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[15606] 孤独少女ネガティブなのは(原作改変・微鬱)
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/04/02 18:12
この物語は作者がリハビリにと書いたものです。
だからいつもと比べて非常に文量が少ないですのでご了承ください。

以下、注意。

・この物語にはオリジナルキャラクター、オリジナル主人公は登場しません。(名無しの脇役キャラ程度には出る事もあります)
・原作のキャラクターが非常に荒んでいます。
・物語は原作に沿って進んでいきますが、展開が大きく変わる恐れがあります。
・なのはが病んでいます、ヤンデレではなく病んでます。
・無印基準でスタートしますが、一部A's、StrikerSのキャラクターが登場します。
・一部のキャラクターが普通に死にます、もしかしたら登場すらしない可能性があります。
・一部原作にはなかった展開、描写があります(ジュエルシード関連等)。なるべく原作に沿いたいとは思いますがどうしても具体的な情報源が得られなかった物に関しては独自解釈が含まれるかもしれません。
・原作キャラクターの過去や役職が変わっている可能性がございます。
・未成年による飲酒、喫煙などを増長させるような描写が多々あります。

からっぽおもちゃ箱について。
からっぽおもちゃ箱はネガティブなのはの時間軸上の中で他人の視点から描いた言わば間話のようなものです。
その為この話がないと各キャラクターの性格がつかめない可能性が大きくなりますのでご注意ください。
また少々他作品の会話をトレースして書いているような処も出てきたりしますが、もしも元ネタが分かったら静かに笑ってあげてください。

非常に話の内容が鬱一直線なので原作のハートフルなストーリーのイメージを壊したくない方は、以上の点に気を付けた上で読んでいただけると幸いです。

*三月八日「空っぽおもちゃ箱④」に矛盾がありましたので誤字と一緒に修正しました。
指摘していただいたJtRさんどうもありがとうございました。



[15606] プロローグ「きっかけは些細な事なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/15 14:33
きっかけは本当に些細な事だった。

「あッ!? 高町が花瓶割ったぞ!」

本当に小さなミス。
誰にとっても取るに足らないとっても小さな一つの過ち。
でもそれは当時の私にはとっても大きかった訳で……。
誰に弁解するでも歯向かう訳でもなく、ただ泣くしかなかった小学二年生の秋。

「何してんだよ高町ぃ~。弁償だ、べんしょー!」

それは子供心の内に芽生えた一種の罪への好奇心だったのかもしれない。
人の不幸を笑うっていう気持ちへの前進。
ある意味大人へと成長する過程でどうしても外す事の出来ない残酷な感情の開花。
何でも良いけれど、子供っていうのは時に大人よりも残酷だからそうした事に対する抑制が出来ない。
人の心なんて硝子細工よりも脆いって事も、どんな言葉で人が傷つくのかって事も分っていないから。

「あ~ぁ、高町の所為だぁ。馬っ鹿じゃねぇの?」

「本当にどん臭いのね、高町さんって。私たちまで怒られたらどう責任とってくれるの!?」

放課後のお掃除の時、私がうっかり箒の柄をひっかけて割ってしまった。
それが全ての始まりで、私の明るい学校生活の終わり。
もう誰かと笑ったり、泣いたり、お話しする事の終わりだった。
悪いのは私、そんな事は分っている。
それが本当はふざけて走り回っていた男の子が私にぶつかった拍子に起こってしまった事だとしても、やったのは私。
だから悪いのは全部私……本当に私?

「先生ぇ! 僕達は素直に謝った方が良いよって言ったのに高町さんは隠そうって言ってました!」

「まぁ……高町さん。それは本当なの?」

嘘だ、私は隠したりなんてしていない。
でも、本当の事を言うと皆が怒るから言うに言えなかっただけ。
だからスカートをキュッと握りしめて私は聞かれてもずっと俯いたままだった。
その間にも他の子達からの証言は続いた。
だけど私は何も言わない。
例え先生がその話を聞いて鬼みたいな顔をして私を怒ったとしても、私には御免なさいって言葉しか言えない。
だって本当の事を言うとまた私は一人になっちゃうから。

「お子さん、ちゃんと家でも本当の事を言っていますか? 実は先日―――――」

「なのは、どうして隠そうと何かしたんだ。本当の事をちゃんと言わなきゃ駄目じゃないか」

その後直ぐに先生からの電話があって、お父さんに怒られた。
私の事を良く知っているお父さんなら私が無理をしている事も少しは察してくれるかもしれないって最初は期待してた。
でも、お父さんは先生の言う事を復唱するだけでちっとも私の事なんか分ってくれない。
此処でも私は泣くしかなかった。
本当の事を言ったら皆に嫌われる。
だけど言わなくちゃお父さんは分ってくれない。
板ばさみだった……その時の私にはどっちの選択も取る事ができなかった。
だから御免なさい……でも本当に悪いのは私?

「おい! 高町が着たぞ。きったね~」

「うわッ、こっち来んなよ高町! 高町菌がうつるだろ~」

「やだ~私高町さんの鞄触っちゃった。手、洗いにいかなくちゃ~きゃはは」

その出来事をきっかけに私の学校でも立場は一層酷くなった。
元々社交的ではなかったけど数少ない友達はいなくなったし、クラスメイトの皆は揃いも揃って私の事を黴菌扱い。
こと在る毎を騒ぎ立てては私を取り囲んで悪口を言う始末。
中には酷い物もあって、ランドセルの中にお弁当の残りを入れたり教科書や上履きに黒マジックで落書きをする人もいた。
そのたびに私は泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続けて……誰も助けてくれないことを知った。

「ごめんね、なのはちゃん。私……ね。本当に止めようとしたんだよ、本当だよ!」

「ど、どうして言わなかったのよなのは! そんなにアタシたちが頼りない? アタシたち友達でしょう!?」

友達だった月村すずかちゃんとアリサ・バニングスちゃんの言葉だ。
聴いただけなら私を励ましているようにも思えるけど、所詮それだけだった。
二人とも私と同じクラスだから見ていたはずだし、知らなかったなんて事は無い筈だ。
本当は見ていた筈なのに……泣いている処ちゃんと見ていた筈なのに。
二人とも何もしてくれなかった。
今思い出すと二人とも何だか凄く必死だったような気もする。
もしかしたら自分たちにまでとばっちりが回ってくるのが嫌だったのかな。
それ以降二人ともあんまり話すことは無くなった。
私は態の良い“友達”って言葉が大嫌いになった。

「そういう事になるのは何か高町さんに原因があるんじゃないの?」

先生に相談してもこう切り返してくるばかり。
被害にあった物を見せても、泣いて頼み込んでみても何の対応もしてくれない。
顔を顰めたり、慰めてくれたりはしたけど本当にそれだけ。
他の先生に言うでもなければ問題にするでもなく、ただただ淡々とゴールの見えないやり取りを繰り返すだけだった。
本当は私は知っている。
虐めとか仲間はずれとかそんな問題が起こると先生が苦労する事になるから問題にしたくないって事、本当は知っている。
だから私の学校は虐めなんて物とは無縁、皆仲良し。
私はこの時“大人”って言う物が酷く汚く見えた。

「なのは! 国語と社会の点数が前よりも20点も下がってるぞ。遊ぶのもいいけど、いい加減ちゃんと勉強しような」

「なのは……お勉強大変なのは分るわ。でもね、塾もタダじゃないの。この前までAクラスだったじゃない。なのに突然Bクラスになるっていうのはやっぱり……」

段々とこんな状況が続いてくると別の場所に影響が出てくるようになった。
家に帰ってきても嫌な事を忘れる為に不貞寝ばかりしていた所為で学校の成績が下がってしまったのだ。
学校でのテストは全盛期の頃よりも全体を通して20点ずつ位落ちてしまったし、それに伴って塾の方でも一番上のAクラスの居たのが一つ下のBクラスに編入しなければならなくなってしまった。
勿論私は頑張った……でも身体も心もボロボロだった。
毎日毎日学校に行けば嫌がらせ、家に帰れば何時も何時も両親揃って二言目にはお勉強お勉強。
もう、うんざりだった。

「もう誰も信用なんかしない……したく、ないよ……」

その言葉に気が付いた時には私はもう三年生になっていた。
誰かと会話するのが怖い。
誰かと触れ合うのが怖い。
誰かと対面するのが怖い。
その頃にはもう私は立派な人間不信者になってしまっていた。
友達なんか居ない。
大人なんか信用しない。
私なんかよりも私が取ってくる成績にしか目のないお父さんもお母さんも大っ嫌い。
悲しいけれど、もう私にはどうする事もできなかった。
どうする事もできないから、その言葉を吐き出した途端また泣いた。

「皆嫌い……大っ嫌い!!」

部屋に鍵を掛けて、ベットの中で泣きじゃくっていた私の必死の叫びだった。
誰に聞こえていたわけではないけど、この言葉から私の人生は180°姿を変えたんだ。
誰かに触れる事で傷つくのならもう誰とも関わらなくなってしまえばいい。
こんなに苦しいのならいっそ他人の温もりなんか要らない。
私は私、一人でも大丈夫。
そうして……私は何もかも投げ捨てて孤独になった。
これはそんな何処にでもある女の子の物語。





海鳴市の人口はざっと10万人。
大して何が盛んなわけでもないのに最近になって一部の地域が開発されつつある、何処にでもあるような小さな街だ。
何がこの街に人を引き付けているのか、正直私には理解できない。
人によってはこの街は誰もが幸せになる街だなんていう人も居るけど、所詮私にしてみれば此処に住んでいる人間も他の街に住んでいる人間も微塵も大差の無い物だからだ。
人並みに笑い、人並みに苦難に陥って、人並みに誰かを蹴落とそうとする。
出る杭は打たれ、抜きん出た何かは人目に付き、平均の上を行っても下を行っても蔑まれる。
そんなリアルタイムで誰もが経験している事を、何の変わりもなく行われる悪い意味で人臭い街。
所詮この街の評価なんてその辺りが妥当なところだろう。

「はぁ……なんだ。また朝、か」

そんな街にも朝は来る。
当然だ、少なくとも地球が逆転でもしない限りはこの法則は乱れる事はない。
東から出た太陽が西の海へと沈み、そのサイクルが一日を作る。
小学三年生の私でも知っている常識だ。
だけど私はそんな常識が憎たらしくてならなかった。
このまま何時までも夜のまま夢が覚めてしまわなければいいのに。
夢の中ならばこんな私でも安らかな安息を得る事が出来るのに。
私は常日頃からそう思っている。
だから……カーテンの隙間から漏れ出した眩し過ぎる太陽が憎くて堪らなかった。

「起き出したくないなぁ……学校行きたくないし。今日体育あるし……はぁ」

何処までも駄目な小学生な事は自分でも良く分っている。
こういう時健全な小学生なら朝が来た途端元気よく起き出して朝早くからランドセル背負って家から飛び出すものなのだろうけど、そんなイメージと照らし合わせて見ても私はどうにもそうした人種の人間ではないからそんな振る舞いは一生できないと思う。
朝起きる時は身体が気だるいし、寝るにしたって色々あって中々眠れないもんだから睡眠時間が短い所為で目元には薄っすら隈が出来ているほど見た目からして元気がない。
加えて栄養失調気味に痩せこけた頬は病弱な人間のそれに等しいし、お父さん曰く今の私の瞳は死んだ魚みたいに濁っているらしいから生気があるのかどうかなんて事は自分で確認するまでもない。
程よく最悪に不健康で小学生らしくない子供、それが私……高町なのはだった。

「面倒臭いなぁ、本当。またサボって図書館行っちゃおうかな……なんて、こんな事言ってるとまたお兄ちゃんに怒られちゃうか」

不承不承、行きたくないけど行かなきゃもっと面倒な事になる。
邪な考えを導き出した傍から忘却の彼方へと追いやった私は力無く布団を退けてベットから本格的に起き出した。
ふと起き出した拍子に部屋を見回してみると其処は当たり前の事だが私の部屋だった。
傍らに開いたまま投げ捨てられた雑誌、コンビニのお弁当の空箱やカップラーメンのカップなどが山積になった机、小さな22型のテレビに繋がれた電源点けっぱなしのゲーム機。
その他諸々汚れ放題、荒れ放題……昔の可愛かったぬいぐるみやらファンシーなペンケースやらは何処へやら、完璧に駄目駄目さんの住んでいる巣窟だった。

「あー……掃除、しなきゃなぁ。でも面倒臭い……」

起きた直後にげんなりする私。
小学生の内からこれだけ朝から嫌な事が立て続けに起こる人間と言うのもある意味貴重なのかもしれないが、有り難味なんて全然ありはしない。
やろうとは思ってる、でも二言目には面倒臭いが出てしまう。
そんなこんなで汚れ果てた私の部屋、そして其処に住まう私の心。
部屋は人を表すってよく朝10時頃からやっている家庭ドキュメンタリー番組の色黒な司会者が言ってたけど、あれって凄く正しいのだと今更になって思う。
何処まで行っても気だるさの取れない朝の始まり、何時まで経っても憂鬱なだけだ。
余談だけどなんでそんな朝遅い時間のテレビ番組を小学生の私が知っているのかと言う事に関しては秘密だ。
別に学校が嫌で携帯電話を片手にテレビを見ながら学校をサボっていたわけでは決して無い、説得力なんてミジンコよりも小さいのだけれど。

「お母さんにやってもらおうかなぁ……でも部屋の中一度入れると面倒な事になるしなぁ。前なんて掃除機掛けるついでにゲーム消してそれまでのクリアデータが全部パーになっちゃってた事もあったし……仕方ない、自分でやるか」

人の事を信用しない割りに結局困った時の人頼みって言うのは私の悪い癖だ。
でも、これでも初めの頃よりはちょっとはマシになった方だ。
昔の私は事有る毎によく泣いたし、結局大人に縋ってばっかりだった。
その頃に比べれば自分で何とかしようって気持ちが芽生えただけでもちょっとは進歩した方なのかもしれない。
どうせ誰も助けてくれないなら最低限自分で出来る事は自分でしよう、きっと昨今稀に見る理知的な小学生だと自分でも自負している。
……言っていて何だか自分で自分が気持ち悪くなった。

「え~っと、制服~せいふく~っと、あったあった。うわッ!? スカートの所、カレーヌードルの汁で染みになっちゃってるよ。あちゃ~最悪だぁ、染み抜きするの凄く面倒臭いんだよなぁ。まっ、いいか。どうせそんなに目立たないよね」

素足のまま床に散乱している女の子らしからない青年漫画雑誌やその単行本、殆ど落書きしかしていないようなノートやら教科書やらを素足で退かしながらそれ等に埋まっていた白いワンピース状の制服を指で摘み上げた私は徐にそれをベットの方へと投げ捨てた。
年頃の女の子としては確実に零点を取るような行いだけど、見ているだけで憂鬱が加速するのだから仕方ない。
きっとあの染みは昨日夕食に食べたカレー味のカップヌードルが啜っていた拍子に付いた物なのだろうけど、濡れたハンカチやティッシュなどで拭ってもああした物は中々落ちないことが分っているからそれ程気にしなかった。
どうせ誰も私の事なんか注目しないだろうし、元からアイロンを掛けていないから皺くちゃで見るに耐えないような物なのだから汚れの一つや二つ今更どうした物でもない。
私は身に纏ったオレンジの薄手のパジャマを脱ぎ散らかしながら、改めて此処まで堕ちた自分の感性に落胆するのだった。

「紺ソは……あ~もう面倒だからハイソでいいか。髪止めのリボンは~って、こっちにもカレーヌードルの染みが!? パス、パス! やっぱりタダのゴムでいいや」

制服以外にも髪止めやらソックスやらあれこれ煩わしい物を支度して慌てる私。
他の優雅な小学生から見ればどれだけ慌しく余裕が無いことだろうか。
きっと元友達だった二人のお嬢様なんか専属のメイドさんなんかが着替えさせてくれているんだろう事に比べてみれば殆ど満月と鼈のような状態だ。
おまけにあっちは金持ち、きっと食事も上等な物を食べて、上等な香水でも使って、上等な服装で身を固める使用人をこき使っている事だろう。
思い返せば思い返す程何だか腹立たしくなって来るほどだ。
もっとも、所詮無い物強請りした処で手に入る訳でもないのだから考えるだけ無駄な労力だって事は初めから分っているのだが。

「よし、此れで後は……消臭剤。これで完璧だ。今回は柑橘系~」

無理やりにでもテンションを上げようと一人何となくはしゃいでみたりする。
虚しい、そこはかとなく虚しい。
くだらないし、意味が無いし、そもそもテンション上げる意味合いも自分でも分んないし……そんなネガティブな考えにほんの少しのポジティブ精神は簡単に押し潰された。
柑橘系の消臭スプレーから漏れるシューッ、という気の抜ける音ですら気が滅入りそうになるほどだ。
そもそも消臭剤で臭いを誤魔化した所で染み付いた生活臭は拭いきれないし、だからと言って掛けすぎると消臭剤臭いって言ってまた責められる。
この微妙な加減を調整するのにまた神経を使って苛々が増す。
とんだ悪循環だと私は思った。

「あ~そういえば体操服も必要なんだっけ、今日。しかもドッチボールかぁ……いいや、面倒だから保健室行けば良いから持っていかなくていいや。っと~着替え、着替え」

体操服を持っていくという選択肢をコンマ一秒蹴落とした私は徐にベットの上の制服を鷲掴みにして下着の上からそれを着込み始めた。
小学生の内は義務教育、どれだけ授業を休もうが成績が悪かろうが進学は出来る。
私は昔から体育が苦手だし、運動自体大嫌いだからこの最悪な生活が始まってからの7ヶ月間ずっと授業をサボっている。
というよりも寧ろ学校の授業自体殆ど聞いて無いから、サボっているという事に関しては体育に限った事ではないのだけれど。
ただ学校に行かないとお兄ちゃんが五月蝿いから最低限行かない訳にも行かない。
最近になってようやく私とお兄ちゃんの血が……っていうよりも兄妹全員の血が繋がっていない事を知ったけど、言わば赤の他人からあれこれ私は指図されている訳だ。
殴りこそしてこないけど家族の代表と言わんばかりに凄んでくるお兄ちゃんは正直ウザい。
どうせ私が苦しんでいる時にはのうのうと恋人とイチャ付いているような人だ。
信用なんか最初からしていないし、今はもう家族とも思ってはいない。
もっとも、今の私に家族と呼べるような人間が居るのかどうかは謎だけど。

「さぁて、と。歯……磨いてきますか」

歯を磨いて顔を洗う、ここら辺の最低限の身嗜みは一応女の子なので毎日している。
家族が寝静まった後では有るけどちゃんとお風呂を入れ直してから湯浴みもするし、シャンプーもリンスもボディソープもきっちり使って身体も洗う。
最低最悪なこの家だけど無意味にお風呂は広いので湯に一人浸かってホッ、と一息つける時間は私にとって唯一の安らぎであるといって良い。
後何年ローンが残っているのかは存じないし、お父さんやお母さんがどれだけ頑張ってこの家を建てたのかも知った事ではないけどこの家で褒められるてんが有るとするなら精々それくらいだった。
何せ無意味に道場まであるような家だ、よくもまあこの景気の悪い時代に此処まで広い家をもてたものだと関心の気持ちすらこみ上げてきそうだ。
とは言えども私としてはとっととこんな家出て行ってやりたいっていうのが本音だが。

「肩重ぃ……眠ぃ……ダルぃ。負の三連鎖だね、まったく」

小学生らしからない朝の三重苦に苦しめられながら部屋を出た私は制服のポケットをまさぐって在る物を取り出す。
それは数少なくなった可愛らしいマスコットのキーホルダーの付いた少しだけ大きな鍵。
自宅でも倉庫でも無く、私の部屋と私の心に鍵を掛ける文字通りキーアイテム。
暇な時はゲームばっかりしている所為か思考が一々ゲームっぽくなるのは仕方のない事だけど、現実これはそんなに甘い物では無い事を私は知っている。
本当はこの部屋には鍵なんか付いていなかった。
入ってこようと思えば誰でも入れたし、別に私だって昔は誰かに干渉される事を今みたいに嫌っていた訳では無かった。
寧ろ自分に誰かが構ってくれる事が嬉しくて、笑いながら招きいれたりした事も在ったほどだ。
でも、今は違う。
私は誰かに干渉されるのが大嫌いだ。
だって干渉されれば干渉される程、私は踏み躙られて汚れていくだけだって事を知ってしまったから。

「今日も一日、この部屋ともお別れだ」

鍵を部屋のノブの鍵穴に差し込んで半回転。
カチャン、と小気味いい音を立てたのと同時に部屋とこの家を繋ぐ空間に隔たりが生まれた。
鍵を引き抜き、ポケットに入れた私はふとこの部屋がまだ小奇麗だった事を少しだけ思い出した。
この家の誰もが笑顔で、私自身も純粋無垢に笑っていられたあの当時の事を。
思い浮かぶのは何時だって皆の笑顔。
家族の、友達の、クラスメイトの眩しいまでに淀んだ不定形な笑顔達。
そしてその中には確かに私も含まれていた。
含まれていたのに、私は零れ落ちてしまった。
どうして? その答えは見つからないまま。
私は皆から引き離され、孤独になって……そして自ら皆からの関係を断ったんだ。

「どうか今日は昨日よりか碌でもない事に見舞われませんように……言っても無駄か」

下らない、私は自らが発した言葉に軽く絶望しながら鍵をポケットに入れて階段を下っていく。
人の一生は皆同じように幸福も不幸もあって均せば皆平等だって言っている人が時々居るけど、私はそんな事信じない。
人によって運命は予め決め付けられていて他人からの評価で人の一生は決まる。
まだ小学三年生の娘が勝手にほざいている馬鹿な理屈ではあるけれど、私からしてみればこっちの方がずっと共感する事が出来る。
人は生まれる家も環境も両親も選べないし、其処からの延長線上で他者からの己に対する評価って言う物も決まってくるのだから結局当人にはどうしたって覆す事など出来ない。
ほんのちょっと運が悪いというだけで、他の人間よりも少しだけ不幸だって言うだけで其処から後はもう全部台無しになるのだから人間って言うのは実に不平等な生き物だと私は常々思っている。
だとしたら今日という一日を取ってみても、良い日になるか悪い日になるかなんて本人が気付くよりもずっと前に決まっているのではないか。
実に夢の無い話だが、夢なんてものは何ヶ月も前にとっくに手放した。
所詮夢なんて持つだけ虚しいだけで……結局は虚栄心から生まれる醜い願望の言い換えに過ぎないのだから。

「“人”の“夢”って書いて“儚い”……昔の人はさぞや偉大だったんだろうな。これだけ的を得てる言葉も中々無いよ」

ため息を付きながら覚束ない足を引きずってフラフラと階段を下って行く。
最近意味の無い独り言が増えたな、って自分でもよく思う。
気が付いた時には思ったことを直ぐに口に出してしまう、最近生まれた不思議な癖だ。
昔はそんな事無かったのに今はふと気が付けば自分で自分と話している現状。
もしかしたらまだ私自身寂しいだとか孤独は嫌だっていうような感情が残っていて、それが私をこうして動かしているのかもしれないと私は思った。
高町なのはという人間は自分で言うのも難だが兎みたいな性格をしている。
今は迷信だとか言われているけど兎は寂しいと死んでしまうようだし、一人になると良く鳴き声を発して自分の場所を仲間にアピールしようとするらしい。
何ともまあ照らし合わせれば照らし合わせるほど今の私とそっくりだ。
結局私が意味の無い独り言を言うようになったのは誰にも相手にされないという寂しさが本能的に防衛反応を示した結果生まれた物なのだろうし、今でも自分の立場が辛くないかと問われれば正直辛い。
でも、それは仕方の無い事だ。
こういう道しか私には無かったのだし、自分と言う存在を守る為には進むしかなかったのだから。
そう……皆々、悪いのは私。
最後に責められるのは何時も高町なのはだった。

「……あぁ、気分悪い。今日も最低の一日決定か」

階段を降りた私はよたよたと覚束ない足取りで洗面所へと続く廊下を歩いていく。
正直この廊下と言うのは信じられない程長くて、朝の弱い私にとっては殆どこの行いは苦行の域にへと達していた。
もう少しこじんまりとした家を作れば楽なのに、こういう時は常々他の一般的な家が羨ましく思う。
温かい朝ごはんに、元気良く挨拶しあう家族。
小さな家に思い出をいっぱい詰め込んで、別れる時には思わず涙なんか流しちゃって。
そんな当たり前の家族が私は羨ましかった。
大きな葛篭と小さな葛篭って言う童話にもあるように何も大きいから良いって物じゃない。
こんな事を言うと失礼なのかもしれないけど小さいっていう事にこそいっぱい物を詰め込もうっていう良い意味での余裕の無さが溢れていて、その余裕の無さこそが何処となく温かい。
体験した事なんて無いけど昔は私の家も似たような家族だった。
今となっては遠い遠い理想になってしまったけど。

「まるで空っぽのおもちゃ箱、か。まっ所詮―――――んっ?」

私は廊下の反対側から歩いてくる人影を目に留めて、眉を顰めた。
朝っぱらから家族の誰かと出くわすのだ、そりゃあ機嫌も悪くなるって物だ。
特に家族って物が大嫌いな私にとっては会うだけで苛々の溜まる要因である事に他ならない。
お父さんやお兄ちゃんなんか特に最悪だ……人の話なんか聞いてくれないし、お兄ちゃんに至ってはこの家族で唯一まだ私に文句をつけてくる。
お母さんやお姉ちゃんも嫌いだ……何か行動を起こす毎に泣いてばかりで正直とってもウザったい。
この家族の誰もが私にとってはストレスの原因、おまけにお父さんもお母さんも最終的には手が付けられない私の事なんか知ろうともしないで放置状態。
そんな人が私の両親だなんて……望んだ事だとは言えども反吐が出る思いだ。
朝っぱらから真面目に神様は私に何か恨みでもあるのだろうか、そう思いながら私は向こう側から向かってくる人間と相対した。

「あっ……お、おはよう……なの、は……」

「……………」

ぎこちない挨拶。
朝っぱらから嫌な者に出くわしちゃったなっていう露骨に引きつった表情。
何処か余所余所しい態度。
態々一瞥しなくても分る、私に挨拶してきた人間の正体はお姉ちゃんだった。
運動盛りの高校生、小学生の私には理解できないがこの年頃の人間っていうのは如何にも意味無く身体を虐め倒す事に青春を感じるらしい。
その証拠にお姉ちゃんの格好は汗まみれのTシャツと短パンに、首に下げたタオルとテンプレートでもしたかのようにスポーツ人間のそれだった。
本当に暑苦しい、運動音痴の私にはこの手の人間の根性は微塵も理解できそうに無い。
またそれを引いたとしてもそんなに私が嫌なら態々挨拶なんかしなければいいのに、その所為で余計苛々が加速する。

「あ、あの……さ……」

「邪魔」

何か話しかけようとしていたお姉ちゃんを私は一言でばっさりと切り捨てて、無視を決め込む。
気まずいからって話しかけてこないで欲しい、正直迷惑なのだ。
私の事が嫌いならはっきりと面と向かってはっきりと言って欲しい。
こういう生温い家族ごっこが余計に私の心を傷付けているとも知らないで。
何時か時が過ぎればとかもう少しなのはが大きくなればとかそんな儚い幻想なんて早く捨てて欲しいのだ。
私は十分傷ついた、でもその時まともに取り合ってくれなかったのはこの人達だ。
悔しかった私は精一杯努力した、でも認めてくれなかったのはこの人間たちだ。
それを今更取って付けたような笑顔で私を見つめるな……正直ムカつく。

「ウザいなぁ、皆ウザい。消えちゃえばいいのに……」

心なしか物騒な独り言を呟いた私はフラフラとした足取りのまま風呂場と一緒になっている洗面所の方へと向かい、廊下とその空間を隔てているスライド式の木製のドアを足で乱暴に開け放った。
幸い誰も使っていない、朝シャワーを浴びているお兄ちゃんの姿も無い。
此れは好都合、そう思った私は最低限の時間を使い顔を洗って歯を磨くと柔軟剤が良く利いたタオルに顔を埋めて水気を払った。
その間掛かった時間は凡そ四分弱、この年頃の女の子にしてみれば驚くほど短い時間だ。
だけどそれで十分だった。
学校での私の評価なんて堕ちる処まで最初から堕ちている。
失う物がなければ怖い物など無いのと同じような理屈で、もう堕ちる処なんて何処にも無いのだから底辺の人間が態々他者に気を使った処で目にも留まらない。
無駄な努力ならしない方がマシ、そういう弱虫な私だから少女らしい恥じらいなんて遠い昔に捨ててしまえたのだろう。

「今更……全部今更だよ……」

粗方仕度を済ませた私は先ほどよりかはもう少しシャキッとした足取りで再び元来た道を戻り、今度はキッチンの方へと踵を返していく。
後は何時もの日課を済ませればこの家での私の役目は終わりを告げる。
此れでようやく開放されるのかと思うと清々する。
私はこの家では決して朝食など取らないし、家族団欒などという気持ちの悪い物にも勿論参加なんかしない。
私という存在が居るだけでこの家から笑みという物が消え、会話が途絶えるという事を身に染みて理解しているからだ。
私が居れば話す会話は勉強、成績……どれだけ私が努力しても褒めてなんかくれはしない。
果たして私の前で笑って欲しい、褒めて欲しいというのは甘えだったのだろうか。
私はそれ程多くの物をこの家族に求めただろうか。
子供なんだから優しくしてよ、何て贅沢は言わない。
だからせめて一言でいいから「大丈夫?」って言葉を掛けて欲しかった。
それは甘えだったんだろうか……今となっては全部遅いけど。

「……あぁ、くだらない。何馬鹿なこと考えてるんだろ……私」

時刻はまだ朝の六時半、キッチンの方からは熱せられたフライパンの上で食材が跳ねる小気味良い音が響き渡っている。
きっとお母さんが朝食の卵焼きでも作っているのだろう。
一応昔は大好きだった甘い卵焼きの味、今でも忘れてはいない。
あの味がどんどん美味しくなくなって、食べた拍子に吐き出してしまうようになるまでの時間ずっと刻み付けられたあの味。
今でも鮮明に思い出せる、今では何処か遠くに落っことしてきてしまった思い出。
一年にも満たない期間の中で幻想になってしまったそれは、私にとって酷く切ない物だった。

「お腹……減ったな……」

ふと私は自身が空腹である事に気が付いた。
昨夜は奮発してカップラーメンにおにぎりを二つも食べたというのに私のお腹は空腹を訴え、小さな腹痛にも似た感覚を疼かせていた。
お母さんの手料理なんかもう彼是何ヶ月も食していないし、そもそもお腹いっぱい食べるという事も最近は経験した事がない。
どちらにせよ私は拒否反応を起こして全部戻してしまうからだ。
急に胃が苦しくなって、鼓動が荒くなって、口の中が嘔吐感で酸っぱくなる感覚。
あの感覚がトラウマになって私にはお腹いっぱい物を食すという事も、お母さんの手料理を食べるという事も叶わなくなった。
でも次第に痩せこける私を今では心配もしない。
きっと見捨てられているのだろう、そう思うと不思議と笑みすらこみ上げて来そうになる。
結局重要なのは私じゃなくて私を通して評価される世間体なのか、じゃあ私のあれだけの苦しみと努力は一体なんだったのか。
本当に馬鹿馬鹿しくてたまらない。
だからこんな家とっとと出てってしまう……そう思った私は掛かった暖簾をこれまた強引に払いのけて中へと入り、お母さんの元へと足を進めた。

「ふ~ふふん♪ ……あぁ、なのは。起きたのね、おはよう」

「……………」

お母さんは思いのほか上機嫌だった。
きっと最近自分が経営している喫茶店が繁盛してきている所為なのだろう。
忌々しい事この上ない、だけど私は何も言わない。
何か言っても無駄だって分っているからだ。
お母さんは他の家族の人と違って酷く利己主義な人だった。
私の事に対してもいち早くけりを付けた人でもある。
元々自分の夢を誰よりも優先するタイプの人だったからかも知れないが、お母さんは目的さえ済ませてしまえば比較的大人しい私の扱いを非常に効率的に済ませようとする。
それでこの子が大人しくしてくれるのなら、自分の邪魔をしないなら、家族の輪を乱さないでくれるなら……。
なるほど子供の親としては最低だけど、一人の大人としてはこれほど立派な人も中々いない。
それに私も他の家族の人間よりもこうしたお母さんとの端的なやり取りは比較的楽なので助かるといえば助かっている。
ウザい説教を垂れてくるお兄ちゃんよりかはどれだけでもマシな人間だと言えた。

「お金」

「そう、今日は幾ら欲しいの?」

「何時も通り、千円」

一旦手を料理をする手を止めたお母さんは手馴れた手つきでエプロンのポケットからそれなりにお金が入っていそうな財布を取り出して其処から紙幣を摘んで私のほうに突き出してきた。
その動作には無駄がなく、私のほうに何か一度も目を合わせてくれもしない。
おまけに紙幣を私が受け取ると何事も無かったかのように料理を再開しだす始末だ。
この人の目はきっと二度と私のほうに何か向かない。
もうとっくの昔に諦めた事だが、まだ小学生の娘に向かってこれほど露骨な態度を取られると少しだけ未練もこみ上げて来る。
後悔はしていない、そう決めたはずなのに改めて私は要らない子の烙印を押されているのだと思い知らされると辛い。
こんな人でも一年程前はペットでも可愛がるように私を溺愛してくれた人だ。
此処まで急激な態度の変化は……正直今になっても心に響く物があった。

「……もう、学校行くから」

「そう、行ってらっしゃい」

それ以降お母さんは鼻歌を再開して一切私に注意を向けてこようともしなかった。
まるで透明人間にでもなったかのような気分だった。
きっとお母さんはこの後起きてくるだろうお父さんや、たぶん道場であれこれ汗臭い事しているんだろうお兄ちゃんと一緒に朝食をとって談笑するんだろう。
でも私はその輪の中には居ない。
私は結局家でも仲間はずれ、この家に住まう高町家の汚点。
こんな家に愛情や温もりを求めるなんて私にとっては夜空に輝く星を掴むかのように難しい。
温かい家庭という輝く星はこの世に五万とある。
でも輝く星に人は決して触れる事ができない。
当たり前のことなのに……どういう訳か私は急に胸が締め付けられるように苦しくなった。

「……お母さんの、馬鹿」

蚊の鳴くような小さな声でそうはき捨てた私は玄関でスニーカーを履いて、逃げるように家から飛び出していった。
手の中にはくしゃくしゃに握られた千円札。
たったそれっぽっちのお金が今日の私のご飯代。
此れを贅沢と取るべきか味気ないと取るべきか、それは人によって千差万別なんだろうけど私にとっては致命的に物足りなかった。
別にお金の問題じゃない。
たぶん100万円在ったって私は満足しはしない。
だけどその満たされない物の名前は……決して私の口から発せられる事は無かった。
その分私は走った。
運動不足と栄養失調と押し寄せる空腹でフラフラになりながらも振り向きもせずに。
きっかけは本の小さな綻びから。
でもその綻びは致命的な大穴を空ける原因になってしまう。
今の私と私を取り巻く人達との関係のように。
ぽっかりと空いて埋まらない、大きな大きな穴ぼこを造ってしまうのだろう。
喉はからからでお腹は悲鳴を上げているのに、私の熱くなった目元からは久しぶりに熱い何かが頬を伝っている。
この日の朝、私は久しぶりに涙を流して泣いた。
本当に最悪最低な、嫌で嫌で仕方の無い一日の始まりだった。





[15606] 第一話「友達なんて必要ないの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/15 14:36
朝のコンビニっていうのは案外人が多い。
早朝からお仕事をしている建築現場の作業員のおじさん。
トラック運送の帰りで時間を潰している厳つい感じの御兄さん。
ようやく仕事が終わって疲れ気味のお水仕事のお姉さん。
こうして考えると朝のコンビニっていうのは予想に反して大分賑わっている。
でもそんな中に私のような歳の女の子の姿は一人も居なかった。
それは疎か学生らしい姿の制服のお兄さんやお姉さんの姿さえ見えないでいる。
まあ当然といえば当然なのかもしれない。
時刻はまだ朝の七時を少し回った処、登校するには少し時間が余りすぎている、
学校が好きで好きで堪らない人ならもしかしたらもう学校に行っているのかもしれないが、そもそもそう言った人は朝の登校時間にコンビニなんか寄らない。
詰まる処、実質学生らしい学生っていうのは私こと高町なのはしかいない訳で……。
結論だけ先に述べてしまうと私は今凄く周りから浮いています。

「ふ~ん、プレステ2のファイナルファンタジーに続編出るんだ。うわッ、ムービーとか凄く綺麗だよこれ! 欲しいなぁ」

しかしながら私は姿形ほど場に合っていないものの、その雰囲気は見事に周りの人間とマッチしていた。
ランドセルも持たずに月刊のゲーム雑誌に釘付けになっている小学三年生。
手には朝食の菓子パンや缶コーヒーが入ったビニール袋だけがちんまりとぶら下っており、他のお客さんと一緒のように寝不足気味の澱んだ隈のある目元をしている……凡そ小学生らしからない私の雰囲気は他のお客さんのそれとまったく差異は無いと言ってもよかった。
おまけに行動パターンまで他のお客さんと一緒なのか今の私は買う物を先に買って、現在本のコーナーで絶賛立ち読みの真っ最中だった。

「税込み7800円かぁ、高いなぁ。あぁ、お金欲しい。お仕事できないこの身が恨めしいですよ、まったく」

片手だけでやれやれと言った動作を取った私は思わず心にも無い事を口にしてしまった。
どうせ働ける年齢になっても人嫌いは治りはしないんだろうから碌な事にならないことは初めから分っている。
その癖に学校に行きたくないという拒否感から咄嗟にそんな事を言ってしまえる。
私の事ながら中々良い根性していると思った、勿論悪い意味で。
そりゃあ私も年頃、欲しい物は山ほどあるしお金だって幾らでも欲しい。
でも現実私の生活は一日千円、朝から栗入りのアンパンと缶コーヒーを食べているような人間には夢のまた夢のような話だという事も良く分っている。
前にアニメの再放送で私くらいの女の子が魔法のコンパクトで大人になって彼是するなんていうような物があったけど、私だったらあの才能を使ってとっとと自立しようと考えるだろう。
文句を言ったところで今の私は家の人間に飼われている身、どれだけ否定してもこの朝食のお金だって全部家のお金だ。
文句は言えても拒否は出来ないこの身の上、みっともない事この上ないと私は思った。

「でもまだゲームキューブで消化出来てないゲームもあるからなぁ。うん、手に入らない物は求めない。此れが一番だね」

ゲーム雑誌を棚へと戻した私はふとポケットの中から携帯電話を取り出して、ディスプレイに表示されている時間を確認する。
4日もポケットの中に入れっぱなしだったのに未だに電池が殆どフル充電状態のオレンジ色の携帯電話のディスプレイには気に入ったゲームの待ち受け画面が設定されていて、右上の部分には現在時刻は表示されていた。
しかしながら通学のバスが来るまで後30分以上もある。
幾ら夏とは言えどもずっと待ちぼうけを喰らうのは正直私としても本意ではない。

「……待とうかな。どうせ遅刻したって別にいいしね」

一度家を出てしまえば私は自由。
その開放感が少しだけ私の心を大きくしていたのだろう。
私は携帯電話をしまい込むと有る程度時間が過ぎるまでの間、興味も無い青年漫画雑誌を回し読みしたりコンビニ限定のコミックを開いたりして暇を潰した。
どうせ遅刻をしたって誰が五月蝿く言って来る訳でもない。
所詮まだ私は小学生、遅れた処でそれ程厳重注意を受けるわけでもないし、恐らくそれが発覚しても今の両親なら何も言ってくる事は無いだろう。
それに私の携帯電話は勝手にGPS機能が無い機種にモデルチェンジしたから例えどれだけお母さんやお父さんが連絡を取ろうと思ってもどうせ通じないし、よしんば今の番号とメールアドレスを知ったとしても家族全員を含めて昔の携帯のアドレスに載っていた人間は全員両方とも着信拒否にしてあるから結局のところ意味は無い。
御蔭で携帯電話を使う時といえばモバイルインターネットを使う時か、携帯電話でテレビを見る時位しかなくなったけど……どうせ話す相手なんか誰も居ないからどうでもいい。
第一誰のアドレスも載っていない携帯電話で誰に連絡を取ればいいというのか。
宝の持ち腐れとは正にこの事を言うのだろう。

「あ~ぁ、学校……行きたくないなぁ」

心からの本音が今度は口から飛び出す。
学校なんか行きたくない。
それは現代日本なら何処の県のどの学年の学生でも必ず五人に一人位の割合で必ず居るだろう、疲れた学生の愚痴だった。
大人は世界には行きたくても学校に行けない子供たちが云々言い出す事がまま在るけど、そんなガーナだのカンボジアだのアラスカだのの話をされても正直ちっとも現実的なんかじゃない。
その上そうした大人に限って何か言うと他所は他所、ウチはウチと言い出す始末なのだから説得力なんか欠片も無いに等しいだろう。
第一そうした子供たちを私たちに見せて大人は何を感じて欲しいのだろうか。
可哀想だとでも思えばいいのか、そっちの方がよっぽど残酷だという事に気が付かない大人は多い。
もっとも、あれこれ理屈を付けたところで結局私のような事を言っている人間は……結局そういう事を抜きにしても色々とはみ出てしまうわけなのだが。
時間が潰れるまでの時間、私は愚痴を挟みつつ雑誌やコミックを漁り読んだ。
何ともみっともない姿だと私自身、今の私に呆れ返るばかりだった。

「あッ……時間だ……」

結構時間があると思ったのに何かに集中してしまえば思いのほか過ぎる時間は早い。
携帯でちまちま時間を確認していた私はそろそろバスの時刻であるという事に気が付き、慌てる事も無くコンビニの自動ドアを潜って店の外に出た。
その時店員の眼鏡のお兄さんがありがとうございましたー、なんて心の篭っていない挨拶をしてきたけど最近ではそういった対応をしない店員さんもいるからそういった面では職務に律儀なのだろうなと私は少しだけ感心した。
こんなビニール袋だけ手に持ってフラフラしてる小学生までお客様扱いだ。
きっと店員って言う職務はああも感情を篭らないよう対応してないと神経の使いすぎでノイローゼにでもなってしまいそうな物だと私は思った。

「さぁてと、バス停バス停~っと。どうせならコンビニの前に停まってくれればいいのに」

誰に聞こえるわけでもない独り言を呟きながら私はビニール袋を適当に振り回しつつ、スクールバスの停まる海岸線沿いのバス停へと歩を進めた。
バス停の場所はコンビニから凡そ150メートル程先に在る場所で、既に目の前には元気溌剌な多種多様な学年の人間がチラホラと歩いていた。
友達と笑いながらじゃれ合う下級生、本を片手に歩く上級生、クラブ活動で使うのかランドセルにグローブとバットを持って奔っていく同い年位の男の子。
色々とその方向性は違えど皆揃いも揃って子供らしく元気で結構な事だった。
しかし、やっぱりその中でも鞄すら持っていない私の存在はやっぱり浮いていた。
もうこんな生活が何ヶ月も続いているから今更奇異な目で見られる事は少なくなったが、それでも零じゃない。
ふと視線を動かしてみると上級生らしき女の子二人が私を指差してなにやらコソコソと話しをしているのも目に留まった。
慣れていると言えば確かに慣れているが、上級生にまで変な目で見られていると思うと少し憂鬱だ。
彼らは少し年上だってだけで変にプライドを持つようで、あんまり浮いた行動をしていると何時ぞやみたいに上級生に呼び出されてリンチにあいかねない。
別にそのまま死んだって構わないとは思っているけど……痛いのはやっぱり御免なので少し自重しようとは思った。

「って言っても重いしなぁ、アレ。肩凝るし、疲れるし、彼是入れ替えるの大変だし……正直何で学校も一々持って帰る制度何か作ったのかなぁ? まっ、私には関係ないけどさ」

もしかしたら自分の被害妄想かもしれない誰かの視線に気を使いながら、私はそれ等から逃げるようにバス停へと早足で急いだ。
此処最近は少なくなったとは言えど私に対するイジメは別になくなった訳じゃない。
別に痛いのも苦しいのも慣れてるって言えば慣れてるけど、変な処で目を付けられてまたイチャモン付けられるのは面倒なのだ。
相手をするのが面倒くさい、本当にその一言に尽きる。
私に落ち度にあるから嫌がらせが発生するっていうのは考えなくても分かっている。
どうせ何もかも私が悪い、どうせ覆せない嘘ならいっそ真実にしてしまえばいい。
そう思ったからこそ始めたこの生活だ、自分で自分を正当化する気なんてさらさらない。
だけどだからと言ってそれで一々絡んで来られるのは……真面目にウザったい。
どうせ話す事も大した御金も持ってない小娘に態度がでかいからと言う理由だけで絡んでくるなんてよっぽどの暇人なんだと思う。
そして私はそんな暇人のストレス解消に付き合ってあげるほど御人好しな人間じゃない。
下手に出ている私が悪いのは重々承知だけど、こういう時に限って下手な問題を起こしたら面倒な事になるっていう自尊心がその上を行く臆病者の自分の性格が酷く恨めしかった。

「……やっぱりサボっちゃおうかなぁ? 学校行っても碌な事になりそうにないし」

それは何時もの事だろう、今更の台詞に私は自分で嘆息を漏らした。
学校に限らず私は集団生活って言う物が苦手だ。
と言うよりもそもそも地球上に存在する殆どの人とまともに会話すること自体が億劫な、コミュニケーション能力皆無の駄目人間なんだからそもそも人と対峙するって事自体苦手なのかもしれないけど。
まあともあれ私は集団とか群衆とかともかく群れている場所や人が大嫌いだった。
彼らには自分の意思なんか存在しない。
例えばその中の中心人物がちょっと何か思わせぶりな台詞を口にしただけでそれに同調して事を大きくしていく。
要するに始まりの人間以外は態の良いスピーカー代わりと言う訳だ。
そして大体そんなスピーカーの槍玉に上がる私、そりゃあ嫌いにもなるっていうもんだ。
これで嫌いにならなかったらその人は単なるマゾだろう……少なくとも私はマゾヒストじゃない。
そんな私だから大抵集団からは浮いて、周囲からは目を付けられる。
何をやっても回避出来ないこのジレンマ、そんな繰り返しがうんざりなのに逆らえない私。
とんだ臆病者だと私は自嘲気味の苦笑いを浮かべながら黙ってバスに乗り込んだ。

「さぁて、と。何処に座りましょうかねぇ」

意味の無い独り言と共に私はフラフラとバスの中を歩いて行き、結局何時もの定位置であるバスの一番後ろの席の一番右端に腰を降ろす。
誰の目に留まることも無い、この空間で最も注目されない場所。
まるで光を浴びる事を拒むような日陰のような場所こそが私の何時もの場所だった。
此処なら前の座席に隠れて比較的小柄な私の姿は見えなくなるし、誰かが同じ場所に座ったとしても端に座っているから邪魔にはならない。
それに誰もが皆私の異様な雰囲気を感じ取って近寄ってこようとはしない。
基本一人の時が一番の至福である私にとっては願ったり叶ったりな場所なのだ。
しかも余程の物好きでもない限り話しかけてこないおまけ付きと来ている。
くだらない一日の中でもこの時ばかりはちょっとはマシな―――――訂正、本当に時々だけどそんな私に話しかけようとする偏狂な物好きも居る事には居る。
バスの入り口から見えた深みのある黒なんだか青なんだか判断の付かない髪の色。
間違いない、面倒な奴だ……今日はとことんついてない。
そう思いながら私は近寄ってくる人間を見向きもせず、ビニールから缶コーヒーとアンパンを取り出して朝食を取り始めるのだった。

「あっ……おはよう、なのはちゃん。今日はちゃんと学校来るんだね」

「……………別に」

こっちだって行きたくて行ってる訳じゃないんだよ。
そんな台詞を心の中で呟きながら私はあくまでも最低限の反応だけを話しかけてきた相手に返した。
こんな私にこんな時間から話し掛けてくる偏狂な人間、しかもこんな場所で話し掛けてくる奴なんて一人しか居ない。
ちらりと横目でその人物を確認すると、案の定その人間はいかにも守ってくださいオーラ振りまいて上手く生きてるんだろうなっていう雰囲気が漂いまくっている潤んだ瞳で私を捉えながら、ムカつく笑みで笑い掛けてきていた。
私の”元“友達である月村すずか、昔はそれなりに仲良くしていたから何か勘違いしているのかもしれないが今になっても私に普通に話し掛けてくる変な奴だった。

「今日もコンビニのお弁当なんだね……駄目だよ、ちゃんと朝ごはん食べなきゃ」

「関係ないじゃん。あんたには」

「か、関係なくなんてないよぉ。私はなのはちゃんが身体を壊さないか心配なだけで―――――」

「……ちょっと黙ってくれない? 朝ごはん、食べられないじゃん」

少しドスの利いた声で黙るように諭すとすずかちゃんは直ぐに口を閉ざしてくれた。
何度も何度も黙れ、近寄るなって言ってるのにこの娘だけは何故か知らないが必要に私に話し掛けてくる。
やれ保健室でサボっていれば「大丈夫?」とか本気で心配して見舞いには来るし、やれコンビニにご飯買いに行けば「身体壊しちゃうよ?」とか私のお母さんよりも私の健康に気を使う始末。
おまけにずっと無視してこっちが反応を示さないとあれこれ小うるさい事をうだうだと述べてくるし、終いに私が睨みつけると何でか知らないけど突然「ごめんなさい……」とか謝りながら泣き出すのだ。
無視すればウザい、注意すれば泣く、おまけに朝は高確率でこのバスで対面する羽目になる。
正直こっちが泣き出したい気分だった……本当に何様のつもりか知らないけど。

「ご、ごめん……」

「謝るくらいなら話しかけてこないでよ、面倒くさい」

暗に話しかけてくるな、という事を暗示させながら私は黙々とプルタブを空けて缶コーヒーを飲み、アンパンに齧り付く。
両者ともども過剰なほどに含まれた糖分が甘ったるい味となって口いっぱいに広がる。
一応お母さんはケーキ屋をやっている手前、その娘としてあれこれ甘い物を食べる機会は多かったから不愉快とは思わないが美味しいとは思わなかった。
所詮疲れた身体をもう少しだけまともに動かす為の使い古した潤滑油のような物。
焼け石に水、どうせ昼までの空腹となけなしの気力を養う行為でしかない。
それでも尚こんな自棄になって食べなくてはいけないのか、それもこれも全部隣りで私を物珍しそうに見つめる人間の所為だ。
毎日毎日飽きもせずに突っかかってくる純粋無垢なお金持ちのお嬢様。
大方誰にだって愛されているから今まで一度も誰かから見放された事なんてないような、そんな娘だ。
そんな人間に私の何が分るというのだろうか。
口にこそ出さないがまさかまだ私の事を友達なんだとか思っているのなら……本当に勘弁して欲しかった。

「………………」

「………………」

躾けられた犬のように黙り込むすずかちゃん。
黙々と喉に突っかかるパンを甘ったるい缶コーヒーで無理やり流し込む私。
そんな沈黙がしばらく続き、やがてバスはゆっくりと学校へ向かって走り出した。
どうやら今日もこの娘の相方である金髪ことアリサちゃんはこのバスには乗車してこなかったらしい。
毎日毎日リムジンで送り迎えして貰えるお嬢様は本当にリッチで良いご身分だと思った。
しかしウザさの度合いで言ったらまだすずかちゃんよりはマシだ。
彼女は私が変わってから数日もしないで空気を読んで態々話し掛けてくる事も無くなった。
そればかりか時としては保身の為か友達を思ってかは存じないが、私にお節介を焼いてくるすずかちゃんを引きとめようともしてくれる。
今更もう薄情だ何て思わないが、此処まであっさりしていると逆に彼女の方が遣り易い。
ムカつく元友人である事には変わりは無いが、それでも幾分かはこの小うるさい体力娘よりかはマシだった。

「……そ、そういえば今日体育あったよね! そろそろ球技大会も近くなってきたし、なのはちゃんは―――――」

「出ないよ。面倒だし……私、運動嫌いなの」

「ッ! ……でも、なのはちゃんこの前も体育出なかったよね? このままだと体育の成績が余計に下がっちゃうよ!?」

「はぁ……あのさぁ、今更私が一々成績気にするとでも? ともかく私、今日も出ないから。第一体操着持って着てないし」

あぁ、本当にウザったい。
心の底からこれ以上会話したくないってオーラを放ちながらすずかちゃんの誘いをばっさり切り捨てた。
何度も何度も言ったはずなのになんで学習しようとしないのか、私には理解できない。
こんな風になる前からもすずかちゃんにはちゃんと言ったはずだ。
私は体育が“嫌い”だと。
“苦手”じゃなくて嫌いだと、そうちゃんと言ったはずだ。
理由なんて物は別に大した事ではない。
身体を動かすとダルいとか疲れるからとかそんな根本的な事じゃないてもっと小さな小さな、些細過ぎて普通の人には何て事のないようなたった一つの後ろ向きな要因。
「お友達と二人組みを作って何かしてください」、こういった状況下で誰も私と組んでくれずに一人ぼっち……強制的に組ませれば相手はまるでゴミでも触るかのような露骨に嫌そうな顔を浮かべて私を見てくる。
そんな人間たちの表情がどうしようもなくムカつく……だから私の“苦手”は“嫌い”になったのだ。
それにすずかちゃんが気付かないでいるとも思えない。
何時も真っ先にアリサちゃんと組んで申し訳なさそうな顔で私を哀れむ彼女が、私の様子に気が付いていない筈がないんだ。
そんな彼女が何時までも何時までも馴れ馴れしい……本当にムカつく話だった。

「そんなの……私予備があるからちゃんと貸すよ? だから―――――」

「いいよ、別に。言ったじゃん、構わないでってさ。正直さぁ、真面目にウザいよ……すずかちゃん」

「そ、そんな……。私はただなのはちゃんが心配なだけで……」

「それが余計なお節介って言ってるじゃん。いいからいい加減黙ってよ、私が痺れ切らす前にさぁ」

今日一番とも言えるトーンの低い脅し声と睨みを利かせながら私は友達気取りのムカつく娘を黙らせた。
言われたすずかちゃんは殆ど泣き出しそうな顔をしている。
後一押しすればもしかしたらその涙が頬を伝うのもそう難しい事ではないといった様子だ。
だけど泣かれると正直迷惑だ。
泣かせた事を出汁にして“いじめっ子”のレッテルを貼られて制裁を喰らうのが関の山。
ましてや顔と面倒見の良さでクラスメイトの人気も高いすずかちゃんの事だ、何時何処で誰に見られているかも分らない。
私は彼女が項垂れながら黙りこくった確認すると、残ったパンの欠片を缶コーヒーで流し込んでビニール袋に仕舞い込むと腕を組んで目を瞑り、残りの時間を睡眠に回す事にした。

「どうして私たち……こんな風になっちゃったんだろうね……」

今にも泣き出しそうな震えた声ですずかちゃんがポツリとそう漏らしたのを私は聞き逃さなかった。
だけど、私は何も言わない。
睡眠時間なんて毎日4~5時間位しかないから本当に眠たいのだ。
それに此処でまた何か私が噛み付くと弱虫なすずかちゃんはどうせ直ぐ泣き出す。
そうなるとクラスメイトもあの金髪も黙っていなくなる。
関わらないのが吉、どうせ何をしたって私が責められることに変わりは無いのだから。
でも、私は眠りに落ちる前に心の中でこう漏らした。
自分の胸に手を当ててよく考えてみろ、と。
考えれば考えただけ苛々が増す……せめて眠る時間だけでもその呪縛から開放されますように、そう願いながら私は腕で脚を組んで学校に着くまでの間惰眠を貪る事にした。





小学校の授業というのは酷く退屈な物だ。
其処に通う学生である私が、現実こうして退屈しているのだからそれは否定しようも無い事実だ。
中には糞真面目になって板書を移すガリベン君や調子付いてあれやこれやとふざけた事を言って皆を笑わせるひょうきんな人間も居たりするけど、そういう人間を見ていると何だか苦労も無くて幸せそうだなぁという評価が自然と沸いてくる物だ。
その他にも机の影に隠れてゲームをする人や、教科書の裏に漫画本を仕込んでくつくつと笑っている人もいるがどちらかと言うと私は此方よりの人種の為、個人的な考えとしてはこんな海鳴市の歴史の授業なんかよりもよっぽど好きな事をしている方が建設的だと思う。
まあ大半の人はこういうちょっと悪い事をすれば目立てるからって言うような理由でやっているって感じだから一概に言い切る事は出来ないけれど、少なくとも本気でこんな面倒な事をやっていられるかって思っている人間としてこうでもしないとやってられないって感じだ。
唯でさえ学校に来るだけでもストレス溜まるのにこれ以上ストレスを溜める行為を強要してくるな、そう思うからこそ私はこの退屈な授業の間中ずっと服の袖口に通したヘッドホンを耳に宛がい、それを机に肘を付く様な形で隠しながら音楽を聴く事に没頭していた。

「え~ですから、今の市長さんは6年ほど前からこの海鳴市の経済を―――――」

担任の女の先生のどうでもいいような蘊蓄にクラスメイトの口からへー、やらほー、やらといった気の抜けた相槌が漏れる。
そんな様子を見ながら私は心底呆れてため息を付いた。
そりゃあまだ私たちは小学校三年生で、授業にしたってこんな風景は珍しくないんだろうけど……そんな業とらしく自分は授業を真面目に受けてますよっていうような態度を前面に出さなくてもいいだろうと思ったからだ。
捻くれた考えなのかも知れないが、そうする事で少しでも先生からの評価を上げて貰おうって思ってる感じが嫌って程伝わってくる。
信用は小さな事からこつこつ積み重ねなければならないっていう事を純粋無垢に受け止めている証拠何だろうが、どうせ先生の方だって職業だ……はっきり言って此れだけの人間全員に意識を向けるのは正直疲れるだろう。
信用ガタ落ち、教師からも生徒からもまともな子供ではないと思われているような私が言えた義理ではないが……出来の良い子供って言うのは個々としては評価されず一纏めっていうのがこういう職業のセオリーだって事を私は良く知っている。
音漏れしないようギリギリの音量で一昔前のポップスを聴いていた私は、こんな空間の中の一人として私が存在している事に軽く嫌悪感を抱いていた。

「ですから、都市部が出来たり大きなビルが出来たりしているのはこの辺りが関係していると言えますね。此れは皆さんの生活とも密接に関係していて―――――」

その後、人が集まれば経済発展がうんたらかんたら……どう考えてもさっき言ったことを重複している内容を担任の先生は精一杯の作り笑いを浮かべながら語っていた。
しかし、そんな様子に私は他の人間みたいにシャープペンを動かす訳でもなく、相槌を打つでもなく……短く欠伸を催しながら授業が終わるのを待っていた。
時間帯としては今はもう四限の終わり、つまりもう直ぐで午前中の授業は終了となる。
とはいっても1限から3限まで指名も無かった私は机に突っ伏して寝息を立てていたわけだからまともに授業を受けていたわけではないけれど、とりあえずこの授業が終わればこの最低な一日の一区切りが付く。
それにどうせ午後の授業は受けない予定の体育、実質私にとってはこれで今日の授業は終わりと言っても良いのだ。
こんな人の密集する場所からとっとと出て行ってしまいたい、早く授業が終わって欲しい望むのは別に変な事ではないだろう。
今日のお昼はどうしよう……そんなどうでも良い事を考えていると、タイミングよく授業の終わりを告げる鐘が教室内に響き渡った。

「あー、鐘鳴っちゃったわね。それじゃあ授業は此処まで。日直、号令お願いね」

「きりーつ」と間延びした名も知らない少年の掛け声と共にいそいそとクラスメイトたちが立ち上がる。
一応私もそれに習って大人しく立ち上がると、「礼」と言った直後に軽く頭を下げてありがとうございましたの言葉もなしにお金の入ったスカートのポケットに手を突っ込みながらいち早く行動を開始した。
他のクラスメイト達は授業が終わった途端、バックの中からお弁当を取り出したり仲の良い友達と話しに行ったりと各自好き勝手な事をし始めている。
きっと何時ものように女子は屋上やら学食室やらに行ってお弁当つつき合いながら飽きないのかと疑問に思うようなくだらない話題で盛り上がり、男子は男子でがつがつと行儀もへったくれもないような速度でご飯を平らげてグランドでドッチボールにでも勤しむ事だろう。
どちらにしても毎日毎日の繰り返しで飽きないのかと疑問に思うばかりだ。

「……っと、こんな事してる場合じゃないや。購買行かなくちゃ、購買!」

基本的に昼食は学食か購買で済ませている私にとって、この時間でのタイムロスは死活問題になる。
学食や購買は中等部の人も共同で使っているため、人気の商品は本当に直ぐに売切れてしまうのだ。
幾ら人が嫌いな私でも食べる物はしっかりとした物を食べたいという欲求はある。
出来る事なら静かにゆっくりと品物くらい選びたい物だが、そうも言ってられないのが悲しい所だ。
幸いにしてポケットにはあくまでも学食や購買基準ではあるが、それなりに贅沢出来るくらいのお金がジャラジャラ音を立てている。
とっとと行って、何処かまた人目の付かない場所でひっそりと食べよう……そう思って私は教室を出ようとして―――――また、引き止められた。

「あっ……なのはちゃん。これからご飯?」

今朝に引き続いて二度目、其処には如何にも小学生らしい可愛らしいお弁当ですよと言わんばかりの包みを二つ提げたすずかちゃんの姿があった。
まあ何時もの事だが本当に学習しない娘だ、と私は心底思った。
あれだけ今朝警告したのにまだ私に付きまとってくるか、ひょっとしてこの子真性のマゾヒストなんじゃないかとすら思えてくるしつこさだ。
例えるなら白いブラウスに付いたカレーうどんの染み、長年使ったキッチンの換気扇の汚れ並だ。
何度も何度も擦っているのにどうしても落ちない汚れ、すずかちゃんの態度は殆どもうそう言った類の物に等しかった。
授業が終わったと言う開放感が一気に冷めてくる。
どうせまたご飯誘う振りして体育を休ませないようあれこれ働き回るつもりなのだろう。
前に此れで最後だと思って着いていったらやる気も無かった体育の授業を受けさせられて、やる気がないと体育教師から大目玉喰らった事もある。
最悪なタイミングで最悪の人物に出会ってしまった、もはやそういう他今の気持ちを表す言葉を私は持ち合わせていなかった。

「……また、か。ねぇ、本当にさぁ―――――」

「今日はね、お弁当作ってきたんだ。ほら、なのはちゃん何時も何時も学食か購買のパン一人で食べてるじゃない? 悪いとは言わないけど、あんまり身体には良くないと思うんだ。だから……一緒にご飯食べよう、昔みたいに」

人の話は最後まで聞いてよ、言っても無駄なのは分っているがこうも露骨に言葉を遮られると私でもちょっと苛立ってくる。
しかしよくよくすずかちゃんの言葉を思い返してみると、不可解な点が一つある事に私は気が付いた。
すずかちゃんの手の内にある包みは二つ、どっちも同じくらいの大きさの弁当箱だ。
私はてっきりアリサちゃんにでも作ってきたのだとばかり思っていたのだけど、どうやら彼女の言い分ではそのお弁当はどうやら私の物になるということらしい。
珍しいこともあったものだと私は少しだけ感心した。
だけど、受け取りはしないし馴れ合うつもりも無い。
確かに唯で食事が取れるっていうのは破格の待遇なんだろうけど、幾ら私でもクラスメイトに施しを受けるほど落ちぶれちゃいない。
それにこれを受け取ったが最後、友達に戻ったと勘違いされてまたあの鬱陶しい馴れ合いを再開させられるだけだ。
私はポケットに手を突っ込んだままの状態で、すずかちゃんの目を真直ぐ睨みつけながら拒絶の言葉を口にした。

「いらない、大きなお世話だよ」

「な、なのはちゃん!」

「あのさぁ、すずかちゃん。何でそんなに私にそんなに構う訳? ウザいって何度も言っているじゃん。それに何、突然お弁当なんて作って来てさ? お弁当も作ってもらえない私に対しての哀れみのつもり? だとしたら本気で止めてよね、私……すずかちゃんから施しを受けるなんてこれっぽっちもないから」

「そんな、哀れむなんて……私は唯、本当に―――――」

なのはちゃんが心配なだけ、たぶんすずかちゃんはそう言いたかったのだろう。
だけどそれは私でもすずかちゃん自身でもない第三者の手によって遮られた。
何か言おうとしていたすずかちゃんの肩を誰かが突然掴んで、集中を逸らしたのだ。
当然気の弱いすずかちゃんはビクッ、と猫みたいに身体を震わせて紡ごうとしていた言葉を途中で途切れさせてしまう。
これ以上何も会話したくないと思っていた私としては不幸ばかり続く今日の中で数少ない幸運だったと言えた。
そしてその人物は短くすずかちゃんの名前を呼んで、それ以上こんな奴と会話する事はないというアクセントを含めながら彼女を制止する。
そしてすずかちゃんに対してそんなお節介を焼くのは唯一人しかない。
私の視界には金髪の髪の携えた気の強そうなムカつくもう一人の元友達の姿が映し出されていた。

「あ、アリサちゃん!?」

「……行こう、すずか。席、なくなっちゃうよ?」

「で、でも―――――」

「すずか!!」

聞き分けろ、短い言葉の中にはそんな辛辣な意味合いが込められていたに違いない。
まるで蛇に睨まれた蛙。
金髪の娘の……アリサちゃんの一括にすずかちゃんはただただ押し黙るしかなかった。
上下関係という訳ではないが、基本的に気の弱いすずかちゃんは行動力抜群のアリサちゃんには逆らえない。
随分昔から続いていたその関係は今になってもどうやら健在だったようだった。
もっとも私という存在が消えた事によって、今では完全にアリサちゃんにすずかちゃんがくっ付くような形に姿を変えてしまっているようだったが。
私はとりあえず助かったと思いつつも、そそくさと彼女たちに背を向けてさっさと購買に向かう事にした。
途中、すずかちゃんが私の名前を呼んだような気がしたが別段私は気にする事はなかった。

「言ったでしょ! なのはには近寄らないでって。もしもすずかに何かあったら―――――」

「だ、だけど……」

「あの娘に近寄って行って今度はすずかが目を付けられたらどうするのよ! いいから、ほら行くよ」

「う、うん」

後ろから聞こえてくる会話から私は、もう二度と昔のようには戻れないって事を改めて悟った。
寂しいとか悔しいとかそういった訳ではないけど、アリサちゃんの態度を見ればもしかしたら起こるかもしれない“奇跡”すらも起こりはしないっと事が良く分る。
アリサちゃんは非常に頭の良い娘だ。
何時だって正解の回答を追及しては間違いなくそれを手にしてきたし、凡そ彼女が間違いを起した所を私は見た事がない。
私に対する態度もそんな一部分でしかない、その事を私は良く知っている。
アリサちゃんは私の虐めのとばっちりが自分やすずかちゃんに回ってこないように上手く関係を操作しながら、自分は傍観者という可も無く不可もなくといったポジションを獲得する。
つまり私を見捨てる事で自分たちの安全を確保している、なるほどそれは保身を重視する人間としてはきっとそれが正解なのだろう。
アリサちゃんはすずかちゃん以上に人との付き合い方を良く知っている、私は単純に感心するばかりだった。

「馬鹿らしい……。何で私、あんなのと付き合ってたんだろ?」

だけど私はそれと同時に彼女たちが……直ぐに人を見捨てて保身に奔る癖に都合の良い時だけ友達面するような人達が短い間でも友達であった事を恥じた。
歪んでしまったのは私か、それとも私を取り巻く環境か。
まあどちらでもいいけど、私は早い段階でその事に気が付けて幸運なんだと思う。
人なんて信じる物じゃない、どうせ遅かれ早かれ最後には裏切られる。
人生経験の授業料としては実に破格で済んだ、失う物なんか何も無い。
今でこそ言える事だからこの際はっきりさせてしまう。
私は友達なんかいらない、どうせ裏切られるだけだから。
そんな事を思いながら私は段々と人が疎らになり始めている購買の方へと歩み寄っていった。

「コロッケパンとハムサンド。後、カフェ・ラテ一つお願いします」

「はいよー」

買う物は予め決まっていたし、他の買い物に来ている生徒たちはどうやらお菓子か何かを買いに来ているだけの暇人ばかりだったようで私の買い物は比較的早く済んだ。
お菓子やら何やらの色物や焼きそばやフランクフルト等といった軽食、その他体操着やらノートやらシャープペンの芯やらの学用品らを一式取り揃えた購買はそれなりに便利な場所だった。
時間は決まっているが、比較的安価でそれなりに腹に溜まる物が買える。
一日千円という食費が決まっている私にとってはこの配慮は凄く在り難かった。
購買部の上級生に500円玉を渡して商品とお釣りを受け取った私は満足気にそれを抱えて、何時もの場所へと向かう事にした。

「さて、と。ようやく静かになれるや……」

今日一日不幸な事続きで溜まり切っていたストレスをため息と共に吐き出す。
何故か知らないが今日は凄く疲れた。
やっぱりこんな人の密集する場所に来るもんじゃないと私は思った。
授業は退屈だし、クラスにお節介な女はいるし、上級生からは目を付けられるし……時々またイジメが再開するときもあるし碌な思い出がこの学校という場所にはない。
一つ一つ挙げたらきりが無いが、今でも朝登校した時に机に菊の花が活けられた花瓶やキモいやら死ねやらの落書きがないかビクビクしっぱなしだ。
気丈な態度を気取っているが、私だってまだ小学三年生の女の子。
昔のトラウマは今でも尾を引いているし、今でも時々夢に出る事もある。
そんな碌でも無いことばかりのこの学校……そんな場所でも一応安らげる場所は私にも在った。
保健室、くたびれたプレートが掛かった薬品の臭いが漂う部屋。
私はそんな普通なら誰も寄り付かないような場所のドアを何の躊躇も無く開け放ち、その中へと入っていった。

「んっ、あら? また来たのね。今日もサボり?」

「……えぇ、まあ」

保健室の中に入ると案の定其処には安っぽいスチール製の机の前でパソコンを弄りながらコーヒーを飲んでいる“先生”の姿があった。
くすんだ金髪、白い肌、憂いを帯びた琥珀色の瞳……そして草臥れた白衣。
どう見ても日本人ではないと断言出来るような外人さんが其処には居た。
本名は分からない、何時だか新任の挨拶の時に聞いたかもしれないが憶えていない。
しかし、基本的に此処に来る頻度が高い私としてはどうしてもこの人との会話は避ける事が出来ない訳で、とりあえず便宜上“先生”と呼称している。
他の生徒からはその日本人離れした容姿の所為で取っ付き難いと思われているらしく、生徒からの人気は他の先生よりも低いけど……私としてはこの学校に居るどんな人間よりも話し易くてそれなりに信用の置ける人物だった。
だから私はこの学校で唯一この養護教諭とは普通に会話しているし、良好と呼べるかどうかは微妙だけどそれなりな関係は築けている。
信用できる大人、たぶん世界で唯一そう呼べる人物なのだろうと私は思っている。

「そう、また此処でお弁当食べていくの?」

「そのつもりです。後、食べたら少し寝ます」

「担任の先生にはなんと?」

「何時ものように。気分が悪そうだから帰らせました、って言っておいてください」

何時ものやり取りを何時ものように交わした私は大分前から使用されていない様に見受けられる人工皮張りの診察台の上に腰を降ろしてビニール袋の中身を広げる。
そしてその中からカフェ・ラテを先に取り出して、少しだけ呆れた様な苦笑いを浮かべている先生に投げ渡した。
殆どスポーツ選手並みの速度でそれをキャッチする先生、たぶん体育の先生よりも反射神経は優れているのだろう。
ありがとう、と短く台詞を漏らした先生はカップに残っていたコーヒーを飲み干すと、今度は私が投げ渡したカフェ・ラテのカップに付属されていたストローを差し込んで飲み始めた。
悪い先生だと思う、何せ生徒から賄賂を受け取って仮病の診断を通してくれる様な人だ。
教師としても大人としても失格……いや、ある意味大人としては正しいのだろうか。
とは言え何にしても碌な先生では無い、碌な生徒でない私には似合いの教師だった。

「それにしても貴女も良く来るわね。学校、嫌い?」

「詮索はしないって前に言ってませんでしたっけ?」

「一応、養護教諭だからね。カウンセリングとかもしないと職務怠慢になってしまうもの」

「大人の事情、って奴ですか。……答えはイエス、でなければこんな処に態々来たりしません」

それもそうね、先生は悪びれた様子も無く淡々とそう言ってのけた。
何でこんな人が教師になれたのだろうと私はつくづく疑問に思う。
此処までやる気が無く、そして生徒の事をどうでもいいと思っている様な人も中々珍しいからだ。
嘘や方便だとしても普通はもう少し小学校の教師らしい態度をするべきではなかろうか。
もっともそんな事をされてもウザいだけだし、この先生がそんな今の性格と180°違うような感じになったら気持ち悪いだけなんだろうけど。
それにこんな態度だから救われている部分も多々ある。
高々120円位の金額で休みが取れるなら安い物だ。
それに時々こんな冗談を言うものの、深く詮索はして来ない。
くっ付くともくっ付かないとも表現できない微妙な関係。
こんな人だからこそ、もう何ヵ月もこうやって普通に会話で来ているのだろうと私は思った。

「コーヒーいる? 欲しいなら淹れてあげるけど」

「お願いします」

「砂糖とミルクは?」

「適量に」

こんな他愛のない会話、しかも教師と生徒。
先生はまだ成り立てだって言っているけどそれでも二倍以上も歳が離れている。
だけど先生は年齢の開きの事を鼻に掛けたりして来ない。
妙にプライドの高い上級生や他の教師に比べれば、先生は理知的な人だった。
一種の憧れ、将来出来ればこんな風で在りたいという姿がまだ私にもあるのなら……それはきっとこんな人なのだろう。
やる気はないし、覇気も無い。
何時も気だるい感じがして取っ付きにくいのに、人間の関係の在り方って言うのを誰よりも熟知している。
不良教師、なんて先生の事を比喩する人も中には居るけど……私はそんな生き方の出来る先生に少しだけ好感を持っていた。
この学校は最低な場所だけど、此処だけは誰にも干渉されないでゆっくり休む事が出来る。
そう思える要因の大部分はもしかしたら先生の存在あっての話なのかも知れなかった。

「はい、これ。カップ熱いから気を付けてね。火傷でもされたら治療面倒だから」

「素直ですね」

「自分の気持ちに正直なだけ。貴女だって必要以上に心配されるの嫌でしょう? ほら、これで利害は一致してる。万事解決世は事もなし、よ」

「とんだ不良さんだ」

2、3分して出来上がった少々温めのコーヒーを受け取った私は取りあえず先生に皮肉を言ってみた。
しかし結果は何時も一緒、正論を述べられて流されるだけ。
子供が大人に口で勝とうなんていうのはおこがましい事なのかもしれないけど、たぶん何年経ってもこの人に口で勝つのは不可能だろうと私は思った。
白い湯気が立ち上るキャラメル色のコーヒーを一口啜る私。
インスタントのコーヒーだから特別美味しい訳ではないけど、苦みの中にほんのりと甘みが在る感覚が私は好きだった。
たぶん御母さんが店で淹れているコーヒーよりも美味しい……流石に言い過ぎだろうか。
とはいえ飲み手であるこちら側からすれば、何の感情も籠っていない引き立ての豆よりもこんな味気ないインスタント方がずっと美味しく感じられた。

「それじゃあ、何時ものようにある程度自分でカルテは書いておいてね」

「……何処かに行くんですか?」

「教師は子供と違って御昼休みも暇じゃないの。職員会議だってさぁ……私も貴女のようにサボれたらいいのにね」

先生はそう言って苦笑すると、ポケットに手を入れながら私の前を通り過ぎて保健室を出て行った。
通す過ぎて行った瞬間、先生の白衣から染み付いた煙草の匂いが漂ってきた。
先生が保健室を出て行った後、ふと先生の机の上を見てみると其処には吸殻が山を作っている灰皿が在った。
保険の先生なのに仕事中に煙草まで吸う、つくづくあの先生は駄目な先生だと思った。
だけど先生が居ないこの保健室は、なんだか何時も以上に静かで味気ない物だった。

「……本当、ままならないなぁ」

もう一口だけコーヒーを啜った私はそのまま食事を取る事にした。
味気ないハムサンドに味気ないコロッケパン、そして安っぽいインスタントコーヒー。
安っぽい人間である私には似合いの昼食だった。
だけど食べている間にふと何かに思い当った私は、一瞬だけ食事を止めてそんな言葉を吐き出した。
ままならない、それは何時もの事。
一体何時までこんな生活が続くのか、そんな事は当人である私自身あまり良く分かっていない。
だけど何時かは変わらなくてはならない。
私も貴女のようにサボれたらいいのにね、先生が去り際に残した言葉が少しだけ私の心を燻った様な気がした。



[15606] 第二話「都合の良い出来事なんて起こりはしないの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/15 14:43
それは名も無き誰かの物語。
もしかしたら誰かと関わりを持って次のステップへと進む事があったかもしれない、異界の少年の物語。
少年は闘っていた、少年と同じ名前もない化け物と。
普段の少年なら苦にもしないとまではいかないが、それでもキチンと倒しきれる程の……ゲームで例えるなら序盤で登場する雑魚敵のようなそんな相手。
だけど少年は満身創痍、今にも意識を失いかけそうになっている程弱っていた。

「―――――る者を、封印の輪に!」

真紅の丸い宝石を手にした少年は何かを叫ぶ。
その途端、空中に紋章のような物が浮かび上がり少年を守る。
そして次の瞬間、少年に向かって何か巨大な物が突進してきた。
ミシッ、というラップ音を発する紋章、呻く少年。
もはや力なんて欠片も残されていない少年にとってその攻撃はあまりにも強烈過ぎた。
しかし、少年はなけなしの気力でそれに耐えるとそれでも尚挫けずに化け物と相対する。

「ジュエルシード! 封印!!」

カッ、と強烈な光が紋章から発せられ化け物を包み込む。
少年はそれで仕留めたと思っていた。
何時も何時も寸での事ではあったものの、今までだってちゃんとこれで事なきを得ていた。
だから今回も大丈夫、そんな確信にも似た期待が少年の脳裏を過ぎる。
しかし、反面化け物はその光に一瞬怯んだだけで攻撃の手を緩めようとはしない。
余計に篭る化け物の力、その度に亀裂が走る紋章。
少年を守る不思議な力が化け物に完全に押し潰されるのはそう遠い時間ではなかった。
数秒競り合った末に少年の紋章は化け物の力によって砕かれ、防御を失った少年は凄まじい力の篭った化け物のタックルを真正面から受ける結果になった。

「がぁッ……!?」

まるでダンプカーにでも引かれたかのように吹き飛ぶ少年。
肋骨は砕け、内臓は押し潰され、唯でさえ満身創痍の身体はもはや瀕死にまで追いやられてしまっていた。
溜まらず吐血する少年、その量はどんな一般人が見ても命の危険に瀕していると判断できる物だった。
少年の意識が薄れる、しかし化け物は止まってはくれない。
だから少年はとっさに最後の賭けに出た。
この声に気付く誰かが自分を助けに来てくれると言う希望的な賭けに。

『誰か……この声を聞いて……』

少年は願う。
誰かが、素質のあるものが自らの問い掛けに答えると信じて。

『力を……貸して……』

化け物が飛び上がる。
知能数の低そうな生命体ではあるが自分に敵対する物を始末しようというような原始的な知識はあるようで止めを誘うとしているのだろう。
そうでなくても放っておけば自ずと死ぬような少年。
これ以上刺激されればまず間違いなく助からない。

『魔法の……力を……』

そこで少年は意識を手放した。
そして少年は刹那の瞬間に夢を見た。
自分の声に何処かの少女が反応し、翌日になって友達を連れて自分を助けに来るというどうしようもない夢を。
それはもしかしたら在り得ていたかも知れない物語。
事実少年は数多の可能性の中でその少女に助けられ、そしてその少女は少年によって物語を繋ぐことが出来ていた。
だが、所詮は夢……夢は星のように輝くが、星は決して掴めはしない。
もしもこの瞬間その少年にまだ幸運と言うものが在ったのならば、それはせめてその現実を知らずにいられたということだけだったに違いない。
次の瞬間、今までに感じた事の無いほどの衝撃が少年を襲った。





「……ッ!? 私、寝てたの……」

暗い、暗い部屋の中で私はポツリとそんな事を漏らした。
手にはテレビゲームのコントローラー、足元には食べかけの牛丼。
そして背中には腰を守るように置かれているもう何週間も洗っていない薄汚れたクッションが在った。
ふと、時計を見てみるともう深夜の二時過ぎ。
どうやら私はテレビゲームをしながらそのまま眠ってしまっていたらしい。
その証拠として今の私は私服にも着替えず制服を着たままの格好で、真っ暗になった部屋には会話場面で止まっているテレビゲームの画面がぼんやりと光を放っていた。
色々在って疲れていたとは言えどもこんな時間まで寝過ごしてしまうのは、少し腑に落ちない物だと私は思った。

「しかも……なに、さっきの夢……グロッ」

先ほどの夢の内容を思い返した私は殆ど反射的に口元を押さえ込んだ。
胃液の酸っぱい味、慣れているとは言えどもやはり気持ちの悪い物は気持ちが悪かった。
そもそもなんで私は何処とも知れない男の子が化け物と闘ってグチャグチャになる夢なんか見てしまったのだろうか。
もしかして寝る前にやっていた『サイレント・ヒル2』がいけなかったのかもしれないとは思うけど、其処まで別に思い入れがあったソフトでもない。
これが流行のゲーム脳って奴なのだろうか、そう思うと何だか少し悲しい気持ちがこみ上げてきた。

「身体も寝汗でびっしょり……あぁ、気持ち悪い……」

どうやら先ほどの夢は無意識的でも相当キツイ物であったらしく、下着のシャツはぺったりと私の身体に張り付いていた。
もしかしたら寝ている最中魘されていたのかもしれない。
一応私も『バイオハザード』や『グランドセフト・オート』なんかをプレイする手前グロテスクな物に対する耐性は有る方だけど、それ以前に小学三年生の女の子であると言う事なのだろう。
あそこまでリアルに殺害現場を見せ付けられれば例え夢でも気が滅入る。
人間なんて物はそんな物だと私は改めて思った。

「お風呂……入ろうかなぁ。うん、時間も丁度いいし、どうせもう皆寝てるよね」

しかし、朝まで寝過ごさなかった事は不幸中の幸いだと私は思った。
私がお風呂に入る時間は実際の所かなり遅い。
何時もだったら深夜の一時かその辺りの時間に湯船を張り替えて入る所だから、今日はその中でもかなり遅い部類に入る方だ。
ウチのお風呂は無駄にだだっ広いから湯船を張るだけでも30分くらい時間が掛かるし、下手をしたら今日なんて朝風呂になる可能性もある。
でも、やっぱり女の子として最低限のラインは死守したい。
身なりが幾ら汚れていようともせめてこの身だけは清潔でありたい、私の数少ない意地とプライドが面倒だという気持ちを今まで打ち負かし続けているわけだ。
だからどんな日でも最低お風呂には入ろう、打算的な話だがそれくらいの安らぎを求めた所で罰は当たらないだろう。

「あ~もう、変な体勢で寝てたから肩凝っちゃったよ……」

徐にコントローラーを放り出し、肩を回して解しながら立ち上がった私はそこら辺に転がっていた予備の制服一式と下着を持って部屋を出た。
その際に一応部屋の明かりは点けておいた。
お化けとか妖怪とかそんな物を信じる性質じゃないけど、あんな夢を見せられた後じゃ怖くもなるものだ。
早く大人になりたい、一人で自立してとっととこんな処出ていってやるって思っているのに結局根本的な部分では子供のまま。
そんなものよりももっと怖い物を知っているくせに、私は少しだけ昔と変わり切れていない自分を恥じた。

「……気持ち悪い」

純粋キャラ気取って守ってオーラを出している自分を想像したら何だか無性に気持ち悪くなってきた。
昔のままの私なら「お化けこわいよ~」なんてまともに言えていたのかもしれないが、流石に今になってそんな台詞を言えるような図太い神経を私は持ち合わせてはいない。
というか、素の私がどっちなのかさえ今になっては曖昧だ。
元の良い子ちゃんぶっていた私は本当の私なのか、それともこんな社会の底辺にいるような駄目人間がそうなのかも自分ですら検討が付かないのだ。
だけど、疲れる頻度で言ったら今の私のほうが昔よりも断然疲れない。
楽な方へ、楽な方へ……そういう悪循環が人を駄目にしていくのは知っているけど、少なくとも人間関係で疲れると人生に疲れる。
今の私は間違いなく正しい、だとすれば本当の私はやっぱりこっちの自分と言う事なのだろう。

「はぁ~馬鹿なこと考えてないでとっととお風呂入ろっと。きっと疲れてるんだ、私」

毎日毎日嫌な事がありすぎて精神的にキテいるものがあるのだろう、私はなんとなくそう思った。
此処連日は二年生の頃をぶり返すような出来事が続いているし、教師からの良くない評判もそこそこ耳に入ってくる頻度が多くなった。
授業で机をくっ付けて班活動をすれば机を離されるし、席替えをすれば隣になった娘が声を上げて泣き叫ぶし、そして結局教師からは私が虐められているのだと思われて言われも無い説教を喰らう始末。
これで参らない精神の方がどうかしているという物なのだろう。

「そういえば……最近笑わないな、私……」

階段を降りて下の階に向かう途中、ふと私はそんな事を思い返していた。
昔はしょっちゅう何か在れば「にゃははは」なんていう馬鹿みたいな笑いを漏らしていた私だが、今となって出てくる言葉と言えば「ウザい」、「黙れ」、「お金」の三つくらいだ。
これに後「邪魔」と「あんたには関係ないじゃん」を加えれば家での生活における会話は全部事足りてしまう。
短調になった会話、刺々しくなった言葉、荒れ果てた生活。
何が原因でこんな風に―――――其処まで考えて私は瞬時に考えるのをやめた。

「……馬っ鹿みたい、私」

薄暗い廊下を手探りで歩き、風呂場に向かっていた私は昔の事を思い出しそうになる自分を自虐のたっぷり篭った言葉でばっさりと切り捨てた。
昔の事を少しでも思い出すと直ぐに私は自分の何処がいけなかったのだろうという迷いに溺れて、「此処でこうしておけば……」とか「あんな風に想いを伝えていれたら……」とかそんな感じの“もしかしたらありえていたかもしれない未来”に縋ってしまう。
そんな自分が嫌だから今の自分になったというのに、もうどうせ引き返せないから堕ちる処まで堕ちてやろうと思ってこんな風に穢れたのに。
私はまだ心の何処かでは優しい居場所、未来、そして温もりを欲している。
そんな勝手な自分が私はどうしても許せなかった。

「やっぱり……疲れてる。うん、疲れてるよ私。全部全部疲れの所為だ」

だからとっととお風呂に入って忘れよう、こんな時だけは自分の思考の切り替えの早さに感謝した。
一度考え始めたら区切りが付くまで迷う私だけど、結局大半の問題には明確な答えなんて存在しない事を知ってからは直ぐに別の事を考えて深く考えすぎないようにする。
こんな生活を生きていく中で少しでも人生を生きやすくする様に必死になって考え付いた私なりの処世術だった。
今回だってそう、結局はその延長線上。
くだらない事を考えそうになった、だからお風呂に入る事だけを考えて辛い事よりも安らぎを優先させる。
結局何の解決にもなっていないことは重々承知しているけど、小学三年生の軟な子供が必死になって考えた結果にしては上々だと信じたかった。

「さぁてと……あれ? お風呂抜かれてるや、ラッキー」

風呂場に入って湯船を確認した私はお湯が張られていないという事に気が付いた。
何時もなら何か色々なものが浮いて汚らしくて温いお湯が其処には無く、ただ水滴の付いた空の湯船が其処にはあるだけ。
だけど私としてはお湯を抜いている時間を短縮出来るから、此れは少しだけ嬉しい配慮だった。
いや……少し裏を返せば此処にお湯が張られていないという事にどんな“意味”が込められているかは知っている。
でも私の何処か根本的な部分がその現実を誤りでありたいと思っている。
だから私は自分に言い聞かせるように此れは幸運な事なんだとわざと呟くのだ。
変に勘潜って自分で自分を傷付けるのが嫌だから。

「え~っと、設定は38℃にして……っとこれでよし」

『お湯焚きをします』という電子音が自動湯沸かし器から流れた事を確認した私は、お風呂に栓をして一旦お風呂場を出てから外についている換気扇を作動させた。
後はこれで自動的に機械が適温の湯を張ってくれる、深夜なんていう誰もが寝静まった時間にお風呂に入る人間としてはこれほど便利な物も中々無かった。
お風呂を入れた私はそのまま部屋には戻らずフラフラとリビングの方へと向かう。
湯船に湯が溜まるまでには少し時間が掛かる、それにちょっと小腹も空いた。
適当に何か摘みながら面白くも無いテレビでも見ていよう、なんて事のない何時もの行動。
私は覚束ない足取りのまま電気も付けずにテレビの電源だけを入れて音量を下げると、その明かりだけを頼りにその奥のキッチンの方へと歩いていった。

「……これはお金の範疇外だけど、この位別にいいよね」

キッチンの中に入った私がまず初めに取った行動は冷蔵庫の中を開けて中身を適当に物色する事だった。
ウチの冷蔵庫は市販で売っている物ではなく、お母さんが経営している喫茶店で使っているものと同じ業務用のものだ。
明らかに家庭的な家には似つかわしくない銀色のゴツゴツしたデザインの物だが、業務用ということもあってか色々な物が沢山入るし、無駄に沢山のオプションが設定されている。
そんな冷蔵庫を開けた私はその中から今の時間帯でもそれなりに食べられるような物を探し出す。
世間一般からは家庭的な夫婦で通っている手前食材には事足りず、冷蔵庫の中は様々なもので溢れかえっていた。

「え~と食パンと……後チーズに……やっぱりマヨネーズかな」

取り出したものは食パン一切れにスライスチーズ一枚。
後は薄切りのハムにケチャップにマヨネーズ、たったそれだけだった。
後はそれを電子レンジに突っ込んで一分半くらい加熱。
そうすれば手ごろに作れるトーストもどきの完成だ。
あえてトースターを使わないのは音が煩いから、もしも家族の誰かに見つかりでもすれば非常に面倒な事になる。
もっとも電子レンジにしたって電子音は鳴るわけだし、音的にはどっこいどっこいなのかもしれないけど……私は何となく微弱な光の中で回る物体を眺めているのが好きだった。
趣味の悪いと言うか、変な趣向なのかも知れないけどそうしていると少しだけ心が安らぐ気がしたのだ。

「とは言っても気持ちの悪い事に変わりは無いんだけどさ」

そんな事に安らぎを感じるなんてどんだけ寂しいんだよ、自分で自分を蔑んでみる。
嫌な女だなぁ、っていうのは自分でも分っているのだ。
根暗で、人間不信で、暗くて、取っ付き難くて……そして皆の悪者。
学校で起こる問題には必ずあがる『高町なのは』と言う名前、そしてそれに伴って段々と距離を置いていく人達。
いっそ死んでしまえば悪者にならなくて済むのかな、誰か私のために泣いてくれるかなって考えてしまう。
しかし私は自らの死を望まない。
だって馬鹿みたいだから……どうせ誰も泣いてなんてくれない事を知っているから。
皆私が邪魔なんだ、自らを嘲笑う様にそう呟いた私は電子レンジを止めて、中のトーストもどきを取り出すと皿に篭った熱も気に掛けないままリビングの方へと戻っていった。

「え~とちゃんねるは……あった、あった! 此処最近はこんな夜中でもアニメとかやってるんだよね」

少しだけ気分を浮かせながらチーズが蕩けるパンを咥えながらチャンネルを回し、この時間にもアニメを放映しているテレビ局に切り替えると、その前にペタンと座り込んだ。
夜中のフローリングの床はどの時期でも冷たく、靴下を履いていても足は冷える。
でも、そんな事も気にしないまま私はテレビの画面を食い入るように眺めてボーッ、としていた。
テレビ画面に映っているのはこんな時間にも放映している大人向けのアニメ、俗に言う深夜アニメと言う奴だ。
昼間にはあんまり放映していないような露出の高い派手な制服を着た高校生のキャラクターが勾玉を求めて闘う三国志を基準としたアニメが其処にはあった。

『孫策! 私はお前を―――――』

「な~んか、このキャラクターって今一いい人なのか悪い人なのか分んないよねぇ」

超ミニスカートの眼帯をしたキャラクターの台詞に人知れず突っ込みを入れた私はそのまま軽食を取りつつその後の流れを見守った。
あれやこれやと闘うたびに服が破けたり、露骨にお風呂場のシーンがあったりと普通こういうのは大人の男の人が見るものなんだろうけど夜型の私としては結構御贔屓にしているアニメだった。
というのも、実際の所私もこんな風に何か“力”があれば……なんて事を考えてしまっていた時期が合ったからだ。
秘密の道具を出せるロボットがいたら~とか、怪しげなお店の中に入ったら魔女を見てしまってその人を元の姿に戻す為に自分が魔法を~とか大体そんな奴だ。
子供の頃なら誰もが当たり前に思い描き、憧れていた空想。
それを実際に自分が使えたら~なんて思ってしまうのは何も私だけでは無い筈だ。
だけど私は誰よりも早くある一つの答えにたどり着いてしまった。
というのもなんて事は無い、サンタクロースにしろ妖精にしろ、魔法にしろ……そんな都合のいいものは世の中には存在しないって事に。

「はぁ~、まったくお笑いだよね。酷いと大人になっても自分は人とは違うんだって思っちゃう人もいるんだもん。そんな事ありえるはず無いのにさ……」

私はふと自分がまだ幼稚園に通っていた、遠い遠い昔の事を思い出してみる。
大体何処の幼稚園や保育園でも文字が書けるような歳になれば自ずと“将来の夢”っていうものを書かせるような事をするだろう。
そんな時私はなんて書いただろうか、お花屋さんかお菓子屋さんか……それともお母さんと一緒にお店をするか。
まあ何だっていいけれど、どうせ実現出来っこない夢を掻いた事だろう。
中には仮面ライダーになるとかウルトラマンになるとか書いていた人もいるのかもしれないが、夢がまだ非現実的な分だけ純粋だって証拠だ。
しかし私はこの生活になってから世の中で一番何が大切なのかを学んだ。
それは”お金“だ。
食べる物にしろお洋服にしろテレビゲームにしろ日用品しろ文房具にしろ……元は皆々、お金なのだ。
初めは苦労した……一日1,000円って言う額は多いように見えて意外と少ない。
物の値段の上がるこの世の中で三食ともお弁当を食べてしまえば、はいお終い。
レストランなんかだと一食取っただけで全部パーだ。
だから私は誰よりもお金の有り難味を知っている。
お金で買えないものは無い、なんて馬鹿なことを言うつもりはないけれど世の中の殆どの事は解決してしまうと言う認識くらいはある。
こんな私から脂ぎった顔の政治家のおじさんまで老若男女誰からも愛されるお金はやっぱり偉大だと私は思った。

「さぁ~てと、そろそろお風呂沸いたかな……んっ?」

その後しばらくしてアニメも終わり、そろそろお風呂に入ろうかと思っていた私はテレビ画面がこんな深夜にも関わらずニュース速報に代わったことに足を止めた。
色々物騒な事が続いている世の中と言えど、こんなにも露骨に緊急ですっていうような報道をメディアがするのはやっぱり珍しいからだ。
一応私のような不良娘でもニュースくらいは見る。
社会科の時間には最近自分の印象に残ったニュースとやらを発表しなくてはならないし、そうでなくても民放で流れるニュースには耳を傾ける必要がある。
変な事件でも起きて警察の見回りが強化されるなんて事があった日には、夕食を買いに行く時間も大分早くしなくてはならなくなる。
そしてそれとは別に単純に第三者から見た物事の興味として……何が起こったのかというのを知りたかった。

『今晩未明、○○県海鳴市の児童公園で身元不明の少年の変死体がパトロール中の警官に発見され―――――』

「なッ……!?」

『少年の遺体は無残にも引き裂かれており、警察では轢逃げか他殺の可能性が高いと見て捜査を行っています。では次の……』

私は驚いたように息を呑んだ。
夢に見たものと同じ、そう直ぐさっき見た光景とまったく同じ事がテレビで放映されていたのだ。
児童公園がどうだとかどんな殺され方をしたとかそんな事はどうだっていいけど、今しがた夢で少年が殺される所を見た少女が深夜に起きたテレビで身元不明の少年が殺されていたというニュースを見る。
こんな偶然、果たして本当にありえるのだろうか。
正夢にしてはあまりにも不吉すぎるし、予知夢にしては何とも気味が悪い。
幾らお化けとか妖怪とかを信じていない私でもこれはちょっとしたホラー映画のワンシーンにでも迷い込んだかのような錯覚を受けた。

「ぐッ、偶然……だよね……」

気味が悪いし、背筋がゾクゾクする。
言葉で幾ら否定しても拭えない親近感とデジャヴが寒気すら感じさせてくる。
だけど……所詮は其処までだった。
すぐさま私は今まで自分が考えていた事を否定し、テレビの電源を落として現実的な思考に自分を引き戻す。
本の少し前までそんな都合のいいことは起きはしないと思っていたくせになんていう様なのか、と。
そりゃあ確かに偶然にしては出来過ぎているし、怖いといえばまあ怖い。
だけど所詮は寝て起きる合間に見る夢なんて不確かな物だ。
それに聞いた話では正夢というのは単なるデジャヴと人が感じるだけであるというし、そもそも夢というのは人間の記憶の整理の延長線上にある行為だともいう。
メルヘンとかホラーなんてありえない、こんな小学三年生の女の子でも少しだけ理知的に考えれば直ぐに分る。
私はすぐさま馬鹿なことを考えたと自らを否定し、風呂場の方へと歩いていった。
嫌な事は何もかも身体の汚れと一緒に洗い流してしまおうと思い直して。





その日の朝も何時もと変わらない嫌がらせかと思ってしまうくらいの晴天だった。
何時ものように仕度を済ませ、何時ものように鬱陶しい家族を遠ざけ、これまた何時ものようにお母さんからお金を貰った私は少しだけ早く家を出た。
この日少しでも私という存在が“何時も”している行為から外れている事があるとすれば、髪がまだ少し水気を帯びている事と普段以上に寝不足気味だという事の二つくらいだろう。
しかしそんな変化もなんて事は無い。
前者は単にお風呂に入っていたら其処でもまた一時間程度寝てしまったから碌にドライヤーも掛けられなかったというだけの話で、後者に居たっても中途半端な睡眠をとったから必要以上に身体がだるくて重いだけだ。
何とも不健康で、何とも子供らしくない。
皆が私を嫌う理由が少しだけ理解できるような気がした。

「ふぁ~、眠ッ……。身体ガッタガタだよ、まったくさぁ」

ポケットに手を突っ込み、憎たらしくさえ思えてしまうようなお日様が照らす街道をフラフラと歩いていた私はふとそんな風にオジサン臭いことを呟いた。
しかし、微塵も間違っていない所が悲しい……まだ9歳の乙女にはして私の身体は色々な意味でガタついていた。
栄養バランスなんて知った事じゃないと言わんばかりの食生活を続けている所為で頬は痩せこけ、目元には薄っすらとだけど誰でも視認できるレベルのくっきりとした隈。
歩けば足つきは覚束ないし、肩は良く凝るし、少し走っただけでも直ぐ息切れしてしまう。
おまけに何時も何時も気だるいし、何事に対しても覇気もやる気も沸いてこない。
なるほどこれでは確かにオジサン臭いと評されても文句は言えないわけだと私は自分の事ながら何だか少し呆れたような気分になった。

「コンビニでユンケル買おうかなぁ……このまんまじゃあ午前中の授業乗り切れないよぉ。あぁ、でもそれだけで230円も余計な出費が……」

自分の身体とお金を天秤にかけなければ満足に自己管理も出来ない自分が悲しかった。
栄養ドリンクを飲めば少しはこんな体調もマシになる、それは分っている。
だけどそれだけで私の昼食と同じ値段になるというのは少々いただけないものがあった。
ああいった類物は総じて量が少ないくせに無意味に高い。
中には安いのもあったりするけど、安物では利かない身体の私としては小額だからという理由で妥協できる物でもなかった。
食事をチューブゼリーにしてしまえばそれで何とか予算を都合できない事もないが、どうせならしっかりとした物を食べたいという欲もある。
しかも今日は授業で当てられる日、ずっと寝ているわけにも行かないのが悲しい現実だ。

「あぁ~もう、また保健室で寝てようかなぁ。でも今日は先生非番だって言ってたから都合悪いしなぁ……」

ブツブツと独り言を言いながら歩いている私の姿はさぞかしみすぼらしい物だろう。
だけど、これが世の子供の現状だ……大人は問題、問題って騒ぎ立てるが今の世の中私のような人間もそう珍しい物ではないらしい。
育児放棄された子供、借金に塗れた家庭に生まれて保険金目当てに殺される子供、再婚した新しい親や兄妹から虐められる子供……その他エトセトラエトセトラ。
そんな珍しくも無い子供の一人、それが今の私だった。
でも私はだからと言って誰かを責めようなんて事は思っていない、責める相手が多すぎる上に責めた側にもそれなりの事情があるって事を私は知っているから。
曰く世間体、曰く付き合い、曰く交友関係。
まあ何だって構わないけど、最大公約数の強いこの国では目立ったものからハブられていくっていうのが心理なのだ。
ツレと駄弁って馬鹿やって、恋愛とかしちゃったりして部活とかで汗水足らして友情ごっこ……そういうテンプレートな“当たり前”が正義なんだ、この世の中。
まったく、ままならないものだと私は思った。

「まったくさ、馬鹿みたいだよね。出る杭は打たれる。才能のある人は蹴落とされる。出た芽は摘む。仲間外れにされる。正直者が馬鹿を見る。上辺面だけのイジメかっこ悪い。個人を大切にしましょう~なんて言うけどさ、そうすると今度はこっちが被害者になるんだってば。どうせ皆……何処の誰かから自分が漏れ出す事が怖いんだよ、実際」

そう、昔も私は怖かった……そう言い掛けた処で私は足を止めた。
少しだけ、珍しい物を見掛けたからだ。
何台も何台もパトカーが連なって止まっている光景、中にはドラマなんかでよく見かける鑑識さんの車まである。
よくよく私がその様子を観察していると、パトカーの前には海鳴第二児童公園という文字があった。
昨夜の事件、どうやらこの場所で起こったらしい。
今日は大分早く家も出たし、少しくらい寄り道しても遅刻にはならないだろう。
たぶんそんな余裕も後押ししていたのではないだろうか、私はまるで吸い込まれるようにその公園の中へと足を踏み入れていった。

「うわぁ……本当にドラマみたいだぁ……」

とりあえず正面切って入っていくのは拙い、そう考えた私は入り口直ぐ近くの茂みのなかから公園の中をウロウロしている警察官さん達の姿を眺めていた。
今はテレビで『踊る大捜査線』というドラマが放映されていて、実の所私もちょっとした隠れファンだったりする。
だから実際に目の当たりにする事件の現場というのは不謹慎かもしれないが、ちょっとだけ新鮮な感じだった。
チョークで書かれた被害者の形、Aやらαやら色々な文字が刻まれた黒い目印、指紋や遺留品を扱う鑑識さん……そして現場に残された大量の血痕。
遠目で見ている分には残酷だともグロテスクだとも感じず、単純に私はワクワクしていた。
自分が現在過ごしている退屈な生活が日常だとするなら、目の前に映るそれ等はドラマや映画なんかに出てくる非日常。
なんというかその感覚が凄く幼心を擽って、柄にも無く自分は年頃の子供であるんだってことを再認識させられる。

「いいなぁ。何だか金田一の事件簿とか名探偵コナンみたい。犯人はお前だッ! じっちゃんの名にかけて! なんてね……ふふッ」

小声で有名な作品の台詞を言って笑う私。
何時もなら一人で何馬鹿な事やってるんだろうって言うような気分になるところだけど、今日に限ってはそれ程悪い物のようには思えなかった。
でもそれもやっぱり人が死んだっていう自覚がまだ私には足りないという証拠の裏返しでもある、そんな気もしてこないでもなかった。
最近の子は男の子でも女の子でも小さい頃から相手に向かって平気で「死ね!」って言えるけど、現実本当に死んだらなんというかこう……面倒くさいだろう。
私のせいだって感じて自己嫌悪しても遅いし、昨日其処にあったものが今日から永遠に無くなってしまうという喪失感を感じてしまう事だってある。
そういうのを背負っていくのって、やっぱり面倒だろうと私は思っている。
そりゃあ誰にも迷惑掛けない所で勝手に死んでくれるのなら私だってどうでもいいが、やっぱり少なからず人には良心って奴が誰にでもあるもので、其処が重たくなる。
とは言え私の場合だとはっきり言って……誰か死ぬと全校集会なり葬式なりで時間が潰されて鬱陶しいだけなのだけれど。

「そういえば死んじゃった子ってウチの学校の子かなぁ? 嫌だなぁ、全校集会。校長先生とか思っても無いくせに話長いんだもんなぁ……んっ? なんだろう、これ?」

そう言えばと思い直した私は少しだけ憂鬱な気分を感じ―――――そしてそこである物を発見した。
ふと下を向いた瞬間、草の間に引っかかっている光る物だ。
なんだろう、と単純な興味でそれを拾い上げた私は其処が殺人現場でそれが被害者の遺留品なのかも知れないということすら忘れてそれに見入っていた。
月長石か緑柱石のような緑掛かった水色のひし形の塊。
凡そ私の手に平に収まるくらいの綺麗に輝く結晶体だった。

「宝石……かなぁ? でもなんでこんな所に?」

いい加減私は其処が殺人現場である事を失念してい過ぎた。
普通のボリュームで声を発してしまった私は近くを通りかかった警察官に見つかってしまい、結構な大声で怒鳴られてしまった。
「こんな所に入ってくるんじゃない!」それは本気で怒っている人の声だった。
素直に謝罪の言葉を残してその場から逃亡する私、しかし誰も追ってはこない。
子供の些細な悪戯だと思ったのだろう、それ以上私に何か話しかけようとしてくる人は誰もいなかった。
ふと此処で私は自分がその結晶を持ったままでいる事に気が付いた。
走りながら掌を広げてみると、そこには綺麗な形にカットされた名前も知らない鮮やかな蒼い色の宝石。
持ってきちゃって悪かったかな、とも最初は思ったけどまたあそこに戻るのは少々気が引ける。
結局私はその宝石をポケットの中にしまったまま、コンビニの方まで駆けることにした。

「別に……このくらい、いいよね」

そもそもこの宝石が殺されちゃった子の持ち物だったのかどうかすら怪しいのだ。
偶々別の人が落としてしまっていたのを警察の人が見つけてないだけかもしれない。
だから私は悪くない、なんとも醜い自己防衛だった。
だけどやっぱり人間一度妥協するとそのまま引きずってしまう物で、私は結局そこで思考を区切って学校に向かう事にした。
……が、その数秒後に私は息切れを起して止まってしまった。
無茶な運動は極力避けよう、この日改めて私はそう決心を固めるのだった。





都市部にある五階建ての高級アパートの一室。
そこである女性が誰かに電話を掛けていた。
携帯電話とも無線機とも付かない受話器を耳に当てた女性はくすんだ金髪を手で弄りながら電話の相手からの問いに淡々と受け答えをする。

「えぇ、その通りです。少々負傷してしまいましたが目標は撃破しました。しかしサンプルの方が―――――」

電話の相手は女性の渋るような答えに少しだけ残念そうな声を浮かべる。
しかし其処に怒気は無い。
むしろ、自分の予想が外れた事を喜んでいるようにすら聞こえる子供のような雰囲気が其処には含まれていた。

「……いえ、サンプルとは異なりますが別の物なら。そうですか……それでは此方にいらっしゃるまでの間私が保存しておきます」

それは楽しみだ、電話の相手は女性にそう言葉を返す。
しかし女性としては別段どうって事の無い事だった。
ただ女性は自分が望んで決めた事の延長線上で仕事をしているに過ぎない。
この生活が少しでも長く続くのならば、その一心で女性は電話の相手の仕事を引き受けていたのだ。

「勿論、分っています。決められた仕事はちゃんとこなしますよ。……えっ、最近のこっちでの生活ですか? そう、ですねぇ―――――」

突然の問いに女性は少し悩んだ素振りをしながら手の先にある物体をクルクルと弄ぶ。
其処には紐に括られたビー玉のような真紅の宝石、しかしネックレスにしてはあまりにも短く、ブレスレットにしては長すぎる。
それは昨晩女性があの現場で起きた出来事に決着をつけ、手にした戦利品だった。
とは言えそれは求められていた物とはまったくもって別の物、本来彼女が手にしていなければならないものではない。
しかし、女性の心情としてはそんな事すらもどうでもいいと感じていた。
何故なら―――――

「少しだけ、目を掛けて行く末を見守ってあげたい子が出来た……そんな所ですかね」

その後女性は、通話している人間と二、三言葉を交わしてそのまま窓際まで歩を進める。
そして彼女はカーテンを開け放ち、こう思った。
あぁ、私は中途半端のままだ、と。

「目的を果たさなきゃいけないのに今のまま教師であり続けたい私がいる、か。本当……煮え切らないわね」

今日は非番で仕事も無い。
どうせ多かれ少なかれ昨日の事で負った傷の所為でまともに仕事なんか出来ないだろうし、あの子にも変に心配されるのが嫌だったから有給休暇を取ったのだ。
女性は思う、あの子は少し道を踏み間違えてしまっているけど本当は心優しい子だと。
こんな傷だらけの顔を見られれば不器用ながらにも気にしてしまうだろうと。
そして、それは彼女自身が一番望まない“馴れ合い”なのだと。
だから特別目を掛けて見守ってやろうと思えるのだ、一教師として。
とんだ偽善なのかもしれないが……一時的とはいえこんな職業についたのも、一度でいいから彼女のような人間を救いたい、そう女性は決めていたのだ。

「今日、大丈夫かしらね……」

また仲間はずれにされて居場所失くしてないといいのだけれど、女性は人知れず誰からも愛されないと思い込んでいる少女を想う。
しかし、それが間違いだという事を彼女は知っている。
彼女は愛されないのではない、愛してほしくないと自ら壁を作っているに過ぎないのだと。
それに彼女が何時か気付く時が来るだろうか……女性は微笑みながら、宝石と受話器をソファーに放り出してコーヒーを入れるためにお湯を沸かした。



[15606] 第三話「泣きたくても耐えるしかないの……」(いじめ描写注意)
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/01/23 17:32
毎日毎日嫌な事ばっかり。
もう、うんざりだ……この言葉が言えなくなったのは一体どれくらい前からだろうか。
悔しい、悲しい、虚しい。
そんな感情が心を揺す振らなくなったのは果たしてどれだけ昔の事だろう。
数えてみればそう多くは無い時間。
だけど体感している人間からすれば永遠のように遠く、嘗ての自分が霞んで見れてしまうほど心は荒む。
人から嫌われる事に慣れてしまったら、そこでもうその人間は死んだも同然だ。
何時だか体育の先生がそんな事を言っていたけど、それなら私はきっと生きた死人だろう。
嬲られるだけ嬲られて、いらなくなったらゴミのように捨てられる……そんな人間。
それがきっと私という存在なのだろう。

「……………」

宝石を拾った日の朝の事、それは突然目の前に何事も無かったように存在していた。
眼前にあるのは私の机と椅子、そしてその椅子の上に在るのは……売店で売っている溶け出したアイスクレープ。
ベトベトに垂れて床に白い水溜りを作っている、もう食べ物ですらないゴミだ。
そして机の上にはカッターナイフか何かで切裂かれた昔の写真。
馬鹿みたいに笑っていた頃の懐かしくも忌々しい顔がバラバラに引き裂かれていた。
辺りからはクスクスと笑う誰かの笑い声、誰かは分らない。
そしてこれは明らかな嫌がらせ……最近ぶり返してきていたとは思っていたけど、どうやらこのクラスでの『高町イジメ』はまだ終わっていなかったらしい。
私はそれを黙って見つめる……まるで昔の自分の姿を見るように。

「お~い、高町ぃ。どうしたんだよぉ、そんなに席ベトベトにしちゃってさ~」

「怖ぁい。高町さんって根暗な所あったけど~自分の写真引き裂く趣味とかあったんだ~。自傷癖ってやつ? きゃはは」

何処の誰とも知らない男女の冷やかしの言葉、そしてまた誰かからの笑い声。
綺麗な宝石も拾ったし、今日はちょっとはマシになるかもとかそんな淡い期待を抱いていた事自体が間違いだったんだ。
おかしいとは思っていた……過激な事を平気でやらかすウチのクラスの人間にしては最近は妙に大人しいってずっと疑問に思っていた。
しかし、私は直感した。
私が最近保健室の先生とつるんでいるのは周知の事実、どうやら彼らからしてみれば私が先生に取り入って面前なら虐められないとたかを括っているように見えたのだろう。
でも今日はその邪魔な先生もいない……こういう事は耳が早く、チクっただの告げ口しただの様々な尾鰭をつけて廻り廻って生徒中に駆け回る。
なるほど、小学生御得意のずるい手口に狡猾な考え……そんなに私に泣いてほしいのだろうか。
そんな所を見て優越感を感じた処でなにも得る物など無いというのに。

「高町さぁ~ん、とっとと片付けてくんないかなぁ? 臭いんですけど~」

「それってもしかして高町の臭いじゃね? おい、高町ぃ~風呂くらい毎日入れよ、汚ぇなぁ。あっ、汚ぇのは元々か」

本当に下種な奴らだと思う。
強い存在にはどんな事をしてでも取り入ろうとするくせに、自分より格下だと思った人間には容赦の無い罵声と暴力。
まるで言葉という手段を覚えただけの猿、だけど私はそんな彼らに怯えている。
だから今だって声を出さず、ジッと堪える事に精一杯。
元々私だってそんなに心が強い人間ではない。
こんなにも必要に何かされれば否が応でも悲しくなるし、泣きたくだってなる。
だけど私は泣きもしないし、何の反応も返さない。
この手の連中を極力楽しませない事、それが私に出来る唯一の抵抗だから。
でも、今日はこれだけでは終わらなかったようだった。
爪が掌に食い込むほど手を握り締めて堪えていた私を、次の瞬間とんでもない質量が襲ってきた。

「ごめぇん、当たっちゃった~。そんな所に突っ立ってるなよ高町ぃ」

「あ~!? お前高町触った手でこっち来るなよ! 高町菌がうつるだろ、この馬鹿!」

白い水溜りの中に突き飛ばされる私、服やら何やらどろどろして気持ちが悪い。
ふと顔を上げて自体を確認すると、どうやらクラスでも肥満体に入る太った男子が私にタックルをかまして来たようだった。
そしておまけに私は菌類扱い、今日は何時も以上に仕打ちが酷かった。
もっとも全盛期の酷い時に比べればこれでも大分マシになった方だった。
酷い時なんか上級生を呼び出して殴るわ蹴るわ……挙句の果てには財布の中身を根こそぎ取られて、傷ついたまま夜まで放置させられた事だってある。
あの頃は冬場だったから傷が何時も以上に疼いて痛かったのをよく憶えている。
そういえばそのままプールの中に突き落とされた事もあったっけ、まあなんでもいいけどその頃よりはずっとマシ……そうでも思っていないとやっていられなかった。

「あぁ、汚ぇ。っていうかさ、お前なんで学校来てるの?」

来たくて来たいわけじゃないよ、反論したかった。
でも、怖くて出来ない。
倒れた状態から何とか起き上がろうとして床に手をつく。
だけど、アイスクレープの中身の所為で上手く重心を捉える事が出来ずに私はその場にまた転んだ。
痛い、汚い、惨めだ……そう思っているはずなのに怒りも悲しみも沸いてこない。
そしてクラスの皆はそんな私の心情を他所に、ゲラゲラと笑っていた。

「本当高町ってキモいよなぁ。なぁ、バニングスもそう思うだろ?」

「あ……え、えぇ。そうね……」

何とか片膝をついて立ち上がる事に成功した私は声だけを頼りに視線で見知った人間の方を見た。
其処には名前も知らない男子に同意を求められるアリサちゃんと、そんなアリサちゃんの様子を苦々しげに見つめるすずかちゃんの姿があった。
きっとすずかちゃんは何時ものように内心では止めてほしいと思っているのだろう、でも行動が気持ちに追いつかない。
アリサちゃんはアリサちゃんで同意はしているけど変に負い目なんか感じてしまっているのだろう、その視線だけは本当はこんな事したくないって顔をしている。
だけど私はそれでいいのだろうと思っている。
すずかちゃんにしろアリサちゃんにしろ真正面から皆に切り込んでいって異議を申し立てるような勇気は無い。
だってそうしたが最後、自分も彼らの標的に成り下がるだけだからだ。
誰だって自分の身が一番可愛い、きっと親友や家族よりも己が一番大事なんだ。
だから二人の取っている行動を私は責められない、何せ人間として何も間違った事をしていないんだから。
悪いのは……零れ出てしまった私なんだから。

「おい! 先生ぇ来たぞ。皆席着いとけ!」

教室の外から息を切らした男子生徒が入ってきた。
どうやら担任の教師が職員室から出てくるのをずっと監視していたらしい、変なところにばかり頭の回る人達だ。
別に私だって今更先生に言ったりしないのに、言ったって無駄だから。
普段熱血勤勉教師を気取っている大人なんて特にそうだ。
昔私が泣いて頼んだ時も「証拠はあるの?」とか「高町さんの思い違いじゃない?」とか言ってその場を誤魔化してばっかり、挙句の果てには私が全部悪い事にして「学校のルールが守れないようなら学校に来ないで」とまで言う人もいた。
そしてその先生は今も尚のうのうとこの学校で金持ちの生徒ばかり贔屓して、みすぼらしい身なりの子を蹴落とすのに躍起になっている事だろう。
この学校に私の居場所なんかない……せめて先生が保健室に居てくれればとも思うけど、先生は今日は居ない。
僅かな安らぎすら許されないこの学校は私にとっての牢獄だった。

「は~い、皆~席について―――――あら、高町さんどうしたの?」

私の事を見た途端、突然刺々しくなる口調。
またこの子か、そうとでも言いたいような明らかに敵意のある声色だった。
態々聞かなくても本当は全部知ってるくせに、私はそう言いたくて堪らない。
だけど私はベトベトに汚れた自分の惨めさに耐えるのと、先ほどのタックルの時に打ち付けた肩の痛みを堪えるのでいっぱいいっぱいだった。
もしかしたら打撲くらいにはなっているかもしれない、結構……いやかなり痛い。
周りからはそれでも尚私を嘲笑うクスクスという声。
毎日毎日最低最悪な日ばっかりだと思っていたけど今日ばかりは違うと思った。
何も無かった日があんなにも安らかだったなんて、そう思わずにはいられず私はずっと押し黙ったままだった。

「先生ぇ、高町さんが購買で買った私のクレープをふんずけて転んでああなったんです~」

「そうそう~、弁償しろよなぁ。高町ぃ」

そして湧き上がる笑い声、私には舌打ちすらも許されない。
震えた身体が止まらない、昔の事がフラッシュバックするようにどんどん頭の中を駆け巡ってくる。
それは嘗て自分が受けた仕打ちの数々、何時だって其処には悪意に満ちた笑い声があった。
それは一種のデジャヴ、記憶の統一化。
その笑い声を聞くだけで嘗ての記憶が津波のように押し寄せて指先の震えが止まらなくなり、呼吸が乱れてしまう。
頭に段々と靄の掛かる感覚……いけない、このままではまた倒れてしまう。
私はなるべく表面上の冷静を装うと、心の中で早くしてよと何度も何度も呟きながら先生の反応を待った。

「はぁ~、そうなの高町さん?」

「……そ……す……」

「どうなのッ!?」

「そうです、私が転んでしまっただけです」

先生はか細い私の返答に苛立ちを隠せなかったらしく、二度目には殆ど怒鳴り気味の口調だった。
そんなに私が嫌いなのだろうか……いや、嫌いなんだろう。
先生からすれば周りの皆は何の問題も起さない良い子ちゃんで、唯一私だけがその輪を引っ掻き回す問題児。
そういう認識なんだろうから、もう私にはどうしようもない。
私は顎でドアの方を癪って暗に着替えて来いという事を示している先生のジェスチャーに従って、肩を押さえながら教室を後にする。
その時感じた視線、視線、視線。
動悸が余計に激しくなるのを私は感じた。
きっと授業が始まってもあの机には誰にも触れられる事はなく、私が片付けるまでそのままになっている事だろう。
何せ触れば彼らの言う『高町菌』がうつるらしいから、結局私が片付けるしかないんだ。

「はづッ……はぁ、はぁ……」

いざ廊下に出たものの、呼吸が上手く出来ない。
まともに息をしようにも途中途中何度もつっかえ、胸が苦しくなる。
結局私は“先生”のいない無人の保健室に向かうまでの間、甘ったるい臭いと身体に張り付くべたべたした感覚……そして胸が張り裂けそうになるような苦しみに耐えながら壁伝いに一歩一歩進んでいくしかなかった。
幸いだったのは今が何処のクラスもホームルーム中で外に誰も居なかった事、そしてこんな私を見てもあの下卑た笑い声がもうこれ以上聞こえてこない事だ。
これ以上追い討ちをかけられたら意識を保てなくなる、現状でもかなり厳しいけど今度こそ全部崩落するという感覚が私の中に確かにあった。

「にゃはは……厳しいなぁ、どうにも」

なけなしの根性を出して乾いた笑いを漏らしてみる。
階段を半分くらいまで降りた頃には何とか減らず口が叩けるくらいまでは呼吸も安定した。
こんな事に慣れたくは無いのだが、こんな症状に見舞われたのは一度や二度ではない。
今まで何かの拍子に突発的にフラッシュバックが起きて、指先が震えて呼吸が荒くなる事は度々在ったのだ。
前に先生に診断して貰った時は神経的なストレスからくる過呼吸と言われたが、言い換えてしまえば何かの拍子に突発的に起こる一種の発作のような物らしかった。
普通小学校三年生がなるような物ではないとも言われたが、なってしまったものは仕方が無いのだからどうしようもない。
そもそも解決の仕様が無いのだ、こんな問題は。
被害者は私なのに先生は大人数の方の意見を信じて私を目の敵にする、おまけに廻り廻ってそれは親に行って私はまた其処でも居場所を失くす。
所詮奪われるだけの人生なのだ、私の一生なんて……第一あの先生も何を見ていたのだろうか。
私の机の上に切り刻まれた写真があったじゃないか、普通どんな根暗な人間だって好き好んで自分の写真をカッターで切りつけるような人間はいないって大人なら少し考えれば分るだろうに。

「あ~ぁ、最近大人しいと思った矢先がこれか。本当……大概馬鹿だよね、私も」

そんなに嫌ならやり返してやればいいだろ、時々そんな無責任な事を言う大人がいるけど私にはとてもそんな事はできない。
だってそんな事を一度でもしたら、倍々式に私に掛かる圧力が増すだけじゃないか。
それに私はこの学校でなくとも家からも社会からも孤立した存在だ、味方なんていない。
だからやり返そうにも出来ない、そもそもそんな事を思いつく事も出来ない。
だって……私は心底皆の事を蔑みながら……人一倍恐れているから。

「もう……いやぁ……」

泣かない、絶対に学校じゃ泣かない。
そう決めていたはずなのに、気が付いたら私は泣いていた。
まるで捨てられた子犬みたいに、泣き声を押し殺して誰にも聞かれないように……私は泣いた。





結局、べたべたした身体を拭いたり着替えを探したりしている内に時間が過ぎてしまい、保健室に備蓄してある予備の制服に着替えて教室に戻る頃にはもう二限の終わり頃になってしまっていた。
何時もだったら何気なく先生が何があったのか聞いてくれたり、そういう時だけは何の見返りもなしにコーヒーを入れてくれたりしてくれるのだが今日に限ってはそれもない。
誰も寄り付かない保健室の中を一人でちょこまか動き回って、青痣の出来た肩に湿布を貼ったり着替えを探したりするしかなかったのだ。
御蔭で教室に戻ってきた時に国語の先生に思いっきり睨まれた、別に私が悪いんじゃないよと言いたかったが言ったって無駄だって事は私が良く知っているからあえて何も言わずに謝罪だけを口にして自分の机と椅子を雑巾でふき取って途中から授業に参加した。
ポケットの中身の物は幸いどれも汚れたり壊れたりしている物はなく、凡そ全部の物が無事だった。
もしかしたら死んじゃった子が持っていたかもしれない宝石が祟っているのかもとか思ってあの宝石だけは最後まで持っていくかどうか渋ったけど、やっぱり持っていく事にした。
何というか……女々しい話だが私だって一応女の子、宝石に願いをなんて迷信は柄じゃないけど縋れるものになら何でも縋っていたかった。
つまり、それ程私は参っていたということだ。

「で~あるからして、こういった人で無い物が人のように動く様を表す表現は擬人法と言って―――――」

授業の内容も碌に耳に入ってこない。
その原因は私の机の上にあった一枚の紙切れだ。
保健室から教室に帰ってくるとき、机の中に忍ばされていた一枚のメモ用紙。
内容はなんて事は無い、『チクッたら殺す』唯それだけがその紙には書かれていた。
字からして恐らくは女子、しかもご丁重な事に机の中には先ほど片付けた切裂かれた写真と同じ写真の私の顔だけが刳り出されたもう一枚の写真が同封されていた。
どうやらこれを送ってきた送り主は相当私の事が嫌いらしい。
もっとも私からしてみればウチのクラスで碌に名前を覚えている人間なんてすずかちゃんとアリサちゃん位のものなんだけど。
一体全体私が何をしたのか、私にはもう想像する余地すらも無かった。

「つまりこの詩の中にはそのような表現が多用されている訳です。……っと、そろそろ終礼だな。少し早いが授業は此処までだ、日直!」

偉そうに指図する老齢の教師が声を荒げて授業の終わりを日直に告げる。
そして皆はその合図を待ってましたかと言わんばかりに立ち上がってテンプレート通りの挨拶をして授業を終える。
仕方が無いから私もそれに合わせる、此処で変に目立ってありもしない噂に拍車をかけるのは嫌だったからだ。
何せその教師は三年生の学年主任で、教員歴もそろそろ20年目に突入しようとしている名実共にウチの学年の長なのだ。
しかしこの先生、少々考え方に難があって時代錯誤の教育理論を未だに現場に持ち込もうとする偏屈な人なのだ。
彼曰く『全てにおいて統一された問題のない学校』というのが理想の教育現場であるらしく、それを実現する為には不要な者を少々強引にでも他の生徒から引き剥がしてしまおうというのが彼のもっぱらの主張だった。
昔のドラマで「腐った蜜柑」というフレーズがあるけど、恐らく彼から見たら私のような生徒こそ他の生徒を堕落させる腐った蜜柑なのだろう。

「あぁ、そうだ……高町! お前後で職員室に来るように、いいな!」

まただ、煩い声と共にまた私の名前が教室の中に飛び交う。
あの教師からの呼び出しの内容なんて何時も一緒だから呼ばれる理由も何となく見当がつく。
「俺の授業に何遅刻してるんだよ!」という説教を薄すぎるオブラートに包んだ、ネチネチとした小言を言う為だ。
あの先生は私が知っている中でも妙にプライドの高い大人の筆頭であったりする、特に自分の顔に少しでも泥を塗られるのが我慢なら無いって言う感じの手合だ。
そして私はそんな人間に目を付けられている、この学校の汚点として。
汚い物は排除しようって言うのは合理的な大人のやり方なんだと思うけど、彼の場合は単純に私の事を毛嫌いした結果そうした結論にたどり着いただけの感情論だと言うことを私は知っている。
以前“先生”から聞かせてもらったことがある、あの先生の最近の口癖は「まったくあの高町という生徒は~」から始まるのだと。
影でこそこそ隠れて物を言うのは大人も子供も変わらない、まったく嫌な世の中だと私は思った。

「返事は!?」

「……わかりました」

先生はブツブツものを言いながら教室を出て行った。
そしてその後再び沸き起こる下卑た笑い。
男子、女子問わずに大小様々な蔑みの笑いが色んな罵倒の言葉と一緒に教室の中に木霊した。
私はそんな声に耐えることが出来ず、フラフラと教室を後にしようと後ろのドアから逃げるようにこの場から去ろうと行動を起した。
頭が痛い、また動悸が激しくなってきた、呼吸が上手くいかない。
元々ただでさえ不健康なのだ、こうも症状が一気に上乗せされると私なんか何時倒れたっておかしくない。
だけど、倒れる訳には行かないのだ……倒れた後何をされるか分らない事を考えると、私は意地でも正気を保っていなくてはならない。
何処に行くわけでもない、少しトイレにでも篭って体調を落ち着けよう。
そんな淡い希望を抱いた私はドアに手を掛けようとして―――――すばやくその場に倒れ付した。

「きゃはは、危ないわよぉ高町さん。そんなにフラフラ歩いていたら転んじゃうじゃない」

倒れる際に腕で受身を取った私はその瞬間声にならないほどの激痛が肩口に走るのを感じた。
さっき湿布を貼ったばかりの青痣の部分から諸に倒れてしまったからだ。
ふと顔を上げてみると其処には髪をクルクルと巻いた女の子の姿があった、しかし名前は知らない。
その子は何だか凄く楽しそうな顔で私の事を見下していた、そしてそんな私と女の子のやり取りを見ていたクラスメイトの人達は口笛を吹いたり囃し立てたりして冷やかす事を止めない。
だけど、怒る元気も気力も今の私には無い……今は何とか全身の力を振り絞って立ち上がる事に精一杯だった。
そして私は何とか壁に寄り添うようにしてその場に立ち上がると一度だけその女の子を一瞥してから今度こそ教室を出て行った。
後方からは「なに眼付けてんだよ、高町のくせに!」という怒鳴り声が聞こえていた。
しかし一々反応を返していると相手は図に乗って面白がるだけ、此処は引くのが一番良い選択だった。

「痛ッ……湿布、貼りなおさなきゃ駄目かも」

何とか壁伝いで移動し、今度は階段を上がっていく。
次の授業の事なんか今はもうどうなったっていい、今は少しでも彼らから距離を置きたい。
そんな切実な願いと、安息を求める欲望だけが私の傷ついた身体を前へ前へと推し進めていた。
先生がいない学校がこんなにもキツかったなんて思っても見なかった。
やっぱり大人と言う存在はそれだけ抑止力になっていたということなのだろう、彼らの勢いはもう決壊したダムのそれだった。
仕切りが壊れて凄い勢いで流れっぱなしになる濁流、そしてそんな勢いにただ飲まれて溺れるだけの私。
久々に私は自身の生命の危機をこの空間から感じていた。

「ほんッ、とう……いづッ……最低。皆……最悪……」

此処で「死ねばいい」とか「殺してやりたい」とかそんな言葉が出てこないのは弱虫の人間が幾ら強がった所で本質的には何も変わらないって事の所以だろう。
どれだけ傷付けられても、どれだけ踏み躙られても私は悪態こそつけども同じ目に合わせてやろうとはどうしても思えないのだ。
出来る事なら許してほしい、そうでなければいっそ私の事なんて忘れてほしい。
私が常々彼らに求めている事なんて実際の所は酷く消極的な事でしかないのだ。
昔ならこう思った事だろう、「どうして私なの?」と。
言っては悪いけど悪い所なんて粗を探せば人間誰だって持っているものな筈だし、疎まれるような行為に身を染めたような人間だって居ないとも限らない。
そんな中でなんで私だけが……きっとそう考えた事だろう。
だけど、結局の所真相はそんなに難しいものではない事を私はこの生活を始めて知った。
イジメに明確な理由なんか必要ない、環境と条件と人さえいればそれは誰にだって起こりえる事で……この学校では偶々私にその白羽の矢が立ってしまったというだけの話し。

「そうだよ……結局全部、誰が悪いって訳でもないんだもん」

後はそのスイッチさえ入ってしまえば其処でその人間の居場所は失われる、そんな至って単純な答えを口にした私は目的地で在る場所のドアをゆっくりと開けてその中をフラフラと進んでいく。
青い空、靡く風、そして一面フェンスで囲まれた奥に見える輝く海と街。
私がたどり着いた場所、そこは薄暗いトイレでも無ければ煙草臭い職員室でもなく……学校にある階段の終点である屋上だった。
本当はトイレで時間を潰すだけの予定だったが、何と言うかもう授業に出るのも億劫になってきた。
と言うよりも寧ろ教室に戻るのが怖い、今日は先生は居ないけど授業サボってしまおう……そんな風に考えた末の結果だった。
私はフラフラとフェンスの近くに設置してあるベンチに腰を降ろすと、ダラリと手の力を抜いて自分の身体の全てを背凭れに預けた。
硬い木の感触、それでも僅かな時間の間でも一人静かになれるという感覚が其処には確かにあった。

「はぁ……ようやく、落ち着けるや」

全身の力を抜いて虚ろな目だけを空へと移した私は何となくそう呟いた。
この学校に私の居場所はない、その筈なのに今は何となく楽な気分だったからだ。
そして私がそう思った途端、授業の始まりを伝える鐘が屋上に設置してあるスピーカーから流れ出す。
直にその近くにいた私にとっては煩い事この上ないのだが、どうせ授業の合間の休みなんて高々10分かそこ等しかないのだからある意味仕方が無いのかもしれないと諦めた。
寧ろこれで当分の間はこの場所に近寄ってくる人間も居ない。
束縛された牢獄の中で、私は束の間の自由を手に入れたのだ。

「なんかもうさぁ……疲れたなぁ」

最近口癖になりつつあるフレーズを私は口から漏らした。
視線はやっぱり空から離しはしなかったけど、私の感覚は殆ど視覚には回っていなかった。
ただ全身のダルさがあまりにも厳しすぎて、少々参ってしまっているのだ。
しかし疲れたからといって眠気は一向に訪れない。
肩の痛みが邪魔をして、結局寝るに寝れないのだ。
もっとも、そうでなくても私は此処最近はあまりぐっすりと眠れてはいないのだが。
以前これはもう相当ヤバいって状況になった際に一度だけ昔よりももっと早くベットの中へと潜り込んだ日があった。
身体も精神もぼろぼろでもう指先一本動かすのさえ億劫、確かそんな日の夜だ。
瞼を閉じて私は眠ろうとした……しかし直ぐに目が醒めてしまう。
寝ないと拙いと頭では理解しているのに、瞼を閉じるたびに魘されて寝ようと思っても寝苦しい感覚がどうしても身体から出て行ってくれない。
少々度の強いストレス性の不眠症、私の目の隈の原因は凡そ其処から来ているものなのだ。

「家に帰ってお薬飲めば少しはマシになるんだろうけど……前みたいな事があったら嫌だしなぁ」

これもまたそんな症状が長らく続いた日の事なのだが、いい加減そんな感覚に耐えかねてしまった私は一日の食事代を全て犠牲にして薬局で市販の睡眠促進薬を買って飲んでいた。
とは言っても処方箋とか書いてもらって出されるようなきっちりとしたものではなく、アロマだとかハーブだとかそうした精神を落ち着かせるような類の物を調合して作られた一種の気休めのようなカプセルだ。
しかし、これがまた値段が張っただけあって豪く効果があった。
買ってきた当日、私は三食何も食べていないという空腹の状態にも関わらず久しぶりにゆっくりと眠る事が出来た。
だけど所詮そんな物が利くのは初めの内だけ、段々と日数が経過するにつれて呑む量も段々と増えていくのが道理だ。
そうした中で偶々部屋に無断で入ってきたお兄ちゃんに呑んでいる所を目撃され、自殺未遂なんじゃないかとあれやこれや騒がれたりしたのだ。
当然これにはお父さんもお母さんも、そしてお姉ちゃんも泣いて私に死なないでと懇願してきた。
当然そのお薬は没収、私は元の眠れない生活に逆戻り。
そして今ではもう……眠ると言う事にすら私は安らぎをあまり感じなくなってしまっていた。

「みんな……昼休み戻ったらまた何かしてくるのかなぁ。もう私駄目かもしれないな私、ちょっと……キツいもん」

いっそ自殺でもしてしまえればこんな生活ともおさらば出来るだろうか、私は少しだけ真面目に考えてみる。
私は死ぬ事が開放とも安らぎとも思っていないし、それが復讐に繋がるとも思っていない。
人の死なんてものは大袈裟なようで結構周りからしてみればどうでもいいもので、余程その人間に近い人間か其処まで追い詰めた加害者でもない限りは心に残るなんて事にはならない事を知っているからだ。
だけどそれじゃあ自殺と言う行為が全て駄目なのかと言えば、そうでもないと私は思っている。
人はどうしようもなく辛い時、無性にその事から逃げたくなる。
莫大な借金、学校内でのイジメ、地域住民からの圧力や恋人の裏切り……いっそこの後生きていたって辛いだけだと思った時やっぱり人間は首を括る、私はそう思っている。
だからその理論に照らし合わせるならば、私も此処から逃げ出してしまいたいとは思っている。
けれど、死にたいとはどうしても思う事が出来ずなし崩し的に今を生きる事に妥協してしまう。
なんというか……私ってやっぱり相当な臆病者、もしくは卑怯な人間なのかもしれないと何となく思った。

「今日は朝から少しだけ良い事があったから少しは期待してたんだけどなぁ。やっぱり……そうそう都合良くはいかないよねぇ、現実」

今日は朝から嬉しい事があった、だから今日という一日はハッピーな物になる。
子供とかそういったこと以前に気持ちの悪い考えだと私は思った。
そんな考え方で生きられたなら人間みんな幸福、お手繋いで和気藹々。
人類皆兄弟、仲良くしようぜマイフレンド……そんな風に生きられればどれだけ幸せな物だろうか。
きっと世界中で起きてる戦争や組織間での恨み辛みは全部消えて、世の中問題と言うような問題は何も起きなくなるだろう。
だけど、そんな事は現実にはありえはしない。
優しく触れあい互いに愛するのが人間ならば、憎しみ合って互いを傷付けるのもまた人間なのだから。
そう、今日に関してもそれと同じ。
非現実的な願望が、少しだけキツ目の現実として戻ってきた。
そんな事に一々悲壮感を感じているなんて、やっぱり私は未だに縋れる何かに甘えたいと言う感情を捨て切れていないと言う事なのだろう。

「それでもさ、ちょっと位期待しちゃってもいいじゃん……生きてるんだもん、私だって」

徐にポケットの中からあの不思議な菱形の宝石を手にした私はそれを二本指で上下に支えるようにして空と比較するように視線の先にと突き出してみる。
其処に映るのは何の前兆も無く頬に流れる涙を拭いもしないで目元を真っ赤に泣き腫らした少女の顔と、透き通るように奥に光る空の色。
凡そ比べてみればそれ程色合いに大差の無いその宝石と空との交わりは、何だか酷く幻想的で綺麗なように私には思えた。
まるで日に照らしたプリズムのように虹色に輝き、それで尚鏡のような光沢を持った宝石は何だか私の心を慰めてくれているようだった。

「……そっか。まだ、生きていていいんだよね。私でも」

ポチャンッ、と地面に滴が落ちるのを私は感じた。
しかしその水の正体を私は知らない。
もしかしたら一粒だけ降った雨なのかもしれないし、それとももっと別の不思議な現象だったのかもしれない。
そういう風にしておいた方が、まだ夢があって素敵だと思うから。
黴菌扱いでも良い。
嫌われても良い。
嬲られても構わない。
私が今此処で私として生きる意味を……高町なのはとして生きている意味を私はまだ求めていたいから。
こんな屑な私でも精一杯生きているんだって証拠を何時の日かこの掌に掴めるのだと信じたいから。
私は、あえてその滴の生温さの意味を深く考えはしない。
少なくとも今は、たった一人孤独になっても生きていたい……そう思う事が出来たから。
私は少しだけ、この宝石に感謝する事にした。

「よっし、ちょっとだけだけど……元気でた。ありがとね、宝石さん」

どういたしまして、一瞬だけ宝石がそう返答でもしたかのように煌いた……気がした。
そんなメルヘンな事はありえない、夢なんて抱くだけ無駄な物。
そうは思っていても、この宝石に御蔭で元気が出たっていう現実に私は嘘を付きたくは無かった。
私はポケットに宝石を入れて、もう少しだけ休んだら今日一日という日を乗り切ろうと思い直し―――――そこで全ての感慨を消し去った。
屋上の入り口、頑丈な鋼鉄製のドアがはめ込まれたこの空間と学校を繋ぐ場所に人影が見えたからだ。
授業はもう始まっている、なのにこの場に人がいる。
それは異常な事、そして下手をしたら……さっき培った感情の全てが奪い去られるかもしれないと言う事に直結すらしてしまう。
私は一瞬だけ身構え、内心ビクビクと怯えながら誰が入ってくるのか様子を見守る事にした。

「……やっぱり、此処にいたんだ」

「ッ!?」

一瞬だけ喉に空気が詰まって声にならないような素っ頓狂な素振りをしてしまう私。
自意識過剰な上にビビり過ぎ、傍から見れば殆どもう挙動不審な危ない人にしか私は見えていなかったに違いない。
だけどその声は少しだけ何処か懐かしく、そして恨めしい者の声であると言う事に私は即座に気が付く事になった。
身構えるのを止めて目元を吊り上げて入ってくる人間を睨みつける私。
そしてその場所から私の前に現れた人物は、風に靡く金髪の髪を手で押さえながら、少しだけばつの悪そうな顔を浮かべてこの場に足を下ろした。

「ちょっと探しちゃったわよ。何せ此処最近休み時間中のアンタの行動なんて、アタシ全然知らなかったし」

「……何をしに此処に来たの?」

「別に、アンタと一緒でアタシもサボり。ただそんだけよ」

其処に現れたのはアリサちゃんだった。
私の元友達にして、一番最初に私の事を見捨てた”親友”と呼ぶはずだった女の子。
相変わらず私に目を合わせられないようで、視線は下向きだったが口調ははっきりとしている物だった。
さっき同意を求められた際に彼女らしくも無い動揺をしながら答えた時よりも、だ。
しかし私が解せないのは何で彼女が私なんかを探す為に態々授業をサボったのか、何よりも先に其処に焦点がいく。
ただでさえ普段から自分がとばっちりを受けないようにと極力何の関わりも持たないようにしている彼女にしてはどうにも不可解な行動だ。
彼女の考えている事が今一つ不透明、何だか私に彼女の背後が少しだけきな臭いような感じがした。

「……クラスの人の差し金? 様子見て来いって言われたの?」

「違う、あんな奴らは関係ない!」

「言うじゃん、私と親しくしていたのがバレて虐められるのが怖いくせに」

「―――――ッ!?」

アリサちゃんは私の一言に押し黙ると何かもどかしそうに掌をギュッと握って俯き加減を深くした。
恐らくは図星を突かれて何も言い出せないのだろう。
言葉に詰まったのが何よりの証拠だと私は思った。
アリサちゃんは頭がいい、そして悪知恵が良く働く賢い子だ。
私がイジメられているという事をいち早く察知していたアリサちゃんは事がでかくなる前から極力私との関係を取らない様にしていたし、すずかちゃんにしてもなるべく距離を置くようにと前もって注意を促していた。
もしも今のクラスの人間に仲が良いなんて事がバレたら自分たちにも被害が及ぶって事を恐れたんだろう、幾ら気丈なアリサちゃんでも孤立するのは怖かったんだろう。
それを悪いなんて思わない、むしろ迷惑掛けて御免なさいなんていう余計な気遣いが生まれない分だけこっちの方がずっと楽だった。
その点では彼女に感謝している。
感謝しているが、そんなアリサちゃんに今更何を言われた所で私は何の感情も抱かなかった。

「図星でしょ? いいんだよ、別に気にしなくてもさ。誰だって自分の立場が一番大切だもんねぇ。そりゃあ勿論……誰かを見捨ててでも、ね」

「……変わったわね、アンタ」

「変わったよ、御蔭さまで」

アリサちゃんは近くにあったフェンスに背を預けて私との会話を続けた。
どうやら今日は誰にも見られないという安心感もあってか彼女は良く喋った。
何時もなら二、三言で会話を終えてしまうような関係だったからそれが少し新鮮な気がした。
それにアリサちゃんの場合はすずかちゃんにあるようなねちっこい感覚が無い。
思った事をストレートに言ってくれるし、気味の悪いオブラートに包んで遠まわしに言ってくるような事も無い。
だから会話をするにしても、楽と言えば楽だった。

「それで? いい加減何の用なのか教えてくれないかな? 私は一人になりたいんだ……出て行かないなら私が消えるけど」

「……もう少しだけ話に付き合いなさい。どうせ暇でしょうに。軽蔑して貰っても構わないし、罵って貰ってもいい。だから後もうちょっとだけ、アタシの質問に答えて」

「勝手だね、でもまぁいいよ。今はほんの少しだけ気分がいいんだ。気が変わらないうちに早くしてよ……先に断っとくけど、私貴女の事大っ嫌いだから」

またも声を詰まらせるアリサちゃん。
そんなに自分が嫌われている事がショックなのだろうか、まぁ無理も無いのだろうけど。
凡そ頭良く生きて、お金で買えるものは何でもかって、順風満帆な人生を送っているような人間は何時だって満ち足りてないと気がすまない物なのだ。
アリサちゃんは殆どその典型、最近は大分丸くなったみたいだけど根本的な部分はきっと直っていないに違いない。
さっき自分で罵っても良いし、軽蔑しても良いと言ったのに。
言葉には責任が伴うとはよく言うけど、それを守れて居ない典型的な人がアリサちゃんのような人なのだと私は思った。

「じゃあ最初に聞かせて、なのは。なのははさぁ……アタシ達のこと、恨んでる?」

「な~んだ、まだそんな事気にしてたの? 案外心配性なんだね、アリサちゃん」

「いいから答えなさいよ、イエスかノーか」

「……答えはイエス。恨んでるって言ってもそんなに私は気にしてないんだけどね、出来る事なら変わってほしいよ。何処かの誰かさんに」

ベンチを立ち上がり、私はポケットに手を入れてその場を後にしようと入り口の方まで歩いていく。
またこの手合か、言葉こそはおどけていた物の内心はうんざりしていたのだ私は。
こんな質問、今更聞いたところで何が変わるというわけでもない。
私の変わりにアリサちゃんがイジメを肩代わりしてくれるっていうのなら話は別だけど、未だに友情ごっこの尾を引いているのだとしたらいい加減私も縁を切りたい。
蔑まれても罵られても構わないっていうけど、別にそんな事一々許可なんて貰う必要なんてそもそもあるのだろうか。
そういう致命的なことにアリサちゃんは気が付いていないのだ。
私は確かに二人を恨んでいる。
そして恨んでいるのは……二人が思っているよりも多分ずっと前からなのだから。

「質問は終わり? なら、私は出て行くよ。サボるなら一人でサボってね、じゃあ」

「ッ!? 待って!」

「……何? まだなんか用なの? いい加減私も考え変わるよ、真面目に」

「後、一つ。後一つだけ教えて!」

アリサちゃんは必死だった。
私からしてみれば何をこんなに焦っているんだろうっていうような感じだったけど、取り敢えずその必死さに免じて後一つだけお話を聞いてあげることにした。
くだらない質問でも、さっきの問いを重複する質問でも何でもいい。
確かに話を聞こうとは思ったけど、まともに答えようとは思っていないからだ。
それにアリサちゃんは私の憩いの場所と時間に水を指した。
それだけでも、私が彼女に冷たくする理由には十分だろう。

「アンタは……アンタは何でまだ、こんな風にされても耐えてられんのよ!?」

「……なんだ、そんなこと? それはね―――――」

瞬間、大きな風が吹き抜ける。
答えが私の口から漏れたのと殆ど同時に、唸る様な風だった。
当然私の言った答えがアリサちゃんに届いたのかどうかは定かではない。
だけど彼女は、私が立ち去った後涙を流した……様な気がした。
私自身も真面目に答えたつもりはなかったけど、どうやら私の答えでアリサちゃんは満足したらしい。
結局私はこうしてまた居場所を失くす。
屋上という居場所を失くした私はまた時間が潰せる場所を求めて学校中を彷徨うのだった。



[15606] 第四話「一人ぼっちの夜なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/15 14:52
夜の街っていうのは皆が思っているほど寂しい物じゃない。
街道はお店の明かりと夜を歩く人達のざわめきで絶えず賑わい、また夜だからこそ出歩くような人も居るからある意味昼間よりも人通りが多いと言ってもいいのかもしれない。
ただ其処に明確な違いを求めるとするならば精々道路を走る車にライトが点滅しているかどうかとか、街頭の蛍光灯に虫が群がっているかどうかというような微細な違いしかない。
少なくともそんな夜を歩く人間の私にとってはそれ以外の変化なんて所詮は心の片隅にも留まらない、人が言うにして“どうでもいい”事ばかりでしかないのだから。

「まぁ、そんな夜だから……ちょっとは居心地が良かったりするんだけどね」

駅前の商店街通りを抜けたデパートの前の街道、其処に私こと高町なのはの姿はあった。
珍しくその日は制服ではなく最近めっきり着ることの無くなった私服を着用しており、夜の八時過ぎという微妙な時間帯に居る小学生にしてはほんの少し周りから浮かない格好をしていた。
別に今日に限って何か特別だとかそんな理屈ではない。
今日という一日があまりにも辛すぎて家に留まること自体が億劫になってしまったからだ。
結局あの後、まる一日授業をサボり切った私は終礼も待たずに一人だけ勝手に家に帰り、何時ものように何の感情も抱かぬままなし崩し的にゲームに没頭していた。
ちょっとでも何か気を紛らわせる事をやって全部忘れてしまおうと思ったからだ、でも何のゲームをやっても特に楽しくも無い。
この所めっきり宿題も復習も縁が無くなった私にとっては勉強をするという選択肢も取る事は出来ず、結局思い当たった端からばっさり切り捨てた。
だから私は暇で暇でどうしようもなくなってしまい、家に居ても何にも面白くないからと言うたったそれだけの理由で夕方から今までずっとそこら辺を徘徊していたという訳だ。

「なんだか寂しがり屋のお爺さんみたいだよなぁ、今の私。まぁ……当たらずとも遠からずなんだけどさ」

何の装飾もない鼠色のパーカーと地味なタイトスカートに黒のニーソックスという年頃の少女にしてはあまりにも華の無い服装に身を包んだ私は、誰に語るわけでもなく何時ものように独り言を呟いた。
幾ら暇だからってこんな明らかに小学生が歩いていてはいけないような時間と場所に私という人間が存在しているのは確かに私自身結構違和感を感じてしまっている部分が大きい。
第一その動機があまりにも脈絡がないし、そもそもやる事もないのに適当に歩き回る小学生ってどれだけ寂しいんだろうとも心なしか感じてしまったりもするからだ。
だけどそれでも何の抵抗も無くこうして一人で居ようと思えるのは、やっぱりこの人が沢山いるのに誰も私に視線を向けてこない無機質な人混みが私にとっては心地いいからなのだろう。

「人が恋しいったわけじゃないけどなぁ、別に。何処もかしこも面倒なだけでさ……」

スカートのポケットに手を突っ込み、周りに何の興味もないと言わんばかりに通り過ぎていく群集の中を掻き分けるように闊歩していた私は本当に何となくそう思うのだった。
初めの内は古本屋とかデパートの中とか健全とはあまり言えないけど、まあ私もそれなりに子供らしい場所で時間を潰していた。
家を出たのが夕方の5時過ぎ位だったから、店内に居るような人の殆どはようやく学校から開放されて帰ってきた中学生や高校生のお兄さんやお姉さんばかりだったけど、それでも私のような年頃の子も居ないでもなくそれ程溶け込むのが難しい訳ではなかった。
しかし時間を潰すといってもやっぱり限界があるもので、やっぱり時間が経つ毎に人も減って段々と大人からの目線が厳しいものになってくる。
そしたらやっぱり居心地が悪くなって出て行く他無くなってしまう、しかし補導とかされる事も考えると出て行かない訳にもいかないからどうしようもない。
でも家に帰っても特別やる事が生まれるわけでもないし、タイミングによってはお兄ちゃんからまた何時もの小言を聞かされる羽目になる恐れだってある。
大体小学生の門限が基本夕方五時って方が間違っているのだ、こっちは夕食だって一々外に買いに行かなければいけないんだから文句を言われる筋合いなんか何処にもない。
子供の安全が云々とか言っているけど、今の世の中は私にとってはあまり優しくのないものだった。

「しかもお弁当売り切れてるし……もしかして私って何か呪われてるのかな?」

いっその事「シャナク!」とでも唱えれば少しはマシな方向に運が向くかとも一瞬思ったのだが、まともにそんな事をしていたら流石に別の意味で視線を集めそうなので私は直ぐにその場かな考えを頭の中から削除した。
しかし、この所全然運がついて回らないと言う事に関しては否定しようが無いのだからどうしようもない。
今日にしたって昼間に引き続きアンラッキーな事が続く運命にあったのか、先ほど寄ったスーパーで買おうと思っていた幕の内弁当が今日に限ってどういう訳か売り切れていた。
何時もだったら360円という微妙な値段なことに加えてそれ程需要があると言うわけでもないくせにいざ買おうと思えば売り切れましたなんていう札が出ているのだから居た堪れないにも程があると言う物だろう。
折角夜になってタイムセールでお弁当は40%オフなるから買い時だと思ったのに、態々其処まで出向いた労力を返してほしいくらいだ。
とは言え幾ら此処で私が騒いだ所で過ぎてしまった事は取り返しがつかない訳で、今の私はブラブラとで歩きながらそれと平行して晩御飯を探している訳でもあったのでした。

「はぁ……そろそろ限界かも。お腹空いたし、疲れたし良い事なんか一つも無いよぉ。やっぱり家で無難にレベル上げでもしてればよかったなぁ」

今更になって自分がしでかした軽率な行動に後悔する私、しかし時既に遅しとは正にこの事である。
最初はほんの少しの暇つぶしにと思って始めたこの歩き回りだったが、元々運動不足気味で普段碌に出歩くことも無い私にとっては3時間という時間はあまりにも長すぎた。
御蔭で時間は潰れたものの腹は空くわ、お弁当は買い損ねるわで散々足る結果がついて回る羽目になった。
おまけに肩の傷は家に帰って詳しく見たところ結構大きな痕になってしまっているから、完全に治癒するまでにはそれなりに時間が掛かりそうだと言うことをそれに付け加えると余計に憂鬱な気分が加速しそうだった。
ゲームをする時に痛いのだ、肩の傷と言うのは……今は大分痛みも引いたからマシと言えば幾分マシなのかもしれないけど。
ともかく、今の私は相当疲れている上にまだ晩御飯も買えてない訳でして……もうしばらくはこの夜の街を歩くことを神様に運命付けられているようだった。

「せめて何か手軽に買える物でも……って駄目駄目ッ! もう今日は480円しか使えないんだから無駄遣い厳禁だよ、うん」

一瞬だけ浮かんだ邪な欲望を私は即座に振り捨てる。
ある意味これは妥協と言うか諦めに近い感情だという事に何となく気が付いたからだ。
何かに満たされていないと途端に心に隙間が出来て、それをだらだらと引きずっていると無用な物に手を出してしまいがちになる。
これは限られた資金の中で物事を遣り繰りする人間にとっては大敵なのだ。
嘗ては気付いていなかった事だが、お金って言うのは何も水道を捻れば出て来る水と違って無限に存在する訳じゃない。
寧ろあまりにも有限過ぎて、それで人生を狂わせて自殺する人さえ出てくるほど使い方によっては恐ろしい結果を弾きだす事もある物なのだ。
だから私は御金を賢く使う事をいち早く憶えた、その日その日を生きる為にどうしても覚えざるを得なかった。
その為か私は必然的にあまり無駄遣いと言う物をしなくなった。
毎月毎月何気なく使ってお小遣いの使い道がどれほどまでに無駄な物かって言う事を身体が憶えてしまったからだろう。
缶コーヒー一本、特売のパン一つ取っても私にとっては死活問題……少なくとも後で餓えるよりはよっぽどマシだった。

「とは言っても……あっ―――――」

理屈では解っているつもりだし、一時の気持ちに流されちゃあいけないって言うのも分別が付いている。
だけど、それでもお腹が空いている事に変わりは無い……そんな矢先に私の目の前に飛び込んできたのはワゴン車を改造して作られた移動式のクレープ屋さんだった。
人が良く集まる広場の前、ピンク色の車から漂う甘い匂い、そしてそれに吊られる様に歩み寄って駄々を捏ねる小さな子供。
きっと外食か何かをした後だったのだろう、クレープ屋の前には仲の良さそうな子連れの家族が仕方が無いなと苦笑顔で子供の我儘を快く受け入れている最中だった。
そんな風景が嘗ての私の姿とダブって見える様な気がしたのは、果たして私の見間違いだったのだろうか。
その家族の仲睦まじい光景が自分が経験した遠い遠い過去を再現している様な感じがして、私は人知れず言葉に言い表す事の出来ないデジャヴを感じていた。

「そういえばそんな事もあったっけな……前は」

ふと漏れた独り言に私は自嘲気味に頬が緩むのを何となく感じていた。
そう、あれはもう何時になるだろうか……ちょうどまだお父さんが事故の怪我から復帰して直の頃だっただろうか。
ようやく家族間でのピリピリとした空気が緩んで、次第に皆が私を構いだす様になった位の頃。
私もあんな風に美味しい焼き立てのクレープを買って貰って、無邪気な笑顔をお父さんやお母さんに向けたものだ。
それだけでは無い、今まで構って上げられなかった代償とでも言わんばかりにお父さんもお母さんも私の我儘を聞きいれてくれて……時には遊園地や動物園にも無理して連れて行ったくれた。
今思えばあの当時御店もバタバタしていて忙しかっただろうし、お兄ちゃんもお姉ちゃんもいざ環境が改善された事に戸惑って上手く自分の生活を取り戻せていなかった筈だろう。
それでも誰一人として辛いとも厳しいとも言わず、笑っていられたのは……恐らく幼かった私に対する責任を全うしようと躍起になっていたんだと私は思う。
今更どうしようもないとは解っているのだが家族の人達には随分と迷惑を掛けたと思う。
悪かったとも思うし、出来うる事なら時を戻してこう言ってあげたいとも思う……「私なんかにそんな価値ないんだよ」と。

「懐かしいなぁ……ちょっとだけデジャヴ感じちゃったよ。まいったなぁ、あんまり自虐的な事は考えない様にしてたのに」

これじゃあ何時まで経っても嫌な気分から抜けられないじゃん、そう呟きながら私は少し早足になってその場から離れる。
温かい家庭、仲睦まじい親子、孤独を知らない無垢な笑顔……そのどれもがまるで鋭利なナイフのように胸に突き刺さっていく。
その度に古傷が痛む、誰にも見えない心の傷が。
痛みはずっと前に引いたと思っていた、だけど今だってふとした拍子に疼きだす事もある。
ほんのちょっと前に先生にどうにか出来ないものかと訊ねて見たことがある。
結果はその人間が完全に忘れるか死ぬかのどちらかしか特効薬は無いとの事だった。
私は恐らくこれから一生この傷と向き合いながら上手く賢く生きていかねばならない、寂しいがそれが私の現状なのだからどうしようもない。
死ぬのは嫌だし、どうせ何時まで経っても私は今の私を忘れられそうに無いから……。

「……おかしいなぁ、これじゃあ私。……まるで逃げてるみたいだ」

早足はどんどん早くなって、気が付いた頃には私は結構な速度でその場から駆け出していた。
率直な感想としてはその場に居るのが辛くなった、理由はたったそれだけのこと。
だけどきっとあのままあの家族の事を見続けていたら私は醜い嫉妬をしてしまう、そんな卑しい自分が嫌だったのだ。
逃げ出すって事は何も悪い事じゃないと私は個人的に思っている。
同じくして諦める、投げ出してしまうという事に関しても私は否定するつもりはない。
それも選択肢の一つだった、そう割り切ってしまえばそんな普通だったら誰からも嫌がられそうな行動も人間らしいと思えるからだ。
そりゃあ私も人並みに感性って物を持ち合わせてはいるからそれらの事がいけないことだとは理解している。
だけど、本当に正しい選択肢を選ぶ事ばかりが正解と言えるのだろうか……そう深く考えてしまうと少しだけ心が揺らいでしまう。
人間生きていれば辛いことだってあるし、苦しい事だってある。
そんな物に立ち向かっていくっていうのは言うだけなら凄くカッコいい事なのかも知れないが……実行するのは凄く大変で疲れそうだ。
だから時には辛い事から逃げ出してしまうのも一つの手……そんな言い訳を自然と出してしまうほど私の性根は腐り果ててしまったらしかった。

「素直に羨ましいって言えたら……楽になれるのに」

繁華街の通りを過ぎたところで、再び元の速度に走るのを戻した私はそんな風な悪態を付きながら少しだけ燻りかけた気持ちを静めた。
嘗ての素直な自分に比べると今の自分は相当嫉妬深くて、それでいて誰よりも臆病な存在になってしまった。
誰かが笑っているのが凄く羨ましいくせに、自分もそうなろうという勇気が持てない……そんな悪循環が廻り廻って今の高町なのはという人間を作ったしまったのだろう。
傍から見れば相当嫌な奴の典型だって思われても仕方が無い、それが分っていても自分を変えようとも思えない臆病な自分。
結局私はそんな風に他人を羨みつつも嫌いながらでしか、自分で自分を守れない。
そんな私は……やっぱり嫌われても仕方が無い。
諦めるしかないのだ、その原因が私の中に蔓延る限りは。

「思えばさぁ……こんな私にも一応友達はいたんだもん……世の中物好きも多いって感じちゃうよね」

気分を紛らわせる為にあえて私は何の脈絡も無い独り言を入れて思考を区切る。
何時までも何時までも解決しない独り善がりな考えを論じていた所で結局は解決策など出ないのだ、それならもう少し位は建設的な事を考えよう……そう思ったわけだ。
だけど如何にも私は考える事がネガティブな方向に傾きすぎているようで、話題を切り替えようとしても切り替えきれない事が度々ある。
今回もまあそんな感じで何を考えていたのか藪に棒を突っ込んで蛇を出すような独り言を行ってしまった訳で、やっぱり私は気落ちする以外なかったのだった。

「友達……かぁ……」

チラリと横目で道行く人達を見てみると其処には塾帰りなのだろうリュックを背負った学生服の男の子達が二人並んで談笑している所や、ゲームセンターに置いてあるプリクラの機械に二、三人群がってキャイキャイはしゃいでいる女子高生くらいのお姉さんたちの姿があった。
それ以外にもこんな夜だと言うのに楽しそうにしている人達は後を絶たず、寧ろ私のように年がら年中人生に疲れているような人の方が稀なくらいだった。
私は友達同士で楽しそうにしている人達に共感する事は出来ない、だって私は一人だから。
だけど少しだけなら思い返す事はできた、ほんの少しだけ昔の事を。
今はもう隣に並ぶ事の無くなった元友人二人と共に笑ってお話して、時には話題のドーナツ屋さんに行ったりファンシーショップに小物を見に行ったり……。
楽しかった、でも今はもう二度と体感する事の出来ない日々達は今はもう虚しい思い出に成り果てた。
友達なんかいない……必要ない……人を信用できなくなった私が悪いのか、それともそうさせた周りの皆が悪かったのか。
今の私にはもう、その答えを求めるだけの器量は無かった。

「あの人達も何時か裏切られる日がくるのかな、私みたいに? だとしたら悲しいよね……信用してた人から見捨てられる以上に辛い事なんてないんだからさ」

そんな捨て台詞のような独り言を漏らした私はいい加減何でもいいから静かな場所へと行こうと思い当たり、鬱陶しいまでに人で込み合っている通りから端の人手の無い通りの方に抜けて暗闇の中をゆっくりと進んでいった。
ネガティブな事は極力考えない、そう思い当たった矢先にこれなんだから私も相当救えない人間だろう事にまず間違いはない。
幸せな時間や関係は言い換えれば砂の器か御伽噺の泥の船と思っている、そんな風に考えている人間なら尚更だ。
見た目だけは立派に取り繕っていても所詮は友達なんていうのは不安定な関係であり、ちょっとの刺激、ちょっとの亀裂で糸も簡単に崩壊してしまう。
金銭面でのトラブル、恋愛間での縺れ、勉強やスポーツなどの成績の開きから来る劣等感……そんな不安定な関係を崩す要素なんて世の中には幾らだって溢れかえっている。
私の時もそうだった、きっかけは私がイジメを受けているというたったそれだけの事。
たったそれだけの事でアリサちゃんは私を見捨て、すずかちゃんもそれと同じように距離を置くようになった。
あんなに仲が良かったのに……所詮あの友情も見た目だけの幻想に過ぎなかったのかと思うと私は少し悲しい気分になった。

「本当、嫌な奴だな私……昔の私にまで嫉妬しちゃってる……。幾ら悔やんでも時計の針は元には戻らないのにさ」

暗い夜の闇に閉ざされ、街灯の僅かな明かりだけで照らされた薄暗い横道を歩きながら私はふとそこで夜空を見上げてそんな事を考えた。
雲一つ無い晴天だったから空には何も遮るものが無く星がとっても綺麗だった。
まるで光る雨が夜の街に降り注いでいくような錯覚を受けるほどの満天の星、何時か誰かと見上げた事のある夜空だった。
昔ならこんな星を見上げる夜には誰かが傍にいて口々に勝手な感想を述べていた物だ。
夏の星座が云々とか、なんで昔の羊飼いさんはあんな星と星を繋いだだけの線が動物や物品に見えたのだろうかなどそれはもう勝手な言い分ばかりだった。
だけど最終的に行き着くのは文句なしにその夜空が綺麗だと言う率直な想いと、何時かまたこんな空を一緒に見上げられたらいいなって儚い願望だけが其処には残る。
なのに私は今は一人、共に見上げてくれるような人もいない寂しい人間だ。
一人消え、二人消え……どんどん周りから人を遠ざけて離れていって、挙句残ったのが今の私。
此処でこうして寂しいのに素直に寂しいとも言う事の出来ない、歪んだ性格の臆病者だ。

「失う物は大抵失ったと思ってたのにね。案外私も未練がましいなぁ、まったく」

何処まで昔の事を思い出せば気が済むんだ、心の中でそう自分を叱咤し直した私は何時もの私に戻ろうとポケットの中へと手を伸ばして思考を打ち切った。
手を入れると其処には僅かながらの小銭が数枚ぶつかり合って音を立てている、今日の私の全財産だ。
家に帰って貯金箱を開ければ一日の内に使わなかったお金も貯めてあるから厳密にはこれだけが私の所持金という訳ではないのだけれど、中古でもいいから暇の潰せるゲームが欲しい私としては其方の方を使うわけにも行かない。
つまり本当ならこのお金だって大切に使って、残った額を貯金しなければならない物の筈だった。
しかし私がふと足を止めて見つけたものの誘惑に私は負けてしまったのだ。
薄暗い道を照らす有名な清涼飲料水の会社が出している赤い色の自販機、私はまるで光に集まる虫にように其処へと吸い寄せられていったのだった。

「本当はいけないんだけど……気つけ、欲しいからさ。今日くらいはちょっと贅沢してもいいよね」

分っている、此れは言い訳だ。
どれだけ理屈をつけた所で使えばお金は減るし、それが普段の自分なら絶対にしないような愚かな行いだとは最早言葉に出すまでも無い。
間食というのは無意味にお金が掛かるばかりか量が少ないのに三本買えば一食分に相当するほど割に合わない物ばかり。
本当はこんな事したいわけじゃない、だけど少しでも気分を変えられる物が無いと少々キツい状況になりつつある。
別に私は自己嫌悪がしたいわけでも過去に縋って夢を見ていたいわけでもないのだ、だからとっとと自分の目を覚ましてやる気つけ薬が欲しい、そう思ったのだ。
なけなしのお金を二、三枚取り出してお金の入れる口にそれを放り込んでやる。
幾つも並べられたボタンが緑によく似た青に点滅するのを確認した私は、炎のイラストが缶に印刷してある微糖のブラックコーヒーの所のボタンを押して出てくるのを待つ。
その僅か数秒後、ガコンという音が響いて取り出し口に缶コーヒーが落とされる。
自販機の良い所は誰とも会話をせずに物を買えることだ、そんな奇妙な満足感を得ながら取り出し口を弄って缶コーヒーをとった私は徐にプルタブを開けて口元に運んでそっと傾けた。

「ふぅ……美味しい。やっぱり缶コーヒーは『ファイア』に限るよ」

他の缶コーヒーよりも少々缶の形が異なる、ずんぐりむっくりな金属色丸出しの缶を両手でしっかりと握り締めた私はそんな当たり障りの無い台詞を吐きながら自販機へと寄りかかり、もう一口コーヒーを飲んだ。
私は嫌な事を考え過ぎたりしている時やブルーな気分の時は何時もコーヒーを口にする様にしている。
別段大した意味がある訳でもなく、他の嗜好品に手が出せないからというどうでもいいような理由から来る物なのだが飲んでいる時は本当に気持ちが安らぐのは偽りようの無い事実だった。
きっかけはなんて事は無い、夜中までゲームのやるのが少々辛くなった時に眠気覚ましとして飲んでいただけのことだ。
初めの内は凄く苦いと思った、何で大人はこんな物を好んで飲むのだろうとも思った。
だけど数を重ねる内に私も自然と味の違いが分るようになって、香りやコクを楽しむようになった。
そしていつの間にかその楽しみが気つけになって、今ではどうしても気持ちが切り替えられない時の非常手段となってしまった。
いや……言い換えればこんな事でしか私は気持ちを切り替える事すら出来ないとも言える。
それくらいしか、今では楽しみも無くなってしまったから。

「ちょっと……冷えてきたかなぁ……」

前よりかは幾分か温かくなったとはいえ、まだまだ夜の寒さは厳しい季節。
温かいコーヒーを口に運ぶ度に身震いにも似た震えが私の全身に走っていった。
しかし、家に買えるのも何だか癪……だけどもう一度人気のある場所に戻りたいとも思わない。
星はこんなに綺麗なのに、空はこんなに綺麗なのに……私の心は晴れないまま。
きっと私には夜の街にも居場所はない、今更になってなんとなくそんな事に気が付いた気がした。
ボーっとしながらもう一口、プルタブを開けた飲み口から漂う白い湯気が宙に溶ける。
これを飲み干した後私は一体何処へと向かえばいいのか、そんな事すらも私には分らなくなっていた。

「家に……帰ろうかなぁ」

何となくそんな答えが私の頭の中に浮かぶ。
家に帰る、そして何時ものようにゲームをやって寝不足な日常生活に没頭する。
何でと言うわけではないが今は無性にその選択が正しいようにも私は思った。
どの道家に帰った所で誰が私を心配する訳でもないし、最悪誰かが説教をしてきても無視し続ければいいだけの話だ。
そうして部屋に篭って鍵をかければ入ってこられる心配もないし、何ならテレビにヘッドホンを繋いで耳に入ってくる雑音を遮断してやってもいい。
そうすれば自然と皆諦めてくれる、私に関わりさえしなければ誰の心も痛まないのだ。
ぼちぼちと帰り始めるか、私がほんのちょっとした異変に気が付いたのはその時だった。
こんな人気の無い路地を一台の車が通過しようとして来たのだ。
暗いからという理由で基本的に車の出入りが嫌がられているこの道で珍しい事も合った物だ、初めの内はその程度の関心しか私はなかった。
しかしその車が近づくに連れてライトの光が大きくなり、車の形が大体把握できるようになった頃には私の関心は驚きに変わっていた。
見慣れた形、見慣れた色、見慣れたナンバー、そしてこの海鳴では珍しい外車……確か名前はフォルクスワーゲンのイオスとかいう車だ。
ナンバーは2、色は眩しいまでのクロームシルバー……間違い無い。
見慣れた人間の車が其処にはあって、それは唐突に私の目の前で止まった。

「はぁい、こんな夜に一人で御散歩? 何時から健康マニアになったのかしら?」

「先生……」

「あら、意外そうな顔ね。先生に見つかったら何かまずい事でもしてたの?」

「はぁ~、いいえ。流石に其処まで不良さんじゃないです」

何時もの変わらない、皮肉の言い合い。
実質10歳以上離れている筈なのにお互いに減らず口が後を絶たなくて、ふと気が付いた時には自然と言葉を交わし合っている……そんな微妙な関係の人。
周りからの評価はどちらも低く、毛嫌いする人は後を絶たない様なそんな二人の片割れ。
開いた運転席の窓から会って早々そんな言葉を漏らした女性―――――先生は何時ものように何処か悪戯っ子を思わせる顔つきで其処にいた。
傍から見たらおかしな光景だ、缶コーヒー片手に自販機に寄りかかる小学生とそんな小学生に夜に何をで歩いているんだと注意もしないで話しかけてくる保健室の先生。
本来在るべき姿の生徒と先生では絶対交わされない様な会話も含めて教育委員会の人が見たら苦情が来そうな程だ。
だけど、私はそんな何時ものやり取りに何処か安心感にも似た感情を抱いていた。
何でこんな処に先生が居るのかは知らないけど、やっぱり先生と居ると落ち着く……そう思ったのだ。

「こんな所で会うとは思いませんでした」

「それはお互い様よ。もしかしてとは思ったけど本当に貴女だったとはね……。何していたの、こんな夜中に?」

「見て分りませんか? コーヒー飲んでるんですよ、星を見ながら」

「そうなの。私には家に居るのが嫌でプチ家出しているようにしか見えないのだけど?」

当たらずとも遠からず、私は先生の問いに肯定も否定もしなかった。
流石に家出をしていた訳じゃないけれど家に居るのが嫌だったって言うのは当たっているし、確かに傍から見ればこんな時間にフラフラしている小学生なんて怪しい事この上ない。
最近何だか境が分らなくなってきているけど私は生徒で先生は教師だ。
この先生が真面目にお仕事に取り込んでいるなんて初めから思っていないけど、それでも立場的には注意しなければならない立場に居る。
また一つ貸しが出来そうだ、私は何となくそう思った。
幸いにして今日の先生は非番だ、後々またカフェ・ラテでも奢ってあげれば目を瞑ってくれるだろう。
教師相手に何を考えているのだろうと今更になって思うのだが、先生はそういう先生なのだから仕方が無いのだ。
私は少しだけため息をつきたい衝動に駆られてしまった。

「……そういう先生は何をしてるんですか?」

「夜の巡回よ。夜中にフラフラ出歩いて非行に走ろうとしている生徒見つけようと思ってるの。貴女はその栄えある第一号ね」

「それ、どうせ嘘です。先生今日は非番でしょう? 先生が休みの時までお仕事するとは思えないです」

「何よ~、保険先生って言ったって忙しいのよ実際。……まあ嘘だけどね。本当は夕食を食べに行きがてらドライブでもと思ってね。折角の休日だもの、無駄にするだけ損でしょう?」

よく言うよ、私は今度こそ本当にため息をついた。
明日は祝日、今日休みを取った先生にとっては明日も休みで実質は二連休なのだ。
まあ先生は大人だから一日ゲームをするか、午後まで寝ているかの私と違ってお金もやる事も沢山あるのだから好きな事を好きなように出来るのは仕方が無いとは思う。
しかしこの先生の場合、学校に出勤してきても碌に仕事なんかしていないようにしか思えないわけで……生徒から賄賂受け取るような給料泥棒にこうも休日を満喫させるのも何だか生徒として癪な気分だった。
先生は大人ってズルイっていうのを体現しているような人だ。
私と同じで皆からあまりよく思われていないのにまったく動じもしないし、焦りも慌てもしない。
精々時々教頭先生から怒られたっていうのを私に愚痴るくらいが関の山、順風満帆とは思えないけどそれでもそれなりに充実した人生を先生は送っているのだと思う。
その性で良い人との出会いを逃しているのかもしれないけど……これを言うと先生は笑いながら怒るのであえて私は寸でまで出掛かった皮肉を心の中に仕舞い込むのだった。

「楽しそうでいいですね、先生は」

「そういう貴女はつまらなそうね。今日も嫌な事があった、そんな顔してるわ。まぁ……何があったかは聞かないけどね。ちゃんと冷やさないと駄目よ、肩」

「……気が付いてたんですか」

「これでも養護教諭よ、私。少し肩のバランスが上向きになっている、それって無意識に痛みを避けようとしている証拠なの。でもまあ……聞いて欲しくないでしょう、事情?」

聞いてもどうせ答えてくれないだろうしね、先生はそう言葉を続けた。
こういう所は相変わらず無意味に鋭い人だ、私はちょっとだけ顔を背けながらそう思った。
この先生は私がイジメを受けていることを知らない、あえて私が言っていないから“知らない事になっている”のだ。
基本的に私は誰かに干渉されたり、何の事情も理解せずに踏み込んでくる人間が嫌いだ。
どうせ何時も比較されて素行の悪い私の言い分なんか信用されないだろうし、実際信用された事なんて一度も無かったから経験上そういう手合の人間は毛嫌いしてしまうのだ。
だけど先生はそんな私の事情を知ってか知らずか、唯一まともに話を聞いてくれた。
だからって何かをしようとする訳じゃないし、私が話したことにただ相槌を打つだけだけど先生だけは私の話を信用してくれている……と、思う。
実際その審議の程は不明だし、聞くのもちょっと躊躇われるからこれからも聞こうとは思わないけど少なくとも私は先生がそう思ってくれていると信じている。
そう信じてもいいかなって思える雰囲気を持っているのだ、こんな私が信用してもいいかなって思うくらいに……この先生だけは。
そんな先生だからこそ、私は今もこうして真正面から話をすることが出来るのだろうと私は思いながらゆっくりと首を縦に振った。

「……御免なさいね、今日は」

「先生が謝る事じゃないです。保健室に勝手に入り浸ってるのは元々私の我が侭ですから、在るべきものが在るべき姿に戻っただけです」

「でも、貴女は辛そうな顔をしてる。何もかもが元に戻ったって本当に思っているなら、貴女はもう少し笑っていた筈。それが出来ないって事はやっぱり学校で休める場所が欲しい、そう言っているのと一緒よ。だから……今日は御免なさいね、勝手に休んでしまって」

「……ずるいです。そう言われると、私……何も言えないですよ……」

そう言って私はもう一口缶コーヒーを啜る。
ちょっと温い、少しずつ温度が低下してきている証拠なのだろう。
先生の謝罪、私はそれでも彼女が悪いとなんてこれっぽっちも思ってはいなかった。
先生はよく私に気を掛けてくれている、やり方も言い方も不器用だけど遠回しにしっかりと私の事を見てくれている。
だからこそ何もしないのだ、何もしてくれない他の教師とは違って先生は何となく分っている断片的な情報から弾き出した答えを持っていながらもあえて何もしないのだ。
それにどういう意味合いが込められているのか、考えれば理解は出来るが多分期待には応えられない。
だって私は、誰かに甘えてしまったらそれこそ壊れてしまいそうだから。

「それじゃあ私はそろそろ行こうと思うけど……良かったら乗っていく? 家まで送ってあげてもいいわよ、特別に」

「何か裏がありそうですね」

「普段ならね、だけど今日は見返りなしの大サービス。此処最近物騒な事件が続いているでしょう? 翌日になって貴女が死体で発見されましたっていう様な事になったら目覚めが悪いのよ。ほらニュースで出ていた少年の件もあるでしょう?」

「……腐っても教師、ということですか」

まあそんな所よ、先生はそう言って口を濁した。
なるほど確かに理に適っていると私は思った。
今の世の中私のような子供が絶対に安全なんていうことは無い、これはれっきとした事実だ。
法治国家ならではの慢性的な危機管理の甘さとでも言うのだろうか、私がこんな事を言えるのも全部先生からの受け売りが殆どなのだが確かにこの国では何処まで行っても物事に完全が求められる事は少ない。
所詮他人事、自らが被害に遭わない限りは数字や書類の上でしか物事を判断できないという現実がそんな余所余所しい現状に拍車を掛けているのだろう。
怖いとか可哀想だとは思っても後はどうせ他人事だからそれ以上の感情は抱かず、そして忘れられる。
この国の危機感なんていうのは所詮はそんな物だ、先生は何時だかこんな事を言っていたが否定はしない。
難しい事は良く分らないけど、確かに私の周りの人間の感覚なんてそんな物だと私自身も常々思っているから。
そんな中で少しでも私を心配してくれる先生の一言は、例えそれが教師としての業務的な義務感から来る物だったとしても少し嬉しかった。

「悪いですけど、遠慮します。私まだ晩御飯も買って帰らないといけないですから」

「良かったら奢るわよ?」

「……本当に今日はどうしたんですか? 悪い物でも食べたとか?」

「馬鹿ねぇ、そんな意外を通り越して異常な物を見るような目で見ないでよ。今日は少しだけ気分がいいの、だから貴女にもその御裾分け。どうする? 私の気分が変わらないうちに決めないと青い鳥も逃げちゃうわよ」

誰からでも無用な施しは受けない、それが私の基本スタンスであり心情だ。
借りを作って得する事は何も無い、勿論私は先生の提案を断ろうとした。
でも人間間の悪い時はとことん間が悪いもので、何の因果がこのタイミングで私のお腹が少しだけ鳴ってしまったのだ。
学校をサボった所為でお昼ご飯が早かったのがいけなかったのだろうか、強がりを言おうとしても台詞が見当たらない。
先生の顔は意地の悪い物に変わっている、私はどうする事もできず、顔を赤らめながら俯くしかなかった。
結果、私は先生の提案に乗るしかなかったのだった。





渋々先生の車に乗り込んでから十分と少し。
私は先生に連れられて都市部にある一軒のラーメン屋を訪れていた。
最近よく在るようなチェーン店ではなく、それなりに店構えの良い個人営業の店だった。
先生に手を引かれて中に入ってみるとズラッと横並びになったカウンターにお座敷の席が四つ程あって、店内は美味しそうなラーメンや炒飯の匂いで溢れていた。
だけどなんか先生のイメージからは連想できそうにない感じの店で私は初めの内は少し違和感を感じていた。
勝手なイメージかもしれないが先生は外人さんだし、外食と言えばフレンチとかイタリアンとかそっちの方がこんなラーメン屋よりも全然自然に思えたのだ。
一番手前のカウンター席に横並びに座る事になった私は思わず何でこの店にしたのかと聞いてみたのだが、偶々雑誌に載っていたからという当たり障りのない返答に何も言えなくなってしまった。
別にラーメンが嫌いなわけではないし、奢って貰う以上はある程度礼儀を弁えるべきだと思ったからだ。
これで一食分のお金が浮くなら安いもんだ、そんな下心と一緒に。

「すみません、ラーメン二つ。一つは醤油でもう一つは……」

「味噌でいいです」

「味噌で。あ、醤油の方は味付け卵をトッピングで」

はいよー、とタオルを頭に巻いた店主さんらしい男からの返事が返ってくる。
何時も私が行っているコンビニの店員さんの何の感情も篭っていない返事よりかは幾分か人間らしいものだと私は人知れず思った。
しかし店主さんの方もこんな金髪の外人さんが日本人よりも流暢な日本語で話しかけてきたのに少し驚いていたから、その所為かもしれないとも思った。
先生は外人さんにしてはおかしい位日本語が上手だ。
そりゃあ日本の学校で養護教諭なんてしてるくらいなんだからある程度は勉強したのかもしれないが、それでも訛りもないし独特の違和感も無い。
自然な事が自然と出来る、何かそんな感じ……水道の蛇口を捻れば水が出てくるのと同じくらいに何の違和感の無いくらい先生は日本語が達者だった。
もっとも此れはアリサちゃんやすずかちゃんの家のファリンさんにも言える事なので、もしかしたら昨今の外人さんにとっては之が当たり前なのかもしれないけど。
私は何となく、そんな事を人知れず考えていたのだった。

「貴女もトッピング欲しかった?」

「いえ、別に……。食べられるなら何だっていいです。それに其処まで図々しい真似、私には出来ません」

「案外遠慮深いのね、結構な事だわ」

「偶には先生も見習って生徒からカフェ・ラテ恵んで貰うのを控えたらどうですか?」

そんな風に私が皮肉を言うと先生は、それと此れとは話が別と返してきた。
まああの行為はあくまでもお互いの利害の一致があってこそ成り立っている物だから、本来私がこんな風に言うのは間違っているのかもしれないが下手をすれば懲戒免職物の筈だ。
最近では自分の子供が勉強しないのが悪いのに先生の所為にして文句を言ってくる親御さんや、過剰な過保護で子供を擁護してちょっと叱っただけでも懲戒免職を要求してくるような人もいる中で生徒と教師間での賄賂なんて発覚すればちょっとした問題になってしまう。
モンスターペアレント、『怪物の親』と世の中では言うのだと前にテレビでやっていた事がある。
あんな人達が一杯いる所為で先生側も色々と気が立っている、そしてそれが廻り廻って私のようなどうでもいいような生徒へと返ってくる。
そんな悪循環の中に先生を巻き込みたくは無い、私なりの不器用な心配な感情がそんな言葉を生んだのだった。

「それにしても……大丈夫なんですか?」

「んっ、何が?」

「生徒にこんな風にご飯奢るのって本当は駄目なんでしょ? ほら、最近は贔屓だ~って騒ぎ立てる人もいるし……もしバレたりなんかしたら―――――」

「ストップ、子供は余計な心配なんかしないでいいのよ。それに私は今日は非番。休みの日に私が誰に何をしようが私の自由でしょう? まぁ、バレたら拙い事には拙いんだけどさ」

そう言って先生は疲れたような笑みを浮かべていた。
もしかしたら過去にも似たような事をして怒られた経験があるのかもしれない、もっとも反省は殆どしていないような気もするのだが。
まあ何にしても今時中々いない子供想いの先生だっていう様な事を私は改めて思った。
他の学校の事はどうなのか知らないけれど私の学校に居る先生の殆どは子供の事を見てはいない、皆生徒というフィルターを通して見える親御さんのご機嫌を伺ってばかりだ。
ウチの学校は私立だし、お金持ちの子や特別頭の良い子達が生徒の大半を占めている。
そんな学校だから過剰に子供を可愛がる親は沢山居るし、中には行き過ぎている人も少なくない。
中には学校の体育館にエアコンを付けようとか、監視カメラを付けようとか言って学校にお金を持ってくるような人も居るほどだ。
そんな風だから先生達にしても生徒よりも親御さんの相手の方に気を回す羽目になってしまう。
いかに自分の受け持つ子供が問題を起さないか、きっと今時の先生はそんな問題のとばっちりを喰らう事を恐れて何も出来ない人が多いに違いない。
そんな点で言うのなら無理を承知でご飯に誘ってくれた先生には、言葉には出さないけど感謝してもし切れないと私は思った。

「大人って大変ですね」

「そうよ、大人って子供以上に面倒臭い事ばかりで嫌になるわ。残業手当は出ないし、付き合いで嫌でもお酒飲まなきゃいけない時もあるし、ムカつく相手でも笑ってなきゃいけない。嫌な事ばっかりよ……」

「ちょっとだけ、今聞かなきゃ良かったって思っちゃいました」

「その反応は間違ってないわ、誰でもそう思うもの。だけどこうしなくちゃお給料貰えないのもまた現実。楽してお金儲け出来る上手い話とかどっかに転がってないもんかしらね……なんて、実際の所心にも思っちゃいないんだけどさ」

そんな上手い話あるはず無いもの、先生は苦笑気味にそう言った。
確かにその通りだと私も思った、人生そう都合の良い事ばかり起きないって知ってるから。
そういった意味では先生の言葉は凄く貴重なご意見だったとも言える。
大人は子供が思っているほど楽なもんじゃない、子供以上に色々な物を背負って行かなきゃならないって思うことが出来たから。
思い返してみればお父さんにしてもお母さんにしても先生と一緒で大人だ。
もしかしたら私の知らない所で色々な物を背負って今に至ったのかもしれないし、その背負っている物の中に私が含まれていたのかもしれない。
だけどお父さんもお母さんも私の事を放り出してしまった、私から転げ落ちてしまったのかもしれないが結局拾ってくれはしなかったのだから結果的には捨てられたのと一緒だ。
私は絶対に何かを背負っても放り投げたりなんかしない大人になろう、遠い遠い理想像なのかもしれないが私が目標にするならそんな大人になりたかった。
そしてそれと同時に、子供でも大変な物は大変だって世の中の知らない人に訴えたかった。

「……でも、子供も子供で大変な物は大変です」

「知ってるわ。私もそんなに多くを知ってる訳じゃないけど、貴女の様子を見ていれば嫌でも目に付く。勿論貴女だけじゃない、保健室の先生なんていう仕事しているとね……色々と見えてくるのよ。大人の知らない子供の事情って奴が」

「子供の事情……ですか?」

「そう、イジメとかハブりとか。言葉にすると短調な響きだけど実際の所かなり深刻で繊細な問題なのよね、これが。いけない事ですよって言っても止まらないし、だからって放任すればいいのかって言えばそうじゃない。中にはエスカレートして自殺しちゃう子だっている。貴女にこんな事言ってもどうしようもないのかも知れないけどウチの学校って結構そういう事しちゃう人、多いのよ。勿論虐められる側の子もね。アンケートとか集計してみると泣けてくるわ、普段仲良さそうにしている子たちの間にも金銭面のトラブルとか結構あって……だけど下手に注意できないのよ先生も。そんな問題が表沙汰になったら責任取るのは自分だからね」

先生の口から語られた言葉は結構学校側のブラックな面にも触れているような気がした。
決して私だけがそういう目に合っているわけではないという現実。
それを認知していても保身の為に大々的に行動できない先生たちの現状。
そしてやっぱり隠れた部分で進行されているイジメの実態。
先生の言葉を信じるなら時々学校で行われているいじめアンケートとかも貴重な情報源となっているにも関わらず、問題が解決されないのはそういう部分が大きいのだろう。
そうでなくても子供っていうのは団結力というか結束力が強い、良い意味でも悪い意味でも。
だからそうしたアンケートとかでも誰かの裏切りでこの関係に綻びが生じないように皆が集まって事前に打ち合わせなんかをして口を合わせることもザラなのだ。
きっともっと人間の心理の根本的な部分が改善されない限りはこの問題にも終わりは無いのだろうと私は思った。

「酷いもんですね」

「当事者の貴女からしてみればそう思えるでしょうね。だけど悲しいけれど此れが現実なのよ。世の中には何でもかんでも都合よく解決出来る様な”魔法“なんか存在しない。でもだからこそ少しずつ、根気よくやっていくしかないの。正直私も口惜しいんだけどね」

「先生は、なんだか他の先生とは違う感じがします。そんな事面と向かって言われたの……初めてです」

「……本当は私も面倒は嫌よ。辛いし、面倒だし、他の先生からは変な目で見られるしね。だけど誰かがやらなくちゃいけない。教師っていうのは本来こうあるべきだっていうのを誰かが示さなくちゃいけない。きっと何時か皆変わっていける、そう思えるからこそ私は誰も見捨てたくなんか無いのよ。誰一人としてね」

立派ですねって私が言ったら先生は面倒な事を背負ってしまう性分なだけって言ってきた。
だけど私はこの時本当の意味で先生の事を尊敬した、此れは本当の事だった。
世の中にはまだこんな風に考えてくれている大人もいる、まだ私のような人間を見捨てないで居てくれる大人もいる。
その事実が無性に嬉しくて……それでいて私も少しだけ信じてもいいかなって思えたんだ。
まだ私は多くの人や物を信用できないで心を閉ざしている。
居場所を見つけられないで、泣いて、泣いて、泣きじゃくる子供でしかない。
だけどこんな人が近くにいてくれれば私も何時かそんな人を労わって上げられるような人になれる、そんな気がしたんだ。
親からも、友達からも、社会からも見離された私だけど……こんな人が隣にいてくれる限り、私は理想を追い求め続けていける。
なんだかそんな幻みたいな希望が、急に現実味を帯びてきたような気がした。

「そういえば明日は祝日だけど、貴女なにか予定はある?」

「えっ……いいえ、何も。また家に篭ってようかと思ってますけど……」

「はぁ~やっぱりね。ちょっとだけ予感的中」

「先生、私もちょっと頭にきますよ。その言い方は」

流石にため息をつかれるのは私も心外だった。
そりゃあ確かに私は殆ど休日は家から出ないし、もう何ヶ月も誰かと遊んだりしてないけれど最低限のプライドくらいはある。
私だって生まれつき不幸の星の元に生まれ付いたわけじゃないのだ、決め付けられるのは少々腹も立つというものだ。
もっとも外れている部分は一つも無いから追求されたらまともに反論できないのが悲しい所なのだけれど。
すると先生は携帯電話を持っているかと私に聞いてきた。
最初は私は先生の意図が見えず、渋々自分のポケットから殆ど使わないオレンジの携帯電話を先生に差し出すと先生は徐にそれを弄り始めた。
もしかしたらメールアドレスでもチェックしているのか、初めはそんな風に思っていた。
だけどその数十秒後、先生は唐突に携帯を私の方に放り投げてきた。
慌ててキャッチする私、何事かと思って少々立腹気味に先生の方を見やると先生は徐に口を開いた。

「私のメールアドレス、登録しておいたわ」

「えっ?」

「暇な時は連絡しなさいな。私も大概友達は少ない方だから大抵の日は暇だし、コーヒーくらいはご馳走してあげるわよ」

受け取った携帯電話を開いてメールアドレスを確認してみる。
其処にはキラキラとした絵文字に挟まれた“先生”という文字と共に先生の携帯電話の番号とメールアドレスがきっちりと登録されていた。
慌てて先生の方を見やると、先生は何時もよりもほんの少しだけ優しい顔で私のほうに微笑みかけていた。
何の裏表も無い、ただただ純粋に誰かを安心させる為に見せる微笑が其処にはあった。
全部消したはずの空白に一つだけ登録された名前。
それが何だか凄く新鮮な気がして、余計に私は驚いたのだった。
こんな私にも居場所が出来た、先生っていう逃げ場が出来た。
その事実が無性に嬉しくて、何だか私は泣き出しそうな衝動に駆られてしまった。
随分昔に忘れてしまったと思っていた、嬉しさから来る涙を私はぎゅっとかみ締めていた。

「ありがとう……ございます……私、私は……」

「ほらほら、こんな事で泣かないの。嬉しかったら笑いなさい。たぶんそれが一番幸せなはずだから」

「は、はい!」

「よろしい。それじゃあラーメン食べよう。おじさん、その二つこっちのね!」

ちょうど良くなのか、それとも狙ってなのか。
先生の掛け声に合わせて私たちの前に二つのラーメンが運ばれてきた。
お手拭で手を拭いて割り箸を割ってそれを食べてみる。
凄く美味しい、味がどうとか麺がどうとかそういう訳じゃなくて単純に美味しいと私は感じた。
そしたら胸に蔓延っていたもやもやが少しだけ晴れたような、そんな気がした。
だからこの時は少しだけ信じてもいいと思ったのだ。
明日は何時もの休日よりも、ほんの少しだけいい日になりそうだって……そんな期待を。



[15606] 空っぽおもちゃ箱①「とある少女達の語らい」#アリサ視点
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/15 15:00
何時だってアタシは何でも出来る、昔はそう思っていた。
誰でもアタシの思うように言う事を聞いてくれるし、パパやママに頼めば手に入らない物なんて凡そこの世には存在しない……そんな風にも。
だけどそれは何時からか間違いだと分るようになった。
それを気付かせてくれたのは一人の少女のキツい平手打ち、その後喧嘩になったけど何とか打ち解けて仲良くなった……筈だった。
だけど思い返してみればあの頃から彼女を―――――高町なのはを見る目は変わってしまったのではないか。
不意にアタシことアリサ・バニングスは昔の事を思い出してそんな風に考えてしまうのだった。

「一体何処をどう間違えて……こうなっちゃったのかしらねぇ……」

ぼけーっと一人、駅前のベンチに座り込んで待ち人を待つアタシ。
傍から見たら休日なのに何もしないでただぼけーっとしている呆けた女の子にしか見えないのかもしれないが、此れでも一応友人である月村すずかの事を待っていたりするのだった。
理由は何てことは無い、祝日の今日はお互いに予定も無い事だし偶には二人でお茶でもしようかとそういう事になった訳だ。
しかし待つというのはアタシの性分には合わない、とことん合わないと久しぶりに私は思った。
ともかく暇なのだ、やる事はないし、一人で何処かに行くわけにも行かないし、自販機で何か買おうかと思ったけど一万円札は対応してないしで本当に何にもやる事がない。
だからこんな時、私は考えてしまうのだ……昔の事を。

「前なら此処にもう一人居て、よく愚痴を聞いてくれたものなんだけどなぁ……」

そんな独り言を呟きながらアタシは不意に隣を見やる。
ほんの何ヶ月か前には隣に居た人物は其処には居らず、「確かにちょっと遅いね~」なんていう間延びした声も聞こえては来ない。
すずかが来るまでアタシは独りぼっち、少しだけ今のなのはの気持ちが分るような気がした。
何でこうなってしまったのかって聞かれれば、アタシとしては自然の流れだと答える他無い。
時間が経てば人も変わる、昔は生意気にも真正面からアタシに意見していたなのはも今では死んだ魚のような目をしてフラフラしてばかりだしアタシ自身も昔みたいに強気にはなれなくなった。
すずかだけは今も直向きになのはに声を掛けてあげているけど、気が付けばそれを止めているアタシがいる。
結論から言うと……アタシはなのはから逃げたのだ、こういう他今の自分を表現する手段をアタシは持ち合わせていなかった。

「寂しくなったものよね、まったく」

その原因を作ったのは他でもないアタシ自身なのに、不意にそんな自虐的な台詞が脳裏を過ぎる。
すると途端に胸が締め付けられるような気がしてちょっと気持ちの悪いような感じがした。
違うと主張したい自分が居る、しかし現実としてアタシ自身もなのはをあんな風にしてしまった人間だという事には違いが無い。
その現実から逃げてしまいたい、だけど逃げたらそこで全部終わってしまうのではないかと恐怖を抱いている自分もまた居る。
そんな矛盾にも似た感情と感情のぶつかり合いが今の私をこうも中途半端な処で燻らせているのだ。
何時からだったろうか、アタシがこんなにも人の顔を窺いながら生きるようになったのは。
思い出せない、だけどそうなる原因は恐らくなのはと関係しているような気がする。
こんなにも弱気なのはアタシらしくない、だけどその“アタシらしい”を封印してでもそうしなくちゃいけなくなったのは一体―――――

「あーもう、すずか遅い! 遅すぎる! だから余計こんな風にごちゃごちゃ考えなきゃいけなくなるのよ、もう!」

責任転嫁もいいところだ、言葉には出さないがアタシ自身もこんな風に他人に責任を擦り付けてうだうだ言うのは間違っていると思う。
だけどそうでもしなくてはアタシは自身を蝕む罪悪感に押し潰されてしまいそうだった。
いずれにせよ友達をあんな風になるまで放っておいたのは事実だし、そんな事実に気付きながらも自分や他の友達にとばっちりが喰らわぬようになのはから逃げたのも紛れもない事実だ。
だけどそれを認めてしまったところで、今のアタシに何が出来るの訳でもない。
こんな風に頭抱えて悩んでいるだけで解決してくれるなら幾らだって悩むし、必要とあらば不器用でもいいから手を差し伸べてあげたいとも思う。
だけど所詮”今更“だ、今更アタシがそんな風に思ったところで時計の針は元には戻らないしなのはだって元のなのはに戻ってくれるわけでもない。
それに今のなのはなら絶対に「余計なお世話」だとか「施しは受けない」だとか言って拒絶されるのがオチだ。
今だからこそちゃんとなのはがこうなる前に止めてやるべきだったと思うことが出来る。
だけどアタシはあの時逃げたのだ、そして今も尚……友達っていう責任を引きずったままこうやって逃げている。
今のアタシは“アタシらしい”を捨てたアリサ・バニングスの抜け殻だ、きっとこういうのが正しいのだろうとアタシは思った。

「ったく……早く来なさいよすずかぁ……」

まるでフリーフォールのように高ぶった怒りが一気に静まっていくのをアタシは感じた。
虚しい、そこはかとなく虚しいと思ってしまったのだ。
どれだけ此処でアタシが過剰な反応を示した所で誰一人として答えてくれはしない。
ただただ周りの人間が奇異な視線をアタシに向けてひそひそと小声で彼是変な事を口走るだけなのだ。
つまり傍から見れば一人で勝手に騒いでいる変な子にしか見えない、アタシ自身も自覚している事だけどこの国の人間からしてみればアタシのような見た目外国人の人間が騒いでいれば尚の事だ。
だからアタシは元のようにまたベンチに深く腰を預けて再びぼーっとしながら待ち人であるすずかを待つことにするのだった。
しかしながら幾らのんびり屋のすずかでも約束した時間をそれ程オーバーしてからのこのこ現れるほどの神経は持ち合わせていないようで、ふと視界を横に向けてみれば其処には結構値段の張りそうなワンピースにカーディガンというこの年頃の女の子にしては少々地味目な服のまま全力疾走でこっちに向かってくる女の子の姿があった。
おいおいそんなに全力で走ったらまた財布落とすわよ、不意に私の脳裏にそんな心配が過ぎったのも束の間……ものの見事にその子のポケットからピンク色の可愛らしい財布が地面に落ちた。
しかも本人はまったくその事に気が付いていない様子、仕方が無いなぁと立ち上がったアタシは何時もながらの注意を彼女に促す為にもと思いつつすっかり鈍った足を動かしてその子の元へと歩み寄った。

「アリサちゃん! 遅れてごめん!」

「あ~……すずか、その……何よ……」

「あ、あれ? もしかして怒ってたり……する?」

「いや、そういう訳じゃないんだけどさ。アレ、すずかのじゃないの?」

息も絶え絶えといった感じでいい具合に疲れている少女……アタシの友人である月村すずかの言葉も無視してアタシは地面に落ちている彼女の財布を指差してみる。
運動は出来るはずなのに変なところで鈍いのはこの子の性格なのか、それともこの子のお世話係であるメイドのファリンさんのおっちょこちょい具合が伝染してしまっているのかアタシにはちょっと判断がつかない。
だけどまあ昔からこんな具合だったからもしかしたらその両方なのかもしれない、そうアタシが思ったところですずかは有無を言わせずそのまままた元来た道を全力疾走で戻っていく。
一体何処のアスリートよ、とアタシは思わず突っ込みを入れたくなったのだがあの子の天然ぶりに一々突っ込んでたらこっちの身が持たない事も考えて静かに心の中へと仕舞い込んでおく事にした。
当人であるすずかは親切にも拾ってくれたのであろう二十代前半くらいのサラリーマンにしたこま頭を下げていた、本当にドジな子だとアタシは改めて彼女の評価を定めたのだった。

「すずかー! そろそろ頭下げるの止めてあげな、その人動くに動けなくてかなり困ってるみたいだから」

「あっ……御免なさい!」

「あぁ、もうあの子ってば……ほら、すずか! こっち来る、それと同じ事何度も言わせないで」

「あ、あの……ありがとうございました~」

また別の事で謝ろうと頭を下げようとしていたすずかを引きずってサラリーマンの人から引き剥がすアタシ。
ちょっとだけ失礼かとも思ったけど、横目で確認した感じではサラリーマンの人の方もこんな小さな子に必死になって謝られる抵抗感から開放されてなのか何だかホッとした様子だった。
まったく、我が友人ながら腰の低い子だとアタシは思い返す。
この子は何でもかんでも直ぐに謝ってしまう癖がある、良い様に解釈すれば礼節なり何なりがしっかりしているとも言えるが悪く言ってしまえばまるで謝るのが趣味みたいなようにすら思えてきてしまう。
将来放っておいたら絶対人の善意とかを利用する詐欺とかに引っかかりそうな子、それが月村すずかという少女だった。

「まったく……本当におっちょこちょいなんだから、すずかは……」

「ご、ごめんね。アリサちゃん」

「ほら、またそうやって直ぐ謝る。それが駄目だって何時も言ってるのに」

「ごめん……」

いい加減こんな会話をどれだけ繰り返してきた事か、私は今日一番の深いため息を此処で吐き出した。
せめて此処でこんな会話に苦笑でもしてくれる誰かが居てくれたのならまだアタシもノリで如何にか出来たのかもしれないが、アタシ一人でこの子の相手をまともにするのはかなり荷が重い。
すずかは素直な子だ、それでいて同姓のアタシが見たってかなり可愛いと思う。
だけど致命的にトロい、運動は出来る癖に色々とトロ過ぎるのだ。
何かとあっては直ぐに泣き出しそうになるし、おまけに途轍もなく気が弱い。
成績は中の上と中の下を行ったり来たり、決して秀才だと言える訳じゃないけど凄く世話焼きが上手いからそれなりにクラスの連中からの評判は良い。
口癖は「ごめんなさい」、座右の銘は彼女曰く「アリサちゃんみたいな子になりたい……」だそうだ、本当に不器用な子なんだと思う。
良い所も沢山ある、だけどそれに比例するように欠点を持ち合わせているもんだから下手に放っておく事のできない子……それがアタシがすずかに対して抱いている評価の全てだった。

「まぁ……いいけどね、アタシは。すずかがそれで良いんなら」

「うぅ、私も……気をつけてはいるんだよ。でも、でも……」

「あ~、もう! だから責めてるんじゃないってば! ほ、ほら。さっさと行くわよ。時は金なりって言うじゃない。こんな所で馬鹿みたいに話してたって仕方ないわ」

「うん、そうだね……」

すずかとアタシの関係が始まったのはまだアタシ達が小学校に入学し立ての頃の話だ。
初対面から当初の関係至るまでの経緯はそれ程難しい事じゃない。
すずかのビクビクしている態度が何だか気に喰わなくて、アタシがつい突っかかっていってしまったのが事の発端だ。
そして当初の関係としてはアタシがすずかを虐めてて、すずかがアタシに虐められていて……まあ俗にいうイジメっ子とイジメられっ子というような関係だった。
今思えば何て馬鹿な事をしてしまったのだろうというのと同時に、何で今になってもこんな風に良好と呼べるような関係を築けているのかアタシ自身もはっきり言って謎だ。
だけどこんな仲になった“きっかけ”は鮮明に今でも覚えている。
今は此処にいない、高町なのはという存在がアタシに気付かせてくれた強い強い心の篭った一撃がアタシ達の関係を変えたんだ。
今に至るまではそりゃあ色々と試行錯誤したもんだ、何分アタシも素直じゃない性分だから意見を言われると途端にスチームポットみたいに逆上してしまう。
殴ってきたら殴り返したり、罵倒をされればそれよりももっと酷いような事を言ってしまったりした事も一度や二度ではない。
でもまあそんな性分のアタシが今此処でこうしてすずかの世話を焼いていられるのも、偏にあの時のなのはの一撃とすずかの懐の広さから来る部分が大きかった。
本当二人には感謝している、だけどアタシは―――――

「んっ? アリサちゃん、どうかしたの?」

「えっ―――――」

「なんかぼーっとしてるよ? もしかして寝不足だったりする?」

心配そうにアタシの顔を覗き込んでくるすずか。
幾ら同姓だからってそんなに顔を近づけられたら恥ずかしいでしょうが、と何時もだったら怒鳴り散らす所なのだがあまりにも唐突な事だったので流石のアタシも狼狽せざるを得なかった。
すずかはこういう誰もが恥ずかしいと思うような事を本当に何気なく行ってくるような天然だ。
泣き虫で、相手が強く出てきたら直ぐに謝ってしまう癖に変な処で世話を焼きたがる……つまりはそういう損な性分なのだろう。
行動力は無いけど一度気に掛けてしまうと中々割り切る事が出来ない、なるほどアタシにはとても真似出来ないと思うほどには。

「べ、別に。そんなんじゃないわよ、ただちょっと考え事してただけ……。それよりもほら、早く行かないと席埋まっちゃうじゃない。行こう、すずか」

「え、あっ……うん。アリサちゃんがそういうなら……」

「そうと決まれば、ダッシュよ! 貴重な祝日なんだし、ちょっと位は堪能しなくちゃね」

「わ、わ……まっ、待ってよアリサちゃん!」

苦し紛れと恥ずかしさを紛らわせる為にアタシは心配そうなすずかから強引に視線を外すと無理やり笑顔を作ってすずかの腕を引いた。
だけど、何か足りない……こんなにもすずかと居れて楽しいはずなのに何かが致命的に欠けているような気がする。
例えるならジグソーパズルのピースが一つだけ見当たらないままになっているような、そんな感覚だ。
その最後のピースが見当たらない……いや、見つけてはいるもののどうしても嵌らない。
ピースがパズルに嵌るのを拒んでいるのか、それともアタシ自身がそのピースを捨ててしまったのか。
もしかしたらアタシは取り返しのつかない事をしでかしてしまったのかもしれない、そう思うと凄く胸が痛んだ。
だけどアタシはとりあえず笑う、すずかを心配させない為にもアタシは笑顔でいなくちゃいけないのだ。
すずかを……この子まであいつ等の犠牲にしない為にも。





街中を適当にぶらぶらと歩く事二時間と少し。
ゲームセンターに行って一緒にプリクラ撮ったり、本屋ですずかの目当ての本を一緒に探したり、雑誌に載っていた小物店で一緒にぬいぐるみなんか見ている内に直ぐに時間は過ぎていった。
正直言えば楽しかった、すずかもアタシも色々と背負っている物や自分の立場を忘れてともかく遊びまくった。
今日は祝日だし、宿題も塾も無いのが余計にそれに拍車を掛けたのかもしれない。
面倒くさい事も辛い事も何もかも忘れて二人でいる時間がアタシは何よりも好きだった。
此処にいない誰かの事を思わず忘れしまいそうになってしまうくらい、アタシはすずかと一緒に楽しんだ。
でも、本心を言えばあんまり楽しくない……心の片隅ではそんな素直じゃない自分が燻っていた。
ぽっかりと空いてしまった空間を二人で寄り添うように必死で埋め合っている、ちょっと勘のいい人間ならばもしかしたら今のアタシとすずかの関係に気が付くかもしれない。
本来三人でいなければならない空間に空いてしまった一人分の空白をアタシ達は無理をして寄り添って埋めているだけなのだ、本当の所。
すずかがこの事を気が付いているのかどうかは知らない、聞くのが怖くて聞けないのだ。
もしかしたらこんな風に思っているのは自分だけではないのか、そんな答えが正解であるのが怖いから。

「…ちゃ……ん。アリサちゃん!」

「はッ……えっと、何? すずか?」

「何か今日のアリサちゃんちょっと変だよ? 気が付くと何時もぼーっとしてるもん。何か悩み事でもあるの?」

「悩み事っていうか……悩み事なのかしらねぇ、もしかして」

今のアタシ達は全国チェーンのドーナツ屋の一番奥の席に陣取っている。
本来は四人で座る用の席に向かい合わせで座りながらバイキング形式で取ったドーナツと、紅茶を食している……それが今の状況だった。
理由は何てことは無い、適当に遊んでいる内にお昼時になったから偶々見つけたこの店で少し腹ごしらえでも思い当たっただけだ。
ただ、食事をしている最中にもアタシはまたぼーっとしていた様ですずかに窘められる事になったしまった。
本来なら逆上するようなところなのだが、一日に二度ともなると少々返答も歯切れが悪くなってくる。
基本的にすずかは優しい子だ、それに天然なのに変に勘が鋭いから時々アタシが何を考えていたのかを的中させるような事を言い出すときもある。
今回だってそれの延長線上だ、アタシが心此処にあらずといった具合で別の事を考えていた所為でまたすずかを不安にさせてしまった。
なるべくこの子を心配させないようにと何時も思っているのに、どうにも肝心な所で徹底出来ていない。
完璧にアタシの落ち度だ、アタシは心の中でアタシ自身を強く叱咤した。

「悩みがあるなら聞くよ? 多分私なんかじゃ力になれないかもしれないけど……」

「大丈夫、大丈夫だから。ちょっと家の方で内の犬がバタバタしててね。始末に困っててそれで悩んでただけよ」

「本当に?」

「疑り深いわねぇ、本当よ。だからそんな心配そうな顔しないでよ。何時までもそんな顔してると幸せ逃げるわよ?」

少しおどけたように言ってみせるアタシ、何だか煮え切らないように俯くすずか。
やはりちょっと無理があっただろうか、アタシは咄嗟に思いついた自分の嘘を振り返ってそんな風に考えた。
アタシは基本的に嘘をついたり、何か道理を捻じ曲げたりするのが苦手だ。
悪い事は悪いって思ってしまう性分だし、人並みに正義感っていうのもある。
だから何かを偽るっていうのにどうしても抵抗感を感じてしまう、ほんの少し前までは。
しかし今ではちょっと違う、嘘をついていてもまあ仕方が無いとか偽ってでもやらなくちゃいけない事があるっていうのを妥協して認めてしまっている自分がいる。
もしかしたらちょっとだけ大人になった、そういう意味なのかもしれない。
曰く面倒事には首を突っ込まない、触らぬ神に祟りなし、周りに同調していれば少なくとも自分にお鉢が回ってくる事はない。
詰まる所保身、我武者羅に自分を突き通して傷つくくらいならいっそいっそ一線引いた場所で大人しくしていた方が特なのではないかというズルイ考えにアタシは溺れてしまったのだ。
だけどそれは拙い、アタシが止めなくちゃって思う自分もまた居る……だけどクラスの連中のあんな仕打ちを見せ付けられた後では行動しようにも足が竦む。
とんだ臆病者だ、だけどアタシは結局そんなアタシを責めきれないでいた。
すずかを巻き込まないという事を言い訳を自らの盾にして。

「ねぇ、アリサちゃん。もしかして……無理とかしてないよね?」

「ッ!? ど、どうして?」

「何かね、今日一日アリサちゃんを見てたけど……何か時々凄く寂しそうな顔している感じがしたの。何時ものアリサちゃんらしくないっていうのかな? 何かよく分んないけど、そんな感じ。……心配なんだよ、私。アリサちゃんがそんな顔しているのを見ると……」

「すずか……」

無理をしているのではないか、そう言われれば確かにアタシは無理をしているのかもしれない。
自分の性に合わない嘘も沢山付いてきたし、言いたくもない言葉を散々吐いてきてしまった。
もう耐えられないって言うわけじゃないけど、それが針みたいに胸を刺すのはまた事実だ。
実際の所見て見ぬ振りが出来ない、今直にでも駆け寄ってあげたいという自分は居る。
だけどアタシ自身怖いのだ、また自分が”昔みたいに“なってしまうのではないかという現実が。
なのはがイジメを受け始めていた時、アタシはちょっとだけその光景にデジャヴを感じていた。
蹴られる殴られるというわけじゃないけれど、仲間外れにされて孤立するという光景が……幼稚園の頃のアタシとダブって見えたのだ。
悲しい言い分だけどアタシはこの見た目的にも名前的にもこの国の人間ではない、つまりは異端者だ。
異端者はどんな場所でもどんな年齢でも関係なく排除される、アタシは小さい時からそれを身をもって感じていた。
周りのみんなの「ガイジン」というレッテルと、この容姿の所為で近づきたがらないオーラをバリバリに発してくる保育士の先生たち。
誰も「ガイジン」であるあたしに近づきたがらないという孤独感と、何でアタシだけがこんな目に合うのという劣等感がトラウマになってアタシに圧し掛かってくる。
きっとアタシの「孤立したくない」、「仲間外れにされたくない」という気持ちは此処から来ているものなのだろう。
そしてそれをすずかに話した事は無い、言えるわけ無いだろう……こんな事単なる言い訳にしかならないんだから。

「もしかして、なのはちゃんの事で悩んでる?」

「……どうしてそう思うの?」

「否定はしないんだね」

「肯定するともアタシは言ってないけどね」

そう言ってドーナツにパクつくアタシ。
かなり無理をしている、そう確かに言うなれば今のアタシは無理をしている。
すずかの変な処で鋭い勘が正にアタシの図星を突いた瞬間だった。
それにしてもアタシもとことん受け流すのが下手な女だと思う、此れでは丸っきり肯定してしまっているのと動議ではないか。
だけどまあ……そう言い当ててくれた事に少しだけ安堵を憶えてしまっている自分も居た。
いつかアタシもすずかになのはの話をしようとずっと思っていた、だけど言い出す機会が全然無かった。
言おうとは思っているのだけれど、なのはの……そう、なのはのあの澱んだ目が頭に焼き付いて離れなくて言おうとした途端に思考が拒絶してしまっていたのだ。
だけどいい機会だとアタシは思った、少々遅くなりすぎてしまった感も否めないが丁度良いと言えば丁度良い。
二人でなのはについて話しておく、そうした方が良い様な気がしたのだ。

「……ねぇ、すずか。単刀直入に聞くけど、すずかは今のなのはをどう思ってる?」

「えっ、それって―――――」

「この際だから言っちゃおうと思ってさ、参ったよすずかには。何かこう……言わなきゃいけないって気がしてきてさ、それにすずかにだけは嘘つきたくないもん。それで、どう思ってる?」

「……変わっちゃった、正直な所其処が一番かな。何だか今のなのはちゃん……全然昔のなのはちゃんと似ても似つかない気がする。元々誰かに頼ろうとかそんな風に思う人じゃなかったけど、最近は本気で私に触れないでっていう感じもするし……正直、怖い人になっちゃったっていうのが私の答えかな……」

そう言ってすずかは俯いてしまった。
学校の中では恐らくすずかが一番なのはに積極的に声を掛けているのだろうけど、それでも内心すずかもあんな風になってしまったなのはに戸惑いを憶えていたという事なのだろう。
すずかは優しい子だ、人を見捨てるとか見限るとかそんな事を出来るような人間じゃない。
それに加えてアタシのように薄情でもないし、極力良い方向に促そうとちょっとずつ行動できるような子なのだ。
だけどその“ちょっとの努力”が果たして結果に反映されているかというと、それはまた別の問題になってきてしまう。
今のなのははこんなすずかでも遠ざけてしまうほど気が病んでいる、だけど本当にあの子が望んでいるのはもしかしたらすずかが一番近い位置にいるかもしれないのだ。
何も出来ない自分は確かに悔しい、臆病で縮こまっているアタシ自身もアタシは大嫌いだ。
でも、どうしてもあの頃の「ガイジン」という言葉が「お前は仲間ではない」という言葉のように思えて……孤立したくないという想いがそんな自分に打ち勝ってしまう。
アタシはこんなにも直向きなすずかをなのはから遠ざけてしまっている己を強く恥じた。

「あのね、アリサちゃん。ちょっと前にお姉ちゃんから聞いた事なんだけど……なのはちゃんのお兄さん―――――恭也さんが何時も家族の事をお姉ちゃんに相談してくるみたいなんだ。何でも……なのはちゃんのお父さんもお母さんも、なのはちゃんがその……怖い、んだって」

「嘘……それ本当なのすずか!?」

「うん、たぶん本当。ほら、なのはちゃんずっとあんな風でしょ? あれって学校だけじゃなくて家でも、なんだって。だから皆……今のなのはちゃんにどう接していいか分らなくなってるらしいの。お姉ちゃんの話では皆良い方向にって思っているみたいなんだけど……なのはちゃんの様子がさ、まるで自分たちを赤の他人でも見るようなめになっちゃってるって……」

「そんな……だって、家族でしょ? それなのに……」

すずかはアタシの言葉により一層俯き加減を深くした。
そしてそれと同時にアタシはまるで金槌で自分の頭を強く殴られたような衝撃を受けた。
なのはがそんな風になるまで追い詰められていたなんて……分っていた事とはいえ、最悪の事態にまで発展してしまっている事にアタシは強い戸惑いを憶えたのだった。
昨日、屋上でなのはと会話した時……確かにあの時ちょっと違和感を感じていた。
何だか自分が拒絶されているようで、そしてそれでいて一生許さないといっているような言葉でアタシは思わずその場に泣き崩れてしまったけど……もしかしたらアレはなのはの精一杯の叫びだったのではないだろうか。
普段ならすずかをなのはから遠ざけているアタシだけど、この際偽善だろうが自己満足だろうがどう言われたって構わない。
言わなくちゃいけない、あの時の言葉を……そう思ったのだ。

「アリサちゃん……悲しいかもしれないけど、もしかしたら私たち―――――」

「うん、そうかもね……。本当にそう、馬鹿よ……アタシ達。実はさ、昨日……一騒動が起きた後アタシ体調が悪いって言って病欠したじゃない? あれさ、実は嘘なのよ。本当は……あの子に……なのはに会いに行ってたんだ、アタシ」

「えっ?」

「周りに誰もいなかったから謝ろうと思ったのよ。卑怯よね、人の目気にしたら謝る事も出来ないのよ、アタシ。だけどさ……結局謝れなかった。助けて上げられなくてごめんってさ、言えなかったのよ……。それでついムキになって何時もの調子で叫んじゃって……なんで何時までもこんな事耐えてられるのよって言っちゃったんだ。そしたらあいつ―――――」

言葉を紡ごうとして途端に心臓の鼓動が早くなる。
言うべきか、本当に言っていいのかという焦りがアタシの中で渦巻いている所為だ。
もしも此れがなのはの本心の言葉だとするならば、恐らくアタシやすずかは愚か……なのはの家族でさえも彼女を救えないという事になる。
認めたくは無い、だけど此れが真実なのだ。
そしてそれを知っているのは恐らくアタシだけ、アタシはもう……逃げたくなかった。
きっとアタシはこれからもなのはの事を遠くから見ていることしか出来ないだろう、何せアタシも聖人君主じゃないから。
でも、それでもちょっとでも……例え此れが偽善になってしまうのだとしても見えない所から彼女の力になってあげたい。
その気持ちだけに嘘はつきたくない、だから私は思い切って一旦途切れた言葉の先をゆっくりと口にした。

「こんな私でも何時か受け止めてくれる人がいると信じてる、そう言ったのよ……あいつは……」

「そ、それって……」

「そう、なのはは意地になって皆を遠ざけてるんじゃない。逆に見限られたのよ、アタシもすずかも、それに……なのはの家族も。アタシ達はもう……なのはを受け止めてあげる側の人間じゃ、ないのよ……」

そう、それがあの時なのはが語った事の全てだった。
初めの内はアタシも勘違いしていた、これはつまり何時か全部が元のように戻って皆が自分を理解してくれるのではないかというそんな期待の言葉だとそう思っていた。
しかしこの言葉の真意はそういうものではない。
私の居場所は此処にはもう無い、だから私は新しい自分の居場所をくれる人を待ってる……とどのつまりなのはが言いたかったのはこういう事なのだ。
つまり此れは二度とアタシ達の関係が修復されない、いやもっと言ってしまえば戻す気すらないという意思表示なのではなかろうか。
そういう原因がアタシにもあったのは認める、すずかにも多分なのはの家族にもそうだってことも重々理解している。
だけどあの子は……やり直しをするチャンスすら与えてくれないといっているのだ。
この真の意味を理解した時、アタシもすずかもしばらくの間俯いたまま固まってしまっていた。

「どう、して……こんな風になっちゃったのかな? 私たち、何処でどう間違えちゃったのかな……」

「……すずか。“間違っていた”のはアタシよ。すずかは間違ってなんか無い、すずかをそうさせたのは他でもないアタシ。なのはを救おうとしてたすずかの足を引っ張ったのは……アタシなのよ……」

「で、でも―――――」

「気負うんじゃないわよ、すずか。アタシはさ……ずっとあんたに憧れてた。何時だってみんなの目線なんか気にしないでなのはの元へと向かっていける……そんなあんたに。だから……少しだけ、懺悔させてよ。こんな事すずかに話したってどうしようもないって言うのは分ってる。それを承知の上でちょっとだけ付き合って頂戴……」

その後アタシはポツリ、ポツリと自分の罪をすずかへと告白した。
分っている、これは逃げだ……本来謝るべき相手はすずかじゃない筈だ。
だけど、こうでもしないとアタシは正気を保っていられなかったようにも思えた。
そもそもアタシって何だ、”アタシらしい“とは一体なんだっていうようなそんな根本的な事すら疑問になってしまうからだ。
アタシはアタシ自身が見えなくなっていくのが怖い、一体アタシという人間が何者なのか自分で分らなくなるのが怖いのだ。
だから責めて壊れてしまう前にすずかに全てを話しておこう、そう思ったのだ。

「今からする話は誰にも話した事の無い事よ、勿論親だろうが親戚だろうが誰にもね。アタシはなのはが虐められるようになった時、ずっと黙って下を向いていたわ。なのはが蹴られても殴られてもずっと俯いたまんまで何も出来なかった……」

「……………」

「何時だったかなのはを虐めてた連中はアタシの元に駆け寄ってきて甚振られてるなのはを指差しながらこう言ってきたわ。アリサ、確かにこんな気持ち悪い顔をした子だけれど一発殴ればそれなりにスカッとするぜ。アリサ、けじめって言うのは早い内に付けるもんだ、嫌だったんだろ高町に付きまとわれるのが。だから―――――」

一番最初に高町殴るのお前に譲ってやるよ、顔も名前も覚えてない男子生徒はアタシに向かってこういってきた。
勿論アタシは嫌だった、今はどうだかしらないけどあの当時はアタシも胸を張ってなのはの友達だと言える様な関係だった。
だからこんな事を言ってくる、いやそれ以前にそんななのはをアタシに見せ付けてくる連中の気が知れなかった。
その時のなのはは上目遣いでアタシに「助けて」って訴えていた。
アタシだって直ぐにその連中に殴りかかろうと拳を固めた……だけど出来なかった。
その時連中があたしに向けてきた目、アレは凡そ人を見るような目じゃなかった。
やらなかったらお前も同じ目に合うぞ、お前も仲間外れにするぞ、お前もまたあの時と同じ孤独に突き落としてやるぞ……アタシはその目がトラウマと重なって動くに動けなかったのだ。

「……嫌な、話だね」

「本当ね、我ながら本当に情けなくなってくるわ。だけどさ……くそ、言うにも勇気がいるんだけど……アタシは、あの時……」

アタシはギュッと自分のスカートを掴んで何とか堪えた。
本当なら今すぐにでも逃げ出してしまいたい、こんな事を話したくないという自分を何とか叱咤しているのだ。
こんな事をすずかに言ったらアタシもすずかに嫌われてしまうかもしれない。
そんなのは嫌だ、今のアタシの友達と言えば後はすずかだけなのだ。
すずかだけは失いたくない……これ以上独りぼっちになりたくない……。
でも、だからこそすずかには隠し事をしておきたくない。
そんななけなしの真直ぐな自分が邪で臆病な自分に打ち勝ったのだろう、アタシはすずかにその後の言葉を少しずつ紡いでいった。

「アリサちゃん。アリサちゃんは何も気負うような事はしてないよ。だって……最後までやらなかったんでしょ?」

「それは……あんたの御蔭よ、すずか。最終的にアンタが入ってきてくれなかったら、アタシはきっと―――――」

なのはを殴っていたかもしれない、その言葉が過ぎった瞬間胸が重く痛んだ。
そう、結果だけすればアタシはなのはを殴るような真似は避けられた。
その理由というのも、先生を呼んだ振りをして近づいてきたすずかの気転で連中が勝手に逃げ出して事なきを得たのだ。
あの時は心の其処からすずかに感謝した、なのはもあの時はすずかに感謝していたけれどそれ以上にアタシはすずかに感謝していた。
友達を殴りつけて裏切るような真似をせずに済んだ、それがあの時の唯一の救いだったのだ。
だがそれと同時にアタシはその時からなのはから離れるようになってしまっていた、一度でも殴ってしまおうと思った自分が許せなかったからだ。
だけどそれにしたって離れるならアタシだけが離れればよかったのだ、でもアタシは一人になるのが嫌だからその逃避にすずかを道連れにしてしまった。
そしてその結果、なのははより一層孤独になってしまった……それが全てなのだ。

「アタシは、なのはを殴りつけるなんて真っ平御免だった。だけど……アタシは怖かった。ただでさえ閉鎖的で生徒同士のコミュニティが物を言う集団生活の中で孤立してしまったらアタシは“敵ばっかりの教室”でまた独りぼっちになってしまうもの」

「アリサちゃん……」

「もしもあの時すずかが来てくれなかったらアタシはクラスの連中と同じ最低最悪の人間と一緒になって今でもなのはを虐めてたと思う。生涯ずっと引きずることになる大きな大きな傷になってアタシの胸に蔓延り続ける事になっていたはずよ……そうせずに済んだのは、すずか……あんたの御蔭よ」

「そんなこと……全然。私も一杯一杯だったし……今もなのはちゃんに振り向いて貰えないのは一緒だから」

すずかは少しだけ照れくさそうに頬を赤らめていた。
本当はこの話には続きがある、実は逃げ出した連中は後になってすずかがなのはを助けた事に感づいてしまっていたのだ。
そしてこうのたまったのだ「月村の奴ってもしかして高町と同類?」、と。
アタシは我慢できなかった、此処まで頑張っているすずかすらもあいつ等の毒牙に掛かって虐められてしまうというのが我慢ならなかった。
だからせめてすずかだけでも……アタシはすずかとなのはを天秤に掛けてすずかを選んだのだ。
最低だ、アタシってつくづく最低な奴だと思う。
友達を選んだのだ、それも掛け替えない親友同士を天秤に掛けて……そしてその事実をまだすずかに言えないでいる。
本当に最低な奴だ、アタシという人間は……。

「……ねぇ、すずか。アタシ達……何時かなのはから“許して貰える”と思う?」

「分んない。だけどアリサちゃんがそう思ってくれている限り、なのはちゃんの周りは少なくとも敵ばっかりじゃない……そう思うんだ。今はまだ許して貰えないかもしれないけど……私は信じてる。また昔みたいに三人仲良く一緒にいられる日が来るって……」

「……本当に、ね」

アタシとすずかは一斉に窓の外を向きながらそんな事を言ってこの話を打ち切った。
そして何の因果かこの時、窓の外ではポツリポツリと雨が降り出していた。
そういえば今朝方すずかとあった時も曇っていたような気がする、もしかしたら天気予報では雨が降るって行っていたのかもしれない。
生憎とアタシもすずかも傘や合羽は持ち合わせがない、しばらくはこの店に留まる事になりそうだとアタシは思った。
そしてアタシはこうも考えていた、この雨の空の下でなのはは一体何をやっているのだろうか。
この今日という日を少しでも幸せに過ごせているだろうか、そんな漠然としたアタシらしくもない心配だった。
だけどもしもこんなアタシの想いが少しでも通じるのならせめて何時もよりかは幸せであって欲しい。
願わくば、なのはが求めている“居場所”の中で……。
雨は、夜まで止みそうもなかった。



[15606] 第五話「出会い、そして温かい言葉なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/20 16:45
祝日、その日は一日学校が休みな皆の休日だ。
凡そ定休日が指定されている学生さんにとってはこれほど嬉しい日はない、偶には私のような例外もいるが大体の人はそう思っているはずだろう。
朝早く起き出して仕度しなくてもいいし、お望みとあれば朝の10時位までゆっくりと惰眠を貪れる。
何ならちょっとお金を使って何時もは食べられないような物でも食べてみようかとも思うし、友達を呼び集めてカラオケでも行こうかとも考えるのもそう理解に苦しむ物でもない。
寧ろそれが普通、この日をあまり喜ばない私こと高町なのはのような人間が異常なのだ。
私は休日が嫌いだ、確かに学校に行かなくて済むけれど結局一人な事に変わりはない。
時間を得た所で私は孤独、何処にもいく宛も安息を得られる居場所もない……と普段なら思うところだが今日は少し違っていた。
私は携帯電話をギュッと握り締めながら久しぶりに浮かべる自然な笑顔を顔に貼り付けて少々曇り気味な空の下を一生懸命走り抜けていたのでした。

「こんな気持ち……何ヶ月ぶりかな、えへへ」

普段の自分だったら今の私を見て絶対に気持ち悪いと漏らしている所なのだろうが、それほどまでに私は嬉しさをかみ締めていたのだ。
休日に誰かの家に行くという喜び、誰かと一緒に居られるという嬉しさ。
昔ではなんて事はないと思っていたような些細な当たり前が今は言葉に言い表せない位私には嬉しいわけでして……そう思うとやっぱり笑みがぶり返してくるわけです。
こんな気持ち、本当に久しぶりだったから。
そう思いながら私は再び携帯電話を開いてもう一度自分に寄せられたメールの文面をもう一度読み直すのでした。

「お近づきの印に私の家に遊びに来ませんか、かぁ。そういえば私、先生の家に行くの初めてだ」

携帯電話の画面には女性らしい絵文字をふんだんに使った文面が浮かんでいた。
勿論差出人は先生から、内容はまあ簡単に言ってしまえば暇だったら私の家で遊ばないかというお誘いだった。
当然私にはそれを断る理由なんて何処にもなく、有無を言わせず数秒で承諾。
だから休日だというのにこんなに朝早くから私は全然使わなくて埃を被っていたバックを引っ張り出して、その中にありったけのゲームを詰め込んで運送屋さんの真似事のような事をしているわけだ。
先生は以前からゲームをすると私に度々話してくれていた、聞けばそれなりに映画にも精通しているらしい。
歳は結構離れてしまっているけど話題は合うから盛り上がる話題には事欠かないはず、先生と生徒という関係を無しにしても私は先生と上手く付き合っていける……殆どは私の一方的な期待なのだが、私には何となくそんな自信があった。

「家は……確かこっちだっけ? これならあの公園を通った方が早いな……。ちょっとまだ怖いけど、封鎖とかされてないよね?」

先生の家への道のりは行くと宣言した後に直ぐに画像で送られてきたから何処にあるのか私は知っていた。
商店街を通り越した先にある新築の高級マンション、其処に先生の家はあるとの事だ。
私も生まれてこの方この街を離れたことはないから、この辺の地理には少々明るかった。
だからその地図が送られてきた時も「あぁ、ここなんだ」って直ぐに納得する事が出来たのだ。
そしてそのルートを照らし合わせてみると、其処へ行くには件の事件のあった公園を抜けるのが近道になってしまうのだ。
今も私のポケットの中にお守り代わりとして入っている綺麗な宝石を拾った場所、そしてそれ以前に一人の子供が散々な殺され方で死んでいたとされる不吉なのか何なのかよく分らない場所だ。
私はあんまり迷信だとかそういうのは気にしないタイプだけど、それでもちょっとは気後れという物を憶えてしまったりもする。
だからちょっとだけ、近道の為にそんな場所を横切るのは不謹慎かとも思ったのだ。

「大丈夫……。うん、大丈夫。どうせ罰が当たったってこれ以上私……不幸になれるとは思えないもんね」

さりげなく自虐的な独り言を言いながら私は目の前に見えた公園の入り口へと向かって歩く速度を少しだけ速めた。
もしも不謹慎な事で罰が当たったとしてもこれ以上悪い事なんて早々起こりはしない、少なくとも私はそう考えている。
自分がこの世で一番不幸なんだって思っている訳じゃないけど、それでも社会の底辺くらいに自分は居るのだという自覚はしっかり私も持っている。
誰にだって見放されたし、誰にだって信用されなかった……つまり今の私は皆からしてみれば態の良いストレスの吐き出し口みたいな物だ。
綺麗な言葉を借りるなら必要悪、悪く言えば単なるゴミ箱と一緒だ。
だけど今日はそんな私でも必要としてくれる人間からの誘いがある、こんな私でも受け入れようとしてくれている人間がちゃんと居てくれる。
だったらこの先どれだけ悪い事が起きるのだとしてもせめて今日だけは幸福という物を噛み締めていたい、そんな気持ちがよっぽど心に蔓延っていたのだろう。
私は公園の入り口に封鎖テープや見回りの警官さんが居ない事を確認すると、急いでその門の中へと入っていった。

「やっぱりこんな事があった後だから誰もいないなぁ……何時もなら結構人がいるのに」

公園は休日の昼間だというのに人影は殆ど見受けられなかった。
まあ当然といえば当然なのかもしれないが、普段なら例え平日であっても子連れの親子や暇を持て余したお爺さんお婆さんがよくお散歩をしている姿をよく見かけるのだけど今日に限ってはそういった手合の人間も見当たらない。
殺人事件、あくまでも断定は出来ないけれどこれがどれだけこの国では重い物なのかということの表れなのだろうと私は人知れず思った。
人が死んでしまうというのは多かれ少なかれ世間にインパクトを残す。
例えその規模が小さいか大きいかは別としても、時には他の人間の人生を狂わせる事だってあるし、それに連なるように一生消えない傷を負ってしまう人だっている。
そりゃあまあ当事者でもその関係者でもない他の人には二、三日もすれば記憶から消えてしまうようなちっぽけな物ではあるのだろうけど……それでも人が死ぬというのは悲しいものだ。
生きている価値がない、生きていてもどうしようもない……こう思う人を私は責めようとは思わないし、あぁこの人はそんな風に思って死んでいくんだなって納得出来てしまう。
だけど何の落ち度もないのに突発的に命を奪われる事以上に理不尽な物はないと私は同時に思っていた。
死ぬのと殺されるのでは終着点は一緒でも意味合いが全然違うのだ。
もっと生きたかった、明日を誰かと一緒に過ごしたかった、大事な人に大事な事を告げられなかった。
そんな人が死んでしまうのは間違いだと思う……こんな私が偉そうに言える様な事じゃないのかも知れないけど、こんな私のようになってからでは遅いのだ。
だから私は此処で死んでしまった少年の事を考えて、少しだけ名も知らないその子の事を慈しんであげたいような気持ちになったのだった。

「……可哀想って思うのは簡単だけど、たぶんそんな言葉で片付けてしまったらそれまでなんだろうね。どんな子かは知らないけど、やっぱり死んじゃうのは良くない。うん、よくないよ……」

それはある意味自分自身への叱咤でもあったのかもしれない。
私自身こんな風に言って他人事のように受け流してしまってはいるけど、決して他人事ではないのだという事を忘れてはいない。
死にたい、死んだら楽になれる……今までの人生で一度もそんな事を思わなかったかと聞かれればやっぱり嘘になるからだ。
クラスの皆にリンチされている時や、そんなボロボロな私を見ても何も気付いてくれないでもっともらしい説教だけを掛けてくるお母さんやお父さんの前で私は何度もこう思った。
「何で私は生まれてきたの?」そんな疑問は尽きる事はなかった。
私だって生まれつき嫌われていたわけじゃない、お母さんやお父さんだって最初からそんな風に怒ってばっかりではなかった。
だけど今の私はこんな風になってしまった、最低最悪の、偉い人曰く社会の屑になってしまった。
もう限界だった、そうでもしなければきっと私の心は木の枝みたいにポッキリ折れてしまっていたことだろう。
皆が向けてくる目が、掛けて来る言葉が、暴力を振るう接触が高町なのはという存在を壊して「自殺」という選択肢を生み出していた筈だ。
だけど今の私がこんな風になってまだ生きたいと思えるのは、こんな私を受け入れてくれる人は零じゃないって希望がまだ心の中に残っていたからだ。
初めは諦めから生まれた切ない願望だと思っていた、だけど現に先生のように私を受け入れてくれる人だっていた。
だから私はまだ生きていられる、「死ね」と言われても死んでやるもんかって気持ちを忘れずに抱き続けていられるのだ。

「そうだよ。私は……絶対に死んだりなんかしない。絶対に……」

どんなに嫌な事があってもそれが人生の全てじゃない、先生からの受け売りの中で私が最も大事にしている言葉を心の中でもう一度復唱しながら私は歩を進める。
人には生きる権利はあるけど、生き続ける義務は何処にもないと先生は言った。
生きる事は誰かに保障されているけど、生きていたいという気持ちを縛り付けられる人間なんて自分以外には存在しない……なるほどその通りなのだろうと私は思った。
だけど先生はこうも言った、確かにこの道理はその通りなのかもしれないけどだったら責めて死のうと思う前に自分の抱ける希望全部を使い果たしてみろって。
死ぬ事は確かに楽、自分が苦しいと思える環境にいるのなら尚更楽になれる。
でもそれは決して「救い」にはならない、結局は救いがあるかもしれない世界からの「逃げ」にしかならない。
だから命を絶つ前に精一杯抗ってみろ、例え行動出来なかったとしてもいいから「こんな私でも幸せになってやったよ、ざまあみろ」って物を一つでも得てから死んでやれ。
そうすればナイフを自分の胸に突き立てるよりも早く笑いが込上げて来て、死ぬのすらもなんだか馬鹿馬鹿しくなるはずだから……。
まだ私にはこの言葉の真の意味を理解する事は出来ないでいる、けど何時か理解できればいいなって言うのは常々思っている。
私も結局そんな言葉に救われたかもしれない人間の一人なのだから。

「私は……んっ、あれ?」

不意に私はそこで彼是考えていた自分の思考を打ち切った。
自分以外の存在を視野の中に捉えた所為で少々びっくりしてしまったからだ。
その人物は私よりもずっと年上の黒髪の男の子で、だけど決定的に肌の色とか雰囲気とかが日本人とは異なっていた。
歳は大体中学生くらいだろうか、手にはそれなりに値の張りそうな花束を抱えている。
そしてその表情は何処か悲しげで、その年頃の男には似合わない哀愁を漂わせていた。
私はその様子を見ながら思わず早めた足を緩めて、ジッとその人の事を観察していた。
やがてその男の子はテープで覆われた木の傍に花束を置くと目を閉じて手を合わせて黙祷を始めた。
その瞬間、私は理解した……この人はこの前の子を弔っている。
きっと何処の誰が見たってそうなのかもしれないけど、ニュースでは身元不明だって言っていたからてっきり親族だとか友人とかはいないのだとばかり私は思っていた。
そして私は……殆ど何も考えずに、そんな男の子の様子につられてフラフラとその花束が置かれた物へと歩み寄ってその人と一緒に手を合わせた。
何で自分でもこんな事をしたのかは正直よく分らない、だけどこうしなくちゃいけないのではないかって訳の分らない衝動が私の身体を駆り立てたのだ。
男の子はそんなの私の様子に一瞬だけ気が付いたようだけど、またゆっくりと黙祷をしなおしていた。
そんな時間が数十秒、殆ど同時に黙祷を止めた私は男の子に何か話しかけようと思ったのだけれど、相手がこれまた外人さんである為上手く話しかけることが出来なかった。
でも、男の子は幸いにも日本語がこれまた達者だったようで何の気兼ねもなく初対面の私に対して優しい言葉遣いのまま話しかけてくれたのでした。

「君は……此処の近所の子?」

「あっ、はい。ちょっと家は離れちゃってますけど……。お兄さんは?」

「あぁ僕はこの人の関係者……になるのかなぁ。別に友達って訳でもないし、そもそも面識がある訳でもないんだけどね。この国の言葉で言うなら社交辞令って奴かな」

「そうなんですか……」

その割には何だかとっても悲しそうに見えたけど、私は何となくそう思った。
現にその男の子―――――なんだかこんな風に言うのも何だから便宜上“お兄さん”って呼ぶ事にするけれど、お兄さんはとっても悲しそうな顔をしていた。
まるで無力な自分を叱咤しているような、そしてそれでいて何だかやり切れないって気持ちを隠しきれない……そんな感じだった。
私はこんな顔をしている人物を知人に知っている、この人の今の表情は私の元友人であるすずかちゃんが私に対して浮かべてくる表情にそっくりなのだ。
だけどすずかちゃんには感じられる抵抗感がこのお兄さんから感じないのは、本当に一切の偽り無くこの死んでしまった子の事を想ってあげているからなのだろう。
お兄さんとこの死んでしまった子の関係を私は知らない、面識もないって言ってたから多分会ったこともなかったに違いないけどあえて私はそんな風には考えなかった。
だってそんな何の関係もない人が、こんな本当に心の其処から死を慈しむような顔が出来る筈ないのだから。

「……どうして、君はこの子に手を合わせようって思ったんだい?」

「あの、えっと……正直自分でもよく分らないんです。だけどお兄さんの様子を見てたら何だか一緒に手を合わせた方がいいような気がしたんです。変ですよね、私?」

「いや、おかしくなんかないよ。優しいんだな、君は」

「い、いえ……そんな……」

そんな風に言われたのはもう何ヶ月ぶりだ、だから私は自然に喜ぶ事が出来なかった。
私は優しくなんかない、ただその場の雰囲気に流されやすいだけなのだ。
お兄さんがいなかったら多分私はそのまま此処を素通りして先生のマンションへと急いでいただろうし、ちょっと気味が悪いなと思う程度でそれ以上の感情を抱く事もなかったに違いない。
それに私は元々誰かに優しくして貰う事は出来ても、自分から誰かに優しくは出来ない人間だ。
散々私の事を分ってくれないとは周りに言えても、結局私自身も周りの人間の気持ちになんて察してあげられもしない……つまり独り善がりなのだ。
だから正直お兄さんの言葉には戸惑いしか生まれなかった、嬉しいとか照れるとかそんな気持ちよりも何よりも戸惑いだけが私の心の中に渦巻いていた。

「それを言うのならお兄さんも優しい人だと思います。見ず知らずの人の為に花束まで添えてあげるなんて……私には出来ません」

「僕は別に優しいわけじゃないさ。ただこんな風になってしまう前にどうにか出来なかった自分が悔しかった、そんな自分の気持ちを戒めたいだけなんだ。もしかしたらこの子は助かっていたかもしれない……そう思うと辛くてね。単なる自己満足だよ、僕の場合は」

「それでも、こんな事普通は出来ないと思います。理由はどうであれ、しないよりはよっぽどマシです。だからあんまり自分を責めない方がいいですよ?」

「……そうかもね。ありがとう、そう言ってくれると気が楽になるよ」

そう言ってお兄さんは苦笑を浮かべてジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
身長差も結構あるもんだから私がお兄さんを見上げる形になってしまうのだけど、お兄さんはちょっとだけ吹っ切れたような顔を浮かべていた。
だから私はちょっとだけこう思った、お兄さんは一人で背負ってしまうタイプの人間なんだって。
この手のタイプは人生において損をする、私もそうだったからよく分る。
何時も何時も何をされたって強くあろう、自分がしっかりしてなきゃ周りに心配を掛けるって思い込んで自分が壊れるまで無理をする。
しかも壊れた後ですらも本当の事を自分の中に仕舞い込んだまま、本当の事を主張できないと来ているのだから私も案外筋金入りなのかもしれない。
そしてお兄さんも、たぶんそのタイプの人間なのだろう……その証拠にお兄さんは自分が何とかしなければっていう使命感を感じている様子だった。
見ず知らずの人間にも自分を犠牲に出来る人間、それが私がこのお兄さんに抱いた印象だった。

「それじゃあ僕は行くけど、君も何処かに行くなら気をつけた方がいい。この辺りは何かと最近物騒だからね」

「そうですね……じゃあ、お兄さんも気をつけて」

「あぁ、君も達者でな」

そんな当たり障りのないやり取りを残して私とお兄さんはすれ違うように別れた。
お兄さんは入り口の方へ、私は出口の方へとそれぞれ別々の道のりを歩いていく。
お互い名前も歳も住んでいる場所も知らない赤の他人同士だったけど、知らないからお互いに語り合う事も出来るというのを私は感じた。
きっとあのお兄さんが私の本性を知ったら失望する、だから勘違いなんだとしてもこんな風に別れるのが一番だと思ったのだ。
あのお兄さんは凄く生真面目そうな人だ、少し不器用な感じがしたけど悪い人じゃない。
そんな風に思いながら私は一人、先生のマンションへと足を進めるのだった。





先生の家に着いたのは家を出てから大体40分くらい経ってからの事だった。
その場所まで行くまでの時間は確かにそれ程掛からなかったけど、なんとも間抜けな事に私は先生の住んでいる部屋の番号を聞いていなかったのだ。
だから着いたのはいいけれど何処に誰が住んでいるのかまったく検討が着かず、結局私は最終的に先生に外まで迎えに来て貰うことにしてようやく先生の家に入ることが出来たのだった。
先生の部屋は凄く綺麗な場所だった、生活観に溢れているけど決して不潔ではなく寧ろ細かい所まで掃除が行き届いていて棚やキッチンもきっちりと整頓されていた。
それに先生が事前に予告していたようにゲームや映画のDVDも沢山あった、その数も結構馬鹿に出来ない物でちょっとしたネットカフェみたいに豊富な品揃えだった。
端的に言えば先生の部屋は居心地がよかった、まったくその一言に尽きるといっていい。
部屋に着いた私は何時もの自分も忘れて歳相応の子供として存分に振舞った、無理をしていた自分も、何も察してくれない家族も、行くのが嫌になる学校も全部忘れてはしゃぎ回った。
先生がお勧めしてくれた人気の格闘ゲームとRPGを組み合わせたゲームである「テイルズオブシンフォニア」を二人で一緒になって攻略したり、「いただきストリート」なんかで対戦したり、飽きたら原点に返って「スマッシュブラザーズ」何かをして盛り上がった。
時間はどんどん過ぎた、昼前からいた筈なのにもう時間は夕方の四時を回ろうとしていた。
ご飯は先生が作ってくれた、何処の家庭でも簡単に作れるようなミートソースのスパゲッティだったけど此れが凄く絶品だったのが印象深かった。
本当に何でも出来る、そして何でもよく知っている……何時もは皮肉ばっかり言っていて素直になれなかったけど今ならちゃんといえるような気がした。
この人は私の自慢の先生だって、昔の私のように。

『生徒は腐った蜜柑なんかじゃないんです!』

「本当、こんな先生が実際に居たら問題も減りそうよねぇ」

「ですね~」

今私たちは一緒にソファーに座りながら二人並んでテレビを眺めていた。
画面では先生が持っていたDVDの中の一作である「三年B組金八先生」のファーストシーズンの映像が映し出されたいた。
何でこんな渋い物を見始めたのかといいますと、実際にはそんなに深い意味もなくただなし崩し的に此れにしようと私が言い出したのだ。
他にも「ダイ・ハード」だったり「ラストマン・スタンディング」だったり面白そうな外国の映画も沢山あったけど、何と言うかそういう物を見る気にはなれなかったのだ。
別にアクション映画が嫌いって言うわけじゃないけど、今の雰囲気で見る物ではないと思ったのだ。
しかし、幾ら適当に決めてしまったとは言えども金八先生は少々的外れだったのではと思ってしまわないでもないのが今の現状だったりするのだ。
そりゃあそんな雰囲気だったって言うのもあるかもしれないけど、ちょっとだけ二人してブルーな気分になってしまったような……ほんの少しだけど祝日の午後の明るい関係を崩してしまったような気がしたのだ。
先生は特に気にしていないようで愚痴にも似た感想を漏らしてなんかいたけれど、そんな先生に対して私はやっぱり相槌を打つしかなかったのだった。

「熱血教師って今じゃ冷めるとか何とか言われてるけど、それってこんな風に真直ぐなわけじゃなくて単に向ける情熱が空回りしているだけなように私は思うのよ。まったく、今の教師って子供を見てるのか数字を見ているのか分った物じゃないわ」

「先生もその“今時の教師”なんじゃないんですか?」

「ははは、まぁそうなのかもね。だけど私はほら……養護教諭でしょう? こんな風に身体張る事なんて皆無なわけだし、そもそも健康診断の日でもない限りは殆ど仕事もないから実際に生徒の成績とか気にしてるわけじゃないのよ。数字を決めるのは担任と教科の先生だけで私は言わば“教師であって教師じゃない”のよ」

「なんかちょっと変ですね。言い方は皆“先生”なのに」

まったくね、そう言って先生は寂しそうに笑った。
画面の向こうではまだまだ若い頃の金八先生が身体を張って不良生徒を元居た学校の先生から守っている姿があった。
このシリーズも既に何作も作られている人気シリーズな訳だけど、最近では麻薬や引籠もりといった現実的な問題を取り上げている所為か勢いが衰えてきている印象もある。
それでも面白いには面白いのだけれど、今の金八先生はこの頃の金八先生とは違って熱血教師というよりも人徳のある生徒想いの先生というように変わってきている気がするのだ。
それが嫌いって訳じゃないけど、私はどちらかといえばこんな風に身体を張って誰かを必死で助けようとする金八先生が好きだった。
私自身も「あぁ、こんな先生が居たら私だって~」と思ってしまう部分が大きいのが原因なのかもしれないけど、私も先生と同じようにこんな先生が現実に居てくれればと思っている人間の一人だ。
でも、こんな都合のいい先生はこの世には存在しない……そんな風にも私は思っている。
だって私の横に居るこんなに優しい先生でも“社会での立場”と“周りからの目線”という重たい鎖を背負って今を生きているのだ。
子供の社会も大人の社会も根本的には変わりはしない、先生が表立って活動できないのを未だに歯痒いと思っているのもそれが原因なのだろうと私は考えている。
だってこんなドラマの人みたいに現実の人間は強くはないのだから。

「何を思って教師になったのかっていうのは様々だけど、まぁ理想の高い人ほど数字に固執するものよ。自分の受け持つ生徒こそは~っていうプライドがあるからね。その分まだ私は楽な方よ。同じ“先生”でもね」

