず実にあっけない旅路だった。

「さあ、全員揃ったわね」

 入国審査のようなものが全員終わったのだろうか、僕が一番最初だったから気がつけば全員が終わっていたようだ。一番最後にリンディさんと恭也さんが一緒にビルから出てきていた。

 旅行に行くときの着替え等々しかもって来ていないから問題はないだろうと思っていたのだが、恭也さんが税関のようなところで、小太刀が検査に引っかかったようだ。しかし、それ以外は大した問題もなく、無事に到着だ。ちなみに、恭也さんの小太刀はリンディさんとクロノさんの権限で没収されずに済んだらしい。その代わり、テープのようなもので封印されていたが。

 ミッドチルダに到着した僕たちは、まずは、二週間泊まることになる部屋へと移動することになった。僕やなのはちゃん、アリシアちゃんは、ボストンバックのようなもので、母さんや恭也さんは、キャスターバッグを転がしており、どこかに観光に行くにしてもまずは、荷物をどうにかしなければ、という話になったのだ。

 リンディさんとクロノさんの案内で、タクシーのような車に乗り込み、転移されてきたビルから三十分程度、走らせた後だろうか。僕たちを乗せた車は、大きなマンションのような建物の前で止まった。周りよりも一回り大きく、高級マンションであろうことは、容易に想像できた。

「こっちですよ」

 そのマンションの中に何の気概もなく入っていくリンディさんとクロノさん。しかし、心は小市民である僕や母さんは、本当にこんなところに入っていいのだろうか? とビクビクしながらマンションのセキュリティのかかった自動ドアをくぐる。それに比べて、恭也さんやなのはちゃんは、堂々とした立ち振る舞いだ。そして、アリシアちゃんやアルフさんは、おそらく、何も分かっていないのだろう。陽気に僕たちの後を着いてきていた。

 そのままリンディさんとクロノさんに誘導されるように連れて来られたのは、おそらく最上階に近い階の一室だ。その部屋に繋がるドアの前に立つと懐からカードを取り出し、スリットの部分にカードを通すとガチャっという音と共にドアが開く。

「さあ、どうぞ」

 そういって、中へと案内させられる。

「うわぁ……」

 おそらく、僕とアリシアちゃん、アルフさんの声が重なった。マンションに怖気づくこともなかった恭也さんも、これは、と零していた。それほどに、玄関から入ってすぐにあるリビングからみえる風景は、絶景だった。高い場所ということもあるのだろう。ミットチルダという場所が見渡せた。少し遠くには、海さえも見る事ができる。

 もっと近くで見ようと、アリシアちゃんは、窓に近づき、そんな楽しそうなアリシアちゃんを満足そうに微笑みながらアルフさんも後を追っていた。僕は、どうしようかと思ったが、特に近づいて見ることもないか、と思ってとりあえず、荷物を置くことにした。ちなみに、アリシアちゃんの荷物はすでに放られている。

 さて、リビングからの風景に驚いたのも事実だが、驚かせられたことはそれだけではなかった。このマンションの一室の間取りは5LDKらしく、寝室が客室を含めて三室と書斎などが二室あるらしい。今回は滞在が目的なので、寝室しか使わないが、それでも十分だ。そもそも、僕たちは子どもの体格がほとんどなのにキングサイズのベットでは、不釣合いもいいところだろう。

 しかし、こんな部屋を使ってもいいのだろうか? と疑問に思って聞いてみると、なんでも、この部屋は、クロノさんが所属している組織が持っているものだが、普段、クロノさんたちが使っていないため、貸し出してもらえたらしい。使わなければ、宝の持ち腐れで、むしろ、部屋を新しく用意するほうが費用がかかるといわれては、使わないわけにはいかない。

 実家よりも広い部屋に少しだけ戸惑いながらも、僕たちは有り難く、このマンションを使わせてもらうことにした。

 部屋割りは単純だ。蔵元家と高町家に別れることになる。部屋には鍵もついているし、問題ないだろう。適当に僕たちの荷物を寝室に置いた後は、早速だが、出かけることにした。もちろん、観光などではない。二週間とは言えば、自動車学校の免許取得のための合宿並みの期間である。当然、着替えなどは洗濯しなければならない。他にも、もろもろが必要だ。だから、近くのスーパーのようなところを案内してもらえることになったのだ。

 しかしながら、スーパーなどでの買い物に必要なお金はどうしたか、というと、やはりリンディさんから貰っていた。生活費までは、と遠慮したかったのだが、地球と交流がないため、換金ができない。それに僕たちのような管理外世界で魔力を持った人たちを迎え入れる場合は、保護者―――この場合は、管理世界の住人でリンディさん―――に補助費が出るため、むしろ貰ってくれないと困るようだ。ならば、と、遠慮なく使わせてもらうことにした。

 色々と二週間分の生活用品を買い込んだ僕たちは、一度、家に戻り、それから少し早めの夕飯を食べるために街へと繰り出した。さすがに街中は、都会のようでキラキラとしており、人も多かった。そんな街のレストランで少し食事を済ませた後は、クロノさんたちと別れて、家に戻って自由行動だ。アリシアちゃんは、まだ終わっていない宿題をアルフさんと一緒に片付けるようだったし、母さんは、少しゆっくりしたいということで、リビングのソファーでテレビを見るようだ。そして、僕は、なのはちゃんと恭也さんと一緒に魔法の練習のために外に出ていた。もちろん、恭也さんは魔法の練習ではないのだが。

 幸いにしてマンションの近くには、魔法の練習をするにはもってこいの公園があり、そこで二人で魔法の練習をすることにした。

 まずは、なのはちゃんがいつも訓練している動きをお手本として見せてくれるというので、少しはなれたところで、なのはちゃんが魔法を使うところを見ているしかなかったのだが―――。

「はぁ……」

 なのはちゃんが魔法を使う様子をみて僕はそうやって呆けるしかなかった。

 なのはちゃんの周りを飛び回る数えるのが億劫なほどの魔法球―――アクセルシューターという射撃魔法。それらが、スーパーで手に入れていた空き缶を地面に落とさないように次々と弾いていく。それが一つならまだ何とかなるかな? と思うのだが、それが同時に三つ並列でやっているのだ。

 確かにユーノくんから魔法の講義を受けたときも思考を並列に処理するマルチタスクは基本といわれた。例えば、飛行魔法を使いながら、攻撃魔法を使うといった際には必ず必要となるからだ。僕もユーノくんに手ほどきを受けて何とかできるようになっていた。しかし、なのはちゃんのようにはできない。

 元々、僕は、魔法を発動させるということに対して一呼吸必要なのに対して、なのはちゃんは、瞬時に起動させる。確かになのはちゃんにはレイジングハートというデバイスがあるが、それを加味しても、なのはちゃんの魔法の腕は僕の何十歩も先に行っていることは明らかだった。僕と同じ頃に魔法に目覚めたというのに。

 カンカンカンとアクセルシューターが缶を弾く音が公園に広がる。やがて、なのはちゃんは数を数えていたのだろうか。不意にすぅ、と手を上げるとアクセルシュータの動きが変化し、三つの缶を同時に大きく打ち上げると、そのまま強烈なシュートを打つように今までは缶の端っこのほうを打ち上げるようにしか弾いていなかったアクセルシュータが、初めて缶の側面に己をぶつけた。

 射撃魔法による直撃を喰らった缶は、そのまま地面に向かって一直線に叩きつけられるような速度で向かうが、それは、無意味に叩きつけたものではなかった。空き缶が向かう先は、公園の端の方に設置されていたゴミ箱。それが、まるでゴルフのピンのように立っており、空き缶はそこに向けて一直線に向かっていた。

 ガコンという鈍い音が三回、連続で響く。それを確認した瞬間、僕は自然とパチパチパチと拍手をしていた。

『It's perfect practice!!』

 どうやら、レイジングハートからの採点も満点のようだった。レイジングハートと僕からの賞賛に照れたのか、なのはちゃんは、顔を赤くして、えへへへ、と笑っていた。どうやら、彼女からしてみても上手くいった類のものだったようだ。

「なのはちゃん、すごいねっ! 僕にはとてもできそうにないよ」

 素直な感想だ。確かに僕もマルチタスクはできる。魔法を使うための演算も早くなっているだろう。その恩恵なのか、隼人との将棋だっていくつも同時に手が数えられるようになったし、今では積分も暗算でできるようになるという算盤少年も驚きのスペックになりつつあるのだが、それでもなのはちゃんには到底適わないだろう。

 もしも、僕が彼女のようなパフォーマンスができるようになるとすれば、一体何年の間、魔法の技術を研磨しなければならないだろうか。

 だが、僕の賞賛の言葉に照れていたなのはちゃんだったが、僕の言葉を聞いて一瞬で、顔色を変えた。今までの照れているような顔ではなく、不思議と真面目な顔だった。

「そんなことない。ショウくんなら絶対できる」

「そう……かな?」

 僕の問いかけに、なのはちゃんは一瞬も逡巡することなくコクリと頷いた。

 なのはちゃんが何を根拠にそういう風に断言しているのか、僕には分からない。しかしながら、不思議と他人からそういう風にできるといわれると弱気だった自分に活が入れられ、できるようになるから不思議だ。先ほどまでは弱気だったにも関わらず、今は、もうできるかも? と思えるのだから。

「私もがんばって教えるから。ね?」

「うん、そうだね。頑張ってみようかな」

 もしも、なのはちゃんのように魔法を自由に操れたなら、それはきっと面白いことだろうから。なのはちゃんの言うとおりに少しだけ頑張ってみることにした。

 それから、なのはちゃんとレイジングハートの元、数時間ほど魔法の練習をした。何度もなのはちゃんと練習した事があるけれども、今日ほど身になったことはないだろう。最初と比べて自分でも上達したと思えるのは久しぶりだった。それは、最初になのはちゃんのパフォーマンスを見たからなのか、あるいは、魔法の世界に来たことで高揚している気分のためか、僕には分からないことだ。

 しかし、僕が上達したことを自分のことのように喜んでくれているなのはちゃんを見ていると、どちらでもいいか、と思えてしまう。

 さて、魔法の練習も僕が先に疲れ果てて、切り上げることにした。なのはちゃんは少し物足りなさそうだったが、僕が疲れていることを分かってくれたのか、切り上げることに対しては、何も言わなかった。それから、なのはちゃんと話をしながら、あてがわれたマンションに戻ってみれば、玄関でパジャマに着替えたアリシアちゃんが出迎えてくれた。

 僕が学校から家に直帰せず、アリシアちゃんが僕よりも早く家に帰ってきた際は、いつもやられるタックルはここでも健在だった。家なら身構える癖ができていたのだが、場所が変わって気が緩んだのか、まったく予想だにしない一撃にぐふっ、と肺の中の空気が吐き出されたが、かろうじて後ろから入ってくるなのはちゃんに被害がいかないように踏みとどまる事ができた。

「お兄ちゃんっ! 遅いよっ! もうお風呂入っちゃったよ!」

 そんな僕に気づかず、抱きついた形のままアリシアちゃんは顔を上げて、ぷりぷりと怒る。どうやら、あまりに魔法の練習の時間に時間を割きすぎて、今日はアリシアちゃんは既にお風呂に入ってしまったことを怒っているようだ。別にアリシアちゃんと一緒にお風呂に入る約束をしていたわけでもなく、アリシアちゃんの中で勝手に決められたことなのだろうが、それでも彼女は怒るのだ。

 いくらなんでも理不尽すぎると思い、アリシアちゃんに言い聞かせようと思ったのだが、その前に僕とアリシアちゃんの間に割って入る影があった。なのはちゃんだ。僕とアリシアちゃんを引き離すように僕とアリシアちゃんの間に腕を入れて、そのまま引き離す。その力は、男である僕を軽々と動かすほどの力である。まあ、この年代の体のつくりは女の子のほうが早熟だから仕方ないのかな? とは思う。

 僕とアリシアちゃんの間に入ったなのはちゃんは、僕に背を向けており、表情は伺えない。しかし、雰囲気は険悪なものへと変わっていることは容易に感じる事ができたので、慌てて今度は僕が二人の間に割ってはいた。どうも、この二人はあまり相性がよくないらしい。一時は友達になれるかな? と思っていたのだが。

「アリシアちゃん、今日は約束してないよね? だったら、怒るの筋違いじゃないかな?」

 そう言い聞かせると、なんとなく納得してないような風だったが、それでも、ごめんなさい、と言っていた。

 さて、次はなのはちゃんだ。

「僕のために割って入ってくれて、ありがとう。まあ、家でもこんな感じだから気にしないで」

 僕がそういうと、なのはちゃんもどこか納得いかないような雰囲気を纏った笑みで頷いてくれた。

 二人の場を収めるのも一苦労だな、と思いながら、僕は二人を伴ってリビングへと移動する。リビングには、オオカミモードでくつろぐアルフさんとパジャマに着替えてテレビを見ている母さんの姿があった。どうやら、お風呂は母さんと入ったらしい。どうやら、すぐにでもお風呂には入れるらしく、次は僕たちの順番なのだが、どちらが入るかなのはちゃんと話そうと思ったところで、なのはちゃんから爆弾発言が落とされる。

「あ、あの……ショウくんっ!!」

「なに? なのはちゃん」

 彼女は、意を決したような表情をしていた。何かそんなに大切な事があったかな? と考えたが、特になかった。そして、彼女が口を開く。

「い、一緒に入ろうっ!」

 ピキッと間違いなく僕の表情が凍った事がわかった。

 いくらなんでもそれはないだろう、と。しかし、確かに四月のときにアースラの中で、約束したような気もする。なのはちゃんは、どこか期待したような、不安を浮かべたような表情をしていた。僕が今まで女の子と一緒にお風呂に入ったことあるのは、アリシアちゃん、アリサちゃん、すずかちゃんだ。アリシアちゃんは、妹であるため、といういいわけは立つが、アリサちゃんとすずかちゃんはアウトだった。彼女達とは、あくまで友達という関係だからだ。しかも、あの時は家族風呂で他に誰もおらず、アリサちゃんの招待だったから、という名文があった。つまり、何が言いたいか、というと、このときも何かの後押しがあれば、僕はなのはちゃんと一緒にお風呂に入ってしまうだろうということだ。

 そして、その後押しは―――僕からしてみれば、裏切りにも近い発言は、一番近い家族からだった。

「あら、いいじゃない。一緒に入ってきなさいよ」

 ここのお風呂、家よりも広いわよ~、と実に暢気に言ってくれる。もっとも、母さんからしてみれば、僕たちは小学生で、恥ずかしがる理由もないのだろうが。しかも、母さんの発言を受けて、なのはちゃんの表情には喜びの表情が浮かんでおり、今ここで、僕が難色を示せば、彼女はがっかりしてしまうだろう。

 はぁ、仕方ないか、と昔なら頑なに拒否したであろう事項を受け入れることにした。過去二回と最近のアリシアちゃんと一緒にお風呂に入ったことで、このことに関してはハードルが下がったのかもしれない。

「それじゃ、一緒に入ろうか」

 諦めて、僕がそういうとなのはちゃんの表情は、花が咲いたような笑みになり、うん、うん、と何度も頷く。さて、そうと決まれば、準備をしなければ、と思ったところで、不意に袖が引かれた。

「アリシアちゃん?」

 僕の袖を引っ張ったのは、アリシアちゃんだ。袖を引っ張られて、反射的に振り向くとそこには玄関と同じようにふくれっ面をしたアリシアちゃんがいた。今度は何に怒っているというのだろうか。

「ずるい」

「え?」

「なのはだけ、お兄ちゃんと一緒にお風呂に入ってずるい」

「いや、ずるいといわれても……」

 今日、一緒に入るようになったのは偶然だ。ずるいといわれても仕方ない。さて、どうやって返答しようか、と考えているところで、オオカミモードで床に寝そべっているアルフさんが何気なしに言う。

「だったら、明日は翔太がアリシアと一緒にお風呂に入ればいいじゃないか」

「それだっ!!」

 それだっ! じゃないだろう、と僕は思うのだが、彼女が賛成してしまった今、反対することはできないのだろう。いや、ここで反対しても話がこじれて、最終的には僕が折れることになるのは今までのパターンどおりだ。だから、僕にできることは、がくっ、と肩を落として、さらに肩を落とすことになるお風呂場へ、死刑執行の囚人のように向かうことだけだった。



  ◇  ◇  ◇



 お風呂の時間は意外とあっさりと片付いた。一緒に入るとは言っても、本当に一緒に入るだけだ。僕はあくまで『男女が一緒に入る事が恥ずかしい』のであって、女の子の裸を見て困るからではない。よって、覚悟を決めて入ってしまえば、後は問題ないのだ。

 お風呂に入った僕たちは、明日からの準備をする。僕となのはちゃんは、魔法の講座を受けに行くのだが、アリシアちゃんは病院で検査を受けるようだ。僕となのはちゃんはクロノさんと恭也さんが、アリシアちゃんは、リンディさんと母さんとアルフさんがそれぞれ引率となる。

 明日の準備が終わる頃には、恭也さんも鍛錬から帰ってきており、お風呂に入り、寝る準備が出来ていた。後は寝るだけとなれば、子どもの体力ではほぼ限界だ。現にアリシアちゃんもなのはちゃんも欠伸をかみ殺している。かく言う僕も眠い。子どもの身体は、体力の許容量が少なすぎると感じる。

 眠いのを我慢してもいいことはない。よって、寝ることになった。僕とアリシアちゃんはおんなじ部屋で、なのはちゃんは恭也さんと隣の部屋だ。欠伸をかみ殺して、お互い部屋の前で別れる前になり、おやすみと挨拶しようと思ったとき、不意になのはちゃんの表情が目に入った。

 何か言いたいことを溜め込んだような表情だ。言おうか、言うまいか悩んでいるといっても言い。しかし、このままでは、おやすみと言って別れるだけだろう。さて、何を言いたいのか、と少し考えてみると、先ほどの言動とあわせれば簡単に分かった。

 あのアースラでの約束の一部だ。おそらく、このときの僕は、襲ってくる眠気と戦っていたこともあって、少しだけ呆けていたのだろう。でなければ、素面でこんなことを口に出せないからだ。

「なのはちゃん、一緒に寝る?」

 僕の一言にビクンっ! と肩を震わせて、目を一杯に開いてなのはちゃんは、驚いたような表情をしていた。おそらく、考えていたことを当てられて驚いているのだろう。僕は、そんな彼女に苦笑しながら、続ける。

「ベットも大きいし、僕たち三人ぐらいなら入ると思うよ」

 このときの僕の思考回路は、たぶん、アースラでの約束が思い出され、お風呂に入るという約束も守ったのだから、と考えたのだからだと思う。

「本当に、いいの?」

「うん、いいよ」

 気がつけば、僕はなのはちゃんが恐る恐るという感じで確認してくる態度に対して、逡巡もなく回答していた。僕が快諾した瞬間、彼女の表情は喜色満面になり、快諾した僕としても嬉しい気分になっていた。もっとも、次の日の朝、後悔することになろうとはこのとき、夢にも思っていなかっただろうが。

 そんなことは、このときの僕は露知らず、恭也さんの了解も得た僕らは、用意されていたベットになのはちゃん、僕、アリシアちゃんの順番でベットに入り、おやすみ、という挨拶と共に瞬時に夢の世界へと誘われるのだった。



つづく

















あとがき
 誰がために鐘はなる



[15269] 第二十六話 承
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2010/12/26 22:32



「んっ……」

 閉じた目の上から当たる光のせいで沈んでいた意識が、浮かび上がってくる。おそらく窓から差し込んでくる朝日なのだろう。まだ、少しだけ眠たい頭を必死に動かしながら、瞼を開ける。僕の視界に広がったのは、いつも見慣れた木目の天井ではなく、ホテルかどこかで見られるような天井だった。

「あ、そっか……」

 それだけで、僕がこの部屋がいつもの自分の部屋ではなく、クロノさんたちから借りた部屋であることを思い出した。そもそも、最近の僕は、アリシアちゃんと一緒に寝る事が多く、和室で寝るものだから布団がほとんどだ。ベットで寝るなんて久しぶりである。

 さて、今は何時だろうか、と自分の携帯に手を伸ばそうとしたところで、手が動かないことに今更ながら気づいた。どうやら、まだ意識がはっきりとしていないようだ。あれ? と思う。まさか、金縛りにあったわけでもないだろう。そもそも、原因は分かっている。片手が動かないことはままあったからだ。原因は隣で寝ているはずのアリシアちゃんが抱きついてくるからだ。最初は驚いたものだが、僕も寝ている間のことだし、アリシアちゃんも寝ている間のことだ。朝起きたときが大変だが、それ以外には害がないので、気にしないことにしている。時々、母さんのほうにも転がっているようだし。

 しかしながら、両手が動かないことは初めてだった。

 右を見てみる。

 いつもは、ツインテールにしている髪の毛も、さすがに寝ているときは解いているのか、金髪が流れるようにベットの上に広がっていた。アリシアちゃんのまだ瞼が閉じられている寝顔をそのまま下に降りていくと僕とお揃いがいい、と紺色の柄違いのパジャマに包まれた肩を通って腕へと降りていく。その腕が絡めているのは、僕の右腕だ。まるで、関節技を極めるようにがっちりとホールドされている。何度か経験があるのだが、これがありえないぐらいに離れない。一度、アルフさんに先に見られたときは、苦笑と一緒に外してもらったこともある。アルフさんが言うには、アリシアちゃんは、戦闘訓練も受けた事があるので、その影響があるかも、と言っていた。プロレスなんかも見ていたこともあって、覚えたのだろう、と。

 右手の状況は確認できた。要するにありえない話ではないのだ。

 さて、一方、左を見てみる。

 そこには、見慣れない顔が広がっていた。アリシアちゃんよりも髪の毛が長いわけではないが、肩よりも少し長い程度に揃えられた髪の毛をいつもは結んでいるのだが、やはり寝ている時には解いているのだろう。アリシアちゃんと同様にベットに天使の輪が広がる栗色の髪の毛がベットに広がっている。その寝顔は何か楽しい夢でも見ているのだろうか、時々笑みが浮かんでいる。そんな彼女の寝顔を下に向けると、なのはちゃんが持ってきたであろう桃色のパジャマに包まれた身体が見え、さらに彼女の両手は僕の左手を包み込むように握られていた。おそらく、向こうの世界だったら、夏真っ只中であり、汗まみれになっていただろう。幸いにして、この部屋は空調が聞いているのか初夏のさわやかな気温ではあるが。

 ―――っ!! な、なんでっ!?

 状況をよく認めたくないのか、なぜか淡々と状況を確認してしまったが、ようやく動き出した頭は、一瞬にして困惑に陥った。どうして、となりになのはちゃんが寝ているのか? そもそも、ここは僕の家ではないのだが。落ち着いて考えなければならないのにいつもとは見慣れない体験というだけで人は、あっさりと混乱してしまう。

 ど、どうして、こんな事態になってるんだっけ、と混乱しながらも、何とか作り出した空白スペースで、寝る前に起きたであろう事情を記憶の海から掬い出した。昨日の夜の事実を少しずつ思い出し、思い出しながら後悔していた。どうして、あんなことを言ったんだ、と。

 もしも、僕が身体の大きさどおりの精神年齢だったならば何も問題はなかっただろう。単に友達と一緒に寝たいだけだから。三年生という年齢は微妙ではあるが、おおむねセーフであるはずだ。しかしながら、僕は二十歳の大学生だった記憶がある。精神年齢もそのくらいだと自負している。にも関わらず、女の子に「一緒に寝ようか?」なんて誘うなんて。いや、もう僕の体験を思い出すならば、今更なのかもしれないが。

 確かによくよく思い出せば、四月のアースラでも一緒に寝た記憶もあるが、それはなのはちゃんからの誘いで、あのときはとても断われるような空気ではなかった。だが、昨日はあのまま恭也さんと一緒に寝てもよかったはずだ。

 ぐぉぉぉ、と思わず、昨日自分が言った言葉にもだえながらも、五分程度で何とかその記憶を押さえ込むことに成功していた。後悔したところで、昨日の夜の言葉がなくなるわけではないのだ。時計の針は、戻ることは決してないのだから。それに言の葉というだけあって、口から離れてしまえば、言ってしまった事実はなくならない。

 よしっ、と心を落ち着け、思考もクリアになったところで、ふと思った。

 ―――どっちか起きてくれないかな?

 どうやら、僕の起床時間はもう少しだけ延びそうだった。



  ◇  ◇  ◇



 魔法世界二日目。

 この日は、母さん、アリシアちゃん、アルフさんとは別行動だ。彼女達は、アリシアちゃんと一緒に病院へ行くことになっている。別に彼女の具合が悪いわけではない。四月の事件のときにアリシアちゃんが記憶喪失になっていることについて調べたいらしい。アリシアちゃんは、僕と一緒に行きたがったが、生憎ながら、魔法世界滞在中は、病院と時空管理局での調書で埋まっているようだ。幸いなことに病院に泊り込むという事態はないようだが。魔法世界の病院関係についてはどうやらリンディさんが案内してくれるようだ。

 一方で、僕の今日の同伴者は、なのはちゃんと恭也さんだ。さらに、講義が行われる場所までの案内は、クロノさんが連れて行ってくれるらしい。昨日、軽く説明を聞いたのだが、どうやら大学のような場所で行われる説明会のようなものらしい。形としては、自動車学校の免許取得に近いようだ。日数から似たようなものを想像していたが、形は変わらなかったらしい。

 病院へ行くアリシアちゃんと軽く一悶着あった後、僕となのはちゃんと恭也さん、クロノさんは、クロノさんが用意してくれた僕らの世界で言うところのタクシーに乗って会場へと向かっていた。助手席にクロノさん、後部座席に恭也さん、僕、なのはちゃんの順番に乗って、タクシーは市街地を走る。こうやって、乗っているとあまり僕たちの世界とあまり変わらないような気がする。『発達した科学は魔法と変わらない』という言葉を聞いた事があるが、そのようなものなのだろうか。

 タクシーが市街地を走ること十分程度だろうか。目的地に着いたのか、タクシーは、キッという小さなブレーキ音を上げて停まった。入ったときとは、逆になのはちゃん、僕、クロノさんの順番で外に出ると、目の前に広がったのは純白の後者。聖祥大付属小と比較するのもおこがましいほどの広さを持った学び舎だった。

 そう、ちょうど僕が前世で通っていた大学ぐらいの広さはあるのではないだろうか。

「驚いたかい? ここは、ミッドチルダでも大きな大学でね。交通の便も良いから、こうやって管理局も魔法免許関連で使わせてもらってるんだ。実技にも問題ほどの広さのグラウンドと結界も整備されているしね」

 なるほど、大学だったのか。どうりで、広いわけだ。一つの学部に特化した工業大学ならともかく、総合大学というのはたいてい、キャンパスを二つか三つほど持っているほど広い大学もある。この大学は、その三つほどに分けるべき大学を一つにまとめているような感じなのだろう。

 何度も使わせてもらっているという言葉に偽りはないのだろう。クロノさんは、こっちだ、というと手馴れたように歩き出す。しかしながら、よくよく見てみれば、道案内のスタッフなのだろうか。『時空管理局』と書かれた腕章をつけた係員のような人物がある一定の距離に立っていた。僕は、大学という雰囲気が実に懐かしく、なのはちゃんは、物珍しそうに、そして、恭也さんは警戒だろうか、各々違った様子ではあるが、大学と呼ばれた構内をキョロキョロと見渡しながらクロノさんの後を着いていった。

 入り口から五分ほど歩くと行動の入り口が見える。そこでは、長いテーブルを出して、おそらく僕の世界であるならば、『受付』とでも書かれていそうな紙を垂らして、同じく『時空管理局』と書かれた腕章を持った女性が二人座っていた。

「あそこで、受付をするんだ。登録は、済んでるから、出身世界と名前だけで大丈夫なはずだ」

「分かりました。行こう、なのはちゃん」

「うんっ!」

 僕の想像は間違っていなかったらしく、彼女達は受付嬢のようだ。もしも、何か記入しないといけないなら、僕は魔法世界の文字はかけないぞ、と思っていたところだから、クロノさんが先に登録してくれててほっ、としていた。身なりは子どもでも、精神年齢は段違いなのだ。いくらなんでも出身世界と名前ぐらいは言える。

 隣で立っていたなのはちゃんに声をかけると、二人揃って僕たちは受付のお姉さんに近づく。

「あら、いらっしゃい。出身世界と名前を教えてもらえるかしら?」

「第九十七管理外世界出身の蔵元翔太です」

 僕が近づくと受付のお姉さんは、僕に気づき、僕が何か口を開くよりも早く先手を取られるような形で誘導された。受付嬢は二人いたため、僕となのはちゃんはそれぞれ別れて受付をしている。

 僕たちの世界なら、名簿か何かを取り出して、蛍光ペンなどでマークをつけるような場面で、さすが、魔法世界というべきだろうか。虚空に浮かんだコンソール上でパソコンでも操作するように受付のお姉さんの指が踊る。見慣れない文字も踊り、その結果、僕の顔写真が出てきて履歴書のように表示される。当然、文字が読めるはずもないが、書いてあるであろうことは大体想像できた。

「蔵元翔太くんね。はい、受付ができたわ。後三十分ぐらいで講義が始まるから、それまでに教室に入ってね」

 受付のお姉さんは、僕の首にネームタグのようなものが入ったカードケースを繋いだ紐を首にかけながら、丁寧に時間を教えてくれる。後、三十分もあるということは、思ったよりも早く着いたのだろうか。とりあえず、迷っても大丈夫な時間は確保されているようだった。

「それと、これが今日から使うテキストよ」

 そういって、受付のお姉さんが取り出したのは、A4サイズよりも少しだけ大きな手提げ袋だった。お姉さんからそれを受け取るとずしりとした重さを感じる。この感覚は毎日のように感じていたからよく分かった。つまり、教科書のような紙の本である。教本の類が入っているであろう事は容易に想像できた。

 しかし、はて? と疑問に思う。ここは、魔法の世界だ。文字通り世界が違う。僕たちの世界でも、海を隔てれば、下手すれば、山を一つ隔てれば、言葉も文化も違う。ならば、世界が違うこの世界は言わずとも文化がまったく違うはずである。幸いにして、言語はなぜか通じるが、文字が異なることは先ほどの受付嬢のモニターを見ればすぐに分かる。

 結局、僕が危惧していることは、果たして、僕にこの本が読めるのだろうか、ということである。管理外世界といわれるほど交流がなかった両方の世界だ。英和辞典のようなものはないだろう。ならば、貰ったところで読めないんじゃ意味がないよな、と思いながらも、どんなものなのだろうか? と思いながら、手提げ袋の中から予想通り入っていた教本の一冊を取り出して、ぺらぺらと捲った。

「あれ?」

 パラパラと捲っただけだが、それでも、思わず声を出してしまうほどの違和感を覚えた。捲りながらところどころ垣間見える文字を僕が読む事ができたのだ。おかしいな、と思って手を止めて、開いてみれば、そこに書かれていたのは、ポップなイラストでプラカードを持った少女と説明のために書かれた日本語だった。

「どうしたの? ボク?」

「いえ、文字が……」

 僕が声を上げて驚いていたことに気づいたのだろう。わざわざ、椅子に座っていた受付のお姉さんが僕に近づいて、様子を伺ってくれた。僕は、受付のお姉さんに手に持っていた本を見せながら、文字が僕たちの世界のものであることを伝えようと思ったのが、全部を言い終わる前に受付のお姉さんは合点が言ったのだろう、ああ、と気づいたように声を上げた。

「教本なんだから、読めなかったら意味ないでしょう? それに、ボクたちの第九十七管理外世界の出身者もミットチルダにもいるから、その本も作れるのよ」

「え? 僕たち以外にもいるんですか?」

 予想外だった。僕はてっきり僕たちが最初の来訪者だと思っていたからだ。

「いるわよ。君は、クロノ執務官の紹介なんでしょう? なら、クロノ執務官の親しい上官のグレアム提督が君達と同じ世界の出身だったわよ」

 受付のお姉さんが教えてくれた僕たちの世界の出身者の正体に驚いた。まさか、こんなところで接点があるなんて思わなかったからだ。

 とりあえず、教本が日本語である理由は納得でき、受付のお姉さんにありがとうございました、と頭を下げた後、隣の受付のお姉さんで受付をして、同じく教本を受け取ったなのはちゃんと合流すると、僕たちはクロノさんが待っているであろう場所へと戻ることにした。

「やあ、受付は終わったかい?」

「はい、無事に」

 僕は、その証拠といわんばかりに貰ったばかりの教本が入った手提げ袋を見せた。僕の様子をちらちらと見ていたなのはちゃんも同様にクロノさんに手提げ袋を見せていた。今気づいたが、手提げ袋の色が、僕は青なのになのはちゃんは赤だ。男の子用、女の子用ということだろうか。

「それにしても、驚きましたよ。まさか、クロノさんのお師匠さんが僕たちの世界の出身だったなんて」

「おや、誰かに聞いたのかい?」

「ええ、あそこのお姉さんが教えてくれました」

 クロノさんが、意外そうな顔をしたので、僕は親切にも教えてくれた受付のお姉さんを差す。クロノさんは、ちらっ、と視線を少しだけ受付の方に移すと肩をすくめて、やれやれといった様子だった。

「別に隠すつもりはなかったんだ。ただ、言う機会もなくてね」

「いえ、別に責めているわけではないんです。ただ、教本が日本語で、驚いただけですから」

 そこで、初めてクロノさんが、合点がいった、というような表情をした。

「そういえば、そうだね。君達がミッドチルダ語を読めるわけないな。ただ、君達の言語があるのは、僕の師匠のおかげじゃないよ。そもそも、君達の世界―――第九十七管理外世界っていうのは、僕たちの世界に来る人も多くてね。子孫の人も結構いるんだ」

 クロノさんの口から語られた事実は意外なことだった。どうやら、僕たちが最初というのは自惚れだったらしい。意外にもたくさんの人がこの世界に来ている事がわかった。しかも、話をよく聞くとクロノさんのお師匠さんは、イギリス人らしい。確かに、クロノさんのお師匠さんだけでは、日本語の教本は作れないだろう。

 さて、そんなことを話していると時間はあっという間に過ぎて、残り十五分というところになった。そこで、僕たちは、教室の前まで移動する。少し早いような気もしたが、遅れるよりもましだからだ。

「それじゃ、僕たちは、大学のカフェテリアで待っているから、終わったら来るといい」

 一日の構成は、二部構成だ。午前中は、教本を使った授業で、後半は、魔法の実技らしい。その間には、お昼ご飯の時間もある。クロノさんは、カフェテリアといったが、どちらかというと、大学の学食だろう、と僕は思っている。

「はい、分かりました」

 この場所は初めてだが、幸いにして教本が入っていた手提げ袋の中には、大学構内の地図も同封されており、それを見れば、クロノさんが言っているカフェテリアも分かる。

 それじゃ、と後で会う約束を交わした後、恭也さんになのはちゃんのことも任されて、カフェテリアへ向かったクロノさんと恭也さんを見送って、僕たちは教室へ入っていった。

 ガラガラと魔法世界という割には、僕たちの世界とあまり変わらないドアを開けて教室に入った瞬間、僕が思ったことは、懐かしいという感覚だった。懐かしく思ったのは、僕が通っていた大学のような教室のつくりをしていたからだ。一番人数が入る教室は、少しだけ斜めになっており、後ろの席の人も黒板が見えるようになっている。もっとも、この教室はホワイトボードのようなものだったが。

「えっと、どこに座ろうか?」

「ショウくんが好きなところでいいよ」

 教室を見渡してみると、満員というほど人がいるわけではない。それに連れは、僕となのはちゃんの二人だ。これが、ある一定のグループだとすると席を取るのは非常に苦労するものだが、今日はそういう心配はなさそうだ。二人なら、何所でも座れる。

 さて、ここで、どこに座るかで、ある程度の性格が分かる。前の方に座る人は、積極性があるか、あるいは、教授に顔を覚えてもらい、下駄を履かせてもらおうという下心のある人間。後ろの方に座る人は、目立ちたくない人間か、あるいは、後ろめたいことをする人だ。真ん中の方に座る人は、その両者でもなく、適当という言葉が当てはまるだろう。

 ちなみに、僕は、前のほうに座る事が多かった。一番前ではないが。

 今回も前世の習慣に習って、とりあえず前のほうの席に座った。聖祥大付属小の小学校の机とは異なり、椅子を引く形ではなく、映画館のように椅子が折りたたまれているタイプだ。しかも、普段はもっと身長がある人が使うために設置されているのか、僕たちからしてみれば、サイズが合っていないため、足をぶらぶらさせるような形になってしまった。

 もっとも、よくよく周囲を見渡してみれば、僕たちと同じような年齢の子どもも数多くいることが分かった。むしろ、中学生のような年齢の子どもはいないといってもいい。やはり、魔法世界というだけあって、こういう魔法講習は、子どものうちから受けるのだろうか。

 僕もなのはちゃんも慣れない場所で緊張しながら待っていると、やがて、前方に設置してあったドアから一人の壮年の男性が出てきた。彼は、ツカツカとこちらに目をくれることもなく、中央に設置している教壇までくると、ようやく僕たちのほうに目を向けた。その瞬間に、気心しれた仲間と話していた面々が一斉にお喋りをやめる。同世代とは思えない反応だが、これが魔法世界では普通なのだろうか。

 そんな疑問を余所に、にこやかな笑みを浮かべたまま教師と思われる男性が口を開く。

「さて、皆さん、おはようございます。今日から君達に魔法講義初級を教えることになる時空管理局のイスガ・ヤマモトと言います。まあ、挨拶はこんなところでいいでしょう。魔法は確かに便利ですが、その使い方を誤ると大変なことになってしまいます。道具と同じですね。だから、一緒に勉強していくとしましょう。それでは、配られた教本の―――」

 実に簡単な彼の事項紹介の後、早速、授業が始まってしまった。早いなあ、とは思ったが、日程的に10日もあると考えていたが、実は、彼らからしてみたら10日しかない、と思っているならこの早さも納得できる。僕としては、だらだらと長い雑談をされるよりもすっぱりと入ってもらったほうが好意を感じる。

 そんなことを考えながら、僕は慌てて、一緒に持ってきていた鞄から筆箱とノートを取り出したのだった。

 授業を受ける上で、問題となったのは、ホワイトボードに時折、教本の追記事項として書いてくれるのだが、その文字がミッドチルダ語で、読めないということだ。仕方ないので、教官が言ったことと当たりをつけて書き込むことにした。幸いにして教官としての質は当たりだったのか、ホワイトボードの注釈を指しながら言ってくれるため、特に問題はなかった。

 教本どおり進められる授業の内容は、交通ルールというような安全教習のようなものではなく、魔法の歴史という部分まで含んだ小学生ぐらいの年代には少し難しいんじゃないだろうか、というような内容を含んだものだった。

 かいつまんで話せば、時空管理局設立までの歴史が軽く語られていた。

 なんでも、ミッドチルダを含んだ魔法世界は、もともと魔法のみを原動力として社会ではなかった。むしろ、僕たちのような社会だろうか。しかし、状況は僕たちの世界よりもかなり悪いといえる。なぜなら、僕たちの世界では伝家の宝刀である破壊兵器が使われるような戦争が勃発していたからだ。長年続いた戦争に終止符を打ったのが、時空管理局の前身である組織だった。そして、彼らは、誰もが簡単に次元世界の平和を脅かす事ができる質量兵器を禁止した、というわけらしい。

 その代わりにエネルギーとして使われたのが、魔法というわけだ。少なくとも魔法には核兵器のように一人で大量に人を殺せるような力もないし、非殺傷設定で、殺さないようにすることも可能で、おまけに公害がないクリーンなエネルギーとして使われるようになった。そう教官は締める。

 その説明を聞きながら、なるほど、と思う一方で、魔法世界の脆弱性にもなんとなく気づいた。質量兵器―――要するに、科学というべきだろうか、それらには、確かに誰でも使えるという利点がある。しかしながら、魔法は、個人の才能に左右される。たとえば、僕は魔力ランクAをもっているが、なのはちゃんは魔力ランクSだ。階級がある、しかも、世界の原動力となるエネルギーで、だ。そこには、どうしても格差が生まれるのではないだろうか、と僕は懸念する。

 もっとも、簡単に話を聞いただけで、僕が感じたことであり、世界は平穏に動いているだけに、実情は違うのかもしれないが。

 さて、授業はそんな調子で続いていく。軽い魔法の歴史が終わった後は、魔法を使うときの注意事項だ。こちらは、どちらかというと、小学校の自転車講習に近いかもしれない。

 街中で勝手に魔法を使ってはいけない。殺傷設定の魔法は使ってはいけない。高い技術力が必要な魔法を使うときは、魔法が使える大人の人に見てもらう、などだ。後は、細かいルールのようなものが説明されていた。教本にもポップな絵と一緒に載っており、プラカードを持った可愛らしいキャラクターがダメだよ、と言っている。

 そんな授業がお昼前まで続いただろうか。教本で言うところの第一章が終わったところで、教官がぱたりと教本を閉じた。

 これで、終わりかな? と思ったのだが、それにしては、多少時間が余っている。お昼までは、まだ時間があるからだ。どうするんだろうか、と疑問に思っているところで、教官がおもむろに口を開いた。

「え~、それでは、少し早いですが、午後の実技のために皆さんの魔力を計っておこうと思います」

 ヤマモト教官が、そういった瞬間、周りが一気にざわついた。身体測定のようなものだろう。自分の身長が、体重がどうなっているのか、自分の体のことで気にならないわけがない。それは、教官も分かっているのか、ざわついている教室に何も言わずに、どこかに連絡するような素振りを見せていた。

 教官がどこかに連絡を取ってガラガラと入ってきたのは、三人の女性だった。彼女達は、それぞれが、台車のようなもので、何かの機械を持ってきていた。肺活量を測る機械に似ていた。

「それじゃ、機械の前に並んでください。係りの人に自分の名前も伝えてくださいね」

 教官がそういうと、前の方に座っていた数十人が一斉に動き始めた。別に早く行ったからといって特典があるわけではないのだが。それでも早く知りたいというのは人情なのかもしれない。そして、こういうとき、得てしてパターンは三つに分かれる。一つは、最初の人たちのように我先に行く人。二つは、ある程度並んだ後に待つことをいとわず並ぶ人。そして、最後が、ある程度、人数が消化されるまで待つ人だ。

「ねえ、ショウくん、どうするの?」

「う~ん、待っておこうか。後からでも問題ないみたいだし」

 概算だが、おそらく百人程度しかいないだろう。それを考えると少し待っていれば、すぐに人数は消化されそうな気がする。僕がそういうと、なのはちゃんは、うん、と頷いていた。

 測定自体は、すぐに終わるのだろうか。案外、次々と測定を終わらせていた。周りでは、友人なのだろうか、どうだった? という問いがたくさん生まれていた。少し拾った限りでは、ランクはEランクからAランク程度まで幅広い。しかし、それでもよく聞かれるのは、DやCだった。

 それを考えれば、僕のランクAというのは、結構すごいのではないだろうか。平均より少し上というぐらいだが。もしも、僕ですごいということになれば、なのはちゃんは一体どうなるんだ? という感じである。

 そんなことを考えていると、大体待っている人数が減ってきたので、僕たちも計測をするために並んだ。僕の後ろになのはちゃんという形だ。さして、待つこともなく僕の順番が訪れる。

「はい、お名前は?」

「蔵元翔太です」

 名前を告げると、機械の受付のお姉さんがコンソールのようなものを軽く叩き、機械に何かを入力していた。それが何かは分からないが、準備が整ったのだろう。肺活量を測るための空気を入れるような場所の代わりに水晶球のようなものの上に手を置くように言われた。指示に従い、水晶球に手を置く。水晶球は、その形に違わず、僕にひんやりとした感触を与えてくれる。

「え~っと……あら、君、すごいわね。魔力ランクAね」

 珍しいものを見つけた、といわんばかりに顔を輝かせるお姉さんだが、僕にはあまり実感がなかった。一体、どれだけが平均か分からない上に、僕の後ろには、さらに魔力ランクが高いなのはちゃんがいるのだから。だから、僕はいまいち、実感を得ることなく、ありがとうございます、とお礼だけを言って、測定の列から離れた。

 しかし、そのまま席に戻ることなく、なのはちゃんの測定が終わるのを待つことにした。結果は分かっているが、一緒に来た友達なのだ。待たないというのは友達甲斐がないだろう。機械を処理していたお姉さんもそこら辺には目を瞑ってくれているのか、特に何か言われることもなかった。

 そして、僕と同じような手順を踏んで、なのはちゃんの魔力が測定される。測定されるまでの時間はほぼ一瞬だ。だから、すぐにでも結果が出て、なのはちゃんに告げられてもおかしくない。しかし、そうはならなかった。おそらく、彼女の目下に置かれたモニターに結果がでるのだろうが、彼女は、そこに信じられないものを見たような表情をしていたからだ。

「ご、ごめんなさい。もう一度いいかしら?」

 固まったままの受付のお姉さんだったが、どうやら、計測ミスがあったらしい。最初と同じようにコンソールを操作し、ついでに、何か追加の操作を行ったあと、改めてなのはちゃんに水晶球の上に手を置くように告げた。なのはちゃんは、特に不満を持つこともなく、お姉さんに従っていた。

 再び測定されるなのはちゃんの魔力。しかし、やはりお姉さんは、信じられないものを見るような表情をしていた。

 ここまで、くれば先ほどのやり直しが計測ミスでないことは分かった。おそらく、なのはちゃんの魔力が信じられないだろう。僕の魔力で、すごい、と言っていた。ならば、それ以上であるなのはちゃんは、一体どうなるのだ、と。しかも、聞き耳を立てていた限りによれば、魔力ランクSなんて聞いたことがない。つまり、相当レアなのだろう。

「ちょ、ちょっと待ってね」

 それだけ言うと、彼女は、横で同じように別の子を相手にしていたお姉さんを呼ぶ。そして、呼ばれた彼女は、自分も忙しいのに呼ばれたことに不満げな表情をしながら、同じようになのはちゃんの魔力が表示されているであろう計測器の結果を見て、愕然としていた。

「……故障じゃないの?」

「ないわよ。セルフチェックかけて異常なしよ。これ二回目だし」

「それじゃ、次はこっちでやってみましょう」

 そういいながら、なのはちゃんは隣の機械で再度計測を行うように言われる。さすがに三回目ともなるとなのはちゃんも少しだけ不満そうだったが、それでも、隣の機械で待っていた子を差し置いて、機械に手を置く。二人のお姉さんが見守る中、測定が行われる。

 だが、やはり結果は同じだったのだろう。三度の目の正直というべきか、あるいは、彼女達はもはや心の中では、そうではないか、と疑惑を持っていたのだろう。だからこそ、驚いたような、やっぱり、というような微妙な表情をしていた。ここに来て、教官もお姉さん達の不審な行動に気づいたようで、どうしたんだ? と近づいてくる。

 そして、お姉さん達と同じように計測器に表示された結果を見て、驚いたような表情をし、なのはちゃんと計測器の結果を見比べていた。

 教室の目の前で、しかも、時空管理局の大人が三人も固まっていれば、何かあったのではないか、と勘ぐるのは容易だ。教室中の注目がなのはちゃんに集まっているのが分かった。しかも、最後まで一人、淡々と仕事を続けていたお姉さんも、全員の測定が終わったのか、興味深げに三人に近づいてきていた。彼女もまた、今までと同様に計測の結果を見て、口を押さえて驚きを表していた。

「ねえ、まだなの?」

 いい加減、待たされるのにも飽きたのだろう。少しだけ、怒気を含んだような声で、静かになのはちゃんが、大人四人に向けて問う。不意を突かれたなのはちゃんの言葉に一瞬、ギクッ、と肩を震わせる大人たちだったが、やがて、顔を見合わせると観念したような表情をして、教官がゆっくりとなのはちゃんの魔力ランクを告げる。

「高町なのはさん、君の魔力ランクは、Sプラスだ」

 その声が、発せられた瞬間、教室全体が一気にざわついた。誰も彼もが、「Sプラス?」「誰が?」「あの子らしいぜ」「なんだよ、それっ!?」と、信じられないといったような声を上げている。

 その中で、ついていけないのは、僕となのはちゃんだけだ。すごいとは思っていたが、そこまですごいものだったのだろうか。もしかしたら、認識のずれがあったのかもしれない。僕はちょっとだけ感じていたが、なのはちゃんは、周りがざわつく理由がよく分からないのか、まるで不思議なものを見るようにきょとんとしていた。

 参ったな、認識のずれが、ここまでとは僕も想像していなかった。

 もしも、認識のずれがなければ、なんらかの手があったかもしれないが、もはや後の祭りだ。

 午後の実技は荒れなければいいんだけどな、と僕は一人、胸の中に生まれた一抹の不安を感じるのだった。



つづく



[15269] 第二十六話 転
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2011/01/25 21:53


 なのはちゃんの魔力がばれてから、少しざわめいた教室を逃げ出すように僕たちは、教室を飛び出して、クロノさんたちが待っているであろうカフェテリアへと向かっていた。教室から出て行くときにいくつかの好奇の視線を感じたが、それはあえて無視するような形になってしまった。

 仕方あるまい。僕にはどう反応して良いのか分からなかったのだから。なのはちゃんがすごいのは分かっていたが、ここまで認識のずれがあるとは思っていなかった。なぜなら、クロノさんたちとあまりにも態度が異なるからだ。クロノさんたちの態度から鑑みれば、彼らの態度は大げさとしかいえなかったのだから。

 どういうことかよく分からないが、とりあえず、クロノさんに問う必要はあるだろう。

 そんなことを考えながら、僕たちはクロノさんたちと待ち合わせをしていたカフェテリアに到着した。カフェテリアはオープンスペースもあるらしく、そこで僕たちよりも先に到着したのであろうクロノさんと恭也さんが、コーヒーと思われる飲み物を手にオープンスペースの一角に座っていた。おそらく、僕たちに見つかりやすくするためだろうが、たとえ店内であっても、二人の真っ黒な服装は、見つけやすかったのではないか、と思っている。

 彼らも僕たちが来たことに気づいたのだろう。コーヒーを飲む手を止めて、こっちに来いといわんばかりに手招きをする。

「意外に早かったね」

「今日は午後からの実技のために魔力測定をやったから、少しだけ早かったんですよ」

「ああ、そういえば、そんなこともやるんだったか」

 僕がクロノさんたちが座っているテーブルに備え付けられた四脚の椅子のうちの一つに座りながら、多少の非難も含めた声色で言うが、肝心のクロノさんは、少し考え込んだ後にようやく思い出した、といわんばかりの表情をして納得したように頷いていた。

 せっかく招いてくれたクロノさんにあまり非難めいたことを言いたくはないが、やはり直接言わなければならないのだろうか。あるいは、動揺しないということは、なにかクロノさんに思惑があったのだろうか。しかし、どちらにしても確かめるためには、直接聞かなければならないだろう。

「あの……クロノさん、一つ聞きたい事があるんですけど」

「ん? なにか、問題でもあったのかい?」

「その……どうして、なのはちゃんのこと伝えておいてくれなかったんですか?」

 少なくともクロノさんが係員の人たちになのはちゃんの魔力のことを伝えておけば、あそこまで大仰なことにはならなかったはずだ。何らかの対応を期待したわけではないが、あそこまで動揺することもなかっただろう。僕たちが奇異の視線に晒されたのは、やはり、教官たちの動揺があったからだろう。なのはちゃんの測定が複数回にわたって行われたり、教官が魔力値を見て驚いたり、それで余計に注目を集めてしまった。

 僕の問いを聞いたクロノさんは、少し考え込むように顎に手をやって、やや目を瞑る。おそらく、僕が言った意図を考えているのだろう。やがて、何か合点がいったのか、不意に目を開くと、納得したように、ああ、と声を上げた。

「そうか……すまない。今回の担当は、『陸』だったことを失念していたよ」

 クロノさんはそうやって謝ってくれるものの、陸という単語の意味が分からなかったため、どうして謝罪されたのかいまいち理解する事ができなかった。僕がクロノさんが言っていることを理解できないと判断してくれたのか、クロノさんは、ゆっくりと事情を説明してくれた。

「まず最初に説明すると、僕が所属している時空管理局という組織は、主に二つに分けられるんだ。一つは、僕が所属している時空管理局の本局、通称、『海』と呼ばれる部署だね。主な任務は、この間のときのようなロストロギアの封印、処理とか次元世界の犯罪の取り締まりなんかだね」

 それに加えて、追加で説明してくれたのは、本局が『海』と呼ばれる所以だった。僕が搭乗したこともある時限航行艦アースラ。あれは、次元の海を泳ぐためのものであり、次元空間を海と見立てて、時空管理局の本局は海と呼ばれるらしい。

「次に、今回、君達の講習を受け持ってくれている部署である時空管理局ミッドチルダ地上本部、通称、『陸』だ。主な任務は、ミッドチルダの治安を守ることだと思ってくれればいい」

 つまり、日本でいうところの警察に近いのだろう。ミッドチルダでおきた犯罪を一手に担っているのだから、おおむね間違いではないはずだ。

 なるほど、クロノさんが言うところの『海』と『陸』という単語の意味は理解できた。しかしながら、どうしてそれがなのはちゃんの魔力がばれて大事になることに繋がるのだろうか。クロノさんの言い方では、クロノさんが所属する『海』だったら問題ないように聞こえる。

 おそらく、その転についてもクロノさんは話してくれるのだろう、と期待して黙っていると、その期待に応えてか、クロノさんは、確信となる部分について話し始めた。

「ここで、なのはさんの魔力クラスがどうして問題になるか、というと、だ。海の平均魔力クラスのほうが陸の平均魔力クラスよりも高いからなんだ」

「え? 同じじゃないんですか?」

 名前としては、同じ時空管理局だ。それなのに戦力が偏るように配置するとは思えない。もちろん、海のほうが少数精鋭というのであれば、話は分かるが、次元世界―――それでこそ、僕たちのような世界までカバーしているとなれば、その人数はむしろ、陸といわれる世界一つ分よりも多くなければカバーできないだろう。

「もちろん、それには理由がある」

 僕の疑問に答えるように、クロノさんはその答えを提示する。

「さっきも言ったけど、海の主な任務は、ジュエルシードのような次元世界に散らばったロストロギア事件や次元世界を跨いだ事件だ。ジュエルシードのようなロストロギアを魔力ランクの低い魔導師が封印できると思うかい?」

「あ!」

 そうだ。だからこそ、ユーノくんは、ジュエルシードを封印できなかった。正確には、ユーノくんには、暴走したジュエルシードを封印できるほどに魔力が戻っていなかった。だからこそ、僕となのはちゃんに助けを求めたのだ。

「だからこそ、海には魔力が高い魔導師が集まるんだ。海の場合、翔太くんぐらいの魔力ランクAといえば、武装隊隊長クラスだ。そして、前線のエース級となれば、有名な魔導師になれば、Sクラスだっている。一方、陸は、武装隊隊長クラスでも平均魔力ランクBぐらいだ。そして、前線で活躍するエース級としても、魔力ランクAAぐらいが普通になる」

「で、でも、そうだとすると治安維持活動に支障がでませんか?」

 ありていに言ってしまえば、陸―――このミッドチルダの警察は魔力ランクが低い魔導師ばかりとなる。ならば、もしも、犯罪者で強い魔導師が現れた場合はどうなるのだろうか?

 そして、僕は地雷を踏んでしまったのか、僕の一言で、クロノさんの表情が氷のように固まってしまった。

「……確かにミッドチルダの検挙率はお世辞にも良いとはいえない。もちろん、ミッドチルダの治安を蔑ろにしたいわけではないさ。ただ、時空管理局の設立理念は、次元世界の平和だ。陸に戦力を回して、海に戦力が足りませんという話になれば、本末転倒だ。それに、海の任務の場合、手遅れになると次元世界が一つや二つ消えてもおかしくない事件もある。その場合の被害者の総数は―――想像したくもないな」

 やるせない表情で言うクロノさん。

 なるほど、大体の状況は理解できた。つまり、簡単に言うと人手不足なのだ。戦力が偏っているんじゃない。偏らせざるを得ないといったところだろうか。

 海の任務は、それでこそなのはちゃんのような魔力ランクをもつ魔導師を多数必要とする。稼働率は、陸に戦力を回す余裕がないということろから想像したとしても、たぶん、百パーセントを超えているのかもしれない。しかも、失敗すれば、地球が丸々一つ消えてしまうような事態なのだろう。

 だからこそ、回したくても回せない。被害の規模が桁違いだから。どちらに重きをおくか、といわれれば、世界が一つか二つ消えるのとミッドチルダという一世界の治安維持を比べるまでもないだろう。だからこそ、陸の魔力ランクの平均が低いのだろう。

 これは、多分、魔法世界の弊害なのだろう。

 僕たちの世界が使っているような―――こちらの世界で言うような質量兵器は、誰でも使える利点と欠点がある。誰でも使えるからこそ、人数を集めれば戦力になる。それが利点であり、欠点だ。僕たちの世界は、その利点を重視し、魔法世界は、その欠点を重視した。だから、魔法世界では質量兵器が、違法なのだ。

 だが、代用したエネルギーである魔法はより厄介な代物だったという話だ。なにせ才能に左右されるのだから。数をそろえれば、必ず一定数が確保できるわけではない。むしろ、必要数量をそろえる事が難しいのだろう。なのはちゃんクラスの高魔力ランカーだって、そう簡単には揃わない。

 だから、優先度が高い順に割り振られる。その結果が、陸と海の格差であり、先ほどのような驚愕に繋がったのだろう。

「だいたいの事情は分かりました。それで、これから僕たちはどうしたらいいですか?」

 これからの立ち振る舞いが一切不明だった。少なくとも、あの視線の中に混じって同じように魔法の練習をするのはとても疲れそうだからだ。それならば、クロノさんに頼んで、先ほどの測定結果は、機械が壊れていた、と話を通してもらうなどの処置も可能ではないか、と考えたからだ。

 しかし、クロノさんは、少し考えると、やがて口を開いた。

「とりあえず、今日のところは、そのまま受けてもらえないだろうか。彼らが、時空管理局に就職するか、どうかは分からないが、魔法に関わる以上、なのはさんのような高魔力ランクの魔導師に会うのは間違いないんだ。それが早いか、遅いかの違いでしかないからね」

 彼からしてみれば、簡単にそれを決めたわけではないのだろう。午後から、あの視線の中で授業をうけるというのは、若干ながら気が重いが、僕にできることは何もない。なのはちゃんから離れていれば、僕も視線を受けることはないのだろうが、あの中で唯一の知り合いである。そう簡単に僕だけ離れるというわけにはいかないだろうし、実技を受けないというのは、今回の旅行の目的からもっとも離れてしまうため、意味がない。

 だから、僕たちは、大人しく講義を受けるしかないのだった。



  ◇  ◇  ◇



 さて、午後の授業が始まった。一度、教室に集められた僕たちは、そのまま教官に連れられて、近くのグラウンドへと出た。大学のグラウンドは、なるほど、総合大学並みに広い。今回集められた人数程度では、問題ないようだ。そこで、僕たちは、それぞれクラスわけされる。

 一つのグループは、魔力ランクがAとBのグループ。CとDのグループ。EとFのグループに分かれることになった。僕は、魔力ランクがAなので、一番上のグループだ。魔力ランクがSプラスのなのはちゃんは、というと僕と同じグループになっていた。グループの大体の人数割りは、僕たちのグループが僕たちを入れて9人。CとDのグループがたくさん。EとFのグループは、CとDよりも若干少ないぐらいだろうか。

 百人ぐらいいるはずだから、これだけ見ると確かに僕のランクが珍しいという事がよく分かった。

 なのはちゃんの魔力ランクから分かるように魔力ランクAを越える人もいるはずだ。しかしながら、グループは、ランクAまでしかない。なんでだろう? と教官に聞いてみたところ、簡単に説明してくれた。

 魔力ランクが高い人というのは、基本的に魔力を生み出す器官であるリンカーコアの覚醒も早いらしい。だから、小学校に上がる前に覚醒する事が多いらしい。そして、この時期の講義に来るのは、魔法世界で言うところの小学校に入学した後に魔力に覚醒した子ども達らしい。だから、魔力ランクもあまり高い子もいないはずで、今までは問題なかったようだ。

 とことんまでに、なのはちゃんは、例外だったらしい。

「これから、最初の魔法の実技の授業を始めるとしよう」

 僕たちのグループの教官は、座学のときから引き続きイスガ・ヤマモト教官だった。ただし、服装は、座学のときとは異なり、どこかで見た事があるような服装だった。どこだっただろうか? と思い出していたが、記憶を探ると一つだけ該当した。四月のあのジュエルシード事件のときに武装隊の人たちが着ていた制服に似ているのだ。

 もっとも、彼の所属も時空管理局であることを考えれば、無理もない話なのだが。

「最初に君達には、魔力という感覚を掴んで、放出するところから始めてもらおうと思う」

 教官の話によると、魔法を使う上で、自分の魔力の感覚を掴むことは大切なことらしい。魔法を使うための式を覚え、デバイスを補助として使うだけでも確かに魔法は使えるが、それは、効率があまりいいわけではなく、正確に魔法を自分の手足のように使おうと考えると、この工程は必要らしい。

 しかしながら、いきなり魔力が、といわれても分からないだろう。彼らだって、学校や検査機関で魔力反応が確認されただけであり、魔法など使ったことがないのだから。もっとも、だから、そこから始めているのかもしれないが。

「まあ、いきなり、そういわれても無理だろうから―――」

 そういって、教官は、魔力の感じ方を説明してくれた。魔力を発生される器官というのは、リンカーコアといわれる器官だ。これは、通常、心臓の隣あたりにある器官らしい。もっとも、レントゲンなどで見えるわけではないらしい。その辺りに意識を集中させ、リンカーコアの鼓動を、血液のように体に巡る魔力の流れを感じることで、魔力を感じる事ができるらしい。

「それじゃ、後は自分達でやってみるといい」

 何か分からない事があれば、聞いてくれ、と言い残して、彼は解散を告げた。

 これでいいのだろうか? と僕も疑問に思ったものだが、確かに最初に魔力を感じないことには話にならない。なのはちゃんは、あの時はレイジングハートの力を借りて魔法を使っていたが、今ではちゃんとレイジングハートなしでも魔法を使う事ができるようになっている。

 解散を告げれた子ども達は、呆然としていたが、やがてお互いに知り合いだったのだろう。3人と4人のグループ―――男の子と女の子のグループ―――に分かれて、どうする? と相談しあっていた。

「僕たちはどうしようか?」

 僕は隣に立っていたなのはちゃんに問いかける。

 簡単に言うと、僕たちは教官が言うことはすでにできているのだ。魔力を感じて、それを体外に放出する。それは、デバイスを持たない僕が最初にユーノくんから習った基礎だった。デバイスなしで魔法を使うためには、デバイスを持っている人よりも注意深く魔力を操る必要があるからだ。だから、何よりも最優先で覚えた。

 これから、僕たちが取れる手段は、二つだ。

 一つは、他の子たちと歩調を合わせるために、彼らが魔力を扱えるようになるまで待つこと。もう一つは、教官に自分達が魔力を使えることをさっさと告げて、彼らとは別に魔法の練習をすることだ。

 しかしながら、ただでさえ、目をつけられているこの状況で、二人だけ特別になるような行動を取るような勇気は僕にあるはずもない。だからといって、魔力が使えない振りをするのも時間がもったいないような気もする。

 語りかけたなのはちゃんもどうするつもりだろうか? と思っているが、彼女からの返答はない。つまり、なのはちゃんもどうしていいのか分からないのだろう。

 一方、解散した他の子たちは、「う~ん」と唸ってみたり、心臓の上に手を置いてリンカーコアを感じようとしたりと試行錯誤をしていた。それは、僕たちのグループだけではなく、全体的にそのように手探りで頑張っているようだ。

「どうかしたのかい?」

 これからどうしたらいいのか迷っているところに僕たちのグループの教官であるイスガ教官が話しかけてきた。僕たちが、周りの子達と異なって何もしていないのが気になったのだろう。だから、話しかけてきたのだろうが、直後にあっ、と何かに気づいたような声を上げていた。

「そうか、君達は、第九十七管理外世界の子だね」

「そうですけど」

 管理外世界の出身であることを聞いてきたので、何か関係があるのだろうか、と少し怪訝に思いながら、答えると僕の声色から、不審に思っていることを感じたのか、慌てて両手を振って僕の疑惑を否定していた。

「ああ、君達が、管理外世界の出身であることを気にしているわけではないんだ。ただ、今回の参加者で管理外世界出身なのは君達だけで、先ほどの魔力判定でも少し騒ぎになっただろう? だから、少し君達について調べてみたんだが、どうにも分からなくてね」

 そこまで言って、改めて考えるように腕を組んで、一つ一つ整理するように僕たちの境遇を口に出し始めた。

「君達のことは、管理局のデータベースに載っていたよ。第九十七管理外世界出身の蔵元翔太君と高町なのはさん。先日の『ジュエルシード事件』において、多大な貢献をした現地住民。ついでに、表彰もされている」

 イスカ教官は、間違っているかい? という視線を向けてきたので、僕は黙って、首を横に振った。

「だが、君達について分かったことはそれだけだ。何をやったのか、どういう風に貢献したのか、すべてが執務官権限によって制限がかかっていてね。ここにいる以上、魔力があることは分かっているんだが、それ以上は何も分からないんだ。だから、君達がどんな魔法が使えるか、教えてもらえるかい?」

 僕たちの情報に関して制限がかかっていることに少しだけ驚いた。別に秘匿するようなことはないような気がするのだが。どうして、クロノさんは情報を秘密にしたのだろうか。そのおかげでどうやら、イスカ教官は、僕たちが魔法が使えるかどうかも分からないようだ。

「そうですね。一応、僕は、ラウンドシールドとチェーンバインドとアクセルシューターぐらいなら、何とか使えますよ」

 なのはちゃんが攻撃魔法系を使う事ができたので、僕はユーノから主に防御と補助の魔法を教えてもらった。ラウンドシールドとチェーンバインドはそれなりの精度だと思っている。攻撃魔法としては、アクセルシュータが使えるが、これはクロノさんから教えてもらい、なのはちゃんと一緒に精度を上げているところだ。もっとも、現状は三つを制御するのが精一杯だが。

「えっと、私は―――」

 僕の紹介が終わったので、次は、なのはちゃんだよ、と視線を投げてみると、なのはちゃんも自分が使える魔法を指折りに数えていく。一つ、二つ、三つ、と魔法名を挙げていくが、片手をすべて指折り終えた後でもまだまだ続く。最初は、ふむふむ、といった様子で頷いていたイスカ教官も段々と顔が強張っていき、両手を越えた辺りで、信じられないというような驚愕の表情をしていた。

 結局、なのはちゃんが挙げた魔法は両手の二倍程度の数であり、最後まで聞いた後、イスカ教官は、おそるおそるといった様子で、なのはちゃんに問いかける。

「失礼だが、君は、我々と関わる前から魔法が使えたのかな?」

 イスカ教官が聞きたいことは分かる。おそらく、彼らの常識から言えば、なのはちゃんが使える魔法の数が異常なのだろう。だから、時空管理局から関わる以前から魔法を覚えていたと思ったのだろう。もしかしたら、僕が考えている以上になのはちゃんの才能が異常なのかもしれない。だから、どこか縋るように見えたのだろう。

 だが、そのイスカ教官を拒否するようになのはちゃんは、イスカ教官の言うことを否定するように首を横に振った。

 それを見て、イスカ教官は、大きくため息を吐いた。そこに込められた感情を僕が理解することはできない。

「君達の状況は理解したよ。しかし、参ったな。申し訳ないが、君達のレベルは今回の講習の実技レベルを超えているんだ。魔力ランク的に考えて、一番上のクラスと言っても講習期間内に君達のレベルになるのは不可能だろう。だから、私としては、君達に実技の免除を言い渡す事ができるが、どうする?」

 クロノさんに講義を受けてくれ、といわれた矢先からこれだ。しかし、困ったことに僕たちは、午後の授業を免除されたとしても、やることがない。この世界に来た目的は魔法世界について学ぶことだ。君達はレベルが高いから、講習はいいよ、といわれてもやることがない。ならば―――

「ここで、魔法の練習をしても構いませんか?」

「ああ、構わないよ。その代わり、と言っては何だが、もしよければ、他の子たちに魔力の使い方を教えてもらえるとありがたい。本来は、私達の仕事なんだがね。この講習は人数が足りないんだ」

 そういって辺りを見渡す。大体、他のグループでも教官に当たる人間は、一人だ。多いところでも二人。このグループは二桁に満たないからいいものの、他のクラスは二桁を軽く上回る人数がいるのだ。教官が一人や二人では上手く回らないだろう。

「分かりました。といっても、僕たちも素人同然なので、教えられるとは思いませんが」

 そもそも、僕たちの世界は魔法という概念すらない世界だ。そんな僕たちが魔法世界の住人である彼らに魔法について教えられるとは到底思えないのだが。

「いや、最初の魔力の感覚を掴むのは、理論というよりも直感に近いものがあるからね。君達が感じたことで構わないよ」

 それだけ言うと、イスカ教官は他のグループに教えるためだろう。別の場所へ向けて歩き始めた。

 さて、残された僕たちだが、教官から許可は貰っているから、ここで練習をしても構わないのだろう。しかしながら、一応は頼まれたこともある。他の子たちの様子を見ることだ。おそらく、教えられることなんて殆どないだろうが、それでも、頼まれたこともあって、何もしないというのも気がとがめる。とりあえず、一度だけでも話しかけることぐらいはしておくべきだろう。

「なのはちゃん、僕は男の子のグループを見に行くから、なのはちゃんは女の子のグループのほうに行ってくれないかな?」

 僕たちのグループでは、総勢が九人で、七人が4人の女の子と3人の男の子のグループに分かれているのだ。彼らはいずれも同年代のように見えるため、あまり性別は関係ないだろうが、それでもとっつきやすさはあるだろう。少なくとも女の子の方に僕だけで行くよりもいいはずだ。

「いいかな?」

 何かを考え込むように俯いていたなのはちゃんだったが、僕が改めて念を押すように言うと、まるで観念したようにコクリと頷いた。

 大丈夫かな? と、なのはちゃんのことを考えると少しだけ不安だったが、いくら友達とはいっても僕が常に隣にいるとは限らないのだ。別世界でも良いから、友達ができて欲しいと思った。一度でも友達の作り方がわかれば、きっと、向こうに帰っても役に立つだろうから。それに、共通の話題を持っていることは友達になるには十分すぎる条件であり、向こうの世界よりもやりやすいはずである。むしろ、この場合、知り合いである僕が付き合ったほうが友達になりにくいだろう。

 だから、僕はあえて、なのはちゃんと別行動をとることにした。

 なのはちゃんに、頑張って、と激励の意味をこめて言うと、僕は、なのはちゃんに背を向けて、男の子のグループが固まっている方向に向けて歩き始めた。

 元々、あまり離れずに練習をしているため、さほど時間をかけずとも男の子達のグループに近づく事ができた。ある程度まで近づいてくると、向こうから勝手に気づいてくれたようだ。3人のうちの一人がこちらに訝しげな視線を向けてきた。その色に込められたのは、とても歓迎とは思えない。だが、その視線に屈することなく、僕は近づいた。

「なんだよ」

 声色からもとても歓迎ムードとは思えない。なんで、こんなに最初から敵意丸出しなんだろう? と疑問に思いながらも、できるだけ笑みを浮かべて、声が届く範囲まで近づいた。その頃には、他の面々も僕に気づいたのだろう、胸に手を当てたり、深く深呼吸をしたりして魔力を感じようとしていた手を止めて、全員が同じように訝しげに僕を見ていた。

「僕は、少しだけだけど、もう魔法が使えるからね。よければ、君達に教えようと思うんだけど―――」

「はっ! 余所者に教えてもらうことなんかないっ!」

 どうだろうか? と最後まで言わせて貰うこともできなかった。おそらく、最初に気づいたのがリーダー格の人間だったのだろう。僕が魔法を使えるというと、明らかに不機嫌そうな表情をし、すべてを言い終わる前に僕の提案を蹴っていた。取り付く島もないというのは、まさしくこのことだろう。しかも、興味深げに見ていた他の子たちにも、その意見に賛成させるように、ほら、やるぞ、と僕から意識を外してしまった。

 もしも、これが教官から頼まれたことでやらなければ、いけないことなら僕ももう少し粘っただろうが、明らかに彼らは、僕が管理外世界から来たことを知っており、そのことで魔法世界の住人であることのプライドが刺激されたのか、明らかな嫌悪感で僕を拒絶した。教官も『できれば』と言っていた以上、彼らにはこれ以上近づかないほうが良いだろう。もっと、こじれそうな気がするから。こういう時は、近づかないほうが吉のこともある。

 そう考えて、彼らに背を向けた僕は、今度はなのはちゃんたち、女の子のほうへ様子を見るために歩き出した。

 ある程度、近づいてみると奇妙な光景が視界に入ってくる。

 固まって、何か様子を見ている女の子のグループとそれを少し離れたところからじっと見ているなのはちゃんだ。構図だけみれば、対立して、一触即発のようにも見えるが、空気はまったくそんな様子はない。むしろ、なのはちゃんと女の子達の様子は困惑といった空気だった。

「なのはちゃん、どうしたの?」

「あ、ショウくん……」

 僕が話しかけるとなのはちゃんは、どこか気落ちしような表情をしていた。本当にどうしたんだろうか?

「ねえ、もしかして、あなた達って、管理外世界から来た魔力ランクSの子?」

 なのはちゃんが何も語ってくれずにどうしたものだろうか? と途方にくれているところで、女の子たちのグループの一人が僕に話しかけてくれた。しかも、僕たちのことを少しは知っているらしい。

「そうだよ。Sランクなのは、僕じゃなくて、なのはちゃんだけどね」

「それは知っているよ。あの時、私達もいたからね。それよりも、何か用があるの? その子、さっきからこっちを見てるんだけど、何も言ってこないから気になってるんだけど……」

 彼女の言葉を聞いて、少しだけピンときた。もしかして、なのはちゃんは、彼女達に話しかけようとして、どうしていいのか分からなかったのかな? だから、じっと見つめるだけになってしまった。いきなり、一人にするにはハードルが高すぎたかもしれない。同性で、話の種もあるものだから、容易いと思っていたけど、どうやら、それもなのはちゃんには難しいらしい。

 なら、最初は、僕が橋渡しになるしかないか……。

「ああ、うん。僕たちは、もう少しだけだけど、魔法が使えるからね。よかったら、魔力の使い方のコツ見たいのを教えようと思ってね」

「え、本当? 私達もどうやっていいのか分からないから困っていたのよね」

 彼女の救われた、というような笑みを見て、少しだけ安心した。もしかしたら、あの男の子たちのように拒否される可能性もあったのだから。それにしても、やっぱり教官の言い方では、魔力の扱いなんて分からないのだろう。もしも、毎回、こんな風に講義が進んでいるんだとすると、よく毎回無事に終わっているものだと思う。もしかしたら、もう少し時間が経てば、あるいは、明日には別の方法を提示するのかもしれないが。

 彼女の話を聞いていたのだろう。残りの三人も僕たちの近くに寄ってきた。

「それじゃ、さっそく、魔力の使い方を教えようかな」

 なのはちゃんにこの場を任せようかな、とも思ったが、先ほどの様子から考えれば、無謀だと思い、僕から話を始めることにした。幸いにして、この講義は10日間続く。午後の実技だって、同じグループで行うだろう。つまり、ここで一緒に練習する事ができれば、10日間は一緒なのだから、なのはちゃんも打ち解けられるはずだ。今は、僕が先導するしかないが。

「ちょっと、両手を出してくれないかな?」

 僕に話しかけてくれた女の子に僕は、両手を出すように言う。彼女は、頭に疑問符を浮かべながらも大人しく両手を差し出してくれた。その彼女の両手に僕の手を重ねるように近づけると、僕は自分の魔力を体に纏わせるように展開する。僕特有の白い魔力光が身体全体を包み込む。

 彼女達は、僕たちが本当に魔力を使えるとは信じていなかったのだろうか、僕が魔力を展開した瞬間に、おぉ、という歓声を上げていた。その声に苦笑しながら、僕は、纏わせるように展開した魔力をそのまま、伸ばすようにして両手を差し出した彼女の周囲に纏わせる。両手は魔力の橋渡しのような役割を担っている。

「えっ、えっ!?」

 もちろん、僕が何も言わなかったものだから、両手を差し出した彼女は、困惑の二文字だ。だから、僕はそれを落ち着けるように声をかけた。

「落ち着いて。いい、目を瞑って、身体の周囲にある魔力を感じて。そして、同じものを君の中に見つけるんだ」

 これは、僕がユーノくんから習った魔力の使い方だ。もっとも、僕の場合は、ユーノくんが肩に乗って、魔力を展開してくれたが。なんというか、魔力には、どこか心臓に似たように鼓動がある。それは、他人のものとはいえ、魔力に触れていれば分かる。ましてや、今は魔力に包まれているような状態だ。胸に手を当てて心臓の鼓動を感じるよりも容易く感じられるだろう。

「ほら、なのはちゃんも、手伝ってあげてよ」

 これの問題点はワンツーマンにならざるを得ないというところだ。しかも、自分の中の魔力を見つけるには、個人差があるらしい。僕は二晩かかった。この子の場合はどうなるだろうか? 僕もずっと魔力を展開するのは疲れるので、少し休憩を挟むことになるだろう。

 チラリと横目で、なのはちゃんの様子を確認してみると、僕と同じように両手を差し出した女の子になのはちゃん特有の桃色の魔力光を纏わせていた。ただ、ちょっと、両手を差し出した女の子の表情が引きつっており、おっかなびっくりといった様子だ。気持ちは分かる。こちらで魔力を展開しているにも関わらず、なのはちゃんの魔力ははっきりと感じられるほどに強大で、力強いのだから。

 僕が、小川とすれば、なのはちゃんは激流だろうか。小川に足を突っ込むのは簡単だが、激流に足を突っ込むのは自殺行為だと考えてもおかしい話ではないだろう。だが、幸いにして魔力は危害を加えるようなものではない。むしろ、なのはちゃんのほうが魔力を感じやすくて、見つけるのが簡単かもしれない。いや、もしかしたら、周りのなのはちゃんの魔力が強すぎて、自分の魔力を見つけられないのかな。どうなるんだろう?

 結局、女の子のグループ四人が自分の魔力を見つけられたのは、その日の実技が終わる寸前だった。その間、僕は魔力を出しっぱなしで、実技が終わった頃にはへとへとだ。自分の魔力を見つけられた女の子達が喜んで、僕たちにお礼を言ってくれたのは嬉しい限りだったが。

 もちろん、なのはちゃんは、なんでもないように平然としていたが。



  ◇  ◇  ◇



 ずいぶん、波乱の初日だったが、それ以降は平穏だった。確かに、なのはちゃんに対する好奇の視線は強かったが、それでも実技は、同じグループの女の子たちと一緒なので、さほど気にならない。ついでに実技の時間は自分のことで精一杯になるからだろう。だれもこちらを気にすることはなかった。

 一方で、魔法世界の生活だが、初日以降、僕はアリシアちゃんとなのはちゃんと初日と同様に一緒に寝るはめになってしまった。アリシアちゃんは、なぜか病院に行った日は酷く甘えてくるし、なのはちゃんは、寝る直前になると袖を引っ張って無言で訴えてくる。初日を承諾してしまったばかりに、後日拒否するというのは、特に理由がない限りは、拒否しづらい。

 幸いなのは、この状況に慣れてしまったことだろうか。『女の子と一緒に寝る』という部分に気恥ずかしさは感じるが、慣れてしまえば、しょせん、彼女達は小学生だ。そんなに深く考える必要はなかった。さすがに高学年になってまでこんな状況では困るものだが。

 僕は、このまま平穏無事に魔法世界の講習が終わる、そう思っていたのだが、世の中、そうそう上手くは回っていないらしい。

 それを僕が感じたのは、魔法の講義も半分ほど消化した午後の実技の時間。ようやく、魔力を自由自在に取り出せるようになった女の子達に基本的な魔法の使い方を教えていた時間のことだった。

 僕の背後で、パンッという軽くまるで、風船でも割れるような音がした。

「え?」

 思わず、その音に振り返ってみると、そこには何もない。ただ、僕の背後から少し離れたところに僕たちと同じグループの男の子たちがいるぐらいだろうか。ただし、どこか驚いたような、怯えたような表情をしながら。生憎ながら、僕の背後で起きたことなので、僕には事態の把握をする事ができない。

「ねえ、どうした……っ!?」

 おそらく、僕の背後が見えていただろう女の子達に事情を聞こうとしたのだが、そんなことはぶっ飛んでしまうような事態が目の前に広がっていた。

 僕と同じように女の子グループの一人に魔法を教えて―――残念ながら、なのはちゃんの教え方は、感覚がほとんどで、コミュニケーションの練習以上の意味は持っていなかった―――いたはずのなのはちゃんが、明らかに怒っています、という表情を浮かべながら、背後に無数のアクセルシュータを背負っていた。しかも、その狙いともいえる彼女の右手の指先は、僕の背後にいる彼らを狙っている。

「ど、どうしたの? なのはちゃん」

 別に彼女達に請われたわけでもないので、なのはちゃんがアクセルシュータを展開する必要はどこにもないはずだった。いや、彼女が怒っていることから考えれば、魔法を見せてくれ、とお願いされたわけではないだろう。

「あいつら、ショウくんに魔法を当てようとした」

 なのはちゃんは、男の子のグループから目を離すことなく、淡々と事実を告げる。同時に、周りに展開していた数えるのも億劫なほどのアクセルシュータを指先をタクトを振るうようにして移動させる。僕に魔法を当てようとした男の子達の周囲に檻のように配置する。それが攻撃魔法でなければ、誰かを逃がさないようにするためという意味でなければ、見事な魔法操作だっただろう。

 しかも、そんな攻撃魔法に囲まれたことは当然ないのだろう。男の子達はお互いに身を寄せ合って、ひぃ、と短く悲鳴を上げていた。その間にも段々と距離を縮めるように近づける。

「ち、違うんだっ! あれは、偶然で、失敗した魔法がそいつに飛んでいっただけなんだ!」

 まるで、許しを請うように男の子の一人が叫ぶが、なのはちゃんは、その訴えを聞いても、ふっ、と笑うだけだった。

「嘘だよね」

 男の子から訴えを一蹴したなのはちゃんは、さらにアクセルシュータの距離を縮める。もはや、彼らに逃げ場はない。アクセルシュータがなのはちゃんの命令で打ち込まれれば、無数の弾丸に似た魔法が彼らを直撃するだろう。彼らに逃げ場が用意されていない事が分かるのか、彼らの顔は、恐怖のためだろう涙でぐちゃぐちゃになっており、何か小言で呟いているように見える。口の動きから考えるに『やめろ』とか『ごめんなさい』だろうか?

 などと冷静に状況を見据えている場合ではなかった。

「なのはちゃんっ! ダメだよ。彼らだって、偶然だって言ってるし、謝ってるじゃないか」

 勿論、彼らが嘘を言っていることぐらいは、僕にだって分かる。最初から僕に取り付く島も与えなかった彼らだ。僕らが関与することで女の子達は例年の数倍の速さで魔法が使えるようになっているらしい。しかも、話の中に出てきたのだが、彼女達と彼らは、知り合いなのだ。僕らのせいで、彼女達が自分達よりも上に行っている。しかも、彼らが余所者と言っている管理外世界の人間のおかげで。

 彼らの自尊心が刺激されてもまったくおかしい話ではないだろう。僕が彼らと良好な関係でも築けていれば、もっと話は違っただろうが、彼らとは、今回限りだと思っていたし、特に彼らと良好な関係を築く理由もなかったので、彼らとは最初の険悪な関係のままだった。何より、最初から敵意を持っている人間と良好な関係を築くまで持っていくのは、非常に骨が折れることなのだ。そういうわけで、放置していたのだが、まさかこんなところで表面化するとは夢にも思わなかった。

 なのはちゃんは、僕と彼らを順番に見る。なのはちゃんが何を考えているか分からない。しかし、ここで問題を起こすわけにはいかないだろう。ここには、クロノさんの紹介できているのだ。ここで問題を起こしてはクロノさんにも迷惑がかかるだろう。

 僕と彼らを交互に見ていたなのはちゃんは、やがて、クルクルっと彼らを指していた指先を動かすと彼らを包囲していたアクセルシュータをすべて消した。桃色の檻ともいえる場所から生還した彼らの顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったまま、一瞬何が起きているのか分からない、というほどに呆けていた。

 何はともあれ、なのはちゃんが彼らに危害を加えることなく、魔法を素直に消してくれたことにほっ、とした。しかし、その僕の安心を奪い取るようになのはちゃんは、ツカツカと生還したことを喜んでいる彼らに近づいていた。お互いに生還したことを喜び合っていた彼らもなのはちゃんが近づいたことに気づき、体を強張らせていた。

 まさか、直接、殴ったりしないよね。

 魔法を使っちゃいけない、といったので、実力行使に出る、なんて思考回路はしていないと思うが、それでも心配になった僕は、なのはちゃんを追いかけようと思ったが、僕の心配は杞憂だったようだ。なのはちゃんは、彼らに顔を近づけるとボソボソと何か呟いただけで、それ以上は彼らに興味を失ったように僕の方に向かってきたからだ。彼女の表情は、先ほどの不機嫌は何所へやら、晴れ渡った空のように笑っていた。一方、なのはちゃんの肩越しに見える彼らの表情は、ご愁傷様というほどに恐怖に震えていたが。

 一体、何を言ったんだろう。

 たった一言で、そこまで震え上がれるとは、どんなことを言えば可能になるのだろうか?

「なのはちゃん、彼らに何を言ったの?」

 僕の傍まで来たなのはちゃんに気になったことを聞いてみたのだが、彼女は、少しだけ考えた後、唇に人差し指を当てる仕草をし、笑いながら一言だけ言った。

「秘密、だよ」



  ◇  ◇  ◇



 結局、なのはちゃんのちょっとした暴走の後、イスカ教官に事情を聞かれ、怒られてしまった。不用意に魔法を使うものではない、と。事実、なのはちゃんが魔法を使ったのは、あまりに過剰反応だったので、素直にそのお説教を受け入れるしかなかった。

 しかも、悪いことは重なるようで、僕にちょっかいをかけたことでなのはちゃんが、魔法を使ったわけだが、その力が圧倒的過ぎたらしい。その事件の次の日からは、今まで比較的、仲がよかったはずの女の子達のグループからは、距離を置かれてしまった。具体的には―――

「後は、自分達で頑張ってみるから」

 とやんわりと指導を断わられてしまったのだ。せっかく、魔法世界で、なのはちゃんに友人ができそうだったのに、と、男の子のグループとの関係も考えればよかった、と後悔が募る。そのことに対して、僕はなのはちゃんに謝ったのだが、なのはちゃんは、笑って、「別に気にしてないから、ショウくんも気にしないで」と、女の子グループから距離を置かれたのに、どこか嬉しそうに言っていた。

 問題の対象となった男の子グループだが、彼らは対照的にこちらに好意的に―――いや、正確には従順になったというべきだろうか。何も頼んでいないのに、休み時間にジュースを買ってきてくれたり、ミッドチルダでおいしい、といわれるパンを買ってきてくれたり、とまるで一昔前の舎弟のようだった。しかも、なのはちゃんと話すときは酷く緊張して、背筋を伸ばしながら、使い慣れない敬語を使いながら、なのはちゃんの呼び方は「なのはさん」だ。

 まあ、あれだけの力を見せつけられたら、分からなくもない。小学生の男の子が同年代の女の子にそんな態度を取っているのは違和感ばかりで、なんとかしたかったが、こればかりは、刷り込まれたら、僕がどうこう言って治るものでもないだろう。まあ、彼らとの付き合いも長くないので、そのままでも、構わないだろうと僕は判断した。

 さて、女の子グループから距離を置かれ、男の子グループは舎弟と化してしまった、現在、僕たちは実技の時間は本当に自分の魔法の練習の時間になってしまった。僕は本来習うはずだった身体強化の魔法を習得し、僕が使える魔法をさらに磨きをかけることにした。

 その日、以降は特に変化はなかった。午前中は座学を受けて、午後は実技。家に帰れば、アリシアちゃんに迎え入れられて、家の周囲をなのはちゃんとアリシアちゃんと散歩。帰宅後は、ご飯を食べて、お風呂に入って就寝だ。

 ちなみに、恭也さんは、僕たちが講義を受けている間、クロノさんに紹介されたジムで剣術の稽古しているそうだ。アルフさんは、アリシアちゃんに同伴している。

 そんな感じで日々を過ごす僕たちだったが、もう少しで、講習も終わろうという時期になって、不意に訪れた休日。僕となのはちゃんは、その休日を利用して、ミッドチルダの中でも大きなショッピングモールへと来ていた。

「ん、どうしたの? なのはちゃん」

 とても一日では回りきれないだろう、という広さの中に多数の店舗が並ぶショッピングモール。ここら辺は地球とは変わらないらしい。ショッピングモールへ行くと言ったら、クロノさんがくれたお小遣いを手に僕たちは歩いていた。今日の同伴者は恭也さんだ。今は、恭也さんは別行動をしている。どうやら、興味をそそられるものがあったらしい。

 まさか、ミッドチルダに盆栽があるとは夢にも思わなかったが。

 待ち合わせ場所と時間を決めて、今は自由時間だ。僕たちは真っ先に行きたいという店舗もなかったため、一つ一つを見回っていた。そんな中で、なのはちゃんがある店舗で足を止めた。

 そこは地球でいうなら雑貨屋というべきだろうか。小さなアクセサリーなどが所狭しとならんでいる。可愛い小物なんかも並んでおり、なのはちゃんも女の子なんだな、と思えた。

「ちょっと、見て行こうか」

 なのはちゃんが興味があるなら、構わない。僕だって、別に行きたいところがあるわけではないのだから。僕の誘いになのはちゃんは、コクリと頷いて、僕たちは店内に入った。

 所狭しと並ぶアクセサリーや小物を見ながら、ここなら良いんじゃないか? と不意に思った。何に? といわれれば、アリサちゃんとすずかちゃんのお土産に、と答えただろう。彼女達とは、ここに来る前に遊ぶ約束を打診されたが、今回の旅行のために断わっていた。そのお詫びではないが、お土産の一つを持って帰るのも礼儀だろう。

 もっとも、魔法世界のものを不用意に持って帰るわけにはいかない。しかし、ここで選んだものなら問題ないだろう。魔法がかかっているわけではない。しかも、やはり文化が異なるのか、デザインもあまり地球で見ないものだ。しかし、奇抜というわけではなく、可愛らしいものから洒落たものまである。残念ながら、こちらの通貨は持っていないので、クロノさんから貰った小遣いになってしまうが、そこは仕方ないと割り切るしかないだろう。

 そう考えると僕は、しばし足を止めて、お土産を考えた。温泉旅行のときは、別々にプレゼントしたが、今回は、同じものを贈ろうと思った。二人は親友と言える仲だし、女の子だから、『おそろい』というもので盛り上がったりできるだろう。僕にはいまいちわからない感性だったが。

「これなら、いいかな?」

 僕が選んだのは、温泉旅行のときのような首からさげるアクセサリー。無難といえば、無難かもしれないが、奇抜なものを選んで引かれるよりもましだろう。お土産は、適当で喜んでもらえるものに限る。

 僕は、同じデザインのものを手に取ると会計に向かう。だが、その途中で、不意に視界に入ったものが気になった。

「これは―――」

 僕は、買うものにそれを加えて会計を済ませた。

「お待たせ」

「ううん、大丈夫だよ」

 僕は会計の間、外で待ってもらっていたなのはちゃんに声をかけた。右手に買ったばかりのアクセサリーが入った紙袋を持って。

「何を買ったの?」

「お土産だよ。アリサちゃんとすずかちゃんにね」

 右手で、それを見せるように振ってみせる。確か、彼女たちとなのはちゃんは面識があったはずだ。だが、なのはちゃんは、アリサちゃんとすずかちゃんの名前を聞くと、「そう」とだけ呟くと、不機嫌そうな顔をした。

 あれ? なにか機嫌を損ねるようなことを言っただろうか? と考えてみるが、特に僕の発言に不自然なことはない。しかし、不意に、もはやすでにほとんど忘れかけている前世の言葉を思い出した。曰く、女の子と一緒にいるときは、他の子の話をしない、というものだ。それを聞いたのは僕が中高生のときであり、小学生はあまり関係ないような気がするのだが。

 しかし、なのはちゃんが不機嫌であることは事実だ。どうしたものか? と考えたとき、左手で持っていたもう一つの紙袋の存在を思い出した。この不機嫌を予想していたわけではないが、少しでもこれが役立てばいいのだが。

「あ、そうだ。なのはちゃん、これを忘れるところだった」

「……これは?」

 僕は左手で持っていた紙袋をなのはちゃんに差し出した。それをなのはちゃんは不思議そうな目で見ている。

「プレゼントだよ」

 そう、プレゼントだ。今回、僕のせいで、せっかく仲良くなれた女の子と距離を置かれてしまった。その償いではないが、お詫びの意味もこめて、プレゼントを用意したのだ。もっとも、それを思いついたのは、会計する直前に偶然にも、あれが目に入ったからだが。

「……開けていい?」

「どうぞ」

 恐る恐るといった様子で、受け取ったなのはちゃんは、信じられないものを見るような目で、プレゼントを見ていたが、やがて、ちらっ、ちらっ、とこちらを伺い、ついに耐え切れなくなったのか、許可を貰うと、大切なものを扱うようにとめられたテープをゆっくりと外して、紙袋を破らないように中に入ったものを取り出した。

「わぁ……」

 紙袋の中に入っていたのは、桃色の大きなリボンがついた髪留めが2つだった。少しリボンが大きいかな? とも思ったが、女の子なら可愛らしい部類に入るものだろう。セミロングの長さのなのはちゃんはいつもツインテールのように髪を結っている。だから似合うと思ったのだ。しかも、布でできているのかわからないが、持ってみると大きさの割りに重さが殆どないという魔法世界の代物だった。

「ショウくん、ありがとうっ! 大切にするねっ!」

 まるで向日葵が咲いたような笑みを浮かべるなのはちゃん。ちょっとしたものなのに、そこまで喜んでくれるとは思わなかった。しかし、自分がプレゼントしたもので、そこまで喜んでくれるなら、プレゼントした側としては、冥利に尽きるというものだ。

「うん、大切にしてくれると嬉しいな」

 なのはちゃんは、先ほどまで不機嫌だったのが、嘘のようにニコニコしている。僕は少しだけ気恥ずかしかった。その気恥ずかしさを振るい払うように、僕は時計に目をやり、もう少しで待ち合わせの時間になることに気づいた。

「そろそろ、行こうか」

「うん、そうだね」

 大事そうに髪留めを再び紙袋に仕舞ったなのはちゃんは、僕の声にしたがって、ゆっくりと歩き出す。

 ―――不意に変化が訪れたのは、その瞬間だった。

 突如として、ビービーとどこか、不安感を煽るような警告音が鳴り始める。

 ―――な、なんだっ!?

 驚きは声にならず、足を止めることしかできなかった。周りのお客さんも何が起きたのか、いまいち分からない様子で足を止めていた。もしも、これが火災などだったら、放送のようなものが入ってもおかしくないんだけど。

 そんなことを考えている間にも事態は動く。警告音が鳴り始めると同時に、ゆっくりとショッピングモールの通路の間に隔壁が下りてくるのだ。防火扉のようにも見える。しかし、火災を警告するような放送は一切入らない。お客達もこの異常さに気づいたようだ。ガヤガヤと騒がしくなり、集団パニックに陥ろうとしていた。

 そして、そのタイミングを見計らったように、次のフェイズへと事態は動いた。動いてしまった。

 パンッ、という軽い爆竹が破裂したような音が鳴る。同時に、バリンッという何かが割れる音。決して小さくない音は、その場にいる全員に聞こえていた。その音源に注目が集まるのは当然ともいえた。その音の中心にいる男は、天を指すように腕を挙げていた。その先の手に握られたのは、小さく黒光りする筒状の物体。

 ―――漫画などでしか見たことないが、僕の記憶が正しければ、それはまさしく拳銃と呼ばれるものだった。

 まさか、と思う。当たり前だ。日本に住んでいれば、そんなものにお目にかかる機会は滅多にない。世界中で、そんなことがおきていることは知っているが、それはあくまで、本の中やテレビの中での出来事。自分が巻き込まれることを考えたことなんて一切なかった。

 だからだろう、答えはほとんど出ているのに、僕がまったく反応できずに、周りのように騒ぐ事ができずに、呆然とほうけていたのは。

「全員、大人しく俺達に従ってもらおうか」

 ああ、夢なら覚めてほしいと思う。どうして、僕が巻き込まれるんだろうか、と思う。

 自らが持つ力を誇示しながら、まったく怯えることなく、それが当然といわんばかりに、野生的な笑みを浮かべる男。僕は彼らの正体を理解した。彼らを僕が知っている言葉で表すならこういうべきだろう。

 ―――テロリスト、と。
















あとがき
 デパート閉店のお知らせ



[15269] 第二十六話 結
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2011/02/03 22:40



 地球の日本という国にいて、テロという事態に遭遇する確率は一体いかほどだろうか。少なくとも前世と今世をあわせてもうそろそろ三十年ほどになるが、その機会は一度もなかった。つまり、限りなくゼロに近い確率だといっても過言ではないだろう。しかしながら、僕は、その地球の日本にいれば、ほとんどゼロに近い確率であるテロに遭遇している。日本から出たのが不味かったのか、あるいは、僕の運が悪かったのか、現時点で検証する術はない。

 さて、手に黒光りする拳銃を手にしたおじさんというべき年齢に達しているであろう彼は、軽く引き金に手をかけ、いつでも発砲できることを示しながら、ショッピングモールのど真ん中、しかも、防火壁が降り、周囲と隔絶された空間の支配者になっていた。そういった意味では、彼が持つ拳銃は魔法の杖となんら変わらないのかもしれない。

 そして、誰もが、彼の指にかけられた拳銃に遠慮して動く事ができない。当たり前だ。彼のそれが本物であることは先ほどの一発で既に証明されている。実際は、小指程度の鉄の塊だ。しかし、それが持つ殺傷能力は高い。下手をすれば、一発であの世行きである。

 だから、誰も勝手に動いて目をつけられたくないのだ。その行動で、彼の注意を向けたくないから。その引き金に手をかけられた銃口が自分に向けられたことを恐れているのだ。

 しかし、我ながら、嫌に落ち着いていることを疑問に思う。確かに、経験した事がない状況に緊張しているのか心臓はバクバクと激しく高鳴っているが、思考はクリアでパニックにはなっていない。なぜだろう? と考えてみたが、よくよく考えれば、僕の人生は、前世とは異なり、ありえないことばかりだ。

 まるで、『ありえない、なんてことはありえない』ということを証明するかのように。まず、二度目の人生というオカルトめいたものを経験し、魔法が実在することを知り、自分でも魔法が使えている。それに、世の中には、吸血鬼という人種がいることさえ知っている。

 よくよく考えてみると、テロよりもよっぽど確率的にはゼロに近いと思っていたことに出会っていることに気づいた。なるほど、確かに緊張するような要素はあったものの、混乱するほどパニックになるようなことはない。そもそも、力で脅されることは、これで二度目だ。一度目は、まさかの私刑というか、リンチに近かったが。

「ねえ、ショウくん、どうするの?」

「え?」

 一方で、僕の隣に立っていたなのはちゃんは、いつもと変わらなかった。テロリストであるおじさんに怯えるような様子をまったく見せず、まるでそれが日常の一コマのように平然としている。もしかしたら、なのはちゃんも僕と同じような感覚なのかもしれない。いや、しかし、それでも表情一つ変わらないというのはすごいと思うけど。

 相変わらず、彼女は、素朴な疑問のようにきょとんとした表情で、僕に答えを求めてくる。

 さて、どうしたものだろうか。残念ながら、僕の経験則の中にテロに遭遇したときの対処法はない。例えば、事故にあったなら、救急車を呼ぶ、警察を呼ぶという対処は知っていても、テロの対処法は分からない。考えられる限りでは、警察―――ここでは、時空管理局を呼ぶ、という手段が考えられるが、それが正しいのだろうか。

 例えば、強盗にあったときの対処法としては、犯人を刺激するべきではない、と言われている。むしろ、小額でも良いから金を素直に渡したほうが被害としては少ない事がある。つまり、今回も下手に刺激するべきではないのだろうか。少なくとも、今すぐにでも殺されそうだ、という状況ならば、考えるが、現状を鑑みるにその可能性は低そうだ。

 彼らがテロリストということは、彼らは誰かに何らかの要求があるのだろう。僕たちはそのための人質だろう。ならば、下手に騒ぐよりも大人しく従ったほうがよさそうだ。なにより、防火壁の向こう側が分からない。魔法を使えば、彼らを倒すことは不可能でも、拘束することは可能だろう。僕でも、チェーンバインドで拘束することは可能だ。

 もっとも、それはテロリストが彼ひとりの場合だ。もしも、このお客さんの中に混じっていたなら、僕には分からない。一人が、目立つように行動し、もう一人は、隠れて行動する。防火壁で遮られているとはいえ、ここに集まっているのは、二十人ほどは確実にいるのだ。もしかしたら、僕たちのように魔法が使える人間もいるかもしれないのだ。それを考えるとやはり一人で制圧というのは、若干厳しいと思う。

「ちょっと様子を見ようか」

「うん、分かった」

 今すぐ危害を加えられる危険性がない以上、その様子見が最初の一手になるだろう。なのはちゃんは、僕の意見に納得したのか、あるいは、最初から僕の意見に従うつもりだったのか、間髪いれずに肯定の意を示した。

「言うことに従えば、危害を加えることはしない」

 僕たちがこれからの方針を決めたところで、改めて、拳銃を持った男が口を開いたと思うと、拳銃でこちらを脅しながら、僕が先ほど予測したようなことを口にした。その後は、防火壁で遮られた区画内のショッピングモールの道を歩いていた客たちを、一箇所に集め始めた。集める場所は、通路の中心部で、周りにほとんど何もない場所だ。雑踏とした場所では、逃げ出そうとしたときや、下手に動くものがいても分からないからだろう。

 中心部に僕たちを集めた彼は、地べたに座るように言う。文句を言うものは誰もいなかった。当然といえば、当然なのかもしれない。相手の手に握られているのは、軽く引き金を引いた程度で命を奪える代物なのだから。しかし、意外だったのは、誰もパニックにならないことだ。こういうとき、誰かはパニックになってもおかしくないのだが、全員が何かを諦めたような表情をして、淡々と指示に従っていた。

 その場にいた全員が地べたに座った頃、店の中から数人がぞろぞろと出てきた。たぶん、十人ほどだろうか。後ろには、やはり拳銃で脅すように銃を突きつける男性の姿がある。しかも、二人も。そうだ。ここはショッピングモールであり、店が並ぶ場所だ。当然、通路以外にも店の中に店員や客がいてもおかしい話ではない。そのために、彼は一人、ここで騒ぎを起こしたのだろう。だから、仲間は、三人だったようだ。

「これで、全員か?」

「はい。店の中の確認はしました」

「そうか、では。手はずどおりに」

 ショッピングモールの通路で最初に拳銃を放った男がリーダーなのだろう。上司に報告するように店の中から出てきた男性が報告すると、それにいちいち頷くと次の手順が決まっているのか、次のフェイズに動くように指示していた。

「ほらっ! 手を出せ」

 部下と思しき彼らは、どうやら僕たちを拘束するつもりらしい。ただし、縄などではない。パソコンのケーブルをまとめるためのプラスチックのバンドといえば分かるだろうか。そのようなもので人質となっている僕たちの手首と足首をしっかりと拘束する。縄であれば、解けるかも? と思えるが、意外とこれは、外れにくい事がわかった。しかも、通路のど真ん中だから、ドラマのようにガラスで切るようなこともできない。

 彼らは、そのプラスチックのようなバンドを使って人を拘束することに慣れているのか、あるいは、訓練でもしているのか、手際よく拘束していく。なのはちゃんは、自分が拘束されるときに、何かを期待するように僕に視線を向けてきたが、僕は、それに対して首を横に振った。

 確かに縛っている彼らは、拳銃を手にしていない。しかし、リーダー格の彼は、こちらをしっかりと警戒して、拳銃から手を離していない。なのはちゃんが強いのは分かっている。もしかしたら、一発で彼らを制圧できるかもしれないが、ほぼ同時というのは賭けに近いだろう。ならば、勝機を待つべきだ。ベットするのは自分の命になるだろうから。

 大人しく僕がプラスチックのバンドで縛られている頃、リーダーの男性は、無線のようなものを取り出していた。

「こちら、C65ブロック。制圧を完了した」

 無線の向こう側にいるのは、仲間だろうか。しかも、ブロックごとに区切っているということは、僕たち以外にもこうやって制圧された区域があるのだろう。いくつの区域が同じような目に会っているのだろうか。防火壁が降りているが、完全に隔離されたわけではないだろう。防火壁には小さな扉があり、そこから隣に移動できるのだから。いや、そもそも、このテロの規模すら分からない。もしかしたら、全区域で同じような光景なのかもしれない。そんな事がありえるのだろうか。そんなに大規模な組織があるのか。

 分からない。情報が足りなすぎた。ここが不慣れな魔法世界であることも起因しているのだろうが。常識的に通用しないのだから。

 僕たちの拘束を終えた彼らは、やがて僕たちを三角形のように囲むようにして僕たちを見張り始めた。もちろん、彼らの人差し指は、拳銃の引き金にかかっている。いつでも、対応できる様にだろう。彼らの行動に対して、縛られている周囲の反応は、どこか落ち着いていた。いや、確かに恐怖に怯えているような感覚はあるのだが、それだけだ。パニックに陥って、暴れるような真似はしていない。

 テロリスト達も先ほど宣言したように静かにしていれば、僕たちに危害を加えるつもりはないようだ。彼らの目的が、殺人ではない以上、不用意に僕たちを手にかける理由はないからだろう。人が人を殺すというのは、かなりの精神的な負担だ。普通は、よほどの事がない限りは、人が殺すという手段に手を染めることを忌避する。

 しかし、人質になった僕たちは騒がず、テロリスト達も、彼らは、僕らの監視役なのだろう。特に何かを話すこともなく、僕たちを見張っている。時折、リーダー格の男性が、無線機のようなもので、「特に問題なし」という定時報告のようなものを行っているぐらいだ。

 つまり、端的に言えば、暇なのだ。彼が危害を加えるつもりがないということが分かっているので、特に怯えることもなかった。

 そうなると、自然に考えてしまうのは、外の状況だ。彼らの目的は強盗のようなお金目的とは思えない。なにより、防火扉で密室の状況を作り出すほどの計画を立てている彼らだ。目的は、何らかの主張だろう。ならば、必ず、外には何らかの呼びかけを行っているはずである。

 もっとも、日本では、テロリストなどまったく出会うことがないことから、これはフィクションで作られた予想でしかない。ショッピングモールを囲むように警察が部隊を展開しているのだろうか。ああ、僕たちがここに来ていることは、母さんとアリシアちゃんも知っているのだ。心配していなければいいのだが。といわれても、テロリストに占拠されたデパートにいることを知っていて、心配しない親などいないだろうが。そういえば、一緒に来ていた恭也さんは無事だろうか。

 色々なことを考えるうちに、外の様子が知りたくなった。動けない現状では無理だ。携帯電話は、確かにエイミィさんが少しだけ改良して、使えるようにしてくれたけど、この状況で携帯を開けるわけもない。携帯も開かず、外と連絡を取る方法なんて―――ああ、そうか、あるじゃないか、一つだけ。外と連絡を取る方法が。

 僕は自分が、どうしてこの世界に来たのかを思い出した。

『クロノさん、聞こえますか?』

 僕は、念話を使って、クロノさんに話しかけた。本来であれば、許可なく魔法を使うことはできないが、なんにだって例外が存在する。その例外が、今回のような緊急時の連絡だ。僕は、クロノさんからの返事を待った。しかし、一向にクロノさんからの返信はない。

 確かに魔法にも電話のように電波が届かない―――この場合は、魔力が届かないということはある。だから、普通は、デバイスに内蔵された通信機器を使うらしい。しかし、聞いた話によるとクロノさんは、僕たちがこちらにいる間は、ミッドチルダに駐留するつもりだといっていた。そして、僕の魔力の強さでは、ミッドチルダという町全体ぐらいは、通信範囲内だと聞いている。

 もっとも、正確に距離を測った事がないため、もしかしたら、クロノさんがいる位置というのは、僕の魔力通信範囲外になるのかもしれない。

『ねえ、なのはちゃん』

『なに? ショウくん』

『クロノさんに念話で連絡を取ってもらえないかな?』

 僕は、なのはちゃんにクロノさんに念話で連絡をしてもらうように念話で頼んでみた。口にしないのは、テロリストの人たちに気づかれないようにするためである。僕では無理かもしれないが、なのはちゃんなら可能だろう。なのはちゃんの念話は、僕のような町という単位ではなく、国という単位で通じるらしい。つくづくなのはちゃんの規格外の魔力の大きさが分かろうというものだ。クロノさんがミッドチルダにいるなら、なのはちゃんから話しかければ、通じるはずだ。

『うん、分かった!』

 元気に返事してくれたなのはちゃんが、目を瞑るようにして集中した、その後、すぐに僕に念話による通信が入ってきた。

『翔太くん、なのはさん、無事かい?』

 声はまさしくクロノさんだ。僕の念話が今更ながら通じたのかな? と思ったが、おそらく違うだろう。なのはちゃんが気を利かせて、僕にも念話を流してくれているらしい。つまり、なのはちゃんが中継塔のような形になっているのだ。実に器用だと思う。魔力だけではなく、その扱いにも長けているといえるだろう。

『はい、無事です』

『そうか、よかった』

 僕からの返事を聞いたクロノさんは、どこかほっとした声で、僕たちの無事を喜んでくれた。本当にクロノさんは、いい人だと思う。時空管理局が警察のような組織というのであれば、クロノさんほど嵌っている人はいないのではないかと思う。

『あの、外の様子はどうですか?』

『今は、地上部隊がショッピングモールを囲むように展開して、逃げてきた客を避難させているよ』

 逃げてきた客? てっきり、僕は全部の区画が僕たちのように防火扉で仕切られた、と思ったのだが、どうやら違うらしい。しかし、よくよく考えてみれば、納得できる理由だ。この場所だけでも三人が監視役として銃を持っている。防火扉がどれだけのブロックに分割できるか分からないが、10以下ということはないだろう。ならば、監視役に必要な人数は最低でも三十人以上必要だ。

 人数が大きくなればなるほどに統率を取るのが難しくなる。だからこそ、作戦に妥当な人数に絞ったのだろう。

『もしかして、捕まっているのは、僕たちだけですか?』

『いや、確認できただけでも8ブロックが君達と同じように隔離されている』

 運が悪かったと思うべきか。同じような広さが8ブロック。面積比で言うならば、人質になる確率よりも、逃げられる確率のほうが高いはずなのだが。事前に知っていたわけではないので、嘆いても仕方がない。巻き込まれたことを不運に思うだけだ。

『そうですか。救助のほうは動いてますか?』

 巻き込まれた不運については仕方ない、と割り切って、僕は助けについて聞いてみた。普通なら、警察―――この場合は、時空管理局の地上部隊の人たちが助けてくれるのだろうが、おそらく8ブロックに分けられたことが救助を難しくしている。なぜなら、一箇所なら、突入のタイミングを計るのは、簡単だ。しかし、別れている場合、一気にタイミングを合わせるのが難しくなる。

 もちろん、一箇所一箇所占拠していく方法もあるが、彼らは意外と用意周到だ。無線できちんと定時報告をしているのだから。時計がないから分からないが、おおよそ十分に一度ぐらいだろうか。つまり、一箇所一箇所占拠していくにしても、定時報告のタイミングを見計らって、一気に制圧する必要がある。予想以上に時間をかけた場合、人質に危害を加える可能性があるのだから。

 考えれば、考えるほど、今回の事件の計画はよく練られている事が分かる。しかし、そうなると怪訝な事が一つある。

 それは、今、こうやって僕が外と連絡取れていることだ。魔法という手段が、一般的ではない僕の世界なら分かる。しかし、ここは魔法世界だ。これだけ念入りな計画を立てている彼らが、魔法のことを失念しているとは考えられない。ならば、なぜ、こうやって僕たちは見逃されているのだろうか。

『……言いにくいことなんだが、もしかしたら、救助は長引くかもしれない』

 この事件に関して不審な点を考えているとクロノさんが、やや言いづらそうに言葉を発した。

『理由を聞いてもいいですか?』

『ああ、どうも、奴らAMF発生装置を持ち込んでいるようだ。しかも、強力なやつを。地上部隊では、ショッピングモールで魔法を使うことはできない』

 ああ、なるほど、と僕はクロノさんの言葉に納得してしまった。彼らは、魔法のことを考えなかったわけではないのだ。考える必要がないのだ。AMF―――アンチマギリンクフィールドだっただろうか。魔力結合を分解する魔法殺しの結界魔法。AAAランクに値する結界魔法である。

 魔法殺しという割には、魔力結合を分解するだけなので、体内で展開される魔法―――身体強化などは発動できるという代物だ。

 なるほど、僕の念話が通じなかった理由が分かった。AMFに妨害されたと見るのが適当だろう。もしも、AMFによる妨害を回避するつもりなら、なのはちゃんのように圧倒的な魔力でねじ伏せるしかない。

 だが、なのはちゃんほどの魔力を持つ人間がどれだけいるのだろうか。特に地上部隊に。クロノさんの話では、ほとんどの主力は海―――本局に偏っているという話だが。ああ、だから救助が遅れるのか。

 AMFで魔法が封じられた彼らには、救助のためにできる手段としては身体強化で突入するぐらいだろう。しかし、銃を持っている連中にそれは自殺行為だ。バリアジャケットが展開できれば、話は別だろうが。あれもAMF下では、影響を受けてしまう。

『今、本局のほうにも連絡して、陸との共同戦線を張るつもりだ。だが、少し時間が必要かもしれない。すまない……少しの間、耐えてくれ』

『分かりました。首を長くして待っておくことにします』

 できるだけクロノさんが気負うことがないように、冗談交じりで僕は答えた。確かに待つことは苦痛だが、危険がなく、クロノさんも頑張ってくれている以上、文句が言えるはずもない。早いことに越したことはないが、焦って、きゅうじょが 不確実なものになるよりもいい。

 僕の気遣いなんてものは軽くばれていたのか、クロノさんは、くくっ、と苦笑するとやや気が抜けたような声で言う。

『子どもが気を使うものじゃない。できるだけ早く話がつくようにするから。それまで待っていてくれ』

 クロノさんとあまり身長は変わりませんよ、とはいえなかった。クロノさんとの念話は、それで切れた。おそらく、話していたように地上部隊との交渉を優先したのだろう。ならば、僕にできることは、銃を持って見張っている彼らを誰も刺激しないようにすることだけだ。

 僕はなのはちゃんに念話を繋いでくれたことにお礼を言うと、しばらくの間、大人しく待つことにした。



  ◇  ◇  ◇



『ショウくん、クロノって人から念話だよ』

『え? なんだろう?』

 大人しく待つことにしてどれだけの時間が流れただろうか。生憎ながら、時計すら見る事ができないこの身では、正確な時間の流れすら分からない。それなりの時間は経っていると思う。

『翔太くん、聞こえるかい?』

『ええ、どうしたんですか? クロノさん』

 クロノさんに用件を聞きながらも僕は、内容に大体の予想ができていた。この状況下で伝えることは、一つしかない。ありていに言えば、僕は救助が来ることを期待していた。いい加減、ここにいるのは窮屈になってきたからだ。後ろ手に縛られた手首も段々、痛くなってきたし。しかし、クロノさんの口から語られた言葉は、半分だけしか僕の期待にはこたえてくれなかった。

『救助の準備ができたんだ。だけど、少し問題があってね。8つのブロックに人質が別れているんだが、位置的な問題で、すべてを同時に制圧するのが無理そうなんだ。いや、むしろ、一気に制圧されないように場所を選んでいるというべきか』

 これほど用意周到に計画を練っている彼らだ。その可能性も否定する事ができなかった。しかし、それは悪いニュースだ。さっき考えたように、この事件では、一気に制圧できないことは、この事件による被害者を増やす原因になってしまう。できるだけ、同時に制圧しなければならない。

『そこで、非常に心苦しいお願いなんだが、君達でその区画の制圧をしてもらえないか?』

 クロノさんが本当に申し訳なさそうに口にする。元来であれば、自分達の仕事だろうに僕のような子どもに頼るしかないのだから、口惜しさも一入だろう。自分の仕事に誇りを持っていそうなクロノさんが、お願いするのだからよっぽど切羽詰っていることは容易に想像できた。

『でも、僕は魔法が使えませんよ』

 AMFがある限り、僕は魔法が使えない。僕が使える魔法の中で制圧のために役立ちそうなチェーンバインドさえ、このAMF環境下では、発動することすら難しいだろう。いや、たとえ、発動したとしても名前の通りの鎖の強度を保てるとは思えない。

『ああ、それは大丈夫だ。AMF発生装置は、恭也さんが壊してくれることになっている』

『それは―――』

 恭也さんの名前を聞いて、少しだけ驚いた。いや、確かに僕は四月の事件で恭也さんのことは知っている。あのジュエルシードが取り憑いた化け物に対して一歩も怯まなかったのだから。ただ、それが銃を持ったテロリストに通用すかどうか疑問だ。なにより、数の問題がありそうだ。一対多数になるだろうが、大丈夫だろうか。

 しかし、僕がそんなことを考えても仕方ない。なにより、恭也さんが自分ができないことを安請け合いするような人には見えない。恭也さんができるといえば、できるのだろう。

『分かりました。なんとかしてみます』

 いいよね? という意味をこめて、なのはちゃんの目を見ると、彼女は、コクリと静かに頷いてくれた。

 魔法が使えるのであれば、僕でも彼らを相手にすることは可能だろう。いや、そもそも、よくよく考えれば、なのはちゃんがいれば、彼らぐらいなら簡単に制圧する事が可能だろう。もっとも、ただ見ているだけというのは、みっともないので、僕も加勢はするが。

『タイミングは、僕が知らせる。最初に陽動部隊が突入するから、その隙を突いてくれ』

 クロノさんなりの配慮なのだろう。確かに、どこかに部隊が陽動で突入すれば、一瞬とはいえ、僕たちから注意はそれる。その時間を使えということなのだろう。僕は、その好意に甘えることにして、クロノさんが出すタイミングを待った。

 なのはちゃんと行動を相談している間に、その時は、案外早くやってきた。

『準備はいいかい? 今から五秒後に作戦を開始するよ。5、4、3、2、1』

 クロノさんのカウントダウンが終わった直後、耳を劈くような爆発音が鳴り響き、ショッピングモール全体が大きく揺れる。さすがに、この現象を無視するわけにはいかなかったのか、テロリストたちも慌てた様子で、無線を使って状況を把握しようとしていた。人質になっている人たちも悲鳴を上げたり、突然のことに怯えていたりしていた。僕たちはその騒ぎにまぎれるようにして行動を開始する。

「「チェーンバインドっ!!」」

 僕となのはちゃんの声が重なる。僕が発動したチェーンバインドは2本に対して、なのはちゃんは1本。それぞれ、テロリスト達を拘束するように動く。特に両腕がこちらに向かないように注意する。魔法を使えても拳銃で撃たれれば、一緒だからだ。魔力が弱い僕のほうが、チェーンバインドの本数が多いのは、なのはちゃんよりもデバイスなしの状態で魔法を展開することに慣れているからだ。それになのはちゃんには、僕ではできないことやってもらう必要がある。

