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[16654] 【習作】麻帆良在住、葛木メディアでございますっ!(ネギま!×Fate)【チラ裏から】
Name: 夏色 / 冬霞◆7f18a936 ID:c4752caf
Date: 2012/07/13 00:55
 このssは『Fate/stay night』と『魔法先生ネギま!』のクロスオーバーです。
 麻帆良にキャス子さんと葛木先生がトリップします。
 おそらくシリアスとほのぼのの間を行ったり来たりすると思います。

 作者は他に連載を数個抱える身なので、定期的な更新をお約束できません。
 また色々と試験的な表現や書き方などを導入しているので、コロコロ文体が変わるかもしれません。

 それでもキャス子に幸せになって欲しい方のみお読み下さい。
 頑張って執筆していきますので、どうぞ宜しくお願いします。


 
 03/03 読者様からご指摘いただいた部分について、出来る限りの修正を施しました。
     何か直し忘れている場所がありましたら再度ご指摘願います。



[16654] Prologue~1
Name: 夏色◆7f18a936 ID:f866de06
Date: 2010/02/23 17:41
 

 

 麻帆良。
 長きにわたる鎖国から解き放たれ、世界に名だたる列強諸国に追い縋らんとした時の日本政府が創立した、一世紀以上の歴史を持つ世界有数の学園都市の名である。
 そこに居住しているのは都市内に数多く存在する学校に通う生徒や教職、関係者。学園都市の様々な店や公共機関の職員など。
 基本的に流通以外の殆どがこの街の中で賄われているがために、もはやその様相は陸の孤島と呼ばれるに足る。
 生徒達はおろか、教職員や家族であっても全く外部に出る必要がない。
 そして外部からも限定的ながら関係者以外の出入りが制限されている。
 ある意味では治外法権さえ程度によって許可されているこの街は、常識的に考えれば異常極まりない。

 何故この街がここまで異常であるのか。
 また何故その異常さに気付けないのか。
 その理由の一端がまさに、とある場所にて説明されようとしていた。

 この街には親しみを込めて『世界樹』と呼ばれる大樹がある。
 広大な学園都市の何処からでも―――当然ながら建物が邪魔をする場合はこの限りではないけれど―――目にすることのできるソレは、地面というよりは地球に根を張っているというのが相応しい程に巨大である。
 まさにギネス級の代物ではあるが、不思議と今まで外部のマスコミからの取材などは受けたことがない。
 『世界樹をこよなく愛する友の会』やら何やらが裏で精力的に活動しているのだという根も葉も無い噂や、この学園都市に隠された、とある者達によるものであるのだという真実もあるが、つまるところ皆、世界樹と麻帆良が好きなのだ。

 そして世界樹のちょうど麓―――根本や木陰と呼ばれない辺りが世界樹の巨大さを如実に表していると思う―――に位置する広場で、一つの神秘が具現しつつあった。
 ドラマや映画のように上空からその広場を観察していれば、特によく異常を観測することができただろう。

 まず広場の中心部―――とはいっても世界樹の目の前というだけであり、厳密に中心というわけではない―――に異常は現れた。
 一つ、まるで針で穿ったかのように空間に小さな揺らぎを認めることができるだろうか。
 おそらくは目の良い、もしくは勘の良い者にしか気づけなかっただろうが、中空の一点に僅かな揺らぎが見えるはずだ。
 その揺らぎが次の瞬間には瞬く間に広がり、背景を捻じ曲げていく。
 例えばその背景がゼリーや粘土に書かれていたら、おそらくは今の状況と同じように見えたことだろう。
 だがしかし永遠に続くかと思われた広がっていく揺らぎの大きさは、丁度この学園の学園長室の扉ほど、簡潔に言えば人が二人ほど並んで立てるぐらいの広さで浸食を止めた。
 
 揺らぎは空間をめちゃくちゃに歪ませ、そこがどうなっているのか視認させない。
 グシャグシャにしたチラシの文字は読みづらいだろう。正しくそれと同じ状況だ。
 そして一度グシャグシャに丸められた空間が再度広がって元の平穏を取り戻したとき―――。
 広場には、さっきまでは無かった二つの人影を認めることができた。

 
「‥‥こ、ここは‥‥?」

 
 二つの人影の内の、小さな方が僅かに身じろぎした。
 まず受ける印象は紫色。全身を紫色のローブで覆っているのだ。
 時代錯誤も甚だしい、古風で優美なローブは見るからに上等な仕立て。
 背中ぐらいしか見えないためにしかと断言はできないが、輪郭や声などから判断するにおそらくは女性であろう。
 まだ女を捨てるには早すぎる、それでいて近所の子供からは下手すればオバサンと呼ばれてしまうぐらいの年頃に見える女性は、肘で体を持ち上げて自分の周りの光景を見回した。
 
 
「私の神殿‥‥では、ないわね。大源の色が違う‥‥」

 
 普段はおそらく肩に掛かったフードを被っているのであろうが、今は素顔が露わになっている。
 綺麗な、女性だった。
 群青色の髪の毛は一本一本がきめ細やかで、サイドを三つ編みにした複雑な髪型をしている。
 決して薄化粧ではないにせよ上品に見える朱に彩られた唇は世の男共が目を離せぬ程に美しく、髪の毛と同じ色の瞳は吸い込まれてしまいそうなくらいの深さを感じてしまう。
 その瞳は今は、困惑一色に彩られていた。
 自分のおかれた状況を全く理解できておらず、辺りから必死で情報を得ようと視線と頭を動かしている。

 
「私は‥‥セイバーのマスターと、アーチャーのマスターを追い詰めようとして‥‥」

 
 思い返すのは記憶の中で一番新しい光景。
 万能の願望器を奪い合う戦いの終局近くで、舞台となった街で有数の霊脈に神殿を築き、敵のマスターを誘き寄せた、その光景。
 敵の家族を人質にとり、状況だけでなく戦力すらも相手側をはるかに上回っていたはずだ。
 あらゆる要素が自分の思い通りに進み、あらゆる要素が勝利へと向かっていると確信した。
 その、矢先。
 全ての些末な謀り事など力業で押し流してしまう程の数多の金色の光を。

 
「金色の、サーヴァントは‥‥何処‥‥? いない‥‥?」

 
 圧倒的な物量。
 長い時間をかけて集めた、最優のサーヴァントの斬撃すら防ぐ魔力の盾をものともしない圧倒的な物量。
 柄にもなく未来を目指して積み上げた全ての所行を嘲笑うかのように三つの光刃が自分の身を突き貫き、目指した未来は―――

 
「―――はっ、宗一郎様は、宗一郎様?!」

 
 半ば朦朧と惰性で動いていた頭が瞬時に覚醒した。膝立ちになって、先程よりも視界を高くして求める者を探す。
 未来は、自分が目指した未来は、一体どうなってしまったのか。
 記憶にある一番新しい光景は、悪夢のような人生の果て、人生の終わりの更に向こう側、そこでまたも身に味わうことになった悪夢の続きに存在したささやかな夢は。
 記憶の何処を見回しても寸分変わらぬ、最愛の人物の顔は。
 我が身を呈して守ろうとした最愛のマスターの姿を探した彼女は、ふと地面を探った手が何かに当たるのを感じて視線を向けた。

 
「宗一郎様っ?!!!」

 
 果たしてそこに、目指した未来は横たわっていた。
 最後に目にした深い緑色の素っ気ないスーツはしかし、紅い鮮血で彩られている。
 あふれ出す赤が野外にあってなお清潔な石畳へと広がり、汚している。
 診断するまでもない。明らかに致命傷だ。
 医者ではなく魔術師である自分の目から見ても、その体躯の隅々から生命を構成する“なにか”が刻一刻と抜け出しつつあるのが手に取るように理解できる。
 一も二もなかった。彼女は俯せに横たわる男性の顔に両手を沿えて、必死で彼の名前を呼んだ。

 
「宗一郎様! 宗一郎様っ! しっかりなさって下さい宗一郎様!」

 
 いやだ、いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ。
 何故こんなことになってしまったのか。私はただ、本当にささやかな願いを叶えようとしただけなのに。
 生きている間のみならず、死後だって世界は嫌なことばかりだった。
 信じるという言葉の意味を、愛するということの本当を、幸せになるという希望を、自分ほど望み、裏切られた者がいるだろうか。
 裏切られた、諦めた、流された。何もかもが自分に牙を剥くと歎き、もがき、それでも変わらず、結局はこのザマ。
 いつだって、そんなことは望んでいなかった。誰だってそうだろう、本当に些細な幸せを求めていただけなのに、あんな風になってしまうなんて。

 しかし誰に望んでも、誰に尽くしても、それを得ることは叶わなかった。
 あげくの果てには見捨てられ、人々の噂の中に魔女として現れる。
 笑いぐさだろう、結局そうして本当に魔女になってしまった自分がいるのだから。
 裏切りの魔女として座に上げられれば後世ですら悪名は語り継がれ、それが信仰にすら昇華したのは何という笑い話か。
 記憶と記録を辿り、何度もこんなはずじゃなかったと全てを悔やみ、新たにかりそめの生を受けた先での自身すらも情けなくて笑う。
 女神の怒りをかった哀れな女の末路よと自嘲したその時に、この人に出会えたのはどれほどの奇跡だろうか。
 何者をも信じず、神すら敵に回したこの自分が、何かに感謝したくなる程の奇跡だったのだ。

 その最愛の人が今まさに目の前で命を落とそうとしている。
 命の通貨である血をとめどなく流し、冷たくなってしまおうとしている。
 身の毛もよだつような絶望の具現に、彼女は彼以外の全てのことが頭から抜け落ちた。
 此処は何処なのか、自分達はどういう状況にいるのか、そもそも何が起こったのか。
 尽きぬ疑問はしかし、瑣末事であると切り捨てる暇もなく恐怖一色に塗り潰される。

 
「ち、治療を‥‥そう、治療をしなきゃ‥‥!」

 
 いやだ、いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいや。
 やっと手に入れることができると思ったのに、やっと幸せになれると思ったのに、こんなのは嘘だ、こんなのはいやだ!
 失う恐怖は全身を震わせ、涙は自然と滝のように零れ落ちる。それでも彼女は頬に添えていた手を傷へと這わせ、必死に治療を試みた。
 当然ながら傷は深い。体の前面から背中へといくつもの大きな傷が貫通して穴を作っている。
 あの時は常と全く変わらぬ主の様子に、我が身を呈することで武具の豪雨から彼を守ることが出来たとばかり思っていたが、どうやら彼の優しさだったらしい。
 あまりの量と速さに閃光かと見間違うた魔弾はしかし紛れも無く剣や槍。
 それが貫通したのであるから、当然ながら彼の身に穿たれた傷は一つ一つが致命傷であった。

 
「‥‥簡単、こんなの何度だってやってきた事なんだから‥‥。失敗なんてしない、失敗なんてしない、失敗なんてしない‥‥! こんな簡単な治療、手こずった事なんて一度もない‥‥!」

 
 幸いだったのはあの金色のサーヴァントが放ってきた武具の中に、傷の治療を疎外する呪いを持ったものや、解毒の効かない猛毒を持ったものが含まれていなかったことであろうか。
 確かに傷は思わず失うことを想像して声が、手が、傍目に見ても震えているのが分かってしまう程に深かった。
 しかし彼女とて悪名ながらも神代の魔女としてその名を轟かせた身。決して不可能な治療ではなく、十分に間に合うはずだったのだ。
 傷を塞ぎ、臓腑を癒し、失ってしまった生命の力を補充する。
 何度だって同じことをやったことがある。一回だって失敗したことはなかった。
 恐れから不安定になりつつある心を叱咤激励し、彼女は震えながらも自信を持って治療を始めようとした。
 しかし―――

 
「あ‥‥? う、そ‥‥嘘よ‥‥なんで、こんな‥‥?!」

 
 今更ながらの説明になるが、彼女は人間ではない。
 それでいてそう言われて普通は想像されるような、宇宙人や、吸血鬼や、妖魔や鬼の類でもない。
 過去の時代に生き、人の身では到底成し得ない偉業を果たし、死後も人々の信仰によってその存在を精霊に近い場所まで昇華させられた崇高な存在。
 そう、彼女は俗に言う『英霊』と呼ばれる存在であった。

 つまるところ今は議論に値しない諸々の要素を省いて説明すれば、彼女は死者、乃ち今この現世に存在しているはずのない、存在してはならない身だ。
 死者が現世に存在している。この矛盾を解消するには、当然ながらいくつかの条件を必要とすることは想像に難くない。
 しかして一刻も早く目の前の男性を治療しようと願う彼女には、その内の一つ、死者を現世に繋ぎ留めるための依り代が欠けていたのだった。

 
「嘘、嘘よ、こんなの‥‥いやだぁ! どうして、お願い‥‥死なないで‥‥!」

 
 伸ばした手の存在感が薄れ、霞んでいく。
 治療をしようと集めた魔力が霧散し、全身から力が抜け、いくらあがいても魔術を使うことができない。
 道理だった。元より彼女は現世に喚ばれた際に、『魔術師《キャスター》のサーヴァント』という殻を被せられた身である。
 本来人間などに御しきれる存在ではない英霊を現界させるための策の一つとして、彼女は自らの能力の一部を著しく制限されている。
 もちろん制限された状態であろうが現世に於いて彼女がこと魔術師という枠の中では最強であることには変わりないのだが問題は別のところにある。

 召喚されたサーヴァントがマスターに従うにはギブアンドテイクに即したいくつかの理由があるが、その中の一つに、『依り代が無ければ現世にいられないから』というものがあった。
 例えばアーチャーのクラスのサーヴァントであれば単独行動という特別なスキルを大元の召喚主である聖杯から与えられているのだが、彼女にそれはない。
 故に保有している魔力の量に関係なく―――多少は関係あるのだが、彼女自身の保有している魔力の量は決して多くなかった―――彼女は消えかけているのだ。
 もちろん通常ならば今すぐに消えるというわけでもないだろう。彼女とて一回はその憂き目を味わったことがあるし、あの時は数時間は保ったはずだ。
 しかし今いる場所は―――彼女は全く預かり知らぬことであるが―――消滅を感じた時の場所とは勝手が異なる。
 有り体に言えば、彼女とこの世界との繋がりというものが一切と言って良い程に存在していないのだ。

 
「ひ‥‥ぁ、ああ、あ――― 。や、やだ、たすけて、誰か、お願い、お願い! たすけて、たすけてよ‥‥!」

 
 確かに今までは目の前で俯せに倒れている男性が依り代の役目を果たしていたのであろうが、彼も同様にこの世界の人間ではなく、今は依り代として成り立たない。
 彼を助ける手段があるのに、この身に残った僅かの魔力があれば助けられるのに、それを行使することさえできない。
 どうしようもない、絶望だった。
 誰か、誰でもいい、依り代となり得る新たなマスターを探さなければならない。
 かつて自らが喚び出した虚構の暗殺者のように、何か建造物や物体を依り代にすることは叶わなかった。
 アレは依り代が触媒をも兼ねていたから可能であった反則技。本来ならマスターは現世に所属している魔術師や死徒、この際ただの人間だって構わない。

 誰かいないか、善人でも悪人でもいい、依り代に出来る人間はいないか。
 例え我が身が後に地獄の釜へと投げ入れられても構わない。今この人を助けることができるのならば。
 今この瞬間にも命が抜けて逝きつつありこの人を、助けてくれる人はいないか。
 もし生前の所業のせいで今の状況があるのだとしたら、自分の五体を百遍引き裂いても足りはしない。
 だがそれも彼を助けてからだ。今までとこれからの全てを今に賭けたっていい。今はただ―――!

 
「誰か‥‥そこに‥‥?」

「―――ッ?!」

 
 ザリ、と靴が石畳を擦る音がして、魔術師のサーヴァントは顔を上げた。
 人の気配のしなかった広場に軽い足音。それは段々と広場の中心にいる自分達の方へと近づいて来て、遂に誰何の声が聞こえてくる。
 何もかもが没してしまう程の暗闇の中で僅かに見えた光明。
 その声を聞いた彼女の顔は、絶望の淵に必死ですがりついた手を聖母がすくい上げてくれたことに感謝するかのように見え。
 それでいて、まるで待ちに待った獲物がやってきたかのような、酷薄な笑みを含んだように。
 美しい唇がゆっくりと弧を描いたのであった。

 
 
(あとがき)

 キャス子さんに幸せになって貰いたい奴は手を挙げろぉぉおおお!!!

 息抜きには少々重いですが、思うところがあって投下しました。
 主な目的は三人称と、普段の連載ではできない表現の練習。
 反応を見て色々考えていきますので、軽い気持ちで読んでいただければ幸いです。

 あ、ボチボチですけどちゃんと連載します。


 



[16654] Prologue~2
Name: 夏色◆7f18a936 ID:c4752caf
Date: 2010/02/22 11:18
 
 

 
「―――郎様」

 
 冬もまだ真っ盛りであろう凍える風が吹き付ける野外において尚、男が最初に覚えたのは、どこか暖かいという漠然とした感触だった。
 確かに風は間違いなく寒い。冬が長いと言われる街に暮らしていた身がらも、その地域に勝るとも劣らぬ、身を刺すような寒さだ。
 横たわっているのも清掃が行き届いているとはいえ、野ざらしの石畳。当然ながら非常に冷たい。

 それでいて暖かいという矛盾した感触を抱いたのは、すぐ脇に誰かが寄り添っていたからだろうか。
 それとも寄り添っていた彼女が、彼にとって特別な存在であったからだろうか。
 実直真面目、寡黙を絵に書いたようなその男に問うても答は返って来ないであろうが、とにかく死の間際にいたはずの彼は自らに呼び掛ける声を聞き付け、虚無を宿した瞳を開いた。

 
「宗一郎様っ!」

「む、ぅ‥‥」

 
 男は、先程から半ば異界と化しつつある広場においてひどく場違いだった。
 来ているのは深い緑色の、最近ではあまり見ない地味なスーツ。
 鮮血によって彩られたそれはおそらく、汚れが目立たないからだというだけの理由で購入されたのであろう。
 少し離れたところには彼のポケットから零れ落ちたのだろう簡素な眼鏡が転がっているが、それに度は入っていない。
 決して平凡ではないが、同時に大勢の中に埋没してしまうぐらいには特徴のない男であった。
 
 俯せであった体は治療のために仰向けにされている。
 目を開いた彼の視界に最初に飛び込んで来たのは、一面を涙やら何やらでクシャクシャにしながらも、初めて出会った時と変わらず美しい女の顔であった。
 
 そうか、暖かいと感じたのは、この女がいたからだったのか。
 がらんどうの自分が空虚な日々の中で偶然にも見出だした、『自分に意味を与えてくれるかもしれない』存在が、一度は死を実感したこの身に寄り添っている。
 それにすら全く波を立てない自分の心にすら感情を覚えることはない。なぜなら自分にそもそも、そういった機能が備わっているのかすら分からないのだ。
 情報として読み取った暖かみなのか、心の内から生じた暖かみなのか。それなり以上の年月を生きてきてなお、判断できる程の経験を有していない。

 その男は、自分でもそう感じてしまう程に人間味を持ち合わせていなかった。
 否、確かに男は人間であった。俗に『人形のようだ』と形容されるような人物ではない。
 彼が教師として指導をしていた生徒達からは、真面目で公平で頼れる担任だと慕われてすらいる。
 生来の、と称するにはあまりに生い立ちが特殊すぎるのだが、間違いなく彼は社会人として立派に日々を過ごしていた。

 そう、彼は生きていた。
、生きたい、と思ったわけでもないだろう。死にたくない、と思ったわけでもないだろう。
 何かに衝き動かされていたわけでもない。生を捨てる機会は一度、それまでの生活を鑑みれば十分過ぎる理由と共に与えられた。
 しかしそこで死を選ばなかったのは、感情も思考も自己の認識すら許されない生活の中で、何時の頃からか生じた一つの疑問の答を得たかったからだろうか。
 
 本当は、自分がソレを求めているのかどうかすら分からない。
 だが満足していなかった。その疑問さえあれば満たされるのではないかと僅かに期待した。
 故に彼は、自らの内にその疑問を燻らせながら、只々無為に日々を“過ごして”いたのだった。
 彼女に出会い、答への手掛かりを見出だすまでは―――

 
「良かった! 宗一郎様―――ッ!」

 
 石畳に肘をついて上半身を起こした途端、目の前の女性が胸へと飛び込んで来る。
 今もなお、習慣と言うには染み込み過ぎている作業として鍛練を続けている彼にとっては、女性一人分の衝撃など大したものではない。
 対外的には婚約者と名乗っていた女は自分の胸元に縋り付き、まるで子供のように―――と言っても子供が泣く姿など見たことはないが―――涙でスーツを濡らす。

 本来ならば優しく肩でも掴んで抱きしめてやるのが筋というものであろうが、生憎と男にはそういった甲斐性が備わっていなかった。
 おろおろと手を動かすわけでもなく、だらりと手を下げた常と変わらぬ自然体で彫像のように胸に縋り付く女を見下ろす。

 傍から見れば何という無感動で仕方がない男だと憤るかもしれないが、そういった面を承知して、というよりは溺愛している女にはそれだけで十分であった。
 今は只、彼が生きていてくれたことを彼に感謝したい。
 また失うことの絶望を味わうかと思った彼女は少し気持ちが落ち着いても暫くの間、愛する人に抱きついて静かに涙を流し、喜びと感謝を表した。

 
「‥‥キャスター、状況を」

「あ、はいっ!」

 
 暫し只の恋する乙女として幸せを甘受していた彼女‥‥キャスターのサーヴァントだったが、愛する人にして主の言葉に気を取り直すと背筋を伸ばした。
 先程までは彼の生死を案ずるあまり他の思考が完全に頭から抜けてしまっていたが、冷静に思考を巡らせて状況を推察する。
 だが同時に、目の前の彼を待たせるわけにもいかなかった。
 待てと言われれば終末の角笛が鳴り響く時までそのまま待っていそうな人だが、そこはそこ、これはこれ。
 状況が全く分からず、時間が無限とは限らない以上、それなりに迅速に動く必要がある。

 
「宗一郎様は、どこまで覚えていらっしゃいますか?」

「私達が置かれた状況のことならば、全くない。最後の記憶は、金色をした男が現れ、我々に攻撃をしかけてきたことだけだ」

「そうですか‥‥。実は私もです」

 
 あの時、金色の男‥‥間違いなくサーヴァントに類する者であろうが、アレの攻撃を受けて確かに自分は消滅したと、彼女は確信している。
 それは一緒にいる男、葛木宗一郎も同様で、彼も静かに死を実感したのだ。
 自らの傷はキャスターが塞いだのだと考えたとしても、不思議とキャスターには傷一つ残っていなかった。

 おかしなことである。なにせ宗一郎のスーツには鮮血と傷が残っているのだ。
 傷は塞げても、服までは直せていない。反面、キャスターのローブは一切が万全の状態のまま。
 本来あのローブは魔力によって編み上げた武装。彼女の魔術礼装の一種。
 もちろん礼装である以上傷つくこともあるが、一度魔力に戻して再度編み上げれば元通りになる。
 とはいっても彼女自身そのようなことをした覚えはないし、どうにも感触がおかしかった。
 
 言及しづらい例えではあるが、この身は一度消滅し、再構成されたのではないだろうか?
 決して断定は出来ないのだが、形容し難い不確かな感触にしても、そのような気がしてならない。
 これに関しては勘というか、『そのような感触がした』というものに過ぎないが、考察する価値は十分にある。
 再構成か再召喚か。少なくとも自身の持つ意識が記録ではなく記憶である以上は固有時間の連続性が保たれているはず。
 今後を考えれば結論は可能な限り早く出す必要があるが、今は一先ず保留としておこう。

 
「とりあえず、此処は私の神殿ではないようです。大源の様子から冬木でもありません」

 
 大源は世界に共通して存在する要素であるが、酸素に濃い薄いがあるように、湿度に高い低いがあるように、場所によって“色”のようなものが異なる。
 それは魔術師としての感覚が優れていればいる程顕著に感じとることができ、キャスター程の大魔術師にもなれば狭い範囲での流れすら読める。
 精霊の一種である英霊が暴れ回る一大儀式、聖杯戦争の影響で、舞台となった冬木という地方都市の大源は乱れに乱れまくっていた。
 当然だろう。あちらこちらで大気中の大源を喰らう魔槍やら、城すら吹き飛ばす聖剣やら、神話に出て来る幻想種やらが好き放題していたのだ。
 そうでなくとも龍脈などを利用して街全体に監視網やら何やらを張り巡らせていた彼女は、冬木の街を目の届かぬ場所はないという程に把握している。
 だからこそ言えるのだ。此処は冬木どころか、そこから遠く離れた何処ぞの霊地であると。

 再度、辺りを見回してみよう。
 背後に見える、神代の時代でもお目にかかったことがないような大樹を中心に、石造りの広場が広がっている。
 今いる場所は広場の中程で、一番下からは建物何階分かの高さがあった。
 建物は統一された景観で広場をぐるりと囲むように建てられていて、聖杯から与えられた現代の知識から鑑みるに、西洋のものであるようだ。

 だが、一番注目すべきところはそれらではない。
 大気の中の大源の濃度。色も違うが、何よりソレが元いた場所と比較して尋常ではない程に濃かったのだ。
 彼女の常識では、神秘とは時代を経れば経るだけ希釈されてしまうものである。
 力量によって行使する魔術の威力には多少の差こそあれ、その大元の神秘という概念は、それの恩恵に授からんとする万民に等しく分け与えられる。
 例えるならば配給される絵の具のようなものだ。
 それをどう組合せて新たな色を作るかは個人の能力次第だが、受け取る者が増えれば一人辺りの量は減り、薄めて使わなければならなくなる。

 物事の道理として、時代を経れば技術は広まり、それを使う者も必然的に増える。
 神秘の秘匿を第一に掲げて最低限に抑えたとしても、結果として彼女の生きていた時代から千年単位で広まった現代においては、魔術は比べものにならない程に衰退していた。
 大源も薄まり、呼吸をすることが困難になってしまった数々の幻想種が姿を消す。
 過去の人間である自分が行使する魔術と、現代の魔術師が行使する魔術。比べることすら馬鹿馬鹿しい。

 だが、今この場には彼女が生きていた神代の時代に匹敵する濃度の大源が存在していた。
 具体的に言えば、存在することに必要な分の魔力だけをマスターから供給されれば、後は大気中の大源から魔力を調達して神秘の行使が出来る程に。
 現代に於いてこれ程の環境を保持しているのであれば、数多の魔術師達が血眼になって此処という場所を得ようとやって来るであろう。
 だからこそ今は深夜であるためか人気がないが、一見すれば賑やかな都市部にしか見えないこの光景に彼女はひどく困惑していた。

 
「そうか‥‥」

 
 素人にも分かりやすいようにかみ砕いた簡略な説明を受けた葛木は、全く感情の篭っていないように聞こえがちな声を漏らす。
 キャスターの言う通り、正直に言って状況は全く経験したことがないものと考えていいだろう。
 もとより経験したことがないからといって自分から何か行動を起こすつもりはないのだが。

 元々彼は、能動的な行動というものに関して殆どと言っていい程に縁がない。
 強いて言うならば、生涯一度の役目を果たして自害をせず、始末に来た上役を返り討ちにして殺したことぐらいだろうか。
 聖杯戦争についても、キャスターが望んだからこそ力を貸した。
 自分から聖杯戦争を勝ち抜くために何か行動を起こしたことは一度もない。
 故に今回おかれた特殊な状況についての対処も、完全にキャスターに任せると決めていた。
 それは彼女も契約をした当初から承知していたことではあるし、何より一見まったく噛み合っていなさそうなこれこそが、二人のカタチであるからだ。

 
「‥‥キャスター、お前の後ろにいるのは誰だ?」

 
 と、そこで葛木はようやく、この場にいるのが自分とキャスターの二人だけではないことに気付き、質問した。
 先程までキャスターの陰に隠れて見えなかったが、少女が一人へたりこんでいる。
 やや後頭部に近いところで二つに縛った特徴的な髪型の名は知らないが、全体的にどこか純朴で素直な雰囲気が漂っており、目立つような容姿ではない。
 服装は学校の制服らしきもので、手には何に使うのか、やや大きめの竹箒を握っていた。
 普段から上品な物腰を心掛けているのか、地面に座っていてもスカートの中は―――どちらにしても某レールガンよろしく短パンを履いてはいる―――見えない。
 全体的に、深夜に出かけるような少女ではなさそうだ。

 
「‥‥私は宗一郎様を依り代としていたはずなのですが、何故か現界が出来なくなりつつありました。
 彼女は偶然そこに通り掛かったので、宗一郎様の治療のために、催眠をかけて暫定的にマスターとしたのです」

「そうか」

 
 催眠をかけて、ということは、強制的に使役したということである。
 彼女程の魔術師になれば、例え魔眼を持っていなくとも一工程《シングルアクション》以上の速さで暗示をかけることができる。
 一刻も早く依り代たる新たなマスターを必要としていたキャスターは、何の用事か広場にさ迷い込んで来た少女を操り、自らのマスターとしたのだった。

 そして人道に即せば間違いなく悪と称されるであろう所業を耳にしても、葛木は眉一つ動かすことはない。
 彼は自分以外の人間に、否、自分自身にもさしたる興味を覚えないのだ。
 積極的に悪事を肯定するわけではないが、自分に関係ない人間がどうなろうと知ったことではなかった。
 そして自分の目の前でそれらが行われていたとしても、キャスターが決めた以上は必要なことであると自分でも判断する。
 冷徹なわけでも冷静なわけでもなく、どこまでも淡々と生きているからこその対応だった。

 
「此処が何処であるかは、彼女から聞き出せば良いのではないか?」

「そ、そうですね。では暗示を解きます」

 
 だがそれでいてキャスターから助けを求められれば、作業として行っている日常生活に支障が出ない範囲で助力することに異論はない。
 だから今彼女から意見を求められていると解釈した彼は、自分の判断力の中で行動の方針を提示した。

 キャスターの背後には件の少女がへたり込んだ状態で虚ろに視線を宙にさ迷わせている。
 意識はないのだろう。本来なら従者という立場にある希代の魔女の指先に従う操り人形だ。
 専門分野である魔術以外のあらゆる点におい全幅の信頼を置いている男の指示に従って、彼女はその細い指先を、少女の目の前を横切るように一振りした。

 
「‥‥あ、あれ? 私‥‥」

「お目覚めかしら、お嬢さん?」

「あれ、貴女は‥‥?」

 
 どうやら彼女は広場に来た次の瞬間には意識への介入を受けたらしい。
 目の前で膝立ちになってこちらを見ている女性と、既に立ち上がっているスーツ姿の男性の二人から視線を受け、突然の状況に半ばパニックになっている。
 だが、それもまぁ常識的に考えて仕方がないことではあった。
 何せ目の前の二人は二人共が、非常に不審な姿をしていたのだから。

 繰り返しになってしまいはするが、もう一度だけ二人の容姿や服装に注目してみよう。
 彼女の前にいる女性は、現代に於いてはコスプレと勘違いされてもおかしくない仰々しいローブを羽織り、フードで顔の上半分を隠している。
 僅かに覗く口元だけからでもトンデモない美人であろうことは疑う余地はないが、やはり全体的な印象として間違いなく不審な人物だ。
 彼女とて社会の裏側についての知識を多く持つ身ではあるが、それにしたってここまで突き抜けた服装をしている知り合いはいない。
 いや、悪いわけではないのだ。紫色のローブは恐ろしいというよりは上品で、眼前の落ち着いた年上の女性にはとても似合っている。
 だからこそ普通ではない服装を完璧に着こなしているこの女性が常日頃からローブを纏っていることを察し、余計に奇異に写るのだった。

 そして女性の背後に立っている男性も、別なベクトルで奇妙な人である。
 こちらの容姿は大して特徴がない。美形なわけでもなければ、まかり間違っても不細工でもない。
 敢えて形容するとすれば、武骨。それでいて幽鬼のようなという表現も当て嵌まるのだから甚だ矛盾しているが、とにかく造作がゴツゴツしているのだ。
 着ているスーツは暗く沈んだ緑色。仕立てに全く遊びがなく、実用一点主義なのだろう。
 そしてそのスーツには幾つもの穴が空き、今し方まで流れていたと思しき鮮血で彩られているではないか。
 不審度で言えば女性の方よりもブチ抜きで高い。街中を歩いていたら当然ながら警察官に任意同行を求められる程に。
 まったくもって、何故ここにいるのか理解できない二人組である。

 
「はじめまして、可愛らしいお嬢さん。私はキャスター、こちらは‥‥」

「葛木宗一郎だ」

 
 半ば放心しながらも二人を眺めていると、女性が立ち上がりながら手を伸ばして来たので、申し訳ないがその手に掴まって自分も立ち上がった。
 それなりの時間座り込んでしまっていたらしく、石畳と接していた膝や尻が冷たい。埃は掃ったが、張り付くような不快感が残っている。

 
「良かったらもう一度、貴女の名前を聞かせてもらってもいいかしら?」

「あ、はい! 麻帆良学園女子中等部一年、佐倉愛衣と申します!」

 
 大人であるからか、自分よりは少しばかり背丈が高い。立ち上がる際に下から僅かに覗き見た顔は、やはり想像に違わぬ美しさだ。
 姉と仰ぐ上級生にして自分のパートナーも相当な美人であると公言して憚らないが、この女性の美しさは格が違う。
 まさに女神のようなという形容が相応しいと、佐倉愛衣は実際に口に出したら次の瞬間には灰にされてしまうだろうことを考えた。

 ‥‥はて、もう一度?
 自分がこの女性に会うのは、自分の記憶が確かならばこれが初めてのはずである。
 外国の人のようだからアメリカに留学していた時に会っている可能性も無いわけではないが、このような美人、同性であっても一度見れば忘れはしない。

 
「まず最初に聞いておきたいのだけど、もしかして貴女は魔術師?」

「え‥‥あ、はい、そうです」

「そう‥‥やっぱりね。それにしては耐性が随分と低かったみたいだけど‥‥」

「‥‥あのぉ?」

 
 やけに古めかしい言い回しではあったが事実であるため、愛衣はその問い掛けに素直に頷いた。
 昨今では組織体制がしっかりと確立されていることもあって、大概は自分達のような術者は『魔法使い』と日本語に訳されている。
 もちろん外来語であるために訳し方も多少の違いはあるが、今はそちらが一般的だ。一方ローブの女性が使った『魔術師』という言い回しは昔かたぎの人間が好んで使うものだ。

