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[16162] 【完結】外史につくろう穢土幕府【真・恋姫無双】
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2011/07/09 20:26
才能、というものが確かにこの世界には存在する。

当たり前だ。
十に少し数えたぐらいの齢で、壮年の男を文字通り吹き飛ばせるだけの武が、努力によるものだとなどどの口が言うというのだ。
老齢の軍師がその知識と経験を総動員して必死に考え、指揮した軍隊を、その孫ほどの年齢の少女が容易く読み取り裏をかく現状が、才能以外の何によるものなのだ。

彼女達が彼らを覆すだけの努力を積んでいた?
ありえない。
数十年もの年月を数年、数ヶ月で乗り越えられるものを努力なんて呼びはしない。
それは、努力とは別のものだ。

故に断言しよう。
彼女達が強いのは、努力によるものではない。



無論、努力が全くなかったとはいえまい。
どれほど優れた宝玉とて、磨かなければ光らぬ、ということは確かに事実。
故に彼女らとて、勿論彼女らなりに努力はしたのであろう。

だがそれは、才なき者の努力とは全く意味を同じとしないものだ。
たった一撫ででそこらの石を数十年磨いても到底得られぬ輝きを放つ彼女らの努力、そんなものに認めるだけの価値はあるのか?
成功を約束された人間の行うほんの僅かな努力なぞ、才亡き者の絶望の上でのあがきの万の努力と同等に語る事など決してできはしまい。


結局彼女らが強く、美しいのは、生まれ持った才能がただ人より多かっただけなのだ。
他人より恵まれていたから強く、他の凡人どもが行った些細な努力なぞそれに微塵も及ばなかったからこそ彼女らはこの戦乱の世において無双が出来るのだ。
崇高な信念を持っているから今まで覇を唱える事が出来ていたのではない……元から強かったものが、『たまたま』そんな考えを持っていただけだ。


つまりこの世界は才能がすべて。
他のすべてを捨ててただひたすらに剣を振るった数十年の地道な努力も、飢えて老いてそれでも捨てられなかった気高い思想も、腐敗しきった現実との狭間で必死で持ち続けた崇高な理念も、すべては才の気紛れの前に屈する運命にある。


それこそが、この作られた外史の中での絶対の法則だった。



だからこそ彼女達は、戦場において凡人を殺す事が出来る。
彼女らの抱く理想が気高いから、信念が尊いからそれに反するものたちを理想達成までの必要な犠牲とすることを許されているのでは、絶対にない。
強いから、弱いものを踏みにじって自らの理想という『我』を通す事が世界に認められている、ただそれだけだ。



ならば彼女達も自問するべきであろう。
自分たちよりもさらに才有る者には、すべてを踏みにじる権利がある、という至極当然な力の論理が存在するかもしれないことを。







「これが曹操か……やっぱりこの世界は、どっかおかしいな。まあ、いいけどな」


己の虜囚となり、必死の抵抗をした挙句に今は眼前で疲労からか深い眠りに落ちている少女を見下ろしながら、男は呟いた。
齢は二十歳半ばを少し過ぎたぐらいであろうか。

黒髪に茶色の瞳、そして奇妙な衣服とその全身から常人ではないと主張しているこの男は、しかし世間で噂されているような天の御使いなどというものでは決してなかった。
なるほど、その男が語る異国の歴史、類稀なる知識、未来を知っているがごとき智謀、それは天から来たといわれてもおかしくはあるまい。
現に彼のことをよく知りもしない民草にとって見れば、彼のそれらの知識、そしてそれから自分たちにもたらされる利益を考えれば、天というものはまさに実在したと思っても無理はない。


だが、彼の直属の部下たちは、彼のことをそんな目で見る事は決してなかった。
彼自身がそんな高潔な印象とは程遠かったからだ。

酒食を好み、財を好み、民を税の元としか見ず、武を嫌う。
英傑と呼ばれるには足りぬそれらは、天ではなく妖魔の類ではないかと陰口が叩かれる方が似合っていた。


ただ、全体的に濁った雰囲気を漂わせている男であったが、唯一、その瞳だけがこの乱世ではそう珍しくもないそんなただ単に濁った印象を違えていた。

深い、深い黒を称えたその瞳は、もはや濁ったなどという言葉だけでは済まされない。
淀み、腐った沼の奥底の汚泥を捏ね回して作ったようなそこからは、その他のパーツからなる雰囲気とは桁違いの廃退感とそれに似合わぬ底知れぬ覇気を生じさせていた。
それは決して正の方向性としての雰囲気ではないし、初対面の人間に対して好感をもたれるようなものでも決してなかったが、同時に人をひきつけざるを得ない独特の雰囲気を持っており、それは魅力といってもいいものであった。

今まで、犯し、喰らい、殺し、飲み干してすべてを手に入れてきたその犯した罪に相応しいだけの経験は、間違いなく彼の影となり力となって相対したものを吸い込もうとしてくる。


そんな彼は、新たな戦利品を見て舌なめずりをする。


「とはいえ、英雄の名前を名乗ってはいてもこうやって俺の前で寝てるところを見ると、結局この子もただの女だってことなんだろうな」


つらつらと戯言を言う傍らにも、倒れた少女を嘗め回すかのごとき視線は止まらない。
いまだ幼いとはいえそれでもそれなりに出るところが出て、引っ込んでいるところは引っ込んでいるその肢体は、女性らしい丸みも十分称えていて自由自在に武器を振るうだけの筋力があるようには到底見えない。

だが、彼女の名は間違いなく曹操。
少なくともこの外史の中には彼女以外の何者も、曹操ではないし、現実に彼女はそれを名乗るだけの武も、知も、覇気も間違いなく持っていた。


「本物の曹操だったら、俺がこんなところにいるのもおかしいしな」


だが、それもすべては過去のもの。
この、中華すべてを統べようとし、その志に相応しいだけの力を持っていた彼女も、その双翼をもがれ、知略で負け、戦略で叩き潰され、部下を奪われ、己の愛人すら犯され、武器を取り上げられ、そしてすべてを奪われた今となっては、もはや単なる一少女でしかない。

そう、彼女はもはや、無力で美麗な籠の鳥。
気紛れに手折るも戯れに放すも自由自在で、精々飽きるまでは自分の手の中で美しく歌ってくれれば、それでいい。
その歌の中身が高潔であろうと下劣であろうと気にしないし、こちらに対して愛情を持とうが憎しみを持とうが見目さえよければ気にしない。
すでに何匹も囲われている中に増えた、新たなコレクション。


彼女を這い蹲らせた挙句に今じろじろと色に気ぶった瞳で見つめる男―――この外史の主にとって見れば、英傑として名高い曹操もそんな程度の存在でしかなかった。



群雄割拠するこの時代において、どの勢力からも畏怖とともに語られる彼の名前は北郷一刀。
この外史においては、別の歴史の彼よりもほんの少しだけ賢くて、ほんの少しだけ巡り合わせが違った、元平凡な一少年である。










一言で言うならば、運がよかった。
これだけだ。

中二病真っ盛りの彼がたまたま持っていたスタンガン、それによってこの世界に来た直後の襲撃を凌いだ彼は、一冊の本を手に入れることとなった。


「なんだこりゃ? えっと……太…平要術の書? って読むのか?」


彼の故郷であった現代日本における高等教育というものは、少々歪である。
受験、という事だけに特化してその後になれば微塵も使用する事もない知識をただただひたすらに詰め込んでいくそれをよいことだと思っている人間はそうはいないし、その反動としてゆとり教育だとか、新指導要綱など様々な取り組みがなされている。

とはいえ、それなりの大学に入って新卒の資格を得なければ、正社員として就職できる確率が五割前後でしかない時代において、その制度が間違っているからといって真っ向からはむかうというのもなかなか難しい。
生涯年収八千万という正社員の三分の一の給料で一生を過ごしたくなければ、やはり大学に入るまでの間にそれなりに勉強をしなければならないのだ。

それゆえ、本年めでたく18歳となった一刀もそれなりに受験勉強のためにひいひい言いながら勉強していたのであるが、突如異世界に飛ばされる羽目になったときにも、これが幸いしていた。

何がよかったのか、というと、学校において特に歴史とそれに付随するものとして国語における古典を得意としていた彼は、カナ交じりではない白文の漢文を、何とかある程度までは意訳できる程度の学力を有していたのだ。


「すごい、これはすごいぜ!」


ここ、後漢末期の時代における平均的な教養は決して高くない。
文字すら読めないものですら、珍しくない。

当たり前だ、高度な教育というのはそれを支えるだけの財―――教育機関中に一切生産せずに消費するだけの衣食住の確保があって始めて実現できるものである。
未だに原始的な農法がまかり通っており、交通・流通機関も決して発展しているとはいえないこの時代において、義務教育九年に高等教育三年という長期間、教育を受ける事が可能であるのは一部の特権階級のみであり、その彼らにしたところでそこまで時間を費やしてまで教育を受ける事はありえない。

それゆえ、この世界に来た北郷一刀は受験対策という歪んだものであったが、この世界においてもっとも知を蓄えたものの一人であったといってもいい。
例えば、「戦に最も大事なものは?」というもう今更各種創作で使い古された、それこそ現代日本であれば中学生であっても答えられるようなものとて、知らぬものからすれば自らが経験から感じ取るしかないのだ。

それを思えば、例えその知識を自力で開眼したものと比べれば劣るかもしれないが、それすら知らぬ下級の軍師、将軍、商人などと比べれば、遥かに彼は武・商・政のすべてに通じている。



そんな彼に、太平要術の書。

最も、この書は別に書かれていることがそれほどまで凄いのではない。
もしそうであるならば、別の歴史においては今まで学力というものとは一切縁がなかったと思われるしがない旅芸人一座の張角一味が、あそこまであっさりと、短期間で、黄巾党という一大勢力を手に入れることが出来るはずがない。
そこには、魔術的な力が働いていたと考えるのが自然であるし、事実それにはある種の妖術が掛かっていた。

神仙から授けられてたものであり、仙術を使いこなす術をのせているとも、病を治す符の作りかたが書いてあるとも言われるそれは、この世界においては稀代の人身掌握術や集団催眠術、それなりの戦術眼を持ち主に対して付与する妖術書である。
さすがにただの賊といった文字も読めぬような輩では使いこなせるかどうかは定かではないが、これはすでに一大勢力を築き、覇王と呼ばれるまでに曹操が成長する際に師にすらなった稀代の書なのだ。


そんな書が、それなりの学を持つ一刀の元へと来たのだ。

「馬鹿でも天下が取れる」ほどの書を手に入れて、天下を取る事を考えないものがいるだろうか?
一大勢力を自力で作れるだけの力を手に入れた者が、名前こそは「天の御使い」とよばれはしても誰かの御神輿となってただのお飾り、その実態として丁稚身分に甘んじようと思うだろうか。



現代日本において、得意の剣道も全国大会の花形選手になれるほどではなかった、学業においても東大京大はいうに及ばず、地方国立すら怪しい出来。
女の子にもてる訳でもなく、大金を持っているわけでもなかった。
かといって、食うに困っているわけでもなければ、誰かに暴力で持って従わされているわけでもない。
世を恨むほどの不遇を囲ったわけでも、身内を戦乱で失ったわけでもない。

どこまでも平凡、誰かに成り代わられたとしても何の問題もなく社会の歯車が回っていくであろう人物、北郷一刀に善になり悪になり明確なビジョンがあるわけではない。


天下を取って万人に平和をもたらしたい、だとか、人々の生活をよくしたい、この戦乱の時代を収めたい、などという理想を、この世界に来てまだ一刻もたっておらず、現実に虐げられた民草などというものを見ても聞いてもいない彼に抱け、というのは無理がある。
また、民から養われていたわけでもなく、その成長に際してこの国の一粒の米も入っていない彼に、今すぐ上に立つものとしての資質を求めるのも、また間違いであろう。


ならばその善悪は、過程によって容易にどちらにも染まってしまう。

高潔な理想を志し、現実を何とか変えられないかと奮闘しながら落とし所を探す義士の仲間となれば、それに同調しただろう。
現実を知り、その上で自分たちの手の届く範囲での最上の結果を求める君主に仕えれば、その「手の中の最上」を実現する為がむしゃらに働いたであろう。
自身の力を自負し、その力によって現実を更なるよい形に書き換えられると信じる覇王の傍にいれば、その者が全力を尽くせるように奮闘しただろう。


当然ながらそれは、逆方向にもいえる。
自身の高貴を自負して人を見下すものの傍にいれば『天』を鼻にかけるように、野生に生きる蛮族の傍であれば彼自身もまた野蛮に、血筋によってのみなる古びた王朝にであればいいように利用され、平々凡々な一地方領主の隣にいれば人畜無害に流されるまま生きてアッサリと死んだであろう。



そして、この世界においては一番初めに出会ったのが彼の命を奪わんと挑み、敗北した理想も信念も目的もない三人の匪賊と、彼らを従える事の出来る妖術書であったのだ。


それゆえ、自分で天下を取れる、という事だけを理解している今の彼にあるのは、配下の三人と同様のただの我欲。

旨い物を食べたい、便利なところに住みたい、人の上にたっていろいろとえらそうな事をしたい、尊敬の目で人から見られたい、褒められたい、称えられたい。
そして……いい女を抱きたい。

凡人ならば当然で、高潔な、万民に平和を求める世を目指すのであれば、上に立つものに決して許されないそれは。
この外史においては、力さえ、才さえあれば容易に実現できるものである。



初めの立つ位置から間違っていた彼は、こうして三国時代を模した外史の中に入り込みながらも、魏・呉・蜀のいずれにも属さず、一大勢力を築く事となる……ただ、その我欲を満たす為だけに。
太平要術の書と、彼自身の持つ彼だけのもう一つの武器を持って。



[16162] 渇しても盗泉の水は飲まず
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/05 20:54



「一刀様、ここからが荊州になります」
「太守は袁術とかいうガキっす」
「ぜ、税率はあまりよくないんだな」
(……マジですげえな、この本)


つい先ほどまで殺意を持ってこちらに襲い掛かってきた三人組の匪賊がいまや自分に対して下にもおかぬ態度で接してくるのを見て、改めて一刀は太平要術の書の威力を実感していた。
スタンガンのバッテリーも完全にあがってしまっている今この時点において、寸鉄も帯びず、平和な日本のお座敷剣術しか知らない一刀は戦力的には完全に三人に負けている。
それゆえ、今この場において先ほどの焼き直しをされれば命はないのであるが、相手は一刀のバッテリーのことについては知らないにしても、もはや彼に逆らおうなぞとは微塵も見せず、むしろ積極的に命を下されるのを待っている。

不気味さすら感じられるその忠誠が己の才覚ゆえに寄るものではなく、この胸元に入れてある書によるものである、という事ぐらいはまだ覚えていられる一刀は、しかしその洗脳にも近い効果を進んで解こうとは思わなかった。

それしか今の彼には、生きる手段がないのだから。



太平要術の書というオカルトじみたアイテムを手に入れた興奮から冷め、自分の目の前で気絶する三人の姿や周辺の環境などをようやく冷静になってみる事が出来た一刀は、当然ながら自身がわけもわからぬ異世界に突如存在しているという事実に驚愕する事となる。
彼からしてみれば自宅で寝ていたところ、いきなり周辺環境すべてが変わっているのだ。

いまだそれについて気付いていなかったときならば太平要術の書を見て喜んでなどいられたが、それがわかってしまえば喜びの声などあげている場合ではないと瞬時に理解する。


その混乱のさなかで、徐々に覚醒しつつあった目の前の男達を、混乱しまくっていながらも内から出でる生存本能から必死になって自衛の為一人ずつ「説得」していき、彼らの言葉から現状への疑問に対するある程度の情報を聞いた一刀が出した答えは「後漢末期、すなわち三国志の始まる直前の中国にタイムスリップした」というものであった。

そんな、漫画やアニメの世界じゃあるまいしタイムスリップなど荒唐無稽であるという事はわかっていたが、現実に自分の身に降りかかってくればそんな笑ってなどいられない
一文無し、武器も財も保護者も何もかもがない状態で突如異郷に取り残されている現状において、たとえ他人を洗脳に近いことで自分の都合のいいように操っていたとしても、文句を言ってられない現状があった。



彼は現代日本から来ただけあって、それなりの倫理観を持ち、他人の意思を踏みにじるような真似は決して好んではいなかった(太平要術とて、この段階では何かに使えるかもしれない凄い本ぐらいの認識だった)が、そんな倫理観も先ほど彼らに刃物で脅された事を思い出せば、容易に吹っ飛んでいった。

今、彼らに対して自由意志を返したとすれば、先ほどの焼き直しになる事は間違いない。
そして、すでにスタンガンのバッテリーがほとんど切れかけている事を考えれば、己の末路などと知れている……よくて身ぐるみすべてを剥がされて裸でこの荒野を彷徨う嵌めになるであろうし、悪ければ当然ここで人生が終わってしまう。


(この人らだって、俺を殺そうとしてきたんだ……ちょっと悪い気はするけど、これもこんな時代で生きていく為には仕方ないんだ)


そうである以上、自分の良心を必死で騙してでも生き残る為にやれる事はすべてやらざるをえなかった。
彼の甘っちょろい正義感も、結局は死の恐怖の前ですら突っ張れるような強いものではなかったということだ。


それゆえ彼は、三人を僕として何とかしてこの異世界において生活基盤をえようと試みる。
が、突如時代も場所も変わった所において、衣・食・住を手に入れる術なぞいまだ温い学生気分の一刀にあるはずもなく、その対価とできるような物品も持っているわけがない。
そうである以上、誰かに寄生して生きていかざるをえないのであるが、問題が一つあった。



現在一刀が頼るべきなのは自らの信者となった三人衆の他にいやしないのだが……ここで思い出していただきたい。
彼らの生業はなんだったであろうか?

彼らがそれなりの勢力の長である、というのであればある程度の落とし所を探すまで、とりあえず良心は痛むながらも養ってもらう、という選択肢も取れた。
が、そもそも衣食住をぽっと出の教祖様にアッサリと捧げられるほどの質と量で彼らが持っていれば、一刀は襲われる事はなかった。
一刀を襲ったように、彼らもまた食い詰めて結果として誰かを襲ってそれを手に入れなければ生きていけない身分であったのだ。

そんな彼らの食い扶持が、突如一人増えてしまった。
そして彼ら的には、その増えた食客を働かせる事など恐れ多くて出来やしなかった。


「おら、手前ら! 死にたくなければ金目のもんをだしな!」
「通行料って奴だよ、おい」
「さっさと出すんだな」
(……どうして、こうなった!)


結果始まる略奪ストーリー。
自分たちをこんな「まともに働いても食べていけない」身分にした漢王朝に対する怒りやその他もろもろでもはや追いはぎ家業に対して罪悪感を持っていない彼らはさておき、一刀はこういう結果に大いに焦った。


後の世においては悪鬼羅刹と呼ばれるような男であっても、この時点では単なる一市民に過ぎない。

彼にしてみれば、これは明らかに「悪い事」だったし、やってはいけないことだからだ。
彼は決して善人といえるほど高潔な心をしていたわけではなかったが、同時に今までの十八年間の生活において基盤となっていたそれなりの倫理観というものを持たないほどの悪人でもない。
普通の日本人のモラルとして、自分の部下みたいな者が追いはぎをするのを黙ってみていられるはずがなかった。

現に彼は何度か三人を説得しようと試みたし、ことによってはそれ自体に良心をいためながらも、太平要術の力さえ使った。
彼の言葉にはほとんど絶対服従を誓っている三人は、もちろん素直に従う。


ああ、よかった。
追いはぎで苦しむ子供は、いないんだ……
世界は愛に包まれた。








だが、それをして山賊家業を辞めたとたんに襲ってくるのは空腹という名の凄まじい暴力。
彼らだって他の手段で満たされればこんなリスクの高い手段なんて取るはずもない。
食えるものなら犬の糞でも食べたいという段階に四人とも入ってしまっては、そんな理念などどうしようもない。
ましてや生まれたときから食料があたりに豊富に存在する時代に生まれた一刀の空腹に対する忍耐力は、三人よりも遥かに低かった。


(腹減った……食いてえ……日本に帰りてえ……なんで俺がこんな目に……)
「一刀様……しっかりなさってください」
「やっぱりこの辺はもう、ろくな獣がいねっすよ、兄貴」
「や、山にも何も生ってなかったんだな」


現実の第二次世界大戦中に、日本の各地の闇市で売られていた政府の統制下に入っていない食料、闇米を扱い、食すことは悪である、とされていた。
それは天皇を神として神格視し、その命に従って臣民は生きるべきである、と思っていた多くの日本人にとっても、共通の認識として悪い事であった。
その言に従い、「渇しても盗泉の水は飲まず」の言葉どおりに闇米を食べる事を拒否して飢え死にした人も、出たといわれている。
それこそが、たしかにあの時代における正義であり、正しい日本国民の姿であった。



……だが、万人がそんな事、できるはずもない。
多くの日本人はある程度の罪悪感を覚えながらも闇米を扱い、食べていた。
飢えへの忌避感、死への恐怖は大多数の平凡な人々に、生きる為に「悪」をなさせた。
おそらく闇米がなければ、もっと惨い形で「悪」がなされていたであろうことは、想像に難くない。


荒野のど真ん中に落とされたためにまともに働けるような場所もなく、村を見つけたとしても人相の悪い三人を連れた、いかにもよそ者の一刀はそもそも入る事が出来なかったり、すぐさま冷たい目線で追い出されたりした。
野山に入ったところで野草等の知識が全くない一刀がお荷物になっていては、四人がまともに食って生けるだけの取り分もない。


街までたどり着けば、未来から持ってきたちょっとした小物を売り払って何とか食って生けるかもしれないが、そこにたどり着く前に飢えて死ぬ。
公共交通機関などないこの時代において、村から村、街から街へと行く旅路は一日二日では決してない。
我慢できる限界など、とうに超えていた。



こうなってしまえば、一刀の取れる選択肢はそう多くはない。


一つは、太平要術の書を使って何処かの村に潜り込む。
それを試みた事もあった。
だが、自らを襲ってきた三人とは異なり、何もしていない村人達から食料をこちらに差し出させる、というのは果たして悪ではないのか?

そもそも漢王朝が暴政を振るっているこの後漢末期の時代において、ほとんど何も出来ない人間をすぐさま養えるだけの食料を持っている人間は数少ない。
特に農村部は、税の取立ての時期が重なっていた事からこちらも餓死者が出る寸前だったのだ。当然、彼が望むように現代の小物を売って当座の生活費を、なんてことができるはずもなかった。
良心の呵責を押し殺して何とかそこに入って一時的には飢えは凌げても、自らの身を削ってまでもすべてを差し出すまで盲目的にこちらを天の使いとあがめる視線に耐え切れなくなった一刀は、やがてその村を出て行き……再び飢えた。



もう一つの選択肢も、似たり寄ったりだった。
旅人を……襲う。
一刀がこの世界に来てすぐさま彼らにやられた事であった。
だが、これが生業であっただけに彼らにはこっちにはノウハウがある程度あった。
すぐさま、食料を得られるだけの確信があった配下の彼らにしてみれば、いざとなったらためらう事なく実行すべき手段でしかなかった。


「一刀様……おっしゃるとおりに略奪は控えておりましたが、もはや限界ではないかと」
「おいら達はさておき、一刀様の体が持ちませんぜ」
「ひ、一声命じていただければ、お、俺らが勝手に何とかするんだな」


何が悪かったのか。
あえて言うならば、時代が、場所が、周りの人たちが、政治が、自然環境が、すべてが悪かった。
この世界において理想と武を持つ達人とともにあったわけでも、下克上を狙う武将に拾われたわけでも、一国の主の傍仕えに回されたわけでもない―――そういった場合与えられていたであろう衣食住すべてに欠けた―――人間に高潔を保てというのには、初めから無理があったのだ。



「一刀様が手を下す必要など、ありません」
「おいらたちが勝手にお言葉を解釈して、勝手にやってくるだけっす」
「つ、つかまったとしても、一刀様は安全なんだな」



彼らの言葉が、一刀の耳を通る。
論外だった。

自らが手を下さなければいいという問題ではない。
日本人として生きてきた一刀の倫理からすれば、黙認するのであればどちらにしても略奪の実行犯も同然だ。

それによって苦しむ人がいるし、場合によってはこの世界に来たばかりの自分と同郷の日本人がいて、それによって死ぬかもしれない。

どう考えても、やってはいけないことだ。
そんな事をしたが最後、自分は犯罪者に落ちてしまう。
捕まろうが捕まらなかろうが、そんな事は絶対にやってはいけないことだ。
今まで、普通に生きてきただけなのに、どうしてこんな目にあわなくちゃいけないんだ。


手の中の太平要術の書が、一刀は恨めしかった。


こんな力がなければ、犯罪になぞ手を染める事などなかった……そもそもできなかった。
日本に帰る術も、食料を作り出す術も、人々のためになる術も一切書いておらず、ただただ人を操る方法と戦わせる方法だけしか書いていないこの力が、嫌になった。
こんな者があるから、潔く飢えて死ぬ事も出来ずに犯罪に手を染める事を選択肢として入れてしまうこととなったのだ。


(腹減った………………死にたくねえ。こんなところで……死にたくねえ!)


だが、一刀は死にたくなかった。
こんなわけのわからない異郷に一人で放り出された挙句に、両親や友人の顔を一目見ることすら出来ずに異国の土に返るなど、冗談ではない。

そして、その手に何も手段がないのであればさておき、生き残る為の方策もきちんとこの世界には用意されていたのに、諦める事は難しかった。

だったら、それを使って生き残るしかない。
例え罪に浸かることになろうとも。
日本に帰る資格を失う事になろうとも。
平凡な一市民としての生活にピリオドを打つことになろうとも。
他者を踏みにじることになろうとも。


一刀は、死にたくなかったのだ。




その手段として、自らの顔見知りとなった村の人が自分のために食料を捧げて目の前で倒れるのをもう一度見るくらいであれば……見ず知らずの他人が自分の知らないところで死ぬ方が、まだましだった。



「…………出来るだけ……人は…傷つけないように」
「「「はっ!」」」
「(くそっ……ちくしょーーー!!)」


かくして一刀は、悪への第一歩を踏み出してしまった。
震える心を持ったまま、しかし堪え切れない飢えと死への恐怖に突き動かされるように。







[16162] 因果応報 天罰覿面
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/06 20:58



人は、磨耗する。

正義感に燃えて警察官になろうとするも、そんなもの十年もすればお役所仕事の一つとしてたらい回しをしたりする。
国をよくしようと理想を胸に抱き政治家を目指そうと、金がなければ戦えない現実を前に、やがては金を稼ぐ事自体が目的となる。
未来ある若者をまっすぐ育てる事を目的として掲げようと、次々と入れ替わる生徒達にやがてそれは日常と化し、やがては思い通りにならない苛立ちが情熱を凌駕する。

何も特別な事ではない。
ただ、どれほど最初は新鮮で、喜びがあり、理念に燃えようとも、それは年月の前に容易くすり減らされてしまう。
それを越えられるのは、最初に抱いた理想がよほどに大きかったものか、あるいは日々の中で理想をすり減らさない術を見つけたものだけだ。

凡人にとって、理想とは現実を生きる中で手放さざるを得ないものなのだ。


それは、この三国志の世界に突如飛ばされた異邦人、北郷一刀にとっても同じだった。



「今日の収穫はどうだったんだ?」
「へい、一刀様。おう、お前ら……報告しやがれ」



初めは、食べる事が目的だった。
生きていく事だけを目指してやむを得ず手を染めたそれが、いつしか歪んでいったのは一体どんな物事がきっかけだったのか。


飢え死にしかけた今まさにそのときに、匪賊の三人が持ってきた―――誰か、善良な民から奪ってきた一片の肉を口にしたときからであろうか。

日本で味のよいもの同士を掛け合わせる等の品種改良されている上に山ほどあふれていた牛肉とは違い、年老いた農耕馬の肉をこのまま無駄飯を食わせるぐらいならばと干したそれは、味覚的にはダントツに劣るものであったであろう。
もともと食用品種ではないし、栄養だってろくに与えられていない痩せた脂肪の欠片もない、調理にもほとんど技術を使われていないそれは、かつての一刀であれば一口食べてその余りの不味さに吐き出しかねないものであった。


だが、飢えに飢え、死の恐怖さえ感じていた一刀にしてみればそれは、まさに天上の美味にすら感じられるものであった。
かみ締め、唾液と混じらせるごとに舌の上にその命の味が染み渡り、喉を潜るたびに快楽が生まれてそのまま飲み込むのが惜しくなり、胃の中へと到達するや否や活力として全身に巡って生きる為の力を与えてくれる。



現代日本にいたときには、決して味わえないその極上の美味に、一刀は魅せられた。
一度それを味わってしまっては、二度目の断食は難しい。


(後一回……後、一回だけ彼らに飯を持ってきてもらおう)


どれほど理性で押さえつけようと、どれほど倫理を感じようと、一度死の淵までいって生き返った体がそれを拒むのだ。


盗むな、殺すな、奪うな。
言うは容易い。
だがそれは、盗まずとも、殺さずとも、奪わずとも生きていけるものにしか通用しない理屈だ。


後たった一度だけと誓った襲撃はいつしか二回になり、三回になり、やがては週一回の定期的なものへと、一刀の倫理観とともに変わっていった。
脅しつけ、恐怖をこちらに感じさせれば後は、太平要術で穏便に奪える……それならば、一刀がその略奪の場に出るのも、自然な流れだった。
その手腕を見て、三人は一層一刀に心酔していく事からも、これは彼らを纏め上げるにも実によい方法であった。

こうして一刀は、いつしか客人ではなく、れっきとした匪賊弾の首領として徐々に振舞い始める。



だが、当然それはいつかの破綻を約束する、破滅への道だった。





いつも通りの襲撃の毎日のある一日。
一刀は、三人衆と一緒になって自分たちの縄張りとしている街道を通った旅人を脅していた。

たった一人で馬に乗って通りがかるなぞと、彼らにとって見れば都合のいい獲物以外の何者でもなかった。


「おう、お前! 命が惜しければ、今すぐ持ってる金を全部出しやがれ!」
「なあに、ほんの気持ち程度取るだけだぜ、キヒヒ」
「い、痛い目にあいたくはないんだろう、なんだな」
「……」


もっとも一刀は、このときも直接は手どころか一声も出していない。
今まで出さずとも何とかなっていたため、ただ数を頼りに旅人を脅す場においていないよりもいたほうが彼らがやりやすい、というからただ付いてきていていただけだった。


(今日の仕事はこれで終わりだな……やれやれ、なんとか『獲物』が見つかってよかったよ)


だが、こういった彼の元々もっていた倫理からすると明らかに「悪い」ことのはずの現場を見ても、その顔に動揺はもはやない。
日々の生活の中で奪った糧で食べて、暮らしていた彼にとって、望むと望まざるとを問わず、略奪は体の一部と化していた。

だからこそ、最初は怯え、良心の呵責に苦しんでいたこういった行為も、すでに日常となってしまっている。
むしろ、慣れてしまっただけに自分はほとんど何もしなくても一生食べていけるのであれば、こんな生活も悪くないか、などと思い始めてしまっていた。


だが、今日のそれは……日常ではなかったのだ。


「ふっ……こうも容易く引っかかるとはな」
「何ぃ!」
「最近この付近を荒らしている匪賊とやらは貴様らだな……ちょうどいい。袁家へ仕えるための手土産とさせてもらおうか」


出会ったのは偶然であっても、それはいつか来る未来だった。
自分たちに教われるただの獲物であるはずの男がスラリ、と荷物から長剣を取り出したのを見て、彼らはようやく自分たちが罠にかかった事に気付いた。


ついに今までずっと狩人であった自分たちを狩ろうとする者が現れたのだ!


一刀はそれなりに剣術の経験があるが、それはあくまで人を殺すものとはもはやかけ離れてしまった日本のお座敷剣法でしかない。

だが、そんな彼ですら感じたのは、死の予感。


一刀は知らぬが、馬上の彼は決して三国無双を謳われる呂布やその剛剣で他国に知られる夏侯惇ほどの実力の持ち主ではない。
いまだどこにも召抱えられておらず主家を探してうろうろする程度の実力しか持たぬものであり、実力者があまねく女性であるこの外史においては正直十把一絡げの戦士でしかない。
それなりの武将であれば一蹴できる程度の実力、しかし今の一刀には誰よりも恐ろしい相手に見えた。

彼が十把一絡げの戦士だとすれば、一刀一派はそれにすらかなわぬ文字通りの雑魚でしかないからだ。
何の力も持たない平民を虐げる事は出来ても、それ以上になるととたんに何も出来なくなる。
物語を彩る英雄達に蹴散らされる事で彼らの武勇伝に色を添える事がかろうじて許される、そんな程度の存在の彼らにとって、例え四対一という数の有利があっても勝利なぞ望めるはずもなかった。

太平要術の書は、少なくとも相手がこちらの言う事を聞くだけの素養を持っていなければ効果を発揮しない。つまり、相対した場において対等もしくは有利な立場でお互い会話をしている状態で無ければ意味がない。
このような殺し合いの場で小ざかしい口をいくら聞いたところで、どれほど効果があるというのだ。
武器を持って相対する段階になってしまえば、もはやその妖術書はただの娯楽本と何の変わりもない。

そうである以上……会話をする前に、もはや一刀はこの場で死ぬ。



「さあ、どうした? かかってこないのであれば、こちらから行くぞ」



それに一刀以外も気付いたのか、三人衆の顔色も見る見る間に悪くなる。
一刀を守るように円陣を組んでそれぞれ武器を構えるが、その腰は完全に引けていた。

それを見て、馬上の男は残酷に笑う。
その笑みからして、彼が四人を生かして連れて行くなどと考えている事は絶対にないと、その場にいる全員が悟る。


この場において、一刀が取るべき行動はなんだったのだろうか。


己の悪行を悔いて、その刃の前に身をさらす?
出来れば、自分の配下となっていた三人については自分が太平要術の書で操っていた、という事で自らのみと引き換えに放免を、無駄かもしれないが願ってみるべきかも知れない。

あるいは、ある意味自分のために今このような場に陥らされた彼らを助ける為に敵わぬとわかっていても時間稼ぎのために抵抗して、彼らを逃がすべきなのかもしれない。
勿論、一刀がいなくても三人は追いはぎをやっていたであろうが、彼らに一刀が養ってもらっていた事実は変わらないし、彼のせいで彼らがいくつか罪を増やしたであろう事は間違いない。

だからこそ、自分の身を犠牲にしてでもそういったことをやるべきだ、というのは実に容易い。
勝つ事が出来ない以上、また一派の首魁とでも言うべき立場にいた一刀からすれば、これらのいずれかをとるべきであった、というものも多いだろう。


(き、きっとこんなの、夢だ! こんな事、現実にあるわけがない……だって、だって、昨日まで上手くいってたじゃないか)


だが、彼はそのいずれも取る事が出来なかった。

ただ、震えて何とか現状が好転しないかと神頼みをする、それしかできっこなかった。
胆力が着くような現場にも出ず、武力が付くような鍛錬もなさず、金銭を得られるような機会も避けていた一刀に、こんな場において何かができるはずもなかった。


それを見た三人衆は互いに目配せをしあい……最終的には巨漢の男が頷いた。
三人は、剣を構えていっせいに切りかかろうと体勢を整えていく。

それを見て、馬上の男は笑った。
彼にとっては、そんなものなど抵抗のうちにも入らない。
まさに、蟷螂の斧でしかなかったからだ。

だからこそ、嘲りながらこちらも待ち受ける。


「ほう、斬られる覚悟を決めたのは貴様からか?」


彼らは徒歩。
そして相手は馬に乗っている。
一気に走って逃げたとしても、逃げ切れる可能性など万に一つもなかった。

一気に一刀のベルトを掴んで二人がかりで抱えるように後ろに向かって走り出した。
たった一人だけ残して。

その余りの唐突さにあっけに取られる男。
その男が我に帰る前に、三人の中で一番の巨漢の男が彼の馬に向かって斬りかかった。


「い、行ってくれっす、兄貴!」


逃げる男らに巨漢の男が最期の声をかける。
一刀の名前は、呼ばない。
それこそが、彼を助けるものだと理解しているが故に

それは恐怖に震えたものであったが、彼はそれでも振り返らずに必死になって馬上の男を一秒でも長くと牽制し続ける。


「っ! 失礼します!」
「すまねえ……後は、頼んだ!」
「え? え? っちょ、どういうことだ!」


呆然としていた一刀は理解できていなかったが、彼ら三人の中では先の目配せの時点ですでに結論が出ていた。

逃走はほぼ不可能。
それでも逃げるのであれば……犠牲が必要だ。

四人ともやられるぐらいならば、一人だけ犠牲にして他の三人が生き残った方がましだ。
算術などとは縁のない匪賊にも分かる理屈であった。

ただし、本来であればこんな事はありえない。
彼らは匪賊。
団結も連帯感も、所詮は匪賊風情の持つそれでしかない。
自身の身が危なくなれば、アッサリと逃げ出すのが普通だ。


ただ、稀代の妖術書、太平要術の書によって操られた彼らにとって大切なのは「一刀の安全」唯一つ。
そのためであれば、自分の命なぞ物の数にも入っていまい。


「逃げるんですよ!」
「待て! じゃあ、あいつが残ったのは!」
「全員まとめてぶった切られるよりもましっす!」
「そんな……」


抱えられている時点で呆然としていた一刀も、自分たちを抱えている男の息が疲労により段々荒くなっていくのを感じて、慌てて自分の足で走り出す。
そのさなかの問答で、たった一人残った男が自らを逃す為の生贄となったことを悟り、顔を青ざめさせる。

だが、そこで足を逆に向けるだけの勇気もまた、一刀にはない。

罪悪感はある。
自らが操っているも同然の男が、自分のために死へと向かっていったというのであるならば、それは一刀が殺したも同然なのだ。
いま、太平要術の書の効力を解いたならば、おそらく誰一人一刀のために命をはろうとなぞは思うまい。
にもかかわらず、現在において彼らが必死になって生かそうとしていることは、一刀が彼らの自由意志を歪めたからだ。

それでも……今から戻って、代わりに死んでやる、なんてこと、一刀は欠片たりとも思わなかった。
他人の代わりに自分が死ぬ事を是とする精神なんて、妖術でもかけられていなければ匪賊生活では決して養われるものではないのだ。



ぎゃあああああああ!!
「「っ!」」



遠くから、それでもまだ一キロも離れていないであろう場所から、絶叫が聞こえる。
それは、ある一人の人間の命が容易く費えたという事をまさに証明するものであり、再び自らに死の恐怖が迫ってくる、という事実を補強するものでもある。

だが、それを聞いても誰一人足を止めようとするものはいない。
それをする事こそが、その費えた命の価値をゼロに返すからだ、という事を知っていてそうしたわけでは必ずしもないが、それでも逃亡は続いたのだ。

一刀は今の今まで仲間だった奴の鎮魂も、今まで自分が行ってきた悪行に対する後悔も、人を操り殺した事に対する悔恨もすべて捨てて、死の恐怖に背を向けてひたすらに走った。


「兄貴、一刀様を頼むっす」
「一刀様……どうか、生き延びてください。草葉の陰から、お祈りしておきます」


それは、追いつかれそうになって二人のうちの一人がまたも時間稼ぎのために騎馬に向かっていったときも同じであったし、最後の一人が同様の理由で脱落したときもまた同様だった。
彼らが自分のために命を費やそうとしているのをその目で見ていながらも、一刀はそのために何一つしようとしなかった。


(何で俺がこんな目に……死にたくねえ…………しんどい……喉渇いた……疲れた……休みたい……眠い……腹減った……死にたくねえ)


走っている最中考えていた事は、すべて自分のこと。
それだけで精一杯な一刀に、それ以外のことを考えられるはずもない。

最終的に逃げ延びて、三国志の登場人物の一人、袁術の収めるとある街に到達するまで、一刀は自らが使い潰した三人の事を一切顧みずに、自らの命のことだけを考えてひたすらに逃げ続けたのだ。

手元にたった一つ、太平要術の書だけを持って、この世界に来たときと同じ着のみ着のままの状態で、一人でこの異世界へとまたもや放り出されて。

自らの身の安全がある程度確保される段階になって初めて、後ろを振り向いた。


「(殺した……俺が、殺したんだ……)」


今更過ぎるその事実もまた、この世界に着てから一刀が重ねた罪の一つであろう事は、誰よりも一刀自身が知っていた。




[16162] 鶏口となるも牛後となるなかれ
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/07 17:33
罪は、償わなければならない。
それは、誰もが知っている事だ。
五歳の子供でも知っているし、九十過ぎた病床の老人とて忘れることはないだろう。
それは、真っ当な文明社会に生きるものであれば、程度の差はあれど誰もが当然のように思っている共通認識でしかないので、今更声高に語るようなものではない。

それは、当たり前のことなのだ。



だが、その「罪の償い方」についてはどうだろうか?
犯した罪に相応しい償い方を、正確無比に確実に知っていると断言できる者がこの地上に存在するのだろうか?

一刀が生まれ育った日本においては、一応の基準として二人以上の人間を殺した者については、死をもって償うべきだとされている。
だが、それは果たしていついかなるとき、場所においても正しい『罪の償い方』なのだろうか?

自らの命を失ったとしても、それで他者が生き返るわけではない。むしろ、世界的に見るのであれば二人の損失に加えてさらに一人減るわけであり、マイナスとも言えるであろう。
その考えの元に立って、死刑廃止を制度として定めた国も決して少なくはない。

では、二人の人間を生み育てることで結果としてプラスを目指すべきか、といってもそもそも人を殺したものの腕が無垢な命を抱く事は、果たして許される事なのか。

一生を強制労働ということにしても失われた命は帰ってこず、その殺した者の一生が続いている事それ自体が被害者からすれば腹立たしい事であろう。

殺した者の身内に尽くしたとしてもそれはその死んだ本人とは決して同一にはなりえないし、全く無関係の善良なる弱者を助ける事も見方によっては自己満足の域を超えまい。


結局、償い方なんてものは時勢や場所によって変わる、変わらざるをえないものであり、今の基準が正しい、なんてことは誰にだって証明できない事だ。
僅か数百年前の窃盗の対価が斬首という事が正しいなどとはもはや誰も言わないであろう。
それと同じ事が、百年後から見た現代の死刑制度についていえないはずがない。

それほどまでに、「罪を償う」という事について、正当な量刑を定める事は困難な事なのだ。



だが、だからといって『犯した罪は償わなくてもいい』と、いうことにはいかなる世界のいかなる国家においても、決して定められる事はない。
独裁国家であろうとも、適応がきちんとされるかはさておき一応の基準を持って罪と罰については定められる。

それは、神様か何かに定められたからそうなっているのではない。
「そうしなければならない」からだ。

何故か?


それは、この外史へと一人飛ばされた一刀の現状をみれば、すぐさま証明されるであろう。




「御頭。ご命令の通り馬を調達してきやしたぜ」
「御頭。本日も締めが終わりましたので、上納金をここに」
「御頭。お言いつけの通り町にて盗みを働いていた奴らをこちらに連れてきやした」


上がってくる報告に、官憲対策に顔を隠した覆面のような布越しに一刀は大きく頷いて、理解を示す。
たったそれだけで、筋骨隆々の強そうな男も、人相の悪いいかにもな男も平伏して、一刀に対する敬意を示した。
彼らにとって一刀は神にも等しい。

己の生きる目的を与えてくれ、生きる術を教えてくれ、やらねばならぬ行為を定めてくれる。
自分たちはそれをしているだけでいい、それに従うだけでいい、というその『幸せな奴隷』にも似た感情は、間違いなく妖術書、太平要術の書の力。
しかし彼らはそれを自覚する事なぞで傷に、ひたすらに一刀につかえることだけを幸せと思って生き続けていく……荒野で果てたあの三人のように。


一刀は、再びあの悪魔の術に手を出したのだ!


命からがら逃げ出した末にたどり着いた荊州の街のひとつにて、一刀は会いも変わらず匪賊生活を送っていた。
もっとも、その人数は膨れ上がり、農村を襲うなどという派手な事より街の店や住人からショバ代やみかじめ料を取るその様は、匪賊というよりもヤクザやマフィアといった方が正しいであろうが。


最も彼らは、暴力をもって街の市民達に迷惑ばかりをかけているわけではない。
十数人にも膨れ上がった人員は、後漢末期という撹乱の時代もあって余り治安のよくない街の秩序の維持に一役買っていたし、一刀自身もそれを望んでいた。

彼自身も未だにそんな欲をかいていたわけではないので日々食べられるだけで満足しており、街の人々に暴行を振るうような事は配下にも厳しく禁じていた。
そのため、見ようによっては自警団とも見れなくはなく、街の人々にも歓迎はされていないもののそれなりに受け入れられつつあった。

何といっても、今まで迷惑ばかりをかけていた荒くれものどもが、布で顔を隠している一刀の前に来たとたんにおとなしくなり、彼らなりの規律を守るようになるのだ。
酒を飲んで暴れる、脅しつけて商品を奪っていく、などの彼らが行っていた迷惑行為がさっぱりなくなり、それなりの金額を支払う必要があるとはいえ彼らの傘下にいれば盗みや暴行の被害が激減する。


「なんだかんだで、あの人もたいしたもんだよな」
「もうちょっとみかじめ料とやらを安くしてくれたら、と思わないでもないけどな」


太平要術の書のことを知らぬものから見れば、それは信じがたい光景にしか思えない。
そこまで荒くれ者どもを纏め上げる一刀のことを、好意的に語るものさえいた。

それがいざとなればいかなることでも命を懸けて行う、一刀の私兵である事に気付いているほどこの時代の市井の人々は賢くなかった。







たった三人から始まった匪賊も、ただの根無し草の旅人ならばさておき腕を磨いている武芸者やそれなりの商隊、官軍に追われてしまっては命がない。
一度それらに遭遇して命からがら逃げ延びた後、考えるのはまたも死にたくない、の一言。

自身が奪う立場だった事から、街の善良な人々という立場がいかに脆いものであったかを知る一刀にとって、まともに働くという考えは初めから頭にない。
自分たちのような匪賊にアッサリと蹂躙される可能性を考えると、それは取れるはずもない選択肢だ。


死を知ったがために、彼は誰よりも死を恐れ、それを防ぐ為の力を追い求める。

この世界に来たときに彼をある意味保護した三人が生きていれば、もうちょっとましな手段―――たとえば、領主の兵として志願する―――といった手も取れたのかもしれない。
三国志という物語を知る彼にとって、安全で最後まで生き残れる可能性のある勢力に付くのはそれほど難しい事ではなかった。
が、この世界のことを未だにほとんど知らず、身元を保証する知り合いもいない彼がそんな「まとも」なことを知るよしもない。

そもそも、こちらに来てからそんなまともなこと、何一つ考えずに生きてきたのだ。
いまさら「天の御使い」を名乗って誰かのヒモ、なんてことを考えるよりも、今までの生活の延長上で何とかさらに安全な事を工夫する方が思考回路としてなぞりやすい。


だが、今の戦力ではもう一度彼らに出会った瞬間に今度は確実に殲滅される。
匪賊という生活についてのリスクをつくづくその身で思い知った一刀
それを防ぐ為に行う事は……戦力の増強しかない。


身につけていたボールペン、バッテリーの上がったスタンガン、こちらに来てすぐに電源を落とし、その後一度も起動していなかった携帯電話。
それらすべてを珍しい物好きの領主出入りの商人に、太平要術の書の力もあってかなりの値段で売り払う事で当座の資金を手に入れた一刀が行った事。


それは、一度は後悔をしていたはずの術、人の心を操る事であった。

自らが操った三人が無残に殺された事を見て、後悔をしていたはずの一刀。
それなりの悪行を重ねていたとはいえ、まだまだ「平凡な日本人」としての心が残っている彼にとって、自分の命令ひとつで命まで捧げて散っていかせたことがどうでもいいことだなどと思えるはずはない。

ある程度の資金の余裕が出来、ようやく回りを見渡せるようになったころから、一刀は毎晩悪夢に魘され、心にしこりを抱え、あの時自分が変わっていればという後悔を胸に日々苦しんでいた。
もはや善良とは決していえなくなった心とて、死を日常とするほどには穢れていなかったのだ。



だがその後悔は、やがては自己欺瞞へと繋がっていく。

初めは、とりあえず思い悩み続ける事だけが贖罪ではあるまいと、ほんのちょっとだけ考え方を変えてみようと、ただそれだけの気分転換のつもりだった。
だから、深い考えもなくただ溜息と共に思考をほんのちょっとだけ自己を正当化に使ってみる、ただそれだけのつもり。


(あいつらは、俺が来る前から悪人だった。
だから、俺のことを抜きにしても殺されても仕方がない人間だった。
そうだよ、俺がいなくてもいずれは官憲に討伐されていたから、仕方なかったんだ)


本当に最初はちょっとだけ考えるつもりだったのだ。
だが、一刀はこういった逃げ道を見つけてしまった。

初めは己のせいで人を殺してしまったことに対する恐怖心から、必死になって自分の心を守る為に呟いていたその言葉は、やがては自己の正当化へと使われるようになっていった。

自分の心を偽って、「彼らは殺されても仕方がなかった」と呟き続けた事で、いつの間にか心は「彼らは死んで当然だった」と錯覚し始めたのだ。


人の心は、磨耗する。

ましてや彼らは、一刀にとって最終的には能力を使って操っていた便利な駒でしかなかった。彼らだって、妖術が解ければきっと同じように考えたに違いない。
断じて義兄弟の儀を交わす様な繋がりも、その能力への憧れを元にする忠誠も、目的を同じにする連帯感もなかった。
あくまで、太平要術の書を経由しただけのつながりしかなかった。


そんな彼らに対する感情といえば、真っ当な経路で築き上げた友情もなく、それなりの期間を共に過ごしたとはいえ術にかかっていない一刀から見れば仲間意識も薄く、後になって思えば出会ってすぐに命を危うくされた恨みすらあった。

初めはともに過ごした時間や世話になった恩義を感じていた一刀も、時の経過と共にそれら日々の日常の記憶は薄れていき、戻ってくるのは『初めに殺されかけた』というあまり時を得ても薄れない箇条書きされた事実だけ。
それに自己の正当化が入っていけば、普通の、平凡な人間の心は自らの罪と向き合うような大変なことなど出来やしない。
一刀は結論として、「自分は悪くなかった」という位置づけを行ってしまった。



そして、それを後押しするような事実が存在した事が、その心のあり方を後押しした。
三人もの首級をあげた以上、市井にまぎれた彼をわざわざ探して追ってくるほどの必要をあの馬上の男は感じていなかったし、卑属として活動した期間が短く、現場においても太平要術の書の力で被害者の口止めを行っていた一刀は、官憲にもマークされていなかった。



結果として、一刀は人を殺したとしてもその罰を受ける事が誰からもなかったのだ。

刑罰とは、再犯を防止する為の機能も持っていると言われる。
人は罪を犯したとしても、その罪を犯した事によって得られた利益以上の不利益を受ける事を身を持って知ったのであれば、次は二度と起こそうとすまい。
だからこそ、逃げ得を許すようなことは絶対にしてはならず、罪を犯したものは等しく刑罰にかけられなければならない、とする考え方の事だ。

現代日本の起訴後の有罪率99%とされる現状も、この考えを如実に反映して運営されている。
だが、ここは後漢末期。
漢王朝の力は衰え、官憲の横暴がはびこり、各地で群雄が割拠する乱れた時代。
英雄達のある者は忙しく、ある者は気付かず、ある者は手が出せない。

一刀という小悪党に対して罰を下せるだけの正当な「正義」の持ち主など、どこにもいなかった。
こうして一刀は、罪に相応しいだけの罰を免れる事となり、それは自己の行ってきた行為に対する肯定ととらえる事となる。



そうである以上……再び人を操る事をためらうだけの理由が、どこにあっただろう。



(そうだよな、殺されても仕方ない奴を操ればいいんだ! そうすりゃ死んだときも誰も悲しまないし、俺だって咎められる事はないってことだ)



人の心を操る事に対する罪悪感。
また一つ、一刀の心を留める箍が外れた。

こうして出来たのが荊州の街のひとつを傘下におさめる、小さな暴力団。
ただし、一刀の現代的なセンスによって運営され、妖術の力で強力に規律が纏められたそれは、今まで街にあったそういった同類の集団を瞬く間に駆逐する事となったのであるが、それは一刀という強大な力の保有者の心の変化に比べれば実に些細な事でしかない。

そんな程度の力であれば、一刀はいくらでも、何度でも手に入れられるようになってしまったのだから。




さて、何故、罪は償わなければならないのか、これでお分かりいただけたであろう。
それは……罪に対する罰がなければ、人は罪を犯す事をためらわなくなっていくからである。





[16162] 衣食足りて礼節を知る
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/08 20:51


基本的に道徳心というものは、社会構造と密接な係わり合いを持つ。
食い詰めて犯罪に走った一刀の例を出すまでもないが、命が関わる場において高潔で色、というのには無理がある。

他人に優しくしろ、弱者は助けろ、街は綺麗に、挨拶をしあえ。
こんなことはとりあえず生活の基盤が成り立った後に初めて周辺に目を向けて行われるものである。

だが、勘違いしてはならないのは、これらの思想は自然発生的に生じるわけではないという事だ。
食べるものがあって、衣服があって、住むところを与えれば、人はすべて道徳的な存在になる、というわけではない。
それは、現代日本においても他国より少ないとはいえ多くの犯罪者が出ていることを知る者からすれば自明の理だろう。

衣食住はあくまで道徳心を養う為の前提条件であり、それがあれば即人は道徳を覚えるわけでは決してない。
その上で道徳についての考える時間や他者からの教育といったものが必要不可欠なのである。
そして、その他者からの教育というものは、当然ながらその他者の持つ道徳心や今まで育ってきた文化と大いに関わりがある。


朱に交われば赤くなるの言葉どおり、衣食住が満たされたときに高潔な人物を見ればおのずから襟を正す事になるであろうが、逆に言えばそんな人物がいなければそれが満たされる前の人間的な格がさほど急激に上がるはずもない。

衣食住が満ちた後に、周りにいる存在こそが大切なのだ。


「あ~、そういや最近女買ってねえな」
「確かにそうだな……小遣い出たし、いっちょ行くか?」


故に、こういう環境の中で生き抜いてきた一刀が衣食住の次に知るものは、礼節ではなく、酒色だった。







(曲がりなりにもこれで俺は一座のボスだ……そんな俺が、チェリーボーイでいいのか!?)


いかに周辺の環境がよろしくないとはいえ、少なくとも飢えて死ぬ心配がなくなったとたん考えるのがこんなところなあたり、心底救えない彼の名は北郷一刀。
荊州のとある街を怪しげな力で裏から支配する匪賊団「太平道」の首領である。


彼は童貞だった。
スポーツも勉強もイマイチな彼にとって、女の子というのは割りと遠いところにあったのだ。
剣道部でいいな、と思っていた先輩はおれども、彼女は一刀など相手にしそうにない気配に満ち満ちていた故に、遠くからただ眺めるだけというチキン具合。
十八歳という受験勉強真っ盛りな時期に入ってからは、一層縁遠くなっていたし。

故に、もうやれるものなら何でもよかった。


ただ、変なところでチキンな彼は、自分から積極的にかかわりあう事が少々苦手だった。
太平要術の書を使えばほとんど洗脳に近いことが出来るのでやろうと思えばいつでも可能なのではあるが、はっきりいってそこまで根性座って悪逆に走る事は現時点での彼には無理だった。

今の段階での彼の中の自身の力の使用基準は「悪人にしか使わない」という中途半端なもの。
自分のために使い潰したとしても、結果としてそれによって悪人が世界から減るのであれば自分はよいことをしたのだ、という自己欺瞞から生じたそのルールは、今のところ不足なく機能している。

もちろん、周囲に影響されて徐々に「死んでもかまわないほど悪い奴」から「一刀があくと感じた人間」へと、『悪人』の基準がゆるくなりつつあったりもしたが、とりあえず何もやっていない人間に対して突然術をかけるようなことはなく、未だにその一線は越えていない。
飢える心配がなくなったがためにその説を曲げずに生活できていた、という事実もそれを補強した。

いずれ現実の壁にぶち当たれば容易く崩れるそのマイ・ルールは、しかし今のところ破綻なく組織運営ができていることもあって彼の中では崩してはいけない部分に入っていた。



彼は、決して生来からの悪人ではない。
それどころか、あれだけのことをやってもなお、未だに善人であると呼んでもよい部分すら持っている。

現実に打ちのめされ、生きる為に悪事に手を染めたりはしたが、生きる為にどうして物必要もないのに悪をする事は今のところなかった……逆に言えば、生きる為に必要があれば彼はいかなることでも自分の命惜しさにやるであろうが。

ま、そんなことはさておき、結論としてそんなマイルールが故に結局こんないろいろと現代日本に比べれば性的にゆるい時代に来ておきながら、一刀は未だに経験ナシである。



そんな中、部下から聞こえてきた「おーい、風俗行こうぜ!」の声。

正確には妓楼なのであるが、まあ売春宿である事には変わりはない。
妖術を使わずとも、お金さえ払えばお姉さんがいいことしてくれる、理想のシャングリラ。
ぶっちゃけ、自分も連れていって欲しかった。

だが、だが。
行くらなんでも神秘的感を煽ってその心の隙をついて首領をやっている一刀から、いくらなんでも「俺も連れてってくれ」と声をかけるのが無理があった。
また、未だにチェリーゆえに、なんとなく「初めては好きな人と」みたいな幻想も持っていた。


故に、いつもいつも月に一度の配下達への小遣い日にはうらやましそうな眼で彼らを見るしか出来なかった一刀であったが。

彼の配下は、通常の手段で彼に忠誠を誓っているわけではなく、妖術書の力で狂信とも言える強力な呪縛がかけられているものばかりである。
わかりやすく言うと、一刀の都合いいように動くよう、思考が操作されている。

故に。



「あの~、一番いい女は御頭のにしなくていいんっすか?」
「「「っ!」」」



ついこの間一味に加わったとある男が呟いた言葉が、彼らの操られた心に強く響いた。
確かに、彼らの行動理念からすれば、何をするにしても一刀第一、一刀の言葉こそすべてに書き換えられている。
普段他の人々が不自然さを感じない程度に自由意志は返されているが、それでも根底まで染み込んだ太平要術の書の力は決して抜け切っていない。

その彼らにとって、新入りが言った言葉はまさに自分たちが深くにも気付いていなかった真理だった。


「すいませんでした、御頭! 気がききませんで!」
「申し訳ありやせん。すぐに用意させます。おう、お前、ひとっ走りいってちょっと店になしつけてこいや」
「へい、ただちにっ!」
「……は?」


かくして一刀は呆然としている間に、童貞喪失の機会を得た。








「こ~んにちわ、小喬でーす」
「だ、大喬です」
「……は?」


北郷一刀は、基本的にここが三国志などに記された時代だという事を理解している。
自分の組が名乗っている『太平道』という名前もそこから取ったぐらいだ。
実際にはタイムスリップではなく何の因果か外史に入り込んでいるので、いろいろと違いすぎるわけであるが、少なくとも現時点ではただ単に過去の中国に来てしまった、ぐらいにしか思っていない。


だから、いずれは劉備や曹操、孫権といった歴史上の有名人に会えるのではないのか、という歴史好きらしいミーハーな気分を持っていた。

その彼が始めてその出会った三国史上の人物。
それは『月も光を消し、花をも恥らう』とまで謳われた絶世の美女姉妹、後の世に「江東の二喬」と呼ばれることとなる大喬小喬であった。

本来であれば実際に小説や史書の中にしか存在しないはずの人物と実際に出会えたことで、一刀は喜ぶべきだったのかもしれない。
あるいは、ここが本当にタイムスリップしてしまった場だ、という事を強く実感して、恐れるべきだったのかもしれない。

だが、彼はそうとはならなかった。
驚きの余り、言葉を失っていたからだ。
歴史上に名高い人物に風俗店で出会うこととなった驚きもそうであったが、それ以上に。



「どうかいたしましたか、お客様?」
「あ~、ひょっとして、お兄ちゃん、とか呼んだほうがいい人? だったら、そうしてあげるけど」
(これが……あの二喬? もろロリじゃねーか!!)
…………注意:基本的に登場人物は、全員十八歳以上です!…………



大喬小喬姉妹は、余りにツルペタだった。
小説にて彼女らが登場する赤壁の戦い等から細かく逆算していけば、今は三国に群雄が割拠する結構前であって、それが故に未だに彼女たちが育っていなくても無理はないかもしれない。

だが、彼の認識からすればこの二人は英雄たちがこぞって求め、まさに傾国と呼ばれるに相応しいほど誰もが認めるボン・キュ・ボンなセックスアピールにあふれた存在であるはずと思い込んでいた。

売れっ子とはいえ場末の妓楼にいるような軽い存在ではなかったし、こんな(外見だけが)幼い存在ではないはず……にもかかわらず、目の前にいるのは余りに軽い(物理的、性質的な意味で)存在。

ちょっとショックを受ける一刀にずずい、と小喬が近づき、彼の瞳を楽しげに見つめる。


「い、いや、その……」


物理的な距離の近さに思わずしどろもどろになる一刀。
幼い容姿に似合わずぞくっとするような色気に貫かれて、一刀は硬直する。
苦し紛れに小喬の瞳から目を逸らし、大喬に目線をやった後、改めて小喬に尋ねる。


「そ、その君が相手してくれるのか?」
「え~、お姉ちゃんがいいの? 私にしようよ、私に。ね? それとも、私が穢れて見えちゃう?」
「け、穢れたなんて、そんな……」


一刀はまるで見えない糸に操られるかのように首を横に振った。

彼女らは妓女であって、娼婦ではない。
普段は芸事だけやっている彼女らだが一刀の部下が無駄に張り切った結果として、その辺に立っている夜鷹では御頭にはつりあわない、という信念の元、相当の金額で「それ用」に借り出されただけだ。


勿論、妓女とはいえ金を積まれれば夜伽の相手をするのが普通であるので、世間から見ればほとんど同じと見られることも多い。
だが、この街は袁術の住む首都ではないにせよ、この街を実質治めている孫策がこの方面に寛大であった為、そういった色事ではかなりの有名な街であった。

そして大喬小喬は、格付けとしてこの街における最高級の妓女となっている。
彼女らレベルの妓女ともなれば、ただ金を積まれたからといって夜伽の相手をするわけではない。

それなりに彼女らなりの基準があるらしく、大商人が大金を積んでも無理だった、という噂さえ聞こえてくる。
実物を前にしてその噂を聞いたとすれば、きっと一刀とてなるほどと思ったであろう、それほどまでに何と言うか、幼いながらも天性の男殺し、滴るような色香が彼女らにはあった。

美しい顔が目と鼻の先にあった。
ほんの僅かに進めば口付けできるような距離で、小喬は一刀に迫る。
鮮やかな主の引かれた、年にしてはどことなく分厚く、官能的な唇から漏れると息の甘ささえ感じられる距離で、彼女よりも年上に見える一刀は、しかしその経験のなさゆえに大いに慌てて彼女の言葉を否定して十分魅力的だ、という事を伝える。


「やった! それじゃ、私がお相手するね♪」
「では、私がお洋服脱がせますね」
「お兄ちゃんは、こういうとこ初めてなんでしょ? そのままじっとしていてくれるだけでいいからね~」
「お、おう……よろしく」


上から下へストライクゾーンのひたすら広い一刀にしてみれば、別に彼女らを性的対象に見られない、というのとはまた違う。
ぶっちゃけ、女なら誰でもいいんじゃないのか? といわれても否定できないほどに彼は節操がないのは、この外史においても同じである。
当然、彼女らを前とした今となっては「初めては好きな人と」とか言う考えは高速で何処かに飛んでいった。


と、言うわけで始まってしまえば、彼は幼い体や大喬の特異な体質も普通に受け入れて楽しむのだった。





大喬小喬姉妹というのは、美女とだけは記されているものの正直なところそれほどまで三国志、三国志演義両方において重要な存在というわけではない。
三国志の方では孫策・周瑜の妻や愛妾的な存在であるとしか記述がなく、その後にも二人の死後、呉に送られた、ぐらいにしか描かれていない。
演技の方では多少描写が水増しされたが、それでも赤壁の戦いで曹操の傍に侍らされ、周瑜をヒートアップさせる、ぐらいが関の山である。


だからこそ、それほどまで一刀は歴史上の彼女たちに思い入れがなかった。
ゆえに、ああ、大喬小喬というのはこういった人物なんだ、という事をあっさりと受け入れる事となり、それなりに楽しんだ後はもはや彼女らが歴史上の偉人であると思うことはなく、ただ単に可愛い女の子としか見ることはなかった。

そして、大喬小喬もまたこの外史においても絶世の美女としての地に名を馳せるに相応しいだけの美貌と『技』を持っていた。



「わあ、いらっしゃーい、今日も来てくれたね、お兄ちゃん♪」
「御指名、ありがとうございます……」



結果として、猿のように二人の下へと通いつめる一刀。
それなりに組織運営が上手くいっていて、小金もちになっていたこともそれに拍車をかけた。
もうちょっと頭がよくて、天下統一などの夢を持っていたのであれば今は雌伏のときと力を蓄えるなどをしたのかもしれないが、今の彼にはそんな目標などなく、あえて言うなら「生き延びる」ことが目的だった。


故に、何も考えずにただひたすらに酒色に溺れる日々が、しばらく続いた。
本番ありの売春宿に来ておきながら、正直性病の危険とかそんな事考えさえしなかった。






だがしかし、それは彼女らに対する自身の知識を忘れた、という事と完全に同意ではない。
彼は未だに大喬小喬が三国志で言うところの『呉』の陣営に属していた、という事を理解していたし、彼女らが呉の最強軍師、「周瑜」の妻であった事も覚えていた。

そして、周瑜……正確には周瑜の主である孫策がこのころ、この荊州一帯を支配する袁術の下におかれており、それに対して不満を持っている事。
いつかはそれをひっくり返して、袁術を倒そうと虎視眈々と力を蓄えている事。
いずれは『呉』として独立し、三大勢力の一つとなるまで成長すること。

それらすべてを、一刀は未来の知識として保有していた。

そして彼の元にはそれだけならず、人の心を操り、人の心を読み取る術を大喬小喬が持っている色術以上のレベルで持ち主に与える妖術書、太平要術の書があった。



「そういえば、お客様は何のお仕事されておられるんですか?」
「へ~、すご~い。じゃあじゃあ、ひょっとして他の街とかにも?」
「ねえねえ、いったいどうやってあんな怖そうな人を纏め上げてるの?」
「凄い方なんですね、お客様って」


(なんか違和感があるような、う~ん…………っ、まさか!)


だからこそ、彼女らの正体が、周瑜が独立のために四方八方に潜ませているであろう諜報員の一人ではないか、という事を疑い、それならば致命的な部分こそ喋っていないもののいろいろと彼女らに寝物語を語ってしまった自分の状態が不味い事にも自力で気が付いた。



史実を知っているだけでは、見抜けなかった。
実際の史実ではこの時点では彼女らと孫呉の繋がりはなかったはずであり、それを知っていれば安心して無力な少女に見える彼女らの手管に溺れ、何でも話してしまっていたかもしれない。

太平要術の書の力だけでも、見抜けなかった。
所の力により彼女らが自分から何かを知りたがっている、という事は理解できても、周瑜との繋がりを知らなければ彼女たちが単なるその辺にいくらでもいる女に見えていては、話したことでたいしたことになるまいと高をくくっていたかもしれない。



だが、運命のめぐり合わせにより彼はその両方を持っており、それによって自身が孫策に囚われる可能性を考えたのである。

現在彼が荒くれモノどもを纏め上げているのは、決して彼自身の能力が高いからではない。
太平要術の書というある意味チートアイテムがあるからこそ纏め上げているのであり、そんな無尽蔵に兵を生み出し、相手の知略を察し、自身の能力を高めることの出来る道具というものは、今袁術の下におかれている孫策の最も欲しいものの一つであろう。

そして、彼は別の外史とは違って孫策がどのような人物か、全く知らない。
彼が知っているのはただ、孫策が官憲の側であり、悪党の一員と課している自分とは逆の立場となるであろうというただそれだけだ。



(まずい! この本のことが偉いさんにばれたらおしまいだ。正規兵に囲まれて力ずくでこられたら、逃げようがない……そうすれば、俺はもう完全にこの世界で生きていけなくなっちまう)


歴史知識と諜報員である大喬小喬らをも凌駕する人身掌握術は、ここでも彼の身のために動いた。
だからこそ、一刀は自身の身に危険を迫らせかねない彼女らの危なさをぎりぎりのところで理解し、自身が行ってしまった失策を事前に悟る事が出来た。

あったこともない孫策を頼るには、彼は余りにも世俗に塗れすぎていた。
つまり、見ず知らずの人間に太平要術の書と引き換えに安全を保障してもらおうと思うほど、頭が軽い人間ではなかったという事でもある。

というか、基本的にこちらの世界に来てからろくな目にあっていない彼に、日本と同じような警察組織や領事館のようなものに対する信頼が芽生えるはずもない。
故に、彼は孫策にすべてを話して助けを請う、といった賭けに出ることはためらった。



ならば、どうするのか。
彼が使える手段といえば、後一つしかないではないか。



さて、何度もいっているように一刀というのは決して生来からの悪人ではない。

日本という平和な国に生まれて、今まで生きるというそれ自体に対して危機を覚える事はほとんどなかったし、それに伴って高度な道徳教育を受けている。
祖父から教授を受けていた古流剣術は実戦という場においてはほとんど役には立たないものの、彼の精神を強く健全に保つのには多大な影響を及ぼしたし、実際のところ今までの生活においても万引き一つしたことがなかった。

あのまま普通に日本の社会で育っていれば、きっと大きな罪ひとつ犯すことなく生きて、死んでいけたであろう。


そんな彼にとって、太平要術の書による洗脳にも近い人身掌握術は忌むべきものだった。

人の心を無視して操る事が出来る術なんて、彼の日本に生きていたときの良心からすればたとえ存在したとしても、決して使ってはいけない邪なものであった。

それゆえ彼は、この世界に来てその力を持ったとしても決してその力を乱用しなかった。
生きていく為に必死になって、ぎりぎりになるまで使おうとしなかったし、今なお「悪人にしか使わない」という縛りを自身にかけている。
それは、彼が実に真っ当な人間であったことのまさに証明であろう。


だが、同時に彼は生来からの善人でもない。
それを使わなければ死ぬという窮地に立たされたとはいえ、そんな邪術に手を染める事を良しとせずに飢えて死ぬ事なく、他人を操って生き延びる事を選んだ。
術の力を乱用しないという事は、逆に言えば必要と思えば使うことをためらわなかったのだ。


悪人しか操らずとも、その彼らを使って善良な人々から金を奪って生きてきた。
荒くれものどもに囲まれ崇め奉られることに快感を覚えた彼は、徐々に「悪人」として自分の基準のみで勝手に人を裁き、操る事に馴れていった。



生きる為に必要ならば、必要という理由さえ付けば、彼は容易に自分の中のやってはいけないことの基準である「悪行」に手を染めてきたのである。
彼の中の道徳やルールなどという者は、それほどまでに脆く容易く、頼るに値しない。


彼は決して善人ではない。
何とか生きる事ができるようになった今なお、自分の都合で他者を踏みにじる事をやめない悪人である。



ならば当然、決して「殺されても仕方ないほどの悪」ではない大喬小喬姉妹に対して、自分の身が危うくなる可能性に気付いてしまった次の行動も決まっていた。


「一生お仕えいたします、御主人様」
「一刀様、ばんざーい!」


もはやそのことに、一刀は罪悪感を覚える事すらなくなっていた。



[16162] 朱に交われば赤くなる
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/12 17:17


男であろうと女であろうと、恋だとか愛だとかには弱いものである。
古今東西、王者と呼ばれるに相応しい男が色に溺れて身を崩した事は枚挙に厭わないし、現代においても遊び人の男に弄ばれて不本意な人生を送った女性だって決して数えられるほど小数というわけではない。

個人差はあるとはいえ、これは万人に共通する人類という種の持つ特異な弱点だ。
種全体の生存のために交尾が争いごとになっている種族は少なくないが、そこに快楽を入れたばかりに人間は少々ややこしい事になっている。


それだからこそ、恋愛に付随する諸行為に対して人々は様々な手段で対策を練ってきた。

例えば、男性側だけを取ってみてもその方法は様々だ。

自身が悟りを開いて仏となることを望むある人々は女性との交わりを不純なもの、煩悩を掻き立てるものとして厳しく排除して、自分たち男だけで山に篭って生活をし、修行を続けた。
帝王と呼ばれようとするある者たちは、女性の扱いもまた帝王学の一部であるとして幼いころからこれを鍛え、自らが溺れきってしまわないよう律する心を日々鍛えた。
神の実在を信じ神の言葉に従って生きようとするある者たちは、女性との交わりは可能な限り行わない方がよいものであり、結婚したパートナーとのみ許されるとしてこの行為自体を忌み嫌い、それを行う際の体位までも厳しく定めた。


それは、結局のところ、そうでもしなければ普通の人間は耐えられない、という事実を端的にかつ饒舌に示している、という事でもある。









「ご主人様~」
「お兄ちゃ~ん」


当然ながら本作の主人公、北郷一刀も自由に出来る女体を手に入れたとたん、日々溺れきっていた。
というか、ものすごい速さで深みに潜っている辺り、彼本来の節操のなさが見て取れる。


「うっ……ふぅ、そろそろ、考えるか」


だが、幸いな事に彼は男だった。
男なら、誰しも色に溺れたときであろうと自身を振り返り、自分の将来について思いを馳せるときもある。というか、強制的にクールダウンする事がある。


何やってんだ、自分。もっとしっかりと将来のビジョンを描かなきゃ、とかそういった心持が急遽襲ってくるそのときは、すなわちナニの直後。
通称、『賢者モード』に入った一刀は、勢いで大喬小喬に術をかけたことの影響を考え始めた。

彼女らからの聞き込みから孫策―――正確には周瑜の手が自身の近くまで伸びている事を事前に把握する事が出来た。
周瑜が彼女らに命じたのはあくまで有力者との繋ぎと袁術対策のための何らかの有用な情報であり、一刀本人でなければならないだとかそういったことはないのだが、元々後ろ暗いところ満載の一刀にとって、僅かなりとも官憲の目に付く可能性は排除したい。

そうである以上、大喬小喬を囲い続けている現在の状況は、いささか危険に思えた。



太平要術の書は、稀代の人身掌握術を持ち主に与える。
当然それは、相手がこちらの心を捉えようとする術に対する対抗策にもなる。

すなわち、現在太平要術の書を保有している一刀は酒色におぼれる事はあっても、それによって誰かが彼を動かそうとする悪意を持ったのであれば、即座にそれを察知する事が出来る。
誰かが悪意を抱いたとたんに確実な警告を伝えてくれる書。
それは、王者にとっては喉から手が出るほど欲しい技能だろう。

だからこそ、一刀は王者たる孫呉の権力者に己が狙われる可能性に気付いた。



だが、あくまでこの書が関知するのは心だけ。
陰謀が張り巡らされている事を事前に察知できたとしても、じゃあその陰謀をどうやって防げばいいのかまでは教えてくれない。
相手が何を考えているかを読めたとしても、それに対してどうすればいいのかまではわからない。
対話が成立する状態で相対すれば確実に相手を下す事が出来る能力を持っていたとしても、その状態まで相手を持っていく状況を作る事が出来なければ宝の持ち腐れとなってしまうのだ。



例えるならば、太平要術の書が読めるのは、相手の『一手先』までなのだ。
それに対する最適解を出すだけの知能が持ち主になければ、いくら相手の一手先が読めるとは言ってもいつの間にかチェックメイトをかけられる事となるであろう。

この力だけで軍勢を作ったとしても、それは烏合の衆以外の何者にもなりえない。
戦場で勝つならば勇士が、軍略で勝つならば軍師が必要だし、国単位で陰謀・策略をめぐらす相手に出会ったのであれば、それを受けてどうするかを地力で考えなければならず、それへの対策もきちんとした理解力の元、書に頼らない力も大いに使って防がなければならない。

あくまで太平要術は、持ち主に力を与える妖術書なだけで、その所有者に絶対的な勝利を約束するわけではないのだ。
有利な舞台を構築し、最後の部分で勝利するとどめの一撃を入れるまでが書の役目、後は地力で挽回するべきだった。



そして、この話での一刀はというと……凡人だけあって当然ながら、一手先が読めたからといってそれに対する反撃を的確に返せるほどの才能はなかった。

というか、「やっべえなあ、これ下手したらすでに周瑜に目をつけられてるかも」ぐらいまで考えたところで速攻賢者モードが切れた。
一分も持っていないそんな状態で考えられるのは、精々そこまでだった。
速すぎるだろ、という突っ込みも間に合わないほどのエロゲ的展開。
彼は若いだけあって回復力も非常に旺盛だったのだ。


むくむくと立ち上がる男のド根性と反比例するかのように、一刀に芽生えた僅かばかりの理性と知性が一瞬で霧散する。
それを押し殺してまでまともに考える事なんて、この世界に来てからずるずると悪事を働き、ずるずるとエロに満ちているこの外史の北郷一刀にできるはずもなかった。


「ま、いいか。ほらほら、触っちゃうぞ?」
「いやん♪」
「ご主人様の、色好み~」


故に、行き当たりばったりで進んでいく事となる。
悪党らしくその姿には、すでに荒野で果てた己が部下達の事への後悔など、微塵も残っていなかった。






とはいえ、流石に猿みたく盛っているばかりではお話は進まないし、彼が悪鬼羅刹のごとく後の世に伝説に残るはずもない。
しばらく日数がたったら、賢者モードが持つ時間もちょっとずつだが長くなっていったので、一刀はもうちょっとだけいろんなことを考えられるようになった。


(このままでいいのか、俺? こんな日々に満足してしまっていていいのか?)


それは、日々爛れた生活を送っていた彼に、唐突にちょっとだけ大きな野望が芽生えた日の話だ。


いかに日々大喬小喬姉妹と遊んでいるだけとはいえ、平凡な毎日の繰り返しはいつか男を大きなものへと駆り立てる。
それは凡人であろうと、英雄であろうと同じ事だ。
英雄は英雄なりに繰り返す日々を更なる大きな一歩として踏み出す事を目指すであろうし、凡人は凡人で英雄に比べれば小さいものの少しは前に進みたいと思い出す。

英雄豪傑が女性しかいない狂った世界においてそれは一刀以外には封じられたものかもしれないが、少なくともこの外史の外からきた一刀にはその男らしい願望が残っていた。
そしてついに、単調な日々を飛び出して一刀は新たなる一歩を踏み出すべく、外に出て行動に移った。





「とりあえず、巨乳の女の子に当てがないかあいつらに聞いてみるか……」


具体的には唐突に「おっきなおっぱい」が欲しくなった。


……現時点での一刀の一歩なんて、精々このぐらいである。



つる、ぺた、すとーん、の大喬小喬に対して今でも頻繁に夜に呼んでいることからもわかるように、飽きたわけでは決してないが、毎日毎日そればっかり食べ続けるのも童貞を失ってちょっとずつスレ始めてきた彼には不満があった。

そう、大喬小喬の胸は周囲に対して夢を与えすぎたのか、全く持って夢が詰まっていないのだ。
というか、その体形でよく妓楼でトップまで上がれたな、と思うぐらいである。
揉みしだいたり挟んだり、など夢のまた夢。
現代人でかつ童貞だったゆえ(エロ)知識だけが豊富な一刀にしてみればその点に関しては彼女らにたいして満足しているとはいえなかった。


そんな彼は、いまや匪賊弾の首領。
流石にみかじめ料だけで食べていけるようになった今となっては、村々を襲って略奪生活などしなくてもすむようになったので最近はちょっと落ち着いてきているが、それでも悪人であることには間違いがない。
そして彼の手の中には、人を操る妖術書と、それを有効に活用する為の私兵がそろっている。
つまり、望むだけで望むだけの事が叶う環境にある程度はいるのだ。

現代人的な倫理観もここまでの段階に来れば随分と薄くなっており、二人もの罪もない少女を囲っているにもかかわらず、それに罪悪感を覚える事も、それで足ることを知る事もなかった。

結果として一刀は、生きる為に必要最低限なこととは全く関係なく、次の獲物を探し始めた。

この時点ではもはや、周瑜のことは頭の片隅にも覚えていなかった。



ただ、一刀も知らぬことながら、彼にとって運のいいことにこの外史における大喬小喬の利用価値というものは別の正統な外史に比べると相当下がっている。
というのも、現時点では漢王朝に対する不満は各地で渦巻いているとはいえ未だに民衆の不満が爆発しておらず、それがために孫策や周瑜は必死になって機会を探りながらも袁術のわがままとも言える命令を受けながらもいずれ蜂起する為の力を溜めている。
そのため、未だに孫呉の中核となるべき人物らには愛妾を探すような余裕はなく、大喬小喬もそれほど手柄を立てる前だったので二人の前に姿を出せるほどの身代に達していなかった。


もしも一刀がこの街に滞在していなければ、この町の有力者らの情報と引き換えに大喬小喬は出世してその美貌に目をつけられ、いずれは最高権力者の愛妾や妻といった地位に立つ事も出来たのかもしれないが、あくまで可能性。

全く出番がなく存在自体が抹消される可能性も十分にあり、今はその可能性の前に潰された。
そのため、周瑜にとって見れば大喬小喬の能力が一刀によって下がり、諜報員としての力を衰えさせたとしてもそれはただの一スパイが何らかの要因で潰れただけの事。
それを用心しなければならないと思うほど二人の価値は高くなく、また周瑜自身も暇ではなかったという事だ。
この街自体も今は袁術が治め、いずれは孫呉が取り返すべき街のひとつでは在るが、決して経済的、軍事的価値が高いとはいえず、そのために一刀という異分子が入り込んだところでそうすぐには察知されなかった。




よって、一刀が遊んでいても未だに彼の世界は破綻を見せなかった。
故に彼は、我欲のまま突き進む。


「なんかいい子いない?」と配下の者達に尋ねると、太平要術の書の力で大喬小喬と日々遊んでいるだけなのに「英雄色を好むというし、さすが御頭! そこに痺(以下略」とか好意的解釈してくる男達は、少々悩んだ後、答えを出した。


「旅芸人の一座(超巨乳含む)がこの街に来ている」と。


この一言で、すでに展開は決定した。





「彼女達が、それか?」
「そうっす。うちらのシマで勝手な真似し腐ってたんで引っ張ってきたんっすけど……」


情報を手に入れ、訪ねていこうと思った矢先に何故か目前に美人が三人もいるので、とりあえず回りの人間に尋ねてくると返ってくるのはこんな答え。
一刀には街を一つ治めるだけの器量なんて存在しないが、現代人だけあって少なくともこんなちんけな街に滞在している人間の大半よりかはダントツで賢い。


原始的な支配体制を引いていた同業者を術と知識で吸収合併した後は、適当に天のこと(仁侠映画や小説等で覚えていた与太話)を語っているだけでいちゃついていてもこの時代からすればかなり洗練されたヤクザ組織が出来上がった。

この時代、官憲はいても警察組織のような系統だった治安維持部隊はない。
そんなものを作る余裕があるならば、軍のほうに金を回すのがこの戦乱の世だからだ。
ましてやここは、孫策の細作である大喬小喬が入り込んでいたことからもわかるとおり、有能な孫呉の統治が及んでいる江東の一部ではなく三国志でもアッサリ消えた袁術の支配下。

街の裏社会の支配者の変遷を理解するほどまともな能力を持つ官僚はおるまい、と思って適当にやっていれば見事にそれが当たった。
一刀の配下になったとはいえ、逆に言えば交渉の場で相対すれば確実に相手を落とす事が出来る技能の持ち主を手に入れた「元」ボス連合は、その力を使って一刀に対してこの街の裏側半分を捧げる事に成功する。


「この街で今でも俺らに対してスジ通さないような奴がいるとは思ってもなかったんっすけどね」
「まあ、都合がいいといえば都合がいいから、気にしないでおこう」
「へいっ!」


そこにいる限り官憲も手を出せない牙城を築いた一刀一味は、当然ながら市に店を出す際に商人らに付け届けを要求したり、旅人達から領主が取るのとは別の「通行税」を請求したりもする。
つまり、この街の官僚達の裏にもう一つの国を作り上げる事に成功したのだ。

決して地方の豪族となのり漢王朝から官位を授けてもらう事など夢に見ることも出来ず、また各地の諸侯たちと対等に交渉する事なども出来ないであろうそれは、しかし袁術を隠れ蓑に徐々に経済力を付けていくには、孫策たちが取った「客将となる」という手段よりもことによっては優れていたかもしれない。


「しかし、さっすが御頭っすね。ここまで仕事がスムーズに働くようになるとは思っても見なかったす。一体どこでこんな事思いついたんで?」
「う~ん、天、っていったらお前ら、信じるか?」
「て、天っすか。ひゃっひゃっひゃ、そりゃいいや!」


この時代においてここまで大規模にやった例はあまりないであろうが、袁術に任命された官僚の無能さと荒くれものどもの異常なまでの忠誠心がそれを可能とした。
ボスたる一刀も馴染みまくっていたこともそれを後押しする。

彼らは一刀の命令であれば悪事を働く事をためらわなかったが、同時に操られているもの特有の欲のなさから博打や酒乱などといった安い犯罪をやる事もなく、また縄張り内でそんな事をやっているよそ者がいれば一刀の前まで引っ立てて自軍に加えていたので、結果としてこの街は袁術の統治下では比較的治安がよかった。
考えようによっては悪人のくせに志気は高く、命令がなければ一切乱暴はせず、命令には絶対服従という不気味極まりない集団なのであるが、今のところ各地にそう異常さを気づかれる事もなく上手く回っている。


「ま、今の所町の連中もこっちに協力的ですし、また今回みたいなケースがあってもすぐ何とかなりますぜ」
「みんな流石に頑張ってくれてるな。お礼を言っといてくれ」
「なに、御頭の為ならなんのその、ってやつっすよ」


よって、街の人々も従わざるをえなかった。
そんなところにきたネギ背負った鴨が、そんな事情もさっぱり知らずにとりあえず空腹の余り情報を得る間も惜しんで興行に来た張角三姉妹。
当然ながら、この街では興行をやるにも一刀ら一味への非公式な付け届けが要求される。
それを無視した者達は、秘密裏に彼らによって何らかの「処分」が下されるのだ。

太平要術の書を手に入れることが出来なかった彼女らは、この時点では売れないアイドル以外の何者でもない。
武力も、知略も、一般人とほとんど変わらないのだ。


「お、お姉ちゃん……どうするの?」
「姉さん……」
「あうあうあう~~」
(結構サイズ的にバラエティに富んでるから、これをGETできれば随分充実するな)


故に、抵抗などまったくできずに彼らの事務所(的な酒店)につれてこられる嵌めになったし、一刀の目に留まったときも、突如ヤクザに絡まれた少女そのままに、怯えて震えることしか出来なかった。
それを見て、もはや手に入れることを躊躇わないほど一刀はこの外史の世界に慣れきっていた。








登場人物紹介

北郷一刀
原作よりほんのちょっとだけ賢い。
といっても、別に戦略が凄いとか、孫子を全部読んでるとかそういうことではなく、ただ単に「漢文」が読み下し文じゃなくても読める、という一点だけ。
「漢文」と後漢時代の文章は現代日本語と古文ぐらい違う、という事実は、外史パワーで修正されている。
後、原作よりほんのちょっとだけ中二病をこじらせていたので、普段からスタンガンを身につけてたちょっと危ない子。でも、その辺もほとんど後には影響ないのでスルーで。
基本的に最初の時点では原作の彼です。三国志も一応一通り読んでます。

一刀と書いて「かずと」と読むが、このお話では悪い一刀、「悪一刀」と書いて「わるいっとう」と読む。ワルイットゥ、とか書くとなんか外人っぽくてかっこいい。



[16162] 足るを知る者は富む
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/13 18:17



人の欲望は限りない。

初めは、ただそれがあるだけで満足だった。
それを手に入れられたことだけを喜び、何時間見つめ続けていても飽きる事はなかった。
物であれ、者であれ、それは同じだ。


だが、感動は時間と共に薄れていくし、喜びもそれと共に徐々に日常へと化していく。
足ることを知る賢人ならばさておき、凡人ならば最初の感動と同じだけの大きさの感情の揺れ幅が常に欲しくなる。
だが、かつての者はもはやその輝きを失っているようにしか自分には見えない。

だからこそ、新しいものへと手を伸ばし続けるのだ。
以前よりもよいものを手に入れられれば、再び感動を得られる。喜びを受けられる。

だからこそ人は、より高い物を、より旨い酒を、よりよい女を求め続けるのだ。


普通の人間ならば、その繰り返しでいずれ限界に達する。
金銭的な問題や、物理的制約から「以前よりもよりよいもの」を手に入れられる限度があるからだ。
年収六百万の男が毎年六百万以上のものを手に入れられるはずがない。

だからこそ人は現状で満足=妥協を覚えるか、あるいはそういった物質的快楽とはまた別物の「子供を育てる」といった娯楽で満足しようと自分に言い聞かせる。


だが、普通でない人間はそこでは止まれない。
二千万、という年収を持っていれば、毎年六百万の浪費は難しいものではないし、それが年々増えていったとしても三兆の財産があればその限界は随分と先のことになるだろう。


そう、王者であればその「よりよいものを得続ける」という手段で持って常に新しい感動を得ることが可能なのだ。

無論、そういった王者にも金銭的、物理的制約は存在するものの、それらは常人のものと比べて遥かに大きい。
そうである以上、時として彼らはその広大な制約が限界に達するよりも早くに、人としての破綻を迎える事となる。



その破綻への道に、一刀は手をかけ始めた。




この時代、娯楽は少ない。
現代人である一刀からするならば、テレビもゲームもパソコンもないこんな世界では、女を抱く・酒を飲む・本を読む・飯を食うのほとんど四択でしかない。

庶民にとって見れば、酒も本もかなり高価なものであるし、女を買うとしてもそれなりの金がいるから、さらに選択肢は狭くなる。

だからこそ、旅芸人なんていうのが成り立つ訳であるが……パンと見世物であれば、優先されるのはパンだ。


「みんな~、次は私たちの新曲だよ~」
おおおおおおおおおお!!
「たっぷりと、楽しんでね♪」
おおおおおおおおおお!!
「それじゃあ、聞いてください」
おおおおおおおおおお!!


少女達が声をかけるたびに何人もの男達が周りを巻き込んで熱狂の渦と化し、その会場全体に熱波を広げようとする。
だが、それはすぐさま霧散する。

確かに男達の勢いは凄まじいものがあり、それが数多く集まればまさに今一刀がやっているような理性を持った狂信ともいえるような状態を生むのであるが、それは決して会場すべてにまで伝播しては行かなかった。


パンのないことによる空腹を忘れさせる事の出来るほどの見世物なんて、なかなか用意できるはずもない。
別の歴史では黄巾党を作り上げた張角三姉妹も、この外史においてはその壁を打ち破る事が出来なかった。


熱狂的な一部の男とたちとは裏腹に、それを遠巻きにするかのように集まったほかの男達は談笑しながら張角たちの舞台を見る。
ある者はその曲を聴きながらかつて聞いた芸人のそれと比べてどちらがよかったかと思い起こし、ある者はその芸を見ながら久々に街で女でも買おうと胸を膨らませる。
あるいはこの会場をただ単に商売のタネでもないかともぐりこんだに過ぎない者もいるし、そもそも一刀の一味がサクラとしてもぐりこませたものさえいる。

結果として、張角らの魅力に囚われ、心底から彼女らの熱狂的なファンといえるような人間の数は、会場全体から見るとそう多いものではなかった。


「まあまあ、うまくいっているみたいだな」
「彼女達が食べていくには十分でしょう。ただ……上納金まで出るかは微妙なところですがね」


影から見つめる一刀の顔にも、熱狂はない。
彼はそれほど熱心というわけではなかったが、それでも毎年数百と出る音楽と舞台に囲まれて育ってきた人間だ。
楽器も、設備も、仕草も、すべてが計算されてその上で鎬を削っていたかつてのことを思えば、張三姉妹のそれは余りにつたなく、田舎くさいものに見えてしまった。


あくまで娯楽がない世界だからこそ人が集まったそれは、しかしそれ以上の力までは持っておらず、この外史においては黄巾を作るには力不足だったということだ……太平要術の書を持たない彼女達では。
実際に彼女たちに舞台さえ与えられれば何とかなるほどの圧倒的なまでの実力があれば、前の街で食べるのもカツカツなぐらいに興行がうまくいかないこともないだろう。

だから、一刀の気紛れでこの街で事務所と専門の劇場を与えられたとしても、それを大きくしていくのはさぞや大変だろう。
ちょっとばかし大きな舞台を与えられた旅芸人に対する、それは正統な評価であった。
勿論、かつてクラスメートと一緒に行ったカラオケよりかはよっぽど楽しんでいたが、彼女達が軍事的に使えるほどという評価は、一刀のみならず彼の側近も誰一人していない。

だからこそ一刀は、賭けの勝利を確信してその場を後にした。







「君達がこの街で無許可で興行をしようとしてたって人たちかな?」
「はぁ? そもそもあんた誰よ! なんでちぃ達が歌うのにあんたらなんかの許可がいんのよ」
「っ! ちぃ姉さん、ダメ!!」


一刀の尋ねに三姉妹の真ん中―――張宝こと地和が速攻で噛み付く。
彼女にしてみれば自分たちはただ歌っていただけなのに、突如不法な目にあっているのだ。
今までも決して安全快適なだけの旅ではなかったが、ここまでの目にあったのは初めてだった彼女からしてみれば、その反論は正統な権利でしかない。

が、それを妹である張梁こと人和が止める。
その顔は、男達に囲まれているという事以上に真っ青になっていた。
姉である張角、天和もまた言葉には出さなかったものの同じような表情をしていた。

それを受けて「何でよ!」と怒鳴り返そうとした地和であったが、周りの雰囲気をようやく察知したのか、その声が口から出ることはなかった。
一刀の目が、笑っておらず、かといって詫びてもいないようにしか見えなかったからだ。


「姉の無礼は、私が心よりお詫びいたします。どうかお許しください」
「ああ、まあ何も言わずにつれてきたこっちも悪かったから、おあいこという事で」


人和の詫びに笑って応える一刀は、しかし彼女達にとっては刃物を持って脅しつけているようにしか見えなかった。

彼は、決して本質が冷酷になったわけではない。
だが、人を従え、女を抱き、財を成した彼はそれによってある程度の自信とやくざとして相応しい人を脅しつけるだけの押し出しの強さは確実に自身の力として手に入れた。
それは太平要術の書の妖力によるものではないが、書があったからこそ手に入れたものである……だが、それでもそれは確実に彼自身が獲得した力だ。
特筆すべきものを何一つ持たず、身一つでこの外史に産み落とされた彼が性根のよささえすり減らしながら始めて手に入れた彼自身の技能だ。

それゆえ、胸に見とれてしまっていて今にも破綻しそうな張りぼてのものであっても、とりあえず交渉の一手段として彼女らを脅しつけるぐらいのことは何とか可能となっていた。


周りを屈強そうな男に囲まれた上で一刀の目を目にした地和は、それに押されて声も出せなくなる。


「とりあえず~、私たちも興行でお金を稼いだらきちんとお礼しますので、もうちょっとだけ待っててもらえませんか~」


そんな妹を庇うかのように天和が一歩前に出て、一刀に向かって懇願する。
彼女はいろいろとゆるいが、だからといって長姉としての自覚が全くないわけではないのだ。
その一挙動一挙動で縦横無尽に跳ね回る胸のゴム鞠を見て、思わず反射的に仮面を外して太平要術の書を使って自分の信者にしたくなる一刀であるが、かろうじて踏みとどまった。

彼の中ではまだ彼女らは「己の身の安全を蝕む」様な存在では全くない。
大喬小喬のように自分で自分に言い訳できるような状態ではないのだ。

それゆえ、有名無実となりながらもまだひと欠片だけ存在する彼の良心が、術で操る事だけは拒んだ。
だがそれは、決して彼の意思が強いからではない。

今までの経緯から見てもわかるとおり、彼の意思の固さなんて豆腐ぐらいしかない……どれだけ大幅に見積もっても、木綿豆腐が関の山。
だから、術をかけることを諦めたのは決して、彼が善人だからではない。


「見逃してといわれて見逃してたら、治安維持はなりたたないっすよね、御頭」
「ま、そうだな」
「そこを何とか、お願いします。この通りです」
「条件によるなぁ……そうだ、じゃあ俺と賭けをしないか?」


絶対有利な場においてカードの一枚を捨てるぐらいかまわないという気持ちが彼の良心を強力に後押ししたからこそ、彼は術を使うのを思いとどまったに過ぎない。

他に彼女らを篭絡する手段を思いついたからこそ、そんな寛大さを持つことが出来ただけなのだ。







「れんほーちゃ~ん、お金はどう? そろそろこの町を出ても大丈夫なくらい、溜まったかしら~」
「だったらちぃ、ちょっとぐらい美味しいもの食べた~い。こっちに来てすぐあの男に絡まれてから、ほんと碌なもの食べてないんだから!」
「…………」


興行を終えて暢気な事を言っている二人を前に、眉をしかめている人和は、溜息を着くことだけはかろうじて抑えた。
姉達にここで何かを言っても始まらないのはつくづく思い知っているし、人和は絶望的な状況に立たされてもそれでもなお明るくいられる二人のことを心から愛しているからだ。

だが、そんな二人の姉を前にして微笑みを保てないほど、人和は心労を抱えていた。


「あはは~、冗談冗談。明日もまた、頑張ろうね二人とも」
「もっちろん! 明日もちぃが、みんなの心を鷲づかみよ」
「姉さん……」


そんな人和を見て二人は明るく笑って先の言葉を取り消したが、いつもわがままで且つ天真爛漫な二人にまでそんな気を使わしていることに、人和は一層悲壮そうな表情を強めた。

それを見て、普段は無邪気な天和がほんの少しだけ眉根を寄せた。


一刀から出された賭けとは、彼女らの矜持を試すものだった。

彼はまず、彼女達に専用の舞台を与えてくれた。
単なる一旅芸人である彼女らにしてみれば、街で辻興行を行う事はあってもこのような自分たちを見るためにわざわざ人が見に来てくれるというその環境は、望んだとしても得られない大きな物。
自分たちの実力に自信はあっても、未だに大部隊への機会が得られず少々焦っていた彼女達にとって、それは願ってもない機会だった。
それだけならば、彼女らは喜んでそのプレゼントを受け取り、日々楽しく次の夢へと邁進する事が出来た。






だが、それ以上の爆弾も一刀一味は彼女らに括り付けていった。

『一月の時間でもってこの劇場で上納金を稼いで見ろ』

明らかに無茶な条件である。
確かに普通の芸人であれば上納金とやらはそう高いものではないが、一刀はそれに劇場の建設費まで乗せてきた。
より正確に言うのであれば、その建設費分の金額だけを上納金として要求してきた。

自らの芸に自信を持っていて、機会さえあればすぐにでものし上がってやると夢見る三人にしても、その金額は劇場を建てた建設費を考えるならば妥当とはいえそうやすやすと一月ばかりの期間だけで稼げる額には思えなかった。


だが、彼女達は逃げるわけにはいかなかった。
劇場の代金分を稼げないとはすなわち、彼女らの芸はたとえ大舞台においても通用しない、もうこれ以上芽が出ることはないということを客観的に証明するのに等しい。
それは彼女らにとって、一刀一派の暴力以上の恐怖だ。

仮にも、芸事で糧を得ているものに対して「お前の芸では食べていけない」というのは明らかな侮辱だ。
苦しいながらも三姉妹力をあわせて今まで乗り越えてきた彼女らにとって、たとえヤクザ相手でもそこは引いてはいけないところだった。

だからこそ彼女達は、この分の悪い賭けに三人そろって乗る事にしたのだ。




(うう~ん、やっぱり人和ちゃんの顔色を見ると、無理なのかなぁ)
(なんで、なんでなのよ! ちぃ達の実力を、何で認めてもらえないの!)
(少しずつお金は溜まってるけど、このままのペースじゃ絶対に間に合わない)


だが、現実は非常である。
この外史は才能がすべての世界だ。
努力も、信念も、家族愛も、すべては才の気紛れの前に屈する定め。

一刀と違って太平要術の書を手にする事の出来なかった彼女らにとって、世界はそんなに甘くない。
元々才能があれば、この世界でもすでに芽が出ているはずだ……今までそれがなかった以上、今になってすぐに花開く事などありはしない。


「(やっぱり、一ヶ月じゃ無理だったのかも……でも、ただで待ってくれるような人には見えなかったし)……おねえちゃん、ちょっと用事を思い出したから出かけてくるね~」
「ちょ! 姉さん待って……はぁ、こんなときにもう! 今日の興行は終わりとはいえ、どこに行くってのよ」
「まあ、姉さんがいても正直あんまり役に立たないけど……」
「それでも、いないよりはましでしょ」


それは誰もがわかっていながら、しかし妹二人は動く事が出来なくなっているのを見て、天和は一人で動くことを決めた。

それしか、彼女に出来ることはなかったし、彼女もまた妹たちの事を愛していた。








そして、そんな事に漬け込んだ一刀は、初めて太平要術の力を使わずに目的のものを手に入れたことで、ますます調子に乗る事になる。




[16162] 蝶の羽ばたき 胡蝶の夢
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/14 09:28



トップに立つ人間は、断固たる意思を持たねばならない。

船頭多くして船山登るの例えどおり、ある程度の集団以上に人数が集まったとき、誰も彼もが好きな事をやっていたとしたらその全体としての行動はあまりにちぐはぐなものへと成り下がってしまう。
一人二人といった小集団であればそれでもその一人一人がそれなりの目標を持って利益の為に進んだとしても、規模自体が小さい為にそれほどまで大きな損害を受ける事は無いが、集団が膨らんで大きくなればなるほどそれは難しくなっていく。

だからこそ、大概の集団には名目上だけであっても「長」となるべきものが定められており、それに一応皆が従う事になる。

長となるべき者が合議制を取ってそれの結果に沿って行動を移そうとしようとするのであろうと、トップが独りですべてを決め、それに部下は従うだけというワンマン形式を取ろうと、長という役割の重大さは変わらない。

多数の意見を聞いて調整したり、たった一人で決断したり、やり方は違っても、これによって方向性が決まり集団全体の将来が決まる事には変わりがないからだ。


だからこそ、頂点の座というものは争いに伴って力で奪い取ることが許されているのだ……奪い取れるほど優れた人間でないとそこを目指す資格はなく、また奪われるような無能な人間にいつまでも居座ることを許すような場所ではない。


だからこそ、どのような経緯であっても頂点に立つ人間はその自身の意思を強くもってすべての責任を背負いながら進んでいかなければならないのだ。
その結果がどのようなものになろうとも受け入れる覚悟も共にもって。



彼次第で、すべての事象が変化してしまうのだから。












北郷一刀は、もはやここが三国志の時代である事を疑っていなかった。
実際大喬小喬という人物をゲットしてるし、孫策・曹操だとか言う名前の噂は自分のお膝元にも大きく届いている。
劉備だとか関羽だとかの名前はまだ聞かないが、まあ桃園の誓いの前の無名な時なのだろう、と思っていたのでさほど疑問もなかった。

とにかくタイムスリップ説を裏付ける状況証拠がそろいまくっている以上、それ以上深いことを考える脳みそは彼には無い。
故に、何故こんなところにきてしまったのか、だとか、どうやったら帰れるのか、とか考える事さえせずに、現状を受け入れていた。


(ロリ二人に加えて爆乳もゲットと順調にハーレム作っていってるはずなんだが……おかしい)


彼が知っている三国志、という物語はなにぶんかこの史実をいろいろと脚色したり省略したりして描かれているものなので、多少自分の知識とずれていても、彼は「ああ、そんなもんなんだ」とおもって少しぐらいの差異であれば流しただろう。

だが、そんなあまり自身のもつ歴史知識を絶対と思っていなかった彼ですら、一つだけそれでも違和感を覚えた出来事があった。

それは…………


(黄巾党の乱が起こんないぞ?)


お前のせいだ、と突っ込んでくれる人物は彼の周りには誰もいなかった。



史実における『三国志』の始まりは諸説あれど、基本的な流れとしては諸侯が蜂起する直接のきっかけは献帝を要する董卓が倒され、それによって漢王朝が倒れたことがあるが、その前段階として黄巾党の乱が起こったことはかなり重要だ。


漢王朝にはもはや反乱を押さえることの出来る力すらない、という事を万民に見せ付け、新たな時代の始まりを予感させるきっかけとなったのが、黄巾党なのだ。

あれによって各地の諸侯は名を上げ、それがあったからこそ彼らは天子に対して弓引くに等しい事も民衆からの支持が得られた。
民主主義なんて形もない時代とはいえ、民衆の支持が得られなければ不利益を被る、という事は英傑と呼ばれる人間であれば分かっていないはずがなかったし、暗愚な君主にとっては黄巾党のように自分に反抗する人間がいなければ、別段今までのやり方を改める必要などないように思ってしまうのが当然。

民の支持という無形の財産を彼らが黄巾の討伐によって得られたからこそ孫策は袁術から独立できるだけの財と兵を民衆から集める事が出来たし、曹操も国土を広げたところで歓迎された。


(劉備とかの名前もさっぱり聞かないしなぁ)


劉備など、黄巾党の討伐によって自前で義勇軍を組織して名前を挙げていたからこそ、かろうじて反董卓連合において弱小とはいえ一つの勢力として認められたといっていい。
というか、黄巾が無ければそもそも義勇軍を立ち上げる名目が無い。
故に、黄巾党の乱が無ければ、劉備一行は下手すりゃただの無位無官の旅人、良くても精々公孫賛の抱える客将、「すっごく強い武芸者集団」で済んでいた可能性が高い。




また、献帝が立てられるきっかけ自体も黄巾党の発生に伴う何進と十常侍の争いがあってこそ、霊帝の没後すぐに興ったわけだし、さらに言うならば霊帝の死自体にも直接ではないにせよ心労や毒殺といった形で黄巾党の乱は関わっている。


(ちょっとはっきりとした年代までは覚えてないけど、霊帝の体が悪い、とか言われてる以上そろそろ起こんなきゃおかしいと思うんだけど……)


それが、起こらない。

そもそもこの外史、正史と比べてそれほど食糧事情は切迫していない。
村々単位であれば重税に喘いでいたりそれこそ一刀が飢え死にしかけたりといったような事情もあったが、もともとはアイドルにうつつを抜かせる程度には余裕があるものも多い。
数十万とも言われた史実(正史)の黄巾党の構成員はほとんど飢えた民であったが、「悪一刀ルート」以外も含む外史の多くではただ単に「ちょっと現状に不満を持っていただけのアイドルに嵌った兄ちゃん」である。

食い詰めてやむなく立たざるを得なかった正史とは、はなから条件が違うのだ。


そのため、その旗印となるアイドルが倒れている今、黄巾党の乱の自然発生は見込めなかった。


いつかは蜂起するにしても黄巾党の乱という手っ取り早く名を上げる機会がなければ諸侯の力を蓄える速度は低下するし、大将軍何進や十条侍もお互いの弱点を探す時期であるとして、今しばらくは直接対決をためらう。


(おっかしいなあ……張角とかいうおっさんが民衆まとめてそろそろ耐え切れなくなってなきゃおかしいんだけど)


ちなみに彼、ここが「有力な登場人物すべてが女」というめちゃくちゃな外史であることにいまだ気付いていなかった。
情報伝達手段が人対人でしかないこの時代において曹操などの外見を知る手段が限られていた事や、そもそも君主が女なのは基本的にこの世界の人間にとって見れば当たり前のことなので誰も彼に教えてくれなかった事が理由の一つである。




だが、最も大きな理由は「大喬小喬」姉妹がそのまま女であった事と、今まさに彼の横で眠っている「天和」が張角であるということに彼が気づいていなかった事が上げられる。

彼の認識では「真名」とかいうシステムは存在しない。
何せ、初めに会った有名人の大喬小喬は、何故かこの世界において例外的に真名をもっていない。
続いて出てきた張角も、アイドルだからか他人に「天和」という名で名乗る方が多かった。

だから、天和・地和・人和三姉妹と張角一派が結びついていなかったのだ。
というか、常識的に考えて気付かないだろう……超大規模匪賊「黄巾党」党首になるはずの張角がこんなぶりっぶりの女の子だなんて。


(まさか、ここは過去の中国じゃないのか? いや、でも大喬小喬もいたし、彼女らだけじゃなくて周瑜も孫策も実在してるのに、三国志じゃないってことがありえるのか?)


その結果として、彼は張角を捕らえて囲っておきながら「おっさんであるはずの黄巾党の指導者」が現れない事に疑問を持ち始めた。








で、戸惑っていたのは三国志の知識とは違うのではないか、と思っていた一刀だけではない。
劉備に代表される各地の無名な、しかし優れた武や知を持つ将来の武将らも同じであった。

大規模な戦いが起こらないということはすなわち、諸侯らは地味な内政パート中である。
戦いでの直接の敗北などとは異なり、内政面での他国との比較競争はよほど大きな失敗でもしない限り、絶対的に優れている、とか間違っている、とか言いにくい状態だ。


現にこの時点でもっとも内政が成功していると市政で噂されているのは、豫州を収める「あの」袁紹である。
もともと名門というだけあってそれなりに官僚システムは出来上がっているし、治めている土地も豊か、戦が起こっていないため弱兵ばかりとはいえ兵数は膨大、蓄えた財も多いのでちょっとぐらいの凶作でも税を上げなくてもやっていける、と将来性はおいておいて現時点での内政面だけで見るならば袁紹は二位以下をぶっちぎってダントツのトップに立っている。

この段階においては、後に三大国の一つの君主として覇を唱える曹操よりも遥かに強大な勢力を誇っている。
抱えている二人の将軍の力量も、噂だけなら呂布にも並んでいた袁紹一派は、このように話に聞くだけならばきわめて優秀な一団のように思える……実物を見ない限り。


このように、内政面での比較というのは何か問題がおきない限り、中々「この国はこの国より強い」「この君主はこの君主よりも凄い」といったことが外から噂を聞くだけではわからない状態なのだ。



それだけに、袁紹に仕えようと思って訪ねていった多くの在野の有力武将・軍師・官吏の実物に会ってからのがっかり度数は半端じゃなかった。






「うう……やっぱり、袁紹さんには会えるまで粘ったほうがよかったのかな……」
「でも、あの街を見たでしょ、雛里ちゃん。やっぱり袁紹さんは天下泰平を考えているようには見えないよ……門前払いされちゃったし」


というわけで、荒野をさすらう二人の軍師も、極めてがっかりしていた。

三国志を代表する有名人である伏竜・諸葛亮と、その諸葛亮と並び称される天才凰雛・鳳統の二人組みは、袁紹の支配下である豫州まで出向いたはいいが、やはり袁紹の器に見切りをつけて仕官せずに未だに在野にとどまってあちらこちらを流離っていた。

噂を聞いて袁紹こそ彼女らの求める「天下泰平」の為の君主ではないか、と思って士官を求めてみようとしたものの、そもそも仕官さえ出来なかったし、その町の暮らし向きを見てもやはり違うと思ったのだ。


だから、断られた事を怨みもせず、再び放浪の旅に出たのであるが、軍師らしく自分たちの能力にそれなりの自信を持っている二人は、きちんと自分たちが評価されずに門前払いを喰らったという事実にそれなりに傷ついていた。

ただ、彼女らの優れているところの一つに、きちんと自己分析ができることがある。
彼女達は袁紹に会う事も出来なかった事は、自分たちにも悪いところがあったのだ、という事をきちんと認識していた。


「……まあ、私たちみたいなのがいきなり仕官させてもらえるはずがないけど」
「……この身長がね」
「……あと、胸とかもね」
「「うう……」」


そう、外見、である。

まあ、最大勢力ということは裏を返せば仕官を望むものもそれ相応に多いということであるし、そんなところにこんな見た目も幼く、いまだ無名で、どう見ても戦いには向いてなさそうな外見の「はわわ・あわわ軍師」が来たところで厚遇するはずもない。
それがわかっていたからこそ、彼女達は断られても仕方ない、と思って諦めて、しかし一向に成長を見せない自分らの体について凹んでいた。



で、次にきたのが袁紹に続いての最大勢力である袁術の支配地域。
とりあえずなんか袁術配下の中でも特に凄いらしい孫策のいる江東辺りを目指すついでに通りがかった近くの街にひとまず寄ろうか、という話をして向かっていた途中だった。




で。


「あ……馬が通るよ、朱里ちゃん」
「ほんとだ。避けなきゃね」


その途中の街道にて。
とても急いでいるのか猛スピードで馬を走らせる一人の男に気付いて左右に分かれて道を譲った二人のうち、男の利き腕に近い方にいた人物が。


「ひゃっはーー! 御頭への土産だぜーー!!」


通りすがりに腰帯を掴まれてあっという間に馬上へ拉致された。
基本的に一刀一派はいろいろと難しいことを考えなくても太平要術の書の力だけで大概の物事は何とかなるので、人攫いにおけるリスクとか考えちゃう頭のいい人間なんていやしない。


「え? …………た、助けてーー!!」
「っ! 雛里ちゃん、雛里ちゃ~ん!!」


さらわれなかったもう一人の方、諸葛亮は必死になって追いかけるが、馬の足に追いつけるはずもなく見る見るうちに引き離されていき、やがては見えなくなった。

………………まあ、護衛も付けずに少女二人だけで旅してたら、そりゃこういうこともあるよね、ということだ。
別の外史でもよく襲撃喰らうし。



あえて何でこんな事になったのか、説明するならば。


街の中ではみかじめ料払っている限り悪事はいけないという一刀の命令。
          ↓
つまり、街の外ならみかじめ料払ってないからオッケー。
          ↓
村は遠いから、街道での旅人から通行料をもらおう。
          ↓
明らかに弱そうな獲物二匹ハケーン!!
          ↓
片手開いてるし、そういや御頭ロリを二人飼ってたな
          ↓
ついでだし、ゲットだぜ!!


とまあ、こんな感じになる。

と、言うわけで一刀が各地に放った諜報員の一人が、たまたま一刀の治める街に帰るその途中、ただ単に取れそうだったから駄賃代わりにと、「別に欲しいわけじゃないけど、もうちょっとで落ちそうなUFOキャッチャーのプライズ」並の適当さで鳳統がさらわれた。


「ぐはっ……」
「やれやれ、白昼堂々誘拐とは世も末という事ですな」
「全く、何を考えているんでしょう。こういった輩は」
「でも、星さんがいないと危ないところでしたね~」


なお、同じような理由で趙雲・郭嘉・程昱ご一行様に手を出した諜報員は、アッサリと一太刀の元切り捨てられたりもしているので、これはそう成功率が高いわけではない。

このように一刀の放った諜報員はお土産を持って帰ってくるか、そもそも帰ってこないかの二択となる。
一刀がせっかく戦における正答である「情報収集」の為に各地に送り込んでいるにもかかわらずそんな理由で失敗していたら意味がないのであるが、まあ蛙の子は蛙、エロ方面だけすごい悪一刀の部下はエロにだけ気がきく悪人ということであった。
そもそも諜報員が目立つなよ、という常識なぞ、一刀一派にははなから無かった。







ちなみに、これで軍師ゲット? とか思ってはいけない。
一刀一派が手に入れているのはあくまで軍師ではなく一刀の妾なので、それになってしまった雛里がこれから軍事面で大活躍とかするはずが無かった。
ただ、将来的な劉備軍の戦力を大きく削る事には成功しただけである。




黄巾党事案の消滅と、鳳統の劉備軍入りの変更。
徐々にこの外史において、異邦人である北郷一刀の影響が出始めようとしていた……主にエロ方面をきっかけにして。


なお、これによって一刀がせっかく持ってた未来知識というアドバンテージの大部分が消滅したことを付記しておく。



[16162] 転ばぬ先の杖
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/16 18:08

人間、うまくいっているときは自分が失敗するかも、という事はなかなか考えないものだ。
何といっても、今は成功しているのだ。
このやり方が不味い、このまま続けていれば失敗する、という事はそう簡単には人間心理的に考えづらい。

それどころか、たとえその成功によって将来大きな損害を被るかもしれない、という事がわかっていたとしても現実の「今」という時間の心地よさに酔って、その将来への不安から目をそむけるかもしれない。
だからこそ、「石橋を叩いて渡る」などの慣用句によってそれに対する備えが必要であるとよく言われる。

それは、例えば自分に対して諫言してでも自身の意見を言ってくれる得難い部下であったり、自分が間違った道に行きそうなときに方を押さえて止めてくれる友であったり、あるいは過去の自分に対する教育という形で脳裏に蘇って来る師であったりする。

それらは貴重なブレーキである。
例え、一度とどまって熟考した結果として、この場面ではまたアクセルを目一杯踏み込むべきだ、という結論になったとしても、一度停止した事で確実に事故は減るし、自身の用心深さとでも言うべきものも回復していく。
結論はこのまま『進む』で変更なしでもいいとしても、大規模な方針を立てる際には必ず一度立ち止まって周りを見渡してみるべきなのだ。


さもなくば、気が付いたら今にも崩れそうな橋の上を、必死で祈りながら猛スピードで走り続ける羽目になっているかもしれない。




黄巾党それ自体が消滅してしまったこの外史だが、それを修正しようとする外史の管理者らがこの外史に入り込むことを筋肉達磨によ「だ~れが漢女の割には筋肉がつきすぎて夜道で見たらおぞましくって気絶しそうなトーテムポールに見えるですってぇ」……麗しの漢女によって防がれてしまったので、本来の流れに戻る事はなかった。

故に各地の諸侯はこぞって力を蓄えて機会を待っているのであり、もうちょっとで弱小諸侯ぐらいの勢力を築きそうになっている一刀一派も本来であればここで各地に勢力を伸ばして孫策のように袁術の麾下から抜け出せるように力を蓄えなければならない。
あるいは、黄巾党の出現と同時に三国史的に最後まで残る三大勢力のどれか、すなわち劉備、孫権、曹操の誰か……あるいは歴史上有力そうで、その黄巾党が消えた影響を受けた波乱の流れの中で何とか生き残りそうな勢力とコンタクトをとるか何かをしてその下にもぐりこんで、再びマフィア家業に精を出せば労せずしてこの混乱の時代をうはうはで生き残る事が出来るかもしれない。

と、言うわけで史実から徐々に離れつつあるこの外史において、まだその影響が大きく出ないうちに何とかして渡りをつけて生き残る為の算段をするためには、一時も無駄に出来ないほど今からの時間が大切なのであるが。

時間が大切なのであるが!



「……は? 君が鳳統?」
「はい……」



自分という異物による影響以前の、何者かの意思による外史の理不尽な人物変更に驚きを隠せない一刀は、そんな事など考えている余裕が無かった。


鳳統。
三国志の主要な登場人物の一人。
あの諸葛亮孔明の妹を娶り、彼と義兄弟となる。
最終局面では周瑜に連環の計を提案するなど謀略方面に優れ、また人物鑑定にも一家言ある。
外見が到底貴人には見えないということで劉備からすら侮られた事もあったが、その能力はまさに鳳雛と呼ばれるに相応しいほどの実力者。


「あわわ、あの~、私を帰してください」
(……これが、鳳統?)


