既知の通り、滞り無くヴェルトールの現界が始まり俺が奴を訪ねた"紛い物"では無いヴェヴェルスブルク城が見え始めた。
そのおぞましい威容が真に現界すれば音に聴くルルイエにも匹敵し得るだろう、あんなものが常人の視界に収まる筈も無い、次の瞬間には発狂による精神的自殺が蔓延し兼ね無い。
以降、黒円卓の連中に付き従う訳でも無し、出来ればこんな恐ろしい光景からはそうそうに逃げ出して仕舞いたいのだが、その前にやりたい事をやっておく為に俺はキルヒアイゼンと会っていた。
敗戦の赤い空、浮かぶ死者の城、そして炎に囲まれそこに佇む金糸の髪が映える彼女は舞台にも恵まれ、ヴァルキュリアの名に恥じぬ美しさを持っていると言って良い。
「なんの、用でしょうか。ウルリヒト」
碧い目を眇めて放たれる視線は下らない事を言って私を煩わせるならば覚悟しておけ、とでも言わんばかりの槍の様な視線。発せらる殺気はいつしか、誰ぞに十点満点で五点などと言わせしめたとは断じて思えないものだ。
我が槍を恐れるならばこの炎を越える事許さぬ、とは本来的には彼女のセリフでは無い筈だが成る程、今彼女が言えば戯曲からの引用とは思えない様な生きた台詞となるだろう。
「キルヒアイゼン、これからどうするつもりなんだ?」
あらかじめ用意していた言葉などこの程度、に過ぎない。世界的な有名戯曲の主役にも迫る、天然の戦乙女に投げ掛けるにはあまりにも不躾な台詞であったかも知れない。所詮、恐怖劇に紛れ込んだ憐れなエキストラ等この程度だ。
が、十分な効果はあったか。勝利の戦乙女は口を噤み、返すべき言葉を選び兼ねている様だ。
「どうするつもり、とは一体どう言う事でしょう」
結局、返答はそんな物だった。
それも当然か、直情的な彼女にこの時点で結論を出せるとは思えない。今は彼女にとって未だ葛藤の時であるべきだろう、心理カウンセラーでも劇作家でも無い俺にさえそれ位は判断出来る。
が、それでは困るんだよ。貴女にはこれから先、冷静に物事を判断して頂きたい、この既知を打ち破るために。
「家族も死に、部下達に助かる未来もそう多くも無い、敗北者には慈悲無き死が贈られるのは世の常ってなもんだ。何よりもアンタとはとうに生きる時間が違う。この後、それらの犠牲者は自らの遺骸を次の時代への礎としたとも取れるだろうが、たった一人この戦争に取り残されて永劫戦い続ける幽鬼に成り果てた貴女は、一体なんのつもりで黄金を望むんだ?」
だから彼女に捧げる言葉は、いつかの既知で狩の魔王が投げ掛けた言葉に似て、しかしどこか呪いじみてさえ居た。
「貴方に……何が分かるって言うんですか」
やはり返答はまだまだ陳腐なもの、だがその目はあらぬ方を見ている。この至高天を見ているのか、あるいは在りし日々を見ているのか、当事者成らざる俺には分からない。分からないがきっと彼女は唯一残された同僚の事を思っているだろう、俺にだってそれだけは断言出来るつもりだ。だから彼女の出す答えは既知に依らずとも推察出来るが、既知の補強があってさらに盤石、この既知は揺るがない物に成るだろう。
「分かるとも、一応、俺もアンタ同様、通って来た道にはペンペン草も生え残ってない。女とか坊主みたいに過去を慈しむ様な不毛な性格して無いんでね、俺は前に進むしか無かったんだが。優秀なキルヒアイゼン卿ならどんな答えをお出しになるのか、興味があったんだよ」
だからこの諧謔は照れ隠しだとか、そんな麗しいものじゃなく、ただの逃避。既知を殺すために既知を利用する俺への諧謔か。
しかしそれは傍目からは嘲弄にしか映るまい、言ってしまってからようやく気付いた。
キルヒアイゼンは大きく肩を震わせている。
「貴方みたいな人に……不毛だとか、優秀だとか」
当然、黄金でも聖者でも汚す様な穢らわしい既知の呪いを浴びて真っ当な人間は黙って居られないだろう。敵対するつもりなど無かった俺にとって、これは間違い無く計算違い。要するに生まれる前から既知に浸かっていた俺はその毒の臭いがどれ程に忌わしいか理解出来て居なかった、と言う事か。
「言われたくありません!! よりにもよって貴方に、貴方にだけは言われたく無い」
形成、白銀に輝く雷剣の切っ先が俺へと向けられた。
白騎士を除けば黒円卓最速に迫る彼女の剣をして、たかだか爆撃機が捉えられない理由など無い。まして飛行機に雷が落ちた、等と恐ろしい事態は想定したくも無い。