 更に言えば、本来は口ごもるべきであろうところで即答してしまったのは、目の前の女性、キャスターが自分と同じ種類の人間だと確信していたからである。
 麻帆良という街は警察官の他にも教師などがある程度の権限をもって警備を行っているために、都市の規模に対して非常に事件が少ない。
 学生同士の小競り合いぐらいなら日常茶飯事だが、それにしても教師が実力行使で鎮圧に来るために大事になったことはなかった。
 その一方で、夜の麻帆良は極めて物騒な場所でもある。

 一流の霊地は、そこに住まう者に様々な恩恵を与える場所だ。
 例えば麻帆良などでは魔法(魔術)を使うための才能が発現しやすいし、格闘技などの鍛錬を積んでいれば気の習得も早くなる。
 他にも麻帆良で起こる様々な事故などで滅多に死傷者が出ないのも、世界樹の加護だと言われているのだ。
 しかし世の中は良いこと尽くめではない。同様に、否、それ以上に害意や危険を呼び寄せる。
 毎夜のように襲い来る外部の術者や妖魔の類。彼女はそれらを撃退するために駆り出された魔法生徒の一員であった。

 また物騒だと言いはしたが、一般人にとってはその限りではない。
 何故なら敵の襲撃が予想される場所には一般人を遮断する人払いの結界が張られているからだ。
 当然ながら世界樹前のこの広場に人気がないのも、人払いの結界の恩恵である。
 故に愛衣もローブの女性がコチラ側に属する人間であると判断したのだった。

 
「実はね、申し訳ないんだけど貴女に暗示をかけさせてもらったのよ」

「暗示?! 何時の間に‥‥?!」

「宗一郎様をお助けするには、私の依り代となる現世の人間が必要だった。‥‥ごめんなさいね、一刻の猶予もならなかったのよ」

 
 西洋魔法にも精神に干渉する魔法はいくつもある。
 例えば先程話題に上った人払いの結界もそうだし、他にも薬の類に多く見られるが、意識や思考を誘導させる魔法は存在する。
 しかしそれらに共通して言えるのは、基本的に魔法使いには効果が及びにくいという点だ。
 これに関してはキャスターの操る魔術についても―――原則的にはの話だ。彼女の魔術は並の術者を遥かに上回る―――同様である。
 そして自惚れではなく、愛衣は自分がそれなりのレベルにある魔法使いであると自負していた。
 順当な思考と比較の結果である。仮にもアメリカの魔法学校において、優秀な成績で留学を完了したのだ。
 地味な雰囲気から目立ちはしないが、少なくともエリートと呼ばれるには足る実力者である。

 だからこそ自分が暗示にかかったことすら分からないという状況に、まず恐怖よりも先に驚愕を覚えた。
 この女性がどれほどの実力者であるのか、自分程度の物差しでは測ることさえできない。
 自分の周りにいる魔法使いと比較しても、なお足りない。姉と慕う上級生も大概かなりのエリートだが、それにしたって及びもしないのだ。
 おそらくは学園最強の魔法使いである近衛近右衛門を引き合いに出して、ようやく同じ舞台の端っこに立てたというぐらいであろうか。
 本国で最高位と言われている術者を出しても、同様であろう。

 
「ムシの良い話だけど、本当にありがとう。貴女のおかげで宗一郎様が助かったわ‥‥」

「え、あ、そ、そうですか? お役に立てて良かったです」

 
 本当に感謝してもし足りないと言いたげに自分の手を握った女性に、思わず照れて下手に出てしまう。
 このような美人にこのような態度に出られては、男は言わずもがな、女であろうと激しく狼狽を覚えてしまうのも仕方がない。
 とにかく若輩なりに『立派な魔法使い《マギステル・マギ》』を目指す身としては、誰かの役に立てたのであればこれ以上に嬉しいことはなかった。
 その気持ちだけは間違いではない。だから彼女も実害を感じなかったから、さして問題行為を咎める気にもならなかったのだ。

 
「‥‥あれ、依り代って、言いました? それって一体‥‥?」

「ああ、それはね―――」

「愛衣!!」

 
 一先ず互いに状況を確認しようとした時、つい先ほどまで自分たち以外の誰の気配もしなかった広場に新たな声が響き渡った。
 階段の下から駆け上がってくる、見事な金髪をした美少女。
 少々スカートの丈が短い―――一般的な基準よりは余程長いのだが―――ために不自然な印象はあるが、教会のシスターのような制服を着て、頭には看護婦のような帽子を被っている。
 その少女は何を勘違いしたのか必死の形相で自らの従者たる少女に叫ぶと、バトンのような杖を振るって魔術を行使した。

 
「影よ《ウンブラエ》!」

「マスター、下がって!」

「ふぇえ?!」

 
 影から何体もの人形が飛びだし、こちらへと宙を滑って駆けてくる。
 ある意味では仕方がないことであった、彼女が状況を勘違いしたのも。
 何せその日に学園の警備に当たる者の中に、妹分の側にいる二人の顔はなかったのだ。
 というよりも学園の中でも初めて見る顔である上に、明らかに服装が異様で不審、有り体に言うなら悪役っぽかった。
 直情的で正義感の強い彼女のこと、二人を侵入者と判断し、妹分が今まさに捕らわれようとしていると勘違いするのも当然だ。

 傍目に見ていて滑稽なのはここからである。
 突然の上級生にしてパートナーの出現に驚いた愛衣が彼女に声をかけようとする前に影の人形はこちらへと飛びかかってきて、今度はキャスターが愛衣を自分の後ろへと隠す。
 魔法使い同士の突然の接敵で、悠長に状況を説明している時間などあるわけがない。
 愛衣が状況すら理解できていないままで、彼女を暫定的にでもマスターと仰ぐ事を決めたキャスターは少女を守るために行動する。
 一言二言、すぐ後ろにいた愛衣ですら聞き取れない言葉で何か呟いた瞬間、風の刃が生じて影の人形を尽く斬り裂いた。

 
「私の人形を一瞬で―――?!」

「あらあら、随分と野蛮な魔術師なのね。その程度の人形で私に牙を剥くなんて‥‥愚かと知りなさい」

 
 事前に自らの影の中に待機させていたわけであるが、それでも人形を出す素早さに関しては目を見張るものがあった。
 しかしそれでも神代の魔女からしてみれば未熟も未熟。ただの一言で人形を消し飛ばしてなお、余裕は十分である。
 金髪の少女はそれだけで相手の実力が、自らの遥か高みに存在していることを理解した。

 
「その子を放しなさい!」

「私のマスターに手を出して、ただで済むと思っているのかしら‥‥?」

 
 実力の差が歴然であっても、妹分を見捨てるなんて選択肢は持たない。
 一方のキャスターも身の程を知らずに牙を剥き、マスターに手を出した女を許す気はない。
 両者の誤解は全く解けることがなく、互いに相手を倒さんと魔術の行使を試みたときだった。

 
「ま、待ってください二人とも! 何か、何か勘違いしてますー!」

「え、愛衣?」

「‥‥あら?」

 
 自分を守るように立ちふさがったキャスターを押しのけ、愛衣が二人の間に壁のように立つ。
 その時に金髪の上級生の方に背を向けたのは正解であった。もしキャスターを庇えば、次の瞬間にはもう片方が消し飛んでいたことであろう。
 仮に金髪の少女が彼女の知るどのような魔法を行使したとしても、キャスターには傷一つ負わせることができないだろうからだ。

 
「‥‥一先ず、今一度状況を整理する必要があるのではないか?」

 
 ここに来るまで一切の言葉を発することがなかった男の言葉が大きく広場に響いたのであった。

 
 
(あとがき)

 脱げ女その他も好きな奴は手を挙げろー!
 愛衣を予想していた人がいてビックリしました。やはり読者様は私の数歩先を行っていらっしゃる‥‥!
 何より同志がこれほどまでに居たことにビックリです。皆様の支援の声、確かに受け取りました!
 ちょっと量が多すぎるので感想レスは無理ですが、間違いなく届いていましたぞ。
 次話も頑張って執筆していきますので、どうぞ期待してお待ち下さい。

 



[16654] Prologue~3
Name: 夏色◆7f18a936 ID:c4752caf
Date: 2010/03/03 20:08
 

 

 
 幼稚舎、初等部、中等部、高等部、大学、大学院。
 麻帆良学園都市はその内部に、尋常ではない数の教育施設を保有している。
 揺り篭から就職まで、などというどころではない。男子校や女子校、工科系の専門学校もあれば、ミッションスクールすら存在しているのだ。
 インターナショナルな教育理念―――と言っても麻帆良の教育理念の全てを把握している者がいるかと言えば、甚だ微妙だが―――に則って留学システムも完備。
 あまりにも分岐が多いエスカレーターは、ゆとりある、それでいて多様で高度な勉学環境を生徒達に提供する。
 麻帆良出身というだけで名実共に完璧な箔がつくこの都市は、正に世界においても非常に高い評価を受けている日本一の学園都市という称号に恥じない場所であった。
 さて、そんな麻帆良の最高責任者が誰かと道を歩く生徒に問えば、誰もが一人の老人を答えるだろう。
 日く、妖怪ぬらりひょん。日く、仙人原始天尊。日く、肌色の洋梨。日く、あの孫娘と血縁だなんて嘘だろオイ。
 フルネームが全く出てこないのはご愛嬌というものだろうが、とにかく件の老人こそが麻帆良学園の学園長、近衛近右衛門である。

 落ち窪んだ眼窩、白く長い髭と眉。ついでに耳も長く、イヤリング‥‥否、円環で着飾っていた。
 なにより特徴的なのは仇名の一つの由来である、エイリアンのように長く伸びた後頭部。専門外の人間であっても、思わずレントゲンを撮らせてくれないかと言わずにはいられない。
 ついでに言えば孫娘の近衛木乃香が、こっそりファンクラブが出来るくらいの美少女であることも不思議に拍車をかけていた。まさに遺伝子の神秘。ダーウィンもびっくりだ。

 そんな、人外であると大部分の生徒が信じて疑わぬ老齢の学園長は今、女子中等部の校舎にある学園長室で来訪者と相対していた。
 机にかけている学園長の右隣りには老け顔の教師が一人立っている。
 地味な草色のスーツ、手入れを怠っているのであろう不精髭、口にくわえた火の点いていないマルボロ。
 くたびれた大人という印象が強いが、無造作に片手をズボンのポケットに突っ込んだ何気ない姿勢には殆ど隙が見られない。

 さもありなん、彼は俗に本国と呼ばれる魔法世界《ウンドゥス・マギクス》においてAA+の戦闘評価を受ける程の卓越した使い手である。
 ぶっちゃけた話、この学園、ひいては東日本における最大戦力の二人が同じところで油断せずに目の前の人物達が驚異であるかどうかを量ろうとしているのだ。

 
「ふむ、まずは自己紹介といこうかの。
 儂は麻帆良学園の学園長、近衛近右衛門じゃ。関東魔法協会の理事も務めておる」

「“関東魔法協会”‥‥大した名前ね。
 私はキャスターのサーヴァント。こちらは前のマスターであった‥‥」

「冬木の穂群原学園で倫理と現代社会の教師をしている、葛木宗一郎という」

 
 彼らの目の前には何もかもがてんでんばらばらな、三人の男女が立っていた。
 紫色の古風なローブを羽織り、フードで顔の大部分を隠した女性。血まみれのスーツを着ている仏頂面の男性。そして‥‥何やら怯えている女子中等部の生徒。
 仕方がない。学園最強の二人の視線を浴びるなど、今まで数度、それも大勢の中に埋没している状況でしかないのだ。
 元々目立たない性質である彼女が姉と仰ぐ上級生という盾なしに他人の前に出ることが、そもそもアメリカに留学していた頃以来の経験である。

 
(うぇ〜ん、なんで私までこっちにいるんですかぁ〜?!)

 
 おそらく完全な第三者が今の状況を観察すれば、この場の主役は間違いなく彼女、実は何の罪もない哀れな佐倉愛衣だと判断することだろう。
 何せ学園長の真正面にいるのが愛衣であり、現在は彼女をマスターと仰ぐキャスターがその側に寄り添い、そのキャスターに葛木が寄り添っている。
 実際は全く状況を把握できていない上に誰の手綱も握ってはいないのだが、まるっきり手練れの従者を二人侍らせた魔法使いの図であった。

 もちろん再三になるが愛衣は全く状況を把握していない。
 ここに来ることも、姉と慕う上級生‥‥高音・D・グッドマンと、自分をマスターと呼ぶキャスターなる女性が話して決めたことだ。
 割り込みづらい会談に二人に声をかけることも躊躇われた愛衣は隣で同様に立ち尽くしていた大人の男性、葛木とコミュニケーションをとろうとして‥‥気まずくなったので早々に諦めた。

 何しろこちらの話に対して「ああ」やら「そうか」やら「成程」やら、三文字以上の返答が返ってこないのだ。初対面でこれでは心が折れてしまう。
 彼女も比較的内向的で、社交性に欠ける部分があったのだ。正直どうやってアメリカという国でやっていけたのか不思議に思われてしまう程に。

 
(お姉様ぁ、一人にしないで下さいよぅ‥‥!)

 
 一方この場で唯一の味方―――無論そんなことはないのだが、今の彼女には正常な判断力が欠けている―――である高音はといえば、部屋の隅で何やら不機嫌そうにしている。
 これもまた理由は単純明快。自惚れではなくそれなりに自信があった魔術をいとも簡単に破られてしまったのと、よりによってその女に妹分を盗られてしまったからだ。

 直情的で思い込みが激しく多少油断することも多いが、高音は年齢に比して極めて優秀な魔法使いであった。
 そも彼女が得意としている影を使った魔法は習得自体が非常に困難で、使いこなせるようになるのも長い修練を必要とする。
 影を加工した極薄の刃や操り人形。影から影へと移動する転移魔法や、相手の影に干渉することで行動の自由を奪う影縫いなど、一癖も二癖もある魔法揃いだ。
 だが高音はそういった側面もあって使用者が極めて少ない影の魔法を、比較的高いレベルで行使することができる。

 そこには確かに彼女が生まれ持った才覚というものが関係してはいるだろうが、やはりそれ以上に自らに妥協を許さない真摯で高潔な高音の姿勢が影響しているのだろう。
 世のため人のためになることを目指して努力を怠らない高音は上役である魔法先生達からも高く評価されている。今の麻帆良の看板生徒と言ってもいいかもしれない。

 だからこそ自分の魔法を児戯に等しいと言わんばかりに破ってみせたローブの女に激しい憤りを抱いているし、その女性と大事で可愛い妹分が現状セットになってしまっていることも甚だ不愉快であった。
 尤も確かに感じている憤りが嫉妬や憎悪などの黒い感情ではなく、不甲斐ない我が身に向けられているあたりは、なんだかんだで正義感の強い彼女らしさを表しているのだが。

 
「サーヴァント‥‥とは、一体何のことかね?」

「あら、大層な見てくれの割には意外と無知なのね、老魔術師。
 ‥‥いいでしょう、どうせ大した情報でもなし、いずれは知られてしまいことだしね。
 それに、まだ私のマスターにも説明が出来ていませんから」

 
 自分に礼を述べた時とは一転、見事なまでに挑発的な態度に驚いていた愛衣は突然また自分の方に視線を向けられて、びくりと身を震わせた。
 室内であるというのに頑なに脱ごうとしないローブから見えるのは、紫色に彩られた細い唇のみ。

 ともすれば下品にも見られがちな口紅は、しかし彼女に限ってはとてもよく似合っている。
 市販のものだろうか、もし機会があったら是非にも化粧のコツを教えてもらおうと、半ば現実逃避気味に愛衣は頭の片隅ど考えた。

 
「サーヴァントとは、有り体に言えば英霊よ。生前に人の身では余りある偉業を成し遂げ、仕事に民草の信仰によってその存在を精霊の域にまで高められたもの‥‥。それが私」

「英霊‥‥なるほどのぅ。つまりお主は英雄譚や伝説に出て来る登場人物とな?」

「概ね、そう考えて構わないわ」

 
 何気なく、さもどうでもいいかのように口にしたキャスターの言葉に、その部屋にいた彼女自身と葛木以外の全員が凍り付いた。
 始めに思ったのは、噛み砕いて言うと『何言ってんだコイツは?』である。少なくとも自身が英雄であると言われて素直に『あぁそうか』と頷けるわけがない。
 
 これがタカミチの旧知の人物であるナギ・スプリングフィールドが言ったなら不思議な説得力があった―――というか実際に公言して憚らなかった―――だろうが、初対面が相手ではあまりにも荒唐無稽というものであろう。
 どちらにしてもナギがもう一人いるという事態と比べれば、今の状況の方が幾分マシなのかもしれない。
 それでいて本人を憎めない辺りがあの男の人徳というものだとは思うのだが。

 
「あの、もしかして“依り代”っていうのは‥‥‥?」

「えぇ、貴女の考えている通りよ、マスター。
 基本的に死者である私は現世に留まることができない。現界しているためには生者を標とし、現世という海に錨を打ち込む必要があるわ。それが貴女」

 
 まず最初に考えを改めたのは一同の中でも最年少であるが、初めにキャスターと接触した愛衣であった。
 高音が広場にやって来る前に聞いた言葉を思い返せば、成る程、今の話にもあの時の感謝にも合点がいくというもの。
 
 知らない内に暗示をかけられて操られたことは確かに不快ではあるが、それでも結果として人一人の命が助かったのだと考えれば気分も決して悪くない。
 学園長らに見せる酷薄な笑みが少々気になりはしたが、それでも自分の方に向ける穏やかな微笑みがやけに記憶に残り、悪い人だとは思えなかった。

 ちなみにいくら裏切りの魔女たるキャスターとて、宗一郎同様、恩人に直ぐさま仇で返すような者ではないから、実は愛衣は的確に彼女の本質を見抜いていたことになる。
 もっとも当の愛衣本人はそこまで考えているわけではなく、あくまでも直感に近い結論ではあった。
 しかしやはり、優しさは優しさを引き寄せるのである。その点まだ未熟な少女は、この世界の魔法使いらしく十分な優しさを持ち合わせていたのだった。

 一方また別な方向でキャスターの言葉に信憑性を感じたのは、先程から何時でも愛衣を庇うことが出来る位置にスタンバイしていた高音である。
 彼女もまた、自らが全く感知できない催眠を仕掛けられた愛衣と同様に圧倒的なまでの実力の差を感じさせられた一人であった。
 
 たまに修業の一環として魔法先生に稽古をつけてもらうことがある彼女であったが、比べものにならない程の差を感じたのは上位の数名だけ。
 それにしたって地道に修練を重ねていけば将来的には追い縋ることができるかもしれないという程であり、紫色の魔女に感じたような、天と地ほどの差ではなかった。
 
 だからこそ彼女が自らを英霊であると自称しても、少なくとも実力に関しては相応以上であると認めざるをえないのだ。

 
「到底、信じられんなぁ。ナギの馬鹿ではあるまいし、自分が英霊だなどと言われてものう‥‥」

 
 葛木が身分証明として差し出した教員証―――IDカードのようになっている―――を確認しながら、学園長は困ったように嘆息した。
 一緒に挟まれた教員免許のコピーには一見したところ一切の不備がなく、使い込んだ跡があるために偽造と断定するわけにもいかない。
 多少時間をかければ自分の権限で本当に登録されているかどうか確かめることもできるが、何しろ時間がかかる上にさしたる成果があがるとも考えられない。
 
 何故ならこういった証明書を偽造する場合には、外見を精巧に似せるだけではなく、本当に書類から、真っ当な手段に極めて近い方法で作ることが多いからだ。
 かく言う彼自身も権限を利用して何度か行ってきたことであるし、近い内にはもう一回手配する予定もある。‥‥こちらは一先ず保留が無難だろう。

 
「では証拠を見せましょうか。‥‥ほら」

「な、なんと?!」

「消えた‥‥?!」

 
 だが怪訝な顔の老人を前にキャスターはそう言うと、次の瞬間には霞のように消え去ってしまったではないか。
 何の予兆もなく瞬時に消え失せてみせたキャスターに、学園長だけではなくタカミチも高音も瞬時に身構えて辺りを警戒する。
 
 気配遮断? 透明化? 空間転移? どちらにしても魔法の行使を疎外する特殊な結界を張ってある学園長室で、このように魔法を使うことなどありえない。
 いくら相手が途方もつかない程の実力者だと認識している高音ですら、それに関しては認めているのだ。なにせここは言わば学園長の土俵なのだから。
 
 それに例え結界の効果を振り切ることができたとしても、魔法を使ったのであれば必ず某かの反応が残る。
 だからこそ目の前で行われた霊体化という現象が、魔法によるものではないのは明らかであった。

 
「ご理解いただけたかしら?」

「ふーむ、少なくとも君が人間でないと言うことに疑う予知はなさそうじゃのぅ‥‥」

「難しく考える必要はないわ。要は、今の私は彼女の使い魔のようなものということよ」

「成る程のう。しかし、まだまだ聞かねばならんことはたくさんあるぞい。葛木君‥‥と言ったかな? 彼との関係や、どういう目的で、どうやってココにやって来たのかじゃ」

 
 麻帆良は侵入者を感知する結界によって囲われており、その結界の管理は最強の魔法使い―――諸事情あって力を封印されてはいるが、こと知識に関しては一番だ―――によって成されている。
 故に麻帆良に侵入しようとする者は尽く学園側に存在を知られることとなり、ついでに言えば結界の精度は文字通りオコジョ妖精一匹通さぬ程だ。

 だが、今回その結界は彼女達の侵入に反応しなかった。おそらく高音と愛衣の報告が無ければ当分の間は気付けなかっただろう。
 由々しき問題だ。まるで侵入を感知出来ずに、これほどの術者が麻帆良の内部に入り込んだのだ。関東魔法協会として厳粛に対処しなければならない。
 この辺りは組織としての体面やら何やらが関係するややこしい部分であるが、それらを馬鹿にして笑い飛ばすことが出来る者などいはしまい。
 世界を跨ぐ大きな勢力を持っていたとしても、あくまで魔法使い達は社会の裏を生きる人種である。
 当然ながら、社会の裏を安定して生きていくためには大きな組織の庇護がいる。影から彼らのような魔法使いを支援するために、関東魔法協会は弱みを見せるわけにはいかないのだ。
 不安要素があるなら早急に確認し、対処する必要がある。判断は慎重に的確に、それでいて万が一にも失態が外に知られない内に、だ。

 
「‥‥わからないのよ」

「ほ?」

「だから、私にもわからないのよ」

 
 しかし、それなりの舌戦や腹の探り合いを想定してひそかに身構えていた学園長その他は、さっきまでとは一転、心底困り果てた様子のキャスターに思わず間の抜けた声を漏らした。
 わからない、とはどういうことか。某かの目的を持って、東日本最大級の霊地であるこの麻帆良までやって来たのではなかったのか。
 悪意を携えた侵入者に、普段は好々爺然とした態度の学園長は一切容赦する気はない。学園を、ひいては魔法大国へと成長しつつある日本の半分を維持する者として責任を負っているからだ。
 だが一方でやむを得ない事情を持った者に対して、必要以上に強く当たるということもなかった。むしろ協力的とすら言ってもいいだろう。
 そういった特殊な事情を抱える魔法使いの力になってやるのもまた、関東魔法協会理事、つまりは麻帆良の学園長である自分の持った役目なのである。
 だからこそ、割と深刻な事情というものを想定して対応策を既にいくつか検討していたわけであるが、この答は流石に予想外であった。

 
「宗一郎様は元々の私のマスター‥‥依り代よ。私達はちょっとしたイザコザに巻き込まれていて、あのとき確かに命を落としたと思ったわ。
 でも気付いたら何時の間にかこんな一流の霊地に‥‥。何があったのが、私の方が聞きたいぐらいよ」

 
 説明が全く要領を得ていない。おそらくはキャスター自身も未だに答を模索している状況なのだろう。半ば独り言のようにそう呟いた。
 『何時の間にか』? ならば空間転移か、催眠をかけられて意識の無い内に密かに運び込まれたか‥‥。どちらにしても、有り得ない。
 そも転移の魔法は上級の術者であれば行使する者も少なくないし、それなりの設備があれば超長距離であろうと越えることができる。
 だがどちらにしても言えるのは、水や影、予め据えて置いた石碑など、何かしらの媒介が無ければ極めて困難であるということだ。

 
「私に関して言えば、霊体に過ぎないから一度再構成されたという可能性もあるけれど、宗一郎様は生身だし‥‥」

「どちらにしても麻帆良の中に転移するのは困難じゃし、成功したとしても結界には引っ掛かる。どうにも合点がいかんのう‥‥」

 
 更に言うならば、関東魔法協会の本部とも言える麻帆良が、転移による侵入に対して備えをしていないはずがない。
 許可されている者以外の転移は幾種類もの結界によって妨害されるし、よしんば突破されたとしても突破されたという事実はしっかりと確認できるはずなのだ。
 そも術としての名称は空間“転移”であるが、現実空間である三次元においては確認できずとも、何処かしらを経由して移動しているということは研究論文でも示されている。
 それを感知すらできないのは概ね一つしか考えられない。則ち別世界からのジャンプ、魔法世界《ウンドゥス・マギクス》を経由しての転移である。

 
(しかしまぁ、冬木という地名からして日本国内じゃしのぅ‥‥)

 
 宗一郎から渡された教員証その他の身分証明書を確認すれば、そこにはしっかりと西日本の某県の住所が記載されていた。
 もとより現実世界と魔法世界を繋ぐゲートは全てが確認されており、今のところゲート以外を使った行き来は報告されていない。
 甚だ理解に苦しむことではあるが、おそらく魔法世界を経由したという可能性は0に近いだろう。

 
「ではお主らは事故という形で麻帆良にやって来た、こういう解釈で構わんかの?」

「そうね、何者かの意図が働いているという可能性も否めないけど、今のところはそう考えるのが自然かしら」

「何物か‥‥。その辺りは追々調べていく必要がありそうじゃな」

「私達に何かを出来る者というのもあまり想像できないけどね」

 
 結論自体は簡潔だが、問題はそこまで簡単ではない。なにしろ殆ど全てのことが曖昧で推測の域を出ず、麻帆良に害なす可能性も完全には払拭されていない。
 だが少なくとも今は互いに同じテーブルに座り、取引というよりは協力して議論するという形で交渉を行っている。
 長年の経験に照らし合わせて相手を見るに、確かに扱いにくい要注意人物であろうが、今のところ敵対というスタンスをとる必要はなさそうだ。
 部屋の隅に待機してじっと黙っている高音が異様に身構えて警戒していることからも伺えるキャスターなる女性の実力を―――多少は高音の過大評価と考えるにしても―――鑑みるに、懸念が少し和らいだといってもいいだろう。

 
「ところで今一つ聞いておきたいのじゃが、お主らが巻き込まれとったイザコザというのは―――」

「プライベートよ。慎みなさい」

「‥‥いや、そうではなくての、お主らが麻帆良に来たことでソレがこちらに飛び火してくる可能性はないか、と聞きたかったんじゃ」

 
 そう、彼女達自身に害意がないと分かった以上、学園長はそれを一番懸念していた。
 自らを英霊と自称する彼女程の手練れが不覚をとるまでの事態。例えばの話だが、もし葛木教諭の傷の下手人が彼らを追い掛けて麻帆良までやって来たりすれば‥‥。
 普段から相手している侵入者達とは比べものにならないぐらい厄介な相手となる。こちらとしても、それなりの用意が必要だ。

 ちなみに学園長の頭の中に、厄介事を嫌って彼女達を追い出してしまおうなどという、ある意味では至極真っ当な考えはない。
 魔法使いとは須らく力を持たない者の助けになるべきであり、関東魔法協会という組織になってもその行動理念は変わらない。
 命の危険すらある程の窮地に陥っている人間を見捨てるなど、『立派な魔法使い《マギステル・マギ》』のすることではないのだ。
 請われれば保護もするし、組織として、近右衛門個人としても出来る限りの援助の手を惜しむつもりはなかった。

 
「あぁ、おそらくそれはないわね。というよりも数日で騒ぎは治まるでしょう」

「ほ、それは本当かの?」

「ええ、おそらくは。‥‥何事にもイレギュラーはあるから断言はできないけど、ここまで影響が及ぶことはないと考えて構わないわ」

 
 冬木の地で巻き起こった第五次聖杯戦争は、キャスターが離脱した時点でセイバーとランサーの二騎のサーヴァントを残すのみ。
 本来なら残ったサーヴァントが一騎となった段階で万能の願望器たる聖杯が現れるから、残った二人の性格を考えればあの時点で聖杯戦争は殆ど終わったと断言しても構わない。
 少なくとも二人とも正面切っての勝負を好みとしているようだから、あれから時間をおいて戦うということもないだろう。
 遅くとも数日で勝負はつくと考えて間違いない。それ以上は考えられないのだ。
 
 だがキャスターが気にかかっていたのは、最後に自分達に攻撃を仕掛けてきた金色の鎧を着た男。
 あれ程の力を持った存在、サーヴァントとしか思えない。ならばあれ以降も、間違いなく冬木の街は波乱に充たされたことだろう。

 
「ふむ、では次の問題は君達をどうするかじゃな」

「どうする? ‥‥まさか、貴方達程度で私達をどうこうするつもり? 身の程を知りなさい」

「な、何を勘違いしとるんじゃ?! 儂はお主らに危害を加えるつもりはないぞい!」

「あら?」

「まったく、その好戦的な態度をどうにかせんと、余計な誤解ばかり生むぞい」

 
 次々に変化する状況に些か神経過敏になっていたキャスターが学園長の言葉に反応し、二階分程の吹き抜けを持つ大きな学園長室に濃密な殺気が立ち込めた。
 すかさず今まで一切会話に参加せずに事態を静観していたタカミチが両手をズボンのポケットに入れて身構え、高音も高音なりに杖を構えて戦闘に備える。
 一方すかさず諸手を挙げて降伏の態度を示した学園長は、実は一同の中で一番賢明であった。

 実力差を察して無駄に終わる戦いを諦めたというわけではなく、単純に戦わなくて済む相手とわざわざ戦って誤解を深める愚を犯したくなかったのである。
 まぁ実際問題として彼ぐらいの術者であれば、最終的な勝敗は揺るがないとしても、キャスターと戦っても程々に良い勝負にはなる。
 そういうこともあって、他の二人よりは幾分余裕があったということもあるのだが。

 ちなみにキャスターの言った“私達”の括りの中にちゃっかり入れられてしまった愛衣はと言えば、今すぐにでも意識を手放してしまいたいとでも言いたげに目の端に涙を浮かべて震えている。
 彼女としては知らない内にではあっても人助けをしただけのはずなのに、先程から理不尽な状況に置かれて踏んだり蹴ったりの気分だった。

 
「つまりじゃな、お主達が望むなら冬木までの交通の手配をするぞい、と言いたかったんじゃ」

「冬木まで‥‥?」

「うむ。まぁちょっとした事情聴取には付き合ってもらいたいから、今すぐというわけにはいかんがの」

 
 さて、ここは非常に考えどころである。
 今の冬木に戻ったところで、確実に聖杯戦争が終わっているとは限らない。もし続いているところに飛び込んでしまえば、地形的有利がない状態で戦闘を行わなければならない。
 また例え聖杯戦争が終わっていても、あのような土地で英霊である自分が現界しているのは非常に危険であるし、何より今のマスターの都合もある。
 当然ながらサーヴァントはマスターから遠くは離れられないから、もし冬木に戻るとすれば隣ですっかり怯えてしまっている純朴な少女にもついてきてもらわねばならない。
 一見したところココに通っている学生のようであるし、それは叶わないだろう。なにより戻るメリットが全くと言って良い程になかった。

 いや、強いて言うなら隣で普段と全く変わらず立ち尽くしている、元マスターの方が問題か。
 この世に属さぬ自分と違い、彼は冬木の街で教職に就いている身である。仕事があるのだから、彼だけは元の地へ戻さなければならない。
 何より彼とは契約の際に、彼の普段の生活を乱さないようにと命令されている。自分勝手な我が儘に突き合わせることは忍びない。

 だが道理として彼を帰さなければと思う一方で、どうしても、万難を排してでも最愛の人と一緒にいたいと思わざるを得なかった。
 言うなればこれは後にも先にもない大きなチャンスである。聖杯を求めなくとも、戦わなくとも彼と一緒にいられるかもしれないのだ。
 どういうわけだか知らないが、本来なら大聖杯のバックアップがあってこそ現界が可能なこの身が、マスターからの僅かな供給だけで存在出来ている。
 これなら聖杯に受肉を願う必要もなければ、他のサーヴァントと戦い必要もない。
 英霊であるこの身を狙う魔術師がやって来るかもしれないが、平穏に過ごせば可能性は低くなるし、大源が濃いこの霊地ならば魔術行使にも問題はない。
 また、マスター二人に彼の素性を知られてしまっている以上、向こうの状況がわからないままに帰していいのかという懸念もあった。
 いや、理屈をこねるのは止めよう。とにかくもし彼がこの地に留まることを了承してくれさえすれば、自分が切ない程に望んだ、ささやかで平穏な生活を遂に手にすることができるかもしれないのだ。

 愛する人と一緒に居たいという何物にも替えがたい望みと、愛する人のためにこそ一緒にいてはいけないのではないかという考え。
 矛盾する二つの思考に結論を出すことができず、キャスターは宗一郎の方を向いた。

 
「宗一郎様‥‥」

「‥‥お前の考えを言うがいい」

 
 血に汚れた渋い緑色のスーツ。自分と関わらなければ彼が傷つくことはなかったはずだ。
 それを悔やむ気持ちもある。それが嬉しい気持ちもある。悪いことなのかもしれないが、彼が自分と一緒にいてくれている証明だとも思った。
 だからこそ、彼といたいというのが自分だけの気持ちであると負い目を感じていたこともある。
 彼の優しさは嬉しさで体が痛いくらいに感じていたが、まだ不安。もしかしたらそれこそが自分の業なのかもしれないが。
 だから正しく進退窮まるところで、自分では判断がつかなかったのだ。

 
「私は、お前の考えに従おう」

「ですが宗一郎様、本当によろしいのですか‥‥?」

「構わん」

 
 言葉は少ない。だがしかし、宗一郎は決して考えもしないでこの言葉を言ったわけではなかった。
 再三になるが、彼は只求めていた。
 自分に存在する価値をもたらしてくれるもの。自分が死ぬ瞬間に、あぁ、これこそが自分がこの世に生まれて来た理由だったのだと納得できるもの。
 ただ一つ、その答えだけが欲しかった。その答えだけを求めていた。
 今まで惰性ながらも淡々と生きてきたのはその為にだけ。そしてそれは、今までの人生で得ることはなかった。