「じゃあ、先生はなんで教師になろうと思ったんですか?」

「……さぁね、忘れちゃった。周りに流されるまま流されて、なし崩し的に教員免許取って……気が付いたら今の自分になってたのよ。こんな事を言うと周りの先生に失礼かもしれないけど特別子供が好きだったって訳でもないし、教育に対する信念があった訳でもない。皆就職するから自分も何とか手に職つけよう、所詮は動機なんてそれだけよ」

「なんか……ちょっと意外です。だけど多分他の先生よりも誰よりも私は先生が一番好きです。たぶん、誰よりも……」

先生はそんな私の一言が少しだけ恥ずかしかったようで、照れたようにありがとうと言いながら煙草を吸い始めていた。
カチン、と鳴るライター……そして煙草に火が付けられるちょっと焦げたような匂い。
私はこの匂いが好きだった、何時も自分が居る場所にはない匂いが凄く気持ちを安らかにしてくれるのだ。
巷では副流煙とか言われて騒がれているけれど、どうせ私は健康の事なんて気にする性分じゃない。
元々限りなく不健康な人間なのだ、今更これに病気のカテゴリーが一つや二つ追加された所でどうと言う事はない。
だから私はそんな先生の様子を咎めるでもなく、自然と足をぶらぶらさせながらその様子を眺めていたのだった。
先生は私の憧れだ、一つ一つの動作が凄く大人びていて尚且つ其処には一切の無理がない。
余裕があって、何でも出来て、そして博識……きっとこんな女性をクールビューティと呼ぶのだろう。
出来れば私も将来はこんな風になりたい、私の目標は何時も直ぐ傍にあった。

「煙草って……美味しいですか?」

「んっ~? そうねぇ、美味しいといえばそうとも言えるし、そうでないと言えばそうじゃないかもしれない。まぁ、私にも正直味なんて分らないわ。だけど吸うとちょっとだけ気持ちが楽なる気がするのよ。こんな職業でしょう? ストレスも溜まるのよ、色々と」

「私も大人になったら吸ってみたいです、煙草。何だかカッコいい気がしますから……」

「止めておきなさい、身体に毒なだけよ。それに煙草臭い女は嫌われるわ。もっとも、それでも吸うんなら止めないけどね。誰もいない静かな場所でこっそりと、生徒にこんな風に言うのもアレなんだけど吸うならバレないようにね。今の世の中煙草一本吸ってるだけで大騒ぎだから」

気をつけようと思います、心にもないことを私は先生に返した。
言葉で言ってみたのはいいものの、私は別段そんなに煙草に魅力を感じては居なかった。
私が好きなのは煙草を吸っている先生であって、煙草その物ではない。
それにまだ私は9歳、吸っていい年齢になるまでには後11年もの歳月が必要になる。
どんな風になるのか、また吸っている時はどんな気持ちがするのか……幼心に単純な興味は湧かないでもなかったけど、所詮はそれだけだった。
だけど先生の言い分だと、あんまり煙草を吸っている人間は世間からは好ましく思われないらしい。
もしかしたら先生自身もそうなのかもしれないけれど、確かにそんな風なイメージはある。
煙草を吸わない人間にとって喫煙者というのは百害あって一利なし、つまりは害でしかないからだ。
私のように時々変わった人間も居るには居るのだけれど、殆どの人は健康やら環境やらの事を考えてそういった人を目の敵にする。
煙草っていう存在そのものが不良の象徴みたいな、何だか変わった感じだった。
何時か私もそんな事を理解する日が来るのだろうか……先の長い話だと私は思った。

「さぁて、と……あら?」

「どうしたんですか?」

「外、雨降っちゃってるわ。しかも結構強いわね……貴女傘は持ってる?」

「あ、その……持ってないです。天気予報とか私見てきませんでしたから」

そう言って私は先生が見ている窓の外と、壁に掛かっている時計を交互に見回してみる。
外の様子はさーっという静かな音が漏れていて、一発でそれなりに強い雨が降っているのが見て取れた。
きっと時間が経てばもっと強くなる、そんなような気分を憂鬱にさせる雨だった。
そして時間の方はそろそろ夕方の五時を示しだそうとしていた。
本当なら何時までだって先生の家に居たいのだけれど休日の日は何時もよりも少し早く帰らないとお兄ちゃんがかなり煩い。
休日の日に私が何処で何をしていようと勝手だとは思うのだけれど、必要以上に絡みがウザったくなるので出来ればそういったような事態は避けたかった。
つまり私はもうそろそろ帰宅しなくてはいけないようだった、楽しい時間はすぐ過ぎるとはよく言ったものだけどそれにしたってあまりにも早すぎるのではないかと私は思った。
やっぱり時間って言うのは何処までも残酷だ、そんな風な気持ちを浮かべながら。

「そう……本当は家まで送っていってあげたいのは山々なんだけど、私この後お客さんを家に呼んでいるのよ。ごめんね、傘はちゃんと貸すから」

「先生が気にする事じゃないですよ、私は大丈夫ですから。ただ……もうちょっとだけ先生の家に居たかったです。家に帰っても、どうせ……」

「はいはい、湿っぽいのは無しよ。それにこれからだって好きな時に遊びに来れるんだから、此れで最後だって言うような気持ちにならないの。じゃないともっと楽しい事が起こった時に素直に楽しめないじゃない。私は……何時だって歓迎するわよ」

「ありがとう……ございます……」

私は先生にしっかりとお礼を言いながら自分の荷物を纏め始めた。
持って来たゲームやコントローラーを入れたバックは来る時よりもずっと重さが増しているような気がした。
先生はこう言ってくれているけど、やっぱり本心を言えば私は家に帰りたくはない。
どうせ家に帰ったって私は一人だ、こんな風に自然に話せる相手もいなければ笑いかけるような人間も居ない。
煩くて、煩わしくて、そして無関心な家族と呼ぶのも嫌になる人間があそこには居るだけだ。
だから出来うる事なら帰りたくはない、無理だと分っていても私はそう思わずにはいられなかった。
だから咄嗟にこんな事を漏らしてしまったのだろう、何時もの私らしからない言葉は本当に息を吐き出すかのように私の口から漏れ出したのだった。

「私……先生の子供だったらよかったのに。そうすれば、先生とずっとずっと一緒に居られるのに……」

「止めときなさいな。私のような女を母親に持ったって絶対碌な事にはならないわ。それにね……私は貴女が思ってるほど善人じゃないわ。ただ自分に甘いだけ、こんな自分に酔ってるだけなのよ」

背を向けながら吐き出した言葉の返答に私は少しだけ虚しさを憶えた。
分っている、どれだけ望んでもそんな結果はありえないのだと私だって分っているのだ。
どんなに嘆いても喚いても私の家族はあの人達であって先生ではない。
どれだけあの人達よりも先生の方が良くったって、そう運命付けられてしまったのだから覆しようがないのだ。
弱った心が漏らした唯の妄言だった、私は自分が漏らした言葉を静かに胸の奥にしまいこんでおくことにした。
叶わぬ望みなら思い描くだけ虚しいだけだとちゃんと知っているから。
それに、私は今のままでも十分幸せ……そう信じなければ次の幸せは永遠に訪れそうにはないと何となく悟っていたから。

「じゃあ、あの……傘はお借りしていきます。さようなら、先生」

「……あ~、ちょっと違うかもね。何時もだったらそれでいいのかもしれないけど、此処に来た時はこう言いなさい」

玄関まで歩いて靴をはいた私は、先生に手渡された大人用の赤い蝙蝠傘を手に持ちながら先生に向かって挨拶をしてそのまま去ろうとした。
しかし其処で私は先生にまたもや呼び止められる、振り向くと其処には苦笑気味に煙草を咥える先生の姿だあった。
それは何処までも寂しげで、そして何処までも照れくさそうなそんな複雑な表情。
多分先生自身もどう返していいのか決めかねている、そんな風な表情だった。
先生でもこんな風な顔を浮かべるんだ、そう考えると結構意外な感じがした。
でも先生はやっぱり一人の人間だった、普段あれだけ飄々としているのにこういう時ばかりは自分がこれから吐こうとしている言葉に恥ずかしさや戸惑いを憶えたりしているようだった。
そんな普段とのギャップに私はちょっとだけ笑いそうになった、あまりにも何時もと勝手が違うのだ。
そんな風に私が思っていると先生は意を決したのか、煙草を指に挟んで一度ゆっくりと宙へ紫煙を吐き出しながら私に対して精一杯の優しい言葉を掛けてくれた。

「また明日。これが最初で最後じゃないんだもの、さようなら何て寂しすぎるじゃない? だから、また明日……こういう時はこう言うのよ」

「なんか、ちょっと照れくさいですね」

「言わないでよ、私も言ってて結構恥ずかしいんだから」

「にゃはは、何だか先生らしいや。それじゃあ先生……また、明日」

後ろで手を振る先生に背を向けながら私は玄関のドアを潜って外に出た。
マンションの外は雨が降っている所為か少し肌寒い、だけど私の気持ちは何時もよりか少しだけ暖かかった。
月並みな台詞だったし、今時誰も使わない子供染みた言葉だったと思う。
今時教育ドラマでもまともに使いそうもない、言葉にすればたった五文字の陳腐な言葉だ。
だけど……少なくとも昔の自分は自然と誰かにこの言葉を掛けていたような気がした。
そんな何気ない一言、誰もが当たり前のように使っているそんな言葉。
そんな言葉に酔いしれていたのだろうか……下へと降りようと重ったらしいバックを抱えながらエレベーターの方へとふらふら歩もうとした私は向こうから歩いてくる人間の存在に気が付かなくて、そのままぶつかってしまった。
直ぐに謝ろうと思って顔を上げてみるとその人は濡れた雨合羽を着込んだ長身の女の人だった。
すずかちゃんの髪と似ている濃い紫のようにも見える短めの髪に、金色にも見る琥珀色の瞳。
そしてかなり背の高い、モデルさんのような体型……しかも何の因果かまた外人さんだった。
この海鳴市は外人さんの遭遇率が極端に高い、そんなどうでもいいような事を私が考えてしまっていると、その外人さんもやっぱり日本語が達者だったのか私が謝るよりも前に直ぐに私に言葉を掛けてきてくれた。

「おっと、すまない。怪我はないか?」

「あ、はい。大丈夫です。こちらこそ御免なさい」

「なに、気にする事はない。それよりも今から何処かへ行くなら気をつけた方がいい。私だったから良かったかもしれないが、不注意で車にでもぶつかったら事だからな」

「あっ、はい。ありがとうございます」

何だか今日は良い人にばっかり会っている気がする、そんな風に思いながらその女の人に私が頭を下げると女の人は優しく微笑みかけてくれた。
ちょっとだけ目つきがキツい人だったから怖い人なのかもと一瞬思ったのだけれど、心優しい人で本当に助かった。
心配してくれた事にお礼を言って私がその場から立ち去ろうとすると女の人は「気をつけるんだぞ」と再度声を掛けてくれた。
何だか見ず知らずの人のほうが知り合いの人間よりも優しいんじゃないか、って思い始めた今日この頃だった。
しかしちょっと考えれば先生が言っていたのはこういう事だったんじゃないかって思う自分も居た。
世の中悪い人ばっかりではない、それは決して誤りではないのだろう。

「また、明日か……。こんな風に言われたの、凄く久しぶりだ」

私は嬉しさを噛み締めながら帰路についた。
エレベーターを降りて、傘を広げ、そして元来た道を戻っていく。
何時もだったらあっちへふらふら、こっちへふらふらといった具合に足取りも覚束ない事が多いのだけれど今日はちゃんと足取りもしっかりしていた。
後、ちょっとだけ世界が明るく見えた……そんな気がしないでもなかった。
確かに明日からはまた憂鬱な学校生活が始まるだろうし、辛い事も一杯待ち受けている。
でも、こんな風な楽しみが少しでもあるならまだ私は頑張れる。
本当に単純な理論なのかもしれないけれど、今の私にはそれで十分だった。

「よし、ちょっとだけ……明日は―――――」

もう少しだけ、頑張ろう。
本当は私はこう言おうと思った、だけど言葉がそれ以上続かなかった。
唐突に途切れてしまった、そう言い直す事も出来るのかもしれない。
それは商店街の道と先生のマンションを繋ぐ通りに在る踏み切りの近くでの事だった。
明日への決意と週末への期待を込めて少しだけ頑張ろうかと思った矢先、それは唐突に目の前に現れたのだった。
それは……雨に濡れたまままるで亡霊のように歩く私と同い年くらいの女の子の姿だった。
後ろ姿だったから表情はよく分らなかったけど、長い金髪をツインテールに纏め上げていたから多分外人さんである事は何となく察しがついた。
しかしそれだけではなかった、その少女の格好は明らかに異常だと思う他ないような醜態を晒していたからだ。
傍から見ていてもその子の纏っている服は所々破けていて、破けている部分には生々しい傷跡が幾つもあった。
そしてその子はそんな自分の身体を引きずるようにして私の目の前を歩いていたのだ。

「あれって……えっ!?」

一体なんだろう、そう思ったのも束の間だった。
カタンコトン、という周期的な車輪が線路をなぞる端的な音が私の耳に飛び込んでくる。
そしてカンカンっていう踏み切り独特の警告音もそれに続いた。
なのにその女の子は……気が付いていないのか一向に止まる気が見えない。
それどころか歩くスピードがどんどん加速していっている様にすら見受けられた。
傷を負っている所為か足取りは重いけれど、雨に濡れた身体は凄く冷たいけど、身体中に負った傷は痛むけど……この先に行けば楽になれる。
途端そんな嫌な言葉が私の中で過ぎるような気がしたのだ。
信じたくはない、だけどその子の足取りは間違いなく線路の中心を目指していた。
開放されたい、楽になりたい、いっそこのまま死んでしまいたい……大きな傷の在る背中にはそんな言葉が踊っているような気がした。
いけない、私はとっさに蝙蝠傘を投げ出して駆け出した。
自分はこんな誰かを如何にかしようとするようなキャラじゃない、そんな事は百も承知だった。
だけど動かずにはいられなかった、動かなかったら私は多分一生後悔する……そんな自信が私の中で蔓延っていたからだ。
踏み切りを乗り越えようとする女の子、直ぐ其処まで来てしまっている電車、そして駆ける私。
そんな幾つかの要素が、きっとほんの小さな偶然を起したのだろう。
普段運動不足な筈の私は自分でも信じられないような速度で雨の中を走り抜け、一気にその子の腕を掴むと……踏み切りの向こう側からこちら側に引き上げた。

「駄目ッ!?」

「……えっ?」
それは私の悲痛な叫びと、女の子の呆けた一言だった。
そして直後に猛スピードでかけていく三連車両の高速電車、轢かれていたら原型すら留めなかったに違いない。
女の子は綺麗な子だった、まるで外国のお人形さんみたいに整った可愛らしい顔立ちで同姓の私が見てもかなり可愛い子だった。
でも、それと比例するようにその女の子は本当の意味で魂の抜けた抜け殻のような目をしていた。
生気がない、焦点があってない、瞳が虚ろ……なんでもいいけどともかくそんな感じだった。
私はそんな顔を見たことがあった、鏡で見た自分自身……つまりは私の姿だ。
ほんの少し前に見た鏡写しの私の姿が、そこにはあった様な気がしたのだ。

「えっとあの……その……」

「……………」

何か言葉を掛けようとするけど上手い言葉が見つからない。
女の子の顔はどうして助けたの、とでも言いたげな顔だったけどそれに返答するような答えを私は持ち合わせていなかった。
だけど女の子は直ぐに我に帰ったのか、はっとしたような顔立ちになって立ち上がると私に一礼してまたふらふらと雨の街の中へと消えていった。
傷だらけの身体を引きずるように歩いて、やっぱり覚束ない足取りのまま。
そんな光景を私は一人ずぶ濡れになりながら見届けるしかなかったのだった。





一方、高町なのはという存在が消えたとある女性の部屋では二人の女性が久しぶりに顔を合わせていた。
その二人は外見的にはあまり似つかなかった、でも姉妹だった。
それ故なのか二人には共通点もあった、まるで誰かに作られたのではないかと錯覚するほどの美しい容姿だった。
だがそれも当然と言えば当然なのかもしれない。
読んで字の如く、彼女たちは造られた存在なのだから。

「久しいな、ドゥーエ。元気そうで何よりだ」

「貴女もね、トーレ。ドクターが直接出向くと仰られていたから本人が来るのかと思っていたけれど……貴女だったとはね」

「ドクターは老人たちから呼び出されたらしいので私が出向いたのだ。クアットロにしろチンクにしろ忙しいらしいのでな、だから私が来た。サンプルの方は?」

「これよ。珍しいタイプのインテリジェントデバイス、名前はレイジングハートって言うらしいわ。残念だけどジュエルシードの方は手に入らなかったわ、今のところの成果はそれだけよ」

琥珀のような色の髪と瞳を持つ……とある少女からは“先生”と呼ばれている女性“ドゥーエ”は同じくそんな彼女に呆れ顔で対応するボーイッシュな長身の女性“トーレ”に向かってそんな言葉を投げかけながら手の内に在った紅い宝石のついたストラップを投げ渡す。
彼女たちはこう見えても姉妹だった、あまりにも似つかないがそれでも姉妹だ。
ただ少々生まれが特殊なのと、色々と事情があって秘密を人よりも多く持ち合わせている。
今回の久々の対面もそんな“秘密”の一つから生まれた物だった。

「ふん……この世界での職務に力を入れる事は結構だが、やるべき事はしっかりしてもらわんとな。そうは思わないか、ドゥーエ?」

「煩いわねぇ、私は元々貴女みたいに戦闘は得意じゃないのよ。それにそれが久々にあった姉に対して掛ける言葉なのかしらね? お姉ちゃんちょっと悲しいわ」

「なに、生まれも育ちもそう差が開いているという訳でもあるまい。クアットロならいざ知らず、私はそれほどお前との関係を気にしたりなどはせぬさ。なぁ、愚姉殿」

「……大分意地が悪くなったわね、貴女も」

ドゥーエは久々に会って口も上手くなった実の妹に対して盛大なため息を吐いた。
昔はもう少し素直な子だったのにと思わずにはいられない、そんな気分から出るため息だった。
しかし、トーレの言っている事も間違ってはいないというのも彼女は重々承知していた。
幾ら居心地がいいからって本来の自分の職務を忘れてはいけない。
説教を受けても仕方が無い、心の中では覚悟は決まっていたような何処か諦めた様子だった。

「それで? それを回収する為だけに貴女がこの世界に来たって言うわけではないでしょう? 本当の所……何かドクターに言われたんじゃなくて?」

「察しがいいな、実を言うとその通りだ。ドゥーエが手こずっている様ならサポートしてやれとのお達しだ。まぁ、現状は言うまでもないのかもしれんがな」

「ぐっ……あぁ、そうですか。分ったわよ、分りましたとも。どーせ私は役立たずですよーだ」

「子供のように拗ねるなドゥーエ。一応二番目の姉だろうに」

駄々っ子のように拗ねるドゥーエ、そしてそれに呆れるトーレ。
殆どどっちが上でどっちが下なのか判断に困る様子だった。
そもそもドゥーエに比べればトーレの方が身長も大きいし、違った意味で大人っぽさもトーレの方が勝っている。
大人というよりは、物静かさとか余裕とかそういったものの大きさの違いなのかもしれないが……総合的に見ればあまり変わる物でもなかった。

「それで? そんなに自信満々のトーレさんは私よりもジュエルシードの在り処にさぞや明るいのでございましょうねぇ?」

「だから拗ねるなと言っているのに……。返答に関しては肯定する。少々この世界で私たち意外にジュエルシードを集めている人間がこの街に潜伏しているという情報を掴んでな。そちらに探りを入れてみようと思っている。なに、お前の生活の邪魔はせんさ」

「私たち以外に、ねぇ。……これは一嵐起きそうね」

「かもしれぬし、そうでないかもしれない。運任せは性に合わんが気長にやってみるさ。お前も抜かり無くやれよ、ドゥーエ」

無論よ、ドゥーエはそう言ってトーレとの会話を打ち切った。
しかし彼女は迷っている部分があった、自分を“先生”と呼ぶ少女の存在だ。
自分自身は彼女を受け止めたいと思っている、しかしこんな事に彼女を巻き込めばそれこそ命に関わる可能性もある。
果てさてどうしたものか、その答えは誰が知る物でもない。
その日はただ雨だけが強く強く降り注ぐ一日になる、その事実を除いては。



[15606] 第六話「変わる日常、悲痛な声なの……」(グロ注意)
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/15 15:22
あの雨の中で金髪の子を引きとめてから実に二日の日数が経過した。
私こと高町なのはは少しだけ前向きに自分と向き合おうと思いながらも、何時もと変わらぬ孤独な日常を誰に邪魔されるでもなく存分に謳歌していた。
毎朝のように御金を貰って、購買やコンビニでご飯を買って、家に帰ってゲームをするという何時もの日常。
そうそう変わらぬ物だと自覚はしていても、それでもあまりにも何も無さ過ぎる時間だけが唯過ぎて行く、退屈で当たり前すぎる日々だった。
その間は先生もしっかりと学校に来ていたから私に対する目立った嫌がらせも一応はまた影を潜め始めたから、何時もよりは幾分かマシな日々だったのかもしれないがそれでも終わった訳ではない。
授業中に消しゴムのカスを投げられたり、媚びるなというような脅迫文が机の中に入っていたりする事には変わりは無かった。
しかし私はそんな事よりも何よりも、私には気に掛かっている事が在った。
それは……二日前の例の女の子の事だった。

「あの子……ちゃんと家に帰ったかなぁ?」

現在私は午前中の授業をサボって屋上で缶コーヒーを飲みながら一服している真っ最中だった。
まあ例によって例の如くと言うべきか、グラウンドではウチのクラスのクラスメイトが馬鹿みたいにはしゃぎながらドッチボールの試合を繰り広げていた。
痛いし、疲れるし、女子なんて男子から集中砲火喰らうだけで何一つとして面白くも無いスポーツだというのに皆夢中でボールを投げ合っている。
まあ精々すずかちゃん並みの運動神経があればそれなりに楽しめるのかもしれないが、動くのも走るのも身体を酷使するのも大嫌いな私にとっては苦行以外の何物でもない。
と言う訳でサボり、もとい先生の養護教諭としての権限を最大限に利用して現在私は「顔色が悪そうだから」という証明付きで授業をサボる事が出来ている訳だ。
本当は保健室で寝ていようかとも思ったのだけれど、こうして缶コーヒーを片手にたそがれているのはそれを差し置いてでも考えなくてはならないものが在ったからだ。
そう、二日前の女の子の事だ。
もしかしたら……いや、希望的な観察を度外視すればほぼ間違いなく自殺しようとしていたあの女の子はあの後どうなったろうか。
今の私はそれが心配でならず、この日も屋上から海に反射する光で煌めく街並みを見ながらずっとそれだけを考え続けていた。

「女の子が自殺したなんてニュースは聞かないから大丈夫だとは思うけど……心配だなぁ」

ついこの前も自分と同じ位の年の子が一人死んだばかりだ、だから余計に心配になって来る。
あんな雨の日の傘も持たずに歩いていて、尚且つどう考えても普通に生活している人間が受けるはずの無い無数の傷。
加えて対面した時に見た彼女の表情は何処からどう見ても自殺志願者のソレだった。
何故あの時私が身を挺してでも彼女の自殺を思いとどまらせたのか、という事については正直自分でもよく分ってはいない。
確かに私自身は自殺なんかしてはいけないという心情を抱えているから今でこそそうした方向に物事を考えはしないが、その考えを他人に押し付けるほど厚かましい性格ではない事は重々承知している。
というよりも寧ろ私は他人が起す「どうしようもない理由の上での自殺」については肯定的な人間だ。
それが誰かの最善だと言えるのであれば生き続ける義務を押し付けるつもりは毛頭無いし、それが本当に救いだと思っているのならばそれがその人間にとっての救いだったんだろうと考えてしまう。
だからこそ自分がとった行動が矛盾しているような気がしてならなかった、きっと腑に落ちないという感情はこういう物を指すのだろうと私は思った。

「自殺……かぁ……」

そんな物騒な独り言を言いながら私は口元に缶コーヒーを持って行き、それを徐に傾けながら一口コーヒーを啜った。
好みの微糖の味がより思考を活性化してくれて、私は尚も自分の考えている事に深く踏み込む事が出来た。
コーヒーを飲みながらまず思ったことはもしもその金髪の女の子が本当に自殺をしようとしていたのだとして、何故自殺をしようと思ったのかということだ。
外人さんは年齢が分り辛いとはよく言うけれど、あの女の子はどう見たって私と同い年位かもしくはそれに近い位の小さな子だった筈だ。
私のような例外もいるのかもしれないが、普通なら友達と楽しくお喋りしたり家族で団欒したりと楽しい事はあっても自殺まで考えるほど追い詰められるような事はまず発生しないのが通常の考えだ。
加えてこの海鳴市には比較的ヨーロッパ系の外人さんが沢山いるし、外人さんだから友達が出来ないとか差別されるといった対象になることはまず無い。
あくまでもそれは本人の努力の問題なのかもしれないが、あんなに容姿の整った子なら余程酷い事情がなければまずそう言った状況にはなりえないと言ってもいいだろう。
稀に私みたいに周りからハブられて孤立する例も無いではないが、それにしたって彼女の状態は度が過ぎていると言わざるを得なかった。

「一体何が原因なんだろう……。それにあの傷は……」

まず私が彼女に抱いた印象の中で最も強いインパクトを受けたのが彼女の全身に受けていた傷だった。
瞳が虚ろだとか、足取りが覚束ないとか、雰囲気が普通じゃないとか確かにその辺りも気になる点ではあるのだが、それを言ってしまえば私もどっこいどっこいな気がするのであえて考えないで置く事にした。
しかしそれ等の事情を差し引いたとしてもあの傷の量は異常だった、そんな程度の事は子供の私から見たって一目で分る。
まるで鞭か何かで強く叩かれた様な……蚯蚓腫れになったところを何度も何度も叩かれて皮膚が裂けてしまったといった感じの生々しい傷。
雨に濡れていたから血の量とかは分らなかったけど、どう考えてもあれは何年も前に受けた傷であるようには見えなかった。
まるで現在進行形でそういうような仕打ちを受けているか、それか受けてからまだそれ程時間が経っていなかったかの何れかだと考えてしまっていいだろう。
それに彼女の服は真新しく所々が裂けていた様にも見えた、恐らくはどちらの可能性も正しいという事なのかもしれなかった。

「まさか虐待……とか?」

そう言って私はまた缶コーヒーを傾け、一服。
コーヒーを喉に流し込んだのと同時に吐いた溜息が宙に四散するのがよく分った。
しかし、自分が漏らした言葉があまりにも物騒な事だったという事については正直あまり考えたくは無い物だった。
虐待、俗に言うDV……ドメスティックバイオレンスという奴だ。
家庭内暴力だとかそんな言い回しもあるのかもしれないけど、世間一般として知られている名前としては俄然前者の方が有名だ。
うちの家は幸いにもそういった事とはまだ縁がないような家だったからそういった意味では確かに私は恵まれているのかもしれないけれど、もしもこれがあの少女にも当て嵌まるとするならば此れは少々社会的に拙いものがある。
あの子は外人さんだったし、外国では躾けの為に虐待紛いの教育を幼い内から受ける家庭もあると聞いた憶えはあるからもしかしたらその延長線上だったのかもしれないという思いもある。
しかし、もしもそれが原因で自殺を思い切ったのだとしたら……もしかしたら私はとんでもない「間違い」を犯してしまった可能性もあるのだ。

「止めない方がよかったのかなぁ? でも……」

生きていれば幸せな事もきっとある、そう言おうとして私はそこで言葉を紡ぐのを止めた。
馬鹿馬鹿しい、不意にそう思ったからだ。
自分が少しばかり他人の優しさに触れたからってそんな風に同情的な目で人を見るものではない、それを言えば自分だって人の事をどうこう言えるような立場の人間ではないのだ。
確かに私には先生という居場所がある、逃げようと思えば何時でも逃げ込んできてもいいと言ってくれているし、この関係が続く限りは私は先生に縋り続ける事になるだろう。
では彼女は……あの傷だらけの女の子にはそういった「逃げた先にある居場所」が果たして存在していたのだろうか、そう考えると少々認識も変わってくる。
もしも、そう仮にもしも彼女が家の人からあんな虐待紛いの行いを受けていたとして彼女はその重圧に耐えられるだけの支えを得ていたのだろうか。
ゲームだとか、食事だとか、人間関係だとか……何でもいいけどともかく彼女という命を繋ぎとめる「安らぎ」が彼女にはあったのだろうか。
そういうものが無く、逃げ場を失った果てに選んだ選択肢が「自殺」だったのだとすれば私は彼女の逃げ道を奪ってしまったかもしれないのだ。
自殺を食い止めるという行為がイコールで正しい事をしたという事には結びつかない。
私は少しだけ彼女を助けてしまった事に後悔した。

「せめて……家でまた同じ事をされてないといいけど……」

しかしどれだけ後悔した所で今の私に出来る事といえば精々彼女がこれ以上何もされていませんようにと願い続ける事くらいだ。
そもそも私はあの子が何処に住んでいて、どんな名前なのかも存じてはいないのだから。
あの無数に受けた傷が何によって引き起こされたのか私は知らない。
そして私はそんな傷を受け続けて受け続けて、生傷の疼きに耐えながら今まで生きてきた彼女の人生を知りはしないのだ。
偽善者、そんな風に思うと胸が痛む。
確かに私は偽善者なのかもしれないと今になって思う、何せ私も人様に彼是と意見を言えるほど上等な存在ではないからだ。
高町家の汚点、社会の屑、クラスのゴミ箱……自分でこんな風に自分を蔑むのは良くないことなのかも知れないけど結局私はそういった存在なのだ。
現に私はこうして授業もサボって缶コーヒーを飲むような碌でもない人間としての人生を謳歌している。
彼女と私は鏡写しの自分、もしもちょっと人生の運びが違えばあんな風に電車に飛び込んでいたのかもしれない事を考えるととてもじゃないけど彼女の事を可哀想だと言い切ることは出来なかった。

「何時か……お話出来たらいいな。出来れば、生きている内に」

そんな台詞をはき捨てた私は缶コーヒーを一気に傾けて中に入っていた中身を全て飲み干した。
もしかしたら自分のした事は余計な事だったのかもしれない。
あの時私が止めてなかったら彼女は死という安らぎに抱かれて安らかにこの世をされたのかもしれないし、例えあの時だけ思いとどまったとしてもまた数日後には同じ事を繰り返しているかもしれない。
そんな時、私は正面切って彼女を救う自信が無い……救っていいものかという迷いが先行して多分あの時みたいに手を伸ばす事はきっと出来ないと思う。
だからせめて私の願いが叶うのならば、彼女がまだ生きている内に言葉を交わしてみたい。
傷の舐め合いなんて都合のいい言葉で片付けるつもりは無いが、事情を話してくれるのであればもう一度会ってゆっくりと気が済むまで話を聞いてあげたい。
優しさとか受け止めるとかそんな風なキャラじゃないのは自分でもよく分っているけれど、あんな痛々しい姿を見せ付けられた後ではふと考えるたびにそう思ってしまう。
他人には極力関わらないって決めたのに……そう考えるとどれほど今の自分が矛盾しているのかというのが鼻につく様だった。

「さぁて、と。授業もそろそろ終わりだし保健室に戻ろっかな。あんまり風に当たりすぎるのもよくないしね」

撫でる様な冷たい風が肌と髪を撫で、まだまだ気を抜けば体調を崩しかねない季節だという事を静かに私に告げてくる。
二日前もびしょ濡れの中帰路に着いたばかりだし、風邪を引く可能性も否めない。
早い内に気持ちに区切りをつけて次の授業の準備でもしておこう、私は不意にそう思った。
一応此処最近は体育以外の授業は極力サボらないようにしようという私の微々たる心がけが自然と私の心を動かしている証拠なのだろう。
とはいってもやっぱり授業中は伏せて寝てばかりだし、偶に起きていたとしても袖口に通したイヤホンで音楽を聴いているか、ぼーっと外を見つめているかの何れかなんだけれど。
だけどまだ学校に留まろうと考えるだけマシになった方だ、少しだけ自画自賛してみる。
その理由というのも少しでも長く先生との時間を共有したいという気持ちから来るものなのだけれど、学校に留まるというのはその分だけ嫌がらせを受ける時間が増すという事だ。
現に今の私は先生の存在に支えられている部分がかなり大きい、まったく偶には何の心配も無く楽しく学校に来て見たい物だと私は思った……まあ無理なのだろうけど。

「そうだよ。どうせ私は……皆みたいに器用じゃないからね……」

そう言って私はフェンスの台座の部分に飲み干した缶コーヒーの缶を置くと、最後にもう一度だけグラウンドの様子を眺める。
其処では授業もそろそろ終盤だというのに楽しそうに笑いながらボールを投げ合うクラスメイトたちの姿があった。
当然その中にはすずかちゃんやアリサちゃんの姿もあった、やはり運動神経が抜群なすずかちゃんは男子が相手であっても対等に奮闘出来る所為なのか未だに内野に留まってボールを相手にぶつけている程だった。
楽しそうな光景だ、と私は思った……そしてそれと同時に自分もあそこに居たのかもしれないとも。
しかし私はあの中には居ない、あんな風には笑えない、あんな風に皆仲良く和気藹々といった雰囲気には溶け込めないのだ。
どうせ私はあの人達みたいに「状況に合わせて器用に表情を変える」事なんか出来ないのだから。

「……気持ち悪い」

私は本音の言葉を漏らしてその場を後にすることにした。
あんな風に純粋にスポーツを楽しむ時の笑みと私を嬲っている時に浮かべる下卑た笑み。
そのギャップがあまりにも開きすぎていて、吐き気を催しそうな位だった。
どうして人ってそんな風に場面に合わせて自然と表情を変えられてしまうのか、どうにも私には理解できない。
その姿はさながら擬態して外敵から身を守る昆虫や爬虫類のようだ、そしてそんな風に表情を操る人間もまた例外ではない。
私は表情を上手く作ることが出来ない、故意に表情を作ろうとしても無表情か他人をイラつかせる俯き位しか出来ないのだ。
昔は上手く繕えていたと思う、皆を心配させないという名目で幾らでも笑おうとしたものだから。
しかし今の私では任意で満足に笑う事すら出来ない。
限りなく感情を閉ざしてしまった……そして今は本当に数センチの隙間が開いているだけと言う本当に不安定な状態だ。
この隙間がもしもゼロになって自然に笑みも涙も表現する事が出来なくなった時、多分私は壊れる。
だって私は……皆みたいに心の隙間まで擬態できるほど器用な人間じゃないから。

「壊れる、か……。人って、脆い物だよね」

まるで砂の柱だ、私はそんな風に思いながら踵を返してその場を後にした。
そう、人っていうのはそれ程強い物ではない。
一人だと寂しいから、直ぐに泣いてしまうから群れるしかない。
その中から孤立したくないから、一人になりたくないから、仲間外れにされたくないから……結局皆孤独が怖いから群れて強くあろうとするのだ。
だけどそれから漏れ出してしまった人間は弱い、本当に弱い。
少し触れてしまっただけで簡単に壊れてしまう、それこそ砂で作った柱のように。
そして壊れてしまった心は二度ともう元には戻りはしない……そんな奇跡はこの世には起こりはしないのだ。
だって本当に「奇跡」なんて物が存在するのならば、あの金髪の女の子のような存在なんてこの世にはいる筈がないのだから……無論、私も。
そうして私は屋上を後にする、この後もまだまだ嫌がらせは続くだろうし退屈な授業は進んでいくだろう。
だけど今はそれでいいのだと私は思う、何せこれが私のような存在に似合いの「日常」なのだから。





授業も終わり私は今日も何時ものようにブラブラと街中をうろつく事になった。
何時もなら放課後も保健室に寄って、先生のコーヒーを淹れて貰ってお互いにくだらない事を喋り合うのが通例となっているのだがこの日に限ってはそれも叶わなかったから街中を歩く時間は何時もよりも少しだけ早い。
何でも先生は「故郷から態々自分を訪ねてきた妹の引越しを手伝うから」という理由で私と同じくらいの時間に家に帰るとの話だった。
この前言っていた例のお客さんがその人だと先生は語っていたが、実はその妹さんは此方で住む場所もまだ決まっておらず、仕方無しに先生の知り合いのお医者さんの家に下宿することになったというような事も先生は言っていた。
お医者さんには知り合いがいるんだと私が少し驚いて訊ねてみたところ、何でもその人は大学の同期生であったとの事らしかった。
つくづく顔の広い人だと私としては感心する他無かったのだが、それならば仕方が無いから一人で帰ろうという結果に落ち着いたのもまた事実だった。
先生は別れる時にまた申し訳なさそうな顔を浮かべていたが、あんな風な顔を浮かべられると私としても心苦しい物がある。
甘えてばかりではいけない……久々にそれを痛感した私は先生にあまり心配をかけないためにもこうして街中をぶらついている訳なのですが……。

「はぁ~。正直……暇だよ……」

やる事が何も無い、最終的にそれが現状を最も的確に表す言葉だといっても良かった。
普段と少しでもペースが違うと根本から全部やる事がなくなってしまう私にとって、こうして持て余す時間という物ほどつまらない物はない。
何かやりたい事がある訳でもほしい物がある訳でもない。
例えやりたい事があっても気力が湧かないし、欲しい物があったとしてもお金が無いのだ。
こんな暇な時、アリサちゃんやすずかちゃんのようなお金持ちなら湯水のようにお金を使って暇を潰せるのだろうけど私のような貧乏人にはお金を使って一時的な娯楽を矜持するほどの余裕もないのだ。
だから今も尚こうして人の疎らな商店街の通りを何時もどおりの覚束ない足取りのまま、あっちこっちふらふらしているという訳だ。
幾らやる事がないからといって現代の小学生にしてはあまりにも子供染みてない行動だというのは自覚しているけれど、家に帰ったって何か良い事がある訳でもないので結局此れが最善な行動だというのが悲しい所だ。

「私も無理言って先生の妹さんのお引越しお手伝いに行けばよかったな~。あっ、でもどうせ私がいたって邪魔なだけか……」

突発的に思ったことをすぐさま否定する私。
確かに先生の傍にいられるのならそれも一つの選択肢だったのかもしれないが、どうせ私のような人間がいたら余計に先生を困らせてしまうのは目に見えている。
何せコントローラーよりも重いものは持てないと言わんばかりの貧弱な身体つきの私では荷物の入ったダンボール一つまともに運べはしないだろう。
それでまた先生の邪魔にでもなったら本当に申し訳ない、それに下手をすれば嫌われてしまうかもしれない。
ようやく手に入れた安らぎだ、絶対に手放したくは無い……尤もらしい事を言っているようだけど結局私は先生に距離をおかれるのが怖いのだ。
だから今の距離を壊さないように私も帳尻を合わせるしかない、今はそれで言いのだろうと私は思った。

「それにどうせ……ッ―――――」

先生も偶には厄介者を抜きにして家族に対面したい事もあるだろう、私はそう言葉を繋げるつもりだった。
だけど、出来なかった……それ以上言葉が出てこなかったのだ。
自分でも今何が起こっているのか正直全然分らない。
ただ瞬間的に身の毛も弥立つほどの怖気が全身を駆け巡り、心臓が一気に跳ね上がったのだ。
まるで気が付かないうちに自分の知らない世界に来てしまったような、しかしそれでいて尚私の「日常」はそれに平行して時を刻んでいる……そんな感覚。
その狭間に迷い込んでしまったかのようなそんな感覚が突然私に襲い掛かってきたのだ。

「な、なに!? 一体何が……」

頭に靄が掛かったかのように自分の思考がぼやけて行く。
名状する事の出来ない恐怖に似た怖気がさっきから止まってくれないのだ。
全身の毛穴が開いて、鳥肌が立ってしまっている……まるで灼熱の砂漠に立たされているか、極寒の地に一人だけ置き去りにされてしまったかのようだ。
しかし周りの人間の誰もがそんな私を気にも留めない、そして尚且つ“誰もこの感覚に気付いていない”かのように唯平然と私の横を通り過ぎていくだけだ。
二人並んで携帯電話を弄る女子高生さんも、鉄の箱を手に持って自転車を漕ぐ出前の人も、母親と並んで街中をはしゃぎ回る子供ですらこの感覚に気が付いていない。
まるで私だけがこの不気味な衝動に突発的に掻きたてられているかのようだ。
そして今度はそれを裏付けるように……頭の中に声が響いた。

『……ケ……タス……テ……』

それは女の子の声だった、それもまだ幼い……五歳位の小さな女の子の声だった。
その声はまるで鈴を転がしたかのように凛と響いていて、そして何処か寂しげで許しを請うかのように嗚咽に途切れていた。
明らかなる異常、とてもじゃないけど唯の幻聴ではない事くらいは私にだって分る。
そもそもこんな幻聴、今まで聴いたことも無い……突然私がシックスセンスにでも目覚めてしまったのなら分るけどそんな映画みたいな話が合って堪るものか。
しかし、その声は止まない……未だに何かに許しを請うかのように私の頭に響き渡っている。
そして現状その声に気が付いているのはこの人ごみの中で“私だけ”。
私はその場で動く事も出来ず、硬直したように立ち止まりながらその声に耳を傾けていた。

『急ガ……暴ソ…マタ……死ヌ……誰カ…助ケテ……』

それは途切れ途切れでは合ったものの明確に助けを求める人間のソレだった。
何時もなら気味が悪い、単なる幻聴だで済ませておく処なのだが明らかに此れはおかし過ぎる。
最初私は私の頭が壊れてしまったんじゃないかと思った、だけどこんな風に冷静に声の内容を理解している以上は一応頭がパーになってしまったという訳ではないらしい。
しかし一体なんで私にこんな声が……私はそう思わざるを得なかった。
現状周りの様子を焦り気味にだが観察するに誰もこの声を聞いている様子は無い、誰一人……そう誰一人としてだ。
しかし、何故かその声は私には“聞こえている”。
異常な事態といえばこれ以上に異常な事態は他にないのかもしれないが、そんな言葉で切ってしまって良いほど今の私に起こっている現象は単純な物ではないと私は悟った。
と、此処で私は不意にポケットの中に手を入れてみる。
自分でも何故そんな行為に及んだのかは分らないが、ともかく“そうしなければいけない”様な気がしてならなかったのだ。
伸ばされた掌はポケットの中にある物体を一つ掴み取る、それが私の意志なのかそうでないのかは別問題にしてもともかく私はその物体を手にした。
すると……なんと途切れ途切れで聞こえ辛かった声がよりクリアに聞こえだしたのだ。

『お願い! 誰か助けて! このままだとまた人が死んじゃう! 私の所為でまた―――――』

「な、なに……しッ、死ぬ!?」

突然聞こえだした声に思わず素っ頓狂な声を上げてしまう私。
当然周りの人はいい加減不自然に思ったのか奇異な視線を私に向けて可哀想な子を見るような目で私を凝視してくる。
どうしたらいいものかと思った私はとりあえず殆ど反射的に誤魔化すような笑みを浮かべると一目散に誰もいない方へと走り出し、ポケットの中で掴んだ物をゆっくりと掌の中で広げてみる。
それはこの前……例の少年が殺されていた公園で拾った綺麗な宝石だった。
お守り代わりとなし崩し的にずっとポケットに入れていたものなのだが、その宝石の様子は明らかに何時もの状態とは異なっていた。
まず宝石は一人でに薄っすらと暗い輝きを放っていたのだ、その光こそ太陽に反射させた時のような微弱な物だけど明らかにそれは独りでに輝きを放っている。
そして二つ目に宝石に浮かび上がった数字、英語の表記で「21」を表すエックスが二つ連なった物に一本の棒線がくっ付いたような不気味な数字だ。
そしてこの頭に響いてくる声はその宝石から頭に直接響いている。
そう、この宝石こそが今の私の異常を引き起こしている原因だった。

『誰か……お願い……もう私は誰も死んで欲しくないの……誰か……』

普段なら気味が悪いとその場に直ぐにでも投げ捨てる所だったが私はどうしてもそれが出来なかった。
この頭に響いてくる声があまりにも悲痛すぎて、どうしても無視する事ができなかったのだ。
あぁ分っている、これが通常ありえないような異常事態であることは……そしてそんなオカルト的な異常を認めたくないと思っている自分の心が。
そりゃあ私だって普通の人間だ、そうそう簡単にはいそうですかとこの事態を受け止められる訳ではない。
しかし受け止めざるを得ないのだ……現実は何時も一本道、今起きていることこそが真実だ。
否定は幾らだって出来る、何せありえない事だし私の常識に照らし合わせてもどう考えても今の事態は異常だから。
だけどそれでは今起きているこの声にはどうやって説明を付ければいいというのか、余計に頭の中がこんがらがって来る。
それなのに頭の声は私に考える時間をくれない。

『嫌ぁ……駄目……お願い、殺さないで……貴方の願いはそんな物じゃ……』

頭の中に響く声の持ち主である女の子らしき人物の悲痛な声は止まない。
しかし、どうやらその彼女は殺すだの死ぬだのの現場をその目で見ているらしいことだけはよく分った。
どうやって見ているかとか現場にいるのかとかそんな感情を抜きにしても、その女の子が今にも泣きそうな顔でそれを止めて欲しいという必死さだけは痛いほど伝わってくる。
そして私は少しだけ早とちりをした……この女の子は私に助けを求めている、そんな早とちりを。
普段の自分なら絶対に無視する事だろう、多分先生以外の誰が私に助けを求めようが絶対に私は助けないだろうし、多分何の感慨も無く見捨てる筈だ。
しかし私は……もう本当に嫌になって仕方がないけれど私の本質的な独り善がりな考えがこう訴えかけてくるのだ。
「その子を救え、その子に救いの手を差し伸べろ」と。
あぁ、都合の良い偽善な事は自分が一番よく分っている、自己犠牲なんて一番私の性に合っていない行為だ。
なのに身体が止まってくれない、こうなってしまった以上……自制を掛けるのは実質不可能と言っても良かった。

「あぁ……もう、本当にさぁ……私もお人よしだよ、馬鹿みたい」

そうして自分自身を罵倒しながら私は急いで駆け出す。
何処に、それは私には分らない……そもそも目的があって走り出したのかどうかも私には判断がつかない。
しかし行く先はぼんやりと頭の中に浮かんでいた、殆ど直感ではあったけど不思議とそれが間違いだとは思えなかったのだ。
おまけに始末の悪い事に何故か知らないけど何時も以上にやけに身体が軽い。
まるで背中に羽でも生えたかのように何時もだったら絶対に5秒と耐えられないペースで私はひっそりとした住宅街へと足を踏み入れた。
行き先はこの先にある神社……去年一人で初詣に行ったから記憶にも新しかったけど、私が目指す場所の最終地点は其処に定まっていた。
其処に何があるのかは分らない、何か途轍もなく危ない物が在るかもしれないし、逆に何も無いかもしれない。
だけど行かねばならない、神社までは凡そ此処から400mちょっと。
普段なら挫折しかける所だけど、私はその声と自分の直感だけを頼りに街の通りを全力で駆けていった。

『助けて! 誰か、早くッ!?』

「あ~もう! 煩いってば、ちょっと黙っててよ!!」

あまりにも自分らしからない言動が私の口から漏れだす。
柄じゃない、そんなのは百も承知……人助けとか善意からのボランティアとかそういった言葉に無縁の人間だって事くらい自分が一番良く知っている。
なのに身体は止まらない、だから余計に苛立ってくる。
何時も周りの人間に感じている苛々とは違う感じだ、何だか胸の辺りがムカムカして本当に頭に来ている様に血が身体を巡っていく。
身体中が火照って熱い、首筋から流れる汗が気持ち悪い。
罵倒の一つ位漏らしたって罰は当たらないだろう、そんな感情を覚えながらもまだ助けようとはしてあげてるんだから。
彼女が何を訴え、何を私に求め、どうして私を選んだのか……そんな事は今は知った事ではない。
今は行動しなければならない、そうしないと手遅れになる。
そんな確信だけが私の身体を支配し、前へ前へと押し進めるのだった。

「こんなに走るのは去年のマラソン大会以来だよ……ったく。あ、ヤバッ……ちょっと吐きそう……」

ただ問題が無いという訳でも無かった。
実は走っている時、身体は軽いものの日頃溜まった運動不足と健康状態はそれに比例してはいなかったのだ。
何せ此処しばらくまるで運動らしい運動をしていなかった私だ、昼御飯に食べた焼きそばパンとフランクフルトが胃の中でシェイクされている様な感覚を私は憶えた。
気持ち悪い、これは感情ではなく殆ど事実上今の私の体調の限界を示しているとも言えた。
段々と走るスピードが遅くなる、情けない事だが運動不足の人間にとって神社までの距離と言うのは少々難が在り過ぎる。
しかしそれでも身体は止まらない、もうちょっと勘弁してほしい物だった。
明日は筋肉痛に悩まされる事になるだろう、この事実はたぶん覆せそうになかった。

「ったく何で私がこんな目に……一体これって誰に文句言えばいいの? これで何もなかったらちょっと泣いちゃいそうだよ」

『早く! 早く! 早く!?』

女の子の声は疲れる私を引きずる様に急かしてくる。
走らないとは言わないが、せめてもう少しゆっくり走らせてくれないのかと私は思った。
後、そんなに早くして欲しいなら自分も同じ位走ってから言う事を言えとも。
そんな感じでこみ上げる嘔吐感に堪えたり、胃や腸の中で食べ物が上下する感覚に苦しめられたり、いい加減張ってきた足が限界を訴えていたのを無視したりと無茶を重ねながら何とか神社の前まで辿りついた私は少しずつ神社の石段を駆けあがってく。
体力はもう空っ欠だ、元々私は容量で考えるなら牛乳瓶一杯分以下の体力しか持ち合わせちゃいない。
すずかちゃん辺りの運動の出来る子ならまだまだ余裕なのかもしれないけど、少なくとも私は限界だった。
しかしこの先に何かが在る、その感覚は一向に収まる気配を見せなかった。
そればかりかよりその確信に似た感情が強くなって行っている気さえする、間違い無くこの声が示す場所はその先を示していた。

「でも一体何が……。それにこの臭い……」

石段を駆け上がりながら私は登るに連れて強くなっていく異臭に顔を顰める。
何か其処にある感覚と同時に存在する別の”何か“が発していると思われる酷く生臭い臭い。
例えるなら生肉が腐ったような……もしくは死んだ動物の死体のような生々しい悪臭が私の鼻をついてくるのだ。
もしかしたら何か動物の死体でも長く放置されていて、それがこの悪臭の元になっているのかもしれないがどうにも不安を掻き立てる臭いだった。
しかし、此処で足を止めてしまえば今までのなけなしの努力が全て水の泡になってしまう。
せめてこの目で真相を確かめるまでは引き下がらない、そんな思いで私は長い長い永遠に続くのではないかと錯覚するほどの石段を登りきり頂上にある神社へと足を踏み入れた。
そして其処で私が見たものは―――――

『いけない! 其処から離れて!!』

「えっ……?」

私の目に飛び込んできた物、そして女の子の悲痛な叫びが私の脳を揺さぶってくる。
おかしい、此れは夢なのではないかという思いが身体を縛りつけ思考を麻痺させる。
あぁ、どうか夢なら覚めてほしい……私はそう思わずにはいられない。
目の前に存在する物、それは二つの悪夢のような光景だった。
一つは……本当に信じられない事だが、人の亡骸。
お腹の辺りを食い破られ、通常だったら絶対見えてはいけない物が溢れ出ている女の人の死体だった。
その死体は無残にも八つ裂きにされていた、まるで獰猛な獣の餌にでもなったかのように四肢はダラリと垂れ下がり……食い破られたお腹からはデロデロと血と“何か”が交じり合った物体が石段の上に零れ落ちていた。
これだけでも異常な事だって言うのはよく分るが、私の思考はそこで途切れる事はなかった。
怖い……逃げたい……このままいっそ気絶してしまいたい、そう思っているはずなのにもう一つの物体が私の意識を手放そうとしてくれない。
それは犬だった、凡そ犬と呼ぶには“あまりにも歪”で“大きすぎる”RPGの魔物のような姿をしていたが何とか首に巻かれた首輪からそれの元になった物が犬であったと言う事は判断がついた。
そして私はもう一つ気が付いていた……その犬“だったもの”の口元が赤黒い何かで彩られていると言う事実に。

『お願い! 逃げてェェえええ!!!』

「ひッ―――――」

犬のような物……この際言い方なんかどうでもいいから“化け物”と呼ぶ事にするけれど、その化け物の額にある四つの赤い瞳が私に向けられた。
獲物だ、そう告げるように喚起に唸る化け物……まずいと私は咄嗟に悟った。
もしもあの女の子の声が無ければ私は瞬間的な判断を怠ってしまい、あの化け物の顎に身体を食い破られて死んでいたかもしれない。
私は殆ど反射的とも言える速度で咄嗟に身を反らし、向かってきた物体を寸での処で避ける。
目の前に化け物は……いない、そしてその代わりに私の視界には黒いゴワゴワした生き物が牙をむき出しにして突撃してきていた。
仕留め損なったと言わんばかりに体制を建て直し再び私に向き直る化け物。
殺される、私は殆ど直感とも言える速度でそう判断を下した。

「なに……一体何なの……これ。人が、死んで……化け……物が……」

じりじりと私との距離を縮めてくる化け物、今度は外さないとでも言っているかのようにその動きには無駄が無い。
下手に動けば其処に転がっている女の人のように食い殺される、私の思考は恐怖に歪んでいるはずなのに妙に冷静だった。
まず一体この状況が何なのか、その時点から私は判断がなされていなかったからだ。
頭に響いた声を頼りに辿りついた場所で人が化け物に食い殺されていたなんて光景、一体誰が信じられると言うのか。
そして今その犠牲者の中に私も含まれるかもしれないというのだから尚始末が悪い。
夢なら覚めてほしい、何度思ったところで一向に朝が訪れる事はない。
何故ならばこれが私の体験している”現実“なのだから、本当に悲しいし悔しいしふざけるなと言いたくなるけれど此れが真実なのだ。
議論だったら後で幾らだって出来る、だがこの場で死んでしまっては元も子もない。
ともかくこの場を生き残って脱出する、それ以外方法は無かった。

「来ないでよ……来ないで……」

『危ない!?』

思考は逃げろと言っている、だけどそれに身体が伴ってくれない。
もと来た道は直ぐ横にある、怪我をするのを覚悟で転がれば二秒と掛からず下にいく事が出来る。
しかし、動かない……足が竦んでしまって全然言う事を聞いてくれないのだ。
死の恐怖、何時もだったらテレビの戯言だと笑い飛ばすであろう自分を今は猛烈に恥じた。
まずい、まずい、まずい……頭の中ではサイレンのような警告が飛び交っている。
でも避けられない、あまりにも化け物の動きが早すぎるのだ。
視界の中の化け物がこちらに向かって大きく跳躍する、そして私は致命的な事にそれを危機として判断する事が叶わなかった。

「ぐッ……がぁッ!」

突然の突進に吹き飛ばされる私。
今まで経験は無いけれどまるで乗用車に轢かれたかのような衝撃が私を襲ってきた。
痛い、途轍もない痛みが私の身体中を駆け巡っていく。
ゴロゴロと石畳の奥へと弾き飛ばされる私、もはや退路は遠くなってしまった。
この前せっかく肩の痣が治り掛けると安心した矢先のこの仕打ちだ、余程神様と言うのは私の事が嫌いで仕方が無いらしい。
あまりの痛みに私はしばしの間悶絶する以外の行動を取る事ができなかった。

「いづッ……ぐがぁ……」

『お姉さん!』

女の子の声が頭の中で私の存在を呼んだ。
そういえば此処に至るまで私の存在を彼女は呼んでいなかったっけ、とこの局面になっても尚私はどうでも良い事を考えてしまう。
身体に受けた衝撃は疼きに変わり、制服は辺りが擦り切れてボロボロになってしまっている。
とことん惨めな姿になった物だ、私はそう自嘲して止まない。
しかしそれと同時に死にたくないと言う思いが私の頭の中でリフレインする。
ようやく幸せを掴んだと思ったのに……ちょっとでもいいから安らぎが欲しかっただけなのに……神様はそれすらも私から奪おうと言うのか。
これは後悔ではない、単純な怒りの感情だった。
あまりにも理不尽、そしてあまりにも酷すぎる仕打ちに私は神様の存在を呪った。

「くっ、そ……ふざけ……ないでよ……なんで私だけが……こんな目に合わなくちゃいけないって言うの……?」

よろよろと立ち上がりながら私はもう抑制の利かなくなった自分の感情を言葉にして吐き出す。
それは明確な憤怒と憎悪、化け物にではない……単純にこんな風になってしまった自分の運命を私は恨んだ。
周りの人間はあんなにも幸せそうに笑って過ごせていると言うのに、何故私だけがこうも理不尽に殺されなくてはならないのか。
私はそれ程多くの物を望まなかったはずだ、ただ居場所を……安らげる居場所と受け止めてくれる人さえいればそれ以外のものなんてどうでも良かったのに。
それなのに……なんで私だけがこんな場所で惨めに一人何も分らないまま殺されなくてはならないと言うのか。

「悪いッ、事だって……さ。確かに一杯あったかもしれないよ……でもッ……私、殺されるような事したかなぁ? こんな風に死ななきゃ行けない様なこと、したのかなぁ?」

まだ立ち上がるか、と言わんばかりに喉を鳴らして脚で地面を蹴る化け物。
その速度は凡そ乗用車が向かってくるよりも速く、そしてそれを身に受ければまず無事である事は不可能であるだろう。
そして何よりもその化け物の口が……唾液と血肉で汚れた大きな顎が私を引き裂くまでにそれ程多くの時間が掛かるとも思えない。
この場で殺される、私は死ぬんだ……そんな思いが脳裏を過ぎる。
しかし、それ以上にこの現実を拒否したい自分がいた。
だって私はまだ9歳だ、幾ら社会からも家族からも友人からも見放された屑だったとしても死にたくない事には変わりは無い。
そもそもこんな風に私がなったのは一体誰の所為なのだ……こんな風な”理不尽“が高町なのはという存在を歪めたんだろう。
それなのにまだ私は虐げられねばならないのか……こんな風に理不尽な死を受け入れなければならないと言うのか……。
認めない、そんなこと私は断じて認めたりなんかしない。

「あぁ……もう、本当に―――――」

ふざけた事ばっかりだ、そういい残し私は化け物の顎に食い千切られる……筈だった。
瞬間、またあの怖気にも似た感触が私の身体を駆け巡る。
初めは走馬灯にも見た何かなのだろうと私は勝手に思っていた、自分の視界に移る物がやけにゆっくりと見えて……その化け物が私に近寄ってくる光景がビデオのコマ送りのように少しずつ私に近寄ってくるのがよく分ったから。
だけど真相は全然違っていた、食い破られる瞬間私の頭の中であの声が……小さな女の子の声がもう一度はっきりと響いたのだ。
それは明確な意思と、そして決意を固めた人間の短くも勇敢な声だった。
そして私は不幸中の幸いな事にそれに対して意識を向けていられる程度には冷静だった。
それが……この状況を“逆転”させた。

『―――――願って』

「な、に……」

『生きたい、そう望むなら……願って。貴方の願望を……渇望を……強く、強く願って』

それはあまりにも馬鹿らし過ぎて逆に滑稽だと思ってしまうほど陳腐な台詞だった。
願う、例え願いだけでこの状況が逆転できるとはどうしても考えられない。
こうなる定めだったとするならば、私はこの理不尽さを呪いながらもちゃんと死を受け入れる事だろうから。
確かに自ら命を絶つのはよくないと分っている、理不尽に誰かに殺されるのだって当然許容何が出来よう筈がない。
だけど、死ぬと確定していて抗えるほど私は強い心を持ってはいない。
どうせ無理だ、もう諦めてしまう、抗うだけ苦しいだけだ……そんな感情が再び頭の中を侵食し始める。

『お願い。貴方を救うにはもうこうする他無いの……お願い、もう私は……私の所為で人が死ぬのなんて見ていたくない!』

「……………」

『勝手な言い分な事は分ってる。謝ったって償えないのも分ってる……でも、それでも私はもうこれ以上誰にも傷ついて欲しくなんかないの!!』

だけど、侵食し始めた考えは女の子の悲痛な声によってかき消された。
化け物はもう直ぐ其処まで迫っている、あまり時間があるようには思えない。
そのこの願い、それは自らの贖罪の為に人を利用しているだけの単なる偽善だと言うようにも確かに思えた。
そんな事に私を巻き込むんじゃない、そんな風に思っているのなら最初から私なんか余分じゃないと……そんな理不尽な怒りすら込上げてしまうほどに私は怒りに打ち震えていた。
そしてそれ以上に、この女の子の願いを聞き入れなければと言う気持ちが頭の中を駆け巡った。
それはそんな怒りを理屈にした単なる救いを求める縋りだったのかもしれない。
もしもまだ私が助かる可能性があるのなら、この声を本当に信用していいのなら……私は生き延びたい。
まだ何も得てはいないのだ、全てはこれからなのだ……そんな私の人生をこんな場所で台無しになんかされたくない。
だから私は願う、彼女が宣言した通り……私の飢えて止まないこの場を切り抜けるための願望を。

「……あぁ、そう。分ったよ……それが答えだって言うのなら、やってあげるよ……ッ!」

『早く! もう時間があんまり無い!? 早く、貴方の望みを―――――』

「望みって言っても、さ……私そんなに多くの事は望んじゃいないんだよ。普通に誰かに受け止めてもらって……誰かの傍で笑っていられれさえすればそれで良かった。だけど、世界がそれを許してくれないって言うのなら……皆が私を遠ざけるって言うのなら―――――」

私はもっともっと遠くに、誰にも触れる事の出来ない完全な干渉の断絶を望む。
それが私の願い……こんな風に死んでしまうのならせめてこの位の恨み言は言わせて欲しいと言うほんの少しばかりの小さな気持ちだった。
そう、どうせ私は孤独……周りに人が寄ってきてもどうせ寄って集って私を虐めてくる。
一杯傷ついた、一杯苦しんだ、一杯辛い目に合ってきた。
どうして私がこんな目に合わなきゃいけないのか、どうして私だけがこんな風に理不尽を抱えて死なねばならないのか。
そんな疑問はやがて苛立ちへと変わり、そして今の私の願望である「完全なる干渉の遮断」へと繋がったのだ。
追いつかれるのなら抜けば良い、触られるのなら振り払えば良い、危害を加えてくるのならいっそ全てを弾き飛ばせてしまえば良い。
そんな暴力的な切望は“力”へと変換され、この世界に顕現する。

『その願い、叶える。暴走なんてさせない……絶対にさせない! もうお母さんに人を殺させたりなんかしない! だから起動してジュエルシード!!』

「がぁぁぁああああああ!!!」

女の子の声が響き渡ったのと同時に時が進むのが少しだけ早くなり、私の掌に存在する宝石が……ジュエルシードが強く強く輝きを発する。
そしてそれを食い止めようとするように私に向かって突進してくる化け物、だけど私に恐怖と言う感情は無かった。
私にあるのは何処までいっても満たされないほどの虚無感と、誰にも干渉などさせるものかという自負。
この願いが力になるのなら、まずは一番初めに遠ざけるべき物を遠ざける。
この危機を打ち砕く、その為にはまずしなければならないのは自分の願いを力に変えるイメージだ。
誰にも干渉できない完全な接触の遮断、例え“この世界のどんな物であったとしても”私を傷付ける事のできない強固な盾。
私は一瞬でそのイメージを構築し、そして……願いを紡いだ。

「私に―――――」

化け物が跳躍する。
唾液だらけの顎から漏れた血肉が宙に落ち、それは私の身体を食い千切らんと勢いを持って迫り来る。
しかし、一向にその化け物は私に触れる事は叶わなかった。
ジュエルシードから漏れた光が、その化け物の質量を完全に食い止めその場から1mmたりとも私に触れさせないのだ。
がちがちと歯を鳴らす化け物、しかしそれでもその牙は私に触れる事は叶わない。
でも、私はそれで終わらせはしなかった。
私が望むのは干渉の遮断、そして干渉する物体を弾き飛ばす事だ。
だから私は強く、強く叫んだ。
その化け物を押し返す為の、私の渇望を。

「触れるなぁぁぁああああ!!!」

途端、ジュエルシードから漏れた光が化け物の黒い身体を大きく後ろへと弾き飛ばす。
それは車が衝突したかのような強い衝撃だったに違いない、いや寧ろ一方がまったく被害を受けていない正面衝突だといっても過言ではないのかもしれない。
例えるならば乗用車が圧倒的な質量を持つ戦車にぶつかって弾き飛ばされたのと同じような、ともかく一方的な衝撃が化け物へとはじき返されたのだ。
神社の建物の方へと飛んで行き、真正面から神社の壁を突き破る化け物。
どれほどのダメージを負ったのかは分らないが、それでも無傷と言う事はないだろうと私は思った。
そして私は二、三秒だけその場に踏み止まって化け物が直ぐに襲い掛かってこないかどうかを確認すると、一目散にその場から逃げ出した。
何だか思わず変な力で跳ね除けてしまったが、一応私も下手に追い討ちをかけて余計な傷を被るのは避けておきたいと言う感情くらいはまだ残っている。
あの化け物に食い殺された女の人には悪いけど、私はそんな見ず知らずの人の為に敵討ちが出来るようなお人よしな感覚は持ち合わせていない。
とりあえず今私が助かった、だから今は生きるためにこの場から脱する。
もはや私が思うことはそれだけだった。

「はぁ……はぁ……一体、何なの? 私、どうなっちゃったの?」

自分の身に何が起きたのかを考えながら石段を降る私。
まさか本当に死に至るような経験をしたからシックスセンスだとか超能力だとかに目覚めたんじゃないか、そんな安直な考えが私の頭を過ぎる。
そんな馬鹿な、私は笑い飛ばしたかったが少なくともあんな力を自分から使ってしまった時点で笑えないものだ。
誰か説明できる人間がいたのなら説明して欲しい、そう思って私は縋るような気持ちで掌の宝石……どうやらあの女の子曰くジュエルシードというらしい宝石を眺めてみる。
しかし一向にさっきの女の子の声は聞こえてこない、それどころか光がどんどん弱くなっていっている兆候さえ見受けられるほどだ。
勘弁してよ、そう思いながら私は必死な思いで石段を降りきると急いで人のいる街中の方へと足を向けた。

「じ、実は私って何処かの世界の神子の生まれ変わりだとか……そんなまさかね……」

走りながら何とか緊張を解す為にそんな事を呟いてみる。
しかし、幾らなんでもこの前先生の家でやったテイルズオブシンフォニアの世界観に今の自分の状況を照らし合わせるのは無理がありすぎると言う物だ。
そもそもあれはゲームのお話しであって現実の物じゃない、確かにそれっぽい力は使ったような感じがしないでもなけれど私だってゲームと現実の世界の区別くらい付く。
でも強ち否定できないのもまた事実だった、何せ現実的に考えればあんな化け物も私が使った変な力も女の子の声も普通ならありえ無い物だらけだからだ。
だけどアレは全部現実で、現に私は殺されかけて傷まで負った。
この傷が今も疼いているのが現実にアレが起きた事を示しだす何よりも証拠だった。

「ともかく此処を離れなくちゃ……ッ!?」

街の方へ行けば人が沢山いる筈だ、もしかしたら誰か助けてくれるかもしれない。
そんな淡い願望を抱いた矢先……突然またあの黒い影が私の前に飛来した。
それは赤黒い何かを垂らしながらも怒りの表情で私に迫るあの黒い化け物の姿だった。
何か板のような物が身体に突き刺さり、身体中の至るところから溢れんばかりの血が流れている物の一行にその勢いは衰える様子を見せない。
しかも最悪な事に、周りに人影らしい人影は見えない。
このままではまた先ほどの二の舞になってしまう……でもジュエルシードを構えてもこんな弱い輝きではさっきの力が発動してくれるようには私にはどうしても思えなかった。
万事休す……私はそんな言葉を頭の中に思い浮かべた。

「あっ……あぁ……」

思わず後ずさりしようとしてその場に尻餅を付いてしまう私。
逃げなければ、そう思った矢先が此れだ。
どうしても私が生きる事を神様は許容してはくれないと言う事らしい。
化け物が喉を鳴らして一歩ずつ近寄ってくる、その足取りは重いがはっきりとしており、その手にはとても自然の動物とは思えない爪が黒光りしていた。
怖い、先ほどの威勢が全て吹き飛んでしまったかのように私は唯縮こまるしかなかった。誰カ助けて……先生……先生! もう私にはこんな事しか思い浮かばなかった。
逃げられない、殺される、死にたくない……歪な感情が交じり合って上手く思考を働かせてくれない。
狂える事ならこのまま狂ってしまいたい、私はそう願うのと同時になけなしの思いを振り絞ってこう願った。
誰か、私を助けて……と。
そしてその願いは……偶然か必然か、まるで取ってつけた様に唐突に叶えられた。

「伏せていろ!!」

機械的な音と共に響いた叫び声が私の意識を急速に盛り下げていく。
あぁ、誰が助けに来てくれたんだ……そんな安堵が胸に落ちて働かせすぎた思考を急速に衰えさせていく。
何だかもう、何も考えられなくなってきてしまった……このままでは意識を手放すのもそう遠い問題ではない。
しかしせめて最後に自分を助けてくれた人の姿だけは見ておきたい、私は必死の思いで頭を上げてその人物の方を見る。
キッッ、と言う音と共に私の隣に何かが止まる……それは大きな黒いバイクに跨ったライダースーツの女の人だった。
無事か、そんな言葉が私に掛けられる。
私はあぁ、何処かで聞いたことのある声だと思いながら何とか首を立てに振って、その女の人が化け物に向かっていくのを皮切りに保っていた意識を手放した。



[15606] 空っぽおもちゃ箱②「誰かを救うということ」#トーレ視点
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/15 15:28
それは私ことトーレが初めてあの少女と会遇するほんの少し前の事だ。
私はドクターの命により、彼の求めている祈祷型ロストロギア“ジュエルシード”の回収の為に第97管理外世界である地球の日本という国にある姉の家を訪ねていた。
本当ならばこの任務は何年も前から現地で動いているドゥーエの仕事だったのだが、思いの他すんなりと事が運びそうも無い為私が派遣されてきたという事だ。
元々姉であるドゥーエは地域に密着し、長々と時間をかけて仕事をこなすタイプの人間だ。
現に彼女は元の任務である管理局への潜入を何年も前に断念し、この地球で表向きは一般人として生活をしている。
何故彼女がこの地球と言う世界に何年も留まっているのか、その真相を私は知らない。
しかし、そうする必要があったからこの世界に何年も留まっている……精々私はあの顔の皮の厚い姉の心内を信じるほか無い立場にある。
だからあまり深くは詮索しない、しかし仕事を命じられた以上はきびきびと働いて欲しいものだった。
元々ドゥーエが戦闘に適しているとは思っていなかったし、今回の任務だって偶々傍に居たから彼女にお鉢が回ってきたと言うだけに過ぎない。
しかし我々にとってドクターの言う事は絶対であり、彼が良しとするまではその任務の遂行に尽力を尽くさねばならない。
故にこうして戦闘に特化した私が態々バックアップに出向いてきたと言う事なのだが……少々それとは違った事で私は頭を悩ませていた。

「ほら、トーレ! ぼけーっとしてないでそっちの荷物をこっちに持ってきなさい。まったく、貴方の引越しでしょうが!」

「あ、あぁ……す、すまない……」

その姉に怒鳴られて少々戸惑い気味に返答する私。
現在私は……というか姉のドゥーエも含めてそうなのだが、潜入の為に揃えた荷物一式をとある場所に二人で運んでいる真っ最中だった。
何故こんな事になってしまっているのか、その答えは簡単だ。
ずばり私が“後先を何も考えていなかった結果”こうして引越し屋の真似事をしなくてはならなくなったのだ。
ドクターにこの仕事を命じられた際、私はてっきりこの任務を受け持つ間は現地のドゥーエの所に住むものだとばかり思っていたのだが、その期待は此方についてから僅か数時間で打ち壊される事になった。
ドゥーエにしても私がてっきり此方での拠点を構えているのだと思っていたらしく、この事を話したときは物凄く嫌そうな顔で拒否の念を露にしてきた。
何でも「貴女のような顔の怖い人間を家に留まらせると怯えるかも知れない子が度々家に来るから駄目」だそうだ。
この世界でドゥーエは小学校の養護教諭をしている為、恐らくはその関係での事なのだろうがそれにしたってあんまりな言い方だった。
と、言うわけで現在私は自分がこの世界で世話になる場所へと荷物を移送している真っ最中なのだが……此れが中々に面倒で終わりが見えない。
自分としてはとっとと任務を終わらせて妹達の下へと帰りたいのだが、この調子では此方での生活を整えるだけでも一苦労しそうだと私は思った。

「ドゥーエ、折角遠い国から訪ねて来た妹さんなんでしょう? そんなに怒らないの。血圧上がっちゃうわよ、その歳で」

「はぁ~、御免ね幸恵。ウチの妹が世間知らずなばっかりに迷惑掛けて……」

「いいのよ。貴女とは長い付き合いだし、偶にはこんな風に助け合うのも一興じゃない。それに折角大学時代の友人が頼ってきてくれたんだもの。無碍には出来ないでしょ?」

「本当に御免。この埋め合わせは必ず何処かでするから……」

荷物を運ぶ先である家から出てきた人物に姉が平謝りしているのを私はダンボールを抱えながら何気無しに眺めていた。
石田幸恵、ドゥーエがこの世界で通っていた大学の同期生で、現在は海鳴大学病院という処で神経内科医師を勤めているというドゥーエの友人だ。
今回私が拠点を構える……もといホームステイの家となる家の家主でもあった。
勿論私やドゥーエの事情などは一切知らない一般人である。
何も知らない民間人を巻き込むのは心苦しいが、ドゥーエ曰くこんな事態は想定していなかったから緊急の対処だと言う事らしかった。
何でも石田女史とドゥーエは大学時代から親しい友人であったらしく、本人の言う事が正しいのなら親友と呼べるような間柄であったらしい。
それが任務に必要な演技の上で出来た友好関係なのかどうなのかは知らないが、すくなくとも見ず知らずの私のような者を快く家に招き入れてくる辺りには深い間柄だったのであろう事は何となく想像が付く。
あの姉が誰かと親しくしている、それは正直私としても意外だった。

「ほら、貴女は止まってないで自分の荷物を運ぶ! 貴女の引越しでしょうに」

「だからそんなに責めないのってば。私は別に気にしないから、ね?」

「そうは言ってもね……幾らなんでもこれ以上迷惑掛けられないわよ。そもそも其処のあんぽんたんが居候する気満々で来たのが悪いんだし、少し位扱き使ってもいいのよ? 見た目どおり力は強いから一通りの力仕事は任せてもいい筈だから」

ここぞとばかりに言いたい放題言ってくる愚姉。
恐らくはこの前責められたお返しなのだろうが、幾らなんでも言い方というものがあるだろと私は内心でぼやいていた。
石田女史は苦笑いを浮かべていたが、そもそも私だってドクターに命じられるままにこの世界に来たのであって、まさか住む所が手配されていない等とは思わなかったのだ。
正直面を食らったのは此方の方だ、そうぼやきたい所だったが……あの姉の性格上それを言うと百倍になって返ってくる恐れがあるためあえて言葉にはしなかった。
この世界に来て多少丸くはなったようだが、それでもあのクアットロを育てた人間だ。
恐らく口では何を言ったって彼女には勝てない、そう自覚しているからこそ私は何も言わずにドゥーエが定めた設定通り“日本語は上手いが口下手な留学生”の振りをして荷物を運ぶのに没頭するのだった。

「あ、トーレさん。服は居間じゃなくて自分の部屋の方にお願いね。それの整理が終わったら次の荷物があるから」

「……了解した、石田女史。参考書などをお願いしてもらっても良いか?」

「はいは~い。じゃ、ドゥーエ。お願いね」

「はぁ~何で私が……。絶対にドクターに文句言ってやる……」

何やら不穏な言葉をドゥーエが言っていた気がするが、あえて聞き逃す事にした。
あのドクターに正面切って文句を言えるのは現状ドゥーエしかいない。
ウーノやチンクは勿論の事だが私やクアットロにしても少々愚痴を漏らしたりする事はあっても、あの方に面と向かって意見を言った事はない。
だが姉妹で唯一ドゥーエだけはあの方に自分の意見を言って、そして遣り通させることが出来た。
元々他の姉妹と違って外の人間と触れ合う機会が極端に多いためなのか、彼女は他の姉妹に比べてもかなり感情が軟らかい人間だ。
時にはドクターに対し反発し、自分のやっている事を無理やり認めさせるような行動力もある。
数年前に管理局への潜入任務を切ったのもその所為だ、詳しい理由は聞かないがその後彼女を見つけるまでに姉妹全員が動いてようやく何年か前にこの世界で発見できた程なのだ。
その為ドクターもドゥーエに関しては他の姉妹たちとは違う感情を抱いているらしい。
あくまでもウーノから聞いた事だから正確な事は言えないが彼女曰く「何が彼女をそうさせたのか」と言う事に対してドクターは興味を抱かれているようだったという。
故に彼女の取る行為に関しては私は口を挟まなかった……まあこんな事になった当て付けをしてやろうと言う密かな思いも無いでは無いのだが。
そんな風に考えながら私は石田女史の家の二階にある私に宛がわれた一室に衣服の入ったダンボールを置くと、一旦額に付いた汗を拭って一息つくことにした。

「しかし……ドゥーエにしても此処まで演技を徹底させる必要があったのか? 服や下着は分るが日用品や嗜好品まで揃える事は無いだろうに」

あまりの荷物の量に私は思わずそう漏らさずにはいられなかった。
この作業はドゥーエがこの世界での仕事を終えてくる前からやっているのだが、それでも一向に終わる気配が見えない。
というのも、あまりにも荷物の量が膨大すぎるのとこの世界の引越し業者を雇う暇が無かったと言うのが全ての原因なのだが……その荷物が問題だった。
ざっとダンボールだらけの部屋を回し見てみると其処には殆ど新品のTVやコンポ、机やこの世界のパーソナルコンピューターに偽装した通信端末等の大型の荷物が所狭しと並んでいた。
勿論全てこの世界の物なのだが、当然私には縁の無い物ばかりだ。
そもそも私にはこの世界の娯楽などは分らんし、そんな物にうつつを抜かしている場合でもないのだが……その場に溶け込むにはこのくらいの用意が必要だと言われて一式揃えられたのだ。
確かに私はこの世界に来る時、小型の通信端末とこの世界でも目立たないであろう偽装した私服、それと2、3日は食うに困らないだけの通貨しか持ち合わせていなかった。
まあ元々私自身もドゥーエの家に転がり込むつもりで居たからそれだけの荷物に留まらせたのだが、長期の滞在任務にしては荷物が少ないのは自覚していた。
しかしだからと言ってこんな任務に関係の無い物まで揃えるのはいかがした物か、金銭の問題についてはドゥーエのポケットマネーらしいが……あまりにも無駄な物に囲まれるというのがどうにも私には慣れなかったのだった。

「使おうにも使い方が分らんものの多いし……こんな事ならクアットロでも連れてくるんだったな。いや、駄目だ。アレがいると余計に問題が増える気がする……」

頭の中で高笑いを浮かべる四番目の姉妹の顔が一瞬脳裏を過ぎった気がした為、私は慌てて首を振ってその考えを忘却の彼方へと追いやる。
確かにドゥーエの次に世間に触れているのはそのドゥーエに教育を施されたクアットロに違いないのだが、アレはアレで性格に多大な問題があるため何をしでかすか分った物ではない。
ともかく自分が楽しめれば周りの人間などどうでもいいと考えるような妹だ、もしもこの場に居たらと思うと頭が痛くなる。
しかしだからといってウーノがドクターの傍を離れるとは思えないし、チンクにしたって戦力は確かに惜しいがこんな潜入の任に就いたところで今の私のように首をかしげる人間が増えるだけだ。
その他の姉妹に関しては未だ製造中、そろそろ六番目の妹は起動するだけなら大丈夫とは言っていたが厄介な人間が増えるだけな事には変わりが無い。
あまり時間を掛けたくはないが、精々地道に一つ一つこの世界の道理を学んでいくしかない……そう思うと何だか無性に溜息をつきたい気分だった。

「しかも仮初とは言え私が学生とは……。まったく、どうしたものか……」

悩めば悩むほど問題が出てくると思いながら少しばかりの休憩を終えた私は再び木製の階段を下って元のように外の方へと戻っていく。
どうにもこの国の人間は家に上がるとき靴を脱ぐ習慣があるらしいのだが、此れがまた面倒な事この上ない。
それに周りに合わせて服装を変えねばいけないとか、定期的に毎日身体の洗浄をしなければならないとか生活習慣の面にしても激しく面倒な物が多い。
そして極めつけは私の現在設定されている立場……近場の大学に通う留学生と言う現状だ。
確かに私はこの世界の某国で戸籍を金で買い、そこからの経由でこの国に入ったのだが、どうにも無職と言う立場が気に食わず私はドゥーエに相談して日本に留学する為に某国から私を訪ねて来たことにすればいいという事でこんな風になった訳だ。
当然実際に大学に行って学業を学ぶわけではないし、実質的には無職である事には変わりはなく、石田女史に伝えてある偽の講義の時間割に該当する時間にジュエルシードを捜索する予定で居るのだが石田女史と生活を共にする以上は不干渉という訳にもいかなくなる。
臨機応変に演技をする、その為に態々この国の学業の参考書なども一揃い買った所なのだが……私はドゥーエのようにこの世界に留まりつつ仕事をするような事には恐らくならないだろうからまったくと言っていいほど無駄な買い物だったと思っている。
基本的にドゥーエがドクターのアジトに居ないのは普段はこの世界に居るからなのだが、私までそうなる必要は無いだろうと私は思った。

「はぁ~。やれやれ、と言う奴だ……。どうやらこの任務、私が思っていたよりも難航しそうだな」

右手で頭を掻きながら靴を履き、まだまだ荷物が多く積み上げられている庭先へと足を運ぶ。
まだまだ荷物は大量に運び込まねばならず、更にそれの整理までしなければならないのかと思うと頭が痛くなってくるのだが……あのドゥーエを刺激すると何が返ってくるか分らないのもまた事実なので素直に諦める事にした。
しかし、庭先に足を運んでみると其処には何やら携帯端末で会話をしながら顔を顰めているドゥーエとそれに合わせて不穏な空気を醸し出している石田女史の姿があった。
それに違和感を感じた私は一体何があったのか、と思ってすばらくその様子を観察していたのだがどうも雰囲気的にあまり良い事が起こった訳ではないらしい。
また面倒ごとか、そう思った矢先にドゥーエは携帯端末で話している相手に謝るように了解の意を示し、携帯端末の電源を落として此方の方を向き直って口を開いた。

「あぁ……最悪。幸恵、トーレ……後の引越しは二人で片付けて」

「ど、どうかしたのか?」

「どうしたもこうしたも無いわよ。何でも海鳴デパートでウチの学校の万引きで捕まったから謝りに行ってくれってさ……。他の先生が謝りに行けばいい物を何で私なのよ……っとに、あの教頭ってば私に嫌がらせでもしたいのかしら?」

「保険の先生だから暇だって思ったんじゃないの? 先生も大変ねぇ、沢山揉め事抱えちゃってて。まっ、お仕事だと思って諦めなさい」

船でも沈没したかのように消沈気味に落ち込むドゥーエと苦笑いでそれを励ます石田女史。
どうにも会話の内容からドゥーエの勤めている学校の生徒が窃盗を犯したようで、ドゥーエにその尻拭いをしてこいとの御達しらしい。
この国の人間はそんなに小さな子でも窃盗を犯さねばならないほど治安が悪いようには思えなかったのだが、ミッドチルダでも殆ど愉快犯的な思いで軽犯罪を犯す人間が多発している事を考えると恐らくはその類の人間が捕まったのだろうと私は思った。
しかし、何にしても教師と言うのも難儀な職業だと私はそれと同時に思った。
別にドゥーエの職種を非難する訳ではないのだが、任務に就くならもっと効率の良い職業も幾らだってあっただろう。
どうにもこの二番目の姉が考えている事はよく分らない、そんな風に思いながら私は肩を落として車の方に向かっていくドゥーエを見送った。

「じゃあ後はよろしく……。一応夜までには戻るようにするけど期待しないでね」

「あ、あぁ……頑張れよ、ドゥーエ」

「行ってらっしゃい。残念、今晩は三人ですき焼きでもしよかと思ってたのに」

「……本当に最低最悪の一日だわ。まるで二日酔いの晩の悪夢よ、ったく。あぁ、そうだった。トーレ! 貴女ちょっと買い物に行ってきてくれない? 貴女の荷物がばらけるからビニール紐か何か必要なのよ。生憎と幸恵は切らしてるみたいでね、行けるわよね?」

当然だ、と答えるとドゥーエは本当に無理やり振り絞ったような笑みを浮かべて車に乗り込んでいった。
どうやら悪い事に更に悪い事が重なって少しばかり気が滅入っているようだった。
以前ドゥーエのどうでもいい定期報告でこの国のすき焼きという食べ物は非常に美味だと聞いた覚えが在るのだが、きっとそれを食べ逃した事も彼女を憂鬱にさせる原因の一つになっている事は想像に難くなかった。
私はドゥーエのように公衆の歯車となるような職業についた事はないが、これはこれで色々と大変なのだろうと少しだけ認識を改める事にした。
実の所私はドゥーエのように普段アジトに居ない人間は気楽で良いものだと考えていたのだが、恐らく今の彼女の立場に自分が居たら少し心が折れていたかもしれない。
ともあれ今はただ去り行く姉にエールを送る他無い。
私は頑張れドゥーエと心の中で呟きながら彼女に言われた事を実行する為に石田女史に向かって口を開いた。

「……それでは私も少しだけ失礼する。ビニール紐とは何処で買えばいいのかな?」

「あぁ、近場にホームセンターがあってそこで安く売っているから出来れば纏め買いしてきてくれないかしら? 丁度ウチのも切れちゃってて……勿論立て替えるから」

「承知した。後、出来れば足になる物を貸してはいただけないだろうか? 一応単車なら一通りライセンスを持っているので。無理ならいいのだが……」

「それならウチの自慢の子を貸してあげる。車庫に停まっている筈だから乗ってあげて。ちょっと扱いが難しいけど馬力はあるから。はい、これキーね。行ってらっしゃい、トーレさん」

なし崩し的にキーを受け取って石田女史に背を向けた私は裏庭に在るという車庫の方へと足を伸ばす。
一応訓練の一環として単車から航空機まで様々な技術を習得している私だが、実の所この世界のライセンスを持っているかということに関しては少々黒い事情が絡んでくる。
一応ライセンス……この国で言う”免許”と言う物は私も持っている。
勿論精巧な偽者だとか、以前ドゥーエがどういう訳か土産に寄越した学ランを来た猫の物でもなく正真正銘の本物だ。
しかし当然私のような人間が一朝一夕でこの国の免許を取れるはずが無く、現状私が持っているのは某国で金を払って発行して貰った物を役所に申請して得た物なのだ。
つまり確かにライセンス自体はこの国で発行された本物だが、実の所を遡れば元となったライセンスの所得試験を私は受けずに所有している事になる。
あまり他の次元世界で問題を起すのは好ましくないのだが、要するに形だけ取り繕ってあればそれでいい。
現に私はバイクには乗れる……そんな風に言い訳を考えながら車庫の前に立った私は、乗用車が一台分入りそうな小さな車庫のシャッターを手動で上げて、その中へと入っていく。
すると其処には珍しい形の黒い大型のバイクが一台その中央に聳え立つように駐車されていた。

「……スズキのハヤブサか」

この世界に来る前に一通り調べておいた単車のデータと目の前にある黒い車両とのデータを脳内で照らし合わせてみる。
正式名称はススキ・GSX1300Rハヤブサ。
最高出力は175ps /9800pm、最大トルクは14.1kg-m/7000pm。
最高速度は凡そ312km/h……嘗ては最速と呼ばれた程のモンスタースペックを備えるマシンだった。
何故私がこの世界の単車の情報を持っているのか、それは偏にこの世界での足を確保する際に何がいいのかというのを予め情報収集していた事が大きい。
ジュエルシードを探すとはいっても流石にこの付近にあるというだけで実際に何処に落ちているのかはまだ私にも分っていない。
そんな中を徒歩で歩いて探すと言うのは殆ど無謀とも言える行いだ。
それを少しでも解消する為にと慣れない端末を操作して彼是とデータを収集していたのだが、一際目を引いたマシンと言うのが実の所このハヤブサだったのだ。
馬力があるし、尚且つ多少無茶をしても壊れないだろう頑丈さには目を引かれる物がある。
此れはもしかしたら試し乗りのチャンスなのかもしれない、私は少しだけ気分を浮かせながらハヤブサにキーを差し込んでエンジンを掛けると、その重い車体を押しながら道路の方へと向かっていった。





それから一時間と少しばかりの時間が経ち、私はなるべく急がなければという思いに急かされながら人気の無い街道をハヤブサで駆けていた。
実際の所このハヤブサというマシンのスペックは凄まじい物があった。
どうやらこのマシンにはスピードリミッターが搭載されていないらしく、本気で駆けようものなら楽楽と300kmオーバーのスピードが出せてしまうらしかった。
その為少しだけと思ってスピードを上げてみると此れがまた恐ろしく加速力が高く、僅か数秒で200kmまで到達してしまったほどだ。
幸いにも人気が無かったのと、この国の民警が巡回していなかったので法的な処理を受けることは無かったのだが……マシンに魅せられていたという事に関しては否定できなかった。
しかし、その魅せられていたのが災いした所為なのか私は根本的な事を忘れていた。
まあ戦闘機人である私が忘れると言う行為に至ると言う事はまずありえないのだが、どうにもマシンの性能を扱いきるのに夢中になり過ぎていて根本的な仕事を疎かにしてしまっていたのだ。
そのため私は急いでホームセンターという場所で頼まれていたビニール製の紐の束を三つほど購入し、恐らくは呆れるか困り果てているかの何れかに陥っているであろう石田女史の家へとバイクを走らせていた。

「私としたことが……どうにも気持ちが緩むと心構えも疎かになっていかんな」

黒いボディに合った黒いフルフェイスのヘルメットの中で私はそう呟き、気持ちを改めた。
確かに何時もとは違う任務とあまりにも平和すぎる環境に気持ちが緩んでいたと言うのもないではないのだが、世話になる家主に迷惑を掛けるほど舞い上がるというのは不覚もいいところだ。
折角善意で泊めてもらっているのだからこんな所で印象を悪くしたくはないし、あんな姉でも友人に顔くらいは立てておきたい筈だろう。
ともかく急がなければ、そう思っている所為なのか現在の私のスピードは軽く100kmをオーバーしている。
本当は違法だと言うのは理解しているのだが、回りが見ていないのだから少々無茶をしても罰は当たるまい……そんな考えだった。

「何はともあれ帰ったら石田女史に詫びねばな……。恐らく―――――」

時間が掛かりすぎていると嘆いておられるだろうからな、私はそう呟くつもりだった。
しかし、私は思わず視界に映った物を垣間見た途端息を呑んで言葉を胸のうちにしまいこんだのだった。
そしてスピードを緩めてじっくりとその光景の観察を始める。
私の目の前に映った物……それは白い服を着た少女が街道を走っていく光景だった。
普段なら気にも留めないような光景だったのだが、私はその少女の姿に違和感を感じた。
何故かその少女は全身が不自然に汚れていて、更に傷まで負っているようにも見えた。
加えて彼女の掌……何か光っているような気がしたのだが、微弱ながらに魔力反応を感じる。
何か臭う、私はそう睨み一旦バイクを止めてその少女の方へと視線を移し続ける。

「魔力反応……いや、しかしこの世界は魔法とは無縁の世界だったはず。もしや……」

私はその少女が後ろを振り向きながらも走っていく様を見ながら、もしかしたらの可能性を脳内から引き出して呟く。
以前からジュエルシードを狙って動いている人間が居る、もしや彼女がその人物なのではないかと言う可能性だ。
この世界は確かに栄えてはいるがその歴史の中に私の知る”魔法“や”魔力”と言った要素が絡む事は皆無、故にこの世界で魔力反応を見せる人間こそがその犯人なのではないか。
此れに関しては何とも言えないし、可能性も捨てきれない……しかし私は安直にそう考えはしなかった。
確かにこの世界は魔法と言う物に関しては無縁な世界かもしれないが、それでも魔力を持つ人間が生まれる可能性はゼロではないし、自覚が無いにしても常に微弱な魔力を駄々漏れにして生きている人間だって居ない事はない。
もしかしたら彼女はその類の人間で、石田女史と同じ何も知らない民間人なのではないか……此方の方がずっと可能性は高いと言えた。
そもそもジュエルシードというのはかなり大きな魔力反応を持つロストロギアの筈、だが彼女が漏らした魔力は本当に人が自覚出来るか否かと言う微弱な物だった。
それでは何故私はこんなにも彼女の存在が”引っかかっている“のか、その答えは本当に直ぐ傍にあった。

「ッ……別の魔力反応、しかも大きい。AA……いや、AAA級だと。まさかッ!?」

殆ど確信にも似た衝撃が脳を揺さぶった瞬間私は大きな物音がした事に気が付いた。
そして再び少女が駆けて行った方向へと視線を向けると、そこには先ほどまではいなかった漆黒の獣がその少女が駆けて行って方向へと走っていくのが目に付いた。
そしてこの多大な魔力反応はその生物から漏れだしている事に私は気がついた。
間違い無い、アレはジュエルシードを取りこんだ結果生まれた暴走体だった。
そしてその状況を照らし合わせるならばあの少女はあの暴走体に追われているという事になる。
一般市民にジュエルシードの存在が知れるという事が在っては拙い、そしてそれ以上にそれによって死傷者が出る等言語道断だ。
ドクターから命じられている訳ではないが、下手に管理外世界で騒ぎを起こせばその世界の常識を覆すことにも成りかねないし、加えて死傷者を出したとなればこの国の民警が騒ぎ立て今後の行動が上手くいかなくなる。
そして何よりも……何の罪も無い一般人が殺されていい道理など何処にも存在しない。
人なら散々殺してきた、目的の為だと、任務の為だと、姉妹の為だと言い聞かせながら数多の人間を私は切り刻んできた。
あぁ、解っている……これはエゴだ。
あの少女が殺されている隙に暴走体を襲撃し、それからジュエルシードを回収してもドクターの心は痛む事は無いだろうし、事実上私の任務はそれで成功した事になる。
だが、それでも……罪無き人間が死んでいいなどと言う事にはならない。

「……くそッ、大した偽善者だな。私も」

アクセルを傾け、思いっきりバイクを加速させて私は奴等が駆けて行った方へと駆けて行く。
偽善、確かに今私が取っている行動は偽善なのだろう。
こんな風に正義感を丸出しにして入るが、どの道私はどう抗おうと人殺しの大罪人だ。
どれだけ言い訳を重ねても私が数多の人間をこの手で切り刻んできた事には変わりは無い。
見捨てようと思えば見捨てる事も出来た、もしかしたら私と言う人間の性質を考えればそうする方が正しかったと言えるかもしれない。
しかし、それでも尚私が駆けるのは死の覚悟もない一般の……それも幼子を目の前で殺されるというのが我慢ならないからだ。
傍から見ればおかしい光景なのかもしれない、人殺しが人を救うなど滑稽以外の何物でもないだろう。
だが、どうしても許容出来ない一線という物もある……これは殆ど私のエゴやプライドから生まれた自らへの甘えなのかもしれない。
非情に徹する事の出来ない自分への……何処まで行っても生温い情に流されてしまう私自身への甘えだ。
だが、それでも――――――

「それが、人が死んでいいという理屈にはならんッ!!」

エンジンがまるで咆哮の様な唸り声をあげる。
排気口から漏れだした爆音がそれに続くようにその唸り声に重なる。
そしてホイルが回転数を増し、スピードメーターは100kmを振り切りドンドンと加速力を増していく。
私のISを……ライドインパルスを使えばもしかしたら今の速度より速く少女やあの暴走体に追い付く事が出来るかもしれないが、そんな余裕は無い。
バイクを降りる時間すらも惜しい、更に言えば結界魔法を構築している時間すらも惜しい。
周りの人間が気がつく前に最速であの少女を保護し、そして暴走体を撃破する。
任務は頭に浮かんだ、後は実行するのみだ。
そして私にはその力が在る、戦士としての……戦闘機人としての力が。
本来この力は他者に災厄を齎す事のみに使われる物だと、私はずっとそう考えていた。
何処まで行っても私の力は人を傷つける事しかしない、ましてこの力が人を救うなどと私は考えた事も無かった。
しかし、実行せねばあの少女は死ぬ……それだけは何としても避けねばならない。
それは突発的に目覚めた正義感だった、自分でも性に合わない事くらいは解っている。
だがもうやるやらないの段階は過ぎた、今はもう“やるしかない”のだ。

「インパルスブレード……ゆくぞッ!!」

既に二つの目標は私の眼前にその姿を露わにしていた。
跳躍し、少女の前で威嚇するように唸る原住生物を取りこんだ暴走体とその暴走体を前にして尻もちをついて怯える少女。
下手をすれば何時飛びかかられてもおかしくは無い状況だ。
しかし、私はそれを見越して自らの固有武装を……インパルスブレードを左腕のみに限定してこの世界へと顕現させる。
それは紫に輝く無骨な刃……この世界で言う肉切り包丁のような歪な短刀だ。
数多の人間の血肉を啜ってきたエネルギーの刃、それが私の固有武装インパルスブレードだった。
これで私は幾多の戦場を駆け、様々な人間を切ってきた。
其処には女も男もいた……年老いた老兵も年端もいかない少年兵もいた。
そして私はそれを構わず切り捨ててきた、首を、四肢を、腸を、半身を、得物を……何もかも切り裂き奪ってきた。
本来こんな風に“誰かを護る”為に振われる様なそんな刃では無いのだ。
所詮何処まで行ってもこの力は殺人の力……どれだけ言い訳した処でその事実は変わる事は無い。
しかし、それでも私は……目の前の少女を救わなくてはいけない気がしてならない。
故に私は少女に向かって叫び、攻撃の態勢を整えた。

「伏せていろ!!」

それに気がついてか無意識の内かは判断しかねるが、ともかく身を屈めて体勢を低くする少女。
そしてその瞬間、少女に向かって飛びかかる暴走体。
私は一気にスピードを上げ、その中間に躍り出るとその暴走体目がけて一気に左腕に構えたインパルスブレードを横薙ぎに振った。
捉えた、そう思った頃には私の刃は暴走体の脇腹を裂いていた。
状況が状況だった故か少々負わせた傷は浅かったものの、暴走体は奇声をあげて私と少女から飛び引き距離を取った。
原住生物を取りこんでいる為か中々に利巧な奴だ、私はそんな風な評価を下しながら少女に向かって安否を確認する。
無事か、と問いかけると少女は渾身の力を振り絞ったかのように力無く一度だけ首を縦に振り、そしてそのまま意識を失った。
余程怖かったのだろう……そう思っていた矢先、私は少女を見ていて在る事に気がついた。
それはついこの間ドゥーエのマンションを訪ねようと思った際にエレベーターの前でぶつかった少女と同一人物で在ったという事だ。
奇妙な縁もあったものだ、私はそう思いながらも少女を庇うように前に躍り出て暴走体と対峙する。

「ふん……まあいい。さぁ、来い原住生物! 始末をつけてくれる!!」

左手のインパルスブレードを構え、片手だけで車体のバランスを取りながら暴走体の動向を図る。
目の前の獰猛な獣は此処までされてまだ少女を諦められないらしく、どうやら私諸共喰い殺してしまうと考えているらしかった。
その証拠に化け物は喉を鳴らしながら唾液を垂らして地面を二、三度試す様に脚で地面を擦っている。
もはやこの場を一旦退くという手段は向こうには無いらしい、それは無論こちらも同じ事なのだが。
インパルスブレードを構え直し、再び奴が踏み切るのを私は待つ。
正直バイクから降りてしまった方が全てのインパルスブレードを使える上にISも使用できるので寧ろ降りてしまいたいのだが、バイクを降りている瞬間に相手が襲ってきたら元も子もないし……そもそもこのバイクは借り物だ、傷つける訳にもいかない。
忌々しいと内心で考えながらも、フルフェイスヘルメットの中色々と別の処での焦りと戦闘に集中しなければという気持ちの板挟みで頭を痛める私。
次にこういう事が在る時は絶対に自分のマシンでやろう、私は激しくそう思った。

「直掛かって来ない辺りはそれなりに頭が回る様だな……だがッ!」

私はアクセルを入れこみ、バイクを加速させると一直線に化け物へと向かって行く。
当然片手にはインパルスブレード、腕の部分のリーチは少々短いのがネックだがこの際どうなったって構いはしない。
何処でもいいからこの刃を突き立て、そしてバイクのスピードに乗せて切り裂く。
行動すべきモーションは既に頭の中で定まった、後はそれを実行に移すのみ。
だから私はあえて先手必勝という戦法を取り、こちらから奴に仕掛けて出る事にした。
奴の動向を探りつつ、確実に少女の安全を確保するという案も無かった訳では無かったがその少女の様子も気に掛かる故に此処は一気に片付けてしまうのが得策だと考えたのだ。
そして現に暴走体は―――――こちらに向かって跳躍はしているもののタイミングを計り損ねたのか少々スピードが遅い。
こちらは3秒で100kmのスピードへと加速できる大型マシンに乗っている、当然それ程距離の空いていなかった私と暴走体では加速力で私に軍配あがる。
そして私は目論見通り、暴走体の口元にインパルスブレードを突き立てた。

「はぁぁぁああああああ!!!」

そしてそのまま一気に私はマシンを加速し、インパルスブレードを突き立てたままそれを一気に振り抜く。
ブチブチと肉と骨を切り裂く音が感触と共に私の感覚を刺激する。
しかし、私の刃に切れぬ者は無い……単純なエネルギーが刃と化しているインパルスブレードはその理論上魔力物質を含まない物なら殆ど例外なく切り裂くように出来ている。
あくまでもドクターの言われたカタログスペックの上での話だが、少なくとも生物の肉を断ち切るのに手間取る事は無い。
私の腕を臓物と血肉が迸り穢していく、口元からバッサリと腹の辺りまで切り裂かれた暴走体は原住生物の生命力上その力を失ったのか、切り裂かれる度に徐々に魔力反応を薄れさせていく。
視界が紅と黒で染まる、それは暴走体から飛び出した血肉が見せた臓腑色の瞬間だった。
しかし私はそれを急いで振り払い、自分の身体に掛からない様に走り抜ける。
少なくとも結界も張っていない状態で血みどろ等という状況は避けたい、そう思ったからだ。

「お別れだ……朽ちるがいい!」

どさッ、という鈍い音を立てて地面に落下する暴走体。
やがてそれはドンドンと魔力反応を失っていき、やがて二つの物質へと姿を変えた。
一つはジュエルシード、もう一つは小さな原住生物の無残な亡骸だった。
恐らくジュエルシードを取りこんだ原住生物があの暴走体へと姿を変えていたのだろうが、ジュエルシードの詳しい情報を知らない私としては不幸な出来事だったといわざるを得なかった。
全てはもう終わった事なのだが、ジュエルシードは誰かの願いを叶える祈祷型のロストロギアだと聞く。
その殆どは制御がし切れず暴走してしまうらしいのだが、恐らくはその原住生物もジュエルシードを制御できずに暴走してしまったのだろうと私は思った。
他に被害など出していなければいいのだが……そんな風に考えながら私はジュエルシードを回収すると、少女の安否を確かめる為にゆっくりとバイクを走らせて少女の元へと駆けよっていく。
少女の傍にバイクを止め、傍らにしゃがんで反応を促すとその少女は気絶しながらもはっきりとした反応を示してくれた。

「おい、しっかりしろ! おい!」

「んっ……ぁ……」

少女は呻くように声をあげるだけで一向に意識を取り戻す様子は無かった。
しかし、身体中に傷こそ負っているがどうやら命に別条は無かったらしい。
これを吉と考えるべきか凶と考えるべきか……そう私がそんな風な感想を漏らしていると、私は少女から漏れていた魔力反応の事を思い出していた。
それに何か違和感を感じた私は少女からの魔力反応を頼りに、その魔力反応を示している方へと意識を向けてみる。
それは少女本人から漏れていた物では無く、少女の掌から漏れていた物だという事に私は気がついた。
一体どういう事だ、そんな風に考えながら魔力反応を示している少女の掌を確認した私は……そこで驚くべき物を発見した。

「これは……ジュエルシード!?」

そう、少女が気絶しながら握っていた物はあの暴走体とはまた違う別のジュエルシードだった。
反応こそ微細だが、恐らく精巧な偽物という可能性は限りなく低い。
ではやはりこの少女がこの少女がジュエルシードを集めている人間なのか、そんな疑問がもう一度脳裏を過った……のだが、私は直ぐにその考えを捨て去った。
ならばこんな風に何の対処もせずに魔法も使わず逃げ回る訳が無い、恐らくは巻き込まれたのであろうと私はもう少し妥当な考えを例に挙げてそれを否定したのだ。
まあともあれこの少女のジュエルシードも回収せねばと思い私はゆっくりとその手を伸ばし―――――弾かれた。

「ッ!? なんだ……これは……」

まるで電撃でも喰らったかのように私の腕に衝撃が走る。
少女の持つジュエルシードに触れようとした瞬間に私の腕が弾き飛ばされたのだ。
そしてその衝撃には殆ど測定不可能な程の魔力反応が込められていた、もう一度触れようとしても私の腕はまた同じ衝撃にやられて一向にジュエルシードを掴む事が出来ない。
しかし、もう一つのジュエルシードは確かにこの手の内に在る……もしやと思い私はその場でしゃがみ込みながらその少女に対しての思考を重ねる事にした。

「まさか……ジュエルシードが使用者を選んだとでもいうのか?」

そんな馬鹿らしい考えが頭の中を過る。
言い換えるならこれはこの目の前の少女の願いをジュエルシードが聞きいれ、そしてそれが他者に渡らぬように自己防衛をしているという事になる。
限りなく可能性は低い、しかし無いとは言えない事ではあった。
ジュエルシードは元々誰かの願いを聞き入れる為に造られたロストロギア、それが“正しく”対象者の願いを叶えていたとしても何ら不思議なことではない。
ジュエルシードに触れたものが皆取りこまれて暴走する訳ではない事を考えると、その可能性は十分に在った。
ドクターに報告した方が妥当という処なのだろうが、ともあれこの状態では回収する事が出来ない。
ひとまず私は少女から事情を聞く事も考慮の内に入れてジュエルシードを握った手を少女のポケットへと滑り込ませ、そのまま彼女をを背負ってバイクに乗せると、購入したビニール紐で私と少女の身体を結びつけて固定し、病院へとバイクを走らせる。

「何はともあれ……厄介な事になりそうだな……」

厄介事は御免だ、そう考えているのに次々と面倒事が転がり込んでくる。
そしてそれをどうにも避けられない自分がいる。
情けない話だが、もしかしたら私は苦労を人一倍背負い込んでしまう性質なのではないかと私は思った。
ちょうどこの……背中で気絶している少女のように。
どうにもこの任務、先は長い様だ。
そんな風に考えながら私はため息を一度吐き出し、その場を後にするのだった。




[15606] 第七話「これが全ての始まりなの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/15 15:51
夢を見る、と言う事は誰にでもある行為だ。
寧ろそれが人間として当然の行いであり、それはまた私こと高町なのはにも同じ事が言えた。
夢……今となっては遠い遠い昔に捨ててきてしまったような、淡い願望が不安定に形になったものだ。
それは終始一貫せず様々な物に移り変わり、そして夢想にも似た一時的な快楽を私に見せ続ける。
無論、これが幻であることなどは百も承知だ。
だけども此れは私に限らず今を生きる全ての人間に言う事の出来る現象だと私は思う。
例えば「将来自分はこうありたい」だとか「この人間のように自分はなりたい」だとかの願望は誰にだって抱かれる事の出来る至極全うな考えなのだ。
それが例え悪人であれ善人であれ、この世に人の“欲求”がある限り人間は必ずそれを求めるか、もしくは手を伸ばそうと考える。
損得の問題ではない、これはあくまでも人間の本質的な面で言えることだ。
その考えを他人に押し付けるようだが「誰かがこうあって欲しい」と望む事もまたその一部だと私は思う。
金銭、権力、学力、運動能力、人間関係……凡そ人は自分に足りていない物を求める生き物だ。
そして私もまた”足りない“物を”埋めよう“として必死で抗う人間の一人に過ぎない。
ちっぽけで、泣いてばかりで自分からは何も行動できず、唯誰かの助けを待っているだけの甘えん坊の私。
何の力も持たない、非力でどうしようもない私でもそうした欲求はある。
だからなのだろうか、私は……その願いが“叶うかもしれない世界”に足を踏み入れている。
此処が何処で、何故私が此処に居るのかは理解できない。
しかし唯一つ言える事は恐らく……私が余計な事に首を突っ込んだ結果の成れの果てということなのだろう。
私は起きているのかも寝ているのかもつかぬ思考のままにそんな事を考えながら、ゆっくりと閉じた目を開けた。

「んっ……こ、ここは……」

目を覚まし、身を起した私が見たもの……それは地平線の彼方まで広がる広大な草原だった。
晴れ渡った青い空と、何処までも続く若草の緑が並行するように繋がるそんな世界。
その場に立って服を払い、辺りを見回してみるとそれは360°何処を見ても変わらないものであると私は気が付くことが出来た。
此処は何処だろう、私はふとそんな事を頭の中に思い浮かべる。
しかし、直ぐにどうでも良いという様な曖昧な考えが思考の中に刷り込まれ、私は即座に考えるのをやめた。
此処が何処で、私が何でこの場に居るのか……それは正直私にも理解できない。
あまりにも突発的で、あまりにも不気味で、あまりにも人気の無い絵画のような無機物の世界が其処には広がっているだけ。
幾ら私が考えた所でこの場所が何なのか特定する事は恐らく不可能だと言えた。
でも不思議と恐怖は無かった、人間は基本的に理解が及ばない物に恐怖を抱くと何かのゲームで言っていた気がするがこの状況は正にその理解が及ばない現象の筈なのにだ。
何処か此処は安心する……私はそんな事を考えながらその場に立っていた。

「広い……でも、綺麗だ……」

草原の中を一歩一歩私は進んでいく。
其処にはやはり緑と青、そして時々疎らに存在する雲の白が存在するだけで他には何も存在しない。
単純かつ穢れの無い世界、でもそれ故に綺麗な場所だと私は思った。
自動車もなければ聳え立つように建ち並ぶビルも無い、けたたましい騒音もなければ煩わしい人の群れも此処にはない。
そして何よりも此処には私を脅かす物が何もない、何となく私はそう思った。
誰も私を陥れない、嬲らない、穢さない……それがこの世界。
空腹もなければ排出の必要もなく、成長もしなければ老いる事もない。
人間から数多の欲求を根こそぎ奪い、ただ生きるという事のみに必要な感情をそぎ落とされたかのような錯覚を私は覚えた。

「風の声……草の匂い。雲の流れる音……心臓の音……」

そんなどうでもいいような事を呟きながら私は一歩一歩この壮大な草原の中を行く当てもなく歩いていく。
疲れはない、それ以前に体力と言う物が存在しているのかどうかも定かではない。
ただただ目的もなく歩く、その果てに何があるのかも分らぬまま。
でも私はやはり其処に畏怖や苛立ちといったマイナスの感情を抱く事はしなかった。
まるで全てから解き放たれたかのような爽快な思いが私を包み込んでくれているような気がしたからだ。
誰もいない私一人だけの世界、私だけが存在する事を許された私だけの居場所。
恐らくそんな事はないのだろうが、私はそんな風に考えながらやはり足を止めることなくふらふらと草原を歩き続ける。

「天国……きっとそう呼ぶのが正しいのかな? 生きている人なら多分、此処には辿りつけないだろうからね」

唐突に私はそんな事を口走ってしまった。
しかしその言葉を私は否定する事はしなかった、あまりにも説得力があり過ぎたから。
此処は少なくとも人が生きている内に辿りつける様な世界じゃない、少なくとも何か穢れを持つ人間が来れるような場所ではないと思ったからだ、
人間は生きていれば色々な事に塗れて穢れる、その要因が何であれだ。
でも死んでしまえば皆平等、其処に優劣は存在しないし、ましてやそれによって差別を受けることもない。
そしてこの世界にはその穢れと言う物が凡そ存在しない、寧ろ此処でこうしてこんな風に変な分析を行っている私自身がその”穢れ”と言っても過言ではないのかもしれない。
確かに私の胸は安らいでいるし、一種の爽快感のような物も憶えてはいるが……私自身どうしても自分が死んだとは考え付かないからだ。
自分の記憶にある最後の記憶は黒いフルフェイスのヘルメットを被った女の人が、私を庇うようにあの”化け物”に挑んでいく瞬間までだ。
もしかしたらあのお姉さんがやられて私もろとも食い殺されたのかもしれないけど、それなら寧ろ此処にあのお姉さんの姿がないほうがおかしい。
何せ此処が天国だと言うのなら凡そ私は此処に来るには不適当な人間だからだ。
もしも生きている内の行いで天国に行けるか地獄に落ちるかを選別されるなら恐らく私のような人間は後者になるだろうから。

「でも、私はそんなに良い子じゃなかったよ。多分天国には縁がないだろうしね……」

足を止めぬまま私は何処までも続く草原を只管に歩いていく。
しかし何処まで行っても先はない、つまりは終わりが無いように私には思えた。
もしかしたらこの世界の時は停滞していて、この空間はもしかしたら“永遠”を司るようにして存在しているのではないだろうか。
そんな風な考えが私の中で過ぎり、そして恐らくはそうなのだろうと言う確信がそれを後押しする。
此処は恐らく生や死という概念すらも超越した私の思考では到底考えも及ばない世界なのだろう、最初に考えていた筈の事だが私は改めてそう思った。
この世界には私以外の生者はいない、そして恐らく死者もいない。
死んでいるという事すらもこの世界では意味を成さず、流動し、変化し、擦り切れ、風化する。
本来この世界になければいけないのは不変であり、”無“でなくはならいのだろう。
この世界に存在して、またこの世界には存在しない物。
矛盾していながらもそれ故に永遠足りえる存在……摂理の埒外にその存在の理を置くそんな存在が住まう箱庭。
その中に私はたった一人の“異端”として存在している……不意にそんな考えが私の中に浮かんだ。

「……そっか。うん、そうだよね。私は此処にいる筈がない。だからこの世界には本来私のような存在が居て言い訳がない」

自然に迷い込んだ、にしては随分と間抜けな言い分だが私は私なりの答えを自分で導き出した。
そう、私はこの世界に居る事は本来在り得ない……つまりはこの世界で唯一”無“という摂理の中で”有“を成している余所者なのだ。
無の世界には生者も死者もない、唯其処には永遠を突き詰めた”無“があるだけでそれ以外のものは何もない筈だからだ。
なのに私は此処にいる、此れもまた矛盾だった。
しかし私は別の観点からこんな風に考える事にした。
もしかしたら私が此処にいるのは誰かが私を此処に”呼び寄せた”からなのではないか、と。
その可能性は無きにしも非ず、即座に肯定は出来なかったが私は否定もしなかった。
少しだけ記憶を遡ってみるとその記憶には確かに私を呼ぶ声があった。
誰がとか、どうしてとか理由は不透明ながらも確かに其処には私と言う存在を求める希望の声があった。
ならば恐らく此処に私が居る理由はたった一つなのだろう、私はそう結論付けた。

「誰かが私を此処に呼び寄せた、か。多分答えは此れなんだろうね。まぁ……後は本人の口から聞いてみるしかないかな」

ぽつりぽつりと言葉を呟きながら草原の中を歩いていった私はふと視界に一本の木が聳え立っている事に気が付いた。
その場所はこの草原よりも少しだけ高い位置にあって、少しだけ盛り上がった所にたった一本だけ“不自然”に生えていたのだ。
そしてその根元には蹲って小さくなっている人が……訂正、女の子が一人。
人の気配、多分その存在にこんな言葉を当て嵌めるのは不適切なのだろうが、その形が人である以上はそういう他私には形容の仕様がなかった。
そんな人影を視界に捉えながら私はその方向へと向かって一歩一歩変わらず足を踏み入れていく。
其処にたどり着くまでの時間がどれくらいだったのかは定かではない、一瞬だったかもしれないし、もしかしたら気が遠くなりそうな程の莫大な時間を費やしたのかもしれない。
しかし私は確かにその過程を踏んでその少女の下へと確かに歩み寄っていた。
其処にはやはり一人の女の子が膝を抱えて蹲っていて、何か許しを請うように謝罪の言葉を述べながら泣きじゃくっていた。
まだ五歳かそこ等の……それも日本人ではない綺麗なプラチナブロンドの髪と白い肌を持つ小柄な外国の人形のような女の子だった。
生きているようには見えない、しかし死んでいるようにもまた見えない。
矛盾を孕んでこの世界に存在している私以外のたった一人だけの少女……私はそんな少女に問いかけるようにその場にしゃがんで言葉を掛けた。

「どうしたの? 何で泣いているの?」

「ぐすっ……ごめん……なさい……」

その女の子は私が問いかけても泣くのを止めず、絶えず痛々しい謝罪の言葉を述べるだけ。
まるで何かに懇願するような、それでいて懺悔でもしているかのようなそんな様子だった。
私はとりあえずその場にしゃがむのを止めて、少女が座っている気の幹の隣に腰を降ろすことにした。
何はともあれ謝り続けられても一向に私の質問には答えてくれそうにない。
しかし泣き止むまで待っているにはあまりにも膨大な時間が掛かってしまいそうな気がした。
だから私はとりあえず、何故少女がこんなにも謝っているのかという観点に着目してそれを少女に聞くことにした。
何故私を此処に呼んだのとか、貴女は誰だとか聞きたいことは山ほど在ったがあえて私は其処だけに注目し話を進める事にしたのだ。
まずはきっかけ、そしてその理由を聞いて判断する。
今はそれが最上の策だと思った故の結論だった。

「う~ん、謝られても分んないかなぁ。それじゃあ……どうして貴女はそんなに謝っているの? 誰に対して謝っているの?」

「……私の所為で……死んじゃった人達……。私の所為で傷ついてしまった人達……。それに……こんな事に巻き込んじゃったお姉さんに」

女の子の言葉は途切れ途切れであったけどはっきりとした意思を示している物だった。
私はとりあえずその返答に納得し、「そっか」という投げ遣りな相槌をその質問を打ち切る事にした。
私の所為で、という事についてはよく分らないがこの女の子が口にしている事が確実に今私がこの場でこうしているという状況に繋がっている事だけはよく分った。
そしてそれが私の記憶に新しい”ジュエルシード”と呼ばれる宝石に関係しているのだと言う事も。
女の子の口から漏れた「死んじゃった人」、「傷ついてしまった人」というのは何となく想像が付いた。
何日か前に原因不明の変死体で発見された身元不明の少年、そして私が見た化け物に食い荒らされた女の人……そしてもしかしたらこれ以外にも何かあれ等の事が原因で被害をおった人間たちの事を指しているのだろう。
何がどうこの女の子の所為なのか、恐らくは其処の処が分らない限りは話は進まない……しかし端的に切り込んでいっても会話は成立しないだろうと思った私は淡々とではなく語りかけるように女の子に声を掛けた。
自分の性には合っていない……誰かを労わるような声で。

「もしかして……私を巻き込んだって、あのお願いの力の事を言っているの?」

「……そう、だよ。あの力は……私の力。それと……私のお母さんが求めた力。私の為に使おうとしていた力……」

「つまりあのお願いの力は貴女が引き起こした物で、私を襲った化け物の力もあなたの力っていうこと?」

「違うの……。あれは私じゃなくて“ジュエルシード”の力。私は此処から何とかジュエルシードの暴走を抑えているだけなの。それが私に出来る唯一の贖罪だから……」

そう言って女の子はまた嗚咽を漏らして泣き始めてしまった。
顔を上げる様子はない、それどころか一層に塞ぎこんでしまう有様だ。
しかし有意義な情報を得る事が出来たと私は内心でそんな風に考えていた。
それと同時に少しだけ安心した、どうやらあれ等の事はこの女の子が故意に引き起こしたというわけでなく言い換えればあのジュエルシードという宝石が齎した事故のようなものだったと悟る事が出来たからだ。
だけどこの女の子はどうにも自分のお母さんが自分の為にその力を求め、そしてその所為で一杯人が死んだり傷ついたりしている事に心を病ませている……どうにも事の真相はそういうことらしかった。
そして私がそのジュエルシードを使った時にあの化け物みたいにその力に振り回されなかったのはどうにもこの子がその力を制御したか、もしくは正しく使えるように押さえてくれていたとの事だ。
何だか本格的にゲーム染みた話だが、今はそれで納得せねばならないと私は心に言い聞かせながら次の質問を彼女へと促した。

「そうなんだ……。あっ、じゃあ貴女名前は? このまま話すにしても名前を呼ぶのに困るから。だから、あなたの名前を教えて」

「アリ……シア。私はアリシア、アリシア・テスタロッサ……。おねえさんは、は?」

「私は……なのは、高町なのは。ちょっと言い辛いかもしれないけど、此れが私の名前。出来たら名前で読んでくれると嬉しいな」

「……うん、なのはお姉ちゃん」

どうやら女の子の……アリシアの私への呼称は「なのはお姉ちゃん」で決まったようだ。
すると、アリシアは不意に顔を上げて私のほうに視線を向けてきた。
どうやら話しかけてくる人間の顔を確認しておきたかったと言う衝動から重い顔を上げたのだろうと私は思った。
アリシアの顔は……想像していたものよりもずっと綺麗な物だった。
目元を真っ赤に泣き腫らしてはいるけれど、その容姿は本当に整っていてまるでフランス人形を思わせるかのような綺麗な容姿をしていた。
触ったら壊れてしまうのではないか、そんな印象を抱かせるような切なげな雰囲気もそんなアリシアを引き立たせる要因の一つとなっていた。
だけど私はその顔にまた別の感想を抱いていた……何時かの少女にそっくりなのだ。
それは確か先生の家に始めて遊びに行った日の帰り、電車に飛び込んで自殺しようとしていた傷だらけの少女のことだ。
あの少女も確かこんなような……いや恐らくはアリシアと瓜二つの顔をしていた。
記憶の中で照らし合わせて見ても、あまりにも外見的な特徴が一致しすぎている。
殆ど同一人物……そんな風な感じすら抱かせるほどだ。
もしかしたらこのアリシアという女の子はあの日の少女に何か関係しているのかもしれない、私は何となくそんな風に思いながらなるべく優しい表情でアリシアに笑いかけた。

「はい、よく出来ました。そんなに泣いてたら不幸が逃げちゃうよ。謝るのは大事かもしれないけど……お姉ちゃんはアリシアにそんなに泣いていて欲しくないな。少なくとも、私が此処にいる間だけは」

「えっ……?」

「アリシアはさ、私の事大変な事に巻き込んじゃったって思っているから謝っているんでしょう? だったら私の分の謝罪はなし。だってあのお願いの力であの化け物を遠ざけてくれたのはアリシアなんでしょう? それに……何時だか私に生きる気力をくれたのも。だから多分私はアリシアの御蔭で此処にこうしていられると思うんだ。だから私の分は謝るのはなし、ね?」

「で、でも……。その所為でなのはお姉ちゃん……この後もっと傷つくかもしれない。なのはお姉ちゃんのお願い事……“全ての理に対しての干渉の遮断”っていうのは多分逆に叶ってしまっていたらお姉ちゃんの気持ちを荒ませるだけだよ……。私はただ此処でその力を制御しながらなのはお姉ちゃんを見守る事しか出来ないけど……やっぱりその所為でなのはお姉ちゃんが傷つくなんて私……我慢できないよ……」

アリシアはそう言って再び私から顔を背け、俯きながらそんな事を口にしていた。
また塞ぎ込む様な事はしなかったけど、それでも己が背負ってしまったという責任に気持ちが押し負けてマイナスな考えが捨て切れないでいるようだった。
ふと私は此処でアリシアが管理しているという私のお願いの力について考える事にした。
化け物に襲われていて気が動転していたのもあったが私が願った想いは確かに私自身が長い事抱き続けていた切望で在ったのかもしれないと私は思った。
それはこの世にあるどんな物でも私を脅かす事の出来ない絶対的な干渉の遮断。
どうせ傷つくなら今更優しさ何か私に掛けるな、可哀そうだと思っても何もしないというなら哀れみなど私に向けるな、そして何よりも全ての理不尽が私に降りかかる様に世界がその仕組みを作っているのだとしたら私はその全てを拒絶する。
つまりは私の願いが全て実現してあの力になっているのだとすれば私は大凡この世界に存在する全ての害悪からその身を守れるという事になる。
しかしそれは人の温もりも全て拒絶し、再び孤独に戻るかもしれないという現実の裏返しでもあるのだ。
以前何かのライトノベルで読んだ事が在るが、つまりこれはゲームで言う魔王みたいな生き方だと私は思う。
誰にも悪意しか向けられない暴君、暴君は周りから嫌われ蔑まれ疎まれる……故に暴君はその絶対的な力を持ってして全ての人間を撥ね退け頂点という孤独に立つしかまともに生きるしかないのだ。
誰にも干渉されないというのは楽な生き方だと思う、たぶんほんの少し前の私なら迷わずその生き方を選択していたとしても何ら不思議ではない。
だが……私はその選択を選ぶ事は出来ない、少なくても今の私には帰る場所が在るから。
だから私にはそのお願いの力が全てを撥ね退けるのだとしても、自らに向けられる本当の感情まで撥ね退けてしまうとはどうしても思えないのだ。
そりゃあ私だってやっぱり理不尽な事ばかりに囲まれて人間不信気味だけど、それでも自分に向けられる全ての感情が悪意で在るなんて思ってはいない。
中にはどうせ今更って思う事もあるけれど……お願いの力がこんな風になってしまう理由も大分心当たりは在るけれど……それでもそれは私の“全て”ではない。
今は自分を信じるしかない、そう思うからこそ私はもう一度無理して笑顔を使ってアリシアへと向き直るのだった。

「だ~か~ら~、私はそんな風に思ってないってば。確かに私のお願いの力はこの世に在るどんな“干渉”も“遮断”するし“弾き飛ばす”こともあるかもしれない。勿論その中には単純な害意とか暴力とかじゃなくて、もっと複雑な感情とか想いも含まれているかもしれない。それに……私弱い人間だからさ、その真意にも気付かないで頑なになってそんな感情も弾いて簡単には受け入れられないと思う」

「そうだよ! だから―――――」

「でも、さ。人って変われると思うんだ、私は。まあ……私がこんな風に言えた義理じゃないのかもしれないけど、人って言うのは色々な物に触れてやっぱり自らを作っていくものだと思うんだ。それがプラスであれマイナスであれ、誰かからの“干渉”はその人間を作る立派な要素なんだよ。それにまあ、私も確かに人に干渉して欲しくないって頑なに思ってるけど、それでも全部って訳じゃない。ほら私って素直じゃないからさ、気がつくのはやっぱり遅いのかもしれなけど……それでも私は信じてる。私のいる世界には“まだまだ救いがある”ってね」

そう言って私が笑い掛けるとアリシアはキョトンとした顔で私の方を見返してきた。
そこに在るのは……本当無理やり作った演技の笑顔、何処までが本心かも解らない偽物の笑みだ。
それは嘗て私に対して他の人間が散々見せつけた表面に張り付いただけの見えない仮面だと言っても良かった。
私はあの笑み達が気持ち悪くてならなかった、まるで全ての人間から嘲笑われている様で……それでいてあの感情の見えない無機質な感じがどうしても受け入れがたかったのだ。
あぁ、これで私もあの連中の仲間入りっていうことになるのかな……そんな風に考えながらも私は一度作った笑みを壊さない。
今は何よりも情報が欲しい、そしてその為には目の前の少女の協力は不可欠だ。
そしてその為にはまずアリシア・テスタロッサという人間の信用を得る必要が在る。
なるべく他人を欺く様な事はしたくなかったが、それでもそれが必要だとするならば私にはその躊躇が無かった。
まあ尤も……私が述べた言葉には一切偽りが含まれていないという事に関しては覆し様のない事実なのだが。
その辺りを考慮しつつ、今はアリシアの背負う責任を軽くする……その為にはもうひと押しが必要になる。
そんな風に考えながら私は強がるのではなく、あくまでも自然体の情けない自分も滲ませつつアリシアへと最後の一押しを加える事にしたのだった。

「だからアリシアが気負う事なんて何もないんだよ。溶けかかった氷がまた凍ろうとしているのならまた溶かせばいい。また私が壁を作っちゃうようなら……まあ私を受け入れてくれる人に乗り越えてもらう事にする。それに、さ。もしよかったら……アリシア、貴女もその役目を負ってくれない? もしも貴女が今のまま私に謝り続けるっていうのならそれでもいいけど、多分それじゃあ何も解決しないと思うから。だから……これはお姉ちゃんからアリシアへのお願い。私の事を想っているのなら、私が間違えそうになった時に私を止めて。多分それが私にとっては必要な事だと思うから」

「わたし……が? でも、お姉ちゃんはそれで本当に良いの? ジュエルシードの力は……多分お姉ちゃんが考えているよりもずっとずっと厄介だよ。上手く使えば確かにジュエルシードの力はお姉ちゃんに降りかかる全ての“理不尽”を撥ね退けてくれるかもしれない。でもそれは一歩間違えればお姉ちゃん自身が“理不尽”になってしまう事にもなりかねない……。下手をしたら、本当に取り返しのつかない事になってしまうかもしれない。それでも……お姉ちゃんはそれで納得するの? 私の事、許してくれるの?」

「……許すも許さないも無いよ。そもそも私には貴女を恨む理由なんか無いし、寧ろ感謝するべきなんじゃないかな? 私はアリシアに呼ばれて、自分勝手にあの化け物と対峙して怪我をしちゃった。それはアリシアの責任じゃなくて私が自分から進んでやった事なんだから、多分自業自得なんだよ。でも、アリシアはそんな私を助けてくれた。少なくとも今私があの化け物と同じようになっていないのはその御蔭なんでしょう? だから、私は貴女を恨む理由は何処にもない。むしろ……こう言うのが正しいんじゃないかな? ありがとう、アリシア。私を護ってくれて」

「なのはお姉ちゃん……うん、どういたしまして。散々迷惑掛けちゃったけど、なのはお姉ちゃんがそう望んでくれるなら私はそれが一番だと思う。それに……嬉しい。私……ずっと一人ぼっちだったから……。こんな私でも頼ってくれる人がいるのが……私は嬉しい……」

そう言ってアリシアは私に微笑みかけながらまた泣き出してしまった。
悲しみや贖罪の涙じゃなくて、今度は喜びの感情から来る涙を目元いっぱいに溜めて。
器用な子だ、そんな風に思いながら私はとりあえずアリシアの肩に手を伸ばし、私の方に引き寄せる。
泣くにしても泣ける場所が欲しいだろうから、私も昔泣く場所が欲しくて……それでも一人で枕を濡らす事しか出来なかった事があって、アリシアの姿が昔の私とダブって見えたから。
私はアリシアを抱き寄せて、思いっきり泣かせてあげる事にした。
あぁ、何かデジャヴ感じちゃうな……そんな風に思いながら。
私は泣きたい時に誰かの傍で泣く事は出来なかった、自発的に止めていたという事もあったのだろうけど周りの人間に合わせて表面上は“良い子”を演じなければならないという感覚が私を人前で泣かせるのを拒んだのだ。
それはとっても辛くて……だけどやっぱり寂しくて……もうどうしようもないままベットの中に潜り込んで泣き続けるしかなかった。
だから……こんな小さな子にそんな想いをさせたくない、それは紛れもない本心だった。
それから私はアリシアが落ち着くまで私の傍で泣かせてあげて、アリシアがしっかりと返答を返せるように待ってからもう一度質問を再開するのだった。

「じゃあ……アリシア。これから幾つか質問するんだけど……いいかな? あっ、勿論答えられない物は無理に答えようとしなくて良いから。私もこんな感じだけど、突然こんな場所に連れて来られててちょっと参っててね。出来れば貴女の口から色々と聞いておきたいの。いいかな?」

「うん、いいよ。私に分かる事は少ないけれど……教えられる事は極力なのはお姉ちゃんに教える。なのはお姉ちゃんも分からない事がいっぱいだと思うし……私の事もいっぱい知って欲しいから」

そう言って無垢な笑顔を私に向けてくるアリシア。
そんなアリシアに対して私は優しく頭を撫でてあげて、良い子だねって言って言葉をかけてあげる。
それはずっと私自身が欲しくて欲しくてたまらなかった言葉だ。
昔から私は誰かに褒めて欲しかった、今となっては全部無駄になっちゃったけど……私は皆の言う“良い子”になる為に遊びたい気持ちも我慢してお勉強も沢山したし、皆が私に構ってくれなくて寂しいって思った時もずっと気持ちを抑えて我慢していた。
なのに何時だって私は家族の誰にも褒められない、学校の初めに何度か褒められた程度で小学校に入ってからは殆どないと言って良い。
何故周りの皆がそうなのか、その理由は何となく私自身も自覚している。
それは私が無理して“良い子”を気取っていた所為で、皆が私をそう言う存在であると決めつけられた所為なのだ。
皆の認識の中で高町なのはという存在は成績が良くて心配の掛けない”良い子“だということが”当たり前“になってしまったから、幾ら其処から私が頑張って努力を重ねてもそれ以上の評価が下される事は無かったのだ。
どれだけ私が我慢していても……どれだけ私が血の滲むような努力をしても……そしてどれだけ私が助けてと訴えても誰もその変化に気が付いてくれない。
私がこんな風になってしまった原因の一つはまさにそれが原因だと言ってもおかしくはない、寧ろそれが原因なのだろうと私は思う。
私はアリシアのように素直に自分の気持ちを表現する事は出来ないし、誰かに直接助けを求めるなんて言う事も出来ない。
ただ待つしかない……待ってばかりで自分からは動かない臆病者でしかないのだ。
そんな私がこんな風に誰かを受け止めるなんていうのはとても違和感があったのだが、心なしか悪い気はしなかった。

「それじゃあ、まず一つ目の質問。此処は何処なのかな? 何だか凄く広くて、心が落ち着いて……安らかになれるけど、多分此処って生きてるとか死んでるとかそういった“縛り”に括られた場所じゃないんでしょう? だから何処なのかなって思って」

「此処? 此処は……夢の国“アルハザード”。色々な人の想いが作り上げる揺らめく世界。そして今は……私だけの居場所。此処はね、ずっとずっと昔に栄えた夢の世界なの。例えば“こうだったらいいのに”とか“こんな風になったらいいのに”っていう願望が作り出した“全ての物事における法則を超越”して生み出された、でもその所為で滅んじゃった世界でもある。だから今この世界は全部私の想いに左右されてこの姿を保ってる。なのはお姉ちゃんが此処にいるのはそのアルハザードの力の一部であるジュエルシードの力がなのはお姉ちゃんを留めている所為なんだ。私が……直接会って謝りたかったから……」

「そう……なんだ……。じゃあこの世界はアリシアが作り出した世界で、この世界はアリシアその物なんだね。綺麗な場所……うん、本当に綺麗な場所だね。それに、凄く優しい気持ちになれる。でも、じゃあこの世界は何処にあるの? どうやって私は此処に来られたの?」

「それは私がなのはお姉ちゃんを“此処に居て欲しい”って願ったからだよ。此処は全ての夢の叶う世界、そしてその管理人格である私が望めばこの世界になのはお姉ちゃんを呼び寄せる事も出来るんだ。ただ……この場所が何処にあるのかっていうのは私も知らないの。私も気が付いたら此処にいて、なのはお姉ちゃんが呼びかけに答えてくれるまではずっと一人だったから……。でも、此処はジュエルシードから繋がる世界で“永遠”という願いが生み出した場所だっていうのは何となく分ってるんだ。この場所は私が“永遠”に留めたい記憶から生み出された場所をトレースして映し出されているからね」

そう言ってアリシアは地平線の彼方まで広がる草原を遠い目で見つめていた。
見た目よりもずっと大人びた子だという事は分かるし、使っている言葉も高度な物だったから理解力も相当な物だとは思うのだが……やはりアリシア自身も自分自身のことについてはよく分っていないようだった。
ただ此処がアリシアが望んだ“永遠”を具現化した夢の世界”アルハザード”であるという事と、其処では全ての法則を無視した奇跡が湯水の如く湧き出るという事以外は。
このアリシアの説明が全て正しいのだとすれば私がこんなにも安らかな気持ちでアリシアに接していられる気持ちも何となく説明が付くような気がした。
私は元々積極的に人に声を掛けるような人間ではない、昔はどうだったか憶えていないが少なくとも今はそうであるという自負もある。
まして泣いている小さな女の子を慰めるなんて私ではありえない、しかしアリシアがそう望んでいるのだとすればそれも分るような気がしたのだ。
しかし説明を受けたのはいいものの、まだまだ情報量が少ないと私は感じていた。
まあこの際あんなお願いの力を見せ付けた後で超常現象を否定する気は今更起きもしないのだが、それでも判断材料に欠けるという点については否めなかった。
とりあえず私が持っていた宝石“ジュエルシード”が私とアリシアを繋いでいる事はアリシアの言葉からも理解できたが、何故そんな物があんな公園に落ちていたのかというのも気になるし、そもそもアリシアは一体何者なのかという疑問も湧いてくる。
一先ずこの世界がとんでもびっくりの超絶世界なのは理解できたし、其処の住人はとっくの昔に願いを追求しすぎた所為で滅んでしまって今はアリシア以外に人は居ないというのも理解は出来たが……それでもまだ足りない、足り無すぎる。
そもそもこんな風に淡々と話の出来るアリシア・テスタロッサという人間は何者なのか、私は次に其処についての質問をアリシアにぶつける事に決めた。

「じゃあ二つ目。アリシア、単刀直入に聞くけど……貴女は何者? 貴女の口ぶりだと最初から此処にいたって訳でもなさそうだし、気が付いたら此処に居たって言っていたけど……それじゃあ貴女は何処から来たの? 何でこの世界に居るの?」

「何で此処にいるのか……っていうのはやっぱり分んない。ずっと前にね、私の目の前がピカーって光ったかと思えば次に目を開けた時には私は此処にいたの。御免ね、私にはそれしか分んない。でも、私が何処から来たのかは憶えているよ。私はね、魔法の国から来たの」

「ま、魔法の国……それはまた随分とメルヘンだね……」

「むーっ、なのはお姉ちゃん疑ってるでしょ! でも本当だよ、私は魔法の国……“ミッドチルダ”っていう場所から来たの。だけど其処はお姉ちゃんが考えているような絵本のような所じゃなくて、もっと機械に溢れた科学と魔法の世界なの。私が其処から来た時は……見た目通りの年齢だったからよく憶えてないんだけど、人が空を飛んだり地面を凄いスピードで走ったり色々な事が出来たと思うよ。今はもうちょっと進歩しているだろうから、もしかしたらもっと凄い事になってるかも……」

懐かしそうな顔でぽーっと宙を見上げて思いにふけるアリシア、そしてそれを他所に頭を抱えそうになる私。
まあこんな超常現象が起こっているのだからこの際アリシアが魔法の国の住人だろうがスカイネットの発生を未然に防ぐために未来の私に造られた殺人ロボットでも別に驚きはしないんだけど、正直私は少々突発的過ぎる現状に憤りを感じていた。
こんなとんでもびっくりな能力の次は魔法の国の住人と来たもんだ、この際杖で変身して闘う魔法少女なり暗黒の魔術で作り出された魔導書何かが在っても不思議ではない。
とてもじゃないが私の常識で推し量れるような世界では無い、私はちょっとだけアリシアの呼びかけに応えた事を後悔した。
ゲームとか漫画とかを読む人なら誰しも一度「自分もこんな風な世界に行ってバトルしてみたい」って思うのかもしれないけど、寧ろ私の場合はその逆だ。
何せ冷静に判断してみればそうした世界っていうのは何時だって命の危険なり、そうでなくても不自由な生活を強いられるパターンが大半を占めている。
日夜ドラゴン狩ったりとかスーパーなロボットに乗って異星人と闘うのもそれはそれで充実しているのかもしれないが、だったら何の不自由も無い処で面白い部分だけを抽出したゲームに没頭していた方が私はまだ幾分か建設的だと思っている。
漫画やゲームのような世界で一日中泥まみれになるのにお風呂も入れないだとか、お金一つ得るにしてもモンスターと戦わなきゃいけないとかそんな風な世界に生きるよりは空調の行き届いた部屋の中で静かに毛布被ってコントローラーを握っている方が性に合っているのだ。
あぁ、これはもしかして大変とんでもない事に首を突っ込んでしまったんじゃないのだろうか……冷静に考えてみると私は自分が如何に常識外れで奇想天外な事に巻き込まれているのかという事を改めて思い知らされることになった。

「あ、あはは……ちょっとそれはレベル高過ぎ、かな? まあひとまずそれは置いておくとしてアリシアはどの位この世界にいるの? 見た感じ5~6歳位みたいだけど……ずっと前って事はそれが本当の年齢って訳じゃないんでしょう?」

「なのはお姉ちゃん。レディに年齢を聞くのは失礼な事なんだよ? お母さん言ってたもん」

「いや、大丈夫。たぶんそれは男の人が相手の時限定で気をつけなきゃいけないことだと思うから。まあそんな事はどうでもいいとして……ずっと前って大体どれくらい? ほら、何ヶ月とか何年とかでお互いの認識の相違もあるだろうしさ。アリシアで言う所のずっと前っていうのはどれ位なのかな。それも駄目?」

「う~ん、ずっと前はずっと前。この世界には時間の経過は勿論だけど餓えも老いもないから私自身もよく分らないの。でも……お母さんがまだ生きてるから多分20年か30年位かな。大分お母さんも老けちゃってたし……そっちの世界の刻の流れを考えればそれ位になるかな。私も此処に着てからそっちの世界で起きている事を全部見てきた訳じゃないし、今の私が確立するまでその半分は費やした筈だしね」

あっけんからんと、とんでもない事を平気で口走るアリシアに私は抱えた頭の痛みが加速するのを感じていた。
まあ確かに口ぶりや口調からして私よりも年下って事は無いだろうとは思っていたけれどまさか二、三倍離れているとは考え付かなかった。
しかも元のアリシアの年齢からその期間ずっと成長していなかったのだとすれば単純に考えても二十代後半から三十代前半と言うのが実年齢と言うことになる。
見た目や直ぐに泣く感じからそういう事を深く考えてなかったけど、もしかしなくてもアリシアは私よりもずっとずっと名実共に大人と言う事らしかった。
下手をすれば先生よりも年上……やめよう、あまり考えるだけ無駄だと思った私は其処ですぐさま愚かな考えを忘却の彼方へと追いやった。
あの先生に年齢の話は禁句、それは恐らく学校の中で一番時を共にしているであろう私が一番よく分っている。
以前まだ私が今よりも荒んでいて、思ったことを平気で言ってしまえるようなかなり不安定だった時期に先生にその話題を振ったときは……満面の笑顔でアイアンクローを喰らったりしたものだ。
やはりこの話は聞かなかったことにしよう、私は心の中でそう決め込む事にした。
だが、話は其処で終わっていると言うわけではなかった。
先ほどからアリシアの言葉の節々に出てくる「お母さん」というフレーズが私にはどうにも引っかかりを憶えるものがあったからだ。
そういえばと思って思い返してみるとアリシアが私を呼んだ時も「お母さんの所為で人が死ぬのがもう見たくない」というような事を口にしていた筈だ。
一体その「お母さん」とは何者なのか……どうやら其処にアリシアの真意に迫る鍵があると私は殆ど瞬間的にそう思った。
だから私はその鍵で真実のドアを開けるために……言葉と言う鍵を持ってアリシアの核心へと至る事に決めたのだった。

「……あー、アリシア。これがお姉ちゃんからの最後の質問になるんだけど、出来れば此れは自分の分る所まででいいから出来る限り答えて。たぶん、私と貴女……それとジュエルシードに関する大事な事だから」

「うん……分った。私が知っている事はあまり多くは無いけど、それでなのはお姉ちゃんの役に立てるなら」

「良い子ね。じゃあ質問、実際の所……貴女はどうして助けを求めていたの? 色々と聞いてきたけれど一番に私が分らないのは其処なんだ。憶測で悪いけど多分それはあの“化け物”や“ジュエルシード”……それに貴女のお母さんが絡んでるんじゃないかな? 私の力がどうだとか、そんな事は今は気にしなくていい。迷惑を掛けるとか思っていても、今は口にしないで。貴女は……私にどうして欲しいの?」

「そっ、それは―――――」

ビンゴ、と私は思考の中で核心に至った事に少しだけ胸を躍らせながら真剣な面持ちでアリシアの方に向き直った。
アリシアは出来ればその質問は聞いて欲しくなかったと言わんばかりに持ち直しかけた気持ちを沈ませている。
此れはつまり私が選んだ鍵がこの場を打開する扉の錠へと嵌ったということになる。
後はアリシアがその理由を述べてくれさえすれば、その扉は開かれる。
だけど一番重要なのはアリシアがその鍵を捻れるか否かと言う事だ。
ジュエルシードから伝わってきた彼女の悲痛な叫びを考えるに、事は私が思っているほど甘くも無いだろうし、それに小さな事でもないだろう。
何せ単純に私が見てきただけでも人の生き死にが掛かっている、そして恐らくは私が知っているだけで二人犠牲者が出てしまっている。
もしかすれば此れは私が軽い気持ちで首を突っ込んでいい事ではないのかもしれない、それは少し考えれば分る事だった。
だけど私は……こんなにも悲しそうに俯くアリシアをこれ以上見ていたくなかった。
自分と彼女を照らし合わせた上でのデジャヴから来る感傷だらけの戯言だっていうのも分っているし、その気持ちが自分が満たせなかった物を彼女にはせめて得て貰おうという自己満足でしかないのも分っている。
私はアリシアを自分自身の写し身として考えた上で、自分が果たせなかった欲求を彼女に押し付けているだけに過ぎないのだ。
でも、だとしてもそれでアリシアが悲しい顔をしたままで放っておけるほど私も薄情な人間ではない。
大した役者だ……そんな風に自嘲紛れの自画自賛でその考えを締めくくった私はアリシアの反応を只管待つことにした。
するとアリシアは先ほどとは違って小さな声で、それもゆっくりではあったものの……はっきりと私の質問に答えてくれたのだった。

「……けて…しい……の……」

「んっ?」

「助けて……欲しいの。お母さんは……私の為にジュエルシードを……。でも、その所為で一杯人が傷ついて……それをもう私は見ていたくなくて……。だけど私には何も出来ないの……。止めて欲しいと思っても私の声はお母さんには届かない……だから私の声を聞いてくれる人に……“ジュエルシード”を正しく使える人に私はそれを……止めて欲しい」

「なるほど、ね。つまりアリシアのお母さんはアリシアの事の為にジュエルシードを使おうとした。でもそれが元で色々と酷い目に遭っている人がいて、そんな人達をアリシアは見たくない。それで偶々私がアリシアの声を聞くことが出来て、おまけにそのジュエルシードの力を普通に使えてしまったと。それで最終的にアリシアが私に望んでいるのはそういった傷ついた人達を助けて欲しいのと、アリシアのお母さんを止めてほしいと言う事。……ざっと纏めてみたけど、大体此れで合ってるかな?」

アリシアは私の言葉に俯き加減に一度だけ首を縦に振った、どうやら肯定らしい。
しかし参ったと私は思った、いざ自分で言葉にしてみたのはいいものの……あまりにも問題が多すぎる。
人を救うなんていうのは私の柄じゃないし、そもそも私はアリシアのお母さんがどんな人でどんな事をしているのかも知らない。
それにどれだけ力を得たとこで私の力なんて微々たる物だ、例えあの“干渉の完全なる遮断”が行き届いていたとしてもあんな化け物を何体も相手にしていたらそれこそ骨が折れる作業になってくる。
しかも私はその力をまだ私に降りかかる全ての干渉を撥ね退けると言う事以外使い道すら理解していない。
そんな私がアリシアのいう魔法の国のとんでも生物と対決して、感動的にもラスボスみたいな立ち位置にいるアリシアのお母さんを止めるなんてそれこそ無茶無謀以外の何者でもない。
そもそもそういった熱血だの友情だの能力バトルだのは私が入り込んでいいような世界じゃない筈だ、魔法の国なり空を飛んだりする人間なんて尚更関わりたくない。
それに人が死ぬなり何なりは警察……酷ければ自衛隊とか軍隊とかそういった人間の仕事なのではないのだろうか。
少なくとも社会の屑という烙印を押された9歳の女の子が関われる領域を遥かに超えてしまっている事くらいは私にだって分る。
人情だとか同情とかだって限度というものがある、まだ私は死にたくないし、あんな化け物に振り回される人生なんて真っ平御免だ。
普通に先生にコーヒー淹れて貰って、一緒にゲームして、それで映画でも見ながら駄弁る……そんな幸せが週末に一回あれば私には十分なのだ。
誰か代われる人間が居るならいっそ代わって欲しい、そんな心境だった。
だけど私は……そんな気持ちとは正反対の事を頭の中で考え、纏めていた。

「勝手な事なのは分ってる……でもこのままだと皆死んじゃうの。もしかしたらこの世界自体が消し飛んでしまう事だってあるかも知れない……。ジュエルシードの力は暴走すればあんな物では済まないかもしれない。無理……だよね、無茶なお願いなのは知ってる。どうせ―――――」

「はぁ、いいよ」

「えっ……?」

「だからさ、そのお願い。私が叶えてあげてもいいよ」

私はアリシアに微笑みかけながら自分の思っていることとは正反対の事をアリシアに述べた。
そしてその瞬間私は思った、あぁもう引き返す事はできないと。
そんな私をアリシアは意外そうな……というよりも殆ど驚愕の顔をして私の方を見つめていた。
まあ当然と言えば当然だろう、普通見ず知らずの人間にこんな地球を救うヒーロー物語の主人公になれなんて願い聞き入れる方がどうかしてる。
多分調子に乗ってそういう事に積極的に首を突っ込んでいくのは思春期特有のご都合主義への願望が強すぎた挙句の果てか、もしくは単純に馬鹿で御人好しで自壊的な人間でしかない。
誰しも一番可愛いのは自分の身だ、保身というスタンスが一番楽だし、そんな大魔王と闘って傷つくよりは何も知らないでのほほんと暮らせる村人Aの方がよっぽど気楽だろう。
だけどまあ……その原理で行くと私はやっぱり重度の馬鹿で、自分の事すら満足に出来ないくせに御人好しの振りばかりしてて、それでいてあまりにも自壊的過ぎる人間ということになる。
まあ今までの人生が碌でも無かったって言う事も確かにあるだろう、自分が屑だって自覚もあるし、将来絶対人様に迷惑を掛けるかもしれないことも何となく分っている。
だけど……そんな私にだって守りたい物がある、そして私にしかそれが出来ないと言うのなら見逃せないのだ。
あんな化け物が頻発するんだとして既に被害者は二人、私の住んでいる海鳴市を中心に事が起こっているのだとすれば其処で暮らしている”何処の誰に“そのお鉢が回ってきた所でおかしい話ではない。
そしてその中には勿論先生も……私を受け止めてくれる人までも標的の内に入ってしまっている。
もしも先生が傷ついてしまったら、そう考えると身震いまでしてくる。
だけど私はそんな風な自分を精一杯隠しながらも、なるべくアリシアを安心させるように少しずつ自分の思っている感情を言葉へと変えていった。

「そんな……! だって、なのはお姉ちゃん! それは……傷つくって事だよ。私の所為でなのはお姉ちゃんが傷つくって事なんだよ! 駄目だよ、そんなの絶対駄目!! これ以上私、なのはお姉ちゃんに迷惑かけられない……」

「あのさぁ、アリシア。貴女がそうして欲しいって言ったからいいよって言ってあげたのにそれはないでしょう……今更駄目っていうのは聞けないな。勿論貴女の望みを全面的に認めたわけじゃないよ? だけど私にだってあの街に守りたい人が居る、私の命に代えてでも守りたい人がね。だから私はその為に自分の力を使う、言うなればアリシアのお願いはおまけで叶えるだけだよ」

「ふぇ……? そ、それじゃあ……」

「あ~もう、私もさぁ……人を守るとか誰かを助けるとかそんな性分じゃないんだよ、実際。私自身も誰かに守られていたいし、傷つくのだって勿論願い下げだよ。お風呂とゲームと毎日のお金さえあればそれで世の中全部上手く回って皆ハッピーって感じだからさ、私も。でも……あんな化け物に穢されたくない人がいる、脅かされて欲しくない場所がある。世界を救うだとか、見ず知らずの誰かを助けるなんて大義名分……私の身には過ぎた物なんだよ。だけどさ、せめてこの手から零れ落としたくない物を零れ落とさないようにするくらいの事は私にだって出来ると思うんだ。勿論、アリシアもその内の一つになっちゃったけどね」

そう言って私は苦笑気味にアリシアの方を向き直る。
其処には驚き気味だけど、確実に喜びの念を表情へと浮かび上がらせているアリシアの姿があった。
一時のテンションに身を任せると碌な事にならない、昔少しだけやっていた恋愛ゲームの主人公がそんな事を言っていたけど正にそれだ。
私はアリシアの切望に押し負けてしまっている、同情とか可哀想とかそういう言葉をむけられる側の人間なのに他の人間に自分が向けてしまったのだ。
それは殆ど偽善に近い感情だ、先生を守りたいっていう気持ちに偽りは無いが、私はこの町の住人全員を守り切ることは恐らく不可能だ。
多分その過程において死傷者は増えるだろうし、私はその死んでいった人間に対して恐らく何の感慨も抱かないに違いない。
それにアリシアのことに関してはどうせ先生とアリシアくらいしか守る人間は居ないんだったら、そのついでに出来る限りの努力はしてみようとかその程度の想いしかない。
所詮は他人事、もしも全てを成し遂げられなかったとしても私に罪はない……そんな責任逃れが一瞬脳裏を過ぎる。
だけど私はそれに肯定も否定もしなかった、結局私はデジャヴを感じているだけに過ぎないと言う事の理由を考えないようにしながら。
でも言葉だけははっきりと、アリシアの願いを叶えるとだけ答えることにした。

「つまりまあ私が言いたい事は……とりあえず此れからもよろしくって事で。私もゲームとか最後までクリアしないで直ぐ諦めちゃうような人間だから、その時はアリシアが私を叱咤してね。じゃないと多分私……直ぐ挫けちゃうだろうからさ」

「うん、約束する。なのはお姉ちゃんは……なのはお姉ちゃんの力は私が責任を持って管理する。それが私に出来る最後の贖罪だろうから……」

「そうやって直ぐ自分を卑下にしちゃ駄目だって。と、そろそろ私……行かなくちゃ行けないのかな? なんか身体透けてきてるし」

「うん、目覚めの時が近いんだね。ここは夢の国……普通の人は寝ている間しか此処にはこれないから」

ふと立ち上がって自分の掌を見てみると私の身体は透けていた。
半透明だとか、どのくらい透けているとかそういったものではない。
単純に私はこの世界から消え去ろうとしている、だから私は此処にいられないというのは殆ど直感に近い感覚だった。
しかし其処に恐怖は無かった、目覚めたら私は恐らくあの世界に戻っている……そんな核心が私にはあったからだ。
現にアリシア自身も此処が夢の国で、寝ている人間しか辿り着けないと言っている。
そろそろ私は目覚めるのだろうな、と私は何となく思った。

「それじゃあ、アリシア……今は一先ずこれでお別れ。あっちについたら私も色々と頑張ってみるよ」

「うん、私も全力でサポートする。姿は現せないけれど、多分アドバイスくらいは出来ると思うしね。追々なのはお姉ちゃんの力についても分析して報告するよ。まだ私も完璧になのはお姉ちゃんの能力の全貌を掌握したわけじゃないから……。ごめんね」

「いいよ、謝らなくても。それじゃあアリシア……良い夢を」

「うん、なのはお姉ちゃんも。頑張って」

そう言って私はこの世界から姿を消した。
この先どんな事が待ち受けているのか、そしてどんな風なことが起きるのかは私もまだ知らない。
もしかしたらとんでもない事になるかもしれないし、取り返しのつかないことが起きてしまうかもしれない。
だけど私は諦めようとか、投げ出してしまおうとかそんな風には思わなかった。
だってこんな私にも……守りたい人が一人だけでも存在しているから。
だから私は決心を固めて、現実世界に戻っても行動を改めようと思った。
先生と言う存在を全ての理不尽から守る為に。
その瞬間、私の意識は現実へと引き戻されたのだった。



[15606] 第八話「現実と向き合うのは難しいの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/15 16:00
夢から覚める、それは良くも悪くも現実に引き戻されるという事だ。
楽しい夢を見ている人間は退屈な日常へと戻って現実と理想の格差に絶望するんだろうし、悪夢を見ている人間は現実の平淡さに安息を憶え、今日も変わらぬ一日だと気持ちを入れ直して悪夢の記憶を脳内から消し去るのだろう。
それによって齎される解釈は人様々だが平均して言える事は結局として夢という物は“取りとめのないもの”であるという事に他ならない、少なくとも私こと高町なのはは今までそう考えていた。
だってそうだろう、結局の処夢って言うのは記憶の整理を行う為の運動であり、科学技術の進歩した現代なら其処にオカルト的な要素を絡ませるのは恐らく無意味なものだろう。
正夢だとか予知夢とかだって結局は既視感によって引き起こされる「もしかしたら自分はこれを体験した事が在るかもしれない」という過去と現在の結び付きに過ぎない。
少なくとも私はそう考えていて、これからもそう考えながら生きて行くのだろうと確信していた。
こんな夢なんかに何時までもあり得もしない希望を抱き続けるのは馬鹿らしいし、其処に新たな要素を夢想した処で結局それは無意味な事だからだ。
生産性の無い考えでは毎日を効率良く生きる事は出来ない、そう考えていたからこそ……目を覚ました私が直面した現実はあまりにも不可思議で、あまりにも何時もとは違う違和感を感じる物だった。
何処かも分からない真っ白な天井を見つめながら私はふとそんな事を考えていた。

「はぁ……なんかデジャヴだよ。こう一日に何度も何度もとんでもが続くと流石に私でも驚かないよ、もう」

瞼を二、三度開け閉めして意識が現実に戻ってきた事を確認した私はゆっくりとその場で身を起こし、自分が今どういう状況に置かれているのかを確かめる。
私は今現在、ベットの上で……それもどういう訳か見慣れない病室らしき場所の中にいた。
私が横たわっていた場所に在るのは硬いアスファルトの地面では無く、白いシーツが敷かれた純白のベットな事は直ぐに理解できたし、自分の纏っている服が何時の間にか身に覚えのないパジャマに変わっている事にも私は直ぐに気がついた。
加えて辺りを見回してみると其処は無機質な白一色の部屋であるという事がより一層私の違和感を駆り立てた。
鼻につく薬品の臭いや、身体の至る処に張り巡らされた包帯などから医務的な処置が施されたというのは見当がついたが所詮私の理解が及んだのは其処までだった。
とりあえず私はあの場所では死んでおらず、尚且つ誰かが私をこの病院的な場所に連れてきてくれて傷の治療をしてくれた……まあ精々この程度が限界だろう。
それ以外の事は一切分からない、しかしそれ等の要素を繋ぎ合わせて完成する答えはたった一つだ。
私は助かった、今はそれだけ理解出来ていれば良い様な気がしたのだった。

「病院……だよね、此処? だけど誰が……っと、ジュエルシードは!?」

まず第一に確認しなければならない事に気がついた私は急いで辺りを見渡してジュエルシードの在り処を確認する。
アレが夢だったら出来うる事なら夢のままにしてしまいたいが、今私がこういう状況にいるという事はアレは夢でないという事の何よりの証拠だ。
化け物と闘った事しかり、お願いの力しかり、そしてアリシアしかりとジュエルシードという物が一つあるだけでもこれだけの問題の要素が現状に関わって来るという事になる。
そして恐らくあのアリシアならば“今この現状に至るまでの過程”を知っていてもおかしくは無い。
何せ大凡この世界に蔓延るご都合主義というご都合主義が塊になった様な子だ、少なくとも私が彼是考えるよりは彼女に聞いた方が早い。
故に私は急いでベットから起きあがってジュエルシードを探そうとして―――――直にその行動に終止符を打った。
その要因は二つある、一つはジュエルシードは少し見渡してみると私のベットの横に置いてある棚に財布やその他の所持品等と共に普通に置かれていたという事。
そしてもう一つは全身に走った激痛の所為だ、ほんの少し身体を動かそうとしただけでも包帯や湿布の奥に潜んでいる傷が酷く疼くのだ。
ジュエルシードが在った事、そしてやはりアレは夢でないという事を再認識した私は棚からジュエルシードを掴んで再びベットに倒れこむ。
少なくとも現状は大人しくしておいた方がよさそうだ、私は切実にそう実感するのだった。

「……良かった。でも、これでどうやってアリシアとコンタクトを取ればいいのかな? あの時は普通にアリシアからテレパシーみたいなのを直接頭に送り込まれてたけど……あれって私にも出来るのかな?」

『うん、出来るよ!』

「ッ―――――」

突発的に頭に響いた声に思わず身をビクつかせてしまい、不要な痛みを全身に走らせてしまう私。
殆ど条件反射だったとは言えど、不用意に身体を動かしてしまった事から生まれたその痛みは先ほどの物とは比べ物にならない程の物だった。
恐らく全身に数ヶ所存在しているであろう打撲と擦り傷は感じ方の異なる痛みを絶妙にブレンドさせ、ものの見事に処置された傷口を大きく抉ってきたのだ。
お陰でのた打ち回りそうになるわ、だけどそれだと余計に追加のダメージを受けるだけで何の解決にもならないわで私は数秒の間地獄を見る羽目になった。
姿こそ見えないけれどアリシアも頭の中で「うわ~……」とか気の毒な人に向ける言葉と態度を前面に押し出してきている。
とりあえず貴女が私をこうさせてるんでしょう、と私は文句を言いそうになったがとてもそんな余裕は無いのであえて何も言わない事に決めた。
相手は実年齢こそおばさんだが、精神年齢は5歳前後のお子様なのだ。
こんな事で私が腹を立ててはいけない、寛大な態度でいようと私は終始心の中で自分に言い聞かせる。
うん、私ってとっても大人……自分で言っていてちょっと悲しい気分になった。
そんな風に無意味に人に気を使うしかない自分に自己嫌悪しながらも私は頭の中に響いているアリシアの応答に答える事にした。
とりあえず目的果たせたのだ、今はそれで良しとしようと考えながら。

『あ~……なのはお姉ちゃん、大丈夫?』

「ちょっと……大丈夫じゃないかもしれない……。でもまあ良かったよ、取りあえずこの状態でもコンタクトは取れるみたいだね……」

『あ、あはは。一応ジュエルシードを通してなのはお姉ちゃんと私の間にパスを通したからね。今はジュエルシードを握ってなくちゃ上手くは聞こえないけれど、もう少しジュエルシードの力が安定すれば持っているだけで会話くらいは出来るようになると思う。それも後そっちの時間で二、三日もあれば出来ると思うから……今はこの状態で我慢してね』

「はぁ、分った。便利なんだか不便なんだか判断に困るけどね、此れじゃあ」

一々アリシアから話しかけられるたびにビクついている様では正直心臓が幾つあっても足りないと私は思った。
元々私はその手のどっきりとかに滅法弱いタイプなのだ、今は仕掛けてくる人間こそ居ないがちょっと何か悪戯されただけでも直ぐに飛び上がってしまう。
普段の時ならまだいいかもしれないが、流石にこういう満身創痍の時にそういう事をやられると私としてもその……非常に始末に困るわけだ。
私はマゾヒストじゃないし、永遠にそっちのケにも目覚めるつもりは無い。
とりあえず今度アリシアの元を訪れた時は其処の所を念入りに打ち合わせしなければ、と思いながら私は再びアリシアとの会話を続ける事にした。
まずは情報収集、それと現状確認……寝ていても起きていてもやる事が何一つとして変わらない。
こういう事に首を突っ込んでしまった以上、もう後には引けない……だとすれば後々突き詰めていけばより効率的に目的を遂行するには事前の情報収集が不可欠なのだ。
とはいってもゲームで得た知識だからどの程度までは有効なのかはしらないけれど、少なくとも根本的な部分については変わらないはずである。
何処何処のボスの弱点の属性は何だとか、このダンジョンをクリアするのに必要なアイテムは何だとか要するにはそういう事だ。
そういった点では私は恵まれているのだと思う、少なくとも“殆ど独りでに情報を引き出してくれるパートナー”が傍にいる訳だから自分でそういう面倒な事をせずに済むのだ。
此れを幸と見ていいのか、巻き込まれたことを不幸と思えばいいのか……そんな風な微妙な感情に苛まれながらも私はアリシアとの会話に意識を集中する事にした。

『―――――でね、此処はなのはお姉ちゃんの住んでいる街の病院で運んできた人はなのはお姉ちゃんを助けてくれたあのバイクの人なんだよ。憶えてる?』

「んっ……あ、あぁ。憶えてるよ、フルフェイスのヘルメットを被っていたから顔とか人相だとかは分らなかったけど……。その人は今此処にいる?」

『いるよ、でも今はお医者さんと話してるみたい。でも……ちょっと変な感じもするんだ。多分だけどその人……なのはお姉ちゃんの住んでる世界の人じゃないと思う。あの暴走体を倒して他のジュエルシードを回収したのもその人みたいだから……』

「私の住んでる世界の人じゃないって言うと……つまりアリシアの言ってた“魔法の国”の人って事? それにジュエルシードってそんなに沢山あるの?」

何だか夢の世界の続きみたいに質問ばっかりだけど、私もアリシアも殆どそんな事は気にせず問答を続ける事になった。
ちなみにアリシアの答えは前者後者共にイエス、どうやらどちらにしても面倒な事になっていることは否定できないようだった。
詳しく話を聞いてみるとバイクの女の人の事はよく分らないけど少なくとも悪い人ではないということ、それとジュエルシードは私の持っている物以外にも複数個存在しているという事が分った。
何でもこの街に存在するジュエルシードの数は全部で21個もあるらしく、そのうちの殆どが何時暴走してもおかしくない危険な状況にあるとの事だった。
そして更に言ってしまえばそんなジュエルシードを私以外にも回収しようとしている人間が居るらしいことも私はアリシアから教えられた、何でもそのバイクの女の人もその一人であるらしい。
ややこしい問題が更にややこしい事になっている、私はまた頭を抱えそうになった。

「はぁ~、何か頭痛くなりそう。問題は山積みな上に現在進行形で私はピンチって事でしょう? 何か色々と嫌になりそうだよ……」

『ごめんね、なのはお姉ちゃん。こんな事に巻き込んだばっかりに……』

「あぁ、アリシアが気負う事は全然無いよ。とりあえずまだその人達がどういう人なのか分ったわけじゃないし……交渉の次第によっては協力を得られるかもしれないからね。悪い人なら……その時はお願い」

『そう言ってくれるなら良いけど……取り敢えずは分ったよ。まだなのはお姉ちゃんの力の掌握も殆ど出来てないし、ジュエルシードの力も安定してないから何とも言えないけど……とりあえず最低限なのはお姉ちゃんが身を守れる程度には調整してみる。だけどあんまりずっと使える訳じゃないから、使うときは注意してね』

分かったよ、とだけ私は答えておくことにした。
出来うる事なら使いたくないというのが本音なのだが、こうも懸命に動いてくれているアリシアの事を考えるとそれしか言えなかったのだ。
正直まだ私は自分の身に起きた様々な事に戸惑いを隠しきれないでいる、自分の力にしてもアリシアにしても自分の置かれている現状にしてもだ。
一応アリシアの説明を一通り聞いて理論上の上でなら理解出来ている物も多々ある、しかしそれで「はい、そうですか」と全てを受け入れられるほど私も馬鹿じゃない。
自分の力にしたって「全ての干渉を拒絶する」という大雑把な能力しか分かっていないし、それがどのような発動条件があって具体的にどんな事が出来るのかすらも私は把握していないのだ。
だから下手をすれば私が考えている事以上の大惨事が起きてしまってもおかしくないし、ジュエルシードの力にしたって今の現状では本当にヤバいと思った時以外は使いたくは無い。
下手に藪を突いて蛇が出てくるのも正直怖い、だから私はとりあえず現状の流れを一旦切って別の話題をアリシアへと持ちかける事にした。
なし崩し的にアリシアなら現状を把握しているとは思ったのだが、そういえば何故アリシアがこちらの世界で起きている事を把握しているのかという疑問が湧いてくる。
大したことではないのだが取りあえず気分を変えるのは打って付けの話題だ、そう考えた私は不意に上がった疑問をアリシアへとぶつけてみる事に決めた。

「そう言えば何だけどアリシア。ちょっと聞いてみてもいいかな?」

『んっ、なぁに?』

「まぁ、そんなに大した事って訳じゃないんだけど……何でアリシアはこっちで起こってる事が分かるの? アリシアはその……何だっけ? アルハザードとか言う場所にいるでしょう、別にこっちに来てるって訳でもないし……。なのにどうして分かるのかなって思ってね」

『あぁ、それ? それはね~……ちょっと説明すると面倒な事になるの。私は別にそっちの世界を直接見てるって言う訳じゃなくて、引き出したい情報を色々な視点から引き出しているだけに過ぎないの。つまりは私は色々な場所で起きている全ての現状を私が望む限り無尽蔵に知覚出来るだけなんだよ。簡単に言うと私が望む限り未来以外の過去、現在に至るまでの過程は大凡私が望む限りは私は知る事が出来るって訳。なのはお姉ちゃんとこっちで話していたのにその周りで起きていた事を知っているのもその所為かな。二重、三重に視点を張り巡らせてリアルタイムに追いつく速度で現状を知覚する、こうしてなのはお姉ちゃんと会話しているのもそうやって情報を引き出してるからなんだけど……まぁ、とは言ってもこれも完璧ってわけじゃないんだけどね』

どうにも理解に苦しむ言葉の羅列がアリシアの口から私へと伝えられる。
アリシアはこれでも簡単に言っているつもりらしいのだが、流石にこれで全てを悟るには小学三年生の私にはあまりにも酷な物だった。
まあ言いたい事は何となく理解できない訳ではないのだが、それにしたって説明が難しすぎるのだ。
要するにアリシアが言いたかった事は別にアリシア自身がリアルタイムで私の事を逐一見ている訳では無く、アリシアが望む情報をリアルタイムに追いつくスピードで引き出しているという事らしいのが、その規模が規模なだけに正直私は面を喰らってしまった。
要するにアリシアは未来以外の現状に至る全ての事柄をどんな視点からでも引き出せるというとんでもびっくりな事を平然と口にしているのだ。
つまりこれは歴史とかそういったレベルの話では無く、大凡今この時間に起こっている“全ての事柄に訪れている時間に起きた出来事”をアリシアが望む限り何でも知覚する事が出来ると言っているのだ。
つまりそれは殆ど知らない物は何もないと言い換えてしまってもいいのかもしれない、本当にご都合主義の塊の様な子だと私は思った。
馬鹿げている話だが全ての願いが一頻り叶ってしまうというあのアルハザードとか言う場所にいるアリシアならそんな事が出来ても何にも不思議ではない、だから余計始末に困るのだ。
ただアリシアは未来は見えないと言っていた、つまりはその超常的な力にも限界があるという事なのだろう。
とりあえず私はそんなアリシアのとんでもぶりに半分うんざりしながらも、それが何でなのかを聞いてみる事にした。

「未来が見えないっていうのはどうして? そんな便利な力があるんだったら別に未来だって見れるんじゃないの?」

『ん~っ、それはちょっと厳しいかな。別に見ようと思えば未来が見えない訳でも無いんだ。ただ未来って言うのはほんの少しの要因が変わっただけで姿を変えてしまう不定形なものだからさ、凡そ人が知覚するにはその規模がでか過ぎるんだよ。例えばなのはお姉ちゃんがこの瞬間にも小指を動かすだとか欠伸をするだとかそういった些細な事でも未来は変わってしまう。つまり未来って言うのは無限にパターンのある乱数の変動みたいな物で、それを完璧に理解して現状を導き出すのは正直私にも無理なんだよ。一応私も管理人格の能力としては普通の人間と変わらないから』

「はぁ~……何かよく分らないけど凄いね……ちょっと私には理解するのがキツイかも」

『まぁ、これに関してはあんまり深く考えない方が良いかもね。何で出来るかって言われても、最終的には出来ちゃうからって答える他ないし……これの原理を一から十まで説明してると多分途中でなのはお姉ちゃんの寿命が来ちゃうと思うよ? 私だって全ての知識を得ているって訳じゃないから何とも言えないけど……多分普通の人がこの知識に触れると碌な事が起きないよ。だからなのはお姉ちゃんもそんなに深く考えないで』

そうする事にする、私は半分げんなりした気分で項垂れながらアリシアとの会話を打ち切った。
説明だけで私の寿命が切れる、つまりそれは凡そ80年前後の時間を有してもその原理を言語化出来ないという事だ。
しかもアリシアは別に未来が見えないという訳でなく、単にあまりにもその莫大な可能性の変率を知覚出来ないと言っているだけに過ぎないのだ。
つまり出来ないというわけではない、それだけでも私が今日で何回目になるか分らない頭を抱えるという行為に発展するには十分だった。
とりあえず今の会話から分った事といえばアリシアには恐らく彼女が望む限りは無限の知識が得られるという事と、それがもしかしたら何かの役に立つかもしれないという事ぐらいだ。
それ以上は恐らく理解してもどうしようもない、というかもう理解したくない。
小難しい事はもう沢山だ……とりあえず私は私が分る範囲で凡人らしい納得が出来ればいいのだと自分に言い聞かせる事に決めた。
というかこれ以上アリシアの小難しい話を聞いていたら頭がパンクする、殆どそれは本能的な感情から来る拒否だった。
私はそんな感情を表に出さないように必死で「理不尽だ~!」という叫びを胸に留めながらも、アリシアとの会話の軌道を元に戻す事に決めたのだった。

「ま、まあとりあえず……だよ? 今は現状を確認しようか。とりあえず此処が病院で、私は其処で治療を受けて此処にいるって事は分った。じゃあ私は今からどう行動すればいいかな? 馬鹿正直に此処に留まっているっていうのも何だかちょっと違う気がするし……なんだか色々と面倒な事になりそうな気がするんだ」

『それに関しては私も同意するよ。だけど今は下手に動かない方がいいよ、なのはお姉ちゃん。なのはお姉ちゃんを病院に運んでくれた人、今そっちに向かってるから。お医者さんもそれに付き添ってるから表立ってなのはお姉ちゃんに危害を加えるって事は無いと思うけど……不審な行動だと思われて警戒されたら動きにくくなっちゃうと思うんだ。だから今はその場で現状を維持、出来ればその人と二人っきりになるまでは素のなのはお姉ちゃんの性格を演じてて』

「分った、やってみる。だけど素の私かぁ……どんな風にすればいいんだろ? 私演技って全然やった事ないし……幼稚園の演劇でも魚Bの役柄だったし……。正直自信ないなぁ……」

『ファイトだよ、なのはお姉ちゃん。特別意識をしないようにして、普段の自分ならこんな風にするだろうって考えながらやれば絶対上手くいくから。変に緊張しちゃうとボロがでちゃうよ?』

それもそうなんだけど、と私は苦笑しながらアリシアに返答する。
確かにアリシアの言っている事は正論なんだろうし、下手に意識し過ぎても状況が悪化するだけなのだろうけど……其処を上手く割り切れないって言うのが人間の性ってものだ。
そんなに簡単に物事を割り切って生活できるようならきっと私は今頃こんな風な人間にはなっていないだろうし、そもそも人間関係において失敗するという事も無かった筈だ。
普段の私、それはつまり最低最悪な社会の屑である自分を自ら模倣して演じねばならないということになる。
それは果たして普段家族や元友人に向けているようなぶっきら棒な物なのか、それとも先生に向けているような甘えん坊のものなのか……その境目が私にはよく分っていない。
とりあえずなる様にやってみるしかない、そう判断を下した途端此処と廊下を繋いでいるのであろうアルミ合金製のドアが二、三度叩かれる音が聞こえた。
来た、内心でそれにビクつきながらも私は平静を装いつつもそれに「どうぞ」と返答を促す。
するとそのドアが開かれ、廊下から二人の人間が此処へと入ってくる。
二人とも女性、一人は白衣を着たお医者さんのような人でもう一人は何処にでもありそうな私服に身を包んだモデルのような長身の外人の女の人だった。
凡そ釣り合いが取れていないような二人、しかし私にはその内の一人に見覚えがあった。
長身の外人さん……それはついこの間先生のマンションを訪れた時の帰り際に私がぶつかった女の人だったのだ。
これまた変な偶然もあったものだ、そう考えながら私は普段のぼーっとしたような顔を作りつつ終始二人の顔を窺っていた。

「あら? 気が付いていたのね。よかった……」

「あ、あの……此処は? それに貴女は?」

「あっ、御免なさいね。私は石田幸恵、見ての通りお医者さんよ。それと此処は病院、正確には海鳴大学付属病院なんだけど……言ってても分らないわよね」

「お医者さん、ですか……」

私はぽーっとした様子を演じながらもその白衣の女の人の事を分析する事にした。
一見しただけでは悪い人には見えない、それどころかとても人当たりの良さそうな人物にも見える。
何か企んでいそうな感じも見受けられないし、私に向けられている感情が安堵のそれだという事くらいは私にも容易に判断が付いた。
それに今私が此処でこうしている現状を考えるに自分の身分を偽っている様子も皆無、とりあえずは信用してもいいだろうと私は判断を下した。
アリシアにしても「やっぱりお医者さんだったんだ~」とはしゃいでいるような具合だし、恐らくは本当にこの病院のお医者さんであるという事には間違いなさそうだった。
そんな風に私が内心で考えているとその人は……とりあえずは“石田先生”と呼ぶ事にするけれど、石田先生はぼーっとしている私の様子が尚更心配だったのか顔を覗き込むようにして「大丈夫?」と首を傾げてきた。
とりあえず私は「大丈夫です」とだけ返答し、既に分ってはいる事だけど自分が何でこの場所でこうしているのかの説明を石田先生に求める事にした。

「あの……私、一体どうしてこんな所に……」

「憶えてない? そりゃあ無理も無いわね……貴女は丸一日寝たきりだったんだもの、現状が理解できなくて当然でしょうね。あっ、無理に思い出したりしちゃ駄目よ。そうでなくとも多分あなたの見た物はちょっとショックが強すぎる物でしょうから……」

「えっ……そうなんですか? 何だかとっとも怖い物に襲われて……それで無我夢中で逃げていたら誰かに助けられて……。その前はやっぱり思い出せない……。一体私に何が起こったんですか? 私、一体どうしちゃったんですか?」

自分でも内心で大した役者だ、と自分の事を自画自賛しながら私は演技を続ける。
アリシアは「凄いよ、なのはお姉ちゃん!」と褒めていてくれているのだが正直内心で私は噴出しそうになっていた。
だって今更こんな如何にも何が起こったのか分らない悲劇のヒロインをこの私が演じているというのだ、笑いの一つも込上げてくるという物だ。
元々私はそういった感じのキャラではない、寧ろあのまま化け物に食い殺されて翌日のニュースで何処何処の女の子が未明に殺されましたとかいうテロップと一緒にお茶の間に登場するようなモブキャラの方が断然性に合っている。
寧ろ今現状でこんな風な演技をすること事態が無理がある、しかし相手にそれを悟られるわけにも行かないから只管に演技をし続けるしかない。
まったく嫌な女の子だな私も、そんな風に私が考えていると石田先生ともう一人の女の人は如何にも可哀想だなって感情を前面に押し出して私の方を見てきた。
どうやらバレてはいないらしい、そう思うとまた笑いが込上げてくる。
私はそんな自分の不謹慎さを必死で抑えながらも彼女たちのどちらかが口を開くのを待って、あえて悲しそうな顔をしながら俯いた。
此れで少しは同情も引けて相手も話しやすくなるだろうか、そんな考えは見事的中し、石田先生は私を抱きしめながら「大丈夫、大丈夫だから……」と慰めてきた。
掛かった、そんな風に私は内心でほくそ笑みつつ石田先生が落ち着くのを待って彼女の話を聞くことに決めたのであった。

「あ、あの……私ッ、私は……!?」

「安心して、此処にはもう怖い物なんて何も無いから。心配しないで、貴女はその……ちょっと凶暴な動物に襲われたのよ。最近ここら辺をうろつき回ってる野犬みたいなんだけどね、それから貴女は助かったの。本当に運が良かった……ううん、寧ろ幸運だったって言って良いのかもしれないわね。現状その野犬に襲われて助かったのは……貴女だけの様ですから……」

「野犬……襲われた……? あぁ、そうか……私……」

そう言って私は何かを思い出す素振りをしだす。
実質アリシアが傍にいる私からしてみれば野犬なんていう嘘は見抜けて当然なんだけど、きっと何の事情も知らない人から見ればあれは獰猛な野犬に見えない事も無い。
加えて物理的な証明が付かない以上はそう定義した上で話を進めるしかない、当事者である私だって普段のままアレに遭遇していればほぼ間違いなく野生の動物だと勘違いしただろう。
見た目は完全にクリーチャーかモンスターだったけど、恐らく喰い殺された女の人やこの前の少年の死体の事なんかを考えるとそう説明する他ない筈だ。
上手い事誤魔化したな、そんな風に私は思いながら殆ど表情を崩さずに奥に控えている無口な外人の女の人の方を見る。
恐らくこの石田先生と言う人はアレの関係者では無い、となると必然的にアリシアの言うジュエルシードを求めている人というのはこの人の事になる。
現にその人は私から目を背けながら手をギュッと握りしめて何かを堪えていた、きっと無関係な人間を巻き込んでしまったという罪悪感でも感じているのだろう。
はてさてどう切り込んでいったら良いものか、石田先生とのやり取りをなし崩し的に済ませながら内心でそんな事を考えていた私はとりあえずこの人の名前だけでも情報を得る為にそっちの方に話を振る事にしてみたのだった。

「確かバイクに乗った女の人に助けられて……あの、もしかしてそちらの方が……」

「えぇ、そうよ。この人が貴方を助けてくれたトーレさん、私の家にホームステイしてる海外の学生さんなの。ねっ、トーレさん?」

「……あぁ、その通りだ。紹介が遅れて悪かったな。私はトーレ、トーレ・スカリエッティ。石田女史の説明に在った通り留学生だ」

「あの~もしかしてなんですけど……この前駅の近くのマンションでぶつかられた方ですか? 違ってたら気にしないでくれて良いんですけど……何だか初対面って感じがしなくて」

その言葉を聞いて外人の女の人……これまた便宜上“トーレさん”と呼ぶ事にするけど、トーレさんは意外そうな顔つきで私の方を見てきた。
そしてその後数秒してから「良く憶えていたな、その通りだ」という言葉を私に掛けてきてくれた、どうやら私の記憶違いという事では無いらしい。
アリシアは頭の中で「どういうこと?」と疑問の念を露わにしていたが、別段私からしてみてもこの質問にそれほど大きな意味が在るという訳では無かった。
ただ単にちょっとした確認、それとあわよくば其処から少し明るい話題に持って行けるかどうかというのを試しただけなのだ。
勿論私は現状こんな状態だろうし、相手方からしてみれば精神的に参っていると思われてもおかしくないのだが……だとすれば十中八九私の精神的な面のケアを考えて話の論点を別の物にすり替えようとする筈だ。
人間関係的な面で殆ど最悪な思いばかりした私だけど、その御蔭で知った事も沢山ある。
一つは人を簡単に信用しないということ、そしてもう一つは相手の話す言葉には多かれ少なかれパターンが在るという事だ。
前者の方は散々人から裏切られた所為で人を信じるよりも疑うという感情が強くなった事が原因で、後者の方は最低限の会話だけで相手との人間関係を切りたいからという事から色々と考えてみた事なのだが……これがまた大体の人がこの二つを駆使するだけで簡単に人間性が見えてくるというのも事実だ。
こんな風に至るまでの過程で様々な人間に触れて来たのがその考えの定着を後押ししていると言っても良かった、人間というのは殆どの人が腹の内に何か黒い物を抱えているもの……信用するよりはとことん疑って掛かった方が良いという事を私は知っている。
この世の中に真の善人と言える人間は少ない、それこそ歴史の教科書に載るか載らないかというレベルで少ないと言ってもいい。
皆誰しも腹の内に何かを抱えて、何時も誰かを騙し騙し生きている……そしてそんな人間達が集まって出来る“世の中”を上手く渡り歩くにはその本質を見極めた上で然るべき関係を構築するのが最重要となる。
そりゃあ人間なんて物は吐いて捨てる程この世の中には蔓延っている訳だから、そのうちの何人がまともな人間で後はそうで無いとか私はそういった括りを作るつもりは毛頭ない。
だがあくまでも用心として、そしてこの生き難い世の中を少しでも生き易くする為に……私はこの処世術を何時までも胸に抱き続けている。
とは言っても、これもやっぱりあの先生の受け売りなのだが……そんな風に内心でほくそ笑みながら私はトーレさんと石田先生に対して更なる押しを掛ける事に決めた。

「……ありがとうございました。本当私今自分でも何が何なのかちょっと良く分からないんですけど……こんな風にお医者さんにまで……」

「いや、問題無い。私はただ当然の事をしたまでだ、お礼を言うなら石田女史に言ってくれ。この病室を手配してくれたのは石田女史だし、私は殆ど何もしていないからな」

「あら、そんな事は無いわよ。私なんて別に大したことはしていないし、病院内の違う科の知り合いに少し声を掛けただけだから……まぁ、この際両方合わせてって事で」

「あ、あはは……そうして下さい……」

私はなけなしの笑顔を作りながら二人に対して微笑みかける。
まずはジャブ、軽く相手に牽制して相手の出方を私は見ることにした。
アリシアは「本当に演技?」といった感じで実際の私と今の演技が混同してしまっているのではないかと思っているようだが、それは絶対にありえない。
普段の私なら特定の人物を除けば感謝をするなんて事はしないだろうし、間違ってもそれを口にすることなんてない。
これは一度でも弱い面を見せてしまうとつけ込まれてしまうという事から下手に謝ったり感謝したりという気持ちを抑制しているわけなのだが、簡単な気持ちで返す生返事では時として面倒な事を引き起こす危険性がある。
何気ない気持ちで返したその一言がその後の人生を大きく変えてしまう可能性があるのだ。
丁度私が昔誰から責められる時も「ごめんなさい」しか言わずに現状の私が出来上がってしまった様に。
だから私は此処であえて“感謝する”という行為を行って相手の動揺を引こうと思ったのだ。
悪人ならそれでむず痒い気持ちが生まれるのだろうし、逆に善人であっても私のような被害者を出してしまった事に心を痛める筈だ。
つまりどちらにしても反応はある、今回はどうやら後者だったようだ。
トーレさんはなるべく表面的には動揺しないようにしているみたいだけど、感謝された事で生まれた照れの裏返しには私の責任だっていう気持ちを見え隠れさせている。
きっと責任感が強い人なんだろうな、そんな風に思いながら私は会話を続ける事にした。

「あの~……こういう事を聞くのは本当に申し訳ないんですけど……治療代の方は……」

「そういう事は子供は気にしなくていいの。半分ボランティアみたいなものだし、困った時に助け合うっていうのが人の性ってもんでしょう? あっ、でも一応親御さんには連絡しなくちゃいけないから出来れば名前と電話番号教えてくれるかな?」

「……そうですね、すみませんでした。私はなのはっていいます、高町なのは。聖祥大学付属小学校の三年生で電話番号は―――――」

その後私は石田先生の聞かれるがままにありとあらゆる個人情報を余すことなく喋った。
住所、電話番号、迎えに来られるような家族がいるか……その他エトセトラエトセトラ。
喋れる事はとりあえず全て喋りつくした、家族の人達は嫌いだけどこうなってしまった以上世間体を保つ為にも私と家族の仲が不仲である事は隠さねばならなかったからだ。
本当の事を言ってしまえば出来れば自力で家に帰りたい所だが下手に勘潜られて石田先生やトーレさんに不振な感情を抱かれるのも嫌だし、何よりもそれは私自身が一番望まない事だからだ。
最低最悪な人達だけど私の居場所はあの家の私の部屋と先生のマンションしかない、だけど下手に此れが問題視されればその両方が取り上げられてしまう可能性だってあるのだ。
私は変に同情的な視線や可哀想だって感情を向けられるのが何よりも嫌いだ、私には私の生活があり、尚且つ此れは此れで上手く回っている部分もある。
それを何も知らない人が勝手にずけずけと介入してきて荒らされるのが私は嫌なのだ、先生のような人間ならまだしもそれが半分義務化している役所の人とかは特に嫌いだ。
だから私は一応嘘は付かなかった、ある意味一番の隠し処である自分が普通の家族にあるような良好な関係を築けていないという事を除いては。
どうせあの親や家族の事だ、未だに私に意見の出来るお兄ちゃんにその役目を全部押し付けに決まっている。
せめて此処に家族が来た時にボロが出ないようにしなくては、私はそんな風なことを考えながら表面上は少しだけ落ち着いてきた女の子を気取りつつ後の対処について思考を重ねる事にしたのだった。

「……っと、じゃあ私は高町さんのお家に電話を掛けるがてら担当のお医者さんを連れてくるからちょっと待っててね。大丈夫、入院なんて事には多分ならないと思うから」

「そうなんですか。それは良かったです……私も学校とかがありますので……」

「ふふっ、良い子ね。じゃあ後はトーレさん、それまでその子の相手をしていてあげて」

「……承知した」

そう言って石田先生は踵を返して病室から出て行った。
職務熱心、加えてどうやら昨今のこういった仕事についている人とは違って人情とかそういった感情も持ち合わせているらしい。
手放しにとは言えないが、それでも余程のことがない限りは信用していいだろうと私はそう最終的に判断を下した。
しかし、問題がそれで全て解決されたかといえば無論そういう訳ではない。
むしろ此処からが勝負処だ、私はそう思いながら部屋に残されたもう一人の女の人のほうを向き直った。
長身で外見的にはモデルのような風貌の海外からの留学生だという女性、トーレ・スカリエッティ。
肌が白い事や髪の色、瞳の色などから判断するに明らかにアジア系の人間ではない……しかしアリシアからの言葉では「この人も私と同じだよ」という事から、少なくともこの世界の人間ではない事も確かだ。
野犬から私を助けたとか言っていたが恐らくそれは方便で、本当の目的は別にある。
そう考えた方がいいだろうと私は思ったのだが……それが逆に対処し辛かった。
いきなりジュエルシードを見せて反応を窺うのはナンセンスだし、だからと言って遠回しに言っていたのでは先が見えない。
加えて私の目的はジュエルシードを私が保持する事を約束付けた上で、アリシアや私の目的の為に協力を要請する事にある。
その二つを同時にこなすのは結構骨が折れる、しかしやるしかないのもまた事実だった。
果てさてどう切り込んだものか、そう思いながら私はなし崩し的に相手の反応を窺う為に当たり障りのない所から質問していく事に決めたのだった。

「あの……トーレさん、でいいですか?」

「んっ、あぁ。好きなように呼んでくれて構わないがそれで呼びやすいようならそうしてくれ。私はその……何と呼べば?」

「なのはでも、高町でもどっちでもいいです。それよりもあの……ちょっと聞いてみてもいいですか?」

「……何をだ?」

トーレさんはふっ、という笑いを漏らしながら壁にもたれ掛かり私に返答してきた。
なるほど余裕がある、それに加えて何を聞かれても動揺しないように大人の表情をしっかりと作れている。
恐らく先ほどまでの石田先生との会話からある程度私の性格を掴んでいるというのが大きいのか、それか単純に私のような子供に何を聞かれたところで大丈夫だという慢心がトーレさんをそうさせているのだろう。
しかし、私はトーレさんの微細な変化にちゃんと気が付いていた。
私が質問を持ちかけた時、トーレさんはほんの少しだけれど考える間をおいていた。
それはどんな質問が来た時にでもある程度頭の中でマニュアル化した返答を返しておけばいいだろうという感情の表れでもある。
故に意表を突いた質問を投げかければそれだけトーレさんのペースを崩せるという事だ。
口で弱い子供の私には本当にそういった奇襲のような質問で相手の思考を狂わせて、私のペースに引き込むしかないのだ。
私は意を決し、これなら大丈夫だろうというような質問を彼女にぶつける事にした。

「私を襲ってきた動物についてです。あれって……本当に野犬だったんですかね?」

「さて、な。この国の警察にはもう届出を出したが十中八九そうだろうとの事だ。私も殆ど気が動転していて夢中だったからよく憶えていない。それがどうかしたのか?」

「いえ、ね……私……実はちょっと思い出したんです。私を襲ってきた動物の事、その姿を。目が四つ在って、熊さんみたいに大きくて……その、血の混じった唾液が口からは垂れてました。多分あれって野犬とは全然違う……もっと違う生き物じゃないかって思ったんです。トーレさんも見ているだろうからと思って聞いてみたんですけど……」

「……分らんな。君を助けた時私はバイクの上から君の上に圧し掛かっていた物を蹴りつけただけ、その後その生き物は直ぐに逃げてしまったからな。しかしまあ直に捕まるだろう、保健所や地元の猟師組合の人間が近い内に山狩りをするといっていたからな」

腕を組みながら尚も冷静さを崩さないトーレさん。
言い分としては理が通っているし、傍から見れば私がおかしいことを言っているようにしか見えないのだろうが……悪いけど私は全部知っているのだ。
一応私はアリシアへと念を送って彼女が本当の事を言っているのかどうか確かめてみる。
結果は「嘘、其処のお姉さんが暴走体を倒してジュエルシードを取っていったもん!」との事だ。
実に単純明快で、実に判断しやすい内容だった。
つまりこのトーレ・スカリエッティという人は私に嘘をついており、尚且つその嘘を突き通そうとしている。
それはある意味私を傷つけないための対処なのかもしれないが、もはや私も何の関わりもないという訳ではない。
出来うる事なら本当の事を言って欲しいし、あわよくば彼女が何者であるのかも知っておきたかった。
しかし、それを聞き出すにはまだ弱い……もう少し強い押しが必要になる。
此処はもう少し粘るべきか、私はそう判断して次の言葉を紡ぐのだった。

「そうですか、すみません変な事聞いて。私多分……気が動転しちゃってるみたいです。にゃはは、そんな生き物いる訳ないですよね?」

「ショック症状が大きい時、人間は無意識の内にそれを回避しようとすると石田女史が言っていた。恐らくまだ君の精神が不安定なままという事なのだろうさ。無理に思い出そうとしないで今はゆっくりと休んだ方がいい。こんな状況だ、無理もないのかもしれんがな」

「そう……ですよね。最近ちょっと疲れちゃってるのかな、私? 最近変な幻聴も聞こえるし、時々独り言ぶつぶつ言っちゃってる時もあるし……今回もその所為で変な生き物に襲われるし。やっぱりあの緑色の石を拾ったのが悪かったのかなぁ?」

業とらしく私は口元に指を当てて思い出すような仕草をしてから短く溜息を漏らす。
しかし此れもまた演技、トーレさんの動揺を引く作戦だ。
アリシアは「幻聴とはなんなのさーっ!!」とお怒り気味だが、私はそんな彼女の様子を気にせず如何にもあぁ私変な事ばっかり巻き込まれてますよってオーラを放ち続ける。
あくまでもさり気無く、少々露骨だったかもしれないがそれでも独り言の域を出ないように思い出す素振りをしてはどんよりと落ち込んでみたりする。
そしてその瞬間にもトーレさんの顔色を窺う事は止めない、相手の反応は逐一観察しなければ意味がないからだ。
反応は……黒、ほんの一瞬だけだがトーレさんは眉をピクッと動かした。
緑の石、つまりはジュエルシードを思わせる単語に反応したという事なのだろう。
何にも知らない子供になら分らない変化だろうが、それでも私のように様々な人の顔色を窺いながら生きてきた人間にとっては十分動揺している事の分る反応だった。
さあ此処からが正念場だ、私はそう思い直し更なる牽制をトーレさんに加える。

「緑色の石? パワーストーンか何かか? そういった類の物ならあまり拾うのは感心しないな。他人の念が篭ったそういった類の物はマイナスの感情を呼びやすい。あくまでも私の故郷の風習だから何とも言えないがな」

「そうなんですか……綺麗な石だったから大丈夫かなって思ったんですけど、それならやっぱり駄目なんですね。実はその、その石っていうのがこの前男の子が殺されちゃってたっていう公園で拾った物なんですけど……やっぱりその所為なのかなぁ? その男の子の怨念が私にもうつっちゃったとか……」

「この前のというと、あの例の公園の死体の事か? ははっ、もしかしたらそうかもしれないな。不謹慎かもしれないがあの少年もどうやら君が襲われた野犬の被害者のようだからな。気になるようならしっかりとした寺や神社にお祓いに行った方がいいだろう。まぁ、尤も……その少年が君を守ってくれたという事もありえるのかも知れないがな」

「にゃはは、なんかメルヘンチックですね」

口ではそんなことを言いつつ、こっちはメルヘンじゃ済まない領域に首を突っ込んでるんだよと毒を吐く私。
まあトーレさんが言うようにその男の子が私を守ってくれたんだとして、今私が助かっているというのならそれはそれで感慨深い物があるが……残念ながらそんなドラマみたいな展開は私には当て嵌まらなかった。
寧ろ私の現状は殺伐とした空気の漂うゲームに放り込まれたと言ってしまってもいいのかもしれない、「デビルメイクライ」とか「ドラックオンドラグーン」とかそういった類のゲームにだ。
別に悪魔と闘うわけでもなければ、大量に出てきたでっかい赤ちゃんを切り刻む訳でもないのかもしれないけど気分的にはそんな感じだ。
唯一の救いは殆ど裏技とかデバックとかそういった類の事が平気で出来る女の子がパーティにいるということだろうか。
ドラゴンクエストに例えるなら常に精霊とか別の魔界の魔王とかが私をサポートしてくれている感じだろうか、まあ当たっていないとしてもそれに近い物はある筈だ。
まあ何にしてもその“パーティ”を増やせるかどうかは私の交渉次第、今は会話に専念しようと私はもう一度思い直すのだった。

「まあ何にしても今はゆっくり休んだ方がいい。君はきっと疲れてるんだよ……君のような幼い子が見るには色々と酷だった筈だからな。忘れた方が良い、出来れば何もかも」

「あの、トーレさんはどうして私を助けてくれたんですか? こんな事聞くのはおかしいのかもしれないですけど、私……こんな風に助けられたのは初めてだから……」

「ふっ、人を助けるのに理由なんか要らないさ。其処に危害を加えられている人間がいて、私が助けられる立場なら私は迷わず手を差し伸べる。ただそれだけの事だ」

「何だかヒーローさんみたいですね。そういうの凄くカッコいいと思います」

私はそう言って心にもなくトーレさんに微笑みかける。
トーレさんはちょっと照れくさそうにしていたが、満更でもないといった感じで少しだけ笑っていた。
別に此れは本心からトーレさんにそういう事を聞いた訳ではなく、単純にこういう反応を促した時にどういう風に返ってるかをテストしただけなのだが……反応は思っていたよりもずっと良好な物だった。
これで下手な反応を示すようでは私としても考えなくてはいけない部分がより顕著になって来るし、最悪この場で問答無用にジュエルシードが奪われる可能性も視野の内に入れなければいけない事になる。
極力話の分かる人間とは交戦したくない私にとっては出来るだけ穏便に済ませたい、アリシアの事を考えると尚更だ。
私の様な素人が考えるだけでもアリシアの存在は非常に大きな力になる、それがどのように使われるかは知った事ではないがまず間違い無く碌でも無い事にしかならないのは目に見えている。
だから手札を見せるにしたって最悪私とアリシアの条件が飲める人間でないと意味が無いのである。
其処の処を良く吟味した上で信用に足りる人物かどうかを測る、今の処トーレさんは可も無く不可も無くと言った処だ。
しかし悪い人では無い、私を助けてくれたという事もあるし個人としては信用したい気持ちで一杯だった。
でも私はまだ素の顔を見せない、それにはまだ早すぎると分かっているから……。
私は取り繕った表情を装ったままトーレさんとの会話を再開した。

「私、何だか憧れちゃうな~。私はその……弱い人間だし、誰かを助けようと思っても殆ど行動出来ないんです。だからそんな風に直に人が助けられるトーレさんは凄いです、本当に」

「そんな事は無いさ。私だって無我夢中だったんだ、まさかこの国であんな生き物に出会うなんて想像してもいなかった。それに気がついた時には……既に身体が動いていた。まだまだ私も子供なんだ、勢いに身を任せるだけのな」

「それでも、凄いです……。あ~ぁ、私にもそんな風に“誰かを助けられる力”が在ったらいいのに……」

そう言いながら私は掌をベットの上に置くようにして態とジュエルシードをトーレさんの前に転がしてみる。
その瞬間また空気が変わった、普通の人間になら分からない程の微細な変化だが……あまりにもそれは決定的過ぎた。
私が漏らした言動、そしてジュエルシード……この二つの要因だけでも十分この場の雰囲気を逆転できる程の物は備わっていた。
ジュエルシードは人の願いを叶える宝石、既に私の願いが込められているとはいえ、その力を知っている人間ならこれがどういう行いなのか簡単に想像がつく筈だ。
あの化け物が暴走したのと同じように私自身もまた暴走する危険性が在る、少なくともアリシアの存在を知らない人間にとってはそう考えてしまってもおかしくない。
アリシアの方は「なのはお姉ちゃん、策士だね~」とかおどけた様子で言って来ているがこれは殆ど賭けに近かった。
これで相手がどう反応してくるか、後はそれに掛かって来る。
さあどうトーレさんは切りこんでくるのか、そんな風に私が考えているとトーレさんは二、三度頭を掻きながら慎重にならねばいけないといった面持ちで腕を組み、私の方に向き直ってきた。
いよいよ来るか、そう私が身構えていると案の定トーレさんは私が想像したのと同じように当たり障り無くジュエルシードの事について触れて来たのだった。

「……あぁ、なんだったかな。君がその……石を拾ったというのはもしかしてそれの事か?」

「あ、はい。何だか珍しくて綺麗なのでお守り代わりに持ってるんです。だけどこれを拾ってから不思議な事が良く起こるんです……。だからちょっとトーレさんの話を聞いて怖くなっちゃって……」

「その不思議な事とは? 私の実家は風水師なり占い師の家系でな、もしかしたら何か分かるかもしれない。ちょっと言って見てくれないか?」

「あの、えっと……分かりました。実は―――――」

其処から先、私が語ったのは口から先に勝手に出た出まかせだった。
曰く私の方に投げられてきたボールが独りでに弾かれたとか、曰く転んだ時に身体がゆっくりになった様な気がするとか、曰く……謎の幻聴が聞こえる様になったとかだ。
最後の一つ以外は全部嘘だし、勿論やろうと思えば出来ない事は無いのだろうけど……其処はフィクションをより真実に見せる為の演出だった。
つまり此処で私がアピールしているのはジュエルシードの力が暴走しないで正常に稼働しているのを促す事と、既に所有者が私である事を示唆させる事に在る。
そうすれば相手も下手な反応が取りにくいだろうし、ジュエルシードの本来の力を知っていれば尚更私に手が出しにくくなる。
そして後はこの話に少々手を加えてあげれば後はテコの原理のように簡単に話を掘り下げる事が出来る。
そのキーワードこそがアリシアの言っていた“魔法”であり、この場では大凡出てこない筈の単語という訳だ。
そして私は……あくまでも“自然“な私が本当に突発的な例えをあげるように言葉を紡ぐのだった。

「何だか“魔法”みたいな事が私の周りで起きていて……私、怖いんです。変……ですよね、気持ち悪いですよね。魔法なんてそんな物、在る筈無いですもんね……」

これが決め手だった、言葉では言わずとも私の胸にはそんな言葉が踊っていた。
魔法、言葉にするならたった二文字の陳腐で夢見がちな人間にしか縁の無い御伽噺の代名詞。
私にとっては精々「サンダガ」とか「ベギラゴン」とか「インディグネイション」とかいうゲームのコマンドの一つでしかない訳だけど、大抵の人間は御伽噺だとか子供向けのアニメだとかそんな感じの創作物に出てくる物と判断する事だろう。
事実今此処でこうしている私ですらまるで漫画の様だと感じている始末なのだ、それが傍から見れば余計にその感情は強くなる。
しかし、トーレさんの表情は強張ったまま動かない……普通なら「何を馬鹿な」と笑い飛ばしているのが当たり前なのに、だ。
そう、これが私の決め手にして最大のポイントだった。
トーレさんという人間は観察しただけでも責任深くて軽率な行動が似合わない人だ、そして何よりも人の事を想いやれる優しい心も持ち合わせている。
だから私がこんな風に“未知なる恐怖に怯える少女”を気取っていれば確実に責任を感じてしまう筈だ。
そして大抵こういったタイプの人間は相手を安心させる為に君は間違っていないと進んで行動する、此処まで来ると単純に運の問題だがこれが一番確立が高かったのだ。
後は運を天に任せるのみ、すると案の定トーレさんは……私の思惑通りに事を進めてくれたのだった。

「……いや、君が言っている事は間違いではない。と、言ったらどうする?」

「えっ……?」

「例えば君が今言った魔法という物が仮に存在したとして、だ。君の周りで起こっている事が君を中心に取り巻いていたとすれば……ちょっと堅苦しい話になるかもしれないが、真面目に答えてくれると嬉しい」

「あの、えっと……そんな急に言われても……。魔法なんてそんな漫画みたいな話……」

混乱した様子で狼狽する振りをしながら私は頭の中でアリシアに問いかける。
いったいこう言う場合どう返答するのがベストなのか、流石に私も此処まで上手くいくとは考えてなかったのでその質問に対する解答を考えていなかったのだ。
だけどアリシアにしても「魔法ってあるんだ~程度で良いんじゃない?」と投げやりな事を言ってくるばかり、何だか肝心な時に役に立たない子だと私は少しだけ憤慨した。
しかし、これで鍵は錠に嵌った……後はちょっと捻ってやればその扉は簡単に開く処まで来ている。
此処で運気を逃す訳にはいかない、そう考えた私は咄嗟に言葉を紡いでしまった。
途中途中「でも、もしかしたら……」とか「えっ、でもだって……」とか混乱する様子を取り入れはしたけれど、それでも私は口に出してしまったのだ。
魔法という物が存在する、という事を。

「……もしかして、それってこの石に関係している事だったりするんですか?」

「否定はせん。まぁ、肯定もしないがな」

「やっぱり、おかしいです。この石を拾ってから何だか私の周りがおかしくなり始めたんです。色々な事が起こって……あの生き物に襲われたのだって……。教えてください、私……一体何に巻き込まれてるんですか!?」

「……一概に説明は出来ん。恐らく言っても信じるまい。だが、現物を見せた方がはやいかもしれんな」

そう言ってトーレさんは私の腕へと手を伸ばす。
その先に在るのはジュエルシード、私は咄嗟にジュエルシードを庇うように後ろに下がっていく。
まさか本当に強硬手段で来たのか、と私がビクついているとトーレさんは「安心しろ、なにもしない」と言って来てくれた。
しかし一体何をするのだろうという疑問は拭い切れていない、故に私は警戒を怠る事はしない。
アリシアも「ふ~ッ!!」とか猫みたいに威嚇している、まあ私の頭の中でなのだから全く意味は無いのだけれど。
しかしその数秒後私はトーレさんのしたかった行動の真の意味を目の当たりにする事になった。
何とトーレさんが私の持っているジュエルシードに触れようとした瞬間、突然光が発せられてトーレさんの腕を弾いたのだ。
バチッ、という電気が流れる様な音が鳴り響き、短く苦悶の声を漏らすトーレさん。
魔法、そんな言葉が私の頭の中に再生される頃にはトーレさんは私の方を向き直って、真剣な面持ちで事の次第を語ってくれていた。

「つまり、こういう事だ……。詳しい話は今はまだ言えないが、君が言った事が間違っているという訳ではない」

「あ、あの……こ、これって……」

「動揺するのも無理は無い、だが今はこういう力が在るという事だけ知っていてくれさえすればいい。また君とは後ほど話す事にしよう……」

そういってトーレさんは懐からメモ用紙とボールペンを取り出して徐にそれに文字と数字の羅列を書きなぐると、それをまるでドラマの主人公が銀行家に小切手を付きだす様に勢い良く私の方に突きだしてきた。
呆然とした様子でそれを受け取る私、するとそこにはトーレさんの携帯電話の物だと思われる電話番号とメールアドレスが記されていた。
魔法の世界の人でも携帯電話使うんだ、とか野暮ったい事を少々考えてしまった私だが今はただこう言う物なのだろうと納得する他無かった。
出来る事なら後に伸ばさすこの場で蹴りを付けてしまいたかったのだが、成果としては上々だったと割り切る事にした。
流石に相手方も一朝一夕でこんな馬鹿みたいな超常現象を私が理解できると思っている訳でも無いという事なのだろう、トーレさんの態度を見ていればそれは明らかだった。
長期戦になるがその分じっくりと相手の背景を観察する事が出来る、今はそれでいいのだと思いつつ私はトーレさんの様子を再度伺う事にした。

「私の携帯電話の番号とメールアドレスだ。君が病院を出た頃に掛けてくればいい、知りたいのならばその時全てを話そう。ただ……あまり聞かない方が良い。出来る事ならその石も何処かに放り投げてしまった方が身のためだ」

「……………」

「だが、もしも君が深く知りたいというなら……何時でも良い、私を頼ってくれ。じゃあな」

トーレさんはそれだけ言い残して、ポケットに手を突っこんだまま病室を出て行ってしまった。
その瞬間緊張の糸が途切れてへなへなとその場にへこたれてしまう私、やはりああいったやり取りは私には向いていないらしい。
しかし、その御蔭で成果が在ったのもまた事実だった。
アリシアの説明だけでは恐らく現状起きている事を全てを納得するのには足りない、それこそ致命的に。
だがこうしてこのジュエルシードに通ずる関係者と少なからず面識が持てた、今はこれを僥倖と捉える他ないだろう。
あわよくばアリシアの事を認識させて彼女と私の願いを叶えるお手伝いをして貰う、まあ最初から其処まで事が上手くいくとは思っていないがそれでも少なからず努力はしておいて損は無い筈だ。
全ては何もかも始まったばかり、そう思うと余計に肩が重くなってくるような気がした。

『うわ~なんかキザな人だったね……。んっ? なのはお姉ちゃん、大丈夫?』

「緊張が一気に解けて、ちょっと疲れ気味かな。でも今はこれで出来る処まではやった、後は上手く調整していくしかないね」

『うん、一緒に頑張ろう』

「にゃはは……私の出来る範囲でね」

がっくりと肩を落とした私はそのままベットに横になる。
眠くは無いけれど何だか変に気を使って余計に疲れたような気がする、どうやら本当に私という人間は他人と何か駆け引きする事が苦手なようだった。
しかし、これが全てという訳ではない……寧ろ始まったばかりなのだろうと私は思った。
この先一体どんな面倒事が待ち受けているんだろう、そんな憂鬱な気持ちを抱えながら私はこれからの成り行きに身を任せるのだった。



[15606] 第九話「所詮理想と現実は別のお話なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/20 16:47
人って言うのは突発的な出来事が連発した時、妙に落ち着いている物だ。
それは別に全てを理解した上で納得しているからという訳でなく、単に頭の中で自分の起こった出来事に関して処理し切れていないだけなのだけれど。
まあ詰まる話人って言うのは何でもかんでも詰め込み過ぎると逆に理解が追いつかない訳でして、実際私こと高町なのはもその一人であると言えた。
何せ昨日と今日だけで化け物に襲われて殺されかけ、魔法だの願いの力だののとんでもびっくりな物に巻き込まれ、アリシアという謎の女の子と知り合ったかと思えば……実に一日中気絶していた上に満身創痍の状態で病院に放り込まれていると来た物だ。
これを全て直に納得できるという方が酷という物、寧ろ理解できなくて当然だろう。
あぁ、こんなの私のキャラじゃない……しかしこれが悲しい事に現実という訳でして、もう私は其処に肩口までどっぷりと浸かってしまっていたりもする。
これがまだどれか一つだけだったら私も我を忘れて取り乱していただろうけど納得は出来た筈だし、時間を掛ければしっかりと自分の身に起きた事を把握する事も可能だっただろう。
だけどこうも普段の自分とは……というよりも社会の常識を逸脱するような行為が続いてしまうとただただ呆然とする他ない。
こんな状況であるにも関わらずそれでも一応自分の起きた事を全部把握できているのは殆ど奇跡といっても過言ではないだろう。
しかし冷静に考えてみれば下手な問題に自ら突っ込んで言ってしまったのも事実、私は少しだけ冷静な気持ちで自分の行いについての反省を考え、そしてため息をつきながら、どんよりとした気持ちの中に自分の心を静めていった。

『ん~っ? どうしたの、なのはお姉ちゃん。溜息なんかついちゃって?』

「あっ……ううん、何でもないよ。ただちょっとぼーっとしてただけ、心配ないよ」

『そう? ならいいんだけど……。今はちゃんと心も身体も休めてなくちゃ駄目だよ。唯でさえ今のなのはお姉ちゃん傷だらけなんだから』

「にゃはは、心配させちゃったかな? 御免御免、ちょっと色々と思うところがあってね。ちょっと考え事してただけだから」

そう言って私は頭の中に響く声……不思議な世界の唯一の住人であるアリシア・テスタロッサへと返答する。
現在私はトーレさんと別れた後、石田先生の連れてきたお医者さんの検査を受けて怪我の具合は全然問題ないとの診断を下されて家の人が来るまでこの病室で待機させて貰うことになっているのだけれど……正直な所私の心は憂鬱な方向へと一直線だった。
口ではアリシアを安心させる為に「大丈夫」と軽々しく言ってしまったが、本音を言うならばとても大丈夫ではないというのが私の心境だ。
魔法の力だとか、トーレさんとの話し合いだとか、アリシアの言っているジュエルシードの暴走を止めるやらというのも確かに常識外れで頭を痛める要因では在るのだが、今回の心配事とそれらは一切無関係だった。
既にトーレさんと別れ、簡単な検診を済ませてから二時間以上経過している。
当然石田先生は私の家へと電話しただろうからきっと誰かが私を迎えに来るのだろうが、それが一番私にとっては憂鬱だった。
何せ私は魔法云々を抜きにしても獰猛な野犬に襲われて傷だらけになり、おまけに一日寝たきりの状態だったようだから家に帰らずに日付を跨いでしまったという事になる。
心配とか今更するような人達ではない事は分っているのだが、恐らく家に帰ったら帰ったでぐちぐちと小言を言われる可能性だって否めない。
更に言えば私は今日学校を休んでしまったという事になる、先生に何と説明したらいいものか……抱える問題は別の所でも山積みだった。

『……やっぱりなのはお姉ちゃん、元気ないね。本当に大丈夫?』

「あ~……御免、ちょっと訂正。多分別の意味で大丈夫じゃないかもしれない、色々と。はぁ、迎えに来るのかぁ……会いたくないなぁ」

『もしかしてなのはお姉ちゃんが悩んでるのって家族の事? 何か来られたら不都合な事でもあるの?』

「そう……だねぇ、ちょっと困るかも。私ってさ、家族と仲悪いから。殆ど家でも孤立してるし、出来れば誰とも会いたくないんだよ。ほら、なんて言うか……気まずいし」

がっくりと肩を落としてベットにうなだれる私。
アリシアは「そうなんだ……」と私以上に気まずそうな感じで返答してきたのだが、もしかしたら余計な気を使わせてしまったのだろうかと私は思った。
恐らくの話だがアリシアは家族に愛されていた筈だし、今も尚アリシアの言う「お母さん」がアリシアを何とかしようと思っているくらいなんだからきっとアリシアは家族の内で孤立するという感覚を味わった事がないのだろう。
勿論無いなら無いでそっちの方が断然良い訳だし、寧ろ私のような人間こそ悪の権化みたいな物なんだけど……こういう話はアリシアには少し酷な物があった筈だ。
話を聞くにアリシアの家族は皆仲が良かったのだという、お父さんが居なかったらしいのだがそれでも母子共に良好な関係を築けていたのだそうだ。
そんな家族と比べるとウチの家族はその正反対、私という存在を中心に段々と関係がギクシャクし始め、今では荒んだ家になってしまった。
家での会話は殆ど無く、此処最近は私も含めて家で誰かが笑った事など無いに等しい。
それにもう私の両親も私の事を子供と思っているのかどうなのかも怪しい、寧ろ私なんて生まれてこなかった方がいいんじゃないかって思ってしまうほどだ。
だからあまりアリシアにこういう自分の家族の話をしたくは無いのだが……此れから一緒に過ごす関係上、色々と私の事も知らせなくてはならなくなってくる。
心苦しい物は在るが止むを得ない、そう思うとまたアリシアに対する罪悪感が湧き上がって来るのだった。

『どうして家族の人と仲が悪いの? 喧嘩したとか……?』

「う~ん、それとはまたちょっと違うかな。もう大分前から殆ど口も聞いてないし、今は家に一緒に暮らしてるってだけで家族とも思ってないしね。此れに関しては……あんまり聞いてくれないほうが助かるかな、私もそんなに話したくないんだ。御免ね」

『……分った。複雑な家なんだね、なのはお姉ちゃんの家って。私は……ずっと前の事だけど皆優しかったから……』

「責任感じちゃ駄目だよ、アリシア。貴女のお願いと私の事情は別問題、だからって貴女のお母さんを見捨てたりはしないから。まあ複雑って言えば……複雑なんだろうけどねぇ……」

不意に私の中に顔を背け、暗い表情になっているアリシアの顔が浮かんだ。
アリシアの願いはお母さんを止めてほしい事と、ジュエルシードの暴走を止める事。
そしてその原因はアリシアの為にアリシアのお母さんが引き起こした事によって生まれ出た物だ。
もう既に死人も出ているし、もしかしたらもっと傷ついている人が出ている可能性も否めないが……それでもその行動理由は恐らくアリシアの為を思っての事なのだろう。
「もう私の所為で誰も傷ついて欲しくない」という言葉からも分るように、きっとアリシアのお母さんは彼女への愛情からジュエルシードを求めたのだろう。
その結果が例え私のような人間を巻き込んだ碌でもない騒動に発展していたとしても、その気持ちは間違いなく母性や愛情から来るものだというのは私でも容易に想像が付いた。
しかし、じゃあもしも私がアリシアのような状況になっていたのだとして私のお母さんが私のために何かしてくれるのかと考えると……少々私は複雑な気分になる。
恐らく私のお母さんは何もしてくれはしない、最初の内は泣くのかもしれないが10年、20年と時が流れれば恐らく忘れてしまう。
所詮私の存在なんてそんなもの、もしかしたら私が居なくなってほっとするような人間も出てくるかもしれない。
そう考えると何だか居た堪れない……そして出来ればアリシアにはこんな気持ちを味あわせたくない。
なるべくこのことには触れないようにしよう、私はそう思いながらアリシアとの会話を続けた。

「っと、この話はもうお終い。私の事情なんか知った所で多分面白くもなんとも無いと思うから、ね?」

『なのはお姉ちゃんがそう言うなら……。あっ、こっちに誰か来るよ! 男の人、凄く急いでる!』

「はぁ、やっぱりか……。大丈夫だよアリシア、その人は多分私の知り合いだから。他に人は? もし居たら人数は何人?」

『ううん、その人だけ。でも何だかちょっと怒ってるような感じだけど……大丈夫? 力の準備しておく?』

心配そうに声を掛けてくるアリシアに「必要ないよ」とだけ答えながら私はベットから降りて、自分の靴を履く。
既に私は病院の人から貸してもらった子供用の私服に着替えているから別に出歩いた所で問題は無いだろうし、ジュエルシードの力の応用とかで痛みを軽減させる力というのをアリシアに掛けて貰ったから自分で動く事も出来なくはない。
満身創痍だとは言えど何処か骨が折れているとかそういうわけじゃないから自力で動けないわけでもないし、アリシアの話しではジュエルシードのオプションを使えば“魔法”の力の一端をアリシアの方で行使する事が出来るらしく、その一つである自然治癒の促進で怪我の痛みを引かせる事もできる。
お兄ちゃんはぶっきらぼうな人だが何よりも一番家族の中で人一倍私に気を使ってくる、それが余計にウザさを加速させているわけだが……大袈裟に騒がれても私が恥ずかしいだけだ。
だからある程度は大した事ありませんよ、という状態をアピールしておかねばならない……そう考えた故の行動だった。
薄手のTシャツのズレを直し、デニムが垂れ下がらないかどうかを確認して、靴をしっかりと踵まで入れる。
残念ながら私の学校の制服は所々破けたり血が付いたりともう再起不能の状態だからこういう服に着替えるほか無かったのだが、やはりこれでも包帯や湿布は目立つ。
出来れば上着が欲しかった……そんな風に私がぼんやりと考えながら帰り仕度をしていると乱暴にドアが開いて一番来て欲しくなかった人物が息を荒げて病室に入ってきた。

「なのは! 無事か!?」

「……はぁ、見て分んない?」

病院なんだから静かにしてよ恥ずかしい、そんな風に思いながら私は突然入ってきた訪問者……私の兄である高町恭也さんに大して冷たい視線を投げかけた。
私の言葉には「傷だらけなんだから大丈夫な訳無いじゃん」というのと、「そんな馬鹿みたいに騒ぐほどの傷じゃないよ」というのの二つの意味合いが込められていた訳なのだが……どうやらお兄ちゃんはどちらの意味も理解してはくれなかった様だった。
本当に暑苦しいし、何時までも家族ごっこ続けるのも大概にして欲しい……そんな風に思うのだがそれでも止めてくれないのがこのお兄ちゃんだ。
もう家族の中では誰も私に話しかけては来ないというのにこのお兄ちゃんだけは何時までも私の兄を気取って彼是と私に文句を言ってくる。
空気を読まない……俗に言うKYという奴なのだ、この人は。
何時までも私も子供じゃないんだからいい加減その暑苦しい雰囲気を私にまで押し付けないでよ、そう私は思っているのだがそれでもこの人にはどうやら通用しないらしい。
お兄ちゃんは私の方までずかずかと駆け寄ってきて自分は本当に怒っているというようなオーラを全快にして私に対して怒鳴るような口調で詰問してきたのだった。

「聞いたぞ、神社の近くで野犬に襲われたんだってな。だから何時もあれ程言ってるだろう、寄り道しないで真直ぐ家に帰って来いって!」

「別に……お兄ちゃんには関係ないじゃん。私が何時何処で何をしていようと私の勝手でしょ?」

「なっ、そうやって何時も何時も投げ遣りな態度ばかり取っているから……ッ!」

「あのさぁ、いい加減お兄ちゃんの勝手な理屈私に押し付けないでよ。今回だって事故だよ、事故。お兄ちゃんが思ってるほど大した事はなかったんだから一々大騒ぎしないでよ、恥ずかしい……」

完全に感情的になっているお兄ちゃんを無視して私はしらけた態度を取り続ける。
アリシアはどうにもこの状況に戸惑っているのか、はたまた突然の口論に戸惑っているのか珍しく口を出してこない。
何時もおどけた態度の彼女でも流石にこの状況で冷やかしを入れるほどの度胸は持ち合わせていなかったらしい。
しかし、私からしてみればあまりにも何時もどおり過ぎるやり取り……というよりも何時もどおり過ぎてもう、うんざりなやり取りだった。
私とお兄ちゃんの仲は家族の中でも特別悪い、昔は「おにいちゃ~ん」なんていって甘えていった物だが、今となっては忘れ去りたい幻想へと化している思い出だ。
なんというかこの人はどれだけ私が近寄らないでという事をアピールしても昔と同じように接しようとしてくるのだ。
お父さんにしてもお母さんにしてもお姉ちゃんにしても時々ウザい事を言ったりして来たりすることはあっても、それでも普段は空気を読んでそれなりな対応で済ませてくれる。
しかしこのお兄ちゃんはそんな私の気持ちを無視して昔の私に戻そうとしてくる、今でも私が昔のようにこの人達を家族だと思っているかのようにだ。
いい加減時の流れってものを理解して欲しいものだけど、何かとつけては自分の根性論を押し付けてくるような人だから私も殆ど変わってくれることは諦めている。
だから私もこんな風な態度を取ってでも嫌々接しなければならない、何ともままならない話しだと私は思った。

「恥ずかしいって……危うく死に掛ける所だったんだぞ!? それをお前は!」

「だから騒がないでってば。此処は病院で、私は大した事無いって言ってるんだからさ。乳酸菌足りてないんじゃないの?」

「なのは、お前は事の重大さが分ってない! いい加減その捻くれた言い方を何とかしろ」

「あれをしろ、これをしろって煩いなぁ……ったく。お説教なら家で聞くから騒がないでって言ってるの!」

あんまりな言い方に私も感情的になって反論してしまう。
毎度毎度あれをしろ、これをしろとこの人は煩くて堪らないのだ。
所詮はお母さんから生まれてきた訳でもない本当のお兄ちゃんでも無い癖に彼是偉そうに私に指図しないでよ、私はそう言いたくて堪らなかった。
まあ確かに私が何を言おうが暴力だけは振ってこないからまだマシなのかもしれないけど、それを差し引いてもこの人は私の生活の中で邪魔な存在に成り下がっている。
やれ電気を点けっぱなしにするなとか言ってポーズ中のゲームの電源を勝手に切るわ、やれ部屋を片付けろだの言って無断で部屋の中に入ってくるわ……おまけに前なんて学校に行かずに部屋に引籠もってたら鍵を木刀でぶっ壊して無理やり学校に行かせたこともある。
私の気持ちなんか何にも考えない、ただあれをしろこれをしろと指図ばかり……本当にうんざりなのだ。
お兄ちゃんからしてみれば私はだらしない駄目人間に成り下がってしまったようにしか見えないのかもしれないのだろうけど、そんな私を此処まで堕落させたのは他でもない お兄ちゃん達なのだ。
今更御託を並べて家族ごっこなんてむしが良すぎる、反吐が出そうな気分だった。

「ほら、其処退いてよ。石田先生にお礼言って私は帰るから……」

「馬鹿を言え! 何のために俺が此処まで来てると思ってるんだ、俺はお前を心配して―――――」

「だったらさぁ、何でお兄ちゃん一人なの? 他の人は私を心配してないって事じゃないの? どうせお兄ちゃんだって他の人達から面倒ごと押し付けられてるだけなんじゃないの?」

「っ……なのは、お前……」

せせら笑うように口元を吊り上げながらお兄ちゃんにそう言いながら、私はお兄ちゃんの脇を通り過ぎてドアの方へと歩を進めていく。
アリシアはようやく「なのはお姉ちゃん……」とだけ何とも言えない声を漏らしていたが、此れが現実なのだから仕方がない。
そう、どうせもう私は家族の誰からもまともに相手にされない……例え私がこうして死にかける思いをして病院に担ぎ込まれたのだとしてもお兄ちゃん以外は顔も見せやしない。
所詮その程度の繋がり、その程度の絆だったのだと私はこの時改めて思い知った。
昔のままの“良い子”だった私ならもしかしたら家族総出で慌ててこの場に駆け込んできたのかもしれないが、今の私では精々面倒ごとを押し付けられた人間が一人来るだけ。
それもまた家族の中で態良く私に文句の言えるお兄ちゃんだけを寄越してきた事を考えても、その程度が知れるという物だ。
考えようによってはお母さんは仕事だし、お父さんにしてもその手伝いで忙しい、お姉ちゃんは今月末テストがあるからとは言っていたからその所為だと言えばその所為なのかもしれない。
だけど私はそんな都合がいいようにはもう考えない、そうやって何時も何時もないがしろにされた結果が今の私なのだ。
私は病室を出て、石田先生の元へと歩を進めながらグッと手を握り締めた。
するとお兄ちゃんが後からそれを追ってきて私の肩を掴んだ、ずきッという痛みが私の肩口に走る。
幾らアリシアの力で痛みを軽減させているとは言っても痛いものは痛い、丁度何日か前に受けた青痣にも重なって出来た傷に直に触られるのは想像を絶するものがあった。

「おい、なのは待て! 話を―――――」

「ッ……触んないでよ!」

その瞬間ジュエルシードの力が微弱にも私の言葉に反応した。
化け物の接触を弾いた時とは比べ物にならないほど力の弱い物だったが、それでも普段は振りほどけないお兄ちゃんを振り解くには十分な力があった。
私が腕を振ってお兄ちゃんの手を振り払うのと同時に生まれた力は、まるで私の力を増幅させたかのようにお兄ちゃんの手を弾いて接触を拒んだ。
お兄ちゃんは痛いとも何だとも言わなかったが、その表情には呆然とした物があった。
何時もなら幾ら私が抵抗した所で何の効果も無いのに、一体何が起こったのかとショックを受けているようだった。
私が望む限り例え如何なる物でもその干渉を遮断する力、私の意志が弱かったとはいえちゃんと発動してくれたようだった。
アリシアに何か言おうとも思ったのだが、さっきから口篭ってばかりで上手く私に掛ける言葉が見つからないといった様子だってのでやめておいた。
少々酷な場面を見せてしまった、そんな風な後悔と所詮私の存在なんてこの程度かという後味の悪さに居た堪れなくなった私は呆然と立ち尽くすお兄ちゃんを他所に只管に距離をとろうと駆け出すのだった。





石田先生に挨拶を済ませ、病院を出た私は一人街中をぶらついていた。
其処にお兄ちゃんの姿は無い、いるのは私唯一人だ。
辺りには私のような子供の姿は無い、まあ今は平日の真昼間なのだから当然といえば当然なのかもしれないけど。
周りの人間といえば何をしているのかも分らない人工的な金髪を揺らしながら化粧の濃い女の人と歩いているチンピラ風の男の人や、仕事の営業の途中らしく忙しく時計を見ながら早歩きで歩を進めているサラリーマン風な男の人ばかり。
まあ場所が何時もの商店街ではない、ゲームセンターやらカラオケやらが建ち並ぶ若者向けの町並みの通りだったからかもしれないけど、やっぱり私のような存在はここでも浮いていた。
デニムのポケットに手を突っ込んで、とぼとぼと歩く小学生なんて唯でさえ浮いているのかもしれないが、周りが周りだからその傾向が余計顕著だったというのも在ったのだろう。
周りの人間は奇異な視線で私の方を一瞥しては怪訝そうな顔を向けて何か言いたそうな顔をしながら通り過ぎていく、そしてさっきからその繰り返し。
居ても立ってもいられない、それが今の現状だと言えた。

『ねぇねぇ、なのはお姉ちゃん。やっぱり家に帰ったほうがいいよ……。こんな風に出歩いてたら周りから不良さんだって思われちゃうよ?』

(にゃはは、残念だけど私はその不良さんなんだ。学校でも家でも碌な風に扱われない社会の屑なんだよ……)

『そ、そんな風に自分の事言っちゃ駄目だよ! あのお兄さんだってなのはお姉ちゃんのこと本当に心配していたし、第一なのはお姉ちゃん優しいもん。ありえないよ……なのはお姉ちゃんみたいな人がそんな風に……』

(ありえない、か。それはね、アリシア……断言なんか出来ないんだよ。ありえないなんて事は”ありえない“。月並みな漫画の台詞だけど、世の中誰がどんな風になるかなんて分らないんだよ。例えその人が善人だろうと悪人だろうと結局は周りからどんな風に見られてるか、所詮個人の主張なんて大衆の評価の前にはかき消されちゃう物なんだよ)

そんな町並みを歩きながら私は頭の中でアリシアと会話をしていた。
何時もは言葉に出しての会話をしている私たちだったが、何でもアリシア曰くちょっと手間は掛かるけど頭の中で考えるだけでも会話は出来るのだそうだ。
此れもアリシアの世界の魔法の一つである“念話”を応用した物らしいのだが、随分と便利な物だと私は思った。
電話も使わずに他人とコンタクトが取れるのは確かに便利だったし、単純に凄いと思った……ただまあ私の場合アリシア以外話をする相手が居ないから意味無いのだけれど。
しかし、何でもアリシアが言うにはこの手の魔法は普通の人間には使用できず、“魔力”という物を生まれつき持っている人間にしか出来ないとの事だった。
そして結果は私にはその魔力と言う物があり、更に言ってしまえば常人よりも優れているとの御達しだった。
まあそんな物があった所で私の立場がどうこう出来る訳でもないし、社会的な地位が上がるわけでもないから別段嬉しいとも何とも思わないのだけれど……まあ無いよりは在った方がいいって言う程度の事だ。
ともかく、これで傍から見れば不気味な独り言を言っているという認識はされないで済む、私は少しだけ安堵を覚えていた。

『でも、だってそれじゃあ幾らなんでもなのはお姉ちゃんが……』

(こういう結果にもって行ったのも結局の所私だし、悪いのはやっぱり私なんだよ。少なくとも周りの人間はそう思ってる、だから仕方が無いんだよ。例え私が悪い人なんじゃないのだとしても、周りの評価はそう定まっちゃったんだからどうしようもない。それが心理なんだよ、アリシア)

『難しい事は……よく分らない……』

(私もだよ、小難しい事はよく分らない。それによくよく考えてみれば私、勉強嫌いみたいだから。昔は馬鹿みたいに机に向かってたけど……今はもうどうでもよくなっちゃった。でもね、アリシア。これは知識量とか賢いとかそういった以前の問題、要するに肌で感じ取れるか感じ取れないかの話なんだよ)

そう言って私は角を曲がり、人気の無い路地の方へと歩いていく。
行く宛はない、ただふらふらと歩き回って時間を潰しているだけに過ぎない。
しかしそれにしたって何時まで時間を潰せばいいのかも分らないし、どんなタイミングでそれを止めていいのかも見当がつかない。
ただ家に帰りたくない、だから宛も無く彷徨っている……結局の所それが現状だった。
現在の所持金は400円と少し、昨日の夕食代の分のお金だ。
病院では一応昼の分のご飯は出してくれたから御腹が減っているという訳ではないのだが、何にしてもこれっぽっちのお金で出来る事なんてたかが知れている。
偶には小学生らしく遊んでみるかとも思うのだが、どうにもそういう気分にはならない。
第一私には何が“小学生らしい”のかも分らないから行動のしようすらないのだ、小学生であるのにも関わらず最近の小学生が分らないとはこれは如何に……なんだかちょっと馬鹿らしくなってきた。
ともあれやっぱりやる事はない、故に私の一人歩きはまだ続くのだった。

(ねぇ、アリシア。私何をすればいいと思う? お店に入ったら絶対なんか言われるだろうし、かといって行く宛もないし……家には帰りたくないし。正直意地張って飛び出してきちゃったのは良いんだけど、行き当たりばったりなんだよね)

『あ、あはは……確かにそうだね。あっ、じゃあ私なのはお姉ちゃんの通ってる学校が見てみたいかも』

(私の学校? 別にいいけど……どうして?)

『う~んとね、私その……学校って行った事ないから。ほら、私って見た目通りの年齢の時にこっちに来ちゃったし……。本当の事を言うとね、私……入学式の前にアルハザードに来ちゃったんだよ。だからもしも私が元のまま生きていれば多分普通の人と同じように学校に行ってたんだ。それでその……出来れば気分だけでもって思って……駄目かな?』

私はアリシアの言葉になんとも言えないような気分になった。
そういえばと思い返してみればアリシアは見た目まだ5、6歳といった所、実年齢こそ軽く私の三倍は在るとはいってもそれでもやっぱり精神は幼い子供なのだ。
アリシアの口ぶりからするに彼女は学校という物を知らないまま何十年とあの世界に独りぼっちだったのだから、当然学校という物に対する憧れがあってもおかしくない。
まあ私のように学校という場所がイコールで精神を痛めつけられる嫌な場所という風に結びつく人間は少ないだろうから、この考えは決して間違いではないだろう。
仲の良い友達と一緒に登校して、休み時間に他愛の無いテレビの話なんかして……昼休みにはお弁当を突き合って週末には一緒に街に遊びに出かける。
誰だって学校に通う前は似たように思い描いていた幻想だ、勿論私だってそうだった。
元々友達らしい友達が居なかった私にとって学校という場所は希望に満ちた場所だったし、凡そ今のような状態になるなんて事は想像もしていなかった。
だからアリシアの気持ちはよく分るし、出来れば連れて行ってあげたいとも思う。
でも、私は正直の所……あまり学校には近づきたくは無かった。
唯でさえ碌な目に合っていない場所だという事に加えて、学校での私の立場は生徒から見ても教師から見ても底辺なレベルだ。
中には学校側に「一緒のクラスにするな」とか「この子の存在が健全な学校風紀を阻害している」と言って来る保護者まで居る始末だ。
それに学校を休んだのに私服で学校周りをうろうろして誰かに見つかれば明日誰に何を言われるか分って物ではない。
だからあまり近づきたくは無い……しかしアリシアの小さなお願いは極力叶えてあげたい。
正直、板ばさみだった……だから私はとりあえず妥協案を提示してアリシアに納得して貰う事にした。

(……いいけど、遠目からじゃ駄目かな? 私今日学校休んじゃってるし、出来れば他のクラスの人に見つかりたくないんだ。ズル休みって思われたくないからね)

『いいよ! ほんの少し見られれば私は満足だし、せめて雰囲気だけでもって思っただけだから。無茶なお願いして本当に御免ね』

(気にする事ないよ。それにどうせ明日になったら学校行くんだし……だけど幻滅しないでね。アリシアの思っているような学校と現実の学校は……多分結びつかないだろうから)

『えっ? どういうこと?』

恐らくは首をかしげる仕草をしているだろうアリシアに対し、私は「なんでもないよ」と言って歩く行き先を学校の方へと移す。
この路地から学校まではそれ程距離は無い、歩いて15分もすれば直ぐ其処に校舎が見えるといった具合だ。
流石に中に入っていく勇気は私には無いけれど、まあ精々ちょっと高い場所から見ればグラウンドの様子位は見える筈だ。
今の時期は球技大会間近だし、きっとどの学年もドッチボールをするのに躍起になっているだろうから恐らくその雰囲気くらいは見せて上げられるだろう。
まあ何にしても私は其処に参加することはない訳だし、本当の事を言えば学校に近寄る事事態避けたいのだけれど……この際どうしようもなかった。
言われるがままに学校の方へと歩を進め、途中あった自動販売機で何時もの缶コーヒーを買ってそれをちびちび飲みながら学校の方へを向かって行く私。
何時もだったら一人で通うこの道も姿こそ見えないが一緒に行く人物が居ると変わるものだと私は思った。
アリシアは終始はしゃいでいた、きっと間近で見る学校というのが楽しみでならないのだろう。
何せアリシアはその情報こそ引き出すことは出来ても実際に体感したりする事はできないし、其処に自分が入って活動する事なんてできないのだ。
だから私という存在を通して見る学校という道の場所への興味が彼女の陽気を駆り立てていたのだろう、恐らく想像だけどアリシアは終始笑っているような気がした。
だけどそれに合わせる度に私の心は沈んでいった、自分が置かれている現実を目の当たりにするのが嫌だったからだ。
学校という場所は私にとってはあの保健室以外皆が敵の戦場でしかない、教師に野次られ生徒に嬲られ……身も心も一方的に傷付けられる私刑の執行場でしかないのだ。
理想と現実、知らない内が華か……そんな風に思いながら私は学校の方へと歩を進めた。

『それにしても学校かぁ~どんな所なんだろ……。楽しみだなぁ』

(にゃはは、アリシアは無邪気でいいね。羨ましいよ)

『む~っ、どういう意味? 子供っぽいってこと?』

(そういう事じゃないよ。純粋だって言うのがいい事なんだってちょっと思い直しただけ。アリシアはさ、昔の私にそっくりなんだよ。私も昔はそうやって期待を胸に膨らませてた物だからね……)

今となっては全部遠い理想でしかないけど、その言葉を飲み込みながら私はふっと疲れたような溜息を吐き捨てた。
アリシアはまだ納得出来かねているらしく、「子ども扱いされた~!」と拗ねているがそう言っていられるのはあの場所に足を踏み入れるまでの事だ。
学校なんて碌な場所じゃない、そう初めて思ったのは私が一年生になって直ぐの事だ。
皆が皆成績を取る事にばかり躍起になって、何をするにも競う事がステータスになってしまう。
それまで仲の良かった友達同士も一皮向けばやれ体育の成績がどうだとか、社会のテストで5点負けたとか、そんなどうでもいい事で仲違いしてしまうこともザラな話だった。
更に閉鎖的なコミュニティが作り出す生徒間での優劣感は学年を上がる毎に酷くなっていき、平均より上に行っても下に行っても他人から引きずり下ろされる。
それには生徒、教師、保護者と誰もが連携している事で、一度そういう状況になってしまうと味方なんて誰一人としていなくなってしまう。
そういう生徒に残された末路は皆からハブられた教室の中で肩身の狭い学校生活を送るか、人間不信を加速させて周りを全員敵だと思い込むかどちらかしかない。
そしてそのどちらにも共通して言える事が身も心も徹底的なまでに打ちのめされる仕打ちを受けるということだ。
相手の成績への嫉妬、自分よりも下の人間を見下せる優越感、家にも学校にも板挟み状態で単純にストレスの発散口を捜し求める人……そんな人間が三人も集まっていれば自然とイジメは成立する。
初めの内は悪口や仲間外れ、酷くなってくると単純な暴力に訴えかけ挙句の果てには親や教師といった人間を引き合いに出して社会的に人を追い詰めるまでになる。
魔法の国でのイジメ事情とかはどうなのか知らないけど、少なくともこの世界のこの国ではこんな状況がステータス……此れが普通なのだ。
だからそんなに期待するほどの場所じゃない、私はアリシアにそう伝えたかっただけなのだ。
それと同時に私もアリシアのように純粋な心を抱ける頃に戻れたら……というどうしようもない願望を胸に抱きながら。

『あっ! もしかしてあれ? あのでっかくて白い建物が学校?』

(そうだよ。あれが私の通ってる聖祥大学付属小学校、その奥に見えるのが中等部の校舎だよ。もう少し近寄っていってみる?)

『行く!』

(ふふっ、分った。あんまり近くには寄れないけど、出来るだけ頑張ってみるよ)

やがて私はアリシアが口に出した場所……私の通っている聖祥大学付属小学校の場所まで辿り着いた。
缶コーヒーを飲みながら適当に歩いていたから掛かった時間は何時もよりも大分長かったが、確かに其処には何時も私が通っている校舎の姿があった。
普段なら正門から入って下駄箱から上履きを取り出して、どうせはいっているであろうゴミや画鋲なんかを取り出しながら気だるい雰囲気を醸し出しながら教室へと向かっていく……そんな場所へと続く道。
なんだか複雑な気分だと私は思った、私という存在が一人居ないだけであのクラスメイト達は一体どんな風な態度を取っていることだろうか。
虐める標的が居なくて憤りを感じているだろうか、それとも邪魔者が消えて清々しているだろうか……それともその両者だろうか。
どちらにせよ私を心配してくれる人間なんてあの教室には居ない、まあ一人心当たりが無いでもないが今となってはどうでもいい。
どうせ学校の私の居場所なんて“先生”の居るあの保健室だけなんだから、そんな風に考えながら私は一歩一歩ゆっくりと学校の方へと近寄っていく。
正門には警備員さんが立っていた、このご時勢どんな不審者が学校に足を踏み入れるかも分らない物騒な世の中だから保護者からの要請もあったのだろう。
がっちりとした体型の男の人が二人、腰には強化プラスティックとアルミ合金で出来た警棒を携えていた。
勿論今の私の服装ではまず怪しまれてしまう……だから私はそんな正門を素通りして学校の様子が見える少々高台になっている坂道へと歩を進めていく。
其処ならば斜めから学校の様子が見えるし、有刺鉄線や壁も関係なく中の状態を確認出来る。
軽自動車の停まっている影から学校の中の様子を一瞥できる位置に立って歩を止めた私は徐に中の様子を確認してみた。
其処から見える光景は私の予想通り、グラウンドでドッチボールが繰り広げられていた。
しかも何とも運が悪い事にウチのクラスの人間だった、よくよく目を凝らしてみるとアリサちゃんやすずかちゃんの姿も其処には見受けられる。
皆楽しそうに笑っている……私はなんだか自分が疎外されているような気分を味わいながらそれを見てまた缶コーヒーの中身を口に含んだ。

『なのはおねえちゃん、あれって何やってるの? 何かのスポーツ?』

(そうだよ。ドッチボールって言ってね、あの枠の中にいる人達がボールを投げ合って時間までに多く人が残っていた方が勝ちっていうスポーツなの。私は苦手なんだけどね……アリシアの世界にはこういうスポーツは無かったの?)

『う~ん、似たようなものはあったけど私はやらなかったな。私のお母さんは研究員でね、何時も私はお母さんの研究所の託児所に預けられていたから……。他にやる子もいなかったし、周りは大人ばっかりだしで殆ど経験ないなぁ~』

(にゃはは、そっか。残念だったね……)

私はあえてそれ以外何も言わなかった。
アリシアは終始「わ~っ」とか「面白そう~」とか言ってはしゃいでいたけれど、実態を知っている私にとっては痛いし、キツイし、やる気がないとそれで教師からも生徒からもつるし上げられるしで碌でもないことにしかならないスポーツという認識しかない。
どうせゲームだろうと思ってやる気を出さないで適当にやっていたら、「わざと当たっただろ」とか「やる気出せよ!」とか面倒な文句をつけられる始末。
しかも下手な事をやる気がない事と結びつけて中には先生に「あいつ真面目にやらないんですよ」と態々報告しに行って他人の評価を下げようとしたりもする。
私もそれで更に周りからの評判を悪くされた、体育教師にいたっては完全にやる気がないと決め付けてくどい説教をしてくる始末だ。
運動が得意な人間も居れば下手な人間だって居る、それなのにも関わらず全てを「やる気がない」で済ませてしまう。
人間的格差が問われる学校ならではの嫌がらせだった……初めて此れを受けた時も私は散々理不尽だと心の中で思ったものだ。
だけど反論なんか出来る訳もない、だから私は結局周りの人間がニヤついている中で教師に頭を下げるしかない。
碌な思い出が無い、そんな風に思いながら私はその光景を見ていた。

『楽しそう……私も学校行きたかったなぁ。そうすればなのはお姉ちゃん以外の友達もいっぱい出来たのに……』

(まあそれは努力次第なのかもしれないけどね。それに学校っていっても楽しい事だけじゃないんだよ? テストもあるし、宿題もあるし……中には反りの合わないクラスメイトもムカつく先生も居る。それに授業中はどんなに退屈でも遊べない。多分楽しい事よりも面白くない事の方が沢山在ると思うよ?)