目の前にいる鳳統を名乗る人物。
一刀ハーレムの新たな一員。
チンピラによってあっさりと拾われた。
ひたすらにでかい帽子と花が開いたがごときスカートを身にまとってその背の低さと胸の無さを逆にアピールしている。
外見がロリなのはマイナスでどう見ても処女なので閨での実力は無いと思うが、微妙に耳年増っぽいのでこれからに期待。
気弱そうにさっきから「あわわ」と繰り返している。

いくらなんでもイメージと違いすぎるので、思っていた事がついぽろっと口から出た。



「ひょっとして、諸葛亮とか、孔明とか知ってる?」
「っ! お、お願いです朱里ちゃん……諸葛亮には手を出さないで下さい」



いるのかよ。
しかも孔明まで女なのかよ。

とりあえず二人は蜀の軍師でセットみたいな感じで今まで実在が確認できなかった孔明について聞いてみると、あっさり返ってきたこの言葉。

一刀は訳がわからなかった。


鳳統と名乗るこのロリ少女が一人であれば、偶然そういった名前を持った別の人物である、だとか両親が名だたる英雄にちなんで名づけた、という事も考えられるが、『孔明』の知己である鳳統が三国志の登場人物でないはずが無いと思う。
偶然鳳統と名乗る少女と偶然孔明を名乗る人物が偶然知り合いになっている、という可能性はほぼありえないといってもいいだろうし。

加えて彼女は、『水鏡先生(これもまた女性らしい)』の私塾で軍学について学んでおり、親友と共にこの乱世に終止符を打つべく優れた主の下で軍師として活躍する為に放浪中だったという。

いくらなんでもこの設定で、「ああ、じゃあ君は俺の知ってる『三国志』の鳳統とは関係のない赤の他人のただの女の子だね」とか、そんなに簡単に疑いをなくせるはずが無い。



だが、そうなるとどうしても何で「女の子」になっているんだ、という疑問にぶち当たる。
大喬小喬は「絶世の美女」というイメージとは微妙に違ったが、それでも間違いなく女で美貌の持ち主で姉妹だった。
にもかかわらず、年齢には目をつぶるとしても確実に男であるはずの鳳統がこんなの。

悪党である一刀を引っ掛けて誰かが上手い汁を吸おうとしているとしても、いくらなんでも予想外すぎる策ではなかろうか。
一刀が現代から来たということを知らぬ者がこんな方法を考え付く事などできやしないし、知っている者にしても罠をかけるにはあまりに手間が多すぎ、それに対して帰ってくる利が薄すぎる。

どれほど悩んでも、なかなか答えは出てこない。



実際にはこの外史は特に理由もなく「こういうもの」なだけに、考えても無駄なのであるが、ヘタに「三国志」だとかを知っているだけになかなか一刀は納得できない。
董卓の乱がいまだ欠片ほども起こっていないこの時点で孫堅が死亡した上で孫一派が袁術の支配下にいる、公孫賛が袁紹に攻められるよりも速く趙雲がそちらに向かっている、徐州掃討戦の前に曹操が城を手に入れている上に父をなくしている、何より黄巾党事件が生じていないなどのいろいろな差異は生じているのであるが、そこまでの情報は手に入れていないことに加えてあまりに自分の知る物語との類似点が多いだけになかなか思い至れない。



「とりあえず……そのことについてもこっちで話すということで」
「うううぅ……はい…………」


と、言うわけで考えるのもめんどくさくなった一刀はとりあえず寝台に雛里を引っ張り込んで場面転換を試みる事となった。
雛里自身がかなりのロリとはいえ、大喬小喬を囲っている彼に死角は無かった。

そして、親友を助ける為の身代わりとしてすでに覚悟完了しちゃってる雛里さん的にも、それは出来るだけ避けて欲しくはあったが、仕方がない方針であった。








「……ひょっとして、袁紹も女なのか?」
「え? ……はい。直接お会いした事はありませんが、長い髪のお美しい女性とお聞きしています……」
(ほぼ全員じゃねえかよ……)


寝物語に語られた衝撃の世界。
曹操も孫策も周瑜も袁術も袁紹も公孫賛も、みんな女性らしい。
しかも、大概が妙齢。

弓の名手として髭を蓄えて立派な体格した絵で知られている将軍も、女。
三国無双と称えられ凄まじい巨体の馬を操って縦横無尽に戦場を駆けた武将も、女の子。
軍師としてその智謀を現代でも今なお語られる男も、ロリ少女。

三国志のある意味ファンであった一刀にとって、ちょっと受け入れにくい事実である。
というか、中国人これ聞いたら怒らないだろうか、とか言う心配さえ生じてくる。
もうこれ三国志と関係なくていいじゃん、とかいいたい心を押さえつけて、一刀は思案する。


(彼女らも俺のハーレムへ……って、今すぐには流石に無理か)


現在、一刀の私兵は数にして百ちょっと。
順調に増加中ではあるが、そのペースはきわめて遅い。

最大勢力である袁紹、それに続く規模を誇る袁術はさておき、そのお隣さんでそれほど大規模なわけでもない幽州の太守、公孫賛でさえすでに徴兵すれば千や二千までは兵を集められるはずだ。
時期的なものを考えると曹操はそれほど兵を保有しているとは思えないし、劉備なんか未だに三人である可能性もある。
三国のうちで現時点で最も兵を保有していると思われる孫策でさえ、各地に散った孫呉の残党をかき集めてようやく千に届くぐらいであろうと、おそらく現時点ではその程度しか保有していない今がチャンスといえばチャンスである……兵数差十倍ですんでいる今がまだマシ、という意味では。

まあ、時期的にはいろいろとしがらみがあるからそう簡単に徴兵できるわけではないだろうが、『出来ない』のと『やらない』には天と地ほどの差がある。



それに加えて、一刀の兵力基盤はあまりに脆弱だ。

他国の君主(正確にはこの表現はおかしいが、スルーする)のように徴兵・徴税、という合法的な基盤を何一つ持っていないから仕方がないのであるが、いくらなんでも先に上がったようなすでに千を超える兵を保有する諸侯を相手に正面から対峙して勝利するには数に不足がありすぎる。
張角のように人を集められる手段が無いだけに、太平要術の書の力を大規模に使うこともなかなかうまくいかない。




なお、これは完全に余談だが一刀の外史アイドルマスター計画は「俺の女が視線で汚されるなんてヤダ」といういかにももてない男らしい理由で無意識に却下されているので、現在張三姉妹は二人だけで劇場を切り盛りしている。
それほど盛況というわけではないが、そろそろ固定客もついてきたので食べていくだけなら余裕だそうだ。


その際にたまたま様子を見に来ていた一刀が握手の前に手を洗ったり清潔にする事を奨励したり、大商人などのスポンサーから稼いだ金を景気よく地和が使うことで付近の経済が微妙に活性化して、疫病や飢饉が防げたり、地味に二人は一刀的には気付いてはいないものの役に立っていた。


だが、結果としてこれによって史実においては飢饉、疫病による貧困が原因といわれている黄巾党の乱がさらに遠くなってしまったりもしている。



(だけど、やってやれないはずはない……俺にとってはきっとそんなに難しい事じゃない)


まあ、それはさておき。
正面からやっても勝ち目は無いので、とりあえず自分たちも義勇軍でも名のって勢力を上げてみようと一刀は考えた。

何せ自分には未来の知識があるのだ。
連環の計も十面埋伏の計も天下三分の計もいろいろわかっているし、きっと頑張れば火縄銃ぐらい未来知識で作れるはずだ……知と武がそろっている自分が、こんだけ条件がそろえば負けるはずが無い。
天和も書の力を使わずに自力で口説けた事だし、きっと英傑たちと戦う事になったとしても何とかできるはず。

ならば、行うべきなのは戦力の増強。
後は数さえあれば自分の天下だ。
そのあかつきには……始皇帝並のハーレムを作ろうと思う。
曹操とか、袁術とか、孫策とか劉備とか全部並べて。


(現時点では曹操とか孫策も弱小だからな……今のうちに倒してハーレムに入れといたほうが後々楽かもしれないし)





端的に言って、彼は増長していた。


策略というにはあまりに粗末で卑怯なものを使って、しかし一応は自分自身の力で天和が手に入れた上に、偶然とはいえ鳳統まで自然の手中に収めることとなった。
このままの勢いで行けば、劉備とかもひょっとすると美女かもしれない、それをアッサリと手に入れられるかもしれない。
それは年頃の男として酷く魅力的な誘いだ。



そして、それ以上に。
性欲以上に彼をかきたてるものがあった。



自分は、『あの』劉備、曹操、孫権を、打ち倒して天下を取れるかもしれない。
自分こそが、三国志において未曾有の傑物として語られ、その偉業はいくら年月を経ても残り続けるかもしれない。
それを、自分の生きていた現代の日本人が読んで、「ああ、北郷一刀ってのはなんてかっこいいんだ」と憧れと尊敬のまなざしと共に己の名を語るかもしれないのだ。
盗難を恐れて懐に常に入れてある太平要術の書が、一瞬熱を持った。


それは自分の実力を持ってすれば十分可能なことに思えた。
なぜなら、自分はあの智謀で知られる『鳳雛』、鳳統すらも降したではないか!



歴史に名を残す事を望まないようでは、その者はすでに夢を見て前に進む資格など無い。
そして一刀には、十分にその資格を持っている者だった。

歴史上英雄豪傑と名高い人間が自分の下に付くかもしれないという想像は、二千年近く後でも彼らの名が残っている事を知っている人間にとってあまりにも甘美な誘惑だった。
今まで名誉などというものには全く縁のなかったただの学生であった一刀にとって、それは考えても見なかった素晴らしい未来だった。


(誰だか知らないけど、俺をこの世界に来させた奴は、きっとそれを求めて俺をここに行かせたんだな……なんだ、今までやってきた事はやっぱり間違ってなかったんじゃないか!)


やがてそれは、自分はきっとそのためにこの世界に来たのだ、という使命にすら、一刀には思えた。

こちらの世界に着てから最初は不遇を喰らったとは言え、彼は基本的に上り調子でここまでやってきたのだ。
落とし穴に落ちた事も無い者が、いつまでも前方を警戒する手間をかけ続けることはあまり無い。
最初のころは用心していたとしても、いずれは自分だけは大丈夫だと言う考えのもと段々と注意力が落ちていく、まさにそんな状態に一刀はあった。


飢えて飢えて、それでも生きたくて、やむを得ず人を傷つけたときの気持ちなどとうに忘れていた。
あの葛藤も、あの絶望も、あの悲しみもここ最近の享楽からすべては過去となっていた彼にとって、この世界は自分にとって限りなく都合のいい遊び場にしか思えなかった。
奪った事も、殺した事も、犯した事も、すべて許された……そんな気分だった。



だから一刀は、驕り続ける。
今まで踏みにじってきたものの事をすべて後ろに置いたままで。



劉備、曹操、孫策ではなく自身こそがこの外史の主人公だ、と。
他の人物は、今まで操って下した大喬小喬のように、自らの配下に攫われて自分に捕らえられている鳳統のように、すべて自分の前にひれ伏す路傍の石である、と。


そのために、一刀はここに来て始めて、生き残る為ではなく三国志の世界にて覇を唱える為の行動を始めようと決心した。


乱世の梟雄、北郷一刀が始まったのは、まさにこの瞬間からだった。



「とりあえず、劉備だとかの有力な在野の武将と、張角たちを探させるか……どこで黄巾党が起こるかの細かい地域とか本拠地まで事前にわかっていれば、大分有利に立てるし」



そして、その割には未だに張角はお前の横で寝ている巨乳の女だ、という事に気付いていなかった。





一刀軍 ステータス

ボス :悪一刀
副ボス:その辺のチンピラ
参謀 :その辺のチンピラ
将軍1:その辺のチンピラ
将軍2:その辺のチンピラ
将軍3:その辺のチンピラ
官吏 :その辺のチンピラ

ハーレム要員:大喬・小喬・天和・雛里
(注:ハーレム要員は、戦闘・内政には一切関われません)



[16162] 切磋琢磨 他山之石
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/19 18:46



互いに競い合い、高めあいながら互いに遺恨の残らぬよう全力で決着を付ける。
いいことだ。

間違いなく、いいことだ。
すべてを尽くして勝ち取った勝者にとってこれほど楽しい決着の付け方はないし、負けた方とて全力を尽くして敗れたのであればある種の爽快感がある。
どちらにとっても納得のいくその決着のつき方は、勝敗を付けねばならぬ物事の解決法としては理想的といってもいいだろう。


だが、世の中はそんな決着の付け方ばかりではない。
ある者は相手の足を引っ張ることで自分を有利にたたせようとし、ある者は自身の力を卑怯な手段で高めようとする。
一対一には囚われずに連合を組んで争い、その決着がついたと見るや否や今度は先ほどまでの仲間同士が争う。
策略によって貶め、嘘によって傷つける。

そんな醜い争いの過程の後の決着の方が、むしろ多いかもしれない。


何故か?

わからない。
勝利の余韻があまりに心地よすぎて、それが得られるならば何を犠牲にしてもよく感じてしまうからか。
勝利によって得られる物があまりに大きすぎるから、敗北後の充実感など何の役にも立たないように思えてしまうからか。
自身の怠惰の結果高める事が出来なかった事を、相手にも押し付ける事が対等だと考える事も出来るからか。



あるいは、初めから力量差が歴然としすぎていて、どれだけ自分を高めても敵わない出来レースに絶望してしまったからなのか。












一刀勢力は、基本的に将と呼べる者は一刀一人しかいない。
まあ、チンピラ集団だから当たり前である。

正確に言うならば別の外史で立った黄巾党の諸勢力を若干吸収しているので、黄巾規模の指揮能力、武力、知略を持つキャラもいないではないのだが、一刀のハーレム入りしていない事からわかるように、彼らは全員男だ。
すなわち、実力者があまねく女性なこの世界においては、基本的に蹴散らされる側である。


そのことは、一刀も勿論わかっている。
なんか自分に才能があるんじゃね? と若干勘違いしている彼であるが、部下が駄目ならどれだけ頑張っても勝てないという事は散々学校で学んできた事だけに、わかっていた。
戦いとは結局『数×質』の総量によってきまる、という事ぐらい、現代人である一刀にとってはゲーム等で馴染み深い考え方だ……微妙に質が過剰評価されている感は無きにしも非ずだが。



が、だからといって何かできるわけでもないのが一刀である。

とりあえず、未だに張角一派だと認識されていない天和・地和・人和らと、非戦闘員である大喬・小喬については武将として立たせても役に立たないであろうし、それ用の教育を受けているわけでもないので文官や軍師としても苦しいであろうと一刀は判断していた……そして事実、それはその通りであった。

大喬・小喬は別の外史でも周瑜の愛人と一刀に対するスパイとしての役割しか与えられていなかったように、それほどできることは多くない。
そして、数少ない体を使ってのスパイ活動は一刀の男心が嫌がっていた。

張角三姉妹にしても、太平要術の書を持たない彼女らに出来る事なんて特にない。
自分の力の源である書を三人に渡すなんて選択肢、一刀が取れるはずもない。


ハーレムだけは充実しているが、いざ天下を目指して立とう、となるととたんに人材に困る。

だが、ここで一刀は考えた。
確かに大喬小喬と、張角三姉妹は政治・武力ともに使えない。

だが、ハーレムにはもう一人いるじゃないか! と。




と、言うわけでいろいろと突っ込みたいところはあるが、それでも後の世に鳳雛と呼ばれるぐらいの能力はあるだろう人物、鳳統こと雛里に対して協力を申請する。
実際に手篭めにして、彼女の弱みが諸葛亮であることも知っているならば、一刀にとってそれは簡単な仕事に思えた。



「とりあえず、手伝ってもらいたいんだが……」
「あ、あなたみたいな人に対してしてあげることなんかないです……」



が、速攻頓挫した。

せっかく手に入れた三国志屈指の軍師にして文官も、断られてしまっては手に入れたからといって何が出来るわけではない……いやまあ、ナニはしたのであるが。

雛里は確かに気弱な少女以外の何者でもないが、だからといって悪人に脅され、犯されたぐらいで主と認めてその能力を捧げるような主体性のない人間でもない。
別に人間的魅力があるわけではない―――むしろ、人間的にはマイナス要素しかないこの外史の一刀の悪行に対して、雛里が協力を申し出るような事など当然なかった。
犯されるのは仕方がない、しかしそれ以上のことは絶対にやってやらない、という強い意志でもって涙目ながらも強く一刀を睨みつける。

一刀はなおも説得を試みるも……


「いや、でも、ほら……俺も天下泰平とか、そんなノリを目指してるんだけど」
「いきなり私をて、手篭めにしたあなたを信用なんて出来ません」
「ぐ……じゃ、じゃあ孔明、諸葛亮がどうなってもいいのか」
「ここ数日であなたが諸葛亮を見つけていないことはわかってます。だから、そんなこといっても無駄です」


結果は惨敗。
そもそも、『あの』鳳統に、『この』一刀が口で勝てるはずもない……この鳳統なら腕力では勝てるかもしれないが。

建前をどれほど並べようと、暴力で脅そうと、実力行使でもう一度犯そうと、雛里は決して顔を縦にふろうとはしなかった。

彼女とて戦乱の世に生きている少女だ。
そして、それを何とかして変えようと高潔な理想によって立った者の一人だ。
たかがチンピラでしかない一刀の言葉に、いつまでも振り回される事はなかったのだ。

そこを一刀は見誤った。
犯せば何とかなる、と考えたのはあまりに甘い方針だった事に、今更気付かされた。



「あなたが何を言おうと協力するつもりはないです……逃げられないのは分かっていますから無駄な事はしませんが、私はあきらめません。きっと、朱里ちゃんが助けに来てくれます」
「くっ…(どうする? 太平要術使うか? だけど……)」



散々使ったことで気付いたのだが、どうも太平要術の書を使うとその人物の能力値が激減するっぽいのだ(エロ方面以外)。
考えてみれば当たり前で、思考を操作することで自分の配下に強制的に入れている人間の判断能力・決断力・反射神経その他もろもろが以前と同じ水準でいられるわけがない。

直接体を動かして、相手の思考を読んで一手先に自分の剣を置く戦闘だろうと、多種多様の情報を多角的に分析して適切な時期に適切な指示を出す内政だろうと、高いレベルになればなるほど一刀のことを第一に思わせる術の効力が邪魔をする。

散々雑魚で実験した結果の一刀の体感としては、ある一定以上の能力の持ち主であれば大体二割から五割ぐらいの能力が低下する。


一刀軍団が北斗の拳のモヒカン状態になっている原因は、主にこんなところにあった。
とはいえ、雑兵クラスであればべつに半分になろうが数さえあれば役割を果たすし、もともとの数値が低いのでちょっとぐらい減ったところで一刀は特に気にしていなかったが、素の能力値が高いと思われる雛里に対してこれを使うのは少々はばかられた。


何といっても、鳳統。
彼が知る限り、ステータス的にはきっと知力99とかいってるはず。
周瑜とか荀彧とかにぶつけても、勝利できるはずなのだ。

それを操ることと引き換えに能力を低下させてしまえば、せっかくの三国志屈指の人物が彼女にやられてアッサリ敗退する相手役の軍師と変わらなくなってしまう可能性が高い。
いかに自分に従わないからといって、こんなレアキャラを普通のちょっと賢い人レベルまで低下させるのは、一刀的に少々惜しい気がしてならなかった。

もともと10しかない雑魚が5になろうと惜しくはないが、99が50になってしまっては手に入れれるとはいえあまりにもったいない。



故に彼の取った手段は、放置。

後になれば何らかのフラグが立って彼女の方から協力を申し出てくるかもしれないし、彼女の名前を聞いて即座に探させているこの周辺にいるであろうもう一人の最強軍師、諸葛亮孔明を捉えることが出来れば脅迫してもいいだろう。
最終的にどうにもならなくなったときに術にかけてもいい。

と、言うわけで今はとりあえず彼女をただのハーレム要員としてのみ囲っておいて、とりあえず問題を先送りにする事にした。










「くそ、くそ…………くそくそくそくそぉ! 大誤算だ! これじゃ、何にも出来やしねえ」


で、雛里ひとりぐらいいなくてもいいか~、と考えた結果として。
実際に自分で蜂起の手順を考えたところ、一刀はあっという間に壁にぶつかった。


なにせ彼は今はヤクザのボスとなっているものの、所詮は元平和な国の一学生であり、現チンピラ集団のリーダーでしかないのだ。

雛里の力を借りられなければ、兵站の作り方も、税の徴収方法も、軍の動かし方も、馬の乗り方も、武器の扱い方も、戦場での采配も、何一つ知りやしない。
現代知識があれば何とかなる、とか軽く考えていた彼にとって、それらの今まで全く持って必要と感じた事のない多種多様の知識はふれたこともない道のもので、当然ながら一朝一夕で手に入れられるものでもなかった。

情報こそが力だ、という事だけはよくわかっている一刀にとって、こんな軍のいろはもわかっておらず人数も足りない現状で立ってもあっさりと潰されるのは目に見えていた。



自分は賢く、強いはずなのに……この世界は自分の物の筈なのに、その最初の一歩から躓くなんて!


ハーレムを思い立って、自分の皇帝姿を想像していた彼にとって、それがいきなり頓挫するなど認められるはずもなかった。
苛立ちが胸を支配し、物に、人に当たってしまいそうになる。

最初はさておき、ここに来てから今まで好き勝手やってきた一刀にそれほど忍耐力があるはずもない。



「……落ち着いて考えよう。いいか、とりあえず今の俺は誰にも目をつけられてなくて、しかも絶対服従の私兵を持ってるんだ。これを利用すれば、戦う以外の方法でもきっと何かいい方法があるはずだ」



じゃあ、どうするのか。

とりあえず何とかせねばなるまいと思っているけど、何をすればいいのかさっぱりわからない一刀だが、決して優れた面がないわけではない。
彼とて、考える頭は持っているのだ。

だから一刀は、とりあえず深呼吸をして現状を纏めてみる事にした。



一刀軍団のとりえといえば、能力は低いとはいえ絶対の忠誠を誓う部下が多数いることである。
彼らは決して一刀に対して逆らう事はないし、命の危機にあってもなおその忠誠は揺らぐ事すらない。
その上、いくらでも補充が利く。

これは、現時点でいかなる王者ももっていない、一刀の圧倒的に有利な点だ。
兵力、財力、軍略眼、武力、すべてがありとあらゆる覇者に負けている一刀であろうと、その一点が勝っているというただそれだけで容易にひっくり返せるはずだ。


というわけで、一刀は「どうすれば自分が勝てるのか」ということを、他の諸侯の持つ経験と実績によって磨き上げてきた判断力と比べればあまりにつたないものであるものの、それでもそれなりの学力を持つものとして今後のことを考えてみた。


「……こっちは絶対服従で……洗脳できて……すでにこの街をほぼ支配して………ん? あれ、ちょっとまてよ?」



そして気付いた。
別に俺、ここにいる必要ないじゃん、と。






「はい、というわけで……引越しをしようと思います」
「私たちは別にいいよ~」
「ご主人様についていくだけですから」
「わたしも確かにここのところ退屈だったし~」
「ふっ、任せなさい! ここのところはちょっと調子悪かったけど、次できっちりとちぃの魅力を存分に振りまいてやるわ」
「……せっかくの劇場を空けるのはせっかくの固定客を逃しそうなのだけれども。まあ、姉さん達が行く気なら」
「……私に選択権あるんですか? あわわ、やっぱりないんですよね」



意外と大所帯だったが、かくして引越しの準備を行う事となる。

一刀の利点として、別に本拠地を空けていたところでほぼ百パーセント反乱が起こらないということがある。
ほとんどの街の人を術と暴力で支配下に置いた一刀にしてみれば、この街が滅ぼされる事はあったとしても自分に対して不利益な事をやる事はありえない。
そして、この自身の本拠地と化した街は、住民皆殺しで人間を総とっかえでもしない限り、他の者に取り返されることもない。

例えどれほどの名君がその街に赴任して人心を掴もうが、どれほどの武芸者がその武で街を守ろうが、一刀の一声であっという間にそいつらを追い立てることが出来る。
いくら強い軍隊をもっていようが、街の人間が突然敵に回った状態で「よし、皆殺しにして奪い返すぞ」なんて思えるはずがない。
武将一人で一万人殺せようが、軍略一つで十万人倒せようが、統治される側の民が全員認めなければそれは裸の王様となんら変わらない。


曹操だろうと劉備だろうと孫権だろうと、一刀のそれは決して防ぐ事は出来ない必中の矢なのだ。
彼女らがいかに武を高めて競い合い、勝敗を決したとしてもそれは一刀には全く影響を及ぼす事が出来ない。


(誰がこの土地をとろうと関係ない。一時的に取られたところで油断した瞬間に後ろから突いてやればいい)


そしてそれは、太平要術の書がある限りどこの街でも可能な『侵略』である。
この三国時代、旅から旅の生活は決して安全とも快適ともいえないが、それでも街から街へと移る商人や旅芸人はいないわけではない。
一刀の侵入を防ぐ街は今のところ存在しないし、一刀の『侵略』を予期してその通行を妨げることを思いつけるほどの情報は、どの勢力にも与えられていない。

相手の手の届かないところから、一刀は一方的に攻撃する手段を持っているのだ。


と、いうことはやるべき事は至極簡単だ。
一刀は呟いた。



「旅に旅して、街を一つ一つ陥落させていけばいずれ全てが俺の支配下に!」



要するに一刀は、一つ一つ街の有力者とヤクザ達を崩して秘密裏に支配下に置き、英雄豪傑たちの争いが収まった瞬間にすべての町で蜂起させて背後を突くつもりなのだ。
それは確かに、現在私兵を百前後しかもっていない一刀が数多の英雄達に抵抗する現実的な手段ではある。



現実的なのはいいのだが、仮にも天下取りを狙う男の戦略としては、あまりにあまりな方針といわざるをえない。
あまりに卑怯、あまりに卑劣、あまりに邪道。


そこには磨き上げてきた武を戦場というあらゆる側面を要する場で競う正当性も、互いに知略を尽くしてありとあらゆる手段を講じて戦う泥沼のしかし潔い戦いの説得力も持たない、まさに天下を掠め取るというに相応しい邪道でしかない。
明智光秀の三日天下やナポレオンの百日天下の例を挙げるまでもなく、そんなやり方など誰にも支持されない。


武と知で天下万民の為の主を決めるこの時代において、一刀の立てた方針はその武と知をあまりに馬鹿にした、すべてにとって嫌われる方法であろう。
そんな妖術で取った天下など、一刀一人が倒れれば脆くも崩れるものでしかなく、そこには何一つ一刀以外の利点がない。



「勝てば官軍……その言葉、俺が証明してやる」



それでもこの外史の一刀は、その戦略ともいえぬ卑劣な手段を是とした。



清廉潔白では生きていけなかった。
正々堂々など何の役にも立たなかった。

天下万民の理想を掲げて、「みんなの平和」をもとめている少女が、あの匪賊たちから自分を助けてくれたか?
弱き者である領民の安全の為ならばすべてを捨てて戦って見せると誓っている女性が、あの飢えた自分に何をしてくれた?
誇り高き覇者であろうとし、すべてを競い合った上で自分が最優だと信じて万民のために天下を取ろうとした少女が、自分の使い潰したあの三人を万人のひとりと認めてくれたか?



「俺が間違ってんなら、誰かお偉い武将さんがこっちに来てすぐ助けてくれたはずだ……あるいは、こんなことする前にきっと誰かに止められてなきゃおかしいんだ」



否。
断じて、否。


彼女らはその理想を語っておきながら、誰一人助けてくれなかった。
そんな万人に対して手を届かせる事など誰にも不可能であろうことを一刀は要求し、それが満たされなかったことを逆恨みする。
そしてその結果として、彼はそれを自分を成長させる「フラグ」であったと思い込む。



「そうだよ……どうせここは武将がみんな女とかいう変な世界なんだ。俺がちょっとぐらいかき回してもどうせ大して変わらない」



ああ、もはや一刀は狂っていたのかもしれない。
生きる術を何一つ持たずにこの世界に放り出され、誰一人彼を助けてくれなくて。
生きる為に何をすればよいのかも、何のために生きればよいのかも教えてもらえなくて。
この狂った外史が、自分のために作られた物語、ゲームの中のように錯覚する事で正気を維持しようとしていたことが、こんな道に彼を歩ませた。


あまりに自分にとってこの世界は清廉に生きる事が難しすぎて。
あまりに自分にとってこの世界は悪逆に生きる事が易しすぎて。


それらすべてがお膳立てのように思えてしまった彼にとって、この世界での悪行は悔いるべきものではないように思えた。
なぜならこの世界は、自分がこういう手段を使って侵略していく舞台として用意されたものなのだから。



ここにきて一刀の箍がすべて外れた。
飢えによって奪い、生きる為に見殺し、前に進む為に操って、この外史が都合のいいものだと知って……



女しかいないこの外史の世界で、一刀は無双を始めようとしていた。




[16162] 君子危うきに近寄らず
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/24 18:21






荊州太守の袁術―――美羽の一言から、とある一日が幕を開ける。



「のう、七乃」
「はぁ~い、なんですか、美羽様?」
「何か面白いことはないかのう」


金の髪を大仰にたなびかせて玉座に座るのは、どう見ても幼女にしか見えない十八歳以上。
その薄い胸を張って退屈したのだ、という事を全身全霊でアピールして見せた美羽に対して、その傍で控えていた部下は曖昧に笑っていたのをふと辞めて、目を細めて彼女を見つめた。

また、いつものわがまま。
ここ最近は質のよい蜂蜜が手に入っていたとかで始終ご機嫌だった主君だったが、そろそろそれも普通になってしまったので新たな刺激が欲しいのであろう、と袁術配下の筆頭、張勲こと七乃は思った。

その体躯に相応しく思考自体も幼い美羽に、我慢なんて考えがあるわけがない。


だが、普通の人間ならばそのたび重なるわがままに痺れを切らすところを笑顔でいられるのが七乃である。
むしろ、待ってました、といわんばかりの笑顔で美羽の無茶振りに対して小首をかしげて考える。

彼女の価値観としては、美羽>すべて である。
例え民が苦しもうが、袁家の財がすべて吹っ飛ぼうが、孫策一派が必死になって勢力拡大していようが、現時点での美羽が笑顔であれば何もいうことはないのだ。

美羽にたいして毒も吐くがそれも愛情ゆえの事。
だから七乃は、特に考えることもなくいつも通り何かなかったかな~、と考えながら思いついたことを口にした。



「うう~ん、そうですねぇ……あ、お嬢様。なんでも城下に旅芸人の劇場が出来たらしいですよ?」
「なんと! うむうむ、そのように城下が栄えるとは、やはり妾の治世の賜物じゃな」
「さ~すが、お嬢様。何にもしてないではちみつ水飲んでるだけなのにそこまで言い切れちゃうなんて、そこに痺れる憧れるぅ~」
「ほっほっほ、もっと褒めてたも」



基本的に美羽はそこまで物事を深く洞察する能力はないし、七乃は能力自体はあるのかもしれないがそんな事に手間をかけようとする人間ではない。
孫策であれば城下にそのような特に商品があるわけでもないにもかかわらず、人を集める店ができるというのであれば認可制にしたであろうし、曹操であれば誰かをやってその突然出来た劇場に対して不可思議さを感じて誰かを調べにやらせたであろうが、七乃はそんな事をするぐらいであれば美羽との時間を多くとりたいと思っている。

だからこそ、統治者側のトップであるにもかかわらず突如城下に劇場が出来る、という事態に対しても深く考える事はなく、むしろ一般市民と同様の楽しげな反応を見せた。



「それで、どうします、美羽様? 退屈しのぎにちょっと街まで繰り出してみませんか?」
「うむうむ、良い考えじゃな。流石七乃。よおし、それでは早速出かけるとするかのう」



そして、微妙に君主側の警戒心が薄いのは、この恋姫世界共通の法則でもある。
護衛を一杯付けてとはいえ、余りにも気安く袁術は城下に向かって遊びにいくことを宣言した。









「ううむ、なんじゃこれは。見えぬ、見えぬぞ、七乃」
「や~ん、美羽様がちっさいからですよぅ。わたしにはちゃ~んとみえてますから」
「むむむ、何で妾がこんなところで」
「しょうがないですよぅ、今話題の劇場なんですから」


新しくできたとか言う劇場は、ものめずらしさもあってだろうがそこそこ繁盛しているように見える。
元々美羽のような王者でもない限り、この世の娯楽というものは庶民には少々お高い。
紙を使った娯楽小説は将軍クラスではないと買える物ではないし、衣服だって同じ。
食べるのに精一杯の者がいる一方で、装いに彼らの一生分の稼ぎを使える者がいるのはどこの世界でも変わりはないが、この外史はその程度が少々大きい。

結果として、日々ぼろを纏っている人間が感受できる娯楽というものはそう多くなかった。
そのため、値段設定さえ間違わなければものめずらしさから最初の一週間程度であればどんな質の娯楽であっても賑わいをみせる、ということを七乃は知っていたから、この人ごみも仕方がない、と主君に告げる。


「見えん、見えんぞよ、七乃~。何とかしてたも」


だが、そんな理屈が通じるようであれば、それは美羽ではない。美羽的な何かだ。
その低身長ゆえに人ごみの中何一つ見物する事が出来ない事にあっという間に不満を爆発させる。

それがわかっていたからこそ七乃は、可愛くて仕方がない主君に対してすぐさま返事を送る。


「しょうがないですねぇ。は~い、美羽様、私の肩に乗ってください。肩車して差し上げますから」
「うむ、頼むぞ、七乃……おお、見える、見えるぞ! ……歌っておるの」
「はい、そうですよ? ここは、歌を歌って見せるところらしいです。えっと……そうそう、数え役萬しすたーず? とかいうのらしいです」


ぐい、と持ち上げられた背丈からは、舞台がよく見えた。
むき出しの板に粗末な屋根、僅かばかりの木材によって四方を支える大黒柱が、一層舞台の急場さを露骨に示す。

だが、それでも。


『みんな~、楽しんでる~?』
『次の曲も、ちゃんと聴いてね?』
「おおおおおおおぉ、なんじゃ、なんじゃあれは!」



美羽にしてみれば、初めての舞台。
初めての、「楽曲」ではなく「コンサート」。

玉座に座って自分に捧げられる曲を聞いたことはあっても、このように周囲と共に歌と踊りを楽しむ一体感、というのは未知の経験だった。

舞台の上で歌い踊るのは二人の少女。
美羽からしてみれば露出こそ高いもののさして高価そうに見えない衣装も、この場で見るならば己の服以上に輝いて見えたし、その王都での宴の際にいつも耳にしている曲とは比べ物にならないほどつたない楽士の奏でる曲もここではいつも以上に心地よく耳に響いた。

天からの知識をある程度吸収して練り直されたそれは、妖術じみた力はないもののそれでもその斬新さでそこそこ人をひきつけるだけの力を持っていた。


そしてなにより。
壇上で民の歓声を一身に受けて踊る少女らは。
彼女が求める君主の像とまるっきり一致していた……袁術にとって民とは所詮その程度の存在という認識である。


「これじゃ! うむうむ、こうやればよいのじゃな。覚えたぞ」
「はい? 今度は一体何を思いつかれたのですか、美羽様」


美羽が突拍子のないことを言い出すことは決して珍しい事ではない。
加えて、現時点で目の前で少女らが歌ってるのを美羽が見ていた、という事から大体の見当は付いていたものの、七乃は礼儀として問いかける。

もう、かわいいなあ、といわんばかりの笑顔は、美羽が自分もアイドルとして人の前で歌って踊ってみたい、と言い出すのを完全に予期していた。



「ふむふむ、あそこをあーやってこーやってこうすればよいのじゃな……よぉし、七乃。城に帰るぞよ。妾もあんなふうに歌って踊ってキャーキャーいわれたいのじゃ」
「はぁ~い、わかりました。それにしても、こんなに堂々とパクってやる、って宣言できるなんて、流石は美羽様。普通の人なら恥ずかしくってそんな事出来ませんよ~」
「ほっほっほっほっほ。妾は凡人とは違うからの」



そんな二人を影から見つめる男が一人。
まあ、隠す理由もないので言ってしまうと、当然ながらこの話の主人公の悪一刀である。



「なんか、変なの掛かったぞ。美羽とかいってたな……って、あれが袁術!?」



姉妹の観客を術の力で操った人間で水増ししながら、その水増しされた評判を見て集まってきた新たな駒を攫ってこっそりと術をかけていた彼にとって、いくらなんでも太守がその網に掛かってくるのは予想外すぎた。

かくして、張勲にとっては予想通りの、そして網を張っていたものである一刀にとっては予想外のアイドル合戦が始まる事となってしまった。













「おほほほほほほほほ、妾こそが一番なのじゃ」
「ふんっ、そんなぽっとでの温室育ちのお嬢様にちぃ達が負ける訳ないでしょ!」
「ちぃ姉さん、落ち着いて。油断してると足元掬われるわよ」



とりあえず予想以上の大物が掛かったので慎重にいこうと二三日様子を見るつもりだったのだが。
国家権力の強大さは一刀が作ったショボイ匪賊団なぞとは比べ物にならなかったことを、一刀は思い知っていた。

たった数日。
たった数日で作られたステージは、「この世界の文化水準ってところどころおかしいよなあ」と一刀が常々思っていた通りにもはや彼のいた元の世界のステージと遜色がないほどの出来栄えとなっていた。

どういう原理かは全くもって不明だが、スポットライトやマイク、スピーカーのようなものまで用意されている現状を前に、ちょっと事態についていけない一刀を置いて、すでに舞台では二組の歌姫達がスタンバっていた。


そこでバチバチと火花を散らすのは、張姉妹の活躍によってにわかに歌に対しての盛り上がりを見せる荊州首都において、ここ数日で一気にトップスターまでのし上がってきた幼女と、その彼女に対して王者として君臨する二人の少女達だった。


「はい、というわけで始まりました~。荊州太守にして稀代の歌姫、絶対可憐袁術様と!」
「最近話題の~私の妹『数え役萬姉妹』の」
「「歌合戦で~す♪」」
「(……どうしてこうなるんだ?)」



一刀の計画からいけば、張姉妹である程度の人間を集めてそこから切り崩して徐々に徐々に政治とか軍事まで食い込んでいくはずだったのだ。

初めはたいしたことがないように見える。
だが、緩慢に、しかし確実に街は蝕まれ、気が付けばいつの間にか闇はすべて統べられ、奪い取られている。
気付いたときにはもはや手遅れ。
どんなに手を講じても、すでに加速度的に進む侵略の前に、尋常の手段ではもはやどうすることも出来ない。
ただただ、震えてその魔の手が順番に自分がなくなるまで迫ってくるのを待つしかないのだ!

とか、そんなノリで行くつもりだったのに。
前回あんなにもクールに決めたつもりだったのに。



「解説はみんなのお姉ちゃんの天和ちゃんと」
「袁術様のシモベの張勲がやっちゃいますよ~」



それが、何故かいきなりトップが目の前でアイドルマスターを。
彼女ら取ったら荊州クリアである。



まあ、普通に考えれば、旅芸人と太守なんて一刀の思うとおり接点があるはずがないのだから、一刀が考えていた展開になる可能性のほうが高かった。
にもかかわらず、因果は巡り、めぐり巡ってこの始末。
結果だけを見るならば余りに身元不明の出自でありながら、貴人にこの距離まで近づけた事は喜ぶべき事であるはずなのだが、軍師である雛里に続いて始めてこの世界の豪傑を間近で見る事になった一刀にとって、仮にも統治者サイドであるはずの袁術・張勲のあまりのあまりさは予想外にもほどがあるものだった。


(まあ、操ってる俺が言うのもなんだけど、よくこんなんで政治が回っていってるな)


まあ確かに、太平要術の書によって反則的に忠誠の値を「99」に書き換えることが出来るならばさておき、よくもまあこんな太守相手に下克上を試みる者がいないものだと、ある意味歴史の修正力に驚愕する一刀。
とはいえ、驚いてばかりもいられない。



「ほほほほほ、それでは先行は妾からじゃな。やはり王者たるものなるべくしてなるようになっておるのじゃ」
「きぃ~~、くやしいくやしいくやしい! あそこでパーを、パーさえだしてればぁ!」
「……姉さん、落ち着いて。トリを勤める方が明らかに有利よ」
「それじゃあ、美羽様からで~す。『蜂蜜不思議』、聞いてくださ~い」



後ろではすでにコンサートが始まっているが、それは一刀にとっては何の意味ももたないものだ。
聞けば袁術の歌は太守に対する世辞無しでも相当のものらしいし、あたりには張勲が手配したと思われる軍の人間が紛れ込んで必死になって主君を応援している。

いくつか現代日本のアイドルの知識を吹き込んだとはいえまともにやれば所詮は旅芸人でしかない姉妹が敵うわけはなかろうが、すでに会場には自分の術をかけた配下を多数送り込んでいる。
余りに差が付きそうになれば、自然と姉妹のフォローに回って会場の評価をイーブンに戻そうとする。


群集心理を自在に操る太平要術の書によってコントロールされている聴衆たちは、一刀の思い通りに声を張り上げて声援を送り、手を叩いて歓喜を見せかけて、間接的に歌姫や解説役の心を操る。
イベントが始まる前に言っていた袁術の『歌う動機』が聴衆からの評価であれば、それはすなわち一刀の思い通りに彼女を高ぶらせ、燃えさせる事が出来る。

民の為に懸命に歌う美羽は、術こそ掛かっていないもののこの時間だけは完全に一刀の操り人形と同意だった。


盛り上げるのも沈静化させるのも、勝負を長引かせるのも短くするのも。
どちらに勝敗を動かすのも指先一つで決められる一刀にとって、トップのわがままによってがたがたになっている荊州の事務官らの心に楔を打ち込むには十分な時間の確保が約束されていた。


「簡単なのはいいけど、なんだかな~」


前回の自分の決心はなんだったんだ、と拍子抜けする一刀であったが、やっている悪行自体は当初の予定と大して変わっていないことについてまで理解が及んでいたとは言いがたい状態だったのは、やはり彼も彼女らの発するスターのオーラに乗せられていたのかもしれない。

背後で自分の操る人間による盛り上がりが、やがて周りを巻き込んだ本物のテンションになっていくのを感じながら、一刀はゆっくりとならず者たちを連れて役所の方へと進んでいった。






「これが鍵になります、一刀様」
「ああ……だけど、こんなものよく手に入ったな」
「一刀様みたいな賢人以外に心底仕えようとする人間なんて、そんなにいやしませんよ」


意外な事に袁術自体は浪費を好んでいるというほどではない。
というのも、その精神的幼さから未だ享楽に溺れるほどそれらの味わいの奥深さを感じ取れる年頃でもないのだから、精々使って蜂蜜代程度。
この当時にしてみれば効果な薬である蜂蜜を湯水のように消費する様は庶民から見れば憤懣極まりないものであろうが、それによって国が傾くほど舐める事は体格的にも不可能である。

張勲からしてみればもっといろんな楽しみを覚えて笑顔を見せてもらいたいとは思っているが、それでも今は蜂蜜を調達するだけで笑顔になる彼女は、曹操がその感性の高さゆえに未だ小城の情趣でしかない現状でさえ衣食に最高を求めている事を考えてみれば比較的質素であったとさえいえよう。



「護衛の兵はほとんど会場のほうへといってる、っていってたな」
「へい。一応警備の兵はそれなりにいるらしいですが、基本的に外からの進入を警戒する役目ばっかっす。そいつらも、買収するなり、酒色で釣るなりして出来る限り遠ざけておきました」
「(……術かかってんのにえらい有能だな、コイツ。まあ、元々得意分野だったんだろうけど)」



が、王が浪費をしない、という事とそれが民に還元されている、という事は明らかに別物であった。

袁術配下の役人達は、主君がいい加減な事をいいことに腐敗しきっている。
規模がでかいだけに腐り堕ちるまではいまだ時間が必要であろうが、賄賂や売官は当たり前といった感じでその様は大将軍何進と宦官十常侍らの争いによってひどいことになっている洛陽の様と大差はない。
人々は日々の享楽に溺れて考える事を止め、その日その日の暮らしを送るのに精一杯の者がいる一方で、そういったものたちから搾り取った財で贅を尽くすものもいる。

王者は無能である事それ自体が罪であり、例えマイナス要素がなかったとしてもプラス要素で満ち溢れていない限りそれは評価に値しないのだ。
官僚に好き勝手にやらせた事は明らかに袁術と張勲自身の失策であったといえよう。



「じゃあ、ここにいるのはほとんど女官みたいな連中ばっかってことだな。三国志時代で竹中半兵衛やることになるなんでね……」
「う~す、とりあえず詰め所みたいなところ押さえて、一刀様に説得していただければ堕ちたも同然っすよ」
「まあ、女官が落とせればほぼフリーパス手に入れたも同然だからな」



当然ながらそんな環境の中にいては太守に対する忠誠心といったものもさして強く育つはずもなく、結果として一刀はアッサリと買収と術を駆使して王城の中へと進入する事に成功していた。









「え、ちょっと、あなたたち、誰!」
「っ! 口ふさげ!」
「了解!」
「っ! ……! ……っ…」
『俺に従え!』



太平要術の書は、殺意を持って向かってくる敵対者に対しては使用できない。
武を持ってこちらに迫ってくるものを術の力でとどめる事は不可能なのだ。
あくまでこちらが優位な状況において自身と言葉を交わす相手にしか使用できないそれは、配下を増やす為ならばさておき敵を制するには明らかに向いていない。



「よ~し、もういいぞ。放していい」
「え? もうっすか……さすが御頭」
「袁術の寝所はどっちの方だ?」
「あの……あっちです」



だからこそ、未だ真っ当な兵力を持たぬ一刀はゲリラ戦術に出るしかなかったのであり、街で暴れるしょぼいチンピラどもを纏め上げて裏を統べれる規模の匪賊団を作った後でも、正面から袁術と競う気など起こさせもしなかった。
この戦国の世で一人無双をするためには少々術が中途半端なことに、一刀が不満を感じていなかったといえば嘘になる。

チンピラ程度を落とすならば数で押さえつければ何とかなるが、結局一刀の牙はそれ以上に対しては直接は刺さりもしない。



「き、貴様ら! この城で何をしている!」
ぴーーー!!
「しまった! 抑えろ!」
「ぐっ……わ、私を殺しても無駄だぞ。今の呼子ですぐに兵が駆けつけてくる。貴様らごときすぐに」
「ああ、そりゃそうだ。でも、来た連中にあんたの口から勘違いだった、誤報だ、って説明すれば話は別だろ?」



あくまで雑兵を纏め上げる能力しか持たぬのが、太平要術の書だ。
だがそれは、逆に言ってしまえばある程度の武力を持っている者でなければ、抵抗すらできないといってもいい。

城にいる軍師、文官、女官、等の軍人ではない役人。
彼ら一人一人の身を守る為に護衛が数十人付いている事はまずありえないし、彼女達が周囲を守られている状況とはいえ、たった一人となる時間が全くないこともまた、ありえない。

ある程度の武を持っていないものに対してならば、非戦闘地域にて雑兵を数十人で襲い掛からせれば一刀にとっての術をかけるに相応しい『場』が作り出せないはずがないのだ。



「よっしゃ、後は袁術が帰ってくるのを待つだけだ」
「じゃあ、この国の兵の服装させた状態で隣の部屋に待機させときます」
「おうよ……ふう、意外と何とかなるもんだな」



要するに、城の中に内通者を作り、まともな近衛を遠ざけ、警備の巡回シフトを理解した上で、数十人忍び込めた時点で、その数十人を一片に吹き飛ばせる武官がいない国ではほとんど『詰み』なのだ。









「ふぅ~、美羽様、お疲れ様でした~」
「ほっほっほ、妾の実力からすればこんなものじゃな」


自分がこのようなことを思いついたきっかけである芸人達を、歌合戦で完膚なきまでに負かした美羽は最高の気分だった。

彼女にとって見れば自分が一番である事など言うまでもないことであったが、それを客観的に証明できた事は嬉しい事であるし、何より暗愚な君主といってもいい袁術にとって、これほどまで直接的に民の喜びの声を聞いたことなど今まで記憶になかったからだ。


「よかったですねぇ~、美羽様。みんな美羽様の魅力に釘付けでしたよ」
「そうであろうそうであろう。もっと褒めてたも……それにしてもいっぱい歌ったら、喉が渇いたのじゃ。張勲、蜂蜜水を持て」
「はぁーい、ただちに」
「あと、献上品の桃の蜂蜜漬けがあったであろう。あれももってくるのじゃ」


そして、彼女の喜びは七乃の喜びでもある。
だからこそ七乃は先の出し物が美羽が喜ぶ結果になってよかったと心底喜んでいた。

万が一美羽のほうが不利であれば軍を動かしてでもこっそり八百長させる気満々であったが、そんな必要もなく望む結果が得られたことでちょっとだけ気が大きくなっていた彼女は、しかし限度を超えて甘やかす事はしまいと心を鬼にして美羽に対して諫言をする。


「両方は駄目ですよ。蜂蜜水か桃の蜂蜜漬け、どっちか一つにしてください」
「どうしてなのじゃ、妾は両方欲しいのじゃ」
「またこの前みたいにぽんぽん痛くなってもしりませんよ?」


それは、あくまで美羽のことを思っての諫言であり、彼女がこの上なく彼女を愛していた証でもあった。


だからこそ。


「いやいや、そのくらいいいんじゃないのか? 七乃さん」
「っ! 誰です!!」


すでにこの国の中枢部まで奪い取った一刀に対して、美羽の身の危険を犯してまでも反抗する事は出来なかった。

七乃自身であれば雑兵を数十人相手にすることは可能だ。
数万を相手に出来る呂布とは比べ物にならないが、七乃自身も雑魚とは比べ物にならない腕を持っている。
だが、袁術自身は……

雪崩れ込んでくる大勢の『自国』の兵士が、何故か美羽の身柄を押さえた時点で、彼女のすべてが『詰』んでいた。







「この様子じゃどうせこれ以上下がる能力値もないだろうしな」
「うむうむ、もっとほめてたも、一刀」
「や~ん、あいかわらず皮肉に全く気付きもしない美羽様って、素敵ぃ♪」




[16162] 一騎当千 万夫不当
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/02/27 20:19
「ねえ、冥琳」
「突然呼び出してなんだ、雪蓮。私だって暇ではないのだが」


江東のとある城にて。
三国志の史書においてはその名を外す事の出来ない重要人物、孫策と周瑜がそこにはいた。

両者ともかなりの長身ながらも絶世の美女といっていいだろう。
タイプは違えども、どちらもその能力を見事に花開かせた事を外見にも見せつけるような容姿をしている。

容姿だけが優れている袁術や七乃や、能力にその外見の成長が未だ追いついていない鳳統とも違い、その有能さとその覇気は、出会った瞬間に彼女達の印象として忘れられないものになるであろう。

そんな印象的な主従は、袁術麾下にいざるを得ない状況を常々変えたいと考えており、今日もそのために打つべき一手についてを話すこととなる。


「なんだか嫌な予感がするの……」
「……はぁ。軍師としては本当はそんな予感なんていう怪しげなものに頼りたくはないのだけれど。なまじ当たるから判断の参考にせざるをえないわ。で、今回はどんなものなの?」
「う~ん、まだわかんない。でも、冥琳。ちょっとみんなを連れて蓮華のところにいってみてくれない? あの子の身が妙に心配なの」


彼女らは、すべてを孫呉のために捧げている。
自分を慕う配下の人生も、唯一無二ともいえる親友の心も、本当はとても大きな肉親への愛情も…………そして、自らの命さえも。

一刀が今まで出会ってきた人物とは全く違い、体のあり方から心の持ち方まで共にその姿は伝説として後世に残るのにまさに相応しいものであった。












わりとアッサリと荊州が一刀の手に入った。
余りに余りな展開だ。

一刀的には、もうちょっとドラマとかピンチからの逆転とかがあったほうが物語的に面白くなるんじゃねえの? とか思っちゃうぐらい拍子抜けだった。

正直、この展開にはヤクザ家業が成功して上り調子になってから調子こいてる一刀であっても疑問を持たざるをえなかった。



「ちょっとこれはどうなんだろうか……」
「むぅ? 妾に何か不満でもあるとでもいうのか、一刀」
「まあ、なんて礼儀知らずなんでしょ~。いけませんよ、一刀様」



そしてこいつらは、何でこんなに変わらないんだろう。
というか、太平要術の書の効力は確かにあるはずなので、袁術配下の武官・文官は大抵容姿以外の能力値が激減しているはずなのだが、特に政務が滞っている感じはしないのは何故なのだろうか。

確かに一刀の匪賊団がこの国を裏から纏め上げているので、早々たいそうなトラブルは起きないはずではあるが、それでもいくらなんでも人員が半減したに等しい足枷を付けられても今までどおり運営されるのは、明らかに異常だ。



「実は俺、超すげえんじゃね?」
「うむうむ、一刀やるのお」
「さすが美羽様の主。よ、中華一ぃ!」



疑問系で呟かれた言葉には即座に同意が入ったが、無論そんな訳はありえない。
ゆとり真っ盛りな現代日本人学生がそんな特別な「すぐに太平要術の書の力をディメリットなしで扱えるようになる」才能持ってるなんて事は、まずありえない。


実情は、こうだ。


太平要術の書による能力低下=今までやってた袁術・張勲による政務の混乱


この公式が成り立っていただけである。
一刀が袁術のわがままを術で押さえつけている為に今までのでたらめ政務が一旦止まり、その今までのわがままでの余波での政務の滞りがなくなった。
その結果が文官の能力減少と大体イコールで結ばれたためこうなったのだが、普段の袁術をさほど知らぬ一刀からしてみれば不気味な事この上なく、自分の才能と勘違いしてしまうのもまあ若干の無理はあっても仕方がない。



「えーと、美羽…ちゃん?」
「なんじゃ、一刀」



思わずもう一つの可能性『術が上手く機能してなくてみんなで一刀を担いでいる』パターンを疑ってしまっても、美羽がこうなのだから仕方がない。

親しげにこちらに向かって幼い流し目をくれてくるこの幼女は、噂ではわがままで高ビーでどうしようもない太守だったらしいが、今は一刀の傍でごろごろと喉を鳴らしながら侍っている。
だから、術の効力があること自体は間違いないのであろうが、イマイチ一刀は信じられない。



「まあいっか。とりあえず、城の人を一人ずつ呼び出してもらえるか?」
「うむ、そんなことでよいのか? 任せるがよい……七乃」
「は~い、お嬢さま、一刀様。ちょっとだけ待っててくださいね~」



が、事実としてゲリラ戦略で各都市を占領してやろうと思っていた一刀が、突如正規の軍隊を手に入れたことは確かだった。
元々兵力がないからまともに競うことができなかったのだ。兵力さえあれば、そんな面倒な手順を踏まなくても正面から撃破していけばいい。

太平要術の書の力という肥料とめぐり合わせのよさという水により、日本にいたときに受けていたゆとり教育が見事に花開いた一刀は、そのように兵力さえあれば「正面からの決戦」で三国志に登場する人物を自分が倒せると信じきっていた。
今まで出来なかったのは、あくまで強い自分を補佐するに足る兵力がなかったからだと。


ならば、もはや私兵レベルではない軍勢を手に入れた一刀が望むのは、裏づけのない自信を基にした、勝利。


黄巾党が発生しておらず、未だに一応漢王朝が健在である以上、各地方領主はおおっぴらには軍事の増強と、他国への侵略といった皇帝の権威を真っ向から無視するようなことは出来ない。
他所から恨みを買っていることを大いに自覚している宦官たちは、軍備の増強=自分たち打倒の為の兵か、と勘違いして逆恨みしてくる危険がある以上、これは大抵の英雄豪傑とはいえ破る事の出来ない縛りだ。
何せ破れば、宦官の命を受けた諸侯すべてから、董卓のように全周囲を包囲されて攻撃を受ける可能性があるのだから。


当然ながら、豪胆さとは無縁の一刀も、三国志越しにこの事実を知っている以上軍隊手に入れたからといって即「侵略戦争しかけようぜベイベー」とかいえるわけはない。

だから、いかに自分の能力に自信を過剰に持っていようとも、一刀がいきなり袁紹に対して戦を挑む事はありえない。



「つまり、孫策様は今なおこちらに対する敵意を消そうとはしておりません」
「あ~、やっぱそうなってんのか。そりゃそうだな。美羽の配下にされたらまともな英雄だったら普通不満持つわな」
「なんと! 孫策の奴、今までの恩をそのように思っておったのか」
「というか、それに気付いていないのなんてお嬢様だけですよぅ」



だがしかし。

自身の安全の確保の為、城の住人を残らず術の効力下においたときにたまたま発覚した、もぐりこんでいたその勢力の諜報員も洗脳する事に出来た事によるカウンタースパイの情報で一刀が確信した事実。

たった一人。というか、たった一勢力のみ。
一刀が仕掛けても、皇帝(というか宦官)から文句を言われない勢力がある。

客将であり、江東において自分たちに対する反乱の準備を着々と積み重ねている孫呉の一派。
彼女らを倒すのであれば、要は「身内の不正を事前に正す」という言い訳が成り立ってしまう。

無論、後での届出は必須であるし、配下となっているものすら袁術は押さえられないのか、と統治能力のなさを指摘されて不都合が出るかもしれないが、一刀はそんな事知ったこっちゃではなく、ただただ大軍を率いて華麗に活躍する自分の姿に、そしてその後手に入る女武将というご褒美の夢に酔っていた。




相手として挑むのは、笑っちゃうほどいい加減な三国志の知識を基にして、今後巨大な勢力になって自軍となった袁術領を脅かす可能性のある江東の虎である。









袁術軍が攻めてくると斥候から聞いて、孫呉の主、孫策こと雪蓮は即座に笑い飛ばした。


「惰弱な袁術に、そんな者に従う盲目な張勲が、この孫呉に向いて牙をむくだと? これはお笑いだ、こちらから攻めにいく手間が省けた」


と。
その姿はまさに王というに相応しいものであり、その威厳に報告に駆け込んできたものも思わずその威に打たれて膝を突いた。

袁術の突然の暴挙に思わず腰を浮かせかけた配下たちは、その常と変わらぬ主の豪胆さに落ち着きを取り戻し、同時に余りにも愚かな事をしでかした袁術に対する憎しみであふれかえりそうになる。
こちらがもぐりこませていた諜報員から一切情報を送らせずに挙兵準備を終わらせたその常とは違う準備のよさに少々驚きはあったが、それでも錬度が違う彼等孫策配下は、すぐに対抗できるだけの手立ての準備を実行する。


数日前、孫策の突然の言葉によって突如孫権の元へといっていた周瑜らおもな武将がいないことに不安を見せるものもいたが、それでもその雪蓮の王者たる態度の前ではそんな不安も忘れて、皆淡々と戦の準備を進めた。


戦闘が始まった際にも、今まで散々こちらに向かって辛苦を味あわせてくれた袁術に対する意趣返しといわんばかりに様々な策で雪蓮は袁術軍を痛めつけ、打ち倒したし、その策の段階が終わって正面衝突する状況へと戦況が移っても、彼女は軍の先頭に立って一番に袁術軍に噛み付いた。


その自分たちの主の勇敢さに孫呉の兵は残らず奮いあがり、皆その意気が移ったがごとき勢いで、こちらもまた袁術軍を自分たちの領域から追い出さんと槍を取って突っ込んでいった。


そんな中孫策は他者を鼓舞し、自身が誰よりも危険な場所で、誰よりも勇敢に、そして誰よりも効果的に敵を葬る。
それこそが、袁術にも、張勲にも、そして一刀にも欠けていた、王者としての姿であり、三国志に記される英雄に相応しい姿であった。

先頭に立つ主の姿が続く限り、あの袁術の無能さを知っている孫策軍は誰ひとりとして自軍の勝利を疑わなかった。
だからこそ彼らは、孫呉のために戦い、孫呉の再びの独立を祈って死んでいった。










母である孫堅の遺志を最も継ぐ女であり、孫呉すべての臣下の主、孫策。
彼女はまさに英雄と呼ぶに相応しい知も、武も、美貌さえも持ち合わせた才媛だった。

そしてその美貌は、戦場においてすら損なわれる事なく、むしろ常とは逆の、剣呑な雰囲気に包まれた一種の野蛮な美を体現していたほどだった。

振るわれる細肢は、その軌跡さえも美しく、しかし強力を。
体の動きに従って様々な光の反射で絵を描く長い髪は、その体躯すべての素早さを。
その余りにも輝き美しい瞳は、残酷なまでの殺意を。



強く、賢く、美しい。
彼女はまさに、この歪んだ外史の武将すべてを代表するかのごとき、そんな存在だ。



「っ!」
「ぎゃあああ」
「つ、強い。強すぎる!」



そんな彼女にとって、雑兵を十人ほぼ同時に打ち倒す事なぞ造作もない。
百人だってなんとかなるだろう。

それだけの武を、彼女は持っている。
それは、生まれ持った才能が今までの鍛錬で見事に花開いた結果でしかない。

孫呉を率いるものとして生まれたときからそう育てられ、結果として気高く強く成長した。
だからこそ、才亡き者の努力などがその剣の前で少しばかりの役に立つ事さえない。



「所詮は雑兵か! お前たちなんてこの孫策の前に立つ資格も無いわ。退けぃ!」
「くっ、所詮は一人だ、囲め、囲めーー!!」



血を見るたびに抑えきる事が出来ないほど興奮し、それは彼女を前進させる為の力となる。
その身が持つ両刃剣 南海覇王は、まるで妖剣がごとく何人切り殺したところでその切れ味を一行に衰えさせない。
単なる一般人とは根本から異なるがごとき筋力、臂力、脚力から繰り出される剛剣は、他者の努力なんて丸で無意味といわんばかりに紙くずのように切り裂き、進む。
それは、雑兵ごときが止められるものではなかった。

抵抗は許さない。
逃げる間さえも与えない。

それを前にした凡人に許されるのはただ頭を垂れて死を待つのみで、間違っても抵抗などできる相手ではない。例え数人で連携して槍を突き出そうと、死を覚悟して向かおうと、必死になって隙を見つけて打ち込もうと、気付けば傷一つつけることすらかなわず切り倒される結果は何一つ変わらない。


まさに英雄。
まさに王者。

雑兵とは文字通りの格の異なる生物がそこにはいた。



だからこそ、彼女は雑兵相手ならば、容易く無双が可能である。
彼女にとって敵とは、殺される危険を冒すものではなく、無慈悲にその命を刈り取るものに過ぎない。

きっと彼女を殺すなんてことが出来るのは、彼女と同じく英雄と呼ばれるものによる、同じような武をぶつけた末の正面からの戦いか、あるいは戦場以外での卑怯な手段だけであろう、そう思わせるほどの戦いをいつも彼女は繰り広げてきた。



「数だけ多い雑兵でこの孫策が何とかなると思ったか。張勲を、袁術を出せ!」
「まだまだぁ~!」



だが同時に、彼女は三国無双と謳われるほどの武は持っていなかった。

呂布ではない。
たった一人で、数万の軍を壊滅させられる異形の天才 飛将軍呂布では決してないのだ。




一人二人の雑兵なんて、彼女にとってはいないも同然。
十人いたとしても、造作もない敵でしかない。
百人いたって、彼女の命を脅かす敵とはなりえない。


だが。
千人ならばどうか。
万人ならばどうか。
さらにそのすべてが、ある目的の為ならば自身の死をなんとも思わないほどの死兵と化していたらならば。

その結論が、この戦場にあった。



「ふぁぁぁぁぁ。退屈じゃのう。まだ終わらんのか」
「はぁ~い、美羽様。蜂蜜水ですよ~」
『くぅぅぅぅ! 袁術、袁術はどこ!! この孫策が一騎打ちを申し込む、出てきなさい!!』
「うん? 七乃~、何か呼んだかの?」
「いいえ? 何もいってませんけど……」



苦し紛れの必死の剣も、万の兵を集めたこの場においては戦場の熱気にすべて吸い込まれ、消えていく。
幾重にも重ねた凡人の積み重なった玉座、戦場の奥の奥の、何十も守られた中心核に対してはその声さえ届かせることも出来ない。

いかに声を振り絞ろうと、いかに周囲の雑魚を死という形で黙らせようと、圧倒的なまでの物量がそのすべてを無効化し、そんな僅かな時間の隙さえ虎視眈々と狙ってくる。
彼女が今まで踏み潰してきた雑兵の死骸に、そして今まさに奪おうとしている目の前の安い命によって、すべての抵抗が阻まれてしまう。



「そうか。しかし、こうもうるさいと何も聞こえぬのう。七乃の声も聞き取りにくいわ」
『っ! どこよ、袁術! 張勲! 孫呉の怒りを受けるのがそれほどまでに恐ろしいか!』
「だからいったじゃないですか~、わざわざお嬢様がこんな野蛮な場所に来る必要なんてないって。さあさあ、帰りましょうか」
「うむ、そうじゃな。早く帰って一刀の下へいくべきじゃな」


一人ならば殺せる。
十人でも、百人でも殺せる。

だが、数とはすなわち暴力だ。
実力的にはまったく敵わなくてもその者を殺す為に剣を一振りするだけでその一振り分の体力の減少は確実に蓄積していき、それは目をつぶってもかわせる鈍い剣をかわすときもまた同じ。
対して相手は、常に新鮮な命を供給し続ける。まるで、終わりがないかのように。


なれぬ兵士では、一度に同時に繰り出せる剣は僅かに三人。
その程度であればこの世界ではある程度の武を持つものであれば正面から吹き飛ばせる。
だがそれが、百回、二百回と続けば、一度ぐらいまぐれにカス当たりをしたりもする。疲労が体を、心を縛ってしまうのは限度には大きな差があれど、英雄でも凡人でも同じなのだから。

ならば、そんなまぐれ当たりでも数が続けばやがては致命的な部分にまで蓄積されていくのもまた同じ。




寡兵で大軍を打ち破ったり、英雄豪傑が一騎駆けで雑兵を蹴散らす。
英雄譚に謳われる将軍・軍師の花であり、そんな事が数多くおこり、そのための多数の登場人物の文武が競われる事こそが見所の三国志の舞台がここである。


だがそれは、同時にそんな事めったに起こらないからこそ特別視される。
それが当たり前ならば、そんな後世まで語り継がれる事なんてない。
才能があるものにおいても、めったに起こらないからこそ例外が光り輝くのだ。


ならばこそ、例外を取り除いた後に残るのは、単純な普遍の事実のみ。
歴史上においても多くの英雄が屈し、雑兵の手によってその首を奪われた単純な事実。

戦いとは、数×質の競い合いである。
軍師の知略や、個人の武勇など、あくまでそれをサポートするものでしかない。
そう、たった一人で千人分の能力を持つ英雄がいたとしても、一万人の前ではかなわない。
結局最終的には、寡兵よりも大軍の方が強いのだ。



「貰った!」
「ぐっ! ……なめるなぁ!」
「ぎゃあぁぁぁぁぁ」



無論、そんな事歴戦の将である孫策がわかっていないわけがなかった。
わかっていても、彼女はこうして戦い、望みが薄いとわかっていても頭を取ることで逆転を狙うしかなかったのだ。

それでもなお、彼女がその数を個人の勇で撃破出来るというのであれば……



「効いてるぞ! あと少しだ、押し込め!!」
「くっ……」
(冥琳。孫呉を…蓮華を……お願いね)



孫呉はとっくに独立を果たしていたというものだ。









「……なんっつう化け物だ」



報告を聞いて、一刀は戦慄した。
現在勢力的には袁紹に継ぐ勢力を持つ袁術のすべて。
領土の資金力、指揮下における権力をフルに活用した挙句に宦官ににらまれない程度の最大動員した兵一万二千。

未だ各地にいる旧臣を集める事は敵わず、江東のごくごく一部の自治権しか認められていない孫策が突然の奇襲を受けて集める事の出来た兵数が二千にも満たない事を思えば、余りに圧倒的な数の差である。
孫策という人物がどれほどのものかを歴史の知識として知るが故に、いかな英雄豪傑であろうと勝つ事が敵わないであろう数を、一刀は用意した。


その心には、正直なところ噂を考えてもそれ以上に割り引くところがあった。



「袁術とか張勲がこんなもんなんだから、ちょっと甘く見てたけど、これはひどい……」
「うにゅ? 何か言ったかのう?」
「お嬢さま~、一刀様の邪魔をしてはいけませんよ?」



今まで三国志の登場人物でありながら自分の前に出てきたのが、大喬小喬、雛里、美羽、七乃。
大喬小喬は非戦闘員だから置いておいても、正直なところ雛里も美羽も七乃も、鳳統や袁術、張勲という名前が相応しいほどの能力がもっているとは一刀は実感していなかった。

雛里はろくな機会が与えられていないし、美羽や七乃はああなのだから一刀の認識としては無理もないのだが、それでも彼の心に「所詮は名前が一緒なだけで女だから本物ほどの能力はないに違いない」という侮りが入ったのは確かだ。

だからこそ一刀は、孫策に対しても「どうせ噂ほどの傑物じゃあるまい」と、ある種嘗めて掛かっていた。
まあ、それでもなお六倍もの兵力を出すあたりが彼の臆病さを証明しているともいえるが、とにかく戦う前から兵力で勝っているならば多少地力で負けていても余裕だろうと楽勝ムードを感じまくっていた。



「これはもう、英雄とかじゃなくて、化けもんだろ……」



相手の持つ二千にも満たない軍を潰す為の犠牲が、二千の戦死と五千の重傷。
これが、袁術軍が孫呉を降す為に差し向けた兵の結果であった。
平地での正面決戦での結果がこれとは、一刀が知る乏しい軍事的知識でもありえないものだということははっきりとわかる。

軍とは死傷者が3割で全滅、5割で壊滅というが、その壊滅というべきものだ。
もはや袁術軍は、軍としての体裁をなしていない。
六分の一にも満たない軍勢を倒す為に、敵軍の三倍以上自軍の半数以上の被害を出したのだ。
自軍には術の悪影響が出たとはいえ、いくらなんでもひどすぎた。

予想外すぎる結末に、思わず一刀の疑問はそれを指揮していたであろう孫策もしくは孫権へと向かった。


「おい、孫策ってのはどんな女なんだ……」
「はっ、まさに狂犬のような女です! まるで血を見ることが何よりも好きだ、といわんばかりに我が軍の兵を笑いながら屠っており、それを捕らえるまでに千人以上の兵が奴一人に倒されました!」
「…………一人で……千人、以上?」
「はっ! 正確な犠牲者数を直ちに聞いて回ります!」



先はその指揮能力に驚き、次はその個人の戦闘能力に驚いたが、前者に比べても後者の驚きはあまりに大きかった。
これはもう、戦争が上手いとか、剣が上手とかいうレベルを遥かに超えている。
一応剣道部に所属していた一刀であるが、もはやそこまでいくと想像さえ出来ない領域にいる女が、この世界では実在するというのだ。

早とちりした伝令兵が、負傷者らがいるところまで駆けて行くのを、一刀は呆然と見送った後、呟く。



「…………せっかく捕らえたはいいけど、まさかゴリラみたいな女じゃないだろうな」



いくら「ドキッ! 女ばかりの三国志」でも、そんな三国志は余りに嫌すぎた。






[16162] 捲土重来を果たす
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/03/03 13:05

孫策。
孫堅が死去した事で袁術麾下に入るものの、その下ですら天下に鳴り響く数々の武名を立て、やがては皇帝を僭称しはじめた袁術を倒すが、最終的には曹操の支配下地域にて許貢の残党に襲撃されたことで死亡する。
演技ではかつて殺した于吉に呪い殺される、という点では異なるが、最終的に死亡する事には変わりない。

孫呉の頭首でありながら一騎打ちを行うといった豪胆さ、あるいは軽率さをもち、それに相応しいだけの武力を持つ。
といっても、武力一辺倒の猪武者ではなく、必要とあれば袁術に対して偽りの忠誠を捧げてみたり、宮廷の権力闘争を利用したりといった謀略もやすやすと使いこなしていた。
配下を集める事にも長けており、周瑜との公私を問わない友情は断金の交わりとして後世に今も残っている。

三国志の筆者をして、「孫策は傑出した英気を具え、その勇猛さと鋭敏さは並ぶ者がないほどであり、優れた人物を登用して用い、志は中国全土を圧倒するほどだった。」といわれるほどの人物である。
……もっとも、「しかし、孫策は軽佻で性急だったので、身を滅ぼしてしまった。」ともいわれているが。

総じて、三国志に出てくる英雄豪傑の中でも、特筆すべき傑物である、という評価を付けるべき人物である事は間違いない。



「やってくれたわね……これはいったいどういうことなのかしら、袁術」
「ひっ……な、七乃~」



この外史においてもそれは同じ。
女性になっているとはいえその覇気、偉大なる項羽と同じく覇王と称されるに相応しいだけの力を見せ付けんばかりのその気圧は、史実とは異なりほぼ外見どおりの能力しか持たぬ袁術ごときが対抗できるものではない。

相手は縛られた上で床にそのまま転がされている虜囚、こちらは玉座に腰掛けたままといった圧倒的に有利な状況であってもそれは同じく、袁術は怯えた声を出すしか出来ない。



「はいは~い、お嬢さま、この七乃にお任せあれ~」
「…………」
「いけませんよ、孫策さん? お嬢様のお慈悲で生かしておいて貰えたというのに」



一方、この孫策の気迫の前で一切の気負いを見せなかったのが張勲だった。
だが、これは彼女が主よりも大物である、という事を証明するものではない。

彼女は小物として主と方向性が異なり、例え自分よりも遥かに強いものであっても立場が逆転した事を悟ればいくらでも強気に振舞える、より嫌な方向で性格が悪いだけである。



「そう、ありがとう、とでも言えと?」
「そ~ですそ~です」
「何を馬鹿な。そもそもいかなる正当性があって我が孫家に対して軍を差し向けたの?」
「やだなぁ、負けちゃった孫策さんにそんな事聞く資格なんてありませんよ~だ」
「そ、そうじゃそうじゃ。おぬしは負けたんじゃから黙っておれ」



相手がまともに取り合うつもりがないことを悟り、孫策は一人唇を噛んで思考を巡らせる。

現時点での袁術の勢力は強大だ。
今回の戦で軍としての機能のほとんどを潰せたとは思うが、それでも孫権らがすぐさま袁術を打倒できるとは思えない。
また、この七乃の口ぶりではおそらく以前から自分たちに対して疑惑の目を向けており、今この時点で挙兵したという事は証拠がそろい、宦官らを納得させられるだけの自信もある、という事なのであろう。

そうである以上、自分が敗れた事が結果として袁術の勢力の崩壊を誘い、その結果として妹達が孫呉の独立をなしうる、という事がないこともわかっていた。
いかに兵を減らしたとはいえ、未だ孫権らだけではひっくり返せないだけの力の差があるのだから。

すでにかき集めていた一級線の兵の大多数を自分が率いて出発してしまった以上、孫権らが集められる兵の数と質は高が知れている。
未だ客将でしかなかった状況から、自分が敗れたというのに一気に好転するはずがない。


だからこそ、自身の身に危険が迫っている事を予感したときに、彼女らを集めて撃退する事ではなく、一人でも多くの有能な将士を逃がす事を選択したのだ。

逆に、一時的に軍務が混乱をきたしていたとしても、広大な領地と豊潤な財政を誇る袁術らは、徴兵という手段で補充できる規模が、孫権らとは違いすぎる。
なにより孫策を下しているのだ。いざとなれば人質といった手段に訴える事さえ彼らにはできる。


(現状においては勝ち目はないわ……私のことはいいから、今は逃げて。冥琳に従って孫呉をお願いね、蓮華)


自身の盟友であり、この時代最強の軍師である周瑜もそう判断するであろうという事を孫策は微塵も疑わなかった。
のちに三国志として描かれる三大勢力の中で、この世界における孫呉が最も特徴的なのは後継者選びに対して極めて慎重な姿勢をとっていることである。


やがて蜀となる劉備軍にとっては、そもそも劉備の素性自体があやふやである為未だに後継者を考えることなど考えておるまい。今この瞬間に劉備が倒れたとしたならば、おそらくいろいろな混乱の末関羽が立つ事になるであろう……そして、おそらくその結果として「蜀」として名乗れるだけの勢力は残るまい。

魏を立てることとなる曹操などはもっと顕著だ。
曹操という極めて強力優秀な君主の下でこそ成り立っているあの集団は、曹操が倒れた瞬間に瓦解することは間違いない。

その他、袁紹にせよ公孫賛にせよ、未だ若く美しい一騎当千の君主ばかりが集うこの世界において、頭の交代ということは今の段階では余り深く考える連中はそう多くない。


(私がここで首を撥ねられたとしても、冥琳だったらきっと最大限その事実を利用してくれる……例え一時的に江東から追い出されたとしても、蓮華や小蓮がいる限り孫呉の血は絶えず、いつか必ず再興する)



だが、孫呉は違う。
この勢力のみ、君主が倒れるといった事態を常に想定している。
それは、一騎打ちに走りかねない孫策の性質ゆえだったり、未だ弱小の客小身分であり、今回のようなケースによっていつ命を奪われるかわからないが故の君主筋の分散であったが、まさにこういった事態に対する対策もある程度はなされているのだ。

だからこそ、孫策は自らの死を前にして未だ強く立つ事が出来る。
自分が死ぬ、それは仕方がないにせよ、いつか必ず自らに連なる者がこの愚か者どもの首を撥ねてさらしてくれる、と信じていられるから。


ただ、不安要素があるのであれば……




「大変です、袁術様、張勲様!」
「なんじゃ、いきなり」
「北の伝令がいったいどうしたんです?」
「(まさか…………まさか!)」



余りに世代交代が早すぎた、という事だ。



「孫呉の旗を掲げた軍勢が、迫ってきております! 数は……およそ二千」
「なっ!」
「なんじゃと~!!」
「くっ(冥琳……やっぱり、押さえきれなかったのね)」





自身が生きてこの城に囚われてしまったことで、最も恐れていた事態が起こってしまった。


妹である孫権……蓮華は、激情家だ。
王としての器、家臣を使いこなすという意味でのそれは十分に持っているであろう彼女は、個人の範囲で納まる孫策の軽率さとは異なり、王として致命的なまでに自制心を抑える為の経験が足りない。

それは仲間にとっては好むべき甘さであるが、主君としては致命的なまでの欠点だ。


「旗印から、孫権、周瑜、黄蓋、甘寧、周泰がいると思われます」
「まあよいわ、妾の軍がまだ五千ほど残っておるじゃろ。そやつらを向かわせい」
「市民も三千人ほど動員しておきますね~」


誰が悪いとも言いがたい母 孫堅が倒れたときと異なり、明確な敵である袁術が姉である自分を捉えている、と知った彼女の激情は、周囲を巻き込んでしまった。

もしかすると黄蓋や甘寧、周泰も同調したのかもしれない。
そうであるならば、自身が倒れたことで暫定とはいえ孫呉の王となった孫権の声を止める事の出来るだけの権限は、周瑜とて持っていない。

で、あれば……自分を取り返すために勝機を見失ってしまっている。
小蓮と穏をつれてきていない事から最低限の理性は残っているのかもしれないが、それは本当に最低限度でしかないと、雪蓮は顔色を変えず、しかし内心はこれ以上ないほど青ざめる。



「(冥琳でも抑えられないなんて……蓮華、あなたって子は。王たるもの、死すらも仕事だとあれほど言ったのに……)」



そんな雪蓮の内心をさとったのか、命令していくうちに自身の圧倒的優位さを思い出したのか、七乃のように美羽も落ち着いてきて、こんな軽口をよこす。



「やれやれ、孫呉の奴らは恥知らずじゃのう」
「ほ~んと、やっと戦争が終わってやれやれ~、って感じでしたのにね」
「じゃが、妾の軍は最強なのじゃ」
「孫策さんがいなければ、負けるわけないですよねぇ」



そんな袁術らは、激昂するわけでもなく不気味なほどに冷静だった。

すでに七千もの兵を失っているにもかかわらず、この余裕。
しかし、いつもは内心馬鹿にしていた二人の大言壮語も、あの部隊を見た今となっては雪蓮は笑う事が出来なかった。


自分が中途半端に袁術軍を壊滅させてしまったことを知っているがために蓮華たちは勝機を見たのかもしれないが、じかに戦ったからこそわかる……あの軍勢は異常なのだ。
それを改めて確認するだけとわかってはいても、性格上見過ごす事の出来ない孫策は、道化を装いこの目の前の二人の口をすべらかにする。



「……ふっ、馬鹿ね。あれだけ私一人にかき回された軍がそう簡単に再編成できるとでも? あなたは終わりよ、袁術」
「ほっほっほ、そんな事はないぞ? もう軍の再編成はすんでおるのじゃ」
「そもそも、ちょっとやられちゃったぐらいで逃げ出しちゃう孫策さんの部下達と一緒にして欲しくないですよね~」
「(やっぱり……きちゃだめよ、蓮華!)」



あえて挑発することで情報を引き出したとしても、囚われの身では何一つ出来る事などありはしない。
せめてこの袁術軍の異常さを知らせる事が出来たならば、と蓮華は歯噛みする。


そもそも、一人で百人以上殺せるような武芸者を前にすれば、普通の雑兵であれば挑めない。
当たり前だ、千人で掛かれば倒せるという事がわかっていても、自分が999人の犠牲の中のひとりとなることを肯定できるものなんてそうはいない。
恐怖が心を縛り、自らの命を守りたいという心は部隊の半数も倒れたならばさして忠誠心のない彼らを逃亡へと向かわせる。
それが、この世界での一般的な兵のあり方だ。

無論、それではこの世の戦争はすべてレベルの違う武将らの一騎打ちでしか解決しなくなってしまうから、兵が将に対抗できる手段がないわけではない。
だがそれは、圧倒的多数で持って遠距離からの包囲殲滅だったり、あるいは徹頭徹尾の策によるものであったり、あるいは猛烈な訓練により背後に守るべき者の自覚を呼び覚ましたり、といった手段によるものだ。

ろくな調練も知らぬ、また知っていたとしてもやっているはずのない上に軍略の「ぐ」の字も知らずにただただひたすらに突っ込んでくるしか脳のなかった袁術配下の弱兵らが取れるはずもない手段であり、本来であれば雪蓮が突っ込んできた時点で腐りきった袁術軍は逃げ惑っていなければおかしいはずだ。


だが、先に戦った袁術軍はそうではなかった。
まるで自らの命なぞ何の価値も無いといわんばかりに、自ら進んでその身を投げ出さんばかりに孫策に挑んできた。
例え目の前で仲間が一刀両断にされても一歩も引かなかったし、片腕を落とされたとしても残った片手で、両足で武器を持って挑んできた。
自分の命をもってこちらに一瞬の隙を作ろうと必死だったし、後半になればこちらの体力をわずかばかりに削る為だけにその命を捨てた。

すべて、農民上がりとしか思えない雑兵がやった事だ。
兵としての技量は平均よりも遥かに下回っていたにもかかわらず、それらすべての欠点を補いうる異常なまでの志気の高さは、孫呉再興のために強烈な訓練を積んでいた呉の兵たちのそれよりも遥かに上だったのだ。



「うちの兵は戦闘中に逃亡するなんてことしませんからね~」
「うむうむ、きちんと戦い終わっても並んで待っておったしの」
「(袁術風情が、どんな調練すればそんなことになるのよっ!)」



で、あれば三割で全滅、五割で壊滅といった今までの軍事常識など何の役にもたちはしない。
例え全滅寸前になっても逃げ出さない忠臣が無数にいるようなものなのだ。
逃亡兵ゼロを実現しかねないあの志気の高さであれば例え九割が死んだとしても残りの一割のみで軍としての機能を果たせるまでにすぐに回復するだろう。
否、たった一人でも大軍に向かって挑んでいきかねない、それほどの妄信を先の戦は孫策に感じさせた。


そうであるならば、孫呉の勝利条件は一兵たりとも逃がさずに殲滅することでしか敵わない……絶対的な数に劣り、財力の差による装備にも劣った上で、異常なまでの志気でも負けた軍を相手にだ。
こちらの優位は将の出来と兵の錬度だけだ。



「孫策さんは武将としても有名ですけど、孫権さんはそれほどではないですし」
「……ふん、私の妹よ。弱い者が孫呉の王族を名乗れるわけないでしょ」
「それでも千はむりじゃろ? ほっほっほ」
「黄蓋さんなんかは弓の名手として有名ですけど、矢には限りがありますしね~」



呂布や夏侯惇、そして雪蓮のように圧倒的な戦闘能力を持つ武将を有していない事が死兵相手の蓮華たち残った孫呉軍の勝機をさらに危うくする。
無論、黄蓋や周泰、甘寧といった武将も雑兵とは比べ物にはならないつわものぞろいだ。
だが、その彼女らとてこの短時間でかき集めた数にも入れられない僅かばかりの兵が回りにいるだけであれば、十にも満たないつわもの達だけで七千もの兵を撃破出来るだけの武勇は無い。


前回二千の兵で今回と同じ七千もの兵を倒せたのは、それが孫呉復興の為の精鋭たちがこちらも命を惜しまず戦ってくれたからなのだ。
人数だけは同条件とはいえ、各地に散らしていた二級線の兵士達をかき集めただけで今回も同じようにいくと考えるのは無理がある。

そして、普通の雑兵なら…………自身の不利を悟れば、逃げるのが当然なのだ。



こんな状況では戦力的にはどれだけ贔屓目に見てもほぼ互角。
万が一勝てたとしても、それはおそらく両者共倒れに近く、袁術を殺す事は出来てももはや孫呉を再興するだけの力は残るまい。
そんな状況で自分や妹、仲間たちだけが助かると楽観視できるほど、雪蓮は夢想家ではない。

優秀な軍師と大器を感じさせる末妹はいえ、陸遜と孫尚香だけ残してきたとしても、もはやそれはこの乱世の中では「孫呉」として残りえる可能性はほとんどないも同然なのだ。


錬度も指揮もない七千の兵。
しかしその七千すべてが、決して退かない死兵なのだ。
たったそれだけを武器に、亡者のようなおぞましい死兵たちを相手にすることを孫権らは強いられる事になるのだ。








「ふむ、ではあやつらを倒すまで蜂蜜水は我慢じゃな」
「は~い、お嬢さま、よく出来ました。そうですよ~、お約束ですものね」



何かが、何かが違う。
袁術も、張勲も、彼女らの配下も。
殺気をぶつければ怯えるところや、その余りの軍事的知識の無さ、思考能力の無さは同じなのに、何かが今までと致命的に異なっている。


今まで数だけ、領土だけが大きかった彼女らを変えてしまったものがある。
袁術配下としてそれなりに付き合いが長かった彼女達。
頑固で、我侭で、自分勝手で、他人の心を推し量る事など欠片も出来なくて……そして、愚かで。
それこそが、弱小勢力まで落ちぶれた孫呉が復興するために利用できる唯一最大の隙だった。



「うむ、妾はがまんの出来るよい子じゃかなら、もっと褒めてたも」
「さすが美羽様、よ、中華二!」
「おほほほほほほほほほほほ、じゃ」



その彼女達が、突然変貌した。
愚かさこそ変わってはいないものの行動には一本の線が入っている
今まで目先のことしか考えられずにただひたすらにしょうもないことに溺れていた彼女らが、それを放棄した。たったそれだけ。
王者であれば当たり前な、最低限度の理性を獲得しただけに過ぎないそれは、褒めるに値するものでは当然無い。


(蓮華、小蓮……祭、冥琳。こいつら、何かおかしい。今までの袁術じゃないみたい…………お願い、無事でいて)


だがしかし、初めから持ちうる力が強大である袁術らの一番の弱点であった「後先考えない行動」というものが、何らかの理由で消滅しており、自分にはわからないものの何かの目的を持って行動しているその現状に、孫策は密かに冷や汗を流した。









ぷち、ぷちん、ぷちんぷちん…………ぷち。


「ゴリラ……ゴリラじゃない……ゴリラ……ゴリラじゃない………………ゴリラ。またかよ! うう、会いたくねえなぁ。でも、能力的には惜しいし、万が一美人だったらもったいないしなあ」



意外と美羽・七乃がその腹黒さからまともに軍事行動を行っているそんな中、花占いでゴリラばっかりが出てくる一刀は、未だに「単独で千もの兵を倒すアマゾネス=孫策=マッチョ」と会うだけの勇気をもてていなかった。

いつまでも玉座に美羽を座らせておくと洗脳したとはいえ元があれなので、どんな突拍子のないことが起こるかわからないのはわかっていたが、まあ孫策撃破した直後にそんなたいそうな事が起こるはずも無いと高をくくっていた彼は、城の女官らを集めて遊ぶことで、孫策に感じた脅威を忘れ去ろうと躍起になっている。
未だ妙なところで常識的な彼にとって、七乃や天和並の細腕で何百もの兵をなぎ払う事などできようとは思ってもいなかったからだ。


だからこそ、想像上だけで築かれた一騎当千の武将は、そのイメージだけを膨らませてどんどん堅く大きく太くなっていく。



『わた~しこそ、スーパーハンサムガール、孫策丸よ。あ~ら、可愛い子ねぇ~ん、む~、ちゅっ♪』



そう、彼のイメージの中での孫策は、すでに筋骨ムキムキの隠しきれない体をむりやりピンクの紐パン一丁で押し込めようとした挙句に失敗した、ハゲ頭にもみあげのみ艶やかなお下げ、という人とも思えぬ異形となっていた。



「孫策、超怖ぇ~」



そんな孫策なら、確かに怖い。




[16162] 俎上の鯉
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/03/06 18:32


「そら、入れ!」
「言われなくても入るわ。だが、孫呉の王に対して貴様らごときがその態度はなに。それとも、王には王の扱いがあることすらも、袁術の配下は知らないのかしら?」
「っ! ……我等が王は、ただ一人のみ」
「(やっぱり、この城にいるのもそうか。一体、袁術はどうしたっていうの?)」


自身の気圧に対して、一般兵ごときが耐え切って見せる。
そんな事態に対して、突然袁術から牢屋に放り込まれる事となった孫策は改めてこの現状の異常を感じる。

正確には、さっきの兵は美羽の親衛隊を勤める紀霊とかいう武将だったので、別に名無しの雑魚ではない。
一刀による呪いさえなければ、関羽とそれなりに渡り合えるほどの腕を持つはずの武将だ……それでも関羽には一刀両断される程度でしかないし、そもそもこの外史においても男なので所詮はその程度の能力しか持たない。
だからこそ、素の状態で孫策の大器に当てられたとしたならばどうなるかわからないのであるが、人形状態の彼には鋼の心が備わっている為、孫策の推察も間違ってはいない。

だからこそ、牢に入れられて時間だけはたっぷりある雪蓮は、現状をじっくりと考えた。



「どんな妖術を使っているのかわからないけど、あの様子だったら脱出はちょっと無理そうね」



脱出。
それを考えない事はなかった。
それが出来れば自分の自由度は格段に上昇する。
冥琳を助けるにも、孫呉を復興するにも自由がなかったとしても諦めるつもりはないが、あるのとないのでは大違いだ。
だがそれは、却下せざるをえない選択肢だった。


先の様子から警備の兵を計ると、少なくとも戦場での傷が未だなお引いておらず、力が戻っていない雪蓮が単独で脱出できそうな様子ではない。
だからこそ、雪蓮は自由を諦めた。そこには自分の命を永らえる、という事は欠片たりとも考慮されておらず、何が残されるもののために最大限の利益を生むか、という冷たい方程式しかない。

おそらく蓮華らが敗れた今となっては、自身の命など党の昔に諦めている。


だが同時に、雪蓮は希望も持っていた。
牢に放り込まれたことで一層強くなったそれは、惨めな現状においてもなお彼女を強く立たせる。
ただそれは、自身が助け出されるかも、といった方面に対するものではない。


「私が何も言われずここに移される、ってことは袁術の性格上蓮華たちも捕まった、ってことはなさそうね」


身内や仲間が無事である。そのことに安堵の息を吐く。

囚われの身であっても、彼女は間違いなく孫呉の王であり、彼女の配下すべての主であった。
何一つ出来ぬ身であっても考えるのは己の安全ではなく、孫呉の今後。
今回の戦いで大痛手を被った孫呉を復興するのは、並大抵の努力ではすまない。

一度袁術を裏切った形となっている彼女らにとって、黄巾党の乱などといった手軽な手柄が存在しないこの世界では、袁術よりもまともそうなところで客将になる、といったことすらも簡単な事ではない。

今後のみんなの苦難を想像し、その彼女らを少しでも助ける為に今の自分であっても出来る事が何かないかと、必死になって頭をめぐらせるその姿は、間違いなく一刀なぞとは比べ物にならないほど尊いものであった。


(お願いみんな……無事でいて)


だからこそ。
その明朗な頭脳でもう一つの可能性を意図的に無視していることには気付いていたとしても、それをあえて無視するぐらいは許されるのではないだろうか。










「孫策に対する対応は終わったか?」



結局一刀は自分の想像でほかならぬ自分自身が怖くなってしまって、孫策に会おうという決断が出せなかった。
それが何の解決にもならない単なる先送りでしかない事は一刀自身にもわかっていたが、まあ、普通に考えていくら歴史上の偉人に会えるとはいえ、日々享楽に溺れるチンピラが進んで不快な出来事に対面できるはずもない。

彼が天下統一を求めているのはあくまで我欲、それも趣味の範囲内での事なので、今の彼にとって我慢してまで何かをする、という発想はない。
水が低きに流れるように、もはや彼はこの世界に来たときとは比べ物にならないほどに人として『劣化』してしまったのだ。



「はい、孫策さんはとりあえず牢屋に入れておきましたね~」
「手足は縛っておいたし、いろいろと仕掛けてある部屋じゃから、あの女でも自力ではでれんじゃろうのう」
「そっか……じゃあ、とりあえず孫権とかの話を先にしよう」



それゆえに、くさいものには蓋をしろ、の精神でとりあえず先送りした彼は、孫策のことをとりあえず脳裏から追い出して、ようやく一息つけるといわんばかりの表情で恐る恐る美羽たちの下へと現れた。
そんな情けない彼の姿を見ても、すでに彼の人形と化している美羽たちは諫言一つ行うことなく、笑顔で彼の指示にしたがって、先の戦場を検分してきた部下を呼び出した。


「お呼びにより、参りました!」
「うむ、一刀に状況を説明してたも」
「はっ!」


ってなわけで、こんな感じの孫権との戦争行為の結果が一刀に報告されてきた。



『各々袁家の兵に相応しき奮戦をみせるも、敵も死を賭した進軍を行っておりいかに最精鋭たる袁術様麾下の親衛隊をもってしてもその勢いはなかなか削ぐ事が出来ず。
無論、いかにそれほどの覚悟を見せたとしても所詮は下賎の軍ゆえにわれらの結束を砕く事なぞできようはずもなく、こちらの志気高く新たに開発された陣形も効果絶大であった故に壊滅も時間の問題であったのだがしかし敵も去るもの、将軍らのみをおとりにこちらの背後から教習を行い、これに気付いたわれらの一部を無理やりに引き剥がしたかと思えば卑劣にも火矢を使うことでこちらの連携を断ちそれに伴ってうんぬんかんぬん』




名門らしい様々な修辞麗句を全部聞いていると現代人足る一刀でなくても本質がわかりにくくなるので、それを端的に述べるのならば、こうなる。

結果としては「痛みわけ」という言葉がこれ以上なく似合う状態になった。
すなわち、双方の『全滅』である。



「え?」
「だから、兵が全滅したのじゃ」
「そうなんですよ~困っちゃいますね~」
「は?」



孫呉の最後の兵二千と引き換えに、あれほど強大な領土を誇り、それに相応しい軍事力も持っていた袁術麾下の軍勢は、たったの二戦で完全に壊滅したらしい。
金に飽かせて整えた時代から考えればかなりの高レベルな装備も、地域の広大さをフルに活用して集めまくった若くて健康な男達も、すべてが戦場の露と消えた。

能力の影響下にある二人は一切気にしたそぶりを見せていないが、一刀でなくとも呆然とする結果だ。



「……孫権とか、捕まえられなかったのか?」
「うむ、そんな報告は来てなかったのじゃ」
「今、とりあえず城の者を何人か派遣してそれっぽい死体が無いかを探させてますけど、正直しっちゃかめっちゃか過ぎて見つかるかどうかは微妙ですね~」



残ったものは何もなく、得られたものもほとんど無かった。

(一騎当千してないから)多分美女であろう孫権とか、周瑜とかを捕獲する事も出来なかった。
まさに丸々損である。
孫呉に対して戦いを仕掛けたことそのものの意義を感じてしまうほどの大きな痛手であった。






が、美羽や七乃は意にも介さない。

当たり前だ。
元々それほどでもない能力を致命的なまでに削られた彼女らにとって、冷静になっての現状の把握なんていう上等な事ができるはずもない。
兵が潰えようが、戦場となった領土が荒廃しようが、それが一刀の望みに端を発したものであれば二人はその結果に対して何の感情も持たない。

一刀から次なる命令を貰ったときに初めて現状の惨さに頭を悩ませるのかもしれないが、それが来るまではただただ笑っている事しか出来ない様は、まさに道具としか言いようのないものであった。


それを受けて、一刀も実はたいした事ではないのではないか、と思い始める。

太平要術の書を使えば、市民兵を二千集めるのも実に簡単であった。
兵がいなくなったんならば、また集めてやればいいんだ、と。



だが、そんな袁術が支配する領土は広大ではあるが無限ではなく、街における兵士になれる素質を持つ人間の数が有限であり、それを兵へと変える装備を調達する資金もまた限られている、という事を忘れている机上の空論がまかり通りほどには、流石にこの外史も適当ではない。

そもそも、太守の身で14000もの兵を失う、しかもそれが自身が配下にしていた客将に反乱を起こされた末に巻き起こった失態だ、という事実はそんなに簡単な事ではなかった。


『どけ、どくのです! 陳宮の前を邪魔するのではないのです!』
「朝廷よりの使者殿、参られましたーー!!」


自分は愚か自分の主の官位すらも超える人間が唐突に尋ねてきたという事態に、慌てて駆け込んできた伝令の者の声から、そのことに対する断罪は始まった。






突然王座の前に駆け込んできた少女が、これまた美少女を立てたまま大声で叫ぶのを、一刀は聞いた。


「袁術、控えるのです!」
「な、なんじゃおぬしは」
「陳宮は呂布殿の代理なのです!」
「呂布じゃとな!」


流石に表向きは何の役職にもない以上その場に同席する事なぞ出来ようもなかった一刀が慌てて隠れるのとほぼ同時に、彼の耳にその名が飛び込んできて一刀は仰天する事となった。

呂布。
天下無双と裏切り者の代名詞のような名だが、この世界では当然ながらその他の人物にもれずに女の子である。
ただ、ひたすら無口。
別に喋れないわけではないのだが、多分四六時中趣味のことを考えていて他のことに脳のリソースを使うのが惜しいのであろう。


ただ、その外見や精神とは裏腹にその力はまさに天下無双、その代名詞とも言える方天画戟の一振りで兵の数十をなぎ倒し、返す刀で数十をまたもなぎ倒す。
戦場に置いてその前に立ちつづけることの出来るものはおらず、通った後にはただ屍だけが残る。
彼女がその場において武を振るうだけで、味方は残らず奮いあがり、敵となった者はただ己の無謀さと恐怖を知ることしかできない。

無類の強力と超絶的な反射神経、異常なまでの覇気にその優れた動体視力は、持って生まれたものだけで練達の達人すらも吹き飛ばす。
その若き美貌と幼い精神とは裏腹な力は、努力よりも才、というこの外史を象徴するかのごとし。
孫策の一騎当千をも上回る、単体で数万の兵士を打ち倒す事を可能とする一騎当軍(ワンマン・アーミー)と呼ぶに相応しい戦闘能力を誇っている。



そんな呂布のことを細部まで知っているわけではないが、そのいきなりのビッグネームに目を白黒としながらも一刀は隠れたままとりあえず様子を窺う。
一刀と同じくその名を聞いて慌てていた袁術らがぎこちなく相対するのを、こそこそと見つめるその様は到底一国の君主に相応しいものには見えなかったが、幸いな事にそれに対して突っ込むものは誰もいなかった。





呂布として紹介された彼女は、学はなく、交渉能力も、軍略の知識もないにもかかわらず、その個人の戦闘能力と戦場におけるそれに付随する野生の勘とも言うべき軍事的才能のみによって、漢王朝よりかなりの高位を与えられている。

傑物孫策さえも破った人海戦術という数の暴力をすべて無に返す事が出来る、たった一人で戦場を変える武力だけで、彼女にはそれが認められていた。



「う、うむ。くるしゅうない。使者殿よ、よく参られた」
「ようこそいらっしゃいました~」



だからこそ、血筋の高貴のみを誇り、一大のみの成り上がりという内心の侮りはあったとしても、その姿を前にしては袁術や張勲ごときが張り合えるはずもない。
武力でも、地位でも負けている以上彼女達にとって依るべきものは一刀による洗脳だけしかない。

ゆえに、一刀の命に危害を加えようとする、といった状況でもない限り宮廷からの使者である彼女達にさからおうなどとは思ってもいなかった。



「……ちんきゅー」
「はっ! 呂布殿は『此度の乱を治める事が出来なかった事は、ひとえに袁術自身の統治能力が欠けているからではないか』という審問の為にわざわざ参られたのです」
「なんじゃと! 悪いのは、孫策ではないか」
「そうですよ~、こっちの言い分も聞いてください」



事業仕分けの蓮舫ばりの論調でこちらを一方的に攻め立て来る陳宮に対して、美羽・七乃ら独立行政法人側は大いに慌てて、一刀の権勢を守る為に必死になって言葉を尽くし始める。

勿論陳宮も黙ってはいない。
呂布に対して異常に心酔している彼女は、呂布の属する漢王朝の力が落ち行く現状に対しても当然憤りを感じており、それを象徴するかのごとき「たかが」反乱軍ごときに相打ちとなった袁術軍に対する怒りも尋常ではなかった。
だからこそ、その件に関しては彼女と意見を共にする宦官らなぞに尊敬する呂布殿が命令されたというその事実もあって、その語調は常のものよりもさらに厳しいものとなっていた。

何よりこの世界においては、陳宮の言葉の方が正しいのだ。





そんな中、呂布はぼんやりと虚空をみつめるだけ。
陳宮に同調するわけでも、袁術らを援護するわけでもなく、ただひたすらにめんどくさそうに突っ立っていた。
完全に役目を放棄しているとしか思えないその姿は、余りにも無防備に見えた。


それを見て、ちょっと予想外な事もあったが基本的に調子こいていた一刀の欲心がむくむくと邪心を起こす。


(呂布って言えば、三国志最強の武将だ! 裏切り者ってとこが引っかかるけど、俺の能力だったら関係ねぇ!)


能力が落ちたとしても、ある程度の強さは残るだろうから自分の護衛に相応しいのではないか、と思った一刀は彼女に対して名門らしく部屋に設置してあった隠し部屋から彼女に対して色目を向ける。




完全に他所の世界から来た一刀にとって、この外史の呂布に対して知っている事はごくごく僅かだ。

多分、今までの経緯的に呂布も女なんだろうな、とは思いはしても、それ以上のことはかつての世界で読んだ小説に書いてある範囲でしか知らない。

だからこそ、動物をいとおしむ彼女の心も、異民族であり、部族の風習でもあった刺青ゆえに彼女自身もなんども裏切りを受けてきた彼女の過去も、何一つ知りはしない。
当然、戦場において命乞いする兵を無残にも切り殺した事も、宦官らの悪行を知っていながら無視したことも知るよしもない。


ただ一刀が知るのは、伝説に残るほどの彼女の武力と、その見目麗しい容姿のみ。
それらの呂布の今までやってきた所業を知ったところで、「この」一刀がいかなる感情を持つかに差異が生じるかどうかは微妙なところがあったが、それを知らない以上結論は一つしかなかった。




そう、一刀には、彼女すらも獲物にしか見えなかったのだ。







だからこそ、邪心に満ちた目で隠し部屋から見つめ続けて彼女を操れるような状況にどうやって持っていこうかと思案を続ける一刀だったが、ふとそこら辺をうろうろとしていた呂布の視線が、こちらに向いたことに気付いた。


それだけで、すべてが終わった。


「…………」
「っ! かっはぁ!」


その次の瞬間、一刀はのぞき穴から全力で目を外して腰を抜かして座り込み、呼吸困難になったように何度も息を荒く吐き出した。
一瞬で、全身から汗が噴出し、その脳裏が白く濁っていく。


「? 呂布どのー、何かありましたか?」
「………………なんでもない」
「はっ、もしや、おなかが空かれたのですか! それは一大事なのです……袁術! 今日のところはこのくらいにしておいてやりますが、また明日も来るのです」
「…………うん、ごはんにする」



陳宮が早とちりをして呂布をつれたまま袁術の前から退席していくのを壁越しに聞いた彼は、しかしそれに対して一切の反応を見せることなく荒い息で呆然と座り込んでいた。

その顔は、このうえもなく青い。



(あれは……あれは無理だ。近寄れねえ)



剣を交わしたわけでも、戦場で相対したわけでも、互いに指揮する軍同士が向かい合ったわけでもない。
にもかかわらず、たった一度目があっただけで一刀の心は折られた。

一刀は現代人としてはそれなりの剣の鍛錬の経験がある。
それは、この世界においては単なる夜盗にすら劣るものであったが、それでもその技よりも心を重視する長年の訓練によってそれなりの度胸は持ち合わせており、それはこちらに来てからのヤクザの頭としての経験もあって、それなりの押し出しの強さは身につけているものだと彼自身は思っていた。


だが、そんなものは一合も剣を合わせることすらなく、三国無双のたった一瞥の前に容易く吹き飛ばされた。

呼吸が未だに荒く、心臓の鼓動が収まらない。
たった一瞬目があっただけなのに、その野生の勘でこちらの邪心を看破したのか、呂布は一瞬で敵意に対して殺気で応戦した。
術の効力がなければ、一刀の力なんて高が知れている。それは、こちらにきてから身に付けたやくざとしての能力も同じだった。


呂布は純真で、他の外史では主人公の性根のよさをその類稀なる洞察力で悟って仲間になる展開もある。
だが、善意に対して敏感である、という事は裏を返せば悪意に対しても敏感なのだ。

それこそが、警戒心の欠片もなさそうな言動でありながら、武だけを頼りに宮廷の地位を着々と上げてきた彼女の今の源。
陳宮の助力があったとしても、何進に手篭めにされることも、十常侍の姦計により操られる事もなく独立独歩を保ち、そして暴君と呼ばれることとなった董卓に対してその評判を一顧だにせず忠義を尽くしたりもする。


だからこそ、一刀の悪意は容易く看破され、アッサリとその目線一つで撃退された。


「…………呂布。まさか、あそこまで化け物とは」


心折られた一刀にとって、自分が術をかけられる間合いに入ることは、彼女に斬られることと同意にしか思えなかった。
こうして一刀の選択肢から、戦国無双の武将に対して何食わぬ顔で近づいて術をかける、というものが消え去った。
今の一刀の能力でそれは、無理なからぬものであった。









が、呂布との邂逅はマイナス面だけではなかった。
一刀があることに気付くのに、一役かったのである。



「…………うん? ちょっと待てよ。本物の一騎当千、三国無双の呂布が外見は美少女だという事は」


ぱたぱたぱたぱた。
とある事に気が付いた一刀は、慌ててダッシュした。

その足は、女の子相手にびびっちまった己のかっこ悪さを忘れん、といわんばかりに必要以上に勢い込んでいた。
三国の支配者を目指す自分があんなにも情けない姿をさらすわけがない、という自己欺瞞で弾む心をごまかして、無理やりテンションを上げたままで、孫策が縛られている牢屋に向かって突入していった。



「あなた、いきなり何を。というか、誰!」
「やっぱ孫策も美女だったー! さあ、俺のモノになれ!」


突然の乱入に思案が破られてもなお、孫策は誇り高く相対するが、呂布の覇気によって一時的に心をテンションで誤魔化している一刀にとって、それは何とか耐えられるものだった。
いかに英傑孫策といえども、軍勢が剥ぎ取られて手足も縛られた虜囚の身となってしまえば、呂布ほどの力は持っていない。

無論、その状態でも普通の一刀よりもよっぽどありとあらゆる能力が高いのであるが、一刀はひるまなかった。
その目はすでに色にけぶっており、雪蓮の外見だけを捉えて人格は見ていない。


本来であれば彼女の前でも蛇に睨まれた蛙のように縮こまる事しか出来なかったであろう一刀も、とても冷たい氷の次なら冷たい水でも温かく感じる錯覚のように孫策が普段よりも小さく見えた。

そもそも、彼の中での当初の孫策のイメージは『孫策丸』なのだ。
それに比べれば、雪蓮の外見はとてもよく、彼好みであり、恐れるべきものとは思えなかった。



「ちょ、いきなり何を、やめなさい!」
「呂布に比べりゃ、怖くねーぞ!」
「っ! ああぁ!」



そして、縛られて虜囚に身となってしまえば、英傑といえども一刀の太平要術の書の妖術には逆らえない。
戦場に置いて相対したときはなんの役に立たない秘術であっても、虜としてしまえばいかなるものも―――呂布すらもシモベに出来る力は、雪蓮に対しても有効に働いた。

被験者が高潔であろうが、愚物であろうが、一刀が唯一頼る力は平等に作用した。
雪蓮の内心の葛藤も、妹達を心配する気持ちも、孫呉の後を思う純粋な王者としての成り立ちも、すべて。


(くっ……冥琳…ゴメン)


敗者には、何一つ残らないのだ。




それを見てもいつもの事でしかない一刀は、もはや何も感じずに単なる作業として術を終了し、成功した事を見届ける。
そこには欲情はあっても、後悔は存在しない。
あれほどまでの力を持っていた雪蓮の瞳が力を失い、徐々に抵抗をなくしていくのを見て、一刀は安堵の声で呟いた。



「やっぱ、あんな孫策丸なんているわけないんだよな。は~、びびって損した」



一刀は知らない。

彼自身の脳裏から何故か生まれた映像、ムキムキマッチョで禿頭なのにモミアゲのみお下げ、ピンクのセクシーランジェリーに身を包んで、「だ~ぼら~」とか言ってる異形の怪人孫策丸が、この世界においては貂蝉と名を変えて、存在する事を。
一刀は、未だに知らなかった。





[16162] 水は高きより低きに流れ
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/03/10 18:50


ついに三国の英傑の一人を手にした一刀。
未だ勢力を伸ばしていないとはいえ、それでも将来の大器は見まごうはずがない。
当初予定していた孫権や周瑜を手に入れられなかったのは失敗といえるが、しかしそれでもかなりの成果だ。
この一点だけでも「金・権力・女」の為の一刀の天下取り計画は順調に、上手くいっているといえよう。



「しっかし、やっぱ道がでこぼこなのが痛いな。馬車のタイヤも全然スプリングとか利いてないし」



が、そんなノリノリいけいけなはずの一刀は今、再び旅の空にあった。

ぽっくりぽっくりと元軍馬である巨体の馬に引かせている馬車の中には、新たに加入した彼の女である孫策の姿は会ったが、前回まである意味大活躍していた袁術と張勲の姿はない。
単純に見るならば、女の数を一人減らし、金も権威もありそうにないその姿は、彼の野望に似つかわしいとは決していえない。

そもそも、前回までで荊州の実質的な太守になっていたにもかかわらず、何でこんなところにいるのか。



「ま、いつ呂布に見つかって切られるかビクビクしなけりゃいけないことを思えば、遥かにマシだけど」



単純に言えば、一刀は逃げたのだ……面倒なすべてから。







『うむむむむ、まあ、今回ばかりは反乱を起こさせたそのこと事態に関しては多めに見るのです。ですが、税の負担等に関してまけるつもりはないのです』
『な、なんじゃと~~!!』
『いくらなんでも、無理ですよぅ。孫策さんのせいでうちの領地、今ぼろぼろなんですからぁ』



一刀はこっそりと聞いていた袁術と呂布(正確には張勲と陳宮)のやり取りの内容を思い出す。
最終的に身内での権力争いで共倒れになった史実を知っている彼からしてみれば驚いた事に、朝廷は驚くほど袁術に対して居丈高に出てきた。
彼の知る三国志の歴史では各所の英傑たちに押されて、それこそそれほど強力ではなかったころの袁術にすら僭称される程度の勢力であった漢王朝が、何でまたこんなにえらそうなのか。
未だに一万四千の兵の大多数を使い潰したことにたいした感情も持っていない一刀からすれば、それはいかにもおかしく思えた。


だがそれは、黄巾の乱が起こっていない以上、未だに漢王朝の権威は十分にある、という事実を全く理解していない一刀の勝手な理屈だ。

黄巾党の乱が起こっていない以上朝廷の権威は未だにそれなりのものがあり、各地の力を蓄えつつある勢力らにしても、形式上は皇帝の臣であり、その領地は皇帝によって統治を任されているに過ぎない、という事になっている。

もはやその実情は張子の虎となりつつあるにしても、あの曹操や袁紹にしたところで正面きってまではその権威を否定しておらず、むしろ従順にしたがうことで己が利を得ようとしている。
そう、三国志の時代を彩る英雄たちが未だに誰一人逆らおうとしていない、それが漢王朝だ。

このことからすれば、仮に諸侯に対して『袁術討伐令』を出せばおそらく誰もが従うであろう現状において、権力に酔った宦官らが袁術に対して遠慮すべき事など何もない。

だからこそ、その代理を押し付けられた呂布―――正確には陳宮の言にも、遠慮の二文字はない。



『そんなの孫策に手綱を付けていられなかったお前らのせいなのです! それに、これは勅命であります!』



とにかく、極めて短い期間で荊州の建て直しを行え。
さもなくば、最悪太守の地位を失う事になるぞ。

これこそが袁術に、ひいてはその背後に潜む一刀に対して突きつけられた最終通告だった。





それらの事実を思い出して、すでに旅の空の下にいる一刀は、思わず呟いた。



「建て直しなんて、出来るわけねーじゃん」
「まあ、冥琳たちが生きていて、協力するって言うならば分からないけど、あの袁術と張勲だけじゃ間違いなく無理ね」



一刀の呟きに、隣にいるもう一人の当事者であった女、孫策も同意を示す。
かつてあれほど深く孫呉の民の事を思っていた君主としては余りに冷酷な、民を見捨てるような言葉であったがこれこそが一刀の力であることは、もはや言うに及ぶまい。
だからこそ、術の効果を熟知している一刀はそんな孫策の態度に対して疑問に思うことはなかった。

何より、内容としては彼も全面的に賛成だったのだ。



「やっぱいくら兵隊がいても、俺には向いてなかった、ってことなんだろうな」
「そうね。やっぱりあなたは、荒くれ者たちを裏から操っていた方が、似合うと思うわ。私がいるなら、戦場でも守ってあげるけどね」
「……まあ、そのときは頼りにしてる(やっぱ、雪蓮ゲットして正解だった……いい女で強い、ってのがこんなに気分がいいとは思わなかったぜ)」



荊州は今、一刀のせいでぼろぼろだ。

成人男性を無理に徴兵した城下の町からは活気が失われており、戦場となった田畑は荒れている。
戦争のために武具や糧食の為に国庫から搾り出した財政は、袁術の我侭による蜂蜜購入代金の比ではない。
周辺の諸侯からは客将一人御せないのかと侮られているし、荊州に仕えればいつ気紛れで潰されるかわからない、という事で新たな仕官もほとんどない。

今はまだ黄巾党の乱の不発生により各諸侯らによる力による群雄割拠、弱肉強食も起こっていないが、軍事的な能力もほぼ全滅している為、今この時点で急に漢王朝の睨みが効かなくなれば即座に他の諸侯らの食い物にされることは間違いない。

荊州は財政的には相当裕福であったし、街の悪人ども経由で住民感情等はほぼ一刀の統制下にあるが為に、治安の極端な悪化だとか食糧難だとか言った、今すぐどうこうという問題はおきていないが、これを元の水準まですぐに立て直すのは極めて難しいといわざるを得ない。


じかに領地を見聞した陳宮も、そう判断したからこそあそこまで無能と袁術を上から決め付ける事が出来た。


『ちんきゅー……』
『呂布どの~、ねねだってこの民を見て何も思っておらぬわけではないのです……ですが、この国の荒廃は紛れもなく袁術の不手際によるもの。それにいかに気に食わぬとはいえ、今の我々は何進や宦官らの配下……さきに決まっていた命を下さねば……』
『いい、わかった』


このままいけば、もはや袁術勢力に、荊州に先はない。
今の朝廷にそれほど有能な志士が残っているはずもないことから考えるに後任に来る太守も余り期待はできまい。
たとえ黄巾党の乱が起こらないことで戦火というものが未だ遠い現状においても、緩やかな衰退はもはや目に見えていた。
だからこそ、一刀にしてもこのままの現状を維持する事には『旨味』がなさ過ぎるように思えてならなかった。



『これは、俺も何とかしなければいけないな……』



だから、過去の一刀も考えた。
仮にも現代日本から来た物語の主人公としては普通はここで一発なんか現代知識を活用して経済発展とかをさせなければならないところだ。


だが、ちょっと考えて欲しい。
ここで今北郷一刀が内政無双とか産業革命とかするには、二点ほど問題があるのだ。




まず第一の問題点。
普通に考えて、エジソンでもない人間が原始時代で電球を作れるか?


そもそも、彼はゆとり教育のある意味犠牲者だった。

重農主義、という言葉は知っていても、それを知っているのはフランスのケネーからなる政策の一つである、というそこが限界。内容なんて、受験にはほとんど出てこないから習った覚えなぞとんとない。
「タネをまけば秋には十倍になる→農業サイコー!!」という、確実に投資した資本(種モミ)以上の結果(収穫)が得られる農業こそが、商売に優先する、という極めて単純化したレベルでの概念すらも単語を丸覚えしかしていない以上理解していない。

千歯こきの形はわかっていても、ああいう風に細い刃を何本も立てるという複雑な工程を安く便利に作る術など知りはしないし、「火縄銃を作るための最後の謎であった螺子の構造を知る為に、鍛冶師は娘をオランダ人に捧げる事を対価とした」とかいう無駄知識まで知っていても、じゃあどうやって作るんだよ、という段階になれば何一つわかりはしない。
日本刀が優れた刃物だという事ぐらいは聞き及んではいても、まず磁鉄を集める事から始まる事さえも知らないのだ。


土地が痩せるのは同じ作物を連作するからであり、その対策としては肥料を撒けばいい、という事はわかってはいても、じゃあそれやってみろよ、といわれれば肥溜めのように発酵させないでいきなり大小便を地面に撒きかねない。
普段の生活ですら母親によって世話してもらっていた過去では、日本の特産品であった醤油は愚か、戦前では各家庭で普通に作られていたという味噌さえ作れないし、日本酒だって米を原料とした酒、という知識が限界で製造法などわからない。
蒸留酒なども、温度計さえないこの世界ではフラスコとビーカー、アルコールランプでやった実験さえ再現できないから、それを作って特産品でウハウハ、なんて無理。
うまいラーメン? かん水入れるなって、美味しんぼで言ってたっけ。じゃあ何を何グラムだよ、水と小麦粉だけじゃ、パスタになんねぇか?


