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[18721] オーバーロード(オリジナル異世界転移最強もの)
Name: 丸山くがね◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2012/06/12 19:28
 






 はじめまして。もしくは再びようこそ。

 読んでくださる方が時間を無駄にしたと思われないことを祈っております。
 それと15禁程度の内容がある場合がありますので、読まれる方はご注意ください。
 では、これで失礼します。

 この小説は『小説家になろう』様の方でも公開しております。


4/26追記
 オーバーロードが書籍化されることになりました。
 出版社はエンターブレイン様。発売日は夏頃を予定しています。
 消したりと言うことはありませんが(多分)、作業が忙しいために更新に若干時間がかかるかもしれません。お待ちいただければと思っております。何とぞよろしくお願いします。

4/30追記
 応援を下さる方々ありがとうございます。
 応援をいただけるたびに、気力が回復していきます。
 
 さて、編集さんからはそのまま連載してくださって問題無いですよって言われてますので、このまま継続してオーバーロードは投稿して行く予定です。取り敢えずは5月後半に『日々』を更新したいです。まだ10k程度しか書いてませんが。
 そして6月後半、もしくは7月頭に『■■■』を公開します。流石にこれは進展具合によって左右されます。
 それから先は本の発売後になってくると思われますので、ちょっとよく分かりませんが8月中にギャグちっくな『■■』。短めの話を公開でしょうか。
 なのでのんびりと更新していく予定のオーバーロードを、今後ともよろしくお願いします。

 ただ書籍化にコケた場合、そのまま静かに消えていきますので、その時は続きはどうしたんだろうとは思わず、どうかついでがあったらうらにわのむちむちぷりりんのおはかに花束をそなえてやってください。

 6/12追記
 『むちむちぷりりん』から『丸山くがね』に名前を変更



[18721] 01_プロローグ1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/11/14 11:37






 D M M O R P G<Dive Massively Multiplayer Online Role Playing Game>『ユグドラシル<Yggdrasil>』。
 2126年に日本のメーカーが満を持して発売した体感型MMOだ。

 体感型というのは専用コンソールを利用して、外装に五感を投入し、仮想の世界で現実にいるかのように遊べるゲーム一般を指す言葉である。
 このシステムが生まれたのが2079年。
 最初は軍事、医療の分野での使用を目指して開発されたのものであり、基本的なコストが高額だったが、10年後には非常に簡素化し、一般家庭でも所有することができるまでになった。
 とはいえシステムの開発費が非常に掛かるために、ネット商店や観光地という分野から発展していった技術によって、最初のDMMORPGが生まれるまでに15年の歳月が流れることとなるのだが。
 



 DMMORPGの1つ、『ユグドラシル』がなにより凄いのはそのデータ量だ。


 なれる人種も人間やエルフ、ドワーフに代表される基本的な人間種。ゴブリンやオークといった外見は醜悪だが性能は人間種よりも優遇される亜人種。モンスター能力を持つがかなり色々な面でペナルティを受ける異形種。と420種類。
 
 さらに職業の数は基本や上級職業等を合わせて880。無論、前提等ではじかれてしまうためなれる職業はその半分程度にもなるが、それでも膨大な量だ。
 そしてこの職業は前提条件さえ満たしていれば、つまみ食いだって可能。職業は最大で15レベルまでしかないため、限界レベルの100まで成長したならどんな人間でも7つ以上は職業を重ねていることとなる。
 やろうとするなら不可能かもしれないが100個の職業を重ねることだってできるのだ。弱いだろうけど。
 
 つまり意図的を除いて、同じキャラクターはほぼ作れないだけのデータ量があるのだ。


 また作りこみ要素だって半端じゃないレベルである。別販売となっているクリエイターツールを使うことで、武器・防具の外見、自分の外装から、自らが保有する住居の詳細な設定を変化させることができるのだ。

 例えばドラゴンを倒したとしよう。お金と経験値、あとはアイテムが落ちるのが通常のDMMO。だが、これは違う。経験値とお金が落ちるのは普通のと変わらない。だが、アイテムの代わりにデータが詰まったクリスタルが落ちるのだ。
 こんなデータだ。

 長さ:+1、重量:40、物理ダメージ5%向上、効果:追加ダメージ/炎+10、効果:『武技』ラッシュ+1、

 実際のデータはもっと色々な詳細があるが、漠然と述べてしまえばこんな感じだ。
 このデータをクリエイトツールでいじって作った外装にくっつけ、オリジナルの武器を作るのもよし。MMO内で売られている外装をもらってくっつけても良い。
 こうすることでオリジナルアイテムが無限に作成される。

 さらにネクロマンサーという職業であればドラゴンの死体からアンデッドモンスターを作ることもできるし、ベルセルクという戦士系職業なら死体の血を浴び、ボーナスを得ることもできる。ドラゴンの骨からゴーレムを作るクラスだってあるし、薬を作る職業だってある。
 通常のDMMOなら直ぐに消えてしまうだろう死体にも、職業によって様々な利点があるのだ。

 ドラゴンの骨から作り出したゴーレムもある意味、データだ。これをある程度ならクリエイトツールを使って外装をいじり、自分だけのゴーレムを作ることもできる。さらに基本AIをある程度改変し、門番や運搬用等にも使うこともできる。

 日本人のクリエイター魂にガソリンかニトロをぶち込んだようなこの要素こそが、外装人気ともよべる現象を起こした。
 2チャンネルや公式ホームページ上での競っての自作データの配布。神職人とも呼ばれる存在の出現。イラストレイターとの提携によるスペシャル外装のプレゼント等。
 戦闘AIを強化したものや、猫AIという可愛い系ペットAIを公表する者。
 

 『ユグドラシル』は今まで戦闘が主になっていたDMMOとは一風変わった遊び方、懐の深さを持っていたのだ。 

 そしてクリスタルのように透き通った刀身を持つ非常に精細な剣と、単なる鉄の剣では、外装に必要とされるデータ量が全然違う。その外装のデータ量は鉱物等の資源によって決まっているのだ。
 そのためモンスターを倒すのではなく、資源を探したり、新しい発見を求めたまさに冒険者とも呼べるような楽しみ方を求めたプレイヤーが続出。
 そんな秘境や未知を求めて旅立ったプレイヤーを待ち構えていたのは広大なマップ。

 アースガルズ、アルフヘイム、ヴァナヘイム、ニダヴェリール、ミズガルズ、ヨトゥンヘイム、ニヴルヘイム、ヘルヘイム、ムスペルヘイム。9つのそろぞれ特徴のある世界は1つ1つが現実世界の東京2つ3つほどの大きさだろうか。
 辺境にいたら自分以外のプレイヤーに1週間会いませんでした、というのは珍しいことではない。


 無限の楽しみを追求できるDMMO。
 開発元のメーカーの有名な発言、『強さがすべてではない、DMMO』はまさにそれを体現したものだろう。


 そんなこんなが合わさり、DMMOといえばこのゲームを指すともいっても良いほどの人気を日本で打ち立てたのだ。

 

 だが、それも一昔前だ。









 ナザリック大地下墳墓。
 8階層によって構成される巨大な墳墓であり、凶悪を知られることで有名なダンジョンである。

 かつて6ギルド連合および傭兵プレイヤーやNPC合わせて1500人という、サーバー始まって以来の大軍で最下層を目指し、そして全滅したという伝説を生み出した場所でもある。

 それをなしえたのは別にモンスターの出現レベルが高いわけではない。
 基本のルール通り最高で30レベル程度だ。『ユグドラシル』のカンストレベルは100であり、1500人の中の1/3がそうであったという事を考えれば、さほど強敵にはならない。それどころか紙のようになぎ払えるであろう。
 ただ、そこに出現するアンデッドモンスターの特性――負のダメージよって回復し、正のエネルギーでダメージを受ける。即死攻撃や精神攻撃を無効とする、などなど――というものを生かした作りとなっているのが大きい。
  
 幾層に渡って負のダメージを――1点程度だが――与え続けるエリアエフェクトと、回復魔法――正のエネルギーに関する魔法の効果を阻害するエリアエフェクトがかかっている。
 さらにはパーティーを分断するための転移系の罠を代表とする様々な罠が張りめぐらされ、視界の効かない空間や猛毒の空気が込められた部屋等が冒険の行く手をさえぎる。

 またゾンビやスケルトンに代表される通常のアンデッドモンスターに加え、オリジナルのモンスターもそれなりに用意されているのも全滅の大きな要因の1つとなった。

 膨れ上がったゾンビのような姿をし、死亡すると同時に爆発、負のダメージを与えると同時に周囲のアンデッドを回復させるplague bomber<プレイグ・ボンバー>。
 壁をすり抜け、脆弱化の接触によるヒット・アンド・ランによって能力値にダメージを与えてくるghost<ゴースト>。
 即死や精神攻撃の絶叫を上げるscreaming banshee<スクリーミング・バンシー>。
 何十体ものスケルトンが融合したような姿で複数回攻撃を行ってくるdeathborn totem<デスボーン・トーテム>。
 これ以外にも何十種類という生理的嫌悪感をかきたてるような様々なアンデッドが待ち構える。
 
 もちろん敵はアンデッドだけ、なんていう対処の取りやすいようなことはしてくれない。
 召喚陣より不意を撃つように現れるエレメンタルやデーモン、デビル等。召喚されるモンスターの選択は相手が嫌がるだろうということを前提にした陰険なものだ。一言でいえば致命的な特殊能力を持っているものが選ばれるということか。
 そして当然のように下層にもなれば上位のモンスターも多数出現する。

 
 どれだけの資源がつぎ込まれたか想像もできないほどの厚いモンスター層だ。


 さて、ナザリック大地下墳墓は8階層で構成されている、というのはあくまでも一般的な情報である。侵入者では最高で8階層まで降りた者しかいないためにそう思われているにしか過ぎない。

 実のところ10階層で構成されているのだ。  
 
 そして9階層に入ったところからこの墳墓の風景は一変する。まるで白亜の城を彷彿とさせるような光景へと。
 天井にはシャンデリアが無数にかけられ光を放ち、部屋の一つ一つにも王侯貴族が生活するような調度品が置かれている。磨き上げられたような床は、大理石のごとき輝きだ。
 
 知らないものが見れば目を疑うであろうか?
 それとも当たり前と考えるだろうか?

 ここナザリック大地下墳墓こそ、DMMO『ユグドラシル』上、最高峰とも呼ばれるギルド『アインズ・ウール・ゴウン』の居城なのだから。




 ナザリック大地下墳墓、第9階層――
 汚れが一つも無い大理石でできたような通路を抜け、歩いていくとそこにマホガニーでできた巨大な両開きの扉がある。
 その中には黒曜石でできた巨大な円卓があり、41人分の豪華な席が据え付けられている。

 ただ空席が目立つ。
 かつては全員が座っていた席に今ある影はたったの2つだけだ。


 席の1つに座っているのは、金と紫で縁取りされた豪奢な漆黒のローブを纏った人物だ。
 とはいえ普通の人間ではない。ひからびた死体を髣髴とさせる、骨にわずかばかりの皮膚がついたような姿。
 空っぽな眼窟の中には赤黒い光が揺らめいていた。
 
 もう1つは黒色のドロドロとした塊だ。コールタールを思わせるそれの表面はブルブルと動き、1秒として同じ姿をとってないようにも思える。

 前者は魔法使いが究極の魔法を求めアンデッドとなった存在――リッチの中でも最上位者、overlord<オーバーロード>であり、後者はelder black ooze<エルダー・ブラック・ウーズ>。凶悪なまでの酸能力を保有したスライム種ほぼ最強の存在だ。
 最高難易度のダンジョンで時折姿をみせるそれは、冒険者の中でも嫌われ者として名高い。


 そんな嫌われ者第一人者である、オーバーロードが声を発する。口は当然動いていない。

「ほんと、ひさしぶりでしたね、ヘロヘロさん」
「いや、本当におひさーでした」
「えっと転職して以来でしたっけ?」
「それぐらいぶりですねー。実のところ今もデスマーチ中でして」
「うわー。大変だ。大丈夫なんですか?」
「体ですか? ちょーボロボロですよ」

 エルダー・ブラック・ウーズが触腕を伸ばし、奇妙な踊りにも似た行動を見せる。

「といってもこのご時世休めないんですけどねー。体におもいっきり鞭打って働いてます」
「うわー」
「まじ大変です」

 やがて2人の会話は互いの仕事に対する愚痴へと変化していく。
 『アインズ・ウール・ゴウン』に参加するには幾つかの決まりごとがある。その一つは社会人であること。もう一つは外装の人種が異形種であることだ。
 しばらく盛り上がってた会話も1段落し、2人の会話が途切れる。
 お互いにこれからがどうなることか知っての沈黙だ。


「いやー、それなのに来てもらって悪かったです」
「何をおっしゃいます。こっちも久しぶりに皆に会えて嬉しかったですよ」
「そう言ってくれると助かります」
「まぁ、本当は最後までお付き合いしたいんですが、ちょっと眠すぎて」
「あー。ですよね。落ちていただいて結構ですよ」
「ギルド長はどうされるんですか?」
「私は一応最後まで残ります。誰かが来るかもしれませんから」
「なるほど。……今までありがとうございました、モモンガさん。このゲームをこれだけ楽しめたのは貴方がギルド長だったからだと思います」
 
 モモンガといわれたオーバーロードは大げさなジャスチャーでそれに答える。

「そんなことはありません。皆さんがいたからこそです。私なんか特に何かしたわけではないです」
「それこそ、そんなことがないとは思いますが……本当にありがとうございました。では私はこれで」
「ええ。お疲れ様でした」
 

 そして来てくれたギルド員6人の最後の1人が消える。
 モモンガはヘロヘロのいた席をほんの少しだけ眺め、何かを振り払うようなしぐさをとりながらゆっくりと立ち上がる。

 向った先には、1本のスタッフが飾られてあった。

 ケーリュケイオンをモチーフにしたそれは、7匹の蛇が絡み合った姿をしており、口にそれぞれ違った色の宝石を加えている。握りの部分は青白い光を放つ水晶のような透き通った材質で出来上がっていた。
 誰が見ても一級品であるそれこそ、各ギルドに一つしか認められないギルド武器であり、『アインズ・ウール・ゴウン』の象徴とも言える物である。
 本来ならギルド長が持つべきそれが何故この部屋に飾られていたのか、それはこれがギルドを象徴するもので他ならないからだ。
 
 このギルド武器を作り上げるために皆で協力して冒険を繰り返した日々。
 チーム分けして競うかのように材料を集め、外見を如何するかで揉め、各員が持ち寄った意見を纏め上げ、すこしづつ作り上げていったあの時間。
 それは『アインズ・ウール・ゴウン』の最盛期の――最も輝いていた頃の話だ。

 彼はそれに手を伸ばし、途中で動きを止める。
 今この瞬間をおいてなお、皆で作り上げた――輝かしい記憶を地に落とす行為に躊躇いを覚えたのだ。
 
 最後までここに置いておくべきでは無いだろうか。
 

 仕事で疲れた体に鞭を打って来てくれた人がいた。家族サービスを切り捨てて、奥さんと大喧嘩した人もいた。有給を取ったぜと笑っていた人がいた。
  1日おしゃべりで時間が潰れたときがあった。馬鹿話で盛り上がった。冒険を計画し、宝を漁りまくったときがあった。敵対ギルドの本拠地である城に奇襲を掛け、攻め落としたときがあった。最強クラスのボスモンスターに壊滅しかかったときがあった。未発見の資源をいくつも発見した。様々なモンスターを本拠地に配属し、突入してきたプレイヤーを掃討した。
 
 今では誰もいない。
 41人中、37人が辞めていった。残りの3人だってここに来たのはどれだけ前だったかは覚えていない。
 そんな残骸のようになったギルドだが、輝いていた時代はあったのだ。


 そんな輝いていた時代の結晶。だからこそ今の残骸の時代に引きずり落としたくない。
 だが、それに反比例した思いもまた彼の内にあった。

 『アインズ・ウール・ゴウン』は基本多数決を重んじてきた。ギルド長という立場にはいたものの、彼が行ってきた行為は基本的には雑務であり、連絡係だ。
 だからだろうか。ギルド長という権力を使ってみたいと、今始めて思ったのは。

 逡巡し――
 彼は手を伸ばし、杖――スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを掴み取る。
 
 手におさめた瞬間、スタッフから揺らめきながら立ち上がるどす黒い赤色のオーラ。時折それは人の苦悶の表情をかたちどり、崩れ消えていく。

「……作りこみ、こだわりすぎ」

 作り上げられてから一度も持たれた事の無かった最高位のスタッフは、ついにこの時を迎えるに当たって本来の持ち手の手の中に納まったのだ。
 彼は自らのステータスが劇的に上昇するのを感じながら、寂しさもまた感じていた。

「行こうか、ギルドの証よ。いや――我がギルドの証よ」






――――――――
※ 名前でモモンガは無いですよね。
  でも、普通にネットゲームをしている社会人の方なら、基本的にちょっとおちゃらけ入った名前の方が多いような気がするんですよね。私だけですかね?
  口調とか、名前とか変更するときがそのうち来る予定です。



[18721] 02_プロローグ2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/09/19 18:24






部屋を出て行く。
 本来であればこのゲームに入ったギルド員はこの円卓の間に最初に出てくるので、誰かが来るならここで待っているのが一番効率が良い。
 しかしこの部屋を出て行く理由は、ヘロヘロにはああ言ったもののもう誰かが来る可能性は非常に低い。それを知っているからだ。
 もうこの部屋に来ることは二度と無い。



 歩き出す。
 足音に続き、スタッフが床を叩く音が追従する。

 幾たびかの角を曲がった辺りで、前方から1人の女性が彼のほうへと歩いてくる。
 豊かな金髪が流れ落ちるように肩から滑り落ちており、顔立ちははっきりとした美女だ。
 170センチほどの肢体はすらりと伸び、黒と白の部分が逆転した純白のメイド服を、豊かな双丘が押しのけんばかり自己出張をしている。
 メイド服はエプロン部分は大きく、スカート部分は長いという落ちついたもので、すべてが相まって全体的におしとやかそうな感じがする。

 やがて2人の距離が近づくと、前方にいた女性は通路の隅によると彼に向け、深いお辞儀をする。
 彼はそれに手を軽く上げることで答えると、その横を通り過ぎようとして足を止める。
 
 女性のメイド服を眺める。
 非常に細かな作りとなっている。エプロン部分に非常に細かな刺繍が施されている。作った人間の性格が分かるようなそんな細かさだ。
 ゆっくりと女性は頭を上げていくところも彼は黙って眺める。

 ぶしつけな視線にさらされても女性の表情に変化は無い。先ほどから変わらず、あるかないかの微笑を浮かべたままだ。
 
 メイドはN P C<Non Player Character>だ。プログラムによって動いてはいるもの。どれだけ精巧にできていたとしても本来であれば、返礼を返すのもある意味馬鹿らしいといえる。
 しかしながら彼にしてみれば無碍にもできない理由がある。
 
 この居城にいる36体のメイドはすべてが違うイラストを元に作り出されている。
 イラストを起こしたのは現在月刊誌で連載中の、当時はイラストで食べていた人物のものだ。行動AIプログラムを組み立てたのは先ほどもいたヘロヘロ。
 イラストを書いた人物はメイド服が俺のジャスティスという人物だけあって、非常に細かい作りであり、外装を作り上げた人間が絶叫を上げたのを思い出す。
 つまりメイドもまたかつていたギルド員達の協力で出来上がった存在、むげにするのも仲間達に悪く感じられるのだ。
 
 そういえば今の連載でもヒロインがメイド服を着ていたな。彼がそんなことを思っていると、メイドはまるで何かありますか、というかのように小首を傾げる。
 ある一定時間以上、近くにいるとこういうポーズを取るんだったか。モモンガは記憶を手繰り、ヘロヘロの細かなプログラムに感心する。
 他にも隠しポーズはいくつもあるはずだ。久しぶりにすべて見たい欲求に駆られるが、残念ながら時間は差し迫っている。

 モモンガは左手に巻かれた金属板の上に浮かぶ半透明の時計盤に視線をやり、現在の時刻を確認する。
 やはりあまりのんびりしている時間は無い。

「付き従え」

 後ろにメイドを連れ、歩き出す。


 後ろに足音を一つ連れ、角を曲がったところに、10人以上が手を広げながら降りることも可能ぐらい巨大な階段があった。赤を基調とした絨毯を踏みしめながらゆっくりと下り、最下層へと到着する。
 9層目が客間、応接室、ギルド員の部屋、客室という部屋という用途で構成されているのに対し、最下層である10階層は心臓部、図書室、宝物殿等ギルドの真髄ともいうべき重要なものが詰まった階層である。

 階段を降りきった周囲は広間になっており、そこには複数の影があった。

 最初に目に入ったのは、オーソドックスな執事服を着た老人の男性のものだ。
 髪は完全に白く、口元にたたえた髭も白一色だ。だが、その姿勢はすらりと伸び、鋼でできた剣を髣髴とさせる。
 白人的な堀の深い顔立ちには皺が目立ち、そのため温厚そうにも見えるが、その鋭い目は獲物を狙う鷹のようにも見えた。


 そしてその執事の後ろに影のようにつき従う6人のメイド。
 
 その異様さは一目瞭然だ。
 銀や金、黒といった色の金属でできた手甲、足甲をはめ、動きやすそうな漫画のような鎧を身に着けている。各員がそれぞれ違った種類の武器を所持している。
 それだけでは戦士や警備兵というイメージだが、メイドと断定したのは理由がある。
 鎧が漠然とだが、メイド服をモチーフにしているんだろうなと気がつける作りになっているのだ。そして頭にはかぶとの代わりにホワイトブリム。
 
 まさに漫画等にありがちなメイド兵とかメイド戦士とかいうべきか。
 
 彼女らも武装が違うように外見はばらばらだ。日本人風、白人風、黒人等々。
 髪型もシニョン、ポニーテール、サイドテール、三つ編み、サイドアップ、夜会巻き?と多彩だ。
 共通していえるのは皆、非常に美人だということか。まぁ、美しさも妖艶、健康美、和風美とバラバラなのだが。

 彼らを一言で説明するなら、レイドボスと取り巻きのPTである。


 『ユグドラシル』というゲームにおいて、城以上の本拠地を所持したギルドは幾つかの特典が与えられる。
 その中に自らの本拠地を守るNPCという存在がある。
 これは例えば城であれば警備兵や騎士という存在である。レベル30までのこれらのNPCはほぼ無限に沸くし、別に倒されてもギルドに出費があるわけではない。だが、このレベルのNPCは他のギルドが攻めてきた場合、紙のようになぎ払われる可能性があるぐらい弱い。
 そして自分達の好きなように外装を変えたり、AIを組み替えたりということができないようになっている。

 それに対し、他の与えられる特典の中に戦闘のできるNPCを作る権利というのがある。これは城を所持する程度のギルドであれば、500レベルを好きなように割り振ってNPCを作っても良いという権利だ。
 MAXレベルは100なので例えば、100レベルを3人と50レベルを4人とか、という具合である。
 そしてこうして作れるNPCの場合、外装、AI、武装できる外装なら武装もいじることができる。

 無論、人間以外で作っても良い。
 ある城を占拠したギルド――ネコさま大王国――ではNPCをすべて猫、または猫科の動物で作ったところがあったぐらいだ。


「ふむ」
 
 モモンガは顎に手を当て、自らの前で頭を下げる執事達をみる。あまりここには来ないこともあって、懐かしさを覚えるほどだ。
 空中に手を伸ばし、そこに浮かぶアイコンをクリック。
 
 執事達の頭上に名前が浮かぶ。

「そんな名前だったか」

 モモンガは軽く笑った。覚えてないことに対する苦笑であり、記憶の片隅からよみがえってきた名前を決めた際の悶着を懐かしんで、だ。
 執事に与えられた設定は、このナザリック大地下墳墓のランド・スチュワードだ。テキストログには細かな設定が書かれているはずだが、そこまで読む気がしない。時間もあまりないのだから。
 
 ちなみにメイドを含むNPC全員に細かな設定があるのは、『アインズ・ウール・ゴウン』に設定を細かく作るのが好きな人間がそろっていたからということに他ならない。
 特に外装を作ったりしたイラストレイターやプログラマー達に多くいたためである。
 
「付き従え」

 執事とメイドたちは一度頭を上げると、再び下げ、命令を受諾したことを示す。

 本来であればこの執事とメイドたちは、侵入者達を迎撃する最後から1つ前の守り手だ。まぁ、ここまで来たプレイヤーを撃退できるとは思ってないので、あくまでも時間稼ぎの意味だが。
 それでもここから動かすことはある意味、ギルドの仲間達皆が想定した目的とは違うといえよう。『アインズ・ウール・ゴウン』は多数決を重んじていたギルド。たった1人の意志で皆が作り上げたものに勝手なことをしていいわけが無い。

 ただ、ここまで攻め込んできたプレイヤーはいまだいないため、彼らはずっとここで出番を待っていたのだ。

 NPCを哀れに思うなんていうのは、愚かな行為だ。モモンガはそう考える。感情の無い、データーでしかない。もし感情があるように思えたなら、それはAIを組んだ人間が優れていたということである。 

 しかしながらギルド長たるもの、しもべを働かせるべきであろう。

 考えてしまったえらそうな思考に自分で突っ込みを入れつつ、歩き出す。

 

 
 複数の足音を引き連れながら、広い通路を歩いていく。
 やがて大広間へと到着した。
 そこは半球状の大きなドーム型の部屋だ。天井には4色のクリスタルが白色光を放っている。壁には穴が掘られ、その中には彫像が置かれていた。
 彫像はすべて悪魔を形どったもの。その数67体。

 この部屋に名づけられているタブ――名前はレメゲトン。
 置かれている彫像こそ、ソロモンの72柱の悪魔をモチーフにした、すべてが超が点くほどの希少魔法金属で作り出されたゴーレム。72体いないのは単純に作っていた人間が途中で飽きたためである。
 天井の4色のクリスタルは敵侵入時には地水火風の上位エレメンタルを召喚し、それと同時に広範囲の魔法攻撃を開始するモンスターだ。
 この部屋こそ最終防衛の間。レベル100のパーティー2つ――12人ほどなら崩壊させられるだけの戦力である。
 そして目的の一つ前の部屋でもある。

 その部屋を横切り、1つの大きな扉の前に立つ。
 3メートル以上はあるだろう巨大な扉の右の側には女神が、左の側には悪魔が異様な細かさで彫刻が施されている。
 流石にこの扉までは動かないのだが、こう見ると今にも襲い掛かってきそうなぐらいの作り込みだ。

「……動かないよな?」

 モモンガは多少の不安を覚えながら、扉に手を触れる。流石の彼もこの迷宮のすべての作りこみを完全に把握しているわけではない。もしかすると引退していった誰かの、変わった土産があっても可笑しくは無い。
 第一、そういうことをやってくる人間も2人ほどいたのだから。
 

 結果襲われることなく、自動ドアであるかのように――だが、重厚な扉に相応しいだけの遅さで、ゆっくりと扉は開いていく。 

 そこは広く、高い部屋だ――。
 数百人が入ってもなお余るような広さ。見上げるような高さにある天井。
 
 玉座の間。
 このナザリック大地下墳墓最奥にして最重要箇所。そして最も手の込んだ部屋だ。
 

 壁の基調は白。そこに金を基本とした細工が施されている。
 天井から吊り下げられた複数の豪華なシャンデリアは7色の宝石で作り出され、幻想的な輝きを放っていた。
 壁にはいくつもの大きな旗が天井から床まで垂れ下がっている。
 金と銀をふんだんに使ったような部屋の最奥――突き当たりには、数十段階段を昇った位置に真紅の布に大きく描かれたアインズ・ウール・ゴウンのギルド印がかけられていた。
 その前に1つの巨大な水晶から切り出された椅子がおかれていた。
 
 それこそ――玉座である。

 モモンガは歩く。広い部屋を。

「そこまでで良い」

 後ろに続く足音はそのまま続いてくる。
 モモンガは苦笑した。今の命令では動かなくなるはずが無い。
 ふたたび命令を出す。今度は間違えたりはしない。NPCは所詮プログラムだ。所定以外の命令では行動をやめさせることはできない。

「――待機」

 足音が止まる。
 奥の階段を上り、玉座の前まで来るとゆっくりと座る。
 眼下で執事とメイドたちが固まって立っている。棒立ちというのもこの部屋ではすこし寂しいものがある。
 確かこんなコマンドがあったような、モモンガは昔見たことがある命令一式を思い出しながら、片手を軽く上から下へと動かす。

「ひれ伏せ」

 一斉に片膝を落とし、臣下の礼を取る。
 これで良い。

 モモンガは左手を持ち上げ、時間を確認する。
 23:55:48
 ぎりぎり間に合ったというところか。


 今日が『ユグドラシル』最後の日――サービス停止の日である。


 恐らく今頃ひっきりなしにゲームマスターの呼びかけがあったり、花火が撃ちあがったりしているのだろうか。
 そういったすべてを遮断しているモモンガには分からない。

 モモンガは背を椅子に任せ、ゆっくりと天井に顔を向ける。
 最高難易度を誇るダンジョンだからこそ、乗り込んでくるパーティーがいるかと思っていた。
 待っていた。ギルド長として挑戦を受け入れるために。

 かつての仲間達全員にメールを送ったが来てくれたのはほんの一握りだ。
 待っていた。ギルド長として仲間を歓迎するために。

「過去の遺物か――」

 モモンガは思う。 
 もう中身がスカスカでも、そこにいたるまでは楽しかった。
 
 目を動かし、天井からたれている大きな旗を数える。合計数41。

「そうだ、楽しかった――」
 
 月額使用料金1500円にもかかわらず、モモンガは月5万円以上は課金していた。ボーナスを狙っての宝くじには10万はぶち込んだものだ。別に金持ちだとか高給取りだとかではない。単純に趣味が無かったため、お金の使い道がユグドラシルぐらいしかなかったというだけだ。
 まぁ、『アインズ・ウール・ゴウン』自体、社会人で構成されていたということもあり、ほぼ皆が課金はしていたのだが、その中でもモモンガはトップクラスだった。
 サーバー全体でもかなり上位に入るだろう。
 それだけはまっていたのだ。冒険も楽しかった。だが、それ以上に友達と遊ぶのが楽しかったのだ。 
 
 両親はすでに無く、友達が殆どいないモモンガにしてみれば、このギルド『アインズ・ウール・ゴウン』こそ自分と友達達の輝かしい時間の結晶なのだ。
 
 杖を握り締める。終わりの時間は迫っている。
 視界の隅に映る時計には23:57。サーバー停止が0:00。
 もう殆ど時間は無い。
 空想の世界は終わり、普段の毎日が来る。

 当たり前だ。人は空想の世界では生きれない。
 モモンガはため息を1つ。
 
 明日は4:00起きだ。このサーバーが落ちたら直ぐに寝なくてはならない。

 23:59:35、36、37……
 
 モモンガもそれにあわせ数えだす。

 23:59:48、49、50……

 モモンガは目を閉じる。
  
 23:59:58、59―― 

 時計と共に流れる時を数える。幻想の終わりを――
 ブラックアウトし――

 0:00:00……1、2、3



「……ん?」

 モモンガは目を開ける。
 見慣れた自分の部屋では無い。ここはユグドラシル内の玉座の間だ。

「……どういうことだ?」

 時間は正確だったはず。今頃サーバーダウンによる強制排出されているはずなのに。
 時計を確認する。

 0:01:18
 
 0時は確実に過ぎている。そして時計のシステム上、表示されている時間が狂っているはずが無い。
モモンガは困惑しながらも、何か情報は無いかと辺りをうかがう。先ほど、自分が目を閉じたときから何も変わっていない。玉座の間だ。

「サーバーダウンが延期した?」
 
 考えられる。
 何らかの要因によってサーバーのダウンが延期しているのだ。もしそうならGMが何かを言っている可能性がある。モモンガは慌てて今まで切っていた通話回線をオンにしようとして手が止まる。
 システムコマンドが一切出ない。

「何が……?」
 
 システムコマンドだけではない。本来なら浮かんでいるはずのシステム一覧も出ていない。モモンガは慌てて他の機能を呼び出そうとする。シャウト、GMコール、システム強制終了入力。どれも感触が無い。
 まるで完全にシステムから除外されたようだ。
  
「どういうことだ!」

 モモンガの怒号が広い玉座の間に響き、そして消えていく。本来なら反応するはずの無い八つ当たり気味のものだったはずだ。そう、先ほどまでならば――。

「――何かございましたか、モモンガ様?」

 初めて聞く老人の声。モモンガは呆気に取られながら声を発した人物を見る。
 それは頭を上げた執事のものだった。






――――――――
※ やっと転移しました。でも主人公無双はまだまだ先です。当分は説明が続くような予感。



[18721] 03_思案
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/10/02 06:54




「何かございましたか、モモンガ様?」
 
 再び同じ台詞を繰り返す老人。
 モモンガは呆気に取られてどこかに飛んでいた思考がゆっくりと戻ってくるのを感じられた。
 まぁ、戻ってきたのは良いが完全に錯乱状態だが。

「……い、いやなんでもないで……なんでもない」

 なんでもないですと言おうとして言葉を言い換える。相手はNPCだ、礼儀を尽くす必要は無い。
 必死にそう思い込みながら、混乱や驚愕といった余分なものを押し殺す。とりあえずは今は少しでも情報を得るべきであり、思考を回転させるべきだ。何かの考えに捕らわれていては良いアイデアはでない。

 モモンガの脳裏に一瞬、ハムスターがくるくる回すイメージが浮かぶが、慌ててかき消す。

「それより如何すべきだと思う?」
「如何すべきとは?」
「……GMコールが効かないようだからな」
「GMコールというものは私は存じておりませんが、私は何をすべきでしょうか。ご命令をおっしゃってくれれば直ぐに行動に移しますが」

 会話をしている。その事実に気がついた瞬間、モモンガは体が硬直した。
  
 ありえない。
 いや、そんな生易しいものではない。これは決して起こりえないことだ。
 NPCが言葉を発する。いや、言葉を発するようにAIを組むことはできる。だが、会話ができるように組むことなんて不可能だ。それは相手がどのように話してくるかを予測して組み込むことなんてできるわけが無いからだ。
 最初は何らかの仕組まれていたAIプログラムが動き出したのかと思ったのだ。だから確かめるという意味合いで、会話を始めたのだが――。
 こんな結果になるならしない方がよかった。そんな何も解決しない後ろ向きな思いが浮かんでしまう。

 モモンガはそこで違和感を覚えた。それは自分に対してであり、執事に対してだ。
 モモンガはその違和感の発生源を確かめようと、執事を鋭く見つめる。

「――いかがされましたか? 何か失態でも」
「……ぁ!」
 
 違和感の発生源を認識したモモンガの口から喘ぎとも絶句ともしれない言葉にならない言葉が漏れる。
 その正体は表情の変化。
 口元が動いて、そして言葉が聞こえる――。

「……あり……な!」

 モモンガは慌てて、自らの口元に手を当てる。そして声を発する。
 
 ――口が動いている。
 
 それはDMMORPG上の常識から考えればありえないことだ。口が動いて言葉を発するなんて。

 外装の表情は固定され動かないのが基本。例外的にはマクロなり特定感情タブを作って、それごとに登録すれば表情を動かすことはできる。
 そうやって5パターン作って発声と同時に動かしていくという方法もあるにはあるが、それでも口元を言葉を発するのにあわせ動かすというのは困難に近い。それに口だけが動いて、顔の表情は変わらないというのもはたから見ると異様なものだ。

 仮に執事がそうやってマクロを組まれていると仮定しよう。ではモモンガ自体は如何なのか。そんなマクロを組んでもいない。それなのに、まるで――生きてるかのように動いている。

「ありえない……」

 今まで長い時間を掛けて構築されてきていた、自らの常識が壊れていくのをモモンガは感じていた。それと同じぐらいの焦り。喚きたくなるのをぐっと堪える。

「どうすれば良い……。何が最善だ……?」

 理解できない状況だが、八つ当たりをしても誰も助けてはくれない。
 まず最初のすべきは――。

「……情報だ。――セバス」
「はっ」

 執事――セバスが頭をたれる。
 命令しても問題は無いだろうか? 何が起こっているかは不明だが、この墳墓のすべてのNPCに忠誠心はあると思ってよいのだろうか。それともこのセバスだけなのだろうか?
 どうにせよ、このセバス以上に色々な面を考慮して、送り出せる者はいない。

「大墳墓を出、周辺地理を確かめ、もし仮に知的生物がいた場合は交渉して友好的にここまで連れてこい。交渉の際は相手の言い分を殆ど聞いても構わない。行動範囲は周辺1キロだ。戦闘行為は極力避けろ」
「了解いたしました、モモンガ様」

 大墳墓を出るということが可能なのか。モモンガは心中で呟く。より今が非常事態だという認識が強くなる。

「メイドの1人も連れて行け。もしお前が戦闘になった際は即座に撤退させ、情報を持って帰らせろ」
「――直ちに」

 まずは1つ、手を打った。さて、次に何をすべきか。
 情報の収集は必要不可欠だが、それ以外にもやらなくてはならないことがあるはずだ。

 モモンガはスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンから手を離す。
 スタッフは地面に転がらず、まるで誰かが持っているかのように空中に浮く。物理法則を完全に無視したような光景だが、モモンガにしてみれば特別なものではない。ユグドラシルであれば、低位のアイテムですらよくあった光景なのだから。
 時折人の苦悶の表情へと変わるオーラが、名残惜しそうにモモンガの手に絡みつくがそれを平然と無視する。
 見慣れた……わけではないが、そんなマクロを組んでいても可笑しくなさそうだから、モモンガはスナップを効かせて追い払う。
 
 モモンガは腕を組み、思案する。
 次の1手。それは――
 
「……連絡だな」
 
 どうにかしてGMと連絡を取る必要がある。何が起こっているのか、最も知っているのは恐らくGMだ。
 ではどうやって連絡を取るか。
 本来であればシャウトなりGMコールなりをすれば直ぐに連絡は取れたはずだ。しかしながらその手段が効かないとすると――。
 他の手段。それについて考えていたモモンガの脳裏にひらめきが走る。

「《メッセージ/伝言》?」

 魔法の1つに連絡を取り合うためのものがある。
 本来であれば特殊な状況や場所でしか使われないそれだが、今なら効果的に働くのではないだろうか。ただ、問題は基本的には他のプレイヤーとの連絡を取り合うのに使われる魔法であり、GMに届くかどうかは分からないということだ。 

「……しかし……」

 さらにこの非常事態時に魔法は普通に働くのかどうか。とはいえ、どちらにせよ確認をする必要がある。モモンガは基本的には魔法職。魔法が使えなければ戦闘能力は1/3ぐらいに落ち込んでしまうこととなる。
 今がどのような状況なのかは不明だが、魔法がつかえるのかどうか調べる必要がある。
 そうなると広い場所が必要になるが、お誂え向きの場所が1つある。そこで色々と調べればよいだろう。

 そしてもう1手。自らの力の確認とあわせてやらなければならないことがある。
 
 それは自らの権力の確認だ。
 アインズ・ウール・ゴウンのギルド長という権力はいまだ維持されているのかということだ。
 現在までに会っているNPCは皆、忠誠を持っているようだった。だが、ナザリック大地下墳墓内にはモモンガに匹敵するだけのNPCはあと5体いる。その忠誠心を確認する必要がある。

 まずはレメゲトンのゴーレムがちゃんと自分1人だけの命令を聞くかどうかを確認し、安全な場所の確保。
 そして他の強力なNPCの忠誠心を確かめるといったところか。

 しかしながら――。
 モモンガはひざまずいているセバスとメイドたちを見下ろす。

 今現在ある忠誠は不可侵にして不変のものなんだろうか。人であれば馬鹿な行動ばかりを取る上司への忠誠心なんか直ぐに消えてしまうだろう。彼らもそれと同じなんだろうか。それとも1度忠誠心を入力されたなら、裏切らなくなるのだろうか。
 
 もし仮に忠誠が変動するなら、どうすれば彼らの忠誠心を維持できるのだろうか。
 褒美だろうか? 莫大な財宝が宝物殿にはある。ユグドラシルの金がまだ価値を持つなら充分だろう。無論、彼らの月給までは分からないが。
 それとも上に立つものとしての優秀さだろうか。しかし何を持って優秀というかは不明だ。このダンジョンを維持する事だというならなんとかなりそうな気がするが。
 それとも――。

「――力か?」
 
 広げた左手にスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンが自動的に飛んで納まる。

「圧倒的な力か?」

 スタッフに組み込まれた7つの宝石が輝きだす。まるで込められた莫大な魔力を行使せよと訴えるかのように。

「……まぁ、その辺は後で考えるか」

 スタッフを手放す。スタッフはふらりと揺らぎ、不貞寝をするようにごろんと床に転がった。
 とりあえずは上位者として行動しておけば、即座に敵意を見せることは無いだろう。弱いところを見せないのは動物のみならず人間でも通用する当たり前のことだ。
 モモンガは玉座から立ち上がる。そして声を張り上げた。

「セバスについていく1人を除き、他のメイドたちは各階層の守護者に連絡を取れ。そしてここまで――いや第6階層、アンフィテアトルムまで来るように伝言を伝えよ。時間は今から1時間後。それが終わり次第、お前達は9階層の警戒に入れ。それとアウラに関しては私から伝えるので必要は無い」
「「「「「「はっ」」」」」」
 
 メイドたちが頭を下げる中、1人だけ頭を下げないでおどおどとこちらを伺っているメイドがいた。玉座の間に来る前、最初に会ったメイドだ。記憶ではハウスメイドとして設定されているこのメイドのレベルは1。戦闘能力は無い。

「ああ、お前か」
「あ、あのご主人様、わ、私はどうすればいいのでしょう」
「お前は……ここに残ってろ、あとで別の指示を出す。――行け!」

 セバスと戦闘メイドたちが一斉に立ち上がり、歩き出す。
 後姿を見送りながらモモンガは倒れていたスタッフを拾い上げ、階段を下る。
 
 そしてひざまづいているメイドの前に立つ。
 メイドが視線のみでこちらを伺っているのが感じられた。
 
「立て」
「はい」

 恐る恐るという感じで立ち上がったメイドの腕に手を伸ばす。 
 細い手だ。その手を取ろうとして――。

「……っ」
「ん?」
 
 痛みをこらえるような顔をするメイド。モモンガは慌てて一歩離れた。
 一体何があったというのか。それとも気持ち悪いとかそういう感情によるものか。
 色々と考え、そして思い至った。
 
 オーバーロードの前前職、リッチはレベルアップで得られる特殊能力の中に、接触した相手――通常、攻撃した相手に負のエネルギーダメージを与えるというものがある。
 それではないかということだ。
 ただ、その場合はやはり疑問が残る。
 
 ユグドラシルというゲームでは、ナザリック大地下墳墓に出現するモンスターとNPCは、アインズ・ウール・ゴウン所属という判定がシステム上、行われている。そして同じギルドの所属していれば味方からのダメージ――フレンドリィ・ファイアは受けないと設定されているはずだ。
 ではギルドに所属して無いということか?

 それとも、フレンドリィ・ファイアの禁止が解除されている?
 
 ――その可能性が高い。
 モモンガはそう判断する。
  
 では、どうやって常時発動の能力を一時的にでも切ればいいのか。
 
 思案し――
 ――唐突にモモンガはその切り方に気づく。
 やり方の説明なんて不可能に近い。これは当たり前の行為の一環だ。
 目の前にあるコップを取るのに手を伸ばしたとしよう。その行為をどうやって説明しろというのか。脳から命令が神経系を通って、としか説明できない。そういうことなら負のエネルギーダメージの切り方も同じだ。脳から命令が神経系を通ってだ、恐らく。
 オーバーロードとして保有していた様々な能力の行使。これは今のモモンガからすれば、人が呼吸するのと同じように自然に使える能力なのだ。

「ふっ」

 思わず今の自分が置かれている異常な状況に、もはやモモンガは笑うことしかできない。これだけ異常事態が続けばこの程度は驚くには値しない。慣れというものは本当に恐ろしい。

「触るぞ」
「あっ」
 
 手を伸ばし、メイドの細い手を触る。知りたかったのは手首の脈だ。

 ――ある。トクントクンと繰り返される鼓動。それは生物なら当たり前のものである。
 そう、生物なら。
 手を離し、自らの手首を見る。
 それは骨だ。かすかに皮が張り付いた。鼓動なんて感じない。そう、オーバーロードはアンデッド。死を超越した存在。あるわけが無い。
 視線を逸らし、目の前のメイドを見つめる。視線に反応し、メイドは照れたようにおどおどと目を伏せた。

「……なんだこれは」

 これはNPC、単なるデーターではないのか? 本当に生きてるかのようだ。どんなAIがこんなことを可能にするというのだ。それよりはまるでこの世界が現実になったような……。
 そこまで考え、モモンガはありえないと頭を振る。そんなファンタジーがあるわけが無い。しかしどれだけ払ってもこびり付いたものは簡単には落ちない。

「……スカートをめくれ」
「……ぇ?」

 場が凍りついた。
 彼女はモモンガが何を言ったのか理解できてないようだった。当たり前だ。そんな命令誰がすると思うのか。

 羞恥心に苛まれるが、もう一度言わなくてはならないようだ。モモンガは決心し、再び口を開く。

「スカートをめくれ」
「……ぇ~!」
「どうした」
「そ、そんな」

 なきそうな顔をするメイド。その反応はデーターではなく、情緒を持った――まるで人間だ。
 外道なことをしている、モモンガは自己嫌悪で潰れそうになる。だが、必要な行為だ。その言葉で必死に自分を誤魔化す。

「……命令だ」
「……わ、わかりました」

 がたがたと震えながらスカートを捲し上げるメイド。その小動物が怯えたような姿に反応し、嗜虐心ともいえる異様な興奮がモモンガを襲うが苦心して押さえ込む。そういう意図で行っているのではないから。

 純白。

 そんな言葉が脳裏から離れない。モモンガはそこから目を逸らし、周囲の状況を伺う。
 何も変化は無い。この程度では効果が無いということなのだろうか? この先まで進むべきだろうか?

 モモンガ逡巡し、止めることを決定する。 
 メイドの目が涙で滲んでいたのだ。

「もう下ろしていい」
「――!」

 勢い良くスカートが降りた。



 今現在の状況をモモンガなりに考えて出た答えは2つ。
 1つは新しいDMMORPGの可能性。つまりユグドラシルが終了すると同時に、ユグドラシル2ともいうべき新しいゲームが始まった可能性だ。

 しかしながら可能性は今回の一件で非常に薄くなったといえよう。

 ユグドラシルでは18禁に触れるような行為は厳禁とされている。下手したら15禁もだ。違反すれば公式ホームページ上に違反者の名前を公開した上で、アカウントの停止という非常に厳しい裁定を下す。 
 なぜなら18禁行為をとったというログを公表すれば風営法に引っかかる可能性があるからだ。
 もし、今でもゲームの――ユグドラシルの世界ならこのような行為はできないよう、何らかの手段がとられているはずだ。第一、製作会社が監視しているなら、モモンガの行為を止めるだろう。だがその気配は無かった。

 さらにはDMMORPGの基本法律、電脳法において相手の同意無く、強制的にゲームに参加させることは営利誘拐と認定されている。無理にテストプレイヤーとして参加させることは直ぐに摘発される行為だ。特に強制終了ができないなんて監禁と取られてもおかしくないだろう。
 その場合、専用コンソールで1週間分のログは取るよう法律により義務付けられているため、摘発自体は簡単に進むだろう。モモンガが会社に来なければ誰かが様子を見に来るだろうし、警察が専用コンソールを調べれば問題は解決だ。
 犯罪行為を、それも完全に記録を取られている状態で行うだろうか?
 確かにユグドラシル2や、パッチを当てただけですといえばグレーかもしれないが、そんな危険なことをするメリットが製作会社にあるとは思えない。


 ならばこのような事態が起こっているということは――
 
 ――製作会社側の意図は無く、別の何らかの事態が進行していると考える他ならない。とすると考え方の根本を切り替えないと足を掬われる結果になりかねない。
 問題は何に切り替えれば良いのかが不明だということだ。あるとしたらもう1つの可能性の方なのだが……。

 ……仮想現実が現実になったという可能性。
 
 ありえない。
 モモンガはそう思う。そんな無茶苦茶な、そして理不尽なことがあるわけが無いと。
 だが、その反面それこそが正しいのではという考えは時間が経過するごとに強くなっていく。



 そして――

「すまなかった」
「……」

 モモンガは頭を下げる。
 これは人間だ。何が起こったかはわからないが、1つだけ理解できたことがある。NPCが情緒を持ったということだ。
 限りなく人間の近いといえばいいのか。それともこれは――人間なのか。

「……い、いえ。なにかモモンガ様にも理由が……ひく」

 涙がこぼれ出す。当たり前だ。
 もし自身が圧倒的上位者にこんな命令されたらどうなるのだろうか。自己嫌悪で潰れそうだ。
 しかし、どうやって泣き止ませればいいのか。自らの上位者としての演技を解いて、より必死に謝ることは簡単だ。個人的にも土下座をしても良いと思っている。
 だが、それはできない。自らの立ち位置を理解できるまでは弱みを見せるわけには行かない。先ほど頭を下げたとき、メイドがすこし驚いているのが理解できた。これ以上は不味いだろう。

「泣くな、下がれ」
「――はい」

 メイドは頭を下げると、すこし早足で玉座の間を後とする。
 その後姿を見ながらモモンガは疲れたようなため息を1つ漏らした。






――――――――
※ 面倒です。
  異世界に飛びました、NPCが人間になっちゃた、やっほー。で、済ませればこの半分ぐらいになるのに。
  しかも何を信じていいのか、疑り深いせいで立ち位置がしっかり決まらないんですよね。もうしばらくなんかグニャグニャします。

  でも真面目な理由でメイドにスカートをめくれと命令した主人公はモモンガ君ぐらいだと思います。本当は 純白 を脱がすところまでは書いたんですが、×××板行きになるので削除しました。
  毛ぐらいなら大丈夫?

  次回、04_闘技場でお会いしましょう。



[18721] 04_闘技場
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/10/02 06:55
 リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン。
 モモンガの右手薬指にはめられた指輪であり、アインズ・ウール・ゴウンのメンバーすべてが保有していたマジック・アイテム。
 その指輪が保有する能力は強大なものではない。モモンガの装備している他の7つの指輪の力を考えれば、非常に見劣りする。即死した瞬間、ペナルティ無しかつ体力完全回復した状態で本拠地に復活できる指輪とかと比べる方が悪いかもしれない。
 しかしながらそんな指輪を何故しているかというと、特定状況下での使用頻度が群を抜いているからだ。

 込められた力はナザリック大地下墳墓内の名前のついている部屋であれば、回数無制限に自在に転移することを可能とするというもの。特定箇所間どうし以外の転移魔法を阻害しているこの大墳墓内においてはこれほど便利なものは無いだろう。
 名前がついているにもかかわらず転移できないのは玉座の間のみ。
 そしてこの指輪無しで宝物殿に入ることは不可能となっている。


 レメゲトンのゴーレムへの命令権の確認が終わったあと、危険を覚悟でアイテム起動の確認に踏み込む。
 
 一瞬視界がブラックアウトし、画面が切り替わるように光景が変化する。結果、その力を利用しての転移は成功したようだ。
 それはユグドラシルでよく見慣れた転移の効果なのだから。


 モモンガが転移した場所は薄暗い通路であり、その伸びた先には落ちた格子戸がある。そこから白色光にも似た明かりが入り込んでいた。
 モモンガは広く高い通路を歩く。通路に掲げられた松明の炎の揺らめきが陰影を作り、影が踊るように揺らめく。
 格子戸に近づくと勢い良く上に持ち上がった。それを潜り抜けたモモンガの視界に映るものは、何層にもなっている客席が中央の空間を取り囲む場所。

 それは円形闘技場〈コロッセウム〉。
 長径188メートル、短径156メートルの楕円形で、高さは48メートル。ローマ帝政期に造られたそのものである。
 無数の客席に座った、無数の土くれに動く気配は無い。
 様々な箇所に《コンティニュアル・ライト/永続光》の魔法が掛かり、その白い光を周囲に放っていた。そのため真昼のごとく周囲が見渡せる。
 
 この場所につけられた名前は円形劇場〈アンフィテアトルム〉。俳優は侵入者であり、観客はゴーレムであり、貴賓席に座るのはアインズ・ウール・ゴウンのメンバーである。無論、演劇内容は殺戮。事実、1500人という大軍での攻略以外のすべての侵入者の最後はこの場所である。
 
 中央に進みながら、モモンガは空を眺める。そこには夜のために真っ黒な空が映っていた。もちろん、時間の経過とともに変化するようには作られているが、偽りの空だ。それでもなんとなくほっとするのはモモンガが外装とは違い、中身は人間だからか。
 とはいえ、このまま時間が流れていくのを黙認するわけにはいかない。
 
 さて、どうするかとモモンガは周囲を見渡し、視線を貴賓席に向ける。

「とあ!」
 
 その視線に反応したように、掛け声と共に貴賓席から跳躍する影。
 6階だての建物に匹敵する高さから飛び降りた影は、中空で一回転をすると羽根でもはえているように軽やかに大地に舞い降りる。そこに魔法の働きは無い。単純な肉体能力での技巧だ。
 足を軽く曲げるだけで衝撃を完全に受け殺したその影は、自慢げな表情を見せた。

「ぶぃ!」
 
 両手にピースを作る。

 飛び降りてきたのは少女だ。10歳ぐらいだろうか。
 太陽のような、という形容詞が相応しい笑顔をその可愛らしい顔に浮かべている。
 金の絹のような髪は肩口で切りそろえられており、光を浴び、煌かんばかりだ。金と紫という左右違う瞳が子犬のように煌いている。
 耳は長く尖っており、薄黒い肌。エルフの近親種、ダークエルフと言われる人種だ。
 上下共に皮鎧の上から漆黒と真紅の竜鱗を貼り付けたぴっちりとした軽装鎧を纏い、そらにその上に白地に金糸の入ったベスト。胸地にはアインズ・ウール・ゴウンのギルドサイン。
 腰、右肩にそれぞれ鞭を束ね、背中には巨大な弓――ハンドル、リム、グリップ部に異様な装飾がつけられたものだ――を背負っている。


 少女こそ、ナザリック大地下墳墓第6階層の守護者であり、幻獣、魔獣等を使役するビーストテイマー――アウラ・ディベイ・フィオーラ。
 
 少女は小走りにモモンガに近づいてくる。小走りとはいえ、獣の全速力に近い、とてつもないスピードだ。
 瞬時に二者の距離は近づく。
 
 足で急ブレーキ。
 運動靴にミスリル合金板を上面にはめ込んだ靴が、ザザザと大地を削り土煙を起こす。モモンガまでその土煙が届かないように計算しておこなっているなら見事なものだ。

「ふぅ」

 汗もかいていないのに、額を拭う振りをする。そして子犬がじゃれついてくるような笑顔を浮かべた。

「いらっしゃい、モモンガ様。あたしの守護階層までようこそ」

 ニコニコと満面に浮かべる笑顔に敵意は感じられない。《センス・エネミー/敵感知》にも反応は無し。
 モモンガは右手首に巻いたバンドから目を離し、スタッフを握る手に込めていた力を抜く。
 場合によって全力での攻撃を仕掛け、即座に撤退しようかと思っていたのだがその必要は無いようだ。
 
「元気そうだな」
「元気ですよ~。ただ、このごろ暇でしょうがないですけどね。侵入者も久々に来てくれても良いのに」

 えへへ、と笑う彼女を前にモモンガは僅かに目を細める。
 かつて1500人もの大軍が攻めてきたとき、8階層まで侵入された。つまりすべての守護者が全滅したのだが、そのときの記憶はどうなっているのか。
 死が怖く無いという考え方もできるが、それより死という概念が彼女にとってどのような意味合いを持つのか。

  ユグドラシルでの死は基本的にはレベルダウンでしか過ぎない。確かにゲーム設定では喪失したレベルが、現在の自分のレベルを下回った場合キャラクター喪失と決まってはいる。ただ、プレイヤーキャラクターは10レベルまでは死んでもレベルダウンが起こらない所為で、ベータテストの頃とは違い、もはや死に設定である。
 それに《リザレクション/蘇生》や《レイズ・デット/死者復活》に代表される復活魔法であればそれのレベルダウンも緩和される。さらに高額の課金アイテムを使えば経験値が多少ダウンする程度で復活できるのだ。
 そしてNPCの場合はもっと手軽だ。ギルドが復活の資金、それもレベルに応じたものを支払えばペナルティ無く復活する。
 こうして死というレベルダウンは、キャラクターを作り直したい人間が愛用する手段の1つに成り下がっているのである。

 確かに膨大な経験値を必要とするゲームであれば、1レベルでもダウンすることは桁外れなペナルティだろう。しかしユグドラシルはレベルはある程度――90レベル後半まではかなりの速度で上がっていく。そのためにレベルダウンがさほど恐ろしくない使用となっているのだ。
 これはレベルダウンを怯えて未開地を開拓しないのではなく、勇気を持って飛び込んで新たな発見をすべしという製作サイドの願いがあったためだ。
 
 だが、現実の世界なら死んでしまえば終わりだ。
 
 今ここにいるアウラは大戦で死亡したアウラとは別人なのか、それとも死んで蘇ったアウラなのか。

 確かめたい気持ちがあるが、無理に藪をつつく必要も無い。敵意が無いだろうアウラを、己の実験のためにどうこうするのもどうかと思われる。そして何よりアインズ・ウール・ゴウンのメンバーが作った元NPCだ。
 彼女自体の考え方等は懸案事項が全て終わってから聞いても良いだろう。

 それに現状と過去では死という概念が大きく違っている可能性がある。
 その内実験した方が良いとは思うが、他の様々な情報を得ないことには優先順位を決めることはできない。ひとまずは凍結事案の1つという程度に留めておくのが一番正解だろう。

 結局のところ、モモンガが知っているユグドラシルと、今現在がどれだけの変貌を遂げているのか。それが分からないが故の疑問が大量にあるということだ。
 
「侵入者が来ないと暇か?」
「――あ、いえ。あの、その」
「いや、叱らんよ。正直なところを教えてくれ」
「……はい、ちょっと暇です。この辺りで五分に戦える相手なんていませんし」
 
 ちょんちょんと指を突っつきながら、上目がちに答えるアウラ。守護者であるアウラのレベルは当然100。それに匹敵する者なんてこのダンジョン内には殆どいない。

「なら遊んでいても構わんが?」
「うわー。モモンガ様、あたしはこれでも守護者なんですからね。ちゃんとこの層を守ってるんですから、遊んでなんかいられませんよ」

 頬を膨らませながら、怒ってるんですというポーズを取る。
 本当にころころ表情が変わる。

「そうか……。大森林の中に畑でも作ったらどうだ? 食人植物系のモンスターの畑とかな」
「うーん、あたしのペットにそういうことできるのいないんですよね」
 
 ナザリック大地下墳墓は各層にそれぞれの特色がある。
 その中で第5層は大森林。敷地面積はおおよそ羽田空港の全面積に匹敵するほど広い。このダンジョン内最大の大きさだ。

「それに私はここでがっしりガードしたいんですよね」
「役目をしっかりと果たしてくれて嬉しいのだが、多少はここから下にも行かせてやらねばな。下の奴らはもっと暇でしょうがないだろ?」
「まぁ、そういうものですかー」

 はぁーとため息をつくアウラ。
 それにあわせ、やけに甘い香りが周囲立ち込めた。そこで彼女の能力を思い出したモモンガは、その空気から下がるよう一歩、後退した。

「あ、すみません、モモンガ様!」

 それに気がついたアウラはパタパタと空気を拡散しようと手を振る。

 アウラの吐息には感情と思考を操作する精神作用効果を持つ。吐かれた息は空気中に拡散し、半径数メートル、場合によっては数十メートルまでもその効果範囲にする。これで自らの連れた魔獣達に支援効果や、敵に不利益な効果を与えたりするのだ。
 
「えっと、もう大丈夫ですよ、切っておきましたから」
「そうか」
「……でもモモンガ様はアンデッドですから、精神作用の効果は意味が無いんじゃないですか?」

 確かにユグドラシルではそうだ。
 アンデッドは精神作用効果は良い効果も悪い効果も受けない。

「……今の私はその効果範囲に入っていたか?」
「え」

 叱られるのかと思ったのか、アウラが首を縮める。

「怒りはしない、範囲内だったか?」
「……はい」
「どのような効果を与えるものだ?」
「……恐怖です」
「ふむ」

 恐怖というものは感じなかった。
 モモンガの装備するマジックアイテムも、ユグドラシルでは精神作用効果をうけないため、その手の耐性を持つ装備は除外している。つまり素で抵抗したのか、ユグドラシルのシステム――精神作用効果無効が発揮しているのか。

「他の効果を試してくれないか?」
「え?」

 おどおどと叱られた子犬のような声。思わずモモンガは頭を撫でる。
 絹糸のようなさらさらとした感触が心地よい。撫でられるたびにアウラの表情に輝きが戻ってくる。

「頼む。幾つかいま実験中でな、お前の協力を仰ぎたいのだ」
「はい、分かりました! モモンガ様、お任せください」

 では、と腕まくりしそうなアウラを止める。

「その前に――」

 スタッフを握り締める。先ほどと同じだ。指輪の力を使用したときと同じように、スタッフに意識を集中。無数の力が使えとモモンガに語りかけてくるが、今回使用するのはスタッフにはめ込まれた宝石の1つ。その中に封じられている力の弱き1つ。

 ――サモン・ムーンウルフ

 召喚系魔法の発動にあわせ、空中からにじみ出るように3匹の獣が姿を見せた。それはほのかな銀光を放っているシベリアオオカミだ。
 召還魔法の発動によるモンスターの登場はユグドラシルとまるっきり同じエフェクトだ。そのためモモンガに驚きは無い。
 このウルフは移動速度が半端じゃなく速いために、奇襲要員として使われるレベル20クラスのモンスター。特別強い能力を保有しているわけではないが、今回の目的に対してはこの程度で充分。逆に弱いということが必要なのだ。

「ムーンウルフですか?」
「そうだ。私ごと吐息の効果に入れてくれ」 
「え? いいんですか?」
「構わない」

 今だ納得のしていないアウラに強引に推し進める。
 範囲に入れてくれなければ、実験が正確なものかどうかの保障にならないからだ。
 今回の実験の問題点はアウラの能力が起動していない場合だ。それを避けるためには第三者と同時に影響を受ける必要がある。そのためのムーンウルフである。

 それからしばらくアウラが息を何度も吐き出すが、モモンガは何か影響を受けた気がしなかった。途中、後ろを向いたり、精神を弛緩させたりしたがやはり効果は無し。同じように範囲に入ったムーンウルフには影響があったようなので、アウラの力が発動して無いわけではない。
 したがっておそらくモモンガには精神作用効果は無効だろう。それはつまり――


 ユグドラシルでは異形種が規定のモンスターレベルに到達した際、モンスター的な特殊能力を得られる。オーバーロードまで極めたモモンガがモンスター的に保有しているのは――
 上位アンデッド作成/1日8体、下位アンデッド作成/1日12体、ネガティブエナジー・タッチ、絶望のオーラ、冷気・酸・電気攻撃無効、上位・ダメージ無効、上位・魔法ダメージ軽減、即死の波動、不浄なる加護、黒の叡智、上位・退散耐性、能力値ダメージ、魔法強化軽減。
 これに他のクラスレベルから来るもの――モモンガであれば例えばマスター・オブ・デスの即死魔法強化や、トゥルーネクロマンサーのアンデッド支配やアンデッド強化等が加わる。
 
 そしてアンデッドの基本的な特殊能力。クリティカルヒット無効、精神作用無効、飲食不要、毒・病気・睡眠・麻痺・即死無効、死霊魔法に耐性、酸素不要、能力値ダメージ無効、エナジードレイン無効、ネガティブエナジーでの回復、暗視。これらもだ。
 無論、弱点もある。光・神聖ダメージ脆弱、炎ダメージ倍加等だ。当然、装備品で消してはいるが。


 ――これらアンデッドが基本的に持っている能力や、レベルアップの途中で得た特殊能力等も保持している可能性が非常に高いことの確認が取れたのだ。
 これは現状ではかなりの情報だ。


「……礼をいう」
「はい、全然大ジョブです」
「――帰還」
 
 3匹のムーンウルフの姿が現れた時を巻き戻すように消えていく。

「昔はアウラの力は同じギルドに所属するものにはネガティブな効果は無かったと思ったがな」
「え?」

 きょとんとするアウラの顔を見て、モモンガはそうではなかったという事を理解した。

「気のせいだったか?」
「はい。ただ、効果範囲は自分で自在に変化させられますから、それと勘違いされたんじゃないでしょうか?」

 なるほど、フレンドリィ・ファイアは解禁か。範囲魔法の使用方法を間違えると痛い目を見ることになるな。
 ぶつぶつと呟きながら考えているモモンガを黙って眺めていたアウラが、じれたのか口を開く。

「えっと今日、私の守護階層に来られたのは、今の目的ですか?」
「ん? ああ、そうか、いや違う。今日来たのは訓練をしようとおもってな」
「訓練ですか?」

 アウラは目が転がり落ちんばかりに開く。
 最高位の魔法使いであり、このナザリック大地下墳墓を支配する、そしてアウラの上位者である存在が何を言っているんだ。そういう感情を込めてだ。

「そうだ」

 モモンガが返事と共にスタッフを地面に軽く叩きつけるのを見て、アウラの表情に理解の色が浮かぶ。それを観察していたモモンガは自分の予想通りに思考を誘導できたことに喜びを覚えていた。

「了解しました。そのスタッフって伝説のアレですよね? 本当にあたしも見て良いんですか?」
「ああ、構わない。私しか持つことを許されない、最高の魔法の武器の力を見るが良い」

 やったーと喜んでいるアウラ。
 伝説のアレというのはどんな風な意味なんだろう、とモモンガは疑問に思うが良い意味だろうと自分をごまかす。
 あまり互いの認識に誤差があると厄介ごとになるのでは、と警戒をしてしまい色々な質問ができないのが残念でたまらない。

「……それとアウラ。全守護者をここに呼んでるのであと1時間もしないうちに集まるぞ」
「え? な、なら歓迎の準備を――」
「いや、その必要は無い。時間が来るまでここで待っていれば良い」
「そうですか? ん? 全守護者? ――あの女も来るんですか!?」
「全守護者だ」
「……はぁ」

 一気にしょんぼりとするアウラ。確か設定ではあんまり仲がよろしくないということになっていたが。一体どんなことになるやら。
 前途多難だ。モモンガは小さく呟いた。





――――――――
※ アウラは子供兼子犬です。雰囲気出てますか?
  守護者は皆、べたべたな設定キャラです。これは作ったアインズ・ウール・ゴウンのメンバーの趣味となっております。

  では05_魔法でお会いしましょう。非常に長い説明になりますのでご注意ください。


  アウラルート? そんなもんないですよ? あと、アウラの言う「あの女」にも無いよ?



[18721] 05_魔法
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/06/09 21:16
 





 魔法職というのは人気がある分、非常にめんどくさい。そして将来設計をしっかり立てておかないと役立たずになる職業、とユグドラシルに詳しいプレイヤーは口にする。

 まず、ユグドラシルの魔法はクリエイトツールで作れない代わりに膨大な数量がある。
 数にして3000強。
 もちろんそのすべてが使えるわけではない。魔法職は大きく分けて4系統存在する。
 神の奇跡を行う聖職者<クレリック>や神官<プリースト>に代表される――発動能力値に信仰心が重要な系列、魔術師<ウィザード>や秘術使い<アーケイナー>に代表される――発動能力値に魔力が重要な系列、符撃や巫女に代表される――発動能力値に精神力が重要な系列、最後に発動能力値にその他の能力値が重要な系列に分かれている。
 
 そして各クラスごとに、習得可能なスペルリストが存在する。
 ウィザードであれば第1位階魔法になんとなんの魔法があって、第2位階魔法にはなんの魔法がある。だが、アーケイナーには第1位階魔法にはこれがあるが、ウィザードにはあったこれは入って無いという具合だ。
 
 こうやってプレイヤーはレベルアップ時に選んだ職業の、スペルリストに記載されている魔法の中から、1レベルごとに3つづつ新しい魔法を選択して習得ができる。こうして100レベルにもなれば300個の魔法を選択し、使うことが可能となるのだ。
 ただ、この系列は別系統と見なされており、積み上げたクラスとは別に魔法の行使レベルが計算されている。そのため下手なクラスの取り方をすれば、100レベルに到達したのに信仰心系列は第4位階まで、魔力系列は第6位階までということにもなりかねない。
 適当な説明だがウィザードを60レベル取って、クレリックを40レベル取ったからといって、信仰心系列の魔法を最高レベルの第10位階まで使えるという事では無いということだ。


 そして最大レベル――100レベルで習得できている魔法の数、300。

 これが多いか少ないかは、魔法職に就いているプレイヤーなら断言するだろう。圧倒的に少ないと。習得魔法可能数と比べてではない。

 まず魔法の習得には前提条件がある場合がある。これは前提条件を満たしておかないと、その魔法を習得できないというものだ。特定職業、特定イベント、特定アイテム等によって。そして特定魔法――前提魔法という分類だ。
 読んで字のごとく、前提となる魔法を習得しておかなければ得ることのできない魔法があるのだ。
 そのため前提魔法に習得できる魔法の1/3を費やされたとか、欲しいと思っていた魔法を得るための前提魔法がクリアできなくて諦めてしまったというプレイヤーの話はありがちなものなのだ。

 さらには職業ごとにスペルリストが違うため、何を選択していくのかという問題もある。欲しい魔法がスペルリストに無かったりする場合は非常に多く、わざと死んでクラスを取り直すということだって珍しくは無い。更には取ったは良いが能力値的に微妙になってしまう場合だってあるのだ。
 
 例えば《ファイヤーボール/火球》の魔法である。これは基本的に使う能力値は魔力である。これによって魔力が高く、レベルが高い者ほどダメージ量や距離等が高くなるわけだ。
 そして仮に信仰心系列の職業の何かのスペルリストに《ファイヤーボール/火球》があったとしよう。信仰心系列の魔法を使うクラスの魔力の上昇率はさほど高くない。
 ではそのクラスが《ファイヤーボール/火球》を使った場合はどうなるか。
 ダメージ量や距離等において魔力系列の者に比べればはるかに劣るだろう。

 ユグドラシルの魔法職が頭を悩ます魔法の選択は、こうやってなっているのだ。
 確かに特定目的のみを追求する魔法職なら300は充分余る数だろう。

 有名なところではモンスターと戦うことのみを目的とする戦闘系魔法職――一般的なDMMORPGのプレイヤーに多い魔法職の選択魔法はバフと攻撃の特化型だ。

 相手にダメージを与えることのみを追求するというのは実に正しい姿だ。魔法職に求められるのは局面を変化させることのできる能力なのだから。強いモンスターを簡単に撃破してくれるならそれに越したことは無いだろう。

 ただ、ユグドラシルにおいて通常のDMMORPGに比べて魔法の習得数が圧倒的に多い理由は、魔法が戦闘行為しかできない一般的なDMMORPGと違い、様々な用途に使えるからだ。

 例えば金属探知の魔法も低位から高位まであるし、金属を精製する魔法だってある。地中を見る魔法や、土を低位の金属等に変化させる魔法だってある。
 転移魔法だって無数だ。ミスがある長距離転移、ミスの無い長距離転移、派手な何の意味も無いエフェクトを起こす転移、二者の場所を交換する転移、パーティーメンバーを集結させる転移。最寄の街への転移、短距離転移を時間内であれば無数に繰り返せる転移。このほかにも多くある。

 感知魔法だって、周辺にいる敵の感知や、姿を消している対象の発見、相手の魔法発動の感知、特定物品の感知、対抗感知魔法、特定条件感知等無数にある。

 頭を使うことで攻撃魔法を発動するより、特定状況下で戦況を打破しやすい魔法というのは無数にあるのだ。
 そのため習得できる300個という魔法の数は、危険な状況について考えられる頭を持つ側からすると、それほど多くは感じられない。それどころか少ないぐらいなのだ。

 そして1度選んだ魔法は通常は交換することができないため、レベルアップ時の魔法習得の際、選択するのに1日とかけるのはそれほど珍しいことではない。ユグドラシル攻略wikiでもっともデータ量が多いページが魔法の項目だといえば理解しやすいだろうか。

 ではモモンガはというと、課金アイテムを保有しているため、さらに追加で100個の魔法を収めている。さらにはPK<Player Killer>を繰り返し、特殊な儀式イベントをこなしたことにより、318個。総数718個の魔法を習得している。
 その習得内容は単純な破壊系魔法よりは絡め手の魔法や死霊系魔法に特化している。それにあわせ職業もそういう系統を選んで、よりそっち系の魔法を強化してきた。
 そのため、ダメージ力という面では戦闘特化系の魔法職には負けるものの、局面打破力においてはほぼ並ぶものがいないだろうと、自負している。逆に探査、捜索系の魔法は重要なもののみで、習得数は少ないためにかなり劣るだろうということも認識していた。



 モモンガは闘技場の隅に立てられた藁人形にゆっくりと指を伸ばす。
 モモンガが多く修めている死霊系魔法は無生物には効き目が悪い。単純な破壊系魔法の方がこのような場合は優れている。

 チラリと横目でアウラを伺う。
 きらきらと輝きという名の好奇心が瞳からもれ出ている。
 その両横に巨大なモンスター。

 3メートルの巨体は逆三角形。
 人間とドラゴンを融合させたような骨格を覆う筋肉は隆々と盛り上がっていた。その筋肉を覆うのは鋼鉄以上の硬度を持つ鱗。そしてドラゴンを思わせる顔。大木を思わせる尻尾。翼こそは無いが、直立したドラゴンに良く似ていた。
 ドラゴンキン――『ドラゴンの近親者』の名を持つモンスターだ。
 太さが男性の胴体以上の上腕で、長さが自らの身長の半分ほどのぶ厚い――剣なのか盾なのか良く分からない武器を持っていた。
 
 アウラは本人の戦闘能力を犠牲に、ビーストテイマー〈魔獣使い〉として最高位の能力を得ている。自らのしもべなら戦闘能力を最大1.25倍まで上げることを可能とする。しもべの数は総数100体。
 そのうちの2体があれで、この闘技場の片付け係だ。

「ふぅ」
 
 モモンガは小さく息を吐く。
 アレほどまでの期待に満ちた目で見られても正直困るのだが。

 今回の目的は魔法が本当に発動するかどうかの実証である。

 アウラに魔法の発動実験の参加を許可した理由は、他の守護者が来る前に自らの力を見せ、敵対することの愚を教えるためである。即座に裏切るような感じは無いが、モモンガの魔法の力が仮に失われていた場合でも忠誠を尽くすかどうかに関しては不明というより、信じ切れない。
 アウラはそうではないようだが、モモンガからすれば始めて会ったに等しい相手だ。確かにキャラクターの設定等はギルド皆のアイデアが詰まっている。だが、それが1つの知性体として存在した場合、設定以外の面が必ず出てくるはずだ。その設定以外の面に弱い相手にも忠義を尽くす、というものが無かった場合はどうなるというのか。無いならまだ良い。かりに上に立つものが弱かった場合は打ち倒すとあったら。

 必要以上に疑って掛かる必要は無いが、信頼しきって動くのは馬鹿のすることだ。

 石橋を叩いて渡る。それは現状ではモモンガにとって当たり前の考え方だ。

 それでは本当に発動するか、1人で魔法の実験を行った方が正解かというと大はずれだ。もし魔法が発動しなかった場合、さりげなく聞く相手は必要だ。そうしなくては本当に魔法が使えないのか、それとも使い方が悪いのか分からない可能性がある。
 アウラは習得魔法の数は多くは無いが、それでも最高位までの魔法の行使を可能としている。もし何かが間違っているなら聞くことができる。
 
 仮に魔法が発動しなくても問題はない。
 なぜならアウラはスタッフの力を確かめに来たと思い込んでるからだ。マジックアイテムの力が発動するのは実証済みなのだから、いくらでも言い訳は立つだろう。

 モモンガは暗記している718の魔法を検索する。
 今に最も適した魔法は何か。 

 まずはフレンドリィ・ファイアについて知らなければならないので範囲魔法。なら――。

 ユグドラシルの魔法の使い方は浮かび上がるアイコンをクリックするだけで良い。それが出ない今、別の手段で行う必要がある。恐らくやり方の一端はすでに掴んでいる。
 己の中に埋没している能力。
 負の接触を遮断したときと同じように、意識を向ける。アイコンがまるで空中にあるかのように――。
 
 そしてモモンガはうっすらと笑った。
 
《――ファイヤーボール/火球》

 突きつけた指の先で炎の玉が膨れ上がり、打ち出される。
 狙いは誤らずに藁人形に着弾。火球を形成していた炎は着弾の衝撃で弾け飛び、内部に溜め込んだ炎を一気に撒き散らす。
 膨れ上がった炎が周辺の大地を嘗め尽くした。
 
 それもすべて一瞬のこと。
 すでに何も残っていない。残滓として焦げ付いた藁人形を残して。

「ふふふふ」
「?」

 含み笑いをもらすモモンガに不思議そうな視線を送るアウラ。

「――アウラ。別の藁人形を」
「あ、はい、ただいま! 持っていって」

 ドラゴンキンの1体が藁人形をすえる。それと同時に魔法が効果を発揮する。

《エクスプロード/破裂》
 
 上半身が中から吹き飛び、周囲に藁の切れ端が舞う。半分以上弾けとんだ頭部を形成していた藁が、直ぐ側にいたドラゴンキンの体に当たって落ちる。
 ドラゴンキンがかすかな唸り声を上げながら、モモンガに鋭い視線を送る。
 魔法が発動する今、大して恐ろしい相手でもない。ドラゴンキン程度瞬殺できる自信がある。とはいえ、飼い主に謝る必要はあるだろう。そう考えたモモンガはアウラに顔をむけた。
 
「……すまん。もう少し離れてから使うべきだったな」
「――え? 藁をかぶっても気にしませんです、はい」

 ドラゴンキンの直ぐ側で魔法が発動したにもかかわらず、アウラに驚く様子も心配している様子も無い。手をパタパタ振って、モモンガが謝罪してきたことに驚きを示している。
 これは目標が1対象の魔法は目標を逸らさないのか。それともこちらを信頼しているのか。はたまたはドラゴンキンが死んだとしても気にしないためか。
 
 とりあえずは魔法の発動は確認できた。ユグドラシル内でのすべての能力は使えると断定しても良いだろう。
 では次に期待はできないがGMと連絡をつけるように魔法を使う番だ。

 モモンガは魔法を発動させる。

《メッセージ/伝言》

 連絡する相手はまずはGM。
 ユグドラシルであればゲームに入ってきている場合は携帯電話のコール音のようなものが聞こえ、入ってない場合はコール音すらしないで直ぐに切れる。
 今回はその中間とも言うべきものか。言葉にするには非常に難しいが、糸のようなものが伸び、何かを探っているような感覚がする。だが、そのままつながる気配無く、魔法は効果時間を終わらせる。
 やはりという思いと失望。どちらも同じぐらい強い。

 モモンガはそのまま同じ魔法を繰り返す。対象はGMではない。アインズ・ウール・ゴウンのギルドメンバーだ。
 しかしながらやはりというべきか、当然というべきか。誰からも返事は無かった。

 モモンガ軽くため息をつきたい気持ちを押し殺しながら、次の手を考える。
 セバスと連絡を取るというのも悪くは無いが、とりあえずは――。
 
 スタッフに集中し、力を引き出す。

《サモン・プライマル・ファイヤーエレメンタル/根源の火精霊召喚》

 スタッフを突きつけた先に、巨大な光球が生じ、それを中心に桁外れな炎の渦が巻き起こった。巻き起こった渦は加速度的に大きくなり、直径10メートル、高さ15メートルまで膨らむ。
 吹き荒れる紅蓮の煉獄が周囲に熱風を巻き起こす。視界の隅で2体のドラゴンキンが巨体を持って、その熱風からアウラをかばおうとしている。バタバタとモモンガのローブが熱波に煽られはためく。火傷ぐらいしても可笑しくは無い熱量だが、炎への絶対耐性を有しているモモンガに影響は無い。
 やがて周囲の空気を食らい充分に大きくなった炎の竜巻が、融解した鉄のような輝きを放ちながら揺らめき、人のような形を取る。
 プライマル・ファイヤーエレメンタル――元素精霊の限りなく最上位に近い存在。レベル80という高さを持つモンスターだ。

「うわー……」

 アウラが感嘆の声を漏らしながら見上げている。
 召喚魔法では決して呼び出すことのできない最上位クラスの精霊を前に、望んでいたおもちゃをもらった子供のような表情を浮かべていた。 
 
「……戦ってみるか?」
「え?」

 一瞬ほうけてから、アウラは無邪気な子供の笑みを浮かべる。子供のものにしては少々――いや、かなり歪んではいるが。

「良いんですか?」
「かまわんよ、別に倒されたところで問題は無いからな」

 肩をすくめるモモンガ。スタッフの力で召喚したこれはまた明日になれば召喚できるはずの存在だ。別に倒されても問題は無い。

「それより大丈夫か? 単純な力押し系は苦手だろ?」
「んー。大丈夫です。炎ダメージは無効にできますし、何とかなると思います」

 話を半分聞き流しながら、アウラは準備をし始めている。すでに頭の中ではどのように戦闘をしていくかを考えているのだろう。

「……無理はするなよ?」
「はい!」

 威勢の良い返事だ。アウラは作戦が決まったのか、両脇にいたドラゴンキンに離れるように指示を出した。恐らくは1人で戦うつもりなのだろう。

「プライマル・ファイヤーエレメンタル――」揺らめき燃え上がる炎の塊が動き出す。「アウラを倒せ。ただし倒れたらそこで終わりだ。帰還せよ」

 炎の巨人は巨大な拳のような炎の塊を作り出し、炎が下生えを燃やしながら進むような速度でアウラに近づきだす。アウラは両手に鞭を取り出し、それを迎撃せんと待ち構える――。

 アウラが戦闘を開始するのを横目に、モモンガは物思いにふけっていた。
 

 これからどうするか、である。
 問題は少々調子に乗って魔法を使いすぎたことだ。まだまだMPに余裕はあるが、それでも何が起こるかわからない以上、温存する必要がある。できれば回復させたいところだが……。


 魔法には位階というものがあり、これが1~10。そして超位<オーバー>と呼ばれるものに分かれている。
 魔法のMP消費はこの位階というのが重要となってくる。この位階の分だけMPを消費するのだ。
 例としてMP100点持っている魔法使いがいたとしよう。その人物は位階1の魔法なら100回唱えられるし、逆に位階10の魔法なら10回しか使えないということになる。
 オーバーはまた別の計算になるので除外だ。
 これに魔法強化――例にするなら魔法無詠唱化、魔法強化、魔法属性変化等――を入れた場合はより大きいMPを使う。

 MPの回復速度は全快するまでに実時間で6時間はかかる。つまり調子に乗って最高位の魔法ばっかり使っていればすぐにガス欠となってしまう。
 ちなみにMPは基本的にはレベル×10。これに能力値ボーナス、特定特技、装備修正、クラス修正等が点く。モモンガなら現在1980ポイントだ。これはスタッフ・アインズ・ウール・ゴウンの効果が大きく、ユグドラシル内の魔法職でもトップクラスだ。基本的にレベル100で大体1300ポイントぐらいだと知れば、その容量の大きさは理解できるだろう。

 消費したMPを回復させようにも、MP回復ポーションなんて便利なものはない。唯一の回復方法は時間の経過ぐらいだ。
 そのため魔法職でのソロでの狩りはMP回復がほとんどなのか――というと半分だけそうでもない。

 それは巻物<スクロール>、杖<スタッフ>、短杖<ワンド>という存在だ。
 これらは魔法が込められており、スクロールは一回っきり、スタッフ、ワンドは決められた――チャージ回数だけ魔法を発動させることが可能なアイテムだ。
 ただ、魔法の威力や効果時間が固定されている。
 レベル10の魔法職の使う防御魔法の効果時間が10分だとしたなら、スクロールから同じ魔法を発動した場合、固定された時間――大体使用できるようになったレベルの魔法職の発動する時間の半分程度しか持たない。この場合なら5分か。

 時間が短いのと同様に威力も弱い。
 半分までは行かないがダメージ量は3/4ぐらいだろうか。
 一応、他にも実時間で1日何回と決まった回数だけ、消費せずに魔法を発動させることのできるアイテムの存在もある。
 モモンガの召喚したムーンウルフもプライマル・ファイヤーエレメンタルもその系統のアイテムの効果だし、左腕につけたバンドも同じように特定の魔法を1日に複数回発動できる。ただこれらのアイテムはかなり高額な商品であり、おいそれと手が出せるものではない。

 そしてワンドやスタッフもそこそこの値が張り、スクロールは低位のものが殆どだ。
 結局そっちに金をつぎ込むとその他のアイテムに回せなくなる。 

 そのため魔法職は自分のMPだけでやりくりしようと努力する。スタッフやワンド、スクロールは切り札的存在にしようと温存するのだ。
 その結果、ログアウト中も時間の経過があるので、ソロの場合はMPが尽きたらログアウトし、次の日にまた始めるというのが魔法職の基本だ。


 しかし今は時間が無い。モモンガは左手首のバンドに視線をやる。あと20分ぐらいで他の守護者が来ることになっている。それまでにあらかた調べておく必要がある。MPを回復させる時間は無い。

 ――あと調べなくてはならないこと。

 魔法、アイテムの起動は終わった。残るは持ち物だろうか。

 モモンガもスクロールやワンド、スタッフはかなりの数を保有している。性格上、消費アイテムは勿体なくて使えない派だ。テレビゲームでも最高級品の回復剤とかはラスボス戦ですら使わない。慎重というより貧乏性の類だろう。
 そんなモモンガの保有するアイテム。ユグドラシルであればアイテムボックスに入っているアイテムは現在どこにあるのだろうか。

 モモンガは中空にその骨しかない手を伸ばす。
 アイテムボックスを開くときを思い出しながら――。
 伸ばした手が湖面に沈むように何かの中に入り込んだ。外からすればモモンガの腕が途中から消えたように見える。
 そのまま窓を開けるときと同じように横に大きくスライドさせる。
 何本ものスタッフが綺麗に並んでいた。これこそまさにユグドラシルのアイテムボックスだ。
 手を動かし、アイテム画面ともいうべきものをスクロールさせていく。スタッフ、ワンド、スクロール、武器、防具、装飾品、宝石、ポーションに代表される消費アイテム……。膨大な数の魔法の道具の数々。

 モモンガは笑う。
 安堵感を持って。
 これならこの大墳墓内の大体の存在が敵に回ったとしても、己の安全は守りきれると分かったのだから。

 今だ激戦を繰り返すアウラを見ながら、モモンガは今まで得た情報を纏め上げながら物思いにふけっていた。


 まず、今まで会ってきたNPCはプログラミングか?