『それでも……私は行きたかったな、学校。楽しい事ってね、楽しくない事の中にポツリポツリと存在しているから楽しい事なんだよ。そんなに楽しい事が連続していたら楽しいっていうのが当たり前になっちゃって物事を楽しめなくなっちゃうと思うんだ。だから私は大変な物が合っても学校に行きたいよ。だってあんなに……皆笑顔だもん』

(……うん、そうなのかも……しれないね……)

だったら私の立場は一体どうなるんだ、私は思わずそう言いたくなった。
私はあの集団の中に居たって笑えない、だって虐げられる側の人間だから。
殴られて、蹴られて、罵倒されて……そんなサンドバックみたいな生活の中で普通に笑えていたらそれはもう殆ど変態さんの領域だ。
それに私は痛みを快楽に変えられるほど器用な人間じゃない、そんなマゾヒストになるくらいならいっそこのまま首をナイフで掻き切って死んだ方がマシだ。
それに私には信じられない、あんなに下卑た笑いが出来る人間がどうしてこういう事になると純粋な笑顔を作れるのか……私には理解できない。
気持ちが悪い、第三者の視点から改めて自分のクラスの人間を見つめていると不意にそんな言葉が私の頭の中を過ぎった。
どうせ今此処で笑みを浮かべている人間だって明日になれば打って変わって私に嫌がらせをしてくる事だろう。
机に「死ね!」と書くだろうか、それともまた教科書を裏庭の焼却炉の中に放り込むだろうか、はたまた何時かみたいに授業中にコンパスで私の背中を刺してくるだろうか。
考えるだけで身震いする、それに一度意識しだすと手の震えが止まらなくなってきた。
耳鳴りがキンキンと唸り始め、またあの光景たちがフラッシュバックしてくる。
下卑た笑いの渦、私を頭ごなしに怒鳴ってくる教師、御腹を蹴り続けてくる男子、そんな私を見ながら靴で頭を踏み躙る女子……エトセトラエトセトラ。
もうこの場に居ては耐えられない、そう思った私はそろそろ帰らなくてはと思いながら気付け代わりに缶コーヒーの中身を一気に飲み干して空になった缶をコンクリートの上に静かに置くと、踵を返してその場から立ち去る準備をした。

『あれ? もう行っちゃうの? もう少し見ていこうよ~』

(……御免アリシア、ちょっと気分が悪くなってきちゃった。明日もあるし、今日はもう勘弁してくれるかな。お願い……)

『う、うん……なのはお姉ちゃん大丈夫? なんだか顔色悪いよ?』

(大丈夫……大丈夫だから……)

そう言って私は其処から立ち去ろうとして……私に向けられている視線に気が付いた。
その方向を一瞥してみると、其処には外野にいる紫っぽい色の髪を風になびかせながらこちらを見ている女の子の姿があった。
月村すずか、何時も私に話しかけてくる考えている事がよく分らない”元友達“の子だった。
そんなすずかちゃんが私の方を見て呆然と立っている、周りの人間たちは「なになに~?」とか「どうしたのすずかちゃん?」とか言っているけど、すずかちゃんは何でもないよと誤魔化していた。
姿を見られた、最悪だ……そう思いながら私は家へと続く帰路を辿っていった。
すずかちゃんならば周りに私が居た事を広めはしないだろうけど、それでも安心は出来ない。
明日しっかりと口封じをしなければ……私は重い足取りで家へと続く道のりを歩いていく。
どんなに非日常な出来事に巻き込まれても、この最低な日常は何一つとして変わらない……そんな風に思いながら。





[15606] 空っぽおもちゃ箱③「欲しても手に入らないもの」#すずか視点
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:362ab3cb
Date: 2010/03/15 16:18
私は昔から欲しいと思ったものが手に入った試が無い、不意に私こと月村すずかは自分自身の事をそう振り返る。
得難い親友、心温まる安らぎ、この身を犠牲にしてでも守りたかった人……そして今となっては嘗てと呼称するしかない誰もが正常だった時。
その総て、極稀ながらに遭遇したそれら総てに私は袖にされてきた、され続けてきた。
どれだけ私が求めてもある時は邪魔をされ、ある時は逃げられ、またある時は見向きすらもされない。
そんな敗北と喪失の9年間、私はずっと歯痒い気持ちを抱えながら生き続けて来た。
事の発端は何時だったのか憶えてはいない、もうずっとずっと前の事だから記憶もあやふやで自分でもよくその時の事を思い出せない。
唯分っている事といえばその当時の私が凄く我が侭で、感情の抑制が利かないほど幼い女の子だったという事だ。
恐らくはまだ私が4、5歳だった頃になるのだろうか、私はお姉ちゃんに何か大切な物を欲しがって我が侭を言った。
それが何なのかは分らないけど、ともかくそれが欲しくて欲しくて堪らなくて何が何でも自分の物にしたいと思った。
でも、それはお姉ちゃんにとっても大事な物で当然私にあげられる訳も無く……お姉ちゃんは妥協案として私にその代わりになる物を差し出してきた。
勿論私が欲しいのはそんな物ではなくお姉ちゃんのもっていた物であるのだから、当然その妥協に意味があった訳でもなく……私はそれを受け取る事を拒否して膨れ顔のままお姉ちゃんに酷い事を言って塞ぎ込んでしまった。
後々考えてみればそれは別段大した事である訳でもなく、変わりの物を受け取っておけば言いだけの話だったのだが……幼い私にはまだそれが理解できなかったのだろう。
その後お姉ちゃんの部屋を再び訪れた時、お姉ちゃんが泣いていたのをこの目で見るまでは。
その瞬間私は悟ったのだと思う、「あぁ、自分が何かを求めるという事は何処かで他人を傷付けてしまう」という事を。
今となってはその論理が正しいのか間違っているかは定かではない、ただはっきりと言えるのは幼心の内に私は自分が何かを求めるという事がイコールとして人を傷付けるという風に解釈してしまったのだろう。
だから私は今となっても欲しい物が手に入らない、手に入れようとするのが怖いから。
欲しい物は……すぐ目の前にあるというのにも拘らず、私は手を伸ばす事が出来ない。
そう、何時まで経っても……何時まで求め続けても……。
私には何一つ手に入らない、そんなもどかしさがふとこんな事を思い出させたのだろうと私は思った。

「ふぅ……やっぱり、駄目。駄目なんだよ……」

月明かりの微弱な光だけが部屋を照らす真っ暗な闇の中私はリクライニングチェアに腰を降ろしながら、まるで何かを独白するようにそう漏らした。
何が駄目なのか、それは自分でもよく分かっていない。
ただ昼間の事を思い返し、何をどう言えば良いのかと考える度にそんな言葉が壊れたジュークのように口から勝手に出てくるのだ。
そんな風な私だから殆ど真夜中であるというのにも関わらず、電気も点けないでこんな風にたそがれている……何というか肉体的な面にしても精神的な面にしてもとても褒められた行動では無かった。
普段ならぐっすりと眠っている筈の時間なのだろうし、黒い薄手のネグリジェに着替えた今の格好では寝る以外の行動を取るのは不適切な事も良く分かっている。
だけど私はそうせざるを得ない理由が在った、そしてその事を考えるだけで眠気が何処かへと消え去って言ってしまうのだ。
彼女の……私が最も望み、そして零れ落としてしまった女の子の事を考えるだけで……。

「私がこんな風じゃ駄目なのに……もっとしっかりしなくちゃいけないのに……」

リクライニングチェアの上でギュッと手を握り締めながら私は吐き捨てるようにそう呟いた。
暗い部屋の中に私の言葉が小さく反響し、その度に自分の言葉が胸を締め付けてくる。
世話係のファリンは此処には居ない、同じくとしてノエルもお姉ちゃんも恐らくは寝静まっている事だろう。
だから私はこうやって一人誰にも邪魔をされずに自己嫌悪に浸る事が出来る、きっと周りの人たちがこんな呟きを聞いたら心配してしまうだろうから普段は言えないのだけれど、この暗闇の中だけは心置きなく普段は胸に閊えている言葉を吐き出す事が出来た。
私は夜が好きだ、静寂し切った雰囲気も、全てを飲み込んでくれそうな暗闇も、そんな闇を力無く照らす月も……心を落ち着かせる静かな夜が私は好きだった。
だけど今となってはその夜は、もはや誰にも心配されたくない私が逃げ込んだ己が罪を独白する場所でしかなくなってしまっている。
どれだけ懺悔してもし切れない己の罪を告白し、永劫に終わりの来ない解決の糸口を探し求める時間に。

「私は何でこうも……勇気が持てないんだろう」

情けない自分の姿を月明かりに照らしながら私は沈んだ心を曝け出す様にポツリとそう漏らして顔を背けた。
何時も何時も思う、何で私はこうも意気地が無いのだろうと。
受け止めるのが性に合っていると言えば聞こえはいいのかもしれない、だけど結局私は自分から手を伸ばそうとする事をせず何時も受け身に回っているだけなのだ。
何かが欲しいと手を伸ばせば欲したそれが壊れてしまうかもしれないという恐怖、そして求めるという衝動の所為で周りが傷つくのではないかという不安……この身はどれだけズタズタに引き裂かれようとも構わないというのに、私は手を伸ばす事が叶わないのだ。
それが人間であれ、物であれ、目に見えない成果であれ私は結局妥協した結果だけに甘んじてそれを手にする事しかしない。
だからどれだけ欲した処で私が望んだ物は永遠に手に入る事は無い、大事な物を取りこぼしてそれに納得し続けている限りは。
私は欲しい物が手に入らない、そんな煩わしさが今の自分と自分を取り巻く現状を生みだしているのだと私は改めて思い知らされるのだった。

「何時だって誰かに助けられてばかりで、自分は何もしてあげられない。自分からは手が伸ばせないのに、誰かが自分に手を差し伸べるのを待っている。そんな風だから何時も甘んじた結果に飲み込まれるばかりなのに……」

まるで小説の一節か歌劇の一場面のように私は悲しくそんな言葉を漏らす。
だけどその言葉を聞く人間はいない、その当人である私という存在を除いては。
元々文学が好きだからかもしれない、私がこんな風に一人で独白を漏らす時はどういう訳か一人語りの小説のように言葉を紡いでしまう。
そうする事で少しでも自分の事なのだという事を忘れられるから、第三者として語る事で自分に降りかかる責任を一端でも軽くできるから。
でもそれは根本的に何の解決にもならない事を私は知っている、結局正面から自分に向き合えないから自分という存在から顔を背けて逃げてばかりなのだという事も。
私は私という存在が嫌いだ、望んだ先から手放して責任を感じている様に見せて実はどんな物からも逃げ出してしまっているから。
逃げて、逃げて、逃げて……その過程で何もかも落っことして拾い上げる事もしない。
何時も誰かに護って貰ってばかりで、いざ自分が護らなきゃいけない時には護ってくれた人に何も出来ず謝り続ける事しか出来ない。
二言目には御免なさい、誰に何をされても頭を下げてばかりで……そんな自身が私は情けなくて堪らなかった。
だから私は自分という人間が大嫌いだった。

「そんな風だから友達があんな風になっても、何も出来ずに立ち止まってばかりなのに。本当……何をやってるんだろうね、私は」

長い長い嘆息を宙へと吐き出しながら私は少しだけ記憶を遡る。
視線は少しだけ上向きにして、天窓から洩れる月明かりの源である綺麗な弧を描いて輝いている満月へと移す。
私は太陽に面と向かって向き合う事は出来ない、だからせめてその太陽の陰で輝く月には顔を向けておきたい……そんな自己満足から生まれた行動だった。
不意に私は昨日の昼間の記憶を思い起こしてみる、午後の体育でドッチボールをしていた時の事だ。
それは本当に偶然の発見だったのかもしれない、多分私だけしか彼女の存在に気が付いていなかったのだろうし、きっと彼女自身も私がその姿を見ていると気が付いているかどうかさえ定かではない。
だけど私の頭からはどれだけ経っても忘れられないのだ、彼女の……私が真に求めている高町なのはという少女の瞳が私達を見下していたあの光景が。

「あんなに悲しそうな顔をしているなのはちゃんに……私は何も、出来ない……」

瞼を閉じてあの時の光景を私は思い出す。
丁度私が外野に回っていた時、線の外へと零れだしたボールを拾い上げたその瞬間に不意に見えた彼女の冷たい視線。
その日学校に来なかった筈のなのはちゃんがジーンズとTシャツという大凡私の知るなのはちゃんらしくも無い格好でフェンスの奥の道路に立っていて、そんな彼女が酷く淀んだ瞳で私達クラスメイトを見つめているそんな光景が私の記憶の中でリフレインする。
何故なのはちゃんが昨日突然学校を休んだのか私は知らない、だから余計に昨日は一日中私も心配しっ放しだった。
体調を崩したのだろうか、怪我をしたのだろうか、もしかしてもう学校に来るのが嫌になってしまったのではないか……ぐるぐると巡る思考は余計に不安を掻き立てるばかりでちっとも授業に集中出来なかった程だ。
教室でたった一つだけの空席がまるで胸にぽっかりと空いてしまった穴のように喪失感を感じさせ、その違和感だけがしこりとなって私の心に残り続けていた。
そしてそんな矢先に私はあれを見てしまった、なのはちゃんのあの……全てを見限ったかのような冷たくて怖くてまるで胸に刺さる様な……それでいてどこか寂しげなあの表情を。
そして私は夜になってもあの顔を忘れられずに眠れないでいる、眠ってしまったらもう明日はなのはちゃんの顔が見れなくなってしまうのではないかという不安が私を蝕んでくるから。
だから私は眠れない、この日もまた……眠れない。

「出来る事をしようと思ったのに……結局私は無力なままだよ。ねぇ、なのはちゃん……私は一体……どうすればいいのかなぁ?」

答えてくれる人間はいない、多分いたとしても私の言葉なんてなのはちゃんは気にも留めてくれない。
こんなにも彼女を想っているのに、こんなにも彼女を護りたいと思っているのに。
なのはちゃんは私を見てはくれない、どんな事があっても私は所詮彼女の眼中には既にないのだ。
どうしてこんな風になってしまったのか、そう考えると私は居ても立ってもいられなくなる。
全ては私の所為なのだ、私なんかが彼女に近づかなかったらなのはちゃんはあんな風にならなくて済んだのだ。
なのにも拘らず私は彼女を求めてしまった、求めれば傷つくと分かっていた筈なのにそれでも尚私はなのはちゃんを求めてしまった……その所為でなのはちゃんは今も尚傷ついているのだ。
私の所為で、私の所為で……。

「あの日の約束も守れないままだよ、私。約束したのに……なのはちゃんと約束したのに……」

約束、言葉が私の口から不意に漏れる。
それは小学一年生の時に初めて彼女と出会って友達になった時に交わした絆、そして今になっても守れない風化した契りだった。
小学校に上がりたての頃、私には周りの皆と違って友達という物がいなかった。
内気で口下手な私にとって友達というのは同じ時を過ごす蔵書か家に複数いる猫さん位のもので、対人関係自体が苦手だった私にとって学校という場所は道の場所だった。
周りの人たちは同じ幼稚園や保育園だった人間同士で集まって楽しそうに笑っているのに、反面私は俯き気味に本を開いて時間を潰すだけで積極的に誰かに関わろうともしない。
そんな私だったから当然クラスの人間からも直孤立した、元々集団生活というのが苦手だったというのも在るのかもしれないが私は周りの空気に馴染む事が出来ず、学校が始まって三ヶ月もすれば立派な苛められっ子になっていた。
この頃の苛めと言えば精々軽い揶揄いがある程度のもので、今なのはちゃんが受けている物とは比べ物にならない程軽い物だけど……私はそれが嫌で嫌で仕方が無かった。
髪の毛を引っ張られたり、物を隠されたり、軽くハブられたりと私の精神は次第に参っていった。
そんな矢先に出会ったのが今の親友であるアリサ・バニングスちゃんとなのはちゃんだった。
二人との出会いは対照的だった、アリサちゃんは私とは違う意味でクラスから浮いていたけど私を虐める側の人間だったし、なのはちゃんはそんなアリサちゃんに責められている私をまるでヒーローみたいに助けてくれた。
事はアリサちゃんが私の髪止めを貸して欲しいという事で口論になっただけなのだけれど、それが何時しか掴み合いの喧嘩に発展してしまい……其処をなのはちゃんが出てきてアリサちゃんを止めてくれたという具合だ。
勿論アリサちゃんとなのはちゃんは当初とんでもなく仲が悪かった、お互い譲らない性格だからなのはちゃんの平手打ちから始まった喧嘩は何時しか殴り合いの喧嘩になって……事が全部終わって二人が仲直りした時は二人とも戦場から帰還してきた兵隊さんみたいにボロボロだった。
そして何時しか私たちは一緒に肩を並べて遊ぶようになり、その中心には何時も私という存在があって……凄く楽しい毎日が続いていた。
そんな楽しい日々が、私はずっとずっと続くのだと信じていた……そう信じて疑わなかった。
だからあの時私は初めて出来た自分の友達であるなのはちゃんと約束したんだ、今となっては取り返しのつかない約束を。

「なのはちゃんが責められてる時は今度は私が護ってあげるって約束したのに……」

徐にリクライニングチェアから立ち上がった私はふらふらと暗闇の中を歩き、窓の近くへと歩を進める。
冷たいタイルの床が素足を冷やし、その度に寒々しいという感情が私の中に芽生えてくる。
だけど私は歩を進めるのを止めない、そんな事が気にならないほど私の目元が熱を帯びていたのからだ。
はらり、はらりと頬を伝う其れはまるで私の気持ちを代弁してくれているかのように次から次へと止め処なく溢れてくる。
約束を護れなかった自分を責めるように、そして護れなかった人へ許しを請うように。
そう、私がなのはちゃんと約束した事というのは幼心の内に私たちが交わした小さな絆でしかなかった。
もうきっとなのはちゃんは憶えていないのだろうし、こんな風に責任を感じてしまっている私を見ればなのはちゃんはきっと「ウザい、止めてよ」と私を突き放す事だろう。
だけど私はずっと後悔している、その約束が今になっても護れて居ない事に……そしてなのはちゃんをこんな風へと追いやってしまった事に。

「本当は……私が受ける罰なんだよ……私が……私が全部受けなきゃいけなかったのに……それなのに……」

私はなのはちゃんに全てを押し付けて逃げ出してしまった、そんな言葉が頭に浮かぶ。
その瞬間私はまるで胸を大きな杭で突き刺されたかのような大きな大きな痛みを感じた。
本当なら私が受けなければいけない罰、それから逃げ出した事こそが私の最大の罪なのだ。本来なのはちゃんは周りの人間から虐められるような人じゃなかった、よく笑うし、何事にも一生懸命だし、それに時に危うく見えてしまうくらい優しい人だ。
自壊的、もしくは自分を大事にしていないようにも見えてしまうくらい高町なのはという人間は何処までも直向きに真直ぐで輝いている人間だった。
だけどそんななのはちゃんを此処まで落としてしまった原因はやはり私自身にあるといえた。
明るくてよく笑うなのはちゃんとは対照的に口下手で人見知りの激しい私は、なのはちゃんやアリサちゃんと知り合った後も長らくクラスの内で孤立する状態が続いていた。
そんなに周りから意地悪されるという訳ではなかったけれど、それでも疎外されている感じは否めなかったし、集団で何か物事をやる時に仲間外れにされるのはザラな話だった。
曰く無口で何時も本ばかり読んでいるから取っ付き難い、通信簿の先生の欄にも社交的になったほうがいいというコメントを書かれる始末だったのだから私の根暗は相当な物であると言っても過言ではなかった。
なのはちゃんはまだしもアリサちゃんに至っては今の現状に持ってくるまで結構な時間を弄した物だし、その時も私は積極的にアリサちゃんに話しかけるなのはちゃんに引っ張られてばかりだった。
受身ばかりの人生、自分から手を出さずに只管待っていてもそれなりな結果が付いてくるから自ら手を伸ばさなくても妥協の出来る都合のいい生き方……なるほど確かに其れは楽な生き方なのかもしれない。
ただ手を差し伸べられるのを待っていれば良いのだし、自分で何かを決める必要もなく“それなり”の物を手にして満足する事が出来るのだから。
だけどそんな楽な生き方を周りが許容してくれる訳はない、周りの人達は私よりも遥かに社交的で人間との付き合い方というのをよく熟知している。
権力のある者には猫なで声に擦り寄り、自分よりも格下の人間には身の毛も弥立つような仕打ちを平気でする……そんな二面性を彼ら彼女らはよく知っていた。
良くも悪くも集団から浮き出た存在は周りから疎まれる、子供というのは時に恐ろしいほどの結束力を見せるもの……しかしそれは裏を返せばある一定のライン上にクラスメイトの立場を並列させて其処から漏れ出す人間を皆で監視し合っているとも解釈できる。
つまりはそのラインよりも前に行こうとする人間、もしくはそのラインについて行けない人間を異端とみなし蔑む訳だ。
古今東西異端者という物は集団から忌み嫌われる、軍事、宗教、思想、政治、理念……大小様々な格差はあれど根本は皆同じだった。
自分には共感する仲間が大勢いる、皆自分と同じ考えをしているし恐らくは其れが正しいのだろう……だからその集団に居ない人間は“敵”である。
図式にしてみれば子供の私にも分る程に単純なもの、しかしそれは世の中の心理そのものであるとも私は思えた。
何せその図式の延長線上で……私もまたクラスの人達から迫害を受けた一人なのだから。

「私は……逃げ出してしまったんだ……」

カーテンを掴んでその場にへたり込む様に崩れる私。
月明かりは容赦なくそんな私を照らし出し、今の私の状態を鮮明に照らし出していた。
泣き崩れ、それでも尚何も出来ない無力な私を……得たいと思っているのに手が伸ばせない約束破りの醜い私を。
月はまるで全てを見通し、そして浄化するようにただただ弱々しい光で夜の闇を照らしていた。
そんな中で私は胸の痛む辛い思い出を記憶の中から引き出し、渦巻く思考へと加える。
それはまだ私が小学二年生に進級したばかりの頃のこと、なのはちゃんという“親友”を得て、アリサちゃんという“友達”をようやく私が得始めた頃の事だ。
私は人知れず周りの人間から蔑まれるようになった、理由は今でもよく分らない……なんでも彼らは口数の少ない私を「壊れている」と称して「修理」するのだと言っていた。
人格の矯正、そんな生易しい物とは違う……子供心の内に芽生えた集団から漏れ出た人間を都合の良い理由をつけて嬲るという行動の正当化だ。
トイレに行けば頭から水を浴びせられ、教室では目の前でお気に入りのペンケースを踏み潰され、屋上ではお財布を取られてボロボロの雑巾みたいになるまで私刑に晒される。
なのはちゃんとは違って期間は短かったけど、私は一時期完全な対人恐怖症に陥るまでに成り果ててしまっていた。
怖かった、周りの皆が怖かった……なんでこんな事をされるのか私には身に覚えがないし、其れを口に出しても「キモい」と言われて笑われるだけ。
身体に負った傷の幾つかはまだ私の身体に残っている、とてもじゃないけどお姉ちゃんにもノエルやファリンにも言えるものじゃないから病院には行けず痕になってしまったのだ。
透けている黒いネグリジェからは生々しく痕が残った刃物傷や小さな刺し傷が幾つか見え隠れしていた、私は他の人と比べて比較的治りが速いようだったから治癒した先から同じ所を何度も何度も痛めつけられた……恐らくはその所為なのだろう。
だけど未だに私はこの事を家族に人には言っていない、この事実を知るのは私と……恐らくはなのはちゃんだけだ。
アリサちゃんにもこの話は今でもしていない、なのはちゃんとの関係だけでも気を使わせてしまっているのにこれ以上心配事をさせたくないのだ。
でも私はなのはちゃんにだけはしっかりとこの事を話した、もう限界だったというのと同時になのはちゃんならもう一度私を助けてくれるだろうという期待があった。
そして案の定なのはちゃんは其れを聞いて飛び出していった、先生に話を付け、クラスの人達を糾弾し、私がまた何かされそうになっても身を挺して護ってくれた。
嬉しかった、もう駄目かもしれないと思っていた私にとってなのはちゃんの存在は救いの天子様の様に見えた。
結局証拠がないというのと誰もそれを”見ていない”という事でこの話はお流れになってしまったが御蔭で皆からの私へのイジメは無くなり、それ以降私が今日まで被害を受けることは無かった。
私は初め此れで全てが解決したのだと思った、物語に終わりが在るのと同じようにこんな辛い出来事も此れでやって終りを迎えられるのだと思った。
だけど私は後に知ってしまった、悲劇は同じように繰り返される……唯対象が私から私を庇ってラインを出てしまったなのはちゃんに変わったという違いを除いては。

「ごめん……なさい……」

涙がぽたりと真紅のカーペットに落ちる、そして其れと同時に謝罪の言葉が口から漏れ出した。
其れは今の私に出来る精一杯の謝罪だった、あの時私がなのはちゃんに何も語っていなければなのはちゃんはあんな風になることは無かった。
今も私という存在を忘れてアリサちゃんと笑っていられた、そうあるべきだったのだ。
なのに私は不用意に手を伸ばしてしまった、自分が望めば誰かが傷つくと分っていながら私は救いを求めてしまった。
その結果残ったのが今の現状、そしてそれを納得しそうになっている自分がいる。
私は心底欲した物ほど手の内に収める事が出来ない、まるでそんな現実を神様が嘲笑っているかのように私は欲しい物を手に入れることが出来ない。
私が求めたのは三人仲良く過ごせる平凡な日常だった、ドラマのように山や谷が無くてもいい、物語のように登場人物に明確なキャラが立ってなくてもいい、歌劇の様に情熱的な見せ場が無くてもいい……ただ昔のように三人仲良く肩を並べて笑って居たかった。
なのはちゃんがいて、アリサちゃんがいて、そして真ん中に私がいる……其れだけで私は幸せだった筈なのに。
私はどうしても自分が欲した物を手にすることが出来ない、どうしても。

「ごめんなさい……」

また口から謝罪の言葉が漏れる、けれど誰も其れを許す人はいない。
なのはちゃんが虐められてからというもの私の周りの人間の立ち位置もドンドンおかしくなって行った。
アレだけ仲の良かった筈のアリサちゃんは次第に私も含めてなのはちゃんから距離を置きたがるようになり、今となっては完全に仲違いをしてしまっている。
お姉ちゃんの恋人であるなのはちゃんのお兄さんも最近では頭を抱えてばかりでなのはちゃんの存在を持て余しているようだった、きっと強情ななのはちゃんの事だから自分の現状を家族に報告してはいないのだろう。
心境は昔の私と同じ、きっと初めの内は家族に心配を掛けたくなかったのだろう。
其れが度合いが酷くなっていく中で無言のSОSを発するようになる、あの頃はなのはちゃんも勉強に手がつかないようで成績も著しく下がっていたから余計に言葉に出し辛かったのだろう。
もしかしたら家族なら気が付いてくれるかもしれない、そして私を誰か救ってくれるかもしれない……きっとなのはちゃんにはそんな期待があった筈だ。
だけどなのはちゃんの家族は其れに気が付かなかった、私の時はいち早くそのなのはちゃんが救いの手を差し伸べてくれたけれど、なのはちゃんの場合はそんな助ける側の人間が無言の助けを求めているなんて想像もできなかったのだろう。
だからなのはちゃんはあんな風に歪んだ怖い人になってしまった、嬲られても蔑まれても疎まれても悲鳴一つ上げさせて貰えない環境がなのはちゃんをそうさせてしまったのだ。
きっとなのはちゃんは私よりも多くの傷を負った事だろう、沢山お金も取られただろうし、聞く所だと家でも孤立してしまっているのだというのだからその辛さは私の時の比ではないだろう。
なのに私はどうだろう、彼女に救いの手を差し伸べられているだろうか……確かにお弁当を作ったりアリサちゃんの制止も無視して話しかけたりはしているけれど全部跳ね除けられてしまう。
なのはちゃんを見習って私は一杯努力した、周りの皆から好かれるような振る舞いも学んだし、周りに合わせるという事も憶えた……だから今の私は孤立はしていないでいられる。
だけどそれが逆になのはちゃんを傷つけ、引っ張り上げてあげるどころか余計に傷付けてばかりだ。
色々な手段も試してみた、担任の先生に報告したりクラスの人達の目を盗んでなのはちゃんの隠された物を元に戻してあげたりと小さな事だけど少しでもなのはちゃんの立場がよくなるのならと策を弄してみた事もある。
だけど殆ど其れは徒労に終わってしまった、先生はクラスメイトの子達の証言ばかりを信用してまともに取り合ってくれないし、幾ら隠した物を元に戻してもその時にはもう壊れている物が殆どだった。
思い切ってなのはちゃんの家族に全てを打ち明けてみようかと考えた事もある、だけど其れはどうしても出来なかった。
其れは結局なのはちゃんの傷を大きく抉るだけだと分っていたから、これ以上なのはちゃんが擦り切れてしまったらもう彼女は立ち直れなくなってしまうと知っていたから……。
だから私は結局周りの目線を気にしながらなのはちゃんに少しずつ話をしていく事しか出来ない、手を伸ばせば直ぐ其処にある距離なのに私は彼女を受け止めてあげることが出来ない。
私は、恩を仇で返す事しかできない大嘘つきだ……そう思うと私はより一層泣き出したい気分になった。

「ごめんなさい」

私はその後も謝罪の言葉を延々と繰り返し、夜の闇の中で一人唯泣いていた。
それで何が解決する訳でもないのに、伸ばした手が届く訳でもないというのに。
私はただただ泣いて、そしてただただ謝り続ける。
あの日の約束を護れない事を、そしてなのはちゃんをこんな風にしてしまった事を私は唯謝罪し続ける。
許してくれる筈がない事は分っている、だけど私にはこうする他何も出来ないのだ。
何せ私は求めれば求めた人間を傷付けてしまう穢れた人間だから、人を想いながらも待ち続けるしかない哀れな人間だから。
だから私は今宵も泣き、そして謝り続ける。
弱々しく輝く月に向かって、私は一晩ずっと非力な自分を悔やんで謝り続けるのだった。
何時かこの手で真に欲する物を得たい、そんな願い事と共に。





翌朝、まったく眠っていない所為かぼーっとする感覚を隠し切れないまま私は学校へと向かうバスに乗り込んだ。
此処毎日大体こんな感じだから慣れていると言えば慣れているのだが、元々低血圧である事も相まって余計辛く感じてしまう事は否めない。
焼けるような日差しを全身に浴びてふらふらする身体を引きずりながら毎朝登校するのはちょっとした地獄だった。
最近は何時もそうだ、碌に夜眠る事が出来ないから歩くだけでも辛い日々が続いている。
眠ろうとベットに入っても寝苦しく一、二時間で直に起き出してしまうし、眠りについたらついたで昔の事が夢に出てきて魘されてばかりでちっとも身体の疲れが取れない。
そんな中で生活するのは苦行以外の何物でもない、だけど私は無理矢理笑顔を作って周りを心配させたり不審に思われない様に取り繕いながら毎日を生きている。
なのはちゃんの受けた痛みはこんな物では無い、そう思うからこそ……私は毎日を絶えて居られるのだ。

「うぅ……キツイなぁ。なんかくらくらする……」

眉間に手を当てながらバスの中央の通路を歩きながら私は不意にそんな弱音を漏らす。
元々私は朝が弱い、加えて最近は食事も殆ど喉を通らない日が進んでいるから頭の回転も日に日に鈍くなっていっている事も否めないと来ているのだからそれがどれほど辛い事なのかは言葉に出すまでも無かった。
更に言えばそんな状況の中で授業を受けて、尚且つ周りの人たちに気を使いながら身体を酷使するというのだから一日に私が負う疲労の度合いもそれなりな物だった。
それが此処丸一年近くずっと続いているのだ、きっと蓄積されている疲れもそろそろ限界に達するのではないかと私は思う。
家族の人達やアリサちゃんに心配させない為にと表面上だけは何とか取り繕えるように心掛けてはいるけれど、最近はボロが出る事も少なくない。
気をつけていてもドジを踏んでアリサちゃんを心配させる事なんてザラな事だし、物忘れも日を追うごとに酷くなってきている。
何とかその場は笑って誤魔化してはいるけれど、それに本気で私が“気が付けていない”事を考えるとちょっと洒落にならない事態だった。
見た目は綺麗な様に取り繕っていても中身はボロボロ、まるで内面から腐食を始める機械の様だと私は思った。

「……当然の報いなんだろうけどね」

でもそんな風になってしまったのもその状況を作り出したのも全て私の責任、自業自得だと思いながら私はバスの一番奥に在る少しだけ広いスペースの席に腰を降ろした。
此処は私ともう一人……なのはちゃんしか座らない空間の大きな席だ。
昔はアリサちゃんと三人で並んで座っていたのだけど、今はアリサちゃんもなのはちゃんに負い目を感じているのか、はたまた周りの皆に恐怖しているのか……家の車で毎日登校するようになってしまった。
だからなのはちゃんが来るまで私は一人だ、だけど寂しいとは思わない。
寧ろ私は安心していると言って良いのかもしれない、きっと此処にアリサちゃんが居たら私はアリサちゃんに余計な気苦労を掛けてしまう事になる。
唯でさえ私が望んだ物は傷つけられるのだ、此処で私がアリサちゃんに縋ってしまったらきっとアリサちゃんもなのはちゃんと同じような風になってしまう……確証は無いけれど私はそう思わずにはいられなかった。
何せ私の周りを取り囲んでいる環境は大凡最悪な人たちの集まりだったからだ。
確かに私の通っている聖祥大学付属小学校は頭が良くそれなりにお金持ちな人の子が沢山集まる少し特殊な場所だ、傍目からは虐めとか学級崩壊とかそんな言葉とは無縁そうな様に見えるフィルターが掛かっている処と言ってもいいのかもしれない。
虐めとか学級崩壊は頭の悪い学校にだけ起こり得るものだ、だからエリートばかりが集まる学校にならそういう問題は起こらないだろう……そういう大人から見ての安心感が故の印象付けなのだろう。
だけど実際にはそんな事は無い、エリート感情故の劣等感や上下関係の煩わしさ、そしてそれに対する嫉妬や妬みが湾曲して人の心を歪めてしまい虐めに発展させているのだ。
更に言えば私の年頃の子たちは皆グループを作る、友達同士だとか、塾が一緒だとか、スポーツクラブに一緒に通っているとか理由は様々だけど得てしてそういう人たちは同じ人間同士で纏まりやすくそれ以外の人達との交流を絶ってしまいがちだ。
そしてそういう人たちの結び付きは強固だ、時として一人の人間の人生を狂わせてしまう程に強く強固で考えようによっては不気味とも取れる程の団結だ。
そんな人たちだから余計に自分たちと違う人間を嫌う、そしてその嫌いという感情を実力行使に移す際は誰しもそれに協力を惜しまなくなる。
自分が其処から洩れるのが嫌だから、だから周りの意見に合わせてその人間を悪だと認識するようになる。
そしてその対象と見なされた人間は大した理由も無いのに蔑まれ、その集団から排除される方向に事が進んでしまう。
昔の私や今のなのはちゃんがそれの筆頭と言えた、周りの人間に合わせられないから酷い目に遭う……それはある意味人の心理なのかもしれないと私は思った。

「早く……来ないかなぁ、なのはちゃん」

私は静かに席に座ったままポツリとそんな一言を漏らした。
だけど待ち人は来ない、もしかしたら今日も来ないのかもしれない……そんな不安が頭の中に過る。
何があっても学校に来る事だけは止めなかったなのはちゃん、だけど彼女も限界に近いと言えばそうだったのかもしれない。
なのはちゃんが受けている仕打ちはもう彼是二年生の頃からずっと続いている、精神も相当参っているに違いない筈だ。
おまけになのはちゃんには逃げ場が無い、なのはちゃんは時々授業をサボるけど彼女が何処で何をしているのか私には分からない……けれど一人ぼっちだろう事は容易に想像が付いた。
どうすればいいのだろう、不意に私の頭にそんな考えが過る。
もしもこれがお姉ちゃんなら、ノエルやファリンだったら……そしてアリサちゃんだったらどう考えるのだろうと私は考える。
もしかしたらなのはちゃんを助ける為に身を投げ打って助けに入るのかもしれないし、もしかたらそれが時の流れであり人の心理なのだと諦めてしまうかもしれない……私は彼女達ではないから彼女達がどんな答えを示すのか分かりはしない。
加えて私にはお姉ちゃんの様な聡明さも無ければファリンやノエルの様な包容力も無く、アリサちゃんのような賢い考えや人を分かろうとする行動力も無い。
だから私は皆に憧れている、昔はなのはちゃんだけだったけど今は私に持っていない物を持っている人間に憧れているし……出来うる事なら私は「アリサちゃんの様な人になりたい」、そう思わずにはいられなかった。
アリサちゃんは私と違って人付き合いが上手い、他人との距離感や感情の誘導などを巧みに操りながら水面下で行動が出来て、尚且つ相手を乗せるのが上手だ。
周りの人に一切気を許さない代わりに拒絶するのではなく分かろうとする姿勢を常に保ち続けている、それなのにも関わらず人を本気で思いやってあげる事の出来るアリサちゃんは本当に凄い人だ。
行動力も周りの人を理解しようという感情も薄い私にはまさに雲の上の存在、だけどアリサちゃんはずっと私の傍にいてくれる……そんなアリサちゃんにもしかしたら私は無意識の内に甘えているのかもしれない。
彼女が傍にいてくれるから、それを言い訳にして自分を納得させているかもしれないのだ。
幾ら憧れていても行動しなければ何も変わりはしないのに、そんな自虐的な思考に耽りながら私は疲れた様なため息を一度吐き出した。

「ふぅ……本当に駄目だね、私。そうやって何時も何時も―――――」

慣れない物ばかりに感けているから現実と素直に向き合えない、私はそう言うつもりだった。
だけど私は其処で言葉を途切れさせた、視界に待ち人の姿を捉えたからだ。
バスの乗車口に見えたハニーブラウンの髪、そして続けて姿を現す気だるい感じの表情と猫背の態勢で固定されたような身体。
腕には何時ものコンビニの袋、そして決まって手はポケットの中へと入れている。
まるでドラマに出てくるチンピラさんのような子、その子こそ私がずっと待っていた高町なのはちゃんその人だった。
しかし、この日は少しだけ何時もと様子が違っていた。
頬には痛々しい大きな絆創膏が貼り付けられており、何時もの覚束ない足取りは何処か片足を引きずっている様にも見える。
加えて何時も気だるそうな表情も、何処か痛い物を堪えているかのように歪んでいた。
その瞬間私は昨日見かけたなのはちゃんの姿が幻では無い事を悟った、なのはちゃんは間違いなくあの場所で私達を見つめていたんだ、と。
それを改めて悟った時私は呆然となってしまった、なんと彼女に話しかけて良いのか……分からなくなってしまったからだ。
私は初め昨日はどうしたの、とか休むなんてめずらしいね、とかそんな当たり障りのない話題を元になのはちゃんに話しかけようと思っていた。
だけど私は昨日なのはちゃんの事を見掛けてしまっている、加えてもしかしたらなのはちゃんは私がなのはちゃんを見掛けた事を気が付いているのかもしれないのだ。
話しかけるきっかけが失われてしまった、その現実に私はしばしの間呆けていることしか出来なかった。
そしてなのはちゃんはそんな私を他所に何時ものように嫌そうな顔を一瞬浮かべると、私の隣の席に間隔を置いて腰を降ろした。

「お、おはよう。なのはちゃん」

「……………」

一応通例通りなのはちゃんに挨拶をしてみる、でもやっぱり反応は返ってこない。
本当に何時もどおりのやり取りだった、なのはちゃんは私が挨拶をしても挨拶を返してきたりはしない。
そもそも私が話しかけて反応してくれる方が珍しい、最近は不承不承といった感じだけどちゃんと言葉を返してくれていたからそんな事も私は忘れていたのだ。
チラッと横目でなのはちゃんを私は確認してみる、ビニール袋を広げて何時もの缶コーヒーを取り出している姿は正に私が知っている今のなのはちゃんその物だった。
ただやはりどうにも頬の傷が気に掛かった、それによくよく見れば制服がずれた肩口からは真っ白な包帯が巻かれているのも目に付く。
誰がどう見たってなのはちゃんの状態は大怪我をした人のそれだった、なのになのはちゃんは何も変わらないといった様子で缶コーヒーのプルタブを開けて一口啜っている。
まるで自分は周りから誰にも見られていないと言わんばかりに、だけど私は直ぐになのはちゃんの傷に話題を持っていくことが出来なかった。
あの時の……昨日の昼間ドッチボールをしていた時に一瞬見えた私たちを蔑むようななのはちゃんの表情が今のなのはちゃんとダブって上手く言葉を発する事が叶わなかったのだ。
でも触れなくては話しが進まない、私は一生懸命血の廻らない頭で必死に話しかけるべき言葉を考え、そしてなのはちゃんへと考えた言葉を投げかけた。

「今日も……コンビニのお弁当なんだね」

「……別に」

「言うのも何度目になるか分らないけど、止めた方がいいよ。やっぱり身体に良くないし……栄養も偏っちゃうよ?」

「はぁ、私もさぁ……いい加減何度目になるか分らないけど知った風な口聞かないでよ。腹立つから」

なのはちゃんの口から漏れた辛辣な言葉が私の胸に突き刺さる。
昔の優しいなのはちゃんを知っている私としては、どうしても今のなのはちゃんの言動が自壊的な物に思えてならなかった。
傍から見れば粗暴で投げ遣りな言葉にしか聞こえないのかもしれない、だけどなのはちゃんの言葉は暗に私に関わるなという事を前面に押し出しているようにも思えるのだ。
自分という存在に触れられるのが怖いから、いっその事このまま誰からも忘れ去られて塵のように消えてしまえればいいのにと思っているから……なのはちゃんはこんな風な乱暴な言葉遣いで人を遠ざけているのだ。
本当はなのはちゃんだって誰かに助けて欲しいと思っているはずなのに、そう思うと私は自分の胸が疼くのを感じた。
あんなになのはちゃんに助けられたのに、私はその恩人に何一つとして恩を返せないままだ……“嘘吐き”頭に浮かんだそんな言葉が余計に私の心を沈ませた。
だけど私はそれでも話しかけるのを止めたりはしない、無駄な事かも知れないとは分っているけど……それでも零ではないと信じているから。

「あ、あのさ……なのはちゃん……」

「……何?」

「いや、その……その傷……」

「言いたい事があるならはっきり言えば? 正直そうやって口篭られてもウザいだけなんだけど?」

コンビニの袋から粗挽き胡椒のフランクフルトを取り出して一口齧りながら尚も私に辛辣な言葉を投げ続けるなのはちゃん。
だけど彼女が悪い訳ではない、全部とろくさい私がいけないのだ。
誰かが何かをしようといっても付いていけず、挙句言われてからようやく行動しだす事しか出来ないほど鈍い私……まるで油を挿していない薇細工のようだ。
その所為で昔皆からいわれた呼称が「壊れた機械」、今はクラスの顔ぶれも変わってそんな事を言う人も少なくなったけど正にその通りだと私は思った。
何処までもどん臭くて、どこまでもとろくさい……その所為でみんなの足を引っ張って、挙句不幸にしてしまう。
私の存在が全部悪いのだ、なのはちゃんが悪いわけではない……でも私は思ってしまう。
昔のように優しくて強いなのはちゃんでいてくれたら、と。
彼女をこんな風にしてしまったというのに、何処までも自分勝手だ……私は自分で自分を叱咤しながら痛みに堪え、なのはちゃんに「ごめんなさい」と謝罪の言葉を投げてから言おうとしていた話題に流れを戻した。

「なのはちゃん、その傷はどうしたの? なんだか凄く酷そうに見えるけど……」

「……またか。いい加減皆大袈裟なんだって言うのに……ったく。別にすずかちゃんに言う必要なんて何処にもないと思うんだけど?」

「……ごめんなさい」

「ッ……野犬に襲われた。弾き飛ばされて嬲られて噛まれそうになった。それで通りすがりのお姉さんに助けて貰って丸一日病院送りにされた。どう、此れで満足した?」

舌打ちをしながらもちゃんと私の質問になのはちゃんは答えてくれた。
素直に驚いて私がなのはちゃんの方を向くと、彼女は面倒臭そうに顔を顰めながら缶コーヒーの缶を傾けていた。
何時もだったら「分りゃいい」とか「話しかけてこないで」とか「いい加減にしてよ」とか言って突き放してくるのがザラなのに、なのはちゃんはちゃんと私の質問に答えてくれたのだ。
やがて私の驚きは嬉しさに変わった、まだ私はなのはちゃんと話していられる……そんな安堵感を憶えたからだ。
なんだかんだ言ってもなのはちゃんは根本的に優しい人だ、もしかしたら何か思うところがあって私にメッセージを送っているのかもしれない。
私は少しの間だけそんな妄想に浸って……直ぐに現実に引き戻された。
あの時の瞳、それが不意に目の前のなのはちゃんとダブったからだ。
病院にいたのならあんな場所にいる筈がない、でもなのはちゃんは確かにあの場に居た。
この流れならそれを確かめられるかもしれない、私はなけなしの勇気を振り絞って覚悟を決めるとなのはちゃんにゆっくりと言葉を投げかけた。

「もう少しだけ、聞いてもいいかな?」

「……好きにしたら」

「なのはちゃん……もしかしたら私の勘違いかもしれないんだけど、昨日―――――」

「あぁ、やっぱり見られてたか。気をつけてたつもりなんだけどな~」

ドクンッ、となのはちゃんの言葉を聴いた瞬間心臓が跳ね上がった。
きっとなのはちゃんは答えてくれないと思っていた、基本的に人から干渉されるのを極度に嫌う子だったからどうせ素直に話してはくれないだろうと私はそう考えていた。
だけどなのはちゃんは私の予想に反してあっさりと私の言いたかった事を言い当てた。
そしてそればかりか自分があの場にいたことを自ら認めたのだ。
それは何時ものなのはちゃんを見ている限り異常な事態だった、まるで何か吹っ切れてしまったような……何時もと違う危うい雰囲気が目の前のなのはちゃんからは感じられた。
自壊的な衝動が強まったような、まるでもう自分はこの世に必要ない人間なんだと思い込んでしまったような……そんな後ろ向きな雰囲気。
そんな危うさを危機と感じたからだろうか、私は驚いてなのはちゃんの方を向いてより深くそのことについて追求してしまったのだった。

「じゃ、じゃあやっぱりあの時は……」

「午後2時頃だっけ、あそこにいたのは? 別に行く気は無かったんだけど……まさか見つかるとは思ってなかったからなぁ。正直誤算だったよ、まさかすずかちゃんに見られるなんてね」

「……あそこで、何をしていたの?」

「別に、何も。ただ通り掛ったからちょっと様子を見てただけ。ただまあ参ったなぁ……まさか本当に見られてたなんて……かったるい」

こきこきと首を鳴らしながら本当に面倒くさそうになのはちゃんは顔を顰めながら私にそう言ってきた。
否定もしないしはぐらかさない、なのはちゃんは確かにあの時あの場に居たと言っているのだ。
つまりアレは見間違いじゃない、そう思うと私は身の毛も弥立つような感覚に晒されてしまった。
あの目は……あの見下したような瞳は嘘なんかじゃない、彼女が本心からあんな目をしていたのだと私は確信してしまったからだ。
本当に通り掛っただけなのか、はたまた私たちクラスメイトを意図して見下しに来ていたのか……その真偽のほどは定かではない。
唯一つ言える事は、どちらにしてもなのはちゃんが完全に私たちに見切りをつけ始めているという事だった。
アレは全てをかなぐり捨てる時の目だった、私も一時期あんな目をしていたと目の前のなのはちゃんに指摘された事があるからよく分る。
今のなのはちゃんは……対人恐怖症に陥って部屋の中で塞ぎこんでいた昔の私自身にそっくりだったのだ。
そんな風に私が漠然と考えているとなのはちゃんは有無を言わせず私に対して話しかけてくる。
彼女から話し掛けてくるのは珍しい事だった、だけど内容が内容なだけに私はそれを喜びの感情と受け止めることは出来なかった。
何故ならなのはちゃんの言葉は……私の胸を抉る事しかしてこなかったから。

「で? 幾ら欲しいの?」

「えっ……」

「えっ、じゃないよ。口止め料だよ、口止め料。幾ら払えば他の人達に黙っててくれるの? 私もあんまりお金ないけど二、三万までなら何とか都合できるんだけど……って、ちょっと聞いてるすずかちゃん?」

「いや、だって……」

なのはちゃんの言葉は今まで私がなのはちゃんに言われてきたどの一言よりも深く深く私の心を抉った。
幾ら欲しいのか、それは口に出さずとも分る通り恐らくはお金の事だろう。
なのはちゃんがどんな気持ちで何を思って私にこんな事を言ってきているのか、私はそれが理解できない。
なのはちゃんは口止め料と言っている、つまりそれは周りの人達にこの事を公言するなという事の代価という事なのだろう。
でも私は信じられなかった、まさかなのはちゃんが私の事を周りの人達のように自分を蔑んでくる対象の一人だと思っていることが……信じられなかった。
いや、信じたかったの間違いなのかもしれない……心の何処かでは思っていたのだ、私はもう見捨てられていると。
だけど私はなのはちゃんを信じたかった、まだ彼女が昔のような人であってくれることを……優しくて笑顔の似合うなのはちゃんであると信じたかった。
だけどこの瞬間私は理解した、あぁ……なのはちゃんはもう変わったしまったのだと。
私が約束を破ったばかりに、私はもう今にも泣き出しそうになってしまった。
なのはちゃんはお財布を取り出して中を確認している、なのはちゃんは冗談で言っている訳ではないという事の表れだ。
だからこそ、私は余計に……辛かった。

「お金なんて……いらないよ。私、そんなの欲しくない……」

「えっと、つまりなに? すずかちゃんは言触らすつもりなわけ?」

「ちッ、違うよ! 私は言触らしたりなんかしない! ただ……私は……」

「あぁ、私さぁ……口約束って信用出来ないんだわ。何かしら保障が欲しい、何事もそう思っちゃうわけなんだよ。んで一番手打ちが早い方法を考えたんだけど……なんで拒否るわけ? 私、すずかちゃんに要らない借り作りたくないんだけど?」

なのはちゃんは怪訝な顔をしたまま信じられないといった感じで私の方を睨んできた。
其処に一切の嘘や冗談は含まれていない、本気でなのはちゃんはそう思っているらしかった。
口約束は信用できない、だからお金という楔で私を縛ってしまおう……なのはちゃんの考えは凡そこんな感じなのだろう。
お金というものの力は私もよく知っている、人はお金を目の前にすると目の色を変えるというのを私は間近で見てきたからだ。
私はなるべく学校にお財布を持ってこないようにしているのもそれが理由だった、嘗て私は殆ど毎日のようにお金をせびられてお財布の中身をクラスメイトの女の子に取られ続けていたからだ。
その子達はクラスでも意欲的にスポーツに取り組む人間だという事で有名で、私も何でこの子達がそんな風に私を足蹴にしてくるのか理解出来なかった。
だけど私は後々知った、その子達は凡そクラスでもお金をもっているだろう私を最初からターゲットにしてお金を取れるように目をつけていたのだということを。
私はその時その人達を酷く憎んだ、私はお金なんかいらない……欲しい物が手に入れたいだけなのに、そうずっと思い続けていた。
だけど今回私はそのお金を取る側の人間になってしまった、例え受け取る気が無くてもそうなってしまった……それが私はショックでならなかった。

「言わないよ……絶対、言ったりしない……。だからお願い、そんな風に言わないで……なのはちゃん」

「絶対、ねぇ? 世の中にさ、絶対なんて言葉は無いんだよ。すずかちゃん気が弱いし、ちょっと責められたら直ぐ話しちゃうかもしれないじゃん。とてもじゃないけど信用できないよ……でも此れなら信用できる。此れで約束を果たしてくれるならそれで良いし、持ち逃げして皆に話せば問題にすればいいだけだからさ。あの先生でもお金絡めばちっとは働いてくれるでしょう、多分?」

「いいよ、いらないよ……どうしてこんな風に言うの? 別に私は―――――」

「信用できないからだよ。信じたって直ぐ裏切られるからね、だったら保険が欲しいじゃん。……あぁ、駄目だ。これじゃあ埒が明かないや……。んで、お金じゃないならすずかちゃんは私に何がしてほしい訳?」

その言葉に私は押し黙る事しか出来なかった。
望みはある、だけど言えるはず無いじゃない……また私に笑いかけて欲しい、昔のようにアリサちゃんも交えて三人で笑い合いたいなんて。
だから私はそのままずっとなのはちゃんに何を言われても何も言わずに俯いていた、するとやがてなのはちゃんは諦めたのか「また聞くから、喋らないでね」とだけ言って食事を再開し始めた。
そして私たちはそのまま学校に着くまでの間ずっとお互い黙ったままだった。
だけど私は心の中で謝り続けた「ごめんなさい」と、貴女をこんな風にしてしまってごめんなさいと。
あぁ、いっそ私の存在などこの世になければよかったのに……不意に私はそんな風に思った。
私は何時だって欲しい物が手に入らない、目の前にそれがあるのに手を伸ばす事が出来ない。
結局私は昔と何一つ変わっていない、私は学校に着くまでの間ずっと変わり行く時の中で一人取り残された自分を恥じながら心の中でなのはちゃんへと謝罪し続けた。
ごめんなさい、私が貴女を欲してしまわなければこんな事にはならなかったのに……。
後悔の念は何時まで経っても消えることは無かった。



[15606] 第十話「護るべき物は一つなの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/03/15 16:21
正しい事、一体何をもってしてそれを定義するのかというのは人によって千差万別だ。
掲げている思想が正しいという人間も居れば、信奉する神が正しいという人間も居る。
また仕えている主が正しいという者もあれば、己が力こそが正しいと豪語する人間もこれまた存在する。
つまり人の数だけ“正しい事”が存在している訳で、それには明確な形など存在しない。
故に誰も信用しない事を正しいと思う人間がいても何らおかしいことではない、私こと高町なのははそう思っている。
確かに大衆から見れば私の“正しい”というのは不条理で反社会的な物なのかもしれない、それに凡そ信じるよりも疑うという方に重点を向けている考えなど道徳的に考えても褒められた物ではない。
しかし私はそれでも尚自分自身の考えが間違っているとは思わない、何故ならば其処には私の辿った道筋が在り、歴史が在るからだ。
触れれば拒絶され、信じれば裏切られ、得ては壊され、求めては突き放され、愛そうとすれば蔑まれる。
人の黒い部分のみが抽出されて出来たような真っ黒な世界を歩き、全ての人間から屑という烙印を押された私には自分自身の考えを何処までも正しいと思える程の絶望があった。
だから私は簡単には人を信用したりはしない、己の目を澄ませ、本質を見極め、理解し、そして己が納得する答えが出たとき初めて人を信用する……それが私の信念だった。
この世で最も信用できる生き物が人であるように最も信用なら無い生き物もまた人である、それが分っているからこそ私は人を簡単に信用したりはしない。
そして此れは……この日はそんな信念を貫いたある日の一日の事だった。

(あ~かったるい、朝だって言うのにどうもこうしてままならない事が続くものなのかなぁ?)

『なのはお姉ちゃん……さっきの人は……』

(あぁ、すずかちゃん? いいよ、気にしなくて。アレはああいう人で、あの対応が一番相応しい人間だからさ。アリシアには悪い物見せちゃったね、ごめん)

『別に気にしてないけど……なんだか、嫌な感じだったなぁ……。空気が悪いって言うか、感じが悪いって言うか……なんだか嫌な感じ』

退院した後の一日目の朝、私は不機嫌な顔を隠しきれないまま朝の学校の廊下を歩いていた。
不機嫌だという事に関しては何時もの事なのだが、この日は何時にも増して気が立っていた。
事の発端は昨日に遡る、病院を出てから適当に街中をぶらついて家に戻った私を待ち受けていたのは説教でもなければ温かい出迎えでもなく……何時も通りのお座成りな対応だった。
お母さんは事勿れといった様子で自分の日常を生き、お父さんもお姉ちゃんも私から距離を置いて近付こうとはしない。
おまけにあのお兄ちゃんでさえ家に帰ってきても何も言わなかった位だ、それこそ何時もと同じ……私の家らしい対応であったと言える。
実の娘が一人死に掛けて帰ってきたというのに、だ……そんな家族の対応を見たアリシアもしばしの間呆然としていたほどだ。
あまりにも自分の知る家族と私の家が結びつかない、アリシアはその時の出来事をそんな風に評し……泣いていた。
なんでも「これじゃあ、なのはお姉ちゃんが可哀想過ぎる」との事だ、お優しい子だとつくづく思う。
本当に泣きたいのは私なのに、その本人が涙を流さないから代わりに泣いてくれたのだ。
愛想を尽かし、流す涙すら枯れ果てた私の変わりに……本当に悪い事をしたと思う。
そして極めつけは朝のすずかちゃんとのやり取りだ、昨日アリシアにあんな光景を見せた後だというのに昨日の今日でまたこんな風に気を使わせてしまった。
なるべく穏便に済ませるつもりだったのに、そんな憤りが余計に私の心情を掻き乱していた。

(それがこの場所での常だと思ったほうがいいよ、アリシア。特に私みたいな人間の傍らにいる時は覚悟した方がいい。今朝のやり取りもそうだけど……私はこの場所ではこういう立ち位置で、こんな風にしか対応出来ない。詰まる所信用する人がいない訳だからね、周りの人間は全員自分を騙していると思い込む他無い。あのすずかちゃんもまた然り、どれだけ口で取り繕っていても信用は出来ない。だからこそ楔を打とうと思った、それが今朝のやり取りなんだよ)

『信用できないってどうして? あの人は本当になのはお姉ちゃんのことを言うつもりは無かったように見えたけど?』

(あの時は、ね。それが時の流れで思い直されるかなんて分らない、丁度アリシアが言っていた未来の変動と同じようにね。アリシアは知らないだろうけど……すずかちゃんは意志が弱い子なんだよ、それこそ少し刺激すれば流されてしまうくらいに。だから周りが少しすずかちゃんを責め立てでもしたらすずかちゃんは簡単に私の事を話してしまうかもしれない、可能性は微妙だけど否定は出来ない。其処に疑う余地が一つでもあれば漬け込み、暴くまでは心を許しちゃいけないんだよ。尤も……何かの制約を課すっていうなら話は別だけど)

『だけどちょっとやり過ぎだと思うよ。お金とか物とかそういうので人を測るのはいい事だとは言えないもん。話し合いの余地があるなら話し合うのも一つの手だと私は思うけどなぁ……』

恐らくはいけない子を叱る姉のような口調で私にそんな言葉を投げかけてくるアリシア。
しかし私はその言葉に腹を立てるでもなければ頷く訳でもなく、ふっと嘆息を漏らしながら苦笑交じりの一笑を漏らすだけだった。
あぁ、確かに……アリシアの言っている事は正しい、それこそ道徳的面から見ても人道的面から見ても正しいという他無い。
だがそれ故に呆れる、いや……寧ろアリシアの場合は純粋過ぎるといった所だろうか。
怒りたい時に怒り、泣きたい時に泣き、笑いたいときに笑い、嘆きたい時に嘆く……凡そ人の不幸すらも本気で悲しめるアリシアにとって世の正論という物は自己の正論であり、誰々が言っていたからこうなのだろうと考えていても何もおかしいことは無い。
汚い物に触れることもなく、アルハザードという一切の悪意が存在しない自己のテリトリーの中で生きてきたアリシアだからこそあのような場面を見てもこんな風な綺麗事を平気で口に出来るのだろう。
此れがもしアリシア以外の人間だったら私は憤慨していただろう、貴女に何が分るのだと。
しかしアリシアはまだ子供、それも世の中の悪意に一切触れたことの無い純粋無垢な存在なのだ……そんな綺麗な物を態々穢す道理も無い。
純粋たる物は何時までも純粋たれ、月並みな小説の台詞だが正にその通りだと私は思った。
こんな無垢な子を私の側に引きずり込むのは心苦しい、だからあくまでも一つ一つ生きている人間としての教訓として……彼女には分ってほしい。
そんな気持ちを抱えたまま、私は彼女の言葉に否定も肯定もせずゆっくりと口を開いた。

(はぁ……理屈通りに全てが進むとすればアリシアが正しいんだろうね。ううん、正しいんだよ。だけどさぁ……それが出来ないからこそ、こんな風な対応に出るしかないんだよ。話し合いで解決しよう、皆お手を繋いで平和主義、人類皆兄弟……なるほど、確かに聞こえはいいよ。誰しも納得できるし、道徳的だし、それに聞き心地が良いからね。でも、それが出来ないからこそ人は人を縛り付けたくなる、そういうものなんだよ)

『縛り付けるって?』

(簡単なことだよ、アリシア。信用できない人間を信用する際信用する側は“保証”を、信用される側は口止めに対する対価が欲しくなる。口約束なら幾らでも出来るのかもしれないけど、それじゃあいざ裏切られた時に責任を問えないじゃない。だからお金とか物とかそういう物を使って相手を縛って保険にする、つまりは契約だね。自分は此れだけのものを払うから貴女は私を裏切るなという契約、人との付き合い方の最底辺だよ。だけどまぁ、今日のところは失敗しちゃったみたいだけどねぇ……私もまだまだだ)

『う~ん、難しい事はよく分んない。でも何だか正しい気もするし……不思議だね』

まったくね、そう思いながら私は思考を打ち切り、ポケットに手を入れて歩を早める。
向かう先は教室ではなく何時もの保健室、一限目はどうせ体育だからサボるつもりだったし、まず何よりも先に先生に昨日休んだ事も報告しなければならない。
それにアリシアにも先生の存在を知っておいて欲しい、そんな都合もあった。
流石にこうも色々な事が続いている現状の中でアリシアに私の学習環境を見せるのはあまりにも酷過ぎる、だからワンクッションを置く意味合いも込めての行動だった。
しかし、そんな状況下の中では私の心の中には幾分かの不安もあった。
すずかちゃんとのやり取りの中で彼女に釘を刺しておけなかった、全ての不安はそれに尽きた。
私は人の事を簡単に信用したりしない、凡そ善悪の定義自体存在しないアリシアや先生のような人ならばまだしも、それ以外の人間は例え肉親であっても信用は出来なかった。
しかし、そういう人間だからこそ余計に人間観察が必要になってくる……そしてその結果導いた答えからより強固な縛りになる物を与えて口封じをしなければならない訳だ。
すずかちゃんの場合は元友人という事もあって分析が容易だった、彼女は臆病で口篭ることが多いが責任だけは人一倍感じる性質……だからそんな彼女に釘を刺すには一番責任を伴う力である“お金”という物を使ってのやり取りが一番好都合だったのだ。
受け取ってくれさえすれば後は勝手に自己嫌悪に陥ってくれて喋らなくなる、当初の予定ではそうなっていた。
しかし彼女は受け取らなかった、人間誰しも欲という物が存在する筈だから目が眩むだろうと思っていたのだが……正直盲点だったという他無かった。
此れはまた後々別のやり方で彼女に見えない首輪を嵌めておかねばならない、そんな風に思いながら私は職員室前を通り過ぎ、その先にある保健室の方へと足を速めた。

『なのはお姉ちゃん、こっちがなのはお姉ちゃんの教室?』

(違うよ、一限は体育だからサボり。教室に行くのは二限から、今は少し会いたい人がいるからその人の処に向かってるだけ)

『会いたい人?』

(うん、そう会いたい人。多分この学校で唯一私に居場所をくれた人……それに私が命を賭けても護りたい人。ちょっと……昨日から色々とあったからさ、心配させちゃ拙いと思ってね。だからいち早く報告に行こうと思ったんだ。この際だからアリシアにも紹介してあげるね)

普段のネガティブな思考から少しだけポジティブシンキングな感じに感情を入れ替えた私は微笑を浮かべつつもアリシアにそう説明を促した。
アリシアは「どんな人なんだろう」と純粋に興味を持ち、また私が示した新たな出会いに期待を膨らませているようだった。
此れはよい傾向だと私は純粋に思った、昨日から碌な場面を見せられていないという現状に一石を投じるのに先生の存在は好都合であったからだ。
私がアリシアの願いに乗ったのも全ては先生が全てだ、先生の存在がなければ私はアリシアの願いも放り出していただろうし、そもそもそれまで生きていたかどうかすらも怪しいくらいだ。
私の生きる理由、生きる希望、生きる動機……それ等をひっくるめた先にある核が先生であり、そんな先生を取り巻く環境なのだ。
それをアリシアに分らせてあげるというのと、こんな最低な私でも一応親しい人間がいるということを彼女には知って欲しかった。
それならば今よりは少しだけでも印象をよくすることが出来る、此れは私とアリシアの関係造りの上でも単純に良い方向に持っていける要素の一つだった。
それに……今は私自身も少し誰かに甘えていたい、少々気張りすぎて疲れてしまったのだ。
今はほんの少しだけでもいいから安らぎが欲しい、私はそう思いながら辿り着いたドアの前に立って引き戸の取っ手に手を掛けると、そのまま何の遠慮もせずにその中へと入っていった。

「んっ……あら、今日は随分と朝から来たのね」

「おはようございます、先生。一限が体育だったので……サボっちゃいました」

「随分と不純な動機だこと。まあ良いけどね……って、どうしたのその怪我?」

「あぁ、これですか? 実はちょっと事故っちゃいまして、その所為で病院放り込まれてこの様です。まあ大した事はないんですけどね」

保健室に入ると其処にはやっぱり先生の姿があった。
薬品臭い四角い部屋、ごちゃごちゃした書類が満載したアルミ合金製のデスク、そしてそんなデスクの前に座りながら脚を組んでカップに入ったコーヒーを啜るくすんだ金髪の女の人。
その人は本当に驚き気味に私に怪我の事を訪ねてきた、だから私もそんな言葉に苦笑しながら素直にその問いに返答する。
バスの中でのすずかちゃんとのやり取りと殆ど内容は変わらないというというのに、私の態度はその時とは180°逆の物だった。
突き放す訳でもなければ、意地を張るでもなく……唯単純に心配させないようにと振舞って自然に零れた笑顔を向けるだけ。
凡そ人を信用しないと豪語する私にはありえない、他人に縋るという行為の産物だった。
アリシアもあまりにも他の人間と違う私の態度に「優しそうな人だねぇ」なんて気を使っているのだとも取れる言葉を私に掛けてきてくれている。
きっと彼女も彼女なりにこのやり取りに何か感じる物があったのだろう、私はそんな風に思いながら頭の中で先生の事を簡単にアリシアに説明しながら何時もの診察台に腰を降ろす。
あぁ、やっぱり此処は私の居場所なんだ……私がいてもいいんだという事を再認識しながら。

「そう……心配したのよ。昨日も顔を見せなかったし、もしかしたら何かあったんじゃないかって思っちゃったわよ。でもまあ無事……じゃないようだけど、元気そうで何よりだわ」

「にゃはは。先生でも心配してくれる事もあるんですね。正直、意外かも」

「茶化さないでよ。これでも一応教師なのよ、私? それに昨日はカフェ・ラテ飲み損なっちゃったし、ちょっとガッカリもしてるかも」

「先生は不良さんですからね~」

そんな冗談交じりの会話の中私は不意に自分の表情が笑顔になっている事に気が付いた。
それも造ったような笑みではなく、本当に心の底から漏れた安堵が表情になったような……そんな顔だった。
自分には似合わない、自分自身の事なのに私はそう思わずにはいられない。
どうせ私には笑顔とか元気とかそんなポジティブな言葉は似合わないのだろうし、何よりも自分自身そんな単語に縁が無いのをよく知っている。
泣いて、塞ぎ込んで、嘆いて……そんなことの繰り返しが今の私自身の姿なのだ。
其処に明るい単語が入り込める余地なんて無い、私はずっとそう思って過ごしてきた。
だけど此処でこうして先生と一緒にいられるこの瞬間は……この瞬間だけはそんな自分の既知感すらも全て拭いされるような……そんな気がするのだ。
自分の事を包み込んでくれる人、そして自分を受け入れてくれる場所。
こんな屑な私にも微笑みかけてくれて、冗談を言ってくれて、優しくしてくれる……そんな先生が私は大好きだった。
この人だけは私に居場所をくれる、他の人にどれだけ望んでも得られなかったものを私に与えてくれる……だから私はこの人にだけは素直に心を開けるのだろう。
私は心の其処からやっぱり先生が居てくれて本当によかったと、この時改めて思った。

『なのはお姉ちゃん……笑ってる?』

(にゃはは、意外だった?)

『ううん、そんなこと無い。やっぱりなのはお姉ちゃんは……そういう表情が似合ってる。そう思っただけ』

(うん、ありがとう。アリシア)

頭の中でそんな小さなやり取りを繰り広げながらも私はニコニコした笑顔を崩さず、先生との会話を続ける。
苛々はない、家族と会話をしていたときの表面だけ取り繕われた感じや相手を騙す感覚は一切其処には存在しない。
唯其処には純粋の居場所に居られるという安堵感と、今時分は楽にしていても良いんだという安息を謳歌する感覚があるだけだ。
だから私も何一つ偽らず自分を曝け出す事が出来る。
昔のような無理強いしていた自分のような感じではなく、自然体の私を……弱虫で泣き虫で臆病な自分のままでいられるのだ。
昔は沢山無茶をした、自分の身丈に合わない努力や強がりを重ねすぎて自分がどういう存在なのかって事すら分らなかった。
自分のしたいことも、何を求めていたのかも、これから先どうしたいのかさえ私は見つけられないままだった。
だけど今の私は違う、社会から屑という烙印を押された私でも受け入れてくれる人がいる……それを理解する事が出来たのだから。
そして今、そんな私の居場所が脅かされそうになっている。
昨日のような化け物がまだこの街には後20近く存在しているという事になるのだ、しかもその度合いによっては犠牲は個人の単位から都市の単位へと移り変わるかもしれない。
失いたくは無い、だからこそ私は自分の出来る精一杯の事をしようと思う事が出来るのだ。
あくまでも私利私欲、己が欲するがままに行動しようと考えたのだ。
そして今、私にはその力がある……私の腹心算は既にこの時点で決まっていたと言えた。

「まあ冗談は抜きにして、よ。本当に大丈夫? 怪我の具合、私が見る限り結構酷いもののように思えるのだけれど?」

「やっぱり……分っちゃいますか……」

「まあ一応養護教諭だしね、色々と怪我人を見てきたから何となく分るのよ。特に足と肩、ちょっと酷いんじゃないかしら?」

「隠せませんね、やっぱり。まあ骨折してるとかそういう訳ではないんですけど……それでも他の傷よりは一応酷いみたいです。それでも少しずつ回復してきてはいるんですけどね」

そんなに早く治ったら医者は要らないわよ、先生の優しくも呆れた感じの言葉が鼓膜を震わせる。
まあ確かにそうなのかもしれないけど、これがちょっと冗談ではない所がまた始末が悪い。
頭の中では「嘘じゃないのに~!」と拗ねた感じのアリシアの声が響いている、きっと幼心の内に嘘と決め付けられたと思い込まれた事が悔しいのだろう。
何せジュエルシードの力はアリシアの力でもある、管理人格の彼女が望めば殆ど出来ない事はないのだからその力は絶対と言っても良いのだ。
まだ心は子供だとは言ってもアリシアだって何十年とジュエルシードの管理人格を勤めた自負があるのだ、例え相手が此方の事情を知らないのだとしても気に障る物があったのだろう。
だけど普通の人間の感覚からすればこんなゲームに出てくる能力が現実に具現化したような存在なんて信じられる訳ないのだから、ある意味当然と言えば当然なのかも知れないけど。
感覚としては「私怪我をしちゃったけど自分にリジュネ掛けて治してる最中なんですよ~」と言っているような物なのだから、どれほど今の私が異常な物なのかと言うのをつくづく思い知らされる。
確かに便利と言えば便利なのかもしれないが、自分としても考えたら考えただけ頭が痛くなってくるような感じがすると私は改めて思ったのだった。

「まあ、とりあえずお大事に。怪我が治ったらまた何処か美味しいレストランでも連れてってあげる。だからしばらくは安静にね、家の方でも……クラスの方でも」

「にゃはは……保障は出来ませんけどね。第一それ、私の意志とは無関係なんで」

「……それもそうね。でも、だから尚の事よ。気を付けなさい、あなたの場合は多分此れからが正念場でしょうから。私としても出来るだけ圧力は掛けてみるけど……あまり効果は期待しないで」

「慣れてるから平気です。何とかまあ……気張ってみますよ」

でないと貴女に会う事が出来ないから、出掛かったその言葉を寸での所で飲み込みながら私は少しだけ心にも無い笑顔を向けながら内心で自分自身の言葉を振り返った。
慣れている、それは虐げられるという事に慣れているという事だ。
嬲られ、罵られ、蹴落とされ……そんな風に奈落の其処へと堕ち続けた成れの果てが今の自分自身。
今の高町なのはという人間はその過程で身に纏った汚泥が具現化した、言わば汚れた物の象徴なのだ。
凡そ人の負の感情を此れでもかというほどに押し付けられ、限りなく黒に近い灰色の部分にまで成り下がった……故に私はこんな風な人間になってしまった。
反抗する事も出来たかもしれない、殴ったら殴り返して罵倒を言われたら相手を罵り返し、嫌がらせを受けたらそれ以上の嫌がらせをすればいい。
単純明快な図式、やったらやり返すという心情をそのまま実行に移すだけの簡単な物だ。
だけどそれはあくまでも一対一という状態が整っているからこそ言える事だ、今の私のように一体多数という状態では幾ら抗った所で人海戦術で呑まれてしまうのが理だ。
幾ら波に逆らって進み続けても自分の身丈よりも大きな波の前には人一人の力なんて無力な物なのだ。
それに例え抗えたとしても私は暴力に暴力で返すというのがどうしても許容できなかった。
昔は色々とやんちゃもした、どうでもいい事で直ぐに手を上げて……挙句殴り合いの大喧嘩になった事もある。
だけど今になって私はようやく理解したのだ、それでは根本的に何の解決にもならないと。
やってからやり返して、やり返されたから味方を集めて集団で更にやり返して……そうやって交わらない螺旋のような関係では一方が完全に叩きのめされるまで終りは来ないのだと私は身をもって知ったのだ。
反抗すればするほど自分に掛かってくる波は大きくなる、ならば少しでも……それを軽減させる為に黙っておこう。
臆病な考えかもしれない、意気地なしと罵られても仕方が無いのかもしれない。
だけどそうする事が一番自分への被害を少なくしているのだ、重要なのは其処に行き着くまでの過程ではなくあくまでも結果なのだ。
ならば私は最善の選択を取るしかない、それくらいしか今の私には出来る事はないのだから。
私は少しだけ、そんな情けない自分を今更になって恥じた。

「……悪いわね。本当だったら直ぐにでも問題にしなきゃいけないのに……辛い思いをさせるわ、貴女には」

「いえ、いいんです。凡その事情は私も知ってますし……その要因を作っているのは他ならぬ私自身ですし。先生も言っていたじゃないですか。“大いなる時の流れは不可逆にして、森羅万象には因果がある”って。難しい言葉でしたけど……今なら何となく分る気がします」

「因果律、か。原因があるから結果がある……認めたくないものだけど、そうなのかもしれないわね。でも、元はと言えば貴女をそんな風にしてしまったのは……」

「それでも、いいんです。印象を悪くするような事ばかりしてるのは事実ですし……私は元々人から好かれるような人間じゃないですから。分っているんですよ、ある程度は。自分自身の事も、それに私を取り巻く環境の事も」

フッ、っと自嘲気味な短い溜息を漏らしながら私は先生の言葉を遮る。
それ以上言わなくてもいい、それを言葉にさせてしまえば先生が傷つくだけだと分っているからこその行動だった。
自分が何故こんな風になってしまったのか、その原因に心当たりが無い訳でもない。
この世界は言うならば波の無い水面のようなもの、そこに変化があるのだとすればやはり一石を投じる原因が存在する訳だ。
確かにこの世の中は理不尽な物だがそれでも理が無いという訳ではない、全ての物事には原因が存在し、それに沿えば私の場合もまた然りだ。
私も分っているのだ、自分が嘗て……少々調子に乗っていたということが。
正義の味方気取りで自分主点で悪いと思った事にはドンドン突っ込んでいって……その結果周りの人間の顔を顰めさせ、私と言う存在を疎ましく思わせた。
そして二年生の時に私が花瓶を割ったという事を期にその鬱憤を爆発させ、今までの報復とばかりに寄って集って責め立ててくる。
詰まる所私も何も知らない完全な被害者という訳ではなく、その原因を作り出したという行いにちゃんと身に覚えがあるというわけだ。
それが正しいか正しくないかなんていうのはどうでもいい、だって自分は正しいと思っていてもその評価を決めるのはあくまでも自分を取り巻く大衆なのだから。
それに先生が悪くないという事も私は分っている、先生は私と同様同僚の先生や生徒からも一線を引かれている人だ。
外人さんだからという事も勿論なのだろうが、先生の本質を知らない人はその雰囲気から距離を置きたがる人も後を絶たないのだ。
私には私の事情があるように先生には先生の事情がある、それを考えれば普段の程度まで周りの人間を抑えていてくれている先生には感謝こそしても非難する要因は何処にもなかった。
アリシアは「な、なんだか難しい……」と言っているが事はそれほど難しい物ではないと私はアリシアに言い聞かせる。
結局の所私は何一つとして擁護させるような物を持ち合わせていない、結局はそれに尽きるだけなのだから。

「……本当に、ごめんなさいね。力になってあげられなくて。本当だったら、そうなる前に何とかするのが私の仕事だって言うのに……」

「気にしないでください。寧ろよくやってくれている方ですよ、先生は。こんな私を抱え込んでくれるばかりか、まだ何とかしようとすら思ってくれているんですから。これ以上……迷惑は掛けられませんよ」

「だけど、それじゃあ―――――」

「いいんです、私は。そういう原因を作ってしまったのも、それを改善しようとしないのも……結局は私自身ですから」

そう言って私は苦笑し、何か責任を感じてしまっていると言いたげな先生に笑いかける。
一を知って十を悟れ、言葉に出さずともある程度の事が分かり合えるのが信頼という物で……私は先生の事を信用しているからこそそれだけの動作で済ませた。
これ以上はもう聞かないでくれ、そういうニュアンスを言葉に含めながら。
此処で幾ら私たちが討論していた所で解決する物は何も無いし、寧ろ意見と意見の対立がより関係を悪化させる恐れすらある。
それに私は先生に責任を感じて欲しくないのだ、少なくとも……私の事を分ろうともしない連中と同じ心境に先生が居て欲しくなかった。
あくまでも対等に、それでいてお互いがお互いの距離をちゃんと取り合えるこの関係を私は崩したくは無かった。
それに周りからしてみれば悪いのは何時だって高町なのはという人間なのだ、それについては私も否定はしないし、出来る要素も無い。
幾ら自分自身が正しいと思っていようと他人の価値観で間違っていると下されればそれは間違っている、世の中の心理として此れは覆しようのない事なのだから。
そして私はそれに抗おうとも間然しようともしない、詰まる所成長性が見られないわけだ。
どちらが悪い訳でもない……結局はどちらもその原因の揚げ足を取り続けているだけ、私にはそうされるだけの価値など無いのだ。
だから私はそんな私でも味方で居てくれる先生に、これ以上迷惑は掛けたくなかったのだ。

「コーヒー、淹れて貰ってもいいですか?」

「砂糖とミルクは?」

「何時ものように、適量で」

「……まったく、ままならないわね。お互いに」

先生はそんな私の心境を悟ってなのか直ぐに踵を返してコーヒーを淹れ始めてくれた。
そんな様子を見ながら私は改めて思った、やはり私が心を落ち着けて本音を言えるのは恐らく先生だけなのだと。
勿論アリシアも本音が言えるといえば言える、しかし彼女の場合はまだ会って日も浅いし、大体の事は“難しいこと”で済ませてしまう事が多い。
見たもの聞いたものをそのまま真実と受け止めてしまう彼女では、まだまだ心から何かを打ち明けられるという事は出来なかった。
しかし、反対に私と先生の付き合いは結構長いし、お互いがお互いの言っている事をちゃんと考えて言葉を掛け合える。
聞くなというニュアンスを含めれば聞かないでくれるし、受け止めて欲しいというニュアンスを含めれば優しく包み込んでくれる。
そういう関係だからこそ、私は先生を信頼し……また護りたいと思えるのだ。
この人の為なら私は頑張れる、そう思いながら私はコーヒーが淹れ上がるのを静かに待ち続けるのだった。





少しだけ何時もよりも甘めのコーヒーを飲み終えた私は二時限目が始まっているのにも関らず、屋上へと足を踏み入れていた。
というのもどうやら今日の体育の授業は球技大会の予行演習も兼ねていた様で、二時間ぶっ続けで行われる予定らしかったからだ。
昨日学校を休んでいる私には当然その手の予定は耳に入っていないし、例え知っていたとしてもやる訳がないのだからこれまた何処かで時間を潰さなければならなくなる。
幸い話し相手には事欠かない訳だし、場所に関しても一人になれる場所はないではない。
なので何時ものように私は屋上のベンチに一人腰を掛けて、くだらない授業が終わるのを一人で待っているのだった。

「はぁ……退屈。どうにも間が悪いね、私って」

『仕方が無いよ。だってなのはお姉ちゃん、予定知らなかったんでしょ?』

「そうだけどさぁ。此れはもう単純に運の問題だよ。その日一日が良い日になるか、悪い日になるかっていう程度の運。私はどうにも貧乏籤みたいだね、今日も」

『それでも何時かは良い日が来るよ。元気出して、なのはお姉ちゃん』

慰めてくれるアリシアの声が頭の中で響いている、きっと心底心配した上での言葉なのだろう。
だけど私はそんな言葉に耳を傾けながらもやはりぼーっと空を見上げながら自分自身を振り返っては溜息を吐くばかりだった。
良い日が来る、そう思って何かに望む時は結局悪い方向に事が進む。
前向きに前向きにと考えていても、何処かでマイナスの考えが頭に浮かんでしまい、それが結局廻り廻って何時もの自分を作り出しているのだ。
笑うとか、楽しむとか、安らぐとか……そんな言葉を頭に浮かべても如何にもその反対語ばかりが現実に起きてしまうのだ。
高町なのはという人間は基本的に運勢の神様とは疎遠状態だ、最近は絶縁になった可能性もある。
幾ら何をやっても上手くいかない、何処かでボロが出るし、上手くいったと思ってもそれが後々問題になってくる事だってザラな事だ。
物事をよく吟味して行動する、そういう配慮が足りない所為なのかもしれない……運が付いて回らないのは先天的な物なのかもしれないけれど。
ともかくとして如何にも私は貧乏籤を引きやすい体質らしい、そうでなかったら未だにこんな場所でこうしてだらけて居たりはしない。
先生に迷惑を掛けない為にもそろそろ何か自分で行動を起さなければ、そう思っても動いてくれない身体を恨めしいと思いながら私はまた溜息を宙に吐き捨てた。

「まぁ、何にしても……此処でこうして燻ってる訳にはいかないんだけどね」

『……それってやっぱりこの前のお姉さんのこと?』

「そうだよ。改めて自分の護りたい人を目の前にしてようやく決心は付いた。だけどこの先どうやって行動していいものか私は決めかねてるんだよ。正直あんな化け物と最悪20戦もしなくちゃいけないとか嫌だし、ジュエルシードに関係してる人達とのいざこざに巻き込まれるのも御免なんだよ。だからどうやったら上手い位置に自分を配置出来るかって考えてるんだけど……アリシアはどう思う?」

『う~ん……私としてはやっぱりあのお姉さんと一度きっちりとお話しを付けた方がいいと思うな。あのお姉さんも最終的にだけど嘘は付かなかったし、信頼は出来なくても信用は出来ると思うから。それにいざとなればなのはお姉ちゃんの力を使えば良い訳だし……っと、そういえば後々なのはお姉ちゃんにも力の使い方を教えないとね』

そうだね、と投げ遣りな態度でそれに答えながら私はより一層気だるい気分を深くさせた。
確かに今朝先生と改めて対面してみて護りたいという気持ちは嘘偽りの無い本物だという事を私は理解した。
あの人を失うという事は私が居場所を失うという事、それだけは絶対に避けなければならないというのも嘘ではない。
だけど冷静に事を思い直してみると、気持ちだけでは如何にもならない問題が目の前にある事に私は改めて気付かされたのだ。
何せ私はちょっと不思議な力が使えるというアビリティが追加されただけの万年運動不足の小学三年生に過ぎない訳だ。
RPGのゲームで言えばレベルがデフォルトのまま固定された状態で特技も必殺技も覚えていないまま、デバックの管理者のような女の子を装備品として装備しているという状態だ。
当然あんなリアルなモンスターと闘った経験がある訳でもないし、力があるとは言ってもその力は自分自身にも分っていない未知数な物だ。
何処までが使用の上限で、どんな風な応用が出来るのかすらも分っていない……しかも“完全なる干渉の遮断”という大雑把な力がどの程度有効なのかすらも不明なのだ。
アリシアに説明をして貰うまでは簡単にポンポン使う事も出来ない、とすると私の戦力は完全に無きに等しいという事になる。
でもだからってキツイ訓練とか修行とかそういう事はしたい訳じゃない、ぶっちゃけた話ああいう熱血主人公染みたものは性に合わないのだ。
となれば当然協力者の存在は不可欠になってくる訳だが……今はそこで躓いていると言って良かった。

「ねぇ、アリシア。確かトーレさんってアリシアの世界の人なんだよね? 魔法っていったっけ? やっぱりそういうファンタジーな物を使う人なの?」

『ファンタジーってなのはお姉ちゃん……。まあイメージとしては間違ってないよ。あのお姉さんのソレはちょっと私の知る魔法とは違ってたけれど凡そ一緒だって考えてくれればいいかな。何かナイフみたいな物を使ってたけれど原理は一緒だと思うよ』

「それってさ、私にも使えるかな? 本音を言うとああいう化け物を相手にするんだったらバズーカ砲とかロケットランチャーとか必要な気がするんだけど……ソレがあれば私にだってああいうのを倒せるんじゃないかな?」

『どうだろう……確かになのはお姉ちゃんの魔力は人よりも断然高いから使えない事はないと思うけど……そんな一朝一夕で身に付く物でもないし、なのはお姉ちゃんみたいな素人さんが魔法を使うには専用の機具が必要になって来るんだよ。念話とか自然回復の促進とかなら何とか私の方でサポートできるけど攻撃魔法となると……。やっぱりジュエルシードの力を応用するか、なのはお姉ちゃんの世界の武器を使っちゃった方が手っ取り早いと思うよ』

可能ではあるけど限りなく応用性は低い、アリシアの言っている事を簡単にするならば恐らくはそういう事になるのだろうと私は思った。
アリシア曰く私にはその魔法を使う土台は整っているらしいのだが、それを直ぐに使うのはあまり現実的じゃないという事だった。
何でも魔法というのは私が思っているようなMPを消費してポンポン撃てるような物ではなく、自己の精神エネルギーを用いて複雑な計算式を組み替えてそれを様々なことに発展させていく面倒くさい物らしい。
覚え様と思えば覚えられない事はないし、使おうと思えば使えない事はないらしいのだが……やはり現在のような早急に事を成さねばならない状況ではそんな悠長な時間は無いとの御達しだった。
唯例外としてそういう魔法を登録したり、補助したりしてくれる機具があれさえすれば私にも直ぐに魔法が使えるらしいのだが……そんなアイテムが簡単にエンカウントするほどこの世界は甘くは出来ていない。
だからもしもあの化け物と真正面から挑むのならソレこそ私の“完全なる干渉の遮断”の力か、それなりに有り触れている武器を使用しなければならないという事らしい。
しかしパッと思いつく武器といっても精々この日本では包丁や金属バット、良くてコンバットナイフがいい所だ。
バズーカとかロケットランチャーとかは勿論の事、ライフルや拳銃さえも持つ事が出来ないこの国ではその程度が関の山……だけどその程度の物ではあんな化け物に有効なダメージが与えられるとも思えない。
せめてゲームに出てくるようなゾンビの頭を一撃で吹っ飛ばせる威力の拳銃とか、映画『ランボー』で主人公が使っていたようなナイフ位は欲しい処……しかしそんな現実離れした望みは考えるだけ単なる徒労でしかない。
となるとやはりジュエルシードの力を使うか協力者を募るかのどちらかしか選択はなくなってしまうのだが……それではやはり手札が弱すぎると私は思った。

「とは言ってもねぇ……。此処は日本で私はしがない小学三年生の女の子。これがアメリカの兵隊さんとかなら話は変わってくるのかもしれないけれど……。そうだ、アリシア。アリシアは武器とか出せたりとかしないの? なんかこう……ああいうのを纏めてドカーンって出来そうな奴とか?」

『むっ、無理だよそんなの……。アルハザードでだったら出来ない事も無いのかもしれないけど流石になのはお姉ちゃんの世界にそういう物を出す程の力は私にはないよ。まあジュエルシードがもう一つ集まってそう願えば出せない事も無いのかもしれないけど、それでもお姉ちゃんが思っているような力になるかどうかは分らないし……。御免、多分無理だと思う』

「そっか……はぁ。私のような子供でも簡単に扱える武器かぁ、そんなのこの世界じゃそれこそ拳銃位だと思うけど……。そんなの持ってたら持ってるだけで警察の人に捕まっちゃうよねぇ。武器の望みは捨てた方がいいかも」

私はそう言って自分の考えを忘却の彼方へと追いやった。
最悪トーレさんとの交渉が決裂した際に彼女に襲われたり、一人で何とかジュエルシードを集めなければいけなくなった際にそうした物があると便利だなという程度の考えだったのだが……どうやら私の認識が甘かったようだ。
無い物強請りをしても仕方が無いのかもしれないが、正直私一人だけで動く事になった際に身を護れる最低限の保険が欲しかったのだ。
拳銃ならば相手が人であれば撃たなくても抑止力にはなるし、化け物にしたって致命傷とはいかないが注意を引く程度の事は出来る筈……私のような子供に使えるか使えないかは別にしても、現実的でない魔法云々よりは幾分か現実的だと思った。
しかし此処は世界でもトップレベルにそういう凶器を入手できない国で、私はその国に暮らす小学生の女の子でしかない。
それでもまだ極道の家の子だったりとか、その手の人の関係者だったら望みは会ったのかもしれないが……残念ながら私の家は喫茶店で、家族の人間もウザいだけの暑苦しい連中でしかない。
加えて剣道とか柔道とかこの身一つで出来る格闘技か何かの心得があればとの考えも頭を過ぎったのだが、体力的に絶対長続きはしないだろうし、あんな化け物をどうこう出来るとも思えない。
やはり此処はジュエルシードとアリシアに頼るしかない、私は最終的にそう決断を下したのだった。
尤もトーレさんが魔法の国の関係者である以上、ある程度の望みは捨て去らなかった訳なのだが。

『拳銃ってなのはお姉ちゃんの世界の武器の事だよね? どういうものなの?』

「あぁ……そうだね。金属の弾頭を液体火薬で飛ばして相手を傷付ける物かな。私もゲームでしか知らないから何とも言えないけど。アリシアって確か昔の事とか分るんだよね? 暇な時にでも適当に調べれば私の説明なんかよりももっと正確に事が分ると思うよ。まぁ、尤も知ったところで持てもしなければ使えもしないんだけど」

『ふ~ん、分った。もしもこの近くにあるようだったら何とか探してみるよ。拳銃……拳銃ねぇ……』

「あのねぇ、アリシア。そんな物騒な単語頭の中で連呼しないでくれるかな? この国じゃあ多分黒い人達の事務所にでも行かなきゃ絶対に民間には出回ってないし、探すだけ無駄だよ。とはいえ……トーレさんと会うにしてもそれ位の用心はしておきたいのは山々なんだけどね」

本当に何時か探し当てそうで怖いアリシアに釘を刺しながら、私は徐にポケットから携帯電話と二つ折りにしたメモ用紙を取り出した。
メモ用紙を開いてみると其処にはトーレさんの携帯の電話番号とメールアドレスが記されていた、この前病院で貰った物だった。
この番号に電話をすれば恐らくはトーレさんも交渉の意思があると見做して私と会ってくれるだろうし、私としてもある程度全力を尽くして彼女と交渉する腹心算だ。
しかし、協力関係を結ぶとはいっても私の手札はジュエルシードとアリシアのみ……後は精々この不可思議な力が関の山だ。
そんな私があんな化け物との闘いにおいて重宝されるとも思えないし、良い所で足手纏い扱いされるのが関の山だ。
最悪殺される可能性だってある、トーレさんはあの犬の化け物を倒したというくらいなのだから私のような女の子一人殺す事だって造作もないだろう事は想像に難くない。
この番号に電話する時は覚悟を決めなければならない、だけど覚悟は既に決まっている。
後は電話するのみ……なのだが如何にも私は自身の不安を拭えずにいたのだった。

『やっぱり……不安?』

「そりゃあまぁ、ね。この前だってこんな大怪我しちゃった訳だし、今だって下手に私が首を突っ込んでいい問題とも思えないよ。だけどそれじゃあ結局アリシアのお願いは叶わないし、私も護りたい人を取りこぼしてしまうかもしれない。もう、後悔するのは嫌なんだよ……。アリシアだってそうでしょ?」

『……うん、そうだね。私も……もう見ているだけは嫌だ。私もお母さんを止めたい。だから、力を貸してなのはお姉ちゃん』

「ふふっ、そう来なくっちゃね。さぁてと―――――交渉、いっちゃいますか」

私はアリシアの覚悟をもう一度確認し、それに納得すると徐に携帯電話を開く。
メモ用紙を見ながらそれに番号を打ち込み、もう一度その番号に誤りがないかどうかを確認した私はコールボタンを押してそれを耳元へと宛がう。
此れでもう後戻りは出来ない、だけどアリシアの言葉を聴いてようやく吹っ切れた気がしたのだ。
この子の覚悟は本物だ、だから私もそれ相応の覚悟を決めねばならない。
何せ私はアリシアと約束してしまったのだ、お互いがお互いの願いを叶える為に尽力し合うと。
片方が約束を護った、ならばもう片方も約束を守り通すのが道理という物……私にはもう迷いは無かった。
数度のコールの後、電話から女性の声が聞こえた。
ややハスキーな凛とした声、それは間違いなく病院で会話した女性と同じものだった。
トーレさんが出た、それを確認した私はスッ、と一度息を吸い気持ちを入れ直すと真剣な面持ちに顔を変え、ゆっくりと言葉を紡いでいった。

「あぁ、私です。高町です……。お話しの件なんですが、聞こうと思います。時間、都合出来ますか?」

もう後には戻れない、私は自分の言葉を思い返しながら不意にそう思った。
だけどもう後悔は無かった、何故ならそれが私が求めた私利私欲の為の行動なのだから。
此れはアリシアはお母さんを、私は先生を……お互いがお互いの望みを叶える為の交渉だ。
失敗は許されないし、是が非でもトーレさんを味方につけねばならない……そんな使命感が今までの迷いを全て拭い去っていた。
もう何もしないで後悔するのは嫌だから、手遅れになるのは嫌だから。
私はもう、迷いはしない……私は携帯電話でトーレさんと話しながら自分がしなければならない事を思い返し、もう一つの手でギュッとメモ用紙を握り締めた。
もう二度と、この手から望んだ物を零れ落とさないようにと誓いながら。





[15606] 第十一話「目的の為なら狡猾になるべきなの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/03/15 16:25
ずるく生きる、これは社会の中で生きる上で非常に賢い選択だと思う。
何故なら社会というのは人の集団によって形成される大規模なコミュニティであり、其処には大小は様々だが序列という物が存在するからだ。
お金を持っているか持っていないか、社会的地位が上か下か、頭が良いか悪いか、取り巻く環境が上等が下等か、性格が人に受け入れられるか否か……エトセトラエトセトラ。
要因は様々だが人は何時だって如何なる物でも他人と比べられ、其処に優劣を見出そうとする。
それによって生じる格差はやがて人の意識へと結びつき、上の人間は引き摺り下ろし、下の人間はより下へと蹴り落とそうという考えが生まれるのだ。
凡そ人というのは集団の中で平均を導き出す物であり、其処から漏れ出した人間は必然的に蔑まれる。
人々の言う“普通”でないという事はその人間達からすれば忌むべき事であり、それを体現している人間もやはり忌むべき対象に他ならないのだ。
ではどうやってそういった忌むべき人間が生き残れるのか、それはずるく狡猾に生きることだ……少なくとも私こと高町なのははそう考えている。
虎の威を借る狐という訳ではないが、凡そ立場の弱い人間が立場の強い人間を相手にした時生き残る方法は媚びる事以外に道は無い。
権力のある人間にはゴマを擦り、力の強い人間には同調し、金のある人間にはとことん媚びる……そうすればお零れの甘い蜜をその人間が朽ちるまで永劫吸い続けていられるからだ。
私は此れを悪いことだとは思っていない、何せ古今東西弱い人間が強い人間の下に組するなんていうのは当たり前の事であり、それが道理であると言っても過言ではないからだ。
例えるならば国民的アニメ番組『ドラえもん』に登場するスネオが良い例だろう、ジャイアンという強い存在に組して身を護り、余すことなく自分を相手に引き込ませる要素を提示し続けその関係を常に崩さない。
此処まで狡猾でずるく、そして賢いキャラクターも中々いない……作者にそういう意図があったのかどうなのかは知らないけれど少なくとも私はスネオというキャラクターがそういう風に見えて仕方が無かった。
しかし、自分が所謂“のび太”のポジションになってみてようやく分った、本来人があるべき姿なのはジャイアンでものび太でもなくスネオなのだと。
賢く生きる、その為には頭を最大限に使い、そしてどんな手だって平気で使える非常さと狡猾さが不可欠なのだと。
私はそんな普通の人ならどうだって良い様な事から物事を学び、そしてそれを今後の為に活かそうと考える訳だ。
我ながら卑屈な考えだというのは分っているけれど、少なくとも“のび太”から脱する為にはそうするほか無い。
目的の為なら何だってやってみせる、そういう状況に私は立たされているのだから。

(はぁ……憂鬱だ。もう少しよく考えてから来ればよかったよ……)

『大丈夫だよ、なのはお姉ちゃんなら。きっと上手くやれるって!』

(そうかなぁ? 私ってどうもこういう真面目なの苦手で……。ゲームとかそういうのでだったら何ともないんだけど、いざ自分がこういう風なことをすると思うと……。あぁ、何だか胃が痛くなってきた……)

『もしもの時は私が何とかするし、それにこんな場所で下手に相手も仕掛けてこないと思うから心配要らないよ。なのはお姉ちゃんは何時ものなのはお姉ちゃんを演じていればいいんだよ。私も極力サポートするから……ね?』

それでも不安だよぉ、と言いながら机に項垂れる私。
頭の中ではアリシアがそんな私を一生懸命励ましてくれてはいるものの、正直な所寝耳に水だったというのが本音だった。
学校でトーレさんと交渉の場所を取り決めた私は、怪我を理由に昼で学校を早退し、現在唯一人単身でトーレさんが提示したデパートの近くにある喫茶店へと足を踏み入れていた。
幸いにも今日は私の怪我を見てか周りの人間も警戒して手を出しては来なかったし、アリシアにもある程度学校の授業とはこんな物だというのを教えられたのだが……正直先生の言う通り私の存在は何時周りから攻撃されてもおかしくなく、尚且つその度合いによっては更に怪我を酷くしてしまう恐れがあった為に早退する事にしたのだ。
そして勿論嫌な事はなるべく速めに済ませてしまおうという腹心算もあって、学校が終わってからでいいというトーレさんの提案を蹴って、業と交渉時間を早めたのだが……此れが結果的に裏目に出てしまったいるという事を私は否めなかった。
もう少しよく状態を吟味してから行動するべきだった、今となっては後悔しても遅いと言う他無いのだが第三者の視点から見ても私の行動は軽率であるとしか言いようがなかった。
何せ私の交渉としての手札は依然としてジュエルシード一個とアリシアの存在のみ、加えて私はちょっとゲームの知識が豊富なだけの非力な小学三年生に過ぎない訳だ。
これでどうやってトーレさんに協力を申し込めばいいものか、こんな風に悩んでいる時点で失敗する方ならまだしも成功する保障は何処にもない。
此れは完全に負け戦……もとい負ける事が前提の交渉だと言う他無かった。

(元々私こういうの柄じゃないんだよ……。病院の時は何とかノリでやって上手くいったから良いけどさぁ、規模が違うんだよ規模が……)

『でもお姉ちゃんの演技力は本物だと思うよ? とっさのアドリブであんな風に出来る人なんて中々いないって。女優さんみたいだったよ、あの時のなのはお姉ちゃん』

(あぁ、そりゃあどうも……。喜んでいいのか悲しんでいいのか判断に困るよ、それ)

『そ、そう? 褒めたつもりだったんだけど……』

そう言ってシュン、と気分を沈ませたように声色を濁らせるアリシア。
きっと彼女としては本心から私を想って言ってくれたお世辞だったのだろうが、自分を偽るのが上手いと言われて素直に喜ぶのはちょっとどうかと思ってしまう。
何せアリシアの言った事は嘘が上手いという事と同義なのだ、私が詐欺師か舞台俳優なら手放しで喜んでいたのかもしれないが……正直私はそういった歪んだ才能を誇れるような太い肝は持ち合わせていなかった。
第一私の場合人前で何かするとか、何かを演じるとかそういった事は性に合わないのだ。
目立つ事というのがイコールで碌な事にならないという風に結び付く人間としては、出来うる事なら厄介な事を引き起こす前に早々に捨ててしまいたい才能だと私は思った。
しかし、こういう現状において相手をある程度騙して話さねばいけない場面ではもしかしたら役に立つかもしれない……私はアリシアから褒められた自身でも気付かなかった才能をそう評し、そしてまたため息をついた。
基本的に嘘をつく事に私は抵抗という物が無い、それが必要とあらばどんな嘘だって平気で口にするし、汚いと分っていても目的の為ならどんなに卑怯な手を使う事だって厭わないと自分では思っている。
だけど実際の所因果応報という奴で、そういう卑怯な事は何時か自分に返って来る物だ。
それで何かと痛い目に遭っている私としてはなるべく下手な嘘をついて事を荒立てるのは避けたいし、どうせだったら騙し通して相手を引き込む位の事はしなければならないという危機感もある。
これからトーレさんとの交渉においても私はきっと幾つか嘘を吐く、今はそれをどれだけ真実味を持たせて私の動機を肉付けしていくか……此れが第一なのだ。
私は自身の事を小心者で臆病な人間だと自負しているが、それでもやらなければいけない時がある。
失敗は絶対にしてはいけない、その事実が余計に私の胃に負担を掛けてくるのだった。

(あぁ、何かもう今から回れ右して帰りたい気分だよ……。帰っちゃ駄目かなぁ?)

『そんな弱気でどうするの、なのはお姉ちゃん……? 大丈夫、なのはお姉ちゃんはやれば出来る子だから。ファイト、だよ!』

(そんなお母さんからも言われた事ないような言葉をアリシアに掛けられてもねぇ……。はぁ、やっぱりこんなとんでもファンタジーな厄介事に首突っ込まなきゃよかったよ。もう後悔しても遅いけどさぁ)

『もう! なのはお姉ちゃんにも護りたい人がいるから此処まで来たんでしょ! 泣きごと言ってないで―――――っと、来たよ。今お店の中に入ってきた。なのはお姉ちゃん、準備して』

はぅ、と情けない声を出して一気に机に伏せていた身体を起き上がらせる私。
いよいよ来た、その事実が私の背筋をあり得ない位ピシッ、と伸ばさせ嫌な汗が全身に伝っていく感覚を齎していく。
全身の毛穴が開いたような感覚が私の平常心を奪い去り、平常時の数倍早いリズムで跳ね上がる心臓はその鼓動が刻まれる度に冷静さを私から奪い取っていく。
まあ詰まる所私は盛大にテンパっていた、それも自分自身でもどうやって対処していいのか分らない程に。
元々私は緊張という物に極度に弱い人間だ、それこそ面接とか知らない人との一対一の話し合いとかそういう事の前には決まって御腹の調子が悪くなったような気分になってしまう位に。
勿論見知った人間ならば彼是と自身の中での評価に照らし合わせて大口を叩いたり、時には拒絶の言葉を吐き出したりすることも出来るが……こういう商談とか交渉とか自身の今後の事を左右する話し合いなんて言うのは苦手である上に経験なんて一度も無かったのだ。
何せ私はまだ小学三年生の子供、幾ら自分が物事を主張した所で普通なら親がその最終的な決定権を持っている年頃だ。
だから私もそんな例に漏れず、今の自分に行き着くまでは殆どの事をあの両親に委託していた……つまりは丸投げだったという事だ。
今であったならば絶対にそんな事は任せないのだが、正直世間知らずで人を疑うという事を知らなかった嘗ての私は世間一般の普通の子供と同じように難しい事を大人に委ね、自身は与えられた環境の中でのほほんと御気楽な生活を続けていた訳だ。
そんな自分がいよいよ自身の未来を左右するかもしれない交渉の場に自らの意思で立っている、それがどれだけ大変な事かを改めて自分で思い返してみるとまた胃が痛む想いだった。
しかし時間は待ってくれはしない、私がどうするかどうしようかと頭の中でグルグル思考を廻らせている内に彼女が来てしまったのだ。
カツッカツッ、と小気味良い足音を響かせながら私の目の前に現れた長身で凛とした顔立ちの外人の女性……トーレさんはそんな私の内心も他所に何処と無く申し訳なさそうな顔を浮かべながら私の真正面に位置する席に腰を降ろし私に話しかけてきた。
来るべきものが来たか、私は内心まだ全然覚悟が決まっていないという心を何とか隠しながら、あの病院の時と同じように咄嗟に表情を変えてそれに応じる事にしたのだった。

「すまない、遅れてしまったかな?」

「あっ、いえ……。私も今来た所なので、あまり御気になさらないでください。それに態々お忙しい中呼びつけてしまったのは私ですし……」

「いやなに、君が気にする事じゃない。此方こそあんな風な不躾な対応で済ませてしまって悪かったな。もう少し融通を利かせてやれれば良かったんだが……こういうのは如何にも勝手が分らなくてね」

「あ、あはは……。私もこういうのはよく分らないので……」

何とか苦笑紛れに謝罪から切り出してくるトーレさんに無難な対応をした私は、とりあえず彼女の事を観察してから物事を決めようと考えた。
相変わらずのモデル体型、それに日本人離れしたナイフの刃のように研ぎ澄まされた容姿は触ったら切れてしまうのではないかというような鋭利な印象を抱かせるものだった。
そして身に纏う服装は女性物のジーンズに英語のプリントが付いた白のパーカー、そしてその上からは薄手の黒いジャケットを羽織っていた。
その格好は何処からどう見ても普通の……ゲームで知った言い方に直せば所謂”カタギ“にしか見えない格好だった。
何だか極道映画みたいな例えだけど、トーレさんの格好は本当に何処にでもいる成人女性のソレだったし、凡そファンタジーな要素は何処にも見受けられない。
一見しただけでは魔法やらジュエルシードやらとは無縁そうな、精々カッコいいお姉さんというような印象で事が片付いてしまうようなそんな人のように私には見えた。
しかしアリシアは今になっても頭の中で「見た目だけは普通だ……」というような聞き様によっては物騒だとしか思えない言葉を吐き続けている。
真実を知っている人間が居るというのが此れほど心強い事はない、私は内心でつくづくそう思いながら改めて自分の目の前にいる人物を見極める為に気を引き締めた。
病院の時はあまり長らくは会話をしていない、しかしトーレ・スカリエッティという人間が嘘が下手で人情を重く見ている人物だという事は粗方分析が済んでいる。
其処をどう突いて話の展開を私の方へと持っていくか、私は苦笑気味な笑顔を顔に張り付けたまま、そんなことを思い続けながら話の出方を窺った。
今はまで此方から話しかけるべきではない、まずは相手から私にどういう風なアプローチを掛けられるのかというのを知っておきたかったからだ。
するとトーレさんは店員さんを呼んで注文を何かを注文し始めた、恐らくは会話を円滑にする為にオプションが欲しいといった腹心算なのだろう。
私は行き成り本題を切り出されなくてよかったと心の内でビクビクしながらその光景を見守り続けるのだった。

「私は……キャラメル・ラテを一つ。君も何か頼むか? 良かったら私が奢るが?」

「あの、別に私は……」

「代金なら気にやむ事は無い。寧ろ払わせてくれ、その……まあ色々とお互い積もる話もあるだろうからな。飲み物があった方が君も都合が良いだろう?」

「……ブルーマウンテン。ホットの奴を一つ貰えますか」

畏まりました、と言って私とトーレさんの注文を聞いて去っていくウェイトレスのお姉さん。
人に借りは作らない、何時だって私はそれを心情にしている筈なのだが……如何にもこういう大人の女性に押されると断れないというのが私の駄目な所だなと私は改めて思った。
アリシアも「物で釣るのかな?」と疑心全開といった感じで行き成りトーレさんに対して不穏な空気を振りまいているが、所詮は頭の中での事なので私は今回だけはアリシアの言葉は気にしない事に決めた。
恐らくトーレさんが飲み物を注文したのは本当に話し合いを円滑に進める為なのだという事が何となく分っていたからだ。
要は時折ドラマやアニメなんかである刑務所で取調べを受けている人に出されるカツ丼の原理だ。
本来はああいう事をしてはいけないらしいから何が元でああいう風潮が広まったのかは定かではないが、話し合いの中にホッ、と心が安らぐようなワンクッションを挟む事によって話しづらかった物が話し易くなるというのは確かに理に適っている。
幾ら頑なな精神の持ち主でも何処かで揺らぐような物があれば揺らいでしまう物だし、今回のような飲み物といった精神的に相手をリラックスさせるような物は例え無意識の内であっても多くの物を口よりも語ってしまう物だ。
やれ飲み物の水面が揺れていると動揺しているとか、口を付けるテンポが速くなると嘘をついているとかそういう事だ。
私もあくまでもテレビやゲームで得た知識だからあまり深いことは言えないのだが、きっとトーレさんにはそういう意図があったのだろうと私は結論付けた。
此れはやはりあまり下手なことは出来そうにない、私はそんな風に思いながらコーヒーとキャラメル・ラテが運ばれてくるのを静かに待ち、やがて店員さんがそれを運んできたのを見計らってから改めてトーレさんからの言葉を待つ事にしたのだった。

「しかし……まさか君から連絡が来るとは思っても見なかった。きっと気味悪がるだろうと思っていたからな、正直少し意外だ」

「……確かに色々とまだ怖い気持ちもありますけど、今はちょっとだけ知っておきたい気持ちが強くなってしまって……。迷惑、でしたか?」

「いや、いいさ。君には辛い物を見せてしまったというのもあるし、第一忘れろと言ってもそう簡単に忘れられる物ではなかったからな……アレは。それに、私からも幾つか君から聞かねばならない事もある。寧ろ好都合だったよ」

「そう、ですか。そう言ってくれると助かります。私も……何も知らないままというのは嫌ですし。それに出来たらその……この前言っていた”魔法“……でしたっけ? それについてもちょっとだけ興味が湧きましたので」

あくまでも表面上では少し戸惑っているような、しかしそれでいて街灯に群がる蛾のような不可思議な物に対する純粋な興味に引かれつつある女の子を演じながら私はトーレさんにそう切り返す。
本当は粗方の事は知っているし、後は細かい部分さえ知る事が出来ればそれでいいのだが……此処はトーレさんの自主性に任せようというのが私の見解だった。
何せトーレさんからしてみれば私はこの世の物とは思えない生き物に襲われた被害者で、その原因が“魔法”なるものによって齎された“かもしれない”という事実を目の当たりにした力ない女の子でしかないのだ。
実際アリシアの話を信じるならばジュエルシードの力を含まずとも私は普通の人よりも多くの”魔力“なる物を持っている事になるし、ジュエルシードの力にしても一度はあの化け物を退ける程の力を有した物なのだから本性は完全に別の物と言っていいのだが、あくまでもそう見られている内はこの立場を存分に利用しようと私は思った。
なまじ変な知識を持っている人間よりかはトーレさんとしても未知の恐怖に怯えている女の子の方が口が軽くなるだろうし、彼女の場合責任感が人一倍強いというのは此方も分析済みだからこういう怯える少女のキャラクターを演じてしまっていた方が此方としても何かと聞き出し易いのだ。
何分此方としても持ちえる手札は少ない、それをどう切ってトーレさんを引き込むかは私の加減次第なのだ。
ある程度はこのキャラクターを演じて同情を引き、それと同時に情報を引き出すしかない……私の基本方針はこの時点である程度決まったとも言えた。

「……君は、信じるのか? 普通の人間ならあんなものは与太話にしか思えない筈だが?」

「それ、矛盾してます。言葉だけだったら確かに胡散臭い感じがしますけど……私は実物を見てます。手品だって言ってしまえばそれまでなのかもしれないですけど……とてもそうは見えなかったので」

「なるほど、賢明だな。では君は”魔法“というものが存在するとしてどうする? 行き成りそのような埒外な物が君の日常に飛び込んできた、信じるか信じないかは別として……関り合いたくないとは思わなかったのか? 現に君は一度危険な目に遭っている、関れば再び傷つくかもしれないというのは考えなかったのか?」

「どう、でしょうね……。単純な興味だけじゃない、って言ってしまうと嘘になるかもしれません。だけど分らない事が一杯あって……不安で……。とりあえず自分を納得させたい、そう思ったんです」

そう言って私は俯きながら己の言った言葉の内容をもう一度自分で振り返る。
とりあえず掴みとしては上々、言い訳にしても十分相手を信用させられる出来栄えだった。
あくまでも基本スタンスとしては未知なる物ではあったとしても高町なのはと言う人間は”魔法“という存在を信じていて、尚且つその情報の端っこを掴んでいる状態だという事を相手にアピールしつつ、更に追及していくという形を取っていきたいと私は考えている。
その為には微妙に肯定の言葉を含みながら尚且つその中に自分はそれを信じて行動できるだけの要素があるというのを思わせる必要があったのだ。
例えば分らない事が一杯ある、という事は少なからず此方は何かしらの情報を持っているということの裏返しになる。
それがジュエルシードの事であるのかアリシアの事であるのかという細かい部分はその場その場で臨機応変に行くしかないが、此れだけでも相手は引っかかる物を覚える筈だ。
そして私の目論見通りトーレさんは意味ありげな顔つきで「そうか……」と相槌を打ち、何かを思考し始めている。
正直心臓がドクンドクンと忙しなく動いている私としては余計に不安を掻き立てる要素でしかなかったのだが、それでも何かを思わせるだけの説得力は持たせることが出来たと私は確信していた。
今はまだ攻めに転じるには早いが手応えはある、これからの話し次第だと私は考えながら一度コーヒーの入ったカップを手に取り、それを口に付けて傾けながら彼女の反応を待った。

「自分を納得させたい、か。それはつまり……“未知なる物を肯定する”という事にもなる。しかし、君は本当にそれでいいのか? もしかしたら聞いたら後悔するかも知れない。無関係でなくなってしまうかも知れないし、またあのような被害を負うかもしれない。それでも、君は聞きたいと思うか?」

「……まだ、よく分りません。だけど、むず痒いままは嫌なんです。もう少しで手が掛かるのに伸ばせない、そうやって諦めて後悔するのが……嫌なんです。それにあの緑色の石……あれもその”魔法“が関っているのだとしたら、私は知りたい。あれが何なのか、あれがどういう物なのか……でないと、その……怖いんです」

「まあ、あのような物を見せられてしまっては君としても気が気でないのは当たり前か。確かにどの道あれについては話しておかねばならないし……もしかしたら危険かもしれないからな。しかし……それ以外の事についてはどうする? その事を話す過程で私は余計な事を口走ってしまうかもしれない。それは決してお互いに有益な物であるとは限らないし、下手をすれば君を巻き込む事だってあるかもしれない。最後にもう一度だけ確認しよう、君は……本当に心の底からこの件に関して私から何かを聞きたいと思っているのか? 出来る事ならはぐらかさず……しっかり答えてくれると嬉しい」

「……分りました。こんな事、私のような子供が首を突っ込むべきでないのは……私自身も自覚してます。だけど、あの石の件については……私もお話ししたい事があります。もしもそれで何か分るなら、私はそれを知りたい。だから……お願いします、私に今起きている本当のことを教えてください」

グッ、っと制服のスカートを掴んで心底悩みに悩みましたよという雰囲気を演じる私。
微妙に目元を緩ませ、辛そうな表情を醸し出し、それでいて見た目通りの女の子ならこんな風にするんじゃないかという純粋無垢なキャラクターを私は身体全体でアピールする訳だ。
元々何かある毎に泣いてばかりいた私にとって涙を浮かべるのは十八番のような物だし、ちょっと意識して昔の事を思い出せば自然に涙が浮かび上がってくる。
加えて周りの女の子という物を逐一観察しながら学校生活を送っていた私からしてみれば、それ等の動作をトレースして自ら行うという事にも殆ど抵抗を感じる事は無い。
そして後はその辺の事を総合して表に出す演技力だが……此れについては殆ど賭けだった。
アリシアは「は、迫真の演技だね。なのはお姉ちゃん……」などと言ってくれてはいるが、それも所詮は遣っ付け気味の子供が咄嗟に思いついたものだ。
事実私はアリシアに言われるまで自分以外の人間を演じるなんていう事を意識した事もなかったし、そもそも使う前に殴られ蹴られ罵倒されがデフォルトだったから自覚も何もあった物ではなかったのだ。
ぶっつけ本番に使うにはムラが多すぎるかもしれない、しかし今は此れでやり通すしかない。
私は視線を俯き気味に懇願するような雰囲気を醸し出しつつ、今度は頭を下げる動作もそれに付け加える。
より切実さを前面に出し、より必死さを訴えかけるように……まあ心の中では欠片もそんな事は思っていない訳だけど。
それから頭を下げ続けること数秒弱、私はトーレさんの「頭を上げてくれ」というやや困惑した感じの言葉が投げ掛けられるのと同時に顔を上げた。
目元には薄っすらと涙が溜まり、良い具合に同情を引ける顔立ちになっている私が見たものは……ばつが悪そうに頭を掻くトーレさんの姿だった。
どうやら根気負けしたらしい、私はトーレさんに気付かれないように口元を吊り上げてその事実を笑い、直ぐに元に戻してから意外だといわんばかりの顔に自分の表情を作り直して改めてトーレさんに向き直った。

「あ~……すまない、君が其処まで思いつめているとは私も思わなかった。厳しい事を言って済まなかったな」

「い、え……私は……そ、んな……」

「大丈夫、君が其処まで考えているなら……私も話すべきことを話そう。だが、それは君が落ち着いてからだ。その状態で話を聞くのは辛いだろう?」

「はい……っ。ありがとう……ございます……」

如何にも嗚咽で言葉が途切れ途切れだと言わんばかりの口調でトーレさんに返事をする私。
普通に話をしようと思えば二秒と掛からずケロッ、と態度を変えることは可能なのだが此処は演技に信憑性を持たせる為に私はしばらくの間泣真似を続けて如何にも緊張が一気に解けて安心して泣き出してしまったというキャラクターを演じ続けた。
正直泣真似にしても嗚咽にしても「出来るかな~?」程度の気軽な思いで咄嗟にやってしまった物なのだが、まさか此れが其処まで役に立ってくれるとは思わなかった。
アリシアにしても今度ばかりは「な、なのはお姉ちゃん……。流石にちょっと引くよ、それは」と微妙に軽蔑した感じの言葉を私に投げかけてくるほどだ。
此れは今後も仕える時が来るかもしれない、私はしばらくの間泣真似を切りのいい所で終えるまでずっとそんな事を考え続けていた。
そしてコーヒーを如何にも震える手と言わんばかりの手つきで口にしたり、苦笑を浮かべるトーレさんに見守られながら二、三度深呼吸する振りをしたりして数分間粘った私は、今度こそ大丈夫ですよと言う状態が作れる凡そのタイミングを計算して真剣な面持ちに表情を変えてトーレさんに向き直る。
さあいよいよ本番だ、そんな気持ちを心の内に抱きながら。

「落ち着いたか?」

「はい、迷惑を掛けて済みませんでした……」

「気にする事は無い。私の方こそ厳しい言い方をしてしまった。詫びるのなら寧ろ私の方だよ……。さて、だ。色々と話していっても構わないかな? “魔法”の事、緑色の石……“ジュエルシード”と言うんだがそれの事……そして私の事と君の置かれている現状について。少し話が長くなるかもしれないが、勘弁してくれ。それに、止めて欲しければ何時でも言ってくれ。私も無理強いはしたくない」

「一応、覚悟は出来ました。話してくださるなら最後まで聞こうと思っています。それが多分一番大事なことだと思うから……」

再び声のボリュームを下げつつトーレさんに返事をする私。
今度は声を小さくだがはっきりとさせて、気が弱い感じは相変わらずだがそれでもトーレさんから目を背けるような事はしなかった。
ある程度自分の演じているキャラクターの心情のステップアップを図るのが目的で行った行為だったのだが、トーレさんは完全に“高町なのは”というキャラクターを一人の人物だとして信じ込んでいる為なのか「では、始めるか……」と言ってそれに続く様々な言葉を紡ぎ始めた。
此れは完全に相手を騙し通せた、そう確信した私は心の中でガッツポーズを決め込み自分の才能はもしかしたら本物なのかもしれないと言う嬉々とした気持ちに浸りながらも、トーレさんの言葉を余すことなく聞き取っていった。
曰く、魔法と言うのは私が思っているような物ではなく精密機械がコンピューターのソフトを起動させるような奇怪で複雑な数学的計算式から成り立つ生命エネルギーを別の力に変えるものであるということ。
曰く、ジュエルシードとは人の願いを叶えるというとんでもない力を持った“ロストロギア”と呼ばれる今は既に失われた文明の遺物であり、本来ならばしかるべき所に送られる筈であったのだが原因不明の事故により地球に散らばってしまい、周りの物を取り込んであの化け物のような“暴走体”と呼ばれる化け物を作り出して暴れている可能性が窮めて高い状態にあるということ。
曰く、トーレさんはそんなジュエルシードを秘密裏に回収する一種のエージェントのような物であり、なるべく複数個のジュエルシードを回収するように上の人間に命じられて魔法の国”ミッドチルダ“からこの地球……彼女らで言う所の第97管理外世界に足を踏み入れ、現在も地域住民に溶け込みながら隠密活動を続けている最中だということ。
そして曰く……私はその回収対象であるジュエルシードを保有しているが“とある事情”により回収する事が出来ず、もしかしたら今後も私が所持し続けなければいけないかもしれないということ。
そして当然それには相応の危険とリスクが伴い、民間人である私を巻き込むのは心苦しいということ。
その他トーレさんの所属している組織は原則口外する事は出来ない事だとか、他にもこのジュエルシードを付け狙っている人間がいるだとか……もうこれでもかという位トーレさんは自分の身の内を私に語ってきた。
私は彼女が事を言う度に頭の中でアリシアに事実確認を行っていたのだが、その結果も「嘘は付いていないから信用の出来るんじゃない?」との御達しばかりだった。
ただ「幾つか臭う部分が在る事は否めない」、とも彼女は言った……手放しで何でもかんでも真に受けるのは得策ではないという事なのだろう。
その“臭う部分”を上手く突いて話を誘導してみる他ない、私はそんな風に考えながらトーレさんの言葉に口を挟む事に決めた。

「―――――と、これが大体の筋書きだ。どうしても話せない部分は少々ぼやかさせてもらったが、これが事の真実になる。まぁ、信じられんかもしれないがな」

「……願いの具現化……ジュエルシード……。確かに、普通なら信じられない物ですね……でも……」

「んっ? 何処か引っかかる部分でもあるのか?」

「あっ、いえ……そう言う訳じゃないんですけど……。心当たりが無い訳じゃない、って言うか……もしかしたら“アレ”がそうなのかもって思ってしまって……」

私の言葉を聞いて少々気に掛かるという感じに反応を示すトーレさん、そしてその反面心の内でやはり食いついてきたかとほくそ笑む私。
一枚目のカード……私の持つジュエルシードの力についての説明、それを私は今このタイミングで切る事に決めたのだった。
何故この段階でというのかに関しては色々と考えがあった、まず今この場で私が取らなければならない行動がトーレさんの私に対する興味を保護観察という対象以上に引き上げる事だということ、そしてそれを円滑に進める為にはジュエルシードの真の力を引き出せるという事実が丁度良かったということだ。
他にも交渉のカードとしてはアリシアの存在や彼女が言う私の人並み外れた魔力という物もあるのだが、アリシアの事については本当に最後まで伏せておいた方が良いというのもあるし、人並み外れた魔力というのもどれほどのものか私自身が深く理解していないのだから不用意に交渉の場に出すにはあまりにも軽率すぎる。
とすれば残るカードでトーレさんの興味を引けるのはジュエルシードの力だけ、殆ど消去法で導き出した答えではあったが、興味を引けるだけのイレギュラーな要素は孕んでいると私は確信していた。
何故ならトーレさんの言い方はまるでジュエルシードが普通ならまともに機能しない危険物の様な感じだった、それこそ願いを正しく叶えている方が異常だと言わんばかりに。
ならば私の“完全なる干渉の遮断”という力はやはりトーレさん達からしても埒外な物に他ならないのだろう、これだけでも私の力はそれだけの交渉能力を孕んでいると断じてしまえるだけの説得力を持っていた。
特上の餌は用意した、後はどう喰いついてくるのかを待つだけ……私は釣りをしている釣り人の様な気分でトーレさんの反応を待ちながら演技の続きの台詞を頭の片隅で考え始めるのだった。

「“アレ”とは?」

「いえ、もしかしたら違うかもしれないんですけど……ジュエルシードって人の願いを叶えるものなんですよね? だとしたら私……願いを、叶えてしまったかもしれません……」

「……どういう事だ? 出来ればもう少し詳しく教えてくれ」

「実はこの前の生き物に襲われた時、私は―――――」

それから私はトーレさんに対して自分とジュエルシードがどういう関係にあって、どういう経緯で私の願いが叶ってしまったのかという事をポツリポツリと話し始めた。
あの身元不明の少年の殺人現場である公園でジュエルシードを偶然拾った事から、偶々神社にお参りに行った際にあの化け物に襲われたということ、そして化け物に喰い殺される寸前で“私に触れるな”という願いを咄嗟に思いついた結果、一度はあの化け物を退ける事が出来たという事に至るまで私はありとあらゆる事をトーレさんに喋った。
勿論その中には嘘も含まれていた、寧ろ真実の方が少ないと言っても過言ではないだろう。
四割の真実を六割の嘘に紛れ込ませて嘘か真か判断の付かない空想のシナリオを作り出してあたかも自分が経験したかのように言葉にする、少々難のある処を継接ぎで考えはしたもののそれほど苦になる行為では無かった。
そして私の話は“もしかしたら高町なのはという存在は想像以上に凄い人間なのかもしれない”というのをトーレさんの感覚に刷り込ませるまで続いた。
巧みにトーンを変えたり、嘘を真実であるかのように話したり、また偽るべき部分はしっかりと偽ったり……そうして話す内に時間だけが刻々と過ぎて行く。
しかし私はそれでも一切気を抜いたり、逆に緊張し過ぎたりもしない……私にはやるべき事があると自分に言い聞かせてどちらにも傾き過ぎない様に自分自身をセーブするのだ。
後はこれがどう転ぶか、私は自分自身の事を真剣な面持ちで聞きとるトーレさんに身体と言葉の両方で必死に訴えかけながら心の内で柄にも無く運命を天へと任せるのだった。
本当に私らしくもない、そんな風に何時までも思い続けながら……。





それから数十分の時間が経過した。
お互いに質問をしては返答し、返答してはまた質問するを繰り返していた話し合いも要約一段落の折り合いを付けるまでになった。
とりあえず現状で分かった事はジュエルシードは高確率で私の願いを叶えている可能性があること、私のジュエルシードはどういう訳かトーレさんでは回収できない為結局しばらくはこのままだということ、そして今後もお互いの相互理解の為にちょくちょく連絡を取り合った方が良いという事などだ。
何でもジュエルシードの願いに関してはトーレさんも薄々は勘付いていた様で、病院で顔を合わせる前に既に私がジュエルシードの力を使ってしまったのではないかと思っていたらしい。
迂闊と言えばあまりにも迂闊な事だったが、アリシア曰く「結果オーライだよ、なのはお姉ちゃん」と苦笑いしていたので私も渋々それで納得する事にしたのだった。
今後はアリシアのうっかりを矯正する必要があると強く心の中で思ってのは秘密なのだが。
そしてジュエルシードを回収できないという事に関しては話し合いの最中もう一度トーレさんにジュエルシードを差し出して確認してみた処、確かに彼女の言う通り私以外の人間がジュエルシードに触れようとすると手を弾いてしまうという事が分かった。
これに関しては原因は不明、恐らくは私が願った“完全なる干渉の遮断”という想いがジュエルシードにも反映しているのではないかという事で決着が付いたのだが……アリシアに尋ねてみた処十中八九私の願いの所為との事らしかった。
ちなみにトーレさんにも一応私が願った“完全なる干渉の遮断”については話をしてみたのだが、やはりトーレさんにしてもその力がどの程度のものであるのか分からないから判断のしようがないとの事だ。
これについてはアリシアにしっかりと使い方を教わった後、トーレさんの前で実践してみるしかないと私は結論付けた。
そして最後に今後もお互いの理解の為に連絡を取り合うとの事だが……正直の処これにはトーレさんもそれ程深い意味は持っていないとの事だった。
何でもトーレさん曰く「私の一存だけでは決めかねる事が多過ぎる」との事で、一度上の人間と掛け合った上で私の周辺警護や連絡を取り合う日程等を再度決め直すとの御達しだった。
まあこれに関しては私がとやかく言えることではないし、アリシアにしても「多分本当に困ってるんじゃないかなぁ?」というような感じだったので一先ずは泳がせておくという事で決着を付けた。
そして此処からが本題……私にも何か手伝えることは無いかと言って彼女に協力を求められるかどうかという事に関してなのだが、現在はそれを審議中だ。
とはいっても正直渋るトーレさんに私が只管頭を下げ続けているというのが現状なのだが……肝心な処で情けないな、と私は自分で自分の事をそう評しながらトーレさんとの話し合いを続行する事にしたのだった。

「お願いします! こんな話を聞いていたら私……いてもたってもいられなくて……。何とか力になりたいんです!」

「しかしなぁ……。何度も言っているが危険過ぎる。現状ジュエルシードだけでも危険なのに、それを付け狙う輩まで居るんだ。君をそんな危ない事に巻き込みたくない。善意でそう言ってくれているのはありがたいが……」

「無理なのは分かってます。だけど……このままジッとしているなんて私、耐えられないんです。今この瞬間にも友達や家族が傷つけられているのかと思うと……。本当に雑用でも何でもいいんです、私は……トーレさんの力になりたい……」

「……出来れば私だって君のその気持ちは無駄にしたくは無い。だが、これは私個人だけでなく複雑な事情が絡んでくる話だ。下手に関わればまたあの時の様に君が傷つくかもしれない……状態が万全でない以上私もはい、そうですかと軽々しく言う訳にはいかないんだ」

本当に申し訳ないという感じでそう言うトーレさん、そして反面それでも何とかという顔をしながら内心で「くそっ、何とかしなくては……」と焦り出す私。
もう少しで手が届きそうなのに後一歩をどうしても踏み出す事が出来ない、そんな歯痒さが余計に私の焦りと苛々に拍車を掛けていた。
泣き顔になって見たり、心にも思ってない事をもっともらしく理由付けしてみたり、下手に出たりと色々と方向を変えてアプローチを掛けては見たもののトーレさんという人間は私が思っていた以上に感情を崩し難い人間だった。
なまじ私をこれ以上傷付けるのは忍びないと言う自信のエゴが協力させてもいいかなという妥協心にセーブを掛けてしまっているから中々「巻き込まない」という思考を緩ませてはくれない上に、私がトーレさんに協力する事で余計に危険が増すのではないかと言う不安が余計にトーレさんを頑なにさせているのだ。
元々責任感の強い人だし、そう思うのも仕方が無いといえばそうなのだが……だからといってこれ以上変なアプローチを取ると私自身が怪しまれると言う結果にも繋がってくる。
なるべく純粋無垢な少女である”高町なのは“のまま事を運びたい私としてはこれ以上怪しいと思われるような行動を取る訳にもいかないのだ。
しかし、逆に決定的なアプローチを掛けなければトーレさんは考え直してくれそうに無い。
その微妙なさじ加減が如何にも上手くいかないでいる、だから余計に意識が高ぶって頭の中でどうすればいいのかと思考がグルグルとしてしまう。
最悪協力が認められないとしても将来性のある関係で話を終わらせなくては……そう考えた私は表面上は現状を維持しつつも、頭の中で考えた言葉を少しずつトーレさんに投げかけていくのだった。

「……無茶なお願いだっていうのは分ってます。でも、このまま何もしないでいたら、多分後悔する……そんな気がするんです。私は……今までも後悔してばかりでした。何時も何時も何処かで妥協して諦めて、それでいっぱい……大切な物を取りこぼして来ました。だから、これ以上……後悔したくないんです」

「しかしこの件に関ればもっと後悔するかもしれない。この前は未遂で済んだかもしれないが……命を落とす事だって十分に考えられる。私は……出来れば君はこのまま平穏無事な世界に生きていて欲しいと思っている。私のような……そう、私のような人間に関るのは止めた方が身の為だ」

「私は……トーレさんがどんな仕事をしていて、今までどんな事をしてきたのか……分りません。だけど、私には命を助けて貰って恩もある。少なくとも私は……トーレさんの事、良い人だって思ってます。だから、そんな良い人だけに私を背負って貰おうなんて図々しい事……私には出来ません。せめて少しでも、負担を軽くしたい……ほんの少しでも……いいから……」

「……やれやれ、君も案外強情なんだな。恐れ入ったよ」

どうしたらもう一押しが出来るのか、その考えの先に私が辿り着いた答えは……トーレさんに命を助けられたと言う事に対する“恩”の感情で責めるということだった。
あくまでも気弱で口下手だけで実直で自分の意思を貫き通すというスタンスの上で作られた“高町なのは”というキャラクターのイメージを崩さずに、尚且つ怪しまれないように協力する意思を示すにはそれなりの事柄が必要になってくる。
つまりは何故この子はこんなにも拘るのだろうかと寸分も相手に思わせないだけの理由が必要になってくると言う事だ。
そしてそんな微妙な理由付けに丁度良いのがトーレさんに命を救われたからと言う”恩”の感情であり、実直と言うキャラクター設定を考えれば不自然でないと言えるだけの行動動機でもあった。
命を救われたと言う事に対しては私も本心から感謝はしている、しかしだからと言ってその為に命を投げ出せるかと問われれば正直否と答えるほか無い。
私はそこまで自己犠牲の過ぎた人間ではないし、無償の奉仕を自ら進んでやろうと言えるほど御人好しでもない。
まあ昔はそんな感じだったのかもしれないけれど、少なくとも今は違う。
私が行動するのはあくまでも自分が求める物に対してのみであり、今回のような心にも思っていない事を言うのは正直私としても後ろめたい気持ちがあった。
しかし、目的の為なら何でもやると決めた以上此れしきの事で気負ってはいけない。
私情を捨ててあくまでも冷酷かつ狡猾にならねばならない、そう私が決心を新たにしていると……トーレさんはふぅ、と短く溜息を吐きゆっくりと首を左右に降り始めた。
手応えがあったか、私が内心ビクビクした気持ちで彼女からの言葉を待っていると、トーレさんは観念したと言わんばかりの口調で私に優しく話しかけて来た。
そしてその口調は、認めざるを得ないと言っている位柔らかだが困惑の意が混じった物だったと私は瞬時に悟ったのだった。

「とりあえず……あくまでもとりあえずだぞ? 考慮しない事も無い」

「えっ……? そ、それじゃあ!」

「おっと、早まるな。あくまでも考慮だ、許可した訳じゃない。この事については……やはり上としっかりと相談した上で話し合う必要がある、此れは間違いない。だが、その結果上が君を協力者だと認めるのであれば、私も君に何か役目を与えるのは吝かではない。だから……今はもう少し返答を待たせてくれないか? 私としても、色々と上への言い訳を考えなければならんのでな」

「あっ、ありがとうございます!」

またしても条件反射で頭を下げてしまう私、そんな私に「こらこら、まだ決まった訳じゃないぞ」と微笑みかけてくるトーレさん。
口ではまだどうなるか分らないと言ってはいるものの、きっとトーレさんはこの件に関して尽力してくれる……私は何となくそんな確信を抱いていた。
そしてその核心と同時に私は、全て私が計画したとおりに物事が運んでくれたと顔に出したら思わずほくそ笑んでいる位の黒い感情を胸に覚えていた。
少々イメージしていたプランと変わってしまった部分もあるが、トーレさんの協力を得る事が出来るという部分に関しては期待を持ってしまって良いと言える。
後はあわよくば一緒に行動してアリシアの願いを叶えられる程度に動き回って貰って、私の方でも意識的に先生に被害が及ばないように立ち回れる立ち位置を確保すればベストなのだろうが……今は考えないようにしておこうと私は一時的にその考えを封印した。
今は一世一大の交渉を無事成功させたという事を喜んでおくべきだ、そう思ったからだ。
今まで黙って私とトーレさんの会話を聞いていたアリシアも「してやったり! なのはお姉ちゃんの頭脳勝ち!」とはしゃいでくれている。
小難しい事を考えるのは後でも出来る、しかしこの瞬間を喜ぶのは今しか出来ない。
私は作った表情に本心を紛れ込ませながらトーレさんに笑みを浮かべると、もう一時しっかりと彼女に対して「よろしくお願いします」と頭を下げておくのだった。
これからも長い付き合いになるだろう、そう心の中で呟きながら。

「……っと、それでは私はこの辺でお暇させて貰う事にするが、君はどうする? この場に残るのか? それならば会計を済ませておくが……」

「あっ、すみません。私もそろそろ帰らないと両親が心配するかもしれませんので……。コーヒー、ご馳走様でした」

「なに、気にする事はない。また私の方から連絡しよう、リダイアルで掛け直せばいいかな?」

「それなら……私の番号とメールアドレス、今教えておきます。そっちの方がトーレさんに迷惑が掛からないと思うので」

そうしてくれると助かる、と言って苦笑いを浮かべるトーレさんを他所に私はテーブルに在ったメモ用紙に予めポケットに忍ばせておいたボールペンで自分の携帯の番号とアドレスを素早く書く殴り、それを自然な手つきでトーレさんへと手渡した。
此れで繋がりを作る事が出来た、と内心でニヤつきながら。
その後、私とトーレさんは飲み物代を支払った後同時に店を出て、それぞれ別の方向へと歩き出していった。
私は帰路につくために、トーレさんは今回話した内容を上の人へと伝える為に。
此れでようやく色々と動かす事ができる、私はトーレさんと別れた後不意に笑みを浮かべながらポケットに手を入れて今日の事を振り返った。
今日の話し合いは有意義な物だった、少々こじれる部分もあったがこれでやって私とアリシアの願いを叶える土台を整える事が出来たのなら安い物だ。
明日から少しずつ此方も行動を起していかなければ、私は何時もよりも少しだけ明るめの思考で街道を歩きながら明日からの自分の行動を模索し始めた。
絶対に私とアリシアの願いを叶えてみせる、そんな意気込みを胸に抱きながら。



[15606] 第十二話「何を為すにも命懸けなの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/03/15 16:30
人間は一生に一度くらいは命を掛けて何かを為さねばならない時が来る。
それが一体何時になるのか、またそれがどのような事に対しての“命懸け”になるのかは人によっても様々だが、まあ要するに生きていれば何時かはそれだけ必死にならねば乗り越えられない壁にぶち当たる……つまりはそういう事だ。
言うならばこれは一生苦労を知らないで生きられる人間なんて居ないと言う事の裏返しでもある、少なくとも私こと高町なのははそう考えていた。
命に対する価値観っていうのは人によっても様々だが、その“命”がどのような物であったとしてもそれを失ってしまえばその人間は死んでしまう。
それが本当の意味での死なのか、それを失った事で自分が自分足りえなくなってしまった事を比喩しての死なのかは人によっても異なるが、何にしても最終的に行き着く先が“死ぬ”という現実であるのならば辿る道は違えどもそれは一緒の意味合いになる。
一生治らない怪我を負って二度とスポーツが出来なくなったとか、何十年も勤めていた会社が突然倒産しただとか、愛していた恋人が突然別れ話を切り出して来たとか……凡そ人は自分が自分で無くなった瞬間に“死んでしまう”ものなのだろうから。
しかし、そこで“死んでしまった”人間が誰しも同じように奈落に落ちていくのかと聞かれればそれは違うと私は思う。
死人は死人なりに新しい物を見つければそれを為す為にまた命を賭けられる生者になれる訳だし、本当の意味で命を落とすよりかはまだ幾分か希望が残されている筈。
少なくとも死人は死人のままでいなくてはならないと言う道理が世の中には無い以上、後は本人の力量と立ち回りと少しの運でもしかしたら何とかなるかもしれない可能性は残されている訳だ……その命を賭けられるものに向かって一直線に突っ走れる限りは。
そして何処までも何処までも突き抜けて、その博打に勝利した時初めて死人は生者へと戻る事を許されるのだろう。
ならば私は自分の敷いた“法則”の中でそれを成し遂げて、死人から生者へと戻ってやろう……それで今までの絶望の埋め合わせが出来ると言うのなら幾らだってこの安い命を張ってやろう。
例えこの賭けが本当の命を賭ける事になるのだとしても、私はそれを見据えて真直ぐ進んでいこう……何処までも、何処までも。
自分でも阿呆らしい言い回しだとは思うのだが、少なくとも自分の決めたその心情に嘘偽りは無い。
出来うる事ならこの気持ちを突き通したいものだ、私は不意にそんな事を思いながらゆっくりと溜息を吐き捨てた。

「……で? だからって何で私がこんな事をしなきゃいけないわけ?」

「事を成すには何事も努力! 精進あるのみだよ、なのはお姉ちゃん!」

「いや……まあ言いたい事は分かるんだけどさ。あー何だろう……これはその……致命的に空回りしてるっていうか、間違った方向へ驀進しまくってるっていうか……あぁ、うん……何かもうどうだったいいや。面倒臭い」

「大丈夫、大丈夫。今回はまだ試しでそれ程大がかりな事はやらないつもりだから、ね?」

いや何が大丈夫何だか分からないんだけど……、アリシアの言葉にそう感想を抱いた私は何だか遣り切れない気持ちに再び陥ってしまい、今日で何度目になるか分からないため息をまた宙へと吐き捨てた。
正直私は困惑していた、まあ理由は色々とあるのだがそこら辺を抜きにしても現在の私のモチベーションは底辺に程近い場所でギリギリ最低ラインに触れるか触れないかという微妙な部分を行き来している感じだった。
事の発端はトーレさんと別れて家に戻ってからに遡る、相も変わらず私に対して反応を示さない無関心な家族を無視し、自分の部屋へと戻った私は是からの事をアリシアへと相談しようと話を持ちかけていた。
これからどう行動するべきか、その為にはどんな力が必要になって来るか……その他エトセトラエトセトラと相談する事は山ほど在ったからだ。
それにお互い確認し合う事が多い筈だろうから、一度しっかりと腰を据えて二人でゆっくり話し合おう……そんな意図も私は考慮していた訳だ。
しかし話し合おうにもアリシア曰く「なのはお姉ちゃんのお部屋は何か散らかってるからもう少し綺麗な場所で話したい」とのことで私の部屋は却下され、私は渋々アリシアが待つアルハザードへといく為にベットの中へと潜り込んで床に就いたのだった。
地味に失礼な事を言う子だ、というのが私の正直な気持ちだったのだが確かに私の部屋は尋常じゃない程汚れているし、アリシアも初めて私の部屋を見た時は完全にドン引きしていたのも記憶に新しい出来事だ。
それにアリシアは「なのはお姉ちゃんの能力を詳しく教えたい」とも言っていたし、私としてもそれならあの広大な草原の世界であるアルハザードの方が適しているだろうとの事で、アリシアに導かれるままアルハザードに足を踏み入れたのだが……正直現状を考えるとこれが本当に正しい選択肢だったのかどうかすら疑いたくなって来る。
やっぱり何事も妥協して決める物では無い、私は何処までも続く広大な草原に立った一本だけ聳え立つ木の幹に寄り掛かりながら目の前のアリシアと現状を再度見比べ、此処に来た事を再び後悔し直したのだった。

「まあ確かに私も初っ端からそんなとんでもな事されても堪ったもんじゃないから、其処は別に良いんだけどさぁ……。ただ……ちょっと突っ込んでいいかな?」

「んっ、なぁに?」

「いや……そのアリシアがさ、これ見よがしに堂々と着込んでるその服なんだけど……正直どうなのよ、それは?」

「えっ、だってこれがこの世界の正式な練習着なんでしょ? 機能的だし、動き安いし、丈夫だしで色々と便利だと思ったんだけど……駄目だったの?」

別に駄目では無い、駄目では無いんだけど……私は何とも言い難い矛盾した感情に頭を抱えるばかりだった。
何故私がこんなにも頭を抱えなければならないのか、それは偏にアリシアの格好に在った。
今回私がアルハザードを訪れた主な目的としては確かにアリシアとの話し合いも勿論なのだが、それ以上に大まかでもいいから自分の持つジュエルシードの能力と、出来うる事なら魔法という物がどういう物なのかという事を知っておく事に在った。
何せこれは今後ジュエルシードの暴走体を相手にする上で必要不可欠な要素であり、その度合いによってどう動くかという思考も纏めなくてはならなくなるからだ。
しかしアリシアはこれに対して「それなら練習だね!」と一体何処から何処をそんな風に解釈すれば導き出せるのか分からない結論を弾きだし、半ば強制的に私に能力を使いこなす為の練習を強要してきている訳なのだ。
別段私としても多少かったるいとは思うのだが能力を使いこなすにはやっぱり一朝一夕では済まないのは分かっていたし、何時かはやり始めなければならないのならなるべく早い方が良いだろうとの事で能力を使う練習には賛成だった訳だが……そんな気持ちは何処へやら、現状私の内に芽生えた欠片の様なやる気は完全に風化してしまっていた。
何故なら……アリシアが練習着にと選んだ格好はよりにもよってウチの学校の体操着だったからだ。
本来こういう練習ってもう少し緊張感を持ってやるものだと身構えていた私としては、行き成り目の前で自分の服を体操着に変化させるアリシアに思わず「何でなのよ……」と突っ込まざるを得なかった。
しかもアリシアのしている格好は単なる体操着では無く、ウチの学校の体操着上下に明らかに汚れて汚くなるだろう白のニーソックスに黒いスニーカーという明らかに何処か危なそうな層の人間を誘っているとしか思えない格好だったのが余計にその感情に拍車を掛けていた。
もう正直この時点でやる気もへったくれもあったものではない、更にその当人であるアリシアに自覚が無いから余計に始末に困ってしまう。
果たして汚れた感性を持つ私が悪いのか、純粋過ぎるアリシアが行けないのか……私としてはもう頭を抱える他取るべき行動が思いつかなかった。

「あ~うん、問題があると言えばあるんだけど悪気が無ければ良いって言うか……それでも倫理的に問題は残るっていうか……。何かもう、どうでもいいや」

「え~っ? だってなのはお姉ちゃんの学校の人もちゃんとこの格好で運動してたよ?」

「うん、そうなんだけどね。間違ってるのはもしかしたら私の方かもしれないんだけどね、何だろうこの気持ち……。凄く何かに負けちゃった気がするよ……」

「とっ、とりあえずファイト! なのはお姉ちゃん」

可愛らしく胸の前でガッツポーズをとるアリシアを他所に何だか自分でもよく分からない自己嫌悪に陥ってしまう私。
アリシアは悪くない、なのに私が悪いのかと言われたら……正直この件に関しては私も自分だけが悪いとは思えない。
だけど普通の小学生は高々体操服一つに一々私の様な考えを浮かべない訳で……正直汚れている私が悪いのだと言われたらそんな気がしないでも無い。
何というか、この何とも言えない矛盾がこの別に何か悪い事をした訳でも無いのに湧きあがって来る罪悪感に繋がっているのだろうと私は思った。
まあ私も暇だけは沢山あるから色々な方面のゲームに手を出している訳だし、その中には所謂十代中盤から二十代前半位の男の子が好きそうな「恋愛ゲーム」も含まれているから一体どういう服装がその手の男の子に受けるのかという事は分かっているが……普通こんな知識は小学生の、それも女の子が知っている知識では無いという事も私は理解している。
先生の教えの中に固定観念に捉われないで柔軟な思考で色々な事に挑戦する事が大事だ、というのがあるのだがこんな純粋なアリシアを前にしてもこんな事を穢れた思考を浮かべてしまう様ではちょっと鵜呑みにし過ぎたのではないかという不安が私の脳裏を掠めて行ったのだった。
いや、先生には感謝しているし、この考えも間違いでは無い事は私も重々承知しているのだが……何だか段々私も変な方向に感化されてき始めている事はどうしても否めなかった。
というか、そもそも『Memories Off』とか『サクラ大戦』とかが分かる小学生って一体……私はちょっぴり自分の事を振り返って思わず両手、両膝をついて絶望しそうになった。
あぁ、何だか私ってつくづく穢れてるんだな……そんな風に思いながら。

「はぁ……まあこの際その格好についての突っ込みは置いておくとして、だよ? 訓練って言ったけど具体的にどうするの? 正直私かったるいのは嫌だよ、割と本気で」

「なのはお姉ちゃん……虎穴に入らずんば虎子を得ずって知ってる?」

「お~良く知ってたね、そんな難しい言葉。お姉ちゃんびっくりだ」

「じゃ、なくて!! 努力しなきゃ何事も始まらない、事を成すには根気と努力が不可欠! つまりはそう言う事なんだよ!」

アリシアは体操着に何故かついている『ありしあ』と平仮名で書かれたゼッケンを前に押し出す様にありもしない胸を突き出しながら、何かの本から引っ張ってきた様な受け売りを偉そうに語っていた。
まあ正直その元ネタがムカついた私が昨日一日部屋に引き籠ってやっていた『メタルギア・ソリッド』のキャラクターのやり取りから来ている事が分かっている私としてはアリシアの熱意も何だか滑稽な物に思えてきてしまうのだが、まあ確かに言っている事は正しいので「そうなのかもね~」と適当に相槌を打っておく事に私は決めた。
確かに論理的に考えればアリシアの言っている事は正論なのだろうが、その正論を分かっていても行動に移せないというのもまた人間のどうしようもない性なのだ。
正直此処で下手に同調して妙に高いテンションに流されるって言うのも正直どうかと思うし、恐らくその結果待ち受けているのはかったるい事であるというのは容易に想像が付くから余計に避けたいと思ってしまう。
人間楽な方へと一度でも思ってしまうと何処までも際限無く堕落してしまうもので、私自身もまた面倒な事はやりたくないという若者特有の無気力症に掛かっている人間の一人なのだ……出来うる事なら苦労はしたくないと思ってしまうのもまた道理だろうと私は思った。
しかし、アリシアはそんな私の態度がどうにも受け止めがたかったのか「なのはお姉ちゃん、ジュエルシード出して!」とやや強めの口調で私に詰め寄ってきた。
その勢いたるや獅子の如く……とまではいかないが例え相手が見た目五歳程度の女の子でも対人コミュニケーション能力の薄い私をビビらせるには十分であり、やや膨れ面で私に命令してくるアリシアに私は渋々ながらも従う他ない状況にまで追い込まれてしまった。
見た目五歳の女の子に此処まで言われて何も言えない九歳って正直いかがな物なのだろう、そんな風に私は自分の情けなさを再認識しながらポケットの中からジュエルシードを取り出して再びアリシアの方へと向き合いながら再び会話を続けるのだった。

「はい、これでいいんでしょ? はぁ……出来れば何もしたくないなぁ、嫌な予感するし」

「よし! これからなのはお姉ちゃんにはジュエルシードを使って自分の能力を確かめて貰う訳だけど……ってそこ! 真面目に聞いてよ、なのはお姉ちゃんのことだよ!」

「あ~うん、そうだね~……はぁ、かったるい」

「うわ~そういう態度をしますか、しちゃいますか、しやがりますか~。別に私はいいんだよ? 訓練の内容をなのはお姉ちゃんが起きるまで只管マラソンするっていうのに変えても」

すみませんでした、と速攻でアリシアに頭を下げる私。
確かにかったるい事は勘弁願いたいが、疲れる事はもっと勘弁して貰いたいと言うのが私の心情だった。
何せ体育嫌いで運動嫌いの私にとってマラソンとか長距離走とかその手の物は最早敵なのである。
動くの面倒くさい、汗掻くの嫌だ、部屋から出たくないという典型的な駄目人間の心情を抱える私にとって長い時間永続的に体力を使わなければならない事態と言うのは何が何でも避けなければならない事なのだ。
だって唯足を動かすだけで疲れると言うのにそれを何時までも何時までも繰り返さなければいけないし、体力が『ドラゴンクエストシリーズ』に出てくる『はぐれメタル』並みに少ない私からしてみれば100m走っただけでも体力が其処をつく。
したがってこういう単語が絡むと私はプライドを簡単に投げ捨ててしまえる訳だ、それこそ見た目五歳の女の子に土下座せんばかりの勢いで頭を下げるくらいに。
アリシアは「よっし、それなら許してあげよう」とか偉そうな事を言っているが、何時か絶対目の物見せてやると心に誓う私なのだった。
尤も、内心では「大人気ないなぁ、私」なんていうような風に口では大人だ、大人だって粋がっている普段の私にあきれ返っていた訳なのだが。
まあ何にしても、とりあえずゴールの見えない草原を只管駆け回る事だけは避けられたと私は心の其処から安堵から来る溜息を宙に吐き捨てるのだった。

「それじゃあ気を取り直して……まずはなのはお姉ちゃんの能力から説明に入ろうかな。なのはお姉ちゃん、ジュエルシードを握った手を目の前に突き出してみて」

「えっ、あ……うん。こう、アリシア?」

「そうそう、それでいいよ。あっ、そんなに力強く握り締める必要はないからね」

「そっ、そう? 何だかややこしいな……」

ジュエルシードを握った右手を自分の前へと突き出しながら不意にそんな事を漏らす私。
とは言っても私はこうして教えて貰う他自分の能力を知る術が無いわけだし、その力の源となっているアルハザードの管理人格であるアリシアに教えて貰うのが一番適切なのはよく分っているのだが……どうにもいざこうやって真面目に練習をし始めるとしっくり来ない物がある。
まあ私自身が今まで何に対しても所謂『糞真面目』と言う物になった事が無いからなのかもしれないけれど、慣れない事に一生懸命になると言うのが私には如何にも馴染めないのだ。
恐らくこれは楽をしていたい、苦労はしたくない、責任を問われたら他所へ丸投げというような堕落しきった環境の中で長らく過ごしていた壁外なのだろ浮けども、身に染みてしまった物は中々値が深い訳で、そう簡単に拭い去れる物でもない。
やはりこんな風に真面目に何かをするというのは性に合わない、私はそんな事を思いながら「リラックス、リラックス~」と言ってはしゃぐアリシアの言葉に耳を傾けた。

「じゃあ早速実践してみる訳なんだけど、此処でなのはお姉ちゃんに質問! ずばり、なのはお姉ちゃんの能力っていうのは何でしょうか?」

「えっ……『完全なる干渉の遮断』じゃないの? アリシアだってそう言ってたじゃない」

「う~ん、まあ60点って処かな。確かになのはお姉ちゃんの言った事は間違っている訳じゃないんだけど……それじゃあちょっと捻りが無いかな。まあ私の言い方が直球過ぎたっていうのもあるんだろうけど、それだけじゃあ完璧とは言えないね。それじゃあこう言い換えたら分るかな? ずばり『完全なる干渉の遮断』っていうのは何なんでしょうか? 意味、分ったかな?」

「そりゃあまあ『完全なる干渉の遮断』って言う位だし、物理的な接触を弾いたりだとか受け流したりだとかそういう物なんじゃないの? 私が化け物に襲われた時も「触るな!」って言ったら吹っ飛んじゃってたし……」

憶測ながらも多分はこんな風な感じなんだろうという答えを口にする私、そしてそれに対して「正解!」とクイズの司会者の様に相槌を打ってくるアリシア。
どうやら当てずっぽうで言ったのに正解してしまったらしい、賞品はハワイ諸島三泊四日の旅とかだったら良いなぁと不意にそんな阿呆みたいな考えが浮かんでしまった私なのだった。
しかし、それと同時に私はもしかして私の力って実は物凄い物なんじゃないのかという風なことにも気が付かされていた。
再度自分の能力を思い出してみると『完全なる干渉の遮断』というのは詰まり、私に降りかかるどのような物であってもこの身に触れる前に弾く、または受け流す事が出来るという事になる。
実際私もその能力の程には半信半疑といった感じだし、その力を使うのに必要な対価だとか使用条件だとか制約だとかそんな物も当然気には掛けているのだが……それを差し引いても私の能力は凄まじい物であると言えた。
何せその言葉をそのまま現実に起せるというのであれば凡そ防御の面に関しては私は無敵の存在である事が出来るという事になる、ゲームで例えるならばジュエルシードという装備品を装着して呪文を使うだけで絶対的なバリアを張れるという訳なのだ。
とはいえこの能力がどれほどの物なのかスペックをアリシアに教えて貰うまでは過信する事は出来ないが、それでも十分に期待は持てる。
とりあえず話を聞いてみない事には判断のしようが無い、私はちょっとだけ期待で胸を膨らませながら嬉しそうに言葉を紡ぐアリシアの方を垣間見るのだった。

「そう、重要なのはまさに其処なんだよなのはお姉ちゃん。なのはお姉ちゃんがジュエルシードに願った事は『万物何者においてもこの身に触れる事を拒絶する』ってこと、そしてその願いは見事にジュエルシードによって叶えられ『完全なる干渉の遮断』という結果を現実に齎した。まあ、ありていに言えばそういう奇跡をこの世に呼び出す術を得たって訳だね。だけど此処でポイントになるのがその奇跡が“どれだけの物なのか”って事。それとそれによって生じるデメリットは何なのか。なのはお姉ちゃんにはまずこれを知ってもらおうと思うんだ」

「はぁ、此処に来ても勉強か……ヤんなっちゃうよ、まったく。で? 具体的にはどんな物なの? この際だしもったいぶらないで率直に教えてくれると私もありがたいんだけど」

「焦らない、焦らない。まずは一つずつ手順を踏んでいかないとこんがらがっちゃうよ? そうだね、まずはその力をどうやって発動するのか。まずはこの辺から行ってみようかな」

「力の発動ねぇ。なに? 何か長ったらしい呪文唱えたり、変なポーズ取ったりしなきゃいけないの?」

もしもそんな感じだったら出来たらこの力は極力使いたくないなぁ、と素直な感想を心の中で呟く私。
まあこういうとんでも能力を使うアニメやゲームでは御馴染だけど、大体その手の人間というのはファンタジーな呪文を唱えたり、なんかのポーズを決めて変身しないと能力が使えないだとかそんな風な感じの物が多い。
これがまだ『仮面ライダー』とか『ファイナルファンタジー』とかそういう物なら手短に済ませられるのだろうけど、『戦隊シリーズ』みたいなポーズとったりだとか『テイルズオブシリーズ』のような長ったらしくて憶えきれない様な呪文を唱えなくてはならないのだとするとそれこそ面倒臭いことこの上ない。
それに世間の目というのもある、もしもそんな事をしている姿を誰かに見られでもしたら学校でクラスメイトに何をされるか分かった物では無い。
出来うる事なら穏便な物でありますように……私がそんな風に思っていると、アリシアはありがたい事に「別にそんなのは必要ないよ」とやんわりと私の不安を否定してくれた。
どうやら彼女曰く「要は手順なんだよ」との事らしい、私は尤もらしく私の能力について講義を続けるアリシアを見ながら少しだけだらけた気持ちを引き締めるのだった。

「なのはお姉ちゃんの力の発動にはある一定のプロセスを踏む必要があるんだ。まぁ、力を行使するだけならなのはお姉ちゃんが拒絶の意思を対象物に示すだけで良い訳なんだけど……此処で言うのはその後の事、つまりは能力を発動してからの事だね。なのはお姉ちゃんの力である『完全なる干渉の遮断』という願い、これは文字通りなのはお姉ちゃんの身体に対象となる物が物理的、もしくは精神的に接触する事を断絶する力なんだけど、本当にこれは“遮断”するだけなんだよ。なのはお姉ちゃんの言った“弾く”だとか“受け流す”だとかそう言う力はその遮断した状態の物に更に拒絶の意思を加えて発動する付属効果の様なものでしかないんだ。つまり……」

「私の能力は一度遮断した状態から拒絶の意思を付け加える事で発動する、言わばゲームで言う“コンボ”って事だね」

「そういうことだよ。冴えてるね、なのはお姉ちゃん。まずは“遮断”する、そして次に“拒絶”する……このプロセスを踏んで初めてなのはお姉ちゃんの能力は完成するんだよ。まあ尤もなのはお姉ちゃんが最初から拒絶の意思を示したうえで能力の発動を行えばそんなプロセスが分からなくなる位の速度でこの手順が切り替わるから別に意識してこの手順を踏む事も無いんだけど……何事もまずは基本からやらなくちゃいけないからね」

「まあチュートリアルを見ないで操作の分かるゲームなんか無いからね、それが道理か。それで、次に私は何をすればいいの? ビックボス?」

おどけた感じで私がアリシアにそんな風な質問を投げかけると、彼女は「じゃあ今度こそ実践練習だね」と言ってその小さな足を動かし、私の前に相対するように歩いていく。
そして私との距離を大凡8m程取った処で私の方を向き直り、アリシアは今の私と同じように片手を突き出して何かを唱え始める。
すると彼女の翳した掌の上に何か光の粒の様な物が集まっていき、それが何かの形を作っている事に私は気が付いた。
しかし、私は別段その光景を目の当たりにしても驚きはしなかった……此処がアルハザードでアリシアがそれを望む以上出来ない事は無い、アリシアとの会話の中で私はその事実をしっかりと現実の物として受け止めていたからだ。
夢の世界に制約なんてない、つまりこのアルハザードでは管理人格のアリシア・テスタロッサという人間が望む限りは不可能な事など何もないのだ。
そう言う現実を目の当たりにしているからこそ、彼女が今行っている“此処にある筈の無い物を呼び出す”という行為についても何ら疑問は抱かない。
どうせ“今更”で片付いてしまうのだ、考えるだけ無駄だろうと私は思っていた。
しかし、私はアリシアが作り出した光の粒が弾けた瞬間、別の意味で驚愕を露わにしてしまった。
何故なら、アリシアの手の内にあったもの……それはどう考えても彼女には似つかわしくない物だったからだ。
私も漫画やゲームの中でなら彼女の持っている“ソレ”を見掛ける事はある、しかしそれを現実の物として見るのは初めてだった。
黒光りするスライド、強化プラスティックだかポリマー樹脂だかで造られた機能的なグリップ、そして今にも私を射殺さんとする銀色に輝く銃口……そう、アリシアの持っている物は何処からどう見ても拳銃以外の何物でも無かったのだ。
どうしてそんな物を、と私は心の中で思った……しかしアリシアは手に持ったそれを見つめて満足そうに笑顔を浮かべるだけ。
一度引き金を引けば簡単に人を殺せてしまう凶器を見て彼女は笑っているのだ、その光景を見て私は背筋に冷たい物が伝っていくのを感じていた。
無垢という物は時として大人よりも恐ろしい物だ、私はそんな風に思いながらアリシアに対して早くそんな物は捨ててしまうようにと慌てて声をあげたのだった。

「アッ、アリシア! 駄目だよ、そんな物を持ちだしたら! それがどういう物だか分かってる!?」

「うん、なのはお姉ちゃんの世界の武器だよね? 確かワルサーって処のP22って言ったかな? 前になのはお姉ちゃんがこの武器のお話をしてくれた時からずっと気になってて色々と調べてみたんだけど……具合が良いね、これ。それにカッコいいし、精度も良さそう。気にいったよ、なのはお姉ちゃん」

「そう、だったら良かった……ってそうじゃなくて! それは本当に危ない物なの! 私も気軽な気持ちで言っちゃったのが悪かったんだと思うけど、それは下手をしたら人を殺してしまうものなんだよ。だからほら、早く捨てて。お願いだから」

「大丈夫、大丈夫。例えこれが本物だとしても私が望まない限りなのはお姉ちゃんは痛くもなんともないだろうし、勿論死ぬ事も無いから。これは単にお姉ちゃんの能力がどの程度の物なのか見極める為に呼び出したものだから、それほど心配はいらないよ。それに元々これって極力人を殺さないような弾を使ってるみたいだしね。なのはお姉ちゃんには『完全なる干渉の遮断』の力もあるし、ノープロブレムだよ!」

テレビに出てくる似非外国人の様な発音でケラケラと笑いながらグリップを握り、銃口を私の方へと突きだしてくるアリシア。
正直私としては冗談じゃないよ、と叫びたい気分だったが、確かにアリシアの力を持ってすれば痛みを感じるだとか死ぬだとかそう言う事柄も超越できるのであろうし、そもそもこれは夢の世界なんだからあの拳銃が本物であるのかどうかという点も定かではないのだ。
不用意にあんな話をアリシアに持ちかけた私が馬鹿だった、私は内心でちょっとだけ自分の行いを振り返って自己嫌悪に浸りながら「あっ、そう……」と投げ遣りな言葉をアリシアへと吐き捨てた。
まあこれが現実だったらとんでもない事になっているのだろうが、此処はアリシアを信用するしかない。
それに私の力が本当に銃弾を弾く事が出来るのだとすれば、それだけでも自分の力が凄まじいものであるという証明にもなる。
私は魔法だとか不思議な力だとかそういったファンタジーな云々の事はよく分からないが、少なくともこの地球においては銃という物は数ある武器の中でも人が扱える物の中では最上級の物に匹敵する。
もしもそれを防ぐ事が出来たのだとしたら……私は不安と同時にそんな淡い希望を同時に抱いていた。
そして私はしばらくの間一人でアリシアの向けている銃の銃口を見つめながら考えを纏め、十数秒した後に改めてジュエルシードをその銃の方へと向けた。
どうせ夢なら死ぬ事も無い、だったらやれる処までやってみようじゃないか……最終的に私の思考はそういう決断を下したからだ。
ジュエルシードを握った拳を銃口へと向けながら、今か今かとタイミングを計る私。
確かアリシアは遮断の後に拒絶というプロセスがあると言っていた、ならば後はタイミングを見てその能力を発動するだけでいい。
そう決めた時には既に、私の覚悟は決まっていたのだった。

「じゃあ今からこの拳銃っていうのでなのはお姉ちゃんを撃つけど、上手く弾いてね。まぁ、万が一当たったとしても痛くも無いし、死にもしないから大丈夫だけど……それじゃあ練習にならないしね。ファイト、だよ!」

「あ~はいはい、真面目にやりますよ。……本当に痛くないんだよね?」

「血も出ないし、怪我もしない。私がそう望む限りは絶対になのはお姉ちゃんが嫌がる様な事にはならないから安心して。それとも信用してないの?」

「いや、そう言う訳じゃないんだけどね……。ただ物が物だから私も不安でさ。拳銃なんて相手するの初めてだし……でも、覚悟は出来たよ」

グッ、と掌を突き出して暗に「さぁ、来い!」という事を私はアリシアへとアピールする。
出来ればこういうかったるい事はしたくない、けれど何処か心の底では未知の力に対する好奇心という物が燻っているという事を私は否定できなかった。
確かに私は面倒な事は大嫌いだし、自分から進んでゲームの世界にあるようなとんでもびっくりな能力を行使する様な事態に首を突っ込む様な事も極力したくはない。
だが、結局私は自分の意思で自らこういうような世界にどっぷりと肩まで身を沈めてしまった訳で……だったらいっそ開き直ってこの状況を楽しむ方が幾分か特というものだろう。
それにどうせ私はこの先、もしかしたら拳銃よりもずっと脅威であるかもしれない物と関らなければいけなくなるのだ。
こんな所で間誤付いているようでは到底その冗談のようなモノ達に太刀打ちする事は出来ない、ならばやる事は一つだけ……私は柄にも無くそんな漫画の主人公のような台詞を思い浮かべながらアリシアの手の内にある拳銃を睨むように見据える。
拒絶、そして反射する……そのサイクルだけを繰り返すだけに今は頭を回転させ、あの銃口から飛び出てくるであろう銃弾を弾く事のみに全神経を集中させる。
沈黙と静寂だけが私とアリシアを包み込み、妙に張り詰めた緊張感がお互いの神経を刺激する。
それはまるで荒野の決闘のような光景で、私はその内の相対する一人になっている訳だ。
何だか映画の世界に迷い込んだみたいだ、私はそんな風にこの状況を内心で笑いながら拒絶の念だけを前面に押し出していく。
イメージするのは透明な壁、アリシアと私との間を隔てる空間に出来たどんな物でも弾く事の出来る無敵の防御壁だ。
行ける、これなら銃弾だろうが何だろうがそんな威力の大小を関係無しに私への”干渉“を遮断する事が必ず出来る……私の胸の内にはそんな核心が満ち溢れていた。
刹那、銃口から漏れた光が漏れた……アリシアの持つ拳銃から銃弾が発射されたのだ。
その弾丸は凡そ人の目には捉えられない程の超高速で螺旋を描きながら私の方へと向かって突き進み、今にもこの肉体を引き裂かんと唸りを上げる。
しかし、その銃弾は私の身を貫く事は無かった……何故ならその銃弾は私の目の前に隔たった見えない”何か“によってその動きを止め、空中で静止していたからだ。
私はそんな銃弾を満足気に見つめ、そして有無を言わせず「触れるな」と短い言葉を宙にはき捨てる。
途端空中で静止していた銃弾はパキンッ、と鈍い金属音を立てて弾かれ、草むらの中へと落下してしまったのだった。
成功、私はニヤリと口元を吊り上げてその事実を一笑すると再びアリシアの方へと視線を向けて彼女の方へも微笑を投げ掛ける。
そんな私の様子を見てアリシアも嬉しそうに笑っていた、どうやら初の練習でそれなりにコツを掴む事が出来たらしい……私は自分らしくも無いと感じながらも心の何処かで一種の達成感にも似た嬉しさを噛み締めながら彼女へと声をかけるのだった。

「初めてにしては上々……かな?」

「凄い! 凄いよ、なのはお姉ちゃん! まさか本当に一発で能力を制御するなんて」

「なぁに、ちょっとした応用って奴だよ。まぁ、正直私も適当にこれだって思ったものをやってみただけなんだけどさ。自分でも此処まで上手くいくとは思って無かったよ」

「だったら尚の事だよ! お姉ちゃんは『完全なる干渉の遮断』って言う力を『見えない壁』っていう具体的なものに“変換”出来て、しかもそれを一発で使いこなせたんだもん。こんな事普通の人だったら出来ないよ。やっぱりなのはお姉ちゃんは凄いや!」

きゃいきゃいはしゃぐアリシアに対し私は「偶然だよ、偶然」とどうでもいいような態度を取って対応したのだが……内心では自分のした行為に驚きを隠せなかった。
確かに私は自分の力が『完全なる干渉の遮断』という物である事は知っていた、しかしその能力を自分でも把握していなかったが故にどれ程の物であるのかと言うのが分っていなかったのだ。
しかし、此処に着て私はようやく理解した……私の力は拳銃ですらも弾く事の出来るとんでもない物であるという事を。
元々あの化け物を弾き飛ばした時から薄々自分の力が防御面に優れている物であると言う事は何となく分っていたのだが、その上限が分っていなかった以上こうして実証されてみると私も驚くほか無いのだ。
何せ銃弾っていうのはゲームの知識に照らし合わせて見ても秒速何百メートルというとんでもないスピードで相手を貫く物であるらしいし、その威力はどんな小さな物であっても当たり所が悪ければ軽がると人を殺せてしまう物なのだ。
それを私はただ“壁をイメージしただけで”弾く事が出来て、更に私には一切のダメージが生じないと言う事態を引き起こした訳だ。
やはりジュエルシードと言うのはとんでもない力だ、私はそう確信すると共にこの力ならば先生を護るのも可能なのではないかと言う期待を胸に抱いていた。
防御と言うのはイコールとして守ると言う事に繋がる、だとすればこの力は正に守り通すと言う事に適している能力なのではないか……私はそんな風に思いながら改めて自分の使った力についてそう決断を下したのだった。

「ふ~ん、『完全なる干渉の遮断』か……どうやら私は良いカードを引き当てたみたいだね。あんまりこういう事を言うのは不本意なんだけど、私らしいや。うん、気に入った」

「それは良かったよ。アルハザードで得た経験は一応なのはお姉ちゃんの世界にも繁栄される筈だからピンチになったらこの力の使い方を思い出してね。あっ、でも一応そっちの世界だとまだジュエルシードの稼働状況が不安定だから連続使用は出来るだけ避けてね。まあ無理をすれば使えない事は無いだろうけど……多分一日の内に五分かそこ等が限界だろうから」

「なるほど、時間制限有りの最強防御って訳だね。使い時は考えなくちゃいけないのか……面倒だね。それで? 他に何か制約とかは?」

「う~ん、今の所は時間の制限だけかな。もう少しジュエルシードの稼働率が安定すればもっと能力の連続使用時間を増やせるんだろうけど、今はそれで私も抑えるのが精一杯だから」

はしゃいだと思ったらまた直ぐに申し訳なさそうに項垂れるアリシア、どうやら彼女は彼女なりに何かしらの責任を感じているらしかった。
だけど私はそんなアリシアに対し「アリシアが責任を感じる事は無いよ」と言ってやんわりと彼女を慰めた。
アリシア・テスタロッサはジュエルシードの力……ひいてはその力の源である夢の世界アルハザードを司る管理人格だ。
確かの彼女の力一つで私の能力も更に強力な物になるのだろうし、彼女の力量が足りればそれを早急に行う事だって可能なのだ。
しかし、それを行えるのはあくまでもアリシアだけであってそのアリシアですらも今の能力を維持するだけで精一杯と言う感じなのだ。
どうせ何も出来ないであろう私からしてみれば彼女はよくやってくれている方だ、寧ろ彼女がいなければ私は何も出来ないと言っていいのかもしれない。
だからこそ、私はアリシアに必要以上の責任を感じて欲しくは無かったのだ。
私はジュエルシードを持った手を下ろし、銃を降ろしたアリシアへとゆっくりと歩み寄って彼女の傍に立つと空いたもう一つの手で彼女の頭を優しく撫でてあげた。
そんな私の行動に少しだけ照れくさそうにするアリシア、だけど内心私はこんな小さな子に必要以上の責任を押し付けてしまっている私自身が少しだけ情けなかった。
本当はこんな無垢な子に私のような穢れた人間が傍にいて言い訳が無いのに、彼女はもっと聡明な人間と付き合う方が賢明だと分っているのに……何処かでこの子を手放したくない私がいる。
だけどそんな私には彼女を留めておけるだけの資格も力量も無い、だから今私に出来る事は彼女の頭を撫でて少しでも気持ちを軽くしてあげる事くらいなのだ。
どうせ気休めにしかならないと言うのに、それが分っていても何も出来ない私……正直、私は自分自身の事がより一層嫌いになりそうだった。
せめて成るべく速くこの子のお願いを叶えてあげなくては、私はそんならしくも無い使命感を胸に抱きながら、表面上は何も心配させないよう笑顔でアリシアへと接するのだった。

「マイナスな事を考えちゃ駄目だよ、アリシア。貴女は今貴女の出来る精一杯のことをしている……それでいいじゃない。何も悪くなんか無いし、誰も貴女を責めたりなんかしない。だから私から言えるのはこれからも頑張ってって事だけ。もう十分私は恵まれているからね、これ以上の高望みをしたら罰が当たっちゃうよ」

「うん……ありがとう、なのはお姉ちゃん。えへへ、何だか私慰められてばっかりだね……。もっと私がなのはお姉ちゃんに役に立てれば……」

「ほらほら、言った傍から後ろ向きなこと考えちゃってるよ。アリシアみたいな子は真直ぐ前を見つめて自分の出来る事を精一杯していればそれでいいんだよ。ごちゃごちゃ考えるようになると頭がこんがらがっちゃうよ。それに、私はアリシアに此処でああしておけばとかあの時他の方法を取っていればとかそういうような後悔はしないで欲しいんだ。そうなっちゃったら、きっと私のようになっちゃうから」

「……それは、お互い様だよ」

ポツリと漏れたアリシアの言葉に私は自分の胸が軽く疼くのを感じていた。
私のようになっちゃうから、それはつまり社会の最底辺……更に言えば後悔したって戻る事の出来ない所まで落ちるという事になるのだ。
私は此処何ヶ月かの間でいろいろな物を取り零した、友達も、家族も、平穏な生活も、有望だといわれた将来も、世間からの評判ですら全部全部落っことしてしまった。
おまけに残ったのはガタガタの身体とボロボロな心、後はプライドも何もあったものではない卑怯で臆病な心情とほんの少しの大切な物だけだ。
思えば私は……高町なのはという人間は負けて、取り零して、逃げるという事を繰り返してばかりだ。
一度も本当の意味で何かに“勝った”事は無く、そもそも真面目に相手と相対して”戦った“事すらまともに無い。
怯えて、泣いて、逃げて……そして行き着いた先が捻くれた心と素直になれない自分、凡そ誰からも蔑まれる為だけに存在する高町なのはという人間の亡骸だ。
言うなれば私は一度全てを取り零した時点で一度“死んでいる”のかもしれない、何せ嘗ての高町なのはという人間は外部からの干渉“のみ”で成り立っていた不安定な存在であり、そんな不安定な存在の支えが全てなくなった時点で高町なのはという人間は息絶えていたと言ってもいいのだ。
詰まり今の私は嘗ての高町なのはという人間の外郭をした”何か“であり、かつて支えとなったいた者達が嘗ての私を高町なのはであると肯定してしまっている時点で私はもう高町なのはと言う存在ですらなくなってしまった訳だ。
だって私が良い子をやめて本当の私を曝け出した途端、勝手に離れていくのだ……どれだけ手を伸ばしたって誰も私を肯定してくれないから捕まる事すら出来なかった。
だから今の私は高町なのはという名を冠した死人であり、誰もが私という存在を高町なのはであると認めてくれない限り私は歩く死人でしかない……つまりはそういう訳なのだ。
だけど、今の私には私の事を高町なのはであると肯定してくれる人がいる、確かに存在しているのだ。
その数はまだ少ないけれど、それでもちゃんと私が奈落の底へと落ちる前に手を伸ばしてくれた人が私にはいるのだ。
故に私は妥協しない、妥協する事を許されないと運命付けられてしまったのだ。
だから私はようやく今死人と生者の中間を歩む事が出来ている、しかしこの苦労は……恐らくは私が考えている以上に辛く果てしない物の筈なのだ。
出来うる事ならアリシアには私のようになって欲しくは無い、彼女は彼女のままで生者として真っ当なままでいて欲しいのだ。
自分勝手なのかもしれないけれど私は本当に心の其処からそう思っている、何故なら彼女もまた……こんな私に手を伸ばしてくれた人間の一人なのだから。
私はアリシアの頭から手を離しながら、そんな事を心の奥底で切に願うのだった。

「なのはお姉ちゃん、私は―――――」

「さぁて! 暗い話はもう止めだよ、止め。何時までもこんな事ウダウダと考えてたら切がないしさ。それに……お互い良い気分じゃない、そうでしょ? 今は私もアリシアも自分の出来る精一杯の事をする、それでいいじゃない。転んでもまた立ち上がる、それでも転ぶようなら……私が手を伸ばすから」

「……うん。私も、約束する。なのはお姉ちゃんが躓いたら、その時は私が支えになってあげる。例えこの世界の誰もがお姉ちゃんを見捨てても、私だけはお姉ちゃんの味方になってあげる。だから、なのはお姉ちゃんも私が躓きそうになったら……起してね? 約束だよ!」

「ふふっ、分った。何度も約束は破られたけど……アリシアなら大丈夫そうだからね。それじゃあもうそろそろ私も一度起きてご飯食べなくちゃいけない訳なんだけど……此処を離れる前にアリシアに教えてほしい事があるんだ」

少しだけ懇願するような仕草で私がアリシアに話しかけると彼女は「何でも聞いて!」といつもの元気さを取り戻していた。
なんというか切り替えが早い子だ、私は不意にそんな風に彼女を評しながら……内心では無理をしているのだろうなと少しだけ心配の念を深めるのだった。
何せ彼女にとって私のとの関係は諸刃の剣のような物だ、深くのめり込めばのめり込むほど彼女自身を傷だらけにしてしまうことだってあるかもしれない。
そして私にはそんな彼女の傷を癒してやるような術はない、精々出来る事と言えばそんな傷で泣きそうになっている彼女を慰めてあげる事くらいだ。
何時までもアリシアに頼ってばかりでは駄目だ、ちゃんと自分だけでも自分の事くらいは管理できるようにしなくては……私は心の何処かでずっとそう思っていた。
しかし、アリシアに心配を掛けさせないためには……つまりアリシアが気負わなくてもいいようにする為には私自身が何とかして力をつけるしか方法は無いのだ。
確かにかったるいのは嫌だ、面倒な事もごめん被りたい……だけどそれだけでは避けられない現実が今の私の目の前にはしっかりとあるのだ。
此処から逃げてしまったは私はもっと駄目な奴になってしまう、確かに私のプライドなんてその辺の犬に食わせても犬の方から拒否するくらい安い物だろうが……それでも私にだって譲れない物の一つや二つ在りはするのだ。
この信条を曲げない為にも私は力をつけねばならない、そんな風に考えながら私はアリシアに今の私でも“何とかできるかもしれない力”についての事を何気なしといった感じで質問するのだった。

「ずばり聞くんだけどさ、アリシアは魔法が使えるの? もしも使えるんなら私に実物を見せて欲しいんだ。駄目、かな?」

「う~ん、此処に来る前の私は魔力適正が全然無かったから使えないと言えば使えないんだけど……まあ此処はアルハザードな訳だし、形だけなら私も”呼び出す”って形で使う事は出来るよ。でも、どうして?」

「あぁ、うん……実はさ、この前アリシアは私にもその魔法って言うのが使えるって言ったじゃない? 私は力も無いし、運動神経も無いからどうせ何をやっても駄目なんだろうけど……もしかしたら魔法っていうものなら何とか手が届くんじゃないかって、そう思ったんだ。まあどうせ一朝一夕で身に付くモノじゃないんだろうし、それなりに努力しなきゃいけないことは覚悟してるけど……せめてどんな物かって言う事くらいは知っておきたくてさ。あんな化け物と闘うにしても、こっちも丸腰だと不安だしね。出来たら闘う事に特化した魔法とかを見せてくれるとありがたいんだけど……」

「闘う魔法って言うと攻撃魔法とかそんな風なのかな? 私も実はああいった物には縁が無かったからよく知らないんだけど……まあやれない事は無いし、やってみるよ。えーっと、私の魔力をオーバーSランクに設定して、術式は―――――」

何やらぶつぶつと呪文を唱えるように言葉を紡いでいくアリシア、そしてそんなアリシアをただただ興味有り気と言った様子で見つめる私。
何故私がアリシアにこんな事を頼んだかと言うと、ぶっちゃけ私自身が自分の身を護れる術になりそうな力はジュエルシードの力を除けば魔法と言う物しか他に手段が無かったからだ。
どうせ私は格闘技とかそういうものは出来ないだろうし、希望は捨てきれないけど銃や刀剣といった類の物で武装するにしても入手が難しい……となれば後は消去法で使えそうな力を残していけば最後に残るのはこの魔法と言うものになってしまう。
しかしこれを使うにはアリシアも言った通り何度も練習を重ねるか、魔法を使う為の補助機具を入手するしかない……詰まり一番手の届きそうな物ですらも困難な道のりはつき物であると言う事らしいのだ。
だけど裏を返せばこれは努力次第なら何とかなるんじゃないかと言う希望もまた在ると言う事にもなる、かったるい事は嫌だけどこの際贅沢は言ってはいられない。
だからこそ見極めておきたかったのだ、その魔法と言う物がどんな物で、どれほどの力を孕んでいるのか……そしてそれが本当にこの身でも扱える品物なのかどうなのかという事を。
そんな風に私が考え事をしながらアリシアの方を見ていると、アリシアは手にした拳銃を目の前に突き出しながら私に向かって「準備出来たよ!」と言ってきた。
体操服の少女が銃口を構えている姿は何ともシュールな光景ではあったのだが、私の意識は次の瞬間には完全に別の物へと向けられることになった。
一体あれでどうするんだろ、私がそんな風に思いながら観察をしていた刹那アリシアが手のした拳銃の前に突然光の巻き起こり、その光は形を変えて三角形の不思議な紋章へと姿を変えたのだった。
それはまるでゲームに出てくる魔法陣のような歪で複雑な形の紋章だった、きっと何も知らない人間が見たらRPGに出てくるソレと勘違いしてしまうくらいに。
しかしソレは確かに現実の物として私の目の前にあり、尚且つ素人の私からしても何処か危ない雰囲気を孕んでいるのが見て取れた。
何だかちょっと嫌な予感がする、私がそんな風に思いながらその紋章を眺めていると今度はアリシアから私に対して警告にも似た声を発してきたのだった。

「なのはお姉ちゃん、ちょっとだけ危ないから下がってて。私も使うの初めてだから制御利かないかもしれないし……。じゃあ、撃つよ! よく見ててね」

「う、うん……なるべく、穏便にね」

「それじゃあ―――――いっくよ~! トライデン~トッ、スマッシャぁぁあああ!!!」

「ちょっ、だから穏便にってば!」

私の嘆願も何処へやら、アリシアは拳銃の目の前で回る三角形の魔法陣に何処からともなく現れた光の粒子を収縮させ、ソレを思いっきり目の前へと放ったのだった。
そして次の瞬間私が目撃した光景は、一言で言うならば三つの黄金の閃光だった。
例えるならば『機動戦士ガンダム』に登場するメガ粒子砲か、『テイルズオブファンタジア』に出てくるボスであるダオスのダオスレーザーのような強烈で、当たったらほぼ間違いなく相手は木っ端微塵になっているであろう破壊力を秘めた物であったと言っていい。
そしてそんな物が計三本、光の柱となってこの何処までも続く草原を直進している。
その時私は改めて思い知った、あぁこれはもしかしなくても私が手を出してはいけない領域の物なのではないのかという事を。
確かアリシアの話しではトーレさんもこのアリシアが使っているような魔法と言う物であの化け物を倒したとの事だったが、今ならばそれが為せたというのも納得が出来ると言う物だ。
何せ私の目の前で起きた物は最早魔法と言うよりは『ゾイド』とか『ガンダム』とかそっちの方面で使われるような光の粒子による砲撃であったからだ。
最早これは魔法ではなく名前を荷電粒子砲にでも変えておいた方がいいのではないだろうか、不意にそんな馬鹿らしい考えが私の頭の中を過ぎる。
しかしソレと同時に私は感じていた……この力をモノに出来るのであれば、私だって十分あの化け物と相対することが出来るのではないかという事を。
私は恐怖四割、興味六割といった感じでアリシアの使った魔法についての定義づけを終わらせ、何処かすっきりとした様子のアリシアへと近付いていくのだった。

「ふぃ~全力全開って奴だね。どうだった、なのはお姉ちゃん?」

「うん、凄いね。もうそれ以外の言葉が見当たんないや……それって私でも練習すれば使えるのかな?

「う~ん、分んない。私の使ったトライデントスマッシャーは数ある魔法の中からランダムで選んだ物だし、そもそも本当に“現在”する魔法なのかどうかも定かじゃないから。でも練習すれば使えない事は無いんじゃないかな? 幸いなのはおねえちゃんの魔力は相当な物だし、相性がよければ直ぐ使えるようになると思うよ。まあとは言ってもこの魔法だけに絞って二、三ヶ月練習するのもどうかと思うけど……」

「……ふ~ん、そっか。なるほど、なるほど。ありがとうアリシア、良い参考になったよ」

えへへ、と子供らしく笑うアリシアに対し私は優しげな表情を作って感謝の念を露にする。
しかしその裏側で私は先ほどの「トライデントスマッシャー」だとかいう名前の魔法に対して、様々な思考を廻らせていた。
あの魔法が私にも使用できるようになれば、それこそあんな化け物と一々正面切って闘わなくても相手の視界が届かないアウトレンジから狙撃銃で狙うように責めれば此方に被害は及ばないのではないだろうかとか、あれだけの威力があればそれほど小細工をしなくても威力で押すだけで円滑に事が進むのではないだろうかとかそんな風な事を私は頭の中で延々と考えいく。
アリシアは「色々な魔法をいっぱい覚えた方がいいよ」と言ってはくれていたものの、正直私はそれ等の物を一々練習して時間を割くのは嫌だし、そもそもそんなに多くの事を練習する事自体が面倒くさいのだ。
だが裏を返してみれば単に闘うだけならば私の『完全なる干渉の拒絶』の力で防御し、遮断したところをあんな砲撃で仕留めてしまえばそれ程多くの苦労を感じずに相手が倒せる筈なのだ。
まあもっともあんな大掛かりな物を一朝一夕で身に着けようって言ったって当然無理なんだろうし、それなりの苦労も掛かるのだろうけど……どうせ苦労するならば一つのものに集中して取り組んで使えるものだけを身につけていった方が幾分か建設的だ。
此処は一度起き出して、冷静に気持ちを落ち着けるようになったら再度アリシアに教えを請って感覚だけでも身に着けておくのが最善だ……そうグルグルと廻っていた思考にけりを付けた私は一度ふっ、と息を吐くとアリシアに対し「それじゃあ一旦起きるよ」と言う言葉を掛けて彼女から離れた。
何にしてもごちゃごちゃ考えるのは夕飯を食べてからにしよう、そう思ったのだ。

「それじゃあ私は一旦元の世界に戻るね」

「え~っ、もう帰っちゃうの? もっと練習しようよ~」

「大丈夫だよ、一旦起きてご飯を食べるだけだからさ。それにまた夜には戻ってくるし、この続きはその時にしよう、ね?」

「……うん、分った。バイバイ、なのはお姉ちゃん」

うん、一旦さよなら……そう言いながら私は目を閉じて起き出そうという念を強く頭の中に思い浮かべる。
そしてその数秒後、私の意識はすっかりアルハザードの中から消え去っていた。
所詮アルハザードは夢の世界、此処に私がいられる時間は私の睡眠時間に比例するのだ。
だけど私もそんなに寝てばかりはいられないし、ご飯だってまだ食べなくてはいけない。
夜になったらもう一度戻ってこよう、私はそんな風に考えていた。
だけど反面私はこんな風にも考えていた、あの強力そうな魔法を出来るだけ速く見につける術は本当に無い物なのかと。
アリシアの話しではあの魔法を使うのに二、三ヶ月の時間を有するとの事だった……しかしそんなに長い間私も待ってはいられない。
せめてあれだけの威力を有していなかったとしてもそれに変わる代用技くらいは覚えておきたい、そう思ったのだ。
今後の私もあんな化け物と直接対峙しなければならない事も増えていくのだろうし、下手をすれば命を懸けなければいけない事態にだって発展するかもしれないのだ。
そんな中でアリシアに心配を掛けないためには……私が強くなるしかないのだ。
アリシアはアリシアのやれる精一杯の事をしている、ならば私も私の出来る精一杯のことをしよう。
私はそんな念を胸に抱きながらゆっくりと目を覚ましていった。
今日の夕飯何を食べようかななんていう、本当にどうでもいい事を頭に思い浮かべながら。





どうでもいい補足説明。
多分皆興味ないだろうけど、作中に出てきた銃器のスペックについての補足。
ちなみに銃器類が出てくるのはもう作者の発作みたいな物だと思ってください。
今回、どうも自重出来なかったので……それでは説明。

モデル名:ワルサーP22
製造メーカー:ドイツ、ワルサー社
口径:.22LR
作動方式:ブローバック DA/CA
全長:159mm
全高:114mm
全幅:29mm
重量:484g
マガジン:10+1
素材:スチール/ポリマー

簡単な説明:ワルサーP99という銃の短縮、小口径化モデル。
グリップの握り具合を調整できる為実質的には5歳の子供でも撃とうと思えば撃てる……筈。
ちなみに間違ってもトライデントスマッシャーは撃てないので注意。



[15606] 第十三話「果たしてこれが偶然と言えるの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/03/15 16:38
厄介事って言うのは本人が望んでいようがいまいが知らない間に背負い込んでしまっているもので、それは何時だって碌な事にならないものだ。
自分が正しいと思ってした事、他人が正しいと太鼓判を押してくれた事、世間が正しいと認めている事……何でもいいけれど本当にそれが心の底から信用足りえる物なのかという事を考えてみるとこれは一概にそうとも言えない。
例えその時はそういう解釈がなされていたのだとしても後になってどう転ぶか、なんというようなことは誰にも分らない訳だし、底に厄介事が見え隠れしているのであれば十中八九その厄介事を背負い込んでしまう物なのだ。
これは殆ど理屈ではなく、色々な人間の人生を語る上でどうしても外せないジンクスのような物である……少なくとも私こと高町なのははそう考えていた。
人の数だけ歴史が在るとはよく言ったものだが、そういう人間が残した書籍を手にとって読んでみると意外なまでにこれ等には似通った物が存在する。
その人間が歩んできた道、体験した苦労、挫折しそうになった悲劇、様々な人間との出会いと別れ……そしてその結果抱えてしまった“厄介な品物”をどう扱って生きたのか。
これ等の物は作家や画家と言った創作性に溢れる人間から、革命家や政治家といった公の場に顔を出す人間に至るまで大体の人間が同じような道筋を辿っていると言ってもよかった。
勿論その人間が体験した出来事やそのとき感じた感情なんかの例を挙げればそれこそピンから切まで幾らだって変化は存在しているのだろうけど、結局大きな目で見てしまえば一人の人間が生きた歴史の中での苦労と成功のサイクルには何かしら厄介な物が付き纏う、この事実だけは誰にしたって同じような物だった。
唯違いがあるとすればその厄介を自ら抱えたか、知らずに抱えたかと言う変化だけ……それを除けば凡そ生きている人間と言うのは苦悩や葛藤の先に得た成功や勝利と言った出来事の中には何かしらの面倒ごとを抱えている、つまりはそういうことなのだ。
それに関して言えばまた私自身も同じ事で、嘗て自分が正しいと思ったやった事には”迫害“や”蔑み“といった厄介ごとが付き纏っていたし、私自身もその時は自分自身がよもやこんな事態に陥るとは想定もしていなかった。
だけどその時の私はそんな現実が見えない程にその現場の状況に勝利し、自分の意思を貫くと言う結果を得ていた。
詰まりこれは私自身も分らない内に厄介ごとを背負い込んでいたという証拠な訳で、現実今生きている高町なのはが傍から見れば不遇な立場にいるのは結局その時に背負い込んだ厄介のツケなのだと言えるのかもしれない訳なのだ。
あぁ、なんて損な性分なんだろうか……私は今更になってそんな誰でも何時かは気が付きそうな事に落胆し、今日もまた何度目になるか分らない溜息を宙に吐き捨てるのだった。

(はぁ、何でなのかなぁ。運命の神様っていうのはそんなにも私が嫌いな訳なの? これはもう一種の呪いが掛かっているとしか思えないよ、まったく……)

『あ、あはは……残念だったね。でも大丈夫だよ、明日は……明日はきっと良い事あるよ!』

(明日、ねぇ。私ってさぁ、実際の所占いとか手相とかそういうものって信用しない性質なんだよねぇ。どうせ信じて期待したところでその日その日がどうにかなる訳でもないし、所詮ああいったモノはこんな事があるかもしれませんよっていう憶測な訳じゃない? 信用性が無いって言うかさぁ、何とも胡散臭い気がするんだよねぇ。なんたって……今日の私の運勢はテレビが言うのは最高の一日になるって話なんだけど、こうして目当てのお弁当が売り切れているのを見るとやるせなくなってきちゃう訳だよ。どうにも)

『まぁ、確かにああいうのは気休めなんだろうけど……本当になのはお姉ちゃんって運が無いね。まさかなのはお姉ちゃんについて回る分の運まで”遮断“しちゃってたりして……あぁ!? 嘘だよ、嘘! 冗談だからそんな本気で落ち込まないでってば!』

割と洒落にならない冗談を平気で口走ったアリシアの言葉に私は人目も気にせずその場で膝と手をついて落ち込みそうになった。
まさか人気ライトノベル『とある魔術の禁書目録』の主人公である上条当麻の如く「不幸だ~!」と私自身が口走る時が来るとは思ってもみなかった。
まあ確かにあの主人公は作中でも自分の能力の所為で幸運やら恩恵やらを全部打ち消してたりしていたらしいから何時も不幸なんだろうと言われていたが、それを言ったら現実にこうして『完全なる干渉の遮断』という能力を得ている私自身も彼と同じように幸運やら恩恵をジュエルシードの力で“遮断”してしまっているとしてもおかしくない訳だ。
私に運が無いのはもしかしてジュエルシードの所為なのか、私はちょっと本気でそう思い始めたのだが……其処で直に思考を打ち切った。
何せ私が不幸なのは今に始まった事ではないし、その大半を自分が招いているのだから先天的に不幸な星の元に生まれているという訳でも無い。
結局の所こうして現在進行形で不幸に見舞われているのも私の行動が一足遅かったという事に他ならない、私はここ数年で増してきた苦労の数を思い出して現実逃避をしながら今日で何度目になるか分からないため息をもう一度宙へと吐き捨てた。
何故私がこうも徒労を感じなければならないのか、それについてはアリシアと別れアルハザードから現実の世界へと戻ってきた後の事に原因があったと言えた。
当然私も人間である以上空腹という物は避けられない訳で、アリシアと引き続き訓練を行うにしろご飯を食べてからの方が良いかと思いこうして何時ものように夜の街へとくり出してデパートで値段の安くなったお弁当を買いに来ようと思った……其処までは良かった。
しかし、どういう訳か今日に至っても私のお目当ての幕の内弁当は棚には存在せず、更に言うならば他のお弁当にしても然程割引がされていないからどれを買っても予算がオーバーしてしまうという事態に私は陥ってしまっている訳なのだ。
流石にこうなって来ると普段なら笑い飛ばしているだろうアリシアの冗談も真実な様に聞こえてくるのも無理が無いというもので、私自身としても落胆の色はどうしても隠せはしなかった。
もしかして本当に何か悪い物にでも取り憑かれるのだろうか、私は少しだけ本気になってそんな事を思い始めていた。
尤も、少し考えれば確かに限りなく幽霊に近い何かには取り憑かれていない訳でも無いのだと気が付く私がいるのもまた事実ではあるのだが。
まあ何れにせよ、どうやら私は今日も目当ての弁当にはありつけそうもない……私は今の現状にそう決断を下してがっくりと肩を落とすのだった。

(もしかして変なジンクスでもあるのかな、私? こう目当てにしていたお弁当が買えなくなるとかそんな奴……。別に致命的な訳じゃないけど、地味にこれってくるものがあるよね。ねぇ、アリシア?)

『なっ、なんで其処で私に振るの!? 知らないよ! 本当に私の所為じゃないからね!』

(ふ~ん、そうだねぇ……幸運まで遮断しちゃってるねぇ。これってまあ信じる要素はあっても信じられない要素の方は皆無だよね、実際。普通は逆だと思うんだけど……この場合疑うよりも信じる方が信憑性もあるからねぇ……)

『うぅっ……本当に私じゃないもん』

少々意地悪し過ぎただろうか、そう私が思った時には既にアリシアは「しょぼ~ん」という様な間抜けな効果音が良く似合う位に程良く落ち込んでいた。
まあ私としても悪い事をしちゃったかな、という気持ちが無いではないのだがアルハザードで危うく宛も無いマラソンをさせられかけた事を考えると丁度良く釣り合いが取れているとも私は思った。
ある程度精神年齢的な面でお姉さんである私を舐めていたというのが今回のアリシアの最大の失態だ、自業自得と言えばまさに其処までという事だ。
尤もこのまま落ち込んでいられたところで何か得をする訳でも無ければ、現状私が置かれている立場がどうこうなる訳でも無い。
徐にこのへんで許してあげようかなと思った私は一度ふっ、と小さく息を宙へと吐き捨ててアリシアへと「冗談だよ」と逆に返してあげるのだった。
其処でようやくアリシアは私に弄ばれていた事に気が付いたのか「騙したな~!」と憤慨していたのだが、私は別段気には止めなかった。
純粋過ぎるこの子にはこれ位の事をやんわりと教えてあげるのが丁度良い、そう思ったからだ。
何せアリシア・テスタロッサという子は生きた年数こそ私の何倍も多いものの、その精神年齢は本当に5,6歳辺りで止まっていると言って良い。
そもそもあのアルハザードの中で生きるだとか死ぬだとかの概念自体が存在するのかどうかということ自体が怪しい物だが、まあそれでもベースとなっている年齢があまりにも幼過ぎるというのもまた事実だ。
これから長い付き合いになって行くのが目に見えている状況の中で、この子の純粋さに助けられる部分も多いだろうと私は思う……しかし、反面その純粋さ故に足を引っ張る部分も否めない。
だからこそ私はある程度アリシアにこの世界の汚い部分の方を敢えて見せて、それなりの価値観を持ってもらおうと考えたのだ。
あまりこういう幼い子に人間の黒い部分を見せるのは倫理上宜しくないのかもしれないが、それでもこの世界の……それもこの上辺面だけ整われた中身真っ黒の国で生きて行く上ではそうした“モノ”の耐性を付けなければ精神が持たない筈だ。
やれ思想、やれ政治、やれ経済、やれ社会道徳、やれ民意性……大凡この日本という国は上辺だけは整えられているが内をじっくり観察すると臓腑の様に生臭い部分が多々存在する。
そしてそんな現状を作っているのはやはり人であり、そんな人間同士が集まって造られた社会なのだ。
そんな中にこんな純粋な心情を持ったアリシアをなんの耐性もつかせないまま送りだせば、後々どうなってしまうのかという事くらいは容易に想像が付く。
そもそもそんな社会に見捨てられた私という人間が現に存在しているのだ、アリシアが私の二の舞を踏む可能性は殆ど確実と言ってもいい。
アリシアをそんな私の様にしない為にも今後は色々と気を使って接するべきだ、私は内心でそんな事を考えながらお弁当が陳列されている棚の前から離れる為に踵を返すのだった。

(さぁて、いい加減馬鹿やってないで真面目に今日の糧を探そうかな。お弁当が駄目になるとなると……やっぱり安上がりなのは御惣菜パックか、総菜パンの何れか。だけど炭水化物の事を考えると、やっぱりパンになるのかな? どう思う、アリシア?)

『どうって言われても……そりゃあまあ、なのはお姉ちゃんが食べたい物を食べればいいんじゃない? 正直私は何十年って物を食べるって事をしていないから良く分かんないよ。でもあえて言うなら栄養価の高い物にすればいいんじゃない? なのはお姉ちゃんの場合、ちょっとビタミンとかそっちの方面の栄養素が不足してそうだから』

(へぇ~、そんな事も分かるんだ。自分じゃ全然気付かなかったけど、こういう時に相談できる相手がいるって何か得した気分だよ)

『えへへ、これでもジュエルシードを通してなのはお姉ちゃんとパスを繋げている身だからね。色々と迷惑かけちゃってるんだからこの位はお安い御用だよ』

そう言って微笑みかけて来ているのであろうアリシアに対し、私は「またそういう事を言って……」と半ば呆れ気味に彼女を嗜めた。
まあ元々アリシアが責任やら罪の意識やらといった言葉に深慮なのは私も良く分かっているものの、彼女がこうしたマイナスな考えを言い出したら切りが無いのもまた事実だ。
物事を深く考えて自分自身を振り返って反省するっていうのは確かにすばらしい事なのかもしれないが、それの度合いが行き過ぎていると逆にネガティブな思考に陥ったり、独りでにナーバスになっていたりする事も多い。
そしてアリシアはこういう傾向が人一倍強い、変に責任を感じて自己嫌悪に浸ってしまうタイプの人間な訳だ。
これから彼女と付き合っていく中で取りあえず私に出来る処から矯正を促していこう、私はまるでアリシアの母親か姉にでもなったかのようにそんな事を考えながら歩を進めるのだった。
尤も、人間不信気味で名実ともに社会の屑である私が何を言った処で説得力なんてありもしないというのも重々承知しているのだが。
ともあれ、アリシアという厄介事を私自ら抱えてしまった以上は私もそれなりの業を背負う必要がある……詰まりはそういう結論に達するのだろうと私は思った。
ただ私の場合はアリシアという拾いモノをしたおかげでこうして私は普段なら一人で決める様な事にすらも意見を求める事が出来るし、一人寂しくなった時も良い隣人がすぐ傍にいてくれる環境を得る事が出来たという風に考えられる。
結局のところ私達の関係は必ずしもどちらがどちらを背負っている訳ではない、そんな風にも定義づけられると言って良い。
どちらもお互いにお互いの事を背負いあって足りない処を埋め合っている、それが私とアリシアの関係なのだろうと私は最終的にそう結論付けたのだった。

(とはいっても栄養素ねぇ。はっきり言って今まで全然気にしてなかったから良く分かんないや。野菜ジュースとかそういうのでいいのかな?)

『野菜ジュースってあの色々と果物なり野菜なりを混ぜてミキサーに掛けた奴? 確かに栄養はありそうだけど……あんまり美味しそうとは思わないかな』

(まあそれは私も同意しておくよ。でも何時までも嫌がってちゃ始らないし……試しに一本買ってみるか。比較的マイルドそうな奴なら初心者でも大丈夫でしょ、多分)

『うっ、なのはお姉ちゃんチャレンジャーだね。私だったらパスだな、絶対。でもなのはお姉ちゃんが決めたんならいいんじゃないかな? ファイト、だよ!』

相も変わらずの口癖を口にしたアリシアに「まあボチボチやってみるよ」と軽く相槌を打つ私。
だが内心では野菜ジュースとかそういうものに余分なお金をかけたくないという気持ちがどうしても残ってしまうのだった。
元々私の不健康は今に始まった事ではないし、此処何ヶ月も店屋物で済ませている現在の食生活を考えれば必然的に栄養バランスが傾くと言うのも自然な事だ。
しかし現在の食生活を変えようにも私にはそれだけの貯蓄も無ければ、収入も無い訳で……正直な事を言ってしまえばあまり気にしていないというのが私の本音だった。
どうせ私のような人間は長生きできないだろうし、周りの人間が口を揃えて言っているような公害や生活習慣病についても殆ど意識していない。
故に今更になってこの身体に一つや二つ異常が見つかった所で私は何ら驚きはしないし、やはりそれも自業自得だと受け止められるだけの覚悟もあった。
だけど……それでも私がこんな風にアリシアの意見を素直に聞き入れて悪い所を改めようと感じてしまうのは、偏に彼女に余計な心配をさせない為という気持ちが私の心の中に芽生え始めているからなのだろう。
アリシア・テスタロッサという人間は私の関わる人間の中では特別親密な関係にあると言ってもいい。
まだ出会って間もないと言ってしまえばそれまでだが、私が敬愛する先生を除けば消去法で一番私が時を同じくしている人間は彼女という事になるのだ。
そしてそんな彼女はまだ幼い、確かに時々大人っぽい発言をしたり、私じゃ考えつきもしない様な事を導き出す事も出来るが……それでもまだまだ子供である事には変わりはないのだ。
護ってあげなくてはならない、そして必要以上に心配させてはならない……私の胸に湧き上がっている感情は殆ど年長者としての義務感から来るソレに等しいと言えた。
元々私自身が彼女くらいの年頃の時に色々と寂しい想いを抱えていたという事もそれに拍車を掛けているのだろう。
加えて彼女の一人ぼっちという境遇が嘗ての私と何処か重なってしまい、私自身が既視感を感じてしまっているというのも大きな原因だと言えた。
誰からも相手にされず、長い間一人ぼっちだったという現実がどれほど辛い物なのかを分かっているからこそ……私は彼女に共感できたのだろう。
だからこそ傍にいて欲しいと思った、傍にいてあげたいと思った……私の勝手な感情に過ぎない事は私自身も重々承知しているのだが、私は心からそう思っていた。
共感してもらえるからこそ、共感する事が出来る……そんな隣人の存在を私は改めて思い直しながらゆっくりとスーパーの中を歩いていくのであった。

(それにしても……よくもまあメーカー側もこれだけの商品を出してくるもんだよね。こういった野菜ジュースなり、レトルトカレーなんかにしても似たような物なのに)

『まあ、それだけ需要に応える必要があるって事なんじゃないかな? 例え同じ料理でも匙加減一つで微妙に味が変わっちゃう訳だし、それによっても人の好みに合う合わないってあるだろうから。なのはお姉ちゃんも拘りとか贔屓にしてるものとかってあるでしょ? だけどそれはあくまでなのはお姉ちゃんを主観としての見方であって、それが全ての人に当て嵌まるかっていうとそうじゃない。人は一人一人違う感性を持っている訳だし、そういう人達の好みをある程度妥協して、カテゴリーをもう少し広くした結果がこういう風な商品の多様化に繋がってるんだと思うよ。実際、そうっぽいしね』

(ふ~ん、何となくは分るけど……そんなもんなのかなぁ? 確かにこの国は“周りの人見て右倣え”っていうような感じだから合ってるには合ってるんだろうけどね。でもなんか、釈然としないような気がするんだよなぁ。こういう料理とか清涼飲料水には色々と個性を出すのに、その反面周りの人を見れば皆同じで揃ってるって言うのが美徳みたいな感じの人がいっぱい出し……なんかそういうのを見てると矛盾しているように見えるよね。あっ、ごめん。何か変な話しちゃったかな?)

『ううん、良いよ別に。ちょっと難しい話だけど分らないではなかったから。ごちゃごちゃと似たような物があるのなら統一しちゃえば楽なのにっていうのはある種合理的な考えの最頂点だからね。でも、それで本当に良いのかって言われたら……私は嫌だな。確かに同じような物ではあったとしても、まったく同じって言う訳じゃないでしょ? だとしたらそんな“同じような物”の中には個性って言う物はちゃんと存在するんだよ、きっと。だから全部が全部同じように統一されちゃうって言うのはあんまりいい事じゃないように私は思うな。正直、私もこんな事を考えるの初めてだからあんまり偉そうな事は言えないんだけどね』

様々な清涼飲料や炭酸飲料が陳列する棚の前に立ち、一本100円前後の野菜ジュースを幾つか手に取りながら見比べていた私は不意に浮かんだ考えについてアリシアと議論を続けていた。
しかし、意外にもアリシアにはアリシアなりの考えがあったようで私も強い意志をもって言葉を返してきた彼女に「やっぱり難しい事は考える物じゃないね」と相槌を打ってこの話し合いに終止符を打ったのだった。
同じような物とまったく同じ物の違い、正直彼女の考えに私は驚かされてばかりだった。
確かに同じような物同士を見比べた場合其処にはあまり大きな物ではないが”違い”と言う物が生まれる、しかし反対にまったく同じ物同士を見比べた場合は特に何の感慨も抱く事は無い。
何故ならまったく同じ物同士なら味や質感などと言って直接的なものだけでなく、成分や構成物質の量に至るまで何もかもが同じであるからだ。
そんな物に違いが生まれる訳は無いし、そもそもそういった物は違いを生まないように生産されているのだから違いが無くて当然と言っても過言ではないのだ。
つまりこれはそもそも比べる比べないの問題ではなく、その微細な違いに焦点を向けると言う事が重要なのだということに繋がると言う事なのだろう。
その考えは確かに正しいと思うし、似ていても“同じ”で無い以上はそこに個性が生まれるというのも納得できる話だ。
だけど私はやっぱり、素直にその考えに「そうなのかもしれないね」と肯定する事はできなかった。
これはやはり私自身が体験してきたこの国においての”個性”に対する反応が大きく関係しているのだと言う事が出来た。
凡そ私が生まれ育って日本という国は周りの人間に自己を同調する事で集団としてのアイデンティティを形成し、出来上がった物だ。
出る杭は打たれ、目立って咲いた花は摘まれ、同調できない色は塗り潰される……詰まりこの国の多くの人間は例えその才覚の種を有していたとしても周りの人間の次第によって足を引かれてしまう。
何故ならこの国にすむ誰もが皆その中央にある横並びの平均を至上だと考えるからだ。
名を世に売れば様々なトラブルに巻き込まれ、逆に横並びの人間からの非難を浴びてしまう事も多々あるし……逆に引きすぎれば引きすぎたで“劣等”という烙印を押され最底辺のレベルまで蹴落とされる。
そういうお国柄だからこそ誰もが平坦とか平均とか言う当たり障りの無い無害なラインに身を置き、飛ぶ事が出来ないならせめてとばかりに共に上を見上げ、そして愚痴を共有する。
そして悪いのは誰か、問題は何か、そんな事を延々ともっともらしく語り合う訳だ。
当然そんな状況だからその手の責任転嫁、つるし上げなんていうのは当たり前であり……誰しも自分に飛ぶ為の“翼”がないのが悪いと言う。
私からしてみればもう適当に全部悪いというべきか、あるいはそういう物なのだと達観するしかないように思えるのだが……いずれにせよ、事の元凶が何なのか分った所で其処に意味など何も無いのだろう。
この身に受けた傷と仕打ち、そして周りの人間の下卑た笑いとそれに同調する人間の姿勢を見れば嫌でも思い知らされる……故に私は個性と言うものが在るというのはあまり良い様には思っていなかった。
でも、こうしてアリシアと話していると何だか私の方が間違った感性をもっているような気がして……正直私自身もこの話についてはどちらが良いのかというのを自分の中で決める事が出来ないでいた。
個性を持って生まれてしまい、結果集団からはみ出した物が悪いのか。
それともそんな個性のある者を羨み嫉んで、異端だとレッテルをはって蔑む人間が悪いのか。
そしてもしくは、そんな両者共に間違っているのであって……また正しいと言うべきなのか。
私は手に持った籠の中に、適当に口当たりが良さそうだと思った缶の野菜ジュースを放り込みながら自分の中で渦巻いている感情に何とも言えないもやもやとした勘定を抱えるのであった。

(……まあ何にしても、こうした矛盾も含めて一つの形って事か。ありがとうアリシア、良い参考になったよ)

『そう? なのはお姉ちゃんがそれで納得するなら私はそれでいいけど……ってうわ!? この野菜ジュース果物よりも野菜の方が多くない? 何だか不味そう……』

(良薬口に苦しっていうからね。あんまり美味しくない方が身体に利いたりする物なんだよ。まぁ、尤も……正直これが一番アリシアの言ってた栄養素を含んでるからって事で決めた訳なんだけど。やっぱり一本は他の奴にしておこうかなぁ?)

『それをお勧めするよ。下手な物をいっぺんに買って、後で後悔しても遅いからね。こういうのはよく吟味して、なるべく外れの無さそうなのを買った方がいいんだよ。なのはお姉ちゃんの場合だと、お金の無駄使いもそんなに出来ないだろうからね』

もっともだと言えるアリシアの正論に私は「じゃあ、そうしてみるよ」と考えを改め籠の中の一本を棚に戻し、比較的メジャーな野菜ジュースの缶を別の棚から一本取って籠の中へと放り込み、その場を後にするのだった。
そしてその後も私は惣菜パンを見たり、手軽に摘めそうな惣菜パックを探したりして買い物を続行した。
勿論その間にも私はアリシアと様々な言葉を交わし、何処がどう良さそうだとか、何がどういう風に美味しそうだとかそんな他愛の無い話に華を咲かせていた。
しかしその際、私はあまり重苦しい話を蒸返さないように一字一句気をつけながらアリシアと言葉を交わしていた。
これは彼女に気を使ったのが半分、そして私自身がこの話をもう蒸返したくないと言う気持ちが半分……いや、もしかしたら後者の方がその割合の大半を占めていると言っても過言ではなかった。
個性を持つ、それが果たして正しいのか否なのか……そんな途方も無い水掛け論に半ばうんざりしていたと言っていいのかもしれない。
私は考える事に疲れていた、だから彼女と言葉を交わす際もなるべくこの手の話題を避けることにしていたのだった。
臆病と言われれば確かにそうなのかもしれない、だけど精神的な疲れって言うのは肉体的な疲れに比べて我慢するのも癒すのも容易な事ではない。
当然そんな状況下の中で人一倍精神面に脆い私が耐えることなど出来る筈もなく、私はこの日もまた結論を出すべき所で逃げてしまったのだ。
あぁ、本当に根性無いな私って……私は内心でそんな風に自分自身を自嘲しながら夕食の買い物を着々と進めていくのだった。





その後、私は野菜ジュースに加えて値引きシールの貼られた鳥の唐揚げの惣菜パックと焼き蕎麦パンを一つずつ購入し、帰路に付く為に再び夜の街へと繰り出していた。
暗い路地を抜け、人ごみ溢れる商店街の街道を歩き、そしてまた人気の無い道路を歩いて歩いて歩き続ける。
そんな何時もだったらどうとも思わないような事を私はこの日も変わらず繰り返していたのだった。
夜の街は相変わらず騒がしい、私は道行く人や通り過ぎる町並みを見ながら改めてそう思った。
何がこの人たちを此処まで引き立たせているのだろう、私は何時も何時もそう思って止まず……そしてこの日も同じような疑問を抱えながら家へと続く道を歩いていた。
本当にいつもと変わらない事、そしてそんないつもと変わらない事を延々と繰り返している私。
本当に何の変化も無い、普段均そう思っていたのであろうが……この日はちょっとばかり事情が違っていた。
その大部分の原因はアリシアにあった、と言うか彼女以外が原因となりえる要素を持たないのだから大方彼女の所為だといっても過言ではない。
私はそんな彼女の様子に半ばうんざりといった感じを隠せないまま、先生のマンションの近くにある通りの道を只管がっくりと肩を落としながら歩いていくのであった。

『ん~っ、なんか楽しかったね! 色々な物がいっぱいあって、ピカピカ光っててさ。久しぶりに見たよこんな街並み。また来ようね、なのはお姉ちゃん!』

「あ~うん、そんなにはしゃがなくても多分私とつるんでれば毎日来れると思うよ。というかほぼ間違い無くね。それにしても……今日は一段とテンション高いね、アリシア。そんなに珍しかった、あんなのが?」

『うん! 私って殆どお母さんにくっ付いてばっかりだったから夜の街って出た事が無かったんだ。本当はちょっぴり、夜に出歩くのが怖かったっていうのもあるんだけどね。だけど夜だっていうのに昼間みたいに明るかったからびっくりしちゃったよ。これなら安心して夜も街に出歩けるね!』

「まあ普通は出歩かない方がいいんだろうけどね……。でもまあ、アリシアが喜んでくれてるようなら良かったよ。正直私は内心複雑だけどさ……」

そんな私の返答に愛らしく「なんで?」と聞き返してくるアリシア、そしてそんな彼女に「アリシアにはまだ分らなくてもいい事だよ」とだけ返答する私。
如何にも歯切れの悪い、そしてお互いの認識の相違に何時も以上に苦労と疲れを感じてしまう私がそこにはいたのだった。
確かにまあアリシアの言っている事も分らなくは無い、彼女は永らくの間アルハザードという閉鎖的な空間に独りぼっちでいた訳なのだし、そうでなくても精神的にはまだ五歳前後の子供であるのだから目新しい物に興味を持つのは自然な事だ。
しかし、結果としてそんな彼女の好奇心から来る高揚が同時に私のテンションを引き下げている事は否めなかった。
元々私という人間はそれ程高揚することも無ければ激情する事もなく、ただただ平坦に物事を見据えて自分なりの分析を行いながら日々を生きている人間だ……なんて言えば少しはカッコいいのかもしれないが、要するに感情の上がり下がりが極端に他の人間よりも少ないという事だ。
というよりは寧ろマイナス、何でもかんでもネガティブに物事を捉えてしまう癖が在ると言ってもいいのかもしれない。
そんな私だからこそ、アリシアの無垢で純粋な感情から来るテンションの高さは妙に鼻についた。
子供だから仕方が無いと割り切ってはいるのだが、それでも心の何処かで「何でこんなにテンション高いの?」という気持ちを抱いてしまっている。
自分でも何とかしたいとは思っているのだが、重度の人間不信者である私は他人が突然自分の近くで笑い出しただけで自分が笑われているのではと勘潜ってしまうほど他人に対して臆病になってしまっている。
こんな気持ちや感情の上がり下がりを人に合わせるって言うのはやっぱり私には困難な事なのかもしれない、私は不意にそんな事を思い浮かべながらアリシアとの会話を続け、手に持つビニール袋を揺らしながらゆっくりと夜の道を歩いていくのだった。

『ん~っ、なのはお姉ちゃんの言う事は一々何かを揶揄してるっぽくて難しいや。そういえばなのはお姉ちゃんって何時もそんな感じなの?』

「何時もって?」

『何時もは何時もだよ、誰かと話す時。なのはお姉ちゃんが大体どんな風な人なのかっていうのは色々見てきて分ってるけど、それでもあの“先生”って言う人みたいな人なら普通にお話しするわけでしょ? それなのにそんな難しい事ばっかり言ってて疲れない? 少なくとも私なら一時間も持ちそうに無いけど』

「……あぁ、そういう事ね。まあ前者にしろ後者にしろ答えはイエス、かな。大体私が本気で人と接しようとするなら面倒くさいけど一々言葉を選んで何かを連想させる事を相手に伝えようとするし、それが疲れるかって言えばまあ疲れるよ。だけどまあ、私の場合は日常生活自体が疲れてばっかりだからさ……それ程苦労を苦労とも感じないんだよ。それにこういう話し方をしているからこそ得られる物っていうのも色々とあるしね。とはいえ、かったるい事には変わりは無いんだけどさ」

アリシアの素朴な疑問に対し、私はそう言って質問の返答を返し終えた。
自分でも自分の言って事をそれ程よく理解していた訳ではないが、当たり障りが無いように言葉を選んだ結果にしては上等だと私は思った。
彼女へと言った事に嘘偽りは一切言っていない、しかし誤魔化す所は上手く誤魔化している……現にアリシアも「やっぱり何か難しいや……」と早速上がったテンションを程よく引き下げてくれていた。
此処で私は少しだけ自分のいったことについて振り返ってみる事にした、尤もその行為自体に何か意味があった訳ではないが。
少しだけ引っ掛かりを覚えた、まあ理由付けをするのならその程度が関の山といった程度のくだらない感傷から来る思い返しだったと言ってもいいだろう。
何故自分自身がこんな偏屈な物言いをするようになったのか、そして何故かったるいと分っているのに懲りずに続けているのか……少しだけ私も興味が合ったのだ。
しかし、その答えは少しだけ考えれば直ぐに浮かんだ。
何せその原因を作ったのもこの話の核である人物ならば、私にこういう話し方を教えたのもその人物であり、やはり私が一番会話を共にするのがその人物……“先生”であるからなのだ。
私は自分がこんな風な境遇に落とされてから永らくの間、誰ともまともに口を聞かない状態……所謂完全な人間不信に陥っていた。
両親、家族、元友人……今まで親しかった人間が皆が私の事を影では嘲笑っているのではと言う感情がどうしても先行してしまい、誰にも相談できず私は永らくの間独りぼっちでいる事を受け入れざるを得なかったのだ。
当然その間に私は散々泣いて枕を濡らした物だし、影では分って欲しいと一つ一つの言葉の中にそれなりの感情を込めて言葉を掛けてくる人間に対応したりした物だ。
だけど結局何も変わらなかった、それどころか家族や両親はそんな私の態度を”変わってしまった“とだけ言って理解しようともしてくれなかった。
そんな状態に自分がいる事を理解した時、私は大層絶望した物だ……そしてそれ以上の落胆と理不尽を抱え込んでしまっていた。
そして私は最終的にこう思った、どうせ私なんてこの程度の存在でしかないんだって。
それから私は永らく心を閉ざした、殴られても蹴られてもそれを「どうして?」と疑問視する事も「止めて!」と拒否する事も無く、「どうせ……」と自分自身の境遇に妥協してその全てをただただ淡々と受け入れるばかりだった。
エスカレートする仕打ち、徐々に擁護してくれなくなる大人、そして信じていた者たちからの裏切り……そのどれもこれもが辛すぎて私はただただ涙を流して耐え続ける事しか出来なかった。
でも、そんな日々にも限界はあった……元々それ程強くも無い私の心はそんな仕打ちに長く耐え続けられるようには出来ていなかったのだ。
繰り返される罵倒と暴力、執拗なほどに追い詰めてくるクラスメイト、そしてそんな彼らの様子を見ているにも拘らず無視し続ける教師達……そんな地獄のような場所で私の精神がそれ程長く持たなかったというのは最早言うまでも無いことだった。
その時の私の心情としては”疲れていた”というのが正しいのだろう、いや”疲れ果てていた”といった方が適切なのかもしれない。
辛くてなく日もあった、受けた傷や痣で眠れず倒れそうになった日もあった、何故私がこんな理不尽を受け続けなければいけないのかと憤りを感じた日もあった……だけど最終的にそんな感情が残したのはこの身に刻んだ肉体的な疲労と精神的な消耗だけだった。
故に私はどうしようもなく疲れていた、それこそ生きているのが辛いのならいっそ死んでしまえばいいのではないかと思ってしまうくらいに。
大体そんな頃だ、彼女に―――――先生に出会ったのは、私はそんな風に思い返しながら少しだけ歩く速度を落として夜空を見上げてみる事にした。

「……そういえば、こんな風な夜の事だっけか。あれは」

『えっ? どうしたの?』

「あ~……んにゃ、なんでもないよ。ちょっとだけ昔のことを思い出してセンチメンタル感じちゃった、それだけの事だよ」

『ふ~ん、何だか深そうな御話しだねぇ。なのはお姉ちゃんって本当に私と4歳しか離れてないのかって思うくらい色々と抱え込んでるし……ちょっとだけ興味あるかも、なのはお姉ちゃんの昔の話って』

野次馬根性というかなんというか、さぞや淡い期待を胸に抱いてますよと言わんばかりのアリシアの態度に私は「どうせ聞いたってつまんないだろうから止めとくよ」と言って釘を刺し、再び前を向いて歩を進める事を再開した。
そんな私の言葉にアリシアは「え~っ!」と非難全開といった様子で抗議の声をあげていたが、こればっかりはと私もそこで言葉を区切り彼女に対して何の返答も返しはしなかった。
幾ら親しい隣人がいても触れて欲しくない過去の一つや二つ私も持ち合わせている、そういうものには易々と触れて欲しくは無い……つまりはそういう事だ。
確かに私とアリシアの縁は深い、そしてこれからも深くなり続けるだろう事は恐らく間違いないに違いないと私も思っている。
だが、それでも私という人間が……高町なのはという人間が持ち合わせている過去は総じて私だけのものだ、誰の物でもない。
そしてその持ち合わせを私が彼女に晒すかどうかは結局の所私の匙加減次第なのだ、持ったら持っただけ全部相手に曝け出さなきゃいけないなんていうことも無いだろう。
それに先生と私の過去については私だけの記憶として胸に留めておきたい、少なくとも私か先生がそれを周囲に公言するのを良しとしない限りは……そういう感情が私の中で働いたのもそれに拍車を掛けていたと言えた。
あれは……もう何ヶ月も前になる、詳しい記憶は私もあまり鮮明ではなかったし、恐らく先生自身もそれ程深くあの出来事を覚えていたわけじゃないだろうから詳しい日数だとか何時ごろだったとかそんな事は覚えてすらいない。
分っている事とすればその日は今日の様に星空が綺麗な日であり、出会った場所が学校の裏庭という偏屈な場所で、お互いがお互いの事情を抱え夜遅くまで学校に残っていたという事くらいな物だろう。
出合ったきっかけは本当に些細な物だった、その日私は教科書やノートをクラスメイトに隠されて必死になって探して夜遅くまで学校に残っていた……そしてそれがようやく見つかったと思ったらそれは既に焼却炉の中で灰になっていた。
当時の私としてはその出来事は相当ショックな物であり、探し回っていた疲労も合ってか私はしばしの間その場所から動く事が出来なかった。
そして私はこの日も性懲りも無く泣いた、その場に蹲り、自分ばっかりが何故こんな目に合わなきゃいけないのかと強い憤りを感じながら……ただただ嗚咽を押し殺しながら一人で静かに泣いていた。
普段ならこのまま泣き続けるだけで終わっていただろう、だけどその日は少しだけ事情が違っていた……そんな私を照らす光を人影が遮ったのだ。
もしかしたら見回りの警備員さんかな、なんて私は危機感を抱いた物だ……だけどもう通報されようが何をしようが私にはもうそれに抗うだけの体力も覇気も残されてはいなかったからだ。
散々色々な所を探し回った御蔭で制服は汚れ、指先は擦り傷や切り傷でジンジン痛み、精神と肉体の両方を疲労しきった身体は……もう殆ど私のいう事を聞いてはくれなかった。
私の苦労って何だったんだろう、私はそんな風な事を考えながらその人影の方を見上げた……もうどうなったって構いはしないと開き直っていたのだ。
だけど其処にいたのは見回りのごつい警備員さんでもなければ、口煩いだけの頭を禿散らかした教頭先生でもなく……煙草を口に咥えた若い女の人だった。
その人は大人の女性らしいタートルネックのシャツにタイトスカート、そしてそんな服装の上から白衣を着込むというちょっとだけ珍妙な格好をしていたのを私は今でも覚えている。
そしてその女の人は私の様子に戸惑う訳でもなければ、他の先生のように軽蔑した眼差しを送るでもなく……唯一言私にこういってきたのだ。
「星が綺麗ね」って、言葉にすればなんて事の無い本当にどうでもいいような台詞を。
だけどその時私が見上げた空は確かに綺麗な星空が広がっていて、あの時掛けられた言葉のままに空を見上げた私は単純に「綺麗……」というような感想を漏らしたりした物だ。
そして私とその女の人はしばらくの間黙って星空を見上げ続けていた、何を考えるでもなく、星座がどうだとか丸まるの星の名前は何だとかそんな小難しい理屈を全部かなぐり捨てて……ただただ輝く星を見上げ続けていた。
そんな中でその女の人は私に声を掛けてきた、その言葉は当時の私にはよく分らなくて、一体女の人が何を言いたかったのかよく理解する事が出来なかった。
だけど女の人はそんな私に「知りたかったら、何時でも待ってる」とだけ言い残し、煙草を吹かせながらまた私の元を去っていったのだ。
私はそんな女の人の後姿を見届けながら、結局彼女は何が言いたかったのだろうと必死に考えた物だ……しかし答えは見つからなかった。
どれだけ考えても、どれだけ悩んでも、どれだけ自問自答を繰り返してもやっぱりその答えは自分の内からは出てくる事は無い。
だからこそ、知りたくなった……私の知らないその答えを知っているその先生に教えを請いたくなったのだ。
そう思い当たった時にはもう私は自分の身に起きた理不尽すらも忘れていた、何というか……安っぽい感傷だったんだなって自分でも思う。
その後、私はその先生が小等部の養護教諭であることを知った……そして私達は再会し、今の現状に至る。
それが私と先生の出会いであり、出来れば誰にも教えたくは無い自分自身の大切な思い出の一つなのだ。
こればっかりはアリシアにもそう簡単に教えられない、私はあの時先生が始めて私に投げ掛けてきた小難しい言葉を口ずさみながら歩を早めるのだった。

「……天の星になることが叶わないのなら地の星となって輝けばいい、か」

『えっ、なに? どうしたの?』

「なんにも、ただちょっとアリシアに私からヒントを一つと思ってね。私の過去なんか知らない方が身のためだし、どうせ碌な物じゃない。だから私は話さないし、話そうとも思わない。だけどさ、それだけじゃあつまらないでしょ? 人は想像して、悩んでこそ聡明足りえるのだろうからね。だから話はしないけど、私の過去に繋がるキーワードを一つアリシアへとあげようって訳。詳しい事はまた考えるといいよ、とはいってもアルハザードの力を使ってずるしちゃ駄目だよ。この手の物に明確な答えは必要ない、そういうものなんだからさ……」

『ふ~ん、そういうものなんだ……。想像する、か。今まで考えた事も無かったよ。だけど地の星ってどういうこと? お星様はお空にあるからお星様なんでしょ?』

本当に子供のような反応で私に聞き返してくるアリシアに私は「それが考えるって事だよ」とだけ言い、自嘲気味な笑みを浮かべながら嘗て先生から掛けられた言葉を思い出していた。
初めて先生とあの保健室で相対し、先生が語った事は今でも鮮明に覚えている。
この世の中は何時如何なる時も行動の選択によって転換する、座り込み今の状況に甘んじているだけでは如何にもならない。
穢れなさい、貴女が真に答えを欲しているのであれば……真っ白なまま綺麗であり続ける事などありえないのだから。
そうすれば天に輝く星にはなれなくても、この清い世界の中に黒の一点を残す地星になれるはず。
そしてもしもその穢れが酷く、輝く星のようになることが叶わなくなったのなら……その穢れを輝きとしてその身に纏えばいい。
人が汚れると言うのは決して恥ずべき事ではないのだから、それが先生の言った言葉の全てだった。
私は今になってもこの言葉の真の意味合いがよく理解出来ていない、とはいっても先生曰くこの言葉はとあるゲームで敵の悪役が女幹部に言っていた言葉であるとのことなので恐らくは先生自身もあまり深く考えずにこの言葉を私に掛けてきたのだろうから、もしかしたらこの言葉にはそれ程深い意味合いなど最初から込められていないのかも知れない。
しかし、それでも尚私がその言葉をずっと胸に抱き続けているのは……心の何処かでその言葉に私自身がデジャブを感じてしまっているからなのだろう。
私自身、もう二度と表の人間のように綺麗に笑い、そして華やかな人生を遅れるとは思ってはいない。
もう戻れない所まで落ちてきてしまった、それを私自身が一番よく理解しているからこその自覚だった。
だけどもしも先生の言葉が何かの意味を成すのであれば、私は黒く穢れた地の星として何か事を成せるのではないのだろうか……そんな風に考えてしまう訳だ。
その成せることというのが何なのかはまだ分らないけれど、汚れ、穢れ、黒く染まったからこそ伝えられる何かがある筈なのだ。
少なくとも私はそう考えている、そう考えているからこそ……私は今の今になってもその言葉の真の意味を捜し続けている。
とはいえ、今の今まで生きてきてもその答えが見つかる気配すらない。
やはり私には才能が無いのだろうか、私はそんな風な事を頭の中で考えながらふと立ち止まり、自分が今居る場所の周りを少しだけ見回してみる事にしたのだった。

「ここは、確か……」

『んっ? どうかしたの、なのはお姉ちゃん』

「踏み切り、か。何だか嫌な事を思い出しちゃったよ、今度は別の意味でね」

『え~何々、また隠し事? 何だかなのはお姉ちゃんって隠し事が多くない?』

ちょっと仲間外れにされて不満げだと言わんばかりのアリシアの言葉に私は「ごめんね……」と素直に謝りながらその風景を自分の記憶にある一場面と結び付けていた。
其処はほんの数日前、私があの金髪の女の子が飛び込み自殺をしそうになっていたのを止めた踏切へと続く一本道だった。
あの時とは違い今は雨も降ってはいないし、電車が来ることを告げる甲高い警告音もなっていないが……私はその光景が妙に印象に残ったいたのだ。
いや、寧ろ印象に残っていたのはこの風景と言うよりは此処で自殺をしようとしていた金髪の女のこの方というべきだろうか。
雨に濡れた身体を引きずって、ボロボロになったい黒い衣服を身に纏い、明らかに人為的だと思われる酷い怪我を晒しながら一直線に踏み切りへと飛び込もうとしたあの女の子。
名前も知らない、何処に住んでいるのかも知らない、そもそも何の縁すらない外国人の女の子……その筈なのに私には如何にもあの子の顔が記憶に焼き付いて頭から離れなかった。
第一私自身なんであの女の子を助けようと思ったのかと言う事すらも分っていない、自分自身でも見捨てるこそしても他人を率先して助けるなんていう正義の味方染みた感情を持ち合わせていない事が分っているから普通に考えれば私は彼女を見捨てていただろうということもなんとなく分っている事だった。
なのに私は助けてしまった、そしてそればかりか私はそのこの事を今になっても忘れられないでいる。
本当に私には関係の無いどうでもいい事な筈なのに、私はそんな風に思いながらゆっくりと踏み切りの傍まで近寄っていき、その子の表情や格好を頭に思い浮かべながらそのあたりの地形を少しだけ詳しく観察し始めたのだった。

『ねぇ、なのはお姉ちゃん。こんな所にいても何にもならないよ~。道草食ってないで速く帰ろうよ~』

「ごめん、少しだけ待ってくれるかな? ちょっと……気になることがあってさ」

『ぶ~! 私の事は気にしてくれないの~?』

「あはは、ごめんごめん。後、もうちょっとだけ……あっ」

完全に不貞腐れてますよっていうような感じのアリシアに対し、再度謝罪を述べた私は徐に観察を続け……そして視界の中にキラッと輝く物を見つけたのだった。
なんだろう、と私が興味半分で踏み切りの前から離れ、その光った物の方へと歩を進めていくと……其処には四方数十メートルと言った具合に周りから切り出された空き地があった。
恐らくは住宅か何かを建てようとしたのだけれど大人の事情って奴で計画が中止され、土地だけが残されてしまったのが原因で出来てしまった物なのだろう。
しかも何年も手入れをしていないからなのか、草木は茫々で投げ捨てられたゴミや缶もそのままといった具合に放置されていた。
現代日本における一世代前の負の遺産、私はテレビのコメンテーターが言っていたそんな台詞を思い出しながらゆっくりとその中へと足を踏み入れていった。
キラッと光った物はやはりその奥に存在していた、もしかしたら単なる空き瓶か何かの破片が発光しているのかもしれないとも私は思ったのだが……ジュエルシードを拾った時の事も考えると無視できないと言うのが正直な本音だった。
まあアリシアは「あんまり奥にいくとばっちいかもしれないよ~」などと幼い子供に注意する母親のような事を言っていたが、元々薄汚れているのは承知の上だと分っている私はやっぱり臆することなく奥へ奥へと歩を進めていった。
草木を掻き分け、足でゴミを払い、時々転びそうになりながらも足を動かし続ける。
すると、私は大体その空き地の中央部に位置する辺りでその草木の中にぽっかりと穴が開いたような風に草木が切り取られている場所を発見し、徐に其処で足を止めた。
そして私が見たものは、二つの物体……一つはまるで石碑のように組み合わさっている石のオブジェ、そしてもう一つはそんなオブジェに捧げられるように置かれている罅の入った金色の三角形の金属片だった。
一体これは何なのだろう、そう思った私はそのオブジェに近付いていきそれをよくよく観察してみる。
其処には外国語か何かの複雑な文字が刻まれていた、私からすれば寧ろ模様か何かだったと言っても過言ではないようなそんな複雑な物だ。
ますます訳が分らない、私はそんな風に思いながらアリシアへと「これが何か分る?」と言う風に訪ねてみる事にした。
答えが分らないのなら聞けばいい、唐突に私はどんな辞書よりも便利な隣人の存在に気が付いたのだ。
こういうときに役立って貰わないと、私はそんな風に楽観した様子で物事を捉えていたのだが……当のアリシアは先ほどの様子がまるで嘘だったと言わんばかりに暗い空気を漂わせながら口篭ってしまったいた。
そして彼女の雰囲気が変わった途端、私自身もまた彼女の様子を察してそのオブジェに対する視線を改めた。
何だかこれは簡単に私が聞いてしまってはいけないものなのではないか、そんな雰囲気なのではないかと悟ったからだ。
しかし、アリシアは口を開いた……まるで何処か何か許しを請うような雰囲気を漂わせながら。

『アルフの……墓……』

「えっ?」

『これはね、なのはお姉ちゃん。お墓なんだよ、小さいけれど。何処にも埋葬する場所が無くて、仕方が無いから此処に埋めるしかなかった……私にはそんな過去が見えたよ。ごめん、これに関してはあんまり私も喋りたくないな。あんまり、こういう事を話すのは良くない事だろうから……』

「……そっか。でも、まさか人……じゃないよね?」

もしも人だったら死体遺棄という大事になる、私は不謹慎だと思いながらも念のためアリシアのその是非を確認して貰う事にした。
するとアリシアは重苦しいような気配を漂わせながら「犬だよ、多分ね」と投げ遣りな言葉を最後にそのまま押し黙ってしまった。
それを聞いた私はそれなら少しは安心できるとばかりに安堵の溜息を漏らした、だけどその反面内心では命の重さに種族も何も無いという私らしくも無い感傷に浸っていた。
元々私自身それ程命の重さがどうだとか、命は皆平等だとかそんな風な事をいうような人間ではない。
寧ろ何処で誰がどんな風に死んでしまおうが私には関係が無い、そんな風に平気で割り切ってしまえる程の非常な人間なのだ。
だけどいざこういう風に実物を目にしてみると何だか心が重苦しくなって、ちょっとだけ私は嫌な気分に浸ってしまっていた。
やはり私という人間は如何にも中途半端だ、そんな風な気持ちを胸に抱きながら。
しかし、此処で私はそのお墓に備えるように置いてあったもう一つの金色の金属片の方も気に掛かった。
これがお墓なのは分ったとして、この金属片は一体何なのだろうか……そんな風に思ったのだ。
私はそっとその場にしゃがみ込み、そのお墓の上に置いてあった金属片を摘み上げるとそれを手にとって色々と観察をし始めた。
もしかしたらこの死んだ犬のご主人様が手向け代わりに置いていった首輪の装飾具か何かとも思ったのだが、如何にも私にはその手の物には見受けられなかったのだ。
すると、其処でアリシアが「お姉ちゃん、それは!」と声を張り上げてきた。
そんなアリシアの様子に驚いた私は「な、なに!?」と若干テンパり気味な挙動でそれに答えてしまう……何というか余裕が無いなって心の中で思ってしまった。
だけどアリシアはそんな私の反応を他所に、私の手の上にあるこの金属片に興味津々といった具合だった。
一体何がどうしたと言うのか、私がアリシアへとそう問いかけると彼女はゆっくりと……しかも今度はちょっと真面目そうな声色で私にその金属が何なのかという事を説明しだしたのだった。

『それはデバイスだよ!』

「はっ、デバイス? 何それ?」

『簡単に言うとなのはお姉ちゃんでも簡単に魔法が使える機械の事だよ。ほら、前に話したでしょ? なのはお姉ちゃんのような素人さんが直ぐに魔法を使うにはそれなりの専用器具が必要になるって。それがこのデバイスなんだよ』

「えっ、これが!? でも一体なんで……それに何だか壊れてるみたいだし……」

口ではそんな事を言いながらも内心では「あちゃ~、まさか本当にエンカウントするとは」と何処までもゲーム脳一直線な事を考えてしまう私。
しかしアリシアの言う事が冗談でないのだとしたらこれは本当に彼女の言う魔法を使う為の装置なのだろうし、質感や重さから見ても何となく普通の物ではないと言う事は素人の私でも何となく想像が付いた。
金属のようなのにやけに軽く、それでいて何処かこの世界の物ではないような光沢を持ったそれは確かに魔法の世界の物だと言ったら信じ込めてしまうほど見事な造りをしていたと言えた。
ただ、此処で私は二つの点に着目してこの”デバイス”とか言う物について考える事にした。
一つは何故地球のこんな場所にアリシアの世界の物が存在したかと言う事。
そしてもう一つはこのデバイスとかいうもの事態に大きな亀裂が入っており、もしかして使えないのではないかという事だ。
此処にある偶然を必然と捉えるよりも何事もまずは疑って掛かれ、きっと先生の教えの賜物だったのだろう。
私はアリシアに対し、そんな二つの疑問を投げ掛け、そして返答を待った。
アリシアは最初どちらの問いに関しても言い出し辛いといった感じだったのだが、やがて観念したようにゆっくりとまた言葉を紡ぎ始めた。
結果一つ目の問いに関しては恐らく重度の損傷を受けたため廃棄したのだろう、二つ目の問いに関してはメインAIが完全に死んでるから元のようには戻らないけど修復して使えるようにするだけなら何の問題も無いという答えが彼女からは返ってきた。
更にアリシアはそれに加えて「出来たらこのデバイスは持ち帰った方がいい」と言う彼女らしくも無い妙なお墨付きまで出る始末だ。
普段の彼女なら「盗み駄目! 絶対駄目!」と憤慨する筈なのだが、どうにも彼女の様子はどこか落ち込んでいると言うか……そしてそれでいて強い使命感を持っているように私には見受けられたのだ。
まるでそうしなければいけないとでも言わんばかりに、私は彼女に言われるがままにその壊れたデバイスをポケットの中へと放り込みその場にスッと立ち上がった。

『よかったね、なのはお姉ちゃん。これでなのはお姉ちゃんにも魔法が使えるようになるよ』

「うん……それはいいんだけど、本当にいいのかな? これってもしかして……」

『大丈夫、その子もきっと使って貰った方が本望だろうしさ。ほら、さっさと帰ろう。そのデバイスの修理もアルハザードの方でやっちゃいたいし、そろそろ冷えてきたからね。……なのはお姉ちゃんが気負う事なんて、何も無いんだよ』

「そう、かなぁ……。まあ、アリシアがそう言うなら……」

私はなし崩し的にアリシアに言われるがまま、一度そのお墓に向かって手を合わせながら「ごめんなさい」とだけ言い残し、その場を後にすることにした。
何はともあれこれでまた一つ目的のために前進はした、今日は色々と成果が得られた日だと喜びたい気分だった。
だけど私はそれと同時になんでこうも事が上手く運ぶんだとちょっとだけ頭を捻りたくなった。
魔法を使いたいと思ったその日に魔法を使う為のアイテムが手に入る、確かに言うだけならば幸運な事だろうが果たしてこんな偶然がありえるのだろうか。
そして何よりもアリシアの態度、あのお墓を見た途端に雰囲気を変えた彼女の様子は……どう考えてもおかしいの一言に尽きた。
何処か妙に余所余所しく、それでいて解消され始めていた筈のマイナスな雰囲気がぶり返してきたようで……挙句私に心配させないように無理してテンションを上げているようにも見える。
一体何が彼女をこうさせるのだろうか、私の疑問は尽きる事はなかった。
だが自宅に帰る途中、アリシアが不意に漏らした一言を聞き逃さなかった。
「ごめんね……」という何処か悲しげで、それでいて取り返しのつかない事にでも直面したかのような悲痛な声を。
事は上手く進んでいる筈なのに何処かで遣り切れない事が起ってしまっている、その現実に私は少しだけ歯痒さを憶えてしまった。
どうしてこんな小さな子ばかりが何でもかんでも背負い込まねばならないのだろう、私はそんな事を思いながらゆっくりと自宅への道のりを歩いていくのだった。
まったく、私にしろアリシアにしろ……何が悲しくてこんな風な不器用な生き方しか出来ないのだろうと心の中で思いながら。




[15606] 空っぽおもちゃ箱④「打ち捨てられた人形」#フェイト視点(グロ注意)
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/08/24 17:50
私は生まれてからずっと誰からも愛された事が無い、私ことフェイト・テスタロッサは自らの人生をそう振り返る。
今まで幾らでも努力は重ねてきた、喜ばせる為に、笑わせる為に、満足させる為に……私は泣き言も言わずに必死になって頑張ってきた。
にも拘らず、私に訪れる現実は何時だって非情で……それでいて理不尽な物ばかりだった。

別に私はそれほど多くの物を求めていた訳ではない、ただある人に愛されたかっただけ。
たった一人の肉親である“母さん”に私はただ普通の家庭にあるような温かな言葉を掛けて欲しかっただけなのだ。
私は“母さん”の為なら何でもやった、例えそれが悪い事だって分っていても、何時か私に優しい言葉と微笑を昔のように掛けてくれると信じて私は罪を犯し続けてきた。
盗みだってやった、散々人だって傷付けてきた、中にはその所為で命を落としてしまった人だって居るかもしれない……それでも私は止める事はしなかった。
ただ“母さん”が望む事を遣り通して、束の間の優しさに身を溺れさせたいが為に……私は幾らだってこの手を穢れさせてきたのだ。

だけどそれが間違いなのかもしれないと気が付いたのは此処最近、母さんの欲しがっている”ジュエルシード“というロストロギアに関わりだしてからの事だった。
この件に関りだしてから”母さん“は笑わなくなった、元々それ程笑みを浮かべてくれる人ではなかったけど……何時も以上に”母さん“は怖い顔を浮かべる事が多くなった。
いや、それだけではない……昔は笑って許してくれる筈であった失敗にも”母さん“は辛く当たるようになり、此処最近は私の身体に刻まれる生傷は次第に増える一方だった。
正直、辛かった……だけど幾ら私が泣いて許しを請うても“母さん”は許してはくれなかった。

少し思い出すだけでも私は胸が痛くなる、あの唸る鞭の音が私の頭の中で反響し、身体中に出来た古傷がその光景をフラッシュバックさせるのだ。
そしてその時の母さんの顔……あの凡そ親が子に向ける事などあり得る筈の無い狂気に歪んだその顔が一層私を怯えさせる。
だけど私は耐えようと思った、どれだけ酷い事をしてきたのだとしてもあの人は私のたった一人の“母さん”なのだから……きっと最後は私の事を愛してくれると信じていたから……。

でも、そんな私の淡い幻想はほんの少し前に起きたある出来事によって脆くも崩れ去った。
それは今から何日か前の日事だ、その日私は今まで回収してきたジュエルシードを“母さん”へと届ける為に一時“母さん”のいる時の庭園にまで足を運んでいた。
でもその時の私の状態と言えばジュエルシードの暴走体によってボロボロで、おまけに折角造って貰ったデバイスも半壊してしまっているという散々な状態だった。
だからこそ私は少しでもいいから“母さん”の声が聞きたかった、ほんの少しでいい……もう一度優しい声を掛けてくれたら私はまた頑張る事が出来るから……私はほんの少しの期待とそんな甘えを胸に抱きながらボロボロの身体を引きずって母さんの元まで会いに行ったのだ。

しかし結果はいつもと同じ、いや……何時も以上に酷い物だった。
たった数個しかジュエルシードを確保できなかった事に怒った母さんは何時にも増して激しく私を痛めつけてきた。
鞭、鋏、刃物……それは今まで私が受けてきたどんな仕打ちよりも酷く、元在った傷も相まってかまるで拷問のような苦しみが私に襲い掛かってきたのだ。
蚯蚓腫れが裂けて血が噴出すまで鞭で打たれ、抉るように刃物で裂かれ、気絶しそうになっても容赦の無い鋏の刺突の痛みがそれを許してはくれない。
もうこのまま死んでしまうのではないかと私は何度も思った、しかし”母さん“はそんな私が気に食わないのか死なない程度と加減をつけて私を痛めつけてくるのだ。
ないても許されない、哀願しても怒らせるだけ、気絶も死なせてくれる事もさせてはくれない。
そんな地獄のような時間の中で、私はただただこの身に降りかかる痛みを実が震えるほどの恐怖と言いようの無い理不尽に感じるばかりだった。

最初私はこの痛みも何時もと同じだと耐えようと思った、悪いのは自分なのだから……“母さん”を悲しませてしまった“娘”である私が悪いのだと必死に自分に言い聞かせて。
だけど……駄目だった、私は思わず泣きながら叫んでしまった「どうして母さんは私にこんなに酷い事をするの?」って。
もう自分でも苦痛と悲痛で頭の中が訳の分らない事になっていた、何時もの自分だったら耐えられたのだろうけど……もう精神的にも肉体的にも限界を迎えていた私にはそんなことを考えるだけの余裕すらも失われていたのだ。
私は続けて叫び続けた「私を愛して」って、「昔のように戻って」って壊れたラジオのように何度も何度も叫び続けた。
でも、そんな言葉すらも“母さん”には届かなかった……“母さん”はそんな私の叫びに対しただ一言「人形風情が賢しい事を!」と鬼のような形相で激怒したのだ。
その瞬間、私は悟った……あぁ、“母さん”は……いや、“この人”は私の母親じゃないんだって事を。

それから私はより一層その人に痛めつけられる筈だった、その為の人形として死ぬまで痛めつけられて……そしてボロ雑巾のように捨てられる筈だった。
だけど、幸か不幸か私はそうはならなかった……いや、寧ろ他人を巻き込んで犠牲を出してしまったと言う事に関しては不幸以外の何者でもないのだろう。
私が決定的な最後の一撃を好みに受けようとしたその瞬間、そんな私の様子をずっとドアの外で聞いていたアルフが私を庇ったのだ。
そしてアルフはその人に詰め寄り、私の事を指差し、泣きながら訴えかけたのだ。
そう、事の全ては……ここから始まったのだ。

「アンタはその子の母親で、その子はアンタの娘だろ! こんなに一生懸命な子に……こんなに頑張ってる子に……どうしてこんなに酷い事が出来るんだよ!!」

あの人の胸倉を掴みながら必死に訴えかけるアルフ。
その顔は私ですら見たことの無い、憤怒と憎悪に駆り立てられた鬼神のような怖い表情だった。
だけどあの人はそんな表情すらも物ともしないといった表情でただただ仕打ちに水を指されたのを不快だと言わんばかりに鼻を鳴らすだけだった。
そんな様子に憤慨したのか、アルフはまたあの人の胸倉を強く強く引き寄せては睨みつけるばかり……最早二人の間には私ですらもはっきりと分るほどの明確な亀裂が入ってしまっていた。

私は「止めて!」と声を出すつもりだった、だけど喉元に負った傷と痛みで朦朧とする意識が私にそれをさせてはくれなかった。
もしもあの時はっきりと私が声を掛けていれば何とかなったかもしれないのに、私はただただその光景を見つめ続ける事しか出来なかった。
そして次の瞬間、アルフの身体はあの人の手から放たれた簡易的な砲撃魔法によって弾き飛ばされてしまっていたのだった。

何度も地面に身体を打ちつけ、血みどろになるアルフ。
そんな姿を見つめ、私は酷く怯えた……ただこの状況が信じられなくて怯える事しか出来なかった。
今まで均衡を保っていたそれが脆くも崩れ去る瞬間、何かが決定的に私の中で壊れていく光景……それをただただ私は恐ろしいと嘆くほか無かったのだ。
そしてあの人はそんなアルフに近付きながら、見下したような視線を彼女へと投げ掛け、そしてまた砲撃魔法を掌の内で構築しながらゆっくりと言葉を宙へと吐き捨てた。
まるで私に見せ付けるかのように、その瞬間を私の瞼に焼きつかせるように……あの人はゆっくりとそしてはっきりと死の宣告を口にしたのだった。

「フェイト、貴方は使い魔を作るのが下手ね。余分な感情が多すぎる……」

「うぐっ……フェイトは……アンタの娘は……。アンタに笑って欲しくて……昔のアンタに戻って欲しくてこんなに……ぐっぅ……」

「……やはり駄目ね、欠陥品の作るものは何処までも欠陥品……そういうことね。いい、フェイト? よく見ておきなさい、もしも次に貴方がこのような醜態を私の前に晒すのなら……こういう風になるっていう事をね」

あの人は何の抑揚も無く淡々と私にそう言ってのけると、ゆっくりと手を動かし、砲撃魔法を構築していた手をアルフの前に翳した。
そして刹那に巻き上がるどす黒い紫色の閃光と、地面を揺るがすほどの衝撃が私の神経を刺激した。
私には何が起こったのか分らなかった、目の当たりにしている光景そのものが異質過ぎていて理解が及ばなかったのだ。
でも、その次の瞬間……私は信じたくは無いけれど信じるほか無い最悪の事態を目の当たりにすることになってしまった。
紫色の閃光が晴れ、母さんがつまらなそうに踵を返していってしまった後に残ったその場所には……グチャグチャになった肉の塊が其処に残っていたのだった。

私は腹ばいになりながらも必死でその場所にまで手を伸ばし、その肉へと触れた。
赤い何かでベトベトに濡れているそれは、まるで人肌のように生暖かく……それでいてこの世の物とは思えないほどの異様な臭いを漂わせていた。
初め、私はそれが何であるのか理解することが出来なかった……だってそうだろう、誰しも今の今まで其処で言葉を投げていた人間が次の瞬間には“こうなっていた”なんて受け入れられる筈も無いのだから。

私は赤い何かに塗れ、只管に放心する事しか出来なかった。
この肉の正体が何なのか私には分っている、だけどそれを理解したくない……理解なんか出来ないと言う自分の自尊心が最後の一線を思い止まらせていたのだ。
しかし、そんな私を前にしてもあの人は何処までも非情だった。
その次の瞬間あの人は私にこう言い放ったのだ、「次は貴方もそうなるのかもね……」と。
私はその瞬間に理解した、そしてそんなグチャグチャになってミンチ状の肉を必死でかき集めながら大声を上げて嘆いた。
いっそ狂ってしまえば楽だったのかもしれない、だけど私は目の前の死と”母さん”にはもう二度と愛されはしないのだという現実に板挟みになり、狂うと言う選択肢すらも忘れてしまうほどにただただ泣き叫ぶ事しか出来なかったのだ。

「どうして……どうしてこんな……アルフ……っ、アルフっ……!」

血塗れになりながらも私は必至になって“アルフであった何か”へと声を掛け続けた。
答えなど返ってこない、そればかりかもう自分の抱える“それ”はもう人であったのかどうかすらも疑わしい程に酷く歪んでしまっている事が分っていると言うのに。
私は己のみに走る痛みすらも忘れるほどに、泣いて、泣いて、泣き続けた。

そしてそんな様子をさぞや面白くないとでも言いた気な表情であの人は私の事を見ていた。
何を言うでもなく、満足したと言うでもなければ哀れに思うわけでもなく……何故私がこんなにも悲しんでいるのか理解できないといったような地獄に住まう悪鬼のような表情で私を見つめていたのだ。
そしてその瞬間、私は始めてこの身を揺るがす程の”絶望”という物を知った。
この人は私の母親じゃない、普通の母親ならばこんな風な事をする筈が無い、そして何よりもあの“母さん”だったらこんな酷い事を平気でするはずが無い……それを理解した瞬間私のアイデンティティは崩壊してしまったと言えた。

踵を返して私の元を去っていく母さんの後姿を眺めながら私は自分の中で何もかもが崩れ去っていくのを感じていた。
最早私は二度と愛される事など無い、なら私がこの世に生きている意味なんて果たして本当にあるのだろうか……そんな疑問の念が私自身の存在意義を蝕んでいったのだ。
そしてそれによって起こる過去と今との食い違い、どうしてこんな風になったのか分らないと言った疑問が次々に頭の中に思い起こされ……そして生まれた決定的な矛盾がそれにこう答えを出す事となったのだ。
もう私は生きる価値すらない、私がそう悟ってしまったその瞬間から……フェイト・テスタロッサと言う人間は完全に壊れてしまったのだと言えた。