ウィキペディアのないところでは、社会に出たこともない学生というものは余りに無力だった。
他の外史での一刀が実質お飾りとしてしか機能していなかったように、それらの彼と比べればかなり大きな権力を手に入れた一刀であっても、実務に対しては何の役にもたちはしない。





だがまあ、それでもないよりはマシであるし、努力すれば実る可能性だって、ゼロとはいえない。
今までの概念と全く異なる発想によって、行き詰っていたものの壁が突如取り除かれる例は珍しい事ではないのだ……美羽と七乃がその例に当たるだけの実力を持っているかどうかはさておき。




だが、ここで出るのが第二の問題点。
これが、そんな些細な第一の問題点における努力だとかなんだとかをすべて無意味にする。

その内容は、このすでに荊州を出た一刀の言葉にすべてが集約されている。



「まあ、あいつらには七乃とかに絶対服従するように命じておいたから、ひょっとすると上手くいくかもしれないから、もし無事だったらまた戻ってもいいしな。とにかく俺が苦労しそうなのは、ゴメンだね」



仮に、一刀に万能の天才並の頭脳が備わっていたとしても、荊州はきっと革命的な発想により発展するとかいう事はありえない。
なぜならば、知力とか発想力とかそれ以前の問題として、この物語での一刀の位置は、『マフィアのボス』であるからだ。


マフィア、ヤクザ、匪賊。
いい方をどんなに変えたとしても、その位置の置き様は変わらない。
すべて、他人から奪った蜜で自分を肥え太らせる蛆虫の総称だ。
『天の御使い』などという地に足の付いていないふわふわとした、しかし善意に満ちた存在ではなかった。



「袁紹とかも美人らしいし、今のうちなら警備甘そうだから曹操とかの所に行ってもいいなぁ。ああ、迷う、迷うぜ」



困っている女の子を助けて、その結果としてポッ、とされるのではなく、片っ端から手から出る洗脳電波で頭を撫でる事によって操り犯していくのが一刀クオリティ。
そこには情など存在しないし、ゆっくりと一歩一歩互いの距離を詰めていく快感とも遠い。
困っている人間がいれば無償で助けるわけなどがなく、むしろ蹴りつけ、踏み台にして自分が上に上がっていく為の道具とすることが、一刀の生業だ。


そこには、将来の秋の収穫のために夏は額に汗をかく、といった考えはない。
秋の実りがほしければ、秋に誰かから奪えばいいのだ。
誰からも未だに断罪の刃が降りない事で、一刀はそのやり方がこの世界においては正しいと確信している。



当然ながらそれは、「内政して書類に囲まれてヒーヒー言うぐらいだったら、他のもっと有利そうな場所を乗っ取ろう」という発想に繋がる。
うまいものを食って、いい女を抱いて、多数の人間に自由に命令する事が出来ることが出来て、自分の名誉欲が満たされると思ったから一刀はこんなことを始めたのだ。

それが妨げられるというのであれば、きっとすぐに投げ出すだろう。

万民の正義のためや、荒廃した国を救うためといった信念とは全く裏腹な一刀のあり方。
楽なほうへ、楽なほうへと流れていき、それを常に助け続けた妖術書の力によって、もはや一刀の人格は別の外史とは比べものにならないほど歪みきっていた。




だからこそ一刀は、あの超怖い呂布に目をつけられた荊州にさっさと見切りをつけ、次なる町へと旅立ったのだ。




だから一刀は彼の女と共に逃げ出し、今は袁術を狙って移動していたときと同じ旅の空の下にある。
荊州からむさぼるだけむさぼったその姿は、しかしかつての彼とほとんど変わっていない。
だが、全く一致しているわけでもない事は、その旅姿からも現れていた。

たとえば、本来であれば前回同様ここには彼の手足となるべくチンピラどもが大挙して彼を囲むように守っているはずであったが、今回はそれが無かった。
それに気付いた大喬が、ふと一刀に対して疑問の声を出す。



「御主人様、なんだか今回は少人数ですね」
「ほ~んと、いつものあのむさくるしい連中はどうしたの?」
「ああ、邪魔だからおいてきた。今回は長旅になるし」



と、ここで冒頭にもあった、一騎当千の武将であった孫策の存在の意味がようやく出てくるのだ。

一騎当千の武将の価値は、単純に千人の兵士と同じではない。
単純に考えれば、いくら彼女らが千人の兵士と戦っても殺せるからといって、千人の兵士が出来ることすべてが出来るわけではないのだ。

千人で守る砦にたった一人で篭ったとしても、二十四時間全周囲に監視の目をおくなんてことが出来る特殊な武将でもない限り、絶対に守りきれない事は容易にわかる。
その強力をもって千人分の畑を耕す事が出来るものはいるかもしれないが、千人分作物を育てる事が出来るものはそうはいないし、知を犠牲にして武を形作っているかのごときものならば一人分も怪しい。

たった一人で千人分の戦働きをする事が出来たとしても、それはすなわち千人の兵士のメリットすべてを持っているわけではない。
むしろ、千人の兵士が出来た事のうち、戦場で戦う、という事以外のほとんどの事が出来やしない。


が、千人分の兵士と同じ戦力を、千人の兵士のディメリットなしで使用できる、というそれは、やはり絶大なものであった。


現在彼女の能力はかなり低下しているし、そもそも割と有名なのでそうおおっぴらに使うことは出来ないが、その力は未だにそこらの雑兵が束になっても敵うものではない。
関羽とか、夏侯惇とか、元の孫策と同等以上の存在と戦う事になれば一刀の呪いのせいで遅れを取る事になるかもしれないが、それでも一人で軍に突っ込め、とかでなければ大概何とかなるだけの実力は未だ保持している。

つまり、今まで能力の力で配下にした雑兵たちを引き連れる事で道中の護衛としていたが、それらの最低限度の移動中の身の守りを、孫策一人に変えることが出来るようになった。
匪賊や山賊といった者が向かってきたとしてもその程度の雑魚ならば孫策だけで何とかなるし、いざとなったらその辺のやつを孫策に捕まえさせて力ずくで無力化した後、一刀が術で戦力に組み込んでもいい。

そして、それに掛かるコストはといえば、たった一人、孫策を連れ歩く為に掛かる衣食住のみである。
武将としての価値はもはや戦場では仕えないほど低下したが、護衛としてであれば最上級の存在を一刀は手に入れたのだ。


これにより、一刀は護衛として少人数で出発できるようになる。
これは、糧食や移動手段といったものでの負担をかなり軽減させた。
その結果、何が出来るようになったか、といえば……移動距離の延長である。


千人分の働きをするものも、物理的に千人分の食料や衣服、睡眠場所を取る事はないので、これを機に一刀は何か最近荊州乗っ取りが予想以上に上手くいってて忘れがちだった「全都市を裏から操る事で天下取っちゃおうぜ」計画の再開を決めた。
孫策が手に入った今となっては、今までは旅の最中での安全のために短距離で近場の勢力しか狙えなかったのが、ここに来て完全に趣味でどの勢力からにするかを選べるようになったのだ。



「さ~て、どこいこうかな。やっぱ旅っておもしろいわ」





「ちょっとぉ! 可愛いちい達が夜盗とかに襲われたらどうすんのよ! あいつら汚くてちいたちの魅力に欠片たりとも気付かない馬鹿ばっかだったけど、いなくしてどうすんのよ!」
「そ~よね~。一刀様、天和もちょっと心配だな~ご飯ばっかり持ってっても、目的地に着けなくならない?」
「っ……孫策さんがいらっしゃるから、きっと大丈夫なつもりなんです、この人は」
「はぁ? 孫策って確かこないだの戦争の張本人じゃん! 何でそんなのがここにいるのよ!」
「また女が増えた……行く先々での会場の設置の許可といい、あの男の手腕、普通じゃないのは確かね」


とはいえ、そんな理屈など同行者に分かる由もなし、こうしてこの一行の中で少数派であるまともな洗脳されてない組、張三姉妹と雛里は一層一刀に対する不気味さを伴った不信を強めていく事となった。





[16162] 飼い犬に手をかまれる
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/03/13 18:16



鳳統。
かぼちゃが美味しいほうとうではなく、今まさに一刀の股間で大活躍している宝刀でもない。
巨大な三角帽子とふわっとよこに広がった大きなフレアスカート、そして何より丸い大きな瞳がトレードマークの幼いっぽい外見をした少女だ。

見た目はどう見ても気弱な幼女にしか見えないが、『鳳雛』とまで謳われた三国志の数多い軍師の中でもトップクラスの能力を持つ知者(18歳以上)だ。
日本では三国志といえば『孔明の罠』なイメージがあるためそれほど有名とはいえないが、かの諸葛亮すらも認めたその能力は、当然ながら一刀とは比べ物にもならない。



「朱里ちゃんがいたら、きっともっとうまく出来るんだろうけど……ううん、きっと大丈夫。そうだよ、私が誰よりも策の成功を信じなきゃ、軍師だなんて名乗れないよね」



肉体的には外見相応の能力しかないので、一刀の暴力に屈して彼の愛人となっている彼女であるが、しかし万人の平和のために象牙の塔から飛び出してきた彼女の心と、我欲に満ちた一刀の欲望は時をへても決して交わる事はなかった。



「いくら惨いことされても、わたしだけならとにかく、民まで傷つけるあんな人、絶対に許しちゃいけないんだ……」



こんな時代だ。
自身とほぼ同程度の運動能力しか持たない孔明とたった二人で荒野を進んでいく、という危険性に知者である彼女が気付かなかったわけがない。

天候悪化で道に迷って、泥水に塗れながら高熱と疲労に犯されて無残に路傍でゴミと化すかもしれない。
余りに大きすぎる目標を前に方針すら立てられず無為に路銀を尽き果てさせる事となった結果、何処かの町を目前として空腹で行き倒れるかもしれない。

すべて、覚悟の上だ。
そういった可能性すべてをひっくるめて考えても、消せない情熱、思いがあったからこそ二人は乱世に飛び出した。

夜盗に会うかもしれない?
会って、身包みはがされて、犯されて、売られることを鳳統と孔明が考えなかったとでも思うのか?
そもそも、犯されたぐらいで夢―――「天下万民の平和」という大きな大きな夢を捨てるぐらいならば、はなから水鏡先生の私塾から出てくることなどなかった、と雛里は思っている。
その思いは、今なお変わっていない。


とはいえ、そこが雛里の想像の限界であり、一刀の性癖がごくごく普通であり、少女にとって嫌悪感がありこそすれ、一般的な範疇で収まるものでしかなかった事は幸運であった。
集団から犯され、無理やり体に彫り物を入れられ、口に出来るものは異性の体液のみ、という状態でもそう吼える事が出来たかどうか、というのはわからない。
そもそも、一刀のように何一つ生きる術なくして荒野に放り出されて、生きるか死ぬかの瀬戸際になったときも同じ選択肢が出来るかどうかは、生まれたときから水鏡という優れたものの庇護下にあった鳳統はきっと考えたこともないであろう。

結局、鳳統のその思いはどこまでも高潔ではあったが……同時に、今まで飢えた事も、殺した事もなかったからこそ言えた事ではあった。



「大丈夫、大丈夫……きっと、上手くいく。一生懸命考えたんだもん。あの人たちも協力してくれるって言ったし、みんなで力を合わせれば、あんな人なんてきっと倒せるよ」



だが、だからこそ、一刀という正真正銘、生まれながらの悪党とまで言うにはまだ遠い小悪党ではそこまで惨い現実をたたきつける事は出来ておらず、その夢に支えられた強靭な彼女の心を折ることまでは出来ておらず、こうして反抗を企てられてしまえば彼の能力では防ぐ事も難しい。

一刀の術の影響下にない以上、今の鳳統は三国一の軍師の何すら手が届く天才少女。
天の利、地の利、人の利すべてに劣っているとしても、その智謀のみでひっくり返せる可能性を持つ軍師。

いかに財力や手持ちの戦力、情報といったすべてにおいて勝っていたとしても、それを指揮するのが所詮は一刀であるならば、その差だけで一刀は容易に敗者へと落とされる。
未だ、太平要術の書が彼の力の源だとは雛里は気付いていないが、気付かれて剥ぎ取られてしまえばもはや完全に無力な一般人に成り下がる一刀にとってなす術はない。
今までやってきた悪行の報いを受ける、ただそれだけだ。




わずかばかりに付き従う仲間を連れて、雛里は必死になって息を凝らしながら、一刀の寝所に向かう。

……もう、何度も通った道だ。
そのときに何度も進行経路や待機場所、撤退用の道まで確認してある。

今まであの男に体を嬲られていたことも、今日の今このときのためだと思えば鳳統には有意義にさえ思えた。
必要な情報はもうすでに十分に自分自身の目で確かめてある。
盤上をひっくり返すだけの兵力も、必要十分とまではいえないまでも最低限度はそろった。


対して、あの男が外部からの襲撃ならばさておき、内部からの攻撃にはたいした警戒を払っていない事は十分今までの経緯でわかっている。
どういった術を遣っているかは知らないが、確かに周りの人間のあの男に対する心酔だけは認めるにたる能力であり、それを持ってすれば配下に対して警戒を払うなどというのは確かに愚かなことなのかもしれない。
それはたしかに雛里も思うが、同時に自分にまでその信頼とも妄信とも付かぬ感情を元にする忠誠を求めるのは間違っている、とも感じている。

手に持った短刀は彼女が持つには余りに似つかわしくなかったものであるが、それこそが己の決心の表れだと雛里は汗ばむ手のひらで必死になってその柄を握り締める。


こうして、孫策が一時的に彼の身辺を離れている、と知る今であれば、このようにすべてを取り返されることがあるのだ、という事を彼の身に刻んでやろう、と雛里は決心を新たにして……自身も慣れぬ武器を持って、寝所に飛び込んだ。

綿密に計画され、周到に準備を行い、正義が悪を倒すといった天命さえ感じられるこの計画は雛里の頭脳をもってしても失敗は考えられない。
そもそも、失敗するような計画を『鳳雛』鳳統が立てるはずがないのだ。



「悪いけど、あんたの計画は失敗よ」
「っ!!」



それでもなお、この計画が失敗するという事実は、ひょっとすると逆説的に一刀にこそ「天命」があることを証明していたのかもしれない。







「そ、そんな……」
「…………」


武器を手に押し入った鳳統らを鏡に写したごとく、その場において待ち構えていた少女もまた、常に似つかわしくない事に武器を持っていた。
一刀が考案した使用人用の服―――メイド服なる衣装に身を包んだこれまた小柄な少女の名は、賈駆。
誰よりも愛する主君にして幼馴染の董卓のために、未だ幼いながらも誰よりも優れた軍師としてあろうとし、必死になってたった一人で戦ってきた彼女の武器は言葉であり、頭脳である為、雛里同様に武器を持つ姿は決して様になっているとはいえない。

だが、それでもその目に宿った雛里に対する敵意だけは、本物であるというしかなかった。


それを雛里は、信じられなかった。
彼女は、ここ最近の一刀の行動によって主君を奪われた少女の一人で、自分と共に一刀を倒そうと協力を申し込んでくれた一人のはずだ。

彼女はその知性から一刀の周囲に漂う不自然さを感じ取ったのか、名前を隠した孫策を頭とする旅の武将一行と名乗り、周辺の治安を何らかの手段で安定化させたことを手土産に客将として董卓に仕えたいとしてここ河東の領地に現れたそのときから一刀一行を警戒していた。
そして今なお、主君の董卓とは異なり一刀に対する態度をそのときから変えていない、この窮地での反乱においては信用の置けるはずの人物だったはずなのだ。
幼馴染にして月と彼女が呼ぶ主君、董卓が彼女とは対照的に一刀の怪しげな手腕によって彼にべったりとなったことに誰よりも憤慨しており、一刀に対する敵意を微塵も隠そうともしなかったことは、彼女とは違えど同じ敵意で一刀に対して背面服従の態度を貫いていた雛里には紛れもない本物にしか見えなかった。


だからこそ、雛里は彼女は自分と志を同じにするものであると信じたし、この綿密にくみ上げた計画の一部を優秀な彼女に任せる事を決めた。



「そんな……どうして、詠ちゃんがここに」
「いまさら謝っても許されないのはわかってるけど、いっておくわ。ごめん、雛里……ううん、鳳統。」



だからこそ、互いに真名すら交換したのだ。
だが、彼女はその名を呼ぶことすらも否定した。


信頼の結果として、彼女はこの計画における最大の脅威、怪我の影響からか噂ほどの力は感じぬものの、それでも彼女ら雑兵並の力しか持たぬものからすればまさに圧倒的なまでの武力を持つ一刀の私兵、孫策を遠ざける役割を買って出た。
そして、その結果として彼女の策略は見事に成功して、一刀の周囲から僅かな間ながら孫策を遠ざける事が出来た、という報告を残し、後はこちらの逃亡を支援する役割に付くはずの彼女が、何故ここにいるのか。

余りに余りで、唐突な予想外の出来事に常とは違って雛里の優秀な頭脳もそうそう簡単に答えをはじき出してくれない。
そんな雛里の態度をみて悲しげに表情をゆがめた賈駆は、しかしその鳳統に対して向けた剣を下げようとは決してしなかった。



「鳳統ならわかるでしょ? 孫策がここにいる以上もう勝敗は決したわ」



予想外に存在する賈駆の後ろで立ちながら、面白げに、皮肉げに、こちらを見つめる褐色の美女は確かに孫策。
報告ではすでに何処かに遠ざけられているはずであり、この一刀の命をもってすべての混乱と戦乱の拡大を終わらせる計画においては最大の脅威となるはずの女がこの場にいる以上、鳳統がその言葉と理想を説いてようやく集められた十数人の味方たちは、もはや完全に無効化された。

その顔を見て、その顔色を蒼白に染めた鳳統は、ようやく思いついた結論を呟く。



「裏切りですか……」
「っ…………そうよ」



雛里の言葉に傷ついたような表情をみせた賈駆は、しかしその言葉に反論することなく、頷く。
彼女の表情は、余りにも今にも壊れそうなほど、おそらく自分にも負けず劣らず蒼白。

今この時点においても、その顔色を見れば彼女の裏切りが当初からの予定ではなく、彼女にとって不本意なものである事が見て取れた。
だからこそ、答えが半ばわかっていながらも、雛里は叫ぶ。

彼女の選択肢では、彼女の本当の望みはかなわない、と。



「そんな……董卓さんを救えるかもしれないのに、どうして邪魔をするんですか! どの道このままじゃ……」
「あんたには悪いと思ってるわよ!」



だが、それすらも悲鳴のような賈駆の声に打ち消された。

その涙の混じった悲鳴にすら似た絶叫が出たことが、望みは完全に潰えたことを何よりも雄弁に証明している。
そのことを悟った雛里は、完全に説得を諦めた。

彼女と自分の優先条件が違う事にはとうに気付いていた。
気付いていながら、それでも大丈夫だと勝手に思い込んだ報いが今、きっと来たのだから。



彼に従うものたちの多くが何かによって心が操られているようになっている事はわかっていて、何とかして一刀を排除しようとする気持ちは同じでも、万が一でも損害を加えられるわけにはいかない存在がいるかいないかが雛里と詠との違いだった。
雛里は一刀という諸悪の根源を排除できるのであれば、ある程度の必要最小限度の犠牲はためらわない。
犠牲者無しで戦いを終えられると考えるほど軍師というのは夢を見られる職ではない。

劉備と出会い、その理想を肯定する事はあったとしても、きっと雛里は犠牲者を完全にゼロにする策よりもたった一人の犠牲で成功率が格段に上がる策を献策し続けることになるであろう。
当然ながらそれは自らが犠牲となることすらも厭わない。
単純な数と、今後世界にいかなるプラス要素を与えられるのかによって人の生死を冷静に量る、冷たい方程式こそが今の雛里の軍師としての根底にはある。

それこそが、この世界における平等ではない命の『正しい』数え方だ。



「でも、月の心が完全にもどる保障がない以上、私はあんたの計に乗ってあの男を裏切るわけには行かないのよ!」
「…………詠さん」
「怒りなさいよ! 罵りなさいよ! なんとでも言いなさいよ! それが正しいのは私にだってわかってるわよ! それでも……それでも私は、月のためにあんたを見殺すわ!」



だが、賈駆は違う。
彼女にとっては、天下すべてを引き換えにしたとしても守りたい者がある。
雛里にとっての「万民の平和」への想いと同じぐらいの重さを持つそれの安寧こそが、絶対条件。
現状が不本意なものではあっても、完全な状態のそれを取り戻せる可能性があったとしても、その守りたい自分のすべてをチップとして乗せて一か八かの賭けに出ることなぞ、決して出来ないのだ。



だからこそ少女は、決死の表情で万が一のためにと立てておいた策を使って今後の為に全力で逃亡しようとする雛里の姿を涙交じりの眼で見ながら、孫策ら一刀の操り人形らに追撃の命を下した。

それらの行為による帰結など、どちらの軍師にとってももはや、量る必要もなかった。






「来たわよ……扉を開けなさい」
『賈駆様、ご入来!!』


重苦しい音を立てて巨大な扉が開いた先に見えた玉座の間に、扉の音に負けず劣らず重い足取りで賈駆が入ってくる。

正確に言えばこの時点での董卓は天子を抑えて天下に号令をかけられる立場となっているわけではなく、単なる一地方領主にしか過ぎないため、玉座というべきではないのであるが、それでもそこは賈駆にとっては董卓以外が座る事など許されない場所であった。

だが、そこに座する男が董卓からすべてを奪った今となっては、そのことに対して公的に文句をいえるものなど誰もいない。
だからこそ、内心の悔しさを押し殺して賈駆はその前で膝を突いてそこに座する男に対して報告を挙げた。



「鳳統を捕らえてきたわよ……」
「そっか、ご苦労さん」
「詠ちゃん、御主人様の為にありがとう」
「くっ」



目線の先に映るのは、それに侍る自らと同じお仕着せの服を着せられた誰よりもいとおしい存在と、そのすべてを奪った憎い憎い男。
足を組んでふんぞり返る一刀と、その膝に乗ってその柔らかな肢体をべっとりと押し付ける董卓―――月の姿だった。

男の声はさておき、銀の長い髪を持つ儚げな雰囲気を持つ少女のいたわりの声は、本来であれば詠にとっては誰よりも心地よいもののはずなのに、それが最近はちっとも嬉しくなかった。
にもかかわらず、本来であればそんな自分の感情など誰よりもわかっているはずの少女は、自分よりも上の場所でひたすらに男に対してのみその心遣いを発揮する。



「しっかし、雛里ちゃんも危ない事考えるよなぁ……まあ、失敗した今となっちゃあ可愛いものだけど」
「そんなこといわないでください……御主人様がいなくなったらと考えたら私」
「はは、ごめんごめん。月ちゃんは可愛いなぁ」



本当にこの上半身が白装束といってもいい奇妙な服装をした男を殺したとしたならば、後を追いかねない声の甘さで自分が誰よりも知っていたはずの親友がまるで場末の娼婦のように男に対して媚びる様を見て、賈駆は唇の端を強く噛む。

そう、万が一この男を排除した後の月の動きがもはや予想さえ付かないものに成り下がっているからこそ、賈駆は不本意な現状を維持する、という判断を下してしまった。
そうであるならば、こんな状態になっているのを延々と見る覚悟はすでに出来ていたはずなのに、そういった軍師としての冷静な判断を感情が裏切り、それがその薄い唇を噛む、という事で表に出てくる。


それでもそんな荒れ狂う感情とは裏腹に現象として生じたのはたったのそれだけ。
それ以上の何一つ、賈駆には何も出来ない。



「ま、後でちょっとしたお仕置きでも受けてもらおうか……そうだ、月ちゃんも来るかい?」
「もう、御主人様ったら……でも、それを望まれるのでしたら」
「おうおう、望んじゃう望んじゃうよ!」
「やん♪」
(私が……私がこんな男を月の前に立つことさえ防げてたら)



感じるのは、とめどない後悔。

いかに城下における瑣末な不満からなる荒くれものどもら同士の争いを収めたり、城下にこっそりとお忍びで民たちの様子を見に行っていた月が争いに巻き込まれそうになったところを助けてくれたからといっても、得体の知れないものを月の傍に近寄らせるべきではなった。
たとえ月が一言お礼を言いたい、と言い出したとしても、臣下として、軍師として、そして何より親友として彼女の言葉を否定する事になったとしても危険から遠ざけるべきだったのだ、と。


自らと若干方向性が違うもののそれでも自らと志を同じくするものを、よりにもよって己の手で葬ることになった賈駆は、きっとこれからも後悔を抱えながら、しかしそれでも誰よりも愛する親友のために一刀の利を図り続けることとなるであろう。



「これからも頼むぜ、詠」
「お願いね、詠ちゃん」
「ええ……わかってるわよ…………」



そのことに詠は絶望し、しかしそれでも今なお誰よりも大切な親友の為ならば「すべてを捨てて逃げ出す」という事を選択肢の中に入れようとはしなかった。








「さて、董卓はゲットしたし、何故かこの時点で賈駆も配下に入れれたことだし、準備は万端だ」


かくして、三国志においてはいずれは劉弁を立てることで漢王朝すべての権力を掌中に入れる董卓を、未来知識を嫌な方向で生かした一刀は見事に篭絡する事が出来た。
例え一時的にではあっても皇帝の後見人というすべての諸侯に命令を下せる地位を手に入れれたならば、一刀は反董卓連合など決して成功させない自信があった。
それどころか、その地位を使って各地の英雄たちを一人一人呼び出して術の力を使ってやろう、という皮算用さえ立てていた。


そして、黄巾党の乱が起こらなかったとしてもそれは時間の問題であった漢王朝衰退の理由の一つ、霊帝の死が少々タイミングをずらして、しかし一刀の予想通りに没して何進と十常侍が共倒れをして劉弁が逃亡して…………



「おーほっほっほっほ。まあ、しかたがないですわねぇ。わたくしとて不本意ですが、こうまで頼まれたならば否という口を持ちませんわ。幼い劉弁さまを補佐する為、相国に着かせていただきますわ」
「おめでとうございます、麗羽様」
「さすが姫だぜっ」
「おーほっほっほっほっほっほ!!」



一刀の予想とは裏腹に、袁紹が都に立った。



「…………あれ? 何で?」



黄巾党の乱が起きていない以上、未来知識どおりたまたま何進と十常侍が共倒れしただけでもありがたかったのだ、と一刀は自覚するべきであった。




[16162] 宰相は細事に親しまず
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/03/17 03:31
袁紹、立つ。
現時点での最大勢力であり、おそらくその座を譲る事はそうそうないであろう豫州袁家の長、袁術が洛陽に入ったことは、歴史の流れとしてはある意味必然だったのかもしれない。



「あ~……うん、まあ今の状態やったらしゃーないわな。袁家の中でも政上手っちゅう噂の長がわざわざ出張ってくれるっちゅーんやったら、文句言う筋合いもあらへんし。案外漢王朝の建て直しをうまいことやってくれるかもな」
「袁紹……ね。ふん、とりあえず、今の時点での天下は預けておきましょう。だけど、いずれはこの曹操孟徳がすべてを統べるという事だけは、覚えておく事ね」
「ぐぬぬぬぬ……ま、まあ、よいのです。誰が天下を取ろうと結局最強の名は我が主、呂布殿以外にありえないのですから」



財も、兵も、血筋もあった袁紹が皇帝の後見人の座に座る事は、正史のようにそれまでほとんど無名であった董卓が突如その座につくよりもずっと自然であり、実際に各地の諸侯にもそれなりに受け入れられた。

漢王朝の権威はある意味袁紹をその内に取り込んだことによって補強され、今一度万民の上に立つことを許された、といってもいい。
新たに皇帝となった劉弁は完全に袁紹によって飾り付けられたお飾りとでも言うしかない存在ではあったが、皇帝を背後から操る陰の実力者がすべてを支配するというそれは歴史の流れにおいてはそう珍しいものではなかったし、大将軍も宦官もほぼ共倒れして全滅した状態においてはそんな立場の彼を救おうとするものもいなかった。



「袁紹様ってどんな方なんだろうねー」
「これで少しは村の生活もよくなるかもしれないね、季衣」



それゆえに、袁紹の支配は比較的人々に受け入れられた状態で始まった。








駄菓子菓子(昔々とある村において『菓』という何をやっても駄目な男がいたが、その菓を親とする子供は皆誰もが好む菓子のように有用であった故事からなる、反語的表現)。

それが長く続くよしもないことは、袁家の長にして最大兵力の保有者、大陸有数の大富豪にして官位を極めた、その地位に相応しい美しささえ持つ才媛、という表面上の事以上に彼女の事を知っているものにとっては予想の付くものであった。
言い換えるならば、「袁紹」ではなく「麗羽」としての彼女を知っているものだ。



「麗羽の奴が……ま、とりあえず私の近くからいなくなったことは歓迎しとくか。だけど、絶対にこのままではすまない気がするのはなんでだろうな」
「そんなに袁紹さんって、ひどいの? 白蓮ちゃん」
「ああ。どうなるかまでは私じゃ予想も付かないが、まあ確実にこのままみんなが幸せに生きていけることがなくなったのだけは確かだ」



基本的に麗羽の方向性はこの外史における一刀のそれと極めて良く似ている。
行き当たりばったりなのも、それでも乗り切っていけるだけの力を保有している事も同じだ……そしてその力が、あくまで借り物である事まで。

だからこそ、その力の行使はどこまでも軽く、そのときの気分によって簡単に左右される。



「……しかたがないですわねぇ、ほかならぬ美羽さんがそこまで窮地に陥っているというのであれば、わたくしも考えがないではないですわ。ですが、その前に何かわたくしに言う事があるんじゃございません事?」
「……はい、麗羽お姉さま。ど、どうか妾を助けてほしいのじゃ」
「おーほっほっほっほっほっほっほ。あの美羽さんが私に向かってお願いですって。初めて聞きましたけど、なんて甘美なひ・び・き。よくってよ、よろしくってよ、おーほっほっほっほ」
「(ぐぬぬぬぬ、れーはの癖に何と言うしゃくな事を! 妾を誰だと思っておるのじゃ)」
「(お嬢さま、落ち着いて、落~ち~着~い~て。ほ~ら、一刀様のためですよ~)」



ならばこそ、こうして袁術の助命嘆願にも似た荊州に対する援助要請は、ごくごくアッサリと認められたのだ。
それを聞いて主のために何とか自分たちの利用価値を保持する事が出来た事で袁術と張勲は胸をなでおろしたが、そんな歪な妖術によって形成された内面など、袁紹は全く気付きもせずにただただ上機嫌で高笑いを続けるだけだった。

袁紹からしてみれば、今はそれぞれ独立した勢力を持ってはいるものの、可愛い妹分とでも言うべき袁術が自らに対して這いつくばって助けを求めているのであれば、それに応えない理由など全くなかったからだ。
そこには、一度は陳宮によって通達された最終勧告をこうも袁紹の心積もりだけで簡単に覆すということがいかなる影響を持つのか、という事に対する考慮は全く含まれていない。



「うう~ん、いいのかなぁ?」
「何言ってんだよ、斗詩。美羽様が困ってんだったら、麗羽様が助けんのは当たり前だろ?」
「それはそうなんだけど……」



初めは袁術の助命程度で収まっていたそれも徐々に悪化し、ついには自分の我侭で少年であった皇帝劉弁を退位させ、その妹である献帝を即位させた……女性を愛する性癖を持つ彼女の好みだけで。


そして、側近たちも主の機嫌を損ねてまでそれをとどめられるほどの忠心は持ち合わせていなかった。

彼女たちにとって見れば麗羽が自分たちの諌めなど聞いてもくれない事は自明の利であったがための諦めだったのかもしれないが、麗羽の機嫌さえ取れば彼女の決定を何人たりとも覆せない、というこの現状は権力の濫用の抑止という観点からすれば、極めて不味い。
ある意味、何進と十常侍たちが互いに牽制しあう事である程度の権力のバランスを取っていたときよりも状況は悪化していたといってもよかった。




先行き不透明な、上役の都合で一応は首を切られることもある地方の臣である巨大勢力ならばさておき、帝国の中心ともなれば例え能力がどうであれ麗羽の権勢はとどまるところを知らない。
今まで麗羽の性格を嫌っていたり、能力を見下していたものが多かったとしても、その勢力がすぐさま崩れるようなものではなく、それなりに続くというのであればさっさと見切りをつけて自分に難が及ぶ前に逃げ出そうとするのではなく、その内部に入り込んで利用する事を考えるものも爆発的に増える。


なにせ、官・民ともに麗羽に取り入れば、大概のことが可能になるのだ。
ある者は塩の販売権を彼女の美しさをたたえることと引き換えに手に入れ、ある者は僅かばかりの金品を倍以上に増やし、またあるものは付け届けが気に入られたのか一気に都尉の地位を得た。
麗羽が美羽と蜂蜜酒を飲んで遊んでいるその横で、密かに漢王朝の保管する貴重な書物が次々と世に流れ出ていき、貯蔵してあるはずの糧食も定期検診以外では戸は閉められたままであるのに少しずつ減っていった。


一刀のような超常の術を持っていなくても、その口先で麗羽らを適当に誤魔化せば、今までよりも圧倒的に不正がやりやすく、またその不正自体に袁紹は関わってさえいる。
これは、漢王朝の権威の衰えを誰よりも感じていた官吏―――特に、利に敏い文官らに対して大きな影響を与えた。


武官に関してはその異常なまでの武力で持って何進らの政争からもアッサリと生還した呂布と陳宮、そして何進直属の配下でありながらこの混乱を上手く乗り切って呂布と同等の権力を手に入れることに成功した張遼、あとほとんど大勢に影響はないおまけの文醜・顔良によって抑えられていたが、優れた文官が一切いない漢王朝、袁紹組みではこの腐敗を止める事は出来るはずもない。


「なんと! 名高い袁紹殿だからこそわざわざ寄ってみたというのに、なんという腐敗振り。全く、これだから官軍という奴は……」


あ、ちなみに華雄は洛陽まで来たのですが、微妙に思考回路が変わっている彼女は取り入ることを考えるよりも袁紹の馬鹿っぷりに嫌気がさして仕官せずに帰りました。



まあ、そんな真名もない地味な人のことはさておき、とにかく多少は武官らの監視による抑制はあったとしても、名目上は文官のトップである袁紹がああなのだ。
一刀のように配下の不正を強制的に禁ずる特殊能力でもない限り、今後の政治が下がる事はあっても上がる事はありえない。


かくして、一刀とほぼ同じ精神性を持つ袁紹が都を統治し始めた事によって、黄巾党の不発生によりかろうじて表に出ることだけは押しとどめられていた官の腐敗は加速度的にその侵食を深めていく事となった。










「はーっはっはっは」


またも新たな少女と領土を手に入れたことで調子に乗っている彼の名は北郷一刀。

それをやったのは霊帝が没してなかったころ、すなわち数ヶ月ほど前の話なので今更浸るのも随分と遅いのだが、突如天から授かった対抗意識で高笑いをあげなければならない気分になっていた一刀は気にしなかった。


が、ぶっちゃけ彼のおかれている現状はそんな高笑いを許すほど優しいものではなかった。



「ちょっとあんた、笑ってる暇があったら少しぐらい手伝いなさいよ!」



それゆえ、その一刀が一切の政務を放棄しており、それは一刀ののろいによってほとんど侍女並の能力となってしまった董卓も同じであるがために政務のすべてを一手に引き受けている賈駆の苦労は並大抵のものではなかった。


彼の現在地、支配拠点は河東。
州と呼べるほど大きくもない、精々一地域の代官。
支配地の規模・漢王朝における権力的には今まで世話になっていた袁術とは比べ物にならず、一将軍でしかない呂布にも負けている。
大体現時点でようやく一つの城と三つの村を支配する事となった曹操よりは、自前で街を保有している分だけちょっとはマシ、といったところである。


ちなみに、軍事力や経済力等を勘定に入れないで単純な面積のみで支配地域の規模を順番に並べるとしたならば。



「おーほっほっほ、わたくしが一番なのは当然ですわね」

「…………」「あらあら、我等が主(仮)は、どうされたのでしょうね、桔梗」「ふん、声を出す度胸もないのだろう、この男は」

「領土が広いって……まあ、あたしらは連合だからな」「その割にはたんぽぽ達ぐらいしか表に出てこないけどね!」

「うう~、本来であれば妾こそが一番じゃというのに」「まあまあ、孫策さんがいなくても、もともと土地の面積自体はそんなになかったですから」

「え? 私、ここでもこんな順位なのか! ……私だってそれなりに頑張ってるはずなのになぁ」

「あーーーーーもーーーーー!! 貪るんだったらせめてその分ぐらい働きなさいよ! 牛でも食べた分は耕すわよ!」

「思ったよりも速度が出ないわね。これもまた、天命か」「うう、華琳様~」「姉者、落ち着け」



こんな感じとなり、見てわかるとおり一刀は下から数えた方が速い。
そのくらい、『河東』という地域は狭く、また中央の繁栄からは離れていた。


と、言われてもそもそも中国の地理なんてよくわからないよ~、と一刀同様辺境というのがどんな感じなのか実感がない方もおられよう。
いや、それを責めはすまい

というか、それが普通である。



「新しい街に来たのはいいけど、そもそもここどこなのよ! 何から何まで田舎くさくて、ちいには似合わないわ!」
「姉さん、とりあえず落ち着いて。とりあえずここは河東って地域よ」
「だからどこなのよ、そこ!」
「おね~ちゃんもよくわかんないけど、ここいろんな変わった楽器があって楽しいね~」



何せ、定住を基本とする一般庶民はおろか、旅芸人であった張三姉妹でさえも漢王朝の支配地域全土は把握していない。
いわんや、天の国から来た一刀やおや、である。

実際、三国志を読んではいても丸暗記しているほどの熱狂的な読者ではなかった一刀には、この地に来た当初は地図や地理に詳しい者を呼んで説明を求めなければさっぱりだった。


それゆえ、今更ではあるが凄く大雑把にこの外史における地理を説明するならば…………

           北

         (今ここ!)
            ↓
      馬超   董卓   公孫賛
               (旧・袁紹) 
    (袁紹)漢王朝皇帝(呂布)  曹操      
西               袁術      東    
                 (旧・孫策)
        劉璋(黄忠・厳顔)

      孟獲

           南

こうなる。
地名は記していないが、基本的に『悪一刀の冒険』であるこの物語において大切なのは米の出来高や商業上において重要なルートなどではなく、どこにどんな女の子がいるかなので、地名なぞは覚えなくてもよろしい。
故に、省略する。


まあ、とにかくちょっと詳しいものならわかるとおり三国志とも演義とも正史とも微妙に違うこの外史においては、各諸侯の支配地域は一刀の知るぼんやりとした知識のそれとはかなりのずれがあるのだが、まあこういうものらしい。


で、だ。
この超大雑把な地図では極めてわかりにくいが、董卓が統治していた河東は都からは大分はずれた辺境ゆえに、袁術の支配地であった荊州とは比べ物にならないほど経済力的には劣る。
それはすなわち、養える民の数が少ないという事であり、同時に兵の数もそれに比例して少ない。
要するに、武力・経済・文化のすべての面において、国力が低いのだ。



「ああ、もう、本当に役に立たない! あんだけ人数いてほとんどまともに字も読めない連中ばっかってどういうことよ!」



だからこそ、そんな状態でもなお何とかやっていこうとする賈駆の苦労は並大抵のものではなかった。
民の不満や治安の悪化に関しては一刀が一人で百人分以上の働きを行う為彼がいないときと比べればその面では統治は随分楽になっているはずなのだが、太平要術の書は食べ物等を生み出すことには全く持って役に立たないので、一刀がしばらく滞在する事に決めたこの河東においてそれなりに快適な生活を求めるのであれば、そのしわ寄せは彼の配下にすべて行く。

にもかかわらず、彼の配下で政治がそれなりに出来る人間は余りに少ない。
片手で数えられるほどしかいないその内訳は、心労と疲労と寝不足で今まさにヒステリーを起こしている賈駆と、その彼女に投獄されてしまった鳳統。

そして……



「賈駆様――! 雪様が五胡の討伐のためにお一人で出撃されましたーー!!」
「っ! あの女は!! ええい、とりあえず僕もすぐ行くからほかの兵士たちを集めてなさい」
「ははっ!」



どちらかというとトラブルをかける側である孫策の三人しかいない。
雪とは本名も真名も微妙に一部では有名な雪蓮が名乗った余りに安直な偽名である。
洗脳によって王というしがらみがなくなったせいか、最近毎日が楽しそうだ。


ちなみに、一刀勢力は実際にはそれほどまで無知な連中というわけではない。
一応諜報員として仕込まれていた大喬小喬姉妹、とある外史ではきちんと太平要術の書を使いこなしていた張三姉妹(というより人和)、読み下し文じゃなくても漢語が読める古典はばっちりの一刀と皆この時代にしてはまだましな学力を持ってはいたのだが、まあまともに政治が出来るはずもないのは確かなので詠からしてみれば先に上げた二人以外はみんな無知も同然である。



ま、閑話休題はさておいて本題に戻ると、都から遠くて土地が痩せている以上にさらに致命的なことに、この地は五胡の支配地と隣接している。
というか、あの図で言うと上の方が全部五胡の支配地だ。

五胡というのは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五氏族の総称であり、現在一刀たちがいる舞台に住む、いわゆる漢民族とはルーツを異にする遊牧民だ。
当然ながら、遊牧民なので農耕による徴税を基本とする人たちとはいささかそりが合わず、漢王朝の支配を受けることを嫌って距離的には近いものの敵対関係にあるといってもいい。

わかりにくければ、要するに現在地を中国風味のファンタジーだとするならば、モンゴル人のファンタジー風味をイメージすればいいとおもう。



一刀の知識的には、「え~っと、スーホの白い馬だっけ? あと、太公望の出身部族があったはず(漫画知識による)」ぐらいの認識でしかないが、この時代における遊牧民は極めて強力な勢力だ。
血のような色をした汗を流しながら一日に千里をかける名馬、汗血馬の産地であるウズベキスタンあたりとも血縁的につながりがあったと思われる強力な馬を多数有し、その馬を自分の手足のように操って戦場を駆ける。



「あ~、楽しかった。血と肉の踊る、いい戦いだったわ。さあ、一刀、今日は私の昂ぶりを静めてね」
「……(戦の後の雪蓮は、正直ちょっと怖い)」



遊牧民なので人数的にはそれほど大勢の兵を有しているとはいえないが、とにかく馬の扱いがダントツで上手く、しかもそれが部族全員である為いざとなれば漢では非戦闘員となるしかない女子供までがこちらの兵士をも凌駕する。
しかも、遊牧民だけあって定住せずに本拠地を転々と変え、当然ながら自給自足を基本としてそれほど財を持っているわけでもないから多大な犠牲を払って勝ってもうまみはない。

基本的に五胡の名前の通り匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の総称なのでそれぞれの部族が特にまとまっているわけではなく、それほどまで大規模動員をかけることを可能とする体制にはなっていないのでこちらに向かってしょっちゅう進行して来るわけではないが、それでもとても強大な敵の一人だ。


だからこそ、一刀の暴政によっていろいろな面でピンチを迎えている賈駆は、雪蓮が勝ってきているとはいえ頻繁に出撃を繰り返すことが頭が痛い。



「あ~~もう、あの猪女! 強いのはわかったけど突っ込むだけなら誰だって出来るわよ。もっと頭を使って損害を減らす戦いをしなさいよね……今回もほとんど奪えた物だってないんだから!」



はっきりいって五胡は、「そこそこ強くて、しかも勝っても得るものが無い」という戦争するには極めて分の悪い相手なのであるが、中華思想という言葉があるとおり異民族が近くにいたら支配せずにはいられないのが漢民族。
強い中国を民に見せつけようと、実利が乏しいにもかかわらず海によって隔てられた日本にさえ従属を求めてきた中国歴代王朝にとって、自分たちの支配を認めて税を払おうとしない五胡らは討伐しなければ面子が立たない。


「とりあえず、あの男が何かをしたのかもしれないけど、袁紹から何かとち狂った命令がこない事だけが救いね……」


だからこそ、五胡と隣接する領主はいつも歴代王朝から来るこの『異民族討伐令』に悩まされてきた。
しかも、連中だって不作の年は生きていく為にこちらに逆進行を仕掛けてくることもあって、それに対する供えだってしなければいけない、ともう大変。

そんな領土、先祖代々伝わる土地で愛着がある、といった理由でもなければ進んで治めたがるものがいるはずもなく、そういった愛着のある西域連合と公孫賛の間のちょうど空白地帯に位置するこの辺りは、要するに窓際の、赴任するにはあまりよくない場所だ。



「ああ、やってもやっても終わらない! このままじゃ限界が来るわよ」



何が言いたいのかというのは要するに、そんなところを一人で切り盛りしている賈駆の苦労は、並大抵のものではなかった、ということだ。
目の下のくまは取れず、その白黒はっきりとしたメイド服を着ていることからなんとなくパンダっぽいイメージにすらなってしまっていた。



「ほっほっほ、さすが妾じゃな。嫌な思いもしたが、こうなってしまえばもはや敵無しじゃ」
「や~ん、未だに兵力は全然回復してないからそこらじゅうから侮られてるのに、それに全然気付かないなんて流石は美羽様ですわ」



空のかなた向こうで袁紹をだまくらかしたことによってそれなりの時間的猶予を得ることが出来、しかし国内の状況はほとんど改善してないのに気にもせずに一向に政務に励もうとはしない袁術・張勲ペアとは対照的なまでの深刻さで、ひたすらに賈駆は親友の為に一刀の利となる行為に励んでいた。


そして、そんな彼女を尻目に一刀は。


「この近くで有名どころは、東が公孫賛で西が馬超。うう~~ん、どっちがいいかなぁ」


全く反省の色を見せていなかった。





そしてそれは。


「おーほっほっほ、流石はわたくし。今にも民の歓喜の声が聞こえてきそうな、素晴らしい政策ですこと」
「……なあ、斗詩。麗羽様はああいってるけど、ああいうなんって、ちょっと不味いんじゃないのか?」
「文ちゃ~ん、今更言ったって遅いよぅ。ああ、麗羽様は何言っても三日も覚えていてくださらないし。やっぱり私だけじゃ無理だよぅ……はぁ、せめて荀彧さんさえまだいてくれたらもうちょっとはマシだったのに」


最大勢力である袁紹の行き当たりばったり政務のやり方と、極めて酷似していた。




[16162] 小人閑居して不善を為す
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/03/17 18:53


『やってみせ、いって聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ』


今一刀がいる時代から考えれば遠い未来の名将(多分この世界なら女の子)がいうであろう人使いの極意の一端を示した言葉である。
対等の立場のものに対して依頼するには余りに馬鹿にした台詞ではあるが、自分よりも下の人間に対して物事を執り行わせるにはこれ以上なく本質を突いている。


ある程度の地位とともに責任感を自覚した人間であればさておき、凡人というのは基本的に仕事なんてしたくないのだ、それを無理にやらせるならばそれ相応の手を尽くすべきである、というそれは、この時代においても同じ。
アホにどれほど働けといったとしても、所詮はアホなのだからアホらしく使命の自覚とか高貴がゆえに求められる義務とかに自分で気付くなんてことはない。
所詮は、アホなのだから。



おだてて、脅して、懇願して、理を示して、褒めて、ちょっとだけ引いて、またおだててやらねば豚は木に登ってくれないのだ、ということを賈駆はこの数ヶ月間の苦労と引き換えにようやく学んだのだ。
この戦乱の世、ただ現状維持を続けるだけでは一年後、十年後にどうなっているかわからない、ということを熟知していた彼女は、だからこそ一刀が来るずっと前からどうにかして董卓の身を安全にすることが出来ないか、ただそれだけを考えていた。

現時点において月は一刀にぞっこんになってしまっているが、それが妖術書の力によるものである、とまでの確信を持っていない詠からしてみれば「悪い男に引っかかった」というそのことに対しては数ヶ月という時間さえあればある程度の諦めが頭をよぎっている。
実際恋に恋している感じで多少は変になっているが、それでも以前の月との共通点はいくらでも見つけられるのだ。


だからこそ、詠が考えるのは月の現実的な身の危険になりそうな周囲の諸侯の動向と、漢王朝の動きである。
現時点では公孫賛あたりが突然とち狂って責めてきた瞬間に滅びることになるのは間違いないし、現時点で都が袁紹によってしっちゃかめっちゃかになりつつあるので、漢王朝の臣としてのある程度の安泰もいつまで持つかわからない、と詠は冷静に考えていた。

有事の際の備えは、今の時点からはじめておかねばならない、と。


そして彼女は、月のためならばプライドなんていくらでも捨てることが出来た。



「ほ、本当にこれをしたら、屯田制とか言うのについて教えてくれるのでしょうね!」
「御託はいいから早くスカート捲って咥えてくれよ」
「ちゃんと約束しなさいよ!」
「わかったわかった。約束するって。だから早くしてくれ」



真っ赤になってお着せのメイド服のスカートのすそを握っていた詠は、その一刀の言葉に覚悟を決めたかのように震える手を徐々に持ち上げていった。


一刀に内政無双をするだけの能力なんてありはしない。
たかが高校生の聞きかじりの知識だけで執り行えるほど、政治というのは簡単なものではない。

だから、一生懸命政務を執り行う詠の傍らで一刀は、ひたすらにエロイことに励んでいた。
こういうことだけは真面目に日々鍛錬を欠かさない一刀の脳みそは、もはやそのことに完全に特化してしまっていた。
こうやって、ある日突然政務をやっている詠のところにやってきて下着を剥ぎ取って一日を過ごさせるなんてこと、日常茶飯事だった。



「はっやっく、はっやっく!」
「(これも月のため、月のため、月のため~~!)」
「うひょ~」



もう、悪党とか善人とかそれ以前の問題として、馬鹿以外の何者でもない一刀。


だが、だからといって一刀が政治になんの役に立たないか、といわれればそれは否だ。
一刀は少なくとも三国志と演義に出てくる人物のおおよその能力は知っているし、それ以外でも天の国から北としか思えないほどの多種多様の、風変わりな知識を持っている。

この時代のちょっと後において曹操がやった身分が低くても能力が高ければ用いる唯才是挙、すでに始めている略奪がおもな収入源だった兵士たちを農耕に用いる屯田制などについてもとりあえず表向きだけを語ることだけは出来る。
連環の計についても知っていたし、天下三分の計も勿論こんなもんだろう、とか言うことはできる。

こんな辺境の地にいながら、孔明が劉備という人物に三顧の礼で自陣営に迎え入れられた、ということをそれが実際にあっているのか間違っているのかはさておき、物語のようにある程度論理だって語ることさえしてみせた。
十日で矢十万本を手に入れる方法が船に人形を付けて敵に打たせるだけだなんて、賈駆には目から鱗の情報だった。
泣いて馬謖を斬った三国最高の軍師が、後の世で「清濁併せ呑む器量に欠けていた」と評価されたことさえ、知識は確実に賈駆に力を与えた。



それを実現可能とする知識については一切ないが、それでも知識だけならば一刀はこの時代における最高の知識人すら凌駕するモノさえその頭の中にもあるのだ。


普段の会話からそれに気付いた賈駆は、それに利用価値を見出した。
なんといっても、各地の諸侯らの大雑把な人柄から、彼らが必死こいて考え出すであろう様々な政策、計略について概要だけであっても知れる、ということは凄まじいまでのアドバンテージになる。

この段階までこれば、例え政務が一切出来ない、やる気のない一刀であろうとも利用価値がないなどとはいうことが出来ない。
だからこそ賈駆は董卓のために必死になって一刀から知っている三国志の知識を可能な限り搾り出そうとありとあらゆる努力を行った。

頭でっかちな一刀に知識しかなくて、内政、外交を行う能力が一切なかったとしても、一刀の部下である賈駆には知識さえあればそれを十分使いこなせるだけの能力がある。
そして、詠はそのことを十分自負していた。

だからこそ。
メイドにチャイナ、裸エプロンにVフロント、一人で一刀と月と三人で、お手手にお口にお尻に脇にと、風呂で自室で外で森で河で。
ありとあらゆることをやらされることと引き換えに様々な知識を吸収していく詠は、まさに軍師・政治家の鑑といえよう。




やがて、その屈辱的な日々は報われることとなる。



「禁酒法……それも曹操がやることなのね?」
「ああ。だけど、アメリカで禁酒法制定した瞬間にマフィア……匪賊が暗躍したとかいう話も聞いたことがあるような気が……」
「(そもそもあんたが匪賊の頭でしょうが!)……一長一短ってことなのね。っていうか、まずその『あめりか』ってのは何よ!」
「え~~~、教えてほしいんだったら、それなりの頼み方があるんじゃないのか、メイドさん?」
「くぅ~~~~~!!」



わざとらしく腰を突き出す一刀の前に跪いた体勢でゆっくりとその桜色の唇から舌を出しながら、議会政治という概念とその民衆に知識を分け与えた結果の危険性について一刀から学ぶ。



一刀が知っているのは、当然ながら三国志の知識だけではない。
他所の世界から来た一刀にとっての一般常識は、賈駆にとっては今まで聞いたことすらない真新しい知識だ。

猫顔人体の怪人の体長が林檎二つ分ということや郵政民営化のあんまり変わってねーじゃん感、お財布携帯という便利グッズにカップラーメンを使った自慰行為のやり方、二毛作に三段打ち、気球の仕組み。
ブックオフの商売法、パソコンの便利さ、CDの薄さと音楽配信によりそれが絶滅しかけていること、ゴム長靴の存在にアスファルトの堅さ、ゴミの分別の最近の煩さに、鉛筆の芯からダイヤモンドを作る方法。
万有引力の法則から質量保存の法則、フレミングの左手の法則にソニー製品は保証期限終了後に壊れるソニータイマーの法則。
自由とか、正義とかいう名前の付く者が碌な者でないことが、遠い未来にガンダムで証明されたことまで。


まあ、それと引き換えにこの世界のことは赤子以下の知識しかないが、一刀にまともな君主としての能力などはなから詠は求めていないので、それは問題にもならない。
ガンプラのつくりかたなんてものもあったそれらが一体どんな役に立つかはさておき、一刀はそういったこの世界では他に誰も知らないであろうことに対する知識を豊富に持ち合わせている。

他に誰一人知らないことを、この男だけが知っている。
この男では能力が足りず活用できなかった知識であっても、この世界の常識を熟知している者が見ればまた新たな面を発掘させるかもしれない。
素人の大胆な発想が熟練者がぶつかっていた壁を打ち壊す、ということはいつの時代でもあったことなのだ。


だからこそ賈駆は、自らの体と引き換えにしてもその一刀の語るしょうもない日常の話が喉から手が出るほどほしかった。
ただひたすらに、己が愛する親友のために。

そのためであれば、どんな屈辱であろうとも、黙って耐え抜こうと決心していたのだ。



「学校では一応剣道部に所属してたけど、雪蓮みたいな化け物は流石にいなかったなあ……まあ、スタイル的にもあれほどのはいなかったけど」
「(16年にも及ぶ教育によって万民に知識を与える、か……駄目ね。統治上は危険が大きすぎるし、時間も掛かりすぎるわ) ……ねえ、じゃあその制服ってのに、雪みたいな女はどうするの? あなたの服じゃどう考えてもあの胸はその服には収まらないでしょ」
「へ? ああ、男の制服と女の制服は違うものだよ。そもそも、サイズ違いがいくらでもあるし、よっぽどじゃなければ特注になんてならないさ」
「(あらかじめ幾種類もの服を工房で用意して、その中から選ばせるって形式なのね。そのことに何の利点があるの? よほどの金持ちがいく高級店ならばさておき、あまったら生地の無駄じゃない) って、やめて、胸を揉まないで!」
「まあまあ、いいからいいから」


まるで安い売春婦のようにべったりと一刀に張り付いて胸まで押し付けながら酌をしたにもかかわらず、輸送手段や生産コストが現代日本と違う過ぎるが故にその利点に詠は気づけない。
胸に対して伸ばしてくる一刀の手を本気では振り払えない苛立ちが、思考の邪魔をする。


このように、一刀のもたらす情報の大部分は与太話で終わり、賈駆に何の利益ももたらさなかった。
パソコンの想像すら付かない詠がインターネットの仕組みについて語られたとしても理解さえ出来ないし、テレビを日常的に使っていたとしてもその構造を一刀さえ理解していない状態では再現なんて夢のまた夢だ。
いかに詠の能力が一刀よりも遥かに高かったとしても、情報源が一刀なのだからそこには限界があった。



だが、その中のごく僅か。
広大な情報の砂漠の中で数粒だけ。
されど全くの一般人から考えれば比べ物にならないほどたくさん。

落ち葉や人糞、魚の余った部分等の有機物に含まれるなんかそれっぽいものが土地を肥やして収穫高を上げる、といった知っていれば即座にこの時点での政治に反映させられることから、アオカビからペニシリンが作れるという事実、ライフルの弾は回転してるから遠くまで飛ぶんだぜ、といったどう考えてもこの時点の技術力では実現不可能な、しかし重要なことまで。
実用的な、役に立つことが確かに一刀の与太話には結構な確率で混じっていた。



「(いける……コイツは馬鹿でアホでどうしようもない奴だけど、月の役に立つ部分もあるわ。利用してやる……こいつの知識を使って、僕が月の国をもっともっと強くしてみせる!)」
「ほ~ら、さっさと歩かないと城の人間に見られちゃうぜ? 散歩の再開のおねだりはしなくていいのか?」
「 …………わ、わん(そしてその後、月を何とかできる手段が見つかったら、絶対に殺してやる!)」



全裸で首輪を付けられて四つんばいで城の中を練り歩かされながら、とりあえず屯田制の具体的な形を構想し終わった詠はそう決心した。




屯田兵を作るにしても、今まで妖術を除いてまともな指揮経験のない一刀が、いきなり職業兵士たちに対して農業のやり方を指揮するなんてこと、不可能だ。
荒くれ者に適当に暴れて脅しつけて金品脅しとってこいや、というアバウトな指示は、雄大なる大自然に対しては全くの意味を持たないからだ。
だが、詠にしてみればそれは彼女の配下の一人に対して適切な指示を行うだけであっさりと実現する。何せ、発想の違いはあれどほぼ同じ時代に生きる曹操に出来たのだ。
多少の困難や実現時期の差はあれど、詠に出来ない理由がない。


二毛作なんて、何と何を作れば連作障害が起こらないのか、なんてこと、一刀は全く知らない。
そもそも、日本ではない子の中国っぽい土地でそれが可能かどうかなんて、検証しない限りわからないに決まっている。
だが、一応この国のすべてを命ずる権限がある詠からすれば、それがわからないことなどほとんど障害にならない。
とりあえずやってみて、一番この地域にあったものをその中から絞り込んでいけばいいのだ。
そういった作業であれば、詠は一刀が来るずっと前からやり続けてきている。


肥料のつくりかた?
一刀から絞れるだけの知識を搾り取った後は、彼よりもずっと優秀な詠が考え続けて実験を繰り返せば、化学肥料並とまではいわないまでもある程度の効果を持つものを作り出せないはずがない。
ならば後は、それを費用と流通と使用の面で詰めていけば、例え十年単位の時間が掛かるとしてもいつかは確実に実用化する。



こうして、徐々に一刀の与太話が実利に結びついて徐々に彼と彼女の力となっていく。
それは、ほとんどが賈駆の力ではあったが、一刀の功績があったこともまた、否定は出来ない。
この世界に来て始めて一刀が世のため人のために貢献したことである、といってもいい。



「賈駆様! またも雪様が」
「ああ……もう、ほっときなさいよ。あの女だったらたぶんまた一人で百人ぐらい倒してくるわよ」
「し、しかし。その、一刀様が………」
「何! いっとくけど、僕今ものすごく忙しいんだから、簡潔にいいなさい」
「はっ! 雪様の誘いに乗って一刀様と董卓様まで戦場に向かわれました」
「っ、何ですって~~!!」



ただ、一刀の遊びに付き合うこととなったことでさらに詠の仕事量が臨界に達しつつある中でのそういった諸制度の実装は、遅々として進まなかった。
それが別の外史で孔明が語った、『たった一人ですべてをやろうとすることの無謀さ』であるということは、一刀がその外史については全く知らないこともあって賈駆には届かなかったのだ。




[16162] 将に将たる器
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/03/19 18:46



「だ、駄目だわ……このままじゃ、このままじゃ~~」



一晩中一刀に付き合わされてがっくがくの腰を押して無理に政務に出てきたにもかかわらず、押し寄せる竹簡や書類の山の中で埋もれそうになりながら、詠は思った。
このままでは、過労で死ぬ、と。

たった一人ですべてをやることが出来ない、という孔明の言葉など聞いていない彼女だったが、その体でその真理についてつくづく実感していた。
故に、彼女の住まう城の前にある張り紙が出された。
そこには。



『人材募集。経歴、学歴、一切不問!! 求めるのは能力のみ!』



と大きく書かれていた。







「よう、詠ちゃん!」
「きゃっ! ちょっと、裾をまくらないで、仕事中なのよ!」
「まあまあ、いいじゃんいいじゃん」



色に溺れた駄目男と、それを懸命に支える少女。
絵面だけなら何処かの小説にでも出てきそうな美談にもなりそうだが、実際は極めて惨いものだった。


一刀は決して、論理立った思考を一切考えられない馬鹿ではない。
なにせ、曲がりなりにも高度な教育を12年以上にも渡って受け続けてきたのだ。
一切の思考能力がなければ、いくらなんでも義務教育終了時点で脱落している。

同じく長期間私塾において教育を受け続けてきた孔明や鳳統ほどの真剣さをもってすべての授業に取り組んでいたわけではないが、それでも大学受験を目指す程度の真面目さは持っていた。

そりゃ才能が桁違いにある孔明や賈駆と比べれば、極めて相対評価は低いものになるであろうが、それでも一般庶民とは比べ物にならないほどの教養、思考能力を有している。


だからこそ、とある外史のように真面目になってこの世界のことについていろいろと勉強していけば、詠や孔明のような天才的な文官にはなれなくとも、少なくとも一般的な文官程度の能力は持てる。
だから、今詠が直面している深刻な労働力不足という問題に対して、一刀はある程度の協力をすることが可能だ。
猫の手でも借りたい状態の詠にとって、この世界の常識の大部分を知らなくともある程度の高等教育を受けている一刀の事務処理能力は、十分に貴重なものだ。




だが、一刀にはそんな気はさらさらなかった。
彼にとってこの国は、あくまで一時的な滞在場所。
飽きたら次にいく、ただそれだけの仮宿だ。
元々異邦人の彼には、この土地自体には何の愛着もない。
都合が悪くなればさっさと次に移る、ただそれだけだ。

一度逃げた人間が、二度目は踏ん張れる、なんてのは余りに甘い見通しだ。
一刀は袁紹に都を取られてしまった以上、現状ここが今にも潰されそうな小さな勢力であるということは理解していたが、別にどうとも思っていない。
袁術のときと同様それなりに利益を吸い上げて、やばくなったらまた逃げればいいと考えている。
そのとき詠と月を連れて行くかどうかは状況と気分次第だが、まあ財も権力もすべて一時的に捨てて逃げるだけならばどうにでもなる、ということは前回で十分学習していた。


借りてるホテルの一室が段々と汚れてきたからといって、わざわざ自分で掃除をしようとするだろうか?
借り物という意識があるそれは決して自分自身のものを扱うほどの丁重さをもって使われることはなく、それにより不都合が生じれば、それを改善しようと努力するよりも新たな別の部屋を借りようとすることになるだろう。
そうである以上、詠がどれほどこの国をよくしようと苦労していようが自分の欲が優先されるし、それが満たされないとわかれば一刀が行おうとすることは、当然ながら努力ではない。


そんな臆病で卑怯者の一刀は、この国に再び呂布のような脅威が迫ればあっさりと見捨てるだろう。
今、砂上の楼閣の上で空ろに笑う袁術と同様に。
ならば、それを放置していれば詠と月の先にある未来もまた、同じものとなってしまう。





ただ、ひとつ。
詠が美羽とは違う重要なことがある。

それは…………



「ねえ、一刀。また、お願いがあるのだけれども……」
「詠ちゃんがお願い、ねぇ……いいぜ。そのかわり」
「……わかってるわよ、もう」



詠は、そういった一刀の性質を十分理解していた、という点だ。










「ほほぅ、ここが試験会場ですね~」
「風、控えなさい。すでに門を潜ったときから試験は始まってると思っておいた方がよさそうです」



二人の少女が、大きく開け放たれた門から城の中に入り、いろいろと視線を飛ばす。
防衛上城の内部を一般市民が見れることなんてそうはないので、そこまで開けっぴろげに公開することの意味を考えていた小さい方の少女だったが、もう一人の忠告を受けてそこらじゅうから彼女らを見つめる視線の意味に納得した。

すでに、試験は始まっているのだ、ということを。



「しかし、董卓殿は大胆なことを行いますね。辺境とはいえ凄まじい決断です」
「とはいえ、このような制度だからこんな世の中でも風たちのような流れ者にも機会が与えられたと思いますけどね~」
「確かに。城下の治安もかなりよかったですし、いろいろと新しい試みも試しているようでしたね」
「ま、現時点では合格といってもいいのではないかと~」



採用試験を受ける立場でありながら、その試験官側の立場の国を容赦なく採点して評価さえした少女たちの名前は、郭嘉と程立。
ここ河東では経歴等を一切問わないで、直接軍師となる試験を受けられる、ということではるばる噂を聞きつけてやってきた流れの軍師だ。


……史実では、荀彧と共に曹操を支えた名軍師であるはずなのだが、荀彧同様現時点では曹操の勢力が余りに小さくその勢力圏内をあっさりと通り過ぎてしまい、また黄巾党の乱が起こっていないために別の外史のようにその力を見せ付けて一つの城の防衛を任されそこからのし上がる、ということもなかったがためにこんなところにまで流れに流れてきてしまったようだ。
一刀が落ちてきた時点での二人の初期配置が旧孫策領付近、と比較的一刀と近い感じだったので、おそらく袁術領の混乱を避けようと一刀と似たようなルートを通って、北へ北へと進んでいき、ここまで来たのだと思われる。
通り道の途中で袁紹の統治に見切りをつけた二人は、元々ここは経由地のつもりであり、さて、西域連合や公孫賛はいかがなものか、と次の目的地を決める為の噂を集めていたのだが、そのときにふとこの河東の董卓が出した一風換わったおふれのことを知って、興味を持ってやってきたのだ。



「唯才是挙、とは聞いたこともありませんが、なるほど、私たちの周りを見ても実に多くの人間が集まっている」
「辺境とはいえそんなことを考え出すとは、賢者はいるものですねえ~……あるいはとんでもない愚者かもしれませんが」



そんな彼女たちが口々に評価するのは、史実では魏の皇帝となってから曹操が行った制度、唯才是挙。
『唯、才のみをもって是を挙げる』と書いて、唯才是挙。
わかりやすくいえば、才さえあればいかなる氏素性のものでも官位につける、というおおっぴらなおふれのことだ。


これは人材コレクターと呼ばれた曹操の名に相応しく、能力さえあればいかなる身分のものでも取り立てる、という極めて大胆な制度だ。
元盗賊の財政官や、元乞食の武官が誕生する可能性がある、というこれはこの歪んだ外史においても余りにも異質。
現代においては能力主義等によってなじみの深い概念かもしれないが、これはこの時代にとっては画期的なものだった。


なんといっても儒教全盛のこの時代、身代というのは極めて重要なものであり、現在働いている文官たちもその自分たちの職業について誇りを持って日々働いている。
にもかかわらず、それを無視して、能力さえあれば彼ら文官と同等に取り上げる、しかもそれが平民であろうと没落貴族だろうと蛮族であろうと、元犯罪者であろうと平等に。
今まで格下だと見下していた人間によって、自分たちの領域を侵されることが愉快な人間なんてそうはいない。
当然、入ってきた人間にどれほど能力があろうと、いや、能力があるからこそいい気分はしないしそれによって入ってきたものと協力しようという気にもならないだろう。



この努力よりも才がすべての外史において、一級の能力を持っていてもはや誰からも教わることがないほどの知能を生まれながらに持っていた孔明、鳳統が、わざわざ有名私塾において雌伏のときを過ごしたのは、このことによる。
水鏡の私塾を出た、という新卒の資格を持っていれば、どこの勢力に仕官するにしてもやりやすくなるのだ……まあ、袁紹のとき見たく外見で門前払いを喰らう可能性は依然として残っているが。



だからこそ、それをすべて無視する唯才是挙という制度がいかに画期的であり、同時に型破りであるかがよくわかるであろう。

年功序列を極めたがごとき儒教の概念からすれば余りに余りなその制度は、当然ながらその導入には既存勢力による多大な反発が予想される。
正史においてはあの覇王曹操ですら、自領域にて皇帝を名乗れるほどの強固な地盤固めをするまでは導入をためらったほどの危険が、この制度の導入には潜んでいた。

だからこそ、この外史においても曹操はその制度自体は考え付いていたのかもしれないが、導入は行っていなかった。
未だに小城の主でしかない自分がやったとしてもおそらく反発が大きすぎて失敗すると考えたのであろうし、事実それは正しい推測だった。
ただ、黄巾党の乱がない以上おおっぴらな手柄を立てて曹操の目に留まるほど活躍できる者はそうはおらず、結果として優秀な人材を集めることが出来ていなかった彼女は、別の外史よりも侵攻スピードは格段に落ちていた(袁紹の機嫌を損ねて追放された荀彧が徐々に彼女の勢力圏に近づきつつはある)が、まあそれはさておく。



「始めに聞いたときは耳を疑いましたよ。名家のものや在野の有名な将だけではなく、よもや五胡の民や罪を犯したものまで許すとは」
「よっぽど部下の統制に自信があるということなのでしょうね~。実際、こうやって城の中に入ってもさほど混乱しているようには見えませんし」



何が言いたいのか、といえば二人が述べるように、それはこの制度を導入したとするならばすでに機能している行政府や軍の人員が一時的、あるいは半永久的にストライキ的なことによって完全に機能しなく危険性が極めて高い、ということだ。
だからこそ、この時代においては曹操や孔明ですら考えはしても実装はしなかった。


当然ながら、それは賈駆―――詠にとっても周知の事実だ。
一刀からこの制度の概略を聞いた後に、真っ先にそのことについて思いつき、当然ながら導入は無理だと当初は判断した。
彼女自身もそれなりの御家の出なので、それが実施されたときの既存の文官の反発はとても強く理解していた。
故に、実現は不可能だろう、と。

だが、と詠は思い直した。



通常であれば一時的とはいえ行政府を完全に機能不全にする可能性のあるこの制度は、危険すぎて試すことすら出来はしない。
いかに努力より才がすべてのこの世界とはいえ、ストライキが起こった場合詠一人の能力だけですべてを支えることはこれはもう完全に物理的に不可能だからだ。
ただでさえ労働量がしゃれにならないほどになっているのに、ここで自分を手伝ってくれる人間が仕事をしなくなれば、新たな人手が入ってくる前に自分は過労死する、ということは重々承知。



が。
再三繰り返すが、だが、である。



「……? どうしたんだ、詠ちゃん」
「(……その問題点も、この男さえいれば、何とかなるかも)」



そのことを考えていた当時、詠は事を一通り終えて寝台の中で一刀と抱き合っていた。
そこで気付いた。

この男に付き合って時間を取られていては、どう考えても処理できる仕事量を舞い込んでくる仕事が凌駕する。
かといって、この男は自分が抱かせなければ月の方にいってしまうか、あるいはすべてに飽きて何処か新天地に繰り出そうとするに違いない。
現状においてこの男の知識は今後の富国強兵を論じる為には必要不可欠だ……逃がすわけにはいかない。
ならば、多少のリスクはあっても何とかして自分の代わりの文官を確保しなければ、いずれ確実に破綻してしまう。

そんな状況において、ここにちょうどよく、そういった反発をすべて無視して誑し込むことが出来そうな妙な男がいるではないか。


その事実に詠が気付いた瞬間、彼女は自分の過剰労働を何とかしてさらに一刀からいろいろな知識を搾り取る為にこの制度を実施しようと決めた。






詠がこの一刀という男と出会って、すでに数ヶ月は経過している。
文字通り寝食を共にして、彼に持った印象といえば、『小物』というのがぴったりと来る。

金が好きで、酒が好きで、女が好きで。
特に何をしたいという目標を持っているわけでもなく、しかし「俺が天下を取る」といったしょうもない大言壮語だけは尽きず、そのための努力を怠り、日々の享楽に溺れている。
特に武があるわけではないし、風変わりな知識は持ち合わせていても現実的な、今の世に添った知を持ち合わせているわけでもない。

その変わった知識を除けば特に美点はない、単なる文字にするとそんな無機質なマイナス面だけが評価として残る。


だが、それだけではないのではないか、ということも詠は一刀と体を重ねるうちに段々と思い始めてきた。



確かに詠が見る限り、この男自身の能力はおそらくほとんどない。
何が出来るのか、と問えばおそらく何も応えられないであろう男であるが、だがしかし。
大酒のみで、深い考えもなく、口を開けば法螺ばかり、酒色に溺れ、と欠点ばかりに見える男だが、どういうわけか……人望だけはやたらとあるのだ。


一騎当千とまでは行かなくても、ひとかどの武将には見える雪、何処か偉いさんの寵妃だったのではないか、という言動を見せる大喬小喬。旅芸人の張三姉妹に……自分の親友であり、主君である月。
町々での人気も高いようで、とくにならず者どもに人気がありここに着てからあっという間に彼らを纏め上げ、治安維持に一役買っている。

そんな活躍を見て、最近ではこの城の中にもあの男の信奉者と言えるような人間も増えている。
まあ、そのせいで奴をまるで狂信するような人間が仕事に手が付いていないようなので作業効率が半分ぐらいになってしまっており、余計に詠の作業量が増えているという理由もあるのだが、とにかくまるで皆が恋するかのように、まるで何かに誑かされたかのようにあの男に従っている。

自分はそこまでの魅力はさっぱり感じないし、鳳統などはそれどころか異常さまでも感じて危険視していたようだが、よくよく考えてみると、これはこれで褒めるべき能力の一つなのでは、と詠は思い始めていた。



『あの人は、きっと何かこの世に災いをなす人です! そうでなければ説明が付きません』



鳳統の台詞を思い出す。
確かに一時は自分もそんな気がした。
月を奪われたことは、まさにそんな証明な気もした。

だが。
実際に一刀をじっくりと観察した結果として。



「詠ちゃん。今日は一緒に風呂でも入ろうか」
「もう、いい加減にしてよね!」



……どう考えても、『コレ』がそんなたいそうなことをしでかせるような人物には見えない。
ただの馬鹿だ。
エロにしか興味がなく、自分の体目当てに貴重な情報をぺらぺらと喋ってくれる奴。
そんな、彼女が危険視しなければならないほどの人物には到底見えず、はっきり言ってしまうと、「杞憂だったのでは?」と思う。


確かに汚された当時はひどく憎んだが、最近では体の成熟と共に楽しめるようになってきていた詠はサルのような一刀に延々とつき合わされていることもあって、割とそっち方面の抵抗感がなくなってきていた。


だからこそ。



廊下を歩いて中庭の方に向かっていた一刀の姿を見て、詠は一気に走りよったかと思うと大きな声で自分のやろうとしていることに対しての協力を求めた。
もう、コレだけ一緒にいれば、彼の動かし方ぐらい天才軍師には十分わかっていた。



「こんど、唯才是挙をやろうと思ってるから、あんた城のみんなを説得しときなさい」
「へ?」
「うん。わかってるわ、ただでは嫌なんでしょ。だから……今夜は楽しみにしていなさい!」



当然呆然としている一刀だったが、それすらも考慮しないで詠は再び自分の要求とそれに対する一方的な対価だけを伝えて火照る頬を押さえながらすぐさまきびすを返した。
覚悟はしていたとはいえ、自分のやったことが余りにもはしたなく思えたからだ。

だが、それでもそれを撤回しようとは思わなかった。
だから、急いで走って目的地を一直線に目指す。



「…………ひょっとして、デレ期が来たのか?」



言いたいことだけ言って足音も大きく自分から逃げるように去っていった詠の後姿を見て、しばし呆然としていた一刀であったが、やがていやらしい笑いを浮かべたかと思うと、スキップ踏んでくるりと後ろを向いて城の方へと向かっていった。
力ずくで恥ずかしがる詠に対していろいろやるのも楽しいが、最近微妙に当たりが柔らかくなってきた詠と体を重ねるのも、一刀にとってはとても楽しいひと時だった。

だからこそ、何か余計な条件がついていはしたが、ついに彼女から誘いをかけてくれた、という事実の前にはそんなことどうでもよかった。
故に一刀は服の上からしっかりと太平要術の書を握り締めて、さっさと面倒なことを終わらせてしまおう、と思って『真面目に仕事』をしにいった。



「……やっぱ、ただの馬鹿ね」



それをこっそり別の道から回り込んで監視していた詠は、やっぱりコイツ実はちょろい、ただの凡人じゃないのか、とか思い始めていた。
一刀が自分のために何人もの人間に対して『妖術』という悪質な手段を使ってまで操っていたことを知らない詠がそう考えてしまうのも、無理がなかったのかもしれないが。


こうしてわりと情に厚い彼女は、自分の『初めての男』をその性格面ではある意味過大にいい人のように評価しており、そして妖術書のことを知らないせいでその危険な洗脳能力をある意味過小に評価していた。






「さてはて~、一体どのような問題が出るのでしょうね~」
「試験を受ける立場ではありますが、正直なところ、少々楽しみです」


こういった経緯にて、郭嘉と程立が、河東にて行われている唯才是挙を受けることとなったのである。
彼女らの価値を知っているはずの一刀の意思を一切抜きで!




[16162] 去る者追わず、来る者拒まず
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/03/21 16:49




とりあえず、現時点において詠は一刀の操り方をある程度理解している。
たとえば、衣食住はある程度のレベルであればそれ以上は求めない、という元匪賊にしてはやたらとこじんまりとまとまってしまっているなあ、と思っている。



食事については問題ない。
初めのうちは満漢全席などという聞いた事もないわけのわからぬ豪奢なモノを要求してきたのだが、それも最初だけ。
ツバメの巣だとか熊の手などといった取れにくく調達しにくい高価な食材も一度は求められて出したものの、あまり口に会わなかったのか二度の要求はなかった。
財政的には確かに痛かったが、それでもたった一回の気紛れぐらいであればかろうじて国庫も持つ。

どうやらラーメンだとか麻婆豆腐だとかいった庶民的な料理の方を好むようだったのは、幸いだった。
まあ、たまに米糠に塩を混ぜて、そこに野菜を入れてしばらく置いたのを出せ、だとかいうこれまたわけのわからないものをほしがったりして戸惑いもしたが、金額的に安い、しかし妙な工夫ばかりというのは、料理人にとっては頭の痛い問題であろうが詠的には助かるので問題ない。

だからこそ、食に関しては問題がない、と太鼓判を押せる。


衣服についても、極めて安く上がった。
詠すらも知らぬかわった生地でできた、一刀が初めから来ていた衣服はやたらと丈夫で、しかも本人も気に入っているみたいなので、それを基本として後はチョコチョコ、っとしたものを用意するだけですんだ。
一応この国の王として相応しいだけの服も予算を割いて作るつもりだったのだが、本人が「重くてジャラジャラするから嫌だ」と言って断ってきたので、結局それも放置されている。
まあ、月のそばに寄らせる以上着たきりすずめというわけにも行かないのである程度は作らせたが、金糸や銀糸を使ったものについてはやたらと『派手』だとか『こすぷれ』などといって嫌がるので、やたらと安く付いた。

一刀に言わせれば、自分や月の服すらも派手になるらしい。
これ以上装飾を落としたら庶民、それも乞食寄りの庶民のものになってしまうと思うのだが、詠自身の感性からすれば普通極まりない程度のものでも一刀にとっては派手らしい。
その割にはやたらと光沢のあって光ってるもともとの服については大丈夫だと思っているらしいので、よくわからない。
まあ、手間が掛からないのはいいことだ、と詠は思ったので、追求はしなかったが。

ただ、『ばにぃ』だとか『せえらあ服』だとかいった、やたらと奇妙な、しかし露出の多い衣装をこちらに着せようとばかりしてくるのは閉口するが、まあ我慢の範囲内だ。



住処についても、問題ない。
寝台だけは何か妙なこだわりがあるのか、普通の生地では肌触りが悪いだとか何とか言って、絹で作らせられるという散財をさせられたが、別にそこら中に極上の緋毛繊をたなびかせろ、だとか波斯国から絨毯を運ばせろ、といった豪奢には興味がないようだ。

どうも、調度品の豪華さよりも部屋の広さの方に豪奢さを感じるという、妙な感性をしているらしいので、とりあえず用途もなく日当たりも悪かったので誰も使っていなかっただだっ広い部屋にこれだけは豪華な寝台を運び込ませて与えておいたところ、やたらと満足していたのでよしとする。
今まではよほど小さな部屋に住んでいたのか、「この世界の王族の部屋ってのはどこも広いんだな」と月付きの従者用に使っていた部屋に入ってまでも呟いていたのが印象的だった。




とにかく、一刀は日々遊んで暮らすことを望んでいる割にはそれほど維持費に金の掛からない訳のわからない匪賊なので、それなりのものを与えた後は、普通の女官らの裁量に任せてもはや詠はそっちの面倒を見ることさえなかった。

そう、衣食住については放置していても問題ない。
だからこそ詠は、放置しておいてはいけない問題の方に向かうことにした。








「…………何故、私たちだけがこちらに通されたのでしょうね?」
「さあ~? 凛ちゃんが何かしでかしたのがばれたんじゃないんですか」
「それをいうなら、門の前であんなことを大声で言い放ったあなたの方が問題でしょう!」
「ぐぅ……」
「風っ!」
「おおぅ……」



漫才のようないつものやり取りを終えながらも、郭嘉と程立は困惑していた。

自分たちは唯才是挙をモットーとした河東官吏試験を受けに来たはずだ。
自分の実力にそれなりの自負を持つ二人からすれば、本当に建前通りのコネや伝手、賄賂なしの実力主義であれば採用される自信があった。
もし、落ちたとしても、このようなことを考え出すものの出す試験問題には興味があったのでそれが満足に足る、自分たちを落とすほどの奇問難問であればそれはそれでよし、それとも全く平々凡々で内容からすれば落ちるはずはないのに落ちたならば「唯才のみをもって是を挙げる」というのが建前に過ぎないことを自分自身の身で確認できた、所詮董卓も凡人だった、という笑い話を得られるのだからそれもまたよし。



だからこそ、とりあえず試験を楽しみにして心待ちしていたのだが……二人が受付で名前を書いたとたんに、官吏が顔色を変えて、二人を別室へと案内した。
流石の二人でも、この展開は予想していなかった。



正直、逃げ出したいほどの急展開だ。

正史においては悪名交じりとはいえかなりの有名人である郭嘉、程立の二人でも、現時点においては全くの無名だ。
何せ二人は有名私塾を出ていたわけでも、親戚縁戚に政府の高官がいるわけでもない。
完全無欠に一般人であり、旅の空にばかりいた、というそれは、下手すると一般庶民としてよりも、盗賊寄りの評価を下される可能性がある。
通りすがりに夜盗や匪賊を倒したりもしたが、それも同行していた強力な武将の力あってこそであり、一兵も持たぬ状態では軍師としての二人が活躍するような場面はほぼ無かった。

能力自体は極めて高いので、黄巾党の乱でも起こっていればその力を持って何処かの軍に潜り込めでもすればめきめきと頭角を現すこととなったであろうが、争いの気配はあっても未だに発生はしていない現状において、その力をアピールする機会は与えられていなかったために、二人は未だに無位無官のまま、ずっと活躍の場を求めて流れてきたのだ。


だからこそ、誰かによって嵌められた場合、それを弁解できるだけの機会が与えられるかどうかはかなり微妙なところがある。
もともと交通の弁が発達していないこの時代において旅人なんて、商人でもなければほぼ夜盗、といってもいい。
二人は全くそんなことをしていなくても、世間の目はそうとしか見ないのだ。
『やべぇ、誰かから恨みを買ってたのか?』という方向性で表情こそは軍師のたしなみとして平然としてはいても、内心は結構あせっていた二人だったが、その案内された先の部屋を前にして、さらに疑問符を大きくすることとなる。



「賈駆様。郭嘉殿と程立殿をお連れいたしました」
『え? ほんとにその二人が来たの? すぐ入りなさい!』
「はっ! お二人とも、どうぞ中へ」



どう見てもそこは、高官の部屋の前だったからだ。
暫定的に嵌められたケースの対処法を考えていた二人にしてみれば、これまた予想外の展開だ。
中からの声にしたがって入ってみると、そこにはあふれんばかりの書類と竹簡の載った机を前に凄まじい勢いでそれを右から左へ目を通して印を押す少女の姿があった。

それを見て二人は、ようやく最初の予想、それ自体が誤っていた事を認める。



(この方が、董卓様の懐刀と呼ばれる賈駆様ですか~)
(噂どおりの切れ者のようですね)



あっという間に片付けられていく書類の山を、そしてそれでも途切れぬ仕事の量を見て、二人はアイコンタクトだけでそう会話する。

賈駆の名前は二人も知っている。
董卓の幼馴染にして、彼女を支える最大の剣。
河東最高の政治家だ。

税を安く、不正を減らし、軍を強くする、といったその卒のない統率力もさることながら、二人が注目しているのは最近始めた多種多様な風変わりな政策の数々だ。

現時点においてはほとんど導入しているもののいない屯田制を実行し、新たな農業案―――例えば、二毛作といった特殊な耕作法を考案したし、この唯才是挙を考えたのも彼女だということだ。
それらによって実際に民の為になるほどの成果を上げられるかどうかの評価についてはこれからの結果次第であろうが、それでも売官や賄賂がまかり通っている漢王朝の凡俗な官僚たちとは比べ物にならないほど意欲的に働いている政治家の一人。
今はまだその名も差ほどではないが、これらの政策が成功したときにはおそらく大陸全土に名を轟かすこととなるであろう、大胆な発想とそれを実現するだけの力を持った英傑だ。


実際に本物と対面してみて、その市井の噂が嘘ではなかったことを確信する二人。
ちらと見ただけの書類においても、多種多様な分野に関する問題が彼女一人に裁可されているものを示すものであった。
その顔色があまりよくないことですら、寝食を削ってまで国に尽くしているのだ、と二人は好感を持った。

やがて、仕事に一段落がついたのかくるり、と丸椅子から体を回して郭嘉と程立をその部屋の一角の応接スペースのような場所に誘導したかと思うと、賈駆は自らも座るとほぼ同時に口を開いた。

その口調には、どういったわけかたった一受験者に対するものには余りに過大すぎる熱が入っていた。



「よくきてくれたわね。私がこの試験の責任者の賈駆よ」
「このたびはお目通りを許していただき真に……」
「ああ、そんな挨拶はお互いに省きましょ、郭嘉」
「はっ!」



真面目な彼女からしてみればある程度の礼儀というのは社会を渡っていく上では必要不可欠な潤滑油だ。
権力者に媚びる、という意味では決してないが、それでもある程度の社会的地位の持ち主相手に対しては礼儀を払うべきだ、と。
それがどんな俗物であっても基本的にはそのスタンスでいる郭嘉にとって、今まさに実績を上げつつある賈駆はその対象としてそのものズバリな存在だ。
だから、えらくフランクな返答に対してひたすらに真面目な彼女の価値観からすれば違和感を覚えて眉を僅かにひそめはしたが、まあ確かにそんな長々と挨拶をしていられるほど暇そうではない、ということで自分を納得させる郭嘉。

それに対して程立は、面白そうに瞳を細める。
演義では曹操軍の悪評の三割以上はこの人物のせいにされているといっても過言ではないほどの悪役に描かれていた彼女は、この外史においても比較的謀略を好み、邪道とされる型破りなことを好む。
そんな彼女にとって、面接官側の長でありながらも詠の余裕なさげな態度は逆に興味をそそったらしい。



対照的な二人の反応を前に、しかし詠はそれを予想通りといわないまでも、しょうがないなあといわんばかりの態度でスルーする。
それもまた、二人にとっては居心地が悪い。

大概の人間であれば、少なくとも風の態度については実際の行動に移るかどうかはさておき、内心では突っ込みを入れるからだ。
この会話の時点ですでに試験が始まっているはずなのに、その余りの手ごたえのなさは異様だった。

自分たちは未だにその能力の一片もみせたつもりは無い。
にもかかわらず、この合格決定のようなゆるい雰囲気は一体なんなのだろうか、と。

その疑問を口にする前に、逆にそのことに対する肯定が賈駆の口から出たことでさらに戸惑いは大きくなった。



「二人の能力はある程度までは把握しているわ。だからこそ、他のものとは別の扱いをするように命じておいたの」
「なんと……」
「……あの~、唯、才のみを持って是を挙げるのでは?」
「はっ! ……そうですね、風。賈駆様、お目星は大変ありがたいのですが、これでは不正が横行していると見られても仕方がないのでは?」



望外の内定待遇に驚きを隠せない郭嘉。
何をしたでもないにもかかわらず、他の候補者と自分たち二人だけがこうまで差別化されるのはよほど評価されているようだと気を引き締める彼女だが、相方の鋭い突っ込みに自我を取り戻す。


能力さえあればいかなるものでも、ということは裏を返せばいかなるコネ、賄賂も能力のうちに換算しない、と宣言したに等しい。
コネ以上に能力によって平等に採用・不採用を決める、ということこそがこの制度の強みなはずだからだ。

そして、賈駆は、この制度の試験官側はこちらの能力を知っている、とはいったが、正直それは半信半疑。
自身の能力が人に知られるほどではない、という意味ではなく、むしろ機会を与えられなかったからだ、とは思っているが、現状においてそれほどの活躍をしていない、ということだけは否定できない純然たる事実だからだ。


それなのに、未だ名簿に名前を書いただけの二人に対してだけ特別待遇を行うということは、すなわちこれも一つの差別に変わりない。
たとえ二人が普通の試験を余裕で突破できるだけの能力を持っていたとしても、否、持っていたならばなおさら他の者と平等に扱わねば、不正を疑われる。
例え評判によって能力が明らかであっても、他の者と平等に扱わねばこの試験のお題目が疑われることになりかねない……ましてや二人は、全くの無名なのだから、外見や賄賂で彼女を釣ったという目で見られることは十分ある。
そもそも、どこで自分たちの能力を測ったというのだ……これでは、適当に選出した者に意表の突く展開をぶつけることで恩を着せるとしか思えないではないか。

この制度の趣旨に共感し、その発想の大胆さに感心し、現実の賈駆を見てその姿に感動した二人だからこそ、それらすべての評価を一変せざるを得ないその行為に内心の失望を隠しきれない。


だが、それは賈駆にとっては予想されていた質問でしかなかったようだ。
よどみなく返される答えには、想定の色が見え隠れしていた。



「ああ、それについては多分大丈夫よ。この名簿を見て頂戴」
「? ……こ、これは!」
「風と……稟ちゃんの名前?」



半分以上巻き取られて隠された竹簡。
見た目はこの時代において一般的に使われているそれとなんらかわらぬものであったが、それを覗き込んだ二人は絶句した。
そこには墨も黒々と『郭嘉』と『程立』の名が記されていたからだ。
その筆痕は、どう見てもつい先ほど書き込んだとは思えぬほど、乾ききっていた。


自分たちが名簿に名を書いたときにその場にいたのは、ここに自分たちを連れてきた受付の男たった一人だけ。
そして、この国に二人が入ってきた時から試験は一両日もあけずに開かれた。

つまり、受付の男以外にこの場において賈駆が対面する前に二人の名を知る手段は、二人が普段はお互いを真名で呼び合っていることから考えても、相当以前から二人のことを監視していた―――それこそ、街に入る前にでも―――場合しか考えられない。
たとえ受付で自分たちが名前を書いた後に、二人が案内される前に誰かが駆けて賈駆に注進にいったとしても、このように書き込んだ墨が少なく見積もっても本日よりも以前に書き込まれたかのように乾いていることは、ありえないからだ。

つまり、本当に賈駆は……この地にいながら、放浪する二人の名を、事前に知っていた?



「すでにここの文官連中には、この試験をやると公表した一月以上前にこの竹簡を配ってあるわ。この名前を名乗る人間がいれば、無条件で僕の前に連れてきなさい、ってね。だから、少なくともすでに勤めている連中の口から不正を疑うことはありえないわ……いくらなんでもここに書いてある全員とこの地でずっと仕事しながら賄賂やコネのやり取りをするなんて、無理だなんて一目でわかるし」


下っ端相手ならばさておき、トップ直々の命令によるそれを、不正と疑うのはなかなかに難しい。

そのことをただ竹簡を見せるだけで証明してみせた賈駆に、自身の能力と、それに反比例する自分たちの名声のなさを知っていた二人は正真正銘度肝を抜かれた。
竹簡は未だ仕官をしていない二人に対する機密保持なのか、ごくごく一部、二人の名前が並んで載っている部分だけを開示しているに過ぎないが、分厚さからすると名前を書かれている人物はまだまだいるらしい。
いや、無位無官の自分たち二人が乗っていたのであれば、それは……


このような辺境でありながら、優秀な人材を多くリストアップした一覧を作りえる情報収集力。
情報を制する者がすべてを制する、という未だに世間では知られぬ事実を優秀な軍師であるが故にとうに承知していた二人にとって、この辺境においてそこまで意識を高くしている賈駆のことを少々信じられなかったのも無理はなかろう。



だからこそ、二人はお互いが同じ気持ちであることをその目線だけで確認しあい、ずい、と体を前に出した郭嘉がやがて、おずおずと、しかし内心の荒れ狂いそうになるほどの感情を押し殺して、呟くように賈駆に対して問うた。

問うのは、共に時を過ごし、真名すらかわした気高き武将の名前。
未だ無名ながらその豪槍の腕前は、武官ではない二人をもってしても天下第一と感じられた。
自分たちと武と文と、方向性は違えども共通するところを感じていた彼女の名が、もし自分たちと動揺にその所に記されていたとするならば……もはや、疑う余地もない。


その質問こそが、二人の仕官願いの最後の門であった。



「…………その竹簡の中に、趙子龍という名はございますか?」
「え~っと、ちょっと待ちなさい。趙子龍、趙子龍っと……」



そう、自分たちの能力さえもすでに知っていた、知りえたと相手が主張するのであれば、この問いにもよどみなく答えられなければならないはずだ。
本当に、大陸全土の優秀な人材すべてがその書簡に記されているのだとすれば……あの気高き槍の使い手、趙子龍の名が記されていなければ絶対におかしい。
その名が無いというのであれば、きっとそれは何処かにトリックがあるに違いない、と。
自分たちを囲い込むことだけのためにそれほどまでの策を施していたというのであればそれはそれで尊敬すべき人物であるとは思うが、だからこそ確認だけはしておかねばならないのだ。


突然の郭嘉の質問にも、彼女自身も優れた軍師であるがゆえに先読みしていたのか、詠は戸惑うことなく受け入れて、確認を始める。

二人は祈るような気持ちで竹簡を手繰る賈駆の手元をひたすら見つめる。
九割ほどは、あるわけがない、むしろなくあって欲しい、という願いで。
そして、残りの一割は、ひょっとすると本当に乱世を制するほど、自分たちが身命をとして仕えるほどの主が存在するかもしれない、という期待で。

そして、その期待が。



「うう~ん、残念ながらないわね」
「そうですか」
「でも……」
「?」
「趙という性では、趙雲、という武将が第一に挙げられているわね。槍の腕の持ち主として」
「「っ!!」」



裏切られることはついになかった。

その衝撃は、黄巾党の乱がなく、自分たちの実力を世に示す機会がなかった分だけ、ひょっとすると曹操に対して自分たちを売り込んだときよりも大きかったかもしれない。



[16162] 弱肉強食 共存共栄
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/03/23 18:39


(うまくいったみたいね……まあ、驚いてもらえなきゃせっかく作ったこれもそのかいがないってものでしょ)


不意をうち、一方的にこちらの声を突きつけ、思考の隙に新たなる驚愕を叩きつけて冷静な対処が出来ないであろうときに内に取り込もうとするその手腕は、まさに賈駆の軍師としての面目躍如といったところか。

自らの策によって生じた、二人の平静を保とうとして、しかしその内なる驚愕を隠し切れない表情をあらためて見て、詠は二人の仕官を心から望む。
二人のその美貌は、まさに己の配下に相応しいものだからだ。



郭嘉。
真名はどうやら凛というらしい。
スレンダーな肢体を持ちながらも付くところにはきちんと肉が付いた体型であり、太ももなども十分なまでに張っている。未だ成長途中、といった感もなく十分に成熟しきった、しかし未だその期間が短く初々しさを感じさせる美女だ。
真名に相応しい凛としたまなざしと、その白いかんばせは、りりしい秋花と例えたとしても緒人から異論を受けることはなかろう。
なお、詠は知らないがこの外史においては貴重な『ろりぃ』でない軍師の一人である。


程立。
風という真名を名乗っている少女。
浮世離れした外見はその僅かに毒の混じった言葉すらも忘れさせるほどの雰囲気を漂わせている。
真名が示すとおりふわふわとした髪と言動とともに、その瞳を常に細めながらも周囲を容赦なく見つめる彼女は、体型自体は詠よりも幼いといってもいい。
だが、肌の白さやその微笑の甘さに誘われる男は確実にいるであろう。
同姓である詠には未だよくわからぬ概念ではあるが、少なくとも彼女が女として大喬小喬に劣るところがあるようには見受けられない。
一刀の好みに当てはまらないことはないであろう。


二人が二人とも、リストにあった人物。
その軍師としての能力は、正直なところ未知数であるといってもいい。
今までたった一人で董卓を支えてきたとして、自分の能力に相当の自負を持つ賈駆からしてみれば、生まれたときからそういった訓練を積んできたわけでもない人間に対する不信感というものは、未だに残っている。
血縁からの同族支配による統治、という手段は確かに美点ばかりではないことはわかってはいるが、それでも幼いころよりそのこと専門に教え込まれる、という教育による育成ということの価値は何事にも変えがたいものだと詠は思っているからだ。


だが、それでもなお、詠は二人の仕官を望む。

一刀との契約を守る為にも、この二人を絶対に逃がすわけにはいかない。
絶対に、だ。

リストに挙げられる条件は、能力ではない。
そこに上がっているものは皆、「一刀の基準」で有名なものばかり。
この世界においても、美貌を持つと思われる女性の名前が、そこには列挙されているのだ。






思い返すのは、一刀にこの竹簡の元となるものを書かせたときのことだ。



「……めんどくさい」
「ちょっと! こんなにしてあげたってのに、約束守らないつもりなの!」



特注の巨大な寝台の上で、言い立てる詠を前にしても一刀はやる気を見せない。
せっかくこんな恥ずかしい猫を模した耳に尻尾まで付けさせられて、『にゃー』とか言わされたにもかかわらず、そんな態度。
約束違反にもほどがあった。


が、二人の立場においては一刀が圧倒的に有利なのだ。
月を握っている以上一刀がいかなる不義理を果たしたとしても、それを本当の意味で真っ当に糾弾することなど詠には出来やしない。
このままだと、精々、愚痴ったり無視したり、といった軍師らしくないしょうもない嫌がらせが出来るだけだ、とわかっていた詠は、必死になって自身の心を押さえつけようとする。

だが……だが!
さっきまで、自分が教え込まれてやってた『にゃーにゃーにゃー、御主人様のミルクがほしいにゃん♪』とか言ってたことを思い出すと、もう全部投げ打ってこいつを殺してやろうか、という感情がとめどなくあふれてくるのは否めなかった。


そんな詠の内心の凄まじい葛藤を知るよしもない一刀は、ひたすらに言い訳を暢気に呟いていた。



「いくら俺が知ってたとはいえ、全部を全部覚えてるわけじゃないし……」
「思い出しなさいよ! それがあるのとないのじゃ、この後の仕事が大違いなのよ」
「別に俺には関係ないし……」
「きぃぃぃーーーー!!」



そんな態度に、言っても仕方がないとはわかっていても、詰め寄ってしまう詠。
そんな詠の姿も可愛いなあ、見たいな感じで生暖かく見つめる一刀。
もう、悪党とかそういう方向性でなくても、めちゃくちゃ嫌なやつだった。



(落ち着けー、落ち着くのよ、詠。こいつは使える、使えるの……月の役に立つの。生かしておけば、今後もいろんな形で使えるの。だから、今ちょっとだけ嫌な目にあっても、殺しちゃ駄目なの)



とにかく、ありとあらゆる自己欺瞞を使って自分で自分をごまかすことで、詠は何とか理性を取り戻す。
本当に、自分は何をしているんだろう、と涙がこぼれそうになる。

親友たる月のためとはいえ、今まで学んできた知識も、軍略もすべて捨てて、ただひたすらに寝台の上での彼のおもちゃ、愛玩動物として扱われる。
擦り切れるほど読んだ孫子の兵法も、指にたこが出来るほど握ってすり減らした筆の軸も、使いきったすずりの山も、この場においては何の価値も認めてもらえなかった。

ただ、軍師としては無駄に育ってきた胸だとか、伸ばすに任せて余り手入れさえしていなかった髪だとか、あるいは月に一度の面倒を起こすだけだった場所だとか、そういったところばかりが使われる。


何やっているんだろう。
本当に、何をやっているんだろう。


こんな自問自答がひたすら続けば、いかに月のため、ただひたすらに月のためと胸のうちで呟いてみても、それだけではやっていけなくなるときも出てきてしまう。

そんな自分の現状にため息一つを吐いて、とりあえず会話を続けることで仕事の糸口を得ようと必死になる詠。



「……あんたの目的は、天下の統一なのよね」
「うん? ああ、そうだ。俺ならきっとこの世界を統一できる」
「……(何もしてないくせに)」



そんな彼女とは対照的に、最近は安楽に慣れてしまい、実際には何一つ行動に移していないにもかかわらず、その口にする野望だけはでかい一刀。
それに対して詠のこめかみに青筋が浮かびそうになるが、深呼吸一つでそれを治めて、なんとか月のためにこの男のやる気を出させなければいけない、と思っている詠は、その軍師としての頭脳をフル回転させて、何とかしてこの愚物にやる気を出させる方法はないものか、と考えをめぐらせる。

そして、今までの一刀と過ごした日々より来る経験から詠は、正しい答えを導き出すのに十分な知識を頭の中に入れていた。



(ああ、そっか。この男を操るんだったら、こういう言い方じゃ駄目だったんだっけ)



やがて気付いたそれは、本当に情けなくなるぐらい自身の誇りを損ねるものだった。
それでも、思いついたからには本当に自然に詠の口からその言葉が飛び出してきた。



「……僕が手伝ってあげるわよ。あんたのために」
「え?」
「要するに、美女がほしいんでしょ、あんた」
「……身もふたもないなあ」
「僕が、集めてあげる。地のはてにいる美女でも、蛮族の美少女でも、僕がありとあらゆる手段を使って、あんたの為に集めてあげる」



かつて聞かされた、天下万民の安寧なぞには一片の興味もない一刀が天下統一を望む理由。
彼の知る知識の中では優れた能力を持っている各地の英傑たちを下し、自分の女とする。


ただ、それだけのために、一刀は天下を求めようとしている。
たった、それだけの理由で、自分たちは狙われた。


高名な、優秀な人物を下すという名誉欲に入り混じった、その彼女たちを自分の股間の剣で這い蹲らせたい、という歪んだ色欲。
それこそが、この男―――北郷一刀の野心の源泉だ。


不条理で、理不尽で、許せないその理由は、しかしその人格の劣等さとは裏腹にどういうわけか優れた力を持っている一刀が行うのであれば、一種の正義だ。
なぜならば……この戦乱の兆しが見えつつある時代においては、秦の始皇帝の例を出すまでもなく、『強者が正しい』のだから。

そして、この男は紛れもない強者だ。
人の弱みを的確に見抜き、それを必要最小限の力で確実に実行する……そのための知識とそれに必要な能力をこの一刀という男はたんまりと溜め込んでいる。


血筋も、力も、権勢も、人望も何一つ持たないまま、その生まれ持った才覚一つを武器にしてこの河東を必死に維持して、自分よりもこれらに劣るものを蹴落としてきた詠には、それを否定することを叫ぶ資格など無いという自覚がある。

自分にそれがあればもっともっと上手に使いこなしてみせる、と思いはしても、彼しか持たぬその知識と人望は、どれだけ望んでも、どれだけ努力しても詠には与えられなかったものだ。
自分に余人よりも遥かに高レベルな軍師としての才が与えられたように、自分よりも遥かに高いところにこの男の才は与えられている。
そうである以上、そこにはそんじょそこらの努力程度ではひっくり返せないことは、同じ構図で今まで凡人に負けたことのない詠には経験としてわかっている。


なれば、月のためにこの男を利用してやろうと企む詠にしたところで、結局はこの男の意向、望みを無視してその結果を実現することは、不可能だ。
この男の利害を侵害しないように細心の注意を払って、この男の機嫌を損ねることなく……時には自分の利益を侵害してまでも、この男のシモベとなって尽くした後に、そのおこぼれに預かることが出来る。
圧倒的強者であるこの男の、虎の威を借りて狐となることだけが、詠に許される月のための働きだ。



「……急にどうしたんだ?」



戸惑ったように呟かれるその声にすら、詠は圧倒的なまでの強者の力の影を見た。
そんなこちらの内心の変化の理由を気付けない、気付かなくてもやっていけるほどに、この男は強いのだ。
そんな些細なことでさえ、今の詠には今まさに突き刺さろうとする棘に見える。


弱肉強食の意味は、小勢力をたった一人で切り盛りしてきた詠には痛いほどわかっているはずだ……わかっていなければならない当然の論理のはずなのだ。
だからこそ自分は、喰われるのであればせめて飢えを満たすためだけに腹に詰め込まれる餌ではなく、それなりの敬意を払って食される質の高い料理となりたかった、ならねばならないのだ。


そのためには、この男に自分が利益を生むのだ、大切にしなければならない有能な『弱肉』なのだ、ということを理解してもらわねばならない。
この賈駆が、そしてその賈駆を臣従させている董卓が、他のも数多くいる『弱肉』たちよりも優先的におこぼれを与えるに足るだけの、使い勝手のいい道具であるということを証明しなければならないのだ。


だからこそ詠は、明らかに自分よりも頭の回転の劣る相手に対して、親切丁寧に、細心の注意を払って順序だてて説明を行った。



「でも、ちょっと思い出してよ。あんたが言ったことよ?」
「……? 何を?」
「あんたが知っている有能な武将が、大体美女なんでしょ? そいつらがほしくて、あんたは天下の統一をしようと思った」



その言葉に一刀の顔にはすぐに疑問符が浮かんだ。
一刀からしてみれば、それは当然のこと。
自分が言い出したことゆえにそんなこと今更言われるまでもない。


そう、『わかっていると思い込んでいる』一刀はその確認に対して変な顔をしていたが、それを一切無視して詠は説明を続ける。
この場合であれば『一刀が武将らの名前を思い出すことによって詠が彼に対して差し出す莫大な利益』についての説明を、馬鹿でもわかるように、ひたすら丁重に。



「だったら、あんたがいろんなことを思い出せば思い出すほど、僕がそいつらを集めるペースは速くなるでしょ……それとも、劉備とか言う奴、要らないの? 今のままじゃ絶対無理よ?」
「っ!!」
「だから、あんたが気が向いたときだけでかまわないから……この国を強くするの、手伝ってよ」



それはもはや、懇願であったが、それにすら自分のことで精一杯の一刀が気づくことはない。
詠の声に、思いもよらぬところを突かれたように一刀はびくん、と体を振るわせた。



(そうだ……確かにそうだった!)



一刀は思い起こす。
自分でも覚えていたと思い込んでいた、日々の暮らしの中で忘れていた事実について、はっきりと思い出す。
自分の野望は、確かにそうだった、と。

袁術を捕らえ、孫策を下し、董卓をシモベにし、賈駆を玩具にする日々の安寧さにほとんど忘れかけていたが、確かに自分が望んでいたのは、三国志という史書に残るほどの英雄を残らず自分の女にすることだったはずだ。
だからこそ、全支配地を裏から占拠して誰かが天下を統一したときにそれをひっくり返そうと思っていたはずだったのだ。



この地は、やたらと居心地がよかった。
命じたことしかやらない、出来ない美羽・七乃とは異なり、詠は太平要術の書で操っていないにもかかわらず、こちらが何も言わないでもいろいろな手配をしてくれた。
こちらに対して決してなついているとは言いがたいが、それでも他の女とは違い様々な新鮮な反応で自分を楽しませてくれ、またこちらを飽きさせないように様々な趣向を凝らしてくれた。

楽しかった。
すべてを忘れるほど、楽しかった。
正直、元の世界のことなんて思い出しもしない日々だった。


それ自体が詠が一刀の確保の為に全力で尽くし、全力で策を練った結果だったということに一刀は気付いていない。
ただ、妙にここでの日々が楽しかったのでちょっと今まで気付かなかっただけだ、とそんな甘い考えを持っていた。



そんな程度の一刀だからこそ、次なる詠の誘導にもあっさりと引っかかった。

なんとなく、こんな日々が続けばいいな、とかいう日和見な感情を持ちつつあった自分だったが、思い出してみると現状は完全無欠に理想の状況ではない。

確かに最初は「天下統一」とか、そんなことを思っていたのだ。
そして、それもまた面白そうだという心は今なお消えてはいない。
というか、正直今までも時たま、思い出したりはしてたのだ。


が、一刀は俗物である。
将来の大金の為に目先の小銭を捨てることなんて出来ない。
詠との日々が余りに新鮮で楽しかったので、考えないふりをしていただけだ。
今の安寧とした日々を捨てて、また旅の空に出るのが面倒になっていた。

自分が積極的に詠の望むことを『できる範囲』で叶えてあげるだけで、この日々を維持したまま野望へのお膳立てを全部詠がしてくれる、というのだ。

断る理由など、どこにもありはしなかった。



「よ~し、ちょっとまって、思い出す、必死こいて思い出すから。え~っと、確か蜀の五虎将軍が、関羽張飛、趙雲、馬超、黄忠の五人で、そいつらがそれぞれ……」
(やった、うまくいった!)



一刀が必死になってぶつぶつと呟きながらかつての記憶を取り戻そうとするその横で慌てて筆と硯、紙を取り出した詠は、未だに全裸に猫耳・猫尻尾をしたままの状態ではあったものの満面の笑みを浮かべながらこの国の未来のために、その第一筆を記し始める。


『一刀のために』尽くしていたその笑顔が、賈駆と程立が自らの地での任官……臣従を誓ってきたときの笑顔と全く同一のものであったことを見ている者は、この時点ではだれもいなかった。




[16162] 鼎の軽重を問う
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/05/30 18:55





もう一刀、いらないんじゃね?
詠主人公でいいよ。
最近空気と化している。


「ほほぅ。あなたがあの目録を作った人なのですか~」
「……誰?」


そんなことが巷で囁かれているにもかかわらず、主人公交代というシードでデスティニーな脅威に気付かない彼の名は北郷一刀。
一月や二月更新がなかった程度でそうそう成長するはずもなく、他所様の外史においてほぼ能力から人格まで被っているキャラがあっさり討伐されたにもかかわらず、そのことに危機感を覚えることもなかった。
結果として彼は今もなお、あいも変わらず食っちゃ寝食っちゃ寝のニート生活を送っている男である。


故に、朝一に目を覚まして体を起こしたと同時に半眼で頭の上に人形を乗せて、この時代にはそぐわないぺろぺろキャンディーを咥えて眠そうに喋る少女が視界に入ってきたことに対して速攻で適切な対応をとれるはずもない。
半ば寝ぼけている頭脳は特にたいしたことを考えることもなく、目の前に突然幼女が現れるという物語の主人公っぽい展開にもかかわらず「誰だ?」という平凡極まりない返答を舌に命じていた。


「風は程立なのですよ……お兄さんが目録を作ったんじゃないんですか?」
「目録? ああ、あのリストか。詠に書かせたとはいえ、確かに喋ったのは俺だけど……」


そのとぼけた脳は未だに眠気と眼前幼女という二つに対応していないのか目の前の少女の問いに対してほとんど思考をせずに反射的に返事する。
やばくなれば妖術でどうにかなる一刀にとって、機密保持とかそんな考えはあんまりない。

だから馬鹿正直に答えたのであるが、それを聞いて普段から細められている風の目がさらに細められる。
その眉根も、わずかばかりにしかめられたその表情は、不審五割に驚愕二割、眠気が三割といった感じだ。
……眠気多すぎだろ、と思うかもしれないが、基本的に彼女は普段から恒久的にそんな感じなので、それを除けば不信と驚愕が彼女の感情を支配していた。


(どう見ても普通のお兄さんにしか見えませんが……賈駆様がこうも気遣っている相手であれば多分この言葉は本当なんでしょうね~)


ちらり、と部屋の片隅に視線をやるとそこには褐色の肌に鋭い目つきでこちらの一挙一動に目を配る妙齢の美女が影のように配備されていることを見て、この男が賈駆にとってこれほどの腕利きの護衛を付けるほどの重要人物である、ということを改めて確認する。
彼女は文官であって武官ではないのであの柱の影の護衛の力量を性格に推し量れているとは思えないが、それでも少なくともあの足運びに覇気が一兵卒のものではないということが理解できる程度には軍にも造詣があり、あの腰に帯びた宝剣が単なる雑兵に与えられるような軽いものではないという審美眼も持ち合わせていた。
新参者の自分がたった一人でこの一刀という男を訪ねたい、という身分や立場その他もろもろを考えればめちゃくちゃなことを上司に願い出たとしても溜息一つであっさりと承認され、暗殺の可能性を全く警戒しないでよいほどの警護は、この人間がただの武官・文官の一人ではないことを逆説的に証明しているということを察してのことだ。




程立は、この世界においてはただの賈駆配下の文官の一人でしかない。
だが、別の外史においてはこの時点ですでに軍師として辣腕を振るっていたように、未だ若輩といってもいい年齢でありながらも才能に裏打ちされたその能力は極めて高い。
武の才こそ皆無に近かったが、それ以外の能力については分野を問わずに広範囲において、高い精度で習得している。
当然、人を見抜く目というものも相応に持っていると自負していた。


だが、その程立の目をもってしても、目の前の男は推し量れない。
風からすれば、この男はどう見ても平凡な人間だ。
今までの栄養状態がよかったのか、単なる平民というにはそこそこ恵まれた肉付きをしているが、精々その程度。
庶民、平民と呼ばれることはあっても武将や軍師と間違われることがあるようには見えない。

あえて平凡とは離れたところを見つけて言うのであれば、今まで犯した罪の影響か、顔に狂相が表れつつあるがそれも大したものとはいえないし、そもそもそのこと自体は人を評価する場合においては負の要因とはなりえないと風は思っている。
正史においては人肉すら喰らったと噂され、演義においても人質、偽の手紙、脅迫等をためらうことすらなく実行したと恐れられた程立を継ぐ彼女にとって、法や人道というものはあくまで守るべき目安でしかなく、それを外れた盗賊、匪賊であろうとそのものに能力があれば許されるものだと思っている。

未だ一介の文官に過ぎず、軍師を名乗ることさえ出来ていないが、それでも彼女は殺す覚悟の出来ている人間である……すでに己が手を汚してはいないにしても四桁にも届く人間を死にやっていながらもどこか甘っちょろい現代人感覚を残している一刀よりも、ひょっとすると。
だからこそ、一刀の顔に犯した罪の卑しさが浮かびつつあることそれ自体は、風は別に悪感情を持ちはしなかった。


が、それでもそれが何か壮大な目的のために行ってきたことが現れているのか、日々の享楽の為に人々を苦しめてきたことが顔に出ているのかぐらいはわかるつもりであった風の持つ人相学の知識からしてみれば、明らかにこの男は後者に当たるはずだ。

顔を見ればすべてがわかる、などとうぬぼれるつもりはなかったが、少なくとも未だ眠たげに瞳のあたりをこすって胡乱げな視線を向けてくるその対応に風は、武の片鱗は無いと思うし、頭の回転のよさも感じ取ることもできなかった……まあ、寝起きの対応については彼女が言う資格は無いが。



にもかかわらず、先の面接やその後の普段の仕事上での指示ではあれほどの頭の回転をみせた大政治家、賈駆がこれ以上ないほどの敬意―――この部屋を見ても最上とまでは言わないまでも極めて高級な品々であふれていることからそれが見て取れる―――を払う。
自身の能力に自信は持っていても過信はしていない風からしてみれば、先にこの男が自分で語ったその内容とあいまって、一刀を軽く見ることなど出来るはずもなかった。


「どうやって風の名前を知ったんですか?」
「それは……そう、おれが、天の御使いだからだ!」
「ぐぅ……」
「って、人に聞いといて寝てんのかよ! なにこの幼女」


だからこそ、とっさにまどろみに逃げながらも風は戸惑う。
今までの知識すべてに逆らう北郷一刀という存在が風には理解できない。
市井の噂では董卓の愛人らしいが、話す内容には決して上品なものではないながらそれだけでは納まらない知性を感じさせる、しかし武も政も出来そうにもないこの男を、『あの』賈駆が好き勝手にやらせておく理由がわからない。

今のとっさの返答にしても、『天の御使い』という言葉がハッタリと笑い飛ばせない。
あの目録の凄まじさを肌で実感し、仕えてからもこの男が密かに賈駆に伝えたと聞く各種の政策や知識のことを知れば知るほど、風はこの男の存在を無視できなくなりつつあった。
だからこそ、わざわざこのような不意打ちのような形で会合を求めたのだが、そこで得られた印象ともれ聞こえたこの男の才が余りに繋がらない。

戸惑いは疑念を生み、混乱を生じさせ、それはある種の吸引力となって風を引き寄せた。


「おおぅ……風は幼女ではないのです。こう見えて十八歳以上なので問題ないのですよ?」
「マジで! またこのパターンかよ、この世界の年齢はほんとにどうなってるんだ! 神は俺に見た目幼女ハーレムを作れというのか!」


なればこそ風は、もっと近くでこの眼前にておろかなことを叫ぶ女好きの人間を、自分の体を餌にしてもっと語らせるのも悪くはない、と思い始めていた。
稀代の軍師が出会ってすぐにそんな予感を抱くほどに、太平要術の書以外でも賈駆を通して示し続けてきた一刀の力は強くなりつつあった。










「おーっほっほっほっほ」
「…………姫、突然笑い出したけどどしたんだと思う?」
「…………多分、大した意味もないんだよ」


で、もう一方の調子こいている大勢力の長、袁紹は今日も今日とて高笑いを挙げていた。
手に持っているのは、一枚の紙。
その紙に書かれている内容も、その紙自体も、漢王朝のすべてを掌握したと言っても過言ではない袁紹にとって見れば、たいしたことはない。
だからこそ、袁紹も最初はそれを放置しようと思っていた。
それを彼女がそうしなかったのは、ただその送り手だけが彼女の目を引いたからだ。


相国という地位についてからの袁紹は、彼女的に上り調子にいた。
今となっては洛陽自体はさして栄えた町とはいえなかったが、それでも国都。
その広さは広大な領土、豫州を持つ袁術からしても「まあまあですわね」と評価できるものであったし、歴代王朝が贅を尽くして作り上げた王宮は、実質的にそこの主となった袁紹をも喜ばせるほど素晴らしいものであった。

文武百官の中には呂布や張遼といった名の知れた武将すらおり、彼女らが自分の指示一つでいかなる命にも従う。
天下に対して触れを出し、数千万の臣民たちの命を握る。
それは彼女にとって、いかにも自分の「華麗さ」「高貴さ」を象徴するもののように思えた。


天子の座る玉座、そこに彼女が座ることは決してない。
そのことは、自身も名門に生まれた袁紹は重々承知していた。

だからこそ、その背後に立ってその天子の一挙一動を操る頂点に君臨することが叶った今となっては、もはや自身の絶頂を疑うことはなかった。
一刀にとっての女への執着と同じ、いや事によってはそれを凌駕するほどに袁紹の欲は際限ない。
自身の能力がある種借り物である、程度には自覚している一刀とは異なり、袁紹にあるのは無制限の自身への自負。
己の能力、思考に絶対の自信を持つ彼女にとって見れば、現在の状況は本来あって当たり前のものなのだ。


だからこそ、彼女にとってはそれから外れようとするものはすべて「間違っている」ものであり、「悪」そのものなのだ。
数々の財宝―――いまや王朝一の金持ちとなっている麗羽からすれば大したものではないにせよ、それでもそれなりに高価な品々の名前がずらりと並んだその手元の紙を握りながらの高笑いを終えた麗羽は、それの締めとして自らの側近たちに確認の言葉を飛ばした。


「さて、これで曹操さんから来た貢物の目録は全部ですわね」
「あ~、それで上機嫌だったんだ。そうっすよ、麗羽様」
「幼年学校からの付き合いだったもんね……使者の方がお持ちになったの祝いの品は、すでに運び込むよう手配しておきました」
「よくってよ、よろしくってよ、おーほっほっほっほ!」


そう、その手紙の送り手は彼女の幼馴染にして、最近ちっぽけな領土の県令として封じられる程度には地味に功績を積み上げてきた少女、曹操。
彼女が送ったその一通の紙には着任の許可と今更ながらの麗羽に対する新年の祝いの言葉も同梱されていた。
今まで、ありとあらゆることで自分を馬鹿にするかのような言動を取ってきて、ことごとくこちらに煮え湯を飲ませてきた幼馴染。
自分に対して絶対の自信がある袁紹にとって、曹操のそんな態度は許されるものではなかった。
その彼女が自信に対して屈服したことを証明する貢物を出してきたのだ。

自分は正しく、美しい。
故に、自分よりも劣っているはずの「くるんくるん小娘」がようやく間違いを認めて正したことが、その証明であると根拠なく思っていた。


彼女の中には、この贈り物をする際にいろいろとこらえながらも国主として正しい判断を下した曹操のように、一時の屈辱に耐えても国力を充実させる、という考えはない。
単なる一臣下の身分であったころより、豫州という広大にして肥沃な領土も、先祖代々からの財宝も、父より受け継いだ忠臣たちも、すべてにおいて持てる者であった彼女にしてみれば、そんなこと考えたこともないことだからだ。


「それにしても。曹操さんもこうやってちゃ~んとわたくしに新年を祝ってくれたというのに……」
「(いや~、どう考えてもしぶしぶだと思うんだけどな。使者に来た夏侯惇将軍なんか顔真っ赤にしてたし)」
「何か言いまして、猪々子さん?」
「い、いや~、なんでもないっすよ」
「そ、それよりも何かまだ気がかりなことがあるんですか、麗羽様」


故に、曹操の手紙から彼女が得たのは、曹操は完全に自分に屈服した、という間違った印象と、自分が正しい、という無根拠な裏打ちのイメージ。
あの忠犬とさえも例えられる凄腕の使い手を思い出してか、自分の言葉を否定するようなことを呟く側近も間違っているとしか思えない。

そして、それらの「自分正しい」「自分最高」という考えは、逆説的に未だ自分に対して祝いの言葉を持ってこない勢力に対する怒りへと容易に転化された。
側近の一人、顔良の声にそれを思い出したかのように眉の角度を変えて、麗羽は怒りを露にする。


「そうですわ、斗詩さん! 未だにわたくしに対して祝いに来ない人がいるのですわ……」
「あ~、そっちいっちゃったか~」
「れ、麗羽様。あちらにもきっといろいろ事情があるんですよ……(たぶん、今までの恨みとか)。もうちょっとだけ待ってあげましょうよ」
「いいえ、これはわたくしを侮辱するのみならず、漢王朝そのものを汚したといっても過言ではありませんわ!」


自分の言葉でさらに興奮してきたのか、頬を血色に染めて眦を吊り上げる主君を、側近の二人は慌てて抑えようとする。
付き合いの長い二人のことだ……この後に麗羽が言い出す言葉が予想できたのだ。

止める動機は片方は戦ったとしてもこの戦力差じゃ面白いことにはならないだろう、という自身の都合によるものと、ぶっちゃけ麗羽が来て以来洛陽の治安が悪化の一途を辿っていることを知っているが故の危機感からくるもの、と食い違ってはいても、方針自体は同じ。
すなわち、麗羽の言葉を止めなければ、というものであった。

特に、同僚や主君と異なりある程度政治にも知識を持って、積極的に関わっている青色の少女の動揺は大きかった。


「そうですわ、こうなったらわたくし自ら軍を率いて華麗~に公孫賛さんたちを討「「わ~~!!」」……いきなり何ですの、二人とも?」
「れ、麗羽様? ほら、麗羽様みたいな多忙な方はもっと他にやることあるじゃないですか!」
「いいえ、こんな誇りを汚された状態を放置しなければならないほどのことなんてありませんわ!」


麗羽の怒りの対象は、公孫賛と、彼女の尻を引っぱたいて麗羽の暴政に抗議を上げた西域連合、すなわち馬一族である。
元々麗羽と折り合いの悪かった公孫賛は身内の声に引っ張られて徐々に彼女に対して悪感情を持ってきていたのだが、さらにそこに天子以外の麗羽にいろいろと居丈高に命じられることを憤った、母が病没したことで新たに西域連合の当主となった馬超からの誘いを受けて、半ば公然と彼女に反抗してきている。


まあ、曹操とは異なりそれなりの勢力をすでに築いている公孫賛らは、しばらく前まで一応同格であった麗羽が天子の座さえも好き勝手にするのを見て、一方的に適当なことを命じられるいわれが無いと反発し、彼女の適当政策により怨嗟の声を上げている洛陽市民の声を聞いてしまえばそれがさらに強くなるのも当然だった。
天子に対する忠誠はあるために今まで我慢を重ねてきていたが、いい加減腹に据えかねているのだろう。
逆賊の名を恐れているからか未だ直接的な何かまでは行っていないが、ここで麗羽が余計なことをすれば確実に暴発する。
そうなれば、今は面従腹背の姿勢を見せている曹操や袁術、劉璋だってどうなるかわからない。

顔良はそのことを十分承知していたし、文醜とて同僚から愚痴のような形でそのことを聞いていたので、知っていた。
だからこそ、二人は必死になって暴走する主君を止めようとした。
なお、公孫賛のところにいる劉備御一行は、小勢力過ぎて彼女らの眼中には入っていない。
まあ、彼女らだけではなくどの勢力にも脅威とは思われていないのだが。


「いや、この状態じゃうちらが出て行っても弱いものいじめにしかならないからやめましょうよ!」
「そうです、無礼者の討伐なんて高貴な麗羽様のやる仕事じゃないですから!」
「!! た、確かに言われてみれば……」


そのうち、適当に言った側近の二人の言葉が琴線に触れたのか、今にも二人に対して配下の召集命令を出さんとしていた麗羽の動きがぴたり、と止まった。
やった、うまいこと主君の自意識を揺さぶって思い留めることが出来たか、と顔を輝かせた二人に対して、麗羽は当たり前のように命じた。


「じゃあ、猪々子さん、斗詩さん。呂布に討伐を命じておいてくれるかしら?」
「「……え?」」
「わたくしたちがわざわざ行かなくても、今はいくらでも兵も将もいますわよね、おーほっほっほっほ!」


ちょっと考えれば分かることではあるが、変な期待を抱いただけに二人の落胆は大きかった。
一度口に出した以上麗羽が止まるはずがないのである。









「風はその字通り風のように自由なのです。だから、風が欲しいのであれば、まずその実力を見せてほしいのですよ、天の御使い様」
「なんだってーー!! じゃ、じゃあ今度詠にお風呂であわあわしてもらうために書いてた……これを見ろ!」
「おおぅ、これは……読めないのです。何って書いてあるのですか?」
「……しまったーー!! 日本語で書いても意味ないじゃん」


かくして、その余波はこうして必死こいて風を口説くことをある種楽しんでいた一刀の身にも降りかかることとなる。
なぜならば…………


           北

         (今ここ!)
            ↓
      馬超   董卓   公孫賛
               (旧・袁紹) 
 西   (袁紹)漢王朝皇帝(呂布)  曹操    東  
袁術 
                 (旧・孫策)
        劉璋(黄忠・厳顔)

      孟獲

           南

一刀の領地は、ちょうど西域連合と公孫賛の間に位置するのだから。
ちなみに、その真下に漢王朝(麗羽)があるともいえるので、位置関係的には三者に囲まれているといっても過言ではない。

直接対面しない以上は妖術書の力は使えず、結果として大幅にずれつつある歴史知識しか持っていない一刀は、その迫り来る脅威を察知することなんて欠片も出来ていなかった。




[16162] 大恩は報ぜず
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/06/08 21:03

周辺の不穏な雰囲気、というものはとどめようとしても留められるわけではない。
この時代、物流に規模は小さく、情報は口コミが主なもの。
遠方の君主の考えや顔があっさりとメディアを通じて知ることが出来るわけではないこの時代は、しかしだからこそ市中の人間たちは高まりつつある戦の雰囲気に一際敏感であった。
なんといっても、力を持たない一般市民からしてみれば、戦が始まるということはすなわち自分たちの生命、身体及び財産に多大な被害が起こる可能性がきわめて高くなるということと同義だ。

何が理由でこの乱が起こりそうなのか、そういったことにまで理解が及ぶような人間はそれほど多くはなかったが、それでも何かが起こる、ということぐらいは大抵の者は察知でき、またそれを周辺のものにも伝えた。
一刀がいた現代に比べればまだ人と人とのつながりが深く、人と国との繋がりの間で信頼が固まりきっていなかった時代、呂布・張遼による総勢数万にも及ぶ戦争の準備という悪事はまさに千里を走って人々の耳目を集めていた。



そしてそれは、いかに名政治家たる賈駆が程立や郭嘉を使って秘密にしていようと尽力しようと、多少の時間の差はあれ間違いなく宮中の雰囲気にも伝染していった。
ましてやここは、馬超と公孫賛と袁紹の三勢力のちょうど中央に位置する弱小勢力。
たとえ呪いによって能力が低下していたとしても、無視することが出来ないほどのそれらの動きには注意をはらわなければならない立場だ。

それはすなわち、強欲で臆病な匪賊、北郷一刀にも、戦の気配が伝わるということでもある。


「また戦争、か……袁紹、馬超、公孫賛。美人だって話だけど、どいつもこいつも血の気が多いなあ」


普通の『君主』であれば、それは悪いことではない。

名目上の君主は未だに董卓であり、実際に実務に励んでいるのは賈駆その他の文官である以上、一刀の立場はさほど強力なものではなく、世間一般の目からしてみればニート街道まっしぐらな一刀の公的な立場は、『董卓の愛人』が精々関の山である。
賈駆が董卓を溺愛していることを知らないものであれば、ふーん、で終わってしまう程度の薄くて軽い地位だ。

しかし、それでも彼は能力値的には袁紹や袁術などと並んでおきらく極楽な、しかし強大な力を持つこの河東一帯を裏から支配する実質的な支配者のはずだ。
だからこそ、本来であればこの地において誰よりも早く自国が巻き込まれる戦争についての情報を受け取り、それに対する対策を考えなければならない立場であるはずである。



だが、もうじき、このあたりで戦争が起こる、ということを理解した我等が悪一刀が考えること。
それは……


(そろそろここも潮時だな……)


いつここを逃げ出すか、ということだった。

一刀からすれば、戦争が起こったとしても勝てないつもりはない。
なぜならば、一刀にとっては自分はこの物語の主人公だから。
三国志において最強勢力の一つとなる孫呉でさえも、あんな貧相な手駒を駆使して勝利することが出来たように、天才である自分が負けるわけが無いと、彼は半ば本気で思っている。
喉もと過ぎれば熱さ忘れるの言葉どおり、たった一人に千以上の兵をつぶされたことも、その時点では弱小であった孫呉を潰すだけで巨大勢力であった袁術の屋台骨を粉々にしたことの反省もまるでない。


だからこそ、選択肢の一つとして戦うことが出てもおかしくはないのであるが……その前に大前提が一つあった。


「まあ、戦争だろうが略奪だろうが好きにやってくれりゃあいいさ……その間に俺は逃げるしよ」


彼にとって国など一時の腰掛。
この国が発展しようが滅びようが、全くかまわないのだ。

君主たる義務? 民を守るべき決意?
なるほど、一刀はここ半年ほどの間、ずっとこの地より糧を得ていた。
この地よりいでし米を食み、この地で紡がれた糸にくるまれ、この地より支払われた金銭により購われた。
それほどの大恩を受けておりながら、一切還元しないことは確かに人の道に外れよう。

だがしかし、この男はもとより外道。
恩を受けても恩と思わず、他者から奪ったことを省みるようなたちではありえない。

日々馬鹿な遊びをしていてそれを省みることさえないのは、いざとなればすべてを捨ててあっさりと次の獲物を狙うことが出来るが故の余裕。
机上の空論ばかりとはいえ、それでもそんじょそこらの凡人の軍師を遥かに凌駕する戦の知識も、使われるのは賈駆との取引という戯れのときだけで、彼自身が活用するつもりなど微塵もない。
彼がいればどれほどあの気丈で、必死になって親友を守ろうとしている少女が助かるか、ということを理解していながらもそちらに重きを置くことはしない。


すべては己がために。
それこそが、この世界に突然迷い込んだ異邦人、北郷一刀の行動原理だ。



なればこそ、少しでもわが身が危なくなれば袁術のときと同じように逃げ出すことを考えるのは、至極当然の考えであった。
元々この地に根をおろしたのは、董卓が多分漢王朝を取るだろう、という未来知識からの予想と、それが崩れた後は他の地に向かうまでのちょっとした休憩のつもりだったのだ。
その二つの条件が袁紹による戦争という形で崩れた以上、一刀にとってここだけに固執する理由は特にない。

戦争が始まってしまえばいくら自身を天才であると信じる一刀であっても、危険が皆無というわけではないということぐらいは理解している。
いかに術の力があるとはいえ、周辺を包囲されるなどによって雪蓮の腕力便りの場面に遭遇するかもしれないし、そうなってしまえば何よりも大事な自分の命が危険にさらされるかもしれない。
だからこそ、相手の互角以下の戦力から始まる戦争なんていう面白くもなんともないものに正面から向き合う気なんて、一刀にはさらさらなかった。


「しかし、どうしよっかな~流石に月ちゃんと詠ちゃんを引き抜くのはマズイだろうけど、程立ちゃんと郭嘉ちゃんぐらいだったらいいかな? まだ二人とも口説けてないし」


そこには、情を交わしたはずの女を死地においていくことへの罪悪感はない。
彼にしてみればあくまでここは自分のために作られたゲームや物語の世界。
当然、そこの登場人物も、架空のキャラクターという印象に近い。
自己の精神を守る為、自己の欲求を満たすため、己自身に言い聞かせ続けたその自己欺瞞は、もはや彼の精神とは切り離せないほど癒着していた。


これが、まだまともにこの外史に入り込んだとしたのであれば印象も異なったかもしれないが、彼の手元に太平要術の書がある以上、一刀からしてみれば彼女らはいつでも思い通りに操ることの出来る人形に近い。
執着心はあっても、それは友情だとか愛情だとか言った人対人とのつながりの間に生じるものではなく、どちらかというとお気に入りの人形やポスターに抱くものだった……少なくとも、彼はある種無自覚にそう思っていた。
確かに大事は大事だが、自分の命と天秤にかけられるようなものでは決してない。

目の前で残虐非道に殺されるなどであればさておき、自分のあずかり知らぬところで死んでいったとしても惜しくない程度。
はっきりと口に出して考えてはいないものの、一刀はそう自覚していた。


そして、口には出してはいないもののそのことは賈駆らにも伝わってしまっていた、という長い長い前振りをもってして、今回のお話しは始まるのであった。













いつもの執務室ではなく、一刀が占拠している一室のベッドの上にて。
戦争を前に一刀を尻に敷いて、さて、どうしてくれよう、と詠は思った。

今現在、ここ河東地域は危機に瀕している以上、例え一刀の部屋の中にいたとしてもその対策を考えないわけにはいかない。


「とりあえず、いろいろとこの男には働いてもらわなきゃならないわ」
「…………」


今回の戦争、そのきっかけは袁紹による暴政だ。

やれ五胡を退治しろだとか、やれ袁紹の相克就任一周年記念式典に資金と人材をよこせだとか、やれ竜の珠をもってこいだとかいった命令が、今の中華全土には矢のように飛び交っている。
今は雌伏のときだと重々理解している領主―――例えば、劉璋。正確にはその配下たちや、あるいは最近少し名を聴くようになってきた小勢力の長、一刀いわく後の三大勢力の一つとして立つらしい曹操などは、それをはいはいと聞きながら虎視眈々と機会を狙っている。
詠自身も、ここ最近の付き合いで随分と腹芸と我慢が得意になってきてしまっていたので、どうせそのうち失敗するだろうから今はひたすら国力を高めなければ、とその馬鹿げた我侭にも根気よく付き合ってきていた。


「確かに袁紹は馬鹿だけど、それに乗せられるあいつらはもっと馬鹿よ」
「……」
「あんな調子じゃ、どーせほっといてもそのうち自滅するに決まってるんだから」


とはいえ、国政の「こ」の字も知らないのではないのか、と思わされる袁紹のやり方に、ムカついていたのは確かだが。
お前、今までどうやって自分の領地運営してきたんだよ、と聞きたくなるほどの御粗末な国家運営に一言物申したくなる気分はわからんでもない。


だからこそ、ほとんど反乱に近いことを行わんと今必死になって軍備を整えている公孫賛、西域連合のことを一概に責めるつもりはなかった。
最も、彼女たちに同調して勝ち目の少ない戦いに身を投じるつもりはなかったので、内々の手紙は断りを入れざるをえないが。


「天子がなんだか言っていたけど、あんな袁紹が勝手に座らせた方よりも大事なものがあるでしょうに」
「……」


袁紹に対して兵を挙げんとする彼女たちと、詠のなにが違ったのか。
結局それは、漢王朝に対する忠誠心だろう。

詠にとって大切な者は天子などではない。
今漢王朝に臣従しているのは、あくまで手段の一つだ。
だから、忠実な臣下であり、皇帝以外から命令を受けないことを誇りとする西域連合のように、皇帝が袁紹にないがしろにされている怒り、なんてものはほとんど抱いていない。

そういう意味では、東の公孫賛にも似たような雰囲気を感じていただけに、彼女と袁紹との確執を知ってはいても彼女まで西域連合と共に立ったのは少々意外ではあったのだが、何か彼女の考えを変えさせるような人物でも近くに現れたのだろうか、などとは考えるが、精々そこまでだ。
その「義挙」に従ってやる必要性なんて欠片も感じられない。


「っていうか、そんなことは正直どうでもいいのよ。問題なのは、あいつらの軽挙の性でこっちまで被害が来るかもしれない、ってことよ」
「…………zzz」


だから、彼女らが袁紹と戦争を起こそうが、その結果として一族もろとも族滅されようがそんなことはどうでもいい。
問題なのは、その彼女たちの争いがこちらにまで余波を及ぼすことだ。


現在、この河東は発展途上だ。
一刀から救い上げた各種政策を節操なく片っ端から実験している状態であるため、決して現時点で豊かとはいえない。
考えがあったからといって、それが実を結び、利益を生むまでには相応の時間が必要なのだ。



こんなん考えたよ
   ↓
作りました~
   ↓
うわ~、なんて凄いんだ~。敵うわけないよ~

みたいな三行革命なんて、実際に起こるはずがないのである。


二毛作という一つの畑で季節によって二種類の作物を栽培する制度は未だにこの地において相応しい作物の組み合わせが見つかっていないのでそれなりの成果を挙げつつあるとはいえまだ収穫が十分とはいえないし、楽市楽座とかいう制度で徐々に集まりつつあった各地からの商人だって、何か不利益があるとなれば真っ先に逃げ出すだろう。
いろいろとやってはいても未だ利益と結びついていない現状にて、最悪の事態、戦争に巻き込まれる。

無関係ではいられない。
事実、袁紹側からはこの「反乱」制圧に協力するように矢のような催促が山ほど飛んできているし、先にも述べたように公孫賛らからも内応の誘いが、脅しと共に送られてきている。
自身に比べれば遥かに巨大な三つの勢力に囲まれている立地条件から、どの勢力も踏み潰すか、それとも恭順するか、という選択を選べと押し付けてきている。


「これから一層天の知識を使っていこう、っていう大事な時期だったのに余計なことしといて、助けてくれ?どの面下げていってんのよ……その辺わかってんのかしら?」
「zzz……zzz……」


一刀から聞き取った知識によると、西域連合はさておき公孫賛は袁紹に殺される、と天の歴史ではなっているらしいので袁紹側についていれば勝ち馬には乗れる気がする……まあ、その知識も今現在の状況とは大分ずれつつあるようなのでどこまで信用できるかはわからないが。

ただ、あの袁紹相手にどこまで恩賞や援助が求められるのか、という問題は尽きない。
何度も言うようにここは小勢力。公孫賛と西域連合がその気になれば両側からぷちっと潰せる程度でしかないのだ。
例え最終的には袁紹が勝利するとしても、その過程として自分たちが犠牲とならなければならないのであればそんなもの受けるわけにはいかないに決まっている。


だからこそ、今からは細心の注意を払う立ち回りが常に要求されるのであるが……


「って、もう! いい加減に気付きなさいよっ」
「ぐ、な、なんか、腹の上あたりがやたらと重いような……って、え? 何これ? ちょ、詠ちゃんなにしてんの!?」
「はぁ、まったく……目は覚めた?」


寝台にくくりつけて身動きを取れなくして物理的に己の尻の下に置かれていたことを再度どすん、と腹に衝撃を加えて自覚させることでようやく目を覚ましたらしいこの男からは、そんな重大さは欠片たりとも見受けられなかった。
ここ最近の戦争の雰囲気を感じてか、挙動不審にもほどがあったこの河東の主をすんでのところで抑えることが出来た安堵の溜息を詠は吐いて、改めて何とか一刀の逃亡を抑えることが出来たことを内心で喜んでいた。

一刀が、ここを逃げ出そうとしていることには気付いていた。
この男は天下統一とか一定ながらも、その根本となっているのは自身の安寧だ。
故に、ここが危なくなれば詠のもとから逃げ出そうとするのは当然だ、ということはわかってはいても、ちくりと胸に突き刺さる何かがあるのは否めなかった。

今後群雄割拠が予想される現状において、詠はとっくの昔に一刀の排除を考えてはいない。
それは、今後自分たち小勢力が生き残っていく為には一刀を排除して自力で独立独歩を保つよりも一刀の力を利用して勢力を大きくして身を守る方が確率が高い、とする冷徹な計算によるものもあったが、それ以上に肌を交わしたことによって一刀という存在に対する悪感情が和らいだことも大きかった。


(こ、コイツは馬鹿で助平で阿呆だけど、いいところがないってわけじゃないんだし、私が面倒見てあげなきゃなにするかわかんないもの……そ、そう。これは監視、監視なの。こんな獣を世に放たない為にも私が我慢するしかないの!)