 否、意識を持った人間と変わらない存在だ。これだけの細かな情動を人間程度のプログラミングで表現することはできるわけが無い。何らかの事態でプログラムではなく人間と同等の存在になったと仮定すべきだ。


 次にこの世界はなんだ?

 不明だ。魔法が存在するということを考えると何らかのゲームと考えるのが妥当だが、前の疑問をあわせて考えるとゲームとはとうてい思えない。そうすると魔法が存在する世界……異世界と考えるのが妥当なんだろうか?


 自らはこれからどのように構えるべきか?

 ユグドラシル内での力を使えるということは確認できた。したがってこのナザリック大地下墳墓内において強敵となる相手は、ユグドラシル上のデータを基本に考えればいない。問題はユグドラシルのデータ以外の何かがあった場合だが、そのときは開き直るしかないだろう。取り合えずは上位者として威厳をもって――威厳があるならだが――行動するほか無い。


 これからの行動方針は?

 情報収集に努める。この世界がなんなのか不明だが、今現在は単なる無知の旅人にしか過ぎない。油断無く、慎重に情報を収集すべきだ。できればセバスが良い情報を持ってくることに期待か。


 仮に異世界だとして、元の世界に戻るよう努力すべきか?

 疑問だ。元の世界に未練があるかといわれたなら、1/3ぐらいはあるといえる。
 もし友達がいたなら帰る努力をしただろう。
 もし両親が生きていたなら、死に物狂いで探しただろう。
 だが、そんなものは無い。
 会社に行き、仕事して、帰って寝る。今までなら帰ってからユグドラシルに入り、いつ仲間が来ても良い準備をしていたが、それももはや無い。今ですら1日、仕事のことを除いて話をしたりしないのだ。
 そんな世界に帰る価値はあるのだろうか?
 ただ、戻れるなら戻れる努力をした方が良い。選択肢は多いに越したことは無い。外が地獄のような世界である可能性も充分にありえるのだから。


「さてどうするか……」

 モモンガのさびしげな独り言が空中に散っていた。






――――――――
※ 長い設定を読んでくれてありがとうございます。もうちょっと小出しにした方が良いのは分かるんですが……。
  中々難しい。
  次回からはもう少し考えます。あとで修正入れます、おそらく。


  では次回、全守護者(ボクの考えたすごいキャラ)が全員揃う、06_集結でお会いしましょう。



[18721] 06_集結
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/06/10 20:21


「そろそろ皆来そうですよね」

 濡れたタオルで顔の汗を拭いながらアウラが話しかけてくる。
 プライマル・ファイヤーエレメンタルとの戦闘結果はアウラの勝利。桁外れの破壊力と耐久力を持つプライマル・ファイヤーエレメンタルだったが、周囲にいるだけでも受ける炎ダメージを完全に無効にし、見事な回避を披露したアウラの前では巨大なマトだったようだ。
 逆に一撃でも当たれば、アウラの体力のかなりを奪っただろうが、複数の防御魔法を発動していたのが上手く働いていた。魔法職のモモンガから評価しても見事な立ち回りだった。 

「――そうだな」

 モモンガは左腕にはめたバンドに目を落とす。約束の時間にはまだなっていないが、遅れてくるような守護者はいないだろうし、時間的には何時きてもおかしくは無い。

「ぷぅ」

 一息ついたといわんばかりのため息をつきながらアウラが、喉元の汗を拭い始める。拭った先から汗が珠を作り、薄黒い肌を流れ落ちる。
 モモンガは黙って、アイテムボックスを開く。
 そこから最初に取り出したのは、魔法のアイテム――ピッチャー・オブ・エンドレス・ウォーター。
 ガラスだろう透き通った材質でできたピッチャーには、新鮮な水がなみなみと入っており、中の入った水の冷たさのためか、周りには水滴が無数についていた。
 そして続けてグラスを1つ取り出す。
 バカラのグラスに負けずとして劣らないグラスに、新鮮な水を注ぎいれる。

「アウラ。飲みたまえ」
「え? そんな悪いです、モモンガ様に……」

 パタパタと手を顔の前で振るアウラに、モモンガは苦笑を浮かべた。

「この程度気にするな。いつも良く働いてくれているささやかな感謝の表れだ」
「ふわー」

 照れたように顔を赤らめるアウラに、グラスを差し出す。

「ありがとうございます、モモンガ様」

 今度は断らずにタオルを肩にかけると、アウラをそれを両手で受け取り一気に飲み干す。喉が大きく動き、唇の端からこぼれた水滴が艶やかな喉を流れ、胸元に消えていった。

「ぷはぁー」
「もう一杯いるか?」
「お願いします!」

 一瞬で空になったグラスの中に再びピッチャーから水が注がれた。ピッチャーの中の水は減ってはいない。先ほどと同じ水量を保っている。
 アウラは落ち着いたのか今度はゆっくりと水を飲む。
 モモンガそれを見ながら自らの喉に手を当てた。頚椎に薄皮がついたような感触。   
 この体になってから喉の渇きを覚えていない。睡眠欲もだ。アンデッドがそんなものを感じるわけが無いのは理解できるが、それでも気がついたら人間を辞めたというのは冗談にしか思えない。 

 モモンガは空いた手で自らの体を触る。
 人間のときと比べて全身の感覚が鈍い。触ってみても薄い布が途中にあるような感覚の鈍さだ。その反面、知覚はかなり優れている。視力も聴力も非常に高い。
 骨で構築されたすぐにも折れそうな体なのに、一本一本が鋼よりも頑丈そうにも思える。
 かなり人の体とは違うはずなのに、まるで生まれたときからこの体であったかのような満足感とも充実感ともいえないものがある。だからこそ恐怖も感じないのだろう。

「ふぅー」
「もう一杯いるか?」
「えっと。もう満足です」

 にこりと笑うアウラに頷くことで返すと、モモンガは受け取ったグラスとピッチャーをそのままアイテムボックスに入れる。

「……モモンガ様ってもっと怖いのかと思ってました」
「そうか? そっちの方が良いならそうするが……」
「え? 今のほうがいいです! 絶対いいです!」
「なら、このままだな」

 勢いあるアウラの返答に目を白黒させながらモモンガは答える。
 とはいえモモンガからすれば今の性格も演技しているものでしかない。今の自分は最高峰のギルド、アインズ・ウール・ゴウンの長としての役割を演じているだけだ。決して恥ずかしくないように。

「も、もしかして私にだけ優しいとかー」

 ぼそぼそと呟くアウラに何を言えば良いのかわからず、モモンガはアウラの頭を軽く数度、ぽふぽふと撫でるように叩く。

「えへへへ」

 大好物を前にした子犬の雰囲気を撒き散らすアウラ。そこに――。

「――おや、わたしが一番でありんすか?」

 言葉つかいの割には若鮎のような若々しい声が聞こえ――影が膨らみ、噴きあがる。
 その噴きあがった影からゆっくりと姿を現す者がいた。

 全身を包んでいるのは柔らかそうな漆黒のボールガウン。
 スカート部分は大きく膨らみ、かなりのボリューム感を出している。スカート丈はかなり長く、完全に足を隠してしまっている。フリルとリボンの付いたボレロカーディガンを羽織ることによって、胸元や肩はまるで露出していない。さらにはフィンガーレスグローブをつけていることによって、殆どの体を隠してしまっている。
 外に出ているのは一級の芸術ですら彼女を前にしたのなら恥じるほどの端正な顔ぐらいものだ。白い肌――健康的というのではない白蝋じみた白さ。長い銀色の髪を片方で結び、持ち上げてから流している。
 年齢的には14、もしくはそれ以下か。まだ幼さが完全には抜け切れてない。可愛らしさと美しさが交じり合ったことによって生まれた、そんな美の結晶だ。
 胸は多少年齢には不釣合いなほど盛り上がっている。

「……わざわざ《ゲート/異界門》なんか使うなって言うの」

 モモンガの直ぐ側から呆れたような声が聞こえる。その凍りつかんばかりの感情を含んだ声色に先ほどまでの子犬の雰囲気は無い。あるのは満ちすぎて毀れまくった敵意だ。 
 
 最上位の転移魔法を使ってこの場に姿を現せた女性は、モモンガの横で殺気だつアウラに一瞥もくれず、体をくねらせる様に動かしながらモモンガの前に立つ。
 体から立ち上る香水の良い香り。

「……くさ」
 
 アウラがボソリと呟く。続けて、アンデッドだから腐ってるんじゃない、と。
 アウラの言葉が聞こえているだろうにも変わらず、真紅のルビーを思わせる瞳に愉快そうな感情を込め、

「ああ、我が君。わたしが唯一支配できぬ愛しの君」

 すらりとした手をモモンガの首の左右から伸ばし、抱きつくかのような姿勢を取る。
 真っ赤な唇を割って、濡れた舌が姿を見せる。舌はまるで別の生き物のように己の唇の上を一周する。開いた口から馨しい香りがこぼれ落ちる。
 もしこれが妖艶な美女がやれば非常に似合っただろうが、彼女では少々年齢がたりてないように感じられ、ちぐはぐ感から生じる微笑ましさがある。大体、身長が足りないので伸ばした手も抱きつくというよりかは、首からぶら下がろうとしているようにしか見えない。
 それでも女性に慣れていないモモンガには充分な妖艶さだ。一歩後退しそうになるが、意を決しその場に踏みとどまる。

 心中に沸き上がるこんなキャラだっけ? という思いは消せないが。

 
 シャルティア・ブラッドフォールン。 
 ナザリック大地下墳墓第1階層から第3階層までの守護者であり、全アンデッドの支配者たるトゥルーヴァンパイアだ。

「いい加減にしたら……」

 重く低い声に初めてシャルティアは反応し、嘲笑の笑みを浮かべながらアウラを見た。

「おや、チビすけ、いたんでありんすか? 視界に入ってこなかったから分かりんせんでありんした」

 ぴきりとアウラは顔を引きつらせ――

「うるさい、偽乳」

 ――爆弾を投下する。

「……なんでしってるのよー!」

 あ、キャラが崩れた。

「一目瞭然でしょー。変な盛り方しちゃって。何枚重ねてるの?」
「うわー! うわー!」

 発せられた言葉をかき消そうとしているのか、ばたばたと手を振るシャルティア。そこにあるのは年相応の表情だ。

「あんたなんか無いじゃん。私は少し……結構あるもの!」

 その瞬間、ニヤリと邪悪な笑みを浮かべるアウラに押され、一歩後退するシャルティア。さりげなく胸をかばっている。

「……あたしはまだ76歳。いまだ来てない時間があるの。それに対してアンデッドって未来が無いから大変よねー。成長しないもん」

 シャルティアはぐっ、と呻き、さらに後退する。言い返せない。それが表情に思いっきり出ていた。アウラはそれを確認し、亀裂のような笑みをさらに吊り上げた。

「今あるもので満足したら――ぷっ」
「おんどりゃー! 吐いた唾は飲めんぞー!」

 ぷっちーんという音がモモンガには聞こえた気がした。
 シャルティアのグローブに包まれた手に黒い靄のようなものが揺らめきながら滲み出す。
 アウラは迎えうたんと先ほど使用していた鞭を手に持つ。
 
 モモンガは呆れかえりながらも、両者を止めようと息を吸い込んだところで――
 
「サワガシイナ」

 人間以外が無理やり人の声を出している、そんな歪んだ硬質な声が2人の諍いを断ち切った。
 声の飛んできた方、そこには何時からいたのか、冷気を周囲に放つ異形が立っていた。
 2.5メートルほどの巨体は二足歩行の昆虫を思わせる。悪魔が歪めきった蟷螂と蟻の融合体がいたとしたらこんな感じだろうか。身長の倍以上はあるたくましい尾には鋭いスパイクが無数に飛び出している。力強い下顎は人の腕すらも簡単に断ち切れるだろう。
 2本の腕で白銀のハルバードを持ち、残りの腕でどす黒いオーラを撒き散らすおぞましいメイスとブロードソードを保持している。
 白銀に輝く硬質そうな外骨格には冷気が纏わり付き、ダイアモンドダストのようなきらめきが無数に起こっていた。


 ナザリック大地下墳墓第5階層の守護者であり、凍河の支配者――コキュートス。

 ハルバードの刀身を地面に叩きつけると、その周辺の大地がゆっくり凍り付いていく。

「御方ノ前デ遊ビスギダ……」
「……この小娘がわたしに無礼を働いた――」 
「事実を――」

 再びシャルティアとアウラがすさまじい眼光を放ちながら睨み合う。

「……シャルティア、アウラ。私を失望させるな」

 びくりと、2人の体が跳ね上がり、同時に頭をたれる。

「「もうしわけありません」」
「ああ」

 モモンガは鷹揚に頷くと、現れた悪魔に向き直る。

「良く来たな、コキュートス」
「オ呼ビトアラバ即座ニ、御方」

 白い息がコキュートスの口器からもれている。それに反応し、空気中の水分が凍りつくようなパキパキという音がした。プライマル・ファイヤーエレメンタルの炎に匹敵する――いやそれ以上の冷気。周辺にいるだけで低温による様々な症状が襲い、肉体損傷を受けるほどだ。
 しかしながらモモンガには何も感じられない。というよりもこの場で炎や冷気、酸という攻撃に対しての耐性や対抗手段を持ってない者は存在しない。

「この頃侵入者も無く暇ではなかったか?」
「確カニ――」
 
 下顎をカチカチと鳴らす。笑っているのだろうか?

「――トハイエ、セネバナラヌコトモアリマスノデ、然程、暇トイウコトモゴザイマセン」
「ほう。普段は何しているんだ?」
「何時如何ナル時デモオ役ニ立テルヨウ鍛錬ノ日々デス」

 コキュートスは外見からは想像できないが設定上は武人である。性格もコンセプトデザインも。
 このナザリック大地下墳墓においても武器の使い手という区切りでは第一位の戦闘能力保持者だ。

「お――私のためにご苦労」
「ソノ言葉1ツデ報ワレマス。――オヤ、デミウルゴスガ来タヨウデスナ」

 コキュートスの視線を追いかけると、そこには闘技場入り口から歩いてくる影が1つ。
 充分に距離が近づくと、影は優雅な礼をしてから口を開く。

「皆さんお待たせして申し訳ありません」


 身長は2メートルほどもあり、肌は光沢のある赤。刈り揃えられた漆黒の髪は濡れたような輝きを持っていた。
 赤い瞳は理知的に輝き、無数の邪悪な陰謀を組み立てているのが手に取るように分かった。
 こめかみの辺りから鋭い、ヤギを思わせる角が頭頂部に向けて伸びており、背中から生えた漆黒の巨大な翼が彼が人ではないことを表していた。
 鋭くとがった爪のはえた手で一本の王錫を握り、真紅の豪華なローブにそのしなやかな身を包む姿はどこかの王を彷彿とさせる威厳に満ちていた。
 

 周囲に揺らめくような浅黒い炎を撒き散らすその悪魔こそ、デミウルゴス。
 ナザリック大地下墳墓第7階層の守護者であり、防衛時におけるNPC指揮官という設定である。

「これで皆、集まったな」
「――モモンガ様、まだガルガンチュアが来て無いようですが」

 人の心に滑り込むような深みと、引き込まれるようなはりのある声。
 デミウルゴスの言葉には常時発動型の特殊能力が込められている。その名も支配の呪言。心弱きものを瞬時に自らの人形へと変える効果のある力だ。
 とはいえ、この場にいるものにその特殊能力は効果を発揮はしない。効果が発揮するのはせいぜい40レベル以下。最高レベルで製作された守護者には効かないのは当然。
 そのためこの場にいるものにとってすれば、せいぜい耳あたりの良い声程度にしか過ぎない。

「……ガルガンチュアを知ってるのか?」
「無論です。第4階層守護者――戦略級攻城ゴーレム、ガルガンチュア。この中に知らぬものはおりません」

 ガルガンチュアはユグドラシルというゲームのルールにちゃんと存在するゴーレムであり、別にアインズ・ウール・ゴウンの手によってゼロから作り出されたものではない。
 あくまでも攻城戦に使用できるもの。本拠地を守るのには決して使えない。ただ、テキストタグ上では第4層守護者と設定づけられているし、置き場に困って第4層の地底湖に沈めているのだが。

「あれは守護者というわけではない。あくまでも守護者の地位を与えたゴーレムだ」
「左様でしたか。失礼いたしました」
「……我ガ盟友モ来テナイヨウデスナ」

 ぴたりとコキュートス以外の全員の動きが止まった。

「……あ、あれは、あくまでもわらわの階層の1部の守り手にしか過ぎぬ」
「そ、そうだよね~」
 
 シャルティアに引きつるような笑みを浮かべ、アウラが同調する。

「……恐怖公か。あれも守護者ではないが……知っていたほうが良いか。あれにはコキュートス、お前の方から伝えろ」
「承リマシタ、御方」
「では、我が主君。守護者は皆、揃いました。御下命を」

 デミウルゴスの言葉にあわせ、全員が一斉に跪く。

「では……まず良く集まってくれた」
「我ら、皆、モモンガ様にすべてをささげた者。当然のことでございます」

 代表してデミウルゴスが返答を述べた。やはり他の守護者に口を挟む気配は無い。完全にデミウルゴスが守護者代表という扱いなのだろう。

「お前達の忠誠は嬉しく思う。私がどれほど強く喜びを感じているのかを話しても良いのだが、残念ながら守護者を全員集めたのはそれとは別件なのだ。私の方も完全に理解しているわけではないので、多少意味が分からない点があるかも知れないが、心して聞いて欲しい」
 
 モモンガはそこで一息つくと、右腕のバンドに視線をやってから全員を見渡す。

「現在、ナザリック大地下墳墓のすべてが不可思議な事態に巻き込まれているように思われる」
「……不可思議な事態というのは」
「正直私もよくは分からないのだ。だが、何らかの異変を私は感じた。だから、私はお前達を全員集めたのだ。何か感じないか?」

 互いの顔を見合わせ、デミウルゴスが代表して口開く。

「いえ、申し訳ありませんが我々には感じられませんでした」
「そうか……」
「どのような感じを受け取られたのですか?」
「説明するのも中々難しい……」

 モモンガは口を閉じて話を流そうとするが、守護者達が説明を待っているのに気づき、適当な話をでっち上げる。

「……揺らめきだな」
「揺らめきですか」
 
 再び守護者同士で互いの顔を伺い、それからデミウルゴスが口を開いた。

「やはり我々には感知できなかったようです。魔法的なものなんでしょうか」
「すべてが不明だ。各階層に異常は無いか?」
「第7階層に異常はございません」
「第6階層もです」
「第5階層モ同様デス」
「第1階層から第3階層まで異常はありんせんでありんした」
「――モモンガ様、早急に第4階層の探査を開始したいと思います」
「任せる」
「では地表部分はわたしが」
「……それは待て。時間内に帰ってくるかと思ったのだが……現在セバスに地表周辺を探査させている最中だ」

 ざわりと空気が動く。
 1つは絡め手無しの真っ向勝負においては最強であり、コキュートスですら追いつけない存在を、偵察という簡単な任務に出したことに対する困惑だ。もう1つはセバスほどの人材を送り込んだことによる、モモンガの異変に対する警戒心の強さへの危機感だ。あっただろう無数の選択肢からセバスを選んだことへの。
 
 ただ、モモンガの観点からすれば、セバス以外の選択肢はなかった。

 まず今までいた世界から大きく変わった中で、忠誠心を持っているように見えたこと。
 次に情報がまるで無いという状況下では、最高の戦闘能力を保有しているもの――生きて帰れそうなものを送り出すのは当然のことだ。
 そして外見的に人間にそっくりであり、セバスであれば警戒はされても即座に戦闘行為になりそうも無いと予測してだ。デミウルゴスやコキュートスでは上手くいく可能性自体が低いだろう。幻影魔法等でごまかせればという考えもあったが、見破られた場合、嘘をついて近づいてきた相手と仲良くしてくれるとはとうてい思えない。第一、その時は魔法が本当に発動するかどうか不明瞭なところがあった。

 以上の理由からセバスが適任だと思ったのだ。

「そろそろ戻ってくるとは思うのだが……」

 その言葉がフラグになったのか。何気なく闘技場入り口に視線を送ると、歩いてくるセバスの姿を発見した。
 時間を指定しなくても、必要とされる頃に戻ってくるとは、流石は一級の執事。

「――遅くなりました」
「いや、構わん。それより周辺の状況を聞かせてくれないか?」
「――」

 セバスは跪く守護者に一瞬だけ視線を送る。モモンガは鷹揚に頷いた。

「……非常事態だ。これは当然、各階層の守護者が知るべき情報だ」
「了解いたしました。まず周囲1キロですが――草原です」

 ナザリック大地下墳墓周辺は毒すらも発生する沼地だった。それが草原というのはどういう冗談だ。そう言いたげな顔がちらほら見える。しかしそんな無意味な質問は誰もしない。なぜならセバスが主人に嘘をつくはずがないと皆確信しているからだろう。

「生息していると予測される小動物を何匹かは見ましたが、人型生物の発見はできませんでした」
「その、小動物はモンスターだったりするのか?」
「いえ、プレリードックのような戦闘能力が殆ど皆無のような生き物でした」
「牧歌的なイメージでいいのか?」
「牧歌的……単なる草原です。特別に何かがあるということはありません」
「そうか……ご苦労」

 どこに転移をしたのか不明だが、警戒のレベルを上昇させたほうが良いのは事実だろう。人の敷地にいきなり無断で乗り込んできたら怒るだろう。普通の感性の持ち主なら。
 だが、そこで諍いが生じた場合禍根が必ず残る。彼我の戦力がはっきりしない状態で、そんな状況に陥ることはごめん被りたい。

「シャルティア」
「はい」
「各層の警戒を厳重にせよ。ただし、侵入者は殺さず捕らえろ。できれば怪我もさせずにというのが一番ありがたい。それと侵入者が来た場合は各階層の守護者に伝達すること。それにあわせて各階層のネガティブダメージを切っておけ」
「了解しんした」
「デミウルゴス」
「はっ」
「周辺を詳しく偵察する斥候に相応しい者を幾体か選抜しろ。目的は情報の収集であって、戦闘行為ではないことを充分に理解できる頭を持つ者だ。お前が直接行動することは現状では許さん」
「私を動かさない理由は交渉相手になるかも知れない不特定多数の感情を悪化させないため、と考えてもよろしいのでしょうか? つまりは無理やりな情報収集は厳禁ということで」
「その通りだ。私達は確かに最強である。だが、この周辺では私達の100倍ぐらいの強さを持つものが基本だとしたらどうする? それともそんなことはありえないと、己の常識で推し進めるか?」
「いえ、モモンガ様のおっしゃるとおりです。注意に注意を重ね、信頼の置ける斥候を用意しておきます」
「アウラ」
「はい!」
「人間が住めそうな家を第6階層に作れ」
「……えっと、どういうことでしょう?」
「捕虜ヲソコニ置クトイウコトダロウ」
「コキュートスの言うとおりだ。第9階層には入れたくないし、他の階層では色々な面で辛い。第6階層が最も適しているのだ」
「確かに」

 他の階層を思い出していたアウラがこっくりと頷く。

「捕虜の収容所と同じ意味だ。監視等はできるような場所に作るんだぞ」
「了解しました」
「あと、一応はお客様扱いだ。掘っ立て小屋は止めてくれ」
「はい。一見すると立派な家を建てます。何人ぐらい収容できるようにしましょう?」
「そうだな……10人ぐらいで構わない。――コキュートス」
「ハッ」
「お前の信頼できる最精鋭のシモベを第9階層に降ろし、警備させよ。どの箇所でどのように警備させるかはセバスと相談せよ」
「ハ! オ任セヲ!」
「セバス。メイドたちを第10階層の警備に回せ。どのような手段を用いて相手が一気に潜入してくるとも限らん。各階層の警備ともども注意を払え。それとコキュートスのシモベの件もあわせて頼む」
「はい、承りました」
「守護者及びそれに付随するシモベ――各階層10体までの10階層への侵入を許可する。何かあった場合は伝えに来い」
「そして最後だが、私は名を変えようと思っている」

 ざわりと空気が揺らぐ。
 モモンガという名はアインズ・ウール・ゴウンのギルド長の名だ。多数決を重視したギルドでありながら、己の意志のみですべてを動かす人物はギルド長には相応しくない。
 ならば名前を捨てよう。

「新しい名は後ほど伝える。さて、各員早急に行動を開始せよ――」

 モモンガの号令で、一斉に立ち上がり動き出す守護者達。その動きは力に満ち、なんびとたりともそれを押しとどめることができない、そんな威厳があった。
 
 そんな光景を前に、モモンガは感動に打ち震えていた。
 
 自分の命令を聞いてくれるから? 違う。
 強そうだから? 違う。
 綺麗だから? 違う。

 アインズ・ウール・ゴウンの仲間達が作ったNPCがこれほど素晴らしかったからだ。あの、黄金の輝きは今なおここにある。皆の意見の――思いの結晶がここにあることに喜びを覚えていたのだ――。






――――――――
※ 主人公サイドにはこんな凄い奴らがいるぜ、ヒャッハー。という紹介でした。痛い? 痛い?
  まぁ、そうですよねー。
  
  さて、読んでいただきお疲れ様です。これで大体の説明が終わったと思います。あとは外に出てから世界設定の説明ですかね。だいたい11話ぐらいでやると思います。それで最後。あとは俺、最強です。
 では次回、07_戦火1でお会いしましょう。



[18721] 07_戦火1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/05/21 19:53
 





 カルネ村。
 100年ほど前にトーマス・カルネという開拓者が切り開いた、王国に所属する村。
 帝国と王国の中央を走る境界線たる山脈――アゼルリシア山脈。その南端の麓に広がる森林――トブの大森林。その外れに位置する小さな村だ。
 人口はおおよそ120人。25家族からなる村は、リ・エスティーゼ王国ではそれほど珍しくない規模だ。
 近場にある城塞都市、エ・ランテルまでおよそ50キロ。人の足で2日かかる距離にある。 

 森林で取れる森の恵みと農作物が生産の主だ。
 森で取れる薬草類を商人が年に3度ほど買いに来ることを除けば、徴税吏が年に1度来るだけの村。ほぼ人が来ない、時が止まったという言葉がまさに相応しい、そんな王国にありがちな小村である。
 

 エンリ・エモットはそんな村の一員として16年間暮らしてきていた。
 
 朝は早い。基本的に太陽が出る時間と共に起き出す。大都市のように魔法の明かりなんかが無いこの村においては珍しい光景ではない。
 最初にすることは家の近場にある井戸で水を汲むことだ。水汲みは女仕事だ。家においてある大甕に水を満たし、まず最初の仕事は終わる。その頃になると母親が料理の準備が終わり、家族4人そろって朝食だ。
 朝食は大麦や小麦のオートミール。野菜のいためたもの。場合によっては干し果実がつく。
 それから父と母とそろって畑に出る。その頃12歳になる妹は森まで行って薪を取ったり、畑仕事の手伝いをしたりと働く。村の中央――広場外れの鐘がなる、正午ごろ。一旦仕事の手を休め昼食となる。
 昼食は数日前に焼いた黒パン。干し肉の切れ端が入ったスープである。
 それから再び畑仕事だ。空が赤く染まりだす頃、畑から帰り夕食の準備となる。
 夕食は昼食と同じ黒パン。豆のスープ。これに猟師が動物を取ったなら、肉のおすそ分けが入る場合がある。そして厨房の明かりで家族でおしゃべりをしながら、服のほつれを縫ったりと働く。
 寝るのは18時ごろだろう。

 そんな日々。
 何時までもそんな生活が続くものだと思っていた。


 その日、いつものようにエンリは朝を迎え、井戸に水を汲みに行く。
 水をくみ上げ、小さな甕に移す。家の大甕が一杯になるまでにおおよそ3往復する必要がある。

「よいしょ」
 
 エンリは腕をまくり、甕を持ち上げた。水が入ればかなりの重量になるが、今では持つこともたやすい。
 もう一回り大きい甕なら往復回数が減って楽ができるのでは、そんなことを思いながら家までの帰路につく。
 そのとき、何か聞こえた気がして顔をそちらに向けた。空気が煮立つというのか、エンリの胸中にあわ立つ何かが生まれる。
 
 ――木でできた何かが打ち砕かれる音。
 そして――

「悲鳴――?」
 
 絞められる鳥のような、それとは決して違うもの。
 エンリの背筋に冷たいものが走った。信じれない。気のせい。間違い。否定的な言葉がいくつも生まれ、はじけ消えていく。
  
 慌てて駆け出す。悲鳴の会った方角に自らの家があるのだ。
 甕を放り出す。こんな重いものを持っていられない。
 長いスカートが足に絡まり転びそうになるが、運良くバランスを維持し走る。

 再び、聞こえてくる声。
 エンリの心臓が激しく鼓動を打つ。
 悲鳴だ。間違いない。
 
 走る。走る。走る。
 こんな速く走った記憶は無い。足がもつれ転びそうになるほどのスピードで走る。

 馬のいななき。人の悲鳴。叫び声。
 大きくなっていく。
 
 エンリの視界、かなり遠いが鎧を着た男が村人に剣を振るうのが見えた。
 村人は悲鳴をあげ、崩れ落ちる。そのあと止めを刺すように剣が突き立てられた。

「……モルガーさん」
 
 こんな小さな村に見知らぬ村人はいない。今殺された人物だってよく知っている。ちょっと騒がしいが気立ての良い人だ。あんな風に殺されて良い人ではない。立ち止まりそうになって――歯をかみ締め、足により力を入れる。
 水を運んでいるときはさほど感じられない距離が、今では非常に長く感じられる。
 怒号や罵声が聞こえ始める。そんな中、ようやく家が目に入った。

「お父さん! お母さん! ネム!」

 家族の名を叫びながら、家のドアを空ける。
 そこには見慣れた3人が小袋を片手に怯えたような顔をしていた。その顔はエンリが入ってくると一気に崩れ、その中から安堵の色が姿を見せた。

「エンリ! 無事だったか!」
 
 父の農作業で固くなった手がエンリを強く抱きしめた。

「ああ、エンリ……」 

 母の暖かい手もエンリを抱きしめる。

「さぁ、エンリも来た。早く逃げるぞ!」

 今現在のエモット家の状況はかなり悪い。エンリを心配していたため、すれ違うことを恐れて家から出ることができなかった。戻ってくるかどうか分からない、家族の一員を見捨てることができなかったのだ。
 そのため逃げる時間を失った分、危険がかなり近くまで迫っているだろう。

 家族で逃げ出そうとして――玄関口に一つの影。日光を背に立っていたのは全身を完全に板金鎧<プレートメイル>で覆った騎士。胸元にはバハルス帝国の紋章。手には抜き身の刃物――ロングソードを持っていた。
 
 バハルス帝国――リ・エスティーゼ王国の隣国であり、侵略戦争を時折仕掛ける国。だが、その戦争は城塞都市エ・ランテルを中心に起こり、この村までその手を伸ばしたことは無い。
 だが、その平穏もついには破られたということか。

 ヘルムの隙間から、エンリたちの数を数えているのが凍てつくような視線で感じられる。嘗め回すようないやな視線をエンリは感じた。
 騎士が剣を持つ手に力を入れていくのを、篭手の部分の金属がきしむ音で伝えてくれる。
 そして家に入ろうとして――

「うおぉ!!」
「ぬ!」
 
 ――父が入ろうとしていた騎士にタックルをかける。そのままもつれあいながら二人とも外に転がり出た。

「――はやくいけ!!」
「きさま!」

 父の顔を血が薄く滲んでいる。突撃をかけたとき、どこかを切ったのだろう。
 父と騎士は二人でもみ合いながら、大地を転げまわる。父の持つナイフを片手で押さえながら。騎士の抜いた短剣を片手で押さえながら。
 家族の血を目の当たりにして、エンリの頭の中は完全に白紙になった。父に加勢したほうがいいのか、それとも逃げた方がいいのか。

「エンリ! ネム!」

 母の叫びに意識を戻し、母が悲痛な顔を横に振る。
 エンリは妹の手を握ると駆け出した。後ろ髪を引かれないかというなら充分に引かれる。だが、早く少しでも早く大森林まで逃げ込まなくては。

 
 馬のいななきや悲鳴、怒声、金属音。そして――焦げ付くような臭い。
 村のあちらこちらからエンリの耳に鼻に目に――飛び込んでくる。どこからのものなのか。それを必死に感じ取ろうとしながら走る。広い場所を走るときは背を小さくして。家の影に隠れるように。
 体が凍りつくような恐怖。心臓が激しく鼓動を打つのは、走っただけではない。それでも動けたのは手の中にある小さな手。

 ――妹の命だ。

 多少先行し走っていた、母が角を曲がろうとして硬直、そして急に後ずさる。
 後ろ手にあっちに行け。
 その理由に思い至った瞬間、エンリは口をかみ締め、こぼれそうになった泣き声を殺す。

 妹の手を握って少しでもその場から離れようと走る。次に起こる景色を目にしたくないから。


 村の外れが近づいてくる。
 走るエンリは後ろで騒がしい金属音を聞く。その音は規則正しい。
 祈るような気持ちで後ろを一瞬だけ見る。そこには予想通り。最悪な予想通り、1人の騎士がエンリたちを追って走ってくる。
 あと少しなのに。吐き捨てたい気持ちを必死にこらえる。そんな余力は無いからだ。
 
 荒い息で呼吸を繰り返す。今にも力尽きて倒れてしまいそうだ。エンリが1人ならもう走れなかっただろう。ほとんど引っ張るような感じで走らせている妹の存在がエンリに力を与えてくれる。

 走りながら再びチラリと後ろを伺う。
 互いの距離は殆ど変わっていない。鎧を着ながらも、その速さに衰えは無い。
 汗が引き、全身を冷たい何かが襲う。これでは……妹を連れてでは逃げられない。
 
 ――手を離せ。
 
 エンリの耳にそんな言葉が聞こえた。
 
 ――1人なら逃げられるかもしれない。
 ――こんなところで死にたいのか?
 ――もしかしたら1人づつで逃げた方が安全かもしれない。

「黙れ、黙れ、黙れ!」

 エンリは歯軋りしながら呟く。妹の手を握る手により力を入れながら。
 なんという最悪な考えを浮かべる姉だ。
 
「早く、逃げるよ!」
「う、うん」

 妹が泣きそうな顔をしながらも決して泣かないのは何故か。
 それは簡単だ。エンリを信じてるからだ。姉ならきっとどうにかしてくれると信じてくれているからだ。

「あっ!」
 
 歩幅の大きいエンリに合わせてきた帳尻がついに合ったのか、妹が体のバランスを崩す。それに引っ張られる形でエンリも姿勢を崩した。

「早く立って!」
「うん」

 しかし、そのタイムロスは大きい。
 エンリの直ぐ側でチェインのきしむ音。息を僅かに切らせながら立っている騎士。その手に持った剣は血で濡れていた。それだけではない。鎧や兜にも血が跳ねた後がある。
 エンリは立ち上がった妹を後ろにかばいながら騎士をにらむ。 

「抵抗しなければ、苦しまず死ねるぞ」

 そこにあるのは優しさではない。嘲笑気味の感情だ。逃げても直ぐに殺せる。そう言いたげなぬめりつく様な口調。
 エンリの胸が一気に燃え上がる。何をこいつは言っているんだ、と。
 騎士は動くことを止めたエンリに対し、ゆっくりと手に持った剣を持ち上げる。上段に上げられた剣がエンリを切り裂くよりも早く――

「なめないでよねっ!!」
「ごがっ――」

 ――鉄でできた兜にエンリは思いっきり拳を叩き込む。全身に満ちていた怒りを、そして妹を守らねばという気持ちを拳に宿して。金属を叩くという行為に怯えは無い。全身全力を込めての一撃だ。
 骨が砕けるような音が体内から聞こえ、一瞬遅れて激痛がエンリの全身を駆けた。騎士は殴られた衝撃で大きくよろめく。

「――はやく!」
「うん!」

 苦痛をこらえ走り出そうとし――赤熱感をエンリは背中に感じた。

「――くっ!」
「きさまぁああ!!」

 嘗めて掛かった小娘に顔を殴られるなどという屈辱。それが騎士に冷静さを失わせていた。

 エンリが助かったのも騎士が冷静さを失い、逃げそうになっていたからとにかく剣を振ったという適当なものだったからだ。もうその幸運は無い。エンリは傷を受け、騎士は怒りを覚えた。もはやエンリが助かる道は無いだろう。 

 エンリだって充分に理解している。大森林に向ったって、逃げ切れる可能性は低いと。大森林までいくばくかの距離がある。馬を連れてるだろう騎士から逃げれるとはとうてい思えない。家に戻って地下の隠し倉庫に隠れるという手もある。だが、そんな甘いことは許してくれないだろう。
 それでも死ぬのはごめんだし、何より妹を預かっているのだ。命に代えても守ってみせる。
 心臓の鼓動にあわせて背中の灼熱感と激痛が強まっていく。ぬるりとしたものが背中を流れる。
 ――でもまだ走れる。
 エンリは歯をかみ締め、騎士から離れようとし――


 そして絶望を見た。




 そこには闇があった――。


 それは死の体現。決して勝ちえぬ存在。
 漆黒よりなお濃い黒のローブを纏い、異界から闇とともにこぼれ落ちたようだった。
 ほぼ骨しかない白骨死体を思わせる顔の、空虚な眼窟には濁った炎のような赤い揺らめきがあり、冷たく獲物を見据えていた。
 片手には神が持つような神々しくも恐ろしい、この世の美を結集させたような杖を握り締めていた。

 空気が凍りつく。
 絶対者の君臨を前に、時すらも凍ったようだった。

 エンリは一瞬呼吸を忘れた。
 自分も妹も殺される。だから自分だけにしか見えない、あの世への使者が姿を現した。
 エンリはそう思った。後ろの騎士が動きを止めるまでは。

「かぁ……」

 悲鳴ともいえない呼気が聞こえた。
 それは誰が漏らしたものか。自分のようであり、全身を震わせる妹のようであり、後ろで剣を持った騎士のようであった。痛みなんかもう感じない。それどころか、恐怖以外の何も感じれなかった。

 ゆっくりと、肉がこそぎ落ちた骨しかない指が伸び――そして何かを掴むように広げられた手はエンリを通り越し、騎士に突きつけられた。目を離したいのに、怖くて目を離すことができない。離したらもっと恐ろしいものに変化してしまうような気がして。

「ひぁ……」
 
 鉄と悲鳴が相まって耳障りな音となる。心臓の鼓動は激しく動きすぎて、今にも止まってしまいそうだ。

《――グラスプ・ハート/心臓掌握》

 死の体現が何かを握り締めるしぐさを取った瞬間、エンリの後ろで金属のけたたましい音がした。
 「死」から目を逸らすのは怖いが、心に宿ったほんの少しの好奇心に負け、後ろに視線をやったエンリは大地に伏した騎士の姿を捕らえた。騎士はもはや動くことをしない。
 死んだ。
 そう、死んだ。
 エンリに迫っていた危険は笑ってしまうほど簡単にこの世を去った。しかし喜ぶことなんてできない。なぜなら「死」は形を変え、より濃厚になっただけだ。
 
 「死」が動き出した。エンリに向って。
 視界の中に納まっていた闇が大きくなっていく。そのままエンリごと飲み込んでしまうのではないか、そんな思いが浮かぶ。
 エンリは妹を強く抱きしめた。
 もはや逃げるなんて頭には無かった。相手が人であればもしかしたらという淡い希望を抱いて動くことはできる。だが、眼前にいる存在はそんな希望を簡単に吹き飛ばしてしまう存在だ。
 一瞬で痛くないよう死ねますように。そう願うのがやっとだ。
 エンリの腰元に抱きつきガタガタと恐怖に怯える妹。助けてあげたいのに、助けることができない。自分の無力を謝るしかできなかった。せめて自分が一緒に逝く事で寂しくないように。

 そして――

「え?」 

 ――エンリは間抜けな声を上げた。

 「死」はエンリの横を通りすぎていったのだ。






――――――――
※ 「死」が強そうな雰囲気がでてれば上手くいってる感じです。実際強いですけど。
   最強ものっぽいですか? まだ分からないですよねー。
   
   では、さらばモモンガ君、無茶しやがって(AA略 な「08_戦火2」でお会いしましょう。



[18721] 08_戦火2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/02/22 19:59



 モモンガは豪華な椅子に座りながら1メートルほどの鏡を見ていた。そこに映っているのは自らの姿ではない。
 草原だ。まるでその鏡がテレビであるかのように別の光景が映っていたのだ。
 
 手を伸ばし、右に動かす。
 カメラが動くように鏡に映っている光景も横にスライドしていった。スタッフは邪魔になるので先ほどアイテムボックスに突っ込んだ。
 
 遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>。
 ユグドラシルではこのアイテムは城や街という人が混む特定の場所を覗いて、買い物がしやすい時間帯を見計らう程度の魔法のアイテムだ。しかし今では外の風景をたやすく映し出すことを可能とするアイテムへと変化していた。
 
 映画に出てきそうな草原を俯瞰するように、光景は流れていく。
 すでに映る景色は朝。朝露で濡れた草々が朝日を反射し綺麗に輝いている。

「ふむ」

 モモンガは空中で円を描いたりしながら、景色を色々と変化させてみる。
 このマジックアイテムの効力が変わったのに気づいてから1時間。色々と試行錯誤を繰り返しながら動かしているものの、人間を1人も今だ発見できていない。
 正直、飽きてきた。

 この体になってから睡眠欲をこれぽっちも感じない。そのため黙々とウォーリーを探すような作業を繰り返してきたのだが、映るのが殆ど代わり映えの無い草原ではやる気も萎えてしまう。
 どうにかして俯瞰の高さをより高くしなくては。説明書があればと思いながら作業を繰り返す。

「おっ!」
 
 煮詰まって適当にいじったらなんだか上手く動きました、という残業8時間目に突入したプログラマーの喜びの声に似たものをモモンガはあげた。それから何度か同じような動きを繰り返し、ようやく俯瞰の高さ調節をやっと発見する。

「はー、疲れた」

 喜びついでに別にこっているわけではないが、頭を回してみたりする。

「さてさて」

 新しいおもちゃを手にしたモモンガは一気に俯瞰を拡大。かなりの範囲を捕らえようとする。
 まずは自らの本拠地、ナザリック大地下墳墓を映し出してみる。
 ユグドラシル上では毒の沼地の真っ只中にあったそれは、セバスが言っていたとおり周囲を草原に囲まれていた。

 ナザリック大地下墳墓の地表部分は300メートル四方の広さを持つ。
 周囲は6メートルもの高さの厚い壁に守られ、正門と後門の2つの入り口を持つ。
 下ばえは短く刈り込まれ、綺麗なイメージを持つが、その一方で墓地内の巨木はその枝をたらし、陰鬱とした雰囲気をかもしだしていた。
 墓石も整列してなく、乱雑さが下ばえの刈り込み具合と相まって強烈な違和感を生み出している。その一方で天使や女神といった細かな彫刻の施されたものも多く見られ、一つの芸術品として評価しても良い箇所もところどころある。
 そして墓所内には東西南北の4箇所にそこそこの大きさの霊廟を構え、中央に巨大な霊廟があった。
 ナザリック大地下墳墓の入り口たる、中央の巨大な霊廟の周囲は、10メートルほどの鎧を着た戦士像が8体取り囲んでいた。
 
 良く見慣れた光景である。それでも俯瞰してみるとまた新鮮なものを感じる。
 本来なら隊列を組んで墓場を警戒しているスケルトン・ソルジャーにも似た、オールド・ガーダー達がいるはずだが、現在は後退させているのか姿が見えない。

 そんな光景に満足したモモンガは本腰を入れて人のいる場所を探すことに着手した。

 ほんの少しの時間が流れて、村のような光景が鏡に映った。
 ナザリック大地下墳墓からおよそ南西に2キロほどだろうか。近くには森があり、村の周囲を麦畑が広がる。まさに牧歌的という言葉が似合うそんな村だ。

 モモンガは村の風景を拡大しようとして、違和感を抱いた。
 
「……祭りか?」

 朝早くから人が家に入ったり出たり、走ったり。なんだかあわただしい。
 俯瞰図を拡大し、モモンガは眉を顰めた。
 村人と思しきみすぼらしい人々に騎士風の格好をした者が手に持った剣を振るっていた。
 一方的な光景。騎士達が剣を振るうたびに1人づつ村人が倒れていく。村人達は対抗手段がないのだろう。必死に逃げ惑うだけだ。それを追いかけ殺していく騎士達。麦畑では騎士が乗っていたであろう馬が麦を食べている。
 これは虐殺だ。
 モモンガはその光景に胸がむかつく気分を覚えた。

「ちっ!」

 吐き捨て、光景を変えようとする。もう、この村には価値は無い。行った所で死体を見るだけだ。ならばいつまでも見ていることは無い。人の死を見物するなんていう下種な趣味は、モモンガは持ってはいないのだから。


 モモンガは正義の味方ではない。
 レベルが100だが、それでもデミウルゴスに言ったようにこの世界の一般人のレベルは10000なのかもしれない。そんな危険な場所に飛び込むことはできない。セバスなりデミウルゴスなりがこの部屋にいたなら送っても良かっただろう。だが、今この部屋にいるのはモモンガ1人だ。
 それに一方的に騎士が村人を殺しているが、これだって何らかの理由があるのかもしれない。病気、犯罪、見せしめ。色々な理由が思いつく。これで横から騎士を撃退したら、この騎士が仕えている国を敵にまわすかもしれない。
 まだ情報が少なすぎるのだ。もしもっと情報を得ていたら、助けに行く価値があったかもしれない。
 だが、今の状態ではこの村を救う価値は無いのだ。

 命の価値は場所や時代によって違う。現代日本であれば命は高い価値があるだろう。だが、その一方アフリカまで行けば命の価値はぐっと落ちる。
 命が平等なんて世界を知らない人間の発言にしか他ならない。自分の大切な人と見も知らない人、助けるならどっち、だ。
 この世界の命はこれだけ簡単に奪われるものなんだ。それを記憶にとどめておくべきだろう。


 そう――


 ――モモンガは正義の味方ではないのだ。

 冷静さを維持していると自分では思っていたものの、実際は動揺していたのだろう。手がすべり、村の別の光景が映る。

 そこには2人の騎士がもみ合う村人と騎士を引き離そうとしているところだった。無理矢理引き離され、両手をつかまれたまま立たされた村人。モモンガの見ている前で村人に剣が突き立つ。1度、2度、3度――。怒りをぶつけるかのようにしつこく繰り返される。
 やがて騎士に蹴り飛ばされた村人は、血を撒き散らしながら大地に転がった。
 
 そのとき勿論、偶然だろう。
 ユグドラシルではこの鏡を使っていても誰も気づかないようにできていたのだから。
 
 ――村人とモモンガの目が合った。合った気がしただけかもしれないが――。
 村人は口の端から血の泡をこぼしながら、口を必死に動かす。もう、視線はぼやけ、どこを見ているかも分からない。それでも生にしがみつき、言葉を紡ぐ。


 ――娘達をお願いします――
 

 繰り返すようだがモモンガは正義の味方ではない。己の利益がこれっぽちも無く、知人でもない人物を助けるなんという行為は決してしない。利益がすべてとは言わないが、半分以上はそれが占めている。

 だが、それは――
 
 利益があるなら――人助けをするということだ。


「どちらにせよ、戦闘能力をいつかは調べなくてはならないわけだ」

 誰に対しての言葉なのか。
 呟くとモモンガは村の光景を見渡す俯瞰まで拡大。鋭く視線を送り、生きている村人の居場所を見つけようとする。
 ある箇所を映したとき、1人の少女が騎士を殴り飛ばす光景を目にした。そして妹だろうか、より小さい女の子を連れて逃げようとする。
 即座にアイテムボックを開き、スタッフ・アインズ・ウール・ゴウンを取り出す。
 その間に少女が背中を切られた。モモンガの顔が嫌悪に歪む。魔法は瞬時にモモンガの口から滑り落ちた。

《――グレーター・テレポーテーション/上位転移》


 視界が変わり、予定通り先ほどのまで俯瞰していた場所に出る。

 そこにいたのは2人の少女。
 姉なんだろうか、年上のほうは栗毛色の髪をみつあみにして胸元ぐらいの長さに伸ばしている。日に焼けて健康的な肌は恐怖のためか白い。黒い瞳には涙を浮かべ、恐怖に引きつっているのでなければ可愛いだろう顔立ちをしている。
 妹の方は姉の腰に顔をうずめ、怯えが全身の震えとなって現れていた。よほど怖かったのだろう。――いや、当たり前だ。怖くない方が変だ。

 2人の少女を越え、後ろにいる騎士に視線を送る。
 突然転移してきたモモンガに驚いているのだろう。動揺が手に取るように分かる。

 モモンガは暴力とは無縁な生活をしてきた。せいぜいユグドラシルでの戦闘ぐらいか。
 本当の生と死に触れたことなんかほぼ無いのに、今は非常に落ち着いている。

 何も持っていない手を広げ――伸ばす。


《――グラスプ・ハート/心臓掌握》

 魔法の1~10の位階で言うところの9位という高位に属する魔法。心臓を握りつぶし即死させる魔法だ。抵抗した場合はダメージを与え、一時的に朦朧状態にして行動不能とする。
 即死魔法に長けたモモンガが良く使う攻撃魔法の1つだ。特に綺麗な死体――データが残るため。

 騎士が崩れ落ちる。抵抗に失敗したのだろう。なら即死だ。
 モモンガは大地に転がる騎士を冷たく見下ろした。

 意外に――人を殺してもなんとも思わないな。

 死体が綺麗だからか。それとも騎士達がやっている行いに腹を立てているからか。
 ――いや、もっとべつの何かのような気がする。それが何かモモンガには分からない。ここまで出ているのに最後の一歩が出てこないような、そんな苛立ちをかすかに覚える。

 モモンガは歩き出す。騎士が死んだことに怯えているのだろう、2人の少女の横を通り過ぎる。そのとき姉のほうからかすかな困惑の声が漏れた。それがどういう意味を持ってのことかはモモンガには分からないし、理解する必要を感じない。とりあえずは今はこの場の安全の確保が先決だ。
 
 姉の方のみすぼらしい服が裂け、背中の辺りが血でにじんでいるの軽く確認しながら、モモンガは2人の少女を自らの後ろに隠す。そして近くの家の脇から出てきた新たな騎士を鋭く睨む。
 騎士もモモンガに気がついたのだろう。おびえたように1歩、後退した。

「……女子供は追い回せるのに、毛色が変わった相手は無理なのかな?」

 口の中でつぶやくと、モモンガは次に放つべき魔法の選択に入る。
 先ほどのはかなり高位の魔法だ。それではこの騎士達がどれほどの強さなのか、計る事ができない。自らの魔法がどの程度騎士達に効果的なのか。
 この世界の強さを――ひいては自分の強さを確かめる良いチャンスだ。

「――せっかく来たんだ、実験に無理矢理で悪いがつきあってもらうぞ?」

《マジック・アロー/魔法の矢》

 10の光球が生まれ、残光を引きながら騎士に殺到する。一撃で大きく吹き飛び、2撃目で軽く中空に持ち上がる。残った光球が持ち上がった騎士に群がった。それはまるで格闘ゲームで上空に上げた相手にコンボを決めるような光景だった。
 ガラクタ人形のように四肢を投げ出し、騎士は大地に落ちる。当然ピクリとも動かない。

 追撃の一手を準備しようとしていたモモンガは呆気に取られた。
 マジック・アローは1位――最下位の無属性攻撃魔法だ。確かにレベルに応じて光球の数を増やすため、使い勝手は悪く無い魔法だが、それでもレベル10以上のモンスターを一回で殺すことは難しい。
 
 では騎士はユグドラシルで言うところのレベル10以下なんだろうか……。
 
 ……そうとしか考えられない。

 力が抜けていく。弱すぎる。
 無論、先の2人が弱いという可能性はある。それでも抜けた緊張感を取り戻すのは難しい。
 とはいえ、危険と分かれば直ぐに転移魔法で撤退するつもりではあるが。それに防御力と体力は無いが攻撃力は非常に高いとか、モモンガ自体の体力が一撃で殺される程度しかない、ということが充分に考えられる。
 ユグドラシルなら首を切りつけられてもクリティカルヒット扱いで、ダメージ量が大幅に増えるだけだが、現実世界なら即死だ。
 モモンガは抜けた緊張感の代わりに警戒心を働かせる。油断による死なんか馬鹿のすることだ。
 まずはもっと力を試してみるべきだ。

 モモンガは自らの特殊能力を解放する。

 ――上位アンデッド作成 デス・ナイト――

 モモンガの得てきている特殊能力の1つにアンデッドを作成するというものがある。それほど強くないアンデッドを生み出す能力だが、壁としての使い勝手はいいのでよくソロで冒険するときは使っていたものだ。
 デス・ナイトはその中で壁として一番使ってきたアンデッドモンスターだ。
 レベル的には35だが、防御能力に長けておりレベル40のモンスターに匹敵する。その分攻撃能力は低くレベル25のモンスター級だ。モモンガが冒険する難度のモンスター相手では一撃で殺されてしまうが、それでも一撃耐えてくれるというのは魔法職にとっては充分ありがたい。
 
 今から作成しようとしているモンスターはその程度だ――モモンガからすれば。

 ユグドラシルでは召還と同時に瞬時にモモンガの周りに空中から沸き立つように出てくる。
 だが、この世界では違うようだ。

 黒い靄のようなものが中空から滲み出、その靄は心臓を握りつぶされた騎士の体に覆いかぶさるように重なった。
 靄が膨れ上がり――騎士に溶け込んでいく。そして騎士が人間とは思えないギクシャクとした動きで、ふらりと立ち上がった。
 ゴボリという音がし、騎士の兜の隙間から黒い液体が流れ出す。おそらくは口から噴きだしているのだろう。
 流れだした粘液質な闇は、尽きることなく全身を覆いながら包み込んでいく。その光景はスライムに捕食される人間を思わせた。

 完全に闇が騎士を包み込み、形が歪みながら変わっていく。

 ほんの瞬き数度の時間の経過後、闇が流れ落ちるように去っていき、そこに立っていたのは死霊の騎士とも呼ぶべき存在だった。

 身長は2.3メートル。身長と同じように、体の厚さも爆発的に増大している。人というよりは獣というほうが正しいほどだ。
 左手には体を3/4は覆えそうな巨大な盾――タワーシールドを持ち、右手にはフランベルジェ。本来なら両手で持つべき1.3メートル近い刃物が、この巨体は片手で容易く持っている。波打つ刀身には赤黒いおぞましいオーラがまとわりつき、心臓の鼓動のように蠢く。
 巨体を包むのは黒色の全身鎧。血管でも走ってるかのように真紅の文様があちらこちらを走っている。さらには先ほどの騎士のような機能性を重視したものとは違い、棘を鎧の所々から突きたてたまさに暴力の具現だ。
 兜は悪魔の角を生やし、顔の部分は開いている。そこにあるのは腐り落ちかけた人のそれ。ぽっかりと空いた眼窩の中には生者への憎しみと殺戮への期待が煌々と赤く灯っていた。
 ボロボロの漆黒のマントをたなびかせながら、デス・ナイトは命令を待つ。その姿勢はまさにアンデッドの騎士にふさわしい堂々としたものだ。

「この村の中のあのような騎士――」モモンガは先ほどマジック・アローを放った騎士の死体を指差す。「――を殺せ」
「オオオァァァアアアアアア――!!」

 咆哮――。
 聞くものの肌があわ立つような叫び声が響く。殺気が巻き散らかされ、ビリビリと空気が振動する。


 虐殺が別の虐殺へと変わる瞬間の号砲だった。
 刈るものが反転――獲物となったのだ。

 
 デス・ナイトが駆け出す。その動きはまさに疾走。獲物の場所を認識している猟犬のように迷いの無い走りだ。人では理解できない感覚――死者の生者に対する憎悪という知覚能力が働いているのか。

 モモンガは瞬く間に小さくなっていくデス・ナイトの後姿を見送りながら、まざまざとユグドラシルとの違いを見せ付けられていた。
 
 違いを一言で述べるなら自由度の違いだ。
 
 本来、デス・ナイトは召還者たるモモンガの周辺に待機し、襲ってきたモンスターを迎撃するためのものだ。あのように命令を受諾し、自ら行動を起こすようなものではない。AIがそのように組み込まれているから仕方が無いのだが。
 
 違いが足を引っ張らなければ良いが……。知っていると思ったことがそうでなかった時、人は大きな失敗を犯す。先入観からのミスだ。誰でも一度は犯したことがあるだろうミスは、今現在のモモンガの状況を考えるなら致命的な危険になりかねない。
 モモンガは眼を細め、右腕につけた腕輪に込められた魔力を解放する。
 発動する魔法は《センス・エネミー/敵感知》。結果、周囲に敵意の影なし。

「さて……」

 モモンガはくるりと振り返る。先にいた2人の少女がモモンガの無遠慮な視線にさらされ、身を縮め、その体を少しでも隠そうとした。ガチガチと体が震えているのは、デス・ナイトの姿をモモンガの横から見てしまったためか。それともあの咆哮の所為か。

 それにまぁ、目の前で騎士を殺した相手だ、恐怖を覚えるのも理解できる。
 モモンガはそう納得し、姉に向けて手を伸ばす。傷を治してやろう、そう思っての行動だ。

 ……ユグドラシルというゲームに慣れたモモンガにとっては、オーバーロードという外装はそれほど驚くようなものではない。他のプレイヤー達の前に立っても驚くような相手はいないだろう。
 それは皆がゲームだと認識しているし、そういう外装やモンスターがいると情報として知っているからだ。

 だが、だ。少し想像して欲しい。もし仮にそんなことを知らない人間だったら? もし仮に現実世界だったら? 簡単に人を殺す化け物が目の前で自分に手を伸ばしてきたら?

 その反応はたった1つだった。
 姉の股間が濡れていく。それにあわせ妹も――。


「…………」
 
 周囲に立ち込めるアンモニアの臭い。怒涛のごとく押し寄せてくる感じないはずの疲労感。モモンガをして、どうすれば良いのか分からなかった。

「……怪我をしているようだな」

 だが、社会人としてモモンガのスルー能力は鍛えられている。見なかった振りをして、アイテムボックスを開き、中から背負い袋を出した。無限の背負い袋<インフィニティ・ハヴァサック>――名前に反し、重量にして500キロまで入る袋だ。
 無限に物がしまえるアイテムボックスがあるのに、何でこんなアイテムがあるのかというと、この袋に入れてあるアイテムはショートカットに登録することができるのだ。逆にアイテムボックスのアイテムはショートカットに登録できない。
 瞬時に使いたいアイテムをこの袋に入れるのは、ユグドラシルに慣れていない素人でも知っている基本のことだ。
 
 モモンガの持つインフィニティ・ハヴァサックの1つ。その中にポーション系アイテムを溜め込んでいたはずだ。
 
 手をいれ、中から1本の赤いポーションを間違いなく一回で取り出す。
 下級治癒薬<マイナー・ヒーリング・ポ-ション>。
 ユグドラシルではHPを50ポイント回復させる、最初期に何度と無くお世話になる薬だ。しかしながらこれは、モモンガにとっては不要なアイテムだ。なぜなら正のエネルギーによって治癒するこの手のポーションは、アンデッドであるモモンガにとっては逆にダメージを与える毒薬となるからだ。
 そんな毒薬をモモンガが持っていたのは、かつて仲間達と冒険をしていた頃のパーティーメンバーに使用していたものの残りだからだ。

「飲め」

 赤い薬を無造作に突き出す。姉の顔が恐怖に引きつった。 

「の、飲みます。だから妹には――」
「お姉ちゃん!」

 姉を止めようと泣きそうになる妹。妹に謝りながら取ろうとする姉。
 もしや毒とか、人間の血とかと勘違いしているのか。

「……なんだ、これは」

 周囲ではまだ人が死んだり、殺したりしているはずなのに。ほとんどのことを理解しているモモンガからすればどういう喜劇だと、苛立ちが湧き上がる。

「とっとと飲め。ここで私が遊んでいる間に村人は殺されてるんだぞ」

 その言葉に反応し、姉は目を見開くと、慌てて一息でそれを飲み干す。
 そして驚きの表情を浮かべた。
 自らの右手を触り、続けて背中を触る。痛みが無いことに驚いているのだろう。

「うそ……」

 信じれないのか、何度か自分の右腕を触ったり叩いたりしている。
 
 治癒のポーションは飲んだ場合は効果がある。モモンガはその情報を記憶に留めておく。次に生まれた疑問。傷口にかけたらどうなるのか、も調べる必要があるだろう。

「痛みは無くなったな?」
「は、はい」

 ポカーンという顔が表現として最も近い顔でうなづく姉。
 あの程度の傷ならマイナー・ヒーリング・ポ-ションで充分ということか。納得したモモンガは続けて質問をする。これは絶対に避けることのできない質問だ。この答え如何ではこれからの行動のすべてが変化してしまう。

「お前達は魔法というものを知っているか?」
「え?」
「魔法を使う人間を見たことがあるかと、聞いているんだ」
「いえ、見たことは無いです……」

 舌打ちを我慢して押し殺すモモンガ。魔法が秘匿されているならまだ良い。だが、この世界で魔法を使う存在がモモンガとその部下だけだったら色々な面で厄介ごとが押し寄せてくるのは間違いが無い。
 そうなるとできる限り魔法の使用は制限しないといけなくなる。自分の持つアドヴァンテージが抑圧されるというのは嬉しいことではない。
 姉が何か言いたそうに口をもごもごしているを見て、モモンガは顎で続けるように指示する。

「……でも」
「なんだ?」
「そんな力を持っている人が街とかにはいるって聞いたことが……」
「……そうか、なら話が早いな。私は魔法使いだ」

 多少の安堵を込め、モモンガは魔法を唱える。

《アンティライフ・コクーン/生命拒否の繭》
《ウォール・オブ・プロテクションフロムアローズ/矢守りの障壁》
 
 透き通った蜘蛛の糸のような細い糸が、姉妹を中心に半径2メートルのドームを作り出す。続けて唱えた魔法は目に見える効果は現れないが、空気の流れがかすかに変化した。本来であればここに対魔法用の魔法を唱えれば完璧だろうが、この世界にどのような魔法があるか不明なため、唱えたりはしない。もし魔法使いが来たら不幸だったと思ってもらおう。

「生命を通さない守りの魔法と、矢を防ぐ魔法だ。相手が毒ガスか魔法でも使ってこない限りはそこにいれば安全だ。――それと、そこから出ることは容易だ。だが、勝手なことをするのなら私は2度と助けないと知れ」

 驚く姉妹に簡単に魔法の効果を説明するとモモンガは歩き出す。記憶にある村の全体像を思い出しながら。

「あ、あの――」
「――なんだ」
 
 ――歩き出そうとして姉に呼び止められる。モモンガは怒鳴りつけたくなる気持ちを喉の奥に飲み込んだ。あの姉妹も恐らくは犠牲者だ。もしかしたら家族を失っているかもしれないし、知り合いだって亡くしているだろう。そんな子供に自らの苛立ちをぶつけるには少々酷過ぎる。

「お、お名……」ごくりと喉を鳴らし、少女は聞いた。「お名前はなんとおっしゃるんですか――」
 


 名前を名乗ろうとして口を閉ざす。
 なんと名乗るべきか。モモンガはアインズ・ウール・ゴウンのかつてのギルド長の名前。では今の自分はなんだ。ナザリック大地下墳墓の主人たる自分の名は……。


 モモンガは思う。
 
 友達たちよ――。
 あの誇りある名前をたった1人が独占することを皆はどう思うだろうか。喜ぶだろうか。それとも眉を顰めるだろうか。
 ならばここまで来て、言って欲しい。その名前はお前1人の名では無いと。そのときは快くモモンガに戻ろう。
 それまではこの名において最高峰の存在を維持してみせる。スカスカになった遺物ならば、中身を詰めて再び伝説とする。
 この世界においても俺達のギルドを伝説のものとする。














「――我こそがナザリック大地下墳墓が主、アインズ・ウール・ゴウンだ」






――――――――
※ やっと名乗りました。モモンガを名乗っていたからこそ引き立つ名前と最初っから考えていたのですが、どうでした? ベタ展開で予測していた人も多いのではないでしょうか?