その後、私は自らの傷を治療する事もしないまま、ただアルフであったものを両手いっぱいに抱えながら時の庭園を後にした。
そしてその亡骸を彼女のお気に入りであったあの空き地へと埋葬した私は、この世から命を絶つ覚悟を決めたのだった。
もう何もしたくない、もう生きていたくもない……もういっそこの世から消えてなくなってしまいたい。
どうせ一時的な逃避だけなら直ぐにあの人に連れ戻されてしまう、そしたらまたあの地獄のような苦しみを受けた上で死ななくてはいけなくなる。
ならばせめてこの身に受けた命だけでも自分自身が此処に確かに生きていたものだとして実感しながら死んでいきたい、私はそう思い……最後に壊れてしまった私の相棒であるデバイス―――――バルディッシュをアルフの墓の前に供え、電車へと身を投げる事にしたのだった。
あぁ、これでようやく救われる……アルフ、今そっちに行くから……そんな風な念を心の中で思い描きながら。





「くぅっ……はぁ……はぁ……。ゆ、夢……。何で、私……」

生きているの、そんな風な二の口を呟く前に私はその場に飛び起き……そして意味も無く安堵の溜息をその場に吐き捨てた。
其処は紛れも無く私が第97世界の地球において活動拠点としているマンションの部屋の中だった。
殺風景で家具や日用品といった物の極々少数、凡そご飯を食べる事と寝る事以外には使用する用途が見当たらないような……そんな風景が其処には何時ものように広がっていたのだった。

そして私はそんな風景の中の中央にいた。
何も無い部屋の中に一つだけ置かれたベットの上に横たわりながら、自分が何故まだ生きてこの場にいるのかという事を一人ただ思案してばかりだった。
しかし、私は次の瞬間にはその理由を直ぐに思い出していた……そういえば私は誰とも知らない現地の女の子に死のうとしたのを止められてしまった、だからこうして死に損なってこの場でただ一人寂しく生を謳歌しているのだという事を。

それを思い出した瞬間、私は自分の身体からスッと力が抜けていくのを感じていた。
馬鹿馬鹿しい、ふとそんなことを私は思ってしまったからだ。
あれほどの覚悟を決めていた筈なのに、たったあれだけの事で死ぬ事を思い止まってしまった……そんな自分が情けなくて仕方が無かったのだ。
今更生きていたって何の価値もありはしないのに、それなのにもうこの身体は死ぬ事を望んで動いてくれはしない。
生きたくもない、かといってもう死ぬ事も怖くなってしまった……そんな中途半端な状態に私はなってしまっていたのだった。

「あぁ……そうか。そう言えば、私……」

あの人から逃げ出してきたんだ、ようやく私は自分が今おかれている状況を再認識する事が出来た。
本当だったらそんな事はせずに直ぐにでも命を絶つはずだった、だけどそれが出来ないから……いっそあの人の手が届かない場所まで逃げてしまおう……そんな考えが私をこの場に留めたのだと私は気付いたのだった。

第97管理外世界“地球”、そしてその中の小さな島国である日本という国は住み心地が良くて治安も安定している。
此処も何れ見つかってはしまうだろうけど、それまで身を隠しておくだけなら十分生きていける環境だと私は踏んだのだ。
何処にも行き先がある訳じゃないけど、ただただ惰性的に生きるだけなら十分過ごせるだけの環境……それがこの世界には凡そ調っているのだと私は改めて思った。

身を起し、ベットからゆっくりと足を地面につけて私はその場に立ち上がる。
さっきよりもほんの少しだけ高い場所から見上げる風景、だけどやっぱりそれは何処までも殺風景で……それでいて酷く寂しいものだった。
ほんの数日前までは此処には家族がいて、例えこれだけ寂しい風景の中に居ても私の事を温かく慰めていてくれていた筈なのに……そう思うと私は胸が痛んだ。
もう彼女の事を……アルフの事を思い出すのは止めようと散々あれだけ考えたというのに、それでもまだ彼女に縋ってしまっている自分がいる。
彼女を死に追いやったのは無能な私自身だというのに、そう思うと私は傷以上に痛む何かが疼き始めるのを感じたのだった。

だけど、そんな疼きは直ぐに収まった。
もう止めよう、何もかも諦めきってしまったという私の真情がそんな葛藤を覆い隠すように溢れ出し、湧き上がった激情をクールダウンさせるからだった。
もう私は何もかも投げ出してしまったのだ、母さんの願いを叶える事も、自分が生きる意味も、そして何をなさなければいけないのかという責任さえ全部全部放り出してしまったのだ。
御蔭で今の私はもう何の力も持たない普通の子供……いや、母親であった人から暗黙的に死刑宣告を言い渡される身としてはそれ以下の存在であると言える。
まあ何はともあれ今の私は……フェイト・テスタロッサは魔導師でもなんでもない、ただの孤独な子供に過ぎなかった。

「死に損なった、か。本当は……自分でも死ぬのが怖かったのかな……? あの人に見捨てられた以上、もう私に生きる価値なんて無いのに……」

自虐的な言葉を呟きながら私はふらふらと部屋の中を歩き、閉まっていた窓のカーテンの前まで行くと、それをスッと力なく横に引っ張っていく。
途端、窓から漏れ出したお日様の光が私の身体を照らし出し、あまりの眩しさに私は目を細めながらもその光を受け入れるのだった。
あぁ、また不安と無気力に押し潰されそうになる一日が始まる……そんな風に思いながら。

私が嘗て”母さん“と呼んでいた人の下から逃げ出してもう彼是数日の時間が経過している。
その間私は何とかその人から受け取っていた現地の通貨の貯蓄だけで細々と生活しながら、何の意味も無い生をただただ堪能していたのだが……何時見つかってアルフのように”処分”されるかもしれないという事を思うと私は不安で堪らなかった。
夜は夜であの人の影に怯えながら布団の中で小さく蹲り、昼間は昼間で流れるように歩く人の間をすり抜けながらふらふらと目的も無く歩き回るばかり。
そしてそんな私も止めてくれる人も、慰めてくれる人も今は居ない……結果的に見れば私は勝手も知らないこの世界でただ一人打ち捨てられた異邦人と化していたのだ。

そして今日もそんな何時死ぬかも分らないという不安に押し潰されそうになる一日が始まる。
もういっそ狂ってしまうか、このままあの時のように再び命を絶つか……そのどちらかを選択した方が幾分か楽になると分っているのにも拘らず、それを成さぬままただただ意味も無く私は生き続けるから。
私は死ぬ事を選ばず、また生きることも選ばず……この日もまたあの人の影に怯えながらただただ操り人形のように意味も無く動き続けるのだった。

「もう一度私に自ら命を絶てる勇気があれさえすれば……こんな風に苦しまなくて済むのにね」

誰に言葉を掛けるでもなく、私は独りでにそんな言葉を宙に漏らすと、纏っていたボロボロのネグリジェを脱ぎ捨ててたった一着しかない私服へと袖を通し始める。
黒い薄手のキャミソールに、それに合わせるように拵えられた黒のミニスカート、そして薄桃色の短いソックス……それが私の衣服の全てだった。
嘗ての同居人であったアルフはそんな私の様子に「もっとフェイトはお洒落してもいいんじゃない?」と言ってくれていたのだが、あの当時の私はそんな彼女の言葉にも耳を貸さず、これ一着で日々の生活を済ませてしまっていた。
というのも私は基本的にバリアジャケットを身に付けたまま生活をしていた事が多かった、その為私服という存在の意義を殆ど解していなかったのだ。
全ては母さんの為、そう思って我武者羅になって周りを見れなくなっていた時期に身についてしまった悪い癖なのだろうと私は思った。

着替えるのに掛かる所要時間は凡そ一分弱、特に何の感慨も無く着替えを終えた私はそのまま殺風景な玄関へと向かって歩を進める。
其処にあるのは左右並んだ皮製のブーツが一揃えあるのみで、それ以外のものは何も置かれてはいない。
一応、昔は此処にアルフの物もあったのだけれど……それも全て彼女を埋葬する時に纏めて埋めてしまった。
だからもう此処には何も残ってはいない、ただ一人……この世に打ち捨てられた私のものを除いてはの話だが。

やっぱり私は一人なんだ、そんな当たり前過ぎる事を改めて痛感した私はそんなブーツに足を通してそのまま玄関を開け、外へと出た。
何処か行く宛がある訳ではない、何かしたいことがある訳でもない、誰か会いたい人がいる訳でもない……にも拘らず私はゆっくりと日の降り注ぐ町へと向かうべく、足を動かし続けるのだった。
部屋には鍵も閉めない、どうせ盗まれる物なんてないし、無断で誰かに入られたところで何か問題がある訳でもない。
何しろ、私自身今此処で生きている理由そのものが無いのだから……私はそんな風に考えながらふっとあの時の事を……自分の死を名も知らぬ女の子によって止められた時の事を思い出していた。

「そういえば、どうしてあの子は……私を止めたんだろう?」

自分と何か接点がある訳でもなければ親しい訳でもない、本当に何の面識も無い赤の他人な筈なのに……あの子は私の行為を止めた。
あの子自身、どうして自分が突然そんな行動を取ってしまったのか理解できないといった風な感じだったけれど……その真意のほどは定かではない。
如何にも自らの命を絶とうとしているのではないかという私の様子に危機を感じ取っていたのか、それともこんな私を哀れんで手を伸ばしてくれていたのか……どちらにせよ迷惑を掛けてしまったと私は思った。
もしもあの子と再び出会える時がまた来るのだとしたら、その時はしっかりと謝ろう……そしてもう一度命を絶つのならその後にしよう、私は奇妙な決心を胸の中で抱きながら今日も街へと向かっていく。
少しでも人のいる場所へ、自分の胸に抱える埋めようの無い寂しさを慰める為に。





どうしてこの街で私は一人なんだろう、私はただ一人行く宛も無く何処とも知れない道を彷徨いながらふとそんな事を思った。
辺りには多くの人がいて、そんな誰もが誰かと一緒にいる……にも拘らず私は一人。
凡そ私くらいの年頃の子ならば友達と一緒にお喋りしたり、家族と一緒にお出かけしたり、例え一人であったとしてもこの街の何処かには共にいるぬくもりを共有できる人がいるはず……だけどそれが私には無い。
一体この違いは何なのだろう、私はそう思って止まなかった。

無機質に見えるこの街は確かに一見しただけでは感情の行き来が希薄で寂しい場所のように思える、私も始めてこの街に足を踏み入れたときはそう思っていた。
だけどここ数日この街で意味も無く彷徨うようになって、私はそんな自分の考えが間違いであるという事に気が付いたのだ。
人と人との繋がりは確かに小さいのかもしれない、だけどその誰もが何処かで誰かと繋がっていて……一人であることなどありえないと言わんばかりにこの街は感情に溢れている。
それに気が付かないのはそれを当たり前だと断じて日々を過ごしている人間だけ、凡そ私のような人間からみればこの街の人間は誰しも愛し、また愛されているように見えたのだった。

この街には人がいた、親子がいて、友人同士がいて、兄弟がいて、夫婦がいて……そして家族がいる。
時々挫けちゃう事もあるのかもしれないけれど、それでも皆誰かの事を拠り所にして笑うときを待っている。
そして彼らにはその権利がある、だけど私にはその権利が無い。
その違いは何処か理不尽で、それでいて明確な物なのだと私は思った。
誰かと繋がっている人達と誰とも繋がっていない私、何故そうなってしまったのかという事は一先ず置いておくとしてもこの違いは歴然なものだった。

「何で、私は一人なんだろうね……」

誰に問う訳でもなく、私は蠢く人混みの中でポツリとそんなことを呟いた。
私の小さな呟きは直ぐに人の行きかう街並みの騒音によって消されてしまったけれど、その答えはそんな騒音の中に隠れているのだと私は思った。
少しだけ耳を済ませてみれば聞こえてくる声、それは本当に微かにしか聞こえない物ではあるのだけれど明確な繋がりとして誰かと誰かを結び付けていた。
それは親しい誰かであり、敬愛する誰かであり、想いを胸に抱く誰かであり……また自らが生きる支えとして寄り添いあう誰かだった。
そしてそんな彼らの結びつきの言葉は本当に何処か温かいものがあって、決定的に私と異なるそれを常に私に示し続けていた。
もう何処にもそんな人間がいなくなってしまった、どうしようもない私との違いを……。

元々私だって初めからこんな風に一人であったという訳ではない。
あの人がいて、アルフがいて、あの人の使い魔であったリニスがいて……そしてそんな小さな輪の中に私がいた。
其処には確かに笑いあう時もあった、寄り添いあう時も、温もりを共有しあう時だってちゃんと存在していた……だけどそれ以上に悲しみと嘆きと苦痛があった。
ある日突然リニスは私の前から姿を消し、母さんは豹変してしまったかのように私の中で恐ろしい存在となってしまい、そして数日前アルフも逝ってしまった。
凡そもう私には嘗てのような繋がりは無い、未だに何か他人との繋がりがあるとすればそれは何時あの人に見つかってゴミのように処分されるかもしれないという恐怖だけだ。
誰かの傍に居たい、温かな温もりに包まれていっそもう何もかも忘れて眠ってしまいたい……だけどもう私には縋るような人間は居ない。
それがこの周りにいる何処の誰とも知れない人達と、そんな人達の中に隠れるように存在する私との違いなのだと言えた。

あぁ、もういっそのこと死んでしまいたい……ふとした時にはまたあの時と同じような衝動が私の胸の中に燻っていた。
もう何もかも遅い、どうせ何も取り戻す事なんか出来はしない、そんな風な思考が私の頭の中を埋め尽くしていく。
きっとあのままあの人の命令に従ってただただジュエルシードを集めて持って行き続けた所で、あの人は私の事なんか愛してくれはしない。
もう二度と私に微笑みかけてくれはしない、優しい言葉を掛けてくれはしない、温かく抱擁してくれる事もない……たぶん次の……それが叶ったならまた次の命令を淡々と私に下し続けるだけだ。
そして失敗すれば宣言通りアルフと同じように人が人として死ぬ事も出来ないような惨めに殺される。
何の躊躇もなく、本当に淡々と魔法を構築し、あの人は私を撃つ……まるで壊れた道具を処分するように。
そう、きっともう私はあの人に娘なんて思われてはいない……単なる態のいい道具として使い潰されようとしているだけなのだ。
だとしたら今までの私の努力なんて全部無駄で……そして私が今この世に生きていることさえ、全て意味の無い物ということになってしまう。
ならばもういっそこの命を終わらせて楽になってしまいたい、そんな衝動が何時もにも増して強く私を突き動かそうとするのだった。

「もう私には生きている意味が無い、か。なら……今までの私の苦しみは、一体……」

何の意味があったのだろう、私は濁った目で前を見据えながらそんな言葉を胸の内に抱いていた。
其処には縦横無尽に自動車が行きかう道路があった、様々な種類の車があっちに行ったりこっちに行ったり……凡そ何処に向かうのかなんて見当が付かないほどの車が其処では忙しく動き回っていたのだった。
もういっそ此処に飛び込んで轢かれて死ねば少しは楽になれるのだろうか、私は縦横無尽に動き回る車達を見て密かにそんな考えを浮かべていた。
今まで私は散々この手を汚してきた、多くの物を力ずくで奪い取り、悪いと思いながらも人を傷つけ、そして汚泥と無数の傷に塗れながら今の今まで生き抜いてきた。
だけどそんな苦労も苦しみも、今となってはもう無意味な物……そしてもう私も大分疲れてしまった。
一生この苦しみに耐えて生きていく位なら、もういっそこの場で命を終わらせてしまった方が楽になれる……私はもう殆ど本能とも言っても良いような感覚でそんな事を思い、実行できないかどうかと本気で思案し続けていた。

だけど……やはり私には出来ない、もう後数歩行けば時速何十キロという速度でぶつかって私を死なせてくれるであろう道路までいけるのにも拘らず、結局私は寸での所で踏み止まってしまっていた。
あの時……雨が降り注ぐ日にあの女の子に止められた記憶が突然私の衝動を押し留めるかのようにフラッシュバックしてきたからだ。
凛とした顔つき、何処か強い意志を持っていながらも私のそれと似通った瞳、そして冷たい筈なのに温かく感じた手の温もり……此処に彼女はいない筈なのに私はまたあの子に止められてしまったかのような錯覚に陥ってしまっていたのだった。

どうして、そんな疑問の念が唐突に私の中に芽生えてくる。
あの時の女の子は名も知らない単なる他人で、私とは一切の関わりも持たない筈なのに……何故私はこうも死のうとするたびに彼女の事を思い出してしまうのだろうか。
そんな疑問の念が再び私の中に蔓延り始め、その考えに深く考えるようになる頃には私の死に対する衝動はすっかり収まっていた。
だが、その反面疑問の念の方は強く私の胸の内に残って燻り始めていた。
確かに私は彼女と始めて出合った時、何処か彼女に強い既知感を覚えていた……それは疑いようも無い真実だった。
でもだからといってそれがこんな風に度々記憶の中に蘇っては私の衝動を抑えるほどの衝動に変わっていることには説明が付かない。
私は一体あの子に対し何を思って何を感じてしまったのだろうか、考えても分らない疑問の念に頭を悩ませながら私はまた人混みの中へとふらふらと戻っていくのだった。

「死にたいのに死なせてくれない……酷いな、うん……酷いよ。こんなに私は苦しいのに……どうしてあの子の影がチラついてしまうの?」

もしもあの子の事も忘れる事が出来たのならば私は直ぐにでも死を選ぶ事が出来るのに、私は溢れんばかりの人の合間を潜り抜けながらそんなことを思った。
私にはもう生きる意味は無い、そしてそれを新たに見出すだけの価値も無ければそれを一緒になって支えてくれる人もいない。
どう抗っても私が解放されるには死ぬ事以外ありえない、なのにもかかわらず私は死ぬことが出来ない。
酷い矛盾、そしてそんな矛盾がより一層私の心を蝕んでいく……そう考えると私は少しだけあの子の事が恨めしく思った。
こんな気持ちを味わう位ならいっそあのまま放っておいてくれれば良かったのに、そんな風な事を私はあの子に対して抱かないでもなかった。
だけど何故かそれ以上に……言葉では言い表せないほどに私は心の何処かで彼女に強く引かれていたのだった。

初めて私があの子と出会った時、私が彼女に抱いた第一印象はまるで鏡写しの自分を見ているようだというようなものだった。
あの子も私と同じようにずぶ濡れで、傷ついていて、それでいて心の何処かではこんな自分として生きていくのが嫌になってしまったと思っているような自分に対する嫌悪感を孕んでいるような感じ私は彼女から受けた。
そしてそれは私もまったく同じ事が言えて……それでいてあまりにも似過ぎていながらも何処か私とは決定的に違う物を持ち合わせている彼女に私は奇妙な違和感を覚えてしまっていたのだ。

確かにあの子と私はよく似ていた、出で立ちも雰囲気も抗いようの無い何かにおわれているような感覚すらそっくりであったと言えた。
それは確かに鏡写し、目の前にあるのがまるで自分のようだと錯覚するほど彼女と私は似通った所があった。
でも、それでも所詮は鏡写し……鏡に自分自身の姿を映せばその姿が反転してしまうように私とあの子もやはり決定的な”ズレ”を孕んでいた。
そのズレが一体何なのかはまだ私にも分らないけれど、そのズレを感じ取った瞬間……私は何だか言葉では言い表せないほどの不安に駆られて……その場を逃げ出してしまったのだ。
もう少しだけ深く話し合えばその“ズレ”が何なのか分ったかもしれないのに、そう思うと私は何だかやりきれない気持ちを感じざるを得なかった。

「もう一度……会いたいな、あの子に」

あの子と話せばこのズレが何なのか少しは分るかもしれない、そんな取りとめも無いことを考えながら私は向こう側まで行く為の横断歩道の前で足を止めた。
信号の色は赤、この色であると渡ってはいけないのだという事を私は知っている……故に私も他の人に習って足を止めてその場で色が変わるのを只管に待ち続ける。
そしてやがて数十秒もすると赤かった信号が青に変わり、その場に留まっていた人達は待ってましたと言わんばかりに一斉に歩を進め始める。
そんな単純なサイクル、そしてそれを真似るように自らも歩を進め始める私……やっている事は同じな筈なのにどうしても私と彼らの間には溝が出来ているように思えてしまう。
このズレもまた私がこの街で孤立している所以の一つなのだろう、私は歩を進めながら何となくそう思った。

所詮私は他人を模倣する事でしか自らの存在をこの場に確立する事すらも出来はしない。
何時も誰かの真似事ばかりしてあの人の機嫌を損ねては傷ついて、なのにも関らず私はそれを止めようともしなかった。
他人が喜んでいる様を見てはそれで他の人も嬉しくなるのだろうとケーキを買ってあの人のご機嫌を伺ってみたり、他の子が叱られている様を見ては、それはいけない事なのだとして自らを強く戒めては二度と自分が犯さないようにと気を配ってみたり、他人が手が掛からない子供だと評しているのを見てはあの人に苦労が掛からない良い子であろうと考えてともかく何でも真似をした。
しかし、それは結果的にあの人の機嫌を損ねるだけで……自分で自分の首を絞めることにしかならなかったのだ。
傷つき、苦しみ、嘆き……そんな負の連鎖を繰り返しながらも私は常に自分の気持ちを自分が悪いのだとして誤魔化してきた。
だけどもう限界だった、あんな仕打ちに耐え続けるのは……あの人が私の事を愛しているからこそ私に辛く当たるのだと自分自身を偽り続けるには。
そしてあのアルフの死、其処でようやく私はあの人の事を”母さん”と呼称する事がなくなり……恐怖の対象としか見ることが出来なくなってしまった。
あんなに優しく、温かい人であったあの人を……私はもう恐れる事しか出来なくなってしまったのだ。
私はもう元のフェイト・テスタロッサに戻る事は叶わない、でもだからといってそれ以外の何かになれるというわけでもない。
結局そんな中途半端な存在であり続けている事こそが、私自身を大衆に溶け込めない何かへと変えてしまっているのだろうと私は思った。

これから私は何処へ向かえばいいのだろう、本当に今更になって私はそんな事を頭に思い浮かべていた。
あの人に見つかる前に早々に何処かに消えなければいけない、だけどこの場を離れてしまえば私はもう何処へと帰ることも出来なくなってしまう。
この場から急いで消えてしまいたい、だけど帰る場所すら失ってしまうのが恐ろしくて堪らない……そんな矛盾が私の中で渦巻いては胸を疼かせる。
一度は本気で死のうと覚悟したこの身の上なのに何を贅沢な事を言っているのだろう、私はつくづく甘えの抜けない自分が嫌で仕方がなかった。

しかし、私のそんな甘えに対する嫌悪感は次の瞬間には消え去ってしまっていた。
反対側から歩いてくる親子、凡そ五歳かそこら辺のやんちゃそうな男の子とまだ幼い子供をベビーカーに乗せながらその隣を歩く母親。
その二人の様子は何処か明るく楽しげで、私とあの人とはまったく逆の温かい家庭を象徴するような雰囲気を醸し出していた。
だけどそんな楽しげな様子が昔のあの人と私の記憶にダブって、そして私は猛烈に気持ちの悪い感覚に襲われてしまったのだ。
今のあの人と昔の”母さん”、まったく似ても似つかないような人間が同一人物であるという事に……そしてあの人の存在もまたあの微笑ましそうな笑顔を浮かべる女性と同じ母親であるという事に。
私は胸に込上げる奇妙な気持ち悪さと全身を伝う冷や汗に必死に耐えながらその様子をジッと見つめていたのだった。

「ね~ママ、今日僕オムライスが食べたいな!」

「え~どうしようかなぁ……」

「いいでしょ! ねっ、ねっ?」

「ふふっ、分かったわ。それじゃあオムライス、食べましょうか」

そんな無邪気な会話、何処にでも有り触れている親子の光景……にも拘らず私は自分の胸に蔓延る悲しい気持ちを抑えることが出来なかった。
既知感、自分も昔はあんな風にしたようなものだというのにその実感を得られないデジャブが私の中で自分の記憶のズレを呼び覚ましてくる。
それはまだ私があの男の子と同じ五歳位の頃の記憶、あの人がまだ私の事を娘だと見てくれていて、私もあの人の事を最愛の母親だと思っていた頃のほんの一場面だ。
私の好物であったジャムの入ったパンをよく焼いてくれたあの人、そしてそれに無邪気に喜ぶ私。
その頃は私もあの人も互いに温もりを共有し合っていた、その筈なのに……今のあの人は嘗てのあの人とはどうしても結び付かない。
矛盾、どれだけ考えてもあの人があんなに変わってしまった原因が私には思い当たらない……では何故あの人はあんなにも変わってしまったというのか。
分かりたい、分かりたいのに何一つとして分からない……そんなどうしようもない感覚が余計に私の心を締め付け、そして言いようの無い悲しい気持ちを私へと齎してくるのだ。
そして気が付いた時には私は、もうそんな気持ちに耐え切る事が出来ずに、目元に涙をいっぱいに浮かべてその場所から逃げるように走り出していたのだった。

おかしい、私は自分の頭の中でずれている記憶と現実のギャップに苦しみながらそれでも尚考え続ける。
記憶の中でのあの人は優しげな笑みを浮かべ、何時だって私を気遣ってくれて、子である私から見ても自慢の母であるといえるような立派な人だった。
だけど現実のあの人は鬼のように恐ろしく、私のことを道具とも思ってはくれず、終には私の目の前でアルフを殺した張本人でしかない。
そして、何れは私をも殺そうと考える恐怖の対象……其処まで考えた所で私は首を振ってその考えを必死で消そうとした。
だけど消えない、そしてますます記憶と現実は乖離していくばかりだ……まるでそれが現実と空想の違いなのだと私に知らしめるように。
だけど私は知っているはずだ、あの人の温もりを……あの人の優しさを……あの人の微笑を全部全部この身に刻んできた筈なのに。
それなのに私は……あの人を怖いとしか思えない、その現実がどうしようもなく私の涙腺を緩ませていくのだった。

走る、何処までも走り続ける。
周りの人達は度々私の事を変な物を見るような目で見つめてくるけれど、そんなことも気にならないくらい私は何処へ行くでもなく走り続けた。
もう何も考えたくは無い、だけど何か考えなくては私は私で要られなくなってしまう。
頭に浮かぶ記憶は現実と乖離し、そして私の中で矛盾し、それが苦しみとなって返ってくる……だけど少しでも私はその中からあの人が私の大切な記憶の中の一部なのだと認識しなくては今の自分の精神状態を保つ事すら叶わなくなってしまっていたのだ。
あの人は私の母親で、私はあの人の娘……だけど現実の私達の関係は使用者と道具という関係に過ぎはしない。
そして其処には欠片たりとも嘗てのような温もりは存在しない、だけどそんな中から温もりを必死になって探そうと私は躍起になる。
例えその度にあの鞭の音と鬼のような形相が頭の中でフラッシュバックし続けるのだとしても、私は現実の中からあの人の愛を見つけ出そうとする事を止める事は出来なかったのだ。

だけど、見つからない……私は何処とも知れない人気の無い路地で足を止めながら最終的な結論をその場で出してしまった。
幾ら私が記憶を遡ってもあの時から……あの強烈な光が私の目の前で突然立ち上ったあの瞬間から私はあの人に避けられるようになった。
それから私とあの人との関係は激変し、そして今のような環境に堕ちる事になってしまったのだ。
そしてその過程において私を愛してくれたのはあの人の使い魔であったリニスと私の使い魔であったアルフだけ……あの人からの温もりをあれ以降私は一切感じた事がなかったのだ。

怖い、私は思わずその場にへたり込んでそんな風に呟いた。
あの人の存在が、という意味ではない……あの優しかったあの人の記憶さえも自分の中で嘘になっていく感覚が私はどうしようもなく怖くて仕方が無かったのだ。
私は今まであの記憶に縋って生きてきた、命令に従って良い子にしていればまた嘗てのようにあの人は私を愛してくれると信じてこの手を穢してきた。
それなのに、その縋ってきた記憶さえも嘘だというのなら私は一体……一体何を信じて生きていけばいいのかということすらも分からなくなってしまう。
それが私は無性に怖くて堪らない、私はその場で頭を抱えながら怯える兎のように身を震わせてその感覚に必死で耐え続けた。

「嫌だよ……なんで……こんなの違う。これは私の記憶……私だけの……でもじゃあ―――――」

あの人は私の事を愛してはくれないの?
そんな疑問の念が胸に込上げてきた瞬間、私は強烈な嘔吐感に襲われたのだった。
此処しばらくは殆ど何も口にしていない筈なのに、それでも胃酸の酸っぱい感覚だけは何時もと同じように込上げてくる。
矛盾、矛盾、矛盾……そんな記憶のズレに耐え切れなくなった思考は徐々に私の精神状態すらもおかしくさせていく。
優しかった”母さん“とアルフを殺した”あの人”の姿と記憶がごっちゃになり、一体何が真実で一体何が嘘なのかという事すら私は分からなくなっていく。
あの人は私の事が好きなのか、それともずっと昔から嫌いだったのか……それとも何か私がいけない事をしたから嫌いになってしまったのか。
分からない、考えれば考えるだけ吐き気が強くなっていって頭はボーっと靄が掛かったように曖昧になっていく。
目の前の世界が霞み、聞こえてくる音は壊れたラジオのようにノイズだらけ……そして私はそんな感覚に耐え切る事が出来ず終にはその場に倒れこんでしまったのだった。

気持ちが悪い、私は何とか自分を正気に留めようとあれやこれやと思考を止めようと躍起になる。
だけど何時まで経ってもこのどうしようもない気持ち悪さは収まってはくれず、そればかりか徐々に思考だけが一人歩きして自分でも止められなくなってしまう。
そして頭に浮かんでくるのは嘗ての記憶、あの優しかった”母さん”の記憶がまるで映像を再生するかのように鮮明に私の中で映し出される。
だがその記憶にしたって何処もかしこもおかしな物ばかりだった、嘗ての私はあの人の事をママと呼称していたし、私自身の利き腕も逆、そして何よりもあの飼っていた山猫はあの後何処へ消えたというのか。
分からない、その記憶の矛盾が何故なのか私にも分からない……だけど次の瞬間私は決定的な言葉を記憶の中の”母さん”の口から聞いた。
それは……凡そ私を私で無いと否定するような決定的な矛盾の正体だった。

「ア……リ…し……あ……?」

私は途切れていく意識の中でふとそんな言葉を口にした。
それは記憶の中の“母さん”が私に対して使った呼称、だけど私の名前はフェイトでありアリシアではない。
じゃあ記憶の中の私は私ではないのか、違う……あれは私の……フェイト・テスタロッサの記憶な筈だ。
だけど頭の中でノイズ塗れになりながらも再生されていく記憶のどの”母さん“も私の事をフェイトとは言わなかった。
代わりに出てくるのは”アリシア”という単語、凡そ私ではない私以外の誰かの名前だけだった。
一体、アリシアというのは誰なのだろう……私は最後の最後にそんな疑問を頭に浮かべながらゆっくりと自分の意識を泥のような思考の中に埋めていくのだった。





それは彼女が……フェイト・テスタロッサが意識を手放してから数分後の事だった。
彼女が倒れているその場所を偶然にも通り掛った白衣の女性は、道端に女の子が倒れているのを偶然発見し、急いでその場に愛車であるフォルクスワーゲン社のスポーツカーであるイオスを止めて彼女の元へと駆け寄っていくのだった。
くすんだ金髪を揺らし、息を切らせながらその女の子へと駆け寄っていく女性は全身の至る所に傷を負い、如何にも”訳あり“そうなその少女の様子を見てこわばった表情を浮かべていた。
そしてその女性は慣れた様子で女の子の傍に膝をついて脈や呼吸の状態を確認すると、不意に誰に言うでもなく医療的な言葉を呟きながら彼女の様子を再度自分の中で整理し始めるのだった。

「呼吸が乱れていて……脈が速いわね。それに精神バイタルも安定していない……フラッシュバック症候群の可能性が高いわね。それに……この傷……どう考えても普通じゃない。”虐待”……かしらね」

腕や足に走る無数の傷跡や蚯蚓腫れの痕、そして知り合いの少女よりも具合の酷い栄養失調……女性はそんな様々な要点から彼女の状態を察し、そしてそんな女の子を抱えあげて自分の車に運びながらこれからの対処を頭の中で模索し始めていた。
警察に届けるのは逆効果、かといって保護者を探すにしても碌な目に合うことは無い……とはいえ自宅に運べば誘拐やら何やらと言って騒ぎになる可能性もある。
此処は一度ゆっくりと休める場所まで彼女を運んでそれから少しずつ事情を聞く必要がありそうだ、女性はそんな風に思考を纏め上げると女の子を自分の車の助手席に乗せ、自分自身もまたゆっくりと開けっ放しになっていたイオスの中に乗車し、ギアをチェンジしながらアクセルを踏んだ。

「やれやれ……あの子にしろこの女の子にしろ、後ろめたい事情がありそうな子を拾ってばっかりね。まぁ、それが遣り甲斐だと思ったからこの仕事を始めた訳なんだけどね」

女性は自嘲気味に呟きながらより先ほどよりも更にスピードを上げて目的地のある場所へと車を走らせた。
こういう子達を救いたくて私はこの養護教諭という職業に付いたのだから、そんな風な考えを頭に思い浮かべながら。
そして女性と女の子は互いに何も知らないまま物語の横道へと逸れて行く、それが吉と出るか凶と出るか知りもしないまま。
それが母親に投げ捨てられた“人形”フェイト・テスタロッサと、全てを偽り投げ出してこの世界の住人となった戦闘”人形“ドゥーエの初めての出会いだった。



[15606] 第十四話「終わらせる為に、始めるの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:13cd1d02
Date: 2010/03/15 16:39
物事には終りがあるように、また始まりという物も確かに存在している。
普通この言葉は逆に言うのが正しくて、始まりがあるから終りがあるって言うのが通常なのだろうけど……此処でいうものはそれとはまた別の解釈の上で出来た概念だと言えた。
物語やゲームで言うならばエンディングやエピローグだ。
つまりそれは物事の終り、どこまでも長く続いていく話を完結足らしめる物としてどうしても物事という概念の中に存在しなくてはならないものなのだ。

しかし、そんな物語の終局もその物語が始まる”切っ掛け“がなければ始まる事はない。
勇者が魔王を倒そうと思わなければ其処に物語りは存在し得ない事になるし、王子様がお姫様を見捨てれば御伽噺だって成り立たなくなる。
つまり何事にしても終りという物よりも重要視されるのは結局の所始まりであり、その反対を言うのであるならばその始まりがあるからこそ終りもある……つまりこの二つはどうしても切るに切れない間柄であるのだと評する事が出来た。
終りを作る為には始まりがなくてはならず、終りがなければ始まる物も纏りはしない。
大分極端な物言いになってしまうがつまりは何事においてもこの二つが軸となって物事の全てを形作っている……少なくとも私こと高町なのははそう思っていた。

私のしている事だって今はまだ終りは見えないけれど、ゴールに至るまでノーヒントという訳ではない。
困った時に答えをくれるようなパートナーがいて、困難に陥ったときに事を切り抜けるだけの力を有していて、最悪自分だけではどうする事も出来なくなった時でも助けを求められるだけの環境が整っている。
凡そ私がこれから始めようとしている事柄に関してだけ言えば、私は随分と恵まれた環境に身を置いているのだろう。
更に言えばそれらの事を上手く考えられるだけの時間も場所もちゃんと確保でき、おまけに誰の干渉も受けることは無いのだと来ている。
これで文句を言うなんて罰が当たる、少なくとも通常はそう思うのが普通なのだろうけど……正直私は現在進行形で投げ出してしまいたいという気持ちで胸がいっぱいだった。

「ほ~ら、お姉ちゃん! 次行くよ、次!」

「ちょっとタンマ! 本当に一端で良いからストップ! ほっ、本当に体力の方が……」

「問答無用! いっくぞ~! プラズマランサー、今度は一気に十二本。飛んでっちゃえ~!!」

「あぁ、もう……っ。人の話を……聞いてってば!」

私を見下すようにして指先を突き出してくるアリシアに対し、私は心の中で「触れるな!」と念じながらグッと彼女の方を見上げるようにして見据える。
刹那、アリシアの指先から閃光が発せられ、次の瞬間にはそれは十二本の光の杭となって私の方へと物凄いスピードで飛来してきたのだ。
そして私はそんなアリシアからの攻撃を食い入るように見つめては、ジュエルシードの力とアリシアに教えて貰った“魔法”の力を使って一本ずつ丁寧にそれを処理していく。
ある時はこの身に触れる前に光の杭が接触するのを遮断し、またある時はラウンドシールドとかいう防御に使う為の魔法をもう一方の手の内に構築し、いっぺんに向かってくるそれらを一気に弾き返す。
そんなやり取りが此処数時間ぶっ続け、もういい加減に休みたいと思いながらも私はまた向かってくる光の杭を遮断しては疲れから来る溜息をフッと宙に漏らすのであった。

私がアリシアに魔法の練習を頼んでから丸三日の月日が経った。
来る日も来る日もベットに横たわり、アルハザードへと足を運んでいた私はこのような練習を睡眠時間である凡そ7時間近くずっと繰り返していたのだった。
まだ始めてからそれ程時間も経っていないから何かを会得できたなんて言えるほど上等な物ではなかったけど、それでも取り敢えずは身を護れるくらいの術を見につける程度の事は出来たというのがこの練習における成果だと私は思った。
この今私が使っているラウンドシールドに加えて、槍状の弾を直線的に撃ち出す射撃魔法フォトンランサー、直線的ながらも遠距離から攻撃できる砲撃魔法サンダースマッシャー……それらが今現在私が扱う事のできる魔法の全てだった。
とは言ってもそれも殆どがかろうじで使えるというのがやっとだし、しかも全部このアルハザードの環境とアリシアが私に施した魔法を使う上で尤も都合のいい状態であり続けられる加護があるから使えるのであって、まだ現実の世界に戻って使えるほど成長してはいないわけだけど……それでもたった三日で覚えた成果だとするならば十分な物だった言えた。

だが、当然そんな荒療治もいい所の練習が何日も続くとなると自ずと精神的な面での疲労が大きくなってくる。
元々体力的にも精神的にも弱い私がそんな過酷な練習に耐えられるか否か、そんな簡単な問いは最早論じるまでも無かった。
正直、無理……確かに初めの内は楽しかったものの、まさか私も魔法という物が自分の体力まで消費する物だとは思っても見なかったのだ。
本来アルハザードの環境ならば体力を一切使わずに練習する事も可能ではあるのだけれど、アリシア曰く「それじゃあ本格的な練習にならないよ!」との事で現在の私は普段の私とまったく変わらない体力のままこの練習を受けているのだ。
ジュエルシードの力はまだ言いとしても、これ以上ずっとラウンドシールドを張り続けるのは体力的に厳しい……速く何とかして休息を得なければ身体が持たなくなる。
焦りと疲れで朦朧とする意識の中私は最後のプラズマランサーを遮断して打ち消すと、ラウンドシールドを張っていた手をアリシアへと向けて彼女の教え通りに魔法を構築し始める。
効果があるかどうかなんてどうでもいい、今はもう少しでも休みが欲しい……その為にはアリシアのやる気を削ぐしかない。
一点突破の砲撃魔法、私は選択した魔法を自分の頭の中でイメージし、そしてアリシアへとぶつける為に手の内に収縮したそれを一気に開放した。

「撃ち抜け、轟雷! サンダァァ―――――」

「ふふっ、そう来たか。だったら私も……! トライデントォ―――――」

「「スマッシャァァあああ!!!」」

らしくも無い叫び声をあげながらアリシアへと手の内の光を一気にぶつけようと躍起になる私。
しかし、アリシアもそんな私の様子に臆するでもなくただ楽しげにこの状況でそれを相殺出来るだけの魔法を一瞬にして構築し、私へと放ってくる。
刹那、私の手の内から桜色の光の柱が出現し、アリシアへと向かって一気に伸びていった。
まるでロボットアニメの粒子砲のようなその光は一気にアリシアの小さな身体を包み込み、私の視界を一瞬にして桜色へと染め上げた。
だけどそれはほんの一瞬の事、次の瞬間には私の砲撃は同じようにアリシアから放たれた砲撃によって脆くもかき消され、その効力を無へと還させてしまったのだった。
やはり……いや、大分私の考えは浅はかだった、私がそう考えた次の瞬間には私の身体は彼女の打ち出した砲撃の光に包まれてしまっていたのだった。

光を浴びながら私は思った、「あぁ、やっぱりこの子には下手に反抗しない方がいいのかも……」と。
彼女のはなった砲撃からは痛みは感じなかった、寧ろ私の身体を優しく包み込んでくれるような温もりが其処にはあるだけで、凡そ苦しみや痛みといった言葉とは無縁の物のように私は思えてならなかった。
しかし、それも全部アリシアが痛覚をカットしてくれているから出来るもの、彼女がその気になればこの温もりですらこの身をズタズタに引き裂くような痛みに変えることすら出来るのだ。
ふっと楽しげな溜息を吐きながら私のいる地面へと降りてくるアリシアの顔は何処か楽しげで、笑っていたけれど……私は単に運が良かっただけなのだろう。
なるべく彼女の機嫌がいい時と不機嫌な時とで私も接する態度を変えるようにしよう、私は大の字になってその場に寝転がりながらつくづく彼女の偉大さを痛感させられるのだった。

すると事の当人であるアリシアは体力的に限界を迎えつつある私の方へと歩み寄りながら「大丈夫?」と無邪気な疑問の念を浮かべてきた。
そんな彼女に対し、私は「多分大丈夫じゃない」とだけ答え、荒い呼吸で肺に空気を送り込みながらしばらくその場に寝転がり続ける事にしたのだった。
幾ら夢の中とは言えども普通に体力を使うようでは殆ど起きているのと変わりは無い。
加えてこんな極度の運動を何時間もぶっ続けで行い続ければ、幾らそれが魔法の練習であると入っても限界はあるというものだろう。
私はその場で五分ほど寝転がり、息を整えると何とか自分の上半身を起してアリシアへと向き直る。
もうこれで休んでいいだろうか、そんな風な事を彼女へと聞くために。
そしてそんな私の願いがアリシアに通じたのか、彼女は「よ~し、今日の練習お終い」と救いの言葉を私へと掛けてきてくれた。
これでようやく休む事が出来る、私は此処まで至るまでよく頑張ってこれたと自分で自分の事を褒めながらホッと一息安堵から来る溜息を宙へと吐き捨てるのであった。

「お疲れ様、なのはお姉ちゃん。まさかたった三日でこれほど成長してるなんて思ってもみなかったよ。練習の成果がちゃんと出始めてきたみたいだね」

「う~ん、まあ付け焼刃ではあるけどね。ラウンドシールドの方は遮断の力と大して感覚は違わなかったし、使い方さえ分かればフォトンランサーにしてもサンダースマッシャーにしてもそれ程難しくはなかったからね。魔力、だったっけ? それを上手く形作って撃つイメージを頭の中で作るだけだもん。簡単と言えば簡単だったよ。とはいえ、まだまだ不完全な事には変わりないんだけどさ」

「それは仕方が無いと思うよ。ラウンドシールドはまだしも、残りの二つは元々なのはお姉ちゃんに合った魔法っていう訳じゃないからね。それにまだ始めて三日しか経ってないんだし、此処まで自在に操れるようになっただけでも十分だよ。何事も初めはコツコツと、魔法だって同じだよ」

「そうは言ってもなぁ……。まあ、気長にやって行くしかないか。とてもじゃないけど、これ以上練習時間を増やすのは無理っぽいしね」

主に体力的な方面で、私は心の中でそんな風に呟きながら力無くアリシアの言葉に同意の意を示した。
幾らアルハザードにいるとは言っても、実際練習をする際は現実と同じように体力が削られる。
しかも性質が悪い事に幾ら私が「疲れた」と思ってもアリシアがその気に慣れさえすれば次の瞬間には全快しているという嫌なおまけ付きだ。
従って私は結構ぎりぎりの処まで自分を追い込んでは回復するという行為を繰り返して現状を維持している訳なのだが、これが中々にキツイものがある。
何せ元々私は運動音痴な訳だし、加えて並みの人間よりも極端に体力が無い。
おまけに私には他の人間と違ってそういう自分が恥ずかしいと思う様な羞恥心も無ければ改善しようとするだけの覇気も無いと来ている。
当然本当ならばやりたくはないし、出来れば他の人に押し付けてしまいと思うのだが……現状それが出来ないから渋々やっているというのが私の正直な本音だった。

別に私だって「先生がどうなってもいいのか」とか、「アリシアの事をこのまま放っておいて良いのか」とかそんな風に思っているわけじゃない。
それでなくてもジュエルシードが危険な物だっていうのは身に染みて分かっている訳だし、現にもうあまり時間の猶予が無いこともよく分かっている。
だがそんな心意気に体力が比例してくれるほどこの世の中は漫画のように甘くは無いのだ。
よくああいった演出だと仲間を守る為に一時的にパワーアップしたり、仲間を失った悲しみが力となって新しい技を覚えたりするような事が多々あるけど、現状私が使っている魔法という力は結局己の素質とモチベーションによって大きく左右させる物である訳だし、何よりも使えば使うほど疲れていくという品物だ。
使い方を誤って連続使用でもしようものなら私なんかの体力では直ぐに其処をついてしまう事は間違いないだろうし、そもそも素人である私なんかがあんな化け物に挑むという前提自体が大きく間違っているのだ。

確かにこの三日間で私もそれなりに魔法という物がどんな物であるのか分かってきたし、それなりに感覚も掴めてはきた。
だけど所詮それは付け焼刃だ、あんなRPGの中ボスのようなモンスターと正面切って闘っていけるほど成長したと言う訳じゃない。
だとすればそれを出来るように練習量を増やすか、今以上に内容を濃くしていくかのいずれかしか爆発的に成長する手段は無い。
でもそれが出来れば苦労はしないというもので、アルハザードにいられる時間が睡眠時間に比例している上に体力的な面にしても今の練習だけでも限界に近いという現状を考えればそんな無理やりな手段に訴えかける事も出来はしない訳だ。
此処三日ばかりはまともに授業にも出ずに保健室か隠れられるような場所で惰眠を貪っていてばかりだったからそれなりに練習時間を確保する事も出来ていたけど、流石にこれを毎日続けるとなるといい加減クラスメイトや担任の先生の方が痺れを切らして何か行動を起してくるということは目に見えている。
さらにここ数日ぶっ通しに続けた練習の所為で私のモチベーションも大分下がってしまった。
出来うる事ならもう私もこんな熱血スポーツ漫画の主人公みたいな無茶な練習はしたくはないし、なんというかそういうような雰囲気も苦手なのだ。
とりあえず現状としてはかったるくならない程度の練習を地道にこなしていくしかない、私の最終的な結論はそんな風なものに落ち着いたのだった。

「だけどこれで計三つか……ねぇ、アリシア。後どのくらい魔法を覚えればあの暴走体とまともに戦うことが出来ると思う?」

「う~ん、どうだろうね。一応今なのはお姉ちゃんが覚えてる魔法だけでもそれなりに渡り合っていく事は出来ると思うんだ、私としては。ただなのはお姉ちゃんの場合だと魔法の数云々の事よりもそれを実戦で何処まで制御しきれるかって言う事の方が問題になっちゃうんだよね。実際今も制御の不安定の所為で砲撃魔法はB+程度にまで威力が低下していたし、射撃魔法にしても四つ同時に扱うのが精々でしょ? 幾らなのはお姉ちゃんの防御力が優れているとはいってもラウンドシールドを込みにしてもまともに戦闘を続けられる時間は十分持つか持たないかって処だからね。後はその時間内にどれだけ決定打を打ち込めるか、今のなのはお姉ちゃんに必要なのは凡そこれだけだよ」

「だけどサンダースマッシャーにしてもフォトンランサーにしてもそう何度も撃てるって訳じゃないよ? それにサンダースマッシャーは使う時に一々頭の中で術式を構築しなきゃいけないから撃つ時にそれなりに猶予が必要だし、フォトンランサーの方は直ぐに撃てるけど威力の方がね……。こんな状態で本当に闘っていけるのかな?」

「そっ、そう言われるとキツイ……かも。でもまあデバイスもなしの状態ならそれだけ出来るだけでも十分だよ。元々なのはお姉ちゃんは何も知らなかった素人さんな訳だしね。素の状態でならこれだけ使えれば当面は問題は無いと思うよ」

アリシアは何処か自信ありげな表情でそんな事を言うと、私の隣に静かに腰を降ろして擦り寄るように私の方へと体重を預けてきた。
重くは無い、平均よりもやや小柄なアリシアの身体はこんな私でも負担に思わないくらい軽くて軟らかい物だった。
そして私自身もまたそんなアリシアの様子に苦笑を漏らしつつも、小動物のペットでも扱うかのように優しくそれを受け止めてあげる事にした。
練習の時は容赦のない彼女もやはり一人の子供、今まで独りぼっちだった分甘えられる時に甘えておきたいという事なのだろう。
私はそんなアリシアの喉元をまるで子猫でもあやす様にして軽く擽りながら、本当に小動物のような子だと心の中で呟くのだった。

此処三日ほど私は自分の持てる時間の殆どをアリシアと共に過ごしてきた。
基本的に昼間も夜も眠ってばかりだったし、私自身もこの練習に楽しげにしているアリシアの顔を見ているのは満更でもなかったから、まあかったるくない程度にはそれなりに練習にも真面目に打ち込んだ。
来る日も来る日も練習、練習で最初はちょっと嫌になってしまうことも確かにあった。
でも何だか楽しげに、そして真剣に私の練習に付き合ってくれているアリシアを見ると私もそんな風にはっきりと嫌だというのが言い辛くなってしまっていったのだ。
そしてそんなアリシアの心境に私が気が付き始めたのもそれに拍車を掛けてきていた。
練習の合間や空いた時間、アリシアはより積極的に私にこうやって甘えるようになってきたのだ。
初めの内は私もちょっと動揺したし、一体彼女に何があったのかなんて思ったものだ。
だけどこういう風にアリシアの相手をしている内に私も次第に彼女の心情が分かるようになっていったのだった。

アリシアは多分寂しかったのだ。
永い間ずっと独りぼっちで、ようやく私という拠り所を手にしたというのに当の私はほんの数時間しか直接合って彼女の相手をしてあげる事は出来ない。
一緒に居たいのに一緒に居られない、そんなもどかしさがアリシアの心にも次第に鬱憤となって積み重なっていたという訳だ。
だけど此処三日ほどは私も魔法の訓練で一日の大半をアルハザードで過ごすようになり、アリシアへと接する機会も大分多くなった。
この状況は普段寂しさを募らせていたアリシアにとって、何時も抱えていた寂しさを埋める為の絶好の機会だったという事なのだろう。
私としてもなるべくアリシアと一緒に居てあげたいとは思うのだが、自分は現実の人間でやる事がある以上はそうもいってはいられない。
だからこそ私もこういう機会には存分に甘えさせてあげる事にしよう、私は喉元から手を離してそっと彼女の細い肩を私の方に抱き寄せながら心の中でそう思った。

「ん~っ、やっぱりなのはお姉ちゃんは温かいや。何だか落ち着く」

「ふふっ、そう? 何だかアリシアって本当の猫さんみたいだね、ちょっと面白いかも」

「むっ、私は人間だよ~。もしかしてなのはお姉ちゃん私の事ペット感覚で見てたりする?」

「手の掛かる妹三割、甘えん坊な飼い猫七割って処かな。まっ、ペットにしてはそれなりに有能って感じ?」

そんな風に冗談半分に私がそう答えるとアリシアは「酷っ!?」と漫画のキャラクターのような実に分かりやすい反応を見せてくれた。
まあ半分は本当に猫みたいな反応を時々見せてくるからあながちペット感覚に見てるっていうのも嘘ではないんだけど、どちらかといえば私の中でアリシア・テスタロッサという人間は何処か放っておけない妹のようなポジションだった。
何処か放っておく事が出来ず、何時も目を掛けてないと寂しくて泣き出してしまうのではないかと不安にさせるような手の掛かる妹。
私は末の娘だから妹という物がどんな物なのか存じないし、あくまで憶測でしか物をいうことが出来ないのだけれど、妹から目を離すことが出来ない姉っていうのはこんな気分なんだろう。
私にとってアリシアとは良き隣人であり、一緒に物事を企む共犯者であり、そしてお互いがお互いに甘え合う歳の離れた姉妹のような関係にある人間だと言う事が出来た。

しかし、私はそんな妹のような子に「冗談だよ」と軽口を叩きながらも内心では別の事を考えていた。
アリシアは先ほど当面の間は問題は無いと言った、しかし既に犠牲者も出ている現状ではとてもそんな風に悠長に構えている場合ではない筈だ。
まあだからといってこれ以上私が頑張れるとか、練習量を増やして猛特訓なんていうような事にはなりたくないのだが其処の辺りが如何にも私には気に掛かって仕方が無かった。
確かに私は此処三日間で計三つもの強力な力を得る事が出来た、でもそれは果たして実戦で使えるかどうかも分からない程不安定な物なのだ。
実際私も一度も現実で魔法を行使した事は無いから何とも言えないけれど、恐らく現実の世界で魔法を使おうものならアリシアのサポートが無い分かなり制御も不安定になってしまうだろうし、よしんば使えたとしても威力の低下や精度の劣化はどうしても避けられない事は想像に難くなかった。
そんな問題だらけの状況の中でどうして彼女はこうもはっきりと問題が無いと言い切れるのか、私は其処の所をアリシアへと問い掛けてみる事にしたのだった。

「ねぇ、アリシア。ちょっとだけ聞いてもいいかな?」

「んっ? どうしたの、なのはお姉ちゃん。何か私に質問?」

「まあ質問といえば、質問かな。アリシアはさっき当面の間は問題ないって言ってたけど、それじゃあ何か他に勝算があるの? 流石にこのままの状態で正面切って闘っていくって言うのは私としても避けたいし、でもだからってトーレさんに協力してもらうにしても魔法の事がバレると色々と厄介でしょ? 其処のあたりはどうするのかなって思ってさ」

「ふふっ、よくぞ聞いてくれました。何れそんな風に言ってくるだろうと思って、ちゃんと手は打っておいたよ」

何時もとは違う何処かニヒルな笑みを浮かべるアリシアは自信満々と雰囲気を漂わせながら静かに私にそう答えを切り返してきた。
それは何処かアリシアらしい、そして何処までもアリシアらしくない矛盾した雰囲気を孕んだ返答だった。
大凡私が知る限りアリシア・テスタロッサという人間はそれ程器用に頭が回る人間ではない。
別にアリシアの事を私が馬鹿にしているとかそういう意味ではないのだけれど、そもそも精神的にまだ五歳前後の彼女にそれほど多くの物事が考えられるとは私も思ってはいなかったのだ。
しかし、今の彼女の印象はそんな私の知っている彼女とは何処か根本的な部分から異なっている様な気がしてならなかった。
あまりにも自信に充ち溢れている、そして何処かこんな事を何処かで予想していたのではないかと思えるほどに寸分の迷いも無い。
今のアリシアの様子はまるで事を全て見越していた預言者であり、何処か私とは根本的に考えている事が異なる科学者のように私には思えてしまったのだった。

すると私にそんな印象を抱かせた当の本人であるアリシアは、急に私の手を引いて立て上がるとそのまま私の腕を引っ張って「なのはお姉ちゃんも立って!」と今度は逆に子供の様な催促を私へとしてきた。
一体どちらの彼女が本当の“アリシア”なのだろう、私はそんな風な疑問を頭の片隅に置きながらも「はいはい」と反応しながらその場に身を起こした。
まあ何はともあれ私もそれほどアリシア・テスタロッサという人間と出会って永いという訳ではない。
確かに彼女と私は共犯者同士な訳だし、個人的な面から見ても良好な関係が気付けてはいるのだが、だからといって私自身アリシアという人間がどのような人間であるのかっていう事を全て把握できている訳ではないのだ。
それにアリシアは実質的には私の三倍以上も年が離れている年長者だ、幾ら精神が幼いとは言っても知識だけならば並みの大人も舌を巻くレベルなのだからこんな風な表情が出来ても何も不思議ではない。
だが何処か引っかかる、私はより深くこの疑問に踏み込もうとして……それを止めた。
何にしても今此処でうだうだと私が考えていても仕方が無い、私はそう自分に言い聞かせながら自分の目の前で光の粒子を操りながら嬉々とした表情を浮かべるアリシアの姿を黙って見つめ続けるのだった。

「さぁて、と。ようやく貴方を呼び出してあげられるね―――――さぁ、御開帳! 出てきて、バルディッシュ!」

光の粒子を手を振るいながら組み上げてゆき、それを徐々に形にしていくアリシア。
初めは私も彼女が何をしているのかよく分かっていなかった。
何せアルハザードで復元した物は現実の世界には持って行けない訳だし、どれほど強力な物を造っていてもそれは結局無意味なガラクタにしか過ぎないのだ。
しかし、少し頭を捻ってみると私はそんなアルハザードから現実の世界に干渉する事が出来ないという制約の”例外”という物があるというのをアリシアから聞かされていた事をふと思い出したのだった。

確かそれを聞いたのは三日ほど前の夜、金髪の女の子の自殺を止めたあの踏切の近くの空き地で何かのお墓の近くに置いてあった破損したデバイスを拾った時の事だ。
このままではとてもじゃないけど使用できないとアリシアに聞かされた時、私は酷く肩をすかしたものだった。
何せこれでようやく私も自由自在に魔法が使用できると思っていた手前、まさか使えないとは思っても見なかったのだ。
だから私は最初こんなガラクタ持っていたって仕方が無いと、大人気ないと分かっていながら色々とアリシアに愚痴を零しまくった。
まあ今でこそ多少反省はしているものの、やはり期待していた分だけ裏切られた時の落胆っていうのも大きかったというのが一番の原因だったのだろう。
しかし、そんな私にアリシアはジュエルシードに直接この壊れたデバイスを触れさせればある程度の修理や改良は可能だと私に言ってきたのだ。
そう、これこそがアルハザードに設けられた制約の落とし穴だった。
本来アルハザードで生成したものは直接現実世界に持っていく事は出来ないし、例えアリシアが望んだとしても現実の世界に直接干渉する事は不可能だ。
しかし、現実の世界にあるものを一時的にアルハザードに持ち込んで、その持ち込んだものに干渉して現実の世界に戻す事なら可能なのだとアリシアは言っていたのだ。
とはいえ、これはかなり黒に近いグレーな行いで、それなりに管理人格であるアリシアにも負担は掛かるのだけれどその時のアリシアは「有事だから致し方ない」と言って快くそのデバイスの修理を受け持ったのだ。
あれから三日経って、私もその事をすっかり忘れてしまっていたのだが、もしかしたらあの時のデバイスがどうにかなったのかもしれない……私は心の中で淡い期待を抱きながらアリシアの方へと改めて真剣な眼差しを向けることにしたのだった。

そしてそんな風に考える私を他所にアリシアは段々と自分が呼び出したい物の形を明確に顕現させ始めていた。
アリシアの手の内に集まっていく光の粒子は段々とその存在を明確な物へと変え、徐々にその刺々しいデザインを露にしていく。
それは何処か昔何かのゲームで見たような鋭い斧のようであり、全体的に何処か荒く暴力的なデザインをした鎌の様でもあった。
如何にも鉄の塊らしい粗暴な色艶、中央の核と思われる部分から伸びたそれぞれ形の違う三本の刃、そして所々に施された金色の装飾具。
美しいといえば確かに美しい、だけどそれと入り混じるように兼ね備えられた暴力的なシルエットが何処か不気味な雰囲気を醸し出している……少なくとも私にはアリシアが顕現させようとしているそれが一概に綺麗な物であるとは言う事は出来なかった。
しかし、その暴力的なシルエットは何処か頼もしくもあり、如何にも闘う為の武器であるという事をそれと同時に私に感じさせてくれる物だった。
もしかしたら私は結構な“当たり”を引いたのではないか、私がそんな風な念を頭に浮かべた刹那、アリシアの手の内のそれは完全な形としてこの世に再び生を受けたのだった。

「ふぃ……やっぱりこういうのは疲れるよ。さて、なのはお姉ちゃん。これがこの前、なのはお姉ちゃんが拾ったデバイス。これが私が用意した切り札だよ」

「へ~、これがあの壊れた金属プレートだった奴? 何だか随分と形変わっちゃったね。私はてっきり魔法っていうからにはもっと禍々しい物かと思ってたんだけど、案外普通の武器っぽいね。それって、斧なの? それとも槍?」

「ふふん、この子の名前はバルディッシュ。ご覧の通り斧であり、槍であり、万物を切裂く為の強靭な刃だよ。まあ確かにちょっと破損の具合が酷かったからメインデータを初期化して、なのはお姉ちゃん様に合わせて多少改造はしたけどおおむね元の状態と変わらない位には修復する事が出来たよ。ちょっと受け取ってみて」

「う、うん。何だか重そうだね、これ。ずっと取り回してたら筋肉痛になっちゃうかも」

本当にどうでもいいようなことを心配しながら、ゆっくりとアリシアの手の内にある彼女の身丈よりも大きなそれを私は丁寧に両手で受け取る。
初めの内は私もこんな重そうな物を振りながら闘わなくちゃいけないのかな、なんていうような事を心配していたのだが、彼女から受け取って手に持ってみるとそのバルディッシュとかいうデバイスは私の予想に反して大分軽い物だった。
まるで発泡スチロールで作られた模造品か、そこら辺のおもちゃ屋で売っているような安っぽい子供向けの魔法のステッキ……しかしながらその質感や感触は紛れも無く金属特有の冷たく鋭利な物に他ならない。
魔法って凄い、私はつくづく自分の住んでいる世界とアリシアの住んでいた世界の技術の違いを思い知らされる事になったのだった。

受け取ってみての第一印象としてはやっぱり武器らしい武器なのだっていう感じが強かった。
パッと見ただけでも斧やら槍やら鍵爪やらと刺々しい装飾が目立ったし、柄の先端には大きなピッケル状の杭までくっ付いている始末だ。
まるで大きな十得ナイフか、ありとあらゆる戦術に対応出来る様な禍々しい武器の塊、そんな風な印象を私はこのバルディッシュから抱かざるを得なかった。
しかし反面、単なる武器としてみるなら上等な物だと私は思った。
正直魔法と言われて私が浮かぶものと言えば、あのテレビで出てくるような魔法少女物のそれのイメージが強かった。
とはいえああいう物と言えば真っ先に浮かんでくるのはファンシーな衣装に魔法のステッキという安直な物で、とてもじゃないけどあんな化け物と闘えるだけな物の様には思えない物ばかりだった。
まあ確かに「プリキュア」とか「カードキャプターさくら」とかなら肉弾戦もあるし、それなりに闘えるのかもしれないけれど、それにしたってあんな体力任せの勝負が出来る程私だって強い訳じゃない。
やはり使用者である私自身の事も考慮すればこういう直接的に武器だと分かる物が手に入った事は僥倖だと私は思った。

だけど本当にこのバルディッシュを私が扱いきれるのか、そんな風な疑問も私の中にはあった。
確かに武器が手に入った事は嬉しい、しかしこのバルディッシュは何処からどう見たって直接敵に突っ込んでいって使用する様な近接戦向けの物だ。
そりゃあアリシアはこれらのデバイスを魔法を使う時の補助器具だとは言ってはいたけど、本当にそれだけの目的ならばこんな風に禍々しいデザインにする事も無いだろう。
恐らくは魔法の補助というのはオプションの様な物で、メインはこれを使ってを直接戦闘が主だった使用法なのだろうという事は何となく私でも想像が付いた。
しかし、出来れば私としてあんな化け物に突っ込んでいく様な事だけは極力避けたいというの本音だった。
此処までアリシアにして貰った上でこんな風な事を言うのも贅沢な話なのかもしれないが、私は元々こういった喧嘩とか戦闘とかそんな風な物に慣れてはいないのだ。
出来うる事ならあのサンダースマッシャーのような砲撃魔法をアウトレンジから撃って、相手に気付かれる事無く仕留める事が出来る戦法がベストだと思っている私にとってこのバルディッシュというデバイスはもしかしたら相性が悪いのではないかと思ってしまうのだった。
まあ何れにせよ、使って見てから判断する他ない……私はバルディッシュを手にしたままアリシアの方へと向き直ると、いったいこれがどういう物なのかという事を深く追求する為に彼女へと言葉を投げたのだった。

「これ、随分軽い……。だけど本当にこれであんな化け物とまともに戦えるのかな? 確かにこの、バルディッシュだったっけ? これが私でも扱える武器だった言うのはよく分かったけど、正直これを持ってあんなのに突っ込んでいく気なんて私には無いよ? というか無理、絶対無理。まさか、本当にそう言う訳じゃないよね?」

「あ~……うん、半分当たりで半分外れかな。元々このバルディッシュは近接格闘に特化したデバイスだからある意味なのはお姉ちゃんの言っている事も間違いじゃないんだけど、それだけが全てって訳じゃないんだ。デバイスを持って魔法を使うのと素のまま魔法を使うのじゃそれこそ天と地の差があるし、今までネックだった魔力の制御もある程度デバイスの方でやってくれるから大分負担の方も軽減される筈だよ。まあ論より証拠、まずは起動してみて、なのはお姉ちゃん」

「起動って言ったって……何処かにスイッチがあるとか? 正直その手の物は見当たらない様だけど、どうすればいいの?」

「バルディッシュに念じるように一言、セット・アップって言えば良いんだよ。バルディッシュは元々自立AIを持ったインテリジェントデバイスだから起動すれば後の事は勝手にバルディッシュ自身がやってくれるし、別に心配する事は無いよ。さぁ、やってみて」

アリシアの言葉に不安げに相槌を打ちながら私は言われた通りバルディッシュの柄を両手で握って静かに「セット・アップ」と口ずさむ。
すると手の内に握っていたバルディッシュの柄と斧の結合部である金の装飾からパソコンを起動したときの様な音が鳴り響き、徐々に光を帯び始めた。
魔法という位だからもっとファンタジーな事が起こる物だと期待していた私としては、バルディッシュから発せられた単調で機械的な起動動作はちょっとだけ寂しいもののように思えてしまったのだった。
まあ確かにこの形でアニメや漫画の様に「リリカル、マジカル、へんし~ん!」なんて起動の仕方をする筈無いとは思っていたのだけれど、なんというか安心したというかがっかりというか複雑な気持ちだった。

だが、私が驚いたのは此処からだった。
何と今度はその光った部分から音声が流れ、悠長な英語で「起動を確認しました」等と声を発してきたのだ。
正直これだけ聞けば別に大した事が無い様に思えるのかもしれないが、私は当然英語なんて出来ないし、そもそも勉強自体もうずいぶん前から真面目に取り組んではいない。
にも関わらず私は先ほどのバルディッシュから漏れた英語を感覚として”理解”する事が出来たのだ。
今まで私は英語なんて聞いてもちんぷんかんぷんだったのにいきなりどうしてしまったのだろう……そんな驚き半分不安半分といった様子で私がおろおろしていると、そんな私を見かねたのか、アリシアが「自動発生する翻訳魔法の所為だよ」と言って来てくれた。
何でもアリシア曰くデバイスには使用者の言語に合わせて直接言語が翻訳される様な機能がある様で、その御蔭で私もバルディッシュの言っている事が分かるのだという。
何とも便利な物だ、私はアリシアの言葉に素直に頷きながら自分の手にした機械の凄さを改めて実感するのだった。
でも、本当の驚きはまだまだこれからだという事をこの時の私はまだ知りはしなかった。
直後バルディッシュの核から発せられた野太い男性の悠長な声が私の鼓膜を静かに刺激したのだった。

『正常起動完了。おはようございます、使用者様。貴女が私のメインユーザーである高町なのは様ですか?』

「えっ、あっ、へっ? あぁ、うん……そうだけど……」

『音声認識完了、指紋照合確認。現使用者をメインユーザーの第一優先者として認識……。了解いたしました。よろしくお願いします、マイマスター』

「こっ、こちらこそ……って、えぇ!? なにこれ、なにこれぇ!?」

行き成りの事に困惑してらしくもなく軽いパニックに陥ってしまう私。
確かにアリシアから後は全部やってくれるとは聞いていたけれど、私もまさかバルディッシュが喋るなんて思っても見なかったのだ。
まあ確かに昨今こういうような杖を持ったアニメとかに登場するアイテムは自分の意思を持ってたり、中に誰かの意識が居たりとそういうものが有り触れてはいるけどまさか現実にこんな物があってそれを自分が手にするなんて普通思いはしないだろう。
しかしこれは一体何なのか、私は段々と自分の認識はちょっと浅はかだったんじゃないかと不安になり、縋るような気持ちでアリシアの方へと視線を向けて説明を求めるのだった。

するとそんな私の様子に苦笑したアリシアは私のような素人にも分かるように丁寧に言葉を選びながら私の質問に答えてくれた。
なんでもこのバルディッシュというデバイスは自立思考型のAIを有する特殊な物で、使用者に対してアドバイスをしたり、咄嗟に助けるようにしたりとそういう面にも拘った品物であるとの事だった。
これを俗にデバイスのカテゴリーの中ではインテリジェントデバイスというらしいのだけれど、正直そういう専門用語を出されてもちんぷんかんぷんな私としてはとりあえず「フルメタルパニック」に出てくるアーバレストのAIであるアルや、「蒼き流星のSPTレイズナー」に出てくるロボットであるレイズナーのAIであるレイのような物であるという事だけ理解しておく事にした。
これ以上専門用語を連発されても正直頭がこんがらがるだけだし、多分幾ら考えたって理解は出来ないだろうからだ。
まあ何にしても便利な武器で便利な機械、私はとりあえずこの手の内のバルディッシュについてはそう考えておこうと思ったのだった。

「ま、という訳でそれ程なのはお姉ちゃんが思っているほど複雑な物じゃないよ。ねっ、バルディッシュ?」

『イエス、セカンドマスター。私の機能は他のそれと比べても大分簡略化されました。使用する分に関してはそれ程苦になるような事は無いかと』

「だってさ。じゃあ次のステップに行こうか。今度はなのはお姉ちゃんのバリアジャケットを決めるよ。あっ、バリアジャケットっていうのは一種の防護服の事なんだけど……何かなのはお姉ちゃんからは注文はある? こう、可愛くしたいとか。フリフリな感じが良いとか?」

「いや、流石にそういうのはちょっと……。しいて言うならあんまり肌を露出させないって言うのと動きやすいっていうのが両立してる奴がいいな。まあだからってジャージとかそういうのは嫌だけど、まあ其処のあたりは任せるよ。……にしても中途半端にこういう着替えとか防護服とかはあるんだね。何だか本当に魔法少女アニメみたいだ……」

まあだからってあんなファンシーな衣装に身を包んだまま闘おうなんて微塵も思わないのだけれど、そんな風に自分で自分の言った事に対して突っ込みを入れた私は改めてバルディッシュに「お願いできるかな?」と頼んでみるのであった。
するとバルディッシュは「マスターに最適な物を模索し、適用します」と何とも機械的な返事を返してくれた。
正直私としては服のデザインとか細かいワンポイントとかそういったものに別にこだわりは無いから好きにして貰っても構わないとは思うのだけれど、そこは一応私も女の子という訳でして……それなりに期待している部分が無かった訳でもないのだ。
何せ私は此処数ヶ月まともに新しい服を買った事もなかったし、何処かへ出歩く時も基本的にお洒落とかそういうことは気にせずに適当に服を引っ張り出してきているだけに過ぎない日々が続いていた。
女の子として、そして年頃の子供としてここら辺はいかがな物なのかと自分でも度々思ってはいたのだが、子供服というのは案外高い物で、一着買うだけでも直ぐにお金が消し飛んでしまうし、一式揃えようと思ったらそれこそ桁が一個増えてしまう。
だからこそ仕方なく私は自分のお小遣いでも何とか都合の出来るリサイクルショップやユニクロなんかの服である程度都合を利かせていたのだが、それでも人並みにお洒落がしたかったという気持ちは一応は私にも残っていた。
だからどうせ着るなら少しでも女の子らしいものが良いな、なんという風なことを私も密かに期待してしまうのだった。

だけどその反面、私は出来うる事なら肌の露出は控えめな物にして欲しいと切実に思っていた。
私の身体は至る所傷だらけ、そんな見っとも無い身体を出来る限り私は外に晒したくなかったのだ。
此処何ヶ月もの間受け続けてきたクラスメイトからのイジメの中には時として暴力に訴えかける物も多々あった。
殴られ、蹴られ、踏み躙られ……酷い物だと画鋲やコンパスを投げつけられたり、カッターナイフで肌を薄く切られる事だってあった。
その所為で私の身体の至る所にはまだ多くの傷跡が残ってしまっている、幾ら魔法を使っているところを誰に見られるわけでもないとは言っても出来うる限りこの当たりのことに関しては自分でも思い出したくは無かったのだ。
こんな傷だらけの身体をずっと見続けていたら私も多分昔の事を思い出してしまう。
そしてそれは不利益にこそなっても利益に繋がる物は一つも無い、言うなれば百害あって一利無しだ。
現実の自分と魔法を使っている自分との区切りをつけるためにも此処のあたりははっきりとしておきたい、私は改めてそう思い返すのだった。

刹那、私の身体を柔らかな桜色の光が包んだ。
それは私の魔力の色、とても私のものとは思えないほどの柔らかな桜色の細かな粒子が私の身体に纏わり付いて服装を変化させようとしていたのだ。
しかし、内心私は穏やかであるとは言えなかった。
こういう魔法少女物にありがちな変身シーンだと主人公の女の子が突然裸になったり、服が弾け飛んだりとしているがこれは果たして大丈夫なのだろうかと思ってしまったからだ。
幾ら此処にはアリシアと私しか居ないとは言え、一応私にだって超えちゃいけない一線というもの位は理解しているつもりだ。
別に今更ショーツを見られたり、スカートが捲られたりしても私としてはそれ程羞恥心は抱きはしないのだが流石に全裸というのは倫理的な面からしてもかなり拙いものがあるだろう。
お願いだからそんな変な事にはなりませんように、私がそんな風に心の中で祈りながらジッと終わるのを待っていると以外にもその数秒後には私の着替えは完了していたのだった。

「お、終わった……?」

『イエス、何の問題も無く正常に動作しました。よくお似合いですよ』

「そっ、そうなの? アリシアはどう思う、これ?」

「うん、いいんじゃないかな。何だか大人っぽい感じもするし、それでいて機能的って感じ出し。よく似合っていると思うよ」

そうかな、とちょっとだけ照れながら私は改めて自分の服装を自分で確認してみる事にした。
私の今の格好、それは一言で言えば全体的に黒で統一されたブレザーのような地味で極力肌の露出の少ないものだった。
プロテクターでも嵌めたかのようにかっちりとした鉄金具に覆われた靴、黒地の生地に赤いラインの入ったニーソックス、何処か警察の制服かビジネススーツを思わせるようなデザインの黒色のブレザーとスカート、そしてそれ等を覆う白のマントと私の無駄に長ったらしい髪をツインテールで纏めてくれる黒いリボン。
なんというか手の内のバルディッシュも相まってか、魔法少女物の主人公というよりは戦隊物シリーズに出てくる悪の女幹部のような格好だという印象を私は受けた。
しかし、アリシアにしてもバルディッシュにしてもこの格好が似合うのだと押してくれているし、私としても特に何か不満があるという訳ではない。
当面の間は問題も無いだろうし、しばらくはこれで何とかしよう……私は心の中でそう思いながら静かにこの服装に妥協して、これを受け入れる事に決めたのだった。

「じゃあ私もこれでいいよ。これって魔法を使う時は何時でもこの格好になれるの?」

『ノー、このバリアジャケットは私が起動されるかマスターが望まなければなる事はありません。しかし、お望みとあらば設定を変更いたしますが?』

「ううん、それならいいよ。流石に街中でこんな風になられちゃ困るけど、普段が大丈夫なら別に気になる事も無いしね。ありがとう、バルディッシュ」

『問題ありません。この程度の事でよければ何時でもお気軽に』

なんというか一々堅苦しい喋り方をするなっていう風な印象をバルディッシュから受けながらも私はこのバリアジャケットとか言う格好を纏ったまま、それなりに身体を動かしてみる事にした。
足を上げたり、背伸びをしてみたり、徐にバルディッシュを振ってみたり……凡そ着心地や伸縮性がどうなっているのか確かめてみる。
しかし結果は至って普通、結局何の問題も無いという結果に落ち着くだけだった。
着心地についても大して悪くは無く、寧ろ何時もの私の服装に比べれば大分上等なものと言ってしまっても構わない。
これで後はどれほど強度があるのかという事に関してさえ分かれば完璧なのだが、其処の辺りはいくら防護服と言ってもあまり期待しないでおくことにした。
何にしてもまずは当たらないという事が一番の大前提な訳だし、その為の回復魔法と私のジュエルシードの力があるのだ。
敵と遭遇して襲われたときの事なんか考えたくも無い、私はそう思いながら合えてこの服の防御力の事に関しては一旦全てを忘れる事にしたのだった。

しかし、ふと私は此処である事に気が付いた。
もう彼是何時間と練習をしてきたが、流石にそろそろ夜も明けて日も出るような時間帯になっている筈。
幾ら今日が休日だとは言っても、午後にはトーレさんとの話し合いも控えているのだ。
あまりこのままずっと眠っているというのも建設的ではないし、此処最近は暇さえあれば寝ていたものだから現実の私の身体状況はかなり改善されている。
偶には少しだけ速めに起き出して遅刻しないようにあれこれ仕度を整えておくというのも一つの手だろうし、何よりも寝坊したというくだらない理由でトーレさんに失望されたくない。
とりあえず今日のところは練習を切り上げて起き出すべきだろう、私は一人そんな風に思いながらアリシアに向きかえって「今日はもう起きるよ」と声を掛けたのだった。

するとアリシアはそんな私の言葉を聞いて、少しだけしょんぼりとした雰囲気を漂わせ始めていた。
きっと長らく一緒に居た私と別れるのが寂しいのだろう、それ位のことは私でも用意に判断が付いた。
しかし、アリシアは直ぐに何時もの笑顔を取り戻すと「今日も一日頑張ってね!」と私を励ますようなことを言ってくれていた。
アリシアには大分無理をさせてしまっていると私も思っている、しかしだからといってこれ以上私としても現実の時間をないがしろにする訳にも行かないのだ。
それにアリシアのお母さんの事もある、その人がどんな人で今何をしているのかは私も知りはしないけど、ジュエルシードの事で何か此方に危害が及ぶような事があるとすれば早急に見つけ出して対処する必要だったある。
悔しい話だけど全てを終わらせるにはお互いけじめをつけてやっていくしかないのだ。
私は悲しげなアリシアの表情に少しだけ胸を痛めながら、何時ものように「ぼちぼちね」と言葉を返すのだった。

「でも、このまま戻る訳にも行かないよね? それにバルディッシュにしても、あっちの世界に持っていくにはちょっと大きすぎるかな。ねぇ、アリシア。これって何とかならないかな?」

「ふふん、そんなの簡単だよ。バルディッシュ」

『イエス、セカンドマスター。バリアジャケットを解除、同時に待機モードへと移行します』

自信満々といった具合のアリシアが短くバルディッシュに命ずると、バルディッシュは静かに彼女の言葉を受理して行動を起し始めた。
私の服装を元のカジュアルなスカートとパーカーに戻し、自分自身もまた姿を変えて待機モードと呼ばれる小さな形態へと姿を変えていく。
そして次の刹那にはあの大きくて無骨なシルエットを醸し出していたバルディッシュは私が拾った時と同じような三角形の土台の付いた金属のプレートへと姿を変えていたのだった。
そしてそんな変形し終わったバルディッシュを私はポケットの中へと仕舞い込み、改めてアリシアへと向き直ると一度だけ小さく息を吐いてから彼女の元へと近寄って、もう一度優しく彼女の頭を撫でてやるのだった。
此処までお膳立てをしてもらえれば後は自分で何とか出来る、まあそんな傲慢な風には私も思っていないが事を成すだけの力を彼女のお陰で手に入れる事が出来たのは事実だ。
それに今後は夜中も動き回らなきゃいけなくなるかもしれないから、もしかしたら何時もみたいに夜だけでもアルハザードに来ようという事すらも出来なくなる恐れもある。
また彼女に寂しい想いをさせてしまうかもしれない、そんな不安と感謝から来る行動だった。

そしてそんな私に為すがままになっていたアリシアは照れくさそうな微笑みを一度浮かべると、そのまま静かに私に抱きついてきたのだった。
まるで子供の様に、いや……漸く見た目相応の子供として振る舞えるように。
私はそんなアリシアの肩を軽く抱きしめながら本当に華奢で軽い子なんだなって言う事を改めて思い知った。
こんな私よりも遥かに頼りなくて、それなのにこうも頑張れる彼女の姿は私としても黙ってみているには辛いものがあった。
こんなに力の無い子がどうして私の様な最低な人間に縋らなければ寂しさを埋められない程に擦り切れなければならないのだろうか、そんな憤りが私の胸の中で渦を巻く。
だが改めて考えてみるとその解決方法がたった一つしかないという事も私は分かっていた。
ジュエルシードを全て回収して、アリシアのお母さんを見つけて止め、そして誰よりも上を行く為に私とアリシア以外の全員を出し抜く。
それが最善の方法であり、私にはそうする以外に道は残されていない以上後は全力で取り組む他ないのだ。

私は少しだけ自分の胸に込み上げていた感情を無理矢理抑え込むと、抱きついているアリシアを優しく振りほどいた。
そろそろ行かねばならない、そういう決心が改めて出来たからだった。
全てを終わらせるには私が始める他ない、アリシアと私の今後の未来の為にも今此処で一時の情に流されている訳にはどうしても行かないのだ。
確かにアリシアの事は心配だ、こんな小さな子をまた一人にしなければならないという罪悪感も無いと言えば嘘になる。
しかし、だからと言ってこんな私がどう行動を起こした処で結局それは寸分も彼女の為にはならないのだ。
抱きしめてやる事だって出来る、頭を撫でてやる事だって一緒に遊んでやる事だって別に苦に感じる事は無い。
だけどそれを本当にするべきなのは私じゃない、それが分かっているからこそ……私はまた一歩前へと踏み出す決心が付くのだった。

「それじゃあ、行ってくるよ。今日はトーレさんとの話し合いもあるし、忙しくなりそうだけど……まあぼちぼちやってみるよ。それじゃあ、行ってきます」

「うん、行ってらっしゃい。また……こんな風にしてくれる?」

「まあ、次に来るまでにアリシアが良い子にしてたらね。後は全部態度次第、かな?」

「……分かった。約束、だよ!」

いじらしくそんな事を言うアリシアを見届けながら私は意識を手放した。
明確に返答してあげる事が出来なかったのは、やっぱり心の何処かに迷いが在ったからなのだろう。
アリシアと一緒にいると私も楽しい、それは紛れもない真実として私の胸の内にある。
だけどそれは結局私がアリシアという存在に甘えているだけであって彼女に甘えさせてあげている訳じゃないのだ。
彼女が自分に甘えてくれているという環境に酔っているだけ、大凡自分が人様を受け入れるだけの器量が無い事なんて初めから分かっているのにも拘らず私は彼女という存在を自分の拠り所にしようとしてしまっているのだ。
そしてそれは絶対にアリシアの為にはならない、そう考えると私は何だか言葉に出せない程の憤りを感じてしまうのだった。
しかし、どれだけ私が悩んでいたとしても次の朝は必ずやってくる。
今は自分に出来る事をやって上手く事を運ぶしかないのだ、私はそう結論付けてこの考えを終える事にした。
終わらせる為に始める、それが一体誰の為になるのかという根本的な答えを見つける事もしないまま。
私は今日もまた詰まらない現実の世界へと意識を戻していくのだった。





補足説明

少々作者の下手な描写の所為で分かり辛い部分もあったと思いますので此処で補足します。

・バルディッシュについて
この話の中に登場するバルディッシュは「魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st」に登場したデザインの物となっております。
基本的にはアニメ版の仕様とそう変わりはしませんが、基本形態はアックスフォームです。
なおデータが初期化された為、フェイト等の記憶は残っておらず、メインユーザーは「高町なのは」、セカンドユーザーは「アリシア」として予め登録されています。
ちなみに魔力光の関係で刀身の色は桜色になると思われます。

・なのはさんのバリアジャケットについて
イメージ的には、なのはStrikerSのフェイトのバリアジャケットの子供服バージョンです。
原作通りパージすることも出来ますが、あくまで少し身軽になるだけで真ソニックフォームのような効果は得ることはありません。
ちなみにパージ後の姿はまだ秘密です。

・なのはさんの魔法について。
基本的には無印、A'sでフェイトの使用した魔法+Forceに登場した一部の魔法を使用します。
もしかしたら今後の話の関係上元のなのはの魔法も使われる事があるかもしれませんが、基本的には初期のフェイトの技を使用すると考えて下さい。
ちなみに魔力光の色は桜色のままです。

下手な蛇足をしてしまってすみませんでした。




[15606] 第十五話「それは戦いの予兆なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/03/20 16:44
やりたくもないのにどうしてもやらねばいけない時という物がある。
だるい、かったるい、面倒臭い……まあ理由は何でもいいけれど、そういった理屈が通用しないどうしても避けられない事態の事だ。
例えば事故、幾ら本人が遭いたくないと思っても本人の運次第でそれは何時どんな時でも起こりうる事態に変貌する。
例えば人間関係、集団生活という物の延長線上で成り立っている社会の中ではどんなに隣りの人間が嫌な奴でもそれなりの付き合いをしなければならない事もある。
そして例えばどうしても闘うしか方法が無くなったしまった時、色々な選択肢を消去法で消していった結果抗うしか方法が無くなった場合、人はどうしても闘う道を選ぶしかなくなる訳だ。

勿論其処に本当に別の選択肢が在るのであれば話は別だ。
協力者を募って全部その人に丸投げして済むのならばそれが一番本人にとっては楽なのだろうし、何も知らないふりをして逃げるというのも一つの手だ。
目の前に立ちはだかった壁に必ずしも立ち向かわなきゃならないなんていう熱血漫画の主人公みたいな道理を皆が皆抱えている訳じゃないんだろうし、寧ろこっちの方が人間の行動としては地を行くものなのだろう。
誰だって辛いことや苦しい事は嫌だろうし、自分の利益にならない事に善意で突っ込んでいける人間なんてそうそういる訳が無い。
皆自分の身が一番可愛いのだから、なるべく楽な方へと流れて行きたいと思うのは仕方が無い事なのだ。
そしてそれに関してだけいれば、私こと高町なのはも殆ど変わらないような思想の持ち主であると言えた。

しかし現状抗う必要性があるのもまた事実であり、その為には私自身がどうしても前に闘わねばならないという事も私は同時に感じていた。
それは私の為でもあり、私自身の居場所を守る為でもあり、そして私を頼ってくれる人を救う為でもある。
とはいえ私のそれは護るとか助けるとかそんな美辞麗句なものではない、もっと自分勝手で保身的な感情から来るものだ。
どうせ護りたい人といった処でこの街の人間全員を護るなんて馬鹿げた理想を抱えている訳でもないし、はっきり言えばそれ以外の人間がどうなろうが知った事ではない。
私はただ私が望んだ物に縋るだけに闘うだけ、だけどそれ故に闘えるのだ。
あくまでもこの胸に抱くのは自分の欲した者に対する渇望とそれを手に入れる為にはどうしたらいいのかという狡賢い思考だけ。
そうやって割り切って挑もうとするからこそこんな私でも戦えるのだろう、私はそんな風に思いながら正面にいる人間に向き直って耳を傾ける事にしたのだった。

「正直に言うと、だ。君の協力を我々は受ける事に決まった。とは言っても君に出来る事と言えば精々水先の案内人が関の山だろうが、幸いな事に私はこの辺りの地理にあまり明るくない。よろしく頼むよ、高町なのは君」

「ほっ、本当ですか!?」

「あぁ、少々反対する者も居たには居たのだがな。最終的には私の主である人間が快く賛同してくれたよ。まぁ、もう一人賛成した人間も居ないではないんだが……あれは単に自分が楽しめればどうでもいいというような奴なのでな。まあ何にしても、期待しているぞ」

「分かりました。私も一度言ってしまった手前後には引けませんし……こちらこそ、よろしくお願いします」

目の前の相手……トーレさんに微笑みながら慌ただしく頭を下げる私、そしてそんな私の様子に苦笑するトーレさん。
とりあえず大前提となる処までは行きつく事が出来た、私は取り繕った表情の裏側でそんな風に考えながら現在の状況を整理していた。
現在私は予定通りトーレさんとこの前の喫茶店で待ち合わせをし、私が協力者になれるか否かという報告を受けていた。
初め私は断られるのではないかという不安を胸の内に燻らせていたのだが、存外その結果は淡白な物で私はあっさりとトーレさんから協力者になっても良いという事を言い渡されたのだった。

事が上手く運んでいるというのはまさにこの事なのだろう、私はそんな風に思いながらトーレさんの話に耳を傾けていたのだが、これはあくまでも前哨戦に過ぎないのだという事を私は心の中で自分に言い聞かせる。
確かにトーレさんに取り入るというのは情報や戦力の面でも大きなアドバンテージになるだろうし、この繋がりが深ければ深い程私の負担は軽くなっていく。
しかし現状私自身も前に出て闘う必要があるという手前、全てトーレさんに丸投げして自分は部屋でふんぞり返っているという事は出来ない訳だ。
つまりこれからは味方であるトーレさんも偽りながら行動しなければならないという事になって来る。
行動には十分注意して事に取り掛かっていくとしよう、私は高揚する自分の気持ちをそんな現実的な思考で沈めながらそんな風に最終的な結論を纏め上げた。

現在私の手の内にあるカードと言えばジュエルシードとアリシア、そしてアリシアから受け渡されたインテリジェントデバイスのバルディッシュ位だ。
そして今日この時点でその中にトーレさんとその背後の組織というカードが加わった。
しかしこのカードは他のそれとは違って下手をすればジョーカーになりかねない効果が不定期で、使いどころを誤るとそれまで積み上げてきた全てが駄目になってしまうかもしれないという危険な可能性も孕んでいるのだ。
勿論正しく使えば私にも十分な利益になるのだろうし、最悪個人で動かなくてはいけなかった私にとっては組織というものが後ろに付いてくれた事は非常にありがたい事ではあるのだが、私自身も何時ボロを出すかもしれないという事を考えると安心しきれないというのもまた事実だった。
それに私はトーレさんの組織というのがどんな物なのかは存じないし、そもそもどんな人間がどれだけの数居るのかという事すら分かっていない。
とりあえず繋がりを作る事は出来たものの、不用意に全てを委ねるのは危険すぎる。
だがこの関係は蔑ろにするには少し惜しいものがある、其処の処を上手く調整しながらやっていくしかないという事なのだろうと思いながら私は改めてトーレさんに向き直り、偽の頬笑みを浮かべながら言葉を投げかけるのだった。

「しかし、大丈夫なんですか? 正直、私の様な人間なんて足手纏いでしょう? ご迷惑を掛けないと良いんですけど……」

「いや、その心配には及ばんよ。直接君が件のアレをどうこうする訳ではないし、私も君に無理を強いるつもりはないからな。私が君に望むのはこの辺りの道案内と、出来ればジュエルシードの暴走体を発見した際に一報を入れてくれる事くらいだ。それに、君がジュエルシードを保有しているからこそ役に立つという事もある」

「囮……そういう訳ですか?」

「……あまりこういう事を言うのは難なのだが、その通りだ。私の所属している組織以外の組織もジュエルシードを狙っている。それも話して分かる様な友好的な手合いかどうかも分からん。そこで君を付け狙ってきた輩を私が倒すという事を条件に私は反対していた残りの人間の承諾を得て来たんだ。君にとっては酷い話かもしれないが、私も遊びでやっている訳ではないのでな。だが安心して欲しい、私がいる限り君には一切被害は及ばないと約束しよう。君の事は私が護る」

一応覚悟の内です、私は沈み気味といった様子を醸し出しながらトーレさんの言葉に力無く返答する。
勿論私だってそういう事態を考慮していなかったという訳ではない。
敵はあくまでも暴走体だけではない、それは以前からトーレさんに聞いていた事だ。
ジュエルシードを狙ってくる人間が私やトーレさんの組織の人間以外にも居るのだとすれば当然それ等を全部平和的に解決できるなんて事はあり得ない。
今回は偶々トーレさんが物分かりが良い人であったというだけの話で、他の人間も同じように私に対して友好的であるかどうかは定かではないのだ。
当然私を無力な子供だとみなして無理矢理奪い取ろうとする人だっているだろうし、最悪殺そうとする人間だって出てくるかもしれない。
正直この歳で死ぬだ殺すだというような物騒な世界に身を投じたくは無いのだが、本当に最悪の中の最悪の場合私自身もその人たちとぶつかり合わねばならないかもしれないのだ。
それ相応の覚悟は決めておかねばならない、私はトーレさんの真剣な眼差しを一身に受けながら内心でそんな風に考えていた。

しかし、幾ら覚悟があったとしてもその覚悟に見合った戦力が無ければどうにもならないと私は同時に思っていた。
現在私の手元の直接的な戦力はバルディッシュとジュエルシードに私が願った”遮断”の力のみ。
しかも片方はまた使い方もあまり良く分かっておらず、もう片方も防御オンリーで使用時間は五分という制限もある。
只管逃げ回るだけというのなら取りあえずは何とかなるのかもしれないけれど、とてもじゃないがこれではまともに誰かとぶつかり合う事など出来はしないだろう。
何せ素人である私すら適当に感覚を掴んだだけであれだけの威力を持つ攻撃が出来るのだ。それがその道のプロのものとなると、正直想像もしたくない程に強力な物になるだろう。
暴走体に加えて他の魔法を使う人間にも注意しなければならない現状には少々落胆の色も隠せないが、何にしてもその時になって何も出来ませんでしたでは御話にもならない。
せめて私にも後二、三枚この件に関われるだけのカードが欲しい……私はそう思わずにはいられなかった。

せめて今此処にアリシアが居て相談に乗ってくれるなら何か糸口が見つかるかもしれないが、残念ながらジュエルシードはトーレさんに言われて自宅に置いてきてしまったのでそういう事も出来はしない。
今此処で私がどうこう考えていても仕方が無い、私が久しぶりに感じる自分の事を自分だけで考えなければいけないという状況に少しだけ物寂しい感覚を憶えていた。
いつもなら此処で頭の中でアリシアにどうすればいいのかと話しかけたりして二人で今後の方針を決めようと考えるのだが、やはり一人だと如何にも考えすぎてしまう節が強くなってしまう。
考えれば考えるほど物事が見えなくなってしまうのは私の悪い癖だし、今までもとりあえずはアリシアが居たからこそ切り抜けられてきたという部分も多々ある。
だけど何時でも彼女が居るとは限らない訳だし、こういう状況に陥る事だって今日で最後ということにはならない筈だ。
自分で考えるべき所はなるべく自分で考えなければ、私はすっかり緩みきった自分の気持ちを改めて引き締めながら机の上に何やらアルミ製らしきケースを取り出しつつあるトーレさんへと向き直った。

「と、言っても流石に私にも限度という物がある。流石に四六時中君の近くで控えているという訳にも行かないし、ジュエルシードの回収の方もないがしろにする訳にはいかない。そこでもしもの時に備えて君にもそれ相応の武装をして貰う事にした。とりあえず、これを受け取ってくれ」

「あの……これは?」

「とりあえず開けてみれば分かる。一応それなりに君の背格好を考慮して購入した物だが、私もこの世界の武器には疎いのでな。しっかりと手に持って確認して貰えるとありがたい」

「あっ、はい。それじゃあ失礼して……」

苦笑いを浮かべるトーレさんの顔色を窺いながら私は机の上に置かれたアルミ合金製の小さなケースを受け取った。
そのケースというのは凡そB4サイズの画用紙ほどの面積を持つ長方形のケースで、その質感は何処か物々しい雰囲気を漂わせていた。
側面には何か英語で色々な事が書かれていて、中でも一番目を引いたのが大文字で大きく刻まれた『AMT』という刻印だった。
これも何かバルディッシュと同じようなとんでもびっくりな魔法アイテムの一つなのだろうか、私は一瞬だけそんな気持ちになったが……徐にそのケースを開いた瞬間、直ぐにその認識を改めた。
其処に入っていたものの正体、それはどこまでも身近な武器であり、凡そこの国では持つことが許されない人を傷付ける為の兵器だったのだ。

拳銃、そんな単語が不意に私の頭の中を過ぎる。
凡そこの国では持ってはいけないもの、しかしゲームや映画といったメディアでは極々普通に登場する私でも知っているようなこの世界切っての武器だ。
当然私のような子供でもどんな物かという事くらいは知識を持っているし、それがどんな用途で使われるかというのも大体の人間が知っている。
人を傷付ける為、人を殺す為、人を再起不能にするため……それが拳銃という兵器の役割である事くらい誰だって知っているものなのだ。
そしてそれが今私の目の前にある、一応アルハザードでアリシアに一度拳銃を向けられた事はあったけれどこうして生で本物の拳銃を見たのは私も初めてだった。
一体なんでこんな物騒な物を、私はそんな風に思いつつもケースの内に佇むクロームシルバーの小さなそれを手にとってよく観察してみる事にしたのだった。

それは本当に小さな拳銃だった。
映画とか漫画で出てくるような大きくて威力のあるようなものではないけれど、逆に小柄で無骨な所が強固さと形態性をアピールしているようにも見える。
大きさは凡そ私の掌でもしっかりと握れるくらい小さく、漫画や映画の事を思い出しながらグリップに手を掛けてみると冷たい鉄の質感が掌の中に伝わってくるようだった。
しかし此処は日本の小さな喫茶店であり、当然何時までも出していて良い物ではない。
私は急いで手の内に握っていたそれをソッとケースの内に戻し、そのまま蓋を閉める。
本物、間違いなく私は今本物の人を殺す武器を手に取っていた……そんな風な焦りと妙な高揚感を胸の中で燻らせながら。
私は慌ててトーレさんの方を向き直り、説明を求める為に言葉を投げかけるのだった。

「こっ、こんなもの……一体何処から!?」

「すまん、驚かせてしまったかな? それはこの世界のアメリカとかいう国で作られた質量兵器だ。確か名前はバックアップ、だったかな? この世界では割とポピュラーなものだと聞いて知り合いに手配して貰ったんだが……何か拙かったか?」

「拙いも何も銃刀法違反ですよ、これ! 確かに世界的に見ればポピュラーかもしれませんけど、少なくともこの国じゃ持ってるだけで警察に捕まっちゃいますよ」

「そっ、そうだったのか? それはすまないことをした。だが、それでも受け取って貰わねば困る。確かに私の世界でもそういった実弾を使用する兵器はご法度とされていて一般人は持つことは許されないんだが、君を襲ってくるかもしれない連中はそんな物でも持たなければまともに対処すら出来ん連中だ。下手をすれば持っていても歯が立たないかもしれない。多少この世界の法にも触れてしまうかもしれないが、其処の所は勘弁して貰えないか? これは私にしても、それに君にしても命に関る問題なんだ」

真剣な表情を浮かべながら、付き返そうとしている私をやんわりと制止するトーレさん。
その口調は何処か重々しげで、そして本当にヤバイ物なのだって言う所を何処か揶揄するように非情に危機感を孕んだものだった。
確かに拳銃という物がこの国においてどれだけ拙い物なのかっていうのは私も分かっている。
連日こうした物の不法所持で捕まる人なんて後を絶たないし、それによって引き起こされる事件の犠牲者なんてそれこそ午後のニュースに一度くらいは流れる程に頻発している。
一昔前なんて怪しい宗教団体や赤軍派と呼ばれる共産思考の過激派が度々テロ紛いな事件を引き起こす為にこうした拳銃を用いたというのもよく聞く話だ。
そして年々警察の人もこうした物を持たないように強く取り締まっているし、それによって逮捕される人の数も年々増しているのだとメディアではよく言われている。
まあ私は確かに自他共に認める社会の最底辺に位置するような人間なのだろうが、それでも流石にこの歳で警察のご厄介になりたいとは思わない。
本当なら早くこれを突き返してまた別のものを頼んだ方がいい、私はそんな風に考えて……其処で思考を切り替えた。

確かに普通の人間が考えればこの目の前のケースに入っているものは物騒極まりないものなのかもしれない。
だけど今私が遭遇している事態はとても普通の一言で片付けられるようなものではなく、それどころか私自身も一度は命の危機に瀕するまでに追い詰められた非常に危険な物なのだ。
確かに私にはバルディッシュもあるし、“遮断”の力もあるから対処できない事は無いといえばそうなのかもしれない。
しかし、現実的に考えれば此処で多少非合法だとしても拳銃というカードを自分の方に付けたほうがより活動の幅は広がる筈だ。
何せ拳銃というものは突きつけるだけでも抑止力になりえるものだし、不意を付いて一点を穿てばそれだけでも相手の行動を封じる事もできる。
後は使用する本人の問題になるが、これも魔法の練習と同じでアルハザードで訓練すれば真直ぐ銃弾を飛ばせるようになる位にまでは付け焼刃で何とかなる。
それに他の人間に私が狙われる恐れがあるのだとすれば、何時でも持ち運べる武器というのは大きなアドバンテージにもなる。
幸いこのケースの中に入っていた物は子供の私でも難なく使えそうだと思わせるぐらいに小さかったし、スカートの間に挟むかポケットに入れるかすれば学校にだって持っていく事も可能だ。
此処は素直に受け取っておくのが吉というものだろう、私はそんな風に最終的な結論を自分の中で纏め上げると素直にトーレさんが突き返してくるケースを両手に持って受け取り、改めてこれを所持する事をトーレさんへと宣言するのだった。

「……分かりました。本当はこういう物を持つのは嫌だけど、今は受け取っておくことにします。だけど、出来ればこれを私に他の人に向けさせないでください。そうなる前に……お願いします」

「ふっ、承知した。私だって君のような子供に人殺しの汚名を着せるほど非情な人間ではない。そんな業を背負うのは私一人で十分だ……。しかし、いざとなれば迷わず撃ってくれ。それには9mm口径の弾が最大六発入る。詳しい取り扱いに関しては説明書を翻訳して中に入れておいたからそれを見てくれれば問題ないが、撃つか撃たないかという事に関してはもはや覚悟の問題だ。私もなるべく君にそれを撃たせないように心がける、だがもしも私に何かあった時は……君も迷わず引き金を引いて逃げてくれ。まあ、早々そんな事態にはならんだろうがな」

「……分かりました。その時は、私はそれなりに覚悟を決めます。だけど本当にお願いしますね? 私、喧嘩とかそういうこと……全然した事無いんですから」

「あぁ、任せておけ。こう見えても私はそれなりに強い、並大抵の連中ならばまず負ける事は無いさ。だから君もそんなものを持ったからと言ってそう気張る事も無い、君は君らしく何時ものように振舞っていればいいさ」

一応気弱という設定で通っている以上お淑やかを気取るほか無い私の態度にトーレさんは優しくそんな風な事を言いながら微笑みかけてきてくれた。
それは何処までも説得力があり、何処までも心強い返答だった。
何せトーレさんは私を食い殺そうとしていたあの暴走体をバイクに乗りながら倒すような人だし、強いという言葉も単なる自画自賛で無いことは私もよく分かっている。
それに彼女は私の命の恩人だ、例え表面的には取り繕っている私でも其処の部分は本当の意味で信頼もしている。
しかし、信頼しているからこそ逆に面倒な事になりそうだ……私はそんな事も同時に明るく取り繕った表情の裏で危惧していた。
彼女が強いという事はそれだけ私のこれからの行動が大きく制限されるという事にも繋がってくる、そんな風に私は考えていたからだ。
並の人間ならば負けることは無いと自負しているトーレさんだが、その中には当然私のような人間も含まれるのだろうし、この自信の程から見ても既に何人も同じような人間を相手にしているというのは明白だ。
つまり仮に私が魔法が使える人間という事がバレて敵対する事になった場合、寸分に一つも私に勝機は無いということになる。
今後の動向に関してはアリシアともきっちり相談して上手く立ち回る必要がありそうだ、私は心の中でそう呟きながら手にしたケースを自分の席の脇に置いてこの思考に切をつけたのだった。

するとトーレさんはそんな私の様子にもう一度だけ「苦労を掛けるな」とねぎらいの言葉を掛け、その場にそそくさと立ち上がって帰り支度を始めた。
私が「もう帰ってしまうんですか?」と聞くと、トーレさんは「また一度組織の方に戻らなくてはならないんだ」と苦笑気味にそう切り替えしてきた。
何でもトーレさんはあくまでも中間管理職のような立場に居る人間であり、常に自分の意思だけで行動を決められるような権限は持っていないのだそうだ。
今回の件に関してもそれはまた同じなようで、私に条件を提示した結果どういう反応が返されたのだとしても一応は報告に戻らねばいけないのだという。
本当に難儀な話だと私は思った、しかしその大半が私が無理を言った所為だという事を考えると私は何も言えなかった。
本来私がこんな風に我が侭を言わずにいればトーレさんだってこんな苦労を背負わなくて済んだのだろうし、彼女としてもこんな子供に拳銃を渡すような真似をしなくても良かった筈なのだ。
やはり私の自分勝手がここでも迷惑を掛けてしまっている、私はとりあえず「ご苦労様です」と当たり障りの無い言葉をトーレさんへと投げかけながら少しだけこんな自分に自己嫌悪しつつ、机の上に千円札を置いて去っていくトーレさんの後姿を見届けるのであった。





「しっかし、拳銃かぁ。確かに出来れば欲しいとは思ってたけど、まさか現物が手に入っちゃうとは……。世の中物騒だね、本当にさぁ」

『確かこの国だと持ってるだけで法律に触れちゃうんだっけ? やっぱりあのトーレって人ちょっと怪しいよ。おまけになのはお姉ちゃんを囮に使おうだなんて……』

「いやまあ、確かに怪しい人ではあるけど悪い人じゃないよ。態々自分の都合も無視して得体の知れない私を協力者にしてくれた位だし、寧ろ御人好しって言ってもいいんじゃないかな? あの人はアリシアが思ってるほど器用な人じゃないと私は思うけどなぁ……」

『だけど丸侭信用って言うのもどうかと思うけど……? 人間の心なんて傍から見ただけじゃ分からないものだし、仮にもこういう物を渡してくるような組織の人なんだから余計に御腹の中に何を抱えてるか分かったものじゃないよ。現になのはお姉ちゃん自体が内心真っ黒な人な訳だし……』

最後の一言は余計だよ、と笑顔ながらも怒気の籠った声でアリシアへと注意する私。
その二秒後には「ひぅ!?」と情けない声をあげて黙ってくれた所を見るに、アリシアも自分の言った事がどういう風に返って来るのかという事を良く熟知しているようだった。
別に私自身自分が腹黒い事を気にしているという訳ではないのだが、みなまで言われるとこちらとしてもあまり聞いていて気持ちが良いものではない。
それにアリシアの教育的な面から見ても実質私は彼女の保護者みたいなものなんだから、最低限人に言って良い事と悪い事の区別くらいは付けさせるべきだろう。
とりあえず私はそんな風に考えながら先生の真似をして笑顔で怒るという事を実行に移してみた訳なのだが、これがどういう訳か中々に効果が在った。
これからアリシアが余計な事を言った時はこういう対応を取ろう、私は心の中でそんな風に思いながらまた一歩前へと歩を進めるのだった。

現在私はトーレさんから受け取ったケースと一度家に戻った際に回収してきたアリシアことジュエルシードを持って人気の無い裏山に足を踏み入れている。
本当は私もこんな何がいるのか分からないような場所に足を踏み入れるのは嫌だし、そもそも山登りなんていう難儀な事はしたくは無かったのだけれど……現状この法治国家日本で拳銃をまともに撃てるような場所が住宅地にある訳も無く、仕方なく私はこうして地道に山を登って適当な場所を模索しているという訳だ。
拳銃を撃つ、という事に関しては私も色々と抵抗感があった。
今までは魔法という何処か常識外れな力を振るっていた所為であまり誰かに暴力を振るうというイメージが湧かなかったのだけれど、今手にしているケースの中に入っているそれは下手をすれば一発で人を死に至らしめてしまう本物の武器なのだ。
当然私のような子供が玩具感覚で扱っていい物ではないし、トーレさんにも言われた通り引き金を引くにはそれ相応の覚悟という物を決めねばならない。
だから私としてもなるべく使いたくは無かったし、こうして態々街外れの裏山まで足を運んでまで試してみようとも思わなかったのだけれど……「これも魔法と一緒! 練習しなきゃ駄目!」とアリシアに駄々をこねられて渋々試し撃ちをしに来たという訳だ。
まあ確かに最終的に何処かで使う必要があるのならばいずれこういう練習も必要になるんだろうけど、それならせめてアルハザードに行ってからやればいいのにと思う私なのだった。

「はぁ……ダルいよぉ……。やっぱり多少匂いを我慢してでもマンホールの中で撃つべきだったよ。『NOIR-ノワール-』の霧香みたいにさぁ」

『でもそれも嫌だって言ったのもなのはお姉ちゃんだよ? 服に臭い付くから~って』

「まっ、まあそうなんだけどね……。あの臭いはちょっと尋常じゃなかったもん、本当に。多分並大抵の消臭剤じゃ押さえきれないね、あの臭いは」

『そうと分かればほら、歩こうなのはお姉ちゃん。ファイト、だよ!』

自分は歩かないからいい癖に、私は心の中で大人気ない愚痴を零しながら申し訳程度に舗装された山道を登っていくのだった。
拳銃という物を扱う手前注意しなければならないのは、よくドラマや漫画の中で度々出てくるような銃声や誤射だ。
拳銃の銃声というのはテレビなんかを見ている限りそれなりに遠くまで聞こえる物らしいし、練習をしている最中に誤って人を撃ち殺してしまったなんて事になったらそれこそ目も当てられない。
だからこそ私はそういう心配の無い場所を私の行ける範囲で色々と模索していたのだが……騒音も気にならず誤射の心配も無い場所となるとかなり場所が限られてくる。
だから私はとりあえず自分の持てる知識の範囲で拳銃を扱うアニメや漫画で主人公達が使っていたような場所を試していたのだが、そのどれもが空回りで終わってしまっていたのだ。

アニメ『NOIR-ノワール-』では殺人代行人のミレイユが主人公である霧香の射撃の腕前を見る為に下水道に的を作って銃の練習をしていたけれど、日本の下水道では臭いがきつ過ぎてそれどころではなく結局ボツ。
漫画『ガンスリンガー・ガール』や『ガンスミス・キャッツ』では専用の施設を使って主人公達が銃を撃っていたけれど、日本にあるような施設では当然私のような子供が出入り出来る訳も無くやっぱりボツ。
プレーステーション2のノベルゲームである『Phantm ~Phantm of inferno~』の第二部では主人公であるツヴァイこと吾妻玲二が丁度私くらいの年頃だと思われるヒロインであるキャル・ディヴェンスに廃棄された工場のような場所で銃器の取り扱いを教えていたけれど、そんな都合のいい廃墟がこの辺りにある訳も無くこれもボツ。
その後も私は考えられる案を色々と上げはしたのだけれど結局全部実行不可能ということが分かり、最終的な妥協案で仕方なくこの街外れの裏山を試射の場所に選んだという訳だ。
幸いこの裏山は滅多に人も訪れないし、住宅街ともかなり離れているから多少騒音があったところで誰も気付きはしない。
まあ尤もその御蔭で其処に辿り着くだけでかなりの時間を有してしまい、現在時刻が既に五時をオーバーしてしまっていているのだが……どうせ家に帰ったって注意してくるような人間はいないのだから気にすることは無い。
というかそういう風に思っておかねば割に合わない、私はいい加減悲鳴をあげつつある自分の身体を必死で動かしながら前へ前へと歩を進めていくのだった。

「はぁはぁ……。この当たりまで来ればいいかな? どうせ此処じゃ人も来ないし、騒ぎにもならないでしょ?」

『う~ん、大丈夫なんじゃない? でも一応念のために向こうの茂みの方まで移動しておいた方がいいよ』

「うん、分かったそうする……。はぁ、やっぱりアルハザードでやった方が効率よかったんじゃないの? もう二度と山は登りたくないね、私は」

『確かにやろうと思えば出来ない事も無いけど、魔法と違ってこの手の武器はイメージだけじゃ如何にもならないからね。アルハザードはあくまでなのはお姉ちゃんの”夢“であって現実って訳じゃないから、身に染み込ませて覚えるような事はやっぱり現実の世界でやった方がいいんだよ。まあ何にしても、お疲れ様なのはお姉ちゃん』

アリシアのささやかな励まして適当に相槌を打った私は、最後の力を振り絞って近くの茂みの方まで入っていくと其処でゆっくりと地面に腰を降ろした。
もう拳銃を撃つだの撃たないだの以前にもう少し改善するべき事があるのではなかろうか、私はほんの少しだけ運動しただけで既に息が上がってしまっている自分自身を振り返りながら軽く深呼吸を何度か繰り返して息を整える。
しかし、呼吸を整えてある程度落ち着いた私は本当に寸分の迷いも無くその思考を忘却の彼方へと葬った。

体力任せの根性主義というのはそもそも私の性分じゃないし、今更体力の事を言った所で一朝一夕で改善できる物でもない。
それにどうせ実行しようとした所で三日どころか三十分ともたない私のことだ、直ぐにへばって投げ出してしまうに決まっている。
体力云々の事に関してはもう一生改善出来ないだろう、私は自分の中で改めてこの件に関して諦めを決意しながらもう二度とこんな事はかんがえないようにしようと強く自分に言い聞かせるのだった。

「さぁて……っと。それじゃあ、始めるかな」

『なのはお姉ちゃん、もう大丈夫なの? もう少し休んでおいた方がよくない?』

「何時までも何時までも休んでるだけじゃ夜になっちゃうよ。もう大分陽も傾き始めてるし、今の内にやり始めておかないと最悪帰るのも九時過ぎになっちゃうだろうしね。さっさとやって、さっさと帰るさ」

『おぉ~っ、なんか男前だね。今日のなのはお姉ちゃん、何時もよりもちょっとだけカッコいいよ!』

果たして男前なりカッコいいなりと褒め言葉と受け止めていいのか否か、私はそんなどうでもいいような事を考え苦笑しながらもトーレさんから受け取ったケースを手繰る。
アルミ合金製で造られた物々しいケースは相も変わらず何処か禍々しい雰囲気を醸し出していて、明らかにこの場に似つかわしく無い物であるという事を私に示しだしてくる。
これがまだ精巧に作られたモデルガンだとかエアーガンとかであってくれるのなら扱う私としても気が楽なのだけれど、物が実銃であるというだけに感じるプレッシャーというのも尋常な物ではなかった。
人を一人殺せるだけの武器を持つという重み、そして魔法という異質な力とは違ってはっきりと物が分かっている兵器の暴力性……どちらも普通日本の小学生が背負わなければならないようなものではない。
そりゃあ奮戦地域とか一部の軍事国家では今でも少年兵等という物も存在しているらしいし、世界中のどんな子供でも背負う筈の無い物であるとは言い切れないけれど、少なくとも私にとっては十分重苦しいものを感じられるだけのそれをこのケースの中身は持ち合わせていた。

でも使わなければ私が死ぬんだ、私は今更竦みそうになっている自分を自ら叱咤し、ケースを翻してロックを解除する。
確かに暴走体だけ相手にするのであれば魔法だけでも十分なのだろうし、こんな拳銃が一丁あったところで焼け石に水にだろう。
拳銃という武器は確かに対人の兵器としては有能な物だ、当たれば人も殺せるし、それ以外にも鍵を壊したり遠くにあるロープを切ったりと使い道は幾らでもある。
だけどそれはあくまで人や物を相手にした場合であって、あんな化け物を相手にするのならもっと大きなライフルや大口径の拳銃が必要になってくる。
とてもじゃないけどこの拳銃一丁だけではあの化け物は倒せない、それは私も一度その化け物の所為で死に掛けているから身に染みてよく分かっている。
だけど私の敵はそんなジュエルシードの暴走体だけじゃなく、自分と同じ人もいるかもしれないのだ。
私だって出来れば人を殺したくなんか無い、だけど私が殺されるかもしれない状況になったら……やっぱり私は死にたくないから人を撃たねばならなくなる。
それにもしも、本当に最悪の場合……先生に危害が及ぶような事があれば私は迷わず引き金を引かねばならなくなってくる。
そうなった場合当たらなかったでは済まない、下手をすればその瞬間の一発が大きくその後の運命を分けることになるかもしれないという事にもなりかねない。
そう言ったいざという時の為にもやはり此処は怖気づいてもいられない、そんな風に改めて自分の置かれている立場を再度認識し直した私は一度その場で深呼吸をして自分の気持ちを落ち着けながらゆっくりとケースを開いていくのだった。

ケースを開け、改めてその中を確認してみると其処には実に様々な物が詰まっていた。
何に使うのかも分からないような鉄製の器具、側面に英語で『フェンデラル 9mmショート』とプリントされたプラスティック製の小箱、漫画なんかでよく見かける弾倉と呼ばれる長方形の小さな部品、恐らくは取扱説明書であろう手帳大のマニュアル、そして件のクロームシルバーに光る小型の拳銃。
凡そどれを取ってみても本来の私の人生からは無縁そうな品物で、正直やはり見ていていい気分ではないと私は思った。
こんな小さな物が人の命を奪うのか、そんな自然な感想が私の脳裏を過ぎる。
別に私だって拳銃自体が嫌いだとかそういう訳じゃない。
こういう物を使ってバンバン敵を倒していくようなゲームは大好きだし、ブルース・ウィリス主演の『ダイ・ハードシリーズ』やキーファー・サザーランドが刑事役をやっている『24 -TWENTY FOUR-』等といった映画も先生の影響で進んで見たりもしている。
そういう時主人公達が血を流しながらも銃を構えているシーンは思わず手に汗握っちゃうし、私だってちょっとだけ憧れていた様な節も確かに在った。
だけどそれも所詮はフィクション、現実でこうして私の目の前にあるそれはやっぱりどう取り繕っても人を撃つ為の道具でしかない訳だ。
こんな歳で殺人犯の汚名を被る様な事にだけはなりたくない、私はこれを使う時は本当に追い詰められた時だけにしようと心に誓いながらそっと箱の中からマニュアルと拳銃を掴んで彼是と操作をし始めるのだった。

『へ~これがなのはお姉ちゃんの拳銃かぁ……何だかごつい感じだね』

「まぁね。だけど拳銃なんて大体こんなものなんじゃないの? 良くは知らないけど。えっとなになに……弾倉に銃弾を込めて、それから……」

『弾倉をグリップの処の穴に差し込んでからスライドを引いて初弾を装填、だよ。一応なのはお姉ちゃんの世界の武器を調べる過程でやり方も何となく憶えたからマニュアルを見なくても私が教えてあげるよ。なのはお姉ちゃんは私の言う通りに手を動かして』

「うっ、うん。えっと確か映画では……この箱の中に……」

弾が入っていたはず、そんな台詞を吐き出す前に私は箱の中に付属されていたプラスティック製の小箱を手にとってそれを開ける。
すると其処には私の予想通り縦にならびに陳列された弾丸が数十発ほど入っていた、どうやら私の知っている知識も案外無駄な物ではないという事らしい。
私はマニュアルを自分の脇に置き、代わりにケースの中から弾倉を取り出しながら頭の中に響いてくるアリシアの知識を元にそれ等を本格的に操作し始める。
まず小箱の中に入っている弾丸を数発手に取った私は、それを一発一発丁寧に弾倉へと込めていく。
映画『ラストマン・スタンディング』で主人公のジョン・スミスもこんな風に弾を込めていたけれど、どうやら原理はこの銃も同じようでその真似事をするように実行してみた所、計五発の弾丸は問題なく小さな弾倉の中へと収まってくれた。
初めてにしては中々いい滑り出しではないだろうか、私は自分の事をそんな風に自画自賛しながらアリシアに言われた通り拳銃の台じりの所に開けられた穴に納めて行き、スライドと呼ばれている銃のカバーになっているような部分を力いっぱい後ろに引っ張った。
すると私の手の内の拳銃からジャコッ、という歯車がかみ合ったかのような機械的な音が発せられ、この銃が撃てるような状態になったという事を私に示しだしてきた。
これでようやく撃つ事が出来る、私は頭の中でそんな風に考えながら誤って銃口がこっちを向いてしまわないように気を付けつつ徐にその場に立ち上がる。
これで後はとりあえず撃ってみるだけ、私は頭の中に響く「頑張れ~!」というアリシアの温かな声援を聞き流しながらゆっくりと手にした拳銃を構えてみるのだった。

右手でしっかりとグリップを握り締めて、掌の中に感じている出っ張りを強く銃に押し付ける。
この銃はどうやら普通の銃とは違ってグリップ・セーフティというグリップの出っ張りを押し込まないと銃弾を発射できない構造を兼ね備えているらしく、漫画やアニメで見るような軽快な連射には向かない造りをしているようだった。
だけど普段から隠し持つ事を考えるとこういう造りの方が暴発の心配も無さそうだから逆に気軽だ、私はそんな風に頭の中で考えながら銃を握った右手を覆うように残った左手をゆっくりと添えていく。
途端私の掌の中で冷たいステンレスの感触がより一層強くなり、嫌な汗を全身に伝わせてくる。
アリシアは「肘を伸ばしながらリラックスして」なんてアドバイスをくれているけれど、正直そんな言葉は私の耳には入ってきていなかった。
今自分が何を持っていて何をしようとしているのか、それを処理するだけでも頭がいっぱいだったからだ。

自分が手にしているのは人を殺す道具で自分は今一歩間違えば人を殺すような真似事をしている、そんな風に考えるだけでも私は自分で自分のしていることが急に恐ろしくなった。
確かに私だって今まで一度も喧嘩をした事が無い訳じゃないし、寧ろ人を傷付けた回数で言えば並みの人間よりは多いという事が出来るだろう。
だけどそれはあくまでも子供基準での事であり、今私がしてる行為は傷付けられた子の心が如何とか御免なさいして許し合おうとかそんな倫理が通用するような生易しい物じゃないのだ。
謝ろうが何をしようが人に当たれば間違いなくこの銃から発射される弾は人を傷付けるし、最悪死に至らしめる事だってあるかもしれない。
しかも私は既に人に狙われているようなのだから遅かれ早かれこの銃を使わなければいけないような事態は必ずやって来るのだ。
投げ出してしまいたいってつくづく思う、だけど既にもう此処まで首を突っ込んでしまった時点で選択の違いで如何こうなるような分水嶺は過ぎ去ってしまっている。
撃って生きるか、撃たずに死ぬか……今の私の残された選択肢なんてこのくらいしか残されていない訳だ。
だとすれば私がとらねばならない選択肢はどちらなのか、私は極限にまで切り詰めた思考の中でその選択の中から答えを導き出しながらゆっくりと溜息を中に吐き捨てながら、グッと銃を掴む手により一層力を込めるのだった。

『一発だけ。今日なのはお姉ちゃんが撃てばいいのはこの一発だけ。そう考えれば気持ちは楽になるでしょ?』

「うん、一発……。撃てばいいのは一発だけ……」

『その調子だよ。それじゃあ、そのままゆっくりと向こうの木の方を向いて。あの大きくてしっかりと根のはったアレだよ。ゆっくり、本当にゆっくりでいいから身体ごと銃口をそっちの方へ』

「あれ、だね? これで、よし……っ!」

アリシアの言われるがままにその場から右に30度ほど身体を移動させる私。
その手の内にはしっかりと握られた銃が構えられていて、何時撃ってもいいようにしっかりとホールドしてあるのが自分でもよく分かった。
だけどまだ私は引き金に指は掛けていない、誤って撃ってしまうのが怖かったからだ。
これが玩具じゃない以上「間違えちゃった」で自分を撃ってしまったなんて事態だけは絶対に避けたいし、御贔屓にしてるライトノベルの『学園キノシリーズ』でも撃つ寸前まで引き金に指は掛けるなってキノが言っていた気もする。
まあ何にしても下手な誤射をするよりは安全も考慮して扱った方が良いだろう、そんな風な考えから来た行動だった。

そして私はそのままゆっくりとアリシアに言われるがままに視線を動かし、大体10m程離れた場所にある大きな木に銃口を合わせる。
拳銃っていうのはもっと重くて取り回しにくいものだとばかり思っていたのだけれど、私の手の内にあるそれは殆ど重さを感じさせない位に軽くて取り回し易い。
大体500g位、下手をすればゲームのコントローラーより軽いかもしれないというのが私の正直な感想だった。
だけどこんな軽い物が人を殺すのか、そう考えると途端に軽かった筈の拳銃が凄く重い様に感じられた。
今は木だから良いかもしれない、だけどこれが人だとしたら……私は本当に撃てるのだろうか。
自分の命を守る為、先生を守る為、トーレさんに迷惑を掛けない為、幾らでも言い訳は出来るけれどやってしまった事は取り返しが付かないというのがこの現実に置ける心理なのだ。
出来る事なら私だって人を殺したくなんか無い、だけどもしも誤って撃ち殺してしまったら……そんな風に考えるだけでも身震いが止まらなくなる。
幾ら偉そうな事を口に出して並べた処で私も所詮は小学三年生の子供だ、人の生き死にを真剣に考えられるような年ごろじゃない。
そんな私が本当にこんな拳銃を持つ資格が在るのだろうか、しばしの間私はこの状態で硬直したままそんな事をずっと自問自答していた。

でも撃たずに殺されるよりは撃ってでも生き延びたい、私はグッとより一層グリップを握る力を強めて右手の人差し指を引き金に掛けた。
確かに私だってこの歳で殺人者になるのは嫌だし、警察の御厄介になる様な事も出来れば一生したくないとは思っている。
だけど撃たずに傷つけられて一生後悔するよりは、撃って傷つけて後悔した方がまだマシという物だろう。
撃たなきゃいけない時にはしっかりと引き金を引く、例えその結果どうなってしまったとしても……最終的に私が生き残って入れさえすれば世は事もなしだ。
今までだってそうやって何でもすぐ諦めて来たから私は下へ下へと落ちて行ったのだ。
殴られても殴り返さず、嬲られても黙ったまま、挙句度を越した仕打ちを受けても解決しようとするでもなくただただ耐え続けるだけ。
そんな風に何でも妥協してきたから私は今までずっと虐げられる側の人間だったのだ、そして恐らくこれからもそんなどうしようもない自分は続いていく事だろう。
だけど後先が無い状況になった時、私は果たして虐げられて殺される事を良しと思うだろうか。
自分を殺そうと躍起になっている人達を目の前にしてむざむざこの身を晒そうとする事を私は許容出来るだろうか。
否、そんな事が出来る筈は無い……私だって殺されるのは嫌なのだ。
殺される前に撃つ、私は改めて自分の抱えるもやもやとした気持ちを払拭して手の内の拳銃の引き金に掛けた指に力を込めると、一度大きく深呼吸してそれを引くタイミングを計り始めるのだった。

『肩に力じゃなくて、握る指に力を入れて。右腕を突っ張って、左手を引っ張るの。銃が安定してると思ったら、次は銃身の一番前に付いてる出っ張りを目標に合わせて』

「……分かった。これでいいんだね?」

『そう、そんな感じ。だけど力を込めるのは腕全体じゃなくてあくまでも手だよ。引き金を引く時は慌てずに絞る様に……撃って!』

「ッ!!」

ドンッ、という衝撃が私の手の内に響き渡った。
手首を叩かれたかのような衝撃、そして耳を劈く様な銃声が一気に私の元へと押し寄せてくる。
そしてその数秒後に訪れる静寂と、真鍮製の薬莢が地面へと落ちる音がそれに追従する。
撃った、私は銃を撃ってしまった……その静寂の僅か数秒後、私は自分の手の内の拳銃から昇る硝煙を見ながら自分が何をやったのかという事を改めて思い知っていた。
始めて銃を撃った感覚は何だか何とも言えない物だった。
清々しくも無く、でもだからといって何かとてつもない様な罪悪感を感じるでもなく……ただただ銃を撃ったという事実だけがその場に残る様な何とも言えない感じ。
身体をスッと何かが通りに抜けて行く様な、自分自身が空っぽになってしまう様なそんな感覚が残されるだけだった。
だけどそんな不思議な感覚はそれほど長くは続かなかった。
私が銃を構えながらぽーっとしている刹那、頭の中に「当たった……」というアリシアの淡白な言葉が響き渡ったからだ。
そう、私の銃から撃ちだした9mm口径の小さな弾丸は私が狙いを付けた木の中央にしっかりと小さな弾傷を残していたのだった。

それを見た瞬間、私は自分の身体からドッと溜まっていた疲労が流れ出て行くのを感じていた。
今まで張り詰めていた緊張感、そして今まで感じた事の無い程の精神的な疲労がその木の弾傷を見た瞬間に一気に解けてしまったからだ。
まあ所詮拳銃と言えども標的が木ならこんな物、そんな安心感が私の胸にどっと押し寄せてくる。
初めは子供の私なんかが安全に撃てるのだろうかと心配もしていたのだけれど、よくよく考えればアリシアの様な子だって撃っていた訳だし、正しい撃ち方をすれば撃てない道理なんて何処にもない訳だ。
それに撃ち終わってみた感想は別段大した物ではなく、案外淡白な物だったというのもこの安心感に拍車を掛けていた。
映画や漫画なんかだと一々描写を入れて撃ち終わった後の表現を大袈裟にしているけれど、実際にこうやって銃を撃ってみると本当に事は数秒で済んでしまっている。
構えて、照準の合わせて、引き金を引く……結局はこんな単純な行動の結果が銃を撃つという事なのだ。
拳銃というのも意外と大した物じゃない、私は心の中でそんな風に思いながら自分の中での拳銃という物に対する価値観を改めるのだった。

「ふぃ~……案外普通だったね。これなら私にも十分扱えそうだよ」

『流石なのはお姉ちゃん! 魔法だけじゃなくてこっちの才能もあったみたいだね。それじゃあ弾倉に残った後四発、全部撃っちゃおうよ!』

「まあこんな才能があっても微塵も嬉しく……って、えぇ!? さっき一発だけって言ってたじゃん!」

『それはあくまでも心構えだよ、心構え。今更此処まで来て本当に一発だけ撃って帰っちゃうっていうのもなんかもったいないし、もう弾倉に弾丸は込めちゃったからね。いっそのこと全部撃ち尽くしちゃった方が安全だと思うけど?』

何処か小悪魔的なアリシアの物言いに「確かに……」と少しだけ共感を覚えながらも、私はもう一度先ほどの構えをし直す。
確かに下手にこの状態のまま放置して暴発でもしたら事だろうし、危険の度合いを考えたら撃ち尽くしてしまった方が安全だろうとも思う。
だけど何だか乗せられた感じがして癪に障る、私がどこか釈然としない自分の気持ちを仕方が無いと宥めながら一度離した指をもう一度引き金へと掛けた。
初めは一発だけでも精一杯って思ってた、だけど一発撃ってみた感想としてはこれならばとりあえずは数発撃っても大丈夫そうだという風に私は感じていた。
まあだからと言ってこんな物で撃ち合いを繰り広げたいなんて微塵も思わないのだけど、とりあえず練習というだけなら撃ってみても良いという風にも私は思った。
先ほどの事を思い出しながら私はもう一度構えを作り直し、フロントサイトと呼ばれる銃身の先に付いた出っ張りに目標を合わせながら軽く深呼吸をする。
肩の力を抜いて腕全体よりも手に力を集中し、そして一思いに引き金を引く。
次の刹那私の耳元でもう一度あの劈く様な銃声が静かに響き渡ったのだった。

ドンッ、ドンッ、と続けざまに響き渡る銃声とカンッ、カンッとそれに連動するように落ちてゆく薬莢。
それはもう私にとって殆ど退屈なゲームをする様な感覚だった。
ただただ単純な作業を繰り返すだけ、そしてその結果として現れるのは目標に当たるという事実のみだ。
そんな単純な作業を計四回、拳銃に込められていた銃弾を全て撃ちつくすまで私は構え、狙い、撃つというサイクルを繰り返した。
二発、三発とその度に私の手の内の銃が忙しく動き回り、スライドを後退させながら硝煙をまき散らし、銃口から弾丸を吐き出していく。
そして吐き出された弾丸は真っ直ぐに的である大樹へと撃ち込まれ、その弾丸が当たったという事を私に知らしめてくる。
何処までも単純、そして何処までも淡白な現実だけが私の視界の中で忙しく動き回る。
当たるというその事実を除いては他に何か感慨が湧く様な事が起こる訳でも無く、最初の様な怯えも殆どない。
コツさえ掴んでしまえば然程大した物でも無い、私はガキッとスライドが後退したままの状態になった自分の拳銃を見ながら何となく興醒めにも似た感覚を胸に抱いたのだった。

「これでラスト、っと。何だか拳銃ってもっとバンバン撃ちまくる様な物だって思ってたけど、どうにもそういう訳じゃないみたいだね」

『まあその拳銃はあくまでも護身目的の物らしいからそんなに気にする様な事でも無いんじゃないかな? どうせなのはお姉ちゃんだって普段から使おうなんて思ってないんでしょ?』

「そんなの当たり前だよ。幾ら撃てるって言ったってこの国じゃあ持ってるだけで犯罪なんだもん。私だってこの歳で警察に捕まりたくなんか無いよ。それじゃあ、そろそろ帰ろうか。もういい加減辺りも暗くなってきたしね」

『そうだねぇ、後数十分もすればこの辺りも真っ暗になっちゃうんじゃないかな? なるべく早めに立ち去った方が良いかもね』

言われなくてもそうするよ、私はそんな風にアリシアへと返しながら後退したままで固まっているスライドを元に戻し、辺りに散らばった薬莢を拾い始める。
木に突き刺さった弾丸は仕方ないとしても、この国では空薬莢が見つかっただけでも世間を騒がす大事になりかねない。
まあ既に銃を撃っている時点でもう犯罪なのだけれど、私もなるべく明日の新聞の記事を飾る様な真似だけはしたくは無い。
幾らこの辺りが滅多に人が来ない場所だとは言っても用心に越した事は無いだろう、私はそんな風に考えながら五個の空薬莢をしっかりと回収し、それをポケットへとねじ込みながら帰る支度をし始めるのだった。

手の内の拳銃をケースの中に収め、地面に散らばった小箱やマニュアルをそれに追従するようにケースの中に放り込んで蓋を締める。
一々こんな風に色々な事に気を配らなきゃいけない分魔法よりも面倒臭い道具だ、私はケースの鍵を閉めて小脇に抱えながら何となくそう思った。
魔法という物は証拠が残らないが拳銃という物は薬莢や硝煙といった実物的な証拠がその場に残ってしまう。
それに威力の面に関してもサンダースマッシャーやフォトンランサーと比べれば微々たるものだし、効率の面から考えてもあまり常用する必要は無いとも思う。
せめてこれがライフルだったりマグナム弾を使用する拳銃であるなら話は別だけど、そんな大きな物になって来ると常備しているという訳にもいかなくなるし、第一私の様な子供に扱えるかどうかも分からなくなってくる。
一応用心の事も考えて普段から持っておく事にはするけどあまりジュエルシード集めには役に立ちそうにはない、私は最終的にそんな評価を下しながらそそくさとその場を後にするのだった。

『さぁて、帰ったら今度は魔法の練習だよ! 今日はバインドの魔法を教えるからそのつもりでいてね』

「えぇ~!? せめて今日ぐらいは練習なしにしようよ。私もうクタクタだよぉ、主に歩き疲れて……」

『だ~め、一日でも気を抜いちゃうと直になのはお姉ちゃんはダレちゃうもん。こういう事は毎日の積み重ねが大事なんだよ!』

「まぁそうは言うけどさぁ。私だって―――――ッ!?」

明日も学校なんだから勘弁してよ、私はそんな風に言葉を紡ぐつもりだった。
だけど、私はどうしてもその言葉を二の句として繋げる事が出来なかった。
何時だか感じた様な悪寒、アリシアと初めてコンタクトを取った時の様な怖気が全身を駆け巡ってきたからだ。
しかもあの時の物とは比較にならない程に強い、どこか近くにいるというのを感じさせるほどその怖気の具合は酷い物だった。
ジュエルシードがこの近くにある、そんな予感が私の脳裏を過る。
アリシアもこの気配に気が付いたのか「この感じは……」と意味深な言葉を紡ぎつつある。
どうやらこのまま素直に家に帰る訳にもいかなそうだ、私は不意にそんな事を考えながら薬莢をしまったポケットを弄り、ジュエルシードと待機状態のバルディッシュを取り出すのだった。

『なのはお姉ちゃん、ジュエルシードの気配! 凄く近くにある!』

「分かってるよ。でも、このケースは何処に置いておけば……」

『ジュエルシードで直接ケースに触れて。一時的に預かる位の事なら私にも出来ると思うから! それよりも今は現場に!』

「……分かった。バルディッシュ、セット・アップ!」

アリシアの言う通り、ジュエルシードをケースに触れさせて嘗てのバルディッシュと同じ要領で収納した私は徐にバルディッシュを起動させる。
するとアルハザードでやった時と同じように私の服が何処か風変わりな黒い服へと変化し、先ほどまで何も無かった手の内に重々しい斧が顕現した。
相も変わらず重苦しくて刺々しい武器だ、私は自分の手の内に収まったデバイスを改めてそんな風に評価していたのだが……直にそんな場合ではないと思い直して怖気のする方向へと駆けだしていく。
私が初めて襲われた時は既に人が一人死んでいた、となれば今回も下手をすれば犠牲者が生まれる可能性だって否定は出来ないのだ。
なるべく早く駆けつけて一刻も早くジュエルシードの暴走体を倒さなければ、私は胸の中に沸き立つ使命感にも似た感情を燻らせながら息を切らして山道の奥へと走っていくのだった。





どうでもいい補足説明。
また作者の発作が発動してしまい、リリカルで無い物が登場してしまいました。
まあ常時使用する事はありませんが、一応スペックを……。

モデル名:AMTバックアップ .380ACPモデル
製造メイカー:アメリカ、AMT社
口径:9mmショート、または9mmクルツ
作動方式:DAO(ダブルアクションオンリー)
全長:127mm
全高:102mm
善幅:24mm
重量:470g
マガジン:5+1
素材:スチール、プラスチック(グリップ)。

簡単な説明:殆どメディアに登場する事の無いマイナーな小型拳銃。
オートマグを世に送り出したAMT社の作品でありながらも弾詰まりはあまり無く、安定した射撃が出来るのが特徴。
一応作中でもチラッと名前の出たニトロプラスの作品『Phantom』のPC版で子供ヒロインであるキャルがこの銃を使用していた為、子供でも扱える……筈。




[15606] 第十六話「月明かりに照らされた死闘なの……」(グロ注意)
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/08/24 17:49
夜空に浮かぶ満月は本当に綺麗だ、私はすっかり暗くなった空をふと見上げながら漠然とそんな感想を頭に浮かべた。
吐き出す息は荒く、頬には玉のような汗が垂れて鬱陶しい……にも拘らず只管に足場の悪い山道を駆け上がる私の五感はそんなどうでもいいようなところにまで気が回ってしまうほど鋭く研ぎ澄まされている。
鬱蒼と移り変わる林の緑と薄暗い空の黒とのコントラストを常時捉え続ける視覚。
普段使わない身体を酷使した事とそれによって生まれ出た疲労によって悲鳴を上げる筋肉の状態を感じ続ける触覚。
ざわざわと風が靡き、枝木と葉っぱが擦れあう微妙な音すら漏らさずに拾おうと働き続ける聴覚。
そして荒い呼吸に混じって度々胃から込上げてくる胃酸の酸っぱい味を伝え続ける味覚と、それを追い討ちするように漂ってくる”異様な臭い“を示し続けてくる嗅覚。
凡そこの身体にある全ての感覚機能を余すことなく動員させ、それら総てをナイフのように鋭く研ぎ澄ませながら私は尚も前を向いて足場の悪い山道を駆け続ける。
既に体力も限界近く、防護服に覆われた身体もそれに比例するように既に悲鳴を上げつつあった……だけどそれと同時に私は此処で立ち止まってはいられないという感覚も私こと高町なのはは確かに覚えていた。

傍から見たら夜空を時々見上げたりなんかして余裕をかましているようにも見えるのかもしれないが、実の事を言ってしまえば今の私にはそれ程余裕は残されてはいなかった。
何処に敵が潜んでいるのかも定かでないという事に加えて、すっかり薄暗くなった視界と神経を逆撫でるように吹き抜ける夜の冷たい風が私の神経を一々尖らせてくるのだ。
右から来るか左から来るか、正面から来るか背後から忍び寄られているのか……或いは漫画の敵役のように空から来るのか自分の足元から来るのか。
考えれば考えるほどに泥沼に嵌っていく疑心暗鬼、そしてそれを裏付けるかのように漂ってくる生肉が腐ったような臭いが余計に私の苛々を加速させていく。
その臭いは嗅ぎ慣れた匂いだった、嗅ぎ慣れたくはなかったけど一度嗅いでしまったら二度と忘れられないような強烈な物だったから思い出さずとも私はその臭いが何であるのかという事を理解する事が出来た。
死臭、まるで日の照りつける夏場の道路に打ち捨てられた野生動物の腐食した亡骸が放つような強烈な死臭が私の鼻腔を擽ってくるのだ。
だけどそれは動物の物ではない、私は自身の手の内に握られた戦斧の柄をギュッと握り締めながらほんの数日前に体験したとある出来事を思い出していた。

今から凡そ数日前、あの猛獣のような化け物に私が襲われた日の事……私は生まれて始めて人間の亡骸という物を見た。
牙で腹部からざっくりと食い千切られ、内臓を地面へと巻き散らかしながら無残にも息絶えた女の人の死体……普通私程の年頃の子が目の当たりにすれば卒倒してしまうような惨い品物だった。
当然私も始め見た時は心底驚いたものだし、恐怖もした。
というよりも寧ろあんな物を見せ付けられて怯えない子が居るのだったら是非ともお目に掛かりたい位だ。
でも私は卒倒もしなければ気絶もしなかった、気絶しようにもその次の瞬間には自分自身が襲われていたのだから真っ当な恐怖を覚えている暇すらなかったのだ。
だけど一応ちゃんと憶えている物もあった、それはあの時見た死体の状景とソーセージの中身の様にグチャグチャになった赤黒い“何か”から漂う強烈な悪臭だ。
それが何の臭いであったのかという事に関してはもはや言うまでも無い、というか思い出すだけでも吐き気を催してしまうのだからあまり私自身も深くは考えたくは無かった……でもだからって簡単に忘れようと思って忘れられるような物でも無かった。
嗅ぐだけでも私の神経をピリピリと尖らせるその臭いは大凡一度嗅いでしまえば二度と忘れられない様な酷い物だった。
加えて私の視界に飛び込んできたあの無残な死体も相まったら普通の感性を持つ人間ならまず間違いなく一生もののトラウマとなって後を引き続ける事だろう。
それを考えれば此処でこうして正常に人間として機能している私はある意味幸運であると言えた、尤もこの歳で漂ってくる臭いだけでその先にある物がどんな物であるのかを想像出来てしまう時点で殆ど人生のどん底の更に奥に落ちてしまったという感じも否めないのだが。
ともあれ物凄く嫌な予感しかしない、私は視界を動かし辺りの様子により一層神経を尖らせながら薄暗くなった夜道を只管に掛け続けるのだった。

「っ……嫌な臭いだ。月は魔性だなんてよく言うけど、これじゃあ本当に洒落にならないよ……ったく!」

『気を付けてなのはお姉ちゃん。かなり気配が近い……しかも嫌な感じが凄くする。多分もう一人か二人犠牲者が……』

「みなまで言わないでよ、胸糞悪い。言われなくたってこの臭いの所為で大体の事情はこっちも把握してる。今は気に病むよりもまずは行動、そうでしょ? だったらアリシアも探すのに集中して。これ以上、犠牲者を出さない為にもね」

『……うん。でも、なのはお姉ちゃんも無理はしないでね。本当にパッと見てヤバそうな奴だったら直に逃げて。私は……なのはお姉ちゃんにまで死んで欲しくは無いよ……』

シュンと落ち込むアリシアの言葉に「生憎私もこの歳で死ぬ予定は無いよ」と返事を返しながら異様な悪臭の立ちこめる方向へと進み続ける。
とはいえ私も口ではこんな風に強がって入るがまったくこの状況に恐怖していないという訳ではない。
寧ろその逆、もしかしたらもう既にまたあの時と同じような犠牲者が出てしまっている……そんな現実に私は心底恐怖していた。
今こうして息衝いている瞬間にも何処の誰とも知れない者の命が奪われていくという非現実性、そして自分自身もその仲間入りを果たしかねないという状況に私自身が置かれているという現実が余計にその感覚に拍車を掛けてくる。
別に私はそんな顔も名前も知らない赤の他人が死ぬという事にそれ程深い感慨を覚えているという訳ではない。
基本的に私は母親と同じで利己主義な人間だし、此処数ヶ月は余計にそんな想いが際立っていると言っても良かった。
正直な所他人の死を気に病むアリシアには悪いが、私は別に彼女の為に傷つこうとしている全ての物を救ってあげたい等という聖人君子のような心情は持ち合わせていなかった。
ただ私は自分の求める人さえ無事ならそれでいい、私の唯一の拠り所である先生さえ無事ならば私は例え誰が犠牲になろうともどうでもいいとすら思っていた。

何せ私は今まで先生以外の世界中の誰からも虐げられてきたような人間だ、別にそれを悲観する訳でもなければ悲劇のヒロインを気取る心算も無いけれど、今まで私の受けてきた仕打ちの数々は顔も名前も知らない人間をどうでもいい有無対象として切り捨てようという思考を生み出すには充分過ぎるほどの要因を孕んでいると言っても過言ではない。
他人に優しくしようだとか救えるだけの力を持っているのだから救おうとかそんな考えは微塵も無い、それどころか例え自分が現場に居合わせたとしても無理だと思ったら助けに入るまでもなく見捨ててしまえばいいとすら私は考えていた。
最終的に誰だって己のみが一番可愛いに決まっている、そしてそれは私自身も例外ではないのだ。

確かに生き死にということに関してだけいえば私だって犠牲者が出ない事に越した事は無いし、アリシアの精神的な面も考えればこれ以上彼女の負担を上乗せしたくないとも思ってはいる。
だけど思いだけではどうしようもないというのもまた現実であり、この臭いの事を考えればもはやそれは“過ぎた事”なのだ。
自分自身も何時死ぬかも分からないような状況で何時までも過ぎた事に後悔していられるほど余裕は無い、それが分かっているからこそ私は割り切る事が出来るのだ。
非情な人間と思われるかもしれないが私は別に正義のヒーローという訳でもなければ絶対的な力を持つ救世主という訳でもない、ただの素人に毛が生えた程度の貧弱な小学生だ。
そんな私に他人の生き死にを左右するような大きな責任を背負える筈も無い、私はあえて自分自身に責任を感じさせない為にも内心でそんな風に思いながら尚も地面を蹴り続ける。
そう思っていても尚やらねばいけないのは自分なのだと本当は分かっているから……。
汗に濡れる額を服の袖口で拭いながら私はもう一度手の内の戦斧を握りなおし、今は自分のやれる事をやるしかないと覚悟を決めながら私は尚も前へ前へと歩を進めるのだった。

「……近いな。臭いが強くなってる。こりゃあ十中八九、間違いなくこの辺りに目標は潜んでるね。バルディッシュ、貴方は如何思う?」

『マスターの意見を全面的に肯定します。此処より北東の方角、40m先の林の中から強力な魔力反応が出ています。恐らくはそれがジュエルシードではないかと』

「なるほど、ね。この妙な胸騒ぎの原因はそれか……となればいよいよ持って闘わなきゃいけなくなるって訳なのかな? はぁ、かったるい。出来れば痛い目見る前にとっとと帰りたいよ、くそっ!」

『現在先ほどまで存在していた五つの生命反応が一つを残して全て消えました。恐らく最低でも既に四つの命が失われた事になります。ですがこれ以上暴走体を放置するとそれ以上の犠牲者を生む事にも為りかねません。此処は速やかなる処理をおこなう事を推奨します、マスター』

あまりにも淡々と機械的に言葉を紡ぐバルディッシュのAIに「気軽に言ってくれるよ……」と悪態を付きながら私は有無を言わせず林の中へと飛び込んでいく。
鉄製のプロテクターで覆われた靴の裏で地面を強く踏み締め、締め付けられるように痛みを発し始めた脇腹を押えながら私は尚も止まる事はしない。
これ以上アリシアの心労を増やさない為にも私が何とかしなくては、そんな何処か使命感にも似た感情が私の胸を燻り続けるのだ。
確かに既にもう四つの命が奪われてしまったという事に関しては確かに悲しいだろうし、同じジュエルシードの暴走体に殺されかけた身としては同情もするし祈ってあげてもいい。
だけど所詮は赤の他人、襲われたのが例え身内だとしても大して何の感慨も抱かないであろう私からしてみれば顔も名前も知らない様な人なんてそれこそ傷つこうが殺されようがどうなったって構いはしない訳だ。

そりゃあ私だって一応血の通った人間だし、そこまで非常に徹しられるかどうかという事を問われれば正直揺らいでしまう事もあるかもしれない……だけどそれも時と場合が揃ってこその物だろう。
何時何処でどんな風に襲われるかも分からないような状況で人の心配なんかしちゃいられない、寧ろ自業自得と切り捨ててしまった方が幾分か心が楽なのだ。
人に優しくするとか情を掛けるとかそういうのは確かに大切な事だ、だけどその所為で接している本人自体がその人間と同じ末路を辿るようでは本末転倒もいい処だ。
ミイラ取りがミイラにならない様に気を配る、今私に出来る事と言えば精々その程度が関の山といった所だろう。
どうしようもない物はそうそうに切り捨てて自分のやるべき事だけを忠実に実行する、私は心の中で自分が今しなければいけない事をそんな風に頭に浮かべながら徐に空いている片手でスカートのポケットの中に忍ばせてあるジュエルシードへと手を伸ばした。
相手がジュエルシードの力を持ちいているのならこちらも同じように保険を掛けておくのが得策だろう、そう思ったが故の行動だった。

だけど次の刹那、私はそんな甘い認識を一瞬にして改めた。
ピチャッ、と音を立てて靴の裏で跳ね上がる赤黒い液体、そして噎せ返る様な真新しい血の臭いがムッと鼻腔を擽ってくる。
漫画チックに言うなれば“死の香り”、もっと人間臭く言うならば身の毛も弥立つような生理的な嫌悪感が私の脳内を一瞬にして埋め尽くす。
恐る恐る足元を見てみると其処には私の予想通り“汚泥に塗れた赤黒い何か”が撒き散らされていた。
まるでペンキの缶をひっくり返したかのように地面一帯を赤く染め上げる鮮血、それに混じるようにその存在を誇張する臓腑色の固形物。
そしてそれ等の撒き散らす原因となっている凡そ人の原形も留めていないような滅茶苦茶になった死体、亡骸、屍―――――腹は食い千切られ、四肢を捥ぎ取られ、残った顔の部分すら半分以上砕かれてしまっている“おぞましい何か”が私の視界に一気に飛び込んできたのだ。

四つの生命反応が消えたといった時点である程度こういう状況は私も想定してはいた。
だけど幾ら理屈付けて考えた所で目の前のそれを私はどうしても納得する事ができなかった。
これが本当に人間の死に方なのだろうか、思わず私がそう思ってしまうくらいその死体たちの有様は酷い物だった。
鋭い牙か何かで食い千切られた腕や脚は鮮血に染まった地面にぞんざいに打ち捨てられ、強力な力で無理やり引き裂かれたような腹部から漏れ出した内臓は一つとしてまともな形を保っている物は無い。
其処にある肉と血は体液でぬかるんだ汚泥と混じって信じがたい程の悪臭を放ち、思わずこれは悪夢か何かなのではないかと私に錯覚させる。
だけど私の手の内のジュエルシードもバルディッシュもこの悪臭も全てが現実の物であり、その感覚が今も尚持続している以上はこれは紛れも無い現実なのだ。

刹那、私は自分の胃から何か酸っぱい物が口いっぱいに込上げてくるのを感じていた。
夕食を食べる前で本当によかった、私は人生で初めて胃の中が空っぽであった自分自身に感謝した。
もしも何かを口にした後にこれを見ていたのならば恐らく私は十中八九嘔吐していただろうし、例え耐えられたとしても恐らく何処かで戻してしまう事は確実だ。
まあだからって今も尚込上げ続けている避けようもない嘔吐感も全身に鳥肌を立たせるような寒気も止まりはしない訳だけど、一応女の子の体裁として最低ラインの事は守る事ができたと私は思った。
しかしそんなどうでもいい事に安心したからってどうなる訳でもないし、この地獄のような光景が醒める訳でもない。
此処は恐らく地上で尤も残酷な戦場だ、私は改めてそんな場所に自分が身を置いているのだという事を実感しながら手の内の二つの“武器”をこれでもかという位強く握り締めるのだった。

「くっ……こんな、こんな事って……ッ!!」

『そ、んな……また……私は間に合わなかった、の? ひっ、人が……死んで……』

「アリシア、直視しちゃ駄目、傷になる! これは貴方の責任じゃない!! それよりも今は―――――ッ!?」

『なのはお姉ちゃん!?』

刹那、汚泥を足場に呆然と立ち尽くす私の身体に強い衝撃が走った。
それはまるで猛スピードの車に轢かれたかのような、成人した男の人の振るう大槌のフルスイングを直接受けたような……そしてその何れでもないような形容詞のし難い強烈な衝撃だった。
私は咄嗟にその衝撃が身体に直接触れる直前に頭の中である術式を思い浮かべ、それをバルディッシュへと投げ掛ける。
構築しようと思った術式は『ラウンドシールド』、凡そ魔法の力で小規模な盾を構築してあらゆる衝撃から身を護る防御魔法だ。
確かに普段の私だったら当然間に合わなかっただろうし、気が付いた瞬間この身をその衝撃によって弾き飛ばされていた事だろう。
だけど今の私にはバルディッシュという魔法を構築する上での手間を自動で処理してくれる便利な道具があった、それ故に今の私にはほんの一瞬で魔法を構築する術式を込上げる事が出来た。
そして次の瞬間、私の目の前に幾重にも幾重にも奇怪な魔法陣が組み合わさった桜色の盾が出現し、その衝撃を余す事なく総て受け止めきったのだった。

その衝撃と私の作り出した盾が衝突した瞬間、私の手の内のバルディッシュがギチギチと軋むような音を立てその衝撃が並みの物ではなかったという事を私に知らしめてくる。
ズリッと音を立てながらしっかりと地面を捉えている筈の脚が衝撃によって押され、鉄で覆われた靴が血肉で染め上がった地面を深く抉る。
あまりにも力強くあまりにも猛々しい純粋な暴力の力、それが私が相手にしているものの全てだった。
人工皮のような繊維で作られたグローブに覆われた掌がピリピリと痺れるように次第に痛み始める。
普段私がクラスメイトから受けているそれよりかは大分軽い物だから特に気にするような物でもないのだけれど、明らかにそれ等の痛みとは違った意味合いがその痺れには含まれていた。
力負けしている、私はグッとバルディッシュを手にした腕を突き出したまま只管に目を瞑り、何とかそれを押し返そうと必死で地面を蹴ろうとする。
しかし幾ら力を入れても目の前のそれはビクともせず、それどころか次第にラウンドシールドもその効力を薄れさせ始めている。
一旦距離をとる為にも此処は奥の手を使うほか無い、私は思い切って両目を開き、崩れ始めそうになっている盾に阻まれている物を睨みつけながらもう一方の腕を振るうように突き出して願いを頭に思い浮かべるのだった。

「私にィ―――――」

『ラウンドシールド崩壊まで後二秒、一秒……術式の展開を強制終了します』

「触れるなぁぁあああ!!!」

如何なる物であってもこの身を蹂躙させる前にその干渉を”遮断“し、それら全てを完全に”拒絶”してしまえるだけの私の願い、凡そこの世界で私だけが行使することを許されたそんな“法則”を私は振るわれる腕の勢いに乗せて一気に目の前の物に叩きつける。
イメージするのは腕全体を覆う筒状の手甲、この腕が相手に触れる前に相手が私に向かってくるという”干渉”を止め、刹那の瞬間に遠くへと弾き飛ばして”拒絶“するという極めて単純な目的の為に私は手の内の切り札を早速切った。
バルディッシュの抑揚の無い機械的な言葉によってラウンドシールドがとかれた瞬間、私は突き出した手で待ってましたとばかりに一気に押し寄せてくる“それ”の鼻面に一気に拳を叩きつけるのだった。

瞬間、私の目の前で血肉の混じった荒々しい吐息を漏らしていたそれが引き剥がされるように宙を舞った。
むき出しになった鋭い犬歯を携えた顎が飴のように歪んで拉げ、砕けた骨と肉が交じり合うような異様な音を醸し出す。
だが目の前のそれはその程度の事では怯まなかった。
十数メートルほど弾き飛ばされた所で私に襲い掛かってきたそれはバサッとその身に不釣合いな蝙蝠のような羽を広げながらその身を翻し、軽々と地面へと足を付いてみせた。
砕かれた筈の顎は一瞬にして再生し、凡そ自分が頭部に受けたダメージなぞ気にも留めないといった様子だ。
化け物、私の脳裏にふとそんな言葉が過ぎって消える。
そう……目の前に悠然と佇み威嚇するように唸るそれは凡そ化け物以外の何者でもなかった。

猫科の猛禽類のようなしなやかな身体、古代の恐竜のように背中から尻尾に至るまで身体から突き出した刺々しい骨、獰猛な爬虫類のそれを思い出させる筋の張った四肢、どす黒い臓物を涎と共に垂れ流す毒々しい口元……そしてそれらを覆い隠すように肩口から空へとのびる蝙蝠のようなグロテスクな両翼。
その姿は凡そ暴走体というよりは漫画『鋼の錬金術師』に出てきた合成獣キメラを連想させるような正真正銘の化け物だった。
これが周りに居る人間たちを食い荒らしたのか、そんな確信にも似た予感が私の頭の中に浮かんでくる。
恐らく元は野良猫か何かが元手になったのであろうジュエルシードの暴走体の口元は血肉を好み、人を喰らう童話の世界の狼のように汚らしく臓腑色で染まっていた。
あまりにも現実離れしていて、動物が人を喰らう事など想像したこともなかった私にとっては信じがたい事なのだが……目の前の暴走体は己の『喰らいたい』という欲求にしたがって人間を喰ったのだ。
恐らく周りに転がっている屍がこうも荒らされているのは十中八九目の前のそれが喰らいついたという事なのだろう。
特に肉付の良い四肢や腹部などが重点的に食い荒らされている事が何よりもその惨状を物語っていた。
そしてどうやら目の前のそれは今度は私に標的を定めたようで、じりじりと地面を蹴りながら飛びつく瞬間を今か今かと待ち焦がれている。
タイミングを計られた瞬間が命取りになる、手の内のジュエルシードを一先ずそっとポケットの中に滑り込ませ、両手でしっかりとバルディッシュの柄を握りながら目の前で唸る暴走体と対峙するのだった。

「くッ……なんかデジャブだね。前にもこんな風にこんな奴に襲われた気がするよ、私」

『なのはお姉ちゃん、逃げて! 相手にするには分が悪すぎるよ。その子の願いは“空腹を満たす”こと、しかも欲求が強過ぎて歯止めが利かなくなってる! 下手をするとなのはお姉ちゃんまで犠牲に―――――』

「……オーライ、それ以上は言わなくて良いよ。でも大丈夫、お姉ちゃんに任せなさいって。確かに相手にするには分が悪いけど……背を向けて逃げ出す方がもっとヤバイだろうしね。だからちょっとの間だけ黙っておいてくれる? なるべくこいつを倒す事だけに集中したいからね、分かった?」

『なっ、なのはお姉ちゃん!?』

まるで私の言葉に驚嘆するように素っ頓狂な声をあげるアリシア、そしてそんな彼女を無視しながら小さくもう一つの起動術式を口ずさむ私。
瞬間、私の手の内のバルディッシュから『Scythe Form』という機械的な音声が流れ、斧状だったバルディッシュの形をまるでパズルを組み替えるかのように次々に変化させていく。
それまで斧の刀身の役割を果たしていた部分が直角に開く様に展開し、先ほどまで繋ぎ目であった制御核との間に隙間を作り、其処に私の魔力を吸って桜色の新たなる刀身を出現させる。
私の魔力の色に展開するその様はまるで『新機動戦記ガンダムW』に登場するガンダムデスサイズのビームシザースような何処か近未来的な印象を受ける鎌のようだった。
だけど同時にそれはバルディッシュ自身の持つ独特の暴力性も相まって罪人を狩る死神の鎌の様でもあった。
人を殺した獣を相手に死神の鎌とは中々洒落が利いている、私はそんなどうでもいい様な感想で自分自身の気持ちを落ち着かせながら手の内のバルディッシュの状態を満足気に見つめのだった。

サイズフォーム、名前の通り大振りな戦鎌を模した形状をしたそれは素人である私から見ても一目で接近戦に特化された状態だという事が窺い知れた。
正直私は漫画やゲームに出てくる主人公みたいに大剣振り回して敵に向かっていくなんていう様な無謀な事はしたくないし、出来れば穏便にアウトレンジから砲撃魔法で狙い撃って行く様な戦法の方がよっぽど性に合っているとも思った。
だけど既に相手に見つかっていて背中を向けて逃げるにしたって確実に追いつかれてしまう様な状況では近接戦もやむを得ない、というよりも寧ろこの状況では自分の好みがどうこうとか論じている余裕も無かった。
幸いにしてバルディッシュの重量は先ほどと変わらず軽い、私の様な力の無い子供の細うででも十分この凶器を取り回す事が可能だ。
多少危険かもしれないが今はやれるようにやるしかない、私は自分の記憶の中から射撃魔法の術式を呼びだし、目の前に四つの桜色の発射体を顕現させながら目の前の暴走体に向かって狙いを定めるのだった。

『Photon Lancer』

「撃ち抜け……ファイアッ!!」

右足を軸にその場で一度身体を回転させるように私はバルディッシュを横薙ぎに振う。
途端目の前で静止していたフォトンスフィアと呼ばれる桜色の球体が細く鋭い杭状に変化し、亜音速をも超える強烈な初速を持って目標である暴走体へと一気に撃ち放たれる。
それは殆ど魔力で造り出したライフル弾であると言っても過言ではなかった。
大凡普通の人間ならば反応できない程の速度、それも理論上なら最大で厚さ二センチの鉄板も悠々と貫通出来る様な威力の弾丸が計四発同時に襲いかかる……それはもしかしたら下手な拳銃やナイフよりもよっぽど危険な攻撃であると言っても良かった。
まあとは言え私の魔法はまだ完璧とは程遠い素人芸に毛が生えたような物だし、同時展開にしても出来そこないのフォトンスフィアを四つ造り出すのが精いっぱいな訳だけど……それでも十分生き物を殺傷出来るだけの破壊力は込められていた。
それこそライオンであろうが虎であろうが同時に当たれば一撃で縊り殺せるだけの強力な威力を。

だけどそれも当たらなければ意味が無い、私は暴走体に突き刺さるべくして放たれた四つの杭が軽々と避けられた事に若干の苛立ちを覚えながら心の中でそう思った。
どれだけ高威力だろうが高性能だろうが放った攻撃が当たらないようでは元も子もないし、そもそも使えば使うほど体力が失われていく現状では無駄弾を撃ち続けるのも憚れる。
今回はとりあえず様子見と牽制の意味も込めてフォトンランサーを放ってみたけれど、こうも軽々と避けられているようじゃあ当てるのには相当骨が折れそうだ。
それにやたらめったら射撃魔法や砲撃魔法を撃ったところでこの調子じゃあジリ貧になるまで打ち続けたって一撃当てられるかどうかも怪しいし、その所為であの暴走体に食い殺されましたなんてな事にでもなればそれこそ目も当てられない。
此処は一つ体力や魔力を温存しておかねば後が辛いという事も考慮して一か八か接近戦を挑んでみるしかない、私は足の裏でしっかりと地面を捉え、脚のバネの力を利用するように一気に地面を蹴って進みながら暴走体に近付いて大きくバルディッシュを振り被った。

「殺ァァああああ!!!」

『なのはお姉ちゃん、駄目!!』

突然頭の中に響くアリシアの悲鳴にも似た制止の声、だけどその声が頭に響いてくる頃には私は既に行動を起してしまった後だった。
物騒な掛け声と共に斧のように振り被った戦鎌を一気に暴走体へと叩きつける、だが手の内には肉を裂いたような感触も骨を断ったような手応えもなかった。
代わりにに私に残されたのは虚空を切ったという現状と、標的を見失って困惑する私という情けない有様だけだった。
まさか今の一瞬で避けたとでも言うのか、そんな驚愕と標的を見失った事で生まれた不安が私の頭に込上げてくる。
予定では今の一撃でどれだけ小さくても良いから相手に手傷を負わせるはずだったのに、これでは間抜けもいいところではないか……私は無限に続くかのように思われた一瞬の中でそんな風に自分を叱咤しながら急いで次の行動を取ろうとした。

しかし、そんな風に私が行動しようと思い立った刹那、私の身体は強い衝撃に弾き飛ばされ宙を舞った。
まるで金属バットのフルスイングを叩きつけられたような鈍い痛みが私のわき腹に響き、視界が一瞬にして真っ赤に染まる。
凡そ衝撃で5、6m以上吹き飛ばされた身体はそのまま地面へと落下し、ゴロゴロと転がって余計に受けた痛みを強く誇張させてくる。
激痛に世界が歪んだ。
ほんの一瞬であった筈の時間が永遠と思えるほどに引き延ばされる。
地面にぶつかった衝撃で骨が軋み、膝や肘といった部分が擦り切れ、強く打ちつけた頭部からは薄っすらと血が垂れ流れてくる。

痛い、何時もクラスメイトからそれなりを仕打ちを受けていたから痛みを感じる事には慣れていたけどそれでも尚激痛と呼べるような痛みが全身を駆け巡ってくる。
思わず意識が飛びそうになり、しっかりしなければと思って力む度に傷の疼きがそれを妨害してくる。
最悪だ、私はバルディッシュを杖代わりにしながらその場にゆっくりと立ち上がると、額から流れてくる己の血をバリアジャケットの袖口で拭いながら焦点の定まらない目で真直ぐに標的を見据えた。
どうやら私は攻撃を避けた暴走体の腕になぎ払われてしまったようだ、私は血が抜けて少しだけ冷静になった思考でそんな風に自身に起きた状況を纏め上げる。
体力や魔力の事も考えれば確かに私の取った選択は正しかったのかもしれない、だけどどうやら私は肝心な部分をその選択の要因に含めていなかった。
それは己の実力、幾ら強大な力を持ったからといったそれで誰しも強者になれるのかと問われれば当然そんな訳は無い。
実力っていうのは経験だ、勉強にしてもスポーツにしてもゲームにしてもそうだけど余り回数をこなしていないで取り組む人間と何度も何度もやり込んで取り組む人間とでは当然差が開いてしまうように戦闘であっても魔法であってもどれだけ数をこなしてきたかっていう事が自分の強さを示しだすのだ。
そしてそれになぞるように考えれば私は戦闘どころか碌に喧嘩もした事の無いような筋金入りの素人で、訓練をしたとは言っても所詮は二日、三日適当に打ち込んだ程度の付け焼刃でしかない……よくよく考えればそんな私がまともに攻撃を当てられるはずも無いのだ。
でもだからって此処で諦めたら食い殺される、私は殆ど生物としての原始的な生存本能に身体を委ねながらもう一度この場を切り抜けられるだけの戦法を思考し始めるのだった。

「あ、づッ……まずったね、どうも。でもッ……ぐぁ、っ……御蔭で頭から血が抜けて……うっ、ぐぁ……すっきりしたよ」

『もう止めて、なのはお姉ちゃん! そんな状態で戦えるはず無いよ! もういい、もういいから……』

「ははっ、確かに私も……いづッ……逃げ出しちゃいたいよ。だけど、さぁ……今更逃げられる感じでも、あぐぅ……ないじゃん。だったら―――――最後まで全力出さなきゃ死に際に後悔しちゃうじゃん!」

『Thunder Smasher』

殴られた疼くわき腹や全身に負った細かい傷に言葉を途切れさせながらも何とか言葉を紡ぎ終わった私は片手を前に突き出し、もう一度術式を組み上げそれを即座に前へと撃ち出す。
思い浮かべた術式は私の性格的に一番性に合っている部類に入る砲撃魔法、此処三日ほど生まれて始めて“糞真面目”に取り組んでようやく会得出来た魔法の中の一つだ。
本当ならばこれはよく狙いを付けて撃たなければ先ほどのフォトンランサー以上に避けられるのが目に見えている品物だ。
確かに威力はフォトンランサーの比ではないし、凡そ今私が扱える魔法の中では最高の攻撃力を持つ術式だと言ってもいい。
だけどその反面撃ち出した後は制御に神経を使わなきゃいけないし、砲撃はあくまでも直線的なのがデフォルトだから先ほどのように横飛びで左右どちらかに避けられてしまえばそれこそ何の意味も無い。
でも、私はそれを承知の上で掌の先で描かれている複雑な魔法陣へと力を込め、球体上に収縮されたエネルギーを一気に開放して暴走体へと撃ち放った。

桜色の光の柱が私の掌から伸び、直線的な軌道を描きながら暴走体へと向かっていく。
当然威力の程は折り紙付きだし、あわよくばこの一撃で事の全てに終止符を打つ事だって十分可能だっただろう。
だけど暴走体だって知恵が無い訳でもなければ馬鹿でもないようで、自分に向かってくる桜色の砲撃を認識した暴走体はフォトンランサーや先ほどの斬撃と同じような要領でヒラリと身を返しながら軽々とその攻撃を避けて見せた。
しかし、私はその様子をまるで嘲笑うかのように口元を吊り上げながら見ていた。
別にもう打つ手が無いと自暴自棄になった訳でもなければ己の実力不足に落胆して頭がおかしくなってしまったという訳でもない、そう……これこそが私の狙いだったのだ。
私は悠然と私の方を睨み、まるで皿の上に乗った子羊でも見るかのように舌なめずりをする暴走体をの方へと注意を向けながら血塗れの腕でポケットの中を弄り、ジュエルシードを手に取る。
額を拭った所為で掌に付いたどす黒い血がジュエルシードを穢し、強く握り締めた事によって疼く傷が早鐘を打つようにその脈を刻んでこの身に痛みを齎してくる。
だけど私はそんな事は気にはしなかった、いや寧ろ気にしている余裕もなかった。
相手は完全に私を舐めきっている、それこそ後はミディアムでもローストでもご自由にと言わんばかりに余裕すら見せ始めてすらいた。
でもそれは私からしてみれば決定的な隙でしかない訳で、もしも相手が避けられない程の速度で懐に潜り込めさえすれば後は連続で攻撃を叩き込んでやれば一発くらいは確実に当てる事が出来る状況でもある。
そして私はその手段を有している、これを逃せば機会は皆無だろうからやるしかない……私はサンダースマッシャーの放出を停止させ、掌に握ったジュエルシードを掌が痛くなる程にギュッと握り締めながらゆっくりと魔法とは別のもう一つの切り札を開放した。

「だぁぁああああああ!!!」

『無茶だよ! 止めてッ!!』

再度頭の中に響くアリシアの嘆願、だけど血を流し過ぎて脳がアドレナリン漬けになってしまっている私の思考はそんな彼女の言葉も理解出来てはいなかった。
ただ目の前の敵に一撃を入れる、殆ど妄念ともいえるようなそんな想いだけが私の脳を支配し、身体を酷使し続けていた。
普段の私ならこんな状況に陥る前に諦めていただろうし、例えそれで自分が死ぬのだとしても、まあその程度の命だったんだって納得してあの暴走体の牙にこの身を引き裂かせていた事だろう。
でも、今の私はそんな考えを欠片たりとも頭の中に置いてはいなかった。
目の前で嘲笑うように余裕を見せている胸糞悪い人食いの化け物に屑には屑なりの意地があるっていう事を存分にその身に刻ませ、生きてこの場を後にする……そんな熱血主人公気取りの妄想としか言いようの無い考えだけがただただ頭に蔓延り続けるだけ。
しかも性質の悪い事にそのどうしようもない妄念は幾ら冷静になろうとしてもがん細胞のように次々に転移し、失われた血液を補うように滾る想いを醒まさせてくれないのだ。
やれるだの、やれないだのの次元ではなく、事を為して生き残るか背中を見せて食い殺されるかの二択しか私にはもう選択肢が残されていない……冷静に考えればそんな事は無い筈なのだが今の私にはどうしてもそう思えて仕方がなかった。
そしてその二つの選択肢が目の前に提示された時、どちらを選ぶのが本当に正しいのだろうか……そんな事は最早語るまでも無い。
生きる、その為に敵を倒す。
私は痛みと痺れで凍えたように震える左手でバルディッシュの柄を握り、もうとっくに限界が来ている筈の脚で地面を蹴りながら瞬間的にジュエルシードの力を行使するのだった。

私のジュエルシードに込められた願いである“完全なる干渉の遮断”は凡そこの世にあるものならば例えそれがどんな物であっても例外なくこの身に触れる前にその干渉を“遮断”し、“拒絶”の念を送ることで弾くことが出来る。
勿論それには地面や足場といった人間として絶対に避けられないような”干渉“も例外ではないし、当然”遮断“することが出来るのならば”拒絶する事だって可能だ。
では今のような状態で靴の裏側に遮断の効果を加えて弾丸を打ち出す要領で地面を拒絶すればどういう効果を得る事が出来るのか、朦朧とした意識の中で考え付いた私の起死回生の方法の答えは次の瞬間には立証されていた。
まるで弾丸のように加速する身体、凡そカタパルトから射出された戦闘機に掛かるような強力な空気の壁が私の身体に降りかかってくる。
強烈な突風をこの身に受けたかのような衝撃が私の身体を駆け巡る、だが私はそんな衝撃も物ともせずに一気にバルディッシュを握った片手を振り上げる。
既に私の視界には突然の速度に困惑する暴走体の身体が間近にあった、しかも暴走体は困惑しているのかそれを受け止めようとも避けようともしない。
ただただ無防備な身体を晒すだけ、私はそんな様子を心の中で嘲笑いながら一気に片手で振り上げたバルディッシュの刀身を振り下ろし、無防備になっていた暴走体の身体へと一気に突き立てた。

「隙だらけだよ、間抜けがぁ!!」

『目標に軽度の損傷。マスター、即座に回復されます。このまま一気に畳み掛けてください』

「言われなくたって―――――バルディッシュッ!」

『Arc Saber』

肩口に深々と付きたてた桜色の刃を肉を引き裂くように暴走体の身体から引き剥がしながら、私は次の手の内をバルディッシュへと念じて構築させ始める。
初めて使う魔法、ぶっつけ本番だから上手く使えないのは当たり前だけど……この際四の五の言っているような余裕も時間もない。
威力が如何とか精度が如何とかそんな事はどうでもいい、ただ相手の肉を引き裂ければそれ以上の事は望みはしない。
私は桜色の刀身に肉を抉られ肩口から噴水のように鮮血を引き出しながら苦痛の咆哮をあげる暴走体へと身体の勢いを殺さぬままに近付き、自分の両脚にジュエルシードの願いの力で“遮断”と“拒絶”の込めながら一気にその傷に向かって蹴り込んでいく。
鉄で覆われた靴先が回復し始めている暴走体の傷口に突き刺さり、瘡蓋のような粘膜に覆われた血液が弾けて私の脚を穢し始める。
生暖かい感触が私の足首を濡らす、だけど私はそんな感触も気にせずに突き刺した足をふって暴走体をサッカーボールでも蹴り飛ばすかのように一気に”拒絶“する。
刹那、苦悶の唸りをあげていた暴走体が私の足から一気に引き剥がされ、先ほど殴りつけたときと同じように歪な曲線を描いてその身体を宙へと躍らせた。
だが私はそんな状態になっても尚容赦はしない、手の内のバルディッシュをもう一度振りかぶり、私は何も無い虚空に大きく一閃を放った。

途端バルディッシュの先端を彩っていた桜色の刀身が結合部から分離し、まるでブーメランのように弧を描きながら吹き飛ばされた暴走体の方へと撃ち放たれた。
アークセイバー、魔力斬撃用の圧縮魔力の光刃をブーメランのように回転させながら撃ち放って相手の肉をそぎ落とす中距離用斬撃魔法だ。
勿論私のようなずべの素人が扱えるような物ではないし、今まで一度も扱ったことが無いから最大の特徴である簡易的な誘導性は失われてしまうけれど……それでも単なる斬撃投射としてならばサイの皮膚であろうがトドの脂肪であろうが一瞬にして真っ二つに出来るだけの殺傷能力は十分に孕んでいた。

そしてそんな魔力の刃は直線状に飛翔して暴走体へと向かっていき、その輝く刃をもって暴走体の四肢の前半分を両断し、鮮血を纏いながらそのまま暴走体の腹部へと突き刺さった。
身を裂くような激痛と連続する疼きに悲鳴のような咆哮をあげながら鮮血を撒き散らし、腹部から内臓をはみ出させる暴走体。
それはあまりにも歪でグロテスクな光景、凡そ神話の中の化け物が数々の武器によって蹂躙されていく様を見事に再現しているような酷く薄気味悪い様子であると言ってもよかった。
だけど私はそんな暴走体の様子を気にも留めず、全身を駆け巡る激痛と傷の疼きをなけなしの気力と根性で押さえ込みながら同時に二つの呪文を頭の中で思い浮かべる。
攻撃魔法の同時発動、凡そアリシアから聞かされた話ではどんなに熟練の魔導師であっても展開するのが難しいとされる荒業中の荒業だ。
何せ攻撃魔法というのは展開するだけでも、防御や他の補助呪文と違ってかなりの神経集中を必要とされる品物だ。
そんなものを二つ同時に展開すれば使用者の負担もかなりの物になってしまう。
当然私のような素人に扱えるような品物ではないし、私も初めから成功するだなんて思ってはいなかった。
ただどちらかの攻撃が相手を穿てば良いだけ、凡そ一定のダメージさえ与えてくれれば成功するかどうか何ていうような事ははっきり言ってどうでもよかった。
撃って当たればそれでいい、私は再び手の内の戦鎌に新しい刀身を顕現し、同時に二つの魔法陣を展開させながら一気に術式を組み上げる。
呼び出す呪文はサンダースマッシャーとフォトンランサー、どちらもまだ扱うのが精一杯としか言いようの無い不完全な物だけど……それ相応の威力は有している。
一つずつ撃って当たらないなら二つ同時に撃てばいい、私はそんな単純な思考で頭の中を満たしながら目の前に顕現した四つの発射体と桜色の粒子を収縮するエネルギー体を目に焼き付けながら二つ同時に暴走体に向かって撃ち放つのだった。

『しゃっ、射撃魔法と砲撃魔法の同時展開!? そんなっ、無茶だよ! だってなのはお姉ちゃんは―――――』

「無茶なのは百も承知ッ! でも、やるしかない!!  撃ち抜け、轟雷……撃ち放て、電杭……サンダースマッシャー、フォトンランサー……ダブルッ―――――」

『Thunder Smasher Photon Lancer』

「ファイアッ!!」

同時に展開された奇怪な桜色の魔法陣が煌き、目の前の発射体とエネルギー体が同時に爆ぜる。
そして刹那の瞬間に生まれる四つの杭と桜色の円柱が私の目の前に顕現し、その圧倒的な火力を持って周りの物を巻き込みながら悉く空間を蹂躙していく。
辺りにあった汚泥とボロ雑巾のようになった屍が桜色の砲撃によって弾き飛ばし、噎せ返るような濃厚な血の臭いを四散させ、ドロドロになった地面を抉りながら二つの魔法は殆ど同時に暴走体の身体へと向かって飛来する。
どちらもあまり制御が上手くいかず、見た目だけは何とか取り繕ってはいる物の威力の低下は否めないけれど……それでもまだ私に全力全開という言葉が残されているのだとしたら、その二つの攻撃は間違いなく死力を尽くした一撃だった。

だが暴走体はそれ等の攻撃を物ともせずに私に向かってくる。
ようやく回復した両足で地面を蹴り、蝙蝠のような両翼で勢いをつけながら私の喉元を喰らわんとその大きな顎を開いて真直ぐに私のほうへと突進してきた。
瞬間四つの桜色の杭が暴走体の肩口や首元に次々と突き刺さり、辺りの物を纏めてなぎ倒すように突き進んでいた砲撃はものの見事に暴走体の下半身を消し飛ばした。
勢いに乗って撒き散らされる血肉と臓物が私の身体に降りかかり、劈くような咆哮が私の鼓膜を痺れさせる。
生肉が腐ったような臭いが私の鼻腔を侵し、耳鳴りを醸し出す大きな音が意識が当座駆ろうとする感覚に拍車を掛ける。
ミシミシと軋む両腕の骨の痛みだけでも十分意識が飛びそうになっているというのに、それに畳み掛けるように押し寄せるこの感覚は最早拷問の域に達していた。
もうこのまま気絶してしまいたい、殆ど本能的な面から来る欲求が私の頭の中を過ぎる。
だけど暴走体の勢いは止まっていない、それどころか上半身だけになったはずの身体で宙を舞いながらその牙を私に突き立てんと目の前まで迫っている。
もう既にバルディッシュを振るって如何にかなる距離じゃない、大振りの戦鎌であるバルディッシュではリーチが長過ぎるのだ。
拳で何とかするほか無い、私は殆ど直感とも言えるような速度で瞬時に判断を下すと、ジュエルシードを握った手をギュッと硬く握り締めて思いっきり振りかぶる。
無謀な事はよく分かっている、だけど今の私に実行出来る手段なんてこれ残されていないのだ。
怪我をするのは承知の上、私は思いっきり勢いをつけた拳を目の前に迫る暴走体の口元へと叩き込んだ。

だが此処で暴走体の顔が私を嘲笑うかのように歪んだ。
私が拳を叩き込もうとした刹那、暴走体は血塗れの顎を開いて私の腕を勢いごと噛み殺そうと考えたのだ。
止まらない腕、そして待ち構えるのは血肉に汚れた鋭い牙の羅列……既に私には腕を引くという選択肢は残されていなかった。
今までの屈辱を晴らさんと煌くピラニアのような牙が殴りつけた私の拳を逆襲する。
噛み砕き、食い千切る。
拳を粉砕し、肉を咀嚼し、血を飲み干す。
そんな未来が私の脳裏を過ぎり―――――

「うぉぉおおおおおお!!」

―――――激突した。
激痛が腕に走り、拳が砕けるような鈍い音が頭の中に響き渡る。
神経を行くパルスが宙まで奔り。
痛感が飛び、飛んだ痛感があまりの痛みにまた戻る。
そしてそれ等総てを体現させるかのごとく、牙を突き立てられた腕から血が吹き出し、歪んでいた視界を真っ赤に染め上げる。
頭が潰れ、脳が飛び出すような錯覚が私の神経中を駆け巡る。
痛い、痛い痛い痛い……連続して頭に警笛を鳴らすそんな単語の羅列に頭がどうにかなってしまいそうになる。
肉を噛み切り、骨を砕こうとする鋭い牙、それが血管を噛み切り更に私の筋肉の奥深くへと沈んでいく。
指の神経の一つ一つに直に触れる牙、剥き出しになった痛感が縦に引き裂かれる。

「がッ……がァッ、ァァアアアああああああッ!!」

それでも、私は尚拳を深く押し込む。
更に奥に、もっと奥に……その念だけが私の身体を支配し、遠の昔に限界を超えた筈の身体を今になっても動かし続ける。
目の前はもう真っ赤で何も見えない。
同じくして耳もノイズだらけで何も聞こえてこない。
喉はからからに渇いて水を欲し、吐き出される息は荒く欠乏した酸素を求め、バルディッシュを握る指先からドンドン力が抜けていく。
もうこのまま気絶してしまえばどれだけ楽な事か、私はそう思わずにはいられなかった。
でも私はそんな自分を必死で叱咤し、何時とんでもおかしくない意識を保ちながら必死に拳を奥へと押し込み続ける。
そして私は痛みに支配される頭の中で一度だけ言葉にならない願いを思い浮かべた。
この痛みという”干渉“を”拒絶“することが出来れば、言葉には出さなかったが私は確かに頭の中にそんな願いを思い浮かべた。
それは普通なら極限まで精神をすり減らした人間の妄言で片付けられてしまう程、現実味の無い願いだった。
だけどその願いは手の内のジュエルシードを通してこの世にその“法則”の結果を顕現し、通常ではありえないだけの奇跡をこの世に芽吹かせる。
次の刹那、私の拳の中に握られていた血塗れのジュエルシードが光を発して私の腕の勢いを増徴させ、勢いを増徴させた私の拳は暴走体の牙を“食い千切る”。

「んがぁ―――――ッ」

『目標、損傷率90%オーバー。ジュエルシードの自動封印に入ります』

言葉にならない悲鳴のような唸りを漏らす暴走体と淡々とその状態を告げるバルディッシュのAIの機械音が私の頭の中に一瞬過ぎる、
だけどもう私にはその言葉がどういう意味なのかという事を処理するだけの感覚は残されてはいなかった。
ただ分かるのは突き立てられた牙が深々と肉に食い込んで抜けないという感覚。
限界以上に膨張した筋肉が食い込んだ牙を万力のように挟んで押さえ込んでいるという痛感だけだ。
瞬間、暴走体の勢いと直に対峙していた腕が圧力に耐え切れずに血飛沫を上げて弾ける。
筋肉だけでは到底支えきれず、肘の骨が歪に捻じ曲がる。
まだ止まらない、肉と骨だけになっても進み続ける勢いだけが私の身体を支え、踏み込む身体を暴走体の顎へとねじ込んでいく。
身体中の神経が悲鳴を上げ、肩が外れるようなガクッとした痛みが肩口に広がってくる。
でもその結果として生まれ出た勢いは暴走体の鋭い牙を爪に変え、歯茎を抉り、顎の骨を砕き―――――

「だぁァァアアアあああああああ―――――ッッ!!」

一撃で暴走体の大きな身体を吹き飛ばし、近くにあった大木へと勢い良く叩きつけた。
ミンチ肉を更に細かく磨り潰してペースト状にしたものを地面に叩きつけたときのような歪で奇怪な音があたりに響き渡る。
最早私の真っ赤に染まりあがった視界では暴走体がどうなってしまったのかという事を確認する術は無いが、確実に倒したと言う感覚だけは未だに腕の中に残り続けていた。
刹那、私の身体がグラッと傾き、足が縺れて私はそのまま前のめりにその場に転倒した。
白い、頭の中が裏返ったかのように真っ白になる。
身体中の神経が、血管が、痛感を伝える為だけの装置へとなれ果てる。
血が針となって身体中を内側から突き刺し、神経は螺子となって肉という肉を食い被る。

「んっ……がぁ、くっ……ぅ……!」

『封印、完了しました』

『なのはお姉ちゃん……っ! なのはお姉ちゃん!!』

頭の中に様々な言葉が溢れ返り、朦朧とした意識を揺さぶるように脳を振るわせる。
してやった、そして生きているという実感だけが私の身体の全てを支配する。
だけど立ち上がろうにもどうやって右足を動かしていいのかも分からない。
頭の中に響いている声は一体誰の物なのかというのも曖昧で、まともに判断できない。
世界はどっちに傾いているのか、自分の輪郭は何処まで続いているのか、身体は痺れてしまっていて境界が曖昧だ。
立ち上がろうとして、何度も転ぶ。
世界が何度も揺らぎ、その為に苦悶の声が力なく私の口元から漏れ出す。
三度立ち上がることに失敗して、私はようやく前に進む事ができた……でも目の前は真っ赤で何も見えない。
自分が今何処にいて、何をしていて、どんな人間だったのかという事すらも今の私には判断が付かない。
ただ分かるのはこの場を急いで離れなければいけないということだけ、だけどふらついて覚束ない足取りではどれだけ頑張っても数歩歩いただけでその場に倒れてしまう。
地面から突き出した何かに躓き、私は正面からその場に倒れ込む……意識が完全に飛びそうになった。
もうこれ以上は動けない、私は痛みに疼く自分の身体の状態を殆どその役目を果たさなくなった頭の片隅で考えながらゆっくりと目を瞑った。
今が朝なのか夜なのかも分からない、そもそも私は今まで何をしていたのかも定かではない。
だけど私には確信があった、もう私は休んでいいんだっていう確信が確かにあった。
泥のように濁った頭で私は思った、あぁ自分は勝ったんだなって。
私は最後の最後に自分が勝利を手にする事が出来たという感覚で存分の胸の内を満たしながら静かに意識を手放すのだった。





それから数時間ほどの時間が経ち、辺りはすっかり深夜になってしまった頃……ある程度身体の状態がよくなった私はあの酷い惨状を物語っていた林から離れ、銃弾を撃ちつけていた大樹に腰掛けながら本格的に傷の治療に当たっていた。
確保したジュエルシードと自分が持っているジュエルシードの両方を総動員させて新陳代謝を急激に速め、バルディッシュのメモリーに登録されていた物の中から重傷者に掛ける為の回復魔法を呼び出して私自身も自らの傷を癒していく。
筋肉の断絶に複雑骨折、加えて大量出血に脳震盪……正直なんで自分は今生きているのだろうとつくづく思う。
まあそれはバルディッシュに干渉したアリシアが殆ど死に掛けていた私に回復魔法を掛け続けていてくれた御蔭なのだけれど、よくもまあ自分でもあんな無茶をしたものだと私は思った。
そしてそれと同時に私はもう二度とあんな死に掛けるような思いはしたくないと心から信じてもいない神様へと願うのだった……尤も二度も殺されかけているのに未だに死んでいない時点で既に私は天国からも地獄からも縁を切られているような感じがしないでもないのだが。
ともあれしばらくは動けそうも無い、私は罅の入った肋骨に自分の魔力を当てながら静かにその傷が癒えるのを待つのだった。

『もう、本当にこんな無茶ばっかりして! 死んじゃったらどうするつもりだったのッ!?』

「にゃはは……ごめんごめん、正直私もこんな風になるとは思わなくてさ。いづッ……つい勢いで……」

『勢いで、じゃないよ! 本当になのはお姉ちゃん死に掛けるところだったんだよ! ちょっとは自分が取った行動を反省して―――――』

「あーはいはい、分かりましたってば。もうその話しするの16回目だよ、アリシア? いい加減何度も言われなくたって反省してるってば」

プンスカという漫画みたいな表現を体現するようにギャアギャア騒ぎたてながら怒声を撒き散らすアリシアに私は半ばうんざりしながら投げ遣りな謝罪を投げ掛けた。
確かにアリシアの言っている事も正しいし、私の命を救ってくれたのは紛れも無い彼女だ。
本来ならば幾ら感謝しても尽きない態度を取るのが当たり前だろうし、私もそうした方が言いというのはよく分かっている。
だけど流石に何度も何度も夏休み前の校長先生の話みたいに同じような事を何度も何度も繰り返されれば私だって段々と苛々もするというものだ。
しかもその内容というのがついこの間病院でお兄ちゃんと口論になった時にお兄ちゃんが口にしていた説教と殆ど一緒なのだ。
確かに無茶な事をしたのは悪かったし、これ以上私も同じような事を繰り返すつもりも毛頭ないのだけれど……正直いい加減にしてくれというのが私の一番の本音だった。

『またそうやって直ぐに投げ遣りな態度を取る! それが駄目だってさっきから言ってるじゃん!』

「私もさっきから何度も御免って言ってるけど? まあ過ぎた事はもういいじゃない、面倒くさい……結果的にはジュエルシードも回収できた訳だしさ。結果オーライって奴だよ」

『そっ、それは確かにそうかもしれないけど……』

「ね? だったらこれで話は終り、世は事もなしだよ。大分身体の方も良くなってきたし……流石にそろそろ家に帰らないと拙いだろうしね」

既に時刻は夜中の二時過ぎ、流石の私だって床についているような時間だ。
当然家に帰れば返ったでお兄ちゃん辺りから文句を言われるだろうし、一応骨折や筋肉の断絶は治したものの細かな傷まではまだ完全には癒えていないから見つかれば騒ぎの一つや二つにはなる可能性だって十分あり得る。
まああの人達が未だに私に心配なんていうような感情を持ち合わせているかどうかは知らないけど、それでも一応小学生を深夜に出歩かせているなんて事が知られれば仲良し家族で通っている世間体にも傷が付くだろうし、下手をすれば捜索願を出されてしまう可能性だってある。
それにあの死体を他の誰かが見つける前に此処を撤退しなければ色々とややこしい事になるだろうし、厄介ごとになるのは私としても出来ることならば避けたい。
なるべく迅速に行動を起さなくては、私はすっかり身体に染み付いてしまった生臭い血の臭いに顔を顰めながらポケットに手を入れてゆっくりと立ち上がるのだった。

「よっこらせっ……と。しっかしこの血の臭いはどうにかならないのかなぁ? 一応バリアジャケットを解除したから服の方は問題ないだろうけど、これじゃあちょっと……ねぇ?」

『それは我慢しようよ。もうその臭いは身体に染み付いちゃってるみたいだし、一応臭いとかを浄化する魔法も無いではないけど……ジュエルシードもバルディッシュも傷の治療の方に回しちゃってて余裕が無いんだよ。一応誰かに見つかりそうになったら掛けてあげるから、今はあんまり贅沢言わないで』

「はぁ、やれやれ……居た堪れないよ。さぁて、ちょっと遅くなっちゃったけど……帰るとしますか」

暢気にそんな言葉を漏らしながら私はゆっくりと前へと歩を進め、その場を後にする。
恐らく速ければ明日の昼間にでも死体の方は発見されるだろうし、アリシアがジュエルシードを使って上手く足跡とか争った痕跡とか私に関する証拠を根こそぎ始末してくれたから憂う事も何も無い。
ただ今はひっそりとこの場から立ち去って、家に帰って思う存分熱いシャワーを浴びるだけを考えていればいい……そう思うと私は何だか少しだけ心が軽くなるような気がした。
しかし、あの犠牲者達が何時先生に代わるかも判らないという事を考えると早々気を抜いてもいられないというのもまた事実だった。
確かに今回は文字通り死ぬ思いで何とか頑張ったからどうにかなったけれど、次回からも上手くいくかどうかは限らないし、下手をすれば今日以上の強敵が待ち構えている可能性も十分にありえる。
これからはいよいよ本格的に私も心してこの件に取り掛からなくては、私は心の中でそんな風に結論付けながら静かにその場を立ち去るのだった。
夜空に輝く綺麗な弧を描く満月を不意に見上げながら、戦いを始める前と同じように。
その満月から漏れ出した光でその身を照らし出しながら……。





[15606] 第十七話「不安に揺らぐ心なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/04/02 18:10
我思う、ゆえに我あり。
何時だか私は自分の恩師である“先生”からこんな言葉を聞いた事がある。
確かフランス生まれの哲学者であるルネ・デカルトの言葉だっただろうか。
まあ私もあまり文学には明るくないから良くは知らないし、コーヒーを飲んで寛いでいる時に聞きかじっただけだからあんまりはっきりとは断言できないけれど……多分そんな名前だったと思う。
この世で確かな事とは一体何なのだろう。
この世で全く疑う余地のない事とは何なのだろう。
彼はそんな問いの内容は単純ながらも考えようによっては幾千、幾万もの答えが生まれる途方も無い事柄を只管に探求し続けた人物だ。

自分が見て、聞いて、感じた事の全てをも疑い通し、まるで胡蝶の夢の様な水掛け論を延々と繰り返すその生き様は大凡並の感性を持つ人間が見たら不毛な事をしていると思わず笑い出してしまう程不毛な物だったらしい。
自分の目に映る風景すら幻なのではないかと疑い、数学や論理といった物すら夢なのではないかと思い信用はしない。
何故なら夢を見ている時は自分が夢を見ているのだと気が付かない訳だし、一度強く思いこんでしまえば例え近くに寄って触れられる物すら偽物なのではないかと思ってしまえるのだから。
つまり幾ら説明を重ねて論理を立てた処で其処に寸分でも疑う余地が残ってしまうのであればどう抗っても原理的にこれは確かな事なのだと証明する事は出来ない訳だ。

では、やはりこの世に“絶対的な確信を持って真実と断じられる物”は何一つとして無いのだろうか。
否、彼は疑って疑って疑い続けたその先にちゃんとその答えを見出していた。
確かに私自身が認識する物は全て嘘で塗り固められた偽りの現実なのかもしれない、だけどその現実を嘘か真かと疑う自分が今此処に存在しているという事実だけは本物である……そんな常人が聞けば気の利いた頓知だと呆れてしまう様な答えを彼は疑いの中から導き出したのだ。
例え今起きている現実が全て夢だったのだとしても、その夢を見てこれは夢なのではないかと疑っている自分がいる事はどうやったって疑う事が出来ない。
何故なら疑っている自分がいるという事を疑って見た処で結局自分は“何かを疑っている”という事には変わりないからだ。

つまりこの『我思う、ゆえに我あり』という言葉の意味合いとしては、この世の全てが信じられない物で塗れているのだとしてもそれを疑い続ける限り、疑り続ける何者かが存在している事は紛れもない真実であるという風に解釈が出来る訳だ。
まあ実際の処私自身も文学なんて小難しい事はあまり良く分からないし、聞きかじっただけの知識だからあまり深く踏み込んで物を言う事は出来ないけれど……何となく今の自分なら共感する事が出来る様な気がした。
何せこんな風な事を考える私こと高町なのは自身もまた、今の自分が本当にこの世に存在している人間なのかどうなのかという事を疑う人間の一人なのだから……。

「……な~んてな小難しい事を言った処でやっぱり現実は現実のまま、か。どちらかというと夢なら夢のままでとっとと覚めて欲しかったよ。私としては」

『なのはお姉ちゃん、大丈夫? まだ気分悪い?』

「う~ん、帰って来た時よりは大分マシになったかな。だけどまだ何かをお腹に入れる気にはなれないな。いざ冷静になってこうして事を思い返してみると如何にも吐き気の方が酷くてさ。しばらく食べ物は……特に肉類は遠慮願いたいね」

『でも、そろそろ何か食べないと身体がもたないよ? なのはお姉ちゃん昨日の夕飯から数えて丸一日分ご飯抜いちゃってる訳だし、具合が悪い原因も半分は空腹っぽいしね。少し無理をしてでも食べられるだけ食べておいた方が身の為だよ。辛いのは分かるけど……』

心配そうな声色を浮かべるアリシア、そしてそんな彼女に「そうは言ってもねぇ……」と難色を滲ませた言葉を吐き捨てる私。
確かに御腹が空いていると問われれば当然そうだ。
何せ私はあの地獄のような死地から這う這うの態で何とか帰ってきて、ご飯も食べぬままシャワーだけ軽く浴びて今の今まで自分の部屋の薄汚れたベットの上で泥に浸かるように深く眠っていたのだから。
ふと視線を横に向けてみると完全に遮れ切れていないカーテンの間から微かに光が漏れだしているのが見て取れた。
光の入り加減から考えてもう既に正午は過ぎているらしい、私は頭の中で漠然とそんな風に思いながら気だるくなった身体を起して溜息を宙へと吐き捨てた。

途端、身体に纏ったバニラエッセンスの強烈な甘い香りが染み付いた臓腑の臭いを誤魔化す様に不自然に鼻腔を刺激する。
全身を焼きつかせるような温度のシャワーを浴びながらも落ちなかった臓腑の臭いを家の人間に悟られまいと台所にあった物を勝手に拝借して身に付けたものなのだが、なかなかどうしてこの香りもまた臓腑の臭いにも勝らずとも劣らず強烈な物だった。
噎せ返るような甘い臭いが鼻腔を通して胃に込上げ、血肉の臭いとはまた違った種類の吐き気を先ほどから延々と嫌がらせのように私へと訴えかけ続けてくる。
失敗した、私はそんな噎せ返るような強烈な甘い匂いに頭をくらくらさせながらそんな風に心の中で何度も愚痴を吐き捨てるのだった。

幾ら消臭スプレーでも香水石鹸でも臭いが落ちなかったからとは言っても安易に御菓子用の香料に手を付けるべきじゃなかった、そんな後悔の念が怒涛のように押し寄せてくる。
幸い私の家は喫茶店で母親はその経営者だ、臭いを誤魔化すだけの材料ならキッチンに幾らでも転がっていた。
バニラエッセンス、オリーブオイル、御菓子用のリキュールやブランデー……その他エトセトラエトセトラ。
部屋に引籠もって一日家から誰もいなくなるまで染み付いた臭いを誤魔化すというだけなら事欠かないだけの物がちゃんと家には揃っていた、だけど私はそんな数ある選択肢の中からどういう訳か致命的に悪い物を選んでしまったのだ。
バニラエッセンスというのは確かに少量なら良い香りなのかもしれないし、私自身もそれ程嫌いではない。

しかし、皆が起き出す前に何とか臭いを消さなければと焦っていた私はあろう事か瓶の中の三分の一以上を念入りに身体に塗りたくってしまったのだ。
当然そうなってくると匂いの度合いの方もキツくなるし、下手をすれば常人なら顔を顰めてしまう位の悪臭へと変わることにもなりかねない。
でも更に致命的な事に極度に身体を動かした事による疲労とリアルなスプラッターシーンを延々と見続けたことによる精神的なショックでかなり参っていた私はそんな単純なことにも気を回すことが出来なかったのだ。
結果確かに家族の人達は誤魔化し通すことが出来たし、確かに私自身も大分血の臭いを薄れさせる事には成功したのだけれど……何か別の処で余計な吐き気の原因を生み出してしまっていたという訳だ。
因果応報、何ともままならない話ではあるのだがこれも自分がとった行動が招いてしまった結果なのだから仕方ないといえばそうなのかもしれない。
私は御腹が空いているのか如何なのかも判断の付かなくなった頭を片手で押さえ、這い出るように冷たいフローリングの床に素足を付いて立ち上がりながら自分の取った行動の浅はかさを改めて痛感するのだった。

「はぁ。もう一度お風呂入っておこうかなぁ? こんな状態じゃまともに食欲も湧かないよ、ったく……。癪だけどまた冷蔵庫の中から適当に拝借させて貰うしかないか。何か残ってたかなぁ?」

『あんまり期待しない方が良いんじゃない? 何せもうとっくに正午は回ってる訳だし……面倒臭がらずにちゃんとコンビニかスーパーに行ったほうがいいよ。お金はまだ余ってるんだから』

「だよねぇ……下手に料理して失敗する訳にもいかないし、やっぱりそれが一番ベストなのかな。でも歩くの嫌だなぁ、まだなんかちょっと気だるいし。正直このまま寝てた方が楽っちゃ楽なんだし、出来れば何か食べるよりも寝てたいなぁ……。まぁ、そうも言ってられないのも事実なんだけどね。結構お腹の方もキちゃってるみたいだし」

『そうだよ。あんまり何も食べないでいると思考能力も低下しちゃうし、溜まった胃酸で臓器を傷付けちゃう事だってあるんだから。辛いかもしれないけどこの際無理をしてでも何か食べた方が身の為だよ。そうだねぇ……パスタなんかがいいんじゃないかな、麺類は消化にもいいっていうし。確か此処から南東400mちょっとの所に手軽な値段のイタリアンレストランもあるみたいだから偶には気分を入れ替えて外食にでも行ってみたら?』

相変わらずカーナビのガイドをそのまま喋っているようなアリシアの口ぶりに私は少しだけ眉間に皺を寄せながら「外食ねぇ……」と力なく呟いた。
確かに気分転換にはなるのだろうが、正直私としても其処までがっつり何かを食べたいかと言われればとてもじゃないがそんな気分ではない。
それに今日は平日で私も先生に予めメールで連絡し、家の人達にも書置きを残して周りからの承知を得た上で学校を休ませてもらっている身の上だ。
先生の方はまだ良いとして家族の人達には気分が優れないから今日は一日寝るという旨を伝えた上で了承を得ている手前、其処の所はある程度考慮しないと流石にお兄ちゃん辺りが黙っていないだろう。
尤も昨日から今日の朝に掛けて私が部屋にいなかった事にも気付かなかったみたいだし、体調不良と実の娘が書置きを残していても顔一つ見せないような人達なのだからもう殆ど私自身も見放されているような物なのかもしれないのだけど。
ともあれ気分が優れないのは本当の話な訳だし、周りの人の目という物もある。
一応これでも私たち一家は周辺の住民からは良心的で仲睦まじい家族というような認識をされているのだし、それが今でも罷り通っている以上私としてもそれが下手に崩れて面倒を招くような事はしたくは無い。
よって結論としてはアリシアの提案は一応思考の片隅に留める程度の事はしておくとしても、あまりで歩かないのが吉という事になる訳だ。

まあ私としても昨日の余りと今日の分とで使えるお金は有り余っている訳だし、偶には惣菜やインスタントではないイタリア料理に舌鼓を打つというの悪い話ではないとは思う。
幸いにして今日は天気もいいし、青空の下のオープン・カフェで一息つくなんていうのも吝かではない。
赤唐辛子や黒胡椒で味付けられたプッタネスカを口いっぱいに頬張って、それを熱々のリボリータで流し込みながら日の光の下で一服つけたのならそりゃあもう最高の一言に尽きるだろう。
だが、それはあくまでも普段の私がどうしても今の生活に行き詰った時に半ば自棄を起して気分を紛らわせる為にするような贅沢であり、とてもじゃないが今の心境を一新出来る程の効力を持っているとも思えない。
精々御腹の中が空っぽになっている感覚を多少マシに出来る程度、良くても少しばかりの気が休まる位で大した効果があるという訳でもないだろう事は自明の理だ。
してもしなくても大して変化の無いものなら、無意味にお金を使ってまで贅沢をする必要も無いというものだろう。
贅沢を出来る環境だからこそ此処で安易な妥協をしないで本当に必要になった時の為に貯金でもしておいた方が幾分か建設的だろう、私はそんな考えを頭の中に浮かべながら澱んだ空気が充満する部屋の中をもう一度一瞥して適当に傍らに在ったテレビのリモコンを手に取った。
ゲームをする気にはなれないけれどこういう時はテレビのグルメ情報でも見て気を紛らわせてから事を決めた方がいいだろう、そんな安直な考えから来る行動だった。

殆ど連日同じように点けっ放しになっている真っ暗な『ビデオ1』という画面に向けて私は適当にチャンネルのボタンを押し、普段ゲームをするかDVDを見るかにしか使わないテレビの画面を民放へと切り替える。
私の部屋のテレビは殆ど本来の機能の為に使われる事は無い。
精々その役目をゲームかDVDの鑑賞の何れか以外に全うする事があるとするならば、それは深夜に放映されている所謂“大人のお友達御用達”なアニメを見る時か今のように何気なしに気を紛らわす為に適当にチャンネルを回すときのどちらかだといってしまっても構わないだろう。
しかも前者の場合は見忘れたとしても先生がハードディスク録画してくれた物をDVDに焼き回ししてくれるから無理に見る必要は無いし、後者に至ってはこの生活を始めてから今回を数えて二、三度あったかなかったかというような極小の確率でしか起こりはしないのだから本来このテレビが民放に繋がっている意味合いなんてあってないようなものなのだ。
どうせテレビのドキュメンタリーにしろバラエティにしろ何が面白いのかも分からないような感性しか持っていないのだし、見たところでそれを種にして会話に華を咲かせるような人間なんて私にはいないのだから。
本当にままならない事ばかりで嫌になる、私は胸に込上げてくる鬱憤に思わず肩を竦めながら芸能人やレポーターが移り変わる画面を力なく見つめ続けるのだった。

「……かったるぃ。何か今更何したって気分なんか晴れないような気がしてきたよ。ぶっちゃけちゃうとさぁ、たぶん今の状態じゃあ何か食べても直ぐ戻しちゃうだろうしね。だから、もうしばらくはこうして適当に時間潰してる事にするよ。ご飯食べるにしても今からじゃあお昼御飯には遅すぎるし、夕御飯には速すぎるし……区切りも悪いしさ」

『まぁた、そうやって直ぐに面倒臭がるんだから! 駄目だよ、ちゃんと一度思い立った事は実行に移さないと。じゃないと直ぐにダラダラしちゃうんだから、特になのはお姉ちゃんは!』

「はいはい分かったよ、分かりましたってば。後十分くらい適当にダラダラしたらもう一度軽くシャワー浴びて、そこいらのコンビニにでも足延ばすよ。あっ、イタリア料理は却下ね。高々食事に500円以上お金掛けたくないもん、基本的に」

『もぅ、なのはお姉ちゃんったら……。ちゃんと十分経ったら動き出させるからね!』

何というかそこら辺の漫画からテンプレートしてきたようなウザったい母親キャラみたいな口ぶりで注意してくるアリシアに「分かったってば……」とちょっとだけうんざりしながら私も適当に返事を返してその場に腰を降ろす。
視線の先にある画面の向こう側では相も変わらず細淵の眼鏡を掛けたコメンテーターがゲストと思わしき色白い禿頭の老人に何やら意見を伺っていた。
平日の昼間にやっているようなテレビ番組なんて大して面白くもないし、私としても特に何か興味があって目の前の番組にチャンネルをあわせたという訳ではない。
ただ、こういう気分の時は下手に面白おかしい様なバラエティや頭を使って意味深に捉えなくてはいけないドラマなんかよりもこういうような私の日常とは無関係ながらも確実にこの世界で起きているニュースなんかに目を通していた方が何となく気持ちが落ち着くというただそれだけの事だ。

特に何か深い意味がある訳でもなければ世間の動向に関心があるという訳でもない。
単純に頭を使わずとも何となく必要っぽいような耳障りの良い知識的な単語が鼓膜を刺激し、人よりも少しだけ賢くなったのかもしれないという感覚に意識を酔わせてしまいたい……そんな馬鹿げた考えがこの行動を取った動機なのだ。
それ以上でもなければそれ以下でもなく、目の前で繰り広げられていく静かな討論を特に何の感慨も無く見続けるという行為に私は自分の意識をただただ向け続ける。
やれ最近の政治家がどうだとか、やれ汚職や偽装献金がどうだとかそんな事は私にはちっとも理解できないのだが、聞いていても特に不愉快だとか苛々するだとかそういうネガティブな感情は一向に私の中に芽生えてこない。
これは先生の教えの一つでもあるのだが退屈になった時は何でも良いから一つでも多く知識を取り入れて物にしろっていうのが変な処で働いてしまっている所為なのだろう。
確かにこうした小難しい話は今の私では到底理解できないし、恐らく何十年経っても完全に理解しているのか如何なのか正直自信も無い。
だけど、だからと言って退屈な時にその暇な時間を全部投げ出して無駄にするよりはちょっとでも無駄な知識を詰め込む事に当てた方がまだ建設的というものだろう。
動機や理由はどうであれ偶にはこんな風に一端の真人間を気取って真面目なニュースや討論に耳を傾けるのも悪い話じゃない、私は目の前で行われる静かな言葉のやり取りと目と耳でしっかりと受け止めながら心の中でそんな風に現状を評してみるのだった。

だが、そんな私のささやかなポジティブシンキングが続いたのも束の間の事だった。
前のニュースが終わった途端、細淵の眼鏡を掛けたコメンテーターにスタッフと思わしき作業服の人物から突然滑り込むように原稿が手渡されたのだ。
そのスタッフは何だか凄く慌てていた様で、そんなスタッフから原稿を手渡されたコメンテーターも軽くその資料に目を通した途端今まで以上に一層顔を強張らせて二、三度咳払いをし始めた。
何だか嫌な予感がする、私は何だか次第に盛り下がっていく画面の奥の人間達の様子を見ながら何となくそんな風に直感した。
このチャンネルは私の住んでいる海鳴市の事をよく取り上げている地方局の物だし、とりわけ最近は何かと物騒な事件も多々あったからこの周辺の出来事へのアンテナは他のテレビ局に比べても俄然速い。
当然それが行方不明や殺人事件ならば尚の事、特に私が見てしまったような大量殺人ならそれこそ起こったその日の午後には大々的に放映されていても何にもおかしい事は無い。
刹那、私は自分の身体から冷や汗がにじみ出てくる感覚が全身を駆け巡るのをしっかりと感じ取っていた。

気持ち悪い、そんな単語を頭に思い浮かべた瞬間忘れようとしていた記憶の中のグロテスクな場景が刹那的に頭の中を駆け巡り、テレビの砂嵐のようなノイズが頭の中を揺さぶって気持ちを不安定にさせてくる。
これから報道される事件に心当たりがある、それだけならまだ幾分か私も心が楽だった。
何せ私はその事件に関して一切の関与が無い訳だし、そもそもそんな非日常的な出来事に私のような力の無い子供が介入できる余地など何処にも無いと考えるのが所謂世の中で罷り通っている“普通”というものなのだから。
しかし、非常に残念なことに私はその心当たりがある事件の直接的な当事者でもあるのだ。
別に私が誰かを殺してしまっただとかそういう訳ではないのだけれど、それでも多くの命を奪った者の命を狩ってしまった以上は無関係という訳でもない。
寧ろ殺された人達を真っ先に発見している身の上としては完全にこの件に関しては中核をなす部分にまで足を突っ込んでしまっているというような気もしてくるというのが現状なのだ。
出来ればあの件の報道ではありませんように、私は全身血の気の引いて再びくらくらし始めた頭で必死にそんな祈りの言葉を繰り返した。
でも現実は何時だって私に優しくは無い、その数秒後……私のささやかな願いはまるで金槌で硝子を打ち砕いた時の様に完膚なきまでに粉々に砕け散ったのだった。

『え~ただいま飛び込みで衝撃的なニュースが飛び込んできました。今日午後一時半頃、野犬退治の為に山狩りに行ったまま行方不明になっていた地元の猟師組合の男性四人が全員遺体となって同僚の職員に発見されたとの事です。男性らの遺体はどれも損傷が激しく、まるで猛獣に食い殺されたかのような―――――』

「ッ……!?」

『海鳴市内では先週にも同様の事件が起きており、市では周辺の学校や幼稚園などを一時的に休校させると共に地域住民の避難や再発防止の為の対策を早急に打ち出す方針のようです。亡くなられた方々のご冥福を心から申し上げます』

「……そっか。もう、見つかっちゃったんだね。存外……速かった、かな?」

口では冷静を装いながらも私は画面の向こうから伝えられた情報に思わず何処か拭っても拭いきれないような不安を覚えてしまっていた。
首筋のチリチリとした感覚がより一層強くなり、まるで微弱な電流でも流したかのような微かな痛みが徐々に私の精神を蝕んでいく。
耳の中を駆け巡っていたノイズが一層その度合いを増し、頭の中に蔓延りつつあった記憶の中の場景がよりはっきりと私にあの時の状況を伝え始める。
捥がれた四肢に砕かれた頭部、滴る赤黒い鮮血に腹部からはみ出す臓物、そして血肉でぬかるんだ地面を染め上げる、赤、紅、朱……。
凡そ、この世の物とは思えないような地獄が私の記憶の中で止まった息を再び吹き返すように再び私の頭の中を冒し続けてくるのだ。

もう勘弁して欲しい、私は今になって行き成り蘇ってくる記憶の数々にそんな情けないような言葉を思い浮かばせながら軽く二、三度頭を横に振ってもやもやする感情を何とか頭の中から払拭させようと試みる。
しかし、何度試してみても結果は同じ……もやもやとした感情は一向に拭い去る事は出来ず、そればかりか治まり掛けていた吐き気すら蘇ってきそうになるだけだ。
そう、如何抗っても私がこの事件に関ったという事実は消し去る事は出来はしない。
結局どれだけ言い訳を重ねた所で人の生き死にが掛かっているような出来事に高町なのはという存在が関っているのは紛れも無い事実なのだ。
アリシアに悟られまいと何とか強がってはいたもののやはり改めてこうして自分がとんでもない事に首を突っ込んでいるのだと思うと思わず寒気すら催しそうになる。
私は微妙に震え始めた肩口をしっかりと両手で押さえながらニュースの動向を見守り続けるのだった。

時折頭の中に響く「大丈夫……?」という力ないアリシアの慰めにうわ言のような相槌を返しながらニュースを見ていると、其処からは実に様々な事を窺い知る事が出来た。
今週中にも此処周辺の小中学校は安全の事も考慮して数日ばかり休校にならざるを得ないという事が一つ。
市は最悪自衛隊を投入する事も検討し、明日にも保健所の職員や地元警察を使っての大々的な捜査を行うということが一つ。
もしかしたらこの事件は野犬によって引き起こされた物ではなく、周辺の動物園や違法に輸入された肉食動物の仕業かも知れない為そちらの方についても警察が捜査を始めるという事が一つ。
そして最後に一番最初に起きた身元不明の少年がこの件に関して何か関わりがあるのではないかという可能性も視野に入れて、近い内に警察でも一連の騒動を踏まえて捜査本部を立ち上げる事が考えられるというのが一つ。
もう何もかも真実が分かっていて、あまつさえそれを人知れず解決してしまった私としてはどれもこれも聞いた限りでは滑稽な物ではあったのだが……事が大事になっているという事を考えると笑いの一つすらまともに込上げては来なかった。
それどころかこんな茶番みたいな事が本気で繰り広げ始められた原因を作ったしまったという罪悪感がドンドン胸の内に込上げて来て、何だか私は遣る瀬無さを感じてしまっていたのだった。

私にその気は無かった、だけど結果的に私はこんな大々的な事件にどっぷり肩口まで使ってしまうようなところまで足を踏み入れてしまったのだ。
もう後戻りする事は出来ない、そればかりかもしかしたら奇跡的に生き残った生存者として捜査の手が私の方にのびてくる事だって十分に考えられる。
そして其処で下手な事を喋れば余計に事態が混乱する可能性だって十分に考えられるし、かと言って何時もの調子で恐怖に怯える女の子を演じれば最悪精神病院に送られて長期カウンセリングなんていうことだってありえない話ではない。
一帯何を如何すればいいのか一向に見当も付かない、私は堂々巡りする考えを片っ端から模索しながら何とか答えを見つけ出そうと試みる。
しかし、どれだけ考えてみても一向に明確にこれだと言えるような答えは出ては来ない。
どれだけ悩んでみてもただただ空回りする思考が不安として残ってしまい、それによって引き起こされる混乱が更なる混乱を呼ぶばかりなのだ。
もう誰か助けて欲しい、私はぐったりと力なく背を壁に預けながら全身の力を抜いてそんな他力本願な考えに没頭し続けるのだった。

「拙い……これは拙過ぎるって。対応が早ければ明日か明後日かにでも警察が事情を聞きに来るかも。ううん、そればかりか根掘り葉掘りあること無いこと喋らされて……下手をしたら―――――」

『だっ、大丈夫だって! この世界には魔法は知れ渡ってない訳だし、誰もなのはお姉ちゃんがこの件に関ってるなんて分かりはしないよ。それにいざとなったら私が何とかするから。幸いこっちには二つもジュエルシードがある訳だし、これにちょっと細工すれば大概の事は何とかなるから……って、いきなりそんな落ち込まないでってば! 大丈夫だから、ね?』

「いやだって、こんな……っていうよりも寧ろもう八方塞じゃん。本当の事を喋るのも駄目、かといって下手に嘘をつくのも拙いじゃもうどうしようもないよ。今までやせ我慢してきたけど本当は私もリアルでああいうグロ系なのは本当に全然駄目だし、いざ追求されたら絶対ボロ出しちゃうって! もう最悪だよ、一体これから如何すれば……。あぁ、何だかまた胃がキリキリしてきた……気持ち悪っ」

『心配ないってば! なのはお姉ちゃんは何でもかんでも悪い方向に考え過ぎなんだよ……ほら、ケータイ鳴ってるよ。一先ず今は落ち着いてやるべき事をちゃんとやらないと!』

必死で慰めてくれているのはよく分かるのだがちっとも説得力の無いアリシアの言葉に脱力を隠しきれぬまま、私は彼女に言われたとおり脇に転がっていた自分の携帯電話を手に取った。
震える手がバイブレーション機能で震える携帯の所為で余計にその度合いを増し、何時もだったら聞いていて心地いい筈のお気に入りのアニメソングの着信音が不安定な心持に拍車を掛けてくる。
出来れば今日は誰とも話したくなんか無い、そう思った矢先にこうして着信してくるなんてもう私には悪質な嫌がらせようにしか思えなかった。
だけど出ない訳にもいかないし、これが先生からの着信なのだとしたら尚更こんな風に挙動不審な声色で返事をして心配を掛けたくも無い。
まあ親兄弟からの着信という可能性も無くは無いのだけれど、それならそれで下手な声色で話そうものならまた面倒な事に発展しかねない。
何れにせよ気持ちを落ち着けてから電話に出るしかない、私はそんな風に思いながら一度その場で何度か深呼吸をして息を整えるとなるべく何時もの口調で返答出来る様に心の中で「大丈夫だ、大丈夫」と自分に言い聞かせ、二つ折りになっているケータイを開いて画面のほうへと視線を移したのだった。

しかし、電話を掛けてきた相手は私が思っていた人間とは違ってもっと意外な人だった。
『トーレ・スカリエッティ』、点滅する液晶画面には確かにそんな名前が示しだされていて、それは今も着信中であることを私に示し続けていた。
一体トーレさんが私に何のようなのだろう、そんな疑問が一瞬私の脳裏を過ぎる。
トーレさんとは昨日会って話したばかりだし、今日になって早急に話さなければならなくなるような言い漏らしが起こるほど密度の濃い話をした訳でもない。
考えられる事といえば精々拳銃を扱う上での心構えとか下手に見せびらかさないようにしろという念押しとかそういう事も考えられなくはないが、トーレさんの性格から考えてそういうようなことを態々電話で伝えてくるような事はしてはこないだろう。
では一体何の用があってトーレさんは私に電話をしてきているのだろう、私は一週廻って元に戻ってきた疑問について再度思考し……そして其処でようやく気が付いた。

目の前で報道された事件、そしてその報道が終わった直後に電話を掛けてくるという絶妙なタイミング……総合すればその答えを導き出すのは実に容易かった。
この件とジュエルシードの関連性、そして人知れずその事件が解決されたかもしれないという現状について。
そんな単語が刹那的に頭の中を駆け巡り、はっと気が付いた時には私は携帯電話の着信ボタンを押してそれをそのまま耳元へと寄せていた。
もしもジュエルシードや魔法の事がトーレさんにバレているのだとしたら、そんな今まで感じていた物とは別の不安が私の身体を自然に突き動かしたのだ。
そうなのだとすれば当然何かしら弁解をしなくちゃならなくなるし、そうでなかったのだとしても十中八九間違いなくこの件に関することを言ってくるはず。
前者にせよ後者にせよ、どちらにしても逃げてばかりはいられない……私はあらためて自分の気持ちを入れなおし、もう一度だけ短い溜息を吐くと何時もよりも数段トーンの低い静かな声で「もしもし、高町ですが……」と言葉を切り出すのだった。

『あぁ、君か? 今、電話しても大丈夫かな?』

「えっ、あぁ……大丈夫です。今日はちょっと体調を崩してしまって、学校を休んでいるので。けほッ、けほッ……もう大分よくはなったんですけど、まだ少し熱っぽくて……そんな状態でも構わないのなら全然大丈夫ですよ」

『むっ、そうか……身体を大事にな。それはそうと、ならば都合がいい。実は君に聞いて欲しい事が出来た。本当ならば今すぐにでも君の元に行って直接話したいが……事が事だけにそういう訳にもいかなくなった。今は家に居るのか?』

「あっ……はい、そうです。ちょっと今の状態じゃ起き上がる気力も無くて、今もベットの上です。にゃはは……情けない限りですけど」

もう八割以上嘘で塗り固められた”気弱で臆病な高町なのは“を演じながら、私はトーレさんの口調から彼女がどのような精神状態にあるのかという事を分析し始める。
トーレさんの声に怒気は無い、疑いを孕んだ違和感も此方の様子を窺ってこようとするねっとりした感覚も彼女から発せられた言葉には含まれていなかった。
どうやら私が魔法を使った事だとかジュエルシードを複数個所有している事だとかそういうのがバレて追求する為に電話を掛けてきたという訳ではないらしい。
一先ずそれを悟った途端、私はホッと胸を撫で下ろして自分の胸の内に蔓延っていた不安の一部を忘却の彼方へと追いやった。

まだ完全に何もかも安心出来たという訳ではない。
でも、とりあえずこれ以上敵を増やして自ら厄介ごとを招き入れるような事だけは避けることが出来た……正直今はこれだけでも十分だった。
まだ最悪中の最悪の線は踏み越えてはいない、だったらまだ口八丁で如何にかできるかもしれないという希望が持てる訳だ。
今までそうやって潜り抜けてきたのだし、此方にはまだアリシアとジュエルシードという切り札だって残されている。
今はただ何時もの自分を何時ものように装っていればいい、私は改めて自分にそう言い聞かせると頭の中に浮かんだ記憶の何もかもを一時的に忘れ、もう一度口調と態度を修正しながらトーレさんの言葉に耳を傾けるのだった。

『ならばいい、もしも外に出ていたのなら早急に戻って貰う手筈だったからな。病人に鞭を打つような事が無くて幸いだ。……さて、本題に入ろう。実は先ほどテレビの速報でとある事件が伝えられた。山狩りにいったまま行方不明になっていた男が四人、全員無残な死体となって発見されたのだそうだ』

「そっ、そうなんですか!? でもっ、あの化け物はトーレさんが倒した筈じゃ……?」

『まあ確かに君を襲った暴走体だけは、な。今回の事はそれとは別件だ。何せジュエルシードは君や私の持つ物を合わせても全部で二十一個もある。今回の事だって凡そ他の現住生物が何らかの形でジュエルシードを取り込んでしまい、その結果暴走してしまい犠牲者を出してしまったというだけに過ぎんのだろうさ。だが、それだけならばまだ良かった。他の人間がこの件に深く関わる前に私が直接出向いていって暴走体をしとめれば言いだけの話だからな。今日連絡を入れたのは其処の所に”狂い“が生じ始めたからなんだ。この意味が何だか分かるか?』

「狂い、ですか……? う~ん、よく分からないです。一体どういうことなんですか?」

自分でも業とらしいと思ってしまうような可愛い子ぶった口調でトーレさんに返答すると、それを今まで黙って聞いていたアリシアが「何かキャラ違うよね……?」と私の気持ちをそのまま言葉にしてくれたかのようにポツリと漏らしてきた。
私だってこんなぶりっ子みたいなキャラが似合っているとは思っていないし、そもそもトーレさんの言った言葉が本当に分かっていないという訳じゃない。
こういう意味深なスラングを交えての言葉のやり取りって言うのは案外漫画やアニメでは豊富に使われているから慣れているといえば慣れているし、第一先生との話している時なんか何時もこんな風だから何でもかんでも一々説明を求める必要性も無いと言ってしまっても全然構わないだろう。

だが、それはあくまでも何時もの私がまともな精神状態の時に自分の意見に100%の確信を持っているというのが大前提の話だ。
今回のような何時どんな風に言葉を切り返されてボロが出るかも分からないような状況では下手に自分を過信するよりも、相手が作る話の流れに乗って自発的に相手に喋らせてしまっておいた方が安全性は高い。
それにトーレさんから見れば私は単なる小学三年生の女の子である”気弱で臆病な高町なのは”でしかないのだ。
こういう時に下手に出しゃばって相手に変な印象を持たれるよりも最初に持たれた印象を崩さないようにキャラを作っておいた方が一貫性があって疑われにくい。
其処まで計算してより相手に違和感をもたれないようにする為の演技、それが今先ほど私が取った行動の全てだった。
そしてトーレさんもそんな私の演技をものの見事に信じてくれたようで、『実はな……』という切り出しから事の真相をしっかりと私に聞かせてくれたのだった。

『今回の件に関してなんだが、もう既に解決してしまっているんだよ。しかも、まことに遺憾な事ながら私のあずかり知れない所でな。こう言えば、君にも理解しやすいかな?』

「あの、それってまさか……」

『私たち以外の”外部の人間“が行動を開始した。はっきり言ってしまえばそういう事になる。それもまるで私がこの街からいなくなるタイミングを見計らったように、な。正直な処私も不気味な事この上ないのだが、十中八九この件にけりを付けた人間は私たちの動向を監視していると考えてしまってもいいだろう。つまり、君の所在についても暴かれてしまっている可能性が高いということだ』

「ひッ……!? そ、そんな……」

口では怯えたような声を漏らしながらも私は顔色を一切変えぬまま、額を手で押さえ、こっちもこっちでいらない誤解を招いてしまったという後悔の念が胸の内に湧き上がってくるのを必死で押さえ込んでいた。
多少マシになりかけていた胃の痛みが急にぶり返し、先ほどから感じていた物とはまた別の不安が頭の中をぐるぐると駆け廻って来る。
もしかして私は余計な事をして事態を混乱させてしまっただけのではないか、そんな言葉が不意に私の脳裏を過る。
何せ私自身トーレさんやそれ以外の人間のように何か特別な目的があってジュエルシードを集めているという訳ではないし、これからもその力を如何こうしようなんていうような風にも思ってはいない。
私はただ自分が望むちっぽけな幸せを噛み締めていたいだけ、それ以上は何も望まないし、それが脅かされるような事が起きて欲しくないだけなのだ。

だが、如何考えても今回私が引き起こしてしまった事は事態を混乱させるばかり……それどころかより状況を悪化させてさえいる。
そんな心算は全然無かった、ただ私はアリシアに言われるがままに危険物を回収しただけに過ぎない。
にも拘らず事態は最悪な方向に流れを変えつつある。
しかも、まるで警察が家にまで押しかけてきたら如何しようとか、下手に騒ぎが大きくなってスポットライトが私に向けられたりして余慶にイジメが酷くなったら如何しようとかそんな事を必死になって悩んでいる私を嘲笑うかのように急速にその速度を上げ始めてもいるのだ。
八方塞な上に手を打つことも出来ず、おまけに追い討ちまで掛けられてしまっている……正直私は今すぐにでもベットの下に置いてある胃薬の錠剤を鷲掴みにしてそのまま流し込みたい気分だった。

だけどまだ何かもかも終わったという訳ではない。
私はそんな風な言葉を頭に浮かべ、なるべくネガティブな方向に思考が向かないように今の現状にそんな小さな希望を抱きながら再び頭の中で今後私は如何動けばいいのかという事を改めて考え始める。
確かに現状は最悪だ、寧ろこの状況を最悪以外の言葉以外にどう表現すればいいのか私には見当も付かない。
下手をすれば数日中にも生存者だからとかいう理由で警察の人間が家に訪ねて来るかもしれないし、その時にこの荒んだ家の状況が知られる事にでもなったらそれこそ面倒な事になる。
加えて今更本当の事を正直に言おうにもこんな緊迫した雰囲気じゃとても言い出せないし、かと言って偶然を装って発見出来るほどジュエルシードだった軟な存在ではない筈だ。
前者にしろ後者にしろ私が何とか上手く立ち回って誤魔化し通すしか道は残されてはいない、ならば……私が今取るべき行動も一つだ。
そんな風な考えを浮かべたまま私はゆっくりと息を吸い、そのまま胸の内に溜まった鬱憤と共に即座にそれを吐き捨てる。
冷静にならなければいけない、冷静にならなければ唯でさえボロが出やすい演技に亀裂を生む事にもなりかねない。
しかも相手はあのトーレさんだ、一度私の本性が見破られてしまえば其処を突かれて暴かれる事だって十分にありえると言っていい。
完璧に役になりきらなければ、私は自分の中に芽生えたそんな意識を即座に頭の中にめぐらせ意識を集中させると、今時分が演じなければいけない”役柄“についての情報を自らの動作や口調に完璧にトレースさせ、そのままゆっくりと携帯電話に向かって言葉を紡ぎ始めるのだった。

「わっ、私の家が……他の魔法使いさんに!? そんなっ、でもどうしたら……。うっ、けほっ……」

『大丈夫か? 風邪を拗らせてしまっているのならあまり無理はしないほうがいい。まぁ……無理も無い話しだが、な。此方としても何とかして君や君の家族、友人に危害が及ばないよう立ち回りたいんだが……如何せん相手の情報が全然足りん。それに相手の素性が分からん以上、下手に君と接触をして気に触れさせでもしたらそれこそ事だ。今後は君との接触も今以上に慎重な物にならざるを得なくなるだろう。……すまんな、君にまた余計な重荷を背負わせてしまう事になってしまった。本当に、すまない』

「そっ、そ、それじゃあ……つっ、つまり私が自分で身を護らなくちゃいけなくなるって事ですか? あ、あの拳銃で……うぅっ、ゴホッゴホッ!」

『無理をするな、余計に具合が悪くなるぞ。ッ……この話を君にするには少々タイミングが悪かったみたいだな。とりあえず今はゆっくり養生して風邪を治すことに専念してくれ。護るべき自分の身体に鞭を入れるのでは元も子もないからな。ともあれ、今後は君の予想する通り一人で自分の身を護って貰う事になる。極力私も捜査範囲を広げる等して君に負担が掛からないようにはするが、今このタイミングで彼奴が動き出した事を考えるとその矛先が君に向かう可能性は非常に高い。十中八九間違いなく、アプローチくらいはかけてくるかもな……。君はとりあえずこの前渡した拳銃とジュエルシードを常に携帯してもしもの時に備えておいてくれ。風邪が二、三日続くようなら怪しまれないように枕の下にでも隠したりしてな』

何だか何処かのB級映画の演出みたいなアドバイスを語りかけてくるトーレさんに私はこんなに良い人を騙してしまっているんだという深い罪悪感を感じながら、業と具合の悪そうな口調を装いつつ「そうしてみます……」と力なく応えた。
本当は私だってこんな事はしたくは無い、嘘が得意なのと嘘吐きなのでは全然意味合いが異なるのだ。
例えそれが偽りなのだとしてもあたかも本当の事のように相手に信じ込ませる事が出来るのが前者、どれだけ嘘を重ねてもそれを悪い事であると認識せず、責任を丸投げしてしまうのが後者だ。
そしてそのどちらかに私自身が身を置く事になるのだとすれば、私は間違いなく自分は前者であると言い切ることが出来る。
何故なら私だって別に人を騙す事に何の感慨も抱かないような非情な人間ではないからだ。
騙して、裏切って、見捨てて……そうやって遠ざかられていった人間が最終的にどうなってしまうのか私は身をもって知っている。
泣いても喚いても解放されず、震えても怯えても永劫許される事は無い。
他人から蔑まれて一人になるっていう恐怖がどれほどの物なのか、それが分かっているからこそ私は私を平然と裏切っていった連中と同じような風になりたくは無いのだ。

基本的に私の周りの人間は俄然後者の人間が多かった、人一人を陥れるにしても何の罪悪感も抱かなければ何の感慨も抱きはしない。
さもそれが当り前な様に人を嬲り、そして笑いながら泣いて赦しを請おうともそれを平然と足蹴にする。
そんな人間に塗れて地獄の釜底みたいな立場に身を落としたからこそ、私はそいつ等と同じような心情のままトーレさんを裏切りたくは無かったのだ。
これがただの感傷だってことも、独り善がりの偽善的な想いだって言うのも重々承知してはいる。
でも、本当に嘘を吐く事に何の罪悪感も抱く事が無くなったのならば私は本当の意味で最低最悪の糞野郎になり下がってしまう。
確かにこの身は遠の昔に信用を失い尽くした穢れ物だ。
だけどまだ私が罪の意識を感じている以上は最後の一線を踏み越えてはいない。
何時か謝る機会が訪れるのならその時はちゃんと誠意を持って謝る事にしよう、私は胸の内にもやもやと湧き上がってくる罪悪感にそうけりを付けると再び病人を装いつつ、受話器から洩れるトーレさんの言葉に耳を傾けるのだった。

『では、あまり長く電話していると君の身体に障るかもしれんから私はこれで。っと……あぁ、そうそう。先ほど警察の方から連絡があってな、是非私と君にあの“野犬”の目撃証言を聞かせて欲しいとの事なんだが……どうする? 上手く口裏を合わせられるか?』

「あっ、あの……私、人に嘘をつくのとかそういうのは苦手で……。そっ、それにまだちょっとあの事は思い出すだけで怖いんです……。御免なさい。私、役に立てそうも無いです……けほッ、けほッ! 本当に、御免なさい」

『あぁ、いや別に気に病む事は無い。元々病院の方でも君の精神的な面を考えてなるべくトラウマを刺激する様な事は避けてくれと言われていたみたいだし、私もそれ程乗り気ではない話だったからな。私一人で何とか誤魔化し通してみるさ。とりあえずこれ以上君に気苦労を掛けんようこちらも尽力する、だから君も早く体調を戻すようにな』

「はい、お気遣いありがとう御座います。よろしくお願いしますね、トーレさん」

切り際に「任せておけ」という心強いお言葉を頂戴した私は、そのまま恭しく別れの句を述べて彼女との会話を打ち切った。
状況は最悪から可もなく不可も無くといった状態に移行してくれた。
どうやら私の悪運もまだまだ捨てた物ではないみたいだ、私は全身の力がドッと抜けていくのを全身で感じながら現在の状況をそんな風に評価するのだった。
病院が圧力を掛けてくれるなら少なくとも当分は警察の手も私には伸びてはこないだろうし、“気弱で臆病な高町なのは”を継続していけばいざ事情聴取をされたとしても誤魔化し通せる可能性もある。
希望はまだ断たれてはいない、それが分かっただけでも今の私にとっては十分過ぎる成果だと言う事が出来た。

しかし、まだ安心する事は出来ない。
此処で気を抜いてしまえば其処に付け込まれてボロを出してしまう可能性だって否めないのだし、そもそもジュエルシードはこちらの手元にあるのだから問題としては何も解決してはいないのだ。
確かにこれで国家権力に怯える事にはならなくて済んだけど、一つが解決しただけで事が抜本から解決される訳ではない。
今後慎重に物事を考えて、迂闊な行動を取らないよう心がけなければまたすぐにでも状況は元に逆戻りしてしまう。
ようやく射し込み始めた光を態々自分から閉ざす様な真似だけは絶対に避けなければ、私は安堵して気の抜けた自分にそう言い聞かせると、その為にはどのような行動を取ればいいのかという事を一人思案し始めながら肺に突っ掛かっていた息を鬱憤と一緒に纏めて宙へと吐き捨てるのだった。

「はぁ……前途多難だよぉ。一つが終わったかと思えば、次の面倒事が目白押しだもん。いい加減誰かに気を使いながら嘘吐くのも疲れてきたよ、ったく。いっそ……これが全部幻って事にしてチャラに出来るなら楽なんだろうけどねぇ」

『お疲れ様、なのはお姉ちゃん。でもよかったじゃない、何も進展が無かったって訳じゃなかったんだからさ。努力に見合った対価位には状況も前を向いてくれてるってことだよ。このチャンスを逃さない様に今は現実から顔を背けちゃ駄目。どう抗っても起こしちゃった事は取り返しが付かない訳だから、ね?』

「あのさぁ……アリシア自身は良い事言ってるつもりなのかもしれないけど、人を巻き込んだ張本人が言う台詞じゃないよ、それは。相手に演技を信じさせるっていうのも案外気を使うもんなんだよ、実際? バレないかどうかなんて何時も五分五分だし、冷や汗ダラダラ垂れてくるし……碌なもんじゃないよ。あぁ、疲れた。昨日といい、今日といい何でこうもかったるい事が次々と舞い込んでくるのかなぁ?」

『ある意味、なのはお姉ちゃんが自ら進んで招いた結果なのかもしれないけどね。まぁ、何にしても……全てはこれからだよ。ほぉら、気分も一新した処でまずは腹ごしらえだよ。お腹が減ってちゃあ、働く物も働かなくなっちゃうしね。今はただしなくちゃいけない事だけに頭を回せばいいんだよ、なのはお姉ちゃん』

気軽に言ってくれるよ、私は心の中でそんな風に悪態をつきながら手の内の携帯電話をベットの方へと放り出してその場に立ちあがる。
確かに今起こっている事の全てが夢や幻として片付けられるならこの上なく楽なのだろうし、出来うる事なら私だって投げ出してしまいたいのは山々だった。
でも此処でこうして悩んで自体を解決しなければならないと思い立つ自分自身がいる以上は今の状況を現実とは非なる物として否定する事は出来ないし、投げ出した処で何の解決にもなりはしないのだ。

我思う、故に我あり。
此処にいる自分が確かな物と断じられてしまうのならば、私もそれ相応に頭を働かせなければいけない。
何故ならそれだけが私自身を救う唯一の道であり、この状況を良い方向に導く為の一番の近道なのだから。
ともあれ、今は緊張も解けた所為か妙にお腹の空腹感が強くなってしまっている。
今はただ自分の為すべき事を成す為の下準備に徹する他ない。
私は込み上げてくる想いにひとまずそんな結論を付け、まずは事を始める一番最初のステップとして身体に染み付いた臭いを落とす為にお風呂場へと歩を進めるのだった。
もしかしたら今後は昔以上に胃薬が必要になって来るのかもしれない、そんな予感に少しだけ怖気を感じながら。



[15606] 空っぽおもちゃ箱⑤「枯れ果てた男」#クロノ視点
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/04/19 22:28
この世は何時だってこんな筈じゃなかった事に満ち溢れている。
不意に僕ことクロノ・ハラオウンは自分の歩んできた人生を振り返り、その歩みの過程と今の自分の現状にそう評価を下した。
父親が死した英雄という事もあってか周りの人間からはまるで悲劇の主人公のように祭り上げられ、そんな自分自身に何の疑問も抱かぬまま所謂エリート街道という奴を直向きに進んでいた自分。
本来ならば所属している組織でもそれなりの役職に就けていたはずの順風満帆な人生に向かって歩を進めていた自分が確かに自分の歩んできた道の過程の中には存在していた。
昼も夜も訓練に打ち込み、暇があれば一つでも多くの知識を脳に刻み、無愛想と周りから評されながらも幼い頃から僕は頑張り続けてきた。
辛くはあった、時々投げ出してしまいたくもなったし……あまり大きな声では言えないが交友関係が狭い自分自身にコンプレックスを抱える事だって少なくは無かった。

でも僕はそんなネガティブな要因を全て無視して努力し続け、その甲斐もあってか僕は自分が望む役職に一旦は身を置く事が出来た。
それは自分にとっても悲願であった事だし、周りの人間も止むことの無い称賛で僕を褒め称えてくれた。
厳しく自分を指導してくれた師も、忙しい身の上ながらもちゃんと僕を見てくれた母も、挫けそうになった時に励ましてくれた幼馴染も皆が皆自分の事のように僕の成功を手放して喜んでくれたのだ。
今まで努力しても誰からも評価されず、報われない日々を送ってきた僕にとってそれは凄く嬉しいことだった。
そして、その時には確かにそんな人達の為にも失望させないよう一層努力しなければいけないと思い立つ自分が確かに存在していた。
此処がゴールではなく、これからそんな人達の期待を一身に背負いながら生きていかねばならないという始まりなのだと期待に胸を膨らませていた自分が確かにいた筈なのだ。

だが、今の自分にはそんな期待も感慨も何もかも存在してはいない。
傍から見れば抜け殻のよう、自分で己を客観視してみても嘗てクロノ・ハラオウンであった人間の残骸か良くてホームレスというような風貌の人間が息衝いているだけな様にしか見えはしない。
そう……そんな順風満帆な人生を送っていた筈の男は己の限界という名の深い溝に嵌り、其処で躓いてしまったのだ。
仕事中にミスを犯し、死ななくても良かった人間の命を犠牲にし、挙句の果てには上の人間の再三の注意にも耳を傾けずに自分が正しいと信じた道を貫こうと抗ったその結果の果てとして。
散々苦しんだし、周りの人間の救いの手も見えなくなってしまうほど自暴自棄にもなった。
知り合いのコネクションで首の皮一枚の所でぶら下っていなければ今日の飯の種も稼げないほどに堕落して、堕ちる処まで堕ちもした。
そして結果僕は自分の身を滅ぼしかけた、もう完全に何もかも終わりだという一歩手前まで足を踏み外しかけた。
それが丁度今から二年半前、僕が進むはずだった未来への道を閉ざしてしまうきっかけが起こってしまったほんの少し後の事だ。
其処で僕は今まで得てきた全ての物を失い尽くし、そして今まで自分が得ることの出来なかった”鍵“を手にしたのだった。
これは今より少し前の過去から始まり、ある一人の男の哀れで滑稽な昔話。
自分自身の存在に酔い、慢心する自分を慢心とも捉える事の出来なかったクロノ・ハラオウンという名の残骸の聞くにも耐えない昔話だ……。

「……一雨、来そうだな……」

今から丁度一年と少し前、まだ僕が今の役職につく前のことになる。
第三管理世界ヴァイゼンの首都、人通りの少ない裏通りにある小さくて寂れきった酒場の前に僕はいた。
クロノ・ハーヴェイと名を偽り、人生の転機を迎えてからもう一年も経過していたある日の事だ。
僕は何時ものように酒場の前に置いてある骨董品の椅子に腰を降ろし、まるで溝川の腐ったような濁りきった瞳で今にも雨が降り出しそうな鈍色の空を見上げていた。
手の内には組織に所属していた時と同じ待機状態のデバイスが力なく握られ、足元には碌に飲めもしないスコッチの入った携帯酒瓶が店の窓から漏れる光に反射して鈍い光を放っている。
だけどそのどれもに生気は篭っていない、勿論そんな物達の所有者である僕自身にも昔のような覇気は一切感じられない。
言うならば犯罪者予備軍、自分の都合のいい様に解釈した所で犯罪者を護る警備員といった所だろうか。
当然の事ながらに非合法、しかし明確な経歴も不明で既になけなしの貯金も使い果たしていた僕につける仕事なんて所詮はこの程度が関の山。
生き恥を晒してちょっとでも自虐的にならなければまともな精神状態を保っていられないほど僕の精神は病んでしまっているのだと言ってしまってもよかったのかもしれない。
まあ何にせよ、この当時の僕がこんな……極道物が密かに集まる集会場を警護するなんて仕事についてしまっていた以上、僕がどうしようもない屑だったという事には変わりは無いのだが。

一見しただけではとても人の寄り付きそうに無い草臥れた酒場でも、お天道様を見上げて生きていく事の出来ない人間にとっては絶好の隠れ蓑となる。
実際、その酒場には実に様々な犯罪者が足を運んでいた。
娼婦、麻薬中毒者、非合法の傭兵、殺し屋、質量兵器の転売人……まあ凡そ僕の所属していた”時空管理局”という組織の中で悪と断定されるような人間なら一通り僕の横を通り過ぎてこの酒場の門を潜っていったと断定してしまってもいいだろう。
そして、そんな人間達が取引をする場所を護り、昔の同僚や他の犯罪組織からの鉄砲玉をなぎ払うのが僕の仕事だった。
まあ本当の所を言うと運がいいのか悪いのか実際はデバイスや魔法を駆使して職務を全うするなんていうような事は起きなかったのだが、それでも何度か警邏に来ていた人間を口八丁で誤魔化して騙したことはある。
本来僕が正しく道を進んでいたのならば共に道を同じくする筈だった人間を、取り締まる筈だった人間を守る為に何度も何度も僕は騙し通したんだ。
結果僕はそれなりにこの店の店主からも信頼され、それなりの額を貰って着の身着のままな生活を続行するだけの余裕を得ることが出来た。
昔は正義やら善行やらにうつつを抜かし、犯罪者から市民を護る正しい人であろうとしたこの僕が今や犯罪者に養われなければその日を生きていくことすら出来ないという事には皮肉を感じたりもした……だが、不思議と屈辱は感じなかった。
自分が犯してきた罪に比べれば如何って事は無い、寧ろこの程度で少しでも贖罪と為り得てくれるのならそれもいいと思っていたくらいだ。
もう僕に戻るべき道は残されてはいない、そう思うが故に僕は何処までもその身を窶す事が出来たのだった。

もうこのままいっそ犯罪者の波に飲まれて最悪な人生を全うするのもそう悪くない話なのかもしれない。
僕が人生二度目の転機を向かえたのはそんな事を真面目に考え始めようとしていた時の事だった。
静かなエンジン音が僕の鼓膜を振動し、やがてキッという締りの良い音と共に一大の車が店の前に停車したからだ。
ふと視線を前へ向けてみると、其処には見覚えのある一台の自動車が停まっていた。
時空管理局の公用車、それも重鎮やその身内等が主な使用対象となるVIP仕様のものだ。
凡そこの草臥れた人通りの無い街並みには不釣合い、そればかりかあまりのアンバランスさに眩暈すら起しそうになる。
この腐りきった犯罪者の巣窟に一体何のようなのだろうか、僕はそんな風に不審に思いながらも手の内のデバイスを車の方へと向けて……そのまま力なくそれを降ろした。
停車した車のドアがゆっくりと開かれ、其処から見知った人物が一人降り出して来たからだ。
その人物は凛々しい目つきをこれでもかという位に歪め、まるで塵屑でも見るような視線で僕を見下しながらゆっくりと此方へ歩を進めてきた。
もうあれから一年も経っている、にも拘らずその人物の風貌やら何やらはまったく変わってはいない。
まるで過去から逃げた僕を追うように投げ捨てた筈の物が追ってきたみたいだ。
僕はあまりにも変化が無いその人物と今の自分とのギャップの差に思わず苦笑いを浮かべながら足元の携帯酒瓶を拾い上げつつ、皮肉めいた言葉をそっと吐き捨てるのだった。

「ふっ……管理局の公用車は随分と音が静かなんだな。ここらを通る安物のソレとは大違いだ」

そんな風に漏らしながら僕は手の内の携帯酒瓶の蓋を何度か捻って開けると、ソレを口元へと持っていって少しずつ傾けていく。
濃厚なアルコールが喉を焼き、フルーティな味わいが口いっぱいに広がっていく。
今も昔も酒は碌に飲めない筈の自分、だけどこうして無理にでも何かで気を紛らわさなければまともに自分自身と言う存在を認識する事すら叶わない。
何とも情けなく何とも不甲斐無い、酒に溺れる事でしか自分という存在が何なのか判別できないようではそれこそ真性の屑野郎と想われたって仕方が無いというものだろう。
そして現にその人物は……彼女は僕を嘲る様に見つめ、そして湧き上がる憤怒と憎悪を必死で押さえ込んだかのような表情で黙り込んでしまっていた。
束の間の沈黙、僕にしろ彼女にしろ気軽に言葉を掛け合うにはあまりにも時が経ち過ぎていた。
言葉にしてみれば数文字という他愛も無い期間、だけど人間としての感覚で捉えるならば僕と彼女の間に生まれた時間の溝はそれこそ取り返しのつかない位に広く深い物だった。

僕が責任という重圧に負けて、局を去ってから丁度一年。
自分のような人間とはもう一生縁も無いような上役の人間から二度とミッドチルダの地を踏むなと警告されてから丁度一年。
誰にも別れを告げず、謝る事も赦しを請う事もしないまま着の身着のままな生活にこの身を窶してから丁度一年。
普通に生活をして真っ当な人生を歩む事の出来るような人間からしてみればなんて事の無いような時間なのかもしれないけれど、僕にとっては永遠の様に永くて冥らい期間だった。
初めの内の何週間かは周りの人間の事や罪の意識で散々苦しみもした。
だけどその後に残ったのはこの先の人生をどうやって生きていけばいいのかという不安と、無くなり掛けている貯金にどうやって上を乗せ続けていこうかという苦悩だけだ。
そしてその後、僕は散々悩み抜いた末に多少非合法な面に身を堕としでもしなければまともに喰っていけないという事を悟った。
幾ら苦しくても他人を頼る事は許されない、僕に関る全ての人間の安全を確保する為にも僕は一人で生き続けなければならなかったのだ。

そしてその結果が今の自分。
もはやハラオウンと名乗る事も叶わなくなった嘗ての自分の残骸だ。
そんな僕を見て一体目の前の彼女は何を想うのだろう。
僕は携帯酒瓶を口から離し、アルコールの匂いの混じった息をフッと宙へと吐き捨てながらそんな風に思った。
失望しているのだろうか、それとも怒りを露にしているのだろうか……はたまたこんな野良犬みたいな僕を哀れんでいるのだろうか。
様々な想いと様々な憶測が頭の中に飛び交い、喉に染み付いたアルコールが潤滑油の役割を担ったかのようにがたついた僕の頭を働かせ続けていく。
だが、頭に浮かんでくるどれもこれもが確かな物ではないような気がして……僕は直ぐに考えるのを止めた。
こういう事は馬鹿みたいに自分の内で自己完結するよりも彼女の口からさっさと言いたい事を吐き出して貰えばいい、そう思ったからだ。
そしてその数秒後、僕の憶測通り彼女は自らが持てるだけの最大の皮肉と最大の蔑みをもってして僕に言葉を投げ掛けてきたのだった。

「あんた……本当にクロスケ?」

「誰に見える」

「塵屑だよ。よく云っても野良犬だね。次元航行船に配属される筈だった執務官にはとても見えない。そもそも、時空管理局に籍を置いていた人間にさえ今のあんたじゃ見えないよ」

「そうかい。まぁ、どれも間違っちゃいないな。でも、一年振りに厭味云う為だけにこんな処まで追って来たっていうのなら君だって相当な変わり者だ。人の事を塵だの屑だの言える様な立場じゃないと思うんだが? なぁ、そうだろう……ロッテ?」