彼女にとっては親友を誑かした憎たらしい仇敵でしかなかった一刀であるが、いつしかその存在は詠の中で大きくなりつつあったのだ。

だからこそ、一刀の自分勝手な逃亡を防止できたことに対する喜びは、貴重な知恵袋が手元からなくならなかった、以上の何かしらの感情が介在していた。



なぜかは不明であるが、あの女、雪―――こないだ聞きだしたところによると、先に滅亡した孫家の主、孫策らしい―――がこの場にいなくてよかった。
あの女がここにいれば、力ずくなんて手段は取れるはずもなかったのだが、そうでなければなんか夜逃げっぽいことをしていたこいつを抑えられるはずがなかった。

とりあえず、夜に逃亡するつもりだったのか、寝溜めといわんばかりに昼寝していた一刀を縛り上げることが出来た幸運からじっくりとそんなことを考える。
その尻の下で、あれほどまで大掛かりな逃亡の準備をしていながら気付かれているとは微塵も考えていなかった一刀は目が覚めた瞬間にこの国から逃亡どころかベッドから降りることも出来ない己の緊縛されっぷりに焦りの声を上げた。



「な、何で俺にこんなことを! Mか、今日は俺がMの日なのか!?」
「……なにいってんのか意味わかんないけど、多分違うと思うわ。僕だって不本意だけど、あんたこうでもしないと逃げちゃうつもりだったでしょ?」
「っ!」


SMプレイ気分のさなかに急に図星を刺されて一刀の声が一瞬詰まる。
そもそも彼からしてみれば、不意打ちを喰らってこんな状態になっている、という現状は異常なものだ。


多分もうみんな忘れているとは思うのだが、大喬小喬の房中における諜報を見破ったように、太平要術の書には洗脳と戦争のやり方だけではなく、『自分に対する陰謀を感知する』という能力もある。
どれも心理掌握を得手とする妖術から派生したものであるし、直接の殴り合いの場にあっては全くもって意味を成さない力ばかりであるが、これはこれで意外と芸達者な本なのだ。

陰謀の防ぎ方についてまでは教えてくれないが、自分に対する悪意、あるいは不利益に基づく何かがあれば、それを所有者たる一刀に教えてくれる。
雛里の反抗を詠に教えたのもその能力によるものであるので、一刀はそれによって安穏と生活できているわけだから、その力は今も変わらず働き続けているはずだった。
その能力からすると、いかに縛られているだけとはいえ、他者より己の言動が制限されるようなことをされていることはいかにもおかしく思える。


が、別に詠には悪意はない。
というか、一刀にこの地にいてほしい、というその感情は、どちらかというと正の方向性であるがためにそれらの陰謀防止の機能は発揮されなかった。

そして、今まで詠が術に掛かっていないがために自分にいろいろと工夫を凝らして仕えてくれていた、術をかけてしまうとあの痒いところまで手が届く感がなくなり袁術や張勲みたいになってしまうかもしれない、という躊躇は、自身が不意打ちを何故か喰らっているという混乱とあいまって、妖術という暴力を使ってまで詠の行動を押し留めようとする一刀の心を鈍らせた。

結局のところ、無意識のうちに見捨てることは出来るとしても、今更操り人形にすることには戸惑いを覚えるぐらいには、一刀にとっても「術の掛かっていない」詠の存在は大きなものへとなりつつあったということである。
そしてそれを自分自身によって叩きつけられた一刀に取れる方法は、もはや限られすぎていた。


「や、やだなあ、詠ちゃん。俺がそんなことするわけないじゃないか。勘違いじゃない?」
「はぁ……まだ寝ぼけてんの。この状況でとぼけても意味ないことぐらいわかるでしょうに……もういいわ、寝てなさい。僕が全部してあげる」


この期に及んでも言い訳をしようとする一刀を見て、なんというかいろいろとめんどくさくなった詠は、そう一言呟いて寝台に寝そべる形となっている彼を押し倒した。
その目が何処か優しい色をしていたように一刀に見えたのは、果たして夢か現か幻か。

だが、そんな彼の見とれる動作も一瞬のこと。
ふわりふわりと撫でるように、柔らかく温かい彼女の手のひらが、一刀の衣服を乱していく。
かつての彼女からは想像も出来ないほどに慣れた手つきで暴れる一刀の動きを制しながら、その下履きを脱がすところまでよどみなく進まれては、そんな穏やかな気持ちを保てるはずはない。
余りに吹っ切れすぎているその姿は、一刀に激しい肉欲と戸惑いを生んだ。

いくらなんでも現状がわからないままこの餌に食いつくのは不味いと野生の勘で察知したのか、己の腹辺りに置かれた尻の柔らかさとその手の優しさによって徐々に自分の息子が暴れん棒になっていくのを一刀は何とか押し留めようとするが、寝起きが故のあふれんばかりの若さとあいまって常より激しさを増す血液の流れを押し留めることが出来るほどには彼の意思は固くなかった。


「え、ちょ、ま! 嬉しいは嬉しいけど、今は……」
「そういいながらも元気一杯じゃないの。はいはい、とりあえず一発抜いて冷静になりなさい」


というか、豆腐のごとき意志力であった。それも、木綿じゃなくて絹ごしの方。
はしでつまめば容易く崩れるほどのぐっずぐずのそれは、遠慮なく掴みにかかる詠によって見事に粉砕された。

かくして、いろいろ考えることが多すぎて徹夜明けの詠の脳みそは、深く考えることもなく目の前の男に教えられた手管を使ってとりあえず事態の収集を図ることにした。
そして詠が取ったその方法は、この状況下においては一刀の「逃亡しよう」とする気概をくじく上では正しい選択肢であった……色を前にして、一刀がそれを拒絶して「この場から一刻も早く逃げる」という正しい選択肢を選べる、と考えるのは無理があるのだから。





このような経緯で、河東は戦争へと巻き込まれることとなり、その渦中のさなかにはしっかりきっかりと他所からこの外史から来た男も巻き込まれることとなったのである。



[16162] 逆取して順守す
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/06/08 21:02



「いよいよか……腕がなると言うものよ」
「ここから鈴々たちの伝説が始まるのだー!!」


すでに空気にすら漂うぴりぴりした雰囲気を感じて、義妹二人が軽くではあろうがその強大な武器を振るうのを見て、少女はなんともいえない表情を浮かべた。
彼女たち二人の腕前は知っている。

これでも、太守になるほどの名家に生まれた幼馴染と同じく幼いころよりそれなりの教育を受けてきたし、その過程において武術についても目を養ってきた。
自身には余り向いていなかったのか剣を振るうだけで精一杯といった程度であるが、それでも桃香は武術に関して全くの素人というわけではない。
しかし、その彼女にしてみても義妹二人の腕前は今まで見知った人間とは完全に別格ということは十分に熟知している。
だからこそ、例え戦場に出たとしても自分はさておき二人が遅れを取る場面なんて考えもできない。
たとえ、全周を数百の兵に囲まれたとしても切り抜けられると信ずる二人がいる以上、不安に思うことなど何もない、ということは彼女―――天の御使いが知る知識においては蜀を築くこととなる劉備という名を割り当てられた桃香にはよくわかっていた。

だが、義姉妹二人の絶対の身の安全があってもなお、桃香の顔は暗い。
その桃香に対して、時には妹として、時には友として、時には臣下として彼女に接する二人の少女らは首をかしげて問いただした。


「桃香様、どうかなさいましたか?」
「お姉ちゃん、どうかしたのか~?」


彼女らが知る義姉は、常に笑みを絶やさない太陽のような女性だ。
誰よりも優しく、その場にいるだけで希望と安心感を与える、そんな彼女のことを、二人は誰よりも尊敬しており、鍛えに鍛えたこの自分たちの武芸の腕の上に抱くのであれば彼女しかいないと強く思っている。
だからこそ、尊敬する姉がそんな曇った顔をしているのであれば、見過ごせるはずがなかった。

そんな二人に対して隠し事をするのも信頼していないことになると思った桃香は、素直に妹二人、関羽こと愛紗、張飛こと鈴々に対して、自分の中で引っかかっていることを話すことにした。


「え! あ、うん……これでいいのかな、って思っちゃってね」
「と、申されますと?」
「私は確かにこの国を変えたいと思ってる……でも、そのために人を傷つけなきゃいけない、っていうのが、ね」


知と武こそを重視する曹操、血と信念こそを武器としていた孫策とはまた違い、劉備たる桃香は義と和をもってこそ尊しとしている。
華琳であれば歯牙にもかけず、雪蓮であれば無視するであろう自らの覇道のさなかに踏み潰される弱者の存在は、そういった桃香の信念からすればどうしてもしこりとして心に残ってしまうものであった。

今から幼馴染である公孫賛について戦いに出る。
義姉妹二人があんまり止めるから、自分自身が剣を振るうことはおそらくないであろうが、それでも二人を、そしてその二人の下に付けられた借り受けた兵を使って、戦わなければならない。

それを迎え撃つのは、おそらく官軍。
代々漢王朝に忠誠を誓い、皇帝の命令に従うことを正義とする人たちだ。
暴力で持って村々から略奪する匪賊ではなく、重税をかける悪代官そのものではない。
袁紹のやっていることに協力はしていても、それが悪い人だからなのか、自分の正義にのっとっての事なのか、桃香には判断が付かない。
彼らも、権力に翻弄された守るべき民なのではないのか?
そんな状態で、世の中を変えるために戦う、傷つけることは果たして正しいのか、桃香は思い悩んでいた。


『誰かを傷つけなければ誰かを守れない』


桃香の信念は、現実にそれを押し通すとなればそういった矛盾を孕んだものとなってしまう。
それが、黄巾党の乱がなかったがために一方的に蹂躙してよかった敵という存在に出会うことがなく、今始めて直面したそのことが、何より桃香には辛い。
人を傷つけていくうちに、いつしか守るべきものまでその刃を向けることをなんとも思わなくなっていくかもしれないことが、恐ろしい。

それを優しさと取るか、弱さとするかは人それぞれであろう。
どちらが正しいも間違っているもなく、徹底して能力に応じて働きが認められる国を好む者がいれば、例え失敗をしたとしても再びの再起が許される国を好むものもいる、その程度の差異でしかない。

だが、間違いなく桃香のその心の悩みは間違ったものではない、ということを知っている三姉妹の真ん中の少女は、しかしそのことを突き放すかのような言を取らざるを得なかった。


「桃香様の御気持ちは尊いものだと思います……ですが、残念ながら今回はお心の奥に秘めていただかねばなりません」
「う……ん。そうだね、ゴメン。余計なことをいっちゃって」


その言葉は、当然ながら桃香にはわかっていることであった。
当たり前だ。
桃香の力、というものはこの時点ではとても小さい。
袁紹を許せない、民を救いたい、と吼えてはみても、純粋に彼女の意思に賛同し力になってくれているといえるのは義妹二人だけ。
今配下として付いている兵のほとんどは、客将としてこの戦争に参加することになった際に与えられた、公孫賛からの貸し出しだ。
勿論、今までの付き合いの中で桃香の思想に共感してくれた兵隊らは桃香自身の魅力もあって結構な数がいたが、だからといって公孫賛から離れてまで付いてきてくれる、ということは名を上げる機会がなく客将としてくすぶっていた桃香が求めていいものではなかった。
故に、消極的賛成はあっても命を懸けてまで桃香を信じてくれるのは、やはりたったの二人きりだ。


そんな弱小の、勢力ともいえない桃香がいかに今回の戦場において「まずは話し合いから」「袁紹一派は改めるべきだ」などといったところで、実際の効果なぞ皆無。
桃香の民を助ける、という思いは大勢力同士のぶつかり合いの間に挟まれ、すりつぶされ、もみ潰され、宙へと消える。

理想を語るだけの学者であれば、それもやむを得まい。
ただ耳障りのいい言葉のみを並べて、象牙の塔に篭り切り、自身の理想を実現できる権力者の存在を待つまでに自身の思想を一層磨き上げることこそが、彼らの役目。

しかし桃香はそれに耐え切れなかった。
一国も、一秒でも早く苦しむ民たちを救いたいと思ってしまった。

そうである以上、見なければならないのは自身の抱く理想ではなく冷たい冷たい現実だ。
理想実現のために一体何をしなければなならないのか自身の力量を勤めて冷静に判断して、今の自分に出来ることを考えて、抱く夢の中どうしても現実と矛盾するところを切り捨てて、しかし捨ててはならない絶対の部分はどうにかして残るように擦り合わせて。

力がすべてを否定する為には、やはり自身が力を得なければ同じ舞台に立つことさえも許されない。
万人を幸せにしたいという夢を抱くのであれば、当然ながらそれは万民の幸せに対して責任と実行を行うことが出来るだけの力を持っていなければ、夢物語以外の何物でもない。
そういった観点からすれば、もはや力を得るまでにこんな割り切らねばいけないことで立ち止まることなどあっていいはずがないのだ。


「そこがお姉ちゃんのいいところなのだ」
「そうです、桃香様は間違ってはおりません。ですから、まずは一歩一歩われらの力を蓄えていきましょう」
「うん、愛紗ちゃん、鈴々ちゃん。私の……みんなのために、力を貸して」
「御意」
「もちろんなのだ」


義姉妹たちが武将らしい豪快な笑顔を浮かべる横で、つられるように桃香はその名の通り花にも果にも似た、柔らかい笑顔を浮かべた。
そこには御互いの間の明らかな信頼と信用があった。
それを感じた愛紗と鈴々は一層この戦で名を挙げて、少しでも尊敬する義姉の力になろうと心に誓い、桃香はこの二人の信頼を裏切らないよう、一層自分の中での理想を形とするための方法を考えようとする。

だけど、ああ。
彼女の中でのわだかまりは、表層からは消えうせてもそれはいっそう深い部分に沈み込んだだけに過ぎない。
桃香は……大陸すべての民を真剣に考え、そのためにこの戦乱の世に立つことを決めた少女、劉備玄徳は自問する。


今から人を殺す、殺させる。
自分の理想のために他人を殺す私に、果たして人を助けるなんてことをいう資格なんて、あるのでしょうか?
これからこれを、何十も、何百も繰り返して進んでいったその先の場所にたどり着いたときに、今この胸に抱いている大切なモノは、果たして歪まずにいられるのでしょうか?


今はそうすることしか出来ない、と知っていながらも、桃香はそのことに対して未だ明確な答えを出すことが出来なかった。
そして、一度始めたからには間違った道に進んでしまったと後悔する事になろうとも決して留まることなど許されない、というその事実を、完全に理解していたわけではないがそれでも予感として桃香は感じていた。









で、桃香が地の果てにて悲壮な決心を固めつつあるそのほぼ同時刻。
詠の色香に騙されて逃亡することが出来なくなった一刀もまた、考えることとなった。

だが、当然ながら考えているその内容は桃香のものとはまるで正反対……どうすれば、この戦いを自らの利があるようなものに出来るか、とただそのことだけを求めるものであった。


現在、一刀は別に拘束されているわけではない。
いくら詠に対して愛着が湧いてきた一刀ではあっても、ずっと拘束されるという不快なことをされるぐらいであれば術を使うことをためらう性根なんて持ち合わせていない。
プレイの最中であれば足蹴にされるのを拒むつもりなどさらさらないが、だからといって普段からそんな扱いをされて怒りを覚えないほど彼の天狗っぷりは軽いものではないのだ。

それを知っているのか、詠は一刀に対して高ぶらせるだけ高ぶらせた後、己の体を使って十分に彼を楽しませ、その後実にあっさりと開放した。
ちょっとした色気のないピロートーク的なモノは確かにあったが、だがたったそれだけで詠は一刀を解放した。
自分を逃がさないために拘束する、といった余りに余りな応対と裏腹の潔さに、思わずあれ? とか思った一刀であったが、結局彼は「何だ、最近程立にばっかり構ってたからちょっと拗ねてたのかな?」というふうに先の詠の行動の原因を結論付けた。
詠の必死の懇願であっても、彼にとっては精々その程度の重さしか持たないものなのだ。

が、それを重々知っていた詠がなお、決死の覚悟で行った行為の効果は抜群であり、いつの間にやら一刀はこの地から逃げ出そう、とする考えをなくしていた。


「さて、どうしたもんかなぁ……なんでかしらないけど黄巾党がないから、この戦いが三国志において何に当たるのかイマイチ特定できないんだよな……赤壁あたりだったら連環で決まりなんだけど」


彼は、思い直したのだ。
きっかけは、事が終わって一服していたときに詠がかいがいしくも自分の体を濡らした布でいろいろと汚れたところを拭いてくれたり、飲み物を注いで持ってきてくれながらたわいもない話をしていたときに電撃的に感じた直感だ。


一刀がこの場所から逃げ出そうとした理由は、自分の安楽な生活が今後保たれない可能性がある、というただそれだけだ。
散々尽くしてくれる詠や月の体に飽きたわけでも、ようやく手に入れた程立や郭嘉への執着がなくなったわけでもなく、ただ単に戦争が起こったとなれば身の危険が迫るかもしれない、そうなるとこんな暢気な生活が出来なくなるかもしれない、とそれを考え、それの前に逃げ出してしまえばいいじゃん、ということが彼の考えた脱走の理由であった。
だからこそ、身の安全さえ確保されれば別にここを去る必要はないし、ここを去った場合であれば当然次の街でも同じような生活が出来ることを望んでいる。

だから、別に面倒なことになるくらいであればまた脱走を試みてもいいのだが、考えてみれば次の街にいったとしても詠ほど気が利く人材が配下に入るとは限らない、ということを示唆されてしまえばちょっと次の街へと向かうことは考えざるを得ない。


「ま、詠ちゃん見た感じ優秀そうだし、こっちにゃもうすぐ援軍も来るらしいから何とかなるかな?」


自分のことを天才であると思っている一刀であるが、同時に太平要術の書が自身の基盤となっているものであるとは自覚しており、それゆえに術無しでも自分に従う詠のことを相当気に入っている。
そして、詠ほど優秀な人間が他の町でも早々見つかるかどうかはある意味賭けになってしまう、という程度にはこの世界のことは知っていたし、「天の御使い」を名乗ってはいても、その名前を聞いただけで優秀な人間が無条件で自分に跪いてくれるわけではない、ということも雛里や人和などを通じて実感としてまだ覚えている。
そう、色に惚けて快楽に逃げて半ば溶けている脳みそではあっても、洗脳しなくても己に従ってくれる人間なぞそうはいない、ということぐらいは一刀には重々承知のことだ。


そうであるならば、痒いところに手が届くほどの気の効く詠の代わりが次の街でも都合よく出てくるという偶然を願うのではなく、むしろ詠のいる陣営を勝たせることによってこの安楽な生活を続かせることを目指した方が手っ取り早いのではないか、ということもまた一理ある、と考えることも当然の思考であった。
あんな何でもいうこと聞いてくれて、でも普段は結構ツンツンしていて、衣食住のすべての面倒を見てくれて、しかも自分からおねだりしてきたりしてくれる美少女を捨てて新天地に向かうのは、ちともったいないのではなかろうか、ということだ。

外見だけであれば太平要術の書でどんな美女であろうとも手に入れられるのだが、その美女に中身が伴っていなければあっさりとそんな楽しい生活も崩れることになる、ということは袁術のところを通じて十分実感した一刀にとって、詠は実に得がたい手駒だ。

馬鹿であれば手中に収めやすいが収めた後で役に立たないし、有能であれば鳳統のようにこちらに対して牙をむく。
無論、実力で孫策さえ下したと思っている一刀からすれば、それでも御せるだけの自信はあるのだが、雛里のように頑固者であれば面倒なことになるかもしれない可能性だけは否めない。
だとすると、この地にいて詠を確保した上で新たに運ばれてくる獲物の味見をしながら自身の環境を向上させていく方がいいように一刀には思えてきたのだ。


「まあ、どの道そんなに時間は掛かんないから、もうちょっとの辛抱ってとこかね……ああ、馬超とかどんな子なんだろ。楽しみだ」


それに、今回の戦争の相手は公孫賛と馬超らしい。
時期的には霊帝が没している以上、黄巾党の乱あたりの時期はもうとっくに過ぎているので、ひょっとすると劉備とかも入っているかもしれない。
すなわち、勝てば一気に獲物と領土ゲットである。
以前一刀自身が狙いを定めてどちらの領地に向かって侵攻しようかと考えていた相手が、わざわざこちらに来てくれるらしい。
官軍においても強力な部隊が来るという話しであるし、わざわざ一度逃げて、また公孫賛らを操る為にここに来るなんて面倒なことしなくても、自分の才能で勝てば面倒なんて何一つないのだ。

勝つ。
たったそれだけで新たな女が手に入り、また金も権威も転がり込んできて、その上で自分の下僕である詠の領土も増えてまた一歩天下統一へと近づく。
順調、実に順調だ。


勿論、一応形式的には朝廷の臣である董卓が今回の反乱に少しばかり協力するのであり、メインとなるのは朝廷から来る官軍というか袁紹軍になるわけであるから領土を勝手に切り取ったりしたら戦後の交渉で朝廷がなんだかんだ言ってくるかもしれないが、そんなときこそ懐の書の出番だ。
あっさり操ってしまえばいいし、なんだったらこれを機会に朝廷に乗り込んで歴史どおり董卓を宮廷の主にしてやるのも面白いかもしれない。


結局のところ逃げてちまちまと町々を洗脳して歩き回るなんて面倒なことしなくても、勝てばいいのだ、勝てば。


「俺がいて負けるわけないんだから、考えてみれば危うく公孫賛とか取り逃がしちまうとこだったな」


ここまで考えて、一刀は不敵に笑った。

そう、一刀からしてみれば己こそがこの世界の主人公。
袁術のときは面倒くさいことになってしまったが、あれば袁術と張勲が無能だったせいであり、賈駆だとか程立だとかが手に入っている今の自分であれば、敵なんてちょちょいのちょいだ。
ようし、いっちょ戦争やって英雄になってやろうではないか、と一刀はまず何をするべきなのか、含み笑いをしながら悪巧みを始めることになった。




「…………やっぱり引き止めないでどっかにやっちゃえばよかったかもしれないわね、あんな単純馬鹿」


とまあ、そんな感じに一刀はいっそ見事なまでに詠に思考を誘導されていた。
そしてその詠の言が、あながち間違っていないがために妖術書の効果も出ることなく、戦争へと突入することとなった。



[16162] 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/06/14 18:50


「馬超様、左翼より公孫賛軍より伝令! このまま迂回して背後に付く、とのことです」
「ああ、こっちからも見えた。ようっし、うまくいってるな……あたしたちはこのまま早さで撹乱しつつ、少しずつ切り刻んでくぞ!」


公孫賛軍と西域連合は、遠征してきた官軍及び董卓含む周辺諸侯連合と比べると、半分以下の規模しか持たない。
元々それほど肥沃な土地というわけでもないから普段から兵をそう多く養えるわけがないし、またたびたび国境を侵してくる五胡との戦いによって数多くの衛視たちが毎年のように散っていっていることを考えれば、元々強大な上に黄巾党の乱すらなくずっと内政パートで力を蓄えていた袁紹の全兵力とは、比べるのがおこがましいほどだ。
公孫賛など、もし袁紹が相国の座についていないでこの周辺にいたとすれば、どれほど劉備のために尽力したとしても援軍さえ出してもらえずにぷちっとろくな描写もなく踏み潰された挙句、一行ぐらいでその死を流される未来さえありえる。ああ、あんなに反董卓連合のときはいい人オーラ出しまくって手助けしてたのに、真名さえ設定されていなかったなんて旧版ひどすぎる、といわれたって仕方がないほどの戦力差だ。


「麗羽の奴がいなくなっていたのがこうなると幸いだったな。それを感謝することなんてないけどな……ようし、全軍回りきったな? 西域連合と挟み撃ちにするぞ!」


が、彼女たちにとって幸運なことにすでにこの地に袁紹はいなく、わざわざ官軍が派遣されてはいるものの、それは袁紹の馬鹿みたいな財力を背景にしてこの地を守っていた彼女の私兵ではなく、苦しい台所事情を持つ漢王朝の懐具合にふさわしい程度の規模の遠征軍だった。
すなわち、袁紹勢力をある意味吸収して強化されたはずの漢王朝から送り出されてきた兵士の数は、元々袁紹が領土として公孫賛の隣にいたときに貼り付けていた兵の数よりも、大分少なかった。


一体何故身分的には繰り上がっているはずの袁紹が出してきた兵の数が、以前彼女がこの地で保有していた数よりも減っているのか?
結論からいうとすれば、袁紹がアホだからである。

彼女は、「華麗なわたくしの軍こそ皇帝陛下をお守りするのに相応しいのですわ」との言葉を残して、ほぼ全軍を率いて洛陽に駐屯、そこからその軍事力を背景に自領および王朝の直轄領の実質支配に乗り出したのだ。
まあ、皇帝をお飾りとして宮廷を実質支配するのにはそれだけの数の目に見える力が必要だったのかもしれないが、それにしても彼女は「何もそこまで連れてかんでも」といいたくなるほどの兵を自領から連れて行ってしまった。
結果として、袁紹が元々保有していた領土の兵の数はもうほんと必要最小限度ぎりぎりまでしか配置されていなかった。
連合どころか、公孫賛単独でも片手間で対抗できる程度の残してきた兵だけでは、きっちりと自領をそつなく普通に治めてきた公孫賛軍の押さえとしては余りに役立たずだった。


勿論、いくらお気楽極楽な彼女とは言え、たったそれだけの数で公孫賛や西域連合と渡り合えると思うほどではない。というか、最初はある程度までそのつもりで、指揮する将軍だけ宮廷から送るつもりであったのだが、彼女のブレーンである顔良がいくらなんでも無理すぎると止めた。
それほどずば抜けて優秀というわけではないが、それでも優等生的なある程度の能力を持つ顔良は、当然ながら応援を派遣することで数で圧倒して勝利しよう、という選択肢を取ろうとする。

よって、彼女の主が高笑いと共に連れて行った膨大な数の私兵が再び戻ってくることになったのであるが……その数は、洛陽に向かったときよりも明らかに減っていた。


「もう、麗羽様ったら……だから以前言ったとおりある程度の人数は置いておかないとダメだっていったのに」
「まあまあ、連中だって王都見物したかっただろうから、いい気分転換になったんじゃないか?」
「文ちゃん、そういう問題じゃないよ~……はあ、一体いくら掛かっちゃうんだろう」


公孫賛の領地のすぐ隣から兵を動かすのと、それより少し離れた洛陽から兵を動かすのでは掛かる金額が違いすぎるがために、その兵数は採算を無視して維持されていたかつての袁紹とは程遠い、常識的な兵数でしかなかった。
要するに、域の旅費はあったものの、帰りの旅費を全員分出すことが出来なかったからその旅費が足りない分の連中が洛陽に残されて二分されており、現在袁紹が保有する戦力は数多の説話で愚行とされている「戦力の分散」を自ら行っているに等しい状態なのだ。
勿論、反乱を抑えるために公孫賛と西域連合を抑えることが出来ると彼女が考えるだけの兵数は用意されていたが……この世界においてはちょっと有能、程度が指し図った基準にしたがった用兵では才能にあふれた連中には絶対に勝てないのである。





兵の数は確かに公孫賛らのほうが劣る。
だが、一刀や袁紹のように顔良が馬鹿ではない以上、その数の差は常識的な範囲で収まってしまっていた。
彼らの馬鹿みたいな常識はずれの戦略ともいえない物量作戦こそが、英雄を凡人が倒すたった一つの手だったというのに。
そして、将の質の差は歴然としていた。


「おおおおおおおおおお!! そこを退けぇ」
「死にたくなければ、とっとと逃げるのだ!」


青龍偃月刀が振るわれるたびに雑兵がはじけ飛び、丈八蛇矛が返されるごとに戦場に血の花が咲く。
間違いなく才能に裏打ちされた上で磨き鍛えられた関羽と張飛の力と技は、雪蓮のそれと遜色ないものであり、袁紹配下の弱兵が止められるものではなかった。
彼女ら二人の周りだけがこの混雑した戦場において空白となり、それによって歪んだ隊列の隙を突いて公孫賛の軍はどんどんと前進して兵をすりつぶしていく。

たった二人とは到底思えない突破力で敵軍を切り崩していく公孫賛の客将を見て、友軍である馬超らさえも思わず目を剥いた。


「な、なんなの、あいつら」
「公孫賛殿、エライ配下持ってるな……おっしゃ、こっちも負けてられっか。いくぞ、蒲公英」
「ああん、ちょっとまって、お姉様」


公孫賛と、馬超を長とする西域連合。
思想の違いと温度差がある故に完璧な意思の疎通が成されているとはいえなかったが、それでも強大な敵に共に向かうことになった同士。
それなりに連絡を密にして、今までも幾度となく文を交わした後でこの決戦に挑んでいた。

だが、その馬超をして公孫賛がこれほどまでの武の持ち主を囲っていたとは思いもよらなかった。
そのものが出てきたときの旗印からすると、正式な配下というわけではなく客将ということなのだろうが、それにしても凄まじい。
よくもまあこれほどまでの豪傑が二人もそろっていて今まで無名であったものだ、とこの黄巾党の乱がない世界において流れの武将が名を挙げることがどれほど大変なことかをイマイチ理解していない馬超はそう感じて改めて同盟相手となった公孫賛軍への評価を上方修正する。
実際に、趙雲などは未だ無名なぐらいここのところしばらくは平和だったのだ……そしてそれはすなわち、今回の騒動を見て各地の無名の武官たちが名を挙げる機会を求めてやってくる、ということでもある。


だが、彼女たちが味方である以上、馬超が感じるのは恐れでも武人としての対戦を望む心構えでもなく、彼女らに負けぬ活躍をしなければならないということ。
彼女らと同じく才と天運に恵まれた馬超の武とて二人に劣るものでは決してないが故に、馬超は自分自身が自軍における彼女たちと同じ役割にならんと手に持つ十文字槍、銀閃をぶん、と一度大きく振るったあと、一気に浮き足立ってこちらに逃げてきていた官軍に向けて一気呵成に攻め込んだ。


関羽に張飛、そして馬超。
その圧倒的なまでの切れ味を誇る武具の化身らは、以前一刀が孫策に対して取った暴力的なまでの人海戦術を防がれた以上、雑兵たちに止められるものではなかった。
彼らの必死の抵抗さえ、彼女らからしてみれば何するものぞ、何の役にも立たない。
一刀の能力によって死への恐怖を消し去られるような操られてでもいない限り、その前に立ち向かうことさえ考えることの出来ない暴虐の嵐は、彼らの人生も希望も願いも残された家族への思いもすべて一切合財汲むことなく、無慈悲に平等に死の風を運び、飲み込み続けた。
彼らでは、どれだけ頑張ろうとも、どれだけ願おうとも、彼女たちは止められない。


英雄を止められるのは……やはり、英雄だけなのだ。
だから。


「邪魔……」
「な、お前は!」


がっき、と、到底常人には死人さえ出来ぬ速度で振るわれた戟がたった一振りで、今まで十分に実った稲穂を刈り取るがごとき気楽さで敵対者の命を奪っていた二つの武具をあっさりと食い止め、弾き返した。
恵まれた身体能力に裏打ちされた弛まぬ鍛錬によって振るわれた超重武器は、それ以上の武とそれ以上の重さの武器によって今までの立場をまるで裏返したかのようにいとも簡単に留められたのだ。

誰一人止められなかった関羽と張飛という二人の超人の攻撃が、止められた。
それが意味することは、決してたった一人の凡人が恐怖を押し殺して、しかし守らなければならない背後の者のために振るった一撃が功を奏したということではなく、何年も、何十年も鍛え続けた凡人の刃の一端がついに届いた、ということでもない。
彼女たち以上の超人が、この戦場に光臨したことだけが、『関羽と張飛の剣が止められた』、そんな常識はずれのことを事実へと変えたのだ。


「まさか……」
「あの方はもしや! はは、勝った、勝ったぞ、この戦い!」
「そんな、もう戻ってきていたなんて……」


彼女の姿が戦場に現れた瞬間から呟かれ続けた驚愕と尊敬と畏敬と畏怖の声が、彼女が誰なのかを無口な本人以上に雄弁に語っていた。

味方は誇り、恐れ。
敵方は絶望し、恐れ。

敵も味方も問わずにその名を語るときは、圧倒的なまでの暴力とそれに対する恐れがどうしても抜けない。
たった一瞥しただけで常人に容易に死のイメージを抱かせるそのいでたちから発せられた雰囲気は、他の英雄豪傑と比べても余りに桁違いだった。


振るわれたその武器の名は、数多の名品を押しのけて天下に名だたる巨大戟。
振るったその持ち主は、多くの英雄豪傑を歯牙にもかけず天下無双の名を誇る無垢なる暴将。


「そうかお前が……」
「呂布なのか!」
「お前ら……ウザい…」


この外史において誰よりも天に愛され、誰よりも恵まれた彼女―――方天画戟の呂布が、ついに出てきたのだ。








一応ひとかどの武将と呼ぶだけの能力はあるものの、能力値のすべてが『普通』とは評価されちゃう不憫な公孫賛は、普通の常識を持ったものとして最高責任者が武器を持って前線に立って戦うような無責任な真似をするほど吹っ切ることもなく、その結果として客将であるはずの関羽と張飛が超大暴れをして手柄と評判を稼いでいたのを遠目で見ることしか出来なかった。

彼女だって、がんばってはいるのだ。
名門に生まれ、袁紹という反面教師が常に近くにいたがために勉強だって武芸だって一生懸命取り組んでここまで来ていた。

が、何分努力なんて実らないのがこの世界だ。
多分、この十数世紀後、この世界においては多分女の子の万能の天才はこういうはずだ。
「成功には、99パーセントの努力と1パーセントの才能が必要……つまり、1パーセントの才能さえなければどれだけ努力しても無駄なのよね」と。
その言葉に象徴されるかのように、どれほど努力しても公孫賛―――白蓮は普通の域を出ない。

この戦いにおいても兵士もそれを養う為の資金もすべて彼女が出しているにもかかわらず、この戦場における主役は彼女ではなく、関羽と張飛、そしてそれを指揮する劉備へと移りつつあった。
で、「あれ、私いらない子? また真名も呼ばれずに一行で退場させられちゃうの?」とかハイライトの消えた暗い目をして思い始めていた公孫賛であったが、呂布が出てきたと見るや一気に生気を取り出して、精力的に命令を出し始めた。
そんなことをしている場合ではないと、強敵の出現によって自分の立場というものを思い出したのである。


「不味いな、呂布か……よし、総員集結! あいつを迂回して他の連中から削ってくぞ!」


事前に行っていた遅延工作によって未だ洛陽にいるはずの呂布がすでに到達していることに焦りを感じながらも、公孫賛は自分に出来る最適の判断を下した。
彼女がそれなりに強ければ、天下無双の名を持つ武将と一騎打ちして自身の名を世界にとどろかせることを考えたかもしれないが、先の関羽と張飛のアレっぷりを見たあとではそんな気持ちなどとっくにどっかにすっ飛んでいる。
武将として呂布には言うにも及ばず、関羽や張飛とさえ一合あわせるのが精一杯であるとある程度自分の実力を正確に把握していた彼女は、だからこそ呂布を相手に戦って自分と自分の指揮する軍隊が勝利できるなんて夢想するほど愚かではなかった。
曲がりなりにもひとかどの武将としては余りに臆病としかいえない選択肢であったが、それでもこの場においてそれは正しかった。


最強の戦力である呂布をあえて「無視」して、彼女の周囲を囲う兵士たちを撃破することを命ずる。
無論、そんなことをしても呂布側から攻めてくる手が止まるわけではない。
呂布自身は関羽と張飛にかろうじて抑えられているものの、彼女が率いてきた兵は未だに健在である。
呂布のあまりにあまりな武勲に敵は奮いあがり、自軍である公孫賛指揮下の兵はおびえて普段の実力を発揮することは出来そうにない。
関羽と張飛が敗れた瞬間に、その差はさらに広がるだろう。
だが、それでも敵は同じ兵士だ。あんな化け物相手に立ち回りをするよりよっぽど勝機がある。

未だ、呂布と激戦を繰り広げる二人を尻目に、公孫賛は馬を返す。
悔しさはある……どれほど努力を続けようと、『普通』レベルから抜け出せない自分と比べて先ほど戦っていた三人は明らかに武の神に愛されている。
武人として、同じ舞台に立てないことは余りに口惜しく、同時にそれが故に舞台にはなから上がらない自分のことを後で民たちがどう見るのか、ということを考えるとその屈辱の大きさに憤死してしまいかねないほどの感情が荒れ狂う。
それでも彼女は、直情的にそういった負の感情を振り払う為に無理やり自分を舞台にあがらせようとはしない。
彼女にとって、普通と、凡人と呼ばれ続けた彼女にとってそんな感情は今まで何度だってあったことなのだ。


そんな公孫賛が寄る辺とするものは、武なんかではない。
彼女が守らなければならないモノは、名誉ではない。

『自分にできる範囲で、自分に背負えるだけのものを見る』
これが、才豊かなものを尻目にじりじりとしか積み上げていくことしかできなかった彼女の処世術だ。


「さっきまでの関羽たちの活躍と呂布の乱入によって、完全に陣形は崩れてる。これは好機だ」


袁紹に対して立った時点で、白蓮の行動はもはや彼女一人のものではなくなってしまった。
後ろには何百何千何万もの民がいる。自分が敗北することは、すなわち彼らに袁紹の暴政が及ぶことに他ならない。そんな状態で嘆いても投げ捨てても何の意味も無い。
すでに賽は振られたのだ。

ならば、一対一の戦いという場面において彼女たちと同じところに立つことが出来ない自分は、戦術的な勝利でそれを挽回しなければならない。
それを、桃香と共に育ってきたときなどによって自分は凡人であるという現実を、今まで常に突きつけられてきていた白蓮は、そのことを誰よりも理解していた。

だから、理解していてもあふれ出てくる悔しさ、という感情は奥歯をきつく、きつくかみ締めるだけで押さえ込む。


「負けてたまるか……天才なんかに、負けてたまるもんか! 幽州は私の土地だ、私が守るんだ!!」


意識せずとも呪文のように呟いたその独り言が、いつしか大きな叫びとなっていたことに白蓮は気付いて、思わずしまった、という顔をする。
だが、ここは戦場、ましてや彼女は馬上において先の現場から踵を返して失踪中だ。
あたりにあふれる戦場特有の金属音と肉を割き骨を砕く音と悲鳴と歓声と怒号と騒乱の声と、それらすべてを流しさる風のベールが彼女の言葉なんてあっという間にさらっていった。
だから、誰の耳にも入らずにその言葉は空気に溶けた。


(呂布や麗羽……それに、関羽に桃香にだって、絶対に負けるもんか!)


だが、その誰にも聞かれなかったその思いと叫びが、今まで踏み潰されてきた雑兵すべての気持ちを背負ったがごとき気迫の篭ったものであったことだけは確かなことだった。




[16162] 愚公山を移す
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/06/16 18:51


三国志の時代は後漢末期のころ、西暦で言うところの二三世紀あたりとなる。
殷や周といった神話の時代から始皇帝による強力な政治体制をうけてそれなりの合理化を経て、文化という形が出来上がりつつあった時代であったと今日では考えられている。

魏志倭人伝というように、魏・呉・蜀の三カ国が成立した時代においてすら日本は邪馬台国、卑弥呼といった原始的なアミニズム信仰をベースとした農耕レベルから抜け出せていなかったことを思えば、この当時の中国は世界一の文化国であったというべきである。
芸術、学問、文化に教育。
すべてにおいて世界最先端、世界中のあらゆる物と富と知識がこの国には集まってきていた。
この時代において中国は、アメリカ(未だネイティブアメリカンがほとんど)とロシア(寒すぎてほとんど発展していない)とイギリス(ほぼ日本と同レベル)をあわせて鼻で笑える程度の隆盛を誇っていたのだ。


そして、その文化の隆盛は当然ながら軍事においても大きな影響を及ぼした。
最新の武器、最新の訓練法、最新の戦闘術……そして、最新の軍略。
強いだけでは勝利は望めぬ。
強く、賢きものこそがすべてを統べる。それが戦場においても当てはまったのだ。
孫子の兵法の例を挙げるまでもなく、中国ではすでに単純な力の競い合いから、互いの智謀と知識をぶつけ合う知略戦の要素が入りつつあったのである。





「よし、一当てしたらそのまま旋回、もう一度行くぞ!」


幽州を治める公孫賛と西域連合の中心格である西涼の馬超は、もともとある程度の交流がある。
五胡と袁紹に挟まれた形となっている公孫賛の領土、幽州の立地条件からすれば、袁紹と無理に付き合うか、西に向かって交流を深めることでしか同盟を組めない。
そうである以上、自身を凡人だと自覚していた公孫賛は袁紹に対してイヤイヤ頭を下げてご機嫌を取りながらも、当然ながらもう一方にも手を伸ばすことをやめようとはしなかった。


とはいえ、西涼と彼女の繋がりは、馬超の母である馬騰とのものが主なものであった為、馬騰の突然の死により太守が代替わりした後の連絡が密にいっているとは言いがたいものがあったが、それでも代々続いてきた交流は、そう簡単に途切れるほどのものではなかった。
公孫賛は西域という広大な領土を女手一つで纏め上げた馬騰を尊敬していたし、その跡目をきちんと継いだ馬超に対しても悪感情を持つ要素などありはしない。
馬超は馬超で、自身が太守の座を継いだがゆえにその大変な業務を治めてきた公孫賛に対して敬意を忘れようとしなかった。
年齢的には多少の離れがあるものの、それでもそれは馬騰と公孫賛のそれほど大きなものでなかった二人は、御互いにそれなりに良好な関係を築いており、それは袁紹が洛陽に入ってからはさらに活発になった。


その中で、二人は自分たちの共通点を見つけ出し、今後袁紹と戦うこととなった際にはこれを武器に戦っていこうと話を詰めていた。
人口と富に劣るが故にいかに五胡との実戦経験により質では勝ってはいてもまともな用兵をしていては最終的には不利になることは否めない。
だが、この地にあればこその強力な武器も馬超たちは保有していたのだ。


「行くぞ! 全軍、突撃!!」
おおおおおおおおーー!!


喊声と共に突っ込んでいくのは、公孫賛と彼女の直属の部下、そして白一色に統一された筋骨隆々としたたくましい歴戦の軍馬たちだった。
白馬義従―――そう名づけたこの軍勢こそが公孫賛の切り札。
騎馬の機動力と弓の射程、突撃という桁違いの重さの巨大な槍を兼ね備えた、この時代においては最高の突破力を誇る部隊だった。


元々、戦争に馬を使用するという発想は昔からあった。
なんといっても人間の数倍から数十倍の速度で機動できるこの当時唯一の乗り物なのだ。
ただ、馬一頭を生産、維持するコストが膨大であることもさることながら、に乗りこなすには高度な技術が要求される騎馬は、上級の武将が乗りこなすことはあっても部隊単位で揃えるのは少々荷が思い。攻城戦、山岳戦ではまるで役に立たず、兵站においてさえ大量の馬の分だけ今までのものとは全く異なった運用方法を求められる。
だからこそ、官軍はこれを全軍に対して配備させようとは考えなかった。


「五胡すら恐れる白馬長史とは、この公孫賛のことだ!!」


だが、眼前の光景を見るにその考えは間違っていた、と袁紹は思わざるを得なかったであろうし、同じ官軍の一員であり、小規模ではあるものの配下にに騎馬軍団を持つ張遼はそれ見たことかといったであろう。

圧倒的なまでの機動力と射程を誇る騎馬軍団を前に、歩兵が主である官軍側はまるで着いていけない。
違う部隊を狙っていると思ってちょっと前面の敵に注意を払っていればいつの間にか背後から矢を浴びせかけられ、慌ててそれに対応しようと部隊を整えるともうすでにそこに姿はなくまた別の方向から攻撃してくる。
散発的に個々人で対応してくる兵士はいるものの、その白い重槌がごとき進軍を止められるほど部隊単位で対応する隙を、公孫賛は絶対に与えようとしなかった。
そして、彼女らがつけた傷をすぐさま後方で今か今かと待機していた歩兵部隊が広げていき、あるいは前面に盾を構えて防御の体制をとって受け止めていたこれまた歩兵部隊が反撃のときだと隊列の乱れた敵方に対して槍をいっせいに突き出す。
混戦の中、呂布が抑えられてしまっていることで指揮系統が上手く機能していない袁紹配下の弱兵では対応できるはずもなかった。

馬上で戦闘をすることが出来るほどに兵を鍛え上げるということは、常備兵という体系を財政的に取ることが難しく、かといって五胡のような普段から馬を乗りこなしている遊牧民が兵となるわけではなく農民上がりを徴兵することで戦力を補充していたこの時代の諸国にとってはそうとう無理があることであった。
両手を放して手綱捌きだけで馬を制御できるほどの達人であれば、それはもうひとかどの武将といっていいのだ。


だからこそ、熟練した御者が必要であるとはいえそれでも圧倒的なまでの突破力を誇った古代の戦車がこの時代においてはすでに廃れつつあったのであり、袁紹が、呂布が、関羽が騎馬戦を重視していない理由でもあった。
だからこそ、官軍多しといえども騎馬を積極的に利用する将軍は張遼ぐらいしか見当たらない。
皆、その維持コストの多さと損失した際の金額と責任の大きさに二の足を踏んだのだ。
当然、今回の戦いに際しても出費を嫌った顔良によって、張遼に付けられた騎馬部隊の数はそれほど多いものではない。 


「どうした、天子を汚す偽官軍ども。袁紹配下でふんぞり返っていてその実力か! これならばまだ蛮族どものほうが歯ごたえがあるぞ!!」


だが、騎馬民族である五胡と戦う為には馬超と公孫賛はそれを常に、大量に、それなりの質で揃えざるを得なかった。

馬超はまだいい。
西域という土地の性質上農耕には余り向かず、どちらかというとこちらも遊牧民に近い、半農半猟といった生活体系を取っていた住民が多いので、比較的容易に馬上で弓を引ける程度の人材は集まるからだ。
だが、公孫賛は違う。
基本的に農民がほとんどである彼女の領民の中から騎馬に乗れるだけの人間を維持するのがどれほど大変なのか。公孫の家系はそのことに対して常に頭を悩ませていた。
凡人であるが故に自分ひとりの圧倒的な武を持って領土を守ることなどできないことを十分に知っていた公孫賛もずっと悩み続けていた。
それこそ、一刀が天より堕ちてくるずっとずっと前から、彼女の人生はいかにこの金食い虫の、しかしなくすことの出来ない騎馬部隊を維持することに対する思案で埋め続けられたといってよい。


「うわ~、公孫賛様の白馬義従って始めて見たけど、すっご~い!! なんだろ、鞍にでも仕掛けがあるのかな? ……ま、いいや。たんぽぽたちだって負けてないもんね。みんな、お姉さまが張遼将軍を抑えてる間に、こっちもいっくよ~~!」


そして、彼女はたどり着いた。

凡人を突然達人へと引き上げることを考え付いたのではない。
才なき者には厳しいこの世界において、そんなことなんて出来るはずがない。
ましてや、それを考えているのもまた凡人であるならば、そんなことなどありない。
だからこそ、公孫賛がやったことは凡人なりの必死のアプローチが数世代かけてようやく実を結んだ結晶である、ただそれだけだ。

今まで達人しか使いこなせない騎射を全軍に使わせるために、彼女が作ったもの。
それが、「あぶみ」だった。

馬の鞍に吊り下げた皮製の紐によって、足場を半固定すると同時に振り落とされないよういつでも足を離すことが出来る馬具。
何だ、そんな単純なことか、というのは容易いが、これは画期的な馬具だった。
これまで騎馬を操るには、卓越した体重移動と太ももの筋力によって馬の背を挟んで乗馬するしかなかった。
馬超や張遼が今使っているそれも、一応鞍こそ置いてあるもののそれはあくまで尻を直接馬の背に乗せない程度のもの。
当然姿勢が不安定で、それを自在に乗りこなすにはかなりの熟練が必要であり、だからこそ騎兵を育てるのが難しかったのだ。平乗りして移動手段とすることは出来ても、よほどの達人でもない限り馬上において両手を自由にすることが難しい、これがこの時代における騎馬の扱いだった。

だが、彼女の祖がその考えの片鱗を作り、そして公孫賛がついに発想を搾り出すことに成功して、完成させたこの足のつま先を引っ掛けられる場所を鞍につけておく、というそれは、至極単純な原理とは裏腹に馬の扱いを今までに比べれば格段に容易にさせ、素人であっても少しの訓練でそれなりに、そして熟練者であれば更なる高見へと天才ではない凡人たちを連れて行った。
農耕民族であるはずの漢民族からなる彼女の兵が、騎馬民族である五胡に対抗できるほどに。


これは、同盟相手である馬超にも教えていない公孫賛の最秘奥。
無論、ある程度の偽装は行っているとはいえいずれは気付かれるであろうが、それでもその「いずれ」が来るまでは圧倒的に有効な手段。
少なくとも、この大戦中は模倣されることなどありえない、それほどのものだ。

その効果は絶大であり、今まさに蹂躙されている兵士たちにとって見れば凡人であるはずの彼女が、彼女の指揮する兵の一人一人が、まるで神速と名高い張遼将軍さえも凌駕しているように見えた。


「ははははは! 幽州は、この私が守る!」


的確に削り、穿ち、潰していく白馬の中心で公孫賛は笑う。
指揮棒代わりに所有していた無銘の剣の重みが、今の彼女には何よりも頼もしいものに思えた。
凡人とされて、普通と呼ばれてきた自分が幽州を守っている。
異民族相手ならばさておき『あの』袁紹相手に自分が真っ当に戦えている、というその事実は、彼女の今までのコンプレックスを見事に吹き飛ばした。

これは、呂布と張遼がそれぞれ関羽と張飛、そして馬超に抑えられているがために可能な蹂躙であったのだが、この状態でならば正直白蓮は呂布さえも抑えることが出来ると思っていた。
武将として一対一で戦えばあっという間に敗れるであろうが、馬の速度で遠距離から矢を射つづければ呂布のどんな攻撃も届かないと思ったからだ。

その戦場での余りに見事な働きは、なるほど関羽張飛にとられた手柄と評判を取り返して余りあるものだ。
例えこの状況下で戦闘が終わったとしても、彼女の評判が客将である二人に劣るはずもなく、それどころかその二人の客分さえも見事に使いこなした名将と呼ばれることになるであろう。
いわんや、関羽たちの主とはいえ直接は全く戦果を上げていない劉備をおや、である。

その戦果に後押しされたのか、いつしか公孫賛の態度には風格さえも漂いつつあった。
相手の指揮系統がめちゃくちゃで、自軍の統制は取れており、兵の質の差も、武器の差も有利な状況で負けるはずがないのである。
だからこそ、公孫賛はこの場においては凡人にもかかわらず、英雄にさえも負けず劣らずの活躍をみせていた。




だが、彼女は知らなかった。
天に愛される、ということが何を意味しているのか。
才能がすべて、という言葉がどれほど重たいものなのか。


「こ、後方より、敵襲です!」
「何!」


突然自分たちの『後方』から飛んできた矢によって、白蓮は思わず声を上げた、挙げざるを得なかった。
突破と一撃離脱を繰り返す自分たちのにとって、後方からこちらに届くほどの矢を、単発ではなく部隊単位で放てるのは同じ騎馬である今馬超が抑えている張遼配下のものだけのはずなのだ。
今まですべての部隊を突き崩してきた公孫賛にとって、背後から攻められるなんてことは完全に思案の外にあった。

慌てて後ろを振り向くと、そこには……


「なっ! 『董』だと!」


紫紺に染め抜かれた旗を立てて一直線にこちらに向かって突撃をかけてくる一団があった。
その一団は馬の色こそ公孫賛の白馬義従のように統一されたものではないものであったが、その速度は同じく馬上のそれ。
公孫賛が鍛錬を重ねて、必死になって金銭を工面し、ようやくその原型を発想して実用化にこぎつけたそれと、ほとんど同等のものだった。

それが、何故。
袁紹ならば、わからないでもなかった。
あの大陸一の大富豪のお嬢様からすれば、ひょっとすると自軍のものを盗み出すなり、その有り余るマンパワーを使って強引に年月をスキップすることで開発することもありえないとは白蓮は思っていた。

また、馬超であるならば、やはり、という気持ちで受け入れられた。
自分たちと同等以上に馬のことを知り尽くしている彼女たちであれば、年月の差こそあれいつかたどり着くであろうと思っていたからだ。


(馬鹿な! なんで、なんで……董卓が、アレを!)


だが、董卓なんて奴がどうして自分たちと同格に並べるのか。
馬超と自分の間に挟まれて、ほとんど戦力として数えることさえ微妙な規模しか持たないあの領主が、幽州の太守である自分の秘奥と同じ物を、どうして作ることが出来たのか。
自分と馬超の間に挟まったその小規模な土地は、正直言って白蓮にはどうでもいいものであった。
確かに地理的に少々厄介な場所にいるので内応の誘いは出していたが、いざとなれば踏み潰して併合すればよいと思っていた。

だからこそ、その董卓がこの戦に参戦を表明したという情報事態は耳に入れてはいても、この戦いが始まる前においても呂布と張遼の動きを探ることにほとんどの斥候を費やし、そんな弱小勢力なんてものにはほぼ注意を払っていなかった。


また、董卓自体の評判がそれほどでもないこともその判断に影響した。
武人でもなく、智謀の将でもない。
政治においては賈駆という優秀な人材を囲っているらしいが、その賈駆にしても最近ついにつぶれたのか流れの占い師か何かの言を妄信して摩訶不思議な奇妙な政策に頼り始めていると聞いていた。

自分と同じ凡人が治める、自分よりも規模の小さい、古い血の流れだけを誇る弱小勢力。
それが、董卓の治める河東という領地の評価だったはずだ。


「くそっ! 見たところ、錬度自体は私たちの方が上なんだ! 全軍旋回。回りこんであいつらの尻に噛み付いてやるぞ!」


混乱のさなか下された公孫賛の指示は軍略的にはある程度正しいものではあったが、だからといって答えを言い当てているとはいえないものだった。
それほどまでに、彼女にとっては最新の秘密兵器が、こうもあっさりと模倣された衝撃は大きかったのだ。




そう、そここそが凡人の限界点でもあることに彼女は気付けなかった。


あぶみ?

現代からすれば当たり前の事実。
中学生でも知らぬ者のほうが少ない、むしろ一周回って逆に知らない人間が出てくる程度のものだ。
裸馬にそのまままたがろうと考える現代人がどこにいるというのか。

彼女の先祖が積み上げてきたことの集大成としてようやく白蓮が手に入れた秘奥は、堕ちた天の御使いには当たり前すぎて語ることさえ退屈な事実。
そして、それを手に入れることが出来た董卓―――賈駆にとって、所詮凡人でしかない公孫賛は、その知識による成果を試せる獲物以外の何物でもなかったということだ。


呂布に、袁紹に、関羽に、そして劉備に勝つ。
天才たちを、凡人の牙で―――騎馬で引きずり落とす。
それは、彼女にとって目前まで来ていたはずの未来だった。


「よし……所詮は猪武者ね。僕たちのこと、ほとんど見えてなかったみたい。じゃあ、よろしく頼むわよ、雪」
「は~い、まあ、任せてよ。それよりも、ねえ。この鬱陶しい仮面だか覆面だかは何とかならないの?」
「……あんた、自分が有名人だってこと、ちょっとは自覚しなさいよ!」


しかし、何度でもそれを繰り返そう。
彼女たちに負けてはなるものか、と自分にできる最上のことを積み重ねてきた公孫賛に対してあまりに残酷な事実。

この外史では、「才能」がすべてを決めるのだ。
それを今から、北郷一刀というまさに天に愛された男を手に入れた賈駆が、この戦場で証明してみせるだろう。




[16162] 先んずれば人を制す
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/06/18 12:20


公孫賛は必死になって前の軍勢を追いかける。
そこには、戦略的にあいつらを潰しておかなければ自分たちが思い切った戦いを行うことが出来ない、という思いもあったが、それ以上の感情が入っていなかったなぞと誰が言えるであろうか。

馬は、白馬侍従は彼女の専売特許だ。
他国においてもその名を轟かせるまでに彼女がその配下を鍛え上げるのは、あぶみというモノがあったとしても並大抵の苦労ではなかった。
それをあっさりと模倣され、あまつさえそれによって奇襲を受けた。
いくら公孫賛が天才によって踏みにじられることに慣れてしまっているとはいえ、いや、慣れているからこそそれはあまりに大きく彼女に屈辱を感じさせた。


「逃げるなーーー!! 私と、私の部隊たちと戦え!!」


また、彼女たちがあぶみを使っての馬術に熟練しており、相手のそれが若干拙かったこともそれに拍車をかけた。
公孫賛軍があぶみを導入してからもう随分たつ。
この戦争の為に開発したのではなく、元々五胡と戦う為に作り上げた技術なのだから、それも当然だ。だからこそ、彼女らにとってもはやその技術はあって当然のものとなっている。

それに比べてあの『董』の旗を掲げた一団の速度は、その公孫賛らに僅かに劣ってどこかぎこちなさを感じさせた。おそらく自分たちとは違って急作りなのだろう。
そのほんの僅かな差を白蓮は実に有効に使って、矢を持って追い立てられていた立場から、いつしか逆に董卓軍を追う立場へと転換することに成功する。
一時はその立場を逆転する為に随分距離が開いてしまったが、それでもその差は時間と共に徐々に詰まりつつある。


果たしてそれがあぶみの完成度の違いなのか、それともあぶみを使っての機動を訓練するのに十分な時間を割けなかったが故なのかはわからなかったが、自分たちの馬術と比べて全体的に僅かずつに劣って見えるその動きは、彼女たちからすればその董卓軍が自分たちから盗み出した技術を使っている「劣化コピー」である、ということを強く印象付けた。

ようするに、董卓軍は間者や内応などといった卑劣な手段によってこちらの技術を盗み出して、似て非なる偽者を作り出したのではないのか、という疑いを抱いたのだ。
それは凡人としての妬みが入ったものかもしれないが、至極妥当な思考の帰結でもあった。

そんな司令官の怒りは、当然ながら配下のものにも伝染し、それがまた司令官たる白蓮の元へと伝わっていった。
白馬長史の元で、白馬侍従として戦うことに彼らも誇りを持っていた。
この今までの騎馬兵術を完全に変えてしまうこの新技術を作り上げたこの主君を、心底尊敬していた。
なればこそ、その彼女の必死の努力を容易く卑劣な真似で模倣するような連中を生かして返すつもりはなかった。


「後ちょっとだ、お前ら。一気にいくぞ!」
「「「応!!」」」


公孫賛の声を聞いて、公孫賛軍の白馬侍従部隊は人馬一体のみならず主従さえも一体と化して一直線に董卓軍へと迫っていった。
戦場において呂布が未だ健在なのはその旗印からわかっている。ならば、一刻も早くこいつらを蹴散らして、呂布に向かわなければ。
あの二人では、呂布を抑えることは出来ても、倒すことは難しいだろう。
そう、呂布を倒せるのはこの白馬侍従らによる遠距離からの高速一撃離脱以外にありえないのだから。

少なくとも本人は完全にそう思い込んでいた公孫賛は、だからこそ自分たちと同格の力を持ち、しかし自分たちよりもわずかばかりに全体的に劣る董卓軍を一気呵成に攻め込んだ。
必殺の気迫を込めて突っ込んだそれは、もはや遠間からちまちまと弓での削りあいをするつもりはなく、機動力の差で一気に押し包んで圧殺するつもりだ、という目論見を見事なまでに表したものであった。

あちらとこちらの鐙の完成度の違いによるものか、馬上での安定性の差がそのまま速度の差に繋がっているように速度で上回っている公孫賛が取ったその戦法は、騎乗での弓の打ち合いによって削りあっていく、という時間も被害も大きく掛かる方法とは違う、もう一つの正解であった。


こちらの急加速を受けて慌てたのか、あちらの騎馬隊が大きく体勢を崩す。中には、自分の背に背負っていた矢や手に持っていた槍を取り落としているものさえいたことが、白馬侍従の顔に浮かんだ侮蔑の笑みをさらに強くする。
公孫賛は司令官の一人として相手を侮りかねないそれに同調こそしなかったものの、勝てる、という確信を強めたのは確かだった。
現状において、相手がこちらの劣化コピーでしかない以上それは正しいようにも思えた。




ただ、彼女が不幸だったのは……余りに教科書どおりの正解過ぎて、異世界人からのブーストを受けてさらに知を増していた軍師、賈駆の予想の一つをきっちりとなぞりすぎていたこと。
そして、一刀が彼女に与えた牙は、鐙だけではなかったのだ、ということを理解していなかったことに尽きる。


「っ! 止まれ!」


瞬間、嫌な悪寒を感じた公孫賛は全軍に対して停止を求めた。
別に、何か攻撃を受けたわけではない。それでも、いくつもの戦場を才によって飛び越えるのではなく、凡人なりに一つ一つ乗り越えてきた彼女には、その場が危険だということが経験からわかった。


だが、車は急に止まれない。
無機物ではなく生物である馬は車よりもある程度融通が利くが、それでも急な停止の指令に従うのは難しかった。何せ、言い出した彼女でさえつんのめって危うく落馬しそうになったぐらいの急制動。
馬にも人にもあまりにも負担が大きい。

ましてや、何らかの直接的な危険が迫っているようにも見えないのだ。急停止によって部隊員同士が衝突する可能性を考えて戸惑った彼らを責めるわけにはいかないし、実際にその指示に従おうとして後ろの馬に衝突されて地面に落ちた騎士もいた。
そのため、白馬侍従において公孫賛の考えるとおりに被害無しで見事に停止できたものはそうはおらず、大多数のものは今までの慣性の流れを止めることは出来ずに進んでしまった。



そして、それが終わりの始まりだった。


「っ、なぁ!」


始まりは先頭を走っていた馬から。
突然その公孫賛を追い抜いてしまった兵士が乗っていたが前足を跳ね上げて後ろ足だけでまるで二足歩行しかねないほど棒立ちになった。当然、そんな状況下ではいくら鐙によって格段に振り落とされにくくなったとはいえ、耐えられるものではない。振り落とされた兵士は、苦痛の声と共に地面に受け止められた。
その突然前方に障害物が発生したことでそれに当然ぶつかる後ろの騎馬は、今までの速度が速度だっただけに衝突の衝撃で骨を折ってしまったのか、前足から崩れ落ち、その騎手も馬に巻き込まれて地面に磨り潰される。

とはいえ、そこまでならばありえない光景ではない。訓練中でも操作ミスによって友軍が巻き込まれることはないとはいえないので、それなりの訓練を積んでいる彼らは巻き込まれる被害は最小限にとどめる術を知っている。
そここそが、こちらから技術だけを奪った急造の騎馬隊とは違う白馬侍従と呼ばれるだけの実力の現われだ。


「……危ないところだった、大丈夫か、って! 何ぃ!」


だが、その二騎を何とかかわした三騎目が、数歩行っただけで先頭のものと同じように馬が棒立ちになり、落馬させられた段になってしまえば、そんなアドバンテージも消える。。
避けねば転倒し、避ければ数歩進んで自分が振り落とされる。
そんな絶望的な二択の訓練など、積んでいる筈がない。


「ぐぅ!」
「ダメだ、避けてくれ! ぶつかる」
「あああっ!」


そうなってしまえば、相手を追うために連なってかけていたことがさらに災いした。
前のものに引っかかって後ろのものが転倒し、それを何とかかわしてこの場から離れようとする落馬したものも、次から次へと止まりきれずにこちらに来る馬体に押しつぶされ、蹄で砕かれて倒れていく。
蹄で踏んだ側も同胞を自らの愛馬によって倒したことによって動揺し、それがまた突然棒立ちになって暴れる馬の制御を誤らせて自分もまた落馬して、その場にうずくまる一人となる。

公孫賛の誇る白馬侍従が、見る見るうちに数を減らしていき、後に残ったのはその白い毛並みを赤く汚した半死半生の馬と人、そして僅かに残る公孫賛ら突入を防げた無傷の部隊だった。


「馬鹿なっ、何で!」


目の前でそんな光景がドミノ倒しのように連鎖的に広がっていくのを、公孫賛は止めることも出来ずに呆然と見るしかなかった。
彼女が鍛え上げた部隊は、数々の戦場を乗り越えてきたつわもの達だ。そんな彼らが、こんな初歩的な馬の操り方を間違ったかのように次々と落馬するなんて、ありえない。

先ほどの悪寒が示したとおり、あの前にいた董卓軍が何かをしたに決まっている。
それを証明するかのように、まるでこちらの同様が予定通りといわんばかりに、こちらとは対照的に整然と反転した董卓軍は倒れた兵士たちに止めを刺さんと、今まで持っているだけで一度も使用していなかった長い矛を構えて、突き刺しに掛かってきた。
そうなってしまっては、公孫賛としては罠だとわかってはいても踏み込まざるを得ない。やすやすと仲間が殺されていくのをただ呆然と見ているだけなんて、出来るはずもなかった。

ましてや、ここで逃げてしまえば自分たちはもはや二度と再起できない。
関羽と張飛が抑えられ、西域連合さえも張遼の神速の馬術によって翻弄されて時間稼ぎされているのを突破できていない今、ここで一度でも敗北を決定的なものにしてしまえば、未だ戦力を保持する西域連合はさておき白馬侍従の半数以上を失った幽州は、無事ではすまない。
最悪の場合西域連合からトカゲの尻尾きりのように切り捨てられ、全責任を負わされて反乱軍として一方的に殲滅されるだけだ。


「って、まて、やめろぉ! くそうっ、こうなったら……」



そうと分かっている以上、彼女にはこの罠を食い破ってその下手人を倒して逆転するしか手がなかった。
だが、状況はよくはない。

どういうわけか、こちらの馬は一定の範囲内に入ったとたんに悲鳴を上げて倒れこむというのに、相手の馬はそういったそぶりもなく縦横無尽に駆け回っている。
無論、完全にそうというわけではなくこちらの軍でも普通に乗りこなしているものもいるし、あちらの軍でも馬に悲鳴を上げさせ、落馬している者がいないわけではなかったが、それでもその比率の差は余りに歴然。

一体その差はなんなのか、と目を凝らすと、相手の騎馬の足には何やら藁だの革だの布などで出来た覆いがかぶせられている。それがなんなのかはわからないが、その仕掛けの差が公孫賛軍と董卓軍の差なのだろう。
自身の秘奥を盗んだばかりか、そんな仕掛けまでしていることにぎしり、と奥歯をかみ締める公孫賛だが、気付いてからの判断は早かった。


「全員、下馬しろ! ここでは馬は役にたたない!」


騎馬対兵士、という余りに圧倒的な戦力差になってしまうが、それでもろくに動けない状態で不安を抱えながら騎馬同士で戦うよりかはマシと判断して、そう公孫賛は思い切った決断を下す。
自分自身率先して降りて、馬の手綱を放す。
彼女の乗っている馬は賢いものなので、今の惨状を見て何かを感じたのか、一直線に安全圏まで逃げ出して、待機する。それに他の馬も従っていったのを確認してから公孫賛は改めて振り返る。

馬上から自分の足へ、と目線の位置が低くなった。
そのことで、わかることがあった。


「くそっ、やられた!」


何故自軍の馬が突如暴れだしたのかわかった……地面に、何かが転がっているのだ。
それも、一つや二つではない。大量に、凄まじい密度で。
それで、自分たちの白馬が足を傷つけられたのだ!

初撃こそ見事だったものの結局は公孫賛らよりも僅かに劣る速度で、しかしある程度の距離を保ちながらずっと逃げ続け、防戦一方になっていた董卓軍。
こちらの追撃を受けて、先ほど武器や矢を取り落としさえした董卓軍。
それを見てその余りのみっともなさに自軍には笑ったものがほとんどであったし、自分自身もそれが単なる相手のミスだ、所詮は剽窃者か、と思っていた。


だが、それもすべて、この棘が上を向くように作られた四本の鉄針を組み合わせた足止め用の道具を巻くための布石だったとは!
一つ一つが握りこぶしほどあるそれは、人を引っ掛けるには明らかに巨大な、注意して歩かなくても気付くほどの大きさではあるが、しかし土であらかじめ汚されて目立たなくされているならば高速移動中の騎馬が見つけるには余りに小さすぎる。
そのことからも、これが歩兵を止める為に作られたものではない、ということは明らかだ。そもそも、これほど贅沢に鉄を使用して、出来ることが歩兵を止めるだけ、というのでは明らかに製造費に見合わないし、ここまで大型化しなくてももっと一つ一つを小さくすればいい。だが、それも、すべて騎兵対策であると考えるのであれば話は別だ。
自軍に騎馬を、鐙を使って運用しているというのであれば、今までの馬上では出来なかった新戦術の威力も当然知っているはずだし、その突進を止めることが出来る、ということの凄まじさも当然わかっているはずだ。
騎馬の突進を止められるのであれば、貴重な鉄を地面にばら撒いても元が取れる、ということなのだろう。


「こんなのを用意していたなんて……」


明らかに馬の蹄を貫いて足止めすることを目的に作られたと思われるそれは、公孫賛が想定さえしていなかった、しかし明らかに目的を馬に定めて、強力な騎馬隊を保有する公孫賛軍と西域連合を嵌める為に作られた『騎馬殺し』だ。
山岳戦や攻城戦では騎馬は役立たずであり、だからこそ公孫賛も平地における馬の機動をメインに訓練させてきた。
なのにまさかこんな方法で平地に局地を作られて自分の自慢の白馬侍従が潰されるなんて、彼女は思ってもいなかった。

この様子ではおそらく、あの藁や革で作られた足覆いにも何か仕掛けがしてあるのであろう……用意周到に自分たちへの対策を練っていたと思われる董卓軍を、自分たちは余りに侮りすぎていたのだ。


彼女と同じことを考えたのか、ようやく隊列を整えた「元」白馬侍従の兵士らも同じように悔しそうな顔をする。当たり前だ。尋常な手段で正々堂々と戦って敗北したならばさておき、まさかこんな方法で自分たちが破られるなんて想像だにしていなかったに違いない。
大きな損害に衝撃を受けた公孫賛には、そんなことありえないと普段の信頼関係からわかってはいても、その一人一人の表情がまるでそんなことさえ考え付かなかった無能な主君である自分を責めているようにさえ思えた。


「っ! 公孫賛様、敵軍が!」
「!! そうか。もはやこいつらを倒してひっくり返すしか手がないな……お前たち、白馬侍従の名は、馬を完全に制御する優れた騎士がゆえの字だということを、あの卑怯者どもに教えてやれ!」
「「「応っ!!」」」


それでも彼女は剣を取り、隊列を指揮してその戦場に突っ込んでいった。
敵の覆面の司令官が、その覆面越しにもわかるほどの笑みを浮かべて、こちらに対して殺気を叩き込んできていることに気付いた以上、もはや逃亡も待機も出来ないのだ、ということがわかったのだから。


「我が名は幽州太守、公孫賛! いざ……勝負!」
「あらあら。やっぱり賈駆ちゃんの予想通りこの状態でも向かってくるのね。ま、これで一刀に怒られなくてすむかしら」


だからこそ公孫賛は、死中に活を求めんとその司令官らしき褐色の女性に対して一直線に徒歩での突撃を配下に命じながら、自身も駆けていった。
その最中にさえも、地面に転がった鉄針―――天の御使い、北郷一刀の未来知識によって案が出され、董卓の軍師賈駆によって製造された兵器こと『撒菱』によって注意力を削がれながら。
孫策こと雪蓮が縦横無尽に操って駆ける騎馬に付けられた足覆いの袋―――その中に仕込まれた、この時代にはほとんど見られない馬の蹄を保護する馬具、『蹄鉄』の秘密にも気付かずに。


「はあぁぁぁあぁぁ!!」
「剣速はまずまず……だけど、私よりかは遅いわよ!」


彼女は自身も誇った騎馬の突破力と機動力によって完全に打ち砕かれたのだ。










「公孫賛、公孫賛っと。たしか、赤い髪だったって噂だけど、どこにいんだろ?」


遠くから、なにやら筒のようなものを目に当ててそんな他人事のように呟く男の名は、当然ながら北郷一刀。
戦場において女性武将の品定めをするような男が、この世界においてこいつ以外にいるはずがない。
勝負が決まりかけたことでもはや自分の身の危険はあるまいとノコノコと戦場に、しかしそれでも臆病なのでかなり遠くに出てきたこの男は、しかしその距離からでも公孫賛と雪蓮の戦いの行く末を視認していた。


手に持っているのは、遠眼鏡―――すなわち、望遠鏡だ。
これもまた、彼の未来知識を活用して賈駆が準備、作成したこの時代のオーパーツ。

ガラスの作り方なんてものまでは一刀は理解していなかったので、彼の知識からすれば作れないはずであったのだが、そこはきちんと賈駆がカバーしている。
とはいえ、「何か珪素とか言うのを溶かして作るんだっけ?」レベルでは流石にガラスから凸レンズまではたどり着けなかったのだが、運良く城の宝物庫にはその代用品が眠っていた……というか、詠が必死になって探し出した。
その代用品、水晶の珠をレンズ状に磨いて加工して作られたそれは、原材料費だけでも極めて高価なものであったがために一刀が持っているそれを含めても僅か三本しか製造されていないが、それでもその効果は賈駆をして支払った代価の分だけの価値を認められていた。

それを使ってやることが、暢気な品定め。
詠は半ば諦めているとはいえ、これはひどいといわれても仕方がない。

とはいえ、一刀が見ている公孫賛がいる戦場ではすでに勝敗は決したも同然であり、殲滅戦の様を現しているがために、勝っている側の関係者である一刀からしてみればもはや応援する必要もない、ということは確かに事実。
そして、この望遠鏡の性能では倍率的に流石に他の戦場までははっきりとは見えないが、それでも一刀が美女ばかりを見続けられるほど戦争というものは穏やかなものではなかった。
だからこそ、暢気な言葉を呟いてはいても一刀の視界に入るのは美女同士の絡み合いではなく、剣と剣のぶつかり合い、命と命の奪い合いだった。

しかも、もはや明らかに一方的なものとなりつつあるものだ。
当然そこには血が流れ、肉が割かれ、骨が砕かれる凄惨な光景も含まれる。


「って、うわ、グロッ……見なきゃよかった」


それでも、一刀の反応はこの程度のものだった。
虫も殺せぬ現代人であったことを思えば余りに淡白なその反応は、しかし非難すべきではなくむしろ彼の精神構造が当時と比べれば明らかに歪んでしまったことをあらわしている。

詠に与太話と共に適当にうろ覚えの構造を伝えたらいつの間にやら作られていた望遠鏡は、微妙に像が歪んで見えたり虹色付いていたりするが、だからこそそれを覗いていた一刀に現実感はないのかもしれない。
そこで人が死んでいるのはわかっているし、よく見れば血や髪とかそんなレベルではなく、首が、脳が、腸が潰され、切り裂かれ、飛び散っているのも見えなくはないのだが、一刀はそれを見てもまるでホラー映画を見た程度の嫌悪感しか覚えていなかった。

遠眼鏡ごしに見る以上肉のつぶれる音もなく、今まさに零れ落ちた鮮血の香りも届かない歪んだ映像は、この世界に来てから磨耗しきった彼の現代人的良識を呼び起こすには少々インパクトが無かったのだろう。
自身もその現場にいて命をBETして天秤を揺らしていたならばさておき、絶対安全な場所から覗くだけならば、進化しきったゲーセンでのFPSゲームを思い起こさせはしても、真実命のやり取り、というものを彼に感じさせることは無かった。


「でもまあ、これは勝ったな、見るからに一方的だし」


とはいえ、その瞳の先に映っているのは紛れもない事実のみ。
彼の望遠鏡の狭い視界の中では見事なまでに公孫賛軍が詠の仕掛けた策に嵌められて、有利から不利に、そして敗北へと移り変わっていく様が刻一刻と映し出されていた。
馬用に作った巨大な撒菱によってすっころばされた公孫賛軍を、これまた対戦用に作った蹄鉄の力で自軍には被害が及ばないようにした雪蓮率いる董卓騎馬隊が一方的に蹂躙していた。


「おお、何で降りてんのかと思ったら、やっぱあれのせいか! ……流石だな、俺」


そんなことを呟く彼は、間違いなく「俺TUEE!!」な状況に酔いしれていた。
ちなみに企画立案が詠で、命令が月、実行が雪蓮その他騎馬隊の皆様であって、彼はこの戦いでは何一つやっていない。
史実では公孫賛の白馬侍従は袁紹による連弩部隊によって壊滅させられた、ということを詠に伝えたことは確かに一刀の公孫賛対策としての考えだったが、その中途半端な知識には当然袁紹の秘奥である連弩の構造なんかが入っているはずもなく、その結果として当然ながらその知識はこの戦いにおいては何の役にも立っていなかった。
望遠鏡はさておき、鐙も撒菱も蹄鉄もここが現代地球と同じような歴史的経緯を通っているのだとすればこの時代にすでに世界の何処かに原型はあるはずだ。たまたまこの世界ではそれらは世間の周知を受けるほど運用されていなかっただけであり、そして彼はそれをインチキで伝えただけに過ぎない。

だから、別に彼が強いわけではない。
というか、この一刀のアドバンテージは基本的に現代から来たことによるうろ覚え知識と妖術だけなので、直接的な強さとはまるで無関係だ。


それでも、そんな事実さえも彼の脳内を通れば「華麗な一刀の指揮によって見事に強敵を撃破した」という風に変換されるらしい。
この血で血を洗う凄惨な戦場において、彼の頭の中だけが似つかわしくないお花畑であった。


「っ! いた、多分アレだ!」


そんな彼の視界によぎったのは。
必死の抵抗を続けたのであろう、動くものも少なくなりつつあった戦場において未だに立っていた血と土ぼこりに汚れきった一人の女武将を、馬上の褐色の肌を持つ覆面の司令官が剣の腹でぶったたいて倒したまさにその瞬間だった。
一刀の呪いによる能力の低下があっても項羽の再来とまで謳われた彼女を止めることは「普通」の人間には不可能なことを誰よりも知っている一刀は、それを当然の結末と受け入れた。

その兜もつけていなかったためよく目立つ真っ赤な髪が大きく振られ、やがてゆっくりと台地に向かって堕ちていくのを理解して、思わず一刀は望遠鏡で覗きながらもGJ! と大きく手を振る。
大きく手を振って自分の意思をアピールする一刀に気付いたのか、彼の操り人形である覆面の女も大きく手を振り返すことで了承の意を返す。
それは余りに戦場においてはあまりに軽い動作であって戦場を嘗めていると思われても仕方がないものであり、歴戦の勇者である彼女がするには似合わないものであるが、それを受ける男と対比すれば実に相応しい。
彼女を戦士としてみるのではなく、戦場をただの傍観者として娯楽気分で眺める男の従者と見るならば、まさにハマリ役な態度。


「よっしゃ、よくやった雪蓮! そのままつれてきてくれ」


ついにこの戦争にて念願の新キャラゲットに沸く一刀にしてみれば、この戦争は所詮その程度のものでしかなかったことをその孫策の動作は見事なまでに表していた。









巻末特別付録
〈天の兵器の作り方〉


『あぶみ』
「騎馬隊とか作んないの? え、鞍の上で不安定? 何か三国志ってみんな馬乗ってるイメージがあるけどな
ぁ……って、これが鞍? なんでアレ作んないの、アレ……え~っと、なんて名前だっけな。アレだよアレ、こんな形の…………そう、アレ! あぶみ。
鞍に足を引っ掛けるところを来るってそこで固定すりゃ、太ももで挟まないでも多分落ちないよ。
え、俺が? やだよ、馬なんて怖いじゃん。一人じゃ乗ったこともねえよ」


『蹄鉄』
「U←こんなのを蹄に嵌めてた気がする。付けると強くなる、馬版のネイルアート。どう強くなるのかは知らないけど、まあ硬いところ走ったり敵を踏み潰したりは出来そうだよな。あ~、そうそう、なんか足を保護する、とかいうのが目的だった気がする。まあ、靴あるのとないのだったら、あるほうが馬でも走りやすいんだろう。やってみてから考えよーぜ。
問題は、どうやって固定してたのかがわかんないことだ……アロンアルファとかあるわけないしなぁ。いや、そもそも俺馬の実物なんてここ来るまで見たことなかったし。最悪米粒?
…………釘って。釘で蹄に打ち込むって。詠ちゃん、いくらなんでもひどくね?」


『撒菱』
「そういやさあ、スパイ―――間諜の人らに手裏剣とか撒菱とか持たせない?
この時代なら多分日本にはいないだろうし、なんかかっこいいじゃん。こう、覆面させて、背中には忍者刀って奴で、痺れ団子を街娘に食わせるんだよ。
撒菱? あれだよ、テトラポットみたいなのを地面に撒いて追いかけてくる奴に踏ませて足止めするやつ。え、テトラポットがわからない?」


『望遠鏡』
「何か、レンズが二枚あって、それを筒で繋げると遠くのものでも見えるようになるんだったとおもう。
信長だって大喜びするはず」





「……こんなんで出来るわけないでしょーがーー!!」


自分で竹簡に書き起こした一刀からの『天啓』を改めて読み返して、詠は思わず思いっきりその竹簡を地面に叩きつけた。

無理もない。いや、そうじゃなくてやっぱり無理だ。
普通に考えてチートトリッパーでもない限りこんだけの情報量で完成品を想像しろというのがまず明らかに無理だ。三行革命と同じぐらいの無理難題である。
こんな適当な仕様書ともいえない戯言であっさりと次のページまでに完成品が出来てしまったら、次はジャイロ効果知ってればライフル銃作れるとでも言わねばなるまい。
そもそも彼女は政治家、もっと正確に言うならばどちらかというと軍師であって、発明家なんてのではないのだ。


「はぁ、本当にもう。人の苦労も知らないで簡単に適当なこと言ってくれるんだから……」


だが、これらを何とか上手く実用化しておかなければ、小勢力である自分らはいずれ何処かのいざこざに巻き込まれて潰されるということもわかっていた彼女の力で叩きつけられたその衝撃は、竹簡を破壊するほどの威力なぞ全然ないあたりこれは八つ当たり以外の何物でもなかった。

実際、一刀の助力が全くない状態で詠に「馬を御する馬具」や「相手を足止めする道具」、「多少の荒れ野であれば踏破できるようにする馬具」に「遠方の光景を覗ける道具」の原型となる程度のものでも腹案を作れたか、ということについては否定するしかできなかったし、そうであるならば一刀のやった功績は例え完全なものを提供できていなかったとしてもとても大きなものだ。
そのことを自分自身でもわかっていた詠は溜息を一つ吐いた後、自ら投げ捨てた竹簡を拾い上げ埃を払い、ぎゅっと胸元にそれを抱きしめた。



この後詠は、本当に試行錯誤を繰り返して苦難の末上記四つを何とか大戦までに用意することになる。
掛かった費用は膨大なものであり、時には郭嘉や程立などの下の者に丸投げしたりもしたものの、結局は直接疑問を一刀にぶつけることの出来る彼女が関わらざるを得なかったそれの開発には、彼女は本当に苦労した。

そして、作っている途中は実はコイツ適当ぶっこいているのではないのか、とか何度も思い、睡眠時間が足りなさ過ぎて寝不足の自分の隣でのんきにグーグー寝ているのを見たらかなりいらっときて起きない程度に腹にぐーパンしたりもしたが、実際に完成してしまえばそんなことも過去のもの。
同様の経路で結局実用化しなかった失敗作は数あれど、それでも完成したものがこれほどある。一から詠が自分で考えていたとしたならばこれだけの数の揃えることなんて出来なかったであろうことは明白だ。
おそらくもうすぐ始まるであろう公孫賛らと袁紹のぶつかりあいまでに用意できたこれら四品。
そのどれもが戦争においてこれ以上ないほど有効なものである、となまじ軍師として優秀であったがために詠はいっそう一刀を頼りにせざるを得ない部分があった。


「ねぇ、一刀。何かもっと使えそうなのないの? そ、その……また、いいことしてあげるから」


だからこそ彼女は口ではいろいろ言いながらも、どれほど適当に便利に扱われたとしても一刀に対する一定の態度を崩そうとはせず、しかし少しずつその距離は近づいていっていた。



[16162] 人至りて賢ければ友なし
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/07/03 22:54


「……ここよ」
「幽州太守、公孫賛。史実であれば袁紹に潰されるはずの彼女が今、私の目の前におります。お約束通り、また美女だぜ!」


調子ぶっこいて護衛も付けずに踊るような足取りで歩いてきた男、北郷一刀はそんなしょうもないアナウンサー口調の真似事などをしながら先の戦争において捕らえた捕虜を捕まえてある一帯に来ていた。
案内する詠の表情は、彼からは見えない。
脱出を困難にするために以前より使用されていた地下に作られた牢は僅かな明かりのみで非常に暗く、一刀の一歩前に位置する詠自身も手に燭台を持っているとはいえ、その表情を照らし出すだけの光量は持たない。

だからこそ一刀は、僅かな明かりによって確保された視界のすべてを目の前の獲物を見るためだけに使用する。


御目当ては彼自身が告げたように、この戦いにおいて得る事が出来た人間の中では一番の大物、公孫賛。
一刀のシモベたる雪蓮の一撃を強く受けて、未だ意識を取り戻していない妙齢の女性がそこにはいた。

軍医の話によると意識を取り戻すのはもうしばらく掛かるであろうが、絶妙な手加減がされていたので後遺症は残らない、ということだ。
いかに一刀の力によってその力の大半を削ぎ取られたとしても、孫策の名を持つ雪蓮に与えられた才は公孫賛の努力の刃よりも強靭なものであったという事実を証明するかのように、それは一刀が本当に望んだいい感じの手加減だった。

実にご都合主義、と一刀でさえも一瞬思うが、己こそがこの世界における主人公だと思う一刀はそれを当然とする。
一応縄と鎖で縛ってある公孫賛と比べてさえも劣る己の戦闘能力は、しかしその差のすべてを無効化した今となってはいっさいのディメリットとはなりえない。

なればこそ、ここにいるのははっきりとした明暗を分け終わった強者と弱者、勝者と敗者。
敗者は二人で、勝者は一人。なればこそ、この場の決定権はすべてたった一人が握っている。
人権なぞはこの世界では僅かな力も持たず、人道なども外道には無意味。そして、傍らに立つ少女は、それを止めるだけの力なんて到底持ち合わせていない。
いかに片方が下劣で、その相対する者が高潔であってももはやそのことは何の力も持たない。異を唱えることも、抵抗することもできない。

残酷な世界の縮図がここにはあった。


「それじゃあ、僕はもう行くわ……ほどほどにしておいてね、一刀」
「応よ! ……さ~って、どうしよっかな。目を覚ますまでは待とうかな」
「…………」


こつり、こつりと足音だけを残して詠が立ち去っていくが、一刀はもはやそちらには目を向けない。それがわかっていた詠もまた、一度だけ切なげに振り返るだけでそのまま声もかけずに無言で進んでいった。

後に残るは、不敵に笑う運だけのお馬鹿な狼一人と、その前で可憐に眠り続ける赤頭巾ちゃんだけ。
新たな獲物を手に入れたことによる上機嫌に狂乱する男を前にしても、未だ公孫賛は目を覚まさない。
一刀のこれも、それがわかっているからこその余裕だ。


「いや、やっぱり……では、頂きます」
「うっ……あ……」


この日も、世界には優しい猟師さんは訪れてはくれなかった。








こつりこつりと一人歩き去る詠の耳に、誰かの悲鳴が聞こえたような気がした。


「…………未練ね」


思わず振り返るが、しかしそこに映る光景は何一つ変わっていない。
だからこそ、それは己の弱さが聞かせたただの幻聴であるとして詠は無視して再び前を見た。


公孫賛を一刀に差し出すことが出来たことに、詠は心底安堵しているのだ。
彼女にとってみれば、一刀をいろんな意味で離すことが出来ない現状のさなか、彼に与える餌を確保できないということは致命的だ。
一度や二度のミスならば見逃される可能性も無きにしも非ずだが、彼を繋ぎとめる絆は今のところ自分から半ば強制的に提示した「この地にいれば女を捧げる」という契約しかない。
自身の体も提供しているとはいえ、女としての自分の魅力には軍師としてのそれほど自身を持てていなかった賈駆からすれば、先の契約だけが一刀を縛り付ける楔だ。

だからこそ、今期の契約を更新するに足る契約金を一刀に対して差し出せたことに賈駆は安堵の息を吐いたのだ。
公孫賛がどういった人物なのか、ということを詠は書面の上、人の噂でしか知らない。
彼女がどういった思いでこの戦争を、反乱を決意し、戦場に赴き、戦い、そして敗れたのか。
詠は全く理解していない。
そこには、領民を思う真摯な気持ちがあったかもしれないし、あるいは将来を誓った男との約束があったのかもしれない。我欲で踏みにじってはいけないだけの尊い誓いがあった可能性は、十分にある。

だが、それでもなお詠は、自らの為の生贄として一刀に対して彼女をささげることが出来たことを喜び、新たな獲物をささげることが出来ることを天に願った。
もはや己に一刀のことを否定する権利がないことを彼女は十分に理解している。

だからこそ、それを承知の上で行っていることに対して「可哀想」だとか「申し訳ない」だとか考えることは、自分に対して厳しすぎる彼女にしてみれば、未練以外の何物にも思えなかった。
だからこそ彼女は、支払った代価を公開することよりも前に進むことを考えなければならない。

誰よりも愛しい者のために。


「一刀……」


それでもなお……ぽつりと零れ落ちてしまった言葉は、何にも響くことはなくただ無為に宙へと消え去った。







一刀に対して公孫賛の受け渡しを行ったその足で、詠は自らの執務室へと向かった。
戦いは、公孫賛を雪蓮が下したことにより白馬侍従が壊滅し、その後すぐに日暮れとなったことによって両軍とも引き一応の小休止の局面となった。
だが、その段階でもなお一刀とは異なり詠にはまだまだやることが山のようにある。


「待たせたわね。さあ、始めましょう」
「はい……こちらが仔細な報告書となります」


だから、詠は執務室の扉を開けて入ってすぐに無駄な言葉一つ出さずにすぐさま最大の懸念事項に取り掛かろうとする。
それを受けて、入ってくるのがわかっていたかのようにこちらに対してきらりとその瞳を覆うものを輝かせて顔を向けた部下の一人が、手に持っていた書類を見せてくる。
礼も言わずにそちらに目線を向けると、そこには今回捕らえた公孫賛が指揮していた軍の残りの様子が詳しく記されていた。
その中で、繰り返し挙げられていた一つの名前を見て、詠は眉根を大きく寄せた。




さきの戦場での勝利によってある程度までの時間稼ぎには成功したものの、未だ完全勝利とはいかない。幽州の長である公孫賛を捕らえることによって戦争も終わるか、とも思ったのであるが、どういうわけか幽州はごくごくあっさりと客将としていた女を新たな太守に抱いて、そのものを中心に徹底抗戦をするつもりらしい。
正直、その報告を聞いたときは何の冗談だ、と思った。

その客将が力ずくで簒奪したのではないことは未だ賈駆たちと対面する幽州軍の陣組みに動揺がないことから読み取れる。ということは、彼女らはすくなくとも幽州の軍部からはある程度の支持を受けてその長として収まったのだ。
公孫賛の血族だとか、今まで領地を切り回していた武将の一人が繰り上がって長となるのであればさておき、はっきり言って居候でしかない客将風情がなぜ権力の中枢にすえられて、たいした混乱も見せないのか。
尋常ではない成り上がり方に思わず斥候を普段より大目に放った賈駆だったが、帰ってきた彼らから新たに幽州軍の長となったものの名を聞いてしまえば、ある程度納得をせざるを得なかった。


「劉備、か……」
「確かに我々からすれば知らぬ名前ではないです。しかし、世間一般では全くの無名に近かった」
「確か、幽州に入ったのもほんの一月ほど前じゃなかったですかね~それでよくもまあ軍部を掌握できたもんです」


元公孫賛軍である幽州反乱軍を指揮する者の名は、「劉備」。
一騎当千の強力な武将、関羽、張飛ら義姉妹の長姉にして、公孫賛の幼馴染。
唯才是挙の竹簡の中において、孫権や馬超、袁紹に曹操と同等の者として挙げられていた特級の才を持つもの。
そう、一刀が予言した大国「蜀」の王として立つはずであった人物にして、その野心の目的とされた女であった。

公孫賛の地位をぽっと出の客将が奪い取り、しかもそれがほとんど混乱をなしていない。
どのような立場のものであっても直接劉備を見ていないものであれば戸惑うしかない情報であるが、事前に彼女の名前を知っていたにもかかわらず他の者以上に三人の驚愕は大きかった。


「とりあえず、今は秘密にしておくにしても絶対にこいつらは捕らえないわけにはいかないわよね」
「そうですね……風。一刀殿の様子はどうですか?」
「どうといわれましても~公孫賛殿とご機嫌のようなのですよ」


劉備がこの戦争にて幽州軍の総指揮官として出てくる。
正直、詠はその事実を聞いたときに心底一刀を恐ろしく感じた。
軽口の合間に風と凛も同じように感じ、彼の動きに心を砕いていることが現れてくる。
二人のそれは親愛や敬意、尊敬といったものではないにせよ一刀を認めるものであり、彼を董卓の愛人として軽んじているところは微塵もなかった。


程立、郭嘉を筆頭における人材の能力鑑定。これはまだわかる。
自分も知りえぬほどに広域にわたり諜報員を張り巡らせることで野に下っている優秀な人材を知ることは決して不可能ではないからだ。
望遠鏡だとか、二毛作だとか言った画期的な知識。これもわからないでもない。
誰も試したことがない新しい知識とはいえ、それが一人の天才が新たに生み出した考えであるならば今までに完全に例がないこととはいえない。

だからこそ、それだけであれば詠における月のような弱みがない風来坊であった二人にしてみれば、一刀を主として抱くことを拒んだかもしれない。


「やれやれ、またですか。とはいえ、ここまで完璧な仕事をされてはそれを咎めるわけにはいきませんね」
「英雄色を好むといいますしね~。どう考えても英雄じゃあないとも思いますけど」
「だからこそ、この劉備を逃がすわけにもいかないの」


だが、現実には彼女たちもまた詠と同じように一刀を主と認め、その野望を達成する為の助力を惜しむことはない。
女集め、という一刀の目的を知ってなお、その目的を達する為に戦争を最上の形、「劉備らの捕獲」という形で終わらせるために今まさに頭を振り絞っている。



劉備が一国を立てる、一国の長になるということは。
無名だが有力な武将である劉備一行のことを知っているのは、まだいい。だが、そのものたちがたまたま運がめぐってきたことによりある種偶然のように発生した事態によって、国を建てることさえも一刀は予言することが出来た。
勿論、その結果に至るまでの細部は異なるし、彼が語った劉備としての蜀という国を建てるエピソードと現状のそれは全くの別物だ。

だが、それでも自身が切り盛りしているがゆえに国というものの巨大さを知る賈駆からしてみれば、そんな天運としか思えないものすらも予期していた一刀の頭脳が、心底恐ろしい。


「……しかし、よもやここまでとは。正直、最初のころ疑っていた自分の見る目のなさを痛感しています」
「私としてもちょっとびっくりしてるのは確かですけどね~まあ、お兄さん自身の普段が普段なので、仕方がないのではないかと」
「その通りね。とにかく今はこの劉備とか言う女と一刀の言葉との違いについて、分析を始めておいて」
「御意」
「はいなのですよ」


自分と同じく机を囲み、そこに乗せられた各種の報告書を見て、その脳内にあった一刀の言との比較に思うところがあったのか、思わず呟きからの言葉を漏らした腹心二人も同じであったのであろう。
風と凛がそう一刀を評価することに、詠もまた全く異存がなかった。
天の御使い、とは冗談交じりというか、少々テレが入っていると思われる一刀の自称であるが、この結果を受けてそれを否定する人間はもはやほとんど城内にはいない。
それは、畏怖と共に称される一刀の名乗りとしては余りに相応しいように思えたからだ。


だが、未だ引き合わせてからなお巡り合わせによって男女の関係にはいたっていないらしい二人とすでにお互いの体では知らないところがないほどの年月を共に重ねた詠では、違うことがあった。


詠たち三人が共通して感じた一刀への畏怖。
それと同時に、詠にとってはその感情は何処か誇らしささえ伴っていた。

詠にとって、一刀とはどういう立場の人間か、と定義することはなかなかに難しい。
断片的にであれば、上司、愛人、主、協力者、ヒモとは呼べるだろうが、それだけで言い表すのは少々足りない。
かといって、夫、友人、兄、恋人、といった言葉は……全く間違っている気はしないが、事実に適しているとは到底思えない。
こちらから投げかける感情はさておき、あっちからの思いにはそんな者が込められているとは到底思えないからだ。近頃抱きつつあると自覚したこの想いさえも、一方通行。
そんな歪な関係だ。


だが、それでもなお、自分の能力に自負がある詠にしてみれば、軍師としての能力の限界まで使いこなすことを求めてくるのみならず、自身からも各種の新戦術を提案し、さらに天下統一という目標を掲げる主を持つ、ということは何処か憧れていたことだ。
彼女自身には野心も大望もない。だが、軍師として名を挙げることを拒むほどの聖人君子ではなく、天下にその名をとどろかせることは軍楽を学ぶ際にはいつだって夢見てきていた。

が、董卓―――月という余りに性根の優しい少女を主と認めて付き従ってきた彼女に、その腕を十分に振るう機会などまさに皆無であった。彼女を守ることを最優先として考えるその思考では、どうしても守勢に回らざるを得ず、それは結果として守る為であっても冒険、新政策といった賭けに出ることを拒んでいた。
だからこそ、このまま霊帝が没して世界が混乱していく中振り回されるぐらいであれば、いっそ大将軍何進とでも組んで宮廷に強引に躍り出るより道はない、という状態まで追い込まれていた。

それが、一刀によってすべてひっくり返された。
彼の欲望を満たすために多種多様な気配りを要求された結果として、今のこの地はその一か八かの駆けに載った場合よりも遥かに安定した状態で保たれている。
戦争において勝利した今の結果を足がかりにすれば、一気にのし上がることだって可能だろう。
それは、一刀により女を求められる、という不本意な要因にではあってもそのために詠がいろいろと手を伸ばさなかったとしたらきっと届かなかった場所だ。

始まりは最悪で、今だって彼の目的自体には賛同することなど決してできないが、それでも彼のやっていることは結果としてこの大勢力に挟まれて命運が尽きかけていた土地を生かし、大きくし、民を富ませることになっている。
そして自分は、その第一の懐刀として重宝され、能力を生かされた適材適所に配置されている。
全面的に頼られることに対するある種の喜びは月からも受けていたが、それに加えて一刀はある種歪んだものではあっても、詠に大きな大きな目標と、自らの能力を使いこなす場を与えた。

一刀のように日々遊んで暮らせることこそが第一の喜びとするものには決してわからないであろうが、詠はこういったある種のワーカーホリック気味なところがあったがために、この現状はある意味望むところであったのだ。


董卓の元では得られなかった自分の腕を自由に振るうことができる、というその充実感は、肌を重ねていたこともあって急速に当初の一刀の悪印象を払拭しつつある。
それは、風や凛のような乱世を終わらせる能力があるものとして妥協の上で主として抱くのではなく、真の意味で一刀の美点を認め、彼の欠点もまた認めた上で自分の上に立つ能力、人格を持つものとして相応しい、とするものであった。


だから詠は、自分自身に言い聞かせるかのように一人ごちる。


「そうよ、一刀は能力はそれなりにあるし、頭も悪くない。女癖の悪さは、え~っと……そう! 私が管理してやればいいんだし、うん、問題ない!」


……端的いうなれば、情にほだされて彼女は冷静な判断が出来ていなかった。
ただ、それに対してごちゃごちゃと理屈をつけなければ認められないだけである。
一刀の欠点は自分がフォローすればいいとして一刀の数少ないよかった探しだけを続ける彼女は、もはや月のことを笑えるものではないほどまでに、いつしかその心を妙な方向に寄せてしまっていたのだ。


「…………」
「…………」
「…………はっ!」


あと、思案にふける余り、周りも見えていなかった。
ここには自分ひとりではなく、腹心たる軍師の二人もいることを思い出した詠は、慌てて顔を上げてあたりを見渡す。
だが、そこには味方はおらず、気まずげにこちらから微妙に視線を逸らす少女と、眠たげな目はいつものままに、しかしそこはかとなくニヤニヤとした感情を視線に乗せてこちらを見つめる一人の幼女がいた。


「あっ、えっと、その……」
「いえ、我々は何も聞いていません。そうですよね、風」
「余り趣味がよろしいとはいえないと思いますよ~、詠様」
「風っ!」


そして風は、相変わらず容赦がなかった。
顔を真っ赤にしてうつむく少女を前にして、軍師二人は対照的に自分たちの上司を暖かい目で見つめた。
……若干その視線の温度が生ぬるいものだったことを責めることは、きっと誰にも出来ないであろう。

これが、緒戦に勝利したことで彼女たちが買うことが出来た『敗者』の権利による日常であった。




[16162] 朝令暮改 朝三暮四
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2011/08/18 19:53

人は、変化する。

情熱も、理性も、葛藤さえも失った一刀を見るまでもなく、それは歴然とした事実だ。
平々凡々の単なる一般人であった一刀は、世界全体から見るとそう劣った人物ではなかった。決して特別上等な人間なぞということは出来なかったであろうが、だからと言って劣等であったともいえまい。
この外史に来るまで、人を傷つけることも、人から奪うこともなく平和にただ懸命にその平凡な日々を生きてきただけの人間に過ぎない。
だが、そんな一刀さえも、今となっては外道と呼ばれることを否定することも出来ない人間へと成り下がった。

彼を捕らえようと試み、その結果として今までの生で侵した罪を死という形で償うこととなったあの三人組も、生まれたときからあんな小悪党だったわけではない。人を殺して犯して奪うことを糧にしていたものとて、最初からそのことを是とすることの出来る黒い鋼のごとき心を持ちえる者は、ごくごく僅かな例外だ。
当然その例外には当てはまらなかった彼らだって、無垢としか言えないような幼少時代があり、ひたすら光を求めた純粋なときがあった。自らが犯した罪に心を痛めて眠れぬ夜を過ごした日々も幾夜もあった。
それでもなお、現実に押しつぶされてああなってしまったのだ。


袁紹だって初めからあれほどまで自負ばかりが拡大した人間だったわけではないし、公孫賛だって剣の腕での世界最強を夢見たこともあった。
皆、現実を、年月を知るにつれてそういったことができないほどに傷つき、変わってしまっただけなのだ。

勿論、それがすべてとは決していえまい。
劉備や曹操のように、現実を知ってもなお折れないものだって居るだろう。
だが、冷たい現実に日々すり減らされていくたびに、いつしか最初の情熱を失ってしまうことが一定の割合で世界に存在することもまた事実。それは決して、責めるべきことではないのだ。

それを、劣化と取るか、あるいは成長ととるか。
絶対の解を出せるものは、きっと人にあらず……神仙、あるいは妖魔の類であろう。
人であるならばそんな見方一つで変わってしまう程度の、ごくごく自然な現象なのだ。


だからこそ、この結末もある意味必然だったし、それを責めることなぞきっと誰にも許されない。
少なくとも堕ちた英雄である一刀はその選択を肯定するであろう。








「あ……詠ちゃん」
「月……」


詠と月は、幼馴染である。
ここ河東においてそこそこ裕福な家である賈家に生まれた彼女は、その家柄のよさを買われて当時からこの地方の長であった董家の一人娘である月の学友として選ばれた。
学友、と言うものは『友』とは名前がついているものの実際には将来の側近としての期待を込めて付けられる主従関係であり、いうなれば袁紹に対する文醜と顔良の関係に近い。
そこにはれっきとした上下があり、それがひっくり返ることはおろか隣に並ぶこともめったにない。あの二人だってどれほど気安げに袁紹に接していたとしても、そこにはれっきとした一線が引かれており、身分という高く分厚い壁がそびえていることでそこから進めない彼女たちと比べれば、下手すれば幼馴染である公孫賛と袁紹の距離の方が近いことだって場合によってはありえるのだ。
漢王朝の権威が衰えているとはいえ、未だ保たれている現状において彼女らのように太守や相克といった最上位の身分を有するということは、未だ別格の生活の中におかれると言うことを意味するのだ。

が、それはそっくりそのまま月と詠の関係には当てはまらない。
もともと河東自体がそう大した土地ではないのでこの地における身分関係とは大陸一のお嬢様である袁紹のそれとは比べ物にならないほど緩く、その結果として周囲のものも、月自身も詠のことはガッチガチの臣下としてではなく仲のいい友達、程度の認識で扱い、それによって彼女はすくすくと育ってきた。
詠自身も自分は彼女を補佐する為の軍師であり、何があっても彼女を守らなければならない、と思ってはいたが、それは臣下としての忠誠心と言うよりもむしろ彼女が親友であるからこそ生じた思いであった。


「今日のお仕事終わったの?」
「ええ、そうよ。月は……また、あいつのところにいってたの?」
「うん。今日はもう私はお風呂に入っておしまい……ふふ、なんだかこんなこと喋るのも、久しぶりね」
「っ!! そ、そうね……ボクも最近なんだかいろいろと、その、忙しかったから」
「うん、わかってる」


だから、詠と月は親友であったはずである。
それこそ寝所を共にし、その背を流しあうほどの。

にもかかわらず、彼女と会話をすることが久しぶりであったことに気付いて詠は驚き、そしてそのことを今まで全く気にしていなかったことに、さらに驚いた。
軍師であるがためにその技能のひとつとして彼女の口は動揺によって滞る、と言ったことはなかったが、それでのニコニコと裏表のなさそうな表情で微笑む月のように平静を保てていたわけではなかった。


(いつから? 今日で何日ぶりに、月と話すっていうの!?)


何日彼女と顔をあわせていなかったであろうか。
幼少より同じ産湯につかり、肌着を同じく揃えたほどの年月を共にしてきた親友と、これほどまで触れ合わないことなど今までなかったはずだし、そのことに対して不満を覚えないなんてこと考えることも出来ないほどありえないことのはずだ。

だが現実としてこの数週間、彼女が主君である月に顔をあわせられないことで不満を持ったことはなかった。
その代わりとして、ふらふらとそこらじゅうで遊び歩いているある男がさっぱり捕まらないことに対する苛立ちは山のように感じていたが。
まるで月に会えない辛さが、あの馬鹿に会えないもどかしさに取って代わられたがごとく今まで何も感じなかった。
そのことを、詠は月と顔をあわせることで始めて自覚したのだ。



そして、彼女の心境の変化はそれだけにとどまらなかった。
その捕まらない男と彼女がつい先ほどまで顔を……肌をあわせていた。そのことに対して今までの親友が汚される不快感とはまた違う、何かざらりとした感情が胸を擦る。

が、そのすり替わりが何故起こったのか、明朗であるはずの頭脳が正確な答えを出す前に彼女の口は勝手に言葉を紡ぐ。


「……その、あいつの呼び出し、結構頻繁よね。もし、辛いようだったら、その……ボクからちょっと減らすように取り成してあげるわよ?」
「え? ううん、大丈夫だよ、詠ちゃん。御主人様、優しいから。心配してくれて、ありがとうね」
「っ! そ、そうよね。ごめんね、月。変な気を回しちゃって」


思わず自分の口から出てきた言葉に、さらに詠は戸惑った。
今親友たる月に告げたその言葉に含まれた音色が、余りに冷たかったからだ。
勿論、微笑んで前に佇む月に気付かれるほどのものではない。彼女に敵意や殺意を向ける、そんな以前と大幅に異なるようなものではない。
それでも、唯一無二のいかなるものを犠牲にしたとしても、と自身に誓った時と比べると、その温度は明らかに若干低下していた。


(どうして、ボクじゃなくて……月が呼ばれているの?)


流れるように出てきた言葉には、親友への気遣いも確かにあったが、それ以上に愛しい男と閨を共にする月に対する嫉妬さえも含んでいた。
そのことに、自分自身が発した言葉でありながらも詠は衝撃を受け、それを理解したあとでもなお脳裏から消え去らない、一刀の寝室に自分より友のほうが呼ばれているかもしれない、と思ったことによるわだかまりを自覚した。

ここ数ヶ月、一刀と己の才の違いを自覚させられたがゆえに強制的に負の感情と親しんでいた彼女は、やがてそのわだかまりが何と言う名前であったか、おのずと分かった。

嫉妬。
それが、この感情の名前だ。

それはありえないはずの感情―――親友たる月よりも、あの一刀に対して心を向けているからこそ起こる感情だ。
月のために身を捧げ、月のために働き、月のために戦っていたはずなのに、どうして自分がそんなことを一瞬であろうと考えたのか……いや、今なお考えているのか。
そう自分に言い聞かせても、なんともいえない胸のつかえは月と話しているだけで大きくなり、とどまることを知らない。
月と話すことそのものが、詠の心のある部分……一刀と共に過ごしているときにどことなく暖かくなっている部分に負担をかけ続ける事実となっている。

それは、数多の書物において賢人さえも抑えられなかったと言う嫉妬と言う感情そのものではないか。
ならば、それを月に対して感じると言うことは、自分は……

守らなければならない対象がいつの間にかずれつつあることに、本人である詠がようやく気がついた。


「……それじゃあ、僕はもういくわね。あいつのせいで疲れてるの」
「ふふふ。御疲れ様でした、詠ちゃん。おやすみなさい」
「ええ……おやすみ、月」


震える内心をごまかしがてらに肩をぐるぐると回して溜息を一つはいてみる詠に、月は笑って答える。
その光景だけは、以前のままに。

その声もまた、以前のものと変わらぬものであるはずなのに、何処か他人行儀……詠と同じように。
それには彼女にしてみれば意識できないことであったが確かに一刀の操作が及んでいるがゆえに、詠と同じく何処か一線を引いた親しさ。妖術によって詠よりも一刀を優先させるようになっている。
理由は違っても、彼女もまた一刀のせいで以前と比べれば親友と一歩引いた態度を取るようになってしまっているのだ。
それを詠も察した。


そのことは、いっそう詠を打ち据えた。


『詠が最も優先しているのは一刀であり、一刀のために富国強兵を行っている』
彼女の内心がどうであれ、外形的には今の現状は沿うとしか思えない……否、もはや内面さえもそうなっているからこそ、月にそのような態度を取られたとしても詠は否定の言葉を持たないのだ。


一刀が来る前の詠の姿を知らない風や凛は昔の月と詠の立ち位置を知らないがゆえにそのことは初めからそういったものなのだ、と思っていた。
彼女を古くから知る者たちは、ある者は宮の奥深くに潜む一刀と彼女の距離を知れるほど近くにはおらず、ある者は一刀の術によって思考を剥ぎ取られ、またある者はやはり詠も女だったのか、の一言でそのことを片付けた。
だからこそ、彼女に対してそれを異常であると訴えるものは誰もおらず、結果として誰もが知っていたその事実は彼女自身が最も後に気づくことになったのである。


一体いつから、自分はこんなことになってしまったのか。普段は抜群の記憶力を誇る頭脳が、明確な時期を思い起こすことさえ出来ないことに、詠は愕然とした。
久方ぶりの親友との会話さえ心は弾まず、己から打ち切るように会話を切ってしまうその様は、以前の自分であれば決して考えられなかったことだ、と思う。


友に対して、嫉妬を抱くなどと……しかもその対象が、あの馬鹿で助平で愚かで天界の知識以外何の美点も持たない一刀を巡って?