 だが一月弱ほど前に彼女、キャスターに出会い、彼はそこに何かを見いだした。
 それは本当に些細なもので、それでも今までの人生の中で僅かに彼の琴線に触れたもの。
 始めこそ『美しい女であった』という理由であったそれは、共に日々を過ごす内に別の感情へと変わっていく。
 それが俗に言う恋や愛なのであるかは彼のあずかり知らぬところであったが、それでも彼の感情に僅かでも揺らぎを生んだことだけは間違いない。

 本当に少しずつ、非常に不確かなものではあったが、彼は何かを掴みつつあることを感じていた。
 今まで全く掴むことが出来なかったものへの手がかりは、紛れもない彼女であるのだろう。
 ならば彼女と共にいるべきだ。いや、いたい。この感触、感情の答えを知りたい。

 実際にはそこまで明確な思考ではなかったが、それでいてやっぱり明確な思考の結果として、宗一郎はキャスターの言葉に頷いた。
 思考の流れとしては目的に行き着くまでの合理的な過程であったのかもしれないが、同時に理屈ではない感情を抱えていることも自覚している。
 つまるところ彼は常に岸の見えない海の中でもがいていて、今も尚もがき続けているのだ。
 断じて機械などではなく、それでいて人間であるのかも確証ができない。
 本当は先程不確かだと断じた、恋や、愛の類の感情を覚えているかもしれなかったが、それを断言できる人間ではなかった。
 ある意味では互いに求め合っている、非常にお似合いのカップルである。

 
「ありがとう、ございます‥‥」

 
 おそらくそれは、自分を必要としている者のためにあろうとする優しさの一種でもあったのだ。
 だからキャスターは葛木の意志を感じて、先程までの高圧的な魔女の態度とは一点、涙を流して俯いた。
 喜びと、申し訳なさと、やはりソレを遥かに上回る喜び。
 長い年月と過酷な生涯を経て漸く安住の地を得た嬉しさが、大勢に裏切られて漸く手に入れた愛する人から受けた優しさに対する嬉しさが、それらが流させたとても綺麗な涙だった。

 
「‥‥私は依り代であるマスターの傍を離れることが出来ないわ。冬木には戻れない」

「ふぉっふぉっふぉ。成る程、確かに道理じゃのう。ではどうするか‥‥」

「出来れば人としての身分を与えてくれるようなら良いんですけど、貴方にはそこまでの権限があるのかしら?」

「ほ、そりゃちぃと儂を過小評価しすぎじゃい。お主ら不審人物二人ぐらいの戸籍なら、ちょちょいっと弄るコトぐらい簡単じゃ。まぁ麻帆良の中に限定されるがの」 

 
 人前である為かすがりつくことはしないで暫く涙を流していたキャスターが顔を上げてそう告げると、近右衛門は嬉しそうに髭を撫でると考え込んだ。
 彼女は要注意人物ではあるだろうが、この様子を見れば問題はあるまい。ここまで綺麗な姿を見せられてはそう思わざるをえない。
 さて、彼女がそう望んでいる以上、二人を麻帆良に迎える事に関して積極的に考えなければならないだろう。
 このような魔法使いに職を手配してやるのも関東魔法協会の仕事だ。もちろん出来る範囲でという話になりはするが、利便を図ってやることに吝かではなかった。

 ちなみに空気が一気に穏便になった為、愛衣と高音は互いに少しずつ距離を詰めて漸く隣同士になっていた。
 彼女達とて日々『立派な魔法使い《マギステル・マギ》』を目指して修行しているとはいえ、年頃の少女。
 目の前でここまで綺麗な涙を見せられてしまっては、多少歩み寄らざるをえない、歩み寄ってしまうところがある。
 とりあえず一番嬉しかったのは険呑な空気が和らいだことであるのだが。

 
「ふむ、しかし流石に直ぐに職を用意してやるわけにはいかんな。詳しい事情聴取の準備もあることじゃし、明日にでもまたココに来て貰っても構わんかの? 今夜はこちらでホテルを手配しよう」

「‥‥構わないけど、当然黙秘権はあるんでしょうね?」

「勿論じゃ。まぁそう堅苦しいものにはならんよ。ココの最高責任者は儂じゃからな」

 
 涙を見せたことが恥ずかしいのか、ローブの袖で口元まで覆ったキャスターが不機嫌な声で言う。
 本来の彼女は非常に純真な少女であったのだが、残念なことに長年魔女と呼ばれ続けたためにしょうねが多少曲がってしまっていた。
 その曲がった部分だけ見ていれば性悪の魔女であったのだろうが、宗一郎との会話で見せた涙から本来の性格の一端を察してしまった以上、むしろ魅力的な仕草に見えてしまう。
 弱みを見せないのが交渉の基本であるのなら、戦況は先程までとは一転まるきり学園長側に有利であった。
 もちろん戦力としてキャスターの側が勝っているから学園長も調子に乗ることはなく、だからこそ逆に彼女にとって不幸なことに、戦況はこれ以上ゆるがないのである。

 
「高音君、愛衣君、悪いんじゃがキャスター君と葛木君を駅前のホテルに案内してくれんか? 君たちが到着する頃までには部屋の手配をしておこう」

「了解しました。行きますわよ、愛衣、お二人とも」

「は、はいっ、お姉様!」

 
 少しだけ警戒を解いたらしい高音の先導で、愛衣に寄り添うようにキャスターが、キャスターに寄り添うように葛木が学園長室を出て行く。
 最後に扉を閉める時に葛木が静かに、それでいてしっかりと謝意を表して頭を下げていったのが印象に残った。
 成る程、色々と多少の些細な懸念事項はありそうだが、一先ず人柄自体に問題はなさそうだ。
 教員として務めていた経歴も長そうである。最近とみに不足しがちな教員達に少しだけ楽をさせてやることができるかもしれない。
 まだまだ最終的に判断を下す程には信用できないが、今は学園側に害を為す意思がない以上は、新たな魔法関係者が一人麻帆良に入ってきただけのことだ。

 
「高畑君、中等部の社会の先生が一人、定年退職したんだったかのう?」

「えぇ、ちょうど良いですね。彼なら広域指導員も任せることができそうだ」

「ほ? どういうことじゃ?」

「隠しているようでしたが、彼は中々の使い手です。正中線にブレがなかった‥‥」

 
 真っ直ぐに立つということは存外難しい。
 そもそも人間の臓器は左右対称に配置されていないし、腕や足の長さも左右で違う場合がある。
 砂漠で真っ直ぐに歩くのが如何に困難であるかというのは有名な話であろうが、歩き方、立ち方も似たようなものがある。
 手練れのタカミチの目から見ても、葛木の立ち方、歩き方は完璧と言って良い程に完璧なものであった。

 正中線を保つというのは、武術において非常に大事なことである。
 例えば琉球王国に伝えられていた武術の秘伝にもそういうものがあるし、人体の急所も正中線に集中している。
 しかし習得が非常に難しい上に効果が地味―――一見するとわからない―――なために、しっかりと修行しようとする者は少ない。
 もとより完璧な歩き方、立ち方などというものは生半可な修行で手に入れられるものではないのだ。

 だからこそむしろ彼が警戒していたのは、一見して脅威と分かるキャスターよりも一般人に見えがちな葛木の方であった。

 
「コチラでどのぐらい使えるか分かりませんが、少なくとも一般人としてはかなりの手練れと見えます」

「君にそこまで言わせるとは‥‥。ふむ、色々と調べなければならんことが増えたか」

「冬木、でしたか。至急調査をさせます。西は麻帆良の影響力が及びにくいですから、直ぐというわけにもいきませんが」

「わかっておる。まぁ必要以上に焦ることもないわい。大したことではなさそうじゃ」

 
 だが一度下した評価自体は揺るがない。過去に何があったとしても、今の人柄で彼は評価する。
 例えばそれは世間では凶悪犯と通っている真祖の吸血鬼についても同様であり、彼女達についても同じであった。
 生徒達からはとても信頼されているというわけではないが、それでも彼には長年の経験から得た判断力がある。
 それを知っているタカミチもまた彼の判断を信用して、会談中は一切手を出そうとしなかったのだ。

 これが新たな問題を呼び込むのか、それとも何も起こらないのか‥‥。
 神ならぬ人の身では、自分の判断を信じて進んでいくしかない。
 とりあえず今は彼女達に与える仕事の選別をしようと、学園長は彼の秘書も兼任している魔法先生を呼び出したのであった。

 
 
(あとがき)

 キャス子って実は凄いんだぜ! と信じてやまない奴は手を挙げろ!
 段々勢いが無くなってきてますが、ご愛敬(笑)。
 とりあえず色々と説明足りてませんが、そこは次回以降に回しました。
 ではまた次回にお会いしましょう!

 



[16654] Prolouge~4
Name: 夏色◆7f18a936 ID:a133e63c
Date: 2010/03/03 20:38
 

 
 麻帆良は一つの学園としては実に巨大な土地面積を所有している。
 大学、高校、中学単体ならばもっと広大な敷地を有する学校もあるだろう。特に畜産・水産系の学校のそれは麻帆良を裕に上回る。
 だが多種多様の学校施設を多数内包している麻帆良は、完全に一つの街を、否、むしろ国を形成しているとすら言ってもいい。
 同面積、同人口の他の街に比べて、閉鎖性が強いのだ。さしずめ学園都市という関係者以外を排斥する名の城壁に守られたヨーロッパの都市といったところだろうか。
 実際に城壁で守られているわけではないが、そういった事情もあって、麻帆良に住まう生徒達をはじめとした人々は、自らの快適な学園生活を謳歌している。

 さて、何度かした覚えのある話ではあるが、そんな麻帆良には生活に必要なものから必要でないものまで、こと公序良俗に反しない限り大概の施設が揃っている。
 実際問題として、基本的には関係者以外の出入りはご遠慮下さいとは言っても人の出入りが無くなってしまうわけではない。
 全寮制なのは中等部からだから麻帆良学園の敷地外から通ってくる人もいるわけだし、街の中に店やら何やらがあれば仕入の業者もやって来る。
 研究室には企業の人間もやって来るし、麻帆良への新規参入を狙うなら営業や調査のためにも足を運ぶだろう。まぁ、そういうのは滅多に許可されないが。

 で、そのような来客達が泊まるための施設というのも、当然ながら麻帆良の中にはいくつかある。
 何しろ学舎には応接室はあっても寝泊まりできるのは守衛室ぐらいだ。学校の種類が多ければ来客もそれぞれ合わせて多くなり、それなりのホテルが必要となるのも道理というもの。
 麻帆良祭の期間などにはそれこそ泊まり込みで我が子の活躍を見ようと意気込む両親祖父母によって予約が殺到した過去もある。
 結局それが原因で色々と制限を設けることになったのだが、それはまた別の話。とにかくそういった経緯のため、麻帆良中心部の駅前には立派なホテルが建っている。

 さて、麻帆良の中心部へと向かう道に、草木も眠るかという時間にも関わらず幾つかの人影が見えるだろうか。
 人影の数は四つ。輪郭からその内の三人までもが女性であることは明白だ。
 普通なら用事があっても翌日に回してしまうかという時間だというのに、迂闊に過ぎる。いくら麻帆良の治安が良いといっても婦女子のとる行動ではない。
 まぁタクシーが常駐しているわけでもなし、終電が終わってしまったのだから仕方がなくはあるのだろうが、これは麻帆良の中だからこその光景である。
 麻帆良という、ある意味での箱庭から出れば、いくら法治国家日本であっても危険はそこら中に転がっている。だからこそ、麻帆良の中でも迂闊な行動は慎むべきなのだ。

 もっとも彼女達に限って言えば、たとえ麻帆良の外であろうとそのようなことに巻き込まれたりはしない。特にその中の一人について言えば、むしろちょっかいを出した相手をこそ心配するべきだろう。
 だから、というわけではないだろうが、彼女達は一切の人気がない辺りの様子に怯えたりせずに言葉を交わしていた。

 
「はー、万能の願望器を奪い合う殺し合い、ですか‥‥」

「私と宗一郎様は終盤まで生き残っていたのだけれどね、結局は負けちゃって、この様よ」

「キャスターさん程の方でも負けるなんて、凄い戦いだったんですね」

 
 今、話をしているのは隣り合って歩く二人である。
 主に自分達の境遇について話していたのは、紫色の古風で優美なローブを羽織った女性。フードで顔を隠してはいるが、声を聞き、口元を見ただけで誰もが美人と称えるだろう。
 そして女性の話を聞いて相槌を打っているのは彼女よりは幾分小柄な少女。花も綻ぶかというくらいの年頃の目立たない顔をしてはいるが十分に整っており、共学ならば間違いなくクラスのアイドルだ。
 彼女にとって不幸だったのは、普段から接している同性が―――姉と慕う上級生を筆頭に―――尽く美人もしくは美少女と称されるだろう人達ばかりだということか。
 そんな自分に引け目に似た感情を抱いている彼女‥‥佐倉愛衣であったが、実は共学であったアメリカ留学中は密かに人気があったのだということは、これまた不幸なことに全く与り知らぬことであった。

 
「それって本当に何でも願いが叶うんですか?」

「理論上はね。まぁ過去に都合五回行われた聖杯戦争で明確な勝利者が出たかなんて私の知るところではないから、実際に手にしてみなければ分からないわね」

「願い事かぁ。私なら何を願おうかなぁ‥‥」

「さしずめ世界平和、あとはスタイルがもっと良くなりたい、といったところかしら?」

「わ、私そんなこと願いませんよっ?! そりゃお姉様みたいに‥‥ブツブツ」

「フフフ」

 
 彼女‥‥キャスター達が発見された世界樹の前の広場から学園長室までの道行きで、麻帆良についての説明はあらかた終わっている。
 あまりにも広大な敷地を有する霊地に一般人が普通に住んでいるという事実にキャスターは目を見張ったが、今の時代では自分の常識では計れない何かがあるのだろうと納得した。
 そもそも世界の人口そのものが非常に増加しているのだ。霊地であろうと人が住める場所であるならば、そこに皆が住み着くのも道理だろう。

 キャスターは神代の人間であるが、現代社会について知識がないわけではない。
 大聖杯によって現世に召還された際に、どういう理屈だかは知らないが現代社会についての知識を与えられているのだ。
 その種類は公序良俗や常識をはじめとした日常生活から、基準は不明だがある程度の政治経済、地理歴史、魔術関連の情報なども含まれている。
 果ては最近流行の服装や趣味の動向など誰がどういう選び方をしているのか全く解らない。
 その知識に照らし合わせて、彼女はそれでも現代について色々と思うところが生じるのを抑えられなかった。


「それにしてもそんな大変なものが日本にあったなんて‥‥。どうして関東魔法協会が気づけなかったんでしょうか‥‥?」

「ソレがどういう組織かは知らないけど、第一級の魔術儀式ですもの、外部に漏れないように秘匿が完璧にされていたのかもしれないわ」

「秘匿、ですか。確かに西の方のことはよく分からない部分が多いっていうことは聞きますけど」

「私も日本のことは殆ど知らないからね。もしかしたら貴女達のずっと上役の方では何か取引でもあるのかもしれない。まぁ知ったことじゃないけれどね」

 
 そんなキャスターの話を聞きながら、愛衣は感心と驚愕と恐怖とを一度に感じていた。
 万能の願望器というトンデモな代物への感心。キャスターの言うように英雄達を現世に一時的にでも蘇らせるというスケールの大きさに対する驚愕と憧憬。
 何よりソレを巡った生々しい殺し合いという、自分達が育ってきた世界とは真逆の在り方への恐怖である。
 なにしろ自分達、現実世界に住まう魔法使いはすべからく世のため人のために力を振るうべし、と教わってきたのだ。
 その魔法使い達が自分の我欲を満たすために殺しあうなど、もはや現実離れとしているという感想が沸いてくるほどにありえない話であった。

 もちろん良くも悪くも箱入り娘である彼女達は知らないことであるが、実際はこの世界の魔法使い全てにそういった信条が当てはまるわけではない。
 傍目には我欲や縄張り意識のみで関東魔法協会との協調を拒んでいると見える関西呪術協会は別として、世界に散らばる魔法使い達もそれなりの数が私利私欲のために自らの力を行使している。
 たとえそれが魔法使いであっても、人間が集まる以上は現実社会とまるっきり変わった社会が構築されるということはないだろう。
 なにしろ使う力は別物とはいえ、その頭は同じ人間だ。同じような思考手順を踏めば、同じような社会が形成されるのは道理である。

 
「‥‥信じられないですね。我々力持つ者は、力を持たない者の為に力を振るうべきなのです。私利私欲のために、あまつさえ殺し合いなどという手段を使って争うとは‥・嘆かわしい!」

「お姉さま‥・」

「あらあら、これはまた随分と純粋な心をお持ちなのね、貴女は」

「‥‥どういうことですか」

「いえ別に。まるでお伽噺のヒーローみたい、なんて思ったりしてないわよ?」

「思ってる、と言外に表れているではありませんか‥‥」

 
 と、愛衣が考えていたこととまるっきり同じ、つまるところ模範的な答えがやや前方から上がった。
 キャスターの隣に連れそう宗一郎と同じく言葉を発することがなかった、高音・D・グッドマンだ。
 学園長からキャスターと宗一郎を駅前のホテルへと連れて行くように命じられた彼女は、一同を先導すべく一番前を歩いていた。
 不機嫌を隠しもしないでキャスターと愛衣の話をじっと黙って聞いてはいたが、ここに来て遂に我慢ができなくなったのである。
 その理由はもはや語る必要もあるまい。
 紫色の魔女が語る内容は、まだ融通の利く愛衣ならともかく、あまりにも潔癖で高潔で崇高な志を持った彼女にはとても反論せずに耐えることができなかったのだ。

 若さ故か、未熟からか、それとも胃の中の蛙であるからか、情熱と義務感から湧き出た言葉に対する反応は、三者三様であった。
 
 まず無反応だったのがキャスターを挟んで愛衣と正反対を歩いていた宗一郎。こちらは特筆すべきこともない。いつもどおりの態度だからである。
 キャスターに対しては多少能動的な行動を起こさないでもないが、基本的に彼の姿勢は果てしなく受動的だ。
 請われれば面倒な仕事でも文句ひとつなく引き受ける態度はかつての生徒からは尊敬を、他の教員からは感心と感謝を向けられていた。
 今回の高音の台詞は反応する必要性を感じなかったのか、チラリと視線をやっただけで無言である。

 逆に積極的な反応を返したのが高音の従者である愛衣。こちらは尊敬する上級生の正義を目指す力強い言葉にすっかり惚れ直したと言った様子だ。
 目をキラキラと輝かせ、両手を胸の前で組んで高音の方に視線を寄越している。言葉に出すなら『一生ついていきます!』といったカンジだろうか。
 もとより彼女は様々な経緯と敬意を経て、高音の人柄と信念に惚れ込んで慕っている身である。
 今回の高音の発言はまさに彼女の尊敬の琴線を直撃し、このように感動しているわけだ。

 一方のキャスターの反応は正反対のベクトルを向いている。なにしろ彼女と高音達とでは在り方からして全く異なるのだ。
 彼女は高音達とは違い、基本的には誰かのために魔術を行使することはない魔術師だ。魔術師とは大概が利己的な生き物であり、己の力を善意で行使することはない。
 そも己の魔法を目的のための手段と解釈している高音達と、魔術そのものを探求している魔術師の間には、非常に深くて暗い溝がある。
 高音達、麻帆良の魔法使いは魔術師達を我欲に塗れた利己的で不愉快な連中だと責めるだろうし、魔術師達は高音達を学問の道から外れた俗物と嫌悪するだろう。
 どちらが正しくてどちらが悪いということではなく、単純に互いの認識が異なっているが故に相入れないのだ。

 もっともキャスターに関して言えば、自身のためだけに魔術を行使するというわけではない。厳密に言えば彼女は魔術師ではないのだから。
 そもそも神話の時代に生きた彼女は、生来からして魔術を秘匿するという考えはないはずなのである。なにせ彼女が生きていた頃には当たり前のように神秘が辺りに転がっていた。
 神秘は秘匿すべしという考えは、魔術師のサーヴァントという括りの中に当て嵌められた彼女に聖杯が半ば催眠のように与えた知識なのである。
 聖杯戦争という儀式を作り上げたのが現代の魔術師であったのだから、魔術師のサーヴァントとして召喚された彼女は神代の住人であるにも関わらず、限定的ながらも現代の魔術師の常識に縛られているともいえる。

 彼女は魔女だ。それは周りの人間に請われ、利用され、捨てられ、振り回される運命を背負っている不遇の女性。
 どちらかといえば悪い意味だが、他者に力を与えてやるということに関して言うならば、実は高音達と同類項なのだ。

 
「いいですか、世界には力を持たない為に理不尽な生に苦しむ人々が溢れています。私達は偶然ながらも力を得る機会を得て生まれました。ならば得た機会を使い、そのような人達を救うために常に努力し続けるべきなのです」

「‥‥まだまだ現実を知らないから言える台詞ね。その自信がいつか粉微塵に砕かれる日が来ると、貴女は理解しているのかしら?」

「だとしても、それは今ではない。ならば私は私の信念を信じて歩き続けます」

「‥‥貴女の行く末が楽しみね。願わくば挫折を味あわんことを、貴女の為にも祈っているわ」

「私は失敗を怖れません。成功よりも失敗こそが、未熟な私の糧となるのですから」

「そういう意味で言ったんじゃないのだけれどね。まぁいいわ」

  
 キャスターの実体験を踏まえた意地悪な問い掛けにも、高音の凜とした表情は一切揺らぎを見せなかった。
 全く後込みすることなしに言い切った台詞は確かに確たる信念と情熱に満ち溢れたものであったが、全く調子が変わらなかったことから逆に彼女の未熟さが見受けられる。
 それは確かに悪いことではあったが、責められることでもない。誰もが最初から完璧なわけではないのだから、評価は彼女のこれからでされるべきだ。
 かつては自分も箱入りのお姫様であったと自覚するキャスターも、だからこそ必要以上に高音を虐めようとはしなかった。

 
(フフ、純心なマスターと違って虐め甲斐のあるお嬢さんね‥‥)

 
 ‥‥訂正。やっぱりSっ気の多い元王女様に死角はなかった。適当なところで逃げた方が安全と思われる。
 プライド、信念、高潔な性格、容姿。どこぞの並行世界でキャスターの玩具になった騎士王に似ていなくもない。

 
「‥‥私は貴女にも不満があるんですよ。あれほどの魔法を使える力を持ちながら、どうして人々のために役立てようとしないのですか?」

「‥‥高音、といったかしら? 私も貴女、というよりは貴女達に色々と文句があるわ」

「?」

 
 今までと同じような説教臭い高音の台詞にキャスターのこめかみがヒクリと動き、遂に鋼で出来た勘忍袋の緒が切れる。
 国内とはいえ麻帆良が今までいた場所とかなり離れていることに加え、魔術協会の影響力が及びにくいという事情も加味して我慢していたが限界だ。

 郷に入っては郷に従えという言葉は十分以上に承知してはいたが、キャスターはこと魔術に関しては自分が祖に近い場所にいると信じて疑わない。
 そも欧州から中東までに限定しても、神秘には様々な種類‥‥流派とでも呼ぶべき流れというものが存在する。原型となった神話や英雄譚にしても同様だ。
 だがソレも際立った特徴というのは独自色の強い小手先の技術に現れることが多い。例えばキャスターの使用するヘカテの魔術は人の心への干渉や、魔法薬の作成が特徴である。
 
 しかし、いくら派生して進化したとしても大元となる神秘は一つ、“根源”だ。各流派に共通点の多い魔術の本流など辿れるものではない。
 これに関しては魔術師達の総本山の一つである時計塔で議論がなされたことがあるそうだが、あちらこちらの教授やらロードやらが喧々囂々、口角泡を飛ばして半ば怒鳴り合いに近い議論をしても結論が出なかった。
 結局は“全ての歴史を知る”ことで根源に到ろうとしていた位階の高い魔術師が『テメーら専門じゃねぇんだから引っ込んでろ! 黙って儂に任しときゃえぇんじゃい!』とか言って治めたとか何とか。
 もちろん研究成果を秘匿したがる魔術師達のこと、噂話未満の話だから眉唾モノだが、それぐらいに共通性があるということなのだ。

 つまり、例えばキャスターが高音の影を撃退してみせた地水火風の元素変換系の魔術についてならば、古ければ古い程に凄いものだ、という漠然とした評価基準がある。
 そして彼女が生きていた時代とは、乃ち未だに神々が存在していた遥か神代の時代である。キャスターには先達として、希代の魔女としてのプライドがあった。
 ちなみに彼女が扱う高速神言という特殊な技法は厳密にはヘカテの魔術ではないのだが‥‥割愛。

 とりあえず今は先達として、後輩達が先程から浅慮にも度々口にしているカンに障る戯言について苦言を弄さなければならない。
 確かに言語学の発達にも似た系統樹というものが神秘にもあるから、極東の島国の組織に所属している彼女達が、自分がカテゴライズするところの“魔術師”とは限らない。
 だが自分のやや前を歩く金髪の少女が詠唱に用いたのはラテン語だ。ならば少なからず魔術師としての常識が備わっていなければ嘘だろう。

 
「さっきから随分と軽々しく連呼してくれているけど、私の使ったアレは魔法ではないわ」

 
 今にもキレてしまいそうな苛々を、かろうじて残った鋼鉄の自制心で押さえ込んで言葉を紡ぐ。
 実際問題として、彼女はそれなりに寛大な精神を持ち合わせていた。傲慢なイメージばかりがつきまとうが、本来の彼女は気配りの効く良妻賢母である。
 残念なことに尽くせば尽くす程に煙たがられてしまうぐらいに愛が溢れ出しているため、今まで傍にいた男達は揃って逃げ出してしまったが。
 彼女が魔女として悪名を轟かせるようになったのも、そういったことが起こりすぎてしまったということに一抹の原因があった。
 惚れた男が全て自分を捨てて逃げ出してしまっては、そりゃトラウマにもなるし自暴自棄にもなるというものだろう。

 そういうわけで今の彼女は、安息の地と愛を受け止めてくれる唯一無二の良人を得たことでかなり精神的に余裕が生まれていた。
 例えるならばメディア絶好調。いけいけゴーゴーといったカンジである。
 陰鬱とした性根は長い人生の内に捻れ凶がってしまっていたものだから早々簡単に矯正は出来ないが、少なくとも張り詰めていた糸は緩んでいる。
 故に一緒に夜道を歩く未熟な少女達が自分たちの行使する神秘をどのように呼称しようが、まぁ文化の違いとして許容してやることができていたのだ。

 しかし、こと自分の行使した“魔術”を“魔法”と呼称されることだけは我慢がならない。
 確かに彼女は厳密に言えば魔術師ではないだろう。根源の探求をしていないからだ。
 だが現代の魔術師としての常識を植え付けられたこともあるが、根本的に魔術と魔法の違いを理解し、魔法使いには畏敬に近い感情を抱いているのもまた事実。
 彼女自身の能力は魔法使いにひけをとらない、もしくはそれ以上であるが、彼女はそれでも“魔法使い”たりえない。
 だからこそ自分の行使する魔術程度のものを、魔法と呼称されるのは不愉快極まることであったのだ。

 
「魔法じゃない‥‥? まさか、あれは気を使った技だというのですか?」

 
 自身、および周囲の魔力を用いて奇蹟を起こす魔法と異なり、この世界には自身の体内から生じる生命エネルギーのようなものを使った気という技術が存在する。
 基本的に魔法は頭、気は体と言われるように、多少の才能さえあれば魔法の方が習得が容易という話もあるが、本質的には似たようなものだ。
 
 だがココで一つの問題が生じる。
 自分の体だけではなく世界中に大気のように存在する魔力を使って奇蹟を起こす魔法と異なり、気の調達は自前である。
 つまり自分から発する力なのだ。キャスターが高音の影を撃退したかのように、何もないところにいきなり風の刃を起こすのは不可能と言わずとも一般的ではない。

 見た目からして魔法使いである。気は体を鍛えている者でなければ扱えない。
 もちろん鍛えるといっても見た目で分かるような鍛え方である必要はないが、それにしても気を好んで扱う者ならこのような動きにくい衣装を纏うことはないだろう。
 そもそうだとしたら警戒の仕方を更に変える必要がある。近接戦闘も考慮に入れなければならない。

 
「気、というのが何かは知らないけど、アレは魔術よ。魔法なんかではない」

「魔術‥‥? すいませんキャスターさん、私よく分からないんですけど、魔術と魔法って同じものじゃないんですか?」

 
 前々話で多少触れたが、高音や愛衣が使う西洋魔法とは、その名の通り海外から輸入されたものだ。 当然ながら原語はラテン語。良くて英語。組織化、体系化するにあたってそれらを日本語に訳す必要がある。
 その訳し方というのも時代を経るにつれて、はじめは難解な言い回しを用いていたものが分かりやすく、砕けた日本語へと変化しつつあるのだ。
 例えば今、彼女達が疑問に思った“魔術”という言葉。これは古風な表現であるが、彼女達の言うところの“魔法”と全く同義である。
 少し前までは薬品や呪いの類を魔術と分けて使っていたのだが、今では完全に統合されているから、彼女達がキャスターの言葉を疑問に思うのも道理であった。
 キャスターの言葉から受けたのは、精々が『やけに細かい言い回しに拘る人だなぁ』といった程度の些細なものだったのだ。

 
「‥‥貴女達、どれだけ無知なら気が済むの? よくも今まで魔術協会と喧嘩しなかったわね、関東魔法協会とやらは」

「魔術協会?」

「倫敦に本部がある、魔術師達の総本山の一つよ。‥‥まぁいいわ、これ以上不快な思いをさせられるのも嫌だし、面倒だけど懇切丁寧に説明してあげる」

 
 苛立ちを呆れに変えて、仕方なしにキャスターは頭を振った。
 おちょくっているのならともかく、少女達は心の底から何が何だかわかっていない。
 それ自体も自分の常識では十分に罪に当たるのだが、それでも一応は説明しておいてやってもいいだろう。
 何せ自分はこれから、おそらくはかなり長い間、この麻帆良という街で世話になるのだ。
 実力云々はともかく立場としては下に近い。宗一郎様との平穏で素晴らしい生活のためならば、本当に多少は譲歩してやらないこともない。

 
「まず私や貴女達の使う技術は、魔術と呼ばれていると知りなさい。炎を出す、氷を出す、風を操る、傷を治す、薬を作る。どれも時間と資金さえかければ現代科学で再現可能なものね」

「‥‥ちょっと待って下さい、自惚れではありませんが、私の影を操る魔法は現代科学では再現不可能ですよ?」

「同じよ。影なんて光の当て具合でどうにもなるし、結果として人形が出来るのならロボットを持ってくればいいわ。転移の魔術も同じね。車を使っても、飛行機を使っても同じ結果が出る」

「ならば変わらない、と?」

「そうよ。私達魔術師の目的というのはね、有り体に言えば結果を知ることなの。過程がどうあれ、結果が同じならば全て同一のものとみなすのよ」

 
 人間の常識で解釈できるもの、結果を用意できるものと言い換えてもいいかもしれない。
 火を出すのならライターを、氷が欲しいなら冷蔵庫を、風を起こしたいなら団扇で十分だ。
 基本的に魔術は非常に効率が悪い技術ではあるが、それでも一部のそれは現代科学を凌駕するだろう。
 だがそれは同じ数直線上において、程度として勝っているというだけだ。いずれは科学技術の発展が魔術に追いつく。
 科学は未来へ、魔術は過去へと疾走する技術である。おそらくは今、科学技術に比べて魔術は劣っているだろう。
 もちろん過去の極みに近いキャスターの魔術に関しては別格であるが。

 
「では魔法とは‥‥科学技術で再現不可能な事象であると?」

「あら、意外に理解が早いわね」

「普通に考えれば分かることです。貴女が怒った理由もね。ところで、それではその魔法とは?」

 
 キャスターは最初こそ小娘と馬鹿にしていたが、ここに来て高音への評価を少し改めた。
 確かに技術は未熟、思想は甘い。しかし紛れもなく彼女はエリートと呼ばれるに足る人材であった。
 それは魔法を行使する技術においてだけではなく、頭の回転、咄嗟の機転についても同様である。
 多少融通が利かず、頑固で真面目ではあるが、こと理解力に関してならば同年代でも群を抜いているのだ。
 今回の話についてもそれは同様で、全く別の解釈の仕方であるキャスターの話をしっかりと咀嚼し、自分の中で再解釈して理解を試みていた。

 
「そうね‥‥魔法は世界に五つあると言われているわ。その正体は秘匿され、私でも詳しくは分からない。まぁ、想像できないことはないけれど」

「科学で再現不可能な技術‥‥。時間移動、死者の蘇生、永久機関?」

「まぁ妥当なところでしょう。あるいは私達の言葉で説明できないことかもしれないわ」

「だからこその“魔法”ということですか」

「そうよ。術ではなくて法。法の下で術を行使する私達の及ぶことのできない領域ね」
 
 
 ちなみに愛衣は既に話に半ばついていけていない。
 彼女も決して非才ではないし間違いなく優秀な魔法使いだが。未知の分野に手を出すには少々主体性が低かった。
 じっくり時間をかければ理解できたであろうが、今は次々と進んでいく話に文字通り挟まれ、あわあわと目を回している。
 キャスターも本来ならマスターである彼女に分かりやすく説明するべきであったのだろうが、今は予想以上に理解の早い高音に興味を持って愛衣を失念していた。

 
「お分かり? いくら私の魔術が神代のもので、現代の魔術師のものとレベルが違っていても、それは魔術よ。決して魔法ではない」

 
 魔術師は須く根源を目指す。
 死を収集する者、人体を探究する者、歴史を識る者。根源へと至る手段は幾つも存在すると言われているが、その中の一つが『魔法を習得すること』だ。
 故に人々は、魔法を習得して根源へと至った者達を畏敬の念を込めて“魔法使い”と呼称するのだ。
 それは多くの魔術師が魔法使いであった神代の時代から現代までも、絶対に変わらぬ不文律。
 人であることを止めた絶対の存在、自分たちが目指す先へと至ってしまった者達への尊称である。

 だからこそ根源を目指すという意思のないキャスターでも、自分を魔法使いと呼ばれるのは我慢がならないのだ。
 それは絶対の称号。戯れに名乗っていいものではないし、名乗られてもいいものではないし、呼ばせてもいいものでもない。
 例え相手が無知な田舎者でも、それだけは決して譲れないのだ。