携帯酒瓶に再び蓋をし直し、目の前の人間に向き直りながら僕は戯ける様に目の前の彼女に……嘗ての自分の師であるリーゼロッテにそんな風に言葉を吐き捨てた。
すると彼女は御丁寧にも「気安く呼ばないでよ」と怒気の籠った声で返事を返してきた。
どうやら随分嫌われてしまったらしい、愛称で呼ぶ事すら拒絶してくるくらいなのだから彼女の抱える怒りとやらは相当なものということなのだろう。
まぁ……無理も無い話だったのかもしれなかった。
彼女は僕がまだ幼い頃から師匠として色々と面倒を見てくれた人物だ。
そんな人の信頼をこうも真正面から、それも重ね重ね裏切る様な真似をすれば強く拒絶されるのも無理も無い話なのかもしれない。
確かにショックと言えばショックだった、でも全く想像していなかったという訳でも無い。
寧ろ下手に哀れまれる様な態度が返ってこなくて清々する位だ。
僕は一向に怒声も罵声も浴びせてこない目の前の彼女の表情を伺いつつ、何となく心の中でそう思いながら一年分溜まった鬱憤を払拭する様に宙へとため息を吐き捨てるのだった。

胸倉を掴まれて一発や二発殴られる事は覚悟の上だった。
でなければ、少なくとも僕だって犯罪者の片棒を担ぐような事に手を染めるような真似だけは何としてでも避けようとしただろう。
でも僕は現に此処でこうして最低最悪な醜態を晒してしまっている。
これはある意味世の中を甘く考えた自分自身への自虐行為だと言ってもよかった。
自分は努力し続けてきた、だからこそ報われるのだと本気で思い込んでしまっていた自分。
よくよく考えれば子供の妄言でしかない筈なのに、自らの存在を正義と思い込み独断で突っ走ってしまった自分。
そしてその結果まったく無関係な人を死に追いやってしまい、挙句の果てに周りの人間にまで危害を及ぼしかねない行動を取ってしまっていた自分。
そんな自分自身がどうしようもなく嫌になって、何だか無性に自分自身を傷付けたくなる衝動に僕は駆られてしまっていたのだ。

よく精神を落ち着かせるために手首を刃物で切ったり、頭を壁にぶつけたりするような自傷行為がメディアでも取り上げられるけれど僕が取っていた行動もまたその延長線上にあるものだといってもよかった。
自身の存在に酔い痴れ、正義は我にありと信じて疑わなかった自分がどうしようもない程醜いような気がして……そんな自分を宥めたいが為に僕は背徳的行為に手を染めてしまったいたのだ。
違法と分かっていながら酒や煙草を口にし、昔の自分からは想像も出来ないほどの自堕落な生活を送り、最終的には犯罪者の片棒を担ぐ事で金を稼ぐ毎日。
こんな事をしてはいけないとは何度も思ったし、そもそも何故こんな物に手を出してしまったのかと散々悩みもした。
でも結局僕は何一つとして止める事は出来なかった。
何故なら僕にはもうクロノ・ハラオウンという存在を穢し、蔑み、嬲る事でしか自身のアイデンティティを守る事は出来なかったのだ。
情けない話なのかもしれないが僕という人間はどうしようもなく弱い。
それこそ少し自分の信条が揺らいでしまった位で何もかもかなぐり捨てて、そのまま書置きだけ残して地方の管理世界に逃げてしまうほどに軟く、脆く、弱いのだ。
だからこそ僕は自分の嬲る存在に焦がれた。
自身が痛めつけられる事で少しでもこの気持ちが楽になるのなら少しでも多くの痛みに僕は塗れていたかった。
そしてもしも目の前の彼女が……どういう訳かこんな自分を態々探し出し、訪ねてさえ来たリーゼロッテという存在が僕に苦痛を齎すというのなら僕は甘んじる事無く、その痛みを受け入れてしまいたかった。
それで少しでも彼女や僕を想っていてくれた人の気が晴れるなら……僕の心情は既に決まっていた。

でもリーゼロッテは何時まで経っても拳を振り上げる事はおろか、罵倒の一つを浴びせようともしては来なかった。
代わりに送られてくるのは一目で侮蔑と分かる冷え切った視線と、抑制しきれずに漏れ出した身に余るほどの憤怒と憎悪。
凡そ自分が可愛がった分と同じか、それ以上のものを彼女は胸の内に込上げさせていたのだろう。
沈黙が再び僕達の間に流れ、お互いの心臓の音すらも聞こえてきそうな程の静寂がお互いの存在を包み込む。
僕から彼女に何か言葉を投げ掛ける心算は無い。
どうせ今更何を言った処で言い訳にしかならないだろうから。
だけど彼女は僕に山ほど言いたい事があった筈だ。
侮蔑、罵倒、説教、悪口、戯言……おはようからお休みまで喋り続けても喋りきれないほどの鬱憤が彼女の胸の内には込上げていただろうから。
しかし、どうしてもお互い言葉を掛け合うことは無い……今更何を話したところでお互いがお互い時間の浪費にしかならないという事をよく熟知していたからだ。
そして此処でようやく永劫に続くかと想われた沈黙が晴れ、リーゼロッテが行動を起した。
僕の足元から凡そ数センチ横、少し身を屈めれば取れるような位置に見慣れない茶色の封筒を投げ寄越したのだ。
突然の事に眉間に皺を寄せ困惑する僕、そんな僕の態度を気にも留めないといった風に「取れ」と命令口調で言い放つ彼女。
如何あっても拾うほか無いらしい、僕は彼女の態度からそんな風に頭の中で自身が取るべき行動を定め、携帯酒瓶を地面へと置くのと入れ替わりでその茶封筒を拾い上げるながら説明を求める為に彼女へと視線を投げ掛ける。
すると彼女は律儀にもそんな僕の態度を察してなのか、まだ口にも出していないのに淡々とその茶封筒の詳細を僕へと語りかけてくれたのだった。

「お父様からだよ。どういう訳かは知らないけれど、突然あんたの事を思い出して救済する気になったみたい。あんたの母さんからの推薦状も入ってる。機密文章閲覧用C級IDと単独行動及び単独捜査の許可証、それに失効した執務官としての免許は数日中に何とかするってさ」

「……二人は僕の事をどう言ってるって? 末代までの面汚しだって嘆いていたかい?」

「さぁて、ね。二人ともお忙しい身の上だ。少なくとも理由も言わず局を退職して一年も行方晦ませていた暇人を想うような余裕はないはずさね。それに、あんたにそんな事を話す義理が私にあるとは思えないんだけど」

「はっ、違いない。でもまぁ……その口振りなら元気そうだな。とりあえず当面は安心できるって解釈しとくよ」

そう思うなら勝手にそう思っていればいい、彼女から返ってきた言葉は存外冷たいものだった。
その言葉には一切感情が込められていなかった、ただただ冷淡に事実だけを彼女の言葉は僕へと紡ぎ続けるだけ。
あの感情の凹凸が人一倍激しかったリーゼロッテとは思えない程の変貌振りだ、僕は自分自身の事を完全に棚上げして素直にそんな風に感心していた。
時の流れは人を大きく変えるとよく言うが、まさか此処まで人格から雰囲気に至るまで激的に変化するとは流石の僕も思っても見なかった。
まあそれは彼女からしてみれば当然僕にも言えることで、寧ろ身姿から風貌に至るまで180°代わってしまった僕の方がその評価に当て嵌められるのが適当なのかもしれないのだけれど。
まあともあれ、これで漸く彼女が何でこんな辺鄙で寂れた場所に足を運んでまで僕の元を訪ねて来たのか理解することが出来た。
今はとりあえず目の前で彼女の口から伝えられた事だけに頭を回すことにしよう、僕は彼女から渡された茶封筒を小脇に抱え、二、三度首を捻って骨を鳴らしながらゆっくりと自分の意識を濁りきった思考の沼へと沈めていくのだった。

簡単に今の現状を評するならばリーゼロッテは僕に局に戻って来いと言ってきている、と解釈するのが適切なのだろう。
まあ正確に言えば彼女が、では無く彼女のバックに付いている人間がという事になるんだろうが……正直言って僕にとってはそんな些細な事はどうでもよかった。
何せどちらにせよ、勘潜った所で今更こんな僕に局に戻って来いという奇妙な御達しの内容に変化があると言う訳でも無いからだ。
彼女の言う通り、何故今頃になって彼らがこんな僕を救おうと思ったのか僕には分からない。
彼らの情報網をもってすれば今の僕がどんな状態なのかなんて事くらい直ぐに解った筈だし、それを踏まえた上で僕を改めて引っ張るメリットが何処にも見当たらないからだ。
何も事情を語ること無く「一身上の都合」だけで退職理由を済ませただけでは飽き足らず、更には犯罪者御用達の酒場に抱えられているような身の上だ。
逮捕するなり、取調べをするなりの理由には十分なのだとしても態々自分の恥を晒してまで庇われるような価値なんて僕には無い筈だ。
だからこそ分からない、彼らが一体何の為に自分を拾い上げようとしてくれているのか理解する事が出来ない。
それこそ不気味さで背筋に冷たいものが走るほどに……僕は手の内の茶封筒を弄びつつ、そんな事を頭の中で考えながら不可思議な現状に頭を悩ませ続けるのだった。

そもそも、今更そんな事を言われたところで僕は局に戻る気なんて微塵も無かった。
実際この身はお世辞にも真っ当と言えたような品物ではないし、その上叩けば埃が出てきてしまうほどに穢れてしまっている。
加えて僕は事実上ミッドチルダを追放させられた身だ。
あくまでも法的な手続きや圧力によって執られた処置ではなく、一個人から言い渡されただけに過ぎないのだが……戻れば僕ではなく僕の周りの人間に危害が及ぶ。
そして僕に戻ってくるなと言ってきた人物は赤子の手を捻るよりも簡単に僕の姿を見つけられ、尚且つ迅速にその報復を加えられるだけの実力を有している。
一個人でどうこう出来る様な相手でない以上、僕は僕自身と周りの人間を守る為にその言いつけを護らなければならないのだ。

それに今更どの面を提げて良いのかさえ、僕には見当もつかなかった。
この際だから母さんやグレアム提督の事は置いておくとしよう。
目の前にいるリーゼロッテやもう一人の師匠分が抑えきれないほどの怒りを抱えているであろう事や、今まで自分を支えてくれた人達の期待を丸侭全て裏切ってしまったという事も今更どうしようもないのだから仕方が無いと諦められる。
だが、ミッドチルダにはこの命を投げ捨ててでも護りたい命がある。
色々と倒錯もあったし、腐れ縁だと割り切ろうとした事だって一度や二度の事ではない。
ましてやその人物と……自分の姉貴分であった”彼女“と恋仲と呼ばれてもおかしくないような関係に発展するなんて僕自身今でも信じられない位だ。
だけどその結末は如何あれ僕は確かに彼女を好いていたし、未練がましい事この上なくはあるが今でもその気持ちは揺らいではいない。
この命に代えてでも護りたかった”彼女”という存在……そんな彼女に今のこんな自分を晒す事だけは僕にはどうしても出来なかったのだ。
見捨てられても蔑まれても文句の言えない立場にあるというのに、何とも勝手な話だと自分自身でも思った。
でも、怖かった……唯一最後まで自分を信じてくれた人物が自分を見放すかもしれないというその現実が僕にはどうしようもなく怖かったんだ。
一度逃げ出したこの身の上ならもう一度逃げ出してしまった所で大した変わりなど無い。
僕は再びそんなネガティブな思考で頭を満たし、もう自分は余程駄目な野郎に成り下がってしまったんだなと思いながら、ゆっくりと自分の胸中に込上げてくる思いを言葉に紡ごうとして……其処で一旦言葉を噤んだ。
なんてことは無い、僕が言葉を紡ぐよりも速くリーゼロッテの方が言葉を吐き捨ててきたのだ。
その言葉は何処までも重く、何処までも冷淡で……それでいて何処までも悲しそうな物だった事を僕はよく覚えている。
だけどこの時の僕はそんな彼女の心境も悟れぬまま、放たれた言葉を禄に考えもせずに投げ遣りな態度を取ってしまったのだった。

「……今、局では深刻なまでに人材が不足してる。それこそ、表舞台に立たずに仕事をするような派閥は民間の企業の助けを借りなきゃ碌に立ち回ることも出来ないほどにね。そこで、どういう訳かあんたの名前が浮かんできたんだよクロスケ。程よく評判が最悪で、そこそこ実力もあって……例え切って捨てたとしても大して心の痛まないクロノ・ハラオウンっていう男の名前が、ね。幸いあんたは事件のショックで永らく“休職中”だったし、物好きな連中がその背中を押してくれもしてる。何で皆してそうまであんたの肩を持つのかは知らないけど、御蔭で私がこんな悪党の吹き溜まりにまで使いっ走りだよ。ちょっとは感謝して欲しいもんさね、勿論、私を含めてね」

「別に僕が頼んだ訳じゃない。それに今の僕はクロノ・ハーヴェイだ。大層な評価を貰っておいて申し訳ないが、変に期待を掛けるって言うなら人違いで通させてもらうよ。もうごたごたした事に巻き込まれるのはうんざりなんだ。それにこんな物を貰った所で僕は……」

「そう、なら安心したよ。それなら遠慮なく私も自分の意見が云えるってもんさ。その封筒は何処へなりと捨てな、クロスケ。私は今更あんたのような人間に局に戻ってきて欲しくは無い、迷惑なんだよ。思いの他此処はアンタに似合ってるみたいだし、あんたがそうやって錆びついていく様を見るのは結構楽しいもんだしね。まったく……あのクライド君の息子とは思えないよ。冥府の川の向こう側できっと泣いてる事だろうさ」

「……そう、同感だ。僕のような糞っ垂れな野郎は間違っても法の番人に戻るべきじゃない。此処でこうやって物が腐っていくようにゆっくりと過去の自分を忘れながら、地を這い蹲ってくたばるのがお似合いだろうさ」

くくくっ、と自嘲気味に口元を吊り上げながら僕はリーゼロッテに笑い掛ける。
殴るっていうのならいっそ一思いに殴ってくれた方がこっちも気が楽になる。
だからこそ僕はこんな風に挑発的な態度を取り続け、一刻も早く彼女が苛立つ様に煽る事を止めなかった。
だけど彼女から拳が振ってくる事は無い。
それどころか、先ほどから向け続けられていた突き刺さんばかりの視線さえ彼女は僕から遠ざけてしまっていた。
もう一刻も早くこんな僕から遠ざかりたいのか、それとも直視しているのさえ嫌になったのか……はたまたその両方なのか。
僕は彼女ではないから、彼女が今どんな心境にあるのかを正確に窺い知る事は出来ない。
だけど十中八九こんな物であろうという理由を考える事なら、こんな僕にでも幾らだって出来た。
でも、頭に浮かんでくるどの考えも正直これがそうだと確信付けられるような手応えは無かった。
そのどれもが正解のようで、どうもしっくりと来ないもやもやした違和感がどうしても残ってしまう。
今更こんな事を考えた所でどうなる訳でもないのに、僕は背を向けて遠ざかっていくリーゼロッテの背中を見つめながらそんな風に思いつつも、解決のしようの無い疑問に頭を悩ませ続けるのだった。

しかしそんな僕を他所にリーゼロッテはエンジンを吹かしっぱなしのままにしてある公用車の前で一度立ち止まると、そのままそんなどうでもいいような思考が一瞬にして消し飛ぶような単語を突然口に出して呟いてきた。
それは今僕が一番聞きたくない言葉であり、一番会いたくない人物の名前でもあった。
何故突然リーゼロッテがそんな言葉を口にしたのかは分からない。
正直“解った”としても“分かり”たくはなかった。
自慢じゃないがこの地獄の最果てのような街で用心棒なんていうような職業をしていれば、嫌でも単語だけでその人物が何を言いたいのか分かるようになってくる。
例えそれが主語も動詞も無いただの単語や人名だとしても、そのたった一言だけでこの街にまた一つ新しい柘榴の花を咲かせるのだと窺い知るような機会がこの周辺には幾らでも存在していたからだ。
花代をくすねて見せしめにされる間抜け、聞きたくも無い機密をうっかり常客から聞いてしまった高級売春婦、不必要に犯罪組織のテリトリーを荒し回って粋がるチンピラ……その他エトセトラエトセトラ。
凡そこの街で人の名前が囁かれた後に断末魔が聞こえてこなかった日など無かったくらい、この町は血と暴力に満ち溢れていた。
そしてだからこそ、彼女が突然呟いた“彼女”の名前に僕は嫌な予感がしてならなかった。
当然ミッドチルダに居る筈の彼女にこの街の道理が当て嵌まる筈は無いのは分かっていたし、そもそもリーゼロッテのような正義感が人の形をして歩いている人間からの言葉に僕が考えているような事柄が含まれている筈が無いことも重々承知していた。
でも、だからこそ……そんな微塵も可能性が無いと言えるからこそ余計に不信だった。
何か途轍もないほどの嫌な予感が全身を這うような、それでいて不安という名の炎が一年振りに燈ったような感覚が身体中を駆け巡り、腐り落ちていた筈の懐疑心を胸の内に浮き彫りにさせてくる。
一体何がどうなったというのか……表情を強張らせた僕がそんな感覚に捉われながら押し黙っていると、リーゼロッテはそんな名前に続く言葉を口元から零し、まるで拒絶するように僕へと語りかけてきたのだった。

「やっぱり、その様子からしてまだ引き摺ってたんだね。落魄れたあんたの現状を知って嫌わなかったのはあの娘だけだった。実の母親でさえ呆れて物も言えなかったっていうのにねぇ……お優しい事だよ、まったく。でも、もう忘れな。これが恐らく最後の忠告になるんだろうけど……あんたにしろあの娘にしろお互い全部綺麗さっぱり忘れちまった方が互いの為さね。あんたは誰に気負う事もなく奈落の底へと落ちられるし、あの娘はあの娘で真っ当で輝かしい人生を歩んで行ける。あんたも本当にあの娘を思っているって言うのなら……自分がなにを如何選択すればいいのか分かるでしょ?」

「……彼女は今如何してる?」

「あんたの知った事じゃないさね……って言おうと思ったけど、最後の情けだと思って教えておくよ。あの娘は幸せだ。あんたよりもよっぽど速く昇進の道を着々と歩んでるよ。何でも陸の高官に随分と気に入られたらしくてね、二年か三年くらいキャリアを積めば立派なエリートの仲間入りって奴だ。あぁ……そういえば、だ。あんたの名を出してきた奴って言うのもその高官なんだよ。自分のお気に入りの局員の恋人を哀れに思ったのか如何なのかは知らないけどね。感謝すべきだよ、あんたは。まぁ……あんたにはもう何の関係も無い事だろうけどね」

「なんっ……だと……?」

リーゼロッテの言葉を聞いた途端、僕は金槌で思いっきり頭を殴られたかのような強い衝撃を頭に覚えていた。
嫌な予感っていうのは大概外れる事は無いというが、まさか此処まで的確に当たるとは思いもみなかったのだ。
陸の高官、そんな言葉が僕の頭の中で反響し、過去の記憶を呼び覚ませてくる。
それは今より丁度一年前、ミッドチルダを去らねばならなかったあの日の記憶だ。
忘れたくとも忘れられない、僕が全てを失いつくした時の……どうしようもない記憶だ。
全ての発端はあの次期陸の最高指導者に目されているとかいう胡散臭い本局の重鎮の一言から始まった。

奴は面倒を嫌っていた、そしてそれと同じくらいに僕や僕に順ずる厄介者を自分の傍から排除したくて堪らなかった。
だからこそ奴はまず多額の金を封筒に入れて僕のプライベートルームへと放り込み、当時関っていたとある事件から手を引けと要求してきたのだ。
当然非公式にしろ上からの命令にノーと答える訳にはいかなかった、だから僕は直後に掛かってきた電話の時にこう返事をしたのだ……「ノー」と。
あの時の僕は若かった、そしてそれと同じくらいどうしようもない愚か者で底なしの馬鹿だった。
誰になんと言われようとも自分に与えられた事は最後まで遣り通す、そんな正義馬鹿が一つ覚えのように唱える言葉を僕は口にしてしまったのだ。
そしてその結果、僕以外にこの件に関わっていた人間が皆死ぬ事になった。
とは言ってもその事件に関わっていた人間はそれほど多いという訳ではない。
精々民間協力者が一人に現場担当の上司が一人という極少数の犠牲だった……でも、そのどちらもが僕の顔見知りで、尚且つ毎日顔を合わせるような親密な関係を築いていた人達だった。
そう……僕は愚かにも奴の忠告を聞かなかったばかりに、一生消えないであろう人殺しという烙印をこの身に刻む事になったのだ。

そして奴は最後の最後に僕にこう言ってきた。
「今すぐにミッドチルダの地を去れ、でなければ君自身は勿論、君に関わりを持つ全ての人間に災厄が降り注ぐ事になるだろう」と。
俄には信じがたい話だったが、既に知り合いが二人も自分の選択のミスで死んでしまっている以上僕は従わざるを得なかった。
それに奴は別れ際に先ほどのリーゼロッテと同じように”彼女”の名を呟きながら去っていった。
此処で僕がまた選択を誤れば今度は”彼女“に危害が及ぶ事にもなりかねない、それを悟ってしまっていた以上僕に残された選択肢はたった一つしかなかったのだ。

だが、どうやら奴はそれだけでは飽き足らなかったようだった。
今更こんな僕に何をさせたいのかは知らないが、“彼女”を自分の傍らに置いてまで奴はこうして僕に局に戻る事を強制してきている。
これは警告だ、僕は瞬時に奴が何を考えているのかを悟っていた。
元々唯の一般局員である“彼女”を奴が目に掛ける理由なんて本来は無い訳だし、名指しで指名してきている所から見ても何か碌でもないことを企んでいる事は明白だったからだ。
何処まで僕の人生を弄べば気が済むんだ、僕が不意に自分の胸中に只ならぬ怒りが込上げてくるのを感じていた。
怒りなんて遠の昔に忘れていた感情だと思っていた。
だけど彼女と奴の顔が交互に頭の中を過ぎった時に芽生えた感情は……確かに抑えきれないほどの明確な憎悪だった。

今すぐにでも八つ裂きにしてやりたい、そんな感情が爆発したかのように頭の中を埋め尽くし、冷静な判断力を失わせてくる。
でも、此処で選択を誤れば今度こそ僕は本当の意味で何もかも失い尽くしてしまう事にもなりかねないのもまた事実……彼女の命を保障させる為には僕はどうしてもこの申し出を受けざるを得ないのだ。
悔しさと惨めさ、そして従うしか選択肢が無い自分の無力さに思わず泣きそうになる。
僕の為に尽くしてくれた彼女が、僕を支え続けてくれた彼女が、僕の事を愛し、また愛させてくれた彼女が……僕の一言で死んでしまうかもしれないのだ。
そんな重過ぎる責任をこれ以上背負うなんてとてもじゃないけれど僕には出来なかった。
だけど奴は恐らくは待ってはくれないだろう。
僕がこうやって渋って判断を遅らせているこの瞬間にも奴は”彼女“の喉元に刃を突き立てるかもしれないのだ。
判断を下すしかない、今度こそ自分が選ばなければならない道を選択するしかない。
僕は全身の毛穴から滲み出てくる冷や汗に急かされながらなるべく冷静な態度を装いつつ、今にも車に乗り込もうとしているリーゼロッテへと言葉を投げ掛けたのだった。

「なぁ、リーゼロッテ」

「んっ……なんだい? これ以上私もあんたと話してたくは無いんだけどね。まぁ、クライド君に免じて手短になら答えてあげるよ」

「……結局、この茶封筒の中身は何なんだ?」

「あぁ、なんだ。そんなことかい……。つまんない身内の手柄争いだよ。薬品漬けでお脳のイカれた研究者から、御用達の機械仕掛けのダッチワイフを奪う手柄を他の捜査官から横取りしようって仕事。真っ当な人間ならまず受け持たないような腐った任務だし、正規の連中なら半日で終わらせられる。まぁ……今のあんたじゃあ逆立ちしたって勤まらないとは思うけど、ね」

そう言い残すとリーゼロッテは最後に僕の姿を一睨みし、そのまま車に乗り込んで僕の元を去っていった。
だけど僕の気持ちが休まる事は無い、寧ろ一層ざわつくばかりだった。
自棄になって茶封筒を床へと叩きつけ、携帯酒瓶の中身を一気飲みしてみてもその気持ちは一向に晴れてはくれない。
酔えば酔うほどに苛々が募り、自暴自棄になればなるほど自分自身の存在が醜くて生きている事すら嫌になってくる。
もうこのままいっそ自殺でもしてしまえば楽になれるのだろうか、そんな風な弱気な考えが津波のように頭の中に押し寄せてくる。
だがどれだけ現実逃避をした所で従わなければ彼女が死に、最終的には取り返しのつかない事態に発展する事を考えればそんな考えに流される訳にもいかなかった。

不意に僕は空をそっと見上げてみる。
其処にはあの日と同じ生憎の鈍色の空が広がっていて、どういう因果かは知らないが……一年前のあの日を再現するように気がついた時には止め処ない土砂降りの雨が降り出してきていた。
その雨はまるで僕を嘲笑うかのように冷たく、そして無力で腐った自分を洗い流してくるかのように酷く強い物だった。
そしてそんな雨の様子を見ていると一年分溜まった穢れと疲れが不意にドッと溢れ出てきて、身体中にその重みを駆け巡らせてくるような気がした。
もう僕は今立っている此処から白の世界へ進む事も、黒の世界へ落ちる事も出来ない。
そのどちらでも無い灰色の道を延々と、それも奴の言いなりになって進むしかないのだ。
ならばせめてこの暗い雨の中では情けない自分を曝け出させてほしい。
僕はそんな風な想いを空へと募らせつつ、皺くちゃで草臥れたスーツを雨の滴で湿らせながら人気の無い街の中へとゆっくりと足を踏み出していく。
もう僕に逃げ場所なんか無い、そんな事を静かに頭の内に思い浮かべながら……。

そしてその日を境に僕は精神的なショックによる療養休職から移転という形で局へと復職し、個人捜査専門の部署へと配属される事になった。
とはいえこの個人捜査の部署というのが随分とキナ臭い処で……実質何処にも拠点を持たず、本当の意味で個人捜査をしながら月の末に支給される経費と仕事の内容の記された命令書だけを頼りに各地を転々としていくという得体の知れないものだった。
だから僕は自分の上司である人間も同僚である人間も存じてはいない、というかそもそもそんな物が存在しているかどうかさえも定かではなかった。
だけど僕は何の疑問も持たないままその仕事に没頭し続けた。
最初に言い渡された違法製造の戦闘機人の摘発に横槍を入れて製造中だった型式番号01番と02番を上層部へと引き渡したという指令以外は大して大きな仕事も無かったし、周りからの非難を浴びようとも僕にはやらねばならなかったからだ。

酒も煙草も止められず、泥沼のような環境で綱渡りのような捜査をする事でしか自身の存在の意味すら見出せない僕が最後に引いた一線……それが”彼女”の生死だ。
それが保障されるのであれば僕はどんな卑怯な事だってするし、誰からの非難だって甘んじることなく受けてめるだけの覚悟もある。
何せこの身は穢れ爛れた物だ、今更一つや二つ名前に傷が出来た所で如何という事は無い。
そうして僕はそれからの毎日を卑しく生きてきた、そして恐らくは何時までもそうして溝川の中を転げまわるように汚泥に塗れていく事になるんだろう。
これで昔話は終わる……何も楽しくは無いし、何の抑揚も無いくだらないものだ。
恐らくは誰が聞いても失笑物の転落人生だろう、まるでドラマだと笑う奴もいるかもしれない。
でもそれが実際に自分を巻き込んで展開するとなったら話は別だ。
思い出すだけで情けなくて泣けてくる、泣けてくるのに涙一つ出はしない。
落魄れて腐って蔑まれて、それでも尚転がり続ける自分の一生……我ながら酷い物とは思いつつもそれが似合いだと分かっているから。
そして此処から、ようやく僕の“今”が動き出してくれたのだと確信して止まないから……。





時は流れ、意識は現在へと回帰する。
僕はこれで何度目になるのかすら分からない任務を何時ものように承り、それを密かに解決する為にとある管理外世界の日本という国に身を寄せていた。
上から言い渡された任務の内容はなんて事は無い家出人探し。
それも遺跡発掘を主な生業としている少数民族の子供を捕まえてそれを最寄の次元航行船に引き渡すだけの単純な任務だ。
早くすれば数日中、長く見積もっても数週間時間を掛ければ直ぐにでも解決できる程度の単純なお使いだと言っても良かったのかもしれない。
幸い宛がわれたセーフハウスは充実していたし、次の指令が下るまでは自由にして良いとの事だったから僕自身もそれほど深く物を考えず、休暇ついでに小さな面倒を片付ける程度のことにしか考えてはいなかった。

だが、いざ現地に乗り込んで良いって蓋を開けてみれば保護対象だった子供は既に無残な死を遂げており、その上現地では二十一個ものロストロギアが何も知らない現地人に猛威を振るっているというとんでもない状況だった。
セーフハウスであるマンションに備えられていたテレビでは連日被害者の名前が読み上げられ、被害者は軽症を負った人間も含めれば実に七人にも上る。
しかも、運の悪いことにこの世界……元恩師の出身世界でもある第97管理外世界では魔法という文化が微塵も発展してはいないと来ているのだから事実を知った時は思わず頭を抱えそうになった程だ。
表立って捜査が出来ない上に、下手にロストロギアがこの世界のお偉方に出回りでもしたらそれこそ大問題になる。
挙句その事を上層部に伝えたら伝えたで任務の内容を死体の回収とロストロギアによって引き起こされる事件を早期的に解決しろと命令が変る始末だ。
幾ら大概のことは口を噤んで任を請け負う僕でもこれは少し度合いがきつ過ぎる、せめて応援の人間を呼んでくれなければ対処のしようが無いというが正直な僕の心情だった。

しかし、幾ら上役に取り合ってみたところでその返答は何時も決まって同じ。
「此方としても善処はしたいが回せる人材が出払ってしまっている。しばらくは其方の方で何とか上手く立ち回ってくれ」という一言だけだ。
ふざけるな、と何度返答したことかもう僕自身もよく覚えてはいない。
事態は既に捜査官一人がどうこう出来るような物じゃないし、局とは違う第二、第三の人間がロストロギアを回収する為に動いているという事も耳に入ってきている。
火事場泥棒って言うんなら僕も似たようなものなのかもしれないが、性質が悪いことにその内のどちらかは結界も張らずに魔法を行使してすらいる。
もしもこれがこの世界の報道機関に漏れでもしたらそれこそこの国、いや……この世界全体の基盤を根元から揺るがしかねない事態に発展する事だってありえない話しじゃない。
おまけに当初目標と指定されていた少数民族の少年『ユーノ・スクライア』の遺体はこの世界の民警によって回収されてしまった。
もはや遺族に死に顔を見せる事すらままならなくなってしまった、そう考えると途端に自分の無力さを思い知らされるような気がして……結局自分は昔からちっとも変ってはいないのだなという事を改めて感じさせられたのだった。

「……無様なもんだな。我ながら」

ソファーに深く腰掛け、口元で煙る紙巻の煙草を指で摘みながら僕は力なくそんな言葉を肺を満たす紫煙と共に宙へと吐き捨てた。
脂臭い煙が鼻腔を刺激し、頭がスーッと透き通っていくような感覚と共に口から吐き出した紫煙が天井へと昇っていく。
確かマイルドセブンとかいう現地メーカーのアイスブルー・スーパーライトとか言う名前の煙草だった筈だ。
管理外世界の煙草っていうのは大概期待はずれな物が多く、質が最悪で碌に火がつかないのもそう稀な話しではないのだが……この世界の物は殆ど別格だと言っても良かった。
葉の具合も悪くは無いし、調合や製造の過程も徹底した品質管理が整っていて寸分の狂いも無い。
おまけに清潔感があり、味も香りも比較的上品な物であると言ってもいい。
もしかしたら下手な管理世界製の物よりも上質なのかもしれない、それが自身に慰撫を齎す手の内の紙巻に対する僕の評価だった。

とはいえ、この世界では二十歳を過ぎないと吸うことはおろか購入すら非合法であるらしいのだが……どうせセーフハウス内でしか吸う機会は無いし、真面目にやるには気兼ねの多過ぎる仕事を抱える身の上なのだからこれくらいは見逃して欲しいものだ。
まあ元々僕はミッドチルダでも非合法とされるような時から酒も煙草も散々やってきた訳だし、今更になってこの世界の道理に合わせるというのもおかしな話というものだろう。
それに僕から酒と煙草を取ったら本当に何もかも円滑に立ち回る事が出来なくなってしまう。
高性能なスポーツカーでも燃料が切れたら走れないように、僕もこうやって嗜好品で気を紛らわさなくてはまともに目の前の現実を直視することすら出来なくなってしまう。
今更真面目ぶったって御法に触れたことは一度や二度の事ではない、だったらいっそ開き直ってしまった方が幾分か気も楽になるというものだろう。

だが、何時までも何時までもこうして余韻に浸っているという訳にもいかないというのもまた避けようも無い事実だった。
任務の内容が変更されてからもう何日もの時間が経過してしまっていると言うのに、此方の成果はといえばばら撒かれたロストロギアだと思わしきエネルギー結晶体を一つ回収出来ただけに留まっている。
唯でさえ二十一個もあるというのにこんなペースで集めていては、とてもじゃないが被害が拡大する前に事態を収拾するなんて不可能だ。
しかも性質が悪いことにどうやらこのロストロギアは生物や植物に寄生して暴走する危険性も孕んでいる。
現に僕が今持っている物を回収しようとした時は植物に寄生していたし、下手をすればそのまま取り込まれて養分にされてしまうほどに凶暴な物だった。
あんな物が後二十個近く暴れまわっているのでは最低でもBランク以上の魔導師で編成された熟練の一個小隊位なければ迅速なる解決など夢のまた夢という物だろう。
所詮僕一個人の実力なんてこんなもの、正直な本音を言えばお手上げ以外の言葉が僕の頭の中に浮かんでくる事は皆無だった。

「まぁ……だからと言って投げ出す訳にもいかない、か」

しかし解決出来る人員が僕しかおらず、それで食い扶持を稼いでいる以上は何もしない訳にもいかないだろう。
そんな風に考えながら僕は未だに煙る短い煙草をテーブルの上のガラス製の灰皿へと押し付けてもみ消し、新たな思考に意識を向けていく。
外部勢力のことに関しては僕の管轄外だし、逮捕しようと思ったところで礼状も権利も無いのだからこの世界の住民に危害が及ばない限りは放っておいても別段構いはしない。
そもそも僕の主な仕事は裏工作であって次元連絡船を砲撃して物を掠め取ろうとした重犯罪者を捕まえることでもなければ、そんな人間に便乗して火事場泥棒を遣らかそうとしているこそ泥を引っ立てる事でもない。
給料以外の仕事で骨を折るのは馬鹿らしいし、そうやって正義感の一つ覚えで突っ走った末路がどういうようになるのか身に染みて理解もしている。
これ以上厄介ごとを自ら招きこんで自滅するなんていうような事にだけは何が何でも避けなければならない。
それが分かっているからこそ、僕は与えられた仕事だけに順応して全力を注がなければならない。
やるべき事はたった一つ、そんな風に答えを一つに絞り込めるからこそ僕は何の迷いも無くもう一度事に身を投げようと思う事が出来るのだ。

それにこの街はあの腐った悪党の吹き溜まりのように何時死んでもおかしくない様な人間ばかりで溢れかえっているという訳じゃない。
そんな風に僕は頭の中で今までこの世界で自分が出会ってきた人間の事を思い出しながらカーテンの掛かった窓の方へと近寄って行き、そのままカーテンを腕で払って外の様子に視線を移す。
其処に広がるのは何処までも広がる夜景、凡そミッドチルダでもあの最先端の混沌の都でも大して変らないような景色が其処には広がっていた。
だが、似たような景色であっても住んでいる人間の質には雲泥の差があった。
別に人の命に優劣をつけているという訳ではないが、少なくとも僕が住んでいたあの溝川の底のような場所では見ず知らずの人間の為に手を合わせるような子供はいなかった。

それにこの街の住人には比較的お人よしも多い。
この世界に着たばかりの頃に色々と迷っていた僕に声を掛けてくれたくすんだ金髪の女性の事や、立ち寄った図書館で色々と面倒を見てくれた車椅子の女の子の事などから考えてもそれは明らかだった。
そんな人達をむざむざ見殺しにしていい道理など何処にも無い、今にも消えてしまいそうな微弱な正義感ではあるのだろうが、それでも僕はその気持ちに偽りが無いと言い切ることが出来た。
もう選択を誤って重荷を背負う事になるのは御免だ、そんな自己満足を密かに抱えている自分の存在に気がついてしまっているから……。

「―――――何にしても、もう過ちは繰り返さないさ。二度と、な」

カーテンを元に戻し、机の上からステンレス合金製のジッポライターと煙草の箱をひったくった僕はそれ以上何も語る事なく玄関の方へと歩を進ませていく。
守護者を気取る訳ではないが、この街にはまだこの先も正しく生きていかねばならない命がある。
真直ぐに、そして誠実に生き続けて……幸せを手にしなければならない山ほどの命が。
僕のような人間の安い命ならまだしも、彼らのような人間が犠牲になるようなことだけはどうしても許容する事は出来ない。
だからこそ僕は動く、例えその努力が真っ赤に焼けた石に滴を垂らすような行いであったのだとしても僕はこの命枯れ果てるまで動き続ける。
もうこれ以上、僕の選択の誤りによって誰も傷付けたくないから……。
僕は手の内の煙草とライターをポケットへとしまい、再び夜の街へと繰り出していくのだ。
あの日と同じ、雨の滴が滴る鈍色に染まった空の下で。
安っぽいビニール傘を片手に持ちながら、ゆっくりと……ゆっくりと……。





補足
まあ本当にこんな事どうでもいいのかもしれませんが一応補足です。

名前:マイルドセブン・アイスブルー・スーパーライト・ボックス
値段:300~350円(2001~2003年ごろ)
本数:20本
タール:6mg
ニコチン:0.4mg

一口メモ
既に販売を中止されてしまったマイルドセブンの派生商品。
作者は煙草を吸わないので売れ行きが芳しくなかったのか、味や香りが悪かったのかは分かりませんが友人曰く通好みのものだったとか。
ちなみに未成年の飲酒、喫煙は法律によって厳しく制限されています。
良い子も悪い子も絶対に真似をしないようにお願いいたします。



[15606] 第十八話「それは迷える心なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/05/05 17:37
何時如何なる時でも最後に成功を収めるのは頭を使う人間だ。
沸き立つ感情や高ぶるヒステリーにも耐え、獲物を目の前にした猛禽類のように状況を捉えながらも最高の瞬間が訪れるまで死んだように息を潜め、そして此処が最上だと断じれるタイミングで迷い無く行動を起す。
耐え忍び、よく考えて判断し、迅速に行動する……それが事を成す時に付いて回ってくる凡その最低条件だ。
これは何に対しても当て嵌まる物であると言っていい。
勉強にしろ、スポーツにしろ、仕事にしろ、その根本的な本質はそう大差の無い物なのだから。

私自身どれにしたって真面目に取り組んできた事はないから詳しい事はよく分からないが、今の自分の状況とその三つの条件を照らし合わせてみると中々どうして否定出来ない物がある。
自分自身が行っている事自体は机に向かって真面目に勉強しているという訳でもなければ汗水垂らして良い成績を残そうと運動に打ち込んでいるという訳でもないのだが、どちらにせよその三つの条件を蔑ろにすれば痛い目を見るという事には何の変わりも無い。
ましてやそれが命に関る事態なのだとすれば嫌でも無視する事は出来ないという物だろう。
古来奇抜な考えで常識外れと言われた人間はその特異さ故に一時は名声を欲しいがままにする事もあるが、大抵の人間は世に言う常識という考えと自分の存在とのギャップに押し潰されて早々に身を滅ぼすのが常だ。
そしてその大抵の原因というのが一部の思考だけに特化され過ぎていて、周りの状況という物に目を向けられなかったという至極単純な物だ。
それはあまりにも身近過ぎて常人ならば気に留めるような事でもない当たり前。
しかし、逆転の発想で言い換えれば身近過ぎる当たり前だからこそ、見落としがちになってしまう物でもあるのだ。
誰もがそれを身に染みて分かっているから他の誰かがそれを分からないとは思わない、だから誰も諭してはくれないし注意もしてはくれない。
結局最終的にそれを理解しているか如何かなんていう境界は、己がその当たり前を如何認識しているかという相違でしかないのだ。

では、一体如何すればそんな辛酸を舐めさせられる事なく円滑に事を運んでいけるのかと問われれば……やはり常人より一層神経を尖らせて頭を使うしかない。
忘れ掛けた当たり前すらも思慮の中に入れ、周りの視線に気を配り、その合間を縫い這う様に生きていくしかないのだ。
誰だって敗者にはなりたくない、出来うる事なら勝者の身分に身を置きたいと考えるだろうから。
そして当然それは私こと高町なのはにもまったく同じ事が言えた。
今まで何に対してもやる気も覇気も無かった私だが、現状は真面目かつ正確に立ち振る舞わなくては明日の朝日も拝む事が出来ないと来ている。
やる気の一つでも出して目の前の事態に集中しなければやってられないという物だろう。
生きる為に頭を使うというのは少々誇張した表現なのかもしれないが、実際比喩的な意味でも現実的な意味でも私が身を置いている現状はそういう事をしなければ今この時に息を吐く事すらままならないものなのだ。
それに出来うる事なら私もこれ以上寿命が縮むような思いを抱えたくは無い。
この件に関った所為で既に二度、下手をしなくても死んでいたかもしれないような事態に私は直面してしまっているのだ。
もうこれ以上が痛い思いも苦しい思いもしたくは無いし、面倒を抱え込むのも御免だ。
私は度々挫けそうになる自分の心を此処で逃げ出したらもっと辛い事になるんだぞと必死になって叱咤しながら、過ぎ去った出来事と現在の状況を頭の中で纏めつつ、溜まりに溜まった鬱憤を肺を満たす溜息と共に宙へと吐き捨てるのだった。

「あぁ~……駄目だ。如何見繕ってみても何もかも足りないよ。情報も、人手も、時間も何もかもが……。どうしてこういう都合出来ない物ばかりが都合悪く欠けてきちゃうもんなのかなぁ。こんなんじゃあどれだけ知恵を絞ってみても早期解決なんて到底見込めないよ……はぁ」

『元気出して、なのはお姉ちゃん。確かに私としても事態が公にならない内に片付けたいのは山々だけど、此処で焦りだしちゃったら元も子もないよ。それに人手は仕方が無いとしても時間と情報はやりようによっては何とかなるかもしれないしさ。ほら、もう一度考え直してみようよ』

「そうは言ってもねぇ。周辺海域を入れたこの街の規模、一日で私が行動出来る時間と範囲、その他諸々をひっくるめて考えてみても最低二、三ヶ月は絶対に掛かっちゃうよ。今はまだ学校も休校中だから私も好き勝手に出来るけど、学校が始まれば今までと同じようにやっていくのは実質不可能だろうし……何よりもこれからはトーレさんやそのお仲間さんの動向も気に掛けなきゃいけなくなる。これはもういっそのこと開き直ってトーレさん任せにしておいた方がまだ幾分か建設的だと思うけどなぁ、私は。正直これ以上痛い思いするのもしんどいのも御免だし」

『そっ、それを言っちゃお終いだよぉ……。そうしないようにする為に、こうやって考えてるんだから。なのはお姉ちゃんだって下手に他人任せにしてしっぺ返し喰らうのは嫌でしょ? だからこそ頭を使って考える。安易な妥協は禁物、だよ!』

簡単に言ってくれるよ、私は何処か緊張感のないアリシアの言葉にそんな風な悪態を心の内に浮かべながら、目の前に置いてあるノートパソコンの画面に映し出されていたウインドウをキーボードを数回叩いて操作して全て閉じた。
するとそれまで海鳴市全体を示していた地図の画像や、様々な要因が書き込まれた文章構築ソフトが一瞬にして暗転し、画面上に再び起動したての状態と同じデスクトップが出現する。
模索しては消し、思慮すれば消し、倒錯すれば消し……もうこんな行為を何度繰り返したか分からない。
今まで碌に使ってこなかった頭をフル回転させ、難解な問題よりも遥かに複雑な公式を編み出し、其処に寸分の狂いでも出てしまえば最初からやり直しという途方も無い行為を繰り返してもう既に四時間半。
精神的にも肉体的にも疲労は甚大、というかもういい加減目と肩が疲れてきたぞと神経が悲鳴を上げるほどに私は疲れ果てていた。

一連の件の事態が大々的にニュースにも取り上げられるようになってから今日で丸三日。
まだ九年しか生きていないというのに一度ならず二度までも死に損なった事だとか、死体から湧き出た汚泥を被った事だとか、その他様々な要因の所為で疲弊し切っていた私もようやくまともな生活を送れる精神状態を回復させられるだけの月日が経過した頃の事だ。
学校も休校となり、比較的何時もより暇を持て余す時間が多くなった私は来たる時の為に備えて日々自分に出来る事を模索しては実行するという毎日を送っていた。
アルハザードでの魔法の訓練や銃器の取り扱い等の実践的な物から索敵やこの街の情報を基にしてのシミュレーション等といった擬似的な物まで、この三日という時間の中で私は実に色々な物に手を伸ばした。
とは言ってもまあ魔法の訓練にしろ銃火器の扱いにしろ今まで行っていた物にほんの少し力を入れた程度の事だから別段特別何かをしたという訳でもないし、情報収集や状況シミュレーションに関しても今此処でこうして煮詰まっているのだから成果があったかどうかと問われれば返答は微妙な物に成らざるを得ないのだけど……小学生三年生の女の子が出来る範囲で考えるならばやれるだけの事はやった筈だろうというのが私の評価だった。
何せ私は元は唯の子供でその上学校での授業もサボってばかりの問題児。
そんな人間がこうして間接的にでも誰とも知らぬ人間の為に行動を起しているのだ。
賞賛されはしても非難される謂れは何処にも無いし、寧ろ誰でもいいから少しは私を労わって欲しいというのが正直な私の本音だった。

だが結局こうして努力してみた所で誰も褒めてはくれないし、私自身も誰かから認められたいなんて感情はとっくの昔に捨てて来ているのだから最初から期待はしていない……と、強がってみた処でやっぱり無駄な事をしているのではないかという懐疑的な感情はどうしても薄れはしなかった。
結局の所私は自分のしている行為に対して今よりももっと明確な理由が欲しいのだろう。
だろうというのはやはり自分でも自身の抱えているもやもやと蠢いていて何処か行き詰ったように曇りを帯びている感情が上手く表現出来ない故の物なのだが、恐らくはそうなのだろうという確信もまた私の中に確かにあった。
はっきりと言ってしまうのならば割に合わない、私の言いたい事はこの一言に尽きた。
確かに先生の事は大事だし、私がこうして無駄な労力を使っているのも全ては彼女と彼女が私に提供してくれる環境を守る為だというのは自分でも重々承知している。
そもそも私が何で此処でこうしてのうのうと生き永らえているのかっていう様な事を考えてみても、全ては先生が傍にいてくれた御蔭なのだ。
先生に出会っていなければ遠の昔に私なんて心が折れてまともな精神状態を保っていられなかっただろうし、今だって恐らくは先生の存在が無ければ私がこうしてアリシアに手を貸してジュエルシードを共に探すなんていうような事にもならなかったに違いない。
詰まる所私が行動を起す所以が先生であり、彼女がいたからこそ現在の私が此処にいるという事実がある限り私が今の自分の心情を揺るがせる事はまずありえないと言っていいだろう。

だけど物には限度という物が存在する、これもまた事実だった。
今までは何とか気力と立ち回りで何とか事をこなして来たけれど、何時までも事態に対する風向きが一定であるとは限らない以上このまま変らず構えているという訳にはいかないだろうし、私としてもこれ以上事が酷くなるのは正直な所あまり気のいい物ではない。
と、言うよりも現状だけでも既に二度も死に掛けたのだ。
もう二度とあんな拷問のような痛みを受けるのは御免被りたいし、出来うる事なら今後一切ジュエルシードなんて怪しい物に関りたくは無いって考えてしまうのも道理という物だろう。
でも、此処まで乗り掛かってしまった以上は途中下車をする訳にもいかない。
事態は既に私一人の問題ではなくなってしまっているし、今更アリシアの事を見捨てて全てを夢の産物だったと断じてしまうのは私としても気が引ける。
一度選んでしまった道ならば迷わず進むほか解決策は無きに等しい、精々あるとすればその道標の先にある道をどんなスピードで走り抜けるかという事ぐらいだろう。
選択肢を選ぶ段階は遠の昔に過ぎ去った。
伸るか反るかの事でウジウジ悩んでいても今更どうしようもない。
もっと言うならば例えこの先またあんな事態に私が陥ったとしても完遂する以外に私に逃げ道は無いのだから、後悔や自問自答を繰り返した所で意味は無いというものだろう。
永劫の続くような苦しみから逃れるには今自分の目の前で起きている事態にしっかりと向き合うしかない。
漫画の主人公みたいなご大層な語り文句なのかもしれないが、実際その通りなのだから笑えない話だった。

でも私は心の何処かで薄々こんな風にも考えてしまっていた。
実際の所このままの生活を続ける事で私は一体どれだけの利を身に付かせることが出来るのだとうか、と。
確かにこうしてテーブルシミュレーションゲームのようにパソコンに向き直ってデータを纏めるって言うのはそれなりに楽しい物があるし、こんな私でも確かに仕事をこなしているんだなっていう充実感も得る事が出来る。
実際私自身この状況を少しも楽しんでいないのかと問われれば応と答えるのはどうしても億劫にならざるを得ないし、かと言って事態にまったく悲観的になっていないかと言われれば別段そういう訳でもまた無い……こんな中途半端な感情を胸に秘めた私だからこそ時々自分の気持ちに反したネガティブな思考を浮かべてしまうのだ。
このままの生活で本当にいいのかとか、もしかして私がこんな風に死に物狂いにならなくても先生は傷つく事はないんじゃないかとかそんな無責任な感情を時々思い浮かべてしまう程に。

勿論今更こんな事を考える事自体お門違いな物だっていうのは重々承知はしているし、苦しい事なんて今まで何度だって経験してきたからこれが何時もの本能的な逃避感情だっていうのはよく分かっているのだけれど……私だって心身共に無敵のスーパーマンじゃないんだからそんな風に感じてしまっても仕方が無い面もあるというのも絶対に否めないとはどうしても言えなかった。
あぁ、確かに私自身も分かってはいる。
これが一時の気の迷いから来るネガティブシンキングが引き起こした被害妄想的な思いであり、そんな事を思考したところで何も変わりはしないって事ぐらいは。
だけど先生を護るという気持ちは揺るがなくとも、私の心は事態が起こる度にドンドン曇りを帯び始めてしまっている事も確かな事実なのだ。
まるで霧が徐々に濃くなっていくように当初の目的が見失われていって、最終的にはその霧に精神が蝕まれ呑まれて行く様に自分自身を見失う可能性。
恐らくこのまま幾度と無く死に掛けるような思いをすれば確実に私の心は濁ってしまう。
それは自分でも否定しきれない程にどうしようもない確率で私の精神を冒そうとしているのだ。
このままではそう遠くない内に私は私自身の事を見失ってしまう。
だからこそ、私はこう思わずにはいられないのだ。
こんな邪な感情を払拭出来るだけの理由がもっと欲しい、そんな強欲で自分勝手な考えを。
私は軽く首を回してポキポキと小気味良く鳴る音を静かに耳で捉えながら、密かに心の内でもう一度そんな独り善がりな想いから浮かんだフレーズをもう一度呟いてみるのだった。

「でもそうは言うけどさぁ、アリシア。正直私も限界に近いんだよ、割と本気で。最初から足りない物が多いのは自覚してたし、私の命と根性で埋まるような溝じゃないって言うのも分かってたんだけど……流石に此処まで事態が深刻だと、それを笑う気力も湧いてこない訳よ。死に掛けて死に掛けてまた死に掛けて……もしかしたら今後もそんな負の連鎖がエンドレスに続いていくかもしれない。そう思うと如何にも居た堪れないって言うかさぁ、時々こんな風に考えさせられちゃうんだよ……。正直私には身の丈にはあって無いんじゃないか、ってね」

『そっ、そんなこと無いって! なのはお姉ちゃんは頭も切れるし、凄く努力家さんだもん。きっと今は煮詰まっちゃってて苛々が溜まってるからそんな風に考えちゃうんだよ、きっと。それに今までは向こう見ずに突っ走っちゃったのと、致命的なまでに運が悪かったっていうのが原因なんでしょう? 運の方はまあ時の流れと状況にも左右される物だから仕方が無いとしても、前者の方はちゃんとこうやって自分を見つめ直す事が出来てる。自分で自分を振り返るっていうのは当たり前のようだけど、実は凄く難しいんだよ? でも、なのはお姉ちゃんはそれがしっかり実行に移せてる。なのはお姉ちゃんが今の自分から逃げようとしない限り、それは少しずつかも知れないけど着実に積み重なっていくんだよ。だからなのはお姉ちゃんも落ち込まないで。元気出して、ね?』

「あぁ、うん……御免ね。なんか愚痴っぽくなっちゃったかな? 最近如何にも嫌な事が立て続けに起こった所為か、鬱憤が溜まっててさ。学校にも行けないから先生にも会えないし、そもそも事が事だけに中々相談出来る相手も居ないじゃない? だからアリシアとこうやって気兼ねなく言葉を交わしてるとついつい本音が、ね。本当、何処までも大人気ないよね私って……。自分で引き受けておきながら、こんな愚痴吐いちゃうなんてさ」

『そういう弱い所もひっくるめて、なのはお姉ちゃんはなのはお姉ちゃんだよ。人は誰しもそう強くない、寧ろ何処までも脆い物なんだよ。例えるんなら砂の器。丁寧に形作って水で粘り気という支えを入れないとまともにその身姿を保つ事は出来ないのに、周りの環境は際限無く乾きもすれば湿り気を帯びる事だって平気で起きてしまう。そして、そんな環境に晒され続けた砂の器は簡単に崩れちゃう。本当に驚いちゃう位に簡単に、ね。だけど忘れないで。崩れようとしている物を保とうって思う人もまたちゃんと存在してるんだって事……。あはは……流石に私がそんな人間だ、なんて言い出したりはしないけどね。でも、一応この気持ちは本物の心算だから。辛いんだったらさ、何時でも私に弱音を吐いてくれてもいいんだよ? 私に出来る事なんて精々その位しかないんだろうし、無理に強がってるなのはお姉ちゃんを見てるとこう……私も胸が苦しくなっちゃうんだよ。それが私には辛い。凄く、辛いんだ……。こんな風に言っちゃうと私こそ自分勝手な風に思われちゃうかもしれないけど、こう見えても私実年齢的にはなのはお姉ちゃんよりも年上なんだしさ。少しくらい、肩を預けてくれてもいいんだよ、ね?』

アリシアの言葉を聞いた途端、私は思わずハッと何かに気が付かされたような感覚を覚えてしまった。
自分勝手な悲観と自嘲が、知らない合間に彼女を追い詰めてしまっていた。
そんな言葉が頭の中に浮かんだかと思えば泡のように消え失せ、それに比例する様に止め処ない罪悪感が胸の内に込上げてくる。
私は大きな勘違いを犯してしまっていたのだ。
一人じゃ何にも出来ない癖に、私だけが苦労をしていると勝手に思い込んで……挙句それを独りで抱え込んでしまっていた。
今の私はもう一人じゃないと言うのに、こんなにも私の為に尽くしてくれる子がずっと傍に居たというのに。
私は……そんな簡単な事すらも、今の今まで気が付く事が出来なかったのだ。

本当に私という人間はつくづく自分勝手で最低な女だ。
自分が決めた事に一時的な気の迷いとは言え現状に見返りを求めようと考えたばかりか、その事を誰かに咎められるまで自ら気付こうともしない。
しかも、その上今となってはアリシアにまで気を使わせてしまう始末だ。
情けない、情けなさ過ぎて……思わず泣きそうな気持ちになってしまう。
彼女と初めて出会って言葉を交わした時、私は彼女に頼られる存在であろうと心に決めた筈なのだ。
確かにアリシアの実年齢は私よりも数倍上、下手をしたら親子程離れていると言っても間違いではないだろう。
だけどアルハザードの中であの幼い姿のまま歳を重ねた彼女の精神年齢は、どれだけ知識が豊富でも見た目相応でしかないのだ。
実質五歳、幾ら知識が豊富で同じような年頃の子と横並びにしてみれば色々な面で抜きん出ている処はあるとは言えども彼女はまだ甘えたがりの子供なのだ。
だからこそ頼られる様な存在でいなければならないと思った。
永い時の中で失ってしまった彼女の拠り所の代わりに、こんな私でもなれるのならと思わずにはいられなかった。
だって彼女があまりにも痛々し過ぎたから。
泣いている彼女の顔をもうこれ以上見たくなかったから。
こんな小さな子ですら素直に笑えないっていう事がどうしても許容出来なかったから。
私は彼女の友人として、無論姉貴分として……彼女の気持ちが少しでも楽にしてあげたかったのだ。

でも、それはどうやら私の独り善がりな杞憂でしかなかったみたいだ。
気遣う筈が気遣われて、甘えさせる筈が甘えるよう諭されて、不安にさせまいと努力している筈が逆にアリシアの心を不安にさせてしまう。
そう、つまる処私が取っていた行動は全部空回りでしかなかった訳だ。
確かに私が取った行動は年長者としての立場から鑑みれば立派な事の様に聞こえるかもしれないし、正しい事だったようにも思えてしまう。
だけど、アリシア自身はそんな事は微塵も望んではいなかった。
実際に彼女の口から聞いた訳ではないからこれはあくまでも私の推測でしかないのだけれど、彼女の口ぶりは私の行動理念その物を揺るがしかねない物に他ならなかった。
火を見るより明らか、これはこんな時に使う言葉なのだろうけど……先ほどアリシアの語った言葉は多くを語るよりも深く私に彼女の心情を分からせてくれた。

はっきり言ってしまえば、アリシアは慣れない事に身を窶す事で次第に擦り切れてしまうかもしれない私の事を誰よりも心配してくれていたのだ。
此処最近私は精神的にも肉体的にも多大なダメージを受ける様な出来事を連続して経験し続けていた。
自業自得だ、と言ってしまえば勿論それはそうなのだが……アリシアからしてみればそんな出来事に翻弄されて次第に意気消沈していく私の姿が見ていられなかったのだ。
何せアリシアは優しい上に誰よりも責任深い子だ。
私との触れ合いで多少は解消されたのかもしれないものの、やはりまだ私が傷つくという事がイコールとして自分の責任という様な結び付きになってしまうというのは変わっていないという事なのだろう。
そんな彼女だからこそ私の変化に敏感だったのかもしれない。
あんまりにも馬鹿らしいから皆まで言うのも憚れるんだけど、恐らくアリシアは最初から私が無理を重ねている事をずっと気に掛けてくれていたのだ。
訓練の時から実戦に至るまで、軽口や減らず口を言って無理に強がろうとする私の事をずっとずっと気に病んでくれていたのだ。
そんな彼女の気遣いに私は気付きもしないで……本当に愚かな事をしていたと思う。

確かに私はつい先日まで先生以外に頼れる人間もおらず、ずっと一人で何事にも挑んでいかねばならない身分だった。
だけど今の私は一人じゃない。
少なくとも、私の隣にこの小さな隣人が寄り添い続けてくれる限りは。
多分私はこれからも沢山迷う事になるだろうし、その度に愚痴を吐き出しては強がるという矛盾した行動を繰り返す事だろう。
素直になりたいとは思うのだけれど、そう思う度に本音が言えなくなる性分なのだ。
何時かそれも解消できる日が来るのかもしれない。
でも、それはきっと遠く遠い未来の事。
それも大人になったら治るなんていう様な、はっきりとした確証も無い不確かな物でしかないのだ。
それでも、私は淡い希望程度だけれど何時かは私も素直になりたいとは思っている。
辛い時に辛いと言えて、悲しい時は大声で泣いて、寂しい時は誰かを求める。
そんな自分に私は何時かなってみたい。
素直に自分を曝け出せるような、そんな自分に……。
けれども、今はまだ遥か遠い目標に留めておこうと私は思った。
だって今の私じゃあ一度甘えだしたら際限無く、誰かに頼りっきりになってしまうだろうから。
だから今はほんの少し、ほんの少しだけアリシアの厚意に感謝して肩の力を抜こう。
今更同じだけの物を背負えとは言わないし、支えてくれとも言うつもりは無い。
言う心算は無いけれど……それでなくても彼女は私に背を預けさせてくれるだろうから。
時には誰かに頼るというのもそう悪い物ではないのかもしれない。
私はしばしの間沈黙を護り、そして思い立ったようにふっ、と息を吐き捨てながらそれと合わせるように自分の頭の中で渦巻いていたネガティブな気持ちを忘却の彼方へと追いやったのだった。

「……ふふっ、ありがとう。アリシアは優しいね。でも、そう言われると余計に弱音吐けなくなっちゃうよ。確かにアリシアは私よりも年上かもしれないけど、一応私……アリシアのお姉ちゃん代わりだからさ。妹分に弱い所は見せられないよ。でも、ちょっとだけ元気出た。これならもうちょっと位は頑張れそうかな? よぉし、ちょっと休憩したら再度見直しと行きますか。まぁ、その時は……アリシアもちょっと知恵貸してくれないかな? 如何にも私だけじゃあ、何時まで経っても煮詰まっちゃいそうだからね」

『なのはお姉ちゃん……うんっ! 一緒にやろう。二人で、一緒に!』

「んじゃ、まずは休憩ね。あ~、肩凝った。偶には温泉にでも浸かってゆっくりしたいよぉ、まったく。今度日帰りで旅行でも行ってこようかな……温泉は無理でも近所のスーパー銭湯くらいなら安いだろうし。はぁ、ウチってこんだけだだっ広いのにマッサージ器の一つも無いんだもん。正直、泣けるよ」

『まぁた、そんな年齢にそぐわない様な事を……。でも、気分転換は確かに必要かもね。なのはお姉ちゃんこの処ずっと部屋に缶詰な日が続いてたし、この前も結局外食行かないでコンビニ弁当で済ませちゃったしね。本当に偶には外に出て一思いにパーッ、と楽しんでくれば? 勿論ジュエルシードの事なんか忘れてさ』

何処か呆れた様なアリシアの言葉に「そうは言ってもねぇ……」と、少しだけ苦虫を潰したかのように声を細めて返答する私。
確かに私自身この年頃の女の子にしては自分はあまりにもかけ離れた趣向の持ち主だった言うのは自覚しているが、それでも私だって一応は女の子……遠回しでも婆臭いと言われたら流石に傷つくという物だ。
それに部屋に缶詰状態なのは下手に外出して学校の連中に顔を合わせないようにする為だし、お金に関してシビアなのは本当にお金が必要になった時の為にコツコツお金をためているからなのだ。
別に私だってお金に余裕があれば派手にお金使って遊ぼうって思わない訳じゃないけど、今はそれ以上に纏まった事を身につける事の方が大切だと私は思っている。
だから別に私は特別ケチっていう訳じゃないのだ。
ただ周りの人間から見たらそんな風に勘違いされても仕方が無いというだけで……いや、自分でもひょっとしたら思わないでも無いんだけど。

まあ、ともあれアリシアの言葉には賛同したい処だけどそうも言ってもいられないというのが私の正直な本音だった。
ジュエルシードの発動がランダムな上に不定期である以上は気を抜いて休みを取る訳にもいかないだろうし、順調に事が運べる算段が付いたとしても今度はその為に翻弄しなければならないのだから余計に根を詰めなきゃいけなくなってくる。
現状どうしてもこれが無くちゃいけないっていう物を粗方揃えられたのならまだ話は別なのかもしれないけど、それ等を全部揃えようと思ったら……きっと一人でやった方がマシって思ってしまう程膨大な時間が掛かってしまう。
ある程度は妥協しなければいけないのは私も理解はしているけど、だからってその妥協の所為で命を落とすなんて馬鹿馬鹿しい最期は絶対に御免という物だ。
その為にはまずは考えなくちゃいない。
寸分の無駄も無いように隅から隅までチェックを繰り返して一番最適な答えを出さなくちゃいけないのだ。

確かに休みたいかと問われれば休みたいのは山々だし、自由に時間を割けない身の上としては趣味や娯楽に没頭したい時もある。
でも、だからこそ……限られた時間の中でしか行動出来ないからこそ貴重な時間を無駄にする事は出来ないのだ。
時は金なり、無駄にすれば無駄にする程損をするならば、いっその事開き直って行動を起こして得をしたい。
今はまだ選択する道は一本道なのかもしれない。
だけど何処をどう加速して、何処でどんな風に休息を取るのかの自由を選択する権利は依然として私の物だ。
その匙加減を調節する権限を未だ私が所有している以上、私は下手な選択を選ぶ訳にはいかない……それが分かっているからこそ私は考える事を止めないのだ。
まあ、そうは言っても今後はアリシアに心配を掛けないよう二人で考える形でやっていかねばいけないのだろうけど……面倒を被る事を本人が望んでいるのだ、この際彼女にも目一杯苦労を共にして貰うとしよう。
私は腕を組んで少しだけ頬の力を緩めながら、まだまだ私も捨てた物じゃないのかもしれないという想いを静かに胸の内に抱くのだった。

「まぁ、時間が空いたらね。さぁ~て、と。流石に温泉は無理だけど昼間にお風呂っていうのも偶には良いかもね。丁度この時間なら誰も家に残ってないだろうし、煩く言われない内に一風呂浴びて気分転換っていうのも……んっ?」

『あれ、どうかしたの?』

「あ~いや、ポケットの中のケータイがブルッたんだよ。最近気が散るからってマナーモードにしたまま上着に突っ込んだままにしてたんだけど……誰からだろ?」

『確認した方がいいよ、なのはお姉ちゃん。もしかしたら、あのトーレって人からの定期連絡かもしれないし。一度休憩しようって決めた手前蒸返すのは心苦しいけど、だからって無視するって訳にもいかないでしょ?』

急かすようなアリシアの言葉に、私は「まぁ、それもそうだね」と渋々ながらも同意して上着のポケットから携帯電話を取り出す。
充電もしないでずっと放置してあった所為か電池の残量は残り二つに減っていたが、側面の小さな液晶画面には何の問題も無く『メールを受信しました』という端的な文章が眩いバックライトに照らされながら映し出されていた。
一体誰からだろう、そんな疑問が瞬時に私の脳裏を過ぎる。
今の携帯電話は一度解約して別の物に機種変更した奴だから電話番号もメールアドレスも極少数の人間しか教えていない少々訳有りの物だ。
以前使っていた物は主に身内からの……っていうよりは完全にお兄ちゃんからなんだけど、メール爆弾顔負けのメールを送信してきたりだとか殆ど嫌がらせなんじゃないかって思えてくる程の電話攻撃が相次いだ為に私も泣く泣く手放して新しい物に申請し直したのだ。
だから当然身内からメールが掛かって来る事は無いし、例え万が一あったとしても着信拒否にしてあるから受信される事は無い筈だ。
また当然前の携帯電話に登録されていた様な人間にしても上記の理由と全く同じ事が言えるから、アリサちゃんやすずかちゃんが……まああの二人から掛かって来るような事は絶対にあり得ないだろうけどこの可能性もまた然り。
となると残る心当たりは先生かトーレさんの何れかか、登録している携帯サイトからのメールマガジンのどちらかなんだけど……メールマガジンが送られてくる時間は大体昼時に限定されているから後者の可能性は断然薄い。
まあそう言う訳で可能性としては前者、しかもどちらも簡単には無視する事の出来ない人間と来ている。
これはそうそうに確認を取ってしまった方が身のためという物だろう。
私は「ようやく休めると思ったのに……」と半ば呪詛に近い愚痴を吐き出しながら、携帯電話を開いてメールの送り主を確認するのだった。

しかし、いざメールを開いてみると今まで感じていた気だるい感じが嘘のように払拭されていくのを私は瞬時に感じ取っていた。
メールの差出人の欄にはたった二文字『先生』という表示、そして件名欄の処には『知恵を貸して欲しいんだけど……』という何やら意味深な文字の羅列。
私は久々のやり取りに心を躍らせながら嬉々とした気持ちで携帯を操作してメールの中身を画面へと展開させていく。
内容はどうにも困った事が起こってしまったらしく、第三者の意見を聞きたいから暇だったら家に来ないかというお誘いの物だった。
一体何が起こったんだろうっていう興味は尽きなかったけど、私はそれ以上に彼女から頼られているという事にちょっとだけ優越感を感じていた。
ほんの少し前までは見返りがどうとか思ってしまっていた私だけれど、それは単に先生と会える機会が此処の処滅法減ってしまったが故に心の迷いが起きてしまっただけの事で……結局の所はやっぱりこうして繋がりが持てているというのが嬉しくてならない訳だ。
此処最近に私はあまりにも目先の事だけを頭に詰め込み過ぎていて、本来自分が何を求めていたのかという事すら忘れかけてしまっていた。
何故自分はこんなに苦労しているのだろう。
そもそも何故私という存在は此処までひたむきになってまで頑張ろうとしているのだろう。
思い返せば簡単に答えが出てくるような事なのに、私はそんな事すらも見失い掛けてしまっていたのだ。
利己的な感性は自身を見失い易い、そう彼女から教えてもらっていた筈なのに……私は優越感の裏側で少しだけ自分の事を恥じながらそのメールに対して返事を打ち込み始めるのだった。
今までの事は忘れよう、そんな風に思いながら……。





それから三十分ばかりの時間が経った後の事、私は少しだけ粧し込んだ格好に着替えて一人家の前で先生の車を待っていた。
とは言っても精々私が持っている私服なんてあんまり可愛い物が無いから周りの人間から見たらちょっと地味かなって程度の物なのかもしれないけれど……まぁ、私にしては頑張った方だと思う。
今日は少し何時もより暖かかったから黒の薄手のワンピースに白のぺチパンツを合わせ着して、髪止めもリボンから黄色いヘアバンドに変えて額を出す様な感じにしてみたというのが今の私の格好だった。
それにちょっとワンポイントを付け加える為にエナメルのショルダーポーチを肩から吊るしてはいるんだけど、中身が中身なだけにこっちはあまり意識しない様にしていた。

一応今日はプライベートな外出という事で一時魔法関係の事を忘れる為にジュエルシード……曳いてはアリシアの事になるんだけど、今日は家でお留守番という事にしてもらっている。
本当なら連れて行ってあげたい気持ちも無いではないのだけれど、そのアリシア自身に「偶には一人で羽を伸ばしてくると良いよ」なんて言われた手前こちらもお言葉に甘えさせてもらわざるを得なかったのだ。
私は本当に気遣いの上手い良い子をパートナーに持てて幸運だ、とつくづく思ってしまう。
きっとアリシアが普通に歳を重ねていたのなら、さぞや良いお嫁さんになった居た事だろう。
でもまぁ、だからって私もその言葉に二つ返事で「はい、そうですか」と承諾した訳ではない。
何時何処で有事が起きてしまうやも知れない以上、流石に丸越しというのはどうなのだろうと考えてしまった訳だ。
確かに私だって先生と会っている時位は、魔法の事も忘れて伸び伸びしていたいという気持ちも無い訳ではない。
だけど、だからと言って一度でも気を抜いてしまうと……何だか元の風には戻れない様な気がしてしまったのだ。
一時の堕落は病魔の様に伝染するとはよく言ったもので、いざやる気になっている時に過剰に休息を取ってしまうと心の余裕が危機感を押し潰して問題を先延ばしにしてしまいがちになるのだ。
だから其処の辺りのけじめをはっきりさせる為に私はポーチの中にトーレさんから貰った小型拳銃を一丁忍ばせておいている……のだが、どうにも失敗した様な気がしてならないのは言うまでも無かった。
まぁ、だからと言ってジュエルシードを持ってきたら本末転倒な訳だし、バルディッシュにしたってこの前の戦闘で大分無理させちゃったから今はアリシアの元で定期メンテナンスを受けている最中なので単純な消去法で今私が持ち運べる武器はこれしかないのもまた事実なのだけれど……正直な処物騒極まりないというのが私の心からの本音だった。

だけど今更置いてくるのも何だか心もとない様な気もする、等と私が改めて自分が取った行動が正しかったのか否かという事を自問自答していると私の目の前に一台の車がキッ、という小気味良い音を立てて停車するのが目に付いた。
フォルクスワーゲンのイオス、それは間違いなく先生の乗っている車と全く同じ物だった。
思いの外結構時間掛かったんだな、と私が思っていると助手席側の窓が開いて申し訳なさそうな女性の顔が露わになった。
くすんだ金髪に掘りの深い輪郭、そして何処か妖艶な雰囲気を醸し出している物腰。
まさに私の知っている先生の姿が其処にはあった……と、言いたい処なのだけど何処かその表情は何時もにも増して疲れた様な感じだった。
養護教諭という職業上夜勤明けとかそういう事は無いだろうけどもしかして仕事関係のトラブルで何か行き詰まった事でもあったのだろうか、そんな疑問が私の脳裏を過る。
まぁ、ともあれそんな悩みに一石投じる為に私が呼ばれたのだから其処の辺りはちゃんと力になってあげなくては……そんな風に頭で考えながら私は「乗って」という先生の言葉に従ってイオスのドアを開けて車内へと乗り込むと、久々に会う彼女に目一杯の笑顔を振り撒きながら挨拶をするのだった。

「お久しぶりです、先生。元気にしてましたか?」

「えぇ、久しぶり。そう言う貴女は元気そうで何よりね。まぁ、私の方は……察して頂戴。丁度今とんでもない厄介事抱えちゃっててね。物凄く疲れてるのよ……」

「なっ、何かあったんですか? 先生がそんなに切羽詰まるなんて珍しいですね」

「私だって人の子よ。悩む事もあれば、行き詰まる事もあるわよ。ふふっ、こんな事言ってても仕方が無い、か。事情は家に向かいながら追々話していくわ。とりあえずシートベルト締めて仕度して」

何処か悟った様な先生の口ぶりに私は若干の不安を覚えながらも、言う通りにシートベルトを締めて仕度を済ませる。
すると車がゆっくりと前進し始め、法定速度に則ったスピードで狭い道路を走り抜けて行く感覚が私にも伝わってきた。
しかし、その感覚は皮張りのシートの高級感もあってか微塵も不快には感じられない。
さすが高級車、乗り手の心情もちゃんと考えて設計されているという事なのだろう。
だけどそんな優雅な乗り心地に反して、私の胸中はあまり穏やかではなかった。
基本的に私の知っている先生は器量も良く、大概の事は何でもこなせてしまう様な万能な人というイメージが強い。
所謂カリスマ性という奴なのだろうか、まあ上手く言い表す事が出来ないのが何処か歯痒い気もするがともかく私が求める理想に尤も近い人だと言っても過言ではないだろう。

だけど今の先生からは何時もの雰囲気というか、何というか覇気が全く感じられなかった。
心ここにあらずという訳ではないけれど、何だかBGMにヴァイオリン楽章のチゴイネルワイゼンでも聞こえてきそうな程心がやつれてしまっている様な感じがするのだ。
元々多忙な身の上で、祖国から離れて仕事をしている様な人だからそうそう壁にぶつからずに淡々と道を進めて行ける訳じゃないとは思っていたけれど……何せ何でもそつなくこなしていける様なイメージを持っていた分此処まで追い詰められた先生はちょっと新鮮だった、勿論悪い意味での話だが。
でも、同時に一体何が此処まで先生を追い詰めてしまっているのかという事もまた私はそれと同じ位気に掛かっていた。
何せ先生は私が知っている限りでもかなりの博識で、以前聞いた話では医療系を含めた沢山の資格を一発で取ってしまう程の秀才でもある人だ。
そんな人を一体何がこんな風になるまで悩ませ続けているのだろう、私は頭の中でそんな風に考えながら先生へと話しかけるのだった。

「……それで、一体何があったんですか? 何だか先生、ただ疲れてるっていう風には見えないですよ。本当に大丈夫ですか?」

「あらあら、一丁前に私の心配? ふふっ、数日前だったら私が貴方を心配する立場だったっていうのに……人生っていうのはなかなか如何して上手くは行かないものね。とりあえず、大丈夫か否かって言う問いに関してはイエス。別に疲れてるって言っても精神的な方だからね。とは言え、抱えてる厄介事に関しては正直お手上げ状態なのもまた事実。情けない話だけれど、ちょっと私も手に余る物があってね。今日貴女を呼んだのはそれを一緒に考えて欲しいからなの。迷惑だったかしら?」

「いっ、いえ! そんなこと全然……寧ろ私なんかで本当に良いんですか? 先生ですらそんなに悩んでるんならもっと頼りになる人に頼んだ方が良いんじゃあ……」

「それがそうも言っていられない事なのよ。事が事だけに公の場に出すのも渋られるし、事の当事者もそれを望んじゃいないもの。私の知り合いに話を付けてみた処で下手な妥協点に転がるのは目に見えてるわ。それに……今回ばかりは流石に大人よりも貴女くらいの年頃の子どもの方が適任だって思ったのよ。ちょうどその問題の中心にいる子も貴女くらいの年頃の子だしね」

それだけ言うと先生は何処か悟った様な表情を浮かべたまま車の灰皿で煙をあげていた吸い掛けの煙草を片手で摘んで口元へと持って行き、そのままフッと力無く紫煙を宙へと吐き捨てていた。
何だか先生は私が想像した以上に重い物を背負い込んでしまっている、何となく私はそう思っていた。
車を運転しながら煙草を吸う先生の横顔は何処か寂しげで、それでいてまるで自分の限界を知ってしまったかのような悲壮感さえ漂わせている。
私は今までこんな先生の表情を見た事が無かった。
一種の憧れに対するフィルターっていうような物を通して今まで私が先生の事を見ていただけなんだっていう気持ちも確かに無いではなかったけど、それでも私は先生が心から弱音を吐くような処を見た事は無かったのだ。

確かに上司に対する愚痴だとか生徒が起す問題の事だとかの事で私に愚痴を零してくる事はあったし、私自身もまたそんな彼女の愚痴に付き合ってあげたこと位は数え切れないあると言い切る事が出来た。
でも、今の先生の表情は何処か何時ものそれとは違っていた。
何処が如何という訳ではないのだけれど、なんというか何時もの先生っぽくないというか……何処か歯切れの悪い所で物事を燻らせてしまっているような感じが否めないのだ。
勿論私だって一から十まで先生の事を知っている訳じゃないからあまり大それた事を言う気は無いのだけれど、それでも私には如何にも今の先生の姿がそんな風に見えて仕方が無かったのだった。

だけど、それと同時に私は先生の漏らした言葉の中に幾つか引っ掛かりがあるという事もまた何となく感じ取っていた。
一つ目は事が事だけに公の場に出すのも渋られる、という所だ。
それは逆転の発想で考えれば公の人間に相談出来ない程の事という風にも捉えられるし、それだけ裏事情があるという事にもなる。
間違っても先生が犯罪に手を出したとかそんな事は無いだろうけど、彼女の口ぶりには何処か後ろめたい物を連想させる響きがあったのは否めなかった。
そして二つ目は問題の中心にいる子も貴女くらいの年頃の子、というフレーズだ。
これも一聞しただけではあんまりしっくりこないどうでもいい様な風に思えてくるのだけれど、此処で注目すべきなのは問題の中心にいる子という処にある。
何せ先生の口から問題の中心という言葉が出てきた以上はイコールで先生が事の当事者ではないという事を示し出している訳だ。
そしてそれと同時にその言葉はこの話の輪の中に私や先生以外の第三者が絡んでくるという事にもなってくる。
加えて、貴方ぐらいの年頃の子という事は大体私と同い年位かもしくはそれに近い人間に人物像も限定されるという事になる。
つまりこの二つの言葉から連想されるのは私と同い年くらいの第三者の所為で先生は頭を悩ませているという結論に結び付く訳だ。
まぁ、先生は養護教諭なのだから職業柄そういう問題を抱えない事も無いのだろうけど……本当に難儀な物を抱えてしまったんだなと私は何となくそう思った。
とは言え、何れにしても先生からの直々のお願いとあっては日ごろ散々お世話になっている私としても断る訳にはいかないというのもまた事実。
此処はちゃんと親身になって考えてあげる事にしよう、私は心の中でそんな風に意気込みながら改めてその人物について深く情報を得る為に先生へと言葉を投げ掛けるのだった。

「同じ年頃の子絡みのトラブルっていうと……ウチの学校関係の事ですか? 先生って確か結構上の人から面倒を押し付けられてるとかなんとか愚痴零してた事もありますし。やっぱり、そっちの方の悩みですか?」

「う~ん、残念。今回はウチの学校の子達絡みの事じゃなくて完全に私の私用よ。でも、立場的にはどうしても見捨てられなくってね。まったく、損な性分よ。時々こんな自分が嫌になってくるわ……」

「……私用、ですか?」

「あぁ、うん。そう言えばまだ詳しくは話して無かったわね。え~っと、まずは何処から話したら良いものかしら。私自身、ちょっとまだ混乱してる所があってね。上手く割り切って話を整理出来てないのよ。でもまぁ、簡単に言ってしまえば……ちょっとした“拾い物”が厄介なトラブルを抱えちゃってるみたいなのよ。それも、ちょっと度合いの桁が普通よりも二、三個違っちゃうようなでっかい奴を。本当、参っちゃうわよ。自棄酒でも煽りたい気分だわ」

先生は苦笑を浮かべながらハンドルを握っている利き腕とは逆の手で火の付いた煙草を摘み上げつつ、私にそんな風に漏らしてきた。
そしてそんな風に私に語りかけてくる先生の表情は何処か切なげで、まるで何かを悟ったかのように酷く寂しげな物だった。
思い出すだけでも辛い事を無理やり思い出しているような感じ、私はそんな先生の様子にそんな印象を密かに抱いていた。
何処か苦虫を潰したかのような表情を浮かべ、肩を竦めるような先生の仕草には何処か私も見覚えがあるような気がしたからだ。
そう、それは嘗ての私……どうしようもない事をどうしようもないのだと諦めてしまっていた頃の自分自身にそっくりだったのだ。

勿論当の本人が何を言った所でそれを決めるのは周囲の人間なのだろうけど、恐らく先生だったらあの当時の私に今の私と同じような心境を抱いていた事だろう。
どれだけ頑張っても独りではどうやっても対処のしようが無い事柄の壁、それにぶつかった時に失望と絶望は人の心なんか容易く折り曲げてしまうほどに大きな物だ。
幾ら強固な意志を持つものであろうと、卓越した知識を持つ人間であろうと、並々ならぬ才覚を露にする物でさえ容易く目の前の現実を見失ってしまう程に。
だけど多くの人間はそれを乗り越えて前に進む事が出来る。
何故なら、この世界で息衝く殆どの人間は決して周りから完全に孤立してしまっているような孤独な人間ではないだろうから。
でも、時と場合によっては人はそんな困難を前にしても一人にならざるを得なくなってしまう事だってある。
今の先生が置かれている立場というのもまた然り。
どういう事情なのか私にはまだよく分からないし、その「拾い物が抱えたトラブル」という全容が掴めていない今の状態では何とも言いがたいのだけれど……こんな私にすら縋らなければ解決の糸口さえ掴めないかも知れないというほど切羽詰っているという事くらいは私にも容易に理解出来た。
公的な立場で物事を考えられない以上、先生はまともな知り合いに声を掛ける事すらままならないということなのだ。
つまりは今の彼女もまた独り、少なくとも今は私が付いているから過去形になりつつあるのかもしれないけれど……私を加えた所で解決出来るか如何なのか定かでない以上はまだそう断定する事は渋られるという物だろう。

それからしばらくの間、私は如何返事を返せばいいのかと考えたまま黙り込んでしまっていた。
窓の外では次々に景色が移り変わり、気が付いた頃にはその景色は既に先生のマンションの近くの道路に変ってしまっていたほどだ。
まあ、先生の家と私の家は近道をすれば十数分程度で着いてしまうほどしか離れていないのだから車で移動すれば当然それ以上に短い時間で付いてしまうのは当たり前なのだけれど……私にはその時間が何処か何時も感じている時間よりもずっと永いような気がしてならなかった。
掛ける言葉が見つからないという焦りと、どんよりとした車内の空気が何とか打開しようとする私の心に侵食してそうさせてしまうのだ。
何か此処で上手い冗談でも言えたのなら私としても大分気が楽なのだけれど、生憎私はこんな雰囲気の中でジョークを言ってのけるほど器用な人間じゃない。
加えて基本的に私は口下手で、おまけに話している相手は騙しが利きもしなければする必要すらない先生なのだから余計に言葉が見つからなくなってしまうのだ。
だけど、だからと言ってこのままずっと黙っている訳にもいかないのもまた事実。
流石にこの空気のままずっと時間が過ぎていくというのは私としても辛い物があるし、何よりも間が持たなくなる可能性がかなり大きくなってしまう。
久しぶりの会話だというのにこのままではお互い微妙な空気のままになってしまうかもしれない、そんな風に心の中で危機感を覚えた私は改めて先生に話題を提供する為に苦し紛れではあるものの自分の思っていることを言葉にして先生へと投げ掛けたのだった。

「“拾い物”って、その当事者の子の事なんですよね? 一体どんな子なんですか?」

「う~ん、そうねぇ。とりあえず貴方と同い年くらいの女の子よ。だけど日本人ではないわね。欧州系……恐らくはイタリアの北部辺りの出身だとは思うんだけど、何せ当の本人がちょっと訳ありでね。自分の出身はおろか、自分が何処から来たのかすら覚えてないみたいなのよ。話す言葉も流暢な日本語だったから多分この辺りの子なのは間違いない筈なんだけど、ね。本当に参っちゃったわよ、っと……噂をすれば何とやらって奴ね」

「えっ、どうかしたんですか?」

「本当は家に着いたらゆっくりと紹介する心算だったんだけど、どうやらその必要もなくなったみたいね……」

何処か呆れ果てたような口調でそんな言葉を呟いた先生は溜まっていた疲れが更に上乗せされたかのような表情で一度大きく溜息を吐き捨てると、徐にブレーキを踏んでその場で車を停車させた。
一体こんな所で如何したのだろう、突然の先生の行動に私は何となくそんな疑問を頭の内に浮かべてしまった。
先生の住んでいるマンションは確かにもう直ぐ目と鼻の先だけどこんな所に車を止める訳にはいかないだろうし、そもそもマンションの前にはちゃんと住人用の専用駐車場が完備されている筈なのだ。
なのになんで其処に止めないでこんな場所で車を止めてしまったのだろう、考えれば考えるほどなぞは深まるばかりだった。

しかし、次の刹那私は先生側の窓の外に小柄な人影が蠢いているのを視界で捉えていた。
小柄で華奢なシルエットに無数の絆創膏や包帯を纏った色白な肌。
蜂蜜を細長い糸にして紡いだような艶のある金色の長髪に、その髪に彩られるように引き立つフリルやレースを用いた純白のワンピース。
そして同姓の私が見ても思わず綺麗な子だと評価せざるを得ないような整った顔立ちに、何処か小動物を連想させるような潤んだ瞳。
そう、其処には真っ白で何処か清純そうな欧州系の令嬢にも見えてしまうような可愛らしい女の子が姿があったのだ。
普通なら見とれてしまうほどに綺麗な子、というような印象で私も彼女への認識を止めていた事だろう。
でも、私はそんな印象的な彼女の姿に何処か見覚えがあって……そして思い出したのだ。
その少女こそあの雨の降る日の踏み切りで私が自殺を引き止めた子なのだという事を。
驚きのあまり、私はしばしの間何も言葉を発する事が出来なかった。
確かにあの時私はもう一度会う事が叶うのならば、言葉を交わしてみたいというような風に思ってはいた。
だけど私自身、まさか本当にこんな風に再び巡り会えるなんて夢にも思わなかったのだ。

すると先生はそんな少女の様子を見かねてかシートベルトを外して車を降り、その少女の下へゆっくりと駆け寄って行ってしまった。
どうやら先生が先ほどから口にしていた“拾い物”とは彼女の事だったらしい、私は先生の何処か呆れつつも苦笑を隠せないような態度から直感的にそれを察知していた。
何故ならその表情は何処か初めて私とであった時に彼女が浮かべていたそれと似通っていて、それが私には酷く懐かしいような気がしてならなかったから……。
ともあれ先生が降りたというのなら此処は私も降りて、ちゃんと事情を把握する為に説明を受けた方が得策だろう。
私は意外なの第三者の存在に何処か戸惑いつつも、先生に習ってシートベルトを外し、車から降りて二人の下へと歩み寄りながらゆっくりと自分の思っていたことを言葉に代えて紡ぐのだった。

「あの……っ、先生。その子は……」

「あぁ、御免なさいね。家に居てって言ってたんだけど、何だか独りでいるのが不安になっちゃったみたいでね。ずっと此処で私の事を待っててくれたみたいなのよ……。まっ、これも丁度いい機会かもしれないわね。どうせ遅かれ早かれ話さなきゃいけなかった訳だし、今でも別に問題ないわよね」

「じゃあ、やっぱりその子が……」

「そう。私の家の栄えある居候第一号、フェイトさんよ。仲良くしてあげてね」

何処か無理やり明るく声色を変えたような先生の言葉はあまり私の耳には響いてはこなかった。
変りに響いてくるのは目の前の彼女、フェイトと言う名前の儚そうな少女の視線。
まるで初めて鏡に映った自分を眺めた子供のような、何処か驚きながらも未知の何かに対する魅力に引かれていくようなそんな視線の目に見えない響きだ。
一体彼女の何が私をそう思わせ、何故そんな風な印象を私の抱かせるのだろうか。
そんな疑問が泡のように湧いては消え、そしてまた思い出したように湧き上がってくる。
まるで鏡写し、それは以前私が始めて彼女に会った時に抱いた印象の全てだった。

同じように傷つき、同じように窶れ、同じように独り……にも拘らず私と彼女の間には何とも知れない奇妙な相違が存在する。
それは本当に些細な違いなのに、完全に私と彼女をコインの裏表に仕立て上げてしまっている。
故に鏡写し、どちらか虚像でどちらが実物なのかは本人の視点次第なのだろうが……私には確かに彼女の姿がそんな風に思えてならなかったのだ。
だからこそ、私は目の前で目じりに涙を浮かべながら先生の背中に隠れてしまっている少女に強い興味を持った。
一体何故私がこんな印象を抱いてしまったのか。
一体何故彼女は私をそんな風な目で見ているのか。
そして一体何故、彼女は自殺なんて真似をしようとしたのか。
聞きたい事は山ほどあるし、話して欲しい事もまたそれと同じくらい沢山ある。
だけどそれ以上に私はこうして再び巡り会えた事に何処か言葉に言い表せないような既知感を憶えて止まなかった。
もしかしたら私たちは何処かで同じように出会い、会話をしていたのではないか……そんな風に。
こうして私たちは出会い、交差する。
そう、これが私こと高町なのはと身元不明の女の子であるフェイトちゃんとの二度目の出会いだった。



[15606] 第十九話「鏡写しの二人なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/05/16 16:01
とある諺の中に世界には自分と似通った人間が最低でも三人は存在する、という物がある。
これは単純に解釈するのであれば世界には自分と似たような容姿や背格好の人間が少なからず存在しており、それ等の個々は互いに面識が無かったのだとしても何らかの縁を感じざるを得ないという事になる。
人の運命とは実に想像が及ばない程に数奇で、また歪なまでに不可思議な物である。
私のような学の無い人間ではあまり偉そうな事は言えないのかもしれないのだけれど、つまりはそういう事なのだろうという位は何となく想像が付いた。
何せ実際の所、そういう奇妙な廻り合わせというのは中々どうして否定出来ない物が在るからだ。
別に私自身運命だとか天の定めだとかそんなオカルトめいた眉唾物の与太話を本気になって真に受けているという訳ではない。
寧ろ私の場合はその逆、朝のニュース番組の途中にやっている星座占いだとか血液型で人の性格が判るだとかそういう何の根拠も無い迷信染みた物は基本的に鼻で笑って馬鹿馬鹿しいと断じてしまうのが常だ。
何故なら其処には一切の確証が無く、また私自身が己に対してこれは正しい事柄なのだと納得させられるだけの理由も無いから。

だけど時にはそんな私の考えすらも逸脱して、無理やりにでも自分を納得させなければいけないような事態というものも確かに存在していたりもする。
そして更に驚く事に、その事態があろう事か自分の目の前で自身の存在を巻き込んで展開するというのも満更笑えなかったりもする訳だ。
勿論、それが特上級にセンスの悪い冗談だっていうのは私だって理解してはいる。
実際に自分が体験していないのにも拘らず、机上の資料だけで物事を語る人間が賢者ぶるのと似通った理屈だ。
あくまでも自分とはまったく関係ないと言い切れるからこそ、人は他人事だからと彼是何とでも言葉を並べられるのだ。
しかし、その逆もまた然り。
そんな普段なら他人事だと笑って済ませてしまうような出来事が現実に自分を巻き込んで起こりえたのであれば、これ以上の不幸は他に無いと言ってしまっても構わないだろう。
何せ今まで想像すらもしなかった出来事に覚悟を抱く間も与えられないまま直面しなければならないのだ。
それがどれだけ面倒でかったるい事なのか、似たような経験をしている私こと高町なのはからしてみればそれはもはや語るまでも無い事だった。

でも、今回の出来事はそれ等の経験を踏まえた上で考えても何処かそういった物とは違うんじゃないかという気持ちが否めなかった。
確かに今の現状は何処か不可思議ではあるし、一見してみただけならまた面倒事が舞い込んで来たという風にも解釈出来る。
だけど何かが、決定的な何かが今までのトラブルとは違うような気がしてならないのだ。
言い例えるのならばジャンルの違いだ。
今までのトラブルがR‐18指定物のバイオレンスアクションだとするのならば、今の現状は全年齢対象ながらも攻略の糸口が一向に見えてこない高難易度のパズルゲーム。
それも所々で思考型のシミュレーションを挟むタイプの一回プレイしたら数日はうんざりしそうな鬱憤と疲労感が溜まるタイプの面倒な奴だ。
ある種これ等の二つはトラブルというハードで括る事は出来ても、その中身を同一視する事は出来ないゲームのような物。
つまりは意味合い上は同じであったとしても、その中身は決して交わる事が無いと断言できてしまう程に相反しているという事だ。
今回の件もまたその例に外れず、寧ろその道理を見事に通ってしまっていると言っても過言ではないだろう。
何せ実際問題、こうして私の目の前にそんなトラブルという名の爆弾を抱えている疑惑が濃厚に漂う少女が現実に存在してしまっているのだから。
まぁ、ともあれ最終的に私が言いたい事は……本当にこの目の前で真剣な面持ちを浮かべるフェイトちゃんという人間は一体何物なんだろう、という事だ。
尤も、それは本質的に私が抱えている疑問とは別な物の様に思えてならないのだけれど……もう私は途中からその事については考えるのを諦めていた。
何せ、考えれば考えるほど疲れが溜まるだけなのは目に見えているのだから。
私は机を挟んで相対する形で向き合っているフェイトちゃんの顔をそっと一瞥しながら、何時もの物とは少々異なる事情から来る溜息を宙へと吐き捨てるのだった。

「ツモ」

「えっ、嘘でしょ? また?」

「はぁ……本当に? え~っと、これで確か最初の試しを除いて六戦やって私も先生も全敗したから……ってちょっと待った! という事は、フェイトちゃん今ので六連荘!?」

「ごめんね、なのは。えっと……対々和・南・混老頭・混一色・ドラドラ。倍満、8000オールかな。なんだか、また勝っちゃったみたいだね」

困惑気味にも何処か自信有り気に麻雀卓に自分の牌を曝け出すフェイトちゃんの姿に私は驚きと落ち込みの色を隠し切れなかった。
そして、そんな私の様子に同じくして始める前まではウキウキしていた先生も今となっては殆ど意気消沈気味といった様子でフェイトちゃんが曝け出した牌を呆然と見つめるばかりといった様子だった。
何せ素人相手だからと調子に乗って散々振り込んだ挙句、その素人相手に六連続で負け越してしまっているのだ。
幾ら私にしても先生にしても素人に毛の生えたレベルの実力しか有していないと言えども、一応オンライン麻雀やアーケード麻雀でそれなりの記録を出している手前それなりに場数を踏んでいるという自負はある。
ましてや相手は素人、それも腹の中の駆け引きなんて生涯一度もした事の無いような純粋無垢な少女なのだ。
幾ら暇潰し程度の嗜みとは言えども、大人でもクリアの難しい筐体をワンコインでクリアした身の上としては負ける事など絶対ありえない相手だったと言っても過言ではない筈だろう。

しかし、目の前にいる淡い金髪を持つ女の子はそんな私の常識を遥か斜め上を正に唯我独尊と言わんばかりの速度で駆け抜けてしまっていた。
本当につい一時間少し前まで彼女は麻雀のルールはおろか、そのゲームの存在その物すら存じていなかったような人間だった。
にも拘らず、彼女は持ち前の覚えの良さと学習力でほんの二、三回のプレイで大体のルールを完全に覚えるばかりか、あまつさえこうして私や先生を連敗に追い込むまでにその実力を磨き上げてしまったのだ。
それもまだ一時間ほどしか経過していないというこの短い期間の中で。
フェイトちゃんの成長っぷりには流石の私や先生も驚きを通り越してただただ驚くばかりだった。
まぁ、その驚きの殆どはそんな素人さんに惨敗を喫してしまうほど自分は弱かったのか、というような絶望からくる物が大半を占めていたりもするのだが……。
ともあれ、最終的に私や先生が言いたい事は恐らくこの一言に尽きるという物だろう。
「一体この子は何者なんだ……」という、懐疑的なこの一言に。

さて、話しを原点に戻して今の状況を少しだけ振り返ってみるとこうして一見この場に順応しているように見られても仕方が無いような私からしても突っ込み処は多々存在しているような気がしてならなかった。
そもそも何で私達はこうも互いに遠慮する事も無く普通に麻雀卓を囲んでいるんだろうとか、というかまず何で数あるゲームの中からやたらと複雑なルールを持つ麻雀を選ぶ事になったんだろうとか、よくよく思い返してみれば私はまだ殆どこの目の前で微笑を浮かべながら牌を崩しているフェイトちゃんという少女についてまだ説明を受けていないのにどうしてこうも打ち解けてしまっているのだろうとか……その他諸々エトセトラエトセトラ。
常識的に考えれば一々突っ込んでいたら切が無いとしか言えないような膨大な量の状況が今の私の目の前には広がっていた。
とは言っても、流石の私でもこれだけの突込みを一度に捌き切るのは難しい為、状況を説明するには順を追っていく他無いのだろうけど……唯一つ明確に私の意志として発言する事が出来たのならばきっと私はこう呟いていただろう、という想いだけはその是非を論じるまでも無く今この場を持ってしてもしっかりと持ち合わせていた。
上記の懐疑の言葉に続く二の句、疑いの言葉をより明確にしながらもより歪に捻じ曲げる装飾語……有り体に言い表すのであれば「何にしても厄介な事情が在りそうだ」というそんな言葉を。
私は胸中の奥底ではこんな子に何が出来るというんだ、と自身の想いを嘲りつつも可能性が完全に無いとは言い切れない状況に頭を悩ませながら、とりあえず今は静観を決め込む事にしようと自身の考えの中に一応の決着を付けるのだった。

「うだぁ~、もうやってられないよぉ。素人相手に此処まで私が惨敗する羽目になるなんて……はぁ、そんなに私って弱かったかなぁ? 結構、自信あったんだけどなぁ……」

「あっ、その……なのは。ファイト、だよ」

「うぅ、返され方までなんかデジャヴだし……。先生ぇ、何か悔しく無いですか? 素人に此処まで良い様にされると、正直私滅茶苦茶悔しいです。割と本気で」

「そうは言ってもねぇ、私だって予想外だったのよ。まさか此処までフェイトさんがゲームに強いだなんて……。まぁ、とは言え貴方の意見には全面的に同意するわ。何と言うか、こう……実力者としての譲れない一線ってあるじゃない? そういうのに引っかかられるとさ、年甲斐も無く本気に為っちゃう訳よ。大人気ないかもしれないけど……」

何処か達観したような、だけどそれでいて負けず嫌いの子供のような先生の態度に私は思わず苦笑を漏らしながら「じゃあ私の場合は子供気無いって言うんですか?」と茶化す様に言葉を返した。
久しぶりに素のままの気持ちで笑えたような気がした。
誰かを騙す為の演技でも無く、自信を嘲る為の苦笑でも無い純粋な気持ちから来る素直な感情の体現。
微笑むとか素直とかそんな言葉が似合わない人間だっていう事は私自身も重々承知していたけれど、いざこうして一度離れてみると中々に感慨深い物があった。
今此処に確かな私の”日常”がある実感、とでも言えばいいのだろうか。
私もこの手の比喩的な表現は苦手だし、正直な所未だに自分自身はっきりとした実感を得られているという訳ではないのだけれど……この流れていく刹那の時の中でこの瞬間に私が笑えたという現実は嘘偽り無い本物であるような気がするのだ。
勿論其処に説得力なんか欠片も無い、寧ろ自分でもなんでこんな事を考えてしまっているのだろうと疑問視したい位だ。
でも、何となく私は思ってしまうのだ。
今此処でこうやって馬鹿らしく笑っていられる時間こそが私が求めた平穏なんじゃないかっていうような、どうしようもない独り善がりな考えを。

先生がいて、私がいて……まぁ、私からしてみれば未だにイレギュラーな存在ではあるけれどフェイトちゃんという女の子がいて、皆で馬鹿やりながら笑い合う。
それが当たり前なのかそうでないのか、その垣根はやはり私には測りきれない物だけど、今確かに此処には素のままの私が存在するのだ。
答えなんてそれで十分って言うわけじゃないけれど、少なくとも私にはそれ以外にこの胸中に芽生えた安堵のような気持ちを表現する言葉が見当たらなかった。
一様に平凡で、一様に平穏。
可も無く不可も無くというどっち付かずな退屈が、今の私からすれば堪らなく愛おしい物のように思えて仕方が無かった。
此処には自身を命に晒さなければならなくなるような危険もなければ、魔法やジュエルシードといった面倒臭い事情を抱えた厄介な品物も無い。
まぁ、その理屈で言えば今もこうして膝元に置いたままになっているポーチの中に隠された小型拳銃や目の前で只管にオロオロとする謎の外国人少女もその範疇に入るのだろうが……特別意識しなければ当面は問題が無いだろうから此処では除外するとしよう。
ともあれ、此処は平和で下手な問題に無理に首を突っ込んで頭を悩ませる必要は無い……それだけは確かな事だった。
尤も、目の前で何時の間にかおっぱじまったミニ三人麻雀大会がその雰囲気をぶち壊しているといえなくも無い訳だが。

そもそも何故私達が何の前触れも無く当然こうして麻雀卓を囲うような事態になっているのかと言えば、それは偏に悪い大人の突発的な思い付きだったという他なかった。
それは今より約三時間ほど前、まだ私とフェイトちゃんが顔を合わせてから間もない時にまで遡る。
マンションの外で対面し、そのままなし崩しに先生の部屋まで縺れ込んだ私たち二人は先生に諭されるがままに歳も近い者同士だろうという事で何気なしにお互いの自己紹介をする事になった。
まぁ、とは言えどうにもお互い人見知りが激しいというか内向的というか……運が悪い事にお互いそれ程知らない顔の人間と饒舌にやり取りが出来るほどの人間じゃなかった事が祟ってか一通りお互いの簡単な身の上を口にして以降は私にしろフェイトちゃんにしろただただお互いの顔色を度々窺いながら黙りこくるしかなかったのだ。
とは言え、こんな展開は私としても出会った当初からある程度は予想出来ていた事だった。
フェイトちゃんという少女は第一印象からして出会い頭に行き成り先生の背中に隠れてしまうくらいだから素人目に見ても人見知りが激しいんだなって言う事はある程度予想できていたし、反対に自分自身の事を振り返ってみた所でお世辞にもその評価が社交的であるという結論には至りはしない。
そんな半人間不信気味の二人を引き合わせてみた所で、会話がそう長く続かないというのは最早自明の理というものだろう。

それで結局私たち二人は互いに俯いたまま、何を話すわけでもなくただただ沈黙を護って場の空気を悪化させる一途を辿っていた訳だが……其処で先生から思わぬ助け舟が飛び出してきたのだ。
「どうせ黙ってたって時間の無駄だろうから、ゲームでもやって親睦を深めよう」、それが場の空気に耐えかねた先生からの悲痛な叫びにも似た提案だった。
恐らく先生も必死だったのだろう、それ位の事は私にだって容易に想像が付いた。
確かに先生自身はそれ程多くの事を語るような人ではないけれど、今此処にいる三人の中では最も社交という物を熟知している。
きっとその経験と感性がこのままではいけない、という事を悟った故の行動だったのだろう。
とは言え、そう言われては当人である私たちも黙っているという訳にもいかず……そのまま先生に乗せられる形でこうして現状にまで至っているという訳だ。
とは言え、何でその矛先が数あるゲームの中からよりにもよって麻雀になってしまったのかは今をもってしても分からないのだけれど。
まぁ、先生曰く「慣れてる人間が多いゲームが良い」との事だし、それに次いで「貴方も好きでしょう? 麻雀?」と問われれば勿論その通りではあるのだが……如何にもいまいち釈然としない物があった。

好きか否かと問われればそりゃあ私だってゲームセンターの筐体麻雀をワンコインでクリア出来る位慣れている手前嫌いといえば嘘になってしまうけど、普通小学生を相手なら人生ゲームなりウノなりトランプなり他に幾らでもやりようはあった筈だろう。
にも拘らず、どうして麻雀なのだろうか……そんなどうでもいい疑問は未だに解決されないまま私の頭の中に蔓延っていた。
でもまあ、結果的に今の現状を鑑みればこうして一応当初の目的は達成出来た訳だし、結果オーライと言えば正にその通りなのかもしれないけど……。
私は未だに何処か引っ掛かる物を自身の胸中の中に感じつつも、それも偏に先生の手腕なのだろうと適当な理由をくっ付けて自己完結しながら二人との会話の輪に意識を向けるのだった。

「それじゃあ……七戦目に突っちゃう? そろそろ私も本気出しちゃおうかな、って思ったり思わなかったりして久しぶりに気分高まっちゃってるんだけど。人間そういう中途半端な気持ちのままじゃいけないと思うんだよね、何事も。だからさぁ……発散しちゃいたいんだよ。ねぇ、先生?」

「そうねぇ……まぁ、一養護教諭として言わせて貰えばストレスを抱えたままにするのはよくないことは間違い無いわ。とどのつまり、それは大人も子供も変らない心理みたいな物よ。という訳で、本当に大人気無いけど私もちょっとだけ本気になっちゃおうかしらね。大学の頃から雀荘で積み上げてきた経験、伊達で終わらせるにはいかないってもんよ」

「ふっ、二人ともお手柔らかにね……」

「「勿論(だよ)」」

抑えても抑えきれない久々の高揚を肌で感じ取ったのか、何処か戸惑い気味に言葉を漏らすフェイトちゃんに私と先生は事前に打ち合わせをした訳でもないのに妙に息のあったタイミングで発する言葉をハモらせながらそれに返答して行く。
私も自身の内に存在していた数あるプライドを全て妥協して辛酸を舐めさせられながら生きて来てきたけれど、それでも譲れない一線という物もまだこの身には残っている。
それはゲームに対する感慨とプライドだ。
どれだけ自身が落魄れた身の上であろうとも、其処だけは決して私も譲る訳にはいかないのだ。
今の生活……って言ってもまだ魔法に関るほんの少し前の事を指しているのだが、その時間を過ごす上で私は様々なゲームに触れて暇を潰しながら過して来た。
古くは初代ファミコンからメガドライブ、少しマイナーな物になるとワンダースワンから果てにはかの有名なATARI2600まで実に多種多様な機種のコントローラーを私は手に取り、そしてそれ等のゲームのソフトを余す事なくどんなジャンルであろうと一通り享受して楽しんだ。
勿論なかには所謂クソゲーと呼ばれる物も多々存在していたし、苦手なジャンルや正直私のような子供が本当にプレイしても良いのだろうかと勘潜ってしまうような物だってそう数があった訳じゃないけど無い訳ではなかった。

でも、私はそれ等のゲームをどんなに困難な物であろうが時間が赦す限り幾度と無くプレイしてはクリアし、そしてその経験から自身の持つスキルを磨いて来たのだ。
当然それは麻雀のようなボードゲームだって例外ではない。
相手はあくまでも人間ではないCPUだったけど、麻雀ゲームなら据え置きのゲームにしろ携帯ゲームにしろゲームセンターにある筐体にしろ幾度と無くプレイし、そして最終的にはそれ等総てに私は打ち勝って来た。
その私がついさっきまでルールも知らなかった素人中の素人に負け越す訳には行かない、と言うか此処まで来ると最早そうそう何度も奇跡を起こさせて溜まる物かという最底辺の意地から来る問題だった。
そしてその心境は先生も同じなようで、ふと横目で彼女の方を窺うとその表情は穏やかな微笑を浮かべながらも猛禽類のようにギラギラと眼を輝かせている。
流石は我がゲームの師匠分といった所だろうか。
先に上げたゲーム機を全て所有し、あまつさえ貸し与えてくるほどの実力者である彼女ならば当然の反応といった所だろう。
私たち二人は互いに口元を吊り上げ、何処かお互いに魔女のような「ふふふっ……」という深みのある笑いを浮かべて目の前にある麻雀卓へと視線を移すのだった。

「なっ、なんだか二人ともちょっと怖いよぉ……。もう少し穏便にやろうよ、ね?」

「穏便にやる、か。なるほど、確かにそんな選択もあったのかもね。でも……それは娯楽を楽しむ上での心構えだよね? だったら今の私には必要ない。分かる? 今私がこの場で望んでいるのは勝利と優越、他の一切に興味は無い。妥協も無い。私はね、この“雀卓の上で何処まで踊れるか”……それ以外に興味は無いんだよ。だから……っ!」

「―――――そう、だから勝つのよ私たちは。最初に謝っておくわね。完全に本気になっちゃったら御免なさい。大人にもね、どうしても譲れないプライドって物があるのよ。ゲーム好きなら尚更、ね……」

「「ふふっ、ふふふふふ……」」

やっているこっちもこっちで何でこうも的確にタイミングが合うんだろうと疑問視したくなるような絶妙なタイミングで私と先生の笑いがハモり、何とも形容詞のしがたい不気味な雰囲気を辺りに撒き散らす。
その様子にフェイトちゃんは「ふえぇ!?」と狼に睨まれた子羊のようなリアクションを取っていたが、血潮の滾った私達からしてみれば些細過ぎて問題にすらなら無い物だった。
このゲームを通して下の名前を呼び合うほど親しい間柄になったとは言え、今のフェイトちゃんは私や先生のプライドをエーゲ海よりも深く傷つけ、チョモランマの頂上から見下ろしているような状況にあるのだ。
まあ彼女からしてみれば不可抗力だったのかもしれないが、そんな事はどうでもいい事だった。
彼女に勝利し、失われた穢れたプライドを取り返す……私たちの脳裏に存在する言葉は最早それだけで十分だった。

確かに私はまだフェイトちゃんと出会って間もないし、少々先生の耳には入れられないような疑惑もこの胸の内には存在している。
だけど今は、今だけはそんな事なんて関係無しに私は彼女という存在その物を見据えていたかった。
此処まで私を本気にさせた人間は久しぶりだ。
それこそインターネットのオンライン麻雀で『疾風-HAYATE』というハンドルネームの人に敗北をきってして以来初めてかもしれない。
まぁ、それほど私自身友達と呼べるような人間はいないからプレイする人がいないからなのかもしれないけど……そんな物は些細な問題だろう。
ともあれ、私はこの時久々に感じたのだ。
生死を賭けるわけじゃない、何か特別使命感を感じる訳でもない。
ただただ純粋に己の欲求と意地から来る勝利を得たいという衝動を。
永らく忘れていた感情だった。
もしかしたらこのまま永遠に思い出さなかったかもしれないような錆付いた矜持でもあった。
でも、それ以上に今の私の心の中では暴れ狂わんばかりの荒ぶった感情が渦を巻いて唸りをあげているのだ。
目の前の相手に勝ちたい、久々にであった自分よりも実力のある相手に挑んで勝利したいという気持ち……それが私の心からの本心だった。
私は一度スッと短く息を吸って今まで抱えて来た一切合財を忘れ、今目の前にある盤に並んだ牌を手に取ると誰に何を言われる訳でも無くゆっくりと……しかしはっきりと今自分の胸中にある気持ちを外へと吐き出すのだった。

「それでは―――――」

「いざ、いざ尋常に―――――」

「「勝負!!」」

「さっ、さっきも言ったけど……お手柔らかに、ね?」

こうして私達の闘いの幕は開けた。
私は己がプライドを、先生は自身の信念を、フェイトちゃんは……何なのか分かんないけど取りあえず今ある立場を守る為と仮定してそれを貫き通す為に。
私達は各々の想いを胸中に抱き、そして牌を取る。
それこそが自身にとって最善な事だと信じて……。
と、まあこんな具合だと『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』とか『咲-Saki-』とかその辺りの超頭脳派系麻雀漫画の一場面みたいだけど、先に言ってしまうのであればこの先何度やっても私にしろ先生にしろ一度もフェイトちゃんに勝てなかった事は言うまでもないことだったという事を此処に明記しておく。
そう、人間乗り越えられない壁の一つや二つ位はあるという事なのだ。
ただ殆どの人間はそんな壁がこんなにも身近に在るなどと想像もしないだけで、そして愚かにもそれに挑んでは散っていくという事を繰り返す訳だ。
今の私や先生のように、平凡な自身の才覚を自覚すらしないままに。
この後、結局通算17戦にまで及んだ三人麻雀はフェイトちゃんが勝ちを全て掻っ攫い、残る二人の無謀な挑戦者が折れた事でその終結を迎えたのだった。
今度こそは……と、そんな懲りない気持ちをその二人の挑戦者の胸へと植え付けながら。





その後、結局日が暮れる処か完全に空が真っ暗になるまで遊んで遊んで遊び尽くした私達三人はいい加減飽きが生じ始めた麻雀も取り止め、何をする訳でも無くそのままダラダラと各々が思い思いの事をして時間を過ごしていた。
先生は何やらパソコンで仕事の資料を纏めると言ったまま隣の部屋へと行ってしまったし、フェイトちゃんはフェイトちゃんでさっきまでは一人やる事が無いと落ち込んでいたけれど、私がテレビゲームのやり方を教えてあげてからはこっちもこっちで押入れに入れてあったと思わしき埃被ったスーパーファミコンを引っ張り出してきては気に入ったと思わしきパズルゲームを延々とプレイしては楽しそうに笑っていた。
まあ先生の方はあんなにおどけた性格の人でも一応教師だから仕事をしなきゃいけないっていうのは仕方の無いことなのかもしれないけど、反面細かいドット絵で埋め尽くされたテレビ画面に向き直るフェイトちゃんの方はまるで初めて好きな玩具を親から買い与えられた子供の様に無垢な笑顔を振りまいてるなっていう印象を私は受けた。
今日日単にテレビゲームをするだけで此処まで楽しそうに出来る子供なんて日本中捜しても極僅かな数に満たないだろうに、彼女はあんな単純なパズルゲームを繰り返すだけであそこまで純粋な微笑を浮かべることが出来ている……そんな姿が何となく目に付いて離れなかったのだ。

あんな古いゲームがそんなに物珍しいのだろうか、私はそんな風な率直な疑問を頭に浮かべつつも先生に許可を得て適当に本棚から拝借した『マテリアルゴースト』というライトノベルを一度顔の前から取っ払い、ソファーに寝転がったままという何とも年頃の女の子らしからぬだらしのない体勢のままフェイトちゃんの方へと視線を向ける。
視線の先には今も変らぬ無垢な表情で微笑を浮かべ、ゲームを享受するフェイトちゃんの姿があった。
どうやら最初の頃に比べて次第にコツを掴んできたのか、そのまま流すように画面の方に視線をやってみると其処では物凄い速さで積み上げられたブロックが連鎖して打ち消されているのが目に付いた。
相変わらず順応が早い子だ、私はその様子に感心しつつも反面で未だに自身の胸中でざわめく言い様の無い呆れを持余しながら不意にそんな評価を頭の中で浮かべた。
麻雀の時もそうだったがフェイトちゃんは何に関しても総じて理解が早く、また実行に移す際も的確に言われた事を動作に転用し、体現出来るだけの正確さも兼ね備えていた。
言うだけではそれこそなんて事の無いどうでもいいような事の様に思えてしまうが、これは非常に希少な特技だ。

周りに合わせて順応出来る適用力、それに少ない情報の中から正確に正解に程近い回答を導き出して徐々に修正を重ねていくという応用力。
至って普通に生活をしている上ではなんて事の無い物のようにしか思えないそれは、実は結構多くの人が見落としがちな能力でもあるのだ。
当り前過ぎるが故の盲目であるとでも言えばいいのだろうか。
まあ何でも良いけれどつまりは常人にはなんて事の無い普通な事だけど実際はその”普通“を忠実に実行できる人間は希少だという事だ。
その点で言えばフェイトちゃんは実にその王道のような希少を本人も大して自覚して無さそうな自然な挙動でやってのけられる逸材であると言えた。
こんな事を私のような人間が偉そうに語るべきではないのかもしれないが、実際の所素人目に見てもフェイトちゃんの“ソレ”は精練されていて非常に違和感の無い物だったし、逆に言えばそんな精練された混じり気の無い感情の内にある子供っぽさがより顕著に彼女を彼女たらしめているようにも私には思えたのだ。
とは言え、実際の所私自身まだ色々と至らない部分はあるし、この評価にしてもまだ年齢が二桁にも満たない子供の戯言に過ぎないのも自覚しているから決して今の自分の回答が完全に正しいとは言えないけれど……その是非云々を抜かすとして考えた場合、それが私が考えうる彼女の特徴を捉えた評価の限界ということなのだろう。
少々歯痒い気持ちも込上げて来てしまうけれど、こればっかりは私の実力不足によるものだから現状ではどうしようもない。
この件に関して再び思考する時が来るのなら、その時はしっかりと自身の思考能力を向上させた上で挑む事にしよう。
私はどうでも良いような思考に適当な区切りを付けつつも、じゃあ今度は何を考えて時間を潰せばいいんだろうかという別の角度から生じた問題に軽く頭を悩ませながら、そんなことの発端となった現在進行形で絶賛連勝中のフェイトちゃんへと何を考えた訳でも無く徐に思った事を言葉にして投げ掛けてみるのだった。

「……ねぇ、フェイトちゃん。それ面白い?」

「うん。とってもユニーク」

「そっ、そうなんだ。でもそれ、結構古いゲームだよね? 今時16-bitのマシンを引っ張り出してやってる人なんて私も久しぶりに見たよ。私ですら最後の触ったのが何時だか分からない位だし……っと、まあそんな事はどうでも良いけど実際の所本当にそんなゲームで良いの? 良かったら……もっと立体的で面白い奴教えてあげるけど?」

「えっ、あぁ……ううん、いいよ。なのはの気遣いは嬉しいけど、今はこれで私も満足してるから。こういう……テレビゲーム、って言うのかな? こういうの私碌にやった事無いような気がするし、多分そう感じちゃうって事はきっと“前の私”もやった事無かったんだろうから……だから今はこれで十分満足だよ。今はただ、新しい物に触れているだけで新鮮だから……」

先ほどから変らず貼り付けたような笑顔を浮かべ続ける表情とは裏腹に、フェイトちゃんの口元から漏れる言葉には何処か痛々しげな深みが込められていた。
まるで自らも触れたくないような事を無理やり思い返しているような、もしくは今の自分がまともじゃないという事を自虐的にアピールしているような……そんな何とも言いがたいネガティブな感じだ。
彼女の言葉を耳に入れた瞬間、私は不意になんで今の会話の流れからそんな感覚を覚えてしまうのだろうと自分で自分の思考に疑問の念を抱いた。
だってそうだろう、私はただ彼女のプレイしているゲームが満足する品物なのかどうかと言う是非を問うただけだった訳だし、彼女自身から返された返答にもあまり意識しなければ別段これと言って違和感を覚えてしまうような返答では無かった筈なのだ。
まあ確かに思い返してみればちょっと回りくどい言い回しではあったかなって思わないでもなかったけど、実際の所それ以上の印象を抱く事になるような物は正直皆無だった。
では、なのに何故私はこうも言い様の無い違和感にも似たもやもやとした気持ちを抱いてしまっていると言うのか……。
其処まで考え、そんな言葉を脳裏に過ぎらせた刹那……此処で私はようやく一つの心当たりに行き着いた。
今まで過して来た時間があまりにも自然過ぎて思わず失念してしまったいた事柄、もっと深く言えばそもそもなんでフェイトちゃんという女の子が今この場でこうしているのかという根本的な疑問その物を私は思わず忘却の彼方へと追いやってしまったいたのだ。
そしてそんな当たり前の事を私がようやく気付いたのは、それと同時に「しまった……」という今更如何しようもない後悔の念を抱くのと殆ど一緒のタイミングだった。

そう、そもそも根本的な疑問を遡るのであればどうしてフェイトちゃんは今この瞬間も含めて先生の傍にいるのだろうという事から全てが始っていると言えた。
初めて彼女と相対し、先生の仲介も合わせてお互いの身の上を語り合った時、フェイトちゃんは私以上に殆ど何も語ってくる事は無かった。
ただ一言自身の名前と思わしき「フェイト……」という言葉を漏らしただけ、後は全部場の雰囲気を何とか良い方向へと導こうと奮闘していた先生に細かい補足を述べさせるという徹底的ぶりだ。
そんな彼女の態度には流石の私も面を喰らったものだった。
何せ如何口を開いた所で彼女の口からは何も返ってこないんだ、っていう事を簡単に予測出来てしまう程にあの時のフェイトちゃんは暗く沈んでいるという雰囲気を前面に押し出していたのだ。
ゲームでだったらこれも無口キャラとか言って賞賛されるような物だったのかもしれないが、現実にそういう人間と相対すると……なんというか、そういう雰囲気に飲まれてこっちまで口を開くのを憚れてしまいそうになってしまう。
そんな状況で当然何時までも間が持つ訳も無く、結局それで私たちはお互い黙りこくったままになってしまったという訳だ。

本当だったら私だって彼女に聞きたい事は幾らだってあった。
何処から来たのとか、先生との関係はとか、歳は幾つとか……そんなありふれた質問から、少々曰く付の質問までそれこそ数え切れない程に。
その中でも特に、そう……彼女と私が以前にも出会っているという辺りの事なんかは正直明確な回答を今直ぐにでも彼女の口から得たい位だった。
確かにまあそれ以外の事も気になると言えばそうなのだが、こればっかりは他のそれを度外視してでも確認しておきたかったのだ。
何故あの時自殺なんかしようとしたのかっていう、そんな率直で何の飾り気も無い心からの素直な確認を。
普段なら他人の事なんて微塵も意に介さない筈の私が如何してそんな風に思ったしまったんだろうって事は、私自身今になってもあまりはっきりしていない。
ただ分かっているのはあの忘れもしない雨の降る日の踏み切りで私が出会った少女がフェイトちゃんだったという確信が私の内に芽生えていたという事と、そんな彼女と今一度言葉を交わしてみたかったという欲求が突然叶ったという現実が今私の目の前にあって、そんな欲求に流されるように私が彼女に対して何でもいいからただ一言言葉を投げ掛けてみたかったという事だけ。
それ以上でもなければそれ以下でもなく、それ以外に一切の他意はない。
ただ純粋に己の欲求の根本的な部分から彼女の無事を確認して安堵しておきたかった、本当にただそれだけの事だ。

勿論なんで赤の他人である彼女に私がそんな感情を持ってしまったんだろうって事は完全に棚上げされちゃったままなんだけど、其処はまあ人としての良心だっていう事で納得することにした。
こんな私でも一応カテゴリーとしては血の通った人間だ。
かなり錆付いてしまってはいるが、それ相応の状況にそれ相応の感情を抱く位の事はまだ何とか正常に機能している筈だろう。
と、いう事でこの感情は未だに心の隅にこびり付いてしまっている台所の油汚れみたいな良識的な感情がそうさせているだけ……言わば一時的な気の迷いという事なのだ。
正直あまりこの手の理屈の通らない解釈は私としても好きじゃないんだけど、それ以外に答えの出しようが無いのだからどうしようもない。
今出揃っている情報だけではどうやったってこれ以上の定義は出て来はしないのだ。
ならばこれ以上この事について知恵を絞る必要も無い、と言うか考えるだけ労力の無駄という物だろう。

でも結局の所、一つにけりが付いたからといって全体が解決されるという訳ではないのもまた事実。
一段階元に戻ってみれば、まだ其処には彼女の存在その物という疑問が何の解決もされないまま放置されていたりするのだ。
それも、そんな疑問を解決しようにも今の彼女に何を問うた処で何一つとして確かな情報が得られないというおまけ付で。
無論それも何時かは解決しなきゃいけない事なんだろうけど、少なくとも今は無理なんだという事を私は知っている。
尤も、正しくは事を解決するべき当人がそう出来ない”事情”を抱えてしまっている故に此方としても如何対処して良いのか測りかねているという事を自覚しているだけに過ぎないのだが……そんな区切りを付けた所で実際には何の意味も無いのだ。
事実は事実、如何角度を変えて見た処で現状が如何変化するという訳でもないのだから。
私は自分の頭の中に浮かんだそれ等の感情に思わず溜息をつきそうになりながらも、現状はとりあえず今の空気を元のように戻してあげる事が一番だとして、やや俯き掛けているフェイトちゃんに私は軟らかく言葉を投げ掛けるのだった。

「そう言えば……“そう”だったね。ごめんね、無神経な物言いしちゃって」

「……ううん、全然平気。なのはの方こそ、あんまり私に気を使わないで。なんて言うか、そういう風な改められた態度取られるとさ……私も如何反応して良いのか分からなくなっちゃうんだよ。私、あんまり人と喋るの得意じゃないから……」

「フェイトちゃんがそう言ってくれると私も助かるよ。正直、どうやってリアクション返して良いのか自分でもよく分かんなかったからさ。それに、実は私も人と喋るの苦手なんだ。だから如何したって訳じゃないけど、ほら……似た者同士でしょ? だから、さ。気を使って欲しくないのは私も一緒だよ。こんなに親しくなったのに今更遠慮がちにされるのも何だかむず痒いしね」

「なのは……。うん、ありがとう」

先ほどの暗さを帯びた態度から一新して再び健やかな笑みを浮かべ、私に感謝の句を述べてくるフェイトちゃん。
そんな彼女の様子に私はまた性懲りもなく自身の身の上に似合わない台詞を吐いてしまったという事に対する羞恥心と、そんな感情の中に微かにも含まれた「まあ偶にはこういう気持ちも悪い物ではない」という気持ちに対する戸惑いに苛まれ、思わずあまりの気恥かしさに彼女から顔を背けてしまった。
何というか、本来私はこんな風なやり取りを何の裏も抱かずにやってのける様なキャラじゃない。
もっとこう、ねっとりドロドロしていて疑心と不信に満ち溢れている様な……そんな穢れ塗れた人間な筈なのだ。
それなのに何で私はこんな青春ドラマも真っ青な甘酸っぱいやり取りを何の疑問も抱く無く交わしちゃったりしているのだろうか。
あり得ない、あり得ない筈なのに……今この瞬間私は確かにこんな気持ちになるのも悪くないって思ってしまっている。
こんな気持ち、もうとっくの昔に捨て去った筈なのに……。
私はそんな矛盾を抱えて倒錯する気持ちを何とか抑え込み、雰囲気に呑まれてはいけないと何度も何度も自分に言い聞かせながら再び彼女についての思考に頭を切り替えるのだった。

そもそも何故彼女の問題は解決されないのかと言えば、それは偏に彼女が現在抱えてしまっているとある事情が全ての根本的な原因なのだ。
無論だからと言って彼女の何もかもが分からないという訳じゃないし、そんな状態だからこそ見えてくる“事情”も無いではないのだが……所詮それは憶測に過ぎない不確か物でしかない。
厚い雲に覆われ、翳ってしまった真実を暴くには彼女の抱えてしまっている問題……記憶喪失という人を根本から揺るがす問題の壁は高く、また厚いのだ。
正式な病名は逆行性健忘性、それも先生曰く心的外傷や過剰なストレスに晒された事で起きる心因性の物であるとの事だった。
一概に記憶喪失と言ってしまうと多くの人が真っ先に思い浮かべるのは「此処は何処? 私は誰?」という安直でありふれたイメージなんだろうが、実際にフェイトちゃんが見舞われている症状は正にそんな感じだと言っても過言ではなかった。

言うなれば記憶という名のジグソーパズルのピースが所々欠落してしまっている状態、それも個人としてのアイデンティティを司るピースに描かれた絵画すらも分からないという有様なのだ。
現にフェイトちゃんが自分の事を聞かれて押し黙っていたのも単に喋りたくなかったからとか根が口下手だとかそういう訳ではなく、本当に自分のファーストネームである「フェイト」という単語しか思い出すことが出来なかった所為なのだという。
尤もこれは先生に聞いただけだから、その是非が分かるのはそう語るフェイトちゃん本人だけなのだけれど……少なくとも私はフェイトちゃんは嘘を言ってはいないと素直に思った。
普段なら先生にしろ私にしろ例え相手がどんな人間であろうが、まずは疑うという事を思考の第一段階に置いた上で物事を判断しようとするのだろうけど、こればっかりは疑う余地が無かったのだ。

何故ならフェイトちゃんはそんな嘘みたいな現実を簡単に真実だと相手に思わせてしまうほどの要因をその白く華奢な身体に、文字通り余す事無く刻み付けていたからだ。
フェイトちゃんの身体の至る処で目に付く紅に染まった包帯、それは決して大袈裟に誇張された物ではないのだ。
現在はあまり露出の無い服を着ている所為なのかそれ程目立ってはいないが、彼女の身体に巻きつけられた包帯や絆創膏の数は決して一つや二つといった生易しい物じゃない。
それこそ数十……いや、細かい物や小さな物を含めたら実に三桁に達してしまうのではないかと勘潜ってしまうほど今の彼女の身体はボロボロだった。
ただ、実際に治療していた所を私は直接見ていた訳ではないから現在の彼女の傷の具合がどれほどの物なのかという正確な物言いは出来ないのだけど……少なくとも以前私が見かけた時はそれ位の生傷を確かに彼女は負っていた事に間違いなかった。
何せあの雨の降り注ぐ踏切で自殺しようとしていた少女、詰まる所記憶を失う前のフェイトちゃんを私はしっかりとこの目で目撃しているのだから。
私は嘗ての記憶を自身の内で遡り、映像として頭の中に思い浮かべながら、これまた何気ない様子を装ってフェイトちゃんへと言葉を投げるのだった。

「それでさぁ、フェイトちゃん。ちょっとだけ聞きたい事があるんだけど、良いかな? あっ、勿論ゲームしたままで良いよ。どうせくだらない事だからさ」

「えっ? うん、いいよ。私に答えられる事なら何でも聞いて。何も答えられないままよりはそっちの方が嬉しいし、それがなのはの為なら尚更だよ。それで、何が聞きたいの?」

「うっ……! そんな恥ずかしい台詞をよくもまあ平然と……まぁ、良いけど。聞きたい事はまぁ、本当に下らないことだよ。先に断っとくけど、あんまりマジになって考えなくても良いからね。って訳で質問なんだけど、さ。実際の所フェイトちゃんってさ、何でも良いからこれが一番って言える物はある? 食べ物でも、ゲームでも、歌でも何でも良いからさぁ、これが己の一番って奴。どうにも、私ってそこら辺の定義付けが苦手だね。他の人から聞いたら何かの参考になるかもって思ったんだけど……どうかな?」

「好きな物……自分の、一番……」

思いがけない私の問いにフェイトちゃんは何処か不穏な空気を漂わせながらブツブツと何か怪しげな呪文でも唱えるかのように呟いては、首を捻って如何にも考えていますっていう事を体現するような仕草を私に見せてきた。
素でやっているのであれば結構……いや、かなり不気味な光景だった。
まあ私も人知れず独り言を漏らしてしまう事が少なからずあるから、本来ならあまり人の事を偉そうにどうこう言える立場じゃないんだけど……現状彼女が行っているそれを私はそれ以外の言葉で表す事が叶わなかったのだ。
何せそれ程までに、目の前でしきりに同じ事を呟き続ける彼女の雰囲気はホラー映画の一場面のような言いようの無い不気味さに溢れていたのだから。

しかし、言葉を投げ掛けた私からしてみれば今の彼女の反応は中々良い手応えだと言うことが出来た。
そう、私は彼女に一つの賭けを持ちかけてみる事にしたのだ。
彼女が記憶喪失であること、そしてその原因が自他共に認めざるを得ない確かな物だという事は先のまとめで私にも十分理解出来た。
今更それを偽りだと蒸返す心算は無いし、これ以上追求した所で徒労に終わる事も何となく悟ってもいる。
ならばこれ以上“その事について”思考する必要は何処にも無い。
早々に切り上げた所で何の問題も生じ得ないだろう、そう思ったからこそ私はこれ以上彼女を疑うという事を止めたのだ。
ただ、それはあくまでも今の彼女を彼女たらしめている大前提が私の中で肯定されたというだけの事だ。
疑いの念こそこれで消え失せたものの、私自身まだまだ彼女に聞きたい事を問い掛けてみたいという気持ちは曇ってはいないのだ。
そして、その気持ちを解消するにはあらゆる手段を用いて彼女から情報を引き出すほか無いというものだろう。
勿論、記憶喪失の真っ最中である彼女の口から直接有益な情報が得られるとは私も思ってはいないのだが……抜け道が無い訳ではない。
ただ問題なのはそれが本当に有効な手立てなのか如何なのか立証する術が私には無いということなのだが、だからこそ私が取った行動は掛けであったと言えるのだ。

賭けの内容を簡単に言ってしまうのであれば、それは私が意図的に一見何気なさそうな質問をフェイトちゃんにぶつけた場合に彼女が私の思惑通りに言葉を吐いてくれるか否かという事だ。
確かに彼女は現在意識的に自身の身の上を思い出す事が出来ない状態ではあるし、それは当然私も理解してはいる。
これ以上先のような押し問答な考えで事を運んでいても事態は進展しないという事も、下手に深く考えすぎても意味が無いという事も。
だから私は此処で逆転の発想をあえて取ってみる事にしたのだ。
意識的に思い出せないのなら無意識の内に情報を引き出してしまえばいい、と言うそんな考えを。
本当に考えている私自身でさえ眉唾としか思えないような方法ではあったが、これは何も其処まで悲観しなければいけないような方法ではない。
寧ろその逆、単純明快だからこそ、この行き詰った状況に一石投じられるのではないかと考えたのだ。

その理由はこれも至って単純な、如何にも子供の考えそうな論理から来る発想だった。
現状、確かにフェイトちゃんは脳という名の引き出しから記憶を取り出す事の出来ない難儀な状態に見舞われてしまっている。
それが医学的に早期回復が見込まれる物なのか、それとも一生このままなのかは定かでないが少なくとも明日、明後日という単位で回復できるものでは無いだろう事はまず間違いないと言ってしまってもいいだろう。
そんな状況の中一番手っ取り早く彼女という人間の情報を入手し、より明確な元の彼女の人物像を己の中で形成出来る手立てはたった一つしかない。
誰がどんな定義で決めて訳でもないけれど、少なくとも今の状態からステップアップするにはそれが一番手っ取り早いのだ。
曖昧な物であったとしても人間の思考の範疇外から不意に漏れた言葉を掻き集めて評価するという、そんな方法が。

勿論、私だって何も考えずにこんな馬鹿みたいな手段に出る事を踏み切った訳ではない。
以前、一時期『ブラックジャックによろしく』や『JIN-仁-』等の医療漫画に嵌っていたときが私にもあり、その時インターネットで調べた情報の中にこんな状況によく似た症状の前例とそのリハビリの方法が記されていた事があったのだ。
その症状というのは勿論記憶喪失、それが外傷的な物であったのか心理的な物であったのかという事までは定かではないが、部類として考えるなら現在の状況と殆ど同じだと言ってしまっても良いだろう。
そして、その症状を抱えた患者に対するリハビリというのが、現在私がフェイトちゃんに投げ掛けた物と同じ「自分が一番好きな物は何か?」という問い掛けだった。
一聞しただけでは何でこれがリハビリになり得るのだろうと思う人も多いのかもしれないが、無論これにだってちゃんとした医学的な根拠が存在する。
それは、あえて対象者に直接的な意識を持たせる事のない質問を投げ掛ける事で、本人も意図していなかったような事を無意識という第三の感性から引き出させようという試みだ。
言っているだけでは複雑過ぎて訳が分からないという風にも思えてしまうが、簡単に纏めるなら要するに回りくどい質問を投げ掛ける事で相手を無意識に記憶を失う前の人格に地被けさせようという事だ。

確かに今の彼女は記憶を失った状態で、まともに自分の事を口に出して表現出来る訳ではない。
しかし、それはあくまでも記憶が引き出せないというだけで失われてしまっているという訳ではないのだ。
自分が好きだった食べ物の味やお気に入りだったの歌のメロディ、常用していた香水の香りなどそうした本人の意識の範疇外で刻まれた趣向は今の彼女の状態でも関係なく生きている筈。
つまりはそうした外の部分から本人に関係ありそうな物を導いて行き、それを辿っていけば何れ本人の本質に程近い物へと行き当たるだろうという事だ。
そしてこれはその試みの第一歩、その考えが本当に正しいのか否なのかという事を確かめる始まりでもあるのだ。
だからこそ、私はフェイトちゃんの口から言葉が吐かれるのを只管に待つ。
基本的に堪え性が無い事を自負して止まない私だが、こればっかりは彼女の自主性に全てを委ねるしかないのだ。
まずは待つ、そして答えが出た後にまた思考する。
今はただそんなスタンスを貫き、遅くとも着実に歩を進めていくしかない……そんな考えが私の頭の中に浮かんだのと先ほどから何度も同じような事を呟いていた彼女が行動を起したのは殆ど同時だった。
そして、そんな様子に私が気が付いて徐にソファーから起き上がったのも、彼女の口から気恥ずかしそうな言葉が漏れたのもこれまた殆ど同じタイミングでの出来事だった。

「誰……と、一緒に……」

「えっ?」

「誰かと一緒に居ること。それが私の一番だよ、なのは。独りでいるよりも私は誰かと一緒に居るのが好き。隣に誰かいるっていうのが、一番安心出来るから……。だから、多分それが私の一番。寄り添いあって温かいって感じられる、それだけで……私は満足だから」

「……そっか。ありがとう、フェイトちゃん。凄く参考になったよ」

人見知りなのに誰かといるのが好きとは難儀なものだ。
私はフェイトちゃんの言葉を聞いた瞬間、殆ど反射的にそう思った。
本質的に他者と触れ合う事が苦手な気質であるにも拘らず、その趣向は正反対の物を示しだしている。
明らかなる矛盾、しかし何処かそうとも言い切れないよにも思えてしまう。
だってそれは嘗て何処かで自分の感じていた事のあるような……そんな筈は無いのに、そう感じてしまう“既知感”その物なのだから。
鏡写し、不意にそんな言葉が私の脳裏を過ぎり、刹那の間に四散して消える。
そう、“また”なのだ。
始めて彼女とであった時からずっと感じていた言いようの無い既知感。
彼女の事なんて何も知らないくせに何処か客観視出来ずに同情の念を抱いてしまうようなデジャブをまた私は感じてしまっていた。
それが如何してなのかは私にもはっきりとは分からない。
もしかしたら彼女の言う一番に私の抱える想いが似通っている所為なのかもしれないし、本質的に私と彼女が似た物同士であるからなのかもしれない。
思い当たる節が無いという訳ではない。
だけどその原因足りえる物のどれもが正解であり、また不正解のようにも思えてしまうのだ。
明確な答えなんて何処にも無く、またそれ故にこの既知は既知足りえている。
漠然とした答えではあったものの、今の私にはそう評価する他、表現の仕方が見つからなかった。

だが、そんな感情とは別に私はまた新たなる既知感を彼女の言葉から見出してもいた。
尤も、こっちの方は先ほどの言いようの無い物と違ってもっとはっきりとした物なのだが……だからこそ余計に引っ掛かりを覚える物でもあった。
その原因は誰かと傍に居たいと語る彼女と、同じように私にその欲求をぶつけてきた知り合いがダブって見えたように感じてしまったからだ。
当然その知り合いとフェイトちゃんは無関係な人間同士なんだろうし、確かにちょっと見た目や声が似ている気もしないでもないが……そもそも背格好や年齢が違う二人を比べたところで何の評価にも値しないから、それに関しては特に何の疑問も無い。
大体同じ金髪で同じように容姿が端麗であるとは言えど、私自身あまり外国人をそれ等の特徴以外で判別できるという訳でもないのだから、そういう部分的なことで判断する事自体そもそも大前提から大間違いという物だろう。
ただ、フェイトちゃんと彼女とを結ぶこの既知感は、まるでそんな私の考えを否定するかのように何処と無い違和感を孕んでいた。
ただの偶然だろうと思えばそうでないような思いが先行し、馬鹿馬鹿しいと切り捨てようとすれば本当は気が付いているんじゃないかという疑惑が浮上する。
故に既知、そんな事はありえない筈なのにもう私は“その答えを予め知ってしまっている”様な気がしてならないのだ。
二つの既知感、そしてそれを否定しようとすればするほど浮かんでくるフェイトちゃんに対する謎めいた感情。
一体、この感情は何を示しているのだろうか……そう考える度に私の疑問は深まるばかりだった。

でもまあ、それは言い換えれば私の目論見が成功した事でもある。
私は自身の胸中に蔓延る違和感に無理やりそうけりを付けながら、不意にそんな事を頭の中で思い浮かべた。
確かに未だ不鮮明な部分も無い訳ではないが、それ以上に彼女の口から出た情報は有益な物だったし、これからの割り振りを思慮するにも十分事足りる物だった。
今はただ目論見が達成出来た事を確かめられたという事実だけに目を向けていれば良い。
現実逃避めいた考えではあったものの、これ以上深入りしてようやく纏まり掛けた考えを無碍にするのは嫌だったのだ。
ある程度の割り切りは必要だ、私は自分の思いにそう決着を付けようとして……此処で一度そんな考えを全て忘却の彼方へと追いやった。
そう結論を付ける前に、不意にフェイトちゃんが私に言葉を投げ掛けてきたからだ。
何の意図があってなのかは知らないし、どうしてそう言おうと思い立ったのかは私にも知れない。
だが確かに言える事は、彼女の発した一言は私の考えを全て吹き飛ばすほどの物であったという事だ。
そしてそんな彼女に言葉を投げ掛けられた私は、自身もまったく予想していなかった不意な一言にただただ狼狽するばかりなのだった。

「じゃあ……私もなのはに質問。逆に聞いちゃって悪いんだけど、なのはの一番好きなものって何? あっ、別に他意は全然無いんだよ。ただ、私も……なのはの事がもっと良く知りたくって……。駄目、かな?」

「だっ、駄目って訳じゃないけど……。う~ん、そうだなぁ……ゲームも漫画もアニメも大概好きだけど、それとはまたなんか違うような気がするし。かと言って好きな食べ物も特には……」

「そんなに難しく考えなくていいよ、って……これじゃあさっきのなのはの真似になっちゃうね。でも、本当になのはの思った通りの事でいいよ。本当のこと言ってくれた方が私も嬉しいし」

「そう、だねぇ……。まぁ、あるって言えば確かにあるんだけど……。何だかこうして面と向かって誰かに言うのは初めてだから恥ずかしいなぁ……。絶対に誰にも言わないでね?」

動揺していた所為か、明らかに自分のキャラに似合わない声色でそんな事を思わず口走ってしまう私。
もう顔から火が出るどころかベギラゴンとかファイガとかバーンストライクとかそこら辺の呪文が出てくるんじゃないかって錯覚してしまうほどに物凄く恥ずかしかった。
だって普段の私を知る人間が見たらきっと「熱でもあるの?」位は聞いてきそうな事を私はやらかしてしまったのだ。
しかも演技という訳ではなく、素のままの自分の本心から。
この瞬間、私は心底ジュエルシードを持ってこなくて良かったと思った。
何せジュエルシードの主人格たるあの子にこんな事が知られれば、訓練の時どんな野次を飛ばされた物か分かった物ではない。
フェイトちゃんと会う時はなるべくジュエルシードを持ってこないことにしよう。
私が心の中でそう呟いたのは、そんな私の心境をまったく存じていないという事を体現するように「うん、約束する」とフェイトちゃんが微笑みながら発したのと同時の事だった。

とは言え、何と答えていいのかという事は慌てふためいて混乱している私でも明確に分かってはいた。
ただそれを本当に話していいものかどうかという事が今を持ってしても分からないだけで、私自身何が一番大切なのかという事くらいは重々分かっていたのだ。
自分がなにをしているときが幸福であるのか。
自身が今何を想い、そして何の為に今まで思慮の限りを尽くしてきたのか。
そして何よりも何を如何したいが為に私は武器を取ったのか。
それらの事を総合すれば出てくる答えなんてたった一つしか……そう、たった一つしか存在し得ないのだ。
でも、それを本当にフェイトちゃんに語ってしまっていいのかどうかという事は正直私も疑問だった。
確かに此処まで親しくなって以上、私もフェイトちゃんに嘘は言いたくないし、この流れから本心を語らないというのも何だかおかしな話になってしまう。
だけど、一時の感情だけで其処まで己を曝け出さなきゃいけないのかどうかという事については……正直あまり私も気乗りする物じゃなかった。

話すべきか、話さぬべきか。
そんな相反する疑問がグルグルと頭の中で渦巻き、私の胸中をこれでもかという位に乱してくる。
フェイトちゃんは私に語って欲しいと言った。
それは私としても嬉しい事だったし、出来ればはぐらかさないでしっかりと答えてあげたいとも想う。
だけど反面、そう軽々しくこの事を口にしていい物かという想いもまた確かに私の胸の内にあった。
果たして如何出るのがこの場において最良なのだろうか、その答えは未だに出てこないままだった。
でも、私の胸の内に芽生えたとある一つの思いが片方の意見の後を少しだけ押していたのが最終的な結論の明確な決め手となった。
どうせ抑えていて悩むままなのなら、いっその事吐き出してしまえという……そんな後押しが。
何せ相手はフェイトちゃんで、実際の事の当人に当たる人物はこの部屋には居ないのだ。
その人に聞こえないように小声でなら……そんな油断が胸の内に生じ、それをまんまと突かれる形となってしまった私はフェイトちゃんの視線に急かされるようにポツリポツリと言葉を濁しながら自分の答えを語るのであった。

「じゃっ、じゃあ……言っちゃうね。本当に、誰にも言わないでよ? 絶対だからね!」

「ふふっ、大丈夫。約束するよ」

「うん、ありがとう。あのね、私の……一番好きなのは―――――」

それから先の言葉は私がこの世で一番信頼していて、一番護りたい人の名前だった。
勿論今まで私自身も何度かそう思ったことはあったし、多分その答えは確信なのだろうという想いもちゃんと胸の内にあった。
ただ今まで一度も……そう、一度もその事実を口に出して誰かに語り掛けた事は無かったのだ。
私は怖かったのだ。
その事実を口に出して、それを誰かに知られるという事が……どうしようもなく怖かったのだ……。
恐らく私は先の言葉をフェイトちゃん以外の誰から投げ掛けられた所で、きっと答える事は無かったのだと想う。
何故なら此処まで純粋を直視し、何の裏も無く追求してくれる人なんてきっと誰もいないだろうから。
そしてその逆を言えば、恐らく私は記憶を失った事で真っ白な心になった彼女だったからこそ話そうと思えたのだから。
私はゆっくりと口を開き、喉の奥から震えるような声で次の句を紡ごうとして……其処で口を噤んだのだった。

結論から言ってしまえば、結局私は次に繋げる言葉を発する事が出来なかった。
何ともまあ情けない話になってしまうのかも知れが、何せその当人が隣の部屋から突然戻って来てしまったのだからどうしようもない。
凝り固まった全身の筋肉を背伸びして解し、パキパキと小気味いい音を立てながら現れた彼女……先生は開口一番に「仕事、終わり~!」と歳に似つかわしくない弾んだ声で誰に言う訳でもなく自身の役割が終わった事を宣言してきたのだった。
その様子から私は彼女の言っていた仕事とやらが片付いたのだという事を即座に悟った。
フェイトちゃんにしてもそれは一緒のようで、その顔には少し残念そうな表情を浮かべていた物の「お疲れ様」と口では労いの言葉を述べていた。
助かった、そんな言葉と共に安堵にも似た気持ちが私の中を瞬時に駆け巡る。
もしもあと少しだけ言うタイミングが速かったら、私は当の本人にとんでもない事を聞かれてしまう嵌めになっていたことだろう。
下手をしたら一生ものの弱みを握られる事になっていたかもしれない。
それを考えると、先生が戻ってくる事で言いそびれたというのは満更悪い物でもなかった。
私はもう一度その場で短く溜息を吐き、何気ない様子を装いながら、自身もフェイトちゃんに習って先生へと「お疲れ様です」と言葉を掛けるのだった。

「ふふっ、二人ともありがとう。ようやく抱えていた書類が纏まってね。たった今学校側にメールでデータを送り終えた所なのよ。まったく、自分がパソコン使えないからって養護教諭にシフト表作らせるんじゃないっての……あの禿ちゃぴん。っと、まあそんな事は置いといて……これから三人で御飯でも食べに行かない? 折角やる事やり終えたんですもの、喜びは見んなで分かち合うべきでしょ? 勿論、私の奢りで」

「えっ、いいんですか!?」

「あのっ……ドゥーエ。私も、いいの?」

「勿論よ。二人とも私の知らない合間に随分仲良くなったみたいだし、これからの事を考えたらもっとお互い色々な事を知り合うべきでしょう? だったら美味しい物食べながらの方が舌も回るってものよ。まぁ……私が美味しい物食べたいってだけなんだけどね」

最後の方に何処か本心が見え隠れしている彼女の言葉に私とフェイトちゃんは苦笑を漏らしながらも、顔を合わせてお互いに微笑んだ。
何と言うか、凄く嬉しかったのだ。
奢りで御飯が食べられる事でなく、三人一緒でって言う事が不思議なほどに。
それとも私の場合はフェイトちゃんと仲がよさそうと言われた事に対してそう想ってしまったのだろうか。
まあ、後者の方は今はまだよく分からないし、彼女の方が如何想っているかは分からないからなんとも言いがたかったのだけど……少なくとも悪い気分はしなかった。
何故とか、どうしてとかそう聞かれると答えようが無いんだけど……何だか私にはそう想う事が正解であるような気がしてならなかったのだ。
私の知らない何処かで彼女と私がそうであったのかも知れないという既知感のままに。
私達は似たように頷き合い、そして似たように同じ物を追いかけて歩み出す。
何が一番なのかという、その“答え”が微笑む方へと向かって……。







[15606] 第二十話「芽生え始める想いなの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/06/10 07:38
人と人との縁とは、どこまでも甚深微妙な物である。
不意に私こと高町なのはは、最近疑問に想い始めた自身と他人の繋がりのあり方というものについて評価し、不意にそんな感想を自身の胸中に抱いた。
其処に理由と呼べるような動機は無い。
本当に不意に、そう……それこそ本当に何気なく私はそう言葉を浮かべてしまったのだ。
ただ私自身、己が何でそんな風に考えてしまうようになってしまったのかという事についてはまったく思い当たる節が無いという訳ではなかった。
二日前のあの日、二度と会う事も無いだろうと踏んでいた金髪の少女と再会してからというもの、私はずっと変らぬ悩みを抱き続けている。
何をやっても集中する前にその悩みが思考の内で先行し、どれだけ忘れようと意識してもふと気を抜いた時にはその事について深く考えてしまうほどに。
恐らくは……いや、十中八九その悩みがこの奇妙な感覚の大本になっているのは間違いの無いことだった。

だが、そんな風に常々考えを浮かべてしまう割りにその内容はそれほど大した物ではなかった。
何故こうも私の人間関係というのは“デジャブる”ものばかりなのか。
常人からしてみれば凡そ馬鹿馬鹿しいとしか思えないような至極どうでもいいような、それこそ自身でも馬鹿らしいと呆れてしまうような思いに私は彼女と別れてからというものずっと悩まされ続けているのだ。
そう感じてしまう理由は、今を持ってしても私にもよく分からない。
と言うか、そもそもあの日に起きた凡その出来事の中にこんな事を考え続けなければならなくなるような要素など皆無であった筈だ。
確かにあの子が……件の少女であるフェイトちゃんが普通ではないという事は私も何となく感じる物があった。
虐待を受けていた疑惑に重度の記憶障害、加えてその身元が表沙汰になれば国家機関が動くかもしれないという不穏な事情すら見え隠れしているとくれば何処を如何繕って考えても凡そ普通とは言いがたい。
しかも、下手をすればあの日あの場所で先生の家に居たという事すら問題になりえてしまうかもしれないような人間なのだ。
これを普通で無いと呼ばずして何と呼べばいいのか、率直に言ってしまえば彼女の存在は私の生活の上で間違いなく異質というカテゴリーに部類される異端者であるというのが私の心からの本音だった。

しかし─────そう、しかし……理由はそれだけと言う訳ではなかった。
彼女と居る事で感じてしまう言い様の無く不思議な既知感。
もしかしたら自分は前にも同じように彼女と出会い、こんな似たり寄ったりなやり取りを交わしたんじゃないかっていう奇妙な感覚に私は何処か違和感を感じてしまっているのだ。
言うなれば未知を忌避して既知を是とするような感じ……まあ平たく表現するのなら攻略本で予習済みのゲームプレイみたいなもの。
体験するのは初めてなのにその状態を否も応もなく無条件に肯定できてしまう、つまりはそんな感覚に私は悩まされ続けているという事だ。
他人を肯定する事を良しとせず、まずは疑ってから物事を考える筈の……この私が。
あり得ない、普通ならその一言で片付けてしまえるような事ではあった。
あぁ、確かに彼女は─────フェイトちゃんは私よりもずっと純粋だし、また清純でもある。
凡そ私のような穢れに塗れ、爛れ果てた感性の持ち主では釣り合いが取れないほどの人間であると言っても過言では無いだろう。
だが、だからと言って“たったそれだけ”の理由で彼女を疑わずにただただ肯定するというのは私自身も納得のいく話ではなかった。
なまじ綺麗であり、純白の象徴と言っても過言ではないような存在であるからこそ尚更鼻につく……言うなればあまりにも人畜無害過ぎるからこそ余計に疑わしく感じてしまう。
それは勿論世に生きるどんな人間にも言える事であり、勿論の事だがフェイトちゃんのような人間であっても例外と言う訳ではなかった。
にも拘らず、どういう訳か私は彼女に対してそういった懐疑的な気持ちを抱く事が出来ない。
寧ろ、疑うよりも先に来る意味も無く肯定的な感情がこの胸に溢れ返ってきてしまう程だ。
私にはそんな自身の気持ちが……“高町なのは”という人間の抱えるそんな理屈を度外視した感情が如何にもおかしい物のように思えてならなかった。

何せ彼女の存在を自身の中で肯定するという事は、偏に彼女の存在を先生と同じ……もしくはそれに勝らずとも劣らない立場の人間だと認めてしまう事になる。
それこそ、この命を賭け、そして一度は文字通り死に掛けてでも守り通そうとした敬愛する恩師とさも同等であるかのように。
確かにフェイトちゃんと一緒に遊んでいると楽しいとは想ったし、先生も交えてあの時と一緒のラーメン屋で夕食をとった時は柄にもなく温かいなって感じてしまったりもした。
今更その感情を一時の気の迷いだという心算は無いし、私も出来れば次があって欲しいと想わないでもない。
だが、だからと言って─────そうだからと言って彼女の存在を此処まで認められる物であったとはお世辞にも言う事は出来ないのもまた事実だった。
これからゆっくりと時間を掛けて、それこそ小学校、中学校、高校と共に席を並べて折り重なるように関係を続けていったというのなら私がこんな気持ちになってしまうというのも無理の無い話なのかもしれないとは思う。
色々な理屈を抜きにしても私とフェイトちゃんの人間的な愛称は良いみたいだし、私だって願わくば嘗ての自分を吹っ切って彼女と共に新たな人生を模索するというのも吝かではなかった。
そう、あくまでもそれが今のように刹那的に芽生えた感情でなかったのなら……。
如何にも私がおかしいと思ってしまう点は何処をどう廻り、また遡ったとしても結局其処に行き着いてしまうのだ。
このあまりにも機会で、あまりにも速過ぎる好意的な感情という違和感に。

私という人間は基本的に他人を軽率に信用したりなんて事は絶対にしない。
嘗てそうやって粋がって、やがて総ての人間に裏切られたという過去の教訓を寸分たりとも忘れてはいないから。
信じた端から悉く裏切られ、助けを求めようとしても自分の都合が悪くなるからと掌を返したように冷たくあしらわれるばかりの毎日。
忘れる訳が無い。
忘れようにも、忘れようが無いのだから。
それに、私はあの先生ですら信頼に値する関係を築くのに膨大な時間を掛けた位だ。
今とて昔ほど顕著な物でなくなったとは言えど、未だ私の内に蔓延る人間不信の傾向は根深く残ってしまっている。
人を信用するのが怖いとでも言えば適当なのだろうか。
まあ、自分でも何を今更こんな事を考えているのかって思っちゃうけど……それは紛れも無い真実であり、また否定出来ない現実なのだ。
何度この終わらない牢獄のような現実から逃避してしまおうと考えたか、それは自分でも知れた事ではない。
唯一つはっきりと言ってしまうのであれば、この閉鎖的な地獄から抜け出せるのならいっそ家出でも何でもして遠くの……それこそ誰もが追いついて来れないような遠くへ行ってしまうたいと己が考えてしまっていた事くらいだろう。
ともあれ、そんな私だからこそ余計に信じがたいのだ。
今一番信頼を寄せている人間ですらも膨大な時間と交流が必要だったにも拘らず、たった一日でこれほどまでの信用と信頼を私がフェイトちゃんに抱いてしまっているって事が。

いや……これは少々先生とは違う、別の感覚として私が彼女を捉えているのかも知れない。
例えるならそう、嘗て友人と呼べるような関係であったあの二人と同じような……。
だが、だとすれば余計にこの懐疑な気持ちに拍車が掛かるばかりだ。
同い年くらいの友達なんて、作った所で直ぐに裏切られると私は知っている筈なのだ。
私は基本的に一度学習した事は二度繰り返したりはしないし、それはこの生活に私が身を窶してから一度も違えた事は無い。
少なくとも、私が記憶している限りは一度として……そう、唯一度として例外は無いのだ。
そんな私が、どうして今更こんな感情を即座に抱けてしまったのか。
考えれば考えるほど謎は深まるばかりだし、懐疑すれば懐疑するほど底無しの沼に嵌っていくようにどっぷりと浸かってしまうのではないかと思わずにはいられなくなる。
だが、いずれにせよ何時までもこんな気持ちを抱えて生活できるほど私は強い人間じゃない。
詰まる所……早い内に答えを出さなきゃならない、有り体な結論だが今はこういうほか無いのだろう。
私は先ほどから耳元で騒ぎまくっている声を無視する事が出来ず、一先ず其処で自身の考えに結論を付け、「はぁ……」と何を憂う訳でもないのに自然と胸の内に湧いてきた鬱憤を溜息として吐き出しながら声のする方へと反応を返すのだった。

「こぉらー! いい加減にボーッ、とするの止めろってばー!! おーい、聞こえてますかー!?」

「あぁ、はいはい。聞こえてる、聞こえてるってば……。あんまり耳元で騒がないでよ、鬱陶しぃ」

「だったらそんな馬鹿みたいにボケーッ、と突っ立ってないでちゃんと構えてよ。ほら、次行くよ。次!」

「分かった……分かりましたってば。あ~ぁ、何なのよ……一体。この前言ってた事と今の態度がモロ逆じゃんかっつーの。何がそんなに不満なのよ、まったく」

吐き捨てるようにそうな風な愚痴を私が零すと、隣で騒いでいた小さな女の子─────アリシア・テスタロッサは「何か言った!」とキツめの返事を即座に返してきた。
どうやら今日は一段と度を増して不機嫌であるらしい、というか此処まで来ると完全に向けようの無い怒りを他人にぶつけているようにも見えてしまう。
ほんの数日前はあんなに健やかに笑っていたと言うのに……一体彼女に何があったのだろう、というような考えが私の頭の中を駆け巡る。
だが、その理由を私は導き出す事は出来ない。
何せ、その原因たる物が一つとして浮かんでこないからだ。
万物事が起これば、其処には絶対的に何かの因果が付き纏っている。
始まりがありから終りがあるように、原因があるから結果がこの世に生まれ得るのと同じ理屈だ。
しかし、今の彼女の抱えている感情の原因を私は存じていない。
少なくともあの日……私がフェイトちゃんや先生と一緒に御飯を食べに行って、夜遅くに返ってきたあの時までは彼女もまだ普通に笑っていた筈なのだ。
なのに、何故か此処最近─────厳密に言うのなら昨日の夜辺りから彼女の状態は文字通り急変してしまった。

何か押さえようの無い怒りを覚えているような、そしてそれを憤るからこそ他人に当り散らしているような……本当に辺り構わず八つ当たりを繰り返しているという感じだ。
そして、その矛先は何時の間にか私に向けられる事になっていた。
まぁ、元々今の彼女とまともに会話の出来る人間なんて私しか居ない訳だし……何よりも私は彼女の姉代わりのようなものなんだから多少の我が侭は受け止めなきゃいけないのはよく分かる。
だが、ただただ当り散らされるばかりで原因が分からず、状態の改善が望めないとなると此方も何時までも穏やかでいることは出来ないという訳だ。
まったく大人気ない、そう心の中では思いながらも無意識の内に湧いてしまう彼女から連鎖した怒りと行き場の無い苛立ちが私の中で渦を巻く。
何で私がこうまで怒りをぶつけられなきゃいけないというのか。
私は自身の内に芽生えた邪な感情を否定するでもなくもう一度息を吐き、手の内の得物─────戦鎌“バルディッシュ”の柄を握りしめながら、アリシアに言われるがままにバリアジャケットを展開して、戦う構えを見せるのであった。

さて、今の状況を簡単に説明するのであれば、私は現在アルハザードにて何時ものように訓練に勤しんでいる真っ最中だ。
アリシアに教えられるがままに使えそうな魔法を身に付け、実行し、物にするという単純なサイクルの繰り返し。
最近は銃器の取り回しや実戦における戦術的格闘のシミュレートなんかも齧っているから一概にそれだけとは言いがたいのだが、凡そ訓練の内容を纏めるのであれば大体そんな感じだ。
僅か五歳ほどの小さな子に見た目的には年上である私が手取り足取り教えられると言うと何だかおかしな様に聞こえてしまうのかもしれないが、実際の所私はそれほど気にしていない。
なんというか、アリシアは基本的に面倒見が良いと言うか……人の物を教えるのが妙に上手いのだ。
相手の心理を読んでいる等と大袈裟な事を言う訳ではないが、普段の彼女は相手の精神的な面まで考慮してギリギリとラインをキープしながら飴と鞭の要領を上手く使い分けて私の訓練のサポートをしてくれている。
此処最近は妙に其処の辺りの気配りが消えてしまったような気もしないではないのだが……それはあくまで今の彼女の心理状態がよろしくないだけで、もう少し機嫌がよくなれば前のように戻るだろうと私は思っている。
まあ、これはあくまで私の思い込みであり、尚且つ願望でもある訳だが……恐らく彼女の性格からしてまず間違いはない。
これはあくまでも付き合いの長い人間の直感なのだが、人がいい人間ほど荒れる時は嵐の時の海の如く荒れる物だ。
そうなったが最後、後は誰が何を言おうと独りでに静まるまで手が付けられなくなってしまう。
詰まる所、今のアリシアもそれと同じ……状況を改善するにしても余計な茶々を入れずに当分は静観を決め込むほか無いのだ。
私はげんなりと肩を落としつつも、今はただ一つの事のみに意識を集中させようと自身の心に言い聞かせ、利き手の内に納まったバルディッシュのグリップの握り具合を黒い皮手袋で覆われた掌で感じ取りながら未だ苛立ちを隠せないと言った様子で私の前へと出るアリシアへと視線を向けるのだった。

「じゃあ、これから対ジュエルシードの暴走体及び第三勢力との直接戦闘を想定しての実戦訓練を始めるよ。ルールは至って簡単。今から私の力でアルハザードの一部を変化させてなのはお姉ちゃんの住んでる街の一部を模した擬似空間と戦闘用ターゲットを創るから、なのはお姉ちゃんは私から与えられた条件に従ってミッションをクリアしてみて。勿論戦闘用ターゲットは魔法から銃器、果てには人型から暴走体まで色々な物を模してあるから全てが同じように倒せる訳じゃない。地形、状況、戦術……つまりは頭を使って切り抜けるんだよ。一応何時もの訓練通り痛みは無いし、血も出ないようにするけど……攻撃を喰らえばその衝撃だけは直になのはお姉ちゃんに届くようにはする。じゃないと、実戦訓練にはならないからね」

「まぁ……何だっていいけどね。何れそういう訓練は必要になることは私も分かってた訳だしぃ、別にこの訓練自体に文句は無いんだけどさぁ……。何というか、話が一気に突飛し過ぎてない? 私はついこの間までまともに射撃魔法すら撃てなかった掛け出しさんなんだよ? それなのにこうもまぁ、突然実戦訓練だなんて……。其処の所はどういう運びになってる訳? まさか何の考えもなしに突発的に思いついたって言う訳でも無いんでしょ?」

「……それは、なのはお姉ちゃんの実力を一度本格的に測る良い機会だと思ったからだよ。確かにまだまだなのはお姉ちゃんは未熟だし、魔法にしろ戦闘の取り回しにしろ荒削りな部分があるのは否めないけど……一応これまでの訓練で一通りの経過は終了した。だから後は今まで学んだ事がどれだけ実を結んでいるのか、それだけが当面の課題なんだよ。それに何時までも……そう、何時までも戦闘の度に死ぬかもしれない思いをするのなんてなのはお姉ちゃんも嫌でしょ? そういう意識を改めて知ってもらう目的もこの訓練にはあるんだよ、なのはお姉ちゃん」

「ふ~ん……まぁ、アリシアが其処まで言うなら私も納得するって事にしておくよ。確かに何時までも的も無い空間に魔法撃ち続けてるって言うのも味気ないし、偶にはこういう趣向を凝らした訓練も悪くは無いかもね。ミッションクリアのサバイバルなら、私も結構得意だし」

両者の間に流れる会話は相変わらず平坦で、聞いている限りでは何処にも違和感を憶える様な不穏な感情は存在していないようにも思える。
しかし、私とアリシアの間に流れている空気は……間違いなく絶対零度にも至ってしまう程に凍て付いたそれだったと私は感じていた。
どれだけ軽口を叩こうとも今のアリシアは何時ものように苦笑する事もなければあきれることもなく、ただ淡々と受け流しては言葉を述べるだけ。
其処には寸分の洒落っ気もなければ、一切の飾り気も無い。
ただ己が思った事だけを思うがままに口にし、伝え、分からせようとするばかりだ。
確かに多少なりとも彼女が私にそう思わせないように努力している節々は幾らか私も見受ける事はあった。
昨日の夜から今現在に至るまで彼女は必死で自分の気持ちを押し殺し、必死で何時もの自分を取り繕うとしていた素振りをずっと彼女が続けていたと言う事くらいは。

何せ彼女は演技が致命的に下手だ。
もしかしたら私以上……いや、下手をすれば彼女の見た目と同年代くらいの子供にすら見抜かれてしまっても何らおかしな事じゃない。
つまりそれ位、詰まる所素人である私ですらこんな風な感想を抱いてしまうほどに……アリシアは怒りを露にしていたという事だ。
勿論私には彼女の怒りの矛先が本来どのような方向に向くべきなのかとか、その核たる原因は何かとか、そんな事は微塵も存じていない。
当然だ、彼女は何も語ってくれないどころか事もあろうにそれを私に隠し通そうとしているのだから。
ついこの間まで共に肩に掛かる重みを背負っていこうと誓い合ったというにも拘らず……。
まったく、どこまでも自分勝手で独り善がりな子だ。
私は心の中でそんな風に悪態を付きながらも、そう言えばこの感情はついこの間の私に彼女が抱えていた感情と同じなのではないかと思い……そこで思考するのを止めた。
結局今此処でこんな風な想いを浮かべてしまっている私もまた彼女と同じ、自分勝手で独り善がりな人間であることには変わりない。
同属が同属を嫌悪するのは古今東西如何なる歴史においても変らず立証されてきたことではあるが、今はこんな感情を抱いている場合ではない。
今はただ自身が最善と思った結果に向けて死力を尽くすのみ、そしてその為には……。
私は目の前で淡々と術式を構築し始める小さな少女の後姿を見届けながら、そんな考えを自身の胸中へと廻らせるのだった。

『我、この夢想世界を統括する者なり─────』

旋律が流れるように健やかに、そして詩でも詠うかのように透き通った声が私の鼓膜を緩やかに刺激する。
それは神を讃える賛美歌の様でもあり、吟遊詩人が見たままの風景を詩に詠む様でもあり、若い男女が愛を語り合う言葉の様でもあり……そしてまた世界を呪う呪詛の様でもあった。
言い表すのならばこの世界を構築する“願望”という“願望”が一気に彼女の周りに収縮し、そして捻じ曲がっているかのようだ。
無論、私だってこの世界が普通で無い何かによって形成され、形作られている事は直感的に分かっていたし、アリシアから聞かされて理解もしていた。
嘗てこの世全ての願望を叶える為に生み出された果て無き欲望の渦巻く理想郷。
そして最盛期にはこの世の悉くを飲み込み、人々の願望という願望を総て実現する奇跡を起こし、そして……その奇跡故に世界から排斥され、滅び去った世界。
故に此処には誰もおらず、また何の因果かアリシア・テスタロッサという少女がこの世界に引き寄せられ、管理人格となった。

それ等の事実を鵜呑むだけでも十分理解するには事足りることだし、私もこの世界の異常性に幾度となく触れている以上今更否定しようとも思わない。
だが、どうにも今この瞬間アリシアが行っている行為を見るのは私も始めての事だった所為なのか、今一私はその行動がイコールで結ぶ結果を予想する事は出来なかった。
何と言うか、こう……その結果は絶対に人間では辿り着けないような気がして、考えが追いつかないような気がしてならないのだ。
勿論実際にそうであると言う根拠は無い。
これは私の感覚がそう告げているだけの事で、其処には明確な論理など欠片も存在していない。
でも、私はそう思ってしまった……この瞬間今此処で確信にも似た感銘をこの身に刻み付けられてしまったのだ。
最早この事態を語るのに言葉は不要。
そう私が結論を下した時には、既に状況は次の段階へと移転していたのだった。

『我、有する権限故に望む。愚者共の妄念を用い、今此処に刹那の創造を齎せたまえ。欲は肉へ。渇望は血潮へ。愚念は骨子へ。組み変るは身体。数多の願いを糧として、今この刻より世界は我と一体なり。故に─────世界の道理よ、捻じ曲がれ。穢れを晒せ』

次の刹那、私は信じがたい光景を目の当たりにする事となった。
彼女が唱える術式が途切れた瞬間、この世界の何処までも広がっていると思われた青々とした空の色が赤黒く汚れた夕闇へと一瞬にして変貌を遂げたからだ。
否、世界の変化はそれだけではない。
この世界一帯を占める草原の草木が彼女が立っている場所を中心に枯れ果て、まるで古い絨毯を取っ払って新しい物を敷き詰めるようにアスファルトとコンクリートが凡そ九割を占める地面を構築されていく。
空と大地、凡そこの二つの世界を根こそぎ組み替えるかのように行われる二つの変化は、それこそ瞬く間と形容するのが相応しいと思わせる速度で静かに、だが迅速に彼女の言葉に従って歪に捻じ曲がるのだ。

次の刹那には地面が盛り上がり、鉄筋コンクリートで作られた高層ビルが聳え立つ。
また次の刹那には宙を舞う砂粒が凝縮し、車や電柱といった小物を作り上げる。
そして最後に枯れ落ち、風に流れた草木の残骸は……凡そこの世の物とは思えない生命体の形へとその姿を変えてゆく。
それ等の変化を言葉に変えるのであれば、それはまさしく変貌と呼ぶのに相応しいものだった。
まるで他者の仮面を剥ぎ取った先に素顔があるように、この世界にも元からこの場所が存在していたのではないかと錯覚してしまうほど。
しかし、そんなものが初めからこの世界に存在していない事は私も理解してはいた。
何故ならこの世界に表裏と言う概念は存在しないと、この世界に初めて足を踏み入れた時から感じ取る事が出来ていたから。
いや、寧ろその感覚すらも無意味な物であったのかもしれない……ふと私は此処でそんな事を思い返す。
元々この世界は何処の世界のどんな論理すらも超越して創造された現実の埒外に部類する空間だ。
今はこうしてジュエルシードを通して普通に干渉していたからあまり私自身も意識していなかったのだけど、元より人が眠る事で門の鍵が開くこの夢の世界に元より人の身に収まるようなちっぽけな道理は存在してなどいないのだ。

そして故に、この世界は主人格たるアリシアの思い次第で如何様にも姿を変える事が出来る。
勿論、其処に理屈など存在してはいない。
願えば叶うのがこの世界の道理なのだ、下手に考えた所でそれは杞憂に終わるという物だ。
重力も、引力も、時間も、摂理も、様々な化学によって証明されてきた理論さえ……この世界では意味を成さないのだから。
振れば当たる。
凪げば砕ける。
斬れば生き物が死ぬ。
様々な物理法則を短縮し、行動と結果のみが唯一働くというのがこの世界の総てだ。
そして……その理屈をこの世界の理論として置くのであれば、今正にこの世界はそんな理論に則って変貌を遂げようとしていた。
そう、私がそう思考している今この瞬間にも……。

『変貌を遂げよ、我が世界。我が望み、想うがままに……。出でよ、“赤錆に塗れた不浄の街”』

彼女がそう告げるや否や、この世界に更に一つ……否、最後の変化が訪れた。
今まで四方から香っていた清涼感のある自然の雰囲気か掻き消え、別の感覚がこの場に漂い始めたのだ。
それは私自身もあまり好い気はしないのだが……本当に残念な事に、酷く嗅ぎ慣れた臭いだった。
鼻腔を劈くような鉄の……否、それに程近い血潮が外部へ流れ出す時の臭いだ。
汚泥と臓物が交じり合い、結合し、数刻を経て血と肉が腐り始めた時に発せられる悪臭……それがこの臭いの正体だった。

それは数週間前の私なら思わず吐き気を催してしまいそうにもなっていただろう、酷く気分を害する臭いだった。
当然だろう、死臭を嗅いで心地良い等と感じる人間はそれこそ気の狂った狂人か弱者を殺めて悦に浸る異常性癖者位しかいないのだから。
真っ当な感性を持ち、一様に人としての倫理を持ち合わせている人間であれば……否応もなく忌避するのが当たり前というものだろう。
尤も、それはあくまでも今の私のように嫌でも人の死に慣れねばならなかったというような特殊な事情を抱えていない人間にのみ言える事なのだが。
元々私だって人の死なんかに慣れたいと想っていた訳ではなかった。
人が死ぬのは悲しい事だっていう事は知っていたし、死んだ人間や友人といった”その人の為に涙を流してくれる人間“がいる以上はこの世界に生きる誰であろうと無駄な物と呼べる死は存在しない筈だというのをちゃんと理解していたからだ。
今更こんな私が何を言ったって詭弁になってしまうのであろうが、それが真っ当な人間としての摂理であり、誰でも持ち合わせている情というものだろう。
人の死を哀しみ、慈しむ事が出来たのなら……それは間違いなく真っ当な感性を持ち合わせた人間と呼ぶのに相応しい。
そしてこの臭いからそれ等の感情を悟る事が出来たのなら、きっとその人間は善人と称賛される人間になりえる事が出来る筈だ。
無論、これ等の感情を抱える人間がその真逆の感性を持ち合わせた人間の言葉でなかったの話ではあるのだが……。

説得力など欠片も無い理屈を廻って私の思考は自身の問題へと回帰する。
人の死に慣れた自分、そんなフレーズが唐突に私の頭の中を過ぎって消えた。
何故今になってこんな事を考えてしまうのだろう、と私自身想わない訳でもない。
だが、今此処でこうして広がり、漂っている臭いを嗅いで私はようやく自身の変化に気が付くことが出来たのだ。
これだけ濃厚な死臭を嗅いでも何ら違和感を感じない……いや、もっと言うのであれば何の感慨も抱かない自分自身という存在に。
確かに今も不愉快な感情が胸の内に立ち込めて渦巻いているという事は私も否定は出来ない。
でも、それが今まで通り気持ち悪さを通り越して生理的な面から来る忌避感に結び付くかといえば……そうはなっていなかった。
ただ気持ち悪いと感じるだけ。
それ以上の感情もなければそれ以下の思いもなく、ただただ不愉快だと断じては反吐が出そうになる感情を押さえ込むだけだ。

どうしてこうなってしまったのだろう、私は不意に自分自身に問い掛ける。
私は果たしてこんなにも人の死を軽んじてみてしまうような人間だったのだろうか、そう考えれば考えるほどに自身の中で拭い切れない疑問の念がふつふつと湧き上がってくる。
今まで沢山の死体をこの目に焼き付けてきたからだろうか。
それとも自身が死に掛けた事によって感覚が麻痺してしまっているからだろうか。
はたまた、ジュエルシードの暴走体という命を己がこの手で奪った事に私自身があまり深い考えを廻らせていなかったからだろうか……。
分からない。
考えれば考えるほどに自身の事が分からなくなってくる。
どれも正解な様でいて、どれも不正解。
またどれも不正解なようでいて、結局そのどれもが正解でしかない。
そんな矛盾した想いが徐々に私の思考を蝕んでいって……私は其処で考えるのを止めた。
これは単なる訓練でこの臭いも所詮は擬似的に作られた人工物、本物の死の臭いではない。
ならばこれ以上の思考は無用の物、そう自身で結論を下したからだ。
本当は一刻も早くこの永遠に続くかのように想われた思考の赤ら抜け出したかったから無理やり思考を打ち切りたかっただけなのだが、一々こうやって理屈付けないと思考を途中で止められない性分なのだ。
言い訳がましいという事は自分でも分かっているのだが、この際仕方のない事だと割り切ってしまった方が賢明という物だろう。

私は新たに湧き出た自身の違和感にそう結論を下し、二、三度バルディッシュの柄で軽く肩を叩きながらアリシアの方へと視線を向ける。
其処に広がるのは私の住んでいる海鳴市をモデルとして造られた赤錆びに塗れた街と、そんな街の中央に立つ一人の少女の姿。
その二つの存在が混じり合うコントラストが何処か私には官能的に見えて……また同時に不気味にも思えた。
あまりにも相反する二つの存在、それがこうして同じ場所に同じように存在しているという現実。
それがどうにも私にはあり得ない物のように見えて……それが彼女の本質のようにも思えてしまう。
果たして何時もの彼女とこの不気味な街で佇む彼女、どちらが本当のアリシア・テスタロッサなのだろうか……。
其処まで考えた処で、私は彼女の方へとゆっくりと歩を進め、「お疲れさん」と無難な言葉で何処か気だるげな彼女を労う。
どちらにせよ、今は彼女の口からその是非を判断する段階ではない。
なら、より明確な情報と条件が出揃った時にゆっくりと時間を掛けて判断すればいいだけの事だろう。
そう判断を下した私は尚も歩を進め続ける。
彼女の方へと……そして、彼女が佇む赤錆びに塗れた街の方へと……。

「ふぃ……こうして大規模な世界の組み換えをするのは久しぶりだったから少し疲れちゃったよ。でも、これで舞台は整った。それじゃあ、なのはお姉ちゃん。用意は良い?」

「はぁ~、相変わらず出鱈目だよね……この世界。まぁ、何でもいいけど。準備ならいいよ。どうせミッションこなす以外は何でも在りのサバイバル方式なんでしょ? そういうのは事前に彼是考えるんじゃなくて、プレイしながら慣れてく物なんだよ。だったら……最初から答えなんて決まってるようなもんでしょう?」

「ふふっ、相変わらず素直じゃないね。まぁ、其処がなのはお姉ちゃんらしいって言えばそうなのかもしれないけどさ……。じゃあ、始めるよ。開始と同時に私は擬似ターゲットをばら撒いて消えるけど、ミッションの内容は逐一バルディッシュを通して送るから安心して。今はただ余計な事を考えずに真直ぐ前へと突き進む。気休め代わりだけどこれ、一応師匠としてのアドバイスね。では……月並みだけど健闘を祈るよ、なのはお姉ちゃん」

「華々しく踊れって? あぁ、それは言われずとも。寧ろ、光栄の極みってね。ここいらでちょっとでも実力がついてるって事が証明できれば私としても安心だし……アリシアだってちょっとは気が休まるってもんでしょ? 最近あれやこれやと良くない騒ぎばっかりでストレス溜まってたし、精々気が晴れるまで暴れるとするよ」

何処か挑発的な意味合いが込められた私の言葉にアリシアは一瞬だけキョトンとした何時もの彼女らしい表情を見せてきた。
凡そ、この訓練に乗り気でない筈の私が唐突にやる気を見せるような態度を取った所為だろう。
元々演技下手な彼女にしてみれば、意外な出来事を前にして思わず素に戻ってしまうと言うのも無理もない話しなのかもしれなかった。
しかし、そんな彼女の態度も早々長く続くと言う訳ではなかった。
私の言葉が発せられてから僅か数秒後、意識しなければ其処に間が在ったのかどうかすら気付かないような時間の後に彼女は不意に微笑を浮かべて、自身の掌を天へと翳す。
そして、間髪入れずに鳴り響く指鳴らしの乾いた音。
親指と人差し指が交差し、擦れ合い、引き離される事によって打ち鳴らされた鈍い音はそれ以上の言葉を用いるまでもなく、始まりの合図を私に伝えてくる。
そして、それと同時に掻き消えるアリシアの身体と土と砂から生み出された歪な生命体の影。
何処へと流れる訳でもなく、風化した砂の様に風に乗って掻き消える様は殆ど消滅であると形容しても過言ではなかった。

だが、彼女は消えてなどいなければこの世界からいなくなった訳でもない。
そう私は改めて自身の状況を確認しながら、腰元に挿してある拳銃へと手を伸ばし、スライドを引いて初弾を薬室に装填する。
彼女は何処とも知れぬ場所から常に私の姿を見ている。
例えどれだけ私が隠れて悪態を付こうとも、彼女が知ろうとすればそれは総て筒抜けになってしまうのだ。
色々と思うところ在って半ば自棄気味にこの訓練を承諾してしまった私だが、やるならやるでせめて見っとも無い姿を晒す事だけは避けたい所。
そしてそれを一番に回避する方法は、やはり弱音を吐かないという事に限られてくる訳だ。
銃を再び腰元へと挿し直し、私は再び目の前に広がる赤く染まった不気味な街へと向き直りながら、ふとそんな考えを頭の中で思い描く。
何時も部屋の片隅で膝を抱えて泣いている事しか出来なかった自分。
ただ相手の為すがままになって、散々な理不尽を浴びる事しか出来なかった自分。
そして嘗て信頼し、愛した者総てに悉く裏切られ尽くした自分。
もう、私はそんな嘗ての自分に戻りたくは無い。
このまま蔓延る狂気に身を委ねるというのも気が引けるが、それでも同じ奈落に落ちると言うのなら……まだ抗い、もがき苦しんだ方がマシと言うものだ。

故に、私はこの足が彼女の言う“赤錆に塗れた街”の方へと向かうのを止めない。
だるいのも、きついのも、面倒なのも総じて大嫌いなこの私だが……何か事を成さねばならない時に動き出す決心が付けられないほど愚かであるという訳ではない。
だから私はこの身を穢し、彼女の言葉通りに前へ前へと突き進む。
それだけの力が……全ての干渉を断ち切って、己が渇望を具現化した能力が私には在るのだから。
阻まれるというのなら、超えてやろう。
触れようとするのなら、弾いてやろう。
干渉するというのなら、総じて否定してやろう。
幸福も、不幸も、凶弾も、祝福も、災厄も、福音も……皆、皆私の周りから遠ざかっていけばいい。
それが私の渇望であり、全てを吹き飛ばす暴風となり続ける限り……総じて皆、一遍の塵も残さず吹き飛ばしてあげるから。
そう結論がついた時には既に、私の目には一つの物しか映らなくなってしまっていた。
ただ前を向いて突き進む、そんなたった一つの至ってシンプルな答えしか……。
この時を持って、私の始めての実戦訓練が開始される事となったのだった。





駆ける。
赤黒く染まる街の中を、私はただ只管に駆け抜ける。
右手の内には柄まで紅に染まった幾何学的な戦鎌が握られ、左手の内にはもう数えるのも億劫になってしまうほどに途方もなく引き金を引いた米国製の小型拳銃がステンレスで作られたスライドの側面に血糊を滴らせながらも、しっかりと捉えられている。
しかし、その身に疲労はなく……また同じくして一切の憂いも無い。
当然だ、この世界にはそもそも元在った物が消費するという概念その物が存在していないのだから。

限りなく現実に近づけた世界といえど、所詮は一訓練。
この身に掛かる負担と体力の減少という最大の問題は予め、この世界を構築する際に概念その物が取り払われているようだった。
だが、だからと言って私に降り掛かる全ての負担が取り払われているという訳ではない。
ターゲットと切り結び、肉や筋を切り払った時に感じる生理的な忌避や悪寒。
銃口を敵に向け、問答無用に打ち抜いた際に胸に迸る罪悪感。
そして、否応無く痙攣する敵に止めを見舞う時に感じる言いようの無い喪失感……。
肉体面に掛かる負担が取り払われたのだとしても、この身が未だ人のそれである以上、反射的に忌避してしまう精神的な負担は拭い去る事は出来ないのだ。
無情になれ、無情になれと私は何度も自分で自分に言い聞かせる。
所詮この世界に起こる総ては仮想のもの、本当に自身が他者の命を刈り取っている訳ではないのだから。
だが、夢想であり仮初の物と分かっていても尚……この身の内を駆け巡る“現実(リアル)”は拭い去る事が出来ない。
斬れば血肉を浴び、穿てば臓腑の臭いが鼻腔を突き、能力を使えば街の一角その物が更地になってしまう。
もしもこれ等の内の一つでも現実に起こりえたのなら、不意に私にそう思わせるにはそれらの生臭い感覚は私の精神を蝕むには十分過ぎる毒を孕んでいると言えた。

だが、今の状況ではそんな杞憂も直ぐに四散し、濁流に呑まれたかのように頭の中から排除される。
目の前に揺れる真っ黒な人影─────否、化け物の姿。
体長は軽く二メートル半を超え、タイヤのゴムを溶かして形作ったような肌は凡そ人の範疇を有に超える筋肉を帯びている漆黒を人型にして歪に捻じ曲げたかのような化け物だ。
その姿を形容するのなら、最早その身姿は人というよりは鬼のそれに程近い。
対物兵装型の暴走体ダミー、それが私の前に現れた者の正体だった。
それを認知した瞬間、私は地面を強く蹴ってターゲットとの距離を一気につめる。
対処にもたついていると先手を取られてしまう、そう直感が告げてきたからだ。
だが、そんな考えが頭に浮かんだ時には既に遅いという事を私は一瞬にして悟った。
目の前の敵が肩膝を着いて私に向けている物……HASAG RPz54、通称パンツァーシュレックと呼ばれる対戦車ロケット砲の存在に気が付いたからだ。
避けようと思い、行動に移せば避けられるような物でもない。
よしんば避けた所で超高熱で噴射される爆炎に身を焼かれて戦闘不能に陥るのが落ちだ。
だからこそ、私は臆せず前へ前へと突き進み続ける。
ジュエルシードの力を微弱に解放して地面に足の裏が触れるたびに“反射”の力を作動させ、通常の何倍もの速度を持ってしてターゲットへと突っ込んでいく私。
そして次の刹那、ポケットの中のジュエルシードが強烈に発光し、まるでそれが合図であったかのようにターゲットの肩に担がれたパンツァーシュレックから88mm炸裂弾の弾頭が此方に向けて発射される。
本来なら命中すれば例え相手が装甲車であろうとも紙屑の様に燃やし尽くせる対戦車ロケット砲の弾頭、当然私なんかが真正面から突っ込んで万に一つでも命が拾えるような生易しい品物じゃない。
そう、それが本来のあるべき道理の範疇内で展開された事であったのなら……。
次の瞬間、徐に拳銃を手にした腕を振りかぶった私は、盛大な声をあげてその断りすらも捻じ曲げる力の解放を高らかに宣言するのだった。

「……ッ!? 小っ賢しいわァぁあああ!!」

瞬間、私はある一つの念に全神経を集中させ、一気に振りかぶった手を横薙ぎに振り払う。
寄るな、触れるな、近寄るな。
汚らわしい、この身に降り掛かる物は皆総じて吹き飛んでしまえ。
誰にも私に触れる事など出来はしない。
故に高みへ。
誰も辿り着く事の出来ない高みへと私は暴風を纏って昇華し、貫く。
それこそが我が渇望、世界の如何なる干渉であってもその存在その物を否定し、反射し、捻じ曲げ潰す”高町なのは“に赦された五分間だけの絶対防御だ。
其処に名前など無く、また一切の工夫も努力も無い。
何せこの力を解放した私に触れられる存在など、例え世界の何処を探してもある筈無いのだから。

無論、それは戦車の装甲をも貫くロケット弾であろうと例外ではない。
拳銃を握られた腕が振り払われたその瞬間、私の拳はロケット弾の弾頭の横腹へと突き刺さる。
横薙ぎに殴られた事で弾頭が拉げ、推進する為に噴出していた爆炎が見当違いの方向へと向かって火を吹き上げる。
刹那、私の視界が一瞬にして閃光と爆炎の紅に染まる。
拉げた弾頭が炸裂し、突き刺さった私の拳を中心に辺りにあった物を根こそぎ巻き込んで爆ぜ上がったのだ。
耳の内でキンキンと鬱陶しい耳鳴りが鳴り響き、視界が微かに白くぼやける。
だが、この身に一切の負傷は無い……それを確認した私はもう一度自身の心に強く訴えかけ、爆発によって齎された二次被害という”干渉“をこれまた根こそぎ否定して、私の身体の中から外へと追いやる。
瞬間、私の身体の状態が原点へと帰還し、思考が一気に透明感を帯びてくる。
面倒な攻撃は防いだんだ、後は己の成すべき事をこの衝動に乗せて相手を葬ってやればいい。
私は歪に口元を吊り上げ、夥しい量の血液が滴るバルディッシュを振り被りながら、目の前の敵へと迷わず突っ込んでいくのだった。

「はッ─────お返しだよ。バルディッシュ!」

『Arc Saber』

先ほどから延々と桜色の刀身を光らせていた大振りの戦鎌を私は片手だけで振るい、遠心力を利用してターゲットへと駆け寄りながら一気にそれを横薙ぎに振るう。
瞬間、バルディッシュの鎌の刃となっていた刀身が結合部から分離し、まるでブーメランのように高速で射出される。
その速度は弾丸もかくや……いや、最早それ以上であると言っても過言ではないのかもしれない。
肉を裂き、骨を断ち、命を蹂躙する高速で打ち出された電動鋸の刃。
凡そ、私の知る言葉で形容するならばそう呼ぶのが正に適切だと言える様なスピードで高速回転する刃は急いで回避しようとしているダミーの方へと向かっていく。
だが、音速をも上回る速度で迫るギロチンの刃を避ける余裕など当然ターゲットには残されていない。

パンツァーシュレックの防護盾を切裂き、砲身を断ち割り、避けようとしていたダミーの脇へと突き刺さった魔力の鋸は容赦なくその命を貪り喰らう。
回転する刃が腹から頭へ、そして縦から横へと次々にその行く先を変えてダミーの身体中で暴れ回る。
どす黒い血液が噴水の様に跳ね上がり、断たれた腹から臓物が零れ落ち、吹き飛ばされた手の内から粉々に砕け散ったパンツァーシュレックが地面へと落ちていく。
そして荒れ狂う刃が光の粒となって掻き消えた頃には、ターゲットは四肢を捥がれた豚のようにのた打ち回るという醜態を晒す事となった。
まったく、梃子摺らせてくれたものだと私はつくづく思った。
『ターゲットの無力化を確認』、バルディッシュから漏れる電子音声を私は吹き出る返り血をこの身に浴びながら、己が渇望が流れ出すのを抑制し、悠々とそれに言葉を返すのだった。

「オーライ。これで第四ミッションの条件もクリアって事でいいのかな?」

『肯定。セカンドマスターからの指令内容は今のターゲットを無力化した事でクリアされたと認識されました。記録した経過を報告いたしましょうか、マスター?』

「んにゃ……別にいいよ。これが実戦だったらこうも簡単に敵を倒せた訳じゃないんだろうし、体力も魔力も消費しない状態のデータなんて何の役にも立たないしね。それに今回の訓練で重視されるのはあくまで技量と応用力、それを判断するのは私じゃなくアリシアなんだから尚更だよ。とりあえず次の指令が来次第報告して。次でラストなんだからさ。それまではバルディッシュも待機モードね。ぶっちゃけ、ずっと展開してるのもだるいし」

『指令了解。マスターからの指示を最優先事項として認定しました。現在を持ってセカンドマスターからの指令が伝達されるまで待機モードに移行します』

相変わらず堅苦しい上に機械的で面白みの欠片も無いバルディッシュの返答に私は「よろしく~」と適当に声を掛け、それに肯定の意を示す。
すると私が発現を終えた刹那、私の手の内のバルディッシュがカシュッ、という小気味良い機械音を立てて変形し、鎌状の刃を展開するサイズフォームから待機状態のアックスフォームへと形状が元に戻った。
そしてそれと同時に斧状の刃になっていた部分にべっとり付着していたどす黒い血液が地面へと垂れ、まだ真新しいと思わしき白煉瓦が敷き詰められた路地に呪いのような染みを新たに生み出す。
これが仮想空間でなければ発狂ものだ。
私はそんな光景をボーッ、と眺めながら徐にそんな事を頭の中に思い浮かべる。
この訓練空間“赤錆に塗れた街”は私が暮らしている海鳴市の一部をトレースし、細部に幾つかのトラップを仕込んだ物凄くだだっ広い忍者屋敷のような物だ。
対人地雷は幾つも地面に埋められているし、既にサンダースマッシャーで粗方撤去したとは言え、一部のビルや家の屋上にはコンピューターの自動制御で動く50口径対空機銃まで作動している有様……凡そ、中東辺りの紛争地帯並だと言っても過言ではないだろう。
だが、その内装はどうであれ、その外見は腐っても私の住んでいる街その物だった。
閑静な住宅街や水平線の彼方まで見渡せる浜辺、そして現在私がいる駅前の広場でさえ、そっくりそのまま瓜二つ……完全な実物として再現されていた。
ただ違うのはこの空に不気味に広がった夕焼けとも深夜とも言いがたい不気味な赤錆色の空と、あたりに充満する噎せ返る程に濃厚な死臭だけだ。

なんとも趣味が悪い、私は不意に一瞬だけ空を仰ぎ、また直ぐに先ほど無力化したターゲットの方へと視線を戻しながらそう思った。
確かに合理的に考えるのであれば見知った場所をトレースして訓練場に使う事は使用者の緊張を解す事にもなるのだろうし、実質闘いの舞台は同じ海鳴市内であるのだから訓練を通して地の利を学ぶという事にも繋がってくるから一概に全部が悪いという訳ではない。
寧ろ、インコンバットとアウトコンバットの両方を見知った土地で学べると言う点に関しては此方の方が理に適っていると言う物だった。
だが、人間そうそう簡単に何でもかんでも割り切って考えられるほど機械的ではない。
何時も其処にあった筈の日常がこのような非日常に変っていく場景を見させられれば、誰だって嫌な気持ちの一つくらい抱いてしまうと言う物だろう。
友人同士が並んで笑い合いながら歩く路地が戦場となり、恋人がいちゃつく店が要塞と化し、円満な家族が日常を過ごす家屋が爆弾と砲撃魔法で吹き飛ばされる。
ありえない筈の光景なのに、何時か現実でもこんな風になってしまうのではないか……そんな事を考えるたびに私の気分はどんよりと沈んでしまう。
もしも此処に人がいたら、あまり考えたくない事だが既に幾人も犠牲者が出ている以上思慮しておかねばならない事柄であることに違いは無いだろう。
まったくつくづくこの世界は私の気分を害してくる。
私は半場八つ当たり気味にピクピクと痙攣しているターゲットの方へと銃口を向け、鬱憤晴らしとばかりに迷わず引き金を引いた。

手の内で小さな拳銃が跳ね上がる。
現実で使っていた物とは違い、訓練用に火薬を多く薬莢に詰めた強装弾を使用している所為なのか、何時も以上に反動はきつい物があった。
しかし、この世界での訓練に加えて現実の世界でも銃を撃った私にしてみれば別段捌き切れない品物と言う訳でもない。
連射さえしなければ片手でも狙いを付ける位は十分に容易かった。
刹那、バックアップの銃口が火を噴き、排出された真鍮の薬莢がコンクリートで舗装された地面に落ちる。
そして、間髪入れずに飛び出したフルメタルジャケットと呼ばれるタイプの弾丸は宙に綺麗な螺旋を描きながら未だに痙攣を止めないターゲットの頭部へと命中した。
ターゲットの痙攣が止まり、辺り一面に再び血の臭いが充満し始める。
妙に生々しい物だと私も思ったものだが、もはや全身に返り血を浴びている身の上ではそれ以上の感想を抱く物でもなかった。
戦闘をするということは相手の命を奪うということ。
実際私も前回の戦闘で暴走体となった生物の命を奪っているし、これからの戦闘でも恐らくそんな展開が続く事になるのはほぼ確定済みだ。
相手が人間であるならいざ知らず、この程度の事で罪悪感を抱くなんてナンセンス。
と言うか、寧ろそのまま放置すれば再び襲ってくる可能性もあるのだからきっちり止めを刺して本当の意味で敵を無力化するのは正しい事だろう。
私は薬室に一発だけ弾丸が残っている事を確かめ、そのままグリップ横についているボタンを押して空になったマガジンを地面へと捨てると、腰に挿してあった予備のマガジンを再び差し込んで弾薬の補給を終えるのだった。

『警告。戦闘行為以外で弾薬を消費するのは感心しません。以後、お気をつけください』

「堅苦しい事言わないでよ。きっちり敵の首を落として初めて状況終了なんでしょ? だったらこれだって減点の対象になるような事じゃないはずだよ。殺れる時に殺らなきゃいけない相手を殺る事。ほら、何処も間違ってないでしょ?」

『肯定。しかし、先ほどのマスターの行動にはそのような意図があるとは判断出来ませんでした。よって、私からの進言に変更はありません。ご自重なさってください、マスター』

「……ッ、分かった。次からは気をつけるよ」

まるで小姑みたいな事を言ってくるAIだ。
私は内心そんな事を思いながらも、抑え切れない分の苛々を舌打ちに移して気持ちを押さえ込む。
悔しいが確かにバルディッシュからの進言には私も図星を突かれてしまっていた。
気分が悪い、苛々する、考えが纏まらない……だから八つ当たりをして憂さを晴らした。
その考えは否めなかったし、実際私もそういう気持ちがあったからこそ引き金を引いたのだ。
ジュエルシードの問題に加えてフェイトちゃんの問題が出て来たとか、アリシアが何で不機嫌なのだろうとか、明日から学校が始まると思うと気分が滅入るとか大体そんな感じ。
嫌な事が一度に解決出来ないほど沢山あって、しかもそのどれにしたって逃げられないという現状に私は抑えきれないほどの苛立ちを感じてしまっていたのだ。
だからこそ、八つ当たり。
私がこんな調子じゃあ、私を虐めていた連中の事をとやかくいう事も出来ないのかもしれないが……人間抱え込むだけじゃなくて発散もしなければならないのだと今なら分かる。
それにこれはあくまでも訓練、私からしてみれば体験シミュレーション型の戦争ゲームのような物だ。
痛みや疲れが無い分一方的に相手を嬲れる訳だし、それで誰かに迷惑が掛かると言う訳でもない。
実戦的な雰囲気も学べて尚且つストレスの発散も出来る、これ以上のゲームは他に類をみないだろう。

しかし、先ほどの私は間違いなくストレス発散とは違う心情の内に引き金を引いていた。
ゲーム感覚という訳でもなければ実戦に結び付く思慮が在る訳でもなく、ただただその存在が此処にあるという事が許容出来ないが為に。
本当にただそれだけ、下手な言いかえをするなら意味も無いけどちょっとムカついたから殴ったとかそんな風なノリと捉えてしまってもいいのかもしれない。
ただただ自身が苛立っていた故の行動を理性が抑えきれずに、尤もな理由をくっ付けた上で実行したに過ぎないのだ。
それも持ち合わせていた筈の他者の生命を奪うという尊厳すら忘れ、己が欲望が赴くままに。
やはりこの場所にいると暴力的な思考に歯止めが利かなくなってしまう。
早々に訓練を終えてこの場から立ち去りたい、私がそう思いながら溜息を宙へと吐き出すのとバルディッシュのコアが電子音を鳴らしたのは殆ど同時の事だった。
どうやら最後のミッションの内容が届いたと言う事らしい。
私は二、三度肩を回して筋肉を解し、手の内のバックアップをクルクルと回して弄びながらバルディッシュから発せられる電子音声へと耳を傾けるのだった。

『報告。セカンドマスターからの指令を受信。内容を提示いたしますか?』

「お願い」

『了解。最終命令の内容を報告。最終ミッションの内容は一対三のアウトコンバット。ターゲットは実弾タイプが二体、動物タイプが一体。訓練は今から五分後に市街地の第八ブロックにて開始されるとの事です。マスター、早急に移動を』

「はいはい、了解りょーかいっと。まったく、手っ取り早く済ませるよ。こっちもこれ以上気分を害したくないんでね。見敵必殺、全力全開。ターゲットを見つけ次第全力を持って叩く。よろしくね、バルディッシュ?」

暗に「その為にターゲットを私の前に狩り出す用意をしておけ」というニュアンスの篭った言葉を私が掛けると、バルディッシュはそれに対して『了解』とだけ言葉を返してきた。
本当に態のいい武器だとつくづく思う。
魔法を使えるようにする為の単純な装置などではなく、格闘戦にも転用でき、尚且つ戦略を広げられるようにAIが最適な動作を割り出してもくれる。
良い事尽くめな上に都合が良い、これ以上に優秀な武器は私の世界でも中々お目に掛かれないという物だろう。
とは言え、流石に私もバルディッシュの事を“都合の良い武器”以上の物として認識するほど愚かな人間では無い。
武器は何時か壊れるし、新しい物が出来れば型が遅れる事だってある。
よくロボットアニメなんかで機械の事をパートナーだの友人だの言っている主人公がいるが、所詮兵器は兵器だ。
使い物にならなくなれば無用の長物となるだけだし、状況に相応しくないとなれば無理に使用する事も無い。
臨機応変、その場に合った使い道があってこそ武器は武器足り得るのだ。
その点で言えばバルディッシュは非常に都合がいい。
別段信頼しているとか思い入れがあるとかそういう訳ではないが、あらゆる場面でその特性を応用出来る多様性がバルディッシュにはある。
少々登録されている魔法の一つ一つが直線的過ぎるのは否めないが、其処はまたアリシアに魔法を教わるなどしてバリエーションを増やせば良いというだけのことだろう。

ともあれ、最後の命令は下ったのだ。
後はさっきからやってきた事と同じように、敵を見つけ次第斃せばいい。
時に四肢を射撃魔法で砕き、時に拘束魔法で縛り上げ、時に銃で頭部を穿ち……また時にジュエルシードの力で全身をバラバラに引き裂けばいい。
それだけの力が私にはあり、此処でその力を振るう事を遠慮する事など無いのだから。
着実に私は力を付けつつあり、また常人には遠く及ばないほどに強くもなっている。
これはその証明。
アリシアに……いや、自身に己が化け物になりつつあるという事を告げる証明なのだ。
抑えるべき所は抑え、開放するべき所は開放する。
その酌量を間違えないように、私は”高町なのは“という化け物を飼い慣らさなければならないのだ。
そして今は─────ただ己の力を行使し、私の持てる総ての力を持ってターゲットを捻り潰す。
そう私が確信を得た頃には、私は脳内で限界まで分泌されたアドレナリンの所為で滾りに滾りつくしていたのだった。

「さぁて……ぼちぼち、再開しようかな。狩りを、さ」

バルディッシュを再びサイズフォームへと展開し、銃把を強く握り締めた私は口元を吊り上げながらそうポツリと呟く。
そう、これは訓練というか……狩りなのだ。
己の実力がどれほどの物なのか、それを八つ当たりから来る衝動と磨いた技術によって証明する化け物狩り。
そして私は狩猟者、一方的に……それも攻撃されても手傷一つ負うこと無く相手を虐殺できる力を有した絶対無比の存在なのだ。
それは言わばチートコードを用いたゲームの主人公。
ずるい力を与えられ、絶対に自身が死ぬ事の無い環境で絶対的な力を行使する狩る化け物以上の化け物だ。
斃す毎に得られる経験値は少なくなってしまうけど、爽快ではある。
ならば……私は思う存分その感覚を快楽として享受すればいい。
私は意味無く口元から漏れる自身の笑いに思わず身震いを催しながら、目的地へと足を向けるのであった。
強く、強く……何度も何度も蹂躙するように地面を蹴り上げながら。
ただ只管に、只管に……。





そんな高町なのはの様子を何処からともなく覗き見ている物がいた。
名はアリシア・テスタロッサ、アルハザードの管理人格たる幼子だ。
彼女は高町なのはが駆ける世界とはまた別の場所、言うなれば彼女の作り出した別の空間から彼女の様子をジッ、と除き見ていた。
その表情は重く、何処か苦々しい。
まるで彼女の変化を快く思っていないような、そしてそれでいて自身がした事が本当に正しかったのかと今更自問自答するような……そんな居た堪れない表情を彼女は浮かべながら彼女は徐に口を開いた。

「なのはお姉ちゃん……ううん、これで……これで正しかったんだよ。なのはお姉ちゃんは私が望む通り、ちゃんと強くなってくれてる……」

彼女は力なくそう呟き、自身の言葉を自ら肯定する。
しかし、その表情が晴れる事は無い。
寧ろ、そう肯定の意を呟く度に彼女の表情は一層蔭るばかりだった。
分かっているのだ、彼女自身も。
自分がこんな風に呟くこと自体、何処か道理に適わない事だという事を。
幾年もの間積み重ねてきた苦しみから開放されるからと彼女が望み、またそんな彼女に同調した高町なのはに望まれたからこそ彼女は高町なのはを鍛え、技の術を託してきた。
だが、そうする事で彼女が望んだ高町なのはという存在は歪み始めてしまった。
ジュエルシードの力で一度己が渇望を叶えてしまったが故に、嘗てこのアルハザードに巣食ってきた者達の様に人としての根本が捻じ曲がりそうになっているのだ。
己がそう望んだ所為で、彼女にそう望まれてしまった所為で……。
アリシアは思わず泣き出しそうになった。
このままでは何れなのはお姉ちゃんは取り返しがつかないほどの変化を遂げてしまうのではないか、と思わずにはいられなかったからだ。
でも、彼女は涙を流さない。
それどころか、まるでそんな感情すらも押し潰して戒めるかのように犬歯をむき出しにして歯噛みするばかりだ。
ギリギリと音を立て、歯と歯が互いに削れ合う。
悔しい、何処までも無力で役立たずで……他人に不幸ばかり撒き散らす己の存在が憎たらしくて堪らない。
彼女はそんな感情を吐露するように、擦れるほどの小さな声で自身の気持ちを言葉に変換して宙へと吐き捨てるのだった。

「本当は、もう……誰も不幸になって欲しくないのに……。時間が、それを赦してくれない……」

泣き出しそうな、それでいてありったけの不満を吐き出すように彼女はそう呟いた。
それはまるで世界を呪う言葉のように禍々しく、氷のように冷たい言葉だった。
これ以上彼女は自身の姉代わりのような少女である高町なのはを不幸にさせるような事はしたくないと思っていた。
どれだけ普段明るく彼女が振舞っていても、この身は知ろうと思えばどんな秘密ですら知ってしまう存在だ。
そう自覚しているが故に、アリシアは高町なのはが今までどれだけの苦痛を周りから受けていたのかを知ってしまっていたのだ。
家族からも友人からも裏切られ、誰からも愛されず、ただただ孤独に身を窶すだけの毎日。
その苦痛がどれほどの物だったのか……彼女は理解してしまったのだ。

初めて彼女がそれに気が付いたのは、何時だか彼女が急かして学校に行ってみたいと申し出た時だ。
あの時、彼女が見せた反応……それは如何考えても普通の物ではなかった。
故に彼女はちょっとした好奇心から、彼女の過去と言うパンドラの箱を開けてしまったのだ。
高町なのはが彼女に知られたくないからと必死に隠していた自身を取り巻く人間の怨嗟。
それを理解してしまったが故に、彼女は高町なのはの幸せを祈った。
もうこれ以上彼女が傷つきませんようにと、もう誰も彼女を独りにしませんようにと。
無駄だと分かっていても彼女は祈った。
こんな筈じゃなかった世界で手を差し伸べてくれた少女の為に只管に、只管に。
だが、そんな彼女の祈りと反するように現実は状況を変えてしまった。

昨夜彼女が帰りが遅いからと心配で覗き見た高町なのはの姿……厳密に言えば、そんな彼女を取り巻く人物の中にもうあまり時間が残されていないことを告げていたのだ。
彼女が見た光景は何の変哲も無いファミリーレストランで最愛の姉代わりが楽しそうに食事をしている光景だった。
それだけなら彼女も安心して覗き見るのを取り止めていた事だろう。
彼女が祈った幸せが、その時の彼女には確かにあったのだから。
だが、問題なのはその相手……くすんだ金髪の女性、確か姉代わりである少女からは“先生”なる呼称で呼ばれていた女性にべったりとくっ付いて甘えるもう一人の少女にある。
それは、もう一人の彼女だったのだ。
利き腕も違うし、雰囲気も違う。
何よりもその姿は彼女よりも幾分か年上で、顔に浮かぶ表情はまるで幸せの絶頂にあるかのように輝いてすらいた。
でも、彼女は一瞬にして見抜いてしまった。
そんな少女が何物であるのかを。
そしてその少女が浮かべる表情の裏側にどんな物が込められていたのかを。
その瞬間、彼女は悟ったのだ。
もう既に、自身の願いを叶えるには時間が無いという事を。

「妹なんて、欲しがらなきゃよかった……。そしたら、あの子だって……っ!」

ギュッ、と爪が掌に食い込む程に彼女は自身の手を握り締める。
それは自身の中で湧き上がる衝動が行き場をなくしてしまったが故の行動だった。
嘗て彼女がまだ歳相応の無垢な少女であった頃に己の母に望んだ願い。
孤独は嫌だから、一人は怖いから、誰かに一緒に居て欲しいから……そう渇望したが故に願い、彼女は母に強請ったのだ。
だが、その願いが叶う前に彼女はアルハザードに飛ばされ、結局その願いは叶わなかった─────筈だった。
叶ったのだ、彼女の願いは。
望んだ通り妹は誕生し、今この瞬間にも確かに息衝いている。
本来ならば喜ぶべき事だった。
肉親が増えた事に、そして己の渇望が満たされた事に彼女は歓喜する筈だった。
だが、それは覗き見た彼女の過去故に泡と成って消え失せたのだ。

自分がいることで皆が不幸になる、彼女は唐突にそう思った。
自分が望まなければ母はクローン技術に手を伸ばしてまで自分の複製を作ろうとは思わなかった筈だった。
そうすれば彼女も記憶を失ってしまうような苦しみを抱える事も、自身の大切な人を目の前で殺されるような事態にもならなかったのだ。
もう何十年も前の、自身がまだ見た目相応の子供だった時代に何気なく願った物であったのだとしても……彼女は妹の存在を望んだ自分自身が赦せなかった。
そしてこれ以上自分と自分の母親が回りに災厄を齎すということに関しても、もうこれ以上許容する事は出来なかった。
故に彼女は己を呪い、そしてまた祈る。
其処に涙は無く、存在するのは純粋な憤怒と憎悪。
未来を繋ぐ為に過去を断ち切らねばならない、そう思うからこそ彼女は絶望もしなければ嘆きもしないのだ。

故にその為には自身に力を貸してくれると言ってくれた少女をもっともっと強くしなければならない。
もうこれ以上誰も不幸にしない為に。
そして、自分を信じてくれた最愛の少女がもうこれ以上壊れていかないようにする為に。
彼女は自身を恨み、また呪う。
こんな運命に生れ落ちた自分を……生まれながらに周りを不幸にするアリシア・テスタロッサという存在を……。
彼女が憎み、それと同時に祈るのだ。
救いなど要らない、近寄れば遠ざかっていけばいい。
この身がどれだけ貪られても構いはしない、だから……だから、私が不幸にした人々に祝福を。
彼女は祈り、また願う。

「もう……時間は無い。だから、頑張って。なのは……お姉ちゃん……」

彼女は目の前で繰り広げられる戦闘を見ながら、ポツリとそう呟いた。
最愛の少女は拳銃とデバイスという二つの凶器を屈指し、血と臓物に塗れた地面を蹴り上げながら何度も何度も執拗に敵を殴りつけている。
凡そ、それはもう彼女の知る戦闘とはかけ離れた……もはや殺し合いの領域にはいる物だった。
だが、彼女は何も言わず……ただただ純粋に彼女に願う。
強くなってくれるのは良い。
どれだけ敵を蹂躙しても、容赦が無くなったって構わない。
でも、私に手を差し伸べてきてくれた時の優しさは忘れないでいて欲しい……と。
瞬間、不意に彼女の瞳から何か熱いものが頬を伝ったのだった。
まるで、今まで自身が抱えていた悔しさが剥がれ落ちたかのように……。
ポツリ、ポツリと音を立てながら。





補足。
それでは恒例の銃火器の説明に移りたいと思います。
なんというか、また自重出来ませんでした……はい。

モデル名:HASAG RPz54 パンツァーシュレックⅡ
製造国:ドイツ第三帝国
口径:88mm
全長:1592mm
重量:11.5kg
弾数:1発

簡単な説明:第二次世界大戦中に製造された対戦車ロケット砲。
逆噴射する噴射炎から射手を護るように盾が砲身についているのが特徴で、これによって射手は安全に射撃を行う事が可能。
作中なのはさんは拳で弾頭を粉砕していましたが、本来戦車(二次大戦当時)の装甲を打ち抜ける物ですので良い子は決して真似をしないように。
ちなみに北斗の拳的「名前を呼んで」の人ことジャギ様もこれをご愛用。
では最後に「俺の名前を言ってみろ~!!」

では、以上余計な補足でした。





[15606] 第二十一話「憂鬱の再開、そして悪夢の再来なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:ba948a25
Date: 2010/06/10 07:39
長い休みの後は基本的に憂鬱な物である。
恐らくこれは何時如何なる状況であろうと大概皆こう思っているのだろうし、多分何処の世界を探しても大抵の人間は同じ事を考えているのだろうから大凡、万国共通な事柄と言っても過言ではないだろう。
言い換えるのなら定期的に発症し、伝染する流行病のようなもの。
もう少し俗っぽく表現するなら一種の「サザエさん症候群」とでも言えば適当なのだろうか。
あの独特なエンディングテーマが流れ終わると不思議と「あぁ、明日月曜日か……」と思ってしまい、軽く鬱になりかけるアレである。
何でも通説によればあの刻限は実際に科学的な側面からもその手の心境の変化が起こる時間帯らしいし、本当の所冗談抜きで自殺が一番執り行われている時間でもあるそうだ。
つまりそれ位、皆責任を背負う為の明日を生きたくないという事なのだろう。

人間何かに追われるように毎日を過ごしていると、否応もなく鬱憤を溜め込んでしまう物だ。
それがコンビニの前でたむろしてヘラヘラ笑っている若者だろうが、上司にも部下にも気を使って神経をすり減らしている中間管理職のおじさんだろうが例外ではない。
誰だってそうだ。
毎日毎日他人の顔色ばかり窺って、予め形成された交流の輪の中から蹴りだされてしまいはしないかと心の奥底で脅えるだけの日常。
疲れないはずが無い。
こればかりは私も自信を持って断言する事が出来た。
だって実際の話その理屈の上で私もほぼ毎週月曜日が来るたびにそう思っているし、周りの人間を見ていても「この人も私と同類だな」って思ってしまうからである。
鬱陶しい朝日に目を晦ませながら眠そうな顔で自転車を漕ぐ高校生、月曜の朝だというのに景気の良くない顔を浮かべて溜息を吐くサラリーマン、夜の仕事に疲れきっているのかふらふらとした足取りでコンビニへと入ってくる水商売風のお姉さん……その他エトセトラ、エトセトラ。
路地をすれ違う人達の顔を窺ってみると大体皆そんな感じだ。
というか、今のところ私はその逆のパターンの人間を未だにお目に掛かった事は無い。
大体皆憂鬱そうな顔を浮かべ、その生活にこれといった目標も見出せぬまま、だらだらとその日その日を惰性的に生きているだけだ。

勿論、私はそんな人達の生き方を否定したりはしない。
最大公約数が物を言うこの国ではそうやって生きる事がある意味一番ベストなのであり、突飛した欲望を抱く人間は大抵羽ばたく為の”翼“を捥がれて地に落ちるのが落ちなのだから。
確かに例を挙げればより高みを目指して羽ばたき、成功を収めた人間もいない訳ではない。
時には富を、時には名声を、時には地位を……ありとあらゆる欲求を現実の物にし、謳歌してきた人間も確かにこの世には存在しているのだ。
だが、それはあくまでもごく一部……それこそ全体からパーセンテージで割り出せば僅か数パーセントにも満たない数だ。
人間、誰しも上を向いたからといって手が届くという訳ではない。
それ相応の環境、財力、人脈、覇気、努力……高みへと上る為の土台が予め用意されていたからこそ、成功者は成功者として羽ばたいていく事が出来たのだ。
私やその他大勢の凡人がそんな物を求めた処で結局手は届きはしない。
よしんば手が届いた処で、そうして手にした物は単に引き摺り降ろした物でしかないのだ。
星を手にしようとその輝きが無ければ結局それは嘗て星であった単なる石くれでしかない様に、人には分相応……自信の手が平行に届く範囲の物でしか真の価値を見出す事は出来ないのだ。
尤も、其処で諦めて立ち止まるのか、それとも高みへと昇ろうと凡人は凡人なりに何とかしようと思い立つのかはまた別の話なのかもしれないが……。

ともあれ、結論としては人間自分の身の丈に合わない苦労を抱えると碌な事にならないって訳で……ついでに言ってしまうのであれば、例え身の丈に合っていても憂鬱な感情は何時でも背中にくっ付いて回って来るという事だ。
例えその重圧が嫌で投げ出したとしても、それならそれでまた一ランク下の鬱憤を背負う羽目になる。
世の中に生きる最低最悪な境遇に生きる人間……詰まる所、私こと高町なのはのような人種はそうした悪循環の繰り返しによって今の立場に追いやられてしまったという訳だ。
一つ投げ出せたかと思えばまた次の厄介事が舞い込んで来て、それを解決しようとした矢先にまた一つ面倒を抱え込む事になっている。
そうやってどんどん自爆方式に事は広がって、最終的には取り返しのつかない事態にまで発展してしまう。
それが凡人より落ちた人間の性であり、ある種呪い染みた運命なのかもしれないと私は思った。
あぁ、今ならはっきりと言えるだろう。
「私をこんなにも要領悪く運命付けて下さって神様どうもありがとうございました。くだばっちまえ」って。
私は昨日の訓練の後にテレビで見た深夜映画で主人公がそんな風に毒づいていたのを思い出し、何時もの物より当社比で三割増し位の鬱憤が込められた溜息を宙へと吐き捨てながら、照り付ける太陽に急かされる様にバス停までの道のりをフラフラと歩いて行くのだった。

「はぁ……。学校、行きたくないなぁ。ったく、事件はまったく解決してない筈なのに何で学校再開させたりなんかするのかな……。いい迷惑だよ、本当に」

心の奥底から表面張力のギリギリにまで巣食った鬱憤を呪詛の様に吐き捨てながら、私は思わずそんな独り言を漏らしてしまった。
しかし、その言葉に返答してくれる何時もの少女の声や機械的な返答は何時まで経っても聞こえては来ない。
受け止めるべき相手を見失った言葉は独りでに迷走し、辺りから響いてくる同じ学校の人間の騒々しい馬鹿笑いや朝から異様にテンションの高い者同士のお喋りに掻き消えるだけだった。
其処で私の思考は一つの答えを私の頭の中に導き出す。
今日は……って言うか、これから学校に行く際はジュエルシードもバルディッシュも拳銃も総じて持っていかないという取り決めを今朝方アリシアと交わしたのだという事を。
当然アリシアからは猛反対されたし、私自身も色々と疑問の残る答えだったと言う事は一概に否めなくもあった。
だが、それ相応の理由も存在していたからこそ、そういう結論に至ったのもまた真実だと言うほか無かった……少なくとも私はそう解釈している。

最近は色々と物騒な事件も多発していて学校も長らく休校であったから失念していたのだが、やはり学校での私の立場を考えると何時あの地獄のような時間が再開されるかも分からない。
となると、その矛先……初めは直接私の身体を殴る蹴るしていれば満足なのかもしれないが、対象が私の所持品の方に移るのも経験上時間の問題と言う事になる。
そうなれば騒ぎは一層大きくなるし、ジュエルシードやバルディッシュは一度見つけられなくなってしまうと有事の際に丸腰になってしまう事にもなりかねない。
拳銃なんて物は論外だ。
見つかるだけでも危険な上に、そうなったが最後……如何取り繕っても弁解なんて出来た物ではない。
どれを一つとっても日常を狂わせかねない物だが、今は一つでも欠けただけで大惨事を招く事にもなりかねないのが現状なのだ。
学校から帰ったら一度家に戻らなければならないのは余計な手間だが、万が一の事も考えて用心に用心を重ねるというのもその対価に似合う位に重要な事だ。
故に現在私は丸腰。
無造作にスカートのポケットに突っ込まれた手はバルディッシュやジュエルシードを捉える事も無ければ、小型拳銃の銃把を握る事も無い。
ただ先ほど入った何時ものコンビニで買った缶コーヒーと菓子パンの入った袋が申し訳程度に指に引っかかり、歩くたびに音を立てながら揺れるだけだ。
正真正銘の潔白な身、自分で言うのもおかしな話なのかもしれないが武器を持つ事で人が腐ると言うなら現在の私は何時もの私よりかは幾分か汚れの落ちた身の上だと言えた。

しかし、反面私の内心は複雑な物だった。
なんと言うか、あまりにも何も無さ過ぎて逆に落ち着かないのだ。
今こうしてバス停へと向かう私の周りで聞こえる声も、如何にも今の生活充実してますよと言わんばかりに微笑む学生の姿も、何かが起きている筈なのに何も起こっていないように見えてしまう街並みも……何もかもが平和過ぎて気が滅入ってしまう。
何も平和なのが悪いとは言わない。
出来れば私だって面倒事は起きて欲しくないし、これ以上被害者が増えるのもあんまり良い気分がしないのも確かだ。
だが、如何にも平和過ぎるというのも……存外退屈な物だった。
昨日の訓練が後を引いているのか、それとも此処数日の異常事態に私の感覚が麻痺してしまったのか。
まあ、正直どっちでも構いはしないのだが、恐らくそこら辺の事情が今の私をそんな気分にさせているのだろう。
退屈は人を殺す猛毒であると何時だか読んだ本に書いてあったが、今ならその言葉の意味も何となく理解出来るというものだ。
一度戦いの味を占めると中々その感覚から抜け出せなくなってしまう。
言うなれば評判のゲームをプレイした時と一緒の感覚だ。
もう止めようと思いはするものの、ついつい後少しだとコントローラーを握り直してそのまま徹夜してしまう……道理の根本は異なるのかもしれないが捉え方としては大体そんなものだ。
銃で敵を穿つ感覚が、魔法で相手を吹き飛ばす爽快感が、己が渇望を丸侭敵にぶつける優越感が……何にも増して私の感覚を滾らせるのだ。

でも、此処にはその感覚の断片も無い。
私は停車場に停まっているバスに周りの連中が嬉々として乗り込んでいく姿を見ながら何となくそう思い─────そのまま憂さを晴らすように重苦しい溜息を宙へと吐き捨てた。
昨日の訓練で些かストレスを発散し過ぎたのも原因なのかもしれないが、如何にも私は私を取り巻く人間達が変らず各々の“何時も通り”を過ごしているのが何となく不愉快で仕方が無いのだ。
この街は半ば戦場に為り掛けていると言うのに、誰一人としてそんな風な場景を思い描く事すらしない。
何時何処で誰が殺されようと所詮それは他人事。
よしんばその事について無理やり思考してみた所で、やれ可哀想だ、やれ怖い事もあったもんだと三日も経てば忘れるような上辺面だけの戯言を口から垂れ流すだけだ。
そんな連中と只管殺し、殺されの世界で自分から出血した物何だか相手から浴びた返り血何だか判断つかなくなるまで闘い続ける私……そしてその認識のズレ。
それ等の物が総じて不愉快……って言うか、此処まで行くと一概に気持ち悪いと言ってのけられるレベルの話だろう。
これだけ血に塗れた街の中で、どうしてこの人達は「よぉ。休みの間そっちはどうだったよ?」と無神経に言い合えるのか。
独り善がりの阿呆らしい考えだっていうのはよく分かっているのだが、事の当事者からしてみればそのあまりにも無防備な姿勢は呆れを通り越して苛立ちすら湧いてきてしまうほどだ。
尤も、だからと言って先人切って連中に注意を促してあげるほど私も酔狂な人間じゃないし、変人でもないから如何すると言う訳でもないのだけど。
私はコキリッ、コキリッ、と首を回して小気味い音を立てながら、他の連中に習って自分も静かにバスの中へと入り込んでいくのだった。

「やれやれ。こんな事考えちゃうなんて、私も随分アレな人になっちゃったもんだ─────っと。はぁ……“また”ですか。なんで、こうもやたらとやる事成す事全部デジャブってくんのかな? いい加減、鬱陶しいって。いや、割と本気で」

ぶつぶつと周りの座席に座っている連中に注目されない程度の小声でそんな風な愚痴を零した私は、新たに湧き出た鬱憤の原因の方へと何気なしに視線を合わせる。
其処にいたのは私と同い年くらい……って言うか、同じクラスな上に小学校入りたての頃からの腐れ縁で、挙句何ヶ月か前までは他の連中がやってるのと同じようにお手を繋いで仲良しこよしと馴れ合っていた元友達でもある少女の姿だった。
彼女が私の定位置の隣で文庫本片手に時間を潰している光景は何時もと変らず鬱陶しく、それによって私が被る不快感もまたその鬱陶しさに比例するように甚大かつ多大な物に他ならなかった。
この場で文句をグダグダと述べる心算は毛頭無いし、最早今更と思う自分がいるのも否定出来ない事実ではあるのだが……ぶっちゃけた話、此処まで来るとストーカーなんじゃないかと勘潜ってしまいそうになるほどだ。
いい加減鬱陶しいから構わないでよ、面倒臭い。
一体どれだけこの台詞を彼女に吐いてきたか知れないが、微塵も効果が無いところを見るとあながちその疑惑も間違いではないのかもしれない。
まあ、何にせよ……だからと言って私も別に態度を改めようとか昔みたいに馴れ合おうとか思っている訳ではないのだが。
そんな風な考えをダラダラと頭の中で垂れ流す私は、何一つとして進展しない現実に半ば落胆したように肩を落としながら、その少女の隣の自分の定位置へと向かって歩を進めるのだった。

歩を進め、定位置へと近付くにつれて少女のシルエットが段々と鮮明になっていく。
私も暗い部屋でゲームしたりやらネットサーフィンやら色々とやってる関係でそんな視力が良いという訳ではない。
眼鏡を掛けなければいけない程という訳ではないが、それでも諸々の不健康さも祟ってか、遠くの物が霞む程度には物の見え具合も悪くはなってしまっている。
尤も、それはもしかしたら過去に私が起したもう一人の元友人との壮絶な殴り合いの末にそうなってしまった可能性もあるから一概にそれが全部の原因であるとは言いがたいのだが……不健康児を地で行く私としては正直どうでもいい事だった。
視力っていうのは何でもビタミンAを適当に摂取すれば回復するっていう話だが、大して美味しくも無いブルーベリーのタブレットをドリトスを詰め込むみたいにガリガリとやるのは如何にも気が引ける。
加えて、もしかしたらジュエルシードを用いた回復魔法か何かならそんな事をせずとも手軽に視力を回復出来る筈だ。
何せ、ものの数十分で腕の粉砕骨折まで直したような異形の力だ。
それ位の事が出来ても何ら不思議じゃないし、もしかしたら何処かの漫画の応用で千里眼の紛い物程度なら再現出来るかもしれない。
何とも夢の広がる話だ、私は自嘲気味に自分の思考を一笑し、がさがさとコンビニ袋を揺らしながら彼女の─────マゾヒスト兼ストーカー疑惑が浮上しつつある少女、月村すずかちゃんの隣の席に静かに腰を降ろすのだった。

「あっ……。なのはちゃん」

「なに?」

「そのっ……おはよう。今日はちゃんと学校に来たんだね」

「……別に。一々すずかちゃんの許可取らなきゃ学校行っちゃ駄目って訳でもないでしょうよ? こう毎度毎度ラリった鸚鵡みたいに繰り返すのもアレなんだけどさぁ、私の勝手でしょうよ。私が来るか来ないか、なんていうのはさ」

何時ものように変わらず同じことを聞いてくるすずかちゃんに私はまるで痰でも吐き捨てるかのようにそう返答の言葉を述べて掛かる。
何というか、自分の言動も日に日にチンピラ染みてきているなと私も思った。
確かに色々な要因が重なって折角発散した筈のストレスがぶり返しつつあるのは事実だが、少なくとも数日前の鬱憤絶賛大好調の時でもこんな風に毒を吐く事は無かっただろう。
それに彼女だって一応元とは言え、紛いなりにも二年以上腐れ縁続けてる知人だ。
邪険に扱うのは何時もの事だとしても、出会い頭にこんな風に口汚く言葉を吐き捨てるような間柄では無い筈である。

別に彼女と私は喧嘩してるって訳でもないし、そこ等の有り触れたゲームのシナリオよろしく生まれた時から敵同士って訳でもないのだ。
ただ私が一方的に振った相手にしつこく言い寄られているだけ。
これがドラマだったら「いい加減にしろよ!」と声を荒げて突き飛ばすようなシーンだという、ただそれだけの事に過ぎないのだ。
まぁ、とは言え私はレズビアンでもバイセクシャルでもないし、無論これからも一生そっちの領域には足を踏み入れないだろうから間違ってもそっちの方向で関係が改善されるのはありえない話なのだろうけど。
何にせよ、取るに足らない馬鹿馬鹿しい話だ。
まったく持って私らしくない、と言うか関係の改善とか何を今更そんな事を考えてしまっているのだろうか。
冗談とは言え寒気がする……いや、寧ろ虫唾が走る勢いにも勝る不快感だ。

恐らくフェイトちゃんと触れ合った事で私も色々と考えが甘くなってしまったようだが、目の前のすずかちゃんにしろもう一人の元友人にしろ私を裏切って知らぬ存ぜぬを決め込んだのは紛れも無い事実……覆しようの無い現実なのだ。
それを今更如何こうしようって言ったって、現実は何時だって一本道だ。
選択したルートを通るだけ、それも選択肢でセーブもロードもリセットも利かないと言うおまけ付だ。
そして私達の関係はそんな理不尽ながらも現実味溢れる道の中で交差し、永遠に交わる事の無いくらいに離れてしまった。
それこそ反比例してるような状況っていっても過言ではないだろう。
仮に私がXの曲線だとするなら目の前のすずかちゃんも含めて嘗て私に関って見捨ててきた人間は総じて全員交わる事の叶わなず、逆方向に反り曲がるYの曲線に過ぎないのだ。
その点で言えば先生やフェイトちゃんはそのグラフ上に打たれたNの点って処なのだろう。
結ぶにしろ結ばれずにしろ後は本人の立ち回り次第、そしてその選択は未だ私の手元に残されていると言う訳だ。
しかし、彼女達は違う。
もうこれから一生交差する事は無いのだろうし、私も進んで近寄って行こうとは思わない。
触れようとするなら遠ざけ、反発し、反りをより深くして溝を作るだけの関係だ。
それこそ奇跡でも何でも起きない限り……いや、よしんば奇跡が起きた所で早々改善できる物でもないだろう。
まぁ、とは言え私自身こんな事を微塵でも考えてしまった時点でまだまだ己の甘さを捨て切れていないのかもしれないが……。
私は頭の中に思い浮かんだ馬鹿な考えを適当に振り払い、脅えたようにビクつく何時ものすずかちゃんの様子にしらけた視線を送りながら、それまでの生活と何ら変る事なくコンビニの袋を広げてささやかな朝食を取り始めるのだった。

「あの……なのはちゃん?」

「はぁ……しつこいなぁ、もう。朝から何食べようが私の勝手だし、そんな事で一々指図してこられるのも正直ウザいんだよ。毎回聞かれる度に律儀に答える私も悪いのかもしれないけどさぁ、ちょっとは学習しようと思わないわけ?」

「あうっ、ごめん……」

「いや、其処で謝られても……。ったくもう、調子狂うなぁ」

何処か本当に申し訳なさそうに謝ってくるすずかちゃんに私はどうにもそれ以上強く出る事が出来ず、ガリガリと頭を掻きながら新たな鬱憤を胸の内に溜めこんでいた。
人生何事も思った通りに事が運ぶことなんてそうそう無い事くらいは私も分かっているけれど、こうも何度も何度も同じようなやり取りを繰り返されても尚進展が見られないとなると流石に私でも参ってしまうという物だ。
例えるなら『サガフロンティア2』の戦闘で何度もコマンドを入力しているのに一向に技を覚えない時の心境に通ずる物がある。
アレも大概運が悪いと技を憶えてくれないし、下手をすればコマンド入力に夢中になってHPやらLPやらの方に目が行かなくなってしまいがちになる物だ。
そしてこの状況もまたそれと同じ、何度やっても欠片も進展する事は無い。
顔を合わせる度に発生する強制イベント、それも何度でも繰り返される無限ループの類の奴だ。
おまけに回避のしようも無ければクリアの仕方も未だ不明、加えてやる気やら何やら根こそぎ持って行かれるとくれば苛々もするという物だろう。

一体何なのだろう、このデジャブする感覚は。
そんな漠然とした疑問が私の脳裏を過り、刹那の内に胸の内で渦を巻いていた苛立ちをより一層強い物へと昇華させてくる。
もう何度も……そう、呆れる程に何度も何度も繰り返してきたこのやり取り。
この前も、更にその前も……と言うか、私がこんな風にねじ曲がった正確になってしまったその前にすら私は「これって前もやったんじゃないかな?」って思わずにはいられないのだ。
いや、一応そんな事はありえない事位は私自身も分かっている。
既知感って言うのはあくまでも“何となく”っていう曖昧な物の範疇を出ない感情なのだし、そもそも記憶を遡って考えても嘗ての私とすずかちゃんがこんな辛辣なやり取りをした事などある筈が無いのだ。
私が知る限り、月村すずかという少女は仲の良い人間の後ろをちょろちょろと付き纏い、都合が悪くなるとそれを盾にして首を引っ込めるようなタイプの人間だ。
そんな彼女が進んで自分が相手に嫌われるような事をするはずが無いし、第一私も昔は愚かにもそんな関係もそう悪い物ではないと思っていた節があったから、さして気に留めてもいなかったのも否めないものがある。
詰まる所、私はありもしない事に既知感を……それも今の自分の行動を自ら肯定するような大きなデジャブを感じてしまっているという事だ。

私だって何も初めから彼女の事が嫌いだった訳じゃない。
こうやって苛々するのは偏に彼女の行動が飽きもせずに繰り返されるからで、何もせずに黙って不干渉を決め込んでくれればこっちだって態々こんな醜悪な感情を抱えたりはしないのだ。
一度私を地獄の底まで突き落としたくせに、何で再びこうやって優しさを振りまいてこようとするのか……。
あぁ、私だって分かってはいた。
彼女が私に向ける感情が何なのか、そしてそうする所以が何処にあるのかっていう事くらいは。
でも、だからこそ私の苛々は歯止めが利かなくなってしまうのだ。
なまじ人間の汚い部分を垣間見せられた挙句、そんな反吐が出るような連中に囲まれて私は今までを過して来たのだから。
温もりなど幻想、この身を包み込んでくれる優しさなんて所詮は蜃気楼の先の幻でしかないのだ。
ただ縋れる場所があればいい、それ以外の優しさなんて……私には無用の長物でしかない。
故に彼女は役者不足、私を口説く資格はおろか、言い寄ってくる前提さえ彼女は満たしてはいないのだ。
そんな人間が何を今更、私はそんな後味の悪い考えにギリッ、と歯を食いしばって言いようの無い怒りを露にしながら、手に取った缶コーヒーのプルタブを乱暴に開けて、そのまま一気の口に流し込んで湧き出た感情を押さえ込むのだった。

「んくっ─────ッたっはぁ! やっぱり朝はブラックに限るね。それなりに目も覚めるし、意識も戻ってくるし、言う事無しって奴だよ」

「……あのっ、なのはちゃん。もしかして、私って……」

「んっ? あぁ、もう何かさぁ……すずかちゃん。もうこの際面倒だから何度もウザいやら鬱陶しいやら言わないけどさぁ、喋るんなら喋るんでもうちょいはっきり喋ろうよ。正直苛々するんだよねぇ、そのどっちつかずのグダグダな処。如何にも私弱いですよ、って周りに尻尾振ってる感じで。アリサちゃん辺りにならそれも通用するんだろうけど、ソレ……はっきり言ってムカつく。だから気をつけた方がいいよ。誰しも媚売って可愛がってくれるほど酔狂な人間ばかりじゃないってさ」

「そんな……っ! 別に、私は……」

何処か憤慨した様子で突っ掛かってくるすずかちゃんに、私は多少ドスを聞かせた視線を向けて黙らせながら内心で「してやったり」と嫌味っぽく呟いた。
何というか根暗な感じが否めないが、今ので多少昨日から今朝方に掛けて溜め込んだ分のストレスくらいは緩和された事だろう。
元から彼女に言いたい事は山ほどあったが、これで一応一番言いたかった文句は吐き捨ててやる事が出来た。
復讐とか仕返しとかそういう訳ではないが、とりあえず現状を後残り三年ちょっとは嫌でも顔を合わせなければいけないのだと考えた場合に何時までもこの調子では正直こっちが先に参ってしまう。
それ故の忠告、っていうよりは警告だった。
これ以上私を苛々させるな、怒らせるな……後、ついでに言うのであれば出来るだけこれ以上私と接触しないでくれるとありがたいって言うような類の。
まぁ、尤も……その関係がこれからも続くのか、それ以前に私がくたばるのかは紙一重の事だから一概にその警告が小学校を卒業するまで有効かどうかは別問題なのかもしれないけど。
私は胸の内に独りでに湧き出た我ながら洒落になってないブラックジョークに思わず苦笑しつつも、それと同時にそう言えばと”とあること“を思い出し、何気なく頭の中に思い浮かんだソレを言葉にしてすずかちゃんへとぶつけてみる事にしたのだった。

「……まぁ、そこら辺の諸々は置いておくとして、だよ。私ちょっとすずかちゃんに確認したい事があるんだよねぇ……。って言っても別に大した事じゃないんだけどさぁ……どうにもこのままって言うのも気持ち悪いし、それならいっそこの場で解消しちゃおうかと思ってね。まぁ、嫌って言うのなら無理には訊かないけど……どうかな?」

「えっ……? あぁ、うん。別にいいよ。でも、珍しいね。なのはちゃんの方から私に話しかけてくるなんて」

「気まぐれだよ、気まぐれ。はっきり言っちゃえば私だってすずかちゃんとなんか関りたくも無いんだけど、幾ら言って聞かせても無駄っぽいしさぁ……ってな訳で、押しても駄目なら引いてみろって原理だよ。あっ、勿論下手な勘違いを起さないでね? 別に私、仲戻したいとか昔に戻りたいとかそういうのは微塵も考えてないから」

「う、うん。分かったよ……。ちょっと残念だけど、まだ私が頼られる事が在るのならそれはそれで凄く嬉しいよ。それで、なのはちゃん。私に聞きたいことって……何?」

何処となく緊張した空気が解け、私とすずかちゃんとの間に妙に生温い空気が漂い始める。
気持ち悪い、そんな感情が唐突に私の胸の内を駆け巡った。
あれだけ忠告しておいても尚これだ。
すずかちゃんは人が胸中に抱える悪意なんか意にも介さず、ずけずけと土足で私の領域に踏み込んでくる。
本当に苛々させる……それこそ一発や二発殴った程度じゃ収まりが利かない程に、何処までも彼女は私を不愉快にさせてくるのだ。
それも、自分が相手を不快にさせているなんて微塵も考えちゃいなさそうだから尚腹が立つ。
現に今の彼女を見ていてもそうだ。
どんな状況であろうと、仮に此処で言う“高町なのは”の心境がどっちの方向を向いているのかも構いはしない。
彼女が思っているであろう事は正にそれ……相手が自分を如何思っているのかという事よりもまず自分が相手にどんな感情を向けたいのか、ただ純粋のその欲求に身を翳しているだけなのだから。
故に、彼女は微笑むのだ。
一切の邪気も無ければ裏も無く、私の友人兼妹分であるアリシア・テスタロッサとはまた違う方向で馬鹿正直に……月村すずかという女は自分の存在を相手に曝け出そうとする。
例えそれがどのような結果になろうとも。
まったく、何処までも人を不快にさせるのが得意な女だと私は思った。

だが、もうそんな茶番もいい加減終わりにしたい。
私はそんな様子のすずかちゃんに気付かれないようにふっ、と口元を吊り上げながら心の中で未だ自身の置かれている状況に盲目的な彼女を心の中で嘲る。
彼女は本当は解っているはずなのだ。
今更何をしたって無駄だって事も、その不可能を可能にするだけの力量も自分には無いという事も。
ただそれを認めたくないが故に目を瞑っているだけで……本当は彼女だって、自分が何処の誰にどんな風に悪意を向けられているのか位は凡そ勘付いている筈だろう。
人間生きていれば徳のある聖人だろうと悪意に満ちた犯罪者だろうと多かれ少なかれ他人に恨まれる事になる。
その理由は人によって様々なんだろうが、理由なんて物は所詮切っ掛けに過ぎない。
要するに大事なのはその中身、他人から向けられた悪意に自身が如何向き合い対処していくかという事だ。
まぁ、実際私もその手の面倒は既に投げ出しちゃった口だし、他人に説教なんていうのは柄じゃないんだろうけど……もうここら辺で彼女とのいざこざも終局させたいのだ、私は。
それ故に過去を穿り返して光を当てる。
眠りこけるには少々時間が経ち過ぎた、それを明確に彼女に伝え、そして重く塞がった彼女の双眸を無理やりこじ開ける為に。
私は込上げ、高ぶる感情を一切合財無理やり胸の内で押さえ込み、「あぁ、そういえばそんな事もあったっけ」と、ついこの間起きたばかりの出来事をまるで何年も前の出来事のように心の中で呟きながら、自身の記憶から飛び出たその言葉を彼女の眼を開く心の鍵穴へとゆっくり差し込んでいくのだった。
いい加減鬱陶しくなってきた”月村すずか“という錠を外す為に。

「いやいや、そんなに難しい事でも堅苦しい事でもないよ。ただ─────この前の保険の話、ちっとは考えてくれたかなって思ってさぁ」

「えっ……」

「あぁ、もしかしてもうクラスの連中にバラしちゃったとか? まぁ、それならそれでこの話はお流れな訳だし、私もすずかちゃんのこと一生そういう奴なんだって軽蔑し続けるけどさぁ……実際そんな度胸ないでしょ、すずかちゃん? 何せ、今までずっとそうやって蝙蝠決め込んできたんだしね。クラスの連中には可愛がってオーラ全開で尻尾振って、それでも飽き足らず私の方には御人好しの友人面してご機嫌伺ってくる。そうやって中途半端に誰にでも媚売って……さぞ居心地が良かったんだろうねぇ。自分が誰からも恨み買わない安全圏にいるっていうのはさぁ。っと……まぁ、でも実際私はそんなに気にしてないけどね。元々その手の人間だって言うのは分かってた事だし、迂闊だった私も悪い訳だし。ただ、だからと言ってこのまま流せって言われちゃうと……如何にもそれで妥協出来ないんだよ。何時裏切られるかも分かんない状況で無視決め込むほど私も肝が太い人間じゃないしね。ってな訳で、だよ。実際の所、欲しい物は何か見つかった? お金? 物? それとも考えてなかったとか言っちゃう感じ? まぁ、何だっていいけどさぁ……私もそんなに我慢の利く方じゃないんだ。だ・か・ら……ぶっちゃけ速く決めちゃってくれると助かる訳よ。私の言ってる意味が分かるかな? 月村すずかちゃん?」

「なっ、何言ってるの……なのはちゃん? どうして……どうしてそんな話を、今更─────」

刹那、私とすずかちゃんとの間に流れていた気持ち悪いくらいに生暖かかった雰囲気が一気に絶対零度にまで引き下がる。
出来るだけ陽気を装いながら言葉を紡いだ私に対し、それを聞いたすずかちゃんは思わず絶句してしまったといった具合だ。
そんな彼女の様子を私は目を細めながら全身を嘗め回すように視姦し、より一層心の内で嘲りを深くする。
もしかして忘れていたとでも言うのだろうか。
いや、彼女の事だから恐らくは……っていうより十中八九ほぼ間違いなく綺麗さっぱり記憶の中から除去していたに違いない。
何せこの手のタイプの人間に限って言えば大体そうだ。
自分は他者に嫌われたくない、自分は嫌われる筈が無い─────そう考えるが故に、自身の眼を閉じて真実という名の光から目を覆う。
自身に都合の悪い事は流し、例えその所為で涙を流した所で即座に忘却の彼方へと追いやる。
そうやって自身を偽って、偽って、偽り通して……最後は知らぬ間に元の自分へと廻り戻るのだ。
だからこそ彼女は気付かないし、傷つかない。
他者が感じ取って受けるその感情すらも、彼女は自身を偽り通す事で“無かった事”にして予め形成された“元のすずかちゃん”という基本へと帰還するのだから。

だが、だったらもうこの際手加減なんて物は不要というものだろう。
なまじ傷を負っても元に戻ってしまうのなら、いっそ彼女を彼女たらしめている根本たる心臓に杭を穿ってやればいい。
一生消えぬように、寝ても醒めても永劫その痛みから解放されることなく苦しみ続けるように……。
彼女の胸に、楔という名の白木の杭を突き立ててやるのだ。
口では物で釣るとか保険とか生易しい事を言っている私だが、もう吹っ切れた……面倒だから容赦しない。
彼女が人から嫌われる事を恐れるのであれば、私はとことんまで彼女を追い詰め、嫌ってやろう。
もう二度と私を包もうなどという妄言を吐かせぬように、そしてその身の上が所詮鳥とも動物ともつかぬ下種な生き物で在るという事を知らしめる為に。
私は彼女の胸に幾度も幾度も、この私が受けた苦しみを杭として……彼女に消えぬ生傷を負わせてやるのだ。
そしてこれはその前座、少々無粋な物となってしまったが彼女の本質をガタガタに崩す切っ掛けとしては十分事足りる。
台座は整ったのだ、後はミディアムでもウェルダンでもご自由に。
私は不意に込みあがってきた禍々しい感情に身を委ね、罵倒とも嘲りともつかぬ言葉を巧みに行使しながら、未だ何処か放心気味のすずかちゃんへと追及を続けるのだった。

「今更ぁ、あぁ……確かにすずかちゃんにとっては今更かもしれないさ。でもね、こっちにとっちゃあ死活問題なんだよ。分かるかな? 分かんないよねぇ、学校中……いや、関る人間の悉くに嬲られる私の気持ちなんてさぁ。出会い頭に罵倒され、何処か一ヶ所に留まれば物を投げつけられ、出て行こうとすれば足を掛けられる。想像できる? あれってさぁ、傍から見てれば滑稽に思えるのかもしれないけどやられた当人は堪んないんだよ。毎日がもう苦痛で苦痛で仕方なくて……夜も安らかに眠れない。分かる? そんな私の気持ちがさぁ!」

「そ、んな……私は、ただ……。なのはちゃん……なん、で……どうし、て……」

「あぁ、止めてほしい? でも、止めない。私って結構意地悪いからさ、止めろって言われると逆にエキサイトしちゃうタイプな訳よ。だから何て言うか……そそっちゃうよ、このシチュエーション。今まで散々我慢してきた憂さ晴らしっていうか、本音暴露大会っていうか。一昔前に学校の校舎の屋上とグラウンドに男女のカップル立たせて告白し合わせる番組とかあったでしょ? あれと大体似たような感じかな。言いたいこと洗い浚い吐き出しちゃおうってノリだよ。ってな訳で、ずばる処率直にすずかちゃんに聞いちゃうと、だ。いい加減はぐらかさずに答えて欲しいんだけど……一体何を一人で勝手に私に期待しちゃってるの? 欲しい物があるなら言えばいいじゃん、まどろっこしい。それとも何? すずかちゃんって実は他人の弱み握って悦に浸っちゃうタイプの人? ぶっちゃけ洒落になんない位趣味悪いからから止めた方がいいと思うけどなぁ、私は。っていう訳でほら、早く言いなよ。いい加減こっちも怖くて怖くて堪んないんだぁ、毎日。だから早くしてよ、じゃなきゃ─────私一生すずかちゃんの事恨むから」

「ひっ……!?」

これで止めとばかりに目を細め、ちょっとだけ不気味な雰囲気を醸し出しながら少しずつ彼女の方に迫ってみると、彼女は案の定怯えたような表情で目を潤ませながら猛禽類に睨まれた小動物の様に小さく肩を震わせていた。
我ながら悪趣味な演技だとは思うが、今後の事を長い目で見るならこれは必要不可欠な処置なのだ。
このままの生活を今までと同じように続けていた所で恐らくすずかちゃんは絶対に私の気持ちを分かってくれる事は無い。
どれだけ拒絶しても彼女は自分が受ける痛みを忘れて尚も私に触れようとしてくるのだ。
そんな関係を続けていれば何れにしても双方ずっとまともな精神を続けていられる保証は無いし、私の苛々にしろ彼女の忘却にしろ限界を迎えて瓦解すればそれこそ取り返しのつかない事態にも発展しかねない。
そうなる前に悪い芽は摘んでおく、要するに早期発見の癌を体内から取り出すのと一緒だ。
必要だからこそ取り除き、不要だからこそ拒絶する。
彼女との昔の記憶については私もそんなに悪い気がしないものではあったが、所詮それも過去の遺物だ。
彼女の知っている“高町なのは”は死んだ、此処にいるのはそんな少女の残した虚ろな亡霊に過ぎない……それを分からせる為にも彼女は私という存在に触れれば明確に自身に危害が及ぶという現実を刻み付けなければならないのだ。

そう、これは計算通りの事だった。
何処か物悲しく、また一つ何かを失ってしまったような空虚な気持ちが胸中に広がっていくのが抑えられないけれど……そんな事は覚悟の内だった。
嫌われるのには慣れっこだ。
所詮誰しも危険をその身を挺してまで私に触れようとはしてくれないと最初から分かっているから。
両親にしろ、兄妹にしろ、元友人にしろ、その他大勢の他人……其処には先生やフェイトちゃんも含まれるのだろうが、誰しも真に私に手を伸ばして包み込んではくれはしない。
ある者は私を遠ざけ、ある者は腫れ物のように扱い、またある者は私が望むように気持ちを休める止まり木となってくれた。
その結果が果たして良いのか悪いのかの是非は正直分からないが、少なくとも悪い事ばかりではない分ただ単純に嫌われている人間よりはマシなのだと思う。
例え触れようとする意思が無かったのだとしてもその内の数人はこんな私でも代わらず安らぎを与えてくれたのだから。
そして、それは私にとって誰に包まれるよりも、他の誰から優しくされるよりも嬉しい事に違いは無いのだ。
あまり自分で自分の事をこんな風に評価するのもおかしな話なのかもしれないが、私こと“高町なのは”はそんなような微妙にズレた人間関係を構築し、生活基盤としてきたからこそ今の私足りえているのだと思う。
何故ならそうでなければ、きっと私はこの場で人知れず涙を流してしまっていただろうから……。
私はチクリと疼く胸の痛みを使命感と義務感によって無理やり押さえ込みながら、沸き立つ感情を必死で抑制し、尚もすずかちゃんの方へと視線を送り続けるのだった。