  それとどうでしょう。俺、Tueeee!! ですか? 肩透かしを食らいましたか? 
  最強ものかどうか、匂いが漂いだしたかどうか、評価をいただけると嬉しいです。

  単純に相手が弱すぎるということもあって、戦闘シーンどうしようもないです。一撃で殺せるしな……。大軍とかじゃないと……あれ、大軍でも秒殺じゃね? そりゃ設定上、この世界においては「映画でよくある人類絶滅のため落ちてくる隕石」級魔法使いだからなー。どうやって最強を表すか、ちょっと考えます。
 
  強すぎるがゆえに強さを表現できないって……。文才の無さには呆れんばかりです。でも、俺Tueeee!!を目指して頑張っていきます。
 
  では次回、デス・ナイトたんが活躍する09_絶望でお会いしましょう。



[18721] 09_絶望
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/09/19 18:28




「オオオオァァァアアアア!!」

 ビリビリと大気が震える。それに合わせ眼前の化け物――デス・ナイトが一歩前進した。
 我知らずに2歩後退してしまう。
 鎧が小刻みに震え、カチャカチャと耳障りな音を立てる。
 両手で構えた剣の先も大きく揺れる。無論1人ではない。デス・ナイトの周りを囲む、18名の騎士のすべてからだ。
 誰1人として逃げ出さない。それは勇気があるからか? 
 それは違う。目の中に入れておかないと怖いのだ。一瞬でも目を離した瞬間持っている剣で切り裂かれる。それが生物が持つ直感でどうしようもなく理解できるのだ。

 ガチガチという歯がぶつかり合う音がそこらかしこから聞こえる。

 ロンデス・ディ・グランプは己の信仰する神への幾度かになる罵声を呟く。恐らくこの数十秒で一生分以上の罵声を飛ばしただろう。神が本当にいるならまさにいまこそ現れ、邪悪を消去すべきではないか。何故、敬遠なる信徒であるロンデスを無視するのか。

 神はいない。
 そんな戯言を囀る無心者を馬鹿にしてきたが、本当に愚かだったのは自分では無いだろうか。

「ひぁあああ!」

 箍が外れたような甲高い悲鳴が辺りに響く。円陣を形成していた騎士の1人が圧倒的恐怖に耐えかね、声を上げながら後ろを見せて逃げ出す。
 何かの線が切れれば、ギリギリと音が鳴るほどまで引き絞られた緊張感は、一気に崩壊へと流れるだろう。普通ならそうだ。だが円陣を構成する騎士の中に1人も共に逃げようとする者はいなかった。
 
 黒い風がロンデスの視界の隅で巻き起こった。 
 逃げ出した騎士は元いた場所より3歩目を歩こうとして、おぞましい音を立てた後2つに分かれる。
 右半身と左半身に別れ、大地に転がった。噴きあがった血が騎士を切り裂いた存在を濡らす。臓物の酸っぱいような臭いが周囲に広がり、ピンク色の内臓がどろりと断面からこぼれ落ちた。

「クゥウウウ」

 フランベルジェを振り下ろした姿勢で、血を浴びたデス・ナイトの目が細まり、高く唸った。

 喜悦の声――。
 喜んでいるのだ。ロンデスの仲間を殺し、その血を浴び――。
 腐り落ちかけた人の顔でもそれぐらいは読み取れる。デス・ナイトは楽しんでいるのだ。

 自分達よりも絶対的上位者――殺戮者がそこにいた。

 ロンデスは救いを求め、視線をわずかに動かす。
 そこは村の中央。広場として使われるその場所の周りに、ロンデスたちが集めた40人弱の村人たちがおびえた表情でこちらを伺っていた。何かあったときに使用される、ちょっとだけ高くなった木でできた質素な台座の後ろに子供達を隠し。
 幾人かは棒を持っているが構えてはいない。あまりの怯えのため、握っているのが精一杯なのだ。 


 ロンデスたちはこの村を襲撃した際、四方からこの中央に集まるように村人を駆り立てた。
 空になった家は家捜しをした後で、錬金術油を流し込んでから焼き払う。地下の隠し部屋はこういう村にはよくあるのだから。
 村の周囲には馬に乗ったままの騎士が4人弓を構え、警戒に当たっている。仮に村の外に逃げたとしても確実に殺せるようにだ。近くにある障害物が多い大森林に逃げるという方法は村人だって当然考えることだろう、だからこそそちらの方面には騎士を2人配置してある。
 虐殺は多少手間取ったりもしたが順調に進み、村人の生き残りを順調に一箇所に集めつつあった。
 
 集めたら後は適度に殺して、幾人か逃がして終わり――そのはずだった。
 
 ロンデスはその瞬間を覚えている。
 強烈な印象を与えたあの光景。

 遅れて広場に逃げ込もうとした村人の1人を、後ろから切りつけようとした仲間の騎士――エリオン。彼が中空に舞ったのだ。何が起こったのか、あまりに非常識すぎて理解できなかった。
 全身鎧――魔法によって軽量化されているといっても10キロ。騎士として鍛えられた成人男性の体重が80キロ。最低でも90キロ近い重量の存在がボールのように浮かんだのだ。
 エリオンは7メートル以上吹き飛び、地面に落ち、それからピクリとも動かない。

 そしてエリオンがいた場所に黒く巨大なものがいた。エリオンを吹き飛ばした巨大な盾をゆっくりと下ろしながら。

 それが絶望の始まりだった。
 
 最初は怯えながらも切りつけた。
 しかしその身をまとう鎧には、相手の攻撃や盾の防御を幸運にも抜けて切り付けても、傷一つ付かない。
 それに対しデス・ナイトは剣を使わずに、盾で遊ぶように――いや事実遊びながらロンデスたちを吹き飛ばした。死なない程度の強さでだ。
 ロンデスも一撃だけ吹き飛ばされた。そのときの痛みがわき腹から呼吸をするたびに上ってくる。

 デス・ナイトが剣を振るったのは2度。
 逃げようとした騎士がいた場合だ。
 最初に逃げようとしたのはリリク。気立ての良い――でも酒癖の悪い男が一回の瞬きの間に、四肢をそして最後に頭を切り飛ばされた。
 そのときの疾風といっても良いだけの動きで、頭ではなく心で理解できてしまったのだ。
 あのデス・ナイトが本気を出せば、全員で四方に散っても追いつかれ殺されると。
 
 死ぬしかない。
 兜の下に隠れて見えないが、皆が皆同じことを考えているだろう。

 辺りに響くすすり泣く声。成人した男達があまりの恐怖に子供のように泣いているのだ。

「神よ、お助けください……」
「神よ……」

 幾人から嗚咽に混じって呟くように聞こえてくる。ロンデスも気を抜くと、跪き、神へ祈りとも罵声ともしれないものを送ってしまいそうになる。

「き、きさまら! あの化け物を抑えよ!!」

 引きつるような声がした。音程の狂った賛美歌のような耳障りな声。
 それは真っ二つにされた騎士の――デス・ナイトの直ぐ傍にいた騎士が上げたものだ。あまりの声質の変化にそれが誰か分からなかったが、あんな口調で喋る男は1人しかいない。

 ……ベリュース隊長。
 ロンデスは眉を潜めた。
 
 性質は1言で表すならカスだ。
 娘が逃げていくところを下種な欲望を感じ追いかけてみたら、父親だろう村人ともみ合って、助けを求める。引き離してみれば、八つ当たりの感情で村人に何度も剣を突き立てるような――そんな男だ。
 だが、国ではある程度の資産家で、この部隊にも箔を付ける為に参加した、隊長なんて言葉はこいつのためにあるんじゃない。それぐらい隊でも嫌われている。

「俺は、逃げるぞ! こんなところで死んでいい人間じゃない! おまえら、時間を稼げ! 俺が逃げる時間を稼ぐんだ!」

 誰も動くわけが無い。当たり前だ、今はどうすればあのデス・ナイトが自分を目標にしないか、頭を下げて嵐が通り過ぎるのを待つような状況。特に好かれてもいない男のために命を懸けるものか。

「ひぃいいい!」
 
 デス・ナイトがゆっくりとベリュースに向き直る。
 あんな近くで叫べただけ大したものだ。以外に肝っ玉が据わっていたのか? ロンデスはあまりにも暢気なことを考えてしまう。

「かね、かねをやる。200金貨! いや、500金貨だ!」

 かなりの大金だ。だが、それは500メートルの高さの絶壁から飛び降りて助かったら金をやるといっているのと同意語だ。
 誰も動こうとはしない。
 いや、たった1人。半分だけ動いたものがいた。

「オボボオオォォオオ……」

 左右に分かれた騎士の右半身だけが動き出し、口から血の塊を吐き出しながら、ベリュースの足首を掴んだのだ。

「――おぎゃああああ!!」

 ベリュースの絶叫。周囲を取り囲む騎士、その光景が見えていた村人達の体が引きつる。


 モモンガ――アインズならば驚くほどのことではない。
 従者の動死体<スクワイア・ゾンビ>。
 デス・ナイトの剣による死を迎えたものは永遠の従者になるという。ユグドラシルでは、デス・ナイトがモンスターを殺した瞬間、同じ場所に殺したモンスターと同レベルのアンデッドが出現するようシステム上設定されている。
 ユグドラシルというゲームを知っているものなら何でもない光景だが、何も知らないものからすれば悪魔の所業だ。


 ベリュースの絶叫が止み、糸が切れたように仰向けに崩れ落ちる。気を失ったのだろう。デス・ナイトは無造作にベリュースの横に立つと、その漆黒の具足をベリュースの胸に下ろした。
 その足にすさまじい力が掛かっていくのがはたから見て理解できた。留め金がはじけとび、金属の鎧がミシミシと悲鳴を上げる。

「――お、おおぁぁあああああ!」
 
 苦痛で意識を取り戻したベリュースの絶叫――。

「たじぇ、たじゅけて! おねがいします! なんでもじまじゅ!」
 
 両手で必死にデス・ナイトの具足を除こうとするが、胸から生えたかのごとくピクリとも動いていない。

「おかね、おあああ、おかねあげまじゅ、おええええ、おだじゅけて――」

 金属の悲鳴が止み、木の枝をへし折るような軽い音がいくつも響き、それから周囲に血が飛び散った。ベリュースの声は無論、途切れた――。

「……やだ、やだ、やだ」
「かみさま!」
 
 その光景に錯乱したように悲鳴が騎士の間からいくつも上がった。逃げたいがその瞬間殺される。でもここにいたら死より惨いはめになる。思考は回転し、体は動かない。

「――落ち着け!!!」

 ロンデスの咆哮が悲鳴を切り裂いた。時が止まったような静けさが生まれる。

「――撤退だ! 合図を出して馬と弓騎兵を呼べ! 残りの人間は笛を吹くまでの時間を稼ぐ! あんな死に方はごめんだ! 行動開始!」

 騎士は一斉に行動を開始した。白紙になった頭に命令が入ったことによって、それだけを考える脳になったがゆえの完璧な行動だ。これほどの一糸乱れぬ動きは二度と出来ないだろう。
 連絡を取りあうための笛を持ってきている騎士の数は3人。現在、この場に来ているのは1人。この1人を守らなくてはならない。
 数歩下がった騎士が剣を放り捨て、背負い袋から笛を取り出し始める。

「オオオオァァァアアアア!!」

 それに反応するようにデス・ナイトが駆け出す。――目標は笛を持った騎士。何をしようとしているのか理解している、それは充分な知能があって行動だ。

 漆黒の弾丸は飛ぶかのごとく肉薄する。何人もその前に立ちふさがれば弾き殺されるだけだ。それは誰の目から見ても当然のごとく映る。しかしながら騎士達はその前に壁となって立ち塞がろうとした。恐怖をより強い恐怖が塗りつぶして動いているのだ。

 盾が振るわれ、騎士の1人が吹き飛んだ。
 剣がきらめき、騎士の1人の上半身と下半身が分かれる。

「デズン! モーレット! 剣で殺された奴の首をはねろ、早くしないと化け物になって蘇るぞ!」

 名を呼ばれた騎士が慌てて殺された騎士の元に向かう。
 
 再び盾が振るわれ、騎士の1人が吹き飛び、上段から振るわれた剣が受けた剣ごと騎士の体を2つにした。
 ロンデスは漆黒の暴風が眼の前に駆けてくるのを殉教者の心で待ち構える。

「おおおお!!!」

 そしてフランベルジェが振るわれ、ロンデスの視界がくるくると回る――。
 眼下に頭を失い、崩れ落ちる自らの体があった――。
 
 それと時同じく、角笛の音が高らかに響き渡った――。



 村の方角から聞こえてきた角笛の音にアインズは頭を上げた。
 つい色々と確かめるのに夢中になりすぎたようだ。アインズは反省しつつ、腹部に突き刺さった剣を無造作に引き抜く。その行為に痛みは無い。
 抜けた剣の刀身に血も何もついて無い。未使用品状態だ。
 これは上位・ダメージ無効――データ量の少ない武器や低位のモンスターの攻撃による負傷を、無効化にする特殊能力の働きによるものだ。ユグドラシルではレベル40程度のモンスターの攻撃までしか防げないので、役に立たない特殊能力だと判断していたが、この世界ではどうやら別だ。

「昔は恒常的にダメージを10点減少させる能力の方が羨ましいとか言っていたくせにな」
 
 現金なものだ。まぁ、それこそ人間っぽいともいえる、が。

 アインズは自らの骨に皮がこびりついたような手を見下ろし、それからその手をアイテム・ボックスに入れた。出したのはマスク。顔をすっぽりと覆うタイプの兜ともいっても良いマスクだ。
 泣いているような、怒っているようなそんな形容しがたい彫刻が、装飾過多なぐらい彫られている。バリ島のランダとかバロンのマスクに似ているといえば似ている。
 
 これはその異様な外見の割には何の魔力も込められてはいない。逆にデータを入れることが出来ないイベントアイテムだ。何のイベントだったか、クリスマスだったか、バレンタインだったか。
 マスク名は嫉妬マスク。
 開発元メーカー、狂ったか? という旨の書き込みで2chのユグドラシル・スレッドが埋め尽くされたことがある一品だ。それを被る。

 次にガントレットだ。そこら辺に転がってそうな無骨な作りであり、取り立てて特徴というものは無い。
 名称はイルアン・グライベル。アインズ・ウール・ゴウンのメンバーが遊びで作り上げた外装の小手だ。能力は単純に筋力を増大させるだけの働きだ。
 別にこの小手を選んだのに理由があるわけではない。目的はたった1つ、自らの骸骨じみた手を隠すためだ。
 
 本来なら幻影魔法を使えば良いのにアイテムで身を隠すのは、幻影なんかであなた方を騙したわけではないという、単純なものだ。ようはこちらの装備を外させなかったあなた方が悪いという言い訳を作るためのものである。
 無論、こんなものは屁理屈にしか過ぎない。騙された、騙されてないは個人の観点からなるもので、個人の主義主観しだいでいくらでも変わるものだ。だが、時折こんな屁理屈が身を守ってくれるのも事実だ。……嫌われることも多いが。

 何はともあれ、これで外見的には邪悪な化け物から邪悪な魔法使いにレベルダウンだ――恐らく。
 スタッフをどうするかと迷い、そのまま持っていくことする。別に邪魔にはなるまい。


 何故、いまさらになって姿を隠すようなことをするのか。
 それはアインズは考え方を間違えていたのだ。
 ユグドラシルというゲームに慣れたアインズにとってはこの外装の外見など恐ろしいものではない。だが、今いるこの世界の住人にとっては恐怖を呼ぶものだったのだ。
 慣れていて気づかなかったとはいえ、大きな失態だ。正直、今から考えれば非常に愚かだったと断言できる。なんでそこに気づかなかったと。
 見られて生き残っているのがあの少女達だけでよかった。

「しかし神に祈りを捧げるぐらいなら、虐殺をまずしなければ良いだろうに」
 
 無神論者だからこそ言える台詞を吐き捨てつつ、指を組み祈りを捧げる格好の騎士の死体からアインズは目を背けた。

《フライ/飛行》

 中空にアインズは軽やかに舞い上がった。そして――

 ――デス・ナイト、まだ騎士が生きているなら、それぐらいにしておけ。利用価値がある。
 受諾したような雰囲気が頭の中に伝わってくる。

 作成したアンデッドと無線のように命令ができるとはいたれりつくせりだ。

 角笛の音がした方角に向かって高速で飛行する。風がばたばたと体に吹き付ける。90キロぐらいは出ているだろうか。ユグドラシルでは出ない速度だ。ローブが体に纏わり付き少々わずらわしい。

 上空から村の中を見渡すと、広場の一部の大地が水を吸ったように黒くなっている。そこに複数の死体。よろよろと立っている数名の騎士。そして直立するデス・ナイトだ。
 アインズは息も絶え絶えで、動くことすら億劫に見える生き残りの騎士の数を数える。数にして4。必要数より多いようだが、まぁ多い分なら構わないだろう。

「――デス・ナイト。そこまでだ」

 その声はこの場にあって、まるで場違いのごとく軽く聞こえた。商店に行き、欲しい商品を店主に告げるような軽さ。いや、アインズからすればその程度の認識でしかない。
 殺すように命じたはずだが、多少打ち漏れの数が多かったという程度。殺すだけなら摘むようにアインズなら簡単に行えることだ。誰だって言葉が軽くなってしまうだろう。

 重力のくびきから解き放たれていたアインズは、ゆっくりと地上に降り立った。
 そんな光景を生き残った騎士達はぼんやりと見ていた。危ないところで命が助かった――認識はしているが理解は完全にはできていない。まさに精神的に朦朧とした状態だ。
 
「はじめまして、諸君。我はアインズ・ウール・ゴウン。ナザリック大地下墳墓が主」
 
 それに誰も返事を返さない。返す勇気が無いし、返す気力が無い。アインズはしばらく待ってから続けて口を開いた。

「投降すれば命は保障しよう。まだ戦いたいと――」

 剣が即座に地面に投げ出された。それに次々追従され、やがて計4本の剣が無造作に転がった。

「……ふむ、よほどお疲れのご様子。だが、ナザリック大地下墳墓が主たる私を前に頭が高いな」

 騎士達にその言葉に歯向かう気力は無かった。ただ、黙って跪き、頭をたれる。その姿は臣下のものではない。斬首を待つ囚人のものだ。

「……諸君には生きて帰ってもらう。そして諸君の上――飼い主に伝えろ」
 
 アインズは歩くと、スタッフを持って無い手をうまく使って、跪く騎士の1人の頭からヘルムを剥ぎ取り、疲労しきった顔をまじかから覗き込む。他の誰にも見られないように注意を払いながら、被っていた仮面を微かに外し、その骸骨じみた素顔をさらした。
 何を見ているのか認識した騎士のどんよりと疲労で濁った目に、驚愕の色が浮かんだ。

「この村より北東に2キロ進んだところに草原に囲まれた、ナザリック大地下墳墓という場所がある。私はその主人だ。ゆえにこの辺り一体は私の支配下だ。騒がしくしたら今度は虐殺を行いに貴様らの国まで行くと伝えろ。……理解したか?」

 騎士は震える体で頭を何度も何度も上下に動かす。

「行け。そして確実に主人に伝えろよ?」

 顎でしゃくると騎士達は一斉に走り出す。一秒でもこんな場所から離れたい、そんな必死さが透けて見えた。



「……はぁ。演技も疲れる」

 小さくなっていく騎士達を見送りながらアインズは呟く。
 もし村人の視線が無ければ肩でも回したいところだ。単なる普通の社会人のアインズに偉そうな人物の演技は非常に面倒だ。特にある種の威厳というものがないために、その外見で威圧するしかない。騎士に顔を見せたのもその一環だ。
 自分に腹芸は無理だ。
 だが、演技自体はまだすべて終わったわけではないので、再び別人の仮面を被りなおさなくてははならない。アインズはため息をつきたい気持ちこらえると、村人達の方に歩き出す。
 この血生臭い場所で立っているのはあまり遠慮したい。臭いがこびり付く気がする。人を殺すことも内容物がこぼれる事も平静を保っていられるが、この臭いはなんとなく嫌な気がする。
 幸運だったのは騎士達を逃がしたことに村人が異を発さなかったことか。
 
 ――スクワイア・ゾンビを片付けておけ。
 
 頭の中でデス・ナイトに指示を出しつつ、アインズは村人達の方に近づく。
 距離が狭まるに連れ、村人達の顔に混乱と恐怖が交じり合うのが分かった。視線がおどおどと彷徨い、デス・ナイトに引きつけられ、逸らされる。

 騎士達を逃がしたことに関する不満が出なかったのはもっと恐ろしい存在がいたからか……。それにあまり近づきすぎると逆効果か。
 そう考えたアインズはある程度の距離を置いて立ち止まり、口調を優しく、親しみを込めて口を開いた。

「さて、無事かね?」
「あんたは……」

 村人の代表者らしき人物が口を開く。その最中、後ろにいるデス・ナイトから決して目を離さない。よほど驚愕的な光景を目にしたのだろう。アインズは仮面の下で軽く笑いながら、返答を口にする。

「この村が襲われていたのが見えたのでね、助けに来たものだ」
「おお……」
 
 ざわめき。だが、そんな中にあってもまだ懐疑的な色が集まった村人からは消えない。

「……とはいえ、ただと言うわけではない。村人の生き残った人数にかけただけの金をもらいたいのだが?」

 村人達は皆、お互いの顔を見合わせる。金銭的に心もとない、そういわんばかりの顔だ。だが、懐疑的な色は薄れた。金銭を目的に命を助けたという世俗的な狙いが、ある程度の疑いを晴らしたのだ。人は自分が理解できるものならまだ心を開くことができるという現れである。

「い、いま村はこんな状態で――」

 アインズはその言葉を手を上げることで中断させた。

「その辺の話は後にしないかね? さきほどここに来る前、姉妹を見つけて助けたんだ。連れてくるから待っててくれるかね?」 

 あの二人に口止めをお願いしなくては。
 村人の反応を待たずにアインズはゆっくりと歩き出した。






――――――――
※ どうでしたか? 絶望的な戦闘描写は出来てましたか?
  モモンガ――アインズにとっては単なる壁モンスターが、この世界の騎士からすれば抗いようの無い「死」を意味する化け物になる。それを表現したくてこの話を入れてみました。
 
  それとアインズが強いのはあくまでも物理的な強さであり、政治的な駆け引きとかでは所詮は単なる社会人なので(魔法を使わなければ)ぼろ負けです。その辺もかなり先ですが、描写したいです。



[18721] 10_交渉
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/08/28 13:19




 村長の家は広場から直ぐのところにあり、助けたことの価格の交渉等はそこですることとなった。もちろん、アインズにとっての狙いは情報であって金銭的な報酬ではない。だからといって情報をくれではあまりにも怪しまれる。

 確かにこの程度の小さな村なら別に情報をくれでも問題ないだろう。問題はその後だ。ここで事件があったということは情報封鎖でもしない限り、多くの人間に知られるだろう。権力者に知られる可能性はほぼ100%だ。そして権力者がアインズに接触を持とうとした時、無知を知らしめていた場合、交渉の際いいように扱われる場合がある。
 見もしない、そうなるかもしれないというだけで警戒するのは馬鹿のすることだろうか? それは道路を飛び出して渡っているようなものだ。いつかは致命的な事故に巻き込まれるだろうから。
 強さとは相対的なもの。アインズはこの村の誰よりも強い。だが、この世界の誰よりも強いという保証は無い。警戒は怠れないのだ。アインズを殺せるものがいるかどうかを知るまでは。なぜならアインズ・ウール・ゴウンは結成以来敗北の無いギルド。その名を地に転がすようなまねはできない。


 格子戸から入ってくる日光が室内の隅に闇を追いやる。その日差しを避けるよう、アインズは粗末な作りのテーブルの上に置いたガントレットをはめた腕を動かす。がたがたと立て付けが悪いのかテーブルがゆれた。

 スタッフは部屋の隅に邪魔にならないように立てかけている。
 村人の驚いたものを見るような目が思い出される。
 ここまで目立つとは正直思わなかった。ユグドラシルの考え方が抜けきれて無いせいで、今日だけでもどれだけの失態を繰り返したか。

「お待たせしました」

 向かいの席に男が座る。その後ろに女が立っている。

 村長は40歳ぐらいだろうか。日に焼けた肌に年の割りに深い皺を持った男性だ。
 体つきは非常にがっしりとしており、畑での重労働がその体を作ったのだろうということが一目瞭然だった。白髪は多く、髪の半分ぐらいが白く染まっていた。
 恐らくはこの数十分の出来事でより一層老け込んだんだろうな、などという益体も無いことをアインズは覚える。
 綿でできた粗末な服は土で汚れているが、臭うということは無い。

 村長と同年代ぐらいの女性。昔は線の細い美女だったのかなという雰囲気はあるが、長い畑仕事の所為か、ほとんど損なわれている。顔のあちこちにそばかすが浮き出ており、今いるのは線の細いやせぎすなおばさんだ。
 肩ぐらいある黒い髪はほつれ乱れている。日差しによって焼けているにもかかわらず、暗い雰囲気を漂わせている。

「どうぞ」

 夫人はテーブルの上にみすぼらしい容器を置いた。湯気を立てた水――白湯が振舞われるが、それはアインズは片手を上げて断った。
 喉の渇きを一切覚えていないこともそうだし、このマスクを脱ぐわけにはいかないということだ。しかしながら、断ったことによって多少罪悪感を覚える。あの苦労を目の当たりにすると、申し訳ない気分になるのだ。

 何が、というと湯を沸かすことである。
 まずは火打石を打ち合わせ、火種を作るところから始める。小さな小さな火種に薄く削った木片を上手く重ねて、より大きい火を作る。そこから竈に移して、炎とするのだ。白湯が出るまで結構な時間が掛かっている。

「せっかく用意していただいたのに申し訳ない」
「と、とんでもないです。頭をお上げください」

 頭を軽く下げたアインズに驚き、夫婦そろって慌てる。圧倒的強者である人物が、自らのような村人に頭を下げるのが信じられないのだろう。アインズからすれば不思議なことではない。確かに強者なのは自分だが、相手は交渉相手だ。恫喝が有効ならそれもありだが、とりあえずは友好的な姿勢で進めたほうが良いとの判断だ。
 
 無論、魔法で情報を引き出してから、あの姉妹と同じように最高位魔法をかけて記憶操作するという手段もある。だが、あれは最後の手段にしておくべきだろう。秒単位でどんどんMPを消費するとは思ってもいなかった。
 あれがMP消費か。疲労感と体の中の何かが削られるような違和感。今なおずっしりとした重さが体の中央に宿っている。アインズは顔を歪める。
 最初から仮面とガントレットをしていたという、たった数十秒の記憶の改ざんで、感覚的にはMPの半分を消費したと思われる。巨大な損失だ。
 やはりどこかですべての魔法の効果を調べる必要がある。
 
「……さて、申し訳ないが交渉を始めるとしましょうか」
「はい」

 ごくりと村長は喉を鳴らした。アインズも頭の中身を高速回転させ始める。
 騎士達は村人の目があったから使えなかったが、人目の付かないこの場所で情報収集するなら《チャームパーソン/人間魅了》等の魔法を使って問答無用で聞き出したほうが楽だ。しかしその結果に何が起こるかを考えてしまうとそれはできない手段だ。それゆえ、口で必要な情報を手に入れなくてはならない。
 ――厄介だ。

「……単刀直入に幾らぐらいなら払えますか?」
「今、村はこんな状態です。……お払いできてもせいぜい銅貨ぐらいしか……」
「銅貨!」強い口調で驚いたかのような声を上げる。「……それでは少々少なすぎますな」
「……しかし……銀貨なんてそんな無理は……」

 なるほど。
 口には出さずにアインズは頷く。銅貨と銀貨。この2つが村落の基本的な流通貨幣なのか。
 問題は銅貨の金銭的価値だ。日本円でどれぐらいの価値があるか、知らなくてはこれから先色々と困ることになる。これから街に行ったとして貨幣の価値が分からないというのでは厄介ごとだ。ただ、商店等があるなら観察していれば問題は無いかとも考える。
 仮に街に行くとしても、それまでにある程度の情報を入手する必要があるが。

「銀貨? 銀貨だと思われていたのですか?」
「ま、まさか……こんな村に金貨なんてありません!」

 誘導してるが、それにしても都合がよく話が展開してくれる。これでよく村長という仕事が勤まるものだ。それとも村長という仕事はそういうものでは無いのだろうか。一代で財を築いた社長とかにあるイメージをアインズは脳内から消した。

「……ですが、買い物はどうされているのですか?」
「それは銅貨でやってます。銀貨や金貨なんかは……」
 
 黙って首を振る村長。

「……では、どうしましょうか。私も慈善者というわけではないですし……」

 考え込んだ振りをしながら、アインズはアイテムボックスをこっそりと開いた。
 そこにあるユグドラシルの硬貨、2枚の金貨を取り出す。一枚は女性の横顔が彫られているもので、もう一枚は男性の横顔だ。前者は超大型アップデート『ヴァルキュリアの失墜』から使用されるようになったもので、後者はその前の硬貨だ。
 価値としては同じものだが、思い入れの度合いは違う。
 
 前からの貨幣はアインズがユグドラシルをやり始めてからアインズ・ウール・ゴウンを結成し、走り続けるまでの大半、共にあった硬貨だ。そしてギルドが最高潮を迎えた頃に行われたアップデートの際にはすでに硬貨はアイテムボックスに投げ込むだけの存在となっていた。

 スケルトン・メイジで始めてフィールドにいたモンスターを魔法で刈ったときに空中に浮かんだほんの数枚の硬貨。ダンジョンにソロでこっそり入って、アクティブなモンスターに襲われ、必死に撃退したときの硬貨の山。アインズ・ウール・ゴウンのメンバーで突入したダンジョンを攻略後、手に入れたデータクリスタルを売ったときの輝き――。

 懐かしさを振り払う。
 しかしながらアインズは旧硬貨をしまい、新硬貨を手にした。

「……話を少し変えますが、この硬貨で買い物をしたいといった場合、どの程度のものをいただけますか?」
 
ぱちりと金貨をテーブルの上に置く。村長と妻の二人の目が大きく見開いた。

「こ、これは」
「非常に昔の硬貨です。使えませんか?」
「使えると思いますが……すこしお待ちください」

 村長は席を離れると、部屋の奥に行き、そこから変わったものを持ち出す。
 持ち出してきたのは一言であらわせば両替天秤だ。
 歴史の本に乗っているような奴である。そこからは夫人の仕事で、受けとった金貨を丸いものと当てる。どうやら大きさを比べているようだ。それに満足したのか、次は金貨を片側に乗せ、もう片側に錘を載せる。

 なんだったか、秤量貨幣といったか。アインズは記憶を揺り起こし、今行っている行為を推測する。
 最初がおそらくはこの国の金貨の大きさとの比較で、次が含有量のチェック。
 
 見ていると金貨の方が沈み、錘が上がる。夫人は再び片側に錘を乗せ、二つを釣りあわせた。

「交金貨2枚分ぐらいの重さですから……あ、あの表面を少し削っても……」
「ば、おまえ! 失礼なことをいうな! 本当に申し訳ありません。妻が失礼なことを……」

 激高し、夫人を強くたしなめる村長。今の言葉にそれほど怒る理由があるだろうかと考え、アインズは納得する。なるほど、金メッキと思われたか。それよりも重要な単語を聞いたことでその辺りまで考えが及ばなかった。

「かまいませんよ。場合によっては潰して頂いても結構です。……ただし、中身が完全に金だった場合はその価値で買い取ってもらいますよ?」

 もし取引するなら当然の心配だ。確かめるのは理にかなっている。

「いえ、もうしわけありません」

 頭を下げつつ金貨を返してくる夫人。それほど責めたわけではないのだがと、アインズは多少罪悪感を覚えた。なんとなく自らの母親を思い出すのだ。少し暗く――静かだった母を。だからか、と思う。少しばかり優しくしてしまうのは。

「お気になさらず。取引をしようとするなら当然のことです」
「いや、しかし。村を救ってくれた方に……」
「私だって無償で村を助けようとしたわけではない。つまりは取引相手です。ですからお気になさらず」

 二人の顔が眼に見えてほっとした。信用までは行かないが、少しは打ち解けてきたようだ。

「その金貨を見てどうでした? 美術品のような彫り物でしょ?」
「はい、本当に綺麗です。どちらの国のものなんですか?」
「今は無き――そう。今は無くなってしまった国のものですよ」
「そうなんですか……」
「……コウキンカ2枚とのことですがその価値もあわせればもう少し上の評価をしていただいてもよろしいかと思いますどうでしょうか?」
「確かにそうなのかもしれません……ただ、私達は商人ではありませんので、美術的な価値までは……」
「ははは。まぁ、それは確かにそうですね」

 笑い声を上げながら、金貨を目の前まで戻す。村長夫妻も初めてまだ硬いが笑顔を見せた。そこでアインズはそろそろ踏み込むべきかと決心を固める。

「実はこの硬貨は幾つかありまして、ここであったのも何かの縁ですし、コウキンカ2枚相当でお譲りしてもいいですよ」

 懐からさらに数枚の金貨を取り出し、離れたところからテーブルに落とす、落ちた金貨同士がぶつかり澄んだ音が響いた。
 その最中モモンガの視線はテーブルには無い。仮面の下で村長夫婦の表情を真剣な顔で見つめていた。

「この辺りで直ぐに使える硬貨――まぁ、崩して欲しいだけですから。金貨で買い物というのも中々辛いものがありますしね。もちろん納得のいくまで調べていただいて結構ですよ。どうぞ――」
「いえ、ありがたい申し出ですが、残念ながらそのような余裕はないもので……」
「……了解しました」

 困ったように告げる村長の顔から満足げに視線を逸らし、アインズは金貨を手元に寄せ、懐に仕舞い込んだ。

「……さて、報酬の話に戻りましょうか。もう、そろそろ腹を割って話しましょう。単刀直入に言います。いくら出せますか?」
 
 先ほどと同じ問い。だが、返答は先ほどより進んだものだった。
 
「……アインズ様、正直に申し上げてこの村は多くの働き手を失いました。確かに村中をひっくり返せばご満足いただける金額は用意できると思います。ですが、これから先の季節を乗り切るには、それほどのご報酬を用意するのが難しいのです」
「物資ではどうですか?」
「物資も同じです。人が少なくなった分、手が回らなくなると思います。ですので今物資を渡してしまうと、将来的に非常に乏しくなってしまうことが考えられます」
「ふむ……」

 アインズは考え込む振りをする。ここまでは順調だ。あとはうまくいくことを祈るのみ。時間を少し置き、それから答える

「分かりました。報酬はいりません」
「おお……」

 村長も夫人を驚きのため、目を丸くした。アインズは手を軽く上げることでまだ話は続くということをアピールする。

「……私はここより北東に10キロいったところにあるナザリックというところにいた魔法使いでしてね。つい最近になって外に出てきたんです」
「おお、そうだったんですか。ただ、あの辺りは草原だったはずですが」
「私の魔法で、ね」
「なるほど……」

 感心したような声を漏らす村長。そして横にいる夫人も幾度と無く首を縦に振る。最後まで話さないことで相手に勝手な理解をさせる。ただ、下手をすると無茶苦茶なことを思われて厄介ごとになる可能性もあるのだが、この場合は仕方が無い。

「では、その格好も魔法使いとしての何かですか?」
「ああ、まぁ、そんなものです」

 嫉妬マスクを触りつつ、言葉を濁すアインズ。この世界の魔法使いはこんな怪しげな格好をしているものなんだろうか。それとも無知ゆえにそう思っているだけなんだろうか。無知なら好都合だ。そこに付け込む。

「村長殿はどこかで私以外の魔法使いを?」
「はい。昔、子供の頃、この村に冒険者を名乗る方々がいらっしゃったとき、その中にローブを纏われた方がいまして。その方が魔法使いと呼ばれていたような……」
「ほう。ではその方の魔法を見たので?」
「いえ、残念ながらそこまでは。直ぐにその冒険者の方々も村を去られました。何でも大森林内の珍しい薬草を採取しに来られたといっておりました」
「私のように仮面でも?」

 笑うかのような口調で質問をする。村長は昔を懐かしむような表情を浮かべた。今現在の辛い記憶を忘れたい、そういわんばかりだった。

「いえ、仮面はつけられてはおりませんでした。ですが、一種異様な雰囲気のされる方でしたな。子供心に怖いと思った記憶があります」
「なるほど。確かに恐怖というのは良い道具です。皆さんが見た私のシモベ、あれもそうだったでしょ?」

 村長と夫人の視線が反れ、格子戸の方に向かう。アインズを遅れて格子戸のほうに送った。
 格子戸の隙間から、広場で村の住人達が総出でバラバラ死体を片付けている姿と、少し離れたところに直立不動のデス・ナイトの姿が見えた。
 ユグドラシルであれば100分で消えるはずのデス・ナイトが今だ消えないことに疑問を感じるが、それは努めて無視をする。

「報酬はいらないと言いましたが――」ここで区切って相手の反応を見る。「――魔法使いというものは様々なものを道具にします。恐怖しかり、知識しかり。いわば商売道具です。ですが、今私はこの辺りの知識が少ないのです。この近辺の情報を頂きたい。そして情報を売ったということを他人に喋らないこと。これをもって報酬の代わりとしましょう」
 
 何もいらない。なんていう都合の良い話は無い。ただより高いものは無いという言葉が指すようにだ。
 人は自分の理解できないものを恐れる。命を救って報酬の話をしながら、お金は要りません――。少しでも鋭い人間なら違和感を感じるだろう。ならば、相手に眼に見えない何かを売ったと思い込ませれば良い。つまりアインズに情報という商売道具を売ったと思い込ませれば良いのだ。
 対等のものを商売した思ったなら、誰も疑問には感じないのだから。そして対等の取引相手なら相手も安心する。

 村長も夫人も強い表情でうなずく。

「分かりました。決して誰にも言いません」
「私もです」
「信頼します」

 ガントレットをはめた手を伸ばす。村長もぎょっとした顔をしてから何かを納得した様子でその手を握った。
 握手という行為はあるのかとアインズは安堵した。これで何してるんだろうという眼で見られたら泣くしかない。

 そして信頼といったが本気で信頼しきっているわけではない。商売であれば商売で情報は流れるが、人間性で縛った場合は人間性で情報は流れる。この村長の人間性が立派なら決して情報は流れないだろう。もし流れるならその程度。次回この村に来たときの有効な取引カードにするだけだ。

 とはいえ――

 なんとなく裏切らないような気がする。理由だってもちろんある。もし欲の皮が張っていれば、貯蓄目当てで金貨の交換に飛びついただろう。次に金貨をテーブルに落としたときも金貨を大量に持ってることに対する驚きはあったものの、欲に捕らわれた者の目はしていなかった。
 そしてなんとなく亡き母に似ているからだろうか――。

「マザコンか……」

 困ったように仮面の下で笑うアインズ。だが、その笑顔は見るものが誰もいないのが勿体ないほど、そしておそらくはこの世界に来たから最も優しいものだった。

 ――骸骨だが。

「それにしても私からすればあのような化け物をつれた私を、皆様がまだまともに相手にしてくれるのが不思議なぐらいです」
「……魔法使いの方は邪悪をも武器にする。そんな話を聞いたことがありますし、かの13英雄と呼ばれた方のお1人に死者を使役したと聞きますので。確かに恐ろしいですが……」
「ほう、13英雄」

 アインズの目に力が灯る。また1つ重要な単語を聞いたと。詳しく情報を聞く必要がある。アインズは心のメモ帳に記載すると、それを閉じた。






――――――――
※ こういう話は好きです。


  次回は……ごめんなさい、どんだけ努力しても面白くなりません。勘弁してくださいの11_知識で出来るだけ早くお会いしましょう。はぁ、一気に2作同時に更新して、できの悪いほうはするっと流してもらおうかな……。



[18721] 11_知識
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/10/02 06:37


「なんじゃ、そりゃ?!」
「! どうかしましたか、何か」
「あ、いや、こちらの話です。すいません。興奮してしまって」
 
 一瞬、素に戻ったアインズはすぐさま演技に入る。もし人間の体をしていたら脂汗がどばっと流れたところだろう。
 村長は面食らったようだったが、すぐに表情を元に戻す。
 すでに村長の頭の中での魔法使いは変人――もしくは多少変わった者という位置づけになっているのかもしれない。それなら意外に幸運か、なんということをアインズは考える。

「お飲み物でも用意しましょうか?」
「ああ、いや、結構」
 
 村長の質問に手を立てて断りを入れる。
 先ほど夫人に入れてもらった白湯に湯気はもう立っていない。一口も手をつけてはいないのだ、これ以上用意してもらうのも悪すぎる。
 この部屋に夫人はすでにいない。外の仕事――色々な片付けを手伝いに出てもらった。
 今この部屋にいるのは村長とアインズだけである。

 
 スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンをアイテム・ボックスに仕舞いこんだアインズが最初に聞いたのは周辺国家だ。
 そしてそれの答えは聞いたことも無い国の名前だった。
 当初、アインズは色々と違和感を覚えていたが、それでもユグドラシルの世界を基本に考えていた。ユグドラシルの魔法が使えるのだから、それは当たり前の思考だ。
 だが、まるで聞いたことの無い地名が彼を出迎えたのだ。

 なんだ、そのバハルス帝国って。なんだ、そのリ・エスティーゼ王国って。そんなものは北欧神話では聞いたことが無い。

 グルグルと視界が回り、崩れそうになる体をガントレットを嵌めた手でテーブルを押さえることで維持する。まるで知らない世界に来てしまっただけだ。理解はできるが納得するのが難しい。
 そしてその衝撃は思ったよりも大きいかった。

 アインズは冷静になれと、先ほど教えてもらった周辺国家と地理に再び思い出す。
 まずバハルス帝国とリ・エスティーゼ王国。これは中央に山脈を挟むことによって国境を分けている。そして南方、山脈の切れる辺りに大森林。そしてそれが終わる頃にこの村や城塞都市があるという。戦争はこの城塞都市を取り合う形で行われるのが基本だということだ。実際、帝国がこの数年何度か小競り合いをこの城塞都市で行っているらしい。
 実際、帝国が城塞都市の近くに陣地を形成しつつあるという。再び戦争が起こるのではないかという話だ。

 そしてその城塞都市からさらに南方にもう1つ国家がある。
 スレイン法国。国家間の領土関係を簡単に説明すると丸を書いて、その中に逆になったTをいれると大雑把だが分かりやすいだろう。左がリ・エスティーゼ王国、右がバハルス帝国、下がスレイン法国。それ以外にも国はあるらしいのだが、村長の知ってる限りはこんなものらしい。
 そして国力までは小さな村の村長では分からない。

 つまり、それは――

「失態だ」

 ――先ほどの騎士はスレイン法国の可能性も充分に考えられるということではないか。大森林近辺を通って一気に王国内部に戦争を仕掛ける帝国の作戦の一環という可能性も考えられるが。
 騎士を全員解放したのは間違いだった。数人捕まえてすべて情報を引き出すべきだった。そこまで頭が回らなかったのはこうして冷静になってみると愚かの極みだ。

 となるとスレイン法国の可能性を考えた上に、帝国側にも何らかの手を打つべきだろう。



アインズは考える。
 この世界に来たのは自分だけかと。
 
 プレイヤーが1人、2人なら問題は無い。ナザリック大地下墳墓の戦力を考えればレベル100のプレイヤー30人ぐらいなら同時に殲滅できる。アインズ自体課金アイテム等の効果を合わせればプレイヤー2人と同等以上に戦えるだろう。
 戦闘することを最初に考えるのは少々危険な考え方かもしれない。しかしながら最悪の事態を考えずに行動するほどアインズは子供ではないし、単純に問題が生じたときの対処方法を最初から考えているだけにしか過ぎない。
 仲良くする分なら特別に対処方法を考える必要は無いのだから。そのときそのときの場当たり的なもので充分どうにかなる。

 問題はアースガルズの天空城を保有したギルド、ヘルヘイム最奥の氷河城を支配したギルド、ムスペルヘイムの炎巨人の誕生場というフィールドを支配したギルド。これら3つのギルドがいた場合は厄介だ。この3つのギルドはアインズ・ウール・ゴウンに匹敵する。
 もしこのギルドが来てたとして、ギルドメンバーと友好的に物事が進むなら良い。
 だが、そうならなかったら?

 相手のギルドがどれぐらいのメンバーを最後まで維持できたかは知らない。それでもアインズに匹敵するだけの能力を保有するプレイヤーが何人かはいるだろう。となると相手のギルドの交戦状態にならないように行動する必要がある。その一方で戦力の拡大と情報収集を行う。


 もし仮にプレイヤーが大量にきていた場合、纏まるか、個人行動を始めるかのどちらかに分かれるだろう。日本人の国民的気質からすると纏まるほうが多いと思われるが。そのときはできれば参加させてもらいたいものだ。『アインズ・ウール・ゴウン』に関係の無い部分であればいくらでも譲歩できる。

 問題はその集団がこちらを目の敵にする場合だ。ありえないと思うが無いとも言い切れない。
 まず、正義や義憤に駆られての場合だ。この行為を避けるために、まずはできる限り敵対するような行為――例えば被害等をこの周囲に出すのは抑えるべきだろう。殺戮とか頭の悪いことをしていれば、誰だって不快に思う可能性があるだろう。無論相手を納得させるだけの理由があれば別かも知れないが。この村のように襲われていたのを助けるためだ、とかだ。
 つまるところ、これからの行動には何らかの大義名分があった方が便利となってくることは間違いが無い。つまり私はしたくなかったんだけど、仕方がなかったんだ方式だ。
 次にアインズ・ウール・ゴウンに恨みがあった場合。このときは戦闘は避けられないだろう。それに対する対策は練っておく必要がある。これは今後の課題だ。

 そして愚策はナザリック大地下墳墓への引き篭もりだ。
 援軍が無い状態での篭城戦がどれほど愚劣かはアインズですら想像に難しくない。



「……やはり間違って無いか」
「先ほどからどうかされましたか?」
「いえ、なんでもないです。思っていたのと少々違うために取り乱してしまいました。申し訳ありません。それより次に硬貨に関して教えてくれないでしょうか?」
「はい、わかりました」

 村長は銅貨を数枚テーブルに置く。

「交易共通貨――交貨は商売の神のシンボルが車輪ですので片面に車輪。もう片面に商会ギルドのシンボルが彫ってあります」

 金貨は無いということなので、銅貨を見せてもらう。裏を見返して、彫ってあるのを確認する。

 さきほどの話に出たコウキンカ――交金貨。
 略して金貨である。これは商会ギルドが価値を保障するため最も信頼度の高い硬貨として流通しているという。
 重さは10g。大きさよりは重量が価値を決めるのだが、だいたい直径で30mm。
 
 硬貨は銅貨、銀貨、金貨、白金貨、それに1/4銅貨である黄銅板があるとのこと。白金貨は基本的にあまり使われない。村長夫婦でも生まれてから見たことが無いという話だ。つまりは商人、貴族といった存在が使うものと考えてれば良いだろう。

 各硬貨の変換は1000銅貨=100銀貨=10金貨=1白金貨
 
 硬貨の金銭的価値は1銅貨が日本円にすればおおよそ1000円。1金貨で10万円だ。
 基本的に職人等が1日の労働で得れる賃金は、銀貨1枚行くか行かないか。農夫はもっと安くて換算すると銅貨6枚ぐらいだとか。
 物価はある意味高い。陶器でできたコップとかが2銅貨とかする。その反面、食料品等は安い。
 第一次産業は安く、第二次産業は高いという具合か。

 アインズは安堵した。取り合えずは金銭的な負担を感じることは当分なさそうだ。
 ユグドラシルの貨幣なら1G(=1,000,000,000)に届きそうなぐらい持っている。仲間達が残してくれた宝物庫の金までは手を出さないで済みそうだ。
 
 1Gという単位は大金のようかもしれないが、ユグドラシルの最高クラスの武器の個人商店での販売価格は100M(100,000,000)をゆうに超える。これにオーバーエンチャントデータされてると、1Gでも買えない場合がある。アインズの持っている防具でも1Gを越えるものは幾つかあるように。


 モンスターという存在もいるそうだ。大森林奥にも魔獣と呼ばれる存在もいるし、エルフ、ゴブリンに代表される亜人種たちもいる。亜人たちが国家を作っている場合もあるそうだ。
 そんなモンスターを報酬次第で退治しているのが冒険者と呼ばれる存在。魔法使いとかも結構いるらしい。無論、村長は実際は見たことが無いので、村に来た商人達の噂話程度だが。ただ、大きな都市に行けば冒険者のギルドがあるというのは本当のようだ。

 そんなわけで最寄という城塞都市について教えてもらう。
 この城塞都市。人口等までは村長は詳しくないそうだが、そこそこあるらしい。そして三カ国の戦争の中心になる場所であり、かなり長い間、落ちたことの無い都市だという話だ。
 情報を収集するなら、そこが一番良いか。アインズはそう判断する。


 そして最後に笑ってしまう話だが――

 ユグドラシルの世界であれば日本語が通じて可笑しくは無い。なぜならユグドラシルは日本発祥のゲームだからだ。それなのに完全な異界であるこの世界で、日本語が通じるのを不思議に思っていた。
 そのためアインズは村長の口の動きを見ていたのだが、笑ってしまうことに彼らは日本語をしゃべっていないのだ。
 
 口の動きと、聞こえてくる音がまるで違うのである。

 それから幾つかの実験をさせてもらった。最初は怪訝な顔をしていた村長だが、魔法に関する実験で害は無いということを伝えると協力してくれた。

 結論。
 この世界は翻訳コンニャクを食べている。誰が食べさせてるのかは知らないが。

 この世界の言語というより言葉というものは、相手に伝わるまでに自動的に本質を翻訳されているのだ。
 例えばネット用語だがwktkという言葉がある。道行くネットをして無い老人にそういって通じるだろうか? 通じないだろう。だが、この世界においてはそれが通じるのだ。
 なぜならそれは言葉の本質を伝えているからだ。いわば言葉の意味合いを伝えているといっても過言ではない。口で言葉を話しかけると同時に、テレパシーで内容を告げている。そんな感じだ。
 言葉を言葉と認識していれば、恐らくは人間以外の生き物との交流も可能ではないだろうか。例えば犬とか猫でも。

 問題は一体全体それがどうして行われているのか分からないことだ。

 そしてその対して村長はおかしい事だと思っていない。
 それが当たり前のこと。
 ――つまりは世界の法則なのだろう。冷静になって考えれば魔法――エントロピーの法則を完全に無視している世界だ。まるで違う法則が世界を支配しても可笑しくは無い。
 問題はその法則をアインズのみが知らないということだ。

 例え話をしよう。
 真夏の暑い日、マクドナルドに入ってみると君の前で変わった男性がコーラを買っていた。そしてその男性は外に出て行った。君は氷は溶けますよ、と注意をするだろうか?
 するわけが無いだろう。それは当然だ。当たり前だからである。
 では仮にこの世界に魔法使いはその日に外に出ると能力が一ヶ月間封印されるという法則があったとして、アインズが外に出たとして誰か注意をするだろうか? するわけが無い。何故か? それが当たり前だからだ。
 無理矢理な理屈だが言いたいことは分かってもらえると思う。
 
 
 そして常識というものは無ければ致命的な失態を犯しかねない重要なものだ。
 
 今のアインズはそれが欠けている状態。どうにかする必要がある。しかしながら名案は浮かばない。誰かを連れてきてお前の常識をすべて言えとでも言うのか? 無茶苦茶な話だ。
 すると取れる手はほぼ一つだけだ。

「……やはり街にでも行って暮らす必要がある」

 常識を学ぶには模範となるものがたくさんいるのが必要となってくる。郷に入っては郷に従え。昔の人間はよく理解していたということだ。
 それにこの世界の魔法についても知らなくてはならない。

 まだまだ知るべきことが多くありすぎる。
 アインズがそう思っていると木でできた薄いドアの向こうから、土を踏む微かな音。間隔は大きいが蹴っているようではない。急いでない男性のものか。

 アインズがドアの方に顔を向けると同時にノックの音が室内に響いた。村長がアインズの返事を伺ってくる。それに反対する理由は無い。

「構いませんよ」
「申し訳ありません」
 
 村長が軽く頭を下げると、立ち上がり、ドアに歩いていく。ドアを開けると光を背に1人の村人が立っていた。来た村人の視線が村長に動き、それからアインズへ動く。

「村長。お客様がいる中すいませんが、葬儀の準備が整ったで……」
「おお……」

 アインズに許可を求めるように村長は視線を動かす。無論、アインズにそれを止める権利は無い。

「かまいませんよ」
「ありがとうございます。では直ぐに行くと皆に伝えてくれ」
「分かりました」

 村人がドアを閉め出て行くと、村長はアインズに頭を下げた。

「本当に申し訳ありません。葬儀が入りましたので、少し時間をいただきます」
「わかりました。……それで1つお願いしたいことが。これは村人の皆さんと相談して欲しいのですが――」



 ちなみに13英雄に関してはさっぱり分かりませんでした。






――――――――
   えんえんと何を書いたかというと、安全な巣を飛び出して外の世界に関係を持つ理由を書いただけです。次に無理矢理な屁理屈に突っ込みは勘弁です。魔法の薬でとか、マジックアイテムで言語理解とかの方が良かったのかな。

   というわけでユグドラシルの世界ではありませんでした。
   ユグドラシルの世界では別にアインズは最強じゃないですしね。それと一応、転移した理由は半分ぐらい考えていますが、エンディングまで行かないと明かされません。そこまでいけるかな……という感じです。




[18721] 12_出立
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/09/19 18:29
 





 村はずれの共同墓地で葬儀が始まる。墓石は無い。丸石に名前を刻んだものがあるだけだ。
 村長が葬儀の言葉を述べている。聞いたことも無い神の名を告げ、その魂に安息が訪れるように、と。
 すべての遺体を葬るのは手が足りないようなので、まずは第一回とのことだ。

 アインズは村人から離れたところからそれを眺めていた。村民の中に助けた姉妹――エンリ・エモットとネム・エモットの姿もある。何でも両親が殺されたそうだ。何故か安堵したような表情を最後に浮かべていた、その父親の顔は記憶にあった。
 
 あの男か――。

 アインズはローブの下で30センチほどの一本のワンドを撫で回す。象牙でできており先端部分に黄金をかぶせ、握り手にルーンを彫った神聖な雰囲気を持つものだ。

 ――<蘇生の短杖/ワンド・オブ・リザレクション>。
 
 死者復活の魔法を宿したアイテム。無論アインズが持つものはこの1本だけではない。この村の死者全員を蘇らしてお釣りがたっぷり来るだろうほど持っている。
 この世界に存在する魔法に死者の復活は無いという話だ。とすると奇跡とも呼ぶべき可能性がこの村にはあるということになる。
 だが、祈りの儀式が終わり、葬儀が終盤にかかり始めた頃、アインズはゆっくりとワンドをアイテムボックスに仕舞った。

 復活させることはできる。だが、そんなことはしない。死者がどうの、なんていう宗教的なことを言い出す気はしない。ただ、単純に利益が無いからだ。

 近寄ったら死を与える魔法使いと、近寄ったら死を与えるが死者を蘇らす事ができる魔法使い。どちらが厄介ごとに巻き込まれるかは想像に難しくない。蘇らせたことを黙っておくという条件をつけたとしても、それが守られる可能性は低い。
 死というものに抗いうる力。誰もが涎をたらすほど欲しがる力だろう。
 状況が変化すれば行使しても良いかもしれないが、今はまだ情報が不足している。

 つまり己のために助けられる命を見捨てる。

 アインズは薄く仮面の下で皮肉げな笑みを浮かべた。見ている先でエンリとネムが泣き崩れる。
 その姿を記憶にとどめ、アインズはゆっくりと村への道を歩き出した。その後ろをデス・ナイトが続いた。



 葬儀に中断され、アインズが周辺のことやある程度の常識を学んだ頃には結構な時間がたち、日が傾きだす頃だった。

「では、私はこれで」
「アインズ様。またこの村に来てください。今度は村を上げて歓迎させてもらいます」
「いや、それには及びません。村長殿も何かありましたら私のところまで来ていただければ、色々とお手伝いさせてもらいます。もちろん次回は費用をいただきますよ?」
「分かりました。そのときは」

 微笑む村長とアインズはガントレット越しに握手を交わす。ほぼ打ち解けたといっても良いだろう。その好感触に満足感を得つつ、歩き出す。
 村長の家から外に出ると、そこに1人の村人が決意にひめた顔で立っていた。アインズは仮面の下でかすかに目を見開いた。まさか彼女が来るとは思ってなかったのだ。
 いたのはエンリ・エモットだったのだ。

「……よろしいのかな」
「はい」
「馬に乗ったことは?」
「あります」
 
 広場の隅にいる騎士から奪った2頭の馬。そのうちの1頭の馬の後ろに荷物が積まれている。その中に全身鎧が一着あった。

「……しかし、なんでこの村に馬に乗ったことのある経験者が豊富なんですか?」
「昔、この村から戦争に行ったものがおりまして。見事な働きをしたとのことで結構な褒美をもらって帰ってきたのですが、その中に馬がいたのです。彼が乗り方を子供達に教えましてね。ですので村の中でも子供達は乗れる子が多いんです」

 村長に問いかけると、すぐに答えが返ってくる。
 なるほど。アインズは幾人もいるであろう人の中から、彼女が選ばれたことに納得する。
 酷い評価になってしまうが、村の中で死んでも最も惜しくない存在ということだろう。男ではこれから村を再建するなら役立つ、それに対し両親を失った小娘では価値が違う。

「では報酬は約束どおり金貨200枚」

 村長からもらった金貨の入った皮袋をエンリに渡す。4キロある袋はずっしりと重い。それを両手で受け取り、口を僅かに開いて中身を確認したエンリは皮袋を村長に手渡した。

「お願いします」
「分かった」

 重々しく頷く村長に続けるようにアインズは口を開く。

「ご安心を。もし貴方が戻ってこなかった場合、私が一年に一度ぐらい妹さんの様子を見に来ることを約束します。村長殿――それでよろしいですね」
「はい。了解しました」

 金貨200枚。交金貨だと400枚に及ぶ額は村人の金銭感覚からすれば桁外れなまでに高額であり、両親を失った姉妹がかなり長く生活していくには充分な額だ。もし仮に姉が亡くなったとしても妹1人成人するには充分すぎる。無論だからといって心配がなくなるわけでは無いだろうが、アインズが声をかけたことによって安堵したのか、エンリの肩の力が抜けるのが誰からも分かった。
 そしてアインズは村長に書いてもらった羊皮紙をスクロールケースに入れて渡す。

「これをよろしくお願いします」
「はい」
 
 受け取ったエンリはスクロールケースを腰につるした。
 
「では、私は」
「色々とありがとうございました、村長殿」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました。アインズ様。この村の誰もが貴方様のご親切は忘れないでしょう」

 深く頭を上げる村長に軽く手を上げ、それに答えるアインズ。その横で慌てたようにエンリも頭を下げた。
 エンリを共だって馬の方に歩く。

「それとまぁ、あまり必要ないかもしれませんが」

 馬のところに2人で到着し、アインズはインフィニティ・ハヴァサックに手を入れ、両手で隠せるぐらいの小さな角笛を2つ取り出す。葬儀から帰る途中に準備しておいたマジックアイテムだ。
 取り立てて変わったところの無い、普通の角笛。
 この中に込められた魔法の力はサモンニング・ゴブリン・トループ。
 
 レベル8ゴブリンを12体、レベル10ゴブリン・アーチャーを2体、レベル10ゴブリン・メイジを1体、レベル10ゴブリン・クレリックを1体、レベル10ゴブリン・ライダー&ウルフを2体、レベル12のゴブリンリーダーを1体を召喚するアイテムデータを、店売りの角笛にくっつけただけのものだ。
 弱いくせに召喚する数が多いという、狩場とかで使おうものならあちらこちらから邪魔だ、という声が飛んでくる不人気アイテムの1つ。狩場荒しといわれ、2chに晒されかねない危険なものだ。
 
「これは吹くことでモンスターを一時的に召喚するアイテムです。もし何かあったら、この笛を吹いて出てきたモンスターに命令すると良いでしょう。もし仕事が終わっても使わなかったのなら、そのまま持っていただいても結構です」
「ありがとうございます」

 エンリはもらったアイテムを何度も眺めてから、背負い袋に大切に入れた。それから何か奇妙なものをみるようにアインズを見つめる。
 
「……何か?」
「あ、あのほんとうに助けてくれたかたですよね?」
「……どういう意味ですか?」
「あ、あの……」
「同じ仮面を付けているけど中身は違う人かもしれないと?」

 姉妹には記憶操作をおこなった際、最初から仮面とガントレットを嵌めて現れたということにしてある。それ以外の記憶をいじった覚えはないのだが……。
 アインズは魔法が変な発動をしたり、何らかのミスをしたかと顔を顰める。だが、続く彼女の言葉で脱力感を覚えた。

「あの言葉使いが……」
「……はぁ。しゃべる相手で言葉使い程度変えるのが基本だ、普通はな」

 あの時と同じように不機嫌そうに言うと、エンリの体がビクリと跳ねる。

「も、もうしわけありません!」
「ああ、いいから。別に怒ってないから」

 頭を下げかけたエンリをガシッと掴み、無理矢理上げさせる。今の大声で村人の幾人かがこちらを伺っているのが分かる。このまま何事も無く村を出て行きたいアインズにしてみれば、勘弁してくれという行為だ。
 ガントレットを嵌めた手で無理矢理に上げさせられたため、痛かったのだろう。アインズが掴んだ部分をエンリは痛そうに撫でている。

「おまえが生きて帰ってくることを祈っているよ」
「はい」

 彼女がこれから行くのは帝国の城塞都市の近くにあるという陣地だ。なんでも帝国は攻めてくるたびに同じ箇所に陣地を作っているという話を村長はしていた。帝国は馬鹿なのかと思うが、エンリにはまずはそこに向ってもらうこととなる。目的は村を襲ってきた騎士達を、アインズが掃討したという話を伝えてもらうためだ。
 これはアインズという存在を帝国に宣伝するためのものである。

 騎士達を逃がしたのもその行為の一環である。
 これはアインズの情報は遠くないうちに流れるだろうと判断したためだ。ならば自分からある程度、情報を流すことで誘導した方が良いと考えたのだ。ついでに幾人かの騎士を助けることで、多少なりとも恩義を売ろうという姑息な行為もそれに含まれている。……どの国の騎士かは不明だが。


 何故そんな考えに至ったか、それは情報の漏洩は避けられないとの判断からだ。

 世界の情報を集めきって無い状態で、行動するのは非常に危険である。そのため最も良い手は姿を隠して、情報が集まるまで隠密に行動することだ。
 だが、この村を救ったことで、それはできなくなった。
 
 もし仮に騎士達を全滅させたとしても、その騎士達が所属する国は、いったいどうしてそうなったのかを調べるだろう。我々の世界で科学調査が発達しているように、この世界では魔法調査が発達している可能性はある。
 仮に発達して無くても、生き残った村人がいる以上、アインズの元まで調べがたどり着く可能性は高い。その時のその国のアインズに対する評価はどうなっているだろうか。

 情報が漏れないように対処するには、ナザリック大地下墳墓に村人達を連れて行くという手が考える。だが、それは村人の所属する王国サイドから見れば拉致と取られても過言ではない。
 
 では流れの魔法使いが助けたということにしたらどうか。……つまりそれは騎士をたやすく殺せる放浪する魔法使いがいるということだ。各国はそれをどのように思うだろうか。
 どちらにせよ、アインズの元まで調査の手が伸びるなら、早め早めに行動しておいた方が後々便利だと思われる。出頭した方が罪が軽いように。


 アインズはできれば王国、帝国、法国のどれかの国にその身を預けたいと考えている。

 例えば他のプレイヤーがいた場合、必ず情報は流れるはずだ。だが、アインズ個人ではその情報を手に入れるのに時間が掛かる。無論、街にこっそり入ってとか、商人をデミウルゴスの力を借りて洗脳して……という手も考えたが、リスクと手間が大きい。必要も無い相手を敵にする可能性もある。情報を入手するという点だけ見ても、どこかの国に参加しているということは大きなメリットだ。

 それにナザリック大地下墳墓の自治権を守るためにも、どこかの勢力を後ろ盾にしておいたほうが良いと考えられる。国としての力をアインズは舐めていないということだ。それにこの世界での個人の強さの最大値を理解できていないということもそれに拍車をかける。アインズを超える戦闘能力の持ち主が、この3カ国の中にいないとも限らないのだから。 
 しかし戦争、争いが続くということは両者の力がある程度拮抗しているからに他ならない。ならばもし仮にレベル10,000という存在がどちらかの国にいたとしても、もう片側の国にも同様の存在がいるということになる。

 どこかの国の一員になっておけば、デメリットも色々と考えられるがメリットも大きいとの判断だ。問題はどのような立場で一員となるかである。
 奴隷のような立場は正直ごめん被りたい。ブラック企業の一会社員もだ。

 そのために色々な勢力に自分という存在のアピールをする。立場や扱い等を考えた上で一番良いところに付く。
 これは転職の基本だろう。

 本来であれば帝国の駐屯地までアインズが自ら行った方が早いだろう。
 だが、どのように話が転がるか不明だ。それに帝国の戦力も。
 とすれば危険を承知で行ってもらえる誰かを送ったほうが良い。死ぬことを覚悟の上で。

 それがエンリの役目というわけだ。
 ようは200の金貨でエンリの命を買ったのだ。

「アインズ様、助けてくれてほんとうにありがとうございました」
「……っ」

 ぺこりと頭を下げるエンリ。
 アインズは自らの身の可愛さに、少女ともいって良い子供の命を博打に投じる自分に反吐が出そうだった。アインズなら転移の魔法で逃げられるかもしれない、その他の魔法の力を使っても良いだろう。それにナザリック大地下墳墓に帰ってモンスターを出しても良い。
 
 しかし、それらよりも相手が警戒しないから。相手の本音が読みやすいからという理由だけで少女を送り込むのだ。

「……おまえは……本当にいいのか?」
「?」
「行けば生きては帰って来れないかもしれない。それは分かっているんだろ?」
「…………」
「……誰も行かないという選択肢もあった。別に強制されたわけではないだろうに、何故だ?」
「お金が無いと生きていけませんから」

 たんたんと告げるエンリに、その透き通ったような瞳に一瞬アインズは飲み込まれそうになる。

「…………っ」
「両親が死んじゃいましたから、それに村はこんな状態です。私達を面倒見るのも大変だと思います。だからアインズ様のお話は私達……私にとっては渡りに船だったんです」
「こんな賭けにかけなくても、ご両親の残したものとかを使っていけばなんとか生活できるかも……」
「そうかもしれません。そしてそうじゃないかもしれません」

 莫大な財産を持っているなら金貨200枚ぐらいくれてやればいいじゃないかと、第三者なら言うだろう。アインズだって部外者なら言うだろう。だが、この少女の瞳を見てしまって、そんな言葉を言える人間はいない。
 自らの持つ金の価値をしっかりと受け止める必要があるとアインズは理解した。ここはゲームではない。ゲームの金と思ってはいけない。持っている金のほんの少しでも人は命を投げ出せるんだと。

 動揺し、ぐらつきそうになる足に力を入れる。
 命は軽いと理解していたでは無いか。
 アインズは自らを叱咤する。何を動揺していると。自らが最も可愛い人間の、最も友好的な手だ。やっている行いは正しい。
 
 視線を動かす。広場に隣した家の影に妹――ネムがいた。
 別れはすんでいるだろうが、それでも寂しげな瞳で自らの姉を見ている。これが場合によっては最後の別れになるかもしれない。そんな必死さが姉を見る視線に込められている気がした。

 泣き出さないのは何故か。もっと近くで別れを惜しまないのは何故か。姉を死地に追いやるアインズを憎むように見ないのは何故か。

 それはアインズには分からない。
 だが――

「……これも持って行くと良い」

 インフィニティ・ハヴァサックの中から1枚のスクロールを取り出す。 

「これは?」
「本拠地への転移を可能とするスクロールだ。おまえが使用した場合、本拠地がここなら良いが、どのように発動するか不確かなものだ。もしかすると何の効果も無いかもしれない。だが、もし角笛でも対処のできない危険にあったなら、そのスクロールを開くんだな」
「ありがとうございます!」
「……仕事が終わったらその足で私の住んでいるところまで来るがいい。美味しいものでもご馳走しよう」
「はい。そのときは妹も連れて行っても構いませんよね」
「ああ。待っているとも」

 友も許してくれるだろう。
 ナザリック大地下墳墓。決して部外者を入れたことの無い地。その最初の人物に彼女がなることを、馬に乗って去っていく姿を見送りながらアインズは願った。

 それと同じぐらい強く――なんと自らの愚かなことか、と心の中で思いながら。
 大切なものが何かを間違えるな――と強く、強く思った。


 それはまるで呪いだった。






――――――――
※  こういう話も好きです。
   仕事が忙しくなってきたので、多分次回から更新が不定期になります。せめて1週間に1回以上は更新したいです。サービス残業は嫌です。休日出勤は手当てが付くけどもっと嫌です。

   では次回13話『王国戦士長』でお会いしましょう。

   あと、主人公意外に優しい事が発覚したので、前書きをそのうちちょっと変更します。



[18721] 13_王国戦士長
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/10/02 06:53


 彼女を見送り、この村で行うことのほぼ全てが終わった。
 残った鎧や剣は既にインフィニティ・ハヴァサックに回収済み。忘れ物は無い。それにこれ以上はこの村の問題だ。警戒をしないでここに残って、死んだとしてもそこまでは面倒を見切れない。ただ、彼女の妹にだけ何らかの手段を施した方が良いだろう。
 一番良いのは彼女が戻ってくるまでの間、近くにモンスターを付けておくことか。その辺はデミウルゴスに連絡を取り相談した方が良いだろう。あれの部下がおそらくはそういう意味では一番使える。

 一応の礼儀として村長に別れを告げる必要はあるだろうとアインズは判断し、広場を見渡して村長を探す。
 広場の片隅、数人の生き残った村人達と真剣な顔でなにやら相談している。色々と決めることもあるだろうと、アインズは納得し、別れを述べようと近づいたところで違和感に気づく。
 そこには空気の変化、張り詰めたような空気が流れていたのだ。

「……どうかされましたか、村長殿」
「こっちに馬に乗った戦士風の者が近づいているそうで……」
「なるほど……」
 
 村長がおびえたようにアインズに視線をよこした。その場にいた他の村人達も同じだ。
 アインズはそれを受け、安心させるように手を軽く上げた。

「任せてください。村長殿の家に生き残りの村人を至急集めてください。村長殿は私とともに広場に」

 鐘を鳴らし、住民を集める一方でアインズはデス・ナイトを村長の家の近辺に配置する。
 怯える村長にアインズは笑いかける。無論仮面に隠れて表情は分からないのだが。

「ご安心を。今回も特別にただでお助けしますよ」

 村長は苦笑を浮かべた。だが、震えは先ほどよりも弱くなった。腹をくくったのかもしれない。

 やがて村の中央を走る道の先に数体の騎兵の姿が見える。やがて騎兵達は隊列を組み、静々と広場へと進んでくる。

「ふむ……」
 
 アインズは騎士達の武装に違和感を覚える。
 先ほどの帝国の紋章を入れていた騎士たちは完全に統一した重装備であった。それに対して今度来た騎兵たちは確かに全身鎧を着てはいるが、各自使いやすいように何らかの手法が施されている。それは一部だけ皮鎧だったり、鉄の装甲板を外し鎖帷子を露出させたりだ。
 兜は被っている者もいればいない者もいる。共通して言えることは顔をさらけ出しているということか。
 各自、同じ造りの剣は下げているものの、それ以外に弓、片手槍、メイスといった様々な予備武器まで準備している。
 よく言えば歴戦の戦士集団。悪く言えば武装の纏まりの無い傭兵集団だ。

 やがて一行は全員、馬に乗ったまま広場に乗り込んできた。数にして14人。
 数人がデスナイトに警戒しつつ、村長とアインズを前に見事な整列をみせた。その中から馬に乗ったまま、1人の男が進み出た。

 屈強という言葉以上に似合う言葉は無い。そんな鋼を具現したような男だ。年齢はまだまだ若く、30にいくかいかないかというところか。巌のような顔は顰められ、年齢以上に老けて見えた。
 髪はかなり短く刈り込み、さっぱりというより危ない感じを出している。
 
 男の視線は村長を軽く流し、デス・ナイトに長い時間とどまる。だが、デス・ナイトが直立不動のままピクリとも動かないのを確認すると、男は射抜くような鋭い視線をアインズに送った。
 暴力を生業とする空気に満ちた、そんな男の一瞥を受けても平然とアインズは立つ。アインズのその姿には余裕すら感じさせた。
 無論、アインズが元々そういう視線に強いわけではない。この体になってから恐怖というものを感じなくなったようだ。それともユグドラシルというゲームの能力を使えることによる自信だろうか。
 
「――私は、リ・エスティーゼ王国、王国戦士長ガゼフ。この近隣を荒らしまわっている帝国の騎士達を退治するために王の御命を受け、村々を回っているものである」
 
 外見からも予測が立つような重々しい声が広場に響き、アインズが後ろにした村長の家からもざわめきが聞こえてきた。

「王国戦士長……」

 ぼそりとつぶやく村長に身を寄せるようにアインズは耳を寄せる。

「……どのような人物で?」
「商人達の話では、王国の御前試合勝利した最も腕の立つ人間が選ばれる地位であり、王国の王直属の精鋭兵士達を指揮する人物だとか」
「ほう。……真実ですか?」
「分かりません。話しか聞いたことが無いので」

 アインズが眼を凝らしてみると確かに騎馬兵は皆、胸に同じ紋章を刻み込んでいる。村長の話に出た王国の紋章にも見える。とはいえ信じるには少々足りないが。

「村長だな」ガゼフの視線が逸れ、村長に向かう「そして横にいる者は一体誰か教えてもらいたい」
「……」
「はじめまして、王国戦士長殿。私はアインズ・ウール・ゴウン。この村が騎士に襲われておりましたので助けに来た魔法使いです」

 村長が話し始めるよりも早く、アインズは軽く一礼をすると自己紹介を始めた。それに答えるように重々しくガゼフが頭を下げた。

「村を救っていただき感謝の言葉も無い」
「いえいえ。実際は私も村を救ったことによる報酬目当てですから、お気にされず」
「では申し訳ないが、どのような者達が村を襲ったのか、詳しい話を聞きたいのだが?」
「私は構いませんが、村長殿はどうですか?」
「いや、私も構いません」
「では聞かせてもらおう」
「構いませんが、色々と詳しくご説明した方が良いでしょうし、長話になるといけません。イスにかけてお話をしませんか?」
「ふむ……一理あるが……」
「それにこの村に来た騎士のほとんどを殺しました。しばらくは暴れないのではと愚考します。その辺りのご説明も必要でしょう」
「なるほど」

 考え込んだガゼフの視線が再びデス・ナイトに留まる。いや、微かに漂う血の匂いを機敏に感じ取ったのか。

「あれは?」
「あれは私の生み出したシモベです」
「ほう」

 鋭い視線がアインズの全身を観察するように動く。

「ではその仮面は」
「魔法使い的な理由によるものです」
「仮面を外してもらえるか?」
「お断りします。あれが――」デス・ナイトを指差す「暴走したりすると厄介ですから」

 ぎょっとした表情を浮かべたのはデス・ナイトの力を知る村長だ。そして声の聞こえた村長の家にいる村民達。その急激な表情と場の変化に感じるものがあったのだろう、ガゼフは重々しく頷いた。

「なるほど取らないでいてくれた方が良いようだな」
「ありがとうございます」
「では――」
「その前に。申し訳ありませんがこの村は帝国の騎士達に襲われたばかり、皆様方が武器を持たれていると村民の皆様に先ほどの恐怖が蘇ってくるのではと思います。ですので広場の端に武器を置いていただければ皆、安心するのではと思うのですが?」
「……正論ではある。だが、この剣は我らが王より頂いたもの。これを王のご命令なく外すことは出来ない相談だ」
「――アインズ様」
「村長殿」

 村長はアインズに軽く頷く。それは雄弁に物事を語っていた。

「大変申し訳ありません。差し出がましいことを」
「いや、アインズ殿。あなたの考えは非常に正しいと思う。私もこの剣が王より賜れしものでなければ喜んで置いていただろう。さて、ではイスにでも座りながら詳しい話を聞かせてもらおうか」
「わかりました。では私の家で」
「うむ。ではお前達はこの村の手助けをせよ」
「はっ!」
 
 後ろに並んだ兵士達が威勢の良い返事をする。
 そして村人が外に出され、村長、アインズ、ガゼフの3名があったことを詳しく話すために村長の家へと入った。



 戦士たちは思い思いに村に散っていき、力仕事を開始し始めた。やることは色々とある。例えば一家皆が殺されてしまった家は、そのまま凄惨な状態で残しておくわけにも行かない。錬金術油なんて流し込まれたところは尚更だ。
 解体作業を行わなくてはならないが、そのためにはまず室内のものをすべて外に出さなくてはならない。これがまた結構な力仕事となる。
 戦士たちは着ていた鎧を脱ぐと、もろ肌を脱いで家財道具を運び出す。ぽんぽん投げるように行っていけば速いのだが、家族皆が殺された家にあるものは、酷いようだが村の財産となるのだ。手荒に扱うわけには行かない。
 じっくりと外に出し、指定された家まで運ぶ必要が出てくる。
 
 さらに葬儀を行うために墓を掘りに行くものもいる。放置しておくと邪悪な存在が入り込み、報われぬアンデッドとなる場合があるからだ。
 
 アンデッド――。
 生命を失ったにもかかわらず命があるかのように動く化け物のこと。それは戦場でよく見られる化け物だが、時折不幸な事故があった際、死体を放置することでも生まれる場合がある。ゾンビ、スケルトン、グールといったものが有名だ。
 葬儀が手早く執り行われるのはそれを防ぐためである。
 村には村なりの葬儀の仕方があるだろうから、まずは穴を堀り、そこに死体を置く程度しかできないのだが。

 そんな風に皆が忙しく働いている中、村長の家の近くにピクリとも動かないデス・ナイトを囲んだ、3人の戦士の姿があった。

「なんか、でかいなこいつ」

 戦士の1人がデス・ナイトを触る。皮袋越しにも鋼鉄製の鎧にありがちなひんやりとした感触が伝わる。

「村人の話じゃ、こいつ1人で帝国の騎士の粗方を殺したそうだがな」
「うげー。本当かよ。でも、なんかでかいぶん、動きはとろそうだけどな」
「確かにな」
「でも、本当に動くのか? 単なる死体にしか見えないがな」
「どーなんだろうな。まぁ、盾ぐらいには充分なりそうだな」

 左手に持った巨大な盾を指差し、戦士達から笑い声が漏れた。それは自らの力量に対する自信だ。
 事実、王国内において彼ら――王直属精鋭兵士団180名は王国最精鋭であり、王の最も信頼する部隊でもある。1人1人が帝国の騎士を相手にしても容易に勝利を収めるだろう能力を保有していた。

「戦士様、怒らせたら殺されちゃうよ」

 村の少年だろう、1人の子供が遠くから戦士に声を投げかける。戦士達はお互いの顔を見やってから再度笑い声を立てた。

「はは、大丈夫だ。大丈夫だ。俺達はこれでも王国の精鋭戦士だぞ」
「そんな遠くにいないでこっちに来たらどうだ? 暴れだしても俺達が守ってやるぞ」

 デス・ナイトの空虚な眼窩に初めてぼんやりとした赤い炎が灯り、戦士達を見下ろす。遠くから見ていた少年の体がびくりと跳ねる。

「おい、どうした坊主」
「あわ」
 
 少年の指の先に戦士達は視線を向けた。そこに赤い光は無い。ただ眠るかのような巨体な死体があるだけだ。

「どうかしたのか?」

 再び少年を見ると走り去っていくところだった。直ぐに家の影に隠れてしまう少年の後姿に彼らは苦笑を漏らした。

「そんなに怖いもんかね、このでかいの」
「だなー」
「外見は確かに怖いぞ。この顔」
「しかし死者使いの魔法使いなんて、かの13英雄だな」
「なんだっけ、それ」
「知らん。なんか昔の凄い英雄だそうだ。教育の一環で聞いたけど、名前なんてすっかり忘れちまったよ」
「ふーん。ならあのへんてこ仮面が英雄なみってことかよ、ありえねー」

 再び3人の戦士の笑い声が広場に響いた。その間、ピクリともデス・ナイトは動かなかった。そう、恐らくは。



「――なるほど」
 
 時間が経過し湯気の立っていない白湯を一口含み、ガゼフは口を開いた。村長とアインズのあったことの説明を受けている間、ただ黙って頷いているだけだった男が。

「先ほども言わせていただきましたが、アインズ殿。この村を救っていただき感謝します」
「いえ、先ほどもいわせていただいたように報酬狙いですから」
「謙遜も過ぎれば厭味に聞こえますぞ」ガゼフは肉食獣じみた笑みをアインズに送り、それから村長に向き直る。「それでその騎士達が着ていたという鎧の方を見せていただけますかな」
「ええ」

 村長の視線を受け、アインズはインフィニティ・ハヴァサックの口を開く。その中から最も損傷の少ない鎧の1つを取り出し、テーブルの上に置いた。紋章の部分がガゼフに見えやすい形でだ。ガゼフはほとんど膨らんでいない背負い袋から、鎧を取り出すという光景に驚きを多少感じていたようだが、直ぐに表情を引き締める。

「村長殿、これで間違いないかな?」
「はい、間違いありません」

 重く頷くと、ガゼフはそれを手にし、しげしげと眺める。裏返しにしたり、叩いたり。やがて納得いったのか、鎧を再びテーブルの上に置いた。

「確かにこれは帝国の鎧のようだな」鎧の紋章を鋭く睨みつけながら、続けて呟く「着ていた中身までの保障は無いが、な」
「ですか……」

 村長のみどういう意味なんだろうと、不思議そうな表情を浮かべた。

「スレイン法国の騎士が帝国の振りをしていたという可能性があるわけです」
「なぜですか!」
「帝国と王国の仲を更に悪化させるため、ですか。直ぐに考えられるところでは」

 アインズはちらりとガゼフを伺うが、黙して何も語らない。その姿は雄弁に答えを語っていた。そんな、とかショックを受けぶつぶつと呟く村長を無視し、ガゼフは重々しく口を開いた。

「……ところでその騎士達を掃討したデス・ナイトだが、あれはアインズ殿、何体ぐらいお持ちなのかな?」
「いえ、今のところ1体ですよ」
「……時間があればまた作れるということでよろしいか」
「ですな」

 アインズの返答を聞き、ガゼフはゆっくりと眼を閉じる。それはまるで眼の色を見せないかのようだった。
 やがて数秒の時が流れ、ガゼフは眼を開く。

「広場ではあまり大したことが無いように見えたのは……私の勘違いだったようだ」
「……」
 
 仮面の下でもアインズの表情は変わらない。それどころか――

「王国最強の方からすれば、当然でしょう」

 仮面の下で微笑を浮かべてるのでは、と思わんばかりの軽い口調で答える。それを受け、ガゼフはちらりとアインズを一瞥し、興味がなくなったように視線を鎧へと動かした。

「……さて、申し訳ないがこの鎧をいただいていきたい」
「正当な価格で買い取っていただけるなら構いませんよ」

 アインズとガゼフの視線が鋭く交差した。無論、アインズは仮面を被っているために交差しただろうという仮定だが。

「……正当な価格というのは?」
「この鎧は全身鎧の割には軽くできてます。恐らくは魔法によるものでしょう。ならばそこそこの値が付く。そういうことです」

 重い沈黙が降りた。村長のみがその空気に耐えかねたのか、おどおどと2人を見比べている。

「今、手持ちが少ないため、後日……確か、ナザリックだったか。その場所に持っていっても構わないが?」
「……困ります。ナザリックまで来ていただいても私がいない可能性がありますが故」
「ならばともに街まで付き合ってもらえれば」
「……悪くはありませんが……」アインズは中空を見上げ、考え込んでから口を開く。「ナザリックに一度帰って色々と準備しなくてはならないことがありますので、今回はご遠慮させていただければと思います」
「ふむ……では別の形で何か支払えるならそれをお願いしたいのだが?」
「どのような形ですか?」
「それを尋ねているのだがね?」

 ピリピリとした空気が流れ出す。
 出来るだけ高く売りたいアインズと、譲歩を引き出したいガゼフ。完全に食い違った二者の思いが、ぶつかり合い、冷たい空気を室内に生み出している。

「ならば……どうですかな、私のデス・ナイトと軽く戦闘をしていただけないかと」
「なっ!」

 驚きの声を上げたのは村長だ。ガゼフは黙って、再び白湯を口に含む。いや、唇を湿らす程度だ。

「私のシモベと王国最強と呼ばれる方の力の差。知ってみたいのです」
「しかし、アインズ殿!」
「――了解した」

 興奮したような村長の口を遮るように、静かな、だが灼熱感を感じる声が響いた。

「な」
 
 今度はアインズから驚きの声が漏れた。それを聞きつけたガゼフは再び肉食獣の笑みを浮かべた。

「どうされた、アインズ殿。貴方が振ってきたことだぞ? 驚かれることかな?」
「い、いえ、ただ、ガゼフ殿にお怪我を負わせてはと思いましてね」
「構わんよ。部下にはちゃんと伝えておく」

 アインズにしてみれば驚きだった。この無礼者と手打ちにでもしてくるかもしれないと考えていたぐらいだ。もしかすると彼もこちらの力量を知りたかったのかもしれない。そう考えてみると色々と納得できる点がある。
 だが、これは好都合。
 デス・ナイトなぞアインズからすれば大した存在ではない。デス・ナイトがどの程度の時間を稼げるかで、王国最強の強さが測れるなら安いものだ。


 戦士達、そして村人達が観戦する中、デス・ナイトと王国戦士長ガゼフの2者は広場の真ん中でにらみ合うこととなった。

「さて、お約束どおり、どちらが勝とうが、どのような怪我を追おうが、お互いに禍根無しということで」

 審判代わりに指名されたのはアインズ。戦士達に任せるべきだという反論はガゼフに断られた。
 アインズはデス・ナイトからフランベルジェを受け取り、代わりに騎士達が持っていたブロードソードを渡す。その光景にガゼフが何か言いたげな表情を浮かべるが、アインズは努めて無視をする。まぁ、何か言ってきたならいくらでも言い訳は出来たのだが。

「では、両者。構えてください」

 試合開始ってこんな風にすればいいのか? と心中で汗をダラダラ流しながらアインズは両者に声をかける。
 タワーシールドとブロードソードを持ったデスナイトと、バスタードソードを両手で構えるガゼフ。ガゼフも身長が低いわけではないが両者の差は50センチはあるだろう。まるで子供と大人だ。並んでみるとあまりの圧倒的な差によって、ガゼフに勝てるのかというざわめきが見守る周囲の人間から立ち上がりだす。

 ――デス・ナイト。攻撃に全力は出すな。攻撃よりは防御に力を回せ。

「では、始めてください」

 デス・ナイトがゆっくりと剣を前に突き出す。ガゼフがそれを払いのけた。それが2者の合図だったのだろう。


 剣戟が始まった。

 激風と濁流。
 どちらがどちらなのか。
 2者の戦いはまさにそれだ。

 閃光が煌き、別の閃光が弾く。
 両者の剣に宿った魔力がぶつかり、かすかな放電を放つ。

 甲高い金属音が途切れることなく続いた。

 戦士たちの疑心が、畏怖になり、驚愕となる。
 あんな凄かったんだ。守れるわけ無いじゃねぇか。敵意もたれなくて助かった。そんな声が戦士たちの中から聞こえた。

 決して見れないような人間として最高峰の戦い。それが今まさに眼前で行われているのだ。戦士たちは我知らずに手を握る。自分達に訓練を付けてくれる中では決して見れない、自らの隊長の本気。
 