詠は、自分の心がわからなかった。
ありとあらゆることに対して即座に答えを返してきたはずの頭脳は、いまや一刀が絡むや否やその働きを停止させる。
冷静に考えれば賈家の娘たる彼女が優先すべき大将が誰なのかはわかりきっているはずなのに、一刀はあくまで月の身を、この河東の地を保つ為の手段でしかないはずなのに。
いつの間にか、手段と目的が逆転しており、優先順位の付け方を間違えた。


「ボクの……馬鹿……」


もう、月とはきっと以前と同じ関係には戻れない。
詠はそんな予感を感じていた。

それでも詠は、それが自然であると思った。そう思い込もうとした。


(これでよかったのよ……ボクの手は、もう汚れてしまっているもの)


白く柔らかな手のひらに視線を下げて、詠はそう自嘲する。
一刀の力を使って先の戦争において多くの命を散らし、公孫賛という人間を彼の元に送り込んだ彼女の手は、正義を名乗る者が断罪するには十分な程度には確かに染まっている。

だから、月にああいった態度を取られるのは当然であるし、自分も親しげに彼女に接するわけにはいかない。
汚れてしまった自分では、あの綺麗な月の傍に立つのは相応しくないのだ。
そう、思ったからだ。


そんなはずはないのに。
月を守る為にやったことで罪を重ねたとしても、他の者はさておき月であるならば詠を責めることなど、例え同じく月が恋に狂ったとしてもありえない。むしろ、そんなことを親友に行わせた己自身を責めるであろうことは明白だ。それは詠は知らぬが、太平要術の書により術をかけられたとしても同じであっただろう。
そんなこと、今まで十年を超える期間彼女と同じ時を刻んできた詠に判らないはずがない。
だが、そんなことは関係なかった。

震える瞳と染まる頬を見ればわかるように、それは結局いいわけだ。
彼女はやはりもう自らの意思で子供の時代を抜け出してしまっていた。
だからこそ、きっと自分はそのうちこんな適当な理由を正しいと考えて、『割り切れて』しまうことも理解していた。
一刀のほうを、月よりも優先するようになることが、当然だと思えるときが来ることがわかっていた。

手を汚しても、共にいたい男がいるのだから。


「一刀ぉ……」


混乱のさなか悲しく呟く対象さえも、以前と変わってしまっている。
脳裏のすべてを割いていた月への思いの比重を減らし、その空いた分のリソースをすべて一刀への思いへと突っ込んだ彼女が頼るべき対象もまた、変わっていたのだから。
頼るべき対象を自ら切り捨てた以上、彼女の名前は呼ぶことは裏切りに等しい……たった一人の親友さえも失った彼女はそんなことを思い込んでしまった。

たった一人で親友を守る為に大人にならざるを得なかった少女は、恋を知ることによって変わる、ただの少女に戻っていく己自身の心の動きが理解出来ずにただひたすらに戸惑い、恐怖した。







はたしてこれは、劣化か、成長か?
どちらと呼ぶのが正しいのであろうか……






[16162] 羹に懲りて膾を吹く
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/08/11 06:14

風こと程立は、外見にはほとんど出ていないものの彼女なりに少々驚いていた。

元々流浪の最中なかなか仕えるべく主を見つけられず不遇を囲っていた彼女は、この地において親友である郭嘉と共に賈駆という尊敬できる上司を見つけられたことを心底幸運に思っている。
山に登って日輪を掲げる夢を見て、おお、これは素晴らしい主が存在すると言うお告げか、と思って改名さえもを考えていた翌日に、その日輪がなんか黒い龍に漫画チックに飲み込まれた夢を見たときは「大丈夫かな、自分」とか思っていたが、最終的にはこうしてちゃんと無事に仕えられたのでよかった、とほっとしている。

ここ河東は小勢力といってよい程度の、彼女が全力を振るうには少々物足りない場所であったことは事実であるが、それさえも賈駆によって命じられた各種政策を実現していくことで凄まじい速度で成長するであろう、と予想していた彼女にとっての不満点とはなりえない。
それどころか、賈駆が持ってくる各種の斬新な知識は、軍師らしく知に触れることをお昼寝の次に喜びとする彼女を満足させるものであった。

だから、実はそれらの原案は城の中で遊んでばかりに見える男、北郷一刀からもたらされたものだ、と聞かされたときも、人格云々がためにそれを否定するのではなく密かに彼を見直していた。
天の御使いと嘯くことは不敬であるとは思ったが、実際に会話してみて大概の書物の概要程度であれば読みつくしたと思っていた風をしてその未知の知識の量と質に驚かされたときは、それもむべなるかな、と思いなおしたほどだ。


「…………お兄さん、一応聞いておきますけど、その方はどなたですか~」
「……ああ、見ての通り、白蓮―――公孫賛ちゃんだ」
「よ、よろしく……」


だが、その彼女をもってしてもこの結果は予想外だった。
いくらなんでも昨日まで散々悪態をついていてこっちにまで非難の矢を飛ばしていた敵方の一角までも多々一晩でめろんめろんに堕として来るなんてこと、彼女の想像力の限界を遥かに超えていた。

何処かやつれたような顔色で突っ立つ男の横には、妙齢の女性が。
目の中にハートマークを浮かべながら、全身についた小さな赤いあざをまるで誇るばかりに露出の激しい格好で、昨晩の激しい運動のせいか腰が抜けたかのように一刀に対してしなだれかかっている女がいる。
赤い髪に風と比べれば遥かに大きな体、馬を日常的に乗りこなしているであろう足の筋肉のつき方に、胸のサイズ。

どう見ても、事前に収集していた敵方の大将の一人とされていた者、昨日まで我が方にて捕虜とされていたものと外見上の情報と一致するのであるが……目の前にいるのがあの白馬侍従を率いてついこの間まで敵対していた領主、公孫賛であることが万事飄々としているかに見える風をしてどうにも受け入れられない。
事前に仕入れた情報によると、公孫賛と言う女はさして特筆すべき才には恵まれなかったようだがそれでも領民には尊敬と親しみを持たれ、戦においても騎馬を得意としたそつのない堅実な戦法で今まで五胡からの侵略を防いできていた。
賄賂等を好んで日々享楽に溺れて遊びほうけている、あるいは領内の男を片っ端から漁っていた、なぞと言う話はついぞきいたことはないし、それどころか天子をないがしろにしている、と言う名目で挙兵したことに対して市民らがそれなりに説得力を感じていることからある程度は高潔な人物であると思っていた。

だからこんな一月ほどの付き合いもない男に早くも骨抜きにされている人物であるはずがないのだ。

隣を見ると自分と同じような感想を持ったのか、凛が唖然とした表情をみせている。
が、いくらなんでも延々と現実逃避をしているようでは軍師なんて務まらないので、とりあえず確認を取ってみることで今後の戦略への影響を高速で考える。


「えっと、公孫賛様でよろしいですよね~」
「ああ、そうだ。だけど、一刀の味方なんだったら、真名の白蓮でいいさ」


いかにもないい人オーラを出して、捕虜とはいえ本来の身分的には相当高位にあるはずの彼女がそんなことを言ってくることを確認して、改めてこの現状の不可解さを思い知る二人。
元凶と思われる男の方へと視線をやっても、下手な口笛を吹いてとぼけるのみなのは、今まで彼が落としてきた捕虜のときと同じ。
あいも変わらず得体の知れないその態度に対して風や凛は怪しみながらも、彼の嘯く『天から来た』ということを信じる気持ちがわずかばかりに上昇することは否めなかった。


「そうですか。では、風のことも風と御呼びください」
「私も真名、凛という名をお預けいたします」
「ああ、分かった」


だからこそ、彼女たちが今考えるべきことは、「何故、どうやって彼女がここに」と言うものではなく、「今後彼女がいることでとるべき選択肢は何か」と言うものである。
何と言っても、彼女が自軍にいるということであれば実質劉備が乗っ取った形となる幽州軍に対して様々な策をとることが出来る。
彼女の檄文で乗っ取りなぞを企んだものに非難を飛ばす―――流石に本人の口から舌戦をさせることなどは無理があろうが、こちらに姿がある中で流言蜚語を飛ばせば劉備への悪評なぞいくらでも作れる―――だとか、彼女の名において内応を促すだとかだ。
直接的な戦場での戦闘指揮以上にそういったことに長ける風にとっては瞬時にいくつもの策が脳裏に浮かんできたし、正統派な軍師である凛についてもすでにいくつか腹案は出来ているだろう。


「早速ですが白蓮様、一刀殿。幽州軍のことについて少々質問が……」
「……悪いが、これからちょっと用事があるんだ」
「そうですよ、凛ちゃん。そういったことはお兄さんにご予定を聞いてからでないと~」
「……なるほど。失礼いたしました、一刀殿」


好悪感情以上のモノとして聞きかじる範囲で判断するならば、遊んでばっかりに見えるこの男が有能であることは否定しようがない。
外から見ると遊んでいるようにしか見えなくても、各種の政策の原案を出し、未知の兵器の助言を行い、敵将の引き抜きを行うその手腕は、恐ろしいほどだ。
だからこそ、彼女たちもその不真面目極まりない態度を受けて尊敬こそしないものの、彼に一定の敬意を払うことを惜しむつもりは全くなかった。
だから、一刀の顔色が何処か悪いこととあいまって凛は聞きたいことが山のようにあったにもかかわらず一歩引いて頭を下げる。


「それでは風たちはこれにて失礼いたしますね」
「御二方とも、御暇があれば是非我らの執務室までおいでください。いつでも歓迎いたしますよ」
「ああ、わかった……じゃあ今度遊びにいかしてもらうよ」
「はい、お待ちしております」


ゆえに、彼が引き抜いてきた公孫賛の能力が噂ほどではなかったとしても、それはよくある大将を大きく見せようとする市井の雀たちのさえずりが少々姦しかった為であろうと思い、まさかこの男に原因があるなどということは考えもしない。
天の御使いという自称と現代から持ち込んだ各種の中途半端な知識が隠れ蓑となり、彼がこの地に降り立ってから手に入れ、保有し続けているものについては見過ごされた。
異世界人にとって何が普通で、何が普通ではないのか。
気を撃てる人間などいない、自身の体重よりも重く巨大な武器を振るうことが出来るものなどいない。その代わりに音速を超えることも、深海に潜ることも、空をも超えた世界に到達することも可能とする機械を使役することが出来る、と言ったことさえも一刀自身の口から漏れなければ知らない彼女たちにとって、一刀の異常なまでの説得能力についても天の御使いとしての能力であると判断せざるを得ない状況だったのだ。

かくしてこの男、北郷一刀は程立と郭嘉という強力な参謀二人を前にしてもなお、妖術書の力については隠し通すことに成功したのであった。
だが、その顔色は何故か極めて悪かった。







だって、そんな幸運ばかり続くわけがないのだ。
時は少々遡って、一刀の虜となった公孫賛と風・凛ペアが遭遇するその一日ほど前の時を見てみよう。


「御節もいいけど、カレーもね」という名キャッチコピーがある。
一刀はまさにその気分だった。
詠と遊ぶのは、楽しい。風と駆け引きをすることも、凛にきわどい冗談を交えて口説いていくことも、実にいい感じの娯楽だ。自信が圧倒的に有利な立場にあるというその状況下において、一刀はちょっとずつ彼女たちと距離を詰めてエロいことへと持ち込もうとすることそれ自体に楽しみを見出していた。今まで基本的に脅迫か妖術かの二択しかなかった彼にとって、それは斬新な感覚を与えてくれるものだったのだ。
だからこそ、一時期彼はひたすらにカレーにあたるその真っ当な口説き方に凝っていた。
詠によってこの地よりの脱出を阻まれた以上、ここでの戦力を妖術の反動という形で低下させて天下取りへの速度を落とすほどには彼は愚かではなかったこともあって、最近そればっかりやっていた彼は外から見るとただのチンピラ以外には見えないので、風や凛がその術の力に気付かなくても仕方が無いといえば仕方がない。


「ふ~、なかなかよかったぜ、白蓮ちゃん」
「勝手に人の真名を呼ぶな!」


ただし、「御節もいいけど、カレーもね」もカレーばっかりの日々が続くとやっぱり「カレーもいいけど御節もね」に戻るのだ。
手っ取り早く心も体も手に入れる手段を保有している一刀が、いつまでも我慢することの楽しみにこだわれるはずがない。
だからこそ、公孫賛に対してここ数日一刀は極めて居丈高に出ていた。風や凛とは異なり、力ずくの手段に出たとしても彼の天下取りに対してはなんら影響を与えない、と思ったからだ。
鎖をかけられ、枷を嵌められ、重りを付けられた今となっては、鍛え上げられた彼女の技のすべてが、クズである一刀にさえも敵わない。それゆえの増長だ。

虜囚の身である白蓮は、それに対して返せるものなど言葉しかない。


「く……お前がどういう立場なのか知らないが、あんなびっくり戦法ばかりで幽州が敗れると思っても大間違いだ」
「へ?」
「幽州軍は精強だ。一度や二度の敗戦でこんな小戦力に敗れるなんてことはありえない! ましてや、西域連合とも連合を組んでるんだ……きっと後悔する時が来るぞ」


しかし、その彼女に唯一残された手段である言葉さえも一刀には通じない。
一刀の身代から考えて、少なくともとち狂った一兵卒が勝手に自分を嬲っているわけではない、と考えたところまでは正しかったのだが、まあいろんな意味でここ河東の身分や指揮系統はめちゃくちゃになっているので幾度となく語りかけられた彼女のその糾弾はまるで的外れだった。
白蓮は大真面目に一刀に対して囚われの大将として正しい態度で説きつづけるが、彼女はいろんな意味で間が悪い。ぶっちゃけ、一刀はほとんど戦争には関わっていないので、大雑把なところはさておき今現在の戦況なんてことを語り聞かされたとしても理解できない。


「そんなことなんて別にどうでもいいじゃん」
「何ぃ!」
「戦争なんて面倒なことは詠ちゃんとかに任せてあるんだ。とりあえずこっちはこっちで楽しもうぜ」
「っ! この、下種め!」


ゆえに公孫賛の捕獲の成功は、久々に彼にそっち方面の楽しみを思い出させることとなった。駆け引きは駆け引きで悪くないが、絶対服従を誓う美女というものはそれはそれで男心をそそるものがあるのだ。
だからこそ、ここ数日の逢瀬にて一通り捕獲した状態で抵抗するじゃじゃ馬を無理やり乗りこなすことを楽しんだ後は、一刀はさくっと操ってしまうことにした。


「下種って……ひっどいなあ。まあ、別に今は何言ってもいいさ。どうせこいつの前には意味ねえんだし」
「っ! な、何をするつもりだ!」
「まあまあ、とりあえずこっち向いてね~」


結局のところ、それは強者であるがゆえに発せられる油断というものであったのだろう。
匪賊時代にはどうあがいたところで得られなかった「有能な協力者」が出来たことで、一刀の運は劇的に回ってきた。
元々妖術によって捕らえた人海戦術だけが武器だった彼の力は、彼自身が持つ未来知識を的確に生かすことの出来る賈駆というパートナーを手に入れることによって一層補強された。
強大な力と共に欠点も多く持つ太平要術の書を保有しているとはいえ、これまた知識だけはあってもいろいろな面で欠点だらけな一刀が運用していくよりも、あらゆる面で有能でありながらも一刀に対して逆らわない三国有数の軍師がいろいろとやってくれるという事実は、相当使い勝手がよかった。


「な、やめろ! やめてくれ」
「はいは~い、黙ってこっち向いてね」


そんな無能な、しかし有力な君主である一刀から出る不穏な雰囲気というものを肌で感じ取ったのか、必死になって暴れる公孫賛だが、しかしここまでがんじがらめにされた上にその素肌を守るものが破れに破れた服だけとなってはろくな抵抗など出来やしない。
まるで芋虫のように身を僅かによじってその意を表すのが精一杯で、非力な一刀であっても難なくその抵抗を押さえつけることが出来る。
その力の差は、自力で懸命に今まで積み上げてくることで幽州を治めていた太守である公孫賛と河東を遊び半分で支配する一刀の今を証明しているかのごときであった。


なにせ、一刀はマジで寝ているだけでいい。
たったそれだけで、いつの間にか彼の軍勢は増強され、周辺の敵は駆逐される。
小勢力だからどうなるかと思ったのが嘘のように、彼のその寝台周りの周辺数メートルは戦争があろうがなかろうが静かなものでそれを破るのは嬌声だけという現状は、やばくなったら逃亡しようとする彼の気概を根こそぎ挫きに掛かっていた。

やることといったら時たま詠が意見を求めてきたときに適当な返事を行うことだが、それはそれで結構お楽しみがあるからいやなことではないし、それがどれだけ適当な言葉であろうと十個のうち一個ぐらいは彼の目にもはっきりと見える形となっていつしか最適な事実となって現実に当てはめられる。
一刀的にはたいしたことをやっていないのに、いつの間にか彼の領地は「二毛作」「二期作」「屯田制」その他もろもろも実験がそろそろ実現段階に入るぐらいに発展していた。一刀の知識的にはこの辺が精一杯で、より一層の効果が見込めるであろうノーフォーク農業だとか、工場制手工業だとかについては彼も完全に名前だけしか残っていないレベルのうろ覚えだった為詠と言えども何から手をつけていいのかさえも分からず、その結果として全くもって実現に至っていなかったが、それでもこれは恐るべき国力増強手段だ。
だから、ここのところは兵員増強に術を使うことすらなかった。

その必要もないほどに、満たされていた。


「はいは~い、じゃあ、俺の言うことを聞いてくれよ、白蓮ちゃん」
「うっ……あぁ……」
「君は俺のかわいい部下だ。恋人で、愛人で、奴隷だ。分かったか?」


だからこそ、久々に術を使うつもりになった一刀は、最終的にはエロ目的とはいえじっくりとその過程さえも楽しもうと思い、公孫賛の額に手を当てながらそんな言葉をゆっくりといい含めるように彼女にかけていく。
数刻前であれば盛大な罵倒でそれに返したであろう白蓮は、しかしその言葉を聴いたとたんに抵抗の意思をなくしたかのごとく瞳から力を抜き、暴れるのを辞めた。
いつも通りのその光景を見て、一刀は喜びでまぶたを細めた。いつ味わっても、この相手の心も体も命さえも握ることが出来た瞬間というものは、楽しいものであった、などと思いながら。


術と未来知識、それこそが彼の力だ。
だが、それに加えて彼の配下は戦争にも勝った。
弱小としか思われていなかった彼らは、馬術においては二大勢力の一つであった幽州軍を、よりにもよって馬術で降した。それは今対陣している西域連合や幽州軍だけではなく、各地の将たちにとってさえも衝撃だったことであろう。
ほとんど被害さえ出さずに董卓の名を一方的に高まった結果が示しているように、それは今回の戦において周辺の諸侯らが分け合って得るはずだった評判を根こそぎ奪い取るほどのものだった。
一刀にとってそれは、自分の指揮する軍隊の名声が一層高まった、と言う自尊心を満たしてくれるものでもあった。

さらに、戦争の後のお楽しみとして当初の予定としていたものの一人、公孫賛も予定通りにこのように手に入った。これで調子に乗るな、と言っても無理があるだろう。
ここ河東を見捨てて幽州に逃げ出していたとしても、これほどまで短期間に容易く彼女に手が届いたかは怪しいところから考えると、実際には最短ルートを進んでいるといっても過言ではなかろう。
さらに詠たちからの報告によると、野に潜んでいた劉備たちを引っ張り出すことにも成功したらしいし、先の戦争で張遼隊とぶつかったことによる混乱により、戦の後に本隊から外れてこのあたりを逃げ回っているらしい馬岱の補足も完了して、今追い込みに掛かっているとも聞いている。
この調子だと、次にぶつかるときにはさらに充実するに違いない。


一度逃げ出そうと考えたからこそ、この環境のありがたさというものを改めて実感した一刀にとって見れば詠の献身は実に得がたいものである。
彼女の為ならば馴れないNAISEIをちょっくらやってみるか、と思ってしまうほどに……実際には適当なアイディアだけでほぼ丸無げなわけだし、そろそろネタが尽きつつあるので今後は完全にヒモと化す可能性の方が高いのであるが、それでも優秀な詠は今のところ結果を出してしまっているし、同時に現在の飛躍は彼がいなければそれが成り立たないということが実に皮肉である。


「よっしゃ、白蓮ちゃん……俺が誰か分かるか?」
「ああ、一刀……酷いじゃないか、これじゃあ肌に傷がついてしまう。まあ、そういう趣味だって言うなら、私だって付き合わないでもないけど」
「……くっくっく。いやいや、そういうなのはちょっと好みじゃない。すぐに外すよ」


こうしてあっさりと彼の術の力のトリコになった公孫賛だって、結局元を辿っていくならば詠のお膳立てによるものなのだ。
彼がその妖術のみを頼りにしていたならば、このようにスムーズに行っていたわけではないことは、彼自身だって何処か認めていたほど、彼女の存在は大きかった。

まあ、そんな感じで一刀は段々と詠がいる生活になれ、それが当たり前になりつつあった。
戦争の一方の当事者になっておきながら自ら手を汚すこともなく、適当ぶっこいているだけで日々生活が保障、改善されるその生活は、彼にとっては理想といってもいいものであった。
時々現代の音楽やテレビを見たいと思ったり、アイスや菓子等のこちらではどうあがいても手に入らない嗜好品が欲しいなあ、と感じたりすることはあっても、それはある程度妥協できる不満であり、逆説的に言うのであればその程度しか彼は日々の生活に不満を持たなくなってきた。


そして、王者を殺すのはいつだってそういった慢心からなるものなのだ。


飢えの為に人を傷つける決心をしたときや、間接的とはいえ手を汚したときのように、世界が彼に厳しかったときとは違って彼には安全が常に確保されていた。
そんな状態で、常に野獣のように精神を張り詰めて置けるような者は、そういった才能か経験があるものだけであるのだ。
当然ながら、一刀にはそんなものなど欠片たりとも存在しない。
この世界においては特異な未来知識と洗脳という二つの能力を除いてしまえば単なる凡俗でしかない彼の心は、今の安楽に溺れて将来への用心というものをまるで忘れていたのだ。

だから。


かしゃん、と何かが壊れる音がした。
それはすべてを崩壊させる音色だった。


「か、一刀……それは、やっぱり」
「っ!」


その音と共に呟かれたその声に、弾かれるように一刀は顔を向けた。
まさか、この場所に人が居るはずがない、という油断。
万が一刺客がやってきたとしても、武力によるものであるならば隣の部屋に潜む雪蓮で十分に防げるはずだ、という過信。
それを思って、一刀はそれが単なる見間違い、もしくは夢であると判断した。


だがそれは、紛れもない現実であることは視線の先に今なお映る少女の姿が霞のように消えていないことからもわかる。
彼の目には、いつも一刀がやんちゃをした後にかいがいしく持ってこられる水差しと器、そして濡らした後固く絞って纏めてある何枚かの肌触りのいい布を載せてきたのであろうお盆を取り落として、目を大きく見開いて彼を見つめる優秀なパートナーの姿が。
真っ青に顔色を失い、瞳と唇を卵形に開いて、こちらを見つめる緑髪の少女がそこにあった。

盆を取り落とし、その自身も時折磨かされている床を汚したことさえも築かぬように、こちらに向かってただただ呆然と立ち尽くしている。
その態度が、何よりも雄弁に一刀の妖術のすべてを見ていた、ということを語っていた。


「一体……それは何、何なのよ、一刀」


とっさに語る言葉が出てこないこともまた、彼のこの環境における気の緩み方が見て取れる。
そんなふうに一刀が普段の生活のさなかで警戒心というものを徐々に失いつつあった以上、太平要術の書のことを彼の一番近くに常に居続けた少女に知られてしまうのは、早い遅いの違いはあってもある種の必然だったのかもしれない。




[16162] 晴天の霹靂
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/08/15 21:24

術のことがばれる前のころにおいて、一刀という存在はもはや詠にとって欠かすことの出来ないものとなっていた。

恋にも愛にも似た、しかしはっきりとはどちらとも言いがたい感情を彼女が抱いていたことは、側近たる風や凛が理解していた通りだ。
憎んでも憎みきれないほどの大きな悪感情が時期を追うごとに徐々にほだされ、やがては好意へと丸々変換されたそれは、このまま行けば間違いなく盲目的に恋する乙女へと彼女を堕していったに違いない。
好意が肉欲を呼び、それを呼び水としてまたも感情が膨れ上がるその様は、やはりこの外史において主人公の位置に一刀が来ている、ということを補強する材料であるかのごとき有様であった。

もはや、月のことは彼女にとって言い訳の理由にしかなりえない。
自身への負の感情がきっかけではあっても、唯一の親友に対してさえ決別の意思を示してしまった彼女にとって、残った者は一刀しかいないからだ。
一刀に対する悪感情は、そんなもののために月を裏切ってしまったということによって裏返り、結果として彼への依存を強めていくことになる。
だからこそ、彼女が一刀を裏切るなんてこと、もはや周囲の者は誰一人考えもしないであろう。
よほどの大きなことがない限り、彼女が一刀へと寄せる好意はゆるぎないものになってしまっていた。




翻って、一刀自身は詠をどう思っていたのか。
これは一刀自身の口からしても、少々言葉にするのが難しい。

彼女は自身の愛人であり、好きなように遊べる人形である……少なくとも、この自覚はある。
本人に対して直接術をかけてはいないものの、彼女の最も大切とする者を使っての脅迫によって彼女の身を自由にしている、ということは流石の彼も忘れてはいない。
彼女からすれば自分は親友を奪った憎むべき敵であり、どうやっても排除することが出来ない弱みを握っているからこそ、彼女は自分に従っている。
いろいろと調べた結果そんなことはありえないと万全の確信を持っているものの、もしも月の状態を解除できる方法があるのならば、即座に今までぶつけられた行為の恨みを果たすに違いない。
色に惚けた部分とは別に、生き残ることを目的とする彼の奥底にある冷静な部分は彼女を前にして常にそう語っていた。
彼女と自分は対等の立場のもとお互いに歩み寄って今の関係を形成したわけではなく、下劣で卑怯な手段を使って無理やりこちらに向かって歩いてこさせたのだと言うことそのものは、傀儡の糸の持ち手として十分に自覚していなければこうも彼女を上手く舞台の上で踊らせることなんてできっこないはずだ。

だからこそ、その自覚そのものは彼の中ではいまだ完全に消え去ったわけではない。


が、だからと言って、彼女と自分は完全にドライな関係だとまでこの糞ヌルい思考回路に育った一刀がきちんと割り切れるはずがない。
というか、たぶんどういう成長をしたとしてもこの北郷一刀という男の根底であるこういった考えは消えることはないものと思われる。
だからこそ、彼は彼女が夜を共にするために恥らいながら部屋に入ってくれば「実は詠は自分に気があるのではないか」と思い、彼女が事後に甲斐甲斐しく自分の体を拭いてくれるたびに「術を使わなくても自分に従ってくれるのではないか」などと考え、自分から離れる時間になったときに詠が口づけを一つ残していったことで「普段のツンツンしている態度は、照れ隠しではないか」などという、都合のよさ百パーセントの妄想をするようになっていった。
まあ、それが妄想であるだろう、と言うことも重々承知していたが。
それでも、一片の期待が残ってしまうことは、どうしても否めなかった。


結果として彼からの詠への感情は、『自分の駒。だが、それ以上になっているかもしれない』と言った極めてあやふやなものだった。
容姿は可愛いし、性格も好きだ。だが、彼女から好意を得られているはずがない以上、あの眼差しはきっと背面服従の感情によるものだ。
だからこそ、相手から嫌われている可能性が高い以上、臆病な彼はそれ以上踏み込めない。好きになれない。
だが、それでもひょっとすると万が一の可能性で……

自分の心の動きを完全に理解しているわけではないものの、それでもその胸の奥にわだかまっている思いが彼の恋心のストッパーとなっていた。そして、それにもかかわらず中途半端な期待は霧散しようとしなかった。
いっそ術を掛けてしまっていれば、これほどまで悩まなくてすんだ。完全に彼女を駒として割り切れていれば、こんな風な無駄な期待なんてしないでただひたすら見目のよい人形を愛でるだけ、とそこで終われた。

実際に雪蓮や月、そして天和などについてはきちんと一刀は割り切っており、だからこそ彼女たちには命じた以上のことを期待していない。
術で、脅迫で操っている彼女たちが心の底から自分を愛しているわけではない、と言うことは十分理解しており、その現状に対してもそれが当然であると不満は持っていない。
俗物であり、且つ若かった彼は体の関係だけで十分だ、と思っていたということもそれに影響した。


ただ唯一、詠だけが違う。
この外史において出会った数多くの人物の中で彼女だけが、彼に命じた以上の結果をもたらした。そのことが自覚こそ無いものの彼を一層悩ませている。



術の力はもはや彼の人格と切り離せない域までたどり着いている。これがあるからこそ、彼は自身の地位をここまで高めることが出来たのだ。

…………だがしかし。
ひょっとすると、詠ならばこの力がなくなったとしても。

そんな思いが、彼自身は気付いていないレベルではあったものの徐々に生まれつつあったことは紛れもない事実である。



かくして、詠から寄せる感情以上に一刀からの詠、というものは表面とは裏腹に実に不安定なものであった。
一刀は術のことで詠を欺いていた。だからこそ、悩んだ。
そして、詠もまた一刀に対して正直に出ていなかった。

二人の始まったきっかけを考えればありえないことではあっても、お互いに憎からず思いあっている現状を正直に言い合えていたならば、と考えざるを得ないが、現実としてその食い違いは紛れもなく二人が最後の一歩を進もうとすることをお互いに戸惑わせていた。
それでも、時期さえあればいずれお互いに心から結ばれることになっていたのかもしれない。
お互いにためらって、手探りで動きながらもそれでも憎からず思いあっていたのだ。時間と言うすべてを癒すものさえ付与されれば、先の戸惑いだって笑い飛ばせる程度の関係を築けていた可能性は、十分にある。


にもかかわらず、その両者ともに微妙な距離を測っていた時期に巨石が投じられたところで、新たな物語が始まることとなる。








実際のところ、北郷一刀は直接己の手を人の命で汚したことはない。
間接的にであれば初めは三人から、今はすでに万単位で彼のせいで死んでしまったが、それでも後ろに引き篭もって笑うだけで戦場に立っていない彼が、その手でぶすり、なんてことは今までなかった。
未だそれほどビッグだと周辺諸国に認知されていない現状では暗殺者を送り込まれるなどといったこともなく、結果として彼の身近において彼は生々しい死体すら見たことがなかった。

とはいえ、それは彼の認識からするとむしろ当然であった。
太平要術の書に中途半端な未来知識という武器しか持っていない上に他人を操って悦に入る性癖を持つようになってしまった彼にとって、己が武器を振るって人の命を刈り取るということは自分の隣まで敵が来た、すなわち限界まで追い詰められていることと同意だ。
現代日本の生ぬるい部活程度の剣の腕しか持たない彼が戦うということは、すなわち彼を守る幾重もの生きた肉の盾がすべて破られたことを意味するのだから。
そして、その可能性が僅かなりともあるのであれば、戦場に出ると言う選択肢は選べるものではない。

ゆえに、自分自身で前線に出て戦うことは愚か、指揮官として戦場に出ることもなかった。
この時代において有能な君主とは少なからずその戦いぶりも評価の対象に入っていたことを思うのであれば、それは比較的珍しい対応であった。
武勲を挙げることで名を上げることが、内政面における働きぶりよりもある種評価されていたこの時代において、この三国志の舞台となっている外史におけるほとんどの武将は戦場での戦働きもまた必然的に覚えている。
ゆえに、河東の一領主で終わるつもりであるならばさておき、天下統一を夢見るのであれば一刀自身が勇敢に戦う、という評判はあればあるほどその後の動きを容易くするものである。
だからこそ、口には出さないものの風も凛も出るだけでもいいから一刀を本陣の中央に据えておきたいのが本音である。

が、だからといって戦場に出るなんてことを考えもしないのがこの悪一刀君である。
そして、君主としてならばさておき、それらを食い荒らす匪賊としてならば一刀の選択はある意味正しい。
彼の理想である自分の肉体はいっさい傷つかずに思い通り動かせて、なおかつ一方的に敵をいたぶれる…そんな能力があれば話は別かもしれないが、孫策と公孫賛、そして数多くの兵士を護衛として揃えてもなお、万が一にであっても己の身に危険が迫る可能性があるならばそんな賭けには出ないその臆病さこそが、孫策を下した彼の強さだ。

その彼からしてみれば、自身の力の源たるこの他者を操る能力、というものを知られてしまったならば、どうにかしてそのものの口をふさがなければ安心できるはずがない……それが誰のものであっても、だ。




あの後詠は、結局一刀に対して何一つ問いかけることなく無言で部屋を後にした。
その蒼白な顔面と発した言葉からするに、自身の秘密の少なくとも一端は知ったはずなので、一体今後どうなることやらと最悪この地を強行突破するつもりで護衛の雪蓮と人質の月を近くに寄せてビクビクしていた彼だが、今の所何も起きずに普段どおりの生活が送れている。
そう……拍子抜けするぐらい、何もないのだ。

相変わらず一刀はこの河東を追い出されもせずに安穏と何一つ押し付けられることなく生活を送れているし、彼女は一刀の野望の為の戦争を勝利する為に今日も奔走している。
この間、彼女から西域連合の主要人物の一人、蜀の五虎将軍となるはずだった馬超の縁者である馬岱を捕獲したとして贈られていることからも、彼女の一刀にみせるスタンスが変わっていないのは明らかだ。
いや、唯一の変化として彼女自身が一刀と閨を共にすることはなくなったが、元々自分からねだるようなことはしなかった彼女だ。
それは一刀自身がビビってしまって誘いを掛けていないことの結果かもしれない為、なんとも言いがたい。


とにかく、表面上では一刀が求めた平穏な生活は未だ維持されており、彼女が誓った生贄の提供という契約も未だ継続されている。
この事実だけを見るに、詠はあの事実を黙殺したかのように思える。



が、だからといって一刀が安心することなんて出来やしなかった。
彼女があの場にいて、公孫賛を落とす場面を見ていたのは明らかなのだ。動きが無いならば無いで、一層不気味ではないか。
確実にばれた悪行の報いとして、彼女は一体何を考えているのか……小物たる一刀は気になって仕方がなかった。自身が悪党なだけに、こうなると周囲の者の一挙一動が怪しく見えて仕方がない。
流石に自身の秘奥たる太平要術の力を知られた今となっては、色に溺れている場合ではない、と考えることぐらいは出来る。むしろ、事前にこういった事態について備えて考えておかなかったことを誹られるべき立場かもしれないが。


詠は……賈駆は一体何を考えている?
天の御使いを名乗る男、北郷一刀が実は妖しの術によって人の心を弄ぶ正真正銘の悪党であり、悪い男に引っかかっただけだと考えていた親友の心さえもこの男によって捻じ曲げられたものである可能性が高いと知ったならば。
三国志と言う物語においても上位に列せられるほどの智謀と評された彼女は、彼の一番隠しておきたかった秘密を知って、今何を思っているのか?
それを知らねば、一刀はもはや安心して暮らすことは愚か、この地から逃げることさえ出来なかった。


復讐だろうか? 
確かにそれは、彼女に相応しい。親友を弄ばれ、それを質草にして己の身さえも汚されたと言う事実から考えるに、彼女が一刀の命を奪うことは実によくありそうに考えられる。
今、こうやって彼が自由にされていることだって、ただ単に彼女が復讐の刃を研ぐ時間に当てている為に許された僅かな期間だけかもしれない。

それとも、捕獲だろうか?
あの一瞬で妖術書の存在や術の有効範囲、対等以上の立場でなければ発動しないと言う条件付けまで見抜かれたということは無いと思うが、絶対ではない。
一刀を捕まえることで月の開放を求めようとすることはごくごく自然なことであろう……一刀自身がどれほど解除方法を知らない、と言ったところで信用されるとは思えない。
不可逆の術に捕らえた彼女の親友をどうにかして元に戻すように強制させられ続ける可能性は十分にある。

あるいは……略奪か?
自身の力を知られたことによる最悪のケースがそれだ。
一刀の力はそのほとんどが妖術書の存在に起因している。ならば、もしもその書を誰かに奪われたとしたら……術の力を知られると言うことによる最大のリスクがこれだ。書そのものについては見られていなくても、彼女ならばたどり着いてしまうかもしれない。
書を奪われた瞬間に一刀は貧弱な現代人に逆戻り、それどころか今度は自分がその術をかけられる側となり、自由意志をことごとく奪われて特攻させられるかもしれない恐怖。それは、なまじ書の力を知っているだけにあまりに大きく一刀にのしかかり続けた。


「せめて、性奴隷とかにしてくれないかなあ……宦官とかひどすぎる」


考えれば考えるほど、最悪の事態ばかりが頭をよぎる。
「よくも今までやってくれたわね」と怨みつらみを口にしながら怪しい笑みを浮かべた詠に股間をはさみでチョキン、とされることを思い描いて、思わず腰を引いてしまう一刀。
殺される、晒される、潰される、囚われる、剥がれる、斬られる、飼われる。
なまじ西大后などによる中国王朝の様々な陰惨な逸話を知るだけに、想像し始めたらきりが無かった。


勿論、こんな可能性ばかりではない。
術のことを知ったとしても雪蓮の武力を考えてスルーすることに決めたのかもしれないし、あるいはただ単にまだどう対応すべきか考え付いていないだけ、と言うこともある。
戦争で勝つ為には一刀の力が必要不可欠であり、例え彼を追放したとしても滅びることになってしまうぐらいならば意味が無いと考えているのかもしれないし、あるいはひょっとするとあの言葉は一刀の恐怖心が生んだ単なる聞き間違いで、術のことなどいまだ知らないのかもしれない。
そして……もしかすると彼女は、術のことを知ってもなお一刀のことを支持してくれたのかもしれない。


態度が変わらない、ということだけでは、彼女が一刀に対して好意を持ったのか、悪意を持ったのかは正確には判断が付けられない。
しかし一刀は、ただひたすらに不安に苛まれていた。
術のことを知られた以上、このまま不安を抱えたまま放置する、と言う選択肢だけは取ることができない。
逃げるにしても今後の国取りに影響が出ないよう、最低限術のことを他者に漏らせないような主段を取らなければならない。


彼にとっての詠はもはや駒ではない。彼女はそんな存在からは自力で逸脱した。
だがしかし、彼女は決して彼にとっての絶対の味方でもないのだ、ということも一刀は痛感していた。
今までは、月という存在があったために自陣に強制的にではあっても組み込むことが出来た。
だが、それを除いた場合、一刀は自分が何か彼女に好印象を与えた記憶がほとんど無かった。そんな人間が、いざ術のことがばれたときに信用される? そんなはずが無い。
自分自身がどれほど人間として最悪なのか理解していたからこそ、どれほど思い出してみた詠の態度が真摯なものであっても、それを信じることが出来ない。

彼女の微笑みは怒りを押し殺したものであり、彼女の献身は脅迫によって生まれたものだ。そう考えざるを得ないのだ。
一刀は術の力を知っているばっかりに、今までの彼女のことすらも疑わざるを得ず、その疑いを元に現在を判断しなければならない。
そう、ある意味太平要術の書の妖術によって彼自身もまた他人を信じることが出来ない呪いをかけられていたようなものだった。


未だ無言でひたすら忠実に自分に仕えてくれている彼女を完全に信用することなんて、臆病で惰弱な彼にはできなかった。
ならば、彼女が敵に回ったことを想定して動き始めなければなるまい。
敵に回らない可能性があったとしても、逆に言えば完全に味方である、と言う保証がない限りそれはやっておかなければならないことのはずだった。


「うあ~~、どうしよう。どうすりゃいいんだ」


が、一刀は踏ん切りがつかなかった。
と言うのも、実際に敵に回したとなるならば、詠の力というものが余りに驚異的なものに思えたからだ。

チラ、と視線をずらすとそこには、彼女が作った望遠鏡が。
望遠鏡なんて、歴史の教科書だとか理科の授業ぐらいでしか見た覚えのない一刀であったが、それでもそれを一から作り上げることがどのくらい困難なのかは予想がつく。
貰ったときは普通に思っていたが、考えてみればあんな与太話からこれを作り出したのだとするならば、恐るべきことだ。眼鏡があったり、女性用下着があったりといろいろとおかしなこの世界ではあるが、それにしたってこれは凄まじいまでの代物だ。流石は賈駆といわざるを得ない有能さである。
少なくとも、いまだドリルやパイルバンカーに遭遇していない一刀にはそう思えた。

その詠を敵に回して上手いこと落とし所をつける? 
ここのところ完全に享楽に溺れて危険から遠ざかりまくっていた彼にとってそれは、余りにも危険なことに思えてならなかった。
自身の力について過大な自負を持つようになっていた一刀とはいえ、間近で彼女の有能さ、力を見知っていただけに今回ばかりはその驕りきった心でも絶対の勝利を確信できなかったのだ……詠を完全に屈服させて以前と同じような関係を築き上げる、あるいは彼女にしっかりと絶対の口止めをした上でこの地から去る、という勝利を。




そこで彼は考えた。
自分ひとりでダメなら、誰かに助けを求めればよい。少なくとも、アイディアくらいは聞いてみるべきだ。相すれば、この灰色の脳細胞がびびっといい感じの答えを出すきっかけになるかもしれない。
人を素直に頼れるのは彼の数少ない美点と行ってもいいことなので、この選択肢自体は正しいものと思われる。
いかな実力者であろうとも、結局社会でうまくやっていくためにはホウ・レン・ソウが大切である、ということを知識として知っている一刀にしてみれば、自分サイコー、自分天才と思ってはいてもそこに助言を求めることを入れることは決して矛盾しない。
だからこそ、最高の俺様がより一層の用心をするために保険を掛けておこう、と言う発想に至ったのだ。


至ったのだが。



「と、いうわけで何か良い考えはないかな、雛里ちゃん」
「……本当に唐突ですね、御主人様」


が、いくらなんでもこれはないだろうといわざるを得ない。
洗脳なんて手段を使ったからやばくなったというのに、さらに傷口広げるような真似をしてどうするというのか。
相変わらず彼の自力で出した解答と言うものは、微妙だった。







この問題に関して、あえて一刀は究極的な解決手段に気付こうとはしなかった。
今までやってきたことを考えればそれは彼の頭に思いついて当然のことなのに、何故か不自然なまでにその部分に関して一刀は空白であり続けた。それをすればすべてがあっさりと解決する、ということを分かっていながら、その選択肢だけからは徹底して目をそむけ続けたのだ。

それは、結局その者がどれほどの悪党であり、疑い欺き続けることで生きてきたとしても、何か一つぐらいには執着してしまい、どこか縋るような信じる気持ちというものは捨てきれない。だからこそ、そうであって欲しい、と言う強烈な願望によって、彼自身に純粋な汚してはならない気持ちが芽生えていた、ということ事を証明していたのかもしれない……




[16162] 狡兎死して走狗烹らる
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/08/25 19:45



緒戦より勝利を続けているとはいえ、未だ河東は小勢力だ。
兵力で比べるならば、白馬侍従と公孫賛を下したことで大分力を削った幽州軍にすら未だ劣る。
ましてや敵には関羽と張飛、馬超といったすべてを知る者からすれば怯えずにはいられないビッグネームがいまだそろっているのだ。
一人で千を越える兵と戦える人間を何人も敵にしているのに、武将の数も兵力も劣っている現状はかなり致命的だ。
どれだけ小さな勝利を積み重ねたとしても、たった一回の敗北ですべてを失うことになるだろう。
ゆえに、一刀が思っていた以上にここ河東の陣営の勝利条件は厳しいものであった。
呂布という切り札を保有する官軍側が負けることは無いにせよ、幽州軍と西域連合を潰せたとしてもその前に河東だけは滅びてしまう可能性は極めて高かったのだ。


それでもなお、何とか戦えていたのは少数とはいえ命を惜しまず戦う一刀の術の統制下にある洗脳兵の存在と大分劣化したとはいえそれでも高い水準にある雪蓮の武力と統率力、そして未来知識による新兵器の数々を、賈駆や程立、郭嘉が神経を配って極めて効率的に運用し続けたおかげだ。

数より質がまかり通っているこの外史において、最高レベルの軍師は三人もいるのに、高いレベルで個人戦闘力を保有する人間をほとんど持たないと言う致命的な弱点を抱えていた頭でっかちな河東軍団は、今まで勝利し続けていたとはいえそれによって生み出せる余裕など今はほとんど無い。
時に官軍を盾にして、時に新たな新兵器を駆使して、時に戦略レベルで超人たちを封じ込めて、数少ない手駒を最大限の効率で持たせることで何とか勝利を続けていたに過ぎない。

この戦を乗り切れば余裕が生まれることも、このまま続けていけばおそらく勝利できるであろうことも分かっていたとはいえ、領土が狭く、いまだ内政面での改革の効果が得られていないために地力の低い河東軍団は、決して圧倒的な兵力によって余裕で勝利を続けていたわけではないのだ。
少しでもミスすれば即座に滅亡に繋がる状況下において、ただ単に詠を筆頭とした軍師たちの能力がめちゃくちゃ高水準だから何とか正解を選び続けることが出来ただけ。



だからこそ、その小勢力における内部での実質的なトップとナンバー2の仲たがいは、例え僅かな間であろうとも致命的なものだった。









血臭の混じった戦場の風を肌で感じ、舞い上がった砂埃に目を細めて、詠はこの場に立つ為の最後の躊躇を振り切った。
背後には彼女がこれから指揮することとなる数千の兵が左右を守るようにも囲むようにも配置されている官軍と並んで待機している。
そして眼前には、こちら側に並ぶ全軍よりは僅かに少ない数の、しかし河東の全軍と比べてしまえば余りに膨大な数の兵が並んでいる。

どうやら本日の戦争は、互いに正面から対陣する形から始まるようである。


今まで彼女は戦場に出たことがなかった。
軍師たる彼女は、そこに立つことのリスクというものを知り尽くしていた為、可能な限り自分は愚か月や一刀を戦場に立たせようとも思わなかった。今までは十分それで勝利し続けてこれた。
例えどれだけ戦況が有利だったとしても、勝敗は歴然としていたとしても、人というものはたった一本の矢で死ぬのだから。
どれほど戦力差を計算したとしても、どれほど人の心を推し量ったとしても、『不慮の事故』が戦場から消えることなんて、きっと無い。
だからこそ、そんな上役が出てくるなんて事態を避けられる手段があるのであれば彼女は戦場に出るなんて考えたこともなかった。


だが、同時に彼女はそれが必要だと考えたときにためらうことも無い。

なるほど、確かに今までと同じように指揮を取るだけであれば戦場に己の身は不要。
一刀直属のような形となっている軍勢どもは、いかなる命令にも絶対服従を返すあまりに軍師にとって動かしやすい駒なのだから、指示をしっかりと伝達する手段さえ確保できているのであれば軍師がそこにいる必要性はそこまで高くない。
この戦の規模で言うならば、単騎でありながら一般兵とは隔絶した能力を持ち、指揮能力もそこそこ持ち合わせている将が一人とそれにこちらの意思を迅速に伝えるこの時代にしてはかなりの速度を持つ騎馬による伝令、そして誰にぶつけたとしてもほとんど勝てるであろう騎馬による一部隊がいれば、取り返しの効く程度の必要性でしかないのだ、
むしろ、直接の戦場からは一歩引いて、すべてを俯瞰できる場所から臨機応変に指示を飛ばすほうがかえって切り札の騎馬軍団の機動力を生かすことに繋がるかもしれない。
敵が一騎当千の将を幾人も抱えていたとしても、軍師として競えるような相手はおらず、友軍には彼女ら以上の将がいる状態においては、それで十分やっていけると賈駆は判断していたし、事実それはその通りであった。


「か、賈駆様! 雪将軍は……一体どうされたのでしょうか!?」
「落ち着きなさい。我に策はあり、よ。僕を信じて」
「は……ははぁっ!」
(信じて、か。我ながらよく言えた物ね……)


だが、それはあくまで相当の能力を持つ将と、超常の力による意思なき兵隊が存在することを前提としている判断の結果だ。


それを除いてしまえば、彼女たち司令官側の人間の居場所をどこにするのか、ということの必要性は大きく変化する。

通常の戦争において軍師が、将軍が陣中にいる、と言うことは直接指示を下せることもさることながら、兵に対しての大きな志気の向上に繋がる。
トップがタマ張って自分たちとともに命を掛けてくれている、と言う事実は、彼ら農民上がりがほとんどの一般兵に対して己の命の見積もりをかなり低めに出させてくれるという効果が一番大きい。
それは戦闘力に直結するほどの違いであり、対等な条件下で勝敗を占う上では避けることの出来ない違いだ。
ある意味、兵士を戦闘させるための必要最低限といってもいい。


(何とか騎兵は確保したとはいえ、死兵と雪が使えないのは痛いわね……戦力的なもの以上に、兵たちの動揺が思った以上に大きいわ)


敵軍と比べて数十倍の兵力を保有しているだとか、相手の攻撃が届かない範囲から一方的に攻撃を加えられる兵器を所有しているだとか、あるいは背後に督戦隊が待ち構えているだとかいった特殊な事情がない限り、一騎当千の化け物が控えるこの外史の戦場に彼ら平凡な兵士たちを戦う為に立たせるのは不可能なのだ。
むしろ今までそれなしでも勝利できていたのが異常なのであり、この時代における戦争での常套手段であるそれを使用することをためらうほど、賈駆は軍師として適当な気分で河東に君臨してきたわけではなかった。


だからこそ……自軍にて唯一桁外れの戦闘能力を保有する将を失い、盲目の人形兵が使用不能となり、戦略上の切り札としてきた騎馬軍団すらその人員が半減してしまった状態では、死の危険があるからと言って己が出る、と言う選択肢を無視することは出来なかった。

新兵器もこの間使ったので打ち止め。
一刀が語ったたわごとの中には火薬などもあったのだが、テレビか何かで見た程度の一刀のうろ覚え知識では「硫黄」と「硝石」と後ひとつ「何か」を加えればいい、程度のものでしかなく、また日本では「硝石」が産出しない為実物を見たことのない一刀がその物質の特徴を伝え切れていないためいまだに実用化していなかった。
この外史における版図は広大なものなので硝石が産出するような乾燥地帯も無いわけではないのだが、残念ながら一刀は目の前に山と積まれたとしてもそれが硝石であると判別できるような知識が皆無なので、地雷こそが最高に安価な兵士よ、というわけには行かなかったのだ。
そんな無数の「微妙に惜しい」未来知識から今回の戦場に間に合うように役立つような何かは残念ながら作れなかった。

ゆえに、もはや詠には現状の手札で何とか転がすことしか選べない。
だからこそ彼女は、絶対の安全地帯から抜け出してこうして単身戦場に出てくることに決めた。


「……ふふっ。何を考えてるんだか。私があの力を頼りにするようじゃ、世話が無いわよね」
「……賈駆様?」
「なんでもないわ。ただの……独り言よ」


その決断の背景に、ある程度の自暴自棄な感情が含まれていなかったとは言えない。
あの日以来自分と一刀の距離はあまりに離れてしまった。
それに対するちょっとした彼女の感傷がその判断に影響していなかったことはない。


それは決して、孫策を身辺から離そうとしなくなり、一刀直属の私兵であるあの猛烈な志気を保ち続ける集団の指揮権を決してこちらに渡そうとしなくなった一刀のみの責任によるものではない。
彼と話すことを、彼の前に立つ事を恐れた詠自身の行動によるものでもある。


今一刀が危惧していることの内容は詠には十分分かっている。
月が異常なくらいまで一刀を妄信していることがきっかけで、詠は彼の下につくことになった。
その体を嬲られたのだって元々はそれが始まりだったのだ。
そして今では、その月の感情もあの時一刀が見せた怪しげな術によるものであろう、と言う予想もついている。
一体どういう手段を使ったのかは定かではないが、彼が公孫賛にやったのと同様に月に対してもその心を操る力を使ったであろう事は間違いない。

だからこそ、月の事実を盾として自分に服従を強いてきた彼としては、その事実を知られたことによるこちらの暴発が恐ろしいのだろう。
事実、詠は幾度となく一刀に対して「月のことさえ無ければあんたなんか」とその殺意を口にしてきたのだから、実際にそれが冗談でなくなる事態に状況が推移してしまえば、彼の事を臆病と言うわけにはいかない。
今まで彼に対してしてきた能力のアピールは、そっくりそのまま彼に対して突きつけかねない凶器の鋭さを示すことになっていることだし。




そして聡明な詠は、自分の中の感情の動きもある程度察していた。
彼女の中には一刀への恐怖が確かにある。
だがそれは、親友が操られていたことに対してではない……今抱いている己の心が偽りでないか、と言う恐怖だ。


月を操っていたことに対する怒りと恐れ。それは確かに詠の中に存在する。
かつての彼女にとって自分の存在理由は親友たる月のみであり、彼女の為に生きて彼女の為に死のうと誓っていたことは紛れもない事実。
その誓いを土足で踏みにじるような好意に怒りを全く感じなくなるほどには、彼女は無神経ではない。
おそらく以前であれば一刀の危惧どおり、怒りのままに自らの命の採算も度外視して復讐を狙っていたであろう事は間違いない。

だが、同時にそれは今の彼女にとっては大した問題ではない、と思えてしまったのもまた事実だ。
以前ならばさておき、今の詠はある意味月との共依存から独立を果たしている。
実際はどうであれ、彼女の心の中では自分は月を捨ててしまった人間だ、と言う罪悪感が大きく育っているからだ。
それは大きな負い目として育っているものの、だからこそ彼女からの許しや癒し、幸福をもらえない対価として以前のような彼女の為に自分のすべてを捧げる、という自己犠牲的の方向性を我慢できる程度に変えた。
だからこそ詠は月に対することとそれに派生して生ずる過去の自分の隷属については,一刀が危惧したほどは気にしていなかった。

親友への罪悪感から目を向ける方向を変えてその依存の対象を一刀へと移した彼女にとって、一刀がどれほどの悪党であってももはやそれは致命的な欠点にはなりえないのだ。
ことによると、月に対する弑逆を行ってもなお、一刀についていったかもしれないぐらいに彼女は内心一刀に惚れていた。
一刀が悪党? 上等だ。彼との取引の為に汚れてしまった自分には、むしろ相応しい。
自分の気持ちさえ素直に認めることが出来るのならば、そのくらいの啖呵が切れる程度まで吹っ切れていた。


「せめて初めから訳を話してさえくれれば……って、そんな都合よくアイツも僕も行くわけない、か」


ただ、人並みはずれた聡明な頭脳を持つ彼女にとって、一刀の持つ悪行の性質だけが引っかかった。
詠は、自分自身でも改めて確認するならば自覚できるほど間違いなく彼に好意を抱いてしまっている。
それはもはや、「恋」ではなく「愛」の領域に入るほどに。
だからこそ、彼がどんな男でもついていこうと思っていることは紛れもない事実だ。
だが、どうしても消えない不安が一つ。


自分があの時見た一刀の持つ能力は……心の改変ではなかっただろうか?


ひたすらに反抗を叫んでいた公孫賛が心を失い彼にべったりとくっつくようになった事実をごくごく身近な例に当てはめると、何かがあまりに似ているような気がしてならなくはないだろうか?

自らは確かに一刀を愛している……だが、その心が作られたものだとしたら?
状況的に考えると親友を捨てたあげくに、言い逃れの出来ない証拠を得てもなお彼を内心庇おうとするその行為自体が、自らの心の不自然さを象徴している。
今のこの心さえも偽りだったとしたら……


冷静になれ。自分がそんな風に彼に対して疑念を抱ける時点で、そんなことはありえないはずだろう。
人の心を自由にしている人間が、操っている人間にそんな『疑い』なんて感情を残すはずが無いではないか。
自分が不自然に思ってきた人の心の変遷がすべて彼の何かによるものだったとしても、今までの統計からして彼の術はそんな「疑問を抱かせつつも背かせない」ような微妙な調整が出来るようなものではなかったはずだ。
盲目的に愛するあまり、まともな思考能力さえ削ぎ落としたかのような人間を数多く見ており、それと比べればはっきりと現状を理解している自分と比較すれば、きっと自分にはその影響力は及んでいない。


詠の一部は冷静な判断の結果として、そう呟く。実際に、すべてを知る者からすれば一刀は詠に対してだけは術を使っていないという事実からその分析が正しいことは分かりきっている。
だが、当の詠本人はどれほど正しい思考を積み重ねたとしてもどうしても疑念が消えることは無かった。
操られている当人が、自分は操られていないはずだ、と分析することほどこっけいなことは無い。自分のこう分析した思考そのものが操作されたものだとしたら、という恐怖はどれだけ考えても詠の内面だけでは解決できないものなのだ。
そして、彼女に出来ない以上一刀自信にはなおさら説得力が無い。
だからこそ、真実一刀は詠に対して一切の術を施していないにもかかわらず、それを断言することなどもはやこの世の誰にも不可能なこととなってしまっていた。

ゆえに、最近彼の身辺にかつて自分自身が投獄したはずの一人の少女軍師の姿があることも、責めるわけにはいかないはずだ、とは頭では理解している。
だが、理解できたところで納得できるかは別問題であり、それを許容できるか、何も感じないか、と言うのはさらに別問題だ。
理性と感情は常に一致するものではなく、むしろしばしば相反することとなる。


「信じるって……難しいわね、一刀。お互いに、ね」


そう呟いた瞬間に、両陣営から大きく響いた銅鑼の音が決戦を示したことで、詠は思考をきっちりと切り替えられないまま戦場の喧騒の中に没頭することとなった。




[16162] 人間万事塞翁が馬
Name: 基森◆8cb04620 ID:674f23f4
Date: 2010/08/27 20:21



北郷一刀には、身寄りが無い。それも、完全無欠に徹底的に親類縁者が存在しない。
とはいえ、別に彼とて樹のうろからぽこんと生み出されたわけではないのだから父も母もちゃんと存在しているし、それどころか二人ともちゃんと生きているはずだ。
だが、この外史にたった一人で落ちてきた彼にとって、もはや二度と会えないところに来てしまったと覚悟している以上やはり家族と言うものは死んだも同然であって、その意味ではやはり身寄りが無い。

そして同様に、彼にはこの世界に来るまでの知己が一人たりとも存在せず、この地において育ってきた思い出深い場所、などというものもまた存在しない。


「……雛里ちゃんの策もどうもイマイチだなぁ。まあ、能力低下しまくってるからある意味仕方ないけど」


だからこそ、危なくなれば袁術を見捨てて逃げ出して、自身の快楽の為に配下の者を使い捨てにして戦を弄んできたような時間と金と命の浪費ともいえる活動を続けることが出来た。
一切に執着がないがゆえに、例え情を交わした女であっても彼は見捨てることが出来たのだ。


だが、そんな彼にとっても、どうやら詠だけは特別な存在になっていたらしい。
殺すだとか、口封じに操るだとか、声を出せないように喉を潰すとかいった最終的な結論を元に様々な献策を続けてくる軍師系の新たな人形、雛里に不満を表す一刀。
彼が望んだのは詠と元の関係に戻る方法、または詠のことを何とか折り合いを付けてお互いにいい関係を築く方法であって、彼女を殺したり傷つけたりすることで自分の秘密を漏れないようにすることではない。

そういった意味では、元の能力値が高いがために能力低下の影響をもろに受けてしまってちょっと凄い軍師レベルにまで落ち込んでしまった雛里の策は、彼の望んでいたものとは大きくかけ離れたものだった。
だからこそ完全に詠を信じきることが出来ずに未だに仲直りできないままで彼女を戦場へと送り出してしまい、ここの所碌に会話もできていないがために彼の中での「詠成分」が不足してきたと感じていた一刀は、何とかならないものかなあ、と頭をかきむしる。

人形となって献身的に尽くすようになった雛里の体はそれはそれで味わい深いものであったのだが、やはりどうして、久々に一刀は詠が恋しかった。


「とはいえ、たんぽぽちゃんを差し出してきたことから考えると、やっぱ裏切るつもりは無いのかなぁ?」


だからこそ、術の影響下にないにもかかわらず今までの享楽がために思考能力が激落ちしていた一刀は、もういいかな、とか思い始めた。

ふと傍らに目をやると、そこにもまた少女が。
従姉とおなじ太い眉とスレンダーな肢体が特徴的な少女もまた、詠が一刀のために捧げてくれた三国に名の残る武将の一人、馬岱だ。
初めはそこそこの武力があるということで暗殺でも言い含められているのかとビクビクしていた彼だったが、ぶっちゃけ縛られて身動きできない状態にさえなっていればどうとでも出来る能力を持つ彼にしてみれば、すでに恐れる部分など皆無でしかない彼女は詠からの貢物に他ならない。

そのことは詠も分かっているということを証明するかのように、洗脳してから(SM風味で)尋問しても詠が一刀に対して害意を持っている、ということへの証言は欠片たりともでてこ無かった。
むしろ、事情を知らなかった公孫賛のときと全く対応が変わっていない、という事実が改めて裏付けられただけである。

こんな状態でアホの子である一刀に延々と詠を疑い続けろ、というのはどうせ無理なことだったのだ。
ましてや、相手は詠なのだ。少なくとも一刀本人でさえ気付いていない内心の奥深くでは、彼女だけは疑いたくない、という気持ちがあった以上その破綻は見え隠れしている。


「どうせ雪蓮と月がこっちにいる以上、何も出来やしねえし」


ゆえに、彼の知る中では呂布を除いて絶対的武力を誇る孫策の存在を背後に居丈高に出ることが出来るのであれば、詠と相対していっぺん突っ込んだところまで聞いてみよう、もしそれでもなおなんか言うようであれば、術を使わぬ自分自身の腕前でちょーきょーしてもう一度彼女との関係を正常に戻そう、と彼は考えた。

そして、彼に対して忠告を行おうとする者はいない。
周囲すべてを術の力による強制的なイエスマンで固めた一刀にとって、命じられれば自らの基準に従って答えをはじき出すものはいても、その決断の実行を促したり急かしたりするものはおらず、勿論反対したり否定したりするものもいない。
だからこそ一刀は、その自分の選択が正しいものであろうと端から思い込んでいた。


「ま、いいや。こんど来たときに一度体に聞いてみるかな……」


そう呟いて両側に控えていた二人の少女を抱きしめてベッドへとダイブする一刀の姿が、結局のところ彼の詠に対する猜疑心の限界と、今まで詠が積み重ねてきた彼女への信頼を証明しているようであった。


歪んだものとはいえ、そこには絆が見えていた。








そして、その鎖の先につながれたもう一人の当事者は……いまだ戦場にいた。


「っ! 左翼、一端下がって! 風、騎馬を使ってあっちに回って!」
「はいなのですよ~」
「詠様、私は逆側に回って迂回と半包囲への指揮を取ります」
「任せるわ、凛!」


文字通り一騎当千の人間が存在する世界において、軍師の役割とは何か。
それは自軍の武者たちの戦いを有利にするための場の形成である、と詠は認識している。
この世界は、平凡な人間と比べて一部の女性の能力が突出している。それは詠たち事務屋の処理能力もそうであるが、それ以上に個人の戦闘能力という場面において顕著な特徴を示す。

たった一人で百も二百も相手にすることが出来る人間相手には、一般の兵では近寄ることさえ容易ではない。無理やり追い立てたとしても足がすくみ、剣先が震え、結局は無造作に刈られる首の数を増やすだけのことになりかねない。
だからこそ、それこそ膨大な兵の数を集めるだとか、遠距離兵器を用意するだとか、あるいは一刀のような反則技を使うだとかいった方法を使わない限り、戦場での推移は武将と武将の決戦によって形作られる。


こういったことを前提にすると、いかに疲労なく自軍の武将を戦場に届けるのか、がまず軍師の腕の見せ所として現れる。
いくらあっさりと殺せるとはいえ、片っ端から一般兵を殺しながら進んでいれば、いずれ来る『本当の戦』のときまでにはかなり消耗してしまう。
そうなっては、一騎打ちにて遅れをとることもあるだろう。

そのために詠たち軍師は出来る限り相手の武将を消耗させ、味方の武将を万全の状態で戦場に送り出せるように頭を振り絞るのだ。
一般兵を怯えさせないように「消耗させるだけでよい、適当なところで道を開けろ」といい含め、しかし「万が一武将の首を取れれば名誉栄達は思いのまま」だと煽り、それらのバランスを絶妙なところでとって戦場を操る。


そうしてお膳立てされた舞台の上で武将と武将がぶつかり合って勝敗を決める。
一騎当千の武者同士の戦いは余人が関与できる段階のものではなく、そのためにこの段階にいたってはもはや誰も手を出すことが出来ない。


これがこの外史の戦争における一般的なセオリーであり、この局面の終了によってこの戦争の八割は終わる。
が、十割でないところがまたこの戦争の罪深いところだ。

残りは後始末――これも彼女たち軍師の仕事である。
先の一騎打ちによって決まった勝者側と敗者側の図に従って一般兵たちを後追いに掛けさせるのだ。
敗者側は負けた武将を援護しながら一目散に逃走を図り、勝者側は勝った武将を先頭に嵩にかかって攻め立てる。
ここで一般兵の援護が足りなければ負けた武将は逃亡を図ることが出来ずにあえなく自分に勝った相手に捕獲ないし殺害され、勝った武将は戦闘では勝利していながら相手をみすみす逃がしてまた次にも最終的な決着をつけるための戦いに参加する機会を与えることとなってしまう。


どこまでも武将たちによって作られ、武将たちによって決められ、武将たちのために謳われる戦場こそがこの外史における戦争なのだ。
勝利条件が味方武将の勝利であり、敗北条件が味方武将の敗北をきっかけとした士気の低下による全滅。
そんな状況下においてその一定程度の力量を一人たりとも持たない状態で戦場に立つ羽目になった詠は極めて不利な条件から始まっている。

だが、そんな満たせない勝利条件を十分以上に知ってなお、詠たち河東軍師勢は見事に指揮を続けて幽州軍を翻弄していた。


「右陣、拍を合わせて! 騎馬が引いた後追撃掛けてくるのを受け止めて、そのまま包囲!」
「そうそう、そのままなのですよ~。いいですね、い~ち、に~い、さ~ん。はい、銅鑼を鳴らして~」
「詠様に南東に伏せておいた伏兵二百、ほぼ無傷で帰還いたしましたと伝えなさい!」


歴戦の武将であろうと追いつけない騎馬の速度を使って軍略の御手本のように戦場をかき回し、怯える兵たちに適切に叱咤激励を飛ばして奮起させ、一刻一刻はかるように敵の兵を減じさせて、それによって頭に血が上った武将たちの突撃を上手く最強の武将を保有する官軍に押し付けて、たった一人の駒さえ持たない状態で自身の身をほとんど鎧もつけぬ無防備さで指揮を続ける。
戦場においては一騎当千の強さを誇り、部隊指揮を取らせても超一流の関羽、張飛、馬超と言った面々が、その力をろくに発揮することが出来ないほどにそれは冴え渡ったものだった。

もっとも、西域連合の得意とする騎馬軍団による高速一撃離脱は、それよりも遥かに小さな規模でありながらも鐙と撒菱、そして蹄鉄と言う三つの超兵器を保有している河東騎馬軍団相手にはほとんど効果を発せられないのは公孫賛と馬岱相手にすでに証明されている。
一騎打ちできる相手がいないために馬超を討ち取ることは出来なくても、少なくとも彼女に追いつかれて敗北すると言う局面はありえない。

そして、万能の凡人たる公孫賛を欠いた幽州軍には部隊単位ではなく軍単位で適切な用兵の運用を出来るものがいないために、いかに局地戦では強力な武将を保有している劉備とはいえ、詠たちにいいように翻弄されて押し付けられた呂布の相手に四苦八苦している。
一刀によって鳳統、周瑜、陸遜、そしておまけの張梁と公孫賛までもが戦場から退場させられているこの外史において、賈駆、郭嘉、程立を保有する河東軍団にある程度レベルであっても対抗できるほどに軍団単位で指揮できる人間は、はるかはなれた地にて名を挙げる絶好の機会であるこの戦に参加することさえ出来ずに歯噛みを続けている曹操一派や一応味方側である呂布配下の陳宮、内に篭って相変わらず主君とともに適当に遊んで暮らしている張勲などを除くともはやほとんど残っていない。


最終兵器である武将を一人たりとも保有しない今の河東勢では、例えどれだけ高度な用兵運用を続けようとも自軍の損害を無視して武将の首を取らせて決着を付けさせる為に必要な膨大な傀儡兵を保有しているわけでもない為に完全勝利は出来ない。
だがしかし、武将を潰すという形での勝利こそ望めないものの、所詮は局地戦力である武将たちに速度で勝る河東軍師勢が負けるということもありえないのだ。
そして、負けなければ友軍には天下無双一騎当軍絶対無敵傍若無人最速最強の武人、呂布がいる。

なればこそ、詠はこのまま細心の注意を払って自分の得意分野で勝負していけばある程度の勝利はつかめると確信していた。
才に勝る自分ならば、並程度の指揮能力しか持たない者しか残っていない反乱軍たちに負けることなどありえないことが分かっていたからだ。
いくら武将ゼロの状態に陥ったとしても実戦レベルで最低限度の軍略を論ずることが出来た公孫賛を潰した時点で負けはない、ということがこの局面でも生きていた。
事前にそれについては理解していたものの、実際に何が起こるか分からない場において、今回もそれが有効であるであろうことを半ば確信した三人は、緊張感はとぎらせないものの密かに内心安堵の息を吐いた。
これならば、何とか生きて帰ることが出来るであろう、と。


「さあて、これからがある意味本番ね……伝令! 郭嘉と程立へ次の段階への準備に移るように伝えなさい」
「ははっ!」


だからこそ詠は、この局面でも何とか劉備を捕獲することを狙うことにした。
彼女たちにとってここは最低限のライン。それ以上を望まなければ、いずれ袁紹の気紛れによってジリ貧だ。
強力な敵武将たちを避け、呂布による死の暴風に巻き込まれないよう細心の注意を払い、自分たちとは違い普通にやっていても勝てるだけの戦力を持つ友軍軍師陳宮の用兵すらも読みきって、何とかこの戦争における自分たちの最終目標を達成しようとも考えたのである。

それは決して容易なことではない。
何度も述べているように武将を持っていない彼女たちは、負けないことは出来ても勝つことは極めて難しい。それでも彼女は諦めようとはしなかった。
そこには、小勢力たる河東の運命を変える為には、相手のトップを取らねばならない、というもの以上の決意が見て取れた。


「劉備……だけではきっと足りないわね。厳しいけど、関羽か張飛、どちらかも抑えたいところだわ」


だって、詠にとって今出来ることは、こんなことしかないのだから。


自分が操られているのか、それともいないのか、それがわからない。
相手がこちらの反乱を恐れているのか、それともこれすらも出来るものならやってみろと心を操るという圧倒的な力を保有する一刀による趣味の悪い遊びなのか、その区別さえ付けられない。
いまだ自分の感情の整理がつかず、そのために怯えている、あるいはあざ笑っている彼の前に這い蹲って許しを請うことさえ出来ない詠。

信じることも、裏切ることも、あきらめることも未だ出来ていなかった彼女にとって、それでもなおも捨てられない思いを何とか最低でも現状を維持したまま続けて崩壊させないためには、今までよりも遥かに急いでかつて彼と約束した対価を積み重ねることしか思いつかなかったのだ。

自分の感情にはほとんど結論が出ている。
だからこそ、その後ちょっとだけ残るもやもやを完全に割り切る為の後ほんの僅かな時間の間、一刀に―――愛する男に「裏切った」と思われないための何かが必要となる。


「いえ、やっぱり違うわね……もうボクには、劉備の身なんて、どうでもいいもの」


そこまで考えて、詠は始めて自分の心があまりに変革していることに気がついた。

劉備を捕らえて一刀に差し出せば、また公孫賛や月のような犠牲者が増えることになる。
だが、それを知っててもなお、今の自分はそのことによって躊躇するつもりなんてさらさらなかったではないか。
馬岱のときには戸惑いながらの熟考の結果だったそれが、今ではもはや相手の身を気遣って悩むこともなく自然と結論として出ていたではないか、と。


「ふふ……なんだ、もう結論なんて出てたんじゃない。よし、決めた! 今回で劉備ともう一人捕まえられたら、一刀に会いにいこう」


そう、実のところもうすでに詠には一刀がどんな奴であろうと、例え自分の心を操っているのであっても最後までついていこうと覚悟は出来ていたのかもしれない。
一刀の力を知った詠にとって、捕まえた敵とはいえ一刀に差し出す自分の行為は心を弄ぶ共犯に近い。
それでもなお、彼との仲直りのためにその行為を肯定する自分の罪深さは十分自覚すべきものであり、それを理解してもなお詠にとって彼の存在は大切だったのだ。
例え隣に、操られているとはいえ自分の地位を脅かしかねない雛里がいたとしても、映画すべきことなのは一刀に対して想いを与えることだけなのだ。

必要なのは、もはやきっかけだけ。
「例えどんな悪逆非道な真似をしたとしても、あなたを見捨てない」と伝えるために、彼に少しの間だけでも自分を信じてもらうために必要な誠意の顕れさえあれば、ギクシャクしていた二人がまたもとの位置へと戻れる。
あの、悪態をつきながらもどこか繋がっていた楽しい日々に戻れるのだ。

そんな仲直りのきっかけ程度のために他人の運命をめちゃくちゃにすることを肯定するようになってしまった詠は、もはや一刀の連れ合いとして相応しいほどに穢れていた。

それでもなお、そういった身勝手な行為であってもこの外史の天意はそれを否定しない。
一刀のそれを否定しなかったように、この世界において詠が考えた自分のために他人を苦しめることを是とする選択は、世界にとって間違っているとはみなされることはない。
力さえ、才さえあれば許されるのがこの外史だ。それは散々述べてきて、今なお一刀が多くの人の上に君臨して猛威を振るっていることからも明らかだ。

なればこそ、例えどれほど詠が身勝手なことを考えようとも、彼女に才能がありさえすればそれによって詠に天罰が下る、などということはありえない。
それこそが、この世界における絶対の法則だ。








だが、それらすべてを鑑みた上で逆に言うならば……そういった身勝手な考えは、才が無ければ許されない。

不意に詠は、自分の予期せぬ場所での戦況が崩れていることに気付いた。
望遠鏡という超兵器を使って遠方での呂布の戦いぶりを観察していた為に、視界が狭くなっていて気付かなかったのだ。
そのことに眉根を挙げて自らの失策を悟った彼女だったが、即座に伝令を走らせてその失敗を取り返そうとした彼女だったが、その方向からこちらに向かってまるで坂から転げ落ちるような勢いで走ってきた伝令の姿を認めて、その報告を先に聞くことに決めて改めて輿に備え付けられている椅子へと身を沈めた。
それはそういった突発的な自体の前でさえも取り乱さない彼女の軍師としての力を証明しているかのごとき見事な様であった。

だが、しかし。


「っ! 賈駆様、お逃げください! 伏兵です、謀られました!!」
「何ですって!」


告げられた内容は、彼女の予想していた戦況とは大いに食い違っていた。

見れば、幽州軍の後ろの方で縮こまっている劉備を捕らえ、呂布に撃退されて散り散りになって逃げていた関羽か張飛を捕らえるために、僅かに動かした軍があった。
今までの敵軍の能力から考えるにその予備戦力の位置を少々動かしたとしても戦況には影響が無いと判断した、まさにそのほんの僅かな空白地帯。
だが、まるでその場所があらかじめ分かっていたといわんばかりに鮮やかに、唐突に。
幽州の旗を掲げた兵が突如奇術のようにそこから湧き出ていたのだ。


「遊撃隊、半壊です! 残ったものも、ちりぢりになって追い立てられています!」
「到着地点に対象がおりません、ご指示を!」
「第三軍、背後を突かれ、援軍を求む、とのことです!」


いや、そこだけではない。
その報告を皮切りに、唐突に戦況が悪化したという不吉な報告が立て続けに入ってきた。

彼女が全身全霊をもって敵兵の現状を推し量り、風や凛とも合同で考えた上で劉備たちを捕獲する為に動かした兵によって生じた、僅かな隙。
勝敗が半ば決まったこの状況下ではもはや意味をなくしたはずのその場所から、一気に戦況を悪化させる報告が伝わってくる。そればかりか、完全とは言わないまでも七割がた成功するであろうと予想していた劉備の捕獲さえも失敗したとの報告があがってきたことで、詠はその顔色を真っ青に染めて思わず叫んだ。


「まさか、これがあの一刀が言ってた蜀の軍師の!」





才があれば、いかなることでも許される。
なるほど、一刀が証明したとおりだ。
だが、彼がこの外史に来てよりもう一つ証明したこともまた忘れてはならない。


「これは……凄い、凄いよ!」
「えへへ……」
「おお~、ちびっ子の癖になかなかやるのだ!」
「軍師というものがここまでのものとは……正直、侮っていた感は否めませんね」


万事力任せに物事を切り開いてきた自分たちのものとは質の違う強さに、豪傑二人とその上に立つ英雄が感嘆の声を上げる。
それを受けて、今から詠にとっての惨状を、何人もの河東兵が倒れる死地を作り出さんとして声を上げていた少女が照れたような笑みを浮かべるが、それも一瞬。
その突然現れて幽州軍へのいくつもの献策を行い、あっという間に戦場の勢力図を塗り替えた少女は決意を秘めて口元を戻し、視線を元の場所へと追いやった。
その幼いながらもある種の凛々しさを感じさせる外見を受けて、すでに幽州軍の全権を掌握していた英雄である劉備はさらに信頼を強め、彼女に全権を預けることを改めて伝えた。


「やったよ、朱里ちゃん。もうちょっとで逆転できるよ!」
「ふぁい、ま、任せてください、桃香様! ……待っててね、雛里ちゃん。すぐに助けに行くから」


一刀が孫策相手に証明したもう一つの真実。
才あるものとて、それ以上に才があるものには、無残に踏みにじられても仕方がないのだ。

一刀の魔の手が伸ばされた三国の数多くの軍師。
その中からかろうじて逃れた、一刀の生きていた現代でもなお語り継がれていた名軍師、諸葛孔明は、それを証明せんとばかりに史実通りに劉備の元へとたどり着いてしまった。



[16162] 死せる孔明、生ける仲達を走らす
Name: 基森◆8cb04620 ID:48949fe7
Date: 2010/09/11 12:10

軍棋、と言う遊戯がある。
日本で言うところの軍人将棋、もっとダイナミックに意訳するならば、取った駒を使えない将棋みたいなものだ。
この外史では知識層における人気のある遊戯である。

取った駒を使えないだとか、見知っているものに相当する駒がないだとかいった今の将棋に慣れ親しんだ一刀の身からすれば少々違和感を覚えるところもあったが、そんな戸惑いなど元々この世界に住んでいるものにとっては何の生涯にもなりはしない。
戦が現代よりももっと一般的だったこの外史にすむ一般的な人間の間でならば、戦場を模したその遊戯がはやるのはある種当然だった。
むしろそれ以上に、模擬的にとはいえ軍師として戦場を俯瞰しながら、敵軍の軍を蹴散らし、自軍の王を守るその遊戯は、軍師の間ではお互いの読みの深さを競う一判断要因としてさえ遊ばれていた。
つまり、軍棋の上手い者と戦場での優れた軍師がある程度まではイコールで結ばれていたといってもいい。


それほどまでに当時はやっていたゲームに、基本的に年中エロイことばかりして暇している一刀が食いつかないわけがなかった。
将棋もチェスも、とても得意とまではいえないがそれでも駒の動きを理解していて1局指せる位にはたしなんでいた一刀にとって、この世界における数少ない知的な娯楽である軍棋は、次なるエロイ行為をするまでの体力回復の間の暇つぶしとしてちょうどよかったのだ。
故に、詠は言うに及ばず、雪蓮や月相手でも遊べるそれを、割と一刀は好んでいた……とはいっても、所詮は楽隠居の娯楽としては、だが。


そんな限られた範囲の中でではあるが一刀の腕前がどうだったのか、と言うと。
意外かもしれないが、割とよい。すべての面で白蓮よりも上な感じで才能にあふれている雪蓮相手にさえ6:4で勝ち越すぐらいだ。
天和と地和以外ならば大体指せる彼の女の中でも一刀に勝ち越しているのは半分いるかいないか、ぐらいなほどだ。
勿論、彼女たちの大半には能力低下の呪いが掛かっているし、掛かっていない詠や風、凛といったガチ現役の軍師連中相手ならば手加減してもらわなければどうしようもないほどの差があるのだが、それでもこれはかなりのものだ。

それは、居飛車穴熊だとか矢倉戦法だとか行った優れた未来の戦術を、一部とはいえ応用することが出来たからであるのかもしれない。
もしくは、太平要術の書の一能力、『それなり』の戦術眼の付与、という力が僅かなりとも軍棋という遊戯においても働いた結果かもしれない。
あるいは、彼の女である者たちが一刀の機嫌を損ねないようある程度手加減をしていた結果かもしれない。


だが、あえて最大の要因を決めるとするならば、一つ忘れることが出来ないことがある。
それは、一刀はこれが完全に遊戯であると理解していたことだ。
擬似的な戦場を板と駒で作り出す軍棋。ゆえに、軍師や武将である以上どうしても軍棋板の上に思い描いてしまう戦場の風景を、一刀は一切感じることなくただ淡々と駒を指す事が出来た。
コンピューターゲームの隆盛を間近で見続けながら育った世代として現実と仮想を完全に区別することを当たり前のこととして知っていた一刀は、死に行く兵の絶望を、自身が武器を持って強敵と当たる風景を軍棋板の上に一瞬たりとも省みないで、ただひたすらに駒としての最上の動きを図ることが出来た。
そこが、遊戯であるとともに鍛錬でもあるとして一刀の相手をしてきた詠や風、凛とは致命的に異なる点だ。


そしてそんな軍棋の場以外でも、駒の扱いということについて一刀はきっと、この外史における誰よりも慣れ親しんでいた……自身の妖術の力で数百数千もの駒を常時指し続けるこの男は、戦場において駒の一人として参加するこの三国の英雄の誰よりも、駒を操る軍棋の指し手としての位置に近しいところにい続けた。

例え、駒の繰り手としては少々小器用、程度の腕であったとしても……









「くぅ……左翼、前進!」
「ダメです、文和様! 側面よりまたも弓兵が!」


いかなる指示を飛ばしても、まるで真綿の上に水をこぼしたかのようにすべてが空振りに終わり、それどころか指示によって動かした兵によって生じた隙間を瞬く間に突かれる。
魚鱗を穿たれ、鋒矢を阻まれ、方円を抜けられ、雁行を封じ込められて。
詠のすべてが、阻まれる。

いかなる策を並べても、いかなる知識を伝えても、そのすべてを相手方の軍は―――それを指揮する軍師は読み取って対応して見せた。
詠が今まで培ってきたはずの軍事についてのすべてを、そのいまだ姿の見えぬ「諸葛孔明」は上回ってみせたのだ。
その様を見て、彼女は一刀の『予言』を思い出して思わず背が震えるのは止められなかった。


元々董卓軍はこの戦場における他のどの軍よりも、兵数や戦力では負けている。武将の数は言うに及ばず、歩兵の数や騎馬の数さえも最小の勢力が今まで何とか持ちこたえてこれたのは、ひとえに三人もの軍師を抱える河東軍が常に戦略の単位で上回り、戦場を支配していたからに過ぎない。
そんな状態で戦略面で五分に持ってこられるだけで十分苦しいにもかかわらず、それ以上の成果を出されてしまえば、もはや河東軍に有利な部分なんて何一つない。ただちょっとだけ小器用な小勢力にまで落ち込んでしまうこととなる。

いくら稀代の軍師の三人組とはいえ、切り札たる武将の一人さえも一刀から預かってこれなかった現状においては、もはや逃げまとうことしか出来なかった。


「くっ……(ダメ。ここで崩されちゃったら、最悪一気に河東まで攻め込まれる!)」


だが、逃げられない。


勝利という甘い果実がすぐそこまで来ており、それにすぐ手が届くところまで来たとしてそれを元に一刀と関係を修復する皮算用を描いていた詠にとって、それらの計算がすべてひっくり返されたことはあまりに大きな衝撃をその頭脳に与えられた形となった。
軍師としては失格かもしれないが、幸福な未来を思い描いていただけに現実に起きた失敗とのあまりの大きな落差に衝撃を受けずにはいられなかったのだ。


(一刀……一刀!)


もし、劉備を手に入れられなかったばかりか、敗走したなどということが一刀に知られれば、それを裏切りと見て彼はあの力を自分に使うかもしれない。
その胸に宿った疑念は、自身の心さえも疑い、彼に信じてもらうために成果を積み上げねば、と必死になっていた詠にとっては到底消しきれないものだった。
戦力差以外の面においても追い詰められていた詠にとって、ここでの敗北、ということは単なる生死以上の大きな意味を持っていたのだ。

焦りもあり、危惧もあった上に初めての負け戦を経験することとなった彼女がそうなってしまったことは責めるべきではないのかもしれない。
だがそれは、この局面においては致命的な失策だった。


「詠様、ここは撤退を」
「いえ、ダメよ! ここで引いてしまえば河東はもう、立ち上がれない」
「それはその恐れがあるだけですよ~。ですが、ここでずるずると負けを引きずってしまえばそれ以上にマズい事態に」
「まだよ!」


だからこそ、風や凛からすれば何をそれほどまで焦っているのか、と思うほど詠は強硬にこの「諸葛孔明」に策で上回ることを主張した。その気迫はまさに背水の陣というに相応しく、いまだ五分を少し割った程度の戦場の風景からすると少々似つかわしくないほどである。
一刀と詠の間に何かがあったことぐらいまでは悟っていた二人の軍師も、まさかここまで詠が追い詰められているなぞとは考えつかなかったがためにそこに不可思議さを感じることを隠せない。


「…………風、何か聞いてますか?」
「…………いいえ。一体何があったんでしょうか」


二人は、一刀という人間をある程度は知っていたし、その男に詠がどれほどまで尽くしていたかも十分知っていた。
一刀がいかにエロと出所不明な妙な知識と推察力しかない男か知っていただけに彼が本気で詠に対して敵意と疑念をぶつけるなんてこと思いもしなかったし、その彼のことをどれほど詠が思っていたかも知るだけに彼女が一刀に反旗を翻す未来なんて考えたこともなかった。
だからこそ、ここまでの詠の焦りは少々以外であり、ここで一敗地にまみれたとしても又次の戦場で立て直せばいいではないか、という思いがあった。
この混乱しきってしまった戦場はもはやどうしようもない。今までその圧倒的なまでの指揮力の差を生かしての勝ち戦しかしてこなかった河東軍が脆弱であるということを除いても、敵の動きはあまりに精密だ。
対策なしで勝利を願えるほど甘そうには到底思えない。そしてそれ以上に、ここで無理することの意義が詠の事情を知らぬ彼女たちには見出せない。


筆頭軍師たる詠と、その配下たる風と凛の考えるこの戦場での勝敗の重要性と今後の展開にあまりの温度差があったことで、今まで連携し、一致団結して一つの軍団として機能していた河東軍師勢の考え方にずれが生じることとなる。
それは当然ながら用兵の乱れに繋がるし、連携の不備にも掛かってくる。
元々高度な連携で武力の不足を補っていたに過ぎないのだ。


「はわわ、敵が来ちゃいました。関羽さん、よろしくお願いします~」
「心得た!」


天才軍師、この世界でもっとも智の方面において才能に恵まれたものである孔明はそこを見逃さない。
戦術単位では最強を誇った雛里が堕ちた今となっては、世界最強の名は彼女にこそあるのだ。それは呂布の武と同じく、そんじょそこらの英雄豪傑では太刀打ちできないほどの才能に裏打ちされたものであった。

詠が本当にこれでいいのかと判断に迷った隙を、風がやむなく撤退から戦線の維持へと指揮を戻した合間を、凛が胸に思い描いていた退却までの青写真を破棄して次善の策に映るまでの僅かな時間を、朱里は的確に見抜いて漬け込んでいく。
そこには手加減も容赦も微塵も見えなかった。

水鏡系列の独自の諜報網によって董卓の館において雛里の姿を捕らえた彼女からすれば、詠たちは到底逃がすことの出来ない相手だ。
不確定ながら、屋敷の中で雛里が首輪を付けて引き回されていた、という話も耳に入っている。
消息不明だった親友を捕らえている相手……なんとしてでも圧倒的優位な立場から彼女らに雛里の引渡しを要求したい朱里は、彼女なりに必死だった。
そのために何とか今回劉備軍に潜り込んで……そして劉備に出会ったのだ。


「絶対、絶対二人でもう一度天下泰平をめざすんです! ここは負けません」


その器の大きさに感服して今後主と仰ぐ劉備に自身の才覚を見せ付けるためにも、ここは絶対に落とせないと細心の注意を払って指揮を続ける。
机上ならばさておき、実戦における本格的な軍団指揮は初めてであるはずの彼女だったが、そんなことは微塵も感じさせない冴えを見せて見事に用兵を行って見せる。

その手腕は、呂布の理不尽なまでの暴力以外のすべての戦場をすでに推し量っていた。


細心の注意を払って軍を動かし、激突しあう部隊同士の裏にこっそりと配備して。
機動力を持つ騎兵の進路上にあらかじめ槍兵を配置することで進路を限定して、追い込んで行き。
時に自軍の歩兵を犠牲にして敵軍の弓兵を潰し、時に自軍の弓兵を犠牲にして敵の伝令を取り込み。
逃がすときは逃がし、締めるときは締めて、しかし勝敗を決するのに絶対に必要な相手の本陣だけは決して逃がさないように、あえて負けさせ、勝たせて相手の軍師の思考を誘導していく。
こちらよりも考える頭の数が多いであろうことを読み取った後は、その頭同士の思考が食い違うように情報を制限して、その対応として取られた策の中身から相手の首魁たる人物の居場所を特定して、やがてそこだけ孤立するように兵を包囲体系へと導き出す。


「っ! しまった!」
「詠様!」
「ダメです、風! もはやこれでは……」


相互の連携の不具によって思考を阻害されていた詠たちが気付いたときには、すでに手遅れだった。


それは、呂布の持つ力にも及ぶ軍師版の天下無双。
悪党たる一刀よりも、そのシモベたる賈駆が行うそれよりも、ずっと洗練されてしかし残酷かつ悪辣に、一兵たりとも生かして通すまいとする必勝必殺の布陣。
これぞ、稀代の軍師、諸葛孔明の最奥―――偽兵によって紡がれた石兵八陣の後に続くそのいかなる相手の策にも絶対の対応力を誇る縦横無尽の必殺陣形―――名を、奇門遁甲。
一騎当千の英雄豪傑を生かすためにのみ作られた詠の知る数多の戦略とは一線を隔した、芸術的なまでの歩兵による英雄殺し。
すべての英雄豪傑英才神童の力を、武将に頼らず一般兵のみで無力化する計は、才無き者は言うに及ばず、才あるものさえも無慈悲に踏み潰す。

かの五帝が一人、黄帝がその基礎を作り、神仙とも謳われた天才太公望が完成させたという占術方術を組み込んだ、もはや仮に一刀が現役の現代軍人であっても容易には理解できないであろう失われた陣術であった。
武力的な面で言えば一般兵にさえ劣る詠が抜けるには、あまりにその壁は分厚い。


「ふぅ……せ、成功しましゅた」
「……なんと鮮やかな」
「朱里ちゃん、すごーい!」


諸葛孔明の名を持つ彼女は、こうして詠たちが考えるありとあらゆる策を無効化して、一方的に自分の都合を押し付けることに成功した。

ありえない。
こんなこと、普通に考えればありえないはずのことだ。

ついこの間まで他人の軍であった幽州軍の頭である劉備。そしてさらに、その彼女の下に孔明がついたのがほんの数時間前。
この策を行う為には、どうしても役割としてわざと傷つく兵、敗走する兵が必要となる。そして、その者たちの敗走に合わせて極めて高度に配置へと走るものも。
軍略というのは高度になればなるほどただまっすぐ行ってぶつかって、自分の力量を示す以上のものを兵士たちに要求することになるのだ。

普通に考えれば、これほどまでに高度な連携、綿密な連絡を必要とするものがにわか作りの信頼関係しか持たぬ軍師に作れるはずがない。
そんなことが出来るのであれば、普段の調練など意味が無いということになってしまう。
いまだ小規模ながら鉄の軍規を徹底させている夏侯惇配下や、あるいは意思をも奪う妖術使いの一刀でなければ不可能なはずの事実。


だが、現実としてそれはあった。
伝達の遅れや突然出てきた軍師への諸兵士たちの反発、いまだに劉備の就任に対して不満を持つごくごく一部の将による反感さえも朱里は計算に入れ、そしてそれ以上の数を誇る柳眉の人柄に引かれ、彼女の任じた軍師を信じた兵たち。
それらすべてを想定し、思考し、対応して朱里は見事なまでに今まで頭の中だけで描いていた必殺の陣を作り上げた。
そう、実際に戦場に出たのは今回が初めてであり、机上ならばさておき演習としてさえ今まで一度たりとも指揮を取ったことのない朱里たった一人で、経験や修練以上の才能一つで。

それは、いまだに軍の規模が小規模であった影響もあるだろう。群雄割拠がいまだ始まりそうな気配を見せ始めた段階の諸国では、各国の吸収合併が起こっていないために保有兵力数はまだずっと少ない。
何十万もの兵を一国で保有する段階ではないがために何とかなった、ということは確かにある。
だが、それ以上に彼女は詠たちと比べても圧倒的なまでのその天賦の才によって、それを成し遂げた。
一刀によって力を減じられた彼女たちでは、到底叶わぬほどに。


「これで、終わりです」
「くっ、何か、まだ何か手が!」


かくして気付けば、詠は大軍の中で頼るべき騎兵や風や凛から切り離されて孤立する絶対王手の状況へと落とし込まれた。
だが、それでも彼女は諦めようとはしなかった。
彼女自身が踏み潰してきた数多の凡人同様に、彼女にもまた守るべき者、望む物があったのだから……







「しっかし、詠ちゃん遅いな。いつもの調子なら、もうそろそろ帰ってきてもいい頃なんだが」


例えその対象が、自分と同じ立ち位置に並ぶことのないものだったとしても。





[16162] 窮鼠猫を噛む
Name: 基森◆8cb04620 ID:beacb018
Date: 2010/09/17 18:20

「……遅すぎる! ちっ、しょうがねーな」


がばり、とただ単に椅子から立ち上がるのさえも勢いを付けて、怠惰な人形遣いは戦場から離れたこの場所より、ようやく動き出す。









囲まれた、ということを自覚した瞬間に詠はその頭の中をさまざまなことが巡り巡るとともに、一気に冷静になった。
もはやこの状態になってしまえば最初に考えていた劉備を捕らえるなんて事は到底不可能ということは言うに及ばず、自分が逃げることさえ出来ない困難な状況へと陥れられたことが、瞬時に理解できた。
ここにいたって、自分がとんでもない大きな失敗を犯してしまったのだ、ということが理解できないはずがなかった。

劉備を……諸葛孔明を甘く見た。
大規模な実戦経験なぞ今回の戦が始めてであった詠は、自分よりも智に長けたものと戦った経験が机上でしかなく、当然負け戦というものをしたことがなかったのだ。だからこそ、引き時を間違った。
今になって彼女は、ようやく気付いた。
一刀より教わった、心臓という臓器が一度跳ねるごとに全身に向かって冷たい血が流れてゆき、しかし四肢からは力が抜けていくその敗戦の味は、全くの未知の感覚だった。


周囲から叫ばれる降伏を求める呼び声とともに雨のように降り注ぐ数多の矢。
河東軍の中核、司令部ゆえに攻撃力よりもむしろ防備へと力を降り注いでいた詠の麾下の部隊は、その死の雨に対して盾で、鎧で、人の身で阻み、なんとか詠の身にだけは届かないようにと細心の注意を払っていたが、その彼らが信頼する詠とてももはやこの状況では手の打ちようがない。


(騎兵……ダメね、数が足りない。援軍を待つ……といっても、この浮き足立った状況じゃ持ちっこないわ。だったら……)


自身の生存を諦めて遣り残したことがないなどと言い切れるほど彼女は現状に満足していなかったし、今の自分にとって一番大事なことにとって、自分という存在が重要な役割を果たしている、ということぐらいは当然ながら知っていた。
だからこそ、彼女は今なお諦めずに武器持たぬその身における唯一の刃である思考を続けているのであるが、悲しいかなこの外史において彼女に与えられたその名は賈駆。
何人もの主君の下でその名を轟かせた政治家としての評価は極めて高いものの、逆に言うならば幾度も主を変えた降将で、戦において献策を無視されたこともいくつもあるその正史での活躍の通り、軍師としての能力は決して無双を名乗れるほどではない。
この窮地において、圧倒的なまでの才で持って必殺の布陣を引いてきた最強軍師孔明の罠を食い破れるほどの至高の策をやすやすと練れるわけがなかった。

絶対服従というわけでもない、あくまで通常の主従関係しか持たぬ兵だけを頼りに、画期的な新兵器の一つも持たないで自分よりも才に満ちた相手を打ち倒せるほど、彼女の力は万能ではなかったのだ。
そして、こんな状況下であってもたった一人でひっくり返せる天下無双の力は、今回の外史においては彼女と共に歩んでいない。
だからこそ、孔明による遅延工作と渾身の英雄殺しの陣を突破するという危険を冒してまでこちらを官軍が助けに来る、という甘い希望さえも持つことが出来ない現状では、時間と共に悪化を見守るぐらいしかできることがなかった。


『聞けい、河東の兵よ! 至高の座を弄ぶ袁紹に義、徳、理、共になし。それでもなお、あやつに組するか! お前たちに一片でも義心があるのであれば、武器を捨てよ!』


空を切る矢羽の音と共に聞こえてくるのは、堂々たる武将の降伏を求める声。それを聞いて、周囲の兵たちが動揺するのが詠には理解できた。
確かに、この現状においては河東全軍ならばさておき詠の部隊と閉じ込められた僅かばかりの騎兵だけに向けて言うには、その降伏勧告は決して場違いなものではない。
あちらからすればもはやこちらを全滅させるのも容易い状態であれば、義によって立ったなどと嘯く甘ちゃん連中であれば降伏を叫んでくることはごくごく自然なこと。
少なくとも、言うだけならばただなのだし。

そして、この戦争において目覚しい活躍を行って名を挙げていたのが『董』の旗印を預けられた賈駆一人、という河東軍の現状を考えれば、首魁たる賈駆を捕らえることによって敵対する軍を一つ減らし、その身柄を持ってただの軍と化した河東軍全軍を無力化し、董卓を麾下に抑えて河東を奪い、そして今まで我々が使ってきた各種の兵器を求めよう、とすることは軍事上正しく、事ここにいたってはそれを詠が受け入れても何の不自然もない。

それを感じているからなのだろう、周辺の兵が動揺とともにこちらに対してちらちらと視線を向けてきているのは。
そいつらを抑える為の策が徐々に浸透するように、賈駆は細心の注意を払って雨のように矢の降る中、部隊を運営する。


確かに、孔明のこの智謀ならば、ひょっとすると劉備軍は一刀の語った歴史の大筋通り、袁紹を倒せるのかも知れない。
あの化け物である呂布すらも、この逃れるも防ぐも出来ぬ陣形と名高い武将の数々によって押しつぶすことができるのかもしれない。
元々漢王朝に対する忠誠心なんてほとんどなく、ただ勝ち目が無いと思ったから公孫賛と馬超の主張に対しては同調しなかった詠の軍師としての判断からしてみれば、あの強大な袁紹相手に勝ち目が見えるのであれば降伏して相手の麾下に加えられる、というのは決しておかしな結論ではないのだ。
少なくとも、ここで無謀な突撃をして全滅して、結果的に詠を欠いたことで戦力が低下した河東を後で吸収合併される、などということを考えれば、よっぽどマシな結論である。


『我々は無駄な戦いを好まない! 袁紹に脅されて無理に立ったお前たちならば、領土の安堵さえ図ってもよいと我らの主はおっしゃっておられる! それでもなお、戦うか!?』
(降伏なんて、出来るわけないでしょうが!)


だが、しかし。
それほどまでにこの河東に蓄えられた天の知識が欲しいのか、やたらとこちらを買ってくれる敵の将軍の甘言を聞いてもなお、詠は降伏することなんて考えもしなかった。
だから、彼女はその相手が無為に時間を費やすその隙を使って、この窮地において以前からこれだけは使うまいと思いながらも考えておいた最後の手段、自爆必死の乾坤一擲の策の準備を行う。

きっと、一年前の彼女であればその言葉の裏を疑い、あまりにも上手すぎる話を何とかして現実のものにしようと頭を振り絞りはしても、降伏という選択肢自体は頭の中からなくそうとはしなかったであろう。
月の身の安全、ただそれだけを求めていた彼女にとって、それさえなるのであれば周囲の兵も河東の民も切り捨ててかまわないものだった。
だからこそ、自分が死んで唯一無二の月を絶対に裏切らない最後の壁がなくなることを考えれば、降伏なんてしてもよかった。


だが、今となってはダメだ。
そんなこと、考える必要もなく却下すべきことである。
降伏……つまりは、自分自身をトップとした天下布武を夢想する現状の主君への勝手な裏切りだ。
そんなことなど、出来るはずがなかった。


一度の裏切りは、やむを得ずだった。
だからこそ、フォローさえきっちりとやればまた同じ立場に戻れると信じた。
そして、だからこそ……二度目の裏切りは、絶対に許されない。
それをしてしまえば、もはや自分に対する信頼というものは、きっと誰からも得られないことを詠は十分に確信していた。
ましてや、自分は今あの男からの信頼を失ってしまっているのだ。

一刀の目標にとって、劉備たちへの降伏は悪いものではない。
心を操る妖しの術を持つ彼にしてみれば、身を寄せる勢力が弱くなれば強い方へと鞍替えする、ということは自然なことなのだろう。
ついこの間滅んだ孫呉や、今までの閨で時折会話に出てきた袁術だとかのことを聞くならば、おそらくあの男本人はあの術を使ってあっちにふらふら、こっちにふらふらしながら、使える『体』を求めてさ迷い歩いていたらしい。そして、自分が治めるこの河東もまた同じ。

だからこそ、ここで河東が劉備に降伏したとしても、おそらくあの男は自分を咎めはしないだろう。
何せ、新たな宿主がホイホイと都合よく来てくれるのだから。

だが、それはただ咎めないだけ。
彼にしてみれば近付くのは権力の中枢にいるものの方が望ましい。
どういった条件かは不明だが、それでも相手の意思さえも無視して下僕へと変える力を持っているらしい一刀にとって、傍に侍らせるのは自分である必要はない……少なくとも、詠はそう思っていた。
一刀の野望達成の上での河東という領土の重要性の低下は、そのまま一刀の心の中での詠の存在の低下である、と。
それは、今はある種の連れ合いのように自分を見ているだろうあの男から、自分をただの妾の一人へと貶めてしまう愚策だ。


そうなってしまえば、一刀に対して思いを伝えることさえ出来やしない。
なにせ、現時点でも一刀に対して絶対の忠誠とともに思いを伝えることは、すなわち詠自身が自分の意思で月を捨てたことに他ならない。
そんな、一度主君を裏切った尻軽に比べて、権力も力も上な存在……例えば、孔明のような女がいたとするならば。


『唯一無二で、ある種特別扱いされていた自分の立場が、孔明に取って代わられる』


その恐怖がある以上、少なくとも自陣営よりも強大な者との同盟という方法は、彼女が取ることの出来ないものだ―――軍師としてではなく、女として。

そして、それと今死につつある兵たちの命を天秤にかけて、戸惑うかどうかについては、もうとっくに決断を下してしまっているではないか。
純潔を失い、月を置き去りにし、誇りをかなぐり捨て、敵を殺し、女を捧げた。
それらの決断すべてが、詠が歩むべき道が何か、ということを何よりも雄弁に語っている。

例え他人をどれだけ犠牲にしても、自分は愛している男のためにすべてを尽くす、と。


『お前たちには、民の怨嗟の声が聞こえないのか? 圧制をなす袁紹を倒し、この混迷の時代に終止符を打つ機会を張子の虎ごときに怯えてその機会を逃すのか!』


圧倒的優位を確信しているのだろう、返答を一切返していないにもかかわらず敵陣からはいまだに声が聞こえる。
こちらの抵抗が止まった事を察してか、もはや矢は降ってこない。
だからこそ、敵軍の先頭に立ってこちらに降伏をよびかける武将の姿が、丸見えだった……こちらの新たな策のための準備が着々と進んでいることに気付いてもいない様で。


それに対して照準を合わせて、詠は遠眼鏡を覗き込んだ。
右手に構えた巨大な長柄の武器をかざしてこちらに対して浪々とした声で降伏勧告を叫ぶ女は、たとえ矢で狙われたとしても瞬時に叩き落す自信があるのだろう。
何十もの肉の壁に庇われなければ飛来する矢一つ防げない詠とは違い、戦場に立っていることに対する怯えを微塵も感じさせぬその姿。
自身が、そしてその主が掲げる清廉潔白な理想に相応しい、その返り血すらも浴びていない姿は、見るものによっては確かにその言葉の説得力を増すほど美しいものだったのかもしれない。


「あれが関羽、か……大したことないわね」


だが、物語の華として美髪公とも称えられる美しい姿は、鏡に写った自分の姿を思い起こして比較した彼女にとっては鼻で笑える野暮ったいものだった。
化粧さえもしていないその顔を見て、男も知らぬその腰つきを見て、自身と比べて遥かに大きくしかし無理やり服に押し込められたその醜い胸を見て、確実に勝った、と思ったのだ。


「奇麗事なんていくらでも好きにいっていろ、この生娘が」と詠は思った。
悪党たる一刀に付き従う為、自軍の兵も、他国の将も殺し、浴びるほど男の精を受け、民の血税によって戦場においてもなお美しく着飾った彼女にとって、いまだ穢れも知らぬ乙女たることを叫んでいるような関羽の声は、まるで現実を知らぬ理想論者の青臭い叫びのようなもので、到底心を動かすものではなかったのだ。
下種たる一刀を愛する為にいつしか彼と同じ位置まで降りていくことを決めた彼女にしてみれば、そんなもの、とうにかなぐり捨てたくだらない残滓でしかない。

だからこそ、彼女にとって一番大切な者は、この死地における必死の勧告にもかかわらず、一切揺らぐことはなかった。
味方を捨て駒にし、自分を汚してでも生き残ってやる、と返って決意を強くするだけだ。


恋に落ちた哀れな少女にとって、民の為だとかいう御綺麗な正義の代償に、愛する男に捨てられるぐらいだったら、死んだ方がずっとずっとマシだったのだ。


「『詠』様! 準備、完了しました!」


だから、詠は駆け寄ってきた一般兵が、自分の名前と共に準備が出来たことを告げに来たことをきっかけとして、大きく息を吸い込んだ。
相手さんが堂々とこちらに対してわざわざと時間をくれた。
その間にこの『大悪人たる北郷一刀の一の軍師』たる賈駆が行うべきことなのは、降伏の為の準備などではなくこの苦境さえも何とか乗り越える為の必死の計略だ。
その効果がすでに全軍へと浸透し、戦意としてみなぎっていることを確認した詠は、自らの周囲を囲むすべての兵へありったけの感情を込めて、呼びかけた。


「分かったわ……聞きなさい、河東の勇者たち! あなたたちにボクの命運と共に、この戦の帰趨を預ける! 正義はわれらにあり、全軍、突撃!!」


こうして詠は、彼女たち劉備軍が唱える御綺麗な理想とは正反対の、醜く愚かな自分の我欲のために、彼女たちの降伏勧告を蹴る事に決めたのである。








おおおおおおお!!
詠様、万歳!
董家に、栄光あれ!

唐突に湧き上がったその声は、まるで戦場すべてを支配せん、とばかりの気迫を込めたまま中空へとどんどんと拡大していった。
降伏勧告を蹴った相手が狙っているのは包囲網の一点への集中攻撃による突破。
受け入れられればそれでよし、だが五分五分でおそらく相手は破れかぶれに突撃してくるだろう。

その分かりきった相手の方針にしたがって部下へと指示を飛ばしていたはずの幽州軍―――劉備軍武将、関羽は、しかし予想していたものを遥かに超えるその突撃の勢いに思わず目を見張った。


「な、何だ、この戦意は!」
「っ! あの、兵たちが呼んでる名前は!」


追い詰めたはずの河東軍の逆襲。
包囲殲滅を仕掛けられてもなおは以下の繊維を保つなんてこと、かの覇王項羽さえも出来なかったことなのに。
四面楚歌の現状へと相手を落とし込んでもなお、一層配下の心を強く立て直すことが出来るなんて、武将ではあっても策士ではない関羽には理解できなかった。

確かに、この外史の彼女は、戦場を駆けた経験はほとんどなかった。
黄巾が立たなかった以上、客将として小規模な、手勢三名で参加した劉備一行が部隊単位でまともな戦闘を経験したのは今回の一連の戦が初めてだ。
それゆえ、理解できないことなどいくらでもあっただろう。
だが、才にあふれた彼女にとって、経験などほんの僅かで両々をつかむことが出来る程度のものでしかない。
それゆえに、今では彼女はすでに数多の凡夫が勤める、歴戦の将軍の能力など遥かに凌駕した場所にいた。

だからこそ、ここまで一方的に追い詰めた以上もはや普通の兵ならば戦うことなど出来ない、ということはもはや疑う余地もないほどの前提だった。
今回の戦闘には河東軍がたまに運用している妙な一団、仮呼称『決死兵』は用いられていないと見ていた。
個々の能力的には低い、しかし自分の命を一切惜しまずいかなる命令をも実行する奴らがいれば、このように包囲陣形など引けるはずがないからだ。


だが、現実はどうか。
完全に包囲し、もはや降伏を求めるだけですむはずの連中が、一気に気組みを取り戻した。
その腕で振るわれる槍は、かの決死兵なぞも遥かに凌駕する勢いで、しかし奴らのように自らの命すら惜しまずにこちらに向かってひたすら戦ってきた。
この包囲を引く際にこちらの軍師たる朱里が計った相手の戦力が、突如増大したその様は、すでに将軍として一級の能力を保有していた愛紗をして、理解できないものだった。

だからこそ、何かに気付いたような様子を見せた軍師に思わず視線をやると、先ほどまでの表情以上に強張らせた朱里が、まるで唸るかのような低い声で現状をこちらに伝えてくる。
敵の首魁たる賈駆と同じく策を武器とする朱里には、相手方が取った方法が愛紗よりもずっと早く把握できていた。つまり、策の内容自体については劉備軍はすでに看破できているのである。
だがその内容は、味方から豪胆と賞される愛紗をして、驚愕せざるを得なかったものであった。


「あの、兵が呼んでいる名は……賈駆の真名です」
「……なっ、馬鹿な! 兵に『真名』を預けたというのか!」
「はい、そうとしか考えられません……」


朱里の言葉に、一瞬、理解が及ばず思考に隙が出来、次に息を忘れて思わず咳き込んだ状態で愛紗は確認を取った。

真名を……兵に預ける?
愚挙だ。
そうとしかいえない。
瞬時に関羽は、そう思った。

真名とは、そんな軽いものではないはずなのだ。
己が心から認めた相手にしか許さない名。その扱い一つで命の奪い合いにさえもなるそんな重大なものを、無数の一般兵へと預けるとは、正気とは思えない。
この戦いの後の今後の生活を、どうするつもりだというのか。
愛紗だって勿論麾下の兵たちについては信頼しているし、この戦乱の世を治める為に共に戦ってくれている同士であると認識しているが、戦ごとに入れ替わり、どのような人間が紛れ込むか分からない不特定多数に対してまとめて真名を預けるなんて考えたこともなかった。


だが同時に、多数の配下を指揮してきた将軍としての視点から考えると、確かにそれは驚異的な力の増幅を可能とすることだということも理解した。
将軍が一兵卒に至るまで真名を預けてくれる。
それは、その将が自分の信じている道―――今回の戦であれば袁紹に従うことが一片の曇りもなく正しい、と強く思っている、ということを何よりも雄弁に語っていると同時に、それに従っている自分たち兵卒のことをこれほどまでに信用してくれている、ということも示す。
身分という壁が現代よりもずっとずっと大きなこの時代、寝食生死を共にしてくれる将はいても、真名を預けようなどと考える将はただの一人もいなかった。
ならばその衝撃、真名すら持たずに下から壁を眺めていたものたちにとっては、どれほど大きなものか。


董卓軍、最強
河東、最高
すべては、賈駆様のために!


誰が指示するでもなく自然発生的に相手たちが大声で叫んでいるその名が、敵の首魁の真名だ、ということを徐々に理解していった麾下の兵たちにも動揺が走ったのが、愛紗には分かった。
その声が、こちらの兵たちへの目に見えぬ矢として突き刺さったのが、確かに見えたのだ。

相手の気迫に押されて時折こちらを振り向く兵たちの視線……その視線の意味は、例え声に出されなくてもいたいほどわかった。


(あいつらは、主君から真名を預けられるほど信用されている)
(あいつらの主君は、配下に真名を預けるほど信用している)
(つまり、あいつらの主君は、それほどまでに自分の行っていることを正しいと信じ、それに従うものたちもまた正しいと信じきっている)
(翻って、自分たちはどうだ? 本当に、劉備様が語っていたことが正しいのなら、どうして俺たちには……)
(天子に逆らったのは、ひょっとして間違ってたんじゃ……)


この戦争中という短い期間とはいえ生死を共にすることで今までまるで自分の手足のように指揮できていた兵たちと心がずれていっているのが、目に見えて分かる。
そんな兵と将が、強いはずがなかった。
当初の兵の連携訓練不足さえ織り込んで作られた孔明の必殺の陣が、敵兵の突然の死兵化とそれ以上の味方の兵の戦力低下によって、徐々に歪まされていく。
孔明の天才たる演算能力を使って錬度不足さえも策に組み込まれていたはずのそれが、彼女の想像の範囲以上に揺れ動いて、少しずつではあるが彼女の制御が利かなくなっていく。

真名を、兵に預ける。
きっと、他所の国から来た人間にはどうしても最後のところは分からないであろうが、それは将から兵に与える恩賞としては、考えられる限り最大のものだった。
天の御使いだとか、それの同僚だとかであればきっと完全には理解できないであろうその真名の至高性を使った奇策は、味方の団結と忠誠を高め、敵の疑心と動揺を広げ、後への影響だとかそういったものを一切考えない一回限りの切り札としては、想像以上。
隣を見ると孔明さえもその実際の効果を目の当たりにして、絶句している。
それほどまで、敵の軍師賈駆が考えたそのたった一つの策は、凄まじいまでの戦闘力の上昇を敵軍へともたらしていた。


「くっ、朱里。このままでは兵たちが!」
「わかっています! すでに伝令は出してあります……でも、まさかここまでなんて」


対抗策としては、一つきわめて簡単なモノがある。孔明に言われるまでもなく愛紗でも考え付く程度のものだ。この場にいるものはきっと誰でも分かることだろう。

だが、愛紗には出来ない。
どうしても、出来ない。
正道を歩み、清廉潔白な理想を掲げ、いまだ正しいことしかしていない愛紗には、例えどれだけ信頼している部下であろうと、友人や仲間ではなく部下である以上、真名を預けるなんてこと出来ないのだ。

誇りがないのか、と問いたい。
真名を何だと思っているのだ、と非難したい。
だが、そう思う愛紗をして、ここまでの覚悟を見せる『義士』を前にしては、ひょっとすると官軍に挑んだことは間違いだったのではないのか、ということがふと頭をよぎってしまう。

こちらが負けることはない。
築き上げた兵数差はあまりに圧倒的。陣形だって例え孔明の奇門遁甲が崩されたとしても、包囲網を引いているこちらが圧倒的に有利だ。
だが、その強烈なまでの圧力に、自身が信じた軍師である孔明の必殺の策が、たわんで、歪む。
眼前に迫ってきた敵に対して、その巨大な一刀を振り下ろす。


「ちちぃ!」
「おおおおおおぉぉぉ!!」
「っ! か、関羽将軍の一撃が、止められた!」「そんな、馬鹿な!」
「……ええい、静まれ! 確かに手だれだったが、それだけだ!」


だがそれが、恐るべきことに関羽の必殺の一撃が、ただの雑兵に止められた。
返す刀でその男を切り裂いても、慌ててそのものを敵ながらもかなりの技量の勇士と仕立て上げたとしても、その事実は変わらない。
その異常現象への原因としては、不意を付かれた事によって武器の加速が取れなかったこともあった、体勢が崩れかけていることもあった……だがそれ以上に、気迫で負けていた。
真名を預けられた歓喜に浸り、狂乱のように上官の命令に盲目に従う兵がこれほどまで戦闘能力を増大させるものだとは。


全身に矢を浴び、それでも戦い続ける兵がいた。
両腕を失い、そのことで油断した前の敵の首筋に噛み付いてから絶命した兵がいた。
武器を失ったことでその両手で二人の敵をかき抱き、仲間に自分ごと切らせた兵がいた。


それは連中が普段使っている「決死兵」と似ていて、しかし何処か致命的に違っていた。

身を削るがごとき、敵の覚悟。
この人のためなら命を捨ててもいい、と感じるその自発的な感情は、妖術のような能力低下をもたらさずに死の覚悟を持った兵を作り上げる。
それは、太平要術の書によるもののように不自然なものではなく、普段詠がどれほど民の、兵のために奮闘していたのかを誰もが知っていたがゆえに築き上げられた信頼関係を基にしている。

国力を上げる為に懸命に領地改革を進め、その結果として民に還元する。
唯才是挙なんてものを導入して、何故か彼女以上の上位者が存在する言わんばかりに増長することなく兵たちに普段から接していた。
平民であろうと能力があれば取り上げ、名家であろうと無能ならば取り潰す、それを建前だけではなく実際に実行していた。
少しでも味方を生かして返すために、数々の新兵器を手ずから作り上げていた。
寸鉄一つ帯びぬ身で、武など何一つ知らぬ身で、こうして戦場まで出てきた。
その小さな体で誰よりも働き、誰よりも苦労を重ねていたことを、この軍の誰もが知っていた。

だからこそ実現した、この自他共に身を削る狂気の進軍。
一刀のことを正確には知らぬ一般兵からしてみれば、詠のやっていたことはそのままれっきとした善政でしかなく、今回の戦への参加だって河東の民たちの為以外に思えなかった。




だが、それらすべての詠が今まで積み重ね、絶対の信頼を得られることになった事情を知らぬ関羽では、この唐突なまでの兵たちの絶対の忠誠心の根底までは理解できない。
その差が、大きかった。

真名を預けた将の覚悟に呼応するかのように、彼らはもはや雑兵ではなくなっていた。
愛紗でも気おされたのだ……こちらの兵で抑えられるようなものではない。
これは一時的な狂乱に過ぎず、相手の人数だって徐々に減っている以上いずれは倒せる。
だが、それは当初考えていた包囲陣からの安全な殲滅ではなく、抜くか抜かれるかのぎりぎりのラインでせめぎあう戦へと逆戻りさせられたものとなってしまっている。
河東軍の中枢である賈駆さえ押さえれば終わりとなるはずだったのに。

その当初の予定通りに行かなかったことが、連鎖的に更なる計算違いを巻き起こす。
悪いときには悪いことが重なるものだ。


「劉備様! 後方より、騎馬による敵襲です」
「何! ……くっ、あの女か!」


こちらに向かって一直線に向かって突撃をかけてくる騎馬軍。
その先頭に立つ覆面をつけた女の姿を認めて、思わず愛紗は罵声を上げた。


敵軍から雪、と呼ばれているその無貌の将。その突然の登場に、包囲している側であるはずの劉備軍にはさらに動揺が走る。
いまだその中身は知らないが、盟主であった公孫賛と同盟軍の馬岱を捕らえた女は、紛れもない強敵。
どうして今回の戦闘にはじめから参加していなかったのか、どうしてこんな段階で唐突に登場してきたのか。
詠の帰りが遅いのに焦れた一刀が、適当に命じた結果だということなんて知るよしもない彼女たちに分かるわけがなかった。
顔こそ隠しているもののひとかどの将であるあの相手には、ただの兵では相手にならないためにすぐさま愛紗は伝令を飛ばして呂布のかく乱に回っていた張飛にその相手をするように申し付ける。
通常ならば、そろそろあの天下無双はやる気なく空腹を呟いて撤退する時間だからだ。自分はとにかく、ここで賈駆を仕留めなければならない。

定石どおりに考えるのであればどう考えてもありえない時期、ありえない駒の突然の投入にさしもの孔明も対策を練ってはいなかった。
その能力をして瞬時に対応策を考え、それを伝達するよう手配するその手腕は見事なものだが、どうしてもそこには時間的な無駄が生じてしまったのは否めなかった。
指揮する将、指示する軍師は共に一流。だが、兵の志気、能力共に負けていた彼女たちのその指示が完全に徹底されるその前に、突然現れた友軍をまるで予期していたのかのごとき連携で動きを変えた賈駆の部隊は、その動揺による兵の乱れを突きながら、中央だけは何とか守ってみせる、という陣形を崩すことなくついに包囲網の最後の一枚へと迫った。


「来るなら、来い!」


その最後の一枚、凡夫では決して越えられぬ絶対の壁ゆえに人数的にはもっとも少ない自分の部隊に対して突撃を仕掛けてくる賈駆の親衛隊に向けて、心の迷いさえも吹き飛ばさんと愛紗は思いっきり振りかざした青龍偃月刀を振り落とす。
その姿は、例えどれほど力を増幅されたとしても以前雑兵では届かぬ高みにあった。

だから今度は止められなかった。
何人もの兵が、その勢いに押されて宙を吹き飛ぶ。

いかに敵の覚悟と志気の向上があったとしても、所詮一般兵では武将には叶わない。それは、騎馬を用いても、足止めのための奇妙な道具を使ってもかわらない。
愚かで頭の軽い天人が授けた妙な超兵器―――例えば、一里の先から敵を打ち倒せる鉄の杖でもない限り、それは絶対に無理なことだ。
どれほど懸命に必死にすべてを賭けて挑んできても、無為に命を散らすだけである。
数十の命を費やしても、稼げるのはほんの一瞬。
夜盗の頭ぐらいしか命じず、夜盗ならば配下が従わない自分が生き残る為に兵の命を無為に散らす、あまりに自分勝手な無意味な命令。

だが、それは彼ら従う側にとっては無意味ではなかった。
吹き飛んだ幾人もの仲間を盾にして死の暴風を防いだ男が、一斉に飛び掛る。それとて、返す刀で吹き飛ばされるものであるが、少なくともほんの一時視界を防ぎ、ほんの一振り分刀を振らせるだけの手間を無類の武将へと掛けさせることが出来る。
命を代価にしたにしてはあまりにささやかな、しかし彼らにとっては何よりも望んだものを購うことを可能とするのだ。


「賈駆様、今です!」
「ありがとう!」


その命を懸けた決死の覚悟により、時間稼ぎはなった。
自分たちなんかに真名を預けてくれた初めての貴人を逃がすための、ほんの一瞬の隙を作るという目的は達成できたのだ。
その小さな小さな体を馬上で丸めるようにして武器一つ持たぬ身にてこの死の暴風へと向かってきていた少女はその作られた一瞬の隙を見逃さず、するり、と潜り抜けた。

関羽にとってそれはあまりに大きな失態。
死を呼ぶ必殺の包囲が、自分の不甲斐なさによって相手に奇策一つで抜けられてしまったのだ!