 
「‥‥成る程、貴女程の方がそれほどまでにこだわりを持ってらっしゃるなら、私達の発言が不快なのも納得ですね。気分を損ねてしまって申し訳ありませんでした」

「お、お姉様‥‥?」

「なんですか、愛衣」

「いえ、なんというか、お姉様が誰かに頭を下げているのを見るのが初めてだったので‥‥」

 
 信じられないような目で自分の方を見た愛衣に問い掛け、返って来た答に高音は思わず溜息をついた。一体自分のことを何だと思っているのか。

 
「キャスター女史は麻帆良に来た経緯はどうあれ、私よりも遥かに高位の術者。ならば敬意を払うのは当然でしょう?」

「いえ、それでもやっぱりビックリしちゃいまして‥‥」

 
 愛衣の高音に対する感情は、軽度ながらも崇拝に近い。
 考えてみれば当然だ。良くも悪くも高音は優秀に過ぎ、愛衣の前での上級生は紛れもない完璧超人だったのだから。
 やや自分を過小評価する傾向のある―――それでもある程度の自信が持てているのは、元々の彼女の能力が秀才と呼ばれるに足る程のものだからだ―――彼女にとって、常に自信を持って前へと進み続ける高音はさぞや眩しくみえたことだろう。

 
「あなたには後でたっぷりとお話する必要がありそうね‥‥。さぁ、ホテルが見えて来ましたよ」

 
 まるで公園の中のような林に囲まれた並木道を抜けると、そこには先程いた世界樹広場のような光景が広がっていた。
 中心部の、おそらくは明治時代から存在しているのであろう建物とは別に、周囲にはビルやらコンクリの建築物やら、後から人口の急増に対処して建て増ししたのであろう建築物が並んでいる。
 しかし全体に共通して言えるのは機能的でありながら、優美。そして学問の街というコンセプトに反しないぐらいにシンプルであるという点だ。
 この街を設計した建築士の先見の明は疑う予知がない。建て増した際のデザインの問題もあるだろうが、通常は融和し得ない古い建物と新しい建物が綺麗に協調している。
 もしくは、近代との融合を果たせるという異質な点こそが、あるいは当時の現実世界より発展していた魔法世界の様式なのだろうか。
 所々に自然と息づく昔の空気は、日本という独特の文化を持つ国ながらも麻帆良に限れば、欧州の歴史ある都市に比べても遜色ない調和というものを感じさせる。

 とっくに大部分の住民が我が家へと帰ってしまって人影のない街の中、奇妙な四人組はその中の一つの建物へ入っていった。
 さほど大きくない。戦前の欧米の様子を映した映画などに出て来そうな趣のあるホテルだ。
 これもおそらく明治頃から建っているのだろう。重厚な扉は夜中にも関わらず待機していたスタッフによって開けられ、エントランスの調度品はこれまた重厚なアンティークが大部分を占めていた。

 
「学園長から連絡は?」

「承っております。こちらへどうぞ」

 
 受け付けのクロークに高音が尋ねると、先ほど扉を開けたスタッフがエレベーターの方へと案内する。
 誰ひとりとしてキャスターと宗一郎の不審な恰好に疑念の視線を向けないのは職業意識もあるだろうが、おそらくは学園長から何かしら言い含められているのだろう。
 横にスライドする柵のついた古式なエレベーターを使って案内されたのは、おそらくは二等級ぐらいの、それでもなお彼女達のような来客には過分とも言える良い部屋だった。

 
「あぁ宗一郎様、あの像に似たものは故郷で見たことがあります」

「そうか」

「宗一郎様、あのエレベーターは冬木のデパートで見たものとは違いますね?」

「おそらく古いものをそのまま使っているのだろう」

  
 ちなみに街の中心部に入ってから、キャスターは控え目ながらも辺りをキョロキョロと見回していた。
 このような様式の街は珍しいのだろう。なにせ冬木で彼女が活動の拠点としていたのは古い寺である。街にしても中心部はビル街、他は住宅地だ。
 聖杯から得られなかった細かい疑問についてぽつぽつと隣の宗一郎に尋ねては、返事を貰うだけで嬉しそうに口元を綻ばせる。
 微笑ましくはあるのだが、使命以外のことを脇道と断じる高音ですら、独り身の少女として靄々した感情を覚えないでもなかったのだった。

 
「こちらが学園長先生が貴女方の為に手配なさった部屋です。今夜はこちらでお休み下さい」

「あら、中々良い部屋じゃない」

「この時期は宿泊客も少ないですから。部屋も余っているみたいですよ?」

 
 それなりに広い。ベッドが二つあるのが残念―――そういう状況なら宗一郎様は当たり前のように片方に潜り込んでしまうだろう―――だが、部屋自体は悪くない。
 どうも高い建物があまりないらしく、窓からは麻帆良の中心街が一望できるというにくい演出。
 少なくとも、このような部屋をパッと用意できるということは、やはりこの街においてはあの老人をあまり刺激しない方が良いらしい。
 いや、元よりあちらから過干渉されない限りはこちらとて何も問題になりそうなことは起こすつもりがない。自分は宗一郎様と静かに暮らせればそれでいいのだ。

 
「大体のものは揃っているはずですけど、他に何か特別に入り用なものはありませんか?」

「‥‥すまないが、替えのスーツを用意してくれないだろうか。この服では昼間、外を歩くことができん」

「あ、そうですね。ではジャケットだけお預かりしても構いませんか? そのサイズに合わせて上下とシャツを用意させてもらいます。当座をしのぐという意味で、色とかは別でも大丈夫ですか?」

「適当なもので構わん」

 
 今の今まで口を閉ざしていた宗一郎の言葉に愛衣は頷くと、無造作に脱いだスーツを手渡されて驚いた。
 ゴツゴツしているのだ。シャツという比較的薄手の布を通して見る彼の体は、まるで木彫りの彫像であるかのように角ばっていた。
 鍛えているのは間違いないだろうが、普通の鍛え方ではない。程度が、ではなく方法が違うのだろう。誰とも違う体に見える。
 今までキャスターの方にばかり注意がいっていたが、ここに来て宗一郎も只者ではないと理解した。何せキャスターと一緒にいられる人物、あまつさえ魔術師の殺し合いに参加できる者が只の教師であるはずが―――

 
「‥‥あれ? そういえば葛木さんはまほ‥‥魔術師なんですか?」

「いや、私は魔術師などではない」

「え、でも聖杯戦争っていうのは魔術師が参加する儀式じゃないんですか?」

 
 不思議に思って愛衣が尋ねると、これまた不思議な答が返ってきた。魔術師がやる儀式に、魔術師ではない宗一郎が参加してもいいものだろうか?
 愛衣は詳しい事態の推移などは聞いていないが、聖杯戦争という儀式のルールは割と詳しく教えられている。
 日く、ゲームのキャラクターのような役目を与えられた七騎のサーヴァント。日く、サーヴァントは魔術師に使役され、三回の絶対命令権である令珠に縛られる。
 この令呪なのだが、知らない内に左手首のやや上、かろうじて袖やリストバンドで隠れるような場所に焔のような刻印が顕れていた。
 尤も色がくすんでしまっているために、単なる契約の証であるそうだ。おそらく麻帆良の地まで大聖杯の力が及ばないからだろうというのがキャスターの見解だ。

 
「詳しくは省くけど、宗一郎様は二人目のマスターよ。最初のマスターを失って消えかけていた私を助けて下さったの。‥‥宗一郎様、貴方をあのような目に遭わせてしまって申し訳ありません」

「気にするな。お前の失策ではない」

「宗一郎様‥‥」

 
 学園長室から歩いて暫く、またもキャスターから溢れ出す幸せそうな空気。というより、もはや障気。
 一度とならず全てと決めた感情を注ぐ先を失い、様々な苦難を得てようやく手に入れたがための幸福オーラだったがために非難する気持ちは湧かないが、どちらにしても砂を吐きそうだ。
 出来れば学園長室に居たときのように、もう少し人数が、もしくはもう少し距離が欲しい。

 
「‥‥明日は学園長からの連絡があり次第、私達が迎えに来ることになるでしょう。それまではこちらで寛いでいて下さい」

「そうね、マスターとも色々と話をしなくちゃいけないのだけれど、流石にもう遅いわ。明日に回すのが妥当でしょう」

「お疲れなのは分かっていますが、出来れば寝過ごしたりはなさらないで下さいね」

 
 クロークから渡された部屋の鍵をキャスターに渡し、高音は言った。
 ファーストコンタクトこそ最悪に近い形ではあったが、こうして話してみると目の前で微笑む紫色のローブを着た女性も悪い人物ではない。
 便宜上も事実上も妹分の使い魔だが、流石に人間という形をとっている以上はそのように接する。というよりそれ以外の接し方は出来ないだろう。
 どのような関係になるかは分からないが、愛衣は自分の従者だ。おそらくは彼女とも長い付き合いになるはず。 
 妹分を盗られてしまったようで非常に感情は複雑だが、それでも尊敬とまではいかずとも遥か高みに存在する術者であることもまた事実。
 癪な部分もあるが、きっと彼女からは様々なことを学べるに違いない。
 
 
「‥‥本当に、広い街。私が生きていた頃とは比べものにならないわね」

 
 丁度窓際に立っていた為、外の風景へと目を落としたキャスターが感慨深げに呟いた。
 あまりにも、遠いところに来過ぎたのだ。女神の僕の矢に胸を射られたあの時から、どれだけの時が経っただろうか。
 今でも故郷に帰りたいという気持ちは大きい。だがそれ以上に、愛する人を、自分を裏切らず、自分も裏切らない人を見つけられたから。
 ここで暮らしていこう。ここで幸せになろう。
 今尚本体である“メディア”は座にいるが、今ここにいる自分が幸せを手にすることは間違いなどではないはずだ。

 
「そういえば、貴女は過去に活躍した英雄‥‥だったのですよね?」

「まぁ、そう解釈してくれた構わないわ」

 
 そろそろ暇しようとしていた高音が、ふと疑問を抱いて窓の外を眺めるキャスターに問いかける。
 学園長室で彼女の正体を聞いた時から考えていた疑問の答えを得る良い機会かもしれない。

 
「『詠唱する者《キャスター》』とは聖杯戦争で与えられたクラスだということですが、でしたら貴女には“キャスター”とは別に本名のようなものが存在するはず。もし良かったらお聞かせ願いませんか?」

「あっ、確かにそうですね。私も聞きたいです!」

 
 英雄には須く某かの英雄譚が付きまとう。というよりは、後世にまで残された英雄譚があるからこそ英雄として語り継がれているのだ。
 高音や愛衣は英雄になりたいというわけではなかったが、当然ながらそのようなものに興味はあった。
 なにせ目指すべき目標である『千の呪文の男《サウザンドマスター》』も英雄として称えられている人物である。寝物語とは言わないが、周りの大人からは彼の活躍を度々聞かされたものだ。
 鬼神兵を一撃で倒し、戦艦を沈め、山を砕き、颯爽と捕らわれのお姫様を救い出す彼とその仲間達。
 綺羅星の如く輝くその活躍は、よほど捻くれ曲がった性根でなければ誰もが憧れる。

 ちょっとした大人なら本人を直接知っている者すらいる近世の英雄である彼と比べて、キャスターは神代の人間と自称する、いわば大英雄と言っても良い存在だろう。
 そんな人物本人から、彼女達の活躍を聞くことが出来るチャンスが転がっているのだ。不躾ではあるが、機会にあやからない道理はない。

 
「‥‥悪いんだけどサーヴァントはね、英霊としての真名を隠すものなのよ」

「え、なんでですか?」

「弱点がバレてしまうでしょう? どんなことで死んだか、誰に殺されたか、英雄譚にはそれが書かれているもの」

 
 例えば有名な例を挙げておけば、北欧に伝わるジークフリート。
 竜の生き血を浴びて不死身となった彼だが、唯一の弱点として背中、菩提樹の葉の跡がある。
 他にもアキレスのアキレス健、クー・フーリンのゲッシュなど、意外にも英雄は弱点のネタに事欠かない。
 有名である英雄の自らの名前を知られるということは、乃ち弱点を知られるということになるのだ。

 
「‥‥そうね、でもマスターには教えておかなければいけないかしら」

「え、えぇっ?! いやいいですよキャスターさん、そんなことだったら別に‥‥」

 
 キャスターの言葉に愛衣は見て分かる程に狼狽えた。一歩間違えれば彼女の命にも繋がりかねないことを、自分如きが知るべきではないと思ったのだ。
 尤も自身の過小評価が過ぎる彼女のこと。キャスターは彼女を密かに走査し、逆に彼女を高く評価していた。
 もちろん未熟であるという基本的な評価は全く変わらないのだが、それよりも評価すべきは伸びしろである。
 彼女はいわば、ダイヤの原石。自分という一級の錬磨師が磨けばどこまででも輝ける素質を持っているのだ。

 
「信頼と感謝の証、あとは義務のようなものだとでも思って頂戴。あぁ高音、貴女は部屋を出ていなさいね」

「なっ、私は愛衣のパートナーですよ?!」

「煩いわね。消し炭にされたいの? 貴女に告げる義務はないと言っているのよ。貴女自身、本当に自分に権利と資格があると思うのかしら?」

 
 冷たく告げられた高音は暫く黙り、コクリと頷くと静かに部屋を出て行った。
 彼女も自分で分かったのだ。名前を告げるというのは、例え普通の人間であっても特別な意味を持つ場合がある。
 それは『貴方に私の名前をゆだねます』という信頼の証。少なくともマスターという関係にある愛衣ならともかく、初対面の自分にそんな資格も権利もあるはずがない。
 駄々をこねない辺りは理解の早い彼女らしいが、それでも部屋を出ていく際に悔しそうな視線をキャスター達に寄越したのは、やはり妹分を盗られるのが嫌だったからだろう。

 
「‥‥マスター、いえ、愛衣。私の真名を告げるにあたって、一つ儀式をしておくわね。‥‥宗一郎様、宜しいですか?」

「構わん」

「へ?」

 
 宗一郎へと問いかけ、その返事を貰ったキャスターは少し寂しそうな顔をした跡、愛衣を窓際に立たせて自分は一振りの杖を出現させた。
 金色で出来たそれはキャスターの身長を優に越え、彼女が信仰し、神官を務めていたヘカテーという女神の象徴である月があしらってある。
 狼狽する愛衣を他所に、儀式は着着と進んでいった。

 
「ここに、貴女と私の契約は完了しました。これより我が身は貴女の杖、貴女の本、貴女に仕える賢者。我が身のもてる全てを以て貴女の敵を滅ぼし、貴女に知識を与え、貴女の助けとなりましょう」

「は、はいぃ?!」

 
 杖を愛衣に捧げるように床に置き、キャスター自身は臣下のようにひざまずいて頭を垂れる。
 先程までは頼れる年上のお姉さん兼先輩魔術師という風だった女性の突然の態度に愛衣はアタフタと少しだけ離れた場所に立っていた宗一郎へ助けを求めるが、当然ながら反応はなかった。
 
 実際、彼女とキャスターとの契約は世界樹の前で出会った時に既に終わっている。故に魔法陣などが出現することはなく、傍目には何も起こっていなかっただろう。
 だがこれは確かに儀式であった。
 彼女から受けた恩義に報い、見いだした優しさを信じて全てをゆだねる儀式だ。
 新たな生活を過ごすことのできる感謝と共に、キャスターは己の過去をさらけ出す言葉を紡いだ。

 
「私はコルキスの王女、メディア。サーヴァント・キャスターとして全てを尽くして貴女に仕えます。これから宜しくお願いするわね、マスター」

 

(あとがき)

 話が進まない‥‥っ!
 色々と指摘して下さりありがとうございました。あまりの無知に一人で延々とorz‥‥。
 とりあえず次話までには漸次修正しておきます。色々と考える必要がありそうです。
 では次話でまたお会いしましょう。執筆頑張りますので、応援宜しくお願いします!

 



[16654] Prolouge~5
Name: 夏色◆7f18a936 ID:b835b908
Date: 2011/03/28 19:21

 

 
 時刻は朝の八時。平日の麻帆良学園では非常に騒がしい時間帯である。
 基本的に午前中はこの前後一時間ぐらいが一番慌ただしいのだが、それも同じようでいて実は三種類ぐらいに別れていた。
 まず一番手は運動部の朝練へと向かう集団。これが意外に数が多いために賑やかではあるのだが、実際にはまだ寝ぼけ眼、もしくは半分寝ているような連中が殆どなために活気はない。
 ちなみに中にはチラホラと麻帆良の内外の一般企業や省庁などに勤めているスーツ姿のお父さんお兄さん叔父さん方の姿も見えるが、各種様々な制服の中に埋もれてしまうために目立たない。

 続く二番手は余裕を持って登校する普通の生徒達。朝ご飯もしっかりと食べているのか、活気に溢れていて会話も弾む。
 このあたりはちょっと大きな中高一貫校で見られる光景を大規模にしたものだ。誰の趣味かは知らないが制服がまちまちであるのが気になるところではあろうが。
 まぁちょっと人数だけが尋常じゃなく多いわけだが、十分に常識の範疇に収まる光景だろう。

 さて、問題なのは最後に波濤のようにやって来る三番手。乃ち遅刻ギリギリで遮二無二手段を選ばず学校へと向かう、ある意味では麻帆良の象徴の一つとも言うべき集団である。
 この連中になると賑やかなという生半可な形容詞では括れない。それはもはや圧倒的な物量となって進む道を遮るあらゆるものを尽く押し流す。
 ついでに道路交通法とか迷惑防止条令―――ここは東京ではないが―――とかも色々と押し流している気もするが、割愛。
 つまり何を言いたいかといえば、そういう危険な時間帯に素人は外を出歩いてはいけないということだ。

 
「見て下さい宗一郎様、すごい人‥‥。まるで津波みたいですね。あれが殆ど学生だというのですから‥‥冬木とは比べ物になりませんね」

「そうだな。ここは日本で一番大きな学園都市だそうだ」

「日本で一番、ですか‥‥? やはり教師をやってらっしゃった宗一郎様はこの地をご存じで?」

「いや、知識にはない。そもそも私は担当教科以外にはさほど造詣が深くないのだ」

 
 ホテルの窓から眼下に広がる光景に思わず漏らしたキャスターの言葉に、相変わらず抑揚のない一本調子な声で宗一郎が答えた。
 血まみれのシャツを着るのはシュールなので備え付けのガウンを羽織っているが、これが似合っているのか似合っていないのかよくわからない。
 そもそもこの男にどのような服が似合うかと改めて聞かれれば、きっと誰もが首を傾げてしまうに違いない。敢えて挙げるとすれば、普段の服装であるスーツであろうか。
 もっともも彼の伴侶であると自覚するキャスターであれば『宗一郎にはどんな服だってお似合いです!』と断言するであろうが。恋は盲目だが、愛ともなるとそれ以前の話になる。

 
「冬木にいた時には聞いたことがなかったが」

「目の前のことで精一杯でしたから‥‥」

「そうだな」

「色々と考えなければならないことが増えましたね。家の内装はどうしましょうか、宗一郎様?」

「お前に任せる」

 
 普段に比べて宗一郎の口数が多いのは、手に持っている麻帆良学園案内ガイドのおかげだ。部屋に備え付けてあった冊子を宗一郎は朝から真面目に熟読していた。
 この男、目的意識を持っていないせいか人生に意義を見出だしたいからか、読書の量が尋常ではない。とりあえず手持ち無沙汰で活字があれば何でも読む。
 今もひたすらに暇であったがために、久しく誰も手にとってはいないであろう小冊子を隅から隅まで読み込んでいるのだ。携帯していた本は円蔵山の大空洞、キャスターの神殿跡だ。

 
「それにしても、何の対価もなしに住み処を提供するというのも妙な話。某かの代償を想定しておく必要はありそうね」

「‥‥交渉は全面的に任せる。が、不用意に事を荒立てない方が懸命だろう」

「わかっております。この霊地に満ちる魔力を使えば神殿を失った私でもかなりのレベルの魔術を行使できる自信がありますが、あの時に比べれば遥かに劣る。出来る限りは穏便な手段を用いたいところです」

 
 サーヴァントはマスターから供給される魔力で存在を維持し、同時に戦闘をも行うが、魔術師である彼女は自身の魔術回路で小源を生成することができる。
 だが神代の魔術師たる圧倒的な実力に比して、キャスターの魔力生成量は意外なまでに少なかった。下手をすれば高音や愛衣に迫られてしまうぐらいに。
 それでも彼女の力量をもってすれば大気中の大源を用いて魔術を使えるが、当然ながら限界はある。少なくとも準備が足りていない今の状態でむやみやたらと戦闘を試みるのは危険だ。

 
「最低でも住居を手に入れて、そこを陣地にして形勢を整えなければ。いえ、いっそのこと密かにこの霊地そのものを私の神殿にしてしまうというのも‥‥あぁいえ駄目よ、焦ってはいけない。まずは当面の問題を片付けなければ‥‥」

 
 すぐに思考がいざというときの戦闘へと向かうのは彼女自身の長い魔女としての人生から形成された性格でもあり、サーヴァントとしての本能のようなものである。
 大聖杯との繋がりは彼女にも宗一郎にも、もちろん今のマスターである愛衣にも感じ取ることはできなかったが、最初に与えられた殻だけは健在だった。
 細かいスキルなど聖杯戦争においてのみ有効に機能し得る項目の確認はまだであったが、彼女は今だにキャスターのサーヴァントだ。というか、そうでなければ継続的に英霊が現界できるはずもない。

 
「‥‥ふ、駄目ね。結局一度染み付いてしまった業は死んだぐらいじゃ落ちやしない。この現状を喜ぶべきか憂うべきか‥‥」

 
 最愛の伴侶と共に幸せな人生を送れるか、はたまた生前と同じように謀略と権謀術数の渦へと巻き込まれていくのか。
 ひどく不安定な賭けは不安になるが、それでも先を切り開くのが自分の意思だということは最低限喜ぶべきだろう。
 自分の意思とは無関係に踊らされた生前に比べれば、いや、比べなくとも今の状況はまさに天の与えた最高のチャンスである。

 
「‥‥自分が歩んで来た道に意味があるのか、意味がないのか、その答えは過去にはない」

「宗一郎様?」

「前を向いて歩いているのだから、辛いのなら過去は置き去りにしていけ。わざわざ立ち止まって拾い集める暇など無かろう」

 
 珍しく自分から口を開いた宗一郎に、キャスターは僅かならず目を見開く。
 彼女すらも勘違いしているようだが、この男は寡黙でありながら無口ではない。ただ必要でないから口を開かないだけで、今は必要があったから口を開いたのだ。
 問題は今、口を開くという必要性を認めるに至った経緯の方。宗一郎もキャスターと共にいることで、徐々に変化しつつあるのかもしれない。

 
「私は、お前の意見に従う」

「‥‥そうですね、そうでしたね。ならば私は判断を見誤らないように、しっかり前を向いていなければ」

 
 そして一応は伴侶という名目の元に彼の隣に立つキャスターもまた、理屈ではなくそれを理解‥‥とはいかずまでも、しかと感じ取っていた。
 実際彼女の宗一郎に対する感情は信仰や崇拝に近いもので、それでいながらしっかりと愛情をも注ぐ丁度良いものである。
 そもそも彼女の時代、女から男への愛情というものが基本的に献身的な物でありながら非常に物騒なニュアンスを孕んだものであったのは言うまでもない。男が強かったのと同じように、昔は女も強かった。
 その強い女が選んだ男に尽くしていたのだから、これほど幸せな時代はないだろう。‥‥男が女を裏切ったりすることが無ければ。
 
 
「‥‥どちらにしても、今のマスターからはあまり多くの魔力が供給されないようです。存在しているだけならまだしも、いざという時のことを考えると何かしらの魔力調達手段が必要です」

「また、街の人間から生気を奪うか?」

「それも可能ですが、できれば控えたいと思っております。墜ちた霊脈である龍洞寺を押さえていた冬木でこそ簡単にできましたが、ここでは手間がかかってしまいますし、何より余計な刺激を与えると破滅を招きますから‥‥」

 
 通常サーヴァントを維持する魔力は、マスターのみから供給されているわけではない。聖杯戦争における魔力供給は、実はそれなりの割合を大本の召喚主である大聖杯が担っている。
 では冬木の地から遠く離れたココ、麻帆良ではどうなっているのだろうか。
 この地に大聖杯はないが、代わりに世界樹という愛称までついた巨大な木、神木・蟠桃が存在する。大聖杯に匹敵するほどの魔力を生み出し、放出しているこの巨木は、麻帆良の中にある種の重力場にも等しき魔力が満ちた空間を作り出している。
 まるで超一級の霊地。一つの国に片手の指で数えるぐらいしかないと言われる程の霊地だ。日本で言うならこれに匹敵する霊地は、富士山や恐山、もしくは人為的に作り上げられた関西呪術教会総本山などの有名な場所ぐらいしかなかろう。

 
「一番順当な手段は、やはり神殿を造ることですね。あれを作れば魂喰らいをしなくても、これほどの霊地ならば自然と魔力が集まってきます」

「キャスターのクラススキルである、陣地作製とやらのことを言っているのか?」

 
 葛木宗一郎は、正確に言えば今も昔もキャスターのマスターではない。サーヴァントが現世に留まるための依り代とする物をマスターと呼ぶのであればそうだろうが、そもそも彼にはマスターに備えられる能力を一切所有していないのだから。
 例えば代表的な、三画の絶対命令権である令呪。そしてサーヴァントの能力《ステータス》を把握する能力である。これらは基本的に大聖杯に選ばれたマスターや、他のマスターから強奪した魔術師などしか備えていない。
 宗一郎がキャスターのマスターになった特殊な経緯を鑑みれば当然であるのだが、だからこそ令呪がないためにマスターと判別しにくいなどのメリットと同時に、彼にはキャスターの現在の状況がよく分かっていないという弊害もあった。

 
「いえ、クラススキルというのとも少し違うような気がします。‥‥“聖杯戦争”という盤上を離れたからでしょうか、自分自身のことなのにパラメータとして把握することが出来ないのです」

「どういうことだ?」

「聖杯戦争は、言うなれば聖杯戦争を構築した魔術師達によって仕組まれた“趣味の悪いゲーム”のようなものです。プレイヤーと駒はそれぞれ、マスターとサーヴァントのようなものと考えれば分かりやすいと思います」

 
 二つあったベッドの片方に腰掛けている宗一郎に合わせて、キャスターも彼とお揃いにしようと羽織ったガウンを靡かせ、もう片方のベッドに腰を下ろした。
 きっと自分達がもし他人から見られたら、間違いなく新婚夫婦と判断されることだろう。そんなささやかな想像が彼女を自分が幸福であるのだと思わせて、自然と笑みがこぼれる。
 
 
「私達サーヴァントの保有するスキルやステータスといったものは、当然ながら共通した基準の元に設定されています。おそらくは聖杯戦争を作り上げた魔術師達の設定したものでしょうが、まぁ七人と七騎が同時に同じゲームをプレイするならゲームマスターとして当然の配慮でしょう」

「そういうものか」

「はい。例えばチェスといった盤上遊技でも、相手の駒と自分の駒で、外見が同じなのに全く違う能力を持っていたり勝利条件が違ったりしていたら困りますでしょう? だからこそ趣味の悪いゲームだと、私は申し上げたのです」

 
 気づけば宗一郎は朝起きた時からずっと読み耽っている小冊子をしっかりと畳み、真っ直ぐに自分の方を見つめている。
 こういう真摯な態度―――融通が利かないともいうが―――こそ自分が彼に惚れることになった一因である。自分も散々男という生き物に騙されて来た身。流石に命を救われたというだけではこの身のみならず心までは許さない。

 
「私達のパラメーターとは、その絶対的な基準を元に判断するものです。Aというランクが何を意味するのか、“対魔力”というスキルが何を基準にして設定されているのか。それらは全て聖杯戦争というゲーム盤の上だからこそ明確に定義できたものなんです」

「成る程」

「つまり、大聖杯による定義が曖昧なこの地では、私の能力を明確にランク付けることは出来ません。だからこそ、感覚的にどのくらいまでは出来そうだ、といった認識になっています。
 聖杯戦争において、私のクラススキルである“陣地形成”のランクはA。冬木ならば確実に神殿を造りあげることができたでしょうが、この麻帆良で同じように神殿を造ることができるかは、やってみなければわかりません‥‥」

 
 魔術師《キャスター》のクラススキルである、“陣地作製”。これは基本的に魔術師であるキャスターのサーヴァントが、自らにとって有利な陣地を作り上げるためのスキルだ。
 基本的に魔術師にといって最強の陣地とは、自身の砦、要塞である工房だ。だが神代の魔術師であるキャスターに許されたのは、工房を超える神殿という陣地。では神殿とは一体何だろうか。
 キャスターは魔術師でありながら、巫女としての役割も担っている。彼女が生国でヘカテという月の女神を奉る巫女の役目を担っていたのは、多少メディアという神話上の人物について詳しい人間ならば知っていることだろう。

 神を奉る場所だからこそ、彼女のいる場所は神殿と呼ばれる。それは彼女が崇める月の女神のための神殿であり、現代となっては神話の住人となったメディア自身も同時に奉られる場所である。
 現代の人間ならば分からないことかもしれないが、神殿とは絶対的な支配者をも意味している。街とは神殿を中心に形成される場合が多かった過去の時代では、都市の役人などよりも神官などのほうが大きな権力を有していたものだ。
 故に神殿とは、周りの土地についてある程度以上の干渉力を有する存在でもある。
 
 とはいえ土地への干渉などという大規模な能力を、いきなり出現した神殿などが持ち合わせているはずもない。土地への干渉には様々な手段があるが、その大部分が強制的で物騒なものであり、結局その土地を深く傷つけてしまったりする結果に終わりがちだ。
 このようなやり方は神殿の在り方ではない。神殿とは、土地そのものから許容され、受け入れられることで土地への干渉を行うことが出来る存在なのである。
 冬木においてキャスターが形成した陣地が“神殿”として機能したのも、聖杯戦争を作り上げた何者かの魔術師がそのために地脈を整えていたからだ。これはおそらく土地を提供した遠坂の家が行ったことであろうが、まぁ今はたいした問題ではない。
 では彼女が陣地作成のスキルで作り上げた陣地が、麻帆良において神殿として働くだろうか?