 下から切り上げ、弾かれた剣が異様な角度で相手の首めがけ跳ね上がる。それを首元をすくめ、兜と肩の鎧を密着することで弾くデス・ナイト。
 
 豪腕を持って振るわれるデス・ナイトの剣が鞭のようにしなり、ガゼフの剣に絡みつき、そのまま滑りながら腕を切り裂こうと肉迫する。
 避けようが無い。誰もがそう考える。だが――
 
 ――手を離した。
 
 誰もが瞠目する。ガゼフは自らの剣を手放したのだ。
 デス・ナイトの剣がガゼフの腕のあった場所を貫いた瞬間、その手で再び剣を掴む。
 
 まるでこの光景は剣舞だ。互いに次に何をするのかを決めあった中での行為にしか思えない。
 ガゼフが剣を振り、デス・ナイトが弾く。次はデスナイトが剣を振り、ガゼフが弾く。ほんの一呼吸も無い、その一瞬でこれほどまでに剣を打ち交わせるものか。
 剣舞といわれるならまだ納得がいく。示し合わせばこれぐらいはできるのでは、そう思いたくなるのだ。

 何十と剣をあわせても互いの体に剣が触れることは無い。
 両者の力量がどれほど高いのか。観戦している戦士達から感嘆の呻きがもれた。

 今何をした。フェイントが4度? いや5度じゃないか? 戦士たちは口々に見ているものを解説しようとして、付いていけずに口ごもる。村人はもはや凄いものを見ているという認識の段階で思考を止めている。

 袈裟切りに振り下ろされるデス・ナイトの剣をガゼフは半身を傾けることでそれを避ける。
 宙に数本の髪が舞う。短い髪の毛がさらに短くなるなんて、一体どれほどの超近距離で避けたというのか。

 ――刹那の見切り。

 まさに今のがそうだ。
 ぎりぎりで剣を避けたということは、ガゼフが一気に有利になるということを指す。なぜなら剣は今通り過ぎたばかりだ、豪腕を誇るデス・ナイトですら振り下ろした剣を急激に戻すすべは無い。
 
 だが、それができるがゆえのアンデッド。
 常人なら筋肉が数本断裂するかもしれない、急な方向転換をたやすく行う。横薙ぎの一撃。たやすく人間を両断する剣は再び中空を切った。

 剛風がガゼフの頭の上を流れる。

 しゃがんでいた――。既に先の薙ぎ払いも予測済みだったのか、ガゼフはしゃがむ事で剣を避けたのだ。
 そのままガゼフの剣がデス・ナイトの足を狙い、突き出される――。

 デス・ナイトが跳躍。一気に後方に飛ぶことでその剣を回避する。
 猫科の獣の跳躍。優雅さと凶暴さを同時に兼ね備えたものだった。体重をまるで感じない優雅さで、ゆっくりと大地を踏む。

 ガゼフがゆっくりと立ち上がり、デス・ナイトが再び剣を構える。遅れて歓声が広場中に響き渡った。

「ふっ!」

 ガゼフが空気を吐き捨て、弾丸の速度のごとく踏み込む。
 強打一閃。
 耳を押さえたくなるような巨大な金属音が、タワーシールドとバスタードソードの間で起こる。デス・ナイトの巨体がその剛剣を受け、一瞬だけ揺らぐ。
 
「おおおおお!!」

 咆哮を上げながら立て続けにタワーシールドに剣を叩きつけるガゼフ。苛立ったかのようにデス・ナイトはタワーシールドを引き寄せ、ガゼフに叩きつけようとする。それを後方に跳躍することでガゼフは回避。
 鎧を着ているとは思えない軽やかな動きだ。
 すさまじい速度で動いたタワーシールドが巻き起こした風が、周囲に土煙を巻き起こす。その土煙にあわせて、両者が踏み込む。
 
 金属音。

 両者が土煙の中から無傷で姿を見せた。ガゼフは先ほどいた場所から大きく後退している。吹き飛ばされたか、自ら後方に回避したのか。
 もはやこの時点にあって周囲の観客はただ、沈黙を守るのみ。
 もう、この模擬戦は人の限界に到達していると心が理解しているからだ。戦士達は少しでも何かを吸収しようと、目を大きく見開き、瞬きを忘れたかのように見守る。村人達は何が自分達の前で起こっているのか、あまり理解できていないが、凄いことだけは分かるというもはや感性的なものの見方をしている。

 そんな素晴らしい試合の中、アインズのみが冷たい目で観察していた。
 その心中にあるのは本気を出していないのではという疑心であり、この程度のなのかという困惑であり、周囲の熱意に相反する冷め切ったものである。

 アインズの心中を無視し、再び剣と剣がぶつかり合う。
 戦士たちが村人達が顔を紅潮させ、手を握りしめる。一歩間違えばどちらかが死ぬ、頭のどこかでは理解できているのだろうが、恐らくはそんなものは抜け落ちているだろう。
 そこにあるのは決して手の届かない、崇高なるものへの憧れのみ。

 鋼と鋼が硬質な音を立て、立て、立て、立て――。
 互いの剣を合わせるスピードは徐々に限界が無いように早まっていく。

 ぶつかり合う音がまるで1つの長い音のように聞こえてくる。

 ――やがて、弾かれたガゼフの剣がそのまま滑り、デスナイトの顔を薄く傷つける。それはまさに幸運による一撃に誰の目からもそう見えた。
 たまたま弾かれた剣が突き出されて顔を軽く切り裂いたと。

 そしてアインズの声が響く。

「――そこまで」

 爆発せんばかりの歓声が上がった。素晴らしい戦闘を称えるものであり、自らの隊長が勝ったことに対する戦士達の咆哮だ。

「……さすがは王国最強ですね。ガゼフ様」

 呼吸を乱し、顔を紅潮させたガゼフが、歓声を背中に近づいてきたアインズに笑いかける。噛みつかんばかり獰猛な笑みを前にしてもアインズに驚きは無い。

「勝たせてもらったということかな、アインズ殿?」

 噴出す汗を懐から取り出した布でぬぐいつつ、その布の隙間から殺意すら漏れんばかりの意志が透けていた。

「いえ、滅相もありません」アインズは一歩近づき、他の誰にも聞こえない声で「私が勝った場合厄介になりますから」
「――ほう」

 ギシリと空気が歪む。それを平然と受け止めるアインズ。ガゼフは汗をぬぐいきると、布を懐にしまう。

「覚えておこう」
「鎧の一着は村長殿の家に置いてあります。どうぞお持ち帰りください」

 ガゼフの後ろ姿を見送りながら、アインズは薄く笑う。取り合えず王国の最強の戦士にも存在を強く認識してもらえたようだ、と。

 喧嘩を売ったかもしれないことは重々承知である。だが、ガゼフは必ず王に会ったことを伝えるだろう。彼は己の感情によって上げるべき情報を握りつぶすようなタイプの人間とは思えない。そして王に対する忠誠も充分に持っているはずだ。それは先の装備を解除して欲しいといった際、王の剣ゆえに解除できないと断ったところから予測が立つ。

 どうにせよ、損は無い取引だった。
 満足げにアインズはデス・ナイトを見る。一体いつ消えるんだ? という疑問を抱きながら。






――――――――
※ 戦闘シーンはもう少し練習が必要ですね。まぁ、こんな最強ものです。アインズの出番はどんどん減っていくような……。
  とりあえずは次回の14話「諸国1」でお会いしましょう。早くできるといいなぁ。





 ■



 終了。



[18721] 14_諸国1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/10/02 06:39



 リ・エスティーゼ王国、王都。その最も奥に位置し、外周約800m、20もの円筒形の巨大な塔が防御網を形成し、城壁によってかなりの土地を包囲しているロ・レンテ城。
 その敷地内にヴァランシア宮殿がある。

 華美よりは機能性を重視したその宮殿の1室。
 そこで行われていた宮廷会議はもはやの愚かとしかいえない、夢を語るようになってきていた。
 

「今度は奴らを撃退し、そのままの足で帝国に攻め込む番でしょう」
「まったくですな、いい加減帝国の侵攻を撃退するのは飽き飽きしてきました」
「帝国などほざく愚か者どもに我らの恐ろしさを知らしめるときが来たというわけですな」
「違いありません。まさに伯爵殿のおっしゃるとおり」

 着飾った男達の笑い声が室内に響く。
 苦労して表情には出さないが、王国戦士長であるガゼフはあきれ返るほか無かった。

 村々をめぐり、アインズという魔法使いにあって即座に王都まで戻り、報告を上げてみればこの有様。疲労感をこらえながらの会議ながら、襲ってくる体のだるさを押さえ込むのに一苦労だ。
 
 帝国との戦いは死傷者でいえば王国の方がはるかに多い。平民を徴収して軍をなす王国と、専業戦士である騎士位を授与された兵士によって構成される帝国。どちらが強者かは一目瞭然だ。
 王国の兵士――平民が殺されるということは、たとえ帝国の侵攻を城塞都市周辺で撃退できても、王国の国力は徐々に低下する一方。
 帝国の狙いは単純に国力の低下を狙っているとみる者は多い。

 それがこの大貴族、そしてそれに追従する貴族達には理解できていないのだ。
 自らの絶対的な権力が何時までもあると信じている。

「――そのような魔法使いは即刻連行すれば良いのです」
「――その辺りは100年以上前より王国の領土です。その魔法使いは勝手に住み着いているわけですな、許しがたいことです」

「――お待ちください」

 ガゼフは変な方向に転がっていく、宮廷会議の流れを変えようと声を上げる。幾人かの貴族が表情を隠そうともせずに嫌な顔を浮かべた。
 ガゼフは自らの剣の腕のみで上に昇ってきた、歴史ある貴族達からすれば成り上がり者。そのためひどく嫌われている。特にガゼフが王国内において比類ない剣の腕の持ち主であるということがより一層敵意を強める結果となっていた。
 彼ら身分高き貴族からすれば、元々の身分が低いものよりも劣るというのは、何より耐え難いものなのだ。

「かの魔法使いは非常に王国に好意的に思われました。その様な人物に対し、威圧的に――」
「――帝国の一員という可能性も無いわけではないだろう。王都まで呼び、詳しい話を聞く必要がある」
「――だいたい、戦士長殿はその怪しげな魔法使いの言い分を信じ解放したのか。早計としか言いようが無い行為だ」

 ガゼフの言葉に被せるように幾人かの貴族達が口を開く。そしてそれに賛同する声。

「まったくですな」
「そのような顔を隠す怪しげな存在のいうことを何故、戦士長は信じられるのか。どう聞いても怪しいではないか」
「アインズなど聞いたことも無い魔法使いの名ですな。歴史ある王国の魔法院にもいないのでしょう。何処の馬の骨やら……」
「場合によっては帝国の人間とも考えられますぞ」
「なんと、もしそうだとしたらそれを逃がした戦士長殿はどうやって責任を取られるつもりか」
「……っ」

「……よすのだ。戦士長の判断に間違いは無いと我は断言しよう」

「むぅ……」
「王がそうおっしゃるなら……」

 玉座に座る王からため息交じりのかすれた声が掛かる。貴族達がそれを受け、嘲笑気味の笑みを一時的に収めた。

 ガゼフは自らを引き上げてくれた、己が忠義を尽くす対象に感謝を込めた視線を送る。
 王はそれを受け、軽く頷いた。

 リ・エステーゼ王国国王、ランポッサⅢ世。
 ほぼ白く染まった髪はほつれ、ほっそりとした体は健康的なものからは程遠く、顔色もよろしくは無い。
 王勺を握る手は枯れ木のように細く、頭に載せている王冠も重そうに見える。
 在位41年。御年62才。この王国にあってはかなり年配に数えられる人物である。本来であれば既に後継に席を譲るべきだが、
継ぐにたる後継がいないのが問題か。

 いや、王子がいないわけではない。
 だが――優秀という言葉からは程遠い。今変われば後ろにいる大貴族の良い傀儡だ。

「王はああ、おっしゃられましたが、そのままその怪しげな魔法使いを放置しておくわけにはいかないでしょう」
「しかり!」
「とりあえずは王都まで無理矢理でもつれてきて、我々が何者なのか審問すべきでしょう」
「……ですが、かの魔法使いは恐らくは私以上の強さを持つシモベをつれておりますぞ。無理矢理よりは……」
「ふん。戦士長どの。腕が衰えたのではないのですかな?」
「まぁ、あの御前試合から4年になりますからな」
 
 握り締めそうになる拳から力を抜く。相手は大貴族、最初っから自らを怒らせようとたくらんでいるのだ。

 リ・エステーゼ王国は王が全領土の3割を、大貴族が3割をそして様々な貴族が4割を握る封建国家だ。一部の大貴族の狙いは王の権力をそぎ落とすこと。ガゼフという剣を貶めれれば、王の武器が一気に少なくなることは間違いが無い。

 だが、あの魔法使いは権力闘争の道具にするには少々危険すぎる。そうガゼフは思う。
 あれは仮面を付けていて中身までは不明だが、人とは思えないような気配を漂わせていた。あの仮面を剥いだら、中にあるのが人間の顔ではなかったとしてもガゼフは不思議には思わないだろう。

 それにあのデス・ナイト。
 フランベルジェとブロードソードを最初に交換していなかったらどうなっていただろうか。あれはまだ本気ではない。恐らくは全力を出したガゼフと同等の力はあるだろう。
 魔法使いアインズは時間あればまた作れると聞いたときに頷いていた。あれほどの存在を簡単には生み出せないだろうが、それでも数体いるだけで厄介ごとどころの騒ぎではなくなるだろう。

「我が騎士達ならばその魔法使いをこの場に連行することも容易でしょう」
「いや、我が家にこそ」

 何故、村を助けてくれた魔法使いを怪しいという言葉だけで、連行という状態まで進めてしまうのか。本来であれば膝をつき、来てもらうことを願うべきではないか。
 彼は非常に理知的な人物に見受けれるが、それでもこのような扱いをされて黙っているとも思えない。

 ガゼフは自らの手を見る。あのときの戦いの痺れ――デス・ナイトの剣を受けたときの痺れは今だ思い返せる。

「お待ちを! それでしたらかの魔法使いを連れてくる役目を私をお任せいただければ」

 幾人かの貴族がこずるそうな笑みを浮かべる。

「戦士長殿の仕事にそのような行為まであるとは思いませんが?」
「まったくですな、まさか越権まで行う――」
「おっとそれ以上は失礼ではないですか」
「おや、まったくその通りですな。これは失礼を」

 貴族達から起こるくすくすという笑い。王が疲れたような表情を浮かべた。

「……戦士長。残念だが、そなたを送るわけにはいかん。もしやすると帝国の騎士達もしくはそれに扮した者達が村々を襲うかもしれんのだ」
「ならば、村を守る役を冒険者に任せ――」
「冒険者! 聞きましたか、皆さん」
「ああ、聞きました。戦士長たる身が民草を守るのに、自ら動かないとは」
「信じれない発言ですな!」

「……はぁ。儀典官を送ることとする。これで此度の会議は終了だ」

 ざわめき。
 どこの馬の骨とも知れない相手を要人としてみなす、という王の考えは一部の貴族達には受け入れられないようであり、不満がその表情に色濃く出ていた。とはいえ、王の決定を真正面から否定する勇気も無く、貴族達は一斉に頭を下げることでその憤懣を覆い隠す。

 ガゼフはアインズを敵にまわした場合の不安が、色濃く頭に残った。



 毎回行われる権力闘争やおべんちゃらが蔓延する会議にくたびれ果てたガゼフは、残った力を振り絞って宮殿の廊下を王の部屋に向けて歩く。
 王にあの魔法使い――アインズを軽く扱った場合の危険を1度忠告すべきだと判断してだ。
 王の部屋が見えてくる。その横には兵士。
 表情は動かさないが、好意はこれっぽちも感じられない。どこかの大貴族の手のものだろう。

「王に会いに来た。取り次いでもらえるか」
「ただいま王女様がいらっしゃっております」
「……では控えの間で待たせてもらいたい」
「承りました」

 兵士に先導され、第2控えの間に案内される。そこには予測された人物がいた。

 その少年と青年のちょうど境目のような男。彼を一言で称するなら烈火だろうか。
 つりがちの三白眼に太い眉。
 鋼のごとき強き意志がこれでもかといわんばかりに湧き上がり、無表情を作っているその端正な顔立ちは日に焼けている。
 短く揃えられた金髪は動くときに便利だからという理由と、戦闘時に引っ張られないようにという理由だけだ。
 魔法を込めた全身鎧は異様なことに白色に染まっている。王国でも指折りの魔法を込めた剣の鞘は、装飾の1つも無い実用第一主義な作り。その格好は常時戦闘状態だ。事実何かあればすぐさま戦場にかけていけるだろう。

 少年はガゼフが入ってくると敬意を感じられる動きで深々と頭を下げる。同じくガゼフも頭を軽く下げた。
 そのまま会話無く時間は過ぎていく。

 ガゼフにとっても苦手な相手だ、嫌いではない。それどころか好きな方だ。だが、この非常に重い空気はなれないし、かといって話しかけてもより空気を重くする結果に終わるだろう、いつものごとく。

 結果的にガゼフはただ黙って、時間が過ぎるのを待つ。兵士が呼びに来る時間――30分後まで互いの間に会話は無かった。

「お待たせしました。ガゼフ様」
「ああ」
「それと――クライム様もご一緒にとのことです」
「了解した」

 ガゼフに続いて、外見からは想像もできないしわがれた声が響いた。その声は少年にとって恥ずかしいのだろうが、ガゼフにすれば誇り高いと思う。声を潰すほどの訓練を行ったためによるものだから。
 呼びに来た兵士に案内され、2人そろって王の部屋に入ることとなった。もちろん先行するのはガゼフだ。  

「失礼いたします」

 室内に入ったガゼフの目に王ともう1人。美しい女性の姿が飛び込んできた。
 ラナー・ティエール・シャルドロン・ランツ・ヴァイセルフ。
 第3王女であり、輝かんばかりの母親の美貌を譲り受け、黄金のラナーの呼び名で知られる王女だ。年は17歳。成人であり、既に婿を迎えてもおかしく無い年齢。それが貴族達を駆り立てる原因の1つともなっている。
 確かに美しい。いや、美しいという言葉自体彼女の美を表現できていない。あまりの美しさに肖像画が掛けないといわれるほどだ。
 その名の所以の1つともなる金の髪は長く、艶やかに後ろに流れている。微笑を浮かべた桜の花のようなというべき唇の色素は薄いが、健康的な色だ。ブルーサファイアを思わせる深みある青の瞳は柔らかい色をたたえている。
 細かな意匠の入った白いドレスは非常に似合い、首から下げた金のネックレスが映えた。

「失礼します」

 しわがれた声がガゼフの後ろからする。
 ラナーの笑顔がはっきりと強くなった。

「クライム」

 それだけ言うとラナーはゆっくりと立ち上がり、後ろの兵士の元にててて、と歩き出す。
 クライムはラナー付きの兵士であり、王国内でもかなり上位の腕前を持つ兵士だ。
 
 王と王女が座っていた小さな円テーブルの上に菓子が置かれている。そして陶器のカップが2つあり、紅茶が少しばかり残っている。今まで王と王女で楽しんでいたのだろう。
 それを邪魔したことに若干の罪悪感を感じながら、ガゼフは口を開いた。

「王――」
「分かっている魔法使いの件であろう」
「はい。アインズ殿はかなりの魔法の腕を持つと見受けられる人物。無下に扱うのは危険だと考えます」
「分かっている。お前と互角に戦うシモベをもつ存在を誰が無下に扱いたいと思うか」
「では――」

 王は手を上げることでガゼフの言葉を止める。

「分かってくれ。儀典官を送るということ以上の譲歩は厳しいのだ」
「……」
「帝国の侵攻を抑止するには貴族どもの力が要る。正面から奴らの考えを潰していれば、帝国を待たずして国が割れる」

 帝国の侵攻している城塞都市は王直轄地だ。ゆえに戦費の大部分を王が支払うこととなる。無論貴族達も支払うが、王の出費からすればかなり少ない額だ。
 戦費を徴収するという行為を行うには危険が多い。恐らく貴族たちは猛反発するだろう。その場合は自らの息子を祭り上げ、傀儡王を立てるだろう。事実その動きは既に見えている。

 ガゼフは何も言う言葉を持たない。事実と分かっているし、宮廷陰謀劇や勢力争いは彼の得意とするところではない。王の最大限の譲歩――儀典官を送る。それがせめてもの行為なのだろう。

「帝国が羨ましいものだ」

 王が呟いた言葉を慰めるすべをガゼフはやはり持たない。
 帝国も3代前までは封建国家だった。だが、貴族達の力を削ぎ落とし、現皇帝即位時に絶対王政へと変化した。
 現皇帝。戦場で見た姿を思い出す。そしてガゼフに自らの部下になれと誘ってきた姿。
 あれはまさに皇帝だ。生まれながらの。
 
「それほどまでに凄いのですか、その魔法使いという人物は」

 水晶でできた風鈴のごとき澄んだ美声が響く。2人の会話を黙って聞いていたクライムの直ぐ側に立つラナーのものだ。

「はい。その能力は想像が付きません」
「宮廷魔法使いより凄いのでしょうか……」

 ガゼフは脳内に王国の宮廷魔法使いを思い浮かべる。アレならたやすく屠れる。だが、アインズという人物は屠れるところが想像つかない。いや、ガゼフが殺される方が簡単に思い浮かべられる。

「恐らくは桁が違うかと」
「まぁ」

 ラナーの白魚のような指が直ぐ側のクライムの服の端をつまんだ。恐らくは無意識の行動だろうが、それに気づいたクライムの表情がより一層硬くなり、もはやダイヤモンドのようだった。

「くくく」
 
 笑い声を上げたのは王だ。ガゼフは苦笑いを浮かびかけ、そしてかみ殺す。

「クライムも剣の腕を高めておけ。いつどんな状態になっても王女を守れるようにな」
「クライムなら大丈夫。私の騎士ですもの」

 何の根拠も無い台詞だ。だが、この姫に言われるとそんな気がしてしまう。

「――ところでお父様。儀典官を送ると同時に使者をもう1人送ったらどうでしょう」
「「――」」
 
 ガゼフと王、二人の視線が交差する。
 
「クライムならどうします?」
「……」

 クライムは口を開きかけてから、硬く閉ざす。

「クライム?」

 続けての問いにクライムは観念したように口を開いた。僅かに唇に血が滲んでいた。

「……儀典官を送るよりも上位の使者。王家が高く評価しているということを伝えるなら、王の血を引くものを使者として用立てるのが一番よろしいかと。ただその場合は――」
「――王の命令を無視してという形を取る必要がある、ですね」
「……はい」

 その通りだ。
 王家が高く評価していると相手に伝える手段の最高位は、王の血を引く者――王位継承権の上位者が行くことだろう。
 では、その使者が務まる人物はどこにいるか。それは目の前の女性を置いて他にいないだろう。

 黄金のラナー。その名のもう1つの所以は、画期的な機関を設立し、新たなる法律を提案したその頭の回転の良さ、そして精神の輝きに由来する。
 彼女の提案の殆どが、平民を代表される地位の低いものへの救済行為が主だ。それも上から助けるのではなく、助かる手段を用意するという自ら助かろうとする人間にチャンスを与えるという形で、だ。さらに同時に平民の立場の上昇、王家への忠誠心の向上、生産性の強化という王家のメリットにも繋がる手段で。
 平民の立場の強化を嫌う大貴族達の横槍を受け、その殆どが解体させられたが、物を知る者や恩恵にあずかった人間からの評価は非常に高い。
 優しいだけでなく、実利も得る。そんな彼女を置いて、他に使者が務まる人物はいない。

 だが、王の決定は既に下されている。ラナーの提案する行為は王命に逆らうものだ。大貴族達に弱みを見せないためには、使者は王命に反し、勝手に出立したと言うほか無いだろう。

 王の権力が強ければ使者をせいぜい謹慎という処分で守れるかもしれない。だが、大貴族の力が強い今では、それではすまないだろう。大貴族の思うように罰が与えられる可能性がある。もしラナーが使者となったのなら、大貴族達が持って行きたい罰として一番ありえるのが――。
 そしてクライムもそれは理解している。大貴族達がどのようにラナーを使いたいかも。

「それはできん」

 鋭い剣で断ち切るような声を王が発する。それを受け、ラナーは頭を垂れた。クライムも深々と頭を下げる。

「出すぎた事を。申し訳ありません、お父様」
「私は戦士長と話がある。さぁ、2人ともそろそろ行きなさい」
「はい、お父様」

 ラナーに手を引かれ、無表情だが、苦痛とも悲嘆ともいうべき色を瞳に浮かべたクライムが連れ出される。礼儀作法を忘れた2人だが、王はそれに関し何も言わない。ただ、遠い昔に失った微笑ましいものをみるような目で見守るだけだ。
 2人が部屋を出るとゆっくりと王の表情が変わった。

「……王として哀れみを感じるのはまずいことなのだがな」

 クライムはガゼフより低い地位の出身だ。より正確に述べるならどこの生まれかも分からない貧民の子だ。
 ラナーが城下に出かけたとき拾ってきた子供だ。痩せこけ、今にも死にそうな子供は、助けてくれた恩人を守るために努力をした。いや、努力なんて簡単な言葉で片付けてはいけないだろう。
 剣の才能は無い。魔法の才能は無い。体のつくり的にも恵まれたものは無い。
 だが、1つづつこなしてきたのだ、ありとあらゆる全てを。
 持って生まれた人間と持たざる者には、決して越えられない壁は事実ある。しかしそれを越えることができる。それをまさに体現しているのがクライムだ。

 だが、決して越えられないものもある。それは地位や権力、そして価値である。

 王女であるラナーの価値は非常に高い。クライムにはつりあわないほど。

「心中お察しします」
「ああ。……リットン伯が五月蝿くてな」
「王女を、ですか?」
「そうだ」

 王は中空を睨む。まるでそこに誰かがいるかのように。

「言ってることは正しいだけに厄介だ。結局、私はあの娘も不幸にしなくてはならないのかもしれんな」

 ガゼフは何も言わない。言うべき、語るべき言葉が無いからだ。王という地位にある苦悩を理解できるのは同じ地位にいるものだけだ。それはガゼフではない。
 2人の間に沈黙が落ち、時間はゆっくりと経過していった。






――――――――
※ お疲れ様です。これからあちらこちらに話が飛ぶと思います。最強もの?と疑問詞が付く話の展開ですが、今後ともよろしくお願いします。
次回の15話「諸国2」でお会いしましょう。



[18721] 15_諸国2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/06/09 20:30






 豪華という言葉がある。
 それを体現するにはどうすればよいかと問われたなら、ちょうど良いと紹介できる部屋があった。
 
 部屋一面に張られた真紅の絨毯は柔らかく、まるで足首まで埋まりそうな感じを抱かせる。
 部屋に置かれた無数の調度品は、豪華さを表現したものばかり。
 そんな中に置かれた2人掛けの長椅子は、上質の天然木にフレンチロココ調の彫刻が細かく掘られており、座面は黒色本革が張られ皮特有の光沢を放っていた。
 その長椅子に1人の男性がすらりと伸びた長い足を放り出し、深々とかけていた。

 眉目秀麗。その言葉以上にその人物を称する言葉は無い。容姿に欠点が無いのだ。
 銀の髪は周囲のともる魔法の明かりを反射し、星々の輝きを浮かべているようだった。切れ長の紫の瞳に苛烈ともいって良い激しい色が浮かんでいる。
 そして何より外見以上に漂わせる雰囲気。それは生まれながらにして絶対的上位に立つもののものだ。

 彼こそジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。
 齢、22にしてバハルス帝国現皇帝であり、貴族からは畏怖され臣民からは尊敬の念をあびる、歴代最高と称される皇帝である。

 室内にはその青年を除き、4人の男性の姿があったが、その誰も席に座ったりなどはして無い。直立不動の姿勢のまま、彫刻と間違えんばかりに動かない。それは下位者が最上位者を相手にした際、最も正しい姿だ。
 従者だろう。
 皆、鋼のごとき細身かつしなやかな肢体を、豪華だが派手では無い服で包んでいる。
 見た目は若い。年にして20代前半だろう。それに対しどれだけの年術を修行にあてたのか。手は岩くれのように硬くなっており、腰に吊るした剣の握りの部分は手の形に磨り減っているようだった。
 
 ジルクニフはしばらくの間眺めていた羊皮紙から眼を離し、視線を空中に固定する。まるでそこに黒板でもあり、考えを書き込みだしたかのようだ。

「……で、その村娘は?」
「はっ」直立不動を維持しながら従者の1人が口を開く。静かだが重みのある声が響く「そのまま去ったそうです」

 ふん、と鼻息を1つジルクニフは吹かした。嘲笑とも興味を惹かれたとも取れるそんな鼻息だ。そして長椅子に無造作に放り出された、その女が持ってきたという羊皮紙を拾い上げ、再び眼を通してから放る。再び中空に視線が固定された。
 しばらくの沈黙が続き、先ほど声を上げた従者がそれに耐えかね、口を開く。

「……探して捕らえますか?」
「よせ」

 ジルクニフは一言で切って捨てた。空中に固定された視線は動こうともしない。
 丸めた手を持ち上げ、唇を隠すようにあてる。その紫の瞳が様々な感情を湛えながら煌く。そして唇の端が緩やかに上がった。

「面白いじゃないか」

 どのような結論がジルクニフの中で生まれたのか。クツクツという静かな笑い声が漏れた。
 従者達に変化は無い。皇帝は自らの考えをまとめる際、中空に紙を浮かべ、そこに無数の考えを書き込み、選択する。側近中の側近であれば知ってることだし、それを邪魔されることを皇帝が非常に嫌うことも知っている。

 その時――

 ――ノックもしないでドアが開かれる。
 そのあまりに無礼な態度に、従者達は一斉に僅かに腰を下げつつ、敵意ある眼をドアに向けた。だが、入ってきた人間を確認した従者達は、先と同じように一斉に警戒の構えを解いた。
 入ってきたのは、自らの身長の半分ほどの長さを持つ白髭をたたえた老人だ。髪も雪のように白いが、薄くはなっていない。
 顔には生きてきた年齢が皺となって現れ、瞳には見て取れるような叡智の輝きが宿る。
 首からは小さな水晶球を無数に繋げたネックレスを下げており、枯れた指には幾つもの無骨な指輪をしている。纏っている純白のローブはゆったりとしており、非常に柔らかい布でできている。
 老人が入ると、室内に僅かに薬草の思わせる青い匂いが漂った。

「――厄介ごとですな」 

 ゆっくりと部屋に入ってきた老人が開口一番、外見とは似つかわしくない若さの残る声でそんな台詞を吐き出した。興味を湛えたジルクニフの視線が、顔を動かさないで眼球の移動だけで動く。

「どうした、じい」
「調査しましたが、我が不肖の弟子の幾人かが精神衝撃を受け、しばらくは魔法の行使に支障が出るという結果に終わりました」
「つまりそれはどういうことだ?」
「……皇帝陛下。魔法もまたこの世界の理。知識を修めること――」
「ああ、分かった。分かった」ジルクニフは興味無げに片手をヒラヒラと振る。「お前の説教は長い。それより単刀直入に言ってくれ」
「……推測するならば私と同等。もしくはそれ以上の魔法を行使する者か、と」

 皇帝と老人を除き、室内に緊張感が生じる。
 帝国歴史上最高位の魔法使い。主席宮廷魔術師である、かの大賢者フールーダ・パラダイン老に匹敵する存在という言葉に耳を疑ってだ。

「なるほどな。嬉しそうだな、じい」
「当然です。私と同等、もしくは以上の力を保有する魔法使いとは、この200年以上出あったことがありませぬ」
「200年前は会ったのか?」

 好奇心に駆られたように言葉をつむぐ皇帝に、主席宮廷魔術師は遥かかつてを思い出す。

「そうですな。御伽噺の13英雄。そのうちの1人、死者使いのリグリット・ベルスー・カウラウ。かの御仁1人ですな。まぁ、恐らくは13英雄の他の魔法使いの方も優れていたのでしょうが。とはいっても残りの魔法使いは暗黒邪道師、魔法剣士、大神官、聖魔術師の4者ですが」
「なら今はどうなんだ?」
 
 フールーダの目が遠くを見るように彷徨う。

「不明ですな。五分のような気がしますが……」

 ゆっくりと長い髭をしごきながら紡がれた言葉とは裏腹に、含まれていた感情は確かな自信を感じさせるものだった。
 それに気が付いたジルクニフはニンマリと笑みを浮かべると、長椅子に転がっている幾つかの巻物から1つを選び出し、それを自らの足元に投げた。

「読め」

 従者の1人が進みだし、拾い上げる。

「これは」
「王国からの情報だ」

 読み進めた従者の表情が険しくなる。ジルクニフは空中に描かれた黒板のイメージから、そこに書き込まれた内容を引き出す。

「ふん。王国戦士長がその魔法使いのシモベと一騎打ちをおこなったそうだ」続いて発せられた言葉は他の従者達に動揺を与えた「そして勝ちを譲られただと」

 ざわりと空気が動く。王国戦士長ガゼフは帝国に最も知られた王国の人間の1人だ。その剣の腕は帝国でも互角の勝負をすることができる人間が幾人かいる程度。間違いなく勝利を収めることの可能な人物はいない。それとの戦闘で勝ちを譲るとは。
 それほどのシモベを使役する相手はどれほどの存在なんだという驚愕が、押し殺そうとしても各員の顔に浮かび上がってしまっていた。

「そしてシモベはアンデッドだと」
「ほう」
 
 初めてフールーダが興味を引かれたような声をあげる。死者の使役はかなり上位の術者でなければできない技。魔法的調査の際にも思っていたが、相手は本当に自らを上回りかねない魔法使いということだ。
 従者達にしても先ほどのジルクニフとフールーダの言葉を思い出さない者はいない。

「さてさて御伽噺の13英雄。死者使いのリグリット・ベルスー・カウラウは死者を使役したというが、ガゼフほどの男を抑えられる死者を使役したのか、じい?」
「……さて。御伽噺ではかなり高位の存在を生み出し、使役したといいますが……真偽は不明ですな。会ったときはさほど高位のアンデッドを連れてはおりませんでしたが」
「ならじいはそれほどの死者を操れるか?」
「……アンデッドやデーモン等魔法的に創造や召喚した存在はその強さ――魔法的容量の大きさによって支配制御の難易度が変化します。伝え聞くガゼフ殿と同等程度のアンデッドの使役なら、1体は容易ですな」
 
 髭を摩りながらの発言に周囲の従者達は流石は、と感心のどよめきを起こす。

「なら2体目は難しいか?」
「ふむ……難しいと判断すべきでしょうな。魔法的に何らかの手段を組み込んで行えば……複数の使役も可能かもしれません。2体目以降は難易度は膨れ上がりますからな。かの御仁、リグリット殿はそれが非常に上手かった。上位喰屍鬼<ガスト>を20体以上同時に行使するとか、一流の魔法使いにも不可能な技ですので」

 なんらかの手段を開発したのだろうと、続けるフールーダ。
 己の生み出した魔法的理論や魔法の形式を秘密にしたり、一子相伝にするのは魔法使いの世界では珍しいことではない。フールーダ自身、リグリットの生み出した魔法理論さえ手に入れれば、同じだけのアンデッドを使役することは可能だと思っている。悔しいかな、今はガストの使役なら10体が限界だ。

「つまりはじいでも今はできないということか。アインズ・ウール・ゴウンか……。まさか13英雄の1人なぞというオチが待ってるなど無いだろうな」

 それに対する返答は誰も持たない。フールーダのみが僅かに眉を動かすだけだ。

「ふふ。ほんとうに面白いではないか。で、ナザリックという場所の確認はしているのだな」
「はっ」1人の従者が一歩前に踏み出す。「既に調べております」
「どのようなところだ」
「はい。ナザリック大地下墳墓なる場所だとかで、300メートル四方の敷地を草原の中央に占有しています。そして周囲は4メートルの壁。かなり硬度が高いと思われます。格子戸から覗いた雰囲気は墓地。現在いつ頃からあるものなのかに付いて調べている最中ですが、中央情報省からの情報はまだ上がってません」
「……」
 
 ジルクニフが続けるようにいわんばかりに顎をしゃくると、他の従者が一歩前に出た。

「騎士数名からなる調査隊を送り込むように準備を行っている最中です」
「――よせ。敵意をもたれるような行為を行うな」
「申し訳ありません」
「じい。相手に気づかれずに魔法で情報を得れるか? 相手が上位者だと仮定して」
「無理でしょうな」
「そうか……」

 はっきりと言い切るフールーダに気圧され、しばしの静寂が流れてからジルクニフは口を開く。

「……確か冒険者という存在がいるな」
「はい。帝都にもいるかとも思われますが……」

 従者が困惑したように返答をする。

「最高の冒険達にナザリック大地下墳墓なる場所を調べさせろ。無論、帝国が依頼したと気づかれるな。知らない情報ならアインズ・ウール・ゴウンなる魔法使いも簡単には引き出せないだろうからな」
「了解しました」
「それにあわせて中央情報省の尻を蹴り上げろ。じい、無理を承知でできる限り魔法という面から協力してもらうぞ」
「何人か死にますぞ」
「それで?」

 不思議そうな表情を浮かべる皇帝に、フールーダは頭を下げる。

「――承りました」
「さぁ、忙しくなるぞ」ジルクニフは手を1つ叩く。そしてにんまりと笑みを浮かべた。「これから王国を飲み干す以上の難題退治だ」




 スレイン法国は6大神を信仰する。この宗教形式は近隣各国のものとはそこそこ異なる。
 基本的に近隣各国が信仰する宗教は4大神信仰だ。
 
 これは地、水、火、風をそれぞれ統べる神がこの世界を作り出し、統治しているという信仰である。そしてそれに従属する小神がいるということとなっている。
 それに対しスレイン法国はこの4大神に加えて、さらにその上位神として光――生と、闇――死の神を信仰の対象としている。
 最初に光と闇があって、それから4大神が生まれたという形だ。そのため、生と死の神を信仰せずにそれより劣る神を最上位神として信仰する、4大神信仰とは非常に教義的に仲が悪い。
 宗教的な違いというものはどの世界でも諍いを生むものではある。だが、周辺各国との法国の関係は水面下での抗争を除けば悪いものではない。正面きっての争いごとは数十年起こったためしが無いのだ。

 この理由を端的に語るなら、一言で表せる。

 基本的な国力の圧倒的な差があるためである。
 法国の国力は周辺国家群の中では群を抜いて強い。そしてなによりある一種の考えである程度上層部が纏まっているということは、かなり強い意味合いを持つ。
 では逆に周辺国家に攻め込まないかというなら、近隣各国と宗教的な違いがあるということによって逆に周囲を仮想敵国に囲まれているというのにも等しい状況だからだ。これもまた法国を一枚板としている理由の1つでもある。

 そして法国は人間以外の人種を基本認めてない。これは宗教的な考えからきている非常に根深いものだ。そのため人間種以外の亜人によってなっている、近隣のエルフの王国や亜人の部族連合そしてドワーフ王国とは時折諍いを生じている。

 それらの理由により法国では人間が主の国家とは基本敵対せずに――亜人討伐が終わった次の目標ではあるだろうが、直接ではなく水面下での工作を主として行っていた。

 
 そんな法国。
 それほど狭くは無いが、大きいともいえないような微妙な大きさの部屋があった。
 室内の音は外に漏れないようなしっかりとした作りでありながらも、むっとした室内の熱気をどこからか排出している。それは非常に高度な作りの部屋であり、使用することを許可された人間の位の高さを物語っていた。

 そこに複数の男達がいた。
 白地に金の文様の入った神官衣を纏うものが3名。黒地に銀の文様の入った神官衣を纏うものが2名。真紅の神官衣を纏い、腰に魔力を放射する剣を下げた男が2人だ。その誰もが着る神官衣は質素ではあるが、決して貧しい作りではない。いや、質素である分、より繊細に仕立てられているというべきか。
 最初の白の神官衣を纏っているものは生の神――アーラ・アラフを強く信仰する一派のものである。それに対し黒の神官衣を纏うものは死の神――スルシャーナを。
 そして最後の神官衣を纏うものは法国の神殿上位衛兵――他国でいう近衛兵とか軍団長とかに属する立場のものである。

 その部屋の中央に置かれたテーブル。その上に置かれた一枚の巨大な羊皮紙のかかれた絵は、この法国に暮らす誰もが知っているものである。 

 死の神――スルシャーナ。
 命あるものに永遠の安らぎ、そして久遠の絶望を与える神。
 生の神よりも他の4大神よりも力が強いと経典に書かれているのは、人は死という楔から抜けることができないからである。それは命がある以上、絶対に存在しなくてはならない神だ。
 
 恐怖や死、病気といったものを支配するこの神は、本来であれば悪神という分類に属するものだろう。事実従属する小神はほぼ邪悪な権能を持つとされる。ただ、不思議なことに地上に下落し、邪悪を振りまく魔神となる存在はいない。どちらかというと魔神になるのはそれ以外の神に従属する小神だ。
 この国の人間がそんな悪神ともいえるこの神を信仰するのは、称えることで邪悪な力を自らに振り下ろすのを避けて欲しい、と願うのだ。

 そしてその神の像が今回の問題であり、この部屋に幾人もが集まった理由である。

「で、まさにこれだと言うわけか」
「はい……」
「しかしながらそれを見たというのは1人だけなのだろ?」
「数が問題なのではない。この方だというのが問題なのだ」
「まったくその通りだが……」

 集まった神官衣を着た者達は互いに様々な意見を交し合う。同じ宗教を信仰するという共通性があるために、話し合いはスムーズに進む。各員の利益を求めてではなく、全体の利益を求めてという方向性で統一されているのだ。
 そしてなにより今回の打ち合わせ内容は、個人の利益なんかを求めていて良い問題ではないと全員が認識しているからだ。

 しばらくの時が過ぎ、やがて一端の決着が付いたのか。白熱した会議に冷静さが戻ってくる。

「……慌てる必要は無かろう。我らを混乱させるために神の似姿を使ったという可能性がある」
「可能性は高いな。不快な奴らだ」
「ではひとまずは情報を収集するということで構わないのだな」
「うむ、構わない」

 全員の頭が縦に動いた。 

「それと城塞都市周辺に工作員をこれ以上送り込むのは――」
「愚策だな。これ以上下手な尻尾を残すべきではない」
「ならすべてに撤退するように指令を送ろう」
「しかし……帝国側は既にこちらの動きを把握済みだろう? ならばこのまま騒ぎを起こすのも悪くないのでは?」
「王国は一部だけだろうしな」
「いや、下手に荒らすと城塞都市周辺での情報収集が上手くいかなくなる可能性がある。帝国の諜報機関と我らの情報局での抗争が既に王都で頻発しているのだ、これ以上、情報局に重みをかけるもの失礼だろう」
「占星局や神託局の巫女殿たちに協力を要請するか?」
「悪くないが、そうなると我らだけの問題ではなくなる。一応上を通してということになるな」
「ふむ。ではまずは今回の工作に関する仮決定案を上に上げる必要があるな」
「では、それは私が――」

 再び細部の詰め合わせに入りだす。


 テーブルの上にポツリと置かれたスルシャーナの絵。

 死を具現した姿は髑髏を基本として書かれる。それに僅かな皮を貼り付けた姿。漆黒のローブは闇と一体化するほど大きく、光り輝く杖を手にする。

 それが法国の誰もが知る最も強き神の姿だった。

 



 諸国が動き出すまでに掛かる日数は、アインズが村を離れてから時から数えて50日。



 時を巻き戻し、その間の話を語ろう――。



 先日降った雨によって、ぐちゃぐちゃになった大通りをその男は歩いていた。
 石畳がほとんど無いこの街においては、雨が降れば道路は泥で汚れ、ところどころに大きな水溜りを作ることとなる。
 男は水溜りをよけ、大通りを黙々と歩く。水溜りを飛び越えたとき、背中に背負った薄汚れた皮袋が大きく跳ね、ガショリと金属の音が響いた。
 幾つもの店の前を通り過ぎ、男が立ち止まったのはかなり巨大な造りの店だった。
 男は店の前の数段ある階段を昇り、木で出来た扉を押し開いた。


 ギルドの受付というものは暇なときがある。
 得てしてそんな時は厄介ごとが起こるものだ。――ただ、そんなこと今までに一回も無いけど。
 最後にそう呟き、ギルドの受付嬢――イシュペン・ロンブルは欠伸をかみ殺しながら、カウンターに座ったままぼんやりと視線を中空に舞わせた。
 
 暇である。
 
 依頼も新しいのは来ない。冒険者も来ない。依頼書のまとめは2時間も前に終わった。席を離れることは仕事の放棄と同じ、出来るわけがない。トイレだって30分前に行ったばかりだ。
 イシュペンはカウンターに置かれた羊皮紙を手持ち無沙汰を慰めるために、広げて中身を読む。これを読むのは既に6度目。ほとんど覚えてしまっている。イシュペンのいる席の後ろに並んだ、書棚に収められた本――冒険者の記録でも読んで時間を潰そうか、それとも別の何かをしようかと色々と頭を働かせてみる。

 やがて何も決まらずに暇が最頂点に達しようとしたとき、扉がきしみ、ゆっくりと開いた。外と中の光量の差も有り、イシュペンは目を細める。逆行の中、1人の男がギルドの中に踏み込んで来た。
 男は被っていたフードをゆっくりと上げた。そして背中に背負った薄汚れた皮袋を下ろした。何がそんなに一杯入ってるか不明だが、皮袋はパンパンに膨らんでいた。
 降ろした際、金属音がイシュペンまで届いた。

 20点。
 そう、心の中で呟く。恋人になるには60点ばかり足りない。ちなみに100点満点だ。
 
 そこにいたのは平凡以下としかいえない男だ。
 中肉中背。容貌は3枚目半から4枚目だろうか。黒髪黒目。年齢は20台に入りかかったところぐらいだろうか。
 服はさほど良いつくりではない。村人とかが着るような野暮ったい綿の服だ。決して冒険者が着るような切り合いを想定して作られたものとは違う。皮でできた靴は泥で汚れ、昨日降った雨のことを思い出させる。

 依頼か。はたまたは冒険者志願か。

 ただ、黙って観察をするイシュペンはわずかに眼を見開いた。

 男の胸元から僅かに覗く、銀の輝き。そして男が身じろぎするたびに微かに起こる鎖のすり合わせるような音。それはチェイン系の防具を着ている証拠だ。
 そして腰に下げた剣――ブロードソードはかなり良い一品だ。もしかすると魔法すらかかっている一品かもしれない。
 
 そうなると商売という線もある。

「ようこそ、冒険者ギルドへ」

 男と視線が会うとイシュペンは営業スマイルを浮かべ、いつもどおりの挨拶を行う。
 イシュペンを認識したのだろう。男は近寄ってき、イシュペンの前に立つ。

 よくある田舎の臭い――動物臭や肥料の臭いはしない。意外に清潔じゃん。+5点。そんなことを考えながらイシュペンは男を眺める。全体的に体つきはよくは無い。剣を振るうもの特有の作りには思えない。

「冒険者になりに来たんだが」
「はい。こちらで承ってます」 

 微笑む、イシュペン。
 珍しいことではない。平民が戦場で拾った剣や防具で武装して、冒険者を目指すというのは良くあることなのだ。平凡な村の暮らしからすれば剣を振るってモンスターを倒し、金と栄光を手にする冒険者は憧れの職業だろう。そして大半が最初の冒険で人生に終止符を打つこととなるのだが。

「まずギルドに加入するのに必要書類料として5銀貨をいただきますがよろしいですか」
「問題ないです」

 男は懐を漁り、小さな皮袋を取り出す。その中に手を入れると5枚の銀貨をカウンターにおいた。イシュペンはその1枚を取り、両面を見る。磨り減ってはいるが、ちゃんと交貨の印は浮き出ている。これなら問題は無い。

「はい、確認しました。ではまず色々と書いていただきたいものがあるのですが……代筆にしますか? それともご自分でお書きになりますか? 代筆の場合は銅貨5枚をいただきます」
「代筆でお願いします」

 再びカウンターに銀貨を1枚置く男。これも珍しいことではない。識字率50%以下の王国にあっては文字を書けるのはある程度の階級や知識人だ。イシュペンは銅貨5枚を男に返すと、インクつぼから羽ペンを取り出し、羊皮紙を広げる。

「ではまずは最初に登録する名前を教えていただけますか?」
「そうですね……」

 そこで男は止まり、中空を見上げながらぶつぶつと呟く。
 異様な光景だが、イシュペンは別になんとも思わない。冒険者になる際に自分のもともとの名前を隠す人間はそれほど珍しいことではない。どんな名前に変えようが、冒険者としてしっかり働いてくれるなら別に問題は無いのだ。
 もちろん、これから犯罪暦等、手配書が回って無いか調べるのだが。しかし独り言は止めて欲しいものだ。少々怖い。
 やはて男は満足のいく名前が浮かんだのか、口を開いた。

「では、モモンでお願いします」






――――――――
※ Wizard、Magic User、Witch、Sorcerer、Warlock。日本語は難しい……。ということで痛い系の2つ名です。
  それとオーバーロードは60%の蹂躙と20%の最強、10%の説明、5%の勘違い。そして5%のその他で構成されています。
  では次回16話、「冒険者」でお会いしましょう。



[18721] 16_冒険者
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/06/20 15:13





 羊皮紙に必要な事項を書き、イシュペンはその上で手を振って風を送る。インクが乾くのを待つ間、暇なので目の前にいる男――モモンに話しかけることにする。無論イシュペンも話しかけるならもっと良い男の方が嬉しいが、目の前の男も顔立ちが残念なことを除けば然程悪い男ではない。

「講習はこれからで良いんですか?」
「講習?」

 不思議そうに鸚鵡返しをするモモン。
 あー、その辺のことも説明しないと不味いのかー。と、イシュペンは頭を抱えるが、今日は幸運にもこれといった仕事も無い日だ。ぱっぱと説明を終わらせてしまえば良いだろう。

「講習。一応、冒険者は危険な仕事なんです。だからちゃんと説明して、命を失っても文句をどこからも言われない形にしなくてはならないわけなんです」

 その辺のことが理解できていない人間というのは驚くべきことにいたりするのだ。そのためにギルドは責任回避のために相手の意思を受け取りつつ、最低限の説明を行うことで死傷率を下げようというのだ。ちなみに、講習の段階で冒険者を辞めても書類代とかは当然返ってこないシステムになっている。

「そういうものなんだ」
「そういうものなんです」
「それで講習というのはどういうことをするの?」

 イシュペンは口調に違和感を感じるが、どこにそれを感じたか分からなかったためそのまま流す。

「基本的な冒険者の知識ですね」
「なんだ、剣術を見るんじゃないんだ」
「いえ、剣の腕は見ませんよ。剣の腕が劣っていたなら責任を取るのはご自身なわけですから」
「確かに」

 モモンが頷くのを見てイシュペンは苦笑した。
 冒険者と言う職業は自己責任だ。
 モモンは勘違いしていないようだが、よく勘違いする甘い者がいるのだ。ギルドで剣の修行をしたり指導をしてくれると思い込む者が。確かに裏手に修練所はあるし、金を払えば指導してくれる教官もいる。だが、無償ということはしない。
 ギルドは初期の冒険者に重要な仕事は任せたりはしない。そのため登録を終えたばかりの冒険者が死んだところで損失は少ないのだ。
 それに最初期の冒険者を育てるという考え方もあまり持っていない。逆にそんな中から上がってくる冒険者を大切にしたほうが良いという考え方だ。
 つまりはモモンのような登録したばかりの冒険者は大きな篩いにかけられているのだ。

「講習というのは簡単なギルドの知識です。例えば依頼の難度に関するものだったり、報酬のことだったりです」
「へー、そうなんだ」

 冒険者の常識は最初に教えておかなければならない事項だ。
 イシュペンは羊皮紙に書かれたインクが乾いているのを指で触って確認すると、モモンの情報が書かれたそれを近くの箱に入れる。これを後で他の職員が回収する手はずになっている。

「えっとどうしましょう。講習自体はさほど時間の掛かるものではないですけど、別室で椅子に座ってやりますか?」

 イシュペンの視線が隣の部屋に向う扉に動く。

 ギルドは4階建ての建物であり、1階奥には重要な客人のための応接室や依頼人のための部屋がある。そして奥にある階段を昇って2、3階には様々な書類のある部屋や警備員の詰め所。職員のための部屋などがある。4階にはギルド長の部屋や重要書類の保管庫等ギルドの重要情報が詰まった部屋が揃っている。
 隣の部屋にあるのは待ち合わせている冒険者のための部屋や、冒険者達の会議室、閲覧しても良い様々な資料を置いた部屋等だ。幸運なことに現在会議室なり待ち合わせ場所なりを、使用している冒険者は誰もいない。
 ならば会議室なんか使ってやっても良いだろう。資料片手なんか、久々にやっても良い。

 別にこのカウンターでは講習ができないというわけではない。というより大抵がこのカウンターで講習を行っている。冒険者を目指す人間がほんの少しの時間も立ってられないなんてことは無いだろう。
 単純にイシュペンの気分転換という度合いが大きいだけだ。

 そしてイシュペンの期待は簡単に裏切られることとなる。

「このままで構いませんよ」
「そうですか」

 女心が分かっていない。-5……いや-10だ。
 イシュペンは席を離れられないことを残念に思うが、講習をとっとと終わらせようと口を開く。

「では始めます。まずは報酬の件です」

 一呼吸、息を吸い込む。

「報酬はまずギルドが2割を徴収します。これはギルドが依頼を既に調べているためです。モンスター退治という仕事でしたら、出現しているモンスターの種類、数をギルドの斥候が既に調べてます」
「逆にギルドの情報にミスがあった場合は報告していただければ、20%のうちいくらかは返金されます。ただし、ギルドが調べた後別のモンスターが来たとかになると難しい場合がありますので、ご注意ください」
「そして早急に解決して欲しい等、ギルドが情報を収集できなかった場合は報酬の5%を取ります。このギルドの徴収金は依頼人との報酬金額の保証の調査、交渉に当てられるものです」
「ですのでもしギルドを通さず仕事請けた場合は後日ギルドに仕事を報告してくださるだけで結構ですが、仕事の依頼料に関する仲介や交渉、仕事の調査は一切ギルドは関与しません」
「以上が報酬の件になります。なにかご質問は?」

 何かを読み上げるようにイシュペンの口から流れ出た言葉の濁流を受け、モモンは目を白黒させていた。
 イシュペンからすれば数え切れないほど行った説明だ。詰まることや言い間違えることなんか考えられない。

 昔は羊皮紙を読みながらだったし、質問されれば詰まって答えられなかった。だが、今のイシュペンは無敵だ。あるとあらゆる角度からの攻撃を打ち返せる自信がある。
 それどころか、相手が目を白黒させるのを楽しんでるほどだ。同僚には趣味が悪いといわれるが、それでもなんというかこの快感は止められない。

「……無いようですね」
「あ、ええ。ようするにギルドが報酬を少し抜いてる。でもちゃんと調べるから我慢しなさい。ギルドを通さないときは自分達で依頼内容等をちゃんと調べなさいよ、ですね?」

 イシュペンの形を綺麗に整えてある眉がピクリと動いた。そして微笑を浮かべる。

「その通りです。モモン様」
 
 ならもっと早くても良いな? 表情にはこれっぽちも出さずに、勝ち負け的な判断をし始めるイシュペン。それに対しモモンは平静そのままだ。

「では次に依頼失敗における罰金発生事態の件です」
「仕事を失敗した場合は前金が発生していた場合は前金の1.5倍の返金を要求されます。発生して無い場合はギルドが調査する前の報酬全額の20%。つまりはギルドの調査費と同額を依頼者に返金する必要があります
「これはその依頼の失敗に掛かった時間の損失を出したとみなされるためです。基本的にこの発生した罰金は、次のより優秀な冒険者を雇うための追加報酬になります」
「まぁ、そういう依頼は最初の内はされないことをオススメします。発生する依頼と発生しない依頼がありますので、後日カウンター内にいるギルドの者に仕事の詳しい内容を聞いていただければと思います」
「ちなみに依頼者が無理難題を巧妙に冒険者に押し付けるという事例は、今のところありません。というのもギルドが依頼をある程度調査しておりますので安心していただければと思います。ですが、先ほどあったようにギルドを介して無い場合はご注意ください」
「時折、依頼主のダブルブッキングや手違い等で依頼を遂行できないということがありますが、そのような場合はもちろん罰金発生の例外です。他にもいくつか特例がございますので、何かあった際にギルドまでご報告いただければ、場合によっては罰金がなくなる場合もあります。ですがあまり期待されないことをオススメしますが」
「以上が罰金発生の件になります。なにかご質問は?」

「いや、無いです」

 イシュペンはモモンの表情を伺う。理解しているのか、理解してないのかを読み取るためだ。しかし――
 
 読めない……。

 思わずぎりっと歯軋りの音がイシュペンからこぼれた。
 普通の村人とは違うとしか言いようが無い。強敵だ。
 何が強敵なのか、イシュペンぐらいにしか分からない理屈を持って、そう認定する。

 この田舎ものは近年まれに見る強敵だ。

「では次に冒険者としてのレベル――クラスに関する説明です」
「基本、モモンさんのような方はノービスという形になります。この状態で依頼を5回受けた段階で昇格試験というものを受ける権利を得られます。この昇格試験は大体がギルドの隊商護衛であり、多少危険な場所に行くという試験です。つまりモンスターと遭遇する可能性が高くなります。勿論出会わない可能性もあります。試験の大体2/5は会いませんから――」
「質問」

 遮るように手を軽く上げたモモンに、イシュペンは機関銃の発射口を閉ざす。ここで止められるとは思わなかったという気持ちを込めて。

「権利を得られると言うことは別に受けなくてもかまわないということ?」
「はい」

 必ず最後にいうセリフを先に取られ、イシュペンはモモンを強敵からもう1つ上の存在へとレベルアップさせる。

「ただ、受けない場合は何時までもノービスという形になり、依頼の内容で受けれないものが数多くあることになります。つまりは高額の依頼は無理だと言うことですね」
「モンスターと遭遇するからと言うと大抵の人がその前にモンスターに慣れようと、モンスターとの戦闘行為を行う依頼を希望しますが、やめたほうが絶対に良いです」
 
 言い切るイシュペン。

「別に脅すわけじゃないですが、単なる村人が冒険者になった場合、50%がノービスで死亡。25%が途中で引退を決意。潜り抜けても15%が一年以内に死亡します」
「昇格試験で死ぬ可能性が高いと?」
「それもあります。50%の内30%はそうです。それ以外は先ほどのモンスターの出る依頼を無理に受けてや、1人で冒険してたまたまモンスターと遭遇してしまって、ですね」

 イシュペンが冒険者から聞くモンスターとの殺し合いというのは、村で一番の怪力の持ち主とかいう者が生き残れるものではない。もっと別の何かが必要とされるのだ。
 村人からなった冒険者はそれが足りないと、評価されていることを聞いたこともある。

 この前にいるモモンという人物はそれを持っているのだろうか。残念ながら単なる事務員であるイシュペンには不明だ。

「先ほどの説明に戻ります。これから先はノービスを卒業した際に拘ってくる話ですが――」
「冒険者にはクラスという考え方があります。これは依頼を受けた際、つけられる難易度に対応したものです。このクラス以上の難易度の仕事はよほどの例外を除いて受けられないと思ってください」
「難度1~10がFクラス。難度11~20がEクラス。難度21~30がDクラス。難度31~40がCクラス。難度41~50がBクラス。難度51~60がAクラス。難度61~70がA+クラス。これ以上は基本ありませんがギルドによってはA++とか言う場合があります」
「このクラスを挙げるためには昇格試験を受けてもらうこととなります。この昇格試験はノービスの際とは違い、失敗してもさほどギルドに影響の無い上位クラスの仕事を請けてもらうということするわけです。そして昇格試験に失敗した場合は半年間受けることが出来なくなります」
「無論。上のクラスになればなるほど、報酬と危険は跳ね上がります」
「以上がクラスの件になります。なにかご質問は?」
 
 どうだ、とイシュペンがモモンの返答を待つ。

「……バハルス帝国の騎士、彼らはどの程度のクラスですか?」
「え?」

 イシュペンから思わず素っ頓狂な声が漏れた。あまりに想像したことも、されたことも無い質問だったからだ。一瞬、困らせるために質問したのか、などという疑問が浮かぶがモモンを伺い、それはないと判断する。

「それは……難しいですね。冒険者はチームでの強さを誇ります。例えば騎士と個人戦で戦った場合は全員が負けたとしても、チーム戦なら勝利を得ると思います。えっと魔法使いとかご存知ですか?」
「はい」

 なら話は早い。

「冒険者は基本4人組――パーティーを作ります。5人のときも6人の時もありますが、人数が増えるほど意思の決定に難しくなるので、よほどリーダーになる人物が優秀でない限りは4人が基本です。又聞きですが、戦闘時この意思の決定が早い遅いが命を分けるそうですよ」
 
 一瞬、一瞬の選択が命を分ける戦闘時に、意志の決定や判断の伝達に遅れが出ればそれは場合によっては致命傷になりかねない。パーティーという、全員で1つの生き物となっているときは特にそうだ。

「そんな4人組の大抵が戦士、魔法使い、治癒師、前衛で構成されます。雑多ですが、騎士4人で構成されるよりも多彩な手段が取れる。これが冒険者には何より重要なんです。戦士と前衛の方が騎士達をブロックし、傷を負ったなら治癒魔法、魔法使いが戦場を大きく左右する魔法を使う。1人の力が何倍にもなるのが冒険者であり、目指して欲しいものです。モモンさん1人の力なんてそれほど大したものではありません。でも仲間と協力することでそれが何倍にもなるのです」

 役割分担をはっきりさせる。それによって様々な状況に応じた手段が取れるようになるのだ。逆に同じ役割しかできない人間を集めたら、ある手段は完璧にこなせるが、それ以外が全然できなくなる。冒険者に求められるのは一点集中ではなく幅広い対処方法なのだ。

「結論は分からない、ですか?」

 イシュペンの表情が変化しそうになって、それを押さえ込む。
 こいつ……上手くかわしたと思ったのに。蒸し返してくるとは。

「恐らくはDクラス。ただバハルス帝国の騎士なら武装も良いでしょうから、場合によってはC……に行かないぐらいじゃないでしょうか?」
「では王国戦士長では?」
「……A+じゃないですか?」

 王国最高と言われる戦士だ。A+ぐらいにしておかないと逆に色々とまずいだろう。しかしバハルス帝国の騎士となんで王国戦士長が強さの評価対象なんだろうか。
 まぁ、身近といえば身近か。この城塞都市に来たからには。
 しかもつい最近この周辺をバハルス帝国の騎士が暴れているという話を聞く。もしかすると何かあったのかもしれない。ならばこれ以上聞くことは不味いものを引き出しかねない。
 そう考えながらモモンを見てみると、平然とした顔の下にマグマのごとき憎悪を宿しているようにも思える。
 イシュペンはそう納得し、自分の想像を打ち切る。そして話を戻すために、どこまで進んだかを思い出そうとする。確かクラスの説明が終わったところだ。

「他にクラスについて何か質問はありますか」

 変な質問が来ても逃げたりはしない。それがイシュペンの自らに定めた規則だ。そう、例え相手が圧倒的な強敵でも。

「いえ、ありません」

 安堵のため息が思わず漏れた。そしてイシュペンは愕然とする。
 講習で質問が来なくて安堵感を覚えたことなど、どれだけ前のことか。忘れたような昔、自らがまだギルドの受付として入りたての頃、それほど前の話だ。

 ああ、そうか。
 イシュペンは春風の微笑を浮かべた。

「貴方が強敵と書いてライバルと呼ぶ人物なんですね」
「?」

 親しげな友人にかけるような声にモモンは目を軽く見開く。そんな表情の変化をイシュペンはまさに女神のごとき微笑で受け入れる。

「――では、次に依頼の難度に関する話です」
「当然のごとく依頼の難度は様々です。そしてこの依頼の難度はギルドが集めた情報を元につけられるので、かなり精度が高いと思っていただいて結構です。これは収集等であれば捜索する場所や探すもののレア度によって変動しますし、調査等であればかかる時間や対象によって変化します」
「ですが基本的にモンスター退治の場合は、ギルドが定めたモンスターの討伐難度がそのまま使われているかと思います。複数の場合はモンスターの最大難度に+αという感じでしょうか」
「そして討伐難度に関して重要なことは、討伐難度は平均値でしかないということを決して忘れないでください」
「例えば全長80センチのウルフがいたとします。全長110センチのウルフでも難度は同じでしょうか? あくまでもこの難度は平均値だと覚えておいてください。上下に4ぐらいは変動する可能性があります。つまりぎりぎりの難度のモンスター退治の仕事請けた場合、平均より大型だった場合は手に余る自体になることが予測されます。仮に難度28のモンスター退治の場合、下手をすると32かも知れないということです」
「以上が依頼の難度の件になります。なにかご質問は?」
「いえ、無いです」
「――ですよね」

 予測してましたよ、あなたならこの程度大丈夫だと思ってました。
 口にはしないがイシュペンの聖人ごとき顔は充分にそれを物語っている。それに対し、異様なものを直視したとモモンの顔は語っていた。
 ごくりとモモンの喉がなった。

「最後に依頼の受け方ですが、まずはカウンターに来て、明日発行するメンバーカードを提出してください。そのメンバーカードに記載されたクラスで受けられる仕事の一覧を書いた用紙を閲覧していただきます。字が読めない場合は相談も受けたまってますが、その場合は多少金額が発生することをお忘れなく。基本的に10分1銅貨です」
「ギルドメンバーである証たるメンバーカードは、明日以降適当な日に来ていただければ差し上げます。それは肌身離さず持っておくようにしてください。再発行にはかなりの時間がかかります。基本的にこの冒険者板がなければ仕事は請けられませんので」
「以上で講習は終了です。おめでとうございます、モモンさん。我々冒険者ギルドは貴方を冒険者と認め、共に歩んでいけるよう祈っています」

 イシュペンは思わず立ち上がり、カウンター越しに手を伸ばす。いままでそんなことをした記憶は無い。なんとなく感じるものがありしたくなったのだ。
 戸惑ったモモンは逡巡し、それから決心したのかその手を握った。幾度か互いに手を軽く振りあう。いや振っていたのはイシュペンだけかもしれないが。
 
 そんなイシュペンは意外な感想を抱いていた。
 意外に柔らかく手だ。もっと硬いかと思ったんだけど。

 やがて、互いに手を離したところでモモンは質問を口にした。

「……ところで依頼は今から既に選んでおいて明日メンバーカードをもらった際に受けられるんですか?」
「え?」
 
 確かに既にモモンは冒険者だ。メンバーカードが無いため、依頼を受けることはできないが、選んでおくことはできる。しかしその前に確認しなければならないことがある。

「……モモンさんはお1人で来られたのですか? 誰かご一緒に冒険をされる方はいらっしゃらないんですか?」

 一応の確認だ。もしいるなら最初から1人でギルドには来ないだろう。

「いませんね」
「モモンさんは魔法を使えたり、追跡ができたりという特殊なスキルは修めて無いんでしたよね」
「……そうなっていましたね」

 先ほどの羊皮紙に書き込む際に色々聞いたが、そのうちの1つが、特殊なスキルを保有するかという要項だ。残念なことにモモンは特殊な能力を保有して無いと返事をした。

「そうなると戦士職という扱いが基本なんですが、最初に仲間がいないと結構大変なんです。当てはめられる人数が多い分、なかなかパーティーに声が掛からない。治癒師――神官の方でもかまいませんが――や、魔術師のように魔法を使えればかなり引く手あまたです。次に盗賊や野伏のように情報収集や捜索探知に優れた能力を持つ人もそうですね。最後はやはり戦士なんです」
「ただですね」安心させるように言葉を続ける「もちろん、本当に優秀な戦士は引く手あまたですよ。敵を後ろに行かせないように防ぐ、敵と退治して時間を稼ぐなんかができる戦士は。はっきり言って戦士に必要なのは情報分析能力等の頭の回転です。どこを押さえれば良いのか、どのタイミングで魔法の支援が飛ぶか。だから戦士がリーダーを張ることが多いんです。英雄に戦士が多い理由はそうなんですから」

 しかしながらそうなると最初の依頼の選択幅はかなり少なくなる。その内もっぱらギルドがオススメする仕事があるにはあるのだが……。モモンの外見をイシュペンは眺める。
 中肉中背。筋肉が標準以上に付いているとは思えない。正直難しいと思えるが、可能性にはかけるべきだ。それに相手はイシュペンが認めるライバルだ。やってやれないことはないはずだ。
 信頼と判断される感情を込めて、イシュペンは指を伸ばした。

「あそこにある荷物を持ち上げてくれませんか?」

 イシュペンの指し示す方。壁際に大きな皮袋――中身がパンパンに詰まった袋が無造作に置かれていた。背中に背負いやすいように肩ベルトが出ている。綺麗に整頓されているギルドの受付というこの部屋の役割を考えれば、その袋は周囲から非常に浮いている。
 モモンは頷くと、皮袋の直ぐ側まで近づき、ベルトを両手で握る。

「しょっと」
「えっ!」

 人、1人が入りかねない袋を、モモンはいとも容易く持ち上げた。
 かなりの重みがモモンの手に掛かり、ベルトが手に食い込む。しかしながらモモンの表情に苦痛の色は無い。それどころか、余裕の雰囲気すら漂わせている。
 イシュペンからすれば驚きだった。あの筋肉がしっかり付いてるとも思えない体格でよくそこまで、と。もしかすると服の下は限界まで引き締められた体なんだろうか。確かにそう思ってみてみると服のだぶつきが筋肉を隠しているように思えてくる。
 ちょっとした調べごとだったのだが、これは幾つも仕事が見つかるだろう。特に駆け出しの冒険者にちょうど向いた仕事が。さすがはライバルか。
 感心しながら、イシュペンは頭の中で色々と仕事を思い出していると――

「まだ持ってないと駄目ですか?」

 少しばかり困ったモモンの声が聞こえる。その声に我に返り、イシュペンは降ろすように指図した。

「申し訳ありません、ちょうど良い仕事が無いか思い出していたもので」
「かまいませんよ」

 モモンが袋を下に降ろすと、ずしりという擬音を立てながら袋が床に置かれた。モモンがカウンターに戻って来るのを待ってからイシュペンはモモンに任せられる依頼を口に出した。

「モモンさん。ちょうど良いことに、ポーターという仕事があります」

 聞いたことも無いと顔にはっきり表れているモモン。
 当然だろう。普通に村で暮らしていたらそんな仕事は聴いたことが無いだろう。ただ、山や森林とかの近くなら時折あるとは思うが。

「馬という生き物は意外に臆病でして、モンスターと遭遇したとき暴れて逃げ出したりということがあるんです。軍馬や魔法的に強化された馬はそんなことが無いのですが、買うとなるとかなりのお金がかかります。ですのでそこまでのお金を持っていない冒険者は荷運びを雇うんです。ポーターとは馬の代わりに冒険者のパーティーについて荷物を持って歩く仕事です」
「ふーん」
「そして何より他の冒険者の方と面識を持てるというのは、かなり将来に役立つかと思います。実際、多くの方がポーターから仕事を始めますし、ギルドも基本的にこの仕事を最初にお薦めます」
「荷物の重さはどの程度なの?」
「大体40キロぐらいです。先ほどの持っていただいた荷物が大体それと同じぐらいです」
「ならそれをお願いしようかな」
「直ぐに受けられるポーターの仕事ならありますよ、確か」

 イシュペンは立ち上がり、後ろの書棚から一冊の本を取り出す。貴重な紙を持って書かれたこの本に書かれているのは、様々な冒険者のデータだ。
 何ページも捲っていき、目的の人物の項を探す。やがて目的の人物が見つかったのでそれを参照しながら、近くにおいてあった依頼の詳しい内容が書いてある羊皮紙を読み上げる。

「そうですね。依頼人はペテル・モーク。登録パーティ名、旋風の斧のリーダーです。えっと旋風の斧のパーティーのクラスはEクラス。仕事の内容は周辺モンスター討伐の際の荷運び。加重は40キロ。契約期間及び報酬は1日1銀貨で6日間。前金は当然無しですね。そして依頼の期間を過ぎる1日ごとに1.2銀貨です。食料、飲食物等一切はパーティー側が用意」

 そこまで読み上げ、モモンの顔をうかがう。

「基本的なポーターの仕事だと思います」イシュペンは本に書かれたパーティーの登録用紙をめくってみる「えっと罰則や死亡した人物は無し。パーティーの信頼性も問題ないと思います」
「なら、その仕事を請けます」
「分かりました。では明日依頼を受けるということでよろしいですか? それなら明日の朝6:00に旋風の斧の方々を呼んでおきますので」
「はい。お願いします」

 少しばかり忙しくなって来た。イシュペンは先ほどの羊皮紙に書かれた旋風の斧の逗留先を思い出す。
 話は終わったと見て取ったモモンは外に歩き出そうとして、途中で歩を止めた。そしてイシュペンを振り返ると、困った表情で言葉を続ける。

「……まだ宿屋を取ってないんですが、オススメの宿屋を紹介してくれないでしょうか?」



 モモンがちょうど今、閉めた扉がキシキシと音を微かに立てている。それとすれ違いに、イシュペンの後方の扉が静かに開いた。奥や上の階に通じる扉から出てきたのは他の受付嬢であり、イシュペンとも仲の良い女性だ。
 女性は自らが出てきた扉を閉めると、無人の室内を軽く見渡す。

「……今、誰か来てた?」
「ええ、私のライバルが」
「は?」

 怪訝そうな声が上がった。まぁ、この感情は戦いあった仲にしか理解できないだろうと、イシュペンは思う。冒険者が死闘を繰り広げたモンスターを相手に死を惜しむ、なんて話はよく聞く。殺しあった仲でなんで、と疑問に感じていたが、イシュペンはその一端を捕らえた気がした。
 これが――なのか、と。

「……こっちの話。で、そっちはなんだったの?」
「え? ああ、うん。冒険者を夜警として雇いたいって話よ」
「夜警? 衛兵だけじゃ手が足りないって言うの?」
「んー。ほら、つい最近の街の噂であるじゃない。化け物を見たって」
「それって酔っ払いが見たって奴?」
「そう。影のような化け物ね」
「……街の中に入ってこれるとは思えないけど。泥棒が変な格好でもしてるんじゃないの」
「多分、そうだと私も思うけどね……」

 不安を感じている口調。
 まぁ、モンスターが城砦都市内部にいる可能性があると聞いて、安心できるほどイシュペン達は腕に自信があるわけではない。ギルドの受付嬢だからといっても、所詮は剣も振るったことのない一般人だ。
 だが――

「大体死傷者も無し。せいぜい財布をなくした程度でしょ?」

 それはどう考えてもモンスターのやる行為ではない。財布以外に奪ったものが無いなら、それは財布の価値を知るものに他ならない。ならば人間と想定するのが一番近い答えのはずだ。

「まぁね」

 言葉を濁す女性に安心させるために、わざとらしくイシュペンは笑いかける。

「ま、難度とかその辺は上の人間が決めることなんだから、私達はやるべきことをやりましょう」
「そうね」

 女性と笑いあい、イシュペンは先ほど中断した手を動かしだす。まずは旋風の斧の逗留先発見だ。






――――――――
※ SとかAとかはできれば使いたくは無かったのですが、一番簡単明瞭な説明だとようやく理解したので採用しました。先達の知恵には勝てません。代案を用意できない段階で、自分が最も愚かだったということでした。
  難度10とかの数字もユグドラシルのレベルと勘違いしそうなので却下しました。

  恐らく今後、難度いくつのモンスターという説明が出るときがありますが、その場合ユグドラシルのレベルとは強さ評価が大きく違いますので。難度10と10LVでは一般兵士の乗るザクとシャアの乗るザクぐらいの違いがあります。



[18721] 17_宿屋
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/11/14 11:37

 城塞都市エ・ランテルは3重の城壁を持ち、各城壁内ごとにそれぞれの特色がある。
 最も外周部の城壁内は王国軍の駐屯地として利用されるために、その系統の設備が整っているし、城壁間の距離もかなりある。そして石畳がかなり敷き詰められ、迅速な行動を取ることが可能となっている。
 最も内周部は都市の中枢機能たる行政関係。そして兵糧を保管しておくため倉庫等が揃い、最も警戒が厳重にされている区画だ。
 最後に残った中央区画は都市に住む様々な者のための区画だ。街という名前を聞いて一般的に想像される映像こそ、この区画である。


 広場を中心とした露天は、昼特有の活気に満ち満ちており、威勢の良い声で道行く人を呼び止める。
 年齢のいった夫人が商人と交渉しつつ良い食材を探し、肉の焼ける匂いに引き付けられた青年が、肉汁の垂れる串肉を購入している。様々な野菜や、調理済みの食料。そういったもの様々なものが混じりあい、空気に匂いが付いている。
 そんな露天を左右に眺めながら、モモンは石畳で整備された広場を歩く。時折売り子に呼び止められるが、それを軽く手で断りを入れながら。人ごみを上手く掻き分け、一度もぶつかったりはしない。
 その足取りに迷いは無い。モモンは教えてもらった宿屋を目指しているのだ。
 
 やがて広場の外れに出る頃、露天は途切れる。
 そこからはちゃんとした店が立ち並ぶ区画だ。

 モモンはそこそこの広さの通りを進む。道には轍の跡に水溜りができ、太陽の光を反射している。足場自体はかなり悪いものの、先ほどまで広場の混雑振りと比べれば全然歩きやすい。
 それは人の流れが殆ど無いのがその理由だ。
 確かに店に入ったり出たりと人はそこそこいる。すぐ前では馬を連れた品の良い老人が店の主人だろう男と交渉している。ちょっと横を見渡せば作業用の前掛けを着た数人の職人が荷物を運び込んでいる。
 だが、それもちらほら程度だ。それほどの人がごった返しているような店はモモンのいる場所からは発見できない。
 もちろんこれは普通の店と食料品店の違い。そして時間帯の違いではあるのだが。
 
 そんな店の立ち並ぶ区画を店の看板ではなく、モモンは吊り下げられている看板を目印に店を探す。これは文字が読めないからだが。
 
 目的の看板を見つけたモモンの足がひとりでに速くなっていた。


 革靴に付いた泥を落としながら二段ほどの階段を上がり、モモンは両手を使ってウエスタンドアを押し開ける。
 明り取りの窓が全て下ろされているためその室内は暗く、外の明るさになれた人間なら一瞬真っ暗に感じるだろう。無論、モモンからすれば十分な明るさだが。
 
 室内は思ったよりも広い。おおよそ幅15メートル、奥行き20メートルか。
 1階は酒場になっている。奥にカウンター。その後ろは二段ほどの棚が備え付けられ、何十本もの酒瓶が陳列している。さらに奥の扉を開けると、そこに調理場があるのだろう。何卓もある丸テーブルにそれぞれのイスが上げられ、現在が営業中ではないことを示唆している。
 酒場の隅には途中で折れながら、上に向かう階段がある。イシュペンの話によると2階、3階部分が宿屋という話だ。

 そんな宿屋の奥から、1人の男がモモンを堂々と観察していた。

 手には今まで床を磨くのに使っていた薄汚れたモップ。捲くり上げ、露出した太い二の腕には獣とも刀剣とも予測の付かない傷跡が幾つも浮かび上がっていた。
 頭部は完全に剃られ、一本も髪は残っていない。
 顔立ちは精悍と野獣の中間地点に着陸している。そして顔にもやはり傷がある。
 店の人間というより傭兵だ、どう評価しても。