しかし、此処で私は思わぬ誤算が生じてしまった事を刹那の内に悟った。
ジッ、と睨みつけるの一歩手前辺りの私が放つ物々しい視線の先で、この状況を根本から瓦解する事態が発生してしまったのだ。
どうしてそうなってしまったのか、という理由に関しては私も幾つか心当たりが無い訳ではなかった。
って言うか、ついさっきまでその原因作りに躍起になっていたのだ。
余程鈍くない限り誰でも気付く、それが本人であるなら尚更だ。
どうして毎度こう私の計略やら何やらは上手くいかないのだろうか、私は頭の中でそんな風に現状を評し、そしてまた多大に後悔の念を抱き始める。
確かに彼女に私という存在を刻み付けるのは必要な措置だったと思うし、その考えは今でも変わってはいない。
ただ私はそれよりもずっと前に考慮すべき事を頭の内に入れていなかったのだ。
彼女が……月村すずかという人間がこれまたどうしようもなく泣き虫で傷付き易く、一度傷を自覚してしまうと尚悪い方向に考えを持っていく人種であるという事を。
私は目じりに涙を浮かべ、ぽろぽろと瞳から涙を流して現状を憂うすずかちゃんの姿を見ながら思わず間抜けな驚きの声を発してしまったのだった。

「……へっ?」

「うぅ……ぐすっ、どう……して……。ど、うし……て……」

突然泣き出してしまったすずかちゃんの様子に私は半ば呆れと後悔の念を抱きながらしばしの間、彼女に迫る形を解けずにそのまま硬直してしまった。
何を泣いているのだこの子は、というのが第一の印象。
そして客観視して現状を評すのであれば、一見成功するかのように思えて実は最後の最後でどんでん返しを喰らう羽目になる最悪の選択を選んでしまったというのが本筋だ。
あぁ、分かっていた筈なのにどうして私はこうも要領が悪いのか……そんな後悔の念が不意に私の頭の中を過ぎっては即座に四散して消える。
昔も昔、小学校に上がった辺りからずっと厄介ごとを抱えてばかりの性分だとは自覚していたが、自分でもまさかこれほどの物とは思いも寄らなかった。
っていうか、よくよく考えてみればその栄えある厄介ごと第一号はそういえば彼女だったっけ。
不意に私は昔の事を思い出して苦笑しそうになり─────馬鹿馬鹿しいと思いながら顔を引き締めて「驚かせて悪かったよ……」とだけ口にし、すずかちゃんから身を引いた。

此処でまだ私が「泣けば赦されるとでも思ってるの?」と微塵も思わなかった事は正直幸いした。
これ以上さっきの調子で追及を続ければ恐らく彼女は完全に自分という存在を見失っていた事だろう。
月村すずかとは人から責められる事に極端に弱く、またそれについて考える程に自ら自身を傷付ける自傷衝動へと変換してしまう。
そして彼女はそんな己の性分から自身を守る為にあの常人からすれば奇異複雑としか形容出来ないようなサイクルを形成し、謝罪をするという形で実行してきたのだ。
それを私は分かったいた、にも拘らず自身の目的に為の……大事の前の小事だと軽んじて忘却してしまった。
それこそが私の失態、この現状においての最大の過失であり……また同時に取り返しの利かない現実の分岐でもある。
上手い形で突き飛ばしてやれば、それでもう何も……そう何も後悔する事など無かったというのに。
まったく、私という人間は本当に何処までも往生際が悪く、そして致命的なまでに要領が悪い。
それこそ、元友人とは言え……数少ない綺麗な記憶の内の1ピースを自ら穢してしまうという現実に自己嫌悪を覚えてしまうほどに。
私は俯き、声を殺して泣き続けるすずかちゃんの啜り泣きの声を聞きながら、次第に胸の内に侵食していく痛みにジッ、と耐え続けるのだった。

「あぁ、もう……面倒臭い」

あまりにも面倒で、それでいて不条理な現実に私は短くそう悪態をついた。
先ほどまでの滾りきったテンションはもう何処にも無い。
まるで血液の中に冷や水を流し込まれたかのように、何処までも……そう、何処までも冷え切るばかりだ。
もしかしたらとか、例えばこんな選択を辿っていたらとか、そんな『IF』の世界の話しはどうだっていい。
これがまた一つのデジャブる事柄なのだとしてそれがどうしたというのだ。
この世界は私にとっての現実であり、またこの糞っ垂れな世界を生きるすずかちゃんの現実でもあるのだ。
故に其処で起こる事柄は総じて不条理、嘆いても泣き腫らしても絶対に好転する事などありえはしないのだ。
だからこそ、私は今この瞬間自分の内に湧き出た一つのデジャブを即座に摘み取り、そして否定した。

前にもこんな事やったんじゃないか、前にもこんな風に彼女を泣かせたのではないか。
あるいは……私は何時だか彼女と交わした何か重大な事を忘れてしまっているのではないか、という馬鹿げた虚妄を。
あぁ、確かにデジャブるにはデジャブって仕方が無い。
それで苛々もすれば歯痒くもあるし、また同時にこの事柄について私は強く踏み込んでいかなきゃいけないんじゃないかとも思ってしまうほどだ。
だけど、それ以上に私は悲しかった。
一度拒絶しようと結論を下したにも拘らず、自分から彼女に縋ろうとしている自分が未だに“高町なのは”の中に巣食っているという現実がどうしようもなく悲しかったのだ。
情けなくて、情けなさ過ぎて……本当にもう私という存在が永劫嫌いになりそうな程に。
私は壊れたジュークのように「どうして……」と「ごめんなさい」を嗚咽交じらせながらも何度も何度も呟くすずかちゃんを一瞥し、溜息を吐きながら傍らに置いた缶コーヒーへと手を伸ばし、それを口元へと持っていく。
刹那、ブルッとバスが振動し、それまで騒がしかったバスがより一層度を増して騒がしくなる。
どうやらバスのエンジンが掛かったらしい、私がそう思った頃にはバスはゆっくりと学校へと向けて走り出していた。

移り変わる風景を見ながら私はふと考える。
どうしてこうもやること成すこと総じて全部上手くいかないのだろうか、と。
もう少し、私の思い通りに現実が進んでくれたって罰は当たらないのではないか、と。
世界へと向ける呪詛と疑問に塗れながら、私の抱いた想いは何処へと向かうでもなく、ただただこの不条理な現実へと堕ちて行く。
ある一定の憂いと、それ相応のデジャブをその内に孕んだまま……何処までも、何処までも。
其処まで考えた所で、私はもう一度缶コーヒーを傾け、中身を啜るように飲み干す。
先ほどまでは心地よいと思っていたはずの味とコクは、いつも間にか如何にも気持ちを害すだけの苦味へと変ってしまったいた。
そう、まるで私が彼女へと刻み付ける筈だった傷が……知らず知らずの内に私の胸に刻まれてしまっていたかのように。
如何にもこの現実という名の悪夢は長く続きそうだ。
私は不意にそんな事を思いながら、不意にこんな一念を忌々しいまでに清々しい空に向かって投げるのであった。
「神様の大馬鹿。くたばってしまえ」っていう恨みとも罵倒ともつかない、何処か哀愁の漂う力無い悪口を。
只管に……泣きそうな顔を浮かべながら、ただ……只管に。





そんな彼女の隣で泣き続ける少女、月村すずかは深い絶望と共に僅かにでも期待を抱いてしまった自分に強い憤りを感じていた。
自分が高町なのはという少女に強く嫌われ、拒絶されているのは彼女だって気が付かなかった訳では無かった。
寧ろその逆、最初から気が付いていたのだ。
自分が元々それ程人に好かれる様な人間ではないと言う事も、本来現在の“高町なのは”が置かれているポジションに収まるべき人間なのは紛れも無く自分であるという事も。
彼女は最初から全て知っていた。
しかし、そうであるが故に何も言いだす事は出来なかったのだ。
嬲られる痛みを知ってしまったから。
友達を想う気持ちよりも先に来る疎外感と恐怖がその気持ちに打ち勝ってしまったから。
なまじ痛みを知った人間はどうしようもなく臆病になる、それを……正に自身が体現しているのだと理解してしまったから。
月村すずかは啜り泣き、そしてまた何時ものように繰り返す。
永劫許される事は無いと分かっていながらも、ただ只管に。

「ごめん、な……さい。ごめ……ん、なさい……」

彼女は呪われた人形のように何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
隣りで空を見上げる少女へと、その気持ちが届く事は無いと知っていながらも……ただただ同じ言葉を用いて謝罪を繰り返す。
そしてそれと同時にその言葉はまるで見えないナイフの切っ先で心臓を抉られる様な痛みを彼女の心へと刻みつけるのだ。
少しでも期待してしまった自分を責める為に。
もしかしたらもう彼女から永劫遠ざけられるという地獄の苦しみから解放されるのではないかと、一瞬でも考えてしまった己を恥じる故に。
彼女は謝罪と言う抜き身の刃を用いて自傷行為を繰り返し、そしてまた失われていた記憶を少しずつ思い出していく。
最初はぼやけるものの、それは次第に鮮明な物となり……幾度となくフラッシュバックを繰り返す。
思い起こされる記憶は彼女がまだ隣りの少女と同じ境遇にいた頃のもの。
何度でも、そう彼女が幾ら懇願しようと何度でも必要に繰り返される……彼女のトラウマだ。

もう忘れたいと何度も思ったし、実際彼女の中でその出来事は薄れつつあった。
このまま時が経てば何れ風化する。
そう信じてきたが故に彼女は忌まわしき記憶を自身の内に封じ、もう二度と起こりえないであろう悪夢であると結論を下してきたのだ。
しかし、それはあの日……そう月村すずかという少女が最も恐れていた事態が起きた”高町なのは”との決別の日を境に彼女の中で永劫叶わぬ物となってしまったのだ。
寝ても醒めても思い起こされる彼女のあの時の視線、侮蔑とも決別ともつかない悪意の籠った視線が彼女を捉えている瞬間……それを彼女は忘れる事が出来ずにいるのだ。
そう、それは彼女が背負った十字架……決して許される事の無い罪という名の枷だった。
彼女に会う度に思い起こされるあの時の”高町なのは“の視線は彼女を縛り付け、二度と抜け出す事の出来ない奈落へと突き落とすのだ。
初めて友達になった少女への裏切り、そして自身の過去を今の彼女へと重ねてしまう事で感じてしまうデジャブ……それが彼女は恐ろしくて堪らないのだ。
自身が望んだ物は絶対に手に入らない、そんなジンクスを象徴している様な気がしてならないから。

「ごめんなさい……。ごめんなさい……」

彼女とて、謝れば許される訳ではないのは分かっている。
月村すずかという少女が高町なのはに齎した災厄はその程度の言葉で片付けられるほど生易しい事ではないと彼女も知っているから。
だけど不意に……そう彼女に少しでも優しくされると不意に月村すずかはこう考えてしまうのだ。
もしかしたら私は許されるのだろうか、と。
勿論、彼女もそれが自信の内で生まれた都合の良い妄想であるという事は分かっている。
だけどその妄想と現実の区別が付かなくなる程に、現在の高町なのはが不意に見せる刹那の優しさは甘く、また魅惑的な物なのだ。
しかし、それも既に……いや、この日を境にもう彼女には意味の無い物となってしまった。
何処までも、そう……何処までも実直で悪意の籠った彼女の本音を彼女の口から聞いてしまったのだから。

許さない、恨んでやる、憎い、お前の所為だ、もう二度と私に関わるな。
そんな彼女の言葉が何度もリフレインし、彼女をまた一つ深い絶望の淵へと誘っていく。
思えばもう何もかもおかしなことになってしまった。
あの日、彼女を目撃してしまった日を境に……彼女の視線が過去の物と完全に一致して月村すずかにあの日の出来事を思い出させたのを期に。
月村すずかの現実も、高町なのはの現実も……同じように狂い、また取り返しが付かない程の溝を生んでしまったのだ。
其処まで考え、彼女はスカートを強く握りしめながら強く願う。
彼女が言う見返りや報酬なんて物はいらない。
もう私が嫌われようが、彼女にどう思われていようがそれも総じてどうだっていい。
ただ……嫌われているのならせめて─────そう、せめて私を醜い化け物に変えて欲しい。
彼女からだけではなく、彼女を含んだ誰からも同じように恨まれ……排除せよと望まれるように。
そして、最期には彼女の手で……何処までも自分勝手で、何処までも醜い自分が愛した最初の友達に己が殺されてしまうように。
彼女は強く……何処までも強く、狂った願いを想い続ける。

「ごめん、なさい」

其処まで紡ぎ終えた刹那、彼女のスカートのポケットの内で何かが一瞬光を放った。
そう、それはほんの刹那……それこそこの世界の誰であろうと気が付く事など出来ぬであろう本当の意味での一瞬の出来事だった。
しかし、それは確かに現実の光景として今この世界の内に確かに存在していた。
唯それを誰も……その願いを発した彼女すらも気が付いていないと言うだけの話で、誰もが最低だと嘆くこの世界の時間の針はまた一つ前へと進むのだ。
彼女のスカートのポケットの内に存在するその宝石が偶々彼女の家の庭に落ちていて、それを子猫が飲み込みそうになっていたのを彼女が取りあげポケットに入れたままにしてあったという……何とも陳腐な偶然が交差した結果の果てに。
こうして、少女達の不幸な日々は一つの危険を孕んで幕を開ける。
その先に待ち受ける悲惨な現実を誰も知る事無く、また同じくしてそれを回避する方法など存在せぬがままに……。
二人の少女の悪夢は、本人の意思に関係なく……この世界に蔓延するのだった。









[15606] 空っぽおもちゃ箱⑥「分裂する心、向き合えぬ気持ち」#恭也視点
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:282a81cc
Date: 2010/08/24 17:49
一体、俺達は何処で如何選択を誤ったというのだろう。
まだ夜も明けぬ丑三つ時、不意に俺こと高町恭也は蛍光灯の明かりだけが暗闇を照らす自室の中でふとそんな事を頭の中で思考し始める。
もうこれで通算何度目になるのか、そんな事は既に考えている俺自身もあまりよく憶えていない。
その疑問が何時から俺の心の内側にこびりつく様になったのかも、そんな酔狂な考えに終りが果たして存在するのだろうかという事もまた然り。
何もかも分からない事だらけ、考えれば考えるほどに分からなくなって……そして空回りを繰り返す。
そうして積み重なった疑念と失敗が今の現状に俺達を至らしめ、そして現実として結び付いている。
なんとも皮肉な話だが、これが全ての分岐を結合し、統合した末の結果であるというのだからどうしようもない。
それは例えどんな力を持ってしても……そう、どれだけ強靭な精神や肉体を持つ物であろうと変革する事は叶わないのだ。

何故ならそんな物は所詮事の前にはどうしようもなくちっぽけで、大いなる刻の流れの前では変化に値する要素にもなりえはしないから。
故にこの瞬間、今この刹那の中で起こりえた事が俺達の現実であり─────また、抗いようの無い運命なのだろう。
円満からの崩壊、そして完膚なきまでの分裂と四散。
今はまだ明確に其処に至っているとは言いがたいが、現状を鑑みれば何れ近い内にそれが現実の物になってしまうのも時間の問題だ。
止めようにも止まらない。
何せその原因の糸口すら俺達は……いや、強いて言うのであればこの俺以外はもう誰も問題を解決する事すらも諦めてしまったのだから。
そして、このままでは最後に残った俺もまた何れ……。
其処まで考えた所で俺は「何を馬鹿な」と自身の考えを額を押さえながら振り払い、今の現状に半ば絶望と諦めを感じつつある己を必死になって否定する。
このまま考え続けた所で悪戯に自身の内で蠢く負の感情を促進させるだけだと、生物としての本能的な衝動が俺の内で警笛を鳴らしたからだ。

正直な事を言うのであれば俺自身心のどこかではその感情に身を委ねてしまえば幾分か楽になるのではないかと思わないでもなかった。
この俺だけが家族全員分の苦労を背負う事は無い。
どうせ一度は拒絶された身、ならばどれだけこの身が彼女を想おうともそれは杞憂に終わってしまう筈だ。
ならば、もういっそ諦めてしまえばいいのではないか。
最愛の師であり、そして最愛の父である男がそうしたように。
彼女の生みの親であり、また自分にとっても掛け替えの無い母である女がそうしたように。
共に幾多の苦難を乗り越え、兄妹となった妹がそうしたように。
この俺も……高町恭也もそれに殉ずる形で彼女を─────高町なのはを見捨ててしまえば良いのではないか、と。

無論、俺だって分かってはいる。
こんな事を一瞬でも思い浮かべた時点で、もはや俺にはそんな決定権を有する資格すらないのだという事くらいは。
だが、そんな当たり前の権利を剥奪された俺だからこそ……諦める訳にはいかないのだ。
見捨てるというのなら確かに容易い事だろう。
他の皆がそうしてきた様に自分もそれに習えばいいだけの事だし、第一此処での問題の中心となっている末の妹も不干渉、不接触を望んでいるのだからその願いを聞き遂げてやればいいだけの事だ。
それで当面は事も収まる。
後は完全な崩落の時を待つだけだ。
あくまでも一時的な処置でしかないにせよ、彼女も何れ時が経てばそれ相応に成長するのだろうし……それ以前に俺はこの家から消え失せる事だろうから、考えようによってはこれが最善の方法だと断じても別段問題は生じ得ない訳だ。

しかし、その選択だけはどうしても……あぁ、どうしても許容してやる事は出来ない。
此処まで来ると単なる意地、と言うよりも性分の領域だ。
もう決まっている事だから諦めろと言われて「はい、そうですか」と言える性質の人間ではないのだ、俺は。
諦めが悪いと言えば確かにそうだ。
頑固で、意地っ張りで、独善的で……そして何処までも自愛する事なんて出来はしない。
それが俺と言う人間であり、高町恭也という一固体だ。
一度抱えた物は絶対に零れ落とさない。
この目がまだ黒であり、意識がまともである以上は絶対に何一つとして見捨てる事は出来ないのだ。
故に、俺は彼女は……なのはの事を無視してやる事は出来ない。
この家で俺が彼女から視線を逸らすというのなら、一体他の誰が彼女に気を掛けてやれるというのだ。
一体誰が、彼女が傷付き、擦り切れるのを咎めてやれるというのだ。
実の父も、母も、嘗ては優しく微笑みかけてくれた姉からも見放された彼女を一体誰が心配してやるというのだ。
恩着せがましい言い方なのかもしれないし、俺自身もこんな考えは自分のエゴだって事は分かっている。
だが、エゴだろうが偽善だろうがそんな事は知った事ではない。
単純にこの状況を俺は許容出来ない、だからこそ抗う。
理由なんて言うのはその程度で十分、寧ろこの身には過ぎた物であると言っても過言ではないだろう。
そして、そんな理由を抱えるからこそ俺はなのはから逃げないのだ……絶対に。
俺はギュッ、と自身の手を握り締めてそんな想いと反比例する現状に悔しさを憶えながらもこのままではいけないと己の想いを改めて入れ直し、薄暗い蛍光灯に照らされた見開きのキャンパスノートへと視線を移すのだった。

「出揃った情報はこれだけか……。如何にも、やり切れんな」

凡そ、数十数ページに渡って纏められた情報の中の一ページ……何故彼女が今のような状態になってしまったのかという原因について考察された物を見ながら俺は不意に肩を落として脱力した。
それは俺が此処数ヶ月の間……特になのはの態度が一変した直ぐ後辺りから纏め始めた一種の日記帳のような物だった。
この家の誰もが彼女を避けるようになり、また彼女も家族との繋がりを望まぬようになってから既に取り返しがつかなくなるほどの時間が経過してしまった。
本来ならば、こんな物を附ける前に何とかしなければならなかったのは俺も分かっている。
こんな物は所詮自己満足。
起こった後で「どうして?」だの「何で?」だのと幾ら考えた所で無駄な事なのだ。
何せ起きてしまった事は例えどんな小さな物であろうと取り返しがつかず、またそれが今を生きる人間の現実なのだから。
だからこんな物は無意味……凡そ、俺は他の連中とは違うのだと言う証明が欲しいだけの縋り処を自らの手で創造したに過ぎない。

だが、そうした倒錯を繰り返して自虐するだけで何もしないよりは遥かにマシだ。
そう思うからこそ、俺は何か一つでも小さな変化が彼女に起こるたびにそれを箇条書きの文として此処に記してきた。
最初はまるで度を弁えないストーカーか探偵の真似事のようだと幾度と無く己を馬鹿にしたものだが、最近になってからはそんな事すらも考えられぬようになった。
もはやこの問題にそんな酔狂な考えを孕んで当たれるほど俺も強い人間では無いからだ。
良かれと思ってやったことが結果的になのはを苦しめ、尚それを止めようと翻弄すればするほどに自らの首を絞めるこの状況。
そんな生半可な覚悟で当たれるほど、事は軟な物ではないのだと俺自身も深く悟ったのだから。

「とは言え、本当に”今更“なのかもな……。こんな事をしたって事態は好転しないし、元にも戻らない。何もかも、バラバラなままだ。まったく……この世の中は不条理なことだらけだ」

幾分か詩人めいた口調で自身への皮肉にも似た戯言を宙へと吐き捨てた俺は再びノートの文面へと視線を落とし、そして考察を再開する。
ノートに記された文面は彼女の情報の中でも特に密度の高い物であり、また昔日の俺や他の家族が何をしてしまった所為でこうなってしまったのかという根本的な原因にも触れる品物だ。
勿論、あくまでも俺が独自で纏めた物であって直接彼女の是非を問うた訳ではないから信憑性は今一つと言わざるを得ないが……それでもこれからの立ち回りを考えるには十分過ぎるだけの情報が詰まっている。
この先俺は如何すれば良いのか。
どういう風になのはと接し、付き合っていかねばならないのか。
こんな妄言を言った所で彼女は認めてくれないのであろうが、俺は彼女のたった一人の兄だ。
あぁ、確かにこの身は須らく愚かな愚兄であったのかもしれないとは思う。
何をしようとなのはから拒絶されるのは詰まる所そうした己が性質が”高町恭也”と言う人間から彼女を遠ざけている所為なのだろうし、それが事の所以である以上は俺が嫌われているのも仕方の無いことなのかもしれない。

だが、それでも俺は彼女の家族だ。
そして彼女は俺の妹であり、最愛の師である父の娘なのだ。
その事実が崩れぬ限り、俺は彼女を─────“高町なのは”を護らなければいけない義務がある。
故に、俺はどんな事があろうと絶対に諦めたりはしないのだ。
荒滑稽だと侮蔑されてもいい。
いっそ道化だと笑われても構いはしない。
俺は俺が抱える自己満足の為に事を成す。
勝手な言い分かもしれないが、これが俺の性分であり業だ。
覆すには些か歳を喰い過ぎた。
ならば、もう後は考えて行動する……そして躓いたら立ち上がってまたぶつかって行くを繰り返すしかない。

幸いな事に俺は身も心も多少は他の人間よりも秀でてはいる。
一度や二度の拒絶で折れるほど軟な物ではない。
まぁ、彼女風に言うのであれば確かにこんな俺は「ウザい野郎」なのかもしれないとは思う。
腑抜けで、鈍感で、自分勝手で、ヘタレで、それでいて最低最悪の駄目兄貴なのも十分自覚しているし、今更言い訳しようとも思わない。
でも……それでも俺は俺として─────高町恭也として彼女の望み通り折れてやることは出来はしないのだ。
この精神が他の皆のように折れぬ限りは。
其処まで考えた所で俺はノートに書かれていた内容を読みきり、次のページを捲って新たに不要な情報と必要な情報を頭の中で仕分け、新たな情報を詰め込む事に没頭する。
今この瞬間にも彼女の心は俺達から遠ざかりつつある。
もう凡そ取り返しなんてつかないのかもしれないが、最低限のラインすらも死守できなくなってからでは遅いのだ。
あまり猶予は残されていないのかもしれない。
俺は不意に頭の内でそんな事を考えながら、ノートに書かれていた内容を頭の中に詰め込むために何度も何度も其処に記されている文面を読み返すのだった。

「不登校の兆候……。親や周辺の人間の無理な登校の強要……。心配を掛けない為の演技に本音との反転、か。どれもこれも当て嵌まるが……やはり、なのはは─────」

ずっと俺達に助けを求めてSOSを発していたのではないか。
今更になってそんな風な結論しか出せない自身の思考に半ば呆れながらも、俺は自身の意識を少しだけそれまで己という存在が過して来た日々に向けて現状と照らし合わせようと試みる。
なのはが今のような性格になってしまったのは今からざっと考えても凡そ五、六ヶ月前。
それを長いと取るべきか短いと取るべきかは判断に困る所だが、そう考えた場合この話しにはそうなるまでの期間……詰まる所、空白の時間帯が存在するのだ。
最初はなのはだってあんなに捻くれたような子じゃなく、家族に心配を掛けまいと必死で笑みを取り繕うような凄く思いやりのある子だった。
だが、それが突然ある日を境にこうなってしまったのかと言えば……それは否と答えるほか無かった。
はっきり言ってしまうのであれば、そうなるだけの要因も兆候もずっと前から見え隠れしていたのだ。
彼女が小学二年生の終わり頃から突然登校前になると腹痛を訴えるようになったり、ダルいから学校に行きたくないと言い出してくるような時だってあった。
ただその頃の俺はよもや自分も妹が不登校の兆候を見せ始めているなんて微塵も気が付いていなかったし、他の家族も学校に行かないと分かった途端に体調が回復し始める彼女の状態に「もしかして仮病を使っているだけなのでは?」と懐疑を深めるばかりだったから俺もつい周りに合わせてなのはに厳しく当たってしまっていたのだ。
このまま我が侭を許してしまっていては何れこの子は協調性が欠け、周りの人間に合わせるのが難しくなってしまうのではないか……そう思うが故に。

良かれと思ってやっている事の心算だった。
次第に低下していく彼女の成績や肥大していく懐疑心の所為で日に日に気苦労を増している様子の父や母に代わって、俺がなのはを世間一般で言う真っ当な人間であれるようにと少しだけ親としての役割の片棒を担いで負担を減らしてあげるだけの心算だった。
だが、結果としてその想いは空回りし……こうして今の現状に至ってしまっている。
負担を減らす処か両親はなのはの育児を完全に匙投げし、あまつさえ一日生活できる最低限の金銭を渡すだけで全てを済まそうとしてしまっている始末だ。
俺も何度も注意したし、時には「あんたらはあの子の親だろう!」と柄にもなく声を荒げてしまう事だってあった。
しかし、それも結局効果無し……寧ろこの話を蒸返すたびに父さんは申し訳無さそうな顔を浮かべて歯噛みするわ、母さんは母さんで両手で顔を覆って泣き始めるわで完全に逆効果になってしまっただけだった。

そして恐らくそれはこれからも一緒……いや、この前の病院での一件を鑑みるにその時よりもより悪くなってしまっていると言っても過言ではないだろう。
あの日、俺は二つの意味で大きなショックを抱える羽目になってしまった。
一つは自分が今までしてきた事は総て無駄な事であり、そんな徒労を繰り返した結果の果てが完全になのはに拒絶されてしまったという事実に結びついてしまった事。
そしてもう一つは、そんな彼女が漏らした「どうして他の人は来ないの?」とか「どうせお兄ちゃんも面倒を押し付けられただけなんでしょう?」とかの台詞に自身が一瞬でも動揺してしまった事だ。
もう既に完全に家庭の事情をなのはに見透かされてしまっている。
或いは暗に彼女の辛辣な言葉に込められた真実に俺自身もどこか図星を突かれてしまった。
彼女から言葉が投げられた瞬間俺が抱いた念がそのどちらかなのかと言う事は俺も分からない。
前者かも知れないし、後者かもしれない……そして両者共々と言うのもまた然り。
ただはっきりと言えるのは、その時俺は恨めしそうでありながらも何処か寂しげな様子を振りまくなのはに何一つとして声を掛けてやれなかったという事だけだ。

俺は自身が不甲斐無くてならなかった。
あの時、なのはが俺の手を力ずくで振り払ってきた事には驚きを隠せなかったが、それでも何とかして俺は彼女に何か一つでも気の利いた言葉を掛けてやるべきだったのだ。
今思い返してみればあの時俺はなのはが死ぬかもしれない様な目にあったという事に動転し過ぎて、本来兄としてするべき対応を微塵も取ってやれなかった。
優しく慰めてやる事も、何があったのかと事情を聞いてやる事も、彼女がその時体験した恐怖を察してやる事すらしないで怒鳴り散らして……一方的に自分の意見を押し付けてばかりだった。
本当はもう自分が如何するべきか分かっていた筈だと言うのにも関らず、だ。
あの子の気持ちを察してあげる事。
自分の視点で事を捉えるのではなく、彼女の視点で物事を見据えなければならない事。
そして何よりも、彼女の周りで何が起きてしまったのかを良く理解する事。
全て……全て分かっていたつもりでいた。
だけど本当は、俺は何一つとして理解してなんかいなかった。
ただ分かった振りをする事で自身を納得させて、自身の苦労が無駄ではなかったと思いたかっただけなのだ。
本当にどうしようもない……俺は、屑野郎だ。
俺は心の中で反響する自身へ向けた叱咤の言葉に強く掌を握り締め、悔しさと遣る瀬無さを噛み締めながら、自身の不甲斐無さを改めて実感するのだった。

「畜生っ、何が家族を護るだ! 妹の心一つ察してやれない分際で……なのはの声すら聞いてやれない分際で……ッ。俺は……俺は、屑だッ!」

ガンッ、と荒々しくも何処か力無い騒音が俺の鼓膜を刺激する。
不意に我に返ってみると、どうやら俺は怒りのあまり我を忘れて握った拳をそのまま机へと叩きつけてしまっていたらしい。
滾る寸前まで押し寄せていた激情が徐々に収まり始め、それに追従するように叩きつけた拳がジンジンと痛みを訴えていた。
まったく、どうやら俺は兄やら家族やらの事以前に一人の人間として何処までも駄目な奴のようだ。
俺は今の自身の実情を客観視し、簡単に分析した所で端的にそんな判断を下すのだった。
上手くいかないから八つ当たりして、何か自分に不都合な事があると我を忘れて他のものに当り散らしてしまう。
自分が悪いのではないと、自身を取り巻く環境が悪いのだと言い訳を重ねて……本当にしなければいけない事から目を逸らす事しかしない。
本当に何処までも情けない。
惨めで、醜悪で、自分勝手で……そんな自分が情けなさ過ぎて反吐が出る。
俺にはもう自身の実情をそう判断するほか無かった。

そんな自分が本当にこれから先、あの子の事を─────なのはの事を分かってやる事が出来るのだろうか。
血管に冷水を流し込んだかのように酷く冷め切った頭の内で俺は不意にそんな疑問を思い浮かべ、そして考察する。
今まで俺は誰からも遠ざけられていた彼女を元に戻そうと躍起になって、自分が如何に愚かであったのかという事を気が付くことが出来なかった。
そして、その愚かさは方針を変えねばならないと解している今でも消える事なくこの胸の内で渦を巻いている。
本当にこのままで良いのかと、俺が態度を軟化させるというのは本当は正しくない選択なのではないかと不安を抱くが故に……。
そんな俺が果たして彼女の事を真に理解してやる事が果たして本当に出来るのだろうか。
彼女が何を望み、何を求め、何を満たしたいのか。
それらの欲求を譲歩した上で本当に共に道を歩んで以降などと本当に思う事が出来るのだろうか。
そう考える度に俺の思考は急速に冷え切り、幾度と無く否と言う答えを俺へと提示し続けてくる。
優しい兄であろうと考える度に。
彼女の横に並んで手を握ってやれるだけの男になろうと思う度に。
そして何よりも、彼女が再び俺の手を握ってくれる事を願う度に。
俺の思考は何処までもそれ等を否定し続け、こう断じ続けるのだ。
無理だ、諦めろ、手遅れだ、何を今更、それも所詮偽善だろう─────夢を見るのも大概にしたらどうだ、と。

馬鹿な夢である事は俺自身にもよく分かっていた。
もう二度と彼女は昔の彼女には戻りはしない。
彼女が徐々に変り始めていた時から俺はずっとそれを殆ど直感の域で悟っていたのだから。
一度壊れた物は二度と同じ姿には戻らない。
ボンドでくっ付けるにしろ金具で補強するにしろ直しようは幾らでもあるが、それでも必ず一度壊れたと言う事実は拭いきれずにそのまま残ってしまう物なのだ。
故になのはもこの法則の例外ではない。
昔、元気に微笑を浮かべて寄り添ってきたなのはも、今この瞬間息衝いている変ってしまったなのはも同じ“高町なのは”である事に違いは無いのだから。
にも拘らず、俺は今のなのはに嘗てのなのはの姿を重ねて昔日の日の彼女を求めてしまっている。
よく笑い、よく泣き、素直で、純朴で、心優しい……自分にとって尤も都合が良い“高町なのは”を。

あぁ、今ならば素直に言える。
俺はただ逃げたかっただけなのだ、と。
昔日の日と今の現実を比べ、その落差に絶望し、失われたあの日を取り戻さんと迷走し続けただけなのだ、と。
そして、その手段として真っ先に頭に浮かんだのがことの中心であり、全ての引き金となった末の妹の存在であったに過ぎないのだ、と。
何もかも偽り無く自分に言い聞かせ、曝け出す事が出来る。
だが、だからなんだと言うのだろうか。
俺が今更どれだけ悔やみ、嘆こうと所詮それは悲観でしかない。
結局、根本的には何一つとしてその考えの矛先が解決に向かう事は無いのだ。
つまり、幾ら俺が己を蔑もうとも意味など無い。
だからと言って開き直る気は微塵も無いが、少なくとも今現在においても”高町恭也”という人間が先に挙げたような邪な感情を未だに捨てきれないでいる事は紛れも無い事実なのだ。

このままでは幾ら自身を変えようと思っても、無意識の内に蔓延る先入観が先行してまた同じ結果を繰り返してしまう。
ならば今俺がすべき事は……そんな過ちを繰り返さないために、真正面から自分自身を見つめ直す事だ。
今すぐに、と言うのは難しい話なのかもしれない。
しかし、だからといって長い時間を掛けていられるほどの猶予はもうこの家には残されていない。
ならば果たしてその狭間の中で、俺は今のなのはにちゃんと真正面から向き合う事が出来るような人間になれるのだろうか。
俺はそんな与太話にも満たないような自身の思考に若干の呆れを感じつつも、そうするのが最良なのだと判断を下し、その流れに沿って今までの自分について考えを移すのだった。

「やはり、俺は今まで少し焦り過ぎていたのかもしれないな……。いや、それは皆も同じか。上辺面の数字や態度に捉われ過ぎて、本当に知るべき事を見抜く事が出来なかったんだろうな、きっと。だが……これから俺は、一体どうすればいいんだろう? なのはの為に俺は─────んっ?」

一体、何をしてやるべきなんだろうか。
そこまで口にし掛けた所で俺は唐突に言葉を噤み、今まで抱えていた意識を四散させて別の方向へとその意識を持っていく。
人の気配、それもドア越しにそれを感じたからだ。
尤も、この家に賊が侵入するなんて事はまずありえない事なのだろうし、何か邪な感情を抱いて家の門を潜ってきたと言うのならこんな近くまで寄り付かれる前に気づく事が出来ていたであろうから少なくともその手の手合で無い事は俺も十分理解していた。
だが、どうにも昔の癖なのか俺は人に近寄られると相手が誰であろうが見境なく不必要なまでの意識を向けてしまうのだ。
自意識過剰、そう言われると耳がいたいのだが嘗ては俺も色々あってそうせざるを得ない状況に身を置いていた人間だ。
直そうと意識はしていても、身体に染み付いた習慣がそれを赦してくれない。
まったく、厄介な事この上ない。
こんな風だからなのはにも要らぬ警戒を与えてしまうのかもしれない、そう考えると俺は何処か物悲しい物があった。
もしかしたら俺や他の家族の境遇や思想そのものがあの子を縛り付けていたのではないか。
馬鹿げた事だと分かってはいても、何処かそんな与太話に真実味を感じてしまうほどには。
俺は自身の内で新たに湧き始めた疑惑を一応は否定しつつも、或いはもしかしたらとも考えながらその想いを思考の片隅へと追いやり、ドアの先にいる人物の方へと本格的に意識を集中させるのだった。

刹那、空気が振動し、コンッコンッという鈍い音が俺の鼓膜を刺激する。
ノックが二回、どうやら本当に家族の誰かが俺の元を訪ねて来たらしかった。
考えてみれば俺も明日は早くから講義が入っているし、いい加減そろそろ眠らないと明日が辛くなってしまう時刻でもある。
幾ら徹夜に慣れているとは言えど、私生活に微塵も支障をきたさないのかと問われれば流石の俺でも否と答えるほか無い。
確かにこの身は常人とは言いがたい術を有しているが、それでも生物学上は俺も普通の人間なのだ。
無茶を続ければ擦り切れるし、下手をすれば其処から病を患ってしまう恐れも十分に考えられる。
一応今は俺もまだそれなりに若いから多少無茶をしていても大丈夫だろうと高を括っていられるが、その無茶も何時まで続けていられるか知れたものでは無い以上はある程度の自愛というのも必要であるということなのだろう。
俺はそんな俗的な考えに「やれやれ……」と呟いて呆れを感じつつもこのままドアの外の人間を待たせるのも酷だなと思い立ち、一応念を押して「誰だ?」という問い掛けを扉の向こうの人物へと促すのだった。

「んっ……僕だ、恭也。士郎だ」

「あぁ、なんだ父さんか。どうしたんだ、こんな時間に?」

「それは僕の台詞だよ。幾ら大学生であるとは言え、少々夜更かしが過ぎているんじゃないかな? それを注意しに来たんだよ。とりあえず、入っても構わないかな?」

「……好きにしてくれて良いよ」

開けたノートを閉じつつ、突然の来訪者─────我が父であり、最愛の師でもある人物に向かって俺は短く入室をしても構わないという念を伝える。
すると、それまで静寂を保っていた扉がゆっくりと開かれ、「失礼するよ」という優しげな声と共に柔和な顔付きの男が一人俺の前へと姿を現した。
日本の男性の平均身長からすればやや大柄とも取れる体躯に、細身ながらも引き締まった身体つき。
嘗ては一度職務中の事故で生死の境を彷徨った人物とは思えないほどの飄々さに、その雰囲気に尚拍車を掛けるその歳にしてはあまりにも若過ぎる端麗な容姿。
そして、その柔和な顔付きとは裏腹にまるで相反するかのような何処までも深い、それこそ飲まれてしまうのではないかと錯覚してしまうほどに研ぎ澄まされた瞳。
凡そ、それ等の卓越した欠片を繋ぎ合わせたその先に存在する人間……それがこの高町士郎という人物だった。

俺が彼の事をそう思い、そう感じるが故にこの様に評す理由は幾つかある。
まず一つは彼が今の彼に到るまでの背景。
その卓越した強さで数多の戦場を駆け、時に死に至る危険を冒しつつも家族を護り、そしてあろう事か……それだけの実力を持ってしても自分の娘の気持ち一つ分かってあげていなかったという彼の過去が俺に彼の人となりをより明確な物へと昇華させるのだ。
そして二つ目は俺が師としての彼に抱く敬意。
高町恭也という人間の人生において高町士郎という人間は唯一無二の鍵であり、また恐らく生涯絶対に外せないであろう呪い染みた錠でもある。
と言うのも、彼から齎された転機が在ったからこそ俺は今の俺として成り立っており、またその事実を持ってして俺は高町恭也という存在である事が出来ているのだ。
恐らく彼がいなければ俺は今よりもずっと……それこそ取り返しがつかない事になっていた可能性すらあり得ている。
だからこそ、俺は彼を師として尊敬し、またより自分を彼へと近づけようと思い立つ事が出来ているのだ。
だが、二つ目の評価は最後の念によって相殺、或いはそんな栄えある評価も陰りを帯びてしまう。
俺自身あまり認めたくは無いのだが……現実、その念から連想される印象が俺の中での“高町士郎”と言う人物像に結び付いてしまっているのだからどうしようもない。
それが三つ目、俺が彼の事を父として半ば侮蔑し掛けているという事実だ。

別に彼が俺の事を親としてどうこうしたという訳ではない。
無論それは妹の美由希にしても同じであり、また母である桃子に対してもまた然りだ。
彼は俺も含めたそれ等全てを分け隔たりなく愛してくれている。
そう、自身の娘である高町なのはという存在を除いては。
彼が何を思い、何を考えてなのはに触れてやろうとしないのかは俺も知らない。
今更無理をして聞きただそうとも思わないし、聞かされた所で俺自身納得など到底出来そうに無いからだ。
例え何を言われても所詮は言い訳に過ぎないのだと、この身の感性が訴え続ける限りは。
故に侮蔑……いや、此処まで来るともはや落胆の域である言ってしまっても良いのかもしれない。
彼が尊敬している“師”であるからこそ、“父”としての今の彼を俺は許容する事がどうしても出来ないのだ。
何せ、家族を護り、最後までその信条を貫けと俺に教えてくれたのは他ならぬ彼なのだから。

故に、今の彼は俺にとって単なる欠片に過ぎない。
高町士郎という一度完成された像が打ち壊された末の姿、所謂残骸だ。
過去に積み上げてきた全ての物を高町なのはという存在から遠ざかる事によって失い、そして日々を過ごす毎に存在を磨り減らしていく灰で出来た人型。
何とも比喩的であり、的を射ない表現であるとは自分でも薄々自覚しているのだが、残念ながら俺はそれ以外に今の彼を評す語句を紡げるほど詩的な心得は持ち合わせていない。
感情が赴くがままに捉え、嘘偽りなく抱いた印象こそがことの全て。
例えどれだけ曲解し、事実を捻じ曲げて解釈しようとそれが真実なのだ。
だから俺は父だからとか己の師だからとか、そんな“狭い囲い”を作って彼の事を取り繕おうとは思わない。
一人の親として……いや、一人の男として彼が起し、背負わねばならなくなった醜態如何程の物なのかという事さえ理解できれば十分だ。
その結果の果てが今の俺の感情の“ソレ”だ。
彼を軽蔑し、その栄華を過去の物としながらも、その日々擦り切れ、やつれていく姿に何時か己もこうなる時が来るのではないのかと不意に自己を重ねてしまう不思議な感情。
それを俺が抱いてしまっている。
今はその事実を持ってして自己と彼の比較を終える事で全ての事実が輪廻し、また原点へと還るのだ。
所詮今の彼は高町なのはと言う足枷に囚われ、足を引かれ水底の魔性に引き摺り下ろされた人間の名残でしかないという現実へ。
俺はそんな俺の念を知ってか知らずか、尚も苦笑にも似た柔和な笑みを崩さずに俺の方を向き直り、「此処に最後に入ったのは何時の事だったかな?」などと暢気な事を漏らす我が父の姿を視界の内に捉えながら、思わず込上げてきた向け様の無い呆れをため息として宙へと吐き捨てるのだった。

「父さん……俺も子供じゃないんだ。自分の身体の具合くらい、ちゃんと自分で管理できる。それに、俺にだって徹夜してやらなきゃいけないことぐらいあるんだ。大体過保護過ぎるんだよ、父さんは。もう若くないんだ。そろそろ子離れしたっていい年頃だろ? 弁えなよ、其処の所」

「いやいや、僕にとっては例え幾つになっても君は可愛い子供のままだよ。そう享受出来るのは偏に親の特権であり、また性だ。恭也が無理をし過ぎる性分なのは既に僕も承知のこと。なら、身体を壊さない内にやんわりと注意を促してあげるのも親の務めなんじゃないのかな?」

「……そうなの、かもな。まあ、そこ等の事は俺の理解が及ぶ領分じゃない。父さんが言うならきっとそうなんだと解釈するほか無いさ。でも、それはあくまで矜持だ。現実そういう話を日常的に持ってこられると何か、こう歯痒いっていうか……正直対応に困る」

「おや、そうかい? 僕はあくまで世間一般に有り触れている父親と同じようにしているだけのつもりなんだがなぁ……。まぁ、恭也も人並みに男の子ということか。そうやって僅かながらにでも反発する事で少しずつ僕から離れていくのは寂しくもあるが、それもまた一つの成長の形だ。不承ながら、受け止めるしかないのだろうね。だが、忘れてはいけないよ。何れ恭也が誰かと結婚して父親になった時、その辺りの分別を請け負うのは君の責務だ。幾ら勝手が違い、領分にそぐわない事柄であったのだとしても其処から逃げ出す事は許されない。逃げ出せば必ず消えない痕を負う事になる。そうならない為にも、そうなりそうになった時は少し立ち止まってこの時の事を思い出してみることだ。案外、普段当たり前過ぎて普段意識の通わなかった事に行き詰った時のヒントがあるのかもしれないからね」

父さんはそんな風に何時もと……いや、それこそ昔と変らぬ声色でいっそ白々しくすら感じてしまうような人生の教訓を俺へと語り聞かせてきた。
その声の流れは常に一貫しており、其処には微塵の震えも戸惑いも無い。
まるで自分が凄く真っ当な事を言っているような……しかも、それでいて自身の言葉にはそれを根拠ある事実として認められるだけの重みがあると心から信じ込んでいるような口ぶりだった。
一体何故父さんは俺に此処まで白々しい態度を取り続けられるのだろうか。
不意にそんな疑問が俺の頭を過ぎり、刹那の内に思考の沼に沈んだ懐疑心は次第に言い表しようの無い怒りへと変換されて行く。
これが昔の俺だったら戸惑うなり、照れるなりとまだ普通の反応のし様もあった事だろう。
何せ言ってる事だけで考えるのなら先ほどの父さんの言葉はそれなりに道理の通った物だったようにも聞こえるし、仮に聞かされている人間が俺でなく美由希であったのならこれも一種の美談として十年、二十年先の思い出話として受け止める事も叶っていただろう。
だが、残念ながら俺には……と言うよりも此処数ヶ月のまに彼の“人としての限界”を知ってしまった今の俺にはそんな有難味溢れる人生の教訓も限りなく陳腐で態よく取り繕われた綺麗事のようにしか思えなかった。

実際、先ほどから俺が彼に取っている対応もその殆どが心にも思っていない出任せだ。
別段何か家族間での和気藹々とした雰囲気に和んでいる訳でもなければ、父と子の語らいに華を咲かそうとしている訳でもない。
ただ短調に掛けられた言葉に反応し、返すのに相応しかろうと思った語句を適当に並べているだけ。
もっと言うのであれば、そうして言葉のキャッチボールをしている最中も俺は父さんの口から垂れ流される言葉の一つ一つに言いようの無い不快感を覚え続けるばかりだった。
何故なら、父さんが先ほどから口にしている言葉は総て……何もかも矛盾した物ばかりだったからだ。
あぁ、確かに俺は例え幾つになろうと父さんの息子なんだろうし、親からすれば子供はどれだけ成長しても可愛く見える物なのだろう事も分からないでもない。
だが、それは……その”可愛い子供“という物は果たして俺だけに当て嵌めて言える事柄なのだろうか。

違う、それは断じて否だ。
俺も美由希も……そしてなのはだって彼の大事な子供である事に何ら変わりなど無いはずだろう。
共に同じ時間を歩み、時には笑い、時には泣いて感情を共有し……そして互いを支えあいながら来る明日を生きていく。
そうした家族の一員である事に何ら隔たりなど無い筈なのだ。
だからこそ、俺は今の父さんが何処までも白々しく……それ以上に情けなくてならなかった。
俺にそうした家族の有り方を教えてくれたその人が、自ら家族の人間を線引きして考えているという現実。
そんな物、何処を如何すれば許容してやれるというのだ。
俺は今にも溢れ出しそうな感情を心の中で必死に押さえ込みながらも、その想いの何処かで湧き出る言いようの無い悔しさを表面的に取り繕った笑みの向こう側で噛み締め続けるのだった。

「……まぁ、精々肝に銘じておくとするよ」

「おや? 真面目に受け止めてはくれないのかい?」

「生憎と俺は父さんのように長い目で事を捉える事は出来ないし、どちらかと言えば何時来るかも分からない未来の事よりも今この瞬間に身の回りで起きている事の方が大事っていう性分だからな。もしも未来に困る時が来るのだとしたら、またその時はその時でそれ相応に頭を痛めて悩み苦しむとするさ。今此処で話し半分に聞いた話に縋る位なら、悩むだけ悩んで自分なりの答えを出す方がずっと性にあってるしな」

「……そうかい。まぁ、それもまた一つのあり方だ。それが正しいと感じている内は迷い無く真っ直ぐ道を突き進んでみるのも悪くない。恭也が真剣にそう考えているなら僕もその生き方を否定したりはしないさ。尤も、やっぱり少し寂しくはあるけどね」

遠回しのようでありながら何処か彼の意見に反発するようなニュアンスを含んだ俺の言葉に父さんはその柔和な顔に少しだけ寂しさの色を浮かばせつつも、整った笑みを崩さぬまま、そんな風に好意的な返答を返してくれた。
それは何処までも優しげで、何処までも覇気の薄い儚い微笑みだった。
まるで縁者の葬式で故人の思い出話をする時のよう、とでも言えば適当なのだろうか。
彼が発する言葉の一つ一つは決して薄っぺらな品物ではない。
寧ろ、どれを取ってみても含まれた貫禄と重圧に押し潰されそうになってしまうと錯覚させられる物ばかりだ。
だが、その重さの正体はあくまでも過去の物であり、今の彼が背負っている物ではない。
詰まる所、その重圧の正体は結局過去に栄えた高町士郎という男の過去でしかないのだ。
だからこそ、彼の言葉は俺の心に響いてこない。
寧ろ言葉が紡がれる毎に気持ちが冷めて行き、冷徹になった思考は本来享受すべき感慨を根こそぎ偽りのソレだと否定するばかりだ。
そして恐らく、その気持ちはこれから先もずっと変わる事は無い。
俺が追い求めた“高町士郎”という理想がこうして崩れ、過去の物と成ってしまった時点で既にもう俺の心は彼を理想と認めてはいないのだから。

だが、そうした否定の感情の裏側で俺は今の現状を仕方ないとも思っていた。
嘗ての俺はまだ今ほど冷静ではなかったから気付いてあげる事が出来なかったのだが、何も父さんだって最初からなのはに対して今のような態度を取っていたという訳ではない。
事が現状に至る前はちゃんとなのはの事を案じてあげているような発言も目立っていたし、俺と同じで不器用ながら前向きに現状を改善しようと働きかけようとした事だって俺が記憶しているだけでも数度じゃ収まりが利かない数だった筈だ。
ただそのどれもが裏目に出てばかりだったというだけで……彼は彼なりに、昔はちゃんとなのはの事を思いやってくれていたのだ。
だが、その気持ちは今の現状をみても分かる通り、あまり長くは続かなかった。
いや、寧ろ彼がそう在り続ける事を彼を取り巻く環境が赦さなかったというべきだろうか。
何れにしても勝手な話なのかもしれないが、父さんだってその特殊な生い立ちを除けばいたって普通の人間であり……そしてまた至って普通の父親なのだ。
幾度と無く突き放されれば心折れる事だってあるのだろうし、なのはと同じ位に大切な者が同じように衰弱していく様を傍らで見せ付けられれば揺らぎもするというものだ。
故に彼の変化もまた仕方が無い物だと言えばそうなのかもしれない。
勿論、だからと言って簡単に納得出来る物ではないだけれど……もしも彼が“そうならざるを得なかった”のだとすれば俺はあまり彼を責めてやる事は出来ないのは確かだった。

そう、何もその変化の責任は彼だけの物であるという訳ではない。
彼を取り巻いていた人物─────母さんや美由希、そして斯く言う俺自身にだってしっかりと背負うべき責任は存在している。
ただ今は俺を含めて家族の誰もがその存在に気付けていないか、或いは気付いていたとしても意識が希薄であるというだけで……微塵も責任を負う必要の無い人間など俺達家族の中には誰一人として存在しないのだ。
だからこそ俺は意識し、尚考えを続けている。
これは偏になのはの為だけに言える事ではない。
お互いがこの先如何在るべきか、という考えの先には誰がどのように責任を果たしていくのかという事にも繋がっているのだ。
贖罪などと気取った事を言う訳ではないが、そうする事で俺達は初めて昔のような本当の家族に戻れるのだと俺は思っている。
その形が決して昔と同じ物ではないという事ではないとは分かっているけれど、本来”家族”という物が如何在るべきなのかという糸口くらいは掴めるはずだと信じている。
故に俺は俺自身の行為が無駄ではないのだと意識でき、今まで繋いできた”高町恭也“という意識を自身の物としていられる事が出来るのだ。
だから、俺は今この瞬間こんな風にも思っている。
彼も……父さんもこんな所にいないで、早く自分が居てやらねばならない人の物へ戻ったら如何なのか、と。
父さんには父さんの為すべき事が今この瞬間にも存在しているのではないか、と。
俺は想い、またそうあってくれる事を強く望む。
なのはの事は勿論だが、彼には彼にしか背負う事の出来ない責任があるのだ。
せめてその責任からは目を逸らさないでいて欲しい。
俺は静寂だけが支配する生暖かくも何処か寒気を催すような空気の中でそんな風な事を彼に望みながら、その在り方を彼へと促す為に言葉を紡ぐのだった。

「なぁ、父さん。用って言うのはそれだけか?」

「意外と冷たいんだな、恭也も。そんなに僕に出て行って欲しいのかい?」

「そうじゃない。ただ母さんの傍に居てやら無くて良いのかって思っただけだよ。母さん……結構酷いんだろ? だったら傍で支えてあげなくちゃいけない人間がこんな場所で道草喰っているのを忌むのは当然の反応だ。幾ら父さんでもこればっかりは違うとは言わせないぞ」

「……手厳しいな、相変わらず。でも、確かに恭也の言う通りなのかもしれないな。まったく、何をしているんだろうな。僕って奴は……」

何処か自嘲気味にそう呟く彼に俺は「自覚してるんなら尚更だろ?」と半ば呆れ気味に返しながら胸の内に溜まった鬱憤を溜息に変えてそのまま宙へと吐き捨てた。
まったく、何処までも自分勝手な言い分だと思った。
本当は自分のやるべき事が分かっている筈なのに分からない振りをして、何処までも何処までもいっそ呆れてしまうほどに逃げ続けて……その挙句の果てがこの有様だ。
自分が本当に如何するべきなのかも忘れかけ、誰かに指摘して貰わなければ自覚する事すらもままならない。
まるで明かりを求めて夜に羽ばたく蛾のようだと俺は思った。
無自覚ながらも何処かに救いがあるのではないかと盲目的に彷徨ってはそのどれもが気休めにしかならないと気付き、そしてまた違う光を求めて見当違いの方へと歩き続ける。
そうして逃げ続けたその先には何も無いと分かっている筈なのに。
彼は今日も今日とて今ある現実から逃げて俺という名の過去に縋ろうとしていた。
あまりにも今ある現実が厳し過ぎるが故に……。
俺はそんな彼の現状を心の奥底では情けないと思いながらも、その反面ではそれ以上に今の現実に負けないで欲しいと強く願っていた。
何故なら彼が本当に現実から逃げ出してしまったら、もう二度と取り返しのつかない事態へと発展してしまうのだと分かっていたから。
それこそ、なのははおろか……この家を取り巻く人間全員のアイデンティティが壊れ果ててしまいかねないという事を。

確かに傍から聞いているだけなら俺の言い分は少々誇張染みた大袈裟な物に聞こえるのかもしれない。
だが、現実はそんな俺の言葉以上に非情で……何処までも容赦が無い物なのだ。
実際、その傾向が顕著に出始めてしまった人間も既に俺たちの中から出てしまっている。
それが先の話の中で出てきた母さんこと高町桃子だった。
今でこそ平然を装って日々の生活を送っている彼女だが、ほんの数ヶ月前までは今や昔からは想像も付かないほど不安定な状態だった。
何を話しかけても上の空なんていうのはざらな事だったし、何時もだったらあり得ないような仕事や生活でのミスを犯すなんていうのも珍しい話ではなかった。
初めこそは俺たちも「人間、偶にはこういうこともある」と割り切って各々の生活に目を向けている事が出来たのだが、それがいよいよ無視できなくなったのはなのはが彼女が作った夕食を夜な夜なトイレで戻している所を目撃してしまってからだ。
親として自信を失くしてしまったのか、はたまたそれがきっかけとなってそれまで溜め込み続けていた心労が限界を迎えたのか。
彼女はそれを期に重度の不安神経症を病むようになってしまい、それは今になっても尚完全に完治はしていない。
それどころか、なのはに何か変化が起こる度に鬱病にも似た症状がぶり返し、時折ヒステリーを起しかけたり幻聴が聞こえてきたりと悪化の一途を辿るばかりだ。
何故そんな風になってしまったのか、という事に関してはあまりにも心当たりがあり過ぎて俺にもどれが直接的な原因なのかという事を明確に断言する事は出来ない。
だが、何時だか彼女が口にしたある言葉は今でもはっきりと俺の耳に残っている。
「なのはが怖い」という、あまりにも短く、何処までも悲し過ぎる拒絶の言葉が……。

元々、父さんがあの事故で重症を負った時から負担を掛けてしまっているというのは俺も至らないながら少しは自覚していた。
だが、母さん自身がそうした物事を抱え込みやすい性質である事を見抜けなかった俺は自然と「母さんは強い人だから大丈夫だ」という根拠の無い思い込みをするようになってしまったのだ。
結果、俺はなのはの言動や行動があからさまに酷くなるに連れて見っとも無く取り乱し……その責任を完全に母さんや父さんへと押し付けるような発言を繰り返すようになってしまった。
今思えば馬鹿な事をしたと悔やむべき事なのだが昔日の俺は日に日に目に見えてやつれていくなのはの方にしか目を向けることが出来ず、結果として今のような……それこそ意図的になのはの存在を意識しないようにしなければ心労と重圧で倒れてしまうというような所まで母さんを追い詰めてしまいかねないような真似を繰り返してしまったのも忘れようの無い事実だ。

俺があの時「真直ぐに子供を見据えられない癖に何が親だ!」等と心無い言葉を掛けなければ母さんだって今のような風にはならなかったのかもしれないというのに……。
そう思うと俺は何だか昔の俺自身がいっそ殺してやりたい位に憎らしくなり……またどうしようもないくらいに情けなかった。
だけど、こうなってしまった母さんを俺は支えてやる事はもう出来ない。
何故なら彼女にとっては俺もまたなのはと同じく単純な恐怖と重圧の対象でしかないのだから。
だからこそ、俺は父さんにだけは母さんを見捨てて欲しくは無かった。
勝手な言い分なのかもしれないが、今の彼女を唯一支えられるのは彼女が心から愛した夫である高町士郎その人だけだ。
昔よりもどうだとか、なのはの事を如何考えているなんて事はこの際どうでもいい。
そんな余計な物は嘗て愚かだった俺一人が背負って苦しめば良いだけの話だ。
でも、母さんの事を心から支えて挙げられるのは今も昔もこの家の中では父さんしかいないのだ。
故に俺は願い、また想う。
願わくはどうか二人が何時の日か面と向かって子供と対面出来るような人間に戻って欲しいと、切実に。
それまではなのはの担任との面談にしろ、呼び出しにしろ俺が行き続けてあげるから……二人の分まで俺が苦労を背負うからと、そんな風に心の中で呟きながら。

「とにかく、はやく部屋に戻ってあげた方がいい。母さん、父さんが隣にいないとまた夜な夜な廊下を歩き回るかもしれないぞ? 母さんを支えられるのは父さんだけなんだからさ。何も出来ない俺の分まで……頼むよ」

「……あぁ、そうするよ。すまないな、恭也。僕達の所為で無駄な苦労を掛けさせて。本当は恭也だって─────」

「いいよ、俺の事は気にしなくて。俺はただ俺がやらなきゃいけないと思った事に我武者羅になってるだけだ。それは誰の責任でもないし、俺も誰かの所為にしたくない。だから……父さんは父さんが今一番しなくちゃいけないと想った事を迷わずにすればいい。そしてそれは、今こんな所で俺に懺悔する事じゃないだろ?」

「恭也……あぁ、そうだな。まったく、中々どうして子供は気がつかない内に親を超えてるものだ。僕ももう……“終わり”なのかもな。それじゃあ、邪魔をした」

そう言って父さんはもう大分重くなったであろう腰を持ち上げ、すごすごと力無くドアのある方へと歩いていった。
そんな彼の姿を見ながら俺は不意にこんな事を想った。
あぁ、父の背中って言うのはこんなにも小さく力無い物だったのか、と。
本当だったら何時までも……それこそ逆立ちしたって遠く及ばないであろう父の姿が、その時の俺には酷くちっぽけに思えてならなかったのだった。
だが、ある意味ではこんな変化も良かったのではないかとも俺は思った。
なまじ今までが特殊過ぎた所為で俺達は自身の事が他の人間とそう変わらないちっぽけな人間である事を認識する事が出来ないでいた。
でも、今は違う。
一度完膚なきまでに打ちのめされたからこそ俺達はまた違った視点から新しい道を模索する事が出来るようになったのだ。
あまり喜んでいい事ではないのかもしれないが、少なくとも何の変化も無いまま昔の状態を持続するよりはずっと良い。
俺はドアノブに手を掛ける父さんの姿を視線で追いながら、そんな風な思考を頭の中で繰り広げるのだった。

だが、その思考は長くは続かなかった。
ドアノブを捻り、もう半身ほど外と部屋の境を跨いだのではないかという処で突然父さんが足を止めて俺の方を振り返らぬまま其処で足を止めたからだ。
一体何事なのだろう。
そんな疑問が俺の脳裏を駆け巡り、次第にそれは一つの明確な不安へと変化していく。
あのやり取りの中でこの会話は完全に完結された筈だ。
にも拘らず、何故彼はこんな所で足を止めるのか。
いや、もっと言ってしまうのであればもう既に完結した事柄であるにも拘らず、未だに俺の胸の内を這いずり回るこの悪寒の正体は何だというのか。
分からない。
分からないからこそ、一度抱えきれない程の不安が一気の俺の胸に押し寄せてくる。
一体なんだというのだろう、この……このまま“この雰囲気を継続してはいけない”という根拠無い不安は。
そんな風に俺が言いようの無い不快な感情を抱いていると、父さんは不意に口を開いて俺へと向けて言葉を投げてきた。
その声は何処までも重々しく、それでいて先ほどの母さんの時の反応が嘘だったかのように険しい物だった。
まるで俺に問い掛けているのか、自分自身に自問自答しているのか分からなくなるような……そんな不安定なバランスを俺へと感じさせてくるほどに。
そして俺はそれに対して如何答えていいのか言葉が見つからない。
否、答えようにも答えなんて最初から無いのだから見つかるはずが無いのだ。
そして静寂に包まれた時だけが過ぎ、もう一度父さんが俺へと同じ疑問をぶつけてくる。
その問いに俺は……ただただ黙っている事しか出来なかったのだった。

「恭也。僕は……僕は、もうどうしたらいいのか分からないよ。一体どうして、こんな風になってしまったんだろうな?」

「……………」

「僕は……そろそろ疲れたよ。前を向く事も、後ろを振り向く事も。それじゃ、お休み」

「……あぁ、父さんこそ」

それだけ言い終わると途端に空気が綻び、父さんが来る前と同じ雰囲気が部屋中を包み込み始める。
だが、何時まで経っても俺の気持ちが元に戻る事は無い。
最後に父さんが発した一言が耳にこびりついて仕方が無いからだ。
“一体どうしてこんな風になってしまったのだろう”という、そんな疑問の言葉が。
今更何を、とは思う。
そうなるだけの要因があれだけあったにも拘らず、それに目を向けなかったのは自分なんじゃないかと責めたい気持ちだって無論ある。
だが、その疑問を抱えているのは父さんだけではなく……俺自身もまた然りだ。
散々偉そうな事を言ったくせに具体的な解決策なんて欠片すら見出せず、今だってこうして何をすれば良いのか等と足踏みを繰り返してばかり。
だとしたら実はそんな俺自身が一番その問いの答えを探しているのではないか。
俺はそう思わずにはいられない。
いられないからこそ尚、俺には何も言ってやることが出来なかったのだ。

前を向く事も、後ろを振り向くことも疲れた。
それは父さんが残した二つ目の言葉。
扉が閉じられるのと殆ど同時に俺へと掛けられた父さんの心からの本音だった……のだと俺は思う。
でなければ、父さんが俺の前であんな弱音を吐く筈が無いからだ。
つまりはそれ程までに……母さんと同じくらいに父さんも追い詰められているという事なのだろう。
思えば此処最近、父さんは昔に比べて溜息を吐く事も多くなった。
何時もなら朝一に起き出すのが日課だったというにも拘らず、最近は抱えている不眠症の所為なのか如何にも寝起きも芳しくない。
心身ともに擦り切れ始めている兆候、それは不安神経症を抱える前の母さんと同じだった。
早く何とかしなければ。
俺の胸の内に不意にそんな念が芽生え、一度芽生えたそれは急速に俺の心を振るわせていく。
もう既に手遅れ等とは思いたくないが、下手に事を長引かせれば家庭が崩壊する程度では収まりが利かない事態にも発展しかねない。
それこそ、二、三ヶ月前になのはが大量の睡眠薬を服用しそうになったあの時のように。

「まだ……遅くない。必ず、間に合わせてみせる!」

グッ、と掌を握り締めながら俺は少し前に起こった事を思い出し、そしてまたその記憶を教訓として胸に刻み付けて行く。
あの時は勿論なのはから「そんなつもりじゃなかった」と弁解されたが、あの自殺騒ぎを期にそれまで何とかコミュニケーションを図ろうとしていた美由希も遠ざかってしまった。
父さんも母さんの身を案じ、あまり不用意になのはに関ろうとはしなくなった。
そして残った俺は……結局何時同じ事を繰り返すか分からないという不安から冷たいと取られても仕方の無いような態度で彼女に接する事しか出来なかった。
一時等、なのはが起き出してくるのがあまりにも遅すぎるのではないかと自意識過剰になってしまい、道場にあった木刀で部屋の鍵を壊して彼女の部屋へと押し入った事だってある。
傍から見たら変態か強盗の類にしか見えない所業だし、冷静に思い返してみれば俺も馬鹿な事を下と思わずにはいられないのだが……そう思わせるだけの危うさを今のなのはは孕んでいるのだ。

だからこそ見捨てられないし、無視できない。
最近は新たな友人でも作ったのか何処と無く少し前より表情が柔らかくなったような気もするが、それでも俺たちに対する態度が緩和されたという訳ではない。
その上最近では真夜中に帰ってくるというのもざらになってきたし、休日も誰にも行き先を伝えずに忽然と何処かへ消える事も多くなった。
そんな彼女をこのまま放っておいてはまたよからぬ事を考える輩にちょっかいを掛けられる可能性だって否めないし、なのはを襲った野犬などはもう既になのはを含めて複数人の死傷者を出している始末だ。
一度襲われたからと言って二度と襲われない保障は何処にも無い。
外出を控えろとは言わないが、もう少し身の回りのことを考えてから行動するよう促すべきだろう。

俺はもう一度机の上のノートを開きながら、そんな風に自分の中で考えをまとめ、これから先自分は如何するべきかをまた考え始める。
もう一度門前払い覚悟で学校に電話して何か変わったことは無いかと聞いてみるべきか。
それともまた同い年くらいの妹を持つ友人の月村忍に話を聞いてもらうか。
はたまた図書館に行って人間心理の本を読み漁るか。
事を成すためにやるべき事は沢山あるし、そのどれもがおろそかにしてはいけない物である事は分かってはいる。
だが、俺にはもう……いや、俺たち家族にはもうあまり長い時間は残されていないのだ。
だからこそ俺は考え、また思考する。
これ以上もうだれも取りこぼさない為に。
父さんや母さん、そして美由希達が諦めてしまった物を何とかする為に。
そして俺は……俺自身が背負わなければならない責任を全うする為に。
俺はノートに踊る文面を眺めながらこれから先の身の振りを考え始めるのだった。
其処に綴られた「いじめ」というフレーズにも気がつかないままに。








[15606] 第二十二話「脅える心は震え続けるの……」(微鬱注意)
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:282a81cc
Date: 2010/07/21 17:14
抱えきれない程の悲しみは時に涙さえも枯らしてしまう物である。
疎らに人が行き来する早朝の学校の廊下から自身が所属している教室の方をぼーっ、と眺めながら私こと高町なのはは不意にそんな言葉を思い浮かべる。
一体何時から私はこんな光景を当たり前の物だと思い始めるようになってしまったというのだろう。
そんな疑問と直結して導き出される筈の記憶は未だに曖昧なまま。
ただ今この瞬間─────いっそ逃げ出してしまいたくなるようなこの刹那に起こった現実を仕方の無い物だと受け止める事しか出来ずに私はこの場に立っている。
いや、どちらかと言えば半分以上は自分の意思でそうしている訳ではないのだから“立たされている”といった方が適切なのだろうか。
まぁ、どちらにせよ既に此処に至る記憶を思い出すことすら叶わない私にとっては考えるだけ無駄な事だというのは変わりないのだが。
私はあまりにもこの異常な状況に慣れ過ぎたしまった自分を心の底で嘲りながらも、そんな今にも逃げ出してしまいたいという気持ちと反するようにただその場に呆然と立ち続けて教室の内に存在する”ある一点“だけを虚ろな瞳で見つめ続ける。
この場に立つと急に襲い掛かってくる激しい動悸と耳鳴りに時折視界をぼやかされながら。
黄色い菊の花が活けられた花瓶が置かれている私の席の方を、只管に。

どうして其処にそんな物が存在しているのか。
今更になってそんな風な疑問が私の脳裏を掠めたのは恐らく今日が連休明けであった事と、此処数日の生活が凡そ現実のものでは無いのではと勘潜ってしまうほどに充実した物であった所為なのだろう。
自分がこの学校という場においてどのような立場の人間であり、また今まで其処でどのような扱いを受けてきたのか。
本当だったら片時だって忘れる筈の無い事の筈だった。
だけど不幸のどん底に突き落とされた人間にはこの国で言う“必要最低限の幸せ”ですら現実を忘れさせ、あまつさえ自分は幸せになれた等と現実逃避めいた淡い幻想を抱かせる程の輝きを帯びているように思えてしまう。
故に今日の私はこんな風に考えてしまっていたのだ。
連休明けの今日くらいは他の連中も浮かれて何もしてこないだろうという、何処までも甘い想像を……。

思えば此処数日の立ち回りが私の感覚を狂わせていたのだと今になってつくづく実感させられる。
らしくも無い努力、そしてこの身に似つかわしく無い温もりと笑顔。
文字通り“死ぬような思い”をして、ありえないような化け物と闘って、ズタズタに傷付いて……それで「自分は強くなったんだ」っていうような偽りの錯覚だけが此処数日の間、私の気持ちを少しだけ強気にさせていてくれた。
でも、それは結局仇にしかならなかったのだ。
偽りの世界で銃把と戦鎌を手に、血と臓物で出来た道を駆け抜け続けた自分。
今朝方のすずかちゃんに対してあれだけ大口を叩いて啖呵を切った自分。
そして……限られた止まり木の傍では曇りない心で笑顔を浮かべられる自分。
そのどれもがいっそ眩しい程だと感じてしまう筈の現実を自己の全てだと思い込み、またそれが所詮偽りで塗り固められた物であるという事を今この瞬間に至るまで気が付く事が出来なかったのだから。

本当、考える度に私ってどうしようもない位に馬鹿な奴なんだなって思ってしまう。
だって、そうだろう。
私は……いや、客観視して言うのであれば”高町なのは“は嘘偽り無い現実に引き戻される今この瞬間に至るまで自身の持つ“能力”があくまでも物理的な物であるに過ぎず、現実に蔓延る社会という名の群れの概念の中で通用するような“力”ではないという単純な図式すら理解してなどいなかった。
それを愚かと言わずして何と評すのか、私には皆目見当も付かない。
と言うか、正直な所かなり馬鹿っぽい。
今まで何度同じような事を繰り返したのかも知れないというのに。
そうやって起こった勘違いが結局今の現状のように苦痛に変わって返ってくると分かっていた筈だと言うのに……。
一体、私は何にそんなに期待しているというのだろう。
私は頭の片隅でそんな風に疑問を浮かべながらも反面では「所詮私の現実なんてこんな物か……」と諦めの念を浮かべつつ、ゆっくりと教室の中へ足を踏み出していく。
誰にも聞こえないようなか細い声で、自身でもどうでも良いと感じてしまうような独り言を呟きながら……。

「まったく……馬鹿みたいだな、私。高々すずかちゃん程度に強気になった位で何勘違いしてたんだろう。まぁ、馬鹿なのは昔からなのかもしれないんだけどさ……」

誰が聞いてくれる訳でもないそんな自嘲めいた独り言は不気味な程に生温い雰囲気を孕んだ教室の空気に溶け、そして誰にも気が付かれぬ内に四散する。
それ程までに私の呟きは小さく、また力無い物であったという事なのだろう。
意を決して教室に足を踏み入れたところで誰も私の方を向こうとはしない。
別に注目して欲しいという訳じゃないけれど、この場にいる誰もが意図的に“高町なのは”と言う存在が元より居なかったような態度を取っているのかと思うと今更ながら少し寂しい物だと思った。
所詮私なんて彼らからすれば態の良いサンドバックか、さもなくば是が非でもこの場から排除したい汚物位にしか認識されていないのだと身をもって知っている筈だというのに……。
やっぱり、初めから存在しない物のように無視され続けられるのは辛い。
今更になってそう思ってしまうのは先生やフェイトちゃんと過ごした時間があまりにも優し過ぎた所為なのか、はたまたアリシアという存在が今まで片時も離れず傍にいてくれたという安心感が私を満たしてくれていた所為なのか……。
正直どちらであっても答えは変わらないし、どちらでもあるのだと私は思う。
だってそうじゃなかったら今更になってこんな風に悲しいだなんて私が思う筈無いのだから。

やっぱり、あの温もりは私にとって過ぎた物であったのだろうか。
自身の席の前まで歩を進め、改めて自分の机の上に無造作に置かれた花瓶を見つめながら私はふとそんな事を思い浮かべる。
ほんの少し前の私ならこの程度の仕打ちで別段何かを想い、憂う事などは無かった。
暴力に訴えかけられないだけマシ。
よしんば何か思った所でこの程度で済んでくれたと見当違いな安堵を浮かべるのが関の山だった事だろう。
何せ本来そう感じるのが私にとっての“普通”であり、それ以外の余計な考えはこれまで私がこの空間の中で生きていく上で無用の長物にしかなりえないのだから。

要らぬ感情はこの身が生きている限り一生蔑まれ続けるのだと悟ったその日から全て切り捨てた筈だった。
だってそんな感情は抱えているだけ重荷でしかなく、またそうやって何時までも重たい物を引き摺って歩いていけるほど私も強い存在ではなかったから。
切り捨てるほか選択肢が残されていなかったのだ、この身には。
だからこそ、私は今まで生きてこれた。
幾ら嬲られても正気を保っていられたし、どれだけ蔑まれても自身が自身である理由を見失う事も無かった。
何故なら、これまで私は自身が置かれている立場と自分自身を総合して考えた際に「所詮、私はこの程度の存在でしかないなのだ」と折り合いを付けること叶っていたから。
自分自身で高町なのはという存在は“こういうモノ”でしかないという事で己を納得させ続けていられたのだから。
故に私は……高町なのはは自身を他者に足蹴にされ続ける弱者であると認める事で自身のアイデンティティを保ってくる事が出来たのだ。

だが、今は違う。
此処数日の間に私が触れた優しさが……向けられる笑顔が……そして誰かの隣に自身がいるという事で感じられる温もりがそんな私の認識の核に陰りを帯びさせたのだ。
別段、私だって何も己の身に起こった理不尽の何もかもを許容出来ていたという訳ではない。
泣きたい時だってあったし、辛くて心が折れそうな時もあった。
嵩み過ぎた心労が原因で不眠症にも陥る羽目になったし、度々降り掛かってくるフラッシュバックや過呼吸にも似た発作に至っては治るどころか未だに改善の兆しすら見えてこないという有様だ。
だけど、今までは耐えてくる事が出来た。
己の日常を果ての無い牢獄だと思い込み、其処から抜け出せない自分に絶望する事で私は一個人としての在り方を……”高町なのは“としての在り方を確かな物にしてこれたのだ。
だけど本当はそんな物は結局強がりでしかなかったんだな、と今なら分かる。
だって、今になっても私はまだこんなにも……思わず涙が零れそうになってしまう位今の状況が辛く悲しいと思ってしまうのだから。
私は机の上に置いてあった花瓶を床に叩きつけるでもなければ、机の上から振り払うでもなく、それを静かに手に取って元々其処に置いてあったのだろうと思わしき本棚の上にそっと戻しながら俯き加減にそんな風な事を思うのだった。

「……阿呆らしい」

自身の内に蔓延り掛けた世迷いごとを私はそんな風な短い言葉で力なく否定し、そしてまたその年を抱えたまま何事も無かったかの様に自分の席へと戻っていく。
確かに今の現状を私自身納得出来ているという訳ではない。
このまま生活を続けていた所で未来永劫ずっとこの種の嫌がらせからは逃げられないのは目に見えているし、実際殆ど抑止力という物が存在しないこの学校の体制やお世辞にも良い物とは言い難い評価を抱えている私の身の上を鑑みれば今の状況の改善が容易じゃない事くらいは何となく検討も付くというものだ。
そんな未来が分かっていながら、地平線の彼方まで歩き続けたって抜け出せないような生き地獄に身を置く事を良しと出来る筈も無い。
それはきっと世界中の誰だって同じなんだろうし、無論私だって変わり無く願い続けている。
この残酷な現状に何時か安らかな終局が訪れますように、と。
何時の日かこの仕打ちが止んで安らかな日々が訪れますように、と。
今まで抱えた苦しみの一片でも良いから報われる事があって欲しい、と。
静かに、誰にも分からないような擦れる想いを抱いて……私は何時も祈り続けている。
この罵声と暴力に満ちた最底辺の日常から開放されるその日を夢見て。

だが、所詮どれだけ想い焦がれた所で現実には一切繁栄されることは無い。
それが分かっているからこそ私は今もこうして全てを諦める事が出来るのだ。
下手な期待を抱けば抱くほど裏切られた時に傷付く度合いが増す。
今までだってずっとそうだった。
信じては裏切られ、手を伸ばしては悉く弾かれ、這い上がろうとすればまた奈落の底へと蹴落とされる。
もう、うんざりだった。
どんな手段を講じても抜け出す事の出来ないこの不毛な繰り返しが。
そして無駄だと分かっているにも拘らず、気がついた時にはまた同じ事を繰り返そうとする己自身の弱い心が。
もう……うんざりだったのだ、私は。

だからこそ私は今まで誰にも本音を悟られぬ様に心を閉ざしてきた。
嬲られた時に感じた痛みを「痛い!」と嘆くこともなく。
罵声を浴びせ掛けられた時に感じた辛さに「止めて!」と叫ぶこともなく。
物を隠された時に抱いた遣る瀬無さに「助けて……」と呟くことなく。
ただ誰にもこの心に踏み込んで欲しくないという一心で本来表に出て然るべき感情を一切合財全てかなぐり捨てて、己の心に錠を掛け続けてきたのだ。
もうこれ以上傷付きたくないが故に。
もうこれ以上誰も信用したくないと思うが故に。
そして何よりも、この心が欲した孤独という名の安息に縋り続けていたいが故に。
私は心の扉に錠を掛け、溢れ出しそうな感情が二度と表に出てこないよう自らに制約を課したのだ。
だって、そうしなければ多分私は分泣いてしまうだろうから。
わんわん見っとも無く泣き叫んで、嗚咽交じりの声で理不尽を訴え続け、そしてまた昔日のあの日のように……最も虐めが激しかったあの頃のように黙らせられるまで何度も何度も執拗に甚振られ続けるのが落ちなのだろうから。

理不尽だと思うことは何度もあったけど、所詮これが私の現実。
納得なんてとても出来た物ではないけれど、無理やりにでもそんな風に自身に制約を課さなければ私は真っ当な精神を保っている事すら出来なかったのだ。
それに、そうある事で感じる痛みも大分少なくもなった。
お弁当の中に絵の具を垂らされても悲しいとは思わなくなったし、先生と知り合う前や彼女が非番の時にトイレの個室で御飯を食べなきゃいけないような状況にも大分慣れた。
今はもう少なくなったけど、上級生にお金をせびられて脅し取られる事にも……それが払えなかった所為で受けてきた私刑の痛みにだって絶え続けてくる事が出来たのだ。
だから、私は自分で選んだ選択を決して間違っているとは思わない。
思わないけれど、やっぱりそうあることが正しいのかどうかは私にも分からない。
私はただその時の自分に出来た精一杯を実行してきただけ。
よく吟味して選択を選んできたなんて大層な事は言えないけど、出来うる限りの最善は尽くしてきたのは紛れも無い事実だ。

でも、現実はやっぱり変化することなく私の周りで渦巻いている。
一体それは何故なのか、その答えは考えるまでもない。
偏に私の言う最善は結局“逃げ”という行為とイコールで結ばれてしまう独り善がりで卑怯な物でしかないからだ。
現に私は何時だってこの現実に歯向かう事はしてこなかった。
いや、正確に言えば一度や二度くらいは相手にたてついた事があったのかもしれないとは思う。
だけど現状に至るまでの自身の境遇を鑑みるに、そんな強気な態度を何時までも私が取り続けられる訳が無い事位は想像に難くない。
つまり、何れにしても結局私が「その場さえ切り抜けられればそれでいい」という安直で向こう見ずな対応に身を任せるのはそう時間の掛からない事だったという事だ。

勿論私だってそんな曖昧な態度を取り続けていれば相手を調子に乗らせるだけだ、という事は最初から分かっていた。
だけど日に日に仕打ちが酷くなり、損労が嵩む内に段々と私の精神はそんな事すら思い起こせなるほど疲弊しきっていって……やがて否応もなく諦めるという選択を取るしかなくなったのだ、私は。
そして、その結果は今更彼是語るまでもなく今現在に回帰する。
この腐りきった正方形の毒壷の中でただただ精神をすり減らす日々を日常とするという、最低最悪の現状へと。
私は心の中で私をこんな風に陥れたのにも拘らず平気な顔でヘラヘラ笑う周りの人間に言い表し様の無い不快感を感じつつも、周りがそうあるのは結局自信の責任でしかないと自分に言い聞かせ、そのまま静かに珍しく汚されていない自らの席に座り、机に突っ伏して寝た振りをしながらホームルームが始まるまでの空き時間が過ぎるのをただただ待ち続けるのだった。

(早く……学校、終わらないかな……)

瞼を閉じ、意識を自身の思考に半分以上移し変えながら私は暗く染まった視界の内側で不意にそんな事を思い浮かべる。
正直、私にとってこの場に留まる事は苦痛以外の何物でもなかった。
教室中で飛び交っている煩わしい雑談の声は一向に止む気配は無いし、その内の幾人かは此方の方に視線を向けてクスクスとなにやら意味深そうな笑いを零している始末。
おまけにこの何時暴力に訴えかけられてもおかしくないという心の奥底に刻み込まれた恐怖が余計にこの胸の内に蔓延る不快感に拍車を掛けていた。
バクッバクッ、と突き上げる様に心臓はその鼓動の速度を速め、言い表しようの無い不快な感覚は脂汗となって次第に額に滲んでいく。
不安、きっと今の気分を言葉に評すのならそんな風に言い表すのが適当なのだろう。
自らの腕の中に埋めた顔は強張ったまま凍ったように固まり、小刻みに震える右足は忙しく上下して奇妙な音程のビートを刻み付けたまま一向に止まる気配を見せない。
言うなれば過去の記憶と現状が酷い位にデジャブって、その所為で今この瞬間自身が感じている怯えが過去のものなのか現在の物なのか分からなくなる……そんな感覚。
それが今の私を支配する物の正体であり、またこの如何ともし難い不安な心に鉛の塊が圧し掛かってくるような重圧を掛ける一番の要因だった。

だが、考えようによっては今日の“ソレ”は何時も─────過去に私が感じてきた物に比べたらまだ幾分かマシである様にも私には思えた。
何せ何時もだったらこの程度の事はまだまだ序の口でしかないからだ。
確かに今も鼓動は微かな痛みを伴うほど激しくなる一方だし、キンキンと不快な不調音を訴え続けてくる耳鳴りも健在である事は否めない。
だけど、それは今までの経験から鑑みれば本当に軽過ぎる程の症状でしかなく、それならほんの数週間ほど前に感じていた物の方が断然きつかった、と思わず錯覚してしまうほどだった。
額に浮かんでくる脂汗にしたって大した量ではないし、何時もだったら水にでも浸したかのように溢れてくる手汗も今は無い。
それどころか、今日に至ってはあの教室中の四方八方から悪意のある視線を向けられる時に感じる悪寒すらも認知出来ないという現実に如何にも拭い切れない違和感を感じてしまって薄ら寒く思ってしまうほどだ。

詰まる所何時もに比べて感じる悪意が軽すぎるのだ、今日は。
確かにまぁ、今日は連休明けという事で授業らしい授業は無い訳だし、クラスメイトの連中にしても多分この間から世間を騒がせている『野犬騒動』の方に意識が向いているのだろうから私の存在なんか気にも留めないと言うのも納得できない訳ではない。
とは言え、だからこの仕打ちにも納得出来るか、と問われればその返答は渋らざるを得ないのだけれど……何れにしてもこの胸に募る不安が何時もよりは少し軽いという事だけは紛れもない事実だった。
その事実を運の良い事だと受け止めるべきか、それともそう感じてしまう自分自身を嘆くべきか。
正直私には判断が付かないし、無理に選ぼうとも思わない。
だって結局そのどちらを選択したところでこの心に無限に広がる虚無感が埋まると言う訳ではないのだから。

あぁ、このまま皆が皆、私から興味を失くしてしまえば良いのに。
泥沼ように濁った思考の中で私は不意にそんな脈絡の無い台詞を思い浮かべる。
それは私がこの学校来るたびに……いや、正確にはこの教室のこの席につくたびに漠然と考えていた小さな望みだった。
別にこの状況が一変されて、仲良しこよしと馴れ合いたいというような劇的な変化を望んでいるわけじゃない。
ただ、この身に降り掛かる人災が消えてなくなってしまえば、と思っただけ。
私を傷つける人間が全員私から手を引いてくれさえすればそれ以上の事は望みはしなかったのだ。
だけど結局、その想いは一向に芽吹く気配を見せないまま。
多分永劫にその願いを花として咲かせることなく、ただただ枯れ落ちるのを待つばかりだ。
私はただ皆に放っておいて欲しかっただけなのに……。

でも、今ならば何となくその想いが叶わぬ理由が私にも分かるような気がした。
なんと言うか……身の丈にあっていないのだ、その願いは。
本当は誰かから優しくして欲しい癖に妙な所で意地を張って、傷付いて、それでも尚回りの顔色を窺いながら脆く細い心を繋ぎ続ける毎日。
そんな日常に虐げられながら生きているような人間に本当の孤独なんて耐え切れる訳が無いに決まっているのだ。
だって、私は心身ともに弱く脆い人間だから。
誰からも触れられたくないなんて思っている癖に、本当は誰かに受け止めて欲しくて堪らない……そんな矛盾を孕んだ存在でしかないのだから。
孤独に憧れる物はその孤独に呑まれたその瞬間から何時までも追い回され続け、そして嘗て抱いた希望に脅えながらその日その日を恐怖する。
そんな未来を憂うが故に、私の本心は真の意味での孤独は望みはしないのだ。

故に、私は断言する事が出来る。
もしも、私の願いが真に叶う時が来るのだとすればそれは彼らが私を完全に使い潰した後のことなのだ、と。
それが何時になるのかは私自身も想像もしたくないし、その時私が今のようにまともな思考を保っていられるかどうかは分からない。
けれど、裏を返せば結局そうあることでしか私が現状から開放される術は無いのだ。
壊れて狂うのが先か、それとも周りの皆が飽きて他の標的に目を付け始めるのが先か。
それとも、結局私はこの先もずっとこのままでしかないのか。
この先この身がどうなるのかは定かでないけれど、何れにしても碌な事にならない事だけは私にも何となく分かっていた。
だけどそれでも私はその場に立ったまま、何にも行動を起せてはいない。
誰にも助けを求めることもなく、かと言って逃げ出す事を考える事もまたしない。
結局私は一人で何もかも抱え込んだまま、自身の内に蔓延る矛盾が外へと零れださないように閉じこもっているだけなのだ。
私は己の力だけでは何一つ解決する事の出来ない自身を恨めしく思いながらも、反面ではそう毒付く自身が今此処にあるのも結局は全て自身の責任である事を改めて自覚し直し、二重の意味で自身の不甲斐無さを噛み締めながら思考を続けるのだった。

(無力、か。結局私……一人で舞い上がってただけなんだよね、実際。あの暴走体に勝てたのだって結局バルディッシュやジュエルシードの力があってこその話だった訳だし、そもそもあの力だって元々は全部アリシアがくれた物なんだよね。それを何を私は自分の力みたいに思ってたんだろ? 本当っ……馬鹿だよ、私は)

誰にも気付かれないよう物音を立てない様に気を配りながらも私は自身のうちで沸々と湧き上がってくる不甲斐無さにギュッ、と掌を握り締める。
長く伸びた爪が手の内に突き刺さり、鈍い痛みが神経を刺激してその感覚が少しずつ頭のてっぺんに上ってくる。
痛いか痛くないかで問われれば、正直物凄く痛かった。
じくじくと掌の内側を這い回るように駆け巡る感覚は何処か傷口から血が溢れ出てくる光景を連想させてくるし、そうでなくとも唯でさえまともに手入れしていない指の爪はまるで鋭利な針のように深々と私の掌にめり込んでいく。
痛くないはずが無い。
それは自分自身も含めて他の誰の目からしても明らかな事だった。
とは言っても、今の私は周りの人間からしてみたら生きる亡霊のような物なのだろうし、誰も注目なんてするはず無いのだが……。
ともあれ、その痛みが尋常じゃないという事だけは紛れも無い事実だった。

だけど結局何処まで深々と爪が突き刺さろうとも、その痛みが私の頭の中を支配する事はない。
それ処か、寧ろ内出血を引き起こしそうになるような痛みが頭の内に上って来れば来るほど私の思考に霞が掛かり、手の内が疼けば疼くほど痛みが引いていく始末だ。
しかも、そんな感覚に反比例するように頭の内から滲み出る感覚が再び私の頭の中を少しずつ蔓延り始め、やがては一面真っ黒になるほどに頭の中を埋め尽くしていく。
その感覚の正体は正直私自身もあまりよく分かっていない。
ただ言えるのはその感覚が頭の中に浸食すればするほど……この胸の内に少しずつ蓄積されていくどす黒いもやもやの量が増せば増すほど意識が遠退いて行き、またそれに反するかの様に自身のネガティブな想いが加速するという事だけだった。

もやもやとした思考の中で私は少しずつ過去の自分の姿を記憶の中から引き出し、それを今の自身の現状と照らし合わせながらゆっくりと物思いに耽っていく。
もう今更になって「どうしてこんな風になってしまったのだろうか?」とか「どうして私は今になっても一人なのだろうか?」とか、そんな事を考えるという訳ではない。
私が考えたかったのはただ単純に「どうして今も昔も私は変われないのか?」、というただその一点のみ。
そんな一見どうでも良いような事をそれこそ自分でもどうだって良いと弾じてしまえる位適当に考えてみたかっただけなのだ。
どうしてそんな事を考えるのかという疑問に関しては正直自分でも明確な答えは持ち合わせてはいない。
あえて言うのであれば、その疑問だけが唯一この状況の中で私の頭の内に浮かんできたというただそれだけの事だ。
それ以上の動機もなければ、それ以下の理由も無い。
今この瞬間この場でいる自分と、嘗てよりこの場で死に掛けた虫けらのように力なく息衝いていただろう昔の自分。
この二つの“高町なのは”を照らし合わせて考えた場合、今の私は昔日の私に比べて何を如何変わることが出来たのか。
そして、もしも其処に変化があるのだとすれば具体的に私は何をしてこれたのか……。
そんな事を私はただダラダラと考えたかっただけなのだ。
この瞬間、この場にいる事があまりにも苦痛過ぎるが故に現実逃避として。

(変われたこと、か。実際……何が変わったんだろうね、今の私って)

漠然と頭の中に浮かんでくる想いに身を委ね、まるで泥沼に沈んでいくかのように私はどっぷりと深い奥底まで自己の意識を埋めながら、其処に生まれた疑問の答えを静かに導き出していく。
これまでの出来事を通して変わることが出来たこと。
今に至っても尚、変わることが出来ないでいること。
そして、それ等の事を総合して考えた場合、今の自分は昔の自分の比べてどれだけ進歩する事が出来たのかということ。
そんな様々な想いが頭の中で交錯し、それがまるで組み替えパズルのように奇異複雑に絡み合って一つの形を作っていく。
別にそれは理解出来ない事が理解出来るようになっていくという訳ではない。
元より知っていた……だけどまるで埃を被ったかのように記憶の奥底で埋もれていた記憶を掘り返し、また自覚し直しているというただそれだけの事だ。

だけど、それはある意味私にとって鬼門でもある事だった。
何せ、私にとって過去の記憶─────それも自分自身に関する記憶というのはあまり思い出したくないトラウマに塗れた存在に他ならないからだ。
一つ、また一つとその記憶が思い起こされる度に胸が苦しくなり、喉元が締め付けられるような圧迫感が段々と強まっていく。
口の中はからからに渇き、自分でも何だか顔から血の気が引いていくのがよく分かる。
それ程までに私の内から溢れてくる記憶というのは惨く、またそんな錯覚を常時引き起こしてしまうくらいおぞましい物だった。

まず初めに思い出されたのは夕日に染まった放課後の校舎裏。
其処で四、五人の上級生に囲まれ、サッカーボールのように蹴り続けられた時の嫌な記憶だ。
あの時の事は今でも鮮明によく憶えている。
クラスの人達に隠されたボロボロのペンケースや落書きだらけの教科書を校舎裏のゴミ捨て場からようやく見つけ出し、それを腕の中に抱えながらその場に蹲って嗚咽を漏らす昔の私。
そんな私を取り囲むようににじり寄る複数の人影に、背筋が寒くなるような下卑た笑み。
そして、それから立て続けて起こる暴力、暴力、暴力─────……。
殴られ、蹴られ、突き飛ばされ……挙句の派手に最後は傷だらけで動く事が出来なくなった身体に冷や水を浴びせかけられる始末だ。
その日はまだ他の日に比べて気温が温かかったとは言え、既に季節は冬も間近の11月。
彼らが満足して去った後も私は全身に奔る痛みの所為で満足に立ち上がる事も叶わず、ただただ寒さと痛みに身体を震わせながら何も無いはずの虚空を見つめ、自然に零れ落ちる涙で地面を濡らし続けることしか出来なかったのだった。

次に思い出されるのは薄暗いトイレと鋭く光る大きな裁縫鋏。
確かあれは昼休みに起きた出来事で、私は何時もの人気の無いトイレの個室でお弁当を広げていた時の事だったろうか。
その日、私は運悪く他のクラスメイトに食事を取っているところを見つかってしまい、言い訳することも出来ぬまま外に引っ張り出されてしまったのだ。
立て続けに浴びせられる「キモい」という罵声に、名も知らぬクラスメイトの上履きに足蹴にされる身体。
私だって本当は日の当たる場所で食べたいのにそうさせてくれないのは他でもない貴方達じゃないか、と私は何度も何度も心の中で呟いた。
だけど、そんな私の事情なんて彼らはお構いなし。
まるで鬼の首でも取ったかのように酷く歪な笑みをその顔に浮かべ、床にへたり込んでいる私を踏みつけ続けるばかりだった。

何処かを踏まれる度に青痣が肌を染め、「許して……」と懇願するたびに腹部を蹴り飛ばされる。
彼らからすればただ一人トイレに隠れて食事を取っているという私の存在はどうしようもなく許容しがたい物であったのだろう。
なまじ場所が人目に付かないトイレという事もあってか、彼らからの仕打ちには一切の遠慮が無く、また加減も無い。
不意に髪の毛を掴んで無理やり立たせたかと思えばまた直ぐに突き飛ばし、皆一様に下品な笑いを浮かべたかと思えば今度は掃除用のモップで突き回し始める……ただその繰り返し。
もう何度「止めて!」と叫んだ事だろう。
彼らが何かを身体を嬲るたびに、髪の毛を掴んでくるたびに、突き飛ばしてくるたびに、私は何度も何度も泣きながら彼らに懇願する事しか出来なかった。
でも、彼らはどれだけ私がお願いしても決してその手を止めてくる事は無かった。
それどころか、そんな私の態度が逆に彼らの嗜虐心を刺激してしまい、その仕打ちは昼休みが終わっていくに連れて段々とエスカレートしていったのだった。

そんな中、事が起こったのは昼休みも大分終わりに近付いてきた時の事だった。
私を甚振っていた人間の一人が何処からか家庭科の授業で使う裁縫鋏を取り出して私の方へとにじり寄ってきたのだ。
この時ばかりは私も全力で抵抗した。
今までどんな事をされても最終的には耐え続けることが出来ていた私だったが、この時ばかりは流石に手にしている物が紛れも無い凶器であるという事もあって命の危険を感じてしまったからだ。
何とか他の人間を振り切って外へと逃げようとする私。
だけど散々嬲られ、青痣や内出血だらけになった身体がそうそう機敏に働いてくれる筈も無く、逃げようとする私を彼らは意図も簡単にねじ伏せてきた。
両腕を掴んで再びその場に引き倒し、鋏を持った人間がうつ伏せに倒れた私に馬乗りになって動きを封じる。
そして慣れた手つきで私の髪の毛を鷲掴みにし、もう一方の手で鋏を弄びながらそれを私の髪の方へと段々と近づけていくのだ。

私は思わず声にならない悲鳴をあげそうになった。
だけど声を洩らしそうになるたびに他の人間が私のわき腹を蹴りつけ、その声を強制的に遮断させてくるから満足に悲鳴をあげることすら出来なかった。
抵抗する事も出来ず、また助けを求める事も悲鳴や苦悶の声をあげることすら叶わない。
幸い運の良い事に髪の毛を切られる前に予鈴が鳴ってくれた御蔭で髪は切られることはなかったが、あの時の光景は今思い出しても思わず身震いしてしまうほど鮮明なトラウマとして私の頭の中に残っている。
上下に動く刃が少しずつ私の方へと近寄っていき、その向こうにある悪意に歪んだ双眸が首筋を這うように私に怖気を齎してくるというおぞましいあの場景が。

その後も私は実に様々な事を思い出し続けた。
真冬のプールに制服のまま突き落とされたこと、鞄の中身を全部溝川に捨てられたこと、クラスの人間全員で挙って私の携帯に嫌がらせのメールを何十件も送りつけてきたこと、ロッカーの中に閉じ込められたこと、下校途中に幾つも石をぶつけられたこと……その他エトセトラエトセトラ。
どれもこれも一生物のトラウマになりかねない負の記憶ばかりだった。
でも、それは紛れも無く過去の私が体感してきたこと……言い換えれば過去の自分そのものに他ならないのだ。
臆病で、泣き虫で、筋金入りの人間不信。
誰に何をされてもただ怯える事しか出来ず、挙句の果てには誰かが自分の傍で笑っているという事すら恐怖を憶えてしまうような……そんな過去の私自身に。

(結局、そうなっちゃったのは私が悪かったのかな? 全部が全部……私の責任だったのかな?)

そんな風に私は自身の過去に新たな疑問を抱きながら、今度は新たにそんな過去の自分がそのように変化したもう一つの理由の方へと意識を奔らせる。
そう、何も私がそんなただ脅え縮こまっているだけの人間になったのは直接的に齎された物だけが全てではない。
周りの人間から齎された副次的な圧力やプレッシャーもそれに拍車を掛ける原因になっていたのだ。
後退する成績という負のフィルターを通してでしか私の事を見てくれない両親。
どれだけ私が傷付いているかも知らないで無神経に怒鳴り散らしてくるお兄ちゃん。
そして幾ら相談しても聴く耳を持ってくれない担任の先生。
例を挙げれば切が無いが、それだって結局は少なからず私が今みたいな人間に陥る要素となっていたのはまず間違いない事だった。

それに、元々私という人間は他人から過剰な期待を抱かれるのを苦手とする人間だった。
一時期はそれを見失い、過剰なまでの努力を重ねて必死で“良い子”という虚像を演じ続けなければと必死になった事もあったがそういう柵に縛られない今なら素直にそう思える。
所詮この身は凡人であり、またその身の丈も至って凡庸。
他人から羨まれるような才も無ければ、特別要領が良いという訳でもなく、ただ社会が定めた“普通”という枠から漏れ出さないようにするのが本来精一杯という程度の人間でしかないのだ。
それなのにどうして皆、この私にそれ以上の事を望むのだろう。
あぁ、確かに過去の私が頑張り過ぎたのも原因だとは思う。
凡人の癖に他人に良い格好をしたいというただそれだけの為に上へ、上へと飛翔しようとした私が悪いのは今更口に出すまでも無いことだ。
だが、果たしてそれがこの身に錘を乗せ続ける理由になりえるのだろうか。
日に日に弱り果てていく私の姿よりも紙面上の数字の方が注目され、重視される理由になりえるというのだろうか。
否、そんな事は決して無いはずだ。
だってその証拠に先生やアリシア、そしてフェイトちゃんなんかは数字よりも先に凡人凡庸でしかない私の方にちゃんと目を向けてくれたのだから。

でも、こんな風にも私は思う。
所詮最初から何が悪かった訳でもなく、また良い訳でもなかったんじゃないか、と。
悪いのは誰か、問題は何か。
確かにそんなような事をもっともらしく語る事は出来るだろう。
けど、その手の転換や責任に押し付けは結局自分が楽になりたいが為の独り善がりでしかないのもまた事実。
集団の底辺に蹴落とされ、もう一度飛び立つ勇気も無い人ほど周囲が悪いと思い込むものなのだ。
故に此処は、もう適当に全部悪いと言うべきか、或いは今まで私がそうしてきたようにそれ等を理不尽と感じつつも「そういうものだから仕方ない」と達観するほか無い。
何れにせよ、事の突き詰めた所で何も得るものはないのだから。

きっかけなんていうのはどうだっていい。
一介の凡人に生まれながら、似つかわしくない成果を収め続けた事が悪いのか。
それを隠しもしないで只管に“良い子”を演じ続けた昔日の私の無邪気さが悪いのか。
そんな事柄だけでしか個人を判断出来ない周りの環境が悪いのか。
目立つ事を許容出来ないクラスメイトの人間性が悪いのか。
どうでもいいし、どれでもいい。
ともかく私は、横並びの列から飛び出ていた。
それだけが唯一断言できる唯一の真実と言っていい。
だけど、事をそう判断した場合決定的な疑問が私のうちに残ってしまうのだ。
それこそ何処までも根本的な─────事の一番最初よりも前まで遡って尚、答えを導き出す事が出来ない決定的な疑問が。
そして私はその疑問を静かに言葉に変換し、それを思わず心の中で呟いたのだった。
酷く擦れた様な印象の、何処までも力ない弱々しい声で……。

(だけど、私が何をしたの?)

不意に頭の中を過ぎったその言葉は刹那の内に鉛が胸に落ちるような錯覚を私へと齎し、やがてまた新たな蟠りとなって私の心に蔓延り始める。
思えばそれは私という存在が変わる変わらないという論理以前の問題だったからだ。
何が変わって、何が変わらなかったのか。
確かに此処一年ほどの事を考えれば、私がそんな風に現状と過去の差を気にしてしまうのも無理も無いことだとは思う。
だけど、その前は……虐められるそのずっと前はどうだろう。
それはまだ私を含め何もかもが正常だった頃のこと。
今はもう殆ど口を聞く事の無くなったアリサちゃんや何時までもウザったく付き纏ってくるすずかちゃんの事も“友達”であると思うことができ、今や崩壊寸前の家庭に人並みの温もりを感じられていた懐かしくも手を伸ばし難いあの頃は果たしてそんな変化に一々気を配っていただろうか。
否、多分そんな事は一度も無かったのだと断言できる。
自分が幸福である事を自覚する事も無ければ、気に止める事も無くただただ毎日を“当たり前”だと感じて過ごしていたあの日々。
そんな輝かしい現実を生きた人間に今の私のような思考なんか出来る訳が無いのだ。
だって、元よりそんな必要なんか何処にも無いのだから……。

昔の私は別段、己の優位性を鼻にかけて悦に浸るような人種ではなかった。
歳相応の少女たるものの常として、綺麗な洋服を好み、愛らしい物を良しとして、他の皆と同じように華やかさに憧れた。
単にそれだけ。
本当にそれだけ。
数いる生徒の中からもっとも気の合う友人達と親睦を深め、己の当たり前を日常として存分に謳歌する。
そうして後は歳相応に、誰もが望む平凡な少女の“高町なのは”であろうとしただけだ。
そのあり方が気に喰わない者や、それに同調しては陰口をたたく者達、彼ら彼女らに忌み子のごとく罵られる覚えは無い。

例え周りが、密かにそんな私を陥れる算段を模索していたとしても。
友達と思っていた人間が、それが原因で私から離れ始めていたとしても。
言ってしまえば、迂闊だった。
本当にその一言に尽きる。
自分の一挙手一投足、日常における万事全てに至るまで見られていると、嘗ての私は自覚が足らなかったのだ。
一度掴まれる足を晒せば水底の魔性に引き摺りおろされる。
学校の教室という閉塞した横並びのコミュニティで、絶対の法則である事実に気が付くことが出来なかった。
迂闊というしかないだろう。

(そして、私はきっかけを生んでしまった。それが全ての元凶……)

嘗ての私と今の私の丁度境目、分水嶺とでも言えば適当なのだろうか。
ともあれそれが事の全てを生んだ所謂きっかけだった。
そうなるだけの要因は今考えるだけでも数多くあった訳だし、あの少し前には私の前任であるすずかちゃんを私とアリサちゃんで助けようとしたという事もあってか、炸薬が破裂する原因には事足らなかったと言っていい。
要するに後はスイッチを押すだけ、口実なんて何でも良かった訳だ。
単に高町なのはという存在を横並びの枠から外せれば、蹴落とせれば、引き摺り下ろせれば、後は何でも構いはしない。
例えどれだけその理由が理不尽な物であったのだとしても、世の法則で難癖をつけた人間の理屈が正当化されるのは自明の理なのだ。
そして後は口八丁で事が大きくなり、学校特有の口コミの速さで事実も嘘も関係なく学校中に蔓延してしまう。
そうなった以上、当然私が何を如何弁解しようが聞き入れられる訳も無く、一度根付いた噂は例えそれが真実でないのだとしても確実に周囲の人間の認識の内に組み込まれるのだ。
そして事実、教師も生徒も関係なくそれまで積み上げてきたその個人の印象を忘れ、新たに与えられた先入観で私を判断し始めるのはそう遅い事ではなかった。

事の発端はある日の放課後、掃除当番で担当していた教室の清掃を粛々とこなしていた時の事だ。
その際、私はうっかり花瓶に箒の柄を引っ掛けて割ってしまった。
ほんの偶然。
些細な出来事。
しかし、そんな小さな事だって他人を攻め立てる材料になりえたこの頃において、それは私を引き摺り下ろすのに十分な物となった。
嵐のような熱狂と共に、男女の境関係なく無数の見えない腕が私の脚に纏わりつく。
この身を水底に引きずり込まんと下卑た笑いと卑屈な悪意をもって、狂気にも似た狂喜が私の心をズタズタに引き裂いていく。
「なんで、どうして……」、そんな言葉を何度心の中で呟いたのかも知れはしない。
ただ忘れられないのはあの時に見た皆の顔だ。
野生の肉食獣のような獰猛さを帯びた女生徒の笑い声が頭に響く。
嗜虐心に駆られるがまま理性の歯止めが利かなくなった利かなくなった男子生徒が私の身体に次々と痕を刻み込んでいく。
そして、ああ、そして何より、一生変わる事は無いと信じていた友人達の顔。
共に時間を共有し、些細な事で笑い合い、何時だって離れる事の無かったその顔が、自分じゃなくて良かったとでも言いたげに安堵を浮かべて緩んでいる。
そして、この瞬間私は悟ったのだ。
これか、所詮こんな物なのか、と。
私を取り巻く物なんて所詮何もかも偽りに過ぎないのだ、と私は心から思い知らされたのだ。
ならば嘗ての私が今の私のように穢される理由等何処にあるというのだろう。
その答えはもはや論じるまでも無く私の心の内にあった。

(ある訳が、ない)

そう、ある訳が無いのだ。
確かにこの身が目立ち過ぎたのは悪い事だとは思うが、それが一体どうして過去の私が纏っていた光を他者に簒奪される理由となりえるというのか。
これ以上無い理不尽、これ以上無い自分勝手。
それも普段はそれをいけないものだとして注意する側の教師が生徒の親や自分の立場に気を使ってあえて無視を決め込むというのだから、これを茶番と呼ばずして呼べばいいというのか。
まぁ、考えようによってはそれが合理的な人間の性であるのだとは私も思う。
他者の光を簒奪し、穢す……それは何時の世だった少なからず起こりえる事柄に他ならないからだ。
そして彼ら彼女らは何処までも素直で実直であっただけ。
少なくとも少し前までの私よりかは人生の何たるかを弁えているという、ただそれだけのこと。
そう考えれば私も事を理解出来ないと言うわけでもない。
とは言え、理解したからと言って納得したという訳では決して無いのだけれど。

其処で、私は今自分が抱えている疑問にこのような結論をつけることにした。
私という存在は今も昔も何一つ変わってなどいないのだ、というそんな今更過ぎる結論を。
だが、考えれば考えるほど私にはそう思えてならないのだ。
確かに今の私と昔の私は自他共に如何考えても別の物に成り果てているのは間違いじゃない。
それは私も否定はしないし、今更如何あっても変えようのない事実に他ならない。
でも、その変化は所詮その前の段階の私にも同じ事が言えてしまうのだ。
虐められる前の私と、虐められた後の私。
そして今議論に上がっている漠然とした“昔”と”今”の私。
それらは全て同一の物であり、定義が曖昧である以上その昔や今といった部分にはどの時期の私を当て嵌めても変わりは無いわけだ。
つまり此処で言う私の変化は虐められた後の私からすればとても大きなことなのかもしれないが、そのずっと前……虐められるその前の私からすればただの当たり前に過ぎはしないのだ。
故に私は何一つ変わってなどいない。
ただ此処最近触れた温もりの御蔭で”昔の私“よりもずっと前の”私”の心が取り戻されつつあったという、ただそれだけのことなのだ。
そんな物、今更戻ってきたってただ邪魔なだけなのに。

(……そっか。じゃあ結局、今の私が抱えてるこの気持ちは─────)

昔の私が感じていた物の名残でしかない。
私がことの全てにそう結論を付けようとしたときのことだった。
不意に辺りがガヤガヤとざわめき始め、数人の人間が足早に移動する足音が私の耳に響いてきたのだ。
一体朝っぱらから何なのだろうか、不意にそんな疑問が私の脳裏を過ぎる。
だが、その答えは即座に二の句として私の耳に入り、それほど意識せずとも私も直ぐに理解することが出来た。
いや、ただそれだけで十分過ぎたと言った方が正しいだろうか。
何せそのざわめきの中心人物は今朝方バスの中であったばかりの人間で、その人間がどうして周りを騒がせているのか何となく私自身分かっていたからだ。
そして、それは私が望もうと望むまいと関係なく会話となって紡がれていく。
力なく、それも出来の悪い茶番劇のように。
その会話はゆっくりと当たりに響き渡り、そしてほんの少しの間だけその場の注目をその一点に集めたのだった。
この場でただ一人、この私の視線を除いては。

「すっ、すずか!? ちょっと、やだ。あんたなんでそんなにフラフラなのよ……大丈夫?」

「あっ……アリサ、ちゃん。うん、大丈夫。私は……全然、大丈夫。さっき保健室にもいってきたから」

「なになに、月村さんどうしたの?」

「うわっ!? 月村さん滅茶苦茶顔色悪いじゃん。カワイソ~……」

不意に私の耳に飛び込んできた会話は即座に私の頭の中で変換され、その場を見ずとも明確な場景として映し出される。
具合の悪そうなすずかちゃんの様子にアリサちゃんが驚いて、それが他の生徒の注目を集めた……まぁ、十中八九そんなところだろう。
そう言えば殆ど一緒にバスを降りたはずなのに、私がこの教室に足を踏み入れたときにはすずかちゃんの姿は確認できなかった。
きっと先ほど彼女が言ったとおり保健室にでも行っていたのだろう。
尤も、その理由までは私も定かではない……と言うか、その責任が私にあると思いたくないのだが。
まぁ、なんにしても私には関係の無い話だ。
あくまでそう割り切り通す心算でいる私は徹底的に無視を決め込み、より深くその顔を組んだ腕の中へと埋めていく。
今朝の事で私は彼女との縁を完全に切ろうと決めた。
なら今更偽善者面して態々彼女に近寄っていく必要も心配する必要も無い、そう思ったからだ。

だが、その時なんとなく私はその話題の中心人物が……すずかちゃんがこっちの方を見ているような気がしてならなかった。
生気の宿らない虚ろな瞳で、まるで許しを請うかのような表情を浮かべながら。
ただただ私の方をジーッ、と眺めている、そんな光景が頭から離れてくれないのだ。
どうして私がこんな場景を妄想してしまっているのか、それは私自身にもあまりよく分からない事だった。
今更彼女に何を思われようと相手にしないと決めた筈なのに。
例え今後彼女が何をしてこようが今日の態度を貫き通そうと自分の中で定めた筈なのに。
もうこれ以上、私の所為で彼女が心苦しい思いをしないようにとこの心に残った僅かな優しさの内に答えを出した筈なのに。
何故私はこんな……こんな今更どうしようもない光景を見せ続けられているというのか。
私は何時までも頭から離れない不気味な妄想に言いようの無い怖気を感じ、それが現実でないことを祈りながらそのまま顔をあげることもなくその場に伏せ続けるのだった。
もう一つすずかちゃんとは別のもう一人の人間から向けられる懐疑的な視線をその身に浴びて。
やがて先生が何気ない顔で入ってきて、何時ものようにホームルームを始めるその瞬間まで、ずっと。
ただただ、私は所為じゃないと心に言い聞かせながら……。
刹那、不意に目頭が熱くなっていくのを私は感じた。









[15606] 第二十三話「重ならない心のシルエットなの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:282a81cc
Date: 2010/07/21 17:15
夢を、夢を見ている。
それは遥か彼方の過去か、それとも決して辿ることの無い偽りに塗れた未来か。
分からない。
私には分からない。
ただそれが現実でない”何か”である事だけは理解する事が出来ても、その本質を捉える事が出来ないのだ。
まるで映像のコマ送りのようにゆったりと流れる景色は何処まで行っても曖昧なままで、それに合わせて垂れ流される音は騒がしいノイズに塗れて上手く聞き取る事も叶わない。
映し出される場景は酷く不安定で切なげで、それでいて蟲に喰われた木の葉のように所々が抜け落ちてしまっている有様だ。

果たしてそれは私の過去への追憶か、それとも在り得ぬ未来を夢想しただけの幻想でしかないのか。
憔悴という皮膜越しに浮かぶ疑問は泡となって消え、消えた端からまた同じ疑問の念をふつふつと頭の中に湧き上がらせていく。
繰り返し。
そう、何度だって同じ事は繰り返される。
否定した端から迷いが頭を過ぎり、断じた傍から後悔の念が付き纏う。
何度も何度も─────気が遠くなるほど繰り返したその先で私は……高町なのはは一体何を想うのだろう。
分からない、解らない、判らない。
いっそ清々しくすら感じてしまうほどに私には何も理解するなど叶わないのだ。

カチッ、と歯車と歯車が噛み合うような音が微かに私の意識を擽る。
何かの拍子に頭の中の螺旋が巻かれ、記憶を補完する様々な部品達が静かに産声を上げ始めた事に気がついたのだ。
指揮棒でかき回された円筒が回り、其処に刻まれた唄が辺りに木霊する。
その音は先ほどまでノイズだらけだったそれとは違い、心の隙間に漏れて落ちるように凄く透き通った物だった。
そして、そんな唄と共にまた映像が再開される。
それが何の記憶であるのかは未だはっきりとせず、映し出された映像の画質もそう改善されたという訳ではなかったが……それでも先ほどのモザイク塗れの物に比べたら幾分もましなものだった。

映し出されるのは真っ白な少女。
歳は私と同い年位か、それに一つ二つ数字を足した程度といった所だろうか。
白いリボンで結ばれた亜麻色の髪がふっ、と風に靡いてさらさらと揺れる。
真っ白な服─────私が通う学校の女子の制服にそっくりなデザインの清楚な服に包まれた身体は華奢で、抱きしめてしまえば折れてしまいそうな印象すら抱いてしまうほどに細いラインを描いている。
そしてその手にあるのは杖のような機械。
凡そ、私の持つバルディッシュに程近いとも言える機械美に満ちた白と蒼のガンメタリックの輝きを放つ不思議な機械杖が紅葉の葉のように小さな掌にしっかりと握られていた。
そしてそんな要素を総合し、紡ぎ出した果て存在が其処にはあった。
水面の上のような不安定な足場に立ち、眺めている此方など意も解さないといった具合にすまし顔で横顔を晒しているその姿は何処か寂しげで……それでいて酷く儚げだった。
手を伸ばしたら消えてしまう光。
この世に生を受けてから輝きを帯びてから一週間と生きられない蛍や蝶のようなものと同じ雰囲気をその少女は醸し出していた。

しかし、その少女の姿は私のどの記憶を遡っても決して重なる事は無い。
何故なら私の数多くの記憶の中にそんな少女の姿など何処にも存在しないのだから。
でも、その身姿は思わず眉を顰めてしまうほど酷くデジャブを感じさせる物だった。
母親譲りの亜麻色の髪、透き通った紫水晶色の瞳、すました横顔。
そのどれもに見覚えがあり過ぎて、一々例に出すのも億劫になってしまいそうにすらなる。
何せ、その姿は服装や健康そうな顔立ちをのぞけば全て―――――そう、総じて全て私自身こと高町なのはの物に違いないのだから。

(一体、これは……?)

混沌とした意識の中で私は微かに燻った疑問の念を静かに思い浮かべる。
答えなど最初から出ないことは解っていたし、元々期待していた訳でもない。
と言うか、それ以前に何故こんな物を見ているのかという根本的な事すら理解していない私からしてみれば、そんな疑問を浮かべる事すら場違いであるような気がしてならなかった。
でも、それ以上に私は知っていた。
そもそも初めから答えなんてこの場には存在し得ないのだ、という至極単純でなんとも荒滑稽な事実を。

確かに目の前にいるのは私に似た“何か”であり、それが現か幻かも分かってはいない。
だが、言ってしまえばただそれだけ。
その姿が高町なのはという存在と酷似していることも、私自身の記憶にはそんな自分の光景は存在していない事も、それが夢か現実なのかと言う事も、全部が全部確かめようなど無いのだ。
確かめる術がなければ答えなど得られず、答えがなければ理解など出来る筈も無い。
尤もらしい理論を重ねて突き詰める事は出来ても結局それは胡蝶夢のような水掛け論。
これを夢として認識している私が現実なのか、それともこの私を夢として捉えている映像の向こう側の彼女が現実なのか。
どちらがどちらであるのか何ていうのは所詮その程度の事柄に過ぎず、また明確な意味も存在しない。
意味が無いのだから不要、不要なのだとしたらそもそもこんな風に考える事すら愚かしい。
元を辿って考えていっても結局最後にはその理屈に行き当たってしまうのだから、そもそも答えの出しようなど存在する筈が無いのだ。

何とも馬鹿げた物言いだ。
あまりにも抽象的過ぎている上、何処までも回りくどい自分の思考に私は半ば呆れの感情を抱きながらそう思った。
だが、其処まで考えを及ばせた所でその思考は直ぐに無に帰する。
映像の向こう側の少女─────いや、私の写し身である“高町なのは”が此方の方へと向き直って視線を投げ掛けてきたからだ。
改めて正面から彼女と私は向き合う。
互いの姿は何処までも双方にとっての対照であり、また正反対。
まるでコインの裏表、きっとそう評するのが適当なのだろう。
根本的には同一の存在でありながら何処までも相容れる“私たち”が向き合うその様は言いようもなく奇妙な物だった。

『この世界は何時だって“こんな筈じゃなかったこと”に満ち溢れている……』

映像の向こう側から凛とした声が響き渡る。
その言葉は私に向けられた物なのか。
それとも彼女の何気ない独り言なのか。
理解など及ぼう筈も無い。
何故なら私の知る高町なのはは己だけであり、目の前の“高町なのは”は私ではないのだから。
でも、私はその言葉を己に向けられた物であると解釈する事にした。
別に何か特別な意図があったわけじゃない。
ただ何となく彼女の口にした言葉が気に掛かり、たまたまそれが私の心の琴線を揺れ動かした。
本当にただそれだけのこと。
単純な興味本位以上の何物でもなく、またその逆も然り。
この世の不条理を謡う彼女の言葉が妙に気がかりだったという、そんなつまらない動機の果てのことだった。

『何時の日も、何時の世も。何時如何なる時代でも根本は同じ。誰かが笑えば一方で他の誰かは涙を流す。例えこうありたいのだと強く願っても、他の誰かが先に其処に行き着いてしまえば決して其処へは辿り着けない。だからこそ届く事のかなわなかった者は誰しもこの世を憂い、嘆きの声をあげる。こんな筈じゃなかった、と。こんなものが運命である筈が無い、と。このような結末で納得できるか、と。ただただ上を見上げてこの世の理不尽に不平を洩らす』

なるほど、確かにその通りなのかもしれない。
不意に浮かんだそんな同意の念が混濁した私の意識の内に蔓延り始め、次第に拡散されていく。
彼女が紡ぐは人の世の心理であり、また世に溢れる競争論の果てに位置する理だ。
誰かが幸せになる為には同じように他の誰かが不幸にならねばならず、競い合って勝利を収める人間がいれば当然敗者も生まれ出てしまう。
そして、そうやって高みから排斥された者は例がなく昇っていった人間を嫉み、その事実を良しとしない否定の衝動に駆られるのだ。

それでどうにかなる訳ではない。
けれど、それが分かっていながら下を向き続けていられないというのが人間の性だ。
皆一様に成功者の存在を疎ましいと感じ、日々不満を募らせる。
だから隙あらばその存在を自分達と同じ場所へと引きずり込んでやりたい立ち、その成功者の光を簒奪することに人々は躍起になるのだ。
テレビのスキャンダルで芸能人の交際を晒し上げるのも然り。
アイドルのプライベートを勝手に撮影して雑誌に載せるのも然り。
著名人の荒や過去の行いに対しての落ち度を見つけて、それを材料にその人物を陥れようとするのもまた然り。
誰しも横並びを望むが故に跳びぬけた者の存在を嫌い、そういう存在であらなければ自分達のアイデンティティを保ってすらいられないのだ。
何とも醜く、何とも愚かな心理だけど結局言ってしまえば何時の世もその心理だけは変わることは無い。
ならば、恐らく彼女が言っている事もまた一つの真実である事に違いは無いのだろうと私は思った。

『平等なんて物は無いのに。やり直しなんて利かないのに。一度取りこぼした物は二度と元には戻らないのに……。誰しもその事実から目を背けてばかり。幾ら手を伸ばしても天に輝く星を掴める筈無いのにね』

此処で彼女の口ぶりに僅かな変化が起きる。
まるで延々と呟かれる一人事のようだった口調が、誰かに語り聞かせる様なニュアンスを含み始めたのだ。
それは意図して誰かに語りかけた言葉だったのか。
それとも彼女の持つ独特の雰囲気が私にそう思わせているだけに過ぎないのか。
分からない。
私には何も分からない。
その言葉が誰に向けられた物なのかも。
その言葉が何処へ向かっていくのかも。
その言葉が私にどう関係しているのも。
私には……解らない。

『でも、それが初めから定められた物だとしたら?』

(……えっ?)

『人生におけるあらゆる選択、些細な事から大事な事まで選んでいるのではなく選ばされているとしたらどうなんだろうね? 無限の可能性なんて言うのは幻想であり、どれだけ足掻いても人は決められた道から降りられない。善人も悪人も富める人も餓える人も虐げる人も虐げられる人も皆等しく最初からそうあることが運命付けられているのだとしたら……どうなんだろうね?』

彼女の口から語られた言葉の一つ一つが私の胸に突き刺さる。
何故ならそれはある種この世に起こりうる総ての理不尽に対する絶対論であったかもしれなかったからだ。
故に私は映像の向こう側の彼女に短い疑問の念を投げ掛けた。
届いているか、届いていないかなんていう事の是非は初めから何も期待してなどいない。
其処から何かを得られるのか、どうなのかということもまた然りだ。

でも、正直言ってしまえばそんなものは些細な事だった。
以前、暇つぶしに先生から教えて貰った宗教理論。
フランスの神学者であるジャン・カルヴァンの唱えた『予定説』と酷似する彼女の理論は何処か言いようの無い説得力を孕んでいて……故に心が強く揺す振られたのだ。
だからこそ私は疑問の念を投げ掛けた。
例え一方通行の想いであっても、それに同調する事でより彼女に思考に近付けることは出来るだろうと思ったからだ。
私は何も知らないが、彼女は何か知っている。
この不毛な行いに対する感慨なんてその程度の理由があれば十分だった。

『だったらどんなに偉い聖人にも徳なんて無いし、どんな咎人にも罪なんて無い。尤も─────それは誰にも認知する事なんて出来ないんだろうけど』

(まぁ、それが分かってたら初めから両者共倒れになるだろうからね)

『だけど運命は分岐する。一つの個が至上の幸福に包まれる未来もあれば、絶望の淵へと突き落とされる未来もある。所謂選択肢の違いだね。あらゆる物事は予め決まっているのだとして、そこに二つの未来が生まれるのだとすればきっとそれはそう呼ぶほか無い。だって選んでいる本人にはそんな自覚なんて欠片もないんだから。例えば此処にいる“私”がそうであるように─────』

彼女の言葉が紡がれる寸前、私は思わず息を飲んだ。
何か言いようの無い重圧が私の心に圧し掛かってきたからだ。
それは彼女の言葉の所為なのか。
それとも其処に込められた彼女の意思が私にそう感じさせているのか。
考えた所でその是非の判別なんて付けられる筈も無い。
にも拘わらず、こうして私が息を詰まらせているという事はやはり彼女の言葉の何処かにはそうさせるだけの“何か”が込められていたという事なのだろう。
彼女から語り聞かされる言葉を受けるだけに留まっている私には今の自分の状況をそう評す他無かった。

そして、彼女の口から決定的な一言が呟かれる。
その言葉は鉛のように重く、切っ先のように鋭く、水銀のように歪。
でも、この場に蔓延る全ての疑問と全ての情念においてその言葉はまさしく”解答”と呼べる物に相応しかったようにも私は思えた。
それがどういう意味なのかなんて欠片も理解していないというのに。
その言葉の真意が何処にあるのかも判断がつかないというのに。
そもそも私自身何をどう理解したのかも分かっていないというのに。
私は何処か心のもやもやが晴れていくような清々しい気持ちを抱きながらその言葉を聞いた。

『―――――今、其処にいる貴方がそうであるように』

刹那、私の中で何かが弾けた。
確信……いや、そう評すのも生温いような激情が私の身体中を忙しく駆け巡っていく。
それは彼女が呟いていた言葉が真の意味で私に向けられた事に対する故だったのか。
それとも彼女の語る理論に強く私の心が反応したからなのか。
分からない。
分からないけれど、ようやく私は“解る”事が出来た。
彼女が─────映像の向こう側で佇む彼女が“私”なのだということが。

そして、それ故に私は思う。
彼女が高町なのはであり、私も高町なのはであるのなら彼女と私は同一の存在なのではないか、と。
だが、そのおろかな考えは即座に浮かんだ否定の念によってかき消される。
確かに彼女は高町なのはであり、私と同一の存在ではある。
だが、私は同じ高町なのはであっても彼女ではないのだ。
何故ならば彼女はコインの表側であるが故に裏側にもなれるが、初めから裏側である事を運命付けられた私は決して表側にはなる事は叶わない。
よって私は彼女ではない。
と言うか、私は彼女と同じ道筋に行き着くことは不可能なのだ。

だからこそ私たちはこうして相反する存在として此処にいる。
同じ高町なのはでもまったく異なる分岐を辿ったが故に、同一であるという囲いから外れてしまったのだ。
だからなのだろう、私の声が彼女に届かないのは。
なまじ彼女は私であるが故に声を飛ばす事は出来るが、私は“彼女とは違う高町なのは”である以上彼女に干渉する事は叶わない。
この映像のような境さえなければ彼女と私は同じ存在であるというのに……。
私は彼女の言葉に強く胸を打ちつつも、それと同時に湧き出てくる言いようの無い虚しさに身を焦がしながら、静かに彼女の言葉に念を添えるのだった。

『私は貴方。でも貴方は私じゃない』

(貴方は私。だけど私は貴方じゃない)

『だから違う。何もかも違う。貴方は本来私が辿るべき道に行き着くことは無い』

(だから違う。何もかも違う。私は本来貴方が辿るべき道に行き着くことは出来ない)

互いの声が重なり合い、要所要所は違えども発せられる声は次第にダブりを帯びていく。
私の念と彼女の声。
それは本来重なってしかるべき存在。
でも、今となってはもう完全に重なり合う事などありえない。
何せ私は彼女じゃない。
彼女は私であるけれど、お互い根っこの部分は一緒であるけれど、それでも私は彼女に行き着くことは出来ないのだから。

故に私は彼女を見上げる。
あぁ、きっと彼女は私の視点から見れば天に輝く星の粒であり、彼女からすれば私は地面を這う愚かな羽虫に過ぎないのだろう。
だけど……そう在る事を理解する事は出来ても、“納得”することは出来ない。
違うというのなら何故違うというのか。
何故私は彼女のように高みへと行き着くことが出来なかったのか。
何処の選択肢をどう間違え、何の因果があってこのような彼女の影に身を落とさねばならなかったというのか。
私は何もかも……例えどんな説得を持ってしても欠片も納得なんてすることはしない。
私は私、高町なのははただ一人だ。
この私がいればいい。
高町なのはは私と言う存在だけいればそれでいい。

そう私が念じると同時に、彼女の口から言葉が吐かれる。
それは私が彼女に向けた呪詛を受け取ったが故のことだったのか。
それともそんな念を抱く私を嘲笑う為なのか。
はたまた哀れみの念を抱くが故にそうした対応に打って出たのか。
何一つ、そう何一つ理解する事など出来ないが彼女の言葉は止まる事は無い。
ただただこの身は彼女の言葉に従って流れるだけ。
自分の自我や意思を強く持ったところで、そんな物は時を待たずしても直ぐに風化してしまうのだ。
何せこれは私の夢だから。
もしかしたら今此処にありえたかもしれない存在を夢想したが故の幻想でしかないのだから。
私は何も考えずに彼女の言葉に追従して念を発する。
其処が行き着く先が難何かも解せぬまま、只管に……只管に。

『でも、それでも貴方が私と違う答えを見つけたいと願うのなら……』

(でも、それでも私が貴方と違う答えを探したいと願うのなら……)

ダブった言葉はギリギリ重なり合うか合わないかの所で平行線に変わる。
交わるまではあと少し、だけど彼女も私も交わる事は無い。
彼女が私を飲み込むことは出来るだろう。
だけど彼女はそれを望みはしないし、求めもしない。
私が彼女に飲まれることは出来るだろう。
だけど私はそう在る事を良しとしないし、惰性的な選択に身を委ねたりもしない。
故に私たちは同一であり、離反した存在たり得るのだ。
心も、魂も、命も……毛筋一本、血液一滴何もかも同一であり、また互いの“私”が唯一無二として持ち合わせている個の証明であり続けることが出来るのだ。

だからこそ、私は想い願う。
彼女はきっと私なんかじゃ想像も付かないくらい眩しい“高町なのは”になることができたのだろう。
何せ此処は夢であり、彼女は私が思い描いた理想その物だ。
さぞかし友からも家族からも好かれ、皆から慕われる存在となりえたことだろう。
手にする機械杖や格好から察するに純白を絵に描いたような少女に育っていた事だろう。
きっと成績や素行もよく、誰とも離反する事なく人生を謳歌する事が叶っていたのだろう。
だが、例え彼女がそうであっても私は彼女になる事は出来ない。
何せ今此処でこうして念を発する“高町なのは”は目の前の彼女の影でしかないからだ。
彼女が幸せであればあるほど私は不幸になる。
彼女が純白であろうとすればするほど私は漆黒に染まる。
彼女が誰かと手を繋ごうとすればするほど私はその手を払い、またその干渉を“遮断”する。
それが私、それが高町なのは。
この“高町なのは”はコインの裏側であり、彼女の影であるからこそ個たる存在である事が出来るのだ。

でも、それでも……例えば私が彼女に近づく事が出来るのだとしたらどうだろう。
完全の一緒になれないのだとしても、そのお零れを身に受ける程度に幸せを成就出来るのだとすれば私はどうするだろうか。
欲しいか、欲しくないかで聞かれれば当然答えは前者だ。
輝ける星になんてならなくたっていい。
円満な家庭も、幸せな日常も、充実した生活だって求めたりはしない。
ただ少しでも─────映像の向こう側の少女が毎日を過ごす中で感じる幸福の欠片でも手にする事が出来れば私は満足なのだ。
なら、私はどうすればいい。
どうすればそれを……彼女の言う“答え”を手にする事が出来るというのか。
分からない。
分からないが故に私は彼女に追従する。
私は彼女にはなれない。
だけど彼女が私になれるというのなら、私が求める答えを知っているというのなら……私は喜んでこの身を彼女に預けよう。
そして、ゆっくりと二人の唇は同じ動きを描き……同時に言葉を宙へと投げる。

『貴方は貴方を求める存在を探せばいい』

(私は私を求める存在を探せばいい)

そう言葉を紡いだ瞬間、意識が反転する。
今まで聞こえていた声はプツッ、と音を立てて途切れ、それまで見えていた映像はテレビの砂嵐のように一面灰色に覆われる。
其処で私が眺めていたのは夢か、幻か。
そんな判断は今更どうしたってつけられはしない。
ただ分かるのは唯一つ。
最後に私が彼女と同時に念じた言葉は何かの答えであり、またヒントであるという事だ。
私を求める存在を探せばいい。
果たしてそんな物が未だに私が生きる世界にあるとは思えないが、一応参考までに頭の片隅程度には残しておきたいとは想う。
また何れ、そんな世迷いごとにも縋りたくなるほど事態が悪化した時にでも思い起こして糧に出来るように。
其処で、私の意識は完全にその場から遮断された。
ただ一筋の想いと、少しだけ何かを得たのだという満足感を残して……。





「んっ……私、寝てた……?」

それまで閉じられていた瞼を僅かに見開き、寝起きの所為ではっきりとしない思考を再度働かせながら私は誰にでもなくそう呟く。
視界に映るのは青い空と白い街、そして見果てる事無く何処までも続いている水平線のコントラスト。
だが、重たい瞼の所為でその光景の約半分は暗闇に染まっており、今にも全ての光景が真っ黒に染まってしまいそうなほど酷く霞んだものだった。
このままではいけないと思い立った私は壁に寄りかかった体制のまま軽く両手を挙げて背伸びをし、固まった関節をポキポキと音を立てながら解していく。
しかし、寝汗の所為で下着や制服が汗ばんでいる所為か、肌にぴったりとくっ付いた布の感触は更なる不快を誘うばかりで一向に晴れやかな気持ちにはなってくれない。
どうやらアレから長時間の間、ずっと私は眠りこけてしまっていたらしい。
私が鈍った思考の中でそう結論を下したのと、ふらふらと立ち上がって周りを─────私が今いる屋上の様子を確認しだしたのは殆ど同じタイミングだった。

朝のホームルームが終わった後、私は何時ものように授業をサボり、屋上で時間を潰していた。
別に深い意味があったわけじゃないし、今朝の花瓶の件が尾を引いていたわけでもない。
元々今日の授業……とは言っても一限と二限は体育館での全校集会で、三限はロングホームルームだから授業らしい授業があるという訳ではないのだけれど、最初から私はサボる気でいたのだ。
今日はジュエルシードも持ってきていないからアリシアに気を使う必要も無かったし、私自身今更変に自分を着飾ろうとも思っていなかった。
それに今朝方のすずかちゃんの件もあってかどうにも教室に居辛かった、というのも理由の一つだった。
別に彼女に何か負い目を感じているという訳ではないが、何処からともなく向かってくる突き刺さるような視線が気持ち悪くてならなかったのだ。
だけど如何にかしようにも私にはそんな実力も立場も力量も無い。
だから逃げた。
本当に情けないが、ただそれだけの事だ。

とは言え、本当の事を言うのであれば最初は私もこんな場所まで逃げてくるつもりは無かった。
幾ら居場所の少ない学校であるとは言え、保健室に足を運べば先生は拒まなかっただろうし、私だってどうせ寝るのなら壁に寄り掛かって眠るよりはベッドの上に横になって寝息を立てたいと思っていた。
だが、結局私は保健室に赴く事はしなかった。
これ以上彼女に─────フェイトちゃんの事や仕事の事で心労を募らせている先生に余計な心配を掛けさせたくなかったからだ。

こんな風に授業を平気でサボって居眠りをしているような私が言えた義理ではないのかもしれないが、自分自身の行動が少なからず彼女の負担になっていることは何となく自覚はしていた。
先生は優しいから決して口に出す事はしないけれど、彼女だって人間……心労が嵩んだり、上手くいかない事にストレスを感じてしまうこと無い訳じゃない。
度々私に上司や職場の愚痴を語って聞かせてくることはあったけど、その内容が何時私の存在に置き換わってもおかしくは無いのだ。
こんな風にネガティブな事はなるべく考えたくないけれど、それでも長い目で考えればそうなってもおかしくないというのもまた事実。
嫌われたくない、って思ってしまうのは私が臆病な所為なのかもしれないが……そこら辺の事情もあって私は急遽行き先を変更してこの屋上に逃げ込んだという訳だ。
尤も、その所為で夢見はあまりよい物ではなかったのだが……。
私は思考の片隅でどれくらい眠っていたのだろうと考えつつも、どうにも上手く機能しない思考を正そうと思い、本格的に意識をはっきりさせる事に集中するのだった。

「……変な夢。多分屋上なんかで転寝するからあんな物を─────っと、そういえば夢を見るのも久しぶりなんだっけ? 言いえて妙な言い方だけど」

二、三度腰を捻って背筋の間接の正しながら私はそんな風な独り言を宙へと吐き捨てた。
ポキポキとこれまた固まった関節が和らぐ音が小気味よく響き、ほんの少しだけ背筋が正されたような感覚が私の頭へと上ってくる。
だけど別段其処まで爽快なのかと問われると、眠っていた時に見た変な夢の所為も相まってあまり良好であるとは言いがたかった。
夢で見たこと……とは言っても所詮夢で見たことだから殆ど憶えちゃいないんだけど、何か何時も見ているような“それ”とは違う大事な何かが呟かれた気がした事だけは何となく私も感覚で分かる。
ただそれがどういう物であったのか、そもそもどういう夢を見た所為でそう思うようになったのかは残念ながらあまり鮮明ではなかった。

まぁ、どうでもいい事か。
不意に思考の内にそんな諦めの念が浮かび、理性がそれに追従するように忘却しろとの命令を私に訴えかけてくる。
所詮夢は夢、科学的に考えれば記憶の整理の一現象でしかない。
とは言え、夢の世界で魔法やら銃火器やらの訓練をしているというメルヘンを殆ど毎晩おこなっている私が言えたようなことでもないのかもしれないが……それとこれとは別の物として考えたとしても、夢の中での事なんて取り留めの無い物であること違いは無い。
くだらない事を一々憶えるよりは忘れてしまおう。
それが私のうちに芽生えた言葉の意味合いの全てだった。

「さて、っと。今何時なんだろ? 日の傾き具合からしてもうお昼ぐらいなんだろうけど……授業は終わったのかな?」

スカートのポケットに手を突っ込み、溢れ出る欠伸を噛み殺しながら私はフェンスで囲まれた屋上の端の方へと足を運ぶ。
そして、そこに着いた所で正門の方へと視線を向けてみると其処には何十人もの生徒達が皆バラバラの手段で下校を開始している姿が見えた。
通学バスへと乗り込む者、自家用車で帰ろうとする者、友達と並んで徒歩で帰るもの、ローラーシューズで地面を滑って遊びながら帰る者、何の用事かはしらないが急ぎ足でそれらの生徒を追い抜いていく者……その他エトセトラエトセトラ。
どうやら私が眠っている間に授業は終わり、あまつさえ帰りのホームルームさえも終わった後であるらしい。
どうしてこうも私という人間は間が悪いタイミングにしか行き当たらないのだろうか。
独りでに浮かんだ一筋の疑問はやがて言いようの無い心労へと変わり、そしてまた何時ものように溜息となって宙へと吐き出されるのだった。

「はぁ……。まぁ、別にいいけど。まさか授業終わってたとはねぇ……。本当にタイミング悪いよね、私って」

今更どうなる訳でもない自分の実情に本日何度目になるかも分からない溜息を吐き捨てながら、私はその場で一人愚痴を零した。
別に誰が聞いてくれるわけでもないし、慰めてくれる訳でもない。
それにどちらかと言えばこういう間の悪い実情も含めて私自身それが高町なのはの人間性なのだ、と納得しているから其処に特別不満があると言えば微妙に嘘にもなってしまう。
だが、それでも尚こんな風に思ってしまうのは未練がましい己の性質故か、それとも未だに残っている良い子ぶっていた頃の自分の残りカスが今の自分に否定の感情を投げ掛けている所為なのか。
まぁ、何だって構いはしないけど……とりあえず自分のこの致命的に間が悪いジンクスだけは何とかして改善すべきだろうと私は思った。

「……私も帰ろう。あんまりウロウロしてるとまた厄介な事に巻き込まれちゃうだろうし、早く帰らないとまたアリシアに─────んっ? あれは……」

家で私の帰りを待ち侘びているだろう愛しき妹もどきの為にもとっとと帰ってあげるべきか、などと自分らしくも無い考えを浮かべながら適当に辺りを見回していると、其処で私はある物を視界の隅に捉える事になった。
壁伝いに歩く闇色の髪を白いカチューシャで纏めた小柄な女の子。
それも足元はふら付いていて、此処から見下ろしているだけでも大分具合が悪そうであることは簡単に見て取れた。
付添い人はいない。
普段だったら鬱陶しく纏わり付いている筈の金髪の少女の姿も其処にはなく、道行く他の人間もそっちの方になど意も解さないといった具合に皆素通りしていく有様だ。

私はその人物が誰であるのかよく知っていた。
何故その少女がそんな状態であるのかも、そうであって欲しくは無いが何となく心当たりが無いわけでもない。
悪い事をしてしまった、というような気持ちは私もさらさら無い。
無いはずなのに……何故かその少女の様子を見つめていると胸が締め付けられるような想いが心の底に落ちていく。
彼女を拒絶した事を今更私が悔いた所で何も得るものは無いというのに。
私はそんな具合の悪そうな少女……今朝方バスの中で間接的にではあるが縁を切ろうと宣言した相手である月村すずかちゃんの方を見ながら何となくそう思った。

「具合、悪そうだな……。ちょっと悪いことしちゃったかも」

今にも倒れてしまいそうな印象を放つすずかちゃんの有様に私は何となくそんな言葉を呟いた。
別に私に非があることを認めるわけじゃない。
元々今朝方のことだって何時かはしなきゃいけない清算を早めただけに過ぎないのだし、あのままずるずると昔の関係を引き摺ってしまう方が彼女の為にも私の為にもならないからそうしたまでのこと。
非道というなら確かにそうなのかもしれないが、だからと言って何時かはしなきゃいけないのなら……と考えると私も其処で折れる訳にも行かなかったのだ。
ただこうして改めて遠目からいかに辛そうな姿を見せられると流石の私も心が揺らいだ。
今更になって彼女のことを心配する義理合など私には無いはずなのに、どういう訳かアレは他人で関わりの無い人間なのだと割り切り事が出来ないのだ。
なんとも皮肉な話だが、私にも人並みの優しさや情はまだ残っているらしい。
私はふっ、と自分の考えに冷たい笑みを洩らし、何となく自分自身に呆れたような感情を抱きながら短く溜息を吐き捨てた。

でも、よくよくすずかちゃんの様子を確認してみるとなんだかちょっとだけ気がかりな所も幾つか見受けられた。
普段の私だったら大した事じゃないと直ぐに割り切れるような些細な事だったのだが、この時ばかりは私も今朝方の視線や先ほどの夢も相まって自意識過剰になってしまっていたのだろう。
普段の彼女なんてもう彼是何ヶ月も前に忘却してしまったというのに、その変貌振りは今更思い返すまでもなく瞳の内側に蘇ってきた。
今の彼女と少し前の健康な彼女、その二つを総合して考えた場合決定的に何が異なるのか、何と言ってしまえば大袈裟なのかもしれないが、その印象は何処となく極端であるようにも私には思えた。

なんと言うか、今の彼女は日差しを遠ざけようとしている感じがするのだ。
壁を伝って歩いているのも初めはただ歩く事の支えにしたいだけなのかと思っていたのだが、よくよく見れば彼女が歩いているのは壁に日差しが遮られて陰になった部分ばかりだ。
確かに彼女は色白で時々熱中症や貧血を起こす事も度々あったが、流石に此処まで行動が顕著になっているとなると少しばかり大袈裟なような気もしてくる。
まるで日差しを浴びると消滅してしまう吸血鬼のようだ。
馬鹿な考えだとは思ったが、今の彼女を見ていると漫画やゲームの中でしか登場しないオカルトチックな化け物の存在が頭に浮かんでくるのだ。
とは言え、オカルト具合で言えば名実共に魔女っぽい事をしている私の方が十分オカルト染みた存在なのかもしれないが。
私はそんな彼女の姿を目線で追いつつも、何を馬鹿なと先ほどの夢のように呆れた考えを忘却の彼方へと追いやり、また新たな思いを頭の中に思い浮かべようと試みるのだった。

「べっ、別に私が悪い訳じゃないけど……とりあえずお大事にって事で。それじゃ、私もとっとと帰ろうかな―――――ッ!?」

おどけた様子で踵を返そうとした刹那、私は自分の心臓が一瞬にして跳ね上がるのも感じていた。
ドクンッ、ドクンッ、という連続する鼓動の音が頭のてっぺんに止め処なく上り詰めてくる。
でも、そんな様子とは裏腹に肌の温度は奪われ、先ほどまで寝汗で湿っていた下着や服は冷や水を浴びせられたように冷たい物へと変わり果てる。
血管が締め付けられたように血の巡りが悪くなり、全身から血の気がサーッ、と抜けていく感覚が不気味なこの変化をより顕著な物へと変えていく。
まるで自分がこの世界から乖離してしまうような……自分という存在の境界が酷くあいまいになってしまう不気味な感覚。
憶えのある感覚だった。
忘れようにも忘れられない。
私の日常が魔法という物に触れて一変したあの日に感じた歪な感覚をこの私が忘れる筈も無いのだ。

不意に額に滲んだ嫌な汗を拭う間も無く、私は何も無い辺りを忙しく見渡す。
傍目からすればその光景は落ち着きの無い子供がそわそわした気持ちに振り回されて、辺りをキョロキョロ見渡しているようにしか見えないことだろう。
だが、その実状は全然違う。
私は何処からその感覚が発せられているのか、という事を確かめようとしているのだ。
あの日も─────初めてアリシアの声を聴いたあの日もそうだった。
私には分かる。
この歪で不気味な感覚の正体が何なのか、そしてそんな風に響き渡ってくるのか、という事を。
何故自分自身こんな風にあの波動を感知出来てしまうのかは分からない。
アリシア曰く「なのはお姉ちゃんには素質が合ったんだよ!」との事だが、その素質とやらが何の素質であるのか分からない以上議論は本末転倒に帰してしまう。
だが、はっきりと言える事は私が感じているこの波動はとてもよくない事の前触れであるということ。
そして波動の芽を摘む為に今まで私がアルハザードで訓練を重ねてきたという事だ。
私は跳ね上がる心臓を押さえつけるように自身の胸倉を掴み、荒くなった呼吸をゆっくりと整えながらその波動の元手たる物の名前をゆっくりと口にするのだった。

「ジュエルッ、シード……っ! まさか、また一つ暴走しちゃったっていうの?」

最悪の事態を想定し、思わず悪態を付くようにそんな風な台詞を吐き捨てる私。
だが、その言葉が孕んでいる意味合いは決して伊達や酔狂で言っている物ではない。
本当に最悪、もっと言ってしまうのであれば間が悪いジンクスばかりを起す私自身を八つ裂きにしてやりたい程に私の内心は荒れていた。
今日は授業も半日だと油断していたという事もあって、ジュエルシードもバルディッシュも拳銃も皆総じて家に置きっぱなし。
加えて言うなら今の私は学校の屋上にいて直ぐには身動きが取れず、今は人通りの多い昼間だ。
今まで闘ってきたような暴走体が人通りの多い路地にでも飛び出せば、それこそ何十人という死傷者が出てもまったくおかしい話じゃない。
だが、例え今から携帯電話でトーレさんを呼び出してジュエルシードの波動が湧き出ている場所に向かって貰ったとしても、それは単にトーレさんの存在を明るみに出してしまうだけだ。
魔法という存在はこの世界において異質の物。
更に言えば別世界の組織に所属しているトーレさんの存在が明るみに出れば、芋蔓式に私の存在まで浮き彫りになりかねない。
万事休す、それは正に今の私が陥っているような状況の事を言うのだろう。

だが、と此処で私は冷静に自分が今からすべき事を即座に頭の中で思い描いていく。
確かに状況は最悪だが、まったく対処のしようが無いという訳じゃない。
前回の戦闘は真正面から突っ込んでいったが故に死に掛けるような目に遭う事になってしまったが、頭の使いようによっては撃破とは行かずとも追い払う程度の事は今の私の実力なら十分可能なはずなのだ。
確かに今此処には頼みの綱であるバルディッシュもジュエルシードも無い。
だけど、それらの要因が決定的に私を無力に陥れているかと言えば決してそうではないのだ。
まだ初歩の初歩、それもラウンドシールドと簡単な射撃魔法にこの前覚えたバインドと呼ばれる拘束魔法を付け加えればそれが私の全てだが……デバイスが無くとも私は魔法を行使する事が出来る。
実際試したのは訓練の時にアルハザードで数度だけだし、上手くいくかどうかは実際五分五分だけれど─────何もしないよりはよっぽど役に立つ筈だ。
私は自らの拳をギュッ、と握り締め、自分の力は本物であるのだと自分自身に言い聞かせながら急いで階段の方へと踵を返すのだった。

「私が……私がやるしか、ないんだ!!」

私の洩らしたそんな言葉は次第に私の中で拡大し、やがて決意に変わっていく。
確かにこの身は無力で、この心は臆病なのかもしれない。
不屈の闘志なんて凄い物も持ち合わせちゃいないし、抱えてる物は殆ど取りこぼしてしまいもした。
だが、今私のこの胸にある気持ちだけは……弱々しくても気って光っている筈。
その色はきっと歪で鈍い混沌の黒であるのだろうけど。
それが光なのか影なのかすらも判別が出来ぬほどに汚れ果てたものであるのだろうけど。
天に浮かぶ星ほど輝けはしないだろうけど。
今此処にある私は光を纏う。
暗く深い地上の奈落の底で光る地星の穢れた輝きを。

忙しく足を前後に動かして階段を降り、時々もつれそうになりながらも必死で私は外を目指す。
目的地まではきっと凄く遠い。
此処まで届いている波動は確かに強力な物だが、それでも多分ジュエルシードがあるのは半径1500m付近の何処かだ。
普段柄まともに運動しない私が全力で走っても最低二十分は時間を費やしてしまう羽目になるのは確実だ。
だが、もしも暴走体が人の目に触れたらという事を考えると休んでいるという訳にもいかない。
あんな化け物が世間に明るみになれば後々になって動きづらくなるのは確実だし、下手をすれば国を巻き込んで取り返しのつかない事に発展しかねない。
理想は見敵必殺、暴走体を見つけ次第速攻で畳み掛けて一気に殲滅する事。
だけど実際的に考えれば、精々泥沼の戦いを挑んで追い返すのが関の山だろう。
だが、何れにしても迷っている時間なんて無い。
私は一気に一階まで階段を降り、そのまま急いで下駄箱まで足を運ぼうとして─────そこで足を止めた。

私が立ち止まったのは薬用アルコールの匂いが漂う一室。
何時も私がお世話になっている人が居る場所で、今日一日顔を見せる事の無かった場所でもある。
保健室、それがその部屋の名前だった。
そしてその名称が目に飛び込んできた瞬間、私の胸にかすかな疑問が生まれ出る。
何も別に私ばかりが苦労しなくてもいいんじゃないか、と。
此処で何食わぬ顔で保健室の門を叩いて、大好きな先生の前で歳相応の子供らしく振舞っても何ら罰なんか当たらないのではないか、と。
愚かにも、私は思ってしまったのだ。

だけど、結局そんな迷いを振り切って私はその扉から目を逸らした。
確かに、一介の子供である私が此処まで頑張る必要なんて多分無い。
それこそ突き詰めて考えれば魔法なんて力を憶える事も、暴走体なんて危険な物に自ら突っ込んでいく必要も皆無であると言ってもいい。
でも、私は一度決めてしまったのだ。
そういう危険が孕んでいる事も承知で、私は私が望んだ日常を守り通そうとこの胸に刻みつけたのだ。
故に私は甘えないし、縋らない。
甘える事も縋る事も確かにしたいけれど、それは私を受け止めてくれる存在が健在であってこそ成しえる物だ。
今此処で妥協という選択肢を選ぶ為の材料にしていいものではない。
だからこそ、私はその優しげな扉に背を向けてただ一言だけポツリと呟きを発する。
その言葉は誰に聞こえる訳でもないし、返されもしない。
だけどその言葉は確かにこの胸に反復して響き渡るのだ。
今の私が抱える信念の確固たる形として

「行ってきます……」

それは果たして誰に向けた言葉だったのか。
その是非は今も暗く深い闇の中。
だけどきっとその言葉がある限り私は前へ、何処までも前へと突き進めるのだ。
何時だか彼女が呟いた地星の輝きの心に帯びて。
守りたい物をただ己が意思で守り通そうと思うことが出来る。
それはきっと幸せな事なのだろうと私は思う。
多分、ほんの少し前の私なら此処で妥協の道を辿っていた事だろう。
だけど、そんな私が変われたのはきっと……こう思わせてくれる人が傍にいてくれたから。
なら、もう私は迷う事はしない。

確かに私は誰からも蔑まれるだけの存在なのかもしれない。
嬲られて、罵られて、そのまま塵屑のように排斥される運命にあるのかもしれない。
だけど、そんな私でも……そんな高町なのはでも誰かの役に立てるというのなら─────私はその人たちの為にこの力を振るいたい。
この影たる私が手にした魔法の力を。
其処まで考えた所で、私は下駄箱で靴を履き替え、外へと向かって駆け出していく。
自分が守りたい物を……自分が取りこぼしたく無い物を必死になって繋ぎとめる為に。
無力だと思っていた自分の力で前へ前へと進む為に。
過去を振り切る事なんて出来はしないのだろうけど、それでも少しでも高みへと這い上がる為に。
私は駆けるのだ。
何処までも、只管に。









[15606] 第二十四話「秘めたる想いは一筋の光なの……」(グロ注意)
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:282a81cc
Date: 2010/08/10 15:20
私は駆ける。
燦々と輝く太陽の光が照りつける街の中をただ只管に駆け抜ける。
移り変わる景色は千変万化。
見知った住宅地は少し走っただけで狭い路地へと風景を変え、またその風景すらも数分と経たぬ内に人気の無い寂れた港へと姿を変える。
もう彼是どの位走った事だろうか。
数分か。
数十分か。
それとも既に一時間くらいは経ってしまっただろうか。
肌を滴る汗が滲み、身体に張り付いた制服の感触を少々不快に思いながら私は考える。

ジュエルシードの反応を感知し、急ぎ足で学校を飛び出してから今に至るまでずっと私はその反応の根源たる物が存在しているであろう場所を必死になって探し回っていた。
脳に直接不快感を訴えかけてくるような感覚に身を委ね、その反応が強くなる方角に足を向け、体力が底をついたらほんの少しだけ立ち止まってまた走り出す。
先ほどから何度このやり取りを繰り返した事だろう。
御蔭で額には玉のような汗が浮かぶほど水分は不足してしまい、喉はからからに渇いて呼吸をする度にヒュー、ヒューと気の抜けた音を発してしまっている。
足は急に身体を動かした所為なのかどうにも反応がぎこちなく、度々足を前に出す毎に不穏な疼きを訴え掛けてき始めている始末。
おまけにこれ等に日頃の溜め込んだ疲労が嵩んでいる事と寝起きで気だるい感覚が抜け切らない事を加えればものの見事に最悪の現状が出来上がってしまうという訳だ。
私はようやく間近に見えてきた人気の無い砂浜と微妙に濁った海が重なり合う風景を視界の内に捉えながら、改めて自分の体力の無さを心の中で嘆くのだった。

「ぜぇ……ぜぇ……。ようやく、近くまで来られたよ……。うぅ、走り過ぎで気持ち悪ぃ……」

疲労と筋肉痛で杉の棒のように硬くなった足を引き摺りつつ、跳ね回る心臓を必死で沈めようと大きく肩を上下して呼吸していた私は、思わずそんな弱音を吐き出される荒い息と共に洩らしてしまう。
こんな状況に自ら身を投じようなどと考えていた時点で私自身なるべく弱音は吐かない様にと心に決めていたのだが、思い及ばずそんな私の信念は早くもさっそく……って言うか、戦闘を始めるまでも無くそんな心意気は無惨に砕け散ってしまったという訳だ。
だけど正直な本音を語るのであれば、それは仕方の無い事なのかもしれないと私は半ばこの現状に諦めの念を抱いていた。
確かに私はアルハザードにおいてこの街全体をトレースした空間を縦横無尽に駆け巡りながら戦闘を行うという訓練も積んできたし、一応それなりに実力が付いてきたという自負も自惚れという訳ではないが無いではない。
だが、所詮それは私の夢であったからこそ─────正確に言えばアルハザードという“ご都合主義が形作った“夢の世界”であったからこそ出来た事だ。

ゲームで例えるならHPは攻撃されても減らず、何度魔法を使おうとMPは減らず、そればかりか最強装備を身につけている状態で更には時間制限は存在するものの、防御力は基本的にカウンターストップしている状態があの場においての私の姿だ。
動き回っても体力は尽きる事がなく、汗を掻く事も血を流す事もなく、ただただ目先の敵を蹂躙出来るその様はまさに映画やアニメのヒーローそのものであると言っても過言ではないだろう。
だが、それと比較して”現実の私“はどうだろうか。
訓練の時と比べてほんの少し走っただけでも体力は底を尽き、どれだけ動かしても疲れる事の無かった身体は今や汗だくで足を動かすだけでも億劫な気持ちがついて回ってくる始末。
おまけに現状私は己の頼みの綱であり、生命線でもあるバルディッシュとジュエルシードは自宅に置いたままで、更に言えばあれだけ訓練で使いこなしていた小型拳銃すら身につけていないという有様だ。

HPは極小、防御は紙、おまけに素早さや物理攻撃力は両手の指で数えて足りるほどしかなく、挙句の果てにはこっちの持ち札は基礎すらまともに出来ているかどうなのかも怪しい魔法がほんの少し程度と来ている。
逃げ出せるのなら逃げ出したい。
でも、逃げたら逃げたで余計な被害を増やし、社会的な自分の地位を最底辺の更に下位まで陥れる事にもなりかねない訳だから尻尾を巻く訳にもいかない。
万事休す、それはまさに今のような現状を指す事なのだろう。
もう正直な所、これが戦闘の前じゃなかったら声をあげて泣き出したい位だと私は思った。

「─────あぁ、もう。くそッ……! また懲りもせずに私って奴はぁ、どうしてこう……って今更愚痴ってても仕方ないか」

汗で塗れた額を掌で押さえつけ、ネガティブな感情に対する自己嫌悪が再発しないよう気を配りながら私は周囲の様子を改めて見回す。
ジュエルシードの反応は程近い。
それは先ほどから強くなってきている私の身体全体を弄るような悪寒を帯びた波動を感じ取る事で容易に理解することが出来る。
生き物が抱え込んだ渇望が爆発する時に生じる波動は強大かつ醜悪だ。
なまじ同じように己が渇望を具現化させる素質を有している私だから感じ取れるのか、はたまた単に私の勘が鋭いのかは定かではないが、ジュエルシードの特性と生物の渇望が共鳴しあった時に発する波動は元来生物が持ち合わせている歪んだ欲望が辺り一帯を覆い尽さんばかりの怖気と狂気を孕んでいる。
言わばゴミ捨て場に捨てられた生ゴミの腐臭のようなもの。
嗅いでいる本人があまり意識せずとも自然に鼻腔の内を擽り、何処までも不愉快な気持ちを促進させるというなんとも傍迷惑な状態と今の状況は正直そう大差がある訳ではないのだ。

しかし、だからこそ私は解せなかった。
一歩、また一歩とゆっくりとした足取りで浜辺の方へと近付いていく度にそんな懐疑的な感情が脳裏を過ぎり、同時に不安にも似た不鮮明な一筋の想いが冷たい衝動となってうなじをなぞっていく。
確かにその足を進める毎に悪寒が強くなり、此処に間違いなくジュエルシードの暴走体がいるのだという事は私も直感の領域で窺い知る事が出来る。
だが、ならば当然その感覚に追従して其処にあって然るべき筈の感覚が此処には一切存在していないのだ。
思わず吐き気を催してしまいそうになる死の臭いが─────あの破れた腹部から飛び出した腸と流血によって濁った汚泥とが交じり合った死臭がこの場には微塵も漂ってこないのだ。
本来ならば永遠を誓い合った恋人同士のように決して離れる事の無い数奇で因果な物同士であるというのに。
その片方が掛けているという事実に私はただただ眉を顰めて、どうにも納得の折り合いが付けられないこの現状に不自然だという念を抱き続けるのだった。

「……妙、だね。もうジュエルシードが発動してから随分経ってるはずなのに“あの臭い”が全然しない。ジュエルシードが暴走しているっていうのならアレが人を襲わない筈が無いのに……」

カツッ、カツッと砂浜に下りる為のコンクリートの階段を靴の裏で踏み鳴らしながら私は不意にそんな疑問の念を思わず口にする。
そう、この場における決定的な違和感──────今まで私が経験してきた“戦場”とは違う“まったく異なる雰囲気”を漂わせるこの空間が私の気持ちに戸惑いを生んでいるのだ。
確かにこの砂浜を支配する何とも表現し難い悪意に満ちた感覚はまさしくジュエルシードの暴走体が放つ波動の“ソレ”だ。
生まれて初めて対峙した野犬型の暴走体、魔法を使って本格的な戦闘を挑んだ合成獣型の暴走体、そしてアルハザードでの訓練において標的として活用していた暴走体ダミー。
それら全ての根源は異なる物の、私に感じさせる重圧は全て共通していると言って良い。
獲物を喰らい、標的を引き千切り、ズタズタのボロ雑巾になっても尚、腕に携えた鋭い爪牙を振るい続ける衝動─────止め処ない嗜虐に酔い痴れた果てに生まれる酷く原始的な殺意だけはどの暴走体に関しても一貫していたのだ。
そして当然、それはこの場においてもまた然り。
煙草の吸殻や空き缶だらけの汚れ腐った砂浜を見回しても、塩分が濃すぎる故か酷く濁って見える水平線を見回しても標的を視認する事は叶わないが……その独特の殺意だけは溢れんばかりにこの場に満ち足りている。
故に此処は戦場であり、命を賭して闘争に身を窶す天秤の皿の上に他ならない。
それだけは幾らこの頭が呆けていようと二度、三度と似たような存在に殺されかけた経験と、この精神に染み付かせた嗜虐と暴虐の感覚に基づいて容易に感じ取る事が私にも出来た。

だが現実がそうあるからこそ、この場に欠落した部分が存在する事が余計に気に掛かって仕方が無い。
それは紛れも無い事実であり、同時に決して拭い去る事の出来ない決定的な違和感でもあった。
血が饐え、溢れ出た臓物が腐り、流れ出した流血が地面を染めて汚泥を作り出すあの悪臭がこの場において微塵も存在していないのだというこの現状が私にとってはどうにも許容し難い物に他ならなかったのだ。
では、一体何を根拠に私はそんな大層な事を確信染みた物言いでのたまう事が出来るというのか。
もしも、この場に私以外の第三者が居たとして、私にそんな疑問を投げ掛けて来たのなら私は迷わずこう答えるだろう。
ジュエルシードが暴走した際に生み出される暴走体は生まれ持っての本能に付き従って活動を行うのだ、というそんなあまりにも単純過ぎる解答を。

これはあくまでアリシアから聞いた事であり、実際に私が何かの理論に基づいて導いた事ではないのだが、本来ジュエルシードの力は私のような特異な例を除いて考えた場合、その大半は元来より生物が持ち合わせている三大欲求に同調してしまう場合が殆どなのだという。
つまり単純に考えれば食欲、睡眠欲、そして性欲の三つの何れかに強く作用するという事だ。
だが、それはあくまで人間という特定の生物にのみ言えたことであって全ての動植物に当て嵌められた事ではないし、そもそもその人間の三大欲求にしたって超えられない順位という物が明確に存在する以上は強い物から反応するというのが自然の道理だ。
睡眠欲は度を越えなければ多少削った所で健康状態が不安定になる程度のことだし、動物の中には睡眠という概念すら持たない生き物だって数多く存在する。
性欲にしても元来どんな生物でも歳を取れば自然と衰える物だし、その固体が生きながらえるという事に限定すれば別に特別急を要するものでもない。
だが、食欲だけは違う。
蝶が花の蜜を吸い、植物が土の養分や水を欲し、動物が草や肉を喰らって個々の生命を繋ぐ糧を得るように食欲における生物の衝動というのは残りの二つの欲求の比ではないのだ。
何故なら、例えどのように脆弱な羽虫だろうと屈強な猛獣であろうと餓えてしまえば死んでしまうのだから。
生存競争に勝ち抜き、食物の連鎖に抗い、肉を、骨を、そして生き血すら啜り抜いたその果てに己が存在しなければ何れ自らもそれまで自分が貪ってきたモノ達と同じ末路を辿る羽目になってしまうのだから。

故に此処でいう暴走体が何の衝動によって突き動かされているのか、という事はもはや語るべくも無い。
彼らは何処までも素直であり、また己が生物的欲求に実直だ。
充たされぬ飢え、啜っても飲み込んでも渇き続ける喉、永劫の空虚である事を運命付けられた空腹。
喰らっても、啜っても、しゃぶって吸い尽くしてもまだ足りぬと牙を剥き、その嗜虐心の赴くままに己が得物と断じた全てを襲い続ける。
それが彼らの根源であり、定められた業だ。
私のように『誰からも触れられたくないが故に干渉を拒み続ける』などと言った小洒落たうたい文句の一つや二つが容易に思いつくのならまだしも、『こうありたいなぁ……』というような漠然とした思考しか出来ない生物はどうあっても己の内に秘められた生物的な欲求に流されるしかないのだ。
とは言え、私のように一生物がそれ等の欲求をも超えてジュエルシードを制御するという事例も無いではないらしいのだが……そういう存在は稀である所かある種の異端であるともアリシアは言及していたからそうそう簡単に起こり得る事でも無いという事なのだろう。
まぁ、何れにしてもそれだけの条件が出揃っているにも拘らず、此処まで場に波紋が立たず、荒事の兆候すら見られないというのはどう考えても奇妙な事だった。

「運よく人通りが少なかった所為? ううん、それなら絶対人や生き物が蠢いている場所に向かう筈だし、第一この場に留まる理由も無いよね。じゃあどうして……? って、それよりも暴走体は一体何処に……?」

砂浜に足を踏み入れて数歩ほど歩いた所で私は徐に足を止め、右から左へと満遍なく辺りを一瞥しながら己が心の内に絶えず湧き続ける自問に同じような自答を繰り返し続ける。
この場における圧倒的な狂気が欠落しているという何とも奇妙な異常性。
姿が見えぬのに絶えず五感が疼き続け、首筋を毛虫が這うような感覚が絶えず神経を刺激し続けるという現実。
そして、ならばこの場において標的は何処に潜んでいるのかという疑問とそれを早く見つけて対応しなければと急って止まない焦り。
それらの考えが頭の中に一挙に押し寄せ、混じり合い、更なる疑問とストレスを生み出し続ける現状は、“もしかしたら殺されてしまうかもしれない相手”と戦う前の人間の心境からしてみればあまり……って言うか物凄くよく無い物だった。
考えれば考えるほど答えを出さなければと焦りが増徴し、何時襲い掛かられるかも分からないという状況が必要以上に神経を尖らせてくる。
まともに頭が働き、尚且つ上手い具合に思考が出来てこそこんな無力な自分にも何か出来るのでは無いかという事が大前提であるのにだ。
普段……これがアルハザードでの訓練ならいざ知らず、残機一介限りのノーミスプレイを始めるタイミングも計れず行わなければならない身としてはこれ以上に最悪な原状など無いと言っても過言ではなかった。

だが、それでも尚私は思考する事を止めず、靴の踵で二、三度砂浜を踏みしめて地面の具合を確かめ始める。
例え己の考えだけでは答えなど導ける筈も無いのだと自覚していたのだとしても、考えを止めた時点で事の顛末がどうなるのか、なんていうのは身に染みて分かっているからだ。
これは別に戦闘だけに限ってのみに言えたことじゃない。
私を含めてそう─────人間って言うのは大体皆が皆、意外なほどに危機に淡白なものなのだ。
ちょっと辛い事があれば直ぐに落ち込むし、直ぐに諦める。
もういい、駄目だ、限界だ……これ等三つは何処の世界のどんな人間でも好いて止まない言い訳だ。
上位三つは間違いなくその辺りの言葉であろう事は確信しているし、それについての確証を己は得ているのだという自負もある。
何せ、人間なんていうのはちょっと観察するだけで大体の特性を掴む事が出来てしまう非常に身近で単純な生き物だ。
それこそまだ年齢が二桁にも満たない女の子にすらそう思われてしまうのだから、それは相当の物だという事だろう。

幼い視点で見ればテストや運動技能、もう少し達観した視点で捉えるなら会社内での業績争いやオリンピック級の代表選手が行う選抜テストなんかがそれに該当するだろうか。
まぁ、この際何だって構いはしないが根本は皆同じだ。
自分には勝てない、自分には超えられないと分かっていて雄々しく自分の限界に挑んでいった人間が何人いたことだろうか。
最後の最後まで抗い、例え排斥される運命であると自覚しながらも尚、足掻き続ける人間が果たして何人いたことだろうか。
皆無である、という訳ではないだろうが恐らく統計を取ってみればその数は驚くほど少ない事だろう。
何せたいていの人間は何処かで己の限界を知って、自分でも知らず知らずの内に折り合いを付けている物なのだから。
無論、今の私のように生きるだ死ぬだなどという極限の局面でなかったのだとしても。

自分に出来る事と出来ない事。
理想と現実のギャップを弁え、理解する事。
己の生命が危ぶまれる局面において避けようの無い危機が迫った時、神様という名のご都合主義の恩恵が都合よく舞い降りる奇跡。
予てより眠っていた未知なる才能が開花されるのではないかという希望。
そんな夢みたいな事は決してありえない。
よしんば在り得たのだとしても、自分にそのような奇異な可能性が当て嵌められる筈も無いと思い込み、自嘲と共に諦観する。
それが普通、それが常人の思考。
己の器を自覚し、そして永劫自分は奇跡などとは無縁の生き物なのだと実感する事で人は社会という混沌の中で自己という意思を形成する事が叶っているのだ。
故に此処は普通なら私もその論理に従ってそれ等のありふれた“当たり前”に追従する事こそが至上と呼べるのだろう。
一介の少女らしく慄き脅え、己の無力さに絶望し、あぁ、所詮自分という存在はこれほどまでに脆弱でちっぽけな物なのだと自覚しながら死んでいく。
凡そ、人と人とが織り成す営みの枠組みから外れた人間の幕引きとしては中々の物であるという事が出来ることだろう。

だが、例えそうであっても私は諦める事は断じてしない。
定められた己の運命を前にしても決してそれは認めないし、無駄だと分かりきっていようと必ず最後まで意地を通す……当の昔にそう決めたのだ、私は。
諦めが悪いと言えばそうなのかもしれないし、往生際が悪いと言われたらまさしくそうなのかもしれない。
だが、こんな私でも─────外道の烙印を押された私でも、意地を通して守りたい物があるのだ。
それは場所なのかもしれないし、刻なのかもしれないし、人なのかもしれない。
明確に「これだ!」と言い切るのはこっ恥ずかしいから断言する事はしないけど、この現状において尚、それが思い起こされるのはその現実こそが今の私が感じている使命感の糧に為り得ているからだ。
ならば、私がするべき事はこの場において唯一つ。
それ以上の事情もそれ以下の理由も必要なく、ただその事実さえあれば私は闘えるのだ。
私はそんな胸に秘めた熱い感情を一瞬だけ頭の片隅に思い浮かべながら、改めて標的が何処から攻めてきても良い様に脳内で擬似的なシミュレーションを何度も何度も繰り返すのだった。

「さぁて……姿が見えないとなると此処はセオリー通り、何処かに隠れてるってパターンなんだろうけど……何処かな? 砂の軟らかさを鑑みるに地面の下か、それとも海の中か。或いは─────」

其処まで言い掛かったところで、私は不意に口を噤んで辺りの様子の変化に気を配る。
頭の中で思考するだけでは足りないのだという想いが瞬時に私の脳裏を掠めたからだ。
考えるのではなく感じる。
目先に見える物だけでことを判断するのではなく、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感全てを用いて現状を把握する事こそが現状を打開する最善の方法なのだ。
故に私は息を止め、周りで起こっている変化の全てを己が身体で理解する事に勤める。
微細な空気の振動を耳で捉え、僅かに香る潮風の匂いの中に含まれた異質を選別し、緊張と焦りで酸っぱくなった唇を下でなぞり、全身の毛穴が寒気で開いて汗が噴出す感覚を肌で感じ取る。
そして残った視界は微妙に薄暗くなった辺りの風景を先ほどまで自分が見ていた景色と総合してその異常性のみを脳へと抽出し、更にまたその異常さの中から決定的な以上を突き止めるべくそれ等の箇所をピックアップさせて新たな判別の材料へと変換させていく。

この間の所要時間は約数秒、そしてそれ等の原因を解明するのに更に数秒。
計十数秒が経過した後に私はこの場において、自分が感じた以上が何なのかという事に一応の顛末を付ける。
結論は明確にして唯一つ。
敵がこの場に確かに存在していたのだという今更当たり前過ぎる確信のみ。
だが、先ほど私が感じた物との決定的な違いはそう─────今この刹那において私が時の存在を明確に捉えたという事だ。
今までなんでこんな単純な事に気がつくことが出来なかったのだろう。
私は目先の事しか頭になかった少し前の自分にそんな自嘲を洩らしながら徐に薄暗くなった風景から目を逸らし、ほんの少しだけ顔を上げて空を見上げる。
其処には“何か大きな物”によって遮られた太陽と、どういう訳か何時も以上に蒼々と見える空。
恐らく景色が曇った原因は“コレ”の所為であり、それが一体何なのかという結論に私の考えが追いつくまでそれほど多くの時間は要さなかった。

「─────空の上かッ!?」

刹那、猛禽類の狂鳥が吼え、甲高い叫びが辺り一帯に重く圧し掛かる。
巨大な質量と巨大な体躯、それが太陽を背に私へと直線に飛来してくる。
其処にあったのは明確な殺意と嗜虐の衝動。
自身の視界に捉えた得物を啄ばみ、引き裂き、本能が赴くままに蹂躙して喰らおうとする歪で邪な感覚が一直線に私へと向かってくるのだ。
しかも、その速度はあまりにも速い。
それこそ音速を超えるジェット機が墜落してこちらに向かってくるような─────どうあっても避け様の無い速度をもってそれは私の元へと押し寄せてくる。
当たれば即死、だが避けようと思い立った所で動こうとした瞬間にはこの身は確実に引き裂かれて朽ち果てるだろう事もまた然り。
避けられず、逃げられず、後退することも前進する事も私には赦されない。
絶対に直撃する、その現実が分かっているのなら私が取るべき行動は一つしかなかった。

「ッ……!? ラウンドシールド、展開!」

私の口がそう言葉を紡ぐや否や、一瞬の内にその脅威が向かってくる方向へと翳した右手の掌から光が迸り、それは殆ど間髪入れず、奇異複雑な桜色の円陣となって私とその脅威との間に壁を作り出す。
ラウンドシールド。
私が此処連日の訓練の内に習得した魔法の中でも軍を抜いて得意とする防御魔法だ。
元々は向かってくる対象と自己との間に魔力で練り上げた壁を作り、その間に生じる攻撃を食い止める事を主な用途として使われる魔法なのだが、これがまたどうにも私との相性が格別に良い。
私自身がジュエルシードに願って得た能力と本質は一緒だからなのか、それとも単にその手の魔法が性に合っていたのかは定かではないが、使用する時の感覚がジュエルシードの力と酷似していたというのが幸いしていたのだろう。
私は何よりも先にこの魔法の感覚を掴み、そして何よりも速くその本質を捉える事が出来た。
故に、私の作り出したラウンドシールドは磐石であり、また展開も迅速だ。
例え、その術式の構築を補助するバルディッシュの存在が今の私から欠落していたのだとしても、この程度の反応について行けぬ訳ではないし、そもそも暴走体が体当たり程度の衝撃で破られる物でもない。

そして、そんな私の思惑は現実へとシフトし、桜色の盾と暴走する嗜虐がぶつかり合うという結果となって私の前に現れる。
火花のように桜色の光が当たりに飛び散り、ギリギリという何かが軋む音が私の鼓膜を歪に刺激する。
だが、それだけだ。
例えどれほど目の前の脅威が力もうと、この均衡は崩れる事は無いし、微塵も揺らぐ事は無い。
非力な私の力で押し返せるという訳ではないけれど、それでもその桜色の盾の強度は卓越した“ソレ”であり、今の私が脅威から圧倒されずにその場に留まれるだけの力は確実に有していると言っても過言ではなかった。

「うっ……くぅッ─────フォトンっ、ランサー……セットッ!」

片手の盾で確実に相手を押さえ込むことに成功していると踏んだ私は此処で新たに別の呪文を残った片手に構築し始める。
イメージするのは桜色の球体。
そしてそれ等の球体が鏃へと変わり、一斉に目の前の”何か“へと襲い掛かる光景だ。
だが、それは所詮イメージ。
現実にそれ等の光景が丸侭完璧に複写されて実現されるという訳では決して無いし、私自身が思い描いているような効果が本当に現れるかどうかも定かではない。
何せ今の私にはそれ等のイメージを計算式として演算し、現実に表してくれるデバイスが無いのだ。
何ヶ月も訓練を積み、デバイス無しでの魔法の行使に慣れている人間ならまだしも私のような素人が自分の思惑通りに魔法を構築させられるはずが無い。
それは十分理解していた事だし、そもそも私自身今使用している魔法にそれほど大きな期待を掛けているという訳ではなかった。

でも、例え思惑通りに行かないのだとしても放つ事さえ出来れば、とりあえず位にはなってくれるはず。
軌道が滅茶苦茶でも威力が弱くても良い。
そう何発も顕現してくれとも確実に傷を付けてくれとも望まない。
だけど、ほんの少し……このラウンドシールド越しに遮られた隙間をほんの少し広げてくれさえすれば良い。
この私の視界にその脅威の姿を一瞬でも移してくれさえすれば、それで良いのだ。
故に私はこの一撃に自信が持てる全ての思考を注ぎ込み、そしてそのイメージを虚から実へと変換させる。
空いた掌を中心に自身の内に流れる魔力という不確かな力を集中して練り上げ、フォトンスフィアと呼ばれるソフトボール程の大きさの球体を顕現させる。
出現したフォトンスフィアの数は三つ。
しかも、そのどれもがまるで焼きの甘い硝子のように今にも砕けてしまいそうな印象を孕んでいる非常に脆い品物だ。
だけど、今の私に出来るのはコレだけ……故にコレが私の精一杯。
ならば、今私がやるべき事は一つを除いて他には無い。
私は球体を纏わせた掌をラウンドシールド越しに暴れ回る“何か”へと翳し、そしてタイミングを計ってラウンドシールドの効力を徐々に弱らせていきながら刹那の内にそれ等を一斉に目標を打ち抜く鏃に変えて、間髪入れずに撃ち放つのだった。

「モード・マルチショット! ファイアッ!!」

瞬間、防御範囲が狭まった事によって生まれた隙間から私の腕が突き出され、それと同時に三つの閃光となった鏃が一挙に目の前の生命体へと襲い掛かる。
盾で遮られた私と目の前の生物との距離は実に数十センチ。
しかし、腕を突き出して撃ち放った事で実質は零距離発射とそう変わりは無い。
その軌道が直射であるが故に命中を懸念していたフォトンランサーだが、上手い具合に敵の懐に手を入れられた所為かどうやら外れる心配も無いということらしい。
一瞬の安堵が私の頭の内で水流の如く溢れかえり、また次の刹那には全ての潤いが枯れ果てたかの様に即座に現実へと引き戻される。
気を抜いている場合ではない。
この一撃が決まった事が確定した所で私の立場が圧倒的に不利だという現実が覆せるという訳ではないのだ。
これで……この程度の事で悦に浸るなど言語道断もいい所。
安堵するべき時は今ではなく、今の戦いに終止符を打った時だけなのだ。
私は改めて一瞬でも戦いの最中に呆けた考えを浮かべてしまった自分を心の内側で恥じながら、穿たれた魔法の鏃がどのような結果を生み出したのかという事を視界の内に納めるのだった。

「当たりが浅い!? やっぱり威力不足か……!」

私がそう呟いた瞬間、あたりの空気を根こそぎ震わせるようなくぐもった咆哮が上がり、身が竦んでしまうような苦悶の声が何度も何度も鼓膜の内側で反響する。
半透明の桜色の壁の向こう側では同じ色の三本の鏃が胸部辺りに突き刺さり、暴れ回る狂獣が血とも臓物ともつかない赤黒い体液を撒き散らしながら必死に得物に食って掛かろうと蠢いている。
だが、多少範囲を狭めた所で私の展開するラウンドシールドが崩れる筈もなく、やたらに振り回される三本の鋭い爪は度々虚空を切りながら空回りするばかりだ。
だが、それでも目の前の生物の動きは衰弱しているようには見えない。
それ処か下手に手傷を負わされた所為で唯でさえ凶暴な思考に拍車が掛かり、より野生的な殺意が増したようにすら思えてしまう。
必殺の一撃であるとはいかなくても、先ほどの放ったフォトンランサーはかなりの手応えを得た上で撃った物だ。
これが訓練通りの威力を保持した上で撃てた物なら致命傷とは行かずとも確実に標的の身体の一部を欠損させる事には成功していただろうし、それだけの威力を込められるという自負もある。

だが、現実は何処までも私に優しくは無い。
例えどれだけ『万全である私』という存在を夢想しようと今の私は決して其処には届かない。
何故ならアレは世界の何もかもが私に都合よく作用した事が前提での結果であり、小さく細かな要因が容易に当事者の足を引く現実では─────それもデバイスもジュエルシードも持たず、己の身一つで闘っているという現状ではあの威力を引き出すことは不可能なのだ。
そして、だからこそ今の状況があり、結果がある。
確かにフォトンランサーはラウンドシールドと並んで私が戦闘の主軸においている魔法ではあるが、それでも魔力の収縮や基本的な構築はバルディッシュに任せている部分が否めない部分も多々存在する。
己一人で完全に制御する事が可能であるラウンドシールドとはその制御も構築も何もかも勝手が異なるのだ。

元々私という人間は人並み以上に臆病で、攻撃するよりも先に自分の安全を確実に確保しなければ攻撃に専念する事も殆どしない。
詰まる所、私は無意識の内に自身が使用する魔法の中にも優先順位を作ってしまい、直接相手を傷つける射撃魔法や砲撃魔法よりもジュエルシードの力や防御魔法といった自分の身を守る為の魔法に戦いの重きを置き過ぎてしまっているのだ。
訓練の時は例え防御魔法が破られても干渉を遮断する力さえあれば確実に己の身を砲火の下に晒さないという下地を作り出すことが叶っていたけれど、今は何か攻撃を防ぐには防御魔法のみを行使して向かってくる攻撃全てを防ぎきらねばならないのだ。
故に此処でもまた悪い癖が働いてしまい、その結果自分でも気が付かぬ内に注意が散漫となってしまい、今のような結果を生み出してしまうのだ。
威力不足で碌にダメージも与えられず、そればかりか余計に標的を凶暴化させてしまうという……こんな現状を。

「……ッ!? 何にしても今は引き剥がすしかないか─────バリア……バーストォッ!!」

何はともあれ今は現状を悔やんでいても仕方が無い。
どうにも要領の悪い自分に私は半ば呆れながらも即座にそう思い直し、展開させているラウンドシールドの表面に更なる魔力を注ぎ込んでいく。
構築する術式はラウンドシールドの発破と爆散。
収縮した魔力をシールドの表面に張り巡らせ、防御術式が崩壊したと同時に魔力を開放して中規模の爆発を引き起こすという荒業中の荒業だ。
何せこれは本来もっと小規模の─────プロテクションと呼ばれるラウンドシールドよりも下位に位置する防御術式に絡束効果を付与して相手の動きを止めた上で使用するのがセオリーとされており、尚且つそうであっても使用者もその爆発に巻き込まれかねないというリスクを孕んでいる痛み分けの術式なのだ。
本来ならバリアジャケットを付けている事が大前提。
そうでなくともその爆発で自傷しないように工夫を凝らしてのみ使用可能であることは言うまでも無い。
つまりこの場で私がこの術式を使用することは一種の自殺行為であり、剃刀を手首に当ててリストカットの真似事をするのとあまり変わらない自傷衝動である訳だ。
当然私だっていたいのは嫌だし、それなりの策はあるけれど……とりあえず今は何らかの方法で目の前の生物との距離を取らなければ満足に戦闘をこなす事も出来ない。
ならば此処は多少のリスクを負ってでも自分がやって然るべきだ、と思ったことに全力を尽くすのが至上の策という物だろう。
私は頭の中でそう考えるや否や、先ほどまでフォトンスフィアを展開していた片手を自らの胸を掴むような形で翳し、両足のつま先で後方へと飛び下がりながら、殆ど同時に二つの術式をその場へと顕現させるのだった。

「ラウンドシールドッ! 二重展開!!」

金切り声にも似た声をあげながら私は敵へと翳したラウンドシールドを発破させ、そして自分の方へと翳している掌では新たに二重に形成されたラウンドシールドを展開して、爆破の衝撃から身を護る。
刹那、轟音が私と謎の生物との間で巻き起こり、収縮された魔力はまるでダイナマイトでも爆発させたかのような衝撃をその場で引き起こす。
そして沸きあがる悲鳴と当たり一帯を染め上げる赤、紅、朱。
爆発の衝撃によって生じた破壊力は凄まじく、防御術式を二重に展開していた私でも容易に数メートルは後方に吹き飛ばされてしまうくらいだ。

あまりの衝撃で気が緩んだのか衝撃の範囲から逃れた瞬間私が構築していた防御術式は光となって掻き消え、直接的に巻き込まれた訳ではないにせよ、吹き飛ばされた身体は勢い余って何度も何度も地面へと四肢をぶつけながら転がってしまう。
痛い、いたい、イタイ─────肘の皮が擦り剥け、打ち付けた太股が切れて出血し、背中や胸に生まれ出た新たに青痣が生まれるたびに尋常ではない苦痛が一挙に私の思考を支配する。
しかし、その程度の痛みで挫けているようでは到底暴走体の相手など出来はしない。
爆発の中心から十数メートル転がって止まった処で私は何とか全身に疼き回る痛みに歯を食いしばって耐えながら、ふらふらとその場に立ち上がってもう一方の被害者の方を垣間見る。
矢継ぎ早とは言え、あれだけの強度を誇ったラウンドシールドを二重展開させて尚この有様だ。
何の防御も無しにあれだけの衝撃をその身に受ければ必殺と言えど、ただでは済まない筈。
私は頭を何度か打ち付けた事で朦朧とする意識の中、何とか敵の様子を確認する為に爆発の余波で這い上がった砂埃の先にある存在をまじまじと凝視するのだった。

「痛っッ……。ったく、また傷だらけか。本当勘弁してよ……もうっ! やっぱりバルディッシュ無しであんな魔法使うんじゃなかったよ」

手の指先からつま先の先端に至るまで全身をくまなく疼き回る痛みに思わず私はそんな風な自業自得も良い所の愚痴を宙へと吐き捨てながら、少しずつ鮮明になっていく視界に神経を集中し続ける。
確かにあの爆発は凄まじい威力を孕んだ物であったが、前に闘った合成獣型の暴走体は異常な速度の新陳代謝を持って殆ど自己再生に等しい能力を持っていた。
今まで野犬の方はどうであるのか定かではないが、今回も十中八九同じかそれに近い能力を有していると考えるのが得策という物だろう。
何せジュエルシードって言うのは言い換えれば付加される能力が何であるのかは人によりけり、物によりけりの『開けてびっくり! 愉快な玩具の缶詰』だ。
何が出るのかは物次第だし、幾ら暴走体の多くが本能に付き従って凶暴化していると言えど、其処に付加される能力が有るのか無いのかまでは分からない。
つまり、例えどんな状況であろうと自分の命が惜しければ油断や慢心だけは決してしてはいけないという事だ。

次第に晴れていく砂埃を見つめながら、私はいざという時の事も考えて自分の周りに四個のフォトンスフィアを新たに生み出しておく。
用心に越した事は無いし、自分の技で此処まで酷い手傷を負っておいて更に傷を言うのも馬鹿らしい限りだ。
なんだかこんな風に言うと少年漫画の小物チックな悪役の台詞のようで気が引けるが、策という物は二重三重に張り巡らせて始めて事を成すものだ。
馬鹿正直に特攻し、捨て身の一撃で押し倒そうなどという考えを持つのは義侠物の映画の主人公と頭の悪い犬だけで十分だ。
私はそんな愚かなことはしたくないし、現に一回その真似事をして腕を粉砕骨折するという重傷も負ってしまった経験もある。
一度学習した上で二度も三度も同じ事は繰り返したくない、っていうか繰り返さない。
ならばその為にはどうすればいいのかと言えば、やはり最初の議題に事は戻っていく訳だ。
私は砂埃の晴れた向こう側─────“嗅ぎ慣れた臭い”が充満した場所のその先で怒り心頭といった具合に滾ってる暴走体の姿を視界の内で明確に捉えながら、その存在が何であるのかという事を徐に口に出して呟くのだった。

「なるほど……。貴方の正体は“鳥”って言う訳ね」

さぞ面白くも無いといった具合に私はその事実を苦々しく吐き捨てながら、傷口が疼く所為で混濁したように鈍る思考を必死で働かせてその全貌を改めて自分の中で纏め上げていく。
そう、其処にいたのは一羽の……いや、此処までくるとそんな可愛らしい表現で当て嵌めていいのかどうかも危ぶまれる程に大きな一体の怪獣だった。
まるで太鼓の恐竜のように大きな体躯。
戦車の装甲だろうと飛行機の外装だろうと一薙ぎで容易に破砕してしまえるのであろう鋭く尖った足の爪。
そして何よりも映画の怪獣さながらといった具合に長く伸びている首に、頭部に聳える刺々しい角のような突起。
それ等を要素を組み合わせて尚且つ手傷を負って凶暴化した物がこれまた長い尾と双翼を広げて此方の方を睨みつけている。
前に先生の家で一緒に見た『ゴジラ』や『ガメラ』といった映画の世界に巻き込まれたのではないかと思わず錯覚してしまうような光景が其処にはあった。

「冗談じゃないよ、ったく……! 相性最悪処か、こっちはジリ貧確定じゃん。本当、運悪いよね……私ってばさぁッ!!」

そんな悲痛な咆哮と共に私は痛む腕を振り上げ、宙を舞うフォトンスフィアを鏃へと変えてこれまた間髪入れずに撃ち払う。
だが、幾らあの爆発の所為でダメージを負っているとは言え相手は手負いの怪獣。
下手に刺激すればどうなるか……その答えは百を語って聞かせるよりも明らかだった。
目の前の暴走体─────まぁ、あえて名称付けるなら鳥の化け物って事で“鳥獣”ってことするけれど、その鳥獣が取った行動は迅速の一言に尽きた。
2tトラックよりも遥かに重いであろう身体は意外なまでに俊敏な身のこなしを誇り、その身体を支える丸太のような足が砂浜を蹴ったかと思うと、刹那の内にはその場所から海の方へと身を躍らせ、悠々と私の攻撃を回避してみせたのだ。

故に私が放った計四つの桜色の鏃は奮闘虚しく何も無い宙を切り、その先にあったテトラポッドの一部に突き刺さって亀裂を入れ、光の粒となって掻き消える。
あれだけの爆発を間近で受けておきながら、よくもまあこれ程までにちょこまかと動けた物だ。
私は呆れ半分、関心半分といった具合の感想を胸の内に抱きながら改めて鳥獣型の暴走体の状態を流し眼で観察していく。
あくまでも何時でも戦闘態勢に映る事が出来、尚且つ直でも術式を展開して攻撃にも防御にも対応出来る状態がデフォルトだからまじまじと見つめて思考すると言う事は叶わないけれど、大雑把に見たからと言って何も捉える事が出来ないのかと言えばそうじゃない。
ダメージの具合。
魔法による攻撃の有効性の有無。
自己再生能力が有しているのかいないのか。
ざっと鳥獣の状態を見ただけでもこれだけの事は容易に理解する事が出来、尚且つその本質を捉える事はそう難しい話じゃ無かった。
ただ問題なのは原因が究明で来ているかどうか、という事ではない。
そう、真にこの場に置いて問題なのは─────

「─────推測が全部“どんぴしゃ”っていうことだよね。実際さぁ……っ!」

そう、実際この場において何が最悪であるのかと言えば運の悪い事に私が例に挙げた事がらの全てが私にとって不都合な方向に傾いているという現状だ。
私は改めて現状を想い変えながら巨大な双翼をはためかせ、海上の水面よりも数メートルほど上の処で静かに得物を狙う目でこちらを捉えている鳥獣の方を一瞥してその状態を再度頭の中へと叩きこむ。
まず先ほどからくり出している攻撃がどれだけ鳥獣に利いているか、という事だがはっきり言ってこれに関しては望み薄だと言う他ない。
何せ中規模とは言え、手榴弾やダイナマイトが爆発したのと殆ど同じ位の威力の爆発をその身に受けた上に、その前にはデバイス抜きと言えど、コンクリートの塊に亀裂を入れる程の鏃を零距離で穿たれたにも拘らずざっと見渡してもその身体には殆ど傷が残っていないのだと言う事が見て取れる。
いや、ダメージを受けたかどうなのかと言えば確かに受けた事には受けたのだろう。
先ほどまで鳥獣が佇んでいた場所は確かに流血や肉片で赤黒く染まっているし、その周辺には爆発の衝撃で引き千切れたのであろう脚部や臓物の残骸が細かな肉片となってそこかしこに転がっている。
これは偏にあの爆発前では流石の鳥獣も手酷い損傷を負う事は避けられず、結果としてそれ相応のダメージを被ってしまったのだという表れなのだろう。

では何故、目の前にいる暴走体はそんな損傷を負ったのにも拘わらず、そんな素振りを見せる事も無く健在であるというのか。
その答えは簡単だ。
あぁ、認めたくは無い。
実に忌々しいし、それを現実として受け止めたくは無いが目の前で起きている事は夢でも幻でも無い現実であり、頭を打ち付けた事で思考回路がイカれていなければ私の精神も至って正常だ。
目の前で起こった事を事実として受け止められるだけの思考能力は持ち合わせているつもりだと自負しているし、幾らこの状況が現実離れしているからと言って今の状況を夢現と断じて現実逃避をする程自分が取り乱していない事も重々承知している。
だが、現状を丸侭全部受け止められる器量があるのかと言えば、当然その答えは否だ。
こんな─────こんな“受けたダメージを瞬時に即効性の自己再生で補う”などという出鱈目な現実を簡単に認められようはずも無い。
おまけに魔法による攻撃のダメージは殆ど見受けられないというのだから尚始末に困るという物だ。
私は自分自身が導き出した結論に思わず頭を抱えそうな衝動を胸の内に覚えながら、僅かに働く思考に任せて今の状況を何とか打開しようと彼是と策を模索し始めるのだった。

「射撃魔法も駄目。バリアバーストも使えば使うほどこっちがジリ貧になるだけ……おまけに相手は自己再生能力持ち、か。いやいや参ったなぁ、これ。正直……此処で死んじゃうかもなぁ、私。まぁ、って言っても─────」

其処まで言い掛けた処で私は傷だらけの右腕を振り上げて、その掌にまた新たな術式をなるべく急いで構築させる。
術式の名前はフォトンバレット。
魔法の訓練の初歩の初歩、下手をすれば戦闘の要にしているフォトンランサーすら下回るほど基本的でシンプルな単発の射撃魔法だ。
アルハザードという空間においてアリシアの指導の下、積み重ねてきた訓練の内の最初期に教えられたこの魔法は正直あまり私にとって馴染みがある術式という訳ではない。
寧ろその逆、ただ狙って真直ぐ撃つという事のみに目的を限定されたこの魔法はフォトンランサーやバリアバーストと違って応用性が薄い為、どうにも戦闘という極限の状態において忘れがちになってしまうものなのだ。
故、私は擬似的なターゲットを相手にしての訓練でもあまりこの術式を使用してはいなかった。
まぁ、少し落ち着いて記憶を遡ってみれば罠の破壊や死角からの強襲なんかの時に何度か用いたのだという事を思い出すことが出来るのかもしれないが、それでもその頻度は決して高い物であるという訳ではない。
やはりラウンドシールドやフォトンランサーに比べて見劣りしてしまう、その程度の認識が関の山のあまりパッ、としない魔法だと言ってしまっても過言ではなかった。

だが、この場において─────そう、このような“速度の速い相手”と対峙している場合においてはそのような節目がちな魔法も必殺の魔弾へと姿を変える。
シンプルであるが故に構築が早く、尚且つ込めた魔力の量だけ威力の上限を左右できるフォトンバレットは予め威力や魔力量を換算し、一定の出力を保たなければ行けない他の射撃魔法と違って『ただ真直ぐに撃って当てる』という事に関してはそれなりに自由度のある魔法だ。
つまり、他の魔法で届かないのだとしても、このフォトンバレットならば魔力の込め方次第で今の私が持てる最大の攻撃へとその姿を変えることが出来るかもしれないという事だ。
でも、デバイスを持たない私にとって限界を超えた魔力を注ぎ込んだ術式の制御というのはある種の鬼門のようなもの。
下手をすれば誤ってその力を暴発させてしまう可能性だって決して低くは無いし、よしんば発射できたとしても狙った場所に当たってくれるかどうかは運任せだ。
確実性は薄いし、当たった所で有効なダメージを与えられるのかどうかも定かではない。
おまけにこの術式をこんな風に使用するのは今日が始めてだ。
これを分の悪い賭けと呼ばずなんと呼べばいいのか、私は皆目見当も付かなかった。

しかし、それでも尚私は手の内で展開する術式へと己が持てる魔力を注ぎ込み、掌の内にバレーボール程の大きさを誇る桜色の球体を構築し続ける。
無茶だって言うことは百も承知だし、自分でも今私自身馬鹿なことをやっているっていうのは分かってはいる。
だが、そう認識していても尚こんな風な行動に出てしまうのは─────偏にこれしかこの状況を打開出来るような一手を私が思いつくことが出来ないからだ。
本来足りない頭を必死になって動かして状況を打開するのが本分の私がこんな事を言うのは癪以外の何物でもないのだが、もはや今までの攻撃がまともにダメージを与えられていない事を鑑みるに小手先が如何のこうの言っているようでは勝てないのは明白だ。
力でごり押しは趣味じゃないけれど、力押しでも現状を打開できるのなら、この場で冷たい身体を晒すような状況になるよりは幾分だってマシというもの。
だったら、私は私の選んだ事に素直になれば良いだけの事だし、みっともなくとも意地汚くとも“生きる”事のみを考えて行動を起すだけだ。
私は目の前で奇声を上げ、再びその強靭な脚と爪で私の身体を引き裂かんと迫る鳥獣に掌の内に作り出した球体を向け、高らかな宣言と共にそれを鳥獣へと撃ち放つのだった。

「初めから死ぬ気なんてさらさら無いんだけどさァッ!」

声を荒げ、自分に定められた運命に抗うのだと吼えながら私は眼前まで迫った鳥獣の腹部を狙って殴るような軌道を描きながらその掌を滑り込ませていく。
前足を突き出して踏ん張りを利かせ、タイミングを合わせる為に限界まで目を見開き、自分のうちに沸きあがった恐怖に様に犬歯をむき出しにして腕を振り上げるその様は傍目から見たら悪鬼のそれにも思えてしまうほどに醜く歪んでいた事だろう。
何せあれだけ散々忌避の念を抱いておきながら、結局私は自身のうちに蔓延った自傷の衝動に突き動かされるばかりなのだ。
矛盾、何処までも己が請い願う理想と現実が異なりすぎて─────それは自分の中の“何か”決壊させてしまう極限の矛盾となって私の表面に現れる。
それは言動であり、表情であり、思考。
凡そ、普段の私からは考えられないような嗜虐と暴力に塗れ、穢れた感情がそれ等の全てを『高町なのは』から乖離させ、そして抜け落ちたピースを裏返しにしてはめ込むようにその形を拭い去れない矛盾を孕んだ物として作り変えていくのだ。
もうどちらが本当の私なのか、自分でも判断がつかない程に。
怠惰と暴虐、どちらが私の本質なのかも分からなくなる程に……。
今の『私』は『高町なのは』と溶け合って交わり─────戦人としての『己』と形成させていくのだ。
今の私が此処にこうあるように。
高町なのはという存在が、今の私としてこの場に存在するように。
私はただただ、己の内に生まれた衝動に酔いしれ、身体中に走る痛みにも気がつかぬまま何処までも己の感情を加速させていくのだ。

「─────くくっ、捕らえたよ。落ちろっ、堕ちろ! オヂロッ!!」

そして加速した感情は何処までも私の身体を好き勝手に動かし回り、痛みも疼きも忘れて只管に自分が相手を虐げるのだという事実をその身を持って体現させる。
例え鳥獣が延ばした爪が大きく肩口を抉り、普通なら悲鳴所では済まない傷を受けたのだとしても。
その所為で溢れ出た血液が顔や制服を真紅に染め上げ、生暖かい感触が肌を濡らしたのだとしても。
尋常ではない苦痛と身体からごっそりと血液が失われた事で、頭の中で絶え間なく生命の危険を告げる警笛が鳴り響いていたのだとしても。
私は止まらないし、笑みも崩さない。
それ処か、そんな痛みも忘れてしまうほどに溢れ返ったアドレナリンとエンドルフィンが脳を浸し、この身体に降り掛かる痛みも、疼きも、怖気も何もかもを一瞬にして消し去ってしまうほどだ。

そう、今の私には恐怖という物が無い。
限界を超えた馬鹿は何よりも増して怖い物知らずであるとはよく言ったものだが、今の私はそれに輪を掛けて酷い馬鹿なのだといってもいい。
何せあれだけ死を恐れながら……自分がこの世から排斥される事に脅えながら……自分の身が傷付くという事を何よりも忌わしく思っておきながら、そんな事は如何でもいいのだと二の次にしてしまえるほどに今の私の脳味噌は滾り、沸騰してしまっているというのだから。
もはや、この場においてまともな思考などというものは無用の長物でしかない。
ただ己が渇望に突き動かされ、例えどれだけ傷付こうとも相手に噛み付く事を諦めない狂犬同士の共食いに理性など必要は無いのだから。
だからこそ、私は殆ど致命傷染みた傷を負いながらも尚前へ前へと突き進み、自身の掌に宿った魔の弾丸を溢れんばかりの殺意を込めて撃ち放つのだ。

刹那、私の掌から魔弾が解き放たれ、凄まじい衝撃が私の腕に奔る。
ミシリッ、と骨が軋む様な音が腕の彼方此方から響き渡り、一歩間違えればそのままへし折れてしまうのではないかと思ってしまうほど私の腕は関節とは逆の方向に反り返ったのだ。
だが、魔弾が放たれた事によって生まれた事実はそれだけではない。
当然、反動だけでそれだけのダメージを受けてしまう魔弾を至近距離から受けてしまった鳥獣もただで済む筈が無いのだ。
直後、グチャッ、という生々しい音共に鳥類特有の甲高い悲鳴が辺りに木霊し、それと同時に思わず噎せ返ってしまうような生臭い臭いが私の鼻腔を擽る。
そう、それこそがあの魔弾が鳥獣に直撃し、皮を裂いて骨を砕き、肉を抉って内臓をグチャグチャに爆ぜさせた結果だった。

結果が如何であったのかという事を簡潔に言ってしまうのであれば私が持てる精一杯の魔力を込めた桜色の魔弾は見事に暴走体の胸部に命中し、其処に向こう側が見えてしまうような大きな風穴を空けることに成功した。
だが、それは殆ど一瞬の出来だった。
恐らくその攻撃を受けた当人である暴走体もまさか自分がこんな攻撃を受けるなどとは今になっても思っていないに違いないだろうし、そもそも思考が痛みに追いついているかどうかも微妙な所だ。
でも、私は違う……あぁ、断じて違う。
例え目先でその事実を追うことが叶わないのだとしても、腕に迸る疼きが、鉄臭い感覚に擽られる感覚が、自分の内に秘めていた殆どの魔力を使ってしまったのだという感覚がそれを事実として私に示しだしてくるが故に、私はその攻撃が確かな有効打であったのだということに気が付く事が叶っている。
故にこの身は今が絶好の好機なのであるという事を認識する事が出来、そのために必要な行動を取る事が出来るのだ。

痛みを忘れ、恐怖を忘れ、死を忘れ……何もかも忘れ果てた上で私は想う。
次の手を、と。
この目の前の獣の息を止め、自身が勝利を勝ち取る為の攻撃を放つのだ、と。
それは殆ど考えというよりは衝動に近い物だったのかもしれない。
この身を火照らせ、焼き、滾らせて止まない嗜虐の快楽。
それは、もはや人間が理性の内に考えられる物の埒外に位置する物であり、それに突き動かされて動き回る今の私は一種の暴れ狂う嵐だ。
悲哀憎悔、喜悦快楽の泥濘、混沌……何もかもが無茶苦茶で、凡そ人の言葉ではその様を表す事など到底出来はしない。
その身を衝動と同化させて突き進み、ただ本能が叫ぶままに喰らい、抉り、引き裂くだけの殺戮機械。
服を着て、言葉を話す災厄……人間に似て否なる物こそが今の私の正体だ。
故に私は微塵も躊躇なく─────あぁ、それこそこの歓喜にも似た思いに従って敵を殲滅する事が出来る。
目標は目の前、自己再生能力を有しているとは言えど、その身は死に体だ。
このまま一気に畳み掛ければ、確実に縊り殺す事が出来る。
私は己が胸に溢れ、この身を歓喜させる暴虐に酔いしれ、肩口から零れ出す流血も意に介さぬまま、ただただ口元を歪に吊り上げて目の前の存在を嗤いながら止めを刺すべく新たな術式を構築し、それを容赦なく撃ち放つのだった。

「あっ、はァ─────それじゃ、バイバ~イ。どタマかっ飛べぇェェッ!!」

左手の親指と人差し指を立て、それ以外の指を内側に折りたたんだ『穿つ体勢』を創りながら私は殆ど瞬時に突き出した人差し指の先に自身の内に流れる魔力を集中させていく。
そして、ほんの一瞬─────刹那にすら満たない速度で私はその魔力で新たな術式を組み上げ、そして間髪入れずにそれを御腹に大きな風穴を開けて静止している鳥獣の鼻面へとつき付け、問答無用にそれを撃ち込んだ。
その間約一秒半、デバイス無しで形成する術式としては中々に素早いと自負出来る速度だ。
そして、当然その速度に目の前の鳥獣は避けることはおろか、反応する事も叶わない。
故、私の指先に生み出された桜色の閃光─────フォトンバレット系統の発展技である圧縮した魔力を爆発させて放射する能力を持ったフォトンバーストの光は一切の容赦なく、鳥獣の身体を蹂躙する。

頑丈そうな頭部が爆ぜ、脳漿と流血が砂浜へと雨のように降り注ぐ。
衝撃で片翼は引きちぎれ、首はおかしな方向へとひん曲がり、嘴や角には幾つもの罅が奔り、その間からは微かに血が漏れ出している。
頭を潰した、幾ら暴走体とは言え此処まで攻撃を加えられれば無事では済まない筈。
その事実にそれまで滾りきっていた私の思考が急激に冷え、そして一筋の安堵が私の脳裏を過ぎる。
終わった。
何もかも終わった。
目の前には敗者の残骸が転がり、その前には生者として私が立っている。
それこそが幕引き、それこそが結果。
此処に私が生きて立ち、目の前で標的が死に絶えているという事は私がこの戦いに勝利したのだという事と同義なのだ。
本当は多少手傷を負わせて追い返せればそれ以上の事は私も期待してはいなかった。
だが、その時の思想がどうであれ、結果はコレだ。
最終的に殲滅しなきゃいけないのならデバイスやジュエルシードを使おうが使うまいが目的さえ果たせればそれが全てなのだ。
私は思いがけない結果オーライに一筋の淡い感情を抱きつつも、今更になってぶり返してきた肩口の痛みに顔を歪ませながらゆっくりと物言わぬ死体となった鳥獣の亡骸へと近付いていくのだった。

「痛っ……まさか此処まで手酷くやられちゃうとはね。血ぃ─────止めなきゃヤバいかも。まぁ、何にせよ今はジュエルシードの封印が先か……難儀だよねぇ、まったくさぁ……」

それまでの熱情が消え、痛みと疼きがぶり返した事によってクールダウンした思考の中で私はそんな事を考えつつ、頭のなくなった鳥獣の腹元を覗き込み、其処に魔力反応が無いかどうかを肌に伝わる感触で確かめる。
ただ脳内麻薬で活性化されていた時は良かったものの血液が身体から抜け落ち過ぎた所為か、どうにも意識は朦朧として上手く働かないし、おまけに肉までごっそり持っていかれた肩口は痛みを通り越して痺れすら引き起こしてしまっている始末だ。
もしかしたらあの攻撃を喰らった時か全力を込めたフォトンバレットを撃った時の何れかに骨に罅でも入ったのかもしれない。
そんな思考が私の脳裏を霞め、それを認識したと同時に身体中を疼き回る痛みがその感覚に信憑性を孕ませる。
これが戦闘中に負った傷でなければ机に突っ伏してピーピー泣き叫びたいほどだといっても過言ではなかった。

「しっかし、どうしたもんかな……これ。制服は血塗れ。砂浜も血塗れ。おまけに私自身も血塗れだもん。これじゃあ流石に─────ッ!?」

しかし、そんな平和的な思考は長くは続きはしなかった。
ジュエルシードが何処にあるのかと鳥獣の亡骸を触っている最中、私はその亡骸が“再び動き始めている”という事に気がついたからだ。
とっさに後ろ足で地面を蹴って、その場から後退する私。
すると、信じられない事に今まで私が立っていた場所に鳥獣の太く硬い足が振り下ろされ、まるでストレッジハンマーでも叩き付けたかのように、深く地面を抉り取ったのだ。
あまりの出来事に思考が止まり、ようやく治まり掛けていた鼓動が再び早鐘のような警笛を鳴らす。
まずい、この場で呆けていたら間違いなく殺されてしまう。
そんな最悪のビジョンが脳裏を霞め、先ほどまではなんと事のなかった怖気が急に私の肝を冷やし始める。
全身の毛穴から冷や汗が吹き出て血塗れの服に更なる水気を含ませ、朦朧とする意識はいつも以上に私の内に秘めた野生的な感覚を浮き彫りにさせる。
そう、ただ一度でも目の前の生物を倒したなどという幻想を抱いていた自分を恥じ、現状を後悔する感情と共に……。

「嘘っ……でしょう? まさかっ、こんな……ッ!?」

あまりの現実の非情さに私は思わず素っ頓狂な悲鳴をあげながら、目の前で起きている鳥獣の変化を目に焼き付ける。
折れた首が元のように再生し、半分砕け散った筈の頭部が復元し、腹に大きく穿たれた風穴では臓物と臓物、肉と肉、骨と骨が交わりあってどす黒い泡を作り、それらが結び付いてもとの形へと還っていく。
ありえない、そんな一念が私の胸に何か黒いものを落とす。
自然界では到底成しえない筈の回復力。
そしてそれ等を実行する異常な速度の新陳代謝と細胞の再生。
凡そ、漫画やゲームの中の不死に近い能力を持った化け物が私の目の前に入る。
その事実がどうにも信じられなくて……怖くて……気持ち悪くて、私は今更ながら此処に来て拭い去れない恐怖を植えつけられてしまったのだ。
ぎらぎらと光る瞳で此方を捕らえ、「さっきはよくもやってくれたな」などという様な念を表情に出したかのような歪んだ感情に突き動かされた目の前の怪物に。
そう、其処から始まるのだ。
私の─────高町なのはの深い、深い絶望は。
瞬間、自分の感情の中で何かが弾けるのを私は感じた。





・補足
えーと、多分いないとは思いますが一応誤解されない為に今回なのはさんが使用した魔法に付いての説明をします。

・バリアバースト
備考:原作でなのはさんが使用。A'sでもStrikerSでも使用していたが、後者は相手の身を吹き飛ばす様に強化されている。本作では爆発の威力が増加している。

・フォトンバレット
備考:原作の無印でプレシア・テスタロッサが使用。アルフに胸倉掴まれた時に吹き飛ばした魔法と同じ奴です。本作では魔力を込めた分だけ威力増加。

・フォトンバースト
備考:原作の無印でプレシア・テスタロッサが使用。原作でアルフに追い打ちを掛けたのがこれ。効果は圧縮した魔力で一定範囲を爆破させる魔法です。余談ですが本作でアルフさんを『ミンチより酷ェ……』状態にしたのもこれです。

以上、どうでもいい補足でした。



[15606] 第二十五話「駆け抜ける嵐なの……」(グロ注意)
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:282a81cc
Date: 2010/08/24 17:49
苦しい。
思わず血反吐を吐いてしまうほど─────意識の全てが苦痛と絶望に塗り替えられてしまうほど、私はその一念に強く心を揺さぶられる。
視界に映る世界は霞み、傷だらけの身体からは数多の血潮が流れ出して止まらない。
既に意識は朦朧とした物へと変わり、もはや立っているのすら億劫という有様だ。
息を宙に吐き捨てるたびに肩口の傷が身体の奥底まで疼き、更なる流血が傷口から溢れかえって地面へと滴り落ちる。
今この瞬間、私を蝕んでいるのはそんな悪循環。
抗えば抗うほど……苦しみから逃れようと抵抗すれば抵抗するほど自身の首を何処までも強く締め付けていくという苦痛と混濁の円環だ。

己が身を奔る痛みには際限が無く、また徐々に自身の思考と乖離しつつある意識は時間が経てば経つほど濁って穢れ堕ちる。
結局はその繰り返し。
何か例を挙げて現状を語るというのなら、今この瞬間起こっている出来事の本質は尾を噛む蛇だ。
牙が自身の尾を噛み千切り、蛇の思考が停止するまでこの苦しみは消え失せる事は無い。
この肉体が死滅し、名実共にこの心臓が動きを止めなければこの場においてその苦しみは永劫続いて終わる事は無いのだ。

だが、それでも私は尚もその運命に抗い続けている。
嘴で啄まれそうになれば魔法壁でそれを防ぎ、爪で肉を抉られそうになれば収縮した魔力を爆発させて牽制を図り、強靭な双翼で身を打たれそうになれば損傷覚悟で射撃魔法を行使して無理やり活路をこじ開ける。
もう彼是さっきからずっと─────もはや自分が一体どれほどの間こんな不毛なやり取りを繰り返しているのかは定かではないが、回数として記憶している分にはその数もそろそろ二桁から三桁に到達してしまうほど私はこの戦いの連鎖に明け暮れていた。
ただ、もう其処に私の意志は殆ど残されていない。
痛みも、苦しみも、疼きも……この身を這い回る全ての悪寒すらも今の私にとっては意識すべき対象の埒外に位置するものでしかないのだ。
では、一体何がそこまで其処まで私を駆り立てているのか、と言えばその答えは意外過ぎるほどに瞭然だった。
そう、私が満身創痍になっても尚この状況に抗うその訳はたった一つ。
今この時を生き延びたい、という酷く原始的で動物的な欲求だけがこの身を支配していると言う事実だけだ。

故に私は何度も……否、何度でも目の前の敵に食って掛かる。
もう自分に勝ち目が無い何ていう事はとっくの昔に理解はしているし、今更奇をてらうとか策をどうなのじゃあ一生標的には届かない事も重々承知してはいる。
戦闘が始まって十数分も経っていないとは言え、私が出来る攻撃や防御のパターンは限りがある。
となれば、当然目の前の標的─────鳥に寄生した暴走体こと鳥獣には徐々にその傾向を学習され、そう遠くない内に覚えられてしまうのが落ちだろう。
しかも、それに加えて今回の暴走体には殆ど瞬間的に受けた外傷を治癒してしまえるだけの自己再生能力が有る。
このまま戦闘を続けていてもジリ貧である事は間違いない、何ていうような事はもはや火を見るよりも明らかだ。

だが、其処までどうしようも無い現実を突きつけられても尚、私こと高町なのはは自身がこの場を生きぬ事を諦めたりはしない。
だって、私は生きたいと……今この時を生きていたいと願っているから。
例えこの身が犬畜生に成り果てようと、外道に身を落とそうと、この身を賭して護った人達を笑い合いたいと心から望んでいるから。
私は生きたい。
故に最後まで……何処までだって足掻き続ける。
今この瞬間、この場において私が戦う意思を放棄しない理由なんてそれだけで十分だった。

「ぐぅッ─────ヅ、ォ、ォォオオオオォァァ!」

もはや人の物とは程遠い獣のような唸り声を上げて、私は目の前に迫り来る爪を身を捻って回避する。
その動作に用いられる所要時間は一瞬に満たず、また働いている思考も必要最低限のものに過ぎない。
そう、今の私は殆ど動物的な本能から来る直感のみを頼りに先ほどから繰り出されている攻撃の悉くを回避しているのだ。
防御が抜かれ、爪が肩口を抉ろうとすれば寸での処で身を捻って腕が持っていかれる前にその衝撃を半減させるよう勤め、嘴が腹を貫こうと迫ればそれ等の動作を予測して当たるか紙一重で避けるかという微妙な境界を見極める。
そこら辺の凡人と比べても並以下の体力しか持ちえていない私が今になってもこうして正常に息衝く事が叶っているのは、偏にこれ等の戦法を用いている御蔭で致命傷に繋がる攻撃を受けていない事が幸いしてのことだった。

とは言え、だからと言って今の私が優位であるのか、と言えば勿論それは違う。
寧ろその逆、今の私は完全に劣勢に追いやられているのだと言ってしまっても過言ではなかった。
何せ相手は殆ど体力勝負の肉弾戦であるのにも拘らず、こっちは己の内に流れている魔力を消費して戦闘を継続しているのだ。
当然魔法を行使すればするほどこちら側は魔力を消耗するし、このままでは何時枯渇してもまったくおかしくは無い。
しかも、現に今の私の魔力は一番の得意技であるはずの防御魔法すらまともに展開出来ないほどに消耗し切ってしまっている。
このまま戦闘を続けていても相手に決定的な打撃を与えられない以上、此方は只管に消耗していく魔力の残量に縋りながらただただ不毛な攻防を繰り返すほか無いのだ。

加えて、さっきから忙しく動き回っている所為で身体の疲労は相当な物になってしまっているし、肩口の損傷を初め、全身の様々な傷口から流れ出ている血液は余計にその疲労感に拍車を掛けてきてしまっている。
今は気合と根性と言う自分の性根に最も似合わないであろう衝動に駆られている御蔭でまだ地に足を着いていることが叶っているが、既に意識が朦朧とし始めてきてしまっている以上は何時気を失ってその場に倒れるかも分かりはしない。
心身ともに疲弊し切ってしまっているこの現状、正に背水の陣と呼ぶのが相応しい状態なのだろうと私は思った。

「はぁ……はぁ…はぐぅっ、ぁァ……く、ぅぁ……。図にィ……乗るなァッ!!」

虚しく空を切った鳥獣の脚を流し目で見届けると、私は即座に身を返して攻撃の来た方向へと即席で組んだ術式を撃ち込む。
展開する術式はフォトンランサー、ただし弾数は一発のみ。
殆ど単発の直射攻撃魔法と相成った桜色の鏃は瞬く間に私の手の内から発射され、音速を超える速度で標的の方へと突き進んでいく。
刹那、グチョッ、という腐ったトマトを潰したような音が鼓膜を霞め、濃厚な血の臭いが新たに鼻腔を通して脳を刺激する。
もはや放った攻撃が相手に当たっているかどうかなんて気にする余裕も無かったから私自身あまり意識はしていなかったのだけれど、どうやら今の攻撃は確実に相手を捕らえることが出来たらしい。
その証拠に、次の瞬間には胸部から鮮血を撒き散らし、苦悶の咆哮をあげる鳥獣の姿が私の霞んだ視界にはっきりと映し出されていた。

だが、当然その程度で鳥獣が怯む訳もなく、一瞬だけ仰け反るように後退した鳥獣は即座に双翼を広げて再び私へと襲い掛かってくる。
その強靭な脚に携えた無骨な爪が私の身体を突き砕かんと暇なく繰り出され、無数の風切り音と共に私の身体を蹂躙しようと迫ってくるのだ。
その攻撃の速度は機関銃もかくや。
もはや避けようと考えてから避けられるような品物ではない。
ならば一体この場を切り抜けるにはどうしたらよいと言うのか。
そんなものは簡単だ。
理論や理屈などではなく、ただ本能が赴くままに……溢れ出る“衝動”だけに身体を任せればいい。
苦痛も、恐怖も何もかもかなぐり捨ててもはや自傷すら厭わぬ怪物に自身を変えてしまえばいいのだ。

胸の内にあるのはこの場を生き残る事への欲求。
頭の内にあるのは敵を殴殺し、縊り殺してやろうと猛る歪んだ殺意。
そして、この身の内にあるのは自身の能力を己が持てる限界まで高め、それを支配してやろうと滾る衝動。
それ等全ての要素が混ざり合い、噛み合い、組み合わさる事で私は『私』と言う箍から外れた存在へと自身を昇華させる事が出来る。
果てない欲求に突き動かされ、ただ目の前の存在を倒そうと猛進する殺戮機械へと己を変えてしまうことが叶うのだ。
だから、今の私がこの程度の攻撃で死んでしまう訳が無い。
そう思い込めば……幾ら自分が傷付いた所で、それ等が死に繋がる要因にならないと思うことが出来れば私は何処までも自身を加速していく事が出来るのだ。
故に、この場においてもそれは同じ。
例え目の前で断続的に繰り出される攻撃を全て自身が避けられないのだとしても、それが明確な死を意味していないのなら今の私は臆する事なく前へ前へと突き進められるのだ。

例えそんな衝動に駆られている所為で身体が既に襤褸襤褸であったのだとしても。
身体中の其処彼処で跳ね飛ぶ流血が確実に自分の命をすり減らし、この心臓を蝕んでいるのだとしても。
思考も論理も何もかもが破綻し、建前と行動が……生きたいと願う心と只管に身体を突き動かしては壊れ果てさせる自傷の念との区別がつかなくなり、結果的に自身を崩壊に導きかねない矛盾をこの身が孕んでしまっていたのだとしても。
私は止まらないし、止まれない。
だからこそ、私は今もこうして只管に前へ前へと自身の身体を推し進めていくのだ。
例えその所為で、更なる傷をこの身に刻み付ける事になろうとも……更なる痛みを被る事になろうとも……。
私は束の間の狂気と暴力に己を酔わせて恐怖を忘れ、更なる悦楽でこの身を充たす為に自らその攻撃が繰り出される方へとその身を躍らせて行くのだった。

「っ、ぅッがぁッ!? はァっ……ぅぐォォオオオッ!!」

脚の筋肉をバネに換え、傷付いた腕を交差し、其処に微弱な防御魔法を張りながらも私はその攻撃のど真ん中に突っ込んでいく。
身体を動かすたびに脈動する血管が酷く熱を帯びてしまい、傷がほんの少し外気に晒されるたびに猛烈な激痛が全身を弄ってくる。
だが、此処で立ち止まっては相手側の思う壷。
絶え間なく繰り出される爪の刺突の前に身体をバラバラに引き裂かれ、直視するのも耐えないような無残な死体にこの身が変わり果てるのを待つばかりだ。
だからこそ、私は前に足を進め続ける。
どうせ退がったところで、躱わせはしないのだ。
ならば今此処で生き残るにはほんの少しの可能性に─────連続して繰り出される刺突の軌道を読み、その僅かな間隙へと身を捩って滑り込む事に賭けるしかない。
私は喉を枯らさんばかりの獰猛な雄叫びを上げながら、地を蹴って自分の目論見を果たさんと一直線に鳥獣の懐へと突っ込んでいく。

しかし、現実は超人的なヒーローが大活躍する漫画のように早々上手くいくものではない。
まして相手は人知を超えた化け物で、自分は多少異能の力がほんの少し行使出来る程度の実力しか持たぬ一般人でしかないのだ。
そんな圧倒的に此方側が不利な状況下で都合良く転機が廻って来る、なんていうのは本当に一部の熱血少年漫画の世界の中だけだ。
現に攻撃の軌道を見極めるなどという私の荒滑稽な目論見は刹那の内に空想の産物へと回帰し、非情な現実だけが私の身体を容赦なく攻め立ててくる。
なけなしの魔力で張った防御陣は瞬く間に機関銃の掃射のような鳥獣の攻撃によって引き裂かれ、その攻撃は継続して私の身体を貫かんと幾度と無く腕を、脚を、腹部を、胸部を、そして頭部を嬲っていく。
皮膚が裂け、新たに生まれた曲線のような傷から新たな血潮が流れ出す。
肉が抉られ、その傷口からゴポゴポと泡を立ててどす黒い体液が身体を湿らす。
ゴキッ、と何かが折れるような鈍い音が身体の内から響き渡る。
痛い、いたい、イタイイタイイタイイタイイタイ──────────

「ぐァッ……ォァオオォッ。ふっ、くふふっ─────うふふっ、うふふふふ……くくッ、あははッ……」

度重なる激痛と衝撃の所為で頭がおかしくなりそうになる。
今この瞬間にも視界は何度もホワイトアウトとレッドアウト繰り返し、考えた端から思考が頭の中から吹っ飛んで消える。
もはや今の私に理性なんてものは存在しない。
全身に走る感覚が何であるのかも、身体中から滴り落ちる液体が何なのかも、自身の体温が熱いのか冷たいのかさえ知覚する事が叶わないのだ。
代わりに今この瞬間、私を支配しているのは絶え間ない激痛と衝動。
生きたいと願うが故に生まれた忌避感と例えこの身が滅び去ろうと目の前の敵を全力で縊り殺そうと猛る想いがぶつかり合い、其処から生まれた決定的な矛盾が内包された狂気だけが今の私を『高町なのは』として確立させているのだ。

故に……そう、だからこそ私は笑い、嗤い、哂う。
この身を蹂躙する激痛すらも愉悦に変えて、ただ只管に私は今この刹那を雷鳴の如く駆けるのだ。
ただこの瞬間、暴れ狂う為だけに生まれた狂乱する災厄として。
何を願い、何を想い、何を望もうと片端から忘れて暴れ回れる様な血煙のハリケーンとして。
私はただ只管に……痛みも忘れて、突き進むのだ。
何処にでもなく、真直ぐに……一直線に。

「─────おおおおおぉぉォォァァァァァァ!!」

数多の鮮血を撒き散らし、既に百を超える傷の疼きに駆られながら私はただ目の前の標的に自分の持てる全ての殺意と悪意をぶつける事のみに全神経を集中させる。
もはや魔力が枯渇しかかっている事など知った事ではない。
この身から流れ出した血潮が既に致死量に達しようとしている事も、目の前に映る世界が色濃い真紅に染め上げられている事もこの身にとってはどうだっていい事だ。
私はただ、生きたい。
もう今更こんな自分が人並みに真っ当なんて物を求めること事態どうかしているとは思うし、実際他人に聞いてみたところで十中八九今の私は目の前の暴走体と変わらない狂気を孕んだ化け物だと罵ってくるだろう事は何となく想像も付くというものだ。

だが、そんな私でも─────怪物を屠る事だけに駆動し続ける化け物にも一筋の安息が与えてくれる場所と人があるというのなら、私は今この時を生きていたいのだ。
辛い事も沢山あったし、消えて無くなってしまいたいと思う事だって百や千では利かないくらい幾度と無く在った。
時には自ら命を絶つことを夢想した事だって無いという訳ではなし、実際に先生と出会うまでは半ば自殺願望にも似た思いを抱いていた時期だって在った。
だけど誰からも嫌われ、蔑まれ、疎まれ続けていた私を……親友からも両親からも兄妹からも見捨てられ、孤独になった私を救い上げてくれたこの『高町なのは』を救い上げてくれた人だってこの世界にはちゃんと存在しているのだという事を私は知っている。
確かにこの世界は何処までも私に厳しく、残酷な世界だけど……それでも一筋の希望の光を抱かせてくれる程度には温もりも在るのだと私は信じ続けたい。
信じ続けて……いたいのだ。

だから、今は束の間の安らぎと温もりを求める少女である『高町なのは』と言う存在は捨ててしまおう。
この瞬間、この先もずっとこの世界で生きたいと望み続けるのなら、今はただこの身を刹那を駆け抜ける暴れ狂った嵐に変えて目の前の標的を殴殺してしまおう。
私は望む。
強く強く……狂獣である自分の姿を望む。
この身は確かに貧弱で、その内に秘める心もまた底なしに脆弱な物なのかもしれない。
だけど、この身に猛る想いは─────今この瞬間を生き抜こうと駆けるこの想いだけは黄金の輝きに均しい輝きを帯びている筈だ。
だったら、もう私は痛みなんか怖くない。
血がこの身から流れ出す事も、骨が折れて砕ける事も、内臓が潰れて息が出来なくなる事だってちっとも恐ろしく感じたりなんかしない。
だって私は嵐だから。
この身は刹那を吹き抜ける災厄であり、自然災害に意思など存在する筈が無いのだから。
私は全身を蝕む全ての負の感覚を忘れて地面を駆け、自身の片腕に己が今持てる有りっ丈の魔力を込めながら勢いに任せて真っ赤に染まった視界の内で捉えた鳥獣の胸部へとその腕を突き出して言霊を放つのだった。

「フォトンッ、バァァアアアストォォオオオッ!!」

刹那、私の掌の内で桜色の魔力が爆発し、その閃光は空間を蹂躙する圧倒的な暴力となって鳥獣へと叩き込まれていく。
羽毛を毟り、肉を剥ぎ取り、骨の髄まで苦痛を染み込ませた上で微塵に砕け散らす。
ほんの一瞬、桜色の閃光が瞬く間に起こった無数の災厄はその光が掻き消えるのと同時に悲惨な実状を次々と露にし、その身が引き裂かれてるような痛みを鳥獣へと齎していく。
絶叫、もはや悲鳴とも嗚咽ともつかない甲高い咆哮が私の鼓膜を振るわせる。
その瞬間、私は瞬時に悟った。
目の前の敵は苦しんでいるのだと……自分が放った攻撃によって耐えがたい苦痛を被ったのだと。
それは当然と言えば至極当然の事。
何せ、鳥獣は今の攻撃で胸部から下を根こそぎ喰い千切られたのだ。
これを苦痛に感じないと言うのならそれは生物としての根本から間違っているのだろうし、その程度の事を自分自身が理解出来ないという訳でもない。

だが、それはあくまでこの身が普段通りの私であったらの話であり、今の私は少なくとも“まとも”ではない。
この身は一匹の手負いの獣。
この身は一陣を駆ける暴れ狂う嵐。
この身は─────もはや、狂気と嗜虐に酔いしれた怪物でしかない。
故に、私は自身の力が敵を蹂躙した事を認識した途端、壊れたオルゴールのように笑い出す。
其処に声など無い。
激痛に歪めた喉から漏れる乾いた微笑も、歓喜に震えて溢れ零れる嬌声も無用だ。
しかし、その顔に浮かぶ表情……今この瞬間を何物にも変えがたい愉悦と絶望の瞬間であると物語る表情だけは絶え間なく哂い続けている。
それだけで、私はもう十分。
その感覚を感じているだけで、私はもう十分現状を把握する事が出来る。
今この瞬間、標的の生命逸脱の権利は私側に在るのだという事を。
この場における絶対的な強者は私なのだという事を。
ただただ淡々と、しかし余す事なく……私は享受することが叶うのだ。

そして、状況は更なる境地へと移り変わる。
赤く濁った私の視界に一筋の輝きが照り輝き、その光がこの身に更なる衝動を叩き付けて来たのだ。
この身に迸るのは耐え難い悪寒と、垂れ流される歪んだ欲望。
様々な悪意が交じり合い、それが槌となって心の奥底を激しく打ち付けてくるような感覚が私の意識の中に溶け込み、消え掛かった理性を更に薄い物へと変えていく。
そう、それはあの時と……ジュエルシードが発動した時とまったく同じ、酷く醜悪で気持ちの悪い波動だった。
だが、私はその波動が心を揺す振った瞬間、視界の片隅で光る存在がその感覚の源である事を瞬時に感知した。

何故そう思ったのかは私にもよく分からない。
だけど、私には分かる。
何の根拠も無いけれど、確かに解るのだ。
もはや理屈ではなく勘─────人間的で雑多な理性ではなく、動物的で純粋な本能が幾度と無く私に訴えかけてくる。
あれは自分もよく知っている波動であるのだと。
あれを排除すれば私に降り掛かる危機は去るのだと。
あれがあるから自分は今こんな理不尽な目に合っているのだと。
何度も何度も、それこそ微塵となって消え去ろうとしていた理性が憤怒と憎悪となって再燃し始めるほどに私へと訴えかけてくるのだ。

ならば……一体、私はどうすればいいのか。
そんなことは今更論ずるまでもない。
本能に、ただ只管に自分の本能に従ってあの波動の根源を標的から奪い取ってしまえばいいのだ。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、私の四肢は自然と反応を起し、傷だらけの脚が血と砂が交じり合って生まれた汚泥を後方へと跳ね飛ばす。
目標の場所は分かっていて、ゲームのクリア条件も今や明確な物となった。
どれだけ自分のライフが削られていてもミッションさえ充たせばクリアはクリア、この場を攻略した事に違いは無いのだ。
すなわち、私がしなければ行けない行動はこの場において唯一つ。
刹那、私は本能の赴くがままに地面を蹴って宙を飛び、負傷して動けなくなっている鳥獣の胸部へと腕を伸ばして一気に距離を詰めるのだった。

「見つッ、けたァッ! と、どっ……けぇぇェェエエエエッ!!」

苦痛と冷笑に表情を歪ませながら、私は一直線に鳥獣の喉元へ─────標的の身体に侵食し、肉と脂肪に塗れながらも変わらず負の波動を孕んだ光を放ち続けるジュエルシードへと手を伸ばす。
私と鳥獣との距離は最早1メートルとない。
幾ら私の身体能力が常人のそれを遥かに下回っているからといっても、決して届かない距離ではなかった。
加えて、相手は先ほどの私の攻撃で手酷い損傷を負ってしまい、とてもじゃないが回避など出来る状態じゃない。
故に、結果私の腕は鳥獣の喉元へと突き刺さり、伸ばした腕の全体を生温い感触が包み込んでいく。
幾重にも刻まれた大小様々な傷へと鳥獣の体液が滴り落ち、それが言いようの無い不快感となって頭の内に幾度と無く警笛を鳴らす。
だが、私は伸ばした腕を決して引っ込めようとは思わない。
それどころか今この瞬間、自身の掌で掴んでいる物ごと喉を掻き切ってしまいたい衝動に私は駆られていた。

「ぐえっ─────」という情けない嗚咽が鳥獣の口から不意に漏れる。
喉元を内部から直接突かれた所為なのか、それとも核となるジュエルシードを排斥されかかっている所為なのかは定かではないが、その声色は酷く強張っていてまるで肉食獣に追われる小動物のような印象を私に抱かせた。
それが理解できた途端、更に私の表情は邪で歪な感情に歪み、胸の内に秘めた嗜虐心が鼓動を回して心臓を跳ね上がらせる。
ずっと……そう、私はずっと我慢してきたんだ。
例えどれほどこの身が理不尽な人災に見舞われようとも抵抗しては更に仕打ちが酷くなると分かっていたから……もうこれ以上苦しみを増徴させたくないから私はずっと、ずっと息を殺して怨恨の念を溜め込み続けてきたのだ。
だが、もうこうなってしまった以上何も我慢する必要なんか無い。
普通なんて要らない。
平凡も、日常も、平和も、皆須く音を立てて崩れ去ってしまえ。
私はただ殺し、誅し、弑し、戮し、殲し、鏖すだけ。
自身がこれまで溜め込んできた悪意を糧に、虐殺と略奪の限りを尽くさんと暴れ回るだけだ。

ならば─────そう、ならばこの場において私は奪われる者ではなく奪う者だ。
虐げられる者でもなく、蔑みを受け続ける者でもなく、ただ上を向いて嘆き続けるだけ者でもない。
私は奪う取る者。
私は簒奪する者。
私は略奪する者。
例えそれが一時の慰めにしかならないのだとしても、この場では私が主導者であり、今この瞬間私だけが標的から命を奪い取る事の出来る存在なのだ。
だったら、もう私は周りに媚び諂いながら生きる『高町なのは』でも同級生や周囲の人間から嬲られ、排斥される『高町なのは』でもない。
ただ本能のままに己が渇望を求めて暴れ狂う嵐─────唯一つの災厄としてこの場に吹き荒れる『高町なのは』だ。

故に、私は食い破ろう。
標的の喉元を引き千切り、その力の根源を簒奪し尽くしてしまう。
私は苦しみのあまり一層脈動を増す鳥獣の喉元を必死に掌で押さえ込みながら、自身の体重を全て後方へと掛けて一気に侵食したジュエルシードを引き剥がそうと力を入れる。
ぶちぶちと神経が引き千切れる音が鼓膜を震わせ、不快な絶叫と共に鳥獣がその場にのた打ち回ろうと足掻き始める。
だが、私の腕は鳥獣の喉元へと突き刺さったまま、決してジュエルシードを取りこぼす事は無い。
それどころか、鳥獣が暴れれば暴れるほど……苦しみから逃れようと足掻けば足掻くほど、その力が自身の肉や脂肪を裂き、更なる苦痛を鳥獣へと齎すばかりだ。
そして数秒もすればジュエルシードを包み込んでいた肉は削がれ、私の手の内には徐々にジュエルシードの無骨な感触が露になっていく。
このままなら鳥獣が負傷した部分を回復するよりも先にジュエルシードを引き抜くことも不可能ではない。
私は今までよりより一層鳥獣の喉を掴んでいる腕に力を入れ、その行動だけに自身の全神経を集中させながら、獣のような咆哮をあげてジュエルシードを引き抜こうと猛るのだった。

「うっ─────がァッ!? 引っ千切れろォォオオオァッ!!」

腕を引き抜こうとすると同時に私の胸部に耐え難い激痛が迸る。
どうやら鳥獣の連撃を突破する際に受けた攻撃の所為で肋骨か肺に手酷い損傷を負ってしまっていたらしい。
もはや呼吸をする事すらもままならなく、私は堪らずその場に膝をつきそうになってしまう。
だが、それでも……其処までされても尚、私は倒れたりはしない。
此処で倒れる訳には行かないのと─────此処で死ぬ訳にはいかないと猛る本能が、私を諦めさせてはくれないのだ。
例えどれだけ苦しくても、例えどれだけ投げ出したい気持ちになったとしても。
私が今の私である以上、安易に膝をついたり、気絶したりなどを引き起こす事は赦されないのだ。

口内でごぷっ、と何かが溢れ、血の味が舌の上を微かになぞって行く。
吐血、どうやら本格的にあまり私に時間は残されていないということらしい。
だが、ようやく私は此処まで来たのだ。
あれだけの劣勢、あれだけの力量差、あれだけの不条理を全て覆して私はようやく勝利の間近へと歩を進めてこれたのだ。
負けない……此処でイモを引く訳にはどうしてもいかないのだ。
生き残りたい。
この場において私は何物にも換え難い勝利の愉悦を得たい。
だから……そう、だからこそ私は例えどれだけ傷付こうと、意識を手放そうとは考えたりなんかしないのだ。
そして、その渇望は力となって言葉に顕現する。
どれだけ暴れまわろうと、決して意識を手放すものかと猛る執念へと変わっていく。
私は鳥獣の強引な抵抗に幾重にも身体を振り回され、見に奔る激痛に時折意識を失い掛けながらも、鳥獣の喉元から筋肉や神経ごと侵食したジュエルシードを無理やり引き剥がして高らかに自らの勝利を宣言するのだった。

「これっ、でェ……ラスっ……トォッ! 私の─────勝ちだァァァァァアアアアアァァァッッ!!」

瞬間、私が放った勝利の雄叫びだけが一体の空間を欠片すら余さず根こそぎ支配する。
吐血と唾液が交じり合って生まれた飛沫が口元から漏れ出し、それは刹那の内に地面へと落ちて赤い染みを作っていく。
息をするのも苦しい。
そればかりか、もはや自分の感覚が正常であるのか否なのかも判別がつかなくなってしまいそうな程に意識は朦朧として、真っ赤に染まっていた視界は完全に景色を見失ってしまっている。
もはや自分が前を向いているのか後ろを向いているのか、立っているのか座っているのか倒れているのかさえ私には分からない。
恐らく、あまりにも身体を酷使し過ぎた所為でまともに五感が働いていない所為なのだろう。
今や私の身体はまともに自身の状態を把握する事すら出来ない有様だった。
唯一つの例外を……この身を包む鮮血の温もり以外の感覚を除いては。

血に染まった掌の中で何かが鼓動する。
それはまるで生物の心臓のように脈を打ち、残り香のような微かな温もりを孕んでいた。
瞬間、私は自分が今どのような立場にいるのか、という事を瞬時に理解する。
それは殆ど獣染みた理屈の元で導き出された答えだった。
理性や思考など其処には欠片すらも存在せず、凡そ文明的な生活を送る者からすればその理屈が常識の埒外に位置する事は必須だと即座に理解する事が出来た事だろう。
だが、この場においてはそれこそが事の顛末であり、心理だった。
人の身姿をした獣と異形の身姿を獣が共食いを起し、互いの命を奪い合った末に片方が生命の核を抉り取られて事切れた。
それが全て……そう、それこそがこの場に起こった出来事の全てなのだ。
故に、今此処でこうして何かどうでもいいような戯言を考えていられる物こそが勝者であり絶対者。
つまり、この私こそがこの場における勝利の愉悦を感じる事を赦されたただ一人の者なのだ。
私は急に重くなった瞼で視界を閉ざし、込上げてくる血液交じりの胃液で何度も咳込みながら掌から溢れ出す温もりだけを自らを支える頚木に変えて、自らの内で溢れかえる幸福感に一人酔い痴れるのだった。

「ハハハ、ははっ……ごぶっ、げふぉ……くっ、ひっひひ。あははは、はははははは! アッハハハハハハハァァァッッ!! どうよォ、ざまぁみろってねェッ! 出来たよ、一人で……ごォッ……ちゃんと、敵を……がァォっ! ひっ、ヒィハハハハハハハ! ハハ、ハハハハ、アァァハハハハハハハハ!! くくっ、かっ、はぁ……ひゃはっ、ぁ─────」

その瞬間……その刹那に私が感じた幸福は間違いなくこの世に生を受けてから今に至るまでの九年という月日のなかで至上の物だった。
何せ、この一瞬で私は自身の内に溜め込んでいた鬱憤や憎悪、殺意や怨恨といった悪意を全て解き放つ事が叶ったのだから。
数多の人災に蔑まれ、踏み躙られ、脅され、穢され、虐げられてきた記憶からようやく『高町なのは』を開放する事が出来たのだから。
故にこの瞬間私は何もかも忘れてただ只管に笑い続けた。
自身が遠の昔に致死に至る量の傷を負い、己が何時死んでもおかしくない状況にあるのだという事も。
自身が何の為に戦い、何の為に異能の力を今まで行使してきたのかと言う事も。
自身の手の内で光るジュエルシードの活動がまだ終わっていない事さえ、私は忘却の彼方へと追いやったのだ。
結果、その慢心は一瞬の内に勝敗を逆転させる引き金となってその場に現れ、即座に引き絞られて残酷な現実をこの世に露にする。
ぼたりっ、ぼたりとどす黒い体液を撒き散らしながら、不死の鳥獣が駆動を開始するという現実へと私を誘って行くのだ。

瞬間、私の身体が羽毛のように宙を舞い、コンクリート製と思わしき硬い壁に容赦なく叩き付けられる。
痛みは無いし、疼きも無い。
血が身に堕ちて滴る感触も、意識が遠退く感覚も、苦しみがこの身を蝕む事も、激痛が神経を蹂躙する事も……何もかもが私の中から欠落してしまったかのように活動を停止してしまうのだ。
そして、その代わりに伝わってくるのは一筋の血流が口元から垂れ堕ちていく微かな温もりと、勝利の証を掌から剥奪される感覚。
あれだけ苦労して……あれだけ傷付いて……ようやく手にした勝利が、容赦なく奪われていく。
理由も理屈も分からない。
今となっては確かめようも無いし、指先一つまともに動かす事も叶わない私が今更どうしようと結果を覆す事なんて出来ないと分かっているからだ。

私は負けたのか。
それとも勝ったのか。
多分現状を言葉にして表現するのなら恐らくその両方とも当て嵌める事が出来るのだろうと私は想う。
確かにあの瞬間、ジュエルシードを引き剥がす事に成功したあの瞬間までは間違いなく私は勝者としてこの場に君臨していられた。
敵を倒し、生命の核を奪い、ただ一人生き残った物としての優越を感じていられた……それは紛れも無い真実だ。

だが、本当に─────あぁ、心底どうでもいい事ではあるのだが、其処から先の私は今と同じ事切れた襤褸人形でしかなかった。
魔力も生命力も何もかも使い果たし、一筋の幸福に酔いしれながら崩れ落ちていく目の粗い継接ぎだらけの人型でしかなかったのだ。
故に今の現状は結局私が相手の力量を把握し切れず、無謀にも捨て身の攻撃を放って返り討ちにあったという結果に過ぎない。
だから私は負けた……意識が事切れた先の未来で最後の最後に敗北してしまったのだ。
最後の最後まで、ジュエルシードの危険性と特性を見極められなかった私自身と言う存在に。

「……ぅ……ぁ……」

私の瞳はもう何も映す事は無い。
私の耳はもう何も聞き取る事は無い。
私の鼻はもう何も嗅ぎ取る事は出来ない。
私の指はもう何も感じる事は出来ない。
私の舌はもう何も働く事は無い。
五感が死滅し、ただ暗くなった意識の底で、私は一人元の『高町なのは』へと自己の意識を回帰させて行く。

思えば今まで生きてきた人生なんて碌でも無い事の繰り返しでしかなかった。
幼少の頃から家の中でも外でも居場所なんて無くて、誰一人私の事を注目してくれる人もいなかった。
皆、みんな……私の事を無視するように遠ざかっていって、結局私は何時も一人だった。
まぁ、四歳、五歳、六歳と歳が重なるに連れて確かに一時は私も気持ちを持ち直した時もあったにはあったのだけれど。
お父さんも無事に病院から退院し、私も学校で友達が出来て、ようやく何もかもが一つに纏まっていくのだと想った時も無かった訳ではない。
だが、現実は何処までだって非情で残酷だ。
今となっては周りの人間からは悉く虐められ、家族からは邪魔者扱い。
長年欲して止まなかった友達は遠ざかり、社会からは問題児のレッテルを張られて陰口をたたかれる始末。
そして挙句の果てには此処でこうして努力も虚しく化け物に身を裂かれて殺されるのがその結末だと言うのだから、もうこれ以上の最低なんて他には無いだろう。

未練が無い訳じゃない。
生きたかった。
もっと先の未来を……もしかしたらありえたかも知れない未来を私は生きたかった。
だが、もう何をしたって私が助かる見込みは無い。
何せ、自分の身体だ。
自身の限界や状態くらい何となくだが掴む事くらいは出来る。
いっぱい血も出たし、傷付きもした。
多分さっきの衝撃で幾つか骨も折れたのだろうし、もう呼吸をする事もままならなくなりつつある。
もう自力で回復魔法を唱えられもしない以上、後は死を待つ他私に選択肢は残されてはいないだろう。

殺すならもういっそ一思いに殺して欲しい。
薄暗い視界の中で私は残された意識をその一念を願う事のみに行使する。
どうせこのままでは後数十分と持たない塵みたいな命だ。
出来る事なら迅速に、そしてなるべく惨たらしく殺して欲しい。
こんな私でも……こんな場所で打ち捨てられた襤褸人形のような私でもそれが生きた証明になってくれると言うのなら、どうかこの身を引き裂いて殺して欲しい。
私は願う。
誰に何を想う訳でもなく、ただ只管に自信の死に恋焦がれる。

そう、きっとこれこそが私の本質なのだろう。
未来に来るかもしれない幸福を夢見て先へ先へと進み続ける『高町なのは』と今の現実に絶望して自身の排斥を恋焦がれる『高町なのは』。
どちらも均しく“私”であり、そのどちらもが駆動や自傷の衝動となって現れる以上、それらは均しく歪んだ本質を内包し、己が渇望として具現するのだろう。
底知れぬ矛盾として─────未来を生きたいけど今の自分を消したいと望む、醜悪な矛盾として。
ならば今此処に在る高町なのはが消えることもまた、私の望んだ未来の一つだ。
自身の中の負の感情……陰と陽の内の陰としての自傷衝動の極限が今此処に具現しようとしているのだから。

(あぁ……そっか。なら──────私は……)

自傷の念に苛まれ、その果てに死滅する事をずっと望んでいたのだ。
其処まで感情が浮かんだところで、私は不意に其処に疑問を感じた。
では、何故私は勝ちたいと願ったのだろう。
此処でこうして惨たらしい死を晒して、自分の人生は所詮最底辺の物に過ぎなかったのだと自嘲しながら死んでいく事を切に願っていたと言うのなら、何故私はあの時勝ちたいと望んだのだろう。
分からない─────否、そんな事は初めから分かっていた筈だ。
何の為に私は闘おうと決めたのだ。
何の為に私は此処まで傷だらけになっても諦めようとしなかったのだ。
何の為に私は命懸けで前に進もうと思い立ったのだ。
それは自分の為なんかじゃない。
独り善がりの考えの中で自身を陥れる事だけの為に生まれた考えなんかじゃない。
ならば、私は一体何を求めたと言うのだろう……。

─────あきらめないで。

私の心の内で不意に小さな声が鈴の音のように響き渡る。
それはとても聞き覚えのある女の子の声。
小さくて切なげで、だけど雑多なそれとは違う凛とした表情の女の子の声だ。
それは、一体誰だったろうか。
分からない訳じゃない。
だけど頭の中に靄が掛かって一向に名前が出てこないのだ。
思い出したいのに……どうしても思い出さなきゃ行けないのに……。
頭も身体も全然働いてはくれないのだ。
だけど、そんな私の様子もお構い無しにその女の子は喋り続ける。
否、これは願っているのだろう。
どうして? そんな事は分からない。
だけど、どういう訳か私にはそんな風に思えたのだ。
一筋の祈りを込めて、只管に何かを願い続けるという……彼女の様子が。

─────辛いのは分かるよ。苦しいのも、痛いのも……。だけど、此処で逃げちゃ駄目だよ! 何の為に一緒に此処まで頑張ってきたの!? こんな処で死ぬ為? 自分自身を消す為!? 違うよね! 大切な人を護りたいって……自分の大事な物を護りたいって、そう誓ったからでしょ!!