 
「おそらくですが、この土地において神殿と称されるような存在はこの霊地の象徴とも言える、最初に私達が意識を取り戻した広場の目の前に聳えていた大きな樹でしょう。
 一つの土地に神殿が複数あるというのは決して珍しいことではありませんが、それにしても私の時代の、神殿と同じように複数の神々が存在していた時の話です」

「‥‥日本の神道も、また多神教と呼ばれるような宗教だ。ならばこのパンフレットに載っていた‥‥世界樹と同じように、お前の神殿も許容される結果にはならないのか?」

「難しいでしょう。冬木でも感じたことですが、それなりのシンボルが無い場合、この国では信仰心というものが希薄になりがちなようです。
 逆にあのような分かりやすいシンボルがあった場合、人々の関心は当然のことながら分かりやすいシンボルへと向けられます。自覚が無かったとしても、それは信仰心へと昇華される存在。ならば外来の存在である私ごときが入り込む隙間など簡単には生じません」

 
 信仰、という言葉がこの国において重要視されなくなってどれほどの年月が経つかといわれれば、実はそこまで捨てたものでもない。例えばほんの数十年前、太平洋戦争当時の日本人の信仰はかなりの部分が当時の日本の最高責任者である天皇へと向いていた。
 もし、これは既に現代となっては、一介のサーヴァントである彼女には分からないことではあるが、もし当時の昭和天皇が魔術師であったとしたら、彼は絶大な力を振るうことが出来たことであろう。
 日本人にとっての信仰心というものが希薄になりだしたのはそれ以降。外来文化が大量に出回るようになり、そもそも宗教という依り所を人々が必要としなくなってからだ。

 しかし魔術的には、信仰とは言葉通りの意味でなくてもいい。例えば悪行を以て人々の注目や畏怖などを集めた存在が反英霊として英霊の座に招かれるように、どのような感情であっても何物かにそれが集中すれば信仰と似たような状況を生み出すことが出来る。
 麻帆良においての世界樹も、また同様にして人々の信仰を勝ち取っている存在であった。
 この地に住まう魔法使い達の隠蔽もあろうが、このギネス級などという言葉では説明が出来ないほどの大樹が世間に注目されていないのは、やはり麻帆良の人々が世界樹を愛しているからに他ならない。

 
「ですから仮に私が作成した陣地が神殿となれるまでの信仰を、世界樹と並ぶほどの注目を集めることが出来れば‥‥。
 そのときは世界樹が作り上げた太源すら、自由に扱えるようになることでしょう。しかしそれまでは、大気中に漂う余剰魔力を使ってささやかな魔術を繰ることが精一杯です」

「戦闘は可能か」

「可能かどうかといわれれば、可能です。ですが都市殲滅レベルの大魔術を使えるかと言われれば、簡単にうなずくことはできません。
 ですが魔力だけが戦闘の全てではありませんから。少ない魔力でも有効に活用すれば、巨大な相手とも戦うことが出来ます」

「頼もしい言葉だ」

「ありがとうございます」

 
 互いに確認しながらも、二人とも積極的に戦闘を行う必要はないと考えていた。
 宗一郎は一流の殺人鬼‥‥暗殺者として仕立てられながらも必要がなければ殺生をするような思考をそもそも持ち合わせていないし、キャスターにいたってはやっと手に入れられそうな平穏な生活を自ら乱すような真似は極力慎みたい。
 どちらにしてもプライドが高いキャスターならば馬鹿にされればそれなりの実力というものを示す必要があるだろうから、自分にどの程度までの戦闘が可能かは確認しておいて損はない。それぐらいの感覚である。
  
 
「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥」

 
 ひとまず現状において認識すべきことと確認すべきことを全て終えてしまった若夫婦―――の体裁をとっている元マスターとサーヴァント―――は暫し見合って沈黙する。
 宗一郎は相も変わらず何を考えているのか全く分からない幽鬼のような仏頂面。そしてキャスターはといえば、例のごとく宗一郎と顔を合わせたり逸らせたりと忙しい。
 何も懸念事項がない状態だと、彼女は自然とこうしてスーパー純情モードになる。今更この歳で純情もへったくれもないとは自分自身でも分かっているのだが、それでも簡単に自分の心を制御できるのならば今まであんな目になど遭ってはいない。
 かろうじてベッドにきちんと座り、宗一郎に対して無様な真似をしないようにしているだけで精一杯だ。それにしても顔の変化は著しく、体はあちらこちらが―――長い耳まで―――そわそわと動いている。
 
 
「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥あの、宗一郎様―――」

「―――何をやっているのですが、お二人とも」

 
 魔術師として冷静冷徹にこれからの指針を話している時は流暢に言葉が出てきても、プライベートとして夫―――のつもりのマスター―――と話すにはやけに勇気がいる。
 そんな自分でも恥ずかしくなってしまうような小さな度胸を頑張って振り絞り、キャスターが口を開いたちょうどその時だった。

 
「‥‥あら高音じゃないの。どうしたのこんな朝早くから」

「朝早くなのは否定しませんが‥‥一応私も愛衣も公休を取る必要があるくらいには常識的な時間なんですけど」

 
 まだ始まってすらいなかったとはいえ、無粋にも夫婦の語らいを邪魔したのは二人の少女。
 片方は少々短めの中途半端な丈をした、まるでカトリック教会のシスターが着るカソックにも似た地味ながらも上品で、どこはかとなくマニア受けしそうな制服だ。
 丈が短いとはいっても標準の学生服よりは幾分長いものであり、それにしても少々はしたなく見えてしまうのは、やはりこれが聖職者の衣服をモチーフにしているからだろう。
そしてもう片方は、麻帆良学園女子中等部の制服を着た、隣の金髪カソック似姿の少女よれは幾分幼く見える女学生。怖ず怖ず、といった表現が全くもって良く似合いそうな気弱な少女だ。
普段なら姉と慕うパートナーの陰に隠れがちな彼女がきちんと、むしろ一歩前に出ているのは、一応はキャスターのサーヴァントの主であるという自覚があるからだろうか。それとも単に新たに頼りがいのある姉のような存在を見つけて嬉しいからだろうか。
‥‥彼女の性格を鑑みるに、おそらくは後者が近いだろうが。


「‥‥学校を休んで来ているのか」

「えぇ。用事がどれくらい早く終わるかも分かりませんし、愛衣がキャスターさんの、マスターとかいうものになってしまった以上は私達にも瑣末ながら責任のようなものが発生するでしょうから。
学園長先生から公休を頂いております。決してズル休みなどではありませんから、ご承知おきを」


 パタン、と小さな音を立てて扉が閉まり、二人が部屋の中へと入ってくる。
 校則を忠実に守り、きっちりと着込んだ制服には一分の隙もない。とはいえどちらの制服も際ほど述べた通り、基本的なデザインからしてノーガードという話もあるのでいかんともしがたい。
 ホテルの寝室、というそれなりにプライベートな空間ではあるが、起きた直後に几帳面に布団を整備した葛木と、自分の布団を整備した上に、既に綺麗に調えられてる葛木のベッドまでちょこまかと直したキャスターによって入室当初の状態にまで復旧されている。


「ならば、いい」

「そう言って頂けて良かったです。お二人とも、昨晩はしっかりお休みをとることが出来ましたか?」

「ええ、ゆっくりと眠ることが出来たわ。ありがとうね、二人とも」
 
 
 サーヴァントであるため休息の必要がないキャスターによる律儀な礼に、二人は顔をほころばせる。
 もっともキャスターの持つサーヴァントという特性を理解しているわけではないだろう。それは普通の人間同士の気遣いや心配りの範疇だ。
 言うなれば、この二人もここに来てキャスター相手に普通の人間としての付き合いを自然にすることができていた。それはまた不思議なことではあるはずなのであるが、麻帆良という場所柄を差っ引いても、彼女達の善性を証明しているともいえる。

 
「ご支度は出来まして? もし準備がよろしかったら、すぐにでも学園長室へいらして欲しいと学園長から承っております」

「昨日お話があった、お二人のお仕事についてだと思います。学園長は中等部の学園長室で待っておられるそうですから、行きましょう。
 ああ、そういえば葛木さん、これは替えのスーツです。私達、外に出ていますから、その間に着替えていて下さいね」

「ありがたい、感謝する」

 
 二人が出て行った室内で、葛木がバスローブから渡された背広へと着替える。
 同室していたキャスターは行き場と、ついでに目の行き場もなかったらしくウロウロと慌てているが、基本的に全てのことを自分でしっかりと素早くやってしまう葛木は、キャスターが着替えを手伝おうと決意した次の瞬間には全てを終わらせてしまっていた。

 
「待たせたな。では行くぞ、キャスター」

「‥‥はい、宗一郎様」

 
 どこはかとなく寂しげなキャスターに、やや怪訝な色を漂わせながらも宗一郎は何も言わない。
 結局のところそれが原因で行きの道行きはl霊体化しているはずのキャスターが発する不調な空気に、色々と麻帆良っ子の二人は気を揉むのであるが。
 彼女達もまさか神話の時代に生きた本物の英霊が、たかだか夫に上手く自分をアピール出来ないという程度のことでここまで落ち込んでしまうとは、思わなかったことであろう。

 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 朝。既に麻帆良学園女子中等部では一時限目の授業が始まり、他の高等部や初等部でもそろそろ授業が始まることだろう。
 麻帆良内の殆どの学校の中に据えられてある、学園長室。その中でも諸事情から学園長が一番いることの多い、中等部の学園長室には今日も四人ほどの来訪者の姿があった。
 部屋の中にいるのは六人。もともとこの部屋にいた二人、麻帆良学園の学園長である近衛近右衛門と彼に近しい教師であるタカハタ・T・タカミチは敵意を一切感じさせないにこやかな様子で来訪者達を迎えている。
 
 
「おはよう、二人とも。昨晩はゆっくり休めたかの?」

「高音と同じことを言うのね、魔術師。まぁ悪くはなかったわ、一泊の宿と思えばね。いくら良い寝床であっても、ああいう無粋な場所に常夜しようとは思わないけれど」

「ふぉ、それは勘弁して欲しいところじゃの。こちらとしてもそこまで施設に余裕があるわけではないんじゃ。いくら広い土地とは言うても、子ども達に住まわせる場所を考えると教員や他の大人にそこまで場所を割くわけにはいかんのじゃ」

「別に嫌味を言いたかったわけではないのよ」

「ならお互い、それで良いではないか。ワシとしては言葉遊びも嫌いじゃないがの」

 
 チャーミングにもウィンクをしてみせる老魔術師を、キャスターは特にコメントすることなくスルーする。
 経験上、この手合いの老人に対してがっぷりと四つに組むと間違いなく不愉快な目にあうことを彼女は知っている。賢明な道を選ぶのであるならば、好きにさせておくのが良いだろう。

 
「さて、今回お主らに来て貰ったのは他でもない。昨日話した、お主らの職場についてじゃ」
 
 
 真面目な表情が真面目に見えないのは、落ちくぼんだ眼窩のおかげか、妙に長い頭部のせいか。
 とはいえ後頭部に関して言うならば、正面から見る限りはさほど特異なものではない。背筋を伸ばし、真っ直ぐと座っているからだろう。
 表情が真面目に見えなくても、その姿は関東魔法協会の理事として貫禄十分。神代の魔術師であるキャスターを前にしても一歩と退く様子もない。
 何年生きているのかも分からない老魔術師。流石に実力はともかくとして、その老獪さを比べるならばキャスターと肩を並べるにも十分に過ぎる。

 
「幸いにして葛木君は教員免許を持っておるようじゃし、中高ぐらいなら問題はあるまい。そこで葛木君には麻帆良学園女子中等部で社会の教師をしてもらおうと考えておるんじゃが‥‥如何かな?」

「是非もありません。お心遣い、痛み入ります」

「ふむ、気にせんでもえぇよ。昨日も言ったがの、行き場を失った魔術師に働く場所を提供するのも、ワシら関東魔法協会の仕事なんじゃ。まぁ仕事以外にもちょっと雑務をしてもらうぐらいは、覚悟しといてもらえるかね?」

「構いません」

「ふぉ、ふぉ、ふぉ、よろしい。‥‥いや何、やっぱり中には文句を言ったり面倒を起こしたりする者もおるんでな。君達もまぁ、節度ある生活を期待しておるよ」

 
 魔法使いを、無為に野に放るというのは非常に危険な状態である。
 世のため人のため、『立派な魔法使い』を目指すという大義名分がありこそすれども、やはり魔法使い達はある程度の実力さえあれば普通の人間を遥かに凌駕する火力を持ち合わせた危険人物でもあるのだ。
 拳銃に匹敵する威力を持った魔法を、ほぼ無手のまま行使できる。空を飛ぶことが出来る。手を触れずに物を動かし、人を束縛することが出来る。
 そして全ての魔法使いが『立派な魔法使い』で在ろうとするわけでもない。だからこそ、出来ればそれなりの権威を持つ組織として出来る限り多くの魔法使いを把握しておきたいのだ。
 
 
「さて、キャスター殿の方には二人の住居と合わせて、女子寮の管理人をお願いしたいのじゃがよろしいか?」

「管理人‥‥? それって、一体どういうことをすればいいのかしら?」

「たいしたことではないよ。ウチの寮では自炊を推奨しとるし、掃除も業者が入るしの。まぁあっちこっち壊れてる場所がないかチェックしたり、本当に簡単な掃除をしたり、あとはまぁ、生徒の相談に乗ってやることぐらいじゃろうて」

 
 麻帆良学園の寮は、全体的に何処かおかしい。
 そもそも天下の麻帆良学園といえど、学生寮は学生寮。世間一般の学生寮の印象と言えば、例え清潔で新造であろうと狭くこじんまりとしたものだというものだろう。
 しかし麻帆良学園の寮は本当に尋常ではない。広々とした室内、あろうことか生徒が勝手に模様替えをしてしまうぐらい自由度の高い規則。ペットは当然許可で各自自炊が出来る程のキッチン設備に加え、騒ぎ過ぎる程騒いでも寮監がやってこない。
 大浴場などの付属設備も、これは一体どこの王族のための設備だと目を疑う程のものである。規格外、という言葉も当てはまるレベルではないだろう。
 
 
「とはいえなぁ、ウチの生徒達は皆これ以上ないくらいに元気じゃぞい? そりゃあ苦労することじゃろうて。ふぉ、ふぉ、ふぉ」

「‥‥色々と思うところはあるけれど、まぁいいわ。要するに家事をしたりすればいいんでしょう? 前いたところと、あまり変わらないもの」

「ふぉ、流石は新妻とでも言ったところかのう? 重畳重畳、これなら何とかなりそうじゃの」

「に、新妻‥‥?! いえ、別にその通りではあるけど‥‥あぁいえ、なんでもないわ。えぇ、確かに、どうにでもなるわね。何も、問題ないわ」
 
 
 ‥‥既に扱い方を心得初めているらしい近右衛門の言葉に、キャスターは何とか平静を保ちながらも喜色を露わに了承の意を伝える。
 他人に用意された仕事に唯々諾々と従うのは、プライド以前の問題として、彼女にも簡単に了承していいものかという意識はあった。
 しかし、だとすれば他にどんな選択をすればいいのだろうかという話もある。
 この街は、近右衛門の話によれば魔術師によって管理されている街らしい。一般人の方が多いとはいえども、この街で魔術を行使するというのは聖杯戦争時に他のマスターに発見される以上の危険性を孕んでいるだろう。

 だとすれば、こちらの情勢が不安定な以上は下手に相手側を刺激しない方がいい。
 簡単な魔術を行使する分には問題ない。しかし宗一郎にも言ったように、大規模な魔術を行使するには十分な魔力とは言えないのだ。
 現状以上の魔力を集めるとなると、時間がかかる。霊脈から漏れ出る魔力を少しずつ集めるにせよ、周りの人間から生気を集めるにしても、どちらにしても今すぐには無理だ。
 
 
(‥‥やっと望めるんだもの。望める可能性が出来たんだもの。下手は打てないわ)

 
 例え自分自身が、心の奥底で策謀を巡らすことを由としないとしても。
 この場が聖杯戦争に代表されるような殺し合いの場、生き残りを賭けた争いの場というのであれば決して躊躇うことなどない。どんな手を駆使しても、自分も、マスターも、生き残ってみせる。
 しかし何という幸運か、この場において此の身は戦いのためだけを目的として存在するわけではないのだ。他者を蹴散らし、陥れ、追い落とすためだけに存在するわけではないのだ。
 
 選択肢が与えられている。本来ならば限られた存在であるはずの、サーヴァントであるこの身に。
 一も二もない。戦いに、争いにどれだけの価値があるだろうか。我が身に英霊として、王女として残るプライド全てを犠牲にしたって構わないと思うぐらいに、今の自分にとっては平穏こそが何よりも至上のものと感じられた。
 
 平穏は、簡単なことで崩れてしまうものだ。それは、痛い程に知っている。
 だから細心の注意を払い、臆病過ぎるぐらいに慎重に立ち回らなければならない。可能な限りの平穏を。可能な限りの日常を。
 生前でも死後でも適うことのなかった幸せを。手に入れる機会が出来たというのに、それを反故にすることなど出来はしない。ならば今は、最低限の優位さえ確保出来れば、多少の譲歩は仕方がないだろう。

 
「それでは契約書類の方を‥‥高畑君」

「はい。‥‥悪いけど二人とも、この書類の太線枠内に名前を書いてくれるかな? 細かいところとか‥‥キャスターさんのところとかについては後で色々と細工しておくから、適当に書いてくれて構いませんよ」

「‥‥‥‥ッ?!」

 
 書類を一通りチェックしたキャスターが絶句する。それは驚愕でも絶望でもなく、正しく心を揺さぶられた結果。
 どんな策謀も、相手の言葉の裏の読み合いも、この瞬間に虚無と消える。意識に、上らなくなる。
 そこには今までの何者をも、何物をも凌ぐ大問題が存在していた。そこに、強敵として在った。
 不抜の尖嶺、不破の千尋、万兵の城塞、果て無き毒霧、未踏の獄路。未だかつて体験したことのない転機。決断の時だ。

 
「おおそうじゃ、キャスター殿。此の国では一応名字と名前という風に戸籍の表記をしておるでな。名前を明かせん事情があるのだろうが、名字の方は葛木で構わんのかの?」

 
 これである。
 当然のこととして真名を明かすことは出来ない。順当に考えれば名字は‥‥コルキスとでもなるのだろうか。一応、自分は王女であったことだし。
 しかし素直にそんなことを書いてしまっては一瞬で真名がバレてしまう。名前はキャスター。‥‥名字は、その、つまり、目の前の妖怪爺が言っているように、葛、木、が、妥当‥‥だろう‥‥。
 
 
「‥‥そ、宗一郎様、よろしいの‥‥ですか‥‥?」

「何がだ?」

「いえ、ですから、その、私の名字を‥‥葛木にしても‥‥」

「問題でもあるのか?」

「え‥‥ッ?! あ、いえ別に、素晴らしいお名前だと思いますけど‥‥!」

 
 見事なまでに噛み合っていない。が、少なくとも微笑ましい光景であることにも違いはない。
 キャスターが何を問題にしているのか分かっていない葛木は眉間に皺を寄せて怪訝な顔をしているが、一方のキャスターはフードで覆われ、分かりづらい表情からも十分に狼狽している様子が見てとれる。
 その場にいた全員が、やれやれとでも言いたげに呆れた視線を二人に向ける。本来なら畏れられる存在である自分に向けられる微笑ましい感情にキャスターのパニックは加速した。
  
 
「な、なによ?! コッチを見るのを止めなさい!」

「ふぉ、ふぉ、ふぉ。まぁあまりからかうと炭にされそうじゃし、ここらへんで勘弁してさしあげるとしようかの。それじゃあキャスター殿は『葛木キャスター』で登録しておくぞい」

「か、勝手にしなさい! ‥‥もう!」

 
 ふてくされる様はそんじょそこらの女子中学生や女子高生よりもいじらしい。むしろ普段の、というよりは第一印象の影響もあってか破壊力は数段増している。
 格好自体は、最初に会った時の紫色のローブから変わらない。ここに来る途中は霊体化していたから人目を集めることはなかったが、その分だけ無口な葛木との道中は高音と愛衣にとっては苦行だったろう。

 
「さて、仕事自体は決まったが、流石にすぐに仕事をしてもらうというわけにはいかんぞい。学生寮の方でも用意はあるし、葛木先生の方は手続きやら支度やらでもっと時間がかかる。
 ‥‥何より一応お主らの、特に葛木先生の方は身元をしっかりチェックしとかねばならんでな。穂群原学園の方にも連絡しておく必要があるじゃろうし、少し待って貰いたい」

「構いません。可能なら、私の方からも連絡をしておきたいのですが」

「まぁ物事には順序というものがあるから、待っとってくれ。こちらで色々と確認してからではないと迂闊には動けんのじゃよ。
 例えばほれ、今の冬木でお主が行方不明になっとるとかいう扱いじゃと、先ずはこちらで弁解を用意しておかねばならん。転勤の手続きとかは、割と簡単なんじゃがな」

 
 たった一日とはいえ、生真面目な葛木が無断欠勤をしたとなると相当な騒ぎになっていると予想される。
 すくなくとも龍洞寺の方では上へ下への大騒ぎに間違いない。ただでさえ今の冬木では失踪事件が相次いでいるのだ。学校の方でも余計な噂がたくさん流れていることだろう。

 
「二人とも、今日のところは高音君と愛衣君に麻帆良の街を案内してもらってはどうかな? 残念じゃが、今日明日ぐらいはホテル暮らしになるじゃろうて。その間に必要なものも調達するのは如何かな?
 ほれ、キャスター殿には服も必要じゃろう。いくら霊体化‥‥じゃったかな、人目につかないことが出来るとはいえ、管理人をするとなるとそれじゃマズイじゃろうよ」

「成る程、一理あるわね。宗一郎様のお洋服も調達しなければいけないし‥‥。高音、愛衣、案内をお願いできるかしら?」

「はい、お任せ下さい‥‥って、学園長お金はどうするんですか?」

「ふぉ。給料の前借りという形になるじゃろうな。まぁ支度金ということで色はつけとくぞい」

 
 がらり、と引き出しを開けて封筒を取り出す学園長。
 封筒は少々分厚いが、渡された中をちらりと確かめると十分に道理に則った、法外ではない丁度良い金額が入っていた。
 住居のチェックをしていないから家具などは買えないが、服や細々とした雑貨を買うには問題ないだろう。どちらかというと保管する場所が問題だが、それもまた後に考えればいい。
 
 
「また新しく何か分かったら連絡するぞい。今日のところはショッピングと観光を楽しむとえぇ」

「そうね。では失礼するわ」

「お心遣い、感謝します。それでは」

 
 几帳面な愛衣が最後に出たからか、静かに扉が閉まる。
 授業中だからか音もしない学園の中で、老魔術師の溜息だけが大きく響いた。

 
「‥‥どう思う、高畑君?」

「まだ調査の結果が出てませんから、何とも言えませんね。人と形を見るにも時間が短すぎますし、しばらくは様子見になると思いますよ」

「じゃろうな。ふぉ、ふぉ、ふぉ、最近は暫くのんびりしておったからかの、こういう騒動は面白くて仕方ないわい。
 まぁネギ君が来るまでに不安要素は無くしておきたいからの。それまでに彼女達の見極めも、しておきたいものじゃ」

 
 嘆息する二人の魔法使いは、堅実にして寛容。
組織として締めるべきところは、確かにある。危険人物をわざわざ自分たちの懐中に招き入れるのは紛れもない愚行であるし、まだキャスター達を信用するには早過ぎる段階なのも十分に承知の上。
 しかし関東魔法協会、しいては麻帆良学園というのは組織として重要な役目があるのだ。
関東の、そして日本の西洋魔術師達の管理と統制、処罰。一般人への魔法の秘匿、危険の排除。
 そして何より魔法を使う者達の使命は、『世のため人のため』なのだ。麻帆良で働く者達、学ぶ者達は皆、誰もがその信念に沿って日々を過ごしている。
 
 勿論そこには管理下にない魔法使いを懐に入れておくことで、把握しておきたいという狙いもある。ただ善意によって動くことを半ば義務づけられた組織という縛りはあって、その辺り、管理側にある学園長をはじめとする幹部にとっては頭を悩ませる部分だ。
 特に実働部隊である教師の一部や学生などは、善意からなる視野狭窄に陥りがちだ。その彼等のサポート、フォローをするのが大局的な味方が出来る上層部であり、本国との折衝なども考えると頭痛すら覚える。
 
 
「しかしまぁ、未来への種が育つのを考えれば多少の労苦も楽しみの内じゃな」

「仰る通りですね。彼女達、若い魔法使いの成長のためにも僕たちが頑張っていかないと」

「‥‥キャスター殿と葛木先生。あの二人が、高音君や愛衣君達の成長にどう影響していくのかもじゃな。
 神代の英霊と、そのマスターであった葛木先生。未だ未熟なあの二人には良い教師となるじゃろうて。ふぉ、ふぉ、ふぉ」

 
 魔法使いの成長は、ただ勉強しているだけでは達せられない。
 自分を成長させてくれる師との出会い。切磋琢磨する友との出会い。大きく飛び上がるための踏み台となる事件や出来事。
 今の麻帆良には、微妙にこれらが欠けている。日々只無為に流れていく日常の中では、魔法使いとして大事なものを得ることは出来ないのだ。
 だからこそ今回の一件、そしてこれから起こるであろう一人の重要人物の来訪。それらは麻帆良を大きく揺さぶるかもしれない可能性を秘めている。
 
 それは、決して良い影響だけではないかもしれない。ともすれば悪い方向へと、揺さぶられることもあるだろう。
 しかし老いた魔法使いは知っていた。
 確かに善意が善いことばかりを生むわけではない。善意が凶事を呼び込んでしまう場合だって、一山いくらで転がっている。
 ‥‥だとしても、その根底にあるものが善意であるのなら。
 どんな凶事の中にあっても、最終的に救いは必ず存在する。凶事の中だけではなく、おそらくは凶事を乗り越えた先に。
 その人と形が善ならば、救いは必ず訪れるのだ。ならば救いを得られるよう、せめて老骨に鞭打って働こうではないか。
 
 若い人達のためにこそ、この世界は広がっているのだから。
 
 
 
 
(あとがき)

 不謹慎かもしれないが、無事だったヤツは手を挙げろーッ!!
 というわけでお久しぶりです! 全裸で待っていて下さっている人がいらっしゃるらしいので、更新しました!
 ‥‥殆ど話が進んでいませんが。というか山も谷もない文章で本当に申し訳ない。
 次話の更新も未定ですが、何とか頑張って執筆していきたいと思います。
 あと、神ならぬ人の身、不備のある箇所や間違っている箇所も多々あると思います。
 お気づきになりましたら、是非ご指摘頂ければと思います! どうぞ未熟な作者に力をお貸し下さい!
 それでは次話までごきげんよう。不肖夏色もしくは冬霞の他の作品も、どうぞご贔屓に!



[16654] Prolouge~6
Name: 夏色◆7f18a936 ID:e3b8133c
Date: 2012/05/24 01:12
 
 朝というには微妙に遅く、昼というにはやや早い長閑な麻帆良の街の午前。
 基本的に学生ばかりが住んでいる麻帆良において、この時間帯は人影が少ない。住人の大部分を占めるところである学生が登校しているのだから当然と言える。
 この時間帯に街中を目的もなくうろうろしている若い男女は、講義が午後から始まる大学生やら、稀ではあるが学校が振り替え休日だった中高生やら、あるいは褒められたことではないけれど自主休講を決め込んだ怠惰な学生などであろう。
 
 
「‥‥随分と店が多いのね、この街は」

「麻帆良は学園都市とはいえ、寮が多い分だけ人口密度が高くなり、住んでいる人の数はそれなりのものですからね。その分だけ需要も大きくなりますから、結構な競合地帯ということです」

「学生はお金に余裕がありませんから、少しでも安くて良い物が売ってる場所に行きますしねー。あ、お姉さまアレ! アレこの前お姉さまが欲しい欲しいって言ってたのに無かったアクセサリですよ!」

「愛衣、今はキャスターさんと葛木先生のお買い物のために来ているんですよ? 私事は後に回します。そのための公休ではありません」

「あ、はい、すみませんお姉さま‥‥」

 
 そんな微妙に人通りの疎らな酒店外を歩いているのは、ただでさえ少ない人影もあって尋常ではなく目立つ四人組。
 麻帆良の中でも屈指のお嬢様学校、ミッションスクールとして有名な聖ウルスラ女学園の制服を身にまとった金髪の美少女。麻帆良の中でも最も普通‥‥もといポピュラーな麻帆良女子中東部の制服を纏った、自己主張の弱めな可愛らしい少女。
 この二人に関して言えば、時間的な意味での違和感はあるものの、この場所については十分に似合っていたといえる。なにせ二人ともれっきとした麻帆良の住人であり、その過半数を占める学生なのだから。
 但し残りの半分であるところの二人。こちらは完全に異色の取り合わせと言うべきだろう。

 
「ふふ、気にしなくても良いのよ愛衣? 公休だからといって休みなのは同じなのだから、気を張る必要は無いわ。折角だから必要なものを買ったら少し他のお店も見て回りましょう」

「本当ですか、キャスターさん!」

「えぇ。もとよりマスターがそう望んでいるなら、サーヴァントの私は従うまでよ。‥‥宗一郎様、よろしいですか?」

「私は一向に構わん」

 
 一人はさほど、不自然な恰好をしていない。
 無骨なスーツを着込んだ痩躯。まるで幽鬼がフラリと現世に現れたかのような雰囲気をまとっていながら、その男は教師という職業についていた。
 荒削りの風貌は、古木から仏僧が削り出した像のようだ。ただひたすらに、武骨。痩身だからといって頼りないという印象はなく、どちらかといえばゴツゴツしていて頑丈な方だろう。
 それなりな服装をすれば暗殺者にも軍人にも僧侶にも見えるだろうが、それでも彼はあくまで教師であるのだから、この場にいることについては左程の疑問を要しない。
 
 
「貴女は素材が良いんだから、着飾ればもっともっと可愛くなるわよ、マスター。白い服なんてどうかしら? ああでも貴女には無垢な白もいいけれど、もっと薄くてフワフワした色も似あいそうね」

「それには賛成しますね、キャスターさん。愛衣はもう少し着飾った方が良いのではないかと私も思いますし」

「キャスターさん、お姉さまも、からかうのはやめてください!」

「からかってなんかいないわよ。ねぇ高音?」

「えぇ、キャスターさん」

 
 もう一人は、完全に異質な存在だった。
 服装は紫。古来、中国などでは紫が高貴な色として用いられたといわれているが、それも頷けるかのように上品な紫色である。
 現代のものとは趣の違う装飾の施された紫色の布は、まるで魔法使いが被るかのようなローブの形で彼女を包み込んでいる。深くフードを被っているから口元ぐらいしか見えないが、これまた薄い紫色の口紅が施された唇は、絶世の美女を予感させるほどに美しい弧を描いていた。
 
 確かにまだまだ十分に寒い季節ではあるが、そもそもローブなんて古風を通り越して時代錯誤(アナクロ)な服装は、そうそう見ることなんて出来ないだろう。
 実際、かなり目立ってしまっている。そもそも美しい女性だからということもあるだろうが、やはり問題は服装だろう。この先も必要以上に人目を惹かないためには、現代に馴染める服装が必要だ。

 
「そういえば高音、洋服は当然としてほかに何を買えば良いのかしら? 前に住んでたところでは最初からある程度の家具があったから、新しく生活をは自演るとなると何を買ったらいいのかさっぱりわからなくて‥‥」

「ふむ、そうですね。キャスターさんたちが入居する予定の女子寮管理人室には、すでにある程度の家具が備え付けてあるはずです。前の管理人ご夫妻は親切にも『次の方に』と使っていたものを残していってくれたので。
 布団も家電製品もありますから、あとは食器や衛生用品などでしょうか。食材に関しても、ある程度買っておいたほうがよろしいかと」

「キッチンはあるのかしら?」

「電気調理器がありますよ。あと食器以外にも調理器具と調味料は買わないとありませんね。大体このあたりは全部すぐ近くのディスカウントストアで購入できますから、まずはそこから行ってみましょう」

 
 麻帆良の商店街は麻帆良学園都市のあちらこちらに散逸して存在しているが、その中でも聖ウルスラや麻帆良女子中等部に近い商店街は、それなりの規模でさまざまな種類の店が立ち並ぶメインストリートのようなものだ。
 ただ、いろんな種類とはいっても学業や基本的な日常生活に不要なものを取り扱っている店はさほど多くない。学業優先なのが麻帆良の基本的な姿勢であり、娯楽に関する店は必要最低限度に抑えられている。
 そもそも麻帆良と東京とは電車でしっかりと繋がれており、週末などに東京まで出れば遊び放題だ。電車賃だって、週に一度ならさほど負担にはならないだろう。
 
 もっともこういった姿勢は当然のことながら学園側の言い分に過ぎず、いくらでも節約したい学生側としては可能な限り電車賃だって節約したいわけであって、麻帆良に娯楽施設があるに越したことはない。

 
「‥‥そういえば貴女達の生活費はどうやって捻出しているのかしら? まさか学生の身で給料が出るというわけでもないでしょう?」

「そうですね、私たちは基本的に仕送りで生活している身分です。寮費が破格なぐらいに安いですから仕送りも増えますし。それに寮生活を推奨している分、奨学金も充実しています」

「麻帆良は学生ばっかりの街ですから、その分アルバイトもしづらいんですよね‥‥。求人に対して募集が多すぎるから、ほとんどの人はバイトをしてないんですよ」

 
 たくさんの学生がバイトをしたがれば、当然受け入れる店に限りがある以上は求人にあぶれる者も多い。
 結果として麻帆良の学生は嫌が応でも質実剛健な倹約家に育つというのが、また評判の一つだった。‥‥もちろん、麻帆良に入学してくる学生には知られていないことではあるが。
 
 
「これから向かうディスカウントショップも、リサイクルコーナーを併設してるんですよ。麻帆良を卒業したり転校したりする人もいますから、そういう人たちがリサイクル品を提供してくれるから、他の学生は安く購入できるって評判なんです」

「‥‥もしかして私たちが購入するのは問題なのかしら」

「そ、そんなことはないですよっ! まぁ珍しいことには違いないかもしれないけれど」

「仕方がないわね」

 
 綺麗に掃除された石畳を歩いていくと、すぐに商店街へと出る。
 広い道の両側には大小様々な、それこそ一目で老舗と分かる呉服屋からコンビニ、CD屋、スーパーその他諸々。この地区の需要を満たせるありとあらゆる店が揃っていた。
 今は人通りが少ないが、これが昼過ぎから午後へと時間が移っていくにつれて当然のように客は増えていくのだが、今はどの店もおしなべて暇だ。
 
 
「あ、こちらの店ですよ、キャスターさん」

「‥‥想像したよりも随分と大きいわね。というより、違和感があるのだけど?」

「まぁ近代式のディスカウントショップですからね。他の店は明治時代からの建物を流用したりしているようですが、この店は新築ですからね。麻帆良の外観にはそぐわなくても仕方ありません」

 
 全体的に落ち着いた色調で統一された麻帆良の街の中で、別の意味で真っ白に輝く無機質な建物。その外観に比して主張の激しい看板がやけに悪目立ちしている。
 例えば地方の、それも車でしか行けないぐらいの微妙な場所にあるホームセンターのような雰囲気をたたえていた。
 
 
「これが、この街のディスカウントショップ‥‥? 外側は貧相だったけれど、中は意外に華やかなのね?」

「まぁ色んなものを売ってる店ですからねー。その分だけ騒々しいとは思いますけれど」

「冬木の、新都の商店街とはずいぶんと違いますね、宗一郎様」

「あそこは、新開発地区だ。むしろ深山町の方に、こういった店はあったと思うが‥‥」

「聖杯戦争の時にはこういう店に寄ることが無かったですから、新鮮ですね。さて、生活必需品を買わなければいけないわけですけど、何から買ったものやら」

 
 店の中は照明も多く小綺麗に商品を照らし出している。かなり雑多に色々なものが陳列されているのだが、ごちゃごちゃしているように見えないのは店が広いからだろう。
 いくつかのブースに分かれていて、それぞれ売られている商品が違う。自分たちが向かうのは、奥の方にある家具などの大きめの商品が並んだスペースか。
 
 
「‥‥このあたりがリサイクル家具のスペースですね。今日は目星だけ付けておいて、後で寮の方に配達して貰いましょう」

「本当に色々あるのね。龍洞寺には必要最低限の家電しかなかったし」

「とはいっても殆どが生活必需品で、娯楽用品はそこまでありませんけどね。CDコンポとかDVDプレイヤーとかは引っ越し先に持って行ってしまう人も多いですし」
 
 
 主に並べられているのは持ち運びが激しく不便なテレビや冷蔵庫の類。あとは実家に帰った学生が置いていったのか、炊飯器やガスコンロなどの食事に関係する機械の類もいくつか確認できる。
 高音の言うとおり、まだ管理人室の方の準備が整っていない以上は日にちを決めて配達してもらうのが良いだろう。余分に金を取られるかもしれないが、仕方がない。

 
「‥‥とはいえ、私では何を買えばいいのかさっぱりだわ。二人とも、アドバイスをお願いするわね」

 
 女性が三人寄れば姦しいとは昔からよく言ったものだ。
 男同士が分かり合うためには拳が一番だという定説を葛木は思い出したが、同じようにショッピングや物選びをする時にも同じく、国境を越えるのかもしれない。
 妻でありサーヴァントであるキャスターはコルキス‥‥今でいう中東の生まれであるから、間違いなく外国人であることであるし。
 
 そんな当人にとっては非常にどうでもよいことを考えながら立ちつくす葛木は、周りから奇異の目で見られていることに全く気づいていなかった。
 もちろん買い物を楽しんでいる女子達も同様である。
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 必要物資を買い終わったのなら、次は順当にいって新居の確認だろう。
 普通ならばそれなりの時間がかかるだろう住まいの手配も、今回に限っては迅速だった。教員寮などは独身住まいのためにあるものだし、そもそもそこまで空きがあるわけではない。また、どの部屋に入れるかという判断も必要だ。しかし二人の場合はわけが違う。
 なにせ女子寮の管理人という、ある意味では選任が非常に難しい役職に学園長がポンと据えてしまったのだ。住む場所は当然、女子寮の管理人室と決まっている。
 この管理人室、ついこの間まで慎ましい性格で几帳面に部屋を使っていた老夫婦のおかげですぐにでも住めるように整備してあった。キャスターは掃除に整備に、若奥様のし甲斐があると張り切っていたようであるが、残念なことに僅かに積もってしまった埃を払う以外に掃除のしようがないぐらいに綺麗であった。
 
 
「はぁ、管理人室って今まで入ったことが無かったんですけど‥‥案外ふつーの部屋なんですね」

「一応は夫婦で暮らせることを考えてあるのでしょう。私としては、洋風の寮だというのに管理人室だけ和室というのが気になるのですが‥‥。まぁ、お年を召されたご夫婦で暮らすということになっているのなら、それも分からないでもないのでしょうか」

「いいじゃないですか和室! 私ずっとアメリカにいたんで和室には憧れてるんですよお姉さま! キャスターさん、遊びに来てもいいですよね?」

「ええ、構わないわよメイ。ここも昔住んでいたお寺に似ていて、過ごしやすそうだわ。そう思いませんか宗一郎様?」

 
 麻帆良女子中等部の学生寮は、非常に近代的で清潔な造りをしている。
 宿舎というよりはホテル、あるいは会社のような綺麗なロビーは談話室も兼ねていて、大きなガラス張りの壁からは燦々と日差しが差し込んで実に清々しい。
 麻帆良学園の女子中等部と高等部とで使っているこの寮は基本的には二人から三人部屋であり、ロフトまでついていてかなり広い設計になっている。中等部からの寮生活であるから住環境はしっかりと配慮されているのだ。
 そんな学生寮だから当然管理も難しい。あまりにも広すぎるから掃除や修繕は業者を呼ぶが、その報告を受けたり見回ったり、簡易な掃除や修理は管理人の仕事だ。
 他にも郵便物の受け取りや門限の管理なども含まれる。休憩もとれるが勤務時間は長いので、向き不向きがある仕事だろう。夫婦で麻帆良に住まい、夫は教師となると葛木夫妻にとっては丁度よい仕事なのではないか。
 勿論この規模の学生寮ならば本来は二人、あるいは三人ぐらいで運営するところであるが‥‥キャスターは目の前の新婚生活に夢中で懸念なんてものはないようである。
 
 
「こちらの和室がお二人の住居で、仕事は事務室や寮全体で行われるそうです。詳しいことは確か‥‥ああ、これが勤務規定になっているみたいですね。こちらを読んで頂ければ分かると思います。
 本当なら前任の方からの説明があれば良かったんですけれど‥‥もう田舎に帰られてしまったそうですから。もし分からないことがあれば直接学園長にお伺いするといいでしょう」

「ここでは生徒の朝食や夕食を作ったりしなくていいのかしら?」

「寮では自炊を推奨してますから、食堂はパーティーとかでしか使わないんですよね。一応決められた時間に食堂で食事を頼むことが出来るんですけれど、そちらはパートタイムの人が来てくれてるはずですから」

「‥‥それじゃあ随分と楽なんじゃないの?」

「広いですから、点検だけでも一苦労だと思いますよ。勿論私たちもキャスターさんさえ除ければ手伝わせてもらいますからっ!」

「あら、ありがとうね二人とも。でも先ずは自分で頑張ってみたいわ。せっかくの宗一郎様との‥‥生活ですし」

 
 すみれ色の髪の毛を僅かに揺らし、本当に微かながらも照れた様子を見せるキャスター。
 冷徹な魔女、という当初の印象は‘‘今のところ”完全に消え去っていた。包容力のある大人の女性、という分かりやすい雰囲気の中に紛れている、未知の生活に対する期待や不安、恥ずかしさが実に初々しい。
 本来ならば同居しないそれらの感情の気配が、独特の魅力を彼女に齎していた。憧れと尊敬、そして年上にも関わらずお節介を焼いたりちょっかいを出したくなる可愛らしさとでも言おうか。

 
(‥‥お姉様どうしましょう)

(明らかにはしゃいでますね。本人は隠しきれてるおつもりでしょうけど、透け透けだわ)

(だから困ってるんじゃないですか。どう反応したらいいんですか私は、こんな可愛らしい年上の女性を前にして‥‥!)