 おそらく、彼らは作戦を知っていたのだろう。しかし、それでも魔法を使っている僕に対して驚愕の様子を隠す事ができず、なっ! と驚きの声を上げていた。その時間すら間抜けだ。驚いている間にも僕たちは行動を開始する。

 なのはちゃんのアクセルシュータでプラスチックのバンドを引きちぎった僕は、身体強化の魔法を使った状態で、真正面のテロリストに向かって走る。僕の魔力光である白いチェーンバインドに拘束されたテロリストに勢いをつけた蹴りをお見舞いすることは容易だった。

 身体強化の魔法をかけた僕の蹴りは、子どもの身体といえども成人男性並の威力がある。手加減なしで蹴ったのだ。彼の体が文字通り飛ぶのも仕方ない話だ。僕は、それを見届けた後、踵を返して、人質の人たちが固まっている場所へと駆け出した。

「スフィアプロテクション」

 僕は、この魔法の初心者講習で新しく覚えた魔法を展開する。対象者全体を囲う防御魔法だ。この場合の対象は、人質の人たちだ。一箇所に集められていた事が幸いした。これでばらばらだったら、全体を守る事ができなかっただろう。

 この場合、僕が恐れていることは、テロリストたちが魔導師であることだ。銃を持っていることは魔法を使えないことと等価ではない。もしかしたら、本当は魔法が使えて、AMFの関係で銃を持っているかもしれないのだから。もしも、魔法が使えるとすると、僕たちのチェーンバインドだって簡単に解いてしまうかもしれない。その可能性を考えると、人質の人たちを守るためには、万が一に備えて広域結界をはる必要があった。

 さて、僕は上手くいったけど、なのはちゃんは―――と、視線をなのはちゃんの方に視線を移してみると、なのはちゃんは、聖祥大付属小の制服に似たバリアジャケットに身を包み、おそらく気絶しているであろうテロリストを彼女のデバイスであるレイジングハートでつついていた。

 しかも、なのはちゃんが気絶させたのは、見張り役だった三人だ。つまり、僕が広域結界を展開している間に僕が相手にしていたテロリストまで気絶させたことになる。僕の目的は、テロリストを結界の内部に入れないために範囲外に蹴り出すことだったので、意識を絶つことは二の次だったのだ。

 しかし、こうも手際がいいと、彼女も恭也さんと同様に何か剣術のようなものでも習得しているのだろうか、と思ってしまう。魔法だけでも圧倒的なのに、それに加えて技術まで手に入れたら、彼女はまさしく鬼に金棒である。

 そうやって、なのはちゃんを見ていると、彼女は僕の視線に気づいたのか、レイジングハートでテロリストをつつくのをやめて、僕に向かって大きく手を振っていた。おそらく、全員、意識がないことを確認したのだろう。

 どうやらクロノさんに頼まれたこの区画の制圧は完了したようだ。

 こんなことは初めてだったので少し緊張したが、上手くいったようで安心した。僕は、ほっと安堵の息を吐いた後、ああ、そういえば、なのはちゃんに手を振り返さないと、と思い出してなのはちゃんに応えるように大きく手を振った。



 ―――不意に胸に激痛が走る。



「え?」

 その呟きは果たして誰のものか。きゃぁぁぁぁぁ、という悲鳴が近くから聞こえる。不意に痛みを感じた胸に手をやってみれば、ぬるっという液体の感触。その感触の正体を確認するために手を見てみると、僕の右手は赤黒い何かで装飾されていた。

「あ……れ? ごふっ」

 その赤黒い何かの正体を見極める時間もなく、不意に吐き気を感じた僕は赤黒く装飾された手を口に持っていく。吐かない様に気をつけたつもりだったが、その努力むなしく胸の中からこみ上げてきたものは、僕の口から吐き出され、同時に感じる錆びた鉄のような味。

 僕はその味を知っていた。

 ―――ああ、そうか、これは……血だ。

 冷静だったわけではない。おそらく、一種のショック状態だったのだろう。だが、それを認めてしまえば、もはや僕の意識を保つことは難しかった。僕の意思に反して、立っている事ができない。せめて頭から倒れこまないように膝を突いてショッピングモールの床の上に倒れこむ事が精一杯だった。

 倒れこむと同時に粘度の高い液体に身を沈めたのか、耳に響くビチャッという音。その液体は、ほんのりと生暖かかった。

 うつ伏せになった僕の視界は、赤い、紅い世界を見ており、同時に僕の意識が逸れたからか、結界魔法が解除されるのを見えた。

 ああ、もう一回張りなおさないと。

 そうは思うが、身体が動かない。ショッピングモールの中は一定の温度に保たれているはずなのに、まるで極寒の中にいるような寒気を感じる。意識がはっきりとしない。考えがまとまらない。

 おい、坊主っ! という声や誰かっ! 誰かっ! という悲鳴が聞こえるが、意味を理解することはできなかった。

 ただ、僕が薄れゆく意識を完全に絶つ前に最後に覚えているのは――――

「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 ――――なのはちゃんの搾り出すような叫び声だった。



  ◇  ◇  ◇



「ん……ここは?」

「おや、気づいたかい?」

 僕が意識を覚醒させると、いつの間にかまったく知らない場所へと移動し、どこかのベットで横になっていた。しかも、着ている服が病院服とでも言うのだろうか、簡単に脱ぎやすい服に変わっていた。

 しかも、隣から聞こえたのは、クロノさんの声だ。一体どうなっているのか、まったく頭の整理が追いつかない。僕は事情を聞くために起き上がろうとしたのだが、クロノさんは、苦笑しながら、それを手でとどめた。

「いや、起き上がらなくてもいいよ。というよりも、その状態じゃ、起き上がれないだろう?」

 そういわれて、クロノさんが視線を移す両サイドに視線を向けてみると、僕の右手を握るようにして腕を枕のようにしてなのはちゃんが、左手には、同じような格好をしてアリシアちゃんが寝ていた。

 なるほど、確かにこのままじゃ起き上がれないな。

 仕方ないので、僕は横になったまま事情を聞くことにした。僕が覚えているのは、ショッピングモールでテロリストを制圧したところまでだ。あの後は、いろいろ記憶が混濁していて意味が分からない。

「それに、君は質量兵器で撃たれたんだ。検査では異常はなかったが、安静にしたほうがいい」

「撃たれた?」

「おや、覚えていないのか? まあ、あれだけ失血していたら意識も朦朧としているか」

 僕が覚えていないことに納得しながら、クロノさんは、事の顛末を説明してくれた。

 どうやら、僕がテロリスト三人を制圧した後、人質の中に紛れ込んでいたもう一人のテロリストに撃たれたらしい。らしいというのは、クロノさんが現場に到着したときには、すでに僕の怪我は治っており、人質だった人たちの証言だけが頼りだったからだ。人質だった人の証言によると、白い子どもの魔導師が青白い光で治していたらしい。

 その光の原因は不明。回復魔法にしても、なのはちゃんの魔力光は桃色なので、青白い光というのもおかしい話らしいが、なのはちゃんに聞いてもよく分からないとのこと。レイジングハートにお願いしたらしい。一方のレイジングハートは、なのはちゃん以外にはアクセス権限はなく、調査は困難との事から、調査は打ち切られたようだ。

「それで、テロリストの人たちはどうなったんですか?」

 僕のことはわかった。しかし、事の顛末だけは分からない。気になった僕は、それをクロノさんに聞いたのだが、クロノさんは、引きつったような笑みを浮かべたまま教えてくれた。

「うん、まあ、一応、数人の負傷者は出たが、人質の人たちは全員無事だったよ。テロリストも全員逮捕できた」

 どうやら、事の顛末は事の外、思ったよりも上手くいったらしい。おそらく、負傷者の一人に数えられた僕が言うことではなかったが。

「ただ―――」

「ただ?」

「君達がいたショッピングモールは更地になったけどね……」

 あはは、と乾いた笑みを浮かべながらクロノさんが言う。

 更地? どうやったら、あの状態からそうなるというのだろうか。訳が分からなかったが、なぜかクロノさんは僕が聞いても頑なにその原因を応えてくれなかった。まあ、クロノさんも時空管理局の局員なのだ。そう簡単に教えるわけにはいかないということなのだろうか。クロノさんを困らせるわけにもいかない、と判断した僕は、クロノさんに問うのをやめた。

「とりあえず、君の母親を呼んでくるよ」

 母さんは、どうやら別室の親族用の部屋で休んでいるらしい。クロノさんにえらく心配していたから、今から覚悟することだね、と笑いながら言われたが、僕にはクロノさんの真意が分からなかった。疑問符を浮かべる僕に苦笑しながら、病室から出て行くクロノさん。

 彼の苦笑の意味を理解したのは、飛び込んできた母さんに強く抱きしめられ、その人肌の温かさに安心感を覚えながらも、危うく窒息しそうになったときだった。



  ◇  ◇  ◇



「二週間なんてあっという間だったね」

 僕たちは、この世界に来たときと同じ建物に来ていた。第九十七管理外世界―――地球の日本へ帰るために。見送りのために来ているのはクロノさんとリンディさんだ。

 そう、僕たちがテロに遭遇してから数日後、魔法世界の滞在期間が終了した。二週間もいたのか? と思うほど体感時間は早かったが、初めての魔法講義、テロに遭遇、というイベント尽くしでは、それも無理もない話だ。

 あのテロの翌日から、前から僕の後を追いかけてくることが多かったアリシアちゃんだったが、それがより顕著になった。下手すると僕の袖を掴んでくるほどに。僕が怪我して、失血量から考えれば、死んでいてもおかしくない、と聞いたとき一番取り乱したのはアリシアちゃんだったというのだから、こうやって甘えてくるのは、その反動なのだろう。

 母さんも、今まで自分にべったりだったのに、悲しいわぁ、と苦笑しながら言っていた。おそらく、本当は微塵もそんなことは思っていないはずだ。むしろ、微笑ましく思っていたはずだろう。しかし、アリシアちゃんは、その冗談が通じなかったのか、僕と母さんの間で右往左往していた。

 しかも、残り数日になったとはいえ、魔法講義までついてくるのだから。教室では、ただでさえ注目されているのに、その上、新しい人間を連れてきてしまったものだから、さらに注目を集めてしまった。おそらく、原因はそれだけではなく、アリシアちゃんの容姿にもあったのだろうが。

 僕にとっては、可愛い妹程度の認識しかないが、それでも可愛いと思えるのだ。まったく他人である男の子からしてみれば、アリシアちゃんは美少女といえるのだろう。注目を集めてしまったのは、おそらくそんな理由もあるのだろう。

 一方、なのはちゃんも似たような行動を取っていた。もっとも、彼女の場合は、聞いただけではなく僕の惨劇も目にしているのだから仕方ない部分があるだろう。あれがトラウマになっていなければいいのだが、とはクロノさんの言である。確かに人が目の前で撃たれているのだ。それがトラウマにならないとは限らない。

 だから、できるだけ一緒にいて、僕はここにいるということを証明しなければならなかった。

 もっとも、この世界に来てからは一緒にお風呂の入ったり、同じベットで寝ていたりしていたので今更だが。

 故に、テロにあってからも色濃い数日だったというわけだ。

「お世話になりました」

 ありがとうございました、というお礼と一緒にお世話になった二週間のお礼も告げる。クロノさんがいなかったら、ここでの生活も一苦労だったし、テロにあって撃たれてしまうという悲劇もあったが、この世界にくることもなかっただろう。

「いや、僕たちのほうこそ、あんなことに巻き込んでしまって申し訳ない」

 お礼を言ったはずなのになぜか謝られる。しかし、これはもう何度も謝罪を受けている。そして、僕は生きているのだから、問題ないとは断言できないが、これ以上、謝られても困惑するだけである。

「そうだね。じゃあ、もうこれでおしまいだ」

 僕が思っていることを告げると、僕の態度が子どもらしくないと思っているのか苦笑しながら頭を上げていた。

「ああ、そうだ。別れる前にこれを渡しておくよ」

 そういってクロノさんが取り出したのは、数冊のパンフレットだ。まるで、アリシアちゃんが聖祥大付属小に編入する前に貰ったパンフレットのような本である。

「僕が働いている時空管理局のパンフレットだ。もしも、君達が魔法について学びたいと思ったら、連絡をくれ」

 どうやら、勧誘のようなものらしい。クロノさんの話によると管理外世界の人間がこうやって、スカウトのようなものをされるのは、別に珍しい話ではないらしい。ミッドチルダにも管理外世界の住人が時空管理局に勤めている例もあるし、なにより驚いたのは、クロノさんの上司以外にも地球からミッドチルダに来ている人がいることだ。

「もっとも、君達はまだ子どもだ。進む道を今すぐ決めることはないだろう。ただ、別の選択肢があることも覚えていてくれると嬉しいよ」

 報告によると君達は、魔法の才能があるようだからね、と冗談交じりのように言うクロノさん。なのはちゃんは当然としても、僕も同じように言われるとは思わなかった。

「わかりました。これは一応、受け取っておきます」

 クロノさんの言うとおり、今すぐ決める必要はないだろう。僕たちはまだ小学生だ。進路を決めるには幼すぎる。魔法という知らない技術に胸が踊ることも事実だが、この世界に来るということは、僕がいる世界との繋がりが薄くなるということだ。いや、こうして行き来ができていることも事実だが、容易に移動することはできないだろう。

「それじゃ、翔太くん、なのはさん、元気で」

「はい、クロノさんも気をつけてくださいね」

 僕とクロノさんは、がっちりと握手を交わす。なのはちゃんも、おっかなびっくりという様子でクロノさんと握手を交わしていた。

 それを最後に僕たちは、クロノさんとリンディさんに手を振られ見送られながら、空港でいうところのゲートを越えた。

 こうして、僕たちの魔法世界での短い滞在期間は終わりを告げたのだった。





 空白期終わり

 A's編へ続く



[15269] 第二十六話 裏 《空白期 完結》
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2011/02/25 10:40
*なのは視点で少しグロい描写がありますのでご注意ください。





 蔵元翔子は、魔法世界に来た初日、息子の翔太と息子の友人である高町なのはを見送った後、リンディとアリシア、アルフと共に病院へと来ていた。むろん、秋人も一緒である。

 病院に来た理由は、アリシアが関係していた。アリシア―――いや、この場では、フェイトといったほうが適切だろうか。翔子の記憶にまだ新しい四月の事件。息子が直接巻き込まれたのだから知らないわけがない。ましてや、巻き込まれただけならまだしも、ボロボロになっているのだから、嫌でも忘れられない。

 それに、車で移動している最中に今日の検査の目的を聞いておくことにした。健康診断であれば、地球でもできる。いや、確かに精度で言えば、こちらのほうが上かもしれないが。それでも、わざわざこちらでやる必要があるのか? ということが疑問に思ったからだ。

 結果からいえば、聞いて正解だったのか、どうか分からない。

「アリシアさん―――旧名、フェイトさんは、四月の事件の容疑者の一人です。現状、彼女はその記憶がありません。そして、翔子さんから聞いた限りでは、記憶が戻る様子もありません。しかし、それを医学的に、客観的に証明する必要があるのです。アリシアさん―――いえ、フェイトさんが、逃げるための演技ではないことを」

 まさか、とは思った。少なくとも今まで家族として接してきて、彼女がそのような様子を見せたことはない。彼女は、本当にどこにでもいる少し傷つきやすい少女だ。それを演技といわれるとは、気分がいいものではない。

「申し訳ありません。ですが、主観ではダメなのです。専門知識を持った第三者の意見を持って、ようやく認められるのです。彼女を不起訴にするためにはどうしても必要なのです」

 お願いします、と頭を下げられては、翔子はこちらが悪いことをしているような気分になる。いや、彼らも悪意があるわけではないのだ。むしろ、彼女のことを心配しているといっても過言ではないだろう。ならば、拒否はできない。なにより、アリシアの嫌疑を晴らすためなのだ。検査の内容も、少しだけ質問をするだけらしい。ならば、危険性はないだろう、と思って翔子は、アリシアへの承諾する。

 何より、これまでの行為で翔子は、リンディたちを信頼していた。

 アリシアが検査を受ける病院への道のりは意外と短かった。どうやら、リンディが勤める時空管理局直属の病院だったらしく、規模は相当大きい。翔子が考えるに地球で言うところの大学病院に相当するのだろう。

 車を降りた翔子は、リンディに支払いを任せて―――払うつもりがないのではなく、お金を持っていないのが問題だった―――翔子は、アリシアを呼ぶと右手を差し出す。アリシアは、それを見ると喜んで、翔子の右手に自分の左手を絡めてきた。

 病院は広大で、それに比例するかのように人の出入りも多い。彼女のような人見知りが、ここで迷子になっては大変だろうと思った翔子が、いつものように手を繋いだのだ。アリシアは、手を繋ぐのが好きなのか、地球でも買い物の際に手を繋ぐために手を差し出すと嬉しそうにその手を取るのだ。

 そんな情景をリンディに微笑ましそうに見られながら、一向は病院の中を進んでいく。

 病院は、人の多さに比例するように繁盛しているようで、病院で順番待ちしている人たちで一杯だった。しかし、その中をリンディは、どんどん進んでいく。リンディの話が本当ならば、今、歩いている所は、内科なので全然違うのだろう。

 リンディの先導にしたがって、進んでいくと今度は人が全然いない棟へとやってきた。アリシアは誰もいない空間が怖いのか、ひしっ、と翔子にくっついてくる。アルフも主人であるアリシアの恐怖心を感じているのか周りをしきりに警戒していた。

 やがて、到着したのは病院の診察室の一つ。ただし、待っている人は誰もなくどこか閑散としている怪しい場所だった。心療内科とはこのような場所なのだろうか、と翔子は思った。

 リンディが失礼します、と入った部屋に続いて恐る恐る入っていくと、そこは翔子が知っている診察室に近かった。ただし、どこか本などが多く、大学の研究室を髣髴させる。

 部屋にいたのは、白衣を羽織った中年の男性だ。いかにも医者という感じがする。

 今日の患者は、アリシアだ。リンディもアリシアを呼んでいる。アリシアは、翔子にくっついたまま離れる様子がないが、それでも自分が呼ばれていることには気づいたのだろう。翔子と呼ばれている場所を見比べていた。どうしたら良いのか分からない、といった様子だ。

 しかし、アリシアが診察を受けなければ、いつまでたっても終わらない。だから、翔子は、アリシアの肩を押して、医者の前に椅子に座るように促してやった。自分は、邪魔にならないが、彼女が見える位置で、と思い、待合用の椅子に腰掛けさせてもらった。リンディも医者と二、三言話すと、翔子の隣に座る。

「どのくらいで終わりますか?」

「一時間もかからないとは思いますが……」

 アリシアが不安がっているのは分かる。だからこそ、短時間で終わって欲しいと思っていた。

 一時間。それが長いか、短いかは人によるだろうが、少なくとも翔子からしてみれば、短いうちだと思う。それ以上、かかることも心配していたのだから。

 そうこうしているうちに、アリシアの検査が始まった。最初は、穏やかな感じで始まっていた。医者の様子も笑みを浮かべており、剣呑とした雰囲気はない。心療内科というだけあって、子どもの心を掴むコツのようなものでも知っているのだろうか、最初は警戒していたアリシアも次第に、笑顔を見せ始め、饒舌に話し始めた。

 質問は翔子が知っているだけでも、多岐にわたっている。私生活のことや過去のことなどだ。私生活のことや最近の出来事はアリシアは笑顔で話している。しかし、過去については、忘れた、と言って答えようとしない。いや、答えられないのかもしれないが。

 医者は、アリシアがそう答えるたびに手元の用紙に何かを書き込んでいた。

 まるで、面接のようだ、と傍から見ていれば思う。しかし、それは間違いではないのだろう。検査なのだから。アリシアの無罪を証明するための面接。アリシアはそんなことはまったく知らない様子だったが。

 医者が質問して、アリシアが答える。そんなやり取りが四十分ほど続いた。

「う~ん、大体、分かったよ。それでね、アリシアちゃん。最後に一つだけ聞いていいかい?」

「うんっ! いいよ」

 そのまま、医者は、ずっと浮かべていたまるで、能面のような笑みのまま、問う。


「―――君は、フェイト・テスタロッサかい?」


「………あ、え?」

 そのときのアリシアの表情は、すべてが抜け落ちたよな表情をしていた。何を問われているか理解できていないといったような感じの表情だった。それに追い討ちをかけるように医者は問いを続ける。

「プレシア・テスタロッサが、研究していたプロジェクトFの残滓として作られた少女。それが君じゃないのかい?」

「……ち、ちがう」

 その否定の声は、か細く小さい。アリシアの腕は、自然と自分を守るように肩へと回っていた。翔子は、フェイトのこの症状を知っていた。最初に家に来たときに起こした症状とほぼ同じだった。だから、翔子は気がつけば、駆け出していた。

「本当に? 君は、アリシア・テスタロッサの記憶が刷り込まれた―――贋物じゃないのかい?」

「ちがう、ちがう、ちがう、ちがうちがうちがうちがうちがうっ!!」

 首を振りかぶりながら、アリシアはそれが幻聴でも言いたげに否定に否定を重ねる。それを決して受け入れられないという風に。

 一歩、遅かったか、と思いながらも駆け出した翔子は、まっすぐアリシアの下へと駆け寄ると、すぐにアリシアを抱きしめた。こういう症状に陥ったフェイトを落ち着かせるには抱きしめるのが一番だと経験から知っていたからだ。

「か、母さん? 私は……私は、蔵元アリシアだよね? 贋物なんかじゃないよね?」

 涙声で問いかけてくるアリシア。よほど不安だったのだろう。だから、翔子は安心させるようにアリシアの頭を撫でながら、耳元で安心させるように囁く。

「そうね。あなたは、アリシアちゃんで、私の可愛い娘よ。だから、安心しなさい」

「うん……」

 翔子の言葉に安心したようにアリシアは、目を瞑ると、そのまま寝息を立て始めてしまった。疲れているわけではないだろうが、先ほどのショックだったとは容易に想像できる。

「ふむ、これは、珍しい」

 先ほど、無神経な質問をしてきた医者が珍しいものを見るような目でアリシアを見ていた。だが、アリシアをあんな症状に陥らせた医者にいい感情等浮かぶはずもなく、思わず翔子は、医者を睨みつけるような形になってしまった。しかし、翔子の形相を見たのか、能面のような微笑を浮かべていた医者が、その表情を崩して申し訳なさそうな表情をしていた。

「すいません。どうしても、聞かなくちゃいけないことでしてね。でも、そのおかげで色々分かりました」

 翔子からしてみれば、彼がアリシアについて分かることよりも、アリシアがこんな状況になった事が問題だった。

「ああ、そうだ。彼女を寝かせるなら、隣の寝室を使ってください。私は、ハラオウン提督とお話があるので……」

 おそらく、アリシアに関することだろう。しかし、寝かせてもらえるなら、それは有り難いことである。原因が元々目の前にいる医者のせいでもあるのだが。まだ体重の軽いアリシアを抱えて隣の部屋へと行くことにする。途中、すれ違ったリンディが、申し訳なさそうに頭を下げてきた。

 彼女も知らなかっただろうに律儀なことだ、と思いながら、翔子はアリシアを隣の部屋に運ぶのだった。



  ◇  ◇  ◇



 蔵元翔子は、目の前のガラスの向こう側に見える女性を見ていた。

 真っ白な部屋。白いベットと小さな引き出しが存在するだけで後は何もない空間だった。だが、それだけで、彼女は十分だったのだろう。

 ―――プレシア・テスタロッサにとっては。

 プレシアは、病院服のままベットの上で少し頭の部分を傾け、背を預けるような状態で座っていた。座りながら、人形の髪を梳いていた。その表情は慈愛に満ちており、持っているのが人形でなければ、娘を慈しむ母親の姿に何の違和感も抱かなかっただろう。

 しかし、彼女の手に握られているのは、小さな人形。それを本当の子どものように、丁寧な手つきで毛糸の髪の毛を梳いていく。プレシアの口が時折動く。口の動きは、「今日はどんな髪型にしようか?」と言っているようにも見える。

 そんな光景を蔵元翔子は、ガラス一枚を隔てた向こう側から見ていた。隣には、ここに案内してくれたリンディの姿もある。

 アリシアを隣の部屋のベットに寝かせた後、翔子は、アルフに秋人とアリシアの面倒を頼んで、リンディにアリシアの母親―――プレシアの元へと連れて行ってもらうように頼んだのだ。

 理由は簡単なものだ。彼女なりのけじめのようなものだ。

「プレシアは、事件に関しては不起訴になるでしょう。そして、ここで一生を終える」

 ―――人形を娘と勘違いしたまま。

 それを明確に言うことはなかったが、言外には確かに語っていた。病院で検査した結果によると、プレシアは病を患っており、余命はあまり残っていない。さらに、事件のときに無理矢理魔法を使ったせいで悪化し、今では魔法使いとしてのリンカーコアでさえ縮小してしまうような有様なのだ。

 翔子は、母親としては、プレシアに少しだけ同情する。娘を亡くしてしまった悲しみは理解できるとはいわない。翔子は子どもを亡くしたことがないのだから。だが、母親にとって子どもとは、自分で痛みを感じて生んだもう一人の自分と言っても過言ではないのだ。愛情を注いでいたのであれば、子どもを亡くしたときの悲しみは計り知れないだろう。

 だからこそ、飛びつくしかなかった。彼女は、求めるしかなかったのだ。手を伸ばす位置に、つかめる位置に希望があるとすれば、伸ばさずにはいられなかった。それがたとえ、道徳に、法に反するとしても。

 彼女の行動原理は理解できる。理解できるが、彼女がフェイト―――アリシアに行ったことは許せない。許せるはずもなかった。

 もしも、プレシアが健常者であれば、恨み言の一つでも言ってやっただろう。だが、今の彼女は翔子が何を言っても理解できないだろう。言っても無駄なことは分かっている。だが、それでも、これは、けじめだった。彼女がどのような経緯でアリシアを生み出したとしても、彼女は確かにここにいるのだから。

 ―――プレシアさん、あなたがしたことは私は許せません。でも、アリシアちゃんを生み出してくれたことには感謝します。アリシアちゃんは、きちんと育てますから。

 それだけを心の中で告げ、一度、彼女に届くように、と目を瞑ってしばらく考え込んだあと、翔子は目を開いて、リンディに目配せした。

「いいのですか?」

「ええ、行きましょう」

 もしかしたら、アリシアが起きているかもしれない。彼女は、寂しがり屋だから、もしかしたら、自分がいないことで不安がっているかもしれない。そう考えると翔子も、あまり長居をしようとは思わなかった。

 翔子が、背中を向けたとき、不意に声が聞こえたような気がした。

 ―――フェイトのことよろしくお願いします。

「どうかしましたか?」

 声に気を取られて足を止めた翔子を心配したのだろう。リンディが、何か不安そうな顔で尋ねてくる。しかし、翔子は、なんでもない、ということで微笑むと足を進めた。

 振り返ったときに見たが、プレシアが、正気に戻ったような様子は見えなかった。今の言葉は、翔子が望んだ幻聴だったのだろうか。だが、それでも、それでも構わないと思った。自分達のほかにもアリシアを心配してくれる誰かがいるのだから。

 少しだけ心強くなりながら、翔子は、プレシアがいた病室を後にした。今度は、翔子が振り返ることはなかった。



  ◇  ◇  ◇



 カロ・フォッスードは、一言で言うとむしゃくしゃしていた。

 理由は、語るまでもない。目の前で、近所に住んでいる知り合いの女の子達に楽しそうに教えている男子―――名前を蔵元翔太といっただろうか―――と連れの女子―――高町なのは―――のせいだ。

 カロの両親は、時空管理局の本局に勤めている。魔力というのは遺伝性がある程度確認されている。もちろん、両親が膨大な魔力の持ち主でもまったく魔力を持たない子どもが生まれることもあるし、その逆も然りだ。


 幸いにしてカロは、両親の才能を受け継いだようであり、若干、時期が遅かったものの魔力に覚醒した。地域で行われる簡易の魔力検査でリンカーコアが発見されたのは、つい最近。しかも、この年の魔力ランクとしては破格のAランクである。両親共々に喜んだ。

 カロも、自らの才能に自信を持ち、魔力に覚醒した者達が全員受ける初心者講習でも、おそらく一番に、ヒーローになれる、と、そう思っていた。

 しかしながら、彼の願いは、希望は思わぬ形で覆ることとなる。

 管理外世界から来た蔵元翔太と高町なのはだ。蔵元翔太は、カロと同じく魔力ランクA。彼だけならば、まだカロの面目も保たれただろう。しかしながら、もう一人の女子は、魔力ランクS+という規格外の魔力を持っていた。初心者講習の主役は彼女がすべて掻っ攫っていた。

 しかも、話を聞くに彼女は初心者講習に参加しているにも関わらず魔法が使えるらしい。知り合いの女の子達が帰りのバスの中で言っていたのをこっそりと聞いた結果だ。それは、どうやら蔵元翔太も同じらしく、彼も魔法を彼女達に教えていた。彼女達の噂では、「翔太くんがいてラッキーだったね」「どこかの男子とは大違いね」などと言っていたのをこっそりと耳にしたのだ。

 気に食わなかった。本来の立場を取られ、魔法も使える彼らが。しかも、聞けば出身は管理外世界という田舎らしい。そんな田舎者が、お膝元というべきミッドチルダ出身の自分を差し置いているのが、もっと気に入らなかった。

 だから、ちょっと、調子に乗っている彼に対して、ちょっかいをかけようと思ったのだ。

 別に怪我をさせるつもりはなかった。何か危害を加えるつもりもなかったのだ。魔力の発現だけができるようになり、精々ボールが軽く当たった程度の衝撃しか出せないことも分かっての行動だった。ちょっとした嫌がらせ、それ以上でも、それ以下の意味も持たない他愛ない悪戯のつもりだった。

 ―――少なくとも彼にとっては。

 他の仲間ともいえる二人とタイミングを合わせて、彼が後ろを向いているときに、ようやく出せるようになった魔力の塊を球状にして、翔太に向かって飛ばす。軌道は、間違いなく翔太の頭を狙っており、何も邪魔が入らなければ間違いないなく、彼の頭頂部に当たっていただろう。

 そう、何もなければ。

 その魔力球が、突然割れた。いや、割られた。まるで意思を持ったように飛んできた球体によって。彼は、それを知っていた。その魔法を知っていた。父に魔法をせがんで見せてもらった魔法の一つだから。しかし、その魔法は明らかに父から見せてもらったものとは異なった。

 まず、その魔法に込めれらた魔力量が異なる。リンカーコアが覚醒した今となっては、カロも少しは魔力を感じ取れるようになっているのだ。だからこそ、分かる。分かってしまった。その魔法に込められた魔力が。

 そして、次に、元来、多数をもってして成るはずの魔法であるにも関わらず単一できびきびした動きする。それこそ、意思を持ったように。彼が尊敬する父ですら、曖昧に大体の操作しかできなかったのに。

 その魔法は―――アクセルシュータという魔法は、カロが知っているものとはまったく違うものだった。

「お、おい……あ、あれ」

「なんだよ……」

 今、見た魔法に戦慄していたカロだったが、彼の仲間によって袖を引っ張られ、現実に引き戻された彼は、またしても、そこに非現実的な何かを見る。

「あ、あ、あぁ……」

 恐怖に戦く。いや、戦かざるを得ないほどに分かってしまう。彼女―――高町なのはの真後ろに展開された無数のアクセルシュータ。そして、彼女の視線から、明らかに自分達を狙っている事が容易に理解できた。

「あいつら、ショウくんに魔法を当てようとした」

 どうやら、カロは、触れてはいけない逆鱗に触れてしまったようだった。しかし、だからといって、狙ったことを認めて、あの魔法の餌食になってはたまらない。

 それだけの魔力があの魔法にはあった。いや、カロには理解できた。彼女が背負っている無数のアクセルシュータ。それはただ、存在するだけで濁流のような魔力量を感じさせる。カロ程度では全体を把握することはできず、漠然とたくさん、と感じる程度であるが。例えば、コップ一杯では、一リットルと量で換算できるが、海を何リットルと見ただけでは分からない感じに似ている。

 つまり、カロが感じるのは、計り知れないほどの量の魔力に対するこれ以上ないほどの恐怖である。

「ち、違うんだっ! あれは、偶然で、失敗した魔法がそいつに飛んでいっただけなんだ!」

 醜いいいわけだとは分かっている。彼女は、それすら見抜くであろうということも。いや、そんな理由など彼女には関係ないのではないだろうか、と思わせる。なぜなら、高町なのはの目は、明らかに静かな怒りで染まっているからだ。

 彼の予想通り、カロの言い訳を聞いたなのはは笑った。ふっ、と口の端を吊り上げて。愚かなものを見るような目で。

「嘘だよね」

 そういいながら、彼女は一歩ずつ歩みを進めてくる。アクセルシュータを背負ったまま。それは津波が彼らにゆっくりと襲ってくるのとなんら変わりない。暴力という名の力が焦らすように一歩ずつ近づいてくるのだ。その恐怖に耐え切れるほど幼い心は強くなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 そして、幼い彼が罪を許してもらうための手段として知っているのは、ただ謝ることのみ。しかし、彼女は彼の謝罪を意に介さなかった。ただただ、近づくのみ。

 ああ、彼は神に見捨てられたのだ、と思った。

 しかし、捨てる神あれば拾う神ありというところだろうか。思わぬ相手から、助けが入った。

「なのはちゃんっ! ダメだよ。彼らだって、偶然だって言ってるし、謝ってるじゃないか」

 この時、彼は間違いなく翔太に感謝した。気に食わないやつだと思ってごめんなさい、と心の底から謝った。間違いなく、今のカロにとって翔太は神に近かった。

 しかも、幸いなことになのはにとって、翔太という存在は彼らよりも重要度が高いのだろう。さすがに翔太から制止の声が入れば、無視する事ができないらしい。彼らと翔太をしばらく見比べていたが、やがて、諦めたようにふぅ、とため息を吐くとアクセルシュータをすべて消した。消してくれた。

「あ、あぁ」

 カロの身体中から力が抜けた。あれほどまでに敵意を向けられ、津波の目前に突き飛ばされたような恐怖感は、そこには存在していなかった。死地からの生還だった。少なくとも、彼はそう思っていた。

 だが、安心するにはまだ早かったようだ。意識を戻してみれば、高町なのはが近づいてくるではないか。一歩一歩確実に。

 先ほどの魔力を見たカロは彼女が近づいてくることに恐れ、戦いていた。当たり前だ。彼女が見せたのは、魔力ランクSの欠片だ。ほんの少し彼女が力を見せただけ。それだけでぷちっ、と踏み潰されそうなほどの力を感じるのだ。もしも、彼女が本気になったら―――そのときのことは考えたくなかった。

 それよりも、今は現実が先だ。だが、彼に打てる手段は何もなかった。

 ただ、彼女が近づいてくるたびにカチカチカチと歯がなる。恐怖により、自然と動いてしまうのだ。いつ? いつ彼女は制裁を……、と彼らは思っていたが、彼女は、彼らに近づくだけで何もしてこなかった。そう、何も。

 代わりに魔女は、呪いを残した。彼らの奥底にこびりつくような呪いを。



「―――次はないよ」



 その声は、深く、静かに、しかし、確固たる意思を持っていた。彼女は間違いなく本気だった。万が一にでも、翔太に手を出せば、彼らは、象が蟻を潰すように簡単に潰されてしまうだろう。

 ひぃっ! と悲鳴を上げるカロたちだったが、幸いにして彼女はそれ以上、何もする気配はなく、踵を返すと翔太の下へと戻っていった。それを確認した瞬間、彼らは腰が抜けたようにへろへろと地面に倒れこんでしまう。

 彼らは、齢一桁にして、決して触れてはいけないもの、そして、決して逆らってはいけないものが存在することを悟ったのだった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、確かに幸せの絶頂だったのかもしれない。

 毎日、目を覚ませば、隣に翔太がいて、毎日、一緒に行動して、毎日、一緒にお風呂に入って、同じベットで眠る。これが、夢ではないか、と思ったことは何度あるだろうか。それが現実だと示すように翔太の手をゆっくりと握ってしまうこともあった。そして、彼の温もりを感じるたびに、『今』が現実であることをかみ締めるのだ。

 いつかの約束どおり、翔太とずっと一緒にいられる日々を幸せに思うのだ。

 そう、高町なのは幸せだった。幸せすぎて、上機嫌だった。おまけ程度にいる黒い敵がまったく気にならないほどに。だから、だからなのだろう。気が抜けていた、というべきかも知れない。すべてが上手くいっていて、ずっと上手くいくと思っていて。だから、今日と同じ明日が来ると信じて疑わなくて。

 ―――だから、今の『今』が高町なのはには理解できなかった。

「え?」

 ゆっくりと倒れていく身体。流れ出す血、血、血。床一面に広がる紅い液体の絨毯。見開かれた瞳孔は何も映しておらず、ただ虚空を見つめていた。

 その様子を見ていた周囲から悲鳴が聞こえる。叫び声から、倒れた彼を心配する声まで様々だ。しかし、なのはの耳にはそれら声は入ってこなかった。脳が処理能力を超えているのだ。大量の魔法を一瞬で処理してしまうほどのなのはの脳が、今の『現実』を一切、理解できていなかった。いや、正確には理解したくない、というべきだろうか。

 そう、高町なのはにとっては受け入れがたい現実だった。

 ―――蔵元翔太が、血を噴出しながら倒れる現実など。

 だが、受け入れざるを得ない。確かに現実だった。蔵元翔太が、銃で撃たれて倒れている。それが現実。

「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 それを理解した、受け入れたとき、なのはは叫んでいた。当たり前だ。それはなにはにとっては受け入れてはいけない現実。あってはいけない現実なのだから。

 油断。そう、油断といえば油断なのだろう。テロリストも、銃を持っていたとしても、なのはがバリアジャケットを展開し、翔太の一声があれば、一瞬で無効化できる相手なのだ。だからこそ、翔太が「様子を見よう」と言っても、反対もしなかった。元々、翔太が言うことに反論などするはずもないが。

 だが、油断したからこそ、翔太は撃たれてしまった。人質の中に紛れ込んでいたテロリストによって。今、そのテロリストは銃を構えて、こちらを威嚇している。「う、動くなっ!」と叫んでいるような気もするが、そんなことは耳に入らない。当たり前だ。そんなことは気にしていられないのだから。今は、翔太の事が最優先だった。

 急いで翔太に駆け寄る。だが、その途中で、テロリストがなのはに向けて銃を撃ってきた。むろん、バリアジャケットに阻まれてなのはには一切のダメージを与えない。だが、五月蝿かった。今は、翔太以外のことは考えたくないのに。だから、なのはは、蝿を追い払うように手を振るう。

「うるさい」

 その一動作だけで、銃を構えていたテロリストは、立っていたその場から、一瞬だけ浮遊し、次の瞬間にはすごい勢いで壁に叩きつけられていた。勢いはよほど凄まじかったのだろう。テロリストは、壁に叩きつけられた瞬間、かはっ、という肺から空気を搾り出すような声を残して気を失い、翔太と同じように床に倒れこんだ。

 なのはが使ったのは単なる浮遊魔法だ。通常であれば、軽いものを動かす魔法。しかし、これは日常的には使われない。なぜなら、この魔法は、動かす物の重さに比例して魔力を消費するからだ。さらに、それを動かす早さにも比例する。よって、大の大人一人を高速で動かすなど魔力の無駄遣いでしかないのだが、そんなことはなのはには関係なかった。今は兎にも角にも翔太が一番だった。

「ショウくんっ!」

 なのはが翔太に近づいたときには、そこは血の海だった。一体、何リットルが、流れ出たのだろう? というほどにおびただしいほどの血が床を染め上げていた。客たちは、悲痛な顔をしながら、翔太を見ているだけだった。その流れ出た血の量を見れば、致命傷だということは、誰の目にも明らかだったからだ。

 だが、それでも、なのはは自分の白い靴が汚れることも構わず翔太に近づく。

「ショウ……くん……」

 あまりの悲惨さに言葉を失った。

 おそらく、撃たれた弾は三発。胸の辺りに一発と腹部に二発の穴が見えた。そこから血が噴水のように流れ出ている。横を向いている翔太の顔は青白く、目は見開かれ、瞳孔は開いているように見える。

「れ、レイジングハートっ!」

 そんな翔太の現状が信じられなくて、なのはは愛機の名を呼ぶ。なのはは、回復魔法が使える。あの四月の事件のとき以来だが、それでも使えるのは間違いないのだ。

 ―――はやく、はやくしないと、ショウくんが●●じゃう。

 焦りながら、愛機が応えてくれるのを待つ。しかし、レイジングハートは応えない。

「レイジングハートっ!!」

 その愛機を呼ぶ声は、叫び声のような、泣き声のような声だった。いや、実際は涙声も入っていたかもしれない。応えてくれない愛機になのはは嫌な予感がして、それでも、レイジングハートなら、レイジングハートなら何とかしてくれると思って、愛機の名を呼ぶ。

 何度も、何度も、何度も。

 やがて、ようやくというタイミングでレイジングハートが応えた。

『―――Too late』

 ―――遅すぎた。

 その言葉の意味をなのはは理解できない。理解したくない。なのははその現実を受け入れられない。なぜなら、翔太がいる現実こそがなのはの現実であり、翔太が●●だ現実は、なのはにとって現実でないからだ。

「ねえ、ショウくん、起きてよ。ショウくん、ショウくん、ショウくんショウくんしょうくんしょうくんしょうくんしょうくんしょうくんしょうくんしょうくんしょうくんしょうくんしょうくんしょうくんしょうくんしょうくん、しょうくんっ!!」

 何度も、何度も、何度も彼の名前を呼び、彼の血まみれになった肩を揺する。血の海に沈んだ手を取るが、いつかのような温もりはなかった。彼は応えない。彼の目はなのはを見ない。彼の口からはなのはちゃん、と名前を呼んでくれることもない。何もかもが虚無だった。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 いくら叫ぼうとも、いくら泣き叫ぼうとも、いくら現実を否定しても、目の前にある状況は変わらない。

 ―――そう、通常の手段では。

「ねぇっ! ショウくんっ! なんでもいいっ! どうでもいいっ! こんな世界も、何もかもどうなってもいいっ! ショウくん、笑ってよっ! 私を見てよっ! お話してよっ! 私を褒めてよっ! ずっと一緒にいてよっ! 名前を呼んでよぉ……」

 なのはの目から涙が流れる。その雫は、頬を伝い、顎から葉の雫のようになり、やがて水滴となって彼女が握る愛機―――レイジングハートの宝石の部分へと落ちる。なのはの涙が、レイジングハートの宝石部分に落ちた瞬間、レイジングハートの宝石が急に光りだした。

『OK! Master's desire is my desire!』

 突然、レイジングハートの全体が蒼く輝く。その蒼い輝きはなのはは覚えている。レイジングハートに内包された21個のジュエルシードが放つ光だ。翔太の状態にすっかり忘れていた。

 そう、そうだ、自分にはまだこれがあったのだ。

 ―――願いの叶う宝石『ジュエルシード』

 今のなのはが願うことはたった一つだけだった。

「ショウくんを助けてっ!!」

 少女の願いに応えるようにレイジングハートが蒼く蒼く輝く。その光がショッピングモール全体を照らしたかと思うと次の瞬間には光は収まり、光が収まった後には、ほぼ無傷となった翔太の姿があった。顔色も先ほどまでとは異なり、血が通っているように紅く、呼吸も確認できる。

 ほっ、と息を吐いたなのはは、すぐに翔太を外で待っているであろうクロノの下へと転送した。ついでに、人質となっていた客たちも。本当ならずっと翔太についておきたい。しかし、それはできなかった。なのはにはやらなければならないことがあるからだ。

「ゴミを掃除しないとね」

 そう、ゴミ掃除だ。翔太に危害を加えるなど、畜生にも劣る。なのはは一分の疑いもなくそう思っていた。だからこそ、掃除が必要だ。もう二度とゴミが翔太に手出しをしないようにしっかりと掃除しなければならないとなのはは思った。

『All right! My master. JS system set up serial I to X.』

 レイジングハートがジュエルシードによって作られたシステムを起動し、なのはが光に包まれた次の瞬間には、なのはの体躯は少女から女性へと変わっており、バリアジャケットも純白から漆黒と真紅のものへと変わっていた。

「いくよ、レイジングハート」

 容赦というものを微塵も持っていない魔法少女が、天誅を下すために動き出した。



  ◇  ◇  ◇



 俺は一体、いつ地獄に来たのだろう? とテロリストと呼ばれていた男は自問した。

 確かに、胸を張ってあの世に逝けるようなことはしていない。そういう自覚はあった。しかし、この地獄はありえない。

「ぎゃぁぁぁぁっ!」

 また一人、仲間だった男が悲鳴を上げる。銃を持っていたはずの右手は、ありえない方向に曲がっており、さらに曲がった腕を地面に叩きつけると手の甲を踏み砕く。ゴリッという何かが砕けるような音がして、また男はこの世ならざる悲鳴を上げた。

 魔法が支配する世界から解放を、そのスローガンを胸にテロ活動をしていた男は、今日の作戦に参加していた。目的を果たせば、人質を解放して、いくつも設定された逃走ルートから逃走。いつものやり方だった。

 だが、今日は時空管理局の奴らに突入を許し、あまつさえ戦闘になっている。その戦闘の最中に突然、転送がかけられ、しかも、気が付けば、ショッピングモールの屋上で、さらに、バインドで拘束された。それは誰も彼もが同じことだ。

 唯一、拘束されていないのは、一人、ぽつんと立つ女性だけ。おそらくデバイスと思われる杖を持った気味の悪いバリアジャケットに身を包まれた女性。この仕掛けが彼女の仕業だということは、容易に想像できた。

 彼女を認識した瞬間、怒声と罵声をはく仲間たち。自分もその一人だった。しかし、彼女は顔色一つ変えることなく、逆に罵声を浴びせていた一人に近づくと、躊躇なく、その手を取り―――折った。ばきっ、という鈍い音共に、顔色、眉一つ動かすことなく、仲間の腕を折った。

 それからは、阿鼻叫喚の地獄だ。冷や水を浴びせたように静まり返る周囲。その分、折られた男の悲鳴だけが、やけに響く。脂汗と痛みと恐怖からの涙と鼻水にまみれた男の表情。大の男が、テロリストが、と思うが、それを躊躇なく、顔色一つ変えることなくやる女性に戦慄した。

 人を傷つけるという行為は、少なからずストレスを与えるはずだ。だが、彼女は作業のように次々と悲鳴と腕の骨を折られた仲間を量産していく。

 ―――まさか、拷問部隊?

 管理局の裏組織とも噂される。自分達のようなテロリストから情報を聞き出すための組織があるという。そこでは、非人道的な手段すら使われるという。まさしく、彼女の所業が拷問といわずしてなんという。目の前に同じ釜の飯を食った仲間が苦悶の表情で倒れているのだ。次にああなるのは自分か、と思わせるのが狙いか。しかし、彼女は何も聞かない。ただ、作業のように続ける。

 量産される苦悶の表情と悲痛の声。特に銃を持っていた連中は酷い有様だ。顔を殴られ、銃を持っていた指は折られ、手の甲は粉砕され、二の腕は折られる。もはや使い物にならないだろう。いや、たとえ、戻ったとしても、正常に動くか疑問である。

「ああああ、あんたっ! な、なにが目的だっ! 何でも応えるっ! 喋るから、もうやめてくれっ!」

 勇敢な誰かが、制止の言葉を口にする。その声に一時だけ、停まる。そして、その言葉を発した男のほうを見ると、一言だけ口を開いた。

「何もない」

 その返答に驚く男。ならば、なぜこんなことをやっているのか? 意味が分からなかった。それは、勇敢な男も同じだったのだろう。

「だったら、どうしてこんなことをするんだっ!? あんた、管理局の人間じゃないのかっ!?」

 その応えも実に簡潔だった。すべてを見下すような、人としてみていないような瞳でこちらを見ながら一言だけ応えた。

「ゴミ掃除」

 そう、彼女は確かに言った。ゴミ掃除だと。ゴミとはつまり、自分達のような人間だろう、と。そして、掃除というのは、おそらくこのような活動が二度とできないようにすること。確かに、それが彼女がやっていることとすれば、それは間違いなく果たされているだろう。この場にいる誰もがこんな目に二度と会いたくないと恐怖を刻み込まれているのだから。

 やがて、女性は作業が終わったように動きを止めた。男は、幸いにして通信係だったので、銃を持っていなかったため、被害からは間逃れた。

 これで終わってくれたのか、とほっ、と息を吐いたのもつかの間、女性は空へと浮かぶ。

 ―――今度は何をするつもりだ?

 その答えはすぐに出た。なぜなら、彼女が掲げた杖の先に彼女の身長をはるかに越えた球体ができたからだ。

 ―――集束魔法。

 彼のような魔力を持っていない人間さえも、その魔力の密度が人知を超えている事が分かり、肌でビリビリと感じる。テロリストの中にもいる魔導師を見てみれば、ありえないものを見るような目で、ぽかんとしていた。現実を否定すらしていそうだ。

 やがて、準備が整ったのだろう。その間、男の周りは誰も動かない。動いても無駄だと分かったからだ。刷り込まれたからだ。阿鼻叫喚の地獄は、それを知らしめるには十分だった。そして、彼女の最後の行動は、間違いなく総仕上げだろう。

「恐怖を刻み込め――――スターライトブレイカー」

 その声が、男には怨嗟の声のように刻み込まれた。



  ◇  ◇  ◇





 高町なのははまどろみの中、頭に温かさを感じた。うっすらと目を明けてみると、そこには病院服を着た翔太の姿が。

 翔太は微笑んでいた。なのはが好きな笑みだ。頭から感じるのは翔太の手の平だろうか。おそらく頭を撫でてくれているのだろう。それが気持ちよかった。まるで猫のように目を細めて、その温もりを感じてしまう。

「なのはちゃん、お疲れさま」

 ―――うん、私頑張ったよ。

 それは声にはならない。眠すぎて、あまりに心地よすぎて。だが、なのはは満足していた。

 翔太が笑ってくれて、自分の傍にいてくれて、褒めてくれて、なのはを見てくれて、名前を呼んでくれるのだから。



 ―――高町なのはは、間違いなく幸せだった。





 空白期終わり

 A's編へ続く

















あとがき
 拷問部隊ですか?
 いいえ、魔法少女です。



[15269] なのにっき 《第二十六話 裏 補完》
Name: SSA◆ceb5881a ID:29b98ec4
Date: 2011/02/27 22:05



 これは、高町なのはの日記から一部抜粋したものである。







 8月××日

 今日から、ショウくんといっしょに魔法世界に旅行。うれしい! でも、黒もいっしょなのが気に入らない。
 それでも、自称親友もバケモノもいないので、黒ぐらいはがまんしようと思う。なにより、ショウくんといっしょの時間は今までよりも増えるのだから。朝も昼も夜もいっしょ。
 考えただけで楽しくなる。

 魔法世界までは、すぐについた。乗り物には乗らずに転移魔法ですぐについた。もしも、飛行機みたいなものに乗るんだったらショウくんの隣に座ろうと思っていたのに残念。

 晩ご飯を食べた後にショウくんと魔法の練習をした。私とショウくんだけの時間。この時間が大好きだ。でも、途中で、ショウくんが、私の魔法を見て、「そんなことはできない」って言った。

 そんなはずない。ショウくんは何でもできるのだから。みんな、みんな、ショウくんは何でもできるってほめている。私もそう思う。だから、私にできて、ショウくんにできないことなんてない。そんなはずない。だから、私はショウくんに「ショウくんなら絶対できる」って応援した。うん、ショウくんができないはずないんだから。

 でも、ショウくんが私よりも魔法が上手になったら、私はどうなるんだろう? ショウくんにとっていらない子になるのかな?
 そんなことないっ! ショウくんはずっといっしょだって約束してくれたから。でも、ずっといっしょでも何もできないのはいやだ。だから、私も魔法をがんばろう。いつかショウくんもできるだろうけど、できるだけ追いつかれないように。

 その後、ショウくんといっしょにおふろに入った。初めていっしょにおふろに入った! サーチャーで何度か見たことあるけど、それでもいっしょに入るのは、初めて。だから、わくわくした。おふろでは、おたがいの背中を洗いっこした。黒いのが、やってるのを見てうらやましかった。でも、私もできたからよかった。ショウくんから洗ってもらうのは気持ちがよかった。

 でも、ショウくんどうしてずっと目をつぶってたんだろう?

 寝る前、なんとっ! ショウくんがいっしょにねようとさそってくれた。黒いのもいっしょだったけど、そんなことは関係なかった。ただただ、ショウくんといっしょにねれるのがうれしくて、夢じゃないかと思った。でも、夢かと思ってにぎったショウくんの手は、とても暖かくて、私に夢じゃないと教えてくれた。この手の暖かさを感じながらねれるなんて、私はきっと幸せ者だ。

 おやすみなさい。ショウくん。









 8月○×日

 今日は、魔法の初心者こうしゅうに行った。午前中は学校みたいに授業を受けた。知っていることばかりだったけど、約束みたいなのがいっぱい書かれていた。となりに座ったショウくんは、がんばって、ノートに色々書いていた。私もショウくんを見習って、がんばってノートにたくさん書いた。

 午前中の授業が終わる前に魔力の測定をやった。みんな、自分の魔力がBだった、Cだったって話してるのを見て、テストの後のみんなの会話を思い出した。私も、そういう風にテストの答えあわせをやりたかったけど、間違ってるところを言うのが怖かったから、そんな風に会話した事がなかった。でも、魔力ならできる。

 だから、ショウくんが計測した後、私もはやく計測してもらって、ショウくんと一緒にランクの話をしたかったのに、お姉さんが何度も測定させた。早くショウくんとお話したいのに。だから少し怒って「まだなの?」といったら、今まで先生をやっていた大人の人が「Sプラスランク」だって教えてくれた。

 周りの人たちがなんだか、騒いでいたけど、関係ない。私は、ショウくんに私のランクを言ったのだけど、ショウくんは、少し困ったような表情をしていた。私、何かしたのかな?

 午後からは魔法を使った授業だった。でも、魔力を出すことなんて、私もショウくんもできる。先生に言ったら、同じグループの人を教えてくれって、言われた。ショウくんは、私に女の子を教えるように言ったけど、どうやればいいんだろう? 初めて見る女の子たち。なんていったら良いのかな? 分からなかった。ショウくんだったら、きっと上手に話しかけられるんだろうけど、私にはできない。

 どうしよう? と考えて、ずっと女の子たちを見ていたら、ショウくんが来た。男の子たちはどうしたんだろう? ショウくんから、どうしたの? って聞かれたけど、なんて言っていいのか分からない、なんていえなくて、黙っていたら、女の子たちから話しかけてきた。

 その後は、ショウくんが女の子たちに魔力の使い方を教えていた。手を握られて、うらやましいと思ったけど、これも練習なのでがまんした。でも、女の子がショウくんと仲良くするのは気分がよくなかった。だから、仲良くできないように私もがんばって相手をした。

 終わった頃には、ショウくんは疲れていたけど、どうしたんだろうか?







 8月○○日

 あいつら、絶対許さない。ショウくんに魔法で攻撃しようとしたやつらがいた。

 ショウくんが言うからやめてあげたけど、注意だけはしておいた。今回はショウくんがいうから何もしないけど、次は絶対に許さない。やつらが何をしたかを同じようにアクセルシュータをぶつけてやる。

 でも、ショウくんは優しすぎる。だから、私が助けてあげないとっ! あの魔女の時みたいには絶対させない……。








 8月△△日

 私は今日という日を絶対に忘れない。

 今日はデパートに買い物に行った。ショウくんと二人だけで。お兄ちゃんも付いてきたけど、途中でどっかに行っちゃった。私としては、うれしいかぎりだ。これで本当にショウくんと二人だけだったから。

 途中で、ショウくんはアクセサリーを二つ買っていた。聞いた見てたら自称親友の金髪とバケモノの分らしい。ショウくんを騙すようなやつと襲うようなやつにプレゼントなんていらないのに。ショウくんは何でもできるけど、やっぱり優しすぎる。

 ショウくんは、私にもプレゼントを用意してくれた。うれしいっ! 

 中身は大きなリボンだった。魔法がきいているのか、大きいけど軽いものだった。ショウくんがくれた初めてのプレゼントっ! 絶対に大事にする。本当は、机の中に仕舞っておくのもいいかな? と思ったけど、ショウくんからのせっかくのプレゼントなのだ。ちゃんと使おう。

 レイジングハートが、保護魔法をかけるか? と聞いてきたけど、やめた。だって、魔法をかけてしまったら、それはショウくんからもらったプレゼントじゃなくなるから。魔法+ショウくんのプレゼントになってしまうから。私が欲しいのはショウくんのプレゼントだけだ。だから、魔法は使わない。

 ずっと、ずっと、ずっーーーーーっと大事にしようと心に決めた。

 でも、うれしかったのは、そこまでだった。

 テロリストの人たちが、デパートにいたからだ。なんだか、奇妙な結界がはられてたけど、こんな結界ぐらいなら、問題なく魔法が使えて、テロリストなんて、簡単にやっつけられたけど、ショウくんが様子を見ようというから、何もしなかった。

 でも、それは間違いだった。ショウくんが言うから、なんて考えなければよかった。あの銃がショウくんを傷つけるかもしれないのだから。ショウくんを危険な目に合わせるかもしれなかったのだから。

 実際、その後、ショウくんの提案で、テロリストたちを倒した後、同じ人質の中に隠れていたテロリストにショウくんは撃たれた。しかも、3発も。

 最初見たときは、ショウくんが死んでるかと思った。そのぐらい、血が流れていた。レイジングハートも「遅すぎた」なんて言うから。

 ショウくんがいなくなっちゃったら、この世界に意味なんてない。あるわけない。ショウくんがいるから、ショウくんがずっといっしょににいてくれるから、幸せだと思えるのだから。だから、ショウくんがいない世界に意味はない。ショウくんが助かるのなら、もう一度、お話をしてくれるなら、ショウくんがもう一度、名前を呼んでくれるなら、なんだってするつもりだった。

 ショウくんは、レイジングハートがジュエルシードを使って助けてくれたけど。

 あと、許せないのはテロリストたちだ。ショウくんを傷つけるなんて、最低だ。そんなやつらゴミ以下だ。だから、もう二度と、こんな事ができないように、ショウくんを傷つける事ができないように念入りに潰しておいた。

 銃を持っているやつらは、ちゃんと二度と銃がもてないように指も、手の甲も、腕も潰したし、私の前に立てないように、魔力に対して恐怖するようにしておいた。これで、あいつらはもうショウくんに近づくことも傷つけることもできない。だって、私はショウくんとずっと一緒にいるのだから。







 8月○△日

 ジュエルシードで回復していたショウくんが目を覚ました。撃たれたところで、傷になるようなことはなかったようだ。よかった。

 ショウくんが笑ってくれる。お話してくれる。褒めてくれる。ずっと一緒にいてくれる。私の名前を呼んでくれる。しかも、頭まで撫でてくれた。




 ――――ああ、私は間違いなく幸せだ。























あとがき
 短くてごめんなさい。
 三択さんからの指摘で、補完的な意味合いです。つぎはA's編が始まります。



[15269] 第二十七話 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/03/20 12:35



 魔法世界から帰還して、早くも数か月が経過した。魔法世界から帰還した直後から、二学期が始まった。この時ばかりは、宿題を片付けておいて正解だったと思う。

 想像もしていなかったことだが、魔法世界で一度は死にかけた僕だ。そんな大事件を経験したのだから、二学期は平穏に過ごせる。ああ、そう思っていた。しかしながら、それは甘く、儚い幻想でしかなかったのだ。

 事の始まりは、10月10日だ。そう、体育の日である。聖祥大学付属小学校もその例にもれず運動会が開かれていた。私立の学校だが、イベントごとにもそれなりに力を入れているようだ。テントが無数に並び立ち、僕の生前の記憶とほとんど変わらない形式である。しかしながら、毎度のこと思うのだが、あの観客席の一角に設置されたビデオカメラを必死で回す親たちは何とかならないのだろうか。

 ちなみに、今年は、親父も参加していた。僕だけのときは、写真だけだったが、今年からはアリシアちゃんがいるので、ビデオカメラを買ったらしい。まあ、秋人もいるからだろう。

 まあ、父親たちが張り切ってビデオをとるのはいいのだが、聖祥大付属小は、女子の体操着はブルマである。海鳴では、変質者などの噂は聞かないが、万が一ということも考えられるのに、男子たちと同様に短パンにしようという動きはない。いやいや、もしかしたら、僕が気にしすぎているだけなのかもしれない。

 そんな事情はどうでもいいのである。僕にとって大きな問題はその運動会の中で起きた。

 さて、運動会の競技への参加は、小学生レベルであれば、教師が指示したとおりに参加するのが通例だとは思うが―――少なくとも、僕の小学校はそうだった―――聖祥大付属は異なる。奇数の組が白組、偶数の組が赤組と分けられ、さらには、クラスの中で全員が参加する競技を決めなければならないのだ。一年生からそれなのだから、恐れ入る。

 そして、それは我がクラスも例に漏れない。今回も参加競技をみんなで決めた。ここで、運動会の競技に参加するためにはいくつかのルールがある。

 1つは、最低でも1つは競技に参加すること。また、参加競技は最大3つまでとすること。もちろん、全員参加の競技はそれには含まれない。

 参加競技を決めるのは1年生のころならまだしも、3年生までなると楽になる。大体、自分が運動が得意か不得意かわかってくるからだ。得意なものは積極的に、不得意なものは消極的に。ちなみに、僕は消極的と積極的の中間で調整の役回りだ。運動が得意か不得意か、で聞かれれば得意な方だとは思うが、いまさら運動会で競技を横取りしようとは思わない。

 そして、これらの傾向がわかれば、割り振ることは結構容易だ。リレーなどの花形は、積極的な人に。借り物競争などのあまり運動神経が必要ではないものは消極的な人に割り振ればいいのだから。この際、気を付けなければならないのは、点数配分に気を付けることである。花形競技は点数が高いので、できるだけ取りたいのだ。もっとも、それがわかっているから、確実に取りに行く競技も選んでいるのだが。

 そんな中で、最終的に一つだけ余ってしまった競技があった。それは、最後の最後の花形である学年別対抗リレーである。これは、10クラスが走り、1位から紅白のグループに点数が入るというものである。最後の方にある競技なだけに点数が高い。最後に逆転劇があるのは、実にお約束である。ある種外せない競技ではあるが、これが実に決まらない。いや、第1から第4走者までは決まった。しかし、第5走者―――つまり、アンカーが決まらなかった。

 理由は実に簡単なものである。要するにプレッシャーだ。一位であれば、それを保持しなければならない。それより下であれば、一つでも上を目指さなければならない。一番目立つはずの走者。だからこそ、立候補がいないのだ。ついでに、確実に取れるところに、運動に強い人を持って行き過ぎたというのもあり、ついでに、もともと、僕が所属する一組には、運動が得意な人は少ないことも影響している。

 このクラスで、運動が一番得意なのは、すずかちゃんなのだが、彼女は当然、すでにエントリーしている。この対抗別リレーでは、男女が走る順番が決まっている。これは、男女の差が出てきた上級生向けの調整なのだろうが、ほかの学年に適応しないのは、不公平だと学校側は見たのだろう。僕たちのような下級生にもしっかりと適応されていた。

 そういうわけで、なかなか決まらなかったアンカーだが、最終的には僕が泥をかぶる形で決着がついた。つけざるを得なかったというもの正解だが。そうしなければ、延々と誰かに押し付ける可能性が高かったからだ。もしも、ほかの中途半端な僕みたいな立場の人に押し付けたならしこりが残ったかもしれないが、幸いにして1年生のころから貢献してきただけのことはあって、ショウくんなら、とほとんどが納得してくれた。しかも、立候補なのだ。文句を言えば、自分に押し付けられると小学三年生ながらにみんな悟ったのだろう。

 そんな経緯でもって決まった学年別対抗リレーで、いささか面子に不安があったのだが、案外なんとかなるものだった。いや、最初のうちはやはり主力を欠いていただけに最下位の集団に入っていたのだが、第4走者のすずかちゃんがすごい追い上げを見せて、真ん中のグループにまで追いついていた。全員で10クラスある中で、アンカーである僕にわたる直前の順位は6位だ。ただし、7位から4位までは、団子状態になっている。そんな中で、僕はすずかちゃんからバトンを受け取った。

「はいっ! ショウくんっ!」

 放課後の練習通りにパンッという音を立てて渡されるプラスチックのバトン。意外とスピードに乗りながら渡すというのは難しいものがあるが、練習の成果が出たのか本番にも関わらずスムーズにバトンを渡すことができた。

 団子状態からいち早く抜けた出したのは、僕ともう1クラスだった。ほぼ同時に抜け出だした僕たちだったが、相手が悪かった。僕と同じアンカーとはいえ、僕とは異なり、純粋に走力で選ばれたのだろう。200メートル走でも1位を取っていた彼だ。もっとも、リレーのアンカーは運動場を一周するので400メートルはあるのだが。

 一方、僕ともう一人が4位争いをする中、1位から3位はというと、2位と3位は、4分の1周先、さらに1位は半周程度先といった程度だろうか。はっきり言って普通に考えれば逆転劇など望めるべくもない。ましてや相手はアンカーなのだから。

 ―――会場のだれもが、そう思っていただろう。僕でさえそう思っていたのだから。しかしながら、その予想は覆された。僕にも理由はわからない。ただ、本気で走ろうと思っていただけだ。学年別対抗リレーは、ほぼ最後の競技に近く、後のことは考えなくてもいい。だから、今までは後のことも考えていたが、今だけは全力で走ろうとそう思っていただけだ。

 それなのに、気が付けば一緒に走っていた彼を置いてきぼりにして、半周程度のところで、2位と3位に並んでしまった。周りから歓声が聞こえる。信じられないという表情も見える。だが、一番信じられないのは僕だ。どうして、こんなに走れるのかわからない。しかも、まだまだ余力があるのだ。驚かずにはいられないだろう。もしも、僕が冷静だったら、この後ばてたように見せて減速することも考えられただろう。しかし、まるで自分の体が自分のものではないような感覚は、驚きとともに恐怖を覚えさせる。

 だから、減速することなんて忘れてしまっていた。ただただ、最初の目標のように全力で運動場を駆け抜けてしまった。

 1位の彼も僕が追いついてくるのを見て焦ったのだろう。ラストスパートを自分が考えていた位置よりも早く切ってしまったようだ。そのため、ゴール前でばててしまったようだ。ガクンとスピードが落ちるのがわかった。そして、僕はそんな彼をしり目に残り数メートルというところで、彼の横を通り抜け、1位でゴールテープを切った。いや、後のことを考えるに切ってしまったというべきだろう。

 はぁ、はぁ、と肩で息をしながら、僕は自分の足と手を見た。そこにあるのは間違いなく9年間ずっと一緒にいる手足である。だが、しかしながら、それでも今すぐに本物であると断言することはできなかった。

 不可解な感覚に襲われながらも僕は、僕たちは学年別リレーで1位になってしまった。しかも、はたから見れば、すずかちゃんから僕への最後の逆転劇というある種のドラマチックな終わり方だ。運動会の後も興奮気味にアリシアちゃんやアリサちゃんが話していたのを聞いて、ようやく自分が目立ったことに気付いたのだから度し難い。僕と同じく貢献者であるはずのすずかちゃんのことは、僕の最後があまりにも目立ってしまったせいか、あまり話題に上らなかったのは、かわいそうだ。

 しかし、僕がそのことを言うと、すずかちゃんはいつも通り微笑みながら、「ショウくんがわかってくれるなら、それでいいよ」というのだから、なんとも奥ゆかしい。もともとも、あまり目立ちたがり屋ではないのだから、それでよかったのかもしれない。だが、そうなると話題は僕に来るものである。

 しかも、あの時、実は僕たちの白組は負けており、学年対抗別リレーの結果いかんでは、逆転だったのだ。そして、その火ぶたを切ったのはどうやら僕たち三年生の1位だったらしい。僕たちに触発されたように4年生、5年生、6年生で白組が1位を取り、逆転。今年は白組が勝利した。どうやら、事態はどこまでも僕の活躍をドラマチックにしたようだった。

 運動会などのイベントで活躍したものはある種のヒーローである。よって、運動会が終わった後、僕は人気者(ヒーロー)だった。女子のまとめ役である夏希ちゃんの話によると女子の中で僕の株は上がったらしい。特に中立だった女子たちは僕に好意的になったといっても過言ではないらしい。いわく、地盤を固めるために今まで以上にお昼をほかの人と食べなければならなかった。

 しかし、そのためにアリサちゃんたちと一緒に食べる回数が少なくなってしまったため、拗ねてしまい、機嫌を治すのに日曜日などに遊びに行くなどが必要だったが。しかも、アリサちゃんだけならまだしも、すずかちゃんも、アリシアちゃんも不機嫌になるのだから、困ったものだ。正直、僕の身体が1つしかないのが口惜しいほどに忙しかった。

 アリシアちゃんは、夜にかまって一緒に遊んで、すずかちゃんは休みに2人だけでお茶会を行うことで何とかなった。すずかちゃんには、なぜ、2人なのだろうか? とは思ったが、会話のほとんどが僕たちが読んでいる本の内容なのだから、アリサちゃんがいても話についていけずにもっと不機嫌になるだけなので正解だったのかもしれない。

 そんな中、なのはちゃんは、特に不機嫌そうな様子も見せていなかったので助かった。あの死にかけた体験から魔法の練習はやっておこうと思ったので、なのはちゃんに不機嫌になられると困ってしまったが、どうやら杞憂だったようだ。

 そして、もう一つ困ったことが発生した。クラス内の僕を中心とした勢力に変化が生じたのだ。つまり、今まで僕に比較的好意的だったクラスメイトが、距離を置くようになった。それは、比較的男子に多く、しかも、勉強では負けていたが、運動では自信があったような人だ。

 僕には確かに勉強では負けていたが、運動では負けないというある種のプライドがあったのだろう。あるいは、それで自分の優位性を保っていたのかもしれない。しかし、今回のことで僕は運動もできることがわかってしまった。だから、それを機会とみて、僕に反抗的だった勢力が、少しずつ勢力を伸ばしているらしい。

 これは、隼人くんからの情報だから間違いはないと思うが、実に厄介なことになった、と嘆息するしかないのだった。



  ◇  ◇  ◇



 運動会の混乱から一か月と半分。一時期忙しかった日々だったが、大体、収束してきた。

 人のうわさも七十五日というが、まさしくその通りだ。鉄は熱いうちに打て、と言わんばかりに二週間ぐらいは忙しかったが、それ以降は、大体、元のスケジュールに戻り始めた。しかしながら、女の子へのつながりは強くなったと思うし、前よりも好意的な女の子が増えたことは間違いない。男子のほうも、少しだけ反抗的な態度をとる人もいたが、新しく話すようになった男子もいるため、プラスもマイナスもないだろう。

 つい一週間前は、運動会での活躍を見ていたのだろう士郎さんのサッカーチームで特例として―――士郎さんのチームは四年生以上で構成される―――練習試合にも出たりもしたが、そこでは、フォワードではなくディフェンダーとして出場したので、あまり目立たなかった。いや、正確には士郎さんのチームが強いのだろう。何度かボールが来たが、そんなに数は多くなかった。

 応援に来てくれたアリサちゃんは、活躍しなかった僕に対して不満げな顔をしていたが、僕の役割はディフェンダーでゴールを守ることであり、攻めることではないのだが、それをサッカーのルールをボールをゴールに入れたら得点、ぐらいしか知らないアリサちゃんに求めるのは酷なことだ、とある程度、ルールを知っているすずかちゃんと苦笑したものだ。

 そういえば、僕の試合だというのに応援に来てくれなかったなのはちゃんは、どうしているのだろうか? 最近は、魔法の練習もなのはちゃんが拒否するのだから珍しい。また、前のようにひきこもりになっていなかったらいいのだが。少しだけ心配だが、士郎さんの話では、いつも通りらしい。どうやら、僕は避けられているようだが、何かしただろうか? と首をひねらざるをえない。

 来週もそんな感じだったら、一度、なのはちゃんを捕まえて話をしなければならないと思っている。

 さて、近状といえば、そんなものだが、今日は、学校がない土曜日だ。僕はお昼からいつもお世話になっている図書館へと繰り出していた。いつもならすずかちゃんと一緒に来る図書館であるが、今日は一人だ。理由は図書館の外で降っている大粒の雫にある。

 本来であれば、今日はみんなでサッカーをするはずだったのだ。しかしながら、外はあいにくの大荒れである。当然のことながら、サッカーなどできるはずもない。一緒にサッカーをするはずだった面々は、おそらく室内の遊びに切り替えて今も遊んでいることだろう。僕としてはぽっかりと空いてしまった空白の時間。数週間前までは、自分があと一人ほしいと思っていたほどに忙しかった僕からしてみれば、不意に空いた時間は実にすることがなかった。

 だから、返却期間も近いこともあって、こうして図書館まで繰り出してきたのだ。アリシアちゃんも最初はついてくるつもりだったらしいが、場所が図書館と聞くと考えるような仕草をした後に、苦渋の選択という風に家で、宿題をすることを選んでいた。図書館とアリシアちゃんというのはあまり相性がよくないらしい。

 こうして、一人で図書館へとやってきた僕は、返却するべき本を図書館の職員の人に返却して、新しい本を探すために本棚の間を歩いているのだ。

 僕よりはるかに高い本棚を見上げながら、目的の本を探す。基本的に僕は乱読派だ。ミステリーもサスペンスも随筆もファンタジーもなんでも読んでいる。目に留まった面白そうなものに手を出しているのだ。だから、特に目的があって、本棚の間を歩いているわけではない。

 だからだろう、彼女が僕の目に留まったのは。

「ん?」

 僕の視界の端に映ってきたもの……いや、正確には人というべきなのだろう。

 茶色の髪を髪留めでショートカットの女の子が、車椅子に座ったまま必死に本棚に向かって手を伸ばしている。手が届かないところであれば、職員を呼べばいいのだろうが、もう少しで手が届きそうな中途半端な位置だ。もちろん、僕のように立っていれば、普通に取れる位置だが、彼女には取れない。特にけがをしているようには見えないが、車椅子に座っているということはそういうことなのだろう。

 彼女の様子を見て、僕は少しだけどうしようか、と躊躇した。普通ならば、彼女の代わりにとってやればいいのだが、障がい者の人は、自分でできることは自分でやる傾向がある。僕が手伝ったとしても余計なお世話になる可能性もあるのだ。逆に手伝ってしまったことが、彼女に心労をかけさせるかもしれない。そう思うと簡単に手伝えなかった。

 しかしながら、僕が悩んでいる間に、そう簡単に放っておくわけにはいかなくなった。なぜなら、彼女は、おそらく下半身が動かないのだろう。だから、上半身だけを本棚に近づけて、目的の本を取ろうとしているのだが、彼女が前に体を乗り出したせいで、重心が前に移り、もう少しで来る前椅子がひっくり返りそうになっているからだ。さらに、最悪なことに彼女自身がそれに気づいていない。

 ここまでくれば、躊躇している余裕はなくなったといっていいだろう。

 僕は、足早に彼女に近づくと、彼女が手を伸ばしている方向にある本棚の中から、彼女がおそらく取り出そうとしていたであろう本を抜き出した。

 不意に隣に現れた僕に驚いたのだろう。ショートカットの彼女は、僕に驚いたような表情を見せていた。その間、重心は元に戻り、彼女がひっくり返るような危機は脱出したようだった。

「えっと、これでいいのかな?」

 僕は本を差し出しながら、彼女に問う。しかしながら、彼女は僕に驚いたような表情を向けるだけで、返答はなにもなかった。

 いったい、どうしたんだろうか?

 そう思っているのもつかの間、すぐに彼女は正気に戻ったように、手をあたふたさせて、慌てた様子で口を開いた。

「ちゃ、ちゃうんや。私が欲しかったんは、その隣や」

 おや、と僕は思った。海鳴では滅多に聞かない関西弁だったからだ。イントネーションやらが全く異なる言語。別に偏見はないが、珍しいな、とは思ってしまう。いや、それよりも、もっと気にしなければならない点がある。どうやら、僕はとるべき本を間違えてしまっていたようだ。

「ごめんね。こっちかな?」

 謝りながら僕は、手に取った本を本棚に戻しながらその隣の本を手に取る。

「そうや、ありがとな」

 背表紙に手をかけた時から、自分の目的の本をとってくれたと思ったのだろう。彼女は、お礼を口にしていた。別にこのくらいなら何でもないが、お礼を言われないよりは、言われたほうが当然のことながら気分がいい。だから、僕も自然と笑みを浮かべながら手に取った本を彼女に手渡す。

「ん? この本は……」

「なんや、知っとるんか?」

 彼女に手渡す前にタイトルに目を走らせると、そこに書いているタイトルは、僕が見覚えがあるタイトルだ。現在、六巻が発刊されているハードカバータイプの本であり、内容は現実世界からファンタジーの世界に召喚された男の子が、異世界で頑張るお話だ。そこら辺に転がっていそうな内容であるが、王道と意外性が織り交ぜられており、さらには作者の力量も高いため、内容の割には僕も読んでいる作品だった。

「うん、僕も読んでるからね」

「そうなんかっ!?」

 僕が本を読んでいるというと彼女は、目を輝かせて僕を見てきた。そんな彼女の反応を見て、僕は思わず苦笑してしまう。彼女の反応が同好の士を見つけた時、そのままだったからだ。同じ趣味を持つものというのは、同じ趣味を持つ人とその内容について語りたいものである。もちろん、自分だけの趣味という人もいるだろうが、どうやら彼女は、僕やすずかちゃんと同じタイプのようだ。つまり、趣味が読書で、その内容について語りたいという人間だ。

「うん、この最新刊には気付かなかったけど、六巻までなら読んでるよ」

 そう、僕が手に取ってのは、その本の六巻だった。運動会から忙しかったからチェックが漏れていたが、いつの間にか七巻が発売されていたようだ。僕が手に取ったのは、その七巻だったわけだ。

「私もそうや。さっき、偶然、それを見つけてな。最新刊があるなんて、滅多にないからラッキーって思ったんや」

「そうだね。よくあった、と僕も思うよ」

 図書館は人気の作品は大体複数冊購入していることもあり、時々、こういうこともあるかもしれないが、それでも珍しいことである。彼女が笑顔を浮かべて喜ぶ理由もよくわかる。自分が好きな作品というのは、発刊されれば、すぐにでも読みたいものだ。だからこそ、こういう偶然を喜ぶことができる。不意に落ちてきた幸運を。

「君は、誰が好きなんや? 私は――ー」

 よほど同好の士を見つけたことが嬉しかったのだろうか、堰を切ったように喋りだそうとする車椅子の彼女。しかし、場所をわきまえるべきであろう。だから、僕は、口に人差し指をやって、静かに、というジェスチャーをやった。僕のジェスチャーでここが図書館だということに気付いたのだろう。彼女は、あわてて両手で自分の口をふさいでいた。

「話したいのは、わかるけど、少し場所を考えるべきだったね」

 先ほどの彼女よりも、小さな声で僕は苦笑しながら忠告する。おそらく、ここがどこか忘れるぐらいにこの本が好きなのだろう。彼女ほどではないが、僕もこの本は好きだ。だから、彼女の話し相手になるのも吝かではない。

「それじゃ、向こうの談話室にでも行こうか?」

 僕は、車椅子を押すために彼女の背後に回りながら、図書館に用意されている周りを気にせず話せず談話室を指さす。だが、彼女は、僕の提案に対して、信じられないものを見たという風に驚きをあらわにしていた。

「ええんか?」

「もちろん、僕も暇だったからね、むしろ、僕の話し相手になってくれるとありがたいかな」

 もともと、ここに来たのは、外が雨でサッカーが中止となり、家の中で遊ぼうにも特に遊べるものもなかったからである。このまま、何か本を選んだとしても、あまり時間はつぶせないだろう。しかも、時間はまだお昼を少し過ぎたばかり。時間はまだまだ十分にあった。少なくとも、目の前の彼女の話に付き合うぐらいの時間は。

「しゃーないな。ほんなら、はやてちゃんが付き合ってやるわ」

 いきなり尊大な態度をとる彼女だったが、その顔は、嬉しさでいっぱいに笑みがこぼれている。もしかしたら、彼女のこの態度に不快感を感じる人もいるかもしれないが、僕からしてみれば、ほほえましいことこの上ない。

「おおきに、でいいのかな?」

 彼女の言葉に合わせて、僕も知っている限りの関西弁で返してみると、彼女は、不意を突かれたように驚いたような表情をし、その直後に、にんまりとチェシャ猫のように笑った。お前もやるな、というような笑みだろうか。僕の偏見かもしれないが、関西人はこういうやり取りが好きそうな気がする。

「それじゃ、行ってみようか」

 外は、この雨だ。もしかしたら、談話室はいっぱいかもしれない。しかしながら、僕たちがいる位置からは、本棚しか見えず、談話室の様子は見えない。だから、一度、行ってみるしかないのだ。もしかしたら、空いているかもしれない。だけど、空いてなかったらどうしよう? と彼女の車椅子を押しながらいろいろと考えていたのだが、不意に押されるままだった彼女が顔を上げた。

「そういえば、まだ自己紹介もしとらんかったな」

 不意に思考を中断された僕だったが、彼女の言うとおり、僕らはまだお互いの名前すら知らない状況だということに今更ながら気付いた。

 どちらからするんだろうか? と思っていたが、どうやら言い出しっぺの彼女から先陣を切るようだ。車椅子に乗ったまま後ろを振り返りながら、笑顔で彼女は、自分の名前を告げる。

「私は、八つの神に、平仮名ではやてって書いて、八神はやて、いうんや。よろしくな」

 彼女は、―――八神さんは、こちらが嬉しくなってきそうなほどの満面の笑みを浮かべて自らの誇らしく告げる。そんな彼女に僕も、自らの名前である蔵元翔太という名前とともに、こちらこそ、よろしく、と返すのだ。


 ―――これが、僕、蔵元翔太と八神はやてのファーストコンタクトだった。



つづく















あとがき
 震災にあわれた皆様にお見舞い申し上げます。私自身は、地震は、なんとか大丈夫です。



[15269] 第二十七話 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/03/26 10:51



 しとしとと小ぶりの雨が降る中、僕とはやてちゃんは、八神家へ向けて公園の中で、歩みを進めていた。もっとも、歩みを進めていたといっても、僕が後ろで押して、はやてちゃんは、車椅子に座ったまま、大きめの傘をさしているのだが。

 どうして、こういうことになったかというと、さすがに雨の日の図書館の談話室が都合よく空いているなどという幸運がなかったためである。談話室があいていなかったからと言って、図書館の中で小声で話すというのも味気ない。だったら、どうしようか? と悩んでいた時にはやてちゃんが、おずおずといった様子で、自分の家へ行くことを提案してくれたのだ。

 いいのだろうか? とは思ったが、休日の昼間であり、夕方にはお暇することを考えれば、さほど問題はないだろうと思う。それに、はやてちゃんがおずおずといった様子だったのは、まだ親しくもない僕を呼ぶことに対する遠慮だったのだろう。

 だから、僕は、はやてちゃんの家が構わないのであれば、行こうかと彼女の案に乗ることにした。

 僕がそう答えた時のはやてちゃんの表情はどこか驚いた様子であり、しかし、それもすぐに笑顔にとってかわった。そのあとだっただろうか、僕が八神さんのことを『はやて』と名前で呼ぶように強要されたのは。ちなみに、僕もほかの友人たちと同じくショウで構わないと告げている。

 そういうわけで、僕たちは今、八神家へ向かって歩いている。状況は先ほども説明したとおりだ。はやてちゃんだけであれば、車椅子の部分に傘をさすところがあるので、そこにひっかければいいのだろう。きちんと車椅子を使う際に支障が出ないように設計されている。だが、それだけでははやてちゃんは濡れてしまう。そのための大きめの傘なのだろう。彼女をすっぽりと覆ってしまうのだから。

 それも今は、僕とはやてちゃんをすっぽり覆う都合のいい傘だった。

 僕も傘を持っているのだが、彼女が車椅子を押すよりも、僕が押したほうが早いため、こうやって僕が車椅子を押している。それに僕が先導できるわけでもなく、はやてちゃんを待たなければいけないのであれば、こちらのほうがより効率的だったのだ。そうやって、僕が後ろから押すといった時に渋ったはやてちゃんを説得した。

 しかしながら、と僕は思う。

 ―――はやてちゃんは、今日、どうしてこの図書館に来たのだろうか?

 もちろん、理由はいくつだって考えられる。本の返却期限が今日までだったとか、どうしても行きたかったとか。いくつだって思い浮かべられる。でも、そのどれもが、彼女が直接図書館に来る理由としてはどうしても弱いように感じるのだ。

 今日は雨だ。だから、地面はぬかるんでいるし、僕がこうして押している間でも何度か、タイヤが滑りそうになったこともある。力がついてきた僕でさえこれなのだ。いくら、毎日車椅子のタイヤを押しているはやてちゃんといえども、図書館まで来るのは相当の労力が必要だっただろう。しかも、雨に濡れる心配もしなければならないのだ。いったい、何が彼女を図書館まで駆り立てたのか。僕には謎で仕方なかった。

 だけど、そこには踏み込めない。僕とはやてちゃんはまだ出会って一時間程度しか経っていないのだ。そこまで踏み込めるほど信頼感はないだろう。

 車椅子を押しながら、コロコロと変わる表情で話を続けるはやてちゃんを見ながら僕はそう思った。

 はやてちゃんの家についたのは、図書館から歩くこと30分程度のころだろうか。はやてちゃんの家は、住宅街の真ん中にあり、庭もある一階建ての一軒家だった。もっとも、彼女の身体のことを考えれば、一階建てなのは当然のことだろう。

 僕が車椅子を押して、玄関の前まで、連れて行くとはやてちゃんは、ドアノブに手を伸ばし、鍵が開いているかどうかを、がちゃがちゃとノブを回して確認していたが、どうやら、鍵がかかったままらしい。そのことを確認するとはやてちゃんは落胆しような表情を見せた。もしかしたら、誰か帰ってきていることを期待していたのかもしれない。

 しかし、はやてちゃんはすぐに困ったような笑みを浮かべて、自分のポケットから鍵を取り出して、開錠する。がちゃ、というドアが開いた音を立てたことを確認して、僕たちははやてちゃんの家へと足を踏み入れた。もちろん、僕がドアを開けて、その間にはやてちゃんに入ってもらったのだが。

「おじゃまします」

 先にはやてちゃんを入れて、僕も玄関へと足を踏み入れると、そこは、僕の家よりも広い玄関だった。靴は靴箱の中に日ごろから入れられているのだろうか―――僕の家では、アリシアちゃんやアルフさん、母さん、父さんの靴が散乱している―――靴は、今、はやてちゃんが脱いだであろう一足しか見当たらない。しかも、玄関は、バリアフリーという段差がない作りになっていた。

 玄関と廊下を仕切る間には、おそらく車椅子を掃除するための布ようなものが敷いてあり、そこでタイヤをきれいにしているのだろう。

「ショウくん、こっちや」

 僕が初めて見るバリアフリーという作りに感心していると、待ちわびているのかリビングになっているであろう部屋からはやてちゃんが手だけだして手招きしていた。

 そもそも、ここに来た目的を思い出して、僕は慌てて靴を脱いで、きちんと揃えてからはやてちゃんに呼ばれた部屋へと足を運ぶ。

 はやてちゃんの家のリビングは綺麗に掃除されていた。フローリングに敷かれたカーペット。立派で大きなソファー。キッチンには、そのまま繋がっており、そこには食卓も兼ねているのだろう大きめのテーブルが置かれていた。特筆すべきは、家具の隙間だろうか。彼女が通りやすいように僕が二人ぐらいは軽く歩けるほどのスペースが置かれていた。

「適当に座っていいで」

 僕が部屋に入ってきたのを見たのだろう。はやてちゃんが僕にソファーに座ることを勧めてきた。僕は言われたとおりにソファーに腰掛ける。ソファーは上等なものなのだろう。我が家にあるものよりも柔らかく、ふんわりと沈み込むような感覚を受けた。

「なぁ~、ショウくんは、紅茶とコーヒーどっちがええ? まあ、両方ともインスタントやけどな」

 笑いながらはやてちゃんが聞いてくるので、僕は、コーヒーと答えた。はやてちゃんは、インスタントなのをネタに笑っていたが、一般の家はそれが普通だと思う。豆からひいたコーヒーや葉を考えた紅茶が出てくるのは、アリサちゃんやすずかちゃんの家ぐらいだ。家で飲んでいるのもインスタントだし、僕には全然不満はなかった。

 台所から水を出す音とコーヒーの粉でも出しているのだろうがさがさという音がしていた。はやてちゃんが車椅子であることを考えると手伝ったほうがいいかな? とは思ったが、彼女の様子からして、はやてちゃんが車椅子になったのは、ここ最近のことではないだろう。つまり、はやてちゃんは、車椅子に乗ったままの作業に慣れているはずであり、僕が手伝っても邪魔なだけだろう。だから、僕はソファーに座っておとなしく待つことにした。

 ふと、ソファーに座ったまま周りを見渡してみる。

 はやてちゃんに配慮しているのか、背の高い家具などはどこにも見当たらなかった。すべての家具の高さが僕の胸ぐらいで、はやてちゃんの手が届くような位置だろう。

 ――――あれ?

 はやてちゃんに配慮して、すべての家具が彼女の身長よりも低い位置にある? おかしい話だ。もしも、はやてちゃんだけが、この家に住んでいるならまだわかる。しかし、彼女はどうみても僕とそんなに離れていない。最低でも保護者はいるはずだ。現に先ほど見たテーブルの上には湯呑が四つ置いてあった。あれはおそらく彼女の家族のものだろう。よって、すべてをはやてちゃんだけに配慮する必要はない。彼らが使う分は、普通のサイズでいいはずだ。それが、なぜかはやてちゃんだけに合わせている?

 もちろん、家族が気を使って彼女に合わせている可能性がないわけではない。だが、それでも違和感はぬぐえなかった。

「どうしたんや? なんかおもろいもんでもあったか?」

 コーヒーが乗ったお盆を片手にはやてちゃんがやってきた。彼女は、僕が考えていたことも知らずに、面白いものなど何もないやろう? と言わんばかりに苦笑していた。まさか、君の家族のことが気になっていた、なんてまだ出会ってから数時間しか経っていない少女に聞けるはずもなく、僕はあいまいに微笑みながら、そうだね、と相槌を打つことしかできない。

「ちょっと待っててな。今、持ってくるから」

 え? 何を? と問う前にはやてちゃんは、僕が伸ばした手が届くよりも先にリビングから出て行った。残ったのは、テーブルの上に置かれた湯気を立てるコーヒーのカップと僕だけ。仕方なしに僕は、出されたコーヒーに口をつける。インスタントだ、という割には僕には飲みやすかった。やはり、いつも飲み慣れているコーヒーのほうがおいしいのだろうか?

「すまんな、持ってきたで」

 二口、三口とコーヒーを飲み進めていると開けっ放しだったリビングのドアからはやてちゃんが数冊の本を抱えてやってきた。それらをドスンとテーブルの上に置く。大きなハードカバーサイズの本が六冊。それらはすべて同一のシリーズなのだろう表紙に書かれているタイトルの書体と作者名は同一のものだった。

 どこかで見覚えがある、とは思っていたものの、答えは簡単だ。なぜなら、その本は、僕とはやてちゃんが出会うきっかけになった本の一巻から六巻なのだから。

 図書館で借りていたはずなのだが、どうやら彼女は自前でも購入していたようだ。きっと七巻も購入するつもりだったのだろう。しかし、彼女は今日まで七巻を買っていなかった。いや、別にかまわないのだが、彼女の口ぶりからして、はやてちゃんが、この本の相当のファンであることは確かだ。そんな彼女が、購入を忘れていたとは考えにくいのだが。

「全部持ってたんだ」

「せや。やっぱ、読みたいときに手元に置いときたいやん」

 笑顔で語るはやてちゃん。なんというか、本好きの手本みたいだ。確かに、本好きな僕たちにとって読みたいときにその本が手元にないのは苦痛だ。僕でも、図書館で読んで、気に入った本はあとで個別に買ったりすることもある。

「あれ? でも、七巻はどうして買ってなかったの?」

「それは―――ちと、忙しかったんや」

 少しさびしそうな色を含めた笑みで誤魔化そうとするはやてちゃん。どうやら、その部分は、僕が触れていいような部分ではないようだ。だから、僕は、そうなんだ、と詳細を聞き出すことなく引き下がるしかない。誰にだって触れてほしくないこと、話したくないことがある。そこに触れるには相当の勇気と信頼関係が必要だ。僕たちの間にそれはない。だから、引くしかないのだ。

「でも、七巻も借りてきた分があるし、ええやろう。ショウくんは、何巻の話が好きなんや?」

「そうだね、僕は―――」

 そこから、僕とはやてちゃんの熱く、まるでオタクのような本についての雑談が始まるのだった。いや、しかしながら、本当のファンが話すとこんな感じなのだろうとは、思うけどね。



  ◇  ◇  ◇



 この家に来て、どれだけ話しただろうか? 少なくとも日が傾く直前までは話していたようだ。

 お互いに話す内容が尽きることはなかった。その本のどの場面が好きだとか、どのキャラクターが好きだ、とか、話し始めればきりがない。本は、人によって感じ方が異なるものだろう。異なる視点とはよく言ったものだが、つまり、同じ文字なのに考え方が異なる。感じ方が異なる。その差異を楽しむのも、人と本について語る時の楽しみ方だと思う。

 しかしながら、話しながらわかったのだが、僕が知略を駆使した戦闘場面を好むのに対して、はやてちゃんは、ギルドの中のパーティという意味で使われるファミリでの日常パートが好きなようだ。

 はやてちゃんが言うには、異世界から戻れなくなった主人公が、新しく家族を作るところが好きなんだとか。僕としては、知らない世界で戦いに巻き込まれながらも、抗って戦う様が好きなんだけど、それは好みの違いというやつだろう。

「―――ああ、もうこんな時間か」

 ある程度、話の区切りがついたところで、何杯目になるか数えていないコーヒーを口に含んだ後、棚の上に設置している時計を見て僕はつぶやいた。普通なら、そろそろ帰る時間だといっても過言ではないだろう。それに、今日が休日であることを踏まえても、そろそろ家族の人も帰ってくるはずだ。ならば、これ以降は家族の時間。部外者の僕がいるべきではない。

 だから、そろそろお暇するにはいい時間である。

「いい時間になってきたから、そろそろお暇しようかな」

「え?」

 僕としては、時間的には、実にいい時間だと思った。遅いわけでもなければ、早いわけではない。母さんやアリシアちゃんたちに心配させるような時間ではなく、はやてちゃんの家族も帰ってきているわけではない。だから、切り出すタイミングとしては間違っていないと思う。

 しかしながら、僕が帰宅を告げた時のはやてちゃんの顔は驚きの表情だった。

「も、もう帰るん?」

 はやてちゃんの口調からは焦りのようなものを感じ取ることができた。だが、彼女が焦る理由がわからない。それとどこか引き留めたそうな口調もよくわからない。

「そ、そやっ! ショウくん、晩御飯食べて行ったらええよ」

 突然、ぱんっ、と手を打ったかと思うと名案だ、と言わんばかりの口調で僕に提案してくるはやてちゃん。

 いきなり晩御飯と言われても困るのが実情だ。しかも、僕の家でも僕の分を確保しているだろう。あまりに突然すぎる提案は、僕としても困ってしまう。さらにいうのであれば、僕とはやてちゃんは、確かに共通の趣味で意気投合したのは間違いない。しかしながら、出会ったのは今日なのだ。それなのにいきなり家で晩御飯を食べるのは少し躊躇してしまう。

「でも、家の人に悪いんじゃない?」

 しかし、いきなり断るのも心象に悪かろう。もしかしたら、嫌われてしまった、と思われてしまうかもしれない。だから、ごく一般的な理由で遠慮することにする。

「だ、大丈夫やっ! 帰ってきてもみんな歓迎してくれるはずやっ!」

 どこか必死な声で僕を引き留めようするはやてちゃん。何がいったい彼女をこんな風に駆り立てるのだろうか。何らかの理由があると見るべきなのだろうが、付き合いの浅い僕にはわからない。

 どうしたものか? と悩んでいるとおずおずといった様子ではやてちゃんが口を開く。

「……ダメ……なんか?」

 少し潤んだ瞳で、上目づかいで問いかけるはやてちゃん。その表情にはどこか見覚えがあった。それは、僕がまだ幼稚園時代のころ、親の迎えが遅くなって、一人で幼稚園に残っている子が向けてくる表情だ。その裏にある感情は、寂しさだ。一人で残されることへの恐怖といってもいいだろう。そのころから僕は、ある種の世話役的なところがあって、そういう子を残して帰ることはできなかった。よくよく考えれば、あのころは、母さんに迷惑をかけていたな、と思う。

 僕はこういう表情に弱いのだ。たとえば、小さい子供が僕の袖を引っ張って帰らないで、と言われているのに等しい。小学校に上がってからは、ほとんどなかったのだが、久しぶりに遭遇してしまった、というべきだろう。

 そして、残念なことに僕は、この表情に抗うすべを持っていない。両手を挙げて降参というしかない。

「わかったよ。それじゃ、今日はご馳走になろうかな」

 そういうしかなかった。しかし、その効果はあったようで、一時は沈んでいたはやてちゃんの表情も泣いたカラスがもう笑うといったように笑顔に変わっていた。

「そ、そか。ほんなら、早速準備せんとな」

 そう言いながら、はやてちゃんは器用に車椅子を操作して、自らの身体をキッチンへと運んでいく。もしかして、彼女が晩御飯を作るのだろうか。いや、未だに顔を出さない家族のことを考えれば、彼女が料理をすることも別に変な話ではないのだろう。小学生だから料理をしてはいけないということはないはずだ。

「あ、そうだ。僕は、ちょっと親に連絡してくるから」

 晩御飯がいらないのであれば、はやく母さんに連絡しなければならない。もしかしたら、少し怒られるかもしれないが、僕の分はおそらく親父とアルフさんが消費してくれるから無駄にはならないだろう。アルフさんは、基本的にアリシアちゃんからの魔力供給で大丈夫なはずなんだけどな……。

 僕ははやてちゃんから「了解や」という返事を聞いてから僕は廊下に出てから携帯電話を使って、家に電話した。

 電話口に出た母さんは、事情を話すと「またいつもの世話焼き癖が出たのね」といいながらも、はやてちゃんの家で食べることを了承してもらえた。しかし、僕の行動は、癖のように思われていたのか。もっとも、そっちのほうが僕にとっては都合がいいのだが。まさか、精神的には兄的立場で見捨てることができないなんて言えないから。僕の癖のように思われているなら、いつものことか、で片付けられるので幸いなのだ。

 母さんから「遅くならないうちに帰ってくるのよ」という言葉をもらった後、電話の通話を切り、二つ折りの携帯をぱたんと閉じるとリビングへと戻った。そこには、はやてちゃんが持ってきた六冊の本が置いてあるだけ。リビングの隣のキッチンからは、カレーのいい匂いがするので、はやてちゃんがカレーを作っているのだろう。

 僕は、リビングでソファーに座らず、そのままキッチンのほうへと足を運ぶ。何か手伝いができれば、と思ったのだ。この世界に生まれてから料理は、家庭科でしかやったことがないが、前世の大学生時代は、二年間、自炊をしていたのだ。包丁と簡単な料理ぐらいは作ることができる。

「はやてちゃん、なにか手伝うことない?」

「へ? ショウくん、料理できるんか?」

「まあ、少しだけね」

 僕ができるのが意外だったのか、はやてちゃんは少し驚いたような声を上げる。確かに、事情に迫られなければ、小学生が料理ができるとは思わないだろう。それをいうのであれば、トントントンと手慣れたようにリズムを刻むはやてちゃんは、その事情に迫られた小学生に分類されるのだろうが。

「ほんなら、私がサラダ作るから、カレーを混ぜといてくれんか?」

「了解」

 それは、料理というよりも見張り番では? とは思ったのだが、カレーとサラダというメニューであれば仕方ない。はやてちゃんが、サラダづくりに集中できるのであれば、僕は見張り番という役に甘んじて徹しよう。

 そう思いながら、お玉はどこ? と場所を尋ねて、言われた調理道具がそろった一角にあったお玉を手に僕は、カレーをあっためているであろう鍋の前に立った。

 僕が上から覗き込んだ鍋の中身は、とても二人分とは思えない量のカレーが入っていた。家族の分も含んでいるのだから当然と言えば当然だ。僕が電話をかけてからあまり時間が経っていないことを考えれば、このカレーは、今日作ったものではないだろう。おそらく、前日から寝かせたものだろう。ならば、味は期待できるはずだ。

 そんなことを考えながら、鍋の中身をかき混ぜていたのだが、その中で違和感を感じた。

 ――――あれ? おかしいな。どうして、踏み台もなくて調理ができるんだ?

 そう、おかしい話だ。車椅子に座っていながら、鼻歌交じりに料理をしているはやてちゃん。そして、立ったままで鍋の中身を見下ろすことができ、余裕で鍋をかき混ぜることができる僕。その点に違和感を抱かざるを得ない。

 普通、キッチンの高さは、使用者の高さによって決められる。なのに、このキッチンは、はやてちゃんの車椅子に座った時の高さに合わせられている。小学生の普通でも低い身長に、さらに座った時の低さに合わせられているのだ。もしも、大人が料理するとなれば、相当に使いにくいキッチンであることだろう。

 そこから導き出されることは、あまり考えたくないものだが、このキッチンで主に料理を作っているのがはやてちゃんということであろう。

 ほかの家族はいったいどうしたのだろうか。いや、この家族の役割分担ということなのかもしれないが、もしも、このカレーの人数分だけ毎日料理を作るとなると結構な大仕事である。それを子供にやらせるのはいかがなものだろうか。手伝い程度ならばわかる。しかし、こうしてキッチンの高さまで調節してまで。これでは、最初から料理することを放棄しているようにとられても仕方ないのに。

「ん? どうしたんや? ショウくん。手がとまっとるで」

「あ、いや。なんでもないよ」

 しかし、人様の家庭事情に僕が簡単に足を踏み込めるはずもなく、僕が考えていたことを表に出さないように曖昧に笑うしかない。しかし、はやてちゃんを誤魔化すことには成功したようで、少し怪訝には思っていただろうが、そか、と一言言うとまたサラダづくりに戻るのだった。



  ◇  ◇  ◇



「「ごちそうさまでした」」

 僕とはやてちゃんの声が重なる。

 あれから、僕たちはカレーを温めて、サラダを盛り付けて、料理を並べて少し早目の晩御飯を食べていた。用意されたお皿の数は僕たちの分も合わせて五つだ。しかし、そのうち三つは、お皿を逆にして埃をかぶらないようにしている。おそらく、後で帰ってきてもいいようにだろう。ちなみに、カレーはすでに冷蔵庫の中に保存されている。

「ふぅ、そろそろ、帰ろうかな」

 食器を片づけた後、食後の一杯を口にしながら、僕はぽつりとつぶやいた。あまり遅くなるな、と釘を刺されているうえに外はすでに日が落ちてしまって真っ暗だ。今度こそ、お暇しなければならないだろう。

 僕が晩御飯に誘われた時の表情を見ていると家族のだれかが帰ってくるまで一緒にいてあげたい気もするが、僕が大人ならまだしも―――それはそれで、別の問題が発生するような気もする―――今の僕は小学生だ。遅くに外は出歩けないし、親を心配させてもいけない。つまり、そろそろ帰るしかないのだ。

 もちろん、それが一筋縄ではいかないことは確かだろう。僕のつぶやきを聞いたはやてちゃんの肩がビクンと動いたのを見てしまったから。

「か、帰るんか?」

「うん、そろそろ、親が心配しちゃうからね。外も暗いし……そろそろ、帰らないと」

 そう言っている最中にもはやてちゃんの表情が沈んで行くのがわかる。しかし、これ以上はいることができない。それが現実だった。いくら、後ろ髪ひかれる状況だろうが、それは許される立場には僕はなかった。だから、ここは心を鬼にしてでも帰らなければならないのだ。

「あんなっ! ショウくん、私の家、もっと別の本もあるんよ。ショウくんはどんな本が好きや? 気に入ったのがあったら、読んでったらええよっ!」

「いや、だから、僕は―――」

「ゲームもあるんやでっ! ショウくんは、ゲームするんか? 私は、少しやるんやけどな。うちの子が好きなんよ」

 よほど僕の気を引きたいのか、次々と自分の家にあるものを挙げていくはやてちゃんが痛々しかった。先ほど見せた表情を鑑みれば、彼女の中に一人でいることへの寂しさがあるのは間違いないはずだ。しかも、それを笑顔で覆い隠しているのがさらに痛い。

 しかしながら、本当に手立てがないのだ。もしも、何かはやてちゃんのそばにいられる手立てがあるなら、家族の誰かが帰ってくるまで傍にいることも吝かではないのだが……。

「あっ! せやっ! なんなら、泊まっていってもいいんやでっ!」

 ―――それは……一考の余地はありか?

 少なくとも出歩くことはない。危険性は遅くなって帰るよりも、かなり低くなるだろう。いや、しかし、出会って一日目で家に泊まるのはいかがなものか。

「どやろ? ショウくん」

 しかしながら、やはり、その表情で見られると僕は弱い。すぐさま、否とは言えなくなってしまう。可能性を考えてしまう。そして、その可能性は十分にありといえた。前提条件として、はやてちゃんと母さんの許可は必要だが。

「はぁ、わかったよ。とりあえず、母さんに聞いてみるね」

 晩御飯に続いて、今度は泊まるというのだから、母さんも驚くだろう。

 そう思っていたのだが、案外、話はスムーズに進んだ。もしかしたら、母さんも予想していたのかもしれない。家族が誰もいないということを言っていたことも聞いたのかもしれない。相手が女の子とも話していたのだが、さすがに小学生が相手で考えることでもないか。そんな具合であっさりと母さんからの承諾を得ることができた。ただし、一度、家に帰ることが条件だが。確かに着替えもない状態では泊まれないだろう。

「それじゃ、一度、僕は家に帰るから」

「すぐ帰ってくるんか?」

 ただ家に帰って、再び引き返してくるだけだ。時間にして三十分もかからないだろう。母さんが準備してくれるらしいから、僕が用意することもないし。だから、はやてちゃんが不安げな表情をしている理由が理解できなかった。もしかして、三十分でも一人になるのが嫌なのだろうか。だから、僕はできるだけ安心させる笑みを浮かべて答えた。

「うん、大丈夫。すぐ戻ってくるよ」

「そか………うん、わかったで。いってらっしゃい」

「うん、いってきます」

 何かを考えていた様子を見せたはやてちゃんだったが、すぐに笑顔を浮かべて、僕を「いってらっしゃい」という言葉と一緒に手を振りながら僕を送り出してくれた。少し大げさだな、と僕は内心で苦笑しながら、はやてちゃんの声にこたえて、いってきます、と告げた後、八神家の外へと出るのだった。



  ◇  ◇  ◇



 八神家までの道のりを親父と一緒に歩いていた。僕の家から八神家までは、僕の足で大体十五分程度だろう。予想通りといえば、予想通りの道のりだ。その道を母さんから受け取ったお泊りセットの入ったボストンバックを片手に親父と一緒に引き返していた。

 もしも、日が暮れていなければ、僕一人でもよかったのだが、日がすっかり暮れてしまったのだ。確かに住宅街というだけあって、時間的には、人気が全くないというわけではないが、それでも心配なのだろう。母さんに言われて親父が付き添うことになったのだ。

 親父と別段仲が悪いというわけではない僕たちは、最近学校であったことや、友達と遊んだ時の面白い体験などを話しながら、ゆっくりと僕に歩調を合わせて八神家へと歩みを進める。そう、歩みを進めているつもりだった。

 僕がそれに気付いたのは、親父の一言からだった。

「なあ、翔太、俺たち、どこへ向かってるんだっけ?」

 不思議そうな顔をして僕に問いかけてくる親父。その顔は、本当に歩いている最中に目的地を忘れてしまったような表情をしている。人が突然、目的地を忘れてしまうようなことがあるだろうか。そもそも、持病を持っていれば、話は別だが、親父がそんな持病を持っているなんて聞いたことはない。

「何言ってるの? 八神はやてちゃんの家に僕を送ってくれるんでしょう?」

「ん? あ、ああ……そうだ。そういえばそうだったな」

 僕の言葉を聞いて納得した親父は、どうして忘れてたんだ? と不思議そうに首をかしげていた。

 持病も持っていない親父が健忘症のようにふるまう。そんなことがあるだろうか。物忘れが激しいというレベルではない。まるで、記憶から零れ落ちたような、そんな振る舞いだった。はたして、そんなことが考えられるだろうか。もしも、僕が平凡な人生を送っているなら考えられないだろう。明日にでも、病院へ行くことをお勧めしているだろう。

 しかし、生憎ながら齢十歳にならないというのに僕の人生はすでに平凡ではない。もっとも、それを言うならば、生まれた瞬間からというべきかもしれないが。

 ともかく、僕はこのような現象を起こせる存在を知っている。魔法というおとぎ話のような存在を。まさか、と思って周囲を注意深く探ってみれば、若干だが、微妙な違和感を感じるのは確かだ。これが魔法だと僕には断定できない。そこまで魔法に精通しているわけではないからだ。クロノさんたちならわかるかもしれないが、僕にはわからない。

 だが、魔法以外に親父の状況を説明できないのも確かであり、いったいどうしたものか? と考えたのがまずかったのかもしれない。周辺から感じる違和感よりもはるかに強い違和感――――まるでユーノくんの結界に入った時のような違和感を一瞬だけ確かに感じた。その直後、隣を歩いていた親父の姿が消えた。

「は?」

 魔法による結界に入ったことは理解できた。しかし、それ以上の理解が追い付かない。どうして? なぜ? 誰が? 何の目的で? そんな疑問がマルチタスクで同時に僕の頭の中で処理される。しかし、どの問いの回答も『不明』という結論だった。手がかりが一つもないのだから当然だ。ただ一つだけ理解できていることは、僕を結界に誘い込んだ『だれか』がいることだけである。

 僕は、周囲を警戒する。いつでもチェーンバインドを発動できるように手はずを整える。

 ―――それは、僕の前に姿を現した。

「――――あなたは、誰ですか?」

 僕の真正面。ユーノくんが使った封時結界であれば、当然であるが、人通りがまったくない道の真ん中に立つ一人の男性と思われる人。黒い髪に白いスーツに身を包まれ、仮面舞踏会で使われるような仮面で顔を隠した男性が僕の前に立っていた。

 彼は、僕の問いに無言だった。その代わりに無言でまっすぐと歩みを進めてくる。どうやら彼は、僕の質問に答えるつもりはないようだ。

「チェーンバインドっ!」

 いくらなんでもそのまま近づけさせられるわけがない。だから、僕はあらかじめ警戒して、用意していたチェーンバインドを発動させた。相手が魔法世界の相手でも、拘束ぐらいはできるだろう、と考えたからだ。しかし、その考えは甘かったと言わざるをえない。僕が発動できる最大数であるチェーンバインドが三本同時に仮面の男に向かって飛びかかる。

 そのままであれば、僕の白い魔力光で発動したチェーンバインドは、仮面の男を雁字搦めにするはずだった。だが、その想像は、男が腕を一振りして、パリンというチェーンバインドが砕ける音とともに無残にも砕け散った。

「え? あ、あれ?」

 魔法が砕かれるなんて想定外もいいところだ。どうやったのか? なんてわからない。クロノさんだったら、もしかしたら、わかるかもしれないが、魔法に精通していない僕にはわからない。しかし、わかったところで対処法があるわけではない。僕ができることはチェーンバインドを生成することだけだ。

「チェーンバインドっ!」

 今度は二本、遅れて一本の時間差で発動させたが、それも無意味。彼は、戦いに慣れているのだろう。不意打ち気味に発動した一本さえ見ているときと同様に腕を振るだけで砕いてしまった。

「くっ」

 まずい、まずい、まずいと思った。明らかに僕で対処できる限界を超えている。

 どうする? どうする? と頭をひねらせても逃げられるとは思えない。ここで、背中を見せて逃げ出したとしても、彼はすぐに追いつくだろう。僕の魔法を腕の一振りで砕くほどの実力を持っているのだ。しかも、それは彼の実力のすべてではないだろう。そこから導き出される答えは、逃げられない。

 彼がゆっくりと近づいてくる。彼が近づくたびに後ろに下がる。しかし、それでも逃げられたのは数分の間だけ。気が付けば、僕の後ろにはブロック塀が立ちふさがっていた。彼から最大限距離をとるように動いていたら、いつの間にか壁際に誘導されていたらしい。ここからさらに逃げ出すのは無理だろう。

 そんなことを考えている間にも、彼は近づいてきて、僕に手を伸ばす。彼は、僕を一体どうするつもりなのだろうか? 彼の気配からは全く想像できない。いったい彼が何をしたいのか、僕には全く分からない。わからないということは、恐怖へとつながる。いや、そもそも、魔法を使われて男に追いつめられているという時点で恐怖心満載なのだが。

 ここまで追い詰められた僕にできる抵抗はせいぜい、相手を睨みつけることぐらいだ。

 当然のことだが、彼はそんなことには歯牙にもかけず、僕に片手を伸ばしてくる。

 そして、あともう少しで僕にその手が届くというときだった。彼が、不意に上を向いたのは。僕も彼につられて上を見る。

 ―――そこには、一人の騎士がいた。

 手には手甲を装着し、右手には反りのない片刃の西洋剣を持ち、スカートのような部分にも鎧にも似た甲冑を装備している紫色の髪をポニーテイルにした女性がそこにはいた。

 先ほどまでは全く気配を感じなかったことから、たった今、張られた結界を抜けてこの場に現れたと見たほうがいいだろう。はたして、彼女は僕にとって、敵なのか味方なのか。敵の敵は味方という形で助けてくれたら幸いなのだが……。

 そんなことを思っていると僕の願いが通じたのか、剣を構えた彼女は、まっすぐ僕と彼の間に突っ込んできた。それを見て、仮面の男はたまらず後ろへと退避する。仮面のせいで表情はわからなかったが、動きから察するに彼は、動揺、あるいは、困惑しているように見えた。

「どうして、貴様がここにいる?」

 仮面の奥から聞こえる男のくぐもった声。

「無論、この身は、我が主のため。主の命を除いて我がこの場にいる理由はない」

 剣を構えながら仮面の男に対して全く油断せずに彼女は答える。

 彼女の言葉から推測するに、どうやら彼女の主からの命令らしい。しかし、魔法に関連している人が、僕となのはちゃん以外にいるのだろうか。しかも、僕の知り合いに。あるいは、この事態を知って、正義感から助けてくれたか。どちらにしても、僕を守るように立っていることから考えるに彼女が、僕を助けに来てくれたのは間違いないようだ。

「なん……だと……。バカな。いったい………。ちっ」

 彼女の言葉に驚愕し、信じられないというような口調で、何かつぶやいていたが、先ほどの僕のようにこの状況が理解できなくなってきたのだろう。彼は、小さく舌打ちをすると、唐突にこの場から姿を消した。同時に周りの結界も消えたようだ。僕を包んでいた違和感はなくなっていた。

 その場に残ったのは、僕と騎士のような女の人だけ。彼女は、しばらく気を抜かずに剣を構えていたが、彼の気配が完全になくなったと判断したのだろう。剣を鞘に戻していた。

「あの……ありがとうございます」

 主さんからの命であれ、僕が助けられたのは違いない。だから、僕は頭を下げてお礼を言う。あそこで彼女が助けに入らなければ、僕がどうなっていたかわからないから。

「いや、礼には及びません。私は主の命に従ったのみ。それでは、私はこれにて」

 本当は、あなたの主がだれか? ということを聞きたかった。だが、彼女はそんな暇を僕に与えてくれなかった。すぐさま、来た時と同様に空へ向かって飛び立つと、そのまますごいスピードでこの場を離れて行った。

 僕にはだれかわからないが、とりあえず、助けてくれたであろう主さんに僕は感謝することにした。

「さて、親父はいったいどこへいったんだろう?」

 僕と一緒に消えたはずだが、同じ結界の中にはいなかった。ともすれば、この場に取り残されたか、あるいは、僕と同じように結界に取り込まれたか、である。結界に取り込まれて入れば、それはまずい気がするが。いや、しかし、魔法が発動しているような違和感は感じられない。

 どうやって連絡を取ろうか? と考えていた僕の耳に携帯からの着信音が聞こえる。いったい誰だろうか? と画面を見てみれば、そこには『母さん』の三文字が浮かんでいた。どうしたんだろうか? と疑問を浮かべながら通話のボタンを押して、携帯を耳に当てる。

「もしもし、どうしたの?」

『ああ、よかった。ショウちゃん、無事なのね? お父さんがショウちゃんを残して戻ってきたからびっくりしちゃって』

 どうやら、勝手に連絡がついたようだ。しかし、僕を置いて家に帰ったってどういうことだろうか? 魔法で何かされたのだろうか? その可能性が高いだろう。よくよく考えたら、さっきの手を伸ばしたのも僕に魔法をかけようとしたのかもしれない。

「大丈夫、僕は無事だよ」

『よかったわ。ショウちゃんは? って聞いても、家に帰ってきてるだろう? なんていうんだもの』

「それは―――」

 もしかしたら、彼は僕を家に帰すつもりだったのかもしれない。

 ――――なぜ?

 それは、僕がこれから行く場所を考えれば、簡単に想像できた。つまり、八神家だ。はやてちゃんに僕を近づけたくなかった。近づけない目的は僕にはわからないが、それ以外に理由を思いつかない。今までと変わったことなんてそれぐらいしか思いつかないから。

 そうだとすると、はやてちゃんも魔法に何かしたら関係あるのか………?