故に俺がまだ生きているのは単なる偶然、では無く、彼女が加減をしているためか。
「どうしたんですか? 鳴り物入りで私達の仲間になった癖に口ほどにもありませんね」
剣を握った方が落ち着く様なブレードジャンキーなのか、それともアドレナリン漬けになっている方が頭が回る天性の熱血派なのか。キルヒアイゼンは先ほどの激情も忘れたかの様に微笑みすら浮かべて切り掛かってくる。反面、俺の方は一片の余裕さえも無く、たまに大音響を浴びせて逃げ続けるのが精一杯。しかもその怪音波は多くは一瞥にも値しないと言わんばかりに雷剣に引き裂かれていた、驚くべき事に超音速の剣に払われているのか。轟音に込められた霊性こそがこの攻撃の炸薬だが音ごと霊剣に切り払われては敵わない、これは今、音の速度を超えられない俺には不可避の閃きだ。
「鳴り物入り?」
だからただ単に問い返す事にさえ、多くの時間と必死の回避の後になる。口を開いたのと同時に襲い掛かった右から左に奔った剣閃は、危うく舌を二枚に捌く所だったがこれも、これまでに増して極薄の紙一重で躱し切れた。
「あの水銀に『予想だにしない事に、我々は新たな同志を得た』なんて言われて、鳴り物入りでないとでも? 貴方を特に警戒していなかった人物なんて当の黄金位のものですよ」
なるほど、客観的な話だけ聞けば何かおどろおどろしい新たな化物現る、と言ったところにさえ聞こえる。
実際には単に、既に知っていた、と言うだけの話なのだがそれを知らない者には俺はさぞかし危険人物に見えるだろう。
話しながらも雷剣の冴えは鈍る事を知らず、払えば腹が捌かれんとし、袈裟懸けに振るえば耳に刻まれた空気の悲鳴が聞こえ、突けば首の薄皮一枚裂いて止まる。それを全て誘導していると言う絶技、この程度の速度でそう見えると言う事は彼女の技量の高さを示しているだろう。その底を測るなど今の俺には無理だ、雷霆を知るには未だ高さが足りない。
しかし、まぁ、空を斬る鉄の鳥が雷の源となる雷雲すら切り裂けぬ理由にはならないか。
突如、一帯に怪音波が響き渡った。一昔前では鵺の様な怪物の声と言われていても不思議の無い、真に恐慌を誘う音、先の様な骨まで揺さぶる様な単純な大きな音とは違い脳を直接揺さぶる様な本当の意味での怪音波。そんな異音がしかも大音響で、指向性を持って叩き付けられては斬った貼ったの問題ではなくなる。
流石に慣れていない音に驚いたか、脳を揺さぶられる様な感覚に吐き気を催したか、剣舞を止めるキルヒアイゼンに言う。
「……随分な名調子じゃないか、乙女殿。特に『当の黄金位のものですよ』の所なんて最高だったね、ユーゲントでは学芸会かなんかで演劇も教えるのか?」
音を止めて返答を待つ。
しかし返答は無い。俺の軽口には付き合わないぞ、と言う事か、異音に惑わされ手を止めた姿勢のままじっと俺を睨んでいる。
「で? どうするかは決まったか、わんちゃん。痛い所突かれてキャンキャン吠えるのは結構だが、いつ迄も子どもみたいに八つ当たりして無いでそろそろ大人の返答を聞かせてくれよ。キルヒアイゼン卿?」
彼女はそうですね、とだけ言って答え始めた。
「War es so schmählich, 私が犯した罪は」
その答えはこの闘争が始まってすぐに予測したものに違いなく、それそのものは既知に過ぎないがそれでも戦場の炎に美しく映える。
「ihm innig vertraut-trotzt'ich deinem Gebot. 心からの信頼において あなたの命に反した事」
答えと言うにはどこかズレていて、しかし彼女の決意と渇望が冗長な解説よりもずっと雄弁に語っている。思うに、元来彼女が部下であるのはただ一人のためでしか無いし、彼女の上司であって良いのはただ一人のみなのかも知れない。
「Wohl taugte dir nicht die tör'ge Maid, 私は愚かで あなたのお役に立てなかった」
だからきっと俺が彼女のために出来る事は五十年後、鍍金の毒に侵されるのを阻む事くらいだったのだろう。彼女はきっとどんな事を言われたって同じ結論に達しただろうから。
「Auf dein Gebot entbrenne ein Feuer; だからあなたの炎で包んでほしい」