(‥‥まぁ、これからじっくり時間はあるでしょうし。お互い理解を深めていきましょう)

 
 愛衣が不思議に思ったように、学生寮としては異例なくらいに綺麗でスタイリッシュな共有スペースに比べて管理人室は随分と真っ当な作りをしていた。
 基本的には夫婦二人暮らしを想定しているのだろうが、こちらもそれなりに広い。来訪者や学生達の応対をする受付部分と応接室、そして寝室に食堂(ダイニング)と立派な台所(キッチン)がある。一応感嘆な風呂も備え付けてあり、暮らしやすそうだった。
 ちなみに非常に大事なことだが、当然ながら洗面所(トイレ)と風呂は別である。

 
「今夜は流石に自炊というわけにはいかないでしょうから、あとでコンビニにでも行って夜ご飯を買うといいでしょうね。日が落ちた頃に学園長先生から学園長室に来るよう頼まれておりますから、それまではゆっくり出来ますよ」

「あら、素敵ね。歩き回るのも疲れてしまったし、タカネの言うとおりにしましょう。お茶ぐらいは‥‥残ってないかしら‥‥?」

 
 既にちゃぶ台の前に座って新聞からの情報収集に勤しんでいる宗一郎と同じように、女生徒二人は懐かしい臭いのする畳へと腰を下ろした。
 ちゃぶ台の上には煎餅や蜜柑を入れていたと思われる木の器が置いてあるが、流石の老夫婦もそれらは残していかなかったらしく、中身は空だ。食材の調達は明日以降になるだろうから、今夜の食事は高音が言ったとおり、何処ぞで調達する羽目になりそうだ。
 新妻キャスターが料理の腕前を披露するのは、またの機会へと持ち越しである。
 
 
「はぁ、葛木先生とキャスターさんが寮父母さんですかぁ‥‥。面白くなりそうですね、お姉さま!」

「あまりはしゃいでご迷惑をかけてはいけませんよ愛衣。確かにキャスターさんは貴女のサーヴァントかもしれませんが、同時に年上であり、魔道の先達なのですから、しっかりと目上の人に対する姿勢を注意してですね―――」

「あらあら、そこまで気にしなくてもいいのよタカネ。確かに魔術師として軽く見られるのは我慢ならないけれど、それ以外だったらメイは私のマスターだし、そのメイが尊敬している貴女も蔑ろには出来ないわ。これからさんざんお世話になることでしょうし、ね」

「キャスターさん、これはけじめの問題です。メイは感情が高ぶるといつも自制を忘れてしまうのですから‥‥」

「お、お姉さま!」

「まぁ落ち着きなさい二人とも。お茶が入ったから、タカネの言った通り少し休憩にしましょう」

 
 どうやら前の管理人であった老夫婦は、あまり腐る心配のない茶葉などは残して行ってくれたらしい。夫妻が飲むためのものだったらしい普通の等級の茶葉を使ってお茶を淹れたキャスターが、お盆に急須と、人数分の湯飲みを乗せてやって来た。
 室内で他人の目がないからか、フードを取り去ったキャスターの顔は目を見張る程の絶世の美女である。外を出歩いていたときにはフードを被っていたがためにご無沙汰であった素顔を見た二人の少女は、改めて悩ましげな吐息を漏らす。

 
「‥‥どうしたの二人とも?」

「あ、いえ、やっぱりキャスターさんって綺麗な人だなーと思いまして‥‥」

「やめなさい愛衣、はしたない! ‥‥とはいえ愛衣の言う通りですね。本当にお綺麗ですよ、キャスターさん。神代の時代の、何か特別な美容の秘訣でもあるんですか?」

「べ、別にそんなものはないわよ? 何を必死になっているのかしら貴女達は。私だって若い肌が、その、羨ましいのに‥‥」

 
 何時の時代だろうと美容と健康は女性の興味の向く先である。無邪気に感じたままを口にする愛衣を窘めた高音にしても、思わず僅かながらも身を乗り出して尋ねてしまうのも無理もない話だ。
 神話の住人、というと実際に目の前に存在して、呼吸をして、お茶だって飲んで見せているキャスターに失礼に思えてしまうだろうが、彼女を表すのにこれほど分かりやすい表現もあるまい。
 透き通った空のような、あるいは儚げな勿忘草のような美しい髪色。宝石でも散りばめてあるのかと疑うほどにキラキラと光り、どれほど上質な絹糸にも勝る程にきめ細やかで柔らかだ。
 一流の彫刻師が一切の曇りのない大理石から削り上げたかのような眉目、長く尖った耳、水面を思わせる深みを湛えた瞳、そして艶やかな中にも決して可憐な色を失わない唇。どれも現世《うつしよ》の人とは思えない。
 彼女達も―――自身の知るところではないだろうが―――数多の男子、あるいは女子から想いを寄せられる学園の人気者であるのだが、自分の身の回りにいる人間とは一線を画する美しさには、嘆息を禁じ得なかった。

 
「私など、まだまだ小娘です。キャスターさんに比べればとてもとても‥‥」

「そうですよ! お化粧だって下手だし、ろくなお手入れもやってないし、キャスターさんが羨ましいです!」

「‥‥なにか、すごく敗北感を感じるんだけど。貴女達それわざとやってないわよね?」

「「はい?」」

「いえ、別にいいの気にしないで。若さが憎い、だけだから‥‥」

 
 若さが十分に武器なのだと知らず無邪気に憧れの視線を向けてくる少女二人に、キャスターのテンションが一基に下がる。若い女子にはトラウマがあるのだ。年が若けりゃいいのかと悪態をつきたくなってしまうが、隣に座る宗一郎をチラリと見てみても無言で茶を啜るだけで反応はない。
 最初からこの手の話題で他人の心の機微を伺うことを、この人に求めるのが間違いだったか。愛とは無関係なところでの評価を下し、キャスターは何とか外面は取り繕いながらも、内面それはもう遠慮なく激しく落ち込んだ。
 
 
「ああ、そういえばキャスターさん」

「なにかしらメイ?」

「私って、キャスターさんのマスターになりましたよね? 最初はどうしても必要なことだからって、強引で驚きましたけど‥‥今ではキャスターさんのお力になりたいと思ってますし、マスターとして立派に役目を果たせればとも思ってます。けど、マスターって具体的に何をすればいいのか、お聞きしてませんよね?」

 
 居住まいを正した愛衣の言葉に、キャスターも落ち込むあまり少し垂れてしまっていたエルフ耳をピンと伸ばして、同じく背筋もしっかりと伸ばして座りなおした。
 なるほど、はしゃぐばかりというわけでもない。このように三人だけで話せる機会というのもこれからは少なくなるだろう。ならば他人に聞かせるべきではない話し合いは、今の内にやっておかなければ互いに情報が不足してしまう。

 
「‥‥そうね、思えばここまで不振な私に、よくぞ何も言わないで協力してくれたものだわ。貴女達も、あの魔術師《メイガス》も」

 
 とんとん拍子に話が進みすぎている、という懸念はキャスターにも宗一郎にもあった。
 魔術師としての思考をすれば、自分たちのこの待遇は異例なものだ。いや、むしろ異常と言ってもいいかもしれない。得体の知れない、英霊などと名乗る魔術師が一人に傷だらけの男が一人。よくぞ懐の内に入れる気になったものである。
 むしろ彼女にとって一番の気がかりだったのは、英霊やサーヴァントといった魔術師としては基本知識の内に入るだろう知識をこの場所の誰もが知らなかったことだ。そこにあるのは世間一般における英雄という言葉の意味や、あるいは低級な使い魔に対する理解だけ。魔術師としては不十分にも程がある。
 ましてや相手がそれらについての知識がないということは、即ち未知の存在であるのだ。それを自ら招きよせるとは、愚の骨頂。 
 

「‥‥それはまぁ、不審に思うことは多いです。サーヴァント、英霊といった言葉も初めて聞くものですし、仰っていた聖杯戦争についてもまた、初めての言葉ですから。
 ですがそのあたりは学園長先生が今、調査をしております。それで不審な結果が出たならば、また改めて処遇は検討されることでしょう。ですから私たちは学園長先生が認めた、そして渡したw地も感じたままの貴女の人柄を信じてお付き合いするだけです」

「今更かもしれないけれど、私が貴女達を騙しているとは思わなかったの? 私の都合でメイに暗示をかけて無理やりマスターにしたのは事実なのよ?」

「勿論それはよくないことでしょう。他人の精神を操る類の術は私達の世界でも厳重に戒められています。ですが、同じように緊急回避という概念があるのも事実です。聞くところによれば、どうしても愛衣をマスターにする必要があったとのこと。ならば許す許さない以前の問題として、その行為にある程度の正当性はあるのでしょう」

「言葉遊びね。そのようなことで、これから起こるかもしれない危険性を無視できるものではなくてよ?」

「‥‥その通りです。確かに危険であることには変わりはありません。しかしキャスターさん、貴女は一つ勘違いをしています」

「え?」

 
 怪訝な顔のキャスターに、自信たっぷりに高音は笑って見せた。
 
 
「私たち“魔法使い”は、誰かのためにその力を振るうこと、そして誰かの力になることを由とします。すなわち私たちが目指す『立派な魔法使い《マギステル・マギ》』への道は、無償の奉仕、無私の奉仕が基本ですもの」

「‥‥そのためならば危険があっても、私を助けると?」

「その通りです。私は未熟な身ですが、だからこそ信念だけは誰よりも強くありたいと思っておりますので。もちろん、“だから助けた”というのは安直に過ぎますけれどね。貴女を助けたい、という私個人の感情は当然ながら根柢にありますよ」

 
 それは魔術師という生き物であるキャスターにとって、あまりにも概念の違う世界であった。
 滅私の姿勢、無私の姿勢は“魔術師”としてあってはならないことだ。魔術はあくまで自身の目的、根源に達することにのみ使われるべきなのである。他人に使えばその時点で神秘の劣化、希釈が始まる。それは魔術師として、神秘の行使手として何よりも懸念すべき事柄だった。
 この極東の地で、何故これほどまでに概念の違う集団が存在するのか?
 キャスターが感じたのは、感謝の気持ちと同時にそういった疑問であった。 
 

「わ、私もお姉さまと一緒ですキャスターさん!」

「メイ」

「確かに突然、暗示をかけられてマスターにされて‥‥それは凄く失礼なことだと思いますし、怖かったです」

「‥‥‥‥」

「で、でもキャスターさんが困ってて、それを私が助けられるっていうなら! それは、私はすごくいいことだとも思ったんです。最初はすごく怖くて、どうしようと警戒もしました。けど、キャスターさんにお礼を言われたら、こう、あぁ良かったなーって感じて‥‥怖いとか、どうしようとか、そういうことはどうでもよくなっちゃいました」

 
 最初は怖ず怖ずと、次第に流暢に。
 感じた思いをそのままに、取り繕うことをせずに、ありのままの熱意を込めて愛衣は話した。
 相手の言葉から感情を読み取り、話を上手に進めるやり方はいくつもある。会話、とはそうやって進められるものでもある。しかし今は自分のこの思いを伝えることが、何よりも大事だと彼女は感じていた。
 
 
「もしかしたらキャスターさんは、そういうのを甘いって怒るかもしれません。けど私、どうしても誰かの役に立ちたくて‥‥。勉強も修行もいっぱいして、優秀だって褒められたこともあって、でも今まで実際に誰かを助けられたことなんてなくて。
 だからごめんなさい、自己満足みたいだけど、私はキャスターさんのマスターになれてよかったと思ってます。キャスターさんを助けられてよかったと思ってます。だからもっと、キャスターさんの力になりたいんです!」

 
 ただ、純粋な『立派な魔法使いマギステル・マギ》』への憧れ。
 それは“魔法使い”として生きてきた中では当然の憧れであった。彼女達にとって、そもキャスターの感じている違和感こそが生きる目標である。
 魔法使いならば、当然のこととして人助けを目指す。勿論その過程で職を見つける者こそ多いが、目指すところだけは共通していた。
 その中でも相当に優秀な部類に属する愛衣も、また同じように『立派な魔法使い《マギステル・マギ》』を目指し、日々練磨して来た。この麻帆良学園にいるどんな魔法使いの卵よりも、厳しく修練に励んで来たと言っても過言ではない。
 だがその純粋な日々故に、毎日忙しく学生生活を送っている麻帆良の生徒たちに比べて頻拍した感情を抱いていたのも事実である。乃ち、誰かの役に立ちたいという素直な感情だ。
 誰かの役に立つための修行をしているのに、修行中だから実際に何か出来るわけでもない。修行に追われて、行動に移せない。それは彼女達にとってどおれほどまでに口惜しいことだったろうか。

 人によっては、時期尚早だと諌めるだろう。焦るべきではないと諭すだろう。偽善だと嗤う者もいるかもしれない。
 けれど素直な感情から湧き出た衝動を、どうして咎められようか。例え過ちを犯してしまったとしても、どうしてその志を貴くないと断じられようか。
 あるいは偽善であれば、独り善がりなものであれば話は違っただろう。けれど彼女の持つものは、曇りのない純粋な好意。故に、彼女は苦しんでいたのだ。

 
「‥‥いいの、メイ? サーヴァントを従えるということは、生半可な覚悟では駄目よ。私が勝手に契約をしておいて何を言うかと思うかもしれないけれど、貴女は私との契約を解く権利を持っている。
 重荷に感じるぐらいなら、契約を切りなさい。然るべき魔術や儀式を経れば難しいものではないわ。もし貴女が半端な気持ちで私との付き合いを続けようとするならば‥‥。それはいつか、身を滅ぼすことでしょう」

 
 冷徹にもそう言い切ったキャスターの声が僅かに震えていたことに、誰が気づけたことだろう。
 このままの関係を続けるために必要な確認だと判断したとはいえ、愛衣との契約が切れてしまえば彼女は現世に残れない。この世の、否、この世界の存在ですらない彼女では、肉体なしに現世に留まることは出来ないのだから。
 やっと掴めた、宗一郎との日々への期待と希望。とおもすれば其れをかなぐり捨てるかのような暴挙。愚行。だが、彼女はそれでも愛衣に忠告せざるを得なかった。

 
「サーヴァントは、現界した英霊は非常に特殊な存在よ。本来ならば通常の手段では戦闘力まで備えた英霊は喚び出すことなど適わない。それを聖杯戦争という大儀式の力を以って、現世に繋ぎ留めている」

「‥‥大儀式」

「そう、世界でも有数の大儀式よ。あなたの腕に刻まれた紋様は、令呪という身体刻印の一種。どうやら私が魔術によって擬似的に再現したものに過ぎないから絶対命令権こそ備えていないけれど、それでも神秘の結晶には違いないわ。
 サーヴァントとして喚び出し、現世に繋ぎ止められた過去の英雄。そして上位存在である英霊を縛ることの出来る神秘の結晶、令呪。どんな人間にだって狙われる理由には十分。
 捕えられ、実験材料にされるか。生きたまま脳髄と脊髄を引き抜かれるか。身体中を切り刻まれて生存に必要な臓器と魔術回路だけのホルマリン漬けにされてしまうか。どんな末路だってあり得る可能性。
 そんな未来が待っているかもしれない。それでも貴女に、私を従える覚悟はありますか?」

 
 正道を歩んで来た愛衣と高音には想像もつかない範疇の話。けれど、キャスターの言葉には途方もない
説得力があった。
 彼女が語った通りになる。確実に、自分達は実験材料として人ならぬ扱いを享受する羽目になる。もし彼女の言うとおり、神秘の秘密を得ようと目論む者がいたのなら。
 だがそれらを聞いてなお、少女の決意は揺るがなかった。

 
「―――あります

「メイ!」

「覚悟ならあります! キャスターさんだって仰ったじゃないですか、サーヴァントとしてマスターである私に仕えるって。あれは適当な気持ちの宣誓だったんですか?」

「そんなことは、ないわ‥‥!」

「じゃあ私にも、そんなことは言わないで下さい! 私は、もうキャスターさんのマスターです!」

 
 少女は知らない。マスターとサーヴァントの関係は、決して御伽噺に謳われる騎士と姫のようなものではないことを。令呪の持つ本当の意味を。
 魔術師が聖杯を得るためには必ず最後には自らのサーヴァントを殺害する必要がある。令呪を以て自害させるのだ。そうしなければ聖杯は根源への路を開かない。
 故に基本的な理屈として、魔術師とサーヴァントの間に心開かれた関係というのはありえないのだ。キャスターにとってもそれは同じ。彼女を最初に召喚した魔術師はその典型例だったと言えよう。
 
 
「メイ‥‥貴方、本当に分かっているの? タカネにも言ったけれど、私はその気になれば貴女を傀儡にして操ることだって可能なのよ? そしてそれは、まず間違いなく貴女の気づかない内に行われる。それでも私を信用して、貴女の命を預けられるのかしら?」

「もちろんです。たとえ甘いと、理想だと嗤われても、まず私がキャスターさんを信用しなければ始まらないじゃないですか。ご主人さまが使い魔を信じなくて、どうするんですか」

 
 最悪、キャスターは自らの言葉通りに愛衣を操る心算すら、心の片隅には存在していた。
 そこまで考えなければいけないのが魔術師だ。そして彼女自身もまた、自身はともかく宗一郎へと害を及ぼす存在を容赦出来ない。
 だから必要さえあれば出来る。魔術師であるなら、それは愛衣にとっての『立派な魔法使い《マギステル・マギ》』がそうであるように、彼女にとって当然のことであったのだから。
 
 
「メイ‥‥貴女は例え自分が傷ついても、その信念を貫き通せますか」

「少なくとも、今この瞬間はそのつもり‥‥です‥‥」

 
 自信なさげな愛衣の様子が、それでもキャスターにはお気に召したらしい。
 不足なままに、不足なままで、それでも尊い志を持つ。それはどれほどまでに純粋で、素直で、美しいことだろう。その果てに困難が待っていようとも、挫折が待っていようとも、今この瞬間の志があるならば、それで十分。
 未来にも過去にも確かなものはない。確かなものは、現在だけだ。ならばここまで尊い彼女の志がこの先どうあろうとも、今こそは彼女を認めざるを得ないだろう。
 
 ただ漠然とあった、感謝と好意。
 半ば義務感のようだった、原因によって左右された結果から生まれた宣誓。
 形はしっかりしていても、其処に心が伴っていなかった無味乾燥な契約に色が宿る。本当の契約が、結ばれた。
 
 
「あの、何かお気に障りました、か‥‥?」

 
 小娘の戯れ言だ。
 現実を知らぬ者の戯言だ。
 こんな言葉、いくらでも後になって覆せる。どれだけ大きな口を叩いても、それを達成出来なかった者は“口だけ”と呼ばれるのだ。ならばいくらでも鼻で嗤ってしまえるだろう。
 
 けれど、そうだ。自分は、メディアだけはそれを嗤えない。
 少女の戯言と嗤えないのだ。自分自身、そういう少女だったのだから。
 どれだけ自身が今まで生きてきた境遇を嘆いたところで、英霊としての境遇は変わらない。不変のものを、そのままに。不変の存在である英霊として、少女は許容されなければならなかった。
 そしてまた自分自身の思いとして。ただ純粋に、素直に思いを口にする愛衣を見て、ただ眩しく思う。力になりたいと思う。その思いもまた、間違いではないのだから。

 
「‥‥いいわ、愛衣。ここに再び誓いしょう。私は貴女を、マスターとして認めます」

「キャスターさん」

「さぁ話をしましょう。少し長くなりますよ、私の話は」

 
 こつり、と湯飲みを置く硬い音。
 外から他人が覗いたならば緊迫していると称するかもしれない空気の中で、キャスターは柔らかく微笑んでいた。
 それは彼女にとって理解し合えるマスターと共に居られることへの安心だろうか。それとも過去の自分の影に重なる少女を見守る先達としての笑みなのだろうか。
 彼女とは対照的に気と背筋を張り詰めさせた二人の少女には、まだ彼女の心を知るには時間がかかりそうである。

 
 (あとがき)
 随分と遅れてしまいましたが、更新の意思はあったのですよ?
 というわけで今更ながら待っていてくれた方は手を挙げろォーッ!!!(´▽`)ノ
 今回もあまりお話が進んでおりませんが、次回こそは他のキャラクター達とも絡ませていければと思っております。
 とはいえ他の作品もありますので、更新はまたあり得ないくらい遅れると思いますが‥‥。どうぞ宜しく!
 あ、あと同じく今更ながら板移動。わはははは遅いだろーわははは!

 Twitterやってます。ssレビューや近況報告など。よろしければフォローどうぞ。
 @42908というIDでやってますので、どうぞよろしく!


 (あとがき)
 本文にURLが入ってたので弾かれてたようで、ちょっとドタバタしてしまいました。申し訳ありませんでした。m(_ _)m

 



[16654] Prologue〜7
Name: 夏色/冬霞◆0b2da6b5 ID:478e2d57
Date: 2015/01/30 22:30





「申し訳ありません宗一郎様,今朝は簡単な食事しか用意できませんでした‥‥」

 
 朝日は上りぬ、日は出でぬ。
 まだまだ食材も家具も完全には揃っていない女子寮の管理人室で、キャスターは出来る範囲で用意できる朝食を宗一郎に振る舞っていた。
 昨夜はマスターである佐倉愛衣と――流石に真名に関わる話であるため高音は帰された――交流を深めたキャスターと宗一郎。寮母としての仕事がすぐさま始まるわけでもないので、のんびりと優雅な朝の時間を過ごしている。
 のんびりとはいっても、寺で過ごしていた二人の朝は十分に早い。食事を済ませても、学生達の登校の時間には十分に間に合うはずである。
 しかし間に合ったから、何かあるわけではない。むしろ通学ラッシュに巻き込まれてしまうぐらいで、普通に出てしまえば二人は昨日その目で見た麻帆良の通学ラッシュの洗礼を受けることとなる。
 短距離走全力疾走で各々の学校までの道を駆け抜ける生徒達。あれはさながら水牛が大移動しているかのようで、つまるところ人の群れというよりは津波か何かと思った方がいい。その中を巧みにすり抜けていくことは決して不可能ではないが、近右衛門からは余裕をもって午前中にくればいい、と連絡を貰っていた。

 
「構わん。これで十分だ、礼を言う」

「そうですか‥‥ありがとうございます。お代わりはいかがですか?」

「大丈夫だ。準備をする。そろそろ時間だ」

「では私は後片付けをしますので、どうぞお着替えください」

 
 前任の管理人夫妻は几帳面な性格だったらしく、ある程度の保存が利く食料は整理して残しておいてくれていた。具体的には米や漬け物などであり、寺でしっかりと小姑から日本食の指導を受けていたキャスターは、何とか出汁をとって茶漬けを拵え、漬け物とメザシの干物を添えた朝食を用意していた。
 二人分の食卓の片付けなど、大した手間ではない。宗一郎が先日用意されたスーツに袖を通している間に、洗い物を済ませたキャスターはゴミをまとめて外へと出た。
 この寮ではゴミ出しの曜日などは決まっていない。ゴミ庫にまとめておいたゴミを業者が回収に来る曜日こそ決まってはいるが、ゴミ庫に出す曜日が定められているわけではないのである。
 
 
「そういえば、ここの掃除も私の仕事だったわね。来週からでいいという話だったけれど――」

「――お、おはようございますっ!」

「‥‥あら、マスター」

 
 もう少し動きやすい格好をしなければね、などと独り言を漏らしながら掃除用具のチェックなどをしていると、背後からかけられた元気のよい声。振り向くと其処には麻帆良女子中の制服を校則通りに着込んだ彼女のマスター‥‥佐倉愛衣が立っていた。
 もし彼女に尻尾がついていたなら、きっとブンブンと振られているだろう機嫌の良さ。微笑ましさに、思わずクスリとキャスターからも笑みが零れる。

 
「おはよう、随分と早いのね。これから登校かしら?」

「はい! あの、今日はご一緒出来なくてごめんなさい。流石に二日連続で授業をサボるわけにはいかないので‥‥」

「いいわよ、気にしないで。子どもじゃあないんだから、最初に案内してくれただけで十分よ。学生の本分は勉強だと言うらしいじゃない。しっかりと自分の仕事をなさいな」

「は、はいっ!」

 
 ふと気がつけば、今日の愛衣は昨日までとは違って化粧をしていた。しかし残念ながらお世辞にも上手ではなく、隠し切れていない目の下の隈が見て取れる。
 やれやれ、とキャスターは再び笑みを零した。
 昨夜、彼女にだけ打ち明けたコルキスの王女としての自分の話。大雑把にしか話してはいないが、どうやら未だ幼い少女には随分と堪えたようだ。一晩中、考え事でもしていたのだろう。
 話すのは早かったか、という考えが浮かび、すぐに頭を振って何処ぞへ追いやった。
 この街に来てからは絶望と感動の反復横跳びをしているかのようで、驚くほどに心がおおらかになっている。この小さなマスターは信用に値すると、裏切りの魔女である自分自身が認めたではないか。
 いずれは話さなければならないこと。そして虚偽は概ね疑心を生む。
 今の関係は、とりあえずは理想的な状態だ。誰かを騙しているわけでもなく、誰かに騙されているわけでもない。分からないことは山のようにあるが、悪意で以て隠されているわけではない。
 出来る限り好意的に接するべきだ。慎重に、分かりやすく、誤解のないようにこちらの意図を伝えなければならない。

 
「‥‥登校までは、まだ余裕はあるのかしら?」

「え?」

「お茶でも飲んでいかないかしら。そのぐらいの時間は‥‥あるでしょう?」

「は、はいっ! 喜んで!」

 
 愛衣にとっての憧れの人、といえば勿論、彼女が契約を交わした高音・D・グッドマンを誰もが挙げるだろう。実際に愛衣にとっての高音は高潔であり、克己心に溢れ、慈愛の精神を持ち、リーダーシップがとれ、魔法使いとしても同年代の中では抜きん出て優秀という理想的な先輩だ。
 キャスターは能力で言うならば高音の遙か上をいく神代の大魔術師であるが、人格はというと決して高潔とはいえないだろう。
 優しい人だ、とは思った。それは間違いない。
 しかし彼女自身が、自分が魔女であったこともまた間違いない事実なのだと哀しげに語った。目を曇らせるな、事実を見よと。
 逆に愛衣には、それが新鮮だった。愛衣の周りの魔法使いはと言えば、誰も彼も少なからず高潔で、自分の正しさを信じて疑わず、前へ前へと進み続けるような人達ばかりだったから。
 自分の過ちを認めない、というわけでは断じてない。ただキャスターのように、明確に己を悪であると断じた人なんていなかった。それが新鮮だった。
 ああいや、そういえば一人だけ誰もが畏れる悪の魔法使いが――

 
「あれ、誰だろ。新しい寮母さん?」

 
 まるで母に接するかのような浮かれ具合から一転、思考の海へと沈みかけていた愛衣の耳に、すっとんきょうな声が飛び込んできた。
 ベリーショートの茶髪に、見るからに健康的で活動的な引き締まった手足。アスリート、という言葉が非常に似合う雰囲気をまとった少女。
 愛衣は何度か面識がある先輩であることに気がついた。学園の教会でシスターをしていた‥‥ような。魔法生徒だった‥‥ような。というのも彼女は高音や愛衣のように、学園で魔法生徒としての仕事はしていないのである。

 
「春日さん‥‥ですよね、二年生の?」

「そういうアンタは‥‥あぁ、帰国子女の一年生」

「佐倉愛衣です。こちらは新しい寮母さんの‥‥」

「キャスターよ。よろしくね、元気なお嬢さん」

「あ、よろしくッス‥‥じゃなかった! 麻帆良女子中二年の、春日美空ッス! あらためて、よろしくおねがいします!」


 美空はお辞儀をしながら、上目遣いで目の前の女性を観察していた。
 明らかに寮母さんが着るようなものではないドレスを纏った女性は、端的に言って不審であった。あまりにも不審過ぎて、一人でいたなら声もかけずに立ち去ったかもしれない。
 しかし色物揃いの麻帆良女子中でも最近話題の目立つ生徒。帰国子女の一年生がやけに親しげに、まるで娘と母親であるかのように話しているのを見ると警戒心も少しだけ和らぐというもの。
 もしや魔法関係者か? という警戒自体は残っているが、面と向かって聞きたいわけでは断じてなかった。

 
「これからお茶をする予定なのよ。貴方もどうかしら?」

「‥‥あー、ご一緒したいところなんですけど、ちょっとこれから急いでいかなきゃいけないところがあるんで、今回はご遠慮させて下さい。また今度、御願いしてもいいッスか?」

「勿論よ。気をつけていってらっしゃいな」

「ありがとうございます! それじゃ、また!」

 
 実は今日は随分と寝坊であり、日課である教会の掃除をサボってしまった美空。お茶は魅力的だが、今から急いで教会に向かえばシスター・シャークティに謝る時間もあるだろう。
 大きく手を振って二人と分かれた美空は、物陰の死角に入ると、ポケットから取り出した“なにか”を翳して、すぐさまその姿を消した。
 もちろん二人には、その一連の流れは見られなかった。

 
「元気な子ね。先輩?」

「はい、確か二年生だったはずです。それよりキャスターさん、意外に時間がないみたいなんで、お茶はまたの機会で御願いします」

「あら、そうなの。ごめんなさいね無理に呼び止めてしまって」

「いえ、声をかけたのはこちらの方ですから。また放課後に学園長から私も呼ばれると思うので、そのときに」

「えぇ。貴女も気をつけていってらっしゃい」

「はい、いってきます!」

 
 愛衣もキャスターに見送られ、元気に寮を飛び出していった。もちろん時間に余裕を見ているので美空のような無茶はしない。しかし麻帆良の学生の例に漏れず,小走りで通学路を進んでいく。
 何故かどうにも、用事がないときは遅れがちになってしまう。そういう呪いが麻帆良の学生にはあるようだ。

 
「‥‥さて、宗一郎様。私達も出かけますか?」

「そうだな」

 
 やれやれ、と笑顔で彼女を見送って、キャスターは部屋へと入っていった。
 宗一郎は既にスーツに着替え、卓袱台の前で新聞を読んでいた。麻帆良専門の新聞社のものだ。持ち回りであちらこちらの学校の新聞部が記事を書いているらしく、内容は右にいったり左にいったりと節操がない。
 近右衛門はのんびりでいいと言ってはいたが、区切りもいいことだし出かけて構わないだろう。
 キャスターと宗一郎は普通に準備をして普通に出たつもりであったが、学生達にとって朝の五分や十分というのは非常に忙しく矢のように過ぎ去るものだ。もうほんの少しだけ早く出ていたら学生達の津波にもみくちゃにされていただろうが、今は比較的空いている。
 比較的、ということはつまり、遅刻確定の学生が目の前にいるだけの数、存在するということでもある。
 先ほど愛衣は時間があると言っていたが、あれは無理していたのだろうなとキャスターは少し反省した。