「母さん、僕、はやてちゃんの家に行くよ」

 僕は大丈夫だったが、はやてちゃんが心配になった。今までなんでもなかったから大丈夫だとは思うが、僕が襲われた直後で、しかも失敗しているのだ。その分のツケが、彼女に向かったとしてもおかしい話ではない。僕に何かできるとは思わないが、それでもここで見捨てて家に帰るという選択肢は少なくともない。

 ちょっと、ショウちゃん!? と声を出す携帯電話の通話を切ると形態をポケットに仕舞って、道路に投げ出されたお泊りセットの入ったボストンバックを持つとはやてちゃんの家の方向に向かって走り出す。幸いにして、道のりの半分は来ているのだ。走れば、五分もかからない。このときは、運動会のときに発揮された運動能力に感謝した。五分、走ったとしても息切れしないのだから。

 五分、全力疾走に近い形で走り続けて、ようやくはやてちゃんの家の前につく。僕は、少しだけ息を整えた後、『八神』と書かれた表札の横にあるインターフォンを押す。ピンポーンという昔ながらの音を鳴らした直後、がちゃ、とドアが開いて、車椅子に座ったはやてちゃんが姿を現した。ほとんどタイムラグないことを考えると、もしかしたら、ドアの前で待っていたのかもしれない。

 確かに三十分ぐらいしかかからない道のりで一時間半ほど時間がたっていれば心配もするだろう。だが、とりあえず、変わりないはやてちゃんの様子に僕はひとまず安心する。

 なぜか、はやてちゃんも、僕の顔を確認すると、ほっ、と安心したように息を吐いた後、笑みを浮かべて口を開いた。

「おかえりや、ショウくん」

 まさか、そんな言葉で迎え入れられるとは思わなかった。僕が、虚を突かれて驚いている間に、笑顔だったはやてちゃんの表情が不満げに頬が膨らむ。

 ああ、そうだ。そうだった。その言葉で迎え入れられたのだ。ならば、僕が答えるべき言葉は一つしかない。おそらく、彼女はいつまでたっても僕がそれを口にしないのが不満なのだろう。だから、僕も彼女の笑顔で迎え入れてくれたことに応えるようにできるだけ笑顔で返事をする。

「ただいま、はやてちゃん」

 僕がその言葉を口にした瞬間、今まで不満げだったはやてちゃんの表情は、花が咲いたような満面の笑みへと変化したのだった。



つづく














あとがき
 うらやましいと思うのは、そのものの価値を認めているからである。



[15269] 第二十七話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/03/30 10:06



 八神はやてにとって、一人であることは普通だった。

 寂しいという感情が、今までとの差異から起因するものだとすれば、八神はやてには、その比べるべき過去がない。もちろん、はやては独力でそこに存在しているわけではない。おそらく、彼女にも両親がいたことだろう。しかし、彼女には不思議なことにその記憶が、経験がなかった。気が付けば、彼女は一人でその家で寝起きし、食事をし、日々を過ごしていた。

 はやては、その異常ともいえる境遇を不思議に思うことはなかった。これも同様の理由だ。彼女は一人だ。学校にも行っていない。つまり、彼女の境遇を比べるべき相手がいない。よって、八神はやては、異常を普通と認識しながら淡々と日々を過ごしていた。

 八神はやてが一人でいることになんら不自由はなかったといっていいだろう。お金は、彼女の保護者ということになっているグレアムおじさんから過剰なほどに振り込まれている。はやてが、管理している通帳を見知らぬ第三者が見れば、目が飛び出るほどに驚くほどの額が記帳されている。

 食事の類は、はやてが自前で作れるのだからなんら問題はない。自分の家のキッチンだって高さが調節されているため自由自在に使うことができる。よって、車椅子に乗っている身であろうとも、なんら問題はなかった。料理のレパートリー自体はいったいどうやって覚えたのか、はやては覚えていない。気が付けば献立を考えるようになっていたし、作れるようになっていた。誰かから教わったのであろうが、彼女にはその記憶がないし、それ自体を気にすることはなかった。

 はやてにとっての世界とは、自分の家と外の限られた空間―――図書館と病院―――と彼女が大好きな本の中だった。

 本とは、小さな人生であるとは誰かが称した言葉である。人の人生は一度しかないが、本を読むことで何度でも人生を繰り返すことができるのだ、と。その意見にはやても賛成だった。本の中には、彼女の知らない世界が広がっている。はやての足を考えると行くことはできないだろう。しかし、その写真と描写からどんな世界か想像することができる。とりあえず、彼女はそれだけで満足だった。

 しかし、そんな彼女でも、本の中で、家族に対する感情は理解できなかった。理解できるための地盤がないのだから当然であろう。家族への感情へ関する部分というのは、はやては、いつも首をひねりながら淡々とそういう風に感じるんだ、と思いながら読み進めていた。

 このとき、彼女には家族に対する『興味』はあったが、家族への『羨望』はなかった。そのものの価値を知らなければ、羨むことなどないからである。

 そして、はやての認識を、価値観を一変させる出来事が、彼女の九歳の誕生日に起きる。

 六月四日、八神はやて九歳の誕生日。だが、彼女にとってはなんの変哲もない日常だ。なぜなら、彼女には祝ってもらうべき両親もいなければ、兄弟も、姉妹も、友達でさえもいない。彼女が知っているのは本の中で行われる誕生日会だけだ。去年は、興味本位からケーキを用意して、クラッカーを用意して、一人ではっぴバースデーを歌ったりもしてみたが、虚しさがこみあげてくるだけであり、楽しいと思えるものではなかった。

 だから、明日は普段通り過ごそうと思いながら眠った六月三日の夜。彼女の何もない日常を変える出来事は、彼女の誕生日である六月四日の0時―――つまり、日付が変わった瞬間に起きた。

 はやてが眠るベット。その隣に設置された彼女のための机。棚には小物を入れる収納ボックスがあり、また本棚には、彼女のお気に入りの本を入れてる。その本の中、一つだけ異彩を放つ本があった。洋書のように見えるそれは、なぜか鎖で封がされており、黒っぽい表紙には剣十字が描かれている本である。時計の針が六月四日を示した瞬間、その本は勝手に宙に動き出す。手品とでも言われなければ、目を疑う光景だ。しかし、それを見ている人間は誰もいない。部屋に唯一いる人間である八神はやては夢の中である。

 そんなことは関係ないと言わんばかりに黒い本は、内部から膨れ始める。まるで、自らを縛る鎖を引きちぎるように開き始めた。内側の圧力に負けて、鎖がきしみ始める。やがて、鎖は内側からの圧力に負けてはじけ飛んだ。この時点で、黒い本から発する光によって起こされたのか、ようやく八神はやてが目を覚ました。目をこすりながらはやてが見たのは、宙に浮く洋書という現実を疑うような光景だ。

 人は、『未知』というものに対して、恐怖心を覚えるものである。あるいは、興奮かもしれない。しかしながら、後者は安全が確保されている場合に限り、一人で家にいるはやてからしてみれば、前者の感情しか浮かばなかった。彼女は、目が覚めたばかりというのに、不可解な現象に襲われ、本能から少しでも目の前の遠ざかろうと上半身の力だけでその小さな身体には大きすぎるベットの上を後ずさる。

 一方、鎖から解放された本は、パラパラパラとページを自動的にめくりはじめる。不思議なことにその本には、何も文字が書かれていなかった。そして、本が一言だけドイツ語で発する。

 『起動』という一言を。

 その直後、はやての胸から光か輝く雫のようなものが取り出され、本に取り込まれる。はやてから『何か』を取り込んだ本は、吸収した何かから活力を得たように突然、部屋全体を照らし出すように光りはじめた。瞬間的に強い光を発せられたため、はやては反射的に自らをかばうように手で目を覆って光を遮断する。本が光を発したのは、ほんの数秒だっただろう。光がやんだことを確認して、はやては、覆った手をはずす。

 一体、何が起きたのかわからないはやては、どうなったのだろう、と部屋を見渡そうとして、驚いた。驚きのあまり、「ひっ」という声が漏れてしまうほどに。

 いや、しかしながら、少女の反応としては至極当然のことだろう。今まで、自分しかいなかったはずの部屋に突然、片膝をつけてかしずいた四人の人間がいれば、それも当然の話だ。

 本が急に自ら意志を持ったように動き出し、さらに喋り、光を発したと思えば、部屋には見知らぬ人間が四人もいる。そんな状況を人生経験の少ない九歳の少女が処理しきれるはずもなく、わけもわからなくなった少女は、まるで現実を逃避するかのように意識を失うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 八神はやてが次に意識を取り戻したのは、見慣れた病院だった。目を覚まして、最初に目に入ったのは、心配そうに自分の顔を覗き込む主治医の石田幸恵の姿であった。はやてが、何事もなかったように起き上がるのを見て、安心したようにほっ、と息を吐く幸恵の姿を見て、心配かけてしまったなぁ、と思う。その一方で、はやては、どうして自分が病院にいるのかわかっていなかった。

 しかしながら、その答えはすぐに出てくることになる。気を失う前に最後に見た光景とともに。

「それで、あの人たちだれ?」

「え?」

 心配かけたことを謝罪したのち、幸恵によって指さされた先には、黒い服に身を包んだ四人組がいた。そのうち三人は女性で、残り一人は男性。しかも、一人は犬耳さえついている。季節は初夏に入ろうとしているが、彼らの格好は明らかに場違いだ。主治医である幸恵も知らない人物であり、姿から怪しいと判断したのだろう。彼らの周りを医師たちが胡散臭そうな顔で見ていた。

「えっと……」

 さて、ここで困ったのは、はやても一緒だ。はやて自身も彼らがいったい何者か、など知らないのだから。答えに窮するはやてだったが、それを救ったのは、彼ら自身による言葉だった。

 彼らはどうやら思念通話という魔法のようなことができるらしい。もっとも、これはあとで本当に魔法だと分かったのだが。その思念通話で命令すれば、その指示通りに動く、と彼らは言う。

 その話を信じられるか、どうかだが、彼らの態度を見るにうそを言っているようには見えない。なにより、彼らを即座に断じることもできない。事情を聴かなければ。はやての記憶違いでなければ、彼らは本の中から出てきたのだから。ここで警察に突き出すことは簡単だ。だが、何も知らないまま突き出しても意味がない。だから、はやては、とりあえず彼らをかばうことにした。遠い国からやってきた遠い親戚ということにして。

 何とも、強引な話だ、と自分で思いながらも乾いた笑みで、幸恵を説得するしかなかった。最終的には、はやての言っていることを否定する要素もないし、彼らも同意していることから、とりあえずは、信じてもらえたようだったが。

 さて、話はその後、何事もなかったはやてが一泊の病院から退院したのちになる。自分の部屋で、彼らの話を聞くことになったはやて。

 彼らの口から語られる話は、何とも荒唐無稽な話だった。

 彼ら曰く、はやての部屋に飾られていた立派な洋書は、闇の書といわれる魔法の本である。その書が起動するために必要な魔力を蒐集するための守護騎士ヴォルケンリッター。それが彼らの正体らしい。そして、八神やはてという少女は、闇の書の主だという。

 にわかには信じられない話だ。しかし、はやては彼らの話を信じた。思念通話などを体験しているし、昨日の出来事は確かに魔法でもなければ説明できない。何より、はやては彼らが言うように闇の書の意志というものをうっすらとではあるが、夢の中で感じていた。それらの話を総合するに彼らの話は信じるに値すると思ったのだ。

 状況を判断できたところで、次は、彼らの処遇である。彼ら曰く、八神はやては、彼らの主である。どのような理由によるものだったとしても、それは揺るがしようのない事実である。ならば―――臣下の面倒を見るのは主たる役目ではないだろうか。彼女が読んだ山ほどの本の中には、そのように書かれていた。何より、ここで彼らを放り出しても、この場に居座りそうだ。そうであれば、余裕もあることだし、はやてが彼らの面倒を見ることも吝かではなかった。

 ―――こうして、八神はやては、生まれて初めての家族を得た。

 ヴォルケンリッタ―の中で唯一の男であるザフィーラ。彼は、全員が女であることに遠慮して、犬―――本人としてはオオカミとして生活している。しかし、はやての身長より大きな犬というのも何とも説得力に欠けるんじゃないだろうか、と思うのだが、ふわふわの毛が気に入っているため、はやては必要以上に何も言わなかった。

 燃えるような赤い髪を三つ編みにした姿が特徴的なはやてと同じぐらいの年頃のように思えるヴィータ。彼女は、最初、何を恥ずかしがっていたのか、はやてに対して少し距離を置いていた。彼女と距離が縮まったのは、ヴィータに呪いウサギという人形―――はやてとしてはヴィータのキモかわいいという感覚がわからない―――を買ってあげた時だろうか。守護騎士という割には妹ができたようだった。

 金髪とおっとりとした性格のシャマル。お姉さんという優しい感じがするシャマルだったが、料理の腕前だけは要検討だった。彼女の料理の腕が毎回、失敗するようであれば、料理を作らせないなどの対策がとれるのだが、稀に失敗し、しかも、その原因が不明だというから厄介だ。しかも、彼女自身が料理が好きなのか、キッチンに立ちたがるのだから仕方ない。今では、はやてと一緒に―――あるいは、簡単なものを任せている。

 ピンクのポニーテイルと凛とした立ち振る舞いが特徴的なヴォルケンリッタ―が将であるシグナム。その容姿と立ち振る舞いに違わず、性格も実直そのものだった。兄というよりも、父に近いのかもしれない。将たらんと、彼女はよく子供っぽい行動をするヴィータに対して小言を言う。それに対して、ヴィータが反発し、はやてがシグナムを抑えるというのは日常だった。

 生まれて初めて得た家族は、はやてが想像していた以上に幸せなものであり、彼らのおかげではやての生活は彩りを大きく変えていた。

 朝、目が覚めたとき一人ではない。リビングの広い部屋で『おはよう』とあいさつすれば、返事が返ってくる。朝食は今まで一人だった。そのことに何も感じなかった。それが彼女にとって普通だった。しかし、四人での食事を知ってしまえば、今までの食事のなんと味気なかったことか。そのことを実感してしまう。もちろん、朝食の片付けはシャマルと一緒に。ヴィータは、はやてが買ったゲームに興味があるのか、朝食を食べて早々ゲームをはじめ、シグナムはソファーで新聞を読み始める。

 昼、全員で昼食を食べた後は、外に出る。はやて一人のときは、特に用事がなければ、外に出ることもなかったが、今はザフィーラの散歩と称して全員で出ることもある。はやての車椅子を押すのは、いつだって取り合いで、いつの間にか順番が決まっていた。はやてとしては、みんなには自由に散歩してほしいのだが、こうやって構ってもらえるのは、嬉しかった。

 夜、朝、昼と同じく全員で食べた後は、シグナムやシャマル、ヴィータと一緒にお風呂に入る。もちろん、全員一緒というのは無理だから、昼の散歩のように順番にだが。お風呂に入った後は、全員が就寝の時間だ。ヴィータとはやては一緒の布団に入って眠る。ヴィータのお気に入りの呪いウサギを間に挟んで、だが。『おやすみ』という言葉に『おやすみ』という返事がある。今までは『おやすみ』という言葉を使うこともなかった。だから、こうやって、挨拶することがくすぐったくて、何より返事があることが嬉しかった。

 はやての生活は一変した。広い一軒家に一人だけの生活から、いきなり三人と一匹も新しい家族が増えた生活へと。今までは、何をするにも一人だった。だが、今は違う。自分以外のだれかがいる。話し相手がある。肌のぬくもりが、手のぬくもりが、心のぬくもりが、そこには確かにあった。もしかしたら、それが普通だ、という人もいるかもしれない。それに慣れてしまって、それを『特別』だと感じることができない人もいるかもしれない。しかし、はやては、違う。今まで、普通だと思われることを何一つとして得ていなかったのだ。ほかの人にとっての普通が、はやてにとっては『特別』だった。

 はやてが、本の中でしか知らなかった『家族』というもの。いつだって幸せそうに描写されていた『家族』。今までは、本当なのだろうか、と疑問に思いながら読み進めていたが、今ならはっきりとその本に同意することができる。

 八神はやては、家族を得て、確かに幸せだった。



  ◇  ◇  ◇



「うわぁ」

 八神はやては、シグナムによって抱きかかえられながら出てきたベランダから空を見て、息をのんだ。季節は夏。七夕を過ぎたあたりではあるが、天の川が綺麗に見えていた。今までなら、星空を見ようとは考えなかっただろう。そう考えたのは、無知な彼らに教えてあげたいと思ったから。地球から見える星空というものを。もっとも、一番見とれていたのは、はやてだったのだが。

 そんなはやてを慈しむような笑みでシグナムは見ていた。

「主、はやて、本当によろしかったのですか?」

「なにが?」

「闇の書のことです。主の命あらば、我々は、闇の書の蒐集を始め、主は闇の書の主となり、大いなる力を手に入れられるでしょう。そうすれば、この足も―――」

 気遣うようにはやての足をなでるシグナム。生憎ながら、はやての足には感覚がほとんどなく、彼女の手のぬくもりを感じることはなかったが、彼女の心遣いは感じることができた。彼らが願っているのは、主―――はやての幸せなのだ。確かに、普通の人であれば足が動かないことは苦痛であろう。不幸であろう。しかし、はやてにとっては、足が動かないことは普通であり、当然なのだ。当然、動けばいいな、とは思うものの無理して、動くようにしたいとは思わない。

 だから、はやては首を横に振った。

「あかんて。闇の書のページを集めるためには、たくさんの人に迷惑をかけるんやろ?」

 一応、主として話は聞いていた。どうやって、闇の書のページを集めるのか、ということを。その方法は、魔力の源となるリンカーコアから強引に魔力を抜き取ること。しかも、その時には相当の痛みを感じるらしい。その行為をはやての倫理観がよしとはしなかった。

 ―――自分が幸せになるために他人に迷惑をかける。

 それでは、胸を張って、幸せにはなれない。誰かを傷つけて得た幸せだ、と下を向いてしまう。はやてが、他人を押しのけてでも幸せになる、という性格であれば、シグナムの提案にうなずいていただろうが、生憎、はやての性格からはそれは無理な話だった。ならば、誰かを傷つけて得られるはずの大きい幸せよりも、今のシグナムが、シャマルが、ヴィータが、ザフィーラが、家族がいる小さな幸せをはやては望む。

「私は、今のままでも十分幸せや」

 それは彼女の本心だった。本の中でしか知らなかった『家族』を教えてくれたヴォルケンリッタ―。他人から見れば、普通かもしれない家族という小さな幸せ。その小さな幸せではやては満足していた。確かに、彼らが来る前の生活も不自由が一つもない生活だったかもしれない。しかし、そこには何もなかった。今のような誰かと分かち合える喜びが。誰かのぬくもりが。

「だから、これでええんよ」

 そう、これでいい。この小さな幸せだけではやては満足していた。



  ◇  ◇  ◇



 八神はやてとヴォルケンリッタ―たちの生活は順調といえるだろう。しかし、いつまでも同じとは限らない。彼らもこの生活が慣れてきたのだろう。彼らと家族になって四か月ほど経つと彼らは、彼ら自身の生活基盤を築き始めていた。

 シグナムは、ニートという言葉をテレビの中で知ったのだろう。自分の状態を鑑みて、その状況に我慢ならなかったのだろう。近くの子供剣道場で、指南役を仰せつかったらしい。もっとも、それは自分の鍛錬のついでというような形ではあるらしいが。当然と言えば、当然だ。彼女の剣は、守るための剣。戦うための剣。それをスポーツに応用することは難しいだろう。

 ヴィータは、近くのゲートボール場でおじいさん、おばあさんと一緒にゲートボールを楽しんでいるらしい。彼女の明朗快活な性格は、年寄からしてみれば、可愛い孫のように思えるのかもしれない。時折、お菓子をもらった! と笑顔で話していた。何ともほほえましいことである。

 ザフィーラは、散歩ついでなのか、ヴィータについていくことが多くなった。子供一人というのも具合が悪いのだろう。しかし、人間形態になるならまだわかるが、犬の形態で一緒に行動して意味があるのだろうか、と首をかしげるが、彼女たちが満足しているならそれでいいか、とはやては思うことにした。

 彼らの中で唯一、はやてと一緒に行動するのは、シャマルだ。彼女は主にはやてのサポートをしている。外に行くときも、買い物に行くときも、シャマルがサポートしてくれた。一度、自分のことなど気にせず、彼らのように行動していい、といったが、シャマルは一瞬、驚いたような表情をし、すぐにはやての言葉を否定した。はやてちゃんの傍にいることが好きですから、と。

 以前よりは、人の密度が減った八神家。少し前の常に五人そろっていた時から考えると、少しだけ静かになった。それをはやては、心の隅で寂しいと感じるようになっていた。いるはずの人がいないだけで、そこに何とも言えない胸を締め付けられるような、何かが足りないような切なさを感じる。それが寂しさだと気付いたのは、幸運だったのか、あるいは不幸だったのか。

 そして、そんな自分にこっそり苦笑する。彼らが来る前までは、はやては一人だった。その状況をなんとも思わなかった。しかし、今では、一人が五人となり、少しだけ静かになっただけで寂しさを感じるようになってしまったのだから。それでも、はやては彼らに何かを言うつもりはなかった。確かにはやては闇の書の主かもしれない。しかし、彼らは自分に縛られるべきではないと思ったからだ。

 はやてからしてみれば、ここが彼らの帰るべき家であれば十分だった。それが家族だと思うから。それに晩御飯などで出来事を語ってくれる彼らの笑顔を見るだけで、はやての感じる少しの寂しさなど些細なことだと思う。はやてが望むのは、家族みんなが笑顔であることなのだから。

 はやてにとっては、少し寂しさも含まれた幸せな生活がずっと続くと思っていた。太陽が東から毎朝登るように当然のように続くと思っていた。いや、正確には手放したくないと思った。ずっと、彼らと一緒にいられれば、それ以上を求めることはない。たとえ、闇の書の真の主になって、大いなる力が得られようとも、それにも代えがたいヴォルケンリッタ―という『家族』を得られたのだから。

 だから、それがある日、突然床が抜けたようになくなるなど想像もしていなかった。

 事の始まりは、11月も中旬になった頃だ。この日も昼間はシャマルを除いた全員が外に出ていた。しかし、夜には全員が揃って夕食を食べられることを確認していたはやては、全員分の夕食を作るためにキッチンに立っていた。今日の献立は、ヴィータのリクエストに応えてカレーだ。彼女は、子ども扱いするな、というのだが、嗜好は子どもそのものであり、ハンバーグやカレーが好物だった。

 リビングでは、シグナムが新聞を広げており、シャマルは、自室で何かをやっている。彼女は趣味に目覚めたのだろうか、時折、部屋にこもって何かをやっていた。ヴィータは未だに帰宅しない。だが、心配するほどではない。彼女が遅くなることは日常茶飯事だからだ。最初は、危ないから、と注意していたのだが、そもそも彼女たちに危害を加えようとしたところで、ほとんどが返り討ちだろう。ザフィーラは、リビングで丸まって寝ていた。

「う~ん、こんなもんやな」

 お玉でカレーを少量だけすくって味を確かめる。甘口すぎるのもダメだが、辛すぎるのもヴィータが食べられないため、市販のルーをブレンドしたカレーは作るのが難しいのだ。だが、今日はどうやら最初の一回でうまくいったようだった。この味であれば、はやても満足できるからだ。

 よし、ならば、次はサラダでも―――と冷蔵庫を開けた時、リビングからシグナムが顔を出していた。

「主、申し訳ありません。どうやらヴィータが道に迷ったようなので、迎えに行ってきます」

「ヴィータが?」

「ええ、どうやらゲートボールとやらで、隣の町まで遠征したらしく」

 戸惑ったようなシグナムの表情。むしろ、はやてとしては、ご老体たちが、隣町まで遠征に行くほうに驚いた。しかも、それで道に迷って帰れないとは、それこそ、彼女が嫌う子どものようだ。そんな、ヴィータの状況に苦笑するはやて。

「うん、なら、迎えにいってあげてな。今日はヴィータが大好きなカレーやから」

「はい、すぐに戻ってきます」

 ぺこりと頭を下げるとシグナムは、小走りにリビングから寝ていたはずのザフィーラと一緒に出ていく。しかも、リビングを出た先でシャマルの声もした。もしかして、全員で出ていくのだろうか。もしかしたら、はやくヴィータを見つけるために全員で行くのかもしれない。そんな風にはやては納得していた。なにより、彼女はシグナムの言葉を信頼していた。騎士然とした彼女が言葉を違えることがないという全幅の信頼だ。だから、自分は、晩御飯の準備をしておけばいい。そう思いながら、はやては、冷蔵庫からサラダの材料を取り出すのだった。

 ――――そして、この日からはやては、再び一人になった。



  ◇  ◇  ◇



「雨……」

 八神はやては、外を見ながらつぶやいた。はやてが呟いたように窓の向こう側に見える外ではしとしとと小ぶりの雨が降っていた。

 ヴォルケンリッタ―の面々が帰宅せずに二週間が過ぎていた。彼らが帰宅する様子はまったくない。ある日、ひょっこりと帰ってくるのではないだろうか、とはやては思っているのだが、それは希望でしかないのかもしれない。思念通話といわれる魔法で呼びかけても全く返事はない。思念通話があるため、彼らには携帯を持たせていないことが裏目に出た。はやてが携帯を持っていても意味がないからだ。

 彼らがいなくなった二週間、はやての世界は彩りを失った。半年程度前と同じに戻っただけだ。だが、その生活にはやては耐えられなかった。なぜなら、はやては知ってしまったから。家族の温もりを、暖かさを、隣に誰かがいることの幸せを。彼らがいなくなったからといって、彼らと一緒にいた幸せな過去をなくすことはできない。はやての中の価値観はすでに変わってしまったのだ。

 ―――独りが怖い。

 彼らのいない生活はまるで、極寒の中を裸で放り出されたような冷たさだった。よく自分は、こんな生活を続けてきたな、と思えるほどに。

 さらに今日は雨だ。一人でいるせいか、しとしと、ぽつぽつという雨の音が気になって仕方ない。しかも、雨のためだろうか、室内に音が籠っているのだろう。日ごろは、あまり気にならなかったチクタクという時計の秒針が動く音がやけに耳障りだ。どれもこれも、はやてが一人であることを強調しているように思えて、余計に一人であることを自覚してしまう。

「図書館にでも行こうか」

 毎日、彼らがいつ帰ってきてもいいように必要最低限以外は、外に出なかったはやてだったが、この孤独に耐えきれなかった。少しでも人気が欲しかった。自分が一人でないことを自覚したかった。喧噪のある場所へと行きたかった。だから、最近はめったに一人ではいかなくなった図書館へと足を運ぶことにしたのだった。

 傘をさして、苦労しながらやってきた図書館は、雨という天気のせいもあるのだろう、非常に盛況だった。しかし、場所柄だろうか、あまり煩いということはないが、それでも人の気配は濃かった。そんな中をはやては車椅子を操作しながら走る。

 最初は、人の気配があることを喜んでいたはやてだったが、その喜びもすぐにしぼんでしまう。確かに、図書館は人の気配にあふれている。しかし、誰もはやてを見ていない。誰もはやてを知らない。まるで道路の石のように無視される。当然と言えば、当然だ。図書館にいる人たちとはやては、無関係なのだから。赤の他人なのだから。

 だが、気配があるにも関わらず、誰もはやてを見ていない。誰もはやての名前を呼んでくれない。誰かがいるのに孤独を感じてしまう。

 本当に一人の家と図書館のように誰かがいるのに誰もはやてを見ていないこの状況、はたしてどちらがマシだろうか。その答えははやてにはわからない。しかし、ここで戻って独りで過ごすのは嫌だった。こんな雨の日に一人であの家にいると彼らがもう帰ってこ―――

「いやいやいや」

 危うく思い浮かんだ考えを振り払うようにはやては首を振った。

 今は、そんな考えを振り払って、気分を変えて、何か読む本を探そうとはやては、図書館の中を移動する。はやてが向かったのは、ファンタジー系の話がある場所だ。彼らが騎士を名乗ったからだろうか、彼らの参考になれば、と騎士たちが活躍する物語を読んだりする。もっとも、そこに出てくる騎士とはほとんどが男だったが。

「あっ」

 そんな中、はやてはある一冊を見つける。昔から読んでいる本の最新刊だ。気付かなかった。おそらく、彼らと一緒にいることで気付かなかったのだろう。いつものはやてならすぐに気付いていたはずなのだが。大好きな本の最新刊に気付かないほどにはやては幸せだったのだろう。

 彼らがいないおかげで、最新刊を見つけられるとはなんという皮肉だろうか。

 そんなことを考えながら、はやては車椅子から身を乗り出して本に向けて手を伸ばす。いつもならシャマルがとってくれるのだが、この場所に彼女はいない。だから、はやては自らの手で取ろうとしていた。しかし、ぎりぎりのところで届かない。あと少し、あと少しという考えが、職員を呼ぶという考えを除外していた。

 大きく身を乗り出して、あと少しで手が届くというとき、不意に横からはやてが手に取ろうとした本の隣に向けて手が伸びてきた。

「えっと、これでいいのかな?」

 はやては、驚いた。まさか、図書館で自分に声をかけてくる人がいるとは思っていなかったからだ。過去にも似たような経験はあるが、結局は、自分から声をかけない限りは、誰も助けてくれなかった。だから、この予想外の助けは、はやてを大いに驚かせた。

 はやてに助けの手を伸ばしてくれたのは、はやてと同じぐらいの普通の男の子だった。別に容姿が格好いいわけでも、身長が高いとか、髪型が特徴的だ、とかではない。どこにでもいそうな至って普通の男の子だった。

 初めて図書館で手を差し伸べてくれた男の子の名前は、蔵元翔太。はやてが忘れらない男の子の名前だった。



  ◇  ◇  ◇



「ショウくん、遅いなぁ」

 はやては、リビングで時計を見ながらつぶやいた。

 図書館で意気投合した二人。本当は、図書館の談話室で少し話そうとした。だが、談話室はいっぱい。しかし、一人になるのが嫌なはやては、自分の家を提供することにした。翔太も快諾したため、家にやってきたのだ。久しぶりに一人ではない家。誰かがいる空気。隣に人がいる暖かさ。自分の言ったことに答えてくれる誰か。翔太の存在が、過去の彼らと一緒だった時の幸せな時間を思い出させてくれる。

 しかし、その時間も長くはなかった。翔太は、彼らとは異なり、ここには住んでいないのだ。彼にも帰るべき家がある。それを理解してなお、はやては、彼が少しでも長く家にいるように説得した。孤独は嫌だったから。一人で感じる寒さが嫌だったから。何より―――寂しかったから。前は何とも感じなかったのに、今となっては、広いと感じるこの家に一人でいるのが嫌だったから。

 そんな我がままのためにはやては、翔太を家に引き留めた。最終的には、泊まりこむところまで引っ張ることに成功した。

 お泊りの道具を取りに行ってくるといったん家に帰った翔太。「すぐに戻ってくる」と言った彼に少しだけ嫌な予感を覚えたはやて。彼が口にしたその言葉は、消える直前のシグナムが口にした言葉だったからだ。現に、翔太が家を出てから一時間以上たっている。しかし、彼がこの家に帰ってくる気配はない。

 まさか、ショウくんも―――

 そこまで考えて、はやては、その考えを打ち消した。はやてに近づいた誰もがすぐに離れていく。それでは、はやてが一人で、孤独でいることはまるで運命づけられているようではないか。そんなことは信じたくない。彼女は知ってしまったから。誰かがいる幸せを、喜びを、暖かさを。手に入れて、手放してしまった。彼らがどうなっているかわからないが。

 だから、もう手放したくなかった。翔太という暖かい彼を。もう二度と、あの凍える冷たい空間は嫌だった。夜、ベットの中で寂しさで、孤独で、冷たさで、涙を流したくなかった。

「もう、ひとりは嫌や」

 そのポツリと漏らした言葉が真実だったのだろう。

 孤独は嫌だ。そんな風につぶやいた少女を救うように家に設置されたチャイムが鳴る。そして、今、そのチャイムを鳴らす人物をはやては一人しか知らない。

「ショウくんやっ!」

 急いで車椅子を回すはやて。もう、一人でいることを自覚するのは嫌だったから。帰ってきてくれたことを確認したかったから。だから、はやては急いで玄関を開ける。ドアの向こうにいたのは、はやてが期待した顔。翔太は、出ていくときは異なって、小さなバッグを持っていた。おそらく、彼が言っていたお泊りセットなのだろう。

 シグナムたちとは異なり、帰ってきてくれたことに安堵するはやて。もう今日は、一人じゃない。あの寒さはない、と思うと自然と笑みがこぼれてくる。

 ―――ああ、そや。安心している場合じゃないんや。ちゃんと迎えてあげんとな。

 そう思って、はやては笑顔のまま口を開く。

「おかえりや、ショウくん」

 翔太は最初、ぽかんとしていた。どうして、応えてくれないのだろうか。迎えてくれた人に対する返事は礼儀だと思う。だから、はやては翔太が返事を返してくれないことに不満だった。しかし、はやてのふくれっ面を見て翔太も気付いたのだろう。呆然としていた顔を笑顔に変えると、はやてが期待していた言葉を口にする。

「ただいま、はやてちゃん」

 本当は帰ってきてくれたことだけでも、はやては満足だった。でも、翔太はこうして、返事もしてくれた。

 ―――もう、独りやない。

 そのことが嬉しくて、誰かがいるぬくもりを感じられることが嬉しくて、孤独でないことが嬉しくて、寂しさを感じないことが嬉しくて、はやての表情には、自然と満面の笑みが浮かぶのだった。



つづく






















あとがき
 『寂しさ』と『孤独』を知ってしまった少女は。



[15269] 第二十八話
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/04/10 20:42



 途中で、見知らぬ誰かに襲われ、助けらながら到着した八神家。笑顔で迎え入れてくれたはやてちゃんと一緒にリビングへと向かう。リビングについた後、はやてちゃんは、何か飲み物を入れるということで、キチンへと姿を消した。

 僕は、はやてちゃんの言葉に甘えてソファーに座って、はやてちゃんがコーヒーを作ってくるのをおとなしく待つことにする。

 待っている間に僕は、先ほどのことを考えていた。

 ここに来る途中で、急に目的を忘れた親父。張られた結界。襲ってきた仮面の男。そして、助けてくれた騎士のような女性。

 キーワードを並び立ててみるが、困ったことに男の正体や騎士の女性の正体がわかるような手がかりは一切なかった。ただ、一つだけわかっているとすれば、それは、これらの事象が何らかの形で魔法にかかわっているということだろう。

 僕には、彼らの目的はわからない。僕を狙ったもの? しかし、僕が魔法にかかわったのは、ジュエルシードと魔法研修のときだけだ。僕を襲うような理由はないような気がする。それに、僕が目的とするならば、僕が一人のときにいくらでも狙えるはずだ。なにも親父と一緒のときでなくてもいい。

 ならば、別に目的があったと考えるべきだろう。しかし、それを導き出すためのものを僕は持っていない。

 手がかりが少なすぎて、何もわからないというべきだろう。襲われたことは事実だが、彼が何をしたかったのか僕にはわからない。また、助けてくれた女性も、なぜ助けてくれたのかわからない。

 彼女が言う『主』がわかればいいのだが、その正体すら語らずに去ってしまったのだから仕方がない。さらにいうと、どうして『主』という人は、僕がピンチだと分かったのだろうか。いや、『主』が魔法使いであれば、魔力を感知すればわかる話ではある。そこで偶然居合わせた僕を助けたと考えれば、つじつまは合うはずである。

 何はともあれ、魔法が関連していることは間違いないのだ。ここは、一度、クロノさんに相談するべきである。それ以外に僕ができることないはずである。

「おまたせ」

 だいたいの考えをまとめ終わったタイミングを見計らったようにはやてちゃんが、コーヒーを二つ用意されたお盆を片手に現れた。お盆とコーヒーという何ともちぐはぐな形ではあるが、別に形式にこだわりがあるわけではない僕は、気にせずにお盆の上のコーヒーカップを一つ手に取る。ついでにもう一つも手にとってソファーの前に置いてある小さなテーブルの上に置いた。

「ありがとな」

 そう言いながら、はやてちゃんは、お盆をテーブルの端に置くと器用に上半身の力だけでソファーの上に飛び乗っていた。それは危なげがない動作であり、彼女が何度も同じことを繰り返していたことを物語っていた。

「ショウくんは、砂糖はいれるんか?」

「一つだけ入れようかな?」

 そか、と言いながらはやてちゃんが角砂糖を一つだけ入れてくれる。前世のときではブラックでも平気だったのだが、お子様の舌には、ブラックはきついものがある。生理的に受け付けないのだ。

 一方のはやてちゃんは、自分で二つの砂糖を入れていた。そのあとで持ってきたスプーンでコーヒーを混ぜる。そんなはやてちゃんを見ながら、僕は、コーヒーを一口ふくむ。出来立てなのだろう。少し熱かったが、飲めないほどではない。味は、おそらくインスタントであることを考えれば上等だと思う。生憎ながら、家で飲むコーヒーもインスタントであるため、味の違いはあまり感じられなかったが。

 しばらく静かな時間がはやてちゃんの家のリビングを支配していた。しかし、嫌な空気は感じられない。ゆったりとした時間が流れていた。

 ふと、リビングにある時計を見てみる。僕が晩御飯をごちそうになってから相当時間が経っていた。僕の家からここに来るまでの一時間半を加えたとしても、だ。小学生の時間感覚としては遅い部類に入るだろう。しかしながら、はやてちゃんの家にはだれも返ってくる気配はない。リビングから見えるキッチンのそばのテーブルの上には虚しく持ち主の帰宅を待つ食器類がさかさまになっていた。

 いったい、はやてちゃんのご両親はいつ帰ってくるのだろうか。僕が、この家に泊まろうと思ったのは、足が不自由な彼女を家族が誰もいない家に一人で残すのが心配だったからだ。もちろん、はやてちゃんの様子を見るに車椅子の生活は短いわけではないだろうから問題があるとは思えないが、それはそれである。たとえば、不慮の事故でこけてしまえば、彼女には助けを求めるすべがないのだ。心配になるのも致し方ない。

 しかしながら、はやてちゃんの状況がわかっておきながら、こんな時間まで一人で放っておくとは考えにくい。今日が特別遅くなるのだろうか?

 この家の造りやはやてちゃんが料理を手慣れていることに違和感を覚え、家庭環境について問いただしたいところもあるが、それは無理にしても、ご両親がいつ帰ってくるか、ぐらいは聞いても問題はないだろう。

「はやてちゃん、お父さんとお母さんはいつ帰ってくるの?」

「ん? 父さんと母さんは、おらんで」

 は? と僕は一瞬、自分の耳を疑った。はやてちゃんの言葉をそのまま解釈すれば、彼女の両親はいないということになる。しかも、それを沈痛な面持ちで言うならまだ理解できるが、彼女は平然と微笑みのまま口にした。まるで、単純に事実を言うように。それから理解できることは、彼女の両親がいなくなったのは、最近ではないということである。もはや感情の面で折り合いがついていると考えるべきだろう。

「でも、それじゃ、あのテーブルの上の食器は……?」

「あれは―――」

 そこで、初めてはやてちゃんは、沈んだような表情を見せた。

 しまった、と思ったが、後の祭りだ。踏み込むつもりはなかった。だが、両親がいないと聞いてしまった以上、気になってしまい、思わず口にしてしまったのだ。

「もうすぐ帰ってくる私の家族の分や」

 だが、はやてちゃんは、その沈んだ気分を追い払うようにはやてちゃんは、顔をあげて微笑みながらいう。むろん、その微笑みが無理やり作ったものであることは言うまでもない。しかし、それを指摘してしまえば、せっかく立て直した彼女の感情が壊れてしまうと思った僕は何も言わなかった。いや、言えなかった。

「そう、なんだ」

 僕ができたことはせいぜい、彼女の言葉を肯定することのみだ。詳しい事情を聞けなかった僕にできることは、そのぐらいだった。

 またしても僕とはやてちゃんの間を沈黙が支配する。しかしながら、空気は先ほどとは真逆だ。嫌な感じの空気が流れていた。僕が変なことを口にしてしまったばっかりに。空気を変えたいとは思うが、僕とはやてちゃんの間には共通の話題が少ない。共通の話題ですぐに思いつくのは、本の話題だが、この空気の中で口に出せる雰囲気ではなかった。

 さて、どうしたものだろうか? とまだあったかいコーヒーを口にしながら考えていたのだが、答えを先に出したのは、はやてちゃんだった。

「そや、ショウくん。お風呂入らんか?」

 不意にはやてちゃんが提案してきたのは、お風呂に入るということだった。

 なるほど、確かにお風呂に入った後であれば、空気が変わるかもしれない。それに同じ部屋にいることなく空気をリセットできるだろう。

「そうだね。それじゃ、どっちから先に入る?」

 目的としては、空気を入れ替えることだから、どちらからでも構わない。僕からでもはやてちゃんからでも。要するに一人の時間ができればいいのだから。しかしながら、はやてちゃんは、なぜか僕の言葉にきょとんとした表情をした。

「ん? なにいっとるの? ショウくんも一緒に入るんやで?」

「え?」

 僕が呆けた声を出しても仕方ないだろう。なぜなら、彼女はそれが至極当然というような口調で、一緒にお風呂に入ると言い出したのだから。一瞬、僕の聞き間違いかと思った―――いや、それを期待したのだが、僕が呆けたような声を出したのを怪訝そうな顔で見ている彼女を見る限り、僕の予想は希望的観測でしかないようだ。

「えっと……その、できれば別々がいいんだけど……」

 確かに僕がはやてちゃんの身体を見てどうこう感じるわけではない。夏休みのときになのはちゃんやアリシアちゃんたちと散々一緒に入ったのだから、今更どうこう言うつもりもない。しかしながら、いきなり一緒にお風呂というのはいささかハードルが高いような気がするのだ。

 しかし、僕が気まずそうな、嫌そうな顔をしたのがはやてちゃんには気に入らなかったのだろうか。不意に顔を伏せると弱弱しいような声で言う。

「私、こんなんやから、お風呂入るの手伝ってほしいんやけどなぁ。ショウくんがか弱い女の子を助けてくれん薄情もんやったとは……」

 ―――嘘だ。

 はやてちゃんが、嘘を言っていることは直感的に理解した。暗い表情をしているが、僕の様子を窺うようにちらっ、ちらっと僕を見ているのがその証拠だ。

 しかしながら、嘘であっても乗らなければならない時がある。それが今だ。少なくとも、彼女が独りで入れないということはないだろう。

 今までは、もうすぐ帰ってくるという家族の人が一緒に入っていたとしても、この家の作りからしてお風呂だって身体障がい者用にバリアフリーになっていることは容易に想像できる。つまり、確かに大変かもしれないが、ひとりで入れるか、入れないか、という議論をすれば、入れるという答えが導き出されるはずだ。

 しかしながら、彼女が体を張って同情を引こうというのであれば、僕は断れない。確かに大変なのは事実だろうから。それを手伝ってくれ、と言われれば、拒否はできない。もしも、彼女が中学生や高校生ぐらいであれば、全力で拒否した―――そもそも言ってこないだろう―――だろうが。

「はぁ、わかったよ。僕が手伝うよ」

「やたっ! さすが、ショウくんやっ!」

 僕が降参というように両手を挙げて、あきらめたようにため息を吐くと、はやてちゃんは先ほどまでの暗い表情が嘘のように笑顔を僕に見せて、たいそう喜ぶのだった。



   ◇  ◇  ◇



 どうしてこうなったのだろうか? と僕は、はやてちゃんの少し大きめのベットに身を沈めながら考える。

 当然、隣には、この部屋の主であり、このベットの持ち主であるはやてちゃんが眠っている。彼女は、僕の心情など知らずに、すー、すーと寝息を立てている。先ほどまでは、秘密のお喋りのように話していたのだが、いい加減に限界に来たらしい。

 僕が手伝いながら―――まさか、裸のまま抱き上げる羽目になろうとは思わなかった。いや、確かに介護かもしれないが―――お風呂に入った後、そろそろ、寝ようという話になり、僕は、ソファーでもいいから横になるつもりだったのだが、やはりお風呂と同じ方法ではやてちゃんのベットで一緒に寝る羽目になってしまった。いい加減、僕も断ればいいのだが、彼女のすがるような、寂しがっているような視線が忘れられない。だから、嘘だと、虚構だとわかっておきながら、彼女の掌の上で踊るしかないのだ。

 今日何度も見せた寂しがり屋のはやてちゃんは、それが嘘のように安眠している。一方の僕は、眠れないままはやてちゃんの部屋の天井を見ていた。その視線を今度は、横を向いてはやてちゃんの机の上に移す。正確には、机の本棚に置かれた黒い本に。

 さて、あれはいったいなんだろう? と思う。

 微量ながらに感じる魔力。おそらく、魔法に何かしらの関係があることは間違いないだろう。しかし、それが何なのかはわからない。そこまで魔法に詳しいというわけではないからだ。どうして、はやてちゃんの元にそんなものがあるのか、わからない。何らかの理由があって、はやてちゃんの家にあるのだろうが、それを聞く前に寝てしまったからだ。

 聞かなければいけないこと、といえば、はやてちゃんの家族は一体どうしたというのだろうか。

 はやてちゃんは、もうすぐ帰ってくると言っていたが、結局、僕たちがベットに入るころまで帰ってこなかった。それではやてちゃんが不安がるならわかる。しかし、彼女は、それが当然のように何も言わずにベットに入って安眠している。ならば、これが日常と考えたほうが妥当だろう。

 ならば、どうしたと考えるべきだろうか。

 可能性をあげるとすれば、彼女の両親がいないことをいいことに遺産を狙ってきた自称親戚という場合だ。彼女の遺産をもらうだけもらって、すべて手に入れたから、家族の振りをする必要もなくなったので、出て行った。彼女は、彼らが返ってくるのを信じている、というある種、最悪のシナリオである。

 まさか、そんなことはないだろう、とは思うのだが、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものである。

 それに、先ほどの黒い本も気になる。ここに来るまでの結界魔法および仮面の男とはやてちゃんの家に魔法の本があるのは偶然と考えるのは不可能である。この地球―――クロノさんたちの言い方をすれば、第九十七管理外世界は、魔法という事象が起こることは珍しいのだから。僕となのはちゃんだけでも珍しいと思われていたのに、さらに海鳴に魔法があるのが偶然とは考えにくい。

 しかし、何かしらの関係性があったとしても、僕にはそれ以上の知識がない。やっぱり、クロノさんに連絡を取るしかなさそうだ。

 明日―――明日、クロノさんに連絡を取ってみよう。

 そんなことを考えながら、僕はようやく訪れた睡魔に身をゆだねるのだった。



  ◇  ◇  ◇



「またいつでも遊びに来てや」

 そう言いながら、僕を見送るはやてちゃん。

 泊まった次の日、僕は、昼食までの時間をはやてちゃんの家で過ごした。本当は、朝食を食べた後に帰るつもりだったのだが、やはりはやてちゃんの視線に逆らうことはできず、ずるずるとお昼まで過ごしてしまった。だが、今日は日曜日で明日は学校だということを考えると、今日は絶対に帰らなければならない。それに、クロノさんにも連絡を取ることを考えるとお昼には帰らなければならなかったのだ。

 僕が帰る直前、はやてちゃんは、何度もいつでも連絡してくれ、と念を押すように言う。もちろん、そのために携帯電話の番号も交換した。僕の携帯には、『八神はやて』という登録が一つだけ増えた。

 そして、僕は、お昼ご飯を食べた後、こうして名残惜しそうな表情で見られながら、こうしてはやてちゃんの家を後にしているのだ。

 はやてちゃんを振り切るように少しだけ早足で、曲がり角をまがった後、午前中で手に入れた情報について考える。

 今日の午前中に知ったのだが、はやてちゃんは、現在、学校を休学中らしい。登録されている学校は、学区内の公立小学校だ。しかし、これはおかしい話である。もしも、病気であれば、休学という措置は正しいだろうが、はやてちゃんの問題は下半身が動かないことであり、あとは健康である。車椅子さえ使えれば支障はないはずである。ならば、小学校は義務教育であるため、休学は認められないはずなのだ。

 なにより、現在は学校もバリアフリーが広がっており、はやてちゃん程度になんでもできるのであれば、学校に行くことに支障はないはずである。現に聖祥大付属小学校もバリアフリーの一環でエレベーターや専用のトイレも設置されている。

 学校について聞いたのだが、はやてちゃんは、おじさんが管理しているからわからない、と返ってくるだけだった。それもそうだ。学校に関する手続きをはやてちゃんが管理しているわけがない。いくらしっかりしてようとも彼女は小学生なのだから。

 しかし、本当にはやてちゃんに関してはわからないことばかりである。一つずつ解決していかなければならないだろう。家庭環境については僕が首を突っ込むことはできない。だから、とりあえず、関係ありそうな魔法について対処することした。

 帰宅した僕は、早速、携帯電話からクロノ・ハラオウンと書かれた電話番号を探し出すと通話のボタンを押す。

 無改造の電話であれば、クロノさんのところへは繋がるはずもないのだが、この携帯は、前回の魔法旅行のときに改造してもらって、クロノさんのところにも魔法で繋がるようになっている。また、ついで、とばかりにスペックが跳ね上がっており、三世代携帯のはずが、四、五世代にはなっているのではないだろうか。もはや、携帯という名のPCといっても過言で程のスペックだ。

『はい、クロノです』

「あ、クロノさんですか。お久しぶりです。翔太です」

『翔太君か。夏以来かな? それで、何か用事があるのかい?』

「ええ、実は相談事がありまして……」

『そうか……なら、ちょうどいい、というべきだろうな』

「どういうことですか?」

 僕は、こちらが一方的に相談事を持ちかけているのにもかかわらず、ちょうどいいという意味が分からず、聞き返す。クロノさんも僕が言いたいことを理解していたのだろう。自分が説明していないことに気づき、苦笑しながら、理由を説明してくれた。

『僕も君たちに相談事があるということだよ。今、僕たちはそっちに向かっているんだ。一時間後ぐらいに着くけど、そちらにお邪魔しても構わないかい?』

 クロノさんの理由は僕からしても驚くべきものだった。理由が見つからないからだ。この世界は、魔法がない世界だ。それなのに、時空管理局―――魔法を管理する組織の人が僕たちに用事があるとは考えにくいからだ。考えられるとすれば、僕というよりも、むしろ、なのはちゃんだろう。クロノさんが、『君たち』といったのは、おそらく、僕となのはちゃんをセットにしているからだろうし。

 最近は、なのはちゃんと会っていないが、そろそろ、なんとかしないと、とは思っていたからクロノさんの訪問は渡りに船かもしれなかった。

「わかりました。一時間後ですね。なのはちゃんも呼びますか?」

『ああ、お願いするよ。ちゃんとお土産も持って行っているから、期待していてくれ』

 その言葉はクロノさんなりのジョークだったのだろう。くくく、と笑っているのが電話越しでもわかった。気を使わなくてもいいのに、とは思うが、それもクロノさんの心遣いなのだろう。僕は、楽しみにしています、とだけ答えて電話を切った。

 そのまま、電話を折りたたむことなく、幾人もの名前があるアドレス帳の中から、一つの名前を探し出す。

 ―――高町なのは。

 なのはちゃんの番号を探し出して、僕は通話のボタンを押す。トゥルルル、トゥルルルという呼び出し音が鳴る。鳴り続ける。ちょっと前なら、3コール目には出てくれたはずなのだが、最近はあまり出てくれない。最初のほうは、切っていたのだが、根気強く待っていれば、そのうち出てくれるのだ。

 それは、今日も例外ではなかった。もう数えるのも億劫なほどにコールがなった後に突然、コール音がなくなり、向こうの電話が出たような音がした。

『……はい』

 それから遅れること数秒、恐る恐るという感じでなのはちゃんが電話口に出る。何かを恐れているような声色だが、僕には何に怯えているのか全く分からない。だから、僕は、なのはちゃんの声に気付かないようにふるまうしかなかった。

「翔太だけど、ちょっといいかな?」

 なのはちゃんの不安をこれ以上、刺激しないようにできるだけ穏やかな声で僕は、なのはちゃんに話しかける。その効力がどの程度あるのか、僕にはわからない。前のように話してくれることを祈るだけである。

『……うん』

 僕の声の効力などあまりなかったのか、なのはちゃんの返答はやはりワンテンポ遅れたものとなっていた。

「今から、僕の家に来ない? クロノさんが、用事があるらしいんだ」

 僕はできるだけ優しい声でなのはちゃんに話しかける。しかしながら、彼女からの返答はない。電話の向こう側から聞こえる息遣いから、彼女が電話を持っていることはわかるが、それがなければ、彼女が電話の向こう側にいることも信じられなかっただろう。

 前までならば、すぐにでも返答があったような問いに無言のなのはちゃんの様子をかんがみるに、やっぱり僕は避けられていると考えたほうが妥当だろう。その言を僕は思いつくことができない。いや、人間関係なんてそんなものかもしれない。よかれと思ってやってことが、相手の癪に障ることなんて日常茶飯事だ。

 もしかしたら、僕もどこかでなのはちゃんの癪に障るようなことをやってしまっていたのかもしれない。

「ねえ、僕、何かなのはちゃんを怒らせるようなことをしたかな?」

 わからなければ、勇気をもって聞いてみるべきだ。そのまま、放置することは、関係の悪化しか招かない。何か悪いことをしたのであれば、謝らなくてはいけないが、原因もわからずにあやまったところで、虚しいだけである。だから、僕は、なのはちゃんに尋ねたのだが、彼女の反応は、恐ろしいまでに顕著だった。

『そんなことしてないっ!!』

 突然、携帯電話の通話口から聞こえてきたのは、なのはちゃんの必死に否定するような声だった。今までの暗い声に比べ物にならないものだった。

 なのはちゃんのそんな声に驚いたのは、別にして、僕が原因ではないということはどういうことだろうか? 気になって聞いてみようとは思ったが、その前になにはちゃんが、ぽつりと呟くように口にした。

『悪いのは、私……』

「なのはちゃんが?」

 はて? いったいどういうことだろうか? と思考を回してみる。僕が考えるに彼女が何か、僕にしたような記憶はない。記憶にないからいぶかしげに思っていたのだ。いったい、彼女が何をしたというのだろうか? どうして、彼女は、僕が気にも留めていないことで自分を責めているのだろうか。

「どういうこと?」

 しかし、僕の問いになのはちゃんからの答えはなかった。

「大丈夫、怒らないから、教えてよ」

 おそらく、なのはちゃんが恐れているのは、僕から怒られると思っているのだろう。自分が悪いと言っておきながら、言えないのはそのせいだろう。僕が気付いてしまうことが怖いのだろう。

 そんな彼女を許すのは簡単だ。しかし、単純に許しを与えても意味がない。何を許すかが重要なのだ。

『……本当?』

「約束するよ。僕は絶対になのはちゃんを怒らない」

 信じたい、だけど、上手い話を簡単に信じられないのか、なのはちゃんはすがるようにその一言を口にした。それに対して、僕はできるだけ平静を務めて彼女に返答する。

 しばらくは、無言だった。おそらくは考えているのだろう。しかし、怒らないということを約束した僕を信じてくれたのか、彼女は恐る恐るとそのことを口にした。

『……ショウくんからもらったリボンを壊しちゃった』

 正直に言うと、僕がそのことを聞いたときは、なぁんだ、というのが率直なものだ。壊れてしまったものは仕方ない。むしろ、そんなに大事に思ってくれていたことをうれしく思うぐらいだ。しかし、なのはちゃんはそうは思わなかったようだ。思い切って口にした後、彼女は、繰り返し、繰り返し、電話口の向こう側で『ごめんなさい、ごめんなさい』と繰り返していた。

「大丈夫だよ。僕は、怒らないって約束したでしょう。うん、大丈夫。許すよ。なのはちゃんがリボンを壊しちゃったこと」

『……ほんとう?』

 どこか疑うような声。なのはちゃんにとって、僕が簡単に許すことは、そうそう信じられることではなかったのかもしれない。だが、それが真実だ。僕は、許そう。彼女が悪いと思っていることに対して。

「もちろん。ワザとじゃないんでしょう?」

 形あるものは、いつか壊れてしまうものだ。それに、この態度から察するに悪意を持って壊したわけではないのだろう。

『もちろんだよっ!』

 それを証明するかのようになのはちゃんは、力強く僕の言うことを否定してくれた。ならば、僕からいうことは何もない。ワザとではなく壊れてしまったのであれば、仕方ない、と言わざるを得ないだろう。

「だったら、何も問題はないよ。僕は、許すから」

『うん……』

 どこか安心したようななのはちゃんの声。もしも、壊したのが二週間前のこととすれば、これまでの不自然さにも説明がつくというものである。なにはともあれ、原因がわかって安心した。これからは、以前のように戻れるだろう。クロノさんの用事を伝えるためのついでだったとはいえ、解決したことはよかったと思う。

「それじゃ、僕の家に来てくれるかな?」

『うんっ! わかった! すぐに行くねっ!』

 そう言って、なのはちゃんからの電話が切れた。ツーツーという電話が切れた音を立てている携帯電話の通話を切るボタンを押すと、僕は今まで引っかかっていたなのはちゃんのことを解決できて、ほっと息を吐きながら、携帯をパタンと閉じるのだった。



   ◇  ◇  ◇



 なのはちゃんが来たのは、電話を切ってから三十分後だった。ピンポーンという呼び鈴を鳴らされた後、玄関に出てみると、そこにはちょこんと一人で立ったなのはちゃんがいた。いつものような私服にコートを羽織っている。ただ、一つだけ驚いたのは、いつもはリボンでくくっているはずの髪がまっすぐに下ろされていることだ。気分転換でもしたのだろうか?

「えっと、いらっしゃい。クロノさんはまだ来てないから、僕の部屋で待とうか」

 そう言って、僕はなのはちゃんを部屋へと案内する。実はなのはちゃんと顔を合わせるのは二週間ぶりだから、何を話していいのか、いまいち感触がつかめない。久しぶりに出会った人間とは、そんなものだろうか。そもそも、なのはちゃんと一緒にいるときは僕が話して、なのはちゃんが答えるというパターンが多かったような気がする。だからこそ、余計に何を話していいのか困る。

 お互いが無言のままだったが、部屋についてコーヒーを持ってきて、一息ついたころには、その雰囲気にも慣れてきた。いや、だんだんと思い出してきたというべきだろうか。なのはちゃんが来てから、三十分も僕は昔のことを思い出し、前のような空気に戻っていた。

 クロノさんが訪ねてきたのは、ちょうどそのくらいの時間だった。

「急に訪ねて申し訳ない」

「いえ、構いませんよ」

 僕となのはちゃんの前に座ってぺこりと頭を下げるクロノさんに僕は、そう答えた。

「それじゃ、本題に移らせてもらおうか。いや、その前に君からの相談事を聞いたほうがいいかな。僕のほうが話が長くなりそうだから」

「わかりました。僕の友人の家に魔法に関する本があったんです。僕はあまり魔法に関する知識はありませんが、間違いなくその本から魔力が発せられていました。黒い逆十字がプリントされた本なんですけど……クロノさんは何かご存じありませんか?」

 僕がそうやって相談すると、クロノさんは、ひどく困惑したような表情をした。それに追加されたのは、驚きだろうか。目を見開いて驚くのだからよっぽどのことなのだろう。

 僕の問いには答えず、クロノさんは、まるで気持ちを落ち着かせるように僕が用意したコーヒーを口にする。

「……まさか、こんな展開になるとは、思わなかったよ。君の友人の名前は、『八神はやて』と言わないかい?」

 今度は、僕が驚く番だった。クロノさんの口から出てきたのは、はやてちゃんの名前。それをどうして、魔法世界にいるはずのクロノさんが知っているのだろうか。可能性としてありえるのは、本当にはやてちゃんが魔法世界と関係があったということだけである。

「どうやら、僕と翔太くんたちの話は、意外なところでつながっていたようだね」

 クロノさんは、気持ちを落ち着かせるようにふぅ、と一度大きく息を吐くとゆっくりと僕たちを見据えるように前を向くと口を開いた。

「君の問いの答えだが、ああ、知っているさ。その本の名前は『闇の書』。持ち主に絶対的な力を与え、完成した暁には、周囲をことごとく破壊尽くす極めて危険性の高いロストロギアであり―――」

 クロノさんの言葉に僕は驚いた。まさか、あの本がそんなに危険なものだとは思いもしなかったからだ。いや、そんなことよりも、クロノさんは、今、なんといった? 持ち主に絶対的な力を与える? あの家にいたのは、はやてちゃんしかいなかった。つまり、あのロストロギア―――闇の書の持ち主は、はやてちゃんなのか?

「今回の僕たちの任務のターゲットだ」

 どこか苦しそうにいうクロノさん。そして、僕は同時に気付いた。

 どうやら、僕はこうしてまた魔法に関係してしまったということに。




つづく

















あとがき
 伏線回収完了



[15269] 第二十八話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/04/20 21:17



 ギル・グレアムは自らの使い魔からの報告を聞いて悩んでいた。いつになく厳しい顔をしたグレアムの表情に報告した猫の使い魔であるリーゼアリアとリーゼロッテも心配そうな表情で見ている。

 グレアムが悩むのも無理はない。数年かけて行ってきた計画の根本が崩れ去ろうとしているのだから、悩まないわけが、慌てないわけがないのだ。もっとも、彼が表面上だけでも慌てた様子に見えないのは、グレアムの数十年という時空管理局での経験が生きているのだろう。

「それで、守護騎士たちが姿を消したのは本当なのか?」

「ええ、確認したわ。もう全員が姿を見せなくなって三日よ………」

 グレアムも最悪の事態を信じたくなかったのだろう。すがるように確認にいっていたアリアに確認を取るが、返ってきた答えは、無情にも肯定だった。おそらく、何度聞いても答えは一緒だろう。だから、グレアムは余計に頭を抱え込みたくなった。

 数年前から秘密裏に行ってきていた計画―――最悪のロストロギアの一つと言われる闇の書の封印。それがグレアムが秘密裏に行ってきていた計画だ。

 グレアムは時空管理局の中でも地位も名誉もある人間だ。ただ、年功序列の中を生きてきたわけではない。数々の誰もまねできない功績を積んで今の地位にいるのだ。しかし、グレアムが管理局内で英雄視されていることは、なにもいいことばかりではない。逆を言えば、目の敵にされやすいということであり、常に監視されているといってもいい。

 そんなグレアムが、闇の書を封印するためとはいえ、違法性の高い計画を遂行するのは非常に骨の折れる作業だった。幸いだったのは、今の闇の書の主が、彼の知り合いの娘だったことだろう。だからこそ、独自の調査で早期に彼女を発見でき、対策を練り、長期の計画を立てることができたのだから。

 だが、その計画も今では水泡に帰そうとしていた。

 グレアムの計画は、いよいよ本格的に始動した、というときに躓いたのだ。

 計画の通りならば、今頃は、闇の書の覚醒とともに現れる守護騎士たちが、闇の書のために魔力を集めているはずだった。本来であれば、もう少し早く始まる予定だったのだが、今回の主―――八神はやては、魔力を集めることをよしとしなかったため、蒐集の開始が遅れたのだ。

 もっとも、八神はやてが回収を命じないからといって、グレアムは今ほど慌てなかった。

 なぜなら、グレアムは知っていたからだ。はやての下半身の麻痺が、闇の書からの浸食であることを。ならば、主の幸せを考える守護騎士が闇の書の真の覚醒に向けて動かなはずはない。そう考えていた。そして、現実は、グレアムが考えた通りになっていた。あとは、彼らが時空管理局に見つからないように、見つかったとしても手助けをして、彼らに闇の書を完成してもらうのを待つだけだった。

 そのタイミングで、グレアムが開発した氷結の杖デュランダルで、凍りつかせ、次元のはざまというべき場所に封印する。それが、彼の計画だった。

 だが、その肝心要の守護騎士による蒐集が不可能になった。数日前に何者かによって、守護騎士が壊滅させられたからだ。

 最初は、その報告を聞いてもあわてなかった。闇の書の守護騎士たちは、闇の書のプログラムであり、システムである。つまり、闇の書が存在する限りは、今の主から転生しない限りは、彼らは、いくら倒したとしても復活するのだ。そう、そのはずだった。少なくとも11年前のあのときも、時空管理局に眠っていた無数の資料からも確認されている。

 だが、今回は違った。復活が確認されない。二日も、三日も経っても、守護騎士たちの影も形も見えない。いったい、どうやったらそんなことができるのだろうか。時空管理局が長年やれなかったことをやってのけた人物はいったい誰なのだろうか。

 生憎ながら、守護騎士たちが消えた場所では、結界が張られており、リーゼアリアとリーゼロッテの腕前をしても、その結界内部に侵入することはできず、結界が解けたころにはすべてが終わっていた。場所が地球だということはわかっている。しかし、守護騎士を倒し、なおかつ、完全に闇の書から消せるような力を持った魔導士などグレアムは知らない。

 しかし、守護騎士たちが姿を消したことは覆しようのない事実なのだ。ならば、それを受け入れるしかない。

「父様……どうするの?」

 不安げにリーゼアリアが尋ねてくる。そう、現状は理解した。ならば、次の一手を考えなければならない。

 確かに守護騎士が全員いなくなるなど想定外もいいところだ。しかし、計画とは、常に順調にいくとは限らない。そのため、いくつかの例外処理を作っておくものだ。もっとも、今回のことはグレアムが想定していたいくつものパターンから外れるものであり、想定外なのだが。しかし、それであきらめるはずはない。時空管理局で働いていれば、このような想定外は日常茶飯事と言っていい。そこからの判断が、提督として、時空管理局員としての質を示すのだ。

 その基準でいえば、グレアムは時空管理局の中でも英雄と呼ばれる人物であり、想定外での判断は秀でているといっていいはずだ。

 そのグレアムをして、考えられる手段は、通常で三つ。

 一つ目は、このまま何もしないという最悪の一手だ。今までの努力は水泡に帰し、八神はやては、ゆっくりと衰退し、死を迎えるであろう。そして、闇の書はまた次の主を求めて、この広い次元世界へと転移するのだ。そして、次に発見した時には、過去と同じく多大な災厄をばらまくのだろう。その際の犠牲者の数などグレアムは想像したくなかった。

 二つ目は、守護騎士たちの代わりにグレアムたちが動くことである。闇の書の魔力蒐集は、守護騎士以外でも行うことが可能である。姿を変えれば、魔力を集めることができるだろう。そもそも、守護騎士たちが魔力の収集を開始したならば、グレアムたちは陰ながら支えるつもりだったのだから、それが動く主体となっただけだ。しかし、この方法も却下である。グレアムは、英雄と呼ばれる彼は、常に監視されているといってもいい。自らが筆頭である穏健派の中にも、スパイと思われる人物が存在するのだ。前線を退いているからといって、監視の目が緩んでいるわけではない。さらに、まずいのは、グレアムが単純に違法行為に手を染めているというだけの話ではなく、闇の書という存在を秘密裏に知られてしまうというのが問題なのだ。グレアムを糾弾するだけならば、まだいい。しかし、グレアムと同様に秘密裏に動かれては、いったいどこで齟齬が発生するかわからない不確定要素を呼び込むことになってしまう。それは、計画を立てるという意味では非常にまずかった。

 ならば、残る手段は、あと一つである。だが、これで本当にいいのだろうか、とグレアムは悩んだ。三つ目の手段におけるチップは、グレアムという存在のすべてといっても過言ではないだろう。

 だが、少し考えた後でグレアムは苦笑した。

 すでにこの身は引き返せないところまで来ている。三つを考え付いたというが、それは事実ではない。なぜなら、グレアムにはすでにとれる手段は一つしかないからだ。しかし、グレアムは、消去法が嫌いだった。これでは、今から自分がことを起こそうとしていることが、いくつも考え付いたが、これ以上に最良の手がなかったということを免罪符にしているようでしかない。

 否、それは否である。

 たとえ、闇の書が次元世界に災厄をもたらす存在だったとしても、それを止めるための手立てがこれしかなかったとしても、それを免罪符にしてはいけない。他人事のように彼女の冥福を祈るだけではいけない。すべてを背負わなければならない。事実を知った時に『彼女』がグレアムに吐く怨嗟の声も、一変するであろう周りの評価も、侮蔑の声も、すべてグレアムが背負うべきものだ。

 だから、この方法をとるのは消去法ではない。選ばなければいけないのではない。グレアムが自らの意志で選ぶのだ。

 ―――そう、選ぶまでもない。あの時、彼女が闇の書の主だと分かった時から覚悟をしていたはずだ。ギル・グレアム。

 信じられない、信じたくない。そして、自らが考え付いた悪魔のささやきに乗った時からずっとグレアムの胸の内にある誓いを再び思い出したグレアムは、考えるために瞑っていた目を開いて、リーゼアリアとリーゼロッテを交互に見る。それは、自らの分身ともいえる使い魔に覚悟を問うているようである。

 そんな主の視線に使い魔の二人はお互いに一瞬だけ目を合わせると、同時にグレアムに向き合い、強い意志を持ってコクリとうなずいた。そんな二人にグレアムは、自らの使い魔であるにも関わらず、ありがとう、と頭を下げるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 その日の評議会の空気は、さきほどまでの淡々と事務を進めるような雰囲気から一変した。

 原因は、スクリーンの前に立つ前線からひいたはずの過去の英雄である老人から提案された計画が発表されたからだ。ほとんどの人間が信じられないというような表情をしている。無理もない、と原因を作ったはずのグレアムは思った。自分が、目の前の円卓を囲むメンバーだったとして、自分の恩師が似たような計画を発案すれば、到底信じられなかっただろうから。

「グレアム提督―――その計画は、本気なのでしょうか?」

「もちろんだとも」

 評議会のグレアムから見ればまだ年若い提督が、ついに耐え切れなくなって聞いた。その言葉自体は、とても評議会で聞けるようなものではなかったが、それほどまでに信じれないものだったのだろう。

 当然と言えば、当然だ。

 なぜなら、グレアムが提案した闇の書の封印計画―――孤独な少女を犠牲にするものだったのだから。過激派ならばまだしも、穏健派の筆頭ともいえるグレアムが提案するべきものではない。

 現にグレアムの肯定の言葉を聞いて穏健派の提督たちは動揺しており、過激派の人間は、我が意を得たり、と言わんばかりに笑っている。中庸派の人間は、グレアムの裏に隠された意図を探ろうと頭を悩ましていた。

 時空管理局内部には、大きく分けて三つの派閥がある。

 一つは、グレアムも所属している穏健派と言われるグループであり、事件に対して、犠牲を出さずに全員を助けようとする派閥だ。グレアムを筆頭にハラオウン家もこの派閥に所属している。

 二つ目は、過激派と言われる派閥である。事件に対して、犠牲を出してもいいから、事態を収束させることに注力する派閥だ。彼らに言わせれば、事件は、長引けば長引くほどに犠牲者が増える。ならば、多少の犠牲はやむを得ず、それよりも事態の収束を図るということらしい。一を切り捨て、九を救うような派閥である。

 三つ目は、中庸派と言われる派閥である。上記の二つの派閥は、自らの正義に従っているところがあるが、この派閥はむしろ、時空管理局内の地位や名誉に固執する人間だ。ゆえに、どちらの味方もしない。彼らにとって重要なことは、自らの評価が上がることだ。彼らはどちらかというと政治家の色が強い。過激派に味方することもあれば、穏健派に味方することもある。蝙蝠と言われることもあるが、意見が対立する二つの派閥の調整役ともいえる。

 そして、大きな議案や管理局のおおまかな方針を決めるための評議会は、最大人数15人であるのに対して、それぞれの派閥が5人ずつ占めるような割合になっている。評議会に選ばれる基準はわからない。すべては最高評議会が決めているのだから。しかし、このバランスを見るに彼らは、無能ではないらしい。評議会で決定するためには、ほかの派閥を最低二人は口説かなければならないのだから、譲歩も出てくるだろう。

 閑話休題。

 さて、そのことを考えるにグレアムの提出した計画は、グレアムが所属する穏健派の色がなく、むしろ、過激派の色が強いと言えるだろう。

「計画の概要は理解した。それよりも、どうして闇の書の主がわかっていたのに今まで報告しなかったっ!?」

「危険だったからですよ」

 もっともなことを言う過激派の提督を前にグレアムは涼しい顔で返答する。

「闇の書は現在、最善の対策がない。その中で覚醒前の闇の書の主を見つけてしまった。過去の事例に照らし合わせても下手に扱えば、大惨事なのは明白だ。監視だけにとどめるにしても、この強大な力を利用しようとする輩が出てくるかもしれない。だから、今まで報告しなかったのだ」

 そのグレアムの言葉に発言した提督は、ぐぅ、と悔しくうめいた。

 グレアムの言葉が間違っていると反論できなかったからだ。なぜなら、過激派の中には前回の闇の書の被害者も大勢いる。むしろ、闇の書の被害者だからこそ、過激派ともいえる。そんな彼らが、幼い少女の主が見つかったと知ればどうするだろうか。中には復讐を、と願うものもいるだろう。いや、むしろ高いともいえる。前回の闇の書事件から十一年あまり。両親を殺されたという子どもが大きくなるには十分すぎる年月だ。

 また、過激派は、グレアムにいくつかの違法ぎりぎりの研究所の所在を握られていることを知っている。それは、グレアム―――穏健派にとっては過激派への切り札なのだが、グレアムはこの場であれば、惜しみなくその切り札を使うだろう。それがわかっていたからこそ、提督は何も言えなかったのだ。

「それで、この計画の成功確率は?」

 次に手を挙げて質問をしたのは、中庸派の人間だ。

 彼らにとって過ぎ去った過去に興味はなかった。それが、相手を責められる材料であれば、いいのだが、今の説明を聞くにグレアムが煙に巻く用意をしていることは明白だ。ならば、時間の無駄は省くべきだと判断したのだろう。

「八割程度だとみている。しかし、これはわからない。現在開発中のデュランダルの出力がどれだけ出るかによるだろう」

「……八割か」

 微妙なラインだ。百パーセントを言うのであれば問題なかった。それで封じられれば、時空管理局としては闇の書を封印した、闇の書の脅威から次元世界を救ったと広告できるからだ。だが、八割を高いとみるか低いとみるかである。いや、失敗する二割を高いとみるか、低いとみるかである。

「失敗した時の対策は?」

「封時結界内部で、前回と同様にアルカンシェルで消滅させるつもりだ」

「そうきたか」

 失敗した時の対策も考えていないわけではない。対策として提案されたアルカンシェルが闇の書に効果があることは十一年前のあの時に証明されている。証人は、目の前で計画を提案しているグレアムのだからこれ以上の説得力はないだろう。

 その後も様々な質問が飛ぶ。内容は、計画に対する穴探しである。そもそも、グレアムの提案は評議会には比較的好意的に受け止められている。

 過激派からしてみれば、グレアムの提案は、自分たちの派閥の色が強い作戦である。中庸派にしてみれば、闇の書という史上最悪が止められ、失敗したとしても英雄のグレアムがすべてを背負ってくれるため反対する理由がない。一方、穏健派の提督たちは戸惑っていた。筆頭であるグレアムが、こんな計画を提出したのだから当然だ。

 だが、納得できない一方で、資料を見れば、グレアムの苦労を伺うことは容易だった。その膨大な資料。過去にわたって闇の書事件を追ってきており、傾向と対策が記されている。おそらく、グレアムが関係した十一年前からコツコツと資料を集めていたことは間違いないだろう。そのグレアムをして提案された作戦なのだ。考えうる中で最善なのだろう、と彼らは考えたのだ。

 現にいくつも出された質問にグレアムは淀みなく答えていく。グレアムがこの作戦のために入念に準備してきてことは明白だった。

「それでは、そろそろ採択を取りましょうか」

 議長役の提督がいい加減に質問も減ってきたところで提案する。質問も尽きてきたころで、時間的もちょうどよかったのだろう。誰も反対することなく採決へと場を移す。

「それでは、本計画に賛成の方は挙手を」

 ばばばっ、と挙がる右手。その数は15本。全会一致だった。

「賛成15、反対0で本計画は可決されました」

 抑揚のない議長の声を受けてグレアムは賛成票を投じてくれた提督たちに頭を下げるのだった。



  ◇  ◇  ◇



「失礼しました」

 頭を下げながらクロノ・ハラオウンが一室から出てきた。その顔には、苦悶の表情が浮かんでいる。

「どうだったの、クロノくん?」

 クロノに近づいてきたのは、彼が乗船しているアースラのオペレータであるエイミィだった。今度、従事する作戦についてクロノがその発案者に尋ねたいことがある、と言って飛び出してきた彼についてきたのだ。もっとも、その結果は彼の表情を見るに芳しいものではなかったようだが。

 現にクロノは、エイミィの心配そうな表情を見て、首を横にふった。

「ダメだったよ。提督は本気でこの計画を進めようとしている」

 そう言って、彼が目を落としたのは、一枚のカード。正確には、今度の作戦のかなめにもなるストレージデバイス―――氷結の杖≪デュランダル≫である。今度の作戦に納得のいかなかったクロノは、提案者のグレアムに直接、抗議に行ったのだが、相手にされず、代わりに渡されたのは作戦の要であるデュランダルだった。

「そんな……」

 信じられないという表情をしたのは、エイミィも一緒だ。なぜなら、グレアムの名前は穏健派の中でも筆頭と認識されている人物なのだ。だから、一人の少女を犠牲にして闇の書を封印するというような作戦を提案するとは思えなかった。しかし、現実は彼女の期待を容易く裏切ったようだ。

 しかし、そう感じているのは、クロノのほうが強いだろう。クロノにとってグレアムは、ただの上司という間柄ではない。彼の師匠であるリーゼアリアとリーゼロッテは、グレアムの使い魔であるし、彼の父はグレアムの部下であり、今までよくしてくれた父親のような存在なのだから。エイミィよりも裏切られたという感情が強いことは間違いないだろう。

「どうするの? クロノくん」

「……少なくとも今は作戦に沿って動くしかないだろう」

 そう言いながら、クロノはふっきるように歩き出した。

 まさかっ!? という表情をしながらエイミィもクロノの後を追う。しかし、エイミィはすぐに自分の間違いに気づいた。クロノは、『今は』と言ったのだ。

 クロノがいくら時空管理局内部の名門であるハラオウン家の一人息子と言えども、時空管理局員の一員でしかない。つまり、作戦が評議会で可決された以上は、実行するしかない。組織にはルールがある。いくら自分の正義に反するからと言って命令違反をしてしまえば、組織として瓦解してしまう。もしも、クロノが命令違反をするとなれば、それは自らの進退をチップにしたときだけだろう。

 ならば、このまま命令に唯々諾々と従って少女を犠牲に闇の書を封印するのか? と言われれば、答えは否だ。

 クロノがこのまま命令に従えるはずがない。クロノは、『こうでなかったはずの未来』を一つでも減らそうとしてるのだ。それなのに自ら加担できるはずがない。しかし、手立てがない今は、計画に従って動くしかないだろう。計画通りに動いていないことがわかれば、すぐにでも作戦を実行する船を変えられてしまう。本作戦を実行する船は、アースラのようにアルカンシェルが装備でき、ある一定以上の腕があれば、問題なのだから。

 しかし、そうなれば、間違いなく作戦は遂行されてしまう。一人の少女を犠牲に闇の書が封印されてしまう。

 もしかしたら、それは喜ばしいことなのかもしれない。次の犠牲者はなくなるのだから。しかし―――しかし、だ。それでもクロノは許せない。

 ―――救われないものに救いの手を。

 それが穏健派―――クロノが所属している派閥の信条なのだから。ならば、このまま何もせず黙っていられない。だから、このまま作戦の実行部隊になったまま動くしかないのだ。今の手立てよりも最善の手を探すために。

 時空管理局は広大な次元世界で作戦を実行している以上、司令部―――本局の指示を仰いでいる時間がない場合も多々ある。ゆえに、事後報告ということで、現場の判断で、作戦の一部を変更することもある。いわゆる、逆ピラミッド構造である。これをクロノは利用するつもりだった。どちらにしても、作戦に従うのであれば、最終局面では、本局に支持を仰いでいる時間はないだろう。

 今よりもハッピーエンドを見つけて、脚本を修正する。それがクロノの計画だった。

「―――孤独な少女一人を救えなくて次元世界が救えるものか」

 しかし、それが辛く、険しい道のりであることは容易に理解できた。

 クロノとて、資料には目を皿のようにして内容を読んだ。資料に書き込まれていたのは、過去の闇の書事件から考察された闇の書の習性と弱点。そして、暴走する直前に発生するいわゆる空白地帯において、無防備になる瞬間に氷結魔法において封印する作戦だ。資料に穴は見つからなかった。もっとも、クロノが見つけられるような穴は、クロノよりベテランの評議会の提督たちが簡単に見つけているだろうが。

 そもそも、クロノの執務官としての考え方は、リーゼアリアとリーゼロッテによって鍛え上げられたようなものだ。よって、事件や作戦に関する考え方もグレアムに似ている―――いや、似ているというよりもほとんど同じといったほうがいいだろう。だから、グレアムの作戦に穴が見つけられない。その作戦以上に最善手を見つけられない。ともすれば、グレアムの作戦が最善なのではないか、と思ってしまうほどだ。

 しかし、それではダメなのだ。何とかして、穴を見つけなければならない。

 だが、どうしたものだろうか? 事後承諾がもらえるほどのハッピーエンドを迎えるためには、よほどの成功でなければならない。それをどうやって導き出すか、である。時空管理局の捜査官としてならば、最善と言えるほどの作戦が目の前にある。つまり、同じ時空管理局員に聞いても見つけれらないだろう。

 ―――ならば、別の視点はどうだろうか?

 史上最悪のロストロギア『闇の書』。それに詳しいものがいれば―――。いや、闇の書でなくても構わない。ロストロギアなどに精通している人物からの視点であれば――――。

「……いるじゃないか」

 クロノの脳裏に浮かんだのは、数か月前まで連絡を取り合っていたハニーブロンドをもつ一人の少年の姿だった。



  ◇  ◇  ◇



 ユーノ・スクライアは、青空の下、子どもたちと戯れていた。

 あはは、と笑いながら走り回る子どもたちを見守るユーノ。地球の価値観から言えば、ユーノも子どもなのだが、この場合、遊んでいる子供はユーノよりも小さい子どもなので、問題ないだろう。

 ユーノは、子どもたちを見守りながらはぁ、とため息を吐いた。

 彼が、子どもたちの面倒を見るようになって数か月がたっていた。本当なら、次の発掘現場へと向かっていてもおかしくないのだが、数か月前の事件がユーノの立場を変えてしまった。

 初めての現場責任者。そこで発掘したジュエルシードに関する事件。そして、責任感からそのジュエルシードを追って単身、第九十七管理外世界へと降り立ったユーノ。そこでは、一人の女性の執念によってジュエルシードが悪用されようとしていた。それを止めたのは、一人の少年と少女。ユーノなどおまけでしかなかった。

 そう思っていたのだが、ユーノも時空管理局から感謝状と謝礼金をもらっていた。ある種、当然のことである。ユーノがいかなければ、少年と少女が魔法に出会うことはなく、ジュエルシードは一人の女性に回収され、次元断層が起きていたことは想像に難くないからだ。

 だが、ユーノはそう思わなかったようで、謝礼金は、すべて一族のお金としてしまった。思えば、それが失敗だったのかもしれない。

 ジュエルシードを追って、単身第九十七管理外世界へと向かい、謝礼金をすべて一族に寄付してしまったユーノは、時空管理局から感謝状ももらったこともあって、一族の中での評価を大幅に上げていた。同年代では、彼の評価を覆すことが難しいほどに。下手をすれば、彼の年齢を倍にした人間すら適わないほどに。

 責任感と実力が伴った男は、たとえ少年といえでも評価される。それが、発掘という危険な場所で生きているスクライア一族の価値観だ。

 だが、軋轢が全くないわけではない。ユーノが未だに発掘のためのベースキャンプであるスクライアの里でこうして、子どもの面倒を見ているのがいい証拠だ。ユーノの処遇に関しては、もっと経験を積ませたいと考えている上層部とこれ以上、評価を上げたくない現場が争っているらしく、今は休暇という形でユーノはスクライアの里に身を置いていた。

 ちょっと前までは、ジュエルシード事件で本局に呼ばれることもあったのだが、裁判が不起訴で終わった今では、全くその様子を見せる気配はない。つまり、ユーノは簡単に言うと暇だった。

「ユーノ兄ちゃん、どうしたの?」

「ん? なんでもないよ」

 ユーノがため息をはいていたのを見ていたのだろう子どもの一人が心配そうにユーノを見上げながら尋ねてくる。しかし、彼らを心配させてはいけない、と思い、ユーノは、笑みを浮かべると子どもの頭をなでながら、言葉を口にした。子どもは、ユーノをよほど信頼しているのだろう。はたから見れば、嘘とわかる言葉をうのみにして、笑顔でうん、とうなずくと友達のもとへと走って行った。

 ユーノとて、バカではない。いや、むしろ彼の頭の回転は優秀だ。だから、今の一族の内部も九歳にして理解している。

 もしも、ユーノが孤児でなければ、現状も違ったのかもしれないが。ユーノの両親はすでに死んでおり、ユーノは孤児だ。もっとも、それでも一族全体が家族ともいえるため、寂しくはないのだが。

 だが、問題は、親戚もいないことだ。どうやら、両親はスクライア一族に流れてきたようで、スクライア一族に親戚はいなかった。それが事態を余計にややこしくしていた。

 前述したようにスクライア一族は、発掘現場―――しかも、ロストロギアを生業としている。そこで求められるのは知識と判断力と責任感。それを基準にすれば、ユーノは同年代でも頭一つ抜いていることは先の事件で証明された。

 もしも、スクライア一族に親戚がいれば、彼らはユーノという駒で一族内部での発言権を高めようとするだろう。だが、その親戚がいない。小さな後ろ盾すらいないのだ。よって、水面下ではユーノの争奪戦が始まっていた。少なくとも十年後には、若者を率いているのはユーノだと確信して、一族内部の発言権を高めるために。いくら、一族全員が家族といっても、内部で派閥はあるのだ。

 その争奪戦の方法は、婚姻によるものだ。スクライア一族は危険な場所が多く、発掘には人手が必要となる。後方支援もだ。よって、子どもも立派な労力なのだ
だから、必然的に結婚年齢も低くなる。成人と認められる十五歳と同時に結婚するものはスクライアの中では珍しい話ではない。そして、ユーノぐらいの年齢で恋人がいるというもの珍しい話ではないのだ。

 もっとも、その場合は、女性が年下ということが多数なのだが。

 ユーノが成人するまで後五年。これを長いとみるか、短いとみるか。ともかく、ユーノに近い年齢の女の子がいる家庭は、ユーノを狙っていることは間違いないだろう。現に、この休暇ともいえる期間にスクライアの里でデートに誘われたことは、両手では数えきれない。

 もっとも、まだそんなことには興味がないユーノは、穏便にお引き取り願っているのだが。

 ―――はぁ、仕事ないかなぁ……。

 まるで、職にあぶれた無職の大人のような考えをするユーノ。そんなことを考えたのが不運だったのだろうか。あるいは、幸運だったのか。まるで、彼の考えを呼んで、神がそれを与えたようにその知らせはやってきた。

「ユーノっ! 時空管理局のクロノさんから連絡よっ!!」

 最近、一緒に子どもの面倒を見ている族長の孫娘の口から飛び出した意外な名前に首を傾げながら、ユーノは、とりあえず、彼女に子どもたちの面倒を任せて、魔法による通信ができる部屋へと足を運ぶのだった。



  ◇  ◇  ◇



「どうだ? ユーノ」

『これは……面白いですね』

 クロノは、通信室で遠く離れたロストロギアの専門家―――過去のジュエルシード事件で出会ったハニーブロンドの少年に、先ほど受け取った資料を見せていた。もちろん、部外秘なので、ある種の契約を結んでからだが。

「どういうことだ?」

 見せた資料は、闇の書に関する捜査資料。クロノが別視点から見た作戦の穴を探そうとユーノに相談したのだ。だが、ユーノは少し資料を見ただけで、クロノが期待したような反応を返した。

『いえ、確かにこれは、『闇の書』に関しては、よく調べていると思います。でも、それだけです。おそらく、『闇の書』は、前身があります』

「……続けてくれ」

『はい、闇の書の剣十字。そして、守護騎士たちから見られた過去の魔法陣から考えるに、闇の書はベルカ由来のロストロギアの可能性が高いと思います』

「それは、こちらも了承している。だから、聖王教会にも問い合わせたが、そのようなロストロギアは知らないそうだ」

 そうでしょうね、とユーノは苦笑する。その苦笑の意味をクロノは理解していた。なぜなら、史上最悪と呼ばれるロストロギアをベルカ由来とは、認めたくなかったのだろう。そう考えて、資料を見せてもらったのだが、確かに闇の書という名前のロストロギアはなかった。

『その結果は別に不思議ではありません。闇の書は、不思議なところが多すぎる。そもそもの目的が何なのか定かではありません。ロストロギアがいくら不明な技術と言えども、目的はあるんです。だけど、闇の書は、破壊兵器として考えるには中途半端すぎます。だから、僕は、これは当初は別の目的で作られ、長い年月の間に今の闇の書になったのだと思います』

 その存在によって名前が変わることは考古学的に言えば、珍しい話ではありませんし、とユーノは付け加える。

 ユーノの意見は、確かにクロノが思いつかない考えだ。クロノにとって闇の書は闇の書であり、前身があるとは考えることがなかった。もしかしたら、小さな光明が見つかったかもしれない、とクロノは思った。

「……わかった。ユーノ、闇の書について、そちらで調べられるか?」

『確かにスクライアにも資料はありますが、多分、クロノさんが考えるような資料はないと思います。ここでまとめられているだけでも、闇の書が認識されたのは相当昔です。なら、闇の書について資料があるとすれば、僕はその場所を一つしか知りません』

 さすが、スクライア一族というべきだろうか、あの場所を知っているのだから。あらゆる知がそろう場所でありながら、時空管理局の中でもその存在を忘れられた場所。

「無限書庫か……」

 クロノがつぶやいた場所にユーノがうなずく。

 確かにあの場所であれば、闇の書に関する資料―――ユーノが言うような資料が見つかる可能性があるだろう。問題があるとすれば、『無限』の名前を関することが伊達ではないということだろうか。

「許可は出せると思う。だが、あの場所は広大だぞ……大丈夫か?」

『ええ、おそらくは。スクライア独自の検索魔法と読書魔法もありますからね』

「……わかった。それじゃ、僕の執務官としての権限で、君を捜査協力者として雇うとしよう。期間は一か月程度だけど……構わないかい?」

『ええ、長老たちに相談してみますが、大丈夫だと思います。むしろ、歓迎されるかも……』

 最後のつぶやきの意味は分からなかったが、クロノからしてみれば、ユーノの提案はありがたいものだった。

「ありがとう。協力に感謝する。それじゃ、契約書の類は今日中に送るから。それを持って、こっちに来てくれ、宿泊場所や無限書庫の利用許可は、僕が申請しておくから」

『わかりました。それじゃ、荷物をまとめてすぐに行きますよ』

 それでは、といって通信が切れる。最後に映ったユーノの表情はなぜか晴れ晴れとしていた。あちらでも何かあったのだろうか。だが、クロノとしては詮索するつもりはない。藪蛇では、せっかく見つけた光明を自らの手で閉じてしまうかもしれないからだ。だから、ユーノが来てくれることを今は、喜ぶべきだった。

 たった一つだけ見つけた小さな光明。今は、まだその光明が正しいのかどうかわからない。しかし、先ほどまでの暗闇の中にいるよりもましだった。

「願わくば、その小さな光明が、出口へと続いてくれればいいのだが……」

 クロノの願うようなつぶやきは、通信室の部屋の中で小さくこだまするのだった。






つづく



[15269] 第二十九話
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/06/05 20:06



「それで、僕たちは何をすればいいんですか?」

 クロノさんから詳しい話を聞いた後、僕の中で考えをまとめながらクロノさんに尋ねてみた。

 正直、クロノさんから詳しい話を聞いたときは驚いたものだ。まさか、あの本がそんなに危険な代物だとは分からず、しかも、はやてちゃんが、その本の持ち主になっているのだから。だが、驚いてばかりもいられないだろう。クロノさんの話によるとあの黒い本―――闇の書を封印するための手立ては見つかっているようだから。

 もしも、時空管理局独力でやり遂げられるなら、クロノさんは僕の元を訪ねてくることはなかっただろう。だが、クロノさんはこうして僕たちの元を訪れた。その理由は、僕たちの力が必要だからだ。もっとも、僕よりもはるかに魔法が上手ななのはちゃんならともかく、僕ができることなんて少ないとは思うのだが。

「話が早くて助かるよ。翔太くんには、できれば僕たちのお手伝いをしてもらいたかったんだ」

「僕ができることならやりますけど……」

 僕が先読みしたように口にした言葉に少しだけ驚いた様子を見せていたクロノさんだったが、すぐに調子を取り戻すと、僕に手伝ってくれるように言う。しかし、先ほども考えたように僕にできることは少ないだろう。

 クロノさんは、僕のその考えを読み取ったように、いやいやと顔の前で手を横に振って見せた。

「いや、何も君たちに前線に立ってくれというわけではないよ。君にやってほしかったのは、僕たちと八神はやてさんの仲立ちだよ。僕たちのような人間がいきなり行くよりも、同世代で同じ世界の君が仲立ちしてくれたほうが、彼女に不信感や不安を与えないと思ってね」

 そこまで言ってクロノさんは何かを思い出したのか、思い出し笑いのようにくくくっ、と笑う。

「どうしたんですか?」

「いや、君が八神さんとすでに知り合いだったことが助かった、と思ってね。君たちが知り合いなんて知らなかったからね。だから、こちらとしても、二人が自然に出会って僕たちを紹介できるようにいろいろと作戦を立ててきたんだ。その内容は、ほとんどエイミィを中心とした女性職員が作ってくれたんだが……」

 そこまで言って、もう一度笑うクロノさんに僕は嫌な予感を覚えざるを得なかった。

「見てみるかい?」

「いえ、遠慮しておきます」

 すぅ、と差し出した台本のようなものに僕は嫌な予感を覚えて、それを受け取ることを拒否した。本能的な部分で、クロノさんが持っているものは危険だと判断したのだ。

「それがいい。エイミィ曰く、これには乙女の夢とロマンが詰まっているらしいからね」

 何とも言えない苦笑で誤魔化すクロノさんだったが、その笑みからは苦々しいものが見えるところから考えても、よっぽどのものだったのだろう。クロノさんが浮かべる笑みによって好奇心がうずうずと湧き上がってくるが、見てしまえば、それを自分がやらなければならないということを考えてもだえ苦しみそうなのでやめておこう。

「……ところで、その乙女の夢とロマンっていうのはどのくらいのレベルなんですか?」

「う~ん……君が思春期になったころに、ふと思い出して、ベットの上で転げるぐらいだろうか。いわゆる、黒歴史というやつだね」

 よかった。はやてちゃんと先に友人なっていて本当に良かったと切に思った。

「……その話題はこのぐらいにして、結局、僕たちがお手伝いするのは、クロノさんたちをはやてちゃんに紹介するということでいいんですか?」

 これ以上は、虎の尻尾を踏みかねない。ここら辺が引き際だろう、と僕は話題を元の路線へと戻した。なによりも、もうすぐ夕方になろうとしている。時空管理局のクロノさんたちを紹介するとなれば、少しでも早いほうがいいだろう。夜遅くの訪問はほめられたものではない。

 クロノさんも僕の真意をくみ取ってくれたのだろう。うん、とうなずくとさらに一言付け加えた。

「いや、あともう一つお願いしたいことがある。八神はやてさんの護衛だ」

「護衛?」

 クロノさんが言っている意味が分からなくて、僕はクロノさんが僕に頼んだことをそのまま聞き返した。クロノさんも自分が唐突だったことを自覚しているのだろう。コホン、と場を整えると僕に言葉の意味を説明してくれた。

「今回のことで、八神はやてさんが闇の書の主ということは広く知られてしまった。いや、一応、任務ということになっているが、人の口にとはたてられない。はやてさんが闇の書の主ということは、いずれ広まるだろう。そして、過去の闇の書の被害者たちが、復讐のためにはやてさんを襲撃することが考えられる。そのための護衛だよ」

「そんな……はやてちゃんは、何もしていませんよ」

 そう、何もしていない。クロノさんの話によると、はやてちゃんの足が不自由なのは、闇の書から魔力を吸われているかららしい。そして、そのまま放っておけば、はやてちゃんは闇の書から魔力を吸い取られ、やがては死に至るようだ。もしも、彼女が自分の命の惜しさに魔力を蒐集していたとすれば、彼女の体調は回復していただろう。彼女が未だに足が不自由なのが、はやてちゃんが魔力を蒐集していない何よりもの証拠だと言えた。

「そうだ。僕たちとしても、彼女が何もしていないのはわかっている。しかし……それでも、彼女は『闇の書』の主なんだ。そして、襲撃するような連中に八神はやてさんが、何かしているかどうかなんて関係ない。彼らに必要なのは、八神はやてさんが『闇の書の主』という事実、ただ一つだけだ」

 少し違うかもしれないが、坊主が憎ければ袈裟まで憎いというわけだろうか。はやてちゃんが何かしたわけでもない。彼らに必要なのは復讐の対象なのだろう。

「でも、僕に護衛が務まるでしょうか? 僕はただの小学生ですよ。戦うなんて無理です」

「ああ、それはわかっているさ。実際に守るのは僕たちだ。武装隊の一部が護衛任務に就くことになっている。だが、いくら護衛のためとはいえ、はやてさんを知らない大人たちに囲まれて過ごさせるわけにはいかないだろう? 身の安全も必要かもしれないが、必要以上にストレスを与えるのもまずいことになる。だから、武装隊ははやてさんの家の周囲を護衛するから、君にははやてさんの近辺についていてほしい。友人がいれば、彼女の心労も違うだろうから」

 一番は家族なんだがな、とこっそりつぶやくクロノさんの言葉を聞いてしまった。

 確かに、こんな状況ならば、家族が一番彼女の心の支えになってくれるだろう。だが、はやてちゃんのお父さんとお母さんは、すでに亡くなっている。ほかの家族は現在、家にはいない。少なくとも、僕がはやてちゃんの家を出るまでは誰も帰ってくることはなかった。おそらく、クロノさんもそのことを知っていて、今の言葉をつぶやいたのだろう。なぜ、クロノさんが知っているのかはわからないが。

「……私もショウくんのお手伝いするよ」

 僕がクロノさんの言葉に返事をしようとしたのだが、その前になのはちゃんが不意に口を開いた。その内容は僕を手伝うというもの。

 確かに、なのはちゃんも一緒に守ってくれるなら、これ以上ないぐらい頼もしい。少なくとも僕だけが近くにいるよりもはるかに護衛という役割を果たすことができるだろう。

 だが、なのはちゃんの提案にクロノさんは、渋い顔をする。

「……なのはさん、君の協力の申し出は嬉しいんだが、君には別のことを頼みたかったんだ」

 言われてみれば、僕と一緒になのはちゃんを護衛の任務を頼まなかったのに、この場に呼んだことを考えれば、なのはちゃんには別のことを頼むつもりだったことは明白だろう。僕だけでは護衛という役割は無理だとクロノさんもわかっているだろうから、この場所の最大戦力であるなのはちゃんを遊ばせておくわけがない。

「なのはさん、君には魔力蒐集の手伝いをお願いしたい」

「魔力蒐集ですか?」

 よくわからない言葉に、なのはちゃんは小首を傾げ、代わりに僕がクロノさんに聞き返した。

「ああ、闇の書が魔力を蒐集して、最後には魔力を暴走させる危険なロストロギアであることは話したね。今回の作戦は、その蒐集が終了し、暴走状態へ入る一瞬の空白を突いて封印してやる必要があるんだ。だから、こちらで蒐集を行ってそのタイミングを計ろうとしているんだ」

「それで、どうしてなのはちゃんが必要なんですか?」

 魔力の蒐集が必要なのは間違いないだろう。だが、それならば、クロノさんたちが単体で動いても問題はないはずだ。それなのに、わざわざなのはちゃんに手伝いを申し出ている。さらにいうとクロノさんは、時空管理局の仕事で僕たちに頼むのをためらっていたはずだ。僕の役回りならばともかく。

「一言に魔力の蒐集と言ってもやり方はいくつもある。その中で、一番効率がいいのは、人から魔力を蒐集することだ。人のリンカーコアは、莫大な魔力を持っているし、数も多い。歴代の闇の書もそうやって魔力を蒐集してきた」

「え? なら、人から集めればいいんじゃないんですか?」

 僕の感覚としては、魔力を抜き取られるといっても、魔力の源となるリンカーコアを抜き取るわけではなさそうだ。だから、献血のような感覚で言ったのだが、クロノさんは、苦虫をかみつぶしたような表情でいう。

「リンカーコアから魔力を蒐集するというのは、苦痛と下手をすればリンカーコアを傷つけ、一生魔法が使えない体になってしまう可能性がある。そして、無理やりに魔力を引き抜けば―――死に至る可能性すらあるんだ。だから、この方法は使えない」

 なるほど。今まで話を聞いているだけでは、はやてちゃんの護衛は、最後の暴走状態で犠牲になった人たちと思っていたが、それだけではなさそうだ。歴代の闇の書の主たちは、人から蒐集したとなれば、しかも、そんな危険性のある方法であれば、復讐を考えるかもしれない。いや、もしかしたら、暴走状態に巻き込まれたときよりも復讐の念は強いかもしれない。

「それで、代わりの方法だが、野生の動物たちの中にも魔力をもつ動物―――いや、この場合は魔法生物か―――がいるんだ。彼らから蒐集する計画を立てている。だけど、ここで問題があってね。効率が悪いんだ。だから、結局、広く浅くというか……たくさん集めなくてはいけなくなる。その場合、人海戦術になるんだが……今の時空管理局にそこまで人数を割けなくてね」

 やるせない表情をするクロノさん。いくら大規模破壊を行うロストロギアで見過ごすことができないとしても、割り当てられる人数は決まっているのだろう。時空管理局だって、闇の書事件だけに注力していればいいわけではないのだから。

「でも……なのはちゃん一人で変わりますか?」

 クロノさんが、なのはちゃんを戦力として求める理由はわかった。だが、それでもなのはちゃんは一人なのだ。たった一人で何か変わるのだろうか? と純粋に疑問に思ってしまう。だが、そんな疑問にもクロノさんは丁寧に答えてくれた。

「ああ、変わる。なのはさんの純粋な魔力の強さと魔法の威力を考えると一騎当千といってもいい。安全を確保して、マージンを取ったとしても武装隊を総動員して、ちまちまと蒐集するよりもよっぽど効率が良くなることは間違いないよ。何よりなのはさんは、砲撃魔法が得意だろう。距離を取って攻撃できることも協力を依頼した要因の一つだよ」

 なのはちゃんの安全を確保しながら、戦力として使うことができるなのはちゃんは、クロノさんが協力をお願いしなければならないほど欲しい戦力なのだろう。

「どうだろうか? 僕たちに協力してくれないだろうか」

「……ショウくんはどうするの?」

 クロノさんに問われて、なのはちゃんは少しだけ考えるようなしぐさをして、すぐに僕に視線を向けて、僕にどうするのか尋ねてきた。

「僕は協力するよ。はやてちゃんとは、まだ出会って日が浅いけど、それでも友達だからね。友達を助けるための手助けができるなら協力するよ」

 はやてちゃんとは、昨日出会ったばかりだ。だが、それでも友達であることには変わりない。そして、その友達が危険な立場に立っているのだ。協力したいと思うのが当然だろう。なにより、できることがあるのに何もせずにある日、はやてちゃんがいなくなったりしたら、きっと僕は後悔するだろうから。あの時、どうして申し出を受けなかったんだ、と。だから、僕はクロノさんに協力することに決めた。

「翔太くん……」

 僕が快諾の返事をすると、なぜかクロノさんは苦虫をかみつぶしたような表情を一瞬だけ浮かべたような気がした。一瞬だけだったので、見間違いなのかもしれないが。僕はなにか変なことを言ってしまっただろうか? だが、今までの発言を思い返しても、特に変なことは言っていないと思うのだが……。

「……私がショウ君を手伝ったら、どうするの?」

「その時は、僕たちだけで何とかするよ。ただ、君が協力するよりも時間が長くなってしまうかもしれない。一応、計画のタイムスケジュールとしては、こちらのクリスマスには終わらせるつもりだが……君の協力がなければ、年明けも覚悟する必要があるかもしれない」

 今が、ちょうど十一月の下旬だから、大体、一か月ぐらいを予定しているのだろう。

「……わかった。私もお手伝いする」

 少し考え込んでいたなのはちゃんだったが、何かに至ったのか、うつむいていた顔を上げるとクロノさんに向かって、承諾の返事をしていた。

「なのはちゃん、ありがとう」

 おそらく、なのはちゃんが考え込んでいたのは、僕のことを考慮してくれていたのだろう。僕がはやてちゃんと友達だといったから。だから、なのはちゃんは、そのことを考えてくれたのだろう。もしかしたら、なのはちゃんはあまりクロノさんたちに協力することに乗り気ではないのかもしれない。僕が、はやてちゃんと友達ということを言わなければ、拒否していたかもしれない。

 そう考えると、なのはちゃんにお礼を言うのは間違いではないと思う。

「ううん、ショウくんの友達のためだもん。私も頑張るよ」

 僕がお礼を言うと、なのはちゃんは花が咲いたような笑みを見せ、上機嫌になっていた。

「翔太くんも、なのはさんも、ありがとう。時空管理局を代表してお礼を言わせてもらうよ」

 ぺこりと頭を下げるクロノさん。年上の人から頭を下げられるのは、なんだか変な感覚がする。

「それじゃ、早速、君たちの保護者に説明に行こうか」

 今回はクロノさんが説明してくれるようだ。四月のときは、両親の説得が大変だったから、クロノさんが最初から出てきて説明してくれるのはありがたいことだ。しかし、前回は許してくれたが、今回も許してくれるだろうか。四月のときは、最後の最後で大けがしちゃったからな……。

 若干不安になりながら、僕たちは、母さんたちが帰ってくるまでお茶菓子を囲んで談話を楽しむのだった。



  ◇  ◇  ◇



 母さんたちへの説得は簡単ではなかったが、クロノさんの説明と僕の意志を見せたことから何とか承諾してもらえた。やはり、前回の事件のことが引っかかったようだ。しかし、僕が危険なことをしない、きちんとした護衛をつける、海鳴から離れないことなどを条件に何とか承諾してもらえた。母さんは最後まで渋っていたが、親父に説得されていた。

 ただ、一言あるならば、僕は別にはやてちゃんが女の子だから助けたいと思ったわけではない。

 勘違いも甚だしいが、その一言で母さんも、承諾してもらえたので、今更覆すこともできなかった。もっとも、どうやら母さんたちは、僕がはやてちゃんへの感情に気付いていないと勘違いして、ほほえましそうに見ていたのだが。

 何はともあれ、承諾をもらえて、次はなのはちゃんの家へ承諾をもらいに行ったのだが。これは、意外にも最初からすんなりと話が通ってしまった。クロノさんが、僕の家への説明を参考にしたのか高町家への説明が意外とすんなり通ってしまった。僕とは違って、なのはちゃんは自衛の手段を持っていることが大きいのかもしれない。

 ちなみに、クロノさん曰く、なのはちゃんの役割は『移動砲台』のようなものであり、危険性はほとんどないこと、また危険な場合は、最優先で退避させることを約束していた。

 僕となのはちゃんの家への説明が終わった後は、いよいよはやてちゃんの家へと向かうことになった。同行者は、クロノさんだけだ。なのはちゃんは、自分の家に残るようだ。この後に魔法の練習もするらしい。僕も肩書きだけの護衛とはいえ、練習時間を増やすべきだろうか。なのはちゃんが僕と一緒に魔法の練習をしなかった理由はわかったのだから、今度からは一緒に見てもらう。

 さて、はやてちゃんの家へと出向いて、事前に連絡していたとはいえ、クロノさんを連れてきたことにはやてちゃんはびっくりしていた。どこか不審者へ向けるような視線を向けるはやてちゃんだったが、僕が連れてきた手前もあるのだろう。僕とクロノさんをリビングへと案内してくれた。

 差し出されたコーヒーを前にクロノさんは、突然の話で戸惑うかもしれないが、と前置きして、はやてちゃんに闇の書に関することを話し始めた。

 もしかしたら、いきなり魔法とかロストロギアとか、君には巨大な魔力が眠っているんだ、と言われても信じられないだろう、と危惧していたのだが、意外なことにはやてちゃんはすんなりとクロノさんの言ったことを信じていた。いや、むしろ、驚いたことは、はやてちゃんは自分の実状を知っていたことだろうか。そして、僕は驚いたのだが、クロノさんはやっぱりというような表情ではやてちゃんを見ていた。

「―――というわけで、八神はやてさん、僕たちに協力してくれないだろうか?」

 クロノさんが、はやてちゃんの現状について話した後、管理局の作戦の内容―――闇の書の魔力を蒐集し、暴走状態になる一歩手前で封印を行う―――を話し、はやてちゃんに協力を求めた。クロノさんから話を聞いたはやてちゃんは、少し考えるようにう~ん、と考え込んだ後、改めて口を開いた。

「一つ質問いいですか?」

「ああ、どうぞ」

「闇の書は―――あの子は、どうしても封印せなあかんのですか?」

「……あの子?」

 闇の書を『あの子』とまるで人格があるように表現したはやてちゃんが不可解だったのだろう。引っかかった部分を繰り返すようにクロノさんが問い返した。

「ええ、そうです」

「……君が言うあの子というのが、闇の書のことであれば、答えはイエスだ。時空管理局では、あれを完全に消滅させる手段を持っていない。いや、持っていたとしても、闇の書は完全修復機能と転生機能を用いて、次の主へと転生するだけだ。だからといって、君の元で放置はできない。魔力を集めるにしても、集めないにしても、この地に災厄を振りまいて転生することは間違いないからね」

「そうなんか……」

 やや気落ちしようにつぶやくはやてちゃん。僕には闇の書とはやてちゃんの間にある関係がわからないから、何も言えない。もしかしたら、あの子と称するように闇の書には人格のようなものがあるのかもしれない。ペット……とは異なるかもしれない。だが、人格があるものを封印しますと言われても、はい、どうぞとは簡単には言えないだろう。特にはやてちゃんのような家族がいない環境であれば。

 ―――もしかしたら、はやてちゃんは拒否するかもしれないな、と思った。拒否したからといって事態が好転するわけではなく、ただの問題の先送りにしかならないのだが。それに、クロノさんも遊びで提案しているわけではないのだ。今日はあきらめるとしても継続的に説得は続けるだろう。それに僕だって、このまま無為にはやてちゃんが魔力を吸われて死んでしまうと知っているのでクロノさんに協力するだろう。

 残念ながら、僕に両方を救えるほどの力量はない。ならば、僕としてはコミュニケーションのとれない闇の書よりもはやてちゃんが助かるほうを取るに決まっている。はやてちゃんからしてみれば、闇の書は家族かもしれないが、僕からしてみれば、闇の書ははやてちゃんを死に追いやる張本人なのだから。

 しかし、はやてちゃんはどう出るかな? と謎に思っていたが、意外と答えは早く出たようだ。

「―――わかりました。クロノさんに協力します」

 はやてちゃんの答えは僕にとっては予想外だった。ここでは、拒否すると思っていたのだ。それがはやてちゃんの口から出てきたのは許諾の言葉だった。

「その代わり、お願いがあります」

「何かな?」

「あの子を―――闇の書を救う手立てを見つけてください。あの子が、ずっと封印されたままやなくて、新しい主の元へと何も問題なくいけるように」

 なるほど、と思った。はやてちゃんは、僕が知っている周りの子たちよりもよっぽど大人だった。現状を把握しており、ここで自分がわがままを言っても、覆しがたい状況だと理解している。それよりも、協力する見返りに闇の書―――はやてちゃんがあの子と呼ぶ存在を助けるための協力を依頼したほうが、あの子のためになると考えたのだろう。

「―――わかった。約束しよう」

 クロノさんが約束したことで嬉しそうに笑うはやてちゃんに対して、クロノさんはこれが契約の証だ、と言わんばかりにはやてちゃんに握手を求めるように手を伸ばした。はやてちゃんは、握手という手段が意外だったのか、驚いたように目を白黒させて、クロノさんの手を握っていた。

「あと、もう一つ、質問があるんですけど」

「なんだい?」

 言いにくそうに切り出すはやてちゃんに対して、協力が受け入れられたことがうれしいのか笑いながら対応するクロノさん。そのクロノさんの微笑みに押されてか、はやてちゃんが戸惑うような、言いづらそうな口調で疑問を口にする。

「うちの子たちを知りませんか?」

「……うちの子?」

「闇の書の守護騎士たちのことです」

 ―――闇の書の守護騎士。

 それがはやてちゃんの言っていた家族のことだろうか。たしか、はやてちゃんの家族はいまだに帰ってきていないはず。いや、そもそも、守護騎士とはなんだろうか? 僕はクロノさんからそんな話は聞いていない。漢字から想像するに闇の書を守る番人のような感覚を受けるのだが。

 だが、事情を知らない僕に対して、クロノさんは聞いたことがある単語だったのだろう。即座に首を横に振った。

「いや、わからない。少なくとも、僕たちと交戦したという記録はない。もしも、闇の書の蒐集をしていれば、の話だがね」

「そうですか……」

 帰ってきていない家族のことが気にかかり、もしかしたら、クロノさんたち時空管理局の人たちなら知っていると考えたのだろうか。生憎ながら、クロノさんもそのことはわからなかったようだが。

「彼らのことも何かわかったら連絡するとしよう」

 クロノさんもはやてちゃんの意志をくみ取ったのだろう。守護騎士という人たちのことがわかれば連絡してくれるように配慮してくれるようだ。はやてちゃんもそれを聞いて安心したのか、お願いします、と頭を下げていた。

 それからは、はやてちゃんへの協力体制への話へと移った。もっとも、協力体制と言っても、はやてちゃんがやることは少ない。闇の書を貸し出すぐらいだ。後は、護衛に囲まれておとなしくしておけばいい。その中の一人が僕なわけで、基本的には家の中には僕以外はいないことになっている。もちろん、学校には通うが、はやてちゃんの家に泊まって、通学という形になるだろう。短時間であれば、なのはちゃんとの魔法の練習時間もとっても構わないようなので、一か月ぐらいのホームステイのつもりだ。

 僕が護衛役の一人だとわかると、はやてちゃんは、驚いたような表情を見せて、すぐに取り繕うような笑みを浮かべて、「よろしくな」というのだった。



  ◇  ◇  ◇



 はやてちゃんへの協力体制への取り決めは、一時間ほどで済んだ。作戦の開始時期は、明日からという早い時期だが、時間がかかればかかるほどにはやてちゃんの体調に悪影響が出ることも鑑みると早いほうがいいらしい。

 その話し合いが終わった後、僕はクロノさんに送られて自宅へと戻ってきた。

「ただいま~」

「お兄ちゃん、お帰りなさいっ!」

 玄関先で僕を迎えてくれたのは、アリシアちゃんだった。今日は、母さんと買い物に行っていたから、その時に買ってもらったのだろう。ツインテールにしている金髪に新しいピンク色の花の形をした髪留めがつけられていた。

「それ、買ってもらったの? かわいいね」

「えへへ、うん、母さんに買ってもらったんだ」

 僕の言葉で照れたのか、やや照れくさそうにはにかむアリシアちゃん。だが、次の瞬間に何かを思い出したようにあっ、と声を上げると、手に持っていた携帯を差し出した。

「ちょうどよかった。アリサから電話だよ。お兄ちゃんにも用事があるから」

 何か悪戯をたくらむ子供のようにニシシシと笑うアリシアちゃん。この子が何かたくらんでいるとは思えないのだが、そもそも、電話に出るだけで何か悪戯できるものなのだろうか。そんな風に怪訝に思いながらも、僕はアリシアちゃんから電話を受け取った。

 電話の状態は保留だった。電話の相手はアリシアちゃんの話によるとアリサちゃんなのだろう。僕は、保留状態を解除するために通話のボタンを押して、もしもしと、電話口に出た。次の瞬間に電話口から聞こえてきたのは、よく聞く、と言えば語弊があるかもしれないが、聞きなれたアリサちゃんの怒声だった。

『ちょっとアリシアっ! 遅いじゃないっ! いつまで待たせるのよっ!』

「……ごめん、ちょうど僕が帰ってきたから遅くなったみたいだね」

『へ……? ショ、ショウ?』

 電話口に出ていた相手が突然、何の前触れもなく変われば、それは戸惑うに違いない。現にアリサちゃんは、電話口の向こう側から聞こえてきた声が、自分が予想していた声とは異なることで、どこか戸惑うような声を上げていた。

「ごめんね、アリシアちゃんが、アリサちゃんが用事があるからっていうから代わったんだ」

『唐突すぎるのよっ!』

 うん、僕もそう思う。

 僕はてっきりアリシアちゃんが話を通していると思っていたのだが、どうやら思い違いだったようだ。アリシアちゃんが考えていた悪戯のような笑みはこれを意味していたのだろうか。

「ごめんね、アリシアちゃんには言っておくから」

『あ、それは、後であたしからも言うわ』

 どうやらアリシアちゃんは、悪戯が成功した代わりに大きな代償を支払うことになりそうだった。アリサちゃんが怒るなら、僕からは軽くでいいかな? と考えてしまうのは、僕がアリシアちゃんに甘いからだろうか。

「それで、用事ってなに?」

『あ、そうよっ! 喜びなさいっ! パパが海鳴アミューズメントパークのチケットを手に入れてくれたのよっ!』

 それはすごい、と聞いた瞬間に思った。

 海鳴アミューズメントパークは、最近できた遊園地で、海鳴の都会とも田舎ともつかないような場所にできたそれなりに広い遊園地だ。キャラクターで売っているわけではないが、アトラクションが最新のものを使っているらしく、連日人気らしい。ただ、その海鳴アミューズメントパークの特徴として、入場券の一日販売数が決まっているらしい。どうやら、人込みを避けるためらしい。そのため、今はチケットの入手が困難だと聞いている。

「よく手に入ったね」

 それが、僕の正直な感想だ。正規のルートで手に入れることは、ほとんど不可能だと思っていたからだ。

『ふふんっ! パパの会社も資金提供してるから、手に入ったらしいわ』

 なるほど、株主優待のようなものか。

『しかも、今度の日曜日なのよっ!』

 しかも、チケットの指定日は日曜日らしい。平日よりも休日が入手困難なのは間違いない。それを手に入れたということは、デビットさんの苦労も並々ならないものだろう。アリサちゃんが誇るのもわかるような気がする。電話の向こう側だからわからないが、胸を張るアリサちゃんの姿が容易に想像することができる。

『だから、一緒に行きましょうっ!』

 なるほど、アリサちゃんの用事というのは、これだったのか。僕を誘うこと。おそらく、アリシアちゃんも知っていたに違いない。だから、笑っていたのか。僕が驚くと思って。そうだとすると、一緒に行く面々は、すずかちゃんを足した四人かな。

 ああ、でも、なんてタイミングが悪いんだろう。あと一週間早かったら。もしも、それが今日だったら。僕はうなずくことができたというのに。

「ごめん……その日は、用事が入っているんだ」

 正確には一か月ほどずっとだが。

 アリサちゃんからしてみれば、僕の返事は予想外だったのだろう。僕が断りの返事をするとしばらく返答はなかった。返ってきたのはたっぷり五秒が経過した後だろうか。

『ショウ、ごめん、あたし聞こえなかったわ。行くわよね?』

「ごめん、用事が入ってるんだ」

 僕の返事が信じられなかったようで、もう一度聞いてきた。信じられないのもわかる。普通の用事だったらおそらくそちらを優先してたかもしれないから。だけど、今回のことは何事にも代えられないのだ。だから、こうして返事するしかなかった。

『なによっ! あたしたちと遊びに行くよりも大切な用事なのっ!!』

「……うん、ごめん」

 怒らせることはわかっている。わかっているのだが、僕には謝ることしかできない。せっかく苦労したであろうチケットをもって、誘ってくれたのに。それでも、僕には断ることしかできないのだった。遊びと命を天秤にかけることはできない。もしかしたら、はやてちゃんに言えば、気にしないで遊びに行って来いと言ってくれるかもしれないが、それでは僕に協力を頼んできたクロノさんを裏切るようでやりたくはない。

『―――っ! もういいわよっ!!』

 その言葉を最後にぶちっ、と向こうからの通話は切れてしまった。最後の怒声は少し携帯から耳を離してもうるさいほどの大音声だったのだから、よほど大きな声で叫んだのだろう。

 はぁ……これは、明日はアリサちゃんのご機嫌をとらないとな。

 ただでさえ、最近は運動会のこともあって、アリサちゃんとあまり遊んだり、お茶会に参加したりできていないのだ。ひょっとしたら、今までで一番大変なご機嫌取りになるかもしれない。

「―――お兄ちゃん、今のどういうこと?」

 ―――どうやら、天はとことん僕を見放したようで、アリサちゃんよりも先に対応しなければならない子がいることに改めて気づくのだった。




つづく



[15269] 第二十九話 裏
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/05/28 08:20