「酒はまだ出さねぇぞ」

 割れ鐘を髣髴とさせる濁声がモモンにかけられた。

「宿を貸して欲しいのですが。ギルドの受付嬢の方に聞いたらここをお勧めされました」
「……冒険者……見ねぇ顔でギルドのネェちゃんが勧めたってことはノービスだな」
「その通り」
「相部屋で1日5銅貨だ」主人はぶっきらぼうに言う。「飯はオートミールと野菜。肉が欲しいなら追加で1銅貨だ。まぁ、オートミールの代わりに数日たったパンという可能性もあるがな」
「できれば個室を希望するんだけど?」
「……この街に冒険者ご用達の宿屋は3軒ある。その中で俺の店が一番最下級だ。なんでギルドの人間がここを紹介したか分かるか?」
「?」

 不思議そうなモモンを前に主人の眉が危険な角度で釣りあがる。

「少しは考えろ! 年齢だけ無駄にとんじゃねぇ!」

 怒りが僅かに含まれた腹の下から突き上げられるような声を前に、モモンは平然とした表情を崩さない。子供に怒られたとでも言わんばかりの冷静さがそこにはあった。
 ほう、と主人から感嘆の呼吸が微かに漏れた。

「……中々肝は据わってるようだな。……この宿屋を紹介した理由は、ここに泊まるのは大体がFからEクラスの冒険者だからだ。同じクラス同士なら顔見知りになれば、パーティーとして冒険に出る可能性がある。パーティーを組むのに相応しい奴を探すには俺の店がもってこいだからだ……」

 ぎょろっと主人の目が動いた。

「個室で暮らしても構わないが、接点がなければ仲間はできんぞ。大部屋はある意味お前と同じような奴が多い。そういうところで顔を売るんだな。最後に聞くぞ、相部屋か1人部屋どっちが良い?」
「では相部屋で」
「ああ」

 当たり前だ。即答したモモンに言葉には出さないが、そうはっきりとわかる態度で主人は頷く。

「なら前払いだ」
「はい」

 モモンは無造作に懐に手を入れると、皮袋を取り出し、その中から銅貨5枚を取り出す。そして店の中に歩き出し、主人のごつい手の中に落とした。
 手の中に落ちた銅貨を数えることはしないで、主人はそのままズボンのポケットに銅貨を突っ込んだ。そして店の中を歩き、カウンターから鍵を1つ取り出す。

「階段上がって、直ぐ右の部屋だ。寝台に備え付けてある宝箱の中に荷物は入れろ。鍵はこいつだ」

 モモンに鍵を放る。
 空中を放物線を描いて飛んでくる小さな鍵を、モモンは薄暗い室内で問題なく受け止めた。

「言わなくても分かると思うが、他人の宝箱には近づくな。勘違いでもされたら厄介ごとになるからな。その場合の喧嘩は止める気もしねぇ。腕がへし折られようがな。まぁ、顔を売りたいならそういう手もあるのは認めてやるさ、殺されはしないだろうからな」

 主人は話は終わったと、モモンに背を向けだそうとする。そこにモモンが呼び止めた。

「待ってもらえるかな?」
「あん?」
「えっと、宿屋に行ったら主人にお願いして冒険者の最低限の道具を準備してもらうように言って欲しいといわれたの。今回の仕事では使わない可能性が高いけど、将来的には色々と必要になってくるって」
「依頼をもう受けてるのか?」
「はい、ポーターを」
「ほう」じろじろとモモンの体つきを眺める主人。納得がいかなかったのか、頭をかしげる。「まぁ、ギルドでも試験は受けてんだろうから間違いは無いと思うが、そんな体でポーターをこなせるのか? ……まぁ、良い」

 モモンの持っている皮袋に目をやり、次に服装に目をやる。批評を下す人間にありがちな雰囲気とは多少違う。

「……しっかりとした冒険用の服をまずは買うんだな。靴は履きなれないと靴擦れを起こすからすぐの仕事じゃ仕方が無いから置いておくとして、皮のズボン、皮のシャツ、手袋のセットだ。こいつは将来的に絶対に買っておけ。そうそう多少だぶつかせておいた方が良いぞ。意外に剣とかモンスターの牙とかがそこで止まったりするんだ。そうやって命が助かった奴を何人も見てきた。……準備するなら5金貨は掛かる。まぁ、見た感じ今の服でもそう悪くは無い、順番としては後に回しても良いだろう。
そんなわけで最初に用意すべきなのはマントだな」
「マント?」

 不思議そうなモモンに驚いたように主人は口を僅かにあける。だが、何かに納得したのか直ぐに引き締められた。

「なんだ、お前どこかの村の出身か?」
「よく分かるね」
「ああ、旅人でマントの重要さを知らない人間はいない。なら、旅をしない奴ってことだ。ならお前さんの格好からして村人が一番当たりっぽかったからな」
「大正解」

 一瞬、主人は馬鹿にされたのかと険悪な表情を作るが、モモンが裏表無くそう言ってるのだと理解したのか、肩をがっくりと落とす。それから溜まったものを排出するように頭を幾度か振った。

「まぁいい。マントはな、大地にそのまま横になると体温が奪われる。こいつが地味に体力を奪うんだ。それを避けるという意味でも本当であれば携帯用寝具があった方が良い。でもそこそこの値が張るわ、重いわで、最初の仕事がポーターならあまりお勧めはできねぇ。だから、そいつをマントで代用するって寸法だ。それに」続けて主人が語る「しっかりとしたマントは雨よけにもなる。雨を長時間浴びると体温がやっぱり奪われるからな。こいつを避けるという意味で買っておくべきだな」
「いくらですか?」
「3銀貨だ。あとは携帯用食器とかあればまぁ、便利だが無くても陶器の器でも1つ持っておけば事足りる。とりあえずはポーターをやるならそんなもんか。あっと武器防具関係は俺じゃなく、そういったものを販売している奴に聞いたほうが良い」
「ではマントを1つお願いします」
「ああ、夕飯までには用意しておいてやる。そっちも金の準備をして置けよ」
「了解しました」

 主人は手をひらひらと振りながら、モップを片手に店の奥に入っていった。
 モモンはその背を眺め、主人の姿が完全に奥に消えると、階段を昇っていった。


 昇った先は幾つもの窓が開けられてるために日光が入り込み、1階とはまるで正反対なほど明るい。モモンは昇った先の直ぐ横手にあったドアノブを握り、回す。
 ぎしぎしと立て付けの悪さを見せ付けながら扉が開いていく。 
 
 そこには木で出来た粗末な寝台が8つ置かれていた。鎧戸が開けられているために、直接外気と日光が入り込んでくる。
 寝台は木で出来ており、その上に薄く藁が敷かれている。マットレス代わりに藁が敷かれているのは、虫が付きにくくするため、使ったら直ぐに捨てるためだろう。この辺りでは麦が生産物の主となっているため、さほど藁の入手に手間取らないはずだ。
 そしてその藁の上にシーツだ。シーツも白よりは汚れが付いてもそれほど目立たないであろう灰色じみたもので編まれている。モモンはそれに手を滑らす。ざらざらとした感触。恐らくは麻だろう。
 床にはそんな寝台から毀れた藁が何本も落ちていた。
 そんな部屋の8つある寝台の内、6つの宝箱は蓋がしっかりと閉まってある。

 モモンは蓋の開いている宝箱の据え付けられた寝台に近寄った。まぁ、綺麗だ。虫が生息しているようには思えない。
 皮靴を脱いでモモンは寝台に上がった。みしみしという音とともに背中に木の固い感触が、薄い藁越しに感じられる。
 お世辞にも良い寝台ではない。こんな場所で寝れば明日には体がガチガチになっているだろう。ナザリック大地下墳墓の豪華かつ柔らかい寝台が懐かしい。とはいえ仕方が無い。これもしなくてはならないことだ。
 モモンは皮袋から無造作に1つの指輪を取り出し、それを嵌めると麻でできた手袋をその上から被せる。皮袋は仕舞わずに、自らの胸元においておく。

 そのとき、微かなきしむ音が扉越しに聞こえた。
 そして階段を昇ってくる気配。数は1つ。大きさは人間サイズ。
 モモンは少しばかり身構えた体を解きほぐす。どうも、警戒心が先立ってしまう。これではいけないと思いながら、扉に注意をやる。

 ドアがきしみながら開いた。
 そこに立っていたのは女だ。年齢は20いくかいかないか。赤毛の髪を動きやすいぐらいの長さで乱雑に切っている。どう贔屓目に見ても切りそろえているわけではない。どちらかというなら鳥の巣だ。
 顔立ちはさほど悪いわけではないが、目つきは鋭く、化粧っけはこれっぽちも感じられない。日差しに焼けた肌は健康的な小麦色に変わっている。
 片手に木でできた小さなバケツ。
 着ている鎧は金属の細い帯を皮鎧の上から貼り付け、鋲で打ちつけたものだ。金が無いためか、それとも動きを阻害しないためか、さほど鉄板は貼り付けられて無い。腰には剣を下げている。

 そんな女は誰もいないと思っていたのか、モモンを認識すると、微かに目を見開く。
 とはいえ、それで終わりだ。話しかけようとも、観察しようともせずにそのまま部屋に入り、寝台の1つに歩み寄る。

 女の体から汗臭い匂いと体臭が交じり合った、独特のにおいがモモンの寝ているところまで漂ってきた。

 女は恐らくは自らの寝台なんだろう場所に来ると勢い良く腰を下ろした。ギシリとやけに大きな音を立て、寝台が女に抗議の声を上げる。
 それを無視しながら女は脇腹付近にある鎧止めをはずし、鎧を外した。そのまま鎧を床に静かに降ろすと、下に着用していた麻服を無造作に脱ぎ捨てる。窮屈に締め付けられたさらしで、ふくよかな胸が大きく潰れていた。
 モモンが見ているのには気づいているだろうが、そのまま女はさらしを迷うことなく外す。

 完全に上半身を裸にした女の体を評価するなら、女というよりも戦士というべきものだ。
 皮膚の下にはわずかばかりの脂肪が張り付いているだけで、大部分が筋肉。腹筋は完全に6つに割れている。
 胸筋が鍛えられているためなのか、大きく膨らんだ胸は垂れることなく、勢い良く前に突き出している。せいぜいその辺りぐらいなものだ、女を感じれるのは。

 モモンの視線を気にもせず上半身裸になった女はそのまま、自らの荷物から包帯や小さな壷を取り出した。
 全身に青痣、それも出来ばかりのものがあった。擦り傷、打ち身、そういったものもかなり多い。持ってきていた木のバケツの中から濡れたタオルを取り出すと、それで体を拭き始める。
 胸が柔らかそうに形を変えながら揺れた。
 モモンがぼんやりと眺めている内に、体を拭き終わった女は用意していた小さい壷を開けた。
 開けた瞬間、中からの匂いで一気に空気に色が付いた。

 モモンはあまりの強力な匂いに顔を顰める。薬草を潰した匂いなんだろうが、鼻がツーンとし、涙が滲みそうになるぐらいの強さだ。
 女はその壷からどろりとした緑色の粘液を掬い上げると、自らの青痣の部分に染み込ませるようにこすり付ける。
 モモンはより一層顔を歪ませた。
 女はそれに気づいていないか、それとも無視をしているのか。塗りこむと、その上から包帯で固定をし始める。
 モモンは完全に嫌な顔をすると、鼻をワザとらしく摘みながら、女を観察する。そのまま続けて応急処置を行っていた女の手がついに止まった。

「あのさー」

 やがて女が体ごとモモンへと向き直る。ブルンと充分な肉感を持って胸が動いた。

「良いもん見れた?」

 裸の胸を突きつけるように笑いかける女。
 笑いかけるといっても肉食獣のそれだ。変なことを言えば直ぐに何かが起こることは、誰でも簡単に予測できることだ。そしてその何かとはあまり喜ばしいことで無いのは理解できる。
 モモンは大きく顎門を開けた肉食獣の前の餌だ。

 無論、そう思っているのは眼前の女だけだろう。

 胸を突き出されても正直モモンとしては困るのだ。別に興味も無いし、比べろとでも言うのだろうか。さほど差は無いと思うが。

「くさい」
「……へ?」
「薬草だろうけどくさい。鼻がツーンとする」

 女は予想と違ったモモンの態度に困惑し、間の抜けた顔を晒した。それに取り合わずにモモンは皮袋に手を突っ込み、一本のポーションを取り出した。

「あげる」
「何……それ」
「これを飲んで、水を浴びてその臭いの元を落としてくれない?」

 近場の寝台の上に真紅の溶液が入ったポーションを置くと、モモンは女に背を向けて寝台に横たわった。


 怒りを空かされた女は呆気に取られながら、手に取ったポーションを観察する。冒険者の知識としては知らない事の方が多いが、それでも今まで学んできた知識の中にこんなものは無かった。
 一瞬、毒という考えが頭に浮かぶが、毒も意外に値が張る。こんな場所で自分をどうにかして意味があるとは思えない。

 これを彼女が飲むことがこの変な男の利益つながる。その等号の意味するところが今一歩不明だ。
 封を剥ぎ取り蓋を外すと、手で仰ぎ匂いを嗅ぐ。柑橘系の香しい匂いが漂う。
 
 指を栓をするように瓶の口に突っ込むとひっくり返し、指に中の溶液を付着させる。女は指を口にくわえた。

「あれ、意外に美味い?」

 柑橘系の味が微かに口の中に広がる。舌が痺れるような感覚は無い。女は男を一瞥すると、腰に手を当て一気に飲みだす。すべてを胃の中に押し込んだ瞬間、女は驚きを感じた。
 一瞬、全身の傷が熱せられたようなほてりを感じたのだ。そして女の本当の驚きは次の瞬間だった。

 先ほどまであった青痣が完全に無くなっている。熱を持っていた打ち身も、じくじくと痛む捻挫もだ。

 体の痛みが完全に消えている。

「まさか……治癒のポーション?」

 瞬時の癒しをもたらす魔法のポーションは彼女だって知っている。とはいえ、彼女が知っているのは名前と効果だけだ。金額的に駆け出しの冒険者には辛いラインのため、彼女はそれを使ったことも購入も考えたことも無い。それを簡単に与えるこの男は何者なんだろうか。
 女は困惑しながら、男に話しかけるべきか迷った。しかし、背中を見せて横たわる男の姿に絶壁ごとき壁を感じ、その口を閉ざす。
 しばらく休んで体を癒さなければならないと思っていたが、幸運なことに直ぐに動ける体にしてもらったのだ。とりあえずはこの男に言われたように薬草の匂いを落とすべきだろう。このまま落とさなければ、男が腹を立てる可能性がある。

 女は男が怒った場合を想像し、身震いを1つ。

「体洗いにいきます」

 ぼそぼそと怒らせない程度の声量で男に声をかけると、宝箱の中からタオルを取り出し、着替えとあわせてこそこそと外に出る。

「ふー」
 
 女は外に出ると安堵のため息をついた。なんで最低クラスの宿にあれほどのポーションを簡単にくれる男がいるのと思いながら。
 酒場でギルドメンバーの証たるメンバーカードをぶら下げることはごく当たり前の光景だ。だが、部屋ではぶら下げるのは自己顕示欲の強い人間と捉えられるために仕舞いこむ冒険者は多い。
 先ほどの男も下げてはいなかった。そのためランクは不明だ。
 あれほどのポーションをさらっと渡すような人間だ。最低でもDランク、いやCランクかもしれない。Bランクも可能性としてはあるがこんな宿屋に泊まるだろうか?

「なんで、そんな奴が一緒の部屋なのよ」

 ランクがすべてということは無いが、それでも自分より遥かに上のランクの人間かも知れない人物と同室というのは胃が重くなる事態だ。

「勘弁してよ」

 女は深いため息を1つついた。






――――――――
※ 21話が難産です。1話まるまる戦闘なんて無理なんだよ、多数対多数なんて。モモンの出番が全然無いよ……。でも戦闘シーンの練習もしなくては。
  早く、あいつすげー、って言わせたいなぁ。
  とりあえずは次回は18話「至上命令」です。ひさびさのアインズの出番ですね。



[18721] 18_至上命令
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/06/02 20:46



 硬い寝台だが、眠ろうとすれば眠れるものだ。

 そして明晰夢だと認識できるが、その光景は彼女に喜びをもたらす。ならば今一度、あのときの喜びに浸れるというのなら、夢を見続けても悪くは無い。
 周囲に敵意はないのだ。もしあれば瞬時に思考を切り替える自信はある。
 もう少し、夢を楽しもう――。



 玉座の間。そこに遅れて到着したアインズはゆっくりと歩く。
 左右に別れ、守護者や戦闘能力を保有したメイド、そして各階層の守護者が選抜したシモベが膝を付いて頭を垂れていた。
 誰一人として動かず、まるで呼吸音すら聞こえないほどの静寂がある。立つ音はこの部屋の主人――アインズの足音と、スタッフを突く音のみだ。
 階段を昇りきり、玉座に腰をかける。

「頭をあげよ」

 アインズの言葉に反応し、乱れぬ動きで眼下の部下達が一斉に顔を上げた。まるで訓練でもしていたような完璧に歩調の合った動き。それに対する満足感がアインズに生まれた。

 並びとしては右の先頭にデミウルゴス。その後ろにシャルティア、アウラ、コキュートスが並ぶ。
 左の先頭はセバス。その後ろに戦闘能力を保有したメイドが並んでいた。そして数列分ほど開けて、各階層守護者が連れてきたシモベが並ぶ。

 最初の列はデミウルゴスがつれてきたシモベだ。
 その巨躯に蝙蝠を思わせる巨大な翼を生やし、どす黒い鱗が鎧のように身を包んでいる。揺らめき上がるような漆黒の悪のオーラを纏い、残忍な鞭のような長くのたうつ尻尾が生えている。口からは鋭い牙が、手には日本刀以上に切れ味のありそうな爪を突き出していた。
 頭部から後ろに突き出した長く捻じれた2本の角。そして背中にかけてそれよりも短い角が何本も生えている。鱗は顔まで覆い、歪めた爬虫類と人間の合いの子のようでもあった。
 まさに悪魔という言葉どおりの存在である。最上位ではないが、レベル80の上位悪魔――奈落の支配者<アビサル・ロード>がそこに整列していた。

 次の列はアウラだ。
 デミウルゴスが一種類の悪魔を集めているとするならこちらは雑多だ。様々なモンスターが揃えられている。
 のたうつ触手の集まりに数本の蛇の頭を持つアレンダーグロスト。
 ツヴェーク・プリーストロードは煌びやかで装飾過多な杖を持ち、見事な神官衣を纏った直立するピンク色の蛙だ。本来であれば王冠も被っているはずなのだが、それはアインズの前と言うこともあり、横に置かれている。
 他にもスフィンクスロードたるシェセプ・アンク等が鎮座していた。

 そしてコキュートスだ。
 白銀の残光を残す当世具足を纏った武士達が揃っていた。刀を下げるもの、横に槍を置くもの、弓を脇に吊るすもの、各員がそれぞれ違う武器を所持している。
 具足の下はコキュートスと同じような昆虫を思わせる体。ビートル種族のソードマスター達だ。
 ユグドラシルでは具足は着てないのだが、こちらの世界に着てから渡したのだろうか。クリティカルヒット率の高さと首切り<ヴォーパル>能力を持つこの種のモンスターは装備の整っていない前衛が最も恐れる存在だ。

 最後はシャルティアだが、シモベは一種類に統一されている。
 白蝋の血の気の完全に引ききった肌、ルビーのごとく輝く真紅の瞳を持ち、やけに赤い唇からは鋭い犬歯が僅かに姿を見せている。非常に美しい外見の成人した女性達。
 皆、ヴァンパイアだ。
 彼女達は全身、胸元の大きく開いた薄絹を纏っており、黄金の輝きを持つ豪華な装身具が薄絹越しに透けて見える。隠すという言葉の意味が殆どが成さないほど、服の下の肢体が薄く透けている。ほぼ裸体といっても過言ではない。
 死体愛好者であり、巨乳好きという変態的な思考を設定されたシャルティアに相応しい揃え方だ。

 セバスの直属の部下は戦闘スキルを保有した先のメイドたちなので、以上でこの場に来ることを許されているシモベはすべて揃ったこととなる。


「まずは私が個人で勝手に動いたことを詫びを入れよう」

 これっぽちも悪いと思っていない声でアインズは陳謝する。これはあくまでも建前上のものであり、アインズが謝罪したと言うことが重要なのである。勝手に動いたのはアインズの独断だが、これによって部下を信頼してないのかと思われたり、部下の力が足りないのではと思われないためのものだ。
 それを理解しているからこそ、眼下の部下から何の声も上がらない。アインズは続けて言う。

「そして先も告げていたように名を変えた。これより私を呼ぶときはアインズ・ウール・ゴウン――アインズと呼ぶが良い」

 守護者やセバスの目が見開かれる。
 デミウルゴスですらその表情に驚きを強く浮かべていた。だが、納得がいったような穏かなものへと変化し――

「ご尊名伺いました」

 ――代表し返礼を述べる。一同が一斉に頭を垂れた。アインズは頷くと、皆が頭を上げるのを待ってから言葉を続けた。

「独断で動いた結果、私が得た情報だが、まずは国家が保有するであろう個人戦闘能力は我々の敵ではないと思われる」

 アインズの前に集まった者達は確固たる自信があるために、その言葉を聴いても表情1つ動かさない。自分達が強いのは当然だという自負は心強いと思う反面、少々の不安もある。
 それは情報が少ないということに起因するものだ。

 確かに王国戦士長があの程度の戦闘能力だった。無論全力で無いとしても、せいぜいがデス・ナイトを倒せる程度だろう。あれ以上の人間が早々いるとも考えにくい。そして国家として成り立っているのだから、別に王国のみが周辺国家の中で郡を抜いて戦闘能力的に弱いと言うわけでもないはずだ。
 しかし得た情報はいまだ世界の一部でしかない。

「しかしながら私が手に入れた情報はこの闇夜を照らし出すには少々小さすぎる――種火のごときちっぽけさだ。そのために世界を照らし出すための太陽ごとき情報を手に入れる必要がある。そのようなものを入手する者を選抜したいのだが――本来であればデミウルゴスのシモベをそれにあてる予定だったが、それでは少なすぎると私は判断した。なぜなら多角的に判断しても、街に住む人間に紛れて情報を入手するものが必要なのだ。……さてデミウルゴス、お前の選抜したシモベにそれは可能か?」
「不可能でしょう。情報を横から盗み取ることは可能ですが、人に紛れて生活する能力を持つシモベはいません」
「――なるほど。では幻影魔法を使えるものは手を上げよ」

 揃ったシモベをあわせ50人近い存在の中で手が上がったのはたったの1つだけだ。もとよりシモベたちに期待はしていない。なぜならユグドラシルにおいて、モンスターは所持している場合は最大でたった6つしか、魔法の発動能力を保有していない。
 その内訳が大体が回復、攻撃、防御、補助等であり、それ以外の種類の魔法の所持は非常に珍しい。
 
 ユグドラシルの膨大な魔法を上手く使いこなせるのは、やはりプレイヤーをおいて他にいないのだ。
 そして唯一、幻影魔法を行使するモンスターは妖精系モンスターに多いが、ナザリック大地下墳墓に妖精のモンスターを配置した記憶は残念ながら無い。
 
「……私と『アレ』を含めて3人か」

 少なすぎる数だ。
 アインズはアレを外に出すべきか、と思案する。アレは確かに重要な場所を守っているが、その地はナザリック大地下墳墓内で、ある意味最も難攻不落なエリアだ。あそこに配置しておくのはまさに宝の持ち腐れだ。
 とはいえ、アレを動かすのもまた遠慮したい事実だ。
 今回は動かさないで、次回があったならそのときは動かせば良いだろう。

「では仕方が無い。多少危険かもしれんが、今のままでは余りに未知が多すぎる。ゆえに我々は情報を手に入れなくてはならない。セバス――」
「はい」
「メイドの1人を借り受ける」
 
 セバスに断りを入れてはいるが、別にセバスの返事を待つつもりはない。実際セバスもアインズに何かを言うつもりはない。あくまでも建前上の断りだからだ。
 アインズの視線が動き、先ほど手を上げたメイドに動く。アインズの視線を受けたのは10代後半から20代ぐらいの年齢の女性だ。
 日本人を思わせる顔立ちは非常に整っており、お淑やかそうな雰囲気を醸し出している。そのためか、メイド服の胸の辺りが大きく膨らんでいるが、いやらしさを感じさせない。
 きめの細かい色白の肌は、シャンデリアからの光を受け白く輝いているようだった。豊かかつ濡れたような黒髪、黒曜石の輝きを保つ瞳。
 1000人いれば999人は振り返るような美貌だ。

「……ガンマよ。お前には重要な任務を与える。様々な注意があるので、一通り終わった後、私の元まで来い。先に言っておくなら、やってもらう仕事は冒険者に関する情報収集だ。これは重要な任務だ、それは理解できるな?」
「――はい。一命にかえましても」

 名前を思い出せなかったが、何とかメイドたちに共通して与えられた記号の1つを思い出し、アインズはメイドに指令を与える。
 メイドはアインズに命令されたことに喜悦を感じているのか、しっとりと頬を紅潮させた。サイドテールが頭を振った拍子に大きく揺れる。
 その姿に一瞬だけアインズの眼窩の奥の炎ごとき揺らめきが瞬くが、その感情を言葉には出さずに命令を続ける。

「セバスには別の任務を与える。まずは国家が保有するであろう兵器。これについての情報を集めよ。次に科学技術レベルと魔法技術レベルが一体どの程度なのか。何ができて何ができないのか、特に情報収集系の技術は最優先で調べろ。場合によっては対策を考える必要が出てくるからな」

 この世界はファンタジーだ。つまり今までの人生で得てきた常識では計り知れないような何かがあるわけだ。それを一言で言うなら未知の技術――魔法、そしてそれに類するものだ。
 今、警戒しなければならないのは魔法という技術を使用した様々なものだ。特に情報収集系の技術。
 例えば神に問う:神託、過去を見る:過去視、物体の位置を探査する:ロケート・オブジェクトみたいな魔法。無いとは言い切れない。そしてそれが強大だったら、もしかすると気づいたときには丸裸にされかねない。

「その次が個人で戦闘能力の高い存在の発見だ。先ほども言ったように国家としての個人戦闘能力は低いと判断できる。――しかし、国家に所属しながら自由意志で動いている存在もいよう。そんな個人戦闘能力の高い者を探し出すのだ。我々の力に比べてどれだけのものかを調べるためにだ。つまり先のメイドと同じような情報を他の角度から集めてもらうと言うことだな」

 モンスター、冒険者、13英雄。考えれば今だ戦闘能力の分からない存在はいくらでもいる。そしているか不明な他のプレイヤー。王国最強クラスの戦士長の戦闘能力が自分達より弱いからといって、満足も安心も今だ出来ないのだ。
 
 無論、これらの警戒は太陽が落ちてくると怯える狂人の類なのかもしれない。
 だから太陽がどういったものなのか知りたいとアインズは考えているのだ。太陽が落ちてくるものではないと知れば安心できるから。

「了解しました、アインズ様」
「ああ、細部は先のメイドと同じように後ほど詰めよう。できれば街で暮らしながら、一般常識を学ぶとともに情報を得て欲しい。場所は現在のところ王都を考えている」
「承りました」

 王都を選んだことに特別な意味合いは無い。ただ最も安牌かと思った程度だ。

「――次にアウラ。近辺に大森林なる場所がある。その中を探索し、安全だと思われる場所に物資の補給所兼避難所を作成しろ。目的は非常時、その場所からナザリック大地下墳墓内に物資を輸送するためだ。そして本当にどうしようもない時、一時的にナザリック大地下墳墓を明け渡すためでもある」

 守護者達すべてに驚愕とも呼ぶべき強い驚きが浮かんだ。どのような攻撃も跳ね返してきた大要塞たる、ナザリック大地下墳墓が攻め落とされる可能性も自らの主が既に考慮の対象にしているという警戒感の表れに対してである。
 それは守護者達の警戒心を強めると同時に、油断を打ち消す働きを持っていた。

「私こそがアインズ・ウール・ゴウン。この身が残ればそれは勝利だ。ナザリック大地下墳墓は所詮はただの器。最後にこの手に収まっていればそれは敗北とはならん。お前に与える任務の重要さが理解したな、アウラよ」
「はい!」

 覇気に満ち溢れた返事。アウラの声に含まれる強い意志に、満足したように頷くアインズは釘を刺す事も忘れない。

「絶対は無い。注意に注意を重ねろ。今だ外の世界のモンスターの強さは不明だ。モンスターと遭遇した際の情報収集もついでに行え」
「はい!」
「場合によってはそこで食料の生産も行う可能性があるかもしれん。その辺りも充分に留意を頼むぞ」
「分かりました。発見されないような場所に広大な領地を建設しておきます。ダミーを作成してもよろしいですか?」
「構わない。その辺りはアウラの裁量に任せる」
「了解しました」

 ぺこりと頭を下げるアウラ。
 そこから視線を外し、動かす。先にいるのはデミウルゴス。アインズは次の命令を出すべきか、出さざるべきかで迷う。この命令は多くの人間を不幸にするものだ。

「……デミウルゴス……コキュートスでも良かったのだが、お前のほうが適任だと考えるのでこの命令を下す」アインズの迷いが一呼吸の空白を生んだ。「……シモベを連れ、国を1つ支配しろ。その際はシモベを前に出し、おまえがいると言うことを誰にも気づかれるな」
「……現在の魔法に関する情報や、冒険者等個人の戦闘能力に関する情報が欠けている状態ではかなり危険と考えられますが? セバス殿を待ってからでも良いのでは?」
「その通りだ。お前の発言は正しい。しかし、私が危惧しているのはアインズという存在が姿を現すとほぼ同時期に、魔王が生まれては邪推する不敬な奴らがいるかもしれんということだ。だからこそお前を送るのだ」
「私は私で情報を収集しつつ、影で動けということですね」

 アインズは軽く首を縦に振る。
 単純な戦闘能力で判断するならコキュートスを、国を強制的に支配するならシャルティアでも構わない。だが、今回の任務は非常に繊細かつ複雑なものだ。場合によっては戦闘能力より、頭の回転が問われる可能性は非常に高い。
 ならば送り込めるのはデミウルゴスをおいて他にいない。

「……そして支配している時間は、将来そのシモベを退治しに来るであろう『正義の大英雄』アインズ・ウール・ゴウン様が来られるまでですか?」
「……そうだ」
「了解しました」デミウルゴスは優雅に微笑む。「では私が魔王の役目を引き受けさせていただきます。それで将来いらっしゃる大英雄様に捧げるための大帝国を場合によっては築いてもよろしいのですか?」
「程々にな。それと虐殺等は充分に考えて行え」
 
 デミウルゴスの邪悪な英知に溢れた顔が訝しげに歪んだ。

「失礼を承知で問わせていただきます。何故でしょうか? 虐殺は義憤を招き、魔王として名を高める良い手段だろうと思っていたのですが……。来るであろう英雄を警戒してでしょうか? 英雄を気取る愚か者の誘蛾灯という意味もあるかと思っていたのですが……」
「その通りだ」

 アインズはデミウルゴスの頭の回転に舌を巻く。デミウルゴスのシモベを魔王にするのは英雄ホイホイの役目も担ってもらおうと思っていたのだ。
 そして場合によっては他のプレイヤーホイホイの役目もだ。デミウルゴスを正面に立たせないのはそのためでもあるのだ。特にプレイヤーが本当にいた場合、デミウルゴスの正体を知っているものがいないとも限らない。

「追い詰められたネズミは猫をも噛む。そして私が警戒しているものがある」

 アインズが警戒しているものは多い。それは基本的に無知から来る警戒だ。
 知らないということは恐ろしいことである。真っ暗闇の中、手探り足探りで歩いているようなものだ。どうしても警戒心が先にたってしまう。
 しかし、それとは違う、もっと別種のものをアインズは警戒している。

「――守護者に問う。私達は恐らく最強だ。では私達はこれ以上強くなれるのか?」

 守護者達が互いの顔を一瞬だけ見合わせる。考えたことも無い質問なのだろう。主人からの質問に対し答えねばと考えても、相応しい答えを用意することができない。

「……私はそうは思わん。私達の強さは最強であり、それと同時に成長しない強さだと。そして続けて問う。弱き彼らはいつまでも弱きままか?」
「そうではないと、おっしゃるのですか?」

 すべてを代表してのデミウルゴスの問いかけに、アインズは頷く。

「そうだ、デミウルゴス――そして守護者よ。私は彼らの弱さは成長する弱さだと思っている。決して侮るな。そして管理できない範囲で強者を作るような行為は慎め。……虐殺をするなとは言わん。だが充分に思案検討した上で行え。デミウルゴス、お前ならそれができると信じているぞ?」
「――承りました、アインズ様。今の言葉抱きながら、ご下命を遂行したいとおもいます」
「それと優秀そうな者がいたら、いずれ手の中に収めたい。できるな?」

 デミウルゴスは邪悪な笑みを浮かべると、深く頭を下げた。

「さて、デミウルゴスがいない間はシャルティアが代理として、1階層から7階層までの警備の責任者とする。同じようにセバスがいない間はコキュートスに9階層、10階層の警備及び管理を任せる。各層の守護者は自分の領域のシモベにしっかりと伝達しておくこと。ただし、コキュートスを警備の責任者にする。これはシャルティアには私の手足となって動いてもらう可能性があるからだ。理解したな?」
「はい」
「ハッ」

 シャルティアとコキュートスの返事を受け、アインズは頷く。

「そうそう。召喚した存在は帰還命令を出さない限りいつまでもこの場にとどまり続ける。召喚するときは多少注意して行え。より正確に言うなら帰還もできる召喚とできない召喚がある。恐らく魔法による召喚が前者で、特殊能力による召喚が後者だ。この辺りは私がこれから時間を掛けて実験を行うつもりだ」

 アインズは玉座の間の外で待機しているであろう、デス・ナイトを思い出す。そのときポツリと誰かが呟いた。

「恐怖公は確か巨大な同族の無限召喚を特殊能力で行えた……」
「……あ」

 やけに静まり返った玉座の間にその言葉は非常に大きく響いた。アインズは顔を引きつらすと、慌ててメッセージの魔法を発動させる。無論、その対象は恐怖公だ。糸が伸び、その先で何かに結びつくような、そんな奇妙な感触。
 そして――

「恐怖公!」
 ――おお、これはモモンガ様、お元気そうでなりより――
「そ、それより聞きたいことがあるのだが、召喚したモンスターを帰還させる――」
 ――そのことですか。我輩も中々困っているところでして――

 正直聞きたくないが、聞かないことにはどうしようもない。

「……何をだ?」
 ――我輩に守れと命令された部屋が同族で一杯になってしまいまして、少々キツイのです。このままでは溢れてしまいますが、よろしいですかな? あっと、ご安心ください。シャルティア嬢のシモベのアンデッドどもには喰いつかないように指示を出しますがゆえに――
「よせー!」

 ビクリと肩を震わせるアウラとシャルティア。アインズの叫びで、これからの展開の大体の予測が立つのだろう。それを不思議そう――なんだろう、虫にも似た表情のために不明瞭だが――に眺めるコキュートス。セバスは無表情、デミウルゴスは面白そうなものを浮かべている。

「……シャルティア」
「……はいでありんす」
「部屋が一杯だ、そうだ」

 シャルティアの体がぐらりと大きく揺らぐ。

「しっかり!」

 アウラが慌てて受け止めるほどだ。シャルティアは何かぶつぶつとと呟きつつ、視線が空中を彷徨っている。あの広い部屋――1区画とも呼べるだけの広さが、一杯なるだけだというとどれだけの数がいるのか、想像もできない。いや想像したくない。

「とりあえず、直ぐに一部の区画を開放すると同時に、バリケードを作ってそれ以上飛散しないように手を打て」
「はいでありんす、コキュートス。そなたにも協力してもらう」
「フム。何ヲソンナニ怖ガッテイルノカハ知ランガ、協力ヲ要請サレルナラ、ソレニハシッカリト答エサセテモラオウ」

 問題は解決したと認識――または誤魔化し、アインズは次にすべきことを考える。
 何も無い。一通りの指令は出した。あとは各員と細部の打ち合わせに入るだけだろう。
 ならば解散するか。
 いや、あとたった1つ。最も重要なことが残っている。



 いてもいなくても同じ存在。人はそれを感じたときに人との繋がりを求めるものだ。
 では、アインズの場合はどうなのか。
 仕事は誰にでも出来るもの。彼がいなくても誰かが代わりに行うことは出来るだろう。両親もいない。友達もだ。そして恋人だっていない。
 笑ってしまうことに鈴木悟<すずき・さとる>――モモンガには、『アインズ・ウール・ゴウン』しかないのだ。そして『アインズ・ウール・ゴウン』の仲間達は理由があって去っていたものの、決してアインズを裏切らなかった。

 眼下の守護者やそのシモベに視線を送る。

 事実、『アインズ・ウール・ゴウン』の仲間達が生み出した部下達は今なお、こんなよく分からない状況になっても忠義を尽くしてくれているではないか。

 そう――彼には『アインズ・ウール・ゴウン』しか無いのだ。ならば――


「これよりおまえ達の最大となる行動方針を厳令する」アインズは黙り、少しの時間を置く。眼下の部下達の表情は先ほどと変わり引き締まったものだ「アインズ・ウール・ゴウンを不偏の伝説とせよ」

 右手に握ったスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを床に突き立てる。その瞬間、呼応するようにスタッフにはめ込まれたクリスタルから、各種の色が漏れ出し、周囲に揺らめきをもたらす。

「英雄が数多くいるなら全てを塗りつぶせ。アインズ・ウール・ゴウンこそ大英雄だと――」

 『アインズ・ウール・ゴウン』こそユグドラシル最高峰のギルド。幾つもの偉業を成し遂げたもの。それを守りきることこそ仲間たち皆に対する恩返しだ。ならばそれはこの世界でも例外ではない。
 鈴木悟――モモンガもまた『アインズ・ウール・ゴウン』を裏切ったりはしない。

「生きとし生きる全ての者に知らしめてやれ! より強きものがもしこの世界にいるのなら、力以外の手段で。数多くの部下を持つ魔法使いがいるなら、別の手段で。今はまだその前の準備段階にしか過ぎないが、将来、来るべき時のために動け。このアインズ・ウール・ゴウンこそが最も偉大なものであるということを知らしめるためにだ!」

 アインズからの覇気に満ち満ちた声が、玉座の間のどこにいようが聞こえるほどの気迫を持って広がる。
 音を立て、一斉に玉座の間に集った者達が頭を垂れる。崇拝とも称すべき崇高なものがそこにはあった――。


 アインズは部下の忠誠心を体全身で感じながら、思う。
 先ほどデミウルゴスに下した命令は反吐の出るようなおぞましいものだ。恐らく多くの人間を苦しめる結果になるだろう。だが、それを後悔は決してしない。いや、してはいけない。アインズは決めたのだ。『アインズ・ウール・ゴウン』を伝説にすると。そのためにどれだけの犠牲を生みだそうとも。

 しかし、それでもアインズは単なる1社会人。特別な力や才能を持って生まれたわけでもなく、そこまでの強き心を持っているわけでも無い。そしてまた自信もあるわけではない。
 迷うこともあるだろう。苦しむこともあるだろう。
 それでも進むしか無いのだ。
 
 かつての仲間たちへ顔向けが出来るようにするために――。






――――――――
※ そんなわけでアインズは現在のところナザリック大地下墳墓で色々と彼にしかできないことをやっている最中です。そのうちの1つはある方がおっしゃっていた奴ですね。あれは渾身の失敗でした。あれだけ石橋を叩いて歩くとか言っていたのに、致命的なミス。恥ずかしい。
 それとこの話は『アインズ・ウール・ゴウン』が伝説? になったとき終わりです。

 次回は19話「初依頼・出発前」でお会いしましょう。



[18721] 19_初依頼・出発前
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/06/02 20:44




 冒険者の朝は早い。いや、この世界に生きる人間の殆どが早いと言い換えても過言では無い。
 太陽が出るとともに行動を開始し、日の入りとともに寝に入る準備に掛かる。これは単純に現代のように安価で光源が手に入るわけではないということに起因する。光源たる炎を作るのもそれなりの金が掛かるのだ。光源保持ということの最も基本になるのがランタンだが、燃料となる油だってそれなりの金額がする。裕福でも無い家なら勿体なくて頻繁には使えない程度の額だ。
 そのため、つまり暗くなったら行動が取れないから、休みの時間になるということだ。

 ではモモンが泊まっている冒険者の宿屋はどうか。1階部分が酒場になっているということも考えれば、遅くまでやっていると思うだろうか。
 確かに遅くまでやっている。
 だが、それでも現代の居酒屋とかバーのような時間まで開いていることは少ない。時間にしてしまえば平均20時までだ。それ以降は基本閉店だし、騒ぐようなら寝れなくていらついた冒険者の複数が殴りこんできてもおかしくは無い。
 もしこれ以上騒ぎたいなら他の酒場に行けという寸法だ。

 ただ、これは別に冒険者の宿屋すべてがそういうわけではない。 
 モモンの泊まっている最下級の宿屋ということもあり、泊まる冒険者の殆どがさほど金を持っているわけではない。そして仕事を選り好みできる立場でもない冒険者ばかりだ。したがって朝1番に起きて、与えられた仕事――特に肉体労働をこなすために動き出す。そのため夜遅くまで騒ぐ奴はいなし、いたとしても気を利かせて他の酒場に遊びに行くのが普通だ。



 深い闇の中からの帰還。
 モモンの思考が浮上し、一気に冴え渡る。それに合わせ、ほうと濡れたようなため息が漏れた。

 至高の41名中、最後まで慈悲を与えられ、この地に残られた最も偉大な方。至高の41名の中心にして、最高位の存在。
 モモンからすれば夢でも、その方の姿を見れるのは心からの喜びだ。

 先ほどまでの勅命を受ける際の夢を惜しみながらも、体や脳の回転を早めだす。何時までも夢に浸りきっていることは出来ない。
 それに夢なんかでは得ることの出来ない、喜びがモモンの身にはある。直接に指令を与えられた身であるという事実は、心の奥底から湧き上がる巨大な歓喜のうねりを生み出し、モモンの全身をはち切れんばかり喜悦で満たしてくれる。

 ゆえに失敗は許されない。自らの失敗は至高のお方の顔に泥を塗るような行為である。勿論、失敗したとしてもあのお方の性格からして、瞬時に次の作戦に移られ、寛大な慈悲をいただけるだろう。だが、そのときモモンは自身が許せないだろう。
 
 それでも決して自殺なんかという逃避はしない。
 モモン――ナーベラル・ガンマの肉体は全て至高の方々のものであり、精神や魂すらもなのだから。

 鋭敏な知覚力が完全な覚醒を果たし、周囲から幾つもの呼吸音、心音すらも飛び込んでくる。そのどれもが睡眠中のゆったりとしたものだ。
 さて、どうするべきか。モモンは思案する。
 今日の6時までにギルドに到着している必要があるが、まだ日も昇らないような早い時間帯だろう。薄目を開けて伺っても、下ろされた鎧戸に日光が当たっている気配はない。誰にも気づかれないようにこの闇の中を動くことは可能だが、残念ながらモモンという人物は冒険者になったばかりの村人という設定。闇の中を自在に動くという行為を行い、下手な注目の集め方をしてしまうのは不味い。いつの間にか、同室の人間が消えていたら、先輩冒険者はどう思うか。
 ならば、皆が起きてからでも問題はないだろう。急いで行動することのメリットも考えられないのだから。


 十分な時間を置いて、モモンが眼を開ける頃、同室の冒険者のほぼ全員が身支度を整え、部屋を出て行くところだった。無論、眼を閉ざしていただけだ。
 モモンは種族的に感覚が高くなるように、能力値の上昇率は設定されている。そのため例え、魔法職のレベルを上昇させていたとしても周囲の気配を感知し、何を行っているのかなど簡単に読みきれる。

「それで何か用?」

 のたくたとやけに手際悪く装備を整えていた女に声をかける。ちらちらとモモンを伺っていたのは既に確認済みだ。

「あ、えっとですね」

 おどおどと話しかけてくる昨日の女。
 昨日、初めて会ったときから人格が変わったのかというほど性格が変化している。モモンはただ、黙って話の先を待つ。

「あの、いただいた薬なんですが……」

 モモンは頷き、さらに話を進めるように顎をしゃくる。

「あれほど効果的なポーションはあまり知らないので、よろしければ1本売ってもらえないでしょうか?」慌てたように手を振りながら言葉を続ける。「多少の蓄えならあります。あれから店の主人に一般的な回復のポーションの定価を聞いたのですが、1本は買えるお金はあります。それにもしあのポーションがより強力なものでもなんとか……なると思うんですが……」

 最後のほうに行くにつれ、どんどんと言葉の力がなくなっていく。

「今回、街道の警備の仕事でして、場合によっては傭兵崩れの盗賊とかとやりあう可能性があるんです。それであの薬があればと思いまして」

 女は幾度もペコペコと頭を下げる。
 モモンは無表情を保ちながら、内心舌打ちをしたい気持ちでいっぱいだった。

 モモンは鋭敏な嗅覚を持っている。
 そのために彼女の使っていた薬の匂いは少々耐えがたかった。我慢すれば出来たかもしれないが、鼻がバカになった可能性は非常に高い。いわゆる仮想敵地に乗り込んでいる最中に、五感の1つたる嗅覚が使い物にならなくなることを恐れ、そのためにモモンはポーションを与えることで匂いを落とさせたのだ。
 それが、これほど裏目に出るとは。
 この世界の常識を知らないことが既に失敗として姿を見せはじめている。これで指令をうまくこなせるのだろうか。不安が頭を過ぎるが、覆水は盆にはかえらない。

 それではどうするべきか。
 ポーションの価格を知らないために適切な金額を示すことが出来ない。あまりに安い値段で売ることは相手の注意を引くだろうし、場合によってはいらぬ好奇心を起こすかもしれない。
 では断るとしてどのように断るべきか。
 案の1つは上げたポーションで最後だと断るものだ。だが、最後の大切なポーションを匂いを落とさせるためという理由で与える人間は普通いない。次の案はもう1本しか残ってないという方針だ。だが、やはり前者と同じ理由で奇妙な話に思われても仕方がない。

 ならば断るという方針を変更し、恩義を売る方向に持っていったらどうだろうか。モモンは考える。目的は冒険者やそれに関する知識の収集。この女に貸しを作っておくのも悪くはない。そしてもしこの薬をもっと欲しいといってきたなら、うまく誘導して――。

「……かまいませんよ」
「ほ、本当ですか!」

 ぱぁっと顔を明るく輝かす女。よほど街道警備の仕事が不安だったのだろう。

「あの回復を感じ取ってもらえれば、あれがどれだけ貴重なものか分かりますよね」

 女はコクコクと頷いている。ただ、あまりこう――知性を感じる頷き方ではない。とにかく、すごいよねー、という憧れとも呼ぶべき感情に動かされたものだ

「でも、今回は特別にただで差し上げます。私の持ってる最後の2本の内の1本ですが」

 モモンはそう答えながら皮袋の中に巧妙に隠してあるインフィニティ・ハヴァサックに手を突っ込み、昨日渡したポーションを1本取り出す。10数本貰ったマイナー・ヒーリング・ポ-ションの中の1本をだ。

「ただは悪いです。ある程度までならお支払いできます」

 慌てて懐から小さな皮袋を取り出す女。あまり多くない金属と金属がぶつかり合う音が微かに聞こえる。
 モモンはさほど金銭的に困窮しているわけではない。
 というのもアインズの回収した帝国の鎧や剣は魔法がかかっていたため、かなり高額で売れたためだ。そのため準備金として売却価格の一部を与えられたモモンは金銭的な面での余裕は十分にある。とはいえ、単なる村人という設定のモモンが大量の金を持っているのも怪しまれるだろうから、使いまくることは出来ないのだが。

 貰った場合と貰わなかった場合のメリットとデメリットを冷静に計算するモモン。やはり無料にしたほうが貸しという点でも、撒き餌としても有効的だと思われる。

「いや、いいよ。お近づきの印って奴」
「ありがとう!」
 
 手を握ろうとしてくる女を避け、モモンは立ち上がる。モモンの幻覚は完璧なものではない。触られれば奇妙な違和感を感じるだろう。その違和感が何を意味するものか理解できるとは思えないが、それでも避けたほうが賢い。

「もう行かないと」
「あ、ならこのお礼は必ず」

 皮でしっかりとできたポシェットにポーションを大切そうに入れる女を見ながらモモンは口を開く。

「モモンっていうんだけど、そっちの名前は?」



「♪~」
 
 リズミカルに彼女は軋む階段を下りる。いつもなら今にも壊れそうにしか思えない音が天上の音色にも聞こえるほど、彼女は夢見心地だった。
 一番下まで降りきり、表情を引き締めようとするが、どうも崩れてしまう。粥を黙々と食べている冒険者の幾人かが、頭の悪い子に向けるものとほぼ類似した視線を彼女に送ってきた。
 しかし今の彼女にはそんなものはまるで気にはならない。
 いや、そんな哀れみが多分に含まれたものさえも、賛美するようにしか思えなかったのだ。

「♪~」

 彼女は鼻歌交じりで、空いたカウンターに腰掛ける。体を微かに動かすために、左右に座っている冒険者達がすさまじい表情を浮かべているが、自分1人だけの世界に飛び込んでる彼女には届かない。

「ご機嫌だな」

 店の主人の重い声とカウンターになみなみと入った木の器が置かれる音が、1階に降りてきて始めて彼女の理性を動かせることに成功する。回転するたびに錆び付いたパーツが落ちてきそうな動作だったが。

「いただきまっす」

 彼女は食事を用意してくれた店の主人に、軽く頭を下げる。それから皿に突っ込まれた木製のスプーンを取り上げ、白い粥を掬いあげ勢いよく口に流し込んだ。

「はひぃ!」

 その瞬間、彼女の口全体に広がる灼熱感。熱された粥を冷まそうともせずに含んだために、当然起こるべきことが起こったのだ。
 飲み込むことは当然できない。彼女は唇を薄く開き、外気を取り入れることで口に含んでいる粥の熱を冷まそうとする。だが、そんなことでは全然冷めない。彼女が悲鳴のような呼吸を繰り返す間も、口の中が焼け、目元に涙さえも浮かんでしまう。

「ほらよ」

 木のコップがカウンターに置かれ、彼女はそれを慌てて飛びつき、一息であおる。

「はぁー」
「少しは落ち着けよ」
「はひ、マスター。申し訳ない」
「一体、何があったんだ、そんなに浮かれて? 今回の仕事はそんなに美味いヤマなのか? バニアラ」
「いや、それがですね~」

 相貌を崩し、ニヤニヤと笑う女――バニアラ。子供がお気に入りの玩具を自慢したがるような表情を目にした主人は、先ほどの興味が瞬時に喪失したようにそっぽを向いた。それから台所から持ってきた肉の切れ端をバニアラの粥の中に放り込んだ。

「まぁ、いい。とっとと食えよ。ほれ、残りもんだが、こいつもやるよ」

 左右の冒険者が、俺達のは、といわんばかりの嫉妬深い視線を送るが、それを完全に無視して主人は他の冒険者達の食器の片付けに入る。自慢すべき対象を失ったバニアラはつまらなげにスプーンを弄んでから、湯気立ち上る粥に息を吹きかける作業に専念した。
 
 やがて、食事の終わった冒険者たちが歯が抜けるように宿屋から消えていく。バニアラ1人が残っているのは、食事を始めるのが遅かっただけではなく、主人がもう1人分の粥を与えたからだ。
 2人分ともなれば結構な量にはなるが、女という前に戦士であるバニアラからすればさほどの量ということも無い。黙々とスプーンを動かし、いつの間にか木でできた容器は殆ど空になり、器の底が粥越しに薄く映っていた。

「ぷふー」
 
 食べた食べたといわんばかりの表情で、バニアラは腹部を軽く撫でる。腹筋が鍛えられているために、胃が出るなんてことは無いのだが、何とか無くやってしまう行為だ。 

「……それで先ほど、浮かれていたが何かあったのか?」
「え?」

 唐突に主人に声を掛けられたバニアラはぎょっとしたものを顔に滲ませた。それから主人が何を言いたいのかを理解したのか、動揺を落ち着かせニヤリと笑った。そんなバニアラの前に置かれた今まで食べていた食器を、主人は片付け始めた。
 もし少しでも洞察力の高い者がいれば主人が話しかけるタイミングを完全に伺っていたのに気づいただろう。腹を膨らませたのも満腹感によって思考力を多少でも低下させるためだと。

「昨日、言ったじゃないですか。同室の男の人からポーションをもらったって」
「ああ、言っていたな」
 
 主人からすれば唐突にポーションの金額を聞かれたので、強く印象に残っている話だ。

「今日、お願いしたらもらえたんですよ」

 それほど嬉しがる内容ではない。すると安く譲ってもらえたというところか。主人はそう納得し、興味を殆ど喪失したが、それでも自分から振った話だからとはんば義務感から会話を続ける。

「ふーん。どのぐらいの金額で買い取ったんだ?」
「それがですね~」
 
 ニヤニヤと笑う。先ほどとまるで変わらない光景に主人は苦笑いを浮かべた。

「只で譲ったもらえたんですよ」
「ほう。徐々に回復する系統の治癒のポーションでもかなり値が張るんだがな。信じられんな……どうした?」

 不思議そうな面持ちのバニアラに疑問を投げかける。

「いや、私がもらったのは即座に回復するポーションですよ?」
「即座に? ありえん」

 ポツリと主人は断定的な口調で呟いた。

 回復の効果を持つポーションの種類は大きく分けて3種類。1つが回復の働きを強めるもの。これは回復魔法や応急処置を受ける際に飲むもので、単体ではあまり回復の効果は無い。その分金額も安く、せいぜい2、3枚の銀貨で足りる。これは薬草がメインになっているからだ。
 1つは徐々に回復していく種類。これはおおよそ数分で完全に効果を発揮し終わる。回復量の最も少ないもので大体金貨15枚ぐらいで販売されている。薬草と魔法を半分使用したそれは駆け出しの冒険者では手が届くかどうか、微妙なラインだ。しかしながらあると無いのでは生還率が大きく変わるだろう。
 そして最後の即座に治癒の効果が働くもの。これはかなり高額だ。高位の魔法使いが錬金術を駆使して時間を掛けて作るそれは、一番弱い効果を持つものでも金貨30枚は下らないだろう。
 
 昨日、彼女に教えたのはポーションの価格は、この徐々に回復するポーションのものだ。駆け出しが何とか買えるラインならそれ以外は先入観的にも浮かばない。
 しかしそうではないと言う。

「ありえん」

 主人は再び同じ台詞を口にする。当たり前だ。どこの世界に駆け出しで金貨30枚もの価値のするポーションをくれてよこす奴がいる? いるわけが無い。
 それとも価値を知らない奴なんだろうか。
 バニアラが食事をしている最中、音も無く階段から降りてきた男を思い出す。朝食を片手で断り、まるでゴーストのように宿屋から出て行った変わった男を。
 ぞくりと主人の背中を冷たい汗が流れる。
 
「あいつ……」

 マントもろくに知らない、村人出身だと言っていた。本当にそうなんだろうか。冷静に考えればあの軋む階段を音も無く下りることが出来るだろうか。酒場が騒がしかったため、聞こえなかったと思っていたのだが……。
 昨日のイメージが完全に抜け落ち、つかみ所が無いまるで幽鬼のような実態のみが浮かび上がってくる。

「どうしたんですか?」

 不思議そうなバニアラ。即時治療のポーションの価値を知らないとはいえ、のんびりした間抜け面だ。

「あのな。お前さんがもらったのが本当に即時治癒のポーションだとしたら価値は金貨30枚は下回らないぞ」
「……」何を言ってるんだろうか、そんなぼけっとした面持ちに事態の把握が終わったのか、愕然としたものが浮かんだ。「おええええええ!!」

 主人はバニアラの雄叫びとも言えそうな声に、眉を顰める。

「うえ! なんで! ちょっと!」
「魔法のアイテムは金額が跳ね上がる。知ってるだろ?」
「いや、それは知ってるけど……。あのポーション2本でフルプレートメイルが買えるの?!」

 全身鎧<フルプレートメイル>は一般流通している通常の鎧の中では最高の防御力を誇るものだ。戦士でそれに憧れないものはいない。冒険者でフルプレートメイルを着ていれば、どんなランクであろうと一目置かれるほどだ。
 そんな高価なのものをあんなに簡単に飲んでしまったのかと、頭を垂れるバニアラ。

「……あのポーションってお前は決め付けているがな。回復量によって金額は左右されるんだぞ? 結構ランクの高い冒険者の傷を基本に考えて、全治1ヶ月以上を治癒するポーションが金貨30枚ぐらいだな。ぐちゃぐちゃになって直ぐにでも死にそうな奴を完治させるクラスなら金貨270枚。それ以上は480枚ってところか。流石に最後の奴まで行くとそんなポーション作っても売れないから完全受注生産で1ヶ月は待つことになるけどな。まぁ、弱い冒険者なら死に掛けていたとしても最初のポーションでも全快するだろうけどな」

 ぽかーんと口をあけ、放心したようなバニアラ。

「……売るか?」
「売らないよ」

 ぶすっとした顔でバニアラは腰の皮袋を上から押さえる。

「回復量を調べるなら冒険者ギルドに持っていけば銀貨3枚で調べてくれるぞ。一応調べておくといい」
「ええ、了解」
「まぁ、金貨30枚以下の即時治癒のポーションなんか聞いた事が無いけどな」

 思わず2人そろってため息を漏らす。

「しかしそんなに価値があったなんて……」
「即時治癒のポーションは凄いからな。腕を吹き飛ばされて苦痛にもがき苦しんでいた奴に一番安い奴を飲ませたら、痛みを即座に失って腕が見る間に生えてきたのは何だか気持ち悪いぐらいだったぞ」

 主人は無意識に自らの顔に付いた傷の1つを優しげに撫でる。

「はぁ」
「まぁ、何を考えてくれたのか知らないが、大切にするんだな。お前は一回分の命をもらったとほぼ同意語だと思って間違いないからな」 

 酒場内に沈黙が流れ、それから意を決したようにバニアラはその沈黙を破る。
 
「……ねぇ、あの人何者?」
「そいつは俺が知りたい。何もんなんだ、あいつ」

 再び2人揃ってのため息が、誰もいなくなった酒場に広がっていった。






――――――――
※ 金貨の価値は11話「知識」参照のほど。
  HP50点回復ってこの世界の一般人のHPからすると、危篤でも全回復と同意語なんだよなぁ。全HPに対する割合での回復では無いので。

  次回、20話「初依頼・対面」でお会いしましょう。



[18721] 20_初依頼・対面
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/08/04 20:09




 冒険者ギルドはモモンが昨日来たときとは違い、幾人もの武装した冒険者達の姿があった。フルプレートを着ている戦士がいれば、軽装鎧に弓矢を持つ者、神官衣を纏い何らかの神の聖印を下げる者、ローブにスタッフを持つ魔法使いもいる。
 カウンターで受付嬢を相手に仕事を選択したり、もらった羊皮紙に書かれている仕事内容に関して仲間内で相談したりもしている。まさに冒険者のギルドに相応しい活気にあふれた姿だ。
 
 モモンが入っていくとその部屋にいた冒険者の視線が集まり、そしてすぐに熱を失ったように離れていく。さほど相手にするまでも無いということなのだろう。それでもまだ数人のローグ風の人間の意識がモモンをトレースしているのが、鋭敏な感覚を持ってすれば察知できる。パーティーの耳や目ともいうべきローグ職の軽い警戒心の表れだろう。敵意は当然無い。
 モモンは気づいて無い振りをしながらカウンターに近づく。
 幸運なことにちょうど話が終わったのか、幾人かいる受付嬢の内、イシュペンの前が空くところだった。

「おはようございます」

 両者の挨拶が同時に起こり、ハモる。イシュペンのやるな、こいつという表情がなんとなく癪に障るがモモンはそれを営業スマイルで覆い隠す。イシュペンの視線がモモンの両手に向かうが、直ぐに目を逸らす。特別疑問には思わなかったのだろう。

「えっと旋風の斧の方々はつい先ほど来たばかりですよ」
「そうだったんだ。早く来たつもりなんだけど」
 
 時間からすれば30分も早いのに、旋風の斧という冒険者パーティーは既に来ているという。身分的に低いモモンの方が遅いというのはあまりいただけない。

「ではご案内しますので、こちらにどうぞ」

イシュペンが立ち上がり、他の受付嬢の後ろを通りながらカウンターから出てくる。手で簡単に隠せるような薄い真鍮板のようなものを掴んでいる。
 モモンはイシュペンの案内に従い、隣の部屋に入った。
 そこには幾つもの扉があり、恐らくは打ち合わせ用の個室が並んでいるのだろうという予測が立つ。
 ドアは音漏れのしないようかなりがっしりとした作りだが、それでもモモンが本気で意識を集中させれば、僅かな音を拾うことは可能だ。それに内部の微かな気配も。

 イシュペンが案内してくれたドアには、何らかの文字の彫られたプレートがかかっていた。文字は読めないので理解不能だが、おそらくは在室中とか使用中とかの言葉の意味合いだろうと見当がつく。実際、ドアにプレートがかけられた部屋はこのほかにも幾つもあるが、そのどれもが室内に人の気配を感じ取れた。

「その前にですね」

 イシュペンは持ってきていた薄い鉄板をモモンに差し出した。

「メンバーカードです」
 
 真鍮でできた小さな板には文字と数字が掘り込まれている。恐らくはモモンを示すものなのだろう。もし知る人間が見ればドッグタグを思い出したかもしれない。メンバーカードの片隅には小さな穴が開いている。
 実際カウンターにいた冒険者達を思い出してみると、色は色々あったが皆首から同じようなものを下げていた。恐らくはこの穴は鎖か何かを通すためのものなのだろう。

「これは一体?」
「これはモモンさんを簡単に説明したものです。この番号がモモンさんに振り当てられた番号で、この番号を受付で言ってもらえれば素早い検索が可能ですので」
「ふーん」
「材質はノービスとFがブラス、Eがブロンズ、Dがアイアン、Cがシルバー、Bがゴールド、Aがプラチナ。そして最高位たるA+でミスラルです。まぁ、名誉職ともいえるA++だと最高位のレア金属アダマンティンらしいですけど」
「ふーん」
「あ、その空いた穴にこれを通して、首から下げてください」

 イシュペンがポケットから出した細い鎖をその穴に通し、首からぶら下げる。モモンは再びその真鍮製のメンバーカードを凝視した。

「……魔法か何か付与されてるの?」
「いいえ? 何も込められてませんよ」
「ふーん。このメンバーカードを魔法の対象にするとか、ギルドとかってそういったことってしないの?」
「ギルドがそういったことを行うなんて聞いたことはありません」
「なるほど……」
 
 これを目標に位置の追跡みたいな情報収集系の魔法が可能かどうか。イシュペンは知らないだけというのは充分考えられる。その辺りの魔法知識はモモンの上司ともいうべきセバスが調べる手筈となっている。
 ならば調べが付くまで出来る限り大人しくしておくのが良策か。それともモモンが調べるか。その辺りは臨機応変に対処すべきだろう。

 モモンはイシュペンに礼を述べると、それを胸元の内ポケットにしまい込む。
 イシュペンはしまうところを確認すると、並ぶドアの1つの前に立ち、ノックを数度。それから中に声をかける。
 
「失礼します。ギルド受付の者です」

 返事を待たないでイシュペンはその扉を開けた。

「モモンさんをお連れしました」

 その部屋にいたのは4人の男だ。首からは青銅でできただろうメンバーカードを下げている。皆、年齢は若く20歳にもなっていないのではないだろうか。
 ただ、年齢には似合わないような落ち着いた感じが漂い、くつろいでいるように見える中にも警戒心を張り巡らしているのが、モモンには感じられた。皆、武器は下ろしているが、それでも瞬時に武装を整えることは出来るような位置取りだ。
 それは潜り抜けてきた死線の中で培ってきたものだろう。

 無論、その4人に比べ遥かに強者であるモモンからすれば、そんな行為は赤ん坊が肩肘張ってる程度の微笑ましいものでしかない。
 なんと脆い奴らなんだろうとモモンは目を細めようとして、意志の力で押さえ込む。
 モモンからするとこの一行の厚さが紙のようにしか思えないのだ。Eランクというから多少は期待したというのに、ゴミ当然だ。ちょっと魔法を使えば、一撃で殺すことも容易いだろう。
 もちろん自分と同じように擬態しているということは考えられるのだが、それを見抜くだけの力は持っていると自負しているモモンからすると擬態しているとはとうてい思えない。その程度の腕しか事実持っていないように感じられる。
 もちろん、モモンよりも遥かに強く、守護者に匹敵するだけの能力を兼ね備えているという可能性は捨てきれない。だが、そんな可能性は空から隕石が降ってきて、モモンに当たるぐらいの可能性だろう。

 これがEランクだとすると――この程度では重要な情報を手に入れるまで、どれだけ時間が掛かることになるか想像ができない。単なる村人といいう設定を捨てるべきだろうか。そこまで思考し、モモンは自らの考えを捨て去る。
 派手な行動は慎めよ、というのは後に主人の私室に呼ばれた際に下された命令だ。主人の言葉に逆らうメイドは屑だ。ならばモモンに己の判断で行動する必要性は無い。
 
 モモンは笑顔を浮かべ、中の人間に頭を下げた。

「モモンです。はじめまして」
 
 イシュペンに続いてモモンが室内に入る。

 その部屋は4メートル四方のさほど広くない部屋だ。
 中央に小さな円卓があり、それを囲むように6つのイス。そして部屋の隅にイスが幾つか置かれていた。壁にかなり巨大な背負子が立てかけてあった。あれが恐らくモモンが運ぶものだろう。
 何条もの金属製の細帯が互いに重なりながら、皮や編んだ鎖帷子の上をそこそこ覆った鎧――帯鎧<バンデッド・アーマー>を着用した戦士風の男。
 動きやすそうな軽皮鎧<ソフトレザー・アーマー>を纏い、イスの横に弓や矢筒を置いた盗賊風。
 宿屋の主人が言っていた皮の服というのはこんな感じなんだろうなと理解できる、鎧を着用しているとは決していえないような軽装をした優男。
 そして盗賊風の男に良く似た装備だが、皮鎧をさらに厚手の皮で補強された厚手皮鎧<ハードレザー・アーマー>を着た男がイスに座っていた。
 4人の冒険者の品定めするような視線がモモンの全身を嘗め回す。その中で最も視線がとどまった時間が長いのは、モモンが嵌めた無骨なガントレットか。

「今回は遅れてしまい、申し訳ありません」

 入り口でぺこりと頭を下げたモモンを、戦士風の男が宥めるように口を開く。

「いや、気にしないでください。モモンさん。ちょっと朝っぱらからごたごたしまして」苦笑いを浮かべ「単に我々が朝からどこかの娘さんがヒステリーを起こされただけですので」

 それにあわせて袋が破裂したのか、他の冒険者達からも不満がこぼれ出す。

「せっかく英気を養うと言う意味で最高級の宿屋に泊まったのに朝っぱらから、アホな娘に起こされてな。ほんと、腹が立つ」
「どこの商人だかしらんが、あんな娘を持って大変だな。執事のじいさんもかなり苦労していたみたいだしな」
「まぁ、おかげであの豪華な朝食は只になったんですから、寛大な気持ちで許してやりましょうよ」
「――とりあえずイスにかけてください。取り合えず自己紹介も兼ねた依頼の内容や、今回の仕事の中身を話したいので」

 意外だ。
 モモンは自らが想像していた人物像との乖離に驚く。
 もっと上段から見下ろすような感じで扱われるかと思っていたのだが、非常に友好的に物事を進めようという意思が透けている。イシュペンがいることとはあまり関係がなさそうだ。
 モモンは空いたイスの1つに座るのを見計らい――

「では私はこれで」
「ああ、ありがとうございました」

 ――イシュペンがドアを閉め、出て行く。最後に親指を上に立て、にやりというやけに男らしい笑いを残して。

「気に入られてるんですか?」
「何ででしょう……」

 残された4人の冒険者の視線がモモンに集中した。その中で戦士風の男が代表として立ち上がった。
 黒髪黒目。特徴のこれといってない平凡な顔立ちだが、右の頬に並行して走る深い傷跡があった。鎧にも様々な傷跡が残り、幾つものモンスターとの戦いを生き残ってきたのだろう。

「とりあえずはモモンさん、初めまして。私がパーティー名『旋風の斧』のリーダーをさせてもらっているペテル・モークです。とりあえずは簡単な自己紹介とさせてもらおうと思います」
「で、あちらがチームの眼や耳であるレンジャー、ルクルット・ボルブ」

 皮鎧を纏った盗賊風の男が、軽くおどける様に頭を下げる。全体的にやせ気味で、やけに手足が長く、蜘蛛を髣髴をさせるフォルムだ。ただ、その細い体は無駄なものをかなり削った結果によるものだろう。
 やはり髪も目も黒い。

「そして魔法使いであり、チームの知識代表。ニニャ――『ザ・スペルキャスター』」
「よろしく」
 
 もしかすると全員の中でも彼が一番若いのだろうか。まだ大人というには若々しすぎる笑顔を浮かべて、軽くお辞儀をしてくる男。
 金髪碧眼。肌は他のメンバーがそこそこ焼けているのに対し、白い。
 顔立ちもこのパーティーでは一番の美形だ。男の美しさというより中性的な美しさ。声も男のものにしては若干甲高い。
 ただ、浮かぶ微笑はまるで仮面のように顔に張り付いているだけのものだ。作り笑いとも違う何か。あまり良いものではないのがモモンは感じ取れるが別に気にする価値も無いのでそのまま流す。
 服装も他のメンバーが鎧を着ているのに、彼1人だけ皮の服を着ている程度。その代わりにベルトには様々な奇怪なものをぶら下げているのが机の影から見えた。奇妙な形の瓶や、変わった形の木製細工等を。

「しかし、その恥ずかしい二つ名やめません?」
「え? 良いじゃないですか」

 不思議そうなモモンに注釈を入れるようにルクルットが口を出す。

「いや、天才とかいわれるぐらい有名な魔法使いなんだよ、こいつ」
「へー」
「10年かかるところを4年だっけ? まぁ魔法使いじゃないからそれがどれぐらいすごいのかいまいちピンと来ないんだけどな」
「本当に叶えたい夢があって、死に物狂いで努力すれば何とかなりますよ」
「なんともならないと思うけどなー。やっぱ才能は重要だよ」
「まぁ、それも否定は出来ませんが……」

 確かに全員の中では多分強いんだろうなという気配がある。だが、それでもモモンのレベルからすると下過ぎて実力のほどが分からないぐらいなのだが。

「そして最後の彼は森祭司<ドルイド>――ダイン・ウッドワンダー。治癒魔法や自然を操る魔法を使い、薬草知識に長けていますので何かあったら、直ぐに相談してください。腹痛とかにも良く効く薬とかもありますから」

 口周りにぼさぼさと生えた髭と、かなりがっしりとした体格が、野蛮人じみた印象を抱かせる男が重々しく頷いた。とはいってもモモンの外見よりも若いのだが。非常に僅かだが草の匂いが漂ってくる。その発生元は腰から下げている袋からか。
 
「では、私がモモンです。今回初仕事になります。お邪魔にはならないようにしますので宜しくお願いします」
「はい、宜しくお願いします。――では早速で悪いんですが、仕事の話に移りましょうか。えっと大体の話はギルドの方から伺っていると思うんですが?」
「はい。周辺モンスター討伐の際の荷運びということを伺ってます」
「そういうこと。この街周辺に出没するモンスターを狩るのが今回の仕事ってわけ」

 レンジャー――ルクルットが口を開く。

「モンスターを狩るとそのモンスターの強さに応じた報奨金が街からギルドを通して出るんだ。だから仕事の無い冒険者は基本的に巡回してモンスター退治を行うものさ」
「飯のためにな」

 もっさりとした口調でドルイド――ダインが横から口を挟んだ。

「俺達は飯の種になる。周囲の人間は危険が減る。商人は安全に移動が出来る。国は税がしっかり取れる。損する人間は誰もいないって寸法さ」
「今じゃギルドのある国なら何処でもやってることですけど、5年前はそんなこと無かったんですから驚きですよね」

 魔法使い――ニニャの発言にあわせ、パーティー全員がしみじみと頭を縦に振った。

「全くだ」
「王女様万歳って奴だな」
「頓挫しましたけど、冒険者においては足税も無くなるという方向にももって行きたかったみたいですよ」
「ほえー。冒険者をそこまで評価するとはねぇ」
「全くですね。国家に忠誠を尽くしてない武力組織なんて、場合によっては敵になりうる組織だというのに。帝国でもそこまでの寛容さは持ってませんよ」
「ほんとうにあの王女様は殆ど潰されたけども、色々な案を出す方だよ」
「あんな美人さん嫁にしてぇー」
「なら貴族になるように努力したらどうだ?」
「あー無理無理。あんな堅苦しそうな生活はできねぇな」
「でも貴族様は良い身分だと思いますよ。住民を絞り上げて、自分の欲望のままに行動して良いと国で定められてるんですから」

 ニニャの微笑みの下のドロドロとしたものが滲み出ていた。モモンとニニャを除いた皆が硬直し、それからルクルットがやけにわざとらしい軽い口調で話しかける。

「うわー、何時もながらきつい事言うね。おまえさんの貴族嫌いは相変わらずだねー」
「一部の貴族がまともなのは知ってるんですけどね。姉を豚に連れて行かれた身としてはどうしてもね」
「……話がずれているぞ。そういう話は彼の前でする問題じゃないだろう」

 ダインの修正に乗るような感じでぺテルがわざとらしい咳払いをしつつ続く。

「ゴホン。ゴホン。まぁ、そんなわけでこの周辺を散策することになります。そのため、文明圏に近いからさほど強いモンスターは出ないから安心して欲しいですね」
「今回が初めてって訳じゃないからなー」

 ペテルは羊皮紙を持ち出すと、それをテーブルの中央に広げる。恐らく周辺の地図なんだろう。村や森、川といったものが細かく書かれている。

「基本的に南下してこの辺りを散策します」
 
 羊皮紙の中央から始まって、南方の森の近辺を指で指し示す。
 
「スレイン法国国境の森林から出てきたモンスターを狩るのがメインですね。後衛まで攻撃を飛ばしてくるような道具を使ってくるのはせいぜいゴブリンぐらいですか。まぁ、ゴブリンは難度10程度ですからさほど心配されることも無いです」
「まぁ、その分弱くてぶっ殺しても銀貨1枚程度だがねー」
「了解しました」

 一行の余裕は、モモンは微かに疑問を感じさせた。
 モモンの知るゴブリンはそのレベルに応じて戦闘能力を増していく。彼ら一行ではゴブリンリーダーの1つ上、チーフクラスはきついんじゃないだろうか、という程度の能力しか持ってないように思われる。
 そういうものが出ないと確信しているのだろうか。それともこの世界ではゴブリンはその程度しか力を持っていないのだろうか。モモンの知る最弱のゴブリンはレベル3ゴブリンだ。確かにその程度ならこの一行でも倒せれるだろう。余裕かどうかまでしらないが。
 一応はゴブリンという種において確認を取っておいた方が当然良い。

「……強いゴブリンというのはいないのですか?」

 旋風の斧は互いに顔を見合わせ、それから何かの考えに同意に至ったのか、安心させるような口ぶりで返答する。

「大丈夫ですよ、確かに強いゴブリンはいます。ですが我々が向かう森から出てきません。というのも強いゴブリンは部族を支配する立場です。部族すべてをあげて動くということは考えにくいんですよ」
「ゴブリンも人間の文明は知ってますからね。大侵攻ともなれば厄介ごとになると理解しているんです。特に強いゴブリンのような賢い上位種は」
「なるほど、了解しました。ただ、参考までに遭遇する可能性のあるモンスターの一部のが、どの程度の難度か教えてはいただけ無いでしょうか?」

 旋風の斧のメンバーが一斉にニニャに顔を向ける。それを受けてニニャが教師のような表情で指導を始めた。

「まずはボクたちが良く遭遇するゴブリンの難度は6ぐらい。ウルフが難度10ですね。その他の野生の獣では難度20後半に到達するようなものはこの辺りでは遭遇した記録がありません。最高で難度20前半です。草原で遭遇する可能性で最も危険性が高い人食い鬼<オーガ>で20ぐらいでしょうか」
「先ほどから聞いていると森には入らないのですか?」
「はい。森で行動するのを避けるのは単純に危険度が高いからです。跳躍する蛭<ジャンピングリーチ>や巨大系昆虫等ならまだ何とかなります。ですが木の上から糸を吐いてくる絞首刑蜘蛛<ハンギング・スパイダー>、地面から丸呑みにしようと襲い掛かってくる森林長虫<フォレスト・ワーム>等の難度20後半のモンスターは少々きついですね。ですので森には入りません。森に入ると一気に難度が上がりますから」

 なるほど。モモンは頷く。森から草原にこぼれ落ちたモンスターを狩るということか。

「だから安心してくれよ、モモンさん。あんたは俺達が必ず守りきるからさ」

 モモンは殆ど無表情を維持したまま、軽い口調で安心させるように話しかけてくるルクルットに頷く。しかしながら内面ではじりじりと理性が黒い炎で炙られるものを感じ、必死にこらえるのが精一杯だった。
 遥かに劣る生き物に慰められるこの気分。
 しかもモモンが弱いと彼らは真剣に思っているのだ。セバス直属、ナザリック大地下墳墓の心臓部たる最下層を守るように命令を受けていたモモン――ナーベラル・ガンマを。

 モモンは息をゆっくりと細く長く吐き出す。内に溜まった熱を排出するように。

「ではモモンさん。疑問ももうなさそうですし、出発準備に入りたいのですが、大丈夫だとは思ってますけど、あの背負子を持ってもらえます?」
「あ、はい。了解しました」

 ペテルの指差した場所に背負子が立てかけてあった。
 モモンはそこまで行くと、背負子を持ち上げる。あまりにも力を入れないで持ち上げたように見えたため、その場にいた皆が驚き、僅かな感嘆の声を上げた。

「充分です、モモンさん」
「ああ、あれほど容易く持てるとは、驚いたな。外見と中身ではかなり違うということか」
「村で、こういう荷物は運んでましたから」
「なるほどねー。ペテル。これなら安心だな」
「ああ、そうだね。では一応の注意を。基本的にモモンさんは戦闘の際には後ろで隠れていてください。その背負子は背中の部分に薄い金属板が入ってます。それを盾にすれば矢も貫通しないはずです。そして例えば私達の誰かに危険が迫ったしても、自分の安全を第一に考えてください」
「了解しました」
「では出立しましょうか――」






――――――――
※ 足税は都市に入る際にかかる税金です。足の本数分かかるので馬とか連れてくるとそれなりにかかります。本編で入れることの無い設定なので語ってみました。
 次は21話「初依頼・野営」でお会いしましょう。展開が遅いので1週間分ためて読まれたほうが良いかも。



[18721] 21_初依頼・野営
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/11/07 18:11