 
「――おお、よく来たの二人とも。さぁさ入りなさい」

 
 路面電車に乗り込むと、あちらこちらで遅刻を悔やんで落ち込む学生や、これから病院に行ったりなどで余裕のある学生、そもそも大学なので講義が始まるのが遅い学生など様々な人で殆ど満席であった。
 そのまま暫く電車に揺られて学園長室に着いた頃には、中高では一時間目の授業も始まる頃。一応は静まり返った校舎に、落ち着きのある近右衛門の声が響く。

 
「失礼します」

「失礼するわ」

 
 片方はどこまでも几帳面に、しかし無愛想に。片方はどこまでも不遜に、そして無愛想に。
 対照的でありながら何処か似通った二人の来客の声に少し目の端を緩ませながら、近右衛門は彼らを出迎えた。

 
「まぁ座りなさい、朝早くからご苦労様じゃったの。寮の部屋はどうだったかね、葛木先生?」

「問題ありませんでした。よくしていただいて、ありがとうございます」

「なに構わんよ。あすこはキャスター殿の仕事場でもあるんじゃからな。何か気がついたことがあれば教えてくれ。もう生徒達とも何人かとは会ったかね?」

「あまり外に出なかったから、一人だけしか会ってないわ。寮母の仕事、詳しくは誰に聞けばいいのかしら? いつ始めればいいのか分からないから、準備のしようがないのだけれど?」

「それについては今日の昼過ぎに、寮全体の管理をしている者を呼ぶようにしておるよ。その者から詳しい話を聞いて、まぁ明日あたりから順番に始めていけばよかろう。その辺りも、よく話しておくように頼んでおいたから心配あるまいて」

「‥‥まぁ家事や雑務だったらやったことがわけではないし、構わないけれど」

 
 近右衛門手づから淹れたお茶を啜る。流石はこの巨大な学園都市の責任者、かなり良いお茶だ。
 相変わらず無感動で表情というものが変わらない宗一郎はさておき、キャスターは未だ慣れずに不出来な茶を出す事を強いられている己の未熟さを噛み締め、かなりの渋面である。

 
「学園長、失礼します。高畑です」

「おぉタカミチ君。すまんな急がせてしまって。入りなさい」

 
 と、キャスターが真剣に自分の茶の腕前について考え始めた時、落ち着いたノックの音がして、一人の男が姿を現した。
 高畑・T・タカミチ。麻帆良女子中2年A組の担任であり、麻帆良学園の魔法使いの中でも最強戦力に数えられる歴戦の戦士である。グレーのスーツをだらしなく着込んでいるが、一見するとサイズの合っていないブカブカのスーツは鍛え上げられた肉体を隠すカモフラージュだ。

 
「ホームルームの方は大丈夫かね?」

「ちょっと長引いてしまいましたが、なんとか終わりました。彼女達は元気が余っていますからね、おとなしくさせるのは一苦労ですよ」

「若いうちは元気が一番じゃ。まぁ、もうちょいと勉強を真面目にやってくれれば心配もせんですむのじゃがのう」

「それは僕が一番言いたいところですが‥‥あぁ学園長、話の方は?」

「おぉそうじゃった。いや、まだじゃ。だから君を呼んだのだよ、高畑君。君はそうじゃな、申し訳ないが」

「えぇ、僕はこの辺りで聞いてますよ。どうぞおかまいなく」

「すまんの」

 
 タカミチは学園長室の壁に背中を預けるとポケットに手を突っ込んで立つ。いか~にも気安い様子で、およそ勤め人のするような格好ではない。
 ‥‥キャスターは気がつかなかったが、宗一郎は僅かにそちらへと鋭く視線を動かした。タカミチも合わせて、僅かに目を細める。
 気怠そうな格好のタカミチと、背筋を伸ばして微動だにせず座る宗一郎。二人の間だけで、張りつめそうで張りつめない糸のような空気が一筋。それも一瞬のことで、すぐに宗一郎は視線を近右衛門の方へと戻した。
 むしろタカミチには、それが不思議と恐ろしかった。座る姿に隙こそないが、それはあくまでも自然体で、備えというものを感じない。

 
(‥‥薮をつつくと蛇が出てきそうだなぁ。これはやっぱり、キャスターさんよりも葛木先生の方が厄介かもしれませんよ、学園長)

 
 戦士ならば、お互いに共通の空気を持っているもの。ある意味では意思疎通が非常に楽で、お互いに相手の意図することが手に取るように分かる。
 実際の戦いの中での駆け引きにおいては当然ながらその限りではないが、例えば「戦う」「逃げる」「時間稼ぎをする」などの空気の共有というものがあるのだ。
 宗一郎にはそれがない。相手のペースに構わず、自分のやりたいことをやる。そういう我侭さがある。いや、我侭ではなく、必要なことを必要な一瞬で終わらせるという意識がある。
 そういうことをするのは、いわゆる暗殺者の手合いだ。
 魔力も気も感じない一般人の教師に対して、タカミチは警戒のレベルを密かに一つ引き上げた。

 
「さて、問題は葛木先生の方じゃな。麻帆良学園の方から、穂群原学園の方に確認をとってみた結果が昨夜返って来たよ。すまんかったの、君自身に連絡させずに我々でやってしまって。どんな処理が向こうでされているか、分からんかったのでな」

 
 そう言いながら、近右衛門は小冊子程度の厚みの紙の束を机の上へと投げ出した。
 何かのフォーマットに従ったようなものではなく、とりあえず手短かに何かの結果を列挙したもののようで非常に雑然としている。取り急ぎの報告書、程度のものだろう。

 
「‥‥結論から言わせてもらうと、我々は穂群原学園なるものを、少なくとも日本においては確認出来なかった」

「なんですってッ?!」

「‥‥‥‥」

 
 一瞬で空気が変わる。
 先ほどまでの和やかな空気は消え失せ、近右衛門はキャスターの声と共に死を予感させる程の圧倒的なプレッシャーを噴きつけられた。冷や汗も流れず、瞬時に背中を壁から浮かせたタカミチを、手で制止したのが精一杯。
 なんとか態勢も顔色も崩さず、泰然と長の顔を保ち続けることが出来たのは、流石の年の功か。

 
「どういうことか、説明しなさい」

「そう興奮するでない、キャスター殿。しかし、事実じゃ。我々の手の及ぶ範囲で調べたが、日本には穂群原学園などという教育施設は存在せん。私立も公立も、果ては塾や類似の名前を持つありとあらゆる施設も」

「‥‥貴方達の不手際ではないのかしら?」

「否定は決して出来ん。何事にも完璧というものはないよ、確かにじゃ。しかしの、キャスター殿。そもそも冬木なる地名も存在せん。我々の調査によれば君達は、おそらく神戸の辺りをそう呼んでおる。何とも不思議なことじゃ」

 
 近右衛門は昨夜、密かに愛衣を呼び出して話を聞き出していた。
 とはいっても当たり障りのないことばかり。具体的には、キャスターの真名などの本人が隠したがっている部分については紳士的に聞かずにいた。愛衣もマスターとして精一杯の自覚を持った以上は、聞かれても頑として答えなかったことだろう。
 彼女からの話で、概ね冬木という街がどういうところなのかは把握出来た。そのときには既に穂群原学園の存在が確認出来ない旨の報告は受けており、学園長自ら情報機関の指揮を取って更なる確認を急いだのである。
 つまり余談だが、可哀想に愛衣は普段より遥かに短い睡眠時間を強いられていたのである。

 
「君達から得られた冬木という街の特徴は、神戸市を中心にあちらこちらに散らばっておった。細かい確認こそとれてはおらんが、やはり君達のいた場所というのが、どうにも我々では発見できなかったことは間違いないのじゃ。それがどれだけ異常なことか、分かるじゃろ?」

「どういうことなの、まさか私達の認識が間違っていて、あそこは日本でありながら日本ではない別の場所だったとでも言うの?」

「率直に言えば、君達が嘘をついている、という可能性が一番高い。もちろん、安直にそのような結論を下すつもりはないよ。君達の人と形は、儂なりに見極めさせてもらったつもりじゃ」

 
 尋問を受けた捕虜が虚偽の情報を喋る技術は多岐に渡る。
 全くありもしないことを、全くのでたらめを喋ることは意外に難しい。どうしても情報のつながりに矛盾が生じるし、中々それらしい情報は捻り出せないものだ。
 そこで実在するものをモデルに、少し加工をして現実味のある虚偽の情報を作り出すテクニックがある。この場合だと神戸市そのものではあまりにも分かりやすいため、他の場所を混ぜて架空の土地を作り上げたのだろう、と考える者もいるはずだ。
 しかし近右衛門は自らの言を軽々しく翻したりはしない。彼が信用のおける者だ、と認識したならば、それは尊重されてしかるべきなのである。他人による判断においても、彼自身の判断においても。

 
「となると、考えうる可能性はそんなに多いものではない。先ず、君が誰かに記憶を操作されている可能性」

「そういえば貴方、随分とおめでたい形の頭をしているわね?」

「まぁ待て慌てるでない! あくまで可能性の一つとしてあげたまでじゃ!」

 
 ひやりとした空気が流れるが、冗談と分かっているからかタカミチも動かず、近右衛門も大袈裟に慌ててみせて一旦話は戻る。
 近右衛門がキャスターの能力と人柄を信用しているように、キャスターも近右衛門の人柄と能力を信用していた。彼女なりに、限定的にではあるが。
 今までの彼女の振る舞いを知る者からすれば驚愕の事態であろう。例えば彼女と相対した冬木の|管理者《セカンドオーナー》、遠坂凛などやその共闘者であった衛宮士郎なら。

 
「例えば全て君の勘違いなら。地名、人名に至るまで、全て」

「流石に目にする全てを勘違いすることもないし、意図的に全て書き換えられていて、知り合った人達も全部が私を騙していたなんてことはないでしょうね」

「例えば我々の知らない、何処か山奥、あるいは孤島での出来事を君が日本の中でのことと錯覚していたら」

「それは貴方達の調査ではっきりしているのではなくて? そもそも冬木はそれなりに大きい街だったわ。少なくとも、海岸線を見る限りは日本列島の何処かだったでしょうね」

「例えばこれが全て君の見ている夢だとしたら」

「だったらそもそもこの問答の意味がないわ」

 
 考えられる可能性を挙げていき、否定する。
 近右衛門は自ら淹れた茶を啜り。机の引き出しから取り出した見事な細工の煙管に葉を詰め、指先から出した微かな炎で燻すと、ゆっくりと煙を吐き出した。
 風の魔法により、紫煙はキャスターへは一筋も届かず窓の外へと流れていく。タカミチも倣って煙草に火をつけた。赤いパッケージはスーツの中でくしゃくしゃになってしまっていた。


「ならばこれしかないのう。‥‥キャスター殿、平行世界という概念に覚えは?」

「‥‥あるわ。勿論、ある。けど、私ですら手を触れることも出来ない高い次元の神秘よ。私の知る限り、神代の昔から現代にかけて、たった一人のみがその階に足をかけた程の」

「ありえん話ではないんじゃないかの?」

「いいえ、ないわね。平行世界というのはね、無限に存在するわ。しかし非常に近しい存在よ。あるべきものが跡形もなかったり、法則そのものが違ったり。そんなものでは断じてないわ。
 今になって漸く気がついた。貴方達の使う術式、あまりにも私の知る現代の魔術師からは外れ過ぎている。なんて浅薄。貴方達がマイナーなのだと勘違いしていたけれど、どうやら異端だったのは私達の方なのね」

「同感じゃな。儂も君達の語る魔術の在り方に、どうにも合点がいかんかった。君が神代の魔術師であるとしてもじゃ。無論、出来る限り歴史を遡って調べてもみたが、遙か昔に於いてもやはり、冬木という場所も、穂群原という言葉も確認出来んかった。言葉遊びを除いて、の話じゃよ」

「では、やはり平行世界なんて考え方はナンセンス。‥‥どうやら、思ったよりも厄介な事態かしら?」

 
 キャスターの魔術師としての力量は誰もが認めるところである。彼女に会った、誰もがだ。そんな彼女が誰かに操られている、なんて仮定は、考えることすらおぞましい。
 全ての可能性は等しく検証されるべきである。しかし出来ることには限りがあり、情報もまた同じ。
 学園長室を重々しい沈黙が包み込んだ。

 
「異世界、という概念には覚えはあるかね? キャスター殿や」

「‥‥結界、外と内を区切る魔術の延長線上としてなら知識にあるわ。妖精郷、幻想郷、地上からでは辿りつけない神々の国々。あぁ、コノウエモン、貴方の言わんとすることは分かります。けれど私の知る限り、私の知る異世界というものはこの世界の範疇に属するものに過ぎないわ」

「ふむ、なるほどのう。‥‥実は我々が知る異世界は、|魔法界《ムンドゥス・マギクス》と言ってな。この世界とは全く違う、それこそ大陸や海を持つ、それはそれは広い場所じゃ。キャスター殿の言うところの異世界とは少々毛色が異なる。故に、平行世界の概念を逸脱した、それこそ全く違う世界が存在する可能性も否定しきれん」

「‥‥ホント、とんだ非常識」

「そう言ってくれるな。‥‥儂とて立場ある身。この街への責任もあるが、同じように前言を翻すことなど出来ん。そこでじゃ」

 
 いつの間にか机の上に置いてあった火鉢に、煙管の雁首を掌に打ち付けるようにして灰を落とす。
 居住まいを直し、煙管を盆に戻して近右衛門は口を開いた。

 
「魔法使い・佐倉愛衣のサーヴァントであるキャスターよ。君が此処に来た原因の究明を、君自身に強く要請する。これは麻帆良学園都市の長としての依頼、いや、命令と思ってくれて構わぬ」

「‥‥人間の魔術師の分際で、この私に命令を?」

「体裁としては、この街に君を迎え入れる代価ということじゃな。君にしてみれば原因など分からずとも、此処に住むことが出来るならそれでよい、というところもあろう。しかし我々にしてみれば大きな問題じゃ」

「でしょうね。本当に呆れる程お人好しだわ、貴方達」

「それが我々の在り方じゃからな。そう目くじら立てるものもおらんじゃろうが、しかし解決せねばならぬ問題じゃ。儂も出来る限りのサポートはしよう。我々の調査も引き続き継続はする」

「‥‥まぁ、私としては構わないわ。マスターとの契約は聖杯戦争の絡まない、魔術師と使い魔との契約の儀式。とはいえ何が影響するか分かりませんからね。此処に来た原因をはっきりさせなければいけないのは、言われるまでもないことよ」

 
 なんでもない風を装いながらも、キャスターは内心では我が意を得たりと笑みを浮かべていた。
 これで麻帆良の中で公に魔術を使う口実を得た。魔術を使う、ということは準備をする、ということでもある。キャスターにとっての準備とは,先ずは工房の建設、ゆくゆくは神殿の構築。
 自らと宗一郎、そしてマスターである愛衣の安全を保証するためにも戦力の拡張は必須。それがやりやすくなったのは、ありがたいことである。

 
「ではキャスター殿に関しては以上じゃな。葛木先生については、来週から赴任が出来るようにしなければならぬ故、女子中等部の職員室で詳しい説明を受けてもらおうかの」

「ちょっと待ちなさい、私はどうすればいいのよ」

「特にはないが、さっき話した通りじゃな。昼過ぎには寮に来客があるじゃろうから、それまでには戻っていて欲しいというぐらいじゃ。葛木先生との新居は未だそう片付いてもおらんじゃろう? 掃除でもしておったらどうかね」

「宗一郎様との新居‥‥ッ! え、えぇそうね。まだ埃っぽいところもあるし、家具も食材も足りませんからね。確かにその通りね。その通りだから、そうさせてもらうわ。えぇ」

 
 近右衛門とタカミチは、なんとなくキャスターの扱いが分かって来た。同時に、宗一郎に何かある事態は断固として回避せねばならぬと内心誓った。
 自らの伴侶に何かあれば、この神代の魔術師は原因を絶対に許さない。絨毯爆撃か何かで麻帆良が灰と化しても許さないだろう。
 そして二人の予想は紛れもなく真実であり、実際に彼女が神殿を構築した暁には麻帆良を灰にするのにものの一時間もかからないのである。
 今は恥ずかしさからか照れからか、一旦は上げていたフードを目深にかぶり直して気色悪く身体をクネクネさせている彼女は、紛れもなく麻帆良最強となり得るだけの実力を備えた怪物なのであった。
 
 なお、葛木は途中から我関せずといった様子で、静かに茶を啜っていた。


 



[16654] Prologue〜8
Name: 夏色/冬霞◆0b2da6b5 ID:55c870a0
Date: 2015/02/09 21:10
 
 
「起立! 礼! 着席!」

 
 麻帆良女子中等部、2年A組の委員長である雪広あやかの凛とした声が教室に響き渡る。
 2-Aの評判をあちらこちらで聞けば、それぞれ実に多様な答えを返すことだろう。曰く、騒々しい。曰く、レベル高い。曰く、頭悪い。
 とにかく元気ばかりが目立つクラスであることには違いなく、しかし授業の始まり、ホームルームの始まりの合図だけは、何故か皆しっかりと従うのが不思議であった。
 総勢三十人の少女達が一斉に立ち、一斉に礼をし、一斉に座る。当たり前のことなのだが、中々に面白い光景だ。

 
「みんな、おはよう。今日も元気で何よりだよ」

「高畑先生も! 今日は一段と素敵です!!」

「はは、ありがとう明日奈君。君も今日は一段と元気だね」

「た、高畑先生に褒めてもらった‥‥!」

「落ち着くですよ明日奈さん、飛び跳ねたらスカートが、ほらクマさんが」

「きゃあっ?!」

 
 長いオレンジがかった茶髪を、鈴の髪留めでツインテールに結んだ少女が感情の昂りのままに飛び跳ね、それを隣の読書家の少女がゆる~く制する。
 その小さな騒動をバックグラウンドに、方々で少女達は好き勝手をし始めた。肉まんを配り始める者、ノーパソをいじり始める者、ものすごい勢いでお絵描きを始める者、早くも教室を抜け出し始める者。
 この混沌こそが2-A本来の姿だ。先ほどの、他の者達からの評価を統合すれば、元気だが頭の悪い美少女達が集まる混沌としたクラス、となるだろう。
 出張も多く留守にしがちな担任を責める声がないわけでもないが、彼女達をまがりなりにもまとめられているというだけで担任の人柄が分かるというものである。

 
「あぁみんな、今日はちょっと話しておかなければならないことがあるんだ。少し静かにしてくれるかな?」

 
 とはいえ簡単に御せるクラスでないことも確かで、困ったように口を開いた担任‥‥タカミチの言葉は教室内に浸透しない。
 声を荒げているわけではないが、彼の言葉は基本的によく通る。しかし人間の集中というのは実に脆く、興味が向いてないことはとことん耳に入らないものだ。

 
「はぁ、仕方がないな。‥‥雪広君」

「承知しました。ほら、皆さん!高畑先生からお話ですわよ!」

「そうよみんな! 高畑先生の話を聞かないなんて、なんて、なんて勿体ない!」

「明日奈は少し黙っときやー」

 
 あやかの声はタカミチよりもさらによく通る。漸くその声に皆が反応し、そして道化じみた明日奈の慌てっぷりに笑いが巻き起こった。
 まだ勝手に色々やっている生徒が半分ぐらいはいるが、とりあえずある程度の注目は自分の方に向いた。そう判断したタカミチはやれやれと溜め息をつくと再び口を開く。

 
「実は今日は皆に新しい先生を紹介しようと思ってね。本当は朝礼か何かで紹介するのが筋なんだけど、その前にこのクラスで授業が入ってしまったから、こんな形で申し訳ないけど‥‥。いいかな?」

「大丈夫でーす!」

「はいはい高畑センセー! 新しいセンセってイケメンですか?!」

「違いますよお姉ちゃん、きっとナイスバディの女の人です」

「それじゃしずな先生とキャラ被っちゃうじゃん。きっと冴えない中年親父だよ」

「待つアル春日、それじゃつまらんアルよ。高畑センセが紹介するぐらいだから、きっと武術の達人アルよ!」

「むむ、それは拙者も見過ごせぬでござるな」

「おじいさまみたいな人やったら、ちょっとメンドーやえ」

 
 少しこちらが口を閉じれば途端にピーチクパーチク。本当に仕方がないなぁもうとタカミチの苦笑いは続く。
 ほらほら、と今度は自分で手を叩いて、クラスの注目を集めた。

 
「それじゃあ先生を呼ぶから、少し静かにしていてね。――葛木先生、どうぞ」

 
 ガラリ、と教室の扉が開く。
 クラスの注目が一気に集まった。深い緑色のスーツを着た男性だ。特徴らしい特徴はない。荒々しい木彫りの仏像のような、そんな印象の痩せた男性だ。
 エネルギッシュな程に若いわけではなく、おじさんと呼ぶには若過ぎる。老け顔のタカミチよりは若いだろうか。
 ただただ平坦な視線で事務的にクラスを見回している。タカミチの隣に立った彼を前に、生徒達は本来ならヒソヒソ声でやるべき会話を堂々と大きな声で交わし始める。

 
「思ったより普通」

「イケメンじゃないかも」

「怖そう」

「なんか残念」

「むむ、得体の知れない感じアル。強そうだけど、そうでもないような。弱そうだけど、そうでもないような‥‥」

「得体の知れない、というのは同感でござるな」

「怒らせちゃいけないタイプの先生っぽいかも」

「桜子の勘がそう言ってるなら‥‥やっぱり怖いような」

 
 勝手なことばかり生徒達が喋る中、タカミチに促されて彼は黒板にカツカツと自身の名前を書く。
 “葛木宗一郎”。
 それだけ書いて、振り返って口を開いた。

 
「このたび社会の教師に就任した。葛木宗一郎だ。よろしく頼む」

 
 老いも若きも、新しく赴任した教師は自らを生徒達にアピールするものである。教育者は生徒との円滑な交流も仕事であり、自分のキャラクターを理解してもらい、生徒達を理解する必要を求める者が多い。
 しかし宗一郎は淡々と、必要な情報だけのみを伝えて口を閉じた。
 偉そうなわけでもない。ぶっきらぼうなわけでもない。もちろん機嫌が悪いわけでもない。
 一見すると取っ付きにくいぐらいに真面目、几帳面、頑固、融通の利かない教師なのである。勿論それが、初対面の生徒達に伝わるはずもなく。

 
「‥‥あー、彼は神戸の神戸の高校から赴任してきたんだけどね、なにぶん急な話だったので色々と大変だと思うから、みんなも協力してあげて欲しい。さて和美君、悪いんだけど」

「まっかせて高畑先生、やっぱこういうときは質問タイムでしょ! 司会は報道部の私が。じゃあみんな、質問のある人は手を挙げてちょうだいな!」

 
 あまりに簡潔すぎる自己紹介に一瞬フリーズしていたクラスメートも、麻帆良のパパラッチこと朝倉和美の声で我に返る。半数ほどが一斉に挙手をし、ハイハイハイ私が私がと喧しい。
 こういうとき場を取りまとめるのは、あやかではなく和美がやる。そのあたりの呼吸の合わせ方は流石というべきか。

 
「じゃあ、えーと、柿崎!」

「先生は前は何を教えてたんですか?!」

「倫理だ」

「高校の先生だったのかあ。じゃあ次は‥‥鳴滝姉!」

「好きな食べ物は何ですかー?」

「味噌汁だ」

「家庭的! というか質問がありきたりでつまらん! はい、木乃香!」

「特技は何ですかえー?」

「運動だ」

「大雑把! それじゃ‥‥やばそうだけどパル!」

「ズバリ恋人はいますかッ?!」

 
 色濃い隈を化粧で隠しもせず、ギラギラとした瞳で前のめりになりながら手を挙げた早乙女ハルナの質問に、一気にクラスが沸き立った。
 隈はさておき、色恋沙汰はいくつになっても女性の話題の中心である。興味のなさそうにしていたクラスの半数の、さらに三割ぐらいも話題の転換に少し身体を正面へと向き直した。

 
「私達はその質問を待っていたぁ!! 葛木先生、どうぞ!!」

「妻がいる」

「つ、ま‥‥? なんと、なんと、まさかの妻帯者だぁぁあああ!! ど、どんな人なんですか?!」

 
 葛木の外見年齢を考えれば、決して不思議なことではないというのに、クラスが更に沸き立った。
 もはや悲鳴に近い嬌声が教室を震わせる。あまりの声の大きさに、さしものタカミチも渋い顔で耳を塞ぐ。

 
「グルジアの出身と聞いている。女子寮の寮母の職に就いた」

「グルジア‥‥? 超りん、グルジアって何処?!」

「ロシアの南、トルコの東、トルクメニスタンの西、イラクの北ネ」

「‥‥つまり何処」

「トルコの東、イラクの北ということは中東です。アジアともヨーロッパとも違うですが、グルジアでしたら黒海の沿岸ですから若干ヨーロッパ圏に近いかと」

「おぉ、流石ゆえ吉、よくわかんないところだけ物知り!」

「パルの原稿はもう手伝ってあげないことに決めたです」

「それは! それは堪忍!!」

 
 グルジア、というのは且つてコルキスがあった地域に建国された国である。大雑把にあの辺りでいいだろう、とキャスターが世界地図を見ながら適当に自らの出身地をでっちあげたわけだが、勿論それは真名への重要な手がかりになり得る。
 どうにも新婚生活で頭のネジが一本飛んでしまっているらしく、学園長やタカミチに詮索癖がなくて本当によかったと密かに愛衣が冷や汗を流していた。
 
 
「‥‥あ、もしかして寮母さんって、あの超絶美人の」

「なになに美空ちゃん、もしかして会ったことあるの?」

「珍しいじゃんアスナ、おっさん以外の話題に食いつくなんて。うん、そうだよ、今週の始めに少しだけお話した。へー、葛木先生の奥さんって、あんな美人なんだぁ」

 
 わいわいがやがやと騒々しい教室を眺め、質問に答える以外は完全に無口であった宗一郎がチラリとタカミチの方を見た。
 誰も気がついていないが、既にチャイムは鳴っている。言わんとすることを理解して、タカミチは宗一郎の視線に頷くと、再びパンパンと手を鳴らす。

 
「はい、じゃあそのぐらいでいいかな。殆ど質問が出来てない気もするけど‥‥とりあえず、一時間目を始めようか。タイミングよく、社会の授業だよ。葛木先生、準備は大丈夫かい?」

「問題ありません」

「うん、良かった。じゃあ最初の授業だし、僕は教室の後ろの方で見学していようかな。みんな、葛木先生を困らせたりしないようにね」

 
 はーい、と元気な声で返事をし、クラスが授業の態勢へと移る。
 教科書を開き、ノートを取り出し、宗一郎の板書を写す。何の変哲もない普通の授業である。
 強いて特筆すべき点はといえば、授業中にサボタージュを試みた出席番号二十六番エヴァンジェリン・A・K・マグダウェルがいつの間にか近づいていた宗一郎によって椅子の上に投げ飛ばされたり、居眠りをかまそうとした出席番号二十五番長谷川千雨が額にチョークの指弾を喰らったり、板書に一文字の誤字を指摘されただけで黒板まるまる書いていた板書を全て消して書き直そうとした宗一郎が慌てた皆に止められたりと。
 とりあえず初回の授業としては、概ね好意的に受け止められたようである。

 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
「‥‥あぁ、暇だわ。まさかここまで暇だとは思わなかったわ。宗一郎様、早く帰ってこないかしら」

 
 時と場所は変わって、陽も地平線へと沈みつつある夕方。麻帆良女子中等部の寮にて。
 見取り図を片手に寮のあちらこちらの点検と見回りをしながら、キャスターは重い重い溜め息をついた。
 先日、麻帆良全体の寮の統括をする者から仕事の説明を受けた彼女は、数日の間は精力的に仕事をこなしていた。以前に居を構えていた寺では似たようなことをしていたつもりではあったが、流石に歳若い少女達が大勢住み込んでいる寮である。仕事は何もかもが新鮮で、楽しくすらあったが、今では暇の一言で済ませてしまう程度のもの。
 最初に愛衣や高音から話を聞いた通り、そもそもこの巨大な寮を一人の寮母が管理するのは到底不可能なのである。清掃や設備管理など、それなりの業者が仕事としてやっているため、寮母さんの仕事は非常に少ない。
 具体的には寮の前や玄関などの簡単な清掃、設備の点検――実際の修理交換は業者が行う――や宅配物の保管、夜の見回り、寮生同士のトラブルの仲裁など。
 もちろん未だ仕事を始めて一週間にも満たないキャスターは、まだまだどれも手一杯なのだが‥‥。流石に時間のかかるものではないため、どうにも手持ち無沙汰であった。

 
「そろそろ生徒達が帰ってくる時間だから、宅配物とかあったら渡してあげなきゃいけないんだけど‥‥。来てないのよねぇ。寮費の納入時期も未だ。トラブルらしいトラブルもないし、あとは夜の見回りぐらいかしら」

 
 宗一郎様との時間に水を差すことになるのは、ちょっとよくないわね。そう独りごちて、キャスターは最後にトイレの点検を終えて電気を消した。
 この寮、それぞれの部屋にトイレとシャワーがついているため、大浴場の近くのトイレ以外は殆ど使われていない。あまりにも広い大浴場の手入れは先述の通り業者がしていて、とにかく仕事が少ない。
 よく考えれば、最初に渡されたスケジュールのようなものにはやたらめったら休憩の文字が多かった。なるほど、それはこういうことだったのか。

 
「あ、キャスターさんだ。こんにちわ‥‥いや、もうこんばんわですかね」

「貴方は‥‥えぇと、ミソラね。こんばんわ。今日は早いのね」

 
 玄関の横の管理人室の扉に手をかけると聞こえてきた元気そうな声に、笑顔で振り返る。
 以前に一度だけ挨拶を交わした少女、春日美空である。あれから登下校の際に軽く挨拶をする程度には顔見知りになった、ほぼ唯一といっていい生徒だ。
 寮母の仕事をして一週間も経たないとはいえ、ここまで生徒と面識がないというのもどうだろうか。そんな悩みも密かに抱えてはいるのだが。

 
「今日はシスター・シャークティが早引けさせてくれたので。陸上部の練習もなかったし‥‥」

 
 えへへ、と笑う美空は制服ではなく、シスターが着るようなトゥニカを纏っていた。
 もっともスカート丈は制服ほどではないが短く、頭巾‥‥ウィンブルも貞淑というよりは彼女の元気さを抑えるための封印のような印象を受ける。さしずめ戦うシスターのような感じで、ミスマッチもいいところではあるだろうに、何故かしっかりと似合っている。

 
「シスター・シャークティというのは貴女の上司かしら」

「そうですね。本当は神父様もいるんですけど‥‥お仕事が忙しいので、私の監督役はシスター・シャークティがしてくれているんス。あ、シスターっていうのは‥‥なんだろう、中東だと似たような言葉あるのかな」

「大丈夫よ、わかるわ。それよりどうして私が中東出身だと知っているのかしら? 私、まだそのことは話してないはずなんだけど」

「あ、葛木先生に聞きました。そうだ、キャスターさんの旦那さんって葛木先生だったんですね。すっごく意――」

「その話、詳しく聞きたいわね。お茶でも淹れましょう。ほら早く入って、早く」

「あっ,キャスターさんちょっと待って何か不思議なパワーが働いて?!」

 
 宗一郎の名前が出た瞬間、キャスターの顔色が変わり、強引に美空を管理人室へと押し込んだ。
 無詠唱で美空を浮かせ、あっという間に卓袱台の前へと座らせる。既に愛衣から美空が魔法関係者であることを聞いていたが故の暴走である。普段の彼女ならまぁやらんだろう。

 
「キャ、キャスターさんってやっぱり」

「あら、いけない私としたことが。やっぱりこういうの、いけなかったかしら? 此処の魔術師達は頻繁に空を飛んだりしてるから、この程度ぐらいは大丈夫だと思ったのだけれど」

「いえ、別に私は平気ッスけど。いやぁまさかキャスターさんが、いや、薄々そうなんじゃないかなぁと、私も思ってたんスけどね。おかしいなぁ、積極的に関係者とは関わらないようにしてたつもりなのに‥‥アハハ」

 
 おかしな子ね、と呟きながら、お茶を淹れる。来客用の茶葉なんて揃えられていないので、普通に自分達で飲む時の葉っぱだ。
 かつて共に過ごしていた小姑からは未だ未だ精進が足りぬと言われてしまうだろうが、そこそこに日本茶にも慣れてきたはず。御茶請けにと棚から煎餅を持ち出して、キャスターも卓袱台の対面に腰を下ろした。

 
「まだ学園長と、タカ‥‥ミチ? だったかしら。あとは愛衣と、高音ね。此処の魔術師には四人しか会ったことがないから、その辺りがよく分からないのよ」

「そういえばキャスターさんって、神戸の方から来たんでしたっけ。あの辺りは西洋魔法使いは色々と大変だって聞いてますけど」

「そうね、あまり数はいなかったかしら。それぞれ交流もなかったし。ですからまぁ、普段の生活に魔術はあまり関係なかったかしら」

「へぇ‥‥。私なんかは生まれた時から、あの、両親が魔法使いで。‥‥ホントはのんびり暮らしたいんスけど、中々そうもいかなくて」

「こちらも大変なのね。あまり愛衣からも、その辺りの話は聞いてないのよ。色々と教えてくれると嬉しいわ。‥‥はい、どうぞ、粗茶ですけど」

「あ、どうぞお構いなく。こちらこそすいません」


 申し訳ないかしら、と思いながらも高音の湯飲みで美空に茶を出す。来客用の湯飲みも用意していなかったのだ。こういうことが増えるようなら、来週には二つほど用意しておかなければね、少し熱すぎたかしら、煎餅なんて若い子は食べないかも、などと表情がコロコロと変わる。
 絶世の美女、と言っても一向に差し支えがないキャスターのそんな様子が実に可愛らしく、面白く、美空は思わずプッと吹き出した。

 
「あら?」

「いえ、なんでも。そういえばキャスターさんはどうして神戸から来たんですか? 葛木先生についてきた、ってのは分かるんですけど」

「宗一郎様に、いえ、その通りなんだけど、えぇと何だったかしら、そう、住んでいた寺が改修工事で、こちらの知り合いを頼って」

「へぇ、そういえばお寺に住んでたんスよね。じゃあ料理とか大変だったんじゃないですか?」

「精進料理、だったかしら。肉や魚を食べない‥‥のよね? 仏教のことはよく分からないのだけれど、私が住んでいた寺では気にしていなかったわ。そういう宗派だったんでしょうね」