 瀧澤夏希にとって蔵元翔太とは、出会った当初は自分から親友の雨宮桃花を奪う敵だった。

 夏希が桃花と出会ったのは、家が近所であり母親同士の仲も良好だったため、自然と遊ぶ友人になったに過ぎない。だが、桃花は生来からの性格のだろうか、どこかおっとりしたところがあり、放っておけないような雰囲気を持っていた。それを子供心ながらに夏希は感じ取ったのだろう。いつの間にか、夏希は『桃花は自分がいないとだめだ』と思うようになっていた。つまり、夏希は、ダメな男の世話を焼きたがるタイプだったようだ。

 現に保育園に入ってからは、おっとりしたところを攻めてくる男子たちに対して大立ち回りをしたものだ。

 そのころの翔太に対する夏希の印象はあまりないと言ってもいい。なぜなら、二人には接点がなかったからだ。確かに翔太は同年代にも関わらず、よく関心を持って保育士たちに交じって彼らの世話をしていたようだったが、桃花には夏希がいたため迷惑をかけるような接点が見つからなかったというべきだろう。

 夏希と桃花たちが翔太と接点を持つようになったのは、ある休日のお昼時になる。いつも遊んでいる何の変哲もない公園。そこで砂場やら滑り台などの遊具などで遊んでいた。しかも、タイミングが都合よく重なったのかほかに誰もいない独占状態だった。珍しいな、と思いながらも好き勝手、自由に遊べることを嬉しく思いながら彼女たちは遊んでいた。

 そこに招かれざる客が来るまでは。

 招かれざる客は、野良だったのだろう。薄汚れた容姿をしていた。体躯は中型犬と同じぐらいで大きいとも小さいともいえないタイプの犬だった。だが、それは大人やもう少し大きい年齢からしてみれば、だ。彼女たちはまだ小学校に上がる前の少女である。大人から見たよりもその犬が大きく見えた。

 だからだろう。彼女たちが近づいてくる犬を見て、思わず逃げ出してしまったのは。端的にいえば怖かったのだ。追いかけまわしてくるわけではない。ただ、そこに自分と同じぐらいの犬が存在することが。だが、この場合、その行為は裏目に出てしまう。

 それは、犬としての本能だったのだろう。夏希と桃花が逃げ出したと同時に迷い込んできた犬は彼女たちを追いかけた。だが、彼女たちに犬の本能などわかるはずもなく、ただでさえ煽られていた恐怖心がさらに増大していた。

 逃げる夏希と桃花。追いかける犬。

 もしも、大人がいれば、周りに子どもがいれば。彼女たちを助けに入っただろう。だが、どういう天の采配か、この公園には彼女たち以外は誰もいなかった。

 ――――つい、先ほどまでは。

「こっちっ!」

 助け船を出したのは、夏希も知っている少年だった。

 この後からだ。彼女たちと―――より正確には桃花と翔太の付き合いが始まったのは。

 犬から助けられた一件が効いたのか、桃花は何かにつけて翔太を頼るようになってしまった。「ショウくん、ショウくん」と。それが夏希としては面白くない。今まで桃花に頼られていたのは夏希だったのに、その位置に翔太が来てしまったのだから。確かに、犬から助けてもらったのはその通りで、夏希としても恩を感じていないわけではない。しかし、それはお礼を言った時点で終わっていた。

 しかも、翔太も桃花ばかりを相手にしていられない。彼はほかの子も相手にしているのだから。桃花が話しかけようとした矢先からほかの子に順番を取られるようなことも多々だ。それほどまでに彼は子供なのに多忙だったのだ。しかも、桃花はいくら用事があろうとも、そんなに強く言えるわけがない。

 夏希としては、翔太を頼ることは気に食わないが、桃花が翔太に話しかけられなくてがっかりしている様子を見るのも嫌だった。

 もしも、夏希の考えが翔太に知られたならば、どうしろっていうんだよ、と愚痴をこぼされたに違いない。

 だから、夏希は桃花のがっかりした顔をこれ以上見ないために行動を起こすことにした。つまり、翔太が忙しいのは、翔太以外に誰もまとめる人間がいないからだ。だから、翔太はこんなに忙しくなる。ならば、自分がその役割を買って出ようと思った。そうすれば、翔太の手が空いて、桃花が話しかけるチャンスが出てくる。

 その夏希の考えは、ある意味正解だったのかもしれない。それは、もしかしたら、夏希にもともと人を束ねる才能があったためかもしれない。気が付けば夏希が考えている以上に、夏希はグループのリーダーになっていた。そして、夏希がもくろんだ通りに翔太との接点が増えた。

 ただし、それは桃花がではなく、夏希が、だが。

 どういうことかというと、リーダー格の話し合いというやつである。翔太としても夏希がリーダー格に収まっていることは承知しているらしく、個別にいくよりも夏希に直接持ってくる機会が増えた。そこから、また夏希は翔太のグループ掌握術を学んで、さらにリーダーとしての才能に磨きをかけていくのだが、それは余談だ。

 さて、目的であった桃花と翔太の接点であるが、これは夏希のおこぼれにあずかる形で夏希のもくろみ通りに増えていった。もしかしたら、家が近所であることも関係しているのかもしれないが。

 それは、保育園を卒園して小学校に入学してからも変わらなかった。

 幸いなことに翔太と彼女たちの進学先は同じだった。残念ながら、保育園の半分は公立の学校に入学してしまったが。こればかりは仕方ない。しかも、同じクラスになったのは、翔太と夏希と桃花ともう一人だけだ。もちろん、翔太と接点がさらに増えたのは言うまでもない。

 その間に、翔太との関係は変わることはない。小学校でもリーダーとしての地位を獲得した夏希は翔太とよく話す。むしろ、翔太が問題を振ってくることもあるぐらいだ。特に、女子の問題に関してだ。男子の問題に関しては翔太が処理しているようだが。

 男女間を気にするような年齢ではないのだが、翔太だけは異様だった。夏希としても、翔太が片付ければいいんじゃないか、と思う案件も多々あったが、「女の子の話は女の子同士のほうがいいでしょう?」という言葉でごまかされていた。しかし、それは悪いことばかりではなく、夏希のリーダーとしての地位を盤石なものにするのに一役買っていた。

 そんな風に翔太と夏希で男女の役割を分けていたのだが、男女の意識が出てくる三年生ぐらいになって問題が出てきた。つまり、女子の翔太から離脱である。いや、正確には翔太の都合のいい部分だけ利用しようというグループが出てきたことである。表面上は彼女たちのリーダーである夏希が従っているため翔太にも従っているが、まとまりが出てくれば、一気に離反して、夏希をやり込めるかもしれない、というところも出てきた。

 進級したての仲を深める四月に翔太が隣のクラスの高町なのはと仲良くしてたのもそれに拍車をかけていた。

 翔太の最大の強みは、その頭脳もあるが、どちらかというと個別に売っている恩なのだ。『仁』と言い換えてもいいのかもしれない。誰かの世話を焼いて、その恩で人をまとめている。それが蔵元翔太の人心掌握術である。

 もしも、これで翔太がもっと、その場にいるだけで人を従わせるようなカリスマ性―――たとえば、美少年と呼ばれる容姿など――――があれば、夏希もここまで考えなかっただろう。もちろん、ほかの女子に歩調を合わせて翔太をクラスの代表格から蹴落とすことも簡単である。いや、どちらかというと、そちらのほうが楽である。なぜなら、翔太に反旗を翻そうとしている彼女たちは、夏希を担ぎ上げようとしているからである。

 しかし、その思惑に乗らないのは、翔太のことを心配している桃花の存在があるからである。もしも、桃花が何も心配していなければ、夏希は翔太のことなど心配しなかっただろう。

 自分を担ぎ上げようとする女子たちご一行の思惑をのらりくらりと交わしながら、夏希は女子のグループへの翔太の心証を良くする策を考えていたのだが、そう簡単に思いつくものではなかった。

 翔太の特徴は、問題解決能力と公平な価値観と頭脳である。しかし、どれもこれも今更感が強く、売り出すには足りない。何か別の要素がなければ、女子たちが翔太を見直すことはないだろう。翔太が、一応はクラスをまとめている以上、表立った反応はない。しかしながら、水面下では、翔太への陰口なども出ていることを考えると、立て直しは急務だった。

 そして、その機会は、秋の運動会で現れた。

 運動会が終わった後の教室で、夏希は半分興奮していることを自覚しながら話しかけたそうに近づいてきているアリサ・バニングスを押しのけて、翔太に話しかけた。

「ショウっ! すごいじゃないっ!」

 夏希が言っているのは、運動会で見せた翔太の走りのことである。半ば諦めかけていたところからの大逆転劇。忘れろというほうが無理だった。

「―――あはは、ありがとう」

 翔太も興奮しているのかと思いきや、彼はどこか冷めた様子だ。上の空といってもいい。一体どうしたんだろうか? と思いながらも、今は気にしないことにした。いま大事なことは、クラスにいる女子の大半が聞き耳を立てていることである。翔太への注目度が高いことを示しているのだから。

 その中で、夏希は今日のことを聞くために明日のお昼を一緒に食べる約束をした。詳しい話を聞くために。

 夏希がかけたエサはあっさりと引っかかってくれたようだ。翔太と一緒にお昼を食べたいと言ってきた女子のグループが数グループ。その中には、今まで翔太と距離を取っていたところがあったグループもあった。おそらく、彼女たちを親翔太よりにすれば、残りもなびくだろう。数の暴力とはよく言ったものである。

 もっとも、これも早いうちに実行しなければならない。鉄は熱いうちに打てというが、この場合もあてはまるだろう。今は運動会の空気に酔っているところもからこその興奮なのだ。それが覚めてしまっては意味がない。おそらく、今週までが勝負だろう、と夏希は睨んでいた。

 もっとも、一番酔っているであろう隣を歩いている親友を見れば、一か月後でも大丈夫ではないのだろうか? と思ってしまうのだが。

「今日のショウくんすごかったよねっ!」

 興奮気味に話す桃花。もちろん、夏希にだって理由はわかる。あの瞬間は、誰もが興奮していただろうから。もしも、桃花がもう少し冷静だったら、夏希ももうちょっと興奮していたかもしれない。今こうして冷静なのは、おそらく桃花を反面教師として見ているからだ。

「ねえ、夏希ちゃん、明日、ショウくんと一緒にお弁当食べるんだよね?」

「うん、そのつもりよ」

 その際には、おそらくもう4、5人増えることになるだろう。

「だったら、私も一緒にいいかな?」

「もちろんっ! あたしと桃はいつも一緒に食べてるじゃないっ!」

「そ、そうだよね」

 どこか、よかった、と安堵の息を吐きながら桃花は安心したような表情を浮かべていた。そのことを疑問に思う夏希。まさか、自分が世話を焼かなくちゃ、と思っている親友から、まさか今日のことで翔太を好きになってしまった、と勘違いされかけていたとは、微塵も思ってみなかった夏樹だった。

 夏希は桃花が自分と食べることよりも、翔太と一緒にお昼を食べることに喜んでいることに対して腹立たしく思いながらも、桃花が喜ぶなら、まあ、いいかな、と考えるのだった。

 結果から言えば、夏樹のもくろみは成功していた。蔵元翔太という人間は、一度しっかりと向き合って話してみれば、感じのいい人間だ。話しやすいというか、余裕があるというか、そんな空気を持っている。だからこそ、今まで話したくない、同じグループの誰かが嫌っているという理由で翔太を敬遠していたグループが次々と夏樹の派閥に入ってくることになっていた。

 さらに思わぬ副産物まで見ることができた。翔太も女の子に対する影響力に懸念を持っていたのか、唯々諾々と夏希に従う翔太だった。それを歯痒そうに見てくるアリサ・バニングスの姿だ。その隣には、微笑みながらものすごい圧力をこちらに向けてくる月村すずかの姿もあったような気がしたが、それは気にしてはいけないような気がした。

 月村すずかのことは気にしないにしても、アリサ・バニングスの顔は滑稽だ。

 今まで、翔太は、女の子に関しては夏希に丸投げで、大変な時を除いてはほとんど不干渉だった。だが、それでも例外がいた。それがアリサ・バニングスだ。そもそも、一年生のころからアリサに対しては翔太の態度はおかしい。一年生の頃はさりげなくグループを作るように誘導していたというのに、アリサに関しては夏希に直接頼んできたのだから。

 夏希とアリサは、性格の不一致から不仲になってしまったのだが。思えば、それが最初の翔太の失敗ではないだろうか。こんなやつ孤立すればいいんだ、と夏希は思ったものだ。確かに夏希がそう思ったのは、アリサの強気な性格的なところもあったかもしれない。だが、それよりも目を引いたのは、金髪と日本人にはありえない白い肌だろう。直感的な部分で、女としての本能的な部分で、夏希は、アリサを敵と認定していたのだ。おそらく、クラスのほとんどがそうだろう。だからこそ、彼女は入学してすぐに孤立していたのだから。

 だが、それを翔太だけが気にかけた。彼女だけを特別扱いするように。夏希は、最初からそれが気に食わなかったのだ。どうせなら、桃花を特別扱いしてあげなさいよ、と何度思ったことか。なにせ、今や数少ない保育園のころからの友人なのだから。

 だが、今回、アリサの口惜しそうな顔を見ることができて、三年間の積年の思いが思わず笑みが浮かんでしまうほどに少しだけ溜飲が下がる思いだった。



  ◇  ◇  ◇



 エイミィ・リミエッタは、第九十七管理外世界の地球から戻ってきたクロノが何も言わずに黙々とものすごいスピードで仕事を片付ける姿を、自分の仕事を片付けながら横目で見ていた。

 傍からみれば、その姿は懸命に仕事を終わらせようとしている執務官の姿だろう。しかしながら、クロノ姿をよく知るエイミィからしてみれば、クロノの今の様子はただ単に苛立っているようにしか見えない。正確に言えば、仕事に八つ当たりしているといっていいだろうか。

 なぜ? と聞くまでもない。クロノが今の作戦に納得していないのは知っている。それにも関わらず彼は、執務官という立場で作戦を進めなければならない立場にいる。それだけならば、ここまで彼が苛立つことはなかっただろう。彼を苛立たせているのはもっと別の要素だ。

 作戦を進めるうえで二人の民間協力者を雇うことにした。先の事件に関係していた高町なのはと蔵元翔太だ。なのはは戦力として、翔太は作戦の目標でもある八神はやてとの橋渡し役として雇っていた。彼らには、当然作戦の目的も話している。

 ―――最後の一線を除いては。

 つまり、最終目標である八神はやての時空牢への凍結処置のことである。もっとも、教えればあの翔太のことである。反対するのは目に見えている。それが友人ならなおのことだ。だからこそ、伏せている。それに知っていて、彼を納得させたとすれば、翔太はこの作戦に加担したという罪悪感を持ってしまうことになる。

 時空管理局の都合で巻き込むのにその処遇は考えられない。だからこそ、内緒にするのだ。『僕は知らなかった』『彼らが勝手にやったことだ』と時空管理局に矛先を向けさせるために。もしかしたら、彼は時空管理局を憎むかもしれない。しかし、それは覚悟のうちだ。自分を責めるよりもましだろうと考えている。

 最高の結末は、クロノが水面下で動いている計画が実を結ぶことであるが。

 これに関しても、必要以上に人員をつぎ込むことはできない。クロノが時空管理局の評議会で可決された作戦に不満を持って、それを壊そうとしているということを知られてはまずいからだ。最悪の場合、この事例から外される可能性もある。そうなってしまえば、この事案に関してクロノが手を出すことはできなくなってしまう。それだけは避けたいところだ。だからこそ、現地の民間協力者であるなのはや翔太には黙っている。

 現在、クロノが動いていることを知っているのは、クロノ、エイミィ、リンディ、そして―――

『クロノ執務官、お時間よろしいでしょうか?』

 エイミィとクロノしかいない部屋に第三者の声が響く。彼が、残りの一人であるクロノの個人的な協力者―――ユーノ・スクライアだった。

「ああ、大丈夫だ。定時連絡だろう?」

 そりゃ、あれだけのスピードで仕事をこなせば、終わるだろうね、とエイミィは思いながら無言で椅子をユーノが映っている画面に視線を動かす。ユーノが映る画面は、どこか違和感を覚える光景だ。どこに? と言われれば、答えは簡単だ。空中に本が浮かんでいるところだろう。

 もっとも、彼がいる場所を考えれば不思議な光景ではない。ユーノがいる場所は無限書庫。時空管理局の内部でも探して見つからない資料はないと言わしめる無限を冠する図書館だ。もっとも、『無限』の名前は伊達ではなく、まったく整理されていない本の山の中から目的の資料を見つけるのは至難の業である。あるところによるとチームを組んで三か月間無限書庫に勤めて資料を探し出したというのがむしろ幸運だというのだからその広さは推して知るべしというところだろう。

 そんな場所に一人で―――いや、最初はその予定だったが、今は異なる。今では総勢十人のチームを結成していた。ユーノの出身であるスクライア一族の子供たちで結成されたチームだ。もっとも、その内容は、非常に偏っており、男の子は三人―――うち二人は六歳というのだから驚きだ―――女の子が七人というチーム編成だった。しかも、女の子たちは、何か別の目的が透けて見える。面白そうだなぁ、とエイミィは思うのだが、下手に首を突っ込むと他部族の問題に手を出したことになるエイミィとしても不味い事態になるので自重している。

 彼らはわずか一か月の納期というある意味、人知を超えた領域に挑戦しようとしていた。もっとも、進捗を聞く限りでは、無謀ともいえないのだから探索を生業にするスクライア一族恐るべし、というところだろうか。

『その通りですよ。進捗状況は順調です。闇の書に関する情報も上がってきています』

 レポートはそちらに転送したとおりです、とユーノは言う。そのコピーは一応エイミィにも来ている。その内容を開いてみてみれば、確かに闇の書に関するまとまった資料が現れた。

『今のところ、グレアム提督から提出された資料に偽りはありません』

「そうか……」

 残念そうにつぶやくクロノ。

 本音を言うと、グレアムの資料に不備があり、凍結による封印処置を逃れられるのではないか、と考えていたのだ。しかし、グレアムは時空管理局内部では英雄と呼ばれる人物だ。資料の不備など期待するだけ無駄だったのかもしれない。

「それで、闇の書の前身というのは見当が付きそうなのか?」

『それに関してはまだ何とも言えません。今は、グレアム提督の資料の洗い出しをしている最中ですから』

 残念そうに言うユーノ。そう、最初にグレアムの資料を洗い出すことにしたのだ。確かにグレアムの資料を土台にすることは可能だ。だが、ある意味グレアムはクロノとは対極に位置する。妥協することにしたグレアムと足掻くクロノ。ならば、敵の資料を土台にすることなどできない。だから、最初に資料の確認から行っているのだ。

 一応、クロノとしても雇っている身として一日一回の定時連絡を入れているが、最近の進捗はグレアムの資料の確認という目に見えた進捗がわからないだけに落胆してしまう。

「わかった。引き続き作業を続けてくれ」

『あ、いえ、一つだけ朗報です』

 ユーノがいなければ作業がさらに遅れてしまうと判断したクロノが通信を切ろうとした直前にユーノがもったいつけるように通信を切るクロノの手を止めさせた。

『グレアム提督の資料に意図的かわかりませんが、抜かれた部分があります』

「それは――っ!!」

 クロノは期待したようにユーノに先を促す。もしかしたら、逆転の一手になるかもしれないからだ。

『闇の書が暴走する直前に姿を現す女性の姿です』

「……守護騎士とは違うのか?」

 闇の書には守護騎士が存在する。闇の書と主を外敵から守るAランクを誇る騎士だ。その強さは、経験もあいまってか強いと一言でいえるほどだ。彼らとは例外的に存在する女性がいるとは確かにクロノも聞いたことはない。

『違うと思います。守護騎士が現れるのは覚醒の第一段階です。だが、彼女が現れるのは必ず闇の書が完成し、暴走する直前です。そして、もう一つ奇妙な事件の記録があります。完成した直後に主の姿がその女性に変わったというものです』

「それが意味するところは?」

 もしかしたら、それは何かを変えられる一手ではないかとクロノは期待してユーノに答えを求める。もっと、理論的であれば、クロノも答えを導き出せたかもしれないが、資料も手もとにない以上、それ以上は無理だった。だからこそ、ユーノに答えを求めていた。

『―――おそらく、闇の書はユニゾンデバイスです』

「ばかなっ!」

「うそっ!?」

 クロノとエイミィが同時に驚きの声を上げた。それほどの衝撃なのだ。ユニゾンデイバスというのは。ユニゾンデイバスは失われた技術だ。存在は知られているが、その技術は失われて久しい。はるか昔の大戦では使われたとは聞くが、ロストロギアとして残っていない以上、見ることができない技術だろう。

「……なるほど、それが事実とすれば……」

 衝撃の推測を聞いた直後は驚いたが、クロノはすぐに思考を取り戻し、今までの調査結果などから可能性の糸を手繰り寄せる。ぶつぶつつぶやいているのは考えをまとめるためだろう。そして、すぐに考えがまとまったのか、ユーノが映るスクリーンに向かって顔を上げる。

「わかった。君はその確証が得られるような資料と引き続き資料の捜索を行ってくれ」

『承知しました』

 それでは、また明日、と言ってユーノは通信を切る。

 しばらくは、今受けた衝撃から立ち直ることができなかった。しかし、やがてゆっくりとクロノはエイミィのほうを向く。

「―――わずかだが光明が見えてきたぞ」

 先ほどまでの苛立ちはどこへやら、うれしそうに笑うクロノを見て、エイミィは、できれば無事に解決策が見つかって、円満に事件が解決しますようにを祈るしかなかった。



  ◇  ◇  ◇



 アリサ・バニングスは、すでに切ってしまった携帯電話を片手にどうしよう、どうしよう、と未だかつてないほどの不安に襲われていた。電話の相手は、アリサが親友と思っている蔵元翔太だった。だが、アリサが一大決心をして誘った遊園地への誘いを断ってきたので、思わず堪忍袋の緒が切れて『もういいわよっ!』という言葉とともに切ってしまったのだ。

 アリサにとって、今回の遊園地は、最近、縁遠い翔太と前のように仲良くするためのきっかけにする予定だった。

 夏休みに居場所も告げずに二週間もどこかへ旅行へ行き、夏休みが終わったかと思えば、今度は運動会で目を見張る活躍をし、そのおかげでアリサたちと過ごす時間が少なくなってしまった。正確に言えば、分母が増えたため、アリサたちと遊ぶ時間が減ってしまったということろだろうか。

 確かに塾などは翔太と同じクラスだ。ほかのクラスメイト達はいくら第一クラスとはいえ、聖祥大付属小と同じ学力順になっている塾のクラスで、アリサたちと一緒のクラスになれるほどの学力を持っていない。しかし、塾は遊ぶところではない。勉強するところだ。翔太もそれを重々承知しているのか授業中にお喋りなどせずに勉強している。必然的に翔太と話せる時間は行きと帰りの短い時間になってしまう。

 ちょっと前は、それに週に一回は必ず昼ごはんの時間に一緒に食べていたが、最近は、アリサの天敵ともいえる夏希のせいだ。最近は、あいつが翔太と一緒にご飯を食べる相手を決めている。翔太も翔太で、断ればいいのにほいほい従うのだから腹立たしい。

 しかも、休日の英会話教室だって、運動会で活躍したのがまずかったのか緑川FCというサッカーのチームに誘われてしまい、そちらに顔を出すことが多くなってしまった。アリサは当然、断ればいいじゃないっ! というのだが、翔太は申し訳なさそうな顔をして、アリサに謝るのだ。

 そう言われては、アリサも強くは言えない。そもそも、翔太の行動を決めるのは翔太であり、アリサではない。もし、無理を言って、わがままを言って翔太に嫌われたら……そんなことを考えてしまうと胸が張り裂けそうな不安に襲われ、それ以上強くは言えない。

 せいぜい、今度の休みはあたしと遊びなさいよっ! と捨て台詞のように言うしかなかった。

 しかし、その約束もサッカーの試合のせいで反故にされてしまうのだが。一応、約束を覚えていたのか、サッカーの試合には誘われたものの父親とは異なり、サッカーのルールをろくに知らないアリサからしてみれば、退屈なことこの上なかったが。もしも、翔太がもっとゴール前へ行くようなポジションだったら話は別だろうが、ゴール前はゴール前でも自分のゴール前なのだから仕方ない。マネージャーさんは、翔太をほめていたが、何がすごいのか全く理解できなかったアリサだった。

 そして、気付けば、あと一か月もすればクリスマスという時期になってしまった。去年は、あんなに楽しかったのに、三年生になってから何かいろいろと歯車がずれてきているような気がする。だから、そのずれを直すために誘った遊園地だったのに。前のように仲良く、遊べるような仲に戻ろうとアリサにとっては一大決心をしたのに、翔太はあっさりとそれを袖にした。

「翔太のバカ……」

 そうは強がってつぶやいてみるものの、心の中を占めるのは不安だけだ。

 確かにアリサは気が強い。だが、翔太にあそこまで一方的に怒鳴ってしまったのは初めてだ。なぜなら、翔太がいつも一歩引いていたからだ。アリサに気を使っていたからだ。だからこそ、アリサがそこまで怒鳴ることは今までなかった。

 そうであるからこそ、アリサには翔太の反応が読めなかった。もしかしたら、自分が怒鳴ったことでアリサに嫌われたと思っているのかもしれない。もしかしたら、アリサのことなんて知らない、と怒っているのかもしれない。翔太が怒っているところを想像できないアリサだったが、翔太が怒るという可能性を否定できなかった。

 ならば、電話をかけなおして、謝るべきだと思うだろう。それは正論だ。早いほうが傷は浅い。だが、小学生であるアリサはそれに気づかない。翔太がもしも、自分にあきれていたら、怒っていたら、そう考えるとディスプレイ上には蔵元翔太という名前が浮かんでいたとしても通話ボタンを押すためのあと少しの勇気が足りない。強気だが、脆く、弱い少女には、十分な勇気がなかった。

 プルプルと指が震える。もしかたら、さっさとこのボタンを押して、電話をして謝ればいいのかもしれない。でも、もしも……もしも、「僕も、アリサちゃんなんて知らないよ」なんて言われたら。それは、アリサのたった二人しかいない親友の一人を失うことと同義だ。もちろん、翔太はアリサを無視したりはしないだろう。だが、前のように仲良くなりたいというアリサの願いは永遠に叶わなくなるだろう。

 ―――ど、どうしよう。

 あの発言を後悔しているアリサだったが、言ってしまった言葉は取り消すことはできない。

 どうしよう、どうしよう、と頭を悩ませるアリサの目に携帯電話に登録された家族と翔太以外のもう一つの名前を見つける。

 『月村すずか』

 アリサのもう一人の親友だった。

「そうだっ! すずかなら」

 アリサよりもおとなしい少女。強気な自分とどうして気が合うのかわからないが、それでも二人は親友だった。アリサの中でこんな話ができるのは、翔太を除けばすずかしかいなかった。

 急いですずかの番号を選んで、通話のボタンを押す。2、3回後のコール音のあと、がちゃっ、という電話に出る音が聞こえた。

『どうしたの? アリサちゃん』

「あ、すずか? あの……実は―――」

 向こう側のディスプレイにはすでにアリサの名前が出ていたのだろう。すぐにアリサの名前を呼ぶすずか。アリサは、すずかの対応に甘えるようにすずかの名前を呼んだあと、すぐに事情を説明した。

『アリサちゃん、それはダメだよ』

 はぁ、とあきれたように言うすずか。

「わ、わかってるわよっ! でも……あの時は、そのぐらい怒ってたのよ」

 そう、アリサにだってわかっている。翔太が、苦労してとったチケットを無駄にするような人間ではないと。それなのに断ったのには、よっぽどの理由があるということも。だが、それを理解しても、なおアリサには許せなかったのだ。自分の一大決心がすべて否定されたような気がして。だからこそ、怒鳴ってしまったのだ。

『それで、アリサちゃんは、どうしたいの?』

「あ、あのね、ショウは怒ってないかな?」

 それがアリサにとって一番の懸念事項。もしも、すずかが『怒ってないんじゃないかな?』と答えてくれたなら、その言葉を、アリサにとって足りない少しの勇気に変えて翔太に電話しようと思っていたのだ。だが、いつまでたってもすずかからアリサが期待している言葉は返ってこない。

『う~ん、わからないね。もしかしたら、ショウくんでも怒ってるかも……』

「そ、そんな……」

 それは、アリサが聞きたい答えとは対極に位置していた。だから、思わず情けない声を出してしまったのだ。翔太は怒ってしまったのだろうか、もしかして、自分は嫌われてしまったのだろうか、と。

 そんなアリサを救うようにすずかが、言葉を続ける。

『それじゃ、明日、それとなくショウくんに私が聞いてみるよ』

「ほ、本当!?」

 それは、アリサにとって救いだった。怒ってなければいいのだが、とは思うが。もしも、最初から怒っていることがわかっていれば、それなりの誠意の見せ方だってある。アリサにとって翔太は失いたくない親友なのだ。だからこそ、どんなことをしても許してもらうつもりだった。

 だが、ここでアリサから電話をかけて、話すことさえ許してもらえなくなったら、謝ることさえできなくなってしまう。

『うん、もちろん。ショウくんとアリサちゃんのことだもの』

「うん、すずか。お願いっ!」

 それから、2、3言話して、アリサとすずかは電話を切った。電話を切ったアリサは携帯電話を枕元に投げ捨て、自分もベットに向かってダイブした。柔らかい布団がアリサを迎えてくれた。先ほどまでの憂鬱な気分はどこへやら。すずかが何とかしてくれると思うとアリサは先ほどの気分とは違って軽い気持ちになることができた。

「ショウのやつ怒ってなかったらいいな……」

 すずかが何とかしてくれる。そうはわかっていても、まだ少しだけ残っている不安がそんな言葉を口にしてしまう。そんな不安を振りかぶるように首を振って、アリサは翔太が怒っていないことを願いながら、今日という日に別れを告げる眠りにつくのだった。

 アリサの窓から見える空からは、冬も近づいた澄んだ空気の中で月だけが綺麗に輝くのだった。


つづく
























あとがき
 最後に笑うのは誰だろうか。



[15269] 第三十話
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/06/08 23:14



 クロノさんから護衛の仕事を頼まれた次の日の月曜日。僕はやや憂鬱な気分を背負いながら登校していた。理由は言うまでもないだろう。昨夜のアリシアちゃんとアリサちゃんのことである。アリシアちゃんにはあの後、質問攻めにあってしまった。たしかに、何も話さなかった僕が悪いわけだが。

 幸いなことにアリシアちゃんは、最終的には僕が護衛の仕事でしばらくの間留守にすることに納得してくれた。その代償は決して安いものではなかったが。内容は、僕がおそらく仕事を行うであろう1か月と同じだけの期間をアリシアちゃんを優先する券だった。つまり、30枚の『蔵元翔太フリー券』を渡すようなものだろうか。広告の裏に30分割したものに手書きで『蔵元翔太フリー券』と書くのはなかなかの仕事量だった。

 さて、問題はそれよりもアリサちゃんだ。昨日の電話の様子から察するに遊園地のことを非常に楽しみにしてくれていたと考えてもいいだろう。それを僕の都合が悪いとはいえ、断ってしまったのだ。もちろん、僕だって引けないことである。もう少し早ければ、僕だって対処できていたのだが、少し間が悪かった、としかいえない。

 しかし、ここで、時間調整はできないだろう。クロノさんの部隊の調整だって終わっているはずだ。それなのに、僕一人のわがままのせいでその調整を変えてくれとは言えない。それに、はやてちゃんを一人で残すのも問題だ。いくらなんでも、はやてちゃんが大変な時に僕だけが『遊園地に遊びに行ってきます』とはいえない。もしかしたら、はやてちゃんは笑顔で見送ってくれるかもしれないが、空気を読めと言われることは間違いないだろう。

 解決する方法があるとすれば、はやてちゃんも一緒に行くぐらいだろうか。遊園地も今は障がい者だって遊べるように工夫している。つい最近オープンした遊園地がバリアフリーになっていないとは到底思えない。しかし、この方法も行き先が普通の遊園地ならば一考の余地はあっただろうが、行き先が『海鳴アミューズメントパーク』では無理だろう。あれは、アリサちゃんのお父さんが株主だったからこそ手に入れられたものだ。今から一人追加なんて都合のいいことができるわけがない。

 つまり、僕はアリサちゃんに対してもアリシアちゃんのように納得してもらうしかないのだ。

 ―――はぁ、『フリー券』程度で納得してくれるかな?

 電話の最後の怒鳴り声が忘れられない。今まで似たように僕が用事で行けなかったことはあったが、あそこまで一方的に切られたのは初めてだ。昨日、電話することも考えたが、アリサちゃんが怒っているときに何を言っても怒らせるだけだ、と思って今日にしたのだが。それが裏目に出る可能性も否定できない。

 『怒り』という感情は、実はとてもエネルギーがいる感情なのだ。だから、一晩寝れば少しは和らいでいることを願いたい。もっとも、少しは和らいでいるかもしれないが、僕と見た瞬間に再発する可能性は十分に残っているから油断はできない。

 僕が有効的な手段を見つけられないまま教室に入ると既にアリサちゃんはすずかちゃんと一緒に来ているようだった。アリサちゃんの席で何かを話しているのを見つけることができた。しかし、それだけだ。アリサちゃんも僕に気付いたのだろう。視線が一瞬だけ合うと彼女は、ふいっ、と視線を外す。

 ―――まだ、怒っているのか……。

 怒っているということに関しては予想通りだったが、顔を逸らされるというのは意外とショックだった。しかし、落ち込んでもいられない。早いところ謝って機嫌を直してもらわなければ。アリシアちゃんのような小細工でうまくいくとは思えないが、埋め合わせはしなければならないだろう。僕のお小遣いでは海鳴アミューズメントパークは無理だから、別の場所を用意するべきだろうか。

 そんな風に自分の席で、うむむむむと悩んでいると僕より頭一つ分高い位置から聞きなれた声が降ってきた。

「ショウくん、お悩み?」

 上を向いてみると、先ほどまでアリサちゃんと一緒に話していたはずのすずかちゃんが僕の隣に立っていた。僕がよほど面白い顔をしていたのだろうか、彼女は僕の様子を見てくすくすと笑っていた。

「うん、まあね」

 もしかして、すずかちゃんは何も聞いていないのだろうか。だから、僕が悩んでいることに気付いていない? いや、そんなことはないはずだ。彼女たちは本当に親友と呼んでいい間柄だ。ありさちゃんは、何かあればすずかちゃんに言っているだろう。今回のことだって例外じゃないはずだ。

「すずかちゃんは、アリサちゃんから何か聞いていない?」

 僕がそう予想したのは、すずかちゃんが一人で来たことだ。いつもなら、アリサちゃんと一緒に来るのに、今日は一人で僕に話しかけてきた。だから、何かあるのだろうと予想したわけだ。僕の言葉が予想外だったのか、すずかちゃんは一瞬だけびっくりしたような表情を浮かべたかと思うとすぐに表情を取り繕って先ほどと同じように笑う。ただ、その笑みには少しの賞賛が見て取れた。

「すごいね、ショウくん。うん、アリサちゃんってば、ショウくんの様子が気になって仕方ないみたいだよ」

 まるで子どもを見守るお姉さんのように面白がって笑っているように思える。すずかちゃんの様子はともかく、僕からしてみればアリサちゃんのその反応は予想外だった。僕がアリサちゃんの様子を気になるならわかる。なぜなら、僕はアリサちゃんを怒らせてしまったからだ。しかし、アリサちゃんは、怒った側だ。しかも、何か悪いところがあったとは思えない。つまり、僕にはアリサちゃんが僕の様子を気にかけるような意味が分からないのだ。

「昨日、アリサちゃんに怒鳴られたんでしょう? アリサちゃん、それでショウくんが怒ってないか気になるみたい」

「なんで僕が怒るの? 悪いのは僕なのに」

 僕はアリサちゃんが心配する意味が分からなくて首をひねった。

「アリサちゃんが、ショウくんの用事も聞かずに怒鳴っちゃったからじゃないかな? 誰だって、正当な理由があって断るのは当然だよ。ショウくんだって、外せない用事なんでしょう?」

 どうやら、すずかちゃんはあらましを知っているようだ。それもそうか、彼女も一緒に遊園地に行くメンバーに入っているのだから。

「うん。これだけは外せないんだ」

 今年の四月のようなものだが、今回ばかりは外せない。ほかの用事なら都合をつけられるかもしれないが、こればかりは都合をつけられない。僕にも引き受けた責任があるのだから。

 だが、僕がそういうとすずかちゃんは、少しだけ難しい顔をした。

「う~ん、やっぱり。ショウくんが意味もなく断るわけないもの。でも……そうだとすると、しばらくアリサちゃんと話さないほうがいいかも」

「え? どうして?」

 僕としては直接アリサちゃんに話したいと思っているのだが。

「アリサちゃん、相当怒っているみたいだったから、もちろん、私に話すみたいに、つい怒鳴っちゃうことには自己嫌悪はしてるみたいだけど……ほら、アリサちゃん、どちらかっていうと直情傾向があるから、あとで後悔しちゃうってわかってても怒鳴っちゃう」

 確かに。アリサちゃんにはそういう傾向がある。アリシアちゃんと怒鳴りあうことも多いみたいだ。そのたびに、アリサちゃんは、僕に涙目で話しかけてくる。どうやったらアリシアちゃんと仲直りできるだろうか、と。もっとも、いつもは原因があるほうが謝っておしまいなのだが。

 それはアリサちゃんの性格なのだからそう簡単には治らないのだろう。

「ショウくんがいけるようになったら話は別だけど、このまま行けないならアリサちゃんもまたショウくんを怒鳴っちゃうかもしれないでしょう?」

 その可能性はないとは言い切れない。よほど楽しみにしていたみたいだし、もしかしたら、誤っても僕が『行くよ』と言わない限りは解決しないかもしれない。ごめん、と僕が謝るたびに怒鳴ってしまうかもしれない。もうすぐ3年となろうという彼女との付き合いが、その様子を容易に想像させた。

「そして、アリサちゃんはそのたびに自己嫌悪に陥っちゃう。だから、アリサちゃんのためにもショウくんは話しかけないほうがいいと思うの」

「でも……」

 そう、すずかちゃんの言いたいことはわかる。分かるが、僕が悪いのに謝りもしないのは、非常に心苦しいし、気持ち悪い。

「大丈夫。ショウくんの気持ちは、アリサちゃんにはきちんと私が伝えるから」

 任せてくれ、というような自信ありげな笑みを浮かべるすずかちゃん。その笑みを見ると任せてもいいかな? という気になる。確かにすずかちゃんの心配ももっともだ。僕が話しかけることでアリサちゃんが怒鳴って、自己嫌悪に陥って、僕は責任を感じて謝って、アリサちゃんはまた怒鳴って、と無限ループが発生することも考えられないわけではない。

 それを回避するには別の行動をとることが必要だ。

「……お願いしてもいいかな?」

 もしかしたら、そんなことにはならないかもしれないが、無限ループは一度陥ってしまえば、なかなか抜け出せない。ならば、最初から避けるというのも一つの手だろう。

「うん、任せてよ」

 どん、と胸をたたくすずかちゃんは、満面の笑みを浮かべて僕のお願いを快諾してくれるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 クロノさんからはやてちゃんの護衛の仕事を頼まれてから一週間が過ぎようとしていた。季節は冬まっただ中の12月へと移行していた。

 最初は、どうなることか、と思った生活だったが、そんなに変わることはなかった。なぜなら、基本的に昼間は学校に行っているからだ。さすがに学校は休めないことをクロノさんに伝えると彼は快諾してくれた。どちらにしてもなのはちゃんも学校なのだから、その時間は彼らは資料の整理やほかの仕事に充てるとのことだ。

 護衛に関しても、その間はクロノさんが護衛の主任としてつくからむしろ僕がいないほうが護衛体制は万全というのはなんという皮肉だろうか。

 学校生活は、相変わらずと言っていいだろうか。アリサちゃんと仲直りもしたいのだが、なかなかタイミングがつかめない。すずかちゃんの言うとおりに距離を置いてみた。つい先日に遊園地へも行ったみたいだが、彼女とはいまだに話ができていない。僕が避けているのか、避けられているのか、なんとなくタイミングが合わないのだ。運動会を契機にして仲良くなった女子との間も切るわけにはいかないし、放課後は僕の用事がある。必然的にアリサちゃんとの接点が小さくなるのは仕方ないことだった。

 アリサちゃんもアリサちゃんで、何か言いたいことがあるのか、いつも僕に話しかけようとしてくるのだが、それをいつも邪魔されるのだ。本当にタイミングが悪いとしか言いようがない。何度か電話したのだが、彼女は決して僕からの電話には出てくれなかった。少なくとも、この護衛のお仕事が終われば時間ができるはずだから、その時には改めて話をしてみようと思った。

 それから、放課後の護衛任務だが、クロノさんの言うとおり、なんの変哲もない平穏を送ることができていた。学校から一度は帰宅するのだが、そこから今日の着替えを手にして、アリシアちゃんに見送られて八神家へと向かう。八神家ではクロノさんがいて、僕はクロノさんと交代する。時々、そこになのはちゃんを加えて、少しだけ会話した後になのはちゃんを見送ることもあった。

 そのあとは、夕飯をはやてちゃんの家で食べる。相変わらず八神家の食卓には僕たち以外に3つの食器が用意されていた。僕がいた一週間一度も使われなかった食器が。ただ、僕が来た時にはないから、毎日用意しているのだろう。そこに座る人たちが帰ってくることを信じて。

 食事が終われば、後は自由時間だ。はやてちゃんと一緒にゲームをすることもあれば、僕の宿題をすることもある。その時にわかったのだが、はやてちゃんは頭がいい。僕のような反則的な知識をもっていないとすれば、彼女もまた天才というべきだろうか。特に算数などは、僕よりも計算が早いかもしれない。僕だって、魔法を習ってから急激に計算速度が上がったのだが、それ以上だった。

 世の中には天才があふれているようで、嫌になってくる。

 自由時間の中で僕とはやてちゃんはお風呂に入る。一緒に入るというのは気恥ずかしいのだが、それは最初だけで慣れた。特にはやてちゃんは足が動かないので足場の悪いお風呂場は鬼門だ。だから、ヘルプが必要なんだ。そう自分に言い聞かせて一週間乗り切ってきた。僕も慣れてきたようで、今では目をつむってヘルパーとして働けるほどだ。

 ……僕って、護衛としてきたんだよね?

 夜、寝静まるころには僕は相変わらずはやてちゃんと一緒のベットに入って就寝する。なのはちゃんたちもこのころには戻っているはずだ。特に戻ってきそうな時間になって、毎日電話しているのだが、大体夜の9時には戻ってきているようだ。なのはちゃんの強さは知っているが、それでも心配してしまう。心配性と言われるかもしれないが、彼女たちの兄的な立場で接してきた僕としては当然だと思っている。

 毎回、はやてちゃんには訝しげな表情で見られるのだが、僕が電話するのが気に入らないのだろうか?

 そんな風にして、僕の一日は終わる。次の日は、八神家で朝食を食べて学校に行くだけだ。

 僕は、そんな生活がクロノさんたちが無事に任務を終えるまでずっと続くと思っていた。このまま、はやてちゃんと笑って毎日を過ごせる日々が終わるまでずっと続くと、そう信じて疑っていなかった。

 その『当然』がもろくて、儚いものだと悟るまでは。

 当たり前の日常が壊れるのは突然だ、とはよく言ったもので、それを事実と実感したのは、もうそろそろ一週間が過ぎようとしてるなぁ、とカレンダーを見ていたときだ。このとき、僕とはやてちゃんはすでに夕飯を食べ終えており、食後のティータイムとしゃれ込んで大した意味もなくバラエティー番組を映すテレビをつけていたときだ。

 違和感を感じたのは一瞬だけ。しかし、それだけで十分だった。その違和感は今まで十分に感じてきたものだったからだ。その違和感だけで何が起きたかを理解できた。そして、その不自然さも同時に理解できた。なぜなら、ありえないことだからだ。

 ――――魔法による結界に飲み込まれるということが。

 4月のユーノくんの結界に取り込まれたときと似たような状況と言えばいいだろうか。あのときは、魔法による不自然さしか感じられなかったが、今までの魔法の鍛錬が身についたのか今ではしっかりと違和感を感じられるようになっていた。

 何が起きてもいいように、いつも用心のために持っていたカードを手に握る。それは、クロノさんから手渡されたデバイス。前回使った汎用型の武装隊の隊長クラスが使うというデバイスではなく、クロノさんが愛用していたデバイス『S2U』。護衛を引き受けた時に、万が一のために渡されたものだった。

 クロノさんは、これを渡すとき、そんなことはないだろうが、と苦笑していた。僕もまさかそんな日が来るとは夢にも思っていなかった。一体どうしたのだろうか。八神家は武装隊によって護衛されているはずだ。もしかして、外部から誰かが攻め込んできて、結界を展開したのだろうか。それならば、まだいいのだが。そうだろうと決めつけるのは今までの経験からよくないと感じていた。

「な、なんや? どうしたんや? ショウくん」

 事情がよく呑み込めないのだろう。突然、ポケットからカードを取り出した僕を見て、はやてちゃんがうろたえていた。

 はやてちゃんは、魔法の素質は闇の書に魅入られるぐらいにあるのだろうが、それも鍛錬しなければ宝の持ち腐れなのだろう。才能はあれども、僕が容易く感じられる違和感を彼女は感じられない。何も感じない彼女からしてみれば、今の僕は突然立ち上がってカードを取り出したようにしか見えないわけだ。

 僕は、手短に事態を説明しようと思ったのだが、それはできなかった。なぜなら、説明するために口を開こうとした瞬間にこの結界を張った張本人たちが現れたからだ。

 闖入者が入ってきたのは玄関からリビングへとつながるドア。しかし、どうも闖入者は行儀はよくなかったようである。ドアをけ破って入ってきたのだから。

 無理やりドアをこじ開けたようにバンッという音を残して扉が外れる。突然の大きな音にきゃっ、と身を伏せるはやてちゃんと飛んでくるドアからはやてちゃんを守ろうと背にかばう僕。幸運にも飛んだドアは僕のほうへは飛んでこなかったが、その一連の動作の間に闖入者たちは、次の行動を終えていた。

 つまり、僕たちを取り囲むということだ。そう、闖入者は一人ではなかった。僕たちを囲むように五人。それぞれが杖のようなものを持っている。武装隊の人たちが持っているような杖であることから、それらがデバイスであることに間違いはないだろう。しかし、汎用のものではない。オリジナルのデバイスだった。

 背後にはやてちゃんをかばいながら僕は周囲を囲む五人を見てみる。彼らはたかだか子供を囲っているにも関わらず油断なく僕とはやてちゃんを見ていた。僕に背中にいるはやてちゃんもようやくこの状況に気付いたのか、怖がるように、恐怖から逃れるようにぎゅっ、と僕の服をつかんできた。

 僕が彼らを怖いと感じないのは、これまでの経験からだろうか。テロリストにも出会ったことがあるのだ。この程度であれば、一度は経験している。それになにより、僕がこの場所にいる理由が恐怖から遠ざけていた。この場所には、はやてちゃんの護衛でいるのだ。決して、友人として遊びに来たわけではない。だから、僕ははやてちゃんを護るためにも一人で怯えているわけにはいかなかった。

 リビングのソファーを間に挟んでにらみ合う僕たち。やがて最初に口を開いたのは僕からだった。

「……あなたたちは誰ですか? 生憎ながら、この家に土足で上がりこむような失礼な輩は招待した覚えはありませんが」

「―――はっ、肝の据わった小僧だな。そいつはすまなかった。我々もこの世界の作法など知らなくてな。なに、用事が済めばすぐに帰るさ」

 そう言って、僕に合わせていた視線を背後のはやてちゃんへと移した。その瞳はどす黒く沈んだ色だ。しかし、その奥からは激しく、強い意志を見ることができる。そんな視線に射抜かれて、はやてちゃんはビクンと体を震わせ、さらにぎゅっと強く僕の服をつかんだ。

「小僧、俺たちにそいつを―――闇の書の主を渡してもらおう」

 彼の言葉が総意であるように彼らが一人残らずうなずいた。

「いやだ……と言ったら?」

 僕の答えは意外だったのだろうか、あるいは予想通りだったのだろうか。彼は、面白いというような笑みを浮かべる。嘲笑にも見える笑みを。相手は確実に僕を格下に見ていることが明白だ。だが、それでいい。そうでなくてはいけない。この場から確実に逃げ出すためには、必要なピースの一つだった。彼らからしてみれば、僕たちは隅に追いつめられたネズミであり、彼らは猫のような感覚だろう。いつでも捕まえることができ、なぶることができる相手。それが、僕とはやてちゃんだ。

「そうだな―――悪者みたいであまり好きではないんだが……俺たちもこの機会を逃せないんでな」

 顎に手をやりながら考えるふりをする男。次の言葉は容易に想像できた。次の行動さえ予想できれば、こちらでタイミングを計ることはそんなに難しいことではない。

 ―――そう、彼らは『窮鼠猫をかむ』という言葉を知るべきである。

 彼の「いけっ!」という言葉と僕の「チェーンバインドっ!」という言葉はほぼ同時だった。すでに僕はクロノさんから受け取ったS2Uのバリアジャケットの展開は終わっている。S2Uという高性能なデバイスのおかげで僕の魔法はパワーアップしている。展開速度、強度、数のどれをとってもだ。だからこそ、こちらに向かって襲いかかってこようとしている彼らに合わせてチェーンバインドを展開することができた。

 残念ながら、その結果を見届けるようなことはなかった。僕は魔法を発動させた直後に背後のはやてちゃんを背負って、誰もいない背後に向かって駆け出したからだ。その先は窓を隔ててテラスが見えていた。しかし、悠長に窓を開けているような余裕は僕たちには残されていなかった。

 そのまま、スピードを落とさずに僕は窓に向かって突撃する。背後から、ちょっ! ショウくんっ!? と慌てるような声が聞こえたような気がしたが、気にしない。なにより、ここは結界の中で何が起こっても現実世界には影響を与えない。それにバリアジャケットに包まれている僕とフィジカルシールドで包んでいるはやてちゃんは、ガラスで怪我をすることもない。だからこそできる力技だ。

 窓をけ破って外に出る僕。だが、それ以上に対抗手段は見つからなかった。とりあえず、狭い室内では何もできないと考え、外に出たのだが、それ以上に僕にとれる手は実は何もない。結界を張っている魔導士を倒せば、この空間からは出られるかもしれないが、僕には魔導士がどこにいるかすらわからない。

 テラスに出て、そこに置いてある白いテーブルとイスがある場所まで出てきたのだが、これ以上何もできることがないのが現状だ。どうやら結界は八神家を包み込んでいるだけらしく、その境界線の外に出ることは僕の力技では到底無理だった。

「やれやれ、子どもと思って油断したか」

 ポリポリと頭を掻きながら男が出てくる。そのあとにぞろぞろとついてくる五人。どうやら、僕のチェーンバインドは時間稼ぎにもならなかったようだ。一応、僕の最大限の魔力を込めたもので、ある程度の人だったらかなり足止めできるとクロノさんにはお墨付きをもらっているのだが。

 つまり、彼らは『ある程度』では収まらないほどの実力者ということである。

「小僧、今度はもう逃げられないだろう? だから、最後にいうぜ。そっちの嬢ちゃん―――闇の書の主を渡しな」

「もう一度聞かれても答えは一緒です」

「わからねぇな。小僧も知ってるんだろう? 後ろの、お前さんが守っている嬢ちゃんが、破壊と殺戮を繰り返す闇の書の主だって」

 本当にわからないというような表情で男は言う。その表情は心底わからないと本気で悩んでいるようだった。

「ここにいる全員が、闇の書にかかわった連中だ。俺だって、前回の闇の書に親父とおふくろと妹を殺されたさ。幸いにして、今回はまだ動いていないみたいだが、いつ俺たちみたいなやつらを生むかわからない。だから、先に手を打つのさ」

 男の言葉にはやてちゃんが息をのんでいるのがわかったが、僕にははやてちゃんに構っているよう暇はなかった。それよりも、僕は理解した。彼らの瞳の奥にある強い意志を。そう、それでこそ、目の前の男はオブラートに包んではいるが、よくよく観察すればよくわかるではないか。

「……嘘ですよね。あなたが、あなたたちの奥底にあるのは、そんな大義名分じゃないでしょう? 復讐ですか?」

 彼の失敗は、僕に何もいうべきではなかったのだ。変なことを話すから僕に悟られてしまう。しかし、これは僕にとっては追いつめられた意趣返しであり、意味のないものである。事実、彼は僕に見破られたからといって取り乱すようなことはなかった。

「ふん、だからどうした。俺たちにはその権利がある。お前にはわからないだろうな。家に帰れば日常があると思って、昨日と同じ今日があって、今日と同じ明日があると思っていたあの頃に、突然血まみれの躯を見せつけられた時の気持ちが、憤りが」

 へらへらとした笑みの下にあるのはマグマよりも熱い怒りなのだろうか。その笑みを浮かべているには一度でも感情的になってしまえば、その感情の赴くままに動いてしまうからなのだろうか。もっとも、どちらにしても、僕にはあまり関係のないことだ。僕がやるべきことはたった一つだけなのだから。

「……僕にあなたの気持ちがわかるなんてことは言えません」

 僕は近しい人を亡くしたこともなければ、血まみれの躯も見たことがない。そんな僕が彼の気持ちがわかるなんて戯言は吐けない。

「だけど、例え僕があなたの気持ちを理解できたとしても僕がやるべきことは一つだけです」

 クロノさんから万が一と言われて渡された杖―――S2Uを構える。構えるといっても漫画を参考にしただけで、何かしらの杖術が使えるわけではない。単なる恰好だけだ。しかし、魔法を使う分には全く問題がない。

「はやてちゃんを護ります。それが僕の任務であり―――なにより、彼女は僕の友人ですから」

「はっ! 麗しき友情だ。だが、そんな見栄は無意味だよっ!」

 ああ、そうだ。無意味だろう。『ある程度』では収まらない魔導士が五人。対して、動けるのは僕だけ。勝負になんてなるわけがない。窮鼠が猫をかめるのは一度だけだ。真正面から戦えば、僕が勝てる可能性は冷静に見積もってもほとんどない。できるのは防御を固めての時間稼ぎだけだった。

「今度こそ、そいつを捕まえろっ!!」

 最後の時を教えるように大声で男が叫ぶ。目をつむりたくなる。だが、時間は稼がなければならない。護衛の武装隊の人たちがやられていたとしても、この異常事態にクロノさんたちが気付いてくれるまでは。気付いて、助けに来てくれるまでは。それまでは歯を食いしばってでも何としても守らなければならない。

 そう覚悟を決めた時だった。

 ―――僕と五人の闖入者の間に影が割り込んできたのは。

「そのお方に危害を加えるのはそこまでにしてもらおうか」

 それは例えるなら風だった。紫と紅の風。突風のように割り込んできた二つの影は、先頭に立って僕たちに襲いかかってきていた二人を一瞬でたたきのめした。僕が見えたのは一撃。二人とも腹に一撃。彼らの獲物は、西洋剣とハンマーという異色のものだった。

 西洋剣の女性は、ポニーテイルとスカートのように広がる甲冑が特徴的であり、もう一人のハンマーの少女と呼べるほどの背丈しかない彼女はゴスロリというようなふりふりのついた真紅の洋服に身を包まれ、エビフライのような三つ編みが特徴的だ。

 はやてちゃんを護る僕のように、彼らも獲物を一人は剣を鞘に納刀して、一人はハンマーを肩に担いで闖入者と僕たちの間に立っていた。彼らの足元に転がった闖入者はピクリとも動く気配はない。同時に襲いかかろうとしていた残りの三人は彼女たちが現れると同時に退いていた。どうやら、状況判断も並ではないようだ。

 しかし、僕は割り込んできた影の片方を知っていた。あの時、仮面の男に襲われた時に助けてくれたお姉さんだ。だが、僕以上に彼女たちを知っている人が身近にいた。

「シグナムっ! ヴィータっ!!」

 その声は歓喜にあふれていた。

 もしかして、彼女が言っていたうちの子というのは、彼女たちのことだったのだろうか。だが、それにしては様子がおかしい。はやてちゃんが彼女たちの名前を呼んだのに彼らは全く反応しなかった。人違いか? と思い詳しい話をはやてちゃんに聞こうと後ろを振り向こうとしたときに不意に近くの茂みが動いた。

「覚悟ぉぉぉぉっ!!」

 飛び出してきたのは一人の魔導士。距離も非常に近い。もしかしたら、僕たちが外に出てきたときに襲撃するために待ち構えていたのかもしれない。彼は一目散に僕の後ろにいたはやてちゃんに向かっていた。

 魔法は―――間に合わないっ! ならば、クロノさんのバリアジャケットがどこまでの防御力を持っているかわからないが、僕自身を盾にするしか……。

 そう思って僕ははやてちゃんんを抱きかかえるように守るのだが、いつまでたっても衝撃は来ない。どうしたのだろうか? と恐る恐る後ろを振り向いてみると、そこには僕と襲撃者を隔てるように白銀の盾が存在していた。

「―――油断するな、と言ったはずだ」

 そう言いながら、彼女たちと同様に僕と襲撃者を隔てる盾の前に出てきたのは、アルフさんのように蒼い尻尾を持った褐色の男性だった。彼は襲撃者をくだらないものを見るように見下した後、腹部にその僕の胴体ほどはあろう腕から繰り出される拳で沈めていた。

「ザフィーラっ!」

 またしても嬉々としたはやてちゃんの声。ザフィーラというのが彼の名前なのだろうか。どうやら彼らがはやてちゃんの家族というのは間違いないようだ。しかし、今までどこにいたのだろうか。少なくとも僕がいた一週間はいなかったはずだ。こんなに近くいたなら、あんなにはやてちゃんが待ち焦がれていることがわかっていれば家に帰ってきてもおかしくないと思うのだが。

 今、そのことについて考えるべきか迷った。だが、そうやらその疑問を考えるのは後になりそうだ。

「はっ、はははははっ! まさか、まさか、こんなところで会えるとは思えなかったぜっ! ヴォルケンリッタ―っ!」

 まるで待ち焦がれた恋人に再会したように闖入者の代表格の男は笑っていた。その下に隠していた復讐という黒い感情を今度は一切隠そうとせずに。彼はひとしきり笑うと彼自身も彼自身の獲物であろう杖を構えていた。

「このときをずっと待っていたっ! 俺の―――俺たちの日常を壊した報いをっ!!」

 それ以上の言葉は不要と言わんばかりに彼は襲いかかる。まるでそれが始まりの合図であるようにほかの三人も己の獲物を構えて同時に襲いかかる。この場所が戦場である以上、卑怯という二文字はないのだろう。それに彼女たちは倍の人数に襲われながらも、特に真紅の少女は笑っていた。足りない、この程度では足りないというように。

「はっ! 上等だっ! 誰に喧嘩売ったか教えてやるよっ!」

 勝負は本当に一瞬だった。『ある程度』以上の魔導士が束になっても全く相手にならなかった。

 ―――たった一撃。それだけで魔導士たちがつぶれていた。代表格の男も何がわからない、というように驚愕の表情を浮かべながら地面に横たわっていた。どうやら、息絶えているわけではなさそうだが、それでも確実に意識は失っていた。地面に転がる魔導士の数―――十五。どうやら、途中で襲撃してきたように八神家のあちこちに伏せていたようだ。もっとも、全員が地面に倒れており、八神家のテラスは死屍累々の様相を呈していたが。

「あら、もう終わっちゃったの?」

 死屍累々の庭に似合わないのんびりとした声が、テラスに響く。状況把握に手いっぱいの僕と残心をしている彼女たちの視線が同時に彼女―――モスグリーンのロングスカートの洋服に包まれ、ナースキャップのような帽子をかぶった金髪の女性に集まる。ただし、そののんびりとした口調とは別に片手に猫のように首根っこがつかまれた魔導士が何ともシュールだ。

「シャマルっ!」

 そして、今までと同じように喜びが隠せないといった様子のはやてちゃんの声。これで四人。食卓に用意されていたのは三人分だが、尻尾がある男性がアルフさんのようにオオカミになれるとすれば、これで全員なのだろう。

 彼らが、はやてちゃんたちの家族かぁ……とある種、関心しながら見ていたのだが、どうも様子がおかしい。それが一番顕著に表れていたのが最後に現れたシャマルさんだった。

 彼女は、怪訝そうな顔をして、ポニーテイルをしている女性―――シグナムさんに問いかける。

「ねえ、シグナム。彼女、私の名前知っているみたいだけど、あなたの知り合い?」

「いや、知らん」

「我にも心当たりはない」

「そういえば、こいつ、あたしたち全員の名前知っているみたいだったぞ」

 ……どういう意味だ?

 僕には状況がつかめていなかった。彼らがはやてちゃんの家族であることはほとんど間違いないと思っていたのだが、それは間違いだったのだろうか。そう思って、僕ははやてちゃんに事情を聴くために彼らに合わせていた視線をはやてちゃんに移したのだが、彼女はまるで信じられないものを見たかのように驚愕に満ちた表情をしており、は、ははは、と乾いた笑い声を出していた。

「みんな冗談きついわ。なあ、冗談やろ? みんなは闇の書の守護騎士で、私の家族やん」

 必死に、すがりつくように問いかけるはやてちゃん。その声からは冗談であってほしいと願っている様子だった。

 だが、彼らの答えは非情で無情だった。彼らは、お互いに相談するように顔を見合わせた後、怪訝そうな表情をして、全員が首を横に振る。その仕草だけで、彼女たちがあの一瞬で何を話し合ったのかよくわかった。もちろん、僕の口からははやてちゃんには伝えられないが。

 やがて、誰かが言わなければならないと思ったのだろうか、リーダーなのだろうシグナムさんが歩み寄ってきた。

「確かに私たちは守護騎士だが、闇の書などの守護騎士ではない。ましてあなたの家族でもない。他人の空似ではないか?」

「そんなことないっ! 私が私の家族を見間違えるはずないっ!」

 必死に呼びかけるはやてちゃん。だが、彼女の叫びは届かない。通じない。はやてちゃんとシグナムさんの間には絶壁があるように。はやてちゃんの言葉は彼女たちの間にある壁を越えることはできない。

「だが、現に私はあなたなど知らない。今日が初対面のはずだ。名前を知っていることには驚いたが……」

「嘘やっ! 嘘やっ! 嘘やっ!」

 シグナムさんの言葉を必死に否定するはやてちゃん。まるで、その言葉を受け入れてしまえば自分が壊れてしまうと言わんばかりに首を振りかぶって彼女の言葉を否定していた。否定するはやてちゃんの声は、もはや涙声だった。ずっと待っていた家族にようやく出会えたと思ったら自分を否定されたのだから、泣きたくなる気持ちはわかる。

 僕には彼女にどうやって声をかけていいのかわからなかった。それはシグナムさんも同様だったらしい。立ち尽くす僕とシグナムさん。その動きのない空間を動かしたのは、はやてちゃんが家族と呼び、シグナムさんが守護騎士と呼ぶヴィータという少女だった。

「お~い、シグナムっ! いつまでいるんだよっ! 人が来るぞっ!」

「……わかった」

 泣いている少女を置いていくことは気が引けるのだろう。若干、名残惜しそうにしながら、それでも振り返ることなくシグナムさんは仲間の元へと向かう。彼らの足元に展開されているライトグリーンの魔法陣は転送魔法だろうか。このままでは、彼らは転送して消えてしまう。魔法が使えないはずのはやてちゃんだったが、そのことは直感で悟ったのだろう。涙声のままで、動けないはずの椅子の上で必死に身を乗り出して、彼女たちをつかむように片手を伸ばして声を張り上げて叫んだ。

「シグナムっ!! ヴィータっ!! シャマルっ!! ザフィーラっ!! 待って!!!」

 だが、必死の少女の叫びもむなしく、彼らは一切の躊躇することなく、振り返ることさえなく緑色の魔力光に包まれ、その場からいともたやすくあっさりと退場した。

 しばらく、呆然と言った様子で彼らが消えた空間を見つめるはやてちゃん。やがて、ようやく彼らが消えたことを受け入れたのだろう。くしゃくしゃに涙でぬれた表情をさらに絶望を強くして、現実のすべてを否定するように叫んだ。

「う、嘘やぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 心が深く傷ついた少女の叫びが寒い冬の夜に響き渡るのだった。



  ◇  ◇  ◇



 闖入者が現れた夜。僕とはやてちゃんは相変わらず同じベットに入っていた。ただし、僕ははやてちゃんに背を向けてだが。いつもなら向き合って夜のお喋りに興じるところなのだが、今日ははやてちゃんの要望で背を向けていた。泣き顔を見られたくないらしい。

 闖入者の後処理は、彼らが消えた後に駆けつけていたクロノさんがやってくれた。襲撃者たちは全員クロノさんが引き取った。彼らの顔を見た時に驚いたような表情をしていたがいったいどうしたのだろうか? 僕への聴取は後日として、今日はゆっくりと休んでくれと言われた。もちろん、危険な目に合わせたこともしっかりと謝ってくれたが。

 幸いにしてはやてちゃんの家に被害はなかった。結界の内部だったからだろう。

 クロノさんが処理を行った後は、いつもの日常だ。もう一度お風呂に入って―――特にはやてちゃんは泣き顔でひどいことになっていた―――、ひどく動揺しているはずのはやてちゃんのためにホットミルクを作ったりして、今はこうしてベットに入っているわけである。

 いつも、大体僕のそばから離れがらないはやてちゃんだったが、今日は特にひどかった。体の一部がふれていないと不安なのだろう。僕が少しでも離れようとすると不安そうな、泣きそうな顔になる。僕が放っておけるわけもなかった。おかげでいつもなら隣り合って寝ているだけだが、今では後ろから抱き着くように一緒のベットに入っている。少女特有の体温の高さをパジャマ越しに背中に感じていた。

「なぁ、ショウくん、起きとるか?」

「うん」

 あれから言葉が少なかったはやてちゃんが初めて自分から話しかけてきてくれた。

「あんな私の家族の話聞いてくれるか?」

 家族というのは今日の彼らのことだろうか。そう思いを巡らしている間に無言を肯定と受け取ったのか、今まで家族のことについて語ろうとしなかったはやてちゃんが家族について語り始めた。

 まずは、あのポニーテイルのシグナムさん。彼女は、烈火の将というリーダーらしく、責任感があり、硬い性格であったそうだ。いつも自分を心配して、そして家族みんなを大切にしていたとうれしそうに語ってくれた。

 金髪のシャマルさんは、おっちょこちょいなお姉さんのような存在で、料理をさせると失敗することが多く、なぜか同じ調理法で作ったはずなのに全く違うものができるという魔法のような料理を作っていたと苦笑しながら語ってくれた。

 たった一人だけの少女は、妹のような存在だった。いつも元気で、自分が作った料理をギガウマッと言いながら口いっぱいに頬張る姿はリスのようで、微笑ましかった。いつも一緒にお風呂に入って、ベットも一緒で、とっても仲良しだったと語ってくれた。

 唯一の男性であるザフィーラさんは、実はオオカミで女世帯なのを気にしていつもオオカミの姿だった。だが、どこかで必ず見守ってくれるお兄さんのような存在でもあり、守護獣であることに誇りを持っていたと、彼を誇るように語ってくれた。

「自慢の家族なんだね」

 彼女の口調からそれをありありと感じることができた。

「そや。―――でも、今は一人や」

 あの時、シグナムさんから「あなたなど知らない」と言われたことを思い出したのか、はやてちゃんの声は震えていた。

「前は一人でも平気やったんや。でも、もう無理や。知ってしまったんや。みんなでいることの楽しさを。だから、もう寂しいのは嫌なんや。一人は嫌なんや」

 はやてちゃんは訴えるように言う。

 いつから一人だったのか僕は知らない。彼女がどんな気持ちだったか知らない。だが、一人がいやだ、寂しいのはいやだ、というのはしっかりと伝わった。そんなものは杞憂に過ぎないというのに。だから、僕は安心させるようにできるだけゆっくりと穏やかな声ではやてちゃんに話しかけた。

「大丈夫。はやてちゃんは一人じゃないよ」

「え?」

「今、君のために頑張ってくれている人がいる。クロノさんやエイミィさん……はやてちゃんは知らないかもしれないけど、アースラって船に君を助けるためにたくさんの人たちが動いてくれている。それに―――」

 そう、できれば忘れてほしくなかった。いや、案外、シグナムさんたちに思考が飛んでしまって気付いていなかったというべきなのかもしれないが。

「今、君が感じている体温は誰のもの?」

「―――あっ」

 ようやく気付いてくれたようである。

「ねえ、はやてちゃん、大丈夫だよ。彼らにだって何か理由があるのかもしれない。理由があってあんな態度をとったとしても。本当に彼らが忘れてしまったとしても、君は一人じゃない。少なくとも、僕がいるよ。君のそばに。僕ははやてちゃんの友達だからね。だから、大丈夫、安心して―――君は一人じゃない」

 孤独に震える少女を慰めるように。語りかけるように僕ははやてちゃんに告げた。君は一人じゃないよ、と。

 はやてちゃんがどんな表情をしているか、生憎背を向けている僕はわからなかった。

「……なぁ、ショウ君」

 だけど、その言葉が涙声で揺れていることから、大体彼女の表情を想像することは簡単だった。だが、指摘はしない。女性の泣き顔を指摘するのはマナー違反だといつか誰かに教えてもらったから。だから、僕は努めて平坦に返事をする。

「なに?」

「背中、貸してくれんか?」

「僕のなんかでいいのならどうぞ」

 そう、僕の背中程度で彼女の悲しみが和らぐのであれば、十分に使ってくれればいい。

「ありがとな」

 簡単なお礼。だが、それが彼女の限界だったのだろう。はやてちゃんは、先ほどよりも僕に強く強く抱き着いてくる。背中に感じるのは、濡れているような感覚。彼女のが泣いているのは明白だった。それに声を押し殺すような泣き声も僕の耳には聞こえていた。僕はそれを無視する。彼女が指摘されることを望んでいないから。

 八神はやてが泣いていることに気付いているのは、背中を貸している僕とカーテンの隙間から覗き込む冬の澄んだ空気のおかげではっきりと見える月だけだった。





つづく





[15269] 第三十話 裏 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/07/02 08:12



 クロノ・ハラオウンは幾度目かになる現状を理解できなかった。いや、理解したくなかったというべきだろう。何度も見ているが、理解したくないし、見慣れることもないだろう。いや、こんな光景を見ることがそう何度もあってたまるか。クロノ以外の護衛―――はたして必要があるのか甚だ疑問である―――の武装局員もそう思っているだろう。

 そんなことをクロノが考えているとはつゆ知らず円陣の真ん中で守られるように佇む少女が一人。集中しているのか少女―――高町なのはは、ピクリとも動かず純白のバリアジャケットを身にまとって桃色のデバイス―――レイジングハートを握っていた。

 場所は、とある管理外世界。いや、正確には時空管理局が管理できない世界だ。その世界は、人が管理できるような世界ではなかった。なぜなら、その世界の支配者は人ではなく竜だったからだ。

 なのはたちの世界では、幻想上の動物ともいえる竜。その存在を時空管理局は確認していた。場所によっては竜を神として祭っている部族もいるぐらいだ。さらに、魔法によって使い魔としての契約を結び、召喚する魔導士もいる。だが、そんなことができるのは、ある一定以上の知性をもった竜だけだ。残念ながら、管理ができないと判断されたこの世界の竜は、おちついて契約ができるほどおとなしい竜ではなく、また話し合いができるほどの知性も持っていなかった。さらに悪いことに人の三倍はあろうかという体躯で空を自在に飛ぶために進化したのだろう。内包している魔力は、ランクで言えば魔力ランクSを平均で持っている。つまり、弱肉強食を体現している世界で、普通の人間が太刀打ちできるはずもないのだ。

 見捨てられた世界―――『ロスト・ワールド』がその世界の名前だった。

 だが、だからこそ、今回のクロノの任務にはふさわしい。今、クロノの手元にある史上最悪のロストロギアである闇の書。その書に魔力を集めるための任務。最初は、かなり低レベルの世界で魔法動物から採取していたのだが、一体から採取できる魔力の効率が悪く遅々として進まなかった。

 『質より量』という作戦が取れれば何も問題はなかったのだが、魔法動物たちも自分たちが襲われるのだから必死で抵抗する。中には、魔力的には低くても、肉体的に強かったりして、それがさらに効率を悪くしていた。途中から最強の剣ともいえるなのはが参戦したが、それでも一匹当たりの量が低くて、しかも、なのはが参戦している時間も短く、やはり計画は進まなかった。

 どうしよう? と悩んでいたクロノ。もちろん、彼からしてみれば、ユーノ・スクライアに依頼している調べ物をする時間ができるため幸いともいえるのだが、作戦が進んでいなければ時空管理局側から文句を言われるのは間違いない。この段階まできて指揮官を交代するとは考えられないが、それでも万が一がある。最後までこの作戦に関わるためには、ユーノが調べ物を終える時間を管理局から目をつけられない程度に作戦を進めるという綱渡りのような行動が必要だった。

 しかし、その行動が今、崩れようとしている。やはり魔法動物からは採取の効率が悪い。だからといって、人からというのは言語道断だ。ならば、あとはもっと質が高い魔法生物から搾取するしかないのだが、戦力が足りない。防衛と搾取するまで攻撃する部隊。今の作戦でもぎりぎりの人員なのにこれ以上の無理ができるわけがない。

 少なくともクロノはそう考えていた。―――なのはから一言があるまでは。

「ねえ、全然進んでないように見えるけど?」

 突然、話しかけられてクロノは驚いた。クロノとなのはが話すことはあまりない。作戦の前に注意事項を幾つか述べるときぐらいだ。あとは、作戦の間は離れていることが多いため、必然的に会話は少なくなる。

 いや、そんなことはどうでもいい。今は、それよりも彼女の言葉の真意を探るほうが先だ。いや、探らずとも一目瞭然ではないか。今、クロノが手にしているのは魔力の採取を終えた闇の書。闇の書は採取した魔力量によってページに文字を印字していく。クロノには古代文字は読めないから何が書いてあるかわからないが。

 なのははもしかしたら、採取している間にずっと見ていたのかもしれない。それで文字が増えないことに疑問を持ったのだろう。

「ああ、この魔法生物たちではこんなもんだよ。大丈夫、このまま続けていけば終わるから」

 本当はかなり期間的にはピンチだ。だが、そんなことを本来は関係ないはずの少女に言えるはずがなかった。見栄なのかもしれない、もしかしたら、彼女よりも年上であることの意地かもしれなかった。だが、どちらにしても、この少女に泣き言や愚痴を言うわけにはいかなかった。

「……もっと強いやつから採ればいいのに」

「無理だよ。今の人員じゃけが人が出て作戦が回らなくなる。それに君への負担も―――」

「それなら大丈夫だよ」

「しかし……」

「大丈夫」

 断言するなのは。その瞳はぶれていない。確かな自信と確信がある意志のある瞳だった。確かに彼女は民間協力者だ。これ以上の負担は申し訳ない、かけたくない、と思う一方で、彼女の申し出をありがたいと思っている自分がいることに嫌気がする。もしも、自分がもっと強ければ彼女にそんなことを言わせることはなかったのに。

 おそらく、ここでクロノが拒否しても彼女は何度も訴えるだろう。その裏にどんな感情があるかクロノにはわからないが。ならば、クロノにできることはせいぜい彼女が無茶しないように見守り、全力で守ることだけだ。

 ―――そう思っていた時期もあった。

 ギャア、ギャアと特有の声で鳴く竜の声がクロノの耳に入った。ロスト・ワールドの支配者である竜を武装隊の面々が連れてきたのだ。その数九匹。一匹あたりの大きさが人の五倍はあることを考えれば、竜にちょっかいをかけて連れてきている武装局員たちは生きた心地がしないだろう。だからこそ、三人一組(スリーマンセル)で行動させているのだが。

 彼らはほぼ同時にクロノたちがいる地点―――つまり、なのはへ向けて竜をうまく誘導していた。この行動もずいぶん手慣れたものだ。それだけ繰り返しているともいえる。

「―――レイジングハート」

『All right My master』

 一匹の竜が彼女の射程距離圏内に侵入したのだろう。今まで静かに佇んでいたなのはは、静かに相棒の名前を呼ぶと杖を正面に構えた。同時になのはから解放された魔力の奔流が渦となって彼女の周囲を巻き上げ、風が逆巻き、先日まで結っていたはずのストレートの髪を静かに揺らす。しかし、これはポーズに過ぎない。レイジングハートと呼ばれた杖の宝石が彼女の得意とする射撃魔法の発射口だったのは、過去の話だ。彼女の砲撃魔法の発射口は、彼女の周囲に展開されていた。

 アクセルシュータのような魔力球。その周りを環状魔法陣が取り巻いている。その一つ一つがクロノ一人では太刀打ちできないほどの魔力が込められていることがわかる。それが九つ。それが今の高町なのはの発射台だった。

「目標補足(ターゲット・ロックオン)」

 桃色の魔力球が輝きを増し、周りを取り巻く環状魔法陣が高速で回転する。なのはから供給される魔力に反応しているのだ。武装局員というエサにつられた竜たちのうち勘のいい竜もいたのだろう。なのはの魔力に反応してすぐさまその巨体を反転させて逃げ出そうとする。だが、しかし、竜たちが踏み入れたのは、ひとたび立ち入れば逃げることができない死地だ。気付いたところですでに遅い。彼らはすでに捕捉されているのだから。

「ディバインバスター・ナインライブス」

 静かに口にされるトリガーワード。彼女がそれを口にすると同時に彼女の周りの九つの魔力球は特大の輝きを放ち、同時に彼女自身の胴体ぐらいはありそうな太さの桃色の砲撃を発射する。それは、既に捕捉していた竜たちに向かって真っすぐ突き進む。このときになってようやく逃げようとした竜もいたが、その行動は遅すぎる。なのはの方から反転する前に桃色の砲撃に貫かれ、その巨体を地面の密林の中へと沈めた。ドスン、ドスンと落ちていく竜たち。その数五匹。魔力への抵抗を持っているはずの竜の鱗さえ、なのはの砲撃の前には紙にも等しいようだった。

 残りは四匹。勘のいい竜たちが逃げ出したようだが。しょせん、それも無駄なあがきでしかない。彼女の絶対領域から逃げ出すためには踏み込む前に逃げ出すしかないのだが、彼女の領域の広さはそこら辺の魔導士では太刀打ちできないほどに広い。つまり、武装局員たちを追ってしまった以上、逃げ出す道はないと言っているのと同意である。

 そんなことを考えているうちに残りの四匹もまるでアースラから放ったような砲撃を受けて地面へと墜落した。

 魔力砲一発で竜を墜落させてしまう魔導士。現実を疑いたくなる情景だ。事実、最初はあんぐりと開いた口が閉じることはなかった。しかし、慣れとは恐ろしいもので、一回で九匹の竜を落としてしまう現実を受け入れてしまっている。武装局員たちも手慣れた様子で地面に落ちた竜たちにバインドをかけている。

 彼らも最初は浮足立っていたが、やがて現実を受け入れたのだろう。あるいは触らぬ神にたたりなしといったところだろうか。中には、その圧倒的な力にほれ込んでしまい、なのはを崇めるような武装局員もいたが、強さにあやかろうとしているだけだろう。そうだと願いたい。力という目に見えやすいものを信望する者はいつの時代にだっているものである。

 ああ、そんなことを考えている場合ではない。今は気絶しているが、早いところ闇の書に魔力を採取しなければ、彼女の頑張りも無駄になってしまう。竜一匹でかなりのページを稼げるのだ。おかげで、遅延はだんだんと埋められていっていた。もうすぐで最初に計画した通りにことが運ぼうとしていた。

 ―――このまま、ユーノが手がかりを見つけて終わってくれればいうことはないんだが。

 そう考えてしまったからだろうか。クロノが師匠であるグレアムから渡され、この作戦の切り札ともいえるデバイス―――デュランダルを通してクロノに緊急通信が入ったのは。

『クロノくんっ! 大変だよっ!!』

「どうしたんだ? エイミィ」

 慌てるエイミィの代わりにクロノは冷静に彼女に問いかける。彼女とてオペレータとしての期間は長いのだ。そんな彼女が慌てるような事態。相当なことが起きていることはわかるが、ここでクロノまで慌てることはできない。嫌な予感がよぎったがそれを隠して努めて冷静にクロノはエイミィに問いかけた。

『はやてちゃんの家に襲撃者っ! 護衛の武装隊は全員やられちゃったみたいっ!』

「なっ!?」

 嫌な予感は、嫌な形で的中してしまった。いや、なによりクロノは今の報告が信じられなかった。武装隊とはいえ、それなりの手練れを配置していたのだ。それに万が一に備えて八神はやての周囲にはリーゼロッテかリーゼアリアに護衛についてもらっている。彼女たちすら退けたとでもいうのだろうか。

 しかし、そんなことを考えるのは後だ。今は一刻も早くこの場所から八神家へ向かう必要があった。武装隊がやられたということは、残っているのは現地協力者の翔太だけだ。彼一人で武装隊を倒した連中にかなうとは到底思えない。だから、早く向かわなければ。

 そう考えて、武装隊をまとめてアースラへと帰還しようとするクロノに声をかけてくる者がいた。

「大丈夫だよ」

 振り返れば、そこに立っていたのは、竜をまとめて九匹落とすような大魔術を使ったのに平然としている高町なのはが笑っていた。

 クロノはなのはの言葉に混乱する。いったい、何が大丈夫なのだろうか。現実に、たった今、八神家は襲撃されているというのに。だが、高町なのははクロノの心配をよそにどこか確信を持ったように笑い、嗤い、哂い、もう一度だけ繰り返した。

「うん、ショウ君は絶対大丈夫だから」

 どこか確信を持った、どこか満足感を覚えるようななのはの笑みにクロノ・ハラオウンは言いようのない戦慄をなぜか覚えるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、緊急事態に驚き、慌てるクロノたちをしり目に一人だけ落ち着いていた。落ち着いている理由は至極単純だ。

 クロノにとって緊急事態であっても高町なのはにとっては緊急事態でもなんでもないからだ。そのための彼らだ。万が一にも備えている。事実、彼らからの反応を探ってもなんら危機感を抱くような状況ではなかった。万が一の手段をとるほどでもないの状況。つまり、なのはにとっては、日常に分類される程度の出来事なのだ。

 それどころか笑みが浮かんでくる。クロノが慌てているということは翔太にとっては危機的状況なのだろう。だが、その状況を救っているのはなのはの力だ。なのはが翔太を助けている。救っている。その事実だけでなのはの心は踊る。

 もっとも、なのはといえども『彼ら』がいなければクロノと同様に慌てふためいただろうが。

 なのはは思い出す。彼らと出会った―――もっとも後悔すべきあの日を。

 その日は、夏から秋にかけて変化しようとしているような日だった。夏ほど日が長いわけではなく、また夏のように暑いわけではなく、日が落ちれば肌寒いと感じることもあるような日だ。もしも、四季を感じることを雅だと思っている人であれば、季節の変わり目を感じられる絶好の日ともいえた。

 もっとも、季節などあまり気にしたことがないなのはにとっては単なる日常でしかなったが。そう日常だ。だから、なのはは日が暮れようとしている人気のない公園でお気に入りの翔太からもらったリボンをつけて結界を張った状態で魔法の訓練をしていた。

 夏のあの魔法世界で、翔太がテロリストに襲われてから、なのはの魔法の訓練にはより一層の力がはいるようになった。自分が近くにいながら翔太を傷つけてしまった事実が許せないからだ。もっと自分に魔法をうまく扱える力があれば、翔太は傷つかなかったのではないか。自分はあんなに絶望を味わうことはなかったのではないだろうか。その疑念が、なのはをより厳しい訓練へと駆り立てていた。

 今日は翔太と一緒の魔法の訓練ではない。そのことにやや気落ちを感じながらなのはは一人で孤独な魔法の訓練を続けていた。。最近は翔太と訓練する回数が減ってしまった。運動会で活躍したかららしい。なのはとしてはかっこいい翔太を見られたことは素直にうれしかったが、こうなるのであれば見られなくてもよかったかもしれない、と考えるようになっていた。

 しかし、そのことに翔太に対して何も言うことはできない。なのはは翔太がそう決めたのであれば、それに従うだけである。ストレスは溜まってしまうが、その分は魔法の訓練にぶつけている。もっとも、相手がいないため完全に解消できるとは到底言い難いが

 それになのはには今は、自分の髪を結っているリボンがある。翔太からプレゼントされたリボンが。これをなのはは毎日、小さくツインテールにした髪に結っている。このリボンをつけているだけでなのはには翔太が近くにいるように感じられて、リボンに触れるだけで少しだけ幸せな気持ちになれるのだ。

 そして、今日もいつも通りの訓練―――あくまでなのはにとっていつも通りであり、クロノに詳細を知られれば頭を抱えていただろう―――を終えて帰路に着こうとしたとき、『彼女』は突然現れた。

『Danger! Master! Intruder coming!!』

 突然のレイジングハートからの警告。しかも、内容は侵入者が現れたという物騒なものだ。しかし、その警告になのはは首を傾げる。そもそも、なのはが張った結界は魔力を持たないものを遮断する結界である。入ってこられるとしたら、それは魔力を持つ者に限られるはずである。そして、この町でその資格を持つのは自分と翔太の二人だけのはずである。四月のときにユーノの声に反応したのがなのはと翔太だけだったということを考えてもその通りであるはずである。そして、レイジングハートは翔太を侵入者とは呼ばない。翔太は、仮にもユーザ権限を持つのだから。

 侵入者からの挨拶は、高速で飛来する鉄球だった。

 あまりに物騒な挨拶。なのはは不意打ちに近いものを感じながらも、高速で飛来してきた鉄球を手をかざしてプロテクションを展開することで受け止める。高速で飛来してきて、それなりの魔力をつぎ込まれた誘導弾だったが、なのはからしてみれば、ビー玉が飛んできた程度にしか感じられない。余裕をもって、その場から後退することなく鉄球を受け止めるなのは。これが侵入者だろうか? と思っていたのだが、本命は鉄球の逆方向からやってきた。

 気配を感じて、振り返ってみれば視界の端に映ったは、なのはとあまり年齢の変わらないであろう少女だ。彼女は、ゴスロリと呼ばれる赤を基調とした洋服に包まれ、その姿にはあまりに不釣り合いなハンマーを構えていた。

 誰? となのはが考えている時間はなかった。なぜなら、彼女がなのはの視界の端に映った時には既に彼女は吼えていたから。

「テートリヒ・シュラークっ!!」

 振り上げたハンマーがなのはに向かって振り下ろされる。なのはがハンマーに向かって防御ができたのは日々の訓練のたまものであろう。少女の小さな体躯のどこからひねり出されたのだろうか? と疑問を持つほどの威力だったとはいえ、やはりなのはにとっては全く問題がなかった。防御は、特になのはが力を入れている魔法だ。そもそも、練度が異なる。レイジングハートとなのはによって改良を重ねられたプロテクションは、通常の魔導士であればあっさりと破壊されていたであろう威力のハンマーを軽く受け止めるだけの力を持っていた。

「なっ!?」

 なのはの反応は少女にとっても予想外だったのだろう。振り下ろしたハンマーを意に介さないなのはの様子を見て驚きの表情を浮かべた少女は、すぐさま攻撃を中断して後ろへと後退した。おそらく、戦い慣れているのだろう。不意打ちをあっさりと受け止めたなのはの実力を推し量って距離を取ったのだろう。

「……テメェ、あたしのテートリヒ・シュラークを受け止めるなんて、何者だ?」

 少女の問いになのはは何と答えていいのかわからなかった。なのはの所属を言えば聖祥大学付属小学校三年生だが、彼女が求めている答えはそんなものではないことは明白だからだ。だから、なのはが正体不明の彼女に対してどのように答えようか、と考えていたのだが、その前に相手のほうがしびれを切らしたようだった。

 手に持っている不釣り合いなハンマーを肩に担いで、彼女は諦めたようにため息を吐いた。

「まあ、テメェの正体なんてどうでもいい。あたしの目的はたった一つだ」

 すぅ、と肩に担いでいたハンマーを狙いを定めたようになのはに向ける。まっすぐと切っ先を向けられてなのはは少しだけ退いた。その様子を気圧されたとでも彼女は思ったのだろうか、野生の獣ような笑みを浮かべて彼女は彼女の目的を口にする。

「テメェの魔力―――いただくぜっ!!」

 彼女の宣言が第二幕の始まりだった。

 やはり最初の一撃は彼女からだった。彼女が自分の目の前に展開したのは四つの誘導弾だ。スーパーボールよりも一回り大きな鉄球を彼女は目の前に並べる。それらがすべて浮かんでいるのは魔法の力だろう。

「シュワルベフリーゲンっ!」

 それが魔法のトリガーワードだったのだろう。同時にゲートボールのように誘導弾を打ち付ける。ハンマーによって力を与えられた誘導弾は先ほどなのはを襲った誘導弾のようにまっすぐなのはに向かって襲ってきた。

 未だに状況についていけないなのはは、とりあえず身を守るためにプロテクションを展開した。

 四つの誘導弾は、まっすぐ向かってくるだけの魔法ではなかったのだろう。誘導弾の名前に偽ることなく、なのはのプロテクションにさえぎられる前に方向を変え、回り込むようになのはを襲う。本当ならなのはも全方位型の防御魔法を使えればよかったのだが、ほとんどをバリアジャケットで防いできたなのははシールドのようなプロテクションは展開できても全方位型の防御魔法は展開できなかった。

 なにより、なのはがこの状況にいまだに戸惑っていることが災いした。

 確かになのはは、今まで魔法を使った戦いを経験してきた。だが、それらはすべてジュエルシードの暴走体や翔太を狙ったフェイト、プレシア、テロリストなどだ。つまり、なのはの戦いにおいてはすべて間接的に翔太が関係しており、なのはが単独で戦ったことはなかった。だからこそ、今の状況に戸惑っているのだ。なのはだけが狙われたこの状況に。

 しかし、だんだんとその混乱も収まってくる。襲ってくるのだから問答無用で倒してしまっても問題はないはずだ。だが、それでもなのはの中にあるある思いがそれを思いとどめていた。

 ―――ショウくんだったら……話を聞くのかな?

 なのはの友達である翔太であれば、突然襲ってきた相手に会ったらどうするだろうか? そう、今の状況のように赤子の手をひねるように容易に押さえつけられる場合だ。その場合、翔太ならばおそらく相手を止めて話を聞こうとするだろう。少なくとも問答無用でたたき伏せるようなことはしないはずだ。

 そもそも、なのはが翔太にあこがれたのは、蔵元翔太がなのはにとって理想ともいえる『いい子』だったからだ。その羨望は、彼に近づけて、友達になったと自負した今でも変わらない。そして、羨望は模倣を誘発する。つまり、翔太のようにふるまえば、翔太のようないい子になれるかな? という考えがなのはの中に思い浮かんだ。

 ―――あれ? あの子は……?

 赤い少女から話を聞こうとしたなのはだったが、気付いた時には彼女の姿は消えていた。ただなのはの周りには変わらず誘導弾が走っており、時折ピンボールのようになのはに弾かれるためのようにプロテクションに突っ込んでくる誘導弾があることを考えれば、この近くにいることは間違いないだろう。

 どこに行ったのだろう? と周囲を見渡すが、少女の姿は見えない。なのはが襲われた場所が自然公園であることも災いした。茂みなど隠れる場所はどこにでもあるからだ。近くにいることはわかるのだが、どこにいるのか分からない。なのはの兄である恭也であれば彼女の気配などすぐに探れるだろうが、なのはには無理な話だった。

 それに魔力を探知しようにも赤い少女が放った誘導弾がそれを邪魔する。縦横無尽に駆け回る誘導弾が彼女の魔力を発しており、チャフのような役割を果たしているのだ。

 この状況でもなのはの戦闘経験の不足が災いしていた。今までの敵は大体、魔法を正面から打ち合うような相手が多かった。あるいは圧倒的な力でねじ伏せるような状況だ。だが、相手は意思のある人間で、なのはがたたき伏せようとも思っていない相手だ。それに、魔力の量からいえば、なのはよりも少ない。経験からいえば容易に相手できるはずだった。圧倒的な力でねじ伏せられるはずだった。

 それはある種の油断と言ってもよかったのかもしれない。

 だから、なのはは気付くのが遅れた。近くの茂みから飛び出してきて、赤い魔力をまとったまま地面すれすれを走る赤い少女の姿に。

 最初に気付いたのは、なのはが持つ愛機―――レイジングハートだった。

 ―――Master!

 レイジングハートの珍しくせっぱつまったような警告。レイジングハートからの警告に反応して、今まで隠していた魔力を全開にして高速で近づいてくる物体―――いや、赤い少女というべきだろう。だが、振り返りながらもなのはは、彼女に対する反応がもうワンテンポ遅れた。彼女がぎりぎりまで地面すれすれを飛んでいたからだ。

 ここでもなのはの戦闘経験の希薄さが現れた。もしも、なのはが少しでも彼女の実家の剣術を齧っていたなら、すぐに反応できただろう。確かにレイジングハートの模擬戦闘を経験しているが、それでもしょせん機械が作った模擬だ。赤い少女が持つ数百、数千という戦闘の上に積み重ねられた戦闘経験は、なのはとレイジングハートごときの希薄な戦闘経験を軽く凌駕していた。

 なのはが地面から襲いかかってくる赤い少女に気付いて、バリアジャケットを緊急展開する。なのはの服が桃色の魔力光に包まれて、一瞬で聖祥大付属小の制服を意識したバリアジャケットに変化する。このとき、なのはの髪を結っているリボンは変化しない。通常は、バリアジャケット同様に変化するものだが、同じようなものを模したものをつける気にはならなかったのだ。

 なのはが振り返りながらバリアジャケットを緊急展開するのと地面すれすれを飛んできた赤い少女が先ほどとは逆に振り上げるようにハンマーを使って攻撃してきたのはほぼ同時だった。

 振り返りながら、少女からの防御を避けるために地面を蹴っていたなのは。後一瞬でも遅れていれば、赤い少女からの攻撃はなのはを捕えていただろう。もっとも、バリアジャケットを展開した以上、大けがになったとは考えられないが。

 赤い少女は、攻撃が届かなかったことを悔いているのだろう。ちっ、と少女の姿に似つかわしくなく舌打ちをしていた。なのはからしてみれば好機だ。今まで隠れていた少女を真正面からとらえることができたのだから。一瞬だけにらみ合う二人の少女。だが、赤い少女を視界に入れながらもなのははある場所に違和感を覚えた。

 それはなのはの右肩だ。どこかこそばゆい感覚を覚えていた。まるで美容院に行った後のような奇妙な感触だった。

 なんだろう? と思って右肩に触れてみれば、返ってきた感触はよく知っている感触だった。お風呂場でいつも触れている感触。母親譲りの栗色の細い髪。それが右肩にかかっていた。確かになのはの髪はセミロングともいうべき髪の長さだ。

 だが、リボンで結っているなのはの髪が肩にかかるはずがない。

 ―――え? あれ? なんで……?

 目の前に襲ってきた少女がいるにも関わらず現状が理解できないなのはは混乱の極地に陥ろうとしていた。混乱していて、目の前の少女さえ目に入っていなかったなのはに助け船を出すように答えが目の前に現れた。

 それは一本の紐だった。まるで強い衝撃を受けたようにぼろぼろになった一本の紐。それが上空からひらひらと、ひらひらと宙を舞っていた。そして、なのはは、そのひらひらと、ひらひらと舞っている紐に見覚えがあった。

 当たり前だ。なぜなら、その対となるべき、ぼろぼろになる前の姿と同じ姿をしたリボンはなのはの左についているのだから。毎夜、外したリボンを宝箱に仕舞うように母親から分けてもらった化粧箱の中に大事にしまっているのだから。それに何より、それは、初めての友達である蔵元翔太からプレゼントされたものなのだから。

 そんな大切なものをなのはが忘れるわけがない。

 ならば、ならば――――



 ―――ナンデ、ショウクンノリボンガボロボロナノ?



 答えはたった一つしかなかった。先ほどまでリボンは確かになのはの髪を結っていた。外れるとすれば、その原因はたった一つしかなかった。

「あ、あ、あああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!」

 もう二度と手に入らない大切なものを一瞬で失った悲しみは、一瞬でなのはの心を支配し、少女の口から悲しみの叫びを魔法結界の中に響き渡らせ、なのはを中心として急速に魔力を爆発させるのだった。



つづく



[15269] 第三十話 裏 中
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/08/05 23:49



 闇の書の守護騎士であるヴィータは言いようもない不安に駆られていた。その理由はわかる由もない。なぜなら、それは根拠のないものだからだ。ただ、この彼女の右手に収まっている黒い本―――彼女が守護するべき主が持つ闇の書を持っていると自然と心の底から湧き上がってくるのだ。

 ああ、確かに理由を探せば幾つだってその不安の理由を探すことができるだろう。最たる例を挙げれば、彼女が握っている闇の書がヴィータの大好きな主の命を蝕んでいる事実だ。その事実を放置することはできなかった。だから、こうしてヴィータは大好きな主―――八神はやてに守護騎士にはあるまじき嘘をついて、騙して、誓いを違えてまでも魔力の蒐集を行っているのだから。

 主のはやての体調は蒐集を始めてから元に戻っていた。相変わらず足は動かないが、それはもともとだ。今、ヴィータが手にしている闇の書が完全に起動すれば、そんな障がいはなくなる。そして、闇の書の蒐集自体は魔法生物と襲ってきた管理局員を返り討ちにしてリンカーコアから蒐集することで順調にそのページを増やしている。時間はかかるかもしれないが、それでもできるだけはやてとの約束を違わずに闇の書の蒐集ができる最善手だろう。

 そう、事の状況を考えれば順調なのだ。順調すぎるほどに。だが、それでもヴィータの胸の内の不安は消えることはない。むしろ、逆に胸の底から込みあがってくる不安は強くなっていく。それは順調すぎるが故の不安なのか、あるいは別の理由があるのか、ヴィータにはわからない。

 わからないからこそ行動する。事を達成した暁には、この不安が解消されることを願って。

 胸の底からこみあげてくる不安に蓋をしながら、今、ヴィータは闇の書を集めるために海鳴街の上空で気配を探っていた。探っている気配は、最近、ヴィータが感じている魔力の気配だ。その気配は毎日感じられるのだが、隠れているのか居場所が曖昧だった。その魔力の正体を探っている時間があるなら、ほかの次元世界で魔法生物を狩ったほうが効率がいいはずだった。

 その感じられている魔力が魔力ランクSクラスのヴィータとほぼ同等か、それ以上でなければ。

 もしも、見つけ出して魔力を蒐集できたなら、闇の書のページを一気に埋めることも可能だろう。

 その相手を探し始めて早一週間。相手も魔力を隠すことに長けているのか少しずつ範囲を絞っていくしかない。しかし、今日までにほとんど範囲を絞ることができた。そこを重点的に探せば――――

「見っけ!!」

 一週間探し続けた獲物をようやく捕らえることができた。曖昧だった反応もいまやヴィータは手に取るようにわかる。一度認識してしまえば、阻害魔法も意味がなかった。

 見つけたことに喜ぶことも少しの間だった。見つけるだけでは意味がない。彼、あるいは彼女から魔力を蒐集しなければ意味がないのだから。だから、ヴィータは自慢の愛機であるグラーフアイゼンを肩に担ぐと騎士甲冑とはとてもいない―――しかし、敬愛する主が作った騎士甲冑の真紅のスカートを翻しながら空を跳んだ。

 向かう先はもちろん、強大な魔力を持った人物の元。

 その場所へは意外と短い時間で到着した。それもそうだろう。同じ海鳴市内を空を飛んで移動すれば、直線距離となり自然と時間は短くなる。その場所は、ヴィータはあまり知らない場所だった。しかし、そこに張られた結界だけはわかる。バカげた魔力で張られたつたない認識阻害魔法は。

 この世界に魔法を使える人物がいたことは驚きだが、魔法の腕はそうでもないらしい。この認識阻害魔法を見て、ヴィータはそう思った。

 魔法を使う上で魔力というのは重要な要素の一つではある。だが、それだけでは意味がない。その魔力に見合う魔法の技術が必要なのだ。例えるなら、今、この結界の中にいる人物はF1カーに初心者マークをつけて運転しているようなものだろうか。スピードはでるだろうが、それだけ。ヴィータからしてみれば、雑魚に違いなかった。

 だが、それでも油断はできない。魔力が大きいということは、初級の魔法でも喰らってしまえば、大ダメージになってしまうのだから。だから、ヴィータが狙うのは、結界を破壊後の一撃必殺だ。もちろん、ガチンコでも負ける気はしないが、抵抗されるのは面倒だった。それに何より先手必勝、一撃必殺はヴォルケンリッタ―で切り込み隊長を担うヴィータがふさわしいと思っていた。

「いくぜ、グラーフアイゼンっ!」

『ja!』

 真紅の守護騎士は、愛機に呼びかけ、愛機は主に応える。

 それが、襲撃の狼煙だった。

 もともと、張られていた結界は強いものではない。おそらく、魔導士の襲撃を考えていなかったのだろう。単純に魔力を持たないものの認識を阻害する程度の結界だった。誰も近づかない、なんとなく近づきたくない、と思わせるような魔法だ。だから、一部分にしても破壊は容易だった。

 グラーフアイゼンの一振り。ただそれだけで、結界の一部の破壊に成功していた。

 結界内部に突入したヴィータが見たのは、結界の中心で魔法の練習をしている一人の少女。その姿が、彼女が護ろうとしている主とほとんど同じような年齢であることに対して攻撃の手を躊躇するが、それも一瞬だ。己がやらなければならないことを再認識して、ヴィータはが得意とする唯一の遠距離魔法と言ってもいい誘導弾を準備する。

「シュワルベフリーゲンっ!」

 グラーフアイゼンで打ち出された鉄球は、ゲートボールで打ち出された玉のようにまっすぐではなく打ち出したヴィータの意志の通りに無警戒の少女へと向かって一直線に向かい――――無警戒だったはずの少女が突然、振り返り防御魔法を張った。それは、ヴィータからしてみれば、単なる初級魔法に過ぎない。普通の魔導士が張った程度の防御魔法であれば、簡単に貫けたに違いない。しかし、目の前にいる少女は、少なくともヴィータと同程度の魔力を持つ魔導士だ。ヴィータの不意打ちともいえる魔力のこもった鉄球をいともたやすく防いでいた。

 そのことに対して驚愕するヴィータだったが、彼女の中に蓄積された長年の経験はヴィータを次の行動へと移らせていた。

 すなわち、誘導弾に紛れた近接戦闘へと。

 切り込み隊長の名にふさわしい速度で少女に近づいたヴィータは思いっきり鈍器にもなりうるハンマー型のアームドデバイスであるグラーフアイゼンを振りかぶり、吼えた。

「テートリヒ・シュラークっ!!」

 先ほどの誘導弾とは比べ物にならないほどの魔力を込めた一撃。先ほどのプロテクション程度であれば、砕けるだろうと思っていた。しかし、現実はヴィータの上を行く。

 渾身の力を込めたグラーフアイゼンは、桃色の障壁によって防がれていた。

「なっ!?」

 先ほどの誘導弾が受け止められた時のプロテクションを考慮に入れたはずの攻撃を防がれたヴィータは、驚きの声を上げると同時に少女から距離を取るために後ろに後退した。初心者と思っていたが、どうやらその認識を改める必要があるようだ。確かに魔法は初級程度しかない。しかし、その魔法はヴィータの魔法を受け止めるほど。つまり、それほどまでに洗練されているというべきだろうか。

「……テメェ、あたしのテートリヒ・シュラークを受け止めるなんて、何者だ?」

 油断せずにグラーフアイゼンを構えて問うヴィータ。だが、相手からの返答はない。ヴィータもそもそも期待していない。相手がベルカの騎士なれば、応えも期待できただろうが、目の前の少女は、一般人に近いといってもいい。先ほどから見える魔法陣もベルカ式の三角形ではなく、ミッドチルダ式の円陣だったのだから。

 しかも、少女はこちらに対する警戒というよりも、どこか困惑したような表情が見える。もしも、戦いの経験が豊富であれば、少女は迷うことなどないはずだ。なぜなら、ヴィータは明確な敵なのだから。

 圧倒的な魔力と技量。だが、経験は不足。なんともちぐはぐな印象を与える少女だった。

「まあ、テメェの正体なんてどうでもいい。あたしの目的はたった一つだ」

 そう、少女の正体なんてどうでもいいのだ。ヴィータがやるべきことはただ一つ。主からの信頼を損ねようとも、やらなければ、やり遂げなければならないこと。そのためになら命を賭すことすら躊躇しない。

「テメェの魔力―――いただくぜっ!!」

 それは宣言。これ以上迷わないための宣誓だった。

「シュワルベフリーゲンっ!」

 もう一度、ヴィータは誘導弾を展開する。しかし、これは急襲のためのものではない。少女が戦闘経験があまりないことを考慮した戦略だった。ヴィータは誘導弾を打ち出すと少女の周りを跳弾させるように操作した。そう、一つ一つの目的を明確化しないことで、少女の視点を奪った。少女の注意が自分から外れたことを確認して、ヴィータは公園の茂みの中に身を隠す。自らの小柄な身体を忌々しく思ったこともあるが、こういうときだけは役に立つ。

 茂みの中を移動しながらヴィータは急襲の時を待つ。茂みの中から少女の様子を窺えば、この期に及んでも彼女はどこか戸惑っているような、悩んでいるような、迷っているような感じだった。もしかしたら、彼女は心優しい少女なのかもしれない。ヴィータの主である八神はやてのように。

 一瞬浮かんだ考えをヴィータは頭の中から追い出す。そんなことを考えてしまえば、彼女を襲撃することに躊躇してしまうかもしれないからだ。少女の様子を滑稽だと思っているのに自分がそんなことに陥ってしまえば、それはそれであまりに滑稽だ。

 そして、その瞬間は訪れた。ヴィータが少女の死角に移動し、少女の意識が完全にヴィータから外れた一瞬が。その瞬間を見逃さず、ヴィータは茂みから飛び出す。少女から瞬時に見つからないように地面すれすれともいえる低空を飛びながら。急襲は成功のはずだった。気付かれないはずだった。だが、少女は気付いた。そして、それはおそらく反射的な行動だったのだろう。ヴィータの攻撃が確実にあたるとも当たらないともいえないタイミングで少女は後退した。

 ヴィータとしては一瞬、踏みとどまれば追撃できたかもしれない。しかし、少女の気付いたタイミングと後退するタイミングはあまりに絶妙で、ヴィータには攻撃の手を止めることはできなかった。結果、掬い上げるようなヴィータのグラーフアイゼンによる攻撃は不発。せいぜい、少女の髪に掠る程度、グラーフアイゼンの先端に少女のリボンをひっかける程度でしかなかった。

 そう、少なくともヴィータの認識はそれだった。それが、少女にとって計り知れないほどのダメージを与えたとも知らずに。

 攻撃を失敗したと思ったヴィータは追撃を加えようと後退した少女に対してさらに距離を詰めようと思ったが、その前に少女の様子がおかしいことに気付いた。目を見開いて明らかに驚愕しており、何かにひどく動揺しているように思える。なにより、彼女が見ているのは今にも襲おうとしている自分ではなく、ヴィータの後ろでひらひらと舞っているリボンのような気がする。

 だが、そんなことは気にしない。何より、自分に注意がそれている今がチャンスと思って、ヴィータは一気に決めるために距離を詰まるため、さらに地面を強く蹴る。何もなければ、次の瞬間にはヴィータの攻撃は少女に届いているはずだった。しかし、それは成されなかった。

 なぜなら、突如として発生した少女の絶叫を中心とした魔力の奔流によって吹き飛ばされたからだ。

 今までとは比較にならないほどの魔力量。ヴィータと比較することがおこがましいほどの魔力。それが少女の叫びとともに渦巻き、逆巻き、竜巻のように荒ぶる。

「レイジングハートっ!!」

『All right! My master. JS system set up serial I to XV.』

 ぞくり、とヴィータは全身が粟立つのを感じた。気が遠くなるほど戦闘の経験を積んでいるヴィータだったが、これほどまでに目の前の存在に恐怖を覚えるのは初めてだった。いや、その前に目の前の少女は、本当に人間なのだろうか、と疑問を持ってしまうほどの恐怖だった。

 やがて、魔力の奔流の中から出てきたのは、先ほどまで少女だったとは到底思えないほどの女性だった。少女というよりも女性に近い。しかも、バリアジャケットは漆黒と真紅に支配された禍々しいもの。彼女の姿を目に入れた瞬間、ヴィータは瞬時に悟った。

 ―――ヤベェ、ヤベェよ。

 恐怖とかそれ以前の問題だった。ヴィータの長年の経験がアラートを鳴らす。警告を絶えず鳴らすが、目の前の存在から背を向けて逃げるのも不可能だと悟っていた。むしろ、背中を向けた瞬間にやられる、という確信がヴィータにはあった。

 だからこそ、目の前の少女―――女性からは目は逸らせない。しかし、それは女性の圧倒的な魔力を直視し続けるということだ。それはヴィータの心絶望に染めるには十分だった。立っているだけで戦意をへし折る存在。それが目の前の存在だった。

 がちがちと歯が鳴る。逃げたい、逃げたい、逃げ出したい。しかし、逃げられない。

 どうするべきか、生き残るにはどうするべるべきか? 今までの経験という経験から導き出そうとするが、そもそも、こんな圧倒的な存在と遭遇した経験がない。もしも、頼るべき仲間がいるなら話は別だが、今は一人だ。どうするべきか? 硬直しているヴィータに対して、目の前の女性はヴィータが答えを出すまで待ってくれるほど悠長な人物ではなかった。

「アクセルシュータ スターダストモード セットアップ」

 その瞬間、夕焼けだった空が世にも奇怪な桃色へと変化した。いや、それは女性の空だけだ。そう、空を埋め尽くすほどの魔力球。それが、桃色に変化した空の正体だった。ヴィータから見える空は夕焼けの紅が3、魔力球が7というところだろうか。一発一発の大きさは大したものではない。それらが空を埋め尽くすほどの数。しかも、魔力球の一発の魔力量も半端ではない。確かに、アクセルシュータ自体は初級魔法かもしれないが、空を埋め尽くすほどの数をそろえれば、面制圧が可能なほどの魔法だった。

 真に恐ろしいのは、本来この手の魔法は一人で行うものではない。魔導士が10人以上集まって行う儀式魔法に近いものがあるはずだ。それを一人で体現する女性。改めて、ヴィータは自分が手を出したものを悟った。

 しかし、それでも、それでもヴィータは前を見た。確かに目の前の女性が持つ魔力は圧倒的だ。逃げられない事も確かだろう。しかし、それでも、ヴィータはあきらめない。なぜなら、ヴィータが諦めてしまうことは、すなわち主の死へとつながるからだ。なんとしても、この場は命からがらでもなんでもいい、逃げ出す。あるいは、あわよくば彼女から魔力を蒐集したい。彼女から魔力を蒐集できれば、闇の書のページなどあっという間に埋まってしまうだろうから。

 第一目標は逃げ出すこと。それを念頭に置いて、ヴィータは目の前に広がる圧倒的な魔力に立ち向かうためにグラーフアイゼンを構えた。今から駆け抜ける場所は確かに死地だろう。だが、それでも何も言わずに従ってくれる愛機が頼もしかった。

 負けない、という意思を込めて目の前の女性を睨みつける。しかし、彼女はヴィータの牙をむくような表情を視界に入れたとしても、動揺していなかった。むしろ、それが喜ばしいことのように口の端を釣り上げて嗤った。

「ちっくしょっ!」

 それが誇りを傷つけられたような、自らの決意を嗤われたような気がして、しかし、心は冷静に目の前の魔力の奔流が発射されるまえに勝負をつけてしまえ、とばかりに先手を狙った。しかし、ヴィータには空を駆ることすら許されなかった。

「なっ!?」

 地面を蹴ろうとした瞬間に感じた違和感。何事か? と見てみれば、足首に桃色の光を放つバインドがからみついていた。いつのまにっ!? と驚くが、それどころではない。その一瞬は明らかにヴィータの隙になってしまったのだから。

「ファイア」

 静かに、無慈悲に、冷徹に空に浮かんだ魔法球に対して命令が下される。それはある種の死刑宣告と言ってもいいだろう。

 ―――空が落ちてくる。

 無数に降ってくる。落ちてくる魔力球を見たヴィータが抱いた感想だった。半ば無意識的にヴィータは魔法球に対して障壁を張る。ヴィータの持ち味は切り込み隊長ともいえる突貫力と近接戦闘だ。そのためには、魔力球の雨を防御壁を張りながら突き破ることもある。硬い障壁は今まで自分の役割を果たしてきたヴィータの持ち味だ。しかしながら、その自慢の障壁も目の前の魔力球の雨の前には紙のようなものだろう。ヴィータが行ったことは一瞬の時間稼ぎでしかなかった。

 その一瞬でヴィータがなしたことは――――頭上の帽子を護るように身体で包み込むことだった。

 ヴィータが身を盾にして守ろうとしたのはヴィータが初めてはやてから買ってもらったぬいぐるみ、名前を呪いウサギといっただろうか。口が縫われており赤い不気味な目が特徴的なものだ。キモカワイイというものだろうか。とにかくヴィータはそれが気に入ってしまい、それに気づいたはやてが買い与えたものだ。ヴィータがはやてに心を許すきっかけになったものである。

 そして、なによりヴィータにとってはやてからプレゼントしてもらった何よりも大切なものである。だから、守りたかった。この身を盾にしたとしても。

 ヴィータのその切なる願いは何とかかなえられた。本当に何とかだが。

 空から落ちてきた魔法球がヴィータの張った魔法障壁を破ったのは一瞬だった。おそらく、耐えられたのは2、3発だったのではないだろうか。バリンという鏡が割れたような音を残して魔法障壁は割れた。割れてしまった。障壁が割れた後は、ヴィータの身を守るものは、はやてから作ってもらった騎士甲冑のみだ。しかし、それも魔力球の前には紙のような装甲でしかない。

 だから、耐えられるとすれば、己の魔力と気力のみだ。魔力をうっすらを張ってせめての抵抗をする。

「………っ!!」

 歯を食いしばって耐えるヴィータ。魔力球から与えられるダメージは、人から直接殴られた時のようだ。しかし、それが一秒間に数十発。普通の人間なら耐えられないのだが、ヴィータはそれを気力だけで耐えていた。気を失ってしまえば、すべてを失うことを感覚で理解していたから。

 やがて、その暴力的ともいえる雨は止んだ。しかし、ヴィータの傷は深い。意識は朦朧とし、全身のいたるところが痛かった。全身打撲のようなものである。はやてからもらった騎士甲冑もスカートの部分はぼろぼろで、唯一、丸まるような体勢で守っていたため、前面だけが無事だった。それと、ヴィータが一番守りたかったはやてからもらった帽子も。

 ―――よかった。

 全身が痛む中、手の内に無事な帽子があることを確認して、ヴィータは安堵の息を吐いた。危機はいまだに脱していないというというのに。

「……ふぅ~ん、それがあなたの大切なもの?」

 その声はヴィータの頭上から聞こえた。怒りを押し殺したような抑揚のない声。問いかけているというよりも、確認しているような感じの声。その声に対して、ヴィータは敏感に反応した。反応してしまった。大切なものを大人から取られそうになっている子供のように。ぎゅっ、と自分のものだ、と主張するかのように。

 その行動は、ヴィータが守るという目的を達成するうえでは逆効果にすぎなかった。

 頭上から伸びてくる手。それはヴィータの内側におさめられた帽子を狙っていた。それに気づいて抵抗するヴィータ。だが、全身にダメージを喰らっていたのがまずかった。力が入らない。少なくとも力ずくで奪われようとする力に対抗するだけの力がでなかった。持って行かれる帽子を握っていた手をずっと離さなかったものの、それは女性から手を叩かれただけで弱々しく外れてしまう。

「ぁ……ぇ……せ」

 返せ、と叫びたかったが、その声も出ない。苛烈なまでの魔力球の雨はヴィータにそこまでのダメージを与えていた。

 だから、ヴィータには帽子に向かって手を伸ばすしかなく、女性の手に収められた帽子を見るしかない。黒と真紅のバリアジャケットに身とつつまれた女性は、しげしげと帽子とヴィータを交互に見る。いや、正確にはヴィータが求めるように伸ばした手だろうか。やがて、その二つを見比べると、にぃ、と口の端を釣り上げて嗤う。

 直後―――びりっ、という布を破くような音とともに帽子は真っ二つに割かれた。そこから、さらに四つに、四つが八つに。もちろん、その中にはヴィータがはやてから初めてもらった呪いウサギも同様だ。最初に首と胴体が二つに分かれた。次に胴体から右手がちぎれた。次に左足が、右足が、耳が、目が。気が付けば、呪いウサギと呼ばれたぬいぐるみは跡形もなく、布と綿に分離してしまった。唯一、地面に呪いウサギの特徴ともいえる縫われた口と大きな赤い眼が残った顔だけが転がっていた。

 女性はそれを嬉々として行っていた。笑いながら。まるで、年上の子どもが、年下の子どもが一生懸命作った砂の城を壊すように。

 もしも、ヴィータが健在であれば、グラーフアイゼンを構えて女性をグラーフアイゼンの染みにしていただろう。だが、今のヴィータにはできない。だから、ただただ悔しさだけがこみあげてくる。何もできないことへの悔しさ。目の前でむざむざと思い出の品を粉砕された悔しさ。その悔しさは、ヴィータの双眸から零れ落ちる雫となって現れていた。

 そんなヴィータを見ていた女性だったが、やがて考え込むようなしぐさをした後、ゆっくりと近づいてきた。もしかすると、止めを刺すつもりかもしれない。しかし、それが理解できたところでヴィータは何もできない。いや、正確には気力すら湧いてこない。肉体的にはいたぶられ、精神的には大切なものを粉々に砕かれたのだから。

 近づいてきた女性は、ゆっくりとデバイスをヴィータに向けてくる。そこから、魔法でも放つのだろうか。それがヴィータの止めになるのだろうか。

 もしも、それが現実であれば、ヴィータにとっていかに幸いだっただろうか。デバイスが発したのは蒼い光だ。それがヴィータを包み込むように広がる。

 ―――えっ、うそだろ? やめろ、やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろっ!!