 1日の移動距離はおよそ30キロ以下というと大した長さでは無いと考える人間は多いだろう。しかし、それは道なき道を、そして周囲を警戒をしつつ、さらにそれなりの重さを持ってと、様々な状況を足していけば納得してもらえるだろうか。
 そして1日の移動は15時まで、場合によってはもっと前には終了するように動くのが基本だ。
 これは野営の準備に時間が掛かるというのが理由の1つだ。
 その中で最も時間が掛かるのは野営地の選択だ。何かの生き物の通り道から離れていること、雨が降ってきたとき問題が無い地形か、夜行性のモンスターに襲われたときの対策。そうやって広い範囲から野営に相応しい場所を発見するのは非常に面倒な作業なのだ。
 特に草原という地形だとその難易度はぐんと上がる。
 そのために日が沈む前から野営の準備に取り掛かることとなるのだ。

 近場に森があれば木を削りだして即席の陣地を作るものだが、その分森の近くでの少人数の野営は危険が大きい。野営地が大きくなればなるほど野生の獣や魔獣は近寄らないし、ゴブリンやコボルトに代表される亜種族も攻めては来ない。逆に小さい場合は好奇心を招き、襲ってくる場合があるのだ。
 亜種族や魔獣等は夜目が利くので、夜間戦闘はかなり危険を伴う。そのため、現在の野営地は森から2キロは離れた、少しは安全だろうと思われる場所を確保している。

「じゃ、この木を刺して」
「はい」

 モモンは与えられた木の棒を持ってテントの周囲に突き立てて回る。テントの周囲と言っても一辺、20メートルにも及ぶ。4点に打ち込んだら、その次は黒く染め上げられた細い絹糸をその木の棒を巻きつけ囲いを作る。最後に絹糸の中央に結び目を作って、そこからテントの前まで糸を引き、大き目の鈴を吊るして完成だ。
 ようは鳴子による警戒網の作成である。
 
 既に3日も同じことをやっていれば慣れる。モモンはさくさくと鳴子を完成させ戻ってくる。

「ご苦労さん」
「いえ」

 レンジャー――ルクルットはモモンを見ずに感謝の言葉を述べる。別に彼も遊んでいるわけではない。先ほどから道具を使って穴を掘り、竈となるものを作っている。魔法使い――ニニャは周囲を歩き、何か魔法を唱えている。
 なんでも《アラーム/警報》という警戒用の魔法であり、あまり広い範囲をカバーすることはできないが、念のためにということだそうだ。
 モモンはその姿を追いかける。探知、警戒系の魔法というものの情報の収集はモモンの役目では無いが、得るべき情報だと理解しているからだ。

 魔法の発動形態はモモンのものと同じ。詠唱とか発動要素といったものは必要とされない。ならば魔法を手に入れる方法をどうにかすれば、その魔法も自らのものにできるのだろうか。
 
 モモンが凝視しているのが気づいたニニャが、最初にあった頃よりは多少打ち解けたが、まだまだ作り笑いと分かる笑みを浮かべながら戻ってくる。

「いつも見てますけど、面白いですか?」
「はい。私もニニャさんみたいな魔法が使えればと思って」
「おいおい。魔法は今日明日で使えるもんじゃないらしいぜ。まずは世界への接続とかいう奴ができなくちゃならないらしいけど、それが出来るのは潜在的な才能を持ってる奴ぐらいなものだからな」

 作った竈から顔を上げずにルクルットが口を挟む。ニニャは笑顔を掻き消し、モモンを真剣な表情で眺める。

「そうですか」
「ああ、モモンさん。そんなにがっかりしないでください。ボクはモモンさんは才能があると思ってますよ。なんか、普通の人とは違うような気がするんです」
「……そうですか?」
「まぁ、ガタイの割りに簡単に荷物を持ち上げるしな」
「それとは違うんですけどね。まぁ、もしボクがより高位の魔法使いなら何か分かったかもしれません。高位の魔法使いは相手の魔法力を探知する能力も高まりますから」
「……どういうことですか?」
「ああ、ボク達魔法使いは魔法力と称される魔法のオーラのようなものを、体の周囲に張り巡らしているんです。魔法の使う腕が高まれば高まるほど、それを感知する能力も高まるんです。それと纏う魔法力の量も」
「……へぇ」

 一瞬低くなりかけた声を自制し、モモンは怪しまれないように普通に聞こえる声で返答する。どうやらモモンにはそんな能力は無いようだ。ニニャからそんな魔法のオーラのようなものを感じることはできない。いや、それともあの魔法を使うことで感じ取ることが出来るのか。

「そんなわけで。その魔法力感知能力を使って、潜在的に魔法力を強く持ってる人とかも感じ取って弟子にするっていう話は珍しく無いんです」

 ボクもそうやって拾われたんです、と続けるニニャ。

「そうなんですか。では魔法を使いたいと思ったら、最初はどうすれば良いんでしょうか?」
「そうですね。まずはちゃんとした師匠を見つけることでしょうか?」
「それから?」
「それからですか? まぁ、師匠を見つけないことには進みませんが、それから魔法を自らの契約した媒体に刻み込んでですね」
「契約した媒体ですか?」
「ええ。自らと契約を交わした特別な媒体に、特殊な手段で魔法の公式を刻み込むんです。刻み込んだ魔法は精神力の分だけ使えるようになるんですよ」
「ニニャさんもお持ちなんですか?」
「ええ。ボクの場合は魔道書です」

 背負った皮袋へ頭を振って指し示す。

「……その魔道書は誰でも使えるんですか?」
「あはは。無理ですよ、モモンさん。魔法の刻まれた媒体から力を引き出せるのは、その媒体と契約を交わした魔法使いだけです。だからボクの魔道書を持ってもモモンさんでは使えません」
「そうですか、がっかりです」

 舌打ちをしたい気持ちを抑えるモモン。

「まぁ、他人の媒介に刻まれた魔法を手に入れるという目的のために奪う奴は多いですけどね」
「そうなんですか?」
「ええ」
「……だとすると魔法を手に入れるには奪うしかないということですか?」
「そんなこと無いですよ」モモンの危険な発言に苦笑いを浮かべるニニャ「ギルドでも魔法を刻んだスクロールを売ってますので、それを購入して自分の契約を交わした媒介に移し変えれば良いんです。それに冒険者同士で格安で売ってくれる者も探せばいますよ。珍しい魔法や新たに開発された魔法はギルドよりも、冒険者の方が持ってる場合がありますしね」

 興味があるという表情を崩さないように維持しながら、モモンはこの先を考える。このパーティーを殺して魔道書を奪った際のメリットとデメリット。答えは直ぐに出る。デメリットのほうが当然多い。
 ではどうやればこの世界の魔法を手に入れることが出来るのか。金を出してスクロールを買うのが最も安全策だろう。ただ、問題はスクロールの金額が高額だった場合だ。
 面倒だ。
 もしモモンがアインズより自由に行動しても良いという許可を持っていたなら、殺して奪っていただろう。だが、そんな許可はもらっていない。それどころか自らの至高の主人の命令を無視する行為につながる。
 
 モモンはため息を心の中でつく。
 面倒なことだ。全て力のみで解決できないのがこれほどもどかしいとは。

「――刻み込む事のできる魔法の数はその人間の魔法力の強さにも左右されますから、ボクで使える魔法の数は35個ですね。師匠のところで学んだのが20個ぐらいで、それから購入したのが15ですかね」
「……例えばニニャさんに弟子入りって出来るのですか?」
「うーん。ボクよりはより腕のたつ人の方が良いと思いますよ。ただ、王国だと個人塾しかないし、基本的にまだ脳の柔らかい子供相手がメインですからね。その点、帝国だとしっかりした魔法学院とかありますし、法国はその辺はかなり高度な教育を進めてますけど、神官系統だしね」
「なるほど。帝国の魔法学院には直ぐに入れるんですか?」
「難しいでしょうね。一応、魔法学院とかは国の政策としてある教育機関ですから、帝国の臣民でも無い人だと……」
「そうですか……」
「おーい、話が盛り上がってる最中すまないけどな。飯の準備も整いそうだ。あの2人を呼んできてくれないか?」
「あ、なら私が行きます」
 
 モモンはテントから少し離れたところで、大地に座りながら黙々と作業を行っている2人の元まで歩く。

 ファイター――ペテルとドルイド――ダインは使用した武器の点検に余念が無い。血糊を拭いた後、剣が錆びないようにオイルを塗布したり、武器に歪みが無いかを注意深く確認している。
 今日の獲物の数はゴブリンを12匹であり、ペテルが6匹、ダインが3匹、ルクルットが3匹という内訳だ。さらに負傷はゼロという完璧な結果だ。だがそれは鎧や剣に負担が掛からなかったというわけではない。
 真新しい傷が鎧にできているし、剣にもゴブリンの武器と打ち合わせたときの凹みができている。それらの応急修理は命をかける以上当たり前のことだ。2人とも声をかけるのを躊躇うほどの注意力を発揮している。
 もちろん、一般人からすればだが。

「食事の準備を始めるみたいですよ」
「あ、もうそんな時間ですか」

 時刻的には16時ぐらいか。少しづつ日が傾きつつあり、あと1時間半ぐらいで完全に沈むだろうか。食事をするには早い時間だが、それは旅慣れてない者の考えである。

「直ぐに行く」

 ある程度片が付いていたのだろう。ダインはメイスから眼を離し、持っていた道具をしまい始める。それに僅かに遅れてぺテルも続いた。

「では向こうで待ってますね」
「ああ」
「分かりました」

 モモンが二人と分かれて戻ってくると竈は火を上げ、上に乗った鍋を煮立てていた。

 火をおこす方法は簡単だ。
 竈に獣脂をたっぷりと染み込ませた布――松明にも使われるものだ――を投げ込み、そこに火打ち石で火をつける。あとは薄く削った木と太い木を上手く入れるだけだ。
 ルクルットの手際なら、太い木に火がつく前に削った木が燃え尽きるなんていうミスは起こらない。容易いぐらい早く、炎は勢いを増し、竈一杯に膨れ上がる。

 竈にかけられた鍋から、シチューの煮込む音がぐつぐつと聞こえる。周囲にもそのかぐわしい匂いが立ち込めていた。
 普通の旅だとシチューのような水を使う食事は滅多に食べることはできない。
 それは水が貴重品だからだ。水は1日に2リットルは成人男性の場合必要とされる。モモン達5人組なので最低10リットル。つまり10キロは1日の水分で荷物がかさばることを意味するからだ。それ以上ともなるとそれ以外の荷物が持てなくなり、かなりきつくなる。
 そのため通常の旅では途中で水を補給することを念頭に組み立てるが、モモンたちは今日に至るまで一度も補給をしてない。既に街を出発してから3日が経過しているのにもかかわらず。
 これはギルドからお金を払って借りている、1日20リットルまで水を生むマジックアイテムで代用しているためだ。そのため、水という面では非常に余裕があるため、シチューも作れるという寸法だ。

 やがてシチューも煮えあがる頃、片づけが終わったぺテルとダインも合流した。
 
 ルクルットが取った新鮮な肉と塩漬けの燻製肉で味付けしたシチューを、各員のお椀に注ぎ込む。それに固焼きパン、乾燥イチジク、クルミ等のナッツ類が今晩の食事だ。
 少し強すぎるぐらいの塩味が汗をかいた体にしっかりと染み込んでくる。モモンからすれば最低レベルの食事だが、それでも栄養補給という点では合格点を与えられる。
 旋風の斧のメンバーは互いに笑いあいながら、食事を進める。時折、モモンにも会話を振ってくるので、参加はするがどうしても垣根のようなものを感じてしまう。それが寂しいとは思わないが。
 
 それにしても仲が良い。命を預ける冒険者なのだから当然ともいえるが、これが普通なのだろうか。
 興味を持ったモモンは質問を投げかけた。

「――皆さん仲が非常に良いけど、出身地とか一緒だったんですか?」
「いや。俺達は最初の昇格試験で会った仲さ」
「ニニャの噂は聞いてましたけどね」
「うむ。天才の名はな。実際、ニニャがいてくれたお陰で、皆が生還したともいえるからな」
「そんなことはないと思いますよ。ボクだけの力では決して無理でした。ルクルットの早期警戒にモンスターが引っかかったから色々と手を打てたんですから」
「う? そうか? 俺的にはダインの治癒魔法のお陰だな。ゴブリンの矢がたまたま胸に刺さって呼吸が苦しくなったときは、やべぇって思ったもんだ」
「そのとき、ゴブリンを引き受けてくれたのはペテルだがな。ペテルがいなかったら治癒魔法を飛ばすのが少し遅れただろうからな」
「ニニャの防御魔法があったからですよ。あのときの私の腕では2匹同時はきつかったです。3匹も受け持てたのは支援あってこそです」

 互いに互いを謙遜しあう。本当に仲の良いパーティーだ。つまり命を預けあった仲だから当然の仲のよさと言うところか。その辺りの感情はモモンには理解できない。守護者の仲の良さとは違い、モモンたちメイドの仲の良さは同じ主人に使え、同じ方角を向いていることから来るものだ。つまり感情よりも思考からのものだ。もし仮に誰かが違う方角を向いた場合は、恐らく殺し合いとなるだろう。

「冒険者の皆さんってこんなに仲が良いのが普通なんですか?」
「多分そうですよ、命を預けますからね。互いが何を考えているか、どういったことを行うかが理解できないと危険ですし、そこまで行けばいつの間にか仲が良くなるってものです」
「そうだな、うちのパーティーは異性がいないしな。いると揉めたりするって聞くぜ」
「それにパーティーとしての目標もしっかりとしたものがあるからじゃないか?」
「ボクもそう思いますね。やはり全員の意識が1つの方を向いているというのは大きいですよ」

 ペテル達4人はうんうんと頷く。

「……そうなんですか。それで話をまた変えて申し訳ないですけど、旋風の斧というパーティー名は何処から来たんです?」

 実際、斧を武器としているメンバーはいない。ぺテルはブロードソードだし、ダインはメイス。ルクルットはコンポジット・ロングボウ。ニニャはまぁ魔法か。勿論今のは主武器であり、副武器も各自持ってはいるが、それでも斧を使っている者はいない。
 いくらなんでも解体用の斧をパーティー名にするわけがないだろう。

 そんなモモンの質問に4人はお互い顔を見合わせる。それはモモンが知らないことに対する、愕然とした何かがあった。

「……ああ、それはあれです。聞いたことないですかね、旋風の斧っていう魔法の武器」
「嵐の斧って言うほうが有名かもしれませんね」

 モモンの表情に理解の色が浮かばないことを確認した4人は再びショックを受けたように言葉を続ける。まぁ、パーティー名にまでした魔法の武器を知らないとか言われれば、多少なりとも精神的衝撃はあるものだ。

「おとぎ話の13英雄の1人が使っていたとされる武器さ。振れば嵐を起こすとも言われる武器だな」
「それを発見するのが俺達の第一の目標ってわけさ。まぁ、伝説って言われる武器は色々あるけど、その中でも存在がしっかりと確認されてる武器だしな。まぁ、今も本当に残っているかは不明だがねー」
「まぁ、最終的にはかの伝説の12剣が目標だが、その前の第一歩だな」
「今はまだ旋風の斧を発見するには遠く及ばない程度のランクでしかないけど、いずれは手に入れて可笑しくないまで昇っていくつもりだよ」
「あ、お代わりいる? モモンさん」
「いいです。もう、おなか一杯です」

 モモンは微笑を浮かべた。無論、パッとしない男のものだ、彼らに特別な感情は抱かせなかったが。



 焚き火の明かりはとうの昔に消えている。灰を触っても温もりも感じられない。
 では、焚き火が消えていて、周囲は完全な闇夜かというとそうではない。
 月や星という天空に輝く明かりが、草原の殆どを見渡せるほどの光源と化しているのだ。多少の薄い雲がかかっているが、その程度では阻害にもならない。
 草原を走る風が草を揺らし、ザワザワという音を生み出す。静まり返った世界にはそれ以外の音は無い。

 ダインは口に草を放り込み、かみ締める。スゥッと鼻に抜けるような清涼感が生まれ、重くなりつつあった瞼が大きく開かれる。冒険者がよく眠気覚ましに使うハーブの一種だ。大した金額ではないので、大半の冒険者が野営の番には使うものである。
 野営をする場合は太陽が昇るまでの11時間近く、交代で見張りに立つこととなる。もちろん、レンジャーであるルクルットほど鋭敏な知覚力を持っているわけではないが、見晴らしの良い草原であればよほどのことが無い限りは相手を見落としたりはしない。
 そのとき、ガサリとダインの後ろで草を踏む音が聞こえたが、それほど慌てずに振り返る。

「起きたのか?」
「ええ」
 
 ダインの予測した人物――モモンが眠気の無いはっきりと表情で立っていた。

「また明日もそこそこ歩くんだ。ちゃんと体を休めたほうが良いぞ」

 そう言いながらもダインは、それほど心配はしていない。モモンという人物は異様なほどタフな体力を持っている。いや、筋力もその外見からは想像もできないほどあるから、全体的に肉体的な能力は高いのだろう。
 ただ、少しばかりの違和感をなんとなく感じてしまう。最初は外見からは想像もできない肉体的能力の高さのためかと思っていたのだが、それとは違い、知識量の偏り方でだ。村で生活していたというのが本当なら知っていてもおかしく無いことを知っていないときがある。そして食事のときの礼儀作法がかなり整っており、そこそこ高度な教育を受けた形跡が随所でうかがえるのだ。
 ニニャもどうやら気づいているようだが、それに関して口に出したりは決してしない。
 冒険者の過去に興味を持つ者は、無礼者だというある種の共通認識があるためだ。実際このパーティーにだって過去を口にしない者だっているのだから。
 ただ、ダインは時折、モモンの冷静さに異様さを感じることがある。今日のゴブリンとの戦闘が修了した際も、平然とした表情だった。自分が冒険者を始めた頃こんなに冷静だったかと問われられたら、そんなことは無かったと答えるだろう。
 もしかするとこれもモモンの過去に関する部分なのだろうか。

「はい。でも目が覚めちゃいまして」
「そうか……。ガントレットは外しておいても大丈夫だと思うがな」
 
 いつもの無骨なガントレットを再び装備しているモモンに苦笑を向ける。

「無いと落ち着かないんですよ。それと少しばかりその辺にいますので」
「野営地内にしろよ」
「はい。分かってます」

 草を踏みしめながら歩いていくモモンの後姿を見送りながら、ルクルットの言っていたことを思い出す。ルクルットはモモンの歩き方を評価して、盗賊系の才能があると言っていた。

「才能の塊か」

 ニニャは魔法の才能があるのではと言い、ルクルットは盗賊系の才能と評価する。戦士として必須にもなる筋力も耐久力も既に高い。見た目から判断するに、20代後半だとすると年はかなり行っているが、それでもあれほどの才能が今まで単なる村にあったというのは惜しい気がする。
 もし仮に若いうちから冒険者として生きてきたなら、もしかすると今頃伝説にも残るような英雄になったかもしれない。
 そんな男の後姿は平々凡々としたものだった。



 モモンはある程度テントから離れると、ゆっくりと草原に横になった。空から舞い降りる青白い光が、若草の色を白っぽく染め上げている。
 見上げれば視界いっぱいに広がる星星は、まるで手を伸ばせば掴めるのではと勘違いしてしまうほど大きく煌く。想像できるだろうか。視界一杯に、無限の宝石箱をぶちまけた様な光景が広がるさまを。濁った空気に覆われていては決して眼にすることの出来ない、そんな感動を引き起こす光景だ。
 
 とはいえモモンはさほどその景色を眼にしても心動かすことはない。
 慣れているとか情動が乏しいとかではなく、しなくてはならない事の重要性で頭が固まっているからだ。絶景も二の次、三の次というところだ。

 モモンは全身の感覚を鋭く尖らせ、周囲を確認する。
 尾行も、こちらをうかがってる気配も感じられない。それを確認したモモンはそのまま草原で眠るようにしながら、《メッセージ/伝言》の魔法を発動させる。
 相手は自らの最上位の主たるアインズだ。先ほど手に入れた情報は早急に伝える必要がある。

 やがてアインズに連絡が取れ、先ほどのニニャから手に入れた情報を全て報告する。
 もしその姿を誰かが見ていたら、ぶつぶつと空中に向かって独り言を呟く危ない人間に思われるだろう。

 ――なるほど、了解した。ギルドには魔法が大量にあると考えても良いわけだな――
「そうかと思います」
 ――一部の魔法は比較対象として手に入れたいものだ。まずは購入するべきかな。それと魔法使いに弟子入りする者も必要か。計画の一部変更を考えるべきだな。追加の資金を送るので、それで購入を検討してくれ――
「ですけど、あまり高額になりますと、設定を一部変更する必要が出てきますがよろしいですか?」
 ――ああ、そうだったか、お前は単なる村人という設定だったな。とするとセバスに任せるとしよう。それで報告の方は終わりで良いのか?――
「はい。今回得た情報はこれぐらいになります」
 ――了解した。そのまま冒険者として怪しまれないように行動してくれ。それとシャドウ・デーモンを送るのでそいつらから一応の追加資金を受け取ってくれ。何か働かせたい用事等があった場合は、そのままそいつらを使役して構わない。既にシャドウデーモンにはそういった命令を下している――
「はい」
 ――それとご苦労だった、これからも頼むぞ、ナーベラル――
「は、はい。ありがとうございます!」

 目の前にいないにもかかわらず体を起こし、モモンは頭を思わず垂れてしまった。絶対たる主人の声はやがて消えていくが、それでも福音ごとき声の響きが、今だモモンの体を駆け巡っていた。
 他のメイドを含め、これほど自らの主人と話したものはいないだろう。そんな優越感がモモンの心の底からわきあがる。
 にやけそうな顔を必死で押さえ抑制しようとするが上手くいかない。

 仕方なく、モモンは顔を両手で包むように隠す。それからおもいっきりにやける。
 もし1人っきりだったら、喜びの咆哮を上げていたかもしれない。主人――アインズが自らの名を呼ぶという歓喜に耐えかねて。
 だが、アインズから与えられた任務を失敗させたくないという思いが、それを抑制する。

「はぁー」

 体の内に溜まった熱を排出するような深い深呼吸を数度繰り返す。そのときにはもう、モモンの表情は冷静なものへと戻っていた。

「さて、と」

 モモンは立ち上がると、さっさとテントに向かって歩き出す。
 あと3日は彼らとともに行動しなくてはならないのだ。怪しまれるわけにもいかない。先ほどのアインズの声を思い返そうとする記憶野に蹴りを入れ、冷静さを保つ。
 テントの近くまで戻り、そこで突然頭を下げるという行為を見ていたダインに不思議そうな顔で何をしていたんだという質問を受け、記憶野が反旗を翻そうとするのを抑えるので苦労したりもするのだが。






――――――――
※ とりあえずは15話の伏線回収です。
  次回は観察者としての戦闘シーンですね。そしてフラストレーションのたまるモモン。そんな話です。では次回22話「初依頼・戦闘観察」でお会いしましょう。



[18721] 22_初依頼・戦闘観察
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/09/19 18:30




 モンスターが最も出現する場所で人となじみの深い場所は森だ。森はめぐみをふんだんに持つ一方で、人の支配領域ではない危険な場所でもある。現代の日本のように明かりが氾濫している世界とは違い、光源となるものの価値が高いこの世界においては、光が届かない領域はモンスター達の支配する領域なのだ。ダンジョンしかり、洞窟しかり、夜しかり、森しかり。
 これはモンスターの方が夜目が利くことが1つの要因だ。人は暗闇の中動くのは困難を極めるが、モンスターは然程苦にならない。
 両者が出会い、戦闘行為に移行することを前提に考えれば、光の届かない場所に入り込むということがどれだけ危険な行為かは理解してもらえるだろう。
 森に関していえば太陽が昇っているうちでも、木々の梢が日差しを遮り、闇を作り出すことは非常に多い。そのため、危険度は草原に比べれば高い。木々がさほど密集して無い場所なら良いのだが、原生林は光が入り込まずいつでも暗い。


 そんなわけで森を迂回するように距離をとりつつ、一行は草原を歩く。草原といっても草の高さは最大で15センチ程度、さほど足運びに苦労する高さではない。
 一行の先頭に立ったレンジャー――ルクルットは草原を踏み分けた足跡がないか、森から何かが出てこないかに時折注意を払っている。今日の探索が終わったら街へ帰還する予定である分、真剣さがいつもの数段増しだ。
 他の3人、魔法使い――ニニャ、ファイター――ペテルとドルイド――ダインはのんびりと周囲を見渡す程度、真剣さはルクルットに比べ非常に薄い。これはルクルットを信頼しているという胸の現われなのだろう。
 ジリジリと肌を焦がすような太陽光を一行は背負いながら、黙々と歩く。既に朝露が残る時間は過ぎており、革靴には草を潰した際の微かな汁が付く程度だ。
 そのままどれだけの時間が経過したか。

「伏せろ」

 突如、ルクルットのさほど大きくは無いが、緊迫感をたぶんにはらんだ声が飛んだ。ルクルットが声を上げたことに対する状況の変化を確認をせずに、すぐさま全員ルクルットに従って草原に横になった。パーティーの目であるルクルットの発言は、警戒時には最も強い力を持っている。

《グロウ・プラント/植物成長》

 ダインの魔法の発動にあわせ、一行の周囲の草が伸び、うつ伏せに隠れた全員の姿を覆い隠す。
 近寄られれば一部の植物が伸びていることを疑問に思うだろうが、距離が少しでも開けばよほど優れた知覚力を持っていなければ、気づくのは困難に近い。モモンは伸びた植物でも隠せないため、ゆっくりと背負子を隣に転がす。

「どうしました?」

 ペテルが緑の布団を掻き分けながら匍匐前進をし、ルクルットに並んだ。ニニャ、ダイン、遅れてモモン。

「あれだよ。あれ」

 ルクルットが指差す方角。モモンは伸びた草を掻き分け、隙間から覗く。距離にして200メートルほどだろうか。そこにはちょうど森から外に出てきたモンスターの一行がいた。
 小さな、子供ぐらいの身長をした生き物が12。それに取り囲まれるように巨大な生き物が2体。

 前者の小さな生き物は2日前にも遭遇し掃討した。
 それはゴブリンと呼ばれる亜人種だ。

 潰れた顔に平べったい鼻を付け、大きく裂けた口に小さな牙が上向きに2本生えだしている。肌の色は明るい茶色。油で固まったようなぼさぼさに伸びた薄汚い髪は黒色をしている。
 汚れたのか染めたのか判断が付かないようなこげ茶色の襤褸切れのような服に、毛皮をなめしただけの荒い皮を鎧代わりに着用している。片手に木で作った棍棒<クラブ>を持ち、もう片手にスモールシールドを所持していた。
 人間と猿を掛け合わせて、そこに一握りの邪悪さをトッピング。しかる後に合体に失敗しようなモンスターだ。

 初遭遇になる巨大な生き物。身長は2メートル後半から3メートルはあるだろうか。
 顎を前に大きく突き出した顔は愚鈍そのものである。
 巨木を思わせる筋肉の隆起した長い腕は、猫背ということもあり地面に付く寸前だ。木からそのまま毟り取ったような棍棒を持ち、なめしてさえいないような毛皮を腰に巻くだけという格好だ。酷い匂いがこれだけ離れた場所まで漂ってくるような気さえする。
 所々疣が浮き上がっている肌は茶色っぽく、分厚い胸筋や腹筋をしている。外見から判断するにかなりの筋力を持っているだろうと予測が立つ。
 そんな、毛の完全にぬけ切ったチンパンジーを歪めたようなモンスターがいた。
 
 モンスターの一行は周囲を見渡し、それから草原に足を踏み出し始めた。殆どのモンスターが襤褸切れで作った袋のようなものを提げている。長距離の移動を考えていると思われる雰囲気だ。
  
「ゴブリンが12。そして人食い鬼<オーガ>が2か」
「難度的に危険ですか?」

 同じようにモンスターを確認したペテルにモモンは尋ねる。強さの評価というのが単純にできないのだ。ゴブリンは2日ほど前に遭遇したが、ほぼ無傷でこのパーティーは完勝した。ただ、今回はオーガというモンスターもいる。
 出発前の話では難度20だという話だが、モモンからすればどれも弱すぎて、オーガもゴブリンも同じ程度の強さにしか感じれないのだ。
 メートルでしか計れない人間が1ミリと3ミリの違いがよく理解できないのと同じことである。

 それをどう受け取ったのか、ペテルは自信に溢れた笑顔をモモンに向けた。

「大丈夫です。一般的な奴ですし、我々なら簡単に倒せますよ。ただ、モモンさんはニニャと一緒に後ろで待機お願いします」
「……分かりました」

 ゆっくりと後退し、ニニャの横に並ぶ。

「支援魔法はいりますか?」
「欲しい!」
「……森に近いし、逃げられても厄介だな」
「ならいつもどおりの手で行くかい?」
「そうしよう。それとオーガ2体同時は少し厳しいな……」
「では足止めをダインに。ニニャは防御魔法を私に。それからはモモンさんの安全に注意を払いつつ、攻撃魔法に専念して欲しい。ルクルットはゴブリンだ。もしオーガが抜けてきたらダインがそのままブロックしてくれ。その場合はニニャがゴブリンの掃討を優先で」

 ペテルの指揮に反論は生まれない。皆、互いの顔を見合いながら、一度頷く程度だ。戦闘に関する方法の決定が実にスムーズに進んでいる。まさに阿吽の呼吸だ。

 モモンは感心し、ほうと息をもらした。
 モモンからすれば集団攻撃魔法を一撃放てばそれで終わりの戦闘だろうが、それができないならできないなりの手段を考える。それはこの旅の中で脆弱な彼らを最も評価すべきものだ。

 ルクルットが1人だけ立ち上がり、合成長弓<コンポジット・ロングボウ>を弓懸に引っ掛け、引き絞る。ギリギリという音が止み、ビンッと弦が空気を切り裂く。放たれた矢は中空を一直線に走りぬけ、ゴブリンたちから10メートルほど離れた場所に突き立った。

 驚いたのはゴブリン達だ。
 突然の攻撃に戸惑い、ルクルットを確認すると、あざけり笑いを浮かばせる。たった一人で、しかも先手を打った一射を外す。無論、ゴブリンたちも200メートル離れたターゲットに攻撃を命中させる能力は無いが、それは頭から抜け落ちている。
 ゴブリンの高いとはお世辞にも決していえない思考力が回転するが、それ以上に数の圧倒的差はゴブリンの暴力性を過剰に膨れ上がらせる。結果――一斉に叫び声を上げながら、何も考えずに全力でルクルットめがけ走り出した。僅かに遅れてオーガも走り出す。
 血への渇望に我を忘れ、隊列も無ければ、盾を構えながらという防御手段もとらない。もはや完全にすべてが頭から抜け落ちている。
 それを確認したルクルットに僅かな笑みが浮かんだ。

「てっ!」

 彼我の距離が140メートルでもう一射。次の矢は外さずに、ゴブリンの頭部を射抜く。数歩、のたのたと歩き、最も後ろにいたゴブリンが崩れ落ちた。無論、絶命している。
 両者間の距離は見る間に迫ってくるが、ルクルットの矢を構える手に緊張の色は無い。なぜなら、直ぐ側まで迫られたとしても守ってくれる人間がいると知っているからだ。

《リーンフォース・アーマー/鎧強化》

 ルクルットの後方で草に隠れながら、ニニャの防御魔法が発動し始める。それを耳にしながら、再び矢を構える。
 90メートルでもう一射。再び崩れ落ちるゴブリン。
 40メートルで更なる一射。また頭部を貫かれ、一体大地に転がる。そこでペテルとダインが立ち上がった。
 ゴブリンの方が動きは俊敏だが、オーガの歩幅は非常に大きく、両者ともさほどの差は無い。とはいえ、草原という広い場所を200メートルも駆けてきているために、各自の距離はそこそこ開きだしている。そのためあまり多くのモンスターを効果範囲に入れることはできない。だが、ダインの最初の役目はオーガの一体の足止めだ。

《トワイン・プラント/植物の絡みつき》

 ダインの魔法が発動し、オーガの一体の足元を中心に草原の植物がざわめき、のたうつ鞭と化してオーガに絡みつく。非常に細い草が何百も集まり、強固な鎖と化す。焦りを浮かべたオーガの咆哮が響く。ついでに範囲内に3匹のゴブリンが含まれているが、特別に注意を向けるものはいない。

 ペテルはブロードソードにラージシールドを構え、正面から6匹のゴブリンと1匹のオーガの群れへ駆け出す。先頭を走っていたゴブリンの頭が踏み込みざまの一閃でくるくると舞った。吹き上がる血を潜り抜けるように、ペテルはゴブリンたちに肉薄する。

「クライヤガレ!」

 黄色い歯をむき出しにした、ゴブリンの汚らしい濁声が響く。
 ゴブリンのクラブの一撃を盾でペテルはたやすく受け止める。横合いから殴りつけてきた他のゴブリンの一撃は、魔法で強化された鎧によって、重い音を立てて弾き返すことに成功する。
 ペテルの視線は遅れて接近してきたオーガにある。ゴブリンの一撃ではさほど痛烈な痛みを受けないと判断してだ。

「来い!」
「ジネ!!」

 ペテルの言葉を理解したオーガが雄たけびを上げ、持っていたクラブを叩きつけてくる。それを間一髪で避けるペテル。周囲にいるゴブリンのおかげで横からの攻撃が来ないというのが有利に働いている。大地に叩きつけられたクラブが持ち上げられる。大地が大きくめり込んでいた。まともに受ければ、下手をすると即死しかねない破壊力だ。

《マジック・アロー/魔法の矢》

 最後に立ち上がったニニャから2つの魔法の光弾が放たれ、ゴブリンの一体に直撃する。それを受けてペテルを後ろから殴ろうとしていたゴブリンがゆっくりと崩れ落ちた。
 ペテルの周囲を取り囲んでいた5匹のゴブリンたちが現れた他の3人めがけ走り出す。あとはオーガに任せる腹なんだろう。
 コンポジット・ロングボウを放り、腰からショートソードを抜き放ったルクルットとメイスを構えたダインがニニャとの斜線上に躍り出、背中にかばう。


 ゴブリン5匹とルクルット、ダインの戦いはほぼ五分だ。ゆっくりとではあるが、一体づつ倒してはいるものの、ルクルットは片腕をクラブで殴打され折れたのか、プラプラと揺らしている。痛みを我慢しているのが一目瞭然なしかめっ面でゴブリンの一体の皮鎧の隙間にショートソードを突き刺している。
 ダインも複数回殴られているため、動きは多少鈍くはなってきたがまだ致命的な傷は負ってないように思える。
 ニニャは戦局を注意深く見ながら、魔法の温存に入りだした。今だ草によって行動不能状態になっているオーガがいるのだ。場合によってはニニャが受け持たなくてはならないのだから。
 ペテルとオーガの一騎打ちは今だ攻防が拮抗した状態だ。

『フォートレス!』

 ペテルの叫びと共に、オーガの一撃と盾が正面からぶつかり合い、甲高い音が響く。

 寝転がったまま1人でプチプチと草を暇そうに毟っていた、モモンは僅かに目を見開いた。

 ――オーガの一撃を完全に受け止めている。
 ペテルは立った場所から一歩も動かない。それどころか盾を持った手すら動いていない。まるで盾がオーガの一撃によって生まれたすべての衝撃を完全に無効化したようだった。

「武技……」

 モモンは仲間のメイドの幾人かが振るう、いわば武器の魔法とも呼ぶべき技を思い出す。魔法職以外の大抵の職業で5レベルごとに覚えられるそれは様々な効果をもたらす。
 ペテルの使った技は恐らくのところ、盾で受けた際の衝撃を完全に殺すことの出来るものだろう。
 繰り返されるオーガの殴打を盾で完全に受け止めきっている。

「行きますよ! ペテル!」

《フラッシュ/閃光》

 オーガの鼻先で真っ白い閃光が爆発する。瞬きを繰り返しながらよろめくオーガに対し、ペテルはブロードソードを強く握り締める。刀身に揺らめきが纏わり付いた。

『スマッシュ!』

 裂帛の気合を込めた力強い雄叫び。
 ペテルの渾身の一撃が、オーガの腹部をブロードソードとは思えないほど軽々と断ち切っていく。大量の血が吹き上がり、鮮血によっててらてらと濡れた輝くを持つ臓物がばしゃばしゃと地面を叩く。
 充分な致命傷だ。
 クラブを取り落とし、臓物を腹部に仕舞いこむよう姿勢をとりながら、オーガはどうっと倒れこんだ。



《ライト・ヒーリング/軽傷治癒》

 ダインから飛んだ回復魔法がルクルットの傷を回復させる。ゴブリンとの戦いも一方的なものへと変化している。ルクルットの一撃を受けてまたゴブリンが崩れ落ちる。
 ペテルは弓を持ち出すと、絡みついたままのオーガめがけ撃ち始めた。もはやゴブリンに対して剣を振るうまでも無いという考えだろう。
 
 ――つまらないな。
 欠伸をかみ殺しながら戦闘を眺めているモモンからすれば、堅実な戦い方過ぎて面白みにかける。どこかの戦局が崩れれば少しは面白くなるのだろうが、流石に後ろにいるオーガの束縛を解こうとかは行う気になれない。善意でも悪意でもなく、Eクラスの全力での強さが知りたいためだ。まぁ、Eクラスであればオーガ2体が厳しいぐらい。運によっては危険というぐらいか。

 とりあえずは武技を使う人間もいるということを手にいれたのは大きいだろう。今晩中にも報告しなくては。
 
 モモンがそんなことをぼんやりと考え込んでいると、自らの方に草を踏み分けながら走ってくる足音が1つ。顔を上げたモモンは逃げてくるゴブリンを視認した。

「こっち逃げこないでよ……」

 モモンは誰にも聞こえないほど小さく呟き、腰から下げたブロードソードを寝転がった姿勢のまま苦労して抜く。

「ドケドケドケ!」

 ゴブリンは悲鳴にも聞こえる雄叫びを上げる。そのままクラブを振り回しながら侮りやすしと見たのか、隠れていたモモンに目を付けると方向を僅かに転換して突き進んできた。

「モモンさん! 逃げてください!」

 緊迫した声がニニャから飛び、魔法を準備しだすのが視界の隅に映る。
 
 モモンは罵声を飛ばしたくなる気持ちに耐え、喉元まで上がってきた暴言を飲み干す。
 呆れんばかりの判断力の遅さだ。何の魔法を使うつもりかは知らないが、ゴブリンがこちらに来る方が早い。逃げても良いが、下手に逃げると人質にしようと追ってくる可能性がある。
 ――ならば仕方ない。
 モモンはそう判断し、眼前まで迫ったゴブリンが振り下ろしてくるクラブにタイミングを合わせ、ブロードソードを突き出す。
 肉を突き抜ける重い音。モモンの手に肉を切り裂き、骨を砕き、中身の柔らかい器官を破壊する心地良い感触が伝わる。ぎょっとしたゴブリンの顔が、自らの腹部に突き刺さった剣を確認して、命が奪われることへの恐怖へと変化する。そのままモモンは捻りを加え、握る手にゴブリンの内容物を引きちぎる感覚を得る。
 それから2本の光弾がゴブリンの体を強打した。
 モモンはそのまま手を離すと、倒れこんでくるゴブリンの体を転がることで避けた。

「大丈夫ですか! モモンさん!」

 ニニャが伸びた草を踏み分けながら、モモンに近寄ってくる。その慌てた歩運びはニニャがどれだけ心配してるかを言葉よりも鮮明に伝えてくれる。
 弱者の殺戮の愉悦に満たされ、にやけそうになる顔を必死に抑える。今はそんな表情をして良いタイミングでは無い。モモンは怯えたような雰囲気を漂わせようとゆっくりと立ち上がった。だが、どうしても濡れたようなため息が漏れる。

「はぁ――怖かったですが、なんとか大丈夫です」
「そうですか」

 安堵のため息を漏らし、肩から力を大きく抜くニニャ。モモンはうつ伏せに倒れたゴブリンのひっくり返し、ブロードソードを引き抜く。血があふれ出し、草原の草を染め上げていった。
 白目をむき、グニャグニャとした温かみの残る死体。
 もはや失われてしまったが、命が抜けきる瞬間の空虚な表情――モモンの2番目に好きな表情が記憶に新しい。

「――ご馳走様でした」

 モモンはニニャには聞こえないほどの小ささで、ゴブリンの死体にそう話しかけた。



 ■



 ニニャはモモンがブロードソードを突き刺したゴブリンの元に座ると、抜いたダガーで耳を切り落とす。これをギルドに提出することでモンスターに応じた報酬を払ってくれるのだ。無論、すべてが耳というわけではない。そのモンスターに応じた箇所というのがあるのだ。とはいえ、オーガやゴブリンといった亜人系は大抵が耳なのだが。
 慣れた手付きで切り落としていると、ある奇妙なことをニニャは発見した。それは半ば好奇心から始まった発見だ。
 ニニャは袖を捲り上げ、ゴブリンを貫通した傷口に手を近づける。ぽっかりと開いた大きな穴からは新鮮な血が今だ僅かに流れていた。手を近づける。体温が残る暖かい血液が、ぬるりとした感触をニニャに伝える。そのまま手を進めていく。
 鉄の匂いと共に、傷口からごぼごぼと血液が溢れかえる。そこで手を止めずに押し込み、ゴブリンの体の中で動かす。
 形容しがたい生々しい音が響く。
 そして――。

「!」

 ニニャは手を抜くとチラリとモモンの様子を伺った。
 その瞬間――目が合った。

 今まで全然違う方を向いていたモモンが、まるで伺うタイミングを待っていたようにぐるんと顔を動かす。まるで変化の乏しい無表情にも似た表情。モモンという人物が最も多く見せる表情で。
 ガラス玉のような作り物めいた目だ。そのとき初めてニニャは、昔幾度か見たことのある貴重品を思い出す。
 ニニャは微笑を駆使して作る。
 何時もの慣れた行為が非常に重い。顔が凍りついたようだ。

「モモンさん。耳、切り落としましたから」
「ありがとうございます」

 ペコリと頭を下げるモモン。それからすぐに興味を失ったように、モモンの顔がニニャからそれ、ペテルの行っている作業へと向き直る。
 怪しまれただろうか。ニニャの心臓が激しく脈打つ。呼吸が荒くなりそうなのを抑え、無理矢理、平常始動させる。
 
 ゴブリンの体に開いた穴は大きく、皮膚や肉どころか肋骨、肩甲骨、皮鎧、全てを断ち切って進んでいる。剣を振りかぶって両断する人間がいるのは伝え聞いたことがある。だが、寝転がった姿勢で突き上げるだけで、貫通するほどの穴を開けるなんていう行為が果たして出来るのだろうか。
 可能性としては突き出した剣にゴブリンが全力で突き進んだ際によるものだが……正直難しいだろう。いくらゴブリンでもそこまで間抜けではない。第一そこまでのスピードがこの足場の悪い場所では乗らないはずだ。
 外見からは想像できない筋力だとは思っていたが……。
 ニニャは作り笑いを維持し続けながら、自らの考えを纏め上げようとし、身を震わすような寒気に襲われる。身の内に得体の知れない化け物を孕んだような、そんな怖気が走ったのだ。

 ……有り得ない。単なる腕力だけと考えるのは有り得なさ過ぎる。魔法の剣だとするとかなり高位の武器と考えるのが妥当。ではモモンとは何者なのか。
 しかし、それを調べようとするのは――。

「……好奇心、猫をも殺す」

 ニニャはポツリと呟いた。
 再び、モモンがニニャに顔を向けてくるのを笑顔で誤魔化しながら。






――――――――
※ コンセプトは泥臭い戦闘です。一般的な冒険者の戦闘を観察している風に書きたかったんですが、微妙に上手くいって無いですね。中々難しい。
 次回は街に到着してモモンの話の前半修了ですね。23話「初依頼・帰還」でお会いしましょう。

 ……実はプロットでは初依頼4話は1話で終わる予定でした。どんだけ長くなったんだ……。



[18721] 23_初依頼・帰還
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2011/02/20 21:38
 ようやく帰り着いた街は徐々に夜の顔を見せ始めていた。
 大通りには魔法の明かりが白色光を周囲に投げかけ、通りを歩く者の雰囲気もだんだんと変わりつつある。若い女や子供といった存在は姿を消し、歩いているのは仕事帰りの男が多い。左右に立ち並ぶ店からは陽気な声が明かりと一緒に漏れてきていた。
 そんな中、4頭立ての豪華な馬車が一台、モモンたちの横手を走り去っていった。こんな時間なのに門の方へ向かう馬車を幾人かが訝しげに見送るが、すぐに忘れて思い思いの方向へと足を進める。

 馬車が通り過ぎたのを合図にしたように、モモンたち一行は立ち止まった。
 後ろを歩いていた幾人かが迷惑そうな顔をするが、冒険者である彼らに面と向かって文句を言うほど勇敢な人間はいなかったようだ。

「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」

 ペテルにあわせてモモンも頭を下げる。

「とりあえず今回はここまでで結構です。お疲れでしょうから、ここで解散としましょう。後のギルドでの処理はこちらの方で済ませておきますよ」
「そうですか? それはありがとうございます」
「それで報酬なんですが……」
 
 モモンの手に一枚の金貨が乗せられた。それをモモンは訝しげに見つめる。約束の金額とはまるで違う。

「多くありません?」
「モモンさんが倒されたゴブリンの討伐報酬が1体で銀貨1枚。それにポーターの報酬が銀貨6枚。それと初めての冒険をくりぬけられた方へのご祝儀も含んでいます」

 モモンは僅かに迷い、それから金貨を自らの財布にしまいこむ。

「……分かりました。そういうことならもらいます」

 それと引き換えに、殆ど空となり軽くなった背負子をペテルに渡した。チラリとニニャを軽く見――

「では、私はここで」
 
 ――頭を垂れ、歩き出すモモン。
 その背が人影に重なりながらゆっくりと離れていくのを只黙って見送る旋風の斧一同。やがて姿がほとんど人に隠れて見えなくなってきた頃、最初に口を開いたのはペテルだ。

「いや、それにしても意外にやるな」
「全くだ。今回が始めて冒険に出た村人には思えん」

 それに答え、ダインが重々しく頷く。それは単純に優秀な駆け出し冒険者に対する賛辞の表れだ。
 ニニャが僅かに顔をゆがめたことにルクルットは悟るが、それを口には出さない。だが、別の意味合いのことを口に出した。

「だれか彼に渡したいものを忘れてはいないか?」

 不思議そうなに眉を顰めるペテルとダイン。その意図が読めたニニャは頭を横に振った。

「誰も忘れてないよ。それに止めた方が良いと思うけど」
「やっぱり? なんていうかあいつの後姿ってあんまりにも隙が無いんだよな」

 ようやく2人の会話の中身が理解できたペテルとダインは渋い顔を浮かべた。冒険者であれば触れられたくない過去を持っている者もいる。巣を突いて毒蜂を呼び出すことも無い。

「やめておけ。それにそういう訓練を受けてるんじゃないのか?」
「ペテルー。少しは色々と考えようぜ。色々と聞かれただろう? 何かの訓練を受けてるのに、当たり前のことを知らないなんてあると思うか?」
「隙……レンジャーやシーフのような捜査系のすさまじい才能を持った村人というのはどうだ?」
「あー、可能性はあるだろうけど……」

 顔をぽりぽりとかきながら、納得のできない声を上げるルクルット。同じレンジャーとして何か思うところがあるのだろう。

「ペテルもそう思ったから、報酬を多めに払ったのだろう?」
「まぁ、優秀そうですし、できればよい関係を築きたいですからね」
「だったらやっぱりよ。少しは調べておくか? 色々とコネを使えば少しは分かるだろうよ」
「――止めておいた方がいいよ」

 ばっさりとルクルットの提案を一刀両断するニニャ。その姿に違和感を感じた一行は疑問を口にしようとするが、何も言わずに喉の奥に飲み込む。
 ニニャの知識が一行を救ったことは多くある。
 そんなときに浮かべる表情が今、ニニャの上に現れていることに皆、理解できたからだ。

「そうだね――本当に止めておいた方がいいよ」

 ニニャの本当に小さな呟きが、一行の喉の奥に重たい何かを感じさせた。そして僅かに震えるニニャの体を前に、一行の背筋に冷たい空気が流れ込んできた。



 ■



 モモンが進んだ先は宿屋ではない。路地を一本入り、その先でまた細い路地に入り込む。だんだんと周囲の雰囲気は暗く、静かになっていく。
 そこは貧民街。
 廃棄されたような背の低い空き家が左右に立ち並ぶ。乱雑に立てられた襤褸屋が道幅を狭くし、それと同時にどこを歩いているのか迷わせるほど込み入っている。道はでこぼこなものであり、腐ったような水溜りが時折できている。
 襤褸屋も家と呼べるような、ちゃんとした作りのものではない。木で大雑把に作った骨組みのみだ。恐らくはこれに布を巻きつけて家とするのだろう。今では布が無く、骨組みしか残っていないのだが。
 
 長い間掃除されて無い犬小屋のような匂いが空気中を漂っている中を、モモンは進む。
 明かりなんていう立派なものは無い。ただ、遠くの方で幾人かが路上に焚き火を焚いていたりするのが、目に入る程度だ。ほとんど真っ暗な狭い道をモモンは迷うことも、足をとられることも無く歩く。
 草原では星明りがあったのだが、この地では時折立っている背の高い建物に隠れて、大地まで届かない。
 かなり後ろ、大通りからは華やかな声がここまで聞こえる。それはどれだけこの周囲が静かなのか。

 モモンは無言で歩く。
 
 やがて何度目かの路地を曲がった際、僅かにモモンの歩運びが乱れ、歩調がゆっくりとしたものへとなる。
 それは曲がろうとした路地から光が投げかけられていたからだ。赤い揺らめくような光。それは魔法的なものではなく、一般的な松明や焚き火によるものだ。

 路地を曲がって、モモンはひょいっと顔を覗かせる。
 今までと同じ、狭く薄汚い路地だ。背の低い建物が左右に並び、すえたような臭いが僅かに空中を漂う。路地の中ほど、片隅でぽつんと焚かれた、火が周囲の路地に明暗を浮かばせていた。
 パチッと炎の中で木がはぜ、火の粉が舞い上がった。
 周囲に人の姿は見えない。

「そう」

 ワザとらしく周囲を伺い、モモンは冷たく笑う。

 人の姿は見えない。そうだ、視界には入ってこない。だが、気配はある。そしてモモンの魔法にも反応がある。

 1、2、全部で4……。

 まるで待ち伏せのようだ。いや待ち伏せなのだろう。では、待ち伏せているのは誰の手のものか。
 モモンの脳裏を先ほど分かれた冒険者達が浮かぶが、正体を気取られるような行為は取ってないはずである。
 情報が少なすぎる。早急な判断は不味い。つまるところ1人の命は助ける必要がある。

 僅かに眉を顰め、思案したのは一瞬。モモンはすぐにそのまま歩を進める。その歩運びには乱れは無く、自然なものだ。
 路地を歩き、焚き火に近づいていく。 
 やがて、かなり近づいた際に闇に身を伏せるようにしていた気配が動き、頭上から投網が大きく広がりながら、モモンめがけ降ってきた。
 絡みつかれれば身動きをとる事は当然できなくなる。同時に通りの影から棒のようなものを持った男が焚き火の明かりに照らしだされるように出てくる。それも3人ほど。
 つまり投網で動けなくして殴打、しかる後に持ち物を奪うというところか。
 モモンは納得し、微笑む。
 一番警戒していたのは理解できない状況へと動くことだ。だが、これは非常に分かりやすい状況だ。一応、最低でも1人は捕まえて詳しい話を聞かなくてはならないだろうが。それでも対処は簡単だ。
 
 投網は十分に広がりながらモモンの体を覆う。

 しかしながら、まるでモモンの体を滑るかのように、投網は捕らえることなく地面に落ちた――。

「残念」

 ガントレットの上から、モモンははめている指輪を押さえる。
 リング・オブ・フリーダム。束縛や麻痺といった行動を阻害する一切に対して無効化能力を与えてくれる指輪である。モモンが捕らわれることを最も警戒したアインズが、彼女に与えたものだ。それに守られたモモンに投網の効果はない。

 投網が目標に絡みつかなかったことを驚く、3人の男達。当たり前だ。彼らの小さな常識では考えることすらできない状況が眼前で起こったのだから。
 そのためこのような事態は想定外だった彼らは硬直し、次の行動に移ることができない。
 それはあまりにも遅すぎる。いや、モモンを襲うという段階で全てが手遅れだったともいえるが。

《マス・ターゲティング/集団標的》
《マキシマイズマジック・マジック・アロー/最強化・魔法の矢》

 立て続けの魔法発動にあわせ、モモンの手から放たれた6本の光弾が中空を舞う。
 2本が投網の落ちてきた背の低い家の屋根へ、そして残りの4本が2本づつに分かれて2人の人影に突き立つ。頭上で肉袋を激しく叩く重々しい音と、騒がしく転倒音が聞こえた。そして少し遅れ潰れる音が響く。

 通りの奥でも2人の人影が、枯れ木を数本以上同時にへし折ったような乾いた音を立てた腹部を押さえながら、ゆっくりと崩れ落ちた。
 たった数瞬で最後の1人になったしまった人影は戸惑い、それから背中をモモンに見せながら走り出そうとする。ようやく状況を理解したというところか。

「はぁ」

 モモンは哀れな男にため息を漏らす。
 逃げられるわけないのに、面倒なことをするなぁ。そういう系統の、無駄な労力に対するため息だ。

《――エクステンドマジック・チャームパーソン/時間延長化・人間魅了》

 モモンは男に向かって強化された魔法を発動させる。それから声を投げかけた。

「待って、友達」

 必死に逃げ出していた男の足が、ピタリと止まった。そして恐る恐るモモンへと振り返る。

「待ってよ、友達」

 モモンは再び同じ問いかけを繰り返すと、のんびりと男の方に歩き出す。振り返り、モモンを確認した男の顔にはまるで地獄で親しい友人に会ったかのような、安堵の色があった。

「なんだ、おまえだったのか――」
「そうだよ」

 眼に見えて男の肩から力が抜けていく。それを薄く笑いながらモモンはのんびり歩く。その嘲りとも侮蔑とも知れないものを多分に含んだ笑顔を前にしても男に反応の変化はない。
 本当に心の底から親しい人間を前にしたゆとりを持って、男は立っている。

 モモンはのんびりと男に向かって歩き出す。
 モモンと魅了された男の間に、2人の男が口からはやけに綺麗な鮮血を吐き出して倒れている。僅かな異臭のする貧しい服を着ている。こぼした食事のシミのようにその服に鮮血が所々付いている。口から吐き出したものが付着したのだろう。
 傍らには無骨な木の棒が転がっている。
 2人ともすさまじい激痛に襲われたと一目瞭然な、信じられないような苦悶の表情を浮かべたまま、ピクリとも動く気配は感じられない。
 幻術系の魔法に《フォックス・スリープ/擬死》という魔法もあるが、それを使用した形跡もない。《ディテクト・ライフ/生命感知》にも反応は無い。ならばこの2人は確実に死んでいる。それは即ち屋根にいた生命も反応が無いのだから、この2人と同じように死んだということだ。

 近づくと男がモモンに不満を述べた。

「ひどいぜ、こいつらが死んじまったじゃないか」
「あなた達が私を襲ってきたんだよ?」
「まぁ、そうなんだけどよ、殺すことも……」

 天を仰いで、ぶつぶつ呟く男。納得はしかねるが、仕方が無い――不満がある程度というところか。
 魔法によって魅了された男にとっての最高の友人は現在モモンだ。ならばそのモモンの言葉はある程度は納得するしかない。勿論、これは低位の魅了の魔法によるものだから、男の本来の考えを大きく歪めることはできない。つまり人殺しが大罪だと思ってる者なら友人となったモモンを自首するように説得するだろう。
 つまるところ、この男の反応は友人が人殺しをした際の考えを表したものだ。ある程度は罪悪感を覚えるが、それほど強いものではないという。

 モモンは周囲を見渡す。何時までもこんなところにいることはできない。それに死体も処分しなければならない。貧民街までは夜警も見回りには来ないだろうが、それでも死体を放置するのは厄介ごとを引き起こす可能性がある。
 それに通常より倍の時間、魅了の効果は続くが永続的効果というわけではない。効果時間内に一応の背後関係も洗っておく必要がある。

「ここは危ないから、私についてきて。……友達」
「ああ、わかった」

 打てば響くような反応を示す男と連れ立って、モモンは歩く。横にいた男が絶え間なく話しかけてくるが、それを話半分に流す。どれだけ冷たい返事をしても気にすることの無い男の様は、完全に魅了の効果によるものだ。

 1分もかからずに目的地の襤褸屋が見えてきた。
 かなり大きい家だ。
 だが、打ち捨てられてから結構な時間が経っているのだろう。
 漆喰で塗られただろう壁は経年劣化によってボロボロと剥がれ落ちている。風雨に耐えかねたのか、鎧戸は半分腐り落ちかかっていた。屋根はより悪い。屋根を作っていた木材は腐り落ち、家の内部に崩れこんでいた。
 無論、屋内に明かりは無い。いや、僅かな月明かりが入り込んでいるため、狭かった通りよりは明るいともいえる。
 そんな家の中にモモンは横手に空いた穴から入り込んだ。
 廃墟と化した家屋の中で元気に伸びつつあった雑草を前に、モモンは少しの時間だけ考え込む。踏みしめることで足跡を残すことを考えてだ。しかし、直ぐ後ろの男を思い出したモモンは、堂々と足跡を残しながら家屋の中に入っていく。

 腐りきった木材がモモンの体重をその身に受け、耐えることを諦めてもろくも崩れる。天井が抜けていることによって僅かな星明りが入ってきている。スポットライトに照らされる俳優のようにモモンはその明かりの下に立つ。周囲にわだかまる闇を見据えながら。
 モモンの後ろから男が家の中におっかなびっくり入ってきた。

「おいおい、大丈夫なのかよ」
「大丈夫よ、友達。ここなら安全」
「そうか? まぁ、お前が言うならそうなんだろうけどよ」
「さて、さて」

 モモンは後ろを振り返り、先ほどから持続している魔法による生命反応を感知する。
 いる。
 男を除いて周囲に3つ。全てこの家屋の中だ。モモンの鋭敏な感覚も同じだけの気配を感知している。

「えっと、ここから1分ぐらい行った所に3人の人間の死体がある。持ってきて」

 ザワリと周囲の闇が動き、モモンの指差した方角に動き出す。比喩的な表現ではない。二次元的な影が、本当に動いたのだ。

「ひっ!」
 
 男から掠れた悲鳴が漏れる。小動物を思わせる動きで周囲の闇を見渡し始める。無論、もういないのだからどれだけ目を皿にしても見つかるわけが無い。

「さてと。時間はあるし聞かせてもらおうかな」
「な、何をだ?」
「簡単。何で私を襲ったの? 誰かに頼まれた?」 

 誰かに頼まれたのだとすると非常に厄介なことになる。しかしながら、男の返答にモモンは安堵の息を漏らした。

「いや、単に金目当てだ。もちろん、あんただと知っていたなら、あんなことをしなかったぜ、ほんとうだよ。俺は友達には優しい男なんだ」
「ふーん」

 なら聞くことは聞いた。
 モモンは微笑むと、雑草に跡が残らないような軽やかな動きで、男と互いの呼吸が触れ合うほどの近さまで寄った。そしてガントレットを外すと、指を伸ばした。男の胸板に指を突きつけ、魔法を発動させる。

《ドラウンド/溺死》

 男が目を大きく開き、口元を押さえる。口元から僅かに水がこぼれた。
 《ドラウンド/溺死》は肺を水で満たし、死へのカウントダウンを行う魔法である。水中呼吸を行える存在には無意味だし、死亡するまでに呼吸ゲージの長さだけ時間がかかるためにユグドラシルではさほど怖がられない魔法だが、それは対策があるからである。

 攻撃を受けたことによって魅了の魔法が解けた男はまさに魔法が解けたことに対する驚愕、そして自らが呼吸できないことに対する恐怖によって喉を掻き毟りだす。必死に水を吐き出そうとする男。それに優しいとも言って良い響きでモモンが話しかける。

「無理。水は吐き出せないし、吐けたとしてもすぐに肺にたまるから」

 その言葉が分かった男は背を見せ、モモンから逃げようと走り出そうとする。無論、そんな行為を許すはずが無い。モモンの足が男の足を払った。ドスンと音を立てて男の体が廃屋の床に転がった。
 そのままモモンは男の体の下につま先を入れると、無造作にひっくり返す。そして無様に転がった男の腹部に足を下ろし、力を込める。
 何をされているのか、直感的に理解した男はモモンの足を跳ね除けようとするが、これっぽちも動かない。体をくねらせてもまるでびくともしない。
 圧倒的な筋力の差を認識したのだろう。泣きそうな顔で男が胸元で手を組み合わせる。
 恐怖、哀願、苦痛。
 ころころと変わる男の表情。それをただ黙って見つめるモモンの足を、男が必死の顔で掴む。呼吸できない真っ赤な顔で必死に力を込め、少しでも動かそうとする。恐らくは男が生きてきたどの瞬間よりも強い力だろう。だが、そんな火事場の力だろうと決して覆せない力の差はある。

 ばたばたと暴れる男の体、紅潮した顔を殆ど無表情にモモンは見下ろす。
 僅かにモモンの口元はつりあがっていた。

 やがて口から水を吐き出しながら、男の眼球がぐるっとひっくり返る。体が糸が切れたようにぐにゃりと崩れた。もはやピクリとも反応はしない。

「ふん」

 鼻でかすかに笑うと、興味も無くなった玩具をうち捨てる眼差しを男の死体に投げかけ、腹部に置いていた足を上げる。
 それからモモンは戻ってきた気配に向き直った。

「さてと、ご苦労様」

 片手で軽々と持った荷物を放るような気軽さで、どさりと3つの死体が転がった。その死体を放った存在は闇に溶け込み、姿を確認することはできない。モモンの先ほどから続いている生命感知の魔法には反応があるのだが、

「さて、姿を見せてくれるかな、シャドウデーモン達」

 闇の中の厚みの無い影がゆっくりと膨らんだ。まさに二次元から三次元だ。
 痩せこけた人型、背中にはこうもりのような羽。途中から鋭利な爪と化している指。
 そのすべてが闇をくりぬいた様に漆黒の一色。唯一、目のみが病的な黄色の輝きを持つ。まさにシャドウデーモンの名に相応しい悪魔である。

『そちらの本当の姿を見せて欲しい』
「?」
『我らが偉大な主より貴方に仕えろと命を受けてはいるが、確認がしたい』
「はぁ。まぁ、そういうことなら……その前にあなた方の主人の名を告げてよ」
『我らが偉大なる主の名はアインズ・ウール・ゴウン。至高のお方よ』
「了解」

 モモンの姿が歪む。
 それはナザリック大地下墳墓での姿と何も変わらない。ただ、服装は変わらないために、胸の部分がぱっつんぱっつんである。
 
「これでいいのかな?」
『……それでは完全な確認が取れない。重ねて言う。本当の姿を見せて欲しい』
「……しょうがないか」

 頭をかきながら一瞬逡巡したモモンは能面の冷たさで頷く。そしてどろりと顔の輪郭が歪んだ。
 そのあとの姿を一言で形容するなら、化け物だ。

 ピンク色の卵を髣髴とさせる頭部はつるりと輝いており、産毛の一本も生えていない。
 顔に当たるところは鼻等の隆起を完全に摩り下ろした、のっぺりとしたものだ。目に当たるところと、口に該当するところにぽっかりとした穴が開いている。眼球も唇も歯も舌も何も無い。子供がペンで塗りつぶしたような黒々とした穴のみだ。体つきもひょろりとしたものに変わり、胸の膨らみは針でも刺して空気を抜いたかのように萎んでいた。
 麻でできた手袋が地面に落ち、先ほどまでは綺麗に整えられた5本の指があった場所は、現在では4本の異様に長い指が奪っていた。第四間接まである指が尺取虫のように蠢く。そのうちの一本に銀の指輪がはまっていた。

 ドッペルゲンガー。

 それがモモン――ナーベラル・ガンマの正体である。
 ドッペルゲンガーは種族クラスの上昇に応じ、1個ずつ外装を得ることが出来るのだが、ナーベラルはドッペルゲンガーの種族レベルを1で止め、魔法職に57レベルつぎ込むという成長のさせ方をしている。そのため変身できる外装はメイドの1種類しかないが、幻影魔法を使うことによって多彩な変化が可能なのだ。それが彼女が冒険者として街に潜入するように命令された所以だ。

 ナザリック大地下墳墓のNPCで人間種や亜人種はたったの2人しかいない。
 メイドたちはホムンクルスという異形種であり、ナーベラル達、戦闘能力を与えられたメイドたちもそうだ。ビートル系の擬態種、捕食型スライム、ライカンスロープ、デュラハン、自動人形<オートマトン>となっている。

 空気が洞窟を抜けるような音。
 それに混じって女とも男ともいえない奇妙な音程の言葉が聞こえる。

「確認した?」
『アインズ様の命令にあるナーベラル・ガンマと確認した。これより我々は貴女の配下に入る』

 ナーベラルは何も言わずに姿を歪める。おぞましいドッペルゲンガーの姿が消え、そこに立つのは美しい女性だ。先ほどの姿が嘘のような美貌が戻ってくる。地面に落ちた手袋を拾い、再びはめる。

「姿を見せて、シャドウデーモン」

 先ほどと変わらないある意味平坦な口調だが、そこには先ほどには無かった雷雲ごとき覆いがあった。それに気づいてか気づかずか、影から他の2体が姿を現し3体揃ってナーベラルの前に膝づく。ナーベラルはその1体、最初っから姿を見せていたシャドウデーモンに近づいた。

「ねぇ、なんで私がお前達ごときに本当の姿を見せなくてはならないの?」

 足が上げられ、シャドウデーモンの腹を強く蹴り上げる。旋風の斧のメンバーであれば、下手すれば内臓破裂につながる驚異的な脚力によるものだ。
 みしみしというきしむ音、シャドウデーモンは九の字に大きく体を歪ませた。押さえ込みきれなかった苦痛のうめき声が低くもれ出る。

「至高の方々によって生み出された者の頼みや確認だったら、理解できる。でもお前達ごとき単なるシモベに何で私が本当の姿を見せなくちゃいけないわけ? この女の姿は至高の方が私のために作ってくれた特別なものよ」

 能面の表情を維持しながら、何度も勢いを込めて踏みつける。
 別に手を抜いているわけではない。ナーベラルは魔法職。流石にレベル30に近いシャドウデーモンを単純な肉体能力だけで殺すのは時間が掛かるものである。それを理解しているのか、それとも理解していないのか。
 繰り返し、蹴り続ける。
 他のシャドウデーモンにそれを止めようとする気配は無い。

 どす黒い液体が飛散し、シャドウデーモンの体が痙攣し始める。そこでようやくナーベラルは蹴るのを止めた。

「――ふぅ。アインズ様に言われての言葉だと思うし、アインズ様からの援軍だから殺さないでおく」
 
 かすかに額に滲んだ汗を軽く拭う。

「さて、死体は肉片の欠片も残さないように処分して。ゾンビとかスケルトンにして支配するにも置き場所が――」
 
 折檻を受けていない別の一体に命令を下そうとし、ナーベラルは壁の一点――それを通り越したところにある場所を思い浮かべ、口を閉ざす。
 ――思案。
 手ごまはあったほうが良いが、デメリットも当然ある。それに自らの主人が部下になるようシモベを送ってきたのに、思考力の皆無な手ごまをさらに個人的に増やそうとする行為は不快感を起こしかねない行動だろう。まるで手ごまが足りないと言わんばかりの行動だからだ。

 アインズの眉を潜めさせるような行動はナーベラルにとっても喜ばしいものではない。

「――無いから、とっとと処分しなさい」
『了解いたしました』

 折檻したのとは別のシャドウデーモンが深々と頭を下げる。

「それと後日、冒険者パーティーの幾つかを教えるからその行動を監視して。強い冒険者達を観察した方が有益な情報は手に入るだろうから」
『はっ』

 大した力の無い冒険者とともに行動してももはや得るものは少ないだろう。ある程度の常識は既に入手したと判断しての行為だ。

「監視がばれたら適当に逃げなさい。何人か殺してもいいけど、冒険者を全滅させたりとかの情報源を潰すような行為は厳禁。とりあえずはこんなもの。行動を開始しなさい」

 頭を垂れるシャドウデーモンから視線を外し、ナーベラルは頭上を見上げる。僅かに残る桟のさらに上に、星の輝きが映っていた。

《――フライ/飛行》

 ナーベラルの体が中空に舞い上がった。重力から完全に切り離された、風船が浮かび上がるような軽やかさで。

《インヴィジビリティ/透明化》

 続けて発動した魔法がナーベラルの体を包み込み、不可視化の帳で覆い隠す。
 壊れた天井を抜け、透明化したナーベラルは上空に上がっていく。一応、家から外に出る際、うかがっている存在がいないかは確認済みだ。

 300メートルも上昇しただろうか。
 頭上には星々が輝き、大通りに面した場所には複数の光源が連なっているために光の帯にも見える。

「はぁー」

 誰もいない場所で、新鮮な空気を肺に取り込むようにナーベラルは大きく呼吸を繰り返す。

 ナーベラルに与えられた仕事は、彼女の予想以上に大変な仕事だった。
 殺すとか、破壊せよといった仕事なら楽しいのだが、下等な存在にペコペコしたり笑顔を作ったりというのは彼女の性格からすれば非常に疲れるものだ。しかしその反面、上手く仕事をこなせばアインズに喜んでもらえるというのが理解できるからまだ頑張れる。

「あー。もう、ぱっーと殺したいなー」

 肩がこった人がするように、ぐるっと頭を回し、ナーベラルは頭に浮かんだストレス解消方法を封印する。いずれ楽しめるときが来るだろう。それまでは我慢だ。

「はぁ」

 最後に1つため息をつくと、飛行の効果を一時的に抑制し、落下を始める。
 轟々と耳元を空気が流れていく。サイドテールと服が風によってばたばたとのたうった。
 また明日から別の仕事を探す必要がある。その前には優秀な冒険者パーティーを探してシャドウデーモンに伝えることもしなくてはならない。しなくてはならないことは山のようにある。

「頑張ろっと――」






――――――――
※ とりあえずナーベラル(モモン)の話は一旦停止です。今度の出番は一周回ってからでしょうか。次はセバスの話に見せかけたシャルティアでしょう。すこしばかり時間が空くかもしれませんが、お持ちいただければ幸いです。2週間ぐらいでしょうかね。
 では次回24話「タイトル未定」でお会いしましょう。



――――――――

 さてさて。オーバーロードを読みに来てくださる方は基本的に最強ものが好きな方だと思います。
 最強ものにも色々なタイプがありますが、皆さんの好きなタイプってなんでしょう? むちむちぷりりんは周りが凄い凄い言う最強ものが好きです。もしよければ皆さんの好みを教えてはくれないでしょうか?