それだけ水銀の毒が強いのか、報われぬ者の既知などその程度のものに過ぎないのか。果たして俺に彼女を救い、未知に至る事など出来るのだろうか。
「Wer meines Speeres Spitze furchtet, durchschreite das feuer nie! 我が槍を恐れるならば この炎を越すこと許さぬ」
だからと言って縮こまって居る事も出来ないだろう、あの日俺は恐れを知らぬ英雄に成りたいと心の底から思ったのだから。だからこの炎だって雷だって越えて見せる。
「Briah-- 創造」
まだ俺は人外の化物としても三流どころで、彼女の雷にとっては役不足も良い所だ。この暗黒の世界で居て戦場を照らすこの輝きはむしろ爆撃機も導くためのもの。
「Donner Totentanz 雷速剣舞」
だが負けたくない、たかが雷に負けたくない。魂に抱く智泉の号砲、ギャルの角笛は彼女の父と同様の戦果を上げた者の宝物。であればこそ、その娘には負けられない。
「Walküre 戦姫変生」
どうか、勝ち戦の祝砲となってほしい。
その身を雷電に変えてこちらを見つめる彼女はしかし動かない。喉元へ向けられたその雷剣の切っ先さえ全く動かないのは恐ろしい限りだが、速く、触れず、力も強い彼女が後の先を狙う必要も無い筈だ。とすれば、今俺を殺すつもりなど無いと言う事か。
「下らない、逆ギレして一年年下の形成君に必殺技出しちまうほど大人気無い事しといて、でも殺る気はありませんってか。まるっきりナイフ取り出した途端デカい顔し始める路地裏のチンピラじゃないか」
どうも最近思考と言動が一致していない気がするが、本心から外れた事は言っていない。ただの死にたがりにさえ聞こえるし、精々負け犬の遠吠えにしか聞こえないんだろうが、気に食わないものは気に食わない。一体どう言うつもりなんだ。
「貴方だって似たようなものじゃないですか、覚えたての形成自慢したくて早速手近な所に喧嘩売りに来たってところでしょう? 気持ちは分からないでも無いですけど、そう言うところ
--本当に面倒な人ですねっ!!」
そして雷が落ちる。
古の人々には神の怒りとさえ解釈させた大自然の猛威がそのまま襲い掛かれば精々が落ちたり浮かび上がったりするだけのプロペラ機など木の葉よりも頼りない物だろう。
先刻とは比較にも成らぬ神速の斬撃は殆んど目にも止まらない、踏み込みすら追い切れない。下はゼロから、上はマッハ440程まで比喩でもなんでも無く純粋に雷速に迫る剣士が居たとして、その緩急に満ちた攻め手を追い切れる生き物など居るだろうか?
これは位階差とかそう言う問題でさえ無い、同一位階の凄腕の同胞の半分以上を圧倒する速度は、だからこそ俺に追い切れる筈も無い。
いまだ落とされていないのは実物の雷同様狙いが甘いとか、圧倒的な雷速に慣れていないとか、そんな生易しい理由では無い。
手加減されている。
見えないものは見えないと割り切って全て勘任せの回避に切り換えて以降、瞬く間におよそ百数十合余り、その全てにおいて致命傷はおろか直撃を免れ得る程に人間を辞めた覚え等無い。ましてこの展開は俺にとってだけは未知。
だから死なない筈が無いのに、ギリギリで交わし切れる様に、余裕など与えない様に、決して死なない様に、最小限で最大限の手心を加えられている。
だからこそ、気に食わない。
「キルヒアイゼンッ!! てめえチビの癖して巫山戯んな、加減だぁ? そう言うのはもっと人間辞めた連中がやる事だろうが。お前みたいな人間辞められない奴がやったって、デジャブるだけなんだよッ!!」
爆ぜる。
「なっ!?」
何の事は無い、ただの自爆。
焼き払う事のみ求められた焼夷弾の再現、その周囲の酸素を喰らい尽くしてなお燃え尽きぬ炎が、俺本人の体から噴き出した。
「なにカマトト振ってんだ、知ってるんだろ、炎は溜まった静電気を発散するらしいじゃねえか。だったら、俺が燃えてりゃ静電気は落ちて来ないんだよなぁ!!」
命を賭けるには考えられないほどイカれた理論、まともな人間であれば、まともな思考を持っていれば、こんな理屈で自分の足場を爆弾に変え火の海にしてしまおうとは考えない。その結果として今、俺は間違い無く炎上して居た。
自分の炎は自らを傷付けない?