「しまった! くっ、どけぇ!」
「否、いかせんよ!」「喰らえ!」「この、逆賊め」「董家、万歳!」
「邪魔を、するなぁぁぁ!!」


他のすべてを逃したとしてもどうしても止めなければいけなかった本命たる賈駆をその手よりこぼしたことで、舌打ち一つをして振り向く愛紗に、またも兵たちが数で挑む。
そんなもの、彼女にとっては敵ではない。ほんの僅かな時間ですぐさまそのすべての兵を打ち払うのは、さほど難しいことではなかった。
だが、徒歩の愛紗にとって、その一瞬が命取りだった。
それによって稼がれた時間で、振り向くのがほんの僅かに遅かった彼女の青龍偃月刀は、ただ賈駆らしき人物が乗った馬の尻を風圧で撫ぜることしか出来なかった。

いくら千人力の彼女でも、手が届かないところへはどうしようもない。
だからこそ、逃してしまったことに歯噛みをしながら、周辺一帯をなぎ払って征圧した愛紗は、泥縄的に叫んだ。


「私の弓を持て!」


剣が届かぬ距離へと抜かれたのであれば、今度は弓を。選択自体は当然間違いではない。
だが、凡夫とは比べ物にならない腕とはいえ、それでもあまり得意でないそんなものを取りだすあたり、もはや完璧のはずの策が破綻したこともまた間違いないのだ。
それが分かっていながらも、何とかして今の努力で過去の失態を取り戻そうと、愛紗はただただがむしゃらに矢を撃ち放つ。
手持ちの矢がどんどんと減っていき、それと共に逃走していく敵の数もまた同じだけ減っていく。

だが、それでもその速度は微々たるものだ。
とてもこの勢いでは矢の射程の外に出るまでに、敵を全騎射倒すことは出来ないだろう。それほどまでに、騎馬の速度とは驚異的だった。
その速度に相応しく、敵影はどんどんと小さくなっていき、もはや賈駆がどれなのか、愛紗の視力をもってしても区別がつかなかった。
それでもひたすらに彼女は矢を打ち続ける。だが……それにもやはり限界があった。
ミシリ、と携えていた弓から嫌な音が走る。見ると、酷使に耐えられなかったのか、中央あたりに小さな亀裂が入っていた。

それに気付いた愛紗は、呼吸を整え、最後の一矢を放つ……まるで、悪足掻きのように。
そして、一言呟いた。


「……逃がしてしまったか」
「賈駆……恐ろしい相手です。ここまで兵に命を捨てさせることが出来るなんて」


その声に応えた孔明の返事よりも早くに翔んでいったそれは、彼女の桁外れの才を示すかのごとき速さ、精度で放物線を見事に描いて敵の部隊へと向かっていき、やがては落ちる。だが、それだけだった。
狙い通りに飛んだそれがもはや米粒よりちょっと大きいだけの敵影の一つを崩したのとほぼ同時に、亀裂が広がって愛紗の持つ弓はついに真っ二つに割れた。
無理もない……それほどの力を込めて延々と撃ち続けていたのだ。決して金銭的に余裕があったわけでもない愛紗の弓は、その英傑の力に耐えられるほどのものではなかった。
それを考えるならば、むしろこの弓はよくやったほうだといえよう。
もっとも、結局はそれも無意味に終わってしまったが。


これだけの戦力差を、たった一つの策でひっくり返した賈駆という恐るべき軍師の名を胸に刻んで、愛紗は目的を果たせなかった己の無力さに歯噛みした。
せっかく孔明の登場という予想外の事態を使って運良く築き上げることができた戦力差を生かすことが出来ずに、こうして小勢力ながらも官軍の中で確かな存在感をかもし出している董卓軍を潰すことに失敗してしまった。

この戦い、与えた損害はこちらの方が多かったかもしれないが、結局のところ劉備軍はまたも勝利目標を満たすことが出来なかった。

今日の戦いは、もはや終わりだ。
そして明日からまた、泥沼の戦いが始まる。

明日もまた、じょじょに武将の数を削られ、兵員にも乏しくなっていっている状態で、またもあの強大な袁紹たちと戦わなければならない。
きっと、あの軍師には二番煎じなんてきっと通じない……つまり、劉備軍は千載一遇の絶好の機会を、逃してしまった。

河東を引き入れることが出来たとしてその上で最大限ありとあらゆる要因を甘く見積もって、ようやく互角程度だった絶望的な戦力差を詰めることにすら失敗して、今度はまたも包囲殲滅のさなか戦わなければならない。
今回の戦場で敵を追い詰めることが出来た関羽は、しかし今後の戦いでまた元の追い詰められる窮鼠の立場に逆戻りしたという嫌な予感に、ぎしりと歯を食いしばって耐えた。










騎馬を必死になって走らせる。
ハアハアと、荒い息が馬の口から出ているのが馬上からでも分かるが、ここはもうちょっと頑張ってもらわなければならない。
ほとんど安全圏まで逃げ切ってようやく馬の心配が出来るようになったのと同時に、詠は改めてこのあぶみ、というものの有用性を痛感した。
文官ゆえに騎馬には乗れる、程度の乗馬術しか持たなかった詠をして、ここまでの速度を出せるとはやはりこれは有用な兵器だ。今回の戦で何人もの死馬を作ってしまったため、おそらくそれを漁るであろう劉備軍にはその秘密が分かってしまうだろうが、どうせ今回の戦いの中それを製造するだけの時間なんてあるまい。
奴らが大々的に広めてしまう前に、潰してしまえばいいのだ。

前方からはおそらく一刀の気紛れで派遣されたのであろう、城に残っていた騎馬隊の一部が戦っていた張飛の部隊から離れてこちらに向かってくる。
先頭には、白馬に乗った女。覆面をしているためはっきりとした区別は付けにくいが、おそらく公孫賛だ。
反乱を疑ってこちらを捕縛に来たのか、とも思ったが、陣形からするとどうやらこちらを援護しようとする意図が見えてくる。
ということは、おそらく……一刀は、一時的に自分を信じることに決めたのだ。


「一刀……遅いわよ、馬鹿」


憎まれ口を叩きながらも、たったそれだけが分かっただけで、詠は今回の苦労がすべて報われる気がした。
失った兵の数は大きく、自分自身も真名を兵に預けるなんて事をしてしまった。
今後の困難を考えると、正直頭が痛くなるが、それでも自分は生きている……一刀の前へと帰ることが出来る。
何とか、最大の困難をしのぐことに成功したのだ。

だったら、今回の戦に出たのは正解だった。
犠牲になった兵に対して申し訳ないと思う気持ちが皆無、というわけではない。
だが、それでもなお、詠は今回のことをきっかけに一刀とやり直す機会を得る事が出来たことへの喜びのほうが大きかった。

そう思って、詠は馬の速度を無理やりさらに上げて、こちらに向かってくる公孫賛と合流するべく手綱を握るこぶしに力を込めた。
その次の瞬間。






「………………っえ?」






とすり、と。
どこまでも鈍い音がした。
まるで、些細な夢を、僅かな希望を、容赦なく打ち砕くような、そんな音が。

不意に感じた軽い衝撃と共に、急速に力が抜けてもはや手綱を握っておくことも出来ずに、力なく馬の背から大地へと落ちていった詠の耳には、ただただその鈍い音だけが響き渡っていた。





[16162] 一将功成って万骨枯る
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2010/10/05 17:41

「おー、やっと帰ってきたか。」


城門の上から、今回の戦いから帰ってきた軍勢を遠眼鏡越しに認めた一刀は、久々に詠の体を思い出して密かににやけた。
護衛代わりの馬岱を除く、一刀の持つほとんどの戦力を投入した援軍は、彼の期待通り戦況をさくっと終わらせて帰還してきたようだ。まあ、もともと武将級の戦力を一人二人投入されただけで片付く程度の小競り合いでしかなかったこともあって、彼の派遣した援軍の戦力は適切だった……その時期はさておき。

いつも通り、やはり一応の報告を受けていた出発時の兵力から考えると、今回は大分やられたようであるが、一刀は気にも留めなかった。
自分の保身のために詠に対して当初武将をつけなかったように、彼の身勝手さはもはや雑兵などどれほど削れたところで全く気にしない程度まで成長しきっていた……結局、いくら詠が善政を引いているといっても、所詮は頭である一刀からしてその程度なのだ。
たまたま、運良く、民の為になったことをちょっとしたとしても、その程度で彼の暴政があがなえる程度ではない。今のところは破綻していなかっただけで、真実を知れば決して彼に心酔する民など出ないほどに、彼の心はすでに歪みきっていた。

が、帰ってきた報告は、そんな心でもなお揺らがさざるを得ないものだった。










「……」
「……ただいま戻りました、一刀殿」
「おお~、お帰り、二人とも。勝ったとだけしか聞いてないんだけど、どうだった? 可愛い子いた?」


戦場でのつかれも穢れもそのままに、部隊を指揮していたものの責任として「主君」に対して今回の戦闘の結果を報告せん、と参上してきた凛と風をみて、いつも通り一刀はとてつもなく軽い返事をよこす。
その様は、到底戦を後にした小国の君主には見えないものである。


「っ!」
「凛ちゃん……」


どこまでもいつも通りのその態度。一刀はいつもこんな感じで、戦帰りの彼女たちに声をかけてきていた。
それが、今日に限っては二人の神経を逆撫でする。
常の一刀もそうだ、ということが分かっていながらも、それでもどうしてこの男はここまで軽薄でいられるのか、という心が、戦場帰りの猛った体に燃料を加える。

性質の違いゆえ、激昂して声を荒げようとする凛とそれをただ袖を取り首を左右に振るだけで留めようとする風、という二種類に別れはしたが、その根底に宿った感情自体は一緒だった。
それは、いくつもの命を費やし、いくつもの未来が断たれた戦場に己が野心のために多くの人々を送り込んだ等の張本人が、どの口でそんなことを、という反感だ。

彼女たちは確かに一刀に臣従していたが、それはあくまで詠を通じての忠誠。そして、それすらも求める結果があっての上での過程としての忠誠だ。
雪蓮たちのようにあやかしの術による思考操作によるものでも、詠のようにあばたもえくぼの盲目な恋心によるものでもなく、ただ単に天下万民の安寧の為、この混迷の時代に布武を張ることこそが最短であると考え、その一手段としてこの愚かな、しかし有力な男を利用することを是としたにすぎない。

周りの者だってそれは同じ。
それは、今回従軍した兵士の多くが疲れ果て、精根尽き、未だ悔恨の渦に囚われているがために自分自身のことを優先することを当然のこととして、誰一人この男に対して今回の戦いでもっとも大きな出来事について伝えようという気遣いを微塵も見せなかったことにも現れている。
彼に対してそのすべてに忠誠を抱いているものなど、術の力によるものを除けば、ほんの僅かな人数しかいないのだ。

確かに天から来たといわれても否定できないほどの力を認めているからこそ、普段の自堕落な生活も見逃せる、と妥協の末に下についてはいたが、絶対的な忠誠を抱いているとは御世辞にもいえやしない。
だからこそ、たとえ状況が変わりつつあるとはいえそれでもなおこの男が主君と抱くだけの利用価値を持っている、ということを重々理解していてもその感情は消えようとはしなかった。


「ま、いっつもどおり楽勝に決まってるよな、ゴメンゴメン」
「一刀殿……今回はまず、お伝えしたいことがございます」
「……」
「え?」


正直言って、普段よりこの男に対して現状をこまごまと説明する必要などありはしない。それは、風と凛に共通する見解だ。
孫子の一篇さえ読んだこともないようなこの男に、今回の戦の衰勢を事細かに語ったとしても理解できないだろうし、理解する気もないだろう。
大目標―――それこそ、今年はどこの勢力を攻めるか、それとも国力の蓄積に励むのか、といった極めて重大な方針を決めるときならばさておき、それ以外の戦争への参加方法から国力の維持、宮廷への工作といった政治の大部分は元々詠を頭とする三人で決めてきたに等しいのだ。
ゆえに、今回のように多方面に影響する重大な問題が発生したとしても、所詮それが中方針でとどまってしまうものであるならば、いつも通りこの男には最終的な結果を伝えるだけで事足りてしまう以上、一刀に対して結果ではなく過程であるそれを伝えるのは無意味だ。

それでもなお、無駄だと分かっていても今までそれを続けていたのは、制度上一応トップである月の委任を受けている天の御使いである一刀の承認を取った、という形を取る必要があったことと、文官トップであり彼の愛人である詠の単なる我侭に過ぎない。


「今回の戦争における被害は甚大なものでした」
「へ~、珍しいこともあるもんだ。けど、結局勝った「その中で最大のものは」……?」


だからこそ、過程における努力などをまるっきり無視して、ただ自分に都合のいい結果だけを求めている愚かな男になんて、嫌がらせ交じりに適当なことを伝えたとしても誰にも責められるいわれなどない彼女たちの脳裏に、それらのことが全くよぎらなかった、といえばそれは嘘になる。
だが、同時に、そんなことを本気で実行するほどの愚者でもない彼女たちは、その智も武も志も持たぬ主君に対して史書に残る名高き英才として相応しい態度で己の感情を押し殺して、伝えた。


「詠様が……身罷られました」
「…………え?」
「…………その代わり、張飛を捕らえることに成功したのですよ」
『おうおう、よかったじゃねーか、兄ちゃん。こういうのがお望みだったんだろ?』
「……だめですよ、宝慧。はい、これがその牢の鍵ですよ~」


享楽に溺れ続けた結果として甘い蜂蜜漬けの思考に浸ることを常としており、全く予想もしていなかったらしい事態に対して、国主らしい態度を見せることもなく馬鹿のようにぽかんと口を開けることしか出来ない一刀の姿は、その彼の今までの愚考の象徴ともいえる態度であった。
それを見て、冷静そうに見えて割と感情豊かな凛はもとより、常に何処か飄々としている風さえも眉根をひそめて嫌悪感をあらわして、半ば強引にその手の中に今回得られた数少ないこの男の望んだ成果の結晶への引き換え券を押し付ける。

どこまでも聡明な彼女たちをして、そこまでが限界だった。
このままこの男の前にいれば、この男の愚挙の為に失うべきではない同志を失ってしまったことへの感情のままに行動してしまうかもしれない、と軍師として常に冷静であるべきと考えている二人でさえも危惧してしまうほどに。

結果、ついにその感情を抑えられなくなった二人は、自身の理性を最大限無理やりに飲み下しておこなった判断の結果としてそれだけ伝えて、未だ現状を理解しているとも思えない男を完全に放置して、この上なく貴重な人材を失ったことによってできた国政上の巨大な穴を埋めるための作業の方を優先するために踵を返した。
ただ、何かの作業に没頭することで、失ったものによる大きな大きなその心の傷をごまかすことに決めたのだ……そのためには、この男の相手している暇なんてものありはしない。


「詠ちゃんが……死んだ?」


その、英雄たちの彼女たちなりの死への痛みとその供養の切り替えに速度についていけなかった天の御使いは、自分でその事実を噛み砕いてつぶやくことで、ようやく脳みそにその情報を伝達する経路を開くことが出来た。








詠が――董卓軍筆頭軍師、賈駆が今回の戦闘において、死んでしまったらしい。
らしい、と付くのは、詠の決死の策により全滅は免れたものの大敗を喫した董卓軍では、戦場にて不意にこぼれた遺体の確保さえ出来なかったから、という理由一つだけで、なんら期待の持てる含みを持ったものではない。

慌てて周囲に歩く連中をとっ捕まえたり、自身の保有する雪蓮ら人形兵らから事情を聞いた一刀は、その呟いた言葉が真実であると知ったときでもなお、なんだか現実感をもてなかった。

逃亡中に突き刺さった、たった一本の矢。
ただ、それだけでただ単にまたいつもの戦に出かけたはずの詠は、帰ってこれなくなったらしい。
それは一刀が望んだ劉備らの捕獲、ということを焦った詠による失策によるものだ、ということもそれとなく聞かされてはいたのだが、それを彼がイマイチ頭で理解しているとは言いがたかった。

なにせ、ドラマチックな別れのシーンも、熱い情熱を込めた最後の言葉も与えられなかったのだ。
それは、一刀を中心とした一刀のための物語にはありえるはずもない、唐突に訪れた不自然な悲劇だった。
少なくとも、一刀はそういったことを全く想定してはいなかった。
自分の味方が死ぬわけがない、となぜか確信じみた考えさえ持っていた彼にとって、自分の女が戦場で倒れる、ということは想定の範囲外だった。
史書上の有名人とはいえ、自分と敵対している陣営ならば手に入れ損ねる、という形で舞台から退場するケースはあるんだ、とぐらいは思っていたが、自分の味方が―――それも、最大の味方が主人公の眼の届かないところで勝手に死ぬなんてこと、ないはずのことだった。

だからこそ、少なくとも死の淵において何か一言一刀に恨み言を残すだとか、あるいは愛の言葉を言付ける、といったことさえなしに、不意に自分の前から姿を消した詠は、まるでただ単に戦場に未だ出ていて自分のために勝利し続けている、といわれれば信じてしまうほど、彼の中では受け入れがたい事実だった。

一刀にとってそれほどまでになんら劇的な展開もないままに無為に起こった「詠の死」という事実は、非現実じみた「イベント」だったのだ。



だが、彼の力によって絶対服従を誓っている雪蓮や白蓮が嘘をつくはずがない。
故にそれは事実。
あの哀れな少女は、ついに最後まで報われることなくその無垢なる魂を天に召された。
一刀の邪悪なコレクションの一角であったはずの詠は、もはやもどってくることはない。
それが純然たる事実として起こったのだ、ということになり、それが覆ることはありえないということを前提に動かなければならない。
それを信じないということは、自分自身の基盤となっている太平要術の書の力を怪しむというもうとうにすぎた段階まで遡らなければならなくなるからだ。

つまり、例え思考を半ば放棄しているに等しいゆとりきった彼とはいえ、とりあえず夢だとか、報告間違いだとかとかそういった方向で都合のいい思考に逃げることなく、受け入れざるを得なかった。
例えそれが、どれほど受け入れがたい事実であったとしても、少なくとも前提としてそれを信じる、という判断だけは覆せない。


なればこそ、一刀は当初、イマイチ詠の死ということを受け入れられないままではあるが、今後の方針の建て直しをするか、と考えた。
天下統一を目指す主人公としては、想定外の『イベント』があったとしても、決断を滞らせるわけにはいくまい。

故に一刀は、詠の死という事実を前提とした素晴らしい戦略を練って、彼女というユニットを失った以上の利益を得られるよう頭を振り絞らねばならない。
現実感がないままに、一刀はそう考えたのだ。

この乱世を好きにする権利を与えられた英雄として、ここよりはるか進んだ時代から来た天の御使いとして。
主人公であり、ハーレムなんて外道なことをしているものとしては、そうでなければならないのだ。


「ははっ……所詮物語の登場人物が一人死んだだけじゃないか。この世界は、こういうものだったんだよ」


だからこそ呟くその言葉は、確かに彼が思い続けていたことだ。
ここが現実ではなく、自分主役のレジェンドストーリーだと思っていたからこそ、いかなる人を傷つけようと、いかほどの命を奪おうとも、一刀はもはや罪悪とさえ思わなかったはずなのだ。

その論理からすれば、味方側であった詠の死は貴重な手駒の喪失と言う面では確かに痛手であるはずだが、逆に言えばそれ以上の意味を持たない。
未だに程立や郭嘉という軍師を保有している以上、強大な能力を持った軍師が一刀の妖術の力を知って裏切ったというのならばさておき、ただ単に死亡したと言うだけならばそう深刻になるべき事態ではないということになる。
そう、彼の今までの行為からすれば、そう思わなければいけないのだ。

にもかかわらず、一刀は自分が呟いたその言葉に、他ならぬ自分自身さえも騙せぬ欺瞞を感じた。
たった一つ、手駒が消えただけ。
そんな言葉では言い表せない胸の空虚さは、今まで自分を誤魔化し続けて生きてきた一刀にさえも自覚できるほど大きなもの。


「そうだよ……ほら、たしか結局賈駆は病死したじゃねえか。それが、ちょっと、早くなったぐらいで……」


だから、言葉が徐々に弱くなっていくことが、本人にさえも止められない。


三国志の賈駆が八十ぐらいまでと当時にしては相当の高齢まで生きたとはいえ最終的に病死することは、物語を読んだことのある一刀は知っていたはずだ。
大分忘れつつあったとはいえ最終的にどのような生涯をすごし、どんな想いで死んでいくのか、物語で描かれた範疇内だけであれば三国志の主要な登場人物に関してある程度までは覚えていた一刀だったからこそ、彼女たちの生殺与奪権を己が持っている、と驕っていたのだ。
ならば、賈駆役の登場人物が途中退場しようとも、彼が変わるべき理由など一つもないはずだ。
むしろ今までの論理からすると、孫家の悲願を潰し、袁家の屋台骨を歪ませ、董家に寄生したときと同じようにそれら登場人物の死とは離れた場所にいる自分こそが特別だとふんぞり返っていなければならないはずである。



だが、一刀はそう割り切ることが出来なかった。
当たり前だ。当たり前のことだった。
彼が欲したのは、三国志の登場人物である賈駆ではない―――あの可憐な少女の詠なのだから。


詠が隣にいない。
あの健気な少女が、自分の隣で声をかけてくれることは、もう二度とない。

変化はそれだけだ。
まだ雪蓮も大喬小喬も雛里も、天和も風も凛も白蓮も蒲公英も彼の手の中にいる。それなりの規模まで成長した河東は、彼一人が今までどおりの生活を続ける分には十分なだけの力はすでに持っている。
これ以上を望んだとしても、程立と郭嘉という歴史に名を残すだけの軍師というカードを保有している以上、今までよりかは速度が落ちるにしてももっと慎重なやり方をすれば決して不可能ではないはずだ。


「どうかしたんですか、御主人様?」
「ゆ、月ちゃん。詠ちゃんが、詠が……」
「あ……私も今聞きました。御主人様、大丈夫です。詠ちゃんはいなくても、私はずっとここにいます。他にも雪さんも、大喬さんだっていらっしゃいますから」


なんだったら、また各地の勢力を裏から落とすヤクザ商法へと戻ってもいい。
凡人と天才の差が余りに大きなこの世界において、その人材を自由自在に移動させることができる一刀の力からすれば、たかが詠一人が使えなくなったとしてもほとんど影響は無いのだから、彼女がいないのならば何もこの地にこだわる必要なんて欠片もありはしない。

だから、彼の野望上は河東が潰れたとしても―――詠が消えたとしても何の問題もないはずだ。
問題ないはずなのだ。
なのに。


「そうだ。私がお慰めいたしますから、お部屋に行きませんか?」
「ゴメン……そんな気分じゃねえから」
「あ……いっちゃった。御主人様、あんなにも落ち込んで、御可愛そう」


そう、たった一人がいなくなっただけで……そしてその一人は、何よりも、誰よりも大きなものだった、ただそれだけだ。

ただそれだけで、快適な生活も、自分の事を何でも聞いてくれる美少女の存在も、他者に一方的に命令できる権力も、何一つなくなっていないのにすべてが彼の前で色あせた。
自分にとっては恋でもなく、愛でもない関係で繋がっていただけのはずの少女は、しかしその他すべてのものを彩る為には必要不可欠な人物だったのだ。

いかなるものの心をも自由に出来る力を持った一刀にとっての唯一無二。
力の存在を信じていても彼に従い、だが絶対服従の呪いは掛かっていない。
操ることで、欺くことで、偽ることで人間関係を維持していた彼における、たった一人の例外。

術の力を知っていて、それでもなお彼に尽くした術に掛かっていない人間と言う存在がどれほど貴重だったのか。
人間的に劣等へと成り下がった彼を受け入れて、いつくしんでくれた彼女が与えてくれたモノがどれほど大きなもので、そしてそれを受けて彼女に対して自分がいかなる感情を抱いていたのか。
それをようやく自覚した。


一刀は、愛されていたのだ
一刀は、愛していたのだ。


彼女が戦場に出続けたのは、きっと今でも僅かに残っていた一刀の胸の奥の一片の疑いを晴らしたかったのだ。
生まれてこの方、誰かに尽くすことでしか思いを伝える方法を知らぬ少女にとって、自身が裏切るのでは、と最愛の男に思われたときに出来ることは誠心誠意言葉を尽くすことではなく、無言で結果を積み上げることであった。

『自分は何があっても、例えその心が偽りだったとしても、あなたを信じる』

言葉にするならばたったこれだけ。彼女が本当に伝えたかった言葉は、たったこれだけなのだ。
だが、それを直接言ったとしてもきっとこの男は信じなかった。
だから結果を積み上げることを焦った……そして、失敗した。

そう詠が思った、思ってしまったのは思いを素直に言い表す術を知らなかった彼女自身の問題であるとともに、それだけの小物っぷりしか彼女に見せてこなかった一刀が悪かったというしかない。

だが、もはや何を言っても時は戻らない。彼女が知ってしまったことをなかったことにすることは出来ない。
ならばこそ、語るべきなのは純然たる事実。
お互いが、お互いともに致命的なところで間違っていたがために、「裏切らない」のたった一言の誓い。
それを疑い深く臆病な男に心底信じさせるためには、彼女は膨大な成果を彼の前に捧げることでしかいえなかったのだ。


そしてそれは、よりにもよって最悪の結果をもたらすことになってしまった。
そのことに、ようやく一刀は気付いた。

愚者たる異邦人は、失うまでその存在の価値を知ることがなかった。
失って始めて、彼女が自分にとってどんな存在なのかを自覚した。


「あ……ああ…………ああああああああああぁぁぁ!!」


絶叫と共に零れ落ちた涙の一筋は、見る見るうちに大河へと変化を遂げていく。

意味もない叫びは、しかしその大きさによって衝撃を物語る。
失ったものの大きさを今更ながらに知って、泣き叫ぶ一刀。
泣いても、喚いても、その心に生まれた隙間は決して埋まることはない。
今後どれほど時間がたっても消えることなど考えられないほどの衝撃を彼は受けていた。
失ったものはあまりに大きく、大切なものだった。
手放してはいけないはずのものだった。誰よりもいとおしみ、大切にしなければならないものだった。

それを、自分がつまらない、愚かなことをしたばっかりに永遠に失ってしまったことに対する後悔は、とめどないものであった。
どれだけ悔やんでも足りないだけのものであった。



だが、普通に考えれば彼にそんなこと―――誰かの死を悔やむ、悼む資格などありはしないはずだ。

その未来は彼が今まで奪ってきたものだ。今まで、何人の心を貪ったと思っているのか。
その絶望は彼が今まで与えてきたものだ。今まで、何人の命を弄んだと思っているのか。

悪逆非道の限りを尽くしてきた北郷一刀は、平等の精神で考えるならばいかなる目に合わされたとしても文句を言えない立場であるはずだ。
術で操り、数を頼り、力で踏みにじって好き勝手にしてきたことがそのまま彼に帰ってきた。
大切な人を奪われる悲しみが、奪う側だった彼に帰ってきたというただそれだけ。

ましてや、それを一層悪化させたのは彼自身だ。
彼が信じられず、彼女が伝えられなかったがためにその因果を防げなかった。
因果応報というまでもないいつか来る順番待ちが終わっただけの、ただそれだけだった。


ならば、普通に考えれば一刀が責めるべきなのは他人ではない。己自身だ。
ろくに働きもせず、享楽のみをむさぼり、怠惰に過ごした日々のツケが、運良く……あるいは、運悪く彼自身に降り注がずに彼のそばに居た、しかし離れてしまっていた少女の身に落ちた。
悔いるべきは己の怠惰であり、怨むべきは己の悪行であるはずである。彼女を失ったのは、ほかならぬ一刀自身の自業自得によるもの以外にはありえないのだ。

そう考えるのが『普通』である。


「畜生、畜生、ちくしょおおおおぉぉぉぉ! よくも、よくも俺の詠を!」


だが、彼は。
『普通』ではない。
『凡俗』ではない。
『弱者』ではない。


頬を伝う大粒な涙が地面に落ちる僅かな音とともに、ぎしり、と口内の歯が強くかみ締められたことによって軋む音が大きく響く。
外部にまで聞こえるほどの強さのそれは、真っ赤に染まった表情や硬く握り締められた拳と同じく彼の激情を現していた。
だが、自業自得の極みとして表れたはずの結果への感情に与えられた名前は、己への後悔や悔恨というものではなく……それは、他者に対する怒り、憤怒と呼ぶべきものだった。

彼は、自分自身の悪行の末最愛の少女を失うこととなった今でもなお、己を省みようとはしなかったのだ。
否。それがなかったとはいえない。彼は確かに後悔していた。
だが、それ以上に彼を突き動かすものがあったことこそが大きい。


「くそが、ふざけんな、ふざけんなーー!!」


それは『こんなの間違っている』と言う強い意志だ。
最後の言葉を聞く機会などがあればまた彼は彼なりに悲しんで、受け入れることが出来たであろうが、そういった『イベント』さえなかったことが、この場合は余計に裏目に出た。


この世界に来てからの彼はいつだって踏みにじり、勝ち誇る側の人間だった。
平等なんてくそ喰らえ、と言わんばかりに弱肉強食の理でもって君臨し続ける側の人間だった。
人を操り、女を犯し、酒食を喰らうことを日々としてきた彼にとって見れば、自分が間違っていた、だからその結果としてこうなった、ということはありえないことだ。

匪賊として己に襲い掛かってきた三人組が死ぬこととなったのは、彼らが自分を襲うなどといった天をも恐れぬ所業を行った悪人であり、その上で襲いくる脅威にろくすっぽ抵抗できないほど弱かったからだ。
大喬と小喬が太平要術の書の力に囚われ、人形と化したのは、彼女たちが周瑜などという彼と敵対する愚か者に手を貸していたからだ。
袁紹と張勲が治めていた土地が戦争によって弱体化したのは、彼女たちの日ごろの調練がダメだった為であり、その彼女たちに踏み潰された孫家の兵たちは、偉大なる天の御使い北郷一刀に対して刃を向くなどといった大それたことをしたから、滅びた。


天から愛されており、それに相応しいだけの力を持っている自分は絶対的に正しいのだから、そうに決まっているのだ。
自分の『間違い』が存在しない以上、その『間違い』の結果としての『不幸』が彼の身内に降りかかることなんて、間違っているのだ、不公平なのだ。
それこそが、彼の考える道理であり、天命であり、正義である。

この外史に堕ちてきた当時の彼では考えることも出来なかったであろう自己中心的なその論理は、しかし今の一刀にとっては疑問に思うこともないごくごく当たり前のことだ。
間違っているのはすべて自分以外。
自分の意に添わぬことを考える人間は、すなわち悪。
自分に味方し、自分に服従し、自分を愛する者だけが絶対的に正しい。
この外史に来てより彼に根付いた、彼の信ずる正義だ。

だから詠は生前からまごうことなき正義であり、そして死に面したときでもなお正しく、その詠を殺したものは間違っている。
彼の中では、そうに決まっている。
その思いは、決意となって彼の口から言葉として飛び出す。


「殺してやる……殺してやるぞ! 俺に歯向かうような奴は、俺から奪うような奴は、全部殺してやる!」


血の吐くように搾り出されたその言葉に込められた憎悪は、無辜の民が突然の災厄により愛する者を奪われた場合と比べても、余りに醜悪なものだった。
それはどう考えても一刀の心を満たす以外には何の利益も生まない醜い感情であり、間違っているはずの想いだった。詠がそんなことを望むわけがないことは、彼女と接した人間であれば分かっていなければならないはずである。
ゆえにその言葉が示すものは、死者の無念を代弁すると言う程度の正当性さえ持たない、一刀の一刀による一刀のための壮絶なる逆恨みだ。




だがその情動は、この外史においては肯定されないまでも否定できないものでもあったのだ……少なくとも、強者たる一刀が語るならば。
一刀は引きちぎらんばかりに胸元に入れてあった自身の力の源に伸ばした手に力を入れる。体温が移った生暖かいそれは、一瞬だけ太陽に散々照らされた鉄のような怪しげな熱を彼に感じさせたが、それさえも一刀の思いを止める役にはたちはしない。
ぎしり、といっそう強く書を握りこむことであっという間にその熱を霧散させた。
心を操る妖術書さえも怯える憤怒が、彼を突き動かしていた。


詠を失ったのだ。
せめて当初目指した目標ぐらいは達成しなければ、『元』が取れない。
その死に際して大きなイベントさえ起こらなかった以上は、この後にもっと楽しい展開、もっと美人で可愛い女の子が手に入るということでなければ、おかしいのだ。ありえないのだ。
失った大きなものと取り替えられる以上のものを獲得しなければ、詠の存在そのものが間違いだったということになってしまう。
彼女自身も一刀に協力していたことを思えば、それを達成することこそが彼女への供養にもなるだろう。

いや、そうでなければならない。
そうでなければならないのだ。


もう、休暇は終わりだ。散々骨休めは出来ただろう。
自分自身の力で、この餌の豊富な外史を食い荒らす時間。
箍の外れた心でもって、己の力を振るう時が来たのだ。
それこそが、彼女が望んだことなのだ。


「全部、ぶっ壊してやる……元の世界なんてもう知らねえ。ここは俺の世界だ!」


その歪みきった宣言こそが、北郷一刀という存在が本当の意味でこの外史にて自分自身の力でもって覇王として名乗りをあげる第一歩だった。


天から堕ちてより、非常にぼやっとした動機のみでかつて見知った歴史の上で不動の名を上げることを至上の夢として見ていた少年は、もういない。
ここにいるのは、歪んだ心によって天命だとか、因果だとか言ったことさえも自分勝手に否定して、失われた彼女と共に願ったこと―――天下を彼の手の中にという夢を、彼女が生きた時代においてどんな手を使っても打ち立ててやるという強い意思を持った一人の男だった。



[16162] 心合わざれば肝胆も楚越なり
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2010/10/21 19:33

もはや衛兵たちには落とす石などが残っていないのかほとんど抵抗されることなく、先ほどから何度も突かれていた城門がついに破城槌によってこじ開けられるのを見て、愛紗は感慨深げに一言、呟いた。


「ついに、ここまできたか」


無論彼女とて、高見で見物するだけではない。
城門が開くと同時に飛び込んでその手に持つ巨大武器、青龍偃月刀でなぎ払いながら呟かれたその言葉は、開いた門の先にて待ち構えていた大勢の兵たちが、どさり、と倒れることとほとんど同時に響いた。
その剛剣に耐えられるものなど、もはやここにはいなかったのだ。

ここは、河東。
あの、賈駆を有していた君主 董卓が治める一番の中枢都市だ。
そこに愛紗は、堂々と正門を破って今まさに攻め入っていた。
つい半年ほど前にはそれだけは絶対にさせまいと気炎をあげていた突入してくる騎馬隊も、あるいは彼女たち賊軍の命を執拗に狙うことで体制の安泰を求めてくる官軍に所属する暴力の権化も、もはやここにはいなかった。

それすら出来ないほどに、すでに敵は小規模になってしまっているのだ。
あれほどまでの数を誇った官軍のほとんどは激減しており、それは当初よりそれの数分の一以下の規模しか持たなかった河東軍も同じだ。
対して幽州軍―――劉備軍は、確かにその数を減じているとはいえ、今なお勢力を誇っていた。

同じ戦いを敵味方に分かれて行い、同じだけの数戦場に出たにもかかわらず、両者には明確な差が生まれていた。
力と数はあっても智を欠いている官軍は稀代の軍師、諸葛孔明によっていいように翻弄されてその力をほとんど発揮できない状態にされ、それに比べればマシとはいえやはり戦略単位の絵図面を引ける名軍師である賈駆を欠いてしまった河東軍も、やはりその能力差の前に押しつぶされてしまった。
国軍側は、場面場面では両者とも取り返すことは出来ても、一つの戦場を奪うたびに逆に二つの場面を奪われ、一つの小さな勝利の為に一つの大きな敗走を与えられた。

呂布には勝てなくても、英傑を揃え、高い志気を誇る幽州軍・西域連合軍は、連戦連勝を続け、ついに戦力差は逆転した。
宮廷での小競り合いによって張遼が洛陽に戻されたことも影響して、孔明は戦術単位では呂布に敗北を重ねながらも、一戦一戦を正確無比に計り、延々と絵図を描き続け、ようやく戦略単位での勢力図を書き換えてここ河東まで攻め入ることに成功したのだ。

西域連合と共同戦線を抱いている今となっては、ここまで削ってしまえば弱体化著しい漢王朝の官軍の数はもはや注意するに値しない。
彼女にとって危険なのは、たった一人で一軍に匹敵する化け物呂布と、よりにもよって馬術にて公孫賛と馬岱をも破った伏兵河東兵のみ。
だからこそ、もはや数は脅威とはならず、質は違えども異常なまでの速度と重量を併せ持つその両者だけを幽州一の腕前を持つ彼女は警戒してきた。

事実、その警戒は正しかった。
人数が勝ることが出来た後でもなお、自軍の強みである志気の高さでさえ敵方が上回るその状況に、関羽たちは相当の苦労を強いられた。
あるときは主たる劉備さえも危険に晒してしまい、またあるときは、義妹たる張飛の時のように大勢の兵を失うことになってしまった。


だが、それももはやかつての話とすることができる。

彼女たちが互いに協力し合い、補い合いながら戦い続けたことで、尊敬すべき強敵であった河東軍師賈駆を失ってから精彩を欠いていた河東軍相手に長い長い戦いによって少しずつ積み上げてきたことによって、ようやく今、その中核を狙いに収めることができるまで近付けたのだ。


「よいか、お前たち、絶対に包囲を崩すな! あの『無貌』が出て来た時は、即座に馬超軍へとのろしを上げよ」
「了解しました!」


そして、その日々もようやく終わる。

こうやって、河東の中枢まで攻め込んでしまえばもはや奴らお得意の騎馬隊は使えまい。
加えて、先日の戦で軍勢の大半を敗走させて戦闘力を奪ったうえで洛陽方向へとその主戦力を押し込めた上で作った、一時的な空白。もはや、この地にまともな戦力が残っていないのは明白だ。
奴らの常套手段、決死兵を使った兵の損失を無視した突撃も、もはやこの局面においては流石に志気を保てなかったのか、大多数は霧散して後は屋敷に篭る僅かな兵だけしか残っていないということも、斥候からの報告によりわかっている。

ならば後警戒すべきなのは、自分には劣る、しかし相当の力を持つあの覆面を被った奇妙な将たちだけだ。
戦争中においてもじょじょに人数を増加させ続けていたあの連中には関羽自身でさえも相当の苦労を強いられただけに、この圧倒的に有利な局面においてもなお警戒を強め、兵たちに言い聞かせる声も大きくしなければならない。
確かに今まで相手が出してきた手札から孔明が計ったところによると今の相手に残った戦力だけではこの状況をひっくり返されることはほぼないということだが、だからといってそれを一転突破に使用して首魁を逃がす可能性や、またもこちらが驚くほどの切り札を相手が隠し持っていないとまでないと言い切ってしまうのは早計というもの。
何せ、一度してやられているのだ。そんな人間が、油断などしていいものではないとは、愛紗自身も思うのだ。


かつて、自らが行いかけた失敗をまるでそのままなぞるような状況に感化されて、もはや二度と奇策などにしてやられまいとの気合を込めてさけんだその声は、配下のものにもきちんと伝わったように見えた。
だからこそ関羽は袁紹だとか呂布だとか言った余計な介入が入る前に、ついに最後まで追い詰めた河東軍へと止めを刺そうと自分自身で突入作戦を指示する場面においても、西域連合と行動を共にしている主君と軍師の身の安全を考えることなく武器を持てた。

もはや憂いはなく、油断もない。
あの賈駆が育て上げた彼女の部下たちと正々堂々の戦いをもって董卓へと降伏を迫り、決着をつけることが出来る。
状況はこちらが圧倒的有利。だが、手加減はすまい。
それが、天下泰平のためだと信ずるがために。


だからこそ、容赦も慈悲もなく、董卓に降伏の言を喋らせるまでは決して止まらぬ覚悟で、愛紗は敵の総本山へと部隊を率いて突入していった。






「ここまで静かに来れるとなると、少々不気味だな」


静まり返った、屋敷と城のちょうど中間のような建物の中を慎重に進んでいく。
規模からするとそれほど大きな領土ではない河東。その君主の館は、やはり噂にたがわず質素なものだった。
大領主であり、北東の盾として五胡にも備えなければならなかった公孫賛の城とはもちろん比べてはならないのではあろうが、歴史を感じさせる古びた屋敷は流浪を続けてきた彼女が見てきた建物の中でも品格を感じさせるもの。
室内の調度品にしても、実用性を重視してなのか最低限の威厳さえ保てればいい、といった風潮なのは、実直な武人である関羽の好感を買うのに一役買っていた。

もとより、恨みにより攻めたわけでも、その戦い方に怒りを感じていたわけでもない相手だ。
故に、この河東を己が攻めなければならないことに感じることがないではないが、それでも彼女は義姉とは違い、迷うことはない。
どこまでも高潔で、どこまでも強者であった彼女は、だからこそ散発的に出てくるこの状況でもなお館を守ろうとするような忠義に厚い警備兵をすべて一刀の元に切り捨てて、この地方の玉座へと向かっていく。

散発的な忠臣らしき兵による強襲こそあれ、未だ組織だった抵抗がないことに違和感を覚えたが、それも「さては覚悟を決めたのか」と相手は潔い最期を遂げようとしているのか、という予測になりこそすれど、それによって手を鈍らせることはなかった。


「第壱番隊、いまあちらの方に女官らしき姿を見た。確認し、非戦闘員が集まっているようであれば保護して後列へと回せ。第弐番隊は、宝物庫の確保へ。建物の構造からしてこの先だ。大挙して待ちうけられるような場所ではないはずだが、油断はするな」


とはいえ、だからこそ彼女の行っていることはあくまで降伏させ、この優秀な兵と高度な技術力を持つ河東を自陣へと組み込むための占領作業であって、殲滅戦の指揮ではない。
的確に指示を飛ばすそれは、敵味方両方ともの死者をできるだけ少なくしようとするものだった。
この機に占拠を成功させれば、戦い、命を奪い合うという望まぬ結果に終わってしまった河東領主董卓とも、君主とその配下という対等ではない関係になってしまうとはいえ、お互いに笑いあう結果を築けるかもしれない。

『平和を求める為に戦いを行う』という構造的な欠陥を抱えた思想を掲げている劉備軍は、だからこそ対話の為には完全勝利を収めなければならないが、だからといってそれは敵を皆殺しにして恐怖の上での対話を求める必要はない。
勝者の側から可能な限りの流血を避け、結果として流れる血を最小限に抑えることが出来ると信ずればこその行動である。
勿論、実働部隊であり桃香の理想の尖兵である愛紗は、いざとなれば自分が泥を被ってでも独断での董卓の処刑を、といったことも考えてはいたが、それはあくまで本当に最後の手段だ。

最終的には破れたとはいえあれほどまでのこの戦にて才を見せ付けた賈駆の主君だ。
おそらく聡明であり、ことこの状況になってはあっさりと従ってくれるのではない、とも思っていただけにそこにはまだ希望が見えた。


それは、各所に走らせていた部下たちの一団から、思いもよらぬ結果が返ってきたことによって、一層確信へと変わった。
当主である董卓が篭るこの屋敷の制圧に向かっていた愛紗とは別に、軍が使用していたと思われる施設の制圧へと向かわせていた部隊が見覚えのある姿を先頭に戻ってきたのだ。


「愛紗~~~! 会いたかったのだ~!」
「鈴々! お前、無事だったのか!」


かつての最大の後悔の一因。
かの賈駆の奇策によって打ち破られた包囲網の隙間から抜け出していった騎馬隊と、敵の援軍との挟撃にあってしまって壊滅、結果として死体さえも残らず戦場に散ったと思われていた義妹、張飛の姿がそこにはあった。
あの戦いから半年以上たっても遺体の行方さえも音沙汰がなく、半ば生死を諦めていたほどであったにもかかわらず、そこにはむしろ背が延び、肉付きも多少よくなったかのように見える少女。
その前と変わらぬ天真爛漫な笑顔は、もはや捕らえられたときに受けたであろう傷さえ見当たらぬこともあいまってどう見ても捕虜として虐待を受けていたようには見えず、むしろ一際の将として扱われていた、ということを全身で主張するかのようなそのいでたちは、先の希望を一層加速させた。

捕虜の扱いはある意味その国のあり方を象徴するようなものだ。
愛紗の視点からは見て取れぬことだが、国際法のような人権という無形のものに対する配慮など、意識の欠片も挙がっていないこんな時代だ。
敵国に捕らえられた捕虜に対する扱いは、どのようなものだって考えられた。
礼を持って自害を許されるのであればむしろマシな方で、情報を得るために拷問を受けさせられたり、強制的に過酷な苦役に付けさせられたり、あるいは奴隷として異国に売り渡されることも珍しくなかった。
仁と和をその理念としている劉備軍はそのようなこと一切していなかったが、だからといって相手にもそういった扱いを求めるのは時代から考えるとあまりにも甘いといわざるを得ない。

ましてや、張飛は幼いとはいえ女だ。
功績を上げて下げ渡された武将の妾として扱われるならばまだしも、兵士たちに輪姦され続けることさえも覚悟しなければならなかった。


「? 変なお兄ちゃんがたまに話を聞きに来たけど、それ以外は何もされなかったのだ」
「そうか……はは、よかった。よかったぞ、本当に! おい、伝令! 姉上にもお知らせしてくれ」


それが、ざっと見た感じ身代金や捕虜交換目的の為に生きていればいいと過酷な衣食住環境下で牢に繋がれていたわけですらなく、ごくごく普通の一室を与えられ、ただ軟禁されていただけとは!
董卓の考える『戦い』というもののあり方の一端に触れられたような気がして、自身も『戦乱』は憎んでも『敵』を憎むことはない愛紗は対話への可能性に希望を大きくする。
こうなると一層お互い敵として立つことになってしまったことが残念ではあるが、それだってあくまでお互いにやむをえない事情によってだとすれば、想像通りの相手ならばむしろ真名を預けあうことさえも惜しくないと愛紗は評価する。
例えこのまま自分が数と力で敵の最後の抵抗を押しつぶそうと、奇策によってまたもこの展開が逆転されようと、お互いの目指すところが近いところにあるのであれば、分かり合えるかもしれないのだ。

流石に武装までは与えられなかったらしいが、それでもそれなりの生活を与えられていたということを嬉々として話す鈴々が、その隣の部屋で丁重に保管されていたらしい丈八蛇矛をブンブンと振るってそのやる気をみせる姿を見ていると、まるで戦争が始まる前の平和な日々のすべてが元に戻ったかのような―――あるいは、桃香が目指す理想の未来が叶った一端を見るかのような―――錯覚に愛紗は陥って、思わず顔がほころんだ。


「よし、今から私たちは董卓のところへと向かうつもりなのだが……お前はどうする?」
「もちろん、鈴々もついていくのだ!」
「ふっ、やはりか。だが、無茶はしてくれるなよ」


だが、それも一瞬だった。
彼女は、曲がりなりにもここが敵地であることを延々と忘れるような武人ではない。例えどれほど自分が有利なように思えても、どれほど有力な味方が復帰したとはいっても、未だここが戦場である以上、必要なのは笑顔ではなく鉄と汗だ。
それに呼応して、自然とこちらも表情を改めた張飛がかつてのように自分の背後の隙を補うような立ち位置へと移動したことに安心を抱いてもなお、それを受けて小娘のように喜ぶことは彼女には許されない。
だからこそ、あえて厳しい言葉を掛けながらも、再び自分と共に幼い義妹もを戦場に叩き込むことを是としてそのままお互いに血にまみれ、ついには目的地までたどり着くこととなる。









ぎぃ、ときしむ扉が彼女たちの入室を知らせる。
歴戦の将たる愛紗でさえ、その音を聞いて思わず体に力が入るのは否めなかった。

が、その開けた視界に写る玉座に座る少女は、ついに自身の眼前まで敵が来た、ということを理解しているであろうにもかかわらず、動揺の欠片も見せなかった。
辺りにいるのは、僅かばかりの護衛らしき将と兵、文官らしき数名の人影。
たったそれだけの僅かばかりの傍仕えしかおらぬ現状においてもなお、その透明な空気は揺らぐことがなかった。もはや、情勢によって態度を変えるような惰弱な者はすべて、逃げ去った後なのだろう。

豪奢な薄絹をあしらった冠を被った華奢な少女。どこまでも薄い色彩の髪と肌は、ともすれば消えてしまいそうな儚げな印象を与えかねないが、しかしこちらをしっかりと見据えるその瞳からは、そんな弱さは到底窺えない。
その身に寸鉄も帯びていないであろう、まさしく劉備と同じく君主としての、守られるべき体を敵の前に晒してもなお微塵の揺らぎもないその姿が、誰よりも、何よりも雄弁に、彼女の正体を語っていた。


「(これが、董卓か……)」


かの決死兵、無貌の将、神速の騎馬隊、各種の新兵器そして軍師賈駆を自在に使いこなした河東の主。
その姿は未だ年若く小柄な、しかし大きな少女だった。

あのような奇妙な戦術を考案し、配下に死さえも徹底させ、そして使いこなすことを許すような主君とはいかなるものか、戦場を駆けた経験はあれど、宮廷に入ったことなぞついになかった愛紗は疑問に思っていたのだが、ある意味董卓の外見はその疑問を納得させるのに相応しいものだった。
浮世離れした容姿と雰囲気は、ともすれば人形じみたものとさえいえるものであり、絶体絶命の窮地に立ってもなお動揺を見せまいとするその様は、なるほど、庶民上がりではない真の貴人とはこういったものなのか、と納得させられた。
身分あるものの容姿態度としては少なくとも、公孫賛より噂に聞いていた袁紹のいでたちよりもよっぽど納得がいくものであった。


「あなたが……関羽ですか?」
「いかにも。太祖劉邦が血筋の主、劉備元徳に使える武将が一人、関羽雲長。無礼は承知なれど、戦場の習いにてこのような姿にて参上したことはお許し願いたい」


董卓は、声さえも透明だった。
そのあまりに戦場に似つかわしくない有様に、思わず気おされそうになってしまった関羽であるが、劉備軍の頭脳である孔明の考えた今回の戦いの目標である河東の取り込みを果たすために出来るだけ丁重に、しかし勝者としての傲慢さもあえて前に出して、名乗り返した。

それをうけても、董卓は僅かに頷くばかり。
すでにこの部屋に入ってきた兵の数は、五十を越える。
たとえ愛紗の名を知らぬとしても、脅威に感じずにはいられないはずの人数だが、それでもなおも玉座から降りようともしないその姿を敵ながらも天晴れ、と思い、その尊敬すべき敵手に相対するのに相応しくならん、と愛紗は常以上に気合を入れ、胸を張って堂々と降伏勧告を行った。


「すでに勝敗は決した。しかし、時世の流れゆえにあいまみえる事となったが、そもそも半ば袁紹に脅されて立ったあなた方とは、お互い長年の遺恨というものはないはず。故に、あなた方を敵として罰するよりも、共に乱世を正す為の友となってほしい、というのが我が主の願いです」


無論、関羽は武将であって雄弁な軍師ではない。
それゆえに必ずしもこういった降伏勧告だとか説得だとかいったことに向いているとはいえなかったが、孔明を遠ざけた河東軍主力と官軍、呂布対策のために主君たる桃香に着けざるを得なかった現状においては仕方がない。
そして、確かに雄弁ではない関羽であるが、しかし孔明にはない威厳というものを持ち合わせ、そしてその言葉にはいっぺんの嘘もない清廉潔白なその態度は、主力が出かけた留守宅に刀を持って押し込み、脅迫しているに相応しい状況にあってもなお、人の心を動かすだけの力があった。

劉備と同じく万民の笑って過ごせる世のためにその身命を賭することを決めている関羽は、それを知ってか知らぬか言葉を続ける。
ただ一片の邪心もなく、私欲もなく、重ねられた言葉の重みは広間へと広がっていく。

決して、未だ構えたままの剣を下げたわけではない。
決して、今なお不意を打たれるかも知れないという警戒を緩めたわけではない。

それでも、戦場に来て命を奪い合う武人の言としては桁外れなまでの誠意を持って語るその姿は、まさに劉備の目指す世への先駆けとしては相応しいものだった。

だからだろうか。
その言葉を尽くし手もはやいうべきことは言い切った、として返答を待つ姿勢になるや否や、今までの言葉に眉一つ動かそうとしなかった董卓が即座に返事をしたのは。


「一つだけ、条件があります」
「聞きましょう」
「白、向日葵……いけますか?」
「ああ」
「もっちろん。準備万端だよ」


こちらの返答に満足が行ったのか、一つ大きく頷くと、董卓は後ろに向かって声をかけた。
その呼んだ名によってある程度の見当がついていた関羽は、董卓を守るかのように立っていた二人の人影が進み出てくるのを見てやはり、と思った。

進み出たのは、二人の覆面の女。
中身はわからないが、呼んだ名からすると彼女ら無貌の長と思われる『雪』とかいう猛者ではないものの、それでも今までの戦いでもこちらを何度も苦しめてきた、それなりの能力を持つ二人のはずだ。何処か聞き覚えのある声を持つ彼女たちの剣の腕からすれば、少なくとも関羽と張飛抜きの雑兵だけならばかなうまい。
意図はわからなかったが、並みの兵とは一線を画する能力を持つその正体不明の二人の将を前にしては、僅かなりとも気を抜くわけにはいかないと周囲の兵が警戒を強めるのを合えて手で押さえて、関羽はまっすぐに董卓を見つめ続ける。

それを受けた董卓もまた、全く目線を逸らさずに続ける。
その鈴を鳴らすような声とは裏腹に、その内容は物騒極まりないものだった。


「すでに戦端は開かれており、この戦いゆえに亡くなったものは多く、この戦況ゆえに去っていったものもまた多い……ならば、武門の最後を語るのは、言葉ではなく、剣であるべき」
「…………」
「ゆえに、今の我が手勢の中より最強を持って、二度の一騎打ちを。その敗北を持って、河東は劉備殿に降りましょう」
「それは……わかりました、お受けいたしましょう」


正直言って、愛紗は意表を突かれていた。
武人ではなく貴人たる態度にて、まさに上に立つものとしての資質を持ってこちらに接してきた董卓に、よもやこれほどまでに激しい覚悟があるとは思わなかったのだ。
己自身ではなく、配下にそれを命ずるところに自身との違いを感じはしたが、表情こそ見えぬもののやる気をみせてながら眼前に立った二人を見るに、むしろこれは彼女たち武将組の希望を汲んだ申し出なのかも知れぬ、とは考えはしても、軽蔑だとか、一人だけ安全地帯に篭って、などとは思いはしなかった。

むしろ、君主としては当然の選択であると思ったし、その上でなおこちらの矜持を図るかのごとき慎重さを持っていることに、そしてある種こちらを信用して、この局面においてはほとんど抵抗さえせずにこちらを玉座まで通し、あまつさえその腕を知っているであろう義妹まで無傷で返したその豪胆さに尊敬さえ感じた。
例え開戦当時は怨んでいなかったにせよ、お互いに殺し殺されたことによって生じた遺恨すべてを、最後の一騎打ちによって水に流そうとする態度は、まさに武人たる関羽の好むところだった。


と、同時に関羽は相手が出してきた相手を見て、手を抜けぬと思った。
といっても、それは死力を尽くしてただ単に相手を倒す、ということではない。
今出てきた二人は、確かに一般兵と比べれば相当の力を持つが、それでも自分と比べればかなり劣る相手だ。いざとなれば、二対一でさえも討ち取ることが可能かもしれない、その程度の実力である。それゆえ、今一騎打ちを挑んで、二人を討ち取ることは簡単とまではいわないまでも、そこまで難しいことではない。
そして、一騎打ちということで、董卓を必死に説得しながらその傍仕えの何人いるかも知れぬ無貌たちを打ち倒していくよりかはましだろうが、それでも相当不利な賭けであることには変わりなく、同時に勝者側である関羽にとっては、本来乗る必要などない賭けだ。

だが、これはもはや戦ではない。戦いという場を持ってはいても、和平交渉の一部だ。
相手はこちらを殺す気で掛かってくるのは明白だ。それはそうだろう、ここで関羽と張飛を討ち取ることが出来れば、戦況をひっくり返せる目が出る確率が大幅に上がるのだ。
が、手を取り合っての太平の世を目指す自分たちならば、ここは殺さずに彼女たちを無力化することを第一に考えなければならない。
赤子相手ならばさておき、ひとかどの武人相手に命を狙わずして無力化を謀る。
これは、どう考えても普通に倒すよりも遥かに難易度を上げる、ただの消化試合を愛紗の命を懸けてのぎりぎりの戦いへとしてしまうものだ。

無論、相手を殺さないというのは愛紗の―――劉備軍の勝手な矜持だ。
そのことまでわかって董卓がこの一騎打ちを挑んだとは思えないが、きっとこの気高き少女はそれを知ってもなおそのことを要求しただろう。
この貴人たる彼女を主の配下へと治め、同僚とするとはきっと、そういうことなのだ。

ならばこそ。


「では、よろしくお願いいたします」
「承知した。貴殿の友軍となる者の力、存分に知っていただこう」


上等ではないか、と関羽は思う。
その程度のこと、出来ずして何が天下泰平、何が万民の世だ。
義姉に語ったように、自分たちの夢のためにはどうしても流血が避けられない部分が出てくる。
だが、だからこそ、その流す血は最小限にしなければならない。
努力で、個人の才覚で失われる命を少なく出来る、というのであればわが身を惜しんでそれをためらってはいけないのだ。
それでこそ、劉備元徳の臣として相応しい。

少なくとも、愛紗はそう心から信じていた。


「よお~し、じゃあ鈴々はそのちびっ子を相手にするのだ。手加減はしない、本気でいくのだ!」
「おっけ~。こっちだって負けないからね」
「では、私は白殿とか」
「ああ、よろしくな」


それを義妹も理解しているのだろう。
目と目を交し合って伝えた相手を殺さずに、という言葉は、何を当たり前のことを、と言う笑みで返される。
監禁空けということでなまった腕を取り戻す時間さえなく、本調子ではないであろうにあえて腕のいい相手へと挑もうとするその気概こそが、血よりも硬い誓いをかわした自らの愛した鈴々だ、とこの状況においてもなお相手を巻き込んで明るい義妹に、ほんの僅かだけ唇をほころばすだけで、愛紗は構えた。


それを受けて、残りの三人もそれぞれ武器を構え、審判としてだろうか、文官らしい肉の着いていない男が前に出てきて手を上げたことでこの古びた、しかし今なお威厳を称える玉座の場において相応しくない戦いの気配が、しかし今のこの場には相応しい緊張が、じりじりと高まっていく。


愛紗は一つ大きな息を吐いた。

槍に込めるは、その才、その努力のすべてを込めた全身全霊。
もはやこの局面においては、劉備も、董卓も、有利な戦況も、死んでいった仲間たちも頭から消し去る。
ただ、この一戦にすべてを賭けて、すべてを終わらせるために。

隣に立つ鈴々とただ息を合わせ、互いの勝利を願うのではなく確固たる未来であると信じて。
この窮地を見事乗り越えて、敵であった董卓とさえも手を取り合って平和な世を築く為に。


「それでは……始め!」


審判役の男が手を振り下ろしながら叫んだことをきっかけとして、眼前の敵に向けて、命を奪わぬ、しかし必殺の一撃を繰り出した。
相手は、その勢いに押されたのか愛紗の予想通りに剣を立てて受けようとする。
その武器を弾き飛ばして、一合にて決着をつけようとさらに剣に力を込めてぶつけた愛紗。
そして、たったの一振りだけで……この長きに渡る戦いはついに決着を見せた。














「ぐっ!」


苦悶の声と共に聞こえた、があん、と大きな音は……しかし愛紗の予想とは違い相手の剣と自分の剣がぶつかったことを示す聞きなれた甲高いそれではなく、自分の口と頭蓋から響いたもののほうが大きかった。
頭部に激痛が走り、その衝撃で立っていることさえも出来ずに無様に崩れ落ちたのは、当初の予定とは違い愛紗自身だった。


「な、何故……」


薄れいく意識の中で必死に考えてもなお、、愛紗は未だ状況が理解できていなかった。
こんな現状は、ありえないはずなのだ。
自分が破れることはあれど……このような奇妙な決着などが、あるわけがなかったはずなのだ。

董卓がこちらを謀っており、たとえ白と呼んだ者の中身を入れ替えていたとしても、今の気迫体力共に十分にたぎっている自分を前にすれば、例えばその中身がかの呂布でもただの一撃で自分を昏倒させるという、このようなことが出来るはずがない。
信じてはいて、それでもなお警戒を怠っていなかった董卓の背後からの伏兵があったとしても、ここまで気付かれずに近づけるはずがない。
例えそれが、どれほど優れた暗殺者であったとしても、森の中などとは違い遮蔽物のあまりないこの開けた場所においては不可能だ。

あるいは、相手が卑怯にも一対一の一騎打ちという約定を破って二人がかりでこちらに挑んだとしても、長期にわたる幽閉で多少腕を落としたとは言え、それでも自分とほぼ同等の力を持つ張飛がそれをみすみす見逃すはずがない。

ならば……何故!
まるで妖術でも使われたがごとき予想もせぬ場所から不意に現れたとしか思えない攻撃に、愛紗の理解は全く及んでいなかった。


だからこそ、その原因たる声が聞こえたとしても、それは状況の理解ではなくむしろ混乱にこそ働いた。


「よ~し、殺してねえだろうな、鈴々?」
「えへへ~、手応えはばっちりなのだ!」


ああ、なるほど。確かに位置的に腕を振るだけで自分の後頭部を強打できたのは、鈴々しかおるまい。
左方の警戒と敵将向日葵に関しては全面的に義妹に任せ、敵に対してすべての集中力を費やしていた自分にとって、鈴々の動きは感じてはいても警戒も注意もしていなかったものであることは、確かだ。

だからこそ、今彼女が審判だった男に報告しているように急所たる後頭部を打っても殺さないようにすることが出来たのは、彼女以外いないのであるが。


では何故、張飛は……血は繋がっておらずとも、それよりも固き絆で繋がれていたはずの愛する義妹たる鈴々が、あの高潔そうだった董卓と共にあんなひょろっとした男の口付けを受けて見たこともないとろけそうな顔をしているのだろうか。
瞳がどんどんと落ちていき、段々に意識がなくなっていく中でも、彼女の頭の中にあるのは『何故』の一文字のみ。
自陣より自分と共についてきた兵たちが、董卓麾下の将とともに鈴々と共に合流した別働隊によって狩られていく悲鳴を聞いてもなおそれは変わらず、愛紗は現状を全く理解できなかった。

「う」から始まる四文字の単語を全く連想できないほどに、自分の正しさと絆というものを信じていた義士である関羽にとって、邪悪の権化たるこの河東の本当の主人である男の行ったこと―――返したはずの捕虜の中に必殺を潜ませておく。そのための今までの敗戦、そのためのこの茶番としての決闘―――など、想像さえ出来ないほど卑劣なことだったのだ。


「そうだ、俺はすべてを手に入れる。関羽も、張飛も、劉備も、曹操も、馬超も! すべてだ!」


だからこそ、玉座の上でふんぞり返り、床の上に力なく崩れ落ちているその豊かな体を濁った目で見つめながら笑う男の手によって、やがてその価値観のすべてをひっくり返されて今度は自分が義姉を嵌める手伝いをするようになるまで、ついに愛紗はその答えを知ることはなかった。



[16162] 英雄人を忌む
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2010/11/01 18:31

「いくら仮面で顔を隠したって、分からないわけないだろう」
「…………」
「今までの奴らだって、どっかで見たことあるような腕前してるし、怪しいなぐらいは思ってたんだ……そこに従姉妹が加わって戦ってるの見たら、すぐ分かったさ。何せ、お前を鍛えてきたのはあたしなんだから」


思わずもれた呟きは、間違いなく風に乗って相手の耳に届いたはずだ。
しかし、あまりにも無力なその言葉は、今まで培ってきた思い出、絆、愛情すべてを乗せたとしてもすべてをひっくり返すには軽すぎて、届いただけで再び風に乗ってかき消された。


「……そっか~。ゴメンね、お姉さま。御主人様の命令だったから、諦めてね♪」
「っ! ……いったい、いったい何がお前をそんなに変えちまったんだよ、蒲公英」


だから、その万感の思いを込めた言葉は何一つ状況を改善することなく―――馬から引きずり落とされて全身打撲だらけの状況でかろうじて槍を構えた馬超は、未だにその周囲をすべて敵に囲まれていたという状況は何一つ変わらなかった。
そして、その元凶たる少女も、覆面越しなので顔色や表情はよくわからないが、少なくともその声音は間違えようもないほどに楽しげで、少なくとも馬超の悲壮さとは到底つりあわないもの。
思いや絆、努力などよりも才が優先されるこの外史では、言葉だけでは悪の妖術を打ち破ることなど出来ない。
その事実の前では、もはや何を言っても無駄なのだ。


故に後に残るのは単純にお互いの力と力のぶつかりあいだ……すなわち、この場合は一対五、そしてそれを囲う幾重もの雑兵たち、それこそが考えるべきもの。
いかに馬超の腕が優れたものであり、いかに相手の槍が鈍っていようとも、それを上回る数の差を感情に入れて計算した結果のみが、勝敗を左右する。
だからこそ、何処か諦めたような口調で呟いて悪足掻きをすることだけが、五人もの将―――その全員が覆面を被っている―――に包囲された馬超に出来る最後のことだった。







劉備軍を滅ぼすのは、実に簡単だった。


稀代の人垂らしたる能力を持つ英雄、劉備。
この世界における最上の軍才を持つ少女、孔明。

まともに戦うとするならば、例えどれほどこちらが大勢力であり、相手が小勢力であったとしても決して油断できない、ということは、袁紹の号令によって発された必殺の反乱軍殲滅さえも利用して、彼女たちが幽州全土を支配するようになり、その力を持って官軍を退け続けたことからも証明されている。
反乱軍と官軍の小競り合いが二年近く続いたことで時間的猶予を得た三国最後の一つ、魏の曹操が、あまりにも有能すぎるとして袁紹に嫌われて洛陽から遠ざけられ、ようやく県令という地位を得て群雄の一つへと加わった段階でしかないことを考えれば、元がただの義勇軍ですらない一兵卒であった劉備の立身栄達はあまりに早すぎるといわざるをえない。

それは孔明が加わったことで運だけではない実力さえも加味されたものとなっており、もともと幽州の強力さもあいまって、現時点での兵力では曹操は愚か、袁紹にさえも届きそうなほどに膨れ上がっていたことにも現れている。
政にも軍にも策にも通じている最強軍師、諸葛孔明による連戦連勝は、戦時においてもなお彼女たちの勢力を増させたのである。
だからこそ、当初の人数としては十数万もいた官軍を押さえ込み、一人で一軍に匹敵する天下無双の呂布さえも一時的とはいえ封じ込めることを可能とし、その上でこのあと河東を吸収合併すれば、さらに勢力を増して官軍を撃破して袁紹の暴政を非難できる一歩手前までに進むことが出来たのだ。

それは、建前ではなく本気でこの乱世を仁と和によって治めようとする劉備の思想に、多くの人々が共感したからであり、その実現の為に孔明が全身全霊を使って尽力をしたからこそ出来たことであった。
紛れもなく彼女たちは英雄であり、彼女たちに率いられた兵は精強であり、彼女たちの治める幽州は強国であった。





だが、しかし。
いかに劉備が理想を人々に伝えようと、いかに孔明がそのための策を練ろうとも。
もはや、すべてが遅かった。
なぜならば、一刀の保有する妖しの術はそのすべてを無効化するのだから。

そもそも、劉備軍の軍備の要である関羽さえもその能力をいくらか減じることとなったとはいえ、そっくりそのまま彼の手に落ちたのだ。
そして、彼女たちはそのことには全く気付かず、それどころか今までどおりの全幅のおいたまま、関羽たちに接している。
今までの信頼があるとき急に変化して敵にまわるなどということになり、しかもその動きは時を置けばおくほど、ゆっくりとではあるが全軍へと浸透していってしまう。
なるほど、監視をする人数が多い上に一刀本人の絶対的安全を前提条件としているため、その数をすべて抜いて場を作るにはいささかの時間がかかることになるが、それでも中核である劉備にまでその魔の手が伸びるのも、逆に言ってしまえば時間の問題でしかない。

この状況では、劉備の徳が趙雲を仲間にしようとも、孔明の行っていた在野の武将集めに偶々華雄がひっかかろうとも、はっきり行って誤差の範囲でしかなかった。
極論から言えば、この状況下ならば時間稼ぎさえ出来れば一刀からしてみれば劉備と袁紹と曹操と劉璋と孟獲が連合してくれてもかまわないのだ。
むしろバラバラになっている現状の方が一勢力ごとに捕獲洗脳侵入支配といちいちやらねばならなくなって面倒なぐらいである。
一刀の怠惰と安楽、それと引き換えになった術の力の乱発とは、それほどまでのアドバンテージを主にもたらすのだ。

それに加えて彼が今まで集めに集めたコレクション……この影響も非常に大きい。
一人一人は能力が半減したに等しいにしても、それでもその駒のほとんどが一騎当千と呼ぶに相応しい者ばかり。
一対一ではもはや特級の武将とは戦うことが出来ないほど弱体化したとしても、それも数さえあれば補える程度の欠点でしかない。
数さえあれば孫策相手に雑兵でさえもが勝利できるのだ。ならば、五人を超える豪傑を手駒に揃えた一刀からしてみれば、後はその舞台さえ作れればそれで終わり。
数を無効化する能力を持つただ一人の例外、飛将軍呂布を除けば、もはや勝利は約束されている。



だからこそ、戦時においてもなお力と数を備えていたにもかかわらず、かくもあっさりと劉備軍は―――幽州・西域連合連盟による反乱軍は、落ちた。
例え各地の英雄豪傑にどれほどの才があろうとも、どれほどの智があろうとも、それ以上の才たる太平要術の書の支配者の前には全くの無意味だった。






「反乱軍の首魁が一人、劉備を連れてまいりました!」
「……」


縛られたまま一人の少女が自分の前へと引っ立てられてきたことを周囲の言葉で察知したことで、一刀は数々の装飾が施された豪奢な椅子に座ったまま閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
縛られた少女が、不安そうで心細そうな表情と同時にこちらを胡乱げに見ているが、それでも一刀は揺るがない。
なぜならば、彼が座るものは戦場に持ち運べるように簡易的なものであるとはいえ、紛れもない玉座だ。
そこに座るものとして、敗者たる眼前の少女のちっぽけな同様なぞにかかずらう必要など無いと考える一刀にしてみれば、この場は自分の一方的な要求を相手に伝えるだけの場所なのだ。


「あ、あなたが……董卓さんですか?」
「……」


だからだろう、目の前の女―――公孫賛亡き後、幽州軍の頭領としてこの戦争の代表者の一人であった劉備が、己に対して先に声をかけてきたときには、その先ほどから能面のように凍りつかせていた表情を僅かに動かした。
敗者が、元凶が、仇が、自分に向かって先に口を開くことなど、『間違っている』はずだ、という思いで。
その主の怒りを感じたのか、一刀が何を言うまでもなく、彼の隣に控えていた少女が先に口を開いた。


「董卓は、私です。この方は、河東の真なる主、天の御使い北郷一刀様です……控えなさい、劉備」
「天の御使い……」


かつて、『とある少女』が立っていた場所に代わりのように立っていた月は、その一言をまるで言い聞かせるかのように劉備に告げた……主たる一刀の意思どおりにまるで人形のようにただ淡々と言い含められた言葉だけを。
それによって己に告げられた言葉、『天の御使い』という言葉のあまりの大胆さと北郷一刀という名の聞き覚えのなさに、言葉を失う劉備。


そもそも、河東軍―――否、いまでは北郷軍、か―――の内情については、ほとんど世に知られていない。
詠がいた頃はまだ一刀による介入がほとんどなかったがために、軍師三人組によって組まれた高度な防諜網はしかし割ける人数の少なさゆえにそれほど機能していたとは言いがたい。
それがために、一刀の派手な行動によっては当時は民間人であった孔明に鳳統の行方などまでばれることもあった。
だからこそ、董卓あるいは賈駆の愛人らしき調子に乗っている一人の男のことならば、諜報を統括していクラスの人間にならばある程度は知れ渡っていたといってもいい。

が、例えば旧孫呉のように王城に単独で侵入できるレベルの斥候がいるわけでもない劉備軍にとって、一刀が本格的に介入してきてからの内情でつかんでいるモノは、というとほとんどがでたらめなものばかりだ。
現代人故に情報の大切さを知っている一刀が臆病さと今後の布石として、能力を大幅に減じているとはいえそれでも有数の軍師である鳳統に対して太平要術という超常の力まで織り込んで考えさせたそれは、レベルとしては以前のものより劣ったが、それを構成する質と量が全く違った。
侵入してきたものを捕獲して操って偽情報を散々流したり、捕獲したものから内情を聞きだしてさらに大勢を手駒に変えたりといった手も込みで考え上げた鳳統のそれは、もはや反則といっていいレベルでのアドバンテージと化している。
とくに、軍の統括である関羽の協力さえも取り付けられてしまった劉備軍には、もはやまともな情報など何一つ入っていかなかった。


だからこそ、事前に想定していた相手とは全く違う者が目の前に現れたこのときには、今まで考えていたいろいろな言葉をすべてすっ飛ばして、素直な感情がそのまま出てしまった。
それは、尊敬だとか、驚愕だとか言ったことではなく、ただこの多くの人々の死、という現状をもたらした絶対者へ対する疑念だ。


「御使い様……どうして、どうしてこんなことを」
「どうして、だとぉ?」


そしてそれはみずからを「主人公」であると信ずる一刀にとっては許しがたいことであった。
敗者たる彼女に許されたことは、自らの前に這い蹲ることだけであり、今となってはもはや慈悲を請う以外のすべての権利が一刀の胸先三寸のみで定められている。
そう信ずる―――信じざるを得なくなった一刀にしてみれば、その劉備の言は許せぬことだったのだ。


「どうして奪った? どうして騙した? どうして殺した? どれを聞きたかったのかは知らないが、そのどれにしても、お前に言う資格はねえ!」
「っ!!」


何せ相手は劉備……彼が得ることを望んだ獲物にして、その過程として使い勝手の非常によかった『駒』、詠の命を奪い去った高くついた買い物の結果だ。
一刀にしてみれば、支払った代価以上の素晴らしい代物でなければならない。
そうでなければ、ならないのだ。


「お前が、お前のせいで、詠が、それなのに!」
「っえ? い、いったい……何のことですか?」
「うるせえ、黙ってろ!」


だからこそ、彼女と違って自分の言いたいことの一つも察せない劉備に対する苛立ちは相当なものだった。
一刀からしてみれば、劉備という存在は賈駆の損失さえも忘れさせるほどの素晴らしい女でなければならないにもかかわらず、彼女は肉付きこそいいものの、その性格も、態度も、言葉遣いも、能力も、すべてが彼が『育て上げた』挙句に失った対価と比べれば、あまりにも御粗末であると一刀は感じた。
だからこそ、怒りはその大きさを増し、失ったものから生まれた空虚さはより大きくなって己が身を切り刻むことで、その原因に対する恨みをさらに募らせた。

だが、興奮のあまりか支離滅裂な単語を叫ぶだけとなった一刀に対して、そんな八つ当たりとでもいうべきものをぶつけられただけで取るべき態度がほとんど一刀との付き合いのない劉備に判るはずがない。
だからこそ、例え己が身を危うくするほどの怒りを買ったとしても、何とか今の自分が万民の為に出来ることを、と口を閉ざすことはなかった。


「わ、私は……皆が笑って暮らせる世界を作るために戦ってきました! 御使い様は、いったい何のために!」
「うるせえって言ってんだろうが! はっ、万民の為? だったらなんで反乱なんか起こしやがった!」
「反乱なんかじゃありません! わたしは、私は、皆を救おうと……お願いです、御使い様。私はどうなってもかまいません。だから、どうか、洛陽の人の、皆のために!」


通じない、噛み合わない。
とにかく、一刀と劉備の相性は、最悪だった。

会話さえろくに成立しないほどのそれにより、お互いの意図するところが伝わることもなければ、『己』と『民』を優先する順序が全く違うという思想上の食い違いもあって、いっそ見事なまでに噛み合わない。
一刀にしてみれば敗者である劉備はもはやただ頭を垂れて勝者のやることすべてにおとなしく従うべきであるのに対し、劉備からしてみれば例え負けたとしても何とかして自分の信ずる正義を勝者に分かってもらい、もはや舞台に立つことが許されなくなった自分の変わりにやってもらわねばならない。

それはある意味どちらも同じぐらい自分勝手な考えであったがために、だからこそ余計な反発を生んだ。


「救うって……俺は、あいつは救われてねえだろうが! 手前らのせいで……お前たちのせいで詠は!!」
「おねがいです!」
「黙れーー!!」


この外史に来てより、一刀がここまで声を荒げたことはなかった。
ここまで、他者を憎んだことはなかった。

彼にとって、もはや関羽は単なる駒だ。
詠と引き換えにして得た、そこそこ使える、だけど支払った価格にはまだ足りない、それだけの駒。
彼女が直接詠を手にかけた、ということを知らない、ということを差し引いても、関羽自身を怨んだり、憎んだり、といったことはなかった。
だから、術をかけて操り人形にした後はほとんど他の人形たちと同じような取り扱いをし、同じようにその肢体を弄んだ。
そこには、彼女の能力値や容姿に対する不満はあっても、詠を奪った相手、ということによる憎悪はなかったのだ。

それはある意味一刀の歪み―――自分自身の因果応報によって不幸が降りかかってきたということをあえて考えないということ―――を象徴するかのようであったが、だからこそ彼は自分に逆らう不特定多数を憎み、こんな因果を巻き起こした世界を怨む事はあっても、ただの駒、歴史の流れを演じる単なる役者であるはずの特定の誰かに対してその感情を撒き散らすことはあえて避けていた。
おそらく、誰が一番悪いのか、ということを考え出すならば、『北郷一刀』の名前を避けて通れないということを無意識に出会っても自覚していたのだろう。
怠惰で愚鈍な一刀は、臭いものには蓋の理論でそういった事実を避けることで、詠の死という事実をあえて直面しないようにし、その責任の所在について考えないようにしていたのだ。



そこを劉備は逆なでした。
一刀にしてみれば単なる駒であり、獲物でしかない存在であるにもかかわらず、彼に逆らうことで自らは歴史の流れに流されてきた駒でないのだ、自分の意思でもって一刀に敵対した人なのだ、と主張した。
今後の利益を考え、他人に不幸を押し付けることになっても結果的には自分の幸福さえ満たせればそれで満足だ、元が取れる、とした一刀に対して、『正しい意見』を真っ向からぶつけることによって、『どれほどの美姫を集めたところで彼女の代わりなんていないのだ』『失ったもの以上の利益を得られることなんて決してないのだ』ということに直面させたことになる。
それは、一刀が今もっとも考えたくなくて、もっとも触れられたくないものだった。


「平和を口にするんだったら、戦うな! 殺したんだったら、奇麗事を抜かすな! どれだけ平和を唱えようと、どれだけ民の為だの御題目をつけようと、お前が詠を殺したのは事実だろうが……それとも、平和の為だったら仕方なかったとでも言うのかよ、九十九人の為に一人は死ぬのが当然っていいたいのか!」
「そんな……私は、私は!」


だからこそ、一刀はそのぶつけられた相手に対する感情を隠しきれなかった。
劉備を自分の邪魔をしたただの駒、ではなく、自分の考える『詠(に匹敵するもの)を取り戻す』プランを否定した相手というのは、未だに現実を否定している一刀からしてみれば到底穏やかに受け入れられるものではない。

劉備軍に比べて、スパイをあまりにも簡単に、しかもいくらでも作り出せる一刀軍は、直接的な戦場での働きもそうだが、それ以上に情報面で優位に立っている。
だからこそ、自分自身での世界征服をたくらむようになった一刀は、何を思って劉備が幽州太守として立ち、何を唱えて戦を仕掛けてきたのかを知っている。
彼女が、民に慕われ、戦に勝ち、英雄を使いこなして蜀を打ち立てた劉備の名を冠するに相応しいだけの信念を抱いて立った、ということを知っていてなお怒りに任せて一刀はその劉備のすべてを否定した。

感情に任せて叫んだだけのその言葉の数々は、すべてを俯瞰する立場からすればおそらく鼻で笑われるようなものだろう。
孔明であればおそらく瞬時に論破出来る程度のつたない言い分であり、元の関羽であれば歯牙にもかけぬ、その程度の言だ。
もっとも、どれほど正しい言葉を述べたとしても己のことしか考えていない一刀が言うのであれば大概の言はあまりに薄っぺらになってしまうのであろうが、そういった言った立場の人間性を差し引いても穴だらけの弾劾。
少なくとも、心底万人の為を思って立った劉備に対して、それよりも優れた代案もなしに一方的にいっていい言葉ではなかった。


「お前のやってきたことは正義なんかじゃねえ! 天の御使いである俺が、断言してやる! それとも幽州の連中を賭けてもっかい俺と遣り合ってみるのか、ああ!?」
「っ! ……そ、それは」


が、勝者たる一刀が言い切ってしまえば、それはこの世界では事実に変わる。
対等の立場であれば言い返せたかもしれないその言葉も、戦に負け、兵を失い、血に汚され、義妹に裏切られた挙句に縄で縛って引き出されたという弱りきった状態の劉備に反論させないだけの雰囲気を作り出す勢いだけはあった。
元々この場は一刀に一方的な有利な状況で、端から両者は対等ではない。
相手がどれほどの正論を並べ立てようとも、一刀が感情に任せて喚きたてるだけでも議論に勝利できるだけの差が存在しているのだ。
そこを嵩にかかられては、もはや敗者たる劉備が言える言葉は何もなかった。

そして、その信念を圧倒的な力の差で無視されてしまえば、智も武も持たない劉備はただの少女に過ぎなかった。


「もういい、審問は終わりだ、とっとといつもの部屋につれてって俺が行くまでにそれなりの準備させておけ!」
「そ、そんな……待って、待ってください、御使い様! お願いです、私の話を!」
「そういうことは寝台の上で歌え! 今は精々身奇麗にしてまっていろ……衛兵、さっさと引っ立てていけ!」
「はっ!」


怒りに任せてわめき散らした後の結果として荒い息をつく男は、その事実を誰よりも理解していた。
力任せに引っ張っていかれたこの場でただ一人の人間だった少女を排除して、周囲に囲ませた人形に汗を拭かせたり、酒を持ってこさせたりしたこの男が席を立ったことで終わりが始まる。
やがて力任せに一人の少女の純潔を奪い、その心身ともに弄び、気が済むまで痛めつけた挙句に天の御使い、北郷一刀がまた新たな人形を一体作り出したことによって、ついにこの『北方大乱』は完全に鎮圧されることとなった。

そしてそれは、この男が次なる野望の為に新たな足がかりを作ることが出来たことと、同義であった。




[16162] 病膏肓に入る
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2010/11/04 20:10


程立は正直なところ、今の地位に満足しているというわけではない。

かの賈駆を失った戦いの際の責任を問われ、郭嘉と共に軍師としての資質に疑問を問われての降格となり、そのあとの戦でもその評判を挽回することが出来ずに終わってしまった。
自ら進んで指揮を取り始めた『天の御使い』の用兵術は、敗戦に継ぐ敗戦と正直理解できないものであったが、策によるものか偶然によるものか、乾坤一擲の『関羽・劉備・馬超捕獲の計』を終えてみれば完全勝利といってもいい結果となった。
被害こそ出たものの、それでも程立たちが考えていたどの想定をも北郷一刀は上回って見せたのだ。
だからこそ、勝利したことに対する喜びはあれど、降格の撤回を得られるような機会が巡ってこなかったこと、そして自分の能力が評価されなかったことに不満を持っていない、といえば嘘になってしまう。


「おや、凛ちゃん。どうしたのですか、こんな夜更けに?」
「……風、あなたを誘いに来ました。この国から逃げて、曹操様に仕えませんか?」


だからだろう。
親友とも言うべき同僚が自分と同じその境遇に耐えかねたかのように出奔を促してきたときも、それをさほどおかしいとは思わなかった。
まるで誰か見えないものに対して宣言するかのようなはっきりとした声で、凛はそうやってこの河東に住むものすべてに対する裏切りの言葉を口にした。

とはいえ、それに即座に同意するようでは今は違うとはいえ軍師を名乗る資格などあるまい。
だからこそ風はあえて、分かりきっていることではあるが、もう一度確認の為に問答を行い始めた。


「……凛ちゃん、そんなにお給料が下がったのに不満が?」
「違います! ……もう、分かっているのでしょう、風? 私は、詠様がいた頃ならばさておき今の一刀殿を主君と仰ぐことは出来ません」


そういった風の軍師としての「遊び」を察しているであろう親友は、しかしその程立の言葉に乗って自らの気持ちを言葉に乗せてきた。
ああ、やはりこういった打ったらすぐに帰ってくる感じの問答は心地よい。
お互いの気心が知れており、気の置けない友人とはいいものだ、と風は思った。

だからこそ、今後の二人の関係を変えるかもしれない相手の言葉を、いつも通り半分目を閉じ、いつでもまどろみに逃げられるように体制を整えながらも真剣に聞くことにした。
それこそが程立の自然体だと分かっているであろう郭嘉は、だからこそまるで論戦を挑むかのごとき気概でその「説得」を始めた。


「私は、例え一刀殿が幽州軍を全員なで斬りにしたとしても、そのことを即座に責めようとは思いません……それがきちんとした戦略に乗っ取ったものであるならば、それに理があると思ったのであれば決して私は頭から否定はしないでしょう。軍師の勤めとしてそういった行為の危険性に対する警告はするでしょうが」


風も凛も、一刀という異物の影響がなければ、三国の中では曹操を「選んで」仕えていた筈の人間だ。
元々流れの軍師であった彼女たちは、ちょうどそのとき非常に強力な護衛がいたこととあいまって、その気になれば孫策にでも、劉備にでも、袁紹にも仕えることが出来る立場だった。
にもかかわらず、曹操を―――そして一刀を選んだのには、当然理由がある。

それこそが、彼女たちの軍師としての立ち位置に繋がる。
彼女たちは、孔明や鳳統のように、主君に対して「義」を求めていない。
力はあっても器のない自分たちを鑑みて大器を持つ主君に仕えよう、と思うのではなく、自分たちの力さえも飲み込むまでの圧倒的なまでの力の持ち主を欲している。
無論、進んで悪党に仕えたいなどとは思ってはいないが、孔明や鳳統たちとは違い、高潔な思想や人としての魅力、優れたビジョンというものを持っている人間に仕え、その理想と現実の間の緩衝材となろうとはしていないのだ。

彼女たちが主君に対して望むこと―――それは、能力だ。
孔明とは違う形とはいえ、それでも英傑の一人としてふさわしいほど世を憂い、天下泰平を願っている彼女らは、そのための最短の方法として、強大な君主を補佐することで、一分でも、一秒でも早く天下が統一されるように願っている。
そして、その過程で出る犠牲についても、理想の為に必要最低限の犠牲は仕方が無いと考える孔明以上に、速度と引き換えに更なる犠牲が出ることもある程度割り切っている。
仮に、自分たち二人が今ここで一刀を殺し、その後自害することで即座に平和がなる、ということであるならば、一瞬たりともためらわないほどに。

だからこそ、ある外史では曹操に―――そしてこの外史では、一刀に仕えた。


「ですが、劉備に対する扱いは、いくらなんでもひどすぎるし、無意味すぎる。ああいった行いは、あの方の感情にだけしか利をもたらさない。国主として行うべきこととは思えません」


が、その信念を持ってしても、もはや限界だった、と郭嘉は語る。
凛とて、好き好んで犠牲を許容しているわけではない。最終的な結果の為の過程として犠牲が出ることも割り切れてはいるが、それでも復讐だとかそういったことを動機として、無分別に怒りを撒き散らすような真似を好むようなことはない。
英傑たる彼女は、破壊と日々の享楽があればいい、といったような一刀軍団最下層のチンピラ連中とは明らかに精神構造が違うのだ。

その彼女にしてみれば、劉備―――桃香に対する一刀の扱いは、常軌を逸しているといってもいい。
英雄色を好むとはいうが、自分の目に入った件だけであっても、その辺の貧民ではあるまいし野外で見せ付けるかのようにだとか、革でわざわざ拘束具を作って四六時中連れ歩くなど、女として嫌悪すべき行為ばかりだ。
あまりに危険な行為を見ると即座に気絶してしまう凛の性質上、記憶にあるものだけを聞くならばそれほどでもないように聞こえるかもしれないが、噂で伝え聞く範囲であればもっと肉体的にムチを打ったりといった以上の想像するだに恐ろしいひどいことすらも劉備に対してやっているらしい。
あれはもはや、詠と彼が交わしていたというようなじゃれあいの一環としての性行為ではなく、確実に桃香に対して苦痛や屈辱を与え、その人格を傷つけることを目的としているとしか、経験の薄い凛をして思えなかった。


「詠様には申し訳ないですが、大局を見ることが出来ずにただただ感情のままに走る主に仕えたいとは思えません……あなたはどうなのですか、風」


暗愚なだけならば、統治機構の構築さえきっちりとやっていれば配下が補える。御飾りでいてくれる、というのであればある程度は我慢をするだろう。
だからこそ、詠がいてきちんと彼のフォローができていた時代であれば、凛は一刀を許容していた。
だが、暗愚でしかも暴君となれば、その臣下の扱いさえも微妙になってしまうならば、これは彼女の思想―――「力による平和」に合わない。
そんな考えのないただの暴力では、天下泰平のための原動力になるわけがないからだ。
そんなものであれば、きっといつかは足元を掬われて、失敗するに決まっている。


だから凛は、自分が見切りをつけたことを親友たる少女に告げたのだった……帰ってくる返答をある程度予想しながら。


「風は、ここに残ろうと思っています~」
「……なぜですか? あの方にあなたを使いこなせる器量があるとは思えませんが。現に、あの諸葛孔明でさえもあの方の元ではいささかその頭の冴えを鈍らせているように思えます」


自分と違う結論を出した親友に対して、凛は問い返す。
今まで、二人はそれなりに長い時を行動を共にしてきた。が、だからといって二人は同一ではない。
だから、お互いの考えがある程度読めるようになって来た今でも、言葉を交わす、という手間を省こうとは思わない。
それを受けて、いつも通りのゆっくりな口調で風は自分の考えを述べ始める。


「それでも経緯はどうであれ、お兄さんは結果を出しているからなのですよ」
「それは……」


思わず言葉に詰まる凛。
それは確かに、否定できない言葉だった。
そのことを、あえて説明するかのように風は言葉を続けた。


「いかなる手段を用いたのかはわかりませんが、敵将を降したのみならず、手中に収め、それを使いこなして更なる戦果を上げているのは紛れもない事実なはず~。上司一人生かせなかった風たちとは違って、結果だけを見るとこの戦争を使って最上級の利益を得たのは間違いなくお兄さんなのです……ならば、劉備殿一人のことなど、些細なこと、かと~」


その言は、確かに正しかった。
官軍は呂布を除いて軒並み名を落とし、幽州は壊滅して実行力を持って河東へと吸収された……おそらく、のちには宮廷にも正式に認可されるだろう。
西域連合は撤退を許されたが、それでも甚大な被害と人質を出すことを余儀なくされた。
この戦争において、戦争には強く、降将さえも厚遇し、新兵器を多数有し、寡兵で大軍を破った、と世間で噂されるようになった河東は、いまだ洛陽からの恩賞がない今でも人と金と物が集まり、急速に発展を始めている。
失った物は得たものから考えると、ごくごく僅かなものでしかない。少なくとも、数年も立たずに取り返せる程度のもの。

そして、それらすべてに詠の死の責任として降格された彼女たちは関わっていない。
みんな彼女たちが暴君とみなしている一刀が立案し、計画したものだ。
勿論、そんなことがあの一刀にすべて出来るとは思えないから、おそらく今は彼の腹心として遇されるようになっている雛里だとか公孫賛だとかが協力したのだろうが、それでもその反乱者だとか敵対者だった過去を持つ彼女らを配下にしようと決断を下したのは一刀であり、そしてその説得を成功させたのもまた、一刀だ。
彼女たちも陣営が変わって少々働きづらいのか、かつての能力から考えればいささかその力を落としているように見えるが、それでも数は偉大だ。
今回の戦争で武将・軍師クラスの人間を何人も確保できたことにより、一辺境であった河東は急速に強国としての道を駆け上がり始めた。

ここ数週間の劉備に対する乱心はさておき、少なくとも彼はこの戦争全般で見てみるのであれば、風や凛が考えていた最上のものよりも遥かに上手く、敵将を直接味方に付ける、といった尋常では考えられない手段によって結果を出している。
そう、いかなる手段を用いたとしても、いかなる犠牲を強いることとなっても、最速で、現実的で、不動の統一国家を作るために必要な、強力な力を持つ君主、という彼女らが掲げる条件に北郷一刀という男は合致している、と風は主張したのだ。


「つまり、理にかなっているのですよ、風たちに許容できない……理解できないあの行為のすべてが」
「ですが、それは単なる結果論ではないですか? 邪道が運良く上手くいっていることと、意図を持って正道をはずしていることは違う。あれではいつ一気に悪い方向へ行くかまったく分からないでしょう」


だが、それには即座に反論が飛ぶ。

確かに一刀の行為には、明確なビジョンがない、ということは風としても気がかりだった。
個々の政策などについては、雛里などによる修正を得ているためか完璧とは言わないまでも十分に練られたものであり、それによって利益が上がっているのは分かる。
だが、君主としての何か目指すもの、天下を統一して何をなしたい、という動機の部分で邪欲しかないように思える一刀の出す政策には、一貫性がない。

唯才是挙のような身分に関しては考慮しないような能力重視の政策と共に、累進税制だといった稼いでいるものほど税が重くなるといった能力の差をなくして公平を求めるような政策も出されている。
組み合わせの妙か今のところ致命的な不都合が出るようなことはないものの、それらの発想の大元となったものが、風と凛をもってしても見えてこない。
平等公平を是としているのか、弱肉強食をその基礎としているのか……自らの地位を最上級、絶対不可侵のものとしたいのは目に見えて分かるのであるが。
その一つ一つは確かに考えたこともないような先進的なものであっても、そのすべてに共通するものがないために何処かちぐはぐで、まるで知識だけを聞きかじった者が適当に並べ立てたような不自然さを感じさせる。
強力な統率力でそういったことによって生じる障害すべてを一刀が押し込めていられる今はよいが、将来も、となるとそれは気にせざるを得ない要因の一つだ。

いつの時代であっても、その行動の根本となるべき思想は大切だ。
それがあるからこそ、たとえ失敗したとしても耐えることが出来るのだ。非難されても、とどまることが出来るのだ。
すべての物からよい所を取って、平衡を崩さないように積み上げる、というのは傍目からすれば一番いいようには見えても、やはり何処か矛盾を抱えているものであり、そこを突かれればたったの一箇所であってもガラガラとすべてが崩れ落ちていくことだってありえる。
例えば、今の怒りに任せて劉備を嬲る一刀であれば、何らかの気の迷いでせっかく手に入れた関羽や張飛などを処刑する恐れがある。そうなってしまえば、またも河東は弱国へと逆戻りだ。
あるいは、もしも何らかの病などで一刀が死んだ瞬間に、どれほど天下統一へ王手をかけていたとしても国家すべてが一気に瓦解しかねない危うさがある。

うわべだけを取り繕って形を取り繕ったような一刀の立ち位置に、不安を覚えた凛の危惧は確かに間違ってはいないだろう。
復讐だとか、性欲だとかを前面に出して、天下の統一を目指してしまえば、それらの糸が途切れたときに天下泰平がまだであったとしても、そのまま投げ出しかねない。
それは凛にとって、主君として仰ぐには無視しきれないだけの大きなリスクだった。
彼女が求め思い描く「力」と比べると、致命的なまでの欠陥であり、弱点だ。


「風は、一度も転ばない可能性があるのではないかと思うのです。性格はさておき、能力は確かなのですから……あの、詠様も認めるほどに」


勿論、風もそのリスクについては気付いていた。
違ったのは、そのリスクの評価方法だ。
凛が巨大と評価したそのリスクについて、風は詠のことを考えて、それは己でカバーできる範囲であると評価した。

伝え聞くどの勢力よりも今や高名で、各種の国力増強手段にすでに着手しており、宮廷での覚えもよく、今回の戦で吸収した兵力により軍事的にも成長を続けるこの勢力は、天下に手をかけるには十分すぎるだけの基礎がある。
後は運用さえ間違わなければ、確実に天下が取れるであろうという確信を持たせたこの戦を前にして、風はそれが潰れるかもしれない危険に対し、自分が補えるのではないか、と考えたのだ。

自分たちに比べて能力が圧倒的に劣る、ということはないであろうが、いまや盲目的にあの男を信奉するようになった孔明や鳳統しか回りに置かないようでは、一度落とし穴があれば立ち上がれないほどの打撃を受けるかもしれないのは確か。そこを凛の言葉が危惧しているのも、勿論よく分かる。
だが、現在天下泰平への競争に最速で駆け抜けているこの勢力は、落とし穴に落ちなければおそらく確実に勝利を手に出来るのであれば、落ちたときの回復については考えずに、落ちないように細心の注意を払うことに全力を注ぐべきではないか…………かの、賈駆のように。


「恋心、というものが混ざっていた性で多少歪んでいた気はしますが」
「凛ちゃんの危惧ももっともだと思いますが、風はこの直感を信じたいのですよ……結果的に乱世が最も早く、最もいい結果で終わるその未来を。だから、風はもはや迷いません。全力で持ってお兄さんを助けます」


そのことについても考え付いてはいたのであろう凛は、だからこそ風の言を聞いてもはや説得しようとする態度を取りやめた。
彼女たちは親友でははあるが、同一ではない。
ともに歩むには不足のない同僚であろうと、重ねる夢が限りなく同じであろうと、その実現の為の手段まで全く寸分たがわず同じでなければならない理由というものは、ないのだ。


「私はそこまで信じることは出来ませんよ……とはいえ」
「ええ、これ以上は平行線なのですよ~」


故に、二人の言葉はここで分かれた。
互いに殺しあう悲惨な結果になろうとも、それでも求めているもののためにその覚悟を決めたのだ。
だがそれを、二人は悲しいことだとは思わなかった。

自分の才を生かすためにそれを使いこなす主君を求める、戦場にて己の名を挙げる。
そういったことは、二人にとってはあくまで過程だ。
一刀とは違い、英雄と呼ばれ歴史に名を残すに相応しいだけの高潔さを持つ彼女たちにとって、最優先とされるのは強力な君主による大陸の絶対的な平和。
己の身の安全はもとより、親友を案じる友としては当然の心さえも、その目的の為であれば一歩引かせる。
それこそが、戦場において何千、何万単位での敵兵とともに味方までも死なせて行った彼女たちに残る矜持である。

だからこそ、風は凛を見殺しにすることを肯定し、凛は自らが犠牲になることを許容した。


「……最後に聞きますが、風。ひょっとして、あの方を愛しているのですか?」
「そう行った側面が無きにしも非ずといえないこともないかもしれないといわざるを得ないような気もしないでもないです~」


もって回りすぎた、風の言葉。
だが、凛は笑わなかった。その言葉に込められていた表面上以上の意味を察したからだ。
それを聞いてもいつも通りに表情を引き締めて、一つ頭を下げてその後まっすぐに瞳を向けた後、最後の言葉を述べた。


「そうですか……風、どうか気をつけて」
「ええ、凛ちゃんも……それと、ごめんなさい」
「謝らないで下さい、風。これが私の役目、天命だったのですよ、きっと」


その謝罪の意味を知っている者は、二人だけ。
彼女たちの今の主である一刀も、凛がこれから主君と仰ぐこととなる曹操も、天井裏でひたすら二人の言葉を盗み聞いていた密偵にも、分からぬであろう言葉。

だが、二人にはそれで十分だった。
例え過程が違っても、どちらかが犠牲になろうと、重ねる夢が同じであり、そのためお互いに最善を尽くことを固く誓っているのであれば、このひょっとすると永遠となるかもしれない別れも、意味を持つ。
装信じて、二人はこうして今生の別れを終えた。

こちらに向かって最後に一礼して退室していく凛を、例え扉で見えなくなってもなお風は見つめ続けた。
意図は伝わった、伝わっているはずだ、と信じながら。


「……風は結構嫉妬深いこと、話した事なかったけどきっと知ってましたよね」
(いつかきっと、助けてみせます……いつになるかはわかりませんが)


小さく呟いたそれらの言葉は、きっと今なお耳をそばだてている何人かの一刀の『耳』には聞こえなかっただろうし、万が一聞こえていたとしてもきっと内心の声までは察知できない彼らでは、意味が理解できなかったはずだ。

未だその胸になくした少女への思いを保ち続けている男を愛せるほど、風の心は広くはない。
故に、風からしてみれば一刀は恋愛対象外だ。
それを凛がおそらく知っているであろうことを前提にすると、わざわざああいった問いを最後にしてきた凛の言葉の意味はこちらへの最後の確認だったと風は確信していた。






今の河東の急成長振りと不自然なまでの敵対していた武将たちの加入、一刀に指示された兵が真名を預けられたわけでもないのも関わらずことごとく死兵化することにそれによる戦闘力の一律の低下、異常なまでのその諜報力と忠心厚いであろう相手の間諜の取り込みによる防諜。
一部市民の奇妙なほどの支持と、反乱に対するあの男が出たときの説得の成功率。

いったいどういう手段を取っているのかは、いまだに分からない。
いったい何をすれば、そんな結果が得られるのかも、分からない。
その手法を知られることをよほど恐れているのか、病的なまでの警戒を取っている河東中枢部まで風も凛も食い込むことが出来なかった二人では、その方法はいまだに不明だ。

だが、内側にいるが故に手に入れることが出来た、それらすべての情報を総合して考えるのであれば、きっと二人は同じ結論に達した。


心を操る。
そんな邪術が「天の御使い」にはあるのだ、という結論に。



理解すればあまりにおぞましく、しかし監視の目を恐れて今の今まで話し合うことも出来なかったこの事態に、二人で取るべき対策としては、いったいどうすればよかったのか。
ゆっくりと、しかし急いで自分も部屋を出るために服装を整えながら、風は今も考えている。

裏切りともいえるその一刀の行為を、董卓の前で告発すればよかった?
愚策なり。
もはや董卓も術中に落ちていると考えるべきだ。劉備軍もおそらく丸ごと取り込まれている現状で、いったいどうやって告発、排斥まで持っていけるというのか。

その秘密を、民に向かって暴露するべきだったか?
それもまた、愚策。
町に紛れ込んでいた旧劉備軍が元の主君の扱いに耐えかねて起こした反乱さえも言葉一つであっさりと治めてみせたというあの男に対抗するには、どれほどの民を扇動せねばならないのか。
ただの一文官である程立と郭嘉に、そんな時間も力もない。

二人で、その危険性を各地の諸侯に伝えるべく走るべきだった?
かわらず、愚策。
外部からの侵入を防ぐべく、河東全域にわたり形成されている国境兵、警備兵、宮廷兵、諜報兵による幾重もの守りは、内部から逃れようとするものにも等しく壁となる。
身体能力的にはきわめて劣る程立と郭嘉が、二人になった程度で逃れられるものではない。
当然、手紙による連絡も、おそらく検閲されている以上意味がない。

これら、発覚すれば即座に自分たちも反乱を首謀したとしておそらく洗脳されるであろういくつもの策を、それでも何とか抜け道がなかったのか、と考え続けながら風は部屋を出た。
だが、その重い足取りが進む速度以上に妙案への道は見えてこない。


劉備の前でこそ感情的になっていたが、こうやって考えてみると一刀は実に狡猾な君主だった。
自分しか持たぬ心を操る術という利点を最大限に活用する為に、最大限現状手持ちの兵力を活用することを考えて運用している。
命さえも捨てさせるその術を、軍事にも、内政にも、諜報にも利用して、自分を絶対者とする体制を作り上げ、それを覆すものの存在を憎悪するかのごとき執念で防ごうとしている。
今この状態となってしまえば、自分たちのような木っ端役人が術のことを知ったとしても、何もできないであろうという自信さえ見え隠れしていた。
それを考えるに、おそらく凛の出奔は失敗する。そして、それを凛も分かっていたはずだ。
だから、風は凛と行動を共にせず、その行動を止めもしなかった。



二人が考えることは、天下万民の安寧。
そのためには、己の身は愚か、親友の身さえも惜しくない。
お互い、そう思っている。
そして、口に出す一刀への評価こそあの『耳』たちを気遣って違ったものだったが、お互いにこの状況を考えに考えた結果として、二人の方針は同じ方向で固まっていた。

逃げようとしたり、歯向かおうとしたとしても、ここ河東にいる限りはもはやすべてがあの男の支配下だ。
この状況下に入ってしまった風たちのような人間にとっては、もはや味方になるか、あるいは味方に「ならされる」か、という選択肢しか残っていないのだ。
そして、真っ当な手段によって二人が彼の身辺に寄るには、今の地位はあまりに遠すぎ、今の時期はあまりに遅すぎた。
軍師である彼女たちの隔絶した能力、というものは、戦場において極めて分かりやすい力を持つ武将たちとは違い、あまりにそれを目立たせる手段に乏しい。ましてや、自分たちには「詠を助けられなかった」というけちが常について回ってしまうのだ。
こんな地位では、この程度の信頼であれば、一山いくらの駒としていつ適当に洗脳され、適当にその身をもてあそばれ、適当に捨てられるか分からない。
たとえ操られるとしても有用に使われるならばさておき、使い潰されることは彼女たちの夢からして、決して許容できることではない。


随分遅い時間にもかかわらず、いまだに中から嬌声が聞こえる一刀の私室。
その前に立つ元は敵だった、今なお強力な武力を持つ警護兵役の武将二人に対して、風は気合の入った声をかけた。

ならば……もはや、逃れえぬというのであれば。
このまま進めば二人とも洗脳され、その能力を落としてただの駒にされてしまう―――その結果として天下統一が遅くなるというぐらいであれば。


「お兄さんに取次ぎを願えますか? 郭嘉のことで、至急の案件がありますゆえ~」


せめて一人は変わらず残り、駒となってしまったもう一人をも使って、可能な限り最速で河東による天下統一を目指すべきなのだ……例え、友を売った愚者、と良識ある人々に噂されることとなろうとも、自らは消え友にそのような汚名を着させることになろうとも。
その結果として一日でも速く平和が訪れ、一人でも多くの人々が助けられる、というのであれば厭うことなどなかった。

程立は、この河東の情報を持って逃亡を図ろうとしている郭嘉のことと共に、その行動と一刀の力を利用して『そこそこ優れた軍師』を敵軍に送りつけ、獅子身中の虫とする策を持ってこの河東の支配者に対して上奏を始める為に、唇を唾液で湿らせた。
これから、暗い瞳で笑うようになって来た淫行に耽る男の前に立ち……凛がお膳立てしてくれたように、親友さえも売るほどに忠心厚い臣下である―――例え、術のことを知っても裏切らないほどに一刀に惚れている、代用品としての―――軍師を演ずるために。


「…………どうした、風。俺の命でも奪いにきたか?」
「御戯れを~。夜分遅くに申し訳ありませんが、至急お伝えしたき議により参上したのですよ」


すべては、天下泰平のために。





[16162] 蟷螂の斧
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/01/16 13:09
誤算だ。非常に大きな誤算だった。
ごくごく簡単な最後の一手だったのに、相手の出してきた駒の予想外の性質と、それに応じて間髪要れずに打ってきた対手の腕前を考えると、残念ながら悪手であったといわざるを得ない。
初めから知っていれば、あるいは今まで集まった情報からこういったことを僅かなりとも予想していれば容易に防げたことを考えると、駒の打ち手である己の失態は随分と大きなものである。


だが、こうなってしまった以上はしかたがあるまい。
元々、全面戦争においても勝つ自信はあったのだ。ちょっとした不手際によってその事情に変化が生まれたところで、こちらの勝利はきっと揺るがない。

自分こそが英雄。
己こそが、この世界の覇者たる唯一の資格を持つもの。

どこからかは分からぬが、間違ってしまったこの世界を正すのは、己自身の力によってなさねばならぬもはや義務である。
そう、考えている。







「あと問題となりそうなのはまず袁紹……あと曹操、そして劉璋か。おまけとしちゃ南蛮とかもありだが」


各地の情報を集めさせていた密偵からの話を聞き終えた一刀は、そう誰に言うともなしに一言呟いた。
心を操っているものも半数を超えているとはいえ、流石に素体として各軍からの精鋭を使って作ったその諜報兵は呪いによる能力低下を受けてもなお、かつてのチンピラ密偵とはレベルの違う情報を持ち帰っていた。
能力を落としたとしても流石にチンピラ連中とは元々の数値が違うこともさながら、主君を抑えたことによって忠誠を得られることとなった公孫賛や劉備、馬超らの配下だった一般の兵によって基本的な仕事をさせ、それに紛れ込ませた一刀に対して絶対の忠誠心を持つ洗脳兵によって彼らを監視させることで反乱を防ごうとする仕組みが上手くいっていることもあいまって、今の河東は強力な軍事力、諜報力の保有に成功している。


詠が残した二毛作もようやく西域連合の一地域で細々と生育していた麦と一般に流通しているものよりも味は落ちるが収穫量の多い河東の米の相性がいいようだ、ということがわかり本格的に採用、その第二期の収穫を成功させたことによって財政的にかなりの余裕を作り出した。
自然の恵み、というあまりにも大きなそれは、一刀の考えた中途半端な商売上の知識など問題にもならないほどの利益を呼び寄せたのだ。

その実績と戦争での評判、一刀がことごとく敵対組織を吸収していることによる治安のよさ等などの誘蛾灯に引かれて誘うまでもなく各地から集まった商人たちとそれによって生まれた市場の活気は、もはや洛陽にさえ劣るまい。
当然税収もうなぎのぼりであり、それどころか集まった商人の幾人かを洗脳することによってその税収さえも霞むほどの資金や資源も、彼らの本拠地があった洛陽などより密かに奪い取ることにも成功した。

例えそれが、連作障害によって土地が急速に痩せ落ちるまでの一時的なものであったとしても、戦争で失ったもの以上の資金を手に入れた一刀からすると、先の情報と合わせてそろそろ防衛ではなく本格的な侵略の開始時期に思えた。



機会は来た。
ならば、もはや戸惑うことなどありはしない。

今の一刀は、もはやかつての怠惰な男ではない。
桃香に対しておこなっていたように、あるいはこの手の中よりすり抜けていった少女の影を追う悪夢に怯え眠れぬ時を肉欲で誤魔化している夜のように、日々の享楽を否定することこそないが、かつての安楽な日々と比べて彼の第一目標は確かに変わった。
ただ、与えられるエサを求めて口をあけて待つだけではなく、自ら獲得しようとするその動きは、その結果として生まれる物事か世間からすると望ましいかどうかはさておき、確かに君主として正しい形である。

失ったものの痛みを忘れんとするがように精力的に影の君主として動き出した一刀は、確かにその一般的な能力こそそれほど高くないものの半端とはいえ紛れもない未来知識とこの世界からすれば異質な発想、そしてそれを現実へとかえる大いなる手助けをする妖術書という特異な環境によって君主として優れた力を発揮しだしていた。


「はい。ですが、劉璋さんは領土こそ広いもののそれほど警戒する必要はないのではないでしょう……南蛮は論外ですし」
「私も雛里ちゃんの意見に賛成です。おそらくこちらから攻め込まなければ今の河東相手に進んで敵対するだけの気概は無いと思います」
「そうか? 私は楽観が過ぎるのは危険じゃないかと思う。太守だった頃に一度会ったことがあるんだが、欲が強そうな男だったから何がきっかけでこっちにくるか分からないぞ」
「……公孫賛様、地理的なことも考えてから喋った方がいいのではないかと愚考するのですよ~」
『にーちゃんに注目してもらいたい気持ちはわかるが、ちょい落ち着けや。そもそも、どんだけ離れてると思ってんだよ、間に洛陽挟んでほぼ正反対じゃねえか』
「ぐっ……わ、悪かったよ!」


そして、その発想を支えるブレインも彼のところは他の勢力とは桁違いに充実している。


鳳統。
孔明。
公孫賛。
そして、程立。


順番に喋る彼女らの名は、この物語を聞くものにとってもはや知らぬものもおるまい。
その大半が生来のものと比べるとかなり能力を落としているとはいえ、それでも英傑。
人形ゆえに一刀が作った原案を否定するようなことはほとんどないが、それを最適な形で現実へと変えてくれる彼女たちさえももはや一刀の力である、と考えるならば侵略をたくらむにもはや十分なものを彼は持っているのだ。

集めた情報を鳳統が纏め、それを元に孔明が出した大方針を、公孫賛がこの中では己のみが知る知識で、程立がその知識で補足していく。
それは確かに、一刀の邪術によって能力を落とした者たちによるものであるが、同時にこの世界におけるどんな軍師が考えるよりも合理的な、能力と数を単純に掛け算した高度な段階における人海戦術による群議だ。
さして高くもない能力さえも上司に制限されてしまっている袁紹軍のものや、強大な君主とそれに仕えるたった一人の天才、そして密かにその足を引っ張る獅子身中の虫によって作られる曹操のそれよりも、遥かに優れたものである。
当然ながらそれは、怠惰な主君とそれに消極的に仕える宿将たちによる決定や、野蛮で原始的な君主制の元となる野生の勘などとも比べ物になるまい。

例え、妖術によってその四肢の半分を縛られているとしても、この場こそがこの世界における最高の知能の集合だったのだ。
だからこそ、そこから生まれるのは油断ともいえない強力で、相当で、不可侵な方針。


「程立さんがおっしゃってくれたように、場所のことも考えれば現時点では劉璋勢力は無視できます。無論、これは相手の都合であってこちらから攻めるには何の問題もないのですが……」
「誰がいるんだった?」
「劉璋麾下には厳顔と黄忠という名が確認されているようです……ただ、劉璋さんは男性ですし、黄忠という方は子持ちとの情報もあります」
「……打って出たとしても賭けになるか。戦力的にも、俺の趣味的にも」


君主たる一刀自身の色欲が多大に入った侵略計画とはいえ、それを許すだけの余裕があるからこそ彼の人形たちも絶対服従と現状の乖離の結果としての消極的な反対ではなく、選択肢を提示しての賛成へと回っている。
だからこそ、史実において優れた将ではあるもののそれは年齢がゆえの老将であるとされていた厳顔、黄忠の情報を一刀から受けていた彼のブレインたちは、一刀の戸惑いさえも余裕で受け流してこの案と並列して並べる他の二勢力についても弁を述べる。

せっかく頑張って手に入れたとしても、得られる者が年増かもしれないからやめておくか、程度の理由で劉璋への侵攻を取りやめてもなんら意に介さないほどの力量を、その空気は確かにかもし出していた。


「おっしゃられた『正史』を元に注目をしてはいたところ、確かに曹操さんは傑物だと思います。こちらの精強ぶりを見てか二毛作の開発に取り掛かっているとのことです」
「内通者の……郭嘉より流されてきた情報から考えると、おそらく鐙と撒菱についても技術的にはすでに取り込んでいると見てもいいかと~。ただ、勢力的にそれほど大きくないので騎馬の大規模な運営は難しいとも風は見ているのです」


そして性質の悪いことに、それすらも可能とするだけの力を彼らは持っていた。
それは例えば、彼らが警戒する曹操と比べてもそうだ。
確かに自分達の敵である、と彼らは認めてはいるが、同時にそれは挑戦者を見つめる王者の目に他ならなかった。

曹操は確かに傑物だろう。
公孫賛と馬超による北方大乱の悪影響を完全に回避し、それどころかその戦場跡より密かにこの河東の秘密兵器のいくつかを盗み出し、一刀の魔の手から逃れたものたちを囲い入れたその手腕は、結局いいところがほとんどなく実質敗退して名を落とした袁紹や、かつての一刀と同じ方向性で怠惰に時を過ごし嵐が過ぎ去るのを待った劉璋とは比べるまでもない。
例え現時点では小勢力―――じょじょに領土を広げつつあるとはいえ、幽州を吸収合併した河東と比べると、実に半分以下の版図しか持たない―――でしかなく、袁紹に背後から突かれる事を全く考えなくてもよければ一息で踏み潰せる程度の力しか持っていないとはいえ、決して油断していい物ではない。

だが同時に、彼女の根本は理性だ。
例え一時の屈辱を受けたとしてもそれによって今後の十年が富むのであれば、馬鹿相手に頭を下げることを厭うようなものではない。
その誇り高き精神の裏では激情の炎を燃やし続けていたとしても、それを完全に隠し通して牙を研ぐことの出来る人間であろう、というところまで分析が終わっていた彼らにとって、曹操への対策、というものは一番語りやすいものだ。


「まあ、袁紹との仲も最悪だったからなあ……あの二人が組むってことは考えなくてもいいんじゃないか?」
「そうなのですか……ならそれでもなお、現時点で袁紹さんに頭を下げていることを考えれば、結局洛陽を落としてしまえば曹操一派も、ということになると思います」


曹操の強さは、結局のところそのステータスの高さ、生まれ持った天才性によるものがほとんどだ。
政治にも、軍事にも、文化にも精通している万能の天才と名高い彼女は、だからこそその恵まれた才能を生かして正面からその才に劣る人間を叩き潰すことをもっとも得意としている。
この外史において将として武の面で最強を誇るのが呂布であるならば、智において最強を誇っていたのが伏竜鳳雛ならば、君主として最強を誇るのが彼女だ。
それは、一刀が知る三国志、三国志演義の中で最大の敵役として出演している「曹操」という人物では語るまでもないことであり、多角面から集めた情報によって彼が幻視している「曹操」という少女への認識をそのまま表している。


「今もなお、曹操が公孫賛さんの話通りの人物であればおそらくその推測は当たってると思います」
「たやすく人に頭を下げるような方ではないでしょうが、同時に勢力の力量差を考えずに突っかかってくるようなこともないかと~……まあ、多分いずれ復讐してやるまでは預けておいてやる、と思っておられるでしょうけど」


だからこそ、おそらくまともに時間を与えればその天才性によって土地を富ませ、人材を集め、兵を鍛えるというごくごく真っ当な、正統派の手段を誰よりも上手にこなして他の誰よりも早く強国を作り上げて挑んでくるに違いない。
同条件ならば誰よりも上手にすべてを動かせる、ということこそが彼女の強み。
それは確かに、反乱軍であった幽州・西域連合などや、あるいは一地方組織の長である董卓が率いていたころの河東にとっては強力な敵対者であっただろう。
そして一刀がそういった立場に寄生するものであれば、今後の勝ち負けを必死になって占い、どうにかしてそれを潜り抜けることを企まねばならなかったのかもしれない。

だが、彼にとってそれはもはや過去のもの。
己自身が君主として君臨するこの現在の河東において、「同一条件なら」最強である曹操など、もはやすでに対等ではないのだ。



曹操への対策は、実に簡単だ。考え付くだけだったら誰でも出来る。
それが実現できるかどうかはさておき、方針としては凄く簡単に決まる。

力によって弱者を叩きのめしてきた強者を倒すには、すなわちその強者以上の力を持ち続ければいい。

多少の力量差ならばその優秀さでひっくり返せるものを相手とするならば、そんな個人の優秀さではどうにもならないレベルまで戦いの段階を引き上げてやればいい。
英雄には数を、力には策略を持って戦うのか一刀の……この外史における北郷一刀のやり方だ。
だから、誰でも考えつくような単純な手段、戦いに勝つためには相手よりも圧倒的に強ければいい、という論理をただただ求めていけばいいのだ。

どんな策を練ろうとも、どんな陰謀を張り巡らせようとも、そのすべてを無駄な努力と笑えるだけの力があれば、真っ当な、勝算を考えてから戦いを始める能力に誰よりも長けた曹操は、決してこちらに歯向かえない……戦えば滅ぼされると分かっているからこそ、今袁紹に対してイヤイヤながらも頭を下げているように。

そして、曹操にとっては一時の忍従を、騙し打つかのように永遠の隷属へと変える力を一刀は保有している以上、もはや勝負は決まったも同然だった。


「ってことは……ようし、決まりだな。次の狙いは、袁紹だ。大陸最大を倒した後になら、例え三国最強相手でもどんな風にでも場を作れる」


孔明、鳳統、公孫賛はすでに絶対服従。
程立は術こそ掛かっていないものの、郭嘉を捕らえたときに聞き出したことやその後の行動を考えると、内心はどうであれ天下統一までは従うものと考えられる以上、監視さえ強めておけば問題ない。
例え何をたくらんだとしても無力だということを思い知ったからこそ、彼女たちは自分達の信念とする力による天下統一にどうにかして一枚噛む為に、信用と時間を親友の身でもって購うことにしたのだ。
ならば、少なくとも今はこちらを邪魔することはあるまい。
周囲すべてを洗脳兵で覆ってしまえば、もはや内心程立が何を考えていたとしても障害にはならないし、そのことを知っている彼女が裏切ることもないであろう。


「はい。おそらく袁紹を倒した後ならば、強く求めれば護衛付ではあっても下の立場のものとして召喚に応じるとおもいます」
「なら、例え夏侯姉妹がいたとしても、その状況ならば御主人様が術をかけることはきっとできましゅ」
「ま、いざとなれば捕らえてしまえばいいしな」
「……必要とあれば、郭嘉から働きかけさせてもいいでしょう」


だからこそ、こういった戦略すら、この場では立てられた。

この現状において一刀の悪党らしい猜疑心、用心深さは己が状況を明かした上で策を立てさせることを是とした。
すなわち、未来知識の保有を明かし、妖術の使い手であることも隠すことはなかった。
ただ一人、知られたくなかった少女がもはやいない以上、その行為によるディメリットなどごくごく少量だと考えたからだ。
太平要術によって反乱を関知できる能力を持ち、それを防がせることの出来る駒を保有している彼の考える効率の上ではそれこそが最上であり、事実それは正しい。
実際に彼の人形たる孔明たちはそれに対して動揺することはなかったし、もはや逆らえぬ程立とてもそれを明かされたとしても、それを承知で配下に加わったのだ、と郭嘉を手土産に彼の前に這い蹲ったときに言った以上動揺するわけにはいかない。

故に、彼女たちの中では、『三国志』『三国志演義』での登場人物たちの人物像はある種当然のように語られ、それを元に各地の情報で肉付けされたこの世界の英雄たちを倒す手段の一つとして、当たり前の前提として一刀の妖術が語られる。
各地の豪傑たちがいったいどういった方針を取るのかという大筋が分かっており、大体どのあたりで倒されるのか、ということを分かった上で、いつ、どういった場所で対面すれば確実に堕とせる必殺の一撃を放つことが最大効率化、ということが一切の躊躇なく協議される。

そこには、他人の人生を勝手に推し量る尊大さも、他人の心を操る邪術を何の躊躇いもなく振るう傲慢さも、一切考慮に入れられない。
一刀が作った、彼だけのための、決して最大多数の最大幸福などとはいえない天下統一への道だけが彼と彼女たちによって決められる。


だからこそ次のターゲットが袁紹に決まった。
君側の奸であるとして袁紹を倒し、袁紹を倒す武力とそれの裏づけたる宮廷上の地位さえ確保してしまえば、曹操を呼び出して操ることなど簡単である、として。
いまだに弱小である曹操など戦っても勝てるが、そんな面倒を省く為に袁紹を潰した後にゆっくりと正面から降伏勧告をして降してやればいい、と思って。