 ヴィータが叫ぶのも無理はない。蒼い光は、ヴィータを浸食してきた。より正確に言うのであれば、ヴィータの内部。物理的な内部ではなく、ヴィータを構成する闇の書の守護騎士システムそのもののを浸食してきた。それは、ヴィータの核にして、ヴィータをヴィータとして至らしめる根幹だ。そこが浸食されるといううことは、ヴィータにとって脳を直接いじられることとなんら変わりない。そして、自らの身体の一部を浸食されるという嫌悪感は、全身を弄られるよりもひどいものだった。

 ヴィータの内部に浸食してきた蒼い光――いや、蒼い光に便乗してきたデバイスの意志だろうか。それらは、冷徹にヴィータからヴィータという部分を抜いてくる。少しずつ少しずつ。まるで虫食い状態にするようにヴィータから記憶や経験を抜いていく。

 ―――あ、あ、あ、あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ……。

 手を伸ばすこともできず、抗うこともできず、少しずつ少しずつ自分が自分でなくなることを自覚するヴィータは恐怖を覚える。今まで大切だと思っていた思い出もシャボン玉が割れるように次の瞬間には認識できなくなる。あんなに大切だったのに。次の主になっても忘れないと思っていたのに。それなのに、もう思い出せない。初めて食べたはやての食事の味も。初めて買ってもらった縫いぐるみの容貌も。初めてはやてから頭を撫でられた時のうれしさも。はやてを護ると決めた騎士の決意も。貪欲に、何一つ逃さぬ、とばかりにデバイスはヴィータからすべてを奪っていく。

 だんだん、データをアンインストールしていくようにヴィータから奪うデバイスだったが、その速度が一瞬だけ下がった。目の前の女性―――どうして、彼女がいるのかヴィータには思い出せない―――が自分が横を向いていた。それにつられるようにヴィータもその方向を見てみれば、そこにいたのはピンクの髪と西洋剣を持つ騎士の鎧に身を包まれた長身の女性と鍛え上げられた体躯と銀色の獣耳を持つ男性が宙に浮いていた。

 ―――ああ、あいつら、来てくれたんだ。

 もはや彼らの名前すら思い出せない。だが、これだけは知っている。彼らは大切な仲間だと。それはシステム的な記憶ではない。ヴィータという存在がその身に刻んでいる記憶だ。だからこそ、最後まで忘れなかった。手渡すことはなかった。その仲間に向けてヴィータは最後の言葉を絞り出す。

 ―――ご、め、ん、な。

 何に対して謝っているのかすらヴィータにはもはや認識できない。だが、それでも、なぜか謝らなければならないような気がした。それは、この場から自分が退場してしまうことだろうか。あるいは、もっと別な決意を果たせないことだろうか。その答えをヴィータに出すことはできない。ただ、すべてを忘れていっいてるはずなのに、ただ一つのことだけが心残りだった。

 ―――ああ、はやてのカレーたべた―――

 その思いを最後にヴィータのヴィータという意識はテレビの電源を落としたように闇に染まるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 レイジングハートは、主の叫びに応え、JSシステムにおいてジュエルシードを十五個起動していた。これは、レイジングハートが内蔵している二十というジュエルシードのうち、JSシステムとして起動できる最大数である。これ以上は、起動させて意味がないし、制御できる自信はない。なにより、もはやこれ以上の連結は意味がない。現状でも次元世界の一つぐらいは圧殺できるほどの魔力をレイジングハートのマスターは操れるのだから。

 そのJSシステムを起動させているバックグラウンドでレイジングハートは残り五つのジュエルシードの助けを借りながら、ロジックツリーを展開していた。議題は、その気になれば、誰にも負けないはずの主が傷を負ってしまったこと。いや、正確にはマスターが大切にしていたリボンを失う結果になってしまったのか。

 そして、展開されたロジックツリーは一つの答えを導き出した。

 すわなち、経験不足。

 レイジングハートのマスターである高町なのはに足りないもの。それは圧倒的な実戦経験だ。今までは、遠距離で圧倒的な力をふるうだけでよかった。だが、目の前の敵はそうはいかなかった。経験を積んできた敵だ。それに対抗するには同等の経験が必要だった。だが、経験とは今すぐに得られるものではない。

 だから、レイジングハートはデバイスとしてシステム的に考え、答えを導き出した。

 ―――ないのであれば、持ってくればいい。

 至極簡単なことだった。確かに経験を得るのは大変だ。だが、経験とはそれを体験した記憶だ。記憶をもとにして、行動を決めることさえできれば問題ない。要するにマスターには戦いの記憶が少ないのだから。そして、最大の経験を持っている人物はおあつらえ向きのように目の前に存在しているではないか。

「レイジングハート、どうしたらいいかな?」

 マスターの問い。それは、マスターが目的としていた自分と同様のことに至らしめるという目的を達した後のことを聞いているのだ。確かにマスターの目的は達しているのかもしれない。しかし、レイジングハートの目的は達成していない。だから、レイジングハートは答えた。

『Please rob her all』

「えっ……でも、いいのかな?」

 どこか躊躇したような声。マスターはどこか弱気なところがある。だからこそ、自分がいる。そんなマスターを後押しするために。だから、レイジングハートは、マスターの問いかけに答えた。

『Of course. Are you satisfied?』

 レイジングハートは知っている。マスターがあまりのあっけなさに満足していないことを。あんなに大切にしてたものをぼろぼろにされたのに、こんなにあっけなく相手がやられてしまったからだ。だからこそ、問う。そんなのでいいのか? と。

 レイジングハートの言葉にやや考えたなのはは、ううん、と首を横に振った。

『Then, please move me close to her』

 レイジングハートの言葉に従って、なのははレイジングハートを真紅だったバリアジャケットに包まれた少女に近づきた。彼女の姿はぼろぼろで瞳からは生気を感じない。それはレイジングハートにとっては都合のいいことだった。

 少女に近づけられたレイジングハートは、己の内に眠っているジュエルシードを起動する。

 もちろん、彼女の内にある経験をレイジングハートにインストールすためだ。そう、普通の人間であれば、脳にある記憶をコピーという形をとるだろう。だが、そこで予想外の事実が発覚した。目の前の少女は、人間ではないということだ。いうなれば、魔法によって精巧に作られた人形だ。

 レイジングハートはこのことに歓喜した。なぜなら、普通の人間から記憶を奪うより数倍楽で、より一層の経験が得られるからだ。だから、レイジングハートは、表面層の記憶から読み取った少女の名前であるヴィータの中を進んでいく。進みながら、取捨選択を行い、レイジングハートにとって必要な記憶は自分の中に放り込み、それ以外はバックアップと同時にデリートする。どうせ、マスターに牙をむいた人間(?)なのだ。レイジングハートからしてみれば万死に値する。だが、彼女たちは死ぬことはない。だから、レイジングハートがリサイクルする。ただ、それだけだ。

 少し魔法形態がベルカ式という古い形態だったが、それさえもレイジングハートにとっては問題ない。単純にコンパイルを行えばいいことだ。

 本来なら、捨て置くであろう魔法人形ともいえるヴィータをコンパイルを行ってもレイジングハートが欲した理由は、前々から思っていたからだ。マスターを護る前衛が欲しいと。レイジングハートのマスターは、どちらかというと後衛だ。本来であれば、彼女を護るための前衛が必要なのだ。もっとも、それはレイジングハートが持つ魔力でねじ伏せてきたが。だが、これから必要になるかもしれない。だから、レイジングハートは、彼女を乗っ取ることにしたのだ。

 ヴィータという少女の奥底に入っていくと、そこは暗い、暗い闇の中。ヴィータを構成する守護騎士システムという部分でさえ表面層にすぎなかったらしい。その奥にあるのは、レイジングハートからしても危険と思えるほどに禍々しいプログラムの闇だ。もっとも、さらにその奥に隠されているのは洗練された美しいともいえるものだったが。明らかに中間層にあるものと深層にあるものは、製作者が異なる。どうやら、守護騎士システムと深層の間に誰かが追加したものらしい。しかも、悪意を持って。

 だが、レイジングハートにはあまり関係ない。今、必要なものは守護騎士システムというヴィータを構成する部分のみだ。しかも、どうやら守護騎士システムとは一人ではないらしい。ヴィータを構成する基幹の部分からはさらに三つの線が伸びていた。ほかにも三人の守護騎士がいるということだろうか。ならば、マスターの今後の経験のためにも欲しいとは思ったが、今、目の前にいない以上、ここからたどるのは難しいと判断し、その場は諦めた。

 ヴィータという守護騎士システムと基幹部分をほとんどコピーし終えたレイジングハート。あとは、ヴィータの残っている部分を取捨選択するだけでこのシステムが構成しているヴィータという部分は、完全になくなり、レイジングハートの内部に再構成された守護騎士システムこそが、本物になる。

 マスターの経験が補えて、優秀な前衛も手に入れられた。一石二鳥とはこのことだろうか、とレイジングハートはご機嫌だった。

 その気分に水を差すような警告。誰かが、どうやら結界を破ってきたらしい。やれやれ、これ以上、マスターを疲れさせるわけには、と思い、何とか逃げようとしたのだが、結界内部に侵入した人物を解析して、レイジングハートは心躍った。レイジングハートに表情があれば、笑っていただろう。それほどに愉快なことだった。

 なぜなら、侵入してきたのは、先ほどレイジングハートが欲しいと思っていた守護騎士全員なのだから。

 闇の書と共に現れる守護騎士。彼らと敵対する時空管理局からしてみれば、彼らは強敵だというのにレイジングハートからしてみれば、彼らはただの獲物にすぎないのだった。



つづく






















あとがき
 黒幕はほくそ笑む



[15269] 第三十話 裏 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/08/06 07:44



 闇の書を護る守護騎士であるヴォルケンリッタ―が将であるシグナムが人で言うところの嫌な予感を感じたのは偶然なのだろうか。いや、それはありえないと思う。なぜなら、シグナムとほかの守護騎士は闇の書という大本のシステムを介して繋がっているのだから。どこか、何かを失いそうな、失っているようなそんな感情が嫌な予感として現れていた。さらに、今の八神家にはヴィータが欠けていることがその核心に拍車をかけていた。いつもなら帰ってきている時間なのに。

 だから、シグナムは八神家にいた全員に声をかけ、主に許しをもらって外に飛び出した。もちろん、主である八神はやてには本当のことは言っていない。彼女が本当のことを知ればおそらく悲しむだろうから。ヴィータがいない理由も、何かを失いそうになっているということも、二重の意味で。だから、今は遊びに行って道に迷ったヴィータを迎えに行くという理由で、彼らは八神家から飛び出していた。

 ヴィータの場所を探ることは難しくなかった。なぜなら、遠く遠く離れているはずなのにシグナムがびりびりと肌で感じるほどの魔力の波動を感じるからだ。明らかに相手はヴォルケンリッタ―たちの魔力をはるかに超越している。しかし、仲間の一人であるヴィータが対峙しており、消えそうな、心が折れそうなほどの感情を伴っているとすれば、そこ以外にはありえなかった。そして、彼らの中にヴィータを見捨てるという選択肢はなかった。昔の感情などというものを捨て去っていた過去ならまだしも、八神家で人の感情を思い出した彼らは、ヴィータという妹分が欠けることをよしとしなかった。

 ヴィータを助け出したら、即時撤退。それを基本方針として、ヴォルケンリッタ―たちは最愛の主から頂戴した騎士甲冑を身に纏い、ランク付けなどできるはずもない魔力を発する現場へと向かった。

 その現場は少し山間にある公園だ。主が車椅子であるため勾配のある場所はあまり来ないので、ここに公園があること自体は初めて知った。しかし、そんなことはどうでもよかった。今、問題なのは、ここから尋常ではない魔力と一緒に弱々しい妹分であるヴィータの魔力を感じることである。

 すぐにでも突入しようと思ったが、忌々しいことに簡単ながら結界が張ってある。構造そのものは簡単だが、魔力にものを言わせた結界。しかも、その向こう側に得体の知れない存在がいる。準備して突入することになんら躊躇することはなかった。

「レヴァンティンっ!」

『ja!』

 シグナムの声に愛機であるレヴァンティンは応える。顕現するのは片刃の西洋剣。レヴァンティンに自らの属性でもある『烈火』を纏わせ、シグナムは吼える。

「はぁぁぁぁぁっ! 紫電一閃っ!!」

 裂帛の気合とシグナムが練れる最大限の魔力を乗せ、レヴァンティンの能力によって炎を纏った剣は、公園に張られた結界を一撃で切り裂いた。完全に結界が壊れたわけではない。結界の中に入れるほどの切り込みを入れたという形だろうか。おそらく、このまま突入しなければすぐに修復されてしまうだろう。

 それでは壊した意味がない。シグナムは隣に立っているザフィーラに行くぞ、と目配せして結界の中に侵入する。ヴォルケンリッターにはシャマルもいるが、彼女は結界の外で待機だ。シャマルには外で待機してもらい、ヴィータを回収したのちにすぐにでも転送してもらう必要がある。この魔力から感じるにヴィータと敵対している相手に真正面から勝負を挑んで、勝つのは不可能だ。つまり、からめ手でしかない。たとえば、シャマルの持っている旅の鏡のような魔法だ。リンカーコアを抜き取るという荒業だが、これならば魔力ランクは関係なくなる。もっとも、問題として相手を捕捉しなければならないという欠点があるのだが、これはある程度時間が稼げれば問題はない。それに、この魔力を手に入れることができれば、闇の書などすぐに完成するだろう。このような強大な敵を相手にあわよくば、という思いは禁物だとは分かっているが、それでも彼女たちの状況を考えれば求められずにはいられない。そんな状況だった。

 シグナムとザフィーラが結界の中に突入して目撃したのはぼろぼろになったヴィータの姿とその彼女に近づいてデバイスと思われる杖を近づけた女性の姿だった。それだけならば、彼女にヴィータが敗れたと判断すべきだろう。しかし、シグナムとザフィーラが、彼女たちから受けた印象がそれだけではなかったのは、おそらくヴィータの目だ。どこか濁ったような、どこを見ているのかわからない。まるで虚空を見るような瞳。いつも、シグナムを映していた天真爛漫な瞳は今のヴィータにはなかった。

 ヴィータが何かの攻撃を受けていることは容易に想像できる。しかし、それがわからない。はた目には杖を近づけているだけなのだから。もしも、相手が普通で収まる相手ならばシグナムもヴィータを助けるために飛び込んでいただろう。だが、相手は尋常でない魔力を持つ女性。シグナムが躊躇するのも仕方ないことだった。

 不意に、今まで虚ろな瞳を浮かべていたヴィータの顔がシグナムたちがいる方向を向いた。それは偶然だったのか、何らかの要因があったのかわからない。とにかく、ヴィータは、その濁った瞳のまま、いや、一瞬だけ昔のような瞳の光を取り戻したように見え、ヴィータはその小さな口を開く。

 シグナムは、読唇術を極めているわけではない。だが、そこから見えたヴィータの唇は簡単に読むことができた。

 ―――ご、め、ん、な。

 言葉にすれば、たった四文字。しかし、その想いに込められたものをシグナムは想像できない。彼女がつむいだ言葉の意味は一体なんだったのか、それを知るすべをシグナムは知らない。ただ、理解できたのは、ヴィータがその言葉を紡いだ後にまるでその場からいなかったかのように姿を消したことを闇の書を通じて感じていたはずのヴィータの気配が綺麗に消失してしまったことである。

 ―――バカな、バカな、バカなっ!?

 何度も、何度も、何度もシグナムは己の内から闇の書へ向けてヴィータの気配を探る。守護騎士たちは一見、人間のようにも見えるが、しょせんは闇の書に付随する守護騎士システムという名のプログラム体である。よって、死んだとしても闇の書へと還るだけである。そう、そのはずである。しかし、闇の書からはヴィータの気配は感じられず、代わりに返ってきたのは、ぽっかりと何かが空いたような虚無感と意識もしていないのに頬を流れる一筋の雫だった。まるで、その雫が、二度と還ってこない仲間を悼んでいるようだった。

 どうやって? なんてことをシグナムは理解できない。しかし、誰が? というのはわかる。黒いバリアジャケットに身を包み、黒には似合わない桃色の杖を持っており、尋常ではない魔力を持っている女性以外には考えられなかった。

「貴様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 普段のシグナムならば考えられない慟哭だった。しかし、シグナムと言えども今の激動を抑えられなかった。いや、シグナムだからこそ、炎を冠する烈火の将だからこそ、というべきだろうか。もしも、この場にシャマルがいて、同様の感情を受け取っていたならば、泣き崩れていたのかもしれない。いや、今は姿こそ見えないが、もしかしたら泣き崩れているかもしれない。なにせ、尽きることがない、一生という概念さえ曖昧な、永久を共にするはずだった仲間を失ったのだから、彼女たちの慟哭も無理もないことだった。

 先ほどの結界の破壊のために抜刀していたレヴァンティンを構えたままシグナムは得意の接近戦に持ち込もうとしていた。もはや、目の前の女性が尋常でない魔力を持っていることなどシグナムの考慮の中に入っていなかった。ただただ、目の前の女性を倒すという一念に注力していた。しかし、それでも数十年、いや、数百年に至る戦闘の経験は、今のシグナムの状態でも彼女自身を裏切らなかったのだろう。躊躇なくシグナムは、最初の一刀にすべてをかけていた。レヴァンティンの特徴であるカートリッジシステムを限界までロードしながら、己の持つ最大の魔力まで練り上げる。カシャン、カシャンと薬莢を排出する音を上げながらカートリッジが排出され、圧縮された魔力がシグナムに流れ込んでくる。ともすれば、体が悲鳴を上げそうな魔力がシグナムを包む。

 過去の経験からわかっていたのだ。持久戦は敗北しかなく、勝機を見いだせるとすれば、それは最初の一撃以外にはありえないということを。だからこそ、最初の一撃から全力全開。次のことなど考えない。それがたとえ仲間を失った悲しみと怒りから来るものであったとしても、冷静であったとしても、選択が変わらなかったのはシグナムにとって幸運なのか、あるいは不運なのか。

 少なくともその一撃は、シグナムが生涯と言えるかわからないが、それでも最大の一撃だったといえるだろう。上空から魔力を全力で振り絞り、レヴァンティンの能力によって炎に変換されたシグナムの姿はまるで、フェニックスのようだった。その火力と威力を鑑みれば、神獣と謳われてもおかしくはなかっただろう。

 だが、そんなシグナムの上空からの渾身の一撃を女性は無作為に掲げた片手で張ったプロテクションのみで簡単に受け止めた。

「なっ!?」

 絶句するシグナム。決めることしか考えていなかったシグナムの魔力は女性によって受け止められた時点で霧散している。

 バカな、とシグナムは思う。少なくとも、魔力としてはシグナムが出せる最高の出力、一撃もシグナムの最高の輝きを見せたというのに女性はたった腕一本で受け止めてしまった。これが、もしもシグナムと同等かあるいはある程度の力量をもってして受け止められたなら驚きはしない。しかし、シグナムの剣が受け止められたのは、単なる力技。シグナムの最大の魔力さえも軽く受け止め、霧散してしまうほどの魔力による防御だった。

 確かに完璧に不意をついたものではない。しかし、意識がシグナムに向いていなかったことも事実である。その状態から、片手だけでシグナムの最高の一撃を受け止めていた。目の前の状況が信じられないシグナムは、己が攻撃を仕掛けたことも忘れて呆然としてしまう。そんな余裕はないというのに。

 呆然としているシグナムが、次に正気に戻ったのは、女性が片手でレヴァンティンを抑えながらもう片方の腕を伸ばしてきたことを確認してからだ。ただゆっくりとシグナムに向かって伸びてくる掌。しかし、その何気ない仕草にも関わらずなぜかシグナムには背筋が凍るような恐怖を感じた。感じてしまった。それは長年の経験からの勘なのかわからない。しかし、その手に触れてはいけないと思ったのだ。

 逃げなければ、と思った。しかし、まるで身体は金縛りにあったように動かない。動けない。まるで蛇ににらまれた蛙のように。このまままでは、腕をつかまれる、とある種の覚悟をした瞬間、突然、女性の身体が銀色の鎖によって縛られる。その鎖は魔力によって編まれた鎖。そして、その魔力をシグナムは知っていた。

「撤退だ」

 力強い男性の声が背後から聞こえる。確認するまでもない。同じ闇の書の守護騎士であるザフィーラの声である。

 その声によって目が覚めたのか、あるいは伸ばしている手が未だに鎖によって拘束されていることへの安心感なのか、このときになってようやくシグナムの身体は動くようになっていた。同時に恐怖に縛られていたような頭も。

 シグナムは、ザフィーラの短い言葉の意味を理解していた。

 ―――たかが、一撃。

 だが、その一撃に込めた魔力はシグナムの全力全開。その中で女性と隔絶した魔力の差を感じた。今はなぜ、ザフィーラの魔法によって拘束されているのかわからないほどの魔力。彼女の魔力であれば、力づくでも一瞬で拘束から逃れられるはずである。もっとも、今はそんなことを疑問に思っている時間はないが。

 確かにヴィータのことは悔しいし、敵とてとってやりたい。しかし、今は無理である。玉砕覚悟でも無理だろう。それでも何もなければシグナムたちは敵を取るために死力を尽くしただろう。だが、今の彼らには守るべきものがある。おそらく、ヴィータもともに守りたかったであろう最愛の主が。最期の言葉となったヴィータのごめん、という謝罪の言葉は共に主を護れなかったことへの謝罪だろう。

 守護騎士たる彼女が主を最後まで守れないというのはどれだけ無念だっただろうか。少なくともシグナムには想像することはできない。だからこそ、この場で死力を尽くして一矢報いることがヴィータを弔うことにはならない。彼女から、あらゆる敵から彼女を護ることこそがおそらくヴィータへの最大の弔いになるだろう。

 だからこそ、ここは逃げる。もちろん、あとを追えないように回り道をしながらになるだろうが。

 シグナムは改めて、未だに女性が拘束されていることを確認しながらゆっくりと撤退のために空に浮かぶ。当然、女性からは目を離さない。背中なんて見せられない。もしも、彼女が拘束されているのが演技であれば、背中を見せた瞬間にシグナムたちはやられるだろうから。だから、背中を見せないように慎重に撤退しようとして――――

 ―――それが不可能であることを知った。

「――――っ!!」

 入る時は薄かった結界の強度が信じられないほどに強固になっていた。確かに入る時もそれなりに強固だったが、今はそれに輪をかけている。少なくとも入る時と同じような手法で外に出ることは不可能だった。

 なぜっ!? という驚愕の表情を浮かべながらシグナムとザフィーラはおそらくこの結界を張った主であろう女性へと目を向けた。結界を確認するだけの一瞬だけだったにも関わらず、彼女はすでにザフィーラのバインドから逃れており、悠然とその場に佇んでいた。まるで嘲笑するような笑みを浮かべながら。そんな彼女が口を開く。

「……あははっ、逃がすわけないでしょう? ショウくんを傷つけようとしてるんだからっ!!」

 シグナムたちには彼女がいう『ショウくん』が誰かはわからない。ただ一つだけわかったことは、少なくともこの場から逃げられないということである。

「私が時間を稼ごう。お前のシュツルムファルケンならば、この結界からも脱出できるだろう」

「それはっ!!」

 ザフィーラの言っていることは理解できる。シグナムの切り札ともいえるシュツルムファルケンには、結界破壊の効果がある。よってこの結界を破壊できる可能性もあるだろう。しかし、切り札というだけあって、魔力も時間も必要だ。幸いにしてカートリッジの予備はある。しかし、目の前の彼女から時間を稼ぐには至難の業だ。おそらく、ザフィーラが持っているのは決死の覚悟。自らが犠牲になることでシグナムを逃がそうとしている。だからこそ、シグナムも制止の声を上げたのだ。

 しかし、ザフィーラはシグナムの声を無視した。シグナムに背中を向けて静かに語る。

「主はやては、守らなければならないお方だ。ここで二人とも死ぬわけにはいかない。そして、お前はこの場を切り抜ける方法を持っている。ならば、可能性が高いほうを優先するのは当然のことだ」

 それは、ザフィーラの盾の守護獣としての在り方なのか。あるいは、本当に可能性が高い手法を選択しただけなのか。いや、たとえザフィーラであれば、自分のみが生還できる可能性を持っていたとしても、おそらくここで犠牲になろうとするだろう。なぜなら、彼は盾の守護中であり、仲間を、主を護る盾なのだから。

 その覚悟がわかったのか、シグナムはザフィーラの背中にこれ以上、何も言うことはできなかった。

「……主はやてに伝えてくれ。主に仕えることができて、幸せでした、と」

 おそらく、それはザフィーラの最期の言葉だろう。だから、将として、騎士として、仲間として、シグナムは力強くうなずいた。ああ、任せろ、と。その声を聞いて安心したのか、ザフィーラはふっ、と笑うと、決死の覚悟を浮かべて構える。彼の武器は鍛え上げた肉体だ。

「盾の守護獣ザフィーラっ! 参るっ!!」

 ザフィーラが最高速で、一直線に名も知らぬ女性に向かって突撃する。ザフィーラが浮かべる表情は、獲物を狙うような獣の獰猛さを隠していない。鋭い八重歯をむき出しにした決死の表情だ。おそらく、彼も冷静を装っていたが、ヴィータが消えたことに憤っているのだろう。

 ザフィーラが稼いでくれる時間を無駄にしないためにもシグナムはシュツルムファルケンの準備を始める。カートリッジを補填し、魔力を全身に漲らせる。

 不意にザフィーラの様子をうかがってみれば、怒涛のごとくザフィーラが女性に殴りかかっていた。もっとも、そのすべてが女性に対しては無意味。避けられたり、プロテクションで防がれたり。彼女がもつ圧倒的な魔力を使わず、まるで一つ一つの動きを確かめるように動いていた。なぜ、一瞬で勝負を決めないのかわからない。しかし、これはシグナムたちにとってもチャンスだった。もしかしたら、ザフィーラがまだ無事なうちに脱出口を作れるかもしれない。

 しかし、それは儚い願いでしかなかった。最初の内は動きを確かめるようにしてザフィーラの猛攻を受けていた女性だったが、やがて飽きたのか、あるいは確認が終わったのか、今まで避けていたザフィーラの拳をパシンと軽く受け止めた。下手すれば、大木さえもへし折ってしまいそうな風切り音を残していたザフィーラの拳を、だ。

 驚愕の表情を浮かべたのはシグナムだけではないのも当然だろう。彼女のような細腕のどこにザフィーラの拳を受けられる力があるというのだろうか。しかし、驚くのはそれだけではなかった。ただ、拳をつかまれた。ただそれだけだ。しかし、それだけなのにザフィーラは一歩も動けない。拳にいくら力を籠めようとも動かない。万力で押さえつけられたように。

 最初は焦りの表情を浮かべていたザフィーラ。だが、やがてその表情は苦悶の表情へと変わる。身体全体から汗が吹き出し、まるで電流を流されているように苦悶の表情とともに苦しそうな声を上げる。なぜ、ザフィーラが声を上げているのかわからない。「やめろ、やめろっ!」とも叫んでいるが、シグナムからは、ザフィーラが何をされているのか全く予想がつかなかった。

 しかし、その内容はすぐにわかることになる。なぜなら、ザフィーラの影がだんだんと薄くなっているからだ。まるで、ここに来た直後に見たヴィータと同じような現象。そのことに気付いた時には、すでに足元からザフィーラの姿はゆっくりと消えていこうとしていた。その段階になれば、叫んでいたはずの声はなくなり、苦悶の表情を浮かべていた顔は人形のように無表情となり、強い意志が籠っていた瞳も虚ろなものへと変化していた。

 やがて、ザフィーラはシグナムの前から完全に姿を消した。

 ―――すまん、ザフィーラ。

 心の中で哀悼の意を送る。

 もしも、自分がもっと強ければ、将としての強さを持っていれば、ザフィーラを犠牲にすることはなかったかもしれない。だが、後悔するのは後だ。今は、ザフィーラが稼いでくれたこの時間を一時も無駄にすることはできない。できないのだが、シグナムは、自分に女性の視線が向けられた瞬間にあまり時間がないことを悟った。

 しかも、今は魔力の補填を行っただけだ。今からシュツルムファルケンを使うためには、レヴァンティンの変形が必要だ。しかし、そのような時間を彼女が与えてくれるはずもない。しかも、ヴィータやザフィーラの状況を見るに、どうやっているかはわからないが、彼女はシグナムたちに触れるだけで、存在を消去することができるらしい。つまり、彼女に触れられたら終わりというわけだ。

「くっ」

 シグナムは下唇をかむ。時間がわずかに足りない。変形している間に触れられたらアウトなのだ。予想が正しければ、変形が終わる前に彼女に触れられてしまう。そうしてしまえば、せっかくザフィーラが決死の覚悟で稼いでくれた時間さえも無意味なものへとなってしまう。

 ―――何とかして時間を稼がなければ。

 しかし、どうやって? 残念ながら、シグナムには良案がなかった。今は一瞬でも、急ぐことしかできなかった。しかし、どうやら天はシグナムに味方してくれたようだった。

 不意に女性の近くの空間が揺らぐ。その前兆をシグナムはよく知っていた。頼りにすべきもう一人の仲間。どうやって、かはわからないが、ともかく彼女が助けに入ってくれたようだ。この場においては強力な助けだった。

 シグナムが期待したその瞬間は訪れた。空間の揺らぎ―――女性の胸元あたり―――から突然飛び出す人の腕。それは、シグナムと同じく闇の書の守護騎士であるシャマルが得意とする旅の鏡を応用したリンカーコアを直接摘出するという荒業だ。しかし、荒業だけに決まってしまえば、まさしく必殺技。どれだけ高い魔力を持っていようとも関係ない。魔力の元たるリンカーコアが摘出されるのだから。

 そして、今、目の前でそのシャマルの必殺技が決まった。

 ―――決まったように見えた。

 本来なら、旅の鏡によって摘出されたリンカーコアがシャマルの手に収められているはずだ。しかし、その手には何も握られておらず、胸から手が出ているはずの女性は、ただただ不敵に笑うだけ。まるで、予想通り、と言わんばかりに。そして、何事もなかったように自らの胸から生えている腕をとる。

 ―――まずいっ!

 そう思ったが、時すでに遅かった。そう、彼女はシグナムたちに触れるだけでいいのだ。ならば、旅の鏡越しとはいえ、その腕は間違いなくシャマルのも。ならば、今、彼女は―――。

 先ほどのザフィーラの時間よりも短い時間で、シグナムの予想が当たってしまう。

 二の腕まで出ていたはずのシャマルの腕が旅の鏡からゆっくりと消えていく。肘、腕、手首、指、とゆっくりと。それだけで、シグナムはシャマルがヴィータやザフィーラと同じような境遇に陥ったことを理解した。理解してしまった。これで、残るヴォルケンリッタ―は自分だけになってしまった。

 おそらく彼女は最後にシグナムを狙うだろう。だが、やすやすとやられない。ザフィーラの言葉を伝えるためにも、志半ばに倒れてしまったヴィータのためにも、偶然か必然か最後の時間を稼いでくれたシャマルのためにも。

 シグナムは覚悟を決め、意志のこもった瞳で目の前の結界を睨みつける。

「翔けよ、隼!」

 西洋剣と鞭状連結刃に続くレヴァンティンの第三の姿。アーチェリーになったレヴァンティンから何者をも貫く必殺の弓矢がシグナムの掛け声とともに放たれる。その弓矢は、高速で結界へ向かって飛んでいき、やがて結界に触れた瞬間、矢はその小さな矢の中に内包したすべての魔力を開放するように大爆発を起こす。

 爆発の大きさを表すように耳をつんざくような爆発音と大きく広がる爆炎。それは結界破壊効果を伴った必殺の技だった。どんな結界であろうとも、この必殺技であれば砕けると信じていた。そう、信じていた。しかし、その信頼は裏切られることなる。

 爆炎が晴れた向こう側に広がっていたのは、いまだ健在している結界。

「バカ……な」

 自分の魔力よりも相当上の結界とて破壊できるはずの魔法だった。しかし、それでも破壊できなかった。まるで、シグナムの切り札を最初から知っていたように強化された結界だったということである。せっかく、仲間が体を張って作ってくれた時間を使って繰り出した必殺技が無意味に終わったことに打ちひしがれるシグナム。しかし、彼女をさらに絶望に突き落とす一言が背後からささやかれた。

「残念だったね」

 振り向かずともわかる。この背筋から恐怖が這い上がるような声を忘れるわけがない。方法はわからずともヴォルケンリッタ―を全滅へと導こうとしている死神のような女性。

 シグナムは、間違いなく、この瞬間に死神の鎌にとらわれた。なぜなら、女性の手がシグナムの首根っこをつかんだからだ。

 その刹那、シグナムに電流のようなものが走る。まるで、自分の中に侵入してこようとしているような、いや、侵入している。まるで身体の中を麻酔なしで弄られているような、そんな違和感を感じる。しかし、それは生物のように動きながら、実に機械的にシグナムを処理していく。最初に、闇の書との連結を切られた。もはやシグナムに闇の書とのラインが感じられない。完全に切り離され、今のシグナムは、ただのシグナムという名のプログラムだった。

 それから、じっくりとシグナムの中を整理していく。シグナムという名のスタンドアローンのPCのファイルを整理するように。戦いに関する情報を収集し、今日までの得難い経験を―――思い出を容赦なく消していく。

 姉のように見守ってきた今までの生活も、はやてという主を得て感じていた家族という絆も、はやてが甘えてきた瞬間も、ヴィータがはやてから怒られている様子を苦笑しながら見守っていたことも、料理を失敗してしまったシャマルを慰めながら、何とも言えない料理を食べことも、犬扱いしているのをわかっていながら我慢してなされるままにブラッシングされているザフィーラの姿も。ここにきて得られた家族との思い出が、すべて、すべて消されていく。

 やめてくれ、と懇願したところで意味はない。本当に機械的に無慈悲に、冷徹に、容赦なく『それ』はシグナムからすべてを奪っていった。

 ―――主、申し訳ありません。私たちは……。

 もはや、主が誰なのか思い出せない状態だというのに、愛おしいと思っていたはずの彼女への謝罪が浮かんだのは、彼女が最期まで騎士だったかだろうか。

 理由はともかく、その想いを最後にシグナムの意識は、完全に闇に包まれ、闇の書の守護騎士だったヴォルケンリッタ―は一人の女性とデバイスの前に全滅したのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アリサ・バニングスは、机の上に広げられた一枚の便箋を前にして頭を悩ませていた。テストでもここまで悩んだことはなかっただろう。しかし、今は悩まなければらない。悩むところである。なぜなら、これは彼女の親友である蔵元翔太へと送る手紙なのだから。

 なぜ、彼女が翔太へ手紙を書こうと思い至ったのか。それは、アリサが母親と一緒に夕飯の食後の時間を過ごしている時に起因する。

「はぁ……」

「どうしたの? アリサ。ため息なんて吐いて」

 アリサとしてはため息を吐いているつもりはなかった。しかし、悩んでいるときというのは、ため息が自然と出てしまうものである。それが答えのなかなか見つからない悩みであればなおのこと。アリサも類に漏れず自然とため息を吐いていた。

 悩んでいることを看破されたアリサだったが、母親に話していいものか少しだけ迷った。翔太に関することだったし、悩みは、なかなか彼に会えなくて謝れない、という単純なものだったからだ。時間さえできてしまえば簡単に解決する問題だからだ。こうやって、ずるずる伸びているのが謎なくらいなのだから。

 だが、確かにアリサもこの状況を打破したいとは考えていた。だから、アリサは母親に相談することを決めた。

 ふんふん、とアリサから話を聞く梓。さすがにアリサも整理できてないところもあるのか、話が飛んだりもしたが梓は最後まで聞いた。そして、最後まで話し終えたアリサに出した答えは―――

「そうね、手紙を書くといいわよ」

「手紙?」

 梓の答えにアリサは小首を傾げた。アリサからしてみれば、手紙は前時代的なもののように感じたからだ。今は、携帯とメールがある。手紙という古風なものがこの状況を打破できるとは思えなかったからだ。

 しかし、そんなアリサの主張を聞いた梓はからからと笑った。

「アリサ、それは違うわよ。確かにメールは便利よね。でも、誰が書いても同じなの。でも、手紙は人によって違うの。そこに込められた想いも、願いも。だから、本気で彼にアリサの思いを伝えたいなら、手紙を書きなさい」

 真剣な表情をして語る梓。確かに手書きならば、文字となって思いは現れるかもしれない。梓の言葉を聞いて、一考の余地はあるかも、と思うアリサ。そんな娘にさらにアドバイスする梓。

「それに、差出人を書かずに呼び出せば、必ず翔太くんは来るわよ」

「どうしてよ? 差出人がないのよ」

 普通に考えれば、怪しい呼び出しだ。誰とも知れない相手から呼び出されていくわけがない。少なくともアリサはそう思っていた。しかし、そんな娘の考えがよほどおかしかったのか、一瞬、呆けたような表情をして次の瞬間、梓は爆笑していた。それこそ、涙が出てしまうほどに。笑っていた時間はどれくらいだっただろうか。少なくともアリサが席を立たなかったのだからそんなに長い時間ではなかったようだ。

 笑い終えた梓は目じりの涙を拭いながら、娘の質問に答えた。

「それはね、翔太くんが男の子で、アリサが女の子だからよ」

 悪戯っぽく笑う梓。アリサとしては、梓の言葉の意味が理解できない。しかし、それ以上、梓は答えてくれるつもりはなかったらしく、騙されたと思って書いてみなさい、と言って自らが持っていたのだろう便箋を自分の部屋から取ってきて、アリサに渡した。その便箋は可愛い花柄の便箋だった。ついでにピンクのシンプルな封筒も受け取って。

 そのような経緯からアリサは翔太への手紙を書いているのだが、これがなかなか書けない。まるで、文豪の部屋のように失敗した手紙がカーペットの上に転がっていた。

「う~ん、難しいわね」

 手紙を書くなんて初めてだ。メールなら何度もあるが、こうやって書くのは初めてだった。確かに梓が言うようにメールとは違った趣があり、メールのように簡単にはかけない。それにすぐに返信が返ってくるメールと違って、手紙は相手がすぐに聞き返すことができないため、わかりにくい内容ではだめなのだ。相手が勘違いすることなく受け取れる内容でないといけない。

「う~ん、ママはなんて言ってたかな」

 便箋を渡し、笑いながら、最後に与えたアリサへのアドバイス。それを思い出すアリサ。そうそう、最後のアドバイスは、こうだった。


 ―――手紙は、シンプルでストレートに、ね。


 梓の言うことはもっともだ。簡潔、かつストレートに誤解できないように書かなければならないのだから。

「よしっ! 決めたわっ!」

 ここにきて、アリサは覚悟を決めた。本当に翔太に言いたいことをだけを簡潔かつストレートに書くことにしたのだ。そうと決めれば、アリサの行動は早い。机の上に広げられた便箋の上に文字を走らせる。

 彼女が書いた手紙の本文はたったの一言だけだった。





 ――――あなたに会いたいです。




つづく



[15269] 第三十一話 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/10/03 21:31



 はやてちゃんの家が襲撃されてから一週間が過ぎようとしていた。結局、あの事件の詳細をクロノさんが、口にすることはなかった。ただ、彼らの言い方とクロノさんの難しそうな顔と事件の次の日に頭を下げて謝ってくれたことから、大体の事情を察することはできた。

 クロノさんが事情を言わないのか、言えないのか、僕にはわからない。しかし、どっちでもいいとは思っている。悪いのは彼らであり、クロノさんではない。たとえ、相手が元同じ職場の人間だったとしても、クロノさんに責はないのだから。あれから護衛の数を増やしたらしいが、それも無駄に終わりそうだった。僕としては無駄に終わってくれたほうがありがたい。

 一方、クロノさんとなのはちゃんのほうも順調らしい。計画通りに進んでいるらしく、このままならスケジュール通りに消化できるらしい。そうすると、はやてちゃんを蝕んでいる闇の書は、クリスマスまでには封印できるようである。

 僕としては、喜ばしいことだが、はやてちゃんにその話をすると、なぜか少しだけ暗い顔をするのだ。理由を聞いても教えてくれない。いったい、何が彼女にそんな顔をさせるのだろうか。理由はなんとなく想像がつく。おそらく、まだシグナムさんたちのことが心のどこかに引っかかっているのだろう。

 当たり前だ。いくら、知らないと言われたとはいえ、彼女にとって彼らは大事な家族なのだから。しかも、よくよく話を聞けば、彼らはもともと闇の書の守護騎士。彼らに何が起きたか、僕にもはやてちゃんにもわからないが、闇の書が封印される以上、彼らも封印されるとみて間違いないだろう。

 だから、暗い顔をしているのだと僕は思っている。そんなはやてちゃんに僕は何も言えなかった。まさか、シグナムさんたちを助けるために闇の書を封印するな、とは言えない。なぜなら、そのままにしておくとはやてちゃんは死んでしまうからだ。これは最初に説明されたことだから知っている。

 それに加えて、さらに闇の書には転生機能があり、次の場所へ転移し、破壊を繰り返す。その結果がわかっているからこそ、はやてちゃんは封印にも納得したのだろう。もちろん、闇の書を復活させることも意識しているようだが。

 さて、何にしても残り一週間―――12月24日、クリスマスイブにはすべてに片が付きそうだ、とクロノさんも言っていたし、それまで何事もないことを祈るばかりである。

 しかしながら、そんなことを考えながら登校したのがまずかったのか、まるで僕の祈りをせせら笑うような出来事が待ち構えていた。

 僕は、登校した後、いつも通りに下足場から上履きを取るために靴箱を開き―――閉じた。

 目の前の光景が信じられなくて、いや、信じたくなくて。だから、事実を確かめるために僕はもう一度、目をこすり、寝ぼけていないことを確認してからもう一度靴箱を開いた。

 そこに広がる光景は変わっていなかった。昨日の帰宅時と同様にちょこんとおいてある僕の上履き。それは何も変わらない。変わっているのは、まるで上履きをさえぎるように立ててある一枚の封筒であった。

 A4サイズの紙を公共の機関に送るような無骨な茶封筒ではない。手紙をやり取りするときのような薄いピンク色の封筒。可愛い犬のシールで手紙は封がされていた。

 手紙用の封筒などペンフレンドでもいれば、持っているのだろうが、生憎ながらメールでほとんどのことが住んでしまう世の中になってしまった以上、僕たちが多用することは少ないのではないだろうか。

 そんな珍しい代物が僕の目の前にあった。それを青春時代の一ページに明るい記憶を付け加えるための招待状か、あるいは笑い話にもならないページを付け加えるための招待状と勘違いしてしまうのは、僕が小学生しからぬ思考回路を持っているからだろうか。

 そのどちらにしても、この下足場で上履きもとらずに立ち止まっているのは視線を集めてしまう。今も徐々に僕にチラチラと視線を向けてくる生徒がいる以上、これ以上立ち止まっていてはいらぬ関心を呼んでしまうだろう。

 僕は、上履きに立てかけられるように置かれていた手紙を誰にも見られぬようにカバンの中に突っ込むと、下足場から上履きを取出し、下ばきと履き替えて何食わぬ顔でその場を後にした。

 そのまま、僕が向かった先は教室―――ではなく、屋上へと続く階段の踊り場だ。しかも、教室がある校舎ではなく音楽室や美術室などがある特別校舎の屋上への階段の踊り場だ。実は、教室がある校舎の屋上は開放されているが特別校舎のほうは開放されておらず、結果として人が少ない。だからこそ、こういう内緒ごとをするにはピッタリな場所なのだ。

 いつも通りというべきだろうか、僕が目的地としていた階段の踊り場には誰もいなかった。もっとも、季節が冬であることを考えるともともと誰かがいる可能性はゼロに等しいのだが。

 誰もいないことを確認した僕は、早速カバンの中に放り入れた手紙を取り出した。薄いピンク色の封筒は適当に放り込んだ割にはまがったところはなく、そのままの姿だった。実は、放り込んだ後、ずいぶん適当だったということを思い出してくしゃくしゃになっていないだろうか、と心配になったのだが、幸いにして杞憂で済んだようだった、

 まずは封筒の封を開けずに裏と表を見てみる。この手紙にはありがちなように『蔵元翔太様へ』という一文はあったが、差出人の名前はどこにもなかった。その形式美というものが、もしかして、という期待と一緒に僕の胸を高鳴らせる。

 どこかの漫画にしかないようなシチュエーションだが、一種の浪漫も感じるではないか。さすがに平時には過去の経験も合わせて冷静に対処できる自信はあるが、生憎ながらこの手の手紙に関する経験はこれが初めてだった。

 僕はドキドキと胸を高鳴らせながら犬のシールをはいで、中に入っている便箋を取り出す。それも花があしらわれた可愛らしい便箋だった。どんな内容が書かれているのだろうか、と目を走らせてみたが、その行為は一瞬で終わった。

 なぜなら、そこに記された文章はたった一文しかなかったからだ。

『あなたに会いたいです。』

 そして、その下には本日の日付と場所と時間だけが記されていた。ここにも差出人の名前はない。便箋の裏も見てみたが、そこには真っ白な裏面を見せるだけで何も書かれていなかった。

 ……まさか、あぶりだしとかじゃないよね?

 そんな漫画のようなシチュエーションに対して漫画のような対処法が必要なのか、と一瞬だけ頭をひねらせた後、丁寧に便箋をたたむと入っていた封筒に取り出した時と同様に封筒に仕舞うと今度はくしゃくしゃにならないようにノートの間に挟んでカバンの中に仕舞い込んで、階段の踊り場を後にした。

 階段の踊り場から今度こそ教室へと向かう。僕はもともと授業開始の30分前には学校に来ているからこの程度の寄り道ならば、問題はないが、そこで考えている余裕はなさそうだ。だから、とりあえず教室へと向かう。

 教室に入った僕は、タイミング的には珍しく遅いこともあってか、いつもよりも多くのクラスメイトに朝の挨拶と遅くなった理由を聞かれながら自分の席へと向かう。冬場の寒さをしのぐためのコートもこの教室の中では無用の長物。脱いだコートを椅子にひっかけて座る。

 いつもなら、はやてちゃんの家から借りてきた本の読書に入るのだが、今日はそんな気分ではない。頬杖をついて思考に陥る。もちろん、内容は先ほどの手紙のことである。

 たった一文。だが、その内容を考えればあれがラブレターに近いものであることは一目瞭然だった。僕だってそう信じていただろう。ここが小学校でなければ。これが中学校や高校であればわかる。しかしながら、ここは聖祥大付属小学校なのだ。ラブレターが行き来するような場所ではない……と思う。

 いやいや、小学校も5年生や6年生ならありえるかもしれない。男の子はともかく、女の子はそういったことには早熟だから。もともと、成長の度合いで言えば、中学校を卒業する間際までは、女の子のほうが早いのだから。心も身体も。ゆえに高学年ならばありえないわけではない。

 ならば、この手紙が高学年の女の子から僕に来たものか? と言われると首を傾げざるを得ない。彼らとは2年か3年程度の年齢差しかないとはいえ、僕たちの年代の2、3年は非常に大きな大きな壁である。その差を乗り越えてくるとは到底考えにくい。これが大人の女性でちょっと性的嗜好が特殊であれば話は別だ。もっとも、そんな輩を僕は相手にしたくない。

 だからといって、これが僕たちの学年のものとは考えにくい。確かにそういったことに興味を持っている女の子はいるかもしれない。男の子も女の子も僕たちの年齢ぐらいからは、男の子と女の子を区別し始める年齢だからだ。しかしながら、ここまでの考えに至るとは考えにくい。

 つまり、結論から言うと誰から来たものかは、放課後に指定された場所に行ってみるまでわからないということである。

 ちなみに、中学生ぐらいでありそうな男からの悪戯という線は消している。あれは、期待と不安に胸を躍らせる哀れな生贄の羊―――あるいは、道化をせせら笑うことが目的であり、小学生が思いつく悪戯ではないと思うからだ。その感情が理解できない以上、その手のいたずらは実行しても面白いものではない。

 放課後まではわからない。そうとはわかっていても気になる。

 結局、今日の授業はいつもほど集中することができず、珍しく担任の先生からは「おいおい、蔵元珍しいな」とからからと笑われてしまった。その様子を見て、夏樹ちゃんや桃花ちゃん、アリシアちゃん、すずかちゃん、アリサちゃんが心配そうに様子をうかがいに来たが、僕は愛想笑いで大丈夫だよ、と返すしかなかった。

 事情を隠したのは、僕が男の子だったからだろうか。なんとなく気恥ずかしい上に、この年代であればラブレターという言葉を知っているため、下手に知られてしまえば騒がれる可能性があったからだ。

 そんな風に一日、僕をやきもきさせながらついに指定された時間になった。

 指定された時間は、放課後よりも30分ずれていた。放課後は授業が終われば、おしまいというわけではない。そこから掃除とSHRがあるため、終了時間は不規則なのだ。特にSHRは、その日の連絡事項や担任の気分によって時間が変わる。もっとも、1組の担任はSHRが短いことで有名だが。

 30分というのはそれらの遅れを吸収するための時間だろう。放課後、一人ではやてちゃんの家から借りてきた本を読みながら時間をつぶした。幾人かはいつもすぐに教室から去ってしまう僕が珍しく残っているのを見てサッカーに誘ってきたが、それは断った。放課後は参加していないが、昼休みは参加しているため僕の立場が男子たちの間で悪くなることはないだろう。それに最近は寒いこともあって、あまりサッカーは人気がないことも幸いしていた。

 ちなみに、放課後の用事であるはやてちゃんの護衛に関してはすでにクロノさんとはやてちゃんに連絡済みである。はやてちゃんに用事で遅くなることを伝えると「はよ、帰ってきてな」と言われてしまった。僕としてはそんなに遅くなるつもりはないから、「うん、できるだけ早く行くよ」と返しておいたが。

「さて、行こうかな」

 もう、誰も残っていない教室に一人残っていた僕はパタンと本を閉じると、椅子にひっかけていたコートを羽織りカバンを持つと教室を後にした。もちろん、向かう先は手紙で書かれた待ち合わせ場所である。

 手紙で示された待ち合わせ場所は、聖祥大付属小学校の中でも人気のない場所だった。もしも、少し悪い学校にでも行けば教師に隠れて煙草を吸っている生徒がたまり場にしそうな場所である。もっとも、聖祥大付属小では校風から鑑みるにありえない場所ではあるが。

 その場所は特殊校舎の裏側であり、玄関やグラウンドからは離れている。よって、このあたりに人気がないのは自然なことであった。さらに寒さが拍車をかける。今年は、西高東低の気圧配置の影響でずいぶん寒くなるようであり、今年のクリスマスはホワイトクリスマスになるかもしれない、と天気予報が言っていた。

 その中を僕は歩き続け、ついに曲がり角を曲がれば、待ち合わせ場所というところまできた。

 その手前で一度立ち止まってすぅ、と大きく深呼吸をする。この先を曲がれば嫌でも相手が目に入る。そうなれば落ち着いてなどいられない。向こうも僕に気付くだろうから、こんなことをしている余裕はないだろう。だからこそ、この場でドキドキと高鳴る胸を少しでも抑えるために深呼吸をしたのだ。

 さて、と覚悟を決めた僕は、その一歩を踏み出し、曲がり角をまがった。

 ―――最初に目に入ってきたのは、流れるような金髪だった。彼女は、まるで天気を気にするように手を仰いでいた。その瞳は、どこか寂しそうで、怯えるように、不安そうに揺れていた。

「―――アリサちゃん?」

 その声に含まれていたのは、驚きだろうか? あるいは、どうして彼女がここに? という疑問だろうか。僕にはよくわからなかった。彼女の特徴ともいえる金髪と顔とその表情を確認した時に自然とこぼれてきたのだから確認できるわけがない。

 たとえ、自然とこぼれたものであっても口から出た以上、音となり相手に伝わる。僕の呼び声に反応したのか、天を仰いでいたアリサちゃんの視線がこちらに向いた。

「あ、ショウ! 遅いじゃない!!」

「―――時間通りだよ」

 いつもと変わらないアリサちゃんの声が僕の耳を打ち、自然と緊張が解けていた。もしも、これに緊張やほかの色が見えたりしたら、僕も万が一を想像してしまうのだが、あまりにいつも通りのアリサちゃんの様子のそんな想像は、僕の頭から葬り去られることになった。

 ここまでの時間を見て、余裕をもってここに来たのだ。時間から遅れているわけがない、と思いながら僕はアリサちゃんに近づいた。僕が気付いたのはまがってすぐだったため、待ち合わせ場所からは離れていたのだ。

 僕が近づくと改めて彼女と視線を合わせる。アリサちゃんは、僕と同じく聖祥大付属小の制服の上から指定のコートを羽織っていた。最近は寒さが強いこともあってか可愛らしいピンクのミトンもしていた。

「それで……こうやって僕を呼び出した理由は何?」

 アリサちゃんが出したんでしょう? と確認するように手紙を取り出しながら言う。アリサちゃんは、僕が指示した手紙を別段否定するわけではなく、僕から少しだけ視線をそらすと、頬を染める。

 え? なに、その反応。

 アリサちゃんの思わない反応に驚いた。彼女の様子からして、その可能性を捨ててしまっていたからだ。いわば、不意打ちだろう。だから、彼女を意識しているしていないにかかわらず反応してしまった、という言い方が正しいのだろうか。

「だって……ショウと最近……ゆっくり話してなかったから……」

 ぼそぼそと聞こえるか、聞こえないかぎりぎりの声音でアリサちゃんは告げる。

 彼女の口から告げられたのが、僕が想像した類のものではないことに安堵―――万が一そうであれば、僕はどう答えればいいのかわからない―――し、同時にそういえば、アリサちゃんは長いこと、具体的にはあの遊園地を断って以来、きちんと話した日はなかったと思う。挨拶やちょっとした会話ぐらいはあったかもしれないが。

 すずかちゃんの話だと、落ち着くまでは、という話だったけど……この展開からすると彼女は落ち着けたのだろうか。ならば、僕も彼女に直接伝えるべきだろう。

「ごめんね、アリサちゃん。遊園地行けなくて」

 はやてちゃんのことがあったとはいえ、はやてちゃんを優先させると決めたのは僕だ。だから、何かしらの事情があったとはいえ、僕は一言謝るべきだと思ったのだ。だから、僕はアリサちゃんに頭を下げていた。

 だが、その様子を見て、アリサちゃんは慌てていた。

「い、いいわよ。ショウにも何か用事があったんでしょう? だったら仕方ないわよ……」

 どうやら落ち着いたというのは本当らしい。今までのアリサちゃんなら、強く言い返してきたはずだから。このことに関しては彼女の中で何か決着がついていると考えていいだろう。

「本当にごめんね。今度、何か埋め合わせするから」

 翠屋でシュークリームぐらいが妥当だろうか? アリシアちゃんのように『蔵元翔太フリー券』を渡すか? とも思ったが、あれは家族の間だから有効であって、さすがにアリサちゃんには渡せない。

「うん、楽しみにしてるわっ!」

 本当に楽しみにしてくれるのだろう。アリサちゃんはこの場に来て、初めて笑った。彼女の笑顔を見て、僕もようやく安堵できた。アリサちゃんと仲がこじれているとはこの二週間考えていなかったが、それでもしこりの様に残っていたから。はやてちゃんの事件が終われば、ゆっくり話をするつもりだったが、彼女から動いてくれて助かったのかもしれない。

「ところで、誰からこの方法を聞いたの?」

 僕は、手紙を改めて示しながら聞いた。これは問いただしたいのではなく、純粋な興味だ。

 この行為が何かしらの意味を持つことにアリサちゃんは気付いていないようだ。ならば、誰かからの入れ知恵があると思ったからだ。犯人探しのつもりはないが、こんな愉快なことをする人のことを知りたかった。

 しかしながら、返ってきた答えは意外な人物名だった。

「ママよ。ショウと話したかったら、この方法が確実だからって」

 梓さんか……。

 アリサちゃんからその名前が出てきて、僕はどこか納得していた。あの人がお茶目な一面があることは知っていたが、まさかこんな方法をとってくるとは。梓さんのことだから、僕が気付くこともなんとなく想像できているのだろう。あるいは、気付かなくても、将来、笑いネタにできる思い出に、程度には考えていたのだろう。

 つまり、僕とアリサちゃんは梓さんの掌の上で踊っていたのだ。

 僕は、その考えに至って、大きくため息を吐いてしまった。

「あ、あのっ! ショウ!!」

「ん? なに?」

 どこか、あわてた様子で僕に話しかけてくるアリサちゃん。彼女がこの方法をとってまで僕と話したかった理由を考えると僕が大きくため息を吐いたのを見て不安になったのかもしれない。しまった、とは内心思いながらも僕は、あわてて笑みを作り彼女に応える。

 僕の想像が正しかったのか、彼女は僕の笑みを見てほっとしたような表情をして、その口を開いた。

「埋め合わせなんだけど、クリスマスの予定は空いてるんでしょうね?」

「―――うん、今のところ空いてるよ」

 闇の書はイヴの夜には封印できるらしいので、クリスマスの25日は空いていると言えば空いているだろう。我が家は日本人らしくクリスマスにはケーキも食べるし、初もうでにも行く。クリスマスを特別に重視ししてるわけではないので、何か用事を入れることは可能だ。

「だったら、あたしの家のクリスマスパーティーに来なさいよっ!」

「……いいの?」

 僕は彼女の提案に思わず聞き返していた。

 彼女の父親―――デイビットさんは、アメリカ人だ。クリスマスはミサに行ったり、家族水入らずで過ごしたりすると聞いていたのだが違っただろうか? 一年生と二年生のクリスマスは、秋人のことがあったりしたため遠慮したのだ。

「大丈夫よっ! パパもママも大歓迎よっ!」

 あ、そうだ、アリシアと秋人とショウのパパとママも呼ぶといいわ、と笑顔で続けるアリサちゃん。親父や母さんはともかく、僕がパーティに参加する程度で遊園地の埋め合わせができるなら安いものである。父さんたちはどう答えるかな? 聞いてみるのが早いだろう。何よりアリシアちゃんは、僕たちの家に来て初めてのクリスマスだ。どうせなら、本場のパーティに参加させてあげたい。

「うん、わかったよ。父さんと母さんはわからないけど、僕は参加するよ」

 僕がそう答えるとぱぁ、と満面の笑みを浮かべて「絶対よっ!」と念を押す。

 久しぶりに見たアリサちゃんのその笑顔が見られただけでも、埋め合わせということを抜きにして、承諾してよかったな、と思うのだった。



  ◇  ◇  ◇



「クロノさん、どこまで行くんですか?」

「その先だよ」

 不安そうにしているはやてちゃんの代わりに僕が聞く。

 僕は、今、はやてちゃんをエスコートするように手を引きながら階段を上っている。もちろん、はやてちゃんは、車椅子であり、それを補うためにクロノさんが浮遊魔法を使って車椅子を浮かせて移動しているのだ。僕が手を握っているのは車椅子が浮いているという状況に不安を抱いているはやてちゃんを安心させるためである。

 今日は、12月24日。闇の書を封印する日である。先週から一週間、無事にこの日を迎えられたわけではない。

 あの手紙の事件から三日後、一度はやてちゃんが倒れた。苦しむように胸を押さえたと思ったら意識を失ったのだ。あの時は、本当に動揺した。幸いにして上下している胸が彼女が生きていることを示してくれたが。

 アースラの担当医師によると、どうやら闇の書からの浸食の影響らしい。封印するために闇の書の完成が近づいてきたのだが、それでも十年近く闇の書から魔力を吸い取られているはやてちゃんのリンカーコアは、相当に負荷がかかっているようであり、そろそろ限界らしい。

 僕は完成まで病院で見てくれ、と懇願したのだが、それは相談したクロノさんにも首を振られてしまった。

 理由は、病院でも打つ手がないからだ。対策としては闇の書を完成させるしかない。そのため病院にいてもしょうがない。むしろ、環境を変えることでさらに心身に不安を与えることが怖いのだとクロノさんは語った。

「むしろ、君が手を握ったほうが彼女は安心するんじゃないか?」

 とクロノさんらしからぬ冗談を口にしたものだから、僕は逆に驚かされてしまった。もっとも、その話を聞いていたのか聞いていなかったのか、ちょっとだけ意識を取り戻したはやてちゃんが、僕の名前を呼んで、手を握ってとうわごとのように言われてしまれば、握らないわけにはいかない。

 しかも、その効果は、直後にはやてちゃんが安眠するほどなのだからいかほどだろうか。確かに手当という言葉には本当に患部に手を当てることで痛みが和らぐことから来るとは聞いたことがある。そのため、人と人の接触には何か効果があるのだろうが。はやてちゃんにとって僕は安定剤か何かだろうか。

 しかしながら、その様子を見ていたクロノさんの意地の悪い笑みがひどくイラッとさせた。

 さて、それから三日。すっかり体力的には回復したはやてちゃん。僕も今日の最後の始業式を終えてはやてちゃんの家にお邪魔した時にはすでにクロノさんがいた。いよいよ、闇の書を封印する、ということを告げるために。

 そして、案内されているのはどこにもテナントが入っていない廃ビルともいうべき建物である。そこに無断で入った僕たちは屋上を目指して階段を上っている。許可なく建物に入っている罪悪感と何も説明されずに向かっているという不安からはやてちゃんの表情が曇っているのを確認した僕は安心させるように手を握り、一歩一歩屋上へ向けて歩いていた。

 そして、六階分の階段を上った先には鉄の扉があった。もちろん、誰も使っていない以上、悪用されないように施錠はされていたのだろうが、そんなものは魔法の前には無意味だった。

 ぎぃ、という鉄がきしむ音がして屋上への扉が開かれる。

 地上よりも空に近いその場所は、コンクリートとフェンス以外何もなく、空は天気予報が告げたように今にも天気を崩しそうな曇り空が広がっていた。

 僕たちが先に屋上に入り、クロノさんがドアを背にして対峙する形となっていた。

「クロノさん、そろそろ教えてくれませんか? これからどうやって闇の書を封印するんですか?」

 クロノさんが右手に抱えている闇の書を見ながら、クロノさんに問う。今日の目的はそれの封印のはずだ。今までそのために僕は協力してきたのだから。ちなみに、僕は具体的な方法は聞いていない。昨日、「明日決行だよ」としか聞いていない。

「うん、そうだね、説明しないといけない―――ねっ!」

 その瞬間、クロノさんの右手が動いた。魔導書という言葉に恥じず、空中で制止する闇の書。そのページが自動的に開かれる。パラパラとめくられるページ。だが、あともう少しというところでぴたりと止まる。そのページにはおかしいことに何も書かれていない。今までのページには読めないが、何かかが書かれていたというのに。

「クロノさん……それはいった―――うっ!!」

 突然、胸に走る激痛。しかし、僕がそれで胸を抑えることはできなかった。なぜなら、同時に僕はクロノさんのバインドによって縛られいたからだ。

「ショウくんっ!?」

 はやてちゃんの驚いた声が聞こえる。しかし、激痛のあまり、何も返事することはできない。やがて、僕の胸から白い水晶のようなものが輝きながら飛び出してきた。これがリンカーコア? と思ったのは僕の直観だ。それを認識した直後、リンカーコアから闇の書に向かった何かが流れ込む。

「ぐぁぁぁぁぁぁっ!」

 そのときの激痛は筆舌にしがたい。何せ、内部からいじられるのだ。しかも、現実味のある臓器ではない。魔法という架空の臓器だ。全身から痛みが走るようで、胸に鈍痛が走るようでもある。

 それがどれだけ続いただろうか。長かったような、短かったようなよくわからない時間間隔だ。しかし、不意にプツンと痛みの連続が切れたと思うと、バインドから解放され、もはや立つ気力もなかった僕は、バタンと倒れこんでしまった。下がコンクリートなだけに痛かったが、それよりも外部によって冷やされたコンクリートの冷たさが気持ちよかった。

「ショウくん! 大丈夫―――ひっ!?」

 はやてちゃんが駆け寄ってこようとしたのだろう。だが、その直後に悲鳴のようなものを上げていた。生憎ながら、僕は立ち上がることができずに地面しか顔を横に向けるぐらいしかできないため、彼女が何におびえているかわからない。

「さて、翔太くんの魔力も無事に取り出せたことだし。八神はやてさん……そろそろ、この世からのお別れを済まそうか」

 ―――それはどういう意味だ?

 僕はもはや動かない口を動かすことなくクロノさんの言葉の意味を問う。それははやてちゃんも同じようだ。僕と同じようなことを聞く。

「簡単な話だよ。君ごと闇の書を封印する。まあ、君が元気なままだと封印の強度もかなりの強さが必要だから、死ぬような大けがを負った状態で封印されてくれるとこちらとしては助かるんだけど」

 まるで、ドラマの筋書きを話すように愉快気に話すクロノさん。

「な、なんやそれっ!」

「……なにって、君が知りたがった真実だよ。僕たちも翔太くんも最初から闇の書だけを封印するつもりなんてなかったんだよ。君ごと一生―――いや、この場合、目覚めることはないから永久に封印するつもりだったんだよ」

 嘘だ。僕はそんなことは知らない。

「い、いややっ!」

 当たり前だ。そんなことを承諾できるはずはない。

「まあ、君が拒絶するのは勝手だけど………はい、そうですか、なんてやめるわけないよ」

 ざっ、とクロノさんの靴が動いたのがわかった。同時に一歩分、きぃとはやてちゃんの車椅子が動いたのがわかった。

「大体さ、君も愚かだよね」

 くすくす、とクロノさんが嗤う。愚か者を、道化を、ピエロを笑うように嗤う。声だけでそれがわかるほどに嗤っていた。

「家族が全員いなくなって傷心中の少女の元に、少女が持つ病気を治せる魔法をという手段を知っている少年が出会うなんて漫画か小説にしかないようなことを疑うことなく信じてるんだから」

「ど、どういう意味や?」

「君は、今までのことが全部偶然だと思っていたの? だとすれば、本当に夢見る少女だったたんだね」

 先ほどよりも嗤いを強くして、さらにはやてちゃんに近づく。はやてちゃんはもはやクロノさんから距離を取ることもできないようだ。その声には強い怯えを含んでいた。クロノさんへの最初の怯え以上の怯えを。

「ま、まさか……わたしとショウ君が出会ったんも―――」

「図書館での出会いなんてべただと思わない?」

「あの家を襲ってきた人たちも―――」

「自作自演って言葉が世の中にはあるらしいよ?」

「ショウくんのあの言葉も―――」

「彼は夢見る少女が望む言葉なんて星の数ほど諳んじれるよ」

 はやてちゃんが、一言一言問うたびに声の中に恐怖の部分は色濃くなり、クロノさんが答えれば答えるほど嗤いの色を強くする。まるで、掌で踊っている道化をあざ笑うように。夢見る少女の夢を壊すことが心底愉快であると言わんばかりにクロノさんは嗤う。

「さて、これで終わりかな? 偽りと茶番劇に満ちた一か月を十分に楽しめただろう」

 不意に声色から嗤いが消える。本当にこれから半生半死にしたはやてちゃんごと闇の書を封印するという真実味を増すには十分すぎるほどだった。

 逃げてっ! と叫びたかった。しかし、体がいうことを聞かない。それどころか、だんだんと意識があいまいになってくる。まるで眠る直前のように。これがリンカーコアから何かが抜かれた影響だろうか。

 だが、僕のそんな様子を全く無視して、クロノさんはゆっくりとはやてちゃんに近づく。僕には彼女の恐怖がいかほどか想像しかできないが、それが限界値を超える恐怖であることは容易に想像できた。

「そんなに夢の世界がよかったなら、ユメの続きは封印の中で見るといいよ。そこは永久に終わらないんだから」

「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 はやてちゃんの悲鳴を最後に僕が意識を失う直前に耳に入ってきたのは、どこか機械的な『Freilassung』という言葉だけだった。




つづく





















この物語にA'sはなく、踊り、踊らせる道化がいるのみである。



[15269] 第三十一話 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:07f93917
Date: 2011/12/10 18:41



 まるで沈んだプールの底から水面に浮かびあがっていくような感覚だった。意識がゆっくりと浮上していくような感覚。一度沈んだ僕の意識が再び表に出ようとしていた。

 ぱちっ、と閉じられていた瞼を開けてみれば、視界を支配したのは真っ黒な暗雲だった。

 えっと……ここは? ……というか、僕はどうして寝ていたんだ?

 なんとなく目覚めたという感覚はある。つまり、僕は今まで寝ていたということである。なぜ、寝ていたのか。すぐには思い出せなかった。

 そもそも、寝ている場所が不思議である。背中から足元にかけては硬く冷たい感覚が支配しているにも関わらず、首からは上は少しだけ上がっており、頭部には暖かさを感じていた。まるでフローリングに枕だけで寝ているような感覚だった。

 だからだろう、この状況から寝る直前までの記憶がすぐに思いつかなかったのは。

 少し探れば、思い出すことは可能だっただろう。しかし、それを遮るように頭上から声がした。

「目が覚めた? ……ショウくん」

 聞こえてきたのは聞きなれた声だった。声が降ってきた方向に目を向けてみれば、そこには思っていた以上に近い位置に彼女の顔が存在していた。僕の友人の一人である高町なのはちゃんの顔が。

「なのは……ちゃん?」

「うん、なのはだよ」

 そう答えながら彼女は笑う。

 どうして、なのはちゃんがここにいるのだろうか。なのはちゃんには何も言っていなかったはずだ。今日の封印に関してもなのはちゃんにできることは何もないため、クロノさんはなにも連絡していないといっていた。

 できることがない、ということに関しては、僕も同様なのだがはやてちゃんが心細いだろうということで、僕も同伴したのだ。

「―――って、はやてちゃんはっ!?」

 未だ呆然としていた頭もいい加減に活性化しはじめ、今までの経緯を思い出していたところで僕は、記憶が途切れる直前の光景を思い出した。

 クロノさんに追いつめられ、叫んでいたはやてちゃん。彼女の気配を今の僕は感じられなかった。

 不安に駆られた僕は、寝ている状態から一気に起き上がり、現状を知っているかもしれないなのはちゃんに問うために振り返る。先ほど、僕を覗き込むように話しかけてきたなのはちゃんは、僕のすぐそばにいた。冷たい冬のコンクリートの上に聖祥大付属小学校の制服に似せたバリアジャケットで、直に女の子座りのままで。

 ―――え? あれ……えっと……もしかして……僕、なのはちゃんに膝枕されてた?

 僕が今立っている位置、先ほど感じられたぬくもり、なのはちゃんの据わり方。それらを総合して考えれば、先ほどまで、僕がどのような格好で寝ていたか想像はつく。そこにどこか気恥ずかしさを感じてしまう。

 そんな気恥ずかしさを押し込んで僕はなのはちゃんに問う。

「なのはちゃん、はやてちゃんの行方を知らない?」

 僕が先ほどまでの格好に心の中で身もだえしていることを知ってか知らずか、何事もなかったようになのはちゃんは立ち上がると視線を僕から見て右手に向けた。

 僕もつられてなのはちゃんと同じ方向に視線を向ける。

 視線の先では、まるで花火のように火花を散らしながら交差する五つの人影があった。

 火を噴き、大きなハンマーを振るい、白銀の鎖が空を舞い、翠色の光が人影を包む。そして、最後の一つの人影はそれらを捌くように紅と黒の光で相手をしていた。

「あそこにいるのが、八神はやてだよ。ショウくん」

「え? でも……あの人影は……」

 そう、はやてちゃんとは似ても似つかない人影。彼女は、あんな白髪ではないし、背中に翼のようなものを生やしていない。なにより、彼女は魔法を使えないはずだ。

 だが、僕のそんな反論をさえぎるようになのはちゃんは続ける。

「でも、間違いないよ」

 どこか確信を持ったような声。もしかしたら、なのはちゃんには何か別の方法があって彼女を識別する方法を持っているのかもしれない。

 最初は信じられなかったはやてちゃんの変化した姿だったが、よくよく考えてみると一つだけ彼女をそうさせる要素が見つかった。

 つまり『闇の書』だ。

 封印すると言っていたが、あれから僕は気を失ってしまったので、状況が把握できない。しかし、闇の書とは古いデバイスのようなことを最初の説明で言っていたこともあって、もしかしたらバリアジャケットのように姿を変化させられるのかもしれない。

 しかし、ここでわからないのは、なぜ彼女たちが戦っているか、だ。

「どうして、はやてちゃんは守護騎士の人たちと戦ってるの?」

 そう、目をよく凝らしてみれ見れば、戦っている人たちも僕は見覚えがあった。あの襲撃のときに自らを守護騎士と名乗っていた人たちのことである。そして、同時にはやてちゃんの家族でもある。

 名前は、シグナムさん、ヴィータさん、シャマルさん、ザフィーラさんだっただろうか。

 彼女を護るならわかる。だが、彼女たちは今、間違いなくはやてちゃんと思しき人物に攻撃をしているようにも見える。

「……力の暴走だよ。今のあの人は、封印が解かれて、有り余る力で暴走してるみたい」

「それは……」

「レイジングハートが教えてくれたよ」

 どうして、レイジングハートはそんなことを知っているのだろうか。

 いや、それよりも問題は、闇の書が暴走しているという一点だ。つまり、クロノさんたちは封印に失敗したことになる。いや、僕が記憶を失う直前の言動からすれば、失敗させたということになるのだろうか。いや、だが、それはどういうことだ? クロノさんたちは封印させるために動いていたんじゃないのか? 僕を騙してまで暴走させる意味は……?

 わからない。持っている手札があまりに少なすぎて。管理局―――クロノさんたちのいうことを信じて動いてきた僕には、裏切られたかも、という疑念がある以上、何の答えも出せなかった。

「―――ショウ君はどうしたい?」

「え?」

 僕はなのはちゃんに問われて、思わずなのはちゃんのほうを向いた。

 彼女はまっすぐに僕を見ており、その瞳はすべてを映すように澄んでいた。まるで僕の考えがそのまま映る鏡のように。

「あの子のこと」

 あの子、とは今、目の前で暴走している闇の書とはやてちゃんのことだろう。

 そうだ。僕がクロノさんたちに騙されたかもしれないなんてことは後で考えればいいことだ。今は、はやてちゃんをどうするか、だ。

「止めたい。うん、僕は彼女を止めないと……」

 もしも、はやてちゃんが、闇の書に取り込まれて暴走しているなら止めないといけない。

 はやてちゃんが、暴走による破壊を望んでいるとは思えない。どうしてこうなっているかわからないが。何をおいても現状に対応するのが先だろう。

 こういう時に出てきそうな時空管理局のクロノさんたちがいないのは気にかかるが。いや、そもそも暴走させたのがクロノさんたちだったとするといるはずもないのだが。

 そして、僕の答えを聞いたなのはちゃんは―――笑った。

 にこっ、とどこか安心したように。しかし、少しだけ陰りが見えるようなそんな笑みを浮かべた。

「うん、そうだね。ショウくんなら絶対そういうと思っていたよ」

 そういうとなのはちゃんは、白い靴に自らの魔力光である桃色の羽をつけて、空を飛ぶ。

 今は僕の倍ぐらいの位置に立って、僕を見下ろしながらいう。

「あの子を止めてくるね」

 まるで学校に行く、というような感じで気軽な声でなのはちゃんはいう。しかし、それが簡単なことではないことは容易に想像できる。今でさえ4対1なのに、はやてちゃんを止められる様子は見えない。あの襲撃者たちを一人で一蹴した守護騎士たちが、だ。

「ちょっと待って! 僕も―――っ!」

 だから、思わず今にも飛び立とうとしているなのはちゃんを呼び止めて、自ら参戦しようと思っていたのだが、途中でなのはちゃんに首を横に振られて、自らの力量に気付いた。

 一人で参戦しようとしているなのはちゃんに思わず反応して、僕も参戦しようと思っていたが、よくよく考えれば襲撃者にも対応できなかった僕が、参戦したところで戦力になるどころか邪魔ものだ。

 だから、なのはちゃんも首を横に振ったのだ。

「でも……」

 それでも、と思ってしまうのは、僕の精神年齢が高いからだろうか。小学生のなのはちゃんに行かせて、大人の仲間入りをしようとしている年代の僕が見ていることしかできないからだろうか。

 あるいは、女の子に行かせて、男の僕が見ていることしかできないというある種のフェミニズムからだろうか。

 どちらにしても僕が無力だからだ。魔力ランクAであろうとも、この場では僕は魔法も知らない素人となんら変わりはなかった。

「だったら………」

 え? と僕は彼女を見送ることしかできないことを悔しく思いうつむいている状態から顔を上げた。

「だったら、ショウくんが応援してよ。頑張れって。それだけで私はきっと強くなれるから」

 笑って彼女は言う。僕の一言がきっかけで戦うなんて野蛮な戦地へと送る僕に笑顔で彼女は応援してくれ、という。ならば、僕はこれ以上格好悪くならないために、ぐだぐだと嘆く前にやらなければならないだろう。

「なのはちゃん、頑張って!」

 ごめん、とは言わなかった。それは彼女の決意を無駄にしそうだったから。

 最低限の応援しか言えなかったけれども、彼女は僕の応援を聞くとぱぁ、と向日葵が咲いたように笑い、うんっ! と本当に遠足に行くような返事をして、その身を翻して、まっすぐと守護騎士とはやてちゃんたちが戦っている方向へと飛んで行った。

 僕は……僕は、それをただ見送ることしかできなかった。



  ◇  ◇  ◇



 廃ビルとなっている屋上にフェンスが設置されたままなのは、まだここにテナントや会社が入っているときの名残だろうか。もしかしたら、ドラマのように屋上でバレーボールに興じるOLさんもいたのかもしれない。

 それは、もはや想像の向こう側だ。仮に今でもそんな光景が残っていたとしても、こんな曇り空で、地獄絵図が広がる中、バレーボールに興じる強者はいないだろう。

 そう、なのはちゃんが戦いの場へと向かってから状況は悪化していた。道路のアスファルトを割って飛び出した火柱。初めて見る女性(闇の書なのだろうか?)から発せられる魔力は異様で、異質で、強大なものだった。魔法を習っているとはいえ、まだまだ素人である僕でさえ途方もないとわかる魔力を持つ女性。それが闇の書だった。

 そんな闇の書と戦っているのがなのはちゃんだ。

 戦況は僕にはよくわからない。だが、最初に戦っていたシグナムさんたちと協力しているようだ。なのはちゃんが向こうに行ってから少しの時間は、なのはちゃんの魔力光しか見えなかったが、五分もすると前のようにシグナムさんたちの炎やハンマーが乱舞し始めていた。

 心なしか威力やハンマーの大きさがなのはちゃんが向かう前よりも大きくなっているように感じられるのは気のせいだろうか。

 僕にはそんな戦況をフェンスにしがみついたまま見ることしかできない。

 応援してくれ、と言ってくれたなのはちゃんだが、見送る時の応援がせいぜいだ。聞こえないのであれば、あとは心の中で祈るしかない。もっとも、その祈りさえも届くかどうかはわからないが。

 戦況も僕が見ている限りでは一進一退というところだろうか。ここからどうやって戦況が動くのか僕には全く分からない。大きな動きでもなければ、体力の続く限り戦うのではないだろうか、と疑念を抱き始めたときだった。

「……うそ……だろう」

 僕は呆然とつぶやいてしまった。

 なぜなら、僕が見詰めていたその視界の先に見えたのは、まるでカラスのように黒い影。しかし、カラスというにはあまりに大きすぎる。しかも、目を凝らしてみてみれば、その姿が次第に見えてくる。

 その姿は、地球にはありえないもので。想像と物語の中にしか存在しないはずの存在。大きすぎる翼をもち、何物も貫けない鱗を持ち、口から生える牙はすべてを砕きそうな硬さを誇り、その真紅の粗暴は鋭く空の王者としての風格を兼ね備えた存在。

 僕の想像が間違っていなければ、その存在は―――竜だった。

 しかも、一匹ではない。空を埋め尽くすほど無数の竜。それが海鳴市の空を支配していた。

 どうしてそんなことができるのか、僕にはわからない。ただ、目の前の現象を端的にあらわすならば、本当に竜が現れた、としか言いようがないのだ。

 さすがにこれはまずいだろう、と思って、僕はなのはちゃんに念話を送って逃げるように言おうと思ったが、直前で切り上げた。なぜなら、念話をしながら戦闘することが危険だと思ったからだ。魔法を使えている時点で並列思考ができることはわかっているが、それでも魔法のために労力をさいたほうが戦いやすいはずだ。

 もしも、僕のせいでそれが隙になって大怪我でもしようものなら目も当てられない。

 しかし、そうだとすると、僕はどうするべきだろうか。あの巨体に立ち向かえるとは到底思えない。先ほどの段階でも出て行っても無力だと思い知らされたのだ。ならば、僕は僕のできることをやるべきだ。

 たとえば、時空管理局に頼る、とか。

 いや、それもどうだろうか。僕が倒れる直前まで話していたのはクロノさんであり、僕を攻撃したのもクロノさんである。いや、よくよく考えれば言動がやや怪しかったことを考えると、本当にクロノさんだったのか、という疑念は残るものの、闇の書を持っていた以上、彼が時空管理局の一員であることは間違いないだろう。

 ならば、ここで頼ってもいいものだろうか。なにより、この大事になっているのに時空管理局の人が見当たらないのもおかしい。そのことがさらに疑念を強くさせる。いったいどうなっているのだろうか。

 誰かに連絡を……とは考えるものの誰に連絡を取るべきなんだろうか。

 そんなことを考えている間にも戦いは激しさを増していた。

 竜の襲撃を剣やハンマーで打ち払い落していくシグナムさんやヴィータさん。炎の息吹からなのはちゃんを守るように銀色の膜を張る犬耳のザフィーラさん。時折、彼ら三人の体を翡翠色の光で包むシャマルさん。そして、なのはちゃんが一番後ろに待機しながら空を切り裂く桃色の砲撃で一気に数多くの竜を落としていた。

 どちらが有利なのか僕にはわからない。ただ、わかるのはなのはちゃんが有利なようにも、闇の書が有利なようにも見えないということである。

 なぜなら、落とす一方で、次々と背後で竜が生み出されるからだ。数が減っているのか、増えているのかわからない。千日手とはこういうことをいうのだろう。この戦局を崩すためには何か一手が必要なのだろうが、僕にはその一手がわからなかった。

『…たくん、翔太くん。翔太くんっ! 聞こえる!?』

「エイミィさんっ!?」

 なのはちゃんたちの戦いを見ながら、何か手はないだろうか、と考えている途中で、念話を送ってきたのは、疑惑の時空管理局に所属するエイミィさんだった。

『よかった……つながった』

 心底安心したようなエイミィさんの声に答えていいものか僕は迷った。なぜなら、彼女も時空管理局の一員である。だが、一方で、僕としては彼女自身は信じられると、信じたいと思っていた。

「……そうですね、何とか無事ですよ」

 だから、声は硬かったかもしれないが、僕はエイミィさんの念話に答えた。そして、エイミィさんも僕の声の硬さに気づいたのだろう。少し申し訳なさそうな声を出してきた。

『翔太くん、ごめん』

 何を謝っているのか僕にはわからない。僕に危害を加えてきたことだろうか、はやてちゃんを傷つけるような発言をしたことだろうか、僕をだましたことだろうか、あるいは、そのすべてだろうか。

 だが、そんなことは今は関係なかった。エイミィさんが連絡を取ってきた理由を知るべきなのだ。

「事情は後で聞きます。それよりも、何かありましたか?」

 何かあったのか、というならば、現状が何かあった状態なのだが、エイミィさんがそれを理解していないわけがない。だからこそ、僕が無事であることを確認したのだろうか。

 ならば、時空管理局は現状に気づいているということだろう。だとしたら、どうしてこの状態を放置しているのだろうか。あるいは、何か事情があって放置していると考えるのが妥当なのだろうか。

『うん。ひとつ大変なことが起きてね。翔太くんにお願いしたいことがあるの』

「………なんでしょうか?」

 非常に怪しいことはわかっている。先ほど騙されたのに用件を聞くのは間違っているとは思っている。だが、エイミィさんの声からは、焦りの色が色濃く見えた。もしも、これが演技なら脱帽ものだが、短い付き合いからも彼女は人をからかうことは好きだが、騙すことは嫌いだということがわかっている。

 つまり、本当にこれは彼女たちに予想外のことだったと考えるべきだろう。

『今、その空間は封時結界で包まれているんだけど、その中に取り残されちゃった人がいるの』

「まさか、僕に助けに行けって言うんですか?」

 僕の問いにエイミィさんは無言だった。ここでの無言は肯定と捉えてもいいだろう。

 しかし、おかしい話である。どうして、僕に頼むのだろうか。僕が戦力外で手が空いているというのは確かに事実かもしれないが。

「それは時空管理局のお仕事じゃないですか」

『そうなんだけど、今、そっちに手が回せる人員がいないのっ! だから、ごめん。翔太くん、お願いできないかな?』

 これをうそと見るとか、真実と見るか、僕には判断がつけられなかった。僕が持っている情報が少なすぎるのだ。心情的には、一度騙されている以上、嘘だという可能性が排除できない。しかし、もしも、本当だったら……いや、もしも本当だとしても、それ自体が罠だったりしたら。

 僕の状態が疑心暗鬼であり、まずい状態だということはわかっている。しかし、それでも疑ってしまうのは仕方ないだろう。

『それに、言いにくいんだけど、取り残されているのは……アリシアちゃんとその友達みたいなんだよ』

「うそでしょっ!?」

 思わず驚きの声を上げてしまった。

 くそっ! と僕は心の中で舌打ちした。なぜなら、アリシアちゃんと彼女の友人というのであれば、巻き込まれたのが誰だか判断できたからだ。今日は塾がない日だ。そういう時は大体、アリシアちゃんはアリサちゃんとすずかちゃんと一緒に帰っている。ならば、アリシアちゃんが確認できたなら、巻き込まれた友人というのはきっとその二人だ。

 これでは、エイミィさんの言葉が嘘か真実かなどとを考えている暇はない。これが罠だとか考えている暇はない。彼女たちがこの空間にいる以上、僕が動かないわけが行かなかった。これも策略か、と時空管理局への疑念は強くなってしまったが。

「エイミィさん、場所を教えてくださいっ!!」

『ありがとうっ! 今、S2Uに座標を送ったから。出口までの転送はこっちからサポートするよっ!』

 僕はコートのポケットに入れていたクロノさんから借りているS2Uを取り出した。

「S2Uっ! セットアップ!」

 僕の声に反応してS2Uは黒いバリアジャケットを展開する。バリアジャケットの形はクロノさんのをそのまま受け継ぐ形になってしまい、僕としても万が一を考えていなかったため、そのままにしている。

 クロノさんが装着していた黒いバリアジャケットを身にまとった僕はS2Uに対して、アリシアちゃんたちが取り残されたであろう場所を示すように命じた。

「ここか……」

 その場所は、いつもの帰り道だ。どうやら、そこから動いていないことを考えると、突然放り込まれた状況に呆然として動けないというところだろうか。理由はよくわからないが、動かないのであれば、幸いである。

「間に合ってよ」

 僕は祈るような気持ちでビルの屋上から飛び立った。

 しかし、間の悪いことに僕の飛行魔法は、『飛ぶ』というほど速度が出ない。少し早歩きをしている程度だろうか。それでも一直線に向こうに向かえるから早いのだけれども。

 僕は一直線にアリシアちゃんたちのほうへ向かいながら考えていた。

 どうして、エイミィさんたちは、僕に助けを求めたのだろうか、と。アースラは時空航行艦であり、転移魔法だって使えるはずだ。つまり、救助するためには僕の手助けは必要ないはずだった。それが、エイミィさんは、僕に向かってくれ、と言った。それ以上の何かがあるのだろうか。

「エイミィさんっ! どうして、アリシアちゃんたちを転移させないんですか?」

『私たちも避難させたいんだけど、その領域は私たちの領域じゃないの。あのなのはちゃんが戦っている闇の書が展開した領域なの。だから、私たちの魔法もそう簡単に届かないの』

 カタカタとキーボードを連続で叩くような音を立ててエイミィさんが答える。おそらく、その通りなのだろう。エイミィさんが作業しているのは、救うための手立てだと思いたい。

『でも、翔太くんに助けに行ってもらえば、S2Uを介して魔法が届くから避難もできるの。だから、急いでっ! 翔太くんっ!』

「わかりました。できるだけ急いでみます」

 事情を聴けば、なんとなく納得できる理由だ。しかしながら、この領域が封時結界に包まれていることは理解できていたが、まさかそれが闇の書によるものだとは気付けなかった。先ほどの疑念は正しかったということだろう。しかし、まさかクロノさんから借りたS2Uが万が一の護衛用以上に役立つとは思わなかった。

 ともかく、それをエイミィさんから聞いた以上は急ぐしかない。

 僕は前を見て、さらに速度を上げた。もっとも、早歩きの状態からジョギングになった程度だが。

『―――っ!? 翔太くんっ! ごめん、急いでっ! 闇の書の攻撃がそっちにっ!』

 突然、急いでいる僕に入ってくる物騒な念話。まさかっ!? と思って振り返ってみれば、確かに闇の書が今まで以上にありえない攻撃をしていた。

 直径が2メートルはあろうかという炎の球を投げつけるという攻撃方法だ。それらは流れ弾となって近くのビルにぶつかり、コンクリートでできていたビルを融解させる。

 少なくともその炎の球がコンロなんかで用意できる簡易的なものでないことが簡単に証明されたわけだが、嬉しいわけがない。むしろ、危険極まりないことであり、言いようのない危機感を持っていた。

「―――っ!」

 このままでは、いつアリシアちゃんたちが巻き込まれるかわからない。それを言えば、なのはちゃんも心配だが、それ以上にやはり彼女たちが心配だ。

 急げ、急げ、急げ、と僕は自分自身を叱咤する。しかし、その程度で速度が上がれば苦労はしない。

 気持ちだけが逸り、しかし、速度は上がらない。近づいているのだろうが、しかし、それでも気持ちだけは逸ってしまうのだ。僕ができるんことは想像している最悪が起きらないことを祈るだけなのだが―――どうやら、あまり信心深くない僕は運には見放されたようだった。

 闇の書が投げていた炎の球が僕が目的地としていた場所へ向かって数個飛んでいくことを確認した。もちろん、直撃ではないだろうが、それでもその付近に落ちただけでアリシアちゃんたちが危ないのは明白だ。

 急げっ! 急げっ! 急げよっ!

 危機が現実のものとなって、僕はさらに自分の身体に鞭を入れるように心の中で叫ぶ。

 次の瞬間、歩くような速度で変化していた景色がまるで新幹線に乗った時のように一瞬で変化するようになった。

 ―――え?

 自分自身でも現状を理解できない。気が付いたら僕の飛行速度が上がっていたのだ。少し落ち着いた後で原因を探ってみれば、不自然に上がった魔力量ともいえるだろう。僕が感じている魔力量は僕が常に感じている魔力量よりも大幅に上がっている。

 だから、飛行魔法に使える魔力量も上がっている。唯一不安だった魔力制御だが、それもS2Uが支えてくれるため問題がないようだ。

「S2U、どうして僕の魔力が上がったかわかる?」

『Sorry.I can't understand』

 だろうな、と僕は思った。まさか、危機的状況に僕の中に眠っていた封印された力が目覚めた、なんてどこかの友人のようなことは考えない。

 原因がわからない変調というのは不安で仕方ないが、しかし、この状況的は利用できる。いや、利用しなければならないだろう。

「S2Uっ! 急ごうっ!」

『Yes, Boss』

 制御は、S2Uに任せて、僕は空を飛ぶ。

 僕がアリシアちゃんたちの場所に到着したのは、数秒後だった。

「お兄ちゃんっ!?」

 空から降りてきた僕を最初に出迎えてくれたのは、聖祥大付属小学校指定のコートに身を包まれたアリシアちゃんだった。目を真ん丸にして僕を見ていた。

 それは、程度は異なるが、アリシアちゃんの左右にいたアリサちゃんとすずかちゃんも同様だ。

「あんた、なによその恰好。それに今……空から降りてきたような……」

 呆然とした中で情報を集めたのだろう。情報を整理するように言葉を発するアリサちゃん。僕だって、その気持ちはわかる。僕だって、もしも何も知らずにこんな状況に突っ込まれたらひどく動揺するだろうから。

 だから、僕は少しでも安心させるようにいつも通りの笑みを浮かべて、落ち着かせるように静かな声で言う。

「話はあとでするから、今は僕の周りに集まってくれないかな?」

 思ったよりも炎の球が速かった。魔法に文句を言っても仕方ないのだが。

 アリシアちゃんとアリサちゃんとすずかちゃんは顔を見合わせていたが、僕を信じてくれたのか、僕の周りに集まってくれた。

 僕はそれを確認して、サークルプロテクションを展開する。僕たちの周りを白い障壁が展開される。それをアリサちゃんたちは物珍しそうな目で見ていた。

「ねぇ、ショウ、いったい何が起きてるの?」

「全部あとでまとめてでいいかな? ちょっと相手にしなくちゃいけないものがあるからね」

 それは直径が大人の身長はありそうな三発の炎の球だ。彼女たちも、それが見えたのか口をつぐんだ。直撃コースではないだろうが、近くに落ちてくることは間違いないだろう。

「ショウくん、大丈夫なんだよね?」

 すずかちゃんが恐怖に震えるような声で問いかけてくる。こんな映画の中の非日常に突っ込まれればそう思うだろう。もっとも、それをいえば、すずかちゃんも吸血鬼という非日常の一部であるような気がするのだが、言わぬが花だろう。彼女が怯えているのは事実なのだから。

「うん、大丈夫だよ。任せて」

 さっきまでの僕だったらどういえているかわからない。さっさと逃げ出したかもしれない。でも、今の僕の魔力量とS2Uの協力があれば………

「S2U、いけるよね?」

『No problem.Boss』

 S2Uのお墨付きだった。そして、そのお墨付きは間違いなかった。

 近くに落ちた赤い炎の球たちは道路をえぐり、爆風を生み出していたが、僕の張ったサークルプロテクションの中は穏やかなものだ。直撃していたらどうなっていたかわからなかったが。

 やがて、炎の球の影響が過ぎ去ったころにサークルプロテクションを解く。同時に僕は振り返って後ろに控えていた三人に話しかける。

「大丈夫だった? たぶん、何も問題ないとは思うんだけど……。あのね、今からちょっとだけ説明するんだけど―――」

「お兄ちゃんっ! 後ろっ!」

 三人に向かって説明しようと思っていたのだが、それを遮るアリシアちゃんの声。その声は、どこか焦っているようにも見え、怯えているようにも見え、その表情は三人とも一緒だった。

 何があるんだ? と思って、僕が振り返って確認できたのは、背中から羽を生やし、入れ墨を入れ、黒い服に包まれ、白い髪をなびかせた女性。間違いなくなのはちゃんと戦っていた女性だった。

「あなたがなぜっ!?」

 さっきまで間違いなくなのはちゃんたちと戦っていたはずだった。それなのに、どうして彼女がそこにいるのだろうか。だが、問いかけたところで答えが返ってくるはずもなかった。代わりに返ってきたのは、僕に向かってかざされた掌だ。

「え?」

 ぽわっ、と僕の身体が、黄色の光に包まれる。その感覚はまるで回復魔法を受けているようだが、同時に底なしの穴に落ちるような不安感も感じた。

「主が心を許した少年よ。主が求める少年よ。申し訳ないが、主とを同じ夢を見てくれないだろうか。主と同じ夢の中で過ごしてくれないだろうか。同じ闇の中で安らかな眠りを………」

 僕は彼女が何を言っているのかわからなかった。ただ、わかったのは僕が何かされたことであり、彼女が言う主がはやてちゃんだろう、ということだけで、僕自身に起きていることは何も理解できなかった。

 ただ、一つだけ理解できたのは、だんだんとこの世界で感じられていることが薄くなっていくこと、そして、だんだんとこの最中で眠くなっていることだ。

 おかしいとは思いながらも僕は、この眠気に逆らえなかった。

 ―――あ、れ? おかしい、な。ねむっちゃ、ダメ……だ。

 だが、僕の抗いもむなしく、僕の意識はまっすぐ暗闇へと落ちていく。夢の夢の世界へと。

 意識が途切れる瞬間、最後に聞いたのは、「お兄ちゃんっ!」と叫ぶアリシアちゃんの声だった。




つづく
















あとがき
 前後共に意識を失ってフェードアウトする主人公がいただろうか。



[15269] 第三十一話 裏 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2011/12/24 23:06



 ギル・グレアムは、これが夢だと自覚していた。

 この夢は決まってグレアムの罪をまざまざと見せつけてくる。

 夢の空間の中、暗い闇が支配する空間。そこにグレアムは立っている。周りには何もない。いや、ただ一点だけ、グレアムから少々離れた場所にポツンと人影が見えた。

 その人影は、グレアムが直接見た記憶はほとんどない姿。だが、一方的によく知っている姿だ。

 ショートカットの茶色の髪をヘアピンでまとめ、大柄のグレアムの半分ぐらいしかない少女。その姿は、グレアムの罪そのものである。

 目を逸らしたい。だが、逸らせない。逸らすことはできない。直視することだけがグレアムにとっての贖罪だった。

 仕方ない、仕方ない、と心の中で何度言い訳しただろう。なぜ、彼女のような少女が闇の書の主なのだろうか、と何度世界を呪っただろうか。

 グレアムが見つけた主が、極悪人であればよかった。老い先短い老人であればよかった。もしも、そうであるならば、これほどまでの罪悪感を感じることはなかっただろうから。

 もしも、代われるものならば代わってやりたい。しかし、それは不可能だ。

 だから、グレアムは悪魔のささやきに応えた、応えてしまった瞬間から覚悟していたのだ。もっとも、覚悟しただけですべてを跳ね除けられるほど人間強くないものだ。

 彼女が―――今回の闇の書の主である八神はやてがゆっくりと近づいてくる。その表情は俯いていてわからない。いや、これがグレアムの夢だとしたら、逆だ。わからないのではない、知りたくないのだ。

 呪われることを覚悟している、怒りを抱かれることを覚悟している、だが、それでも直接むけられたくないというのが人の本能だろう。夢という空間だからこそ、それが如実に表れている。それでも、彼女の姿がグレアムの視界から消えないのは、グレアムの覚悟の表れだろう。

 やがて、八神はやてはグレアムの一歩手前まで近づいてきて、その歩みを止めた。永遠ともいえるような時間が経った後、彼女は今まで見せていなかった顔を上げてグレアムを真正面から見つめる。

「なぁ、なんで私がこんな目にあうんや?」

 その瞳は、悲しみの涙で濡れていた。




  ◇  ◇  ◇



 ギル・グレアムは目が覚めるのを自覚した。

 ゆっくりと開いた瞼の向こう側に見えるのは、室内を照らす明かりだ。もっとも、グレアムの記憶が正しければ、眠る前に明かりはすべて消したはずなので、誰かがつけたと考えるべきだろう。その誰かを考える必要はない。この部屋にグレアムの許可なく入れるのは、自分を含めれば三人しかいないのだから。

「お父様、目が覚めましたか?」

「ああ」

 そう答えながら、グレアムは体を起こす。

 グレアムを父と呼んだのは、セミロングの茶色の髪の毛を持つお嬢様のような雰囲気を持った女性だ。その傍には、双子のように顔立ちがそっくりな、ただし髪の毛はショートにした女性が立っていた。

 お父様と呼ぶ彼女たちだが、グレアムの娘というわけではない。なにより、娘とするなら、彼女たちには人間には決してありえないものがついている。それは、頭に生えている一対の猫耳だ。コスプレのために着けるカチューシャのようなものではなく天然ものだ。

 ならば、彼女たち―――リーゼアリアとリーゼロッテとは、グレアムにとっての何なのか。答えは、使い魔だ。グレアムの魔導師としての使い魔としての存在。それが、彼女たちだった。

 二人いるのは、お嬢様のような雰囲気を持ったリーゼアリアが魔法に秀で、リーゼアリアが格闘術に秀でるという役割分担をしているからだ。通常ならば、一体の使い魔と行動を共にするだけで魔導師として現場で働ける人材は稀だというのに、グレアムは二体もの使い魔を伴いながら、現場でも獅子奮迅の働きをする。それが管理局で英雄と呼ばれる男の実力だった。

「あれ? お父様、なんか寝てた割にはすっきりしてなさそうだけど………」

 どこか不思議そうな表情でリーゼロッテが小首を傾げながら問う。

 リーゼロッテの見立てはある意味正しくて、ある意味間違っていた。

 確かに寝る前よりも体力は回復している。魔力も漲っており、このまま現場に出ても問題ないほどだ。だが、体は好調であっても心はそうはいかない。少女一人の人生と命を犠牲にした作戦。それだけで、グレアムにかかる心労は相当なものだ。しかし、10年前の後悔と二度と繰り返してはいけないという想いが、この作戦へとある種の狂気をもって駆り立てていた。

 その裏には、過去の命を犠牲にしてしまった後悔から、自分たちがやらなければならない、という想いもあるのかもしれない。

 もしも、グレアムがこの作戦を立てなかったとしても結論は同じだろう。闇の書の主はある種の自滅をもって命を散らす。ならば―――、そう考えた部分もないともいえない。

 そして、それらのグレアムの想いと後悔を乗せた作戦は現在も順調に進んでおり、現状では最終段階に来ていた。

「いや、大丈夫だ。それよりも、お前たちがここに来たということは……」

「そうです。お父様、舞台の準備は整いましたわ」

 腕を組んで澄ました表情で告げるリーゼアリアにグレアムは、そうか、と一言答えた。

 彼女が告げた舞台―――それは、この『闇の書封印』作戦が最終段階に至ったことを告げていた。

 ここから演じられるのは、一人の少女を犠牲にした悲劇と一人の英雄を生み出す英雄譚だ。脚本と監督はギル・グレアム。役者は、グレアムが誇る愛娘、リーゼアリアとリーゼロッテ、そして、巻き込まれた―――そう、巻き込まれたと称するのが正しい少年と少女である蔵元翔太と高町なのはである。

「それでは、行くとしようか」

 グレアムは眠っていたベットから降りると時空管理局の制服に着替えた後に身だしなみを整えて彼女たちに告げた。

 ―――さあ、最終幕の始まりだ、と。



  ◇  ◇  ◇



「今回までの調査で分かったのはこのくらいだね」

「そうか……わかった。引き続き、調査を続けてくれ」

 もう、一秒も惜しいと言わんばかりにクロノ・ハラオウンは無限書庫の調査を依頼しているユーノ・スクライアとの通信を切った。あちらとて、こちらの事情は知っているはずだ。ならば、このことにも文句は言わないだろう。感情の揺れ動きが大きいやつならまだしも、クロノが見た限り、ユーノ・スクライアという人間は、頭は冷静を保ちながら、心を滾らせることができる人間だ。

 そうでなければ、一人の少女の命がかかっているからと言ってこんな無茶な依頼を受けることはできないはずだ。なにより、彼の眼の下にできた隈がそれを証明していた。

 ユーノとの契約は、期日ぎりぎりまで調査を続けることだ。成果自体を期待しているわけではない。なにせ、相手は無限書庫。そこから一連の資料を一部とはいえ探し出すのにはチームを組んで最低三か月は必要なのだから。それを人数が増え、チームの体裁をなしているとはいえ、女子どもでできたチームにわずか一か月で数百年に及ぶ闇の書―――否、夜天の書の記述を調査させているのだから。

 現状は、夜天の書がユニゾンデバイスであり、貴重な魔法を記憶しておく役割を持った書物だと判明した。そして、ヴォルケンリッタ―とは、夜天の書に書かれた貴重な魔法を狙う輩から夜天の書を護るための騎士だということも。

 そんな夜天の書がどうして闇の書になったのか、そのあたりははっきりとした資料は見つかっていない。だが、もともとあった転生機能によって主を転々としていくうちにウイルスともいうべき機構を組み込まれ、結果として夜天の書は闇の書となった。

 だから、クロノはある一点に一縷の望みをかけた。つまり、闇の書から夜天の書への再生だ。

 そのための資料をユーノには探させていた。夜天の書が作られたであろう古代ベルカ時代の書物を。

 もっとも、ベルカ文明の貴重な資料―――ベルカ時代の資料を保管している聖王教会ですら持ってなさそうな―――が無限書庫にあることが不思議でならないのだが、『無限書庫』だから、の一言で片が付けられるような気がするところが恐ろしいところである。

 しかし、何にしても残された時間は少ない。

 なのはの協力によって闇の書の残存ページ数は残り数十ページになった。あと一回竜狩りを行えば間違いなく闇の書は666のページ数を埋めることができる。その先に待っているのは八神はやての時空牢への永久凍結である。

 そんなことが許されるのか、とクロノは憤る。

 確かに、八神はやてを放置した後の結果は最悪なものになるだろう。特に魔法文明が存在しない地球ではどれほどの規模の被害が出るかわからない。しかし、今回は幸運にも先に発見できたのだ。

 ならば、時空管理局が掲げる正義が本物であるならば―――少なくともクロノたちの派閥である穏健派が掲げる理念に従うならば、時空牢への永久凍結というような重大犯罪人のようなあつかいではなく少女を救うために全力を尽くすべきではないだろうか。

 今、ユーノに頼んでいる調査にしても、時空管理局が本気でチームを組んでくれていれば、今頃解決方法が見つかったかもしれない。

 それを考えれば、ユーノが女子どもとはいえ、人数を連れてきてくれたのは助かった。スクライアの魔法を使えるだけで探索という分野においては十分に戦力になったからだ。もしも、ユーノ一人に頼んでいたならば、どこまで進んだのか怪しい。

 もっとも、彼らをまとめ集めてきた情報を解釈するユーノの調査能力や精査能力にも目を見張るものもあるが。

 いくらイフを重ねても仕方ない。幸いにして、今は12月の初旬と中旬でかなり出撃回数を重ねてしまったから、という理由で最後の出撃を伸ばしているが、それもいつまで伸ばせるかわからない。少なくともグレアムたち上層部は地球で言うところのクリスマスまでの解決を望んでいるのだから。

 いや、今までの経験から言えば闇の書が堪え切れる期間ぎりぎりがそのころなのだ。少なくとも、何もしなければ八神はやては年を越える前に闇の書にリンカーコアを喰われて、死に至るだろう。そして、闇の書は転生機能によってまた次の主の元へと向かうのだ。再び破滅をもたらすために。

 できれば、グレアムによって時空牢で封印されることも、闇の書による自滅も防ぎたい。

 その二つを願うことはおこがましいことなのだろうか。だが、その両方を達成できなければ、八神はやてという少女はこの世から消えてしまう。

 ならば、時空管理局の正義に、いや、違う。時空管理局とは同じベクトルの正義を持った者たちの集まりだ。たとえば、グレアムのように一人を犠牲にしても多数を救う正義も時空管理局の中にはある。だからこそ、今回の作戦は時空管理局の総意として認可されたのだから。

 だから、クロノが八神はやてを助けたいという願いは、その願いは決して時空管理局の正義からの願いではなく、クロノ・ハラオウンが胸に抱いている正義なのだ。ただ、目の前の手の届く範囲にいる少女を救いたいというクロノ・ハラオウンの正義だった。

「………ユーノ。頼むぞ」

 クロノは通信が切れた向こう側で戦っているであろう知人を思う。同時に、この方面に関して何もできない自分を呪う。力づくであるならば、まだ戦いようもあったのだが、この戦いは知識や文化方面による戦いであり、クロノは門外漢だった。だから、せめて彼が働ける時間を稼ぐために動こうと思った。

 ―――1秒でも長く時間を得ること。

 それがクロノにできる唯一のことだった。

 だが、クロノは忘れている。先ほど、時空管理局は異なるベクトルの正義の集まりだと考えた。ならば、クロノが自らの正義を実行したいようにほかの者も自らの正義を実行するのだと。

「クロノ、入るぞ」

「グレアム提督――っ!」

 執務室のドアが自動的に開いて入ってきたのは、クロノが所属する派閥のトップに位置する提督でもあり、自らの恩師たちのマスターでもあり、今回の作戦を立案したギル・グレアムだった。その二歩後ろには、彼の使い魔でもあり、クロノの師匠でもあるリーゼアリアとリーゼロッテが控えていた。

 彼らの雰囲気は、これから話題話をしようというほど穏やかなものではなかった。むしろ、どこか尖っているような、ピリピリとした空気を肌で感じている。

 もしも、任務の途中の戦地であればクロノはすぐさまにデュランダルを構えていただろう。だが、相手が恩師であること、ここが執務室であることも合わせて一瞬だけ判断が遅れた。そして、その判断の遅れは致命的ともいえた。それは、過去に師匠であるリーゼアリアとリーゼロッテにも言われたこと。

 ―――戦場の一瞬の躊躇や戸惑いは致命的なものになる、と。

 だから、次の瞬間、クロノは彼女たちの行動にまったく動くことができなかった。

「なっ!?」

 クロノが驚きの声を上げたのも無理はない。

 一瞬の剣呑な雰囲気を感じ取ったクロノが、懐からデュランダルを取り出そうとした瞬間に、リーゼロッテが風のように動き、クロノの右手をひねりあげたかと思うと、リーゼアリアがカードを片手に束縛系の魔法を使う。一瞬の間にクロノは反撃手段を封じられ、動きを封じられていた。

「なにをするんだっ!?」

 クロノは、状況が理解できず叫ぶ。

 その叫びに対して3人の雰囲気は変わる様子は見られなかった。ただ、剣呑とした雰囲気と一瞬たりとも気を抜くような気配を見せない。あのリーゼロッテだって、今は真剣な表情をしている。

 クロノの執務官としての頭脳は状況を理解しようとして必死に回す。状況確認と冷静な判断を下そうとするのだが、上手く回らない。状況を把握する前に疑問が浮かんでくる。なぜ? どうして? という疑問が。

「クロノ」

 3人の剣呑な雰囲気の中、口を開いたのはグレアムだった。

「お前には、このまま作戦終了までこの部屋にいてもらう」

 それは、お願いでも、依頼でも、命令でもなく決定事項だった。それ以外の道は認めないとでもいうように。グレアムの表情からは何も読み取れない。ただ、目を見ればわかる。彼には何か強い意志のようなものが籠っていることだけは。それは、誰にも動かせない岩のようなものだろうか。

 だが、動けない、動かすことができないからと言って、このまま「はい、そうですか」と受け入れてやるわけにはいかない。

「どういうことですか!? グレアム提督!」

 情けないことだが、クロノにとっては、叫ぶことだけが唯一の反抗といってもよかった。

 クロノの叫びにグレアムは、応えない。ただ、無表情の能面のような冷たい表情でクロノを見つめるだけだ。クロノだって、自分を拘束するぐらいなのだから、何らかの理由があって、それを素直に答えてくれるとは思っていない。叫んで、問いかけたのはせめてもの抵抗だった。

 しかし、その答えは意外なところから返ってきた。

「理由はあんたが一番知ってるだろう?」

「なんだって?」

「無限書庫、闇の書―――そして、夜天の書」

 まるで双子が示し合わせたように言葉を紡ぐ。そして、リーゼアリアが口にした単語がすべてを物語っていた。クロノがこの状況に陥っている理由を如実に示していた。

「……知って、いたのか」

 ばれていないつもりだった。少なくとも、ユーノたち一族への調査費の支払いは執務官が個人で使える捜査予算の中から出していたし、それらの捜査結果に関してはクロノが報告書とともに提出している。今回の闇の書事件で調査を行うのは別段怪しい話ではない。リーゼアリアたちにも勘ぐられているとは思っていたが、ここまで直接的に行動に出るとは考えていなかった。

「当たり前だよ。あんたは、熱血そうに見えて冷静さをどこかで忘れない。悪あがき、ってやつを考えるぐらいなら、次の行動に移してるね」

「そう、だから、私たちは理解した。あなたは無限書庫で何かをつかみ、そして、それは希望になっている」

 付き合いが長いことが災いしたのだろう。彼らは誰よりもクロノのことを知っていた。確かに彼女たちの言うとおりだ。もしも、ユーノの調査が想像以上に順調でなければ、おそらくクロノはユーノに謝礼金を支払ってそこで打ち切っただろう。間に合わない、と結論付けて。

 その場合、クロノはおそらく次の行動に移ったはずだ。たとえば、高町なのはに協力を依頼する、などの別の行動に。

 そのような行動が見られなかった以上、クロノは何かしらの成果をつかんだと思われたのだろう。確証はなかった。しかし、彼らはクロノがつかんだ『何か』が怖かったのである。

「そんなに……そんなにあの作戦を進めたいのか!?」

 リーゼアリアの口から出てきた言葉、『夜天の書』。その言葉が彼女の口から出てきたということは、少なくとも彼女たちもつかんでいるのだ。闇の書の正体を。だが、それでも、彼らは彼らが提示した作戦を進めようとしている。クロノから言わせれば、一人の少女を犠牲にした作戦を。

「違う、違うよ、クロスケ」

「私たちだって、好きでやってるんじゃない」

「だった、なぜっ!?」

 そうクロノが憤るのも無理はない。今回の作戦の指揮官はギル・グレアムだ。彼が作戦変更の決断を下せば、容易に彼女の犠牲は避けられるかもしれないのに。

「―――ならば、クロノ。お前が抱いている希望に目途はついたのか?」

 今まで黙っていたグレアムが口を開く。その言葉に今度はクロノがぐっ、と押し黙るしかなかった。なぜなら、クロノが抱いている希望は、ユーノが未だに探している闇の書を再生へと導く資料。ただ、その一つだけであり、それ以上はなかった。それが見つかれば、闇の書は夜天の書という無害なロストロギアへと変わり、少女が犠牲になることもなくなる。

 しかし、それは希望であり、目途が立ったわけではない。不眠不休でユーノたちスクライア一族が探しているが、よほど深いところにあるのか、あるいは、無限書庫には存在しないのか、いまだに見つかる兆候は見られない。

「そういうことだ。目途のつかない作戦のために邪魔されてはかなわない」

「そんなこと―――」

 するはずがないっ! という言葉は、リーゼアリアとリーゼロッテの冷たい視線によって止められた。

「それはどうかな? クロスケ、あたしたちがしている事に反対だろう?」

 当たり前だ。誰かを犠牲にして得られる平穏に意味はない、とクロノは思う。こうじゃなかったはずの出来事に巻き込まれることはあるだろう。それが世界なのだから。だが、誰かをこうじゃなかったはずの未来に巻き込んでいいとは思わない。ましてや、相手はいたいけな少女だ。一人の少女の未来を閉ざすことなど許されはしない。

「なら、ぎりぎりで邪魔してもおかしくない。いや、それほどの危うさを持ってもおかしくないでしょう? 闇の書はあなたの親の仇なのだから」

 それは事実だ。前回の闇の書は、クロノの父親のクライドの船ごとアルカンシェルで亡くなった。しかし、そのことにクロノは何の感慨も持っていない。確かに悲しい記憶はあるが、子どものころの記憶であり、すでに心の整理はすんでいる。むしろ、感情的になりやすいのは―――。

「それは、君たちのほうじゃないのか?」

 クロノの問いには表情を変えやすいリーゼロッテが若干、歪んだ表情をすることで応えていた。

 クライドの直接の死にかかわった人間。それが目の前のグレアム、リーゼアリア、リーゼロッテだ。グレアムにしてみれば、可愛がっていた部下、リーゼアリアとリーゼロッテとも仲は友人のように良好だったと聞く。しかも、クライドを犠牲にしたのは、闇の書を護送中の出来事。たられば、を考えても仕方ないが、彼女たちの中では多大な後悔も積み重なっているだろう。

 つまり、両者はまったく逆のベクトルの正義を持っている。

 クライドが犠牲になっておさめた闇の書事件だからこそ、今度は誰も犠牲を出したくない―――クロノ。

 クライドの敵討ちとこれ以上の犠牲を出さないためにも何が何でも闇の書を封印したい―――グレアム、リーゼアリア、リーゼロッテ。

 すべては十年前から起因している両者の対立ではあった。

「確かに、多少の私怨が入っていることも認めよう。だが、それ以上、時空管理局の提督としても闇の書をこれ以上放置はしていられない。たとえ、今回の処置が一時的なものだとしても、闇の書を抑えている事実は大きい」

「………気付いていたんですか?」

「当然だ」

 クロノが言いたいのは、今回の封印処置が一時的なものにしかならないだろうということだ。

 闇の書という強大な力。それが目の前にあって、手を出さない人間がいるだろうか。いつか、どこか、闇の書という存在を忘れたころにきっと誰かが封印を解く。力にあこがれるものが、手に余る力だとわかっているのに手を出さずにはいられない人間というのがこの世にはいるのだ。

 だから、永久凍結といっても一時的なものにしかならないだろう、とクロノは考えていたのだ。そして、それを対抗策ができた時の言い分にするつもりではあった。

「だからこそ、クロノ、今回は傍観者でいてほしい。そして、今回の作戦のあと、彼女を護ってほしい。そして、いつか彼女を解放してくれ……」

 しみじみと語るグレアムに思わずクロノはかっ、と血が上った。いつも冷静を心がけているクロノが珍しくである。だが、無理もないことである。グレアムの言い方はあまりにも自分勝手すぎたから。

 自らの作戦で一人の少女を犠牲にしながら―――しかも、それが対症療法に過ぎないことを知っている―――その後始末をすべて自分に丸投げしようというのだから。

 自分が尊敬した提督の姿はそこにはないように思えた。

「それは……それは、提督自らがすることです」

 かっ、となった頭を何とかなだめながらクロノは口にする。

 最後まで責任をとれ、とクロノは言いたかった。言わずともその言葉はグレアムに伝わったようだ。わずかに動いた眉がそれを示していた。

「できることなら最後まで見届けたかった。いや、見届けるべきだった」

 ふぅ、とため息でも吐きそうな口調で言うグレアムの表情の向こう側に見えたのは諦観の情だった。

「クロノ……私は、この作戦が終わったら退任する」

「なっ!?」

 その一言はクロノにとっても衝撃だった。

 グレアムは、時空管理局の英雄とみなされており、また時空管理局の穏健派の重鎮の一人でもある。その彼が退任するということは、時空管理局に大きな影響を与えることは間違いない。内部的にも外部的にもだ。

 ギル・グレアムという名前は過去の業績と相まって、この年齢になってもどこかで抑止力となっていた。つまり、背後にはグレアムが控えているという大きな抑止力だ。だからこそ、時空管理局内部には大きな影響力を持っているし、穏健派の重鎮として君臨できたのだ。

 その彼が退任するということは並大抵のことではない。利害関係や内部組織への影響力を考えると、やめます、と言って簡単にやめられるものではないだろう。引き継ぎに一年近く、それから後始末と合わせると三年は準備が必要だ。すぐにやめられるタイミングがあるとすれば、本当に彼が急死した時だけだろう。

「何を考えているのですか!?」

「クロノ―――この作戦の欠陥は先ほどの一つだけではないのだよ」

 そう言いながら、グレアムは懐からカードを取出した。そのカードはクロノにも見覚えがある。彼が今、持っているデュランダルにそっくりだ。

 もともと、デュランダルは今回の作戦の要だ。デュランダルが持つ強力な氷結魔法で永久凍結する。それが作戦の最終項目なのだから。だから、デュランダルに闇の書が封印できるほどの出力が出せるのか? というのが懐疑的な目で見られていた。だからこそ、クロノが先に試作品を使って、改良点を研究させていたのだから。

 その問題は目途がたった、と定例報告で報告されていたはずだった。

「確かにデュランダルのリミットを外して魔力を最大限つぎ込めば、闇の書の永久凍結は可能だ」

 それは11年前の闇の書事件で観測した暴走間際―――魔力が臨界に達し、一度落ちる瞬間だ―――の魔力から判断したので、ほぼ間違いないとのことである。

 それでも、クロノはグレアムの一言が聞き逃せなかった。

「リミットを外す?」

 通常、デバイスには自らのリンカーコアの限界を超えて行使しないようにリミッターが付けられている。それを外すとグレアムは言ったのだ。だからこそ、クロノはグレアムが退任するという理由に思いついた。

「まさか………」

 思い至ったクロノに共感したのかリーゼアリアとリーゼロッテも沈痛な面持ちで顔を伏せる。

「そうだ。私のリンカーコアの限界を振り絞ってようやく、と言ったところだ。老兵の花道としては、いささか後味の悪いものだがね」

 リンカーコアの限界を振り絞ると、何らかの後遺症が残ることは間違いない。一般的には出力の低下があげられる。それが、若いころの肉体ならまだ回復する余地は見込めるだろうが、グレアムは白髪が混じる老体だ。さらに、強力な使い魔も二体所持している。

 もしも、双子を解放すれば、グレアムも一線に残れるかもしれないが、家族のような存在の二人を解放するつもりがグレアムにあるとは考えにくい。

 つまり、作戦後のグレアムはその職には力不足になってしまうのだ。もしも、これが一般的な提督ならば問題はないかもしれないが、グレアムは名前をとどろかせる英雄。その英雄の力がそがれたという事実はやはり時空管理局内外に影響を与えるだろう。

「先ほど言った意味がわかるだろう? 君には、私の後継になってもらわなければならない。だからこそ、大人しくしてもらわなければ。いや、少しの反抗はいいのだが、決定的な部分で邪魔をされてはすべてが台無しになる」

 グレアムが危惧していることが分かった。つまり、最後の段階でクロノが邪魔しないか不安なのだ。ユーノという希望があるからこそ、クロノが最終的段階で手を出してくる可能性をグレアムは見たのだ。