その声はとても必死で、凄く焦りを帯びてた。
悲しみも憂いも憤りも、何もかも孕んでふるふると震えていた。
その様子がどうにも滑稽で、私はどういう訳か雨の降る夜に道端に打ち捨てられた段ボール箱の中で震える子猫の切なげな鳴き声を思い浮かべてしまった。
場違いなのだと言う事は分かってる。
自身が死ぬ間際に聞く幻聴に抱く感想としては酷くジャンル違いなのだと言う事も、勿論解っている。
だけど、何でかよく分からないけど……その声を聞いていると酷く心が寂しくなるのだ。
まるで自分が今も誰かに支えられているような……それでいて何故か、自身の中で蠢いていた自傷の念が総て掻き消えてしまうような、そんな感覚と共に。

─────なら、此処で全部放り出しちゃうなんて駄目だよね!? そんなの……っ! そんなの絶対に赦せないよね!?

そんな叱咤が心の内に響いた途端、どくんっ、と心臓が大きく跳ね上がる。
それまでは静かに動きを止めるのを待つ他なかった筈なのに、まるで生命の息吹を吹きかけられたように何度も何度も鼓動が反復しだしていく。
そして、次の瞬間には消え掛けていた私の意識が南極の氷が一気に解かされて水となって溢れ出すように私の内側を所甘さず満たして行く。
枯れ掛けていた脳細胞が復活し、消え掛けていた理性が息を吹き返し、何もかもが鮮明となって私の身体の中を駆け巡っていくのだ。
やがて、それ等は一斉に声を張り上げて私に訴え掛け始める。
このままでいいのか、と。
本当にこのまま惨めに死ぬことを選択するのか、と。
何度も何度も、もはや千や万をでは満たぬ声をあげて、私へと訴えかけてくるのだ。

故に、私もその意識に従って頭の中でその返答を何度も繰り返していく。
あぁ、嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だとも。
こんな薄暗い意識の穴倉で“私”が消滅するなんて真っ平御免だ。
あぁ、赦せない。
こんな場所で誰にも見取られる一人寂しく死ぬなんて絶対に赦さない。
だが、今の私は所詮死に掛けの襤褸人形。
幾ら想い願った所で、理想を現実に変える力など持ちようはずがない。

だが、私は諦めない。
諦めたくないという気持ちが再びこの胸を充たして暴れ回る以上、私はこの理不尽を許容して大人しく死んでやることは出来ないのだ。
ならば、私はどうすればいい。
こんな私が自分を救うには一体どうしたらいいというのだ。
私は問い、そして求める。
私の内側へ響く声の主へと……私の事を心から思ってくれる彼女へと。
只管に、問い求め続ける。

─────名前を……名前を呼んで……。

それは酷く曖昧で、それでいて抽象的な言葉。
何をしたらいいのか、何をせねばならないのか……そんな問いに返ってくる言葉としては些か言葉足らずという他ない、そんな言葉だ。
だが、私はその言葉に従おうと何とか口を開けて音を出そうとする。
唇は既に乾き切り、喉も荒れてまともな声なんか出せる状態じゃない。
そればかりか、乾いて固まった血が口の中で泡となって微かな音すらも出せぬと言う有様だ。
だが、私はそれでも何度も何度も必死になって声を出そうとする。
小さくてもいい。
微かでも……そう、ほんの僅かでかまわない。
声よ、出ろ。
せめて……せめてこの祈りの声に返答してあげられるだけでいいから。
お願い、どうか私を叫ばせて。

─────それだけでいいから。もうそれ以上は望まないから! 一度だけでいい。私の名前を……私の名前を……っ! なのはお姉ちゃん!!

瞬間、私の中で何かが落ちていく。
それはまるで朝露の一滴が葉っぱから落ちていくかのような小さな物で、衝動と呼ぶにはあまりにも小さい微かな感情だった。
だが、それが心に落ちた瞬間、私は感じた。
自身の内側が充たされていくのを……自身の心が充たされていくのを。
あぁ、今になって私はようやく分かった。
自分がどれだけ馬鹿で愚かで、それでいて救いようの無い人間なのかという事を。
何が自分は一人だ。
何が自分の人生は碌でもないことばかりだった、だ。
私は一人なんかじゃないじゃないか。
こんなにも……こんな死の境地にも私の事を想ってくれる人間がちゃんといるじゃないか。
それを忘れて、何を私は諦めようなどと思っていたというのだ。
私は自分の中に沸き立つ自己嫌悪の念を糧に、無理やり傷付いた自身の身体を動かしながら、いきり立つ怒りの衝動を自身の声として必死に外へと押し出そうと抗い続ける。

「……っ…て……ア……シ……ぁっ!」

何度も、何度も放とうとする言葉は喉を塞ぐ血の泡によって遮られて掻き消える。
ごぼごぼ、と音が立ち、肝心の発音がまったく上手くいかないのだ。
だが、それでも私は何度でも、そう何度だって声にならない声を発し続ける。
あぁ、確かに私の渇望は矛盾だらけの継接ぎだ。
生きたいと願った傍から消えたいと祈り、消滅を求めた果てから生へと執着して抗い続ける。
何とも強欲で、何とも無節操。
いっそまともじゃないと断じてしまってもおかしくないのではないのかと想うほど、私の渇望は破綻してしまっていると言う訳だ。
でも、それが何だと言うのか。
今になってようやく、私はそんな風に開き直る……開き直る事が出来る。
矛盾が蔓延っているから? 自分は破綻しているから? 自分は嫌われ者だから?
それが何だ、上等だ。
それもひっくるめて私。
そういう理屈が分かっていて尚心底諦めが悪いのが高町なのはだ。
この際理屈がどうしたっていうのだ? 道理がどうしたっていうのだ?
そんなものは私の無理でこじ開けてしまえばいい。
私の心の内で溢れる衝動によって、総て覆い尽くして喰らい尽くしてしまえばいい。
故に私は願い、叫ぶ。
私が求める人へと……私を求める人へと……。
一筋の声を荒げて、彼女の名前を私は叫んだ。

「来て! アリシアぁぁあああ!!」

『……あいよ。まったく、世話が焼けるんだから。なのはお姉ちゃんは』

瞬間、私の身体はそんな皮肉めいた声と共に優しげな光に包まれる。
それは癒しの光。
黄金のように高貴な輝きを放ち、水銀のように自在に姿を変え、温かな毛布のように優しくこの身を包み込む癒しの光だ。
フィジカルヒール。
それがその光の正体であり、正式な魔法名だ。
本来は簡単な傷を治療したり、応急手当などに使用したりする即効性の治癒魔法なのだが、私の身を包み込むそれは私が使用するものとは桁違いの効力を持ったものだった。
流れ出た血潮が身体の中へと舞い戻り、引き裂かれた肉が水疱のように泡を作っては消えて本来の姿を取り戻し、折られた骨は一瞬にして元の形を取り戻していく。
あまりにも出鱈目な治癒力。
あまりにも非現実過ぎる新陳代謝。
全身の細胞が歓喜の声をあげて、それ等の変化を祝福する。
まるでゲーム等に出てくる体力を全回復させる魔法を現実に受けたかのようだと私は思った。

しかし、私に身に起こった変化はそれだけでは無い。
血だらけだった制服は漆黒色のジャケットやスカートへと姿を変え、それと相反するかのように純白のマントが背中へと装着されていく。
腰には真紅のベルトが巻かれ、御腹とベルトの間には見慣れたクロームシルバーの小型拳銃が挟まっていく。
血だらけだった掌には薄手のグローブが収まり、汚泥に穢れていた運動口が鋼鉄のような鈍い光を放つプロテクターへとその姿を変える。
そして、極め付けが胸元に顕現した金色の土台に薄水色の宝石を装着したブローチと掌の内に収まった漆黒の戦斧。
ジュエルシードとバルディッシュ。
それが、今の私を支える獣の爪牙だ。

私は正常に稼動するようになった眼で敵の姿を捉え、そして能力を行使する。
敵は私の直ぐ前方─────ってていうか、私を半ば押し倒すような形で荒々しく爪を振り上げていた。
だが、身体も魔力も回復し、完全装備になった私が振り解けないほどの相手でもない。
私はバルディッシュを持つ腕とは逆の手で拳骨を作り、胸の内で煌く宝石に共鳴させるようにある一つの念をその拳へと込めていく。
何をそんな下劣な腕で私に触っていると言うのだ。
とっとと離せ、っていうかむしろ消えてしまえ。
汚らわしい……バラバラに引き裂いてやる。
私は鳥獣が我に帰ってこちらの方へと爪を振り下ろしてくるよりも先に、その拳を前後に大きく振り被って鳥獣へと殴り掛かるのだった。

「そんなポテトチップ食べた後みたいなベタベタした手で─────」

まるでクロスカウンターのように伸びる双方の攻撃は交差するように互いへと打ち放たれ、それぞれの身体に襲い掛かっていく。
だが、鳥獣の攻撃は決して私に届くことは無い。
私が触れられたくないと─────誰にもこの身に干渉を赦さないと願った時点で、この世界におけるどんな攻撃も意味を成さないからだ。
結果、鳥獣の攻撃は何も無い空間に生まれた“遮断”の力によって受け止められ、瞬時に切り替えした“反射”の力で私の身体の真横へと逸れて行く。
そうなると、残るは私の拳による一撃のみ。
先ほどの防御と同じように“遮断”と“反射”の念が篭った、私の殴撃だけだ。
そして、その攻撃は刹那の内に……鳥獣へと容赦なく突き刺さる。

「私にィ、触れなァッ!!」

拳が突き刺さった瞬間、めきっ、という鈍い音が鳥獣の身体から響き渡る。
更に次の瞬間には、その身体は弾丸のように撃ち放たれ、容赦なく海面へと叩き付けられる。
その速度は正に砲弾もかくや。
着水した瞬間にはまるで鯨でも跳ね上がったかのような水しぶきがあたりに飛び散り、優に数十メートルは離れたいた筈の私にもその水滴が降り掛かってくる。
だが、この程度でしとめた訳も無い。
私はバルディッシュを杖にその場に立ち上がりながら、首を左右に振って数度小気味のいい音を立てながら鳥獣が叩き付けられた方の海面へと視線を移していく。
するとぶくぶくと水面に泡が立ち、次の刹那には怒りを露にした鳥獣が双翼を広げて海面上に飛び上がってきた。
どうやらあまりダメージは無いらしい。
私は鳥獣の丈夫さと生命力の強さに半ば呆れにも似た関心を抱きながら、徐にベルトに挟まった小型拳銃を抜き放ちつつ、其方の方へを歩を進めていくのだった。

『なのはお姉ちゃん……油断しないで。直ぐに来るよ』

「解ってるって。心配性だなぁ、アリシアは。……ありがとう、助けてくれて」

『ふふっ、パートナーでしょ。あっ、でもお話は後でちゃんと聞かせてもらうからね!』

「はいはい、解ってますよーっと。んじゃ、始めようか。此処から先は第二ラウンドだ。盛り上がっていこうよ!」

掛け声と共に私は走り出す。
只管に、ただ真直ぐに目の前の敵の方へと。
手の内の戦斧を振り上げて。
手の内の銃把を握り締めて。
目の前の敵を殴殺すべく、前へ前へと進み続ける。
今この瞬間、私は生に満ち溢れていた。
だが、同時に己が渇望に餓えつつもあった。
そう、この瞬間……今この瞬間をもって『高町なのは』は完成する。
果て無く荒れ狂う嵐へとその身を変え、自身が求める物の為にその力を行使する事が叶うのだ。
加えて、今の私は一人じゃない。
小さくて、甘えん坊で、頼りないけれど……今の私には仲間がいる。
掛け替えのないパートナーが、直ぐ傍にいる。
だから、私は負けない。
負けてなんてやれないのだ。

こうして私と鳥獣の戦いは次のラウンドへと昇華されていく。
其処にあるのは身の破滅か。
それとも勝利の愉悦か。
分からない。
だけど、絶対物にしてみせる。
勝つのだ、私は……絶対に。
私は自身の内に溢れる衝動に駆られ、私を待ち受ける標的に向かって一直線に突っ込んでいくのだった。
駆け抜ける、嵐のように。






・補足
それではいつもどおりの補足です。

・フィジカルヒール
備考:原作ではユーノ君やクロノ君が使用。
名前の通り肉体的な損傷を補う為の即効性の治癒魔法だが、本作のように骨や血液まで補えるかどうかは不明。
本作ではアリシアがジュエルシードの力を用いて発動。
回復力がそれこそ桁違いに上がっている。
まぁ、要するにホイミがベホマズンになったっていう事ですね。

・なのはさんの新装備『ブローチ』
備考:ジュエルシードを何時までも直接持ってるのは描写的に辛い物があったので、バリアジャケットの一部として新たに追加。
映画版のなのはさんのバリアジャケットの胸元についていた金属部分(原作版では赤いリボン)をモデルにジュエルシードをはめ込んだだけです。
ぶっちゃけ武器でもなんでもないですが、指の間に挟んで殴ると多分痛いです。

以上、補足でした。



[15606] 第二十六話「嵐の中で輝くの……」(グロ注意)
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:282a81cc
Date: 2010/09/27 22:40
暴虐と嘲笑。
それは今までの人生において私が忌避して止まなかった事柄だ。
別段私は平和主義者である訳でもなければテレビのニュースで市民団体の代表が壊れたジュークみたいに繰り返しているようなご大層な理念を持ち合わせている訳でもないが、それでも一人の感覚として殆ど病的と言えるほどそれ等を嫌っていると言えた。
多分、その理由は私が今まで過して来た人生の中で嫌というほど刻み付けられてきた鈍色の記憶が関係しているのだろう。
それはあくまでも過程でしかなく、最終的に私がこんな風な人間になってしまったプロセスの一部分でしかないのだろうが……その原因たる証拠としては十分事足りると言う物だ。

ちょっと昔の事を思い出すだけでもそうだ。
遡った記憶の先に在るのは何処までいっても私に降り掛かってくる理不尽な暴力と、力尽くで捻じ伏せられ、嬲られていく私を何時までも見下し続ける嘲笑に歪んだ双眸。
何時、何処で、どんな風にどんな事をしていたのかと言う幼く些細な思い出にすらそれ等はずっとついて回ってくる。
何処までも、何処までも……例えどれだけ私が逃げ出したいと思っても、未来永劫何処までも私を追い続けてくるのだ。

それは苦しみの記憶。
それは痛みと悲しみの連鎖。
それは……寂しさと孤独の象徴。
誰も私なんか受け止めてくれはしない。
疎まれ、蔑まれ、嬲られ……そして何もかも奪われ尽くされる。
それが私の定め。
それが私の業。
生きる意味なんか無い。
もう死んだって構わないってずっと私は想い続けていた。
こんな恐怖に脅かされ続けるならいっそこの世から消え去りたいってずっと思っていた。
きっと今の私の自傷癖にも似た無謀さはここら辺から来ているのだろう。
先生と出会い、生きる意味を考え始めてからは何となくそこら辺の想いも薄くなっていたのだけど、根本的な部分として私は今の自分を壊したいという願いを胸の内に抱き続けている。
こんな自分を打ち壊して先に進めば何か別の物になるんじゃないか、という歪んだ願いを。

そして結果として私は“痛み”に慣れてしまった。
肉体的にも、精神的にも私は己が苦痛を被る事を受け入れるようになってしまった。
別にマゾヒズムに浸っていた訳じゃない。
自分が嬲られる事を肯定してしまえば少しはこの心を蝕む葛藤や重圧が薄れるんじゃないか、って思い立っただけの事だ。
まぁ、今となってはその選択が正しかった否だったのかなんていう甲乙は付けられないが、結果として私の人格は歪み、周りからの評価は地の底よりも更に深い奈落へと落ちた。
理不尽な現実に立ち向かう気力も無く、抵抗する気も失せ、後は時が流れるままに呑まれ、喰われ、簒奪され尽くして朽ち果てる。
そうすれば何も感じる事無くこの苦痛を享受し、息絶える事が叶うのが至上だと思い込んでしまっていたのだ。

だが、今の私は違う。
少なくとも、そんな頃の─────孤独を感傷の宥める理由に添えて毎日を生きていた頃の自分とは何もかもが違うと言って良い。
何せあれほど暴力と嘲笑を恐れ、怯えていた筈の私がそれを行う立場となり、人知を超えた異能の力を振るって攻防を繰り返しているのだから。
今の自分は強者であり、それ故に簒奪者だ。
他人からの害意や悪意に慄き怯える弱者でもなければ、人の群れの水底で溺れ苦しむ穢れた凡婦でもない。
鮮血に塗れた戦斧を振るい、白銀色の拳銃を駆り、只管に標的の命が尽きるまでその生命の根源を奪い取り続ける悪意の象徴だ。

故、この日……この刻を持って私は転機を迎えよう。
苦しみよ、去れ。
悲しみよ、失せろ。
虚しさよ、散れ。
この身は穢れた蛹を脱ぎ捨て、黒衣を纏う獣としてこの世に再び息を吹き返す。
私は……いや、“私達”は満身の力を込めて今まさに振り下ろされんとする握り拳だ。
黒衣の獣。
其は古よりの運命の名。
死を……生命の根絶と排斥を司る二人の乙女。
黒き御霊は迷い子を、業火の淵に誘いたもう。
この刹那を私は駆ける。
何処までも、何処までも─────誰よりも早くこの刹那を駆け抜ける。
目の前の標的に死を与える為に。
逃れられぬ死を、静かに齎す為に。
私は飛び散る鮮血にその身を窶し、何処までも加速して鳥獣へと喰らいついて行くのだった。

『なのはお姉ちゃん、来るよ! 正面、右斜め35度!』

「オーライ。バルディッシュ、フォームチェンジよろしく! 派手にぶっ飛ばすよォッ!!」

『Sealing Form』

正面から飛び出してくる鳥獣の嘴を私は軽快なフットワークとジュエルシードによる“反射”の力を併用して行使し、紙一重のところで避けながら手の内の戦斧へと形態を変更するように命令を下していく。
すると次の瞬間、バルディッシュの先端が瞬く間に組み替えられ、その内に秘められた新たな姿を現実の物として露にする。
ヘッドが反転し、其処に一対の桜色の翼が生まれ、新たに具現した刃は鎌でも斧でもないまったく新しい形態としてこの世に芽吹いていく。
そう、その姿は正に槍その物……より具体的に言うなれば西洋の無骨な鉄槍を思わせる刃が其処には在った。
バルディッシュが終系。
その名をシーリングフォーム。
今の私が持てる総ての力の中で最も強い力を引き出すことが出来、尚且つ最も取り回しが良い形状をしている正真正銘私の全力全開だ。

刹那、その変化に反応するかのように鳥獣の丸太のような脚が私へと再び繰り出される。
だが、私はそれを避けることはしない。
寧ろ、その逆だ。
私はその攻撃を避けることも無く、ただ真直ぐにその攻撃の方へと突っ込んでいく。
その軌道は寸分の狂いも無く、また何の迷いも無い。
本能が指し示すがままに私は地面を蹴って進み、己の願いの力を利用して地面を滑走するのだ。

瞬間、私の身体を引き裂かんと鳥獣の脚が迫りくる。
だが、その攻撃は決して私の身体を当たる事も掠めることも無い。
その軌道はまるで同じ極同士の磁石が反発し合う様に私の身体を中心に捻じ曲がり、その矛先は何も無い虚空を虚しく斬るだけだ。
もうこれで二、三度目の打ち合いになるが鳥獣はどうやら私の異能の力の本質をまだ見抜けていらしい。
彼奴は自らの攻撃があまりにも理不尽に避けられる事に憤慨し、余計に無意味な癇癪を引き起こして懲りずに私に襲い掛かってくる。
何をしようと私がこの身に触れるなと望む限り誰も私に干渉など出来ないというのに。
私は自身の表情を侮蔑から歪んだ嘲笑へと変え、身を捻って勢いを付けながら右手に握った鉄槍の刃を振り被る。

そう、私はこの時を待っていたのだ。
どうせ今の私の実力では滅多矢鱈に鉄槍を振り回しても大した効果が生まれるとは思えないし、幾らシーリングフォームのリーチが長いとは言えこの形態は元々直接攻撃をその本質とするものでなくあくまでも強力な呪文を行使する為に在るものだ。
故に敵が向こうから近寄ってこなければまず有効打は与えられないし、仮に其処で攻撃を当てたとしても即座に回復されてしまう。
だから私はこう考えたのだ。
鉄槍による一撃をぶち当てた後に魔力砲撃によって一気に畳み掛け、この戦いを終局へと導くのだという酷く力任せな策を。

瞬間、限界まで振り被られた黒金の鉄槍は容赦なく鳥獣の脚部に叩き付けられ、砂糖菓子でも両断するかのように悠々とその丸太のような脚を切り伏せる。
そして再び舞い散る鮮血。
響き渡る絶叫。
苦しみ喘ぎ、その生命を少しずつ奪い取られていく哀れな獣の叫びが私の乾いた胸を充たしていく。
そうだ、それでいい。
所詮相手は生命力と再生力が馬鹿高いだけの畜生にも劣る化け物だ。
こうして私の嗜虐心を充たし、哀れな悲鳴をあげながら転げまわるのが似合いだ。
私は利き腕である左手に握られた小型拳銃を鳥獣へと向け、本来引き金に掛けるべき指先を銃身に添えるように構えながら其処に術式を構築していく。

打ち出す術式はサンダースマッシャー。
しかし、今回ばかりは唯のサンダースマッシャーではない。
本来必要とされる魔力を大きく上回る質と量の魔力を込めたが故にその威力は通常の三割り増し。
訓練の際、試射で暴走体ダミーを五体纏めて消し炭にした威力を誇る私が扱える砲撃魔法中最強の攻撃だ。
とは言え、一応先ほど身体を回復した際にジュエルシードから魔力を引っ張ってきて幾分か魔力も回復したが、この技は魔力消費が激しい上にバルディッシュと併用しても高速展開が難しい荒業中の荒業でもある。
正直な感想としてはあまり実戦向きとも言えないし、もしも外れでもしたらまた無駄に魔力を消費してしまう事にもなりかねない。
危惧するべき点は幾つもあるし、不安だって山ほど在る。
だが、受けたダメージを瞬間的に回復してしまうという並外れた自己再生能力を有した鳥獣を屠るにはこの技をぶち当てた上で更にダメ押しをするしかない。
今までの戦いで得た経験上、もはや確立だの理屈だのに囚われている場合ではないのだ。
私は銃口と並列するように添えられた指先を鳥獣の方へと構え、其処から生み出される奇異複雑な魔法陣に自身の内側に流れる魔力を注ぎ込みながら唯一念に撃ち滅ぼす事を祈り願う言霊を愉悦と殺意に乗せて言い放つのだった。

『ターゲット再生開始……っ!? なのはお姉ちゃん、早く!』

「言われなくても──────さぁ、吹っ飛びなよっ! 精々惨めたらしく見っとも無い悲鳴あげながらさァッ!!」

『Thunder Smasher』

瞬間、桜色に煌く魔力の流れが指先から溢れ、無情な機械音声と共にその光は一陣の砲撃と化して行く。
魔力を限界まで凝縮したその威力は通常のサンダースマッシャーの比ではないほど屈強な物となり、また効果範囲も鳥獣の身体を悠々と飲み込んでしまえるほど格段に引き上げられている。
一撃必殺とまでは行かないが、掠っただけでも重傷は避けられないのはまず間違いない。
私はそんな確信を胸に抱きながら、指先から繰り出される砲撃も止まぬ内に右手の掌の内のバルディッシュを振り被り、更なる追撃に備えて牽制の体制をとる。

所詮幾ら威力が高いとは言ってもこの砲撃はあくまで囮であり、此処で次の一手に繋げられない様では今までの努力も消え行く水疱へと帰してしまう。
バルディッシュの特性はあくまでも白兵戦における機能の豊富さと各種取り揃えられた武装の組み換えだ。
正直な話体力も運動神経も無い私からしてみれば相性は最悪の一言に尽きるのだが、それでも魔力を無駄に消費し続ける砲戦に徹するよりはずっとマシだ。
この闘いが終わったら其処の辺りの事もアリシアに相談する必要があるらしい。
私は高ぶる気持ちの裏側で何となくそんな事を思いながら、鳥獣へと突き刺さっていく自身の砲撃を静かに見守っていくのだった。

刹那、絶叫とも悲鳴ともつかない歪な呻き声が当たり一帯に木霊する。
鳥獣が私のはなった極太の魔力砲撃を諸に受け、その衝撃で身体のパーツが次々に血潮を噴出しながら捥がれていく結果の果てのことだった。
どうやらかなり良い所に砲撃を当てる事が出来たらしい。
私は口元を吊り上げ、銃身に宛がった人差し指を再び引き金へと戻しながら、両脚の裏で“遮断”と“反射”のサイクルを繰り返し、地面を滑走して鳥獣へと距離を詰めていく。
幾ら身体を丸ごと吹き飛ばしたとは言え、ジュエルシードから発せられる歪な波動は未だ健在。
彼奴に付加された能力が究極的な自己再生能力だというのなら、例え血肉の一片でもあれば再び元の姿に戻ろうと作用するのはまず間違いない。

出鱈目な話かもしれないがジュエルシードの異常性はここ数日私自身が用いている能力も相まって十二分に理解している。
例えその欲望がどれだけ常識外れな事柄だったとしても願えば叶ってしまうのが特性な以上、何が起こっても対処しようと行動出来るだけの心構えくらいは最低限必要だろう。
その距離約2メートル半、確実に相手を矛先で捕らえられるところまで接近した所で私は不意にそんな事を頭の片隅に思い浮かべる。
目の前には鳥獣の体液でどす黒い色に染まった海と、その丁度手前で血肉に塗れながらも尚輝き続ける小さな宝石。
此処まで攻撃しても尚、まだ戦いは終わってはくれないらしい。
私は最悪ジュエルシードを叩き割る事を覚悟の上で手の内の鉄槍を振り被り、空中で光り輝く空色の宝石へと近付いていくのだった。

『ターゲット・インサイト。射程圏内です、マスター』

「諒解ッ!! 最悪ジュエルシードごと叩き割る事になるかもしれないけど、いいよね? まぁ─────答えなんざ聞いちゃいないけどねェッ!!」

それまで滑走していた状態から一転、私は再び能力の付加された前脚で地面を蹴り、宙へと大きく飛び上がりながら構えた鉄槍の矛先を思いっきり空中に浮かぶジュエルシードへと叩き付ける。
その速度は音速もかくや。
優に弾丸のそれをも凌駕する神速の一撃が容赦なく空色の宝石へと打ち出されるのだ。
元々私自身は武術や格闘技の知識も無ければ、ましてこのような実戦的な槍術に長けている訳でもない。
完全に力任せの一撃。
それも構え方も滅茶苦茶で、更に言えば利き腕とは逆の右腕で振り回しているといったその手の玄人が聞けば腹を抱えて笑い出してしまうような酷い有様だ。
だが、それ故にその軌道は奇抜であり歪。
元より決まった形など無いが故に相対する相手や場面によってその力の入れ具合や取り回し具合を調節する事で私は本来の自分の力量の無さを補っているのだ。

だからこそ、この一撃はそうした概念を総て払拭した上での素人の一撃であり、そう在るが為だけに生まれた必殺の斬撃だ。
回避する事は不可能と同義。
此処まで自賛するのは正直アレな感じがするのが否めないけれど、それでも此処まで接近されて放たれた一撃をそうそう回避出来る物でもない。
故、私は自身の繰り出した攻撃に絶対の自信を持っていた。

が、次の瞬間その自身は慢心へと変わり、私の表情を一気に曇らせる。
そう、ジュエルシードに刀身を叩き付けようとした正にその瞬間、鉄槍とジュエルシードとの僅かな空間の狭間に何かが入り込み、ジュエルシードへの直撃を防いだのだ。
ガキッ、と鈍い音が鼓膜を刺激し、声にもならない微かな吐息が私の口元から漏れ出す。
その吐息が示し出す感情は焦りと驚愕。
なまじ確実に捉えたと過信し過ぎていた為か、私は防がれたと言う現実を上手く受け止める事が出来なかったのだ。

刹那、私の中で半ば直感にも似た勘が電流のように迸り、頭の中で早く鉄槍を引き抜けという感覚が津波のように押し寄せてくる。
それは殆ど口では説明し切れない様な悪意と悪寒による衝動。
このまま一秒でも呆けていては確実に先ほどの二の舞になるという獣染みた感覚が私に醜悪な光景を幻視させ、即座に刃を納めよと壊れたジュークボックスのように幾度と無く訴えかけてくるのだ。
何故私が突発的にそう感じてしまったのかは私自身にもよく分からない。
だが、私は即座にその本能に応じ、手首を捻って刃を引き抜こうと腕全体に力を込める。
直感であるとは言え、感じた悪意は本物だ。
何時まで密着していて得する事は何も無いし、第一相手の能力は自己再生。
このまま刃を突き刺したまま固まったままでは最悪バルディッシュごと腕一本持って行かれる事も考えられる。
しかし、唯一ジュエルシードが作り出す化け物に対抗できる武器であるバルディッシュをむざむざ手放す訳にも行かないのもまた事実。
結果、私はこうして突き刺さった刃を引き抜き、後退して様子を見るという手段に出るしかないのだ。

しかし、どれだけ力を込めても得体の知れない“何か”に突き刺さった鉄槍の刃はビクともせず、そればかりが力を込める度に掌の内を汗が湿らせ、上手く力を込められなくなってきてしまっている始末だ。
まずい、再び私の頭の中でそんな直感が溢れ返る。
此処までに掛かった時間は約四秒弱。
普段なら鼻で笑ってしまうような僅かな期間だが、それでも命のやり取りを行っているこの瞬間の中では永遠にも均しい大切な時間だ。
油断しても妥協しても消され、殺される。
脳から伝わる止め処ない焦りは次第に死への忌避感へと変わり、その衝動はまるで操り人形を括る糸のように自然と私の身体を動かし始める。

刹那の内に私は利き腕である左の掌をバルディッシュの刀身の方向へと向け、その内側に在る小型拳銃の引き金を狂った様に何度も引き絞った。
一発、二発─────引き金が引かれるたびに真鍮製の薬莢が硝煙を纏って宙を舞い、銃火の光と乾いた銃声が寂れた砂浜へと響き渡る。
当然慣れない体制から撃ち出した所為で手の内の銃は銃声が鳴り響くたびに跳ね上がり、思わずその反動で掌からすっぽ抜けそうにすらなってしまう。
だが、それでも私は決して銃把を離したりなんかしない。
一介の小学生である私が銃の取り回しなんかに長けられる筈が無いとは言え、これでもアルハザードの中では幾度だってこの銃で標的を滅してきたのだ。
その取り回し加減くらいは脳の中に焼きついた記憶が覚えている。
故に私は弾倉の中の六発の9mmショート弾を撃ち尽くすまでその銃口をバルディッシュの刀身が食い込んでいるくすんだ乳白色の物体へと向け続ける事に成功した。

次の瞬間、私はバルディッシュの刀身を翻し、一気に力を込めて引き抜く。
すると、刀身に食い込んでいた乳白色の固形物がパラパラと砕けて地面へと落ち、それに追従するように何発かの弾丸が力なく落下していく。
それを即座に横目で確認した私は前脚で地面を蹴り、再び地面を滑走して数メートルほどジュエルシードから距離を取りつつ、先ほど自分が取った行動が無事成功した事に一息の安堵を洩らした。
そう、私が取った行動は単純にして至極明快。
至近距離から重ねるように銃を撃ち放ち、バルディッシュの刀身が食い込んでいた乳白色の固形物を砕いて引き抜き易くしたのだ。
元々大した腕力を持たない私はその不足分を基本的に技量で補う他ない。
数に限りがある銃弾を消費してしまったのは正直痛手だが、それでもこんな局面で命を投げ捨てるよりはずっとマシだ。
私は小型拳銃の側面にあるボタンを押し込み、弾倉を銃から引き抜きながらジュエルシードが浮かんでいる方をまじまじと凝視するのだった。

「ちィッ─────まさかあんな所でしくじるとは……っ!」

『なのはお姉ちゃん、落ち着いて! 此処で感情的になっても自分で自分を追い込むだけだよ。まずは冷静になって。ねっ?』

「そうは言ったって……っ!? アレは─────」

アリシアの注意に身を傾けつつも、私は視界の内に留まった空色の宝石の変化を逐一観察し、そして思わず驚愕した。
私の攻撃を防いだ乳白色の固形物体の正体。
それは凡そ一部の存在を除き、殆どの動物が有している身体の支柱だった。
そう、その正体は骨。
ジュエルシードに付着した血肉から飛び出た一本の無骨なカルシウムの塊があの攻撃を防ぎ、あまつさえそれは今も尚一部分が欠けているとは言え、まるでジグソーパズルのピースのように次々と新たに生まれた骨格と組み合わさっていくのだ。
肩甲骨が復活し、尾てい骨が再生し、頭骨が生まれ変わり、背骨が生え変わる。
それはまるで高速で成長する植物の枝が地面に侵食するような様であり、同時にこの世に絶対にありえてはいけない死からの復元でもあった。
彼奴は─────鳥獣はその歪な願いによって己の死すらも超越し、この世界におけるどの生物にも劣る事の無い生命力を手にしていたというのだ。

そして、やがて組みあがった骨格に肉がつき始め、厚い毛皮で内部が覆われ、再び鳥獣は不屈の不死鳥へとその姿を回帰させて行く。
その速度は時間にして僅か数秒足らず。
もはや常識や理論など自分には関係ないとでも言うような無茶振りで彼奴は己の肉体を攻撃を受ける前と同じ状態に引き戻したのだ。
その様子を遠巻きで見つめながら私は思わず舌打ちを洩らし、拳銃から排出した弾倉をポケットにねじ込みつつ、併せて予めベルトの間に挟んであった予備の弾倉を再び拳銃へと装填しながら怒りの感情を前面に露にする。
どれほど攻撃してもどれだけ先手を打ってもどれだけ打ち据えても決して鳥獣は死ぬことは無い。
予め可能性とある程度予想していた事とは言えど、此処まで露骨に反則振りを披露されては流石の私も精神的に堪えるというものだ。

だが、何れにせよ対処しなければいけない事には違いない。
私は後退しきったスライドを元に戻し、再び薬室に銃弾を装填しながら改めて復活した鳥獣の方を見据え、自分が今何をすればこの場における最善に結び付くのだろうという事を静かに考え始める。
今までは本能の赴くがままに己の力を振るい、ある程度は気合で鳥獣の攻撃を制してきた。
しかし、例え肉体を全損したとしてもこの様に幾度と無く復活されるようでは何れ魔力や弾薬に限りのある私が徐々に追い込まれてしまうのは自明の理だ。
それは先ほどの私でも今の私とでもあまり大きな違いは無い。
確かに現状私はアリシアが駆けつけてくれた御蔭でこうして己が持てる全身全霊を振るうことが叶っているが、それでも自身の能力が有限である事に変わりないのだ。
強いて違いがあると言うならば精々攻撃のバリエーションが増えた事とジュエルシードによる能力を此方も扱えるようになった程度。
何れにしてもこのまま我武者羅に突っ込んでいるようではまず勝つことは出来ない。
それが分かりきっている現状、私がするべき事はこの場においてただ一つだけだった。

「っ……悪魔め。何処までも味な真似をッ!!」

『だから落ち着いてってばぁ! 第一このままさっきと同じことをしたって結局同じ結果になっちゃうよ。そもそもジュエルシードは普通の打撃や衝撃じゃ絶対壊れないし……。ここは思いっ切りボギン! プラン! とでっかい魔法ぶち当ててそれと同時に封印処理するしかないよ』

「あーっ……なんか致命傷っぽい音になってるけど其処はガツンね、ガツン。まぁ、そんな事はどうだっていいけど本当に殺れるの? 第一私このそんなに威力高い魔法なんてあのサンダースマッシャー以外には─────」

『あるでしょ! 取って置きの隠し玉が! あんまり実戦向きじゃないし、呪文唱えなくちゃいけない大技だからあんまり練習してこなかったけど……でも、なのはお姉ちゃんならきっと使えるよ。サポートは私とバルディッシュで全力でするから!』

アリシアの言葉を聞いた途端私は其処でまた一つ新たな選択肢を頭の中で生み出し、其処に置ける有効性を慎重に吟味していく。
そう、この場において私がまずしなければいけないのはまず考える事だ。
何をすれば異次元の再生能力を有する彼奴に有効なダメージが与えられるのか。
一体何を繰り出せば今の現状を打開できるのか。
この場において私はどう動くことこそが最善であるのか。
それ等の要素を総てひっ包めて考え、審議し、選択する。
それも自分の意見のみに縛られるのではなく、最愛の妹分であり、パートナーでもあるアリシアの意見も取り入れながら現状の打破について考える事こそがこの場における私の最上の行動だった。

今までは何も考えず、ただ自壊的に行動して暴れまわっていられればそれで良かった。
だが、現状私の手の内には自分が出せる手札が全て揃い、尚且つ私の背中には頼りになる相棒がこの身体の支えとなってくれている。
今の私は決して一人ではない。
アリシア・テスタロッサと高町なのは。
両名が揃ってこの戦場に立っている以上、互いが互いを悲しませるような戦いをする訳にはどうしてもいかないのだ。
獣の爪牙は健在なれど、その心はあくまでも獣に在らず。
この心、この魂はあくまでも人間のそれだ。

朝にはベットから起きて照りつける日光を嫌がり、昼にはうざったい人混みに揉まれて一様に疲弊し、夜には湯浴みをして身体を清め、常闇に抱かれてまだ来ぬ明日へと僅かな希望を抱き続ける。
そんな愚かでどうしようもない人間。
それが『高町なのは』であり、その魂の原点だ。
この身は一様に凡庸にして劣等。
他者と比べれば何処を見渡しても劣っている所しかなく、挙句秀でている所と言えば化け物を殴殺出来るだけの無意味な技量だけ。
でも、それでも尚私は私であり続ける。
此処でこうして欠けていたピースが出揃い、私が真の意味で“駆動”し始めたその瞬間からこの心はただ一介の高町なのはになりうることが叶うのだ。

故に私は高町なのはとして─────完成されたただ一人の高町なのはとして、アリシアの提案を殆ど刹那と呼べるような瞬間の内に理解し、またそれが現実に可能なのかどうかを審議する。
彼女が言っている『取って置きの隠し玉』とやらには私も心当たりは在る。
現状私が持てる本当の意味で最強の魔法。
射程も威力も他の魔法とは段違いであり、尚且つそれに伴って消費する魔力の量も身体に掛かる負担も桁違いのまさしく隠し玉に相応しい超奥義だ。
だが、その魔法はあまりにも発動のタイミングが難しく、加えて速攻且つ迅速に接近戦でダメージを蓄積させていくという戦法を取っている私にはあまりにも不向きだった為、威力が高かろうと実戦で使えなければ意味が無いという結論から数度と練習してこなかった非情に熟練度の低い物でもある。
迂闊に使用すれば再び魔力切れを起すことにもなりかねないし、第一成功するかどうかすら危ういという有様だ。

しかし、このまま焦れていた所で結果は同じ。
消耗させられるだけ消耗させられた後、先ほどと同じ結末を辿って今度こそ死に追いやられる羽目になるだけだ。
だから結論としては結局使うしかない、と言うのが私の本音だった。
このままダラダラ戦闘を長引かせてもこっちが疲れるだけだし、第一こんな騒ぎを起しておいて何時人が訪れるかも分からないのだ。
早々に止めを刺して、早々に証拠隠滅して、早々に立ち去る。
そうする為にはあの魔法の使用は必要不可欠、っていうよりもぶっちゃけた話、使わなかったらまず勝つことは出来ないだろう。

だけど、それだけじゃ足りない。
単純な砲撃魔法の上位互換であるならいざ知らず、機関砲の如き連射での制圧を主軸においているその魔法だけでは当たった端から回復されてしまうのが落ちだ。
多少威力を落としてでも何か別の魔法を複合させて、その攻撃で致命傷を呼び込むしかない。
あまり魔法についてのノウハウに明るくない以上、下手な素人の理論で彼是策を弄するのは正直気が引けるが、この際アリシアのお墨付きも出ている事だし、あまり安全性ばかりを考慮しても入られない。
乗るか、それとも反るか。
危険な賭けになるが、行動における選択なんていうのは皆そうだ。
ウダウダ理屈捏ねてても最終的には前に進まなきゃ行けない。
なら、私は自分に与えられた選択肢の中から1%でも成功率の高いプランを選び、実行して前に進むだけ。
立ち止まってても何の意味も無い以上、結局突き進む事こそが私にとっての至上なのだ。
故に私は頭の中で瞬時に行動する為の策を練り上げ、事細かく其処から捻出される魔力量と自身が現状保有している魔力とを見比べて計算していく。

チャンスは一度限り。
もしも此処でミスったら後は情けなく撤退するか、最悪此処でくたばるかだ。
失敗は許されない。
だけど失敗を恐れているようではまず成功なんか掴めない。
私はただ己に赦された最後の力の中から全力を尽くし、後は運に身を任せるだけだ。
ならば、何を恐れることがあるだろうか。
あぁ、確かに怖いかと問い掛けられれば肝が冷える位そこはかとなく恐ろしい。
だけど、もしもそれを支えてくれる“人”が一緒にやってくれると言うのなら……精々年相応の強がり程度は出来ると言う物だ。
故、私は行動し、そして問い掛けていく。
自身の相棒に、バルディッシュに、そして紛れも無い自分自身に。
この愚かで独り善がりな救い様の無い馬鹿が今を生き抜くためには私が練り上げたプランは相応しいのかどうなのかという事を私は只管に問い掛けていくのだった。

「……オーライ、アリシア。正直あんまり自身無いけどその案使わせてもらうよ」

『なのはお姉ちゃん……うん、私頑張るよ! だからなのはお姉ちゃんも……っ!』

「元よりその心算だよ。だけど正直それだけじゃ足りない。あいつを倒すにはまだ、ね。だからこれから手短に私のプランを説明するよ。正直かなりカツカツな策になっちゃうだろうけど、そこら辺厳しいのは許してね。正直……あんまり自分でも気が進んでる訳じゃないからさ」

『全力を尽くすよ。それに、どうせもう決めちゃったんでしょ? なら、私には異存はないよ。だって……信じてるから、私。心から、なのはお姉ちゃんを!』

刹那、私はアリシアの声を聞いたと同時に、ふっ、と何時もよりも少しだけ穏やかな笑みを浮かべ、自身の頭に浮かべた案をアリシアへと伝えながら再び地面を蹴って鳥獣へと一直線に突っ込んでいく。
私が練り上げた作戦。
それは策と言うにはあまりにお粗末で、あくまで確立の低い数多の可能性の中からギリギリ妥協点を付けられる程度の物でしかない。
詰まる所、正直あんまり上等な物でもないと言う事だ。
下手をすれば状況が好転するどころか今度こそ地獄の淵へと叩き返される可能性だって十分に考えられる。
きっと稀代の愚策として知られるオペレーション・イーグルクロウだって荒さとお粗末さにかけては敵いもしないといったところだろう。

だが、それでも私は先ほどと同じように手の内の鉄槍を翻して近接戦の構えを見せながら鳥獣へと近付き、これまた同じようにその刃を振るって狂った様に襲い来る鳥獣の豪腕を容赦なく切り刻んでいく。
肉を裂き、腱を掻き切り、骨を断ち─────何度も何度も相手を殺し尽くす勢いで私の刃は数多の血飛沫をあげて行く。
それを実行するに当たって私の顔に浮かぶ表情は悪鬼の如き嘲笑。
そして、この腕から繰り出されるのは今まで自分が受けた攻撃をその何十倍にも増して叩き返してやろうと渦巻き猛る暴力の衝動。
嘗て己が忌み嫌い、拒絶してきた害意を持ってして私は刃を振るうのだ。

しかし、其処に込められた想いは決して己だけの私利私欲の為ではない。
正直私自身、自分が真っ当な神経を持った善人だなんてこれっぽっちも思ってはいないが、それでもこの手で掴んだ物を取りこぼしたくないと……自身が大切だと思った存在の為ならば戦えると言った感情は揺ぎ無くこの胸に輝き燃えている。
こんな少年漫画の主人公みたいな台詞は自分には似つかわしくないのだろうが、私は強い信念を胸に抱き、今を戦い抜いているのだ。
だから、私は負けない。
負ける訳には行かないし、負かされる訳にも行かない。
この際、過程や手段なんていうのはどうだっていい。
勝つ、それだけを至高の目標として定め、躓きながらも進み続ける事が出来るというのなら─────この手が掴むものは一つの筈だ。

故に、今此処に私は勝利を呼び込む一つの術式を紡ぎ纏めていく。
それは己の限界にして頂点。
力無きただの人間である高町なのはとしての……そして何もかも喰い殺して暴れ回る一陣の黒い嵐である高町なのはとしての至高を今此処に顕現させる為に。
私は己の限界すらも超えて、己が逆算して導き出した必要最小限の魔力を決壊したダムの水のように果てなく何処までも流し込んでいく。
全身を駆け巡る魔力の流れは土石流の様に荒く、またその濃度も泥沼のように酷く濃密だ。
下手に集中力を欠けば一瞬で今までの努力を無に帰しかねない。
それほど今の私が抱えている莫大な魔力の塊はその量に似合わず古い腕時計の機構のように複雑で、それでいて砂糖菓子のように酷く脆いものだった。

だが、立ち止まって詠唱に集中する時間など私には無い。
そんな事をすれば一瞬して私の身体は鳥獣の猛襲によって引き裂かれ、そのまま冷たい亡骸をこの場に晒す羽目になるだけだ。
だからこそ、私はこの策を無茶だと分かっていながらも実行に移したのだ。
随時近接攻撃を仕掛けながら相手を牽制し続け、その隙に術式を編み上げるという荒業中の荒業を。

「アルカス・クルタス・エイギアス─────」

『っ……無茶ばっかりやるよ、本当になのはお姉ちゃんは。それじゃあこっちも一生懸命やら無きゃ示しつかないよね! バルディッシュ、最大出力開放と平行して捕縛術式を多重展開!! 全力でなのはお姉ちゃんをサポートするよ!』

『命令、諒解。メインユーザーのサポートとして設置型捕縛術式を空間に展開します』

刹那、アリシアの命令と共に私と鳥獣とを取り巻く空間に数百優にを超える数の桜色の魔法陣が次々と浮かび上がっていく。
設置型捕縛術式。
その名をライトニングバインド。
大技を敵に叩き込むことを大前提に地雷のように罠として空間に設置して、相手が掛かった所で一気に畳み掛けるように相手を拘束するトラップの一種だ。
しかし、今此処で起こっているのは決してそれだけでは終わらない。
本来は相手に悟られないよう透明化して不可視の状態にし、相手が罠に掛かってくれるまでタイミングを起こることが大前提とされているこの術式だが、今回アリシアによって作り出された捕縛術式は視認出来る上に必要とされている数の凡そ何百倍以上と圧倒的に通常の展開と郡を抜いている。
これはもはやこれだけ展開しておけば見えていようといまいと関係ないという物量的な側面から来る物と、単純に私と鳥獣とが殺し合う為の空間を限定する意味合いが込められているのだ。

とはいえ、はっきり言って此処までくるとその出鱈目具合は異常の一言だ。
ジュエルシードから生み出され続ける魔力を併用しての単純な術式の大幅な能力引き上げ。
それはもはや強化とか割り増しとかそういった範疇で収まる物ではなく、殆ど級単位での昇華に均しいと言える。
あくまでアリシアの権限で現実に行使出来る魔法は数少ない且つ純粋な攻撃魔法は無いとは言え、ジュエルシードの能力も相まって改めて彼女がどれほど強大で理論の埒外にその身を置いているのかという事を再認識する分には十分過ぎる成果だと言えた。

だが、今の私にとってそんな事実はどうだっていい。
空間が限定されようが、自分の立場が優位に傾こうが闘いが続いている事には代わりは無いからだ。
今此処にあるのは二対一の残虐な殺し合いであり、血を血で洗う永久の闘争だ。
お互いその心が壊れようが身が裂かれようが関係なんて無い。
その身が壊れようが砕けようが、相手を殺すという目的の軸が揺るがない限り、相手を八つ裂きにするという目的の為に起こりうる事は総てその他大勢有無対象に過ぎないのだから。

ならば、もはやこの変化すらお互いにとってもどうでもいい事のはず。
その証拠に鳥獣は切られた端から肉体を回復させ、変わらず私の身を砕かんと頭部に突き出した角のような部分を雄叫びを上げながら突き出してくる始末だ。
ならば良し、今此処で死合うこと以外の総ての事柄は無粋の極みだ。
私はその攻撃を鉄槍の刃で受け流し、利き腕に握られた小型拳銃の銃身を鳥獣の眼球を抉るように右目の穴にねじ込みながら、二度、三度と立て続けに引き金を引き絞りながら呪文を唱え続けていく。

そう、この場で起こっていることは互いの命を削り合う死者の舞だ。
区画を限定されようが、その戦場が鳥籠の内に変わろうが死んだり死なせたり殺したり殺されたりする事は何一つ……何一つとして変わりは無い。
万事快調、こんな狂った世界には精々見っとも無く嬲り合う地獄のような闘争が似合いだ。
ならば、私はこの場に立ち踊る物としてそれ相応に血飛沫上げて踊り狂おう。
例えこの身が屍に変わろうと、血と死に塗れながら童子の様に哂い、悪鬼のように責め立て、嵐のように暴れ狂ってやろう。
私は次第に再び理性から離れつつある至高の内側でそんな事を考えながら、肉の破片や血液に塗れた銃身を鳥獣の眼球から無理引き剥がしつつ、更なる段階へと術式の詠唱を移行させていくのだった。

「疾風なりし天神、今導きのもと撃ちかかれ。バルエル・ザルエル・ブラウゼル……っ!」

『なのはお姉ちゃん。ジュエルシードの活動限界が一分切ったよ! 早く、術式を!!』

急かすように悲鳴にも似た声色で私に訴え掛けてくるアリシアの声を聞きながら、私は“遮断”と“反射”のサイクルを自身の脚に施し、その能力を付加したまま眼球を抉られた挙句、頭骨に直接弾丸を叩き込まれ、もがき苦しんでいる鳥獣の巨体に強烈な蹴りを炸裂させていく。
それは焦りから来る行動だったのか。
それとも最初から自身の胸で渦巻いていた嗜虐心が私にそうしろと命令を下したのか。
そこら辺の細かい事は自分自身にもよく分からないし、今更裁量がどうなの理屈がどうなのと小難しい事を考える気もさらさら無い
だけど、何処か本能に程近い感覚が私に訴えてきたのだ。
このままでは遅い、と。
この速度ではあまりにも遅過ぎる、と。
何度も何度も、それこそ幾百も幾千もを越えて、加速せよと言う命令を私の頭の内側で止まらない警鐘の様に鳴り響いていく。

其処に何か大きな理屈や理由が存在していた訳じゃない。
だが、一分を切ったと言うアリシアの報告が私の中で決定的な琴線を揺らしたのだ。
触られたくない。
誰にもこの身に触れる事を許さず、総ての干渉を断ち切って純白たる己を保ち続けると言うのが私の渇望であり、その能力だ。
だが、もしもこの先……その一分が経過した後はどうだろう。
汚い物には触れたくない。
だから触れさせもしないし、触れないでも相手を殲す力を私は望み願ったのだ。
その先に在るのは論理の矛盾。
触れられたくないのに触れられるようになってしまうと言う私の心を支えていたアイデンティティが音を立てて崩れかねない最悪の結末だ。

元よりジュエルシードの能力にはその発動の安定性から連続活動時間が五分に限定されていて、私は小出しに能力を使う事でその消費を何とか抑えようと工夫はしていたのだが─────今回の戦いはそんな当たり前の制限すら頭の中から消え失せてしまうほど激しい物だった。
結果、私は無節操に能力を行使し続けた挙句の果てにこんな大事な局面で最悪の現状を招いてしまっていると言うのだ。
畜生、よりにもよってなんて間が悪いんだ。
尚も術式の詠唱を続け、その勢いで二、三個空中に浮かんだ束縛術式を突き破っていく鳥獣の姿を追いながら私は胸の内に堕ちていくイラつきをそんな風な言葉で表し、頭の中に浮かべていく。

それは風船に空気を入れる作業と同等の行為だった。
アリシアの登場によって再び理性が息を吹き返した現状を萎んでいると例えるならば、再び心を加速させていく為には一度頭を破裂させて頭の中を空っぽにしなければならない。
その為に挿入される糧はイラつきやストレス、恐怖や怯えと言って負の概念だ。
なまじ自身の能力の根本が接触を忌避する物であるが故に、聞えの良いお題目や謡い文句なんかではこの身を獣として駆動する事は叶わないのだ。

この心は人間の物であるとは誓った。
だが、このまま負けるようでは─────もう一度この身を嵐を纏って暴れ狂う獣へと変えてこの一瞬を駆けるしかない。
勝つためには手段を選ばないと誓った以上、この理性が月の裏側まで吹っ飛ぶ羽目になったとしても私はこの加速と術式の構築に全てを託すしかないのだ。
加速するのはほんの一瞬だけで良い。
最悪術式が紡ぎ終わった後、発射の号令が出来る程度の理性が残っていれさえすればいいのだ。

故に、私は今この瞬間に叫びを上げ、円環の理も超えてこの刹那を駆け抜けよう。
速く、速く……何処までも速く、誰よりも速く疾走して吹き飛ばそう。
この身は一陣の嵐にして一匹の獣。
誰にも触れられたくないと、誰からも干渉されたくないと心から誓ったが故にその手中に収める事の叶った力を纏い暴れる暴虐の化身だ。
ならば、その証明はこの身が此処に在るという事実を持って示し出すしかない。
『石油(あい)』を注ごうと『泥(あくい)』を浴びせようとも関係なく、ただ総てを喰らう狂獣が今此処に存在し得ているのだと吼え暴れ回る他ないのだ。
だから私はこの瞬間、自らの理性を自らが作り出した歪な法則によって上書きし、呻くように更なる術式を構築しながら更なる追撃を吹き飛ぶ鳥獣へと叩き付けていく。
それは……もはや留まる事の知らない本能が妄執、情熱、狂愛と目まぐるしく移り変わって繰り出される一種の人的災厄だった。

『っ!? ジュエルシードの安定率が限界まで振り切れてる……。まさか、なのはお姉ちゃん─────』

「あはっ、くくっ……アァァァハハハハハハァッ!! YaaaaaAAAAAAAHaaaaaAAAAAAA!!」

獣染みた咆哮を口から駄々洩らし、私は一直線に吹き飛んでいく鳥獣を追って自身の持てる能力の総てを残る一分と言う時間に総て注ぎ込んでいく。
もはや其処に理性や理屈などは無い。
ただ己の渇望とそれが事切れて無防備になってしまうと言う恐怖が並列して脳から発せられる電気信号を歪め、物理法則の縛りもかなぐり捨ててこの身を暴れ回せ続けるのだ。
故に今この瞬間の私は何物もを拒絶し、その所為で自分でも判別が叶わなくなってしまうくらい無茶苦茶な理論を現実の物としてこの場に顕現させる。
それは誰にも触れられたくないと言う願いから生まれた酷く歪んだ私だけの法則。
地面も、風も、空気も、水も、重力も─────この身に触れる何もかもを拒絶し、跳ね回り、まるでリニアモーターカーやマリオカートシリーズの金色キノコをゲットした後、ボタン連打を繰り返した時の様に際限なく己が纏う速度を加速させていくという超理論だ。

だけど、それは決定的なまでに矛盾した酷く脆い物でもある。
何故なら人は酸素を取り込まなければ窒息してしまうし、水を取り込まなければ脱水症に掛かってしまったりもする。
そして何よりも第一に、攻撃を繰り出すには相手に触れなくちゃいけないという現実がこの世には横たわっている所為で元よりその能力が生み出された理屈に正当性など欠片たりとも存在していないのは明白なのだ。
だが、故に私は理性を捨て去り、狂い、暴れ、猛り続ける事でその妄執を無理やり現実の物として展開しているのだ。
元より理屈など破綻していて当たり前だ。
干渉を遮断するなどという手前勝手の理屈を世界に向けて叩き付け、あまつその法則を捻じ曲げて自分色に染め上げようと行使しているのだからその力の根本が歪んでいない筈が無い。
だが、それならそれで上等だ。
その矛盾こそが私の身体を推し進め、遮断と反射の力を更なる極限まで昇華させていくのだから。

絶叫を上げながら、私は足場となるもの全てを踏みしめ、その爆発的な加速力を持って悠々と宙を舞って間もない鳥獣へと距離を詰める。
もはやその速度はライフル弾もかくや。
砂を踏みしめたかと思えば地面が破裂して吹き飛んで行き、空気を踏みしめたかと思えば空間が歪んで突風が吹き荒れる。
そう、もはやこの空間にある総てを足場として活用し、ピンボールの玉のように跳ね回る私には重力の縛りも無ければ物理法則による制約も無い。
ただ跳ね回る嵐として総てを吹き飛ばすが故にこの世における何もかもをこの身に触れさせないと言う渇望を持ってして、今この瞬間に吹き荒れ続けるのだ。
だから、この私が駆ける場所に限界は無い。
それが例え空中であろうとが水面であろうがこの身に触れるなと私が望み続ける限り、何もかもが壁となり、足場となり、天井となり変わってしまうのだ。

バルディッシュを持った握り拳を幾度と無く叩き付け、桜色のリングによる鳥獣の拘束を根こそぎ引き千切って更に奥へ奥へと追いやりながら私は更に能力を行使してそれを追いかけ続ける。
既に鳥獣の身体はグチャグチャだ。
もはや骨が何処の部分に嵌っていて、内臓が一つでも無事な物が在るのかどうかすらも危ぶまれるほどに其処彼処で原型を留めていない肉片が撒き散らかされていっている。
もはやハンバーグ用のミンチ肉が空中を飛んでいると表現しても過言では無いだろう。
だが、そんな事は私には関係ない。
どうせ奴は何処までバラバラにしたって殺した傍から復活してくるのだ。
死ぬまで殺し続けたところで意味が無いのなら、この速度が続く限り最大の苦痛と最大の悪意を持ってその身に絶望を叩き込んでやるまでだ。
寄るな、触れるな、近付くな。
呪詛のように延々とそんな言葉を心の中で繰り返しながら、私はバルディッシュの刃を振るって目の前の肉塊を自分の目の前から引き剥がしながら地上から訳6メートルほど離れた虚空を足場にして更にその身に纏う速度を上昇させながら鳥獣の顎へと銃把を包んだ右の手の鉄拳を叩き込んでいくのだった。

『ぼうっ……そう……?』

「Voruber,ach,voruber─────」

『メインユーザーのメンタルが危険域に移行しました。直に戦闘を停止しなければ安全の保証は出来ません』

「Und ruhre mich nicht an─────Und ruhre mich nicht an!!」

口から漏れ出すのは知性や理性の埒外から発せられる異次元の言葉。
もはやそれが何語であるのか、そもそもこの世界の言葉であるのかと言う事すらも理解が出来ぬまま私はただ前へ前へと押やられて行く。
だが、理性が月の裏側までかっ飛んでいる今の私でもその意味合いが何なのかという事は理解する事が出来た。
Und ruhre mich nicht an─────私に触れるな、この身に触れるな。
そう、それはこの身に何物も接触する事を叶わなくさせようと紡がれる祈祷の言葉だった。
何者をも寄せ付けず、また何者にも染まらず純白であり続けること。
その一念を追求し、只管に接触を忌避し続けたが故に生まれた歪な願い事の表れが言葉となって紡がれているのだ。

だけど、この瞬間にもジュエルシードの活動時間は刻々と失われ続けている。
更に言えば究極的に他者を排斥し、確固たる己を確立せしめる筈の能力を用いているにも拘らず最終的には徒手空拳に頼らざるを得ないと言う現状が矛盾の拡大に拍車を掛け続けてしまっている。
誰にも触れたくないのに攻撃する為には触れなくちゃいけないという矛盾の果てにあるのは尋常じゃない程のストレスと心労だ。
幾ら理性がかっ飛んでいる現状であるとはいっても私も人間である以上、無意識的にそれ等の事柄は蓄積され続けてしまう。
まるで鳥獣に攻撃を仕掛けるたびに心が鑢で削り取られていくようだ。
私は今の現状を次第に能力の力が薄れるごとに感覚を取り戻しつつある意識の中で不意にそんな事を思った。

だが、今更止まる訳には行かない。
相変わらず数多の拘束術式を飛ばされていく勢いで引き裂き続けている鳥獣に今度は踵を振り上げて地面へと叩きつけ、更に落下していく傍からその真下に移動して鉄槍の刃を突き立てながら私は更なる追撃の手段を模索してそれを実行に移していく。
もはや私に残された時間は後15秒と無い。
元より後一分と言う制限があったが故の加速なのだ。
きっとその僅かな時間が過ぎてしまえば再び私の肉体はただの凡婦である高町なのはの物へと回帰してしまうだろう。
だけど、私の理性が再びこの身に宿った時はあくまで最後の術式を私が発動せしめられる事が叶った時。
今更どんな要因があろうと、その時が来るまで私は絶対に立ち止まる訳には行かないのだ。

「Ich bin noch jung, geh, Lieber!」

『お願い、止まって! このままじゃなのはお姉ちゃんが……っ!』

「Gib deine Hand, du schon und zart Gebild!!」

私はまだ老いていない。
故に死よ、この身に這い回る死神よ消え失せろ。
異次元の言葉で私は請い、願い、詠いながら一直線に空中に打ち上げられていく鳥獣の姿を追って空中を駆け上がっていく。
そして、其処から先に待ち受けているのは徒手空拳による殴打の嵐。
爪で引き裂き、顎で食い千切り、殴って、蹴って、頭突いて、数多の拘束術式の波へと引きずり込む。
その身に纏う駆動と加速の加護を武器に、一瞬の内に何度も何度も……それこそその身にまともな部分など一つとして残さないと言わんばかりに私はその身を蹂躙し尽くしていく。

けれど、時間はもう後十秒も無い。
それに数多の矛盾を蓄積させ過ぎた御蔭で胸は鉛のように重く、心はまるで北ベトナム軍に攻め込まれたフエの王城のように襤褸襤褸だ。
きっと術式を解き放った瞬間……いや、理性が再びこの身に宿ったその時を持って私の意識は事切れてしまう事だろう。
だから、もうそろそろこのかっ飛んだ理性の皮を脱ぎ捨てて身体の中で蠢いている魔力の流れを解き放ってやらねばならない。
今日一日の戦いで私もかなり疲れてしまった。
いい加減もうこの闘いも終いにしたいし、そろそろ理性無しに術式を保っているのも限界だ。
ならば、この際遠慮することなんて何一つ無い。
最後の仕上げにドカンと一発でかいコンボを決めて奴を葬り去ってやるまでだ。
私は目の前で破壊と再生を繰り返す肉塊を宙に浮かぶ手短な捕縛術式の方へと拳を振るって叩き込み、限界を遠に超えているであろう理性の内側から溜まりに溜まった魔力を鏃に変えて放出する為の号令を言霊に変えて解き放つのだった。

「フォ……トンっ、ランサァー・ファ、ランクス……シフトォォォオオオオォッ!!」

『なっ……暴走が、止まった!?』

「さァ、これで幕引きだよ! 舞い散れ、フォトンスフィアッ!!」

『……本当、出鱈目さんだよ。バルディッシュ! 封印術式を展開するよ。発動のタイミングはなのはお姉ちゃんが言ってた通りに!!』

了承を告げるバルディッシュの機械音声と共に、それまで空間を支配していた数多の捕縛術式が掻き消える。
そして、その代わりに生み出されたのは無数の桜色の球体。
敵を討ち貫く為の鏃を生成する魔力の塊が一つ、また一つと空間を制圧するように浮かび上がり、その一つ一つが鳥獣の急所を穿たんと狙いを定めていく。
フォトンランサーの最終級術式。
モード・ファランクスシフト。
本来なら数発から十数発が精々と言う射撃魔法を機関銃の掃射の如く撃ち出し続け、空間を制圧し、相手をその空間ごと吹き飛ばす私の奥の手中の奥の手だ。

だが、それだけでは終わらない。
これはあくまでも囮であり、本命は別の所にある。
私は次第に霧が掛かるように薄れていく意識を限界まで振り絞り、止めに使用する為の術式を即席で組み上げていく。
威力が低くても良い。
与えるダメージが極僅かであろうと、其処から生まれる結果が陳腐な物でも何でも構わない。
ただ一点……鳥獣の生命の核であるジュエルシードに一本でも突き刺されさえすれば、もうそれだけで十分だ。
願を掛ける様に術式を紡ぎ、無数に浮かぶフォトンスフィアの弾幕の外側に更なる攻撃術式を上書きしながら私は祈りを捧げていく。

やれるだけの事はやった。
もうジュエルシードの力は限界まで使い切ったし、この攻撃が終われば流石に私の意識も限界の奥底まで落ちるだろう。
まぁ、最後の結果を見届けられるかどうかあまり自信が無いというのが少々悔しい所ではあるが、そこら辺のところはアリシアに頑張って貰うとしよう。
散々心配や迷惑掛けておいた挙句こんな事をのたまうのはちょっと気が引けるけど、今の私たちは一蓮托生のパートナーだ。
まぁ、どうせ後々色々とお説教はされるだろうけど少しくらいは責任押し付けたって罰は当たりはしないだろう。
私は最後の力を振り絞ってゆっくりと落下していく己の身体すらも省みず、宙に浮かぶ無数のフォトンスフィアに向かって突撃の号令を叫びあげて行くのだった。

「あばよ、くたばっちまえってね……撃ち砕けェ、ファイアッ!!」

私が叫んだ号令と共にその場に存在していた全てのフォトンスフィアが鏃へと変化し、宙に拘束された鳥獣に向かって一斉に飛来していく。
合計38基、毎秒7発の空間制圧射撃。
それは映画やアニメなんかでよく見かけるような機関銃の射撃とは程遠い、文字通り空間を根こそぎ蹂躙するような凄まじい物だった。
100、200と桜色の鏃が鳥獣の身体に突き刺さり、当たった端から更に飛来して肉や骨を砕いてバラバラに引き裂いていく。
それは時間に換算すれば僅か10秒に満たない間の出来事であった。
だが、その間にも鳥獣の身体は再生が間に合わなくなるほど徹底的に突き崩され、今度こそ本当に無残な死に体を私に晒しあげていく。
もはや抵抗の余地など何処にも残されていない。
それはこの場において殆ど意識を保てない所まで来てしまった私からしても火を見るより明らかな事だった。

そして、其処でようやく鳥獣という肉の外殻が取り除かれ、その核となっていたジュエルシードが私の視界にその姿を晒し出す。
先ほどは此処でつまらないミスをして再び鳥獣を復活させるような羽目になってしまった。
だが、既にもう策は打ってある。
攻撃が止み、フォトンスフィアが消え失せたその先に待ち構えているもう一つの本命。
ファランクスシフトよりかは威力は少ないが、それでも封印術式を内包して展開した私の切り札だ。
正直この魔法は使った事も少ないし、実戦で使うのは初めてのことだけど……それでもこの局面に来て外すほど私も愚かではない。
私はバルディッシュの機械音声に合わせて地面に膝をつきながら着地し、最後の最後で鳥獣に対する別れの文句としてその術式を発動させながらゆっくりと前のめりにその身体を倒していくのだった。

『Thunder Blade』

刹那、煙が舞い上がる空間を割いて宙に浮かぶジュエルシードに十を越える桜色の剣が次々と突き刺さっていく。
複数攻撃術式、サンダーブレイド。
本来は封印に使うような術式ではないが、急ごしらえで取り繕った程度にしては中々の威力を孕んでいる広域攻撃魔法の上位版だ。
だが、その威力は通常の訓練で撃ち放つものよりかは大分劣り、剣の大きさも精々ダガー程度の小さな物に過ぎない。
どうやら先ほどのファランクスシフトに魔力を使い過ぎた事と、今にも意識が途切れそうになっていると言う事が仇になってしまったらしい。
今はまだ何とかその数と制度で鳥獣の復活を制していられるから良いものの、後数秒もすればその抑制だって優に破られてしまう事だろう。
このチャンスを絶対に逃す訳にはいかない。
私は途切れかけている意識の中でとある一つのキーワードをポツリと呟き、後のことをなにやら泣きそうな声で私に呼び掛けてきてくれているアリシアに任せながら今度こそ完全に意識を手放していくのだった。

「ブレイク……っ!」

刹那、少しずつ閉じていく私の視界に何かが爆発した。
それが何であるのかはもう今となっては判別する事は叶わない。
ちょっと……っていうか、はっきり言ってもう大分疲れた。
魔力も空っぽであるならば体力も其処をつき、正直身体を一部分でも動かすのすら億劫だ。
そりゃ、確かに戦闘が終わったからってこの場から離れなくちゃ意味が無いのはよく分かっているけれど……この際もうどうだって良い。
もう大分眠くなってしまったし、この上なく疲れた。
そろそろ休んでも、別に構いはしないだろう。

途切れ行く意識の中で私は今度こそ妥協にも似た思いを抱いて、少しだけ頬を緩ませていく。
勝ったかどうかは分からないけれど、少なくともやれるだけの事はやったのだ。
後の事くらいは人任せでも……まぁ、構わないだろう。
そんな優しげな念と悲鳴のような少女の声に塗れ、私の意識は薄暗い闇底へと落ちていく。
何処までも、何処までも。
その表情に安らかな微笑を浮かべたまま……眠りという果ての無い場所へと。
少しずつ、少しずつ……。





・補足
もしかしたら分からないかもしれないので一応補足。

・サンダーブレイド
備考:原作であるA's第7話においてフェイトさんが使用。
サンダーレイジの上位互換であり、一応属性としては広域攻撃魔法に部類する。
シグナム姉さんにエチィことをしようとした触手を切裂いたのもこの魔法である。
本作においては威力を落として発動したが、勿論本来の威力で撃つことも可能です。
触手プレイなんて今時流行らねェんだよ!

・ライトニングバインド
備考:原作無印の第11話にてフェイトさんが使用。
設置型の捕縛術式であり、本来は不可視であるが今回はアリシアさんがアホみたいに沢山生成した所為でその必要も無くなった為、単なる宙に浮かぶ魔法陣と化している。
本作においても原作においてもファランクスシフトを使う事を前提に使用されるもの。
四肢束縛プレイってエロいよね。

・なのはさんが口走っていた謎の外国語
備考:ぶっちゃけ異界の言葉ではなく単なるドイツ語。
ついでに言うとフランツ・シューベルトの歌曲の一節であり、詩はマティアス・クラウディウスが紡ぎ上げた『Der Tod und das Mädchen(日本語訳「死と乙女」)』が元ネタ。
本作での元ネタは『Dies irae~Acta est Fabula~』というゲームに置いての中ボスである白騎士ことシュライバー(別名:白いアンナちゃん)が暴走しながら口ずさんでいるのだが、気にいったので拝借してきました。
ちなみに全文としては……。

Vorüber! ach, vorüber!
あぁ、どうか……どうか何処かへ行って。
geh, wilder Knochenmann!
野蛮な死神よ。
Ich bin noch jung, geh, Lieber!
私はまだ若いのだから(老いていないのだから)。
und rühre mich nicht an,
私に触れないで。
und rühre mich nicht an.
私に触れないで。
Gib deine Hand, du schön und zart Gebild!
美しく繊細な創造物である貴女よ、恐れず手を伸ばせ。
bin Freund und komme nicht zu strafen.
我は貴女の友であり、罰する為に来たのではないのだから。
Sei gutes Muts! ich bin nicht wild,
あぁ、恐れないで。怖がらないで。誰も貴女を傷つけはしない。
sollst sanft in meinen Armen schlafen!
我が腕の中で愛しい貴女よ。穏やかにお眠りなさい。

少々訳に難があるかもしれませんが、これがうめき声の正体です。
何故ドイツ語なのか、ベルカ関係の事に関連しているのかは一先ず不明です。
それでは何時も通りのどうでもいい補足情報でした。



[15606] 空っぽおもちゃ箱⑦「欠けた想いを胸に抱いたまま……」#すずか視点
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:282a81cc
Date: 2010/09/27 22:40
例えばこのまま前に進んだのだとして私には一体何が残るのだろう。
心の奥底で燻っている蟠りが形を成して問い掛けてくるかのように不意に浮かび上がった疑問が私の胸に重く圧し掛かる。
自らが犯した罪から目を背け、自らが望んだような都合の良い日常を歩んでいく。
あぁ、それは何て幸福な事なのだろう。
この胸に巣食っていた積年の想いを忘れ、自分が自分らしく生きて行ける未来を歩めるというのならきっとそれはこの上無い至上の幸福だ。

でも、結局その果てに何も無い。
欲しかった物は皆取りこぼし、救い上げたかった物は拾い上げた砂のようにこの指の間をすり抜けていく。
何も掴めないし、何も取り留めることが出来ない。
そんなジレンマを抱えながらこの先生き永らえた所で其処には何の意味も無いのだ。

強いて言うなら……そう、それは空っぽのおもちゃ箱のようなもの。
一欠片の夢も無ければ希望も無い。
ただ空虚な心に決して取り払う事の出来ない後悔を抱いたまま、部屋の片隅に打ち捨てられて忘れられていく雑多で寂しい物だ。
それは何処にでも当たり前のように有り触れているようで、その実誰もが“時の流れ”という言葉を言い訳として被せてしまっている。
時間が経てば何もかもが変わってしまう。
そう頑なに自分に言い聞かせなければ幼き日に投げ捨ててきた多くの事柄に現実との境界を引くことが叶わなくなってしまうから。

時の流れによる万物の変化は何者にも避けることは出来ない。
だから皆人生の何処かで折り合いを付けて、それまで抱えようとしていた何かを投げ出すのだ。
記憶の中の街並みも。
次々に移り変わっていく自分の立場も。
そして、自分を取り巻いていた人の心も。
何もかもが変わってしまう。
それはきっと誰にも逃れられることは出来ないのだろうし、甘んじて受け止める他ないのだとも私こと月村すずかは思っている。

でも、それならば過去の栄華に浸り、思い出に縋る事は罪なのだろうか。
世界がほんの少しだけ私に優しかった時を思い出し、もう一度その時へ戻りたいと希うことは果たして間違っているのだろうか。
確かに私を取り巻く環境は様々な意味で大幅に変化する事になった。
もう昔のように虐められることは無くなったし、他人が怖いという感情も日に日に薄れ始めても来ている。
もう自分は寂しくないって……辛く苦しいだけじゃないんだ、って胸を張って言えもするだろう。

だけど、それは自身に課せられた楔を踏み躙った果てに生まれた物だ。
自分の大事な人を裏切り、交わした約束を違え、嘗ての自分に戻る事を恐れて逃げて逃げて逃げ続けて……。
そんな因果の果てに手に入れた物が私の幸福だと言うのなら、もういっその事投げ捨ててしまいたいと私は思う。
それで過去が帰ってきてくれると言うのなら。
初めて彼女と約束を交わしたあの日が戻ってきてくれるというのなら……。

だけどもう、そんな日々は二度と戻っては来ない。
その事を再認識するだけで胸が締め付けられるような痛みを発し、ぽろぽろと涙が止め処なく溢れてきてしまう。
大好きだった彼女に本当の意味で拒絶されてしまった。
それは……私が今まで受けてきたどんな仕打ちよりも辛く、どんな虐げよりも苦しい物だった。

あんなに優しかった彼女が……泣いて蹲ってばかりいた私に手を差し伸べてくれた彼女が……面と向かって私に向かって嘗て私を虐めていた人達と同じ表情で、同じ声色で私に悪意を向けてきたのだ。
堪えない筈が無かった。
何せ、その一言は今まで私が償いと思ってしてきた何もかもを打ち砕いて無に還してしまったというのだから。

確かに私の想いは独り善がりだったのかもしれない。
元々一度逃げ出してしまった私には償いなんて出来ないことも、そんな資格なんて無いのだということも分かってはいた。
でも、きっと何時かはこの想いも届いてくれると私は心の片隅で信じ続けていた。
もう一度彼女と隣り合わせで笑い合うその日をずっと夢に見続けてきた。

だけど……もう、それもお終いだ。
だって、彼女の口からはっきり言われてしまったから。
お前の抱いている感情は単なる幻想なんだって。
もう二度とお前の想いなんか私には届かないって。
これ以上私を悩ますなら─────私は一生お前を恨み続けるって。
完膚なきまでに……それこそ、この小さな胸の鼓動が止まってしまうんじゃないかって思っちゃうくらいに自分の抱えていた勝手な想いを粉々に打ち壊されてしまったのだから。

そう、きっともう何もかも遅かったのだ。
私自身も、そしてきっと彼女自身も。
再び手を取り合い共に前に進むにはあまりにも時が経ち過ぎてしまっていたのだ。
時が経つに連れ、二人の間に生まれた溝は広く深い。
それこそ、もう決して互いが向こう岸に辿り着く事が叶わなくなってしまった程に。
もう互いの姿は思い出の中にしか存在せず、今この瞬間この世界で息衝いている二人は自分たちの知っている人とはもう別の人なんだって思わなくてはいけなくなってしまう程に。
手を伸ばすにしても……昔日の彼方で彼女が私にしてくれたように彼女の寂しげな背中を抱きしめるにしても……。
何もかも、総てが遅過ぎたのだ。

でも、じゃあこれから私は一体何処へ向かえばいいのだろう。
誰の背中を追い求め、誰の元へと歩を進めればいいのだろう。
分からない。
彼女への償いを捨てた私に行き着く果てなんて元々ありはしないのだから。
行き場を失った者はただ彷徨い歩くしかない。
在る筈の無い答えを求めて、ただただ這いずり回る他ないのだ。
この世の何処かに答えがあると只管に信じ続けて、一掬いの終焉をこの身に受ける為に。
私はただ歩き続ける。
何かに見えない何かに急かされるように……得体の知れない何かに追い回されるように……。
私は私の記憶の中をただ只管に歩き続けるのだった。

「……ぁぅ……ぁ……」

矢継ぎ早に学校の門を飛び出してから一体どれくらいの時間が経っただろう。
十分か、一時間か……それともそれ以上のもっとなのか。
そんな事すら判断出来なくなってしまうほど今の私は疲弊し切っていた。
身体はだるく、視界も半透明のフィルターを通して見たかのように不鮮明。
歩こうと足を踏み出すたびに足元がふらついて、更には呼吸をしようと息を肺へと送り込む毎に段々と吐き気が喉元に込み上がって来る始末だ。

一体、私は……この身体はどうしてしまったというのだろう。
混濁した思考の中にそんな一筋の疑問が滴の様の落ちて行き、水面に波紋を立てるように私の意識を微かに擽る。
何かがおかしいとは朝からずっと思っていた。
何時もの貧血にしては中々収まってくれないし、そればかりかどれだけ時間が経っても体調は酷くなる一方だった。

学校にいる間はアリサちゃんや他のクラスの人達に心配を掛けまいと強がってはいたけれど、今はもう何かに手をついていなければまともに自分の身体を支える事も叶わない。
にも拘らず、私は学校が終わってから随分時間が経っていると言うのに下校しようともせず、ただ一人何処とも知れない道を只管に歩き回っている。
理由なんて何処にも無い。
まるで何か私のものとは違う別に意思にでも操られてしまったかのように私は今だ放浪を続けているのだ。

気持ちが悪い。
体調に対する想いと自身の今の現状に対する想いが重なって生まれたそんな言葉は次第に私の意識をあまり良くない方向へと誘って行く。
疲れ切った身体が淡々と私に眠る事を欲してくる。
此処がもうどんな場所であっても構いはしない。
前のめりに倒れ伏し、そのまま意識を絶ってしまいたいという衝動が心の其処から湧き上がってくるのだ。

とにかく、身体がだるい。
この身を支える二本の脚と何処とも知れないマンションの外壁についている片腕を中心に全身が一斉に疲弊を訴え、幾度となく私の意識を刈り取ろうと疼いてくる。
だけど何時まで経っても一向に意識は失われる事は無い。
その原因はこの身を照りつける太陽の輝きと、まるでその光に焼かれるかのように疼いてくる肌の痛み。
火傷にもにたチリチリとした痛みがこの身を突き刺すように何度も何度も私の意識を微睡みから引き剥がしてくるのだ。
眠りたくなくとも眠りを欲する癖に、それを満たそうとしようものなら今度は身体の痛みがそれを許さない。
まるで生きながら地獄に突き落とされたようだと私は思った。

「くぅ……ぁっ……うぅ……」

時々呻き声を口から洩らしながら、私はなるべく日陰になっている場所に沿って少しずつ歩を進めていく。
だけど、もうその行動に私の意志は殆ど残されてはいない。
軋む身体は悲鳴をあげ、肉を動かすたびに疲労とも疼きともつかない不快な感覚を浮かび上がらせてくる。
骨や間接が固まってしまったかのように一向に動いてくれない。
だけど前に進まないとなんだかもっと気分が悪くなってしまうような気がして……私は行動する事を拒否する自分の意識を無視して無理やり脚を動かし続けた。

枯れ枝が折れるような音が二度、三度と立ち、痛みと共に固まった関節がぎこちなく駆動し始めていく。
身体の自由はもはや殆ど利かないと言っていい。
まるで手首や足首の筋肉をナイフで裂かれ、四肢が身体の一部として機能してくれないかのようにその動作の一つ一つに荒が目立ってしまう。
だけど幾度と無く膝をついている内に私は犬のように這い蹲りながら体制を建て直し、立ち上がることが出来るのだという事を学んだ。
日の光から逃げるように私はふらりと身体をよろめかせ、それまで手を突いていた外壁へと身体を預けながら姿勢を変える。
背中から寄り掛かるようにして、私はそのままずるずると体重に引き摺られるかのようにその場に崩れ落ちた。

コトンッ─────と無粋な音を立てる鞄。
それは私の背中に背負われているものだ。
何時ものならあまり気にしないでいられるそれも、今の私にとっては岩石の塊のように重く感じられた。
まるで私の身体を逃すまいと課せられた鋼鉄の首輪のようだ。
今頃になって彼女に見捨てられた私に行く宛など何処にも無いというのに……。
もう鼻で笑うしかない。
私は何となく、そう思った。
もはやそんな気力、この身体の何処にも残されてはいないのだけれど……そう思うほか私の思考はまともに機能してくれなかったのだ。

一体私は何処に向かっているのだろう……。
自分の事である筈なのに、もはや他人事のようだと心の片隅では思いながらも、間断なく肌を突き刺す日の光から気を逸らす為に、私はそんな事に思いを巡らす。
何もかも嫌になって、アリサちゃんからも他の人達からも彼女からも逃げ去るように学校を飛び出して、歩き続けて……そして自身を戒めるかのように苦痛と体調不良に抱かれながら何処とも知れない場所を歩き回ったその果てが今の現状。
家に帰ろうと思えばバスに乗って最寄のバス停まで行く事だって出来たし、アリサちゃんと一緒に帰れば何時もの好で家まで送って貰う事も出来ただろう。
でも……結局私はそのどちらも選択しないまま、今此処でこうして苦しみ続けている。
これを自業自得だと切り捨てるのは簡単だろう。
だって正にその通り。
今の現状は私自身が選択した行動が引き起こした顛末でしかないのだから。

だけど、今の私が取っている行動は本当に私自身が望んで選択した事なのだろうか。
ボロボロに朽ちた古木のように乾いていた私の心に、一筋の疑問の滴が垂れ堕ちる。
少なくとも今此処でこうして思考している“私”はこんな行動は望んでいなかった筈だ。
確かに彼女から拒絶されて半ば自暴自棄になり掛けていたのは隠し様も無い事実だが、それでもだからってこんなに体調が悪いのに態々迷子になるかもしれないというリスクを犯して街の中を歩き回ろうなんて微塵も思ってはいなかった。
この調子が放課後まで続くようなら放課後もう一度保健室に寄って身体を落ち着かせて、それからファリンかノエルに電話して迎えに来て貰うつもりでいたのだ。
あんまり家族に学校の事で心配を掛けるのは嫌だったけど、何時ものように貧血で体調を崩したと言えばあまり深い所までは聞いては来ない事も承知の上。
何も問題は無かったように取り繕って、家に帰って……後は自室で今日の事を嘆いて、泣き崩れる。
そんな当たり前が……当たり前の絶望が今の私にはあった筈なのだ。

それなのに……。
今朝方彼女に拒絶と悪意の篭った言葉を囁かれた時と同じような絶望が、不意に私の心を引き裂く。
本来あった筈の物が崩れ去っていく─────そうある筈であった物事の根本が歪に捻じ曲がり、無かった筈の物が変わりに添えられ、何もかもがおかしくなってしまう。
そんな不安にも恐怖にも似た怖気が私の心を震え慄かせ、汚泥に塗れたように濁った思考の少しだけ払い落としていく。
どうしてそんな風に思ったのかは私自身もよく分からない。
よく分からないけど……其処にはどういう訳が言いようの無い確信があった。
これより先に在るのは何もかも捻じ曲がり、歪んだ最果ての絶望。
そして、その果てに行き着いた私は……私の知る“ワタシ”では無くなってしまうのだと言う確信がこの胸には満ち溢れていたのだ。

だけど、この身は立ち止まり、元来た道へ戻る事は許してくれない。
私はがくがくと生まれたての子犬のように四肢を震わせ、幾度となくその場に倒れこみそうになりながら、全身の筋肉を震えた足させてその場に立ち上がる。
その際、呻き声とも苦悶の声とも着かない叫びが私の口から漏れ出しそうになる。
だが、ごぼごぼと唾液が喉の奥で力無く泡立つだけ。
時たま、蛙の鳴き声のような音が、震える喉から響くだけだった。

声を発するだけの気力も無いのか。
それともまともに言葉を発せ無くなってしまうほど私の喉が渇いていた所為なのか。
もしくは……そのどちらもなのか。
げほげほ、と何度か咳込みながらも私は再び濁り切った瞳を前方に向け、覚束ない足取りで前進を再開する。
此処に留まっていても苦しくなる一方でしかない。
だけど不思議と日陰になっている所や薄暗い場所なら、この身を蝕んでいる症状も多少マシになってくれるのだ。
今の自分の行動が自分の意思かどうかは別にしても、まずは落ち着いて身体を休める場所まで向かうしかない。
この前進は、そう思い立ったが故の行動だった。

「ぁっ……うぅ、っ……! くぅっ……あうっ!?」

だが、そんな前進が何時までも続く筈も無い。
限界寸前まで酷使された身体はもはや襤褸襤褸で、まともに自分の体重を支える事すら叶わないような有様なのだ。
二歩、三歩と脚を進めて所で身体がグラつき、それを支えようと意識する度に耐え難い疲労感が私の思考を蝕んでいく。
意識は遠退き、身体は疲労の域を通り越してもはや苦痛その物でしかない。
その上、生まれたての小鹿のように小刻みに震える脚は私からバランス感覚を奪っていき、もはや壁に手をついても立っていられないような状態になってしまっている。
こんな状態でもう一度立ち上がって歩みを進めろ、と言う方が酷な話しと言う物だろう。

結果、案の定次の刹那の内に私はその場に真正面から倒れ伏した。
見っとも無い短い悲鳴が口元から自然に漏れ出し、勢い良く倒れた所為で地面に打ち付けた額や肩口がジンジンと痛む。
だが、もはや私にそれ等の痛みを庇うような気力は微塵も残されてはいなかった。
意識が暗転し、視界は靄が掛かったように霞んで見え、身体を動かそうと意識してみても自力では指一本動かす事も叶わない。
どうやら此処が私の限界のようだ。
少しずつ……だけど確実に消え去っていく意識の中で私は何となくそう思い、そして哂った。
なんて私は惨めなんだろう。
ふとそんな言葉が薄れかかった意識の中を過ぎり、自分に対しての嘲りとも侮蔑ともつかない感情が胸の内に込上げてくる。
散々誰かを傷つけて……悪意を向けられるのが怖いからに逃げ続けて……。
そんな果てに行き着いたのがこんな有様だ。

確かに今まで自分がしでかして来た過ちを鑑みれば、この苦しみはそれ相応の罰なのかもしれないとは思う。
彼女が私の代わりに今まで受けてきた苦痛はこんな物ではなかったのだろうし、それも何れは清算せねばならない事柄であることには違いないのだから。
だが、それは果たしてこんな辺鄙な場所でただ一人苦しむ事で償われるような事だったのだろうか。
そう疑問視するたびに悲観的な想いが胸に募り、自らを嘲る歪んだ自傷衝動が私の思考をより後ろ向きな物へと変化させていく。

結局、彼女に拒絶されたのは私の自業自得。
自らが再び今の彼女と同じ立場に戻る事を恐れ、一時的にでも彼女の傍にいる事を忌避してしまった私自身の責任なのだ。
それをこんな独り善がりな考え方で清算できるはずも無い。
いや……寧ろ、していい筈が無いのだ。
私は彼女が苦しみ続ける限り、共に同じ苦しみを味わい続けなければならないのだから。
それが……私が彼女を初めて避けてしまった“あの日”から背負っている私の業なのだから……。

だけど、もうそんな業も此処までなのかもしれない。
日光が肌を焼く痛みと肩口や額でジクジクと脈を打っている疼きに半ば蝕まれつつある思考の中で、私は何となくそんな弱音を思い浮かべた。
段々と意識が遠退いていく、この現状。
これが何時もの貧血の延長線上にある症状であるとはとても思えないし、恐らくこうしてあれやこれやと考え事が出来るのも後僅かの事だろう。
意識が事切れた果てにこの身がどうなっているのかは定かじゃない。
けれど、何れにしたって碌な事になっていないのは想像に難くないことだ。

体調不良で病院に担ぎ込まれたり、入院してしまうようなことになってしまったり……もしかしたらこのまま運悪く日の光に焼かれてこの場で一人寂しく息絶える様な事になってしまうかもしれない。
そう考えると私はなんだか凄く悲しい気分になった。
お姉ちゃんやアリサちゃん、ファリンやノエルといった私の事を本当に心から心配してくれるだろう人達にまた迷惑を掛けるかもしれないと思ったからだ。
だけど、その反面私はこうも思っていた。
もしも此処で私が死んでしまうようなことになったら……“彼女”はそんな私に対して果たして何を思ってくれるのだろうか、という浅ましい考えを。

己の身体すら危ぶまれる現状でそんな事を考えること自体酷く場違いな物である、と言う事は私も分かってはいた。
だけど、私の頭の内に上がってきたのは己を苛む痛みでもなければ自らを侵食する苦しみでもなく、嘗ての記憶の中にある彼女の姿だった。
幼き日、何時も私のとなりに居てくれて……辛い時には惜しげもなく私に手を差し伸べてきてくれた記憶の中の彼女。
優しかった……温かかった……私に無い物を沢山くれた今は無き以前のままの彼女の姿が唐突に頭の中に浮かんできたのだ。

もしも彼女が以前のままの彼女でいてくれたのだとしたら、きっと彼女は私の為に涙を流してくれていた事だろう。
だって……彼女は本来人一倍、それも時々呆れてしまうくらい優しい人だったから。
だけど、今の彼女ならこんな私を果たしてどんな風に捉えるだろうか。
自業自得だと切り捨てるだろうか。
所詮他人事だと何時ものように飄々と受け流してしまうのだろうか。
それとも……今も昔と変わらず、私に対して何かを思ってくれただろうか。
分からない。
今の彼女の事が私は微塵も……何一つとして分かってあげる事が出来ない……。

だけど、そんな私に一つだけ確かに分かる事があった。
それは……こんな現状になってもまだ彼女に対して縋ろうとしている私なんかに本当の意味で彼女を想う資格なんて初めから無かったのだという事だ。
何時も私はそうだった。
一人で自分勝手に悲しんで……自分勝手に嘆いて……。
己が謝罪や贖罪だと想って今までやってきた事さえ、結局は自分が満足したいだけの独り善がりでしかなかったのだ。
何故今まで気がつかなかったのだろう。
次第に濁っていく思考の中で私はポツリ、とそんな事を思い浮かべ……薄笑いを浮かべた表情のまま一筋の涙を瞳から零した。
そう……此処に来てようやく、私は気がついたのだ。
彼女に面と向かって拒絶されてやっと……溢れんばかりの悪意を向けられてようやく……自分がどれほど浅ましい想いを抱いていたのか、という事に。

瞬間、私は溢れんばかりの悲しみと自己嫌悪に襲われた。
だけど、それ以上涙が溢れてくる気配はもはや無かった。
どれだけこの胸に悲しみが溢れても、もうこの身には泣き叫ぶ気力も無いのだ。
でも、その代わりにこの胸を鉛のような後悔が圧迫し、私の濁った思考にほんの少しの波紋を広げさせる。
あまりに遅かった。
そう……もう何もかも遅過ぎたのだ。
もう少し速く何かをしていれば……とか、どうして私はあの時何かをしてあげられなかったんだろう、と思った処で結局それは今更出しかない。
後悔しても身悶えしても、その時が帰ってきてくれる訳ではないのだから。
もう二度とあの時へ戻れる訳ではないのだから……。

もう、どうだっていいや……。
もはや自暴自棄になった私は其処で意識を断とうと思い、思考を放棄しようとした。
もう、何も考えたくは無い……。
何か考えるたびにこんな苦しい思いをするというのなら……何か想うたびに浅ましい自分の姿が付いて回るというのなら……もうこの身が朽ち果てても構わない。
心の其処から私はそう思ったからだ。
それはある意味自死衝動にも似た突発的な衝動だった。
こんな私がこれからもあり続けるというのなら、いっそもう朽ち果てて死んでしまいたい。自殺願望とも変身願望ともつかないそんな想いはある意味、私が心から願った渇望と言っても良かった。

変貌か、死か。
願わくば前者であった欲しいとは思うが、私という存在が“月村すずか”であり続ける以上、その本質が根元から揺らぐ事は無い。
幾ら外面を見栄えが良いように取り繕っても、その人間の軸に根付いている情念を完全に消すことは不可能なのだ。
それこそ……いっそ一思いに別人に─────いや、人間とはまた別種の生き物にでも成り果てない限りは。

馬鹿らしい。
其処まで考えた所で私は今まで自分が思い浮かべていた事をきっぱりと割り切り、全身の力を抜いた。
そんな御伽噺みたいなことが現実にありえるはずが無い。
極限まで苦しんだ果てに生まれた妄想の中にそんな現実的な思考が割り込み、今まで考えていた思考が無意味な物だという事に気がついてしまったからだ。
現実的に考えるのなら私に残された選択肢はただ一つしか残されていない。
いや、どちらかと言えば最初からそれしかなかったというべきだろうか。
まぁ……どちらでもいいし、どうでもいい。
何れにしたってもはや私が“月村すずか”として破綻してしまっている事には違いないのだから。

だが、次の瞬間私は徐に視線だけを動かして目の前を見つめた。
何かの影が私を覆いつくすように現れ、その存在が私を見下ろしているのだと悟ったからだ。
ぎこちない動きでほんの少しだけ首を動かし、濁った瞳を前方へと向けていく。
ただ視界が濁っている所為か、私には目の前の存在が何なのか直に理解する事が出来なかった。
目の前に映る何もかもがぼやけて見え、中々焦点を合わせることが叶わない。

けれど五秒、十秒と見つめている内に私は目の前の存在が何なのか、ようやく近くすることが出来た。
私の目の前に現れた人影の正体─────それは、小さな女の子の物だった。
歳は四、五歳といった所だろうか。
ピンク色を基調とした服に身を包み、片腕に碧いリボンを胸元にあしらった白いウサギのぬいぐるみを抱いた藍色の髪を持つ私よりも幾分か歳下の女の子。
そんな小さな少女が透き通るようなエメラルドグリーンの瞳を心配げに歪ませ、私の事を見下ろしているのだ。

「お姉ちゃん……何処か痛いの?」

「……ぇ……?」

少女が発した言葉に私は反射的に蚊の鳴く様な呻き声を口元から洩らした。
それは肯定の念だったのか……それとも目の前に現れた少女が発した質問に対する疑問の念だったのか……。
もはや自分でもどっちがどっちなのか区別をつけることは難しいが、何にしても私が辛じで発したような呻き声では目の前の少女の疑問の回答としては不十分だったらしく、彼女は再度私に「痛いの?」と質問を繰り返してきた。
そんな少女の質問に対し、私は徐に首を立てに振り……そのまま力尽きた。
もはや首を上げる力すら失われたという事なのだろう。
少女に向けられていた筈の視界は再び地面のそれへと向けられ、彼女の足元だけを僅かに移したまま再び視線を上げることは無かった。

だが、今度こそ明確な肯定の念として質問の回答を受け取ったと判断したのか、少女は腕に抱いたウサギのぬいぐるみをギュッと力強く握りしめ、元来た道を再び駆けていった。
少女の姿が視界の内から段々遠ざかっていく。
もしかして助けを呼んできてくれるのだろうか。
次第に小さくなっていく少女の姿を力なく見つめながら私はふとそんな期待と同時にほんの少しだけ自身を取り巻く運命に絶望した。
このまま助かった所で私は何処に向かえばいいというのだろう。
浅ましく醜いこの身と魂を引き摺って、これからどう生きていけばいいのだろう。
後にも先にも行き着く果てなど無いというのに……。
私はこの苦しみから速く解放されたいと思う反面、何で助かってしまうんだという矛盾した想いを抱えたまま、しばらく少女が走り去っていた道をぼーっ、と眺めていた。

すると、数秒と経たず、先ほどの少女の元気の良い声が私の鼓膜を振るわせた。
そして、そんな少女に急かされるように腕を引かれる女の人の人影が少女の人影に追従するように私の視界に内に入った。
年齢や体躯は大体中学生から高校生くらい。
フワッとした空色の髪と少女と同じ物に程近い月長石の色によく似た瞳が印象的な、活発そうな印象の女の人だった。
そんな対照的な二人が小さな少女に手を引かれる形で私の元へと奔り寄って来ている。

瞬間、私はあぁ、助かってしまったんだなぁ……と思わず他人事のように思った。
どうやらまだこの身を貪る苦しみからは解放してもらえないらしい。
そう思うとなんだかうんざりするような気分だった。
うんざりするような気分だったけど……こんな私の為にどうもありがとう、と私は心の中で名も知らぬ少女に心から感謝した。
我ながら矛盾しているとは思うけど、こんな私のために必死になってくれる人が要るというのは……やっぱり嬉しい事だった。

「セインねぇー。はやく! はやくってば! お姉ちゃんが大変なの!」

「わっ、ちょ! そんなに引っ張らないでも分かった、分かったから。ウェイト! ストップ! フリーズ! とりあえず何が大変なのか頭の悪いセインお姉ちゃんにも分かるように三十文字以内で説明して。後、袖を引っ張るなっての!」

「この先でチンクねぇーくらいのお姉ちゃんが倒れてるの。痛いのって聞いたら、「うん」って頷かれたの。だから助けるの!」

「おーい。その意欲は認めるけど文字数大幅にオーバーしちゃってるぞ、スバルさんや。それ筆記問題でやらかしたら速攻で罰点喰らっちゃうからなー。後、『チンク姉くらいの』とか言わないの。チンク姉ってクア姉に弄られてる時とか何時も平気そうな顔してるけどその実結構傷付いてんだよ、そこら辺……。大体さぁ、こんな辺鄙そうな街中で行き倒れなんて居る筈が─────なんですとぉ!?」

暢気そうな雰囲気が一転、信じられない物を見たと言わんばかりに仰天する女性。
まぁ、確かに言われてみればこんな地元の街中で行き倒れる人間なんてそうそう居たりはしないだろう。
そして私はその栄えある第一人者という訳だ。
何というか……正直別に意味で死にたくなってきた、と私は不意に思った。
だけど、そんな余裕が続いたのは其処までの事だった。
一瞬気が抜けただけで今まで感覚が麻痺して痛覚として伝わらなかった分の疼きが激痛となってこの身を這い回る。
瞬間、私は「あ゛あ゛ぁ……」声にならない悲鳴をあげた。
当然声こそ出ないが、代わりに泡となった唾液が口いっぱいに溢れかえってくる。
流石にこれ以上は拙い。
理屈や思考ではなく半ば生物としての直感でそう判断した私は最後の力を振り絞って今だ「ほえー」などと声をあげて驚愕の念を露にしている女性と「ぼけってしないで!」とどっちが年上何だか分からないような口調で呆ける女性を叱咤する少女の方に向かって力なく手を伸ばした。

すると、ようやく我に返ったのか空色の髪の女性は急いで私の元へと駆け寄ってきてくれた。
そして、先ほどの少女もその後について私の元へと駆け寄ってくる。
だけど、私が明確に知覚できた光景は其処までだった。
先ほどの激痛の所為で心臓が早鐘のように鼓動を刻み始め、呼吸が途絶え途絶えになってしまったからだ。
もはや息をしていることも意識をまともに保っている事も出来そうに無い。
私は最後に残った意識を総て思考と口元に集中させる。

多分、もう私の意識は後一分と経たずに途切れてしまう。
だから気絶する前にせめて大丈夫かどうかの応答と、何をして欲しいのかという用件くらいは伝えておこうと思い立ったのだ。
故に私は瞼を閉じて視界を閉ざし、それ以降自分がどうなってしまうのかという思考の一切を放棄した。
いや……そうせざるを得なかった、といった方が正確だろうか。
まぁ、何れにせよ、やってる事は同じなんだからどっちだっていいだろう。
私は半ば投げ遣りにそう自分に言い聞かせながら、自分の身体を揺さぶってくる女性に対して何とか答えようと最後の力を振り絞った。

「君! 大丈夫!? どうしてこんな─────」

「……っ……げに……」

「んっ? どうしたの? 何処か痛いの?」

「ひかっ……げに……連れて行っ、て……くださ……い。おねが……い……」

其処まで口にしたところで私は今度こそ本当に意識を手放した。
意識が暗黒に沈み、ぴくりとも身体が動かなくなっていく感覚が徐々に伝わってくる。
だが、もはや私にはどうする事も出来はしない。
言いたいだけの事は言ったのだ。
後は目の前の二人がこんな得体の知れない私の願いを聞き届けてくれるかどうかに賭ける他ない。

どうせ、また何時ぞやのように見捨てられるかもしれないこの身だ。
今更他人から見捨てられても特別酷いとは思わないし、目の前の彼女達を恨んだりする心算も無い。
だけど願わくば─────もしも目の前の彼女達が心優しい人達であるのならば、どうか私を助けて欲しい。
それが、私こと月村すずかの意識が途切れる前に願った一筋の想いだった。
刹那、誰かが私の身体を優しく持ち上げてくれたような気がした……。





「日陰? 日陰だね!? よっし……スバル、この辺りにどっかこの子が横になって休めるような日陰在る場所思い当たる限りとりあえず言って。大至急!」

「うぅー、そんなこと言われてもあたし今日この町来たばったりなんだよ?セインねぇーだってそうじゃん」

「うっ、確かに言われてみれば……。って、そんなこと言ってる場合じゃ無さそうだから言ってるんだよ。本当に今までどっか見かけなかった? 公園とか木の生い茂った原っぱとか」

「そんなこと言われたって……ねぇ、クリスくんは何か知らない?」

倒れていた少女の意識が失われた後、その場に残された二人─────ナンバーズ・セインとその連れである少女スバルは互いに漫才のようなやり取りを交わしながらあれやこれやと不毛な言い合いを交わしていた。
二人はとある命令を自分たちの姉である長女─────ナンバーズ・ウーノからの命令を受けて今朝方この第97管理外世界に降り立ったばかりだったのだが、共に稼動して間もない二人は持ち前の精神年齢の低さもあってか今の今まで命令もそっちのけでこれまたあれやこれやと街中をぶらついていたのだ。

本来は命令通り自分たちの姉であり、一足先に重要なロストロギアなのだというジュエルシードの回収にあたっているナンバーズ・トーレと合流せねばならなかったのだが、見た目は置いておくにしても共に幼い子供の思考しか持たぬ好奇心旺盛な彼女たちに興味を差し置いて淡々と命令をこなせと言うのは酷な話だった。
二人は気の赴くままにあっちへふらふら、こっちへふらふらと特にこれといった目的がある訳でもなく、完全な旅行気分でこの街を探索していたという訳だ。

そして、もういい加減にしないとお叱りを喰らうのではないかといった処でそろそろトーレと合流しようとした矢先に目の前の少女が倒れている所に出くわしたという訳だ。
セインも当初はスバルの事もどうせ子供なんだし、放っておいても構わないだろうと持ち前の自由奔放さを発揮して一休みと駄菓子屋の前のベンチに腰を落ち着け、自動販売機で買ったコーンポタージュに舌鼓を打っていたのだが、まさかそのスバルに無理やり引っ張ってこられたかと思ったらまさか行き倒れの少女まで連れて行かされるなんて思っても見ていなかった。
しかも、それが砂漠や荒地であるのならいざ知らず、世にも珍しい住宅地での行き倒れというのだからその仰天ぶりも最たる物だったに違いない。
とは言え、幾ら場所が住宅街で在るとは言っても行き倒れは行き倒れ。
このまま見捨てておくのも後味が悪いし、なにより自分の事を今のところ唯一「姉」と呼び慕ってくれている可愛い妹の頼みを無碍にすることなんて出来ないと判断したセインは今もこうして並みの人間に比べて微妙に足りていない頭を必死で振り絞って少女が気絶する前に言っていた言葉を実行に移そうとしているのだ。

だが、二人はこの第97管理外世界に─────ひいてはこの街『海鳴』に足を踏み入れるのは今日が初めてのこと。
トーレとの合流はいざとなれば姉妹同士の通信でどうとでもなりはするものの、ほんの数時間程度街中をぶらついていただけの二人にこの街の何処に少女が望んでいるような場所があるのか、なんてことを存じている筈が無いのだ。
更に言ってしまえばまだ一年と稼動していないセインの思考は基本的な事こそ年頃の少女の物ではあるが、その天真爛漫さと純真さが相まって見た目以上にその思考能力は幼いという他無く、スバルにいたっては見た目同様中身のお子様のソレなのだ。
当然そんな二人が知恵を結集した所でまともな議論になるはずが無く、何処と無く頭の悪い会話が終わらないワルツのように繰り返されるばかりである。

故、此処でスバルは自分の抱えていたうさぎのぬいぐるみ─────通称『クリスくん』に徐に疑問を投げ掛けた。
一見すると幼い少女が愛らしいぬいぐるみに質問して一人遊びをしているような後継にも見えるのだろうが、実はスバルの抱えているぬいぐるみは唯のぬいぐるみではない。
そして、それを証明するかのようにうさぎ……もといクリスくんはスバルの問い掛けに呼応するように独りでに動き出したかと思うと「ピシッ!」と額の部分に手を当てて敬礼し、徐に路地の奥の方に手を向け始めたのだ。
そう、実はこのクリスくん……唯のぬいぐるみではなく、ぬいぐるみに搭載されたデバイスだったりするのだ。
正式名称はセイクリッド・ハート。
その愛称が『クリス』であり、現所有者であるスバルの意向から『クリスくん』などと呼ばれていたりする訳だ。
とは言え、あくまでもぬいぐるみが動いているのは副次的な機能であり、本来は内部に埋め込まれたクリスタル状の物体がデバイスとして活動している訳だが……基本的にそこら辺のことをあまり気にしていない二人にはどうでもいいことだった。

「そっち? そっちなんだね、クリスくん! セインねぇー、クリスくんがあっちの方にあるって。行こ!」

「おーっ、でかしたよクリス。ドクターの作った物にしては役に立つじゃん。他の奴なんて殆どがガラクタだってのに」

「セインねぇー。セインねぇーも人のこと言えないんじゃないかな? あんまりそういうこと言うとドクター泣いちゃうよ? それにクリスくんはドクターの作ったものじゃないし……まぁ、いっか。クリスくん、ナビゲートお願いね。セインねぇーはお姉ちゃんを運んであげて」

「あいあいさー。さぁて─────よいしょ、って軽っ!? ちょっと、本当に大丈夫かな。この子……?」

以前ちょっとした悪戯で二人の姉であり、何故か他の姉妹よりも数段背の低い六番目の姉であるナンバーズ・チンクを後ろから抱き上げた時より軽いとセインはその後たっぷり怒られる羽目になったという忌々しい記憶と共にその時体感した重さよりも更に軽いであろう少女の体重に心から驚きながら、それと同時に色々な意味で目の前の少女について心配の念を抱いていた。
年頃の少女なら幾ら小柄と言えどもそれなりの体重があるはずであるのに対し、少女のそれは明らかに他の平均的な女児の物よりも軽い物であった。
それ故、セインは何となくこの体重の軽さが行き倒れの原因になったのではないかと思い込んでいた。
実際は単に此処数ヶ月、気絶している少女こと月村すずかは幼い頃から同級生に虐めを受けてきたことで募った心労やストレスの所為でもう随分前から食の細い生活を続けており、それ故に他の同級生に比べて体重が劣っているというだけの事に過ぎないのだが……そんな事情など当然知る由も無いセインがそう誤解しても仕方が無いといえば仕方の無いことだった。

少女の膝元と背中に手を添えて、そのまま彼女の身体を抱きかかえるセイン。
俗に言うお姫様抱っこという奴である。
とは言え、これが彼女達の姉であるトーレであったならばその容姿も相まってそれなりに栄えの在る絵図になっていたのだろうが、姉と同姓であっても見た目的には未だ第二次性長期の少女特有の幼さが残る顔つきであるセインでは特にこれと言って特筆するような図でもなかった。
まぁ、しかしながらセインもセインで一応は他の姉妹と同じ戦闘機人。
彼女達が『ドクター』と呼び慕いつつも、心の隅では碌でもないガラクタばかり発明するタフで知的な変人と若干馬鹿にしている人物の手で作られた人造人間なのだ。
そんな彼女が自分で軽いと感想を洩らした少女を抱えただけでふら付く訳も無く、ぐったりとした様子の少女の身体は意図も簡単にセインの腕の中に納まった。

そして、それと同時に傍らでクリスにナビゲートを頼んでいたスバルは徐にその手を離し、今まで抱えていたクリスの身体を開放する。
すると、驚くべき事に彼女の手の内から離れたクリスはそのまま落下する訳でもなく、ふわふわと独りでに宙に浮き始めたのだ。
クルクルとその場で回ってみたり、両手で「ピシっ!」と進むべき方向を指し示したりして自分の役割をアピールしようとするクリス。
空飛ぶうさぎのぬいぐるみとは何ともシュールな絵図だが、元よりスバルの愛玩用のぬいぐるみとしての意味合いが六割を占めているクリスの役割としてはこれでも一生懸命やっているつもりなのである。

それに、元よりセイクリッド・ハートというデバイスは優秀なAIを積んでいる。
それこそ……本来ならば“この時代”にありえる筈の無い高スペックを備えていると言っても過言ではないのだ。
実際、この時代に管理世界で有り触れている一般的なデバイスとセイクリッド・ハートとの性能差はざっと10年以上開いていると言ってもいい。
彼女達がドクターと呼ぶ人物曰く、「ありえない未来から漂流してきた物」だそうだが、現実問題としてセイクリッド・ハートは正に存在し得ない未来から辿り着いたと言わんばかりの高性能機なのだ。

とは言え、それでもやっぱり見た目は愛玩動物のぬいぐるみ。
幾ら出所不明の高性能機とは言え、外見がうさぎでは貫禄もへったくれも無いというものだろう。
それに、実際の所セインにしろスバルにしろそこら辺の事はあまり気にしてはいなかった。
これは単に彼女達が純粋無垢であるが故にという訳ではなく、もう少し深い部分……厳密に言えば彼女達の出生が関係していると言えた。
そもそも、このセインとスバルという二人組みは一見仲の良い姉妹のようにも見えるが、実は同じような経緯で生まれてきたという訳ではない。
純粋にドクターと呼ばれる人物に創造されたセインに対し、もう一人のスバルという少女の生まれにはちょっとした逸話が存在するのだ。

話を遡る事数ヶ月前。
まぁ、セインが稼動してから一ヶ月ほどの時間が経った頃の話だ。
ある日、何時ものように与えられた命令を遂行する為の訓練を積んだり、二番目の姉が何故か送りつけてくるお土産を楽しみに待っていたり、それだけでは娯楽が足りずに他の姉妹にちょっかいを掛けて悪戯を繰り返しては怒られるというような事を繰り返していたある日のこと。
彼女達の生みの親であるドクターが一人の少女を自分たちのアジトへと連れてきたのだ。

その名はスバル。
ドクターとは別の研究機関で試験培養されていたタイプゼロ・シリーズの片割れである。
何でもドクター曰く「スポンサーが持って行けと言ったから貰ってきた」という犬猫でも扱うような身も蓋も無い理由で連れてきたらしいのだが、実は其処には微妙に真実が内包されており、後にドゥーエを除く姉妹総出で調べてみた結果、戦闘機人事件をしつこく嗅ぎ回っていた捜査官の引き剥がしたいが為にスポンサー自身が別の捜査官を派遣してタイプ・ゼロシリーズの二体を確保するよう命令を下し、その末路に片方が以前から自分の作っている物とは別の戦闘機人に興味を抱いていたドクターに明け渡されたというのが事の顛末だった。

初めこそはセインたちも自分たちとは微妙に出生の異なるスバルの存在に手を焼いていたりしたのだが、その生い立ちが露になって行く内にとある組織の内部事情のごたごたの所為であっちこっちに引っ張りまわされている可哀想な子ということが分かり、その後は徐々に他の姉妹とも打ち解け、現状に至っているという訳である。
ちなみにスバルという名前はスポンサーから齎されたコードネームのような物であるらしく、セインも他の姉妹も「タイプゼロ・セカンドと呼ぶよりは親しみやすいだろう」という事からそのまま継続して彼女の名前となったものである。
実は彼女達が“知らない未来”でもその少女は「スバル・■■■■」という名前であったのだが、それは今しか知らぬ彼女達には窺い知れない事であった。

「セインねぇー。ぼーっ、としてないで速く行こうよ。そのお姉ちゃん干からびちゃうよー」

「いや、干からびるってそんなスルメじゃないんだから……って言ってる場合でもないか。でっ、どっち?」

「うーん……あっち!」

「おっし。んじゃ、走るよスバル。セイン姉さんにしっかりついてきな」

そういうと二人は何時の間にかスバルの頭の上に乗っかって、振り落とされないように腹ばいになっているクリスに導かれながら二人並んで街中を駆けていく。
そのスピードはオリンピック選手にも何ら引けをとらず、スバルに至っては子供の限界を遠に超えるほどの身体能力を誇っていた。
腐っても二人は戦闘機人……まぁ、そういうことなのだろう。
ただ、この時二人は気がついていなかった。
二人が進んでいる方向……それは実はクリスが指し示したのとはまったく逆方向であったということに。
ついでに言えば、セインの持つIS「ディープダイバー」を用いることを彼女が考え付けばもうちょっと速く目的地に着けたんじゃないかなぁ、という事に。
純粋無垢、それは微妙に知恵の足りない子をオブラートに包む優しい魔法の言葉。
この先二人が何処に行くつくのか……それは二人自身もあんまりよく分かっていない。





・補足
多分VividやForceを見ていない方もいらっしゃるのだと思うので、補足です。

・セイクリッド・ハート
魔法少女リリカルなのはVividにおいてヴィヴィオがSt.ヒルデ魔法学院の初等科四年生になった際に彼女に送られたうさぎのぬいぐるみを外装としたデバイス。
愛称(マスコット・ネーム)はクリス。
原作同様登録されている術式はベルカ主体のミッド混合ハイブリッドであり、名前も正式名称もヴィヴィオがつけた名前と同じ物が使用されている。
本来の開発者はマリエル・アテンザことマリーさんであるが、本作においても同様であるのかは不明。
というか、そもそも何故これがこの時代にあるかどうかも現時点では不明である。
ただ判明している事は並みのデバイスに比べてその性能が約14年近い性能差を誇っている事と、見た目がうさぎであるという事だけである。
現使用者はスバル。

・スバルについて
原作と違いどっかの落魄れた執務官が余計な事をしでかしてくれた所為でクイントに保護されなかった未来のスバル。
見た目は原作時に保護された時と同じ四、五歳ほど。
ある意味原作のドクターの目論見通りに彼の元へと渡ってはいるものの、何の因果か本来辿るべきはずだった未来と同じ名前で呼称されている。
能力、戦力に関しては一切不明。
ただ言える事は原作同様アホみたいに食べる事と、それなりに他の姉妹とも親しくやっているという点だけである。
本来の姉が今何処で何をやっているのかも現時点では不明。
作者的に書き易いアホの子その①

・セインについて
見た目はStrikerSの物ではなく、髪の毛がストレートではなくなっていたり、ちょっと大人しめの印象になっていたりと最初からVividと時と同じような外見になっている。
ちょっと大人っぽい印象になってはいるものの、精神年齢は原作で自分が言っていたのと同じようにやっぱり低い。
ただ原作当初とは違い、あんまり冷徹な正確でもないようである。
多分原作と同じように料理スキルがある……はず。
作者的に書く易いアホの子その②

それでは補足終わりです。



[15606] 空っぽおもちゃ箱⑧「最後から二番目の追憶」#すずか視点
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:b3765b7d
Date: 2010/10/10 22:20
堕ちて行く。
何処までも、何処までも……まるで混沌の海の中へと沈んでいくように私の心は果ての無い暗闇の底へと堕ちて行く。
一体私は何処に向かっているのだろう。
泥に呑まれていくような微睡みのなかで、私は不意にそんな疑問を胸に抱いた。
身体が─────特に心臓の部分が妙に熱い。
そして、その熱は徐々にではあるが、ゆっくりとこの身を包み込まんと身体全体に広がりつつある。

だが、その感覚に私は特別不快な印象は抱かなかった。
寧ろ、その逆。
己の身を焼き滅ぼさんとするこの熱こそが、この奇妙な心の浮遊感を終わらせてくれるのだという想いが、熱が身体に広がっていくのと比例して私の空虚な心はゆっくりと満たされていくのだ。
ただそれは決して愉悦や幸福などといった陽の情念に満ち溢れた物ではない。
この身を満たしていくのは数多の後悔と抱えきれないほどの濃密な絶望。
幾千、幾万ものジレンマの円環を駆けてもまだ望んだ結果に至る事の出来ないという醜悪な既知感がこの心を満たしているのだ。

暗い、暗い闇の最底辺。
永久の暗黒が支配するその場所で私は不意に意識を取り戻す。
しかし、それは普段の自分が眠りから目覚めた時のような生物的な感覚ではない。
極限まで落ち込んだ四肢に釣り糸を通され、人形劇の操り人形のように天井から意識を吊り下げられるような無機質な感覚。
まるで自分の意思の通わない別の“ワタシ”がこの心を掌握し、思うが侭に心を支配されているような……そんな奇妙な感覚だ。

刹那、不意に込上げる吐き気と鈍痛。
身体全体に極限まで熱した焼き鏝を押し付けられたかのような強烈な感覚が絶え間なく、そしてじっくりと私の精神を攻め立てる。
重く、鈍い感覚が頭の中をかき回し、幾度と無く私の意識をこの身から引き剥がそうと疼き、蠢く毛虫が前進を這い回るような気色の悪い感覚が一気にそれまで感じていた熱に取って代る。
それからしばらくの間、私はこの身を貪る不気味で醜悪な感覚に嬲られ続けた。
灼熱と感じていた感覚が次の瞬間には絶対零度の冷気に変わり、またその感覚がしばらく続いたかと思えば今度は生暖かい汚泥が被せられたかのような怖気が全身を駆け巡る。
精神的にも肉体的にも“私”という存在は執拗に嬲られ続け、その内、空も地面も見分けがつかなくなってしまうような処まで私の意識は衰退していった。

だが、そんな拷問のような異次元の感覚の濁流も次の瞬間にはあっけなくこの身から離れ、何処とも知れない真っ暗な虚空へと四散していく。
そう、私はこの感覚を知っていた。
忘れよう筈も無い。
何せ、それはずっと前から─────それこそ、この身が終わらない悪夢を毎夜のように見せられる羽目になってからずっと慣れ親しんできた感覚なのだから。
瞬間、それまでの感覚を根こそぎ吹き飛ばすような強大な既知感が私の脳裏を過ぎり、薄れ掛けていた意識をゆっくりと目覚めさせていく。

知っている。
此処に在る何もかもが私の理解の範疇にあり、そしてこの身に刻み付けられた─────月村すずかという人間に刻み付けられた負の記憶の中にあるのだという事を私は知っている。
この先に何があるのかも。
この先に何が待ち受けているのかも。
此処が……この穢れに塗れた暗黒の世界が己の記憶に際してその姿を変える私自身の悪夢だという事も。
私はこの場所の……そして、この身を這う感覚の総てを知っていた。

「─────っ! こっ、これは……」

この身を包み込んだ凄まじい悪寒の怖気に何度か気を遠くしそうになりながらも、私は何とか自己の意識をその空間の中で確立しながら驚きの念を言葉に乗せて宙に零した。
先ほどまで……この悪夢に訪れるまでに肉体を蝕んでいた疲労や苦痛は、今の私からは一切感じられない。
否、どちらかと言えば単に感じ取る事が出来なくなったというべきだろうか。
夢の中で此処まで明確に自意識を保った事なんて今まで一度も無かったからあまり詳しいことはよく分からないけれど、少なくとも此処が現実でないことくらいは私にだって容易に想像が付く。

何せ、此処に……この場所に満ち溢れているのは吐き気を催さんばかりの濃密な既知感だ。
何処も彼処も─────この場所で起こり得る何もかも己が知っているようにしか繰り返されず、また私自身もその光景を知っているように見続けなければならない。
そうした顛末が最初から分かっていたからこそ、私は直に分かったのだ。
また同じ事が繰り返され、私は未だその円環に囚われるがままなのだという事を。
この身を貪る悪夢は例えどんな状況になっても私を苦しめ続けるのだという事を。
私は……否応も無く、分からされてしまうのだ。
今もこうして、終わり無い悪夢を見せ付けられるように。

「なっ、なんで……っ!? 一体どうして……ひぃっ─────!」

自分が見ているものが悪夢より生まれた産物だと自覚した瞬間、私は凍りついたように顔を強張らせ、怯えたような声を洩らしながらジリジリと歩みを後退させていく。
それは刹那の内に起きた歪にして醜悪な風景の移り変わり。
何も無いと思われていた暗黒の空間が徐々に捻じ曲がり、私が最も見たくないであろう過去の記憶にこびり付いた情景にその姿を変え始めたのだ。
暗雲のような得体の知れない霞は暗く薄暗い夕方の空へとその姿を変え、私の身を包んでいたねっとりとした悪寒は沈みかかった太陽に照らし出される漆黒のアスファルトとなって私の足場を構築する。

だが、『世界』の変化はそれだけには止まらない。
ふと振り返ってみれば其処には夕焼けに染まった見慣れた校舎が聳え立ち、其処から飛び引こうとして再び正面を向いてみれば其処は昼間でも薄暗い校舎裏へとその風景を移り変わらせる。
そして、其処で私が目にしたのは……凡そ、一年ほど前の自分自身の姿だった。
路傍に打ち捨てられた子猫のように横たわり、ピクリとも動かずにいる嘗ての自分。
否、あれは動かずにいるのではない……動けないのだ。
それまで自分の身に起きた変化への驚きのあまり、唖然とした表情のまま固まっていた私は不意にそっと胸部に手を当てて、今もまだ痕として残っている古傷をなぞる様に触る。
そう、それは丁度この時……私の人生が最悪な佳境にあった頃に上級生からの私刑によって刻み込まれた物の一つだ。
教師からも生徒からもまず目に付かないであろう放課後の校舎裏で、まるでサッカーボールでも弄ぶかのように複数人で執拗に身体を蹴り回された挙句、財布を奪われ、そのまま路傍に転がる塵芥のように容赦なく放置される。
その末路に生まれたのがこの痕。
消したくても消せない私の忌まわしき記憶の証明。
それ故に今になっても時々疼き、身体全体に不快を伝播させる痣の様な傷痕だ。

この時─────この痕を作る破目になった時、果たして誰が悪かったのかと言えば……それは無論、私自身に落ち度があったと言う他ない。
いや、どちらかと言えば迂闊であったと言うべきだろうか。
元より並の人間よりも社交性に欠け、凡そ自己主張という概念を度外視して日常を過ごしていた私は正直自他共にそうだと思ってしまうほど、自分のクラスという集団から酷く浮いた存在だった。
ただ別段孤独であったという訳じゃない。
この当時はまだ私も“彼女”ともアリサちゃんとも入学した当初から変わらぬ……と、言っても其処に至るまで一悶着も二悶着もあった訳だけど、それでもまだ三人揃って屈託の無い交友関係を築くことが叶っていた。

だが、言い換えればそれは私も含めその三人全員が集団その物から外れていたとも言えてしまう。
こんな事を言うのは本当は嫌だが、現実問題として実際私達の立場というのは互いが互いに奇妙な腐れ縁を持ってしまった日からずっと……それこそ、その繋がりが途切れてしまった今でも本来正常に教室の中で形成される一般的なコミュニティの埒外に在った。
とは言え、それはある意味必然とも言えることだった。

何時かも覚えていない昔日に本人から聞いた話では私と同じく幼い頃より同年代の人間と上手く接触する事が出来ず、上手く自分の感情を相手に伝える術を持ちえていなかった“彼女”。
同じくして自分の知り得る“世界”の中でしか“他者”という物を知らず、他人との接点が途切れる事を極限の域で忌み嫌いながらも、それとは対極的に自分という物を素直に表に出す事の出来なかったアリサちゃん。
そして、生涯自身が望んだものに悉く袖を振られ続け、もはや自身が手を伸ばした物などこの手をすり抜ける幻想にしか為り得ないのだと幼いながらに半ば達観し、諦め掛けていた私こと月村すずか。

三者三様。
皆、背負った背景こそてんでバラバラだが、そんな物は何も知らぬ第三者からすれば皆須らく同じに見えてしまう。
だからなのだろう。
私達が互いに惹かれ合い、腐れ縁という陳腐な物から交友という関係まで互いが互いに対する評価を昇華させたのは。
今考えてみれば私達三人の会偶、そして其処から生まれた縁というのはあくまで当人としての主観で無く、第三者の視点から語るにしても散々な物であったと言えた。

事の発端は些細な事。
人との付き合い方をあまり知らなかったアリサちゃんが子供らしい癇癪を起して、年がら年中根暗な感じだった私にちょっかいを掛けてきて……それで彼女がそれを止めようとして、喧嘩になった。
本当にただ、それだけ。
それまで同じクラスに属していたというだけの三人が偶々至極つまらない事で重なり合い、それの延長線上で顔見知りになっただけの些細な事だ。
いや……アリサちゃんと彼女の関係だけに焦点を絞るなら、それこそ交友どころか互いに邪険な念を抱きあっただけに過ぎないとも言える。
何せ、双方がお互いの胸倉を掴み合って目元に青痣が出来るほど殴りあった程なのだ。
正に犬猿の仲。
竜虎の交わりというのが現実にあるのだとすれば、まさにアレがその関係に当て嵌まると言えた事だろう。

だけど、そんな二人も時が流れるに連れて次第に打ち解けるようになった。
最初は皮肉を言い合ったり、互いに痺れを切らし合いそうになりながらだけど……二年生に進級する頃には一応友人や友達と呼べるような関係になる事が叶っていた。
そして、そんな二人の間に私はいた。
まるで添え物のように……例えるのならカレーライスの福神漬けとか酢豚の中のパイナップルだ。
特別必要という訳ではないけれど、何となくその場に無いとしっくり来ないもの。
それが私の本来の立ち位地であり、程よく心地良い月村すずかとしての在り方だった。
二人の仲を取り持つ様にあくまでも一歩足を引いた処から彼女達を支える第三者。
どっちの側のどんな立ち位置とも言えない中途半端な処から彼女達の“友達”として仲良くなって欲しいと試行錯誤する。
そんな場所が私にとっての至上の幸福だったのだ。

実際、その関係はこの目の前に広がるこの時まで正常に保たれていた。
アリサちゃんとも彼女とも普通の友達でいることが出来、尚且つそれ以上でもなければそれ以下でもない至って平凡な─────あぁ、それこそ最も自分が欲して止まなかった立場でいることが叶っていたのだ。
だけど、此処でまた私が生まれ持ってから背負っているジンクスが作用してしまった。
欲した物には避けられ、望んだ物には遠ざかられ、手を伸ばした物には袖を振られる。
凡そ、私が希った何もかもはそう長く続いてくれはしないのだ。
そして、この時が正にそう。
此処から何も起こらなければ私は私として─────ただの“月村すずか”でいることが出来たのだ。

でも、現実って言うのは思いの外残酷な物で……私が私のままでいる事を許容してはくれなかった。
私が其処まで考えた所で、再び目の前の光景に変化が起きる。
地面に力なく横たわる昔日の私と、そんな嘗ての自分をただただ傍観するしかない今の私。
そんな二人の人間の間に新たな人間の人影が颯爽と割って入ってきたのだ。
それは……見覚えのある少女の過去の姿。
此処でこうして私と関わる事でそう遠くない未来の果てに散々な目に合うとも知らず、ただ持ち前の善意と優しさを糧に私の友達でいてくれていた“彼女”の昔のままの姿だ。

それを見た瞬間、私は思わず「あっ……」という間の抜けた声を口元から洩らし、そのままその人影に向かって歩みだそうとする。
だが、私の足はまるで影を地面に縫い付けられたかのようにまったく動いてはくれない。
手を伸ばそうと意識をしてみても、その手は彼女にも嘗ての私にも届くことなく虚しく宙を切り続けるばかりだ。
止めなくちゃいけない。
自分のすべき事は分かっているのに……この場において自分はどうしなければいけないのか知っている筈なのに……それなのに、まったく身体の自由は利いてくれない。

何たるジレンマ。
何たる無情……。
せめて夢の中だけでも良い。
これが一夜の夢でも、刹那の幻でも構わない。
だから……だから、せめてこの現実を無かった事にしてしまいたい。
目を背ける事すら叶わず、ただ只管に目の前で再生され続ける記憶の中の場景を眺めさせられ続ける私は胸元でギュっ、と掌を握り締め、心の底からそう願い続ける。
そうだ……元より、この記憶は幸福の象徴であって然るべきもの。
散々酷い目に合わされてきたけれど、その御蔭でようやく欲しかった物を手のする事が叶ったというある種の夢が其処にはあった筈なのだ。
でも、そうある筈だった記憶は今も尚、最も思い出したくないトラウマとして私を蝕み続けている。
何故……? そんな物は今更語るべくも無い。
そう在ってしまったからこそ─────私と彼女が密接になってしまったからこそ、何もかもが壊れ、破綻してしまう兆候を生み出してしまったからだ。

人の欲望という物には際限というものがない。
それは何処の時代のどんな人間、例え生まれや育ち、種族や肌の色が違おうと変わらなく存在し得てしまう。
それが例え世に名を残した聖人であれ、処刑台に送られて無残に首を刎ねられる罪人であれ根本は同じ事だ。
どんな時代、どんな環境であろうとも、自分の置かれている立場に完全な満足、あるいは諦観を懐き、何も求めない者など皆無であると言う他ない。
何故なら、それが人間という存在が生まれつき背負った性なのだから。

今よりもあと少し、先へ先へ、前へ前へ……そうした飽くなき探究心、所謂飢餓の心が人の歴史を創ってきたのだ。
故にそれは別段悪い事じゃない。
欲求という名の飢えが無ければ原動力になっていなければ、人間は未だ猿のまま、一歩も進化していなかっただろう。
だから……別段、私はそれを頑なに否定するつもりは無い。
人間の営みには不平と不満と恐怖と飢えがへばりついて拭い難く、それなくして人間は人間足り得ないのだから。

分かっている。
誰よりも深く……身に染みて分かっている。
自分も─────月村すずかも、そうした人間そのものである事には何ら変わりないのだから。
そんなことは、ちゃんと分かっているつもりなのだ。
しかし─────と、ここで一つ考える。
より先へ、より前へ、より高く、より上へ……それら人が有する欲望は、向上心として発明を生み出し、翼を創る。
言わば飛翔する為の揚力であり、正の属性を帯びた祈りの顕現と言えるだろう。
だけど、人間というものは周りの人間が定説しているほど強い物ではない。
いや、正しく言うなれば誰しも心の中に闇を内包していると言うべきだろうか。
コインに裏表があるのと同じように、正もあれば負も生じる。
つまり……現状から進む飛翔もあれば、繋ぎ止める為の停止もある。
翼を創造する事に執心する者がいるなら、自己欲の為に他人との楔を持ちたいと躍起になる者もいるのだ。

不平や不満は誰もが持つ。
ならば自己を高みへ立たせようとするのが人の性だが、別に飛ばさなくてもそれを叶える方法があるだろう。
より容易く……それもまた、人の欲望であり、飢餓が生み出す一概念だ。
有り体に、自己投影と言えば理解に易い。
自分より優れた者、恵まれた者、高みにいる者らの傍らに自分を置いて……その縁から自分をそれらの存在に近づけ、偽装する。
自らは高みなど目指す心算は寸分たりとも無いというのに、自身に足りない所を埋めたいからと他人を模倣しては自らの存在を其処に近づけ、その存在と同じである事で満足感を得ようと躍起になるのだ。
そうしてしまえばなんて事は無い。
人間として未熟な存在である筈の己を彼女達と対等の存在であるのだと錯覚する事が出来るのだから。

だが、その先に待っているのは決して状況の好転などという都合のいい物ではない。
寧ろ、その逆転の摂理。
自分が他人を模倣して、その人間との縁を深めれば深めるほど、模倣の対象となった人間は暗い水底へと引き摺り降ろされていくのだ。
それは……別段私が意図してそうなっていく訳じゃない。
こんな風に言ってしまえば身も蓋も無いのかもしれないが、要は何事も結果論だ。
愛で人が殺せるなら、憎しみで人を救えもするように……誰がどんな意図でどのような行動をとったのか、なんていうような過程よりも重点を置かれるのはやはり最終的にその所為で何が起こり得たのかという所になってしまう。
しかし、ならば何も責任が生じないのかと言えば、それは決してそうじゃない。
例え結果がどう現れた所で、そうある必要の無かったものを転落させる切っ掛けを生み出してしまったのは他ならぬ私自身なのだから。

故、私に確固たる罪があるとすれば其処だ。
幾ら自分が意図していないとは言え、目の前の彼女を含めて自分の周りの人間を根こそぎ不幸のどん底に突き落としてしまった。
それは紛れも無い事実だ。
今更言い逃れようもないし、する心算もない。
何せ本当に私が此処で……この記憶と同じ刻、同じ場所、同じ思いのまま、彼女へと手を伸ばさなければ彼女達は正常な時の流れを歩む事が出来たのだから。
私の変わりに他者から排斥される事も無く、また周りの人間に恐怖を感じ、自らの人格を内に閉ざしてしまう事も無い。
私さえ元のままで居続ければ、それ等の変化は本来起こるはずも無かったのだ。

だが、それは現実に起こりえてしまった。
他の誰がそうした訳でもなく、私自身が望み得た結果の果てとして……。
事実をなぞる様に起こり得た現実と、そうあって欲しくないと希う想いの板挟みに思わず泣き出しそうな衝動に駆られながらも、私は嘗ての自分の姿をその双眸に焼き付ける。
白く、穢れの無かった彼女に差し伸べられた手に縋るような想いで手を伸ばす私の始まりの罪を。
そう、此処に事の総てを司る切っ掛けが生まれてしまった。
そうある筈の無かったことの総てを内包した、理不尽の始まりが……声をあげて芽吹いてしまったのだ。
それはもはや、避け様の無い現実……永久の悪夢の開花に他ならない。
きっと、私はこれからも……何時までもこの覚めない夢に魘され続けるのだ。
この昔日の記憶が、覆されない限りは─────……。

「そう。そうやってまた逃げるんだね。本当っ……心の底から呆れちゃうよ。馬っ鹿じゃないの?」

刹那、突如として此処にある筈の無い声が私の後方から響き渡る。
それは……見知った人間の、それも顔を合わせるたびにはき捨てられるときと同じ、心底嫌そうな重く低い声色だ。
言うなれば、それは既知の延長線上に存在し得る代物。
つい先ほどまで私の目の前で醜悪劇を繰り広げていた人間の内の片割れが、私の記憶にある姿に追従するような形でその姿を変えただけの事だ。
だが、それ以前に私はその声が響いた事に酷く未知を感じていた。
あぁ、確かにその声が響いた時に感じた感情は驚愕や恐怖といった物である事には違いない。
けれど、その根本にあったのは声が響き渡ったからという直接的な原因の有無ではない。
何故そんなものが今此処で聞えてきたのかという、問題が生じえる事柄のもっと深部に当たる疑念が私の心を怯え揺さ振らせたのだ。

本来、私の悪夢はこれで終わりである筈だった。
己が犯した罪を毎夜のように見せ付けられ、起きて尚、自分が仕出かした過ちの犠牲となってしまった人々を眺め続ける毎日。
その円環こそが私の悪夢であり、今まで抱え続けてきた業の正体だ。
確かにこの夢の他に嘗て自分が被ってきた排他と暴力が入り混じった記憶を夢としてみる事もあったにはあったが、それにしたってほんの極数回……それも自分がまだ虐めを受けていた当初に見たものでしかない。
従って、本来此処で彼女の声が響き渡る事はありえない。
何せ……私自身、こんな風に自分の夢を客観視して観た事など生涯ただ一度としてなかったのだから。
故に其処にあったのは私はおろか、誰も知る由も無い未知の塊でしかない。
それは……私の意識をそれまで見ていた光景から引き剥がし、急いで後ろを振り向かせるには十分過ぎる存在だった。

「過去の感傷に浸るのは別に構わないけどさぁ……だからって私まで引っ張り出さないでくれるかな? 気持ち悪いんだよ、正直な所。何時までも何処までもぐだぐだぐだぐだ、と……。そんな事だから性懲りも無く私なんかの背中追っかけるような破目になるんだっての。馬鹿馬鹿しい」

「─────っ!?」

振り向いた瞬間私の司会に飛び込んできたもの─────それは、見紛う事なき“彼女”の姿だった。
気だるそうな様子を隠そうともせず、制服のスカートのポケットに手を突っ込んだまま隈の浮かんだ目元を細めて冷笑する最果ての時の彼女。
もはや何もかも取りこぼす破目になり、誰からも拒絶されて心を打ち砕かれ……終には自ら他人との接触を忌むようになってしまった現在の彼女が私を嘲る様に校舎の壁に寄り掛かっている。
未知の中に内包された既知。
それが圧倒的な存在感をもって、私の目の前に彼女の姿で……“高町なのは”の姿で現れ出たのだ。

これで驚愕しない方が酷というもの。
現に私は視界にその姿を捉えてからしばしの間、凍ったように息を詰まらせて固まっているしかなかった。
頭の中では幾度と無く疑念が波を打ち、私の思考を振るわせる。
これは何だ?
何故……どうして、こんな場所に彼女がいる?
いや、そもそも何故私はこんな物を観ているのだ?
この夢は……この彼女は……この私は、何でこんな所に立たされていると言うのか?
分からない。
永続する疑問の念は痛みにも似た衝動を孕み、次々に記憶の針として私の脳髄を突き回す。
頭痛にも似た疼きが幾度と無く響き渡り、まるで頭がそのまま割れてしまうのではないかというような錯覚すら脳裏に過ぎってしまう。
それが今の実状の総て。
この場で私が彼女と対峙しているという……そんな矛盾した現実を指し示す、今までの感じていたものとはまた別種の悪夢の象徴だった。

「痛、い……ぐぅっ、あ゛ぁ……がぁ……」

「痛い? そりゃまあ当然だろうね。……報いだよ、それが。すずかちゃんが大好きな罪滅ぼしの成れの果て。感傷に浸りたかったんでしょ? あの頃に戻りたかったんでしょ? 自分が私の変わりになればいいって……あの頃のままであればいいって思ってたんでしょ? だったら今此処で私が与えてあげるよ、苦痛って奴をさ。思う存分気が済むまで……私が味わってきた総てをそのまま叩き返してきてあげるよ」

カツンッ、カツンッ、という地面を靴底で鳴らす音が私の鼓膜を通して、更なる衝動を脳へと送り込んでいく。
だが、もはや私にはその音にも、彼女が発した言葉にもまともに反応する事が叶わなかった。
微細な衝動ですら激痛に変わってしまう頭痛が─────否、この身を這い回る直接的な悪夢が私の意識を疼いて刺激し、再び薄れさせようとしてくるのだ。
それも不気味な彼女の言葉と連動して、その度合いを淡々と増していきながら……。
刹那、堪らず私はその場に膝をつき、両手で頭を押さえ込みながら声にならない悲鳴をあげる。
それは脳に焼きついた記憶が熱を帯び、それが痛みへと代わっていく……そんな妄執と錯覚の円環の果て。
まるで彼女が言うように、自分に酔い痴れていた私自身を戒めるような激痛がこの身を蹂躙して止んでくれないのだ。

だが、幾ら私がそんな風な挙動を取ろうとも、彼女は淡々と歩みを進め、喘ぎ苦しむ私の姿を眺めたまま歪な嘲笑を浮かべるばかり。
その様は正に物語りに登場する悪鬼そのもの。
童の姿を借り、その残虐な本性を覆い隠した悪意と害意の具現体だ。
それが彼女の姿のまま……私を見下ろし、哂っている。
何たる未知……いや、もはやこれは既知の範疇だ。
夢と現の境界。
幻想とも現実ともつかぬ刻と空間の中で生まれたこの感覚は『知らずして知っている』歪なデジャブそのものだった。

「ほらほら、どうしたの? 泣き喚くのが好きなんでしょう? だったら啼いてみせなよ。悲劇役者は観客を愉しませるのが道理なんだからさぁ。ねぇ……自分大好きの自虐主義者さん」

「くぅ……痛、ッ……!」

「……足りないなぁ。全っ然足りないよ、すずかちゃん。その程度が限界と言う訳でもないんでしょう? だったら心の底から痛みに喘いで見せてよ。この私に跪いて赦しをこいて見せてよ! 万が一……いや、那由他の彼方の果てに私の気が変わる事があるのなら、その嘆きも成就するかもしれないよ? ふふっ、ふふふふふ。あっ、はははははは!!」

「っ、ぅ─────がぁッ!?」

瞬間、私の目元から火花が散った。
何度も何度も視界が点滅し、腹部からはまるで鈍器で思いっきり殴られたような痛みが内臓にまで達する。
そして、その痛みは衝撃となって私の身体に降り掛かり……結果、私はまるで昔日のあの日に私刑を受けた時と同じようにゴロゴロと地面を転げ回る破目になり、その場に立ち上がる事すら叶わなくなってしまう。
彼女の宣言通り、苦悶と喘ぎ声を入り交えた声にならない言葉を口元から漏れ出させてしまう惨めな私。
あの日、彼女に救われた日とまったく同じ形で私は再び地面に倒れ伏した。

だが、あの時と今とでは状況も絶望も比較にならないほど違う。
私は身体中を駆け巡る痛みに何度か意識を奪われそうになりながらも、必死の思いで視線を彼女の方へと向けながら、そう心の中で呟いた。
何せ、あの時は今や名も知らぬ上級生の集団が自分たちの嗜虐心に突き動かされて偶々私という人間に目を付けたに過ぎず、その先の未来には一抹の救いもあった。
けれど、現状はどうだ。
嘗て私を救い上げてくれた“高町なのは”その人が明確な悪意と敵意を持って私の前に立ちはだかり、あまつには倒れて動けなくなった私を足蹴にして足掻き苦しむ様を傍観し、嘲笑している。
しかも、其処には一抹処か微塵すら救いが見えず、あるのは万蔓延る絶望だけ。
例えどれだけ私が祈り願っても、もはや誰一人として私を助けようなどと思う人間なんて現れはしないのだ。

そんな必然に対する恐怖と自分の知らぬ彼女と言う存在への絶望に私が顔を強張らせる中、彼女はそんな私の姿がさも可笑しいかの様にくつくつと笑い、そしてその双眸に更なる嗜虐の念を宿らせる。
私はその目に心当たりがなかった。
彼女に対して、という括りではない。
生まれてこの方誰からも……例え私に対して理不尽な暴行を行ってきた人間でさえ、あんな残酷な瞳は持ち合わせてはいなかったという記憶が尚更私にそう思わせるのだ。
アレは嗜虐に酔い痴れた者が持った瞳でもなければ、他ならぬ彼女自身が宿した目でもない。
もっと何か別の……それこそ私なんかでは想像する事すら叶わないような悪意の塊が形を成して“高町なのは”という人型に納まったかのような、そんな理解の埒外の存在だ。
そして、そんな私の思いを他所に、彼女は更に言葉を重ねていく。
処刑人のように……死刑執行人のように……そして、神に赦しを請うよう諭す告解師のように。
彼女は─────“高町なのは”は私への罵倒の言葉を加速させた。

「ほぉら、これでお膳立てはしてあげたよ。あの日と同じように……同じ様に、ね。惨めじゃない? 惨めでしょう? 惨めだよね! あぁ……いっそ哀れな位に愚図だよ、すずかちゃんは。でも、自業自得だよね? あなた自身が自分の事を屑だ屑だって思い込んでるから、屑な結果が繰り返される破目になるんだよ。貴女は屑で屑だから、貴女の伸ばした手の先にいる人にまで危害が行っちゃうんだよ。屑だねぇ」

「なっ……何、を……?」

「そこ疑問視しちゃう所かな? まぁ、いいや。つまる所……貴女要領悪いんだよ、すずかちゃん。自分の事引き合いに出す前に他人が、他人がって言い訳塗り固めて、挙句の果てには自己嫌悪だもん。生産性があるわけでもなければ、自体を進展させる訳でも成長を促す訳でもない。ぶっちゃけた話、無駄な物を無駄なように駄々洩らしてるだけなんだよ。知ってる? それって他人から観たら他人の自慰目の前で曝け出されてるのと同じなんだってさぁ。しかも、すずかちゃんの場合そんな自分に酔ってるから尚更性質が悪い。不愉快とか気持ち悪いとかその辺りの感想すっ飛ばして、もう呆れるしかないよ」

「ちっ、違……わた、しは─────」

彼女の言葉を否定しようとして二の句を口にしようとする私。
だが、何時まで経っても喉元に込みあがった言葉は囁かれる事は無い。
だって……だって、彼女の言葉は真実以外の何物でもないのだから。
異論を挟む余地すらないとは正にこの事だ。
どれだけ自分が頑なに違うと言い張った所で、彼女が紡ぐ言葉は私が過して来た日々と記憶と照らし合わされて、重たく苦しい真実としてこの胸の中に落ちていく。
つまり、それは自分自身が何処かで彼女の言い分を受け止めざるを無いと無意識の内に感じてしまっている所為に他ならない訳で……結局の所、私は今までただ自分を責める事で本当に目を向けねばならない事から逃げていただけに過ぎないのだ。

認めたくなんて無い。
あぁ、絶対に認めたくなんて無い。
でも、もはや認めざるを得ないのだ。
だって、もう私は彼女によって……目の前の“高町なのは”によって自分の総てを曝け出さされてしまったのだから。
今まで自分が必死になって隠してきた汚い部分も穢れた部分も皆総じて、この記憶の虚に刻み込まされてしまったのだから。
もはや……認めるほか道は無い。
例え、それを認めてしまった結果の果てに自分が自分でいられなくなったとしても。
私は、心の奥底に内包していた影の真実に眼を背く事は許されないのだ。

「違わないよ、何も……。何一つとして違いはしない。これが現実。これが真実だよ。此処に来てまだ言い訳重ねたいならと目はしないけどさぁ、はっきり言って無様だよ。無意味にして無価値。もうその言葉には何の意味も篭りはしないよ。何せ─────」

「ぐぁっ……あ゛っ……あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁあああああああ!!」

「その痛みも! その無様な姿も! この腐った夢でさえ、全部貴方が引き起こした事なんだからさぁ!! 泣き叫びなよ……より惨めに、より無様に。せっかくだからバケツ一杯になるまでわんわん泣いてみれば? ジャンプか何かの雑誌からヒーローが飛び出てくるかもしれないよ? まぁ……その腐った性根入れ替えるには啼いた程度じゃ済まないだろうけどね」

ニヤニヤと笑いながら、靴の裏で倒れている私の身体を踏み躙る彼女。
その顔はもはや残虐を通り越して周忌的にも思えてしまうほど酷く歪んでいた。
地獄の淵で笑う悪鬼の類。
死者の日の髑髏の如く歪に微笑む彼女の表情はもはや人の物とはかけ離れていたように私には見えた。
だが、次の刹那にはそんな視覚的な恐怖も頭の中を疼き回る頭痛と彼女に踏み躙られる事で生じる肉体的な苦痛に上書きされ、一瞬すら経たずに私の意識を痛みで塗り潰す。
口元から声にならない獣のような悲鳴が上がる。
それは私が意識して発した物ではない。
あくまで自然に生まれ出た産物……言うなれば、もはや断末魔に均しい苦痛と怨嗟の叫び声だ。
果ての無い頭痛に連動するように、そして彼女が嘲笑いながらその様を見て踏み躙る力を強くするのに連動するようにその叫び声はドンドンと強まって行き……そして段々と弱まって行く。
もはや、痛みに反応する気力すら薄れ掛けてきていると言う事なのだろう。
身体を駆け巡る苦痛が強まるたびに私は幾度となく意識を奪われそうになり掛けた。

だが、それでも私は意識を失い気絶する事は無い。
意識を手放す事を、私を足蹴にして嘲笑を浮かべる彼女が許してくれないのだ。
凡そ肉に食い込むほど……それこそ骨に罅が入ってしまうのではないかと錯覚してしまうほど強い力で彼女は執拗に私の身体を蹂躙してくるのだ。
靴底がずれて皮が削げるほど強く、むき出しになった肉が血飛沫を上げて爆ぜていくほど容赦なく。
彼女は私の意識を奪い去ろうとし、そしてまたそれを決して許さない。

言わば拷問の常套手段だ。
精神的にも肉体的にも苦痛を与え、そして適度に焦らす事で更なる恐怖と絶望を煽ろうとする。
そして、それを身に受けた人間は至極ゆっくりと……しかし、確実に壊されていくのだ。
内面から……そしてやがては意識や精神を廻って神経に、その猛毒を巡らせ形成された自己を殺す。
それはこの場においても決して例外ではなく、案の定私は次第に壊されていった。
他ならぬ、彼女の手によって─────高町なのはの手によって……。

「あ゛っ……あ゛あ゛、っがっぁ……」

「痛いかな? 苦しいかな? 辛いかな? でもさぁ、私はもっと痛かったんだよ? もっと苦しかったし、辛かったんだよ? 一時期はまぁ、屋上から飛び降りようかなって思っちゃうくらいにさ。んで、その時貴方は何をしてたよ? 私が泣いている時……苦しくて蹲ってる時、助けて欲しいって請うている時に何をしてたよ? 何をしてくれたよ!? 結局自分は不幸だ、可愛そうだって悲劇のヒロインぶって遠巻きから眺めてただけでしょうよ! ムカつくんだよぉ、何よりも貴方のそういう所がさぁ……。いっそ、ぶっ殺してあげたくなっちゃうくらいに、ね」

「痛、ッ゛……がっ、わた……し、は……そんな……」

「ほぉ、まだ口答え出来る気力があるとは驚きだね。正直へばっちゃってたと思ってたけど、感心したよ。ゴキブリ並みのしつこさだ。っても、肝心な時にその根性活かせない様じゃ無用の長物もいい所だけどね。あ~ぁ、まったく……くだらない。何でこんな人間の為に我武者羅になってたのかねぇ、私……。あぁ、そういえば貴女と交わした約束がそうさせてたんだっけ? もう昔過ぎて忘れちゃいそうだけど、なんというかまぁ……自分に都合のいい綺麗な記憶だけは取っておくもんなんだね、すずかちゃんってさ。その妄念、その愚念だけは一応評価してあげるよ。賞賛に値する。いっそ清々しいほどに─────ほんっとぉぉぉおおおに私をイラつかせるよ! 貴方っていう存在はさァ!!」

瞬間、そんな怒声と共に今まで私の事を足蹴にしていた彼女の脚が振り子のように振り上げられ、目にも止まらぬ速度で私の身体へと繰り出される。
その蹴りの威力と衝撃はもはや人間の物に当て嵌まらない。
凡そ、人の身にして人智を超えた存在─────魔人によって繰り出される“ソレ”だ。
空を裂き、虚を抉り、無を蹂躙する彼女の脚はまるで鞠でも蹴り上げるかのように私の身体を宙へと踊らせ、間髪入れずに繰り出されたミドルキックによる追撃で背後に聳え立っていた校舎へと私を叩き込む。
ミシリッ、ミシリッ、と歪な音を立て拉げながら宙を舞う私の身体。
恐らく衝撃で骨や内臓が幾つかやられたのであろう。
もはや宙を舞う私にはその衝撃に抗う術も、受身を取ろうと思い立つだけの意識も根こそぎ消え……一切の容赦なく、私の身体は無骨なコンクリートによって形成された校舎へと叩き付けられた。

「─────がァっ!?」

刹那、私の口元から悲鳴とも嗚咽ともつかない声が自然と漏れ出す。
もはや意識や思考など、其処には一切含まれてなどいない。
単純にこの身に受けた苦痛から……身体が叩き付けられたコンクリートの壁に罅が出来るほど強い力で蹴り飛ばされた事によって生じた痛みと苦しみから来る物だ。
しかし、其処まで理解していても尚、私の身体は駆動する事は無い。
逃げる術など無い。
その現実が身に染みて分かっているからだ。
私は彼女から逃れる事は出来ない。
そして、彼女が存在するこの夢からもまた……逃れる事は叶わない。
何でこんな事が分かってしまうのかは私も分からない。
恐らく何故って何万回自問自答したって寸分たりとも答えを掴めはしないだろう。
でも、私には分かってしまう。
まるで……それが“初めから仕組まれていたこと”であったとでも予め知っていたかのように。

しかし、そんな思考が一瞬以上長く続く事は無い。
次の瞬間にはそんな思考も薄暗い意識の中へと解け、代わりに自分の身体が自然の法則に準じて再び地に落ちていくという意識が瞬時に脳の中を駆け巡った。
ぽとっ、という音を立てて再び地面に倒れ伏す私。
けれど、もうそんな私に悲鳴をあげる力は残されてはいない。
嗚咽を洩らすだけの気概も、彼女の顔色を窺おうとするだけの意識も、目の前の害悪に対する恐怖を帯びた感情でさえ……もはや、この身には何一つ残されてはいなかった。

けれど、それでも彼女は止まらない。
否、初めから止まる気なんて更々無いのだろう。
彼女は倒れ伏した私の元へと足早に近寄っていき、その右手で私の髪の毛を鷲掴みにして無理やり私の視線を彼女の顔の方へと向けさせ、そしてまた笑って哂って嗤い……そして尋常ではないほどの怒気を露にする。
まるで泣き笑いを浮かべているような複雑怪奇な心情と感情。
憤怒とも、憎悪ともつかない表情を浮かべる彼女の姿が確かに私の虚ろな瞳の先にある。
それが、私が最後に記憶した視覚情報の総てだった。

「何でかな? 何でそんなに恥知らずになれるのかな? えェッ、どうなの! 教えてくんないかな!? ご大層に私が他人から酷い目に合わされるような事になった時はちゃんと駆けつけて手を差し伸べてあげる、なんて誓約自分から立てておいてさぁ……それでいざその時がくれば知らん顔してた訳じゃん。それをなに? 何時までも自分が自分がって悲観的になって勝手に自分の中で業として祭り上げて神格化しちゃったわけ? おめでたいねぇ……結局、そんなの最初っから無理だって分かってた癖に」

「──────!?」

「あぁ……ごめん、ごめん。もう喋れないっぽいね。でもまぁ、聞きなよ。別に誰も貴女の言い訳染みた戯言聞きたい訳じゃないし、よしんば口が聞けたところで話に水挿されるのが落ちだろうからね。んで……何処まで言ったっけ? えーっと……あぁ、元々貴女にその気はなかったって処か。何でそんな事が言えるかって? 簡単だよ、至極簡単。分かり易すぎるくらい瞭然さ。だってまぁ……すずかちゃんって昔っからさぁ─────」

そこで、彼女の言葉は一旦途切れた。
恐らく、次に自分が発する言葉のニュアンスをより強固な物にする為の挙動だったのだろう。
彼女は含み笑いを浮かべ、ぎらついた瞳を闇夜に浮かぶ三日月のように細めながらそっと私の耳元に顔を近づけてきた。
だが、普段なら怖気や恐怖しか感じないそれも、今の私にとっては何の感慨も抱く事は出来なかった。
何せ、もう私の身体はボロボロ……反応したくとも、意識を働かせる前にこの身を這い回る苦痛がその感覚を狂わせてしまうのだ。

しかし、反面それでもまだ私の精神的な部分は辛じではあるものの、彼女から受ける言葉の意味を近く出来る程度にはまだ保たれていた。
彼女がこれから発する言葉……それがその精神すらも崩壊させかねない爆弾を孕んでいると、事前に読み取る事が出来る程度には。
けれど、結局それも意味の無いこと。
私には……もはや今の月村すずかにこの現実を避ける術など残されてはいない。
抗う事も許されず、また逃避する事も閉じこもる事もまた然り。
つまる所私は─────月村すずかは、もはや崩壊以外の道を辿る事はあり得ないのだ。
そして、それを私が近くした瞬間、彼女の口がゆっくりと開かれ、私の耳元でその言葉をそっと囁く。
それは果実のように甘い口調で語られる、氷河のように冷たい感情とニュアンスを含んだ拒絶と崩壊の言霊。
月村すずかという人格を完膚なきまで壊す怨嗟の引き金が……今、言葉となって引き絞られた。

「─────最初から誰一人、信用なんてしてこなかったじゃない」

彼女の言葉が胸に落ちた瞬間、ドクンッ、と一度だけ強く心臓がその鼓動を跳ね上げる。
悪寒が全身へと走り、止め処ない冷や汗が身体中の毛穴という毛穴からどっ、と溢れてくる。
一体、何がどうなってしまったのかは私もさっぱり窺い知る事が出来ない。
だけど、彼女の言葉が囁かれた瞬間……その呪詛のような言霊が響いたその瞬間、何かが私の胸に朝露の滴のごとく垂れ落ち、そして尋常ではない嫌悪感と不快感を全身へと奔らせてきた。
気持ちが悪い。
この頭痛よりも、全身を蝕む苦痛よりも何よりも、いっそこのまま死に果ててしまうのではないと錯覚してしまうような不快な衝動が胸から込上げて止まらない。
一体何故? どうして?
そんな疑問が何度も頭の中を反復し、消えかけた意識の中を無理やり弄り始める。
答えが無い。
見つけなくちゃ駄目だ……だって、その答えは私の記憶の何処かにきっとある筈から。
だけど、その答えはずっと昔から─────それこそ物心付いた頃よりこの胸の内に仕舞い込み封印してきた忌避して然るべき真実だ。
表に曝け出すなんて持っての外。
もしも自覚してしまえば月村すずかとしてのアイデンティティすら崩壊させてしまいかねない物を呼び覚ます訳には絶対にいかないのだ。

けれど、そんな論理破綻した自己矛盾はやがて自分の意思とは無関係のところで正され、表面化し─────そして、決して理解してはならない己の業を呼び覚ます。
そう、それは彼女が語って聞かせてきたものと同じ何処までも破綻した己の業の記憶。
嘗て自分がジレンマだと思い込んでいた数多の空振り……その裏側に隠されたもう一つの壊れた感情だ。
最初から……そもそも今まで関ってきた人間誰一人として、私は心から信用していない。
それは呪いの言葉であり、月村すずかという人間が自己の存在を正当化させる為に独自に形成し、今の今まで表に出ることなく培われてきた私の真なる想いが形となって生まれた言葉だった。

思い出したくなかった。
出来うる事ならこのまま死ぬまでずっと、自分自身にすら知られる事なく隠し通しておきたかった。
でも、もう駄目だ。
あまりにも─────それこそ致命的に忌避するのが遅過ぎたという他ない。
私が……月村すずかが、本来知る事のなかった己が念に触れてしまった。
もはや、そうなった時点で避ける事など出来なかったのだ。
目の前の“高町なのは”によって“月村すずか”が壊されていくという、その現実を……。

「─────……ぁ……」

「私も! アリサちゃんも! 貴女の家族や使用人も! その他大勢、他ならぬ貴女自身も含めて皆、みんな、みぃぃいいいいんな初めから何とも思っちゃいなかったんだよ、貴女は!! 否定出来る? 出来ないよね! 貴女は何時だってその想いを自分の中で勝手に形成した薄っぺらい繋がりやら絆やらといった上辺だけの感情に覆い被せて無理やり自分を納得させてたんだもの。その鍍金が剥がれ落ちた今、貴女にはもはや何も無い。否定出来る材料なんて毛根一本、血液一滴程度の理屈すら貴女は持ち合わせちゃいないのさ!」

「ぁ、ぁあ……あっ、あ゛あ゛ぁぁぁぁぁああああああ嗚呼アアアアア!!」

刹那、私は叫んだ。
喉が枯れるほど……それも血反吐が嗚咽と共に漏れ出しても意も解さず、ただただ獣のように泣いて、鳴いて、啼き叫び続けた。
そうだ……もう自分には何も残されてはいない、彼女の言う通りだ。
極限まで破綻しつくした自己理論、そして自己矛盾。
正そうとすればするほど襤褸が出て、鍍金が剥がれ落ちるそれに突き動かされて生きてきた私に彼女の言葉を遮る言葉を生み出せよう筈が無い。
元より破綻した完成しか持ち合わせていなかった私に、自身への否定を覆す術など持ち合わせよう筈が無いのだ。

そう、結局は全部彼女が語り聞かせてきた言葉こそが真実であり、根源だ。
思えばずっとそうだった……何時だって私は何かとつけては言い訳を重ねて自分の理屈を己の中で正当化してばかり。
其処に致命的な矛盾が蔓延っていようが、常人にはとても納得し難い事柄が孕まれていようが結局己自身すらも信用していないが故にまともな自己否定すらままならなかった。
そして、その理屈は飛び火してやがては自己から対人へ。
受け止める対象は変わってもやっぱり根本の所は同じだ。
他人を信用出来ないからこそ自己の中でその事実を捻じ曲げて、自分の都合の良い様に受け取り……そして決して其処から生じえる矛盾を認めない。
例え、その結果自分の周りの人間に余計な負担を強いてしまっていたのだとしても。
私は、自分を含めて誰一人として信用出来なかったが故に自己矛盾という妄執に取り付かれて、あらぬ方向にその歩みを進める事を止めてこなかったのだ。

そして、これがその慣れの果て。
行き着くべくして行き着いた、逃れる事の叶わぬ定めの岬なのだ。
もう、私には引く事も戻る事も叶いはしない。
それこそ、私という存在が─────月村すずかと言う人間がまったく別の存在へと昇華しない限り、私はもう何処にも行き着く事なんて出来はしないのだ。
だって、もう私には進むべき道も戻るべき場所も何一つ残されてはいないのだから。
例えこの現実を忘れて嘗ての己のまま過ごしていくにしろ、この悪夢は何処までも私の後を追って付き纏い続けることだろう。
そうなったら、もう私は今までの私としては生きていく事は出来ない。
だって……もはや其処に行き着くまでに私は、元の私からはかけ離れた存在にならざるを得ないのだろうから。
瞬間、私は自分の中の何かが少しずつ移り変わろうとしているのを微かに悟った。

「ふふっ、ようやく良い声であげたね。あぁ……実に心地良いよ。その悲鳴、その絶叫! 甘いね……実に甘い。絶望は崩落の華だ。もっと香らせて私を狂わせて欲しい所だけど……仕方が無いから今は此処で止めてあげる。時間も足りないし、まだ貴女も熟しちゃいないしね。果実は色がついてこそ美味足り得る。貴女の魂……そして貴女の抱える渇望が真に芽生えた時に続きをしよう、すずかちゃん」

「ぁ……ぁっ、がはッ……ぁァ……」

「さてさて……貴女は私を満足させる供物になれるか、否か。その答えが来る時を楽しみに待ってるよ。それでは……また近い内に。それまで好い夢を。私の愛しきノスフェラトゥ……」

彼女がそう言葉を紡いだ瞬間、私の意識は其処で途切れた。
否、途切れた訳じゃない。
此処よりももっと深いところ……もはや天井を見ることすら叶わないほど冥い奈落の底へと意識が堕ちていっているだけだ。
しかし、結局の所意味合いとしては同じ事。
夢の中から更なる夢へ。
悪夢の果てから更なる狂気へ……結局はその繰り返しなのだから。

しかし、ほんの少しだけ……本当にそうなる前の一瞬だけだが、私は彼女の姿を─────“高町なのは”の姿を通して誰か別の人間の陰を見た。
その姿は彼女の姿に比べると妙に不鮮明で、まるで宙で揺らめく影法師のようにまったくのそのシルエットを捉える事が出来ない。
まるで幕越しに写りだす影絵の人型。
高町なのはという少女の姿の幕に覆われた歪にして醜悪な霞が人の身をなしているかのようだった。

けれど、私はその姿からある種人間が潜在的に持っているような不鮮明な印象を少しだけ感じ取っていた。
その様はまるで実験体を愛し子のように愛で観察する科学者。
それもある種の禁忌に手を伸ばしてしまっている狂気染みた物を背負い微笑む悪徳者のそれが最後に観た“高町なのは”からは感じられた。
それが一体何を意味するのかは私にもよくわからない。
だけど、この胸に芽生えた“変化”の感情とあわせてそれが良くない方向に向かって進みだしている事は何となく私にも感じ取れていた。

でも……もう、どうだっていい。
何処に行き着こうが何処に向かおうが、もはや私には意味の無いことだ。
彼女が……いや、その向こう側に見えた“彼”が天使だろうと悪魔だろうと別になんだって構わない。
特別理解しようとも思わないし、そもそもアレを掴む事なんて砂漠に落として針を探し出すより無謀な所業だろう。
ならば、考えを及ばせる事こそが無意味であり、同時に無価値となる。
それならば……もういっそ、私は堕ちて行きたい。
この夢も、この現実も……何もかもを根こそぎ塗り潰す“夜”に私は堕ちてしまいたい。
そう、私が希った瞬間……私の視界がパッ、と明るみを帯びた。

「んっ? あぁ……目が覚めたんだね。よかった……」

開かれた視界の先にあったのは空色の髪を揺らして優しげに微笑む見知らぬ女性の顔。
そして、そんな彼女と私を覆うように聳え立つ一本の大きな大樹から鬱蒼と広がる数多の枝葉がそこにはあった。
寝ていたのだろうか、一瞬そんな疑問が頭を過ぎったが─────私は直に考えるのを止めた。
今はもう何も考えたくない。
此処でこうして目の前の女性に微笑み掛けられるのがあまりにも心地よさ過ぎるから……。
故に私はこの時、しばしの間総てを忘れて女性の微笑を眺め続けた。
一切の稀釈もなければ偽りもなく、ただただ純粋な心を抱いているであろう名も知らぬ女性の姿を。
ただ、この心が突き動かされるままに……。



[15606] 空っぽおもちゃ箱⑨「Super Special Smiling Shy Girl」#セイン視点
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:b3765b7d
Date: 2010/10/10 22:20
何時の世も出会いってものは突然で、それは時々数奇な巡り会いとして人と人とを結び付けるものである。
あんまり小難しい理屈をあれこれ考えてると頭痛くなっちゃうからそんなに悧巧なようには言えないけれど、あたしことセインは常日頃からそう思って生きている。
何でかって言われるとこれがまた説明が面倒なんだけど……言うなれば、これはあたしの経験上得た法則だ。
ぼけーっとした犬が歩いてればその内棒なり電柱なりにぶつかるように、ふらふらーっと適当に人生歩んでいればその内思いがけない所で色々なものに出会ったりもする。

その出会いって言うのがまぁ、人間関係だったり、趣味だったり、趣向だったり色々とジャンルがある訳だけど結局の所根っこの部分は一緒だ。
適当に生きていても奇を衒う様にそれ等はふらっと私の前に現れて、何時の間にか気がついたら大事な物に変わってる。
なんていうか……あたし自身の性格も相まってかなり阿呆っぽく聞えちゃうかもしれないけど、実際の所本当にそんなもんだ。
特別杞憂する事でもなければ、変に意識するもんでもない。
そう、あれかし。
真面目に向き合おうと適当に横向いていようと来るべき時に来るものは来るし、またその逆に来ない時は何時までも来ない。
だったらそれこそ不真面目に─────ちょっとおどけている様な感じでどっしり構えてればいい訳だ。

故に、それは今日日この場においてもやっぱり同じ。
例え相手があろうと、あたしはあたしの気分が赴くままにケ・セラ・セラ。
好きなら好きって言って素直に受け止めるし、嫌いなら嫌いってはっきり言って突っぱねる。
それを否と誰かに唱えられても変える気なんて更々無いし、幾ら御託摘まれようと理屈並べられようと知った事ではない。
あたしはあたしが思ったように好きにやる。
んで、その延長線で出会った人間にも対応し続けていく。
以上があたしの対人対応。
それ以上でもなければそれ以下でもなく、嘘偽りもなければ希釈も遠慮もない。
それが……あたしこと、ナンバーズ6・セインの総てだ。

っと……こんな風に色々と偉そうに語っちゃったりしてる訳だけど、実際の所言葉で言うほど現実って言うのはそうそう甘いもんじゃない。
さっきから言っているように何時の日も何時の世も思い掛けないことって言うのは少なからずある訳で、ついでに言えばそれはどんな時も突然やってくる場合が大多数だ。
常日頃からそこら辺のところに警戒しながら身構えて生きるなんて堅っ苦しい事が出来ない以上、やっぱり対処のしようなんてその場その場のアドリブで何とか上手く流していくしか他ない。
いや、もしかしたら素で何とか出来ちゃう人とかもいるって言えばいるのかもしれないけどあたしには無理なんだからどうしようもない。
うん、どうしようもないんだから仕方ないよね……やっぱり、多分。
ってな訳で、それは今この現状にしても何も変わらず丸侭同じ事が言えちゃうのだ。
えーと……つまりどういう事かって言いますと、現在進行形であたしは面倒ごとに首を突っ込まざるを得なくなっちゃってる訳です、はい。

「え~っと、じゃあ今までのお話を要約すると……ずばり持病の貧血に抑えが利かなくてくらくらっと来ちゃってばたんきゅーってこと? はひゃ~、それは運が悪かったねぇ。とんだ災難って奴だ」

「えっ、ぁ……その、御迷惑をお掛けしました……。私、昔から日の光に長くあたってるのが駄目な体質で……」

「あぁ、いいっていいって気にしないで。元はと言えばあたしの連れのおチビがお節介焼いただけなんだし、あたしはその……なんて言うか成り行き? まぁ、そんなノリだった訳だしさ。だからあんまり堅苦しく考えないでよ。別にあたしもおチビもそんな迷惑だなんて思っちゃ無いしさ。それに持病なんでしょ? それじゃ仕方ないよ、うん。仕方ない、仕方ない」

「でっ、でも……」

瞳を潤ませ、後ろめたそうに何度も申し訳ないと謝罪の念を返してくる少女にあたしは「あははは……」と引き攣った笑みを無理やり表情に出しながらその裏で何とか目の前の少女を宥められないかと普段は殆ど使っていない左脳をフルに動かして必死でいい案は無いものかと模索を繰り返す。
けれど、出てくる答えはさっきからずっと同じ。
ぶっちゃけ、なーんも思いつかない。
っていうか、真面目に考えても頭の中がこんがらかるだけで現状あたしの頭は物事の考え過ぎでショート寸前なのだ。
そんなあたしにこんな小難しそうで気難しそうな気持ちが服着て歩いているようなネガティブな少女の心情を察して上げられるかと言えば……無理です、絶対無理なのです。

何でかって、そりゃ目の前の彼女と……えっーと、確か月村すずかちゃんとあたしとではそもそも精神的なジャンルが全然違う。
何物に対しても楽観視が当たり前。
気楽に適当が心情のあたしと如何にも色々なもん片っ端から背中に背負ってそうな月村ちゃんとじゃ、精神構造の根本からして何もかもが異なっているのだ。
そんな者同士を擦り合わせた所でぴったり嵌る訳が無い。
結局どっちかがずれてお互い困惑する破目になり、その認識のずれの所為で今度は二人合わせて同時にノックアウトだ。
何時まで経っても平行線。
お互い気まずい空気に包まれたまま、自然に状況が変わるその時を座して待つばかりだ。

んで、そんな状況をあたしが耐えられるかと言えば……こっちもやっぱり普通に無理。
あたしは我慢とか、忍耐とか、待つとか、置いていかれるとかその手の事柄が心の底から大っ嫌いな性質だ。
何事もやるんだったら自分の手で。
それも、なるべくあたしも相手もまとめて愉快になれるような方向へ積極的に状況を作ってやりたくなるのだ。
つまる話しがお互いが何気なく笑っていられるような─────負い目とか遠慮とかそう言った他人行儀なの無しにして、気軽な感じで対応し合える様な……そんな方へ。

と言うか、はっきり言ってあたし自身が面倒なのが嫌いだから暗い雰囲気とか重たい空気だとか、そういうのが性に合わないだけなんだけど……まぁ、そこら辺はあんまり気にしない方向で。
そんで、現状あたしは正にその性に合わない空気に身を置かざるを得ない訳でして……其処の所上手くひっくり返す事に躍起になって頑張ってるのだ。
まぁ、正直どうすりゃいいのかはあたしも知んないんだけどね。
困った、困った……本当に困るよ、こういうの……。
なんたって他ならぬアタシがブルーになっちゃうからね、主に自分の頭に悲観しちゃうからさ。
はぁ……なんだか言ってる傍から悲しくなってきちゃったよぅ、いやマジでマジで、割と冗談抜きに。

「あの、そう言えばさっきの子は……?」

「んっ? あぁ、スバルのこと? それならさっきジュース買ってくるって言ってどっか行ったよ。まぁ、一応お金は持たせてあるし、迷子になる事も多分無いだろうから放っておいて良いよ。多分その内帰ってくるっしょ」

月村ちゃんからの質問にあたしは内心「スバルーっ! 早く戻って着て! カァム、バァァァク!」と思いつつも、別に嘘つくようなことでもないし、という事で事実を一切包み隠すことなく彼女へと現状の旨を伝える。
現在の時刻は、午後四時ちょっと過ぎ。
あたしとスバルが月村ちゃんを道端で拾った時から二時間から三時間ほど経ったくらいだから……まぁ、微妙に日が傾き始めてる頃だ。
あれからあたし達は日陰になっていそうな所を探して、気絶してる月村ちゃんを担ぎながら色々な場所をうろつき回った。
というのも、どうにもクリスのナビゲートが不確かだったっぽくて、直に着くはずの目的地が中々見つからなかったのだ。

おかげであたしもスバルもあっちへふらふら、こっちへふらふら。
終いにはスバルが「セインねぇー、あたし疲れた。おんぶして~」なんて言い出すもんだから、あたしはこの『海鳴臨海公園』に来るまでしなくてもいい重労働をさせられる破目になってしまったという訳だ。
我ながら凄いと言うか哀れと言うか苦労性と言うか……。
本当、こういう力仕事はあたしの本分じゃないと声を大にして講義したくなっちゃうよ。まぁ、別に誰に如何とは言わないけどさ……。

まぁ、そこら辺のところの事情やらあたしの愚痴やらは置いておくとして─────ようやく目的地についたあたし達は適当に公園の中を散策し、程よく身体を覆ってくれそうな感じで日陰になっているおっきな樹の影に腰を落ち着けるような形で休息を取る事にしたのだ。
んで、その過程で気絶してる人間を横にするのに枕がないのはどうだろうって思い立ったあたしが月村ちゃんに膝枕して、そんなあたしを尻目に気の幹に寄り掛かってクリスと戯れていたスバルはつい先ほど「喉か湧いたからジュース買ってくる!」と言ってアタシの前から姿を消した、というのが今に至るまでの簡単な流れ。
加えて、つい先ほど目覚めた月村ちゃんに色々と事情を聞いて頭が真っ白になりそうになっているっていうのを現在進行形にすれば殆ど完璧と言っていいと思う。
つまり、なんと言うか要するに……あたしって、なんか幸薄いのかもしれないという事だ。
それはまぁ、あんな住宅街でぶっ倒れて行き倒れになっちゃった月村ちゃんにも言える事なのかもしれないけど。
なんか凄くため息つきたくなってきたよ、あたし……。

「さっきの子、スバルちゃんって言うんですか……。妹さんですか?」

「う~ん……まぁ、そんな様なもんかな。あたしと違っておてんばだし、落ち着きないし、一箇所にジッと出来ないしで似てるような所はあんまりないけどね。一体誰に似ちゃったんだろうねぇ、あれ……クア姉辺りかな?」

そう月村ちゃんに言って、あたしはしばし首を捻ってそこら辺の事実関係の事についてちょっとだけ考えてみる事にした。
スバルが姉妹の中の一体誰に一番影響されているのか、なんていう事は今まであんまり考えた事もなかったけれど、確かにちょっと思い返してみれば稼動仕立ての頃のスバルは何処となく余所余所しい感じで物静かな感じだったようにも思えてくる。
あたし自身、実際の所はスバルとあんまり稼動年数に関しては差が無いから何とも言い難いのだけど、きっと同時期に稼動したナンバーズの10番目であるディエチに聞いても同じような答えが返ってくることだろう。

だけど、スバルはあたし達と関りながら生きていく事で色々とその性格にも凹凸を出すようになってきた。
当初に比べれば些細な事で泣きもする様になったし、その反面本当にどうでも良さそうな事で笑うようにもなった。
有り体に言えば随分と正確が明るくなり、また社交的にもなったと言うべきだろうか。
まぁ、その反面当初より持ち合わせていたおしとやかな部分は「お察しください……」って思わず言わずにはいられない所まで落ちちゃったけど、総合的に考えれば割かし良い方に進んで来たと言えることだろう……多分、きっと。

ってな訳で、色々あって今の感じに落ち着いてるスバルなんだけど、その実一体誰の所為であんな風になってるのかは誰にもよく分かっていない。
何せ、スバルは姉妹の人間はおろか、あの見るからに変態そうなドクターにまで別け隔てなく懐く様な子なのだ。
実際の所影で誰に何を吹き込まれているか分からない以上、迂闊に何処の誰に一番影響を受けているか、なんていうのは今まで一番一緒にいるであろうこのセイン姉さんをもってしても窺い知る事は叶わないのだ。
まぁ、単に今までそんな事に頭回してこなかっただけなんだけどね、面倒臭いし。

んで、そこら辺のことを今こうして上手く現実逃避したいような時に考えてると案外すんなりと答えが出て来そうになったりする訳で、あたしは丁度良い気分転換にそこら辺について考えてみようと思った訳だ。
何ていうか……ほら、ペーパーテストの前になって机に座ってると無性に身の回りの片付けとかしたくなっちゃうのと同じようなもんだよ。
その、まぁ……ごめん、月村ちゃん。
あたしには重い空気とかそういうの耐えられないんだよ、根がこんなんだからさ。

つーわけで適当に月村ちゃんへの懺悔を終了して、考えるのをあたしは続行する。
まぁ、あれこれ多種多様な要因はあったとしてもスバルの人間関係が姉妹とドクターの域から出ない以上、結局の所は消去法だ。
上から順に心当たりのありそうな人間を適当に挙げて、後は今のスバルと照らし合わせれば自ずと答えは出てくるだろう……すげぇ、あたし天才かも。
てな訳でまずはドクターから。
第一印象としては……ないね、絶対無い。
ぶっちゃけあんな変態に影響されて今のスバルは100%出来ないだろうと断言出来るよ、セイン姉さんは。
そもそもまだ物事の善悪も分かんない子供のいる環境にドクターを野放しにするのは駄目なんだよ、常識的に考えて。
そんな訳で一人目はあっさり消えたね。
考えなかった事にしよう。

んで、あたしはドクターに次いでその傍らに何時もいるウーノ姉にも視点を向けてみる事にした。
したのはいいんだけど……うん、これもないね。
だってウーノ姉に感化されてるんならあんな落ち着きが無い風にはまず育たないだろうし、そもそもスバルとウーノ姉が一箇所に留まって何かやってる時なんてメンテナンスの時くらいだろうと記憶してる。
まぁ、確かにウーノ姉はあたし達にしてもスバルにしても姉っていうよりはお母さんみたいなもんだから少なからず皆影響はされてるとは思うんだけど……スバルに関してはあんまりって処だろう。

後、同じくして二番目の姉だっていうドゥーエって姉妹に関しても一緒だ。
何でも随分前にドクターの命令が嫌で今あたしがいる第97管理外世界まで逃げてきて数年の間姿を晦ませてたっていうけれど、ぶっちゃけあたしもスバルも会った事が一度も無い。
一応あたし等よりも一足先にこの世界に来ているトーレ姉はこの世界でも何度か顔を合わせているらしくて、あたしもスバルもトーレ姉に合流するついでに会う予定になってるんだけど……まぁ、スバルの成長にはあんまり関係してはいないだろう。
あたし個人としてはまぁ、あの変態ドクターに真正面から逆らった処とか痺れちゃったり、憧れちゃったりするわけなんだけどね。
時々この世界のお菓子とか玩具とかお土産として送ってくれたりもするし、あたしは好きだよ、うん。

そいじゃ、勢いに乗ったところで次はトーレ姉なんだけど……あたしはずばり結構トーレ姉あたりなんじゃないかな、とその実思っていたりする。
まぁ、何でかって言えば正直な所スバルがスバルでトーレ姉によく懐いているからだ。
なんか見た目堅物っぽくて実際性格もカチンコチンなトーレ姉だけど、やっぱり小さい子とかには弱いみたいで、他の姉妹が見ていないところでは意外と面倒見の良いお姉さん役をやっている時が多かったりするのだ。
って言っても本人はスバル以外は気がついていないと思ってるみたいだけど……はっきり言ってさっき街中をうろついていた時にスバルと食べた金子屋さんのワッフルよりも甘い、実に甘い。
あたしのIS「ディープ・ダイバー」を使ってちょちょいと聴く耳を立てればアジトの内部で起きた事なんてそれこそウーノ姉がドクターにいれたお茶の種類からクア姉が密かに大事にしてる眼鏡コレクションの個数まで何でも知る事が出来るのだ。
きっとこれ言ったらトーレ姉の事だし、ちょっと無言になった後「……切り捨てる!」とか言って追っかけてきそうだから墓穴は掘らないようにしたけど、あれはあれで意外と良いお姉さんなんだよねぇ……あたしには思いの外結構厳しいんだけど。

そいで、次に挙げるのがあたしがさっき言ったクア姉ことナンバーズの四番目のクアットロなんだけど……実の所こっちも結構怪しかったりするのだ、あたしのきゅぴーんと光る勘的に。
普段は享楽家気取ってて何処か取っ付き難いクア姉だけど、意外な事に子供に対する対応は姉妹の中で一番上手かったりするのだ。
実際稼動したてのスバルの世話をあたしがするようになるまでやっていたのはクア姉だし、スバルにしてもクア姉はクリスと同じ位お気に入りなようで、よくクア姉の部屋に遊びに行ったりしてるのを見かけることがあったりする。
本当はあたしも最初クア姉のことだし、嫌々やってるのかなーって思った時期もあったけど、実際の所クア姉もスバルに対しては甘々だ。
その優しさをあたしにもちょっとは分けて欲しいって言いたくなるくらいに……。
まぁ、何はともあれスバルもクア姉も互いに仲はいいし、あれはあれで影響される面が多々あるのかもしれないとはあたしも思う。
将来あんな風には育って欲しくないなー、ってセイン姉さんは常日頃から懸念はしてるんだけどね。

んでまぁ、更に突っ込んでいってお次はあたしのお手本ことチンク姉。
ぶっちゃけあたしからすればこの小さい皆のお姉ちゃんであるチンク姉こそがもっとも影響されるであろう人なんだろうけど……その、当人であるスバルがクア姉と仲良い時点で実際の所ちょっとスバルに関しては遅れを取り気味なんだよなぁ、チンク姉。
いや、それでも所々で頑張ろうとしてるのは要所要所で見受けられるんだけどね。
この前だって「なんとかして姉だけの力でスバルを笑顔にさせてみせる! そしてその笑顔を糧に姉は飛ぶ!!」とか言って一生懸命スバルの為にクッキー作ってたし。
って言ってもその毒見……もとい味見係を担当させられたあたしとしては堪ったもんじゃなかったけどね。
チンク姉ってば落ち着いてるような顔で平然と砂糖と塩を間違えて入れるなんてミスやらかすんだもん。
最終的にあたしがこっそり作っておいた奴に摩り替えて置いたから良かったものの、あのままだったらスバルが高血圧になっちゃうよ……御蔭であたしは料理上手くなったけどね。
つーわけで多分チンク姉は参考にならない、以上。

ほいで、最後の最後にスバルと同時期に稼動したあたしとディエチなんだけど……ぶっちゃけこれについてはあたしもよく分かんない。
あたしに関しては正直自分自身がスバルになんかしてあげられたかなーって考えた時に、なんというか今の関係になるのに割と自然に打ち解けあってたからあんまり思いつかないのだ。
なんていうかまぁ、あたしとスバルってこんな風に言うと自分で自分が可哀想になってくるけど精神年齢一緒くらいだし、もう結構前から普通に寝泊りなり食事なり一緒だったりするからあんまりそこら辺のところ客観視して観た事が無いのだ。

んで、それについてはディエチに関しても一緒の事。
あの子はなんていうか何時もぽけーっとしてるし、スバルと一緒に居ても二人してよく分かんないやり取りしてるような印象しかないし、他の姉妹と比べると色々と印象が薄いからその辺の具体的な関係って言うのが今一つピンと来ないのだ。
まぁ、そんなミステリアスな所もひっくるめてやっぱりあたしの妹達なんだなーって思う時はあるんだけどね。
ディエチも変な処で抜けてるところあるし……最近はあんまり関心しない趣味を持っちゃったようで、セイン姉さんとしては悲しい限りなんだけどね。
あの趣味が発覚した時は思わず「うぅ、ディエチが不良さんになっちゃった……」ってあたしも唖然としちゃったし。
まぁ、カッコいいって言えばそうなんだけどね、ディエチの“あれ”は……。

それでまぁ、これが全体的なあたしの評価なわけなんだけど……あれやっぱり分かんなくないかな、これ。
う~ん、考えれば考えるほどミステリーになるとは……スバル、なんて恐ろしい子……っ。
なーんてな、ことをあたしがぽけーっと考えていると、ふと気がついた時にはあたしの隣で月村ちゃんが「あの……」と困り顔をしているのが目に止まる。
瞬間、あたしは殆ど電光石火にもにた速度でこう思った……「やっば、完全に月村ちゃんのこと放置プレイだったぁああ!」と。
いや、まぁ、さっき自分で放置プレイ宣言しちゃったんだけどね……うん。
ごめんよ月村ちゃん、あたしの頭が足りないばっかりに……どうせ直んないだろうけど。
あたしは心の中で月村ちゃんに何度も謝罪し、またそれと同時に「あたしって本当に頭弱いな~あっはっは……はぁ」と微妙な自嘲の乾いた笑いに呆れから来る溜息を絶妙な具合で混ぜ合わせた形容詞し難い想いを胸に抱きながら急いで月村ちゃんへと対応を再開するのだった。

「あの~……大丈夫ですか? なんだか凄く唸ってましたけど……」

「えっ!? わっ、うそ! あたしそんなにう~んとか言ってた?」

「えっと、その……結構」

「あちゃー、マジかー……。ごめんごめん、さっきから本当にどうしようもないこと真面目に考えちゃっててさ。一度考え始めると止まらなくなっちゃうんだよ、あたし」

心配そうにあたしの顔を覗き込みながら様子を窺ってくる月村ちゃんにわたしはポリポリと頭を掻きつつ、一応念押しの為に「忘れてたんじゃないよ。本当だよ」と言葉を重ねながら改めて謝罪した。
いやまぁ、実際の所完璧に現実逃避してただけなんだけどね。
だってあたし正直な所謝られるのとか負い目感じられるのとか、そういうの滅茶苦茶苦手な性質だし……はっきり言ってあんまり背負い込みたくないんだよね、こういうのって。
助けられたなら素直に「ありがとう」って返してくれるだけでいいんだし、悪いことしちゃったなって思えば「ごめんね」って言われれば何の問題も無いのだ。
大体この手の事って重箱の隅突いたような屁理屈重ねてあーだのこーだの態々単純な事柄を複雑化しちゃうからいけない訳だし、何事も最初っからその手の面倒ごとを突っぱねとけば全部丸く収まってもくれるだろう事は明白だ。
そんな訳で別にあたしが悪い訳じゃないよ。
人の話を聞かないあたしの感性が悪いのだ、えへん。
う~ん、我ながらやっぱ恥ずかしいなこれ……まぁ、なにはともあれ、ちょっと理屈に無理があったっぽいけどそこら辺は気にしない。
それがあたしクオリティー。

って言っても一応あたしも直そうとはしてるんだけどね。
なんていうか、この……時々自分の世界に閉じこもっちゃうような癖をさ。
あんまり上手くは言えないけど、あたしって稼動した時からなんか物事を考えるたびにさっきみたいに自分の考えてる事だけに没頭しちゃって周りが見えなくなっちゃうんだよね。
ドクターとかクア姉からはどういう訳か「いい傾向にある」とか言われるような事もあるけど、やっぱりトーレ姉やチンク姉からは「余所見とか前方不注意とか注意散漫に繋がるから直せ」って言われちゃうからやっぱり良くは無いことではあるんだとはあたしも重々承知してはいる。

承知はしてるんだけど……これがまた意識して直そうとするとそれを直すのにどうすればいいかってことで考え込んじゃうんだよね、これが。
んで、それを直そうとするのに考え込むのを直すように意識すると……ってこれじゃあ無限ループだよね、怖い怖い。
そんな訳であたしのこの癖は収まる所を知らない訳だ。
まーその内直せばいいよね、その内。
あたしはそんな風に心の中で堂々巡りする思いに僅かコンマ0.2秒ほどで決着をつけ、再び月村ちゃんの方へと向き直ってお話を再開するのだった。

「あっ、そう言えば聞きそびれてたんだけど月村ちゃん体調の方はもう大丈夫かな? 見た感じ顔色は大分よくなったっぽいけど?」

「えっと、はい。さっきよりは大分……でも、まだちょっと身体がダルくて……」

「そっかそっか、別に無理しなくてもいいよ。あたしも別にこれといった用事は無いし、ちゃんと動けるようになるまで休むといいよ。それまであたしが傍にいてあげるからさ」

「そんな……ご迷惑じゃ……」

またもや遠慮がちに顔を伏せる月村ちゃんにあたしは軽い口調で「気にしない。気にしな~い」とおどけながら、からからと笑ってみせる。
実際の所本当は早いところトーレ姉と合流してクア姉が事前に用意してくれたアパートの方まで荷物を運ばなきゃ行けないんだけど……まぁ、こうなってしまった以上毒を喰らうならば皿までだ。
トーレ姉からのお説教は嫌だけど、あたしだって別に任務を軽視してるとかそういう訳じゃないし、第一人助けして良いことしたんだから寧ろ此処は褒められるべきだろう、人として。

それに大体トーレ姉なんか事前に下調べもせずにこの世界来て色々と苦労したって通信で愚痴ってた訳だし、それを考えればちゃんと住居の事まで考えてたあたしの方がこの任務絶対向いてると思うんだよね、うん。
そもそも遺失物の捜索なんて諸にあたしの領分だもん。
戦力にしたってあたし等姉妹の中で規格外に強いスバルを連れて来てるわけだし、そもそもトーレ姉をこっち来させたことの方が間違いだったんじゃないかって思っちゃうよ。
って言っても……本人の目の前で言ったら何されるか分かったもんじゃないから勿論自重するけどね。
それに元々あたしもこの任務が言い渡された時には聖王協会の方から聖遺物パクってこいってドクターに言われてて、ちょうど潜入してる最中だったし、ぶっちゃけ手が空いてるのがトーレ姉しかいなかったから仕方なくもあるんだけどね。
スバル一人この世界に放って置く訳にも行かないし……まぁ、なんだかんだで人材不足なんだよね、あたし等姉妹って。
って言っても、やっぱりあたしにお鉢は回ってきたからお仕事はちゃんとやるんだけどね。

まぁ、そんな訳で本当はあたしもこんな所でもたもたしてないでぼちぼちとお仕事始めなくちゃいけないんだよね。
しなくちゃいけないんだけど……やっぱり困ってる子は放っておけないっていうか、見捨てては置けないっていうか……何というかこのまま「はい、さようなら」じゃ駄目だと思うんだよ、うん。
第一トーレ姉が出張ってる時点で大きな事件には発展してないと思うし、こっちにはスバルもいるんだからあんまり堅苦しく考えてても息詰まっちゃうだけなんだよ、実際。
そんな訳で今は肩の力抜いてあたしはあたしなりにあたし自身がしたい事をすりゃいいって思う訳よ、勝手な話だけど。

そもそもあたしも何で毎度毎度あの変態ドクターに扱き使われなくちゃいけないのか分かんないし、偶には有休とって暇を持て余したって罰は当たんないでしょ、多分。
実際この考えが間違ってたって「やばッ!?」って思った時に何とかすればいいんだしさ。
どうせ何もしなくたって最終的には落ち着く所には落ち着くんだし。
それにドクターの命令とこんないたいけな女の子の様態じゃどう考えても後者の方が優先されるでしょ普通……うん、優先されるべきだね。
と、いう訳で以上言い訳お終い。
どうせトーレ姉には今日来るとは言ったけど何時頃来るとは言ってないし、別に多少遅れても言い訳は聞くだろう……なんかもう気休めにしかならない気がするけど。
あたしは自分の都合のいい解釈に何処か拭い切れない一抹の不安を抱えながらも、「まぁ、何とかなるって」と自分に言い聞かせ、一旦その辺の事情を一切頭の中から排除する事に決めたのだった。

「困った時は助け合う、これ大事だよ、うん。それに月村ちゃんが回復する頃には日も落ちちゃうだろうし、真っ暗な中を一人では帰せないよ。この辺りはどうか知らないけど夜な夜な変な人とか出てきちゃうと困るからね~。こう、なんか……「しまっちゃうよ~」とか言って追っかけてくるおじさんとか」

「そっ、それは確かにちょっと怖いかも……」

「そうでしょー。いやまぁ、ぶっちゃけそんな人マジでいたらあたしも怖いけどさ……。まぁ、そこら辺の事は冗談だとしても月村ちゃんみたいな子を一人で出歩かせちゃうのはお姉ちゃんとしても見過ごせないんだよ、うん。そんな訳でもしよかったら帰りは送ってくよ。月村ちゃん家ってここら辺の近所?」

「一応此処から30分くらい歩いた所ですけど……あの、本当にいいんですか?」

若干先ほどより声色が明るくなった月村ちゃんの質問にあたしは「いいってことさー。なんくるないさー」と適当に空気を和らげられるように答えを返していく。
此処で出会ったのも何かの縁な訳だし、どうせスバルも反対なんてしないだろうから別にそれくらいは良いかなって思ったんだけど……そんなに念を押すような事でもないと思うんだけどなー、こんな事。
だって普通に考えたら放っておけないでしょ、うん。
長い間スバルみたいなのと一緒に過ごしてきたからなのかもしれないけど、やっぱり小さい子が困ってたら反射的に助けちゃいたくなるもんなんだよ。
こういうのは理屈じゃなくて何とやらっていう類の感覚だし、あんまり難しくは言えないけど普通のことなんだよね、あたしからしてみれば。

それともこの世界だとそんなに人と人との交流が他人行儀だったりするのかな?
そんな事は事前に読んだこの世界の情報の中には含まれてなかったけど……。
まぁ、何にせよ……あたしはあたしがしたいようにするまでだ。
とりあえず他の人に迷惑が掛からない範疇で、ね。
あたしはそんな風に改めて自分の行動方針を確認し、その半面で「そういえばあたしがしてきた事って結果的に色々な人に迷惑掛かってるんじゃ……?」等とちょっとだけ自分がそれまでしてきた色々を反省したりしながら、月村ちゃんを安心させる為にもう少し別の方向に話を持っていくことに決めたのだった。

「あたしもスバルもこの街に来たばっかでさ、色々と見て回っときたいんだよ。だから月村ちゃんを送るのはそのついでって事にして。それなら月村ちゃんも気負わなくて済むでしょ? まぁ、此処で会ったのもなんかの縁な訳だし、あたしもスバルもしばらくはこの街に住むことになるだろうから見知った顔の人は多い方がいいしさ。ね?」

「……ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらってもいいですか?」

「うんうん、素直で大変よろしい。それじゃあ、スバルが戻ってきてちょっと経ったら行く事にしようか。まぁ、あの子のことだし何処で油売ってるのかは知らないけど、月村ちゃんの体調が落ち着く頃には戻ってくるでしょ。なんだかんだであの子しっかりしてるし」

「ふふっ、信用されてるんですね、妹さんのこと」

ようやくのこと笑ってくれた月村ちゃんに対し、今度はあたしが苦笑を浮かべながら「まーねー」と相槌を打つ事になった。
月村ちゃんが言う通りあたしもスバルのこと信用してるかって言えば当たり前のようにしているし、信頼だって勿論している。
何せ基本的にあの子はなんだかんだで責任感も人一倍強いし、放っておいてもちゃんと約束した事は守り通すだけの気概も持ち合わせている。
加えて、あの子は姉妹たちの中でもそれこそ桁が二、三違ってくるほど出鱈目な実力も兼ね備えているのだ。
多分あの子が全力を出したら多分ディエチ以外の人間では止めることすら叶わなくなってしまうと言っても過言ではないだろう。
って言っても勿論見た目があの小っこいおチビのままじゃあ本気なんか到底出せないだろうし、本人曰く「すっごい疲れるから嫌!」って言ってあんまり“あの状態”になる事は無いんだけど……それでもトーレ姉やチンク姉を相手にしても引けを取らないというのだから、あの子に危険が降り掛かるってことを想像すること自体あたしにとっては難しいのだ。

まぁ、そんな訳であたし的にはあんまりスバルの事を心配しなくても大丈夫かな、って常日頃から思っちゃったりしてる訳だ。
勿論それ以外の日常的な面での危なっかしい所は冷や冷やしっぱなしなんだけど、やっぱりそういう所をひっくるめてあたしはスバルの事は信用してるし、信頼もしてる。
だからあんまりこれと言ってスバルが帰ってこなくても心配とか、そういう念は沸いてこないのだ。
って言っても「また何処かで人様に迷惑掛けてないだろうな~」とか「知らない人に飴玉あげるよ、って言われてそれに着いて行ったりしないだろな~」とか「変なもの拾い食いしてないだろうな~」とかそんな心配は尽きないんだけどね、その後スバル自身が物理的にそれ等の問題を対処出来るかどうかは別として。

んでも、今回は単にジュースを買いにいっただけだし、それ等の心配もあんまりないだろうとあたしは思っている。
何せスバルに渡したお金はこの世界だと結構な額だ。
どの道買い食いでもしてうろつき回ってるっていうのなら後で少し注意すればいいだけの事だし、あの子だって一応世間様に顔向け出来る程度の一般常識は学んできた筈だからお店の人に迷惑を掛けてることも多分無いだろう……うん、多分ね、多分。
あたしは腰を落ち着けている幹に深く腰をかけ、心の中で「スバルの奴はやく戻ってこないかな~」と思いながら大分前に彼女が消えていった方を眺めてみるのだった。

「あのっ……そう言えばセインさん。ちょっと質問してもいいですか?」

「んっ? なーにー? 何だって聞いてよ。あたしに答えられる事なら気兼ねなく話すよ。でっ? 何かな?」

「あっ、いえ……そんなに大した事じゃないんです。ただセインさんって何でそんなに日本語が流暢なのかなって……。いえ、別にそれが悪いとかそういう事じゃないんですよ。その、なんて言えばいいのかな……確かセインさんってこの街に来たのが初めてって仰ってましたよね? だから此処に来る前は何処にいたのかなって思ったんです。やっぱり……外国に居られたんですか?」

「あーっ、其処ね。あははっ……外国って言えば外国なのかな、うん」

月村ちゃんからの以外に鋭い質問にあたしは表面上は穏やかな笑みを浮かべながらも、その反面では「やっべー。どうしよう、これ。なんて言おう……」という思いが頭の中でグルグル回って凄く困惑していた。
いや、一応此処に至るまでの設定っていうのは一応向こうのアジトにいた時にウーノ姉やクア姉と相談して色々と事前の打ち合わせはしてきてはあるのだ。
だけどそれはあくまでアパートの周辺住民への配慮から来るものだったし、よくよく考えてみれば説明が不透明な感じなのが否めない点が幾つかあったのもまた事実。
一応の事ながらこの世界での戸籍は現地のその筋の人たちにクア姉が交渉し、トーレ姉の時と同じように大枚を叩いてあたしとスバルの分は手配してあるという手筈になっているんだけど……流石にあたし自身こんな所で自分の身の上を語る事になるとは思ってもみなかったから全然そこら辺の事情を考えてはいなかったのだ。
果たしてどう説明すればいいのか。
あたしは殆ど真っ白になりかけの頭の中を必死で動かして何か良い妙案は無い物かと考えた末、とりあえずもうこんな設定でいけばいいやっていうような偽りの身の上話を簡単に作って月村ちゃんへとそれを語っていくのだった。
なんというか……ごめんね、月村ちゃん。
喋れる事は喋るって言ったけど、本当の身の上ばかりは喋れないんだよ……うん。

「あたしは……んにゃ、あたしとスバルは此処に来る前は東京にいたよ、トーキョー。銀座のあたりでさ、ちょっとした大道芸やってたりした訳よ。あたし等の家っていうのは昔っから大道芸を生業にしてる家系でね。仕事の為に世界中回ってるんだ。ただまぁ、あたしはこの国での生活が長いし、スバルに至ってはこの国で生まれ育ってるもんだから言語にも明るい訳なんだよ。あっ、ちなみにあたしはブラッディナイオ─────俗に言う人形師のタマゴなんだ。スバルは……その助手みたいなもんかな」

「へぇ……そうなんですか。道理で……じゃあやっぱりこの街でもお仕事を?」

「う~ん、今回は仕事の関係じゃないんだ。ちょっと色々あってあたしの姉が一足先にこの街に来ててね。その人に会いに着たんだよ。あたしも、そして勿論スバルもね。何でも大事な用があるみたいでさ。家族の方からは手伝ってあげなさいって言われてるんだ。まぁ、暇があったら駅前とかでやってもいいんだけどね。ただこの国だとあたし等だけじゃあちょっと許可とか取るのは難しいだろうから……其処の所は運次第かもね」

「そうですか……。私、そういうのって何だかちょっと憧れちゃいます。なんていうか……こんな風に言うのは失礼かもしれませんけど、その……自由そうだし、妹さんとも仲がいいし……。凄く、羨ましいですよ。そういう生き方」

月村ちゃんのきらきらとした屈託の無い純粋な尊敬の眼差しを受け、あたしは「あはっ、あはははは……」と笑うほかなく、もう此処まで来たらとことん嘘話を広めてやろうと決心するしかなかった。
何せあたしが今語った事は殆ど9割方嘘で固められた偽りの経歴だ。
あたしもスバルも生まれてこの方人形師なんて志した事は一度もないし、また披露してくれって言われたって素人芸すら出来はしないだろう。
ただまぁ、これはあくまでも月村ちゃんを初めとした現地の人間がスバルの抱えているぬいぐるみことセイクリッドハートが自立的に動いている事を目撃してしまった時に操り人形による芸であるということにしておければ後々楽かな、って思った末の事ではあるのだが……正直なんか後戻り出来ない方まで話を推し進めちゃった感が否めないのはあたしの気のせいであって欲しいと思わずにはいられなかった。
如何に言い訳ばかりで人生を通してきたあたしと言えど、通せる言い訳と通せない言い訳の有無の検討くらいはつく。
そしてその場合これはどちらにあたるのか……もはや、それは語るべくも無いとあたしは思った。

ただ一度ついちゃった嘘は取替えしかない訳で……今後は偉い人も言っていたように最後まで嘘を突き通すというつもりで事の流れを運んでいくしかない。
何せ月村ちゃんはこの辺りに居を構えている内の子らしいし、トーレ姉の報告だとドクターの欲しがっている遺失物はこの町の周辺に散らばってるとの事だから、必然的にまた顔を合わせるような機会は自ずと廻ってくるだろう。
ただそうした時にボロを出してしまっては元も子もないし、第一そしたら他ならぬ月村ちゃん自身に迷惑を掛ける破目になってしまう。
此処に来る前にチンク姉から散々言われたことだけど、関係ない人は必要以上に巻き込むなっていうのはあたしも重々承知の上だ。
トーレ姉はなんだか現地の子に水先案内人として協力を要請したみたいだけど……あの時はチンク姉も断固として反対してたしなぁ、あたしも二の舞を踏まないように気をつけたいと思うよ、うん。
あたしは乾いた笑みの向こう側でしみじみとそんな情念を抱きつつ、「どうしたもんかねぇ……」と割と本気で頭を悩ませながら自分の嘘の身の上をまるで何かの小説でも書き上げるかのようにそのストーリーを組み上げていくのだった。

「あのっ、もしよかったらスバルちゃんが来るまでもっとセインさんのこと聞かせてくれませんか?」

「えっ……!?」

「なんだかそういう話を聞いていたら楽しくなっちゃって……駄目、ですか?」

「いやいやいやいや、全然オッケーだよ。あたしの話なんかでよければね、うん。そうさねぇ……何から話せばいいもんかなぁ……」

あたしは心の中で月村ちゃんに「さっそくかいィ!」と突っ込みを入れつつも、頭の方では「やっぱりそういう流れになっちゃうよねぇ……」と半ば諦めつつ、自分の考えたストーリーを月村ちゃんに語って聞かせる事にした。
まず話したのが出身の国のこと。
当然「あたしって実はこの世界の人じゃないんだ~」なんて変人染みた事を言える筈も無く、これに関してはこの世界の戸籍通りイタリアって国の生まれだって事にした。
勿論月村ちゃんから「どんな所なんですか?」とか「どれくらい居たんですか?」とか細かい突込みが度々入ってきたけれど、これに関しては事前に勉強してきた御蔭で案外すんなりとあたしも語る事が出来た。
まぁ、アパートの方にもそういう風な感じで伝えちゃってるし……ここら辺に関しては譲れないんだよね、今更……。
ちなみに設定上スバルに関しては日系のイタリア人ということにしてある。
一応あたしとは異母姉妹って事で月村ちゃんには説明したんだけど……なんか「大変なご家庭なんですね」って凄く生暖かいお言葉が返されてしまった。
なんというか……このことに関してはあたしとしても「ごめんね、スバル」としか言えないよ、やっぱり。

そいで次に話したのが大道芸のこと。
これに関しては嘘も嘘、真っ赤な大嘘で固められた事ではあるんだけど……あたしはさも自分がそういった事を経験してきたかのように真剣な気持ちで月村ちゃんにその事を話した。
相手を信用させるならまずは自分自身を騙してみせる。
演技っていうか、大体の嘘っていうのは自分以外の第三者になりきって始めて成立するのだ。
例えそれが単なる嘘だからといって手は抜かない。
だってあたしだって月村ちゃんのいたいけな夢を壊したくないもん、うん。
と、いう訳でこれに関してはあたしも事前に学んできた知識を活かしてなるべく専門的な言葉も交えて月村ちゃんに色々と話すことにした。
幼い頃より家族と一緒に芸を磨いてきたこと、だからあんまり学校とかにはいってなかったこと、初めて独立してお仕事をした時のこと……その他エトセトラエトセトラ。
端から端まで皆嘘だっていうのによくもまぁ、これだけ口から出任せ言えるもんだなってあたし自身感心しちゃったくらいだ。
月村ちゃんも何の疑いもなく信じてくれたみたいだし、一応の事これに関しても一件落着だ。

んで、最後にあたし等の身内関係のこと。
これに関してはあたしも今まで月村ちゃんに嘘ばっかりついてたこともあってか、所々に真実を織り交ぜて話すことにした。
あたしの父親……っていうか諸にドクターのことだけど、娘のあたしからしてもよく分かんない人だって事だとか、その妻……あぁ、勿論ウーノ姉の事なんだけど優しい人だって事だとか、まぁ色々だ。
ただウーノ姉の話をした時は……思わず三人目の奥さんって言っちゃったもんだから、ちょっとの間だけ空気が凍りかけたりもした。
だってそうじゃないとあたしとスバルの関係に説明がつかなくなるし……っても実質ウーノ姉ってドクターの奥さんみたいなもんだし、あたし等からしてもお母さんみたいなもんだから話しててあんまり抵抗はなかったけどね。
大体ドクターの事をあそこまで良くしてくれる人なんて辺境世界のジャングルの奥地を探しても見つかりそうに無いってチンク姉も言ってたし……そう言えば何気に酷いこと言ってるな、チンク姉……まぁ、別にいいんだけど。

そんでそれに続いてトーレ姉、クア姉、チンク姉、ディエチ、スバルって順にあたしは話を重ねていった。
ただ二番目の姉妹に関してはこれもあんまり良い雰囲気にはならなそうだからあえて黙っておく事にしたんだけどね。
ぶっちゃけ姉妹の中でもこの話をするとちょっとの間空気凍るし……特にクア姉の前でした時とか特に。
まぁ、そこら辺のことは置いておくとして月村ちゃんには結構色々な事をあたしも話した。
トーレ姉は厳ついけど根は良い人なんだよってこととか、クア姉は性悪だけどスバルには甘いんだよってこととか、チンク姉はあたしより年上な筈なのに頭を洗う時シャンプーハット被ってるんだよってこととか、妹のディエチは最近不良さんになっちゃったこととか、スバルは良くできた子だっていうことだとか……まぁ、本当に色々だ。
あたしも話している時は楽しかったし、月村ちゃんも受けが良かったのか良く笑ってくれた。

ただ……ちょっとあたしが気に掛かったのはそのことを話している最中の事だ。
なんというか、あたしが誰かと中がいいって話をしているとき、月村ちゃんは表向きの感じは笑っているようで……なんだか表情は強張ってるみたいだった。
いやまぁ、あたしの気のせいなのかもしれないんだけど……あたし自身あの感じにはちょっと心当たりもあったし、あんまり良くない傾向のように思えて仕方がなかったのだ。
あたしの中のどういう感性がそうした想いをあたしに抱かせたのかは定かじゃない。
漠然と宙に浮かんだままぼんやり浮かんでいる煙のような……言いえて妙だけど、そうあるって事は分かりきっているのに気体のように掴みどころが無い、そんな感じだったからだ。

けれど、よくない予感って言うのは大概的中する物だ。
自慢じゃないけどあたしは頭は悪いけど、それなり勘は鋭いっていう自負がある。
それもあんまりよくないことばっかりを嗅ぎ取る勘だけは格段に尖っているって言えるだろう。
あたしが工作とか潜入とか専門にしたスキルの持ち主だからかは知らないけど、潜在的にあたしには危険を読み取る能力って言うのがあったりするのだ。
もっとも、こんなのは科学的根拠のない眉唾な話でしかないんだけどね……うん。
あたしは微妙に浮き沈みを繰り返している月村ちゃんの表情をなるべく見逃さないように窺いながらも、だからといって変に動揺していると思われないように自然体を装いながら話の続きを語っていくのだった。

「んでまぁ、この国に来る前は故郷で……フィレンツェの方で公演しててさ。これがまたこの国とは全然雰囲気が違うんだよ。あっちは人形作りが盛んでね。もっとこう文化的っていうか、古臭いっていうか……良くも悪くも人間臭い街並みだったね。んで、その前に公演やってたのがヴェネツィア。こっちは観光地だけあってやっぱり人が多いんだよー。車とかは全然走ってないけどね」

「ヴェネツィアっていうと……あの水の都ですか?」

「そうそう。でもまぁ、それだけが魅力じゃないんだよ。四月になれば謝肉祭だってあるし、歴史的な建造物だって沢山あるんだ。ゴンドラに乗ってゆったりってのもいいけど、お祭りに触れてみたり、歴史に触れてみたりして街中を歩いてみるっていうのも愉しみ方の一つではあるかな。月村ちゃんも大人になってら言ってみるといいよ。あっ、でも二人組みの子供が新聞紙広げて近付いてきたら要注意ね。本当に何気なく鞄からスッ、とお財布抜かれちゃんだよ。だからパスポートや財布は常にポケットに入れて持ち歩くこと。これ豆知識ね」

「へぇ……。やっぱり、外国でもそういう事ってあるんですね。私……今まで全然知りませんでした」

あたしの作り話に目を輝かせ、真剣に話に聞き入っている月村ちゃん。
なんというか……ちょっぴり心が痛むけど、此処まで来たらあたしも後には引けないし、今更何を語った所で後戻りなんかで気はしないだろう。
だからあたしは「世の中には色々と知らない事もあるんだよー。大きくなったらいっぱい色々な所見て回るといいさー」とだけ月村ちゃんへ言葉を促し、そして満面の笑みで彼女へと微笑みかけた。
こんな風に言うと矛盾してるように聞えちゃうかもしれないけど、本当の事が言えない以上はあたしも誠心誠意、本気で嘘をつかなきゃいけないと思う。

確かに其処には「あんまり変なように見られないため」とか「これからの動きの中でスムーズに事が進むように勤めるため」とかそういった理由を幾らでも重ねる事は出来るけど、やっぱり見た感じあたしの身の上話を信用してるっぽい月村ちゃんからすればこんなのは詭弁以外の何物でもない。
従って、あたしは今折角あたしに好意を向けてくれてる人を裏切ってるって事になるのだ。
まぁ、クア姉とかディエチは何時も訓練の時「割り切れ」って言ってくるけれど、流石にあたしもそこら辺の人間関係を平気で踏み躙れるような精神は持ち合わせちゃいない。
やっぱり皆からすれば半端者って言われちゃうのかもしれないけど、あたしはあの二人のように何処までも徹底した非情にはなりきれないのだ。
って言っても、今まであたしが仕出かしてきた諸々がどうにかなってくれる訳じゃないんだけど……。

っとまぁ、こんな感じに色々ネガティブに考えちゃってるけど要するにあたしが言いたいのは人の信用裏切るって言うのならそれを悟られないくらい嘘をつくことに精進しなきゃいけないってことだ。
バレたらバレたで大きなしっぺ返しが帰ってくるのは当たり前なんだし、当然あたしも最初からその覚悟があってこんな事を言っている事には違いない。
けれど、だからって適当にやればいいかって言えばそうじゃない。
あたしは確かに傍から見れば悪人なのかもしれないけど、最低限関係ない人を巻き込まないだけの気概は予てから持ち合わせている。
これがあたしっていう個人の心情から来るものなのか稼動する前にドクターから刷り込まれたものかは知らないけど、少なくともあたしは他人が悲しんだり、苦しんだりしたりしてる様を見て良い気分にはとてもならない。
だから悪いことをするなら相手の気持ちも考慮して、全力でやる。
なんというかまぁ、自分でも「変な理屈だなぁ……」とは思うんだけど、実行出来るかどうかは別として心構えは重要だと思うんだよね、うん。
あたしは自分の内に沸いた微かな罪悪感にほんの少しだけ後ろめたい気持ちを抱きながらも、そんな気持ちのままじゃあやっぱり駄目だよね、と改めて気持ちを入れなおし、この嘘塗れの与太話に終止符を打つ事に決めたのだった。

「……っとまぁ、あたしの話はこれでお終い。どう? 楽しかった?」

「はっ、はい。とっても……。今まで自分が知らなかった事がこんなにもあるんだって、時間を忘れてついつい思っちゃいました。なんか……こんな気持ち、久しぶりでした」

「あははっ、それはよかったよ。最初はあたしもこんな話でいいのかなって思ってたんだけど、愉しんでくれたようなら幸いかな。おっと、そう言えばスバルの奴いい加減遅いなぁ、帰ってくるの。もう大分時間は経った筈なのに……何処をウロチョロしてるんだろうねぇ、あの子は」

「そういえば、確かに全然帰ってくる気配がないですね。もしかして迷子なんじゃ……」

本当に自分のことのようにスバルの事を心配してくれている月村ちゃんにあたしは「う~ん、もしかしたらそうかもね」と同意しながら、もう一度スバルが消えていった方を再度確認し、人の気配を確かめる。
だけどやっぱりスバルの奴の気配はおろか、ここら辺には全然人っ気が無いようにあたしは感じた。
まぁ、当然と言えば当然なのかもしれない。
何せ、もう空は茜色から黒色へとその色を変え始めており、普通に考えればよい子も悪い子もお家に変える時間帯なのは明白だ。
月村ちゃんはまぁ、仕方が無いとして一応此処は公園である以上、他の人間がいないのはいたし方の無いことだろう。

そんな事実の中、あたしは自分の胸の内にほんの少しだけ心配っていう情念が浮かび上がってくるのを感じていた。
月村ちゃんとあたしが話を始めてからもう実に一時間以上。
スバルがジュースを買いに行くと言って出て行ったのは月村ちゃんの目が覚める前だから、合計すれば二時間以上は経っている計算になる。
今までは単に買い食いでもしてるんだろうと思って気軽に構えてたけど、これは幾らなんでも遅過ぎるんじゃないだろうか。
とは言え、スバルの手元には並みのデバイスの数倍以上の性能を誇っているであろう“うさぎのクリスくん”ことセイクリッド・ハートもある手前、ナビゲーション能力を考えれば単純に迷子って事は無いんだろうけど……それでもやっぱり心配になってくるっていうのが姉としての情であり、念だ。
あの子に何かがあるとは思えないけど、何かあったんじゃないかと独りでに想いが先走ってしまう。
親馬鹿ならぬ姉馬鹿って言われても仕方ないのかもしれないけど、スバルはやっぱり大事な妹だ。
こうも時間が経つと心配にだってなってしまうという物だ。
あたしは心配そうに目を細める月村ちゃんに「大丈夫、だよ……多分」と強がりながらも内心ではソワソワした気持ちを抑えられぬまま、スバルの安否を心配するのであった。

「セインさん。私の事はいいですから探しに行ってあげてください。スバルちゃん……もしかしたら独りになって不安で泣いてるかもしれませんし……」

「いやいや、それはちょっと……。月村ちゃんだってまだ万全じゃないでしょ? そんな子一人此処に置いて行くなんてあたしには無理だよ」

「でっ、でも……。じゃあ私も一緒に行きます。助けて貰ってご恩もありますし、私も一応一人で歩く程度なら─────くっ!」

「ほ~ら、無理しちゃ駄目だってば。そんな強がり言っても身体の調子は治んないよ? でもやっぱりこのままじゃ駄目だろうし……おっ?」

無理やり力を振り絞って立ち上がろうとする月村ちゃんを宥め、講義の念を上げようとする彼女をどう説得しようかと考えていた私はふと此処であたし達のいる方向へと向かってくる一つの人影を見つけた。
最初、あたしはそれがスバルの物かと思ったのだが……よくよく観察してみるとそれはあたしの見かけと同じくらいの年頃の男の子のものであることがその数秒後には分かった。
ただ、これだけだとただのがっかり話で終わってしまうのだが─────その更に数秒後、あたしはその男の子が見覚えのある何かを背負っている事に気がついた。
そう、それは如何にも「あたしもう何も食べられないよ~」と言わんばかりの憎たらしいくらい幸せそうな顔で爆睡しているスバルの姿だったのだ。

瞬間、あたしは自分の額辺りがピクピクと二、三度上下に動くのを感じた。
いやぁ、別に大した意味合いがあっての事じゃない。
ただ単純に内心で「お前なにしてんのぉぉぉおおおお!?」って今までの心配やら何やらが一抹の怒りに変わっただけのことだ。
まったく、この世界に来る前にあれだけ「他の人に迷惑掛けちゃいけないよー」って教えた筈なのに何も学習しなかったのか、あの子はって思わずにはいられない。
しかも背負ってる黒髪の男の子は男の子で何か如何にもちょっと相手に手間取ってしまったって感じに苦笑してるし、明らかに迷惑を掛けたのは間違いないだろう。
あたしは内心で「スバル、明日のおやつは抜き」ってちょっと意地悪な制裁の方法を考えつつも、もう本当に姉としてどう頭下げていいもんかと戸惑いを隠しきれないまま、急いで立ち上がってその男の子の元へと駆け寄っていくのだった。

「ちょっとー。そこの君ー!」

「あっ、あなたがこの子の言っていたお姉さん?」

「そうそう。その背中の子はウチのチビだよ。よかった……」

「あぁ、それはよかった。それじゃ─────」

ようやく顔をだした我が妹のこれでもかってくらい幸せそうな寝顔を見てあたしは思わず、胸を撫で下ろした。
何だかんだ言ってもスバルは大切な妹だ。
目の前で如何にも苦労したって感じに苦笑を浮かべてる少年にはお礼を言っても言い切れないくらいだし、この少年が連れてきてくれなかったら本当に迷子になっていたかもしれないのだ。
しかも、ご丁寧にもクリスはスバルの腕に握られたまま力なくぐったりとしてるし……たぶん正しい道を示したくてもこれじゃあ無理だったんだろうなって事がありありと伝わってくる始末だ。
本当に……ちゃんと帰ってきてくれてよかったと思う。
勿論、ちゃんとお説教はしなきゃいけないんだろうけどね。
あたしは少年の背中でぐっすり眠っているスバルにほんの一瞬だけいとおしげな視線を送ると、何か言わんとしている少年の方に向き直って彼の言葉を聞くのであった。
まさか月村ちゃんと並んであたしがこの日からえらい長い間、付き合っていくことになるだろう彼の言葉を……。

「貴女の妹さん。お届けにあがりました」

そうして……此処でまた一つ、あたしは新たな出会いに導かれていく。
これが偶然なのか必然なのか。
そこら辺のところはあたしも小難しいからあんまり考えないし、それについてはスバルも異論はないのだろうけど……まぁ、なんというか凄い不思議な事ではあるんだとは思う。
何せ、この日をもってしてあたしの人生の基盤っていうのは大きく動かされる事になるのだろうから。
って言っても、あたしは所詮気まぐれ屋。
“そうあれかし”の言葉の元、その場その場を自由気ままに対処するまでだ。
それが例え、己の未来を左右するものであったのだとしても……。









[15606] 第二十七話「その心、回帰する時なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:b3765b7d
Date: 2010/10/25 19:25
完全なる干渉の遮断。
それは私の渇望の具現体であり、また己が忌避して止まない事柄の裏返しだ。
どうせ何かに触れて傷付くのなら、いっそ総てを遠ざけて壊してしまえばいい。
他者が私に無理やり干渉しようとするなら、その事実諸共何もかも吹き飛ばしてしまえ。
この世界の誰も……ただ一人として私に温もりを与えてくれないというのなら……私に優しくしてくれないのなら、皆総じて私に触れてくれるな。
それが私の願いであり、また求道。

深層心理のレベルで他者に触れる事を病的に恐れた私が生み出した“高町なのは”の為だけの究極的な法則の創造だ。
この心をそのまま具現させたような障壁の形成はこの世界のありとあらゆるものを持ってしてもこの身を犯すことは許さず、また何もかも無力化してしまう。
それが私こと高町なのはの渇望の真髄にして、能力。
この世界における何もかもを──────この身に接触する物皆総じて嫌ったが故の果てに生まれた歪なルールの強制だ。

想いを抱いて願いを掛ければ如何なる願いも叶えてくれる宝石、ジュエルシード。
今の私が得ているこの力の源は総てにおいて此処に繋がっていると言っていい。
いや─────寧ろ、この場合はそのジュエルシードの主人格たる“アリシア・テスタロッサ”に繋がっていると言い換えた方が適当だろうか。
まぁ、何だって構いはしないけど、要するに根本に至る部分は結局一緒。
私は誰かに与えられた力を振るい、また己が本当に望んでいるのかどうなのかも分からない理論破綻した渇望を抱いて今に至っている。
その事実だけはどうあっても変えようの無い。
覆しようの無い現実が其処には確かに存在し得てしまっているのだ。
私という人間の存在が自身の渇望に飲まれ掛かっているというどうしようもない現実が……。

そもそも、何故私はこんなにも必死になって戦っているのだろうか。
先生やフェイトちゃんみたいな人を護りたいから?
私自身に危害が及ぶのが恐ろしいから?
アリシアとの約束を何がなんでも果たしてあげたいから?
あぁ……確かにどれも皆聞えは良いし、理屈からして嘘ではない。
本音を言えばそのどれもが偽りの無い真実であることには違い無いし、実際“高町なのは”はその総てを満たしたいが故に己の身を傷つけてまで闘っているのだ。
だが、それは結局の所、私という人間の自己矛盾を覆い隠す為の詭弁でしかない。
何故ならば、本来の私という人間は本質的に酷く臆病で矮小的な存在なのだから。
誰にも触れられたくないと希うのに、誰かに優しく触れて欲しいと妄執を抱くちっぽけな一小娘に過ぎないのだから……。
私は本当は─────本当の“高町なのは”は己が闘っているという理由を求めて暴れ回っているだけの、ただの弱虫でしかないのだ。

だからこそ、私は今までの戦いの中で何一つ己の意志を示しては来なかった。
何をするにも他人の為に、誰かの為にと他者の存在を持ち上げて自分と言う存在を軽視し、その反面いざ戦いに陥れば何がなんでも今この時を生き抜いてみたいと吼え回る。
そして、その挙句が自ら死地に飛び込んで死に掛けるという現状に繋がっているのだから笑おうにも笑えない。
正直な所、己の事なのに自分ですら失笑ものだと思えてしまうくらいだ。
言うなれば、今の私は通風の罹患者。
そよ風が吹いただけで身を裂くような激痛を伴ってしまうという現実から逃避する為に、自己の存在を矛盾だらけに穢し固め、己という存在の定義を曖昧にする事で一時的に自分の自壊衝動を己が生きるのに必要な物だと偽り続ける白痴を抱えた病人の“それ”だ。

そしてまた、内に秘めた渇望という名の爆弾もそれに同じ。
自己矛盾を徹底的なまでに曖昧にしてしまっているからこそ私の渇望というものは成り立っている訳なのだが、逆転して考えればそれは何れ誰かにその自己矛盾を突かれてしまえば、私の中で“高町なのは”というアイデンティティが崩壊してしまうという事を意味している。
そして言うなればそれは、何時爆発するかも分からない時限爆弾を抱えているも同じだ。
自己矛盾を追及した果てに一体どんな崩落が待っているのかは窺い知れた事ではないが、何にせよ碌でもないことになるのは目に見えている。
肉体の死滅か……それとも精神の崩壊か、或いは……渇望その暴走か。
大方の検討としてはこの辺りが妥当な所だろうが、そうなってしまったが最後……多分私は元の渡しに戻る事は出来なくなってしまう事だろう。

正に目に見えぬ爆弾。
或いはこの身に巣食った自滅因子とでも言えば適当だろうか。
まぁ、何れにしても私が患っているのはその究極系である以上、それは自身の崩壊にも繋がりかねない事柄であることには違いない。
しかも、それは何時如何なる時にどのような切っ掛けで起こり得るやも知れないのだから、尚更厄介な品物なのだ。
だからこそ、私は己が抱えた自己矛盾の定義を曖昧にぼやかす事で己の心の不安定さを糺して安定させ、今の今まで生き抜いてきた。
どんな時でも……それこそ闘っている最中でさえ、だ。
けれど、裏を返せばそれはまた別の意味での“病気”でしかなく、今尚そのように生きなければ私は自身の言う正常を保てないのだから、ある意味これは着実に自身の肉体が病巣に侵されていると捉えられることには違いない。
然るに私はどう転んでも自己矛盾という名の不治の病からは逃げる事は叶わないのだ。
決して知覚することの叶わない意識の奥底で己の存在を消したいと猛りながらも、表面上は今の自分のまま状況を補完したいと切に願うというこの不治の病からは……。

もはや私には自分の何処から何処までが己の意思で、何処から何処までが自己矛盾から来る自滅因子であるのかも窺い知る事は出来ない。
だが、なんにせよ、それ等総ての意思を内包した存在こそがこの“私”である事もまた然るべき事実。
もしもこの身に抱いた想いの中に真なる願いが在るというのなら、私は一人の人間として自身の自己矛盾という絡まった糸を一つ一つ解いていく他ないだろう。
そして、その果てに……その総ての矛盾が消え去った果てに私が望んだ願いがあってくれるというのなら、少なくとも現状私はそんな“病巣”を抱えたままでもいいと思う。
その“病巣”からくる衝動が答えを解く鍵になってくれると言うのなら、今は其処から生まれる苦しみも望むところだ。
誰にも接触されたくないのに、誰かに接して欲しいと願う矛盾。
今はその破綻した渇望を糧にして、戦いを呼ぶ騒乱へと躍り出ていくことしか私には出来ないのだから。

故、今この瞬間、私は瞼を開ける。
現実を悲観し、己を蔑む時間は過ぎ去ったが故に、今は私を呼ぶ声に耳を傾けなければいけないから。
私の意識の再生を泣いて請う“彼女”を慰めなければいけないから……。
誰かのため……そう言い訳を偽りだと断じるのは、少なくとも今この段階で判断を下すべき事ではない。
誰かと繋がっているという今この瞬間、私という存在を欲している物がいるのならば……私は独りで死することは叶わないのだろうから。

何れ来る終焉を果たして私自身が選択出来るかどうか、ということは定かではない。
何せこの身はもはや人の領域より外れた歪な化け物そのものだ。
幾ら人の為りを装っていようとも、自分以外の物を拒絶する等と言う馬鹿げた法則を強制してしまうと言う異形の力はとても平凡たる人間のそれからは余りある物である。
人の皮を被った獣、それが今の私─────“高町なのは”。
そんな私が真っ当に生きられようはずもなければ、真っ当に死に行けるはずもない。
この身は既に呪われた……そう、逃れられぬ異形を孕んだ愚物でしかないが故に、私は自らに課せられた枷から逃れる事は出来ないのだ。

けれど、私はそんな自分を認めたくは無い。
人の一生の選択は常に己が握って然るべき物のはずだ。
他者から強制されるものでもなければ、私を取り巻く“世界”に抑制させるものでもない。
私は私であるが故に……“高町なのは”は“高町なのは”であるが故に屑星たる己を地星として輝かせ、此処に確固たる“個”を築きたいと願う。
自分から逃げない為に……現実から逃げ出さないように……。
そして何物を前にしても立ち止まらないよう真実から目を背けない為に、私は確固たる私で居続けるのだ。

その想いだけは、決して忘れない……絶対に。
そうして、今宵私は─────“高町なのは”はそんな感慨を胸に抱いたまま、これで二度目となる死地から帰還し、意識を取り戻す。
暴れ回る獣としてではなく、ただ一人の臆病で矮小的な小娘として。
狂い泣く化け物としての“高町なのは”ではなく、ただの人間としての高町なのはとして……。
私は今此処に、己が意識を取り戻すのであった。

「……うぅ、くっ……。私っ、生き……てるの……?」

混濁する思考の中、目を覚ました私が一番最初に呟いたのは自らの安否を確かめるそんな言葉だった。
あの草臥れた海岸を血染めの戦場に変え、生死を別けるような闘争劇を繰り広げてから一体どれだけの時間が経ったことだろう。
私は自らの肉体がまだ死滅していない事と、ここでこうして何事も無かったかのように五体満足を保っている事を意識を全身に巡らせて確かめながらも、頭の中では何故自分がこの状態に至っているのか、という事を淡々と思考していく。
私の記憶に残っている最後の光景は突き刺さったサンダーブレイドを発破した事で爆散する鳥獣の肉体と、意識を薄れさせていく私を涙声で叱咤するアリシアの声。
あれから長らく私は意識を失っていたようだが、此処でこうして私が自我を保っている以上、どうやら復活した鳥獣が私に止めを刺しに来ると言うような自体だけは避けることが出来たらしい。
それは分かる。
今更確認せずとも、凡その見当くらいは私にだって付けられるから。

だが、問題なのはそうした事柄の後にあったこと。
即ち今に至るまでの経緯と結果、そして現状だ。
もはや今の私には身体を起して辺りを確認するだけの気力も体力も殆ど残されてはいないが、少なくとも今この瞬間、自分が横たわっている場所があの砂浜で無い事くらいは分かっている。
少々寝心地は悪いとは思うが、現状私の身体は人工的な軟らかさを持った感触に包まれていると判断する事が出来たからだ。
ベットか、それともソファーか……まぁ、この際なんだって構いはしないけれど、その事から察するにどうやら私は気絶している間に何処かに運ばれたという事になる。
加えて私の視界が映しているのは窓から差し込む月明かりに照らされた薄暗い天井であることから、今私は室内にいるということも何となく私は窺い知る事が出来た。

とは言え、その光景がまったく見覚えの無い物であり、誰が私をこんな場所へと運んだのか分からない以上、一概に思考を放棄すると言うのは得策ではない事くらいは分かる。
何せよくよく視線を自分の身体の方へと向けてみれば、その身体は気絶する前の物に比べて多少の違和感を孕んではいるものの、未だ漆黒のバリアジャケットに包まれたままだ。
もしもこのままの状態で何も知らない一般人に見つかったとなれば事だし、事情を知っている人間だとしても、それはそれで言い逃れをすることは出来ない可能性が高い。
こんな言葉は好きではないが前者にせよ後者にせよ、最悪の場合実力行使で突破する事も視野に入れなければならないかもしれない可能性もある。
あの闘いから命を繋いだからと言って油断出来る訳も無く、また同様に大人しく寝ていられる訳も無い。
私は段々と鮮明になっていく意識の中でそんな風な危機感を胸の内に抱きながら、自身が今ある状況を確かめなければと軋む身体を無理やり動かして、自身の上半身を起すのであった。

「うっ……頭痛っ。此処、何処なんだろ? 一体誰が……」

気合だの根性だのそうしたスポ根の理屈は本来私のような人間には無縁な物だと言う事は理解しているのだが、案外ほんの少し頑張ってみれば多少の無茶は通るものである。
筋肉や関節の痛みを無視して無理やり上半身を起してみると、もう起き上がる気力など残されてはいないだろうと思われていた私の身体は、それほど多くの苦痛を伴うことなく、思いの外すんなりと起き上がってくれた。
だが、それはあくまでも先ほどの戦いに身を置いていた自分と比較してのこと。
戦いの余波が未だ残留するこの身体は想像の範疇無いではあるものの、結構な苦痛や疲労を伴っていた。

上半身を起した瞬間、頭からサーッと血の気が引き、その所為で頭の内側から鈍い痛みが眩暈と共に押し寄せてくる。
無論、私は堪らず反射的に額を片手で押さえたものの、ズキズキと響き渡るその疼きはその程度の事では収まってくれはしない。
加えて、頭痛から生まれた眩暈の余波は聴覚にまで飛び火し、今度は遅れたように耳鳴りが鼓膜を劈いてくる。
まったく持って最悪の目覚めだ。
私は寝起きにしてあまりの気分の悪さに顔を顰め、そんな状態に合わせるように相応の愚痴を胸の内に募らせていくのだった。

とは言え、何時までも現状を悲観していても何も始まりはしない。
次第にネガティブな形相を帯びていく自分の心情に私はそんな風な思いを重ねて区切りを作り、自分の意識をほんの少しだけ前向きな物に塗り替え、更新する。
今自分に必要なのは現状の把握と、この事態に対する対処の算段……そして、あの闘争の結末を知る事だ。
現状私の身体は確認出来る限りではまだバリアジャケットに包まれたままではあるものの、胸の辺りに装着されていたジュエルシードをはめ込んだ金属パーツは取り外されている事が見て取れた。
更に不意に肌寒さを感じて肩口を軽く指先でなぞって見ると、其処には気絶する直前まで装着されていた筈の上着に当たる部分や外套がなくなってもいることが分かった。
つまる所、今の自分の格好は外装が取り払われたバリアジャケット─────単純に言えば、四肢の部分が取り張られた漆黒のボディスーツを身の纏っているような身姿だった。

一体誰が何の目的でバリアジャケットの外装を取り外したのだろう。
私は頭の片隅で「と言うよりもアレは私の任意以外で取り外せる物なのだろうか?」と少しだけ場違いな疑問を感じつつも、ボディスーツから覗く四肢に刻まれた古傷を二度、三度と撫でて冷えた身体に人肌の温もりを取り戻させる。
もう春も中頃まで差し掛かっている時期とは言えど、夜になれば暖房が恋しくなる程度には辺りも冷え込む。
ましてこんなような格好でこんな碌に温度調整も出来ていそうに無い所に長らく放置されれば、身体が冷え込まない方が嘘と言う物だろう。
私は疲れと寒さで疼く古傷を今この時だけは忌々しく感じながらも、ともかく暖を取らなければと必死になって露出した四肢を掌で擦っていく。
あまり長いこと身体を冷やしていると反応も鈍るし、血の巡りも悪くなる。
このような環境で尾を引くような身体の状態のままでいるのは得策ではない。
そう判断したが故の行動だった。

五分、十分と同じような作業を繰り返していく内に次第に私の身体に温もりが戻っていく。
過去の諸々から多少の寒さには慣れているつもりではいたが、流石に今のような体調のままではそれもただの強がりでしかないと私もこの時改めて思い知らされた。
体温が低いとそれだけ思考は鈍るし、意識も濁る。
今まではあまり意識してそう感じては来なかったが、手元に見慣れた戦斧の姿が無く、尚且つ腰のベルトに挿してあった筈の拳銃も取り上げられている状況では、流石の私もそう感じざるを得なかったのだ。
とりあえず四肢に拘束の跡が無いことや辺りに見張りがいないことから軟禁されている訳ではないとは思うのだが……何れにしても不気味な事この上ない事には違いない。
そして、そうした不安な感情は次第に心の中に蔓延して行き、最終的には自壊すら引き起こしてしまいかねない方向に意識を持って行かれかねないのだ。
今の現状で恐怖や怯えから混乱に陥るのは非情に拙い。
それが分かっているからこそ、今はこの状況を客観視して捉え、自分の感情を押し殺す他ないのだ。
私は心の中で幾度となく「大丈夫。大丈夫」と自分に言い聞かせ、自身を取り巻くこの不可解な現状に様々な疑心を抱きながらも、その傍らで自分が此処に回収された後、果たして鳥獣に憑いていたジュエルシードはどうなったのだろうかという事に思いを廻らせていく。

此処でこうして私が生きている以上何はともあれ鳥獣を斃すことは出来たようだが、あの後ジュエルシードを無事回収出来たかどうかは別問題だ。
あれは適切に封印処理をするか、私のように真なる渇望を内包させて正しく願いを叶えさせてやるほか制御のしようが無い。
つまり、あのままジュエルシードを放置したままでいたならば、必然的に第二、第三と被害が拡大してしまう恐れが出てきてしまうという事になる。
そうした不安を解消する為にもまずはジュエルシードを─────引いてはその主人格たるアリシアを探し出して話を聞くのが得策だろう。
私はとりあえず辺りを見回し、自身の体を撫でる肌寒さに意識を裂きつつも、自身が今いる場所の情報を集めると同時に目線で自身のジュエルシードの在りかを探しながら、心の内でそう判断を下すのだった。

「此処は……マンション、なのかな? 随分みたいだけど広いけど……。でもなんと言うか、まぁ……薄汚れちゃってるね……この部屋」

窓から差し込む明かりを頼りにざっと部屋の内部を見渡してみると、其処は私が洩らした感想に違わぬ、お世辞にも綺麗とは言いがたい一室であった。
部屋の大きさは大体20畳ほど。
賃貸住宅であろう筈なのに、何故か二階部分がある事を付け加えて考えれば、何時も私がお邪魔させて貰っている先生のマンションの一室よりも優に倍近くは広いと言うことが出来た。
私はあまりその手の住宅情報には詳しくないから何とも言えないけれど、見た感じそれ位の広さの一室なのだろう事は何となく想像がついた。
しかし、反面その大きさとは比例してその内部はもう長らく放置されていたのか、どうにも宙に漂う空気は埃っぽく、また白と黒のタイルが交互に敷き詰められた床には所々に点々と何かの染みのようなものがこびり付いているような有様だった。
自分の部屋もあまり片付いていない手前、私も他人の家の手入れをとやかく口に出来る立場ではない事は分かっているが、「もう少しちゃんと掃除した方がいいんじゃないの?」と思わざるを得なかった。
尤も、普通に考えれば長らく人の出入りが無かったという風に捉えるのが妥当な所なのであろうが……。

まぁ、何はともあれ今はとっととジュエルシードを見つけるのが先決であろう。
観察すれば観察するほど不安が掻き立てられていく現在の状況に、私は自身の胸に落ちた一抹の不安が次第にネガティブな方へと流れつつある事を感じながらも、必死になってそれ等の感情を押し殺し、本来自分が何をしなければいけないのかと自分自身に言い聞かせて平常心を保たせていく。
確かに行き成り自分の知らない場所で目が覚めれば私だって怖いことは怖いが、アルハザードでの前例を考えればそれほど理解し難い状況という訳でもない。
それに怪奇現象というだけなら今まで嫌って程私は噛み締めてきたのだ。
この程度の事では今更驚きもしないし、そもそも魔法という得体の知れない代物に触れてしまった時点で人としての常識の枠に当て嵌めて考える事の方が間違いというものだろう。
私は嘗ての自分と今の自分との状況の認識や物の見方が大分異なってしまっているということにほんの少し呆れを感じながらも、より詳しく内部を捜索する為になけなしの体力と気力を振り絞って自分が寝そべっている場所から起き上がるのであった。

「くっ、づぁ……ッ! ったく、随分とガタがきちゃってるみたいだね……私の……うっ、ぐぁォ……身体も……。まっ、まぁ……ぐぅッ!? ッ……生きてただけ、まだマシな方なのかもしれないけどさ……」

関節の痛みか神経の痛みか、或いは単純に筋肉痛なだけなのかは定かではないが、ともかく全身を迸る鈍い痛みに私は思わず苦悶の声を混じらせながらも、改めて言葉に出して自分が生きているのだという事を胸の内に刻み込む。
死して屍を拾う物なしとはよく言ったものだが、こうして回収されて痛みを感じる事が出来る以上、私は幸いにもその言葉の礎にはならずに済む事が出来た。
きっとあの場でむざむざ殺されていようものなら、此処でこうして悪態をつく事も叶いはしなかった事であろう。
その事を考えれば……あぁ、まったく癪な話だが私はどうにも運が良い。
寧ろ、幸運と評しても何ら差し支えは無いだろう。
何せ、一度の戦いで二度も三度も死に掛けたというのにまだこうしてくたばってはいないのだから。
悪運が強いにも程があるというものだ。
それこそ、いっそ自分で自分の事を呆れちゃうくらいには……。

とは言え、痛いのと痛くないの、どっちが良いかと問われれば、そりゃあ勿論私だって後者な訳で……正直今の状況は私もかなり堪えていた。
まぁ、当たり前の話と言えば当たり前の話だ。
私は別段マゾヒズムに浸って悦を感じるような変態でもなければ、それに準じた特殊な趣向も性癖も一切持ち合わせてはいないのだから。
私自身、己が真っ当でない人種の人間である事くらいは理解しているが、それでも譲れない一線くらいはちゃんと存在しているのだ。
そしてまだ私は其処を辛じではあるものの、踏み越えてはいない。
つまる所何が言いたいのかと言えば……今の私はもはやまともにその場に立っていられないくらい、憔悴し切っていたという事だ。
生憎と私はそんな現状を目の当たりにして、この上更に自分に鞭を打てるほどの鋼鉄の魂は持ち合わせが無い。
当然その場にふらついて、膝を突く位のことはあっても何らおかしいことではないだろう。

だが、それでも私は何とか体制を建て直し、自分がそれまで横たわっていたもの─────大人二人が優に腰を落ち着けられるだけの大きさを誇る革張りのソファーの背もたれの部分に手を掛けて支え代わりにしながらも、一歩一歩と着実に歩みを進めていく。
目の前には美容室などに置いてありそうな大きな照明装置が一つ。
そして、ふと横目を窓側に向けてみれば其処には前面ガラス張りになった壁から覗く壮大な夜景が一望していることを確認出来た。
どうやら此処は街全体を見下ろす事が出来るくらいの高層住宅の一室らしい。
私は心の中で改めて自分がとんでもなく場違いな所にいるのではないかと思いつつも、その夜景の光で鈍色に光る照明装置の元までふらふらと歩み寄り、手探りでそれを操作して当たりに明かりを灯していく。

確かに前面ガラス張りになった壁から入ってくる光は夜にしては明るく部屋の中を照らしてくれてはいたものの、ジュエルシードのような小さな物を探すには少々心許無い。
加えて、外の光が差し込んでいる部分は明るくはあるものの、奥の方はその光が十分に行き届いておらず、見た感じ真っ暗なままだ。
そんな場所を外の明かりだけを頼りに歩き回るのは護身などの観点から考えても愚策以外の何物でもないだろう。
とは言え、今の私は銃もバルディッシュも身につけてはいない様だから、どの道人がいたら護身もへったくれも無いのだけれど……。
私は心の内で何処か徹底しきれていない自分の甘さに呆れながらも、覚束ない手つきで照明装置の台座部分にあるボタンを押してあまり眩しくない程度に光を調節しつつ、改めて明かりのついた部屋の中をざっと見回してみるのだった。

「いざ明かりはつけてみたものの……本当に此処は何処なんだろ? もう大分夜も更けちゃってるし、あんまり帰るのが遅くなるのは嫌なんだけどなぁ……。って、そんなこと暢気に言ってられる場合でもないよね……今は」

どうにも未だ平和ボケした部分の意識がチラついてしまう自分の思考に私は一体何処まで自分という奴は危機意識が薄いんだと溜息を漏らしそうになりながらも、今更言っていてもどうしようもないとそれ等の心配をばっさりと切り捨てて、先ほどまで暗がりになっていた場所の方へと意識を向けていく。
私が身に纏っているバリアジャケットが解除されていない以上、バルディッシュはこの部屋の何処かに……それもそう遠くない場所に置かれていると見てまず間違いは無い。
ならば、恐らくジュエルシードも拳銃も同じような所に置かれていると見るのが妥当な推察というものだろう。
私は壁に手を突きつつも、何とか身体の体制を維持しながら、そんな風な考えを元に光に照らされた奥の方へとゆっくり足を踏み入れていく。

だが─────数歩ほど歩みを進めたところで、私は徐に足を止める事になった。
気配……そう、明確な人の気配をはっきりと感じ取ったからだ。
誰かがこの先にいる。
殆ど直感の域でその事を理解した私は、急いで硬直した身体を身構えさせ、それまで考察に用いていた思考を一気に戦闘用のものへと昇華させる。
今の私はジュエルシードによる不干渉の加護もバルディッシュによるサポートの恩恵も無い以上、殆ど丸腰であるも同義。
更にその上この身は満身創痍で、恐らくは頑張ってもフォトンスフィアを二、三個形成出来る程度しか魔力も残されてはいないと来ている。
もしも戦闘に陥るような事になれば私が圧倒的に不利になると言わざるを得ないし、勝てる勝てない以前にまともにこの身を動かす事が出来るかどうかも微妙な所だ。
けれど、相手が相手ならばそんな可能性の有無で戦の裁量を決めてなどいられないのだろうし、私自身考えるだけ無意味な事だと十分理解もしている。
やれる、やれないの区分じゃなくて……やるしかないと理解しろ。
私は微妙に痛みと恐怖で鳥肌を立たせて痙攣する自分の身体に何度も何度も強くその事を訴えかけながらも、念のため頭の中でフォトンスフィアの術式を構築し、細心の注意を払いながら更に歩を進めていく。

カツン、カツンと私が歩くたびに足に装着されたプロテクターの靴底が無機質なタイルを踏み鳴らし、乾いた音を部屋一帯に響き渡らせる。
鋼鉄がとタイルが互いに擦れ合う音が鼓膜を打ち振るい、口元から漏れる微かな吐息が白い靄を孕んで宙に解けていく。
なんと不気味な事か……私の胸に抱かれたそんな思いは、次第にそれ等の要素を孕んで焦りを生み出し始める。
相手からの反応はない。
確かに此方に近付いてきているということは分かるのだが、その感覚からは善意も悪意も読み取る事が出来ないのだ。
ただただ無機質に─────まるで幽霊の如く、足音の無い足取りで此方に向かってくるそれは……もはや今の私にとっては恐怖以外の何物でもない。
故に焦り、故に怯える。
自分の理解の範疇外に位置する事柄が迫っていると言う現実に、私は自身が引き起こした事柄さえもまともに捉える事が叶わなくなってしまっているのだ。

じわりと額に一筋の脂汗が滲み垂れる。
冷静にならねばならないという事は分かっているのに、冷静になれと自分に言い聞かせようとすればするほど自身の内から心の余裕が簒奪され、言いようの無い恐怖が胸の内で募って行く。
まずい……不意に私は頭の片隅でそう思った。
何を指して“まずい”のかは私にも分からないが、そう思わざるを得なかったのだ。
得体の知れ無い物を目の当たりにしているという恐怖に対してなのか。
そんなものと対峙している自分が余裕を失い掛けていることに対してなのか。
そもそもこんな場所に連れて来られている現状その物に対してなのか。
或いは……その総てに対してなのか。
分からないし、今更分からなくってもどうでもいい。
ただ私の向かっている方向に誰かがいて、その誰かも私の方へと向かってきているという現実が其処にあるだけで、もうそれ以上は語るべくも無いのだ。
流石にそろそろ覚悟を決めた方がいいのかもしれない。
私は頭の片隅で最悪の事態を想定し、それに対応する心構えを胸の内に刻みつけながらも、その“誰か”がいるであろう照明の光が届かず、薄暗がりになっている処へと足を止めて徐に問いを投げ掛けてみるのだった。

「其処にいるのは誰ですか……? この声が聞えているのなら姿を見せてください」

返答は……ない。
沈黙だけが流れ、物言わぬ静寂がその場一帯を制圧し、支配する。
肯定も無ければ否定も無く、また悪意もなければ善意もない。
ただその場に私とその“誰か”が存在すると言う事実だけがその場に残り、互いにその場に留まったまま互いの時を止めてしまっているのだ。
一体何なのだろう。
私は頭の中に浮かぶフォトンランサーの術式に更に意識を裂きながらも、その傍らで暗闇の向こう側にいる人物について少しだけ思考する。
薄暗がりの向こうにいるのが彼であるのか彼女であるのかなんて事は知ったことではないが、その意図はどうであれ私がこうして勝手に動き回っているという現状は好ましくは無いはずだ。
ならば何故、その人物は私なんかとこうして見えないところで相対なんてしているのだろう。
分からない、解らない、判らない……。
凡そ、理解の範疇の外にある事柄であるからこそ、私は相手の意図を読み取る事が叶わないのだ。

一体、私を焦らして何になると言うのか。
次第に胸の内に蔓延る不安が苛々へと変換されていく中、私は不意にそんな言葉を孕んで自身の気持ちが先走ろうとしているのを感じていた。
此処で焦ってもどうにもならない。
だけど、相手の意図がまったく分からないというこの現状が冷静である事を許してくれないのだ。
悪意のあるものならば何故こうまで私を泳がせるのか。
善意のあるものならば何故私が目覚めて動き回っている事に反応を示さないのか。
どちらも洞察する事は叶わないし、そもそも暗闇の向こうで佇むその人物がどちらの感情を持っているのかも窺い知る事は出来ないのだから判断のし様が無い。
それ故に私にはどうしようもなかったのだ。
ただこの胸の内に蔓延る感情に身を任せる他、どうとも反応する事は叶わなかったのだ……。

「聞えていませんか? だったらもう一度言います。お願いですから姿を見せてください。さもなくばァッ─────」

瞬間、私の前方に桜の色の球体が顕現し、薄暗がりの方向へと狙いを定めて飛び回る。
フォトンスフィア─────魔力が殆ど空である現状、その数は一つと少ないが、それでも人一人くらいは優に殺してしまえるだけの威力を誇る射撃魔法の媒体だ。
私が念じればその身は一瞬にして鏃へと変わり、間髪いれずに数多の悪意を孕んで部屋の一角ごとその人物を粉々にしてしまう事だって不可能ではない。
だが、それは同時に私の切り札でもあり─────そして、ただ一発の生命線でも在ったのだ。
本来このような駆け引きの場で武力を行使しようとした人間は確実に身を滅ぼす。
何故ならばそれは冷静さという点において交渉相手に負けているという事であり、更に言えば相手に自身の実力を示さなければ相手を打ち負かす事が出来ないと暗に語ってしまうような物なのだから。
故にこの現状、先に感情的な行動を取ってしまった私はその道理に従っているも同じ。
もはや冷静もへったくれも無く……ただ他者に悪意を振り向いて牙を剥く事しか出来ない獣へと成り下がったのだ。

ギリギリと歯と歯が擦れ合い、鋭い犬歯が私の口元から露出する。
それは明確なる怒りと焦りの象徴。
感情に訴え、相手を威嚇する事しか叶わなくなった私の最後の強がりだ。
ご大層に相手を威嚇なんかしてはいるものの、その実私の内心は未知なる物への恐怖に塗れ、其処から来る怯えに震えて縮こまってしまっている。
その様はさながら虎の身姿を借りる兎のそれだ。
どれだけ見せかけの強さを誇示しようともその本質が脆弱な物である事には変わりは無い。
にも拘らず、自身が恐れ慄いているという現実を直視したくないが故に私は我武者羅に己の力を振るってしまっているのだ。
内心はもう今すぐにでも泣き出したいくらい怯え竦んでしまっているというのに、だ。
何たる低落、何たる有様か……。
無様にも程がある。
と言うか、もはやB級映画に出てくる三下の悪役にも劣る所業であろう。
こんな半ば嗚咽を零しそうな気持ちになりながら悪意を振りまいているなんて無様な行いは……。