その驕りによって生まれた多少の計算違いなど容易く踏み潰せることを、一刀は信じてやまなかった。
それは事実、正しかった。
多少の計算違いならば間違いなく力技で正面から踏み潰せるだけの力を、今の一刀は保有していたのだから。



そうそれが、『多少』ですむ範囲であれば、間違いなく一刀の勝利はこの時点で決まっていたのだ。




[16162] 宋襄の仁
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/01/26 18:04



「よし、準備は整った。これで最悪戦争になったとしても互角に戦える」


現在の河東は、かつての貧しい辺境ではもはや無い。
幽州を吸収合併し、西域連合から領土を割譲させ、劉備たちが奪った元袁紹の土地であった南陽の一部さえもどさくさにまぎれて領土に組み込み、他の地域であればもはや小国と呼ばれてもおかしくないほどの規模と化した一刀が治める地域の中心地となっている河東は、現在もなお成長を続けていることを思えば洛陽にさえ引けを取らぬ巨大都市といってもいいだろう。
落日の勢いである洛陽を見捨ててこちらに流れてくる先見の明があるものは多く、そしてそれ以上に権力者同士の争いによって焼け出されたものはさらに多い。
そして、賈駆から継いだ多種多様な政策が実行されていることによって、人手はいくらあっても足りない状態である河東はそれらすべての人の流れを容易く飲み込んで己が力へと変えていった。


「いくら袁紹の兵力が膨大だとはいえ、こないだ減らしたのはお互い少ない数じゃないからな。だが、こっちはある程度回復してきてる……失ったものは多かったとはいえ、な」


多大な犠牲を払ったとはいえ、諸勢力の中で唯一完全な形で戦争に勝利したという天の時。
広大な領土と共に強敵に隣接していない立地条件からなる地の利。
そして、妖術による歪んだ、されど強固な人の和。

富国強兵を唱えるには、十分なだけの条件が一刀の元にはそろっていた。
このまま順調に時を過ごしていけば、更なる発展さえも見込め、やがては袁紹を自力で追い抜くことだって可能だったかもしれない。
袁紹の持つ巨大な財の力は先祖代々受け継いできたものであるのに対して、一刀が持つその数の力は彼が妖術一本で稼ぎ出しているものなのだ。
じょじょに衰退を続けている相手方に対して、自分はずっと上り調子で来ているのだから、以前の彼の考えであればだらだらと時間を掛けて飲み込んでしまえばいい、と思ったに違いない。


「もうこれ以上待てない。そろそろ対局といこうじゃないか」


だが、時間を掛けるということはすなわち、もう一方の敵手にも同じく時間を与えることに他ならないこと―――そして何よりも、失った者の墓前に供える花をこれ以上待たせる怒りが、一刀にその選択肢を取らせなかった。
彼が望むは最短距離による、自分の自分による自分のための天下統一。
天下の英雄をすべて叩きのめして這い蹲らせて、その美妃を残らずたいらげることを考えれば、今の一刀はそれをなす為に趣味の時間に入るのを待つことが出来た。


まるで脅迫されるかのように誰かと共に描いた夢を実現しなければならないと痛烈に思い込んでいる一刀にとって、一時の安住の為の停滞は許されない……勿論それは、敗北というこれ以上ない後退よりはマシではあるが、どちらにしても論外の結果だ。
一刀に許されているのは、速く勝つか、圧倒的に勝つか、強烈に勝つか、それだけだ。

その思いを胸に、彼は可能な限りの安全策を取りながらも、もはや怠惰に寝転がるのをやめて必死になって頭を働かせ、雛人形らと図って策略をめぐらし、忠犬たちを走らせて情報を集めて、確実に前進する為の一手を打つために考え続けた。
本人が思う以上に統治能力や判断能力が欠けている一刀ではあるが、妖術の力とそれによって今まで奪い取ってきた数々の駒が、その考えを磐石なものへと変えていく現状において、それは正しい選択といえたし、そのことを彼も河東への各種政策を通じて実感していた。

ならばこそ、彼はここであえて自分よりも強大なはずの袁紹に挑む。


「曹操なんていう邪魔者が舞台に上がってくる前に、どちらが強いのか、まずは決めよう」


自身が英雄であると思い上がっている一刀であっても、同時にこの世界における『登場人物』たちの恐ろしさを完全に忘れたわけではない。
たった一人で千人を潰した孫策、それをも超える能力を持つ呂布……そして誰よりも、決して失策を口にしなかった賈駆の名は、彼の脳裏に痛烈に刻まれている。
彼女らの存在を知っている以上、いかに自身の能力に自信がある一刀であっても「三国志の登場人物」の名を無視出来るはずもない。

確かにここは三国志の時代であり、彼女たちはその名に相応の能力を持っている。
それを前提に頭をめぐらせる。


「『魏の武帝』様は、その後でゆっくり料理してやる」


だからこそ彼は、間違いなく三国最強の能力を持っているはずの曹操と、『倍ぐらい』の国力差しかない状態において挑んだり、あるいは時間をゆっくりと掛けてお互いの才を競い合う内政の上手さを競うレースなどをするつもりなど端からなかった。
今まで警戒さえしていなかった障害物であっても、実際に自分がそれを超えていく立場へと参加するのであれば、間違いなく最大の障害であると認めたのだ。
例えどれほど戦力差があったとしても、戦えば負けるかもしれない。

故に、戦う前に相手を這いつくばらせたりしない対等の状態で万能の天才と戦ったり、あるいは時間を掛けて魏の武帝を強大化させるぐらいであれば、たとえ現時点では相手に対して兵力などで劣ってはいても、自らの知る物語やこの地に来てより得た噂話などから総合して考えて組しやすいであろう愚物、袁紹に挑むほうを選んだ。
そう、一頭の狼に率いられた百頭の羊と戦うぐらいであれば、一頭の山羊に率いられた百頭の犬と戦うほうがマシである、とこの世界における率いる狼の桁違いさを知った一刀は判断していたのだ。


「とはいえ、お互いただ単にぶつかり合うだけだったら、勝負の後に呼ばれてもないその役者がノコノコ出てくるかもしれないからな。そっちには呂布もいることだし、先手を貰った俺はとりあえず角道を空けさせてもらうとするか」


だが、同時にこの外史における一刀の気質は、決して自らよりも強大な相手に正々堂々とした正面決戦を挑むようなものでないことも確かだ。
質に対して数で対抗してきた彼は、実際に戦場に立ったことがない故に配下の関羽や張飛の力をあまり信じてはいない。
報告、という形では自軍の兵士たちがたった一人に擂り潰された、全滅を喰らった、信じられぬほどの怪力を振るった、と確かに彼女たちが千もの兵に匹敵する、ということを知ってはいるのだが、同時に彼女たちは今すでに一刀の配下に入っているように、すべてが敗者。
すべてが一刀の用意した「数」や「策」などというただその一点にて敗北した結果を見ると、例え能力が半減しているにしても他の君主の誰一人として持ち得ないこれほどの戦力を揃えてなお、「例え相手のほうがちょっとばかし数が多かったとしても一騎当千の関羽、張飛、馬超、馬岱や公孫賛がいる以上、負けっこない」などという楽観は出来なかった。
数で英傑を押しつぶしてきた一刀は、だからこそ驕っていたとしても自身も自分の才をも越える数に押しつぶされるかもしれない、ということに対してある程度の警戒を失わない。

ましてや、相手は「最大」だけではなく、「最強」もだ。
かつての北方大乱における友軍であった呂布の個人としては桁違いの戦果も考えるに、そんな力を保有する袁紹ら官軍側と正面から戦う、ということであれば、流石の彼でも苦戦を強いられると思ったのだ。
だからこそ、武力衝突をまずは避けて、相手の出方を窺う。
そもそも、まともに戦うことの意義なんて欠片もないのだから。


「こちらの恭順に喜ぶか、それとも恐怖するか。まずは一手だ。さあ、御手並み拝見といこうじゃないか」


勝算はあるにしても、わざわざ真面目に百の犬と戦うことを考える前に、まずその頭の山羊を潰す。

戦うならば、強い方よりも弱い方を。
そして、弱い方相手にも、正面からではなく搦め手をもって。

この外史における数と質の違いによる戦争の仕組みを知っていた彼は、だからこそ妖術書の保有者として相応しい初手を動かした。










「おーほっほっほっほっほ!」
「「……はぁ」」


笑い声とお供のため息だけで誰だか判別が付くため、描写がとても簡単に済む彼女の名前は、もちろん今現在洛陽と宮廷を一手に牛耳る袁家当主、袁紹である。
その金に輝く長い髪も、白くつややかな肌も、自身と自負に彩られた瞳の輝きも、すべてが彼女こそがこの宮廷の支配者であると証明していた。
ちなみに、もう一つの袁家、袁術一派とは従姉妹関係である―――故に、ありとあらゆる面でよく似ていた。


「所詮は公孫賛さんでしたわね、私には向かおうなんて考えるからあんなふうになってしまうのですわ」
「……あの~、麗羽様?」
「何ですの、文醜さん?」
「一応あたしら、反乱起こされた側の最高責任者なんで、そろそろある程度の反省と再発防止案、見たいなのを皇帝陛下に述べるべきだと思うんっすけど」
「え? 反乱なんて勝手に起こした公孫賛さんが悪いに決まってるじゃありませんの」


位人臣を極めたのみならず、それを授ける側さえも思うが侭とした袁紹は、だからこそ袁家の二枚看板の一人として認められている腹心たる文醜の言葉を聞いてもなお、自らの間違いなど認めはしなかった。
脳まで筋肉で出来ている文醜の口からさえそんな危惧が出てくることの異常性にさえ気付きはしない。

そもそも彼女は、現時点で自分に逆らう勢力がいる、ということ自体を想定さえしていない。
一刀の想いとは裏腹に、袁紹にとって見れば、あの「くるんくるん小娘」曹操さえも自分に対して頭を下げてきた今となっては、もはや自分に逆らう勢力がいるなんてこと考えられないのだ。
故に、彼女の考えの上では、あとはこの華麗で美しい袁紹様が、愚民たちによって乱されまくった世を正していく、これしか頭になかった。

だから、周りからこれ以上にらまれない為にやっておくべきことという珍しく真っ当な正論を述べた文醜の意見に対して、そもそも言われている意味がわからない、といわんばかり態度で却下した。
本当に珍しく、相方さえもその久々ぶりに思わず目を向いたその現状をきわめて正確に把握していた意見、「諸侯どもに足元を崩されないためにいろいろと地盤を固める」という方針を、理解さえ出来なかったのはいくらなんでもこの再びの戦乱が近付きつつある時勢を考えるとうかつに過ぎた。

いくら麗羽でも、それはあまりに現状を見ていない言葉だ。
そのあまりに堂々とした態度に、意見した側であるはずの文醜は思わず「あたしの方が間違ってんのかなぁ?」などとも頭によぎったが、元宦官派の連中からそれとなく、しかし延々と続く抗議するに出来ない程度の地味な嫌がらせにまいった部下たちから必死に懇願された内容はかろうじてまだ頭の中に残っていた為一応さらに説得に掛かる。
流石の脳筋と呼ばれる彼女、文醜こと猪々子とて、同僚に言われずとも今の麗羽の行動が不味い、ということはそろそろ分かってきたのだ……主に先祖代々袁家に仕える忠義心厚い部下による必死の懇願によって。


「いや、それはそうなんっすけど、皇帝陛下とかにも体面ってもんがあるでしょうから、一応臣下のあたしらもこういうことは二度と起こしませんよ~、見たいなのは必要っしょ?」
「そ、そうですよ~麗羽様。文ちゃんの言うとおりです。ちょっと形だけでいいですから、書状にご署名をいただけません、ね?」


珍しく同僚がごくごくまともなことを言っていることに驚いて思わず反応が遅れてしまった袁家の二枚看板の残り一枚、顔良もそれに同調する。
三人衆の中で唯一まともな頭脳を持つ彼女は、相棒がこんな理知的なことをしゃべっていることに対する驚きはあれども、この絶好の機会を逃すまいとに以前より主張していた自分の意見を通そうと、以前より用意していた書状を何枚か、この機会に懐から取り出した。
その準備のよさは、彼女が二人とは違い以前より現状―――河東がこちらの隙を狙っているかもしれない、ということを正しく把握していたことを表していた。


(文ちゃん、ありがと~! これで少しでも麗羽様が危機感を持ってくれれば……)


彼女は、麗羽の統治ともいえぬ現状が決して長くは続かないだろう、ということを承知していた。

現時点での最強勢力であるとはいえ、袁家の屋台骨はもはや傾いている。
袁紹による統治は、確かにその有り余る財産で一時的に落日の勢いであった漢王朝そのものの延命に成功したが、所詮そこまで。
いくら先祖代々溜め込んだ財や権威であっても、流石に滅びゆきつつあった王朝そのものを助けるにはそれだけでは無理があった。
官の腐敗は行き着くところまで行っており、それに乗ずるかのように各地に巨大勢力が台頭し始めている。
それを掣肘するには、長年の平和により弱兵となってしまった漢王朝の兵ではもはや不可能。
袁紹について漢王朝の中に入って始めて、顔良はこれらのことを知った。

この外史においては一刀のある意味大活躍により起こっていなかったが、それでも黄巾党の乱のような大規模な反乱が起こる下地さえ出来ていた漢王朝は、長年の統治によってもはやちょっとやそっとの改革では改善が不可能なほどの内憂に犯されており、それに加えてトップが袁紹になってしまった、というこの事態に袁紹一派では誰よりも早く気づいた顔良は、だからこそそれを変える為に必死に奔走していたのだ。


「嫌ですわ。何でわたくしが白蓮さんの尻拭いをしなきゃならないんですの!」
「……まあ、そうっすよね。あたしも言いながらも途中で多分そういうと思ってました」
「……麗羽様が、形だけとはいえ誰かに謝るはずないですよね、はぁ~」
「その通りですわ! 猪々子さんも斗詩さんもこの栄光ある袁家の側近ならばもっと普段より誇り高くなさい」


ましてや、他人に対して自身の高貴さがゆえに一切譲らぬ袁紹の態度は、そういった漢王朝の腐敗部分を一層悪化させるものだ。
何とか政務を改善させようと顔良が彼女の傍を離れて四苦八苦している隙を漬け込んで蜜にたかる蛆のように取り入ってきた有象無象によって、袁紹はすでに幾度となくいいように操られた。
まともな文官武官が次々と匙を投げて逃げ行くほど、もはやその統治には大義も伝統も信念も何一つ残っていないものとなってしまっている。

そして袁紹自身にも、確たる目的ややりたいことがあって天下を統治しているわけではなく、ただ己こそが最高の人物と思うがゆえの統治。これでうまくいくはずがなかった。
ある意味、かつての一刀と同じであったのだが、それを分かっているはずの文醜と顔良はどこぞの誰か達とは違って残念ながら補佐役としての最上の才を持っているとは言いがたい。

だからこそ顔良は、今の衰退の原因がわかっていてもなおそれを改善するには至らなかった。
彼女たちだって、他の凡俗とは比べれば優秀な能力を持ってはいるのだが、流石にその能力はその舵を取る方向を間違えてまで覆せるほどではない、ということだ。
そんな出来ることは精々被害を最小限に抑えることだけだった。


「すみません~」
「じゃ、じゃあ麗羽様。せめて、あの河東の董卓へ御言葉だけでも」


そのことを自分でもわかっている顔良は、そういった自分の微力さを痛感しつつも、愛する主人の為に何とか現状を改善しようと献策を続けている。
軍師というには物足りない、武将と呼ぶには最低限度。
それでも彼女は、忠臣だったのだ。


「董卓? ……ああ、あの白蓮さんたちを破るのに呂布とかと協力したとか言う者の名でしたかしら」
「ええ、割といい奴みたいっすよ? 使者も随分歓待を受けたって話ですし」
「今のところこちらに忠誠を誓っているものの中ではすっごく優秀ですよ。ですから、そろそろ恩賞とかも与えておかないと!」


現時点で洛陽が少々やばいことになっていようとも、北方大乱を勝利したことには間違いない。
例えその勝利によって世間の評判や金銭、兵力、仕官といった利を得たのが河東と呂布がほとんどだったとしても、袁紹たちは勝者側なのである。
先に上げた二者とは対等ないしこちらが上の立場であり、敵対しているわけでもない。
そうであるならば、潰れかかった漢王朝に袁家の金銭が流れ込んだことによって一時的な延命に成功したように、彼女たちを取り込むことで体制の安定を図ることが出来るかもしれない、と思った顔良は、だからこそ以前より何度も言っていた董卓への恩賞へと話を持っていった。

同じような流れで呂布の固執する野生動物たちへの保護を袁紹に認めさせたのと同じように、相手に恩と金を与えることでこちらと結びつくことによる利を示さなければ―――あるいは、自分たちよりも名声を獲得した彼女たちを何らかの理由で取り潰さなければ―――もはやこの戦乱の空気を孕んだ不穏な歴史の流れの中では生き残れない予感を、彼女は感じていたのだ。

そんな彼女の焦りも気付かずに、同僚と主君はその言葉で暢気な言葉を交わす。


「いや~、使者に行った奴が持って帰ってきた馬乳酒もうまかったけど、それよりもっとどろっとした……なんだっけ? よ、楊愚瑠戸、とかいうのに蜂蜜混ぜたのも最高でしたよ」
「……ちょっと、猪々子さん? わたくし、その話聞いてませんわよ」


反乱軍の最大勢力二つに囲まれるという窮地にあったとしてもそれに阿ることなく、漢王朝に対して忠義を示してきた董卓は、今なおこちらに対する恭順の態度を崩してはいない。
そのことを考えると、暢気な二人よりも先のように利と恩でもってその更なる忠誠を買おうとしている自分のほうが間違っているような気がしてこないこともなかったが、だからといって用心を怠ることは出来ない。

とはいえ、結局この袁家の主導権はすべて麗羽にあるのであって、例えどれほどの良策を考えられたとしてもそれを認可してもらえなければ何の意味もない、ということも分かっていた顔良は、だからこそ主君の機嫌を損ねそうになった同僚を何とか抑えようとした。
が、残念ながら彼女の相方はその意を汲んでくれることはなかった。
そのことに溜息を吐くが、同時に深刻ぶっているのも二人には似合わない、とも思ったので強くもいえない。

公孫賛に近いレベルで政武共に優れた顔良がいながらも、袁家が緩やかに衰退している理由はこういうところにあった。


「……文ちゃん、それは文ちゃんが一人で全部食べちゃったから麗羽様には内緒にしておこうって」
「あ……いや~、すみません麗羽様。あまりに美味かったのでつい……いや~、美味かったな~また食いたいなあ」
「きいいいいい~~、なんなんですの、あなたたち! わたくしだけのけ者にしてそれでも歴史ある袁家に仕える者ですか?」


河東から運ばれてきた貢物の意味も、彼女たちにとってはあまり関係ないのだ。
斗詩が必死にその目録より相手が忍従を選んだのか、従属を求めているのか、雌伏の為の時間稼ぎをとおもっているのか、読み取ろうとしている横で、彼女達の関心はその品に対するものでしかない。

だが、それでいい。
彼女たちは、それでよかった。


「使者の報告なんて聞いてらんない、って出て行ったの麗羽様じゃないですか~」
「……文ちゃんも献上品だけ取り上げてひたすら食べてるだけだったけど」
「まあまあ、いいじゃないか、斗詩~。あたしと斗詩の仲だろ?」


例え、政務が出来なくても、あまりに自己中心的な考えが強くても、斗詩は麗羽が好きだった。
どれほど他人にとっては暴君であっても、彼女にとっては仕えるに値する主君だ。
だからこそ、その彼女が笑って過ごせる日のために、その身を削ってでも全力を尽くす。
そのためには、河東は必要だ。

ならば、求めるのは袁紹からの河東への心象の上昇。
今の洛陽の維持には呂布と河東が大いに関係している、ということをたとえ麗羽が認めなかったとしても、ある程度の優遇を斗詩が測ったとしても文句を言わない程度まで気に入ってくれれば、後は斗詩が自分が何とかするつもりだ。
自分の力で河東も呂布も潰して、袁紹の天下を守ってみせる! とまでいえない斗詩にとって、これが精一杯だった。


「え~っと、麗羽様? 今ある物はもうどうしようもないですけど、今後も河東とは連絡を続けるつもりですのでまたそのときにでも」
「わ・た・く・し・は! 文醜さんが一人で食べたという事実が許せないのです!」
「痛い、痛いですよ麗羽様~」


もっとも、ぐにぐにと猪々子の頬を引っ張る麗羽がそれを酌んでくれるとは、彼女自身でも思っていなかったが。

この前呼び出したときの夏侯惇のあの冷たい殺気を覚えている顔良にとって、彼女の主君であり麗羽の天敵ともいえる賢人、曹操がこのまま麗羽の下風に立ち続けるとは思えない。
兎角、二人の相性は最悪なのだ。

それでもこちらに反旗を翻さないのは、同じように立って潰された公孫賛と馬一族のことを思い、曹操がいまだこちらの勢力の強大さを警戒して雌伏のときと思っているにちがいない。
そう、前回の戦争のことを思うと彼女が恐れ、警戒しているのはきっと麗羽たちではなくて呂布と河東勢だ。
彼女の性格として麗羽にナイショで呂布や河東とつなぎをつけよう、とするかは微妙なところがあるが、おそらく仲たがいをたくらむ程度のことはやるであろう。
そうなってしまえば、きっと今以上に麗羽は苦境に立たされることになる。

だから、どのような形であっても麗羽に河東に対する関心を抱いてもらえるということは大切だ。

持ちうる物は、金と権力。
望む物は、武力と忠誠。

その互いに都合のいい交換を成立させる為にも、何とかして河東を見方に引き込む為の工作を麗羽に認めてもらいたい顔良にとって、麗羽が河東の特産品にひきつけられること自体は歓迎できることだった。


「もう、いいですわ! わたくし自らが河東へ視察にまいります」
「え?」
「あ~、麗羽様さては一人で河東食べ歩きするつもりですね? も~、食い意地張ってるんですから」
「あなたにだけは言われたくありませんわ、猪々子さん!」


が、いくらなんでも、単身敵地であるかもしれない河東に出向くなんてことをいいだすとは、想定外にもほどがあった。
洛陽勢力にて唯一指し手に助言が出来る顔良の思考を上回るほどに、袁紹の手順は定石はずれのめちゃくちゃだったのだ。








「さてさて、いったい何手目でここまで誘い込まれてくるものかな?」
「一刀様! 洛陽よりまたも御使者が」
「……は?」


もっとも、それは何とかして袁紹を手の内に誘い込んで力ずくで術をかけようとしていた一刀にとっても、同じであったのだが。



[16162] 覆水盆に返らず
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/02/02 18:39

正面決戦を避けることを一刀が選んだのは、結局のところ彼の保有する太平要術の書の存在があるからこそだ。
対等以下の立場のものに対してであれば、言葉を交わすだけで己が操り人形へと変えることが出来るこの妖術書の存在を前提とすれば、今この世に起きている戦いの形式はがらっと様変わりする。

こちらから降伏を申し出て、玉座の下から這い蹲って見上げながら術をかける、などということこそ条件上出来ないがため、今まで一刀は基本的に捕獲したものに対して強制的に使ったことがほとんどであるが、もともとの条件としては、正々堂々相手が保有する戦力をすべて撃破していく必要など、欠片もない。
ただ、相手とテーブルを同じにして対等の立場で会話をかわせれば、それで話は終わる。
偽りの同盟でも持ち込んで、杯を同じくするだけで即座に相手を自分の操り人形に変えられる。
そんな悪魔の術が、太平要術の書の中身だ。


それを己が人形たちに告げ、それを前提に全員で頭を振り絞った結果として、一刀はいくつかの策を袁紹に対して仕掛けた。

それは例えば、偽の恭順と共に差し出した饗宴の誘いだった。
警戒はしているであろうが、それでも宴に連れてこられる程度の人数であれば、己が保有する関羽や馬超によって平らげられると考えたが故に作ったその策は、実に単純。
宴の最中に持ちかけた話で今の両者の力関係をそれとなく諭して彼我の実力がほぼ等しい、という事実を相手に突きつけられればそれでよし、それが出来ずとも宴の途中で捕獲して無理やり自分に対して這い蹲らせて、術の力で騙し打つ。
一騎当千の武将から誇りさえも奪い去ってしまえるその妖しの術を使っての、卑怯卑劣の大盤振る舞いである。

これは通常であれば、例えその形を取って頭を殺したとしても世間の非難は逃れられず、また敵方の兵力自体もそっくりそのまま残ってしまうがため、結局全面戦争は避けられない悪手といえよう。
だが、術の力でトップである袁紹を操ることが出来る、となれば話は別だ。
術の力を使えば彼女自身の口でこちらの陣門に下る、ということを言わせることが出来るのであれば、ほとんど無傷で洛陽を丸ごと手に入れることが出来る。
後は、術の力と雛里たち優秀な官吏を使って、ゆっくりと漢王朝自体を浄化すればいい。勿論、皇帝に対しても術を仕掛けておくことは、言うまでもない。
術の力によって不正そのものを防ぐことが出来る一刀の統治は、一刀本人による個人の享楽を除けばさぞや正常なものになるだろう。
天下を取った後の統治の手間こそ掛かるであろうが、負ける要素がほとんどなくまた一度成功してしまえば他の諸侯たちに反撃の糸口さえも与えない、文字通りの無血開城による最速最短の完全勝利が出来る実に合理的な手段だ。


もっとも、一刀たちにしてみればこのケースはすべてが都合よく行き過ぎているため、正直なところ期待していなかった。
そもそも相手方の大将である袁紹がそうも容易くこちらの誘いに乗るわけがないし、乗ったとしてもこちらの陣中でわざわざ無警戒になるとは思えない。
例え、それらすべての条件が整ったとしても、結局最後は無理やり袁紹を縛り上げることになる関係上、相手方に例えば呂布のようにこちらの総力を超えるような局地戦力がいればそれだけで失敗となる。
「場」さえ作れればそれによってすべてが解決する、というものではあるものの、いくらなんでもその「場」を作れるほど楽ではないだろう、と思ったがために本命ではない、とりあえずの一手であった。


彼らとしては、例えば袁紹の領土の各地においていくつか扇動を起こして反乱を起こさせ、その対応が出来なくなったぐらいにこちらから協力を申し出ていくつか貸しを作り出し、その弱みでもってこちらと対等と認識させる、だとか、あるいは五胡討伐の気風を立ち上げ、そのときに同盟軍としていくつか仕掛ける、だとかいったことを本命としていた。
宦官の腐敗に付け込み、手の者を送り込み、または中の者を己の味方へと裏返し、袁紹陣営の内部崩壊を加速させるような手も考えていたが、これはのちの統治に悪影響を及ぼすとしてあまり積極的に動いていなかったように、「いくら美羽の身内であってもそこまであっさり引っかかるほど馬鹿ではあるまい、」という考えがあったからこそ、袁紹を歓待する準備はそれほどまでの重要性を持って用意されていたわけではなかったのだ。


「わりとよく出来た城ですわね……もっとも、わ・た・く・し・の! 洛陽ほどではありませんけど」
「……恐縮です」
「(そんな……馬鹿な)」


が、そんな天人である一刀に加えて能力を減じているとはいえ歴史に残る天才軍師の孔明、鳳統、程立その他が考えに考えた計算を、いとも簡単に袁紹は超えて、こちらが打った手による反応よりも遥かに早く、出端を挫くかのように先制の一撃を加えてきたのだ。
影武者役としてたてた人形さえも戸惑っているのを影から見つめる一刀の口は、意識していないにもかかわらず大きく開かれてしまっていた。
そしてその口は、急遽用意した歓待の場に案内された袁紹の背が扉の陰に隠れるまで、閉じられることもなかった。
当然、表情も呆然としたそのままであった。


棋士気取りだった一刀の横っ面をはたくがごとき袁紹の行動は、なるほどすべてを知っていると豪語する天の御使いに対するあてつけとしては実に効果的だった。
事実、一刀は一刀の謀略の手のどれよりも早くこちらに対して行動してきた袁紹の一挙一動に意表を突かれまくってあたふたしていたのだから。
現在保有する知力の数値の差からは、曹操であろうともここまで彼と彼の持つ家臣団の想定を外すことは出来まいとを考えれば、袁紹は実に最高のインパクトでの初撃を与えることでこの開戦を彩ってその名を知らしめたといえるであろう。

扉の奥から聞こえてくる袁紹の馬鹿笑いともいえる笑い声と、それを呆然と聞く一刀という図式からすると完全に一刀は袁紹の行動についていけておらず、後れを取っている。


が、問題が一つあった。
それも重大な。


「(……なんで、自分からこっちの手の内に入ってきたんだ!?)」


問題とは何か。
……戦略的に何の意味もないどころか、明らかにこれで勝負を捨てているような行為であることだ。

一刀たちが戸惑ったのは、あくまで袁紹の意図が読めないことであって、それによってすでに多大な損害が出ているだとか、将来的に避けえぬ災厄が訪れるであろうだとかでは全然ない。
あくまで、こちらに対して損害を与えられない行為を何故するのか、という戸惑いであって、心情的なものを無視してしまえば彼らの立場は何一つ変わっていない。そのはずである。

それは、雛里や朱里、風といった一流の軍師のみが分かることではなく、一刀や白蓮といった通常通りの思考能力を持つものであれば、容易に理解できることであったのだが、そのことが逆に一層袁紹のとった戦略の異端さを示す。

不気味だ。
あまりにも、不気味だった。

これがまだ、袁紹による何らかの策の影が見える状況ならばよかった。
例えば、少数勢力によって乗り込み、呂布の圧倒的なまでの力で河東中枢部をなぎ払って、その後洛陽を抑えているという地位的アドバンテージをフルに使ってこちらを反乱軍に仕立て上げる、などであればまだ理解できた。
戦略的には愚策であると分析していたが、それはこちらと敵対する意志を固めた勢力として取りうる対応だったからだ。
だから、袁紹来たる、の報が来たとき彼らはまずそれを考え、ここまで請求におこなわれるとは予想していなかったが、そういったケースについても想定を済ましていた以前の対策どおりに、最初は影武者を立てて袁紹の出方を探った。

が、そんなことはなかった。
様子見をしていたここ数日、普通に袁紹は僅かな護衛のみで正面から乗り込んできて、普通にえらそうな態度を取った挙句に、普通に視察と称して食っちゃ寝を繰り返している。
殺そうと思えば、いつでも殺せた。
それこそ、妖術を持っていなかったとしても、袁紹を虜にするぐらいの力は今の河東は持っているのだから、太平要術の書の存在を知らなかったとしてもこちらが絶対にとち狂わない、という確信でもあるかのごとき態度。
それは、王者の気風にしてもあまりに大胆でありすぎる。
いくらなんでも、そんなことあるはずがない。何か裏があるに決まっている。


この袁紹の態度に、策によってなる一刀勢力は戸惑った。


対応が、全く出来ないのだ。
自分たちが妖術書の存在を基盤としてだまし討ちにも似た奇襲を得意とするだけに、袁紹の行為も何かの罠にしか思えなかった彼らにとって、相手の出方がわからないというのは随分やりにくい。
最強勢力である袁家の頭領がここまで常識はずれだとは思わなかったのであるが、だからこそ頭でっかちの嫌いがあり、しかも全体的に一刀の価値観だけで統一されている河東はこういった方向には少々弱かった。
袁術を見てはいても、その判断能力の低さは術による呪いと幼さによるものだと考えていた一刀にとって、まさか袁紹が袁術をそのまま、いやむしろもっと極端に拡大進化させたような人物だ、ということなど予想だにしなかったことである以上、じりじりと情報を積み上げて袁紹の意図を理解しようとするしか打てる手がなかった。


「洛陽の顔良から送られてきた書状を見る限り、もはや間違いありません……完全無欠に無策で来てるみたいです」
「そんな……馬鹿な…………」
「あえて言うなら、こちらに対して親愛を示して距離を近付ける、といったことでしょうか~」
「あんな態度で!?」
「……しばらく会ってなかったけど、いくらなんでもひどくなりすぎだろ、麗羽のやつ」


故に、場内に放っている密偵の数を急速に増やし、いろいろと思案をめぐらせて、ありとあらゆる邪推をした挙句に、「あれ? これひょっとしてただの馬鹿なんじゃね?」という結論に達するまで相当な時間が掛かった。

呆れ顔でそう伝えてきた軍師たちを前にして、一刀などはその結論が出たあとも相当受け入れられなかった。
彼の知る袁紹、という名前は決して有能なものではなかったが、それでも当時としては画期的な新兵器「弩弓」を用いて公孫賛の白馬部隊を一方的に撃破したり、謀略で持って一時宮廷に君臨するだけの能力があったことも災いした。
彼にとって、己よりも劣っていることは間違いないにしても、歴史に名を残す人間がそこまで無能なはずが無いと思ったのだ。
俺の知る武将がこんなに無能なわけがない、と。


「ふ、ふざけんなよ! いくらなんでもありえないだろ」
「とはいえ、現状ではそれ以外考えられませんし」
「こちらがどんな手を打ってきても防げる、なんていうほどの人員や装備でないことは間違いないです」
「袁紹自身を囮にして得られるほどのモノなんて、どう考えてもありえないですし」
「ふざけんなよ、マジでただの馬鹿だって言うのか!」


が、現実はある意味非情であった。
戦略的には都合のいいことこの上ないにしても、一刀の心理的には致命的なまでに袁紹は馬鹿であったのだ。
どう考えても無防備にしか見えない最強勢力の長が、その見た目のまま完全無欠に普通に無防備に訪問しに来たということをようやく一刀は思わず脱力したが、その後には激しい怒りをもった。


彼が望むのは、最速最高の天下統一。
それを、才あるものによる強力な意思によって邪魔されるならばさておき、よりにもよってただの馬鹿に邪魔されるとは!

袁紹が何も考えていなければいないほど、無駄に推測を重ねて無駄なことをした自分たちがあまりに間が抜けていて、それによって無為に過ごした時間が今まで散っていった命とあまりにつりあわない。
それは変に考えたがために出会った瞬間に術をかけようとしなかった己のうかつさに対する感情にも繋がったが、当然ながらそれ以上にそんな何も考えていないにもかかわらず、あまりにも意味なくこちらの時間を縛った袁紹への怒りへと繋がったのだ。


「くそっ……愛紗! いますぐ袁紹の奴を俺の前に引っ立ててこい!」
「……御意」


怒りに任せた判断は、策ともいえぬ乱暴な力ずくのものであったが、別に問題はない。
彼の側近も、その判断を止めなかったことがそれを証明している。
相手は策を持ってこちらに対抗する賢者でも、力を持って立ちふさがる強者でもないからだ。
ただの愚者相手には、短絡的なその判断さえも不正解とはなりえない。

馬鹿とはいえ、袁紹はある程度の数の護衛はつけている……だが、そんなものは無意味だ。
もはや彼の忠実な奴隷となっている関羽に対抗出来るほどの人材がいないことは、ここ数日の連日の調査によってわかりきっている。
また、仮にその用心をしていた―――例えば、袁家の二枚看板、文醜と顔良をつれてきていたとしても、一刀の持つ人形兵団の兵力を越えられるほどの才はないことも、すでに分かっている。
万を越える兵やあるいは最強の局地戦力である呂布をつれてこなかったことが見えた時点で、これはいつでも実行できたことなのだ。

だからこそ、一刀が短絡的に関羽に対して命じたその命令は、さしての暇も空けず、即座に実行され、その言葉どおりの結果が彼の前につれてこられた。
ものの四分の一刻もしないうちに、一刀の前にはその金髪の巻き具合とさして変わらぬほどに縄で縛られた、袁紹の姿があった。

周りには彼女を守る護衛など誰一人いない。
すべて、関羽たちに倒されたか、捕獲されたのだろう。
こうして洛陽さえも手中に収める、現時点での最大勢力袁家の長は、いとも容易く一刀の前にひっとらえられてその無様な姿を晒した。


「なんですの、あなた! この名門袁家の当主、袁本初に対してこの仕打ちはどういう了見をしていますの!」
「……黙らせろ」
「はい」
「ちょ、やめなさっ! ……! ~~」


こんな状態であるにもかかわらず自身の危機も感じずに己の権威をひけらかしてこちらに向かって悪態をついてくる袁紹に、一層苛立ちを感じた一刀は彼女を縛って連れてきた己が配下にその口さえもふさぐように命じる。
忠実な彼のシモベは、そのことに対して一切の反論をすることなくどこからともなく取り出した布でさっと枷を作って袁紹の口を封じようとする。
縛られた状態でも何とか上体を捻ってその手を回避しようとする袁紹だが、そもそも体を使うことで彼女が武将級の人間と争って勝てるわけがない。
びちびちと陸揚げされたカツオのように暴れまわったところで何の意味もなく、あっさりと縛られた状態で出来る最後の抵抗さえも封じられる。
こんな状態では、その大きな瞳で一刀を睨みつけるのが精一杯であり、それさえも憎しみにも似た光を浮かべてこちらも睨みつけている一刀の前には僅かなりとも役に立っているとも言いがたい。

だが、それも当然なのだ。
早いか遅いかの違いだけであり、一刀が巣を張るこの河東の地に袁紹が自分から飛び込んできた時点で、この結末はすでに決まっていた。
そう、決まっていたのだ。
にもかかわらず!

実際に実行に移ってみると、こんなにも早く、簡単に出来てしまう。
戸惑うことなどなかったのだ。
袁紹が来たその日のうちにやってしまえばよかったのに、それですんだというのに。
簡単であればあるほど、一刀の身勝手な心は自分の落ち度を責めると同時に袁紹の愚かさに対して見当違いの怒りを生み出す。

それを受けて、条件は整った。
それによってもはや戸惑うことなど欠片もなく、一刀は己のみに備えられた唯一の力を存分に行使した。
胸元に仕込んだ妖術書に軽く手を立てると、怒りを込めて大きく叫んだ。


「っ! ……! ~っ!」
「くそ、馬鹿の癖に面倒な手間かけさせやがって……俺に従え!」
「~~っ!! …………」


不快さを感じさせる波とも光とも音とも言い難い何かが一刀の言葉を媒体としてその空間に広がっていき、それは紛れもなく袁紹へと直撃した。
まるで背筋に何か冷たいものでも入れられたかのように体を振るわせ、口枷の上からでもなおも騒がしく呻いていた言葉も力を失って地に落ちた。
その瞳が光を失い、じょじょに閉じられていく。

いつも通りの風景、一刀の思う通りの展開だった。
こんなにも、簡単だったのだ。
巨大勢力の長とはいえ、所詮はたったの一人なのだから。

その普段と寸分変わらぬあっけなさに思わず虚脱感を覚える一刀であるが、これがそもそも正しいのだ、今までが間違っていたのだ、と思い直して、ふう、と大きく一つ息を吐くことだけでその感覚を体の中から抜いていった。


「気分はどうだ」
「……う~ん、何か、変な気分ですわ」


だから、控えていた愛紗に袁紹の口枷を取るように命じたときにはすでに平静を取り戻し、いつも通りの声音で袁紹に対して声をかける。
その響きを受けて、閉じていたまぶたがゆっくりと開いていく。
いつも通り、全くいつも通りの光景。
そのあまりのあっけなさに怒りは抜けないものの、それでも大分ましになった。
冷静になって考えてみれば、真正面から戦争することに比べれば大分時間の短縮にもなったことであるし、最終的に袁紹を手に入れられた、というのであればもはや勝利は決まったのだ。
過程こそいいたいことがないでもないが、それでも何とかうまくいったのだ。




もちろん、こんなに簡単にいくのであれば、何故もっと早くしなかったのだ、という後悔はいまだある。
その「早く」は、袁紹がたずねてきたときのことのみをさすのではない。
これほどまで袁紹がうかつである、というのであればそれこそもっと早く、もっともっと早くの時期に彼女の力を手にしておけばよかった、という思いだ…………例えば、北方大乱が始まったばかり、だとか。

手中に収めた袁紹の身につけた、その装身具の豪奢さを見て改めて思う。
袁は強大な国であった、と。

もしも『あのとき』、この袁紹ほどの国力、財力、兵力があれば。
一騎当万の将も、数万にもなる兵も、全軍に鉄製の鎧を支給するだけの財も、優秀な軍師も、すべてあったならば。
きっと自分が一手ぐらい間違えたところで、この手から零れ落ちたりなんてしなかったのに。


だが、そんな思いを一刀は頭を一度左右に振ることで振り払った。
英雄たるもの、後悔などしてはならない。
ましてや、「もし、こうだったなら」「あのとき、こうしていれば」などを語るなどと、御笑い種以外の何ものでもない。


払った犠牲は、無駄な犠牲などではなかった。
失敗などしていない。
必要な対価だったのだ。
そうでなければならないのだ。

自己を肯定しろ。
間違っていた、などと考えてはいけない。
今後、その失ったものの価値以上のものが手に入るはずなのだから、これは正しいのだ。
現に、また一つ獲物が増えたではないか。


「すぐに馴れるさ」
「そうですわね」


帰ってきた返事にも違和感がないことで一刀はもはや駒となった袁紹に対する怒りも消して、欲情の混じった声をかけた。
その顔には、すでに影は消えていた。











「……って、ちょっと、あなた! ちょっと一瞬ほうけていましたが、この名門たる袁家の当主、袁 本初に対してどういうつもりですの!」
「…………えっ?」


が、そこから帰ってきた言葉がおかしかったので、再び顔色は容易く変わった。
これ以上なくおかしかったのだ。
周囲を囲うものさえも、愕然とした表情をしている。

が、響き渡るキンキンとした声はどれほど一刀たちが硬直していようと、いっこうにやむことはない。


「どうしてこのわたくしがあなたなんかに従わなければなりませんの……しかも、言うに事欠いて『馬鹿』?不愉快ですわ!」
「…………………」


思わず聞き間違いかと思うが、そんな一刀のことなど一考だにせず、一気に袁紹は不満をまくし立てた。
そう、絶対の支配者であるはずの一刀に対して、「不満」をまくし立てたのだ。
縛られていて、一刀に対抗する武力も持たず、一刀の声が届いている以上もはや俎上の鯉以外の何物でもなかった。
今の今、確実に一刀の忠実なる駒へとかわったはずの袁紹が、縛られたことに対する不満と共に不当な扱いに対する抗議の声を大きく上げる。


「さっさとこの縄を解いて土下座をして詫びなさい……ちょっと、聞いていますの!? この私を誰だと思って?」
「はぁ!?」



対等以下のものに対してでなければ発動しない太平要術の書。
そもそも袁紹の頭の中に、「敗北」だとか「不利」とかいう言葉が存在するのであろうか?
流石に敗北を認めるだけのぎりぎりの能力がある袁術とは異なり、いついかなる状況であってもこの袁紹である麗羽が、間違い、ミス、自分に都合の悪い決着を認めるわけがない、ときっと彼女の側近であればいうであろう。
そういった自分に対する不都合の存在そのものを認められないからこそ彼女は洛陽を衰退させ、今まさに一刀の前に囚われているのであるが、兎にも角にも袁紹はそういった一種の精神障害ともいえるかのごとき頑固さで自分の最高さを妄信している……もともと一般人であった一刀が環境によって増長しているのとは桁違いのレベルで。

はたして本当にそういった認識が影響したのかは不明であるが、この外史において唯一、袁紹に対しては太平要術の書が機能しなかったのは紛れもない事実。
ひょっとすると、そういった劉備にも、孫策にも、曹操にも持ち得ない、彼女の特性こそが世を大乱に導き、乱れれば乱れるほど力を増す妖術である太平要術の書の天敵なのかもしれない。


自身の絶対の力が破られる、そんなありえない現象を前に一刀は混乱を隠せなかった。
そして、それに相対する袁紹。
いまだ縛られたままであり、その高慢さを裏付ける物はただの根拠のない自負でしかないとはいえ、またも袁紹によって一刀達の予想は外されたのである。



[16162] 蠡をもって海を測る
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/02/21 18:41


袁紹の洗脳に失敗したことで、今まで一刀たちが張り巡らせていた多種多様の陰謀による河東勢の戦略はすでにほぼ完全に破綻した。
河東のありとあらゆる戦略上における大前提である太平要術の書の力が、完全に機能不全を起こしているからだ。

強大な力を持つ袁紹を自陣内に誘い込むことに対する苦労については散々協議を重ね、謀略をめぐらせていた一刀であったが、いくらなんでも相手に妖術が効かないなどということは想定の範囲外にもほどがあった。
今まで袁術、孫策、董卓に関羽と数々の三国志の登場人物を下してきた絶対の力が、何故袁紹には効かないのか。
戦略的に最大勢力である袁紹軍に喧嘩を売った、ということ以上にその事実は一刀を追い詰めた。


「(俺の……俺の、力が!)」


最悪全面戦争を正面から行うことになったとしても大丈夫な準備を整えてきた一刀であるが、この外史に落ちてきてからの一刀の基盤となったのは、そういった戦争の為の兵力や将、軍師などではなくこの妖術の力に他ならない。
この力があったからこそ一刀は悪行をなし、民草や敵兵を死へと追いやり、人身を弄び、力ずくで女を犯したのだ。それは、例えば直接はその力を向けていない張角三姉妹や賈駆、程立に対してであっても同じだ。
この外史に来てより行ったありとあらゆる行動の基礎として、常に太平要術の書の存在はあった。

この力があったからこそ彼は驕り、この力があったからこそ彼は立った。
もはや彼の人格とその力は切り離せないほど癒着したものであったのだ。


それが、効かない。
しかも、原因すら不明だ。
袁紹に対してだけは馬鹿すぎるから効かないのならばまだいい。
だが、こういう事態になってくると小心者である一刀にしてみれば無防備に袁紹が手の内に入ってきたことさえも疑わざるを得ない。

小刻みに震える彼の体は、武者震いなどではなく間違いなく恐怖によるものだった。
最愛の少女を失ったときすらも怒りで昂揚していた頬さえも、今は青白い。
血走った瞳は、震える吐息は、今まで支配者としておごり高ぶっていた彼には全くありえなかったものである。
だが、それも無理はない。

袁紹に対して術が効力をおよばさなかった頃よりしばらく、一刀の脳裏には様々な最悪の事態がよぎり続けてきた。


「っ! …………」


一刀の視線が、袁紹から一時はなれて、宙をさまよう。
その視線は、洛陽よりもずっと向こうの南のほうへと向いていた。
ちょうど、方向的にはとある君主の支配地として今まで眺めていた方向である……袁紹を降した後妖術によって対抗を計っていた、曹操の支配地として。


もしも、妖術書がその力を失った、あるいは失いつつあるとしたならば、どうだ?
今まで特に考えもなく術の力を乱発していた一刀であるが、考えてみればそれがいつまでも続く保障なんてどこにもありはしない。そういったことに対して、一刀は今まであまりにも無防備でありすぎた。
そういうことをほとんど考えずに、ただ熱に浮かされるかのように遊び半分で術の力をもてあそんできて、書を使う方法こそ熟達してきてはいても妖術そのものの心得がない彼はメンテナンスの一つもしなかった。
彼が現代日本より持ってきたスタンガンが僅か三人をノックアウトしただけでその力を失ったように、動力源不明の妖術書にだって人数制限や有効期間というものがあったかもしれないのだ。
これ以上妖術をかけられないとすれば、これから一刀はほとんど特別な力を持たない単なるこの世界の異邦人として天下を狙う争いに戦っていかなければならない。
最大勢力たる袁紹軍と最強兵力である呂布、そして最優の君主である曹操相手にだ。



「……まさか、こんなことが?」
「そんな、ありえません……」
「いったい……何故?」


それだけならばまだいい。
それすらも、まだ最悪のケースというには僅かに足りない。
そうなれば、今度は手間こそ掛かるが英傑たる己が直接指揮して戦場に立たなければならないという面倒こそ起こるが、それだけだ。


口々に呟かれる声を聞いて、思わず一刀は怯えた瞳を返した。
そこに居並ぶいずれも劣らぬ美女―――妖術や暴力によってその心を縛っている三国の美妃たちが、こちらを見る視線にさえ、彼は気まずそうに視線を逸らす。
縋るような、頼るようなその瞳たちには限りない愛情と庇護、そして一刀の身を気遣う者がほとんどであったが、それでさえも今の彼には恐怖の対象だ。


だが、もしも今保有している孫策らにかけている妖術さえも維持できなくなったとしたならば……待っているのは破滅だけだ。
絶対服従の呪いによって能力を低下させてまでも縛らなければ、彼のような低俗な人間に従おうとする英傑などいない。そのことは、鳳統らの反発から一刀も十分学んでいる。
ならば……もしもそんなことが起こったならば。
孫策も、鳳統も、関羽もそれどころか河東数万の兵とその数十倍の民が、今までの一刀の暴政に対する断罪の刃を向けてくることは、想像に難くない。


「(まさかこれを全部知っていたから、アレほどまで無防備に。そうか、だから曹操は……畜生、畜生!)」


しかも、あまりにも無防備だった袁紹の行動からすると、ひょっとすると彼女は―――そして、彼女以外の各地の勢力の長も―――その妖術の力が失われつつあったことを知っていたのかもしれない。

自分の言ったことで周囲が妙な雰囲気になったことを察してか少々不思議げに、しかし自分が間違ったことを言ったはずなどないという確信があるかのように依然堂々とした態度で縛られた状態でもなお胸を張る袁紹を一刀は憎憎しげに見つめる。
が、その呪うような視線を持ってもなお、袁紹が突如その瞳の中の怒りを和らげ、一刀に向かって頭を垂れて甘い声をかけるようなことは起こらなかった。
術が効いていないのは夢幻などではなく、もはや確定した単なる事実なのだ。


そういった暴君たる一刀の力の源が失われつつあることを諸侯はすでに察知していたからこそ、こういった第一手目を袁紹が奪い、いまだ呂布も曹操も劉璋も動いていないという現状があったのかもしれない。
使い手である己さえ知らなかったことをこうも容易く、というのは情報伝達の速度を考えるとありえないとは頭の片隅の冷静な部分で思うのであるが、この時点ではそういった考えすぎとも言えることでさえ否定できるだけの要素は皆無だ。
術の効力がないことを知っていたからこそ、袁紹はこうも無防備に手中に入ってきて、呂布も曹操もいまだにこちらに対して進軍してこないのかもしれない。
疑い出せば、どこまでもきりがない。
冷静な部分とは逆にどこまで払っても消えない黒い霧は、一刀の心を常に蝕み続けた。


どれが正しいのか、どれが間違っているのか。
この時点で知る者はなく、だからこそその疑念を否定してくれるものは例え天の御使いであってもありえなかった。
今までの行動すべてが揺らぐがごとく動揺する一刀。
一刀の行動のすべての大前提である太平要術の書の無効化という事実は、それだけの疑いと衝撃を一刀自身に直撃させたのだ。





この状況下で果たして北郷一刀というこの外史の主人公はいかなる行動を取ればよかったのだろうか?


太平要術が効力をすべて霧散させたことを前提にして、ありとあらゆる手段で袁紹の懐柔を試み、それが不可能であったならば迫り来るであろう袁紹軍に対する対策を術ではなく言葉を尽くして元部下たちと練るべきであったかもしれない。
術が切れていようが使えなくなろうがそれが明確に分からない以上は同じであるとしてあえて無視して、ただいまの時点で純粋に術の効かない者に対する対処として、袁紹を捕獲ないし殺害した上で、その事実を公表するか、あるいはその首をどの勢力に手土産として持っていくのが正しいのかに頭をひねるべきだったのかもしれない。
あるいは覚悟を決めて、いざというときのために自分個人の武器を携帯し、その手入れでもしておくべきだったかもしれない。

が、それらすべてが、所詮流行っておけば過ぎない、というレベルのことであることにも変わりはない。


いかなるメカニズムで袁紹に対して太平要術の書が機能しなかったのか、その理由をきちんと系統立てて説明できる者がいない段階では、きっとどういった行動を取るのが正解なのか、答えを出せる者はただの一人もいないであろう。
どういった選択をしようとも、リスクとメリットがそれぞれきちんと存在してしまう。

ましてや、一刀は今までそういったことをほとんど考えずにすべて妖術の力ずくで押し通ってきてしまったというのに。
信念も持たず、経験も積まず、決断さえも下さないで流されるまま生きてきて、そしてこの外史に落ちてからもそれを続けることこそあれ、変えることなどほとんどなかった。
たとえ本人がどう思っていたとしても、彼は決して三国志の登場人物たる英傑ではなかったのだから。

ならば、現実的に彼が取れる手段もまた、限りなく少ないものへと限られていた。



頭を抱えて布団にもぐり、ひたすらにその生暖かい空間に篭って現実を逃避する。
苦痛から逃げ、苦労から逃げ、ひたすら美味しいところだけを得ようと今まで積み重ねてきた彼からするならば、それが一番妥当な結果だろう。
所詮、北郷一刀などその程度の男だ、と……日々を安楽に過ごすことのみを目的とする愚物であれば、それ以外の選択肢などないも同然だ。
即座に逃げ出して、どうしようどうしようとうつろにつぶやくことになったとしても、誰一人として意外に思わなかったであろう。


「(クソが、ふざけるな!)」


だが、違った。
一刀は、そんな選択など、端から考えもしなかった。
いや、一瞬考えはしたが、怒りとともにそれを考えた事実そのものをすぐさま強く打ち消した。
そう、愚かで強欲な匪賊であるはずの男は、すでにもういなくなっているのだから。

先に述べた推測は、あくまでかつての彼を前提とした分析だ。
一つ、彼が通った些細にして重大な経験のことを見落としている。

言葉にするならばたった一言で終わる単純なそれは、臆病にして強欲なだけだった匪賊の一刀に対しては複雑にして言葉に尽くせないほどの大きな影響を与えている。
それを元に、新たに考え直すのであれば……



「っ…………来い!」
「きゃっ、ちょっと、あなた! いったいどういう」
「黙れ!」


術が効かなかったことを完全に知った一刀はすぐさま玉座から飛び降り、そこに芋虫のように縛られて地面に付している袁紹の縄を解いたかと思えば、即座にその手を握って駆け出すかのようにその場から離れていった。
その行為は彼の数倍の知力を持つであろう孔明や程立が声を出すよりも早く、彼など一太刀で殺害できるほどの反射神経を持つ孫策や関羽が止める間もないほど唐突ですばやいものだった。

そう、愚物であった彼であるが、その術の無効化という事実によるあまりにも大きな衝撃が通り過ぎた後、すぐさま誰よりも早く動き始めたのである。
それは決して、今後の利害を計りきった綿密な計算によるものでも、今後どうすればいいのか、という確固たるビジョンがあってやったことでもない。
彼からしてみれば反射的に体が動いたに等しく、それは熟考というよりもむしろ考えなしの衝動に近いものであったが、それでも彼は間違いなく自分の意思で決断を下した。


「(腹をくくれ、北郷一刀……泥沼の戦争、上等じゃないか。術がなくても、戦力で劣っても、これはただのフラグだ! 止まるな、怯えるな……笑えっ!)」


かつての彼であれば何も出来ずに立ちすくむだけだっただろう。
だが、すでに一刀は心に決めていた。
彼が望むのは、完全無欠の己による天下統一。
払った犠牲に相応しいだけの価値を打ちたてることこそを願う彼は、だからこそもはや後戻りすることなど微塵も考えずに大胆な行動に出た。
様々な不安要素を感じては怯える、ほかならぬ自分自身に対する怒りがその行動を後押しした。



この未曾有の危機を前にして、いまだ震えるだけでいいのか?
対策を丸投げにして、自分は玉座でふんぞり返っているだけでいいのか?
かつてと同じく与えられる餌を口をあけて待つだけでいいのか?
誰かがこの問題を解決してくれるだろう、と願うことしかしないでいいのか?

それで、かつてと同じ間違いを犯したとしても……いいのか?




いいわけがない。
いいわけがなかった。

かつての失敗は、フラグだったのだ。
ほかならぬ一刀自身にその失敗を実感させ、それによってより自分自身を成長させ、更なる価値を得る事が出来るように成長するための、必要な犠牲だった。
ならば、それによって膨大な経験値を得た己自身は、成長していなければならない。
『今度』はうまくやるために、『今度』はノーミスで更なる賞金を獲得する為に。


定石はずれの袁紹の行動によって先手を取られてしまったとはいえ、今回の袁紹攻略にも現れていたようにたった一つの経験が怠惰であった彼の方向性を著しく変えていた。
今でも、酒食を好み、肉体労働そのものである戦場に出ることを厭う一刀の性質が変わったわけではないが、それでもなお、積み重ねてきた経験によって彼自身も変化していたのだ。


この前は、待っているだけで結局失敗した。
つまり、このゲームにおいて待ちは間違いへと繋がっている。
かつての経験を踏まえると、動くことこそが正しいのだ。
だからこそ、答えは簡単だ。適当にであっても動けばいい。
英雄であり、スライムを倒したことで経験を得てレベルアップをした自分が正しい選択をしたのであれば、例えそれが適当に進んだとしてもいい方向につながらないわけがないのだから。
それなのに……例え僅かにであってもこの自分が不安に思って、かつてと同じ間違い、「停滞」という選択肢を選びかけるとは!


あやうく間違った選択―――怯えて震えるだけ、という行為をほかならぬ自分自身が取ってしまいかねなかった無様さに、一刀は怒りさえ感じていた。
それはまるで、何度も何度も1-1のキノコ妖怪に引っかかって死亡し続ける不器用な自分を繰り返すようなものではないか。
いつまで同じ事を繰り返すのか、ほかならぬ自分自身であるからこそ冷静になって考えてみればそれは余計に醜悪に見えた。
だからこそ、そんな無様な自分の姿を客観視して恥じた彼は、そんな先ほどの自分の無様さを脳裏から打ち消さんとばかりに自分自身でも分かるほどあえて積極的な行動に、誰にも意見される前に自分自身の意思で袁紹の処遇を決める為に動いたのだ。


ひたすら袁紹の手を引いて進んでいった一刀は、やがて目的地へとたどり着く。
扉を開ける魔さえ惜しいといわんばかりの速度、ほとんど体当たりに近い形でその部屋に入った彼は、すぐさま目線を目的の場所へと移し、それが常と変わらずそこにあることを一応の確認する。
当然ながら、彼の部屋であるそこを彼に居かなく荒らすようなものがいるわけもなく、当然ながらそれは朝彼が出たときとほとんど変わらぬままそこにあった。
いまだ頭の上に大きな疑問符を浮かべている袁紹を自室に無理やり連れ込んだ一刀……当然、やることは一つだ。

己が力を一方的に無視されたことに対する怒りと自身で決めたルールだけは破ってはならぬと思う硬い制約によって、術の無効化に伴う様々な弊害による恐怖を無理やり押し殺した一刀の行為は、確かに拙速と呼ぶに相応しいものであった。
だが、それは停滞よりもよっぽどマシな行為であり……それどころかこの場において、もっとも正しい選択肢の一つでもあったのだ。


「おらっ!」
「きゃっ!」


つれてきた袁紹の手を握っていた腕を、一刀は大きく振って放した。
当然、慣性の法則にしたがって袁紹はバランスを崩し、その場―――彼が普段いろんな意味で使っている寝台の上にしどけなく倒れこんだ。
想定外の相手の対応に多少混乱していた袁紹は、だからこそただの女のように軽い悲鳴を上げることしか出来ていない。
そもそも、袁紹は確かに三国志に名を残すものではあるが、正直なところ無能以外の評価は当てはまらない。
文官、軍師としての能力はいうに及ばず、個人としての戦闘能力もまあ一刀と大差はない。
これが袁家の二枚看板、文醜と顔良であればそんなことなど出来はしなかったが、少なくとも袁紹に対してならば一刀ごときの筋力でも、力ずくということが可能であったのだ。

それを今までの綿密な調査や風評、そして今日までの袁紹の対応で知っていた一刀は、だからこそその場の勢いに任せて寝台の上に寝そべる形となった袁紹に飛びつくような形で、力ずくで押し倒した。


「何を!」
「うるさい! 黙って喘いでろ!」


その豊かな肢体を彩る豪奢な衣装を力ずくで剥いでいき、滑らかな肌を無骨な指でぎゅっと握り締めて、無理やり一刀は袁紹を組み敷いていく。
抵抗は無論される。だが、その程度もはや一刀にとっては慣れたものだ。
彼は術の力を使って従順に傅く女を抱くことも多いが、同時に力の限り抵抗する虜となった女相手に楽しみのために無理やり事に及ぼうとすることも珍しいことではないのだ。

だからこそ、暴れる相手の力を地面に逃がし、そこにそっと自分の力を添えて力の方向性を制御する。
合間合間に間を取って自分の衣服も脱いでいき、相手の体をそっと撫でて無理やり身体的な準備を引き出していく。
これはこれで、なかなか立派な技だった。
勿論誰にも褒められるようなものではない下賎なものではあるのだが、それでもその一挙一動にこの外史に来てより一刀が重ねた経験のひとつが見て取れる。
決して合気道や柔術といった戦場における柔よく剛を制するではないが、ヤクザな男としての粗暴にして洗練された技術を前にしては、経験の薄い―――そして、武の才もない袁紹が防げるものではなかった。


「あ……ああっ!」


だからこそ、そんな無力な袁紹の抵抗などほとんど意味を成さずに、二人の体は布の海へとゆっくりと沈んでいった。












「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


荒い息で寝台に腰掛ける一刀の後ろで、全裸のまま寝そべっている袁紹。
つい先ほどまでの力関係を表すかのごときその様は、色事を終えた直後の男女としては多少色気に欠けるところがないでもなかったが、それでも圧倒的なまでの迫力をもつ袁紹の体が露になっていることを考えると、ある種の絵画のようにさえ見える美しさを持っていた。

豪奢にして華麗。

少なくとも、見た目だけならば今まで一刀が手にかけてきたものの誰よりも袁紹は女らしい。
武将、あるいは軍師として磨き上げられてきたものが多い一刀の妾たちとは違い、着飾ることに、美を磨くことそのものに誰よりも力を注いできた袁紹の美しさは、諜報員として育成された大喬・小喬姉妹のそれをも上回る純粋なものだ。
他の者が武に、智に、経験に費やしてきた時間をそっくりそのまま自分自身の美に注いできた袁紹は、もともとの美貌という素質だけは他の英雄に一切劣らないだけに、その差の分だけ優位に立てる。
男の目を楽しませるために磨いてきたわけではなく、そういった方面では確かに瑕疵がないでもなかったが、それでも自分で自分を愛する為に誰よりも美しくある為に財も手間も時間も惜しまなかった袁紹は、確かに女として美しかったのだ。

だからこそ、それを強引に力ずくで奪われたことを示す赤茶色の純潔の証の混ざった白濁した液体がまとわりついたその肢体は、汚されてもなお美しいのと同時に、だからこそある種あまりに醜悪なものとしての一面も持っていた。
女同士の戯れこそあれ、男をその身を受け入れたことはついぞなかった袁紹を、一刀は力ずくに奪い去ったのだ。
だが、一刀はそれでもそのことを後悔して、立ち止まろうとはしなかった。


「よくもまあ、好き勝手にやってくれましたわね」
「……」


袁紹にしては珍しいほど、この立場に落とされた女性としては正しい言葉。
力ずくで犯したとはいえ、正直この後の展開を考えていたわけでもなかった一刀はその言葉に反論できなかった。
それでも、謝罪の言葉は、その気持ちは生まれない。


袁紹を犯したのは物の弾み、いわば洛陽軍と敵対する覚悟を決めたことを後で撤回しない為のほとんど景気付け程度の意味だったのだから、罵倒はされても仕方がない。
例え戦う準備を整えていたとしても、術の効果さえあやふやとなった今に、大軍を擁する洛陽軍と戦おうと決めるには随分な覚悟が必要であった。
戦っている途中に術がきれるかもしれない、反乱を起こされるかもしれない。
そういった危惧が頭をもたげてくる中で、それでも天下を己の手に治める為には戦うべきだ、という決心を固め、それを撤回しないで維持し続けるのには並大抵のことではない。

だからこそ、一刀は袁紹を犯した。
ひょっとすればこの場で取り繕えば何もしなくても先ほど立てた計画のまま物事が都合よく転がるかもしれない、だから自分は何もしなくてもいい、と囁く弱い己自身と決別するために、そんな都合のいい妄想を出来ないように自分自身で止めを刺した。
致命的な取り繕いのない亀裂を生むことで、己自身にもはや後戻りは出来ないのだ、と言い聞かせたのだ。


術の力が通じなかった。
ならば、北郷一刀はもっと、もっと強くあるべきだ……強くならなければならない。
躊躇いなど不要。
戸惑いなど無意味。
後悔など無価値。
強く、ただ強く、妖術にも劣らぬ、鋼の心を!


ただ単に袁紹はそのための道具にしか過ぎない。
そんな程度のことで純潔を散らされた彼女のことなど微塵も考えずに、ただ己の道を邁進する為に一刀はこうして動き始めたのだった。









「まあ、これもわたくしが美しすぎるからということを考えれば、仕方がないことかもしれませんが」
「…………は?」
「はぁ? とはなんですの! このわたくしのあまりの美しさにその劣情を隠しきれずに虜にしたのでしょう? まあ、そう考えればさほど悪い気はしませんわね」


が、袁紹はここでも一刀の予想の上―――あるいは下―――をいった。

一刀の予想としてはここで袁紹は怒り心頭、先の捕獲と合わせてもはやこちらに対する殺意を隠そうともせずに直情的にこちらに対して危害を加えてくるはずだった。
それを迎え撃ち、返り討ちにする。
こうして袁紹本人は捕獲ないし殺害することに成功したが、その結果として洛陽と全面戦争が起こる。
妖術の結果があやふやなので浮き足立っている河東軍は、ひょっとすると孫策以下すべての将兵が反乱を起こすかも起こさないかもしれない。
そして、そんな最悪の状態でも、もはや妖術書は使えない。
もはや絶体絶命のピンチである。
だが、英雄にして天才の一刀はすぐさま解決策を考え付き、それによって再び河東全軍を掌握、その兵力で持ってあっさりと洛陽軍をも返す刀で壊滅させて、やがては天下を取る。

ひょっとしたら反乱なんかは考えすぎで起こらなかったり、今後も問題なく太平要術の書は使えたり、といったことで細部は違えど、多分こういったことが起こると信じて一刀は行動を移したはずだったのだ。
少なくとも、袁紹との対決及び決着までは確実なはず。
すぐさま洛陽と戦争になり、その戦場に己が立つかもしれない、というところまではほぼ確実に一刀は覚悟してその行為を始めた。

が、その大前提である袁紹怒り心頭。
まずこの時点で、またも彼の計画は躓く事となったのである。
というのも、何故か袁紹、怒っていないのである。


「ああ、なんて罪作りなわたくし……いいですわ、このわたくしの寛大な心で許して差し上げます」
「はぁ!? おい、ちょっと待て」
「まあ、所詮凡人ではわたくしの魅力に抗うことなど出来なくても当然かもしれませんわね、おーほっほっほっほっほ!」


…………術が効いていない以上、これが彼女の素であるはずである。
そもそもゴボウや孫の手に処女をくれてやってもかまわないレベルで自分の貞操(ついでにお供二人のも)というものにイマイチ価値を見出していない彼女にとって、一刀のやった行為は見方を変えれば自分のボン・キュ・ボン! のゴイスーでグンバツなバディに対する賞賛だ。
相国というあまりに高すぎる地位と名門袁家の気位、そして何より袁紹自身の態度によってそんなとち狂ったマネに出た者が今までいなかっただけで、別に男女関係に対する負の感情は持ち合わせていない。


自分があまりに素晴らしすぎるから、この目の前の男はその衝動に抗うことが出来ずに関羽の協力を借りて自分に縄を打って、このような暴挙に及んだ。
自分に対するこんな無礼な行為は確かに許せないものではあるが、同時にこの袁紹の美貌を目の前にしてしまっては庶人でしかないこんな男など、我慢できなくても仕方がない、いやむしろ当然であろう。
罪は罪であり、この高貴なる私に対してこんな扱いをしでかすなどと、男のやったことは確かに許されないことではある。


(ですが、それをいうならば……このわたくしの美しさは、もはや存在そのものが、罪! ああ、美しすぎるということも困りものですわね)


思考の経路自体が常人とまるっきり異なっている袁紹は、心底こう考えている。
だからこそ自分で自分の台詞に酔って、一刀の事を完全に無視していつも通りの高笑いを上げる。
根性入れて暴挙と理解していながらもそれに及んだ一刀の覚悟をまるっと無視するその様は、しかし愚者にして定石はずれでしかも悪運だけはむちゃくちゃいい袁紹には相応しい態度であった。


ただひたすらに待ち続けることによって詠という少女を失った一刀であったが、それを悔いて今度は己自身が労を厭わず動いたことで袁紹という少女を手中に収めることに成功したのである。
その行動の目的としては、袁紹を得ることを諦めてやけくそ気味に全面戦争へと突っ込むことだったとしても、結果としては戦争となるほど袁紹との関係を悪化させるどころか、むしろ大いに改善していた。

一刀の内心的な必死の覚悟が丸々無駄となり、結果としては袁紹のめちゃくちゃ具合によってその真剣な決意が完全に踏みにじられる形となったとしても、最終的には一刀は大きなものを手に入れたのだ。
これも一つの決断の成果、一刀本人は不本意ではあろうが、彼自身がかつてのように「待ち」ではなく「攻め」を選んだことで得たことであることは間違いない事実である。
きっと、草葉の陰でとある少女も涙を流して喜んでいることであろう……あるいは、そのあまりのいい加減さに怒りを通り越して笑っているだけかもしれないが。


かくして、河東と洛陽の同盟が成立した。
袁紹本人以外には完全無欠に意味不明な経緯によって。




[16162] エレガントでビューティフォーでフリーダムな麗羽様のある日
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/03/01 17:44


袁紹の気紛れによりさくっと成立した同盟であるが、当然ながらこれは極めてあやふやな脆いものである。
基本的に同盟というものは両者がある程度の目論見があり、利害が一致したときに起こるものだ。

だが、現状の袁紹と一刀の利害は到底一致しているとは言いがたいものだった。

袁紹の願いは、現状の維持だ。すなわち、漢王朝の安定および皇帝制度の維持を行い、その中での最上の位置に袁紹が座り続ける。
袁紹の頭の軽さを知った一刀が、どれだけ言いくるめようとしようとも、そこだけは本当に袁紹はブレない。
キングメーカーとしてある意味皇帝をも超える地位に袁紹が立ち続けることこそが目的であり、一刀など所詮はそのおまけ、お情けでその末席に座らせているだけの小物に過ぎない。
例えどれほど武勲を挙げようとも、どれほどの貢献をしようとも、精々「袁紹の次」の地位までしか登れない男妾でしかないのだ。
それは例え、内外に今まで河東を実質支配していた北郷一刀という天の御使いが袁紹とそういう関係になって、距離を詰めつつある、という評判が広がったとしても同じ。
袁紹個人としても何度か肌を重ねることでそれなりに一刀本人に対する認識を「まあ、悪くはない」程度まで上げてはいたが、到底自分の主人と認めて上に立てる、というようなものではない。


同盟の実態がそれでは、一刀はとうてい納得できない。
彼が望むのは、完全無欠な自分による天下統一だ。
袁紹どころか、皇帝さえも己の上に立つのは認められない。
袁紹の実質的配下である有力諸侯の一人―――そんな程度の地位で満足するならば、わざわざ戦争などに加わらなくてもねっころがっていただけでやがては手に入ったであろうことを考えると、そんな程度の地位ではまったくもって割に合わないのだ。
例え、自分よりも上位の者が女ばかりであり、自分の女が取られる、という可能性が全くなく、衣食住色といった実利的な面だけで行くとこれより上に上がったところでほとんど変わらないことはわかってはいても、それは許されないことだ。
今まで支払ったものからすると、己の天下以外の対価など認められるはずがない。


そういった面で、二人の認識は致命的にずれている。
結局、お互いがお互いに自分こそが頂点に立たねばならない、と思っている二人では、ともに天を戴くことなど不可能なのだ。

それでもなお同盟が成立しているのは、結局のところ袁紹と一刀の勢力的な力量差が大きいことに起因する。
袁紹の洗脳に失敗した段階ではもはや戦って勝つことしか生き残る道がなかったが、それは同時に大きな賭けになる。
様々な絡め手の策をいくつも用意していたように、後々曹操や劉璋と戦うことを考えると膨大な人員を誇る袁紹軍と全面戦争というものは、一刀にとってできれば避けたい選択肢だ。
太平要術の書の力なしに一息に潰せる程度であれば、そもそも時間の掛かる絡め手などを主力としていなかったに決まっている。
それが出来ないからこそ、今まで策を練っていたのだ。

勿論、やれば勝てるだけの目算はあったものの、それによって力を落としてしまえば結果的に曹操たちと戦った場合にも影響を及ぼし、さらに天下統一までの時間がかかることになってしまう。
術が効かない、という袁紹の特性は、一刀たちによるその勢力に対する戦力評価を著しく上昇させたのだ。


かといって、いろいろとこちらに対してごちゃごちゃといってくる上に、見当違いの方針を押し付けてくる袁紹の存在、それによって圧倒的優位の状況から十数万もの被害をだして敗北しかけた北方大乱での官軍の拙さのことを思えば、彼女と同盟を組んでいる状態で曹操たちを潰そうと動くのもまずいと一刀は考えた。
まさに烏合の衆というに相応しい洛陽軍のことを考えると、彼女たちと肩を並べて戦争に挑むことは、あまりにも不安だった。
ましてや、主導権を握れるならばまだしも今曹操討伐の気風を立てれば宮廷での地位などから確実に袁紹の統制下に置かれてしまう。彼女に術が効かない以上、それは避けたかった。

曹操が実際にはどれほどまで強大なのか、一刀はそこまで認識しているとは言いがたかったが、それでも自滅するだけではなく、こちらの足を引っ張りかねない袁紹という巨大な枷をつけたまま戦うのが拙いのぐらいは分かりきっている。
ましてや、その手柄を全部奪われる可能性を考えれば、出来るはずがない。



敵にすればわずらわしく、味方にしても頼りない。
術が使えないことで、一刀の選択肢は大きく狭まってしまった。
袁紹という巨大勢力は、どちらにしても「停滞」を招く嫌な選択肢だ。
それでも、太平要術の書の無効化のショックを引きずっている河東では、戦うぐらいであればまだ戦略を練り直して再度謀略を仕掛ける方が、早く袁紹を倒せる。
袁紹の一声で戦わなければならない状況であれば選べなかったことを思えば、それは随分贅沢で余裕ができた選択肢だった。

だからこそ、どちらにしようか見比べた挙句に一刀はそちらを選んだ。
全面戦争を、袁紹の気紛れで避けることが出来たのであれば、それを蹴ってまで戦争をするメリットが薄い、と思ったからこそ、一刀は己と描く夢が異なっていることを分かっていながら袁紹と同盟を結ぶことを選択した。
ただしそれは、恭順を意味しない。あくまで、忍従だ。

洛陽と河東の結びつきはそういう経緯で結ばれた同盟であり、袁紹と一刀の関係はその力量差が逆転するまで、一刀が確実にほとんど無傷で袁紹軍を始末できる力をつけるまでの時間制限付きのものだった。








河東領と洛陽領の構造は基本的に良く似ている。
勿論、規模が小さいが故にゆがみが少ないこと、汚職役人を発見次第妖術で無理やり消すことが出来ること、主要官僚の能力差が論じるのも馬鹿らしいほどの差があること、圧倒的にめちゃくちゃな麗羽に比べれば凡人であっても主君としてはマシなこと、僅かながらも現代知識を応用できること、を考えると河東の方が洗練されてはいる。
それでも袁紹軍のほうが戦力評価で上になるのは、ひとえに規模の大小の差でしかない。
が、ほとんど官僚頼り、丸投げが基本であるために、主君は大方針さえ決めてしまえば後は毎日エロイことしたり食べ歩きしたり出来るぐらいに余裕があるという点では、二勢力は極めてよく似ていた。

少なくとも、主君が必死こいて寝る間も惜しんで働かねばならなかった公孫賛領や曹操領とは性質を異にしている。


「あ~ら、そこにいらっしゃるのは北郷さんじゃありませんこと?」
「……よう、麗羽」


だから、お互いプラプラと歩いていれば、住居を同じくしていることとあいまって遭遇する確率はそう少なくはなかった。
訳のわからぬ思考回路によって河東と同盟を結んだ袁紹は、同盟を結んだ以上はここは自分の城も同然、とでも言わんばかりの勢いで、以前よりもさらに遠慮のない態度で河東を闊歩していた。
前方から進んでいた一刀はその姿を当に発見していたが、だからといって国主の彼が袁紹の姿を見たとたんに踵を返すようなこともまた間違っていると思ったがため、あえて進んできていた。


「相変わらずさえない顔をしてますわね。わたくしを見習ってはいかがです?」
「そっちこそ相変わらず調子がよさそうだな」
「当然ですわ、わたくしを誰だと思って? お~ほっほっほ」


向かいから来た一刀相手に普通に声をかけるあたり、結構な扱いをされたはずの袁紹が彼に対して全くもって怨みのかけらも持っていないことが窺える。
本当に何を考えているのか、一度割り開いて調べなければならないかもしれない。
その主人の態度を承知してか、彼女の側近も普通にこちらに対して声をかけてきた。


「やっほ、アニキ~」
「こんにちは、一刀さん」
「猪々子に斗詩も、しばらくぶりだな」
「ま~ね~」


文醜と顔良。
たしか、三国志でも演義でも二人とも関羽にさくっと殺されたはず。
その程度にしか覚えていない一刀の認識と同様に、この外史における彼女達の力はさほどではない。
呪いによって能力を落とした関羽にさえも二人がかりで敵わないであろう程度の力しか持たない二人は、しかし袁家の宿将であるにもかかわらず親しげに一刀に接する。
その笑顔に影はない。


(こっちもあいかわらずか……くそ、なんで袁家はどいつもこいつも!)


袁紹をだまし討ちにして、亡き者にしようとした、という事実を側近二人はどう考えているのだろうか?
思考回路が完全におかしい袁紹とは異なり、少なくとも顔良の方はまともな会話が成立するだけの知能を備えていたはずであるにもかかわらず、そのことについて二人は何も言わない。
例え袁紹本人がなんといおうと勢力的な力関係から考えると一刀がやったことは紛れもない弱み以外の何物でもないために、二人と会話するたびにいつそのことを言われるのか、と気まずさがついて回る。

いったい彼女たちはどういうことを考えているのか。
一刀が知らないかつての三人の会話に、その答えがあった。


『麗羽様、結局なんで同盟なんて言い出したんですか?』
『あ、それあたいも疑問だったんです。いったいどうしちゃったんです?』
『別にたいしたことはありませんわ。ただ、河東を仕切ってる北郷さんという方がこのあまりのわたくしの美しさにど~しても、仲良くして欲しい、といわれただけですわ。そこまで言われてしまえば断っては角が立つじゃありませんの。お~ほっほっほっほっほ!』


……麗羽が二人に、つかまった挙句に無理やり犯られたことを告げてないだけでした。
まあ、彼女本人にしてみれば別に言うまでもないほどどうってことないことだったからわざわざいわなかっただけであるが。

勿論、二人とも袁紹のめちゃくちゃ具合は知っているだけにその言葉を丸まる鵜呑みにしたわけではなかったが、実際にあってみると河東は発展しているわ(洛陽以上に活気があります)、お供である二人にまで待遇は立派なものだわ(これ以上洗脳できない麗羽の機嫌を損ねるのを恐れているだけ)、麗羽の前で彼女の顔を正面から見ようとしないほど彼女の美貌に感じ入ってる(なんとなく苦手意識がついているだけです)と、一刀の態度は権力者に媚びるだけではない麗羽本人を見た、結構好ましいものと思えた(勘違いです=結論)。

だから、二人としては一刀のことを、実質的に河東を支配する有力者、天の御使いにして、麗羽の美貌にころっといっちゃっただけのいい人、と思っている。
能力はさておき、外見だけならば自分の主が誰にも負けないことを知っているが故に、それを否定する要素も彼女達の頭の中にはなかった。
もっとも、その後に袁紹のわけの分からぬ言動によってその処女を一刀に捧げさせられているにもかかわらず、袁紹、一刀の両者に対して怨むでもなく「仕方ないよね~」といった態度で普通に流せるあたりは流石に袁紹の側近な訳だが。



そんなわけで、この二人も一刀は少々苦手だった。
袁紹よりはマシだとはいえ、どんな不合理な経緯を聞かされたとしても「まあ麗羽様だからそうもなるか」というただの一言で諦めて受け入れてしまう二人の思考が袁紹自身のわけ判らなさに連動していることもあって読みにくいこともさながら…………この二人にも術がかけられないからだ。

もっとも、袁紹とは違い理由が分かっているだけまだマシだが。
その術がかけられないというのは袁紹のように術が端から何故か無効化される、といった性質によるものではなく、勢力や地位的な差から彼女達の中で「袁紹>一刀」の認識があるため術を作るための『対等または優位』という認識を作れないという条件的なものだったのだが、どっちにしても今の関係が一刀にとっては心地悪い。



術を使っていないにもかかわらず、自分が好かれるわけがない、という認識ぐらいは一刀にはある。
故に、袁紹勢力のこのあまりにあまりな態度はどう対応していいのか全く判断がつかない。

実際に顔良からしてみれば現時点でもっとも武で名高い河東を取り入れられる、というのであれば一刀との行為はぎりぎり許容範囲であっただけであり、同性愛の気が強い文醜からしてみれば男なんてどうでもいい、という楽観的な思考によるものであった、というものだったのだが、袁紹の件で思いっきりビクビクしている一刀にしてみれば権力を使って無理やり抱いたにも近い二人がこのように割りと好意的に近付いてくる意味がわからないのだ。


「そうですわ、北郷さん。あなたからも斗詩にいってやってくださらない? このわたくしの美貌の為ならそんなこと二つ返事ではいと言うべきだ、と」
「は?」
「……麗羽様、朝から温泉がどうこうって聞かないんですよ」


だからこそ、かつての自分と同程度に楽観的なだけの袁紹一味が、あまりに恐ろしい。
多分単純に馬鹿なだけなのに、そのすべての行動がとことん自分の考えと会わないのだ。
今の不穏な雰囲気を完全に無視して普通に遊びに誘ってきたりする袁紹の一挙一動にビクビクせざるを得ない。


相性がよくない。
一刀は、自覚せざるを得なかった。
劉備―――桃香のときとは違い、お互いがお互いに噛み合わないのではなく、こちらが一方的に苦手なだけで相手からするとこちらの態度は苦手でもなんでもない、というそれは怒りをぶちまけることが出来ない、という点でどうにもやりにくいものである。


「そうか……たしか、ここから北西へ一刻ほどいったあたりに天然の温泉が湧いてたと思う」
「あ~ら、それはいいことをご存知でしたわね、北郷さん」
「やるじゃねえか、アニキ」
「ちょ、ちょっと一刀さんまで……はぁ」


故に一刀が出来ることは、当たり障りがないように表面上の付き合いを続けることしかなかった。
どうせ麗羽との縁はこっちが力を溜め終わるまでの短いものだ。
元々敵同士である一刀と麗羽は、術によって無理やり仲間に出来ないのであれば、最終的には潰しあうしかない。
だからこそ、それまで麗羽の機嫌を損ねないよう、しかしへりくだって気分が悪くならない程度の関係を続けて時間稼ぎをすればいい。

やさぐれ気分で一刀はそう思っていた。
麗羽を前にすると、そうでも考えなければやってられなかったのだ。


「では、案内なさい、北郷さん」
「……は?」


そんな考え、こちらの態度など全く考慮せずにずんずん踏み込んでくる麗羽にはまったく持って無意味であったが。









かっぽーーーーん

「ふう、しかし、いい湯ですわね~」
(どうしてこうなった……)


一刀は、温泉が好きだ。
現代人的な潔癖さで、この時代にしてはありえないほどの贅沢として城においても毎日風呂を沸かさせて入っている一刀であったが、やはりそれはそれとして天然の露天風呂というものも日本人として心引かれるものがあった。
基本的にこの外史は古代中国ベースなので、日本ほど掘れば即温泉が出てくる、というほどではないが、それでも一刀が支配している領域はそこそこ広大なので探せば温泉の一つや二つ、いくらでもある。
そのうちのいくつかを権力者らしい力を無理やり使って自分のものとして徴発していた一刀は、基本的に対してやることがないためにひたすら城の中でエロイことをするのに飽きたときに、気分転換もかねて何人かの女を連れて温泉に行くことは、さして珍しいことではなった。


だから、別に全裸の袁家三馬鹿トリオと混浴するぐらいで動揺するほどうぶではなかったのだが、それでも彼の頭の中では「どうしてこうなった」の文字が踊り狂っていた。


(おかしいよな、おかしいよなぁ! 同盟組んだのはいいとして、なんでそのトップ同士がプライベートで普通に遊んでんだよ!? もっと普通ギスギスしてるモンなんじゃねーのか!)
「北郷さん、お盆こっちに流してくださらない?」
「おう……」


確かに犯したのは一刀が先な訳であるが、少なくとも彼はそれなりの目論見があって袁紹に手を出した。
そういえるほどたいそうなものかどうかはさておいて、彼の行為は政治の一環としてだったのだ。
例えば、残っている敵対勢力の長、曹操と劉璋が同盟を結び会食をすることがあったとしても、それはきっとお互いがお互いに探り合うための、外交の一環としての会話であり、食事だ。
間違ってもこんなのほほんと全裸で湯の中に沈んだ平たい石に腰掛けながら、こっちに向かって無防備に酒の乗った盆を渡すようにいうようなものではないはずである。


ぷかぷかと、湯船の上に浮かべられていた盆に載った徳利に入れてある河東の特産品の一つ―――ニホン酒の熱燗が気に入ったのか上機嫌で自分で御猪口に注いだ袁紹は、その勢いで手ずから空いていた杯にその徳利の中身を注いだあと、盆の表面を軽くつついた。

湯の上に浮かんだ盆は、その勢いを受けてゆっくりとこちらに向かって返って来た。
さきほど斗詩と猪々子にツマミを作らせにいかせた今、湯船には二人っきり。ほとんどの護衛は戦力となりうる文醜・顔良の監視についていったとはいえ最小限度の人数はここの近くの何処かに潜んでいるのであろうが、それを袁紹一派が知っているとは思えないし、まさかそいつらの為に麗羽がお酌をするわけがない。
ということは、この表面張力ぎりぎりまで注がれた杯の行く先は一つしかなかった。

そのため一刀はコレジャナイ感満載ながらも、やむなく袁紹の気遣いに片手を上げて答えながら、杯を乾す。


(……なんで俺、こんなことしてんだろ?)


やるせなかった。
失ったさまざまなものと引き換えにより価値あるものを得るため、天下の英雄と知恵比べとシリアスにしゃれ込んでいたのに、現実は金髪美女とまったり温泉でさしつさされつの酒盛りである。
そのこと自体は別に珍しいことでもなかったが、自分がどう動けばいいのか全くわからない、そもそも考えて動いた結果がまるで意味を成さない、という状況は一刀の情熱と怨念とやる気を根こそぎ削いでいた。

なので。


「あら? ちょっと北郷さん、くっつかれると熱いですわよ」
「うるせー」


目には目を。歯には歯を。常識はずれには常識はずれを。
というわけで、唐突に杯を投げ捨てて、抱きついてみた。
ふにょん、とあまりに大きくやわらかいものが一刀のあんまり分厚くない胸板の間で潰れる。
湯温がぬる目の温泉だったので、長時間浸かっていてものぼせそうな気配はないため、熱いといった袁紹本人も口には出したものの特に不快そうなそぶりを見せることなく、くぴりと酒を飲む。

なんとなく負けた気がして、一刀はそれを思いっきり揉みしだく。片手にひとつずつでは余ったので、片方を両手で揉んだり、はたまた先端だけ摘んだりしてみる。
その意味不明な一刀の行動に目を丸くした麗羽だったが、特に思うことはないのか一刀の行為を静止することもなく好きにさせている。

一刀の手だけが僅かな水音を立てる中、なんとなくお互い無言の時間が流れた。

普通女ならここはきゃー、とか抵抗してみるべきではないだろうか、と一刀は思ったが、ここで袁紹に圧倒されて引いてしまっては今までと同じだ。
何かしなければならない、と先ほどからやけ酒ってたせいで若干判断が怪しくなっていた一刀は思った。

何はともあれ、行動あるのみだ。
そう、停滞こそがこの北郷一刀を殺すのだ。
なんか前回そんな感じの決心をしたはずだ。

というわけで、いい加減もみしだくだけというのもあれなので今度はその胸の谷間に収まるように抱きつく。
そのままがばっ、と袁紹を持ち上げ、自分の膝の上に強引に座らせる。

身長差はさほどない上にあまりに袁紹のアレがおっきいので顔面全部が埋まるようになるが、構わなかった。
とにかく今は常識に囚われていてはならない……強迫観念にも似た何かを感じて一刀は何かに命ぜられるがままに行動する。


「……何がしたいんですの?」
「なんとなくだ。意味なんてない」


流石の袁紹とはいえ、戸惑っているような雰囲気を感じる。
ほとんど胸に顔を埋めているために彼女の顔は見れないのだが、一刀はなんとなくそんな感じのことを思って謎の達成感を覚えてにやっとした。

が、次の瞬間戦慄する。
手持ち無沙汰だったのかなんなのか、何を思ったのか己が胸の谷間に挟まった男の頭を、袁紹はその器を盛っていないほうの腕で優しく撫でた。
湯に浸かってはいてもまだ髪を洗うことはしていなかったために中途半端に飛沫で濡れた一刀の髪を、湯から上げたばかりで湯気さえ立てている袁紹の繊手が伝っていく。

おそらく、こちらも意味があっての行動ではない。
酒が大分回ってきているがために、目元を軽く赤く染めた袁紹は、本当に特に意味もなく目の前の男を撫でただけなのだろう。
瞳が僅かに潤んで細められており、紅を差さずとも染まった頬よりなお赤い厚めの唇から吐息を漏らしながらほんの僅かに開いているところからも、その酔いは見えて取れた。

が、第一回チキチキどっちが意味不明なこと出来るか大会決勝戦に挑んでいるつもりだった一刀にとって、これは紛れもない袁紹の反撃だ。


故に胸に埋めていた顔を離し、袁紹の手を振り払って彼女の瞳を見つめる。
不思議そうに、可笑しそうに、こちらを見つめる麗羽の目には、こちらも同じような表情をしているであろう、小さくなった自分の顔が写っていた。

そこで気がついた。
考えてみれば、初めてだった……こんな表情の女と酒を酌み交わしあいながら見詰め合うなど。


「?」
「……何でもねえよ」


術で操ったり、無理やり組み敷いたり、脅迫したりといった手法によって女と閨を共にしたことはあったが、考えてみればそれ以外の女とは一刀は日常会話をしたことさえもはや遠い世界、天での話がほとんどだ。
そして、この世界におけるその唯一の例外だった少女は酒など好まなかったし、そもそもいつも追い立てられるように忙しそうに走り回っていたため、見つめ合うための時間など取れなかった……そしてその当時の一刀も、そんなことを彼女に求めやしなかった。

ずきり、と胸の何処かが強く痛む。
それは女を前にして別の女を想うことに対する罪悪感であり、それを自覚してもなお忘れられないことに対する己を責める気持ちだった。


「くそっ……」
「どうしたんですの? さっきから」
「お前にいわれたくねえよ……黙れ」


馬鹿げている。全くもって、馬鹿げている。
己にそんなものが残っているなど、全くもって冗談みたいなものだ、と一刀は思った。
閨にて女を比べるような甲斐性のない男にだけはなっていないつもりだったのに。
そう何度も言い聞かせても、胸の痛みは消えなかった。
だがそれは、外に出していいものではない。

自分の中にすべて収めて、自分ひとりで飲み下さなければならないものだと分かっていた一刀は、これ以上喋っているといってはいけない言葉を喋ってしまいそうな己の口をふさぐ為にも、これ以上麗羽に余計なことを言わせないためにも、強引に麗羽の頭の後ろに手を回し、鼻柱がぶつからないよう顔を僅かに傾けて、そっと唇を寄せた。
半分ほど酒気によって眠たげに閉じられていた麗羽の瞳は、そのことによって再び丸くなった。片目でそれを確認していた一刀は、だからそれがゆっくりと閉じられていく様ももっとも近くで見ることになった。


(コイツは俺の戦利品だ! 俺が奪い、俺が犯し、俺が掴んだただの女だ!)


それを受けて、袁紹に出会ってから狂わされっぱなしだったペースが元に戻せるような気がした。

だから口付けを、一層強くする。乱暴な一刀の思考とは裏腹に、唇を重ねたと同時にゆっくりと顔の輪郭をなぞるように伸ばされた手は、どこまでも優しく麗羽のすべらかな頬を撫でた。
咥内で酒気色の吐息が交じり合い、お互いの熱を交換し合う。
麗羽の真綿のように柔らかで艶やかな唇は、今この瞬間は間違いなく一刀のためにあった。

やがて、ゆっくりと開かれた唇を一刀は己が舌で割り開いてさらに奥へと進もうとする。
勢いが過ぎたのか、小さくこつりと歯が当たる感触の後に、やがて奥へと割って入った。
舌先で麗羽の歯の形をなぞっていくと、甘いような香りと共に唾液がたちまち絡みつく。その感触が甘美であると共に何処か自分を縛るような錯覚を覚えて、一刀は思わず唇を外した。
だが、そのどこまでの柔らかな感触は離れると同時に急速にそれがないことの寂しさを感じさせる。
誘惑には勝てない。一度放した唇を、再び近づける。それを繰り返す。
何度も何度も唇を重ねていくことで、やがて吐息の隙間に酒の熱だけではない甘くとろけた感触が感じられる。
半ば夢中になってそれを続けているうちに、くたっと麗羽の全身から力が抜けたことを感じた一刀は、ようやく我に返った。

唇と唇が離れ、一筋の細い銀色がやがて途切れることで、その一刀の行為は終わった。
傲慢な思いと共に唐突におこなった己の暴挙に対して、麗羽が急に全身を弛緩させる、ということで答えたことに一刀は不満を感じた。
ここからが本番だったというのに。

力が抜けてぐったりして自分の体に絡み付いているようになっている麗羽を僅かに引き剥がし、思わず不満の表情でその顔を見つめる。
上気し、瞳が閉じられたままのその顔は…………どう見ても、のぼせていた。


「う~~ん、きゅう~~」
「なんか妙に反応がおとなしいと思ったら……これかよ!」


思わず拍子抜けして叫んだ一刀の声にも反応していないあたり、温泉+熱燗+情事というコンボは麗羽の体にはきつかったようだ。
全身の力が抜けていくような感覚を覚えて思わず湯船に沈んでぶくぶくと泡を吐きたくなった一刀であったが、自分の体の上でくったりと意識をなくしている麗羽の存在がある以上そんなことなど出来るはずもなく、やれやれと溜息一つ吐いて麗羽の体を支えながら立ち上がった。


「しっかりしろよ、おい……お~い、猪々子、ちょっと来てくれ!」
(はぁ……まあいい。精々、俺も楽しませてもらいながら時が満ちるのを待つか)


結局、今日も袁紹からペースを取り返すことは出来なかった。

だが、今までのように圧倒されるばかりでなくなったことは気絶する袁紹にそれを抱え上げて風の当たる場所へと運び上げる一刀、という図式からも明らかである。
この日から、徐々に袁紹に対する態度を徐々に一刀は身に付けていったのである。



[16162] 錐嚢中に処るが如し
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/03/11 12:33

「天の御使い?」
「そうです。話を聞いた商人によると河東を治める董卓はその者に忠誠を誓ったとか」


幼いころより共に育ってきた忠臣が公式なものではない、という前置きの上で耳に入れてきたその情報に、彼女は眉根を寄せた。
その聡明な脳裏に、今入ってきた情報を入力してそれを整理する為、すっとその藍の瞳を閉じる。
ほんの僅か、顎を下げてもってきた右手の上に乗せて思案する為の体勢をとったことで、くるくると特徴的な形をした髪の先端が揺れる。
衣服や体、そして髪をまとめるリボンに焚き込まれている香が、鬱陶しくない程度に香った。
光を反射する金の髪が、きょうもしっかりと決まっていることに、忠臣たる長身の美女は眩しげに目を細めた。


「は? 天の御使い……誰かに買い物でも頼まれたのか、秋蘭。それなら私も一緒に」
「……姉者。そういう話ではない」


その後に続いた、どうにも前半しか話を聞いていなかったらしい姉の言葉に愛しさと共に力が抜けていくような感覚も覚えたが、そんな声さえも我等が主君たる曹操様には届いていない。
ようやく『魏』として弱小ながらも一勢力として名乗ることが出来るようになったことで得た城の中。
曹操の思案の邪魔をしないように声量を抑えて姉に応えたが、頭上に疑問符を浮かべるだけでどうにも理解していないようなので溜息を吐いた秋蘭―――夏侯淵は、とりあえずそれはそれとして主の考えを邪魔してはなるまい、と目配せを送る。
決して頭がよかったり、気配りがきいたりするわけではないが、それでも主君を敬愛することひとしきりの姉である夏侯惇は、それだけで察して自分の疑問を完全に棚に上げておいて、曹操のために沈黙を用意した。

その二人の気遣いに気付いているであろう曹操はやがて思案が終わったのかゆっくりとまぶたを開け、しかし側近二人の気遣いには何も言わない。
二人もそれを当然と受け取り、ただ主の言葉を待った。
少々歪な形ではあるが、それでもこれがこの主従のあり方だった。


「私も噂程度なら耳にしていなかったわけではないけど、まさか本当に名乗り始めてくるとはね」
「……袁紹と付き合うにはそういった権威を必要としたのでしょう」
「そうね……妙手、とはいえないけれど、悪くはないわね」
「?」


袁紹、という知っている名前が出てきたことで、ようやく「ああ、河東ってこの間話していたあのへんのことかぁ」見たいな顔をしている夏侯惇のことをおいておいて、二人はその耳にした噂についての考察を始める。
もっともそれは、あくまで曹操の考えを纏める為に夏侯淵が合いの手をいれている、というていのものだったが、己が役割を理解している蒼の武将は完璧にその役目を果たしていた。


「当面の間同盟を維持するつもりはあるようですね」
「麗羽相手にまともに同盟を組めるとは思えないけど……一時的なものならば話は別、か」
「河東の発展は凄まじい勢いです。天の御使いを嘯くのも、それに見合うほどの自信があってのことでしょう」


徐々に勢力を広げつつある、とはいえ反乱軍に対する戦場での華やかな活躍も、強欲で数だけ多い匪賊の討伐による好意も得られなかった曹操の勢力はいまだ小さい。
それでも、己が才こそがこの乱世を治める為の至上の手段であると信じ、乱世の梟雄として将来を見据えてその実現のために虎視眈々と機会を狙う曹操は、決して己が目の前の物事だけしか見ないようなことはしない。

そうでなくても、遥かかなたの北の地に起こった唐突で、不可解で、されど強大な同盟を無視することなど、現状を無視して己が夢に逃げるような愚物でない限り出来るはずもない。
天下を狙う群雄―――もっとも、もはやその大部分が脱落しているといっても過言ではないが―――であれば、この間の戦乱で一気に名を上げた河東と、最大勢力である袁紹が治める洛陽の名は、外すことが出来ないほどの要注意案件だ。

河東と幽州の激突した戦場跡から盗み取ったあぶみの完成度一つ見ても、天の御使い、という言葉が決して大言壮語でないことを知っていた曹操は、だからこそそのものの姿を深く鋭く想像する。

いかなる男だろうか?
密偵たちにどこを突付かせても将からも、兵からも、民からも、悪い評がほとんど出てこないその者は。

降将を厚し、それを既存の者たちに不満をも持たせないその懐の深さ、数々の斬新で、ともすれば意味不明としか思えない政策を実現させるその手腕、そして何より……将に命は愚か、その名さえも捨てさせる求心力。
無貌の将というその武を持って世に誇る豪傑に名誉も武勲も誇りもすべて捨てさせる異常で狂った戦法を可能とし、賈駆という一世を馳せた名軍師にその「真名」を一般兵にまで預けさせるほどの忠誠を買ったその男のやったことは、曹操の関心もまた強く買った。


勿論、内部には曹操の知らぬ理由があるのであろう。
武将たちを女として寵愛している、という話もあることだし、噂や風聞で聞けるものが天の御使いと河東に住まうものの関係すべてである、とは到底いえないだろう。
表に出ない何かがあるからそのようなことが起こったのかもしれないし、あるいは誰か、あるいは何かを立てにしての脅迫によってそれらを実現しているのかもしれない。
そういったことは、この遠く離れた東の地にいてはわからないことだ。

だからこそ、彼と彼女たちがやったことということだけを聞いて、それを一方的に自分の価値観だけで「配下の者を何だと思っているのだ!」などと糾弾しようなどとは思っていない。
正義を、悪を並べ立てるにはあまりに曹操はそのものに対する知識が乏しすぎる―――その判断こそが、曹操の政武におけるバランス感覚を表していた。
だが、火のないところに煙は立たないという。
その曹操の感覚をもってしてもその数々の噂は、あまりに他の君主と比べての逸脱が激しいように感じる。



曹操は、自分の両脇を固める二人へと改めて視線をやる。
自分には出来るだろうか? 
誇り高き武将、夏侯惇の戦場での評判すべてを失わせ、覆面を被らせてその戦果のすべてを己一人に集めることが。
忠心厚き武将である夏侯淵に命じ、己がただの一戦勝利する為に一般兵にその神聖不可侵な真名を預けさせることが。

彼女達のことだ。
曹操が命ずれば、おそらくその内心すべての葛藤を胸の内に押し込めて、ただすべての献身だけで従うだろう。
その信頼関係において、曹操は決して河東の者たちと比べて自分たちが劣っているなどとは考えていない。
だが、だからこそ曹操はそんなことなど出来ない。
彼女達の胸に抱いた誇りを汚させるようなことを自分が命ずることなど、それこそ自身の誇りにかけて決して出来はしない。

そういった己の誇りがあるからこそ、彼女達の忠心とおそらく同等ほどの忠義を受けておいて、平然とそれを無視してただ勝利のために命ずることの出来る男の存在は、天の御使いという名乗りとあいまってまるでこの世界の人間ではないような不気味さを曹操に感じさせた。

おそらく袁紹などという愚物より、この男こそが自分の天下布武への一番の障害となる。
自分と全く種類の違う、しかし優れた好敵手の存在を認め、曹操は奮い立った……否、そうでもしなければ、「間に合うのか」という内心の不安を押し殺せなかったのだ。


「その男、名はなんと名乗っているのかしら」
「何分最近になって急に表に出てきたもので情報が交錯しておりますが……たしか、『北郷一刀』だったかと」


その名を胸に刻む。
伝え聞く範囲では自身も認めていた孫呉はほぼ滅び、注目していた劉備とやらも所詮はただの一義勇軍モドキだった。
袁紹や袁術のような無能、劉璋や南蛮王のような凡俗と同じ心持でいては、こちらが舞台にあがるまでに潰されてしまうかもしれないのだ。
だからこそ、誰よりも、それこそ名目上この天下を治める皇帝よりも強くその名を記憶した……いずれ必ず倒すべく相手として。

北郷一刀。
待っているがいい、この曹操の挑戦を。

それこそが曹操―――華琳による初めの宣戦布告だった。
そこには、相手のあまりの強大さとくらべて自分のあまりに遅い歩みに苛立つ気持ちが確かにあった。



「か、華琳様!」
「……何、春蘭?」
「どうかしたのか、姉者?」


そして、その空気をぶち壊すかのように、先の商人は天の御使い、としてしか知らなかった為に以前聞き及んだ情報とつき合わせて無理やり記憶の底から搾り出したその名を秋蘭が挙げたとたんに、先ほどまで全く会話についてこれなくて捨てられた犬のような目をしていた春蘭が、ここぞとばかりに声を張り上げた。


「私でしたら大丈夫です! そんな男のからくり乳母車なぞどれほど来ようと、この七星餓狼でことごとく粉砕してご覧に入れます」


…………。
そもそも、その「北郷一刀」とやらは北方での大戦のあと、急に話にあがるようになった輩なのであり、その政治力や統率力はさておき戦場で名を挙げたというわけではない。
天から来た、とまで言い切る男だから凄まじいまでの腕を持つ、という可能性もないではないが、それほどまでの腕を持っていたというのであれば、あの北方大乱で名を挙げることでその神秘性の裏づけしたに決まっている。
『降臨』した時期的なものが原因なのかもしれないが、それでも反乱鎮圧という絶好の機会においてそれをしなかった、おそらく出来なかった、という時点で曹操はその者の武の腕前はおそらく取るに足らないものであると判断していた。

そしてその後も、別に襲い来る刺客を一太刀で切り捨てたり、かつては金ずくで刺客を請け負いながら子供づれで放浪していたり、はたまた密偵の頭領と川辺で死闘を繰り広げたり、といった逸話はこの魏のすべてを治めすべての情報を知りうる立場にある曹操の耳にさえ一切入っていない……そもそもそんな事実ないし。
故に、別に戦場での武勇については全く話していないにもかかわらず、この魏武の大剣が唐突にわけのわからぬ絡繰を相手が操ると断定した挙句、己が腕を持って倒して見せる、とアピールするのはイマイチ筋が通らない。

幼馴染であり、無二の親友であり、可愛いネコであり、そして誰よりも忠実な臣下である夏侯惇の唐突な物言いはいつものことではあるが、それでも一応曹操はそれを無視することなくきちんと拾ってあげて姉と同等の信頼を寄せる妹の方へと投げかけてやった。
若干あきれているような気配は否めなかったが。


「……秋蘭、説明しなさい」
「はっ! おそらく、また何か受信したものかと」


が、残念ながらその絶大なる戦闘能力と引き換えに何か大事なものを失ったとしか思えない姉の思考回路を完全に理解するのは、天真爛漫の姉を誰よりも敬愛している血を分けた妹の夏侯淵であっても難しかった。


「? 何か間違っていたか、秋蘭」
「いろいろと、な……まあ気にしなくてもいいことだ、姉者」


とはいえ、彼女の価値はそんなところにないことは主君も妹も重々承知していた為、たとえ自分のいったことがどれだけ的外れなのか、全く持って理解していなかったとしても、そのことを理由に夏侯惇を責めようとは欠片たりとも思わなかったが。



[16162] 石に漱ぎ流れに枕す
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/03/23 21:19

「あ、一刀さん」
「ああ、斗詩か……その荷物は?」


所変わってこちらは河東。
今日の執務である少女らといちゃつきながら書類3枚という膨大な数に判子を押すという重労働を終えて、さて何をするか、と思いながら歩いて自室へ帰ろうとしていた一刀が、渡り廊下の途中で自身の肩辺りまで埋まりかけるほどの竹簡を抱えた顔良に出会った。
正直妙齢の少女が持つ量としてはあまりにシュールな光景であったが、戦場において大槌といういささか奇妙な武器を振り回す顔良にとってはこの程度の分量などさしたることはないのか、その表情は普通に笑顔だった。

とはいえ、一刀であれば五十米ほど行けば腕が震えてくる量であろうことを考えると、改めてこの世界における筋肉の量と筋力が比例しないことが窺える。
一刀の武術の心得は正直なところこの外史においては野盗に鼻で笑われる程度でしかないので、その一事を持って顔良の腕を知ることはできなかったが、それでも今まで鍛錬などを軽く覗いた結果として、彼女が己なぞとは隔絶した腕前を持っていることは承知の上だ。


「麗羽様がこちらにいらしていますので着いてきましたけど、私の仕事もなくなったわけじゃないですから」
「そっか。大変だな」
「そんなことないですよ、いつものことですから」


そして持っているのが竹簡ということで、文官としてもそれなりに優秀である、と今現在この河東の文官すべてを統括する雛里より彼女の評を聞いていた一刀は、そんな彼女の文武両道っぷりをここで改めて見せ付けられる結果となった。
実際、袁紹配下の文武百官の頂点としての地位を与えられている彼女は、武において文醜に並び、軍師としても凡俗からは頭一つ飛び出しており、文官としても優れている。
局地戦以外ではほぼやる気のない呂布とそれを盲目的に信じる陳宮、言われたことはきちんとこなすが、それ以上に個人的な享楽をもとめ、また成り上りという経緯からあまり忠誠心のない張遼、そして何より彼女の主君たる天衣無縫で傍若無人なお嬢様たる麗羽、といった癖しかない個性的な連中を曲りなりとも何とか纏め上げているのはひとえに彼女の手腕によるものだ。

本気で働いたら負けだと思っている麗羽が、気分次第でいろいろなことをしても一応まだ洛陽が持っているのは、漢王朝が歴代で築き上げてきたその伝統の力と、呂布の武力に対する周囲の警戒、そして顔良の身を粉にするような働きだった。


(いい、な……)


欲しい、と思った。
力も、知も、人格も、そして当然ながら美貌も持ち合わせた一角の相手だ。
三国志の登場人物を飲み干すことを求める北郷一刀が欲しがらぬ道理がない。
すでに他人のものだ、などということはなんら意味を持たない。
欲するものすべてが、己の得るべき「正当な対価」だ。



麗羽を温泉にてやり込めることに成功したことで、袁紹一派に対する一刀の苦手意識は随分と払拭された。
実際、話してみれば袁紹、文醜はさておき、顔良はまとも―――言い換えるならば、今まで一刀が謀ってきた相手と同じだ。
利によって動き、益を以って計る。
ごくごく普通の、今まで倒してきた武将とはなんら変わらぬ『普通』の英傑だ。

いまでこそ、袁紹側近ということにより与えられている漢王朝内での地位の高さとお互いの勢力的な差、そしてこちらを小勢であると侮っていると同時にこちらが袁紹配下ということで微妙に萎縮していたがために術がかけられなかったが、おそらく袁紹のように端から効かないわけではないことは、なんとなく術の行使者として理解している。
術の行使に対する不安も、その後おそるおそる実験を繰り返した結果としては、別段妖術書が期限切れになったということでもないらしい。

ならば事は簡単に運ぶ。
今のまま関係を積み重ねて、張りぼての力量を河東の力を持って本物に見せかけて「袁紹本人とならばさておき、己とは対等以上」と自覚させるもよし、さもなくば孫策や関羽を使って捕獲して、力ずくで納得させてもよい。
その程度など、今まで繰り返してきたことを考えると児戯も同然だ。


「でも一刀さんのところに来てから、麗羽様がこちらのいろいろなことに夢中なのは、正直助かっちゃってます」
「(……しかけるか?)」


照れたようにそう冗談めかして茶化す少女の顔を正面から見て、一刀はたくらむ。
戦場で戦う武将として以上に、己の専属護衛として使用している孫策を使えば、顔良を捕らえて『調教』するのには一刻と掛かるまい。
それは、袁紹を操ることが出来なかったことで大幅に遅らせざるを得なかった洛陽侵略の速度を大幅に取り戻すことが出来る魅力的な選択肢にも思えた。
この実質的に洛陽の実務のほとんどを取り仕切る少女を手中に収めれば、袁紹勢を裏から侵略していくのも簡単ではないか、ということは確かに一刀の脳裏に常にあったのだ。
そして今、彼女のそばには術の効かない袁紹も、顔良と同等の力を持って協力することで力の減ぜられた孫策への抵抗を僅かなりとも可能とする文醜も、数も力も問わず暴力すべてを無効化する呂布も、洛陽数万の兵もいない。
絶好の機会であることには間違いなかった。


にこり、とこちらに対して邪気のない笑顔を見せる顔良の視線を避けるかのように、一刀は視線を地へと下した。
一刀が彼女を嵌めることを考え、脳裏であられもない姿を強いている、などということなど顔良は想像さえしていないのか、彼に対してのその視線には警戒心の欠片も無い。
無論、そこには一刀本人の武力が彼女に及ばないということも勿論前提にはあるのであろうが、それ以上に彼女たちお気楽極楽な袁紹一派というものは―――ひょっとするとそれはこの外史の才あるものすべてに共通する性質であり彼女たちに限ったものではないのかもしれないが―――人をあまり疑わない。

だからこそ、自分たちが信じるように相手も自分を信頼してくれている、と思っているのかある種利害を超えて結びついている彼と自分達の主君との関係を信じて、こちらに対して愛情や情欲とはまた違った好意を見せてくる。


それは、今まで彼が感じたことのなかったものだ。



超常的な妖術というものを前提にしなければ、現状利害的にも一刀が彼女たちに危害を加える可能性が極めて低いという計算的な部分も勿論あるにせよ、彼女は―――彼女たち、袁紹一派は、今までであった三国の登場人物の中で誰よりも、初めの段階から「北郷一刀」という存在に対して好意的だった。
なんといっても、彼女達の中での一刀という人物の印象は、「麗羽に転んだ天の御使い」であって、決して悪印象を持ちようのないものである。

麗羽の認識によって諜報レベルが低い洛陽勢に一刀がおこなった数々の悪事など察知できるはずがないことを考えると、それは無理のないことではある。
それでも、敵対者として敵意を向けるわけでも、誘拐犯として憎むわけでも、脅迫者として罵るわけでもないその立ち居地は、意外なほどにこの外史に来てより始めて受ける取り扱いだったのだ。

罪を貪る匪賊の頭であり、女を無理やり犯す悪党であり、心を操る妖術の行使者である一刀に対して行うにはあまりに間違った態度であるが、彼女達の頭には妖術が効かなかった、というただの一時によって、その間違いは訂正されなかった。
だからこそ、一刀自身が違和感を覚えるほどに、彼女たちは彼が犯してきた過ちすべてを理解さえせずに無視して、ただひたすらにフラットな状態から関係を築いてきたことになる。
術が効かず、勢力的にも強大な麗羽一派に対して一刀が強く出れなかったこともあいまって、「袁紹に好意的なそれなりの勢力の長」というものは、彼女たちに快く受け入れられたのだ。


こちらに対して無警戒に笑顔を向けていた顔良であるが、やがて申し訳なさそうにその眉根を寄せる。
無意識に、であろうがこちらとの距離を詰める顔良のその立ち居地は、一刀が手を伸ばせばそのままその頭を鷲掴みに出来るほどの近くだった。
彼女の間違った「天の御使い」に対する敬意を示すかのごとき近さに、一刀はムズ痒ささえ覚えた。

そういったなんともいえない感情を解消して、いままでの『過ち』を正すには、今はまさに絶好の機会なのであるが……


「ただ麗羽様が何かご迷惑お掛けしていないかだけが心配で……」
「いや、今のところ、許容範囲でしかないから大丈夫だ」
「あはは……すみません」
「(いや……やはり、リスクがでかすぎるな)」


だが一刀は、その絶好の機会を己の意思で逃すことに決めた。
この完全に作られたお膳立てでさえも手が出せないというならば、今後どれほど機会が巡ってこようと、おそらく顔良を手に入れる機会を永遠に失うかもしれないことを重々承知の上で、だ。


顔良の存在は確かに魅力的だ。
だが、同時に彼女は所詮は二流の武将だ。
孫策や関羽のように、対価を支払ってでも手に入れる価値があるとは思えない。
精々、リスクなしで取れるのであれば取っておきたい、公孫賛や劉備程度の存在でしかない彼女を手に入れるの引き換えに、動きの分からぬ袁紹を頭に抱いたままこの腐りきった洛陽を直接統治する危険性を抱くのは『割に合わない』。
それは彼女の同僚たる文醜にも同時に手を伸ばしたとしても変わらない。


彼女のふくよかな胸も、すべらかな肌も、訳のわからぬ理由―――袁紹の気紛れで彼は三人を纏めて抱いている―――で手に入れた一刀は、自分では冷静であると信じる心で彼女のことをそう分析する。
それは決して間違ったものではないが、同時に何処か恣意的な視線を感じずにはいられない、公平さの足りない考えであるといわざるを得ないものだった。


「洛陽は少々大きすぎるので、一刀さんたちに手伝ってもらってやっと、って感じなのはちょっとあれなんですけど……これからもよろしくお願いしますね」
「……まあ、麗羽と、皇帝陛下のためなら、多少は、な」
「本当~に、助かっちゃってます……麗羽様は、その。ちょっと……ですから」


文醜、顔良を抑え、他の文武官に手を伸ばすことで洛陽の支配を試みるには、袁紹の動きを常に警戒しながらおこなわなければならなくなる……しかも、洛陽、宮廷という巨大な枷を引き受けた上で、だ。
袁紹の動きをコントロールできない今となっては、彼女の動き一つでいかなる不都合が起こるのか……宮廷や地位、名家名門といった物事にあまり知識のない一刀陣営では図りきれない部分が出てしまうのだ。


(宮廷騒動なんかに巻き込まれて、暗殺とかにビクビクするのは嫌だしな)


そういった危険性を過大に評価し、己が得るであろう者を過小に評価する。


実際に公孫賛ぐらいしか宮廷上では高位のものがいない現状においてその分析は間違ったものではないが、しかし正しくもない。
どんな人間でも取り込める術を持っている以上、解決にはリスクを恐れて手を出さないのではなくそのあたりを補う人間を一人二人さらってこればいいのだ、というとても単純な解決方法があるにもかかわらず、彼はそれを妖術書に有効回数があるかもしれない、ということを理由に実行していない。
そこを疑うのであればそもそもの前提が破綻している、ということをも無視して、いっそ不自然なまでに袁紹の勢力を見積もったそのことに気付いたわけでもなかろうが、顔良は一刀のその言葉に対して自分の主君への言葉を濁した。

そんな彼女に不審がられないようと作った思考で、しかしある意味反射的に一刀は袁紹の大変さに付き合う彼女に慰めとも取れないこともない言葉を発した。


「斗詩の方こそ、よく付き合ってるな」
「私は麗羽様とは付き合い長いですから……大体麗羽様が私塾を出たあたりで袁家に召しだされたので。でも、一刀さんにはほんとうに最近は御世話になりっぱなしで」


こちらの呼び水によって両手に竹簡を抱えたままで会話を続ける顔良の横で、一刀はひたすらに欺瞞の混じった思考を続ける。
前提が歪んでおり、その目標も到底善良といえるものでもないにもかかわらず、その結論はどこか奇麗事だった。


たとえ、袁家に繋がる名将とはいえ、所詮は文醜顔良など袁家棟梁の袁紹に比べれば取替えの効く駒でしかない。
袁紹の気紛れ一つで取替えが効く相手をいちいち洗脳していっても、当主権限や宮廷での地位を使っての袁紹の一声で追い立てられて、新たにどこぞの名家から補給することで彼女の側近を再びまっさらな状態で固められてしまうのであれば袁紹の機嫌を損ねないように、気付かせないようにいろいろと仕掛ける時間の無駄だ。
加えて各駒の能力を半減させた上で、今度は己が責任を持ってこの腐った漢王朝を運営しなければならないとなれば、これはもうリスクまみれだ。
統治上予想も出来ない不都合が生じる可能性を考えるくらいならば、彼女たちに洛陽の建て直しという重労働をさせている間にこちらの力を蓄えて、他に残る有象無象にも通じる万能の力、絶対的多数による武力を手に入れて一息に押しつぶした方が遥かに速く、効率的だろう。

少なくとも、いまだ曹操や劉璋、孟獲による野望阻止の可能性がある状態で、危険を犯すことは出来ない。
揺れ動く心の中でいろいろと理由を並べ立てて、一刀は自らに言い聞かせる。
まるで彼女を手中に入れることを恐れるように。


(別に今だって、自由にしようと思えばいつだって好きに出来るし……あせることはねえよな)


顔良のかもし出す雰囲気が僅かなりとも「彼女」に似ているということを感じ取ったのか一刀の邪念は、だからこそそれを―――同じ轍を踏むことを避けようとそんな言い訳をひたすらに並べ立てた。
まるで、自身が頼る妖しの力を、それを使わずに築き上げた関係に対して使うことを恐れるように。


不合理で、非論理的で、屈折していて、間違っている。
かつての誓いを破り、自ら弱さを招き、同じ轍を踏み続けるがごとき優柔不断な態度は、いまだ天下の覇者たらんとするにはあまりに惰弱な態度だった。

それでも、それこそが北郷一刀という男なのだ。
失うことに臆病となった彼にとって、一度手に入れたもの―――詠と築けていたかもしれない、脅迫や強制を元にしないつながりの始端―――をぶち壊してまで、彼女たちに術をかけることには抵抗があった。


「それなら、今晩……どうだ? 『お詫び』ぐらいしてくれてもいいんじゃないか?」
「! ……あはは。じゃ、じゃあ、仕事が終わってからまた、その……用意してきますね」
「ああ、楽しみにしてる……お、あれは麗羽たちか?」
「あ、そうですね……はぁ~。また、サボってる」


だから一刀は、そんな無駄に気を回しまくっていろいろと考えた上で、斗詩に対して偽りの笑顔を見せる。
もっともそれは、決して袁紹が浮かべるような喜怒哀楽をそのまま形にしたようなものではなく、様々な感情が入り混じった上で無理に浮かべた複雑なものだ。
それはある種ゆがみきったものであるが、二流とはいえ凡人よりも遥かに才に恵まれた少女である斗詩は、しかしそこに含まれた影の部分には気付けない。
今の一刀の元となっている何のとりえもないごくごく普通の一般人、というものが故に抱く影、というものはきっと凡人ではなく、しかし一流とも呼べない彼女たちには理解できないものなのだから。

だからこそ、一刀のゆがみは彼女たちに指摘されることもなくこの場ではそのまま通っていくこととなった。




術を掛けられるのに、掛けない、という選択肢。
かつて彼が取ったものと同じだ。

今まで出会った三国の登場人物たちに対して、彼はほんの僅かな例外を除いて直接的・間接的にことごとくその妖術の餌食としてきた。
その彼をして、袁紹一派はどうやら再びその例外のカテゴリーの中へと入れられたらしい。

だがその意味は、もはや一人目の少女に対してそれを行わなかったときのものとはまるで違っていたのだ。


「いいところにいらっしゃいましたわね……北郷さん、競馬というものをご存知かしら?」
「お、アニキ~、ちょっとあの辺の土地貸してくれないか? ついでに馬も」
「ちょっと麗羽様、文ちゃん! すみません、本当に遠慮知らずですみませ~ん!!」
「いや、かまわないさ……兵達の訓練にもなるだろうしな」


時間は彼にとって味方だった。
実際に彼の軍団は、袁紹を凌駕し、曹操を戦わずして屈服させる為に十分な兵力を着々と整えつつあった。

だが、同時に時とともに一刀本人の心にはかつて墓前で行った鋼の誓いへの劣化もまた進みつつある。
恋も愛も友情もすべて捨てて、ただ不動の名を打ちたてることのみを望んでいたはずの一刀の心も、時を重ね、再び人と接することで変わりつつあった。
それは侵略者としては劣化であるかもしれないが、それでもこの外史に着てより始めて彼が人間としては多少マシな方向へと進んだことを考えると、一概にマイナスとばかりは言えない。

麗羽達の人を疑わず、徐々に彼をも仲間と認めていくそんな態度にかつてのある少女を思い出し、ほだされつつあった彼は、やがて別の外史で三国に落ちた天の御使いが彼を最初に助けた者たちにたいして己の命以上の価値を見出したように、急速にその心を近づけていったのだ。

故に、この平和な日々は、袁紹たちやその下に位置する諸将、そして彼女が治める地洛陽に住まう天下百万の庶人にとってのみならず、一刀本人にとっても非常に貴重なものだった。
だからこそ一刀は、まるである少女と得られなかった日々を取り返さん、といわんばかりに、妖術をかけることを考えもせずに、ただひたすらに振り回し、振り回されることを楽しみつつあった。