 もしも、クロノが作戦を邪魔したらどうなるだろうか。それも、まだ希望が見えている、という段階でだ。もちろん、クロノの行動は命令違反であり、処罰の対象になってしまう。その後、作戦がうまくいったとしても、クロノがグレアムの後継になることは不可能だろう。

 クロノが考えるに、グレアムにとってベストは、今回の作戦に内心、納得しておらず、それでも命令に従いながら作戦を最後までやり通すということだろう。グレアムがやめた後、クロノと同様に今回の作戦に納得していないものは、グレアムを恨みながら新しい清廉潔白な後継者であるクロノを受け入れることだろう。

「大丈夫だよ~、クロスケ、あたしたちも手伝うからさ~」

 ひらひらと軽い笑顔で手を振るリーゼロッテ。

 彼女たちが言いたいことは明白だ。つまり、志の部分でクロノが後継し、不安が残る経験と実力についてはリーゼアリアとリーゼロッテが補うということだろう。さらに、内心ではそう思っていないにしても、グレアムについて、信用できなくなった、としてクロノに主替えしたとなれば、もはやクロノの後継はゆるぎないものとなる。

 ハラオウン家という家柄、今回の作戦について納得のいっていない清廉潔白な志、リーゼアリア、リーゼロッテという生き字引。十四歳で執務官という実力。もはや、彼を後継者―――いや、新たなる穏健派の盟主として認めないものはいないだろう。

「それでは、な。クロノ。また作戦が終わった後に会おう」

「ま、待ってくださいっ! 提督っ!!」

 手を伸ばそうとしても、その手は動かない。せめてものあがきで身をよじるが、それさえもグレアムは一瞥もせずに執務官室から出ていく。

 クロノは、グレアムの必死ともいえる背中をただただ見送ることしかできなかった。


つづく






















あとがき
 次回 闇の書+竜 V.S. なのは+守護騎士 = 怪獣大決戦



[15269] 第三十一話 裏 中
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2012/01/15 09:59



 高町なのはにとって、それまでの日々をどのように表現したらいいのかわからなかった。

 週に何度か彼の魔法の練習のために彼の自由な時間の大半を独占できる日々とわずかとはいえ毎日顔を合わせて、言葉を交わすことができる日々。いったいどっちが幸福なのだろうか。

 例えるならば、それは週に何度か大きなシュークリームを食べるか、小口のシュークリームを毎日食べるかの違いのようなものだ。もちろん、毎日大きなシュークリームを食べられるのが最大の幸福なのだろうが、それは高望みが過ぎることをなのはは理解している。

 ただわかっていることは、なのはにとってのたった一人の友人である彼―――蔵元翔太との時間は彼女にとってかけがえのないほどに大切な時間ということだ。

 彼の笑う顔を見るたびに、彼から名前を呼んでもらうたびに、彼が心配そうに自分の顔を覗き込んでくれるたびに、なのはは胸が幸せでいっぱいになるのを感じる。あの、一人だった半年とちょっと前からは全く考えられないほどに幸福に満ちた時間だった。

 だからこそ、その時間を大切にしたいと思うし、もっと味わいたいと思うし、失いたくないと思うのだ。

 さて、そんななのはが多少思い悩む日々もようやく終わりが訪れようとしていた。つまり、闇の書の魔力が十二分に集まったということである。今日は、闇の書を封印するための儀式が海鳴市のどこかで行われるらしい。

 らしい、というのはその場になのははついて行っていないからである。なのはとしては、翔太の安全を確保するためにもついていきたかったのだが、今回の作戦のリーダーであるクロノが却下したのだから仕方ない。

 理由としては、なのはの高すぎる魔力があげられる。儀式魔法というのは、複雑で繊細なものだ。そんな儀式の場所に魔力ランクがSSSを越えることができるなのは―――通常でもSランク程度の魔力を持つ―――がいれば、魔力場が壊れて失敗してしまうかもしれない。そうなれば、今までの苦労が水の泡だ。だから、翔太の大丈夫だよ、という言葉を信じて待つ以外、なのはに選択肢はなかった。

 もっとも、その場に行くことは無理でも、覗き込むことは十分に可能なのだが。

 今、なのはは自分の部屋からレイジングハートを媒介として映し出されたウォッチャーからの映像を見ていた。

 レイジングハートから映し出される映像はひどく単調だ。場所はどこかの廃ビルの屋上だろう。手入れされていない屋上とぼろぼろになったフェンスからそうやって判断する。なにより、いくら今日がクリスマス・イヴとはいえ、ビルにまったく明かりがついていないことがその事実を決定的にしていた。

 廃ビルの屋上、その出入口付近で向かい合うクロノと翔太とはやて。翔太ははやての隣におり、向かい合ってるのは実質クロノだけではあるのだが。

 なのはにとって八神はやてとは、どうでもいい存在に近かった。

 むろん、翔太が毎日彼女の家に泊まっているという事実は腹立たしいことこの上ないし、翔太を家族のように扱うことも何様だと思うし、翔太が出迎えてくれるときさえ隣にいるところがイラッとくる。

 だが、それでもなのははあの親友を騙るあの金髪や敵でありながらがのうのうと義妹になっているあの黒い金髪のようにはやてのことを忌々しい存在とは思っていなかった。

 ―――なぜなら、彼女は下半身を動かすことができない障がい者だから。

 はやてを介護するために翔太が近くにいるのであれば―――彼女には家族がいないことはなのはも知っている―――それは正しいことだ。どこからどう見ても、百人に尋ねても百人が『良いこと』、と答えるだろう。だから、そこに翔太がいることは無理のないことなのだ。

 この作戦が終われば、彼女の下半身不随も治ると聞いている。ならば、その時、はやては翔太にとってクラスメイトと同じく有象無象の友人になるだろう。ならば、彼がそんな態度になっているのは今だけなのだ。

 はやては、なのはのように『魔法』という特別な絆でつながっているわけではない。今は、その彼女の境遇が味方しているだけなのだ。だから、なのはがはやてを気にする理由はどこにもない。翔太が『良いこと』をするのであり、その手助けができるのであれば、なのははお手伝いをするだけだ。

 結局、なのはは、今の境遇を言い訳にして心の安寧を図っているだけだった。

 閑話休題。

 なのはが、翔太たちが廃ビルの屋上へと現れたのを確認してから五分程度が経過した。今は、状況を説明しているだけのなのだろうか、クロノの口が動いている以外は特に様子に変化はない。クロノが持っている闇の書に何も変化はないし、闇の書への封印処置を開始するような様子も伺えない。まるで、休み時間に会話する学生のように彼らは口を動かしているだけであった。

『Master. It's strange』

 奇妙だと言われてもなのはにはよくわからなかった。三人が話している。五分間も同じように? 確かにレイジングハートが言うように奇妙ではある。だが、今回の内容について説明しているのであれば、奇妙であると断定することはできない。

 今しばらく様子をうかがうべきか、と思った次の瞬間、今まで鮮明だった画像がちらつく。そして、一瞬の砂嵐の後に現れた映像は、今までと同じ場所を映し出しておきながら、全く別の様相を映し出していた。

 翔太が倒れ、横に立っているはやてが怯え、そして、クロノが嗤っている姿だ。

『Jamming』

 なるほどなるほど、どうやら今まで映像が変化しなかったのは、何らかの妨害が働いていたらしい、などと応えられるような余裕を高町なのはは持ち合わせていなかった。翔太が冷たいコンクリートの上に倒れ伏している姿を見た瞬間に、なのはの思考は一瞬で沸騰している。それでこそ、翔太の横で怯えたはやてや嗤っているクロノが目に入らないほどに。

 机の上に置いてあるレイジングハートをがっ、と乱暴につかむと一言だけ告げた。

「いくよ」

『All right my master』

 自分の扱いには一切言及せず、己が主に忠実なデバイスはただそれだけを告げると、なのはの衣装をバリアジャケットで包み込み、転移魔法をもってなのはを移動させる。向かう先は、今までのぞいていた廃ビルの屋上である。

 転移は一瞬だった。

 12月の寒空の下、なのはは姿を現す。空は曇り、コートでも着ていなければ、身を丸めて暖を取りたくなるような冷たい風がなのはのバリアジャケットのスカートをはためかせていた。もしかしたら、もうすぐ雪が降るかもしれない。

 だが、しかし、今のなのはにはそんなことは関係なかった。ここがどこであろうとも、どんな天気であろうとも関係ない。彼女の視界に入っているのは、廃ビルの屋上でうつぶせに倒れているなのはの唯一の友人たる蔵元翔太だけだった。そのため、翔太の隣で闇の書とともに黒い魔力光に身を包まれている八神はやても、それを満足げに見つめるクロノ・ハラオウンもなのはの視界には入っていない。

「ショウくんっ!!」

 大切な―――何物にも代えがたい友人の名前を呼びながらなのはは突貫する。一直線に向かうは彼の元。なのはは、翔太の真横に着地すると彼の容態を調べるために片膝をつき、彼の顔を覗き込んだ。

 翔太の顔は、少し青白かったが、呼吸はしっかりしている。顔が青白いのももしかしたら寒さのせいかもしれない。ともすれば、翔太は寝ているだけだと判断する人も少なくないだろう。

 とりあえず、なのははいつぞやのデパートのときのような状況になっていないことを確認して、ほっと一安心といったところだった。翔太が無事であることがわかれば、次に目を向けるのは、当然、翔太をこのような状況へと追いやった張本人である。

 その張本人―――クロノ・ハラオウンは、なのはから少し離れたところで宙に浮きながら、嗤っていた。

「おまえが、ショウくんを………」

 ぎりっ、と奥歯をかみしめながら、レイジングハートを握りしめ、親の仇でも見るような目を向けるなのは。そんな視線を正面から受けながらクロノは、涼しい顔をして相変わらず笑っていた。

「想定はしていたが、思っていたよりも早い登場だったよ。確かに、彼をそんな風にしたのは僕だけど……僕に構っている余裕はあるのかな?」

 その言葉とほぼ同時だっただろう。なのはの持つデバイス―――レイジングハートが『Danger!』と警告を発し、直後に自動で防御魔法≪プロテクション≫が展開されたのは。なのははレイジングハートが急な警告に驚き、同時に行動していた。翔太をかばうように、自分の身体を盾にするように抱きかかえた。

 直後、聞こえたのはたった一言だけだった。とある魔導書の終わりの始まりを告げる最初の一言だった。

「闇に、染まれ」

 その声の持ち主を中心として闇の雷撃が球状に広がっていく。幸いにしてレイジングハートが自動で展開した防御魔法が間に合ったためなのはと翔太の周囲には被害は全くなかったが、代わりになのはが睨みつけていたクロノはその攻撃に乗じて逃げられてしまった。

 闇の雷撃が完全になくなったことを確認したなのはは、胸の中で何事もなかったように呼吸をする翔太に安心して、それからきっ、と鋭い視線で廃ビルの屋上のさらに上に浮かんでいる存在を確認した。

 それは、白い髪に黒い衣装に身を包む女性だった。その衣装がクロノを髣髴させ、先ほどのクロノの態度といい、女性の攻撃といいなのはを苛立たせる。こいつらは一体、なんど翔太を危険な目に合わせれば気が済むのか、と。

 対して女性もなのはを見ていた。涙を流す瞳で、すべてを憐れむような表情で。

 ぐっ、と彼女は涙を本を持っていない右手で拭うとつぶやくように口を開く。

「破壊しましょう。すべてを。主を見捨てたこの優しくない世界を。すべてが主の望みのままに―――」

 ばさっ、と背中の翼を広げる。明らかな攻撃体勢。そして、その視線の向こう側には、翔太を護るように傍らに膝をつくなのはの姿があった。

『Master! Her target is you and Syou!』

「っ! ディバインバスターっ!」

 なのはは彼女の正体など知らない。だが、それでも狙われているのが翔太と自分であることがわかれば手加減などしない。できるはずもない。すぐさま反応して、今にもこちらに向かってきそうな彼女に照準を合わせて自らが得意としている砲撃魔法をためなしに放った。直後にレイジングハートの先から放出されるのは漫画の中でしか出てこなさそうな桃色の一直線の光だった。

 その砲撃魔法に込められた魔力はノータイムで放たれた魔法にしては規格外だ。通常の魔導師が放ったとしてもその威力を出すことは難しいだろう。だが、その砲撃で狙われた黒い彼女は、回避行動も見せずにただ一言つぶやいた。

「盾」

『Panzerschild』

 彼女の呟きに彼女の持つ書物が応える。それは黒い円形の防御魔法。なのはの砲撃魔法は、通常の防御魔法で耐えられるほど軟なものではない。しかしながら、彼女もまた通常の魔導師であるはずもなかった。

 なのはの放った砲撃魔法は、彼女が展開した防御魔法を打ち破ることはできない。ただ、破壊することはできなくても濁流のように流れてくる魔力を相手に踏みとどまることはできなかったのだろう。まるで魔力そのものに押し流されるように彼女はなのはから遠ざかっていく。やがて、砲撃魔法を終えた時、彼女ははるか上空へ押しやられ、豆粒のような大きさになっていた。

 なのはは彼女を遠ざけることに成功した。ただし、それは一時的なものにしか過ぎない。いずれ、彼女はなのはを狙って襲ってくることは明白だ。ならば、なのはは先手を打って迎撃しなければならない。この場に翔太がいる限り。しかし、それは平時なればこそだ。もしも翔太に意識があるのであれば、なのははこの場を離れることもできただろう。だが、翔太は意識を失ったまま眠ったようにコンクリートの上に横になっている。もしも、万が一があった時に避けることさえできないのだ。

 よって、なのははこの場を離れることができなかった。しかし、離れなければ翔太により危険が迫ってしまう。

 そう、もしも、なのはがひと月前と同じ状況であれば、なのはは離れなければならないのに離れられないという二律背反に葛藤しただろう。しかし、今は仮定そのものが異なる。なのはが離れられない。なのはが相手できないのであれば、なのは以外が相手をすればいい。そのための駒はすでになのはの手元に存在していた。

 だから、なのはは呟く。それらを呼び出すための言葉を。

「きなさい」

 なのはの口から紡ぎだされた命令はたったの一言。だが、その一言は彼らにとって裏切ることのできない至上の命令だ。

 レイジングハートが数回点滅し、そのプログラムを始動させる。大本は彼女―――闇の書から生まれており、すでにレイジングハートの中で新たなシステムとして昇華したプログラムを。

『All right! Guardian knight system wake up』

 その輝きはレイジングハートの宝玉から飛出し、なのはを護るように四つに分裂し、周囲をくるくると回る。回りながら、それぞれの光はその色を変える。

 一つは桃色から紫へと。

 一つは桃色から真紅へと。

 一つは桃色から深緑へと。

 一つは桃色から白銀へと。

 それぞれ色を変える。そして、システムを起動させるための最後のフレーズをシステムを御するレイジングハートが告げた。すなわち―――

『Summon』

 ―――召喚、と。

 直後、それぞれの光は柱となる。天を貫こうかという柱に。その中で一際強く輝くそれぞれの光。まるで、柱の中核がそこにあると言わんばかりに一点が力強く輝く。やがて、その一点を中心として、柱の中で変化を始める。最初は大きな影へと。次に影は人型へと変化する。

 光の柱がほどけた時には、そこには四人の姿が見えた。まるでなのはを守護するように、なのはを囲う形で四人は顕現していた。

「我ら、不屈の心の下に集いし騎士」

 紫の髪をポニーテイルにした剣を持つ騎士であるシグナムが―――

「主ある限り、我らの魂尽きる事なし」

 蒼い獣の耳と尻尾とともに鍛え上げられた肉体を持つザフィーラが―――

「この身に命ある限り、我らは御身の下にあり」

 金髪のショートヘアを靡かせ、深緑の衣に包まれたシャマルが―――

「我らが主、高町なのはの名の下に!」

 真紅のゴスロリとその子どもような体躯に似合わぬ鉄槌を持つヴィータが―――

 なのはの命により守護騎士として顕現するのだった。

 なのはは彼女たちに何の思いも持っていない。どこかの少女のように彼女のように彼らを家族とは思っていない。なのはの心情は、どちらかというと過去の闇の書の持ち主に近いだろう。つまり、彼女たちはなのはにとっては道具だ。この場合は、特に。なのはの代わりに足止めをしてくれる都合のいい人形だった。

「いけ」

 オーダーは端的にして明快。それだけで守護騎士たちが働く理由には十分だった。

「「「「御意」」」」

 四つの声が唱和する。その次の瞬間には、彼らはすでに地面を蹴っていた。向かうは、はるか上空にて待機する黒き翼をもつ女性のもとだった。

 なのはは彼らを冷たい目で見送る。分かっているからだ。彼らだけではあの女性を止めることはできない。圧倒的に魔力が足りないし、なのはの砲撃を止められるほどの防御ができるのであれば、彼らの攻撃はおそらく通らないからである。

 だが、なのはにとってはそれでもよかった。なぜなら、彼女の目的は彼らが彼女を倒すことではないからだ。ただの時間稼ぎ。彼女が望むことはそれだけだった。

「ショウくん………」

 そんなことよりも、今優先すべきは、冷たいコンクリートの上で横になっている翔太のことである。

 様子をかんがみるに彼は本当に気を失っているだけのように思えるので、このまま横にしても問題はないだろう。なのはとレイジングハートはそう判断できる。しかし、それでも、なのはには翔太をこのまま冷たいコンクリートの上に横にしておくことができなかった。

 問題のある、なしではないのだ。なのはが嫌なのだ。

 だが、その一方で、なのははどうしていいのかわからなかった。近くに毛布もなければ、布団があるわけではない。寒さ対策や少しでも寝やすくなるような道具は一切なかった。だからと言って、安眠のための場を作るための魔法があるわけではなかった。

 あるのは翔太が着ているコートとなのはのバリアジャケットぐらい。しかし、なのはのバリアジャケットはなのはの身体から離れた時点で意味がなくなる。

 どうしたらいいだろうか? と頭をひねらせたところで、脳裏に浮かぶとある光景。なかなか、いい考えではないだろうか、となのはは自画自賛した。

 早速行動に移す。まずなのはも屋上の冷たいコンクリートの上に女座りで座る。本来であれば素足がコンクリートに当たって冷たくなるはずであるのだが、バリアジャケットで守られているため冷たくなることはなかった。そのまま、なのははゆっくりと慎重に翔太の頭を両手でつかむとクレーンゲームのように持ち上げていく。少しだけできた翔太の頭とコンクリートの間になのはの膝を入れ、そのまま再びゆっくりと翔太の頭を自分の太ももの上に置く。

 膝枕と呼ばれる体勢が完成していた。休日などになのはの父と母がソファーの上でよくやっているのを見ていたなのはが思いついた行動だ。父である士郎は至福の時と言わんばかりに頬を緩ませ、母の桃子もなんとなく嬉しそうな表情をしており、周りは時間がゆっくりと流れているようだった。

 それを見ていたなのはは、何がそんなに楽しいのだろうか? と疑問に思ったものだが、今ならよくわかる。

 太ももから感じる翔太の体温と重みが何とも言えない幸福を与えてくれるのだ。触れている、触れ合えている。その事実だけでなのは自然と顔がゆるむほどの幸福を得ていた。今だけは、翔太をなのはだけが独占しているような気がして。なのはだけが翔太の今を知っているような気がして、それだけでなのはは幸せだし、気分は最高だった。

 なのはの膝枕によって頭を少しだけ上げたことで姿勢が楽になったのだろうか。コンクリートの上で仰向けになって寝ているときも幾分、顔色がいいように思える。

 身じろぎしない翔太。事情を知らなければ本当に寝ているようにしか見えない。

 そんな安らかな寝顔を見て、太ももに彼の重みを感じているだけでも満足していたなのはだったが、もっと触れたいと欲が出てしまった。彼女が参考にした父と母のように自然と手が伸びた。

 なのはの右手が触れたのは、彼の前髪だ。少しごわごわした感じの女の子や少女漫画に書かれるようなサラサラの髪の毛というわけではなかった。それでも、彼の前髪を梳くように右手を動かす。時折、くすぐったいのか、うぅ、と漏らすことがあったが、その度になのははびくっ! となってしまう。そして、また恐る恐る手を伸ばすのだ。

 それがなんど繰り返されただろうか。どれだけの時間がたっただろうか。なのはとしては、このまま時間が止まってしまえばいいのに、とは思うものの、それは無理な話だった。

 やがて、同じように繰り返しした先に、翔太が目覚める瞬間がやってきた。

 髪を梳いている瞬間にううぅ、とうめき声をあげ、それに反応したなのはが手を離した後にゆっくりと翔太が目を開けようとしていた。何度かパチリ、パチリと瞬きを繰り返していた。どこか、少し驚いているようにも見える。

「目が覚めた? ……ショウくん」

 起きたばかりの彼を驚かせないようになのははゆっくりと落ち着いた声で話しかけた。その声を聴いて、ようやく翔太はなのはの姿を認めたようだった。確かめるようになのはの名前を呼ぶ。

「なのは……ちゃん?」

「うん、なのはだよ」

 彼の口から自分の名前が零れ落ちることが嬉しくて。だから、なのははいつものように笑顔で翔太の呼びかけに応えた。

 翔太は、なのはから答えをもらって、現状を把握しているのか、少し思案顔になっていた。翔太の邪魔をしないようになのはは黙って見守っている。そして、現状の把握が終わったのか、翔太は、「―――って、はやてちゃんはっ!?」と言いながら飛び起きてしまった。

 なのはは、今まで太ももの上に感じていた翔太の重みがなくなって残念に思う。そして、もう一つ、翔太が八神はやてのことを心配していることが気に入らない。

 ああ、あの子狸がいなければ、翔太がこんな風になることもなかったのに。なのに、翔太はそれでも八神はやてのことを心配している。

 どこか憮然としない感情を抱えるなのは。だが、その一方で、どこか、ああ、やっぱりと納得したような感情を抱えていることも確かなのだ。

 ―――だって、ショウ君はいい子だもん。

 だから、正しい。少なくとも、今回のことにおいて八神はやては時空管理局の途中までの説明を信用するのであれば被害者だ。だから、翔太が八神はやてを気にするのも当然だ、となのはは考えていた。

 その後も翔太は、八神はやての行方を知ろうとしていた。翔太に問われれば、なのはに答えないという選択肢はない。だから、なのはは守護騎士たちが戦っている方向を教える。戦況は五分五分、いや、彼女が本気を出していないことを加味すれば、遊ばれている、あるいは戸惑っているというべきだろうか。

 守護騎士たちを介して集めた情報をレイジングハートが解析したところ、どうやらあれは闇の書の管理人格が表に出てきた結果らしい。ユニゾンという状態であり、八神はやての意識は彼女の中で眠っているのだという。そして、その管理人格が戸惑っている理由というのは、おそらく牙をむいてきたのが守護騎士たちという理由だろう。

 元来であれば、彼女たちが守護するのは戦っている張本人なのだから。管理人格からしてみれば何がどうなっているかわからないというところだろう。もっとも、現状は何らかの要因によって暴走しているらしいので、いずれその意識に飲み込まれ、すべてを破壊するだろう、というのがレイジングハートの見立てだった。

 ―――すべてを破壊。

 すべてはどこまでを指すのだろうか? とも考えたが、レイジングハートの答えは簡単なものだった。つまり、『世界』だと。

 世界とはこの地球のことだろうか。ならば、なのはは彼女を止めなければならない。たとえば、対象が『世界』であっても、彼―――翔太がかかわらないのであれば、どうでもよかった。彼女にとって、『世界』とは、彼女が知覚できる『世界』とは、蔵元翔太とともにあることなのだから。

 よって、その『世界』を壊そうとする彼女は、以前の黒い金髪と同じく、なのはの『敵』だった。

 だから、だから、壊してしまおう。なのはの世界を壊そうとする彼女を。

 そんな決意をもって、ぎゅっ、とレイジングハートを握りしめるなのは。

 だが、そこに一抹の不安がよぎる。なのはが敵とみなしたのは、闇の書であり、翔太が心配してる彼女である。ならば、この決意が正しいのかなのはにはわからなかった。前回、あの小さな赤い少女との戦いのときはうまくいかなかったことがさらに拍車をかけている。

 だから、なのはは聞いてみるのことにした。翔太に。彼はいつだって正しかったから。だから、だから、きっと―――

「―――ショウ君はどうしたい?」

「え?」

 少し驚いたような表情。もしかしたら、こんなことを問われるとは思っていなかったのだろうか。だから、返答までには少し間があった。

 だが、やがて自分の中で結論が出たのか、どこか決意を秘めた顔で口を開く。

「止めたい。うん、僕は彼女を止めないと……」

 『僕は』と考える部分はわからなかったが、どうやら彼の出した結論はなのはとは異なるようだった。当たり前だ。先ほど、なのはがどこかで納得したように翔太からしてみれば、八神はやては被害者なのだ。だから、助けなければならない。止めなければならない。

 なのはとしては、翔太を傷つける、傷つけようとするような危険人物は壊してしまいたいのだが、それは翔太の意にそぐわないようだった。

 だが、なのはは翔太の言うことを無視することはできない。無視することはできない。だから、その危険人物をそのまま止めることを少しだけ危惧しながら、それでも翔太の決めたことだから、と笑顔で応える。

「うん、そうだね。ショウくんなら絶対そういうと思っていたよ」

 そう、そうなのだ。翔太は正しい。だからこそ、翔太が彼女を『助ける』と言うことも心のどこかで思っていた。なのはは壊してしまったほうが、危険性がないのでは? と思うのだが、それはそれだ。お互いに相容れない考えだったならば、なのはは翔太を取る。それが正しいからだ。

 そして、そうと決まれば、一刻も早く止めるべきだろう。いづれ、闇の書は暴走してしまう。その時になれば、止められるかわからない。止められるとすれば、完全に暴走が始まるその前までだろう、とレイジングハートは結論を出していた。

 なのはは、自らの足にフィンを展開して空へと浮かぶ。

「あの子を止めてくるね」

「ちょっと待って! 僕も―――っ!」

 守護騎士たちが戦っている場所へと向かおうとしているなのはに翔太が声をかける。だが、その言葉の途中でなのはは、彼の言葉を止めるように首を横に振った。

 確かに翔太の『彼女を止める』という判断は正しいかもしれない。しかしながら、それが翔太にできるか? という問いには、なのはもレイジングハートも首を横に振る。ちょっと手を合わせただけでも彼女の危険性は理解できる。ただでさえ、翔太の魔力は守護騎士を下回っているのだ。到底、守護騎士四人を相手にしている彼女の相手ができるとはお世辞にも言えない。むしろ、翔太が傷つく危険性が高い。だから、この判断にはなのはは首を横に振らざるを得なかった。

「でも……」

 しかし、翔太は納得がいかない様子だった。もしかしたら、なのはだけを戦場へと送ることに心が咎めているのかもしれない。翔太は優しいから、そういうところに気がいくのだろう。ならば、ならば、翔太の心が咎めないように、代わりの条件を出そう。戦場に行かなくても、翔太が傷つかなくてもいいような条件を。

「だったら、ショウくんが応援してよ。頑張れって。それだけで私はきっと強くなれるから」

 そう、それだけでよかった。翔太が応援してくれることはなのはが正しいことを、いい子であることを証明してくれるから。なによりも、応援がなのはに向けられるということは、翔太がなのはを、なのはだけを見ている証だから。それだけで、翔太が見てくれている、それだけでなのはは万の大軍でも薙ぎ払って見せるだろう。

 やがて、何かを考えていた翔太は、うん、と自分を納得させるようにうなずいて口を開く。

「なのはちゃん、頑張って!」

 うん、と返事しながらなのはは頷くと、視線を翔太から暴走しながら守護騎士と戦っている闇の書へと目標を見据えるように変更する。

 翔太からの応援をその身に受け、心の中を翔太が見てくれることへの歓喜でいっぱいにしながら、なのはは夜の海鳴の街の空を駆けるのだった。



つづく



[15269] 第三十一話 裏 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2012/02/05 11:02



 高町なのはは空を駆けていた。

 その背中に蔵元翔太の声援を受けて。今のなのはであれば、何者にも負けないような気がしていた。少し浮ついたような、ふわふわしたようなそんな気分である。

 彼女が向かう先は、翔太が横になっていたビルの屋上から少し離れた空だ。そこでは、なのはが召喚した守護騎士たちが闇の書の管理人格と思われる女性と戦っていた。

 シグナムが炎を纏わせた剣で斬りつけ、ヴィータがその体躯に似合わない巨大なハンマーを振るい、シャマルが後方から援護し、ザフィーラが、闇の書から出される攻撃をその肉体と防御魔法で防ぐ。

 それは守護騎士としての一つの形だ。だが、それらを駆使したとしても闇の書である彼女にダメージが与えられたとは思えなかった。いや、攻撃自体は当たっている。シグナムの炎が、剣が、ヴィータのハンマーが、それぞれ確実に闇の書に命中している。

 しかし、しかしながら、それだけだ。

 不可視の衣を羽織っているように闇の書の本体へは攻撃が通らない。そよ風が当たっただけのように平然とその場に佇みながら、逆に攻撃を仕掛けられる始末。常人ならば彼女を恐れて撤退していたかもしれない。

 だが、彼らにそれはできない。なぜなら、主である高町なのはから受けた命令は、闇の書への攻撃なのだから。システムであり、騎士である彼らに『撤退』の二文字はありえない。

 そんなことは、なのはも承知の上だ。そもそも、彼らにはそこまで期待していなかった。闇の書と彼らの魔力の量には圧倒的ともいえる量があったし、何よりも例え、なのはが彼女を××したいと思ったとしても、彼女は闇の書であると同時に翔太が世話をしていた八神はやてでもあるのだ。翔太の意向を聞く前にどうこうできるはずもなかった。

 なのはが、彼らに望んだことはただの時間稼ぎで、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 その点だけでいえば、彼らは自分の役目を十分に果たしているともいえる。

 先ほどまで激しくぶつかっていた両者だったが、なのはが戦場に現れたことで一時的に仕切り直しになったのだろう。守護騎士たちはなのはの周囲に集まり、闇の書は少し離れたところから様子をうかがっていた。

 もちろん、お互いの間に気を緩めるというようなことはない。お互いにお互いの出方を見守っているというほうが正しいのだ。どちらかが動き出せば、即座に先ほどと同じ光景が始まるだろう。ただし、今度はなのはを加えて、のこのとではあるのだが。

「主、申し訳ありません。なんら成果はなく―――」

「別にいい。そんなことよりも―――止めるよ」

 様子をうかがっていたなのはの隣にシグナムが申し訳なさそうな顔で立つ。しかし、なのははその謝罪を一蹴し、次の指令を与える。

 なのはからしてみれば、本当に先ほどまでの命令は単純な時間稼ぎなのだ。今、この時からの命令は本物。本気の指令だ。今度こそは従ってもらわなければならない。

「「「「御意」」」」

 またしても、唱和した承諾の声とともに彼らは散開する。それが次の戦いの合図だった。散る守護騎士の面々。それを見送るなのは。なのはとて、何もしないわけではない。しかし、彼らの主であり、彼女の得意魔法を考慮した場合、彼女が動くのはあまり得策ではない。

 ここで問題となってくるのは、たった一つだけだ。

 如何様にして闇の書の管理人格となっている彼女を止めるか、である。力づくで押さえつける、彼女が暴走する原因となっている根本から解決するなどが考えられる。ちなみに、後者の案は不可能であることをレイジングハートが伝えてくれた。闇の書へのアクセスが不可能だからだ。

 もしも、守護騎士が未だに闇の書とつながっていたならば、その方法も可能だったかもしれないが、守護騎士が切り離された以上、考えても詮無きことである。

 ならば、前者となる。しかしながら、バインド系の魔法があまり得意とは言えないなのはでは、拘束という手法では、不可能である。なのはの守護騎士であるシャマルは、その手の専門家ではあるのだが、闇の書を拘束できるほどではない。

 つまり、最終的に残った唯一の案は驚くほど単純だった。

 ―――非殺傷設定における魔力ダメージによる昏倒。

 これがなのはの唯一とれる方針であった。

 方針が決まってしまえば、なのはの行動は早い。そして、彼女は必ず、それを実行するだろう。翔太が応援してくれているのだ。なのはにとってこれ以上、力強いことはないし、さらには翔太が見てくれているのに失態を見せるわけにはいかない。

 だから、なのはは、この件に関しては万全を期して挑むのだ。

 それになのはにはもう一つ期待していることがもう一つある。それは、つまり今回の―――闇の書を止めるということが成功すれば、翔太に褒めてもらえるかもしれないということだ。

 いつかのように頭を撫でてもらって、「頑張ったね、なのはちゃん」と笑顔で言ってくれる様子を想像するだけで、なのはの身体の底から力が湧いてくる。やり遂げようという意志が漲る。

 ―――絶対、やり遂げてショウ君に褒めてもらう。それにきっと、今回のことも頑張れば、もっと私のことを見てくれるよね。

 そんな期待を抱きながら、なのはは彼女―――闇の書と対峙する。



  ◇  ◇  ◇



 ―――使えない、とレイジングハートは思った。

 すでになのは+守護騎士と闇の書の戦いが始まって五分ほど経過している。

 その間に闇の書はさらに暴走のレベルを上げたのか、己が魔力を大地と呼応させ、地面から火柱を立たせるなどといった、おおよそ荒唐無稽としか言いようのない風景を作り出していた。しかも、それは、闇の書自身が作り出したものではない。ただ単にこの位相空間の魔力が呼応しただけの結果なのだ。

 普通に考えれば、天災レベル。つまり、地面に伏して通り過ぎることを待つしかないような空間。だが、それでもレイジングハートのマスターである高町なのはは立ち向かう。そう決めたから。彼女の友人である蔵元翔太に闇の書を止めることをお願いされたから。だから、彼女は立ち向かう。

 ならば、彼女のデバイスであるレイジングハートがとりうる道は一つしかない。マスターの願いを叶えてこそデバイス―――インテリジェンスデバイスの本懐。よって、共にこの災害に立ち向かうしかないのだ。

 そして、そのために出した手札の一つ。元来の闇の書から無理やりはぎ取ったとでもいうべき守護騎士システムとそのデータたち。毒には毒を、と言わんばかりにもともとの持ち主にぶつけてみたものの全く使えない。

 彼らの魔法による攻撃、デバイスによる攻撃。そのすべてが闇に書にとってはなんら意味を持たないものなのだろう。まるで、空気のように彼らの攻撃を無視している。今の彼らは、相手の注意を逸らせるという意味で言うならば、蚊にも劣る存在だった。

 だが、解析してみても不可解な話だ。彼らの攻撃力は決して低いわけではない。魔力ランクで言うならば、Aクラスの攻撃はされているだろう。だが、それでも闇の書はまったく意に介した様子はない。闇の書が対処するのはレイジングハートのマスターであるなのはの砲撃だけである。

 何かしらの魔法が作用していると考えるのが妥当か。闇の書から感じる魔力を換算しても、その身に纏うAランク相当の魔力だけで掻き消せるような量ではない。単純に何かしらの作用が働いていると考えるべきである。何らかの魔法ではあろうが―――仮に命名するとすれば、『闇の衣』であろうか。

 もっとも、そんなものを気にせずに、守護騎士すら無視してなのはが勝負を決めることは可能だ。JSシステムという切り札の一つを使えば。しかし、それは彼女を『止める』という条件によって切れない手札になっていた。

 止める方法としては、魔力ダメージによる気絶が考えられる。しかし、JSシステムを稼働させた場合、出力を最低に絞ったとしても彼女が―――闇の書はともかく、中の主である八神はやてが無事である確証はないのだ。大丈夫と断言するためには今しばらく解析の時間が必要である。だからこそ、なのははJSシステムを使わずに単騎で勝負を仕掛けている。

 それでも、砲撃がしっかりと入ってしまえば、気絶させることは可能だろうとレイジングハートは試算している。だが、砲撃を直撃させるためには、守護騎士が動いて意識をそらせるか、なのは自身が動いて隙を見つけるしかない。前者は守護騎士たちの攻撃力が低すぎて解決策にならないし、なのはが動くこともなのはの背後にいる翔太のことを考えると不可能だ。

 彼女が先ほどから投げてくる炎の球は、直径がなのはの倍ぐらいある。さらに、その火力は到底信じられるものではなく、鉄筋コンクリートでできたビルが飴細工のように曲がると言えば、その火力がいかほどかわかるだろう。

 そんなものが後方にいる翔太に向かって投げられれば―――彼の命運は明らかである。ゆえに、なのははその一つ一つを防ぐか、砲撃で潰していくしかない。だからこそ、闇の書への攻撃の手が薄くなるのだ。

 これらの要素によって戦況は膠着状態へと陥っていた。このままでは千日手になるだろう。

 それもこれも、守護騎士が使えないからだ、とレイジングハートは結論付ける。

 もしも、守護騎士の攻撃が見えない衣を通せたならば、闇の書の意識を彼らに向けることもできるし、少しずつダメージの蓄積にはなるだろう。闇の書の炎の球が防げたならば、なのはが移動可能になって闇の書に直撃を与えることもできたかもしれない。

 一手、一手異なるだけで戦況は様変わりするのだ。

 ならば、それで、それだけで戦況が変わるようであれば、そうするだけの話である。つまり

 ―――使えないのであれば、使えるようにすればいいだけの話である。

『Master, can I have the action to change the situation?』

 そのためには、レイジングハートの主の許可が必要だ。いくら状況を変えるためとはいえ、許可も得ずにデバイスたるその身が動けるはずもない。しかし、レイジングハートは、なのはが断るわけがないと思っていた。なぜなら、この状況がじれったいと一番思っているのはなのはだろうから。

「―――うん」

 だから、間髪入れずに返答が返ってきたことは、レイジングハートにとっては既定路線。主から許可をもらったレイジングハートはすぐさま状況を変えるための一手を打つための行動に出る。

「でも、どうするの?」

 ―――ああ、そうだ。大事なことを告げることを忘れていた。

 つい、目先の行動に処理の大半を割いていたレイジングハートは何をするかを主に告げていなかった。だが、次にレイジングハートが何をするかなど、一言で済む。そう、実に―――実に簡単なことである。

『I just customize a bit』

 なのはが、そう、と自分で聞いた割にはあまり興味がなさそうに呟くのと同時にレイジングハートの準備は整っていた。後は手元にある実行ファイルを実行するだけである。それを躊躇する理由はどこにもなかった。すでに主の許可ももらっているのだ。だから、レイジングハートは手元にある実行ファイルを起動した。

 ―――使えない、と評した守護騎士を改修するための実行ファイルを。

『Install start―――』

 変化は如実に表れた。

 今まで闇の書を攻撃していた―――それが無駄だとわかっていても彼らが守護騎士である以上、攻撃の手を休めることはない―――手を止める。そして、一瞬怪訝な表情をしたかと思うと同時に彼らは呻く。

 苦痛を押し殺したようなうめき声。それぞれが異なるとはいえ、額に脂汗までかいている以上、その苦痛は筆舌にしがたいものがあるだろう。守護騎士の将を自負しているシグナムでさえそれなのだ。彼らが感じている苦痛がいかほどか想像もつかない。

 だが、それでもレイジングハートは改修実行ファイルのプロセスをやめない。

『First phase ……… clear. Next second phase start. ……Secure memory. Set up Jewel Seed. ………』

 レイジングハートからしてみれば、彼らはしょせんプログラムなのだ。プログラムが使い物にならないことを理解して、改良することを躊躇するシステム屋がどこにいるだろうか。たとえ、彼らからしてみれば、体の中を麻酔なしに弄られているものと変わらないとしても、彼らがプログラムであると認識している以上、レイジングハートの手が止まることはなかった。

 彼らの苦痛の時間がどれだけだっただろうか。急に痛みに襲われた彼らからしてみれば、一分が一時間にも感じたかもしれない。正確には三分四十三秒だが。それだけの時間、苦痛に耐えた彼らは間違いなく変わっていた。纏う空気も、彼らから感じられる魔力も。

 外見上の変化はほとんどない。だが、そこから感じる威圧感などは全くことなるのだ。その変化に今まで気にせずなのはを攻めていた闇の書さえ手を止めて彼らの変化を見る。何が変わったのだろうか、と守護騎士たちを上から下まで見る闇の書。

 彼女の視線はただ守護騎士たちのある一点を見て止まる。

 シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ。彼らの変化は纏う空気、彼らから感じられる魔力だけではない。外見上の変化はほとんどないと称したが、ただ一点のみ異なる点があった。それは、彼らの胸元に爛々と輝く蒼い宝石。埋め込まれたように輝くそれだけが、彼らの唯一の変化といえた。

 それは、四月に海鳴を人知れず事件に巻き込んだロストロギアと呼ばれる古代の遺物。レイジングハートはそれを20個所持している。15個は使い道がある。主を護るために、主の願いをかなえるための力を得るために。しかし、残りは使い道がなかった。もてあますだけの代物。ゆえに、今回のことで使っても全く問題なかった。いや、むしろ主であるなのはの力になるのだから有効的な使い方ともいえるだろう。

『Final check started……… All right!! Success customize!!』

 彼らから感じる魔力、何事も問題なく定着したジュエルシードを見て、レイジングハートは満足そうに彼らの改良の成功を宣言するのだった。



  ◇  ◇  ◇



 これは………すさまじいな。

 先ほどまでは蚊ほどにも気にしなかった守護騎士たちの猛攻を受けながら闇の書―――いや、闇の書を闇の書足らしめている防衛システムに浸食された闇の書の管理人格は、評価を改めていた。

「破ぁぁぁぁっ! 朱雀一閃」

「ギガントグラビトンクラークっ!!」

 シグナムの巨大な鳥のように形取られた炎が、ヴィータの自身の身の丈の四倍はある巨大なハンマーで押しつぶすような猛攻が挟撃されるように襲いかかる。先ほどまでに無視していれば、いくら闇の書に常時結界のように展開されている自身のスキルである『竜の衣』をもってしてもダメージを受けることは間違いない。

 だから、闇の書としてはシールドで防御するしかない。666頁を埋めた闇の書が持つ魔力は膨大だ。少々守護騎士たちがパワーアップしたところで闇の書の防御を貫けるはずもない。しかし、先ほどまでは防御させることすらできなかったことを考えると格段の進歩だともいえる。

 それに、そもそも、闇の書に防御させることこそが彼らの役目。一瞬だけでも本命から注意を逸らせばいいのだから。その一瞬を彼らの主は、勝利への道筋の一つへと導くのだから。

「くっ……」

 今まで焦ることなく淡々と戦闘を繰り返していた闇の書が初めて焦るような声を漏らした後、ブラッティダガーでシグナムとヴィータを薙ぎ払った後、両手を重ねて、正面から来る砲撃を受け止める。シグナムとヴィータの攻撃を受けながら受け流せるような魔力ではなかった。間違いなく闇の書以外が喰らえば一撃必殺となる砲撃だった。

 その砲撃を放った持ち主は闇の書から離れた場所から、銃を持つように桃色のデバイスを構えていた。赤い宝石部分から放たれたであろう砲撃魔法は、第二射があるように、周囲に環状魔法陣を展開しながらスタンバイしていた。おそらく、第二射は、すぐにでも放たれるだろう。

 しかしながら、その状況において、彼女の身に注意を払うわけにはいかない。何せ、現状は三対一なのだ。いや、実質はもっとひどい。たとえば、せめてもの反撃とばかりになのはに向けてブラッティダガーを放てば、それはザフィーラによる白銀の盾に阻まれる。パワーアップするまえであれば、容易に砕けたであろうに。

 ならば、とシグナムやヴィータを狙う。命中こそさせられないものの、傷を負わせることはできた。しかしながら、その傷は即座にシャマルによって癒される。彼女自身は距離を置いているにも関わらず、その魔法が届くのだ。魔法の有効範囲が伸びていた。しかも、ザフィーラの近くにいるため、彼女をつぶすこともできない。

 このままではまずい、と防衛システムが判断するまでには一時も必要なかった。何も手を打たなければ、いつかなのはの砲撃を喰らってしまうだろう。一度や二度ならば、耐えられる自信もあるだろうが、それ以上となれば厳しいものがある。超高魔力の砲撃を喰らってしまえば、闇の書は耐えられない。その結果、支払わなければならない代償は決まっている。

 ―――守れない。護れない。零れていく。

 それは許されないことだった。闇の書にとって、闇の書の防衛プログラムとして。護る、守護する、それこそが防衛プログラムの存在意義。

 だからこそ、だからこそ、主を苦しめる、主を絶望へと陥れた世界を壊そうとするのだ。護るために、ただ護るために。

 主を護れない。それは自らの存在意義の否定だ。そんなことはできるはずもない。己は己であることを自覚して初めて己たり得るのだから。特にプログラム―――システムである闇の書はその本能ともいうべき部分が顕著だった。

 だから、闇の書は手札をもう一枚切ることにした。いや、切らなければならない。護り、守り、衛るために。

「闇よきたれ」

 その言葉で発生する暴力的な魔力の解放。それは闇の書を中心として球を描く。高密度の魔力の中だ。いくらシグナムやヴィータであろうとも、それをまともに受けようとは思わない。結果として、闇の書からずいぶんと距離を取ってしまうことになってしまった。

 ―――それこそが闇の書の狙い。

 この場に必要だったのは仕切り直しだ。闇の書の手札を切るためにも。

「来たれ、来たれ、来たれ。我が兵たちよ」

 その呼びかけが呼び水だった。その声に惹かれたように周囲に大きめの闇の球ができる。その数、およそ五十。まるで卵のような闇の球が上から闇のヴェールを外すようにはがれていく。その闇の球が完全に晴れた時、その場に姿を現したのは、なのはたちにとってはよく知っている生物だった。

 ―――竜。

 なのはたちが闇の書の頁にするためにひたすらに狩ってきた竜。その姿が海鳴の海上を埋めるがのごとく、空の王者のごとく埋め尽くしていた。

「「「「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA」」」

 まるで呼ばれたことを歓喜するがのごとく五十もの竜たちが吼える。内包する魔力もほとんど竜と変わらない。本当になのはたちが狩ってきた見捨てられた世界から呼び出したごとく竜たちは顕現していた。

 その姿を見て、一切ひるまなかった守護騎士たちとなのはを見て、闇の書はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。

「卑怯と言ってくれるなよ。私の騎士を奪ったのはそちらだ」

 行け、と闇の書が腕を指揮棒のように振ったその瞬間から第二ラウンドの始まりを告げていた。



  ◇  ◇  ◇



「すげぇ………これが竜滅者≪ドラゴンスレイヤー≫……」

 周囲にいた誰かが、モニターに映る少女の姿を見ながら信じられない、と言ったような感情を隠すこともなくつぶやいていた。しかしながら、その感想にも彼―――時空管理局武装隊の彼も同意だった。

 竜―――それは、ある場所では架空の生物として扱われる存在ではあるが、次元世界には実在している。竜を神とあがめる部族もあり、また友として、共に歩むものとして助け合う部族もあるぐらいだ。

 その力はまさしく生物の頂点に立つにふさわしいほどの力を持っている。最上級の力を持つ竜ともなれば、まさしく神の力を持っているといっても過言ではない。最下層の竜としてもそこら辺の魔導師が太刀打ちできるような存在ではない。

 モニターに映っている竜も最下層ではないにしても、そこら辺の魔導師が太刀打ちできるような存在ではないことは明白だ。

 だが、そんな竜たちがまるで射的の的になったかのように次々と撃ち落とされていく。撃ち落とすのは、彼の半分も生きていないであろう少女だ。彼女が桃色のデバイスを振るえば、一つの環状魔法陣から放たれた九条の砲撃が竜を貫く。それだけで、竜たちは一瞬で気絶し、海へと落ちていく。

 本当にまるで、訓練用の射的をするがのごとく竜が堕ちていく。その光景を見るだけで彼の中の常識が覆されていくようだった。

 彼とて噂では知っていた。今回の闇の書の魔力を蒐集するために竜から魔力を集めており、また、その竜を相手にしているのが、執務官ではなく、まだ年端もいかない少女だと。その姿を見てきた武装隊員によって彼女の実力は知られることになる。本来、狩る立場の竜を、逆に狩る魔導師―――竜滅者≪ドラゴンスレイヤー≫として。

 彼も噂を半分程度しか信じていなかった。

 せいぜい、武装局隊員の力を借りて狩っているのだろう。とどめをさしているだけでも十分すごいのだ。尾びれ背びれがついて大きくなったのだと。

 だが、その姿は事実だった。彼女は一人で竜を狩っている。しかも、一度に複数の竜を。

 ―――信じられない。

 それが彼の正直な感想だった。そして、同時にそれがこの場にいる全員の総意だろう。いや、少しだけ異なるとすれば、彼女に同行していたという半数ぐらいだろう。しかしながら、噂で聞いた話とは現状は全く異なるはずだ。

 武装局員が引っ張ってきた竜を撃ち落とすのと、十数匹の竜に囲まれて撃ち落とすのでは難易度は段違いだろう。彼ならば、数秒もせずに落とされる自信がある。しかし、彼女は撃ち落としている。ドラゴンスレイヤーの呼び名にふさわしく。まるで舞うように空を泳ぎながら、彼女の砲撃が空を彩るたびに十匹近くの竜が堕ちていく。

 もっとも、それでも竜の数が減っているとは思えないのだが。元凶は、すぐ近くにあった。

 時空管理局が長い間悩まされてきた闇の書だ。彼女が呼び続ける限り、竜たちは呼びかけに応えるだろう。

 そう、そもそも、彼らの目的は闇の書だ。彼らはそれを封印するためにやってきた。長年、時空管理局を苦しめてきた闇の書をようやく封印できるのだ。もっとも、長年時空管理局を苦しめてきた闇の書だけあって、封印するためのステップも無茶なことこの上ないと思うのだが。

「クロノ執務官っ!!」

 あまりに現実離れした光景に見とれていた彼の耳に、中年のやや焦ったような声が聞こえた。その声の持ち主に目を向けてみれば、彼は今回の作戦のために招聘された武装隊の小隊長の一人だった。そういえば、かの小隊長の一人娘はちょうど目の前のスクリーンに映っている少女ぐらいの年齢だったと思う。

 彼が焦るのも、この先、何を口にするかも彼には理解できた。

「我々も―――」

「ダメだ」

 出撃しましょう、と言いたかったのだろう。

 確かにこれは予想外だ。闇の書を抑える役目を彼女に一任したのは聞いた。あとは暴走直前まで彼女に相手をしてもらい、暴走間際になって、武装局員が介入し、闇の書を封印する。それが封印プロセスだったはずだ。しかし、その相手に竜まで追加されるとは聞いていない。

 予想外、だからこそ介入するべきだと小隊長の彼は言っている。だが、今回の作戦の現場責任者ともいえるクロノ執務官は、彼の要請を拒否した。

「しかしっ―――」

 それでも食いつこうとする小隊長。彼からしてみれば、見ていられないのだろう、許せないのだろう。娘ほどの年齢の少女が戦っているのに、自分がのうのうと安全な場所で待機していることが。

 ふと、周囲を見てみれば、彼と同じ気持ちなのか、険しい顔でうなずいていた。

 そう、今回の作戦の武装局員は、ほとんどが穏健派の面々で構成されている。ならば、彼らが少女が戦っているのに安穏と待機していられるはずがない。たとえ、役に立たないとわかっていても、わずかでも少女の助けになるのであれば、彼らは戦場に駆けつけるだろう。それこそが、彼らがこの場にいる理由なのだから。

「ダメだ」

 しかし、それがわかっていながらクロノは再度、彼の要請を拒否した。

「君たちがあの場に行ってどうする? あの数の竜を相手にできるとでも? 不可能だ」

 事実だ。明白な事実だ。

 海の武装局員は確かにレベルは高いだろう。それでも隊長のAAクラスが最高レベルだ。平均はAかBぐらいがせいぜいである。それで竜を相手にしろというのはいささか無理がある。

「それよりも、闇の書が暴走する瞬間を見逃すな。その瞬間に僕たちが介入しなければ、封印プロセスは成功しないんだ」

 暴走する一瞬のすきを突くのが、この作戦のキモだ。そのタイミングは嫌というほどに教えられている。この場で失敗するとは思っていない。もっとも、実際に封印するのは今回の作戦の指揮を執っている時空管理局の英雄ギル・グレアム提督だが。

「それまで、彼女を一人で戦わせるというのですかっ!?」

 正確には一人ではない。彼女の使い魔であろう騎士たちも一緒だ。しかし、彼らは彼女の助けになっているとは言い難い。自分の身を守るだけで精一杯のようだ。せめて、一人でも彼女の援護に入れば話は違うのだろうが。

「堪えてくれ……これが最初で最後のチャンスかもしれないんだ。失敗は許されない」

 そう言われれば、彼は何も言えない。

 この場にいる武装局員は、確かに一人も欠けることは許されない。闇の書が暴走するその一瞬、闇の書を封印するためにある種の結界を作らなければならない。それが集団儀式魔法だ。武装局員一人一人を陣と見立てて空間を作る。それが闇の書を封印するための界となる。

 この場の一時の感情で出撃するのはいい。だが、それで傷を負ってしまえば? それは、作戦の可能性を落とすことにつながる。そして、この作戦に失敗は許されない。

 ゆえに、この場で正しいのはクロノだった。そして、それがわかっているがゆえに小隊長の彼は何も言えない。感情的には、許せない何かがあったとしても、この作戦の重要性を知っている彼は何も言えないのだった。

 それは周囲にいる武装局員のだれもが同じだ。この作戦の重要性を理解していない局員などいない。だからこそ、何も言えない。

 自信をもって竜と渡り合えると言えない、そういえるだけの実力がない、そんな自分が不甲斐ない。だから、局員の何人かは、俯き、何人かは己の罪を焼き付けるかのようにモニターから目を離さない。

「が、頑張れっ!」

 一瞬、静まり返った待機ルームに誰かの声が上がる。目の前のモニターの向こう側で戦っている少女へ向けてのものだろう。届かないことはわかっている。しかし、あの戦場へと駆けつけられないとわかった以上、やれることなどこのぐらいしかない。

 それが彼女の元に駆けつけられないことへの罪に対する贖罪にならないことはわかっている。自己満足だということはわかっている。しかし、しかし、それでも応援せずにはいられない。何かせずにはいられなかった。

 その心は伝搬する。

「頑張れっ!」「やっちまえ!」「後ろ、後ろ!!」

 先ほどまでは彼女が竜を落とそうが冷静に見ているだけだった。だが、今は彼女が砲撃を打つたびに、竜を落とすたびに歓声が上がる。

 頑張れ、頑張れ、と応援の声が上がる。自分たちにできることは、これしかなかったから。それしかできないことを心の中で詫びながら、しくしくと痛む罪悪感を感じながら、局員たちは彼女に届けとばかりに応援の声を上げるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかは驚いていた。

 先ほどまで機嫌がよさそうに鼻歌を歌っているアリサに対して抱いていた疑惑の念が吹っ飛ぶぐらいに驚いていた。

「ショ、ショウ君?」

 そのすずかのつぶやきが彼に届いたかわからない。いや、届いていないだろう。彼は間違いなく、今の非日常に対応しようとしているのだから。

 すずかが驚いたのは、この突然、投げ出された非日常に、ではない。そんなことは目の前の光景からしてみればどうでいいことに部類されてしまう。確かに、この非日常に突然投げ出されたことには驚いた。しかし、それ以上に驚いたのは、真っ黒な衣装に身を包まれて空からやってきた翔太に対してだった。

 すずかはいつかの翔太の言葉を思い出していた。

 ―――実は、僕は魔法使いなんだ。

 ―――もっとも、まだまだ卵だけどね。

 それは、すずかに対して気を使った翔太の冗談だと思っていた。すずかは信じていなかったのだ。吸血鬼という存在は信じられても魔法使いは信じられなかった。確かに吸血鬼がある以上、魔法使いがいてもおかしい話ではない。

 しかし、それは偶然というのは、できすぎだった。一体、いかほどの確率だというのだろうか。とてつもなく低いということだけは理解できる。

 そう、まるでそれはお互いに惹かれたようではないか。非日常が、非日常を求めるように。まるで運命の糸に引っ張られているように。少なくともすずかはそう感じた。

 すずかが親類以外では初めて出会う非日常。それが魔法使いの蔵元翔太という存在だった。

 今までは、翔太と仲良くなりたいと思いながら接してきた。もちろん、そこに嘘はなかった。だが、それでも怯えがなかったと言えばうそになる。すずかは翔太を完全に一般人だと思っていたからだ。だから、心のどこかで最後のストッパーが存在していた。前のときは大丈夫と言ってくれたが、次はダメなのではないだろうか、と。

 受け入れてくれた。その一点だけではすずかが翔太に絶対の信頼を寄せるには不十分だった、と言える。もしも、姉の忍のような性格ならば、信じられただろうが、すずかの慎重な、慎み深いともいうべき性格が災いしていた。

 しかし、これで完全にストッパーが外れたといっても過言ではないだろう。まるで、すずかという存在を受け入れるように現れた蔵元翔太という存在。同じ非日常に存在し、すずかという少女を完全に受け入れてくる少年。それがすずかにとっての蔵元翔太になった。

 ある種の危機にあるのにすずかはふわふわと浮ついたような気分になってしまっていた。おかげで、翔太に声をかけるときも声が震えてしまう。あまりにできすぎたこの時間が、事実が嘘であると告げられることを恐れて。

 しかし、そんなことはなかった。

 翔太は魔法を使い、一緒にいたアリシア、アリサを護ってくれたのだから。

 ―――ああ、本当にショウ君は魔法使いなんだ。

 先ほど空まで飛んで現れたというのにそれでも信じられなかったすずかだったが、ようやく願望と事実が変わらないことを自覚し始めていた。

 だからかもしれない。彼の真後ろに女性が現れ、何かを呟いたと同時に翔太が光に包まれた瞬間に何も反応できなかったのは。

 反応できたのは一番近くにいた翔太の義妹であるアリシアだった。

 翔太が伸ばした手に唯一、手が届き、光に包まれていた彼と同様に光に包まれはじめ―――消えた。二人同時に、だ。驚いたかのような翔太の表情と必死ともいうべき表情で追いすがるアリシアの表情が脳裏に残っている。

 アリサの性格からいってそれを呆然と見送られるわけがない。

「ショウ! アリシアっ!!」

 二人の名前を呼ぶが、返事はない。すずかも周囲を見渡してみるが、炎の球によって破壊された後は確認できたが二人の姿は確認できなかった。そして、唯一の行方を知っていそうな存在は一人だけだ。

 翔太の後ろに現れ、何かをつぶやいた女性。

「あんたっ! 二人をどこにやったのよっ!!」

 まるで恐れというものを知らないようにその女性に食ってかかるアリサ。すずかも同様のことを叫びたい。ようやく、ようやく本当のことが知れたのに。これ以上、我慢する必要もない人に出会えたのに。わかった瞬間に消えてしまうなんてどこの悲劇だ。

 そんなことを月村すずかは認めない。だから、食って掛かるアリサとは異なり、どこか油断しているようであれば夜の一族の力を使ってでも襲いかかろうとしたのだが―――

「「え?」」

 アリサとすずかの声が重なる。

 当然だ。先ほどと一瞬で景色が変わったのだから。先ほどまでいたビルが崩れ去ったような風景はどこにもない。そこはすずかが暮らす日常の風景が広がっていた。人っ子一人いない空間ではない。クリスマス・イヴを楽しむような街の人がいるような日常が目の前に広がっていた。

 幸いにして通行人の邪魔にならないような道路の端に寄っていたものの、突然の光景に言葉を失っているアリサとすずか。

 だが、やがてアリサも思考回路が戻ってきたのだろう。この数十分で体験したありえない経験と理不尽に怒りを爆発させた。

「いったいぜんたいなんなのよぉぉぉぉぉぉっ!!」

 金髪の少女が道中で叫ぶという奇行で街の人の注目を集めているアリサをしり目にすずかは雪が舞う空を見つめる。翔太が魔法使いであることを知らせるようにやってきた空を。

 ―――ショウくん、無事に帰ってきて。

 ホワイトクリスマスになるような分厚い薄暗い雲を見上げながら、人生で初めて出会った自分のすべてを受け入れてくれる人の無事をすずかは祈るのだった。






つづく



[15269] 第三十二話 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2012/03/23 20:14



「……う、ううん」

 半ば夢から覚めるように唸りながら、上半身を起こした。そのせいで今までかけられていた白い布が僕の胸から滑り落ちてお腹あたりで山になる。

「………ここ……は?」

 頭をはっきりさせるために頭を左右に二、三度振ったあと、あたりを見渡して思わずつぶやいてしまった。

 部屋……とはとても言えないだろう。天井には西洋のランプともいうべきものがぶら下がっており、布の天井が見える。僕の記憶の中で一番近いものといえば、テントだろう。しかし、その割には床は地面に直に敷かれたような布ではない。木の板が並んでいる。フローリングのようなものである。

「起きたのか?」

 ぱさっ、と布が擦れるような音がして、透けた布の向こうからしか入ってこなかった光が直接入ってくる。太陽の直射日光のような光であり、誰かが扉を開けたのだろうと思った。

 急に光を浴びてしまって、思わず目を細めた。やや目が慣れてきたとき、光の向こう側から誰かが覗き込んでいることに気付いた。生憎、姿は逆光のせいで見えないが、ほっそりとしたラインは女性のようにも見える。

「ずいぶん寝坊していたな。向こうの世界でもそうだったのか?」

 ようやく目が慣れた僕の視界に映ったのは長身のピンク色と形容するべき髪をポニーテイルにした女性だった。やけに親しげに話してくる女性だったが、僕はそんな彼女にどんな反応をしていいのかわからなかった。

 相手は僕のことを知っているようだが、僕は、彼女のことを――――知らない?

 なぜか首をひねりたくなる。知らない、知らないはずだが……本当に? いや、知らない、知っている、知らない、知っている、知っている? 知っている。

 ―――ああ、そうだ、そうだ。

 僕はどうやら寝ぼけていたようだ。今までずっと旅をしてきて、時にはともに隣で戦った女性だというのに忘れるなんて。

「今日は昨日の疲れがたまっていただけだと思いますよ」

 僕にだって、原因はわからない。僕が起きる時間は大体みんなと同じぐらいなのだが、今日は最後まで惰眠をむさぼっていたようだった。昨日に特別何かをした記憶はないが、それでも疲れていたのだろう。そうでもなければ、この時間まで一人で寝ているということはないはずだ。

 それをシグナムさんもわかっているのだろう。僕をからかっていたことを示すようにクスッと苦笑すると「そろそろ、朝食ができるから起きてこい」という言葉を残してカーテンのような布を閉じて、この場を離れて行った。

 僕は、シグナムさんが離れたことを確認して、大きく伸びをして、着替えや靴など外に行く準備をして、この場所―――馬車の荷台から外へと飛び出した。

 僕の身長より少し低い程度の高さを飛び降りる。トスン、という軽い音を立てて地面に着地する。朝日が昇ったばかりの朝の空気は、まだまだひんやりとしているが、それが心地よいと感じる程度には気温は上がっているようだ。

「あら、ショウくん、起きてきたのね」

 声のしたほうを振り向いてみれば、そこには金色の髪をショートカットにした女性が丸太に座って、火にかけた鍋をかき混ぜていた。

「おはようございます、シャマルさん」

 はい、おはよう、と柔らかい笑みを浮かべて返事してくれるシャマルさん。

 返事をもらったあと、僕はきょろきょろと周囲を見渡した。僕が寝ていた馬車には僕しか残っていなかった。つまり、おこしに来てくれたシグナムさんとここにいるシャマルさん以外の仲間も周囲にいると思ったからだ。

 しかし、彼らの姿はどこにも見えなかった。

 そんな僕の様子が可笑しかったのだろうか、シャマルさんは、何か面白いものを見たようにクスリと笑うと仕方ないなぁ、というような色を帯びた口調で口を開く。

「はやてちゃんとヴィータちゃんなら、水浴びに行ってるわよ」

「近くに湖でもあったんですか?」

「ええ、昨日の夜にシグナムが見つけたらしいの」

「そうですか」

 なるほど、旅の途中で体をきれいにできる場所というのは貴重だ。特に昨日は戦闘も行ったから、彼女たちとしてはさっぱりしたかったのだろう。しかも、シャマルさんの口調からするとシグナムさんとシャマルさんは昨晩の内に水浴びは済ませてしまったようだ。

「ショウ君、気になる年頃でしょうけど、のぞきに行っちゃだめよ」

「行きませんよ」

 くすくす、と子どもを見守るお姉さんのような口調で、でも、どこか少年である僕をからかうような口調で注意してくる。シャマルさんがこういうことでからかうことは、いつものことであり、思春期を迎える直前の少年であれば少しは動揺するかもしれないが、その年齢ははるか昔に通り過ぎてしまった。

 そもそも、僕と同じ9歳の女の子に欲情するほど、鬱屈した趣味は持っていない。いや、そう思えるのも僕が少々特殊だからだろう。10年前の僕では思いもよらなかっただろう。突然、目が覚めたら幼子になっていて、まあ、なるようになるさ、とか考えていたら、漫画や小説のように異世界の飛ばされるなんて。しかも、聖剣を抜いた勇者として呼び出されたのだから、世界は何を考えているのかわからない。

「どうした、ショウタ。まだ寝ぼけているのか?」

 少々、現状について考え事をしていたのだが、傍から見れば寝ぼけているようにしか見えなかったのだろう。バカにしたような声でもなく、ただ現状を確認するかのような無機質な声をかけてきたのは青い毛の犬耳と尻尾を持ったこの世界では獣人と呼ばれる種族のザフィーラさんだ。

「そんなわけありませんよ。僕みたいな子供が数奇な運命をたどっているな、としみじみと思っていたところです」

「………さすが勇者というべきか、お前はもう少し年相応であるべきだ」

「そうかもしれませんね。でも、仕方ありません。これが僕ですから」

 ザフィーラさんが言いたいこともわかる。だが、僕の精神年齢は一度、二十歳まで達しているのだ。そこから十歳相当の態度をとれと言われても無理な話である。

「ふむ、そんなものか」

 僕自身を否定したくないと思ったのだろう―――ザフィーラさんはそんな人(?)である―――褐色で、男の子である僕から見ても驚くような筋肉を持った腕を組んで深く何度か頷いていた。そんな彼に僕も、そんなもんですよ、と返そうとしたのだが、そのタイミングは、先ほどまで鍋をかき混ぜていたはずのシャマルさんの布を切り裂くような悲鳴によって逃してしまった。

「きゃぁぁぁぁぁっ! ザフィーラっ! なんで上半身裸なのよっ!」

 そう、確かに今まで僕と話していたザフィーラさんは上半身裸だった。しかし、それが見苦しいか、と言われるとかなり鍛えていると一目でわかる上半身は、見たとしても不快な気持ちにはならない。だから、平気な顔をして話していたのだが、女性であるシャマルさんは違うらしい。

 もっとも、ザフィーラさんが上半身裸である理由は、彼の右手を見れば明らかなのだが。

「なぜ、と言われてもお前が魚を獲ってこいというからに決まってる」

「服ぐらいは着なさよっ!」

 シャマルさんが手を無茶苦茶に振り回したのだろう。先ほどまで鍋をかき混ぜていたお玉が手からすっぽ抜け、ザフィーラさんの頭にカツーンと当たった。本当は何か言うべきなのだろうが、僕は口をつぐんでただの傍観者に徹した。理由は言うまでもないだろう。

 ―――首を突っ込んでとばっちりはごめんだからだ。



  ◇  ◇  ◇



「主よ、今日も我らに恵みを与えてくださったことに感謝を」

 シャマルさんの言葉に続いてその場にいた全員が「感謝を」と唱和する。もちろん、僕もだ。これは、要するに僕の世界で言うならば「いただきます」という感謝を示す言葉だ。祈りと言い換えてもいいのかもしれない。

 次元すら異なる世界だというのに、神がいるとか、祈りをささげるとか、似通ったところが見つかるのが面白い。こういうのは、確か共時性……というのだったのだろうか。

 神への感謝の祈りをささげた後は、ちょっと遅い朝食の時間である。朝から鍋を混ぜていたシャマルさんお手製のスープとザフィーラさんが獲ってきた魚の丸焼きという朝食。これでご飯があれば、僕の世界と変わらない朝食になるのだろうが。

 僕の世界、というとじゃあ、この世界はどうなんだ? ということになるだろう。

 僕がこの世界―――僕の世界とは異なる世界に来ることになった詳細は省略でもいいと思う。あれは何と言っただろうか、いわゆるお約束が並んだことだから。つまり、この世界には魔王がいて、近々復活しそうな気配があるから、聖剣に選ばれた君が倒してよ、というわけだ。

 そして、当然のことながら一人で魔王退治なんて不可能なので、仲間が付けられた。もちろん、軍勢などではなく少数精鋭の面々だが。

 僕はなんとなく確認するように僕の旅の仲間たちを見渡した。

 早速、すごい勢いでスープを飲み始めたのは、今朝の水浴びから帰ってきてまだ髪が乾いていないのだろうか、しっとりと濡れた赤い髪をもつヴィータちゃんだった。彼女は、この世界の教会という組織の神官騎士である。彼女の武器はハンマー。シグナムさんと並ぶ特攻隊長である。どうやら、この世界の教義では、殺生を許していないようで、教会を世俗の悪から守る神官騎士は、基本的に鈍器が主な武器になるらしい。ちなみに、彼女の身長は僕たちと同じぐらいではあるのだが、年齢は16歳というから驚きだ。本人はとても気にしているらしく、いうと怒られるのだが。だったら、せめてそんながっついたような食べ方はやめればいいと思うのだが。

 そんなヴィータちゃんを見守るような慈母の眼差しで見守るのが、僕たちの料理人であるシャマルさんである。シャマルさんは、法衣のようなゆったりとした服を着ている。その実、彼女はヴィータちゃんと同じく教会の神官である。神官騎士は、教義をけがす者たちの討伐だが、シャマルさんは教義を広める神官である。シャマルさんは、戦うという点で見れば、戦力にはならないが、神の力を借りたとされる魔法で怪我の治療や防御力の増強をしてくれている。

 シャマルさんとは逆にあきれたような表情で見ているのは、僕を起こしに来てくれたシグナムさんだ。赤を少し薄くしたようなピンクと形容すべき髪をポニーテイルにした僕たちの仲間の中で単体戦力だけで言うと一番の戦力である。シグナムさんが所属しているのは、僕を召喚した王国の第一騎士団であり、シグナムさんは騎士団の副団長だったらしい。だが、今回の旅で引き抜かれたようだ。そこには、男女の確執やらいろいろあったらしいが、僕は知るべきではないのだろう。

 シャマルさんやシグナムさんのように微笑ましいような表情もせず、あきれもせず淡々と自分の食事に集中しているのは、青い毛並みの耳と尻尾を持った獣人族のザフィーラさんだった。実は、彼だけは僕を召喚した王国とは無関係の武者修行としている武人だった。僕たちと一緒に旅している原因は紆余曲折あるのだけど、今ではすっかり僕たちの旅の仲間の一人だった。

 そんな風に見守られているとはつゆ知らずスープを飲むヴィータちゃんの隣で、姉妹のようにスープを飲むショートカットの茶髪を持つ少女。年齢は僕と同じ程度の少女。彼女の名前は―――八神はやて。先代の勇者だったらしい、らしいというのは本人も覚えておらず、王国の古書に少しだけ記録が残っているだけだからだ。もっとも、彼女は前回の召喚のときに魔王と相打ちに会って、その身を聖剣とともに封印したらしいが。そのため、魔王を倒した後は彼女を棺桶のように閉じ込めた紫水晶を称して―――紫水晶の聖女と呼ばれていた。彼女の態度を見ていると聖女というよりも子狸とでもいうべき、子憎たらしい少女ではあるのだが、僕たちの中で、ヴィータちゃんと同じくムードメーカーでもある。

 最後に僕―――蔵元翔太。今回、呼び出された勇者である。聖剣を抜いた―――抜いてしまったのが原因なのだが、まあ、あそこで抜けなかったら僕はこの場にはいないだろうから、そこで聖剣を抜いてしまったのは正解だったのだろう。

≪主、どうかしたのですか?≫

 その声なき声は僕の頭に直接響いてきた。

 ああ、そうだ。忘れるところだった。僕たちと一緒に旅してくれる仲間。最後の一人―――聖剣の名をとってリインフォースト名乗る聖剣に宿った精霊のことを。彼女―――そう称していいのかわからないが、聞こえる声から察するに女性であることは間違いないだろう―――は、僕がはやてちゃんが閉じ込められた紫水晶から抜いた瞬間から、僕の聖剣の精霊になったらしい。だから、僕を主と呼ぶ。実は、人型を取ることができ、魔法を使うときはサポートしてくれるのだ。彼女の容姿は、銀髪をストレートにし、黒い装束に包まれている。いや、聖剣というよりも魔剣じゃないだろうか? という容姿だが、それでも聖剣らしい。

「いや、なんでもないよ」

 独り言のようにリインフォースに対して返事をしながら、僕も目の前でおいしそうに湯気を立てているスープを口にする。

 その後は、ちょっとした会話をしながらも手と口を動かした。街の中の食事処であるならば、会話も楽しみながら朝食という洒落た行為もできたかもしれないが、ここは外。しかも、野営だ。いつ敵が襲ってくるかもしれない時に悠長にご飯を食べられる時間があるのなら、腹を満たすことが優先される。

 ……旅の最初のころは、シグナムさんとヴィータちゃん以外はそれをわかってなくてつらい目にあったこともあったからなぁ、とやや過去の辛いことも思い出しながら僕もぱくぱくと食事を進める。

 全員が朝食をほとんど食べ終わったころ、後片付けをするシャマルさんを気にしながら口火を開いたのはシグナムさんだった。

「今日の午後にはリガルドの領域に入ることになるのだが、作戦は頭に入っているな?」

 僕たちは、街のギルドから依頼を受けていた。それが、先ほどシグナムさんが話したリガルドの討伐だった。

 僕たちの本来の目的は魔王の討伐ということになるのだろうが、残念ながら魔王が復活したということはわかっても、その居場所まではつかめていない。だから、僕たちは大陸を一つのパーティ―――ファミリアとして行動しながら魔王の居場所を調べているのだ。

 もっとも、そこの目的には僕を実践に慣れさせるためという目的も入っているが。

 今回もギルドの依頼でリガルドの討伐の依頼を受けたのは、南の街と西の街をつなぐ街道の近くの森にリガルドが異常繁殖し、荷馬車を襲うようになったからだ。いや、異常繁殖だけではこの依頼はこない。さらに悪いことが重なったのだ。

 話によれば、通常であればリガルドは、異常繁殖の末でも森の中の縄張り争いで自然と数を適正値にもっていき、街道へはなかなか出てこないのだそうだ。出てきても、食物を積んでいる荷馬車が街道の近くを縄張りにしているリガルド単体に襲われる程度で、その程度であれば商人の護衛で何とかなるのだが、今回は様子が違った。それがさらに悪いことである。

 異常変種が現れたのだ。

 魔王の復活は、それ単体が魔物を統括するというだけならば、まだよかったのかもしれない。だが、さらに厄介なことに魔王は持っている自分が異常ともいえる魔力を呼び水にして魔物の中に異常変種を誕生させることだ。

 そうして生まれた異常変種の力に通常の魔物が敵うはずもなく、結果として彼らの長として収まる。獣の世界は弱肉強食なのだ。

 今回もそれに付随したものだろう、とみられている。でなければ、商人たちを群れでリガルドが襲うわけがない。現に赤いリガルドを見たという目撃情報も入っているのだから。ゆえに、ギルドへの依頼。そして、僕たちが受けたというわけだ。

 依頼には、内容に応じて難易度が決められるのだが、リガルド単体では難易度はD程度である依頼もさすがに異常変種と組み合わされて、群れになったため、難易度は跳ね上がってBにまでなっていた。最高位がAと続いてSであることを考えれば、どれだけ難易度の高い依頼か理解してもらえるだろう。

 もっとも、僕たちの面々はいわば魔王討伐のために集められた少数精鋭なのだから、むしろこのくらいの依頼はこなしてもらえないと、という感じらしいのだが。

 そして、こういった依頼のときリーダーとなるのはシグナムさんだ。もともと騎士団としても副団長だったシグナムさんであるがゆえにこういった事前の確認や戦場での指揮には向いている。

 もっとも、僕たちのパーティでは戦術らしい戦術はない。基本的には、ヴィータちゃん、シグナムさん、そして、僕が前線を維持し、後衛を護るザフィーラさん、そして、魔法のはやてちゃんと回復のシャマルさんといった布陣だ。

 この中で一番心配されるのが勇者である僕というのが何とも情けない話なのだが、戦いどころか小学生の身分でこの世界に呼ばれたのだから、多少は目をつむってほしいものである。

 ―――閑話休題。

 シグナムさんの確認に僕たちは全員がコクリとうなずく。基本的な陣形は変わらないものの今回は異常繁殖と異常変種という二つの原因を取り除かなければならない。ゆえに、早々に決着をつけて群れを瓦解させるわけにはいかないのだ。ある程度間引きしてから異常変種をおびき出す必要がある。

 つまり、苦戦しているように見せかけながら、異常変種を森野の奥から引きずり出す必要があるのだ。

 なので、今回はヴィータちゃんとシグナムさんが得意としている突貫による陣形崩しは使えなくなった。むしろ、ザフィーラさんのような敵のつり上げが必要となるだろう。今回はその確認だった。

「ならばいい。全員、準備は念入りにな」

 戦場では一つの油断が、死へと直結する。それを最初に教えてくれたのはシグナムさんだ。今まで戦場に立ってきた人の言葉だ、従っておくべきだろう。

 僕はまだ死にたくないのだから。



  ◇  ◇  ◇



 夜―――僕は、目を覚ましてしまい、馬車の外へと出てきていた。本来、夜に一人で出歩くのは危険なのだが、馬車の周囲にはシャマルさんとザフィーラさんの結界が張ってあるため、基本的には安心だ。もっとも、曰く、シグナムさんもヴィータちゃんもザフィーラさんも街の中でもない限り熟睡はしないので、異変があればすぐに気付くと言っていた。僕が外に出ていることももしかしたら気付いているかもしれない。

 それでも何も言わないのは、先ほど言ったようにザフィーラさんたちの結界もあるからだろう。

 僕は、馬車から少し離れたところで、空を見上げていた。

 空には満天の星空。ただし、地球とは異なり衛星―――月はないようだった。照らし出すのは星空ばかり。しかも、空気が澄んでおり、周りに光がないせいか、地球では見えないような星さえも見える。

「―――主、どうされたのですか?」

 不意に僕の耳に届く女性の声。振り返ってみると夜と同化するような黒い服に夜とコントラストを彩るように白銀の髪をなびかせながら僕の聖剣の精霊が顕現した姿で現れていた。

「……ちょっとね、眠れなくて」

「昼間のことですか?」

 さすが、というべきだろうか。いや、誰だって知っていることかもしれない。

 昼間―――当然、リガルド討伐のことである。

 僕が前世の記憶を持っていたとしても、それでも平和な日本で学生をやっていた男にすぎないのだ。このようなファンタジーはややつらいところがある。相手は魔物と言えども剣を通して感じる肉を断ち切る感触は変わらないし、命を絶つということに対して忌避感を持つのも変わらない。常識が異なる、郷に入っては郷に従え、ということは頭では理解しているが、理性がそうたやすく納得できるわけではない。

 よって、討伐という依頼のあとはこうして空を見上げてしまうのだ。特に夜空を。

「元の世界に帰りたいと思うのですか?」

 突然の質問。だが、僕の心情をしっかりと表わしていて少しだけびっくりした。

 そう、僕が星空を見上げるのは、故郷を偲んでだ。僕が召喚魔法で呼ばれたのは間違いない。世界が違う。そういうことは簡単だ。だが、それがどういった仕組か、までは誰も理解していない。たとえば、遠く離れた銀河の果てから呼ばれたのかもしれないし、次元の壁を越えた向こう側から呼ばれたのかもしれない。

 それは誰も確認していない。ならば、この夜空に浮かぶ万ともいえる星の中に僕の故郷があってもおかしくはないだろう。

「うん」

 隠しても無駄だとわかった僕は、正直にうなずいた。

 彼女がそれで表情を変えたかどうかはわからない。彼女の身長は僕よりも高くて、彼女が隣に立った以上、僕は見上げなければ彼女の表情をうかがうことはできないのだから。

「それは、魔王を討伐した後でもそう思うと思いますか?」

「もちろん」

 僕は間髪入れずに彼女の質問に答えた。だが、彼女は僕の返答には納得がいかないように小首をかしげるような仕草がうかがえた。

「どうしてですか? 魔王を討伐すれば、あなたは英雄です。これからの人生で何も考える必要がないほどの栄華が与えられるでしょう。望むものは与えられ、どんな女性との結婚も思いのまま、あなたが望めば酒池肉林とて夢ではありませんよ」

 ………この精霊は、僕が小学生ということを理解して言っているのだろうか?

 その疑問はよそにおいておいても彼女が言うことは間違いではないだろう。魔王を倒せば、間違いなく英雄というものに列せられることになるだろうし、魔王を倒したほどの戦力を放し飼いにするわけもなく、手元に置いておこうとするだろう。ある種のジョーカーとして。その代わり、僕にはあらゆるものが与えられるだろう。ギブアンドテイクだ。リインフォースが言ったこともあながち間違いではなくなる。

 僕の年齢では例外だとは思うが、それを理解したうえでも僕は言う。

「そんなものはいらない」

 もしかしたらもっと欲深い人間であれば、その道を選んだかもしれない。だけど、僕はそこまで大それたものはいらない。人間、身の丈にあっただけの幸せがつかめればいい。

 僕の身の丈にあった幸せというのは、高く望んだとしても職業は公務員あたりで、美人でなくてもいいから性格のいい奥さんと子どもがいるような困窮していない家庭を築く程度だろう。僕は僕自身が特別だとは思わない。だから、サッカー選手や芸能人という夢は持たない。

 だから答える。そんなものはいらない、と。

「では、現在のようなシグナム、シャマル、ヴィータ、ザフィーラ、はやて様と共に歩む世界であってもですか?」

「それは……」

 その問いには容易には答えられない。なぜなら、僕自身も楽しいと思っているからだ。今の生活が。確かに今のような、街から街へと旅をして依頼を受けていくような生活は楽しい。地球のような平穏さはない。ただ、それでも刺激的だ。向こうでは到底味わえないような。毎日が修学旅行のような、そんな感覚だ。いつまでも続いても文句のいいようがないのかもしれない。

 ただ、ただ、それでも―――

「それでも、僕は帰りたいと思うよ」

「どうして、どうしてですか? この世界が心地よいと思うのであれば、いつまでもいればよろしいではないですか」

「それはできないよ、だって―――」

 だって? だって、なんだというのだろうか?

 確かに望郷の念はある。だが、それでも理由は曖昧だ。曖昧? なぜ? どうして?

 僕は頭の中をひっくり返す。何かが引っかかって気持ち悪いという感覚がある。何が引っかかってる? ああ、理由だ。僕は何かをやらなければならかった。向こうの世界で。何か大切なものを忘れているような気がする。護らなくちゃいけないものがあったような気がする。

 ――――だったら、あたしの家のクリスマスパーティーに来なさいよっ!

 ああ、そうか、すっかり忘れていた。忘れたら、かなり怒られそうだなぁ、と思いながら、それを切り口にして、次々に思い出がよみがえってくる。今まで蓋をされていたものが一気に飛び出してくるように。

 それは、たとえば、なのはちゃんのことだったり、アリシアちゃんのことだったり、ユーノくんのことだったり、アルフさんのことだったり、すずかちゃんのことだったり、アリサちゃんのことだったり、クラスメイトのことだったり、そして、何より―――はやてちゃんのことだったり。

「ああ、そうか……そうだった。なんで忘れていたんだろう?」

「主?」

 突然、独り言を言い始めた僕に対して怪訝な表情を向けてくるリインフォース。

 もしかして、気付いていないのだろうか。いや、もっとも、ここがどこかもわからない以上、気付くも何もないのだろうが。

 ―――もしかしたら、偶然なのかもしれない。

 一瞬、そんな考えが浮かんだが、それはありえない、と一蹴した。確かに共時性というものはあるかもしれないが、ここまで瓜二つということはないだろう。共通性が見いだせるなんてレベルではない。同じ存在なのだから。つまり、これは何らかの形で彼女が仕組んだものだろう。

「ねぇ、そうでしょう? 闇の書」

 僕がそうやって指摘すると、リインフォース―――最後に襲ってきた闇の書と瓜二つな彼女は、虚を突かれたように驚いたような表情をしていたが、やがて何か合点がいったようにふっ、と笑う。そこに浮かんでいたのは諦め? 悲しみ? 僕にはわからなかった。

 そして、次の瞬間、夜に設定されていた世界が一瞬にして白という光によって塗りつぶされるのだった。




つづく














あとがき
望む幸福と望まれる幸福は異なるものである。



[15269] 第三十二話 中
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2012/07/16 10:40



「ここは?」

 光に包まれたせいで目をつむった僕が、瞼の向こう側に光を感じなくなり、ようやく目を開けられると判断して、ゆっくり瞼を開くとそこに広がっていたのは、一面の暗闇だった。

 地面も空も前も後ろも右も左も、どういう原理かわからないが、僕は暗闇の―――いや、その言い方は正しくない。暗闇は、光が一切見えない空間を示す。ならば、自分の掌さえも、空間のはるか向こうに見える小さな瞬きが見えるこの空間を暗闇とは呼べない。

 いうならば、この空間は―――夜。昼間の太陽の光を反射しながら柔らかい光を地上に届ける月のような光で空間を照らし、はるか向こうに見える瞬きが数十、数百と離れた星々の瞬きとするならば、まさしくこの空間は優しい、安寧へと誘う夜の空間であった。

「ようこそ、と言うべきか、少年」

 不意にかかった声は後ろから。その声は、少し前まで聞いていた声だ。

「拉致にも近い強引な招待でしたけどね」

 やれやれ、と苦笑して、肩をすくめながら僕は後ろを振り返る。僕の背後には予想した通りの人物が無表情で立っていた。

「それを行ったのは私であり、私ではないのだがな。もっとも、私が私だったとしても同じ行動をとっていなかったか、と問われれば、肯定も否定もできないだろうが」

 真面目な顔で何とも理解しがたいことを言われた場合、どのような表情をすればいいのだろうか。彼女の意味の分からない言葉に混乱し、僕は小首をかしげることしかできなかった。

 そんな仕草を見て、彼女も僕の状況を理解したのだろう、ふむ、とうなずくと再び口を開いて問いかけてきた。

「少年よ、君は状況を理解できているか?」

 彼女―――闇の書の問いに僕は首を横に振った。

 僕が記憶しているのは、何らかの理由で闇の書が暴走を開始して、なのはちゃんと戦っている最中なのに僕に襲いかかってきたことだけだ。あの時は急に眠くなったような気がする。

「ならば、説明しよう。現在、闇の書は、666頁の魔力の蒐集を完了し、全機能が解放された状態だ。それに伴い、防衛プログラムが暴走を開始している」

「暴走?」

 どこかで聞いた言葉だ。いや、聞き覚えがあるのも間違いないだろう。なのはちゃんも言っていたではないか、「暴走している」と。防衛プログラムというのは初耳だが、闇の書の何らかの機能が暴走しているのは間違いないらしい。

「そうだ、闇の書が闇の書と呼ばれる所以。長き旅の中で改変された防衛プログラム。そのプログラムが過剰ともいえる反応で、外部への攻撃を始めている。このままでは、もう一刻もしないうちに闇の書は666頁の全魔力を開放し、破壊をまき散らしたのちに転生するだろう」

 まるでガイドの案内のように淡々と抑揚のない口調で説明する闇の書。そして、最後に自嘲するように闇の書は一言だけ付け加えた。これまでのように、そして、これからも、な。と。

 もしかしたら、この行動も闇の書の本意ではないのかもしれない。いや、かもしれない、という予測を立てるまでもない。この行動は闇の書の本意ではないないのだ。その証拠に彼女は口にした。

 ―――暴走、と。

 何より、全機能が解放されたにもかかわらず、闇の書の意志の通りに動かない時点で、闇の書が何かしらの欠陥を抱えていることは明白だ。

「どうにかならないんですか?」

 僕が口にした言葉は、一縷の望みをかけた問いかけだ。そもそも、どうにかなるようであれば、とっくにそうしているであろう。

 そして、闇の書からの答えは、予想を違えることはなかった。無情にも僕からの問いに彼女は首を横に振ることで答えるのだった。

「本当にないんですか?」

 僕はすがるように聞いた。

 この空間が闇の書の中だとすると、外ではまだ闇の書の暴走を止めるためになのはちゃんが頑張っているはずなのだ。クロノさんたちは―――わからない。屋上のことも合わせて、時空管理局が何を考えて行動しているのかまったく予想がつかない。エイミィさんから事情を聴く前にこの現状に陥ってしまったから。

 闇の書の話によるとこれまでも同じような最期を迎えているらしい。確かにクロノさんたちからは、魔力が暴走することは聞いていたが、主ごととは聞いていなかった。意図的に伏せられた? ならば、クロノさんたちは最初からはやてちゃんごと封印するつもりだった?

 一度疑うときりがない。ひとまず管理局側の意図は隅において、僕とはやてちゃんがここから脱出する方法を考えなければならない。

 僕のすがるように表情に何かを感じたのか、闇の書は目を閉じ、やや逡巡した後にゆっくりと口を開いた。

「確かに、今回は少年がこの空間で意識を保っていたり、主の意識が覚醒していることもあり、今までとは異なる部分もある。そこを利用すれば、もしかすれば状況を改善できる可能性もあるかもしれない。だが、少年よ、今回に限っては、私は足掻くつもりはないのだ。このまま、闇の書は主とともに終焉を迎える」

「なぜですか!?」

 闇の書の言葉を途中まで聞いて、僕は少しだけ歓喜していただけに最後の言葉に突き落とされたような感覚に襲われた。希望を見せられたのに、その希望を目の前で摘み取られたようだ。

「主がそれを望んでいるからだ」

「はやてちゃんが?」

 なぜ? とは聞かない。なぜなら、僕には心当たりがあったからだ。あの時、あの屋上で聞かされたクロノさんの言葉。僕は蒐集の衝撃で動けなかったから何も否定はできなかった。

 つまり、はやてちゃんが、クロノさんの言葉をそのまま信じたとすれば―――はやてちゃんは、一人が嫌だと泣いた彼女は、間違いなく世界に一人で取り残された少女だった。

 そんな彼女が世界に戻ることを望むだろうか。一人が寂しくて泣いていた少女が。これからも一人になることをわかっていながら戻ることを望むだろうか。もしかしたら、彼女が強い人間で、これから先の未来を望むような少女であれば、問題はないだろうが、現状を鑑みるにその可能性は低いようだ。

 ならば―――ならば、僕にはやらなければならないことがある。

 僕は思考の海から意識を浮上させ、闇の書を真正面から見据えた。

「闇の書さん、お願いがあります。はやてちゃんに会わせてください」

「なぜ?」

「僕ははやてちゃんと話さなくてはいけないことがあるからです」

 そう、僕ははやてちゃんと話さなくてならない。あの日―――はやてちゃんの家族がもう帰ってこない、少なくとも彼女がそう感じた夜、僕の背中で泣いた夜、僕は彼女と約束したのだ。僕ははやてちゃんと友達であり、彼女を決して一人にしない、と。

 だから、彼女が一人だと。世界で独りぼっちになってしまった、と思っているのならば、僕は傍らに立たなければならない。彼女を一人にしないために。だから、僕は、はやてちゃんと話をする必要がある。話して再び伝える必要がある。

 ―――君は一人じゃない、と。

「………わかった。もともと、少年は主の夢のキャストとしても呼ばれるほど信頼を得ていた。主が否、と言わなければいいでしょう」

「ありがとうございます」

 断られれば、会えないことはわかっている。しかし、それでも機会をくれたことには素直に頭を下げた。ここで彼女が頑なに断れば、僕にはなすすべがなく、はやてちゃんと話すことすらできないのだから。このまま世界が終わったとしたら、はやてちゃんと話せないのは、最後の大きな、大きな後悔となっていただろう。

 まるで、どこかと通信するように目をつむった闇の書。その瞳が再び開かれたのは、ほんの数秒だったように思える。彼女の瞳が再び僕を見据えた後、その場に立っていたのは僕が闇の書と呼ぶ女性としばらくの間だが一緒に暮らしていた車椅子に乗ったショートカットの少女―――はやてちゃんの姿があった。

 お互いに視線は合わせているが無言だ。何を言っていいのか、何を言うべきなのか、すぐに言葉が見つからない。伝えたいことはたくさんあるはずなのに。だが、ほどなくして一番最初に口にするべき言葉は決まった。伝えたいことはたくさんあるけれども、僕は彼女にこれを最初に伝えなければならない。

「はやてちゃん」

「―――なんや? ショウ君」

 僕の言葉に答える人形のように感情を映さない瞳で僕を見て口を開くはやてちゃん。その口調からは一緒にいた間、感じられた温もりは一切なかった。ある種当然なのかもしれない。知らない、というのは免罪符にはならないだろう。だから、僕はこの言葉を口にしなければならない。

「ごめんね」

「――――」

 僕の言葉にはやてちゃんは無言だった。ただ、僕を感情の映らない瞳で見つめてくるだけ。それでも、僕は言葉をつづけた。

「僕ははやてちゃんに一人じゃないなんてかっこいいこと言っておきながら、君から信頼を得ることができなかった」

 だから、ごめん、ともう一度だけ続けた。もしかしたら、これは僕の考えすぎなのかもしれない。だけど、どうしても考えてしまうのだ。あの時、もしも、クロノさんの言葉ではなく、僕の言葉を信じていたら、彼女が一人ではないと確信していたら、その時は一体どうなっていただろうか、と。もしかしたら、こんな事態にはなっていなかったのではないのだろうか、と考えてしまう。

 もっとも、現状で、たられば、を言っても仕方ないということもあるだろう。後悔が先に立つことはない。だから、謝るのだ。謝ったところで何かが変わるわけではないのだが、それでも、後悔と誠意を示すために。

 僕が謝罪の言葉を口にしている間、はやてちゃんは無言だった。車いすの横に佇む彼女―――闇の書も。ただ、正面から僕を見つめてくる。やや居心地が悪かったが、それでも彼女から目をそらすことはできなかった。それが不誠実な気がして。

「そうやって―――また、私をだますんやね?」

「え?」

 ようやく彼女の口から発せられた言葉は信じられないような言葉だった。

 だが、それは考えるべきだった。僕は台本を渡されていないとはいえ、はやてちゃんから見ればクロノさん側で踊った役者なのだ。だからこそ、闇の書も言ったではないか。「信頼を得ていた」と。その文言は過去形。あれが、闇の書が見せていた夢だとするなら、主を楽しませるための夢だとするならば、僕が夢のキャストになりきる必要はどこにもない。僕は僕のまま夢に取り込まれるべきなのだ。

 だが、そうではなかった。僕は夢の中でも役割を与えられた。「聖剣を抜いた勇者としての蔵元翔太」として。本当にはやてちゃんからの信頼が残っているなら、僕は僕として呼ばれるべきなのに。なのに、僕は鋳型にはめられた僕として取り込まれてしまった。つまり、僕は完全に彼女からの信頼を失っていたのだ。

「そんなことはしないよ。あんなことの後に僕が何を言っても信じられないかもしれないけど、僕も何も知らなかったんだ。はやてちゃんに知らせたことしか知れなかったよ。だから、この言葉もあの時の『君を一人しない』という言葉も嘘じゃない」

 これは僕の本心だった。彼女には信じてもらえないかもしれないけど、僕はあのとき、はやてちゃんの一人の友人として、彼女を孤独にするつもりはなかったと胸を張って言える。だからこそ、彼女の信頼を得られないのが悲しい。

 だが、嘘じゃない、と言った瞬間、彼女の瞳が、肩が揺れたような気がした。それは本当に些細なもの。気のせいかも、と思えるほど些細なものだった。彼女も動揺しているのだろうか。だとすれば、少しは希望の芽があるのかもしれない。なにより、もしも、彼女から、本当に信頼がなくなっているならば、彼女はここに出てくる必要もなかったのだ。

 また、僕に別の役割を与えた蔵元翔太として別の夢の世界に送り込めばいいのだから。

 だが、彼女はこうして僕の目の前に出てきている。それは、彼女の心の揺れを示しているのではないだろうか。だとすれば、僕ができることは言葉を交わして、彼女の信頼を得ることだけだ。

「信じられんわ……」

 先ほどとは違って、どこか悲しみを帯びたつぶやきだった。

 はたして、彼女は『信じられない』のか、『信じたくない』のか、あるいは、『信じた結果、また裏切られるのが怖い』のかは僕にはわからない。そういう考えに至る経緯は理解できても、彼女の本心はわからない。魔法は使えたとしても、心まで読むことはできないのだから。

 このまま放っておけば人間不信になってもおかしくない彼女を助けたいとは思う。彼女とは約束したのだから。

 『一人にはしない』と。

 それは、彼女のそばに佇むことだけでは達成することはできない。そばにいるだけでは、それは単純に赤の他人が一人と一人でいるだけだ。それでは意味がない。彼女が一緒にいると感じられて、初めて僕は約束を果たすことができるのだ。

 だが、残念ながら彼女の半ば人間不信になりかけている状況を覆す妙案などない。せいぜい、百と千の言葉を重ねて、共に行動して信頼を地道に得るぐらいしか考え付かない。どうするべきだろうか?

 そんな風に僕の思考がループに入りかけた時、不意に口を開いた人物がいた。

 僕でもなく、はやてちゃんでもない。その隣に立っていた闇の書だった。

「―――主、そこの少年は嘘を口にしておりませんよ。本心のようです」

 僕と話した時と同じように抑揚のない口調で、淡々と事実を告げるように闇の書は口にした。

 え? と一番驚いたような表情をしていたのは、僕ではなく今まで感情を映さない瞳で僕を見ていたはやてちゃんだった。驚くといった表情が見られた意味は僕にはわからない。それは果たして闇の書が僕の心を代弁したことに対する驚きなのか、あるいは、僕の言葉が本心だったことに対する驚きなのか。どちらにしても、彼女は信じられないようなものを見るような表情で闇の書を見つめていた。

「ほ、ほんまか?」

 どこか震える声で確認するはやてちゃん。

 無理もない。一度、信じようとして裏切られて、そして、目の前で同じようなことを言っているのだ。そう簡単に信じろと言われても、信じられないというのが本音だろう。だが、そんな彼女を彼女を安心させるように闇の書は僕の前では決して見せなかった笑みを浮かべて彼女の主に応える。

「ええ、間違いありません。主から賜った祝福の風―――リインフォースの名にかけて、私の言葉が嘘、偽りでないことを保証いたします」

 まるで母親のような、姉のような声で肯定されたはやてちゃん。僕には彼女がいう名前がどれほどの重みをもつのかわからないけれども、それが最大限の保証であることはうかがい知れた。そして、それをはやてちゃんも理解したのだろう。目を見開いて驚いたような表情をしていたが、やがて、顔をゆがめると目に大粒のしずくが浮かび上がってきた。

 その表情を見て、僕と闇の書―――リインフォースと名乗った女性は慌てた。当たり前だ。ここで、何かしらの反応を見せることは容易に想像できたが、それが泣くという行為になるとは予想していなかったのだから。そして、慌てはじめたころにはすでに遅かった。瞳というダムはすでに決壊しており、瞳にたまっていた大粒の雫は、そのまま頬を伝って流れていた。いくつも、いくつも。しかも、ひっく、ひっく、と嗚咽を漏らしている。

 さて、まことに残念ながら僕には女の子の涙を即座に止められるような魔法のようなものは持っていない。そして、それはリインフォースも同じだったようだ。僕たちはそろいもそろってうろたえるしかなく、彼女が泣いているという事態を呑み込めるようになって、ようやく彼女に近づくことができた。

「ど、どうしたの?」

 突然、泣き出すという事態に動揺が収まっていなかった僕はやや上ずりながらもはやてちゃんに事情を尋ねる。だが、泣いている彼女がまともに答えてくれるはずもない。それでも、彼女が漏らす嗚咽の中でようやく聞き取れた単語は、「ごめんな」という謝罪の言葉だった。

 だが、その言葉を聞いてもよく内容が理解できない。彼女が何に謝っているのか理解できないのだ。むしろ、謝るのは僕のほうだというのに。

「どうして、謝るの?」

「私……は、ショウ君……を信じ……られんかった」

 嗚咽交じりの声で言うはやてちゃん。なるほど、と一応の理解はできた。でも―――

「謝らなくてもいいよ」

 そう、彼女が謝る必要なんてない。

「確かにはやてちゃんは僕を疑ったかもしれないけど、それは状況が状況だからね」

 今まで味方だと思っていた人に驚愕の真実を告げられて、そして、僕は残念ながらその人たちの味方だった。ましてや命を狙われていたのだから。人間不信になっておかしくはない。僕とはやてちゃんの間に特別な絆でもあれば話は別だろうが、残念ながら僕とはやてちゃんの間には友人以上の特別と言えるような絆はなかった。

 その状況で疑わないなんてのは聖人でもなければ不可能だろう。

「だから、謝らなくてもいいよ」

「ショウくんは、許してくれるんか?」

 ようやく涙が止まりかけていた彼女は車いすに座った状態で、やや上目遣いに尋ねてくる。泣きはらした跡が痛々しい。

 僕は、彼女の言葉に首を縦に振ることで応えた。もともと、彼女が謝る必要なんてないのだから。許すも許さないもないのだ。だが、それで、彼女が納得しないというのであれば―――

「うん、僕が言うことじゃないかもしれないけど、大丈夫、僕ははやてちゃんを許すよ」

 その言葉を投げかけるしかなかった。

 僕の言葉を聞いて彼女は、理解するためだろうか、一瞬、表情を固めて、そのあとに安堵するようにはぁ、とため息を吐いた後、笑った。それは、緊張から解放されたような安堵の笑みだった。

「よかった、ショウくんが許してくれて」

「最初から許すも許さないもなかったんだけどね。ところで、僕は許してくれるのかな?」

 少しだけ茶目っ気を含んだようなからかいの言葉に彼女も余裕が出てきたのか目を細めて笑った。

「もちろんや。でも、今度からはちゃんとしてもらわなあかんで?」

「わかってるよ」

 彼女の信頼を得るために、僕は行動しなければならないだろう。約束したのだから。約束は果たすべきで、果たされるべきで、果たせるように努力するべきなのだから。

「最期までショウ君と一緒でよかったわ」

 ぼそっ、と一言、はやてちゃんが口にしたようだったが、その声は小さすぎて僕のところまでは聞こえてこなかった。

「え? 何か言った?」

「ううん、何でもないで」

 手を振って否定するはやてちゃん。何か言っていたことは間違いないのだが、それを僕に伝えない以上、特に意味がないものだったのだろう。はやてちゃんが口にしないのならば、それ以上追及する必要もないだろう、と判断して、僕は頭を切り替えることにした。

 つまり、はやてちゃんと仲直りができた次のステップについて―――すなわち、ここからの脱出、あるいは状況の打破である。

 さて、どうしようか? と考え始めた時、不意にはやてちゃんが口を開いた。

「なあ、ショウくん。次はどんな世界に行こうか?」

「え?」

 それは僕が予想していなかった言葉だった。だから、僕も困惑してしまう。なぜなら、彼女が口にした言葉はこのまま、この場にとどまるという選択肢だったからだ。どういう意味だろうか? と助けを求めるようにリインフォースに視線を送ってみるが、彼女は痛ましいような表情をして主であるはやてちゃんを見つめるだけで特に口出しをするつもりはないようだった。

 そんな僕の困惑するような表情に気付かないように、はやてちゃんは言葉を次々に紡ぐ。

「次はファンタジーっぽい世界やなくて、もっと現代風にしてみよか? 能力系の世界なんてどや?」

「はやてちゃん?」

 僕の問いかけを無視してはやてちゃんは、言葉を紡ぐ。まるで、聞きたくないように。聞くことを無視しているようにも思える。その様子がおかしいはやてちゃんの態度を放っておくわけにもいかず、僕はもう一度、はやてちゃんに声をかけた。

「はやてちゃん」

「ん? なんや? ショウくん。もしかして、最強キャラにでもあこがれてるんか? あかんで、それは―――」

「はやてちゃん」

 一回目の呼びかけは普通だったが、二回目の呼びかけは少しだけ強めに声をかけた。そうしなければ、彼女がこちらを向いてくれるとは思わなかったからである。事実、少しだけ強めに声をかけた時、はやてちゃんはようやく壊れたテープレコーダーのように言葉を紡いでいた口を閉じて、ばつの悪そうな顔をしていた。

「どうしてそんなこと言うの?」

 僕たちがこれから話し合わなければならないのは、ここからどうやって脱出するか、あるいは、この状況を打破できる方法である。次の夢の世界を話し合うべきではない。それは、共通認識だとは思っていたが、どうやら違ったようだ。

 僕は、彼女がこの状況の打破を望まないのは、あの時のクロノさんの言葉が引き金だと思っている。つまり、すべてに裏切られて、絶望したからだと。その中の一つの要因でも取り除けば希望を持ってくれると思っていたのだが………。そうではないのだろうか。

「ねえ、はやてちゃん、この状況を何とかしようよ」

 僕は初めて彼女に提案してみた。

「い、いやや!」

 だが、はやてちゃんから返ってきたのは、僕が望んだような賛同ではなく、拒絶だった。

 彼女の中の何がそうさせるのかわからない。何か原因があるはずだった。僕が考えた以上の原因が。しかし、僕が一人で考えたところで答えはわからないだろう。彼女の気持ちは彼女しかわからないのだから。だから、僕は彼女の気持ちを知るためにさらに問いを重ねるしかなかった。

「どうして?」

 僕の問いにはやてちゃんは、やや無言を重ねると、やがて言いづらそうな表情をして、その重たい口を開いた。

「だって………もう、嫌なんや。寂しいのも、一人になるのも、ただいまを言う相手がおらんのも、話す相手が誰もおらんのも、全部、全部嫌なんや! だから―――」

 それは………孤独を初めて知った少女の叫びだったのだろう。

「でも、僕がいるよ」

 今度は、彼女との約束は守るつもりだ。彼女を一人にするようなつもりは決してない。その言葉が本当であることは先ほどリインフォースが保証してくれた。彼女は、それだけでは不満ということなのだろうか。

「わかっとる。でも………それは、友達としてやろ? ショウくんかて、この事件が解決したら、自分の家に戻るんやろ?」

「それは―――」

 彼女が言うことは事実だ。今までは、護衛という名目で彼女の家にいたが、それも事件が解決すれば―――この状況を打破すれば、そういうわけにもいかなくなるだろう。つまり、僕は自分の家に戻ることになる。学校も日常にシフトしてしまえば、彼女に毎日会うということも不可能になるかもしれない。その分も電話やメールでカバーできるかもしれないが、それも限界があるだろう。

 そもそも、僕ははやてちゃんが望んでいたものを本質的に理解していなかったのかもしれない。

 寂しい、孤独―――だから、隣に誰かが欲しい、それが彼女の願いだと思っていた。それは、心の距離であり、そういう間柄の誰かがいればいいと思っていた。それがたとえ、友達だったとしても。だが、それは違った。彼女が本当に求めていたのは、もっと近いものだ。心も体も。それを一言でいうならば、彼女が求めていたものは―――『家族』だろう。

 彼女は、家族を知らずに育ち、家族を知って―――家族を失った。

 一度知った楽しみを失った彼女は失うことに悲観的になっている。だから、こうしてもう一度、僕と縁を結んだとしても、いつまた失うかもしれない恐怖に押しつぶされそうになっている。いや、それはもしかしたら、僕との絆が得られたからなおのことかもしれない。失うかもしれないなら、最高の思い出のまま―――というやつである。

 僕との絆が嘘だったとしても、本当だったとしても結末は変わらなかったということだろうか?

 いや、それは違うだろう。前者だとすれば、はやてちゃんは何も信じられなくなっているだろう。だが、今は絆があることを信じられた。つまり、まだ希望があることを知ることができたのだ。ならば、失うことばかりで絶望を見ている彼女に教えるべきだろう。

 この世界は失うだけの絶望だけではなく、得られる希望も等しくあるのだということを。

「ねえ、はやてちゃん。君が言いたいことはわかったよ。でも、それでも、僕は君に一緒にこの状況を打破する方法を考えてほしいと思っている」

「でも……もう嫌なんや。あんな思いをするのは……ショウくんかて、みんなみたいにいなくなるかもしれんのやろ?」

 はやてちゃんは、今、失うことに臆病になっている。僕のことにしてもそうだ。確かに、僕は彼女を一人にしないといった。だが、それでも不慮の事故や、子どもの身ではどうしようもないことで離ればなれになってしまいこともあるかもしれない。そのころには、彼女は僕以外の友人も作っており、なにより、彼女との縁を切るつもりはなかったのだが。

「そう、かもしれないね。もしかしたら、僕もいつかはやてちゃんと離れてしまうこともあるかもしれない。でも、失うばかりじゃないでしょう?」

 僕の言葉に重い表情をするはやてちゃん。だが、そんな表情を吹き飛ばすように僕はことさら明るい表情で笑いながら言う。その陰鬱な雰囲気を吹き飛ばすように。

「僕とはやてちゃんが図書館で出会って、そこから出会いを重ねたように、新しい絆だって結ぶことだってできるよ。それが失う絆よりも得る絆が多ければ、はやてちゃん、君は一人にはならないよ。そして、それらが積み重なっていけば、君が一番欲しかったものがきっと得られる」

「私が一番欲しかったもの?」

 問いかけるように僕に言うはやてちゃん。

 ああ、もしかしたら、寂しさが先に来て、失いたくないという感情に引きずられて、彼女は気付いていなかったのだろうか。彼女が思い焦がれ、望んでいたものに。彼女が一人は嫌だと泣きはらしたその先にある本当に望むものに。

「そうだよ、はやてちゃん。君がいくつもの絆を紡いで、それらと付き合って、そして君が一番欲しかったもの―――『家族』が得られるよ」

「家族……」

 信じられないというように呆然とつぶやくはやてちゃん。もしかしたら、小学生である彼女は気付いていなかったのかもしれない。家族を作れるものだということに。小学生ならば無理はないか、とも思う。子どもの内は庇護される存在だ。庇護する側の家族の一員になれるとは思わないのだろう。

「私に家族………それってほんまに作れるんかな?」

「できるさ。はやてちゃんが、もう少し大人になって、本当に好きな人と出会えれば」

 彼女が想像しているのは、どんな家族だろうか。彼女がどこまでの家族を記憶しているかわからないが、ヴォルケンリッターのような三人もいるような家族を彼女が理想とするなら、それは大家族だろう。しかし、彼女がどんな家族を想像していたとしても、僕ははっきりと断言することができる。

「君にはきっと素敵な家族ができるよ」

 彼女は、知っている。失うことの怖さを。家族が一緒という当たり前のことが当たり前ではないことを。だからこそ、大切にすることができる。ようやく手に入れた家族という絆を。

 そして、もう一つの条件である好きな男性に出会うということだが、こちらのほうはあまり心配していない。はやてちゃんは、贔屓目に見なくても美少女であることは保証できるし、性格が悪いわけではない。彼女の本質に触れられれば、明るい性格の女性であることはすぐにわかるから。僕の前世でも彼女のようなタイプは好ましいということは聞いたことがある。

 それらを総合して考えたとしても、僕はやはり彼女が素敵な家族を作れることを保証できる。

「僕が―――君の友達である僕が保証するよ」

 もっとも、僕の保証なんてあんまりあてにならないかもしれないけどね。

 茶化すように笑ながら言う僕に、はやてちゃんも、くすっ、と笑った。それは、僕の言葉が可笑しかったのか、あるいは、彼女が想像する家族像が思い描けたことがうれしかったのか、僕にはわからない。だが、先ほどのような失うことに怯えるだけのはやてちゃんはそこにはいなかった。

「そうやな、ショウくんがそこまで保証してくれるんやったら、私も信じてみるわ」

「そう、よかった」

 僕は、はやてちゃんの言葉に安堵した。やっぱり、女の子が暗い顔をしているのを見るのは精神衛生上、あまりいいものではない。やっぱり笑顔のほうが心安らぐというものである。だから、こうやってはやてちゃんが前のように笑ってくれるのは我がことのように嬉しかった。

「でも! ここまで言うんやから、もしも、私に素敵な家族ができんかったら責任は取ってもらうで!」

 笑っていた顔が一瞬で真面目な顔つきになり、人差し指を立てながら言うはやてちゃん。

 僕としては、あまり心配するようなことはないと思っているので、そのような事態にはならないと思っている。

「うん、大丈夫だよ。ちゃんと君に素敵な家族ができるようにフォローするから」

 これでも友達の数は多いと自負している。前世の大学のときだって合コンの席埋めや企画をしたのは僕だ。はやてちゃんの隣に立ってもいいような男を紹介することぐらいはできるだろう。だが、それも後、数年は後のことだろう。今は友人ができるようにフォローしてあげるぐらいだろう。

 だが、僕がきちんと答えたにも関わらず、はやてちゃんは少しだけ不満げな顔をしていた。

「そういうことやないんやけどな」

「そういうことって?」

 ぼそっ、と呟いたつもりなのかもしれない。だが、今度は僕の耳にも聞こえた。だから、聞き返したのだが、彼女は慌ててまた両手を目の前で振って何もない、という事実をアピールしていた。

「な、なんでもないんや」

「……そう」

 今度もクエッションマークが僕の頭の上を踊ったが、前回と同じ理由で追及することはなかった。

 さて、これではやてちゃんの気持ちも前向きになった。あとは、この状況を打破できるような方針を考えるだけだ。

「主、お話は終わりましたでしょうか?」

「リインフォース」

 そう考えていた時に、今まで話に入ってこなかったリインフォースが話に入ってきた。

「なあ、リインフォース。私はやっぱり、足掻くことにしたわ。この世界で家族を作るんや」

 彼女の言葉はリインフォースに対する宣言だったのだろう。その言葉を聞いて、リインフォースは微笑んだ。まるで、母親が娘を見守るように。

「そうですか。それが主の願いであるのならば反対はいたしません」

「それで………ここから出る方法なんやけど……」

 はやてちゃんが口にしてくれたが、そう、それが一番の問題だ。前にリインフォースが言ったように過去の持ち主とは状況が異なるのだろう。はやてちゃんが意識があることが違うと言っていた。ならば、そこを足掛かりにして何とかできないのだろうか?

 だが、優秀なデバイスというのは主が求める答えを先に用意していたらしい。

「―――少年、外で戦っている女性は、あなたの仲間ですか?」

「え? あ、ああ、なのはちゃんのこと? うん、僕の友達だよ」

 女性と言われて一瞬わからなかったが、そういえば、なのはちゃんは大人に変身できるのだった、と今更のように思い出して、あわてて頷いた。

 僕の答えを聞いたリインフォースさんは、僕の答えを聞いて、目をつむって一瞬考えた後、改めて口を開いた。

「外の彼女に協力していただければ、この状況を何とかできるかもしれません」

「ほんまか!?」

 それは僕にとってもはやてちゃんにとっても朗報だった。そして、先を知りたいであろうはやてちゃんの気持ちを酌んでか、問われるまでもなく先を続ける。

「ええ、外の彼女からの純魔力による攻撃で、私を動かしている防御プログラムを一時停止に追い込みます。その一瞬で、主のマスター権限で身体の権限を取り戻し、防御プログラムをパージ。あとは、パージし、顕現した防御プログラムを破壊してしまえばいいでしょう」

 淡々と告げるリインフォース。だが、それは言うは易しというやつではないだろうか。僕としては遠目にしか見ていないから何とも言えないのだが、まず、外のリインフォースに攻撃を与えることが難しいように思える。それからの展開に関してはリインフォースとはやてちゃんに任せるしかないんだろうけど………。

「それしか手がないんやな?」

「時間などを考慮すれば」

「なら、やるしかないな」

 ぽん、とまるで買い物をするようにはやてちゃんが気軽に言う。しかし、いくら気軽に見えようとも、それしか手がないのであれば、動くしかないのだ。例え綱渡りだったとしても、やらなければはやてちゃんの未来が掴めないというのであれば。

 しかし、この作戦は………。

「ごめん、僕ができることはほとんどないけど………はやてちゃん、頼むよ」

 そう、僕にできることは本当に応援だけになってしまうのだ。だが、それでもはやてちゃんは、まるで僕を元気づけるように笑いながら言う。

「そうやな、ショウくんは、私のかっこいい活躍を見とればええよ」

 確かに、それだけのことをやれればかっこいいだろう。それを目の前で応援する。まさしく特等席ではないだろうか。

「うん、頑張って。僕には応援しかできないけどね」

「………申し訳ありません。少年には別の役割があります」

 応援しようと決めたところで、言いづらそうにリインフォースが口を挟んでくる。せっかく覚悟を決めたのに、とは思うが、それでもやることがないよりもましである。

「えっと……なにかやるべきことがあるなら、そちらもありがたいのですが」

「少年を追って、闇に飛び込んできた少女がいます。彼女と一緒にこちらが制御を取り戻した瞬間に内側から脱出してください」

 ――――僕を追ってきた?

 ふと、脳裏に浮かんだのは、こちらに来る直前に耳に残っている「お兄ちゃん!」という叫び声。つまり、僕を追ってきた少女というのは―――

「もしかして、アリシアちゃん?」

「名まではわかりませんが、この場にとどまれば、防御プログラムと一緒につぶされてしまいます」

 たとえ、アリシアちゃんじゃなかったとしてもどうやら助けに行かなければならない状況らしい。もっとも、ここで漫然と応援しているよりもいいのかもしれないが。

「わかりました。その子の元へ向かいます」

「お願いします」

 そう言うリインフォースさんは、掌を闇へと向けて、また別の闇を作り出した。おそらく、この向こう側にアリシアちゃんかもしれない少女がいるのだろう。僕は、リインフォースさんに顔を向け、コクリと一回うなずかれた後にこのゲートをくぐることにした。

「ショウくん!」

 僕がゲートくぐる直前、横からはやてちゃんの声。なんだろう? と横を見てみれば、そこには先ほどの失うことに怯えていたような表情もどこへやら、満面の笑みを浮かべたはやてちゃんが、びっ、と親指を立てていた。

「また、外でやで!」

「うん、はやてちゃんも、頑張ってね!」

 僕もはやてちゃんに倣うようにして、右手の親指を立てて彼女に返した。

 はやてちゃんがうまくやるか、なんてのは考えない。彼女はきっとやってくれるだろうし、友人である僕は、彼女を一人にしないと約束した僕は彼女を信じる。

 だから、僕は一切の不安を抱くことなく、目の前に開かれた闇のゲートへと足を踏み入れるのだった。





続く





















あとがき
 女性から男性への「責任をとってね」という言葉の重みは年齢で異なるのだろうか。



[15269] 第三十二話 後
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2012/09/02 18:46


 トンネルを抜けると雪国であった、という下りから始まる雪国という小説があるが、今回の場合を表現するならば、トンネルを抜けると闇だけが支配する空間だった、という表現するのが正しいのだろうか。リインフォースさんがいた空間が夜だとしたら、ここは闇だった。何もない暗いだけの空間。先ほど、リインフォースさんはここにアリシアちゃんがいると言っていたが、本当にこんな空間にアリシアちゃんがいるのだろうか。

 きょろきょろと周囲を見渡してみても闇が広がるばかり。いや、一見すればそのように見えるだろう。だが、よくよく目を凝らしてみれば、まったく星々が瞬かない夜空にポツンと浮かぶ月のように金色が見えた。それは一度気付いてしまえば、あたかも黒い布の上にあるビーズのように目立っていた。

 リインフォースさんの言葉を信じるならば、その色は間違いなく彼女のものであることは間違いないだろう。そして、何より心のどこかであの姿が僕の妹のものであることに気が付いていた。だから、僕は彼女の言葉と自分の直感を信じて歩みを進める。

 まるで宙を歩いているような感覚。実際に歩いたことはないが、まるで水の上でも歩いているようなふわふわと危うい感覚が靴の裏から感じられる。本当にどうやって歩いているのかわからないが、僕は間違いなく彼女に近づいていた。

 彼女の姿がだんだんとはっきりしてくる。最初は目立つ金髪のみが見えていたが、だんだんと彼女がここに来る前から着ていたであろう白い服―――聖祥大付属小の制服を着て、膝を抱えている彼女の姿がはっきりと見えるようになった。

 彼女を見下ろせるような位置に近寄っても彼女はピクリとも反応しなかった。気付いていないはずがない。なぜなら、その距離は僕が手を伸ばせば、彼女に触れられるような距離なのだから。つまり、それは僕がその気にになれば、彼女に危害を加えられる距離ということである。その距離で誰が近づいているか確認しないということは人の反応としてありえないはずである。

「アリシアちゃん?」

 それでも反応しない彼女に対して、僕は彼女の名前を口にしてみた。だが、それでも彼女が答えるような気配はない。ピクリとも反応しない。うずくまって、膝を抱えたままである。

 まさか、と嫌な予感が頭をよぎるが、リインフォースさんの言葉から考えるにアリシアちゃんが最悪の状況になっているとは考えにくい。

 ならば、なぜ、彼女は反応しないのだろうか? 眠っているのだろうか。そんな風に考えた僕は。彼女を起こすために手を伸ばす。

「アリシアちゃん、どうしたの?」

「お兄ちゃん、違うよ。彼女はアリシアじゃないよ」

 手がアリシアちゃんの肩に触れる直前、まさかの否定が目の前の彼女からではなく、僕の背後から聞こえた。僕は、彼女の肩に触れようと伸ばしていた手を止めて、声が聞こえた背後を確認するために振り返った。

「………アリシアちゃん?」

「そうだよ、お兄ちゃん」

 まるで、やっほー、とでも言わんばかりに手を振って僕からやや離れた位置に立っていたのは、僕の妹と瓜二つの―――いや、彼女の言葉を信じるならば、彼女こそが僕の妹ということになる。ならば、この目の前の彼女は一体誰なんだろう?