「‥‥私も仏教には詳しくないッスけど、なんだかアブノーマルな感じですね」

「魔術師がいる教会には言われたくないわね」

「いや、あの、魔術師なんて言い方するとアレですけど、魔法使いがいる教会って言えばファンシーで素敵じゃないスかね!」

「鏡を見なさい。シスターの服も悪くはないけれど、もう少し可愛らしい格好をしてから言うことね」

「ですよねー」

 
 そういえば一度だけ会った冬木の教会の神父‥‥聖杯戦争の監督役は、実にいけ好かない男だったとキャスターは苦虫を噛み潰したような顔を作り、すぐに美空の前であることを思い出して笑顔を浮かべようとして、結果、なんとも愉快な苦笑いを浮かべた。
 あの神父に会ったのは未だ宗一郎をマスターとする前。とんでもない愚物に仕えていた時の話。それだけでも思い出したくもないぐらいなのに。
 当時のマスターではなくサーヴァントであるコチラの方をニヤニヤと眺めては、いちいち癇に障る意味深な言葉を投げかけてきた神父。自分の真名が分かっているわけではあるまいに、とにかく心の隅をささくれ立った爪で引っ掻かれるような気分であった。
 そう考えると教会には殆ど良い思い出などなく、どうにもシスター姿も胡散臭く感じてしまう。

 
「そういえばミソラ、この寮の前の管理人の人はどういう人だったのかしら? 仕事とかは、どんな風にしていたのかしら。引き継ぎらしい引き継ぎもなかったから、気になってしまってね」

「うーん、私もあまり会ったことないんスよね。足腰が悪かったらしくて、私達がいない時間にゆっくり仕事してたんだとか。でも優しそうなお爺さんお婆さんで、日曜日には教会にも来てたような」

「それじゃあ仕事の話が聞けないじゃないのよ」

「あんまり深く考えないで、のんびりやればいいんじゃないかなぁ。それこそ宅配物預かってもらったり、ゴミ出しのやり方で注意されたり、あとは掲示物とかの貼り出しもしてたような気がするけど、そのあたりはもう聞いてるだろうし‥‥」

 
 やれやれ、と二人揃って茶を啜る。キャスターも仕事内容が分からない、というわけではないのだ。組合の代表から話を聞いている以上は引き継ぎ云々というのは建前のようなものであり、本意は別にある。
 寺では婦女子は修行の妨げになるとして離れからあまり姿を見せず、人との会話は宗一郎を除けば住職である零観や彼の弟の一成のみ。つまるところ彼女は‥‥。

 
「そういえばキャスターさんと葛木先生の歓迎会、してなかったなぁ」

「ッ!!」

「毎年新入生の歓迎会はするんだけど、寮母さんが変わったのって久しぶりみたいだし、寮生全員が知ってるわけでもないみたいだし、歓迎会ぐらいしてもいいはずだよね」

 
 美空の言葉に反応して、普通の人よりも若干長めのキャスターの耳がピクリピクリと動く。
 そう、仕事自体はしっかりと引き継ぎがされている。何をすればいいかはしっかりと分かっている。
 しかしキャスターが苦手なことの一つ。人とのふれあい。こればかりは教えてもらうわけにはいかなかった。
 近右衛門やタカミチとのやり取りでは、どうしてもプライドが邪魔をする。
 キャスターも神代の魔女。また現人神の一種でもある最高位の巫女。現代の魔術師相手に対等な話を‥‥など、どうしてもプライドが許さない。
 しかし例えば愛衣や高音などとは、まぁ普通に話は出来た。彼女達には師のように接しているからだろうか。自分よりも明らかに立場の低い、歳の幼い子ども達となら普通に話が出来るなんてのは随分と情けない話だが、人とのふれあいは苦手であっても嫌いではなく、むしろ彼女は寂しがり屋であった。

 
「か、歓迎会。そう、歓迎会ね。でもいいのかしら、宗一郎様ならともかく、私なんて只の雇われ、し、仕事で貴女達と接するわけだし、これから、ほら、きっと厳しいことも言ったりしなきゃいけないのに」

「そんなの誰も気にしないッスよ。考えてみれば寮母さんが変わったって、結構大事な事なのに貼り紙だけだなんておかしな話だし。ここはお披露目もかねて,盛大にパーティーするのも悪くないはず!」

 
 まぁ許可を出すのは他ならぬキャスターさんなんですけど。なんて言って美空は肩をすくめた。
 コロコロと表情の変わる目の前の、年上の魔法使いが随分と可愛らしい。先ほども思ったが、人間離れした美人のくせに守ってあげたくなるような、からかいたくなるような。そんな印象を受ける不思議な人だ。
 本来ならこの手の、魔法に関わる人とは近づきたくなかったはずなんだが‥‥。

 
(ま、袖触れ合うも多少の縁って言うし。あーあ、どうせならシスター・シャークティみたいな怖い人じゃなくて、キャスターさんみたいな人に魔法教わりたかったなぁ)

 
 それを聞けば先ずシスター・シャークティが怒る前に両親が泣きそうなことを心の中で呟きながら、美空は身悶えするキャスターの湯飲みに茶を注いだ。
 もちろん彼女もキャスターの正体を知れば、そんなことは口が裂けても言わないだろう。むしろ美空が普通の少女で、正体を知ってなお構わずマスターたらんとする愛衣の方が異常なのである。

 
「——その話,私も一枚噛ませてくださいッ!」

「め、愛衣ッ?! 貴女いつの間に?!」

 
 と、急に豪快な音を立てて扉が開かれ、そこから飛び出してきたのはキャスターのマスターである佐倉愛衣。
 いつから控えていたのだろうか。少なくとも、ついさっきと言うわけではあるまいに。

 
「キャスターさんの歓迎会、大いに賛成です! お姉様は別の寮なので今はいませんけど、きっと賛成してくれると思いますっ!」

「いえ、だから愛衣、貴女いつから其処に」

「いつも新入寮生歓迎会やってる食堂で、いつもみたいに派手にやりましょうよ! せっかくですから葛木先生も呼んで! もう今日の夜にでも! 私、同級生呼んで来ます!」

 
 止める間もなくドタバタとはしたなく床を踏みならし、愛衣が去っていく。
 伸ばした手が空しく宙を切り、キャスターは呆然と中腰で開け放たれた扉の方を眺めていた。
 あれでは止まりそうもないな、こりゃキャスターさんと葛木先生の都合に関わらず、今夜決行だ。美空もやれやれと溜め息をつく。

 
「キャスターさん、食堂の使用許可、御願いしますね。私もクラスメートとかに声かけてみます。料理が上手な子もいるし、立食パーティーとかいいかも」

「ちょ、ちょっとミソラ、私はまだやるなんて一言も」

「こういうときは諦めた方がいいッスよ、キャスターさん。ウチのクラスにいるとね、そういう境地に達するのもすぐッス。あ、葛木先生にも連絡とっておいてくださいね。それじゃ」

「こ、こら待ちなさいミソラ! あぁ、もう! どうして若い子ってのは、こう人の話を聞かないのかしら!!」

 
 聞いちゃいますけど、言うこと聞くとは違います、なんて捨て台詞を吐いて美空も管理人室を後にした。
 なんだかんだで彼女も騒動を巻き起こす側である。正確に言うと、火種を更に大きくしてキャンプファイヤーにする係である。2-Aの生徒は基本的にお祭り騒ぎが好きなのだ。
 陸上部らしい早足で去っていく美空の背中を眺めて、遂にキャスターも覚悟を決めた。これはどうやら、そういう星の運命だったらしいと大きな大きな溜め息をついて。

 
「‥‥まだ宗一郎様も私も携帯電話、とか持ってないのに。あぁ、帰って来た宗一郎様、お許しになるかしら。あぁもう、ホントにままならない世界なんだから、ここは」

 
 勿論その唇は僅かながらに持ち上がっており。
 暫くして帰ってきた宗一郎も特に文句を言うわけでもなく、やがて歓迎会は、賑やかに催されることになるのであった。

 
 
 



[16654] Prologue~9
Name: 冬霞 / 夏色◆7f18a936 ID:8b871fed
Date: 2015/09/29 02:41
 
 
 騒動の夜が明け、キャスターの心は比較的穏やかであった。
 傍目に見れば微笑ましい騒動であったことだろうが、元気いっぱいな少女たちにもみくちゃにされるというのは実に疲れる。ことさら邪気のない少女の相手というのは、どうにも慣れないことであった。
 愛衣や高音は2-Aの彼女たちに比べると、実に大人びた淑女であったのだ。キャスターは心から自分のマスターの常識人っぷりに感謝した。

 
「本当、若いっていいわねぇ‥‥」

 
 普段ならば若さに憧れる意味で放つ言葉も、今日ばかりは真逆。あんなにパワフルに騒ぐことを義務付けられるなら、いっそ若くなくていい。
 自分が少女と呼ばれていた頃も、あそこまでパワフルだっただろうか 世間知らずの小娘だったのは認めるが、どちらかというと、こう、貞淑な令嬢だったように記憶している。いや令嬢というか、自他共に認める王女様だったのだが。
 そんなことを考えながら、前の寮母だった老婆が残してくれた着物の上から割烹着を羽織り、食堂の片付けを進めていく。
 酒こそ出なかったもののどんちゃん騒ぎが過ぎて、歓迎会直後の片付けはぞんざいだ。渋る少女たちに発破をかけて何とか片付けをしたという体面だけは整えたが、作業の最中にうつらうつらと船を漕ぎ始めるものだから最後まで完遂できなかったのである。

 
「あ、キャスターさん。おはようございます」

「‥‥愛衣 随分と早いのね、おはよう。昨日は貴女もはしゃいでたのに元気そうじゃない」

「ついさっきまで寝ていたので、元気です。キャスターさんこそ、ごめんなさい片付けなんてさせてしまって‥‥」

「いいのよ、これも寮母のお仕事なんだから。それに昨日の片付けの残りですから、すぐに終わるわ。ちょっと待っていてね、お茶でも淹れましょう」

 
 洗い場で乾かしておいた食器を棚に仕舞い、細かい掃き掃除をして、まとめてあったゴミをゴミ捨て場に運ぶ。それで残った片付けはおしまい。
 普段は殆ど使う学生がいない広々とした食堂で、キャスターは愛衣と二人でお茶を淹れて一息ついた。
 麻帆良女子中等部の生徒である愛衣はキャスターが寮母を務める女子寮に居住しているが、彼女が姉と慕う高音はウルスラ女学院の寄宿舎にいる。愛衣は魔法生徒としての修行が多いためクラスメイトとは少し疎遠で、キャスターと過ごす時間は最近の楽しみの一つである。
 キャスターもキャスターで、葛木がいない時間を愛衣と過ごすのは好ましかった。マスターである彼女と交流を深め、絆を培うことは自己保身のために必要不可欠。また主人というよりは妹や生徒のような彼女の人柄も、キャスターは決して嫌いではなかった。

 一つ、おもしろい発見がある。佐倉愛衣という少女は思ったよりも思慮深く、キャスターのマスターとして十分な素質を備えていた。
 契約を交わした夜、キャスターは愛衣に自らの真名を告げた。これはサーヴァントとしての義務感だけではなく、彼女の出方を見るという意味も持っていた。
 多くの英霊は自らの真名を隠す。例えばアキレウス、あるいはジークフリート、もしくはクーフーリン。英雄には弱点がつきものであるから、正体を隠すことで弱点を露呈しないようにするのは当然だろう。
 しかしキャスターの場合は少し異なる。彼女には、トラウマこそあれ弱点らしい弱点はない。魔術師のサーヴァントとして当然の、例えば対魔力を持つ三騎士に対して不利であるという弱点こそあれ、真名を知られることで生じる弱点は殆ど存在しない。
 ただ、それは戦闘などについての話。マスターとの付き合い方を考えた時、“裏切りの魔女”という不名誉極まるネームバリューは最悪の障害となるだろう。だから、それを晒すことによって愛衣の人柄を知りたかったのだ。
 もしかしたら、そういう態度こそが彼女に貼られたレッテルを証明するのかもしれないが‥‥それでも、そうせざるをえなかった。

 そして愛衣は、キャスターの予想から完全に外れた行動をとる。
 彼女は何も調べなかったのだ。図書館に行くでもなく、誰かに聞くこともせず。キャスターは知り得ないことだが、ネットの発達した現代だというのにスマホすら使わず、何も調べなかった。
 理由は二つある。まず、彼女自身が監視されていることを予想していた。自分の軽率な行動如何によっては、キャスターの落ち度なくサーヴァントの真名を見破られてしまうことを恐れた。そして次に、自らの従者を信頼した。彼女の、とりあえずの信頼に応えようと考えた。だから何も調べなかった。
 キャスターはそれを理解したとき、己のマスターへの信頼の度合いを一つ引き上げた。未熟で若い魔術師を眩しく思い、ちょっとお酒も飲んだ。しょうがないじゃない、若いって素晴らしい。ここまで無防備に全力疾走できるって素晴らしい。
 弁護しておくと、サーヴァントというのは人類の信仰によって多少ならず在り方を強いられる英霊であるから、彼女ばかりの責任ではないのだが。

 
「今日は土曜日ね。学校も、修行の方もお休み」

「はい。葛木先生はどうされたんですか」

「‥‥新任の教師ですから、引き継ぎの仕事があるんですって。まぁ、前いたところでも特に用事を作ったりする方ではなかったから、慣れっこなんだから、寂しくなんてないんだから」

 
 魔術師とはいえ英霊は英霊。重厚な湯のみがキャスターの掌の中で悲鳴を上げ、愛衣の額を冷や汗が伝う。
 朝早く起きているのは片付けもそうだが、葛木が早くに寮を出たからだ。聖杯戦争中は安全のため龍洞寺から出ないようにしてもらっていたので、初めての休日を二人で過ごすという計画が無残にも粉砕されたわけである。
 宗一郎様が帰ってくるのは早くて夕方。お弁当を作ったから間違いない。ということは、少なくとも昼は一人で過ごさなければならない。
 キャスターはその点についてのみ、実に不機嫌であった。まぁそういう機会はこれからいくらでもあるだろう。そう呪文のように繰り返すばかりであったから、愛衣が来てくれたのは彼女の精神衛生上よかったのかもしれない。

 
「じゃあ一緒にお出かけに行くのはどうですか」

「‥‥愛衣と私で、かしら」

「はい この前のお出かけは、どちらかというと買い出しみたいで興醒めでしたし‥‥もっと詳しく麻帆良の、私たちの街のことを紹介したいんです」

 
 ふむ、とキャスターは顎に手をやる。まぁ、やることはない。洗濯も済ませてしまったし、掃除なんて普段やってるんだから1日ぐらいなら先回しにしたって構わない。
 マスターとは出来る限り一緒にいるようにしてはいるが、それも朝や夕方、夜の少しの時間だけである。一緒に街を歩いて、お茶とかするのもいいかもしれない。これってもしかして女子会とか、そういう最近の若い子たちの流行りを味わえるチャンスなのでは
 神代の魔女、コルキスの王女メディア。こう見えて意外と思考は俗物的である。

 
「まぁ、特に用事もないし構わないわ。でも愛衣、貴女から誘ったのだからエスコートは任せてもいいのよね」

「も、もちろんです 任せてくださいキャスターさん」

 
 二人分の湯のみと、急須を洗ってキャスターは管理人室へ、そして愛衣は自分の部屋へ一度戻る。
 キャスターは真っ白いハイネックのセーターと、デニムのジャケットにスカート。宗一郎の古着を仕立て直したものである。といっても宗一郎が飽きた服というわけではない。彼は破滅的にファッションセンスを欠いていたので、キャスターが無理やり奪い取り、新たな服を買い与えていたのである。
 一方の愛衣は白いブラウスにチェックのスカート、淡い赤色のタイと実に無難な格好。しかしどれもしっかりとアイロンがかけられていて、もしや勝負服の類に入るのでは。
 憧れのお姉さんと出かけるといっても気合入りすぎ‥‥なのだが、よく考えたら男性との付き合いが殆どない彼女にとっては自然なことなのだろう。
 まぁキャスターとしても、可愛らしい格好をした女の子と一緒に歩くのは悪い気分ではない。むしろ良い。というわけで、二人仲良く寮を出て街の方へと歩き出した。

 
「そういえばキャスターさん、冬木では何をして休日を過ごしていたんですか」

「‥‥聖杯戦争の最中だったから、陣地から出るということはなかったわね。寺の掃除や炊事の手伝いをしたり、あとは戦いを有利に進めるための準備ばっかり」

「じゃあ葛木先生とお出かけ、とかは‥‥」

「街には他のマスターやサーヴァントがいるかもしれませんでしたからね。出歩くことはできなかったわ。それでも暇なときは、工作とか、お裁縫とかをしていましたけれど」

「そうなんですか‥‥。あ、実はお姉さまもお裁縫が趣味なんですよ 私、良いお店知ってるんで案内しますね」

「あら本当 じゃあお願いしようかしら」

「任せてください」

 
 寮を出て、桜通りを歩いて世界樹広場の方へ。麻帆良学園は非常に広いから、繁華街もあちらこちらに点在している。世界樹広場を取り巻くように並ぶ、中世ヨーロッパを模した町並みは、麻帆良でも一番人気のお洒落スポットだった。
 まず二人は洋裁雑貨の店へと入っていった。高音は完全無欠のお嬢様で、自室では紅茶を飲みながら詩集を読んでいると専らの噂であるが、実は人形作りが趣味であった。しかもクマさんやワンちゃん、ネコちゃんの可愛らしい縫いぐるみである。愛衣も決して愛らしい縫いぐるみが嫌いではないので、よく付き合わされて出入りしている店である。
 キャスターの場合は縫いぐるみというよりは、少女趣味のファッションの裁縫が趣味なので、この二人が互いの趣味を知れば非常に互いのためになったことだろう。特に高音は縫いぐるみに着せるお洋服が手に入って、相当に喜ぶに違いない。
 もっとも愛衣とルームメイト以外にはひた隠しにしている趣味だ。時間の問題ではあるが、しばらくはその機会もないだろう。

 
「今日のキャスターさんの服、大人っぽくて素敵ですけど‥‥。ちょっと、見ている布地とはイメージ違いますよね」

「わ、私には似合わないじゃない、こんな可愛らしい生地‥‥。別に、自分が着る服だけ縫うってわけじゃあないのよ。そういうものなのよ」

「じゃあ誰に着てもらってたんですか」

「誰にって、それは別に、誰か可愛らしい女の子がいれば着てもらってたんだけど‥‥」

 
 例えばセイバーのお嬢さんとか。と呟かれても愛衣にはよく分からなかったが、放っておくと大量に作った洋服を持て余しそうなマニア気質なところをキャスターに見た。お姉様そっくりである。
 高音の部屋にも、壁一面を埋め尽くすように大量の縫いぐるみが積まれている。まるで土嚢のような扱いは彼女自身も不満なのだそうだが、処分することも出来ず、贈る相手も限られ、愛衣はそれを難儀しているなぁと他人事のように眺めていた。

 
「まぁ、今日はいいわ。まだ越してきたばかりだし、落ち着いてからまた来るわね。案内してくれてありがとう、愛衣。‥‥あら」

 
 品揃えはよく大きい店だが、人の出入りは多くない。そうして二人が談笑していると、思い出したかのように扉がベルを鳴らして開いて、二人の少女が入ってきた。
 一人は世にも珍しい緑色の髪と、まるでロボットのような飾りをつけた少女。こともあろうにメイド服を着ており、なおかつ違和感というものがない。クールビューティーという言葉が似合いそうなぐらい透き通った表情をしているが、一方で不思議な幼さを感じさせる。
 彼女を従えるようにして入ってきたのが、もう一人の少女。小学生と見間違えるぐらい小柄で、金絲のような髪の毛を揺らし、クリクリとした大きな瞳を鋭く細めてキャスターを見る。こちらは、外見年齢に反した不思議な大人っぽさ‥‥凄みを感じさせた。
 瞬間、愛衣が硬直したのをキャスターは感じた。そして彼女の目もまた鋭く少女を見据える。

 
「‥‥ほう、面白い奴がいるじゃあないか。佐倉愛衣、だったか 随分と奇妙な連れ合いを持っているようだな」

「エヴァンジェリンさん‥‥、どうしてここに」

「なぁに、ただの趣味さ。私が人形作りに通じていることは“よく知られている”だろう」

 
 珠を転がしたような可愛らしい声に、威圧感と落ち着き。なにもかもがチグハグで、そして何よりキャスターの目を引いたのは魂のラベル。
 魔術師の英霊として現界したコルキスの王女は、肉体で覆い隠された魂の表層を見通す魔術師の視界を持っている。何らかの術式でがんじがらめにされてはいるが、その隙間から見える魂は明らかに。

 
「貴女、人間ではないわね」

「そういう貴様こそ、この世のものではなかろう。何処から迷い出てきたんだ、存在を構成するエーテルの強度が桁ひとつ違う。凡百の霊魂ではあるまいに」

「霊魂呼ばわりとは失礼な小娘ね。どれだけの齢を重ねてきたか知りませんが、目上の者への言葉遣いを教えてあげましょうか」

「キャ、キャスターさんッ エヴァンジェリンさんも、こんな公の場所でそんな破廉恥なっ」

 
 ピシリピシリと、そう広くはない店内の空気を凍らせるようなプレッシャーが二人の魔術師の間で張り詰めていく。
 破廉恥、と愛衣が叫んだのは卑猥であるという意味ではない。魔法は秘匿するものであるから、こんな一般人もいるような店内で魔法に関わる話をしてはいけない。そんなわかりきったことを思わず注意してしまうぐらい、凄まじい緊張を感じたのだ。

 
「心配しないの。既に認識阻害の魔術をかけてあるわ」

「認識阻害 ハッ、笑わせる。あれは呪い、いや傀儡の魔術か。いい腕じゃあないか、死なせておくのが惜しいくらいだ」

「あら、お褒めに預かり光栄ね。馬鹿にするのも大概にしなさいな、お嬢さん。何年生きたか知らないけれど‥‥。この時代の魔術師が私を、キャスターのサーヴァントを“褒める”だなんて侮辱もいいところよ」
 
 
 人形のような少女は不敵な笑みを浮かべながら、内心は疑惑で渦巻いていた。
 本人が語ったとおり、彼女の“誘い”に乗ったキャスターは店に唯一いた一般人である従業員に、認識阻害を施していた。しかしそれは麻帆良の魔法使いたちがやるような、意識や視線、音をごかますようなものではなく、“相手を完全に自分の支配下においてしまう”というもの。むしろ彼女が慣れ親しんだものだった。
 見ればわかる。相手が人間でないこと。幽霊の類であることは。しかし指先ひとつで、人間を傀儡にする技量。そして幽体を構成するエーテルの密度。幽霊とひとくくりにしていい相手では断じてない。

 
「詠唱する者、そして従者か‥‥。ああ、自己紹介が遅れたな。私はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。真祖の吸血鬼‥・と言って分かるかな」

「真祖‥‥ 私の知識の中にある真祖の吸血鬼とは星の眷属。貴女、そうは見えないけれど」

「そんなものは聞いたことがない。お前、勘違いしてるんじゃあないのか いや、どちらにしても真祖の吸血鬼など私一人。変な噂が出回っていても不思議ではないが」

 
 なんだ星の眷属って厨二病か貴様、とエヴァンジェリンは呆れたように言い放った。他人のことを言えたものではないのだが、もちろん如何に聖杯から得た知識を持つキャスターとはいえ、そんな細かいネットスラングが分かるはずもない。
 一方のキャスターも怪訝な表情で、じろじろとエヴァンジェリンを眺めていた。が、余裕はあるらしく半分ぐらいは「この子に着せたいお洋服」を考えていて、それは是非とも今いる場所のせいだと考えていただきたい。

 
「で、私の自己紹介は済んだわけだが‥‥貴様は何者だ」

「さっき教えてあげたでしょう。私はキャスターのサーヴァント。マスターは、この佐倉愛衣よ」

「‥‥ほう、あくまでシラを切るか。しかし幽霊ならば、確かに依り代は必要か。フン、キャスターのサーヴァントとやらが何かは分からないが‥‥厄介な奴を抱えたものだな、佐倉愛衣」

「ひぃッ」

 
 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。“|闇の福音《ダーク・エヴァンジェリン》”、“|不死の魔法使い《マガ・ノスウェラトゥ》”、“|人形使い《ドールマスター》”、“悪しき|音信《おとずれ》”、“禍音の使徒”、“|吸血鬼の真祖《ハイ・デイライトウォーカー》”。
 その二つ名に事欠くことはなく、かけられた賞金は至上最高の600万ドル。魔法界では英雄ナギ・スプリングフィールドに匹敵するほどの知名度を持ち、夜遅くまで寝ない子には『闇の福音がくるよ』と脅しつける、まさに生ける伝説の化け物と呼んでも過言ではあるまい。
 愛衣も極々稀に同じ場所に居合わせることもあるが、基本的には遠くから身体を小さくして眺めるに留まる。そのぐらい怖い。お母さんに怒られるよりも『闇の福音』の方が怖い、というのが魔法に関わる子どもたちの共通見解であるのだから仕方がない。
 こうして魔法を扱うようになったからさらに分かる実力の差。雲の上、あるいは地獄の蓋の下の魔王に睨まれて、情けない悲鳴をあげてしまっても誰も咎められないだろう。

 
「まぁ、いい。佐倉愛衣の使い魔を名乗るなら、それでいい。精々そいつを持て余さないように注意することだ」

「マスター、お時間が」

「‥‥そんなに経ったか むぅ、長話が過ぎたか。ではな、縁があればまた会おう。化けの皮が剥がれないように注意しておけよ」

「それはこちらのセリフよ吸血鬼。陽の光の下をビクビク歩いて帰りなさいな」

「ッ ‥‥女狐め、とっとと成仏しろ」

 
 キャスターの言葉が相当に気に障ったのだろうか、エヴァンジェリンは視線だけで人を殺せそうな顔をすると、ドスンドスンと足音を立てて店を出て行った。
 そのときの殺気に中てられて泡を吹きそうな愛衣を見たキャスターは溜息をつき、その溜息だけで傀儡の魔術を解除した。何事もなかったかのように店員は仕事を再開し、しゃきっとしなさいな、と軽くマスターの背中を叩いて、二人揃って店を出た。
 いい時間だったので、愛衣おすすめのカフェで昼食をとって散歩を再開する。次の目的地は二人にとっても因縁浅からぬ場所。世界樹広場であった。

 
「あのときは夜だったけれど、昼間はこんなに賑わっているのね」

 
 世界樹広場は麻帆良で最も人気のスポットである。ローマにあるスペイン広場を模しており、麻帆良の街並みと調和するように工夫を凝らして作られた。
 休日だからか景観や通行を邪魔しない程度に出店が並んでおり、観光客の姿も見える。麻帆良は麻帆良祭という都市全体を挙げての学園祭で最も多くの観光客を呼び込むが、その日本離れした景観もあって普段から観光地としての人気が高いのだ。

 
「不思議なものね。あのとき死を覚悟したのに、こうして世界すら飛び越えて平穏な毎日を過ごしているなんて」

「‥‥聖杯戦争、ですよね。正直、この世界でそんな戦いが起こっていなくて、私は安心しました。魔術師だとか、魔法使いだとか、細かいことはわかりませんけど‥‥。私は私の周りの魔法使いの人たちが、世界の平和と人々の安全を守るために働いていることを誇りに思うんです」

「お姉さまみたいに」

「お姉さまほどでは、ないかもしれませんけれど。うん、でもやっぱりそう思います。まだ私は修行だけで精一杯で、自分が本当に何をしたいかとかは分かりませんけれど」

 
 愛衣は少し悲しげにキャスターを見た。
 彼女ほどの魔術の腕があれば何でも出来るのではないかと思っていた。否、今も思っている。自分が憧れている高音のように、あるいは英雄と称えられる高畑先生のように、望むように振る舞えるほどの圧倒的な実力を持っていると。
 しかしキャスターは願いを求めて聖杯戦争に参加したはずなのだ。彼女ほどの力があっても、世界は思う通りにならない。それは愛衣にとっては意外な事実で、残酷なまでの真実でもあった。

 
「キャスターさんは」

「何かしら」

「どうして聖杯を求めたんですか 聖杯で、どんな願いを叶えようとしたんですか」

 
 静かに、風が二人の間を通り抜けた。
 キャスターが、そのスミレ色の瞳でまっすぐに愛衣を見た。すごく透明な瞳だな、と愛衣は思った。その透明さの中に、色んなものを感じた。
 喧騒が勝手に遠ざかっていくように、愛衣はまるで二人だけが世界に取り残されたような気分になった。おそらくキャスターが何か術をかけた、というわけではなくて。一人の人間の、英霊とまで謳われた偉大な魔術師と人生を懸けた問答の一つを許されたのだと。そういうことだと感じたのだ。

 
「‥‥私は、ただ帰りたかっただけよ」

「帰りたかった」

「そうよ」

 
 少し高い場所にある世界樹広場からは、わずかながら麻帆良を広く眺めることが出来る。その景色を呟き、風に靡く髪を押さえながらキャスターは呟いた。
 麻帆良には湖はあるが海はない。しかし英雄となってから、キャスターの過去の記憶は磨耗するばかり。今では自分が思い出せる故郷の風景が、本物なのかどうかも分からない。

 
「愛衣、貴女はこれから多くを知り、成長していくことでしょう。それはとても良いことかもしれないし、悪いことかもしれない」

「成長することが、ですか」

「そうよ。無知は罪と、後世の誰かが言ったそうだけど‥‥私に言わせれば、無知の状態で犯せる罪なんて、たかが知れている。無知を脱して偉業を為すものもいれば、無知を失って罪を犯すものもいる。私みたいに」

 
 自分が具体的に何を願ったのか。それはキャスター自身にもよく分からない。
 英雄とは強烈な自我を持ち、揺らがぬ己を誇示する者。だが、コルキスの王女メディアは違う。女神の呪いによって心を乱され、神話を劇的に彩るために捧げられた供物。彼女の英霊としての自我は彼女が望んだものではない。誰かに、押し着せられたものに過ぎない。
 他人に望まれて魔女になった英霊。本来ならば英霊として召喚されるべくもない、悪名によって人々の信仰を集めた反英雄。愛衣がまだ知らない、本当の自分。本当は嘘っぱちの、望まない在り方。

 
「だから私は帰りたかった。私の故郷に。まだ何も知らなかった、あの頃の私に。誰かに連れ去られてしまう前の少女の私‥‥。フフ、女々しいと思わない こんなものが、英霊の願いだと失望しない」

 
 愛衣は押し黙ってしまった。そんなことはない、と口にするのは簡単だが、それは出来なかった。
 まだ未熟な自分の、ちっぽけな物差しでは測りきれない言葉の重みを感じて、まるでさっぱり分からないテストを前にうんうん唸っているような気分だった。そしてそれが、哀しくて仕方がない。
 愛衣のそんな必死な表情が気に入ったのか。キャスターはくすりと微笑んでマスターの手を取った。昔のことを考えると、いつもこう。意地悪をしてしまう。それはもうやめよう。そんなことしなくても、いい場所に来たのだから。

 
「悪かったわ。困らせたいわけじゃなかったのよ」

「キャスターさん、私は」

「別に答えを強要しているわけではないわ。真剣に応えようとしてくれた、それだけで今は十分」

「でも、私はキャスターさんのマスターだから。マスターが何をすればいいか、全然分からないけど、私は」

「いいのよ。私はね、愛衣。宗一郎様に会えたから、もう故郷に戻る必要はないの。本当なら現世に何も残せず露と消えてしまうサーヴァントの身で、こんなに幸せになれたから。本当はもう、昔のことなんてどうでもいいのよ」

 
 サーヴァントとして召喚された此の身は英霊の座にいる本体の分身のようなもの。座に戻れば記憶は失われ記録と変わる‥‥かどうかは、実はキャスター自身もよく分かっていない。が、本能的に今の自分が消えれば、今の自分が経験したことは失われてしまうと感じていた。
 捻った言い回しばかりしていたが、つまるところ今のキャスターはイケイケなのである。特に問題らしい問題はない。やはり意地悪をしてしまったかと、少し反省。

 
「まぁ、今からやらなければいけないことは沢山あるけれどね」

「やらなければいけないこと、ですか」

「キャスターのサーヴァントである私が十分な能力を発揮するには、色々と下準備が必要なのよ、マスター。まぁ、今のところ荒事の予定はありませんけれど。準備の準備、ぐらいはしておかないとね」

 
 ちらりと背後に聳え立つ世界樹を見る。
 神代の魔術師であるキャスターの実力は、現代の魔術師では逆立ちしても敵わないほどのもの。しかし彼女が貯蔵できる|小源《オド》の量はそれほど多くはなく、もし万全の戦闘がしたければ神殿の構築や魔力炉、魔力貯蔵庫の確保は絶対に必要だ。
 が、目の前で激しく心配そうな顔をしている愛衣の懸念の通り、それらを用意するためには周囲の大きな反発を覚悟しなければならない。望むものを全て手に入れた平穏な毎日を過ごす今、むやみに学園長や高畑、他の魔法使いを刺激するのは好ましくない。
 彼らからの信頼を得なければいけない。裏切りの魔女たる自分が信頼を得るために努力する、なんて随分と滑稽な話だが‥‥。平穏に過ごすためには相応の努力が必要なのである。
 荒事の予定がないなら準備の必要すらないわけで、しかしキャスターはそこまで楽観はしていなかった。着々と、準備を進めなければいけない。

 
まぁ、今しばらくは平穏を満喫したいところですけれど

 
 先ほど出会った吸血鬼。平和な街には不必要なほどの実力、戦闘力を持っていると思しき学園長や高畑。明らかに戦闘に偏った魔法の修行をしている愛衣や高音。
 不安要素は尽きず、自分がこれから何をするべきなのか見込みもない。
 サーヴァントたる己はマスターたる愛衣を依代に現世に留まっているが、いつまでこうしていられるかも分からない。サーヴァントの維持は大聖杯によって行われ、本来供給すべき魔力に比べればマスターの負担は実に軽微。だが自分は今どこから魔力を供給されているのか

 
「平穏無事な毎日だけれど、やるべきことは山積みね」

 
 再び繰り返して、キャスターは愛衣と共に家路に着いた。
 じきに帰ってくる宗一郎のために食事を用意して、寮生が騒ぎすぎないように巡回をして‥‥。魔力云々以前に、仕事もまた山積みであった。
 しかしその忙しさこそが平穏の証でもあり、それを味わうように、キャスターの顔は穏やかであった。
 
 
 
 


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