 ただ、オーバーロードがそういう展開になる可能性は微妙です。主になるプロットは動きませんから。ただ、枝葉の部分に入れるかもしれません。
 まぁ、話のついで程度に教えてもらえればと思っております。それと教えたからそうしろと言うのも無しでお願いしますね。



[18721] 24_執事
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/08/24 20:39





「なんなのよ、この食事は!」

 甲高いヒステリックな叫び声が響き、遅れて食器がぶつかり合う硬質な音が周囲に広がった。
 食堂にいた数人の目が、騒ぎ立てている女性に向けられた。
 そこにいたのは1人の女性。美しいと言う言葉すら霞むような顔立ちだ。かの『黄金』とも称される女性に匹敵するのではと思われる美貌は癇癪に歪められてなお美しい。
 長い髪を纏め上げたシニョンを覆う、絹糸のリボンを煩わしそうに掻き上げ、女性は自らの前に置かれた食事を不満げな表情で睨み付ける。僅かに垂れ下がった眼差しではキツイというよりは、可愛らしい感じが出ているが、非常に不満だというのは、横目で盗み見る誰もが一目瞭然だ。
 
 食事は机上に所狭しと並べられている。
 籠には焼きたてのフカフカな白パンが幾つも置かれ、かすかな湯気を上げている。肉汁が滴っている肉にはたっぷりの香辛料がつけられ唾が湧き出るような美味そうな香りを放っていた。新鮮な野菜で作られたサラダは、シャッキリとした張りを維持しており、かけられたドレッシングからは酸味が漂っていた。

 城塞都市エ・ランテル最高級の宿屋であるこの店――『黄金の輝き亭』では、出される食事はほとんどが《プリザーベイション/保存》の魔法がかかった新鮮なものによる料理だ。王侯貴族や大商人ぐらいしか食べられないような、誰もが満足を覚える食事に対し、その女性は不満をあらわにしているというのだ。それは信じがたい光景でもあり、どんな料理をいつも食べているのかと興味をかきたてられるものでもあった。

「美味しくないわ!」
 
 その声の聞こえる範囲にいた誰もが呆気に取られた表情を一瞬見せる。いや、彼女の後ろに使えている老人の執事のみ、表情を崩さない。
 最高級の食材を料理するに相応しい、最高の腕を持つ調理人が幾人も揃えられたこの店において最も聞けないだろう台詞だ。数人が頭を左右に振りつつ、自らの耳がおかしくなったかと疑うほどの。

「もう、こんな街にはいたくないわ、直ぐに出発の準備を整えなさい!」
「しかし、お嬢様。今は既に夕――」
「黙りなさい! 私が出立と言っているのだから、出立するの!」
「了解いたしました」
「ふん! とっとと行動しなさいセバス!」

 女性が手に持っていたフォークが投げ出され、カチャンと音を立てた。そのままの勢いで立ち上がると、憤懣やるかたないという足取りで食堂を後にする。
 嵐が通り過ぎた安堵ともいうべき空気が食堂に広がる。

「失礼しました、皆様」

 立ち上がった際に倒れかかった椅子を元に戻すと、執事はゆっくりと食堂にいた他の客に頭を下げる。非常に品の良い老人の完璧な謝罪の一礼を受け、哀れみを込めた眼差しが幾つも向けられる。

「主人」
「はい」
「お嬢様が申し訳ありませんでした。そして騒がしくしてしまった迷惑料として今、食堂にいる方の食事代は私の方から支払わせていただきますので」

 幾人かが巧妙に隠そうとするが抑えきれない喜びの色を顔に浮かべる。最高級の宿屋であるこの店での一食の金額は破格である。それを支払ってくれるというのだから、騒がしさも充分許容というところなのだろう。
 そして控えていた宿屋の主人もその光景をなんとも思っていない。それはこの宿屋にこの主従が泊まってから何度も繰り返されている、ある意味日常になりつつある光景だからだ。

「セバスさんも大変ですね」

 食事をしていた中の1人の壮年が話しかける。それをセバスは微笑を浮かべることで返答とする。
 そしてセバスの視線が逸れ、食堂の一角でむさぼるように食事をする男の方へと向かった。それに気づいた外れに座っていた貧相な男がばたばたと立ち上がり、セバスの方へと早足に歩いてくる。

 その男は他の客と比べてあまりにも場に合わない。品性や貫禄というものが非常に劣っており、あまりにも周囲の空気と浮いており強烈な違和感を放っている。
 服はこの店の他のものと比べても遜色の無いものだが、服に着られているというのか、道化師が立派な服を纏っているようなものがあった。

「セバスの旦那」
「なんですか、ザックさん」

 ザックと呼ばれた男のわざとらしい卑屈な喋りかたを耳にした他の客が、眉を顰める。揉み手をしてもおかしく無いような下から粘りついてくような口調だ。
 だが、セバスの表情に変化は無い。

「雇われているのに言うのは何ですが、今からの出発は考え直した方が良いんじゃないですか?」
「それは夜道で馬車を操るのが難しいとかですか?」
「まぁ、それもありますし、私も準備を整えたわけではないですから」

 頭をぼりぼりと掻く。綺麗に洗われていはいるが、それでも何かが周囲に飛散しそうな毟り方だ。幾人かが眉を顰めているがそれに気づいているのか、知らないのか。掻く速度は徐々に上がっていく。

「なるほど。ですが、お嬢様の言葉は優先しなくてはなりませんし、明朝にしようという私の提案を気に入っていただけるとは思えません」

 セバスは鋼ごとき意志を垣間見せる、そんな強い微笑を浮かべる。

「ですので、申し訳ないですが、出発ということになります」
「しかし、ですね」

 目をきょろきょろとあちらこちらにやりながら、何とか良い言葉を思いつこうとするが浮かばなく、顔をへし曲げるザック。

「勿論、直ぐというわけではありませんよ。ある程度の準備のための時間は必要ですし、貴方も必要でしょ?」
 
 まだ何事かを言い募ろうとした貧相な男の目の中にこずるい光が浮かんだのを確認しつつも、セバスはそれを軽く無視する。目論見どおりに進んでいるというものを隠すという意味で。

「ではいつ頃出発にしますかい?」
「そうですね。2時間後と言うところでどうでしょうか? それ以上後になると街道が完全に夜闇に隠れてしまいます。それが限界のラインかと考えます」

 再び男の瞳の中にいやらしい計算の色が見える。それをやはりセバスは努めて無視をした。唇を幾度も舌で舐めつけながら、ザックは口を開く。

「へへ、それなら問題ないかもしれませんね」
「それは良かった。では行動を開始してくれますか?」
「へへ、了解しました。直ぐに準備しますので、ちょっとだけお待ちくだせい」



 ザックが出て行く後姿を見送ると、肌身にこびり付いた空気をセバスは払うような仕草を取る。どうもべったりと汚れがこびり付いたような気がするのだ。
 セバスはまるで変わらない微笑みを浮かべたまま、ため息をつきたい気持ちを押しつぶす。
 正直、下劣な存在というのは好きになれない。守護者のデミウルゴスやシャルティアのような人物は、そういうモノにも玩具としての喜悦を見出すことが出来るが、セバスは近くによっても欲しくない。
 セバス自身としてはデミウルゴスのような趣味も眉を顰める対象だ。無論、ナザリックの和を崩さないためにも個人の趣味まで口を出したりはできないが。

 ナザリックに属さぬものは全て劣った生き物。それはナザリックでは基本的な思考の1つである。
 セバス自身としては小首をかしげる考え方だが、ザックのような下劣さを垣間見せる者を相手にすると、どうしてもその考え方は間違っていないのではと思ってしまう。
 勿論、一部のそういった人間を見るだけで人間全体がそうだと判断することの愚かさは重々承知しているが。浅い付き合いでは残念ながらセバスが敬意を表するほどの人間がいないのも事実。

「やれやれ」

 セバスは綺麗に刈り揃えられた口髭を片手で撫で付けるように触ると、次にすべきことへと頭を切り替える。
 計画は順調。
 しかしながら一応、確認は取る必要がある。

「大変ですね」

 そんなことを考え始めたセバスに一人の恰幅の良い男が話しかけてきた。
 年齢的には40台だろうか。髭は綺麗にそり上げられ、黒かった髪は白いものを数多く含みだしている。
 年齢が生み出した余計なものが腹部にたっぷりと付けている。身だしなみは品がよく纏まり、派手さと地位の高さのバランスが取れたような服だ。

「これはバルド様」 

 セバスは軽く頭を下げる。それを男――バルドは鷹揚に押しとどめる。

「ああ、いやいや。そんな畏まらないでください」

 バルド・ロフーレ。
 この街での食料関係をかなりの範囲で握っている商人であり、何かとセバスに声をかけてくる男だ。

 戦争の重要拠点となるこの城塞都市で、食料関係を広く握るというのは、数多くいる商人関係ではかなり力がある人物と置き換えても良い。
 兵士の数が数万人にもなると、予備の糧食を持ったままの移動では莫大な時間と手間が掛かってしまう。そのため、時間を掛けないために最低限の食料だけを持ったままこの都市まで進軍し、ここで食料調達をするのは王国の基本的な戦略である。
 そんな理由もあり、食料関係と武器関係の商人はこの街ではかなりの権力を有する。

 それほどの人物が同じ店で食事をしているからという理由だけで話しかけるわけが無い。それにも関わらずセバスに話しかけてくるというからには、何らかの理由があるのは当然である。

 セバスの判断では、人間的に気に入られたなどという理由で無いのは当然である。それほど長く付き合っているわけでもないのだから。恐らくは金を持っている人物風でありながら、一体どこの人間か不明という好奇心を刺激される部分が大きく占めているのだろう。
 さらには自らの主人役の美しさも1つの要員になっているだろうが。

「セバスさん、アレは良くないよ」
「左様ですか?」

 セバスは先ほどと変わらない微笑を保ちつつ、丁寧に返答を返す。
 アレと彼が指しているものが何かがも理解している。

「アレは信頼できる人物じゃないよ。なんでセバスさんがあんなのを雇い入れたのか、正直理解できないね」

 セバスは脳内で高速に思考を回転させる。この場で最も適した答えを探して。
 アレを何故雇い入れたかに関して正直なところを言えるわけが無い。
 だが、もし知らないで雇ったとでも言おうものなら、人物眼が大したことが無いということで、彼のセバスに対する評価は下がるだろう。
 この都市を出るのは確定しているが、それはできれば避けたい。もしかすると何かに利用できるときがあるかもしれないのだから。

「かもしれません。ですが、彼ほど自らを売り込む人物はいませんでした。多少の人間的な評価は下がるかもしれませんが、それでも彼の真摯な態度にお嬢様が評価されたので」
 
 困ったような苦笑いを浮かべる商人。彼の中で彼女の評価がまた一段階落ちたのだろう。
 まぁ、そのために共にきてもらっているのだから仕方が無いことなのだが、少々セバス的には心苦しくも感じるのは事実だ。

「これは言いすぎだと思うから聞き流して欲しいんだが、主人を諌めたほうがいいんじゃないか?」
「仰るとおりかもしれません。ですが、ご主人様への感謝を考えるとどうしても……」
「忠誠心も大切だとは思うがね……」

 商人は呟き、それ以上の言葉は濁す。

「なんだったら信頼できる人物をうちから出せるけど?」
「それには及びません」

 優しげだが、きっぱりとした拒絶の言葉。その言葉の奥に潜んだ意志を認識したバルドは別の切り口から提案する。

「そうかい? でもちゃんとした警護の人間は付けた方が良いと思うよ。王都までかなりの道のりだ。街道の治安は良いわけでも無いしね」
「ですが」
「ある程度信頼できる傭兵に渡り合っても良いよ?」

 街道警備は街道を通る領内の貴族達が基本的に行うこととなっている。その代わりとして通行税を取り立てることとなっている。これは貴族の権利である。だが、実際は通行料目当ての建前にしか過ぎず、警備はざるという事が非常に多い。
 これによって盗賊や野盗化した傭兵などが街道を旅する人間を襲うということは非常にあるのだ。
 その問題を解決するために『黄金』と称される女性の働きで王直轄の街道警備隊が巡回をしているが、これの数はそれほど多くは無い。当然の利権を侵害されると恐れた貴族達からの口出しで、さほど満足のいくだけの数が用意できなかったのだ。
 都市が大勢を雇うと身を隠す野盗が多いため、少数の冒険者を雇って安全の確保に乗り出すこともあるが、これはまれな場合だ。
 
 そのため街道を旅する商人は冒険者や信頼できる傭兵を雇い、自衛を基本とする。
 そんな商人達の中でも力を持つバルドほどの人物であれば、非常に錬度が高く、信頼のおける傭兵の幾つも承知のことだろう。だが、それを受け入れるわけにはいかない。

「やも知れません。ですが、お嬢様はあまり周囲に人を置くのが好きで無い方。主人の意向には出来る限り従わなければなりません」
「そうかい?」

 バルドは大げさに顔をゆがめ、困ったものだという表情を浮かべる。それは子供のかんしゃくにさじを投げる大人のものだ。

「せっかくのご親切を無駄にしてしまい申し訳ありません」
「そんな心配しないでくれよ。正直に言うとさ、恩を売りたいんだ。まぁ、そこまで行かなくてもちょっとは顔を売っておきたいしね」

 朗らかな笑い声を上げるバルド。それにセバスは微笑みで返す。

「いえ、バルド様のご親切はご主人様に必ずお伝えしたいと思います」
「……」

 バルドの瞳の奥に微かな輝きが灯るが、瞬時にそれを隠してしまう。よほどの人物でなければ気づかないような星が瞬くような変化。それはセバスにしてみれば充分すぎる時間だ。

「――」
「では、申し訳ありませんが、お嬢様がお待ちですので、私はここで」

 バルドが口を開く瞬間を狙い、セバスは先手を取る。
 空かされたバルドはセバスの顔を僅かに観察するように伺ってから、ため息混じりに口を開く。

「――ふぅ。それじゃしょうがないね。セバスさん、また今度この街に来たら会いに来てよ。歓迎するからさ」  
「はい。ではそのときはよろしくお願いします」



 数度繰り返しノックをし、それから失礼しますと頭を下げてからセバスは室内に入る。

「セバス様」
 
 扉を閉め、中に入ったセバスを出迎えたのは、深々と頭を下げた女性だ。もしこの場に食堂にいた第三者がいたら瞠目しただろう。頭を下げ、出迎えた人物は先ほど騒ぎ立てた女性だ。
 先ほどまでヒステリックに騒ぎ立てていたのが嘘のような冷静な表情。そして自らよりも上の立場の者を迎え入れるに相応しい態度である。ただ、1つ奇妙なのは片目――左目を閉じていることか。食堂にいた、先ほどまでは閉じてなかったのにもかかわらず。

「ふむ。頭を下げる必要はありませんよ、あなたは仕事を果たしたそれだけですから」

 セバスは豪華な作りの広々とした部屋の中を見渡す。
 この宿屋の最高級室は部屋は3つに分かれており、この部屋は護衛等が泊まるための幾分か質素な作りとなっている。無論、質素といっても大貴族等が泊まるような部屋だ。一般人が見たことも無いような非常に豪華な造りと成っている。
 そんな部屋の片隅に少なくない荷物は既に集められ、もはや出発するばかりという状態まで持っていかれている。セバスがやったのでないから、そろえたのは先に来た一人しかいない。

「私がやりましたのに」
「何をおっしゃいます。これ以上セバス様を働かせるなんて」

 頭を上げた女性――ソリュシャン・イプシロンは頭を横に振る。

「そうですか? 私は貴方の執事ということになっているのですがね」

 セバスの顔が大きく歪む。
 セバスはその老人の皺だらけの顔に、悪戯っ子のような幼いものを浮かべたのだ。それは今までの微笑が、微笑みの形を取った鉄面皮だったというのが理解できるような変化の仕方だった。
 そのセバスの心からの微笑を受け、ソリュシャンも釣られ初めて困ったような笑い顔へと表情を崩す。

「確かに。セバス様は私の執事です。ですが、私はセバス様の部下ですから」
「それもそうですね。では、貴方の仕事は終わりです。ここからは私が仕事を行いますので、貴方はここでゆっくり休んでいてください」
「はい。ありがとうございます」
「では、シャルティア様にも伝えてきます」

 セバスは集められた荷物の最も大きい1つを軽々と持ち上げる。

「ところで、彼は上手く動いていますか?」
「はい。本当に上手く動いています」

 ソリュシャンは閉じた片目を瞼の上から押さえる。

「今、どのような状況ですか?」
「はい――薄汚い格好をした男と会っているところです」
「それは素晴らしい」
「何を話しているか、お聞かせしますか?」
「いえ、それは必要ありません。私は荷物を運んでます。貴方が代わりに聞いておいてください。ああ、要点を後でまとめて教えてくれれば結構です」
「了解しました」
「そうそう。ナーベラルと連絡を取りますか?」きょとんとしたソリュシャンに諭すようにセバスは続ける。「隠密行動中ですから直接は連絡を取り合うことは難しいですが、貴方のその偵察系の魔法を使えば問題なく情報のやり取りが出来ると思います」
「ナーちゃんと――失礼しました」

 微かに頬を赤らめながらソリュシャンは口を手で覆い隠した。

「気にしなくて結構です。いつもどおりの呼び方で構いませんよ」
「はい。ええ、ただ、ナーちゃんはアインズ様の指令を受けて張り切ってました。ですのであまり気を散らすようなことはしたくは……」
「そうですか」
「至高の41人の内、ナーちゃんを作られた弐式炎雷様がお隠れになられてから結構な時間がたちましたから。その分の忠誠心もアインズ様に捧げているんだと思います。そのアインズ様より直接受けた命令ですから……」

 セバスは頷く。あれは確かに凄かったと。
 だが、ナーベラルのその姿はナザリックの存在として非常に正しいものでもあり、セバス自身も命じられたときは表情には出さなかったが同じだけの歓喜と重圧感を感じていたものだ。

「ソリュシャンはどうですか? ナーベラルほどはプレッシャーを感じてはいないようですが」
「私はセバス様のサポートですのでまだ気が楽です。勿論、アインズ様の指令、必ずこなしてみせますが」

 はっきりとした強い意志で言い切るソリュシャン。

「至高の41人……お隠れになられてる方々ですか」
 
 ナザリックのいわば神とも呼べる存在であり、ナザリックのすべてを支配していた存在。
 至高の41人。
 現在はたった1人しかいないがゆえに、最後に残った方――アインズにささげられる忠誠心は41人分を足したものと同等であり、もはや信仰や崇拝という領域である。

「セバス様――いつの日かお戻りになられる方々です」
「そうですね。間違えました」

 突如、ソリュシャンの顔が僅かに歪む。

「――ところでセバス様、話は変わりますが」

 大気すらも凍るような冷たい殺意が滲み出る。そんな硬質な声がソリュシャンの口から漏れる。

「なんですか、ソリュシャン」 
「……あの男はコトが終わったら私の方で処分しても構わないでしょうか?」

 セバスは口ひげに空いた手を当て、触りながら少しばかり考える。

「――そうですね。シャルティア様が構わないということであれば、貴方が好きなようにしても構わないでしょう」僅かに眉を寄せてがっかりといわんばかりの表情を作るソリュシャンを慰めるように、セバスは言葉を続けた。「大丈夫ですよ。1人ぐらいいただけると思います」
「そうですか、了解いたしました。シャルティア様によろしくお伝えください」

 ソリュシャンは満面の笑顔を浮かべる。先ほどの気配のまるで無い、誰もが見惚れるような透き通るような笑顔だ。

「了解しました。ところで何を言っていたのですか?」
「私を楽しむのが待ち遠しいそうです。ですのでせっかくですから私も楽しもうかと」

 ソリュシャンが微笑をより一層を強めた。
 それはこれから起こることを非常に楽しみにする、幼子のような無邪気なものがそこにはあった。






――――――――
※ 不思議ですね。2週間も空くので優しい方々に教えてもらった文字ミスとかを修正しようと思ってたのに、全然やってません。教えてくれた方々、本当に申し訳ないです。必ず、必ず直しますから、もう少しだけ……。
 次回、アインズちょっろと登場の、25話「指令」でお会いしましょう。



[18721] 25_指令
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:5d2583fc
Date: 2010/08/30 21:05



 階段を下りていく。
 抱え込んだ荷物をこの街で仕入れた馬車に積み込ま無くてはならない。
 セバスは両手で抱えた大きな荷物を見下ろす。
 重量的に2、30キロはあるだろうか。もっともその程度、セバスからすれば小指でも軽く持てる重さでしかないが。しかしながらどこに眼があるかもしれない。偵察系の魔法ばかりはセバスの鋭敏な感覚をもってしてもごまかされる可能性は高い。
 そのために普通の人間と同じように重い荷物を持っている振りをして、宿屋内を黙々と歩く。そう黙々と――。



 ■


 セバスはナザリック大地下墳墓第9階層を黙々と歩く。その後ろには彼直属の2人のメイド――ナーベラル・ガンマとソリュシャン・イプシロンが付き従う。
 広く綺麗に清掃された通路を時折、第9階層を守るために降ろされたコキュートスの精鋭部下の姿が見える。
 ノコギリクワガタにも似た姿を持つ親衛隊――守護騎士<ガーディアンナイト>である。脈打つようなオーラを漂わせた真紅の邪槍を左右の付属肢で1本づつ掴み、真紅のサーコートを纏っている。そしてその身は鎧の代わりともいえる桁外れな硬度を持つ強固な外骨格に覆われていた。
 そんな屈強な兵士達は、綺麗に整列しながらこの階層を油断無く巡回していた。

 その姿を横目に見ながらセバスは幾度と無く通路を折れ、到着したのは自らの主人の自室である。
 
 扉の左右には、擬人化されたヘラクレスオオカブトを髣髴とさせる、2メートル近いがっしりとした巨体が直立していた。その身に白銀のサーコートをゆったりと纏った、王騎士<ロードナイト>だ。レベル的には70強だがその防衛力は比類なく、魔法に対する耐性、武器ダメージの減少等が合わさり、レベル100のプレイヤーですら邪魔ともうざいとも言わさせるそんな存在である。
 白銀色の高貴な魔法のオーラを漂わせる異様に巨大なグレイブを右側の2本の付属肢で掴み、腰には見事な装飾を施された長剣にもサイズ的に見える大剣を下げていた。
 そんなシモベが巌のごとき直立不動を維持したまま、無言を貫いていた。

 顔は前を向いたままだが、ビートル種は複眼を持ってるため視野は非常に広い。セバスたちの一挙一動も十分に視界の中に入れているだろう。
 実際、セバスは自分を伺う視線を感じ取っている。それは警戒感を強く含んだものであり、その警戒の対象がセバスということを考えると不快な行為ともいえる。
 このナザリック大地下墳墓のランド・スチュワードであるセバスの地位はそれだけ高い。守護者が戦闘面でのナザリック大地下墳墓の最高幹部なら、セバスは生活面での最高幹部だ。コキュートスの高位のシモベといえども、そのような態度をとっても良い存在ではない。

 だが、セバス自身はその自らに向けられる警戒を当然のものと黙認する。
 たとえ相手がセバスであろうと何か変わった行為を取れば即座に反応し、なんらかの攻撃手段を取る。それは主人の扉を前を守るものとして正しい行為と認めているからだ。
 
 セバスは深い微笑を浮かべながら、その2体の間に立つ。
 そして胸を張り姿勢を正すと、細かな細工の施された扉を軽く3度ノックをする。
 数十秒ほどの時間が経過してから、扉がゆっくりと開く。そこから姿を見せたのは1人のメイドだ。セバス直属ではなく、メイド長直轄の戦闘能力の皆無な一般メイド――ホムンクルスの1体である。

「アインズ様にお目通りがしたいのですが、よろしいですかな?」
「了解いたしました。少々お待ちください」

 メイドはゆっくりと、音がしないような速さで扉が丁寧に閉める。そして扉越しに伝わる離れていく気配。
 
 この部屋の主人に今来た人物が誰なのかを知らせに行ったのだろう。勿論、足取りはゆっくりとしたもの。この部屋の主人以上に高い地位を持つものはこのナザリック大地下墳墓にはいないのだから、当然の速度である。どれだけ待たせてもかまわないのだから。

 背筋をピンと伸ばした姿勢で待つこと数十秒。再び扉が開かれ、先ほどと同じメイドが顔を見せる。

「お会いになられるそうです。どうぞ」

 セバスたちが入りやすいよう、数歩、扉の前から下がるメイド。

「失礼いたします」

 セバス達3人は部屋に入る前、頭を深く下げる。

 室内はセバスからすれば見慣れたものだ。アインズ・ウール・ゴウン――至高の41人の部屋は皆同じ作りとなっている。例え41人の頂点に立つ人物でも、部屋の作りは変わりない。
 
 セバスが一歩踏み出すごとに沈むのではと思ってしまうほど、フカフカの絨毯が部屋一面に敷き詰められている。
 部屋の右側には天蓋つきのキングサイズのベッドが1つ鎮座しており、その横手にクローゼットへのドアが付いている。左に眼をやれば、鉄刀木でできたシンプルかつ重厚な2メートル以上あるエグゼグティブデスクがその存在感をアピールしている。
 壁一面を占拠し、天井まで伸びた本棚には無数の本が納められている。
 中央に置かれた丸型のテーブルには、本棚から持ち出されたであろう何冊もの本が積み重なって塔を築いていた。

 調度品のあまり置かれていない簡素な部屋とも、吟味しつくされた一級品を並べた部屋ともどちらとも取れるような空間の作り方だ。
 ただ、置かれている調度品はどれも比較のならない値が付くだけのものである。というのもある防護の魔法がかかっているために、この美術品は経年劣化しないためだ。
 無論、美術品は時間の経過や使い込むことで、その価値を高めるという考えもあるが。

 部屋を視線のみでぐるりと見渡しても、アインズの姿はセバスの位置からは見えない。
 とはいえ、アインズの気配は感じられているし、部屋の中央――丸型テーブルの左右に2人のメイドが待機している。入り口横手には先ほどの応対したメイドが綺麗な姿勢で立っている。
 つまりこの部屋にいるメイドは全部で3人ということだ。
 立ち位置から判断してもその2人のメイドの間のイスに座っていること確実だろう。ただ、本の塔で見えないだけで。

 しかしながら、セバスは僅かに困惑する。それは――

 ――メイドの数が少ないのではないだろうか。
 
 セバスは心中でそんなことを考える。
 上に立つものはそれに相応しいだけの格好を整える必要がある。この巨大なナザリック大地下墳墓の支配者の部屋に控えるメイドの数が3人というのは相応しいとは決して思えない。
 メイド長と相談する必要がある。そう、心のメモ帳にすばやく執事の鑑たる、セバスは書き込んだ。

「――良く来たな」
 
 本の塔が動き、その隙間からアインズの顔が見える。セバスたちはそこで再びアインズに確認してもらえるように深いお辞儀をすると、絨毯を踏みしめながら主人の元まで歩――こうとしてセバスは天井に視線をやった。
 天井に複数の気配――。
 視線をやっても、そこに何らかの対象を確認することはできない。が、何者かの存在するざわついたようなものを感じ取る。
 ならばそれは《インヴィジビリティ/透明化》に類する何らかの特殊能力か、魔法によるものだろう。
 セバスは不可視化看破能力は保有してないが、気配察知の能力は優れている。その能力が天井に7体の何者かの存在を確認している。敵意は無い。だが、先ほどのロードナイトと同様に、されど巧妙にこちらを伺っている。
 部屋に入ってすぐに感じ取れなかったことからするとかなりレベルの高い存在だろう。

「気にするな、セバス」

 鋭く天井を見やるセバスにアインズはめんどくさそうに声をかけた。

「天井にいるのはコキュートス配下の警備兵代わりのアサシンどもだ。エイトエッジアサシンだったか? ちょっとうざったいが気にする必要は無い。……しかし、15体しかいないシモベの半数近くをこの部屋に置かなくてもいいだろうに。なんとなく落ち着かん」

 不可視化看破能力を保有するアインズからしてみれば天井に張り付いた、視界の隅にちらほら見え隠れする存在はうっとおしい存在なのだろう。それが不満となって言葉尻に出てきている。とはいっても、自らの警備のために配置しているシモベを邪魔だと無碍にもできないのだろう。
 ご苦労お察しします。
 心中でそう呟くと、天井から意識を外すとセバスはアインズの座る丸テーブルの向かいに到着する。

「お待たせしました、アインズ様」
「いや、待ってないとも。とりあえず座るが良い」
 
 アインズは軽く手を動かし、3人に着席を許可する。深く考えての行動ではないのだろうし、親切心から来た行動なのだろうが、セバスたちは深い困惑に襲われてしまう。ナーベラル達戦闘メイド達からは驚愕とも悲鳴とも取れそうな喘ぎがもれる。

 確かにこの丸テーブルには幾つかのイスが置かれている。だが、丸テーブルでは上座が存在しない。ならば自らの主人たるアインズを同じ場所に座れというのか。そのようなことができるはずが無い。だが、主人の命令は絶対だ。
 セバスですら自らの思考がぐるぐると同じ場所を駆け回るのを感じてしまう。

 3人の異質な行動に初めて自らの言葉の意味を理解したのか、アインズは顔を僅かに引きつらせる。

「いや、ここではあれだな」

 何の意味も無い、自らの失態を誤魔化した言葉を呟くとアインズは立ち上がる。その後ろをこの部屋に元からいたメイドが続いて歩く。向かった先にあるのは重厚なエクゼクティブデスクだ。革張りのゆったりとしたイスがアインズの重みでかすかに軋む音を立てた。

「さて、来い」
「はい」

 セバスを先頭にナーベラル、ソリュシャンが続き、デスクの前に三角形を作るように並ぶ。

「先ほど玉座の間で命じたことの細部を詰めようと思う――」



 アインズはそのまま3人の顔を見渡し、意見が無いことを確認すると言葉を続ける。

「まずナーベラル。お前は街に行って冒険者として潜り込め。何故幻術を使えるおまえを選んだかと言うと、正直目立つのを避けるためだ。ある程度の情報が手に入るまでは隠密裏に行動して欲しい。まずは私が冒険者に関する情報を入手してもらいたい理由を述べる」
「はい!」
「現在王国の戦士長の個人的な戦闘能力はたいしたことが無いと分かった。だが、国に所属していない強い戦闘力の持ち主がいる可能性がある。そしてその可能性が最も高いのが冒険者だ」

 冒険者ギルドという存在がどれほどの組織を形成しているかは不明だが、冒険者として中に潜り込ませることによってかなりの情報は入手できるだろう。最低でも冒険者の戦闘能力の大半は。
 
「次に目立つのを避けるように命令する理由を述べる」

 アインズはナーベラルの顔を伺うように言葉を続けた。

「現在は冒険者ギルドという存在があまりに不明だからだ。戦力、規模。そんな状況で何か厄介ごとを冒険者ギルドと起こした際に、お前をスパイとして送り込んでいたという弱みがあった場合、交渉した際ある程度向こうに譲歩しなくてはならなくなるからだ。それに冒険者ギルドがどれだけ王国と密接な関係にあるのか分からん」
「そして簡単なことだが、アインズという未知の魔法使いが現れた近くで、奇妙に目立つ凄腕の冒険者が現れたなら関連付ける者がいてもおかしくはあるまい? そうすると色々と無い腹を探られる可能性があるということだ」
「何度も言うようだが、相手方の戦力が不明な現段階で、言い訳が無い状態で王国と事を構えたくはない。了解したな?」
「はい! 伺いました。このナーベラル・ガンマ、この身にかえましてもその使命を果たしてみせましゅ!」
「……あー、それほど気負いすぎるな」

 顔を紅潮させたナーベラルのミスを故意的に無視し、アインズは鷹揚に手を振る。それからセバスに顎をしゃくる。主人の合図の意味を直感したセバスは、ナーベラルを安心させるように軽く頭を動かした。

「そうです、ナーベラル。それほど気負いすぎても良い結果は生まれません。不可能なことは言われて無いのです、冷静に行えば問題ないでしょう」
「はい!」

 セバスにまで言われ、自らのあまりの大役に完全に緊張し、肩を張り詰めたナーベラル。その姿はアインズに、逆効果だったかと微かな不安を抱かせるのに十分だった。

「少し肩の力を抜くが良い。大丈夫だ、ナーベラル。お前なら出来る」

 ゆっくりとアインズは立ち上がり、机を回るとナーベラルの前に立つ。そしてその肩に骨の手を優しく置いた。

「私はお前を信頼している。お前を生み出した弐式炎雷はよき友人だった。ハーフ・ゴーレムである彼は強かった。巨剣の一撃によるダメージ量は我々最強だったほどだ――」

 アインズの視線が空にさ迷い出し、かつて失われたものを憧憬をもって見る。誰の目にも映らないそれを、アインズはしばらく眺め、それからナーベラルを正面から強く見つめた。

「――その彼が生み出したお前を信頼せずに誰を信頼すればよい。まぁ、魔法を行使することは出来る限り避け、目立たないように行動すれば良いだけだ。お前なら出来るさ」

 安心させるように微かな笑い声を上げ、数度軽く頷くアインズ。自らに与えられる主人の信頼の強さにナーベラルは微かに瞳を濡らした。

「必ずや。アインズ様のご満足いただけるような働き振りをごらんにいれます!」
「頼んだぞ、ナーベラル。そして最後だが、冒険者という存在の戦闘能力は未知数だ。場合によっては幻術を見破ってくる可能性もある。その場合、正体を明かして舐められないためにとか言い訳をすればある程度は理解はしてもらえるだろう。そのときは多少は力を見せ付けることが必要になるかもしれないがな。まぁ、その辺りは臨機応変に行え」
「……もし本当の姿を見破られたらどうしましょうか?」
「ん? ああ、確かドッペルゲンガーだったな」
「はい」
「……そこまで見破られたら厄介だな。その場合は撤退を許可する。厄介ごとになるよりは逃げる方を優先せよ。ただ、もし上手く処理できるなら処分しても良い。その辺りはおまえの判断に任せる」
「了解しました!」
「よし。では、セバス。ソリュシャンもつれてきてもらった理由を交えながら話そう」

 アインズはナーベラルの前からはなれ、イスに戻ると背中を深く持たれかける。

「個人の戦闘力に関してはナーベラルに調べてもらう。セバスに任せたいのは、先ほども言ったように国家が保有するであろう兵器。これについての情報の収集だ。人間というものは生き物としてのスペックは高くないが、それを補うだけの技術を得る生き物だ。様々な魔物が存在するであろうこの世界において、国家を保っているというからにはやはりなんらかの技術による兵器を持っていると私は確信している。その兵器が我々の手に収まるものなのかどうなのかを知りたいのだ」

 人間の肉体は脆弱だが、自然界にいるどんな生き物よりも恐ろしい兵器を作り出すのは、人間であれば誰もが承知の通りだ。ならば魔法技術をメインとした核兵器に匹敵する兵器、それも地中貫通爆弾型核兵器みたいなものがあるという可能性も当然捨てることはできない。
 既存の科学技術が主となっているなら、ある程度の戦力というのは予測が付く。だが、魔法による技術であった場合、それはアインズの想像もつかないような戦力となりかねない。警戒しないほうが馬鹿のすることだ。
 ただ、その反面アインズはさほど心配することも無いのではという考えも捨てきれない。それは村の文化レベルや村に来た戦士長の格好を考えてだ。とはゆえ、敗北を許されないギルドの名を名乗ったからには石橋を叩いて渡るだけの慎重性は持ち合わせる必要は当然ある。

「科学技術レベルと魔法技術レベルが一体どの程度なのか。何ができて何ができないのか、特に情報収集系の技術は最優先で調べろ。場合によっては対策を考える必要が出てくるからな」
「なるほど、了解しました。……ところで彼女は何故呼ばれたのですか?」

 アインズは頷き、ソリュシャンを上から下まで無遠慮に観察する。そして自らの考えは間違っていなかったとでも言うように頭を数度軽く縦に振った。

「ソリュシャンを富豪の商人の娘、セバスのその部下の執事としようと思ってな」

 訝しげな表情を僅かに浮かべたソリュシャンにアインズは苦笑いを向ける。

「セバスを一人で送った場合のいいアイデアが浮かばなかったのだ。品があるから冒険者としては違和感があるし、村人も当然駄目だろう。ならばやはり執事がもっとも相応しい」

 それで、だ。アインズはそういいながら、セバスとソリュシャンの顔を観察するように言葉を続けた。

「ソリュシャンを富豪の商人の娘として王都に潜り込め。商人の娘に扮させるのは、単純にある程度の金を派手に使っても怪しまれないように、だ。本来であれば貴族とかが一番良いのだろうが、正直貴族に上手く化けられるとは思えん。そしてアンダーカバーを利用しての金を使っての情報収集はおまえ達の仕事だ。そのためある程度目立つことを許可する。できれば金持ち娘という評判がダミーになるように上手く行動してくれることを祈ってるぞ」
「王都へは直接出向いてそこから行動した方がよろしいですかな?」
「いや、王都に行く前に1つ仕事をこなしてもらうつもりだ」

 微かに視線をそらし、それから机に腕を組み乗せる

「馬鹿な商人の娘を演じろ。そしてそれに食いついてきた獲物を手に入れたい」
「といいますのは?」
「……浚っても問題ない対象を手に入れたいのだ。しかもある程度の世界の知識や軍事知識を持った。そんなわけで狙う獲物は盗賊等だな。城塞都市の周辺ならいるだろうよ、結構な」

 帝国は戦争時、専業戦士である自国の騎士のみで戦う。それに対して王国は帝国との戦いの際に傭兵を多く雇い入れる。そんな雇い入れた傭兵がお払い箱になった場合、野盗等に仕事を鞍替えする可能性は非常に高い。
 実際、城塞都市であるエ・ランテル周辺の治安は良いとは決していえない。
 街道を旅する商人の大半が何らかの自衛の手段を取るほどだ。

 ちなみに村が襲われないのは周辺の食糧事情はかなり良いために、野盗達の目的が金銭狙いがメインであるために目こぼしをしているというだけにしか過ぎない。食料を奪ってもかさばる割には大した金額にならないためだ。それに周辺の村は城塞都市への食料を供給するための重要な施設だ。下手にちょっかいを出すと大規模な討伐部隊が食料関係の商人を中心によって組まれるだろう。
 それどころか場合によっては村に雇われたりする傭兵兼野盗もいるため、村は襲わないという傭兵同士の殺し合いを避ける、ある程度の暗黙の了解ができているといっても過言ではない。
 無論、かつて王国内でも奴隷制があったときはそうでもなかったのだが。

「野盗ですか」
「ああ。軍事関係の情報はさすがに持ってるだろう。あとは裏社会関係の情報か。まぁ、これはどちらでも良いんだが。なにより野盗連中なら消えたとしても王国の敵意を買う可能性は無いだろうし、どうして消えたのか等の理由を探すものもいないだろう?」
「でしたら情報を入手して外を探した方がよろしいのでは?」
「街中でバカをやってれば食いついてくると思うんだがな」
「なるほど……」

 セバスは納得したのか、眉を寄せながら考え込む。
 野盗といえども適当に相手を襲うなんていうことはしないはずだ。
 とすると野盗が獲物を狙うために、街道を観察する。もしくは街中に何らかの情報網を形成している可能性は高い。
 アインズの言いたいことは馬鹿な餌を演じ、その情報網に食いつかせろということだ。
 とするなら一体どうすれば良いのか。

「ま、その辺は臨機応変に頼む。さてあとで治癒系のポーションを渡すとしよう。それに病気や毒に対する準備や束縛系や精神操作系の対策等も考えなくてはならないからな。その辺のこまごましたことに移るか――」



 ■



 記憶を掘り出すと止まらないときも多々ある。気づいてみるともはや宿屋の出口に差し掛かったところだった。
 セバスは苦笑すると、荷物を抱えたまま器用に扉を押し開ける。
 外の先ほどまでの赤焼けた空には、徐々に闇の帳が降りつつあるところだった。
 もう少しもすれば暗くなるだろうが、最高級の宿屋の敷地であるこの場所には、充分な魔法の光源が飾られ白色の光を周囲に放っている。そのため夜の闇ははるかに遠い。

 セバスは宿屋の敷地内の向かいにある馬小屋に歩く。
 その脇に幾つも馬車が止められており、その1つ。
 馬車――コーチとも呼ばれる種類の精密な細工が施された馬車に近づき、そこで足を止める。

 向かう馬車の中から衣擦れの微かな音がしていた。セバスの鋭敏な聴覚には、粘液質の液体がかき回される音、女性の熱の篭った荒い息、押し殺そうとして押し殺せていない嬌声。そういったものが厚い木や鉄板越しに飛び込んできたのだ。

 セバスはため息を飲み込む。
 ワザとらしく足音を大きく立てながら馬車によると、数度軽くだが、はっきりとした感情を込めたノックを繰り返す。そして声をかける。

「シャルティア様。そういうことはご自分のお部屋でやってはいただけませんかな?」

 中から舌打ちが1つ聞こえ、服をかき合わせる音が複数聞こえた。

 長いというべきか、女性にしては早いと称すべきか。多少の時間が経過してから、ゆっくりとドアが開き、美しい女が姿を見せる。
 白蝋の血の気の完全に引ききった肌、情欲に濡れた瞳は真紅の輝きを放つ。濡れたような――実際に濡れた赤い唇からは鋭い犬歯が僅かに姿を見せていた。白いドレスの大きく開いた胸元から、大きく盛り上がった胸がこぼれ落ちそうなほどだ。
 それらはシャルティアのシモベのヴァンパイアだ。それが2人。生臭いような独特の臭気と共に外に出てくると、さらにその後ろから見慣れた1人の真祖<トゥルーヴァンパイア>が姿を見せた。

 魔法の微かな明かりを反射し、銀糸で作ったような髪は白銀の輝きを放つ。
 ドレスは漆黒のボールガウン。そして同じ色のボレロカーディガン、フィンガーレスグローブによって肌はほとんど姿を見せてはいない。
 年齢は14ぐらいか。成熟してない未完成の美と成熟しつつある完成した美のちょうど中間にある、そんな絶妙なバランスによって生まれた美の結晶であった。胸元や指を飾る宝石は、彼女の前にあってはその輝きすらも、彼女から生じる美によってかき消されんばかりだった。

「遅かったわぇ」

 切れ長の眼が横目に見下ろすようにセバスに送られる。
 わざとらしく唇が微かに開き、その中からちろりと姿を見せた赤い舌が、自らの唇の上を蛭のように蠢く。
 外見年齢からは想像もできないほどの妖艶さを漂わせた人物こそナザリック大地下墳墓の守護者の1人――シャルティア・ブラッドフォールンだった。






――――――――
※ これだけ言っておきながら、ナーベラルあんなことしてます。
 適材適所が上手くいって無い感じです。ただ、一般人が転移したらこんなものが関の山とか思うんですよね。アインズの最強はパワー面だけです。まぁ、パワーで押せば全て解決するんですが……。
 それとこういう戦略的な説明って神の視点だと脳内ですべて終わってるから、それが上手く読む方に理解してもらえるよう文章で表現できた自信がないですね。困ったものです。
 次は26話「馬車」でお会いしましょう。




[18721] 26_馬車
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2010/09/09 19:37






 ろくでもない人生だ。
 小走りに道を急ぎながらザックは思う。ろくでもない人生だ、と。


 王国での村の――農民の生活というものは幸せから縁遠いものだ。
 土を耕し、必死に働いた成果は何もしていない領主に持っていかれる。100の内60を持っていかれるのならまだ我慢をしよう。40残れば、まだ何とか貧しくとも生きていける分の食料は在るのだから。
 だが、50の内30を持っていかれた時、問題は起こる。40でどうにか生きられたのだ、それが20になってしまえばギリギリの生活が、さらに半分になるということだ。

 結果は言葉にできない。

 実際ザックの妹はザックが畑仕事から帰ってきたとき、いつの間にかいなくなっていた。
 まだ大きくなっていなかったザックは、何が起こったのかわからなかった。可愛がって妹が突如行方不明になったというのに、親が一切捜さないのが理解できなかった。だが、今ははっきりと理解している。今ではラナー王女の頑張りがあって廃れてきたが、その当時は王国で奴隷が一般的だった時代だったのだから。

 そのためザックは娼婦を買うとき、すれ違うとき、思わず顔を直視してしまう。無論、見つかるとは思わないし、見つけたとしてもなんと言えばよいのか分からない。それでも思わず探してしまうのだ。


 そんな糞垂れな生活に追加されるのが徴兵だ。

 王国では定期的に起こる帝国の出兵にあわせ、村の壮健な若者を徴集し、戦場へと駆り立てる。壮健な若者を一ヶ月でも失えば、それは村での生活にとっては大きな影響を生み出す。だが、それは時には一時しのぎの幸運ともなる。
 人が減るということは食料の消費量も減るということなのだから。そして兵士として連れて行かれる若者もそこで始めて腹いっぱいに食事をするという経験をする者もいる。
 ただ、命を懸けて戦っても褒美なんかはよほどの働きをしない限りはほぼ出ない。いや、素晴らしい働きをしても出ない場合だってある。本当に運の良い人間ぐらいだ、褒美をもらえるのは。
 そして村に帰れば働き手を失い滞っていた時間の分だけ、次回の生産量が減るという絶望的な事実に直視する。
 
 ザックもそんな一般的な結果を2度ほど遂げた。

 そして3度目。
 戦争が毎回のように小競り合いで終わり、幸運にも命が助かって、村に帰るかといったところでザックは足を止めた。手に持った武器を見下ろすその頭に天啓が降りたのだ。
 村に帰っての生活よりももっと別の生活をした方が良いのでは、と。
 しかしながら単なる村人、行軍の際の僅かな訓練しか受けていないザックにはさほど道は無い。鎧だって武器だって王国から一時的に貸与させられたものだ。特別な力だって勿論無い。知識だって大地を耕す程度――何時の頃に何の種をま撒いたらよいか程度だ。

 ザックの取った行動は唯一の切り札である武器を持ったまま逃走だ。
 無論、そう簡単に逃げれるものではないが、逃げるのに協力してくれる存在に出会えたのが幸運といえば幸運だろう。
 
 傭兵団。
 
 勿論、単なる村人であるザックにそれほどの価値は無い。ただ、その傭兵団は戦争でかなりの人数を失ったために、手っ取り早く人数をある程度回復したいという考えがあっただけだ。
 戦時中は傭兵を、それ以外は野盗。その傭兵達はそういう集団だった。
 それからのザックの生活は語るほどのものではない。
 
 無いよりはあったほうが良い。
 奪われる側よりは奪う側。
 自分が泣くよりは他人が泣いた方が良い。
 
 そういう生活だ。
 間違えたとは思っていない。後悔なんかしてはいない。

 無論、それは今まで襲う相手の間違えたことが無いからなのだが――。


 貧民街の近く。薄汚れた小屋が立ち並ぶ一角にザックは駆け込む。
 夕焼けが周囲を覆いつつあったが、徐々に赤色は消え、闇が世界を染め上げようとしていた。
 日が沈む前の貧民外といえば、危険に遭遇する確立が急上昇している時間帯かつ場所だが、慣れた人間であれば問題なく駆けてこれる。大体、何かありそうなら懐に隠した刃物をちらつかせればいい。
 ちらりと周囲を視線を走らせ、尾行が無いことを確かめる。
 一応、ここまで来るまでに何度か確かめてはいるが、それでも最後にもう一度確認は取る。
 ドアの前で息を整えながら、数度ノック。それから数秒置いて再び数度ノック。何時もの正しいやり方だ。

 ミシミシという木がきしむ音が中から聞こえ、ドアに開けられた覗き窓を覆う板が動いた。空いた穴から男の両目が覗いた。眼がぎょろっと動き、前に立つザックを確認する。
 
「おまえか、おう、ちょっと待て」
「へい」

 板が再び覗き窓を覆い、それから鍵を外す重い音がした。それからドアが微かに開けられる。

「はいんな」

 中から微かに漂う、すえたような臭い。先ほどまでザックがいた場所とはまるで違う環境だ。直ぐに鼻が慣れることを期待して、ザックは家にするりと入り込む。
 小屋の中は薄暗く、狭い。
 入ってすぐの食堂兼台所には1つだけテーブルが置かれていた。そのテーブルの上には蝋燭が一本立てられ、男がそれに火をつけることで僅かな明かりが室内に満ちる。
 男が振り返る。
 暴力を生業とする人間に特有な気配を放つ薄汚れた男だ。体つきはしっかりと引き締まり、服から出ている腕や顔には薄い刀剣傷が残っていた。
 男はテーブルのイスを1つ動かすと、どすりと座った。

「おう、ザック。どうしたよ、なんかあったのか?」
「状況が変わりまして……あの獲物どもが動くそうです」
「あーん。今からかよ」
「へい」

 こんな時間にかよ……ありえねぇな、と呟きながら男は髪がぼさぼさに伸びた頭をぼりぼりと掻く。

「どうにかなんねぇのか?」
「そいつは難しいですよ、あんな女の意見ですぜ?」

 ザックから何度もどういう女か説明を受けていた男は困ったように顔を歪める。

「馬鹿も考え物だな……。あー。馬車の車輪をどうにかするとかよ」
「無理ですよー。もう荷物とか運んで準備してる頃ですぜ」
「なら街に出る前にこわしゃいいだろ」
「それぐらいならとっととやっちまった方が早くないですか?」
「まぁ、そいつもそうだが……」

 男は考え込むように中空を睨む。
 襲う手はずを整えるのも簡単ではない。いまから急いでつなぎを取ったとして、時間的に問題は無いだろうか。

「うんで、出発は何時ごろになるんだ?」
「あと2時間って言うところですね」
「マジかよ、ぎりぎりじゃねぇか。あー、どうかなー」

 指を折りながらタイムスケジュールを考える男。それを黙ってみながらザックは自らの手を見下ろした。

「むかつくんすよね、ああいう金持ちって……」

 あの綺麗な手。
 畑作業に従事した人間特有の手を思い出す。あんな綺麗な手を持つ者は誰もいない。
 冷たい水でひび割れ、鍬を振るうことで分厚くなり、爪の形だって非常に悪い。そんな手の持ち主しかしかいない。
 この世界が不公平なのは知っている。ただ――。

 ザックは唇を歪め、歯をむき出しにする。
 
「あの女、楽しんでもいいんですよね」
「俺が先だけどな」

 ニタリと男が下卑た笑いを浮かべた。その欲望が男を駆り立てたのか、立ち上がる。

「おし、やっか。団長に連絡とっておくわ」
「わかりやした」
「10人ぐらい何時もの場所に用意しておくからよ。おまえは4時間後ぐらいに到着するように行動しろや。もし来なかったらこっちから出向くから、獲物どもには安心しておねんねしてもらっておけよ」



 ■



 城塞都市を背中に、月明かり下を一台の馬車が走る。
 6人以上が入ってもまだ余裕があるほどの大きな馬車だ。それを軍馬を思わせるかなり発育の良い馬が4頭がかりで引いている。

 天には大きな月が掛かり、その青白い光を地上に投げかけており、意外に感じるほど周囲は明るい。とはいえ、こんな夜中に馬車で外を走るというのは非常に愚かな行為だ。明かりを作り、見張りを立て、野営地を作るのが人が最も正しい夜を越す方法だ。
 なぜなら夜の世界は人の支配する世界ではない。いや、正確に表現するなら光の届かない場所は人の世界ではないというべきか。夜闇の中を動く魔獣や亜人、その他様々なモンスター。そんな闇を見通す眼を持ち、人間に襲い掛かっていく存在は非常に多いからだ。

 そして人の国といっても、各主要都市を街道が結び、その都市の周囲の村や小型の都市を配置その程度の領域でしか無い。その膨大にある隙間にモンスターたちは生活している。確かにモンスターたちによる大きな部族は目に入る範囲からは追い出されている。だが、人の目の届かない、深い森や山脈に部族を築いているのだ。
 そこそこ大きい森の中に1人で入り、20分も適当に歩けば何かと遭遇する可能性は高い。それがリスや狸といった場合もあればオオカミや魔獣、亜人という可能性もある。それほど危険性はあるのだ。

 だからこそ冒険者という存在が充分に仕事としてやっていけるのだが。

 そんな危険な夜の中を、馬車は微かな振動を乗り手に伝える程度で街道を走る。
 振動が少ないのは馬車のスプリングに相当する部分が優れているためでではなく、舗装された石畳の上を走っているためだ。王国内を走る街道は石畳の部分とそうで無い部分があり、王直轄地である城塞都市から然程離れていないこの辺りはしっかりと整備されている。

 石畳の街道整備はラナーの発言で始まったものだが、現在は王直轄の一部の街道とレェブン侯の領地しか舗装は終わっていない。それは移動を容易とする街道の完成は帝国の侵略も容易くする、という意見が貴族から噴出したためである。
 それと街道補強に掛かる費用負担に関する問題でも紛糾したためだ。ラナーの提案した商人達からの金銭の提供は、街道という利権に食い込まれることを危惧した各領地の貴族の反対もあり頓挫した。
 その結果が現在の虫食いだらけの王国の街道舗装状況である。

 がたりと馬車が揺れ、中にいる者たちに振動が伝わる。
 その揺れがちょうど1つの話題の区切りが付いたように話を断ち切った。

 馬車に乗った面々はシャルティア、その左右にシモベ兼愛妾な2人のヴァンパイア。向かいの席にセバス、その横にソリュシャンだ。ザックは当然、御者台で馬車を走らせている。

 しばしの沈黙が馬車内に降り、それからセバスがゆっくりと口を開いた。

「前よりお聞きしたかったことが1つ」
「ん? わたし? 何?」
「アウラ様とはあまり仲がよろしく無いご様子ですが」
「……本気では悪くないと思うけど」

 呟くように答えながら、シャルティアは暇そうに自らの小指の爪を眺める。
 真珠のような白さで2センチほど爪が伸びている。片手には鑢を持ってはいるが、非常に整っており、手入れの必要は感じられない。事実シャルティアも鑢をかける必要性を感じなかったのだろう。持っていた鑢を隣に座っていたヴァンパイアに放り出すように渡す。
 そして空いた両手を左右に座るヴァンパイアの胸に伸ばそうとし、前に座る両者の表情に気づくとばつが悪そうな顔をしてやめる。

「そうとは思えないのですが?」

 話を続けるセバス。それに苦いものを噛んだようにシャルティアは顔を歪める。
 
「ランド・ステュワードってそんな心配もする必要があるの? まぁいいけど」一呼吸ほど間を開け「……わたしの創造者であるペロロンチーノ様が仲が悪いと決められたから、適当にからかってるだけ。まぁ、あの子もぶくぶく茶釜様にわたしと仲が悪いと決められてるかもしりんせんけどぇ」

 つまらないかのように片手をピラピラと振り、初めてシャルティアとセバスの視線がぶつかり合う。

「だいたい、わたしの創造者であるペロロンチーノ様とあの娘の創造者――ぶくぶく茶釜様はご姉弟ですしぇ。ある意味わたし達は姉妹だわ」
「ご姉弟――そうだったのですか!」
「昔、ペロロンチーノ様が他の至高の方々――るし★ふぁー様と弐式炎雷様、おふた方と共にわたしの領域を歩いてありんす際のそんなお話をされていたわ」

 かつての偉大なる人物に付き従って歩いた記憶を掘り出し、憧憬の眼差しを浮かべるシャルティア。

「なんでもぶくぶく茶釜様はせいゆうなるご職業に付かれてありんす方で、売れっ子で尚且つえろげにも声を出してるから、期待の大作を買うと姉の顔が浮かんでへこむとか言っていたわね」

 どういう意味なのかは知らないけどと続けるシャルティア。セバスも不思議そうに首をかしげる。

「せいゆうですか……知りませんな」

 互いに顔を見合わせ、だが、両者共に至高の方々しか知らない何らかの力ある言葉なのだろうという意味合いで決着を付けた。

「8階層には誰がいるの?」

 突然の話題の変化にセバスは目を白黒させるが、瞬時に冷静さを取り戻す。

「……至高の方々に逆らう愚か者達が大挙して攻めてきたとき、最終的な迎撃地は8階層でしょ? ならそこにかなりの戦力がいるはずなのにどなたも知りんせん」
「……」
「もしかしてアインズ様が創造された存在でもいるの?」

 ナザリックにいる存在で、高位者と評価されるか、シモベと見なされるかは至高の41人が創造にかかわったかどうかによるものだ。ホムンクルスの一般メイドも至高の41人によって創造された存在だし、恐怖公、司書長、料理長もそうだ。
 そして勿論、守護者も至高の41人によって創造された存在だ。
 セバスならたっち・みー、デミウルゴスならウルベルト・アレイン・オードル、コキュートスならブルー・プラネスというように。だが、至高の41人の最高位者アインズ――モモンガの創造した存在というものはシャルティアも知らない。
 いないというのは考えにくい。
 ならばシャルティアの知らない第8階層にいると考えるのは当然の推測だ。

「……いえ、それは無いでしょう。チラリと聞いただけですが、アインズ様の創造された存在の名前はパンドラズ・アクター。守護者の皆様や私に匹敵する能力の持ち主で、宝物殿最奥部の墓守だとか」
「そんな奴がいたんでありんすか?」

 初めて聞く名前にシャルティアは眉を顰める。
 だが、リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンがなければ侵入することもできない宝物殿とはいえ、誰も警備のものがいないというのは確かに考えてみると変な話だ。
 
 そして宝物殿最奥部。
 アインズ・ウール・ゴウンの集めた最高峰のマジックアイテムが鎮座する場所であり、守護者ですら侵入を許されない聖域だ。どのようなマジックアイテムが眠っているかまではシャルティアも当然知らないが、最高位マジックアイテムの別称たるアーティファクト。そしてそれすらも越える世界に1つしか無いとされる総数200種類のワールド・アイテム級の幾つかもあると伝え聞く。
 特にかつて大軍で攻め込まれたとき、複数のワールドアイテムを奪い、鎮座させているとも。
 ならばそんな場所を守るには、至高の41人の最高位者であるアインズの創造した存在こそうってつけの人材だろう。
 
 自らがその至高の場所を守れないことに、僅かにシャルティアは心を痛めるがそれは仕方ない事だと慰める。
 侵入者を最初に相手にする地下3階層を守るということもそれに匹敵する大役だと。

「ええ。今アインズ様が何をされているかはご存知でしょう?」
「勿論。現在宝物殿のマジックアイテムの実験と魔法の効果の実験でありんすね?」
「そのマジックアイテムを持ち出す際、アインズ様に同行した私の部下が会ったそうです」
「ふーん」

 興味をなくしたのかあまり気の無い返事をするシャルティアだが、セバスは別に気にする様子は見せない。

「なら結局、8階層は謎のままか……」
「ですな。我々の立ち入りも許可されてないのですから、何かがあるんでしょうな」
「何かって何?」
「我々にも襲い掛かる存在なんてどうですか?」
「うーん。それも悪くないでありんすが ……問答無用で発動するデストラップとかどうでありんしょうかぇ?」
「ナザリック大地下墳墓を抜けきった者たちがそんなことで倒せるとは思いませんが……」
「こっそり覗くと、おっしゃるのは?」
 
 悪戯を思いついた子供――そんな笑顔を見せるシャルティア。それに対しセバスが浮かべたものも何時もの笑顔だ。少しばかり深い程度の。

「アインズ様のご意思に逆らうと?」
「嘘よ、嘘。冗談。そんな怖い顔をしないでくんなまし」
「シャルティア様……好奇心猫をも殺す。もしアインズ様が教えても良いと思われたなら、教えてくださるでしょう。それまで我々は待つべきかと」
「そうよね……。それで獲物は釣り針に引っかかったわけでありんすか?」

 急な話の転換に特別何も言わず、セバスは話に乗る。

「ええ。見事に。あとは釣竿を上げるだけです」
「そう」

 ぺろりとシャルティアは自らの唇を舐める。真紅の瞳に異様な輝きが灯った。

「その件でシャルティア様にお願いしたいことが」
「……何?」

 楽しんでいる最中に横槍を入れられた、そんな不満げな声をあげるシャルティア。それを宥めるようにセバスは話を続ける。

「今、馬車を運転している御者ですが、この娘にあげてはいただけないでしょうか?」
「……下っ端?」
「はい、伝令係ぐらいの地位だと思います」

 それを聞くとシャルティアは眼を閉じ、色々と考え込んでいる姿を見せる。

「ならいいでありんすぇ。吸っても美味しくなさそうだし」
「それはありがとうございます、シャルティア様の寛大なお心に感謝いたします」
「ありがとうございます、シャルティア様」
「ああ、いいでありんすぇ。 気にしないでくんなまし」

 そんな表情もできるのかという、親しみを込めた微笑をソリュシャンに向けるシャルティア。それから視線だけをセバスに向ける。

「先ほどの失言はこれでチャラでお願いしんす」
「了解いたしました。……それに元々シャルティア様がそのような愚劣極まりない行動を本気で取るとは思ってもおりませんでした。最初っから戯れごとと分かっておりましたよ」
「ま、そりゃそうよぇ。わたしもセバスがそんなこと言ったらそう考えるでありんしょうね」シャルティアがニンマリと笑った。「それであとはなも言わずにシモベに見張らせて、反旗ありとみなしたら即座に四肢を切り落としてから、アインズ様の御前に鎖で繋いで連れて行くってところよね」
「そのようなことはしません、シャルティア様」
「しないの? そっちの方が忠誠心疑われるわよ? ――するでしょ、絶対?」

 シャルティアとセバス、互いが心の底から楽しそうに笑いあう。

「まぁ、それにわたしは可愛い子の味方よ。あとソリュシャンに渡したらそれはそれで楽しそうだし――」
「――アインズ様はシャルティア様にどのような指令を?」

 それ以上の話を断ち切るようなそんな勢いでセバスは話題を変える。
 
 今回の出発前、セバスにアインズからメッセージの魔法を使って、シャルティアが同行し野盗狩りに協力すると言う命が下された。恐らくシャルティアが選別されただろうという理由は薄くは理解している。
 だが何故、シャルティアが選ばれ今回の任務に当てられたのか、それの深い部分はセバスも知らない。

「……武技や魔法を使える者がいたら、吸い尽くして奴隷にしてもかまんせんから絶対に捕まえろ。盗賊の中で世界情勢や戦のこととかに詳しい奴がいたらそいつなるときも逃がすな。要約するとそういうところかしら。まぁ、いちいち調べるも手数でありんすからしとつとてのこさず吸っちゃおうかな」

 なるほどと口には出さずセバスは頷く。

「そういう意味ならデミウルゴス様が一番適任ですね。アウラ様の吐息も同じように使い道がありますが」

 セバスは何の気なしに呟く。
 デミウルゴスは支配の呪言という特殊能力を保有している。それはアウラの吐息と同じように精神支配系の能力だ。ならば今回のような相手を捕まえる仕事においては比類なき効果を発揮する。
 
「……あ゛?」

 今までのシャルティアからは信じられないような重低音の言葉がもれる。
 馬車内の空気が一気に重くなった。それと同じく肌に突き刺さるような冷気じみた気配が満ちる。
 外で馬車を引く馬が感知したのか、ガクンと馬車が大きく揺れた。シャルティアの左右に座るヴァンパイアの青ざめた肌がより青く、セバスの横に乗って座っていたソリュシャンが全身を震わす。
 シャルティアの真紅の虹彩から、まるで血が滲むかのように真紅の色の白目を犯しだす。

「セバス――もう一回言ってくれない? それともさぁー、竜人であるあなたがその形態でさぁー」ぎょろっと真紅に染まりつつあった眼球が動く「わたしとやりあう気かよ」
「失言でした。お許しください」
「……」

 セバスの謝罪にシャルティアは沈黙で答える。
 それから数秒の時が流れ、シャルティアは深呼吸を繰り返す。
 そのたびごとに馬車内の空気が温まっていく。最後に一度大きく呼吸をしたシャルティアの表情は何時もと同じ――妖艶な雰囲気を漂わせた淫靡なものだ。瞳の色も元に戻っている。

「……一応、わたし達が吸ってしまえば奴隷でありんすから話は早いんでありんすぇ。べつに生かしたまんまつれて来いっていう話ではないんでありんすから。その辺はアインズ様もおっしゃていんした 」
「確かにそうでした。私の浅薄さ、お許しください」

 吸血鬼は血を吸い尽くすことで、絶対服従する自らの下位種を作り出すことができる。ヴァンパイアでは知能の遙に劣るレッサーヴァンパイアしか生み出せないが、シャルティアならほとんど人間と同じ知力を持つヴァンパイアを作り出せる。
 生死に関わらずということを前提とするなら、生み出せる数に限界はあるが、それでもシャルティアは優れた捕獲者だろう。

 そのとき――がくんと馬車が大きく動き、馬車を引いていた馬のいななきが聞こえた。

「……馬車が止まったようでありんすね」
「そうですな」

 シャルティアは悪戯を企む少女のように笑い、セバスは髭をさすりながら静かな微笑を浮かべた。






――――――――
※ 予定ではザックは今回で……だったのに。なんかプロットどおりいかないなー、後ろに延びてる。
 次回、はしゃぐシャルティアの27話「真祖1」でお会いしましょう。……王蟲の攻撃色は禁句です。



[18721] 27_真祖1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2010/09/18 18:05




 近くの森から出てきた10人の男達が1台の馬車の周りを半円形に包囲する。それぞれバラバラの装備をした男達だ。どれも作りが良いわけではないが、劣悪なものではないという、一応は武器にも注意を払っているんだろうというのが分かる程度の品質だ。
 それらの武器が月明かりの下、ギラリとした輝きを放っていた。
 着ている鎧はチェインシャツ程度の軽装鎧がほとんどだ。

 彼らは口々に獲物にどうするか、とか順番がどうのといった会話をしている。その姿は、完全に油断しきったものだった。実際何度も繰り返している行為だ。今回に限り緊張しているというのほうがおかしい。

 ザックは御者台より飛び降りると小走りで、現れた男達の下に向かう。
 無論、逃げられないように御者台から降りる際に、馬の手綱は既に切られている。そして片側のドアは開かないように小細工は済んでいる。男達側のドアしか開かないように。

 中にいるであろう獲物たちに見えるよう、男達は手に持った武器をチラつかせ、無言の警告を発する。それは早く出てこないと大変なことになるぞ、という旨だろう。

 そんな中、ゆっくりと馬車の扉が開く。
 月光の下、1人の美女が姿を見せた。集まった傭兵いや野盗達から下卑た笑い声と欲望に塗れた眼差しがその美女に集中する。男達の顔には今から起こるイベントに対する嬉々とした感情が満ち満ちていた。
 その中において驚愕した人間が1人。
 ザックだ。
 彼を驚きを一言で表すなら、だれ? である。知らない人物。だが、知っている馬車。その食い違いがザックを完全に混乱の海に投げ込み、言葉を出させなかった。

 そしてその後に再び同じような格好をした女性が姿をみせたことで幾人かが怪訝そうな表情を浮かべる。彼らは皆こう聞かされていたのだ。世界を知らないお嬢様と執事の爺の2人連れだと。
 そして更に1人の少女とも言って良い年齢の女が姿を見せたとき、彼らの疑問は空の彼方へと吹き飛んだ。

 銀の細い糸のような髪が月の光を反射し煌く。真紅の瞳が濡れたような色を放っている。
 感嘆の言葉すらでないような美姫の登場を受けて、賛美者のため息がそこにいた野盗達、皆からもれた。シャルティアは淫靡な笑みを浮かべ、そのまま男達の前まで歩く。

「皆さん、わたしのために集まってくださってありがとうございんす。ところでこなたの中で一番偉い方はどなたでありんしょう。交渉したいのでありんすがぬし?」

 野盗の視線が1人に集まるのを確認し、必要な情報は得たとシャルティアは判断する。つまるところそれ以外の人間は不要ということだ。

「な、なんでぇ。交渉って言うのは」
 
 シャルティア――絶世の美との遭遇からようやく立ち直ったのか、リーダー格と思われる人物が一歩前に出る。

「ああ、おゆるしなんし。交渉といわすのは必要な情報を手に入れるためのお茶目な冗談。まことにおゆるしなんしね」
「あんたらは一体……」
  
 呟いたザックにシャルティアが向き直る。

「あなたがザックといわす人物ぇ。あなたは約束どおりソリュシャンに渡すつもりよ、少うし離れていてもらえんすか?」

 幾人かが理解を求めるように互いの顔を見合わせるが、そのうち――

「へん。ガキにしちゃ良いもん持ってんじゃねぇか」
 
 たまたまシャルティアの前にいた野盗の1人が、シャルティアの年齢の割には大きく盛り上がった胸に手を伸ばす。そして――コロンと落ちた。

「汚い手で触りんせんでくんなまし」

 男は自らの無くなった手を呆けたような表情で眺め、遅れて絶叫を上げた。

「ぁぁああ! て、手が、手がぁあああ!!」
「手がなくなりんしたぐらいでそんな大きな声で喚かないでくんなまし。男何だぇら」

 シャルティアは呟くと無造作に手を振るった。それにあわせ、どさりと頭がいとも簡単に地面に落ちた。
 刃物を持ってすらいない細く綺麗な手でどうやってそれを行ったのか。野盗の誰もが呆気に取られ、精神的衝撃に朦朧とする。だが、次の光景に引き起こされた恐怖が、意識を取り戻させた。
 切り落とされた首から吹き上がる血は、まるで意志を持っているようにシャルティアの頭上に集まり、球体を形作る。
 人ならざる技。知識としてさほど知らない人間は最初にこう考える。

「スペルキャスターだ!」


 魔法使い<スペルキャスター>。
 それは広義の意味で魔法を使う存在。
 神の奇跡を行う聖職者<クレリック>や神官<プリースト>も、異界法則を行う魔術師<ウィザード>や秘術使い<アーケイナー>、大自然の神秘を行使する森祭司<ドルイド>等々全てをひっくるめた言葉だ。
 しかしながら各職によって行使される魔法の種類は当然違う。そして向き不向きも。
 知識ある人間であればより細かな警告が発せられるだろう。それが無かったということは、つまるところ魔法に関する知識は皆無に等しいと判断しても良い。


 それを理解したシャルティアは、周囲で慌てて一斉に剣を構える野盗たちにつまらなそうに視線をくれる。

「おもしろうありんせん。あとはあなたたちが片付けなんし。それと彼とザックだけは……分かっていんすね?」
「はい、シャルティア様」

 左右後方に控えていたヴァンパイアが前に出ると、シャルティアに剣を振り下ろそうとした野盗の1人を殴り飛ばす。中身の詰まった風船が弾けるように内容物と体液を撒き散らしながら、その野盗は大きく中空を舞った。
 それは野盗には恐怖と苦痛を、シャルティアには喜悦を与える戦闘の始まりの鐘だった。



 引きつるような笑いを浮かべ、ザックはその光景を眺めていた。
 あまりにもひどい光景だ。
 残忍な殺し方は血の臭いで気持ちが悪くなるほど。

 人間の手足が紙のように引きちぎられ、両手で掴まれた頭部が柘榴のように弾ける。
 野盗の1人が両手で抱擁され、胴部が圧迫されたのだろう。口から中身を吐き出しながら悶絶している。あれで死ねないのだから人間というのは頑丈なものだ。
 地面に転がっているのは逃げようとして両足を砕かれた奴だ。白いもの――骨が肉と皮膚を突き破って僅かに見えている。今も両手で必死に地面を掻きながら少しでも恐怖から離れようと、少しでも生きようともがいている。
 足元に平伏し命乞いをする男を見下す、絶世の美少女の音程が外れたような笑い声が、妙に耳に障る。

 何でこんなことに……。

 ザックは必死に考える。こんな酷いことがあっていいのだろうか、と。
 良いわけが無い。あんな酷い殺し方を認めるわけにはいかない。ではどうすれば良いか。たまたまザックには攻撃を仕掛けてこないが、逃げ出そうとすれば二度とそんなことができないよう何らかの手段を取るだろう。
 ザックは懐に隠し持っている短剣を、服の上から触る。
 なんてちっぽけなんだろうか。こんなもので人の腕を簡単にもぎ取る存在と戦えるわけが無い。

 自分が何をしたというのか。あんな化け物に何かしようなんて考えてもいなかった。
 
 ザックは自らの身を少しでも隠そうとするかのうように、両腕で自分の体を抱きしめる。リズミカルに鳴る自分の歯が五月蝿い。この音を聞きつけてあの化け物たちがこちらを向いたらどうする。必死に堪えようとするが、意志に反し、歯は鳴り続ける。

 大体なんだ、あいつらは。あんな奴らなんか知らない。
 そう考えたとき――

「ザックさん。こちらに」

 ――突如、この残酷な風景には合わないような涼しげな声がザックの後ろから聞こえた。
 恐怖に怯えながら振り返った先に立っていたのは、自らの雇い主だ。
 普段高慢な声で騒ぎ立てている雇い主とは思えない表情を浮かべている。もし冷静な頭なら警戒が先にたったかもしれない。だが、この異様な世界と血の臭いに混乱していたザックには違和感は何一つとして思わなかった。

「なんなんだよ、あいつらは!」

 ザックは音程が外れたような甲高い声でソリュシャンに怒鳴りつける。

「あんな奴らがいるなら、いるっていえば良かっただろ!!」

 じろりとザックの後姿を睨み付けるシャルティアに、我慢してもらうようソリュシャンは合図を送る。それを受け不承不承と頷くシャルティア。

「黙ってないで、なんとか言えよ。全部おまえのせいだろうがぁ!」

 ザックは手を伸ばしソリュシャンの胸元を掴むと、激しく前後に揺する。

「……了解しました。こちらへどうぞ」
「た、助けてくれるのか!」
「いえ。最後に楽しませてもらおうかと」
「は?」
「セバス様はこういうことはあまりお好きではないですから、許可はもらっていますがせめてこちらで」

 何を言われたのか理解できない。だが、自分だけ別に連れて行かれるという自体にほんの微かな生存の糸が見えたのか、ザックの困惑した顔に希望の色が浮かんだ。それを知ってか知らずか、ソリュシャンの笑顔に変化は無い。

「あまり激しくは辞めてくださいね」

 馬車の陰までザックを招いたソリュシャンはそう呟きながら、ドレスを緩めようと背中に手を伸ばした。その光景を見て呆気に取られたのはザックだ。何をこの女はしてるんだと奇妙な生き物を見るような目でソリュシャンを見続ける。

「な、何してんだ?」
「なんでしょうね」

 ソリュシャンは中に着ていたビスチェもそのまま緩める。
 その瞬間を待っていたかのように、窮屈そうに押し込められていた双丘が転び出た。ツンと尖った円錐の形をおり、白い肌は月光をに照らされ透き通るようだった。
 その光景にザックの喉が我知らずごくりと唾を飲み込む。

「どうぞ」

 ザックに触れとばかりに裸の胸を突き出す。

「何を……」

 考えたのはザックに惚れたという線だ。考えられる中では一番ありそうな答え。

「立ってるとあれですか?」

 ソリュシャンは形の良い胸を晒したまま、大地に横になった。
 美しい。今までザックが見たどんな女の体よりも美しい。
 ザックが抱いてきた中で一番美しかったのは、やはり襲ったたび馬車に乗っていた娘だ。ただ、ザックに順番が回ってきたときはぐったりとし、身動き1つせず蛙のように股を開くだけだったが。それでも美しさは失われては無かった。
 だが、今目の前にいる女はそれ以上に美しく、あのときのように反応が無いわけではない。
 欲望がザックの体に火をつけた。股間を中心に熱くなり、荒い息で覆いかぶさるようにザックも大地に横になる。大地の冷たさが心地よいほど。
 犬のような息を漏らしながら、ソリュシャンの肌に手を滑らす。
 絹でできた布――そんな感触だ。

 我慢しきれなくなったザックは、ソリュシャンの形の良い胸を鷲づかみにした。

 ずぶりと手が沈む。
 柔らかさのあまり手が沈んだような感触がしたのか、ザックが最初に考えたのはそんなことだ。だが、手に視線をやり、自らの考えが甘いことに一泊の呼吸を置いてから理解した。
 手が文字通りの意味で、ソリュシャンの体の中に沈んでいるのだ。
 
「な、なんだよ、これは!」

 理解できない事態に直面し、絶叫を上げ、手を引き戻そうとする。だが、ビクリとも動かない。それどころか、より引き釣りこまれる。ソリュシャンの中に無数の触手があり、それが手に巻きつき、引きずり込むように。

 ソリュシャンの表情に変化は無い。ただ、静かにザックを観察するだけだ。

「おい、やめろ! 離しやがれ!」
 
 ザックは空いた手で握り拳を作ると、全力を込めてソリュシャンの顔に叩き込む。
 一度、二度、三度。上から体重を込めた一撃。骨が砕けても可笑しくない一撃を受けても、ソリュシャンは平然とした顔をしている。それどころか、ザックは殴った感触が異様なことに背筋を震わす。
 水の入った柔らかい皮袋を叩くような感触なのだ。それは決して人間のものではない。興奮して忘れていた後方で起こっている地獄の光景が頭をよぎる。
 ザックは悲鳴をかみ殺す。
 ようやく完全に気づいたのだ。目の前で肌を晒している女が化け物だということが。

「ご理解いただけました? ではそろそろ始めますね?」

 何が。そう問い返す前に、数百本の針が同時に突き刺さるような激痛が飲み込まれた手から上ってくる。

「あああああ!」
「溶かしてるんです」

 激痛の中聞こえてくる非常に冷静な言葉。その意味するところを理解はできなかった。あまりにザックの知る世界から逸脱することが起こりすぎていて。一時的な脳の処理容量のオーバーフロー状態に陥っていたのだ。

「私、実は何かが溶けていくのを観察するのが好きなんです。ザックさんは私の中に入りたがっていましたし、ちょうど良いかと思って」 
「ぎぃいいい! 糞ッ垂れのモンスターが! 死にやがれ!」

 激痛を抑え殺し、ザックは吐き捨てながら懐から短剣を抜き払う。そしてそのまま一気にソリュシャンの顔面に深々とつき立てた。びくんとソリュシャンの体が跳ねる。

「ざまぁみやがれ!!」

 さて、湖面に短剣を突き立て何か変わるだろうか? 
 せいぜい波紋が出来る程度だろう。つまるところ、そういうことだ。
 
 短剣を顔につきたてたまま、ソリュシャンは目がぐるっと動き見据えると、静かにザックに話しかける。

「申し訳ありません。私――物理攻撃に対する完全耐性を保有してますので、それでは傷を付けることはできません。とりあえず溶かしますね」

 刺激臭が立ち込め、ほんの数秒で刀身を溶解された短剣がソリュシャンの顔から滑り落ちる。その下から現れたのは、宣言どおり傷一つ無い綺麗な顔だ。

「なんなんだよ、おまえはよぉ」

 手から伝わる激痛と、目の前にある死からわきあがる恐怖によって、半分泣き出した顔でザックは呟く。それにソリュシャンは平然と答える。

「捕食型スライムです。あまり時間もかけられませんし、もう飲み込ませてもらいますね」

 ずるりと一気にザックの腕がソリュシャンの体に飲み込まれる。泣きわめき、叫び、命乞いをするザック。だが、ソリュシャンの体内に飲み込もうとする力は依然として強いまま。人では決して抗えないような強さで腕、肩と飲み込んでいく。

「アラーナ!」

 最後にその名前を叫び、ザックの顔がソリュシャンの体に飲み込まれた。そのままゆ蛇がえさを飲み込むようにザックの体は飲み込まれていく――。



 数分という短い時間で、その場には動くものは無い。ただ、血と鼻を刺激するような異臭が漂うばかりとなっていた。頭を踏み潰した際にシャルティアのハイヒールについた脳漿を、舌で掃除させていた男1人があとは生き残るばかり。

「殺したりはしないでありんす。約束したとおり」

 恐怖で顔を歪めきった男が這い蹲った姿勢のまま、シャルティアに感激した視線を送る。必死に頭を下げ、感謝の意を表す。そんな犬のような男に、シャルティアは慈母の表情を向ける。それから指を1つ鳴らした。

「吸いなんし」

 その言葉がどういう意味なのか。男が知ったのは2人のヴァンパイアが傍に立ったときだった。

 シャルティアは最後の男の生命が消え行く姿を横目に見ながら、馬車のほうから1人で歩いてきたソリュシャンに声をかける。

「おや、もういいんでありんすか?」
「はい。全てすみましたので。今回はありがとうございました」

 ソリュシャンは胸元の乱れを隠す。

「いいんでありんす。同じナザリックの仲間でありんすから。ところでザックさん、良い気分味わったかしら」
「その最中ですよ。ご覧になりますか?」
「え? いいんでありんすか? では僅かだけ見せてもらえんすか?」
 
 突如、ソリュシャンの顔から成人男性の腕が突き出した。それにあわせて刺激臭が満ちる。出所はその腕だ。強力な酸でも浴びたかのように爛れ、煙を上げている。
 まるで湖面から突き出したような腕は、何かを掴むように必死にくねりながらもがく。その度ごとに溶け出した肌からじくじくとした液体が周りに飛ぶ。
 
「申し訳ありません、ここまで元気だとは」
 
 ソリュシャンは腕が突き出しているというのにまるで痛みを感じて無い顔を、げっぷをしてしまったように恥ずかしげに赤らめる。それから無造作に突き出した腕を顔に押し込んだ。ばたばたと暴れる腕を構わずに完全に押し込むと再び微笑んだ。

「凄いでありんすね。人1人丸呑みにしてもさらさら外見には出ないんでありんすから」
「ありがとうございます。外見に出ないのは元々私の中身が空だからだというのと、そういう生き物だから特殊な魔法の効果によるものだと思います」
「へー、余計なお世話かも知んせんがいつ死んではうのかしら」
「そうですね。直ぐに殺せというならもっと強力な酸を分泌しますが、せっかく私の中に入りたいと思われていたんですし、1日ぐらいは堪能させてもらおうかと」
「さらさら悲鳴とか聞こえないけど」
「はい。口元は完全に私が入り込んでますから私しか聞こえません。臭いも完全に押さえ込んでますので」
「捕食型スライムって凄いんでありんすね ……。うん。こんど一緒に遊びんせんかぇ?」
「構いませんが……おもちゃはどうされるんですか?」

 チラリとソリュシャンの視線が後ろのヴァンパイアに向かう。それに気づいたシャルティアは楽しげに笑う。

「あの娘達も悪くは無いんけれど、侵入者とかがいたら捕まえてアインズ様におねだりしようと思っていんす」
「了解しました。そのときはお呼びください。胸まで飲み込んでそれ以外を外に出すなんて面白そうかと」
「いいわぇ。あの拷問官とかと話、あうんではない?」
「あの方の芸術には私では残念ですが付いていけません」

 さらに続けて口を開こうとしたシャルティアを、後ろから掛かった声が止める。

「ソリュシャン。こちらの準備は終わりました。そろそろ出発しましょう」

 馬の手綱を交換し終えたセバスが御者台から声をかける。

「はい。今、参ります」
 
 パタパタと馬車の中に入っていくソリュシャンの後姿を見ながら、御者台に座るセバスを見上げる。

「では、セバスとはここでお別れでありんすね 」
「そうですか。そうしますと野盗の塒が見つかったようですね」
「ええ。これから襲撃をかけて、アインズ様が気に入られるような情報を持ってる奴を探すつもりでありんすぇ。 今回のは外れでありんしたみたいでありんすから」
「そうですか。ここまでご一緒できて楽しかったです、シャルティア様」
「それはありがとう。またナザリックで会いんしょう」
「ええ、では失礼します――」



 ■



 森の中を疾走する。その影は2つ。シャルティアのシモベ且つ愛妾のヴァンパイアたちだ。
 先を走るヴァンパイアはその両手に大切そうにシャルティアを抱き、後を走るヴァンパイアは人間大の枯れ枝のようなものを引きずっていた。
 森の中に一本だけ作られた獣道は足場は悪く、時折、細い枝が飛び出している。
 だが、闇の中、2人ともその服に1つもほつれを作らず、その悪路をハイヒールを履いたまま嘘のようなスピードで進む。
 突如、先行するヴァンパイアがまるで何かに足を取られたように急に動きを止めた。それにあわせ、後ろのヴァンパイアも動きを止める。
 もぞりとその手に抱いたシャルティアが動く。それからゆっくりと地面に降り立った。ハイヒールを履いたほっそりとした足が地面に触れ、ドレスがそれを覆い隠すように滑り落ちる。
 長い銀髪を煩わしげにかきあげ、首を軽く回す。それから見下すように自らを今まで運んできていたヴァンパイアを見る。

「いったい、どうしたんでありんすか?」

 シャルティアが動きを止めた理由を自らのシモベのヴァンパイアに尋ねる。
 森の中、シャルティア自身が走らないのは単純に面倒なだけである。それと靴が汚れるのを避けるためでもあるが。
 その自分を運んでいた者が、シャルティアの意思無く歩を止めることは許されない。場合においては折檻ね。そんな意志が質問にはこめられていた。

「お許しください。ベアトラップにかかりました」

 見ればヴァンパイアの細い足に無骨で強力な金属製の罠がしっかりと食い込んでいた。通常は人間対策ではなく野生のそれこそ――熊に使用するものだ。足甲を着用していてもその衝撃で簡単に人間の足首ぐらいはへし折るだろう。
 だが――しかしながらヴァンパイアは普通の人間とは違う。
 噛み砕くための歯はその足に少しも突き刺さってはいない。かすり傷すら付けることなく肌で食い止っている。

 ヴァンパイアは銀やそれに順ずる特殊金属や、ある程度の魔力的な強さを持つ、もしくはアンデッド対策された魔法の武器以外のほとんどの物理攻撃を軽減する能力を保有している。それを持ってすれば単なる鉄でできたベアトラップでは傷を与えることは不可能である。
 ただベアトラップのもう1つの効果。
 行動を阻害するという働きは十分に発揮している。見ればトラップにつけられた太い鎖が上手く隠すように地面を通って近くの木に結ばれていた。
 相手を殺す意図がないのは毒を塗られて無い時点で一目瞭然だ。単純に足止めの意図だろう、荷物を作ることで相手の動きを鈍らせる目的の。

「……はぁ」仕方ないといわんばかりにシャルティアは首を振る「とっとと外しなんし」
「はい」

 シャルティアの命を受け、ヴァンパイアはほっそりとした手を伸ばし、両方の歯を掴むと無造作にこじ開けた。圧倒的な筋力にベアトラップは耐え切れず、その歯に掛かった獲物を解放する。
 単なる美女がベアトラップをこじ開ける。それはまるで嘘のような光景ではあるが、ヴァンパイアの筋力を知る者からすれば驚くほどのものではない。ヴァンパイアの筋力を持ってすればたやすいことだ。トゥルーヴァンパイアのシャルティアの筋力は更にそれを輪をかけているのだが。

「しかしこな罠があるなんて、どうやら予定の場所まであと僅かといわすところかしら」
「はい。少々、お待ちください」

 後ろに付き従っていたヴァンパイアがその手に持った枯れ枝のようなものを投げ捨てる。

 それは枯れ枝なんかではない。全身の水分を失い、完全にミイラ化した人間の死体だ。
 乾燥した死体は放り出され、地面を転がると、やがてギクシャクと動き出す。
 枯れ枝の腕の先には鋭くとがった爪が伸び、空虚な眼窩には赤い――ヴァンパイアと同じ光が灯っていた。微かに開いた口からは異様に鋭く尖った犬歯が突き出している。
 下位吸血鬼<レッサーヴァンパイア>。それがそのモンスターの名前である。
 
 ヴァンパイアに血を吸い尽くされた者はこのモンスターに成る。先ほどの野盗の成れの果ての1つだ。

「聞きます。あなた方の塒まではあと少しですか?」

 レッサーヴァンパイアは自らの主人に深々と頷き、うなり声とも悲鳴とも取れるような声を漏らす。

「とのことです、シャルティア様」
「そう。連動式の罠が無いのはどうしてなんでありんしょうか」

 これだけではなく、更に鳴子や次の罠を仕掛けた方が利としては適っている。だが、それに類する罠は見つからない。しばし考え、シャルティアは周囲を見渡す。
 何者かが隠れている気配は無い。ならば――

「まぁ、いいでありんしょう」

 無理に頭を悩ませても仕方が無い。分からないことは分からないのだ。解除スキルの無いシャルティアでは罠の捜索は不可能。魔法を使えばどうにかなるがそんなことをするのは面倒だ。ならそういうものだと納得するのがもっとも簡単だ。