「う~ん、やっぱり、動かせる身体があるっていいね! この空間じゃ、私は認識されてなかったから、お兄ちゃんが名前を呼んでくれて助かったよ」

「………どういうこと?」

 アリシアちゃんが伸びをしながら、僕には理解できないことを言う。残念ながら、『この空間』とか『認識』などと言われてもこの空間の仕組みを理解していない僕にはチンプンカンプンである。そもそも、この空間とやらを理解しているであろうアリシアちゃんも謎だが。

「う~んとね、この空間は、この子専用なの。この子が望んだものだけがこの空間には存在できる。だけど、何も望まない、望むだけの意志がないこの子の空間は何もないの。だから、私も表には出てこれなかったの。そこに意志はあるんだけどね」

 もちろん、お兄ちゃんは別口からの許可だから話は別だよ、と続けて彼女は説明を続ける。

「この子の空間なんだけど、そこにお兄ちゃんっていうある種別口の存在が現れて、お兄ちゃんが私の名前を呼んでくれたから私はこうやってこの空間に顔を出すことができたのでした」

 ありがと~、といつも浮かべていた笑顔のまま礼を述べるアリシアちゃん。その笑顔を見れば、僕は目の前の少女がアリシアちゃんであることは疑いようのない事実であることが容易にわかる。ならば、先ほどからアリシアちゃんが『この子』と呼ぶ少女は一体誰なんだろうか?

「お兄ちゃんはもう知ってるはずだよ」

 アリシアちゃんからこの子と呼ぶアリシアちゃんと瓜二つの少女を見ていた僕に対してまるで心を読んだようにアリシアちゃんは真面目な顔をして言う。

 ―――僕がこの子を知っている?

 だが、記憶の中をさらってみてもアリシアちゃん以外に彼女と同じ容姿を持った少女と出会った記憶は―――いや、あった。あの日―――僕が時の庭園へと拉致された時、僕はアリシアちゃんと瓜二つのアリシアちゃんを見ている。その時、プレシアさんから言われたことは、なかなか忘れようにも忘れることはできない。

「さあ、お兄ちゃん。呼んであげてよ。その子の名前を」

 すべてを包み込むような優しい声で、目の前の彼女を慈しむような声でアリシアちゃんが促す。

 ああ、僕は知っている。彼女の名前を。アリシアちゃんが本来名乗るべき本当の名前を。だから、僕は確認するようにその名前を口にした。

「フェイトちゃん?」

 その名前に反応したのか、アリシアちゃんと呼びかけた時にはピクリとも反応しなかった肩が反応して動く。そのままつられるように膝を抱えて、顔をうずめている体勢からゆっくりと顔を上げた。上げた顔はやはりアリシアちゃんと瓜二つだった。だが、たった一つだけ明らかに異なる点があった。

 それは目だ。彼女の瞳にはおおよそ、覇気というかやる気というものが見えなかった。

「その子は疲れちゃったの」

 どうしたんだろうか? という僕の疑問に答えるようにアリシアちゃんが口を開いた。

「母さんが好きだったから、好きだと言ってほしかったから、自分の身体を顧みず頑張ったの。頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、その先に母さんがきっと笑ってくれると信じて」

 まるで娘を誇るような口調で、アリシアちゃんは彼女のことを語る。

 確かに、話だけ聞けば、それは麗しき娘から母親への愛だろう。だが――――

「でも、その願いはあの日、全部根こそぎ奪われちゃった」

 先ほどまで笑顔で誇らしげに彼女のことを語っていた表情とは打って変わって俯いて痛ましいものを見るような表情でぽつりと零すように言う。

 あの日―――それは、僕とフェイトちゃんが初めてであったあの雨の日のことを言っているのだろう。

 そう、僕は知っている。彼女の頑張りが願いが叶うことがなかったという事実を。

 亡くなったプレシアさんの本当の娘さんであるアリシアちゃんの身代わりとして生まれた少女。しかし、当然のことながら、アリシアちゃんの代わりになどなれなかったがために母親のいいように扱われ、そして贋物と、ごみと言われて捨てられた薄幸の少女。それが、前の前で膝を抱えて座っているフェイトちゃんだ。

「そして、すべてを諦めた彼女は思ったの。『もしも、私が本当のアリシアだったら、こんなことにはならなかったのに』って。そんな願いから生まれたのが、私。お兄ちゃんの妹であるアリシアだよ」

 自分を指さして当然のことのように告げるアリシアちゃんだが、僕は突然の思わぬ告白に驚くことしかできなかった。

 確かに、僕が聞きかじった知識からすれば、確かに幼年期のころにはそういったことがありうるのは知っている。原因もすべて特定されているわけではないが、現実からの逃避という意味で別の人格を作り出してしまうことがある。

 しかし、仮にそれがアリシアちゃんの正体だったとしても、そこまで別人格が事情を把握して、明確に僕に伝えられるものだろうか?

「………信じられないようなことだね」

 現実には起きているのだが、にわかには信じがたいというのが正直な感想だ。だが、目の前の現実を否定できるほど僕の考えは固くない。なにせ、『転生』やら『魔法』やら、今までの人生経験を考えれば、到底ありえない現実を目の当たりにしているのだから。今更、不可思議なことが一つや二つ増えたところで、本当に今更である。

「あはは、そうだね。今言ったことも、本当はお兄ちゃんに説明しやすいように事実を省略しているからね」

「どういうこと?」

「ん~、確かに私が意識として生まれた原因はその子―――フェイトがアリシアであることを望んだからだけど、その前にフェイトには私が生まれる下地があったんだよ」

「アリシアちゃんが生まれる下地って?」

「お兄ちゃんも知っているでしょう? その子はアリシアの代わりだって」

 僕はアリシアちゃんの言葉にコクリとうなずいた。

 その事実を僕は知っている。現に僕はプレシアさんから、こういうと語弊があるかもしれないが、本当のアリシアちゃんを見せられた。水槽の中で眠ったような表情のまま安置されたアリシアちゃんの姿を。その際に聞かされたことを統合すれば、目の前のフェイトちゃんはアリシアちゃんのクローンとして作られたことは間違いないだろう。

「でもね、たぶん、お兄ちゃんが想像しているだけのクローンじゃないの」

「どういうこと?」

 僕の問いにアリシアちゃんは明快に答えた。

「お兄ちゃんは身体のコピーだけで全くおんなじ人間ができると思う? そんなわけないよね。確かに体のつくりは一緒かもしれないけど、肝心の中身は全くの別人だよ。そのことを母さんが―――アリシアを生き返らせようとした母さんがわからないはずはないんだよ。だから、母さんはその子に体と一緒にコピーしたものがあるんだよ」

「……まさか」

 そこまで言えば、僕にだって、プレシアさんが何をコピーしようとしたのかぐらい容易に想像がつく。確かに僕が知っているだけの世界の技術では不可能だろう。だが、別の技術を使えば可能かもしれない。たとえば、『魔法』とか。

 僕がアリシアちゃんが言おうとしている答えにたどり着いたことに気付いたのか、意地悪そうな笑みを浮かべてアリシアちゃんは言う。

「そうだよ。その子に母さんは、アリシアの記憶を転写したの。でも、それは失敗しちゃったんだけどね」

 沈痛な面持ちで言うアリシアちゃん。

 それは、そうかもしれない。たらればの話になってしまうが、もしも、その計画が成功していたならば、今のフェイトちゃんは、アリシアちゃんとしてプレシアの元で仲のいい親子として生活していたのかもしれないだから。

「そして、そのアリシアとしての転写された断片的な記憶とフェイトの望みが合体して生まれたのが私―――お兄ちゃんの妹として生活しているアリシアなんだよ」

 まあ、今の私は明確にその子と別れてるからもう少しアリシア寄りだけどね、とまるでなんでもないことにように笑って告げる。

 なるほど、と僕はアリシアちゃんの言葉を受けて納得する。納得できるというよりもなんとなく理解できた、というほうが正しいだろうか。僕には精神やら心に関する正確な知識はない。せいぜい、聞きかじった程度の知識である。だが、それでも、予想はできる。

 つまり、フェイトちゃんはもともと人格的に分裂しやすい下地ができていたのだろう。本来、望まれたアリシアちゃんとしての人格。だが、それをプレシアさんが何らかの要因で消した。もっとも、まるでPCのハードディスクからデータを消すように記憶を簡単に消せないと思う。確かに魔法は僕が想像できないこともできるが、一方で人間の脳というのも完全に理解できるものではない。それは、プレシアさんが記憶の転写に失敗したことからも明らかだ。もしも、完全に解析できているなら、こんな悲劇は起きなかったのだから。

 よって、もともとフェイトちゃんの中には複数の人格が生まれるだけの下地があったのだと思う。最初のアリシアちゃんの人格。それから、アリシアちゃんであることを忘れたフェイトちゃんとしての人格。そして、今回は、大好きな母親から拒絶されたフェイトちゃんが自己逃避のために求めた人格―――僕の妹としてのアリシアちゃんである。

「アリシアちゃんのことはわかったよ。でも………僕はどうしたらいいのかな?」

 そう、確かに状況は理解した。

 つまり、フェイトちゃんの時間はあの時から止まっているのだろう。母親―――プレシアさんから拒絶された時から。母親からゴミと贋物と言われた彼女は、別の人格を作り自分は殻に閉じこもり、これ以上、傷つかないように自分の心の奥深くに閉じこもった。

 もしも、こうして闇の書に閉じ込められなければ彼女が表に出てくることは一生なく、そのままアリシアちゃんとして生涯を終えたのかもしれない。

 だが、幸か不幸か、アリシアちゃん―――フェイトちゃんは今回の事件に巻き込まれ、こうして僕の前の姿を見せることになってしまった。

 自分の殻に閉じこもることが悪いことだとは思わない。自衛手段の一つなのだから。だが、こうして救いの手を差し伸べられる機会があるのであれば、迷いなく差し出したいと僕は思う。だけど、今回に限って、それは―――

「お兄ちゃんが望むようにしたらいいと思うよ」

 きっと、その結果がわかっていながら、アリシアちゃんは笑いながら言う。

「いいの? だって、フェイトちゃんが立ち直るってことは………」

「うん、たぶん、私はフェイトに統合されちゃうだろうね」

 そう、体は一つで心が二つあった場合、どうしても主人格であるフェイトちゃんのほうが優先されてしまうだろう。つまり、この状況を壊すということはアリシアちゃんを消してしまうということに他ならないだろうから。

 だが、それでも彼女は笑っていた。

「うん、でもいいんだよ。今はまだ大丈夫かもしれないけど、もしも、何かの拍子で均衡が崩れちゃったら、フェイト自身が壊れちゃうかもしれないからね」

 アリシアちゃんの説明によれば、フェイトちゃんはもともと人格の境界が薄いそうだ。アリシアちゃんが、ゴミだとか、贋物とかそういう言葉に反応するのがフェイトちゃんと少なからずつながっている証拠だという。だから、もしも、今後、何かの拍子にその境界線が壊れて二つの人格がまじりあうようなことになれば、今度こそ本当にフェイトちゃん自身が壊れてしまう。生きた人形になる可能性があるのだという。

「どこかで誰かがやらなくちゃいけなかったことだよ。だから、気にしないで。どうせ、お兄ちゃんのことだから、見捨てることなんてできないでしょう」

 どうやら、たった半年程度の兄妹生活ではあるのだが、僕の性格は見抜かれてしまっていたようである。

 確かにアリシアちゃんが言うとおりである。傷ついたフェイトちゃんをこのまま放置して何食わぬ顔で闇の書の外へと出ることはできない。それは、僕がこの世界に生まれ変わってきて、培ってきた世話焼きとしての性分かもしれない。傷ついた女の子をそのままにしておくことなんてできない。この先の危険性を知っていればなおのことだ。おそらく、アリシアちゃんが想定している事態に陥った時、ここで行動しなかったことを悔いるだろう。

「フェイトちゃん」

 だから、僕は片膝をついてフェイトちゃんと目線を合わせながら、彼女の名前を呼んだ。目線を合わせたのは一人で見下すように話すのが僕が好きではないからだ。フェイトちゃんも立ち上がってくれるなら話は別だが、それが不可能だとわかっている以上、僕が合わせるしかないだろう。

 それから僕は何度か彼女の名前を呼んだ。

「フェイトちゃん、聞こえる? フェイトちゃん」

 最初は、虚空を見ているだけのような空ろな視線だったが、やがて、僕のことを認識してくれたのか、あまりはっきりとした焦点は結んでくれなかったが、それでもゆっくりと口を開いた。

「…………だれ?」

 しばらく待ってようやく開いてくれた口から洩れた言葉はそれだけだった。だが、今更ながらようやく僕と彼女―――フェイトちゃんは初対面であることに気付いた。まったく容姿が同じアリシアちゃんが僕のことを知っているものだから勘違いしてしまったが。

 ああ、僕はどうやら礼儀からして間違っていたようだ。お話をするのであれば、まず名乗るのが礼儀だろう。

「ごめんね、僕から名乗るべきだったよ。僕は、蔵元翔太。外の世界では、君のお兄さんだよ」

「………おにいちゃん?」

 そうだよ、と僕は頷く。その反応に彼女は少しだけ考え込むようにぼうっと僕を見ていたが、やがて眼をそらし、話しかける前と同じように俯き、抱えた膝に顔を落とすと呟くように言葉を漏らした。

「嘘だ………わたしにお兄ちゃんなんていない………私には母さん………母さんだけ」

 母さんだけ、というのはプレシアさんのことだろう。聞いた話だとプレシアさんから相当ひどい目にあったはずである。それにも関わらず、彼女はまだ母親を求めている。もっとも、事例としてはあり得ることだ。子どもは親に対して無償の愛情を求め、また逆に無償の信頼を与える。虐待されていた子供が、親をかばうのは珍しい話ではない。

「う~ん、本当のことなんだけどね」

 僕はわざと困ったような口調で、母さんの発言を聞かなかったことにした。

 僕は知っているからだ。彼女が完全に母親から捨てられたことに。いや、捨てたという表現はおかしいのかもしれない。なぜなら、最初から最後までプレシアさんは彼女を―――フェイトちゃんという存在を見ることはなかったからだ。

 プレシアさんは最初から最後までフェイトちゃんを見なかった。彼女自身を慰める人形―――道具としか見ていなかった。いや、見られなかったかもしれない。なぜなら、フェイトちゃんとプレシアさんが求めたアリシアちゃんはあまりにも瓜二つだったから。

 フェイトちゃんを娘と認めてしまってはどうしても考えてしまうのだろう。

 ―――どうして、アリシアはそこにいないのか、と。

 だから、彼女は仮に少しでもフェイトちゃんを娘と見ることがあったとしても、娘とは見られなかった。プレシアさんは0か1しか許容できなかったのだろう。だから、中途半端なフェイトちゃんを拒絶したのだろう。

 もっとも、これは僕の想像でしかなく、プレシアさんから真意を聞けない以上は真相があきらかになることはないのだが。

「フェイトちゃん、こんなところに蹲っていても、何も変わらないよ。一緒に外の世界にいかないかい?」

 僕は片膝をついたまま差し出すように手を伸ばす。だが、フェイトちゃんからその手が差し出されることはなかった。

「………そと? どうして? 母さんはもういない。母さんから認められなくちゃ、生きている意味なんてない。ゴミの私には………贋物の私には」

 ―――ゴミと贋物。

 その二つはフェイトちゃんが我が家に来てからずっと恐れていたものだ。僕の家では禁句に近いものになっている。

 現実のアリシアちゃんがその二つをどうして、あんなにも取り乱すように否定するのかわかったような気がした。

 僕が今まで接していたアリシアちゃんは、フェイトちゃんの分裂した姿であり、フェイトちゃんが考えたプレシアさんに捨てられないフェイトちゃんだ。だから、名前もアリシアだ。

 だから、彼女は『ゴミ』でも『贋物』であってはいけないのだ。そこにいるのはフェイトちゃんが理想とした『アリシア』―――正確にはプレシアさんが望んだ『アリシア』ちゃんでなければならなかった。だから、プレシアさんに言われたであろう『ゴミ』や『贋物』という言葉を必死に否定したのであろう。

 だが、僕がわかったのはそこまでだ。どうして彼女がそこまで母親であるプレシアさんを望むのかわからない。確かに親への愛情は強いとはいうが、それでも生きていけないほどなのだろうか。もっとも、これは僕が今の姿である小学生としての思考を持っていないからかもしれないが。

「あ~あ、もったいないな」

 僕とフェイトちゃんの会話に入ってきたのは、僕の後ろにずっと立って様子を見ていたであろうアリシアちゃんだった。

 どうしたの? と僕が後ろを振り向いて彼女に視線を送るが、彼女から返ってきたのは、おそらく、「任せて」という意味合いのウインクだった。もしかして、アリシアちゃんはフェイトちゃんとの話をするためのきっかけとして僕を使ったのだろうか。最初から話しかけても彼女が答えてくれないから。

 ならば、僕はしばらく様子を見ることにしよう。きっと、僕よりも彼女は彼女を知っている。だって、自分自身なのだから。

 そう結論付けたところで彼女たちの会話は続く。

「………どうして、あなたが? あなたが外に行って。母さんに認められてよ。私は、それを夢で見てるから」

「夢で?」

 一瞬、アリシアちゃんを見て、びくっ、となったフェイトちゃんだったが、自らが生み出したという自覚があるのか、あるいはフェイトちゃんの言ったことに反感を持ったからか、僕に相対していた時よりもやや強気な態度でアリシアちゃんに言う。だが、一方でアリシアちゃんも負けていなかった。フェイトちゃんが言った「夢で見ているから」の部分を嘲笑うかのように鼻を鳴らす。

「フェイトが夢でみているわけないでしょう? だったら、この場所はこんな風にはなっていないでしょう?」

 この場所というのは、この空間のことだろうか。確かに、彼女は言った。この空間は、彼女が求めるものが存在できる場所であり、彼女が何も望まないからこそ、この空間は暗闇なのだと。

 なるほど、フェイトちゃんが、自身の言うとおり、プレシアさんに認められることを望むのであれば、この空間はそのように作られるというのだろう。だが、そうはなっていない。ただ暗闇が広がるのみだ。

「ねぇ、フェイト。あなた、本当は理解しているんでしょう?」

 そして、アリシアちゃんは、嗤いながらフェイトちゃんが認めたくなかったであろう一言を告げた。

「もう、母さんがフェイトを認めてくれることなんてなくて、あなたは完全に捨てられたんだって」

 アリシアちゃんの言葉を聞いたフェイトちゃんの変化は劇的だった。今までは、微動だにせず膝を抱えて蹲っていただけのフェイトちゃんだったが、アリシアちゃんの言葉を聞いて、まるで冷凍庫に薄着で放り出されたようにガタガタガタと身体を震わせていた。

「………ち、違う………そ、そんなことない」

 ようやく否定するようなことを口にしたが、その声はか細い。ようやく否定できたというような感じだ。

「そんなことあるでしょう? だって、気付いていないなら、理解していないなら翔子母さんをプレシア母さんと間違ったりしないもの」

 あ、という形でようやく僕は気付いた。

 確かにアリシアちゃんの言うとおり、もしもアリシアちゃんがフェイトちゃんの望む完璧なアリシアちゃんなら、母さんを『母さん』と呼ぶことはないのだ。なぜなら、フェイトちゃんにとって母さんとはプレシアさんだけだから。だが、それを何かの手違いで母さんをプレシアさんと間違えた。それは、きっと、アリシアちゃんが言うとおり、フェイトちゃん自身が心のどこかで気付いていたからだろう。

 ―――もはや完全にプレシアさんに認められることはないのだ、と。

 だから、プレシアさんの代わりに母さんを―――母親としての誰かを探した。その結果ではないだろうか。

「それに。仮に私が認められたとしても、それはあなたが認められたわけじゃないよ。フェイトが作り出したアリシアが認められただけ。なら―――」

 それは優しい口調だった。今までのような攻め立てるような口調ではなく、詰問するような口調ではなく、ただ優しい声。その声でアリシアちゃんは残酷なことを口にする。

「ねえ、フェイト。あなたはどこにいるの?」

 ああ、それは、それはきっと一番言ってはいけない事実だった。

 確かにアリシアちゃんが認められた場合、それはフェイトちゃん自身が認められたわけではない。ただ、フェイトちゃんが作り出した影が認められただけだ。ならば、フェイトちゃんはいつまでたっても認められたわけではなく、誰からも意識されることはなく、ただアリシアちゃんの影に沈むだけ。

 それは果たして生きていると言えるのだろうか。

 あまりに意地の悪い一言。プレシアさんに認められるためにはフェイトちゃんではなくアリシアちゃんである必要があり、だが、一番認められたいのはフェイトちゃんなのだ。つまり、彼女はプレシアさんを求める限り、認められることはない。

 気付いていなかったわけではないのだろう。気付かないふりをしていただけなのだろう。だから、フェイトちゃんはガタガタガタと震えている。認めたくない事実を突きつけられて、その小さな身体で受け止めるにはあまりに大きな恐怖を相手にして。

「そう、どこにもねなかったんだよ。フェイトの居場所なんて。たった一つを除いてはね」

 え? という顔でフェイトちゃんが顔を上げる。そこには理性の光が少しだけ戻っていた。おそらく、アリシアちゃんから事実を突きつけられたせいだろう。そのせいで、今まで凍っていた思考が動き出した。いや、もしかしたら、自分自身でもあるアリシアちゃんと相対することで意識レベルが上がったのかもしれないが。

「………そんな場所があるの?」

 それは救いを求めるような、懇願を求めるようなそんな口調であった。まるで、神に救いを求めるような純粋で、混じりっ気のない白い願いだった。

「言ったでしょう? もったいないなって」

 そう言って、僕の顔を見る。つられるようにフェイトちゃんも僕の顔を見ていた。初めて目を合わせた彼女の瞳は、期待と不安で揺れていた。

 それは、自分の―――フェイトちゃんとして居場所があってほしいという期待と、否定されれば唯一の救いすらなくなってしまうかもしれない、という不安なのだろう。だから、僕はうなずいた。

「そうだね、僕は君のお兄ちゃんだ。君が居場所を―――誰かから認められて、フェイトちゃんとしての居場所を望むのであれば、君が望み続ける限り、僕の妹は君―――フェイトちゃんだよ」

「わたし………が?」

 不思議そうに小首を傾げて、信じられないものを見るような目で僕を見る。だが、僕はその不安に揺れる目を見ながら、その不安を吹き飛ばすように強くうなずいた。

「そうだね。フェイト・テスタロッサさん。君だよ。君だけの場所だよ」

「今は私の場所でもあるけどね!」

 忘れないでよっ! と自己主張するように茶目っ気を出した声で自己主張するアリシアちゃん。そんな場合じゃないだろう!? と思い、嗜めようとも思ったが、今はフェイトちゃんから視線を外すべきではないと判断した僕は彼女に何も言うことはなくフェイトちゃんをただ真正面から見据えた。信じてくれ、というように。

「ほんとうに……」

 やがて、どれほどの葛藤があったのだろうか。考え込むようにして無言になった時間がいくばくか流れて、ようやくフェイトちゃんは一言だけ口にし、それを切り口にして言葉を続ける。

「ほんとうに………アリシアではない私を、妹として認めてくれますか?」

 あれだけ僕が言っても彼女は心の底から信じられないのだろう。当たり前と言えば、当たり前だが。彼女は今まで最愛の母親からも認められてこなかったのだ。それにも関わらず初対面の男が妹として認める、なんて言われても信じられるはずがない。本来であれば、信頼を積み重ねていかなくてはいけないのだろうが、時間が限られている今の僕では、信じてもらえるように言葉を重ねるしか方法はない。

 何度でも、何度でも。フェイトちゃんが、本当に信じてくれるまで。

「もちろんだよ。君はアリシアちゃんじゃなくて、フェイトちゃんだ。それでも、やっぱり君は僕の妹だよ」

 それは揺るぎようのない事実だ。だから、僕は彼女がその場所が欲しいと望むのであれば、喜んで手を差し出そう。

「君が笑えることがあれば一緒に笑うし、悲しいことがあれば一緒に悲しむし、寂しいのであれば一緒にいるよ。そんなどこにでもいる兄妹だよ」

 一番近い他人―――それが家族を称するときに使われる比喩だ。その絆―――つながりははたして血筋によるものだけではないことはすでに知っての通りだ。大事なのはお互いの認識であろう。一方通行の想いでは関係は成り立たない。お互いの認識があって、初めてその関係は成り立つのだ。

 だから、僕はフェイトちゃんを妹と認めた。そして、フェイトちゃんは――――

「わたしは………」

 何かを悩みながら葛藤するフェイトちゃん。彼女が何を悩んでいるのか僕には理解できない。僕はすでに手を差し出したのだ。僕にできることはあとは、フェイトちゃんが差し出した手を握ってくれるかどうかである。

「ねえ、フェイト。ここから始めてみない?」

 その言葉は、僕の後ろにずっと立っていたアリシアちゃんから発せられた。気が付けば、少し離れて立っていたはずなのに、僕のすぐ後ろまで来ていた。

「今まで母さんの言うことを守ることしか考えていなかったフェイトが自分を始めるのは難しいかもしれないけど、でも、お兄ちゃんの隣ならきっと大丈夫だから」

 そう言いながら、僕の横を通り抜け、フェイトちゃんの隣に立った。アリシアちゃんが浮かべる表情は、やはり優しい笑みだ。先ほどまでとは違う。どこか年上めいた―――姉のようなそんな笑みだった。

「ほかの誰が言っても信じられないかもしれないけど、それでも―――自分自身の言葉なら信じられるでしょう。それに―――」

 そう言いながら、アリシアちゃんは、首からぶら下げていたアクセサリーを取り外してフェイトちゃんの前に掲げた。それは、アルフさんが紐を通して、アリシアちゃんに持っておくようにお願いしたアクセサリーだ。三角形の金色のアクセサリー。

 僕は、それを単なるアクセサリーだと思っていたのだが、違うのだろうか?

「フェイトは一人じゃない。ずっと一緒だった人がいるでしょう?」

 その言葉にピンと来たのか、フェイトちゃんは今まで半開きだった目を驚いたように見開いた。そして、その小さな口から零れる名前。

「あるふ……ばるでぃっしゅ……」

 ゆっくりと、まるで壊れ物でも触れるのかようにゆっくりとフェイトちゃんの手が動き、やがてアリシアちゃんが掲げている金色のアクセサリーを手に取った。それを愛おしそうに頬へともっていくフェイトちゃん。その瞳からはいつからか、雫となった涙が流れていた。

「わたしの………私たちのすべてはまだ始まってもなかったのかな? バルディッシュ………」

 そんなフェイトちゃんからの問いかけるような、そんな言葉にそのアクセサリー―――ここまでくればわかる。それはフェイトちゃんのデバイスだったのだろう。それは主からの問いに簡潔に答えた。

 ―――Get set.

「………バルディッシュ」

 自分のデバイスの言葉を聞いたからか、だんだんとフェイトちゃんの瞳に光が戻ってきた。

「私は………ここから始めていいのかな?」

「違うよ、フェイト。始めていいんじゃない。始めるべきなんだよ。ずっと一緒にいてくれた人がいて、隣に支えてくれる人がいて………一人で始めるのは怖いかもしれない。でも、今なら、フェイトを支えてくれる、見守ってくれる人がいる。今、始めなくて、いつ、始めるの?」

 だから―――、そのあとの言葉はアリシアちゃんが口にしなくてもフェイトちゃんはわかっていたようだった。

 うん、と大きくうなずくとバルディッシュを持った手とは逆の手で僕の手を握り返してくれた。そのまま、僕は彼女の手を引っ張って、一緒に立ち上がらせる。

 立ち上がったフェイトちゃんは、やっぱりアリシアちゃんと瓜二つで、並んでしまえば、どちらがどちらか見分けはつかないほどにそっくりだった。もっとも、話してさえしてしまえば、彼女たちが纏う雰囲気はまったく違うため判断できるのだが。

 ほんわかと柔らかい雰囲気なのがアリシアちゃん。少し凛々しい雰囲気を持っているのがフェイトちゃんと言えば分るだろうか。

 そのアリシアちゃんは、フェイトちゃんが立ち上がったのを見て、うんうん、と満足そうにうなずいていた。

「――――ありがとう。あなたがいたから私は、自分を始めようと思うことができた」

「あはは、気にしないで。自分のことだもん。私が私に力を貸すことは当然だよ」

 アリシアちゃんは、フェイトちゃんから生まれたもう一人のフェイトちゃんと言っても過言ではない。だが、フェイトちゃんはアリシアちゃんの言葉に首を横に振った。

「違う。そうでしょう?」

 フェイトちゃんが何を理解したのか僕には分からなかった。だけど、二人の間には通じる何かがあったようだ。フェイトちゃんの言葉にアリシアちゃんは、あはは、と悪戯が見つかった子供のように笑っていた。それは、フェイトちゃんの指摘が的を得ていたことを示している。

 もっとも、僕には彼女が何を言っているのか全く分からなかったが。

「あはは、わかっちゃった? うまく隠せたと思ったんだけどな」

「わかるよ。こんな形で出会うとは思わなかったけど」

「私もだよ。いや、こんな形じゃないと私たちは出会えなかっただろうね」

 彼女たちの会話を聞いているうちに僕の中にある推測が首をもたげた。しかし、それを確認することは無粋だろう。それが正解だろうが、不正解だろうが、この場における彼女たちの邂逅は一瞬なのだ。僕のくだらない好奇心でこの雰囲気を壊すものでない。

 片方は笑いながら泣いていた。もう片方はうつむいて泣いていた。本当にこの時間が愛おしくて、悲しい時間だというように。両者の表情は対照的だった。だが、それでも、おそらく二人の心情は同じ類のものだろう。

「うん、悲しいね」

「だからこそ、この出会いに感謝しようよ。そして、私のことを想ってくれるなら………行って! フェイト!」

 最後はほとんど叫んでいるようなものだった。だが、それはフェイトちゃんの胸を打ったのだろう。彼女の大きな瞳から大粒の涙が流れていた。だが、それも少しの間のことで、すぐに彼女は涙をぬぐうとその下から向日葵が咲いたような明るい笑顔を浮かべていた。

「はい、行ってきます」

 それが崩壊の始まりだったのだろう。先ほどまで暗闇で包まれていた空間に光という形で罅が入る。それはまるで、卵の内部から無理やり壊されるのを見ているようなそんな気分だった。

「時間がないよ、フェイト!」

「うん………バルディッシュ、行ける?」

 ―――Yes、Sir!

 その言葉とともに一瞬、彼女が片手に握るバルディッシュが光ったかと思うと、空中にばさっ! という効果音を残して広がるマント。同時に光に包まれるフェイトちゃんの聖祥大付属の制服。やがて、上から落ちてきたマントがフェイトちゃんの肩に装着され、光が収まるころには、僕が初めてフェイトちゃんと出会ったときと同じく黒いレオタードのようなものに包まれていた。

「一緒に行ってくれるんだよね?」

 僕が何をしていいのかわからず、呆然としているとおずおずと言った様子で問いかけてくるフェイトちゃん。まだ、アリシアちゃん以外には慣れていないのかもしれない。だから、僕は彼女を安心させるように握ったままの手を少し強めに握って、大きくうなずいた。

「もちろん、僕は君のお兄ちゃんだからね」

 その様子を見ていたアリシアちゃんは満足そうにうなずき、僕が握った手から少しでも安心を受け取ってくれたのだろうフェイトちゃんも安心したようにはにかみながら笑うと次の瞬間には真剣な顔をして正面を見ていた。

「行きますっ!」

 その声と同時に、僕たちは何もないはずの暗闇の空間を蹴りだし、割れ目へと向かって飛び出す。しかし、その割れ目もまだ人が通れるには小さい。こじ開けるしか方法がないのだが、そのための手段は今―――彼女の手の中にある。

「バルディッシュ!」

 ―――Yes,Sir.

 バチバチと電子が激しく音を立てる。黒い戦斧から発されるのは金色の雷である。それは、アリシアちゃんが使えず、フェイトちゃんだけが使えるある種、彼女を象徴する存在であるはずだ。それを彼女は使う。

「サンダー――――」

 僕たちの目の前には彼女の魔力で編まれた大きな魔法陣。その中心部に向けて彼女は黒き戦斧を振り下ろす。

 その先にあるのは、彼女を閉じ込めるかのように存在した黒い檻。それが彼女自身の手で壊される。フェイトちゃんだけが手にした魔法の力で。彼女自身の力で彼女は自分自身の檻を打ち破る。

「レイジ―――」

 金色の魔法陣で編まれた魔法陣から飛び出したのは、力を持った魔法の力であり、彼女特有の力で増幅された金色の雷。それらは狙い澄ましたかのようにひび割れた黒い檻に直撃し―――窓ガラスが割れたようなパリンという薄い音を立てて、派手に砕け散った。

 僕たちは崩れ去り、大きく穴が開いたそこから手をつないだまま飛び出していく。そして、いよいよ、そこから脱出できる直前に声が聞こえたような気がした。



 ―――妹をお願いね。お兄ちゃん。



  ◇  ◇  ◇



 最初に感じたのは光だった。脱出するときの衝撃で、目をつむったままだったが、それでも外に出たことを証明するように肌に風を感じたので、恐る恐る目を開けてみると、そこは大海の海原だった。陸地ははるか向こう側で、なぜか海から岩が飛び出しており、僕とフェイトちゃんは手をつないだまま、その岩の上に立っていた。

「えっと………外に出られたのかな?」

「そう……みたいだね」

 僕が隣にいるフェイトちゃんに確認するように問いかけると、彼女ははにかみながら返答してくれた。

 しかしながら、この状況はどういうことだろうか?

 ずっと闇の書の中にいた僕には状況がわからない。大海のど真ん中にいる意味も、この海から飛び出した岩肌の意味も。それに闇の書はどうなったのだろうか。また、彼女と戦っていたなのはちゃんも。それからクロノさんたち時空管理局の人たちは?

 気になることはたくさんあるのだが、この状況で応えてくれる人は――――

「ショウくんっ!」

 その声には隠しようのない喜びに満ち溢れていた。しかも、その声は僕も聞き覚えがある声だ。ああ、ようやく事情を知っている人が来てくれた。しかも、僕が不安に思っていた人だから、声が聞けて一安心―――そう思いながら振り返ると、目に飛び込んできたのは、黒とその中を走る赤い線だった。

 え? と思う暇もなく、次の瞬間には僕の後頭部には二本の腕が巻きつけられ、僕の顔は何か柔らかいものに包まれていた。簡単に言ってしまえば、僕は誰か―――声から判断するになのはちゃんに抱きしめられているような状況だった。

「な、なのはちゃん?」

 僕は彼女の名前を呼んだだけだ。それでも、彼女は心底安心したように安堵の息を吐いた。

「よかった………今度は本物のショウくんだ」

 僕の髪に顔をうずめるようにしながら、よくわからないことを口にする。髪の毛を通して伝わる彼女からの吐息が少しだけくすぐったい。それと同時に鼻と口が半ばふさがれていたため、息苦しくもなっていた。

 ―――離してくれないか、と僕がふさがれながらも懸命に訴えかけようとしたのだが、その前に僕の手を握ったままだった彼女が動いていた。

「お兄ちゃんから離れて」

 ぶん、という音を残して振るわれる戦斧。その瞬間になのはちゃんが手を離し、僕は息苦しさから解放された。解放されたのは確かにいいことなんだろうが、お兄ちゃんとしては妹が暴力的手段に訴えるのはあまり好ましくない。

 注意しようとして改めて状況を見てみると、僕たちは海から突き出した岩の上に立っているのだが、僕の少し先で少しだけ距離を置いて対峙するなのはちゃん(大人バージョン)とフェイトちゃん。大人と子供の喧嘩のようにも見えるけど、二人の間に、険しく火花が散っているのは僕でもわかる。

 さて、どうしてこんな状況になったのだろうか。僕としては闇の書から脱出できたことを喜ぶだけでいいと思っていたのだが。そもそも、二人がどうして火花を散らしているのかわからないため、止めようがないのも事実である。

 フェイトちゃんからの言葉から察するになのはちゃんが僕に抱き着いたのが原因のような気がするが、それが気に食わない原因がよくわからない。なのはちゃんが僕に近づいて何かするわけではないし。なのはちゃんが怒っている原因は、おそらく水を差されたからだろうし。なら、悪いのはフェイトちゃんということになるのだろうか。

 そんな風に頭を悩ませている最中に頭上から声が降りてきた。

「再会に水を差すようで悪いが、緊急事態なので、許してもらおうか」

 その場の全員が空を見上げる。曇り空が広がる空の中に二点、黒い執務官としてのバリアジャケットと、彼の部族を示すバリアジャケットが風景の中の異色の存在として目立っていた。

「クロノさん………」

 屋上で襲われた時のことを思い出して、不審の目を向けてしまったのは仕方のないことだろう。しかし、それはクロノさんも承知の上なのか、ある一定の距離で立ち止まり、頭を深々と下げた。

「すまなかった。どうやら身内が失礼を働いてしまったようだ。君を襲ったのは僕じゃない」

 状況がよくわからなかった。僕が見た限りではあれば、クロノさんとしか思えなかったのだが、彼の言葉を信じるのならば、あれはクロノさんではなかったようだ。本来であれば、こんな子供にも深々と頭を下げてきたクロノさんを信じたいのだが、直接襲われたという事実はなかなかに覆しがたい。

「それは―――」

「言いたいことはわかるよ。だが、それはあれをどうにかしてからだ」

 クロノさんが指さした先にその場の全員の注意が向く。そこは海原の一部。浮かんでいたのは黒くて大きな繭のような物体。それが何かは理解できなかったが、禍々しいものであることは理解できた。

「あれが、闇の書の闇。今回の事件の真の原因だよ」

 クロノさんの横に浮かんでいたユーノくんが、つぶやくように真実を口にする。

 ―――僕にとっては長々と続いた闇の書事件だったが、事態はようやく最終決戦ということらしい。

 それを今にも天気が崩れそうな空模様の下、険しい目つきで黒い繭を見つめるクロノさんを視界に収めながらそう直感するのだった。




つづく



[15269] 第三十二話 裏 前 (リィンフォース、はやて)
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2012/12/30 23:10


「申し訳ありません、主」

 星々が瞬くような淡い光が発する暗闇―――彼女の本来の名前である夜を現したような空間の中で、この空間の主である闇の書の管理人格は、自分の所有者である車椅子に座ったまま眠る少女に頭を下げていた。その顔に浮かぶのは、深い懺悔と後悔と悲しみだ。

 一体、幾回同じような結末に至っただろうか、と闇の書―――本来の名前で言うなら夜天の書だが、彼女自身はすでにその名を冠するにふさわしいとは思っていない―――の管理人格は考える。しかし、それは考えても詮無きことだった。なぜなら、それは彼女が存在した時間の中で、この結末に至った時間のほうが多いのだから。すでに数えることさえ放棄している。ただ、言えることは、夜天の書と呼ばれたデバイスは血と憎しみと悲しみで彩られており、現在の闇の書の名前に違和感がないということである。

 主を呪い殺すデバイス―――それは、既にデバイスという定義から外れている。デバイスとは主を手助けするはずのもの。それこそが存在意義であるはずだ。だが、闇の書はその性質からは真逆の性質を持つ。もはや、デバイスと呼んでいいのかすら疑問だ。闇の書の管理人格が、己の存在意義と現状の乖離に自壊しないのは、ひとえに彼女が解放され、稼働する時間が極端に制限されるためであろう。

 ―――今回も、この結末に至ってしまった………。

 いや、それは最初からわかっていたことである。たとえ、今回の主が今までとは毛色が異なろうとも、周囲の状況が異なろうとも、闇の書が至る結末はいつだって同じで、同じだった。

 ―――せめての幸いは、我が騎士たちをこれ以上の不幸に付き合わせることがないことだろうか。

 そう、それが、それだけが今回の結末の中でのせめてもの幸いである。

 闇の書の我が騎士―――ヴォルケンリッタ―と呼ばれる四人の騎士たち。彼らは、闇の書の核とは異なる外部のソフトウェアのようなものである。ソフトウェアであるだけに闇の書が健在である限りは、いくらでも再生は可能だった。記憶などの情報も闇の書の内部に蓄えられているため、そのままの状態での再生だ。

 だが、今回は事情が異なる。

 文字通りすべてを奪われたのだ。端末の一つからサーバー本体に侵入されたのだ。それは、性質の悪いことに、ヴォルケンリッタ―を構成する部分だけを文字通り奪っていった。闇の書を構成する部分に触れたならば、防衛機能が働いただろうが、それは闇の書の部分には触れることなく去って行ったため、ヴォルケンリッタ―だけが奪われた形となる。

 無限の転生機能を持つ闇の書ではあるが、さすがに闇の書を構成する部分以外の転生は不可能だろう。そもそも、ヴォルケンリッタ―が欠落することなどが考慮されていたかどうかも疑問だ。彼らは闇の書と共にあり、共に生きるものだったのだから。もっとも、その定義は何者かによって否定されてしまった。

 だが、闇の書の管理人格はそれでいい、いや、むしろそれが救いだと思っていた。

 闇の書の管理人格は覚えている。今までのすべての主を死へといざなった結末を。すべて、すべて、すべての彼女の歩んできた道が怨嗟と憎しみと死に満ちている。それ以外にはない。まるで無限に存在する書物の物語のエピローグが同じであるかのように、闇の書が至る結末は同じなのだ。

 そのすべてに彼らを付き合わせた。本来であれば、時に主に栄光へと導く剣であり、時に主を守る盾となる騎士の本懐を体現し、誇りを汚すことなく正道を歩むべき彼らに鈍い紅で彩られた地獄の道を延々と付き合わせてしまった。

 しかし、彼らが血に彩られた道を歩むのは今回が最後だ。誰が奪っていったのかは分からないが、それでも、彼女は彼らの今後が騎士の本懐を遂げられるものであることを願ってやまない。

 彼らは、今回の結末をどのように思うのだろうか。

 血に彩られた旅路からようやく抜け出せた騎士たちを想っていただろうか、闇の書の管理人格は、ふと目の前ですやすやと眠る主を見ながら考えた。

 彼らはきっと幸せだったと思う。そうであってほしい、と彼女は思った。

 守護騎士たちを道具として一切扱わず、家族として迎えた小さな主―――八神はやて。守護騎士たちの誰もが最初はうろたえ、戸惑ったはずだ。たとえ、最後の瞬間は覚えていなくても、彼らが守護騎士として過ごしてきた経験は覚えているのだから。今までとは全く異なる扱いを最初から受け入れられるとは到底思えない。

 だが、それも最初の内だけだ。だんだんと今回の主に感化され、心を許し、笑えるようになっていた。まるで本当の家族であるように。それは彼女が今まで一度も見たことがない光景だ。そして、彼女がどこかで夢見ていた―――望んでいたような光景でもある。血に塗れるしかなかった彼らの道にせめての安らぎを、と。

 彼らがはやてに心を許し、彼女が言うように家族であるという言葉を強く感じるほどに彼らは強く想っていたはずだ。今回の小さな主である八神はやてを。

 いくら、彼女が彼らを家族と呼ぼうとも、守護騎士たちがその心を受け入れたとしても、彼らは守護騎士―――騎士なのだ。ならば、彼らにとって八神はやては、家族である前に守るべき、敬愛すべき主なのだ。

 だからこそ、今回の結末は、彼らにとって無念であり、残念であったとしても、それでも心のどこかでは満足に感じていただろう。

 彼らにとっては、主を守り、主を守るために戦うという騎士道を全うした末の結末なのだから。彼らが消える直前に後悔がなかったとは言えない。だが、それは今日までの今回の彼らの旅路ではなく、ただ主を置いて先に逝くことの、自分の力が及ばなかったことへの後悔に過ぎない。

 今回の旅路そのものを後悔するわけではないのだ。

 彼女にとってはそれで、それだけでも十分だった。今までの結末を思えば、それは彼らにとっては救いであると彼女は断言できた。

 だから、だから今回の旅路で彼らがこの血に塗れた宿命から解放されたことは喜ぶべきことだ。これ以上、彼らを付き合うことはない。この宿命に身を投じるのは、旅路の終焉の旅に身を引き裂くような悲しみと後悔を感じるのは自分一人で十分だ。

 それだけの覚悟は既に持っている。

 ―――先に逝っていてくれ。私もいつか壊れたその先にお前たちの元へと逝こう。

 はたして0と1の集合体でしかない自分や彼らに死後の世界があるのか、彼女はわからない。だが、そう信じてもいいのではないだろうか。ともに笑い、泣き、後悔した彼らにせめて死後の安らぎを期待しても。

 だから、彼女が想うはたった一つ――――守護騎士たちを家族と迎えてくれた心優しい小さな主である八神はやてのことである。

 その主は今、愛用の車椅子の上ですやすやと眠っている。いや、眠らせているというほうが正しいだろう。あの、執務官から衝撃の事実を聞かされたあと、絶望する主の心を保つためには仕方ない処理だった。あのまま、絶望する彼女を放置していれば彼女は壊れていた。物理的にではない、精神的にだ。

 守護騎士を失った彼女にとって最後の支えはあの少年だった。守護騎士と出会う前であれば耐えられた孤独も守護騎士と出会ってから、家族という禁断の果実を食べてしまったはやてには到底耐えきれるものではなかった。そんな彼女にとって翔太という少年は、まさしく最後の希望だったのだ。

 それが裏切られた。いや、そうなるように仕向けられた。はやては翔太を心の底から信じていたのだ。それが裏切られた。

 その裏切りを、家族を失うかもしれない、孤独になるかもしれないという恐怖に幼い心は耐えられなかった。

 はやてがいくら年不相応な態度をとっていようとも、彼女は本来であれば、親の愛情を受けて育っている両手で数えられる程度の子供なのだ。その孤独に耐え切れないことを責める人間がいるだろうか。

 はやてはその裏切りを、孤独を直視できず、結果、目の前の世界を否定してしまった。

 ―――こんな世界なんていらないっ! と。

 その感情が、主の絶望ともいえる感情こそがトリガー。闇の書が完全に覚醒してしまうことへの。一度、闇の書が完全に覚醒してしまえば、もはや闇の書の管理人格にできることはない。ただ、滅びという名の終焉に向かっていくだけである。

 もはや、この段階に至ってしまっては、闇の書ができることは一つだけである。それは、守護騎士たちが命を賭してまで守ろうとしたこの小さな愛すべき主を安らかな眠りのままにともに逝くことである。

 たったそれだけのこと。だが、管理人格といえども、起動した直後から徐々に闇の書の防衛プログラムに大半の権限を奪われつつある現状ではそれが彼女の精一杯だった。

 ―――ああ、こんな結末は望んでなどいなかった。

 期待したわけではない、というのは嘘だろう。今回の旅路は今までとは毛色が相当違った。守護騎士たちは家族として迎え入れられ、時空管理局が接近してきた。

 自分の身は仕方ないにしても、主の無事だけでも願うことが悪いことだろうか。

 だが、それも期待外れだった。結局、終わりはいつもと同じ。ただ、歩んできた旅路が一歩一歩破滅へと向かうための一歩ではなく、光がさす方向に向かって歩き、突如として奈落へと落とされるようなものだったというだけの話である。

「申し訳ありません、主」

 考えれば考えるほどに後悔の念が堪えず、再び頭を下げる闇の書の管理人格。

 助けたかった、幸せになってほしかった、孤独など感じてほしくなかった。守護騎士たちに感情を与えてくれたこの小さな主に、ほんのささやかな幸せを望んでいた。望んでしまっていた。彼らの笑顔と、主の笑顔を見ていれば、それが叶うような、そんな幻想さえ見せてくれたような気がした。

 ―――自分の存在は、彼女が望んだものとは対極に位置するというのに。

「私など―――存在しなければよかった」

 唇を噛み切ってしまいそうなほどにきつく結び、拳は関節が白くなるほどに握り芽ながらポロリとこぼれた言葉。それが彼女の本心だった。ただ、自壊すら許されないこの身が、ただただ口惜しい。

「そんなこと………いうたら……あかんよ」

 だが、彼女のそんな本音をとがめる声が彼女の下から聞こえてくる。その声はかすれており、とぎれとぎれで聞き取りにくいものだった。だが、それでも、それでも彼女が―――闇の書が聞き逃すはずもない。なぜなら、その声の持ち主は彼女が敬愛すべき主なのだから。

 なぜ? と彼女は思う。彼女は今、管理人格によって眠らされているようなものなのだ。彼女がそれを願ったから。せめて最後は幸せな夢を見ながら安寧の中で安らかに逝ってほしいと願ったから。だから、彼女が口を開けるはずもない。

 だが、そんな事実をひっくり返して―――それでも眠いのだろう。目を瞬かせ、眠いのを必死にこらえながら、主である八神はやては言葉を続ける。

「私は幸せやった。………シグナムとヴィータとシャマルとザフィーラに出会ったことは、みんなと過ごした日々は幸せやった。それは否定できん。いや、否定したらあかん。それは、闇の書がなかったらなかった出会いや」

 ―――だから、存在しなければよかったなんて、悲しいことは言わんといて。

 そう言いながら、はやては笑う。

 闇の書の管理人格は、はやての言葉に、はやての表情に驚愕する以外になかった。

 ―――なぜ、なぜ、笑えるのですか? 私の存在を受け入れられるのですか? 私のせいで、あなたは死地へと誘われているというにっ!?

 それは、驚く闇の書の管理人格が、八神はやてを理解していなかったから、というほかにない。彼女は理解していなかった。わずかな時間であろうとも、闇の書が彼女に与えたものがいかに彼女の人生を変えたのか。

 わずかな時間だった、最後は死地へと連れて行くものだった。

 万人が闇の書を厭うだろう。疫病神だと罵るだろう。だが、そんなものは八神はやてには関係なかった。あのわずかな時間こそが、すべての始まりで、今の八神はやてを形作っているのだから。

「確かに……私は、闇の書と出会わんかったら、別の幸せがあったかもしれんな。でも、私は………みんなとの幸せ以外は必要ないんや」

 闇の書と出会わなかった運命。もしかしたら、本当の両親と囲まれているのかもしれない。あるいは、両親を失ったことで、児童施設へ預けられて、守護騎士たちよりも多くの兄妹に囲まれて過ごしたかもしれない。だが、本当はどうなったかは、神ではない彼女たちが知る由もない。

 だが、予想される幾つもの人生も八神はやての中では意味を持っていなかった。

 なぜなら、この人生こそが八神はやてにとってのたった一つの幸せだと胸を張って言えるからだ。それ以外の幸せなど想像できるかもしれないが、必要はなかった。シグナムと、ヴィータと、シャマルと、ザフィーラと、家族と過ごした生活こそがはやてにとっては幸せだった。

 だから―――

「だから、ありがとうな」

 それを与えてくれた闇の書に憎しみでもなく、後悔でも、侮蔑でもなく、感謝を。自分が知らなかった幸せを与えてくれた心優しい書物に対してただただ感謝を告げるはやて。

 小さな主の口から零れた感謝の言葉を聞いて、闇の書の管理人格である彼女は驚きのあまり目を見開き、その言葉を噛みしめるように目をつむった。その直後には、頬を流れる一筋の雫。その雫に込められた想いは、歓喜だろうか、悲哀だろうか。

 そんな彼女の瞳から零れる雫を拭うように手を伸ばすはやて。やがてその小さな手は、車いすのそばに傅いていた管理人格の頬に当たり、零れていた雫をぬぐう。はやての人差し指に数滴の雫がついたころに、不意にはやてがふっ、と笑みを浮かべる。どこか面白いことを思いついたように。

「なぁ、闇の書いうんは、あなたには似合わんと思っておったんよ。だから、私があなに新しい名前をあげる」

 はやての言葉を聞いて、今まではやてにされるがままになっていた顔をはっ、と上げる。

 この主は何を言うのだろうか、と驚愕ともいえない感情に彩られている中、渦中のはやては勿体つけるように悩んだそぶりを見せて、やがてその小さな口をゆっくりと開いた。今まで後悔と血と涙に彩られた旅路を延々と歩んできたこれ以上ないぐらい彼女の存在を体現している闇の書という名前を塗り替える新しい名前を。

「祝福の風―――リィンフォース」

 祝福の風、リィンフォース。だが、その名前を名乗るのは、この数時間だけだろう。この名前は新しい主から賜った大切な名前。この旅路が終われば、また自分は闇の書へと戻る。

 だから、この数時間だけは、主から新しく賜った名前を誇れるように振る舞おう。せめて、主の最期の眠りへの安寧は守ろう。

 それが、闇の書―――もとり、祝福の風、リィンフォースの新しい決意だった。



  ◇  ◇  ◇



 ゆめ、夢を見ていた。

 それは少女が―――八神はやてという小さな少女が夢見た小さな幸せな夢だった。

 彼女の夢には彼女が唯一と言っていい家族たちがいた。

 シグナムが、シャマルが、ヴィータが、ザフィーラが。彼らと時に喜び、時に怒り、時に哀しみ、時に楽しむ。そんな当たり前の家族のような生活をさまざまな状況の中で夢見る。

 たとえば、彼らとは本当の家族中で過ごした。四人兄妹という関係の中、彼らは日常を謳歌する。

 たとえば、彼らは表向き学生を行いながらも、非日常の中で魔法を使って世の中を守る魔法少女だった。

 たとえば、彼らははやてが生きた現代とは程遠い異世界と形容するにふさわしい世界でパーティとして動く集団だった。

 はやてにとってそれらは本当に幸せな夢だった。彼らとはもっとこんな風でありたいと願った、願ってやまなかった願望というものだったのだから。だから、夢を夢と認識していなかった彼女からしてみれば、その世界に生きていることこそが幸せだった。

 たとえ、それが泡沫の夢だったとしても、偽りの夢だったとしても、最期の憐みだったとしても。

 はやてはそれらを理解しておきながら、受け入れた。その夢を見て果てることを受け入れてしまっていた。

 闇の書の管理人格―――彼女が命名したところによるとリィンフォースに名を与えたのは手向けのつもりだった。闇の書に感謝しているのは本当だ。彼女がいなければ、はやては家族という幸せを知らなかったのだから。

 だが、その幸せを知ってしまったがゆえに世界に絶望してしまうとはずいぶんと皮肉だ。

 ならば、知らなければよかったというべきなのだろうか。それも否だ。はやては誰が何と言おうとも、ヴォルケンリッタ―と出会う以前の生活を認めない。家族を知らなかった頃のはやてを幸せと形容させない。

 家族という幸せを知らず、淡々と一人で生きる毎日。それは死んでいるのと何が違うのか。それはただ生きているだけの屍だ。自分の思いを伝える人が隣におらず、自分と想いを共有してくれる人もおらず、自分の悲しみを分かち合ってくれる人もいない。それは、果たして幸せと言えるのだろうか。

 はやては声を大にして、それは否、と答える。

 だから、家族を二度も失った―――奪われた世界にはやては絶望する。

 ―――ああ、この世界は自分を幸せにするつもりはないのだ、と。

 最初の家族は、ある日突然目の前から失踪した。今までこんなことは知らなくて、毎日が宝石のように輝いていた日々は、ある日突然鈍色へと変化した。彼らと出会う前と変わらない生活であるはずなのに、はやての風景は鈍色から変化することはなかった。

 二度目の家族は、そんな寂しさを埋めてくれた。はやてに一人ではないことを伝えてくれた。隣にいる人の温もりがこんなにも暖かいと教えてくれた人だった。だが、その人も、本心から近づいてきたわけではなかったようだ。彼女に真実を教えてくれた人の話を聞けばそうだ。彼の話が嘘か真か。それははやてにはわからない。だが、状況証拠はそろいすぎていた。疑心暗鬼にはなるには十分なほどに。

 だから、はやては二度目の家族―――蔵元翔太と一緒に夢を見ることを望んだ。

 夢の世界であれば、真実がどうであれ、彼ははやての家族だったから。たとえ最後は偽りだったとしても、泡沫の夢の中でぐらいは、許してほしかった。

 しかし、世界というのはそうも甘いものだけでできているわけではないようだ。どういう仕組みになっているかわからないが、覚めるはずのない夢の中で彼は目覚めてしまった。ひとえに彼の精神力によるものか、はたまた、はやての中にわずかに残った翔太の真意を確認したいという想いによるものなのか。

 確かに状況証拠は残っていた。しかし、逆に言えばそれだけだ。もしかしたら、と思うほどに状況が整いすぎていた。ただ、それだけで翔太から直接聞いたわけではない。それでも、はやてが翔太と会談せずに強制的に同じ夢を見せたのは、彼女がこれ以上傷つきたくなかったからだ。

 翔太のことは信じたい。だけど、もしも、万が一、翔太が本当に裏切っていたのだとしたら。今度こそ本当にはやては何も信じられなくなるだろう。もはや夢を見ることもなく、ただ世界の終わりをただただ願うだけの存在になってしまうに違いない。だから、はやては翔太を強制的に夢に誘ったのだ。

 そんな彼から話があるという。これ以上、傷つく可能性を論じるならば、はやては断るべきだっただろう。だが、それでも、それでも、一度は信じた彼の口から真実を知りたいという欲求を抑えることはできなかった。事実を教えてくれた人が嘘を伝え、翔太が真実である可能性を捨てたくなかった。だから、はやては翔太と会談することにしたのだ。

 ただし、これ以上、傷つきたくないがために心に最大限の防御をもって臨むのだが。

 彼女の心は、期待が少しと不安が大部分を占めていた。翔太とのはやてにとって都合のいい、よすぎる展開は、世界は自分を幸せにするつもりがない、と思い込んでしまった少女にとって不利に働いていた。

 だから、翔太の口から「ごめん」謝罪の言葉が発せられた時は歓喜する自分の心を抑えるのが大変だった。

 一度、痛い目を見ておきながら、みすみす二度目になる必要はないとはやては、彼の謝罪を信じることができなかった。いや、正確には違う。本当は信じたい。翔太の謝罪を、翔太の口から発せられるはやてを慈しむ言葉を信じたい。だが、これまでの経験が、都合のよすぎる事実がはやての信じたいという心にブレーキをかける。

 ―――本当に信じていいのか? また、心が押しつぶされそうなほどの絶望を味わうのではないか?

 誰よりも本当に信じられ、身近に沿って立つ存在―――家族を求めているのに、今のはやては誰よりも家族に、家族という言葉に臆病になっていた。

「信じられんわ……」

 信じたい。だけど、信じられない。その二つの感情がせめぎ合う狂おしいまでの二律背反。

 そんな彼女の心の悩みを解消したのははやてを主と仰ぐ信頼すべきデバイスであり、彼女が新しい名前を与えたリィンフォースだった。

「―――主、そこの少年は嘘を口にしておりませんよ。本心のようです」

「ほ、ほんまか?」

 そこに込められたのは、ほんのわずかだった望みがかなうかもしれないという希望だ。何度も裏切られようとも、あの温かい心に触れられるかもしれないという希望は捨てがたいものだった。得られるものなら肯定してほしい、と願うのは悪だろうか。

 そんな彼女の心を読み取ったのか、傍に控えていたリィンフォースはすべてを包み込むような安心させる笑みを浮かべて頷いた。

「ええ、間違いありません。主から賜った祝福の風―――リインフォースの名にかけて、私の言葉が嘘、偽りでないことを保証いたします」

 リィンフォースがそう答えた瞬間、はやての視界に広がったのは、大きな海原のような光景。その海原に触れたなら否が応でも知ることができただろう。彼の心に。つまり、はやての目の前に広がっているのは翔太の心の風景だった。その海原から感じられたのははやてを包み込むほどの温かさだ。はやてが求めてやまなかった人の温もりであった。

 ―――ああ、私が欲しかったのはこれや。

 誰かが自分を慈しんでくれる心。心配してくれる心。そして、何より寄り添ってくれる心。

 その感情に触れた瞬間、はやての瞳から涙が零れ落ちるのを感じた。

 ぽろぽろと零れ落ちる雫。それは、もはやはやてには制御不能なものである。ずっと望んでいた、渇望していたものが手に触れられるところにあるのだ。感情があふれて制御不能になってしまったのは責められることではない。

 だが、その感情に触れられて嬉しいと感じられたと同時に浮かび上がってくるのは最大級の罪悪感だ。

 翔太はこんなに信じてくれたのに、自分を必要としてくれたのに。それにも関わらずはやては信じることができなかった。信じなかった。冷たい瞳で翔太の言葉を一蹴してしまった。

 そのことに気付いたはやてに次の瞬間にはやての心を支配したのは恐怖だ。それは、翔太に嫌われてしまうかもしれないという恐怖だ。彼の心情はいわば、あの時のはやてに近い。はやてが信じたように翔太が信じてくれているのならば、その信じた心を裏切ったのははやてだ。

 確かに、見知らぬ誰かに唆されたのかもしれないが、それでも信じるべきだったのだ。翔太がはやてを信じたように、はやても翔太を信じるべきだった。だが、現実は残酷だ。翔太ははやてを信じ、はやては翔太を信じられなかった。その結果、はやてを襲うのはすさまじいまでの恐怖だ。

 翔太は信じてくれたのに、はやては信じられないと口にしてしまったのだ。それを拒絶と取られてもおかしい話ではない。むしろ、それが自然だ。もしかしたら、愛想を尽かされて捨てられるかもしれない。ようやく、触れられたのに、それさえも捨てて、捨てられてしまうかもしれない。

 考えれば、考えるほどに、嫌な考えが浮かんでしまう。突き放されてしまうかもしれない。見捨てられるかもしれない。恐怖が恐怖を生む泥沼だった。

 はやてが翔太にできることは、ただただ謝罪することだけだ。許してもらえるなら、どんなことだってやるつもりだった。

 だが、はやての恐怖と心配とは裏腹に翔太の返答はあっさりとしたものだった。

「うん、僕が言うことじゃないかもしれないけど、大丈夫、僕ははやてちゃんを許すよ」

 ―――ああ、どうして私は、ショウくんを信じられんかったんやろうか。

 こんなにも優しいのに、自分を受け入れてくれるのに、一人にしないと言ってくれたのに。傷つくことを恐れて、信じることができなかった。

 もっとも、はやての一桁の年齢の少女に対して、それを求めるのは酷な話だろうが、それでも翔太が信じた以上、はやてが翔太の様に信じられなかったことははやての心を罪悪感で押しつぶそうとするには十分だった。

 しかし、それでも、それでもはやては翔太の言葉に安心した。安心してしまった。あの温かさを手放す心配がなくなって、自分が一人ではないことを確信できて。おそらく、自分の人生というのは短い時間の最期まで一人ではないことに安心した。

 ああ、そうだ。八神はやては、翔太という存在を得ておきながら、すでに抗うことをあきらめていた。理由は彼女のこの一言に尽きるだろう。

「だって………もう、嫌なんや。寂しいのも、一人になるのも、ただいまを言う相手がおらんのも、話す相手が誰もおらんのも、全部、全部嫌なんや! だから―――」

 そう、確かにはやては翔太が傍にいることを実感できた。ただし、それは今だけだ。5年後、10年後はどうだろうか。翔太の様な温かさで包んでくれる存在がいてくれる保証はどこにもない。なにせ、ずっと一緒にいてくれると言ってくれた翔太でさえ、その心は「友人として」なのだ。

 友人としてという言葉にずっとという保証はない。もしかしたら、仲たがいするかもしれない。まだ、子どもなのだ。何らかの理由で離ればなれになるかもしれない。その結果、陥るのは、はやてにとって絶望的ともいえる状況である。

 孤独という極寒の寒さの中に裸で立つような冷たさをもう感じたくないと考えてしまうのは罪だろうか。

 だが、そんな恐怖も翔太は笑って否定してくれる。そんなことを心配することはない、というように。

「君が一番欲しかったものがきっと得られる」

「私が一番欲しかったもの?」

 はやてが一番欲しかったもの、欲しいものは言うまでもない。今、翔太が持っているような温かさをもって傍にいてくれる人だ。はやてを一人にしない人だ。ただ、それだけが欲しかった。それ以外に何かあるのだろうか。

 そんな風に疑問に思うはやてに翔太は笑いながら、微笑ましいものを見るような目で答えた。

「そうだよ、はやてちゃん。君がいくつもの絆を紡いで、それらと付き合って、そして君が一番欲しかったもの―――『家族』が得られるよ」

「家族……」

 言われて初めて気づいた。

 そう、そうだ。自分最初からそう称していたではないか。はやてを一人にせず、はやてを孤独にしない人。その人をなんと呼ぶのか―――それは、翔太が言ったように『家族』だ。そう、そうなのだ。はやてが一番欲しかったのはシグナムのような、シャマルのような、ヴィータのような、ザフィーラのような、リィンフォースのような『家族』だ。

「私に『家族』………それってほんまに作れるんかな?」

 本当に欲しいものには気付いたが、家族が本当にはやてに作れるのかどうかはやてには半信半疑だった。なぜなら、はやてにとって家族とは与えられたもので、作るものではなかったからだ。父親も母親も記憶にないはやてには、どうやって家族が作れるのかわからなかった。ただ、そこにいて、傍にいる存在が家族であり、作るものではないと思っていから。

 そんなはやての心配を吹き飛ばすように翔太は微笑む。

「君にはきっと素敵な家族ができるよ」

 どこか確信したような言葉。それだけで、はやてが信じてしまいそうな言葉だった。もしかしたら、本当に欲しいものが得られるという他人から与えられた保障にすがっているだけなのかもしれないが。

 だが、はやてが信じられないと告げたにもかかわらずはやてを信じた翔太の言葉なのだ。現時点で一番はやての家族と呼ぶにふさわしい人物なのだ。だから、それだけで彼の言葉は信じるに値する。

 翔太の言葉を聞いて、はやては将来の自分の家族を想像する。

 一般的な家族というのは、父親がいて、母親がいて子どもがいるのだろうか。はやての想像の中では、母親は大人になったはやてであり、父親は一番家族に近いといえる翔太だった。そして、一緒に食卓を囲むのは、シグナム、シャマル、ヴィータ、ザフィーラだ。

 ああ、そんな家族が実現すれば実に楽しいだろうな、自分はもう一人ではないだろうな、と夢見てしまうのは今まで一人だった少女を想えば仕方のないことだ。はやては将来があるのだと信じたかった。

 いや、信じる、信じないではない。そんな将来はすぐ近くにあるではないか。

 はやての目は目の前でにこやかにほほ笑んでいる翔太の顔を取られていた。

 彼女の想像は夢のような虚像ではあるが、実現可能な想像だ。今、はやての家族に一番近い存在は翔太を置いてほかにいない。翔太以上にはやてを包んでくれるような温かさをもって接してくれる人が現れる保証はどこにもない。だから、先ほどの想像でも翔太が家族だった。

 先ほどの想像が実現可能だと、それを求められるということに気付いた瞬間、はやては無性に欲しくなった。想像を現実にできるような家族が。翔太と作る極寒の中にあるような家ではない温かい、孤独ではない家族が。

 それは、きっときっと楽しい想像で、夢を見るようなもので、それでも、実現したい夢だった。信じたい夢だった。だから、はやては翔太が気付いてくれますように、と願いを込めて言う。

「でも! ここまで言うんやから、もしも、私に素敵な家族ができんかったら責任は取ってもらうで!」

 孤独だった少女は、ある日、魔法の存在によって家族を知り、ある日、家族を奪われ、そして、最後に家族になりたい少年によって救われた。襲われている困難を越えた先に少女が夢見る将来を実現できるのか。それは、未だ誰にもわからないものである。

 ただ、ただ―――孤独だった一人の少女は、純粋に将来、自分と彼が作る家族を夢見るのだった。


























あとがき
 作文課題「将来の夢」



[15269] 第三十二話 裏 中 (フェイト)
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2013/04/07 16:51


 存在意義―――自分が此処にいる理由、此処にいてもいい理由。

 たとえば、それを社会的な地位に見出す人もいるだろう。

 たとえば、それを自らの才覚に見出す人もいるだろう。

 たとえば、それを趣味に見出す人もいるだろう。

 たとえば、それを他人に見出す人もいるだろう。

 たとえば、それを家族に見出す人もいるだろう。

 星の数ほどある各々の存在理由。それをとある少女―――フェイト・テスタロッサは、母親に求めた。

 母親が願うから、母親がかくあれと願うから、だからフェイト・テスタロッサは、それに従った。母親に褒められること、笑ってもらうこと、名前を呼んでもらうこと。それが彼女の存在理由だった。

 彼女の年齢が一桁であることを考慮すれば、それは全く自然なことである。子どもは、親からの愛情を受け取ることで、此処にいてもいいと実感することができるのだから。あるいは、彼女の寂しがり屋な性格も起因していたのかもしれない。

 しかし、彼女が求める存在理由を知ってか知らずか、彼女の母親―――プレシア・テスタロッサはフェイトの求めにまったく応じようとはしなかった。褒めることもなく、笑うこともなく、名前を呼んだとしても、それは常に暗い影を映したような陰鬱な声。当然、フェイトが聞きたいのは、そんな声ではない。

 その理由には、フェイトが知らない理由があるのだが、そんな理由を知る由もない彼女は、自分の頑張りが足りないからだ、自分に理由を見出してしまう。年齢が一桁の少女に親のことを疑えというのは酷な話だ。

 だから、彼女は頑張った。母親の願いをかなえてあげようとした。その先に彼女が望んだものがあることを信じて。

 だが、その信じたものは、あの日―――母親に真実と決定的な一言を告げられたあの日に木端微塵に砕け散ってしまった。ぱらぱら、と彼女の信じたものがガラスの欠片のようにきらきらと輝きながら砕けていく。彼女が信じた未来は、永遠にその小さな手の平に収まることはなく、砂のようにサラサラと指の間を抜け落ちていくようなものだった。

 その瞬間、彼女は彼女の存在理由を失った。彼女は、母親のために生きていた。うっすらと残る記憶の様に母親に笑ってほしくて、褒めてほしくて、名前を呼んでほしくて。だから、頑張れたのだ、だから、どんなにきついことを言われても頑張ろうと思えたのだ。

 なのに―――信じたものは、すべて、すべて贋物で、自分は失敗作で―――

「ゴミが。ここは、アリシアが眠る場所よ」

 ―――もう、どうでもいいかな。

 フェイトは目をつむる。自らの存在理由、立ち位置を失った彼女にとって、現世とはどうでもいいものであった。

 パリンという心に罅が入るような音を立て、すべてを手放し諦めようとしたフェイトだったが、本能的にとでも言おうか、彼女が、彼女を守るために防衛本能が働いた。精神的なものであるため、本能的な、と形容するのもおかしい話かもしれないが、自然とフェイトは自分が生きていくためにその身を防御した。

 つまり―――存在意義の再構築である。フェイトはすべてを否定された。己の意味を否定された。それは、フェイトの存在理由である母親が求めるフェイトではなかったからだ。ならば、ならば、話は実に簡単である。

 ―――母親が求める自分を作る。

 ああ、違う、違うのだ、と彼女は否定する。嫌われたのは本当の私ではないのだ、と。

 フェイトは、贋物と呼ばれた自分を退避させ、母親が求めた理想のフェイトを無意識のうちに構築する。

 普通ならば、望んだから、防衛本能が働いたからと言ってそう簡単にできることではないだろう。だが、フェイトには幸いにもと言うべきか、あるいは、不幸にもというべきか、その下地が十分にできていたのだ。

 それは、皮肉にも彼女の母親が行った記憶の転写が原因だった。クローンニングされた身体に記憶を転写する。文字にすれば簡単だが、行ったことを考えれば、わずかでも実現できたことは魔法というファクターが存在したとしても奇跡に近い。天才的ともいえる頭脳と狂気ともいうべき執念がなした業だったのだろう。

 しかし、それはあくまでも記憶の転写だ。いわば、他人の人生を映画として見せられたに近い。そうだとしても、影響が全くないわけではない。そもそも、その記憶の転写は彼女の存在意義である母親が求めたフェイト―――アリシアの記憶なのだ。ならば、フェイトが彼女を再構築する際に、その記憶が使わない手はない。

 フェイトがフェイトの居場所を求めるために作られた存在―――それが、蔵元アリシアという人格だった。

 その彼女が受けいれられる様をフェイトは、じっと膝を抱えて生気のない目で見ていたそこは、小さな小さな部屋。フェイトがフェイトを守るために逃げ出したフェイトという存在の心の隅だ。そこからフェイトは小さなテレビを見るような感覚で、彼女が本能で作成したアリシアが蔵元家に受け入れられる様を見ていた。

 自分が理想としたものが、自分が追い求めていたものがそこにあった。偽りの名前とはいえ母から名前を呼んでもらい、笑いかけてもらい、抱きしめてもらえるというフェイトにとっては遠き理想がそこには存在していた。存在していたがゆえに思う。

 ――――ああ、自分はやっぱりいらなかったのか、と。

 贋物と呼ばれた自分が無意識のうちにとはいえ作り出した人格。彼女は、受け入れられた。そして、自分は捨てられた。違いは明白だ。そこには天と地ほどの格差がある。だが、それでもよかった。なぜなら、あれはフェイトが求めた理想で、フェイトではないが、もう一人のフェイトなのだ。

 ならば、名前が異なろうが、意識が異なろうともあそこで笑い、母親に名前を呼ばれ、微笑まれ、抱きしめられ、大好きな兄からは名前を呼ばれ、頭を撫ででくれるような自分はフェイトなのだ。

 ―――うん、これでいい。これでいいんだよ。

 捨てられるような、贋物と呼ばれるような自分は自分ではない、と自らを守るために作った人格が、皮肉にもフェイトの心を凍らせていく。受け入れられたのは、自分ではなく、蔵元アリシアなのだから、フェイトたる自分は心揺らす必要もない。ただ今はぬるま湯に浸かったような心地よさに身をゆだねながら、蔵元アリシアの生活を夢見心地で見つめる。

 これでいい、これでいい、と自分に言い聞かせながら。

 だが、不意に心の隅から浮かんでくる問いが時折フェイトの心にチクリとした痛みを与える。

 ―――ああ、自分は一体何のために生まれてきたのだろうか?

 その問いに答えはなかった。



  ◇  ◇  ◇



「フェイトちゃん、聞こえる? フェイトちゃん」

「…………だれ?」

 蔵元アリシアの彼女の理想ともいえる生活を夢見心地で膝を抱えたまま見ていたフェイトだったが、久しぶりに呼ばれる自分の名前を聞いて、少しだけ意識を覚醒させた。もっとも、それは微睡の中、わずかに瞼を上げた程度のもので、覚醒にはほど遠いものだった。それでも、過去に自分が望んだ名前を呼んでくれる存在がいるとなれば、―――しかも、彼が夢見心地ながら聞いていた彼女が大好きな兄の声であるならばなおの事だ。

 うっすらと開いた瞼の向こう側には、蔵元アリシアの目を通して見ていたそのままの柔らかい微笑みを浮かべた兄―――蔵元翔太が立っていた。

 一瞬だけ、その微笑みに夢の中の自分の様に喜びの感情が浮かび上がってきた。しかし、その感情はすぐに別の思考によって押しつぶされてしまう。

 ―――違う、違う、違う。この人は、私のお兄ちゃんじゃない。アリシアのお兄ちゃんだ。

 フェイトにとって、蔵元翔太とは、フェイトが作り出した蔵元アリシアの兄ではあっても、フェイトの兄ではなかった。半分、夢見心地で彼の優しさに触れていたとしても、一度、母親に手ひどく裏切られた記憶が翔太のことを信じようとする心を縛ってしまう。

 信じたい、だけど、信じられない。もしも、信じた、信じようとした先にまた捨てられてしまったら、あの微笑みが嘘だったとしたら、今度こそ、フェイトの心はガラス細工のように粉々になってしまうだろう。無意識のうちにそれがわかっているフェイトは、自分の心を守るために信じたい心に蓋をする。

「嘘だ………わたしにお兄ちゃんなんていない………私には母さん………母さんだけ」

 そう、そう思わなければならない。今の彼女に次の一歩は踏み出せない。踏み出したその先にある一つの終焉を知ってしまったから。自分がいないほうが幸せになれることを知ってしまったから。

 自分はゴミであり、贋物である。だから、手は取れない。とっても意味がない。だから、フェイトは何も考えることはなかった。

「フェイトちゃん、こんなところに蹲っていても、何も変わらないよ。一緒に外の世界にいかないかい?」

 柔らかい、本当ならフェイトの母親に浮かべてほしかったようなすべてを受け入れるような笑みを浮かべて蔵元翔太が手を伸ばす。だが、その笑みも、言葉もフェイトには届かない。彼女は諦めているから。認めているから。何より、翔太の言葉は意味がない。

 『何も変わらない』―――そうだ、何も変わらない。そこが翔太の思い違いだ。フェイトは何かを変えることを求めていないのだから。フェイトが求めているのは昔から変わらずただ一つだけ―――母さんから認められることだ。

「………そと? どうして? 母さんはもういない。母さんから認められなくちゃ、生きている意味なんてない。ゴミの私には………贋物の私には」

 だから、フェイトから出てきた言葉は、拒絶だった。

「あ~あ、もったいないな」

 そんなフェイトをあざ笑うような声をわざとらしく上げるのは、フェイトと瓜二つの容姿を持った一人の少女―――アリシアだった。

 フェイトは、彼女がそんな声を出す意味がわからなかった。彼女は幸せなはずだ。自分の代わりに外に出て、翔子という母親に出会い、翔太という兄を持ち、フェイトが望んだような家族絵を描いていると言える。そんな彼女がフェイトに対して翔太を援護するような声を出すことがフェイトには信じられなかった。

「………どうして、あなたが? あなたが外に行って。母さんに認められてよ。私は、それを夢で見てるから」

 そう、それでいい。すべては夢幻。現状はフェイトの傷つき、ひび割れた心を慰撫する贋物だ。

 うらやましいとは思う。そんな風にプレシアとなれたらとは思う。だが、それはフェイトが望むものとは違うのだ。だから、『夢』。望む、望まないと限らず、夢なのだ。フェイトが望むのは、今も昔も一つだけなのだから。

「夢で?」

 そんなフェイトを見透かしたようにアリシアがくすり、と笑う。その笑みにフェイトは恐怖心を覚えた。

 なぜそんな風に笑える? 彼女は自分が作った幻想であるはずだ。なのに、まるで自分で気付いてほしくない部分を見透かしたような笑みを浮かべる。フェイトが覚えたのは、見られたくないものを見られたことに怯えるような恐怖心だった。

 そんなフェイトに気付いてか、気付かずか―――おそらくは前者だろう。アリシアはチェシャ猫のように唇の両端を釣り上げて嘲笑いながら言葉を続ける。

「フェイトが夢でみているわけないでしょう? だったら、この場所はこんな風にはなっていないでしょう?」

 アリシアの一言が次々にフェイトが隠したかった心を暴いていく。それは、闇の衣でくるめた目を背けたい真実を少しずつ暴いていくような感覚。

 やめろ、やめろ、やめろ、とフェイトは心の中で叫ぶが、声には出せない。アリシアの言葉がフェイトの心を抉っていくが、それを止めるすべてをフェイトは持っていなかった。

 そして、アリシアは嘲笑うような笑みを張り付けたまま、ついにフェイトに対して決定的な一言を口に出す。

「ねぇ、フェイト。あなた、本当は理解しているんでしょう?」

 それは確認だ。事実の突きつけだ。ぎゅっと瞑った瞼を無理やり開かせ、事実の目の前に頭を持ってきて、押し付けるような言葉だった。

「もう、母さんがフェイトを認めてくれることなんてなくて、あなたは完全に捨てられたんだって」

「………ち、違う………そ、そんなことない」

 見せつけられたくない、厳重に衣で覆っていた最後まで見たくないフェイトにとって恐怖すべき事実を突きつけられて、フェイトは恐怖で全身を震わせながら必死に否定した。

 当たり前だ。それを認めてしまっては本当にフェイトは生きる意味がなくなる。今までの短い10年という時間ではあるが、フェイトは母親のために生きてきたのだ。それが、本当に無駄になってしまって、今後も報われることがないのだと理解してしまえば、それは本当にフェイトの居場所が、望んでいた場所の―――存在意義の消滅を意味する。

 今もこうして、アリシアが表に出て、フェイトが奥底でひきこもっていられるのも、その事実を認めず、『いつか』『もしかしたら』という希望を持っているからに他ならない。それを完全に認めてしまったら、その希望さえも意味をなくてしまうではないか。

 だから、プレシアがフェイトを見ることは絶対にないとしても、それを受け入れるわけにはいかなかった。たとえ、わずかでも、『もしかしたら』と思っていたとしても、だ。

 だから、フェイトは必死に否定する。自分を守るために。自分の居場所となるべき場所はいまだに存在するのだと、自分を誤魔化すために。

 しかし、そんなフェイトの思考の逃げ道をアリシアは次々とふさいでいく。

「そんなことあるでしょう? だって、気付いていないなら、理解していないなら翔子母さんをプレシア母さんと間違ったりしないもの」

「それに。仮に私が認められたとしても、それはあなたが認められたわけじゃないよ。フェイトが作り出したアリシアが認められただけ」

 そして、決定的な一言。フェイトが一番突きつけられたくない一言を口にしてしまった。

「なら―――ねえ、フェイト。あなたはどこにいるの?」

 ――――私はどこにいる?

 それはフェイトが一番教えてほしかった。

 幼いころから母親に笑顔を見せてほしくて、魔法の勉強も必死にやった。母親からの一言が欲しくてフェイトはそれだけに注力してきたのだ。今までのフェイトは、短いながらも母親に人生をささげていたといっても過言ではない。ならば、こうして報われることがない、母親から受け入れてもらうこと、笑ってもらえることが絶対にない、と現実を突き付けられ、それ以外を知らないフェイトはどうしたらいいのだろうか。

 ――――ワタシハ、ドコニイルノ?

「そう、どこにもなかったんだよ。フェイトの居場所なんて。たった一つを除いてはね」

 アリシアが、ようやく気付いたのか、というような呆れのため息をはいた後に、クモの糸のような一言を付け加える。

「………そんな場所があるの?」

 フェイトには信じられなかった。

 アリシア・テスタロッサでもなく、蔵元アリシアでもなく、フェイト・テスタロッサが認められる場所。フェイト・テスタロッサが、フェイト・テスタロッサとしていてもいい場所。そんな都合のいい居場所があるのだろうか。フェイトには到底信じられず、だが、己の存在意義を失ってしまったフェイトからしてみれば、それは最後の希望だった。

 すがるような目でフェイトはアリシアを見る。私の居場所はどこ? と迷子になった子供の様に泣きそうになりながら、それでも、すがるべき、よるべき居場所を求めて。

 かくして、答えはフェイトと瓜二つである少女からではなく、別のところから与えられた。アリシアとのアイコンタクトを交わした後に少年―――蔵元翔太は口を開く。

「そうだね、僕は君のお兄ちゃんだ。君が居場所を―――誰かから認められて、フェイトちゃんとしての居場所を望むのであれば、君が望み続ける限り、僕の妹は君―――フェイトちゃんだよ」

「わたし………が?」

 その言葉を、今すぐすべてを放り出してすがりつきたいその言葉だった。今までどれだけ頑張っても与えられなかった居場所、渇望しても与えられなかった居場所。それをポンと軽く与えられたとしても彼女が感じるのは戸惑いだけだった。

「そうだね。フェイト・テスタロッサさん。君だよ。君だけの場所だよ」

 そんな彼女に対して、確証を与えるように少年は重ねて少女の居場所を柔らかい、暖かい笑顔ともに告げる。

 ―――嗚呼、と少女は感嘆する。渇望し、与えられず、傷つけられ、絶望に沈んだ彼女にとって彼は、彼の隣という居場所は眩しすぎた。同時に彼女が望む居場所だった。

 信じられない、信じたい。そんな二律背反の想いがフェイトの中に充満する。信じるべきなのか、信じるべきではないのか。心の中の渇望は前者を支持し、傷つけられ絶望に染まった心は後者を支持する。果たしてどちらが正しいのか、フェイトにはわからない。だが、それでも、それでも、ふと脳裏に浮かんだこの場所で見続けてきた蔵元家という家族の肖像を想う。それが、わずかにだが、信じるという選択肢の天秤の針を傾けた。

 だからだろう、自分でも気づかないうちに己が望む本当の渇望を、想いを口にしていた。

「ほんとうに………アリシアではない私を、妹として認めてくれますか?」

 それが本当のフェイトの願い。ただ、ただ認めてほしいのだ。フェイト・テスタロッサという一人の少女を。アリシア・テスタロッサの贋物でもなく、蔵元アリシアの代わりでもなく、フェイト・テスタロッサを認め、いてもいいという居場所が欲しい。それが本当の願いだった。今までは、その居場所は母親の隣にしかないと思っていた。それ以外の場所には意味がないと思っていた。

 だが、だが、それ以外の場所もあった。フェイト・テスタロッサが望んだ自分だけの居場所。自分がいてもいい場所。自分が自分でもいい場所があるかもしれない。

 今までどれだけ望んでも手に入れられなかった居場所に手が届きそうだと思うとフェイトの心臓は高鳴る。そして、彼女が一縷の望みを託した少年は、一瞬だけ何を言われたのかわからないというような表情で、きょとんとした表所を浮かべた後に笑みを浮かべてフェイトが心の底から渇望した、ずっとずっと投げかけてほしかった言葉を紡いだ。

「もちろんだよ。君はアリシアちゃんじゃなくて、フェイトちゃんだ。それでも、やっぱり君は僕の妹だよ」

 まるで泣きじゃくる小さな子供に偶然入っていた飴玉を差し出すように当然の様にフェイトが臨んだ言葉を口にしながら蔵元翔太という少年は、座っているフェイトに対して腰をかがめながらその右手を差し出した。

「君が笑えることがあれば一緒に笑うし、悲しいことがあれば一緒に悲しむし、寂しいのであれば一緒にいるよ。そんなどこにでもいる兄妹だよ」

 はたしてそれはどこにでもいる兄妹だろうか。フェイトにはわからない。だが、それでもこの少年が彼の隣にフェイトを望んでいてくれていることは理解できた。アリシア・テスタロッサの代わりでもなく、偶像の蔵元アリシアでもなく、彼は目の前のフェイトを、今までの妹が虚像と言われたにもかかわらず、ありのままのフェイトを受け入れようとしていた。

 本当のことを言うのであれば、フェイトは今すぐにでも彼の言葉に飛びつきたかった。飛びついて彼の隣を自分の居場所としたかった。望んで、望んで、努力して、頑張って、その先が報われない未来で、手に入れることができなかった自分の居場所。それが、周り廻ってようやくフェイトの目の前に現れたのだ。それに飛びつきたくないわけがない。

 しかし、過去の記憶が、経験が、あの目の前で隣を望んだ人から投げつけられた無遠慮な言葉が、ナイフの様に心に差し込まれた言葉が、心が完膚なきまでに傷つけられた記憶がフェイトに二の足を踏ませる。

「わたしは………」

 もしも、彼女に幸せな記憶があれば、それが勇気になったのかもしれない。だが、彼女には確かなそれがない。あるのは、自分の代わりとなったアリシアが経験した幸せな記憶だけだ。

「ねえ、フェイト。ここから始めてみない?」

 喜びと不安のはざまで葛藤していたフェイトは、突然、間近でかけられらた言葉に驚いて顔を上げるそこにあったのは自分と瓜二つの容貌。ただ、その表情にはおそらくフェイトが浮かべているであろう表情とは異なる笑みが浮かんでいた。まるで、フェイトの心の内を知りながら、祝福するような笑みだ。

「今まで母さんの言うことを守ることしか考えていなかったフェイトが自分を始めるのは難しいかもしれないけど、でも、お兄ちゃんの隣ならきっと大丈夫だから」

 その笑みに、言葉に安心してしまう。先ほどまで欲しかった少しの勇気が少しずつ分けられているような気がした。彼女は、自分自身であるはずなのに、自分が産んだ虚像であるはずなのに、その笑みには不思議と力があった。

「ほかの誰が言っても信じられないかもしれないけど、それでも―――自分自身の言葉なら信じられるでしょう」

 違う、違うとフェイトは彼女の―――アリシアではない、彼女の言葉を否定していた。蔵元アリシアはフェイトが生み出した虚像だ。その彼女がこんなにも明確に意思を示せるはずがない。ならば、彼女は―――。

 フェイトが最後までその答えを導き出すことができなかった。なぜなら、フェイトがその先の答えにたどり着きそうになった直前に彼女は、自らの首に下がっていたあるものをフェイトに差し出したからだ。それは、フェイトの思考を止めるには十分なものだった。

「それに―――フェイトは一人じゃない。ずっと一緒だった人がいるでしょう?」

 彼女に告げられて、フェイトは初めて自覚した。

 そう、そうだった。彼女にはいたじゃないか、いつだって、彼女の隣に。何も言わず付き合ってくれた相棒ともいうべき存在が。母親しか、彼女の役に立つことしか考えていなかった自分に献身をささげてくれた存在が。

「あるふ……ばるでぃっしゅ……」

 思わずといった感じでフェイトの口からその存在の名前が出てくる。

 アルフ―――言わずと知れたフェイトの使い魔。彼女がどんな恩義を感じてくれているかフェイトにはわからない。だが、常に一緒にいて、彼女のそばに寄り添ってくれたのは彼女だ。忘れていたわけではない。フェイトに取ってアルフがそばにいることは当然だったからだ。今までも、そしてこれからも―――たとえ、フェイトが新しく見つけた居場所を追い出されようとも。

 バルディッシュ―――彼女のデバイス。寡黙なデバイスではあるが、フェイトが力を振るうときいつだって力を貸してくれた。何より、幼き頃からともにあり、ともに成長してきた相棒だ。

 嗚呼、どうして忘れていたのだろう、とフェイトは後悔する。確かにフェイトは報われなかったのかもしれない。救われてなかったのかもしれない。自分が望んだ居場所を得ることができず、そのための努力もすべて否定されたのだから。

 だが、だが、それでも彼女はどん底ではないことに気付くべきだったのだ。一人ではないことに気付くべきだったのだ。自分には母親しかいないと思っていた。だが、それは違ったのだ。それが当然過ぎて、母親にしか意識が向いてなくて、こうして見捨てられて、否定されて、指摘されて初めて気づいた。

 ―――自分は一人ではなかったのだと。

 それに気づいたとき、彼女の瞳からは自然と涙が流れていた。

 気付かなかった自分の愚かさを嘆いて。自分が一人ではなかった、ずっと見守ってくれている人がいたことに歓喜して。

「わたしの………私たちのすべてはまだ始まってもなかったのかな? バルディッシュ………」

 彼女が一人ではないことに気付けていなかった理由。それは、フェイトの意識がすべて母親―――プレシアに向かっていたからだ。周りに意識が向かないほどに。なぜ? それは、すべての真相を知ってしまった以上、フェイトだって気づいていた。そういう風にプレシアが仕組んだからだ。都合のいい手ごまにできるように。そこには、フェイトの意志は存在していなかった。いや、あったかもしれないが、気付いていなかったという点では存在していなかったといってもいいだろう。

 だからこそのフェイトの言葉。彼女は彼女の意志で始めてすらいなかった。

 ―――Get set.

 そんな彼女を慰めるように金色の寡黙なデバイスは端的に答える。大丈夫だ、と幼年のころからともにあった相棒ともいうべき存在がそっと小さく背中を押してくれた。

「私は………ここから始めていいのかな?」

 許しを請うように、認めてくれるようにフェイトはアリシアへ視線を向ける。

「違うよ、フェイト。始めていいんじゃない。始めるべきなんだよ。ずっと一緒にいてくれた人がいて、隣に支えてくれる人がいて………一人で始めるのは怖いかもしれない。でも、今なら、フェイトを支えてくれる、見守ってくれる人がいる。今、始めなくて、いつ、始めるの?」

 答えは最初から決まっていた。これだけお膳立てさせられて、これだけの好条件がそろっているのに躊躇する理由がどこにあるというのだろうか。そんなものはどこにもない。

 だから、彼女はそっとずっと手を伸ばしてくれている兄の手をそっと取った。

 触れた掌から感じられる彼の手から感じられる体温が温かい。それが人と触れ合うということ、自分の居場所なのだとフェイトはようやく自覚できた。

「――――ありがとう。あなたがいたから私は、自分を始めようと思うことができた」

「あはは、気にしないで。自分のことだもん。私が私に力を貸すことは当然だよ」

 その言葉にフェイトは首を横振った。分かっているからだ。すでに彼女は確証を得ていた。彼女は自分の虚像として生んだアリシアではないのだと。

「違う。そうでしょう?」

 もはや彼女は観念していたのだろうか。フェイトの言葉を否定することはなかった。ただ、照れくさいのを誤魔化すように照れ笑いを浮かべていた。

「あはは、わかっちゃった? うまく隠せたと思ったんだけどな」

「わかるよ。こんな形で出会うとは思わなかったけど」

「私もだよ。いや、こんな形じゃないと私たちは出会えなかっただろうね」

 そう思っていなかった。こんな形で出会うことができるなんて。本当は姉と呼ぶべき存在と出会えるなんて。だが、アリシアが言うことも事実なのだ。アリシアが生きていれば、フェイトは生まれることはなかった。両者が並び立つことなど、こんなことがなければありえない現実なのだ。

 ただ、少しだけの偶然が重なっただけ。それがどれだけ低い確率だったとしても今が、今だけが現実だ

「だからこそ、この出会いに感謝しようよ。そして、私のことを想ってくれるなら………行って! フェイト!」

 そう感謝するべきなのだろう。もしも、神という存在がいたとするならば、この出会いに。元来出会うことがなかった姉という存在に引き合わせてくれた存在に。彼女の居場所である兄という存在を与えてくれた存在に。

 彼女ともう出会うことはない。だからこそ、フェイトは彼女を安心させるためにしっかりと微笑みを浮かべた。もう大丈夫なのだと。もう一人じゃないことに気付いた。自分が存在してもいい場所があることに気付いた。もう、この暗闇すら必要なのだと。

「はい、行ってきます」

 そう言いながら、もう必要ないこの空間から脱出するために久しぶりの相棒に声をかける。

「バルディッシュ、行ける?」

 返ってきたのは、何を言っているんだ、と憤るような、あるいは久しぶりの起動で歓喜するデバイスの弾んだ返事だった。

 ―――Yes、Sir!

 瞬間、彼女の身体はバリアジャケットに包まれる。マントを翻し、水着のような黒い服に包まれる。久しぶりの感覚だが、違和感はない。むしろ、充実している。なぜなら、彼女はすでに手に入れているからだ。

 自分が自分でいい場所を。自分がそこにいてもいいと許される場所を。彼の隣に。

「一緒に行ってくれるんだよね?」

 怖がるように、改めて確認するように小さく問いかけるフェイト。もしも、拒絶されたらどうしよう? という小さな恐怖や不安もある。だが、そんな彼女の心の内を知ってか、その恐怖や不安を払拭するような笑みを浮かべて蔵元翔太は口を開く。

「もちろん、僕は君のお兄ちゃんだからね」

 ああ、大丈夫だとフェイトは思った。彼の隣なら自分は自分でいられると、フェイト・テスタロッサは、フェイト・テスタロッサ足りえると確信することができた。だから、フェイトはフェイト・テスタロッサを始まるために、そのための最初の障害となるこの場所から脱出するために魔力を高める。

「行きますっ!」

 彼女は飛翔する。ここから、自らを閉じ込めていた檻から抜け出すために。その向こうに広がる光が広がる世界に飛び立つために。

 自らが持つ魔法で、フェイトがアリシアだと認められなかった最大の原因をもって、アリシアである呪縛から抜け出すようにフェイトはそれを使って、黒い檻から飛び出す。いつの間にか空いていた小さな罅はフェイトの魔法で大きく広がっていた。あそこから脱出すれば、おそらくはこの空間から抜け出せるだろう。

 そして、それは同時に彼女―――アリシアとの別れを意味していた。悲しいと言えば、悲しい。だが、本来はありえなかった邂逅だ。この空間の寿命が短いことも理解している。だが、だが、それでもありえなかった邂逅を少しでも長くするために脱出する直前に今もあの空間にとどまっている自分と瓜二つの存在をその視界に収めた。

 彼女は自分に気付くと小さく手を振って笑っていた。まるでそこには別れがないように。気にするな、と言わんばかりに。そして、お互いに目があった直後に、フェイトに念話の様に声が響いた。

「ああ、フェイト、忘れないように持って行ってね」

 念話を通して、それはフェイトとアリシアしかわからない絆ともいうべきライン。それを通して、フェイトへ何かが流れてくる。それは決して不快なものではなく、温かく心安らかなものだ。

「わたしでもなく、フェイトでもない蔵元アリシアが短い間に感じていた大好きという感情だよ。例え、あなたの虚像であってもあなたであることには変わりないんだから、持っていきなさいよ」

「―――ありがとう」

 ああ、確かにそれは捨てられない。フェイトでなくても、フェイトだったのだ。虚像と言えども感じていたのは自分なのだ。ならば、翔太の妹になろうというのであれば、そこを自分の居場所なのだと、自分の存在意義はそれだというのならば、きっと兄が大好きだという先輩の感情は邪魔にはならないから。だから、フェイトは礼を言う。

 それにアリシアが満足そうにうなずいたのを見て、フェイトは今度こそ、アリシアから視線を外して前を見る。目の前には、暗闇の隙間からあふれる光があった。フェイトが生きていく世界。自分の居場所がある世界。自分が許される世界なのだ。

 ―――さあ、フェイト・テスタロッサを始めよう。彼の隣で。


つづく





















あとがき
 イメージ『fly me to the moon』.



[15269] 第三十二話 裏 後 (クロノ、リィンフォース、グレアム、リーゼロッテ、なのは)
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2014/01/05 10:39



 クロノ・ハラオウンは時空管理局に与えられた執務官室の中で一人、目をつむって何かが起こることを待っていた。

 リーゼアリアとリーゼロッテによって閉じ込められてからかなり時間がたとうとしていた。闇の書の封印の計画はもう最終段階まで進んでいてもおかしくはない時間帯だ。

 本音を言えば焦燥が募る。しかしながら、いくら慌ててもクロノができることは全くと言っていいほどない。この状況を打破するための一手が足りないのだ。ならば、その一手が出てくるまでは体力を温存し、すぐに動けるようにしなければならない。

 クロノはグレアムが言うことも少しは理解できた。確かに、グレアムの策は対処療法にしかならないとしても、有効な一手であることは認めなければならない。だが、だが、それでも、それでも、だ。クロノは誰かが犠牲になる策を認められない。

 それを認めてしまっては自分は執務官という地位にはいられないだろう。

 ただ救えばいいというわけではない。ただ護ればいいというわけではない。求められるのは最善なのだ。誰も犠牲にせず、何も失わないい結末を望まなければならない。それが理想だということは知っている。強硬派が知れば、夢想だと鼻で笑うだろう。だが、それでも、それでも、クロノは理想を追い求める。理想すら追い求めることをやめてしまえば、その先を望むことができないからだ。

 グレアムがそれを理解していないわけがない。何が彼の信念を曲げてまでこのシナリオを描かせたのだろうか。責任感だろうか、後悔だろうか、贖罪だろうか。クロノにはわからない。わからないが、それを気にすることはできない。分かっていることは止めなければならないということだ。

 犠牲になろうとしている八神はやてのためにも、グレアムのためにも。

「……そろそろ、来てもおかしくないのだが」

 クロノは壁に掛けられた時計を見ながらひとりごとのようにつぶやいた。

 こうなるかもしれない、何らかの方法で手が出せないようにされるかもしれないということは、どこかで予想していた。可能であれば、そんなことにはならないでほしいとは願っていたのだが。

 そんな自分の懸念が当たってしまい、残念に思っている中、不意に頑なに閉じていた扉がシュンという短い音を立ててあっけなく開かれた。執務官の執務室が並ぶ機密性の高い区画にあるクロノの執務室を訪ねられるのはごく一部の人間だけだ。

”常に最悪を想像しろ。現実はそれを容易く超えてくるぞ”

 それは、彼の師であるギル・グレアムの言葉である。執務官になったときに言われた言葉だ。長年、英雄と言われ最前線を生きてきた提督の言葉だ。そんな言葉をクロノは蔑にすることはなかった。

 ―――提督、どうやらあなたは僕が想像した最悪を越えることはできなかったようです。

 クロノが想像した最悪とはつまり、自身がこの作戦から外されてしまうことだ。しかし、グレアムが考えていたのは、自らの後継者としての役割。つまり、この作戦の完了をもって最大の功績をもってして完了する。つまり、彼はクロノをこの作戦から外すことはできない。

 そして、それがギル・グレアムの限界だとしたら、この勝負はクロノの勝利だった。

「クロノさん、大丈夫ですか?」

 開いた扉から飛び込んできたのは、蜂蜜色のショートカットの髪を持つともすれば、少女とも見間違えかねないクロノの助力者である少年―――ユーノ・スクライア。そして、その少年の少し後ろにはセミロングともいうべき亜麻色の髪を持った少女だった。彼らがクロノにとっては、切り札の一つだった。

「まあ、身動きはできないが、なんとか無事だ」

 余裕を見せるように肩をすくめ、苦笑しながら心配そうに飛び込んできたユーノに応える。

 クロノはあらかじめ、彼らに自分の位置を示すマーカーを渡しており、それがこの日のこの時間になっても時空管理局内部にあった際に救助を頼んでいたのだ。エイミィに頼まなかったのか、彼女の場合、グレアムたちに見破られる可能性がないとはいえなかったからだ。その点、まだ関わりが少ないユーノ―――その付添である彼女であるならば、可能性はゼロに近いと言えるだろう。

 クロノにかけられた拘束をユーノの手を借りて解いてもらう。もともと知っていたことではあるが、ユーノという少年は無限書庫の検索のほかにも結界やバインドといった補助系の魔法に造詣が深い。だから、クロノ一人では解けない拘束もユーノと協力すれば、十分に解くことができるのだ。

 数時間ぶりに自由になった身体をほぐしながらクロノは、ユーノに問いかける。

「ところで、例のものは―――」

 そう、クロノが自由になるだけでは不十分なのだ。この作戦を実行するためにはもう一つのピースが必要となっていた。それが見つからない以上は、意味がなかった。

 そして、ユーノはクロノからの問いに答えるようにクロノの目を見ながら強く頷いた。

「本当に驚きましたよ。無限書庫―――ありとあらゆる書物を収集した無限の書庫というのは伊達じゃないみたいですね。どうにか見つけることができましたよ。古代ベルカ時代、まだ闇の書が夜天の書だったころの設計図を」

 本当に、どこかの遺跡よりも攻略が難しかったです、と愚痴の様に零すユーノ。無理もない。無限書庫というのは一切、整理がされていない図書館だ。せいぜい、年代順に並んでいることぐらいだろうか。しかし、それはまるで床から本を積み上げてきたようないびつさだ。その中からたった一つの目的のものを探し出す。それが如何に困難なことか、クロノには想像することしかできない。

「有難い。この事件が終わった後の報酬は期待しておいてくれ」

「そうさせてもらいますよ」

 クロノの言ったことが冗談とでも思ったのだろう、ユーノが苦笑しながらクロノの言葉に応える。クロノとしては、ユーノたちの頑張りには目に見える形で応えるためには報酬という形しか思いつかなかっただけなのだが。

 何か勘違いしていそうなユーノに何か言うことを考えたが、今はそんなことをしている余裕はないことはわかっていた。なぜなら、もう作戦は始まっているのだ。一人の少女を犠牲にした世界を救う作戦が。

「それじゃ、行こうか」

 ―――たった一人の少女を救うために。そして、ついでに世界を救うためにクロノは部屋から走り出した。



 ◇  ◇  ◇



 戦況は一言でいうと停滞していた。

 シグナムの斬撃が、ヴィータの鉄槌が、ザフィーラの拳が、シャマルのバインドが、そして、なのはの砲撃が竜を落とす。だが、直後に空いた穴を埋めるように竜がすぐさま召喚される。まるでイタチごっこだ。

 事態を打開できないことに業を煮やしたなのはが竜たちの間を抜けるように突貫し、超近距離による砲撃を試みるも、竜たちの密度が高く、また同時に闇の書本体からの攻撃も加わったことにより、不発に終わった。

 もちろん、打開策としては、なのはのJSシステムを使った最大砲撃があげられるが、翔太が闇の書に捕まったままの状態で実行できるはずもなかった。オーバーキルというのも考えものである。ゆえになのはが取れる方策としては、竜たちを乗り越え、闇の書に近距離で砲撃を喰らわせることである。

 しかし、それは実行困難と言わざるを得なかった。騎士たちの力を借りたとしても、竜たちの密度は高いものであるし、どういう原理なのか闇の書はほぼ無限と言わざるを得ないほどに竜たちを呼び出せるのだ。竜という最高位の壁を持つ闇の書はただでさえ厄介というのに、彼女自身も動くことができるのだ。

 しかも、動きの基本としては逃げに近い動きをする。こちらを積極的に排除するわけでもなくただただ時間が過ぎるのを待っているようにも考えられる。

 普通に考えれば、我武者羅に攻めることが無駄だとわかるだろう。だが、それでもなのはは諦めなかった。諦められなかった。

 なぜなら、ここで諦めるということは、翔太を諦めるということと同義だからだ。それは、なのはにとってはありえないことだった。

 なのはが心の底から望んだたった一人の友達。彼を諦めるということはありえない。諦めてしまえば、その瞬間、なのはは彼の友達である資格を失うような気がしたからだ。そうならば、またなのははまた一人だ。

 あの孤独で、暗く、静かな時間。なのはが思い出したくもない時間だ。また、そんな状態に戻る。それだけは、それだけは、なのはは心の底から拒絶していた。

 だから、なのはは諦めない。諦めない限り、希望があるというのなら、希望を引き出せるというのなら、なのはの中から撤退の二文字は存在しなかった。

 一進一退の攻防がしばらく続く。なのはの行動をあきらめが悪いとネガティブに見るのか、あるいは希望を捨てないとポジティブに見るかは人に寄るだろう。もっとも、なのはにはそんなことは関係ないのだが。

 やがて、不意に何かをあきらめたのだろうか、なのはの何度目かの突撃の後に急に竜たちが背後に引き始めた。代わりに前面に出てきたのは闇の書だ。それを好機と見るほどなのはたちは愚かではない。ヴォルケンリッタ―たちはいささかも油断せずに武器を構えたままなのはのやや後方に控えた。

 片やAランク以下の魔法を無力化する次元世界でも最強種を誇る竜を数百と従える闇の書と片や数百年に及び闇の書を守護する騎士として人としては及びつかない技量を会得し、さらにジュエルシードによって無限ともいえる魔力を手にしたヴォルケンリッタ―を従える高町なのは。

 彼女たちが数十メートルの距離を置いて向き合う。ともすれば、大将同士の一騎打ちにも見える光景だった。

「問おう。私と対等に戦うものよ。なぜ、私と戦う? そなたにもわかっているだろう? 私と戦ったところでこの流れは止められない。結末は一つだけだ」

 その問いはユニゾンデバイスで人と近い感性を持っていながらも、やはりデバイスであるからこそ出た問いなのだろう。リィンフォースには彼女が何のために戦っているのかわからなかった。この先の展開が―――闇の書の暴走による終焉が決まっているのになぜ彼女は逃げないのか、と。

 そんなリィンフォースの無神経な質問は、なのはの内の中で沸々と燃えたぎる怒りの炎に油を注いだだけだった。

「なんのため? あなたがそれを言うの?」

 まるで他人事のように言うリィンフォースに向けられた怒りは、会われ、彼女の周りに召喚された竜たちへと八つ当たりのごとく砲撃の嵐として振りまかれた。その一撃で堕ちた竜の数、その戦闘の中最大だった。

「決まってる! ショウくんのためだよっ!!」

 そう、翔太のためでなければ、なのはが戦う理由などない。唯一の友人である翔太が、助けてというから、彼がリィンフォースにとらわれているから。だから、だから、なのはは戦うのだ。それ以外に、それ以上の理由はなのはにはなかった。

「………そうか」

 なのはのAAクラスの砲撃で次々と竜を落としていくのをしり目にリィンフォースは何を思ったのか、重々しく頷く。その頷きに意味など考えられないが。

「ならば、返そう」

 その意外ともいえる一言になのはは一瞬だけ耳を貸した。貸してしまった。動きが止まることはなかったが、意識は闇の書の彼女へと向けていた。

「あの少年が返れば、あなたが戦う理由はなくなるはずだ。私はこれ以上あなたに邪魔されたくない。だから、返そう」

「………本当に?」

 なのはにとって目的の一番は翔太だ。八神はやての救出は確かに翔太が望んだことではある。だが、それでも、それでも何よりも優先されるのは翔太の安全なのだ。だから、それが嘘かもしれない、という危機感を持ちつつもなのはは闇の書の言葉に耳を傾けざるを得なかった。

 なのはの返答から好印象を得られたと思ったのだろうか、微笑みを強くした闇の書は今まで竜たちを指揮していた動きをなのはからやや離れたところで止め、ついでに竜たちも彼女の後方へ退避させた。

 彼女のやや不可解な動きになのはも警戒し、竜たちが退避させるのに合わせてヴォルケンリッタ―たちを自分たちの近くへと退避させる。

 なのはは彼女の言葉が信じられなかった。どうして、一度手に入れたものをそう簡単に手放そうとするのかと。だが、その一方で翔太を返してもらえるという言葉を無視することはできない。その甘言が罠である可能性があるとしても、一方でわずかでも可能性があるというのなら、それは――――

「―――わかったよ。だから、ショウ君を返して」

「承知した」

 簡潔な言葉のやり取り。もともと敵同士なのだ。無駄なやり取りは必要ない。リィンフォースはなのはに戦場から脱出してほしく、なのはは翔太のために戦っている。ならば、問題はない。

 リィンフォースが集中するように目をつむる。その両手は何かを生み出すように目の前に突き出される。もしも、ここで砲撃魔法でも打ち出されれば、なのはに直撃することは間違いない。もっとも、なのはもそれを警戒し、防御魔法を展開できる準備をしている以上、リィンフォースが打ち抜けるはずもないのだが。

 やがてリィンフォースからやや離れた場所に黄金色に輝く光が集まる。それは砲撃魔法の様に球を描くわけではなく、ゆっくりとではあるが、人型を描いていく。大きさは変身前のなのはとほぼ同等だ。それらの光が完全な子供の人型を作った瞬間、光がはじける。

 まるで光の膜を破ったようにはじけた光の膜の中にいたのは、なのはもよく知る姿。なのはがもっとも望んだ彼の姿。眠っているように眼を閉じ、聖祥大付属小学校の男子の制服に身を包んだ彼は消えた直後とは異なるが、それでも確かに彼だった。

「―――ショウ君」

 目の前にずっと望んでいた彼の姿を確認することができて、なのははつぶやくように彼の名前を口にしながら、伸ばした手で彼を望むようにふらふらと彼に近づく。その名前を呼ぶ声に反応するようにリィーンフォースが作り出したと思われる光の膜の中から現れた翔太はゆっくりと目を開く。

 彼は自分の置かれた状況を確認しているのか、ぱちぱちと目を瞬かかせ、やがて目の前でゆっくと自分に近づいてくるなのはを視界に入れたのか、安心したように微笑むとゆっくりとその小さな唇を開いた。

「―――あ、なのはちゃん」

 彼が彼女の名前を呼んだ瞬間、なのははゆっくりと近づいていた歩みをぴたっと止める。

「どうしたの?」

 彼は不意に近づいてくるのをやめたなのはを不審に思ったのか、今まで笑っていた表情をひそませ、小首をかしげ、問いかける。だが、そんな彼の問いになのはは答えず、ただ俯いて何も言わない。

「ねぇ、なのは「黙れ。贋物」

 ―――Divine Buster

 なのはからの返答はさらに名前を呼ぼうとした彼の声に被せるように、有無を言わせぬ迫力をもって返された。直後にすっ、と持ち上げられたレイジングハートから放たれたのはなのはが得意とする砲撃魔法。その威力は推して知るべし。

 予備動作もなく、クイックドローのように打ち放たれたディバインバスターは翔太の姿をした彼に反応を許さず、その姿を桃色の魔力光の奔流に飲み込まれた。そのあとに残ったものは何もない。翔太の姿をした彼は、その桃色の魔力光に飲み込まれ、影すら残さなかった。

「なぜ気付けた?」

 目の前で人が消えたというのにきわめて不思議そうに抑揚のない声でリィンフォースがなのはに問いかける。そんな自らの行いに何も感じていないリィンフォースに対して、なのはは怒りの形相で自らの思いのたけを叫ぶ。

「わかる。わかるよっ! だって、ショウ君とは見た目以外全部違ったっ! 呼吸のリズムも、首の傾げ方も、飛行魔法の使い方も、私の名前の呼び方もっ! それに―――ショウ君が私の名前を呼んでくれたら、それだけで嬉しくなるのに、あれが私の名前を呼んだときは嫌な感じしかしなかったっ! そんなのショウ君の形をした別人だっ!!」

「―――非論理的だ。だが、それが人間なのだろう」

 親の仇でも見るような目つきでリィンフォースを睨みつけるなのはに対して、リィンフォースは不可解というような表情を浮かべていた。

「だが、カーテンコールも近い。少々の戯れも許せ」

「―――許さない」

 レイジングハートを握りしめ、誰もが震えあがりそうな威圧感と怒気を発するなのはに対して、小ばかにするように嗤うリィンフォース。彼女はさらに大舞台に立つ役者の様に、背後に数百に及ぶ竜たちを指揮するように両手を広げる。

「さあ、続きを始めよう。私も負けるわけにはいかない。マスターのために」

 決意のこもったリィンフォースの言葉に反応するように先ほどと同様に集まる光。それはやがて人型を作り出す。先ほどと異なる点はその数だ。3つの人型がリィンフォースの周囲に作られ、光の膜を破って出てきたのは、なのはも知っている顔ぶれだった。

 一つは翔太。一つははやてという少女。一つは翔太の妹になったという忌々しい金髪の少女だ。皆が皆、操り人形のように無表情でそこに佇んでいた。だが、彼らから発せられるのはヴォルケンリッタ―に、竜たちに勝るとも劣らないほどの魔力だ。

「―――行けっ!!」

 それが開戦の合図。

 ―――魔法少女と守護騎士たちの戦いの火ぶたは再び切って落とされた。



  ◇  ◇  ◇



 ギル・グレアムはアースラの中で目の前の刻一刻と変わる戦況を冷静に見つめていた。

 アースラの艦橋に映し出される地球の戦闘状況はまさしく人外魔境だった。ランクAの魔法が縦横無尽に飛び回り、数百という竜たちが群れを無し、Sランクの四人の魔導師がそれを迎え撃つ。遙か古代であれば英雄譚に数えられそうな戦闘ではあるが、それさえも主役たちからしてみれば座興でしかない。

 戦闘の中心は、S級ロストロギア闇の書―――その管理人格たる女性と周囲の三人。それを迎え撃つ一人の少女だ。彼らの戦闘―――いや、それを戦闘と呼んでいいものかグレアムには判断がつかなかった。少なくとも、それはグレアムの知っている戦闘ではなかった。長い管理局生活の中でランクの高いロストロギアと相対することもあった。だが、それでもそれらと真正面から立ち向かうなどという愚行は起こさなかった。調査に調査を重ねて、罠にかけ、封印するのが手いっぱいだ。それは、まるで狩りのようだが、その認識は間違いではない。人ではなく、一つの現象。ならば、それらと真正面から対決することは、余計な被害を生むだけだ。

 だが、その常識に真正面から喧嘩を売るように闇の書と戦う少女―――今は女性だが―――もまた常識から外れているのだろう。

「臨界予想時間まで、残り五分」

「了解した。武装局員に出撃準備の連絡を臨界予想時間一分前に出撃。封印結界の準備を」

 淡々とオペレータが作戦の要ともいえる時間を告げ、それを聞いたクロノの姿をしたリーゼアリアが指令を出す。

 なのはを熱狂的に応援する武装隊の待機室とは異なり、艦橋には緊張感が張りつめていた。目の前のスクリーンには彼らの局員として働いてきた中で見てきた中でももっとも激しい戦闘が行われているというのに。いや、だからこそ、というべきだろうか。これからの作戦はその状況に横やりを入れなければならないのだから。

「提督」

 今までオペレータに指示を出していたリーゼアリアが振り返る。その瞳に映るのははたしてなにか。これからのグレアムの運命を憐れむものか、あるいは、11年前の仇をようやく打てるという期待だろうか。だが、そのどちらでもグレアムは構わないと思っている。どちらにしても自分がやるべきことに変わりはないのだから。

「うむ」

 一言でうなずいた後、スクリーンに映る戦場に背を向ける。これからグレアムも画面越しではない本物の戦場に向かう。思えば、彼が戦場に立つのはいかほどぶりだろうか。指揮官という立場から久しく戦場には立っていなかった。英雄とまで呼ばれたほどの男が、だ。

 だが、それでもこれから戦場に立つのに不安はなかった。ようやく、ようやくという思いだ。それは自分の指揮が失敗してしまい、失ってしまった部下の仇が打てるからではない。彼の脳裏に思う浮かぶのはたった一人の少女。彼のエゴのために孤独を与えてしまった少女のことだ。

 逃げられる、解放される。ああ、なんと都合のいい現実なのだろうか。

 彼女を人身御供としようとしているのに。それでも、それでも、確かに彼女を犠牲にした罪悪感を忘れることはない。だが、彼女が一人で暮らしている姿を見ることはないだろう。寂しそうな顔をしている姿に、胸がズタズタにされるほどの痛みを覚えることはないだろう。

 楽になれると一瞬でも考えてしまった自分が浅ましい。だが、だが、それでも、それらの汚名を傷を負ったとしても、やるのだ。やりきると決めたのだ。そうでなければ、彼女が抱えた孤独感も何もかもが無駄になってしまう。それだけは阻止しなければならない。

「………せめて彼女の次の目覚めでは幸福でありますように」

 彼女が目覚めるころには生きていないであろうグレアムにできることは、次元をまたぐ組織の中で英雄ともてはやされた男ができたのは、情けないことに、ただただ犠牲となる彼女の次の生の幸福を祈ることだけだった。



  ◇  ◇  ◇



『捕縛結界、設置完了。目標への効果―――確認。第一フェーズ完了しました』

 リーゼロッテは祈るような気持ちで前線から次々に上がってくる報告を聞いていた。本来、ここにいたはずのリーゼアリアは、今は結界設置部隊の一人として前線に立っている。グレアムが前線に立たなくなって、リーゼ姉妹も前線に立つ機会はほとんどなく、久しぶりと言ってもいい。それでも、彼女は無事に自分の役割を果たしたようだった。

 実際、三つあるフェーズの一つを超えただけなのに、艦橋では「よしっ!」「やった!」などの歓喜の声が上がっていた。

 当然といえば、当然だ。作戦の成功率はそれなりに高い数値をだしているものの、相手はあまりに悪名高いロストロギア『闇の書』。正直言えば、前線で相対している武装隊員たちは死地に赴いているのと変わらない心情だろう。

 できるだけ練度の高い武装隊員を集めた。熟練度を上げるための訓練期間もとった。やれることはやった、といっても過言ではない。それでも、それでも不安が残るのがロストロギアという厄介な代物なのだ。

 だから、オペレータたちが喜ぶのもわかる。わかるが、残り二フェーズも残っているのだ。ここで気を抜かれては困る。

「気を抜くなっ! これからが勝負だ!」

 クロノ―――中身はリーゼロッテだが―――が一喝すると少しだけ弛緩した場の空気が一気に引き締まる。その様子に満足しながらリーゼアリアは前線を示すモニターから目を離すことなく戦況を見つめていた。

 フェーズは第二フェーズへと移行済み。第一フェーズが闇の書を捕縛結界にとらえることを目的にしたものならば、これからは現状維持が第二フェーズだ。正確には捕縛結界内部にとらえた闇の書の完全に復活する前の魔力が落ち込む瞬間を長引かせるというものだろうか。

 闇の書が完全に覚醒する直前、人が跳躍する前に膝を曲げるように一瞬だけ魔力の落ち込みが確認されている。それは前回の忌まわしき事件で観測された魔力だった。そして、完全に覚醒した状況では無理でも、その魔力量であれば、グレアムがリミットを外した状態で氷結魔法―――時すらも凍らせる魔法を使えば、時空という名の牢獄に闇の書を封じることができることを確認している。

 シミュレーションの結果では上々だった。だが、闇の書を捕縛し、魔力の底を維持し、グレアムが氷結魔法をぶつけるという三つの段階をシミュレーションすれば、成功率は万全とはいえなかった。今回、成功したのは―――

 ―――彼女の手柄だね。

 闇の書が十数人の武装隊にとらわれているのは気付いているのだろう。だが、近衛ともいえる魔術師たちは高町なのはの守護騎士たちによって足止めされているし、襲われればひとたまりもない竜たちは竜滅者≪ドラゴンスレイヤー≫が相手にしている。横やりが入りにくい状況だ。この状況を作ってくれた高町なのはには賞賛を送りたい。

 事態は順調に推移しているといっても過言ではないだろう。捕縛された闇の書は懸命に―――しかし、どこか緩慢に結界から抜け出そうとしているが、十数名からのA級の武装隊。さらには、陣形により魔力を強化している彼らからの捕縛、および魔力封印結界から抜け出すのは並大抵のことではない。

 先ほどの捕縛された瞬間からとは180度異なる緊張が支配された艦橋に響くのはオペレータの闇の書の観測データと―――闇の書が捕縛された映像とは別アングルから映された一人の老人から朗々と発せられる魔法の詠唱だけだった。

『悠久なる凍土』

 目をつむり、氷結魔法専用デバイス―――デュランダルを構えるグレアムから、その表情はうかがえない。しかしながら、その胸中にはどんな感情が渦巻いているのかリーゼロッテにはわからない。

『凍てつく棺のうちにて』

 安堵だろうか、後悔だろうか、懺悔だろうか、しかし、それがどのような感情だとしても、終わりを告げる瞬間は近づこうとしていた。その引き金を引くのは間違いなくグレアムだ。

 己の意志で決め、己の力で事を進め、そして己の手で決着をつける。どのような結果だったとしても、すべてグレアムが背負うために。

 悲しみも、怒りも、懺悔も、すべて、すべてグレアムが持っていく。その覚悟をもって、あの老人はそこに立っている。賭けるものは決して少なくない。己が名誉、己が名声、己が命。すべてを賭けているのだから。だが、それをグレアムは後悔しない。あの小さな小さな少女の犠牲を無駄にしないために。

 その集大成の時間が近づいてきていた。

『永遠の眠りを与えよ』

 最後の詠唱が終わった。

「第二フェーズ終了っ! 総員っ! 退避っ!!」

 そのリーゼロッテの命令に従って一気にその場を離脱する武装隊員。しかし、その捕縛結界がすぐさま離散するようなことはない。少しの間ぐらいなら持つような術式はすでに仕込んである。仮にそれが闇の書によって破られる時間が刹那の時間だったとしても、グレアムたちにとっては問題なかった。

 なぜなら、すでに引き金に指はかかっているのだから。

『凍てつけっ!!』

 Eternal Coffin―――とデュランダルから発せられた無機質な音が艦橋に響く。

 画面の中の変化は一瞬だった。闇の書が捕縛されていた地点を中心としてパキパキという音とともに空間が白に支配される。

 ―――極大氷結魔法、エターナルコフィン(Eternal Coffin)

 広域殲滅魔法ともいえる魔法。空間、時すら凍らせるランクSの魔法である。魔力のリミッターを外したグレアムと氷結魔法に特化したデュランダルから発せられたその魔法は、まさしく極大氷結魔法の名前に劣らない効果を生み出していた。

 まず凍ったのは海面だ。次に闇の書がいた空間の空気。それらが凍り始めた瞬間から白い霧のようなものが発生していた。その中心にいるのが闇の書だ。闇の書が捕縛された空間ごとの氷結魔法。それがこの作戦の集大成。もはや分子レベルで動くことを許されなくなったそれは、まさしく封印といって過言ではないだろう。

 ほぼ成功を確信している艦橋。だが、それでも相手は闇の書だ。歴代のロストロギアでも最悪と呼ばれるものだ。油断はできない。

 誰かのゴクリと唾をのむ音がやけに大きく聞こえた。

 今は究極ともいえる氷結魔法の余波により観測機器類も効かない。戦況がわかるのはもう少し時間がかかるだろう。あるいは、霧が晴れるほうが先か。そんなことを考えている間にゆっくりとエターナルコフィンの余波から状況が回復しようとしていた。

「計器類回復しましたっ!!」

「状況はっ!?」

 目視で確認するよりも計器の回復のほうが早かったようだ。早鐘を打つ胸を押さえながらリーゼロッテは急かすようにオペレータに状況を確認する。作戦の直前まで冷静だったクロノ(リーゼロッテ)の声が急かしていることが意外だったのか、オペレータは急いで計器の数値を確認する。

「は、はいっ! エターナルコフィンの魔力余波を除外、闇の書の魔力反応―――っ!?」

 驚いたようなオペレータの気配が感じられ艦橋がざわつく。リーゼロッテも、まさか………、と一抹の不安に襲われながら次のオペレータの言葉を待った。やがて、意を決したようにオペレータが次の言葉を発する。

「闇の書の魔力反応健在。エターナルコフィンによる封印術式―――存在せず」

「バカなっ!?」

 失敗―――その二文字がリーゼロッテの脳裏をかすめる。

 だが、だが、なぜだ。直前までは成功だった。間違いなく作戦は成功だと思った。グレアムの魔力が足りなかったとは思えない。ならば、その他に原因があるとでもいうのだろうか? だが、だが、リーゼロッテには思いつかない。ただただ、胸の中にあるのは焦りだけだった。その焦りは艦橋にも、前線にも伝搬しつつあった。

『バカな、と驚くよりも先にやることがあるんじゃないのか?』

 なぜ、なぜ? と理由を探していたリーゼロッテの思考に割り込むように艦橋に響いてきたのは呆けているリーゼロッテをいさめる声。であると同時に聞こえるはずのない声だった。艦橋も更なる混乱に陥っていた。なぜなら、艦橋に響いてきたのは、彼らの目前で指揮を執っているはずのクロノ・ハラオウンと同じ声だったのだから。

 まさか―――と、思い、後方の艦橋の入り口に目を向けてみれば、ちょうど出入口の自動ドアが開く瞬間だった。

 開いたドアの向こう側にいたのは二人の少年。バリアジャケットに身を包んだ本来はここにいるはずの人間―――クロノ・ハラオウンと彼の協力者であるユーノ・スクライアだった。

「ギル・グレアム提督、リーゼロッテ、リーゼアリア。君たちは時空管理局の指揮権を著しく犯している。大人しく投降してもらおうか」

 突きつけられたS2Uには刃向う気力をリーゼロッテは残していなかった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、胸の内に存在している怒りの炎を持て余しながら空を駆けていた。

 彼女の胸の中にある怒りの原因は、先ほどのリィンフォースから差し出された翔太の贋物に起因するものである。

 最初、翔太の姿を視界に収めた時はうれしかった。ようやく、翔太が自分の元に返ってくる、そう思えたから。だが、それも本当に一瞬の間だけだ。すぐさまその歓喜は絶望へと染まる。贋物の翔太がなのはの名前を口にした瞬間から。

 仮に翔太が本物ならば、名前を呼ばれただけでなのはの心は温かくなったはずだ。だが、それに名前を呼ばれた時、なのはの胸に宿ったのは、どうしようもない不快感だった。同じような何かかから同じような口調で名前を呼ばれる。その時の感情は昏く、筆舌にしがたい嫌悪だった。だから、二度目の名前を発しようとしたそれを問答無用でぶっとばしてしまった。

 よくよく考えてみれば、それは翔太とは似ても似つかないものだった。姿だけならば、似せられたかもしれない。しかし、存在そのものは似せられなかったということなのだろう。それは写真に写るだけならば、なのはを騙せたかもしれない。しかし、喋ってはダメだ。動いてはダメだ。魔法を使ってはダメだ。呼吸をしてはダメだ。それらの動作すべてが翔太とは異なるのだから。

 なのはは許せなかった。それは贋物の翔太でなのはを騙そうとしたことではない。その程度の贋物でなのはを騙そうとしたことだ。

 その程度の贋物しか用意できなかったのか、あるいはその程度で十分だと思ったのか、どちらかはなのはにはわからない。だが、騙せると思ったのであれば、それは見くびりすぎている。軽く見すぎている。なのはの翔太への想いはその程度で騙せるほど軽いものではないのだから。

 なのはは、今、胸を焦がしている怒りを鎮めるために闇の書の近づこうとしていたが、竜たちが邪魔をしてきてなかなか近づけなかった。相手もなのはを近づければ危険であることがわかっているのだろう。執拗ともいえる妨害だった。

 闇の書が召喚した竜たちとは異なる騎士たちは、闇の書の守護騎士たちをぶつけている。毒を以て毒を制すではないが、良い案だった。実際、彼らは互角の勝負をしている。

 そうこうしているうちに戦況に変化があることになのはは気付いた。気付けば、闇の書の周囲を武装隊が囲んでいる。今更、何のつもりだろう? となのはは思ったが、その解答は自らの愛機から示された。

『Master! They will seal by freezing magic with Shota』

「っ!?」

 彼らが何をやろうとなのはには関係ないことだ。彼らが闇の書を倒そうとも、周囲の竜たちを駆逐しようとも、それはなのはの手間が省けるだけの些末なことだった。そう、翔太が関係しなければ。だが、彼らはどうやら触れてはいけない領域に手を入れようとしているようだった。

「――――止めるよ」

『Yes, My Master』

 翔太が関係しているならば、なのはは全力でそれを阻止する。たとえ、相手が時空管理局であろうともだ。翔太に勝るものはなのはの中にはなかった。愛機であるレイジングハートもそんな彼女の意志を受けて打てば響くように返事をする。

『JS System start From I to XV』

 ジュエルシードを使ったシステムを起動させる。今回は使えるジュエルシードをすべて投入している。今までは翔太が巻き添えになることを警戒して使わなかったJSシステムだが、現状を止めるためならば使っても問題はない。そして、JSシステムを起動した以上、まとわりついてくる竜たちなど障害ではなかった。

「アクセルシュータ―」

 なのはの声に従って魔法が起動する。彼女が使った魔法は普通のアクセルシュータだ。だが、その数が多すぎる。通常であれば、八つもあれば制御しきれるかどうかだが、なのはが顕現させたスフィアの数はそれを十倍しても足りるかどうかである。だが、その数を顕現させてなお、なのはは表情一つ変えなかった。

「シュート」

 顔色一つ変えず発せられるスフィアの発射合図。それらはまるで最初から獲物を定めているように竜たちに向かって放たれる。スフィアはまるで獲物を求めて走る狩人の様に一直線に空間を駆け抜ける。竜たちは回避行動をとりはじめるが、ただただ遅い。遅すぎた。彼らが魔法を近くしたときには、なのはと自分たちの格差を本能で悟ったときには、彼らの目前には魔力光による桃色のスフィアが迫っていたのだろうから。

 最初のアクセルシュータから次々とスフィアを顕現させ、竜たちが存在する空を鎧袖一触の強さで駆け抜ける。

 その存在に気付いていいはずの時空管理局も今は作戦に集中しているのか、あるいはなのはの速さに計器が追い付いていないのか誰も気づいていない。

 もっとも、なのはにとっては気付いていようが、気付いていなかろうがやることは変わらないのだが。

 一直線に囚われた闇の書に向かったのが正しかったのだろう。上空に浮かんだ老人から魔法が発せられるのとなのはが闇の書の周囲に防御魔法を張ったのはほぼ同時だった。

 たとえ、彼から発せられた魔法が彼の人生をかけた極大の氷結魔法であろうとも単騎で時空震を起こせるなのはの魔力量で張られた防御魔法が勝負すれば、その勝敗は火を見るよりも明らかだった。なのはの張った防御魔法の周囲はパキパキという音を立てながら凍っていく。しかし、なのはの周囲は何の変化もない。完全に魔法を防げている証拠だった。

 幾ばくかの時間が過ぎて、ようやく周囲が晴れてきた。周囲に見えるのはこちらの様子を窺うように一定の距離を置いた武装隊とその上空に浮かぶ杖を握りしめて、その形相に失望の色を宿した老人が一人だけだった。

「お、お前っ! 何をやってる!?」

 上空の老人が声を絞り出すようになのはに向かって叫んでいた。その声には必死さを感じられる。おそらく、老人にとっては大事なことだったのだろう。だが、なのはにも看過できないことがあったのだ。

「………ショウ君を守ったの」

 そう、彼は翔太ごと氷結魔法で闇の書を封印しようとした。それは、それはなのはにとって許されないことだ。だから、防いだ。ただそれだけなのだ。だが、そんな簡単なことにもかかわらず老人はどこか衝撃を受けたように驚愕の表情を浮かべていた。

 しかしながら、そんなことはなのはには関係のないことだ。上の老人は放っておいて、それよりも翔太のことだ。

 そういえば、背後の闇の書が静かだな、と思いながら振り返ってみればすでに拘束が解かれた闇の書が、ただただその場に立っていた。その眼には輝きがない。だが、その一方で彼女が身にまとう魔力は明らかに上昇していた。しかし、動きはない。不思議に思い、なのはがどうしたのだろう? と小首を傾げたところで、動きがあった。

『あ、あの………私の声が聞こえますか?』

 発信源は間違いなく目の前のリィンフォースだ。だが、その一方で声はなのはが聞いた声とは違っていた。どこかで聞いたことがある、となのはが記憶の中をあさってみたところ、ごく最近聞いていたことを思い出した。

「八神はやて?」

『え? た、高町さん? お、お願いがあるんや。なんとか、その子を止めてる? 何とかシステムとは切り離したんやけどな、その子が表に出とると管理者権限が使えんのや。今、表に出とるんは、防御プログラムだけやから―――』

 どうやら今、闇の書が動かないのは中の八神はやてが何かを行った結果らしい。確かに、今の闇の書からは先ほどのような意志は感じられない。かろうじて立っているが、それだけだ。

 しかし、止めろ、と言われてもどうやって止めていいものか、なのはには皆目見当もつかない。そもそも、それが翔太の救出につながるかもわからないのに。

 ―――高町さん、聞こえますか?