そんな程度の炎がこの神鳴を焼き払う事など出来まい、だから今俺を焼く炎は俺の再生力に比してプラス、少しずつとは言え自らを傷付ける激痛の剣。
「そんな巫山戯た屁理屈で、私を止められると思わないで下さいッ!!」
当然、たかだか燃えている程度で半透過されているとは言え霊的にも質量を持った戦姫の剣が止まる事などあり得ない。
見事なまでに先程と同じく、振るわれた事を感じるかさえ危ういほど鋭い太刀筋で剣が振るわれた。
ああ、流石ヴァルキュリア。お前ならこの程度の炎に左右される事なんか無いと思っていた、弱くする事も、もちろん、強くする事も無いだろうと。
「上等っ!!」
先程まで俺であれば辛うじて避けられる程度の、辛うじて死ぬ程度だった雷剣は、激痛の剣、我が身を焼く炎に削られ大きいとは言えぬまでも威力を減じていた。
たとえ受けても辛うじて死なない程度には。
その事に咄嗟に気付いて剣を"引こうとした"キルヒアイゼンだったが既に左腕の肉と骨に食い込み始めた剣ごと俺は特攻を掛ける。
即ち、体当たり。
炎上している爆撃機が雷雲のど真ん中に突っ込む、などまず見られない様な事態だが、結果は予想が出来る。眼と鼻の先で撒き散らされた熱と炎と風は雷を巻き込んででも雲を吹き飛ばすだろう。
「くぅっ!? 馬鹿ですか、貴方は。カミカゼをするなら極東でしょう、終戦間際のドイツでする事じゃ有りませんよ!!」
少なからずは。
燃料が足りなくても、爆薬が足りなくてもそんな馬鹿な事は成功しない。だから今の俺には足りないのだ、魂も、位階も、そしてきっと他の何かも。
流石に踏ん張っていられず派手に吹っ飛ばされたキルヒアイゼンだったが致命傷には至らない火傷を負った程度、浅手とは言えないまでも深手とも言えないだろう。片膝こそついているが、その瞳に苦痛の色は窺え無い。
大して俺は片腕が千切れかかり、その腕も切断面が焦げ掛かって居た。全身など見るにも値しない疑い様も無いダメージ、完全に再生するには時間が掛かるだろう。
「気に入らねえんだよ、お前。何が言いたいんだ? 俺だけには言われたく無いってなんだよ」
彼女はその言葉を小気味良く鼻で笑い鸚鵡返しに返した。
「貴方だって、何が言いたいんですか? 水銀の真似事をして人様を誘導して悦に浸っているだけですか?」
まさか、それで切って再び形の良い鼻を鳴らす。向けられた碧い双眸はきらきらと輝いて内に宿す強い意思を表している様な気がした。
「どうしてこの人は私が悩んでいる事が分かるんだろう、どうしてこの人は私に答えを聞こうとするんだろう。考えたら簡単に分かる事ですよね、貴方は、
--貴方は私と同じなんでしょう。だったら分かって当たり前、貴方はきっと私と同じ悩みを抱いて貴方に誘導された私と同じ答えを得たんだ」
彼女は立ち上がる、バチバチ、バチバチ、と爆ぜる稲妻が喧しい。
「戦場を照らしたい、同胞が道を見失わないように。なんてお笑い種、その私が同胞に照らされてたら元も子も無いじゃないですか!! 巫山戯るなはこっちのセリフです。人の誇りを傷付けておいて、巫山戯るなッ!!」
雷霆が奔る、例によってぎりぎり躱せる程度の攻撃には何の殺意も篭っていない、純粋な激情だけがそこにあった。
「仰る通りですよ。私にはもうあの人しか居ない、だったら私はあの人のために黄金を願います。さぁ、これからどうするんですか、ウルリヒト・ブランゲーネ。私は殺しますよ、貴方じゃない、私が、首領を、殺します」
強い鼓動を感じた。
心臓が、では無い。魂が大きく鼓動した。
これまでにバラバラに叩かれ音を発していた二つの太鼓が一つに纏まり始めた時の様に、増幅された強い一つの鼓動が意識を揺らし始めた。
殺す必要が?
あるだろう、はっきり言って馬鹿は死ななきゃ治らない。
でも俺じゃ無くて、お前が?
さらに幾条も駆ける雷霆は、やはり躱す事の出来ない物では無かった。躱そうとさえしたならば。
空気を焼き、切り裂き、轟音を上げながら奔る雷撃を見つめながら俺は考えていた。
あいつは俺が殺したい、俺が殺さなきゃ意味が無い。それを、
「貴方か、私か、願いを叶えられるのはどちらかだけでしょう?」
すっかり避けると思い込んでるのかキルヒアイゼンが意気揚々と語り掛けて来る。そんな事は無いのに、俺が奴を殺せば結果的にその他の有象無象なんか後から付いて来るのに。
お前は邪魔しようって言うのか、ベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン?
「--Ach nein! Ich ließ mich nicht …… (やめろ! 決して私の……)」
俺の中にある何かが膨れ上がる様に莫大な熱とともに堅固な殻を突き破ろうとして、
「なかなか面白い話をしているでは無いか、ハインツよ」
また深く深く眠りについた。