「はやくっ……してくださいよ……。でないと、本当に撃っちゃいますよ……? 冗談とか、ジョークで済む話じゃないんです。私は……本気っ、本気なんですよ? だからほら、何とか言ったらどうなんですか!」

瞬間、私の口元から悲痛な感覚を帯びた叫びが漏れ出した。
限界だった……もはや、現状その一言に尽きるだろう。
知らない間に衝動に掻き立てられた挙句、訳分かんない化け物と殺しあって生き延びて……そして目覚めてみたら何処とも知れないような部屋の中に独り放りこまれて放置プレイ決め込まれる。
そんな状況下でまともな精神を保っていられる人間が居よう筈が無い。
そして、その例に漏れず、私の精神も“まとも”の臨界点を超えてしまったという事だ。
別段珍しい事でもなんでもない。
自身を取り巻く異常さや不気味さに耐え切れず、おかしい怖いと呟きながら泣き出す子供がこの場にも生まれてしまっただけ。
闘争心や狂心という鍍金が剥がれ落ちた九歳の女の子が一人、獣から少女へと精神を回帰させただけに過ぎないのだ。

私自身、自分がまだこんな感情を普通に抱けている事に半ば驚いてはいる。
これではまるで何処にでもいるような凡庸な子供のそれでは無いか─────そう思わずにはいられなかった。
今まで私は人智を超えた化け物に相対しようと、その化け物と殺し合おうと一切恐怖という物は感じては来なかった。
その所為で命を奪われかける事があっても……血が一杯出て、どれだけ怪我を重ねても怯える事一つしなかった。
ただ私が怯えていたのは他者からの悪意と廃絶。
自身を取り巻く人間達が揃いも揃って私を責め立て、それが寝ても覚めても私の背中を追い回してくるという現実に私は恐怖を抱き続けていたのだ。
それだけが私が恐れていた唯一の情念。
他者からの害意こそが私の心を蝕む唯一無二の存在であった筈なのだ。

それが……そんな私が、これは一体どういうことだ。
別に誰かから陰口を叩かれているという訳でもない。
冷たい地面に蹴り転がされている訳でもなければ、信頼していた人間から裏切られたと言う訳でも決して無い。
なのにどうして……ただ自分の理解が及ばない物が目の前にいるというだけで、私は何で此処まで自分を見失って、見っとも無く取り乱してしまっていると言うのだ。
分からない……分かりたくも無い……。
こんな……こんな今までの自分の在り方を根こそぎ否定するかのように、ボロボロと涙を流して恐怖する自分なんかを一体どうして認められようか。
けれど、そんな気持ちとは裏腹に私の目元から伝う涙は止め処無く流れ落ち、喉元は度々起こる嗚咽に振るえ、正常に呼吸をする事も叶わない。
まるでお化け屋敷の真ん中に一人放置された幼子がそう有る様に、私も理屈では測れない畏怖に怯え、意識とは別のところで感情を支配されてしまっている。
つまる所、今の私は……ただ何処にでもいる凡庸な子供のソレに何ら違いはなくなってしまっているという事だ。

「なんとか……言ってよ……っ。ねぇ、其処にいるんでしょう? だったらどうして─────」

私の事を無視するの?
そんな言葉が頭の中を過ぎった刹那、私はようやく自身が何に怯えているのかという事を理解した。
そう……私はこの場に蔓延る“どうしようもない既知感”に怯えていたのだ。
何時か見た昔日の日─────それが何時だったのか、なんていうのはもう思い出すことは叶わないけれど……私はこれと同じ状況を良く見知っている。
五年前か、四年前か、三年前か……それとも、もっと最近起こった出来事なのか。
分からない……だけど私は知っている。
目の前に誰かが居て、そして呼びかけているのに……誰も私の事を見向きもしないという思い出したくも無い場景を。
そして私は、その場景の“影”に怯えてしまっているのだ。
だってあまりにも似すぎているから。
自分が過して来た数多の日に起こった裏切りのソレにこの場景は驚くほど似過ぎてしまっているから……。

請い訴えてもその声は誰にも届かず、私の方なんか誰一人として見向きすらしてくれない。
何時だって同じだった。
助けを求めた訴えも。
私を見てと希った祈りも。
独りぼっちは嫌だとすすり泣いた絶望も。
皆、みんな同じ……。
誰も彼も渡しに害意を向けるばかりで、その本質に触れようとすらしてくれない。
だからこそ私はそれ等を忌避し、遠ざけた。
もう傷付きたくなかったから。
もうこれ以上傷付くのが嫌だったから……。
私は……誰かから触れられる事を拒絶した……。
けれど、その本質は結局昔のまま何一つとして変ってはいなかったのだ。
昔日のかの日のまま……ただ独りの凡庸な少女としての”高町なのは“のまま……何一つとして。

瞬間、私は両膝をついてその場に崩れ落ちた。
宙を舞っていたフォトンスフィアが粒となって辺りに四散し、パラパラと光の粒子が私の身体に降り注いでいく。
もうこんな感情を抱えたままでは今までの私を保つ事は出来ない。
そんな想いが、深層意識の段階で働いた所為なのだろう。
戦意を喪失し、己の恐怖を自覚した私の身体は本当に呆気な崩れ去ってしまったのだ。
獣から少女へと、その心を回帰させてしまったが故に。
先ほどまでの威勢も消え失せた私は、もはやただの非力な一女児に過ぎなかった。
ただの……独りぼっちの女の子である“高町なのは”に……。

「大丈夫だよ……」

「……ぇ?」

刹那、私は思わず素っ頓狂な声をあげた。
不意に何かに……凄く温かくて軟らかい“何か”に身体を抱きしめられたからだ。
耳に響くのは鈴の音のように凛と響く少女の声。
聞き覚えのある……共に信頼し、親愛し合う“彼女”の声だ。
そして、この身を抱くのは若い白木のような色白くも温かい二本の細い腕。
本来この世界にあるはずの無い小さな彼女の温もりが、私の身体を絡めて交差し、私の冷え切った身体に人肌の温もりを伝えてくるのだ。
ありえない……私は今にも何かの衝動に塗り潰されそうな意識の片隅で、不意にそう思った。
だって……だって、そうだろう。
彼女がこの世界に……私が生きるこの現実に居る筈が無い。
それはもはや語るべくも無いことだ。
今更確かめる必要も無いはずだし、現に彼女は今まで一度だってあの幻想の世界以外で私の前に姿を現しはしなかった。
それが現実……それが真実である筈なのだ。

では、一体誰が私の身体を抱きしめているというのだろう。
ありえないと断じる傍らで、私の胸の内から溢れ出してくる衝動はそんな疑問を孕んで私の意識を燻っていく。
先ほどまであった気配は……もう、ない。
私の事を抱きしめる彼女と、そんな彼女に抱きしめられる私以外、もう此処には誰も居なかった。
この広い部屋に立った二人だけ……もうそれ以外は立ち入る隙も、狭間もない。
私が此処にいて、彼女が今“此処”にいる。
普通だったらなんてことは無い当たり前の事柄だが、そもそも存在の定義自体が異なっているというのが私達という存在だ。
もうこうなったら視認して確かめる他ない。
私は嗚咽が漏れそうになる衝動を何とか抑制し、私の身体を抱きしめている彼女の方へと視線を向けながら、ゆっくりと自身の思ったことを口に出していくのだった。

「どう……し、て……?」

「大丈夫。もう……大丈夫だから……。だから今はもう、何も言わないで」

私が呟いた疑問の声に、彼女はそう語りかけてくれた。
優しい声で……まるで遠き日の母の様な自愛に満ちた優しい声で……。
間違いは無かった。
もはや疑いようも無ければ、否定のし様も無い。
此処にいるのは紛れも無く“彼女”だった。
流れるようなプラチナブロンドの髪。
紅榴石色の潤んだ双眸。
そして誤って強く抱きしめてしまえばそのまま砕けてしまうのではないかと思わせる華奢で、小柄な身体。
どの要素のどれを取ったってそうだ。
彼女は彼女……本来この世界にいるはずの無い、幻のような儚さを帯びた少女に他ならなかった。

「なにも……言わないで……」

そして彼女はもう一度、私に懇願するかのような弱々しい声色で私に対してそう呟き、私の身体を抱きしめる力を強くする。
もう離さない……彼女の非力ながらも必死で私の身体を抱きしめているその力は暗にそう語りかけているかのように私には思えた。
だから私は、彼女に言われるがまま、もうそれ以上何も口にする事はなかった。
どうして貴女が此処にいるのとか、一体此処は何処なのとか、何で直出てきてくれなかったのとか言いたい事は山ほどあったけど……もう私は何も言わなかった。
その代わり、私は強く……強く彼女の身体を抱きしめ返した。
どうしてなのか、なんていうような理屈はもうどうでもいい。
素直に言ってしまおう。
私は……寂しかったのだ……それこそ、もうどうしようもないくらいに……。
だから、彼女が此処にいてくれて私は嬉しかったのだ。
アリシア・テスタロッサが私の傍に居てくれているっていう、その現実が……。
瞬間、私の涙に内包されていた意味が恐怖から安堵に変わっていくのを私は感じた。









[15606] 第二十八話「捨て猫、二人なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:b3765b7d
Date: 2011/02/08 17:40
暗く、暗い部屋の中。
窓辺から零れ落ちる数多の灯火と頼りなく輝く照明の光に照らされるだけの無機質で寂しげな部屋の中、私は独りの小さな少女と互いの温もりを共有し合うかのように身を寄せ合いながらソファーに腰を落ち着けていた。
私が目覚めてから……いや、私が再びこの場所で彼女と再会してからもう数時間ほどは経過しただろうか。
私と彼女はお互い必要以上の言葉を掛け合う事もせぬまま、ただ淡々とお互いの事情を─────って言っても聞いているのは殆ど私なんだけど、とりあえず互いが疑問と感じていた事についての問答を続けていた。
お互い目も合わせずに……だけど確かに、隣にお互いが認識合いあう“彼女”の存在が居るのだという事を肌を通して伝わってくる温もりを持って確かめ合いながら。
私はただ短調に……緩やかに流れていく優しい刻を享受しながら、彼女との時間を共有していく。

私の心が落ち着いた後の問答を通して分かった事は幾つもある。
恐らく私が疑問に思っていたことの大半には答えを求める事が出来たのではないだろうか。
とは言え、未だによく分かっていない自分と納得しきれていない自分が半々で己に内に居る事は否めないんだけど……少なくとも必要最低限の情報は入手出来たのだと思う。
何せ私が泣き止んでからというもの、私も彼女も本当にただずっと互いに寄り添いあったまま黙りこくったままでいたのだ。
お互い口数は少なく、掛け合う言葉も極僅かだったけれど……お互いの言葉のニュアンスから言葉以上のものを感じることが出来た。
目は口ほどにものを言うって諺に追従する訳ではないけど、何となく言葉に含まれた雰囲気からお互いの心境を読み合って、理解を重ねてきたのだ。
だから私も彼女もお互い言いたい事はいっぱいあるんだって事は理解している、と私は思っている。
こんな物はあくまでも推測でしかないのだけど、多分一度感情が爆発すれば目の前の小さな彼女は怒涛のように私へと質問を重ねてくるであろう事は想像に難くなかったからだ。
故に私は彼女が口にした最低限の事以外は質問を重ねる事をしなかった。
だって、そう……お互い口にしなくても伝わる事って言うのはきっとある筈だから。

彼女から聞いて分かった事の一つは何故私がこの場所にいるかということ。
これは私が鳥獣と闘った後、あのジュエルシードがどうなったかという事と合わせて前後の事情を窺い知る事が出来た。
私が最後の攻撃を鳥獣に加えて気絶した後、アリシアは直にバルディッシュに対してセカンド・オーナーの権限を行使してジュエルシードを封印させたらしい。
結果、ものの見事にジュエルシードは力を失い、鳥獣も倒せたらしいのだが─────彼女の話では此処からが大変だったという事らしい。
バルディッシュの収納機能でジュエルシードを回収した後、アリシアは直に気絶している私へと必死で呼びかけを行ったらしい。
だが、生憎と肉体の疲労や魔力の使い過ぎ、そして回復魔法を行使したとは言えど二度も三度も死に掛けたことで衰弱した私は一向に目を覚ましてくれず、仕方無しに彼女は空間転移と呼ばれる特殊な魔法を用いて私をこの部屋に運び入れたという事だった。

そして、その後の治療で私の身体をくまなく検査してくれたらしいのだが……彼女曰く「これでなんで死ななかったかが分からないような有様」だったそうだ。
具体的な症状に関してはちょっと怖かったから聞かなかったけど、殆どこの世で出来ないことなんか無いとすら豪語する彼女にすらそう言われてしまうのだから、回収された後の私は相当酷かったのだろう。
それをよくあんな風に無茶して動けるくらいまで回復出来たものだ。
自分の事とは言えど、ちょっと俄かには信じがたい事だった為、私も最初はそんな風に思っていたのだが……よくよく考えればとんでもなく恐ろしい事だ。
何せ今の私がこうして生きていられるのは彼女という奇跡が私の傍で共に在ってくれたからこそだ。
もしも彼女が共に居てくれなかったら、と思うと流石に背筋が寒くなるという物だ。
本当に彼女には感謝しても仕切れない。
私は彼女から聞かされる自分の身の上を聞いて改めて今の自分が生きている事と、彼女という名の奇跡が在ってくれたことに心からそう思った。

そして分かった事の二つ目はそんな私が運び込まれたこの部屋は一体何処なのか、ということ。
これに関しては私も結構気に掛けていて、もしも街の外に出ちゃったとかだったら嫌だな、とは思って止まなかったのだけれど……どうやら彼女の話を聞くに、この部屋は私が暮らしている街こと海鳴市の一角にある高級マンションの一角であり、どうやら私の心配しているような事は無いとのことだった。
とは言え、この部屋の家主は誰なのだろうとか、そもそも勝手にお邪魔してしまっても良い物なのだろうか、というような疑問は未だ消化出来ていないのだが……それでも私はそれ以上深く追求する事はしなかった。
沈痛そうな表情のまま俯く今の彼女に根掘り葉掘りと彼是尋ねるのはあまり良い事だとは思えない、そう考えたからだ。

この部屋の話題をアリシアへと振った時、彼女はなにやら思い詰めた表情のまま「気にしないで」とだけ私に言って、それ以上はこの部屋の事に関して何一つ言葉を続ける事は無かった。
それはまるで暗に私に「聞かないで」とも言っているようで、反面「この話はあまりしたくはない」とも受け取る事が出来るような曖昧な言い回しだった。
当然私もそんな彼女の説得だけで完全に納得し切れる訳が無いし、下手をすればこれは家宅侵入という立派な犯罪になってしまうかもしれないという事を考えると「はい、そうですか」と簡単に無視出来る話ではなかった。
なかったのだが─────結局、私は何も言いはしなかった。
いや、言い出すことが出来なかったと言った方が適当だろうか。
まぁ、何にせよ物言いとしては同じ意味合いになってしまうのだけど……なんと言うか、ぽつりぽつりと語るアリシアの姿が私にはどうしようもないくらい痛々しげに見えてしまい、故に私は口を噤んだのだ。

彼女には彼女なりの事情と経緯があり、何れにせよ私は彼女に此処に運ばれて治療を受けたからこそ今この時を生きる事が叶っている。
その真実を曲げてまで真相を突き止めようとする資格なんて私には無い。
あるはず無いのだから……私は彼女を信じ、そして空気を読んだ。
私も彼女も色々と特殊な所はあれどその根本に在るのは人間の心であり、其処を燻るのはやはり世俗の情だ。
アリシアにだって離したくない事の一つや二つあって然るべきだろうし、無論私だって同じことだ。
自分がされて嫌な事を、他人に施す事なかれ。
もしも私がアリシアの立場にいて、誰かに自分が追求して欲しくないことを喋るように強要してきたらやはり良い気分にはなりはしなかっただろう。
それが例え幾ら親しい人であろうとも……いや、寧ろ親しい人であるからこそ尚更踏み込んで欲しくないと考えるのが自然な事だろうか。
まぁ、どちらにせよアリシアの心境もそんな理屈に追従する物であるのだろう事は想像に難くないし、それによって彼女が被るであろう心の傷を鑑みれば自画自賛ではあるのだが、やはり私の判断は正しかったという他なかった。
故に今も此処が誰の部屋で、どんな人が住んでいたのかは謎のまま……けれど海鳴市の内部に存在するということが分かっただけでも行幸であるといえるだろう。

そして三つ目に分かったのが今の私の格好と銃やバルディッシュ、ジュエルシードなどの在りかについて。
まぁ、これに関しては特になんて事は無い。
後者の代物に関しては総じて全部アリシアが持ち運び、管理していた─────ただそれだけの事だ。
しかし、アリシアによるとバルディッシュは無茶な使い方をした所為で所々が傷んでしまったらしく今はアルハザードにて整備中との事だし、あのクロームシルバーの銃に関しても分解整備が必要であるとの事で今はアリシアの手によって幾つかの部品に分解され、新聞紙を引いた机の上で冷たい光沢を煌かせている。
どちらも整備が終わるまでは使い物にならない、それが彼女からの率直なお達しだった。

そして、それは勿論のことジュエルシードに関しても同様のことが言えると彼女は私に話してくれた。
何でも鳥獣との戦いの最中、能力を極限まで引き出そうとした事で私の能力に対応しているジュエルシードが暴走を起しそうになってしまい、今はそれを抑える為に術式を新たにジュエルシードに組み込まねばならなくなってしまった為、こちらもしばらくは使用を控えて欲しいとのことだった。
つまり最終的に私が感想を述べるのであれば……もはや現状、私はまた牙や爪を削がれてしまったのだという事だ。
闘うたびに無茶をして、その結果が身体にも武器にも明確に現れてしまっている。
なんと言うか……もう情けないやら、遣る瀬無いやらで私は申し訳ない気持ちでいっぱいにならざるを得ない私なのだった。

加えて、前者について……まぁ、簡単に言えば私の今の格好の事なのだが、何でもこれはアリシアが治療の為に一部の外装を取り外した結果であり、尚且つこの露出度の高い状態の物も歴としたバリアジャケットの形態の一つであるとのことだった。
名前は真ソニックフォーム。
何でも彼女の話では通常のバリアジャケットの形態が防御に特化されたものであるならば、この形態はそれ等の防御を度外視し、戦闘中にどれだけ自身を加速させるのかという事をコンセプトに所謂戦闘速度を極限まで高める為の物であるらしい。
とは言え、この形態に関しては私の戦闘スタイルも相まってかアリシアもあまり手は加えていないようで、所々には未だ未完成な部分も多く、今はまだあまり実戦に投入出来るような具合ではないとの事だった。

まぁ、私としてはこんなちょっと足を開いたら角度の違いで恥ずかしい所が見えちゃいそうな服を着て戦闘をするのはどちらかと言えば遠慮したい気もするし、実戦面においても戦闘速度が向上してくれる事は非情にありがたいが、今の状態ですら防御が間に合っていないというのにこれ以上防御の面が削がれてしまってはもはや今度こそ暴走体に息の根を止められかねない。
だから、出来ることならもうちょっと改善が欲しい所なんだけど……そこら辺のことは今語るべきことでは無いだろうと思って私も口を紡ぐ事にした。
ちなみに私はそうした考えの片隅で「この格好のどこら辺が真なんだろ?」とちょっと野暮ったい疑問も抱えていたりしていたのだが、こちらもあまり言うべき事ではないだろうと思って言わないで置く事に決めた。
尤も、後者の疑問を打ち切った感情の大半は呆れの感情からくるものではあるのだが、皆まで言わないのが華と言うものだろう。

そして最後に残った疑問─────それはアルハザードに存在する彼女が、今この時にそうであるようにこの世界に居るのかという事。
これは先ほどのもの等よりも格段に疑問の念が強く、私も彼女と相対してこうして話し合っている時に一番彼女に聞きたかったことだった。
何時から出来たのとか、どうやってやってるのとか、アルハザードの方は大丈夫なのとか、それこそ聞きたい事は山ほどあった。
だけど彼女はそんな私の疑問に対しても、やはり多くの事は語ってはくれなかった。
いや、結果だけ答えるなら粗方聞きたい事は聞けたし、これと言って今彼女が此処に居る事に深い疑問を抱いているという訳でもないのだが……何というか何時ものアリシアに比べて今のアリシアは口数が少ないから説明の内容が酷く淡白だったのだ。
勿論それで納得出来たか、と問われれば私だってアリシアの特異な身の上は重々承知しているから別段ありえないなどと思いはしなかったのだが……やはり、どこかはっきりとしなかったという事は否む事が出来なかったのだと私は思った。
私は隣に座る彼女から伝わる微かな温もりを肌で感じながらも、未だちょっとだけ彼女の存在が信じられないという気持ちに駆られたまま、彼女が私に言った言葉をもう一度反復し、誰に語る訳でもなく言葉を虚空へと投げるのだった。

「実体のある幻、か。なんというか……言い得て妙だよね、そういうのって」

「……まぁ、そうだね」

「こうして感じる温もりは本物みたいなのにね。これが、その……なんて言うか、プログラムで出来てるなんて未だにちょっと信じられないな。やっぱり凄いんだね、アリシアって」

「そうでもないよ……。確かにこうして実体化まで至るのは大変だったけど、それでもやっぱりこの姿は仮初ものでしかないんだよ。実際、この身体の中身は空っぽだしね……」

私の言葉に反応して自虐的に笑うアリシアの表情は、表情こそ少し微笑んでいるように見えても、彼女の口から紡がれる言葉の節々には痛ましげなニュアンスが見え隠れしているようだった。
そんな彼女の表情を見ながら、私は少しだけ思考する。
そう─────彼女が言う通り、今此処にいる彼女は本当の彼女その物がこの世界に顕現しているという訳ではない。
ジュエルシードを核としての人型自立行動データモジュール。
言わば、実体のあるプログラムであるというのが今此処にいる彼女の正体なのだ。
これはアリシアが自分の口でぽつり、ぽつりと少しずつ私に語って聞かせてくれたことなんだけど、アリシアが予てより言っていた“魔法の国”では今の彼女のように膨大な魔力を核にしてプログラムを恰も生命体であるかのように実体化させる技術というものが存在しているとの事らしい。
そして今の彼女はその技術の応用し、彼女自身の手によって生み出された存在─────と、言ってもまだまだ彼女曰く不完全な物であるとの事なんだけど、詰まる所はアルハザードにいるアリシアがこの世界でも行動が出来るようにする為の技術生命体であるとの事だった。

当然これには私も色々な意味で驚いたし、彼女の語る魔法の国の技術とやらはどれだけ未来的なんだと半ば呆れかけもしたのだが……私が最も疑問に思ったのは何で彼女は突如としてしてこんな技術を持ち出してきたのか、という事だった。
私は今まで彼女から自身を実体化させるなどというような話は全然聞かされていなかったし、そもそも彼女がアルハザードからこの世界に直接出張ってくる理由が全然思いつきもしなかった。
そりゃあ確かに彼女がアルハザードに限らずこの世界での一緒に居てくれるというのならそれはそれで確かに嬉しいとは思うし、単純に彼女という存在がどれだけ凄い物なのかと尊敬と呆れの念を何時ものように溜息と一緒に吐き捨てる事も出来た事だろう。
だが、それはあくまでも私という一個人の感情的な側面から考えた物言いであり、今の私たちを取り巻く状況を鑑みれば単純に何時もの事だと言い切ることは難しいと言えた。
故に私は率直に彼女に問いを投げ掛けた。
なんで突然この世界に現れる術を持ち出してきたのか、と。
どうして今まで私に何も言ってくれなかったのか、と。
一体どうして……直に私の傍に来てくれなかったの、と。
たださり気無く、だけど真剣に私は彼女へとそれ等を問うた。

そして、そんな問答の果てに彼女から返って来たのは─────ただ一言だけの「……ごめんなさい」という謝罪の言葉。
それが果たしてどんな意味を孕んでいるのかは私も窺い知る事は出来なかった。
だけど、それが今の彼女に出来る精一杯の誠意の示し方であるというのは、もはや寸分も考えることなく理解する事が出来た。
私に対して只管に謝る彼女の声は、何か心の其処から沸き立つ感情の振るえ、そして散々泣いた後のように酷く掠れたものだ。
それがどういった感情の表れであったのか、という事はもはや語るべくも無い。
彼女は以前より私が闘い、どんどん生傷を増やしているということに「私の所為だ……」だと強く負い目を感じていたし、私が気にしないでと言っても彼女は頑なにその姿勢を崩そうとはしなかった。
そんな折に今日の様な戦闘、そして私がまた死に掛けるという様な自体が舞い込んできたのである。
元より責任を感じ易い彼女が更に気負ってしまうのは、もう避けようがなかったという他ないだろう。
彼女が私に対して何を想い、何を憂ったのか。
私は彼女の「……ごめんなさい」という一言から、彼女の抱える様々な感情を窺い知ったのだった。

そして、私はそんな総てを理解した上で彼女の隣にいる。
彼女が私を受け止めてくれたように、私も彼女の事を素直に受け止めたのだ。
だって私にとってみれば今の彼女が本物か偽者か、なんていうような事はどうでもよくって……ただアリシア・テスタロッサという人間の意識が垣間見れさえすればもう後の事は何もかも“彼女が傍にいる”いう現実の付属品でしかない。
そういう意識の下で私は彼女に寄り添い、そして傍にいて欲しいと希う。
なんというか……彼女のいると安心するのだ、今の私は。
あれだけ彼女の胸を借りて泣かせて貰ったからなのか、それとも単純に今まで堪りに堪っていた内なる感情が溢れ出てしまったのか。
其処の所は私にもあんまりよく分からないし、考えるだけ杞憂なのだと最初からよく知っている。
理屈なんかじゃ推し量れないのだろう……今の私の胸を揺さ振る、この感情は。
偽りでも建前でも無く、誰かに傍にいて欲しいと心の其処から欲し願う。
そうした感情が今の私と彼女との距離を生め、そして何時も以上に理解し合える架け橋になっているのだろうと私は思った。

「別に、そんな事はどうでもいいよ。アリシアはアリシア。今此処にいる貴女が私にとっての本物だよ。それ以上でもないし、それ以下でもない。信じさせてよ、そういう風にさ……」

「でも、この身体は……」

「言ったでしょ、そんなのはどうでもいいって。実体化するプログラムだとか、データモジュールだとか……そんな難しい事私にはよく分からないもん。ただ今此処に貴女がいるってだけで私は十分。そういう風に……納得しちゃ駄目かな?」

「なのはお姉ちゃん……」

私の名前をぽつりと呟く彼女を他所に、私は彼女の肩口へと手を伸ばして彼女の身体をゆっくりと自分の方へと抱き寄せていく。
伸ばした腕に伝わってくるのは彼女の肌から伝わる仄かな温もりと軟らかい感触。
此処に紛れもなく彼女が居るんだっていう事の確かな証明だった。
そして、私はそれを確かめるように彼女の存在を私の傍に寄せて彼女の存在を感じた。
アリシアからの抵抗は無い。
彼女はただ一言私に抱き寄せられる際に「あっ……」と短い声を漏らしただけで、私に身を差し出すことを拒否する事も無ければ抗議の声をあげることも無かった。
だから、私はただ彼女を……彼女だけの温もりを私の為だけに独占した。
まるで愛し合う恋人がそうするように……初夜を迎えた夫婦が絡み合うように……。
私は、ただ只管に彼女という存在を確かめ、感じ続けた。

何故、私がそうした行為に及んだのかは私自身よく分からない。
彼女が自身の事を「中身が空っぽのプログラム」だとのたまった事が無意識の内に癇に障った所為なのだろうか。
まぁ、考えた所であんまり意味の無いことなのだろうから深くは考えないけれど……きっと私は彼女が形のある幻想なのだと認めたくは無かったのだろう。
あぁ、確かに彼女にはこうして形もあり、人と変わらぬ温もりも感触も持ち合わせてはいる。
口元から漏れる微かな吐息も、抱き寄せる際一瞬だけキョトンとして直に総てを察したように穏やかな顔付きになる彼女の表情も、泣きじゃくっていた私を抱きしめてくれた彼女の腕の感触も……全部が全部“人間”の物と何一つとして変わりは無い。
だけど、彼女は自らの事を幻影であると言った。
何時消えてしまうかも分からない、血の通わぬプログラムが魅せる実体を持つ幻。
それは……私が感じてきた総てを根本から否定する残酷な現実だった。

私は元々虚像とか幻とかそういうものが嫌いな性質の人間だ。
多分昔はそうでもなかったんだろうけど、少なくとも今の自分はその通りであるのだろうと自信を持って自負出来る。
だって、そうした“モノ達”は皆手を伸ばして掴もうとしても、決してこの手に掴むことは叶わないのだから。
それは昔の自分が夢に見た“当たり前の日常”って物とそっくりだ。
其処に姿は見えているのに私はそれに触れないし、届かない。
総ては過去の幻と消え、濁流のように流されては後悔を残して泡と消える。
そうした物が私は嫌いだった。
いや、今の私の心境のような所までくるともはや忌避の域だろう。
私は何も掴めないということその物が嫌いで、そしてその幻を幻としか認識出来ない私自身が大嫌いなのだ。

だから、私は彼女が幻影なんて存在ではないのだと信じたかった。
真実の有無なんてどうだっていい。
ただ此処に消えない幻としての彼女が居れさえすれば……私が伸ばした手が彼女に触れられたのだという事実さえあれば、それで良かったのだ。
故に、私は彼女を欲した。
アリシア・テスタロッサが今此処にいるのだという確かな証明を……そして、彼女に私が触れているのだという確証を私は求めたのだ。
それ以外の他意はないし、情も無ければ煩いもない。
ただ私は一個人の意志として─────ただ一人の少女である高町なのはとして、私は彼女を抱きしめたかったのだ。
私の事心から抱きしめてくれた、アリシア・テスタロッサというただ唯一の彼女の存在を。
私は彼女の温かな身体を懐炉にして寒さや葛藤で震える身体を暖めつつも、尚も一切口を開かず私に抱きしめられる彼女の存在を存分に享受し、感じながら彼女へと自身が胸に抱いた事を言葉に変えて彼女へとゆっくりと語り掛けて行くのだった。

「……温かいよ。アリシアの体」

「うん……」

「心臓の音はしないけど……血は廻ってないかもしれないけど……それでも貴女は温かい。だから自分の事を贋物だなんて言わないで。私は……この温もりを嘘にしたくないよ……っ」

「……うん。ごめんね」

しゃくりあげる何かに閊えて所々途切れ途切れになる私の言葉に、彼女はゆっくりともう一度だけ私に謝罪の言葉を述べた。
その言葉が指し示す謝罪とは一体何に対するものであったのか。
正直私は知らないし、分かろうとも思わない。
だって答えなら此処に─────もうこの腕の中で、私はしっかりと抱きしめてしまっているのだから。
故に私は彼女の事を心から赦し、そして認めようと思う。
彼女は彼女……私の掛け替えの無いパートナーであるアリシア・テスタロッサだ。
贋物なんかじゃない。
私に温もりを与えてくれた彼女の心は決して嘘なんかじゃない……。
だから、私は何も言わずに彼女の身体をよりいっそうぎゅっ、と抱きしめる。
否定的な観念で凍て付いた彼女の心の氷を溶かすように……彼女が私の心を溶かしてくれたように……。
私は、彼女の“心”を深く、強く抱きしめる。

「ねぇ、アリシア……」

「……んっ?」

「私……少し、疲れたよ……」

「私も、なんだか疲れちゃったよ。なのはお姉ちゃん……」

私たちはお互いに何気ない言葉を掛け合いながら、この薄暗い部屋の中で小さく丸まるように互いの身体を寄り合わせていく。
その姿はきっと傍から見たら路傍に打ち捨てられたダンボールの中で震える捨て猫のようであったに違いないと私は思った。
何せ、私もアリシアも戻る所がないという点においては実際の所そう捨て猫と変わりは無いのだ。
片方は忌まれるべくして排斥され、本来のコミュニティに居られなくなったが故に。
もう片方は本来歩む筈だった道から半ば無理やり脱線し、行き場をなくしてしまったが故に。
どちらも同じく本来あるはずだった場所から捨てられ、こうして互いに行き場をなくして寄り添いあっている。
まさに同属の好……まさに似たもの同士という奴だ。
さしずめこの汚れ草臥れた部屋をダンボールに例えるなら、本当に私たちは捨て猫とそう変わらない存在であるという事が出来ることだろう。

ただ私たちが捨て猫と違うのはただ震えるだけじゃなくて自分から行動を起せるという事と、愛らしく鳴いてみせた処で道行く誰も彼もが拾い上げてくれる訳じゃないという事だろう。
愛らしい猫は含みを持たせて切なげに鳴けば誰かに手を差し伸べて貰えるのかもしれないが、同じ境遇であっても人間である私たちはそうじゃない。
きっと誰しも面倒を嫌って私たちから遠ざかり、見て見ぬ振りを決め込もうとする事だろう。
勿論、誰しもそうじゃないとは分かっているけれど……誰しも先生やフェイトちゃんのように心の優しい人ばかりじゃないこともまた然り。
私たちは私たちなりに……捨て猫同士お互いの傷を舐め合ってでも、自ら足を踏み出していかなきゃ行けないのだ。
互いに背中を預けあい、時にはお互いの胸を相手に貸しながら……ゆっくり、ゆっくりと。

でも、そんな私たちでも時には立ち止まる時だってある。
元在った様に震えたまま何も出来ないことも、歩き過ぎてへばってしまう事も一度や二度に限らずこの先幾らだってやってくる事だろう。
そんな時、私はきっと今のように弱音を吐いてしまうのだと思う。
そして勿論、アリシアだって疲弊や重圧に負けてへこたれてしまいもするだろう。
だから、そんな時……私たちは今のように一旦止まろうと思う。
無理しちゃった時は素直に肩の力を抜いて、また必要ならば相手の胸を借りて思う存分泣かせて貰うっていうのも大切な事なのだから。
痛い時に強がって「痛くない!」って言ったり、辛い時に「大丈夫!」って強がっちゃうのもやっぱり性なのだとは思うけど……私たちはそんな言葉通りに強い人間であるという訳ではないのだ。

時にはこうして色々な物をかなぐり捨てて、素直な私に戻っていたい。
そんな願望をお互い抱きながら共に歩むからこそ、事が終わった後に「もう少し頑張ってみようかな?」って思うことが出来るのだ。
だから、今はその中間地点。
頑張ろうって思う為に私たちはこうして何も考えぬままに互いの心を曝け出して、元の二人へと回帰していくのだ。
少しずつ、少しずつ……まだ捨てられる前のあの頃へと。
私は自身の心を覆っていた鍍金が剥げ落ち、次第に自身の心が遠い昔に置いて来てしまったと思われていた嘗ての自分に回帰していくのを感じながら、目を細め、何処か穏やかな表情で何処とも知れぬ虚空を見つめるアリシアに言葉を繋げて行くのだった。

「ごめんね……。私が心配ばっかり掛けるからだよね? 今日もアリシアに相談しないまま一人で突っ走っちゃったしさ。それでまたアリシアに心配掛けて……本当っ、お姉ちゃん代わり失格だよ。私……」

「……私も同じだよ。なのはお姉ちゃんに迷惑ばっかり掛けちゃってるのに自分じゃ何にも出来ないし……他力本願ばっかりだよ、本当っ。私、なのはお姉ちゃんの迷惑になってばかりだよ。役に立ちたいって思ってるのに……何かしてあげなくちゃって思ってるのに……私はなにもしてあげられないんだもん。パートナー失格だよ、私だって……」

「にゃはは……おあいこ、だね」

「……うん。おあいこ、だよ」

お互いに自身の足りない所を言い合って、己のことを蔑んではいても、私たちの表情は二人とも疲れた笑いを浮かべたまま。
どちらも相手のことを責める訳でもなければ、荒を探すでもなく、ただ一言「おあいこ」だと言い合って苦笑する。
なんだか……ずっと前に置き去りにした遠く遠い昔のやりとりみたいだと私は思った。
勿論、アリシアとこんな風に接するのは今日が初めてのことな筈なんだけど……どうにも私はこんなやり取りが初めてじゃ無かった気がしてならないのだ。
それは誰とのやりとりであったのか……。
もう憶えてはいないけど、私の心から沸き立つ蜃気楼のような思い出の残滓が私の感覚をデジャブらせるのだ。
あぁ、そういえば昔こんな風に優しく声を掛け合うこともあったんだなって、そんな風に。

一体何時から私はこんなに余裕の無い人間になってしまったのだろう。
刹那、そんな記憶の中の自分と今の自分との差異に対する疑問の念が唐突に自分の胸の内に落ちて行き、私の意識の水面に一筋の波紋を立てる。
嘗ては私だって今とは違う、もっと落ち着いた人間であった筈だった。
まぁ、確かに向こう見ずな性格が祟ってテンパっちゃうことも無かった訳じゃないし、勿論「落ち着いている」とは言ってもそれは年相応に子供であったというだけのこと。
何も特別な事じゃないし、誇れることでもなんでもない。
ただ一様に凡庸な子供のままでいて、僅かなに空いた心の隙間を他人と触れ合うという事柄で埋めようとしていた……ただそれだけの、本当に些細なことだ。

なのに、私は何時の間にか気がついたらこんな風になってしまっていた。
内気で、僻みっぽくて、何時も誰かの影に怯えていて……終には誰も信用出来ないようになってしまった今の自分に。
多分、今考えると私は怖かったんだと思う。
今まであった当たり前が崩れ去って、皆が私を置いて先に行ってしまうってことが。
だから、私は逃げたのだ。
より悲観的な方へ、自堕落な方へ……自分を取り巻く環境が皆嫌になって、全部全部かなぐり捨てて逃げ出したのだ。
そして、その末路の果てが今の私。
真直ぐ人を見ることも出来ないで、他人と接する時は何時も自分を偽ってばかり。
本当の自分が何なのかってことも分からないまま嘘に嘘を重ねて自分の心を負の情念という鍍金で塗り固め、そして挙句の果てには嘗ての自分の名残を忌むばかりに他人を傷つけるようなことを平気でしてしまうようにすらなってしまった。
それが今の私……今の“高町なのは”の現状だ。

此処に至るまでに、こんなのはもう嫌だって幾度となく思った。
あの頃に戻りたいって……また元の様な私に戻りたいって……ずっとずっと希ってきた。
けれど、そんな私を見向いてくれる人間は……気がついたらもう殆ど誰も手を伸ばした先には居てくれなかった。
お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、お兄ちゃんも、アリサちゃんも、すずかちゃんも……皆々私の手の届かない所まで行ってしまったから。
だから、私は全てを諦めた……諦めざるを得なかった。
届かないならもういいやって……どうせ伸ばしても届かないのなら手を伸ばす意味なんて無いって……。
私は、伸ばした手を引き下げてしまったのだ。
環境に流されるままに、他者に促されるままに……己の意思で。

だから、もう私は元の私に戻ることは出来ない。
優しかった思い出も、温かかったあの日々たちも、愛されていたという想いさえ今となっては永久の幻想だ。
もはや、もう何も取り戻せないし、取り返せない。
私は高町なのはという殻を抱いて、嘗ての自分に追われるように脅かされながら生きる他ない。
ずっと、そう思っていた……それで納得が出来る、筈だった……。
けれど、裏を返してみれば結局のところがこの有様だ。
結局の所昔の自分とちっとも─────何一つとして、私は変わってなんか無い。
誰かに傍にいて欲しいって……私のことを置いていかないで、見捨てないでと涙ぐみながら手を伸ばす凡庸な少女のまま、私の時は止まったままなのだ。

故に、私がこうやってアリシアを求め、彼女に甘えるように抱擁するのもまたその道理に然り。
幼き日より時が止まったまま動かないでいる私の心が彼女という存在を強く求め、その温もりを享受したいが故に彼女を離したくないと強く想う。
つまる所、私が彼女をこうまで求めている理由は結局の所其処に行き着くということだ。
彼女に私が感じているのは親愛の情か、それとも母性への感慨か……。
まぁ、何にせよ、私にとって彼女という存在は何物にも変えがたい程愛おしいものであるということに変わりは無い。
嘗て自分が己の母に情愛を求めたように……姉に敬意を抱いたように……私は彼女に親愛を感じ、幼心から彼女という存在を求めた。
だからこそなのだろう。
私がこんなにも、彼女に甘えていたいなんて思ってしまうのは。

アリシアは私のお母さんでもなければお姉ちゃんでもなく、妹分という事柄を除けば幼き頃から共に同じ道を歩んできた親友であるという訳でもない。
出会うまでは面識の一つとしてなかった赤の他人……それも、元より住む世界すら異なっているような関係だったのだ。
本来ならば人間不信の情が強く、誰しもマイナスの観点からでしか人を捉えることの出来ないような私が今のような気持ちに至るなんて考えも及ばないと思ってしまうのが普通の反応という物だろう。
だが、私はそれでもアリシア・テスタロッサという人間の想いに惹かれ、こうして今のような間柄になり得ている。
それは何も彼女の気持ちが真直ぐであったからだとか、アルハザードの空気に感化されたからだとか、そういう限定的な事柄に沿って理由付けされるものではない。
ただ単純に……私は誰かの温もりに触れて居たかったのだ……ずっと、心の奥底から。
先生を護りたかったっていうのは勿論嘘じゃないけれど、それ以上に私は自分以外の誰かにずっと傍に居て欲しいと望んでいたのだ。
欠けてしまった母の情愛を、父の力強さを、姉の微笑を、兄の優しさを……私は、別の何かで埋めていたかったのだ。

だから、私はアリシアと会遇してからも尚、彼女に対してネガティブな感情を抱くことは無かった。
そればかりか、私は何時の間にか彼女と触れ合う事で得られる感慨をずっと心地よい物だと思って止まなかった。
だって、もう二度とこんな温かな優しさは感じられないと思っていたから……もう二度と私は人前で年相応の“高町なのは”に戻れないと決め付けていたから……。
こうして自分の気持ちを素直に曝け出せて、自分を偽ることをしないまま人と接することが出来るということが私は嬉しくて堪らなかったのだ。
今考えても彼女には感謝しても仕切れないし、きっとこれからも私は一生アリシアに頭があがらないことだろう。
何せ、今の私がこうしてこんな気持ちに気がついたのも彼女が私の事を抱きしめてくれたからこそだ。
もう長らく忘れていた子供としての高町なのはとしての想い。
それがようやく彼女の手を借りることによって、少しだけ叶ったような気がしたのだ。
私は改めて次第に澄み渡っていく自身の心の内で言葉には出さないものの、何度も何度アリシアへと感謝の念を浮かべながら、今この刹那が何物にも変えがたい幸福であるのだと再認識するのだった。

「ごめんね。湿っぽくしちゃって……。思えば何時も愚痴ばっかりだよね。私がアリシアに話すことってさ」

「ううん、全然気にしてないよ。何時も私の分まで頑張って貰ってるんだもん。それ位のことはなんでもないよ。それになのはお姉ちゃんのお話を聞くのは結構楽しいから退屈しないしね。だからお姉ちゃんも気を楽に持って。偶には私を頼ってよ。一応これでも……なのはお姉ちゃんより年上なんだからさ、私」

「なんて言うか……ここまで頼りがいの無い年上っているもんなんだね。広いなぁ、世の中って」

「酷っ!? 今のは流石の私も傷付いたよ、なのはお姉ちゃん!」

ムキになって私の軽口にぷんすか怒って抗議してくるアリシアを見ながら、私は思わず苦笑し、そして安堵する。
あぁ、やはり私と彼女はこういう関係こそがお似合いだ─────心の奥底で、そう確信しながら。
時には冗談を言って私がアリシアをからかって、それにアリシアはムキになって……それで最後は何事も無かったかのように隣で寄り添って笑い合う。
まるで仲の良い本当の姉妹のような……それでいて心から気を許し合う親友のような……そんな浅くもなく深くも無い適度な関係。
やっぱり私も彼女と接する時はこうでなくちゃしっくり来ない。
改めてその感情を認識した時、私は心の底からこんなやり取りが未だ継続出来ているという現実に安堵した。
どんなに心情が変わっても、彼女は彼女であり、私は私で居られるのだという……そんな現実に。

だから私は、今はほんのちょっとだけこのおふざけを続けてみようと思った。
別に何か深い意図があった訳でもなければ裏があった訳でもない。
ただ単純に小さな胸を張って精一杯年長者を気取ろうとしているアリシアにちょっとした意地悪をしたくなった、というそれだけのことだ。
私はちょっとだけ含みのある笑みを浮かべながら彼女を肩口に回していた腕を引っ込め、そのままゆっくりと彼女の方へと自身の身体を彼女の方へと倒していく。
確かによくよく考えれば彼女自身が言うようにアリシアは私よりも遥かに年上な訳だし、下手をすれば妹どころか彼女が私のお母さんでも通じる実年齢をお持ちな訳だ。
まぁ、見た目はどう見ても愛玩動物チックな雰囲気のお子様にしか見えないんだけど……ならば気兼ねなく彼女に頼ってしまっても別段何の問題も無いというものだろう。
私は彼女の膝元に自身の頭を乗せ、そして彼女に縋るような体制─────所謂膝枕をしてもらうような形で何の遠慮もなくそのままソファーに寝転がるのだった。

「ちょっ!? なのはお姉ちゃん─────」

「ふふっ、お言葉甘えて頼っちゃった。でも、いいでしょ? なんたってアリシアが自分から言い出したんだもんねぇ~。私間違って無いもーん」

「うぅ……ずるいよ、なのはお姉ちゃん。って言うか、自分で言ってて恥ずかしくない?」

「うっ、うるさいよ! アリシアは大人なんだから子供の言うことに一々野暮ったいこと言わないの!」

まったく、これではどっちが大人でどっちが子供なんだか分かったもんじゃない。
アリシアとのふざけ合いの中で私は自身の頬が恥ずかしさで朱に染まっていることを気にも留めぬまま、ふとそんな事を頭の片隅に思い浮かべた。
こんな風に誰かに甘えるなんていうのは私のキャラじゃない。
と言うか、ぶっちゃけた話誰も進んでしようとは思わないだろう。
こんな傍目から見ても恥ずかしいことなんて……多分、誰も。
でもまぁ、なんて言うか……今更やっちゃったもんは取り返しがつかない訳で……もう私には意固地になってでも自分の欲望が赴くがままに動く以外道は残されていなかった。
もうこうなったらとことん彼女を甘え倒すほか、面目が立たないも何もあったもんじゃない。
そんな風に私は、半ば自棄気味になりながらも彼女の膝元に自身の頭を埋めていく。

温かい─────今までだって十分彼女の温もりを享受した筈だったのにも関らず、私の意識に溶けて行く感覚は彼女の人肌の温度を伝えて止まなかった。
淡い空色のワンピースだけを境に重なり合う肌と肌の感触は、もう殆ど直接触れているも同じ。
それまで自分が感じていた物よりも更に強く、そしてより鮮明に……私は彼女から齎される温かさを存分に感じ取って行く。
何時もだったらこの立場も逆なのだろうし、私だって一応それ相応の慎みは持ち合わせている筈だからあんまり頻繁にこんな事をしようとは思わないけれど……せめてこの瞬間くらいはこの温もりに包まれていたいと私は思う。
どうせこんな機会は滅多に無いのだ。
偶には色々な物を度外視させてもらって、羽目を外すのも悪くない─────彼女とのふれあいの中で心の緩んだ私がついついそう思ってしまうのも仕方の無いことなのだろう。
私は幼き頃、まだ自分が母に甘えていたいと希っていた時にしていたのと同じように、頬を緩ませて「えへへ……」と小さな微笑みを浮かべながら、未だちょっと戸惑い気味の彼女へと意地悪く言葉を投げ掛けていくのだった。

「これで私だけがアリシアの膝枕独り占め。まぁ、大人って言い張ってる割には……大人の魅力は皆無だけどねぇ。今度から寝る時は何時もして貰っちゃおう」

「ええっ!? こっ、困るよそんなの!」

「嘘だよ、嘘。冗談を真に受けるなんてやっぱりアリシアは子供だなぁ。まぁ、心地いい分には違いないから別に私はそれでもいいんだけど?」

「むー……。なのはお姉ちゃんの意地悪……」

膨れ面を浮かべながらも賢明に「自分は子供じゃない」と訴え掛けてくる彼女を尻目に、私は尚も飄々とした態度を取ってまともに取り合おうとはしない。
何故ならやっぱり私の中では彼女は愛すべき妹分であって、母性を追求し、求める存在ではないと分かっているからだ。
確かにこの胸に抱えた一抹の不安を拭い去る為に彼女を己の母や姉の代わりとして受け入れ、この胸に巣食った寂しさを紛らわせることは簡単だ。
でも、それは結局虚しいだけ。
本当に自分がどうしなきゃいけないのか、ってことから目を背けて彼女という存在に逃げているだけに過ぎないのだ。
尤も、だからといって今更本当のお母さんやお姉ちゃんに甘えるなんてどうせ出来ないことなのだろうけど……それでも、その役割を彼女に補って貰うのは間違いなんだって事くらいは私もちゃんと分かってはいる。

だからこそ、私たちは互いに引いた一線以上のことは望まないし、求めない。
二人の間の中で自分が相手にとってどんな人間であるのかってことが明確に分かっている以上、それにそぐわない過ぎた物を求め過ぎるのは無粋以外の何物でもないからだ。
故、今この瞬間に起きていることは長い永い時の中で因果の狂った小さな過ちに過ぎず、流れ行く刹那に他ならない。
そう思わないとなんだか自分がずぶずぶとこのまま彼女の中へ沈んでいってしまいそうだから……。
私は彼女の姉代わりとして、これ以上のことは彼女に求めまいと此処の奥底でそっと小さな誓いを立てるのだった。

「あははっ、ごめんごめん。また今度機会があったら私がアリシアに膝枕してあげるから今はちょっとだけ我慢して、ね?」

「……はぁ、分かったよ。まったく、なのはお姉ちゃんは甘えんぼさんなんだから……。でも、何時か絶対私もしてもらうんだからね。約束だよ!」

「はいはい。しかし何ていうか……こうしてると何かこう、ちょっと眠たくなってくるね。なんだか……うとうとしてきたよ、私……」

「えー、そんな急に言われても……。まぁ、いっか。確かになのはお姉ちゃん今日の一件で大分疲れちゃってるもんね。いいよ、このまま眠っちゃっても。一時間か二時間くらい経ったらちゃんと起してあげるから。おやすみ、なのはお姉ちゃん……」

彼女に諭されるまま、うつらうつらと微睡んでいく瞼を閉じ、次第に薄れていく意識を少しずつ手放していく。
本当に今日は彼女に頼ってばっかりだ─────頭の片隅でそんなことを考えながら。
申し訳ないとは思っているし、情けないとも思う。
何せ実質私は今日彼女の力を借りても尚良い所ないしで、その上彼女に要らぬ心配を掛けてばかりだった。
まったくどうしようもない……本当にそうつくづく思ってしまう。
けれど、だからといってこの先挽回のチャンスが無いという訳じゃない。
だって……私はまだこうやって生きていて、彼女との約束はまだ半分も果たす事は叶っていないのだから。
そういう意味ではまだ私に与えられた役目は大きいと言わざるを得ないし、それに伴う責任だって決して小さな物じゃないと分かる。
投げ出す訳にもリタイアする訳にもいかない以上、今は頑張って自分の役目を果たすほか私に残された道は無いのだ。

だから、今この瞬間だけは彼女に与えられたほんの束の間の安らぎであると思って私は甘んじることなく自身の弱さを受け止める。
自分が未熟であることは今更隠しようも無い事実な訳だし、今更見栄を張って強がったところで得られるものなんて何も無い。
ならば、此処は自身の欲望に忠実になって身体を休めるのが最上の案という物だろう。
私は心地よく鈍っていく意識の中でそんな風に今の状況に言い訳をしながら、それに伴ってこんな私を見捨てないでいてくれた小さな彼女に心から感謝の念を抱いていく。
今までだったらきっとこんな無茶をしても誰一人私のことを気遣ってくれる人間なんて現れることは無かったことだろう。
お母さんもお父さんもお姉ちゃんも私のことは無視するし、お兄ちゃんはお兄ちゃんで私のきも知らないで怒鳴ってばかり。
唯一先生だったら何か言ってくれるかな、って期待しちゃうけれど……やっぱり私の強がりな所が彼女に自分の弱さを曝け出すのを拒んでしまうはずだ。
故に、私にとって彼女という存在は本当に掛け替えの無い物だった。
友のようにも、妹のようにも接することが出来、気兼ねなく弱音を吐いてもちゃんと受け止めてくれる、アリシア・テスタロッサという存在は……。

故に今、私は彼女の温もりを床に、本日二回目の眠りにつく。
たぶん目覚めたら目覚めたで血塗れになった制服だとか、これからの事だとか色々と頭を抱えたくなるような問題が目白押しなのだろうけど……せめてこの時ばかりは何もかも忘れてしまいたい。
何せこんな風に彼女に甘えることも、無邪気に笑い合うことも、安息の眠りにつくことだって私にとってはそうそう起こり得ることじゃないのだ。
ならば、今この時だけはほんの少しの間ただの高町なのはに戻って寝息を立てていたい。
私は心の底からそう願いながら、ゆっくりと……アリシアに縋りつくように自身の意識を眠りの園へと導いていく。
どこか彼女の温もりに懐かしの日々を重ねて、昔のことを思い起こしながら。
こくり……こくりと、私は眠りについて行く……。





なのはが寝静まってから数十分後のこと。
アリシアは自身の膝元を枕にして無邪気に眠る最愛の姉代わりの頭を優しい手つきで撫で付けながら、ふと一人深い感慨に意識を奔らせる。
果たしてこの人にこのまま戦いを続けさせていいのか、というそんな自身の胸の内で渦巻く疑問に区切りをつける為に。
彼女はただ只管に思考し、そして頭を悩ませていく。
これから先、自身が心の底から幸せを願う者たちのことをただ只管に想いながら……少しずつ、まるで長年の囚役を積んだ囚人が己の罪を独白するように……。
彼女は誰に話し掛ける訳でもなく、自身の悩みを何も無い虚空へと投げ掛けていくのだった。

「本当……優し過ぎるんだよ、なのはお姉ちゃんは。こんな風にボロボロになるまで戦わされてるっていうのに恨み言の一つも言わないなんてさ……。私、逆に辛いよ。なのはお姉ちゃんにそんな風に優しくされたら……」

アリシアはそう呟いたかと思うと、ふと何かに気がついたかのようになのはの頭を撫でる手を止め、そしてふっと彼女の頭にその手を添えて考えることを続けていく。
目の前で安らかに眠る彼女の寝顔は穏やかで、とても此処数ヶ月の間に二度も三度も瀕死の重傷を負ってまで戦いを続けてきた者には見えない。
そればかりか、彼女はそうまでしても尚自身に笑顔を向けて、心地よい優しさを与えてくれさえもする。
普通の人ならまず出来ない諸行だろうとアリシアは思った。
確かに彼女は愚痴らしい愚痴を吐くこともあれば、辛い疲れたと弱音を吐くこともある。
だけど、それでも決して彼女は自分のことを責めたりしないし、突っぱねもしない。
例えそれが自分が責任を丸投げしてしまったが故に命の危険に晒されたとしても、だ。
高町なのははアリシア・テスタロッサを嫌わないし、見捨てない。
そうなって欲しい訳では決して無いのだが、アリシアにとって彼女の優しさは安心を齎してくれるものというよりは寧ろ、自身を締め付ける物でしかなかった。

今日に至ってもそう─────アリシアはほんの少し前の事を思い出しながら、目の前で眠る彼女について思いを馳せていく。
初めてこの部屋で彼女が目覚めた時、自分はとっさに隠れてしまい、なかなか彼女の前に姿を表すことが出来なかった。
気恥ずかしかったからとか、空気が悪くなりそうだったとかそういう訳じゃない。
ただ今日も今日とて自分の都合の所為で彼女を死地へと赴かせてしまった自分がどんな顔をして会えばよいのだ、と心を痛めていた所為だ。
アリシアはなのはに強い負い目を感じている。
それは出会った当初から同じではあったのだが、この時になってその気持ちの上限が振り切れてしまっていたのだ。
もういっそ自分は何も言わずに彼女の前から立ち去ってしまえばいいのではないだろうか。
そうすればもう彼女は闘わないで済むし、死に掛けることも無い。
故にいっそ自分さえ居なくなってしまえば……。
薄暗い暗闇の片隅で彼女のことを見守っていた時のアリシアはずっとそんな後ろめたい想いをずっと抱えたままだった。

だが、アリシアのそんな気持ちが消え失せたのは彼女が独りでに膝をついて泣き始めた時のことだ。
魔法の力を振るって精一杯強がっていた彼女がとたんに幼子に戻ったように恐怖と寂しさに震えて嗚咽を漏らしたあの瞬間、アリシアの頭の中で何かが弾け飛んだ。
なんだか今すぐにでも彼女の傍にいなくてはいけないような……そしてこのまま彼女の前から自分が消えてしまったら彼女は壊れてしまうんじゃないかっていうような得体の知れない衝動に駆られて……そして気がついた時にはアリシアはなのはの事を抱きしめていた。
それは偏にアリシアがなのはの本質を垣間見てしまったが故の行動であった。
何時も自分に優しく笑いかけてくれて、敵には容赦の無い殺意を向けて吼える彼女。
だけど結局それは彼女が無意識の内に自分を偽っている結果に過ぎず、本当の高町なのははそれほど強い存在ではないとアリシアは気付いてしまったのだ。

本当の彼女は弱い。
それこそ心が強い訳でも、精神がタフな訳でも、人一倍忍耐があるわけでもなく……ただ一介の少女よりも尚脆いメンタリティの持ち主だった。
だけど今まで彼女を取り巻いていた環境が彼女を彼女のままで居させてあげることを許さず、彼女は必死で自分の弱さを覆い隠してきた。
周りに心配を掛けまいと、周りが望む人間であろうと、周りに愛される者であろうと彼女は自分で自分の心を押し殺して生きてきた。
そしてその挙句、彼女はその“周り”から蹴飛ばされ、他者に助けを求める間も無く人格を破綻させてしまった。
それが今の彼女に至るまでの顛末にして、彼女が負った永劫消えない痕の記憶。
彼女が今の彼女たる所以であり、彼女が今になっても無茶を重ねてしまう最大の原因であった。

「なのはお姉ちゃん……ずっと私に自分のこと悟られまいって無理して笑ってたんだよね……。なのはお姉ちゃんだって十分辛い筈なのに……それなのに私はそんなことにも気付かずに……。最低だよ、私は……」

アリシアはすやすやと眠るなのはの横顔を見ると無性に悲しい衝動に襲われた。
そう、彼女はついにそれまで手を伸ばすことのなかった“高町なのは”の記憶の一端に触れてしまったのだ。
それに至るまでの経緯はほんの些細なこと。
というよりも、此処までくると殆ど不可抗力に均しいと言っても過言ではないだろう。
彼女はなのはのジュエルシードが暴走し掛けたことが気掛かりで、その調整の為に彼女の渇望の根源を除き見てしまった。
本当にただそれだけのこと。
彼女自身が望んでみたかった訳でもなければ、単なる野次馬根性が働いた結果でもなく……ただ単純に必要だったから行動に移しただけに過ぎない。
けれど、その結果彼女はなのはの過去を知ってしまい、その渇望の根本たる「誰にも触れられたくない」という忌避の意味を垣間見てしまったのだ。

あぁ、あんな仕打ちを日々重ねて正気でいられるものなどいるものか─────アリシアはなのはの過去を思い出しながらそう思う。
アリシアが見たのはほんの一旦に過ぎず、それで彼女の総てを理解したとも思ってはいない。
だけど、彼女が辿ってきた道筋が散々な物であったという事くらいは理解した心算だった。
周りから過度な期待を掛けられ、身の丈に似合わない努力を重ねて疲弊した幼き日々。
そしてその努力が報われたのも束の間、直に周りはその排斥に躍起となり、程なくして彼女に襲い掛かる転落の道筋。
そしてそんな彼女を慰める訳でもなくもっと頑張れと更なる期待を掛ける家族に、自分も二の舞になりたくないからと彼女の元から去り行く友。
こんな誰も味方のいない中で彼女がずっと昔のままの彼女で居続けるなど、元より不可能だったのだ。

そしてその末路に待っていたのが彼女に身に降り掛かった様々な悪意や他の人間との関係の希薄。
其処まで考えたところでアリシアは嘗てなのはが語っていたことが此処に結びついているのだという事を改めて思い知らされた。
彼女の家族と仲が悪いという発言や学校を一緒に見に行った時に何処か怯えたような態度をとっていたのも、全部が全部過去に起こった諸々が彼女を脅かしている所為だったのだ。
学校に行けば上も下もなく無数の悪意に晒され続け、家に帰れば帰ったで居場所も無い。
泣くことも許されず、誰かに頼ることも許されず、夢の安息に逃避することすらも許されない。
そんな日々がほぼ一年、それも毎日……とても耐えられるものじゃないとアリシアは思った。
少なくとも自分だったら直に心を病んでしまうことだろう。
父は居らずとも母に惜しみない愛情を注がれて五歳までぬくぬくと陽だまりのような場所で生きて来た自分。
まだ一年であるとは言え、家族からも友人からも見放され、現在進行形で尚無数の悪意に蝕まれながら一筋の光を求めて冷たい地面を這って生きてきた彼女。
あまりにも……いや、何もかもアリシア・テスタロッサと高町なのはの生い立ちは異なっていると言えた。

にも拘らず、彼女は今も尚屈託の無い笑顔を自分に向けて来てくれる。
アリシアは今まで自分が幾度となく彼女の笑顔に励まされてきたことを一つ一つ思い出しながら、その笑顔の裏に隠されていた本当の意味を今まで自分が読み取れなかったという事に対して後悔の念を募らせていく。
こんなにも辛い日々を送っても尚、彼女が私の声に応えてくれたのは偏に彼女が昔と変わらぬまま優しい人であったからこそだ。
そうでなかったら、あんな人の声の聞える宝石なんてとっくの昔に不気味がって投げ捨ててしまっていただろうし、そもそもこんな風に自らの身を削ってまだ戦ってくれなどしなかったはずだ。

だから、アリシアには高町なのはという人間が本来どんな人間であったのかよく分かっていた。
彼女は本当にどうしようもなく優しい人で、それでいて誰かの温もりに餓えて泣いているただ一介の普通の女の子に過ぎないのだ。
それを彼女は昔のように無理をして自分を取り繕って自分を強く見せようと躍起になっているだけ。
現にさっきだって彼女は自身を強く見せる対象を見失って簡単に心に覆った鍍金を剥がれ落として泣いてしまっていた。
結局の所、突き詰めれば彼女はほんの少しの力があるだけのただの小さな子供に過ぎないのだ。

「本当はなのはお姉ちゃんは自分から戦いに行くような人じゃない……。似合ってないんだよ、そんなに頑張って背伸びしててもさ。だから……もうこんな無益な戦い、早く終わらせよう。今までは一人だったけど、これからは二人で頑張っていけるんだから。そうすればなのはお姉ちゃんだけでなく、あの子だって─────」

アリシアは一旦そこで言葉を区切り、なのはの頭に添えていた手を虚空へと突き出してある一筋の念をそこに集中させる。
すると、照明装置の光に照らされていなかった二階の方でかたかたと何かが揺れるような音が響き渡り、次の瞬間には何もなかった彼女の掌にすっぽりと一枚の写真が入った小さな写真立てが顕現し、納まった。
短距離間での空間転移魔法。
本来ならば然るべき手順を踏んで然るべき術式を組んだ上で発動しなければならない中々高度な魔法の筈なのだが、アルハザードの主人格たるアリシアにしてみれば別段どうってことはないものだった。
何せ今の彼女が核としているのは半永久的に無限の魔力を生成し続けるジュエルシードであり、尚且つ彼女自身本体より分岐した自立行動型データモジュールの身であろうとその能力はいまだ健在なのだ。
瀕死の重傷を負った少女を一瞬にして蘇生させるという奇跡の所業すら容易く扱ってしまう彼女にとって、転移魔法を行使するなどというのは息を吐くよりも簡単に行える動作だった。

だが、彼女は自身のそんな力の有無など微塵も気に留めることなく、その写真立てに納まった一枚の写真をただ只管に見つめていく。
其処に写っていたのは……嘗てのまだ人の身であった頃の自分の姿と、そんな自分の傍らで優しく微笑みを浮かべる若き日の母の姿。
まだ何もかも刻が正常だった頃の、何てことは無い日常の風景だった。
だが、彼女はそうは思ってはいなかっただろう─────彼女はほんの少し前までこの部屋の家主であった自分にそっくりな少女の悲痛な姿を思い浮かべてそう思った。
そう、彼女はこの部屋の主が誰であるのか……もっと突き詰めて言えば本来此処には誰が住んでいたのかということを知っていた。
まぁ、当然と言えば当然のことだった。
古今東西どんな時空の隔ても越えて未来以外のことなら何でも見通す力を持つアルハザードの主人格が知ろうとして知れぬことなど何一つとしてあり得はしないのだから。
従って何故この世界のこんな場所に昔の自分の写真があるのか、ということも彼女は分かっていた。
その写真にどんな想いが篭っていたのかも……その彼女が今どれだけ満たされているのかということも……。

「フェイト……お姉ちゃん、頑張るよ。もう貴女に辛い思いなんかさせない……っ! 決着は……私の手でつけるよ。もう誰もお母さんの─────ううん、ママの所為で傷付かないように……」

瞬間、彼女の熱を帯びた口調は次第にどんどん冷たいものへと変わっていく。
彼女が吐く言葉は氷よりも尚冷たく、刃よりも無慈悲で残酷だ。
もしも彼女がまだ数十年前の彼女のままであったのなら、彼女はこんな冷たい言葉を吐くことはなかっただろう。
もしも目の前の映る彼女の母が昔と同じように優しいままで、今のような凶行に及んでいなければアリシアにこんな言葉を投げ掛けられることはなかっただろう。
もしも時が元のまま戻るというのなら、今こうして言葉を投げる彼女は決してこのようなことは言い出さなかっただろう。

だが、それは結局の所希望的観察……所謂「もしも」の話でしかない。
現実の話として、今起こっている数多の害意の諸悪は彼女の母であり、このままでは自分の母の所為で多くの人間が悲しみに暮れることにもなる。
そしてそれを止められるのは……彼女を止める際にその責任を総て終えるのは、その娘であるアリシア・テスタロッサ以外に他ならない。
それが分かっているからこそ、彼女は現実から逃げないし、目も背けない。
母は自分を蘇らせる為にジュエルシードを欲し、数多の人間を死に追いやった。
ただそれだけの夢想の為に……あんな何もなく独りぼっちな世界の為だけに、皆を不幸に追いやった。
ならば……その責任を取る方法は一つしかなく、それはこの騒動に決着をつける事と同義
アリシアには─────その総てを背負う覚悟があった。

故にこの瞬間、彼女は手の内の写真立てをアルハザードへと飛ばし、代わりに空中へ無数に分解されたとある物を顕現させる。
そして彼女は空中でそれを自在に操り、まるでプラモデルでも造るかのような気軽さで一つ一つ丁寧にそれを組み替えて行き─────刹那の内に組みあがったそれを手に取った。
彼女の手にあるのはクロームシルバーの鈍い光沢を放つ白金色の拳銃。
アルカディア・マシン&ツール社製9mmクルツ口径、通称“バックアップ”。
自身の最愛のパートナーである少女が戦場において幾度となくその引き金を引き、銃把を握り締めてきた彼女にも馴染みの深い武器の一つだ。
だが、それを握る彼女の瞳は酷く冷たく、そこから伝わる覇気も何時もの彼女の物ではない。
一切の情もなければ、一切の綻びも無い。
ただ一点……自分がしなければならないと誓った事柄に対する思いだけが彼女の瞳と、その直線状に構えられた銃口にはっきりと映し出されていた。
そして彼女は語り、宣言する。
己がしなければならない責務を……自身が背負わなければならない業を、罪を……。
彼女はただ、冷酷に宣言する。

「プレシア・テスタロッサは……私が殺す……」

今宵、また一つ此処に新たな誓いが立てられる。
少女が手のしたのは小さな幸せと大きな銃。
そして、その射線の先には……打ち砕く他ない嘗ての思い出。
優しかった母、微笑み自分、二人でのピクニック、好物だったジャム入りのパンの味、飼っていた山猫との思い出……エトセトラエトセトラ。
それ等が纏めて消えていく。
銃口の冷たさと、研ぎ澄まされた殺意と共に何もかもが消えていく。
故も、もはや彼女の瞳には迷いはなかった。
最愛の人を守る為に……自身の写し身である本当の妹を守る為に……。
少女はこの日、母を殺める覚悟を決めた。





それでは一部補足をしたいと思います。

・アリシアについて
作中にも記しましたが現実世界にいるアリシアは実体のあるプログラムです。
言わば闇の書の守護騎士やユニゾンデバイスとほぼ同じでと考えていただければ幸いです。
ただ彼女の場合はただアルハザードにいるアリシアから指令を受けて動くラジコンのようなものなので実質死という概念は存在しません。
しかし、なんらかの方法で核となっているジュエルシードが取り除かれた場合は消滅してしまいます。
戦闘能力に関してはまた何れ作中で明かすことにします。

・真ソニックフォームについて
ビジュアル的には元のStrikers時のフェイトの物とサイズ以外はまったく変わりはありません。
ただ未完成品である上にバルディッシュもアサルトではないので、能力は当然色々と劣化してしまっています。
尤も、露出度はまったく劣化していませんが……今のなのはさんじゃ出っ張るところがまったく無いため殆ど関係ないと言っていいでしょう。
エロスは程ほどに。

以上、補足でした。



[15606] 空っぽおもちゃ箱⑩「遠い面影、歪な交わり」#クロノ視点
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:b3765b7d
Date: 2011/02/13 11:55
空っぽおもちゃ箱⑩「遠い面影、歪な交わり」#クロノ視点

それは遠く、遠い昔のこと。
あの時僕はまだ十一歳の子供で、彼女は十三歳の少女だった。
関係は幼馴染であり、また親友。
青春だとか色恋だとか周りの人間がそうやって男女の境を意識し始める年頃にしては、珍しい関係の二人だったのだと思う。
姉弟というほどあからさまな間柄ではなかったし、かと言って世間一般に有り触れている様な友人観に当て嵌めて考えられるほど浅はかな間柄でもない。
どちらとも言いがたい距離をお互いに保ちながらも、そこから一歩も踏み出そうとも後ずさろうともしない─────そんな関係の二人。

今考えればお互いに不器用だったのだと思う。
歳相応に素直じゃない僕と、肝心な所で自分の気持ちを言い出せない性分である彼女。
二人ともまだ子供であったと言えばそれまでだったのかもしれない。
だが、やっぱりその所為でお互いに正面から向き合うことが出来ていなかったのは紛れも無い事実だ。
今更後悔したって遅いけど、ふと気がつけば“あそこでああしておけば”と考えてしまう自分が居る。
もう二度と、その時は戻ってこないのだと分かっている筈なのに……。

「みーつけた」

んっ─────面白おかしそうな声色で僕の鼓膜を震わせた言葉の主に、僕は素っ気無くそんな反応を返してそれに応える。
すると、彼女はそんな僕の言葉を最初から予想していたかのようにクスッ、と小さく微笑み、壁に凭れ掛かるように座っている僕の方へと歩みを寄せる。
昔の彼女の身姿のまま。
僕の知る“彼女”の面影をそのまま透写したかのよな嘗ての綺麗な思い出に沿った形で。彼女は静かに僕の隣へと座った。

「……探しちゃったよ。クロノくんってば何時も一人でどっかに行っちゃうんだもん。せめて行き先だけでも伝えてくれればいいのに」

「一人になりたかったんだ、偶には。考え事をしたかったからな」

「考え事?」

「そう、考え事だ」

さも不思議そうに聞き返してくる彼女に僕はそう短く切り返す。
夕焼けに染まったビル郡。
朱色に照らされた街並み。
そして、それ等の隙間を縫うようにして行き交う人、ひと、ヒト……。
取るに足らないそれ等の光景を見下ろせる一つのビルの屋上に僕達は居た。
何故この場所だったのか、なんていうようなことは憶えていない。
だが、この場所において彼女と僕が交わしたやり取りだけは今尚鮮明に思い出すことが出来きた。

その時二人で見ていた街の光景も。
吹き抜ける風が微かに身を震わせていたのだという感覚も。
口元から僅かに漏れる呼吸が空中で白い靄と変わっていたことも。
何もかもが鮮明に、それこそ記憶を再現映像として垣間見るように……僕は何一つとして欠損することなくその日の事を憶えている。
もう忘れたいと何度思ったかも知れない。
幾度、幾十度、幾百度─────今まで自分が抱えた後悔の分に比例して、何もかも忘却したいという思いは数多に在った。
けれど、やはり僕は忘れる事は出来なかったのだ。
未練、なのだと言うことは解っていても。
ただ彼女と過した日々に縋って生きる事だけが、今の僕を支える唯一の証明で在るが故に……。

「ふ~ん……」

「興味ない、って顔だな」

「うん。まぁ、ちっともって言ったら嘘になるけどね。聞いて欲しいの?」

「いや、君がいいならそれでいい。僕もあまり話したくはない……」

そう言うと僕は肩を竦め、目線を地面の方へと落として嘆息した。
また言い出せなかった。
恐らく口元から漏れた溜息の原因はそんな感情から来る物だったのだろう。
あの頃は素直じゃなかったと今更になってそう思う。
本当は何か聞いて欲しいと思っている癖に、結局は一人で何もかも抱え込んで誰にも自分の事を相談することが出来なかった僕。
何というか、多分あの頃の僕は我が侭だったのだ。
図星を突かれたら逆上し、正論から目を背けるように突っ走って擦り切れて……。
なまじそれが罷り通っていたからこそ尚更性質が悪かったのだろう。
僕は何事も自分一人の力で乗り越えるのが当たり前だと思い込んでしまっていたのだ。

だから、この時も勿論そう。
本当は彼女に相談を持ち掛けたかったのに、自分の中のくだらないプライドがその考えを反射的に否定してしまった。
何とも馬鹿らしいことだとは思うのだけれど、挫折も知らない齢十一歳の子供に素直になれという方が恐らく酷というものだ。
そして……恐らく彼女も、それが分かっていたのだろう。
彼女は例えどんな事柄であったのだとしても僕に対して追求するという事をしてきたりはしなかった。
それは彼女なりの優しさなのか、それとも僕が言い出すのを待っていたからなのか……。
その真偽の程は確かではないが、もしも後者であったのだとしたら僕は彼女にとても酷い事をしてしまったのだと思う。
何せ……恐らく僕は生涯一度たりとも彼女に自分の本音を言い出した事は無かったのだから。

「……そっか。じゃあ私は聞かない」

「ありがとう。ところで、どうして此処に?」

「う~ん、何となく。特別用事があるって訳じゃないんだけど……なんかクロノくんの顔が見たくなってね。おかしいかな?」

「……酔狂だな。君も」

そうだね、という言葉が不意に鼓膜を震わせたのを僕は感じた。
今思えば此処で肯定の意を示されるのはあまり良い事ではなかったのかも知れないが、この頃の僕の現状から考えればあながち間違ってはいなかった。
人間としてつまらない、とでも言えば適当なのだろうか。
まぁ、はっきり言って一緒に居て愉快な人間ではなかったと思う。
流行の歌も映画も知らないし、調子よく周りに順応出来るほど器用でもない。
目標に直向きだったと自分に都合が良い様に思い出を美化できればよかったのかもしれないが、結局の所もとを糺して考えれば、そうした人付き合いという事柄に僕は目を向けることをしなかったのだ。
そんな人間と居て楽しいと思える人間なんてそうそう居ないと言っても過言ではないだろう。
それこそ彼女のような─────余程なまでに酔狂な人間で無ければ。

「ごめんね、独りで居たところ邪魔しちゃって。迷惑だった?」

「別にいいさ。もう粗方考え事は済んでいたしな」

「ふふっ、そう言ってくれると助かるよ。もう少し、そっちに寄ってもいいかな?」

「……あぁ」

僕がそう返答すると、彼女はさっきよりも少しだけ僕の近くへと身を寄せてきた。
恐らく吹き付ける風に身体を冷やしたのが原因だったのだろう。
服越しからでも分かるくらい、彼女の身体は冷たかった。
そしてそれは僕にしたって同じ事で、その時の僕と彼女の間には凡そ温もりという物は存在し得なかった。
冷たい身体を寄せ合って、何を思うわけでもなく朱に染まっていく街を眺める二人。
なんと言うか、寂しい光景だったのだと思う。
僕はこの時自分が何を考えていたのかなんてもう憶えていないし、当然の事ながら彼女が何を考えていたのかも分からない。
けれど、その草臥れた光景だけは今でもはっきりと憶えていて─────今尚不意に思い返してしまうのだ。
彼女と交わした、この時のやり取りを。

「……寒いね」

「そうだな」

「クロノくんはずっと此処にいたの?」

「いや、昼を過ぎた辺りからだ。それまでは適当に外を散歩していたよ」

そう切り返す僕の言葉に彼女は呆れたように小さく溜息を零すと、「そういうのをずっとって言うんだよ」と付け加えて僕に諭した。
まぁ、多忙な年頃である彼女からしてみれば当然の反応だったと言っていいだろう。
基本的に訓練なんかの時以外は暇を持て余しがちな僕と社交的で人付き合いも上手い彼女とでは時間の感覚にズレが生じていても何ら不思議な事ではない。
言わば時間を使う上での優先順位が異なっていたのだ、僕と彼女とでは。
でも、それは考えてみれば彼女と僕が少しずつすれ違い始めている事の証明とも言えることで─────愚かにも僕は、その変化に気がつくことが出来ないでいたのだ。
彼女はもう、僕が思っていたほど子供ではなかったのだという事に。

「あんまり身体を冷やすと風引いちゃうよ。もうクロノくんの身体はクロノくんだけの物じゃないんだから、あんまり……無理しないでね」

「……そう、だな」

「そうだよ。せっかく執務官になれたんだもん。出だしから躓かないようにしないと」

「……確かにな」

彼女に対する言葉は優しげで、僕の事を気遣ってくれているのだということが痛いほどよく分かった。
だが、それと同時に彼女が口にした「執務官」という単語が僕の胸の内に重く圧し掛かる。
五歳の頃から必死になって訓練を重ね、六年という歳月の果てにようやく手にした執務官という肩書き。
勿論嬉しくはある。
今までの苦労が報われたというのは勿論の事だが、それ以上に周りの人間から自身の実力を認められたというのは何物にも変えがたい幸福であったからだ。

しかし、その半面で様々な葛藤もあった。
目先の目標を見失ってしまった今自分は何処を目指すべきなのだろうとか、自分には果たしてどんなことが出来るのだろうとか……まぁ、その手の初心な不安から来るありがちな悩み事だ。
ただ、なまじどうして執務官になるのか、という事でなくどうやって執務官になるのかということだけを考えて執務官になった僕にとっては悩ましい問題だったことは間違いない。
ましてこの時の僕はまだ十一歳の子供だ。
これから先の将来を見据えて身の振り方を考えるなんて器用な芸当が出来るはずも無かった。

「ねぇ、クロノくん」

「んっ……なんだ?」

「やっぱり、不安?」

「……不安が無いと言えば嘘になるな。正直、怖いよ」

彼女にしろ僕にしろ、口にする言葉は極少ない。
だけど、それは互いが相手のことをちゃんと分かっていたが故の事であり─────ある意味それは二人の親愛の証であったのだと言ってもよかった。
幼い頃から気が付けば何時も隣りに居てくれた彼女という存在。
当たり前、何時だって僕はそう思っていた。
彼女が僕の傍に居てくれる事を。
そして何よりも僕自身が彼女の傍に居られるのだという事を信じて疑うこともしなかった。
愚かだったのだと思う。
過ぎ去る月日が僕らの間に何を齎すのか、なんていうような事を思慮するにはあの頃の僕はあまりにも若過ぎたのだ。

失ってから気付く彼女の尊さ。
もう今更何もかも遅い事は分かっているのに、それを自覚する度に後悔が僕の胸に落ちて行く。
最後の最後まで、素直になる事が出来なかった自分を悔やむが故に。
彼女に自分の本当の気持ちを伝えられなかったが故に……。
未練なのだという事は分かっていても、僕はふと気が付けば彼女との思い出に縋ってしまうのだ。
本当に馬鹿みたいだと思う。
だって、そうだろう。
そんな今の自分が悔やんでいるのも、結局は他ならぬ己自身の所為だというのだから……。

「……怖いの?」

「意外か?」

「ううん、そんな事は無いけど……。何時になく弱気だな、って思ってさ。クロノくんのそういう処、今まで全然見る事無かったから……」

「見せなかったからな。極力、表に出さない様に努力したんだ。心配されるのが苦手なんだよ、僕は……。煩わしいのは嫌なんだ」

まるで出来の悪い弟をからかうように「素直じゃないね」とクスクス笑う彼女を他所に、僕は俯きながら「そんなんじゃない」と呟きを返す。
煩わしいのが嫌いだったっていうのは別に嘘と言う訳じゃない。
実際、父が死んでからというもの、何かと気の毒そうな目で僕のことを見てくる人間が僕はそんなに好きじゃなかったからだ。
母にも、恩師にも、父の関係者たちからも僕を父の影と重ねて見られている様な気がして……僕はそれが嫌で嫌で仕方なくて……僕は僕なんだと認めて欲しくて……。
結局、意地だったんだと思う。
無茶をしていたのも、周りからの心配を拒絶していたのも。
若気の至りって言ってしまえばそれまでのちっぽけなプライドを支えにして、僕は無茶をしてでも我を主張したかったのだ。

けれど、それはやっぱり無茶な事で─────我武者羅になればなるほど僕は自分が何をしたいのかも分からくなった。
別に御大層な正義思想があった訳でも無ければ、目指したい明確なビジョンがあった訳でも無い。
ただ己の自尊心と周りからの目が少しは変わるんじゃないかって期待だけが僕の道標で、気が付いたら今の自分があったっていうのがこの時の心境だった。
そして多分、彼女もそれが良く分かっていたのだろう。
彼女は口ではおどけたように言いながらも、真剣に僕の行く末を案じてくれていた。
いいや、その時ばかりじゃない。
ずっと、ずっと……それこそお互いがまだ幼い年頃の子どもだった時から、ずっと……。
彼女は、僕の事を想ってくれていたんだ。
僕がその事に気がつく、ずっと前から……。

「ねぇ……クロノくん」

「んっ?」

「やりたいこと、見つかるといいね」

「……あぁ」

言われるまでも無い、多分この時の僕はそう思っていたに違いない。
此処から先の未来なんて何にも分かんない癖に。
今ならそう思えるのかもしれないけど、この時はこの時で今ある一瞬の中を手探るだけでも精一杯で─────右を向いても左を向いても分からない事だらけで……。
でも、決めなくちゃいけなかったんだ。
けじめを付ける必要があったから。
自分の為にも、そして勿論彼女の為にも。
本当はずっと子供でいたかったけど……彼女との今を思い出にしたくはなかったけど……。
僕は、選択肢に矢印を動かしたんだ。
自分の意思で……後で、どれだけ後悔するかも知らないで。
僕は進むべき道を選んで、誤った。

「─────なぁ、■■■■」

「んーっ? なにかな?」

「そう言う君は……何か、やりたい事はあるのか?」

思い出の中の僕はそう彼女に問いを投げた。
まるで逃げ場をなくした子供が、屁理屈をこねる様な口調で。
お返しとばかりに、ほんの少しの悪ふざけと共に……僕は彼女の言葉を待った。
一秒、二秒と時は過ぎて行く。
吹き抜ける風と、夕陽を背に揺らめくネオンの光に急かされるように。
朱から黒へと変わる空の下で、僕たちはゆっくりと互いの時間を刻み続けた。
でも、もしかしたら──────そう、もしかしたらって今でも思ってしまうんだ。
この時から僕らは初めて交わって、すれ違ってしまったんじゃないかって。
何時までも子供のままじゃいられなかった僕たちがこれからの節目に二人で子供同士のまま言葉を交わした最後の瞬間なんじゃないかって……。
今になって僕は、そう思ってしまうんだ。
あの時風に乗って消えてしまった、彼女の呟きを思い出すたびに。

「……聞きたい?」

「興味はあるな」

「ふふっ、何だか珍しいね。クロノくんが他の人のそう言う事に関心持つなんて」

「……単なる気まぐれだよ。他意なんてないさ」

嘘だ、今から何かこの時の自分に言えるというなら真っ先に僕はこの言葉を投げかける事だろう。
本当は何よりも彼女にそう問うてみたくて仕方が無かったというのに、素直に「教えてくれないか」と言う事が出来なくて……でも彼女ならそんな僕の素っ気ない態度にも微笑んで応えてくれるだろうって期待していて……。
やっぱり、僕は子供だったんだ。
それも、どうしようもなく甘ったれた糞ガキで、自分一人じゃ本当は何も出来ない奴だった。

己の事ながら恥ずかしい話だと思う。
だって思い出せば思い出す程、僕は昔から何も変わってないんだって分かってしまうから。
大人になったなんて口が裂けても言うつもりは無いけれど、それでも僕も自分の行動にどれだけの責任が付き纏うのか理解出来る程度には歳も取った。
いい加減このままの自分じゃ駄目なんだって……変えて行かなくちゃいけないんだって、頭では分かっているんだ。
彼女の事をもうこれ以上、振りかえらないでも真っ直ぐ前を見据えて歩いて行けるようにならねばならないなんて事くらいは。

「本当に?」

「……本当だ」

「ふーん。まっ、いいよ。そう言う事にしておいてあげる」

彼女はスッと立ちあがって僕の方へと向き直りながら、なにかんだような照れ混じりの笑みを浮かべて僕にそう言った。
その時の彼女の表情が何時もの彼女とは少し印象の異なる大人びた表情に見えたのは、多分沈む夕日の光が見せた錯覚なんかじゃなかったのだと僕は思う。
恐らく、彼女はこの時を皮切りに自分のしたい事へと向かい始めていたのだろう。
彼女は彼女なりに、一人の少女としてやりたい事を見つけ、それを既に見出していた。
それが、その時の僕と彼女の違いだったに違いない。
だから、あの時の彼女は僕にとって一歩進んだ存在に見えたのだ。
少なくとも、僕はそう思っている。
きっとあの時の僕も納得はしていなかったのだろうけど、きっとその頃を心の何処かで悟っていて─────何処かで羨ましいと思っていたんだ、彼女の事を。

「私は……私はね─────」

其処から先に彼女が語った言葉は何時もこの場面になって僕の思い出の中からかき消されて消える。
忘れる筈も無い。
忘れられる筈も無いから……僕は絶対に其処から先の言葉を思い返したりはしないのだ。
思い出すのが辛いのが分かっているから。
振り返るのが苦しい事だって熟知しているから。
僕はもう、その先に続く言葉の意味を考える事はしない。
でないと、本当にどうにかなってしまいそうだから。
あの時の彼女があまりにも眩し過ぎて─────そして、そう思いを馳せる今の僕自身があまりにも惨め過ぎて……。
彼女の事を本当の意味で裏切ってしまったんだって、そのどうあっても覆しようの無い現実に自分の心が押し潰されそうになってしまうから。
僕はもう、彼女からの“告白”を思い出したりはしないのだ。
もう二度と、絶対に……。





そして、思い出は現在へと回帰し、僕の意識もまたそれに合わせて現実へと引き戻される。
夕日に飲まれていた街並みの場景はすっかり夜となった簡素な住宅街のそれへと変わり、頬を撫でる風も何処かあの時の物とは違って明確な寒さを感じてしまう。
あの頃とはまったく違う場所、何もかもが異なる世界……。
そんな時の中に、僕は立っていた。
あの頃の回想から実に三年ばかりの月日を無駄に費やし、それまで背負った物達から目を背けて逃げ去るように流れた果ての先に。

此処に至るまでに幾度も躓いた。
執務官の地位も追われ、周りからの信用も何もかも失って─────ついには唯一の味方であった彼女の事すらも僕は裏切ってしまった。
だから、僕は一人になる事を選んだ。
僕が誰かと関わりを持つようになれば、遠からずその人間を不幸にしてしまうと身に染みて分かっていたが故に。
もうどう抗っても、自分ひとりの力じゃどうしようもないと諦めるしかなかったが故に……。
クロノ・ハラオウンからクロノ・ハーヴェイと名を変えて、彼女を手元に置いている“奴”の命令に従って、僕はもう一度管理局に身を置く事にしたのだ。
表の仕事ではなく、あくまでも面倒事を一人で片付ける裏方役として。
もう誰も傷つけなくて良い様に。
もう誰のことも背負わなくて良い様に。
僕は……色々な物を手放して、様々な人から逃げ出したのだ。
それなのに───────────────

「いやーごめんね。スバルのこと連れてきて貰うばかりか私たちまで送って貰っちゃって」

「あの、えっと……すみません。ご迷惑をおかけします……」

何をやっているんだろう、僕は。
今の現状を再度把握し直した瞬間、僕は頭の中に浮かんだそのフレーズと共に思わず溜息をつきたくなるような衝動に駆られてしまった。
仕事の都合で訪れた世界の片隅で、自分に与えられた仕事もままならない中、何処の誰とも知れない見ず知らずの少女を相手に人助け……。
そんな事をしている場合じゃないっていうのは分かっているのに、どういう訳か僕はまた別に出しゃばらなくてもいいような厄介ごとに首を突っ込んでしまっていたのだ。

馬鹿な事だっていうのは分かってる。
今更こんなことしたって何の特にもならないことだって自覚している。
もう小さな慈善活動をしただけで持て囃された昔とは違うのだ。
困っている人間を助けた所で一銭の得にもなりはしないし、感謝されたからってむず痒い思いをするだけだ。
ただの徒労、結局困っている人間の事を気に留めるのだって仕事が捗らない事への憤りの所為で落ち着かない心の不安定さが生み出す杞憂に過ぎはしない。
冷静になって考えれば直に分かる筈の事だろう。
こんな……こんな思ってもいないようなことを口にしてまで、誰かの手を差し伸べるような真似をするのが正しいわけが無い、なんていうことは。

「……気にする事なんてないさ。この国では困った時はお互い様、って言うんだろう? 国のスクールで日本の文化に明るい教師に教えてもらったよ」

心にも思っていないようなふざけた台詞だった。
元より僕はそんな上辺面だけの言葉を鵜呑みにして善行を働くような人間でもないし、形振り構わず他人に手を差し伸べようと考えられるほど善人でもない。
だけどこうやって好青年面を装い、平気で嘘をついてまで他人に関ってしまったのは偏に僕の詰めが甘かったのか、それとも単純に流され易い性質であるが故なのか……。
何ともお優しい事だ、と僕はそれぞれ異なる言い回しでお礼を述べてくる少女二人に軽く会釈をしながら己自身を嘲るかのようにそう思った。

「本当に助かったよー。この子ってばジュース買いに行って来るって出てったきり全然帰ってこないし……心配したんだからねぇ、もう」

「でも、良かったですねセインさん。お兄さんみたいな親切な人に見つけてもらえて……。最近、この辺りもなにかと物騒ですから……」

少女達の言葉に曖昧な笑みを浮かべながら「よかったですね」と適当に同意し、彼女達から向けられる好意を念を適当に受け流す。
やはり真正面から感謝やら礼やらされるのは気恥ずかしくて嫌いだ、って気持ちが今でも尚根強く残っているからなのだろう。
表情に浮かんでいる愛想笑いの裏側で僕は何処か言いようの無い居心地の悪さを感じてしまっていた。
一種の疎外感とでも言えばいいのだろうか。
こうして何気なく言葉を交わすにしても、どこか彼女達と自分とは違う存在なのだと感じてしまうのだ。
同じ町にいて、同じような人の波に流され、同じように笑みを浮かべているはずなのに……。
どうしてこんなにも自分は汚いのだろうと、そんな考えばかりが僕の頭の中で堂々巡りを繰り返していた。

「うんうん。確かこの前も何人か死んじゃったんだよね? ニュースをチラッと見た程度だったから事情はあんまり知らないけど」

「えぇ、何でも凶暴な野犬の仕業とかで……。何だか物騒で怖いです、私……」

「野犬、ねぇ……。いまいちピンとこないけど確かにそりゃあ怖いよねぇ。まっ、なんにしてもスバルも無事で何よりだし、月村ちゃんも大分回復したみたいで本当によかったよ。世の中面倒が起こんないのが一番だからね、やっぱり」

不安そうな少女達の声が鼓膜を擽る。
空色の髪の少女―――――確かセインとか名乗っていただろうか─────はそれほど気にした様子でもないといった様子だが、それでも言葉の節々からは何処か不安げな意図があるのだということが僕にも理解出来た。
恐らくもう一人の少女─────こちらは月村すずかと名乗っていた─────に気を使っているのだろう。
見たところ彼女たちはどう考えても後者より前者の方が年上だ。
セインと名乗った少女は恐らく僕と同じくらいで、月村すずかと名乗った少女は背格好から考えても10歳前後といったところだろうか。
そんな二人がどんな経緯で知り合い、どんな関係に至ったのかは僕には窺い知れないが、それでも何処と無くセインの方がすずかに対して注意を払っているのは彼女達の間に流れる会話の雰囲気から読み取ることが出来た。
年上として年下の少女を気遣っているのか。
はたまた、もっと別の理由があって必要以上に不安を煽らないようにしているのか……。
まぁ、何にしても見ていて微笑ましい光景である事に違いは無かった。
尤も、その会話の内容が巷を騒がせている“あの事件”のことでなければの話だが─────

「おーい。少年くーん」

「─────んっ?」

「どうしたの、そんなにボーっとして? あっ、ごめん。そう言えばあたし、ずっとスバルのこと君に任せたまんまだったね。良かったら替わろうか?」

「……いや、別段問題ない。少し考え事をしていたんだ」

暗に「疲れているのではないか?」と訪ねてくる彼女に僕は昔何処かで誰かに言ったような言い訳を口にし、ふと自分が背負っているもう一人の人物の方へと意識を移した。
僕の背中に凭れ掛かりながら気持ち良さそうに小さな寝息を立てている五歳ほどの女の子。
名前はスバル─────何でも歳の離れたセインの妹さんなのだそうだ。
思えば僕がセインやすずかと知り合うことになったもの、発端は偶然僕がこの子と出会ったことから始まった物だった。
街道の片隅で家族と逸れてしまったと嘆き佇む彼女と、そんな悲痛な光景を目の当たりにして思わず声を掛けてしまった僕。
自分の立場を棚に上げてお優しい事だよ、と僕自身もつくづく思う。
本当は自分の事だってままなら無いくせに、それでも「困っている人間が居たから仕方なかった」と自分に言い訳して他人に関り、己自身の余裕をすり減らしてしまう……。
とんだ悪循環という他無かった。
だけど結局僕はこの日も懲りずにスバルと一緒に逸れてしまった家族を探し回り、挙句彼女が「眠たい」と言い出せば背負ってやるような真似までして─────そして、その結果がこのザマだ。
保育士や所轄の真似事なんてするもんじゃない。
僕は顔に張り付いた曖昧な笑みの向こう側でそんな風な事を考えながら、心配そうにこちらを見つめるセインに対して「本当に大丈夫だ」と念を押して言葉を重ねるのだった。

「考え事?」

「そう、考え事だ」

「ふーん……。あっ、でも歩きながらぼーっとするのはお姉さん的にはあんまり感心しないかな。なんて言うか、危ないし」

「……ご忠告どうも」

何処かお姉さんぶった口調で僕にそう諭してくるセイン。
何と言うか、何処か抜けてるところは在っても根はしっかりした人なんだろうな、と僕は思った。
確かに口調や挙動は飄々としていて掴み処が無いものの、しっかりと年上らしい面は併せ持っていたように見えたし、何より彼女を探す時にスバルから聞いた話からもその是非を裏付けるだけの要素は十分に有しているのだろうことを想像に難くは無い。
何処か間の抜けたところは在るけれど、本当に自分の事を想ってくれる優しい姉─────スバルは確かにそう言っていた。
勿論、それが真であるのか否なのかなんていうのは実際の所は分からないし、まして赤の他人である僕の与り知れることではないのだけど……僕にはそう口にしていた時にスバルが浮かべていた照れ臭そうな微笑みが嘘であるようには思えなかった。
本当に羨ましい限りだ─────僕はセインに返すぶっきら棒な呟きの裏側でそんな事を考えながら、少しだけ切ないような感情を胸の内にそっと仕舞い込むのだった。

「それで?」

「んっ?」

「何をそんなに考えてたのかなーって思ってさ。なんて言うか、少年くんさっきから度々仏頂面になってる時があったから……何事かと思って。あれ? 聞いたら駄目気なことだった?」

「……いや、別に。ただつまらない事さ。宿題とか課題とか、そういう類のことだしな」

そう僕が言葉を繋げると彼女は一瞬にして興味を喪失したようで「そりゃまた大変なことで……」と何処か草臥れた口調でそう呟きを漏らした。
まぁ、実際僕の言った事は全部が全部嘘であるという訳ではない。
学校に通っていない以上宿題と言うのは嘘、しかし課題があるというのは本当のことだ。
この街で度々起こっている大形肉食動物による人の殺傷事件。
巷の噂では大形の野犬だの近所の動物園から肉食獣が密かに脱走したのではないかだの様々な憶測が立てられているが、当然その真意は別の所にある。
とある次元輸送船の事故で管理外世界に漏れ出したロストロギア、名をジュエルシード。
凡そ魔法という技能が文明の発達に関与する事の無かったこの世界においては異質な─────いや、僕達の世界においても段違いな危険度を有する代物だ。

恐らく、先に彼女達が話していた殺傷事件の被害者は十中八九ジュエルシード絡みのものなのだろう。
あれは動物や植物といった物から無機物に至るまで不特定の物に寄生し、そして高水準の戦闘能力を有した暴走体を作り上げてしまうという特性を持っている。
これまで僕が確認した暴走体は食虫植物が巨大化したような暴走体の一体だけだが、ジュエルシードが複数個あることを考えると、自分が倒したあの一体だけが暴走体として活動しているという訳ではないだろう事は想像に難くは無い。
それに上の人間から新たに通達された情報にはそのジュエルシードをここぞとばかりに火事場泥棒しようとしている人間の存在も確認されているとの記述があった。
正に八方塞、そう評すほかに今の現状を表す的確な言葉は無いだろう。
だが、泣き言を言ってばかりいても始まらないのもまた事実。
多くの人間の命が掛かっている以上、もはや僕も後に引くことは出来ないのだ。
今は一人でも多く─────出来れば目の前の彼女達のような人間がそうした事件に巻き込まれない事を祈りながら事件の究明に尽力するほかない。
まったく前途多難な“課題”だ、と僕は思わず溜息を漏らしそうになった。

「あー……何て言うか頑張ってね、少年くん。勉強関連はオール専門外なあたしも応援だけなら出来るから」

「……随分頼りない応援だな」

「おっと! それを言っちゃお終いだよ少年くん~。あたしはね、実技に生きる人間なんだよ。計算なんてお釣り計算出来ればいい訳だし、文字だって別に小難しい単語知ってなくたって生きていける訳じゃん? 知恵が無くとも世は回る。だったら世はこともなしって奴でしょ」

「典型的な駄目人間の言い分じゃないのか、それは……?」

呆れたように僕がそう訪ねると彼女は無理やり造ったような笑みを浮かべて「あはっ、あはははは……」と何処か自棄気味に苦い笑いを浮かべていた。
きっとこれがコミックか何かだったら彼女の胸元には「ザクッ!」だの「グサッ!」だのの効果音が入っていたことだろう。
傷付くのが嫌なら最初から墓穴を掘るようなことを言わなければいいのにと思わないでもないが、きっとこういう所も彼女が他者から好かれる所以なのだろうと僕はそう納得する事にした。
でなければ今の彼女があまりにも見ていて不憫だと言うか……いや、きっと彼女も本望なのだろう。
先ほどから口数の少なかったすずかもクスクスと笑って楽しげにしているし、多分彼女の性格から考えるに立ち直るのも速い筈だ。
結局、独りでに自爆したセインに掛ける慰めの言葉も見つからず、そういうようにしか思考を纏めることが出来なかった僕はどんよりとした空気を醸し出しているセインから離れて、すずかに話題を振る事に決めた。

「そう言えば……君はもう体調の方は大丈夫なのか? 何でも道端で倒れていたらしいけど」

「えっ……あっ、はい。おかげさまでもう大分楽になりました」

「……そうか。身体は大事にな」

そう僕が言葉を投げ掛けると彼女はもう一度「ありがとうございます」と丁寧に礼を返してくれた。
だが、やはりその言葉には覇気が薄く、声色も何処か沈んでいるように思えてしまう。
やはり口では大丈夫と言っていてもやはり全快していないことは隠し切れないのだろう。
ふらふらと覚束ない足取りで歩を進める彼女の姿は眺めていて危なっかしいという他無かった。
一刻も早く家まで送り届けてあげた方が彼女の為だろう─────そう思って僕が彼女に「家の場所は此処から近いのか?」と訪ねると、すずかは申し訳無さそうに一礼し、「もう少しです」と力なく返答を返してきた。

何だか聞いているこっちが申し訳なく思ってしまうような腰の低い対応だった為、僕も「……そうか」としか声を掛けてあげられなかったのだが、きっとこれが彼女の性分なのだろうと思って僕はそれ以上言葉を繋げる事はしないことにした。
そういう人間はストレスを蓄積し易いから将来的にはもう少し社交的になったほうがいいのかもしれないが、少なくともそれは赤の他人である僕が一々口を出すような事じゃないだろう。
僕は何処か寂しげで力ない表情を浮かべるすずかの横顔から目を離し、しばらくの間二人……いや、落ち込んだままとぼとぼと前方を歩いているセインと僕に背負われているスバルを含めれば四人で無言のまま黙々と歩を進めることにしたのだった。

「……………」

「……………」

「……駄目人間じゃないもん。……残念な子じゃないもん……」

僕とすずかが無言の中、何か悲痛な独り言がぶつぶつと呟かれていたような気もしないでもなかったが、其処はその独り言を壊れたジュークボックスのように繰り返している当の本人の為を思って割愛しておく。
きっと彼女にも思うところがあったのだろう。
それとも勉強に関して何か深刻なトラウマでも抱えているのだろうか。
まぁ、何れにせよ僕には分からないし、分かった所でどうしようもないのだから口を挟むだけ野暮という物だろう。
僕はすずかが塀の途中に聳えている大きな門の前で歩を止めるまで、そんな風なことを一人考え続けたのだった。

「あっ……!」

「んっ?」

「へっ? どーしたの、月村ちゃん?」

「あの……着きました。私の家……」

まるで今しがたハッと気がついたようにそう口にするすずかの言葉に僕はその場で足を止めて、彼女が自分の家だと証する建物の方へと視線を移す。
随分と立派な家……否、此処までの大きさとなると屋敷といった方が正しいのだろうか。
小奇麗に整えられた庭木、芝生の広がる庭、そしてその中央から屋敷の玄関まで伸びるコンクリートで舗装された通り道─────ただ一つだけというなら有り触れている物だと感じてしまうそれも、ここまで広大な物となるとそうそうお目に掛かる事はないのではないだろうか。
現実、僕もセインもそれ等の光景を見回してから数秒の間……もっと正確に言うと、すずかに今一度声を掛けられるまではそのあまりの広大さに目を奪われて話せなかったほどだ。
もしかしたら目の前で不安げに僕やセインの方に潤んだ眼差しを向けている彼女は僕やセインが考えていた以上に一般庶民からはかけ離れた存在なのかもしれない─────僕は彼女の声に反応する傍らでそんな風な事を考えながら、深々と頭を下げてくるすずかに「気にしないでくれ」と言葉を投げるのだった。

「あの……本当に今日はお二人ともありがとうございました。助けていただくばかりか、送ってもらいまでしてもらって……。お礼は後日しっかりとしますから……」

「あー、いいっていいって。別にお礼が欲しくてやった訳じゃないしさ。しっかし、凄い家だね~。あたしが予想してたのを軽く100倍は上回ってたよ、この家は。もしかして月村ちゃん家ってお金持ちだったりするの?」

「いえ……。そんな事は無いと思いますけど……」

「そう? ここら辺の家って皆こんななのかな……。まっ、いいか。それじゃあ月村ちゃん、身体を大事にね。あたしも上のお姉ちゃんを待たしちゃってるだろうから急いでそっちの方に行かなきゃ行けないんだ。まぁ、手伝う筈だった引越し作業も全部丸投げしちゃった訳だし……」

どこか引き攣ったような笑みを浮かべながらガックリと肩を落とすセイン。
恐らく彼女にも色々と事情があるのだろう。
まるで粗暴な鬼人に怯えるのを無理やり他の人間に見せまいとでもしているかのようなその素振りは、そこら辺の事情を知らずとも何となく同情が出来るものだった。
ただ、だからと言って僕には同情をする以外の何も出来はしない。
何故ならこうして親しくしている故に思わず忘れそうにもなってしまうが僕らは所詮初対面同士の赤の他人で、この先においても交わるかどうかすらも危ういような脆い関係だ。
そんな人間の事を一々気に掛けている様では進むことも進まない─────冷静に考えれば、僕がセインにこうした感情を抱く事さえ普通だったらありえないようなことなのだ。
あまり他人に情を掛け過ぎるものではない。
僕は心の中で幾度かそのフレーズを復唱しながら、「スバルのことありがとね」と声を掛けてくるセインにスバルのことを渡し、その場から去ろうとするセインへと声を掛けるのだった。

「行くのか?」

「あぁ、うん。流石に今すぐ戻らないと色々ヤバそうだからね。現時点でスチームポットみたいに怒ってるであろう人の機嫌をこれ以上ひん曲げたくないのですよ、あたしも。つーことで、あたしとスバルは此処でお暇かな。二人ともまた機会があったら会おう! じゃあね~」

「セインさんもお元気で……あの、お兄さんは……?」

「……僕も帰るさ。ちょっと寄り道してしまったが、残ってる課題を早く処理しなければならないんでね。君も早く家に戻った方がいい。親御さんも心配しているだろうし……なにより身体を冷やさない方がいいだろうからな。……それじゃあ、僕もこの辺で」

寂しそうに去っていくセインの背中を見届けていた彼女に僕もそれだけ言い残し、同じようにすずかの元から遠ざかっていく。
一歩、二歩……足を進めるごとに今日の出来事が僕の中で泡のように消化されていく。
多分、明日にでもなれば僕は今日のことを忘れてしまうことだろう。
所詮今日の出会いは泡沫の夢、ほんの少しの気まぐれが生んだ偶然の産物に過ぎないのだ。
何時までも胸の内に留めておいていいものではない─────少なくとも僕はそう思う。
何せ彼女たちはこの街の住人で、僕は所詮時間が経てば何処へなりと流れていく余所者でしかないのだ。
一つの物に執着すれば、それだけ後が辛くなる。
そんな後悔を今も尚引き摺っている僕からすれば、仕事で出向いた世界の人間と深い親交の情を持つなんて事はナンセンス以外の何物でもないのだ。

それに、引き摺るのなら引き摺るで極力重くは無いほうがいい。
彼女達と別れてから数十メートルも行ったところで、僕はもう一度だけ後ろを振り返りながら上着の内ポケットを弄って紙巻の箱を手の内に納める。
其処にはもう、セインの姿もすずかの姿も確認する事は出来なかった。
だけどそんな当たり前の光景が僕には妙に安心出来るようなもののように思えて─────僕は苦笑を浮かべながら煙草の箱の尻を叩いて出てきた煙草を口に咥えながら、再び夜道へと足を踏み出していく。
あれが夢であったのだとするなら多分それは良い夢だったんじゃないかと、そんな事を考えながら。
この先嫌でも交わらざるを得ないであろう、自身の運命をも知らないで……。









[15606] 第二十九話「雨音の聞える日に、なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:b3765b7d
Date: 2011/04/18 17:15
あの忌々しい鳥獣との死闘から早三日。
誰とも知れない高層マンションの一室でアリシアと互いを慰め合ったあの時から、もう三日だ。
今日に至るまでの時間を安穏の過ごせていたかと言えば勿論違う。
寝ても覚めても戦闘の訓練と憂鬱な日常が続くだけの毎日が少しくらい死に掛けたという程度で変化する訳でもないし、私自身が何か変わったかと言えばそうでもない。
ただ気だるく起床し、そのまま肩を落として登校し、陰湿なクラスの雰囲気に塞ぎこんで、時々保健室で先生とフェイトちゃんの様子なんかを話して談笑する……そんな繰り返し、そんな日常。
特別な事なんて何も無い、ただ何処にでも有り触れた最悪な私の毎日が其処には広がっていたのだと言えた。

じゃあ逆に其処まで熾烈な日常を謳歌する羽目になったのか、と問われた場合はどうだろうか。
否、無論そういう訳でもない。
別に私が殺し、殺されの闘いに身を投じようと投じまいとそんな事はどうでも良い事だったのかも知れないが、何一つ変化が無かったのかと言えばそうでもないのだ。
まず何というか……此処最近はアリシアと一緒に過すことが心なしか多くなった。
まぁ、これまでのことを振り返ってもジュエルシードを持っている時は何時だって一緒に居るようなものだった訳だし、夢の中で訓練する時もまた然りな訳だから其処まで増えた訳じゃないんだけど……あの日を境に現実でもよく顔を会わせる事は間違いなく本当のことであるということが出来た。
多分あの子が実体化してこの世界に存在出来るようになったから、私としても色々と精神的な面で安定する物があるのだろう。
先生と一緒に居る時意外であんなに安らいだ気持ちになったのは何だかすごく久しぶりだったように私には思えた。

それに先生の話によるとフェイトちゃんが近々私に街を案内して欲しいと言っていたというような事を耳にしたのも記憶に新しい事柄だ。
記憶を失い、帰るべき場所も自分が何者であるのかも分からなくなってしまったのだという少女─────フェイトちゃん。
名前以外の総てを失い、現在は先生の自宅で保護されている彼女の事だ。
彼女との出会いからも早数日。
一応それなりに交流を深めた人間ということもあって色々と私も心配していたのだけれど、ようやく自分から外に出る決心がついたということらしい。
フェイトちゃんは今まで何故かは知らないけれど、自分が何物であるのかを知る事を深く恐れているような素振りが度々会ったのだという事を私は先生の話を通してよく聞いている。
故にあまり外に出歩こうとしなかったことも、独りで居る事に並々ならぬ恐怖を覚えているようだったということも。
そんなこともあってか、先生も大分困っていたようだったのだけれど……此処に来てようやく説得することが叶ったということなのだろう。
私自身、己の事を出汁に使われるのは正直気が引けるのだけれど、これが先生のお願いだというのなら無碍に断れる筈も無い。
人様の為、なんて大義名分を背負うような身の上じゃない私だけど……頼まれたからにはしっかりと全うしようとは思っているのだ、これでも。

後、これは本当に心底どうでもいい事なんだけど……ここ数日すずかちゃんが学校に来ていないというのも目新しい出来事と言えば確かにそうだ。
朝のHRで担任の教師は体調不良が云々とか言っていたけれど、その真偽は定かでないし、別段私も興味は無い。
興味は無いんだけど─────これでも一応負い目を感じていない訳ではないのだ。
すずかちゃんが学校に来なくなったのは丁度私が彼女を面と向かって拒絶したあの日が境目。
もしかしたら教師の言っていた体調不良っていうのは建前で、本当は単に登校拒否になっているという可能性だって無きにしも非ずなのだ。
正直アリサちゃんに掴まって彼是と追求されなかっただけ行幸と言えるのかもしれないけれど、もしも私の予感が掠めでもしていたのだとしたら後々宜しくない事態になりかねないのもまた事実。
まぁ、だからと言って私自身が何をする訳でもないんだけど……とりあえず今後彼女を見かけた時は極力苛々を表にしないよう心掛けようと一考しないでもないのだ、私も。

そして最後に─────あぁ、と言うのもこれが一番変わった事と言えばそうなのかもしれないけれど……私はこの三日間で己の闘い方の幅を一気に増強させていた。
と言うのもまぁ、有り体に言えば己の使用出来る魔法の数を増やしたり、魔力込めを上手く調整して威力の増強や発動時間の短縮なんかに力を入れただけなんだけど……実際に変わったのは何もそれだけじゃない。
変化したそれ等の術式を如何に効率よく、そして実戦的にこなしてみせるか否か。
今までだって己の命が掛かっているだけあってそれなりに力を入れてきた事柄ではあったのだけれど、所詮それは付け焼刃で覚えた大雑把な代物だ。
それに幾ら日ごろから訓練をしているとはいってもこれまでの二度に渡る暴走体との戦闘は結局素人芸をフルに活用しても通用しなかったような場面が多かった訳だし、結局最終的に命を拾ってこれたのもジュエルシードの能力とアリシアの助けがあったからこそだ。
これからは実体化したアリシアとも連携したフォーメーションを意識していかなければならない訳だし、お互いに助け合えるように戦闘の中に幾分か余裕を持たせられるようにしなければならなくなる。
その為には─────やはり己の戦闘技術を昇華させるほか、道は無いのだ。

「……すぅ、はーっ」

一呼吸、そして閉眼。
まるで死人の様に息を潜め、赤く染まった空の下─────夢幻世界アルハザードの中に聳える仮想街に私は立つ。
手には凶器、銘を戦斧バルディッシュ。
これまでの闘いの中で共に技を磨き、術を発し、血を浴びてきた馴染みの得物だ。
そして、私はその凶器をまるで弧月を描くかのように己の肩先まで持って行き、刹那の内に構を取る。
右肩の上、まるで担ぐかのように構えられたその型は凡そ洋風な外見であるバルディッシュには似つかわしくはない。
だが、私の脳は己の身体がその型を取る事に一切迷いを生む事は無い。
それもその筈─────これはアリシアから賜った歴のある剣術の構なのだから。

確か剛なる剣であることを重きに置いた流派─────薩摩示現流の蜻蛉の構を独自にアレンジしたものだとか言っていただろうか。
まぁ、私も剣術の事なんて「るろうに剣心」とかでしか知らないから詳しい事はあんまりよく知らないのだけど、確か私の記憶が間違いでないのなら作中で剣心も一定の評価を下していた筈だからそれなりに名の売れた代物ではあるのだろう。
その型から振り下ろす一閃によって敵の防御を崩すほどの速度と威力を誇るというのはアリシアから聞きかじった触れ込みだ。

未だに半信半疑か、と問われれば確かにその通りだ。
機関銃やライフルといった近代兵器が進歩を続ける中で剣術なんていう時代遅れな代物は凡そ近代的な死合いにおいては無用の長物も良い所なのだろうし、それこそそんな近代兵器よりも尚始末の悪い魔法なんて技術を兼ね備えた闘いにおいては保険にもならない可能性のほうが俄然高い。
疑いを持つな、という方が実際無理な話だろう。

しかし、例えそんな理屈が分かっていようと尚私がこうして己の戦闘スタイルから外れた妙技を身につけようとしているのかと言えば─────偏に、死合いにおいての柔軟性を欲するが故だ。
今まで私が見かけてきた暴走体はどれもこれも形が一定しておらず、その身姿に秘められた能力も様々だ。
野獣のような獰猛さを兼ね備えた者。
豹のようなしなやかな身体に翼を有する者。
肉体を破壊されても即座に再生させる者。
私が相対してきた相手だけでもこれなのだから、これから戦うべき者達がそうした異能の力を有している可能性は十分に高い。

身体が鋼のように固い者がいるかもしれない。
あるいは蒟蒻のように柔らかで弾力のある身体を持つものがいるかもしれない。
そうした人智を超えた生き物達とまともにやりあうのならば、当然今までの戦闘スタイルに固執しているようでは先なんてありはしないのだ。
ならば……ならば、私はどうすれば良い。
決まっている。
あぁ、至極……至極簡単な事だ。
己の身に一つでも多くの技能を叩き込み、昇華させ、戦術の中に組み込んで発展させる。
そう─────やるべきことはたったそれだけだ。
瞬間、私は眼を見開き、手にした戦斧を一気に眼前の目標へと振り下ろす。

「─────ッ!!」

眼前に捉えたモノ─────それは異形の黒。
凡そ人型にも見えるそれは無骨な太刀を構え、まるで一足一刀を熟知しているかのように私の手から繰り出される戦斧の一振りを見据え、そしてほんの一瞬の挙動でそれ避けようと身体を後方へと送ろうとしている。
暴走体ダミー……それもアリシアがこの訓練の為だけに作り上げた人型の特別製だ。
だが、人型と言ってもその身姿は素人目に見ても真っ当な人のそれではない。
二メートル近い巨躯。
異様な黒い皮膚に覆われた丸太のような手足。
そして彫刻のようなのっぺりとした貌。
そのどれもが不気味そのものであり、また醜悪なオブジェのようでもあった。

しかし、その実力はそんな異様な外見とは裏腹にそれまでの暴走体ダミーとは一線を画して強大なものだった。
殆どジュエルシードの反発の力を利用して殆ど神速の勢いで繰り出されたはずの私の一閃を見切り、あまつ避けると同時に後手に回って反撃を繰り出そうとすらしてきているのだから。
極められた抜き技─────なるほど、確かにこれは獣には出来ない諸行だと私は思った。
並々ならぬ反射神経と動体視力、そして己の肉体の構造を隅々まで熟知していなければまず出来ない芸当である。
所詮はダミーと侮る事無かれ。
目の前の標的はそれまでの畜生を模したモノとは根っこの部分からポテンシャルの違う代物だと私は明確に断言する事が出来た。

だが、私は自身の貌に張り付いたその表情を微塵も変えることは無い。
例え己の繰り出した一撃が虚空を裂いていた事を理解したとしても。
その隙を突いて暴走体ダミーが身体を翻し、私の胸部に刺突を繰り出そうとしていたとしても。
眼前に迫った明らかなる死を認識し、感じ取っていたとしても。
私は眉一つ動かさず─────目の前の敵を侮蔑し、嘲笑する。
刹那、私は振り切った戦斧の切っ先を反転し、その勢いを殺さぬまま一歩前へと踏み込んで一気に暴走体ダミーの身体へと斬り上げ、肉を裂いた。

「名付けて……我流魔剣・鍔眼返しってところかな?」

私がそう呟いた瞬間、ドチャッと音を立てて暴走体ダミーの骸が地に伏した。
その間、僅か数瞬。
一秒にも満たない時の中でその暴走体ダミーは右下腹部から左肩口までをばっさりと切裂かれ、その生命活動に終止符を打ったのだ。
まぁ、最後の台詞に関してはノリで言っちゃっただけなんだけど、それでも我ながら中々の出来栄えだと感嘆すら覚えるほどだ。
アックスフォームであるバルディッシュの刀身の峰に拒絶及び反射の力を加えて相手よりも早く先の先を取り、例えそれが避けられたのだとしても相手が後の先に移るよりも早く刀身を翻し、尚且つ瞬時に再び拒絶と反射の力を加えて相手を斬り上げる神速の刀術。
凡そ常人には真似する事は叶わないであろう必殺の妙技だ。

アリシアからこれを教わった時は本当に人間に出来るかどうかも分からない眉唾だと私も思っていたのだが、なるほどこれならば納得も出来るというものだ。
所詮今の段階では大道芸にも均しいこの技も繰り出し方次第では十分に実際の死合いにも転用出来るだろう、と。
私はバルディッシュの刀身から滴る血糊を二、三度振って払い落としながら、コツコツと歩を前に進め、眼前に佇む幾体かの暴走体ダミーに視線を向ける。
残りのターゲットはもはやこれだけ。
今回は極力魔法とジュエルシードの力を使わない事を重きにおいての訓練だったのだけど、それもそろそろ終いだということなのだろう。
けれど─────まぁ、いい。
己自身が目標に掲げていた成果は無事得られたのだ。
あまり多くを望み過ぎると言うのも好ましくない。
私は手の内の戦斧にアックスフォームからグレイヴフォームになるよう命じ、自身の両脚に反射と反発の能力を込めながら、この演習をとっとと終わらせるべく一気に太刀を構える暴走体ダミーの方へと駆け出していくのだった。

「それじゃあ……初めようか? 御命、頂戴ってねェ─────!!」

そう叫ぶや否や、私は地を捉える両脚を伸ばすし、瞬時に行動を開始した。
まずは正面。
太刀を振り上げ、今にも振り下ろさんとしていた暴走体ダミーに対し、私は何為す暇も与えず鉄槍となったバルディッシュの切っ先でその喉元を切裂さいて、そのまま蹴り倒してジュエルシードの能力を行使。
亡骸を足場にその直傍にいたもう一体の暴走体ダミーへと更に距離を詰め、更に一閃。
瞬間、暴走体ダミーの頭がまるで弾んだバレーボールか何かのように宙を飛び、泣き別れになった首の切断部からは噴水のように血飛沫が舞った。

しかし、止まっている暇など私には微塵も無い。
血の朱で染まる虚空を流れ見ること一瞬。
のけぞり斃れ行く首なしの骸の斜め後方から、刀身に手を沿え、刺突の構えのまま此方へと敵が突っ込んでくる事を私は確かに捉えていた。
だが、今更その程度でうろたえるほど私は軟じゃない。
故に私は前後に開いた足、その後足で踏み出したあと残した軸足をも前方に向けて伸ばし、仕上げに爪先で地を蹴りだす。
つまりは最大限に身体を前へ送る飛躍の如き踏み込みで一息に間合いを奪い─────ままに、斬り。

「チョイサァ!!」

ドスッ、という鈍い音……そしてそれに続くように備考を擽る臓腑の生臭い臭い。
戦場という空気を嫌でも思い返させるかのような、そんな感覚だと私は思った。
気持ちよくは、ない。
だけど紛れも無い手応えはあった。
自身が強くなっていく実感、己の技術が高められているのだという僭越。
嬉しくなんか無い。
本当だったら生き物を殺傷する力を高められた所で嬉しくなんて無いはずなのに─────私は尚も貌に笑みを浮かべたまま血に塗れた鉄槍を振い続ける。

左右から襲い掛かって来た双敵は、まず袈裟懸けに来た左手から飛び退きがてら右手へ向かい、斬ると見せてその敵の攻め手を挫きたたらを踏ませ、隙に足腰の回転に乗せた切り下ろしで、得物を取り直しかけていた左敵の頭蓋を唐竹に割り。
即座に反転しての横薙ぎで右の首をも打ち放つ。
そして更にそのすぐ左方に立っていた暴走体ダミーにはその胸部へとまるで林檎を包丁で突き刺すかのごとく、鉄槍の切っ先を思いっきり突き入れて絶命させる。
ラスト……瞬間、私を自身が今しがた斃し終えた暴走体ダミーが最後の一体であったのだという事を悟った。
辺りを見回してみると、其処は血みどろで、その中心に立っている私もまた髪の先から爪先まで余す所無く血塗れだった。

終わった、とは思わない。
所詮こんなものは予め組んであるカリキュラムの中継ぎでしかない訳だし、直にまた新しい─────今度はしっかりと魔法を使った訓練が再開する。
この忌々しい造型の街並みも正直見飽きた感は否めないが、それが終わるまでは今までのスコアを計算したり、暴走体ダミーを作り出しているアリシアとも会えはしないだろう。
本当は彼女と合同で訓練をしたってよかった。
と言うか、アリシアは当初それを希望していたのだ。
二人揃っての連係プレイ。
私がメインを張り、アリシアがサポートをするという理想的な形……。
なるほど、確かにそれはそれで重要なのだと私も思う。

だが、そういう訳にも行かないから私はあえてこうして一人で技術を磨いているのだ。
今までのような素人芸の戦闘では確実にアリシアの足を引っ張ってしまう事になるのだろうし、実際私がこれまで生き残ってこれたのは殆どがアリシアの手助けの御蔭だった。
本当だったら私だってアリシアに何か手助けをしなくちゃいけないはずの立場なのに、だ。
今までの自分のままではアリシアに負担を掛けてしまってばかりでちっとも連携なんて出来はしない。
私はそう考えたが故に、まずは己の小手先の技能を上げようとアリシアに申し立てて、今の状況に落ち着いているという訳だ。


「えーと……何体斬ったんだっけ? ひい、ふう、みい……」

今回の訓練で屠った暴走体ダミーの数を私は可能な限り思い出しながら、血に塗れたバルディッシュの刀身を二、三度振って、それからその刀身に目をくばらせる。
本当にいい武器だ、私は刃こぼれ一つ無いきめ細かなバルディッシュの刀身を眺めながらつくづくそう思った。
子供の私にも悠々と振るえて、尚且つあんな無骨な化け物を数十体も斬り殺すというような荒行を経てもまったく衰える気配一つ無いのだ。
正直私はこうしたデバイスと呼ばれる兵器の技術的な側面は余りよく存じないし、実際それほど興味も湧きはしないんだけど……此処まで己に都合のいい得物は他に類を見ないと言っても過言ではないだろう。
銃は弾丸が尽きれば単なる鈍器だし、ナイフや刀だって素人が使えばあっという間に刃物から鉄の板切れだ。
そういった観点から考えても、素人─────まして一介の小学三年生に過ぎない私でも気兼ねなく使用できる分バルディッシュは手に馴染みやすい武器であるのだとも言えた。

『計34体です。マスター』

「あれ? そうだっけ?」

『肯定。今回の訓練のミッション2とミッション3においてマスターはそれぞれ一体ずつのターゲットを打ち損じました。原因はどちらも切先の入りが浅かったことです』

「パーフェクトはならず、か。まぁ、魔法も全然使わないようじゃあ精々そんなもんなのかもね。ありがとう、バルディッシュ」

律儀にも今までのスコアをしっかりと把握してくれていたバルディッシュのAIに私は心ばかりの礼を述べ、その柄先でポンポンと肩口を叩きながら一歩、また一歩と不気味な様子を醸し出している街の中央へと歩を進める。
アルハザードの力によって私の住んでいる海鳴市の全貌を複成し、再現した朱の空が広まるこの寂れた街。
存在するのは私と、次々沸いてくる暴走体ダミーと、後は骸だけだ。

この街は死が満ちている。
いっそ醜悪な諧謔の都と評しても適当なのかもしれない。
此処では面白いように色々なものが死んでいく。
だけど死に切れないからまた蘇って、やっぱりそれだと道理に合わないからまた殺され朽ちていく。
無論、その道理に当て嵌まるのは暴走体ダミーだけの話なんだけど……まぁ、なんにしても良い趣味でない事だけはまず間違いないと言えよう。
アリシアもアリシアで奇怪な感性を持っているもんだ、私は心の奥底でそう思いながらまたも湧き出てくる暴走体ダミーに向かってバルディッシュの刃先を向ける。

だけど、私はそうしたものに耐えてでも強くならなければいけない理由がある。
執念とか、意地とか聞えの良いものじゃないのだとは思うけど、守りたい人を守る為だけに武を振るう事だって別段悪いことじゃないだろう。
だから……そう、だから私は今も、そしてこれからもこの街で幾度となく異形の者達を斬って、穿って、嬲り、誅し、戮し、殺していくことになるだろう。
ただ強くなる為に。
ただ、強くなる為だけに。
私はこの腐った臭いのするジオラマの街で、ただ一人己の技を磨き続けるのだ。
そこに、果てがあるのかどうかも分からずに──────────





訓練を終えた後、私は現実の世界へと戻り、実体化したアリシアと共にとある場所で悠々と寛いでいた。
三日前に私が目を覚ました時に居たあの宿主不明の高層マンションの一室である。
本当は私も家宅侵入とかそこら辺のことが怖くて最初の内はあんまり此処に入り浸るのも躊躇いがちだったのだけれど、よくよく考えればアリシアが実体化して私と一緒に居られるような場所はそもそも此処しかないんじゃないか、ということに気がつき、結局それ以降二人で過ごす時の居場所として学校帰りなんかに利用させて貰っているのだ。
何せアリシアが実体化した場合、私の家では家族連中に色々突っ掛かられる可能性だってあるし、あのデリカシーのない兄ならノックもしないで入って来る可能性もあるから迂闊に寛がせてあげることも恐らくは不可能。
加えて外で休もうと思っても、夜遅くまで二人で一緒に居られるような場所を私は知らないし、例え知っていたとしても此処しばらくの騒動で頻繁に巡回している警官にびくびくしながら何て真っ平御免だ。
という事で、宿主が帰ってくることや、この部屋の家賃のことや、何時も鍵を開けっぱなしにさせてもらっている事とか色々と心配の種は尽きないんだけど……一度開き直ってしまえば、案外此処は私にとっても居心地が良い場所であるのだとも言えた。

現在の時刻は既に午後の四時過ぎ。
天候は生憎の雨─────窓の外から響き渡る雨音が物憂い気持ちを駆り立ててくるような嫌な天気だ。
空一杯に広がった曇天が時よりゴロゴロと音を立てる様などは正にその典型と言えるだろう。
別段この歳にもなって雷が怖いとかそういう訳ではないのだが、それでも横殴りに吹き付ける雨音に追従して響くその音はどうにも心臓に悪いと言わざるを得ない。
それに……何と言うか、こうやってじーっと雨音を聞いていると何だか不安定な気持ちになってしまうのだ、私は。
自分は此処に居る筈なのに、心だけが一人歩きをして何処へなりと去っていってしまうような、そんな感覚。
あまり心地の良いものではないと私は思う。
期待にせよ不安にせよ、気持ちが浮き足立った所でいい事なんて一つも無い。
しかも、そういう時は得てして何事も取り逃しやすい物だ。
私自身、験担ぎだとか風水だとかそういったものをまともに信じる性質でもないのだけれど、それでも何となく……そう、何となくこういう日には大人しくしていようと思ってしまう訳なのだ。

「あ~ぁ、あれほど今日は一緒に訓練しようね、って言ったのに……酷いよ」

「にゃはは、ごめんごめん。だけど仕方ないでしょ? 小手先の技術でも身につけなきゃ今後の闘いでも連携なんて出来るとは思えなかったんだしさ。派手に魔法を撃って斃して封印するっていうだけだとこっちの身がもたないしね。今は一つでも多く魔力をセーブして戦っていける技術が欲しかったんだよ、私も」

「それは私だって分かってるよ。分かってるんだけどさぁ……」

「ごめんね。だけどアリシアから教わって技法はちゃんと闘いの役に立ちそうだし、これでも本当に感謝してるんだよ? ほ~ら、お礼に膝枕してあげるから……ね?」

不満そうに頬を膨らまし、何処か釈然としないとでも言いたげにアリシアは乱暴に私の膝元へと自身の頭を投げ出すと、そのまま私に顔を合わせずそっぽを向いてしまった。
随分とまぁ、不機嫌な事だ─────私はそんな彼女の頭を優しげな手つきで撫でつけ、その半面で苦笑にも似た笑みを表情に浮かべながらそう思った。
無論、私だって悪かったとは思っている。
せっかく二人で頑張ろうと意気込んでいた矢先がまたもこれなのだ。
ここ数日に及ぶ私の戦闘技術の向上訓練だって彼女からしてみればまた私が独断専行をしようと力をつけているように観られて不信感を持たれても仕方が無いと言えば仕方の無い話だ。

彼女が憤慨する気持ちだってよく分かるし、今日の訓練の前に刀剣術の手ほどきをして貰う時に気が進んでいない様子だったのも頷けないと言うと嘘になる。
まぁ、こうして膨れっ面をしながらも素直に膝枕に応じていることからも心の其処から怒っている訳じゃないことは一目瞭然なんだけど、今後は多少なり時を使う必要があるのはまず間違いないだろう。
なんとも難儀なことだ─────私はそんな徒労ながらも不快ではない感覚に自然と自分の表情が綻んでいくのを感じながらも、ただ今は目の前の少女を宥める事だけに全力を注ごうと自らの内で決断を下したのだった。

「こんなんじゃ誤魔化されないんだからね。其処の所、なのはお姉ちゃんはちゃんと分かってる?」

「分かってる分かってる。だからこうして誠心誠意尽くしてあげてるんだよ。ご奉仕、ご奉仕ってね」

「んっ……。何かその言い方、ちょっと卑猥かも……」

「見た目も精神もお子様の癖に何ませたこと言ってるんだか。いやまぁ、私だってそう歳が変わらないはずなんだけどね」

彼女が口にした言葉のニュアンスが分かってしまう時点で私も大概穢れているのだとは思うけれど、今更そんな事を自責したところでどうしようもない。
故─────思考、破棄。
第一そういう事をゲームやら何やらで人よりも早く理解してしまった私も私なのだとは思うが、そもそもその発端を作った人間の方が鑑みるべき責任は大きい筈だろう。
恐らく、先生と関らずにこの日まで平々凡々と生きていたのなら私だってこんな事で一々顔を引き攣らせるようなことにはならなかったように思う。
まぁ、それを今更考えた所で益体も無いのだから思慮するだけ無粋と言う物なのかもしれないが、少なくとも頬を赤らめ恥ずかしがる程度の羞恥程度は残っていて欲しかったと自分でも思った。
無論先生には感謝しているし、し切れる訳も無い。
訳も無いのは確かなことなのだが……そういう所はちょっと恨めしげに思ってしまうかもしれない。
私は堪らず呆れて溜息を零しそうになる表装の裏側でそんな彼女と同居しているフェイトちゃんが私と同じような人間にならないことを切に祈るばかりだった。

「それで? どうだったかな、私の技は? 一応言われた通りやってみたつもりだし、それなりに自分でも手ごたえがあったように思えたんだけど……」

「う~ん、小手先の技としてはよし。だけどメインに使っていけるかって言ったら多分無理なんじゃないかな、って所かな。握りも甘いし、踏み込みも浅い。それに何よりなのはお姉ちゃん自身が刀身が振り降ろされる速度にも、斬り上げられる速度にも振り回されちゃってるからね。あのままじゃあ一歩目を踏み込んで切り上げようとする瞬間に斬られるなり、刺されるなり、突かれるなりして殺されちゃうのが関の山だよ」

「厳しいなぁ……」

「厳しいよ。他ならぬなのはお姉ちゃんの命が掛かってるんだもん。一応教えた人間としての責任もあるし、その剣術を生み出した昔の人にも悪いからね。とりあえず改善できる所があるとしたらまずはもっとよく握りの術をよく手に馴染ませて、さっきの動作を一太刀分の時間で繰り出せるようにすることかな。まぁ、その為には踏み込みとか拒絶と反射の力を刀身に加えて押し出すタイミングとかも絡んできちゃうから正直効率は悪いんだけどね。それを練習してる時間に砲撃魔法の一つ、二つマスターしちゃった方が戦力にはなるんだろうし」

僅かながらも期待を含んでいた私の自信はそんな切り口からアリシアの言葉に容赦なく両断され、あまつさえ彼是と駄目だしを受けてしまうほど木っ端微塵にまで破壊された。
まぁ、最初から分かっていた事ではあるのだ。
所詮今日私がやってみせたのは過去の偉人が残した妙技の猿真似であり、無論それが一朝一夕で身につけられるなどとは最初から誰も思ってはいない。
まぁ、尤も……技を終えた時点で幾分か手ごたえがあった分、物悲しい感情が湧いてくるのは否めないのだが。

ともあれ、出来損ないと断じられたのであれば結局それまでのこと。
一応教えてもらった手前他の訓練の片手までなら修練を積むというのも吝かではないのだが、生憎と私は剣士でもなければ時代錯誤の侍もどきでもない。
アリシアが言うように実戦で役に立つ術を身につけるだけと言うのなら適当に見繕って貰った魔法の術式を覚えたほうがまだ効率的だし、即席の戦力にもなり得る。
所詮はほんの気まぐれで「動作を真似するだけなら誰にでも出来るから」という安直な理由から手を出してみただけの技だったのだ。
落ち込んですすり泣くほど惜しい代物でもない─────寧ろ、多少なりと活かせる所が見出せた分収穫があったと言ってもいいのではないだろうか。
私は尚も彼是と細かな説明を小姑のように呟いているアリシアに対し、「はいはい」と適当に相槌を打ちながらも、頭の中ではそんな風に今日の出来事を纏めるのであった。

「……それで、なのはお姉ちゃんはどうするの? もっと他の技にもチャレンジしてみる?」

「ううん、別にそういうつもりは無いよ。身に刻む術だけが必ずしも有効な武力って訳じゃないんだもん。魔法然り、剣技然り、銃然り……なんでも満遍なくこなせてこそ繋げられる命な訳だからね。次は大人しく魔法の訓練をするだけに留めておくことにする」

「勿論私と一緒にだよね?」

「まぁ、アリシアがいい子にしてたらね」

何処か期待を孕んだ声色で私にそう言葉を投げてくるアリシアに、私はくすくすと笑いながら冗談交じりにそう言葉を切り返す。
またも曖昧な返事─────しかし、アリシアは「えーっ」と不満げな声を漏らしはしたものの、そこまで不機嫌な様子ではなかった。
やはり彼女とて実年齢はどうあれ精神面はまだまだ幼い子供ということなのだろう。
一概に単純と言い切ってしまうのは些か軽率なのかもしれないが、まだまだこういうところでの詰めは甘い。
此方が多少寛容な素振りを見せて曖昧な返答をして微笑んでしまえば、彼女は私が彼女の言い分を鵜呑みにしているものだと思い込んでしまうのだから。
まぁ、だからといってこのまま彼女の純朴な気持ちを悪戯に弄り回すというのもあまり目覚めの良い話ではないし、そもそも彼女に嘘をついたところで彼女が本気になれば直に分かってしまう事くらい私だって承知の上だ。
興味半分で弄んでいい物ではない。
それは分かっているけど彼女がこうして無垢な童女のように振舞っていると、なんだかついついからかってしまいたい衝動に駆られてしまう。
なんとも難儀な話だと、私は心の中ですっかり性根の曲がってしまっている自分自身に呆れながらつくづくそう思った。

「なんだろう……何時もこうやって上手く誤魔化されてるような気が……」

「気のせいだよ、気のせい。もう三十路も過ぎてるんだからあんまり細かい事考えてると小皺が出来ちゃうよ、小皺が」

「むーっ! なのはお姉ちゃんは私の事を子ども扱いしたいのか大人扱いしたいのかどっちなのさ!」

「四割がた子供。もう四割ペット。状況の都合により残りの二割が大人扱いになるでしょうってところかな、厭味で」

そんな私の心無い……って言うか単に意地悪な一言に「どういう意味!?」と驚愕を露にするアリシア。
そして堪らずにやにやとした笑いを浮かべてしまう私。
何というか、やっぱり何が起こっても落ち着くところには落ち着くものだと私はしみじみと思った。
嘗て彼女と似たような立ち位置にいた元友人との距離はもう取り返しのつかないようなところまで開いてしまったけれど、彼女は違う。
出会った時から何一つ変わらない立ち位置に居てくれて、私が私として心置きなく接していても何時も笑って隣に居てくれる。
時にはふざけあった事だってあった。
からかい合ったことも、笑い合ったことも、一緒に死線を潜ってきたことだって一度や二度と言う訳じゃ決して無い。

大事な友人であり、パートナーであり、妹分なのだと思う。
だからこそ、私はこうして彼女をからかう事にしたって自分を偽ったりする事はしないのだ。
今は怒り顔の彼女だけど、多分彼女は直に笑顔を取り戻してくれる。
そんな絶対的な信頼もあるからなのか、私は彼女をからかう時だけは何となく安心して軽口を述べることが出来るような気がするのだ。
尤も、それが私の悪い癖なんだって事くらいは私も重々承知してはいるのだが……そんな風に思わせる彼女が悪いのだとここはちょっと意地悪な解釈をしておくことにする。
だってこんなにも素直に心を曝け出す事の出来る人なんて……先生を除けば彼女以外他に誰も居はしないのだから……。

「ふ、ふーん。別にいいもんね。私は大人だからそんな挑発に一々目くじら立てたりしないんだもん」

「本当に?」

「ほっ、本当だもん! 私だってちゃんと年齢通りに肉体が育ってたんだったら今頃─────」

「あー……何となくだけど、そんなに期待するもんでもないんじゃないの? 意外と三十過ぎても背はちっちゃいままで、プロポーションも上からしたまで出っ張るところなしだったりして……。ついでに部屋の中片付けられなかったり、いい年してトマトとかセロリとかが苦手だったり……」

寝転がったまま自らの足りない胸を張って不毛な論理を展開しようとするアリシアに、私はそんな風に優しい口調で現実というものの厳しさをやんわりと諭した。
それに対してのアリシアの返答は「何でそんな無駄に具体的なの!?」だったけど─────まぁ、人生なんていうものは得てして何事も期待通りにはいかないものだ。
彼女が大人になった自分をどんな風に想像していたのかは知らないけれど、所詮はそれも現実とは程遠い理想でしかない。
とは言っても彼女の場合五歳のまま時が止まっている訳なのだからひょっとしたらということもありえなくは無いのだが、仮にも精神年齢だけなら三十路を過ぎているはずの現在がこうなのだから期待するだけ望みは薄いというものだろう。
とは言え、先ほど上げた上記のイメージはあくまでも私の想像に過ぎないのだけれど……どういう訳か妙にしっくり来たのは此処だけの話だ。

「うー……。今日のなのはお姉ちゃん、なんかちょっと意地悪……」

「意地悪じゃないよ。ただアリシアが可愛いからおちょくってるだけ」

「……やっぱり意地悪」

「そういう性分なんだよ。別にサドっ気がある訳じゃないんだけどね。もちろんマゾっ気も。っと─────ブルっときた。電話かな?」

何処か釈然としない様子のアリシアを他所に私は先ほどからポケットの中で細かな振動を繰り返しているケータイ電話に手を伸ばし、そして徐に二つ折りになっているそれを手首のスナップだけで開けてみせる。
間髪入れずに画面を凝視─────人物を確認。
やはり予想通りバイブレーションの原因は電話、表示されていた番号は他ならぬ先生の家のソレだった。
一体なんだろう……私は脳裏に何時も不適な笑みを浮かべたくすんだ金髪の女性ではなく、そんな彼女に現在養われているもう一人の女の子の姿を浮かべ、疑問を露にする。
今日は平日。
当然先生はまだ学校でお仕事をしているのだろうし、第一彼女が私に何か話しがあるのならケータイを使おうとするだろう。
ならば現状、思い当たる人物はたった一人しかいない。
私は普段は殆どしない明るく好意的な表層を装うよう心掛けながら、徐に通話のボタンを一度プッシュしてそれを耳元へと宛がい、耳元へと流れてくる声の主と会話を始めるのだった。

「はい、もしもし。なのはですけど……ええっと、フェイトちゃん?」

『あっ、なのは? ごめんね、突然電話しちゃって。今、都合悪い?』

「え~と……ううん、そんなことないよ。丁度暇を持て余してたところ」

『そうなの? 良かったぁ……変な時に掛けちゃったらどうしよう、ってずっと心配だったんだ……』

若干明るめのトーンに包まれた私の言葉に、何処か気恥ずかしそうな声色でそう返答してくる彼女─────フェイトちゃん。
先生の家に居候している、記憶喪失の女の子だ。
しかし、前にあって話した時よりもその口調は何処か余所余所しく、そして固い。
恐らくこうした電話での会話にあまり慣れていない所為なのだろう。
記憶を失くす前の彼女が一体どんな人物で、どんな生活をしていたのかは定かではないが、少なくとも積極的に人と会話できる人間ではなかったというのはこういうところからもよく窺える。
そもそもこうして彼女が私に電話を掛けてきたことだって初めての経験ではないだろうか。
まぁ、初めて会った時の帰りに電話番号は教えておいたし、そもそも彼女と出会ってからそれほど日が経っているという訳でもないのだから当たり前と言えば当たり前なのだけれど……何だかそんな風に初々しくされてしまうとこちらも何だか気恥ずかしい気持ちになってしまう。
そう言えばこうして同い年くらいの子と電話でお話しするのなんて私にとっても随分と久しい事なんじゃなかっただろうか─────私は彼女へと語りかける言葉の裏でそんな風なことを考えながらも、不満そうにそんな私の様子を恨めしそうに見つめているアリシアに向かって苦笑いを浮かべ、フェイトちゃんとの会話を続けていくのだった。

「にゃはは、大丈夫だよ。基本的に学校の時以外に私が電話に出られないって事はあんまりないから。それで……今日はどうしたの?」

『その……ドゥーエからは私が外を出歩いてみたいっていう話、聞いてる?』

「うん、聞いてるよ。色々な所一緒に行くのに私にも着いて来て欲しいんだよね? それのこと?」

『うっ、うん。だけどこういう事を人にお願いする時は自分の口からちゃんと言うものだってドゥーエが……。あの、だからね……今度の日曜日に……いい、かな?』

緊張の為か何処か途切れ途切れなフェイトちゃんの言葉に私は苦笑しながら「もちろんだよ」と穏やかな声色で返答を返す。
無茶を押して頑張ってるんだなって、何となく伝わってきちゃったから。
口下手なんだけど、それでも自分が出来る精一杯で私に何かを伝えようとしてるんだって……手に取るように分かっちゃうから。
私も自然と自分の笑みをそれまでの物とは一変させ、変えていく……。
作り物めいた物から、人肌の温もりが篭る物へ─────凡そ親しい友に抱く感情と共に、私は彼女へ送る言葉にある種の情を乗せていく。
それは果たして親愛だったのか。
それとも単なる気まぐれだったのか……。
分からない。
分からないけど─────それは私が先生やアリシアに抱く感情によく似ているようで、何処か線引きの出来ない部分で明確な違いが別れているような違和感も孕んでいるように私には思えた。

『ほっ、本当!?』

「うん、別に休日に用事なんて無いし、他ならぬフェイトちゃんの頼みだからね」

『ありがとう、なのは。やっぱり……なのはは優しいね』

「にゃはは……そんなんじゃないよ」

そう、本当にそんなんじゃない。
私は優しくなんて無い。
ただ、そう─────単に自分に甘いだけなのだ。
多分、私は凡そ自分に好意を向けてきてくれる人に対してなら無条件に優しくなることが出来る。
だけどそれは突き詰めて考えれば結局己の考えている利便性に先が言ってしまう故の事で、真の意味で人に優しくしているという訳じゃない。
現に私はその掌返しの状況で─────言うなれば私に対して好意を抱いてくれないと言うのであれば、恐らく自分でも驚いてしまうくらい早く対象となった人間を見捨ててしまえる事だろう。

ある種の利己的……いや、此処までくるともう完全に独り善がりだと言ってしまっていいのかもしれない。
それが私の本質であり、正体。
その事に気がついている人が一体私の周りにどれくらい居るかは分からないけれど、きっと気がついちゃう人は気がついちゃう物なんだと私は思う。
現にそう……本当に一瞬─────自分でもそんなに意識した訳でもない一刹那に私が表情を少し変えただけで、膝の上に寝転がっていた彼女はしっかりと気付かれてしまったようなのだから。
私は何か言いたそうな面持ちで見つめてくるアリシアの頭を二、三回撫でて暗に心配要らないという念を彼女へと示しながら、改めてフェイトちゃんとの会話へと意識を戻していくのであった。

『じゃあ、日曜日……よろしくね』

「うん、分かった。待ち合わせは何時にする?」

『えーと……。ドゥーエから駅前のデパートALCOってところがいいって聞いたんだけど……知ってる?』

「知ってるよ。じゃあ……そこに10時に待ち合わせってことでいいかな?」

そうした私の提案にフェイトちゃんは電話越しでも十分伝わってくるほど嬉しげな様子で「うんっ」と素直な二つ返事で返事を返してくれた。
そんなフェイトちゃんの様子に思わず私も苦笑を漏らす。
本当に嬉しいんだろうな、と……そんな風な想像を己の頭の中で膨らませながら。
きっと生まれて初めて友達が出来た子っていうのはこんな風なんだろうな、とちょっとだけ彼女の事を羨ましがりながら。
私は自分でも信じられないくらい自然な笑みで、そんな彼女の様子を祝福していた。

けれど反面、私はほんの少しだけ、そんな彼女の無垢な様子に一種の危機感も覚えていた。
初めて出会ったとき、踏切を越えて線路の中へと身を投げようとしていた彼女。
冷たい雨に身体を浸し、あまつその身に幾つもの生傷を刻んでいたあの時のただならぬ様子……別に私は忘れたという訳ではない。
今は記憶を失くしている故に気付いていないのかもしれないが、もしも彼女の記憶が戻ってしまったのなら─────彼女はそれでも、今と変わらず嬉しげな笑みを浮かべていることが叶うのだろうか。
分からない。
無論私はフェイトちゃんじゃないし、似たような境遇でこそ在れど、自殺を考えた事は一度としてないからその心中を察する事はやっぱり出来はしない。
だけどもしも……そう、本当にこれは仮の話しではあるのだが─────私が己の生涯を絶とうとして仮に一度仕損じたとしても、それで自殺を諦めようと考える事はやはりないだろう。
何だかそう考えると私はこうして聞えてくる彼女の明るい声色も薄ら寒いもののように思えてならなかった。

『……なのは?』

「あっ……ごめんごめん。ちょっとぼーっとしてたみたい」

『寝不足?』

「……うん、何だかそうみたいだね。今日は何時もよりちょっと早く休んだ方がいいのかも。それじゃあ、私はこれで。また日曜日に会おうね、フェイトちゃん」

電話越しの別れの挨拶を終え、私は通話終了のボタンを親指で押しながらふるふると首を横に振って頭の中から余計な雑念を追い出していく。
今日は訓練のこともあってかどうにも考えなくてもいいことまで考えてしまいがちだ。
あまりいい兆候じゃない……というよりは寧ろ悪い方向へと傾きかけているとも言える。
アリシアが一緒に居る手前、余計な心配を掛けないのもそうだけれど、それ以前にこのまま変な考えが頭の中で靄を撒いていては己自身にとっても不都合という物だろう。
私はポケットの中へと携帯電話をしまい込みながら、膝元に寝そべっている彼女の事を見る。
その顔は何処か煮え切らないといった様子で、やはり先ほどと変わらず心配そうな面持ちが見え隠れしてしまっているように私には思えた。
やはりこうした考えは面倒しか生まないらしい─────私はそんな風な感想を胸の内に抱きながら、優しげな声色でアリシアへと声を掛けるのだった。

「なのはお姉ちゃん……今の電話は……」

「う~ん、デートのお誘い。知り合いの伝手で知り合った子とね」

「ふふっ、なにそれ……ジョークにしてはあんまり面白くないかな」

「別にジョークなんかじゃないって。アリシアは知らないかもしれないけど、こう見えても私、結構モテるんだよ?」

そんな私の冗談めいた言葉に、彼女はくすくすと笑いながら「同性に?」とさも面白おかしそうに憎まれ口を叩いてきた。
そう、それでいい─────私は言葉でこそ「うるさいよ」と返しながらも、内心ではそんな風に思い、そして彼女と同じように笑って見せた。
やっぱりこんな雨の日には余計な事を考える物じゃない。
何時までも思慮の至らぬことばかりを考えていると、何時の間にか気持ちが一人歩きをして何処かに行ってしまいそうになるから。
だからもう、私は余計な事を考えないでおこうと思た。
代わりに彼女と喋って、笑って、ふざけ合って……そんなどうでもいい事で頭を満たしてしまえばいい。
そうすればきっと……こんなくだらない現実にも少しの間だけなら、目を瞑っていられるのだろうから……。

「あーぁ、今日も結局収穫の薄い一日だった……」

「そうなの?」

「うん、まぁね。でも……なんだかもうどうでも良くなってきちゃった。本当、どーでも」

「……うん。本当に、ね」

薄暗い部屋の一室に寄り添うように二人。
雨の滴が窓を叩く音に包まれながら、私たちはしばらくの間ソファーの上でずっとそうしていた。
そう、もうどうでもいいのだ。
フェイトちゃんの過去も、ジュエルシードのことも、私の現実も……今この時だけは何一つ私たちを縛らない。
だからもう忘れてしまおうと思う、ただこの一時だけは。
どうせこのまま家に帰ってもやる事なんて殆ど無いし、そもそも安らげる居場所もあそこにはない。
それに……今抱いているこの感情だって結局はただの現実逃避なのだ。
だったらせめて、彼女と過すこの時くらいは……二人だけの時として現実を忘れたって構いはしないだろう。
泡沫の夢を共に見上げているだけの、この時間くらいは……。






あんまり必要ないかもしれませんが此処から一応補足です。

・我流魔剣・鍔眼返し(出展:刃鳴散らす/NitroPlus)

刃鳴散らすの作中において極悪剣心こと武田赤音が使用した魔剣。
ベースとなったのは同作の剣技である刈流兵法、小波。
小波とは一歩目で振り下ろした一の太刀から二歩目を踏み込んで、体躯の前進のベクトルによって下段から上段斜めに二の太刀を切り上げる連撃技の事です。
しかし、これには幾つかの欠点があり、二歩の踏み込みを必要とするため迅速に技を終わらせることが非常に困難な事と、また両腕を捻り返してのきり上げは間接の構造上難があり、技の遅れと体制の乱れを招きかねないという点です。
そしてこの鍔眼返しはそれらの欠点を克服し、二歩目の動作を省き、一歩の踏み込みと一太刀分の時間で二度の斬撃を繰り出すものとして小波に改良を加えたものです。
一見小難しい様に見えるかもしれませんが、本作でも説明したとおり、動作だけならば本当に誰にだって出来ます。
ちなみに本作でもなのはが「鍔眼返し」などと言っていますが、あれはあくまでもノリで言っただけで、実際にやっているのは小波の動作です。
魔剣とか言っておきながら意外とやっていることが地味なのはご愛嬌。



以上補足でした。



[15606] 第三十話「待ち人、来たりなの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:03852aea
Date: 2011/04/18 20:52
真昼の街道、溢れかえる人混み。
凡そ私が嫌って止まない物に囲まれてまで此処─────デパートALCOまで足を運んだのは偏に数少ない休みの日を潰してでも付き合ってあげたい事があったからだ。
別に世の為、人の為なんていう身に余る感情を唐突に抱いてしまった訳じゃない。
ただ何となく偶には人の都合に合わせて一日を過ごすっていうのも悪くないって思っただけ。
そこに恩師への恩とほんの少しの同情を付け加えればもうそれ以外の感情なんて何処にも残ってはいないと言っても過言ではないだろう。
単なる気紛れ、それ以上でも無ければそれ以下でも無い。
けれどこうして待ち合わせの約束を交わし、一度足を運んでしまった以上は……まぁ、嫌でも回れ右して退散ってわけにもいかないのが悲しい現実というものだ。

日曜日の朝、時刻は間もなく午前十時を過ぎようとしている頃。
私は雑多に流れ行く人々の様子をただ一人ぼーっとベンチに座って眺めながら待ち人が来るのを待っていた。
此処でこうして何をする訳でも無く時間を潰すこと早十五分。
家族の誰に見送られる訳でも無く、バルディッシュの調整と整備を兼ねて今日は留守番をして貰っているアリシアに二、三声を掛けてから家を飛び出した所から考えると要した時間はざっと一時間半といった所だろうか。
普段なら昼ごろまで惰眠を貪っている私にしてみれば随分と早起きをしたものだと思う。
それにただでさえ今は魔法の訓練やら戦闘技術の開発やらで切羽詰まっている時なのだ。
アルハザードに入り浸る為に一日の殆どを寝て過ごしている私からしてみれば、朝九時前に眼が冴えるなんていうのは殆ど奇跡に等しい事だと言ってもよかった。
とは言え、それでも平日中に溜まった心労や疲労は隠し切れないのか、流石の私も先ほどから欠伸を噛み殺してばかりいるのだが……。
まぁ、それでも意識はしっかりとしている分まだマシな方なのだろうと私は思った。

「遅いな……フェイトちゃん……」

誰に零す訳でも無いそんな私の呟きは道行く人々のざわつきに紛れて宙に溶けてゆく。
そして、それに続いて漏れるため息。
約束の時間までもう後数分とない現状、それでも彼女が現れないのは一体どうしてなのだろう。
そんな焦燥感にも似た感情が私の胸を疼かせ、次第に本当に自分は此処に来ても良かったのだろうかと不安の念を帯びさせてくる。

騙された、訳では当然ないとは思う。
クラスメイトの人間が私の反応を見て楽しむ目的で何度か電話で呼び出され、そのまま待ちぼうけをくらった事なら幾度かあるが、流石にフェイトちゃんがそんな悪意ある目的で私を呼びだそうとしたとは考えられない。
それに彼女は記憶を失っていて、その上今日に至るまで外に出ようともしなかった引きこもりさんだ。
多少仕度に手間取って遅れても致し方ないというものだろう。
それに幾ら待ち合わせの時刻が近付いているとは言っても実質まだ待ち合わせの時間には至っていないのだ。
私がこうしてくだらない事を考えている間にもひょっこりと顔を見せてくれるかもしれない期待だって何も失われた訳じゃない。
本当……自意識過剰って嫌になるな、と私はまた別の意味からため息を吐きそうになった。

「……はぁ。早く……来ないかな……」

そしてまた、自然と口元からそんな言葉がポロリと零れ落ちる。
何を私は期待しているのだろう。
ふと私は自分の口から零れた言葉に気が付いてそんな風な思考を頭の内に思い浮かべる。
別に何も今日だけが特別って訳じゃない。
もう随分前の話になるけど私だって昔はこうやって友達と待ち合わせをして、一緒に遊んだことだってちゃんとある。
それにフェイトちゃんとだって今後機会があれば何時だって一緒に遊びに行ける筈だ。
まぁ、私はこんな風な人間だし、フェイトちゃんは記憶喪失な上に身元も分かっちゃいないから何れ別れる時は来るんだろうけど……それは何も今日を境にという訳じゃない。
だから、今日は何も特別な事なんてありはしない。
そう自分に言い聞かせたいのに─────やっぱり私の気持ちは浮ついたままだった。

「……応電話してみようかな。もしかしたら長くなるかもしれないし」

そんな感情を誤魔化す為なのか、私は徐に傍らにあった自分のインナーバックを手に取り、その中を弄って携帯電話を探り出す。
もう長い間使っていなかった……とは言っても、ネットオークションで300円という格安の値段で競り落とした安物ではあるんだけど、それでも昔は頻繁に使っていた所為もあってかそれなりに愛着のある代物だ。
白い生地にワンポイントでデザインされている黒ウサギの模様が実はお気に入りだったりしていたのだが……正直、今の私には似つかわしくない物なのだろうと私は思った。

「って言っても……中身は中身で正直アレなんだけどね」

携帯電話を手に取り、徐にそれを開いて液晶画面に目を通しながら、私は今朝がたこのバックに詰め込んだ諸々の荷物の事を頭の内に思い起こしていく。
携帯電話、何枚かの紙幣を詰め込んだ財布、護身用の拳銃、12発の銃弾が入ったプラスティック製の弾薬ケース……そしてジュエルシード。
バルディッシュはないけれど、凡そフェイトちゃんとの買い物中に突然暴走体が強襲してきても即座に対応出来る装備を揃えてある。
無論、フェイトちゃんを護りながら安全圏へと逃れる事も考慮した上でのものだ。

本当だったら楽しい休日の買い物にこんな物騒な物を持ちこみたくは無いのだけれど、以前そんな甘い考えのままでいた所為で一度泣きもみている。
流石の私だって一度死に掛ければ同じ二の轍を踏まない様に学習するというものだ。
それに、今回は前回と違って何時でもアリシアと連絡及びバルディッシュの運搬が出来る様にしっかりと打ち合わせもしてある。
その為のジュエルシード、その為の念話だ。
アリシアは「日ごろの疲れも忘れて楽しんで来て」なんて言っていたけれど、気を配るべき処はいつ何時でも引き締めておくのが吉というものだろう。
私は携帯電話を操作し、先生の番号を呼びだしてそれを自分の耳へとあてがいながら周囲に先生たちの姿がないかどうか目を配らせるのだった。

「本当……何時も私は待たされる側だ……」

一人でに漏れたそんなぼやきと一緒に溜息を吐き出しながら、私は幾度かコールを繰り返して先生が電話に出るのを待った。
ぷるるる、という呼び出し音が幾度も自身の鼓膜を振るわせる。
けれど五回目のコールが鳴っても先生は電話に出てはくれなかった。
どうしたのだろう……そんな一抹の不安が私の脳裏を過る。
もしかしたら自分は忘れられているのではないか。
彼女達はもう来ないのではないか。
そんなネガティブな考えばかりが先行し、心なしか私の背筋に冷たいものを奔らせる。

本当はこんな事は私も思いたくは無い。
先生は私の恩人で、フェイトちゃんは友達だ。
そんな彼女たちが私を平気で裏切った連中と同じように私を裏切る事なんて絶対にない。
少なくとも、私はそう信じている……心の底から。
けれど、何だかこの境遇は昔経験した思い出したくもない記憶によく似ていて─────何だか少し嫌な既知感を憶えてしまうのだ。
友達だと思っていた人間に呼び出され、そして騙された事なんて今まで幾度だってあった。
お金を脅し取られたり、体育倉庫に閉じ込められたり、時にはそのまま放置なんて事もざらだったと言って良い。
今は多少減ってきてはいるし、私だって昔ほど馬鹿じゃないからもう二度とそんな誘いに乗る事は無いんだろうけど……それでも忘れようと思って簡単に忘れられ様な物でも無かった。
だから、正直私は待たされるのは好きじゃない。
何時も結局誰かを待つような立場に甘んじてしまうような形になってしまうけれど、本当の処はそんな立場でしかいられない自分が一番嫌いなのだ……私は。
私は自身の胸の内側でそんな風に何もする事の出来ない自分の事を卑下にしながら、ゆっくりと通話ボタンを切って、結局繋がる事の無かった携帯電話をそっと閉じるのだった。

「……遅いなぁ」

もうこれで何度目になるかも知れないそんな言葉が、またも不意に私の口元から毀れ落ちる。
けれど、そんな言葉を拾い上げる人間は誰一人としていない。
これだけ縦横無尽に人の波が流れているというのに……いや、寧ろだからこそなのだろうか。
宙に浮いた私の呟きはただただ人々の喧騒に押し潰され、踏み躙られ、そして瞬く間に風化して消えて行く。
ただそれだけ……本当に、ただそれだけのことだ。
誰も私の事を気に留めなんかしない。
無論、そんなこと私は微塵も望んではいないけれど……ある種今の私はまるで自分が透明人間にでもなってしまったかのような言いようのない寂しさを何となく感じていた。

こう言ってしまうと極論になってしまうのかもしれないが、この空間はある意味殺風景なジオラマで作られた街と同じような物だ。
だって、誰も他人の事なんて気にも止めようとしないから。
道行くサラリーマンも、ウィンドウショッピングを楽しむカップルも、ゲームセンターで遊び呆ける学生も……突き詰めて言えば皆そう。
誰にも興味を持つことも無く、また不特定多数の“誰か”の視線に怯えるが故にあえてそんな不干渉を美徳して昇華し、信奉する。
そんな人間が今日もこうして行ったり来たり。
その光景はまるで主観を変えれば誰もが“透明人間”たり得るような、酷く殺風景な物の様に私には思えてならなかった。
これだけ大勢の人がいるのに、まるで誰もこの空間に存在していないような……そんな感じ。
ほんの少し前の私なら居心地の良いものだと感じていたそれも今の私には─────何だか、歪に色褪せている様に見えたような気がした。

「寂しい、か。随分と……久しぶりだな、こんな気持ち。日和ったかな……私も」

やれやれと言った具合に空いた手で額を抑えながらそう呟く私。
こんなネガティブな気持ちはさっさと切り替えなきゃいけない。
それは頭の中ではちゃんと分かっているのだ。
けれどこんな風に一人でいると何だか段々と思考が悪い方向へと流れて行って……それで何時もあんな風になってしまう。
いい加減こんな癖は直したいと何べん思ったことかも知れない。
でも、心身ともに刻み込まれたトラウマはちっとやそっとじゃ消えてはくれないのだ。
昔の私ならまだ、それでも耐えられたとは思うけど……今の私には幸か不幸か新しい親友も、心の拠り所もある。
結局のところ、根本的な部分が弱くなったのだ……私は。
自身の抱えているものと、そんな私を一緒に背負ってくれる人の優しさのバランスが徐々にまだ私が何の苦しみも知らなかった頃へと回帰しようとしているが故に。
高町なのはとして、心だけが元あった場所へと戻っていこうとしているが故に……。
多分、心の芯が揺らいでしまったんだ……私は。

「……まぁ、案外それも悪くないのかもね。さて、と……切り替え切り替え。せっかくフェイトちゃんとデートなんだもん。偶には辛気臭いの抜きで─────っと、噂をすればなんとやらってやつかな?」

私がそんな風な事を漏らした刹那、不意に視界の内に飛び込んでくるくすんだ銀色のスポーツカー。
フォルクスワーゲン・イオス─────間違いない、先生の車だ。
この街では滅多に走っていない車種である事とナンバープレートからそう確信した私は、小脇に置いてあったインナーバックを片手で掴んでその車が停車した方へと急いで駆けだしていく。
もう周りの目なんて殆ど気にしてはいなかった。
ただ年相応に、ただ一介の少女として違和感のない振る舞いを……そんな念だけが私の頭の中を駆け巡り、意識を駆り立てていく。
色々大変なことはあったし、これからだってきっとあるのだろうけれど、所詮私はまだ歳が二桁にも満たない子供だ。
せめて休日に友人と会う時くらいは……そのほんの僅かな間だけは、ただの“高町なのは”として過ごしていたい。
私は自身の胸の内にそんな願いを抱きながら、助手席から降りてくる少女へと明るく声を掛けるのだった。

「フェイトちゃ~ん!」

「あっ……なのは!」

お互いの名前をそれぞれ呼び合う私と彼女─────フェイトちゃん。
真っ白なワンピースに身を包み、背中にまで届く程の長い髪をこれまた真っ白なリボンでツインテールに纏めたその姿は紛れもなく私の知っている彼女の物だった。
懐かしい感覚。
温かい空気。
仄かに伝わる微細な羞恥。
いろんな気持ちが次々に胸の内に押し寄せて行って……でも、私にはそれを押し止める術なんて分からなくて……。
結局、私は自身の頬が気恥かしさで朱に染まっていくのを抑える事が出来なかった。

こんな風に名前を呼びあったのはフェイトちゃんで二人目。
一度全ての人間関係をリセットしてからの話になるけれど、こんな風に同い年くらいの子となら初めてと言って良いのかもしれない。
蔑む目的で気しか呼ばれなくなった自身の名に、こんなにも温かい親しみを込めて呼ばれたは……。
それは懐かしいと言って良いのか新鮮と言って良いのか、何とも口にし難い感覚で、だけど全然不快には感じなくて……やっぱり、不思議な物だった。
ちょっと前までは嫌いで嫌いでならなかった自分の名前。
それが何でか分からないけど……今はそんなに嫌いでもないような気がしてしまう。
何と言うか─────こんなのも悪くなって、私は心の底からそう思った。
彼女の……私の大事な“友達”である、フェイトちゃんの笑顔をじっと見つめながら。

「ごめん、待った……かな?」

「ううん、全然。私もさっき来た所だよ」

「本当? よかったぁ……。私こういうの初めてで何を着ていけばいいのかずっと迷ってたんだ。それでドゥーエに選ぶの手伝って貰ってたら手間取っちゃって……」

「あはは、フェイトちゃんらしいね。でもよく似合ってると思うよ、そのワンピース。凄く、可愛い……」

慣れない言葉を繋ぎ合わせて何とかそう私が口にすると、フェイトちゃんは心の底から嬉しそうな頬笑みを浮かべながらただ一言「ありがとう」とだけ私へと返してきた。
その顔は私以上に真っ赤っ赤……きっと人から褒められる事に全く慣れていないのだろう。
無論、それは私だって似たようなものなんだけど……記憶喪失っていう彼女の事情を鑑みればある意味当たり前のことなのだろうと私は思った。
彼女は別に私のようになるべくしてなった訳ではない。
最初から何も知らない、分からないというただそれだけのことなのだ。
人から褒められることも、貶されることも、蔑まれる事も彼女は何も知りはしない。
言わば彼女はまっさらなまま。
純粋無垢な少女として、必要最低限の感情しか持ち合わせていないのだ。
今まで私と先生以外の人とはまともに話したことも無くて、尚且つ今まで殆ど先生の家から出なかった彼女がこんな風に戸惑ってしまうというのも無理のない話というものだろう。

けれど、そんな初心な態度に反して彼女の服装はそれはもう見事な物だった。
胸元とスカートの部分にフリルをあしらったシンプルながらもシックなデザインの白いワンピースに、流れるようなプラチナブロンドの髪をまとめる純白のリボン。
そして、そんな色彩に合わせてあてがえられた焦げ茶色のブーツと薄桃色のハンドバック。
きっとどれも結構なお金の掛かっている物なのだろうな、と私は思った。
けれど、そんな高級そうな印象を微塵も感じさせないその出で立ちは元々容姿の良い彼女の魅力をより一層引き立てているようで─────正直、同性である私から見ても可愛いという言葉以外の形容詞が見つからなかった。
恐らく着替えに戸惑うフェイトちゃんを先生が見かねてコーディネートしてあげたのだろう。
先ほどからドアの向こう側でニ、三度小さく手を振っている先生の振る舞いが何となくそんな情景を物語っているように私には思えた。
私はそんなフェイトちゃんの服装に比べてしまむらで上下合わせて2980円でまとめ買いした自分の服が如何に貧乏臭いかを再確認して少し肩を落としながらも、一旦フェイトちゃんの顔から目線を逸らして、乗車席に乗ったままニコニコと私達の様子を眺めていた先生へと向き直るのだった。

「えっと……おはよございます、先生」

「ふふっ、おはよう。それと、ごめんなさいね。さっきあの子も言っていたけれど、ちょっと仕度に手間取っちゃったのよ。正直、待たせてしまったでしょう?」

「にゃはは……ほんの少しですよ。全然気にしてないです」

「……そう、ならいいのだけど。それじゃあ今日は一日、あの子の事をお願いね」

ウィンクをしながら私にそうお願いしてくる先生に、私はなるべく違和感のない様に満面の笑みを作りながら「はい!」とだけ返事を返す。
正直笑顔が引き攣ってないかどうか不安なところだけど、声が上ずらなかっただけでも十分というものだろう。
こんな風に何とか言葉を返している私だけど、やっぱり他人と上手くコミュニケーションが取れないという根本の部分はあんまり変わっていない。
何せ一時期などは対人恐怖症の影響から喋ろうとしても上手く言葉が出なかった事もあったほどだ。
今でこそ先生のお陰でこんな風にまともに喋る様になったけれど、これでも結構無理をしている処はあったりするのだ、私も……。

けれど、何時までもそんなままではいられない。
私は心の中で改めてそう決意を固めると、私の後方でもじもじと俯いていたフェイトちゃんの手を取って、一緒に先生の前に並んで見せる。
一瞬きょとんとした表情を見せるフェイトちゃん─────きっと私の今の私の行動を全く予想していなかったのだろう。
けれど、私がニコッと笑ってみせると彼女もどうやら意図を呼んだようで、私に合わせる様に頬笑みを浮かべて見せてくれた。
せっかくの休日、せっかくの二人っきりだ。
辛気臭いのは抜きにして、精一杯遊んで、精一杯楽しもう。
それがきっと……フェイトちゃんの為にもなる筈だから。
私は今日という一日に何かを期待している自分の感情をそんな風な建前で誤魔化しながら、二人並んで先生へと自分たちの意思を示し出すのだった。

「勿論ですよっ! 今日は二人で精一杯楽しんじゃうつもりですから。ねぇ、フェイトちゃん?」

「えっと、その……うん」

「あらあら……ふふっ。でも、あんまり二人で羽を伸ばし過ぎちゃ駄目よ。今日はあくまでもフェイトさんを外の空気に馴染ませる事が目的なんだから。危なそうな所には絶対に近付かないこと、いいわね?」

「「は~い」」

珍しく先生らしい物言いでそう諭す先生の言葉に、私達は揃って間延びした返答を返してにっこりとほほ笑んだ。
フェイトちゃんはともかくとして、こんなのは私のキャラじゃない。
それはよく分かっている……分かってはいるけれど、嘘でもいいから今はこうして子供のままでいたかった。
どうせ今日というこの日が終われば私はまた何時もの様に化け物を殺す為にまた元の“高町なのは”に戻らなくちゃいけなくなる。
と言うか、それ以前にまた元の“現実”に戻らなくちゃいけなくなるのだ。

居場所のない家、よそよそしい家族、裏切った元友人、居心地の悪い教室、薄気味悪い笑みを浮かべたクラスメイト、最愛の親友の願い、魔法、拳銃、血みどろの戦い、殺し殺されの鉄火場……その他エトセトラエトセトラ。
今までは何とか無理も通せてこれたし、これからも無論そのつもりではいるんだけど……それでも偶にはそんな現実から目を背けたくなる事だってある。
それがせめて一日でも叶うっていうのなら─────例えそれが演技に過ぎないのだとしても、今は昔を思い出して“私”と言う存在のまま過ごしてみたい。
それが……私の胸に浮かんだ一筋の願い。
故に、今は少しでも笑っていよう。
この笑顔が─────フェイトちゃんと並んで浮かべるこの頬笑みが、敵を虐げる嘲笑へと変わる前に……今だけは。

「それじゃあ、私はこれで失礼するわね。本当は一緒に回ってあげたいんだけど……ちょっと片付けなきゃいけない“お仕事”が溜まってるよねぇ。本当、残念だわ」

「にゃはは……また機会がありますよ、先生。今日は二人で楽しんできます」

「私も本当はドゥーエと一緒に居たいけど……無理言っちゃ駄目、だよね」

「はぁ……若いって良いわよねぇ。こういう時、偶に社会人って立場が恨めしくなってくるわ。もう一度大学からやり直そうかしら?」

そんな気はさらさらない癖に。
私は冗談めかしにそう言ってのける先生に心の中でそう突っ込みを入れながら、口元に手を当ててクスクスと笑った。
先生との関係が始まってからというもの、時々先生はこんな風に私に愚痴をこぼしたりする。
「若いのが羨ましい」とか「学生の時代はよかった」とか……まぁ、あんまりこういう事を言うと失礼なのかもしれないが、先生ぐらいの年頃の人にはありがちな思想というものだろう。
けれど、実際の処先生は心の底からそんな風に思っている訳じゃない事を私はよく知っている。
きっと彼女自身大人と子供の境界って言うのをよく熟知している所為なのだろう。
彼女は何時だってそんな愚痴を吐きだしながらも何かを諦めたり、放りだしたりすることは無かった。
私やフェイトちゃんの様な、後ろ暗い背景のある人間の事だって……。

これはまだ私が先生と出会った当初の話で、私も今ほど彼女の事を信用していなかった時期の話になるんだけど……私は一度先生にこんな問いを投げかけた事がある。
どうして私なんかに構うの、と。
今考えれば酷く馬鹿らしくて捻くれた質問だったと思う。
けれど当時の私は本当にただの無力な子供で……実際の処は彼女も私の様になってしまうのではないかという恐怖心から出た言葉だったのだ。
陰湿な生徒。
自分たちの正当性を信じて止まない保護者。
事無かれ主義の同僚教師。
私に関わればそれ等の人間に目を付けられるなんて言うのは、当時の私でも何となく想像がついた。
だから、私は彼女を自分から遠ざけようとした。
強がりやまた裏切られるのではないかという恐怖からではない。
自分の所為で他人が不幸になるというのを、どうしても許容出来なかったから。
故に、私はその質問の裏に「もう関わらないで」という拒絶の意味を込めながら彼女にそう問うたのだ。

けれど、先生から帰ってきた答えは私の想像を遥かに超えるもので、それでいて至ってシンプルな物だった。
曰く、「その方が楽しそうだから」と。
何ともまぁ、子供っぽいというか掴みどころのない答えだったとは思う。
けれど、今思えばある意味その返答は彼女らしいと呼べるものだったに相違ない。
何時だって彼女はそうなのだ。
他人が苦労と感じる事の中に娯楽を見出し、自身の楽しみに変えてしまう。
酔狂な人だって言うのは分かっていたけれど、あの時の衝撃は相当な物だったと記憶している。
何せ自分の事をそんな風に評してくる人間は今までの生涯の中でただ一人も居はしなかったのだから。
しかも、彼女はそんな台詞を聞いて呆然とする私にこうも言ってのけたのだ。
「それを楽しめるのも大人の特権」と……本当に心の底から楽しそうに。
だから何となく私には分かるのだ。
彼女が今になっても私を見捨てない理由も、フェイトちゃんを拾った理由も……。
こうして、今も尚私に微笑みかけてくれるその訳も。
私は片手でギアを操作し、最後に「それじゃあまた夕方に」と言いながら車を発進させる先生の姿を眺めながらふとそんな昔の話を思い出すのだった。

「……ドゥーエ、行っちゃったね」

「仕方ないよ、先生大人だし。色々と忙しいんだよ、きっと」

「……うん」

「大丈夫だよ、フェイトちゃん。また夕方になれば会えるから、ねっ?」

何処か寂しそうに車が走り去っていった後を見つめるフェイトちゃんに、私はまるで自分よりも年下の子供を諭すようにそう言葉を掛ける。
するとフェイトちゃんは若干俯きながらも「うん」と短く反応を返してくれた。
やっぱり記憶喪失って言うのは難儀なものなんだと思う。
自分が今まで何処で何をしていたのかも分からず、帰る家も無く、そして自身が今立っている場所すら分からない。
そんな状態で突然外に放り出されれば、そりゃあ困惑もするというものだろう。
それに先生は殆どフェイトちゃんの親代わりみたいなものだ。
先生に直接こんな事言ったら「こんなに大きな子供がいる程歳とってない」って怒られちゃうかもしれないけれど、傍から見たら私にだって仲の良い親子同士にしか見えない。
そんな彼女と離れ、知らない街中に放り出された彼女の心境は推して知るべしという奴だろう。
尤も、何時までもそんな引きこもりみたいな生活を続けていたら戻る記憶も戻らないというものだろうし、ある意味時期が早いか遅いかの違いでしかなかったのだろうけど。
私は不安で微かに震えているフェイトちゃんの掌をほんの少しだけ強く握りながら、ゆっくりと彼女の手を引いて歩を進め始めるのだった。

「それじゃあ……私達も行こっか」

「えっ、でも……何処へ?」

「大丈夫。あんまり自信ないけど、私に任せて! 一緒に色々なところ見て回ろうよ。洋服とか、CDとか、小物とか。そういう処から何か記憶を取り戻すきっかけも掴めるかもしれないしね。それに……私もフェイトちゃんのこと色々知りたいもん。友達、なんだからさ」

「うっ、うん!」

言葉に詰まりながらも、何とか私は何とかそうフェイトちゃんに言ってのける。
嘘なんかじゃない。
もう二度と他人にこんな風な事を言うことは無いと思っていたけれど、彼女は紛れもなく私の大事な友達だ。
尤も、親友の座はもう既に埋まってしまっているから譲る訳にはいかないけれど……少なくとも命を掛けて護るには値する。
彼女は私を裏切った連中とは違うのだ。
私を脅かす事もしないし、拒絶することもない。
ただ一人の女の子として私と─────“高町なのは”と接してくれる。
彼女を護る理由なんて、私からしてみればそれ十分。
出会い方は特殊で、未だに私はその時の事を先生にも彼女自身にも言い出せないでいるけれど、それでも今ならはっきりと分かる気がするのだ。
彼女の命を救ってよかった、と……心の底から。
私は先ほどの私の言葉に嬉しそうに何度も頷くフェイトちゃんの笑顔を眺めながら、クスッとそれを一笑して、二人一緒に街の中へと駆けだしていくのだった。
何時の日か彼女に真実を打ち明けようと、そんな気持ちを胸に抱きながら。





一方、そんな彼女達を別れた女性─────ドゥーエはただ一人駅近くの有料駐車場に車を止め、とある人物と会う為に人通りの少ない駅の裏口に歩みを進めていた。
その目的はただ一つ……彼女が口にしていた“仕事”の打ち合わせを行う為である。

「本当……そんな役回りよね。“大人”っていうのは」

そんな風に自身の現状を卑下にしながら、彼女は先ほど別れた少女たちへと想いを馳せる。
本来だったら今日は自分も彼女達に同行する筈だった。
何せ彼女達はまだ子供で、その片方は唯でさえ精神が不安定で何時フラッシュバックを起こして倒れてもおかしく無い状態にある。
幾ら街に遊びに行くだけとはいえ、予断を許さない状態だったのは間違いなかったのだ。
しかし、と─────ドゥーエは思う。
そんな彼女達を気に掛けても居られない……否、今のフェイトという少女がそんな状態だからこそ、己から引き離さなければいけないという事もある。
彼女は頭の内に浮かんだ無垢な少女の顔に少しだけ苦々しげな表情を浮かべながら、駅の裏口に置いてある連絡用の黒板へと歩みを進めて行くのだった。

「XYZ……なるほど、予想通りってわけね」

古臭い黒板の片隅に薄くチョークで書かれたそんな言葉を口に出しながら、彼女は何かに疲れた様に一度大きな嘆息を漏らしながらその言葉の意味を頭の内で復唱させる。
XYZ─────昔、己が好んで呼んでいたコミックの中から拝借した秘密の暗号。
意味はアルファベットの順の終わりと同じ。
曰く、「後が無い」という事だ。
彼女はそれを改めて胸の内に刻み込むと、ゆっくりと待ち人との合流場所になっている使われなくなった待合室へと赴き、ゆっくりとそのドアを開けて其処に居た人物へと声を掛けるのだった。

「随分と難儀な状況になってしまったわね。トーレ」

「……ドゥーエか」

其処に待っていたのは彼女と同じ境遇を持つ妙齢の女性。
ジーンズに白のパーカーというラフな格好をしているものの、剃刀の様に鋭く釣り上った瞳がただならぬ人物である事を思わせるような、そんな印象を抱かせる女性だった。
名はトーレ。
ナンバーズにおける第三の姉妹にして、ドゥーエの妹にある人間だ。
しかし、古めかしい椅子に腰を駆ける姿は何処か力無く、また覇気も薄い。
それは大凡彼女らしからぬ見姿であり……暗に、今の自分たちに課せられた事の重大さを露わしているようでもあったとドゥーエは思った。

「外の掲示板にあったあの暗号、間違えは……ないのよね?」

「……あぁ。至極遺憾なことではあるのだが、な」

「はぁ……まぁ、当然よね。現地の人間にこれだけ死者を出ているっていうのに、肝心のジュエルシードは全く集まっていないんですもの。ブランクがあるとは言え、戦闘機人二人で対処に当たってもこんな有様なんだから追いつめられるというのも無理のない話よね」

「……っ! 全て、私の責任だ。もう少し私がしっかりしていればこんな……」

悔しそうに舌打ちをしながら、そんな風に自責の念を口にするトーレにドゥーエは黙って彼女と隣同士になる様に腰をかけながら、改めて自分たちが置かれている現状が最悪である事を思い返していく。
現地の住民に死傷者多数。
警察組織の大規模介入。
問題収束の目処立たず。
おまけにこの騒ぎに乗じてか自分たちと同じようにジュエルシードを狙っていると思われる第二、ないし第三組織の存在。
唯一の救いは管理局の人間がこの騒ぎを聞きつけたという情報が入って来ない事だが、それを差し引きしても現状はもはや最悪と言う他表現のしようがないというものだろう。

「貴女だけの責任ではないわ。私にも勿論責任はある。けれど今は現状を悲観するよりも先にやるべき事があるというものでしょう? 公開するのはそれからでも遅くは無いわ」

「そう……だな……。だが、考えうる手はもう全て実行したぞ? これで駄目なら、もうどうすることもできん」

「ナンバーズ6とタイプゼロ・セカンドの即時投入……。おまけにナンバーズ1以外の全姉妹を追加投入、ね。ドクターは戦争でも起こすつもりなのかしら? この街を戦場にするのは正直いただけないわね」

「……それは私だって同じだ。だが、事を早期的に終息させるにはもう他に方法は無い。手段を選んではいられんよ」

そう言って肩を落とすトーレの言葉に、ドゥーエはただ一言「そうね」とだけ言って肯定の意思を示し出す。
全姉妹の投入。
それがどんな意味を示すのか、というのはもはや語るべくもないというものだろう。
だが、それは裏を返せばそうでもしない限り事態の収束は見込めないというのと同義だ。
別段、彼女たちは市民を守るための慈善組織ではない。
むしろ時には見捨て、時には切捨てを繰り返し、自分たちの目的を完遂するために何もかもを裏切るような傍から見れば非常とも言えるような集団とも言える。
尤も、中にはそんな組織のあり方に見切りをつけて見切りをつけた人間も若干名いたりもするのだが……そんな彼女も消極的とは言え、未だに協力している以上他人事ではないというものだ。
しかし、このままではそういう組織の面を考慮した上でも、許容出来る範囲を超えてしまうような事態になりかねない。
一個人、一集団ならいざ知らず、この街を丸ごと吹き飛ばしてしまいかねない自体は彼女たちとて望むものではなかった。
故に致し方ないとまではいかないものの、ドゥーエもトーレも其処の処は重々承知していたのだ。
戦争になるかもしれないという、今の事態の重大さを。

「現在、6とタイプゼロ・セカンド……セインとスバルにはマンションの一室を借りさせ、準備待機をさせている。二人ともすぐに動ける状態だ。本来だったら二日、三日かけてこの街に慣れさせようと思っていたが……事情が事情だ。私はすぐにでも行動を起こさせるつもりでいる。お前はどうだ?」

「私の知らない妹と管理局の置き土産ね……。異論はないけれど、実力のほどは大丈夫なの? 未熟な人材を宛がえばいたずらに被害を増やすことになるわ」

「それは問題ない。セインはさておき、スバルは優秀な人材だ。こと戦闘に関してだけ言えば恐らく私が本気を出しても勝てるかどうかは分からない。尤も……スバルの奴はまだ幼いからな。目付け役の意味もこめてセインと二人一組にしたんだ。お互い姉妹の中では一番慣れ親しんだ者同士だったしな」

「……なるほど、ね。それなら私からは特に言うことはないわ。その二人を監督するにしろ、放任するにしろあなたの好きにして頂戴。無論、なるべく“こちら”に火の粉が飛んでこない程度にね」

そう言ってドゥーエは暗に自分の方へと被害を及ばせないようトーレに警告を促しながら、ゆっくりと横目を動かし、彼女の反応を流し見る。
すると彼女は神妙な顔つきを崩さないまま黙して首を縦へと振った。
返答の答えはイエス。
どうやらトーレ自身もドゥーエの言い分は元より分かっていたようで、その動作には一瞬たりとも迷いというものがなかった。
こっち、というのは何もドゥーエ自身の事を言っているのではない。
あくまでも彼女の立場─────何も知らない一般人へと危害を及ぼさない様に暗に示しているのだ。
無論、トーレとて先ほどの会話からその趣旨は理解しているものの……彼女には何も知らない現地の子供を今回の件に巻き込んでしまったという“前科”がある。
つまり、ドゥーエが言いたいのはあくまでもそこ。
これ以上何の関係もない人間を巻き込まない様にその二人をしっかりと見張っておけと、その事を胸に刻み付けておけと……そういう事を彼女は言っているのだ。

「分かっている……分かっているさ、私も……」

「……そう、ならいいのだけど。あら? もう行くの?」

「今日はその事を報告しに来ただけだ。それに、私にもやらなければいけない事がある。長居は無用だ」

「つれないのね。御飯でも奢ってあげようかと思ったのに……」

心にもない事を。
トーレはおどけた様子でそんな風な事を言い出すドゥーエに思わず苦笑いを浮かべると、徐にその場に立ち立ちあがり、座ったままの彼女へと背を向ける。
己のやるべきこと……否、やらなければいけないこと。
それを果たす為に、彼女はゆっくりと自身の姉の元を去っていく。
自身の軽率な判断の所為で、こんな馬鹿げた事件に巻き込んでしまった一人の少女への責任を果たす為に。
こんな得体の知れない人間に無垢な信頼を寄せてくれた“彼女”へ、己が為すべき事を成す為に。
彼女は自身の姉の小さな呟きに見送られながら、そっと待合室を後にしていくのだった。

「……頑張ってね」

「あぁ、無論だ。自分の責任は……自分の力だけで果たす。それだけだ」

その会話を最後に彼女達は別れて行く。
一方は少女たちを戦いから遠ざける為に。
一方は巻き込んでしまった少女を護り抜く為に。
自分たちが護ろうとしている少女が、何者なのかも知る事無く……彼女達は己の果たすべき物の為に歩みを進めて行く。
その先に、どんな運命が待ち受けているのかも知らずに……。









[15606] 空っぽおもちゃ箱⑪ 「殺されたもう一人のアタシ」#アリサ視点
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:6aeaada3
Date: 2011/06/05 21:49
人、一人の力というのは己が考えているよりもずっと小さく、そして脆く弱いものである。
そんな世の真理に初めてアタシが気付かされたのは一体何時の事だっただろうか。
至極最近のことだったか。
それとも薄れる記憶の片隅にすら残っていないような遠い日のことだったか。
もうそんなことすらもアタシは満足に思い出せないでいた。
ただ憶えているのは胸の奥に蔓延る後悔の念と、自責の想い。
今更どうあったって覆せないという、この現実を証明するような心の痛みだけだった。

正義感、なんていうような言葉だけで何でも行動してしまえる人間はすごいと思う。
だって何をするにも迷いってものが一切ないし、そもそも損得という概念を欠片すらも考慮することもなく善行に及ぶ事が出来るのだから。
誰にだって優しく、それでいて均しく平等。
どんな人間にだって真正面からぶつかっていける一種のヒーローの様な存在……なるほど、ここまで出来た理想像というのもなかなか無いというものだ。
きっと一昔前のアタシだったらそんな存在に憧れも抱いていたのだろうし、自分自身もそうなるべく努力を重ねたことだろう。
けれど、アタシは気付かされてしまったのだ。
所詮は多勢に無勢。
一人の人間が如何に頑張ったところでその成果のほどは知れているのだということに。
誰だって枠を外れれば人の悪意という水底へと引きずり込まれてしまうのだということに……。

そのきっかけなんていうのは実に極単純なものだった。
己が目標としていた友人が、他の人間と同じように水底へと引きずり込まれるのを垣間見てしまったというだけのことだ。
本来だったら、それは取るに足らないことだったのかもしれない。
だってどれだけ崇高な人物像を持った人間とて所詮は人の子なのだ。
躓くこともあれば、挫折することだってある……だって人なんだから。
けれど、その当時のアタシはそんな当たり前のことにすら気付かずに、その人間の人柄だけを妄信してしまっていたのだ。
彼女に限ってまさか躓くことはないって。
彼女に限って他者の悪意に飲まれて溺れるなんて事はありえないって、心のどこかで信じて止まなかったのだ。

だからだったのだろう。
そんな彼女が落ちぶれていく様を垣間見たときに、アタシが何も出来ずにいたのは。
本当だったら手を差し伸べてあげなきゃいけなかったのに……。
友達として支えてあげなきゃいけなかったはずなのに……。
彼女という目標を目の前で失った私は、結局何もすることは出来なかった。
多分、ショックだったのだと思う。
まさか自分の目標としていた人間がこうも簡単に崩れ去っていくなんて想像すらもしていなかったから。
でも、それ以上にアタシは恐怖してしまったんだ。
このままでは何れアタシもこうなってしまうんじゃないかって……彼女と関わっていると自分まで同じように標的にされてしまうんじゃないかって……。
今思えば、あそこで思い止まっておけばよかったんだと思う。
けれど一度臆病風に吹かれた私はそんな彼女の姿を振り返ることすらせず、結局顔を背けて逃げてしまったのだ。
主体性も無く、ただ安穏と群れるだけの多数派の中へと……。

悔しかった。
何も出来ない非力な自分自身の存在が。
情けなかった。
現実に背を向けて逃げることしか出来ない矮小的な己自身が。
歯がゆかった。
それからも虐げ続ける彼女に声を掛けてやれなかった臆病な自分が。
でも、楽だった。
己の主張も意思を捨て、群れというあらかじめ形成されたコミュニティの中に自身を埋没させてしまえば何の気苦労もせずに済む。
虐げられる事もなく、独りぼっちになることもなく、ただ己が満たしたかった「独りになりたくない」という欲求に浸っていることが叶う。
そんな蠱惑的な甘い誘惑にアタシは抗うことが出来なかったのだ。

その後から、アタシは色々と考えを改めるようになってしまった。
己の主義主張よりも集団の倫理を重んじ、目立つこと集団の輪を乱す事を極端に嫌い、そして本当に仲の良い人間以外とはなるべく関わらないよう距離感を考え毎日を生きる。
凡そ、それはそれまでアタシが歩んできた人生とは全く逆の生き方だった。
でも、結局私はそれを選択してしまった─────せざるを得なかった。
だって、アタシはもう二度と独りにはなりたくなかったから。
もう誰もアタシのことを置いて何処かへ行って欲しくなかったから。
結局、アタシはアタシの自尊心を護る為に友達を裏切り、そして己自身を殺したのだ。
アリサ・バニングスというアタシの個我を……もう一人の友達を護るというお題目を立て前にして……。
アタシは……『アリサ』を殺したのだ……。





鬱陶しい程に日の照りつける日曜日の午後。
アタシは担任の教師に任された頼まれごとを果たす為にとある人物の住む屋敷へと足を踏み入れていた。
月村邸─────アタシの友人である月村すずかとその家族が住まう古風な邸宅だ。
目的なんて言うのは別に大したことじゃない。
ただ彼女が休学中の間に溜まったプリントをアタシが直々に届けに来たというだけの事だ。
本当だったらこんな事は封筒にでも詰めて学校側がまとめて配送してくれればいいような物なのだが、今回はちょっと学校側も事情が把握出来ていない様で、それを確かめる目的も兼ねてすずかの友人であるアタシにその任が回ってきたとの事らしい。
尤も、この件に関してはアタシも色々と不安を抱いていたこともあって、半ば自分から志願した様な物なのだが……まぁ、そこの処は言いっこなしというものだろう。
流石に何の事情も知らされずに一週間も学校を休まれたら、アタシだって気が気ではなかったのだから。

「それで……すずかの様子はどうなんですか? 随分と具合が悪い様に聞いたんですけど……」

「えぇ、それが──────」

家の中に入れて貰うのは簡単な事だった。
何せアタシとすずかは一年生の頃からの友達だ。
お互いの家に遊びに行く事なんて何度もあったし、当然それだけの月日を重ねれば屋敷で働く使用人とだって多少は顔見知りになる。
故に、アタシはそんな顔見知りの使用人の一人であり、すずか付きのメイドでもある女性─────ファリンさんに快く出迎えて貰い、こうして彼女の案内の元すずかの部屋へと足を運んでいたのだった。

無論、本来だったら案内の必要なんてありはしない。
何もアタシだって幼子という訳ではないのだ。
幾らすずかの屋敷が広いとは言っても流石に友人の部屋までの経路を間違えるなんて事は無いし、そもそもアタシは幾度となくこの屋敷ですずかと共に同じ時を共有してきている。
未だ足を運んだことが無い区画ならいざ知らず、そんなアタシがすずかの部屋までの道のりを忘れるなんて言うのは殆どあり得ない事だった。
では何故、そんなアタシが態々案内をお願いしているのかと言えば……それは偏にすずか部屋に向かう合間に彼女からすずかについての情報を得る為だ。

「自分の部屋から出ようとしない?」

「はい。一応夜間に入浴や着替えをなされた形跡はあるのですが……。私や忍さまが事情を尋ねても風邪をこじらせているの一点張りで部屋に入らせてすら貰えないんです。本当に何があったのか私共も心配で……」

怪訝な面持ちで再度彼女が口にした言葉を疑問形にして復唱するアタシに、ファリンさんは本当に心の底から不安そうな様子で弱音にも似たそんな台詞をアタシへと語り掛けてきた。
すずかが学校を休むようになってから今日で約一週間ほど。
最初の内は本当にただ単に体調が悪いだけなのかとも思っていたのだが、流石に一週間と時が過ぎれば怪しいとも思えてくるものだ。
しかも、そういう嫌な予測というのは大概ただの徒労では終わってくれないもので……どうやら外れて欲しかったアタシの嫌な想像は現実のものになってしまったらしかった。
それも彼女の様子から鑑みるに、恐らく事態は余程酷い所まできてしまっているのだろう。
疲れたようにアタシに言葉をかけるファリンさんの面持ちは、何処か悲痛なものすら見え隠れしているようにアタシには思えた。

「あの……それじゃあ、もしかしてすずかの様子は……」

「……恐らくアリサお嬢様のご想像なさっている通りかと。お部屋の中で何をなさっているのか私共には確かめる術もありませんし、事情が把握出来ないだけあって無理やり押し入る訳にもいかないんです。ただ忍さまも私もこのままじゃいけないという事は分かっているんですけど……」

「何も分からないから手出しも出来ない。つまりは、そういう事ですか?」

「仰る通りです……私共もほとほと困り果てていて……」

がっくりと肩を落とし、「情けない限りです」と自己嫌悪の念を振り撒きながらファリンさんは続けてアタシにそう言った。
なるほど、すずかの直属の侍女たる彼女がそんな弱音を漏らすのだからきっとその努力たるやアタシなんかでは及びもしない程の物だったのだろう。
なんだかんだ言ったってアタシは所詮すずかとは友人同士の関係でしかない。
だが、ファリンさんは侍女とは言えども、その関係はもはや殆どすずかの家族の様なものだ。
散々悩んだことだろうし、苦しみも伴ったのだろう事は想像に難くない。
そこら辺の事情は何処か寂しげな雰囲気からもなんとなくアタシも察することが出来た。

「大変、なんですね……」

「……このような事をお客様であるアリサお嬢様に漏らすには不躾なのかもしれませんが、正直辛いです。本当に、ある日を境にぱったりとこんな風に……」

目じりに溜まった一滴の涙を指先で拭いながら、嗚咽交じりの悲痛な声色でファリンさんはそう続けた。
その様は、まるで今にも泣き出しそうな童子の様で、それでいて何処か悪い方へと落ちて行く娘を嘆く母の様だともアタシには見えた。
恐らく前者は普段の彼女がおっちょこちょいで何処か抜けた印象があるが故に、そして後者はそんな何時もの彼女とは似ても似つかない寂しげな母性を帯びた雰囲気を醸し出しているが故のことだろう。
アタシも彼是もう三年近くファリンさんと度々顔を合わせるような関係を続けているが、こんな風な印象を彼女に抱いたのは初めての事だった。

「すみません。お客様の前だというのにこんな……」

「いえ、気にしないでください。お気持ちはアタシもよく分かりますし、そんな事で一々咎めようなんてこれっぽっちも思ってませんから」

「……ありがとうございます、アリサお嬢様」

そう言って礼を述べる声にもやはり元気は無い。
まぁ、無理もない話だとは思う。
幾ら周りの人間が気にするなと言った所で、ことに直面している当人とっては何の慰めにもなりはしないからだ。
ましてファリンさんはすずかの世話係。
己に何か至らぬ所があった所為ですずかが引きこもってしまったのではないか、という考えに至っても何の不思議もない。
寧ろ十中八九、彼女はそうした自己嫌悪の念に捉われてしまっていると考えてしまっていいだろう。
何せ今の彼女の表情は子供のアタシから見てもはっきりと分かってしまうくらい、どんよりと沈んでしまっているのだから。

「すずかお嬢様は先ほども申した通り、ずっと部屋に籠ったまま誰も自室に入れようとしてくれません。でも、もしかしたらアリサお嬢様のような気の知れた御友人の方なら或いは……」

「任せて下さい。何処まで出来るかは分かりませんけど、せめて事情くらいは聞いてくるつもりです。アタシもやっぱ……すずかの事が心配ですし」

「よろしくお願いします。それと、お力になれず申し訳ありません……」

「お気になさらないでください……っていうのも酷な話なのかもしれないですけど、ファリンさんもあんまり思いつめないでくださいね」

すずかの部屋の前─────彼女との別れ際にアタシがそう言うと、ファリンさんは膝の前で手を組んで深々と一礼を返した後その場から静かに去っていってしまった。
去り際の彼女の表情はやっぱり暗く、そして何処か悔しげな面持ちだった。
それは結局己の力だけではどうすることも出来なかった事への憤りだったのか
はたまた部外者であるアタシに頼らざるを得ない事への情けなさだったのか。
それとも、その両方だったのか……。
アタシは精神鑑定士でも、カウンセラーでもないからそこらへんの事情は窺い知れないけれど、きっと似たような感情を抱いていたのだろう事は何となく察しがついた。

我ながら無理な事を云ったのだとは思った。
こういう時にもう少し口が上手ければ気の利いた事の一つでも言う事が出来たのかもしれないが、生憎とアタシはそうした事が苦手な性分だ。
何だかんだと彼是考える事は出来ても、その問題点を答えに結び付ける事は叶わないジレンマ。
そんな事を延々と続けているから、先ほどの様な場面でもアタシは考えていた事と口にする事があべこべになってしまうのだろう。
直せるかどうかは分からないが今後はもう少し己の事を見つめ直して、不用意な言動は避ける事にしよう。
アタシは去り際にファリンさんの見せた悲しげな表情をふと思い出し、そんなことを胸の内で誓いながら、目の前に聳え立つ大きなドアをニ、三度ノックして中に居るのであろう人間へと声を掛けるのだった。

「すずかー、アタシよ。久しぶりに遊びに来たんだけど此処開けてくれない?」

なるべく自然体を装いながらアタシは軽快にそう声を掛けて見せる。
こういう時に心配するような素振りを見せたり、不安を胸に抱いている様な挙動を見せると逆にすずかを不安にさせかねないとそれまでの経験からよく存じていたからだ。
凡そ月村すずかという少女はアタシの知る限り、他人の抱いた情念を敏感に感じ取り、尚且つそうした感情に酷く揺す振られる性質を有していると言っていい。
不安、呆れ、嫉妬、怒り、悲しみ、悪意、落胆、拒絶……その他エトセトラエトセトラ。
そうした誰もが知らず知らずの内に発している負の情念にすずかはとても影響を受けやすいのだ。

それにアタシが気が付いたのは今より大体二年前。
丁度アタシと『アイツ』が派手に喧嘩を押っ始めて、数日が経過したある日の事だ。
あの頃はアタシもアイツも中々の意地っ張りで結局クロスカウンターでダブルノックアウトしてしまい、決着が付かなかった所為もあってか、お互い顔を合わせたらガンをつけ合うような険悪な仲だった。
毎日飽きもせずにピリピリ、ピリピリ。
正直、何時一触即発してもおかしくないような所までアタシとアイツの関係は堕ちて行ってしまっていたのだ。

けれど、あの日……そんなアタシとアイツに関係に一石を投じざるを得ない事態が起きた。
アタシとアイツが険悪な関係にあるのは自分の所為だと思い悩み、度重なる心労を抱えていたすずかがアタシ達の目の前でばったりと床に倒れてしまったのだ。
あの時は流石のアタシもアイツも心底驚いたものだ。
何せ自分たちの対立がすずかに心労を及ぼしていただなんて思ってもみなかったし、アイツにしろアタシにしろまだガキだったから人が倒れる場面なんて一度も見た事がなかったからだ。

あの時は流石にアタシもアイツも反省した。
すずかが目覚めた後も二人揃ってきっちり頭も下げたし、これからは心を改めて仲良くしようとアイツと和解だって取り付けもした。
そうしてアタシ達はすずかも交えて三人でよく行動するようになって、時たまいじめられがちだったすずかを二人で助けるようになって、何だか知らない内に交友が深まっていって……最後には三人仲良く友達同士。

思えば、あの頃が一番幸せだったんだとつくづく思う。
アタシもまだ愚直で向こう見ずで、アイツも一度決めたことは意地でもやり通さなきゃ済まないような頑固な性格で─────そんなアタシ達が共通して見出した目標がすずかをありとあらゆるモノから守り通りことだったからだ。
二人ならそれが出来るって、本気で思っていたんだ。
互いが『こいつ』が居ればアタシ達は無敵なんだって思い込んで無鉄砲に二人でバカやって、それですずかを交えて笑ってるだけの毎日が何時までも続くんだろうって本気で思いこんでいたんだ。
あの頃の……まだ無垢で現実を知らない糞ガキだったアタシ達は。

でも、今となってはそんな過去も遥か遠い昔のことだ。
二年近い歳月を共に過ごしたアイツとは結局アタシが原因で疎遠になってしまったし、すずかだけはと思って彼是神経を尖らせてみた処でこのざまだ。
何処から狂ってしまったか、何て事はこの際どうだっていい。
結局こんな無様な現実が目の前に広がっているんだという現実は変えようがないからだ。
けれど、もしも一つだけ答えが得られるのであれば……どうしてアイツもアタシもすずかもこんなにも他人を信用できなくなってしまったのかアタシは知りたかった。
無論、そんなものはある意味分かり切った話なのかもしれないが……。
アタシは心の内でそんな風な事を考えながら再度ドアをノックして、注意を促しながらもう一度すずかへと声を掛けるのだった。

「すーずーかぁー! ねぇ、ちょっと聞いてる?」

不安にも似た心のもやもやを胸の内で押し殺しながらアタシは尚も何時もの調子を装い続ける。
けれど、すずかからの反応は何もない。
返事が返って来る訳でも無ければ中から物音が聞こえてくる訳でもなく、ただただアタシの声が静寂の中へと溶けて行くだけだ。

どうして─────そんな思いがざわついた心の内へと落ちて、波紋を立てる。
ファリンさんの話が真実ならば、すずかは確かにこの扉の向こう側に居る筈だ。
にも関わらず、アタシはまるで自分がこの世の何処にも存在しない空虚な幻へと声を掛けている様な、そんなおかしな感覚に捉われていた。
存在感がない、とでも言えば適当なのだろうか。
例え壁に隔たれていたのだとしても、普通人に話しかければ大なり小なり相手の感覚を捉える事が出来る筈なのに、此処にはそうした『人の気配』というものが一切感じられないのだ。

「すずか……?」

もう一度、アタシはすずかへと声を掛ける。
けれど、結果は結局同じこと。
答えは……返ってない。
応でも否でも無く、拒絶するでも受け入れるでもなく、ただ淡々とした静寂だけがアタシを中心に渦巻くばかりだった。

「……居るんでしょ? 居る……のよね?」

こうなって来ると流石のアタシも動揺せざるを得なかった。
これがまだ「入って来ないで!」とか「放っておいて!」とかそんな言葉を掛けられたというのなら、まだ分かる。
確かにショックなことはショックなのだろうし、傷つきもするのだろうけど、それならまだ対策のしようはいくらでもあるのだから。

だが、現状はどうだ。
無視されているというのならばまだいい。
嫌われてしまい、口もきかれずにいるというのも考慮出来ない訳じゃない。
でも、これじゃあ……これじゃあまるで─────アタシは最初から誰も相手にしていないみたいではないか。
瞬間、アタシは自身の胸がドクンッ、と大きく跳ね上がるのを確かに感じた。

「ねぇ、すず─────」

嫌な予感に苛まれるまま、慌ててもう一度彼女の名前を呼ぼうとした刹那、アタシは不意に途中まで出掛かった言葉を徐に引っ込めた。
それまで固く沈黙を保っていたドアのノブが、ガチャリと音を立ててアタシの目の前で回り始めたからだ。
きりきりと、金属同士が擦れ合う不気味な音が辺りに響き渡る。
それはまるで蝙蝠か何かが鳴いているかのように甲高く、それでいて知らず知らずの内に鳥肌を浮かばせてしまうほどに鋭いものだった。

気味が悪い。
何故そんな風に思ってしまったのかは分からないが、アタシは半ば動物的な直感にも似た感覚からそう感じ取っていた。
このまま此処に居ては駄目だ。
直ぐに踵を返してこの場を去らなければ……何か大変なことになってしまうような気がする。
そんなネガティブなイメージが何度も何度も瞬間的にアタシの脳を過り、そして警笛を鳴らしていく。

けれど、アタシは動けなかった。
無論すずかがこの音の先にすずかがいるのであろうという期待感からくるものはある。
一週間ぶりにようやく会えるのだ。
一目でもいいから彼女の無事を確認したいと思うのは無理もない話というものだろう。
でも、今のアタシが動けない理由はなにもそんな現実逃避めいた高揚感から来るものじゃない。
寧ろその逆─────ドアの向こうから伝わる形容し難いほどのプレッシャーに押し負けて、アタシは足一つまともに動かす事が叶わないだけなのだ。

ポタリ、と額から冷や汗が零れ落ちる。
本当は今すぐにでも走ってこの場から離れたいというのに、どうあっても動かない身体がそれを許してはくれなかった。
これではまるで蛇に睨まれた蛙も同義。
いや、考えようによってはそれよりもずっと悪いのかもしれない。
だってアタシの視線の先に居るはずの人物は蛇でも無ければ狼でも無く、つい最近まで二人で並んで楽しく談笑していたはずの友人に他ならないのだから。
それなのに……どうしてアタシはこんなにも、目の前の存在に恐怖を抱いてしまうというのだ。
刹那そんな疑問が尽きる間もなく、アタシはドアの隙間からこちらを覗き見る『彼女』の姿を垣間見た。
暗闇の中、揺ら揺らとギラついた真っ赤な瞳でアタシのことを見つめて微笑む月村すずかの歪んだ貌を。

「あぁ─────アリサちゃんだぁ。ふふっ、久しぶり」

まるで何事もなかったかのように年頃の少女らしい微笑を浮かべ、三分の一ほど開いたドアの隙間からアタシへとそう語りかけてくるすずか。
その挙動はどこまでも何時も通りで、それでいて間違いなくアタシの知るすずかの物に相違なかった。
だが、違う。
彼女の纏う雰囲気とでも言えば適当なのだろうか。
それがどうしようもなく……何時もの彼女の物とは異なっている。
根拠なんて何処にもないし、そうだという確証がある訳でもない。
でも、アタシはそう思ってしまった─────そう思わざるを得なかった。
だってアタシの知っているすずかは、こんな風に悪意を滲ませたような顔で誰かのことを嗤ったりなんて絶対にしない筈なのだから。

「一週間ぶりだねぇ……。ごめんね、心配させちゃったかな?」

薄暗い扉の隙間からゆらりと伸びた彼女の真っ白な手がアタシの頬をそっと撫でる。
冷たい指先が額から流れる汗を拭い、人肌にしては妙に冷たい感触が首筋の方へとゆっくりと降りて行く。
気持ちが悪いという感情が幾度となくアタシの意識を駆り立て、そして明確に拒絶の意識を示し出す。
けれど、どういう訳かアタシはその手を振り払う事が叶わなかった。
それどころか、アタシは暗闇の奥で歪に煌めく彼女の真っ赤な瞳から視線一つ逸らす事も叶わないのだ。
そう……まるで、身体が石にでも変わってしまったかのように。

「あっ、ぁ─────」

「大丈夫だよ、アリサちゃん。私は平気。きっとファリン達に何か言われたんだろうけど……私はこの通り元気だから、ね?」

薄暗い微笑を絶やす事無く、まるで幼子を諭すかのように優しげな声色でアタシにそう語りかけてくるすずか。
けれど、そんな穏やかな口調と表情に反して彼女から伝わる雰囲気は暗く、そして重い。
それこそ、ちょっとでも気を抜いたら思わずその場にへ垂れこんでしまうかもしれない程に。
それほどまでに、すずかから伝わるプレッシャーはアタシにとって耐えがたい物だったのだ。

幾つもの疑問がアタシの脳裏を次々に過る。
何故それまで全くと言っていいほど人の気配の無かった部屋からすずかが現われたのか。
何故すずかの瞳はこんなにも真っ赤に染まってしまっているのか。
何故彼女はこんなにも人が変わった様に歪な雰囲気を醸し出しているのか。
何故アタシは動くことはおろか、喋る事すらも出来なくなってしまったのか。
何故……いや、そもそも彼女は本当にあの『月村すずか』なのか。
そうした『何故』や『どうして』が幾つも頭の内に湧いてきて、アタシは思わず吐き気をもよおしそうな衝動に駆られてしまった。

けれど、今のアタシにはそんな刹那の現実逃避すらも許されはしない。
何故ならば事実目の前で笑いながらアタシの首筋を撫でているすずかの存在は紛れもなくアタシの友人だった人物のソレであり─────アタシはそんな彼女の瞳から逃れる術を何一つ有していないのだから……。

「まだ本調子ではないけど、もう少ししたら学校にもちゃんといけるようになるから。そしたら……また一緒に遊ぼう、アリサちゃん」

くすくすと不気味な笑みを浮かべながら、立て続けにすずかはそう言葉を紡いでいく。
まるで何事もなかったかのように。
それどころか、彼女が今まで抱いていた筈の『あいつ』に対する罪悪感すら忘れてしまったかのように。
彼女は微笑み、そして語る。
無垢な少女の顔の裏に、悪魔の様な狡猾さを滲ませながら……彼女は語り、騙り、偽るのだ。
あたかもそれが真実であるかとでもいうように。
彼女は─────すずかは平然とアタシに嘘をついてみせた。
心にも思っていないような、平穏で優しげな状景を思わせるそんな『嘘』を。

「すっ、すず……か……?」

「だから、ごめんね。せっかく来て貰っちゃったのに……今日はもう『駄目』なんだ」

スッ、とすずかの指先がすずかのアタシの首筋から離れる。
そして、それに合わせるかのように突然人が変わった様に落ちる声色。
それまでの不気味さも、威圧感も、不快さも悉く消え、最後に残った虚無感だけが辺りの空気を侵食し、アタシの身を振るわせてくる。
思えば、その感情は恐怖によく似ていた。
けれどアタシには分からない。
アタシは……一体に『何』に対して恐怖しているのか、自分でも全く理解が追いつかないのだ。

言っている事はまともな筈なのに。
その挙動に不審さは感じられないのに。
目の前の彼女は、確かにアタシの知る友人である筈なのに。
そのどれもこれもが嘘で塗り固めた張りぼてのように中身がなく、上辺だけを取り繕った違和感が付き纏う。
それが、アタシにはどうしようもないくらい不愉快で仕方なかったのだ。
思わず、目の前の彼女を忌避し、そのまま後ずさりしてしまう程に……。
瞬間、アタシは己の身体の自由が少しずつ戻り始めているのを無意識の内に感じ取った。

「本当はもっとアリサちゃんとお話ししていたいけど、まずはしっかり体調を整えなくちゃいけないから……。今日は来てくれてありがとう、アリサちゃん。すっごく嬉しかった」

「ちょ……待っ、すず─────」

「バイバイ」

その言葉を最後にすずかはアタシの前から姿を消した。
眼前に広がるのは再び閉じられた扉と、虚空に伸ばされたアタシの手のひらだけ。
それ以外は何もない。
そう、アタシはここでまた取りこぼしてしまったのだ。
彼女という存在を……すずかという唯一無二の友達を……。
アタシは『あいつ』の時と同じように、その手から取りこぼしてしまったのだ。

こんな時、アタシがまだ昔のままのアタシでいられたのなら虚空を切った手をドアノブへと伸ばすことも出来たことだろう。
だが、今のアタシにはもうそんな勇気は欠片も残されてはいなかった。
だからなのだろう。
目標も、約束も、友人さえ見失ったアタシは……結局その場に立ち尽くしたまま後にも先にも進むことはできなかった。
さながら、一人ぼっちを嘆く幽霊みたいに。

そうしてこの日、アタシは人生で二度目の死を迎えた。
嘗ての無垢たる少女の頃のアリサを超えて生まれた、すずかの友人であるというもう一人のアリサを。
アタシは……すずかから背を向けることで、殺してしまったのだ。
自らの手で。









[15606] 第三十一話「わたし達の時間、なの……」
Name: ランブル◆b9dfffe8 ID:6aeaada3
Date: 2011/07/03 18:30

騒がしい街中をあてもなく歩き回る、なんていうことは私にとってはそれほど珍しいことじゃない。
同年代の友達とも縁を切り、諸々の事情もあって家にも居辛かった一昔前の私は殆ど毎日のように疎らな人ごみの中に紛れて騒々しい街の中を闊歩していたからだ。
お金もなく、目的もないのにあっちへ行ったりこっちへ行ったり。
ただ自分の傍に人がいるということだけを感じたいが為に、私はそうして意味もなく体力と気力だけをすり減らす毎日を送っていたのだ。

本当はただ虚しいだけだっていうのは初めから知っていた。
けれど、私はそんな虚しいだけの行為を止めることが出来なかった。
自身の胸の内に蔓延る孤独をほんの少しでもいいから薄れさせたかったが故に。
己は独りでしかないという現実への畏怖から逃避したかったが為に。
私は無駄なことだと知りつつも、この街の有り様に自身の感情を埋没させることで心の中で肥大する寂しさを紛らわせるしかなかったんだ。

でも、今は違う。
未だに私も変われないところはあるし、途方もない苦労を背負っている最中だけど、私は着実に昔の私からは遠ざかりつつあるのだと思うのだ。
一歩一歩は小さいのかもしれないけれど、少なくとも今の私は独りじゃない。
巣となり、支えとなってくれる人たちが傍にいてくれる。
それだけで、私の心は大分軽くなってくれる気がするのだ。
少なくとも、彼女と共に歩むこの街をほんの少しだけ好きになってあげる程度には……。

「わ~……。なのは、なのは! 今度はこのお店に入ってみようよ」

「ふふっ、いいよ。付き合ってあげる」

物珍しい玩具を前にした子犬のようにウィンドウに飾られた洋服や小物に興味を示しては無垢な笑顔を振りまいてはしゃぐフェイトちゃんと、そんな彼女に付いてあれやこれやとフォローしたり助言をしたりしている私。
もう彼是そんなやり取りが二、三時間と続いた頃のこと。
私たちはフェイトちゃんの身元を探すという本来の目的も完全に忘れて、二人仲良くウィンドウショッピングに洒落込んでいた。

ジャンルとしてはストラップやぬいぐるみといった物から、CD、書籍といった物まで幅広く見て回った。
ある店では可愛い洋服を見つけては試着を繰り返し、またある店では流行の歌を試し聞き、またある店ではお勧めの漫画をフェイトちゃんにレクチャーして笑い合う。
本当に、心の底から楽しいと久しぶりに思える有意義な時間だったように私は思う。
まぁ、とは言え服やら小物やらに関しては私自身門外漢と言わざるを得ないし、そのほとんど縁のないものばかりだったわけなんだけど、実際はそんなことはあんまり気にはならなかった。
ただ彼女─────フェイトちゃんが私に向かって笑いかけてくれるというたったそれだけの要素があるだけで、そんな私の些細な憂鬱は何処か彼方へと簡単に吹き飛んでしまうのだから。

「はやく、はやく!」

「わっ、ちょっと待ってよフェイトちゃ~ん」

私の視線の先で手招きをしながらゲームショップの中へと入っていくフェイトちゃんに私は見逃さないようしっかりと後をついていく。
一応先生から言いつけられている以上見失ったら大変というものだ。
何せフェイトちゃんは記憶を一回フォーマットしちゃった挙句、先生に拾われてからはひたすらに家の中でゲームをしてるか、先生に勉強を教えてもらうかの二択を繰り返している重度の世間知らずだ。
下手をすれば「飴あげるからおじさんについてきてくれない?」とかベタなこと言われても平気で付いていきかねない危うさもある。
そこら辺のことを踏まえるに、やはり多少なりと土地勘のある私が目付け役になるというのは妥当なことだというものだろう。
無論、そんなことは単なる建前に過ぎず、本当のことを言うと完全に私も一緒になって楽しんでいるだけなんだけど……まぁ、言いつけは守ってるんだし結果オーライという奴だ。

「もぅ、勝手に先いかないって約束したのに……」

微笑ましさ半分、呆れ半分といった具合にそんな台詞をフェイトちゃんへと吐き出しながら私も彼女に続いて店の自動ドアを潜り抜ける。
久しぶりの外出ではしゃいでいるのは分かるけど、もう少し落ち着いてくれたらとちょっとだけ思ってしまうのはここだけの秘密だ。
店の棚に溢れんばかりのゲームソフトが陳列されているさまは確かに壮観なのだろうし、自分がまだプレイしたことのないゲームが新鮮なのはわかるけど、大抵こういう時にはしゃぎすぎると碌なことがない。
もっとも、それは私のジンクスであって彼女にもそれが当てはまるかどうかは微妙なところなんだけど……何事も程々にしておくっていうのがやっぱり一番なのだ。
ゲームのプレイ時間然り、やり込み然り、そして購入の際の勢い然り。
こういう時の鉄則はやはりしっかりと教えておくべきだろう。
私は心の内側でそんな風な決心を固めながら、両手で携帯ゲーム機のソフトの箱を手にとっては裏の説明文と睨めっこしているフェイトちゃんのほうへと足を延ばすのだった。

「フェ~イトちゃ~ん。置いてかないでって言ってよね? 自分勝手な行動したらメッ、だよ」

「あっ、あはは。ごめんね。ついはしゃいじゃって……」

「まっ、気持ちは分かるけどね。何見てるの?」

「えっと……とりあえずはドゥーエに貸してもらってた物の続きがあるかなって思って……。これとこれなんだけど……」

そう言って徐に日本のゲームを手渡してくるフェイトちゃんと、素直にそれを受け取ってどんなもんかと評定を始める私。
渡されたゲームのタイトルはそれぞれ『ドラゴンクエストⅤ』と『激闘! カスタムロボ』の2作品。
なるほど、どちらも素直に悪くないと思えてしまうような無難なソフトだった。
方ややり込みRPG、方やファイトアクションとジャンルはバラバラだがどちらも長くシリーズが続いている長寿タイトルだし、フェイトちゃんのゲームの腕前は以前彼女といっしょにゲームをした経験から私もよく知っている。
この際どちらを勧めたのだとしても、まず外れはないと言っても過言ではないだろう。

けれど、逆に言えば外れがない二作品だからこそ優劣をつけにくいのもまた事実だった。
何せフェイトちゃんの差し出した二つのゲームはそれこそ初心者から玄人まで幅広い層がプレイしても楽しめるタイプのものだ。
ドラクエの方は楽しみ方次第では何度プレイしたって飽きないという人もいるし、カスタムロボの方は通信で対戦やパーツの交換が出来るというドラクエにはない利点がある。
こういう時購入者が私なのだとしたら迷わず二つまとめて買うか、それとも揃ってあきらめるかの二択なんだけど……さすがにフェイトちゃんのお財布事情の関係上そのどちらかを押し付けるのは酷というものだろう。
ゲームをやりたい欲求と、無駄遣いをしないための心の抑制。
その二つを考慮した上で次第点に落ち着かせるには、はたしてどちらのゲームを選択するのがベストなのだろうか。
私は手の内の二つのゲームソフトを交互に見渡しながら、入念に情報を抜粋して頭の中で整理を重ねながら、その疑問に答えを導くべく、真剣な面持ちのまま審議を繰り返すのだった。

「う~ん……RPG慣れするんだったらドラクエのがいいとは思うんだけど、フェイトちゃんの場合指先が器用だからアクションのが向いてそうなんだよねぇ……。これが自分のなら二つとも投げてPSの『武蔵伝』と『チョコボのダンジョン2』買うんだけど……」

「あ、あの……なのは?」

「あー、でも待ってよ。別にこの二択が絶対って訳でもないんだから別のゲームでもいいのか……。いやでもメガテンとかサガフロはフェイトちゃんにはまだ─────」

どういう訳か軽くフェイトちゃんにひかれたような様な気もしたが、それから向こう15分くらいの間、私は夢中で己の考えに没頭し続けた。
何せ、勉強も私生活も何もかも放り出した私が唯一誇れるのがゲームに対する愛着なのだ。
加えて、彼女の提示した二作の名作から一作だけを選ばなければいけないというこの状況。
幾ら友達にゲームを進めるだけとはいえ、おいそれと軽々しく答えを選択できないというのも無理もない話というものだろう。
まぁ、尤も事の当人であるフェイトちゃんは完全に蚊帳の外なんだけどね。

「でもだからって無難にモンスターハンターっていうのも微妙だし……いっそドリキャスとかネオポケとかの路線を開発するのもありかも……。それなら抱き合わせでシーマンとサクラ大戦も……」

「なのは~、お願いだから戻ってきて……」

「えっ、あっ!? ごめんごめん、つい夢中になっちゃって」

「もう……いきなり考え込んじゃうからびっくりしちゃったよ。本当になのはってゲーム好きなんだね」

呆れたようにそう呟くフェイトちゃんに私は苦笑いを浮かべながら「まぁね」とだけ返事を返し、熱中しすぎてしまった己のことを少しだけ悔いた。
元々積極的にゲームを始めた時はフェイトちゃんみたいな友達もいなかったし、そもそも熱中していた理由だって現実から少しでも逃避しようとしていたが故の事だ。
新しいゲームを買う時だって勿論一人だったし、お金にそれほど余裕があったわけでもなかったから当然昔から色々と考え込んでしまっていたんだけど……どうやら今回はそんな癖が裏目に出てしまったということらしい。
私の場合、少しでもゲームを楽しむためには妥協しないっていうスタンスを貫いていたんだけど、それもフェイトちゃんからしてみれば与り知らぬことだ。
これが純粋な理由でゲームに興味を持った者と不純な理由でのめり込んだ者の意識の違いというものなのだろう。
そう考えると、私は何だか少しだけ寂しいものを己の内で感じた。

「殆ど唯一の生き甲斐みたいなものだったからね。最初は単なる暇つぶしだったんだけど……先生に色々教えて貰ってからは自分でも色々と試すようになってね。今ではまぁ、こんな感じって訳なんだ」

「先生……ドゥーエのこと?」

「あぁ、うん。そうだよ。あの人に出会ったからは趣味も増えたし、多分私も色々な方面で影響を受けちゃってるんだろうね。先生、あんな風に見えて意外と多趣味だから」

「へー……。じゃあ、私もなのはと一緒なのかも。私も色んなことドゥーエに教えて貰ってるし、いっぱい楽しい思いさせてもらってるから。やっぱり……ドゥーエってすごい人なんだな~」

何処か嬉しげに、そしてまた誇らしげにそう語るフェイトちゃん。
なるほど確かに記憶喪失の所為で己の身元も分からず、家族が何処にいるのかも分からないような状況下にある彼女からしてみれば先生はもはや母親代わりのようなものだ。
実際フェイトちゃんも大分懐いてるみたいだし、話をしていても双方からこれといって不満や愚痴が零れてこないことから見ても関係は良好なのだろう。
ならば、そんな母親代わりのことを褒められてフェイトちゃんが照れるというのも別段不思議ではないというものだ。

尤も、そんな仲の良い二人に若干の嫉妬を覚えないでもないんだけど……まぁ、それとこれとはまた別の話だ。
私とフェイトちゃんでは立場も違うし、彼女の場合は事情も事情だ。
それに私自身友達であるフェイトちゃんのことをあんまり悪い風には思いたくないし─────今はまだ一歩下がったところから微笑ましく見守ってあげるというのが友達として最善の行動なのだろう。
まぁ、欲を言えば立場を変わってほしいっていうのが本当のところなんだけどね。
私自身そこら辺のことが素直に言えない分、純粋無垢に甘えられるフェイトちゃんが羨ましいと思ってしまうのもまた確かな事実なのだから。
私は心の内側でそんな風に考えを纏め、己の内に沸いた僅かな羨ましさを確かに感じながらも、こんな感情を何時までも抱えていては具合が悪いと思い立ち、急いで話題をそらそうと躍起になるのだった。

「あっ、そうそうフェイトちゃん。さっきから考えてたんだけど買うんだったらこっちのゲームがお勧めだよ。何事もまず基本が大事だし、今後の根気を養うためにもRPGが一番だよ。というわけで私としてはドラクエ押しかな。カスタムロボも捨てがたかったけどね」

「えっ、そうなの? それじゃあ……思い切って買ってきちゃおうかな。ちょうど調度お金の持ち合わせもあるし、少しくらい贅沢してもいいよね」

「まぁ、先生ならそういう無駄遣いしても多分怒らないだろうし、いいと思うよ。偶には自分の好きなようにやってみるっていうのも」

「うっ、うん。そう……だよね。じゃあ、なのは。ほんの少しだけここで待ってて。すぐにコレ買ってきちゃうから」

そういって嬉しそうに私の手渡したゲームの空箱を抱えながらフェイトちゃんはレジの方へと駆けて行く。
なるほど、その様は正に無垢な童のそれに間違いはない。
嬉しいから笑い、悲しいから泣き、激昂に駆られるから怒り、物珍しいものを目にしたから感動して感銘を受ける。
それは、それこそ古今東西何処の人間であろうが変わらない道理というものだろう。
故に目の前の少女の様子は別段これといって特筆すべき点など何処にもありはしない。
そう、ただ一つ彼女という存在そのものがこの街にとっての異邦人であることを除きさえすればの話だが……。

店員へと商品を渡し、あれやこれやとやり取りを重ねているフェイトちゃんの方を見やりながら私は考える。
そもそも、フェイトちゃんとは何者であるのか、と。
無論それは私如きが窺い知れることではないし、当の本人すらも文字通り忘れてしまっているのだから明確な確かめようなど何処にもありはしない。
だが、彼女と共に過ごす時間の中で私はある程度彼女が無意識の内に示し出す断片的な情報を得ていたりもするのだ。
それを先生とメールでやり取りし合い、さながらプロファイラーのように互いの情報を照らし合わせて過去のフェイトちゃんの人物像を卓上に浮かび上がらせていく。
地味な作業なのかもしれないが、先生といろいろと相談し合った結果、それが私たちにとってもフェイトちゃんにとっても急ぎ過ぎない最良のやり方だった。
故にこの時も私は絶えず彼女の動向から何か手がかりはないかと観察しているのだが─────正直言って彼女の場合、そうした情報を得れば得るほど元の情景が見えなくなってしまうのだ。

「本当、いったい何者なんだろうね。フェイトちゃんって……」

ふとそんな益体もない台詞が私の口元から漏れ、宙に落ちる。
元より地道なこと故、嘆いていても仕方がないのは分かるのだが、彼是何週間と時間が過ぎて行くにも拘らず、こうも彼女の身元が知れぬとなると流石にぼやきもしたくなるというものだ。
何せ憶えている事と言えば唯一己のファーストネームが「フェイト」ということだけで、家族構成、年齢、住所、国籍に至るまでの一切が不明。
加えて身体には過度に虐待されたと思しき無数の生々しい傷が刻み付けられており、中には成長しても消えないような物まであるのだという。
普通に考えれば、とてもじゃないが真っ当な人生を歩んできたとは言い難い人間であることはまず間違いない。

だが、反面彼女の私生活での言動や挙動、知識などを鑑みると決して文明的な生活から遠ざけられて生活していたわけではないこともまた事実だった。
これは先生と私で色々な角度から検証を重ねた結果導き出されたことなのだが、どうにも彼女はこの国における一般的な常識を有していた形跡がちらほらと見えてくるのだ。
無論彼女は見た目から明らかに日本人ではないと分かる容姿をしているし、一応日本生まれなだけで両親が共に外国人という線もあるのだが、それでも流暢に日本語を話す姿から見ても確実にこの国で数年以上は日常生活を送っていた形跡があるのが分かる。
ただ先生の話では一般的な文章の読解や小学生レベルの基礎的な漢字にすら躓いているような節もあることから凡そまともな学校教育は受けていなかったのであろうことも明らかになっている。
この事から、彼女は何かしらの家庭の事情で学校に通っておらず、加えて初対面の人間とのコミュニケーションに多少なりと難があったことから、ごく閉鎖的な生活を送っていたのだろうと推察することができた。
ただ、こうして買い物をすることや金銭面でのやり取りに戸惑わないことを考慮するに必ずしも軟禁されていた訳ではないことも確かなのだが……そこらへんの事情が私たちの思考を一層難しいものへと変えてしまっていたのだ。

あれだけ日本語を流暢に操れるというのに、読み書きがまともに出来ないという語学力の矛盾。
一見自分の世界に閉じこもりがちで世間知らずなようで、その実金銭面や生活面での一般常識はしっかりと心得ているという生活面の矛盾。
そして、何よりもそうした知識を持ちながらもこの国で生きてきた子供にしてはあまりにも俗世に染まっていた素振りが見えないという人格の矛盾。
勿論それらの原因が記憶喪失による弊害である可能性は捨てきれないし、私にしろ先生にしろその道の専門家ではないからあまり強く断定できた話でもないんだけど、そういった不鮮明な事情が一層彼女の背景を不明瞭な物へと変えてしまっているのもまた事実なのだ。

それに先生曰く彼女の両親や親族などから警察へ捜索届が出された形跡がないという事も何処かきな臭いものがあるし、第一私はまだ記憶を有していたのであろう頃の彼女が自殺を試みようとしていた事実を知っている。
あまり急ぎ過ぎてもいけないんだろうけど、やっぱりそこら辺の事実関係は今後しっかりと把握していかなくてはいけないだろう。
私は買った商品を小脇に抱えながら嬉しそうにこちらに駆け寄ってくるフェイトちゃんの方を一瞥し、顔に即席の笑みを張り付けながら、心の内側でそんな風なことを思考するのだった。

「お待たせ、なのは」

「うん、お帰り。じゃあ、そろそろ時間も時間だしご飯でも食べに行こうか。美味しいお店紹介するよ」

「本当!? それじゃあ……お願いしちゃっていいかな?」

「ふふっ、任せて」

溢れんばかりの期待を胸に、明るい笑顔を振りまくフェイトちゃんに私もつられて似合わないような笑みを浮かべながらそれに答えていく。
なんにせよ、今というこの安息の時間を自らぶち壊しにすることもないだろう。
最終的にこの場で私が導き出した結論は結局そんな問題を先延ばしにするようなものでしかなかった。
でも、今はこれでいいのだと私は思う。
彼女が何者であり、例えその背景に何を抱えていたのだとしても、私と彼女が此処でこうして微笑み合っているという事実には何の陰りもないのだから。
故に、私は再び彼女の手を取ってもう一度町の中へと駆けだしていく。
何にも縛られず、そしてまた何にも戸惑うことなく。
ただ歳相応の少女として、この時間を最大限楽しむために……私はもう一度、あの頃に戻った時のように笑ってこの時を楽しむのだった。
そう、まだ何もかもが正常だったあの頃のように。





その後、ゲームショップを出て私があらかじめ目星をつけていたレストランへと向かった私たちはそこで何時もよりも少しだけ豪華な昼食をとり、また一緒になって街の中を気の向くままにぶらぶらと散策していた。
食後の散歩とでもいえば適当なのだろうか。
まぁ、何だっていいけれど結局のところ何処かへ行くあてもなく街中をうろうろするという点に関しては何時もとそう対して違いのないことだった。
尤も今の私にはフェイトちゃんという連れがいるし、一人で仕方なく時間を潰さなきゃない何時もと比べれば全然退屈しないし、私自身も存分に楽しめているのだけれど。

「なのはに紹介してもらってお店のパスタ、すっごく美味しかったね」

「うん、気に入って貰えたみたいで本当によかったよ。まずいなんて言われたらどうしようって思っちゃった」

「あははっ、なのはは心配性だね。でも美味しかったのは本当だよ。あんなに美味しい料理、すっごく久しぶりに食べた気がするもん」

「またまたフェイトちゃんってば……先生の手料理毎日食べてるんでしょ? 流石にそれは先生に失礼ってもんだよ」

そんな他愛のないことで笑い合いながら、私たち二人仲良く人通りの少ない公園の中を歩んでいく。
食後という事で私もフェイトちゃんものんびりしたいっていう意見が合致した結果の選択だった。
本当は一緒に映画でも見に行こうかとも考えたんだけど、よくよく考えたら私の見る映画の趣味とフェイトちゃんの趣味が合うかどうかも分からないし、お金の持ち合わせもお昼の食事代で大分使ってしまったから結局諦めることになってしまったのだ。
まぁ、よくよく考えれば女同士で恋愛映画なんて見に行ってもつまらないだろうし、アメリカ原産のガンアクションムービーを見るにしたってフェイトちゃんが怖がるだけかもしれなかったから、ある意味結果オーライだったのかもしれないけれど。
私は心の内側でそんな風に安堵の念を抱きながら、改めてフェイトちゃんとの会話を続けていくのだった。

「それにしても今日は本当に楽しい一日だったよ。付き合ってくれてありがとね、なのは」

「ううん、いいんだよ。私もどうせ暇だったし、フェイトちゃんと一緒に遊べてすっごく楽しかったもん。よかったらまた今度の日曜日にでも一緒に遊ぼうよ、こんな風にさ」

「うん。詳しいことはドゥーエに聞いてみないとわからないけど、私も出来ればそうしたいかな……。ずっと一人でお家にいるのは、ちょっと寂しいしね」

「あー……確かに先生も色々と忙しそうだもんね。先生がお仕事の時ってフェイトちゃんがお留守番してるんだっけ?」

私が何気なく投げかけた質問にフェイトちゃんは何処か少しだけ寂しそうな表情を顔に滲ませながら、こくりと一度首を縦に振った。
まぁ、確かに少し可哀想だとは思うけど、こればっかりは流石に仕方のないことなのだろう。
何せ先生はあんな感じのグータラ教師とは言えど一応は学校の先生なわけだし、休日中も書類を整理したり、学校の方へ出向いたりと何かと忙しいと聞く。
幾らフェイトちゃんが寂しいからといって、先生も仕事を放り出すわけにもいかないのだ。
多分、そこら辺の事情は何となくフェイトちゃんも無意識の内に感じているのだろう。
彼女の寂しげな表情には何処かもう諦めたような……それでいて、仕方ないと自分を納得させているような感情が僅かにチラついていた。

「……そっか。大変なんだね、フェイトちゃんも」

「まぁ、ね。でも仕方ないよ。私、ドゥーエにそこまで迷惑かけられないもん。ただでさえ普段色々と迷惑かけちゃってるのに……今更我儘は言えないよ……」

苦い笑みを浮かべながら、フェイトちゃんはそう語る。
きっと彼女も先生と共に過ごす日々の生活の中で何処か負い目にも似た感情を抱きつつあるという事なのだろう。
その笑みの裏には何処か先生に対する罪悪感が滲んでいるように私には見えてならなかった。

無論、私だって彼女の言いたいことは何となく分かる。
恐らくフェイトちゃんは、元の記憶云々を問わず、根っこの部分からして謙虚な人間なのだろう。
そういった手合いの人種からしてみれば、自分には何もできないからとか、世話して貰ってばかりだからとか、そういった理由で先生に頼りっきりの自分を忌避するというのも無理からぬことなのだ。
そして、今の彼女はそんな自責の感情と歳相応の寂しさとが心の内でぶつかって、結局自分の心を押し殺したままになってしまっているのだろう。
そういったところが、私には何だか一昔前の自分を見ているようで、何となく親近感にも似た既知感を覚えてしまっていたのだった。

「私と、一緒だ……」

「えっ?」

「あっ、ううん、その……。何て言うか、昔の私と一緒だなって思ってね」

「昔のなのはと、私が……?」

何処か意外そうな表情でそう疑問を浮かべるフェイトちゃんに私は何処か形容しがたい気恥しさを覚えながらも「うん」と首を短く縦に振りながら、彼女へと応答を返した。
別段、ここで話を切り上げて別の話題に乗り換えてもよかったのだとは思う。
だってそっちの方がこの場においては賢明なのだろうし、何よりも私自身人に語って聞かせられるような過去は一片たりとも持ち合わせてはいないのだから。
でも、何となく私は思ったのだ。
今の彼女と似たような過去を持つ者として、そしてその果てに取り返しのつかないところまで転げ落ちるしかなかった者として、彼女には私と同じ轍を踏んで欲しくはないと。
私と同じ思いを抱えたまま、寂しい気持ちを押し殺したままにして欲しくはないと。
そして何よりも、他ならぬ先生とフェイトちゃんとの間に蟠りを生んで欲しくないと。
そう心の底から願う故に、私は内心自嘲気味に思いながらも、自身の記憶の内に葬った嘗ての己の姿を思い起こし、自身が経験した『失敗談』を彼女へと語って聞かせるのだった。

「何て言うのかな……。私もね、昔そんな風に思ってた時期があったんだよ。迷惑が掛かるから我儘言っちゃいけないとか、私は皆に心配されないようにしなくちゃいけないとか、そういうの。今考えたら頑張って背伸びしてたんだとは思うんだ。お父さんがちょっとした怪我で入院してたのもあって、私以外の家族は皆バタついてたからね。せめて私だけはいい子でいよう、って気持ちも強かったんだよ。だから、私は頑張って無理してた」

ぽつり、ぽつりと私は少しずつ言葉を吐き出しながら自身の苦い思い出を脳裏に浮かべていく。
その昔─────とは言ってもせいぜい私がまだ小学校に上がる前のことではるのだが、私は彼女に語った通りの毎日を送らなければならなかった時期があった。
何時も何時も独りぼっちで誰にも構ってもらえず、ただ遠巻きに慌ただしく右往左往する家族の姿を見つめているしかなかったあの頃の日々。
それは酷く寂しいもので、それでいて悲しいものだった。
無論、致し方のない事情だったのだという事は当時の私も理解していたし、今更それを理由にどうこうしようというつもりは毛頭ない。
けれど、今でもふと偶に考えてしまう時があるのだ。
あの時私がもっと我儘を言っていたらどうなっていたんだろうって。

確かにあの頃の私は家族の皆に心配をかけまいと表面上は何時も笑顔でいたし、なるべく独りでいなくちゃいけない理由も考えないようにしていた。
でも、結局どれだけ自分で自分を納得させてみても所詮は幼子。
身の丈に似合わない無理を重ねていれば、自ずと蓄積された不満な鬱憤が心の内に積もって処理できなくなってしまうのも無理はないというものだろう。
実際、今こうして考えてみるとお父さんの怪我の治療が一段落して退院してくるまでに私の心はあの頃から荒んでいたように私は思う。
きっと自分でも気づかぬ内に、もっと私を見て欲しい、構ってほしいという欲求が心を圧迫していたのだろう。
だからこそあの時の私の思考は、そんな家族に構ってもらいたいが為に更なる無理を重ねることでその欲を満たそうなんて考えへと傾いてしまったのだ。
このままいい子にしていればきっと彼らは私のことを見てくれるのだ、と信じてやまなかったが故に……。

「自分で自分の気持ちを押し殺してさ……。本当はもっと甘えていたい、我儘でいたいって思ってるのを無理やり抑え込んでたんだよ。そうすればもっとみんな私に優しくしてくれるって思ってたからね。でも、実際は逆だった。私がいい子でいようって思えば思うほど、皆は揃って私の表面的なところしか見ないようになっちゃってさ……。気が付いたら、ちょっとしたことで皆バラバラになっちゃってたんだ。思えば……自分で自分の首を絞めちゃってたのかもね、私は」

そう言って、私は自嘲気味にため息をつきながら自分が辿ってきた過去をそっと振り返っていく。
結局のところ、今の私と家族の不仲が生まれた土台は結局のところ彼女に語り聞かせた通りなのだ。
私が我儘も言わず、反抗することもせず、ただ順応にいい子を演じ続けたことで確かに一時的にではあるけど、家族みんなを纏めることは出来た。
けれど、それは裏を返せば自分を偽ることでしか家族の中に溶け込むことすら叶わないという悪循環と、自分を何時どんな時だって『いい子』でいなければならないという強迫観念を生み出すことでもあったのだ。
故に、私は長らく家族に本音を言ってしまいたいという衝動と、それを抑圧する自己観念との板挟みに苦しむこととなり、最終的には今のようなところまで転げ落ちてしまった。
ただ本音を言うことができなかったが為に。
ただ本当の気持ちを家族へと伝えられなかったが為に。
私は纏まった皆の絆をもう一度バラバラに引き裂く引き金を引いてしまったのだ。
他でもない、自らの手で……。

「辛いことは山ほどあったし、泣きたい時は何時も一人だった……。今はまぁ、少しだけ事情が変わったんだけどね。それでも家族と仲が悪いのは変わんないんだ」

「……………」

「だからね、フェイトちゃん。私はフェイトちゃんに無理をして欲しくない。今のフェイトちゃんがやろうとしてる事は昔の私が通った道にそっくりだから、何となく分かっちゃうんだよ。そんな風に自分の気持ちを押し殺したまま進んでたら、きっと何時か心が押し潰されちゃう。私がそうだったみたいに。そんな風にしかならなかったみたいに……」

「……なのは」

そこまで言い終えたところで、彼女の口から洩れる私の名前。
きっと私の話から、何か思い当たる節でも見出したのだろう。
私の名を呼ぶ彼女の声は、何処か迷いに震えているように私には聞こえた。
でも、それでいいのだと思う。
私の話なんかで少しでも彼女が悩んでくれるというのなら─────少しでも視野を広げてくれるというのなら、私はそれ以上の事なんて望みはしない。
だって、最終的に決断を下し、前へと足を踏み出して行くのは他ならぬフェイトちゃん自身なのだから。
私は心の内でそんな風なことを考えつつ、もう一度フェイトちゃんの方へと笑みを作って、笑いかけながらこの話へと終止符を打つのだった。

「まぁ、そういう訳で暗い話はもうおしまい。ごめんね、くだらない無駄話に付き合わせちゃって」

「ううん、そんな事ないよ。まだ私の知らなかったなのはのこといっぱい聞けたし、そういう風に悩んでたのは私ひとりじゃなかったんだって気づくことができたから。ありがと、なのは」

「にゃはは、どういたしまして。この話、今初めて他人に話してよかったって思えたよ。とは言っても、普段はほとんど誰にもしないんだけどね。でも、フェイトちゃんには特別。だから誰にも言っちゃ駄目だよ? 勿論、先生にもね」

「うん、約束する。だから、なのはもあんまり思いつめないでね?」

先ほど私が家族と折り合いが悪いという話が耳に残っていたのか、フェイトちゃんは何処か私のことを気遣うようにそう言葉を告げた。
けれど、私はそんな彼女の言葉に応とも否とも言えず、ただ「にゃはは……」と誤魔化し笑いを浮かべてお茶を濁すばかりだった。
確かにフェイトちゃんに心配されて嬉しくはあるし、きちんとお話を聞いてくれてたんだという安心を感じもする。
でも、改めてこうして彼女の口からそう返されてしまうと、どうにも言葉が詰まってしまうのだ。

別に私は過去に縋って今を生きているわけじゃない。
けれど、だからと言って何もかも吹っ切れているのかと言えばそういう訳でもない。
詰まる所、結局は中途半端─────自分でも納得できていないようなところで宙ぶらりんになっているだけに過ぎないのだ。
故に、私は彼女の問いに対して明確に何か言葉を返すことは叶わない。
だって幾ら偉そうなことを言ってみたところで、結局私の本質は悩むことを放棄して問題から背を向けたただの負け犬でしかないのだから。

「……それはフェイトちゃんこそ、だよ。本当は先生に思いっきり甘えたいんでしょ?」

「うっ、うん……。でも─────」

「にゃはは、だったらそんなに心配しなくても大丈夫だよ。先生は懐の広い人だもん。多少の我儘くらい、きっと聞いてくれるし受け止めてくれる。それに、先生昔言ってたから。子供が大人の顔色伺うもんじゃないってね。むしろそうやって恐縮してた方が、先生にとっては居心地悪いと思うよ、私は」

「そう……かな……? 本当に、いいのかな?」

何処か半信半疑といった具合に迷い始めるフェイトちゃん。
恐らく、彼女も本当のところを言えば自分の欲望に素直でありたいと思っていたのだろう。
迷うという事はとどのつまりそういう事だ。
ならば、私はそんな彼女の我慢という垣根を取っ払う役目を担うだけ。
嘗ての私が踏み外した道を歩ませないために。
こういう時に自分の意思を誤魔化して笑うなんてことを彼女にさせないために。
私はただ、そっと彼女の背を押してその姿を見守るのみだ。
きっとそれこそが嘗て悩むことから逃げた人間が、今を悩める人間にしてあげられる唯一の事なのだろうから。
私はそんな風に悩める彼女を内心少しだけ羨ましく思いながらも、今の自分には詮無いことだと考えを改め、彼女の悩みへと肯定の言葉を投げるのだった。
それが『あんなこと』になる引き金になるとも知らずに。

「いいんだよ。だって─────」

あぁ、思えばこの時思い返しておけばよかったんだと思う。
表現に仕方なんて幾らでもあったのだろうし、そもそも私自身が彼女の境遇そのものを失念していたのだ。
あまりにも彼女と過ごす時間が楽しくて、そして自然だったから……言うなれば迂闊という一言に尽きるだろう。
彼女の身体に刻み付けられた傷。
記憶喪失の訳。
そして、元の彼女が踏切に飛び込もうとしていた時の虚ろな瞳。
それらの要因を頭の内から排除して、ただの友達としてしか彼女を見ていなかったが故に、私はここで過ちを犯すことになったのだ。
記憶を失ってもなお、彼女の深層心理に深く刻み込まれた忌避すべき言葉を口にするという過ちを……。

「私たちは子供だもん。『お母さん』に甘える権利くらいあるはずなんだからさ」

この時、私は別段その言葉にどんな意味が込められてるかなんて深く考えてはいなかった。
ただしいて言うのであれば、彼女と先生の関係が仲睦まじい物であったことへの羨ましさとほんの少しの寂しさ、そして同い年くらいなのにも拘らずそれができない自分への自己嫌悪が片隅に内包されていたくらいだろう。
それくらい、私はごく当たり前に、ごくありふれたことを言ったはずだった。
そう、彼女の反応が返ってくるその時までは──────────

「お……かあ、さん?」

「そうそう。実際羨ましいくらいだよ。フェイトちゃんと先生って傍から見てると本当に親子みたいでさ。もう、本当に変わってほしいくらい─────」

そこまで言おうとしたところで、私はとっさに口をつぐんだ。
一緒に歩いていたはずのフェイトちゃんが急にその場で歩を止めたからだ。
そして、それに合わせて俄かに漂う不穏な空気。
心中穏やかではない人間の発する一種のオーラとでもいえば適当だろうか。
怒ったり泣いたりしている人間の傍らに寄るとふいに感じる居心地の悪いアレだ。
そんな感情があたりを包み、不意に背筋に寒いものを感じさせてくる。
現在の状況を簡潔にの言い表すなら、もはやその一言に尽きるだろう。
そのくらい、その時の彼女の変化は劇的なものだったのだ。

「ぅ……ぁ……」

不穏な空気と共に彼女の口元から漏れ出す言葉にならない嗚咽。
それは必死に何かを言おうとしているのにも拘らず、言葉が喉元に詰まって上手く吐き出せないといったような酷く苦しげなものだった。
それに伴って、急激に変化をきたしていく彼女の様子。
口から洩れる呼吸は荒く、先ほどまでの笑みは消え、潤んだ瞳は次第に虚ろな物へと変り果てていく。
そう、まるで何か得体のしれないものに怯え、恐怖に慄いているかのように……。
瞬間、私は彼女が『発作』を起こしかけていたことを今更になって悟ったのだった。

「フェイト……ちゃん? フェイトちゃん!」

「ぁっ……ぅ、ぁ……」

両手で抱えるように頭を押さえ、悶え苦るしみながらその場に倒れ込むフェイトちゃん。
その様は酷く痛々しいもので、ただ駆け寄って呼びかけることしかできなかった私の心を酷く打ちのめした。
無力、というのは本当にこういう時のようなことを言うのだろう。
私は賢明に何度も何度も彼女の名を叫びながら心の内でそう思わざるを得なかった。
少しでも彼女を理解しようって、少しでも彼女の肩の荷を背負ってあげようって考えた矢先にこれなのだ。
自分を虐げる人間には何時も弄ばれるだけ弄ばれて、いざ誰かの為となったら何もできない。
私は、そんな自分が堪らなく悔しくてならなかった。

「大丈夫!? しっかりして! すぐ先生に連絡をつけるから」

「……し……て……」

「えっ?」

携帯電話を取出し、急いで先生の携帯番号を呼び出しながらも私はフェイトちゃんの口元から洩れる言葉に耳を傾ける。
先の言葉にならないうめき声とは違い、先ほどの彼女の声は明確に何かの言葉の形を作っていたからだ。
彼女は何かを必死になって伝えようとしている。
その相手が私かどうかは分からないけれど、少なくとも彼女がどうしてこうなってしまったのかを解明する糸口くらいにはなるかもしれない。
そう思ったが故に、私は一刻も早く先生を呼ばなくてはという気持ちを胸の内で精いっぱい抑え込み、彼女が蚊の鳴くような声で延々と呟く言葉に耳を傾けたのだった。
恐らく出会ってから初めて聞くであろう、記憶を失う以前の彼女の言葉を……。

「ゆる……し、て……。か……あ、さん。ゆる……して……」

それはあまりにも痛々しく、それでいて聞くに堪えない台詞だった。
けれど、恐らくその時私は初めて知ったのだと思う。
本当の彼女というものを。
記憶を失う前の彼女が一体どんな境遇の中で育ち、自殺を図ろうとしたのかを。
私はこの時、初めて垣間見てしまったのだ。
記憶を失ってから一番最初の、彼女の『発作』というものを通して……。
こうして私たちのささやかながら幸せな二人の時間は終わりを告げた。



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