 さて、どうしたものか? と悩んでいるなのはのもとに魔法による通信が入った。今まで何も干渉してこなかったのに? と困惑しながらもなのはは、その声の主―――ユーノに耳を傾ける。

 ―――彼女が言っていることが本当だとすれば、止める方法があります。防御プログラムだけが表に出ている今なら魔力ダメージだけを与えてください。それで防御プログラムはとまるはずですっ!!

 なるほど、となのはは思った。言いたいことはわかった。だが、それは翔太の救出につながるのだろうか?

『Master,he is right. Master helped Shota in this way』

 なのはの疑念を読み取ったのかレイジングハートが答える。相棒が言うのだから間違いないだろう。何より、今までレイジングハートは間違えることはなかった。それは今回も同じだろう。つまり、今からやるべきことは最初からレイジングハートとともにやろうとしていたことと何ら変わりないのだと。

「いくよ、レイジングハート」

『All right』

 愛機からの返答は簡潔なものだった。そんな相棒を頼もしく思いながらなのははレイジングハートを構える。周囲の武装隊員たちは先ほどの話が聞こえていたのか、邪魔するつもりはないらしい。もっとも、止めようと思っても止められるはずもないので、なのはからしてみれば無用の心配ではあったのだが。

「ディバイン―――」

 放つ魔法はなのはが持ちうる魔法の中でも信頼がおける魔法。ただし、JSシステムで強化した今、全力で放てば魔力ダメージだけと言えども過剰だ。そのため、威力はレイジングハートに任せている。

 なのはの掛け声に合わせてレイジングハートの先に環状魔法陣が取り巻く。やがて集まる魔力。その魔力の大きさはなのはの現在の身長のやや半分といった程度だろうか。その魔力に込められた威力は魔力ランクSの魔導士が全力を振り絞るよりも多い。もしかしたら、SSでも出せないかもしれない出力だった。

 そんな魔力を悠々と扱いながら、なのはは眼前の目標へ向けて引き金を引く。

「―――バスターっ!!」

 なのはのキーワードを受けて発射されるディバインバスター。そのなのはの身長の半分ほどであった魔力は、放たれると同時に闇の書の管理人格そのものを呑み込むような大きさとなり、光の奔流として闇の書を飲み込んでしまった。通常であれば魔力ダメージであるため体に異変はないはずである。もっとも、これだけの威力を防御魔法もなしに受けた場合にはリンカーコアに異常が発生してもおかしくはないのだが。

 実体にはダメージを与えないはずの砲撃は、闇の書の身体に直撃した直後からダメージを与える。最初は足、次は手と言ったように体の先から少しずつ、桃色の魔力に飲み込まれるように姿を消していく。ほぼ無限とも思われた魔力から発せられた砲撃が終わるころには、そこに残ったものは何もなく、ただ静寂だけが残っていた。

 ―――だが、変化は次の瞬間に訪れた。

 ドカンと空気を震わせる衝撃。それは、まるで何か重いものが落ちたような衝撃。いや、実際に落ちていた。眼下に広がる海上に落ちていたのは大きな繭。そうとしか形容しようがないドーム状の黒い何かだった。なのはの周囲に展開された武装隊たちはそれに気づいて動揺したようにお互いの顔を見合わせていた。

 しかも、その繭が存在すると同時に海上にも変化が現れた―――具体的には海面から岩がせり出してきた―――のだから仕方ない。

 だが、あまりに大きな変化が表れている一方で、なのははそのようなものには一切目を向けていなかった。なぜなら、なのはにはそんなことよりも優先するべきことがあったからだ。そんな些事よりも優先しなければならないことがあったからだ。

「ショウくんっ!!」

 繭が現れるのと同時期にまるで空間から割って出てきたとしか言いようがないような登場の仕方だが、翔太が再び姿を現していた。

 翔太の姿を視界に映したなのはの行動は速かった。今までいた位置から一直線に飛行魔法を使って飛ぶ。翔太の隣には妹であるアリシアの姿もあるのだが、すでになのはの視界に映っているのは翔太だけだった。

 それが功を奏したのか、なのはは自分の腕の中に翔太を抱きかかえることに成功する。

 うぷっ、と少し苦しそうな声を出したような気がするが、なのははそんなことを気にしていなかった。今はただ自分の腕の中にある翔太の存在を満喫したかった。翔太の体温、呼吸、匂い、感じられるすべてから翔太という、自分のたった一人の友人という存在を感じたかった。

 ―――ショウくん………

 ぎゅっ、と胸の中の大事な大事な宝物を守るように力を込めるなのは。彼女にとっては、今の時間がただただ幸せだった。



つづく





















あとがき
 純粋な感情はどこまで伝わるのだろうか?



[15269] 第三十三話 前
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2014/08/09 21:14


 その場にいた全員が海面上に現れた黒い繭に目を向ける。

 ユーノくんの言葉を借りるのであれば、あれが今回の事件の元凶である闇の書の闇らしい。しかしながら、その大きさは巨大だ。かなり距離が離れているにも関わらず、相当大きいことだけはわかる。闇の書という本サイズの大きさにも関わらず、あんなものを内包しているというのだから、やはり魔法とはすごいのだろう。

「先ほど説明があったようにあれが闇の書の闇だ」

「正確には、闇の書―――正確には夜天の書と呼ばれた魔法蒐集型ユニゾンデバイスをロストロギアへと仕立て上げた巨悪の根源。闇の書へと至らしめた防衛プログラムが顕現化した姿だけどね」

 ユーノ君が捕捉するように説明する。

 今、僕たちは海上にいた。もっとも、海の上に直接立っているわけではなく、海面から突き出している岩場の上に立っているのだが。立っているのが僕とフェイトちゃん。そして、魔法で空を飛んでいるのがクロノさん、ユーノ君、そして、なのはちゃんだ。

「さて、あれをどうにかしなければならないわけだが………」

 そういってクロノさんが、言葉を区切る。言いたいことはわかるつもりだ。つまり、何とかこの状況まで持って行けたのはいいけど、これから先を考えていなかった? いや、どちらかというとクロノさんたちもこの状況まで持って行けるとは考えていなかったのだろうか?

 本来であれば、はやてちゃんをあの状況から回復させて―――って、あれ?

「はやてちゃんは?」

 すごく今更だった。闇の書になっていたリィンフォースさんはいないわけで、残っているのは怪獣映画にも出てきそうなほど強大な闇の書の闇。その宿主であるはやてちゃんの姿がどこにも見られない。

 きょろきょろと僕が周りを見渡していた時にそれらは起きた。

 突如、何かが爆発したような音が大気を震わせる。びりびりとした空気を浴び、その中心地と思われる場所にその場にいた全員が目を向ける。黒い、例の巨体が浮かぶ場所から少し離れた何もない海の上空に存在していたのは、光の柱ともいうべきものだった。少しだけ膨らんだ場所を起点として、空と海を貫くように伸びる光の柱。それが物理的なものではなく、魔法的なものだと直感的に理解するのは容易だった。同時に、思い当たる節はたった一つしかない。

 やがて、光の柱は少しだけ膨らんだ部分を中心として少しずつ光を珠の中に収めていく。そして、光が完全に球状になったかと思うと、徐々に小さくひびが入り、中から光が漏れてくる。やがて、ひびは球体全体を覆いつくし、内部から卵の殻を打ち破るようにして中身が露わになった。

「はやてちゃんっ!?」

 球体の中から出てきたのは、白と黒を基調としたどこか守護騎士と言われていた人たちと似たような恰好をし、その手には不思議な杖を持ったはやてちゃん。しかも、よくよく見てみれば、髪は白くなり、背中には六枚の黒い翼のようなものまで生えているではないか。一見すれば、バリアジャケットの様にも見えるが、こんな身体にまで影響を与えただろうか?

 そのあたりの考察はおいておくとして、ひとまずははやてちゃんの無事を確かめるためにタンと、と空中を蹴りだした。空を跳ぶためには必要ないのだが、なんとなく飛び出すという行為が僕にはまだ必要なのだ。

「あ、お兄ちゃん」

 僕がはやてちゃんに近づくために移動することに気付いたアリシアちゃんも僕のあとを追ってくる。魔法の使い方はどうやらアリシアちゃんのほうが得意らしく、若干遅れて飛び出したとしても追いつくのは容易のようだ。僕の後ろにぴったりとついてきていた。なんというか以前のアリシアちゃんとは性格が内向きになってしまったことに違和感を覚える。それでも彼女はやっぱり僕の妹なわけだが。

 地面を蹴りだす要領でゆっくりとはやてちゃんに近づいていくと、途中で彼女も僕に気付いたのか笑みを浮かべて僕を迎えてくれる。

「ショウくんっ! 無事やったんやね! そっちの妹さんも!」

 僕の後ろに隠れていたアリシアちゃんを見つけると、はやてちゃんが嬉しそうに言ってくれる。はやてちゃんと別れたのはアリシアちゃんのことがあったからで、はやてちゃんも気にしてくれていたんだろう。

「それは僕のセリフだよ。どうやらお互いに大丈夫だったみたいだね」

 近づいて上から下までじっくりと見てみても彼女に傷ついたような場所はなく、至って健康そうである。よかった、と一安心したところで改めてここにいるはずの彼女がいないことに気付いた。あの夢の世界の中ではやてちゃんの隣に立っていた年上の女性の姿がない。はやてちゃんを主と呼んでいたあの女性だ。

「それで、その恰好はどうしたの?」

「あ、これか? これはリィンフォースと私の甲冑や」

「リィンフォース? 甲冑?」

 はやてちゃんが、どうだ! と言わんばかりに胸を張って答えてくれたのはいいのだが、どうにも言葉の意味が理解できない。今の僕の心情を現すとすれば、頭の上に複数のクエッションマークが浮かんでいることだろう。

「ああ、そやった、何も説明しとらんかったな」

 そういいながら、はやてちゃんは一つ一つ説明してくれる。

 リィンフォースとは闇の書の管理人格の新しい名前であること、甲冑とは古代ベルカのバリアジャケットのようなものであること。古代ベルカとは、新しい名称ではあったが、ついでに教えてもらったところ、どうやら僕が使っているミッドチルダ式と言われる魔法とは別の魔法形態―――古代とついているからには古い魔法形態のようである。

「はぁ、なるほど」

 新しい情報が多すぎて、ある意味頭に入ってこないところがある。ロストロギアとは古代文明の遺産とばかり思っていたが、意外と闇の書の出自というのは近い時代だったようだ。なにせ、前のロストロギアであるジュエルシードは時代など残っていないものだったのだから。

「そうだね、それが古代ベルカのユニゾンデバイスである夜天の書だよ。八神さんのそれはどうやら闇の書のコアというべきものがなくなったせいか、元の闇の書に近いようだね」

「歓談中のところ失礼するよ」

 僕が納得とも何とも言えない感情を抱いているところ、割り込んできたのはユーノくんとクロノさんだった。二人を視界にいれたとたん、ビクンとはやてちゃんが体を固くする。

 ああ、そういえば、はやてちゃんにはまだ事情を話していないのだから、はやてちゃんの反応は自然なものだろう。それがわかっているからだろうか、クロノさんは僕にしたように深々と頭を下げた。

「僕らの身内が申し訳ないことをした。この件が片付いた後に必ず事態を説明する。だから、少しだけ待ってくれないか?」

 相手は子供だというのにクロノさんは実に誠実に対応してくれる。そういうところがはやてちゃんも理解できたのだろう。身をこわばらせていたが、体の力を抜いて、まだ固さが残るが笑みを浮かべていた。

「わかりました。でも、あとで話は聞かせてもらいますからね」

「ああ、それで十分だ」

 お互いに和解した、というようにクロノさんも顔を上げて微笑みを浮かべていた。ひとまずは事態がややこしくなることはないとみて安心したのだろうか。

 とりあえず、事態は棚上げにするということだろう。なにせ僕たちにはまず解決しなければならないことがあるのだから。それが解決しなければ、悠長に事態の説明などできるはずがない。そして、僕たちは示し合わせたように海上に浮かぶ巨大な黒い繭に視線を向ける。

「一つ質問なんですけど、あれをあのまま放置したらどうなるんですか?」

 これは単純な疑問だった。危険だ、危険だ、と言われても具体的にどう危険かまでは想像できなかった。もっとも、あの繭の中から怪獣のようなものが出てきて暴れまわるというのであれば、某恐竜の誕生であり、映画よりもはるかにひどいことになるのは目に見えているが。

「ふむ、そうだね」

 クロノさんの改めて考えをまとめたかったのか、腕を組んで少しだけ俯くと目をつむり考えを巡らせるような態度で、しばらくの沈黙の後、再び顔を上げて口を開いた。

「まず、あの闇の書の防衛本能に従って膨大な魔力をまき散らしながら暴れるね。ひとしきり暴れた後、その体に存在する膨大な魔力を圧縮、臨界点に達したところで、爆発ってところかな。そして、闇の書自体は装備されている転生システムでまた宇宙のどこかに転生する」

「………ちなみに、その爆発の影響は?」

 爆発の規模が小さななら放っておいてもいいんじゃないだろうか、というこれまでの経緯を考えれば、極めて希望的観測に過ぎないことを提案してみる。だが、現実というのは何時だって当たり前のことを当然の様にしか返してくれないのだ。

「そうだね………まあ、まず翔太君たちの日本はほぼ壊滅だろうね。闇の書が爆発した影響で発生した津波に沿岸部はすべて飲み込まれて、内陸の大部分も津波に浸食されるだろうし、それは周りの国だって変わらないはずだよ。ついでに、海底の塵も吹き上げられて太陽の光を覆い尽くして、最終的には氷河期の再来になるだろうね」

 どうやら闇の書というのは核弾頭というよりも小惑星規模の爆発があるようだ。とにもかくにも、これでこのまま闇の書を放置しておくという手段はとれそうになかった。それよりも、何とかしなければならないという気持ちのほうが強くなる。

 う~ん、と唸る僕たち一同。視線は、海の上に浮かぶ黒い繭に集中している。あれを何とかしなければならない。しかし、その何とか、という手段がそう簡単に閃くわけもない。もし、簡単に排除する手段があるならば、すでに時空管理局が先に手を打っているだろうし、放置はされなかっただろう。

 クロノさんの様子から察するに今回のことはクロノさんの手から離れていたと思う。事件の間だけの短い付き合いだったけど、彼が誠実な性格をしていることは理解できる。今回のようにはやてちゃんを犠牲にするような作戦は立てないだろう。

 だが難しいからとさじを投げるわけにはいかない。今回のことを何とかしなければ日本はおろかアメリカ、南米あたりまで迷惑が掛かってしまうのだろうから。いや、本当に映画の中の出来事か、と言いたい。ことが大きすぎて現実味が全くないのだが、起きてしまってから実感したところで遅いのだから。

 あ~でもない、こ~でもない、と考えながら―――とはいっても、僕の魔法の知識は少ないため、リィンフォースさんやクロノさん、ユーノくんたちの会話と時々、控えめに意見を言うフェイトちゃんの会話を聞いているだけだ。しかし、それも好調というわけではなく、どうやら暗礁に乗り上げたように停滞してしまったようだ。その場にいた全員が何も言えなくなってしまった。

 そんな中、すぅ、と前に出てきたのが未だに大人モードになっているなのはちゃんだった。

「………あれを倒せばいいの?」

 実に不思議そうに、何でやれるのにやらないの? と当然のことを聞くようになのはちゃんは尋ねてきた。そのことに一番驚いていたのはおそらくクロノさんだろう。できるものやらやっている、とでも言いたげに眉を一瞬だけ細めたが、それでもすぐに難しい顔をして、恐る恐ると言った様子で口を開いた。

「………君にできるというのかい?」

「できるよ。ねぇ、レイジングハート」

『No, problem』

 なんでもないようになのはちゃんはレイジングハートに確認し、レイジングハートもそれに応えるように自分自身を何度か点滅させて答えていた。

 その返答にクロノさんとユーノ君は絶句という言葉が似合うほどに表情に驚愕という感情を張り付けていた。言葉もないというはこのようなことを言うのだな、と僕自身も驚く頭の片隅で思った。

 なにせ、闇の書の一部とはいえ、日本そのものを破壊してしまうほどの威力をもっている存在ないのだ。それをどのようにして回避しようか、と時空管理局という一組織が考えていたにも関わらず、彼女は―――なのはちゃんはそれを個人で行えてしまうのだから、彼らが絶句するのも無理はない。

 あるいは、クロノさんたちが抱いているのは無力感だろうか。クロノさんは僕から見れば、己の職務に忠実―――使命感のようなものを持っているようにも見える。僕を子どもとして巻き込んでしまったことにも申し訳なさを感じているようにも見えるのだから、尻拭い的なことまでやらせてしまうことは彼にとっては忸怩たる思いだろう。

 だが、それでも彼は決断するだろう。なぜなら、時間的猶予が、彼らのリソースがその判断を下させる。

 現にクロノさんは悔しさそうな顔をしながら、唇を噛みしめ、それでも、やがて意を決したように顔を上げて、硬い顔で口を開く。

「大変申し訳ない話だが―――頼めるだろうか」

「あ、あの―――なのはちゃん、僕からもお願いできないかな?」

 差し出がましいとは思ったが、それでもクロノさんからだけよりも、友人である僕からも頼んだほうが、なのはちゃんもうなずいてくれるのではないか、というある種の打算をもって、僕も口を出す。情けない話だが、この場ではなのはちゃん以外に事態を収束できる人物はいない。

「うん、任せて」

 なのはちゃんはクロノさんが頭を下げて申し出たことにあまりにあっさりと快諾してしまった。今まで悩んでいたことはなんだろうか? というほどにあっさりと。ともすれば、なのはちゃんが闇の書の強さを知らないんじゃないか、と不安になるほどにあっさりと。

「えっと―――いいのかい?」

 クロノさんも不安になったのかもしれない。改めて確認するようになのはちゃんに問いかける。だが、それに対しても、なのはちゃんはコクリとうなずいて承諾の意を示した。そして、不意に右手に持っていたレイジングハートを掲げる。

「お兄ちゃん、少し離れたほうがいいかも」

「え?」

 僕の後ろに隠れるようにして立っていたアリシアちゃんが不意に僕の袖を引っ張る。浮遊魔法で浮いているだけの僕にはその場にとどまることはできずに引っ張られるままになのはちゃんから離れる方向へ引っ張られてしまう。よくよく見れば、クロノさんやユーノくん、はやてちゃんもなのはちゃんから距離をとろうとしていた。

 なんでだろう? と思ったのだが、その理由はすぐにわかった。僕もわずかにわかる程度だったが、なのはちゃんを中心としてすごい量の魔力が渦巻いているからだ。まさか、このまま魔法を放つのだろうか、と思っていたが、不意になのはちゃんが僕のほうを向いて大人の顔でどこか元の子どもの時のような面影が残った嬉しそうな表情で笑う。

「それじゃ、ちょっと行ってくるね」

 どこに? という疑問が浮かんだが、その疑問を頭の片隅に置いて、これから僕たちでは手の出しようのない脅威に向かうなのはちゃんに向かって何か言わなければと考え、今日の屋上でのなのはちゃんの言葉を思い出しながら口を開いた。

「なのはちゃん! 頑張って!」

 僕の声を受けて、なのはちゃんは一瞬、きょとんとした表情を浮かべたけれど、僕に言われたことの意味に思い至ったのか、また同じような笑みを浮かべて大きく頷き―――次の瞬間、彼女の姿は僕の目の前から消えた。

「………え?」

 あれ? あれ? 突然消えてしまったなのはちゃんに動揺してしまい、思わず左右を確認してしまう。だが、そこに当然の様に彼女の姿はなく、また先ほどまで海上で禍々しいまでの気配を発していた黒繭も存在していなかった。そして、なのはちゃんの行動に対して即座に反応したのはクロノさんだった。

「エイミィ! 状況を」

『オーライ、任せてよ』

 クロノさんがすぐさま念話で話しかけたのはオペレータとして参戦しているらしいエイミィさん。ここに姿が見えないと思っていたら、どこかでオペレートしているらしい。僕たちに聞こえるようにしているのはサービスだろうか。

 少しの間、カタカタとキーボードをたたくような音が聞こえて、え? と驚いたような声が聞こえたが、気持ちを切り替えたのか、はぁ、と大きく深呼吸をした後に何でもないような明るい陽気な声で現状を伝えてきた。

「えっとね、うん、信じられないけど、どうやらなのはちゃんは、そことはまた別の位相に空間を作って移動したみたいだね」

 位相―――この空間が結界の内部だというのはわかる。僕もユーノくんから基礎は学んだからだ。つまり、簡単に言ってしまえば、なのはちゃんは別の場所に結界を作って移動した、ということなのだろうが、クロノさんがエイミィさんからの報告を聞いてしばらく固まった後、大きく息を吸って吐きながら気持ちを落ち着かせているところを見ると、どうやら彼女がやったことは普通ではないらしい。

「まったく、もはや彼女は何でもありだな」

「かもね、闇の書ごと転移しているみたいだからね」

 ユークくんもこれには苦笑しているようだ。もっとも、嗤うしかないという状況なのかもしれないが、僕にはわからない。なにか魔法を使われたようだが、その凄さを理解できるほどに知識がないということで、ぽかんとするしかない。

「アリシアちゃんはわかる?」

「うん、あの人………とんでもないね」

 どうやら僕には理解できないことだが、記憶を取り戻したアリシアちゃんは、理解できるらしい。そういえば、彼女の本当の名前はフェイトちゃんだったはずだ。彼女の呼び名は変えたほうがいいのだろうか? 聞かなければならないのだろうな、と思いながらも、今聞くことだろうか? と少しだけ悩んでいたところで、不意にショウくん、と呼ぶ声で意識をそちらに向けた。

「なんや、私たちの出番ないなぁ」

 すぅ、と飛びながら近づいてきたのは、仕方ないなぁ、という感じで苦笑するはやてちゃんだった。

 そもそもの始まりは、はやてちゃんからだった。彼女からすべては始まっていた。だから、責任を感じていたのかもしれない。そのリィンフォースさんが作った甲冑を身にまとったのっも自分で決着をつけるつもりだったからかもしれない。だが、ふたを開けてみれば、魔法を使ったことがないはやてちゃんに出番はなく、後始末はすべてなのはちゃんに与えられてしまった。

 意気込んでいたはやてちゃんからしてみれば、はしごを外されたようなものだろう。

「そうだね、なのはちゃんだけを危険な目に合わせるのは心苦しいけど………」

 でも、彼女には実績がある。あのジュエルシード事件を解決したという確かな実績が。それは、中途半端な僕たちが手を出すよりもより確実な手段ではあったのだろう。なにより、時空管理局という僕たちよりも専門家であるクロノさんが認めているのだ。それに僕たちが異を唱えることはできない。

「言い方は陳腐だけど、なのはちゃんを信じて待つしかないのかな?」

「まあ、クロノさんたちもあんなやしな」

 はやてちゃんに言われて、クロノさんたちのほうへ視線を向けてみると、彼はカード型のデバイスを片手に一生懸命状況を整理しているようだった。見ることはできないようだが、計器類が生きているのだろう。それで、情報を集めて推測している、という感じだろうか?

 しかし、なのはちゃん、大丈夫とは言っていたけど心配だな。相手は爆発してしまえば、地球を軽く滅ぼせるレベルの存在だ。それに力があるとはいえ、たった一人で立ち向かうのは危なくないとは到底言えないだろう。確かになのはちゃんは、バカげた魔力を持っているかもしれないが、10歳にも満たない子どもなのだから。だからといって、対等に戦える大人がないのも事実なのだが。

 なのはちゃんに任せるのは心情的には許せないが、事実としてそうするしかないというのはある種のジレンマではある。

 せめて、なのはちゃんが帰ってきたら、きちんとお礼を言おう。それが知っている人は少ないけれど、地球を救った英雄に対するせめてもの感謝の心である。

 と、なのはちゃんが帰ってきた後のことをはやてちゃんと時々、相槌を打つように話すアリシアちゃんを相手にしながら考えていると、不意にエイミィさんから通信が入る。

『え? うそ………なに、この魔力反応?』

 その声はずいぶんと慌てているようで、通信というよりも独り言が漏れているような感じだった。だが、信じられないような何かを見ているのは確かなようだ。状況がわからず、どのように反応していいのか分からず、戸惑う僕たち。唯一、クロノさんだけが状況を把握しないながらも的確に動いていた。

「エイミィ! どうした? 正確に報告しろっ!」

『あ、ご、ごめん。なのはちゃんが張った結界内部の魔力数値が上がってるの! しかも、これ………まずいっ! みんなっ! 揺れるから気を付けて!!』

 ―――え? と思う暇もなかった。

「きゃっ!」「―――っ!?」「うわっ!」

 エイミィさんがそう通信を送ってきた直後に突然僕たちの身体が揺れる。その衝撃に驚いて近くにいたはやてちゃんとアリシアちゃんが僕の身体にしがみつくようにして、僕の両腕を抱き込みながら、小さく悲鳴を上げていた。子どもらしい少し体温の高い身体に触れるような感覚を意識するような暇もなく、僕自身も揺れに耐えるように踏ん張るしかない。

 だが、考えてみておかしいことに気付いた。浮遊魔法で浮いている僕たちの身体が揺れるわけがない。

『っ! 小規模な時空震を確認!』

「時空震だと!? バカな………彼女は一体なにをやってるんだ!?」

 ひどく驚いたようなクロノさんの声が聞こえる。どうやら、この場所で時空震というものが発生しているらしい。字面だけみれば、空間が揺れるような事象のようだ。しかし、詳しいことを問いただそうにも、おびえるはやてちゃんとアリシアちゃんにしがみつかれ、僕自身も体勢を保つ事に意識を持っていかれ、尋ねることができない。

 どれだけの時間、揺れに耐えただろうか。空間が揺れるという不思議な現象のせいだろうか、幸いなことに船酔いの様に三半規管が揺れることによる気分の悪さを体感することなく、ただただ揺れに耐えるだけでよかった。もっとも、その揺れも数分もすれば慣れてしまい、騒ぐほどのものでもなかったが。

 揺れが続く中、落ち着いたところでクロノさんに状況を確認したところ、どうやらなのはちゃんが隔離した空間の中で巨大な魔力を使っているらしい。それが一定の空間内に収められる限界を超えてしまったため、時空震という形で表に出てきてしまったようだ。もっとも、なのはちゃんの結界と僕たちがいるアースラによって張られた結界のおかげで現実世界への影響はないようだが。

 そんな説明を受けている最中、ある程度の状況を把握できたところで先ほどまで感じていた揺れがゆっくりと収まっていくのを感じた。収まった当初は、地面が揺れていないことに不安を感じる下船直後のような違和感を感じたものだが、やはり揺れていないほうが正常なのだろう、揺れに慣れるよりも早い時間で揺れていない状況に慣れることができた。

「収まった?」

「エイミィ」

 確認するようにつぶやくはやてちゃんに続くようにクロノさんがエイミィさんに通信を繋ぐ。相手も状況がわかっているのだろう。いつものように軽い調子でエイミィさんから通信が返ってきた。

『はいは~い、わかってるよ。状況はオールグリーン。なのはちゃんが作った結界内部の魔力反応も正常値だよ。そして―――』

 そこで勿体つけるようにエイミィさんが言葉をいったん切る。姿は見えないけれど、エイミィさんが意地悪く言いたいことを我慢しているような笑みを浮かべている姿が脳裏に浮かぶ。やがて、あきれたようにクロノさんが大きくため息を吐き、エイミィ、と名前を呼んだところでようやく再び口を開いた。

『―――結界内部の闇の書の反応の消滅を確認っ!』

 わっ! と上がる歓声がエイミィさんの後ろから聞こえた。こちらとしても一安心というところだろうか。黒さんとユーノくん、僕、はやてちゃん、アリシアちゃんがほぼ同時に安堵の息を吐いた。向こうとしては長年の脅威がなくなって嬉しいという感じだろうが、僕からしてみれば地球の脅威が去った安堵のほうが大きかった。

 だが、そんな中で一人だけあまり表情が晴れない人物がいる。はやてちゃんだ。どこか申し訳なさそうに俯いたまま、小さく何かをつぶやいていた。その声は僕からは聞こえなかったが、あえて聞くこともないだろう。小さくつぶやいていたということは、彼女が自分の胸の内に収めていたいことなのだろうから。

 さて、闇の書の決着がついたということは、ここにはいない彼女が帰ってくるということだ。どこから現れるのだろうか、と周囲を見渡してみると、少し離れた場所から人の大きさぐらいの光がうっすらと漏れているところがあった。まるでファンタジーの異世界の扉のような薄い光だ。

 その光のカーテンのようなものをくぐるようにしてゆっくりと出てきたのは、白い聖祥大付属小学校の制服のようなバリアジャケットを纏いながら、大人モードから子どもの姿に戻ったなのはちゃんだった。よかった! と安心した気分になり、やったね、と声をかけようとしたところで、彼女の様子がおかしいしいことに気付いた。

 普通どおり歩いているならわかるが、あくまでも今は海上で浮遊魔法を使っているだけだ。だが、それdもどこか疲れ切ったような、目が今にも閉じてしまいそうな、そんな様子がうかがえる。はた目から見ても危ないな、と思えるような様子だった。

 それに気づいたのは僕だけではなかったのだろう。なのはさん? と訝しげに声をかけるクロノさんと僕が飛び出すのがほぼ同時だっただろうか。その判断の差は、僕とクロノさんのなのはちゃんとの付き合いの長さだったのかもしれない。結果だけいえば、呆然と見送らなくて正解だった、ということだ。

 クロノさんの声に反応したのか、あるいは僕が急に動いたことに反応したのか、半分空ろな目で僕を視界に収めたなのはちゃんは、ふにゃ、と力のない笑みを浮かべた次の瞬間、糸が切られた操り人形のように全身から突然力を抜いて落ち始めた。

 地面だったなら、倒れこむだけだっただろう。だが、ここは生憎の海上だ。地面なんてものは存在せず、ただ真冬の冷たい海の中へ真っ逆さまに落ちていく。だが、なのはちゃんが現れてからすぐに飛び出したのが幸を奏したのだろう。彼女が冷たく暗い海へ落ちる前になんとか追いつくことができ、重力にひかれるままに落ちていた腕をつかむことができた。

 接触することさえできればこちらのものだ。基本的には浮遊魔法の対象となるのは触れているものだけだ。ならば、触れられた以上、なのはちゃんもその対象となる。だから、漫画のようではあるけれども、自分自身もゆっくりと上昇しながら、なのはちゃんの腕を片腕で引き上げなら、もう片方を膝の裏に回し、ちょうどお姫様だっこと言われるような体勢でなのはちゃんを支える。

 とても口に出せないことではあるが、魔法を使っていなかったら絶対無理だな、と思った。いくら僕の性別が男であっても、さすがに同じ年代の女の子をこの体勢で支えることはできない。魔法が使えて本当によかった、と思えた瞬間だった。

「よっ、と」

 ただ、魔法を使って何とか抱き上げただけでは、体勢が上手に収まりきることができなくて、一度体をゆすって整えてやる必要があった。そのため、なのはちゃんの身体を両腕の力だけでゆすったのだが、その衝撃で少しだけ意識が戻ったのか、うぅっ、と呻きながらうっすらと目を開ける。だが、焦点はあっておらず、空ろな瞳で僕を見ていた。

「………ショウくん?」

 その声は、まさか長年世界を苦しめてきた闇の書を退治した女の子にしては弱々しい声だ。むしろ、逆だろうか、退治した今だからこそ、全力を使い果たして疲れているのだろうか。だが、どちらでもいい、どこか不安げななのはちゃんの声に安心させるようにゆっくりと僕は言葉を紡ぐ。

「そうだよ、翔太だよ」

「………あはっ」

 抱きかかえているのが僕だったことに安心したのか、あるいは、意識が落ちかけた中で身体が落ちていることを自覚していたのか、わからないが、どうやら安心したようなのは間違いないだろう。だが、意識はやっぱりあまりはっきりしないのだろう。疲れ切ったような表情で、だが、嬉しそうに微笑みながら彼女は言葉を紡ぐ。

「ショウくん、あのね………わたし、あの黒いのちゃんとやっつけたんだよ」

「うん」

 どうやらエイミィさんからの報告は間違いではなかったらしい。どうやって、という方法はわからない。だが、それでもなのはちゃんは、自分で任せて、と請け負ったことをやってくれたようだ。とにもかくにも日本の危機は彼女の小さな双肩にかかっていたわけだが、なのはちゃんは無事にやり遂げてくれたらしい。

「本当に―――」

 それは、僕の本心が零れ落ちたようなものだ。口にしようと意識していたわけではないのだが、それでも、零れ落ちてしまった。

「本当に、なのはちゃんがいてくれてよかったよ。ありがとう」

 さして大きな声で言ったわけでもない。だが、抱きかかえているなのはちゃんと僕の顔の距離はさほど遠いわけではなく、彼女のつぶやくような声さえも聞こえていたわけだ。つまり、僕の声もなのはちゃんにちゃんと聞こえたようである。なのはちゃんは、一瞬だけ、驚いたように目を見開いて、それから、本当にうれしそうに微笑むのだった。






















あとがき
 主人公とはヒロインが欲しい言葉を与えることができるものである。



[15269] 第三十三話 中
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2015/01/26 23:50


 闇の書がなのはちゃんに倒されて、なのはちゃんが位相空間から戻ってきて、事態が落ち着いたのは、それから一時間ぐらいだった。

 なのはちゃんは、僕と少し話した後にすぐに再び目をつむり、寝息を立てて眠り始めた。

 大丈夫かな? とは思ったが、なのはちゃんと話している間に近づいてきたクロノさんの先導によって案内されたジュエルシード事件以来のアースラに案内されて、検査したところ、どうやら単純に魔力の使い過ぎだということがわかった。使いすぎとはいっても、身体に害があるほどではなく、疲れて寝ている程度のことだそうだ。

 その報告を聞いてほっ、と安堵の息を吐く。これが原因でなのはちゃんに後遺症でも残ろうものなら後味が悪すぎるというものだ。

 また、検査に入ったのはなのはちゃんだけではない。はやてちゃん、アリシアちゃん、僕も検査を行った。とはいっても、僕とアリシアちゃんは簡易的なものでだったが。一応、闇の書に飲み込まれた際に異常がないか調べただけらしい。もっとも、闇の書―――元夜天の書ことリィーンフォースさんによれば、一種の位相空間に呼び出しただけで害はないらしいが。

 害はないとはいっても、変化があるとすれば、アリシアちゃんの態度だけだろうか。いや、もしかしたらこれが本来のアリシアちゃんなのかもしれないが。彼女特有の活発な態度は鳴りを潜め、大人しい………ともすれば引っ込み思案な性格になっているようだ。それでも、僕のそばから離れようとしないあたり、嫌われてはないようだが。

 だが、僕から離れなかったのは少しの間だけだ。検査が終わって、控室みたいなところに案内されて、飲み物を適当に渡された後、お互いに何を話していいのか分からず無言の時間があったあと、アリシアちゃんが僕の肩を枕にして、く~、と可愛い寝息を立てて眠ってしまったのだから。そのままにしているのもどうかと思って、アースラの職員さんに事情を話して寝室を用意してもらった。部屋の数はいくつもあり、問題ないようだ。僕がおんぶで運んで、部屋に備え付けられていたベッドに寝かしつけた後は、目にかかかっている前髪を払い、おやすみ、と言葉を残して僕はアリシアちゃんが眠っている部屋を後にした。

 再び控室のような部屋に戻った僕は無料のコーヒーを飲みながらクロノさんからの報告を待っていた。しかし、そうそうと連絡が入る様子はない。そもそもアースラ全体が騒がしい様子を見せている。簡単に事情を説明されただけだが、どうやら今回の作戦責任者がいろいろと時空管理局の規約に触れていたらしい。その後始末でいろいろとアースラ全体が騒がしいらしい。

 終わりよければすべてよし、というわけにはいかないようだ。

 宮仕えも大変だな、と思いながら、僕は暇つぶしのために携帯電話をポケットから取り出した。以前、時間つぶしのためにダウンロードしたゲームでもしようかと思ったのだが、そもそも、この場所に電波が届いているか疑問だ。そんなことを思いながら画面を見てみれば、案の定、電波は圏外であり、まったく入らない状態だ、これではゲームはできないな、と諦めかけたのだが、その代わりに目に入ってきたのは10件以上のメールだった。

 いつの間に受信したんだろうか? と思ったが、闇の書を倒した直後に結界を解いた瞬間があった、その間に受信したのだろう。

 さて、誰からかな? と思いながら受信先を見てみれば、その相手は主にアリサちゃんだった。主にと思ったのは、すずかちゃん相手のメールもあったからだ。もっとも、その割合は全体の八割がアリサちゃんで、残りがすずかちゃんという感じである。過去から順番に読んでいくのだが、アリサちゃんは最初に「さっきのは何よ! 連絡しなさい!」という感じで強気だったのだが、最後のほうは、「ちょっと、連絡しなさいよ」という感じでだんだん弱気になっていくのが少しだけ笑える。

 もっとも、連絡しない―――連絡できなかった僕が悪いのだが。

 一方で、すずかちゃんは、「先ほどの件で話できますか?」や「大丈夫ですか?」という感じのメールが大半で、アリサちゃんとは違って冷静という感じだった。ただ、それで二人の友達を想う心を疑ったりはしない。単純な気持ちの問題だろう。ただ、アリサちゃんの数分に一本のメールはどうかと思うが。

 さて、どうしたものだろうか?

 携帯で時間を確認してみれば、日が暮れている時間とはいえ、まだ寝るには早い時間。冬休みに入っているのだからなおのことだ。そのことを踏まえて考えれば、できればアリサちゃんとすずかちゃんに事情を話に行きたいところだ。ただでさえ、彼女たちには魔法を使うところを見られているのだから。

 ここから僕が出るためには許可を得なければならない。ついでに、魔法のことを話すのにも許可が必要だろう。最初の4月のころも口止めはされていたのだから。もっとも、彼女たちが巻き込まれていることを考えれば、アリサちゃんたちはすでに被害者としての関係者といっても過言ではないので許可は出るものだと思う。

 いろいろと可能性を考えてみたのだが、結局のところクロノさんに聞いてみなければ何もわからないということに行きつくのはそんなに長い時間ではなかった。与えられた一室から連絡できる電話のようなものの前に立つ。具体的な連絡方法はクロノさんから聞いている。アースラ全体は忙しそうだが、こればかりは後から確認するというわけにはいかないだろう。何より、待っているだけというのは意外とつらいのだから。

 控室の通信機からあらかじめ使い方を教えてもらっていた方法でクロノさんへとコールする。

『どうかしたかい? 翔太君』

 コールからさほど時間をおかずにクロノさんが通信に応えてくれた。携帯と似たようなものだから、忙しいときは出られないと言っていたが、どうやら今はタイミング的にも問題ないらしい。とはいっても、クロノさんのテレビ電話の画面のようなものから見える背後はとても忙しそうにバタバタしているが。

 どうやら、これは手短に用件を伝えたほうがよさそうだ。

 忙しそうなクロノさんの邪魔をしてはいけないと思い、単刀直入にアリサちゃんたちへの事情説明の許可について話した。

「いくつか制約がつくが、基本的に説明してもらって構わないよ」

 いくぶん渋られるかと思われたが、あまり間をおかずに帰ってきた答えは意外なことに快諾だった。少しの制約ということが気になるところではあるが、クロノさんの性格を考えれば、あまりきつい制約というわけではないだろうと思う。

 実際、そのあと説明を受けたのは、基本的に魔法世界のことは話しても構わないが、事件のことは深いところまでは話さないこと。話すのは二人だけにとどめること、などだった。残念ながら僕のいる地球という世界では魔法というものはファンタジーで、本の世界にしかないもと考えられている。

 僕みたいに実際に見ていれば信じる人もいるだろうが、子どもが魔法があるといったところで真に受けるのは本当に子どもだけだろう。何より、あの二人が秘密にしてほしいことを勝手に他人に話すとは思えない。だからこそ、クロノさんから言われた制約に対して、否と答えることはなかった。

「今から行くのかい?」

「そうですね、できれば今から行こうかと思います」

 これ以上遅くなってしまうと明日以降にしなければならないとは思うが、そうなるとアリサちゃんの僕への怒りがすごいことになっていそうだ。そもそも、アースラにいるからこそメールは受信できないが、地上に出てしまえば、さらにメールを受信しそうで怖い。

 僕の心情を知ってか知らずか、クロノさんは僕が即答したのを見て、少しきょとんとしてくつくつと笑い始めた。

「失礼、いつも冷静だとおもっていた君がそこまで焦るとは、よほど怖いお友達なんだな」

「否定はしませんよ」

 僕はくすくすと笑いながら答えた。アリサちゃんは、意外と怒ると怖い。美人は睨まれただけで怖いというが、それに近いだろうか。表情は幼いのだが、顔立ちの造形は、可愛いのだから怒った時の表情はそれはそれは威圧感にあふれていた。

「なら、早くいったほうがいいな。僕から転送装置の申請はしておくから行くといい」

「いいんですか?」

「今の状況で地上への転送装置を使うような人間はいないよ」

 半分諦めたような表情でクロノさんは笑う。もっとも、それは乾いた笑みというのかもしれないが。だが、これは好機でもある。忙しくて僕に出番がないというのであれば、遠慮なく使わせてもらおうではないか。

「では、遠慮なく行かせてもらいますよ」

「ああ、行っておいで。遅くならないうちに連絡をくれればいいから」

 僕を心配するような一言で笑顔で僕を見送るクロノさんはきっと親になったならいい父親になるんだろうな、と思考の片隅で思った。



  ◇  ◇  ◇



「雪か………」

 アースラから地上へ転送され、人目のない空き地に送られたのだが、室内から急に外に放り出された気温の変化を感じ、あらかじめ着ていたコートの襟を風が入らないように閉じた後、ふと目の前にゆっくりと舞うように落ちている冷たく白い綿のようなものを見て、思わずつぶやいていた。

「どおりで寒いわけだ」

 手がかじかむような寒さというが、まさしく寒い。ポケットの中で暖を求めてしまうほどに。加納であるならば、このまま家に帰って、こたつの中でゆっくりしたい。しかし、それは許されないだろう。仮にやったとすれば、次にアリサちゃんとすずかちゃんに出会った時に気まずいのは間違いない。

 なにより、僕自身がもやもやとしてしまう。

 あの場所で出会わなければ、クロノさんから秘密にするように言われていた、という言葉を免罪符にはできただろうが。見つかってしまった、巻き込んでしまった今となってはその言い訳も意味をなさない。すでに知られてしまったことを友人に話さないのは気持ちが悪い。

 だから、あの二人に話しに行こう。おとぎ話の中にしか存在しなかった魔法という夢のような不思議を。

 しかし、ただ話すだけというのも味気ない。そもそも、せっかく魔法というものを知ったのだ。いや、知ったというよりも、知ってしまったというべきかもしれないが。それでも、その魔法を知ったのが、あんな事件みたいな危険な目にあいそうな時というのは、運が悪い。

 確かに魔法は闇の書の様に危険なものもあるが、楽しいことだってあるのだ。もっとも、僕からしてみれば新しい技術に目を輝かせるようなものかもしれないが。

 だから、少しだけでも魔法の良いところを経験してもらおうと思った。

「S2U、周囲に人の影は?」

『No problem,boss』

 クロノさんから借りたままのストレージデバイス『S2U』は女性の声でストレージらしく簡潔に応えてくれた。レイジングハートの様に人間味のある答えもいいと思うが、これくらい機械らしく簡潔なのもまた味があると思うのは僕がもともと理系の人間だからだろうか。

 さて、僕の機械の好みは別として、人の気配がないのであれば早速向かうとしよう。

「よっ、と」

 とん、と地面を蹴りだすと、僕は飛行魔法を使い、空へと飛びだした。雪の舞う空の中をシールドを張りながら進む。まるで車のフロントガラスに雪が当たるようにシールドに触れると雪が解けていく。幸いなことに空で交通事故はありえない。自由に飛べるというものである。ついでにシールドとなっている結界には認識祖語の魔法もかかっているため、ちょっと見られたぐらいでは特に問題はない。

 さて、このままアリサちゃんとすずかちゃんの家に向かうのは問題があるかな。子どもが出歩くような時間でもないから、外に出るのは難しいだろうし。ならば、窓からこっそり連れ出すしかないかな、と思うのだけど、魔法を使った状態で迎えに行って、大声を出されないとも限らない。だったら、先に連絡しておく必要があるだろう。

 僕はポケットから携帯を取り出すと、電話帳のクラスメイトのグループからアリサちゃんの名前を探し出し、通話ボタンを押す。

『ショウ!? ちょっと、あんた大丈夫なんでしょうね!?』

 コール音は、二回か三回ぐらいの短い時間だったが、アリサちゃんも持っているのは携帯だ。僕の名前が表示されていたからだろう。つながると同時に少し携帯を耳から離さなければならないほどの大声が発せられた。ただ、声色から心配していることがありありとわかるあたりが感情豊かなアリサちゃんらしいな、と関心してしまう。同時に浮かんできたのは、本当に心配させてしまったな、という反省だ。

「心配させてごめんね、僕は大丈夫だから」

 本当は闇の書に飲み込まれたり、日本を壊滅させかけた怪物と対峙したりしたが、すでに終わってしまったことだ、無用な心配をさせる必要はないだろう。

『はぁ~、よかったわ』

 今まで緊張していたのか、よほど心配していたのか、ようやく気が抜けたと言わんばかりに安堵の息を吐いていた。

『それで、ちゃんと説明してくれるんでしょうね』

「もちろんだよ」

 このまま説明しなくてもいいのかな? と思ったのだが、そうは問屋が卸さないようだ。そもそも、きちんと説明はするつもりだったのだが。

『今から家に来られる? すずかも一緒にあんたからの連絡を待ってたんだから』

 どうやら、あの空間から助けられた二人はそのままアリサちゃんの家で僕からの連絡を待っていたらしい。クリスマス・イヴなのに良かったのだろうか? と思ったのだが、よくよく考えたらアメリカなどの風習ではイヴというのはあまり関係ない。クリスマスを家族で過ごすことに意味があるのだから。イヴという習慣は日本特有と考えていいのだろう。

「大丈夫、もう今から向かっているから。そうだね、あと五分後ぐらいに着くかな」

 普通に歩けば、もっと時間がかかるのだが、僕が通っているのは上空という信号も道路もない、僕だけの通り道。直線距離でちょっとした原付ぐらいの速度は出ているのだ。転移された場所からアリサちゃんの家までにかかる時間はそんなに必要なかった。

『早いわね。分かったわ、着いたらまた電話しなさいよ』

「分かったよ。でも、電話したら、玄関じゃなくてアリサちゃんの部屋のバルコニーに出てくれないかな」

 僕の言葉に少し不思議に思ったのか、んんん? と考えるような不思議な間が開いた。だが、何か納得できたのだろう、よくわからないけど、という色を残しながらアリサちゃんは再び電話口の向こうから答えを返してくれた。

『変なこと言うわね。でも、分かったわ。すずかと一緒に出ればいいのね?』

「うん、二人一緒に。できれば、寒くない格好をしてくれると手間が省けるかな?」

 そう、これから連れて行くのは魔法の世界。ただし、防寒まで完璧か? と問われてもイエスとは答えられない。今、僕が寒さを感じてコートを着ているのが何よりの証拠だ。ユーノくんなら結界の中も完璧なのかもしれないけど。

『なに? 外に出るの?』

「うん、まあ、近いかな。そのほうが都合がいいしね」

 アリサちゃんの部屋でもいいのかもしれない。だが、それだと万が一にもアリサちゃんの家族に聞かれてしまう可能性もある。魔法など与太話にしかならないだろうが、それでも魔法の世界を見せるのと今まで黙っていたことに関してのお詫びの意味もあるのだから。

『よくわからないけど、準備だけはしておくわ』

「うん、よろしくね」

 それじゃ、また、あとで、とそれだけ言うと僕は携帯の通話ボタンを押して、アリサちゃんとの電話を切り、ポケットの奥に携帯を押し込む。

 さて、早く向かわないとな、と思いながら携帯に向けていた意識を飛行魔法に向ける。集中していると魔力に影響があるのか、少しだけスピードが上がる。誰もいない空を飛びながら、ふと眼下を眺めるとそこに広がっていたのは光の渦ともいうべき、いつもよりも過剰に装飾された街並みだった。

 そういえば、今日はクリスマスイブだったな、と今更ながらに思い出し、これからの僕が行うことはクリスマスプレゼントになるだろうか? と今年は用意していなかった彼女たちへのプレゼントの代わりになることを願いながら、僕はアリサちゃんの家へと向かうスピードを上げた。



  ◇  ◇  ◇



 空を飛ぶこと十数分伍、僕は海鳴でも一番目か二番目に大きな西洋風の館の一室の前に浮かんでいた。童謡の中でしか見たことないようなバルコニーの先にあるのはアリサちゃんの部屋だ。僕も英会話を教えてもらうために入ったことがある。電気がついているところをみるとどうやら彼女たちは約束通り、部屋にいてくれているようだ。

 それを確認した後、僕はコートの中から再び携帯を取り出して、発信履歴からアリサちゃんの番号をコールする。最初から待ち構えていたのだろうか、アリサちゃんは最初から待ち構えていたのだろう。一回のコールが鳴り終わる前に電話を取ってくれたようだ。

『ショウ? もう着いたの? 今から玄関に行くから待ってなさい』

「ああ、違う、違うよ、アリサちゃん」

 もう説明を聞きたくて、居ても立っても居られないのだろう。アリサちゃんの声からも焦っていることがよくわかる口調だった。だが、ここで玄関に向かわれては僕も困るのだ。

『どういうことよ?』

「すずかちゃんとバルコニーに出てきてよ」

『どういうことよ?』

「いいから」

 何言ってるの? と言いたげな無言の間が発生したが、僕の悪戯っぽい笑いが届いていたのか、仕方ない、と言わんばかりに大きくため息を吐くと、『分かったわよ』と応えてくれた。

 もともとバルコニーは、アリサちゃんの部屋から直接行くことができる。だから、アリサちゃんが携帯を片手にすずかちゃんと一緒に出てきたのは、アリサちゃんが答えてからすぐのことで、バルコニーに出てきたアリサちゃんとすずかちゃんが、宙に浮いている僕を見て、信じられないものを見た、と言わんばかりに目を大きく見開いていた。

 そんな彼女たちの想像通りの姿にたまらず苦笑し、手に持っていた携帯をポケットに仕舞うと、空いた両手を彼女たちに誘うように差し出す。

「こんばんは、お嬢様方。少し寒いかもしれませんが、僕と空の散歩に行きませんか」

 芝居がかった言い方になってしまったのは、魔法という非日常を演出するためのものだった。外から見れば、宙に浮いている不審者でしかないのだけれど………。

 ぽかんと呆けているアリサちゃんとすずかちゃんだったが、最初に正気になったのはすずかちゃんのほうだった。呆けていた表情がやがて納得したような表情になると、にっこりとした笑みを浮かべて僕が差し出していた右手をとる。今まですずかちゃんは家の中にいて、僕は外にいたためか、手の平から感じられる温もりはとても温かく感じられる。逆にすずかちゃんには冷たく感じられたのか、「冷たいね、大丈夫」、とこの非日常的な状況において、平凡なことを問われてしまう始末だ。

「さあ、アリサちゃんも」

 すずかちゃんに握られた手とは逆の手をアリサちゃんに差し出す。やがて、意を決したようにえいっ、と半ば勢いに任せたように一歩を踏み出すと空いているもう片手をぎゅっと握った。僕は改めて二人が握っている両手を強く握り返すと、これから目的としている場所に顔を向ける。

 ―――つまり、天空だ。

「いくよっ!」

 空中を地面のように蹴りだす。それ自体には意味はない。だが、僕の意志をくみ取ったように魔力は推進力となって子ども三人分の体重を遙か上空へと連れて行ってくれる。

 僕は何度も体験したことだが、両手の二人は当然、初めての事だろう。え、えぇぇぇ、という驚きの声とうわぁ、とある種感激したような声が同時に聞こえた。二人とも寒くないかな? とは思ったが、僕たちの周囲はシールドで囲んでいる手を離しても問題はないし、温度も問題ないだろう。

 アリサちゃんとすずかちゃんと手をつないだ僕は徐々に高度を上げていく。海鳴で一番高い高層ビルを越えて、さらにそれよりも高い場所へ。各家の明かりの一つ一つが認識できなくなり、100万ドルの夜景とは古いが、そこそこの夜景になり、それでも高度を上げる。やがて、高度はついに今日の海鳴を覆い隠し、雪を降らせている雲にも届き、その中さえも突っ切ってしまう。

 雲を通る時にはさすがに二人からも、困惑の声と悲鳴が聞こえたが、あえて無視した。なぜなら、僕が連れて行きたい世界はその先にあるのだから。

 やがて、分厚い雲を抜けた先。地上からの光が届かない雲の絨毯が広がる空の世界へようやく到着し、僕は高度を上げるのをやめた。

「さぁ、着いたよ」

 ここが目的地だ、と言わんばかりに僕は今まで先導していた手をつないだまま、まるで円になるように二人と向き合った。

「こ、ここって、空の上?」

 さすがに今まで来たことのない場所に連れてこられて驚いているのだろう。今まで空を飛んできたのだから当然のことをアリサちゃんが問う。もっとも、その中には疑問と一緒に恐怖も混じっていると思う。当たり前だ、僕は魔法に触れてそろそろ一年になろうとしているが、アリサちゃんはたった今触れたばかりなのだから。

「そうだよ。でも、大丈夫。雲で下は見えないし、シールド………檻みたいなもので包んでいるから落ちることはないよ」

 できるだけ安心できるように僕は彼女に説明する。アリサちゃんは一瞬、何かを言いたそうな表情をしていたが、やがて諦めたようにはぁ、と大きくため息を吐いた。来てしまった以上、仕方ないと思ったのか、あるいは、これからの説明しだいにしようと思ったのか、僕にはわからない。

 とりあえず、アリサちゃんが落ち着いてくれたので、よかった。

 さて、すずかちゃんは、と思い、もう片方に視線を向けてみれば、すずかちゃんは意外にも落ちつた様子で微笑んでいた。まるで、そこにいても何の不思議もない、というように、日常であるかのようにすずかちゃんは微笑んでいた。

 不思議な現象に巻き込まれているはずなのになぜだろう? とは思ったが、よくよく考えてみれば、すずかちゃんだって似たような秘密を抱えた本人だ。世界には不思議があふれている。吸血鬼がいるなら、魔法使いがいてもおかしくない、と考えていてもおかしくないだろう。

 ―――転生者はどうかはわからないが。

 僕が考えていることが分かったのか、すずかちゃんはすべてを承知したように、大丈夫というようににこっ、と笑みを深めた。

「ちょっと、黙ってないで、こんな場所に連れてきた理由とこんな状況になってきた理由を話しなさいよっ!!」

 僕がすずかちゃんが落ち着いている状況について考えを巡らせている沈黙を意味のない沈黙ととらえたのだろう。アリサちゃんの口調からは話をするなら部屋でも十分なのにどうして連れてきたんだ? という怒りのようなものが見え隠れしていた。

「ごめんごめん、今から説明するから。………そうだね、最初に二人をここに連れてきた理由かな。上を見てごらん」

 僕がそう言いながら首を傾け、上を見る。僕につられるようにして二人も上を向いたのがわかった。そして、同時に発せられる「うわぁ」という感嘆のこもった声。

 僕たちが見ているのは空だ。ただし、この空は遮るものが何もないうえに、下からの光は雲が遮ってくれている。ただただ夜の闇が広がる空。その中を明るく点々と彩るのは無数の星々だった。しうも、季節は冬だ。空気は乾燥しており、天体観測にはピッタリの気候ともいえる。ゆえに、そこに広がるのは冬の星々。プラネタリウムなどで見るような贋物ではなく、本物の空だ。

「メリークリスマス! 僕からのプレゼントは気に入ってくれたかな?」

 えっ? という顔をして二人が僕を見る。

 実は、今回のことに巻き込まれて二人にクリスマスプレゼントが用意できなかった。だからこその代替案。本当は時間を見て買いに行こうと思っていたのだが、今回のことで本当に時間がなくなってしまった。だから、これを思いついたのだ。もっとも、思いついたのは、ここに来る直前だったのだが、それは秘密である。

「ま、まぁまぁね!」

「素敵だと思うよ」

 アリサちゃんは感動したことが照れくさいのかそっぽ向きながら、すずかちゃんはくすっ、と笑みを残した後に素直に感想を述べてくれた。

 ―――あれ? もしかして、すずかちゃんにはばれているのだろうか?

 タイミングから逆算すれば考えることは可能だが………まあ、あまり考えないほうが精神衛生的にはいいだろう。そう結論付けて、僕はアリサちゃんとすずかちゃんに倣うように上を向く。

 そこに輝く星々は僕の中での疑問などどうでもいい、と言わんばかりに輝いていた。

 やがて、どれほど時間が経っただろうか、上を向くための首が疲れてきたのか、最初に声を出したのはアリサちゃんだった。

「ねぇ、ショウ、そろそろ話してくれてもいいんじゃない?」

 飽きてきたのか、あるいは焦れてきたのか、僕にはわからないが、最初に事を進めようとしてきたのはアリサちゃんだった。

「そうだね、この光景なら季節が変わればまた連れてきてもらってもいいわけだし」

 事の次第がばれているすずかちゃんも、しれっと次の約束を織り交ぜならがアリサちゃんに同意してきた。

 もともと、僕としては彼女たちに事情を話すためにやってきたのだ。このクリスマスプレゼントはそもそも蛇足。ついでに過ぎない。いつ話しても大丈夫なのだ。だから、僕はたった二人の観客を前にして、朗々と物語を紡ぐことにした。このたった一年の間に起きた摩訶不思議な物語を。

「そうだね。始めようか。僕が魔法使いになった物語を」

 すべての始まりは、三人で拾ったフェレット。そこから始まるジュエルシードを巡る冒険活劇。もちろん、僕がけがをしたことなどは伏せつつ、時空管理局の力となのはちゃんの魔法の力を借りて事件を解決したことを説明していく。そして、この冬から始まった事件、アリサちゃんたちに事情を話さなければならなくなった事情もある程度のことを話していく。

「―――というわけだよ」

 すべてを語り終えたのは十分ぐらいだっただろう。この一年の、怒涛というには若干短く、しかしながら、僕―――蔵元翔太という人生を変えるには十分すぎる出来事をダイジェストで伝えるのはどうやら十分程度で十分だったらしい。

 僕は語り終えて、二人の反応をうかがう。

 すずかちゃんは少し信じられない物語を聞いたような、しかし、それでいてどこか納得したような、そうなんだ、と言いたげな表情をしていた。一方のアリサちゃんは、俯いており、表情がよく見えない。アリサちゃん、と声をかけようとしたその時、がばっ、と顔を上げ、同時に口を開いた。

「なんでよっ!」

「え?」

「なんで、あたしたちに話してくれなかったのよっ!」

 ―――すごく理不尽なことを言われているような気がするのは僕だけだろうか?

 とは思ったが、すずかちゃんも呆然としているところを見るとどうやら僕だけではないらしい。

 言い訳をさせてもらえば、そもそも魔法などを簡単に話すわけにはいかないし、この地球外のルールにのっとっているのだから話せるわけもない。だが、アリサちゃんの訴えはそれらとは関係ないように思えた。感情の発露、というべきだろうか。自分の中にある感情に従って声を出しているように思える。

 そもそも、アリサちゃんは頭がいい。それは物事を理解できるといってもいい。つまり、僕の説明の中にあった時空管理局と魔法の関係もわかっているはずだ。

 だが、それでも、なお彼女には言いたい、言わなければならないことがあったのだろう。

「あたしたち友達でしょう!? だったら、一緒に悩んでもいいじゃないっ! 危ないこともあったかもしれない。でも、それはショウだって一緒でしょう!? あたしは話してほしかった。友達だから、他の誰に秘密でも、あたしには―――あたしたちには」

 それはあまりに純な言葉だった。友達だから、友達だからこそ話せないこともある。だが、彼女の幼さはそれを感じ取れない。友達だから、何でも話し欲しい、共有してほしい。幼さゆえの理想と笑うべきか、あるいは、僕がそこまで彼女たちに信頼されていることを喜ぶべきか。

 少なくとも前者ありえない。僕としても彼女たちは得難い友人なのだから。ならば、僕は喜ぶべきだ。ここまで信頼を寄せてくれている彼女に。そして、反省すべきだ。ここまで信頼を寄せてくれている彼女に話せなかったことを。

 実際には僕が話すことはなかっただろう。どうしても、前世の記憶に引っ張られてしまうから。彼女たちへの態度は少なからず遠慮が出てしまう。年上ならではの傲慢さが出てしまう。ゆえに、反省すべきは彼女がここまで僕に信頼を寄せていることに気付かなかったことか。

「ごめんね。今度からは、君たちに相談するようにするから」

「………絶対よ」

 今の顔を見られたくないのか、アリサちゃんはそっぽを向いて、少しの間を置き答える。それはどこか拗ねているような、でも、伝えたいことが伝わって嬉しいというような感情が入り混じったような複雑な声色だった。

「絶対だからね」

「うん」

 次があるかどうかなんて、わからない。相談できるかもわからない。でも、彼女の―――その友達だと認めてくれ、僕を心配してくれている純な気持ちには応えたいと思う。応えなければならないと思ってしまう。

 アリサちゃんからの念押しに対して素直に答えたことに、彼女は満足げにその日一番の笑みを浮かべるのだった。



















あとがき
 友達だから話せることがあり、友達だから話せないことがあることを少女は知らない。



[15269] 第三十三話 後(1)
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2015/02/06 00:14



 アリサちゃんとすずかちゃんをあの星空の下から元の場所へと連れて帰り、再びアースラに連絡を取って戻ってきたのはもう少しすれば日付が変わろうか、という時間帯だった。明日にはクリスマスパーティをするんだ、とアリサちゃんに呼ばれているし―――本当は今日はお泊り会を企画していたというから驚きだが―――なによりも、今日はいろいろあって疲れており、あくびをかみ殺していた。

 アースラにはクロノさんに連絡して戻ってきたのが、混乱はどうやら収まっていないらしい。クロノさんの背後ではオペレーターの人たちが忙しそうに動き回っていた。切羽詰ったような、しかし、どこかで最大の事案が終わっており、安堵したような微妙な空気が入り混じったような、大舞台が終わった後の後片付けのような空気が漂っていた。

 あの様子を見るに彼らは今日は徹夜だろう。何か手伝えれば、と思うが、僕のような子ども何かできるわけではない。そもそも、組織というのは急にやってきたヘルパーができることなど少ないのだ。

 僕にできることといえば、彼らの手を煩わせないように、さっさと与えられた部屋で眠ってしまうことだろう。今日のところは、アースラで一泊することになった。闇の書に飲み込まれた影響が残っていないことを確認するためだ。

 もっとも、僕のほかにアリシアちゃん、はやてちゃんも眠っているのだ。この状況で家に帰ったりしたら、僕が怒られてしまう。だから、家に連絡を入れたついでに僕もアースラに泊まれるように頼んだ。もっとも、頼む前にすでに寝泊りの準備はされていたが。

 クロノさんたちから事情を聴くのも明日以降になることだろう。今から説明すると言われても僕の頭の中には入ってきそうにない。それはクロノさんたちも承知しているのか、何も言わずに「おやすみ」と告げて通信を切ってくれた。

 用意された寝室に向かう前にちょっと水でも飲んでから寝ようと思い、アースラ内部にある食堂へと足を運ぶ。そこは電気がついており照らされているが、厨房に火はついておらず、ただの休憩場所として利用されているようだ。そして、この非常時においては人気は全くなかった。

 ―――たった一人を除いて。

 入り口から見えたのはその背後だけだ。だが、それだけで食堂にいるのが誰かわかった。特徴的な銀髪と時空管理局ではない黒い服を着ている女性と言えばたった一人しかいない。

「何をしているんですか? リィーンフォースさん」

「ああ、少年か」

 ようやく僕に気付いたように食堂に備え付けの丸椅子の上で少しだけ身体を後ろに向けながら、体をひねって僕のことを確認していた。こんな夜更けに重要参考人といっても過言ではないリィンフォースさんが何をやっているのか興味をそそられて僕は彼女に近づいていく。

 彼女に近づいていくと、少しだけ鼻を突く強い匂いがした。僕が知っているようで知らない匂い。親父がよく夜に晩酌として飲んでいる飲み物―――アルコールのにおいだった。

 よくよく見てみれば彼女が座っていた場所の上に置かれたのは麦の色をしたビンに入った液体―――おそらくウィスキーだろうか―――だ。近くには氷も置いてある。まさに晩酌といった様子だ。

 銀髪の美女が夜中にウィスキーをロックで嗜んでいる。

 文言にしてみれば、ここが食堂でなければ非常に絵になる光景だ。この場所にいられることを幸運にさえ思えただろう。だが、よくよく考えてみればおかしい話である。なぜなら、彼女は人間ではない―――ユニゾンデバイスという遙か古来の道具なのだから。

 どうして彼女がお酒を飲んでいるのだろうか? 眠かったはずの頭を働かせてみたが答えは出なかった。彼女が酔うとは到底思えない。だから、本来の酒の用途には使えないだろう。

―――ならば、何のために? 

 少しだけ、頭をひねらせて思い悩んだが答えは出ずに、結局のところ直接聞いてみることにした。

「えっと………リィンフォースさんは、ここで何をしているんですか?」

「ん? ああ、これか」

 彼女は僕の視線が片手に持っているグラスに向かっていることに気付いたようだ。自分でも無意識に飲んでいたのか、今更、という感じで丸い氷と半分ほどに満たされた液体を見ていた。そこに酔った人間特有の酩酊感はない。意識ははっきりしているようだった。

「………弔いの酒かな」

「弔いですか?」

 誰かを悼むために飲むお酒だという。だが、今回の戦いで亡くなった人はいないと聞いている。彼女は一体誰を悼んでいるのだろうか?

 僕のそんな心の声が聞こえたのか、あるいは僕の表情がわかりやすいのか、リィンフォースさんは自分の陰に隠れて見えなくなっていたものを身体を避けて、僕からも見えるようにしてくれた。そこにあったのは白いフォトフレームに入れられた一枚の写真だった。

 真ん中に黒い本を手に持って、はやてちゃんが車いすに座っており、はやてちゃんの後ろには車椅子のハンドルを握った笑顔の蜂蜜色の髪の女性、その隣にはどんな顔をしていいのかわからずに憮然とした表情をしながら腕を組んでいるピンクの色の髪の女性、はやてちゃんに抱き着くように小柄な赤い髪を三つ編みにした女の子、そして、はやてちゃんの足元には大きな蒼い毛を持つ犬が寝そべっていた。

「彼女たちは―――」

 どこか見覚えのある女性たち。だが、最近の―――今日の怒涛の出来事のせいかあまりはっきりとは出てこない。

「シグナム、ヴィータ、シャマル、そしてザフィーラ―――ヴォルケンリッタ―、この夜天の書の守護騎士たちだ」

「ああ……」

 彼女のたちの姿をどこかで見たことがあると思っていたら、闇の書の中で見た夢の中、そして、闇の書の事件の最中で助けてもらった人たちだった。もっとも、助けてもらった人たちに関しては、はやてちゃんがそう呼んだだけで、彼女たちは否定していたが。

「あれ、でも、弔いの酒ということは―――」

 彼女たちは亡くなった? でも、今回の事件に彼女たちは、一切姿を見せていない。ならば、いつ亡くなったというのだろうか。

「………ああ、そうだ。彼らはもういない」

「それは―――お悔やみ申し上げます」

 その事実を口に出すのがつらい、というような表情をするリィンフォースさん。間抜けなことに気の利いた言葉が出てこない僕はありきたりなことしか口にすることができなかった。僕が彼女たちのこと知らないということもあるだろう。とても、感情をこめられたものではなく、挨拶のような礼儀的なものになってしまった。

 僕の儀礼的な言葉を聞いたリィンフォースは驚いたように目を見開いていた。

「………? どうかしましたか?」

「あ、いや、少年は主と同じぐらいの年齢だろう? そんな言葉を使うのか、と思ってな」

 確かにはやてちゃんぐらいの年齢―――というか、僕たちの年齢でお悔やみの言葉を簡単に口にできる人はいないかもしれない。もっとも、僕は体躯と年齢が一致していない特殊すぎる例だから、例外と思ってほしいものだ。

「ところで、あの………彼らはいつ?」

「………少年が主たちと出会う前だな」

「そう、ですか」

 彼らのそっくりさんと出会ったとき、はやてちゃんがひどく動揺していたことを思いだした。それは、故人に対する態度ではなく、会いたかった人に出会った時のような動揺だった様に思える。それなら、はやてちゃんは彼らが亡くなったことを知らなかったはずだ。つまり、彼らは主であるはやてちゃんの知らなくところで亡くなったということだろう。

「あの―――それをはやてちゃんは」

「ご存じだ。私とユニゾンした時に知ってしまったはずだ」

 どこか苦渋に満ちた声色でリィンフォースさんは告げる。視線を向けたリィンフォースさんの写真には笑顔で写っている写真。その写真を見るだけで彼らの仲の良さがうかがえる。それだけの親しかった人たちを亡くしてしまったはやてちゃんの心情を思うと胸が痛む。

「―――むかし」

「え?」

 僕が暗い顔で黙っていることに気を利かせてくれたのだろうか、リィンフォースさんが唐突に話し始めた。まだ残っているお酒を傾け、写真を見ながら、うっすらと笑みを浮かべながら、彼女は話を続ける。

「むかし、まだ私が壊れる前の話だ。私は―――私たちは主と一緒に世界を巡っていた。私は魔法を収集する魔導書として、彼らは主と私を守る守護騎士として。その時代のベルカは戦乱の真っただ中で、戦闘があれば、誰かが死ぬのも珍しくない時代だった」

 闇の書―――夜天の書、少し説明を聞いた限りでは、延々と自動転生機能で世界を巡り、魔法を集める魔導書だと聞いた。ならば、彼女が語っているのは遙か昔に体験したことなのだろう。もっとも、僕はベルカという土地柄を知らないが、おそらく次元世界―――ミットチルダのような場所なんだろうということはなんとなく予想ができる。

「いつ誰が死んでもおかしくない世界で、誰かを弔うことは酒を飲みながら死んだ人間のことを楽しく語り合うことだ、とその時に教えてもらったよ。死んだ人間も暗くなることを望んでいないし、哀しみは酒が忘れさせてくれるとな」

 だから、今回は無理を言って酒を飲ませてもらっているんだ、と入っていたお酒を一気に飲み干しながら言う。

「そうだ、これは彼らの―――私の守護騎士だったヴォルケンリッタ―への弔いの酒だ。そして、これは―――」

 そう言いながら、リィンフォースさんは、まだ半分ほど入っている瓶を傾けてグラスにお酒を注ぐ。

「これは、自分自身の弔いの酒だな」

「………え?」

 リィンフォースさんが言っている言葉の意味を理解するのに少しの間が必要だった。

 ―――彼女は今、なんといった? 自らの弔いの酒だと口にしなかっただろうか。

 突然の言葉に僕が呆けている表情が面白かったのだろうか、彼女は不意に吹き出すようにくっ、と笑った。その仕草を見て、ああ、何だ、からかわれただけか、とふぅと息を吐いて安堵したのだが、そんな僕の安堵を否定するように彼女は真面目な顔になり告げた。

「少年よ、残念だが、冗談でもなんでもない。明日、私は消える」

 ―――消える。その言葉が非常に重く感じられた。今まで亡くなった人たちのことを話していたからだろうか。何よりも信じたくなかったのかもしれない。みんなの協力があって、この闇の書事件と言われた事件は幕を閉じたはずだ。なのに、これ以上の犠牲者が出ることを信じられない、いや、信じたくなかったのかもしれない。

「どう、してですか?」

 ようやく絞り出したかのような声は若干震えていた。それを聞いてどうするのだ? という思いと、納得してしまったらどうするんだ? という思いがあったからだ。認めるのが怖い、納得してしまうのが怖い。だが、それ以上に、何も知らないところで事態が進んでしまうことが怖かった。だから、震える唇で僕は彼女に尋ねるしかないのだ。

「もう、闇の書は―――夜天の書を闇の書に変えていた部分はなのはちゃんが消してしまったんでしょう?」

 少なくとも事の顛末を僕はそう聞いていた。だから、リィンフォースさんが消えると口にした時に信じられなかったのだ。

 僕は、先ほどの言葉を否定してほしくて、冗談だ、と笑って否定してほしくてリィンフォースさんを正面から見た。だが、彼女はそんな僕をどこか微笑ましいものを見たようにふっ、と笑うと、グラスに唇を口づける。

「闇の書の闇―――クロノ提督がそう称した私を暴走させていた防衛プログラムは確かにあの時、小さき勇者によって跡形もなく消し去られた。だが―――」

 リィンフォースさんは、そう言いながら標準と言えるよりも膨らんだ自分の胸に手を当てて、どこか諦めたような笑みを浮かべながら、実にあっさりと信じられない事実を口にした。

「今も防衛プログラムの原型はここに残っており、いずれ自動修復機能で再び復活するだろう」

「それは―――」

 そう、それはつまり、夜天の書―――リィンフォースさんが再び闇の書へと戻ってしまうということである。

 リィンフォースさんの言葉が事実だとすれば、それは実に残酷なことだ。ようやく解放された喜びを噛みしめているところに冷や水を浴びせれら様なものだから。今日のみんなの頑張りが無に帰すようなものだから。

 そして、なにより、この人はずっと苦しんできたはずなのだ。長年、自らの主となった人物の魔力を使い、自殺ともいえる方法で転生を行い、本来の目的から外れた使い方をされ、魔法を収集する、ただそれだけの魔導書が闇の書―――呪われた魔導書などと呼ばれてきたのだから。

 これから、これからだったはずなのだ。彼女が―――リィンフォースさんが本当の意味で魔導書に戻り、元来の目的通りに使われる。それは、意味のある存在意義を与えられた彼女にとって本懐であるはずだろう。

「少年よ、そんなに悲しい顔をしないでくれ」

 傷ついている僕を慰めるように、優しい声でリィンフォースさんが言葉を口にする。その声色からは、仕方ないというような悲嘆ではなく、安堵したような、納得したような、どこか達観しような空気が感じられた。

 どうして、そんな声が出せるのだろうか? 三度、僕の中で疑問の声が渦巻いた。

「もともと、たとえ防衛プログラムは永久的に復活しないにしても、私は自らの消滅を望んでいただろうから」

「………なんでですか?」

 本当に僕には彼女の心情がわからない。今まで呪われた魔導書として生きてきた彼女が、ようやくその呪いから逃げられ、日のあたる場所へ出てくることができたのだ。それなのに、彼女は頑なに自らの消滅を望んでいる。どのような未来に分岐したとしても、彼女は自らの消滅を望んでいるようにしか見えなかった。

 だが、リィンフォースさんは僕の質問にすぐには答えずに、どこか憂いを帯びた顔で、グラスに残っていた酒を飲み干すと、ゆっくりと噛みしめるように言葉を口にした。

「それは、私が私であるために………かな」

 リィンフォースさんがリィンフォースさんであるために? 意味が分からない僕は、もう一度彼女に問い返そうとしていたが、その前に再びリィンフォースさんが口を開いた。

「私は、魔導の器だ。呪われた魔導書と呼ばれたこともあったが、これから夜天の書であろうとも、また再び闇の書に戻ろうとも本質は常に変わらない。私は―――魔導の器だ。主を助けるために、主を幸せにすることを存在理由としている魔導の器だ」

「なら、ならっ! あなたは消えちゃいけないでしょう!? 最後まで抗うべきなんじゃないんですか?」

 リィンフォースさんが消えれば、きっとはやてちゃんだって傷つくはずだ、不幸になるはずだ。ならば、それはリィンフォースさんの魔導の器―――おそらくデバイス―――としての存在意義に反することになるのではないだろうか。

 だが、そんな僕の言葉を受けてリィンフォースさんは悲しそうに笑った。どうしようもないことを嘆くように、仕方ないと諦めるように。

「確かに、主はやては悲しむだろうな。――――だが、それ以上に、私は主を不幸にする」

「どういう意味ですか?」

 僕の問いにリィンフォースさんは少し言いづらそうにしながら、それでも少し逡巡して答えてくれた。

「私は闇の書として生きてきた。今、こうしてリィンフォースという新しい名をもらったとしても過去は変えられないのさ。ならば、主はやては、傍から見れば、一体誰の主になるだろうな?」

 ………その言葉で僕はリィンフォースさんが何を心配しているか理解した。理解してしまった。

「聡い少年のことだ。理解できたようだな。そうだ、今、このまま私と交わることがなければ、主はやてはただの被害者として社会から認識されるだろう。だが、仮にこのまま主であることを受け入れてしまえば、主はやては闇の書の主として認識されてしまう」

 そう、リィンフォースさんが例え新しい名前をもらって、防衛プログラムの影響がなくなったとしても、過去の被害者たちには関係ない。闇の書の過去を知っている人からしてみれば関係ないのだ。あるいは、もしかしたら、それ以外の人からも関係ないかもしれない。

 ――――もしかしたら、また暴走するのではないか。

 そんな疑念を抱かれてしまえば、それは恐怖として人々の心の中に毒の様に浸透してしまう。そうなれば、主であるはやてちゃんを見る目は厳しい目になってしまうだろう。

「主はやては家族を大切に想われる方だ。おそらく、私のことも庇うだろう。私が心配しても大丈夫と答えるだろう。もしかしたら、私が原因で孤立してしまうかもしれない。それが、私は怖い。護るべきは私なのに、私が護られる。その原因はすべて私にある。そんな状況に耐えられるか? いや、耐えられない。魔導書の矜持として、主を不幸へと導いているという自覚を持ちながら魔導書と名乗ることは私の矜持が許さない」

 その眼に宿っているのは彼女が言うように自らの存在理由、そして矜持―――プライドなのだろう。

 主を不幸にするデバイス―――それは今までのリィンフォースさんだ。闇の書と呼ばれた魔導書の存在だ。その存在から逃れたにも関わらず、また主を不幸にする。それにリィンフォースさんは耐えられないという。

 デバイスは、リィンフォースさんのような存在は、寿命がない。メンテナンスさえすれば、永久にその存在を保つことができるだろう。もしかしたら、親から子へ、子から孫へ託されるようなものなのかもしれない。だからこそ、彼女は自らの存在定義に、プライドにこだわるのだろう。

「それに―――」

 リィンフォースさんはどこか遠くを見るような目をして、何か懐かしむような、何か大切なものを思い出すような目をして、言葉を続ける。

「私はあのとき、確かに主の言葉で救われた。―――それだけで十分だろう?」

 本当に満足そうに、それだけで十分幸せだ、というようにリィンフォースさんは笑った。そこには後悔の色は見えない。本当に彼女ははやてちゃんの言葉で救われたことで満足していることが理解できるような澄んだ笑みだった。

「もともと、いつ終わるとも知れない地獄の中にいたのだ。自ら選んだ主に憑りつき、蒐集という名のもとに人々を襲い、最後には主さえも手にかけてきた。気が狂いそうな地獄の中、気が狂うことも許されずに長い………長い年月を過ごしてきた」

 ………先ほどのような澄んだ笑みとは何も変わらない。だが、その笑みは先ほどとは異なり、どこか疲れたような笑みにも見える。

「もう、私が―――夜天の書はここで幕を閉じるべきなんだ」

 ―――ああ、そうか。

 僕はリィンフォースさんの言葉でようやく納得できた。つまり、ここがリィンフォースさんの終着点なのだ。これ以上は蛇足に過ぎない。確かにはやてちゃんとの日々は幸せになるかもしれない。リィンフォースさんが想像したような他の被害者から責められるようなことはないかもしれない。

 だが、結局、それらは関係ないのだ。彼女にとって、ここが終着点。今まで呪われた身体によって主を奪ってきた罪悪感、ヴォルケンリッタ―という半身を失った喪失感、はやてちゃんによって救われた安堵感。それらすべてをひっくるめて、ここが終着点なのだろう。そう彼女が決めてしまったのだ。

 ならば、それは誰にも覆すことはできない。ここに残って写真を見ていたのも、弔いと言いながらも自分に残された時間に浸っていたのだろう。それは長い、長すぎる人生の余韻のようなものなのかもしれない。

「………もう一つだけいいですか?」

「ん? なんだ、少年よ」

「遺言を―――」

 僕はその先を口にしたくなかった。せっかく助かったのだ。その直後にこんなことは聞きたくなかった。だが、だが、それでも、彼女が決めたことで、どうしようもないというのであれば、せめて。

「もしも、心残りがあって、僕に託せる願いがあるなら……教えてくれませんか」

 それが彼女の遺言となるだろう。そして、僕はそれを守りたいと思う。この悲しい魔導書最後の願いを。

 最初、リィンフォースさんは僕が何を言ったのか理解できなかったのだろう。だが、すぐに僕の言葉の意味を理解すると、ふっ、と吹き出して笑った。

 あ、あれ? 何か変なことを言ったかな? と思い、不安になったのだが、すぐに真顔になるとリィンフォースさんはまっすぐ僕を見て、彼女の最後の願いを告げてくれた。

「愚問だな、少年。救われた私の最後の願いなど一つしかないだろう」

 そういって微笑むと、彼女は最後に残った心残りともいえる言葉を教えてくれた。それは、ある意味、彼女らしくて、とても納得できるものだった。





つづく



[15269] 第三十三話 後(2)
Name: SSA◆ceb5881a ID:cff84f56
Date: 2015/03/04 23:23
「はやてちゃん、起きて」

 昨日よっぽど疲れているのか、僕がはやてちゃんの身体を揺らすのだが、少し身じろぎし、むしろ僕の手を払いのけ、まだ眠っていたい、という意思を示す。

 ―――まあ、時間が時間なだけにわからないわけではないけど。

 時間は、日本時間で言えばまだまだ夜明けにはほど遠い時間である。本来なら起きるような時間ではない。だが、今日はどうしても起こさなければならないのだ。ここで、起きなかったらきっとはやてちゃんは後悔するに違いない。無論、それを知っていた僕も。

 だから、僕は心を鬼にしてはやてちゃんを揺さぶることを続ける。

「ん、なんや………」

 揺すること数度、ようやくはやてちゃんが諦めように寝ぼけ眼で、目をこすりながら身体を起こす。

「はやよう、はやてちゃん」

「ん? ショウくんやないか、どうしたんや? こんな朝早くから」

 今、何が起ころうとしているか、当然のようにわからないはやてちゃんは、のんびりとした様子で、聞いてくる。だが、そのはやてちゃんの疑問に僕が答えることはなかった。正確には、答えられないのだ。その答えを言うのはまだ早いから。

 だから、僕は答える代わりにあらかじめ用意していた私服と防寒着を取り出して、差し出した。

「はやてちゃん、早くこれに着替えて」

「ん? なんや、ショウくん、こんなはよから外に出るんか?」

 アースラの中に用意された部屋のベットの隣に表示されたアラームの地球の日本時間はまだまだ早朝という時間を示している。はやてちゃんが訝しがるのも不思議ではない。僕としてもこんな時間に出るのは避けたいのだが、ここで行かなければ、絶対に後悔するだろう。だから、はやてちゃんに本当の目的を隠しながらも外に行くしかない。

「うん、ちょっと寒いかもしれないけど、雪が降ったからね。まだ誰も歩いていない雪の上を散歩ってところかな」

 どう? と誘うと、少しだけ迷ったようなしぐさを見せたが、しゃあないな、と笑ながら快諾してくれた。

 さすがに着替えているところを見るわけにはいかないので、ちょっと間、部屋の外に出て、彼女が着替えたことを確認した後、再び部屋へと入る。すっかりパジャマから着替え終えていたはやてちゃんを確認しつつ、僕はベッドの横にある時計に目を向けた。

 ―――まだ………時間は大丈夫。

 指定された時間まではまだまだ余裕がある。これから向かえば、間違いなく間に合うだろう。

「ほな、行こうか?」

「それじゃ、ちょっと失礼しますよ、っと」

 ベットの上に腰掛ける形で座っていたはやてちゃんの膝の裏に手を入れて、彼女の家で生活していた時の様に抱きかかえてそのまま隣に用意していた車椅子の上と移動させる。この動作にも慣れたもので、近くにおいていたストールを膝の上に置くところまでが一連の動作である。

「ありがとな」

「どういたしまして」

 はやてちゃんのいつものお礼にいつものように答えながら、僕は車椅子の後ろへと回る。ハンドルようなものに手をかけて、さあ、いざ出発だ、というタイミングで、うぐっ、という呻きを上げて不意にはやてちゃんが胸を押さえた。

「はやてちゃん!?」

 何が起きたっ!? と思わず驚いてしまい、急いではやてちゃんの前に回って屈んだ。彼女の顔は苦しそうな顔をしていたが、それも一瞬だ。大丈夫? と声をかける間もなく、すぅと熱が引いたように苦しそうな表情は鳴りを潜めた。代わりに浮かんでいたのは、驚愕したというような、信じられない、という表情だった。

「リィンフォース………」

 え? とはやてちゃんがつぶやいた言葉に動揺してしまう。どうして彼女が今、この場所でその名前をつぶやくのだろうか? はやてちゃんはリィンフォースさんのことを知らないはずだ。だが、彼女の今のつぶやきには確かな動揺が見て取れた。

「どういうことや? なんでや?」

 ………まさか、と思った。彼女のつぶやきは、間違いなく現時点で行われている、行われようとしていることを知っている。

 可能性があるとすれば、リィンフォースさんが特別なデバイスであることだろうか。彼女は確か特殊なユニゾンデバイスというもので、はやてちゃんと一体化していた。元より闇の書は、はやてちゃんのリンカーコアから魔力を蒐集していた。そのことを考えれば、闇の書―――リィンフォースさんとはやてちゃんは魔力的な何かでつながっていてもおかしくはない。

 そして、そのつながりは、リィンフォースさんの消滅という緊急事態をはやてちゃんに伝えたのだろうか。

「なぁ、ショウ君、何か知っとるんやろ!? 何なんや、これはっ!?」

 さすがにこの期に及んでは、何も言わずにつれていくということはできないようだ。そもそも、こんな朝早くから連れ出そうとしたところに、この予感ともいうべき衝動だ。僕が何かを知っていると疑ってもおかしい話ではない。

 できれば、はやてちゃんには最後の最後に真実を知ってほしかった。その分だけ、彼女は思い悩むだろうから。苛まれるだろうから。だから、リィンフォースさんは、儀式が始まって、引き返せないぐらいのぎりぎりにつれてくることを望んだし、僕もそれに同意した。

「………分かったよ。でも、続きは移動しながらでもいいかな? 時間が近づいてきている」

 知られてしまったからには逆に一秒でも早くはやてちゃんをリィンフォースさんのところへ連れて行きたかった。少しだけでも長くリィンフォースさんとはやてちゃんの時間を作ってあげたかったから。いや、これはもしかしたら、黙っていたことに対する罪悪感への贖罪かもしれないが。

 それでも、少しでも彼女の救いになることを信じて、僕は車椅子に背を向けて、はやてちゃんの動かない足を取った。それだけではやてちゃんは、僕の意図をくみ取ってくれたのか、手を伸ばして首に腕を巻きつけてくる。背中にじんわりと人の体温を感じることができた。

「それじゃ、行くよ」

 返事の代わりにぎゅっ、と腕の力を強めるはやてちゃんに応えるようにしっかりと身体を固定するとアースラのトランスポーターへと駆け出すのだった。



  ◇  ◇  ◇



 まだ朝日が昇る前の海鳴町の空を僕とはやてちゃんは飛んでいた。正確にいえば、飛んでいるのは僕で、背中にしがみついているのがはやてちゃんだ。僕からはやてちゃんの表情は見えないが、険しい表情をしているのはわかる。

 ここに来るまでに僕は彼女に事情を説明していた。説明といっても、僕からできる端的な事実を並べただけになってしまうのだが。

 それだけでも、はやてちゃんにとっては衝撃的だったのは疑いようがない。なにせ、彼女は主であるにも関わらず、何も聞かされていないのだから。

 もしかしたら、はやてちゃんの中ではこれからリィンフォースさんと過ごす日常を想像していたのかもしれない。あの状況では叶えられる現実だったのかもしれない。だけど、事態ははやてちゃんの意図しない方向へと流れていた。

「なんでや、リィンフォース」

 背中ではやてちゃんが、独り言のようにつぶやいた。顔の位置が耳元にあるため、小声であろうとも僕には囁くような独り言も聞こえてしまった。

 僕は彼女の問いの答えを知っている。リィンフォースさんから聞いて知っているからだ。だが、僕からその答えをはやてちゃんに応えることはないだろう。なぜなら、それは僕が伝えていいことではないからだ。リィンフォースさんの決断は、彼女が、彼女自身の言葉で語るべきだと思う。

 そのための時間はもともと作っていたのだから。ただ、知られるのが一歩速かっただけだ。だから、僕にできることは最初に目的地にしていた場所に一秒でも早く到着することだった。

 はやてちゃんを抱えてどれだけ空を飛んだだろうか。いつの間にか朝日はうっすらと頭を見せ始め、日の出を演出していた。時間にすれば一時間もたっていなかったかもしれないが、それでもはやてちゃんにしてみれば、かなり長い時間だっただろう。それだけの時間をかけて僕たちは、海鳴市が一望できる小高い丘の上へと足を下した。

 地面には昨夜のうちから降り積もったであろう雪が敷き詰められており、早朝ということもあって誰も足跡を残していない新雪を踏むことができた。

 だが、そんなことははやてちゃんにはどうでもいいだろう。彼女が目にしているのはたった一点のみだ。

 僕たちの眼前で着々と進められている儀式。ミッドチルダ式とは異なり、三角形を標準的な魔法陣とする古代ベルカ式に則った魔法陣である。三角形の頂点にあたる位置にいるのは、なのはちゃん、アリシアちゃん、そして、クロノさんだ。

 この儀式は一人では行えないため、今朝の内にアリシアちゃんからも了解を得ていた。記憶を取り戻したアリシアちゃんであれば十分らしい。

 彼らはわき役に過ぎない。本当の主役はその魔法陣の中心に、目の前で夜天の書を展開し、儀式の光に包まれるリィンフォースである。まるで、日光浴を浴びるように目を瞑りながら、その時を待っているようにも思える。

「リィンフォースっ!」

 その様子に魔法のことがほとんどわからないはやてちゃんも強い違和感を感じていたのだろう。リィンフォースさんの名前を叫び、届くはずがないのに彼女に向けて手を伸ばす。その悲痛な叫びに胸が引っかかれたように痛むが、それを見ないようにして、僕はゆっくりと儀式が行われている丘へと着地した。

 背中では、はやてちゃんが早く地面におりたいともがいていた。気持ちはわかるが、歩けないはやてちゃんを放置することはできない。

 僕はあらかじめクロノさんに用意を頼んでおいた車椅子にはやてちゃんをゆっくりと背中から乗るように仕向けると、はやてちゃんは手慣れたように背中から車椅子へと移動し、くるっ、と向きを変えると僕を迂回するように車椅子を動かした。

 僕は振り返り、はやてちゃんの背中を見るような形となり、リィンフォースさんと目が合う。彼女との会話は昨日の夜のうちに終わっている。僕らは合図するようにお互いに小さくうなずいた。ここからは、僕の出番はない。ただの傍観者であるだけである。

「あかんっ! リィンフォース、やめるんやっ!」

 車椅子の車輪を手慣れたように回し、歩くよりも速いスピードでリィンフォースさんの儀式が行われている魔法陣に近づくはやてちゃん。その叫びは悲痛としか言いようがない、悲しみにあふれた叫びだった。

 その声を聞いてクロノさんが苦しそうな顔をして俯く。ただ、儀式は止めないようにデバイスを構え続けたところは、自らの職務による責務だろうか。

 そして、もう一人、こうなることがわかっていたであろうリィンフォースさんは困ったような、嬉しそうな、そんな曖昧な表情を浮かべていた。

「ショウ君から聞いたで! 破壊されるつもりやってな。そんなことせんでええ!」

 思いのたけを、リィンフォースさんに届くようにと半ば涙声になりながらもはやてちゃんは叫んでいた。その声が、僕にとっては痛々しい。耳をふさいでいいのであれば、僕はすでに耳をふさいでいただろう。小さな少女の心からの願いの叫びを、叶うはずがないと知りながら聞くことは、心に少なからず痛みを与えるのだから。

 はやてちゃんの心からの叫びを困ったような表情で聞いていたリィンフォースはやがて慈愛の満ちた笑みで、晴れ晴れとした笑みを浮かべてはやてちゃんの言葉を否定するように首を横に振った。

「主はやて、よいのですよ」

「なにがいいんやっ!」

 はやてちゃんの追及をうけるとリィンフォースさんは、どこか昔を懐かしむように、悔いるように少し目をつむりやがて答えた。

「悠久ともいえる時を生きてきました。幾多の命を奪い、消えるという地獄の連鎖の中を生きてきました」

 それは後悔だろうか。あるいは、懺悔だろうか。リィンフォースさんの淡々とした口調の中には、どこか暗い色を含んでいた。それを感じられたのか、はやてちゃんも今までの勢いが少しだけ怯む。その様子に気付いたのか、あるいは気付かないふりをしたのか、リィンフォースさんは言葉を続ける。

「ですが、それも主はやてと出会い、小さき勇者たちのおかげで解放されました」

「ならっ! ならっ! それでええやないかっ! もう、暴走なんかさせへんっ! 私がなんとかするっ! やからっ!」

 そう確かにそれでもいい、という判断もあったかもしれない。しかし、それはリィンフォースさんの今の判断とは相いれないものだ。彼女はここが去り場所だと悟った。ここが闇の書の―――夜天の書の終焉だと。だからこそ、感謝と恩しかないはやてちゃんの言葉にも微笑みながら首を横に振るのだ。

「私は最後に綺麗な名前と心をいただきました。これらを抱いているから私は笑って逝けるのですよ」

 すべてあなたのおかげだ、と感謝するようにリィンフォースさんは笑っていた。

「なんでや………もう、シグナムも、ヴィータも、シャマルも、ザフィーラもおらんのに、なんでリィンフォースまで消えるんや」

「主はやて………」

 この言葉には、さすがに覚悟を決めていたリィンフォースさんも悲哀の表情を見せる。もしも、はやてちゃんが知っている写真に写っていた彼らが残っていたなら、はやてちゃんの心ももう少し救われたのかもしれない。リィンフォースさんがいなくなったとしても、彼らと過ごす楽しい時間が、その悲しみを埋めてくれたかもしれない。

 しかし、それはただの『たられば』だ。実際には、はやてちゃんと仲のよかった彼らはどこにもいない。彼らは全員逝ってしまっている。すでに傷を負っている彼女の心にリィンフォースさんの喪失はさらに深いものとなるだろう。

 だが、リィンフォースさんはすぐにふっ、と笑みを強めた。

「大丈夫です、主はやて。私や守護騎士は確かにいなくなってしまいます。ですが、もう一人ではありません。一人にはなりません」

「―――そうだね」

 僕はリィンフォースさんが視線を合わせてきたのに合わせてはっきりと宣言するように答えた。その声にはっ、としたようにはやてちゃんは後ろを振り返って僕を見る。僕はその視線に応える。

 ―――それがあなたの遺言だ、とは言わなかった。

 これが、昨夜、彼女に聞いた遺言だった。救われた魔導の器が最後に残す願い。それは言うまでもなく、主であるはやてちゃんのことで、彼女の遺言は、『主はやてを頼みます』だった。実に範囲が広いとは思われるが、結局のところ、リィンフォースさんにとって心残りとははやてちゃんの事だけなのだろう。

 遺言は? と聞いた立場もある。僕はできるだけ彼女の遺言を叶えようと思った。いや、やっぱり違う。叶えようと思ったわけではない。言うまでもなく、リィンフォースさんの遺言は叶えられる。だって、僕とはやてちゃんは友人なのだ。友人を気にしないわけがない。まして、大切な人を失ってしまった友人を一人にするだろうか? 彼女の遺言は僕が望んでいることでもあった。だから、ある意味ではこれはリィンフォースさんからのお願いにはならないのかもしれない。

「ショウくん………」

 どこか呆然としたように僕の名前を呼ぶはやてちゃん。僕はそんな彼女に応えるように、その不安に満ちた表情を少しでも和らげるために雪が積もった早朝の中、手袋もつけずに車椅子のひじ掛けに置いている手の上に重ねるように自分の手を重ねた。外気にさらされていた手はひんやりとしていたが、少し経てば僕の手と重ねた部分は暖かくなってくる。

 そんな僕たちを見ていたリィンフォースさんは満足そうに笑い、頷いていた。そして、これで満足だ、と言わんばかりに踵を返すと、展開されている三角形の魔法陣の真ん中へと移動していた。

「主の危険を払い、主の幸福ために生ことが魔導の器としての存在理由です。主はやて、私はその本懐を果たさせてください。最善と言える方法で、あなたを守らせてください」

「リィンフォース………せやかて、せやかて………これからやないか」

 朗らかに微笑むリィンフォースさんとは対照的にぽろぽろと涙を流すはやてちゃんは、嗚咽にむせびながらたどたどしく言葉を重ねる。

「ようやく、ようやく救われたんや………これからやのに………これから幸せにならなあかんのに………なんで消えるんて言うんや?」

 他人のために流せる涙は美しい、とは誰が言った言葉だろうか。確かにはやてちゃんは泣いていた。それは、自分のためではない。リィンフォースさんがいなくなるという事実が悲しいというのは事実だろう、自分の力が足りずに不甲斐ないという気持ちもあるだろう。だが、一番強いのは、おそらく今まで不幸だった、そして、これから幸せになれるはずのリィンフォースさんが幸せにならずに逝ってしまうことを悲しんでいるのだ。

 はやてちゃんの言葉にリィンフォースさんも虚を突かれたのか、一瞬、言葉を失ったように驚いた顔をしていたが、言葉の意味をすぐに理解すると何の心残りもないような澄んだ笑みを浮かべていた。

「主はやて、その願いはすでに果たされております」

 リィンフォースさんの言葉に今度ははやてちゃんが、はっとしたように顔を上げた。流れる涙は止まらない。だが、それでも視線ははっきりとリィンフォースさんを取られていた。

「無限ともいえる地獄から救ってもらい、美しい名前をいただきました。私は―――夜天の書は、祝福の風は、リィンフォースは世界一幸せな魔導書です」

 その笑みは確信めいた笑みだった。それを信じて疑うことのない晴れ晴れとした笑みだった。

「………リィンフォース………」

 そんな笑みを見せられては、はやてちゃんはこれ以上、何も言えないようだった。僕からも何も言えない。そもそも、引き留める言葉は僕にはすでにない。だから、僕にできることは彼女に共感するように、リィンフォースさんは間違いなく世界一幸せな魔導書だった、とはやてちゃんが胸を張って言えるように、そんな彼女の隣に立てるように力強く彼女の手を握ってあげることだけだ。

「主はやて、私は―――もう逝きます」

 その言葉は儀式の終わりを示していた。形成されていた三角形の白銀の魔法陣が薄暗い朝焼けの中、淡い光を放ち始める。

「蔵元翔太―――」

 光に包まれる中、彼女はつかの間、はやてちゃんの握られている手に視線を向け、安心したようにうなずくと今度はまっすぐに僕に視線を向けてきた。その力強い瞳の奥からくみ取れる意志は、信頼か、あるいは託す者への祈りか。僕としてはどちらでもいい。彼女の意志は聞いたし、確かに僕に届いている。僕ができることは、昨夜の遺言を聞き届けることを信じてもらうことだけだ。

 だから、僕はコクリと小さくうなずいた。あとは任せてください、と言うように。彼女が安心して逝けるように。

 僕の返事が届いたのだろうか、リィンフォースさんは安心したように口の端を緩めるとゆっくりと目をつむった。

「それに小さき戦士たちよ。迷惑をかけた………ここに感謝を。そして、別れの言葉を」

 リィンフォースさんの隣に浮かんでいた魔導書がパラパラと自動的に捲れる。一つのページが捲られるたびに彼女の存在が薄くなっているような気がする。やがて、捲られるページも最後に近づいてきたころ、彼女の存在がほぼ真っ白になってきたころ、リィンフォースさんはこの世で最後の言葉を口にした。

「主はやて―――どうか心安らかにお過ごしください」

 ―――さようなら。

 その言葉は空気を震わせることができただろうか。少なくとも僕の耳には聞こえたような気がする。

 そして、その言葉を最後にしてリィンフォースさんは天上へと続く光に包まれながら、朝霧が光によって払われるように、その存在を消失させた。儀式が行われていた場所は、今までリィンフォースさんが立っていたことを示すように靴の形に沈んだ足跡しか残っておらず、彼女がいた痕跡はそれだけだった。

「リィンフォースっ!!」

 消えていなくなったことを嘆くようにはやてちゃんが名前を叫ぶ。だが、それに応えられる彼女はもういない。いないはずだ。だが、いないはずの人間が、彼女の叫びに応えるようにゆっくりと天空から落ちてくる気配を感じた。何だろう? と思い、見上げてみれば、既に頭を出しきってしまい、半分は山の向こう側から見える朝日の光を反射しながら落ちてくる十字架のようなもの。

 それはまっすぐにはやてちゃんの手元へ落ちてくる。

 ―――ああ、まったく、本当に最後の最後まで主思いですね。

 その言葉を口にするのは無粋だろう。はやてちゃんの手元に落ちてきたものは、僕にも見覚えがある。夜天の書の表紙に記されていた古代ベルカの剣十字だ。いうなれば、リィンフォースさんの元となったものだろう。彼女は魔導書でなくなりながらも、こうして彼女の手元へと帰ってきた。

 僕からしてみれば、きちんと遺言を守っているか見張られているようなものだけど。

 はやてちゃんは、最初、手元に戻ってきたものについて理解できなかったようだが、それも一瞬だ。理解した瞬間に彼女の目に涙がたまり、決壊するのに時間は必要なかった。

「う、うぐっ………うわぁぁぁぁぁぁぁ」

 それは、感情の発露だったのだろう。彼女は泣く。彼女のを失った悲しみも、彼女を幸せにしてあげられなかった自分の不甲斐なさも、自分の力不足への怒りも、すべてを洗い流すように。リィンフォースさんがいなくなったことを受け止める心が壊れないように彼女は泣いた。

 僕が彼女に対してできることは、そんなに多くない。彼女が一人でないことを証明するように小さいかもしれないが、胸を貸すだけだ。どんなに泣いても、彼女の様にいなくならない、と温もりを与えるために優しく包み込み、背中を撫でるだけだ。後で後悔しないように、悲しみを引きずらないように好きなだけ泣かせてあげるだけだ。

 はやてちゃんは、僕に抱き込まれるような体勢で泣き続ける。時折、リィンフォースさんの名前を口にしながら。そんな中で、はやてちゃんが持つ剣十字が朝日を反射させ、きらりと光る。まるで、彼女が見ているぞ、とでもいうように。

 ―――大丈夫ですよ、約束は守りますから。

 僕はリィンフォースさんが逝ったであろう空を見上げながら心の中で呟いた。

 こうして、今回の事件―――後に闇の書事件を命名された事件はこうして幕を下ろしたのだった。
























つづく

カーテンコールの幕が開く


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