そ ん な 日 々 が 、 い つ ま で も 続 く こ と な ど な い に き ま っ て い る の に 。







呂布、離反。



[16162] 累卵の危うき
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/04/16 15:54





この地は河東。
かつて一人の少女が築き上げ、そしてそれを守る為に散っていった小さな、されど大きくなりつつある街だ


「あ~、疲れた疲れた。すげぇ働いた気がするし、昼はなんか美味いものでも食いにいくかな」


今日は書類仕事には飽きたので張り切って各所に対して視察(と称したエロ巡業)を午前中一杯おこなった一刀は、そんな世の労働者様たちを馬鹿にするようなことを言いながらいつも通りとある部屋へと向かった。
権力者にしてはあまりに軽い足取りではあるが、いざとなればいくらでも盾を召喚できるこの城下においてはそれほど問題のある行為ではない。
実際に一刀本人は気付いていないものの、彼の身を案じた優秀な人材たちは影に日向に彼の行動を制限しないように細心の注意を払いながら今もその身を案じている。
そのことを知識としては知らなくても、実感として自分の身の絶対的安全が保たれていることを知っているがために一刀はそれを当然と受け取って、我が物顔で城内を闊歩して目的の部屋の前にたどり着く。

突然現れた最高権力者の姿を見てその部屋の前の椅子に座って控えていた侍女があわてて取り次ごうとでもしたのか、腰を浮かせたのを手だけで制して、一刀は勝手に私室の中でも応接用に使われている部分へと遠慮の欠片もなくずかずかとあがりこんだ。
一応彼の城の中であるとはいえ、他人の私室に入り込むには随分乱暴なものであったが、どのみちこの部屋に住まう連中はそんなこと気にもしないであろう、ということを経験から知っている一刀は特にその行為に何かを思うことはなかった。
なんてことはない、ただいつも通り自分の女を訪ねるだけなのだから。

もちろん、何もこの河東の主である彼自身がわざわざこんなことしないで執務室から誰かを呼びに行かせてもよかったのだが、今日はたまたまそういう気分だったのだ。
だからこそ、今までとはちょっと異なり自分自身で他人に誘いを掛ける、ということにわずかながらの新鮮味と可笑し味を感じながら、一刀はしばしあたりを見渡す。


「あれ、奥にいるのか? それにしちゃ静かな気もするが……」


が、そこを見渡しても御目当ての人間がいないことを確認すると、肩をすくめてその奥にさらにあった個室へと続く扉をこつん、と叩いた。
流石にそこ―――寝室にはいきなり踏み込まない。
別にそれをしても何も言われる筋合いは無いと思うが、だからといってそんな三流ラブコメにもありそうな揉め事をわざわざ起こすようなことは好みではなかったからだ。


ノック、という風習が通じることは今までで十分承知していた為、それで一刀は用が足りるであろうと予想していた。
だが、残念ながら彼のお目当てはまたも外れた。扉は彼の拳の発する音に対して沈黙で応えた。


「あ~、ひょっとして、留守か?」


ふと思いついて先の侍女に尋ねると、どうも朝から街へと繰り出しているらしい。

珍しく直々に足を運んだにもかかわらず空振りさせられて多少気分を害した感がないではないが、まあ自分が目当てとして訪れたこの部屋の持ち主である彼女たちが自室にこもらずどこぞへとふらふらしていることは珍しいことでもなんでもないので、一刀はそれを溜息一つだけで抑えて、街に飛ばしている諜報員から目当ての人物の現在位置の報告を受けるためにその部屋の椅子へとどっしりと座り込み、手を上げて天井に控えているであろう者に合図を送った。


「やれやれ、どこでまた遊んでるのやら……」


合図に応じて僅かな物音が動いていくのを聞きながら、一刀はこの部屋―――一刀が貸し出している河東城内に用意された麗羽の私室―――にあった椅子を勝手に引いてどっかりと座り込み、目を閉じる。
待たされているにもかかわらず、その表情は柔らかい。普段であれば僅かな時間も己が待たされる、ということを許容しない一刀が、ことこの相手だけは例外としている。
そのことが……いや、そもそも、私室に出入り自由とされていること。そして、ほかならぬ一刀自身がおのずから袁紹を探しに来たこと自体が、彼と彼女の関係の進展を何よりも雄弁に語っていた。











「え~っと、後とりあえずこれだろ、それにこれもだろ、それからこれとこれとこれも!」
「文ちゃん、そんなに食べると後で大変だろ?」
「いいんだよ、斗詩。どうせアニキか麗羽様のおごりなんだから。こういうときに食っとかないと!」
「あら、わたくし今日はお財布持っていませんわよ?」
「……そもそもこっちが一言も言ってないのにさも自然なようにタカるなよ」


街で袁紹らと合流した一刀は、ちょうど時間が時間ということもあって空腹を訴えた文醜の扇動によって、とある飲食店へと入っていた。
一国の国家元首といってもよい彼らが突然訪れたことで店の者達の混乱もひとしおだったが、そんなものなど彼らの内の誰一人、気にもしなかった。
支配階層としての傲慢さをそのままに、当然のように最もよい個室を強制的に開けさせ、そこに集ってはてんで好き勝手に注文をつけて卓の上を山海の珍味で並べつくさせる。
おそらく大変であったろうが、そんなものなど気にもしない……不満も苦労も、すべて金銭で解決する。
金払いだけはいいだけに、誰も何もいえないのだ。

最近ではよく見かける光景だった。


「まあ、いいじゃありませんこと、そんな些事……それにしても、猪々子のお勧めですから最初はどうかと思ったのですけど、割といけますわね、このお店」
「ん? ……ああ、正直質より量を覚悟してたんだが、どれも美味いな」


とりあえず会話もそこそこにむさぼり喰らう猪々子の勢いに押されてしばし無言で食べていた全員だったが、それも腹がある程度くちくなってくると収まるものだ。
ある程度は空腹も収まったのか、食べるペースを若干落としてそのつややかな唇を布で拭って一息入れた麗羽がいった言葉に、一刀は完全なる本心より同意の意を返す。

人種も生まれた時代もおそらく違うであろう二人でありながら、割と味覚は似通っているのか食べ物の好みは近い。そして、今までの美食によるものかどちらもそれなりに舌も肥えている。
その二人が素直ではないとはいえ賞賛の言葉を述べたことで注文を聞くためにこの部屋にて直立不動で控えていたこの店の者は内心喝采を上げていたが、その賞賛の裏側で微妙に馬鹿にされているのが気に食わなかったのか、文醜は逆に抗議の声を上げた。


「二人ともひどいですよ~あたいはこれでも『ぐるめ』なんですからね」
「文ちゃん、ほらそんなに匙を動かすから零れてるよ」
「あ……ごっめ~ん、斗詩。悪いな」


餡の掛かった炒飯のようなものを載せたレンゲをふりふりしながら、『二人』の主に対して言うその口調はちょっと憮然としたものではあったが、もちろん冗談じみた二人の言葉を本気で取っているというほどではない。
だから蒼の少女に注意されたことであっさりと正気に戻ってその行動を取りやめて謝罪した。
一貫性というか、落ち着きのない態度に一刀と麗羽はまるでやんちゃな子供でも見たような表情で顔を見合わせたが、まあいつものことなのでお互いに軽く笑って視線を外し、食事に戻った。



一刀の認識としては、ここは古代中国ではない。
確かに、三国志の物語の時代と似通った部分は多く、また出会う人物もそれに乗っ取ったものであることは確かだ。
だが、主要な登場人物がことごとく女、というその一時だけを見ても、ここが過去の地球ではないことは明らかだ、と思っている。
いくらなんでも三国志の登場人物は実はすべて女性だったのだ! あの三国志は大胆に性別を丸ごと史実を改変したパロディだったのである、という考えに比べてみれば、ここが似て非なる世界である、と考える方が性にあった。

勿論、性別の一事のみであるならばそちらの方の説のほうがありえるといえばありえるのであるが。


「なー、アニキー。あたいにそのシュウマイくれよ~。何か物足りないんだよ」
「ちょっと文ちゃん、自分の分は食べたのに一刀さんのまで取るなんて」


言うが速いか箸をひらめかせ、一刀が確保していた皿の上のシュウマイをあっという間にさらっていく文醜。
一刀の反射神経で一応武将である文醜のそれが防げるはずもなし、彼が何を言うまもなくそのさらわれたピンク色の物体はあっさりと少女の口の中へと納められた。
あきれたようにその口の持ち主に対して視線をやる一刀であったが、まあはっきりいってこれはそう珍しいことではないのでもはや強くいうこともなく、ただ一応のお約束として軽くぼやくのみに留めた。


「いいけど、返事する前に取るなよ……」
「なら、わたくしも、っと」
「って、も~麗羽様まで!」


が、そんな態度は更なる悲劇を招いた。
大振りなその巨体とは打って変わって、中の具である叩いた河海老が透けて見えるほど薄くつややかな皮を持つこの店での一番人気のシュウマイの最後の一つが、またも一刀の皿から連れ去られていってしまう。
彼の皿に後に残ったのは、海老と皮の甘さを打ち消す為に載せていた付け合せの青梗菜だけだった。
つるり、とした樹脂にも似た蝕感を持つ箸でつかみにくいこともあってあまりそれが好きではない一刀は、しかしかつての飢えから来る経験かそれを残そうとはせずに、皿に残っていたオイスターソースをたっぷりつけることでその味を誤魔化して口へと放り込んだあと、とりあえずこの猛禽類どもに餌を与える為に口を開いた。


「……はぁ。おい、シュウマイ追加」
「はは! ただちにお持ちいたします」


実際この一場面のみを切り取ったとしてもタイムスリップ? とか考えるのが馬鹿らしくなるし。
酒店・飯店といった感じの格子壁の奥で、一応屏風に囲われたスペースにて四人で丸テーブルを囲んでいたその場所から多少視点を大きくしたとしてもそれは見つけないでいる方がおかしいほどの文化風俗技術等の差異だった。
多少の差異はあれども現代におけるいわゆる「飲茶」とあまり変わらぬ状態で昼食を取っていた彼らの状態は、料理の内容、店内の内装、小物の作りに出てくる茶の質、そして彼ら自身が纏っている衣服や装飾品、そのどれをとっても到底古代の中国では得られないはずのものだ。


「……別に欲しいならいくらでも頼めばいいだろうに」
「分かってないなあ、人のを貰うからうまいんじゃないか!」
「わたくしはただ、猪々子がやっているのにわたくしがやらないなんてなんだかおかしいと思うのですわ」
「すみません、本当にすみません~」


勿論これは一刀も袁紹も支配者階級の頂点に等しい地位にあり、自由に出来る金銭の額や権力の幅が庶民とは桁違いに多いからこそ実現できている、ということはあるのだが、それにしたって一刀が習った紀元前の中国であればこれらはどれ一つ取ってみてもどれだけ金を積んでも不可能な贅沢だ。
味覚的にも現代人である一刀を満足させるだけのもの、となるともはやありえない、の一言では足りない。

とはいえ、もはやそれが日常となっている一刀からしてみれば、時々違和感を覚えることはあれど、もはやそれに対して突っ込む段階は当に過ぎ去っているので特に今更騒ぎ立てるほどのものではなかった。




それほどまで見知った歴史的知識とこの世界の差異を日々目にしており、また袁紹らのぶっ飛んだ態度につきあっていた彼にとって、正直なところ「三国志」という物語の価値は極めて低下していた。
一応自分以外は絶対に読めないであろう日本語で未だ覚えている限りのことを覚書として記して忘れないようにしてはいるが、正直今の一刀にとってみればそれはもはや、名前を聞いただけで美女かどうかがわかるだけ、という程度の意味しか持たない。
黄巾の乱も反董卓連合も劉備の曹操暗殺未遂も魏呉の同盟も、一刀の知る限り何一つ起こっていない現状において、それも無理なからぬことである。
実際には一刀が知らないだけで、桃園の誓いだとか、三顧の礼だとかはひょっとして起こっていたのかもしれないが、特に興味もなかったので桃香たちに問いただしたりもしていない……その程度のものである。
かつて学び覚えた歴史とこの世界は違うものだ、と思っていたが故に、そのかつての歴史を記した書物の価値は預言書ではなく、参考書程度のものでしかないのだ。


もちろん、名前を聞いただけである程度強いか弱いかぐらいは分かるし、実際にそのことによって曹操に注視し、結果として彼女が脅威となるであろう、という推測を立てているぐらいには信用してはいるのだが、そもそもそこに乗っていた人物観とは全く当てはまらない者―――主に、袁紹とか、麗羽とか、洛陽相国とか三馬鹿筆頭とか―――も数多くいる為、所詮は参考意見の域を超えるものではない。
そんな不確かなものよりも、一刀は己の人形たちが多方面から集めてきて、それを分析した結果として出してくる報告のほうを侵略の手引きとして使っていた。
一応の目安として侵略計画の参考にすることがないでもないが、劉璋が男、ということを聞いてさらに価値が低下したこともあいまって、現在の一刀にとって見ればはっきり言って御伽噺とほとんど変わらないものだ。


だからこそ一刀は、その報告が来たときにそれが史実に則ったことだ、ということがぱっと頭の中へと思い浮かばなかった。




「御免、御免! 御使い様に、ご注進!」


にわかに店先が騒がしくなってきた。
自分の呼び名を連呼するように聞こえたその声に、思わず一刀は視線を入り口の方へとやった。

VIP中のVIPである天の御使いと相国、そしてその側近による会食であるため、麗羽が思いつきで突然入った店とはいえ警備は厳重になされており、彼らが囲む卓自体も店の中では極めて奥まった、上等の場所が用意されている。
物乞いなぞが近寄れば即座に切り捨てられるだろうし、それは現在の民の苦境を命を掛けて訴えにきた義士であっても同じだろう。
一刀の配下は、彼の享楽を邪魔することを決して見逃しはしないに決まっている。
当然それは、それなりの時間彼と共にあり、その環境に浸ってきた麗羽たちにとってももはや当たり前となった事実だった。

にもかかわらず、その彼らにまで届く大声に思わず麗羽は眉をひそめた。


「……なんですの? せっかくの食事時に無粋な」
「ああ、悪い。よっぽどのことがない限りここには来るなっていっといたんだが……ここだっ! なんだ、騒々しい」


彼女からしてみれば、楽しい食事の時間をたかが下民風情に邪魔されるのは我慢ならないことだったのだろう。
そういった彼女の性質を重々理解している一刀は、彼女に即座に謝罪の言葉を飛ばした。
ご機嫌取りの為におこなったわけではない反射的なその言葉は、今の一刀と麗羽が利害というよりももはや友愛の関係で結ばれていること示すものであると同時に、一刀自身の本音でもあった。
袁紹に対する取り繕いではなしに、単純に不快だった。
彼自身も、食事の時間に仕事の人間が踏み入ってくることに不快を感じるほど、もはやそれは支配者としての立ち位置……袁紹と並び立つのに相応しい精神構造を持つようになっていた。

だが同時に、流石に袁紹ほど思考能力が狂っているわけでもない一刀はその呼びかけを無視することだけはかろうじてせず、傲慢にこちらに呼び寄せて審問することに決めた。
当然ながら、軍事的にはこの判断は正解であろう。
もたらされる報はこの上なく重要であった。


「ははっーー!! 突然のご報告、真に申し訳なく! しかし、非常事態でございます!」


ここまで一直線に走ってきたのだろう、息を切らせながらもそれによって何とか一刀たちに不快を与えまい、と思ってかいっそ這い蹲るように視線を低くしてこちらに対して跪いたのは、一刀も城で何度か見たことのある伝令の一人だ。
確か……情報を統括している孔明直属の伝令だったか?
流石に名もなき兵の一人一人まで覚えていられるほど彼の脳のリソースは無駄にあまっていなかったがため、その程度の覚えしかなかったが、まあ護衛として使ってる孫策がここまで通してきたということは味方であることに間違いはないだろう、と思った一刀は、そのものに対してねぎらいの言葉一つかけることもなく、むしろつまらないことでこれだけ騒ぎ立てているのであれば首を撥ねてやろう、という気持ちのまま顎でしゃくって話を促した。

が、基本的に彼は河東軍の伝令であって、洛陽からの使者ではない。
今まで一刀が属して来た諸勢力とは違い、洛陽と彼らを結びつける物は袁紹の気紛れによる同盟唯一つであって、彼らの利害は当然ながら一致しないこともある。
軍事的なことなどまさにそれであり、実際に自分の持ってきた情報がどれだけ重要なことか理解していた彼は、だからこそこの袁紹らがいるこの場においてその自分がもってきた一大事実をこの場で開帳してもいいものか、若干迷った。
このあたり、今回の同盟の件について積極的に反対はしていないまでも、そこまで軍事的には都合のいいものだとは思っておらず、しかし絶対服従を誓った一刀の意向によるものである以上反対も出来ない孔明の、部下への教育が行き届いているといえる。


「その……」
「どうした、いってみろ? ……ああ、そういうことか。かまわない、聞かせてやれ」


その伝令を使わした孔明ほど現状を理解しているとはいいがたい一刀はだからこそすぐにはピン、とは来ずその持ってきた内容をこの場で告げることに言いよどんだ男に身勝手な怒りが一瞬よぎった。
が、別に一刀は袁紹ほどもはや常識という言葉がむなしくなるほどの馬鹿ではないので、その足りないなりに回した頭によってこの男が何を危惧しているのか理解してその怒りを面に現す前にその男が気にしていることはもはや無視できるものだ、と言い放つ。
それが果たして真実同盟を組んでいる彼女たちに対してもはや隠すことなど何もない、ということなのか、あるいはそう袁紹たちにアピールする為のポーズであるのかはこの伝令の男には判断が付けられなかったが、術には掛かっていないものの心底孔明を尊敬し、それが故にその彼女の主である天の御使いに対しても敬意を崩さなかったこの男に、その言葉を無視して袁紹たちをこの場から追いやることなど出来るはずもない。

だからこそ彼は、天の御使いによって彼の気分を害したという理不尽な理由により首を飛ばされることを覚悟でこうして乱入してまで持ってきた情報を、かの天人の前で開示した。


「はっ! 謀叛です、呂奉先将軍が出奔されました!」


かくして舞台の幕は上がる。
対するは三国最強の古今無双、文字通りの一騎当万を誇る方天画戟の呂布と、その彼女を取り込んだ曹操。
兵数的には圧倒しており、国力だって比較にならない。
普通に考えれば負けるほうがおかしいどころか、相手が何を思って挑んだのかも分からないレベルだ。


「なっ。あの呂布がか! くそ、諜報班は何をしていたんだ……すぐに追っ手を出して、捕捉を!」
「おーほっほっほっほっほ! な~にを焦っておられますの、一刀さん。」
「……麗羽?」


それを知ってか知らずか、麗羽はいつも通りの高笑いを上げた。
その溢れんばかりの余裕は、地軍の最強戦力がいきなり引き抜かれたという現状を考えるとあまりに似つかわしくないものであったが、この外史における袁紹、という存在が語るのであればかなりのお似合いだ。


「いいじゃありませんの。所詮はただの下賎の蛮族……この洛陽よりも寂れた荒野のほうがお気に入りなのでしょう。別に気にすることじゃありませんわ。またすぐに落ちぶれて帰ってきたいとこちらに向かって頭を下げるのも分かりきっていますし」
「そうそう、アニキ。確かに呂布はちょっと強いけど、あたいらが負けるわけないだろ」


傲慢で、高慢で、浅慮で。
何の根拠もなく自分自身が最高の存在である、と確信している彼女は、それこそ本当の意味で目の前に刃が突きつけられでもしない限り、自分にとって不利な現状を認めようとはしないだろう。
どんな物事も自分に都合のいいように変換出来る幸せ回路を持っている袁紹にしてみれば、むしろこの場においてそれほどまで慌てている一刀の態度の方がおかしい。
彼女の側近の一人も慌てているが、そもそも今は食事時なのだ。
もう一人の少女を見習うがいい、などと本気で考えているぐらいだ。

実際、彼女の側近の一人である文醜もまた、麗羽と同じく現状を限りなく自分に都合よく解釈して、それほどまで危機感を持っていなかった。


「そんなこといってる場合じゃないんですよ、麗羽様!」
「もう、斗詩も一刀さんも心配性ですわね。いいですわ、そこのあなた。二人が落ち着くようにそろそろ食後の甘味を持ってきなさい!」
「って麗羽様! ……うう、もう!」


そして、そうではない片割れの顔良にしたところで、彼女達の行動をある程度責め、それについて謝罪はしてもそれを抜本的に変えようとまでしないのでは、結局同じ穴の狢だ。
彼女は確かに真面目で、優等生的な能力を持ち、袁紹勢力では少数派なまともな思考力を持っているが、それはほとんど生かされているといえない以上、彼女の評価自体もおきらくな同僚と大して変わりはない。
結局、彼女がどれほど頑張ったところで袁紹の気紛れ一つでひっくり返せてしまう以上、『袁』としてのこの呂布の離反への対策など、ないも同じだった。


「すみません、一刀さん。本っ~当~にすみません!」
「(…………まあ、麗羽たちならこんなもんだよな。はぁ、何か手を打つにしても俺も少し落ち着くか)」


だからこそ一刀も、その報告を聞いて慌てふためいている方がおかしく思えて改めて椅子に座りなおす。
結局、軍事的には呂布の離反だっていくらだって取り返す腹案が彼にはあるのだから、そうしたところで自分の優位は大して揺るがない、ならば大物であるべき彼のとるべき態度は麗羽達のものと近しいべきだ、と思ったからだ。
そしてその思考の中身は、かつての少女の死の後に誓ったすべてを費やしてでも実を取る、といったものではなく、格好を気にして女の前で慌てるのを厭う、と言う体面を最上のものとしておく袁紹の影響も確かに見て取れた。
結局飢えと色によってかつてこの世界より落ちてきた頃とは随分変わってしまった北郷一刀という男は、美食と女によってありふれた権力者へと変わる道を進み続けていた。

が、実際のところ、そういった袁紹からの影響以前に勢力の数と財力だけを語るのであれば、それを取ったとしても何の不思議もないほどの力を彼はすでに築いていたのだから、これらの一時をもって彼を責めるのは間違いであるともいえる。
実際に、呂布の離反という一事だけならば、大した痛手に感じないほどの現状があったからこそのこのような対応を取った一刀のそれは、絶対的な自己の肯定を基礎にする袁紹の判断とは微妙に異なった過程を得た後の判断だ。
そう、麗羽と同盟を組むことに成功したことで潜在的に最大の敵とみなしていた曹操に「逆」赤壁を仕掛けることを可能にした一刀が驕っていたとしても、普通に考えるならばそれは油断ではなく余裕というべきものだ。
強者には強者足るべき余裕を保つ義務がある、という考えは、洋の東西を問わず珍しいものではない。
だからこそ、一刀の常識からすれば今の態度だって決して間違っているものではなかった。



だが、この外史において戦を左右するのは単なる兵の数や武器の量のみにあらず。
才のみを頼りとし、何よりも英雄豪傑の力こそがそのすべてを決める戦いにおいて、洛陽という巨大な足手まといと段々本気で同盟を結び、しかしその不正腐敗の温床に対して彼のみが持つ唯一の特効薬さえも使用しないことで徐々に蝕まれつつあった北郷一刀には、呂布さえ封じてしまえば己が才でその数の差を埋められると曹操が判断するほどに確かに隙があったのである。
そして、現在この外史における最大の敵役が、そのようなすべてを歪める強欲な男が見せた惰弱な隙を見逃すはずもなかった。



[16162] 是れをしも忍ぶべくんば、いずれをか忍ぶべからざらん
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/04/18 21:15



呂布の離脱、という一事は洛陽軍のよりにもよって最大勢力が離脱した、という単純な事実以上の意味を持っていた。
なんといっても天下無双。
数多の英雄達の中でも別格の響きに引かれていたのは、天下無双を俺の女にしたら気持ちいいだろうな、程度の認識で欲しがっていた一刀だけではない。
恐怖と共に敬意でその名を語っていた彼女の離脱を聞いてその暴虐の刃が己の身におちてくる可能性が生じたことで眠れぬ夜を過ごすことになった将兵は数多い。
まあ、公孫賛でさえ呂布を見ると体が反射的にびくついていたのだ。一般兵レベルならトラウマになってもおかしくない。
なまじ洛陽軍はこの間の北方大乱だとか、自慢しいな袁紹による演習などで呂布の力を目の当たりにした兵の数も多かっただけに深刻だ。一時は全体の三割近い兵がその心的外傷によって行動不能になったほど、彼女の力はあまりに恐ろしいものと知れ渡っている。

だからこそ、いまや暴政の化身と君側の奸の代表のように思われている袁紹から呂布が離脱した、ということに喝采を叫ぶ各地のものは多かったし、彼女の裏切りとも言える離脱を責める声はそれに比べればあまり大きくなかった。
君子を見捨てる、という今まで禄を食んでいたものとしては許されざる裏切りをも、現状においてはそれほど重視されなかったのだ。
よって、その多少は評判を落としてもそれでも畏怖と共にその名を語られた呂布を曹操が拾い上げ、一軍の将として厚遇したとしても曹操への非難はほとんどなく、むしろそんなものさえも己の配下へとするその懐の大きさを賞賛する声さえ見られた。
当然、噂は噂を呼び、今や洛陽への反抗勢力としては急速に成長していく曹魏自体の評も武も財も大きく膨れ上がることとなる。
その事実は、加速度的に更なる善事―――勿論、曹操にとっての、だ―――を呼び込む。



とある復讐に燃える少女が、呟く。


「例え一兵卒に身を落とそうと、雪蓮姉様と蓮華姉様の仇を取るんだから!」


幼いそのかんばせにぱっさりと切り落とした桃色の髪が痛々しいその少女が持つ手に持った戦輪ともいえるべき風変わりな武器は、しかし長かった放浪生活にもかかわらず以前よりもなお一層鋭く研ぎ澄まされていた。
血の繋がった家族を、そして血の繋がっていなかった、しかし家族だったものをほとんど失った彼女は、だからこそその原因となったものをひたすらに憎んでいた。

だが、敵は強大。未だに追っ手さえかけられている現状においては、地に潜って神経をすり減らしていた彼女たちにとって、今回の曹操の募兵は最大のチャンスに思えた。
かつては手入れを欠かさなかった自慢の髪も長い逃亡生活によって痛んでもはや艶がなくなってきている。だが、そんな代償など彼女はちっとも惜しくはなかった。すべては唯一つ、袁術の首を求めて。
夜毎に手入れを欠かさず、いつかこの刃で怨敵の首を落とし血に染めるただそのことだけを願ってちりじりになっていた郎党たちを少しずつ集めてこの陣営に潜り込んだのだ。


「はっ、小蓮様! 蓮華様を守れなかったこの身の無能は、敵兵のすべての命であがなってみせましょう」
「流石は我が主君です~そうですよ、尚香様。たかが袁術や袁紹などに嘗められた程度で諦めていてはやっていけませんものね」


その声に、圧倒的に多勢に無勢の戦場から何とか離脱に成功した、しかしそのときの混乱によって己が命に代えても守ろうと誓っていた主君と永遠にはぐれることとなった元河賊の女将軍は瞳に冷たい刃を研ぎ、恩人すべてにおいていかれ、その磨き続けた智謀の何一つ使えずに遠くから報を聞くことしか出来なかった軍師が同調する。
もはや滅びかけたといっても過言ではない古びた血筋のみを頼りにする彼女たちにとって、このこれからおこるであろう未曾有の大戦に参加する自分たち以外のすべては踏み台に過ぎなかった。
そしてそれは、彼女達の周りに集まる忠義厚き兵たちも同じ。数は決して多くなく、またその力も武将には届かない。
だが、同じように戦場にて父を、母を、兄を、弟を、友を、恋人を失った彼らは、己が命を失うこととなったとしてもただひたすらに祖国復興のために、と覚悟を決めて大きく声を上げた。
たった三人の武将と、僅か百ほどの兵を引き連れて、孫呉最後の生き残りたちは袁術と、引いてはそれを支持する洛陽勢力と敵対する為に曹魏へと参加することとなった。




「やれやれ、ようやくあの居心地の悪いところから逃げ出せたかと思えば、やはり敵対することになるとは、なんとも間の悪いこと……」
「ふん、臆したか、趙雲! 私はこの金剛爆斧を唸らせる機会が向こうからやってきたとしか思えないがな!」


この錬兵場にて気炎を上げるそんな彼らの横には、二人の女の姿があった。
この場にいる以上、彼女たちも曹魏の掲げたいずれ来る一大戦への参加を望むものなのだろうが、一兵も持たぬその身でありながらその辺の雑兵とはその手に持つ武器、身に纏う鎧、そして風格すべてが違っていた。
だからだろうか、他の兵たちがそれぞれ連携を意図した訓練を行っているにもかかわらず、彼女たちはお互いに競い合うことで延々と個人の武を高めることに尽力していた。
ただ、同じようにしていたとしてもこの曹魏の侵攻に参加する、ということについて二人の間には明らかな温度差が見えていた。


「ふう、私はおぬしほど単純一途ではないだけなのだが……まあ、そうまで言われては、逃げ出すようでは気分が悪い。少々天の御使い、などという思い上がったやからにお灸を据えてやるかな」
「はーはっはっは、さあ戦場よ、早く来い! 怪しげな天の御使いなぞと名乗るやからなぞ、すぐに粉砕してくれるわ!」


だが、その温度差はすなわち戦場における彼女達の働きの差を即座に現すものではない。
振るわれる超重の斧は大地を砕いて大きな土塊を吹き飛ばし、放たれた真紅の槍は大気を割いてオゾンの香りさえも漂わせている。
無論、両者の間においても優劣はあるのだろうが、少なくとも凡人では推し量れぬ高みに二人はいた。
指揮官としての能力はこの光景だけでは分からないが、少なくともこの世界における軍事活動の法則から行くと、個人が強いとそれを先頭に押し立ててただひたすらに戦い続ける指揮が上手いはほぼイコールで結ばれる以上、無能とはいえまい。
いや、彼女たちほどのものであれば戦場において多少は何か不得手な面があったとしても、個人の勇がそれを十分補える。
ならば、猪武者には猪武者の、曲者には曲者の使い道があり、それを使いこなす主君の器が測られることはあれど、その一事を持って彼女達のような才人を推し量ることなど出来ようもない。

だからこそ、彼女達の自分たちがいついかなる戦場においても活躍できることを前提とした会話さえ、周りの物は誰一人異論を唱えることは出来なかった。
いかに河東と同じほど勢い盛んな曹魏のものであろうと、彼女たちを制しようと思うならば、この二人を圧倒するだけの才を見せ付けなければならない。
そのことをいうまでもなく当然の要求として軍事を統括する夏侯惇、軍務のすべてを支える夏侯淵、そしてその彼女たちの上に君臨する主君、曹孟徳へと求めていた猛き槍の使い手、常山の昇り龍はふと思いついたように、呟く。


「……しかし、風はいったい何を考えてあんな男に協力しているのやら。まあ、これも戦国の世の習い。手を抜くような不義理はせぬが」





そして、そんな錬兵場を窓から見渡せる一室にて。
仕官を望む文官たちを試す問答を待つための待合室にて、一人の少女がひたすらにぶつぶつと自分の妄想を呟き続けていた。


「ああ、曹操様、曹操様、曹操様~~! やっとお目に留まれる機会が巡ってきたわ! さあ、早く、早く来なさい、袁紹。その曹操様を真似た醜い髪型をつるっつるにするほどこの荀文若の智謀に震え上がるがいいわ!」


怖い。
その何を考えているのか色と欲と歓喜と憤怒で彩られたなんともいえない表情もさることながら、仕官を求めに来た身でありながらそんなことを普通に口から出せてしまう少女の思考は、同じ文官志望の在野の者たちから見ても恐ろしかった。
だが、その彼女に対してその言葉を不遜、とまで言える者は、知の高さと弁舌の上手さを売りに自分を売り込みに来たこの部屋に同じく集う者達の中でさえ誰一人いなかった。

皆、彼女に怯えるのみ。
だが、それも無理はない。
全採用希望者を前に曹操が試しとして出した問い。
古今東西ありとあらゆる分野に精通した賢人といわれる曹操の出す、難問奇問は自分の智に高い自信を持っていた彼らをして頭を悩まさざるを得なかったそれらに対して、ほとんど暇を空けることもなくひたすらに斬新且つ緻密に返していった彼女を前にしては、彼らは黙らざるを得ない。


「そしてそのあかつきにはどうか……この私を褒めて、ののしってください! ああ、曹操様~」


これから続く試験においても、自分が落ちることはあっても彼女が曹操の眼に留まらないわけがない、ということを感じ取っていた彼らにとって、どれほどその言葉が不穏で不遜なものだったとしても、何か一つ言う権利の欠片もないのだ。
なまじ賢いばかりにどれほど彼女が優れているのか、ということを直接的に思い知らざるを得なかった数多くの文官志望に格の違いを見せつけた彼女は、だからこそそんな有象無象など歯牙にもかけず、そんな彼らのおののきなど一切の気にも留めず、ただひたすらに自分の妄想に浸っていた。





裏切りの呂布さえも厚遇する曹操の政策は、やがて彼女よりも評判が悪いであろう、しかし総合的な目で見れば十分優秀な能力を持った敗戦の将や、現在の主君を見限って出奔した数々の武将や軍師、政治家を呼び込むことに成功したのだ。
一刀が行った唯才是挙と同じような効果で、しかも遥かに効率的なことを、曹操は呂布の雇用、というたったそれだけのことで成し遂げたのである。

無論それは動物的な本能で一刀を嫌っていた呂布が陳宮の推薦も込みで「こっちの方が若干マシ」程度の認識で動いた結果であり、曹操自身の何らかの策によってこれをなしたわけではないが、それでもその一事は今まで曹操が取ってきた富国強兵を基礎とする善政を象徴するようなものだった。
袁紹を嫌い、打倒しようとする者たちがことごとく、「曹操の陣営にいれば可能だ」と考えるほどに、彼女はその名声を徐々にではあっても積み上げ続けてきたのだから。








ただ、誤解しないで欲しいのだが軍事的に見てみれば一刀勢力としては曹操の躍進という事実はそれほど痛くはない。
いや、そうまで言っては語弊があるかもしれないが、少なくとも必要以上に恐れることはなかった。
実際一刀の御膝元である河東や彼の指揮下にある兵たちには呂布が敵にまわったという事実が知れても動揺はほとんどない。
実際洗脳されている大半の将兵ばかりではなく、その人数ゆえや生産効率の面からにすべては洗脳しきれていない河東の民だって……


「呂布将軍が敵になったんだとよ!」
「へぇ! そりゃ、大変だ」
「そうか? 天の御使い様が負けるわけないだろ?」


生まれた時代ゆえにメディアの影響力や群集心理、というものにある程度の造詣があった一刀は、能力を落とし、産業や技術の発展を遅らせてまですべての民を洗脳しようとまでは考えなかった。
百人の中にたった一人、声の大きな一刀のことを絶対的に信奉するものが混じっているだけで、そんなものと同じような効果など容易く得られることを知っていたからだ。

だからだろう、民全体からすればあまりに少ない、されど世評を動かすには十分な数の一刀の仕込んだサクラたちの尽力や、折を見て風や雛里が出すあからさまというほどではないが見るものが見れば分かる程度の思考誘導を含んだ政府見解の影響をもろに受けて、河東の情勢はさほど緊迫化していない。
実際、どれほど曹操の勢力が伸びたところで、彼らの生活にはなんら影響がないレベルまで一刀たちはすでに自領を作り上げているのだ。
それを後押しする妖術の力があれば、いくら曹操がいろいろと謀略を仕掛けてこようとももはや磐石といってもいいその地盤を揺るがすのは並大抵のことではない。

この現状を打ち砕く為に大胆な手を打たねばならぬのは、王者である一刀の側ではなくあくまで挑戦者である曹操の側なのだ。
だからこそ、賭けにも出ずにひたすらにセーフティーな手を打ち続けることがこの場における最上だったと彼の軍師たちは進言し、実際それは正しかった。


「そりゃ……そうだな」
「そうそう、呂布って奴も、馬鹿なことをしたもんだ」
「そ、そういうもんか? ……いや、そうかもな、ははっ」


相手の間者や信奉者による社会情勢への不安の声をそっくりそのまま自分を称える声にひっくり返すことが出来る一刀にとって、そんな曹操の風評が少々上昇した程度ではその治世は微塵も揺らぐことはない。
だからこそ、そんな世間一般での曹操の評判が上がり、それに伴って洛陽に組する勢力の評が多少下がったところで、今なお河東は爆発的な発展を続けていた。

そしてこれらにより、地力自体はちっとやそっとではひっくり返せないほどの差がすでに生まれている。
この状態が数十年続く、というのであれば主君としての器の差によって一刀と曹操の力関係が逆転することもあるのかもしれないが、少なくとも一刀に太平要術の書がある限り、どれほど二人の間に能力の差があろうともそこまで致命的なことにはそうそうなりはしない。
所詮は真っ当な手段で兵を増やし、国を富ますことしか出来ない曹操では、いかに愚かとはいえ未来知識と妖術という二つのチートパワーを有する一刀を打倒するのは決して容易ではないのだ。


それゆえの余裕として、一刀は軍事的にも一度の決戦で勝利すればすべて決着がつくほどに敵対勢力が一箇所にまとまってくれる、というのであればそれはそれでいいことだ、と思っていたため曹操の動きをそれほどまで警戒はしていなかった。
自身の才に絶対の自負を持っている一刀にしてみれば、損失は大きくなるにしても自分に倒せない敵はいない。いや、むしろ倒された数や質以上の捕虜を取ることによって敵兵をそっくりそのまま自軍に組み込む特殊能力によって焼け太ることさえ考えられるし、曹操の身柄を抑えることが出来ればその瞬間に全軍を無力化できることにも変わりがない。
曹操が袁紹ほどの特異事例である、という今までの傾向からしてほとんどありえない現象に怯える以外の考えであれば、別に多少敵軍が強大になったからといって恐れる必要はまるでない。

損して得取れ、ではないが実際にいくつもの小さい戦場で敗走した後、最終的に国力戦略謀略の差を使ってその捨て駒によって戦況を完全に決められるほどの大きな勝利を得る、ということを劉備軍相手に実際にやってのけたことを思えば、一刀の考えはあながち間違っている、ともいいがたい。
例え曹操が局地戦でいくら勝利を収めようとしても、すでに山のように取った手駒をその掌の上で弄んでいる上に戦況という将棋板の前後もくるっとひっくり返せる能力の持ち主からすれば、数を重ねることで太平要術の書への不安も徐々に薄れてきた現状においてはそんなおごりさえも余裕と呼べるものだった。



だからこそ、袁紹勢力を切り捨てた一刀の事情のみを考えると、英傑たちが徐々に曹操の下へと集まりつつある、という事実さえも軍事的にも経済的にも待ちの一手でも何の不都合はなかった。
そう、「袁紹勢力を切り捨てた一刀の事情」のみを、考えるならば……何一つ不都合などなかったのだ。













「どうしてわたくしがそんなことをしなければならないんですの!」
「だから、何度もいってるだろうが! 何回同じことを繰り返せば気が済むんだ」


宮廷中に響き渡る大声同士のぶつかり合いに、しかし誰一人としてそれを咎めようとはしない。
それも当然か。
荒げる声の持ち主たちは、共にひざまずかれることを当然としか思わない雰囲気をかもし出している。
その瞳の一瞥で、声音の一つで自分が凡人などとは違うのだ、ということを主張している二人―――河東の支配者、妖術使い北郷一刀と洛陽の主、袁紹に対して僅かなりとも口を出せるものなど、袁・魏・劉の三国を見わたしたとしてもそう多くはあるまい。
ましてや、その彼らが本気でぶつかり合っている様を邪魔できるものなど、少なくともこの二人の味方の陣営には一人もいない。

一刀に対して絶対服従を誓う人形たちは彼が放った袁紹勢力を敵とはみなさない、という前言により動きを縛られ、文醜顔良はいつものじゃれあいではない二人の激論に口を挟むことも出来ずにはらはらと見守るしかない。
だからこそ、誰からも助言を受けられずにその二人の愚かな支配者達の舌戦はさらにエスカレートしていく。

一刀の暴走と麗羽の勘違いのせいとはいえ、体を重ねることで今までお互いがお互いにそれなりに上手く付き合ってきていた二人がこうまで激論を交わす理由。


「華麗に進軍、それ以外などありえませんわ」
「待ってりゃ勝てるだろうが!」


それは……今の事態をどうやって収拾をつけるのか、ということに対して二人の意見が真っ向から対立したからだ。


呂布の離反後、すぐとはいえないまでもそこそこの時間で戦争が始まった。
皇帝を操る君側の奸を除く、というものと、皇帝に逆らう叛徒を鎮圧する、という名目で、しかし実際もはや漢王朝などほとんど無関係にお互いに非難しあった袁紹・一刀を中心とした軍と、曹操・劉璋、そしておまけの南蛮連合軍は先日戦端を開いたのだ。

きっかけは確かに呂布の離反に反感を抱いた麗羽の軍の一部が、曹操に対して高圧的な威力偵察を仕掛けたことによるものかもしれない。
だが、どちらも機会を窺って、何かいいきっかけがないものか、と考えていたこともまた事実だ。
一刀は数と能力、そして主人公が己である、という自信によりもはやちっとやそっとの戦術戦略ではひっくり返されることは無いと考え、曹操は集めた将兵の質が予想以上だったこととこれ以上戦力差を広げられるのは不味いという冷静な考え、そして何より知っている袁紹の愚かさのため、今戦ったとしても勝利の目算が立てられる、と思っていたのだから。
お互いに時期を計っていた一刀と曹操は、それぞれがそれぞれの目論見によって今を開戦の時期と定めてついに激突した。


「このままじゃ、呂布と曹操に武名を立てさせただけじゃありませんの!?」


その激突の結果は、というと……当然ながら、呂布を有する曹操の勝利だった。
袁紹が慌てて繰り出した数千にも及ぶ援軍は、ほとんど呂布一人で討ち取られた、というのはここもっぱらの世間の評判を攫うに相応しい話題である。
曹操軍は待っていました、とばかりに戦いに挑み、それに対して指揮系統上あまり上手く一刀の軍団を駆使することが出来ずに自前の兵ばかりで戦った袁紹が勝てるはずもなかったのである。

例え戦術的にはたかが数千兵がいなくなったとしてももはや関係のない規模まで戦争のレベルが上がっているため、この敗北は実際には世間の僅かばかりの話題の種にしかならない、ということは一刀も曹操も理解している。
だからこそ、お互いがお互いにこの緒戦の結果などほとんど気にしていなかったのだが……官軍側のもう一人の主君は違った。


「別に名前なんぞ好きなだけくれてやれよ! どうせ最後には負け犬の遠吠えになるんだからよ」
「い・や・で・す・わ! どうしてわたくしがあんな女をほっておかねばなりませんの?」


麗羽からしてみれば、自分を裏切った呂布といろいろと目障りなキャラ被りの曹操の評判がよくなることほど口惜しいことはない。ましてや彼女達の評判は、袁紹を踏み台にしてのし上がったものだ。
そこを承知で策に盛り込んできた曹操の悪辣な心理戦に、麗羽はまんまと引っかかってしまったのである。街にはあっという間に麗羽を馬鹿にする風聞がばら撒かれ、それは彼女を怒らせるのに十分な量と質であった。
だからこそ、戦略的に正しい圧倒的な数と領土を使った包囲戦、持久戦を持ちかける一刀の提案を一方的に無視して感情的に喚きたてていた。
それを無視して安全にセーフティーに曹操を追い詰めることなんて考えもせずに、ただひたすらにすぐさまこの状況が改善されることを望むこととなった。


やはり、似たもの同士でありながら一刀と袁紹は、何処かが致命的にずれていた。
今まで一刀の妥協だとか顔良のとりなしだとか麗羽の言動のおかしさなどによって表面に現れていなかったそれが、ここに来て一気に噴出した。


二人とも同じ傲慢な支配者であるが、袁紹のそれは生まれながらの貴人であるが故に自分以外のすべてを見下す、自分は何をやっても絶対的に正しい、むしろ自分のやることが正しいことだ、と考えるその高慢な性質によるものである。
片や一刀のそれは、匪賊の頭として今まで怠惰にただひたすらに自分だけは安全圏に置くことで、何もしなくても周囲のものが勝手に自分の前に正解を運んでくる、という詠がいたときにその基礎が築かれたことによるものだ。
それは怒りによって自分の性質を塗り替えつつある一刀といえど、そう簡単に薄れるものではない。


「わたくしの考えが正しいに決まっていますわ! 戦って、勝つ。これ以上美しいものなんてあるわけないでしょう?」
「別にだったら戦う相手は劉璋とか南蛮でもいいだろうが。この時勢にわざわざ賭けに出る必要がどこにある!」
「あらいやだ、一刀さん。別にどれでもよろしいんですけど、どうせやるんだったら少しでもマシな相手を選んだ方が華やかではなくって? おーほっほっほ!」


袁紹は自分の勝利はすでに決まっていることだ、として強攻に一大決戦を求め、一刀はそんなことをしなくても周囲を固めていけばそんな危険な橋を渡る必要もなく勝利を手に出来る、として戦略としての停滞を求めた。
いざというときにさも当然のように前進を叫ぶ袁紹と、結果的には震えながら進むとしてもその判断の基礎に常人としての計算が入る一刀との差、といってもいい。

高慢、憤怒、怠惰、淫欲、嫉妬、大食、強欲。
人の欲望のすべてを極めんとするばかりに見えた両者であっても、やはり一刀のそれは怠惰と淫欲と憤怒を基礎とするものであり、袁紹が持つ大罪は高慢と強欲こそがすべての中でも一際強く出たものだ。
傾向としては似ていても、やはり方向性としては完全に一致しているわけではない。
それがついに表面に現れてしまった。

もともと、たとえその両者の間のつながりに、「恋」というものがあったとしてもそもそも共に天を戴くには袁紹はあまりに適さない人物だった。

それでも、今まではまだそれなりに二人の差があってもそれなりにやっていけた。
何故か? 



一刀が、譲っていたからだ。
当初ついていた苦手意識が払拭されてからでも、ある意味子供のような麗羽と付き合っていくためには一刀が大人にならざるを得ない。
友人といっても差し支えは全くなく、むしろことによっては恋人、というべき付き合いを続けてきた二人は、完全に彼女の尻に敷かれる彼氏、という構図によって成り立っていたものだ。
たとえ一刀相手にで会ってもひくことを知らぬ袁紹は、だからこそどれほど意見が食い違ったとしても自分の意見を曲げようとしなかった。
そうである以上、一刀が引かなければその関係は収拾が付けられないほど悪化していくのもむしろ当然だった。

それを今回なんとなく理解してもなお、袁紹も彼女の側近も、当然今までのように一刀が譲るとしか思っていなかった。


「わたくしが出て一蹴すれば済む話ですわ! さあ、顔良さん。すぐに出陣の準備を……「やめろーーー!!」っ! 一体全体今日の一刀さんはどうなさったというんですの!?」


が。
たとえほかの事をどれだけ譲ったとしても。
もはや一刀がごまかしようがないほどに袁紹が好きであろうとも、否、袁紹が好きであれば好きであるほどに。
一刀はあの暴虐の化身呂布を含む曹操軍に対抗するために、「袁紹自身による親征」などということを袁紹が行うことだけは認められなかった。


「いいか、戦場だぞ? 一回間違っただけで死ぬんだぞ? それを分かってんのか!」
「……」


語る言葉は、実感が篭っていた。
それゆえの必死さで語気こそ荒いものの、もはやそれは哀願といってもいい勢いで繰り返される。


彼自身は、戦場に立ったことなどほとんどない。
自身の保身から端を発した彼の野望は、だからこそそれを侵すようなことなど考えもしなかった。
ひたすらに奥に篭って、策をめぐらし、人々を操ってきただけの彼が戦場の恐ろしさを語るのはある意味御笑い種であるが……同時にこれ以上なくふさわしいものでもある。
世界を嘗めて掛かっていた頃ですら恐れて近付かなかったその場は、実際には貪欲に彼の手駒をいままでことごとく飲み込んできた。
彼の命によって戦場にて散らされた命の数、もはや千では効くまい。
主人公たる己はさておき、人は実にあっけなく死ぬのだ。そこに例外などない。
ひょっとすると己にさえもその論理は通じるのかもしれない、という一抹の不安が自分が戦場に出ることを拒否し、今もひたすらに配下たちに戦いをさせている。
未だに武将級の人間こそ欠けていないものの、ここ数日で随分見知った顔が消えたような気がする。

だが、始まってしまった以上もはや死は加速度的に増えるだけだ。それが戦争だ。

改めて己の野望の為には戦いを避けることが出来ないことを一刀は実感し、そのことから当然の連想として戦場へと追いやってしまったがために失ってしまった己の半身のことを思った。


賈駆―――詠。


彼女の柔らかな声、眼差し、笑顔。
それらすべてがもはやこの世界のどこにもない。永久に失ってしまった。
あれほどまでも、簡単に、あっけなく、何一つ残さず。
思い返すだけでもずきりと心の新鮮な部分が痛んだ。

麗羽に心を寄せるようになったとしても、何処か不可侵な部分として残っていた一刀の一部は未だに一人の少女に心を残している。
いや、むしろ「死」と言う形でその思いの行き先が唐突に途切れたことで、これ以上なく美化・神聖視されて一層彼の心の中での印象を強くしている。
その彼女を奪ったのが、戦場なのだ。


戦場という場におけるあまりにも野蛮な暴力の宴は、人々の命を飲み込んでいく。
それを彼は、己が戦場に立っていないからこそ逆に強く実感していた。
だからこそ、己と同じくほとんど英雄としての武力を保有していない袁紹をその場へいかせるわけには行かなかった……いや、たとえそれなりに武力を保有している猪々子や斗詩であっても行かせたくなかった。


まだその場に立つのが孫策や関羽ならばいい。
彼女たちは武将だ。
戦場において戦わせることこそが彼女たちを輝かせる精錬の場であり、同時にそんな彼女たちを寝室では組み敷いている、ということを楽しませるスパイスとなる。
武の神に愛されている彼女たちはそうそう危機に陥ることもない。
だが、それだけならば猪々子・斗詩にも当てはまってしまう。
彼女たちと孫策らを分けるのは何処か。

決まっている。妖術の効果の有無だ。
今まで築いてきた、『絶対無条件のチート能力』によらない信頼と関係があるかどうかがそれを分かつ。


孫策公孫賛劉備関羽馬超馬岱。彼女たちは「駒」だ。
その自由意志をも奪い取られた敗者であり、自分がどのように扱ったとしても文句一つ言わない従順なる人形。
戯れに使い潰そうとも、飽きて捨てようとも、気紛れに寵愛しようとも、自由自在に自分の胸先三寸だけで決めていい存在。
だからこそ、彼は実に気軽に、彼女たち以上に優れた人材を得る為のチップとしてその命を戦場という賭場に今まで何度も送り込んできたし、今後も送り込むだろう。
そこを否定することはできない。そのことにいまさら恐れを感じるようならば、初めから細々と生きてこればよかったのだ、ということになる。
それは「彼女」のやってきたことすべてを否定することだ。
だからこそ、一刀はそこは突っ張るしかない。


それゆえに、逆説的に未だ詠のことを思うと消えずむしろ強くなるこの胸の痛みは、詠が「駒」ではなかったことに起因することになる。
かつて彼女さえも駒に更なる獲物を得ようと誓ったにもかかわらず、未だ感じるこの喪失感はそのときの誓いが……術にかけていない彼女を駒とみなしたことが間違っていたことを表しているのではないか。


矛盾した気持ちが一刀を包む。
死という形をとったにしても、最終的にはさらに強大なものを自分の懐に転がり込ませてきた詠という存在を己とは違うただの歴史の登場人物、交換しても惜しくない駒だった、と思いこみたい感情と、だがしかし太平要術の書の力によって心を縛っていなかった彼女だけは失いたくなかった、という心からの感情。
自分が間違っていなかった、と言いたいがために生み出した勝手な理屈は、当然ながら自分の間違いを認めている心の奥底とは矛盾していることにとっくに気付いていた。

だが、袁紹という賈駆に比べればあまりにも大きな勢力を得た後にも何処か悔やむ気持ちは消えなかったことで結局は結論が出た。
ああ、やはり詠という術の掛かっていない存在は引き換えても惜しくない駒ではなかった。
きちんと自分の意識を持ち、言葉を交わしたれっきとした人であった。
それを失ったことは、間違っていたのだ!


「矢の一本でもお前に防げんのかよ! 十人が掛かってきてもそいつら倒せるのかよ? 山狩り受けながら敗走するのに耐えれるか!?」
「一刀さん……」


袁紹、というこの外史では二人目の「駒」ではない存在を手に入れたことでその思いは日々弱くなるどころかますます強まった。
だからこそ。
だからこそ!
同じ轍を踏むわけにはいかないという気持ちは非常に強固なものだ。

再び「駒」ではない存在である袁紹たちを失うことなんて、一刀には耐えられなかった。


「俺らは王だ。死ねと命じるのが仕事で、実際に戦うのは俺らの役目じゃねえ! わかったらいつも通り馬鹿笑いしてここに座ってろ」


縛り付けてでも彼女をここに留めよう、とする一刀の声はさらに大きくなる。
いかせたくなかった。
たとえ自身の保有する兵力に絶大の自信があろうとも、この戦力差であれば呂布も曹操も恐ろしくない、と分かっていても、そんなことなど戦場では何の説得力も持たない。
なぜなら、あの時だって自分は……勝利を、あの後いつも通りの日常が続くことを確信していたのだから。

肥大した自尊心と歪んだ英雄願望によって爆ぜた自身への狂信と共にそれなりの判断能力で互いの戦力を指し測るのとはまた別に、かつてのトラウマから来る完全なる感情によるかんしゃくのような判断は、一刀に対して常に最悪の事態を囁き続けていたのだ。

だからこそ一刀は、全身全霊を使って、なんとしてでも麗羽を戦場にいかせまい、と声を張り上げ、息を荒げる。
それは常の彼とは違う、あまりにも必死な姿だった。
いつも空気を読まない文醜でさえ、その姿の前に言葉を失っていた。

それだけの思い、麗羽達の身を案じる一刀の想いを感じては、流石の麗羽も自分の意思を無理やり通そうとするいつもの高笑いを収める。
お馬鹿な彼女であっても、一刀から向けられたその感情がよくあるおべんちゃらや自分の身分を気遣っての言葉ではないことぐらいわかったのだ。
完全に一途に思い続ける女に対して向けるものとは微妙に違うかもしれないが、それでもそこには愛情が存在している。
それが彼女の美貌に端を発した色恋から来るものなのか、互いに過ごした時間がはぐくんだ友情なのか、寝食を共にした家族愛なのか、それとも同じく無能な君主という同族意識から来るものなのか、そこまでの区別がはっきりとできるようなものではなかったにせよ、一刀が寄せてくれたものが猪々子や斗詩が己を慮ってくれるものに勝らずも劣らぬものだ、ということは麗羽であっても十分に理解していた。

だが。


「違いますわ……」
「何?」
「わたくしが猪々子と斗詩に命ずるのも、洛陽の民すべてに愛されているのも、皇帝陛下からの信任が厚いのも、すべて、袁家歴々の当主の活躍の賜物」


彼女のその唇から放たれた言葉は、その気使いに感じ入って己が身を引くものではなかった。
一刀の顔の血の気が完全に引いていく。


「それを己の命惜しさに引き篭もるなんて……ありえませんわ!」


己が活躍を夢見てわがままを言うものではない、その高貴なる身分を自覚するがゆえのノブレスオブリージュにも似た君主としての言葉は、仮にも彼女が袁紹と言う名を持つに相応しいだけの人物である、ということを証明しているようなものであり、馬鹿なだけではないと喜ばしく思うべきだった。
それが自軍の優位を承知しているからであり、絶対的に勝利できる客観的な自信があるから出せた、自分の命の危険の可能性がほとんどないことを承知だからこそ言えた単なる格好のいい言葉であるかもしれないが、それでもその麗羽の言葉は袁家の当主として相応しいものであった。


「あ~、ゴメン、アニキ。あたいも今回ばかりは麗羽様に同意見だ。ここで逃げたらあたいたちはあたいたちでなくなっちまう」
「戦略的には一刀さんのいってることも十分正しいとは思うんですけど……大丈夫ですよ、麗羽様は私が守りますから!」


その彼女の立つ姿を嬉しそうに見て、文醜・顔良もその言葉に同調する。
彼女たちにしてみても、緒戦で負けたまま何一ついいところなく待ち続ける、というのはあまり好ましいものではなかった。
それゆえに、主君の後押しはうれしいことであり、一刀の気遣いは心苦しいものだった。
一刀の気遣いを受けて照れくさそうに、申し訳なさそうな顔こそみせるものの、その言葉は完全に彼の心を裏切っていた。



一刀は愕然とする。
今までのようなじゃれあいではなく、本気でいった言葉が通じなかったからだ。
麗羽の常識はずれな普段の言動を知っている彼をして、それは愕然とするしかない結果だった。
自分が考えに考えて、最上であろうという結論を告げたにもかかわらず、相手の感情ではなく理性によってそれを否定された。

かつての世界ではむしろ当たり前だったことだが、この世界に来てから数えるならば、一刀はそれを始めて味わった。
相手も悪かったが、それ以上に一刀も悪かった。
異なる意見には術を施し、あるいは武力で下してきた彼は、だからこそ対等の立場のものを説得する、という技術をこちらに来てから錆び付かせることしかしなかったことに、ようやく気付いたのである。


「ば、馬鹿か!? なんで、なんで……」
「あなたの気持ちは嬉しいですけれど、わたくしはあくまでわたくし、名門袁家の当主、袁本初なのですわ、おーほっほっほ!」


一番大切なときに、一番大切なものが足りない。
まるで四肢から地が抜けていくような脱力感に見舞われて、一刀は思わず座り込んだ。
円卓の向かいで立ち上がり高笑いを上げる袁紹とは対照的に、その姿は河東という一個人が手の中に収めるにはあまりに広大な土地の支配者とは思えぬほど弱弱しいものだった。


「れ、麗羽様……その、もうすこしなんていうか。一刀さんだって、私達の身を案じてのことなんですから」
「あたいもちょっとそれはないんじゃないかな~、って」


麗羽たちの言葉も、耳をただただ素通りしていく。
同じ事が起こるとは限らない、という至極当たり前な論理は、しかしシチュエーションの同一性によって塗りつぶされる。
詠の死を迎えるまで今まで何一つ苦難を感じずに道程を歩んできた、歩んできてしまった一刀は、だからこそその後始めて感じたつまずきを忘れることなんて出来なかった。
大きく刻んだ心の傷に、無理やり新しい存在を埋め込んで補完していた歪な精神構造は、それが故にかつてと同じ可能性を大きく忌避し続ける。


なんとしてでも止めたい。是が非でも止めたい。
麗羽の命が失われるなど、許されることではない。猪々子の姿が見えなくなることなど、あってはならないことだ。斗詩の声が聞こえなくなるなど、おかしなことだ。

だが、言葉では止められない。
ここで選択肢を間違ってしまえばまたも悲劇的なエンディングが待っていることは分かりきっているのに、今出来ることのどれをやったとしてもその方向は変えられずにがんがんとイベントは進んでいってしまう。

すでにずっと前に分岐は終わり、間違ってしまったのか? 
もはや回避不能なまでに何処かずっと前にフラグを立て間違ってしまったのか?
ここで出来ることはもはや諦めるだけで、ここで出来ることはセーブしなかった己を呪って諦めるだけしかないのか?

絶望が彼を襲う。
死なせたくなかった。
たとえ何を犠牲にしてでも、彼女と過ごすときをここで終わらせたくなかった。
だが、すべてが無為に終わってしまう無力感が彼を襲った。


そして、一刀のトラウマのことまではそこまで深く知らなかった麗羽たちはそれに気付けない。
ただ単に、天から来た人間だから少々心配性なんだな、程度であり、そこまで一刀が心配する方が間違っている、と思っている。
当たり前だ、彼女たちにとって見れば、今回の戦いは別にいつもの戦いとの違いを見出せない程度のものだ。
文醜・顔良は今まで何度も戦場で戦い、凡俗どもを叩き潰してきたことがあったし、それを指揮する麗羽にしたところでその無能により兵を無駄に散らしたことはあれども、その膨大な人海戦術によってその失敗を致命的なものにしないでやってきていた。
実際にこの才がすべての外史において自分よりも才がある人間と闘ったことこそなかったがためにその認識には甘いところもあったが、それでもいつも通りの覚悟をしたうえで挑もうとしていた。

だからこそ、多少の罪悪感はあれどもいつも通りの反応を返すことに不思議はなかった。


「何を言っていますの、二人とも? 一刀さんも私の隣に立っているんですから、そのぐらいの余裕と剛毅さを持って欲しいものですわね。まあ、今回は許しますけど次回からはきちんとこの名門袁家に並び立つ『天の御使い』を諸人に見せ付けるんですわよ」


だからだろう。すでに言葉を尽くしてしまったこの場で彼に出来ることはもはや何もなかった。
















いや、本当にそうか?
忘れているだけで一つだけ、残っていないか?
言葉以外ほとんど何一つ持たずにこの外史に訪れた北郷一刀が、言葉を失ったときに最後に頼るものが。
彼がすべてを得て、すべてを失った元凶となるべきものが。

かつては、それが通じなかった。
条件が整わなかったからだ。
捕らえて、勝利宣言をして、這い蹲らせて……それでもだめだった。
麗羽の特異性が故に、そんな圧倒的な状況さえも条件を整えさせる役に立たず、結果として条件の不備によりそれはならなかった。


だが、今はどうだ?


うつろな瞳で一刀は袁紹を見つめる。
何もしなければもはや失われてしまう少女だ。
あまりにも美しい、眩しい「彼の女」だ。
彼の中ではそれらのことはもはや確定事項だった。


だが、その彼女も完全に出会った時のままであるということではない。
共に重ねた時間は確かに一刀に唯一無二だった少女の代替品として思わせ、そしてやがてはそれ以上に麗羽を求めさせることになったが、それと同時に麗羽だって一日を重ねるごとに一刀を猪々子や斗詩と変わらぬほどに大事に思ってきた。
これから共に同じ位置で同じ道を歩んでいっても悪くはない、好ましい、と思うほどに。
あの傲岸不遜で傍若無人な麗羽が、己と「対等以上」と一刀のことを思うほどに。


それこそが、かつて一刀の持つ、彼の信じる絶対無敵の力を阻んだ条件がクリアーされる、最後のトリガーだった。

このまま放って置けば、失われてしまうならば。
何も出来ないまま、また戦場に向かう彼女の後姿を眺めるだけならば。
自分も戦場に言って彼女と共に散るようなことを出来るだけの勇気がないのならば。

たとえその自由に大空を舞う勇姿が二度と見れないとしても、大地に落ちて無残に汚れるさまを見るくらいならば、その翼を折って篭の中に閉じ込めてしまおう。
そのものから自由を手折ってしまうことはその本質をすべて変革させてしまうものであり、変わってしまったかつてとは全く違うものを手中に収めたところで、かつての勇姿を思い出すための役程度にしかたたなくなるとしても、このまま失わせてしまうぐらいであれば自分の掌中へと納めておこう。
遺品も、遺言も、遺体も、すべて得る事が出来なくなってかつての思い出さえも時の経過と共に徐々に失われていってしまうのであれば……せめて、その写し身だけは離さないようにしよう。


「麗羽……」
「どうかなさいましたの、一刀さん?」


ようやくこちらの様子がおかしいことに気付いたのか、こちらに向かって翠の瞳を丸くして見つめる彼女に対して、一刀はかつてと同じ言葉を投げかけた。
そのすべてを終わらせる、絶望の呪文を。


「『俺に従え』」


彼に宿る妖しの力は、今度はたがわずその力を発揮した。













砂上の楼閣にて、一人男が声を上げ続けていた。
悲鳴のような、罵声のような、歓喜のような、ありとあらゆる感情の入り混じった声だった。
物音一つない玉座の間にて、ただ、それだけが響き渡る。


「ああああああああああああああああああああ!!」


声を上げるのは一人。
この広い広い河東において、たった一人。
周囲を囲む幾人もの他の者はただ無言で彼を見つめるのみ。
命ぜられれば果たす、言われれば従う……だが、誰一人彼を止めない、諌めない、咎めない。
もはやそこには思いを分かち合う相手も、喜びを共にする者もいない。
裸の王様に怯える百万の庶民の、敗者の、凡俗の集った場所。

それが外史の異物、『天の御使い』北郷一刀がこの地において築き上げた城だった。



[16162] 死生命有り、富貴天に在り
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/04/22 23:14



糸を繰るものが命じないため動かない人形を抱きしめ、男はかすれた声で呟いた。


「これで……よかったんだよな」


返答はない。ないように、している。

その声音も、美貌も、スタイルも、何一つ変わらぬ美しい少女を手にして、しかし男の表情に歓喜はなかった。
彼女は何一つ変わっていない、そのはずだ。
彼がかつて愛したときをそのままに完全無欠に「保存」されているのは、彼自身が自分の所業であるが故に十分承知していたはずだ。
自分が命じたからこそ人形のようにしている少女であるが、それさえやめて前のように振舞うように命じれば、かつてと同じように笑い、泣き、怒り、そして自分に笑顔を見せてくれるはずだった。
実際に幾度となく体験したことで、今更それを否定することなんてできない。


だが、彼の心の奥底、建前の通じない本音だけが集う場所が叫ぶ。

違う。
明らかに違う。
この人形は、彼女ではない。

発する声はそのままに、その喋る内容も以前とほとんど同じようになっていて……やはり細部が違った。
「ほとんど」同じだけであり、その声のトーンや高さも同一であっても、それはやはり、違うものだった。
かつて愛した天真爛漫さは僅かながらもしかしこちらの不快感を致命的に呼ばぬように影を潜め、それすらも愛しかった傍若無人さはどことなくわざとらしい媚へと変わった。
彼女を愛した理由であったその自由さは、箱庭の中で媚態を見せるという範囲でだけの自由へと収まってしまっているのだ。


「だって、麗羽が戦場なんかに出て生き残れるわけねえじゃねえか……こんな馬鹿でアホでプライドばっかり高い女が。ここにいた方がよっぽど安全だ」


その者が持つ自分に対する敵意を根こそぎ消滅させ、それらすべてを好意を基本とする自分の味方へと強制的に変換する、彼が保有する絶対無敵の力は今回もまた狙いたがわずその効力を発揮していた。
そのことについて悪しき様に言う資格など、本来この男にはありはしない。

何の力も持たない彼がこの世界において覇を唱えられようとしているのは、すべてこの力によるものだ。
己が才覚だけでは決して打倒できないであろうこの世界の英雄たちを数多く踏みにじってその上にふんぞり返ることが出来たことを忘れ、その効力が今までの人格さえも歪めて己に対して絶対的な好意を与えるものであることを惜しむなど、どう考えても矛盾している。
それは、いかに愚かで自分勝手な男であっても、重々承知している。

ましてや彼には、その行使の選択権さえ与えられていたのだから、そのことさえも忘れてどの口がいうのであろうか。


だからこそ、この場において歓喜によって喜びまわるならばまだしも、そのことについて嘆いたり、恨み言を言う資格などあるわけがない。
そんなことは彼自身にだって重々分かっている。


「……だから、俺は間違ってねえ」


そんな理性の出した結論とは裏腹な涙と共に枯れ果てたかすれた声で男は、そう結論を小さく呟いた。
きつくきつく握り締められ、ともすれば赤く滲んだ雫が零れ落ちんばかりの拳の中に掴んだものの空虚さだけは、彼にはどうしても認められないことだった。
何かを失ったこの手は、きっと「何か」を掴んでいるはずなのだから。

















うかつ、確かにうかつだった。
軍師たる少女は、そう臍をかむ。
あまりに自分の認識が甘かったことを認めざるを得ない。


「(こやつらが我々とは比べ物にならぬ愚物であり、それゆえに何をしでかすか分からないと言うことは分かっていたというのに、何たる無様!)」


敵が強大であることは初めから分かっていたはずだ。
彼女の知る世界のほとんどすべてを占める漢王朝という巨大な帝国に代々大きな存在感を持ってあり続けた袁家と共に、天から来たとさえ噂される人身掌握と技術の天才が相手だ。
いかに身を寄せた先の勢力の頭である曹操の才覚が並ではないと常々実感していたとしても、到底容易に妥当できるなどという楽観視など出来る相手ではないことは重々承知の上。


「(まともな人間だったら、こんなこと確かにありえない……だが、こいつらならば、と考えておくべきだったのです)」


それゆえに彼女は、自身の信じる最強の布陣によってこの戦争に挑んだ。
外様の将にしては望外ともいえるほど与えられた人員を可能な限り鍛え上げ、自身の考えられる限りの策を練り、自軍の保有する強みを最大限生かせるように、努力は惜しまなかった。
実際にその力は凄まじいものであり、相手に与えた損害は誰もが目を見張る数となった。

その数、実に十万近く。
それほどの敵兵の屍を野へと晒してきた。

数々の勢力がそれぞれの思惑によって身を寄せている反袁紹連合の中においてさえ、その戦果に比類するものなどいやしない。
常の相手にならば、どれほど勝ち誇ってもいいほどの戦果だ。
この長丁場となるであろう戦争においてさえ、その功をもって戦後での評定でどれほど優位に進められるか計り知れないほどの結果を彼女の軍はたたき出した。
それを否定することなど敵味方の誰一人出来はしないだろう。

そう。
敵に与えた損害の大きさ。
それは誰一人否定しようのないほどのものだった。

だがしかし。


「(よもやただの一戦での勝利の為に十万の兵を犠牲にしようとも意にも介さぬとは!)」


圧倒的な人海戦術と軍師たる彼女にしても妥当と思わざるを得ないそつのない戦略は、脅威以外の何物でもなかった。
常識からすればばかげているといわざるを得ないが、その損害さえも相手からしてみればたいしたことがないのだと仮定すれば、これほどまで効果的な闘い方もありはしない。
損害をいくらでも無視できるのであれば、少しずつでも相手方にもダメージを与えていけるのであれば最終的に勝つに決まっている。
自軍を基準にしてしまえば無茶無謀といわざるを得ないものであっても、相手からすれば想定の範囲内でしかないかもしれない、ということに遅まきながら彼女は気付いたのである。

結果としてあるのは、反袁紹連合において最強といっても過言でもない呂布軍の半壊と、その軍師である陳宮が捕獲されて敵軍の天幕の前まで引きずり出されていることが、今回の戦争における勝者が誰かを何よりも雄弁に語っていた。










天幕の中央にて、けだるげに一番上等な場所にすえられた玉座に座る不遜な男と、その男の腿にしなだれかかる女の姿を見た陳宮はこの男こそが今回の戦争における当事者である、ということを瞬時に読み取った。
それほどまで他をただの棒立ちの人形に変えるほどの圧倒的な気配を男が発していたからだ。

だが彼女は、その捕らえられた自分の今後の運命を左右するであろう男を前にしても怯えるばかりか、むしろ笑って見せた。


「ふ、ふふふふ……」
「……何がおかしい?」


捕らえられた敵将が行うにはあまりに不遜な態度に、その男の眉がひそめられる。
それも当然。本人である陳宮でさえも驚くほどにその声には震えや恐怖というものがほとんど入っていなかったからだ。
おそらく降軍の将をなぶることを求めて自分をここに呼び寄せた男が気分を害したのは間違いない。
それを受けてことによると瞬時に己の首が撥ねられるかもしれない、ということを自覚していながらも、陳宮は一切のおびえを見せずに、その男、連合軍の首魁である北郷一刀に向かって堂々と言い放った。


「確かにねねは捕らえられたのです! だが、それはまったくもって真紅の呂旗の穢れを意味しない」
「……ほう」


怒気ではなく、むしろ興味深げな声さえ上げて目の前の男が応対したことに少々予想を外された苛立ちのようなものがなかったわけではないが、それでも今言い放ったことは紛れもなく陳宮の本心であるがため、それによるひるみは一切ない。
そう、呂布にとって自分の有無などほとんど関係ない。


そもそも、たった一人で万軍にも匹敵する呂布が軍などというものを率いているのも、元はといえば陳宮のわがままみたいなものだ。
その力一つによって数も謀略も兵器もすべて無へと返すことの出来る呂布には、率いる軍などというものは端から不要だと彼女は理解していた。
この外史において最上の才を与えられており、他の英傑さえも凡俗と呼べるほどの力を持つ呂布―――ただ単独で突っ込む、いうなれば鉄砲玉のような突撃をするだけでどんな敵がいようともすべてが終わる彼女に、配下の兵や己による戦術上のサポート、なんて物は単なるおまけ以外の何物でもない。
露払いがいなくても、最後の掃討戦において加勢するものがいなくても、呂布ならばたった一人で一つの戦場を勝利へと導ける。


にもかかわらず彼女が一応配下の兵を引き連れ、この間まで宮廷でも相当の地位を持っていたのはひとえに彼女の軍師であり、ひょっとすると親友であるとまでうぬぼれてもいいかもしれないこの音々音が、世界最強である飛将軍 呂奉先がただの浪人では格好がつかないと強く主張したからだ。

呂布が求めるのはただ彼女の『家族』を養えることだけであり、それ以外の俗世の名誉だとか地位だとかには彼女は全く興味がない。
すべてにおいてどうでもいい、と思っており、実際にたいていのことはその武力だけで押し通せるだけの実力を持っていた彼女は、だからこそ陳宮の言をうけて宮廷で地位を築くことも、それを脅かそうとする袁紹一派と手を切って曹操と手を結ぶことも、特に望んでいたわけではないが同時にそれをおこなったとしても特に不都合が無い為に否定することもなく実現したに過ぎない。

呂布がただ強くある為には、本来であれば他のものなど誰一人必要ではない。
当然ながらそれは、雑兵を操ることで彼女を助ける、という名目のもと彼女に対して恐れ多くも指示などしていた軍師、などという職のものにも、いや、そのものにこそもっとも強く当てはまる。
戦場における露払いと後片付け程度のものでしかない軍師など、いなくても何の不自由もなく呂布はやっていける。
このまま行けばことによると呂布の家族の安全が袁紹の元では得られない可能性があると考えたが故に進言を行いはしたが、所詮自分など天下無双の最強の将軍の前にはその程度のものだ……そう、音々音は理解していた。


だからこそ、彼女は万兵ではなく万軍をもってその呂布に対抗した北郷一刀に対して恐れを感じこそすれ、己が最強を信ずる呂布が負けたなどとは欠片たりとも思っていなかった。
今回呂布が傍にいながらも、こうやって自分が今敵の陣にて這い蹲っているのは、ひとえに己が足を引っ張った画ゆえであって、普通にただ呂布が彼女一人だけで戦うだけならばそれすらも打ち破っていたと心底信じていた。


「ねねのように敵に捕らえられる無能な軍師の有無など端から呂布殿の力には微塵の影響も与えないのです! もとより呂布殿は天下無双、世界最強の武将! 此度の戦いの結末とて、この陳宮の無能が招いたただの一時の転進に過ぎない。ならば、その無能を除いた呂布殿がもはや負けるはずがないのです!」


呂布の勝利を心底疑っていないとはいえ、後悔がないとはいえない。
ひょっとすると、呂布は陳宮にもそれなりの愛着を持っていてくれていたのかもしれない、とはうぬぼれではない軍師としての感情でも多少思う。
傍にいることを許してくれた、共に歩んでくれたその道のりを考えるに、その可能性は決して低くは無い。
だからこそ音々音に、この場において己の命が失われることを後悔する気持ちがないとは決していえない。

だが、もはや状況は決した。
戦場において音々音が鍛え上げた精鋭軍と呂布に挑むのみならず、卑劣にも敵が前日に兵糧を焼いた上で夜襲にて水攻め、ついで火牛責めを仕掛けた挙句に毒矢毒剣を使って集中して負傷者のみを狙ってきたことで、空腹と数々の足手まといによって十全の力が発揮できなかったながらも数万の兵を屠った呂布と、彼女の手足となるべく将兵たちを一兵でもを助ける為、己が身を費やした陳宮。
どちらも凄まじいまでの働きであったが、やはりそこが限界だった。
呂布は敵をすべて殲滅できずに負傷者たちを守りながら撤退し、陳宮はその身を自分で守ることが出来ずに捕らえられた。
いかに万人力を誇る呂布とて、陳宮の命と覚悟とを引き換えにして助け出したその直後に敵陣すべてを突破してここまで助けに来ることはもはや距離的に不可能だ。

並外れた呂布の力を誰よりも知る陳宮をもってしても、例え誰よりも天下無双の名をほしいままにし、望みのすべてを実現可能とせんばかりの力を持つ呂布が望んでいたとしても、今回ばかりはこの陳宮の命を助け出すことだけは出来ない。
それは最強の武将の一の軍師、を自称する音々音にとっては耐え難い後悔だ。


「殺すならば殺すがいい。だが、覚えておくがよいのです……方天画戟の輝きの前ではお前の小ざかしい天などという名など何の役にも立たないということを!」
「……」


もっとも、彼女が感じているその後悔は、あくまで心優しい呂布殿がこの陳宮の死を知ることで僅かなりとも悲しむかもしれない、ということに対するものだ。
自分の命が失われる、ということへのものではない。

此度の呂布の敗戦の汚名をすべて、この陳宮が策が間抜けであった為、としてそそぐことが出来るのであれば、彼女はそれだけで己が命を捨てるのに十分な理由であると思う。


だからこそ、この後呂布に僅かなりとも死を悲しませてしまうことへの後悔はあれど、その後呂布が陳宮のことなど無視してすべてを平らげ幸せに暮らす、あるいは陳宮の死を怒り、己が敗戦の屈辱を力で持って晴らしてこの目の前の男の首をあっさり落とす、というどちらのことも彼女がその気になればすぐに可能だ、と思っている彼女にとって、この後の自分の末路もまた、どうでもいいことである。
数を頼りにする者の力など、呂布の近くに侍り、彼女の力を誰よりも信奉する陳宮にとって見れば笑える程度だ。
相手がどれほどでも兵をぶつけてくるというのであれば、呂布にはそれらすべてを叩き潰せるだけの力があると、陳宮は心から信じている。
失うことで得た力によって、どこまでもすべてを飲み込めると一刀が信ずるのと同じぐらい、その数さえも力だけで打倒できると陳宮は考えている。

故に彼女の中では最終的に彼女の力に敵うものなどいないのだから、この場において自分が死のうが生かされようが、呂布の武名に傷つけることにはならない。
音々音にとっては呂布こそが世界のすべて。
その彼女が求める「自らの家族を守る」という目標を達する為に全力を尽くし、それには成功してそのついでとして自分の身を守るということに失敗した音々音は、だからこそ達成感に満ちた顔で叫んだ。


「さあ、この陳宮の命を取って精々呂布殿が再び現れるまでのつかの間の安堵を勝ち誇るがいいのです。北郷一刀に、袁紹に呪いあれ! そして、恋殿に未来永劫の勝利の輝きあれ!」


幼くも見えるその顔は、その年少ゆえの甘さとは裏腹にまさに唯一無二の忠臣というのに相応しいものであった。





だが、しかし。
忠誠を、恋慕を、友情を、絆を。
敗者たる彼女が語るなど、おこがましいにもほどがあった。


「くっくっく……」
「何がおかしいのです!」


思わずこらえきれなかった、とでも言わんばかりに唐突に笑い声を響かせる一刀に対して即座に噛み付く陳宮。
この男に、自分後時の呪いの言葉で怯えるほどの可愛げがあるなどとは思っていなかった彼女であるが、しかし天下無双の呂布の名をもってしてもその相手に動揺が見られないことはどうにもおかしい、と軍師としての本能で気付く。


「いや、実に立派な心がけだ、と思っただけだよ、流石は呂布が認めた唯一の軍師だ。俺に仕える軍師たちもこうあって欲しいものだな、とな」


この言葉が本心からの褒め言葉に聞こえるならば、そいつは相当頭がお目出度いだろう。
そう心底思わせる声音で一刀はそう述べた。
世界最強の武将の放つ殺気をこの世界の誰よりも知っている陳宮でさえ、先ほどから感じる不気味な気配は未だかつておぼえたことのないものであった。

徹底した相手方の情報封鎖によって自分たちが相対している敵のことをそれほどまで詳しく知っているわけではなかったがためにそこそこ想定の範囲の幅を広く取っていた陳宮であるが、よもやここまで化け物じみた気配を発するほど禍々しい男だとは思っても見なかった。
彼女が手に入れられただけの範囲による情報では、北郷一刀という男は袁紹と負けず劣らず、愚かな君主であったはずだ。
周辺を囲う彼の頭脳となるべき軍師・文官らの優秀さと、敗軍の将さえ取り込むその弁舌の巧みさだけは警戒しなければならないとは思ってはいても、それ以外は取り立てて注目すべきところのない暗愚であったはずである。

その事前の予想は、しかし全くもって今の彼女の助けにはなっていなかった。


「だけどなぁ……おまえ、諦めただろ?」
「(な、なんなのですか、こやつは!? これほどまで邪悪な雰囲気をかもし出すとは……)」


語る言葉には、かつての彼にはありえなかったほどの凄まじい傲慢が見て取れた。
だがそれさえも、今の彼には相応しい。

太平要術の書の力の中で、戦場においてもっとも強力なのは英雄豪傑たちを無条件で己の配下へと変えることが出来ることではない。
能力がほぼ半減する、という致命的な縛りがある以上、その力は正攻法で説得を重ね、仲間へと加えていった場合と比べると随分劣る。
それは、孫策、関羽、張飛、馬超、馬岱公孫賛文醜顔良まで集めた北郷一刀が、しかしその武力でもってたった呂布一人に対抗することも出来なかったことを見ても明らかだ。
協力だとか、信頼だとか、そういったもので成り立つ「複数による力の倍加」をものともしない力を持つ呂布とて、全力を尽くせる状態でこれらの武将たちからいっせいに攻撃を受けたならば負けはしないとしても勝つことも出来ないだろう。
ひょっとすると、奇策一つで暴虐の化身、呂布を捕らえられる程度にまで近付くことが出来るかもしれない、そこまで迫れる。

ただ、そこが限界だ。
太平要術の書によって能力を低下させられている彼女たちでは、呂布相手に時間稼ぎは出来てもそれを打倒する可能性は万に一つぐらいでしかなく、これだけの数を束ねてもなお、戦況有利とまではいえない。
その事実こそが、戦場における武将たちへの太平要術の書の力の限界を示している。


「自分の命が、この俺に……天の御使い北郷一刀にもう完全に握られていることを自分で認めただろう!」
「(まさか本当にこの男が『天の御使い』で、呂布殿が……恋殿が負けるのが『天命』だとでもいうのですか!?)」


彼女には理解できぬ感情と気迫の篭った声に、思わず陳宮の背筋が震えた。
それほどまでのおぞましくも凄まじい鬼気が、一刀の瞳から、体から、言葉から放たれている。
失った悲哀を、求める欲望を、限りない怨念をその端々から感じさせる言動からは、もはやかつて外史に落ちてきた頃の人畜無害、平々凡々な彼を見出すことなど到底出来ない。
そこには、数千、数万の兵や武将の上に君臨する紛れもない覇王の片鱗ばかりが見え隠れしていた。

陳宮が信じるように、実際に呂布の力を前にしてしまえば数の力など物の数ではないはずである。
この外史において最も武の神に愛された、才覚溢れる少女呂奉先には、それだけの力があった。

だが、現実はどうか。
太平要術の書の使い手、北郷一刀の前には今、無敵のはずの呂布の懐刀たる軍師、陳宮が這い蹲っている。
これこそ、呂布が彼女を守れないほどに追い詰められた、という確かな証である。


「だったら、そんな忠誠なんてもう何の役にも立たねぇんだよ、雑魚が!」
「(そんなこと……そんなことある訳ないのです。恋殿は絶対無敵の最強の武将。それはこの陳宮が誰よりも知っている!)」


その天幕を揺らした罵倒は、ともすれば陳宮のみならず己自身にさえも向けられているようにも聞こえた。
自分の意思こそが世界のすべてであり、それに反するものは己の内に潜むモノであっても許さない、と。

自分に逆らうこと、自分の思うがままにならないことすべてが間違っている、とまで言い切らんばかりのそれは、人々の死を限りなくもたらし、決してこの大陸に永久の平和などをもたらすことのなかった「天」の代弁としては、ある意味相応しいだけの傲慢さを持っていた。
どれほど真摯な祈りが捧げられたとしても飢饉によって人々を死なせ、どれほど怨嗟があがろうとも意にも解さずに疫病で人々を殺す……そんな残酷にしてどこまでも平等な天に。

訳のわからぬ感情によって、陳宮は相手の言葉が「天意」であると思い込まぬようにすることで必死だった。
自分が、そして誰よりも尊敬する呂布が実は間違っていたのではないか、という感情の欠片が浮かび上がらないように全身全霊を持って心を強く持たねばならない、それほどまでにその自信に満ち溢れた声は強烈なまでの別世界の住人然としていた。


その陳宮の推測はある意味正しい。
すべてを操る大妖術使いと化している北郷一刀からすれば、この世界のすべては決して己と対等な立場である人間などではなく、単なるゲームの駒兼己の選択の結果としての商品でしかない。

ほかならぬ、彼の力がその思想の正しさを担保している。
なにせ、戦場における太平要術の最大の力は……才を束ねることではなく、無才を重ねることだ。

たった一人ではほとんど天才たちが撫でるだけで倒される凡人。
刃を向けられれば多々怯えて逃げ惑うか、あるいは震えて斬られるのを黙って待つか、その程度の差でしかない一般兵。
こんなものなど、この外史における戦争においては何の役にもたたず、精々戦場でのにぎやかしでしかない。
だからこそこの外史において、戦争というものはすなわち、限られた数の武将同士の激突によってのみ決着がつけられるという現状があった。

だが、その唯一の例外こそが太平要術の書である。
その彼らの意思を一つの方向へと統一し、決して逃亡を許さず、その命の限りまで戦わせることこそが太平要術の真の力だ。
たった一人で万をも超える兵たちを自在に操ることが出来る太平要術の力は、すなわちたった一人に対して正面から万をぶつけることが出来ることを意味する。
今まで彼我の実力さによってそもそも成り立ちもしなかった勝負を、単純な力と数のぶつかり合いへと変えさせる。

ならば、倒せぬ敵など存在しない。
十で倒せぬならば百で、百で倒せぬならば千で、千で倒せぬならば万で。
正面からでは通じなければ二方から、三方から、四方から、全周から!
所詮は少数派でしかない、数の限られた稀少な存在を倒す為に、ごくごくありふれたそこいらにあるものをいくらでも集めればいい。後から後から補充することを前提として尊くも安っぽい命を使い捨てながらの試行錯誤、トライ&エラーを繰り返し、最上の形へとくしけずっていけばいい。
その数を積み重ねて、無数の人形達の屍で道を踏み固めさせて、やがては才へと届く無才の城を築く……これこそが戦場における正しい太平要術の書の使い方である。

多くの歴史で黄巾党と呼ばれた無才の集団が敗れたのは、所詮凡人ばかりを集めたからではない。
集める数が、『足りなかった』からなのだ! 
太平要術の書の力が英雄豪傑に劣ったからではなく、それほどの力を手にしていながら、所詮は旅芸人でしかなかった張角一派は兵を集めるのに「個人の魅力」に頼らざるを得ず、その力を振るうのに「凡人の才覚」での運用しか出来なかったことが、彼女たちを敗北へと導いた。


だが、この外史における太平要術の担い手たる北郷一刀は違う。
彼は、彼女達の失敗すべてを克服した……己における唯一無二のつながりを次々に犠牲にすることで。
賈駆の残した数を生かす戦術、戦略を一定レベルで描ける頭脳と、袁紹からすべてを奪い取ったことで無限ともいえる徴兵力を手に入れたことが、太平要術の書の担い手たる彼の、彼なりの戦闘を完成へと導いた。
失い続けたものと引き換えに得た強大な力は、もはやちょっとやそっと才がある程度では抵抗するのさえ難しい段階へと彼を引き上げた。
もともと、妖術の力だけで紛れもない英傑の一人である孫策を下せるほどだった彼の力を、だ。


ある外史では、武将達の連携が通じなかった? 
違う。連携、という方針が悪かったのではない。所詮は飛びぬけたもの十人前後からなる戦略ではその幅が足りなかったのだ。
たった一振り分の体力を奪い、たった一瞬視界を奪う為の雫にその血潮のすべてを振り絞らせる。
そういったことを前提にしたうえでの連携こそが勝利への鍵。
それを頭において、無慈悲で血も涙もない外道の連携を練り直し、終わらぬ死者の怨嗟と消えぬ傷者の呻きによって作る四面楚歌で心を挫いてやれ。

別の外史では、たった一人に千の、万の兵が敗れた?
それがどうした。
一騎当千に千をぶつけて勝とうと考えるのが間違っている。替えはいくらでもいるのだから、ためらわずにもっともっと多くの雑兵の命を使い潰せ。
代々名家が民から絞り上げることで築き上げてきた財や中途半端な未来の知識で生んできた歪んだ進歩の結晶を使って、いくらでも補充が利く地を埋め尽くさんばかりの雑兵どもの屍で道を作る王者の大行進を見せてやるがいい。


そういったことこそが、詠を、麗羽を殺した北郷一刀が取るべき戦略であった。
そして今の彼は、それらをためらう理由など何一つありはしなかった。
彼を理性に縛り付けるか細い悲鳴はもはやなく、彼を包む暖かな瞳はもはや冷え切ってしまったのだから。
だからこそ彼は身勝手にも、他者を、自分を、天を怨み続けるその怒りをそのままに外の歴史へと振りまかんとしていた。


それほどまでの気迫を前にしては、たとえ単独で数万の兵にも匹敵する呂布といえど、誰よりもその天から愛された才能の確かさを知っている陳宮をもってしても、もはや単騎ではどうしようもないことを認めざるを得ない。


才は力だ。力こそが正義だ。
この世界において、それは正しい。
ならば、無才を自由自在に操って才に届くまで積み上げることの出来る男の力こそ、この外史においてはもっとも正しいことを誰も否定などできない。


「さあ、忠心厚き紅旗唯一の軍師にして、呂布のすべてを知る女、陳宮! 俺に従い、そのすべてを今度は呂布を倒す為に使うがいい!!」
「くぅっ、恋殿。恋殿~、お逃げください! こやつは人ではない……こやつは、こやつは魔王です!?」


すべてを失い、そしてすべてを望んで外史の外から君臨する男の前には、たった一人をよりどころにして立っていた少女の心などあまりに脆いものでしかなかった。













まるで呂布の弱いところである彼女の家族の居場所をすべて知っているかのごとく一匹一匹狙い撃ちにした戦略とタイミング、そして天下無双の飛将軍をしてそれを防ぎきれないほどの物量によって、外史最強の武将である呂布が北郷軍により捕らえられたのは、全力で彼女を逃がそうとした陳宮が捕まって僅か三日後のことだった。



[16162] 人を使うに心をもってす
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/07/09 20:26


何が欲しかったのか。
何を求めていたのか。

初めは、ただ、死にたくなかった。
飢えて異邦の土へと還りたくなかった。
生きる為の行為を弾劾され、刃の前にその身を散らすのがいやだった。

ただ、死にたくなかったのだ。
己の命だけが欲しかったのだ。


ただ、それだけだったのに。






「っ!」
「はぁぁあああ!」


裂帛の気合。
その小さくつややかな唇から漏れたとは思えぬほどの、迷いを振り払わんとする気合の篭ったその吐息に負けぬ勢いで、超重の武器は大気を割き、大地を砕いた。

だが、その冗談のような速度と重量を持った攻撃を放たれたにもかかわらず、その対手はいまだに顕在だった。
その速度は回避を許さず、その重量は防御を押しつぶすその攻撃を、相手はもっとも常識はずれな、同じ質の攻撃をぶつけることによる相殺という手段によって凌ぎきった。
並みの剣なら瞬時にへし折れ、例え武将級の使う武器であろうともぶつけ合えばその重量差によって体ごと弾かれるそれに対して、自らも勢いをつけて武器を放つことで防いだのだ。
切り裂いたり、貫いたり、穿ったりといった手段で彼女による超重量の攻撃を防げる天才ならばそれなりの数でいるかもしれないが、超常の怪力を持つ彼女相手に相殺なんていうことが出来るものは、今までの戦歴を振り返ってみても決して多くない。

だからこそその事実は、放った本人―――曹操直属の親衛隊においてその名を轟かせる少女、許緒に自分の前で敵として現れている少女が真実自らのよく知る人物であるのだ、という確信を抱かせることとなった。


「流琉……どうして…………」


その問いに答えようともせずに、憎しみさえ篭った瞳でこちらをねめつけてくる相手に、おもわず許緒の足が一歩引けた。
季衣、流琉と真名で呼び合うことはもちろんのこと、これまで共に育ち、共に競い合ってきた親友が己に対してそんな目を向ける理由が全く分からなかったからだ。
だからこそ、相手が返す刀で振り切った手元の紐の勢いによって、地面にめり込んでいた円盤をこちらに向かって飛ばしてきたことに対する反射的な鉄球による防御は、いつもの彼女からすれば信じられないほど真ん中よりもこちら、彼女の手前へとその武器たちを着地させた。

絡み、弾け合った鉄球と円盤の手ごたえは今まで何度も模擬戦で繰り返したときとさほど変わらぬものであったが、その音色は彼女にはまるで違って聞こえた。


「どうして? 決まってるよ」


無論、自分は主君を持つ身だ。
たとえ顔見知りであろうとも、戦場で相まみえた以上は戦い、殺しあわなければならないのは当然のことだ。
だからこそ季衣も、その特殊な形状の武器から感じた戸惑いや混乱はあったものの、自軍兵士を容赦なく吹き飛ばしていた敵の将軍に向かってその巨大な流星錘「岩打武反魔」を初手から打ち下したつもりだった。
だが、僅かに逸れたその巨大な棘つき鉄球の先端によって相手の覆面を剥ぎ取ってしまってからの彼女の行動は、そんな吹っ切れた武将としての覚悟とは程遠い、惨いものだった。


鉄鎖は鳴り響き、鉄縄はぎりり、と音を立てる。
兵士数十人でもびくともしない大岩を容易く持ち上げるほどの怪力を持つ小柄な少女たちによる鈍色の饗宴は、余人を寄せ付けない。
強烈な訓練によってたとえ不利な状況下であっても勇気を奮い立たせて挑めるほどの錬度を持つ魏軍兵士であろうと、無謀と無思慮とほとんど同意義なほど命知らずな突撃を繰り返す官軍兵士であろうとも、突入をためらい、覚悟を決めて突っ込んだところであっさりと弾き飛ばされ、僅かな影響さえ与えられないその鋼の結界の中には、今このどちらの主力軍からも孤立した状況下においては彼女たち二人以外立ち入れない。

だからこそ、季衣の混乱は誰にも諌められることもなく、ただただ広がっていった。



彼女にしてみれば自分が曹操様の親衛隊隊長としてそれなりの成果をたたき出し、その戦果でもって呼ぼうとしていた親友が何故か村にはいなかった時点で想定外の出来事だ。
今後も仲良く、今までどおりの親友として曹操様の下で共に働いていこう、という夢を描いていた彼女にしてみれば、その相手が自分に何も言わずに何処かに出奔したばかりか、よりにもよって敵に回っているなど、未だに受け入れられないほど衝撃の大きなものであった。
怒りとも悲しみともいいがたい各種入り混じったその感情は、総計としては現実を受け入れ戦わなければ、という風に体に命じてはいたものの、戦場に立った武将としての反射的な戦闘さえもどこか鈍らせて、いつもの精彩を欠いたもの。
ましてやその相手が、自分をまるで親の仇のように見つめているようでは、曹操に使えていることは何一つ恥じることなどないにもかかわらず、何処か自分がとんでもない間違いを犯してしまったかのように感じられ、おもわず目を逸らしてしまいそうになる。


「たとえ誰であろうとも、一刀様の理想の邪魔をするんだったら排除します!」
「やだ……流琉、やめてよ。ボク、嫌だよ」


その言葉の最中にも、巨大な鉄球と滑車を繰る手は止まらなかった。
ただ、明らかに普段に比べて実力を出せていない許緒に対して、典韋は止めをさせていない。
元々、村でいたときはほとんど対等の能力を誇っていた彼女たち二人なのだから、本気で典韋が許緒を殺そうとしているのであればこれはおかしなことだった。
実際に典韋の様子からすれば、手加減しているようなそぶりはほとんど見受けられないが、少なくとも彼女は単純一途の許緒よりかは演技に長けている。
親友と戦いあうことに心を痛め、演技をしてあえて悪役を買って出る、といったことだって十分考えられた。

ならば、怪我や病気といった「何らかの外的要因」によって彼女の実力がかつてよりも極端に落ちている、などといった「非常に特殊なケース」がなければ、その彼女がかつての実力を発揮していない、という行為の意味から天才軍師以外が察せられることは一つしかない。。
そう、冷静に、真っ当に考えればこの状況においても許緒は彼女の行為は己を嫌ったがゆえのものではなく、ただ単に譲れないものをぶつけているだけのいつものじゃれあいの延長線だ、と結論付け、普通に普段どおりに戦うことだって出来たはずなのだ。
その常識的な推論が果たして『本当』に正しいのかはさておいて、武将としての彼女はそう結論付けて前進しなければならない場面だった。


おそらく、他の魏の将であればそれが出来たであろう。

夏侯惇であれば、妹が敵に回ったとしても自身の信念を貫く為に割り切り、それを妹が否定しないことを心から信じて打ち倒したであろう。
夏侯淵であれば、最愛の姉がそのような状況に陥った状況を、何が姉をそうさせているのか、ということまで考えた上で、冷静に推測を立ててそれに従ったであろう。
そして、曹操ならば、この状況において本当に背後にて糸を引いている存在がいることを察し、その糸を断ち切るために手を打ったであろう。



だが、許緒は気付かない。
その怪力とは裏腹に、まるで予知するかのようにすべての絡まった糸をたちどころに解いてしまう軍師としての能力が彼女には全く持って存在しないこともさることながら、それ以上にその気付かない鈍感さは、幼さと紙一重だ。
あまりに幼くして戦場に出ることとなった彼女は、雑兵を蹴散らすことや、その実力を天下に認められる武将たちとある種のスポーツのようにその武の腕を競い合うことには慣れていたが、誰よりも親しく、誰よりも信じていた親友と袂を分かった挙句に本気でその命を狙いあう、などということなぞ想像することさえなかった。
その鉄球で奪ってきた数々の名も知れぬ命よりも、その事実の方がよっぽど彼女に重たくのしかかる。
友に嫌われた、ただその一事においてさえ一喜一憂するのが当たり前の年齢の彼女にとって、それは決して自分が共感した曹操の理想と比べることが出来るものではなかったものの、それでも無視するにはあまりに大きすぎた。



故に彼女は、すべてを割り切って眼前の敵を打ち砕くことも、親友の心遣いを察して己の心を殺して将に徹することも、あるいはその才を持って真実を見抜き、妖しの術を打ち砕くことも出来ずに、ただただ戸惑いながらも武器を振るって、無為な時間を過ごすことしか出来なかった。
そしてそれは、時間の経過と共に敗北へとつながる悪手でしかない。





次の求めたのは、ただの快楽。
娯楽も何もかもない見ず知らずの世界に来てしまった彼の身になれば、それは非難できることではなかろう。
生きることは出来た。
だが、生きること以上にどうすればいいのか、誰も教えてくれなかった、何も示してくれなかった。
だから、流されるままに生きた。
自分の周りには、それを肯定するものしかいなかったのだから。





刻一刻と状況を変えていく戦場を見て、曹操はおもわず似合わぬことに歯噛みをした。
彼女の部下たる軍師の癖でもあるそれは、しかしその上役にして覇王たる彼女には、全く持ってふさわしくないものだ。
だが、余裕のない戦況は、一瞬ごとに移り変わり行く自軍の敗北は、そんなことを彼女に気付かせもせず、また彼女の回りのものにその行為を収めるよう諫言させることもなかった。


そんな現状の中、彼女は自問する。


何が間違っていたのか。
何が正しかったのか。

だが、万能の天才たる彼女をもってしても、今の状況においては答えを出すことが出来なかった。


「天命、か……」


おもわず、たびたび己が口に出してきた言葉が吐息に混じって吐き出された。
その言葉は、今まで己の正しさを証明するものであったはずだった。


彼女は天才だった。
それを否定することが出来るほどの人間には今まであったことがなかったし、己自身でもそうと確信していた。
ほんの三つ四つ、物心がついたかつかないかの時点でそれはごくごく当たり前の認識として彼女自身の中にあった。

なんといっても、同年代は愚か、自分よりも十倍は年月を重ねているような大人達の考えでさえ、彼女のほんの僅かな思案の助けにもなりはしなかったからだ。
彼女はすべて自分で学び、自分で育み、そして自分で生み出した。

勿論、一番最初の物事を教わる段階というものは彼女にもあった。
だが、幼少の頃よりずば抜けた才覚を保有していた彼女は、彼らが与えたそれらの知識なぞまるで砂漠に落ちた一滴の雨だ、とでも言わんばかりにあっという間のそれらを吸い尽くし、絞りつくしたのみならず、いとも容易くそれらを発展させて元のものよりも優れたものへと昇華させた。
もはや凡人では嫉妬といった感情さえもてないほどの圧倒的なまでの成果を常にたたき出し続けていたのだ。

読み書きさえ教われば自分で難解な書物を読み解き、その内容を簡単に理解する。
一つ物事を教えれば、それをありとあらゆる分野に応用して発展させ、そのすべてに対して結果を残した。
そんな彼女に対して周りの大人たちは、彼女の教育係として選ばれた優秀な人間たちでさえも、彼女の成長の手助けをするどころか、その革新的な考えを理解さえ出来ずにむしろ邪魔をするだけだった。
事実、かつて通っていた私塾における教師達の下した評価は、「あの」袁紹よりも彼女は劣る、というものだったのだから、それがいかほどのものか良く分かるであろう。
そのあまりに革新的過ぎる頭脳には、「ちょっと頭がいい」程度の凡人たちではついていくことさえ出来なかったのだ。

ただ幼少期の彼女は、そのことに対してくだらない、と一瞥を投げかけるのみで決して憤ることはなかった。
誰よりも優れているはずの自分に対して誰も何も与えてくれなかったことに、自身の上げた空前絶後の実績を誰も正当に評価してくれなかったことに対して、怨む、などという気持ちは欠片たりとも持ち合わせていなかった。
それを大器、というならば確かにそうであろう。自身の能力の正当性を誰よりも正確に知るが故に、他人の評価など歯牙にもかけないその態度、まさにこれを器が大きい、といわずして何を言うのだ、というのはたしかにそうだ。
だがそれは、彼女が慈母のごとき優しさをもってかの教師たちを怨んでいなかった、というものとは根本的に異なったものだった。

ありとあらゆる能力において自分の足元にも及ばない人間ばかりに囲まれて育った彼女にとって、もはや周りが自分よりも出来ないことは憤ることさえない当たり前の事実だった。
幼児の手伝いが一人前の戦力とならなかったからといって、ある程度の常識のあるものであれば即座に叱り倒すようなことなどしはすまい。
道端の石にけ躓いたからといって、よっぽど機嫌の悪いときでもなければわざわざ蹴りとばそうなどとはせずに普通は避けて歩きなおすだろう。
所詮は自分の手のひらの上で躍らせることが出来る程度の者がやることであり、そんな失敗など自分がほんのちょっと手を出せばすぐに取り返しのつく程度のものだ。
だから、怒りなどを抱く必要性を感じずに、寛大に振舞うことが出来る。失敗を笑って許すことが出来る。
そういった種類の「優しさ」だった。


だからこそ、その才を天から与えられた己こそがこの混迷する大陸を治めるのに誰よりも相応しいと感じ、その行為が「天」という名の自分の才に肯定された正しい行為だと信じていた。
漢王朝に反旗を翻すのも、暴政を敷く袁紹を討たんとすることも、実際に彼女を支持する多くの民の声を背後に背負っている以上、正しいことにしか思えなかった。



だが。
今は亡き河東の天才軍師によって作られた遠眼鏡の模倣品を手にとって、彼女は目の前の戦場に視線を移す。
正式なルートを持って魏にもたらされたわけではないその単眼の筒は正規のものほどの精度は持っておらず、しかしそれでもなお相当な距離を縮めてみせ、それと引き換えに彼女の視界を狭めた

そこに移ったのは、とある戦場。
己がもっとも信頼する部下である、夏侯惇の率いる部隊が戦っている場所だった。


探すまでもなく圧倒的な武を引いている夏侯惇はその狭い視界の中でもすぐに見つかった。
だが、その遠方を自在に見せる道具を通じて見つめた彼女の顔色は、決していいものとは言えなかった。
戦場を好み、武を高めることを誇り、それに匹敵するだけの強者の存在を喜ぶ性質を持つ彼女であったが、そこにあった表情は常のそういったものとは全く異なるものだったことに、彼女を誰よりもよく知る主君である曹操は気付いた。


ふと、周りを見渡すと、それも当然だった。
今まさに夏侯惇に挑み、そして一刀のもと切り捨てられたのは彼女の相手に相応しい豪傑やつわものではなかった。
貧弱な四肢に、さえない顔つき。武器防具ばかりが上等なそれは、曹操の治世を支持して無責任な応援ばかりをしてくる庶民と見分けはつかない。否、心底そうだ。


『どけ、どけぃ! お前らなどがこの私に挑んでくるな! 戦場で無駄に命を散らす愚行に、何の意味がある!』
「春蘭……」


その僅かに見えた唇の動きから、彼女の言葉を一字一句読み取った曹操は、それに対して同意と思いながらも、しかし現状においてはそれに対して何一つ言うことが出来なかった。
北郷軍の主力部隊―――市民兵。
それがかの名高き魏武の大剣、夏侯惇に恐れ多くも挑んでいる連中の名前だった。
兵士としては格段に劣る、数だけを頼りにした雑兵どもだ。

曹操や夏侯姉妹ほどとは言わないまでも、魏軍の兵士のように己が傷つき、傷つけることを覚悟して猛烈な訓練を積んでいる、その死を平和の為の礎とするような「覇道の為の必要な犠牲」ではない。
こういった天下を決める為の舞台には、そもそも上がってくる資格のない人間の顔だ。


『お前たちは死を恐れていないのではない! 死の意味を知らぬ愚か者なだけだ! 私に挑むのであれば武を、信念を持って挑んでこい! この、雑兵というにも愚かしい、クズどもが!!』
「そもそも、何を考えてあんな連中を動員しているの、北郷一刀!」


だからこそ、それを圧倒的な力で蹴散らす夏侯惇の顔色はさえず、曹操の歯軋りも収まらない。
いくら切っても、いくら殺しても、本来であれば脆弱な意思しか持っていないはずのそのどこにでもいる凡人どもは、何故か今回に限っては全く引こうとはしない。
どれだけ自分が無様に死のうとも、どれほど苦痛にまみれて無意味な骸となろうとも、まるで意に介していないそれは、まるで彼女たち天才が今まで無意識の内に踏みにじってきた才なき弱者たちの怨念が作り出した亡者にも見えた。


現時点で、ほとんど数えるほどになってしまった夏侯惇の部隊に挑みかかっている市民兵の部隊が取っている陣形こそが、その象徴だった。
回る車輪のように一当てしては離脱するを繰り返し、常に新鮮な命を供給することで戦線を支える陣形。
それは、誰よりも知を集めたといっても過言ではない曹操をしても、見たことがないものだった。

だが、その陣形の斬新さとは裏腹に、戦場はひどいものだった。
そもそも、その陣形―――仮にその名を「車掛かりの陣」とする―――は、全体を見る限りおそらく部隊単位で責めては引くを連続で繰り返し、敵の前線を疲労させ、自身らの前線の兵士は常に健在であることを目的とした陣形だと思われる。
ぐるぐると移動を続けることで一方的に相手を回転に巻き込んで擂り潰すことを目的とした殲滅目的の陣、とするその趣旨は分からないでもないが、しかしそういった事を行うには、大前提としてそれを構成する兵士に対して徹底した錬度が求められる。
敵と戦いながら移動、陣形変更といった複雑な動きを部隊単位で周囲と連携して繰り返すことが必要不可欠なそれは、この北郷軍という敵軍が使用するには全く合っていない。
なんといっても、曹操が見る限り、どう見ても敵はついこの間までただの市民だったのだ。

何を求めて相手の軍師がこの方法を取ったのか分からないほど北郷軍の錬度は低く、そのくせ指揮ばかりが高いためにすぐに小部隊単位で突出して壊滅する。
ましてや、相手は夏侯惇だ。まるで自ら斬られに行っている様なものである。
実際に夏侯惇はそれを見事に利用して、圧倒的少数にもかかわらず戦場において猛威を振るっている。


だが、そんな今の戦場こそが、この現状を見事に指し示していた。


意味のない陣形を取っているという失策を、まるで数で補わんとでもするほどに、相手の軍師はそこに数だけをつぎ込んできた。
高度な連携を、複雑な動きを必要とする錬度を無視して、数だけを増やして無理やりに運用する。
はっきり言ってこれだけの兵数がいるのであれば、別の陣形を取って整然と挑んできた方がよほどに効率がいいであろうほどの数を、この戦場につぎ込んでいるのだ。


意味がわからない。
全く持って、不可解な戦場だ。


犠牲者が増えるだけの愚策であり、本来であれば天才たる曹操に挑むにもおこがましいほどの無能ぶり。
だが、現実にそれはここに存在し、それどころかその無駄な犠牲をもってして実際に戦場において徐々に戦況を奪いつつある。
圧倒的なまでの数だけが、兵士としての質の低さを、陣形の不適を、すべて補ってそれらに二点において圧倒的に勝っている魏軍を飲み込んでいく。

それが曹操には、悔しかった。
彼女にとって、覇を競うというのであれば、天下を争うというのであれば、それは軍師と軍師、戦略と戦略、将と将のぶつかり合いであると思っていた。
天から与えられた才能を競い合い、戦い合って、どちらがより庶民たちを率いるに、導くに相応しい最高の人物なのかを決めることで、この乱世を終わらせたかった。
だからこそ、自分こそが最高だと信じ、その自分を上回るものにであれば敗北することもやむ終えない、そういった気持ちでこの乱世を収めることを誓って戦を起こしたのに。

なぜ、このような意味のない、無益な犠牲を自分に、相手に強いなければならないのだろうか。
曹操は、天から与えられた才を正しく皆の為に使うことこそが「天命」であると信じる少女は、だからこそ北郷一刀の戦略ともいえぬ戦い方が理解できなかった。

そして、力を信じる彼女にとって、買ったほうが正しいということで「天」がそれを容認したこともまた、わけのわからないことであった。




なるほど、彼女は正しかった。
だが、それは、間違ってもいた。


そう、彼女の寛大さは同時に、己が持てるものであるがゆえの傲慢さと紙一重のものだった。

なるほど、呂布のように、あるいは荀彧のように、力だけならば、知だけならば己を上回っている者はいるかもしれない。
実際に、護衛として、側近として取り立てている夏侯姉妹と比べれば彼女の武の腕前は随分劣る。
大鎌という奇妙な形状の武器を使って戦う彼女の腕は、確かに英雄の一人として名乗れるほど一般兵なぞとは隔絶したものであるが、やはり夏侯惇の大剣のようなたった一人で戦況を左右出来るほどではなかった。

だからこそ彼女は、そういったものに対しては礼を尽くし、その人格を認め、その考えを尊重する。
たとえそれが己の抱いた方針と違えども、頭ごなしに否定することなくただ理路整然と己の正当性を主張し、それに相手が納得しないのであれば譲れるところは譲り、そうではないところはたとえどれほど強弁されようとも退けてきた。
形は違えども己と同じように才あるものについては、実に冷静に、私情を挟まず、的確に評価を下すその様は、集まってきた各地に隠れていた賢者たちを前にしても実に堂々たるものだ。
それゆえに彼女の作った魏陣営に集まってきた大勢の英傑たちは、それぞれ複雑な思いはあれども曹操を主君として認めていた。
政策や風聞、今までの逸話などからどう考えてもバカ丸出しの袁紹や、その彼女に取り入っていつの間にか勢力として名を挙げていた怪しげな天の御使いなどと比べれば、それは雲泥の差だった。


だがそれは、あくまで彼女と同じ「持てるもの」から見た理想的な君主の姿だった。


今までの過程を全く見ずに、積み重ねてきた鍛錬の努力を一顧だにせずに、ただただ結果だけを求め、見続ける曹操の姿は、才亡き者には眩しく見えると同時に、この上もなく憎らしいものであった。
自身の性癖からか女ばかりを重用し、どこよりも厳しい訓練と高い理想を勝手に与えられ、そのために日々必死になって働くことを求められた。
決して重税を課すわけでも、圧制を引くわけでもない公正公平なその治世は、しかし理想ばかりを追い求めていけるほど才能があるわけではない諸人には、あまりに清き流れに過ぎた。


たとえ何らかの欠点があろうともそれを補えるだけの結果を出せればそれはきちんと評価される。
凡人でも、他人よりも先んじようと身をすり減らすような努力を続ければ大抵報われる。
この国において誰よりも結果を出し、誰よりも日々努力を続ける曹操が作り上げた魏という国は、そういう国だ。

だが、結果の均等ではなく機会の均等にあまりにも偏ったその思想の元では、才があれば遊んでいても上に登れるし、凡人であれば一時でも気を抜けば今の地位から虎視眈々と背中を狙っていた凡人の手によって引きずり落とされることもれっきとした事実なのだ。
飢えて死ぬ者は他のどんな国よりも少ない。
だが、その中では凡人たちにとっては強者の踏み台としての日々があった。


無論、劉備のような性善説、すべての人間は善人であるという考えのもと、人の善意を信じて、ことによると信じすぎた「理想の国家運営」のように青写真ばかりのものを天才たる彼女が描くわけではなかったが、しかし徹底した実力主義を国是とする魏という政体のあり方は、一見すると公平ではあったものの劉備が考えたような皆が平等に笑顔で暮らせる国などでは決してなかった。
生まれもった才の差、というこの外史においてあまりにもすべてを定める不平等な事実がある以上……それもまた一つの貴族制でしかないのだ。


ただ、曹操がそれに気づくことは、あるいは気付いてはいてもそれを考慮することはおそらくないであろう。
この国において誰よりも結果を示し、この年月において誰よりも努力を続け、この世界において誰よりも優れた少女が考えたそれは、この外史において他のどんなことよりも正しく、正確だ。
実力という名のはかりによって定められた階級制を敷いた、不平等で、不公平で、無慈悲な富国強兵は今までこの世界を作ってきた絶対法則である才による平和を求める為の効率の面では、最も正しい選択肢だった。
それは、今までのすべてで証明されていた。


己自身と、己と同じ、あるいは近い位置まで登ってこられるもののみを例外としてその他すべてをとてつもなく高い位置から見下していた彼女は、だからこそ己が間違っている、などという事象はありえない、と思っていた。
この外史に生れ落ちてより、一度たりとも間違えず、すべてにおいて最上の選択肢を選び続けてきた、という確信がある彼女にとって、だからこそ己に敗北などありえない、とかたくなに思っている。
実際に各地の英雄豪傑をこの目で見て、その確信は更なる強固なものへと変化した。


そう、己が覇道はもはや人の手によって妨げられることなどありえない、とまで。
ゆえに彼女は常々口にする。

「天命」と。

己に才が与えられ、己が元に天才たちが集まったのは、天が命じた誰もが否定できぬ結果なのだ、と。
だからこそ、それは「己よりも優れた才の持ち主」に率いられた「ただの凡人」たちが自分の邪魔をすることが気に食わないだけのただのわがままでしかなく、その身をただの凡俗の数だけに飲み込まれるまで、決して彼女は理解することはなかった。





そして快楽に飽きた彼には、もはや愛情は手に入らないものだった。
ごくごく普通の人間でしかない彼が気付いた頃には、唯一無二の命はその手から零れ落ち、それに怯えた心は最後の後悔によるやり直しの機会をもつかむことが出来なかった。
奪って、奪って、ただひたすらに愚行を続けた彼だったが、己から奪われたものだけは取り返すことが出来ず、また再びそれにめぐり合う機会がないことを知ってもなおそれを受け入れることができなかった。
ならば彼は、いったい次に何を求めればよいのか。





斯くして、すべてが終わった後の洛陽の玉座にて。


「所詮、登場人物ごときが、俺に挑むなんて間違ってんだよ」


玉座に座ったその男、北郷一刀はそう嘯いて、眼前の少女といってもよい年頃の女へと目線をやる。
数十の将の首を落とし、数百の城砦を落とし、数千の策を食い破り、数万の兵を打ち果たしたあげくに一刀の首元にその鋭い刃を突きつけるまで後一歩まで迫った少女だ。

だが、その刃は届かなかった。
戦場に出もせずに、ただひたすらに洛陽において享楽を続けるだけの男の前に、敗者として引き立てられる以外の方法では全くもってたどり着けなかったのだ。

膨大なまでの兵数が、絶対の忠誠を誓う彼の人形たちが、その数多の道のりをすべて阻んだ。


「なあ、雪蓮、恋」
「まあ、そうね。あれだけの兵数差があってもなお挑んできた気概は見事だけれど、それだけで戦が勝てるほど甘くはないわ」
「所詮、弱い奴……ばっかりだった」


彼女の名は曹操。
一刀の知る三国志と言う歴史の中においては魏というある意味最終的な勝者の国を打ち立てたはずの偉大なる王の名を持つ美女。
その字に相応しく、彼女は間違いなく一刀にとっての最強の敵であり、間違いなくこの外史における最優の王であった。
単純に通常の戦闘において換算される兵力のみを比較するのであれば、彼女が一刀と比べて劣っていたのは国土の広大さと兵士の量といった物質的な要素のみ。
王としての器、癖の強い配下を纏め上げるその統率力、ありとあらゆる書物を読み下したと言われるその知力、個人としての戦闘能力、集めた将の戦闘能力の合計、戦場での指揮力、政策の実行力、謀略を使いこなす力、美貌、権威、家柄、すべてにおいて彼女が勝っていた。

一刀と比べて数分の一の兵力しか持たないにもかかわらず連戦連勝を続け、妖術と未来知識と圧倒的物量によって統治されている一刀の治世を揺るがした唯一の英雄。


「いろいろとつまらないことほざいていたみたいだけど、こうなっちまうと可愛いものだな」
「曹操にしてみれば御主人様を戦場に引きずり出してその首を取れれば何とかなる、と思ったのだと思います。だから、流言をつかってでも挑発して、なんとしてでも直接雌雄を決したかった」


彼は、この外史に落ちてきてより最も虚弱なときに挑んだ、挑まざるを得なかった戦いでの最初で最後の敗北のあと、決して戦場に立とうとはしなかった。
彼はあくまで指し手であり続けた。勇壮で壮大な戦場での物語の登場人物となることを避け、歴史の傍観者、遊戯者の立場に己を置くことを忘れなかった。
人を欺き、心を操り、命を弄んで、自身はひたすら安全な場所から言葉を放ち、正しいと思われる選択肢を淡々と、粛々と選び続けた。
誰よりも膨大な兵力を持ち、誰よりも優秀な将を揃え、誰よりも広き知を持っていながら正々堂々といった行為を徹底的に避け、指し手だった立場からじょじょに転落して、やがて自分自身が盤上に出なければ戦うことの出来ない三国の英雄・豪傑たちを完全に無視して、自身の保有する数万、数十万の駒を使って、自身は盤外から彼女たちを倒すことに終始したのだ。
勇猛果敢で今なお伝説として語られる敵将たちの矢の届かない場所から、自軍における千の将を悲嘆の内に死なせ、万の兵を敗走させながら保有するすべての手札を使って、決して後世で褒められるような勇名を立てることなど考えもせずに、ただひたすら自分だけ安全に、確実に。
盤上に出なければ絶対に取られない、絶対に負けない状態を築いてから、盤上に出てこざるを得ないもう一方の指し手、画面の向こう側の相手を一人一人潰していったのだ。


「まあ、引き篭もっていればそれが絶対無理、というのは戦略的には正しいのです~……ただ、統治の面で御兄さんが名を落としたこともまた事実ですが」
「ふふん、いいことを教えてやろうか、風。天の国に伝わる由緒正しい言葉だ」
「?」
「勝てば官軍、だ。統治なんかこいつを捕らえてから、どうにでもなる。俺は天才なんだしな」
「…………」


そう自信と自負にまみれた一刀の言葉は、確かに世の真実の一面をついていただけに、風をもってしても否定の言葉を吐けなかった。

後世、中国と呼ばれる国に残る史書によると。
北郷一刀という人物がいかなるものだったのか、というものはほとんど残っていない。権力者が下々から不平不満を持たれ、その結果として少々誇張され、例えば悪鬼羅刹と風評を立てられることなど珍しくはなく、当然ながらそういった評判の類がわざわざ書物に残されることも余りない。
美辞麗句に飾られた書物のみ己の配下に書き記させるのはどの権力者にとっても同じ。そして、それから逃れた下々の率直な気持ちが、僅かに各地に残るのもどの時代においても共通している。

だからこそ、それらを取り除いてしまえば残るのは、乱世を統一したはいいものの、その後何をなすこともなくただ平穏無事に生涯を過ごした、という平凡な事実。
無論、マニアックな研究においては「異常な求心力を持った」だとか「匪賊から成り上がった」などという記録についても研究されているが、そろいもそろってちょうちん記事のようにしか見えないそれらを信じるものは歴史家にもほとんどいない。結果として、それらの声はすべて他の英傑達の逸話に埋まる。
精々、歴史の教科書に「北郷一刀が統一を果たしたが、僅か一代で滅びた」と書かれる程度で受験においてもほとんどスルーされている。


この時代における多くの国の興亡治乱をもとに創作された小説の中においても、華々しい武勲の一つたりとも挙げていないこの皇帝の記述は皆無に近く、ほとんど最終的に天下を掠め取っただけの単なる小悪党のように記されており、その後それを追従するかのように作られた各種の創作においてもその路線を継承されているがゆえに決して好かれるキャラクターとはなっていない。
最も有名な書物にて屯田制や二毛作と言った政策もより有名な曹操や袁紹の功績として紹介されていることもあって、たまに魔改造されて妖杖から火を出したり、巨大戦車を作ったり、女にされたりといったことはあったが結局はそれも色モノ的な扱いであった。
後世におけるこの時代のファンの間の認識として彼は最終的な勝者ではあったが、それ以上の英雄豪傑ではなかったのだ。


「それじゃあ、ま……」


だが、それでもなお。
後の世における評判というこの外史には何の影響も与えることができないそんなくだらないことを除いてしまえば。


この時代における最後の勝利者は妖術によって天下を掠め取った最も「天」という名の才に愛された、そしてかつて一人の少女が愛したその男であった。


すべてを求め、手に入れ、そして何一つその手中に収めることが出来なかった愚かな盗賊は、しかし必死になってその事実から目を逸らして、新たに空っぽな人形を手に入れたことだけに満足を覚えて、ひたすらに満足げに、おかしげに、そして虚ろに、笑って……言った。




「さあ、目を覚ませ、曹操。そして…………『俺に、従え』」




【終】


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