「あの娘借りてきたほうがよかったでありんしょうか」

 先ほど分かれたばかりのソリュシャンをシャルティアは思い出す。ソリュシャンはアサシンとして能力を高めている。彼女であれば罠の発見等はお手の物だっただろう。一緒に楽しめるし、という言葉は飲み込む。



 やがて野盗の塒の近くまでシャルティア一行は到着する。森の中だというのに段々と木々がまばらになり、そこを抜けると木々が完全に無くなり草原が広がる。
 そこはカルスト地形と呼ばれるものだった。
 そのすり鉢型の窪地の中央部。その地面にぽっかりと開いた穴があった。僅かな光源が洞窟内部から漏れ出ている。光の感じからすると、恐らく内部は緩やかな傾斜を描きながら下へと降りているのだろう。

 その洞窟入り口の両脇には、人が手を入れたと一目瞭然で分かるものが据え付けられていた。
 それは人の腹部ほどの高さまである丸太でできたバリケードだ。といっても大したものではない。丸太を数本でできたちゃちなものだ。ただ、そこに1人づつ、計2名の見張りが立っていた。

 丸太で下半身を隠す遮蔽物とし、弓で撃たれたならそれで身を隠しながら敵襲を知らせるつもりだろう。地形が傾斜を描いているため弓の飛距離が増すとはいえ、バリケードを抜けての一射というのは命中精度的になかなかに難しいものがある。山なりに撃ったとしても、盾を頭上に構えればほぼ無効化されるだろう。
 更には大きな鈴を肩からつるしている。もし見張りを不意打ちで倒したとしても、鈴が音を立て、中の人間に敵襲を知らせるだろう。
 なかなか考えて防御しているといっても良い。
 普通に戦闘――この距離から突撃をすれば確実に中から増援が出てくるだろうし、相手に武器等を準備させる時間を与えてしまうだろう。
 姿を隠して接近しようにも、周囲にある岩石の中で身を隠せられそうな大きさを持つものは、全て撤去されていた。

 だが、物理的にどうしようもない状況を打破する手段がひとつある。
 それは魔法。
 その手段を考えるなら様々な方法が取れる。

 《サイレンス/静寂》の魔法をかけてから一気に殺す。《インヴィジビリティ/透明化》で接近する。《チャームパーソン/人間魅了》でシャルティアの近くまでおびき寄せても良い。《アイテム・デストロイ/物品破壊》で鈴を破壊する手段だってある。
 何の手段が最も楽しいか。そこまで考えたシャルティアは重要な情報を1つ入手してないことに気づいた。

「入り口は1つだけでありんすか?」

 シャルティアの質問にレッサーヴァンパイアは頭を振ることで答える。

「なんでありんすぇ。 ならここまで来んしたし、もう隠れて行く必要も無いでありんすね。どうにもコソコソとした行動――隠密といわすやつは苦手でありんすぇ」
「シャルティア様はそこにいられるだけで輝いてしまいますから」
「当たり前のことはお世辞にはなりんせんのよ。お世辞を言いたいのならもう僅か考えなんし」

 お許しくださいと頭を下げるヴァンパイアを無視し、シャルティアは手を伸ばすと、レッサーヴァンパイアの体を掴む。

「貴方に一番槍をいう大役を命じんす。さぁ、行きなんし」

 ほっそりした腕が振われ、大気を抉るような音を立てながらレッサーヴァンパイアが見張りの1人に投げつけられる。両者は激突し、信じられないような吹き飛び方をした。激突した見張りの頭部が吹き飛び、鮮血が周囲にまき散らかされる。目の前で起こったことに理解ができて無いのか、もう一人の見張りは呆けたような表情で同僚の死を見つめていた。

「すとらーいく」
「お見事です、シャルティア様」

 ぱちぱちと2人のヴァンパイアが拍手する。

「えっと、もう1人と」

 シャルティアの視線がヴァンパイアの間で左右に動き、慌てた2人のヴァンパイアが手ごろな大きさの石をシャルティアに手渡す。

「よいっしょ」

 シャルティアの手からすると微妙に大きい石を掴むと、ほっそりとした手がすさまじい速度で振り降ろされる。結果はいうまでも無い。シャルティアは嬉しげに戦果を発表した。

「2すとらーいく」

 再び拍手が起こる。
 鈴が鳴ったのを聞きつけた中の見張りが、敵襲と叫んでいる。徐々に洞窟内部が騒がしくなっていく。

「さぁ、いきんすよ。あなたは近くの木に登って逃げる奴がいないか見張ってくんなまし。雑魚では知りんせん、隠し通路があるかもしれんせん」もう1人のヴァンパイアに向き直る「そいであなたは露払いでありんすぇ。ただ強い奴がいたらわたしのお楽しみの時間、何だぇら知らせてくんなまし」
「はい、シャルティア様」
「いってらっしゃいませ」

 シモベのヴァンパイアがシャルティアに先立って大きく踏み出し、洞窟の入り口付近までゆっくりと歩を進め――

 ――そして姿が消えた。
 大地が陥没している。いや、陥没したのではない。落とし穴だ。
 シャルティアなら陥没する前に避けられたかもしれないが、ヴァンパイアの瞬発力では足元がなくなるという罠までは回避仕切れなかったのだろう。
 
「えー」

 シャルティアが思わずがっかりした声を漏らす。それからニンマリと笑みを浮かべた。
 優しげなものでも、好意に溢れたものでも、照れたようなものでもない。
 確かに考えてみれば洞穴の前に落とし穴を作るというのは当然予測してしかるべき罠だ。それを見破れなかった己の愚かさ、そして自らを嵌めたという怒り。そういったものが湧き上がり、笑みという形で現れていた。

「ぶちころすぞ。とっとと出て来い」

 大きく跳躍し、縁にヴァンパイアが姿を現す。着ていた服が土で汚れている以外の傷は見当たらない。

「わたしをあまり失望させるなよ」
「申し訳ありませ――」
「いいから行けよ。それともわたしが放り込んでやろうかぁ?」

 悲鳴にも取れる了解の意を示すとヴァンパイアは小走りで洞窟の中に入り込んでいく。シャルティアはその後を追う形でのんびりと中に入っていった。






――――――――
※ ちなみに下はフレアパンツ。
 ということで28話『真祖2』へ。



[18721] 28_真祖2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/06/02 20:15






 騒音が彼の耳に飛び込んできた。与えられた個室で自らの武器の手入れをしていた手を止め、耳をそばだてる。
 喧騒、複数の走るどたどたという音。微かな悲鳴。
 襲撃なのだろうが錯乱しているというか、相手の人数やどの程度の腕前のものなのか。そういったものがまるで掴めない。通常、そういった大切な情報は大声で叫ぶよう、しっかりと訓練しているにもかかわらず。
 音が聞こえないということは無い。個室といっても洞窟内だ。しっかりとしたドアの替わりに、横穴の入り口にカーテンで仕切りを作って二つに分けたようなもの。厚手とはいえ布を通り越し、声は充分聞こえる。

 傭兵団『死を撒く剣団』の総員は70人弱。中には彼ほどの腕は持たないまでも、戦場を駆け生き残った古強者はいる。
 少数による奇襲ではこれほど混乱するとは思えない。とするとそれなりの数がいる場合が考えられるが、そうなると敵だと思われる音が聞こえてこないのが理解できない。

「冒険者か」

 極少数かつ戦闘力のある存在だとしたら、それが妥当だろう。
 彼はゆっくりと立ち上がり、自らの武器を腰に下げる。鎧はチェインシャツ程度。着るのに時間は必要ない。陶器でできた数本のポーション瓶が入った皮のベルトポーチをベルトに引っ掛け、紐で固定する。防御魔法の込められたネックレスと指輪は既にしているので、これで準備は終わりだ。
 カーテンを引きちぎるような勢いでブレインは捲り、洞窟の本道ともいうべき場所に出る。
 洞窟内は奪ってきた魔法の光――《コンティニュアル・ライト/永続光》が掛けられたランタンが、幾つも壁にある一定の間を空けて吊らされ、洞窟内とは思えない明るさを生み出している。

 たまたま通りかかった傭兵の1人が、勝ったといわんばかりに顔をほころばせた。

「何事だよ」
「敵襲です、ブレインさん」

 苦笑して、彼は口を開く。

「そいつは分かるさ。人数とどんな奴らなんだ?」
「はい! 敵は2人、両方、女です」
「女? しかも2人ねぇ」

 小首を傾げると彼――ブレインは今だ喧騒の聞こえる洞窟の入り口へと歩き出す。
 女と聞いても侮らないのは女だから弱いというのは、男根主義者の妄言にしか過ぎないと彼が知っているからだ。事実、王国最強と名高い冒険者パーティーは女性5人からなるものだし、ブレインが遭遇し痛み分けに終わった相手は魔法使いの老婆だった。そして帝国内での最高とされる暗殺者は女性という噂を聞く。
 基礎の肉体能力で差がついたとしても、魔法はそれを簡単に凌駕できるのだ。無論、最高の肉体能力に最高の魔法が重なればそれこそ無敵なのだが。

 ブレインは沸き立つような高揚感、少人数で襲撃をかけたことに対する敬意、そして強者と対峙する飢餓にも似た戦闘意欲が心中を支配していた。

「ああ、来なくていいぞ。それより奥でも固めておけよ」

 言われた傭兵は首を縦に振ると洞窟の奥へと走り去る。


 彼――ブレイン・アングラウス。
 中肉中背。だが、服の下の肉体は鋼鉄ごとく引き締まり、筋肉トレーニングではなく実戦で鍛えられた体をしている。
 黒髪は適当に切られているために長さは整ってない。そのためぼさぼさに四方に伸びていた。黒眼は鋭く前を睨み、口元は冷笑のようなものを浮かべている。
 人というよりも野生の獣――それも獣王を思わせる、そんな男である。

 元はよくある単なる村人であった。だが、彼にはまさに天から授けられたとしかいえない才能があったのだ。武器を取って不敗。戦場においてかすり傷以上は受けないという戦闘における天凛の才。
 敗北無く常勝の道を行く。
 誰もがそう思い、彼自身疑わなかった。そんな彼の人生が変わったのは王国の御前試合でだ。

 最初から優勝を狙って参加したわけではない。単純に自らの腕を王国中に知らしめたかったのだ。だが、その結果、信じられないような自体に直面する。
 敗北――。
 そう、生まれて以来、いや武器を握って以来の敗北である。
 
 破った相手の名はガゼフ・ストロノーフ。
 
 その試合は見事の一言。
 そこまでは両者ほぼ瞬時に勝利を重ね続けた。だが、最後の決勝戦においては、今まで溜め込んだ時間を放出するような長い時間での試合だった。出身階級の低いガゼフが現在も戦士長にあることが、その試合のすべてを物語っているだろう。
 そして勝利は幸運が味方したガゼフの上に輝いた。
 
 惜敗とはいえ、ブレインの今まで培ったすべてを破壊されたようなものだった。幾人もの貴族の誘いを断り、一ヶ月自らの世界に篭った彼は、初めて力を求めた。

 武術を求め、体を鍛える。
 魔法を求め、知識を高める。

 天才が秀才の努力をする。敗北がブレインを1つ上の存在へと持ち上げたのだ。

 傭兵団に所属したのは金を稼ぐためだ。貴族に仕えなかったのは、自らの腕を腐らせないため。学んだ武術を追求するには、対象が必要である。お座敷剣術は望んでいないのだ。実戦に頻繁に触れられる職業かつ金払いが良い。それは傭兵以外の選択肢が無い。
 そしてそんなブレインに声をかけた無数の傭兵団の中で選んだのはここ、死を撒く剣団。どんな傭兵団だろうと問題は無かった。ブレインの欲する武器のためなら、すべてを嘲笑できた。
 
 魔法の武器は高い。だが、彼が本当に欲したものは、単なる魔法の武器ではない。
 ブレインは愛用の武器――それは刀身は60センチ以上の『刀』と呼ばれる武器。
 王国よりかなり南方にある都市国家。そこから時折流れる、剣としては破格の性能を持つ武器。魔法の掛かっていない状態で下手な魔法の武器を凌駕する武器。そのぶん金額も非常に高額であり、目の玉が飛び出るをまさに地でいくもの。それを求めたのだ。
 時間と金が掛かったものの、ついには刀――属性『神刀』を得たのだ。 

 そして今、ブレインは強い。彼自身は今ではガゼフすらも容易く勝利できると確信するほど。
 さらに、それだけでなくより強さを追い求め、強者との戦闘を待ち受ける獣王としてここにいた。

 
 洞窟入り口に歩を進めるブレインの鼻に微かに漂ってくる血の臭い。既に悲鳴は聞こえないということを考えると、入り口付近の15人は皆殺しにあったということだ。時間的には2、3分。
 入り口に詰める者達に与えられた使命は防御に徹し、時間を稼ぐこと。そういう命令を受けている者たちを、不意を撃ったとしても少々早すぎる。
 
「つまりは俺なみの強さは持ってるっていうことね」

 ブレインはニヤリと笑う。
 そのまま足取り軽く歩きながら、ベルトポーチより取り出したポーションをぐいっと呷る。苦味の強い液体が喉を滑り落ち、胃に収まる。続けてもう1本――。
 胃からカッとした熱が膨れ上がり、全身の隅々まで流れ込んでいくように広がっていく。その熱に反応し、ぎしぎしと音を立てるように筋肉が増強される。

 この急激な肉体強化は、瓶の中に入っていた魔法の薬が作用しているのだ。
 魔法の薬の名前は先が《レッサー・ストレングス/下級筋力増大》、筋力をおおよそ20%増大させるもの。次が《レッサー・デクスタリティ/下級敏捷力増大》、敏捷力や反応力を20%増大させるものだ。
 ポーションは別に飲まなくても一定以上の量を体に降りかけるだけでも効果を発揮する。だが、ブレインとしては振りかけるよりは、飲み干した方がより効果が出る気がするのだ。勿論、プラシーボ効果なのかもしれないが、思いは時には信じられない力を発揮するものだ。

 次に取り出したオイルを抜き放った刀の刀身に垂らす。オイルはほのかな青白い光を刀身に残し、吸い込まれるように消えていく。
 かけたオイルの名前は《マジック・ウェポン/武器魔化》。一時的にだが魔法の力を刀身に宿すことで切れ味を増大させるものだ。

「作動1及び2」

 キーワードに反応し、指輪とネックレスから微かな魔力がほとばしり、ブレインの全身を包む。
 ネックレス・オブ・アイ。発動中は目の保護をしてくれるネックレスだ。盲目化耐性、暗視、光量補正等々。戦士の武器も当たらなければ意味が無い。視界を効かなくして離れたところから飛び道具なんて冒険者なら基本的な戦闘方法である。事実ブレインはこのネックレスを手に入れる前、冒険者達にその戦法をやられたことがある。
 そして指輪――《リング・オブ・マジックバインド/魔法注入の指輪》。低階級の魔法を1つ指輪に込め、好きなときに発動させることが出来るという遅延用アイテムというべきものだ。込められていたのは属性ダメージの軽減効果を持つ《レッサー・プロテクションエナジー/下位属性防御》。当然一度発動してしまえば再び魔法をかけてもらえるまでは単なる指輪になってしまうが、本当に少人数で攻めてきてると考えるなら、今回は準備万端で挑むべき相手だろう。
 それに後で発動させて置けばよかったなんて思ってもしょうがないのだから。
 
 これでブレインの取れる準備は全て終わり。
 体の中から噴出するような激しい熱を深呼吸を繰り返し、排出する。

 現在のブレインは肉体強化も相まって恐らくは人間としては最高峰の剣士だろう。自らの能力に絶対の自信を持つ人間特有の、獰猛なものを浮かべるとゆっくりと歩を進める。
 これだけ準備をしたのだ。たっぷり楽しませてもらおうと。
 

 歩を進めるごとに血の臭いが僅かに強まり――。
 そこに2人の人影あった。

「おい、おい。楽しそうだな」
「あんまり楽しくないでありんすぇ。 大した強さでないせいか、さらさらプールが溜まりんせん」
 
 のっそりと姿を見せたブレインに対し、警戒も無く返答がある。それは彼が向かってきているというのを既に認識していたからだろう。彼自身も隠すつもりでなかったのだから当然といえば当然だが。
 侵入者を目にし、ブレインは僅かに眉を寄せる。
 女2人と聞いていたが、1人はガキじゃないかと。だが、瞬時にその考えを破棄する。それは絶世といっても良い少女の頭の上に血で作ったような球体が浮かんでいたからだ。

「魔法使いかよ、厄介じゃねぇか」
「神官――プリーステスでありんすがぇ。始まりの血統、神祖カインアベルを信仰する」
「しんそかいんあべる? 聞いたことのねぇ神だな。邪神とか魔神とかか?」
「そっち系でありんすぇ。 まぁ、至高の方々によって倒されたらしいでありんすが。ザコいいべんと・ぼすでありんしたそうでありんすぇ」

 流石は至高の方々と呟いている少女から目を逸らし、従者のごとく付き従う女を観察する。これまた美人な女だ。胸が大きく盛り上がって官能的な雰囲気を撒き散らしている。
 ドレスのあちらこちらに血が跳ねている。とするとこちらが前衛なんだろうか。
 ブレインは肩をすくめると腰から刀を抜き払う。

「まぁいい。こっちの準備は終わってるぜ。そっちがまだなら時間をやるけど、どうする?」

 少女は驚いたようにブレインを眺め、それから口元を隠すとかすかな笑い声を立てる。

「勇敢でありんすね。まことにお1人でいいんでありんすか? お友達の皆さんをお呼びされても構いんせんよ?」
「はん。雑魚が何人いてもおめぇらには届かねぇだろ? なら俺だけでいいさ」
「星空の高さが理解できんせんのは仕方が無いのでありんすかね? 星に手を伸ばせば届くと思うのはアウラみたいな少女趣味な子供衆だけで充分。いい大人がやっていても気持ち悪いだけでありんす」

 ブレインは何もいわずに刀を正眼に構える。それを受け、少女はつまらなそうに天井を見上げてから視線を戻す。そして――

「いきなんし」
 
 少女が顎をしゃくると、女が飛び掛ってきた。
 その動きはまさに疾風。だが――風如きならブレインで断ち切るのは容易。

「ちぇすと!」

 咆哮と同時に全身の力を使って、刀を振り上げ、大上段から一気に振り下ろす。鎧を着た戦士を容易く両断するその一撃の勢いや、豪風が舞うほど。

「ぐっ!」
「ふん。浅いか」

 飛び込みざまに迎撃され、女は肩口を押さえ飛びのく。左鎖骨から入った刀は胸部に切り裂きながら抜けた。
 ブレインは眉を寄せ、睨む。
 一撃で屠れなかったことから強敵と判断しても良い相手だが、納得がいかないことが1つある。それは大量の血が噴出しても可笑しくないのに、女の肩からは一滴も血が出ていないことだ。
 魔法か。
 そう考え、すぐさまその考えを破棄する。
 押さえた手の下で、ゆるりゆるりと傷口が回復していっている。高速治癒の魔法は存在すると噂で聞くが、それではない雰囲気。ならば答えは1つ。
 つまりは人間ではなくモンスター。そして自己再生能力を持つモンスターで人間とほぼ同じ外見。むき出しにされる鋭く尖った犬歯。敵意に満ち満ちた真紅の瞳。
 そこまで考えたブレインはそのモンスターの正体に行き着く。

「ヴァンパイア……か」

 軽く舌打ち。
 ヴァンパイアはかなり高位の化け物だ。レッサーヴァンパイアならランクC以上なら勝てるが、ヴァンパイアにもなればランクB以上の冒険者たちで勝算が出てくる、確実な勝利を得ようとするならA以上の冒険者が必要とされる怪物。1体で小さな町であれば容易く壊滅させる、そんなモンスターだ。
 だが――彼なら勝てる敵でもある。

「ヴァンパイアの特殊能力……高速治癒、魅惑の魔眼、生命力吸収、吸血による下位種の創造、武器耐性、冷気ダメージに耐性だったか? まだあったような気がするが……まぁいい」

 どうにせよ、切り捨てる。
 そう吐き捨て、刀を強く握り締める。
 女は目を大きく見開く。真紅の瞳が異様に大きく見える。
 その瞬間、ブレインの脳裏に一瞬靄のようなものがかかった。親しみすら沸くような感覚。だが、軽く頭を振るだけでその靄を容易く追い払った。

「はん。魔眼か? 心弱い奴にやるんだな」

 刀を抜いている最中のブレインの心はまさに刀の如し。並みの精神支配なぞ容易く追い払う。
 ヴァンパイアは憎憎しげに牙をむき出しに威嚇するが、それは怯えを含んだ示威行動。もし自分の方が強いと認識してるなら、何もせずに襲い掛かれば良い。つまり迎撃されたことによって警戒、もしくは強敵と認識したのだろう。

「賢いじゃねぇか。まぁ、獣でもその辺は分かるのが道理なんだがな」

 じりじりと足を動かし、ブレインからヴァンパイアへと迫る。それにあわせ、ヴァンパイアが微かに後退する。
 ふん。
 つまらないとブレインは鼻で笑う。それを挑発と理解したのだろう。後退を止め、僅かに前進するヴァンパイア。
 両者の距離は3メートルほど。ヴァンパイアからすれば一瞬に詰められる距離だ。だが、踏み出せないのはブレインの技量を警戒して。そして――微かな笑みを浮かべたヴァンパイアが突如、手を突き出す。

《ショック・ウェーブ/衝撃波》
 
 魔法の発動にあわせ、衝撃波がブレインに迫る。フルプレートメイルを大きく凹ますことすら容易い魔法をまともに食らえば、チャインシャツ程度の鎧しか着てないブレインにとっては致命傷にならないでもかなりのダメージには間違いない。
 そして一撃でも受ければ大きく戦況は傾くだろう。ベースとなる能力が大きく違うのだから。
 だが――ヴァンパイアは驚き、眦を大きく見開く。

「当ててから笑えよ。そうじゃなかったら今から何かしますよ、ってもろバレだぞ」

 ――無傷。
 不可視の衝撃波の射線上から容易く避け、ブレインは野獣の笑みを浮かべた。驚き慌てるヴァンパイアは大きく後退してしまう。自らよりも格下と侮っていた存在が、上かもしれないと完全に理解した顔で。
 ブレインも表情には出さずに、戦い方の練り直しが必要だと認識しなおしていた。まさか魔法まで使用できるとは思ってなかったのだ。魔法が使えるということは打ってくる手が一気に広がるということ。

 結果、両者油断無くにらみ合いという形になった。
 それを不快に思ったのはそんな光景を見ていた少女だ。

「はぁ、交代」

 少女がぱちんと指を鳴らす。ビクリとヴァンパイアの体が震える。慌てて、自らの主人へと視線を動かす。
 対峙しているブレインを完全に無視した行為だ。つまるところ絶好の攻撃チャンスだが、ブレインは攻めようとはしない。ブレインも対峙しているヴァンパイアから視線を逸らし、少女を観察する。

 細い体だ。
 どちらかといえば肉弾戦に長けたクレリックとは異なり、魔法行使能力に長けたプリーステスという話だが、それにしても神官の肉体ではない。魔法行使能力に特化した司祭<ビショップ>こそ相応しい。しかしながら代わって戦おうとするということは、前衛がいなくても戦えるという自信があるということ。だとすると――そこまで考えブレインは軽く笑う。
 何を考えているんだと。

 単純にモンスターならば外見と中身は一致しない。ヴァンパイアの主人が人間だなんて、誰が聞いてもそんなわけが無いと笑う話だ。
 少女はヴァンパイアよりも上位者のように見受けられる。
 ならば伝説にあるヴァンパイア・ロードという奴だろうか。国1つを滅ぼしたことより『国堕とし』といわれた存在がかつていたそうだが、結局13英雄に滅ぼされたといわれている。つまりは倒せない相手ではないということだ。
 ブレインは刀を持つ手に力を込める。

「ブレイン・アングラウスだ」
「?」

 不思議そうな顔をする少女。ブレインは理解してない少女に問いかける。

「……そっちの名前は?」

 少女は小首をかしげ、それから楽しそうに言葉をつむぐ。

「ああ、そうでありんしたぇ。名前を聞きたかったんでありんすね。コキュートスならするでありんしょうけど、わたしはそういった目で人を見てなかったから気づくことに遅れんした。申し訳ありんせん」

 少女はドレスを摘むと、舞踏会で踊りを誘われたような礼をみせる。

「シャルティア・ブラッドフォールン。一方的に楽しみませてくんなましな」






――――――――
※  なんか殺伐とした話しか書いてない気がする……。のどかな話が書きたいなぁ。ナザリックで守護者が皆で仲良くお茶をするような話……プロットにも無いけどね。
 そんなわけで29話「真祖3」へ。既に戦闘シーン15kとか書いてますので一行で首チョンパは無いです、ご安心を。




[18721] 29_真祖3
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2010/09/27 20:50





《オール・アプレーザル・マジックアイテム/道具上位鑑定》

 シャルティアのブレインに対して発動する魔法を、彼は無言で認める。
 スペルキャスターを前に魔法行使を認めるというのは自殺行為である。戦士であれば剣を抜いて切りつけてくるという行為に値するのだから。魔法の発動を妨害するのは戦士として当然だ。
 特に戦士であるブレインには、シャルティアが現在発動しようとする魔法の種類や効果はまるで見当も付かない。いや、有名な魔法は勉強し知ってはいるが、今発動しようとしている魔法は未知のものだ。

 しかしながら幾つかの要因により妨害手段には出なかった。
 ダメージ魔法等でありがちな、肌にぴりぴりとした感触――敵意を感じなかったのが1つ。そして避けてみせるという自信が1つ。そしてまだ相手は遊んでいる雰囲気である以上、致命的な魔法を使ってはこないと判断したのが最後の1つである。
 仮にダメージ魔法だとしても、致命的なものでないのなら食らってもかまわない。なぜならそうすることでより一層相手が油断するだろうからだ。

 シャルティアは微かに眉を寄せると、可哀想なものをみたという表情で口を開く。

「神刀、属性神聖、低位魔法効果、物理障害に対する斬撃効果20%向上、物理ダメージ5%向上および一時的効果+10%、非実体に対し30%のダメージ効果、クリティカル率5%向上。評価……微妙」

 自らの愛刀を愚弄した発言に、一瞬にブレインの脳内が赤熱化する。だが、怒りを飲み込み、深く深く沈める。
 爆発するときは今では無いのだから。

「でも安心してくんなまし。神聖効果がありんすによりてわたしには一応ダメージ入りんす。ただ、連続でダメージを入りんせんと回復してしまいんすよ」
「はん。ヴァンパイアの回復能力は今、目の前で知ったよ。だからよぉ、回復の時間なんか与えねぇよ」
「なら安心でありんすね 」

 ――その余裕、引っぺがしてやる。
 ブレインは歴戦の戦士ですら怯えるような鋭い視線を無言でシャルティアに向ける。正直、その余裕が気に入らないのだ。だが、その反面、そうでなくては困るのだ。
 強者の驕り。それこそが人間を遙に越える肉体的能力を保有するモンスターに対する、劣る存在――人間の武器の1つ。事実そこを突いてブレインは自らよりも強いモンスターを幾体も屠ってきた。
 それに何より――切り伏せた後で嘲笑えばよいのだ。余裕を見せてよい相手と不味い相手がいることを教えた後で。

「武技は使んせんでありんすか?」

 武技。
 戦士たちが鍛錬の中、自らの腕を極めていく中で学ぶ、特殊な能力。それは気ともオーラとも言われる、今だ説明の付かないものが起こす武器での魔法と称するもの。
 ブレインの強さまで昇れば大抵の戦士であれば武技を7つほどは持っているだろうか。

 対格差のある巨大な敵を前にしたとき、『フォートレス』があればその巨躯から繰り出される攻撃の衝撃を全て消せるためにかなり互角に戦えるようになるだろう。
 刀身に気を貯め強烈な斬撃を放つ『スラッシュ』であれば、体力のある敵も一撃で倒せるだろう。
 装甲の固い敵には殴打武器系の武技、『ヘヴィブロゥ』の出番だ。
 肉体を一時的に強化する『ブースト』があれば、基礎肉体能力の差によって勝利もつかめるだろう。
 このように様々な状況を想定し、豊富な武技を学び我が物とするのは、戦士であれば当然の備えである。特に様々な状況に対応する必要性が多い冒険者であれば。

 では彼はどうか――。

「はん。おまえごときに使うわけ無いだろうが」

 質問の答えを待ち望むシャルティアにそう返答をする。無論、嘘である。ただ、こういう発言をすることによって更にシャルティアに本気を出させる気を削ぐのが目的である。
 ブレインはゆっくりと息を吐きながら腰を落とし、刀を鞘へと戻す。

 抜刀の構え。

 息を細く長く。
 意識の全てが一点に集中するように狭まっていき、その極限に達した瞬間、逆に莫大に膨れ上がる。周囲の音、空気、気配。全てを認識し知覚できる、そんな世界に達する。それこそ彼が持つ1つ目の武技――『領域』。
 それは半径3メートルとさほど広い範囲ではないが、その内部での全ての存在の行動の把握を可能とするものだ。この武技を使用している間は仮に1000本の矢が降り注いだとしても、自らに当たるものを切り払うことで無傷で生還する自信がある。そして離れたところにある小麦の粒ですら両断するだけの精密な行為すらも可能とする。

 そして――

 刃物が急所を叩き斬れば生物は死ぬ。ならばそれだけを追求すればよい。
 汎用性よりも一点特化。
 相手より一瞬でも早く、致命的な一撃を正確に叩き込む。
 その過程で生まれたのは、それは今だ誰もが学んだこと無い、彼のみの武技。
 
 武技の1つ――瞬閃。
 高速の一撃を回避するのは不可能だが、彼はそこで鍛えることを止めなかった。
 その鍛錬は並みのものではなかった。数十万、いや数百万にも及ぶだろうかという瞬閃の繰り返し。刀を握る手がそれだけに特化したタコを作り、握りの部分が持つ手の形に磨り減るほど。
 それを極限までも追求した上で生まれた武技。
 振り切った後、その速度のあまり血すらもその刀身に残らない。まさに神の領域に昇ると感じ、彼が名づけた『神閃』。それは一度放たれれば知覚することすら不能。

 この2つの武技の併用による一撃は、回避不能かつ一撃必殺。

 その斬撃で狙うは対象の急所。
 特に頸部。
 これをもって秘剣――虎落笛。
 頸部を両断することによって、吹き上がる血飛沫の吹き上がる音から名づけた技である。

 ヴァンパイアが相手なら血は吹き上がらないまでも、首を両断すれば行動は不能。それはすなわち勝利である。

「そろそろ準備もできんしたかぇ?」

 無言を貫き、鋭い呼吸を繰り返すブレインにシャルティアはつまらなそうに肩をすくめる。

「準備ができたと思って攻めんす。もし問題があるなら今のうちにどうぞおっしゃってくんなまし――」

 しばしの時が流れ――

「――蹂躙を開始しんす」

 楽しげにシャルティアは宣言すると歩を進める。

 ほざけ。その余裕、首が落とされた後でも続けていろ。
 言葉には出さずに心でブレインは呟く。言葉にするとこの溜め込んだ一撃が抜けるような気がするのだ。

 無造作にシャルティアは足を進める。警戒もまるで無い、歩運び。ピクニックでも行こうかというほど軽いもの。
 戦士のものではないそれに、ブレインは苦笑を押し殺す。
 愚かとしか思えない。
 だが、チャンスはやらない。
 ブレインは自らの『領域』、それも一太刀の間合いに入り込む瞬間を待ち望む。絶対的強者を気取る愚かなモンスターは大抵こうだ。人間は確かに脆弱な生き物だ。肉体的機能は劣るし、特殊能力だって持っていない。
 だが、人間を一段下に置くという行為がどれほど危険なものか教えてやる。武術というのは人間をはるかに超えた生き物達を相手にするために生み出されたのだ――
 
 ――一撃で屠る。

 それに得てして高慢なモンスターほど見苦しい行動をする。一撃で殺さなければ確実にヴァンパイアに救援を求めるだろう。そうなると二対一。それはさすがのブレインも苦戦は免れない。
 ゆえに一撃必殺。
 
 ブレインは無表情に嘲る。
 その無造作に詰め寄る行為。それが断頭台への階段だと理解していないのだろうな、と。

 あと3歩、2歩
 ……1歩。
 そして――

 ――その首、貰った!
 心の中で吐き捨て、ブレインは全てを叩きつける。

「しぃっ!」

 吐く息は鋭く短く。

 鞘から刀が抜かれ、空気すらも切り裂きながらシャルティアの首に伸びる。
 その速度を例えるなら――雲耀。光ったと認識したときには首が落ちる――それほどの速度。

 取った。
 ブレインは確信し、
 その一撃を――ブレインは思わず瞠目した。


 斬撃が空をきった。それならばまだ我慢できただろう。自らの渾身の一撃が避けられる。それは想像もできないような強敵がついに現れたのだと納得がいっただろう。
 だが――
 

 シャルティアは摘んだのだ。

 ――その一撃を。雲耀の速度での一撃を。
 
 それも蝶の羽を摘むような優しさを持って――。


 空気が凍った。
 必死にブレインは呼吸を繰り返す。

「……ば、ばかな」

 消えゆくような声で喘ぎを漏れた。
 ブレインはガクガクと震えそうな体を懸命に堪える。今、目にしたものが信じられない。だが、伸びた刀身の先にある、シャルティアの白魚のごとき2本の指――親指と人差し指。
 刃紋を前から摘むのではなく、後ろから鎬地を手首を90度曲げる形で摘んでいる。
 まるで力を入れずに軽く摘んでいるように見える一方、ブレインが全力を出して、押し切ろうとしても引き戻そうとしてもびくとも動かない。自らの数百倍の巨石に繋がれた鎖を引っ張っているようだった。
 突如、刀に掛かる力が増し、逆にブレインは体勢を崩しかける。

「ふーむ。コキュートスが何本か所持していんしたが、使う者がこうも違うと警戒心も湧き上がりんせんものなんでありんすね」

 摘んだ刀身を自らの目の前まで持ち上げ、しげしげと眺めるシャルティア。

 ブレインの頭の中が白く染まる。
 自らの人生全てを否定されたような絶望感。

 有り得ない。
 だが、認めるしかない。
 神速の一撃をたやすく摘んだという事実を。
 驚き慌てるブレインに、シャルティアは訝しげに眉を寄せる。それからがっかりしたというわざとらしいため息がシャルティアからもれた

 「とりあえずはわかりんしたかぇ? わたしは武技を使わなくては勝たない相手。それが理解できたなら温存していんす本気をいい加減、出してくれんすか?」

 そんな残酷な言葉が聞こえる。それに対し、ブレインの口から思わず言葉が漏れた。

「化け物――」

 それを聞いたシャルティアは純粋無垢な微笑をみせた。まるで花が満面に開くように。

「そうでありんす。やっと理解していただけんしたかぇ? わたしは残酷で冷酷で非道で――そいで可憐な化け物でありんす」

 摘んだ手を離すと、大きく後ろに飛びのく。それはシャルティアが先ほどいた位置だ。恐らくはほんの1ミリも狂ってないだろう。

「そろそろ準備もできんしたかぇ?」

 楽しそうに笑いかけてくるシャルティア。先ほどと同じ台詞にブレインの脳裏がカッと熱を持つ。どこまで馬鹿にするのだと。その反面、ブレインを馬鹿にすることすら容易だということなのかと、恐怖が背筋を滲み上がる。

 ――逃げるか。

 ブレインは生き残るということを重要視する。勝てないなら逃げて再び戦えばよい。生き残り、最後に勝てばよいのだ。なぜならブレインは自分はまだ強くなる空きがあると思っているから。
 だが、逃げるにしても肉体能力の差は如何ともしがたい。ならば手の届く範囲を避け、足を切りつけ動きを鈍らす。そして逃げればよい。
 そう決心したブレインは、視線は首元を睨んだまま刀を鞘に収める。『領域』発動中であれば目を閉じていたとしても、狙った場所を切り裂ける。ならば目でフェイントをかけるのは自明の理。

「――蹂躙を開始しんす」

 再びわざとらしく歩き出す。
 先ほどまでは『領域』に入り込むことを待ち望んでいたのに、今はその逆。できれば入ってきて欲しくは無い。

 どれほど弱気になっているのだ。そうブレインは必死に叱咤し、自らの心を奮起させようとしても燃え上がるものが無い。もはや燃料が切れた炎のようだった。舌打ちを1つ。そのままシャルティアの歩運びを観察する。
 
 3歩、2歩、1歩――

 ――間合いに入る。
 首元を見据えたままのブレインの視界の中に、シャルティアの嘲笑気味の表情が浮かぶ。

 ――狙うは一点。踏み出してきた右足首。
 切り下ろすように刀を走らせ、自重でほんの少しでも速度を増させる。

 いける!
 そのドレスの裾から少しばかり見えた細い足首を切り飛ばそうとし――

 ――刀の柄からブレインの手が滑り抜けた。
 『領域』内の知覚能力。それが大地に転がった愛刀と、そしてその鎬地を上から押さえ込むようにあるハイヒールの踵を認識する。つまりはブレインの手から滑り落ちたのは、ハイヒールで上から踏みつけられた衝撃によるものだということだ。

 手を伸ばせば簡単に届く。そんな距離で、見下すようにシャルティアの視線がブレインを冷たく眺める。頭上からすさまじい重圧が大気ごとブレインを押しつぶそうな気さえした。
 荒い息でブレインは呼吸を繰り返す。
 噴出した汗がブレインの全身を流れ、気持ち悪さに襲われる。視界がぐらぐらとゆれる。鉄火場は幾つも潜った、死地なんてざらだ。だが、ブレインは本当の死地という奴を知らなかったのでは?

 踏みつけていたハイヒールが刀身から離れ、シャルティアは無言で大きく飛びのく。

「――そろそろ準備もできんしたかぇ?」
「っ!」

 三度掛かる声に何よりも絶望を強く感じる。次は蹂躙を開始しんす、だがその前に別の言葉がブレインに投げかけられた。

「武技……使えないんでありんすか?」

 何も言えない。
 何を言えばいいのか。
 今やったけど簡単に破られましたとおどければよいのか。下唇をかみ締めながらブレインは落ちている愛刀を拾い上げる。

「……もしかしてそんなに強くは無いんでありんすか? 先ほどの入り口にいた者たちよりは強いと思ったんでありんすが、あなた……。申し訳ないでありんすぇ。わたしが測れる強さの物差しは1メートル単位なんでありんすぇ。1ミリと3ミリの違いって分かりんせんんでありんすね」
「――あああああああ!」

 怒号を吐き、ブレインはシャルティアに切りかかる。不思議そうな表情でブレインを観察するシャルティアめがけ刀を全力で――全体重を込めて振り下ろす。

 避けようともせずに振り下ろされる白光を眺めるシャルティアに、殺ったという思いが沸き立つ。
 だが、その反面。その思いを今までの目にしたありえないような光景が否定する。
 そしてその予測こそ正しかったと証明される。
 
 硬質な音が響き、再びブレインは信じられないものを目にした。
 高速で動いたシャルティアの左手、その小指の爪――2センチ程度の爪が弾き返したのだ。それもシャルティアの手には力すら入って無いように見える。握りこぶしには隙間があり、小指は軽く曲げられている。
 それがブレインの全力の一撃を弾き返したのだ。
 フルプレートメイルを断ち切り、剣を打ち砕き、盾を貫いてきた一撃を――。

 砕け掛かった自らの意志を総動員し、弾かれびりびり震える手を引き、胴体を突く――。

 そして――シャルティアに無造作に弾かれる。
 
「ふぁー」

 シャルティアのわざとらしい欠伸。空いている右手で口元は当然覆い隠している。視線もわざとらしく天井を向けられていた。もはやブレインを相手にしている気配はこれっぽちも無い。
 それでもだ。
 それでも――ブレインの刀は弾かれ続ける。

 左手の小指一本で――。


「うぉおおおおお!」

 ブレインの喉から咆哮があがる。いや、咆哮ではない。それは悲鳴だ。

 横払――弾かれる。
 斜払――弾かれる。
 真向斬り――弾かれる。
 斜刀――弾かれる。
 縦刀――弾かれる。
 横刀――弾かれる。

 ありとあらゆる攻撃が全て弾かれる。それもまるで爪のある場所に吸い込まれていくかのようだった。ブレインはこの瞬間、完全に理解した。世界の広さ。
 そして――本当に強い存在というものを――。

「あれ? 疲れちゃいんしたかぇ?」

 刀を振るう手が止まる。
 山を刀で削りきることができるだろうか。そんなことは不可能である。どんな子供でも想像がつく当たり前のことである。ではシャルティアに勝てるだろうか。それもまたどんな戦士でも相対すれば理解できることである。
 
 勝てるわけが無い。
 
 人間の常識を超えた強さを持つ相手に、人間が勝てるわけが無い。もし仮に良い勝負をするとしたならそれは人間を超えた存在のみだ。残念ながらブレインは人間としての最高域に達した戦士でしかない。
 
 絶望に身を浸しながら、ブレインは肩で呼吸を繰り返す。洞窟内は意外に涼しいはずなのに、額の汗が頬を伝って流れ、顎から地面へ落ちる。まるで重石をはめられたように手足は重い。
 荒い息を整えつつ、ブレインはシャルティアに声をかける。

「取引をしたい……」
「え?」

 シャルティアの驚いたという声を無視し、ブレインはそのまま続ける。

「欲しいものはやる。だから見逃してくれ」

 眼をぱちくりとさせたシャルティアは楽しそうに微笑む。その変化に一握りの希望を抱き、ブレインは黙って返答を待つ。交渉はキャッチボールだ。相手に振ったなら、余計な情報を与えないためにも黙っておくことが正解である。

「……1つ。あなたよりも強い奴は奥にいるんでありんすか?」

 いない。
 事実を答えることは容易い。だが、その返答は彼女が望んだ答えかと考えるなら、恐らくはNOではないだろうか。では、もしいると答えた場合のデメリットは? それはシャルティアが興味を無くしたことによるブレインの価値の低下だ。

「いる。そして、誰かを教えることはできる」

 シャルティアは誰が強いのか分からないと言った。ならばその情報は価値を持つはずだ。騙されてくれ。ブレインはそう願い、容易く裏切られることとなる。

「……嘘でありんすね。もしそうならもつとも時間を稼いでその人物が来るのを待ったはずでありんすぇ。そうではないとしてもその人物は何で来ないんでありんすか?」
「……番人として警備に当たっているんだ」
「それも嘘でありんすね。ならなんで返答に時間が掛かったんでありんすか?」
「裏切るかどうか迷ったからだ」

 シャルティアは微笑んだ。ブレインをして、アレだけの力を見せ付けられた上で、美しいとしか思えない透明な微笑だ。

「まぁ、では欲しいものをいただけんすか? それなら別に見逃してもかまいんせんよ? ……ただ、約束でありんす。嫌だなんていったら殺しんすがらね」
「わかった。約束しよう」
「欲しいのはねぇ……あなた方野盗でもっとも強い奴なんです。あはっははっはぁぁぁああははは!」

 シャルティアは耳元まで裂けたような笑いを浮かべると、音程の外れた鐘が何十も鳴り響くような哄笑を奏でる。そのとき初めて、ブレインは最も間違っていたことに気づいた。

 ――少女?
 ――モンスター?
 ――化け物? 
 
 どれも違う。
 アレは恐怖というものを具現化した存在――。

 色すら付きそうなほど濃厚な血の臭いがブレインの顔を叩く。
 虹彩からにじみ出た色によって、眼球が完全に血色に染まっている。
 先ほどまで白く綺麗な歯が並んでいた口は、注射器を思わせる細く白いものが、サメのように無数に何列にも渡って生えていた。ピンクに淫靡に輝く口腔はぬらぬらと輝き、透明の涎が口の端からこぼれだしている。

「あはっはっはあああははは。なにいいいその顔、こわいのぉおおおお! あははっははっはぁあはは! だいたいここにくるまでに誰が強いか聞いてるっていうのおおおおぉお。あはははっはっはああああぁああ」

 もはや絶世の美なんていうものはかけらも無い。そこにいるのは血に飢えた悪夢の女王だ。
 ブレインは意志が完全に砕け散るのを、生まれてより初めて感じた。

「ひっしにえんぎしてばかみたいいい! もうだぁああああめえええ。あなたはこれからおいしくいただくのよおおおおぉおおお、あはははっはぁああはは」

 腰に隠してある武器――ダガーに手を伸ばす。そしてそれを抜き払いつつ、一気に自らの喉めがけ走らせる。
 死ぬのは嫌だ。だが、死ななければそれ以上に酷いことが待っているような気がする。ブレインは喉に走るだろう痛みを待ちかね――

《――/――》



 ――目の前に巨大な口。今まで嗅いだ事も無いような血の塊を思わせる臭気。

「あはははっははあああ、楽しいぃいいいいい。死ねるとおもっちゃいまちたかぁああぁぁあ。べろべろばああぁぁぁ」

 天を仰ぎ、けたたましい哄笑を上げるシャルティア。いつの間にか、ブレインの手の中に有ったはずのダガーは無くなっていた。いや、シャルティアの手の中でもてあそばれている。ダガーがパキと音を立てて、へし折られた。
 ダガーを奪われた記憶は無い。
 『領域』を展開してないとはいえ、いくらなんでも武器を取り上げられたら知覚できたはずだ。まるで時間が吹き飛んだように、過程が無い。
 
 一体何をしたのか。
 こんな化け物は知らない。

 もはやブレインの矜持は完全に砕け散った。

「た、助けてくれ、なんでもするし、なんでもやる――いや、違う。差し上げる! だから――」
「だぁああああめぇええええ、ひさしぶりにすううぅううんだからぁあああああぁあ」
 
 くぱっと口が耳上まで裂け、人の頭を丸呑みに出来るのでは思うほど大きく広がる。


 この場にいる誰も知らない。
 ユグドラシルというDMMORPGにおいてモンスターとして出現するトゥルーヴァンパイアは禍々しい化け物だということを。耳の上まで裂けた口が大きな半円を作り、突き出した2本の犬歯は顎下まで届く。爛々と光る真紅の眼は血の色の輝き、そして枯れ木のような手足の先には数十センチはある鋭い爪が伸びている。動く姿は猫背気味で、飛び掛るように襲い掛かってくる。
 そんな姿なのだ。
 ヴァンパイアは蝙蝠と人間の会いの子のような化け物だし、上位種たる始祖<オリジン・ヴァンパイア>はより一層化け物とした外見をしている。せいぜい美しいといえそうなヴァンパイア系統のモンスターはシャルティアの妾である吸血鬼の花嫁<ヴァンパイア・ブライド>ぐらいだ。
 そしてシャルティアが美しいのは単純にシャルティアをデザインした、アインズ・ウール・ゴウンのメンバーの1人のイラストが上手く、なおかつ立体化が上手くいったからに過ぎない。
 現在のシャルティアの姿は、トゥルーヴァンパイアとしての本性を見せているだけ。つまるところ普段の方が偽りの姿なのだ。


「ひっ」

 ブレインの喉に広がる灼熱感。耳に聞こえる、何十本のストローで残った飲み物を無理に吸い上げるような音。ブレインの視界が暗く染まり、意志が遠くなっていく。薄れいく思考の中に死という文字が浮かび消えていく。

「あ、あ、ああ……ぁぁぁぁ……」
「あああぁぁぁおいいいいいっししいいいいいよおおおぉお」
 
 喉に噛み付いているために不明瞭な声が歓喜の歌を奏でる。それを最後にふつりとブレインの意識は消えた。






――――――――
※ というわけで最強ものらしい戦闘シーンが書けていたでしょうか。『真祖2』はこの話のタメだったのですが、盛り上がっていたら嬉しいです。こんな風にしたらもっと最強ものじゃね、等何か思われるところがありましたらご意見を聞かせていただければと思います。よろしくお願いします。
 あと興奮して暴走状態だとシャルティアはあんな口調になります。彼女の持ってるクラスの所為でもあるんですが。……シモベとネチャネチャしてる時もああだったらやだなぁ。
 次回残党狩りつつ、アインズに叱られるための30話「真祖4」でお会いしましょう。



[18721] 30_真祖4
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2010/09/27 20:47






 冷たい空気が広間を吹き抜けていく。
 その間、その場所に集まった誰もが沈黙したまま、広間の入り口――洞窟入り口の方角をじっと睨み続ける。

 傭兵団『死を撒く剣団』――残存全兵力42名。
 それがこの広間で武器を持っている人間の数だ。

 広間は通常時、食事をするための場所として使われている。というのもここが最もこの洞窟内で広いためだ。しかしながら現在は即席の要塞へと姿を変えていた。
 野盗達の塒であるこの洞窟は、最奥の長細いこの広間を中心に放射状に副洞がいくつか広がる。個室や武器置き場、食料庫等々だ。そのためここを抑えられれば後は確固撃破の対象となるために、襲撃の際はここを最終防衛ラインと想定して陣地が作成される。
 
 陣地といっても立派な材料で作っているというわけではない。
 まず粗末なテーブルをひっくり返し、それにあわせ木箱を積み上げて簡易のバリケードを作る。次に広間入り口とバリケードの間に何本ものロープを人の腹の高さに張り巡らせる。これによって侵入者の突撃を防ぎ、バリケードまで肉薄されることを避ける。
 こうして作った防衛陣地の後ろに、ほぼ全員がクロスボウを持ち待機する。中央、右翼、左翼という分け方での配置だ。
 射撃戦になったとしても入り口の広さと広間の大きさを考えれば、攻撃回数が多い広間側の方が圧倒的有利である。さらに散開していることによってどこかを攻撃しようとしたなら、他の箇所から攻撃を受けることとなる。範囲攻撃にしても散開している以上効果的な一撃からは多少遠い。
 そんな簡素だが、同数以上とも互角に戦えるような陣地がそこにあった。
 

 冷気が吹き込んでくる。
 そんな気がし、野盗の何人かが寒そうに肌を擦っている。
 確かに洞窟内の温度はそれほど高くない。夏場でも非常に過ごしやすい。だが、今彼らを襲っている寒さとは少しばかり違う。
 
 先ほど入り口の方角から聞こえた哄笑。洞窟内を響いてきたために、性別すら不肖な甲高い笑い声。
 それが彼らの全身を芯から冷やしたのだ。その前まであった、『死を撒く剣団』最強ともいって良い男――ブレイン・アングラウス。彼が迎撃に出たのだからバリケードを作った意味が無かったという声は、その哄笑が吹き飛ばした。
 聞こえてきた声はブレインのものではない。そしてブレインと対峙してもそれは笑っている。
 そこから考えられる答えは1つだ。
 誰もが考え付き、そして口には出せない答え。お互いの顔を黙って見合わせるのが一杯だった。

 ブレインを打ち負かすような相手。そんなものは存在しない。
 そう彼らは皆思っていたのだ。
 事実ブレインの強さは桁はずれていた。帝国の騎士すらも相手になら無い強さの持ち主だ。そしてモンスターですらそうだ。オーガを一撃で屠り、ゴブリンの群れに単身で飛び込み薙ぎ払うように命を奪う。恐らく正面から対峙すれば傭兵団『死を撒く剣団』の全員の首を取ることすらできうるそんな男を、最強と思わずしてなんと思えば良いのか。
 ではそんな男が負ける。それはどういう意味を持っているのか。

 緊張感が少しづつ高まる。そんな中――
 
 コツコツという音が野盗の耳に飛び込んできた。ゆっくりだが、しっかりと。

 誰かの唾を飲み込んだ、ごくりという音が大きく響く。そんな静寂が広間全体を支配した。
 ガチリというクロスボウを引き上げる音が連続して起こる。

 野盗達、皆が注目する中、広間の入り口にゆらりと男が姿を見せた。

「ブレイン!」

 野盗の頭――傭兵団団長である男が大きな声を上げる。遅れて広間中に爆発的に歓声が上がった。
 隣にいる者の肩を叩き、ブレインを称える声を響く。
 ブレインの名が何度も何度も繰り返される。
 
 それは侵入者を倒した。そういった類の喜びの咆哮だ。

 そんな称賛を全身の浴びながら、ブレインは広間入り口に立ったまま、黙って野盗達の顔を見渡す。それは人数を数えている様でもあり、観察しているような不気味さがあった。
 そのいつもとはまるで違うブレインの態度に押されるように、歓声はゆっくりと止んでいった。

「――俺はよぉ。使えるべき真の主人を見つけたんだ」

 静かになった広間に響き渡る、賛美するような声。ブレインの顔に浮かぶ、まるで夢の中にいるような陶酔しきった表情。それは誰も見たことの無い表情だった。
 野盗達が知るブレインという人物は剣のみを追いかけた、ある意味非常にストイックな男だ。性欲処理用の女を宛がわれても、興味なさそうに追い払う。美味い酒を奪ったとしても、一口も口にはしない。
 唯一、自らを高めるということに対してのみ貪欲な男だ。破格の金を貰い、それを貯め自らを強化するアイテムを買う。日々黙々と剣を振るい、自らの装備品の点検を怠らない男。
 先ほどの発言はそんな男のものとは思えなかった。
 
「……大丈夫か、なんかすげぇ顔色悪いぞ」

 頭でも打ったのか、そんな思いを抱きながら団長はブレインに声をかける。
 確かにブレインの顔は真っ白であった。血の気が引いているとかそんなレベルではない。死人の様な――そんな色だ。

「あれ? ……ブレインさんって目の色赤かったっけ?」

 誰かの呟きに合わせ、皆の視線がブレインの目に集中する。確かに赤い。まるで血の色に染まったかのような色だ。充血でもしたのだろうか。誰もがそう思う。

「いらっしゃったぞ! ご主人様だ。皆、見ろよ。俺の最高のご主人様だ!」

 幼子が自らの母親に向けるような親愛を、表に強く出しながらブレインは後ろを振り返り、そしてその進路上から退くかのように一歩ずれる。

 ブレインがどいた後ろ、そこから何かが姿を見せた。
 異様なほどの猫背。両手をだらりと力なく垂らし、顔を完全に俯かせている。長く艶やかな銀の髪が大地に触れているのを気にもせずに引きずり、ゆっくりと広間に入ってくる。黒い仕立ての良いドレスがまるで闇が纏わり付いているように見えた。
 
 誰も言葉を発しなかった。
 あまりの異様なその姿、そして心臓が止まるのではと思えるほどの冷気。

 ゆるり――と頭が動いた。顔を完全に覆った、銀糸を思わせる細い髪の奥に真紅の光が2つ灯っていた。それがゆっくりと細くなる。
 ……笑ってる。
 誰が言ったのか、何処からかそんな呟きが聞こえる。

 ――ああ、そうだ。
 ――あれは笑っているんだ。

 誰もがそれを理解した。いや――理解してしまった。
 決して理解したくないことを――。

「おいおい、何を呆けた顔してるんだよ。俺のご主人様――シャルティア様だぞ。あぁ……なんて綺麗なんだ……」

 もはやブレインの呟きは誰の耳にも入っていなかった。ただ、ゆっくりと広間に入ってくるその異様な存在――シャルティアに全てを奪われていた。
 あまりにおぞましいが故に目を離すことができない。
 
 顔を上げるな。
 こっちを見るな。
 どこかに行け。
 
 必死にそう願うのが精一杯だ。
 
 だが、その願いを嘲笑うかのように、猫背だった体がしっかりと伸び上がり、銀糸のごとき美しい髪が後ろに流れることで隠れていた顔が姿を現す。

 そこには――裂けるような笑みが、悪夢の女王を思わせる顔に浮かんでいた。

「あははははあははっははぁぁはははっはあ!!」

 哄笑――。
 広間の空気がビリビリと悲鳴を上げる。洞窟内という場所を考慮に入れても異様な響き方だ。まるで大気すらも耐えかね、唱和してるのではと思うほどだった。

「うわぁぁぁぁああ!」
 
 悲鳴が上がり、恐怖に駆られた1人の野盗がクロスボウを引く。空を切って矢はシャルティアの胸に深々と突き刺さる。それを受け、シャルティアが微かによろめく。

「――撃て!!」

 団長の声に我を取り戻した野盗たちは一斉に、恐怖を拒絶するようにクロスボウを引く。
 クロスボウから放たれた矢はまるで雨音のような音を引きながら、シャルティアの体に突き刺さっていく。
 飛来した矢は総数40本。命中した数は31本。どれもが深々と体に食い込んでいる。単なる金属鎧すらこの距離なら充分打ち抜ける以上、それは当然の結果だ。
 そして頭部には4本も食い込んでいる。今だ立っているが、それは人間であれば致命傷だ。
 そう、人間であれば――。

「やった……」

 誰かが呟く。
 それは誰もが思う言葉の代弁だ。全身を矢でハリネズミ状態になっているのだ。常識で考えれば、それは確実に死んでいるはずだ。ただ、頭ではそう考えてはいるのだが、しかしながら心の片隅ではそれを信じてはいない。
 野盗たちは野生の感ともいうべき何かに駆り立てられるように次弾の装填に入りだす。

「ご主人様。俺も……」

 そこまで口にしたブレインは何かに反応するように体を震わせ、口を閉ざす。それは恐怖のようでもあり、甘美なるものを味わったためにも見えた。
 シャルティアが動く――。
 指揮者がタクトを振り上げるようにように大きく、それでいながらゆっくりと両手を――開く。突き刺さったはずの矢が体から吐き出されるようにゆっくりと動き、全て大地に落ちる。落ちた矢には1つも血はついていない。鏃は潰れてもいない。まるで未使用品と同じだった。
 それを目にしても、ああ、やっぱりかという思いしかその場にいる皆は浮かばなかった。

 シャルティアは哂う。
 にたりという擬音が最も相応しい、そんな笑顔で。

「うわぁぁあああああ!」

 絶叫があちらこちらで起こり、再び無数の矢が空気を切り裂き、シャルティアに殺到する。
 目玉を貫き、喉元を射抜き、腹部に刺さり、肩を抉る。そんな中にあってまるで単なる雨が吹き付けるような、そんなわずらわしさしかシャルティアの態度には無い。

「きかないのにぃぃぃいい。がんばりまちゅねぇぇっぇええええ」

 一歩踏み出す。そして――跳躍。
 天井までの高さはおよそ5メートル。その天井に触ろうと思えば容易いだけ跳躍を得て、バリケードの後ろに優雅に舞い降りる。カツンとハイヒールが音を立てた。そして体から全ての矢が落ちる。
 ぐりっと頭を動かし、自らの後ろでクロスボウの装填に手をかけていた野盗を見る。
 踏み込み――殴りつける。腰の入ってもいない、単に手を突き出したようにしか見えないパンチだ。しかしながらその速度は桁外れであり、破壊力は領域が違う。
 殴りつけられた野盗の1人の体をたやすく貫通し、そのままバリケードに拳が叩きつけられる。そして爆発音じみた大きな音をたてながら、バリケードを構築していた木々が粉砕し、破片が周囲に散乱した。

 沈黙。

 ぱらぱらと木屑が地面に落ちる音のみが広間に響く。
 呆気に取られた野盗たちはクロスボウを装填する手を止め、シャルティアを凝視していた。

 シャルティアは頭上に浮かぶ血の塊に人差し指を差し入れ、引き抜く。引き抜かれた際に血が糸を引き、シャルティアの前で文字となる。梵字やルーン文字にも似た魔法文字といわれるものである。
 
 それは鮮血の貯蔵庫<ブラッド・プール>。シャルティアのクラスの1つであるブラッドドリンカーで得られる特殊能力であり、殺した存在の血を貯蔵し、様々な用途に使用することの出来る魔の塊だ。そしてその能力の1つ――魔法強化。

《ペネトレートマジック・インプロージョン/魔法抵抗難度強化・内部爆散》

 第10位階魔法――最高位の魔法の発動にあわせ12人の野盗の体が内部から大きく膨れ上がる。
 次の瞬間――風船が破裂するような軽快な音を立てて爆散した。悲鳴を上げる暇すらない。ただ、膨れ上がりだした自らの体を見下ろし、何か得体の知れないことが起こっているという恐怖の表情を浮かべるだけの時間しか許されなかった。

「あははっはああああっははははああぁぁはは! はなびぃいいい! きれえええぇぇええええーーー!」

 血煙を上げる場所を指差し、にたにたと哂いながらシャルティアはパチパチと手を鳴らす。それに追従するように広間入り口にいるブレインも陶酔しきった顔で手を叩く。

「うおおおおお!」

 怒声と共に突き出されたエストックが、シャルティアの胸――心臓のある箇所を背中から貫く。そして上下に傷口を広げるように動かされる。

「くたばりやがれ!」
 
 続けて振り下ろされた別のブロードソードが頭部を半分断ち切り、左目の箇所から剣先を突き出した状態で止まる。

「続け、てめぇら!」

 悲鳴と咆哮が交じり合った雄たけびを上げて、総数3人の野盗達が持っていた武器をシャルティアの体に振り下ろす。何度も何度も剣を振り下ろす。だが、ブロードソードを顔に突き刺した状態で、平然としている化け物がそこにいるだけだ。
 野盗たちは幾度もの攻撃による疲労で剣が手から離れれば、泣き顔で拳で殴り、足で蹴りつける。しかしながら巨大な岩石を叩くかのようにシャルティアはびくともしない。
 シャルティアはそんな野盗たちを小首をかしげるように見ながら、考え込む。それから良い方法に気づいたのか、手をぽんと鳴らした。

「はぁぁあああああっぁああああ」

 溜まった熱を放射するように息を吐く。周囲をむせかえるような濃厚な血の臭いが渦巻く。
 無造作にシャルティアは自らの頭部に突き刺さったブロードソードを抜いた。無論、抜いた後に傷なんてものは無い。
 それを振るおうとしてシャルティアは手を止める。ブロードソードは錆付き、ゆっくりと崩れだしていたのだ。自らのクラスの1つ――カースドキャスターのマイナス面を血に飢えた頭に呼び起こし、がっかりしたように投げ捨る。それから繊手を無造作に振るう。
 3つの頭がごろっと大地に転がった。
 
「逃げろ! 逃げろ!」
「勝てるわけねぇだろ、あんな化け物!」
「やべぇよ、あれ!」

 口々に叫びながら逃げ出そうとする野盗たち。もはや戦意も完全に砕け散り、逃げ出そうとした1人の頭部を後ろから両手で掴み、一気に力を込める。バキバキという甲殻類の甲羅を無理に剥がすような音と共に脳漿を撒き散らしながら頭は砕け散った。


 そんな光景を楽しみながら眺めるブレインの前に1人の男が転がり現れる。

「助けてくれよ、ブレインさん! お願いします! もう悪いことはしません!」

 泣き顔で足に掴み、必死に命乞いをするかつての仲間に困ったような表情を向けるブレイン。

「助けてやってもいいけどよ……」

「まずはご主人様に聞いてからな。――ご主人様、こいつどうしますか?」
「――ぽぉおおおぉぉんってほうってぇぇええええ」
「分かりました。うんじゃ、いくぞ?」
「やめて! やめてくださいいいいい!!」

 必死にブレインの足を掴む男の背中の辺りを掴んだブレインは、片手で軽く放る。男がブレインの足を掴んでいられなくなるほどの腕力を使って。
 5メートル以上は離れているシャルティアの元へ、男は山なりを描きながら悲鳴と共に中空を舞う。無論これは今までのブレインではさすがにできなかったことだ。もしかしたら両手で全身の力を込めてやればできたかもしれないが。ヴァンパイアに変わることで驚異的な肉体能力を得たのだ。
 
「ばぁぁぁあああああんんん」

 それを地面に触れさせること無く拾ったシャルティアは、下からぐるっと回転させるように天井めがけ投げつける。破裂するようなあっけない音と共に血や内容物が降り注ぐ。その全てが下につくまでにシャルティアの頭部に浮かぶ血の塊に吸い込まれていく。
 それからシャルティアは逃げ惑う野盗たちに笑いかけた。

「まぁぁああだまぁぁああだいぃぃぃっぱい、いるなぁぁぁぁああああ」

 無数の悲鳴、怨恨の叫び、絶望の慟哭が広間に一杯にこだました――。


 もはや動くもののいない静まり返った広間の中、シャルティアはニタニタと笑みを浮かべながら立っていた。頭の上に浮かぶ血の塊もなかなか大きくなっていた。大きさにして頭部よりも小さいぐらいだろうか。

「たのおおおおおぉぉぉぉおしいぃいいぃいい」
「楽しまれた様で何よりです、偉大なご主人様」
「もういぃいいないぃぃぃぃぃのかなぁぁぁああああああ?」
「それでしたら――」
「――シャルティア様!」

 話しかけたブレインの言葉に重ねるように、女の声が広間に響く。
 ヴァンパイアが外に残していたヴァンパイア共に連れ立って広間に入ってくる。

「何者たちかがこちらに向かってきてます」
「んんん? やとうのいきのこりかなぁあぁぁっぁあああ?」
「――あ」
「じゃぁあああっぁぁああ。でむかえようかっぁっぁああああ。あははっはああははぁぁぁああああ」



 ■



 シャルティアは飛び上がる。闇夜に舞い上がる鳥のような跳躍を持って、入り口でバリケードを作っていた丸太の上に片足で降り立つ。他の3体のヴァンパイアはゆっくりと入り口を上がってくる。
 シャルティアは笑みを浮かべたまま、標的を睥睨する。

 そこにいたのはしっかりとした隊列を整えた一行だ。
 前衛として3人の男の戦士が並ぶ。それぞれ装備品は違うが、最低でも何枚もの鱗が重なったような作りのスケイルアーマー――中装鎧を着用し、抜き身の武器を片手、背中にはラージシールドを背負っている。
 そしてその後ろに赤毛の髪のバンデッドメイルを着た女の戦士。
 その後方に守られるように歩くのが軽装に杖を持った男、おそらくは魔法使いだろう。その横に並ぶようにして神官着を鎧の上から羽織り、炎のような形をした聖印を首から下げた男が続く。

 全員、洞窟から飛び出てきたシャルティアに驚愕しつつも、混乱せずに警戒を緩めない。それは経験が物語った立ち舞いだ。

「いいねぇぇぇぇえええええ」

 豆腐のような脆さの人間を殺すのも良いが、多少は歯ごたえがあった方がやはり面白い。
 そんな楽しみを両の真紅の瞳に宿しながら、にたにたと笑いかける。シャルティアに何を気づいたのか、魔法使い風の男が驚愕をその顔に浮かべる。しかしながらその驚きは一瞬。直ぐに表情を引き締める。

「推定、ヴァンパイア! 銀武器か魔法武器のみ有効。勝てない! 撤退戦! 眼を見るな!」

 この窪地全体に聞こえるのではというだけの大きな声で魔法使いが叫ぶ。
 そんな重要な点のみを抽出して発した指令に対し、迅速に他の者たちは反応をみせる。一斉に前にいた戦士達は背中に背負っていたラージシールドを前に突き出し、防御姿勢をとる。視線は逸れ、シャルティアの腹部や胸部をにらみつけている。
 その間に後ろにいた女戦士が前の戦士達の武器を受け取り、何かを塗布しはじめる。
 微かにシャルティアの鼻に漂う不快なにおい。

 それは錬金術銀。
 アルケミストたちが作れる特殊な塗布剤だ。武器に触れると油膜を張るように、銀と同じ効果を持つ特殊な魔法薬で刀身を覆う。
 通常、銀で作った武器は高額な割には鉄の武器よりも刀身が柔らかく、長期の使用に関しては不向きだ。そのために冒険者の多くは、銀の武器の1/10というそこそこの値段は張るが、この塗布剤を買い込む。そして必要に応じて使用して、一時的に銀の効果を得るという手段をとるのだ。有効時間こそ5分も持たない程度だが、全力での殺し合い時はそれほど時間が掛からないものだから。

 受け取った一時的な銀の輝きを宿した武器をチラつかせ、シャルティアを牽制しつつ一行は後退を開始。その後退も見事なものだ。全員がまるで1つの生き物のように整った動きで下がっていく。

「わが神、炎神――」
「無駄はするな! 防御魔法に入れ」

 聖印を掲げようとした神官を止め、魔法使いが魔法を前衛にかけ始める。それにあわせ神官も魔法をかけ始める。
 
 神官の大半はクラスにもよるがアンデッドや悪魔、天使といった存在を神の力を行使することで退散、従属、消滅と行うことができる。ただ、それは自らの力量よりも格段に下位の存在のみに有効な手段だ。つまりは神官がシャルティアにかけようとしたが、魔法使いは神官では力量的に不可能と判断して、行為自体を無駄と見なし、そんなことに力を割く余力があるなら別の手段にしろと指示したのだろう。

《アンチイービル・プロテクション/対悪防御》
《マインド・プロテクション/下位精神防御》

 防御魔法を順次、前の戦士達にかけていく。
 シャルティアの興奮しきった頭に少しばかり感心したような感情が生まれた。使っている魔法は最低レベル――第1位階魔法だが、敵にあった魔法をかけている。先ほどのむやみやたらに適当な攻撃を繰り返す野盗や、1人で出てくる愚かな戦士とは違う。

 とはいえ――無駄は無駄である。
 歴然とした実力差の前には何の意味も持たない。
 
 シャルティアは踏み込む。
 本当に軽く。
 ステップを踏むような軽やかさ。だが、それを見ているものからすれば疾風を超えた動きだ。
 そのまま抜き手を1つ。
 盾を貫通し、鎧を砕き、魔法の防御を無視し、肉を切り裂き、先ほどまで脈を打ってきた心臓をその手に握り締め、そして一気に――引き抜く。崩れ落ちる戦士の前で、シャルティアは一行に手の中でブニャブニャと形を変える赤黒い塊を見せ付ける。女が小さな悲鳴を上げ、神官が憎憎しげに顔をゆがめた。
 そんな光景にシャルティアはにたにた笑いながら魔法を発動させる。
 
《アニメイト・デッド/死体操作》

 ゆっくりと心臓を失った戦士が立ち上がる。
 この状態では最下級のアンデッドモンスター、ゾンビでしかない。シャルティアは心臓を無造作に投げ捨てると、頭上に浮かんだ血の塊に手を入れる。そこから真紅の塊――脈動する血の塊を取り出す。それは心臓のカリカチュアだ。
 それをゾンビに放った。
 血の塊は蟲か何かのように蠢きながら、形を歪め、ゆっくりとゾンビの体の中に入り込んでいく。そして幾度か全身が痙攣しながら、ゾンビがゆっくりと変わっていく。
 胸部の大穴がゆっくりと時間が巻き戻すように修復して行き、それと同時に全身の水分が蒸発するように枯れ木のような皮膚となっていく。

「ありえん! 代償無しであれほど高度な魔法を使いこなせるヴァンパイアなぞ聞いたことがない!」
「実際目の前にいるんだ。落ち着け! 冷静に対処しろ!」
「しかし!」
「――撤収は無理だ! 打ってる出る!」
「おう!」

 神官が混乱を起こし、それをどのように感じたのか。戦士の1人がシャルティアに切りかかる。そしてもう1人はかつての仲間であり、現在レッサーヴァンパイアへと姿を変えつつある存在へだ。

「わが神、炎神よ。不浄なりし者を退散させたまえ!」

 神官の持つ聖印から見えざる神聖な力が放射状に放射される。無論、シャルティアには何の効果も無いつまらないものだ。

「あぁはあああああぁぁぁぁぁはははっはははは!」

 戦士の1人の剣がレッサーヴァンパイアに食い込んでいる。神官の神聖なる力によって束縛を受け、身動きが不自由になった所為だろう。完全にレッサーヴァンパイアと成りきっていない不安定なゾンビだからこそ効果があったのだろうが、自らの創造物がつまらない神の力に負けるというのはシャルティアに不快感を抱かせるには十分である。
 振り下ろされた剣を小指で弾きながら、不快感を持ってシャルティアは後ろにいる神官を睨む。

「じゃぁあああままままぁあああああ!」

 無造作に右手を一振りする。そんなつまらない動作で、首を切り裂かれた戦士は血を噴出しながらゆっくりと崩れ落ちる。

《レッサー・ストレングス/下級筋力増大》

 最後に残った戦士に強化魔法が飛ぶ。身動きが遅くなったレッサーヴァンパイアと強化魔法をふんだんにかけられた戦士。この二者の戦闘は若干戦士不利の状況で少しづつ経過している。
 まぁ、楽しんでるようだし邪魔をしては悪い。それに獲物はまだいるのだから。
 血に飢えきった思考でそんなことを考え、シャルティアは神官に向き直る。
 その斜線上に剣を持った女戦士が立ちはだかる。それも単なる鉄の武器で。

 かわいいものだ。びくびくと怯えながらも懸命に剣を構え――まるでその姿は小動物の哀れな抵抗だ。シャルティアは下腹部が熱くなるようなそんな喜悦に苛まれる。
 
 指を噛み千切ったらどんな声を上げるのだろうか。
 耳を切り落として、食べさせても良い。
 いや、そんなことをする前に血を啜るのがいいだろう。外に出て、初めての女の獲物なのだから。

「でざぁぁああああとぉぉぉおぉおお、けってぃいいいいい」

 跳躍。
 女を軽く飛び越え、魔法使いと神官の前へ。
 神官が動くよりも早く、聖印を握りしめた手を上から包み込むように握り、一気に握り潰す。

「ぐわぁああ!」

 神官の悲鳴を聞き、満足そうに笑ったシャルティアは慈悲を与えることとする。手の一振りで苦痛を無くしてやったのだ。噴きあがる血が頭上の血の塊に吸収されていくことを頷き、喜ぶ。
 
 そんなシャルティアの背中に誰かが渾身の力を込めてぶつかってくる。だが巨木と同じように、その程度ではシャルティアはびくともしない。ただ、胸元から突き出した剣が少々邪魔なだけだ。

「嘘……効かないの! 銀武器でしょ、これ!」
 
 剣が胸を――それも心臓の位置を見事に貫いているが、それを無視して動くシャルティアに女は悲鳴まじりの叫びをあげる。
 女は銀の武器を持ってはいなかった。恐らくは殺された戦士の剣を持ってきたのだろう。
 魔法使いの言ったことはあってはいる。だが、間違えてもいるのだ。シャルティアに有効な武器は銀かつある程度の魔力のある剣か、ある特定属性の武器のみだ。銀の単なる武器ではダメージは負わない。
 シャルティアはそのまま後ろの女を無視して、驚く魔法使いを眺める。

《マジック・アロー/魔法の矢》

 必死の形相での魔法の発動にあわせ、2本の光の矢がシャルティアに飛び、そして――容易く打ち消された。
 それはシャルティアの特殊能力――中位魔法ダメージ軽減によるものだ。軽減とはいっても差がありすぎればダメージは入らない。つまるところそれだけの歴然とした差が存在するのだ。

「つまぁぁぁぁああんんんなあぁぁぁぁぁぁあいぃぃぃいい!」

 魔法使いの首が容易く転がり落ちる。
 振り返ると、今だ良い勝負をしているレッサーヴァンパイアと戦士の2人。
 シャルティアは転がった2つの頭髪を掴むと無造作に拾い上げる。そしてそれを退屈そうに両者に投げつけた。おおよそ6キロもの重さのものが桁外れな速度で飛来するのだ。その結果なぞ語るまでも無い。両者ともにゆっくりと崩れ落ちた。
 そんな中も幾度も剣が体を貫き、切り刻むが別に気にはしない。服だって魔法の一品。穴は直ぐに修復する。
 
 シャルティアが正面から向いたことで最後の1人になったことを女は気づき、怯えるように後ろに下がる。そして必死になってベルトポーチを漁り、何かを取り出そうとする。
 シャルティアは真紅に染まった世界のそんな光景をのんびりと眺める。何を行うのか、ちょっとした好奇心があったのだ。

 やがて女は瓶を取り出し投げつけてくる。聖水だろうか、それとも着火型火炎瓶だろうか。何をしても無駄なのに。
 女が投げてくる瓶を軽く一瞥して、シャルティアはニタニタと笑う。
 なんと哀れな抵抗だろう。
 やはり最初は死なない程度に血をゆっくり味わうとしよう。それから色々とすれば良い。できるだけの血の出ない方法で。

 そう決定したシャルティアは、飛来した瓶を片手で無造作に跳ね除けた。その衝撃で、空いていた口から赤い溶液が飛散し、シャルティアの肌を濡らす。
 そして走る――微かな痛み。
 
 シャルティアの頭が一瞬で真っ白になる。先ほどまでの血に飢えた感情はどこかに吹き飛んでいた。
 シャルティアは呆然と痛みは走って来た場所を眺める。それは払いのけた手だ。溶液が付着したところから刺激臭と微かな煙が上がっている。
 視線を動かし、大地を見下ろす。そこにある転がった1つの瓶。口元は開いており、そこから微かに香しい匂いが漂っていた。そしてそれはシャルティアがよく見覚えのある容器でもあった。
 それは――ナザリック大地下墳墓で一般的に使われているポーション瓶だ。
 中身は恐らくはマイナー・ヒーリング・ポ-ション。アンデッドは治癒系のアイテムによってダメージを受ける。シャルティアの肌が微かに溶けたのもそれが理由だ。
 傷自体は直ぐに再生した。白く綺麗な手に傷跡は当然残らない。だが、シャルティアの驚愕はそれでも残っている。

「馬鹿な!!」

 空気が震えるような怒号。

「その女を無傷で捕まえろ!」

 シャルティアの言葉に反応し、今まで後ろで眺めるだけだったヴァンパイアたちが動き出す。シャルティアが呆然としている間に必死に逃げ出した女との間合いを一瞬で詰め、左右の手を掴み上げる。
 女は必死で抵抗するが、人間とヴァンパイアでは素の筋力が違う。いとも容易くシャルティアの前に突き出されることとなった。

「眼を見ろ!」

 シャルティアは女の下顎を掴み、無理矢理自らの魔眼を覗き込ませる。無論、力加減には十分注意してだ。下手に力を入れて下顎を毟り取ってしまったりしたら目も当てられない。シャルティアは神官系の魔法は使えるが、アンデッドのために通常の回復魔法は使用することができないためだ。
 無理矢理覗きこませた女の瞳に薄い膜のようなものがかかり、その敵意と恐怖に満ちていた顔に浮かぶのは、もはや友好的なものでしかない。魅了の魔眼による魅惑効果の発動だ。十分に効果を発揮したと感じたシャルティアは、女から手を離す。

 幾つも聞きたい質問はある。だが、何より最初に聞くべきものはたった一つだけだ。
 シャルティアは落ちていたポーション瓶を拾い上げ、それを女の目の前に突きつける。

「このポーションはどうした! 誰から、何処で手に入れたものだ!」
「宿屋でモモンという人物からもらいました」
「モ、モモン? ……まさか……いや、そんな訳が……でも……」

 それがどうしたの、と言わんばかりの女の軽い答え。
 シャルティアは世界がぐらりと揺れるような驚きを感じていた。モモン――その名前はシャルティアを混乱させるのには充分な名前だ。
 モモン、そしてシャルティアの見慣れた容器。そこから浮かぶ人物像はたった1人しかいない。いや、1人しか浮かばない。至高の41人であり、その長、最後まで残った――かつての名をモモンガと名乗った者しか。

 名前が酷似していると言うことはあるのだろうか。確かに無いとは言い切れない。この世界で一般的に使われるポーションの瓶がたまたまナザリックで使われるものと同じだったという奇跡もまたあるだろう。
 そこまで考えシャルティアは頭を振る。無理矢理すぎるこじ付けだと。
 同一人物が偽名で名乗ったと言う方が常識的に考えて、十分納得できる。

 それよりも問題は、何故この女がポーションを持っているかだ。この女がどうしてポーションを貰ったのか。何の理由も無く渡したのだろうか? 

「まさか……」

 この女にも何らかの指令を与えた? もしくは報酬として渡した等も考えられる。
 アインズが一時的に何処に行ったかまでは知らないが、1人でナザリック大地下墳墓を出ていたことはシャルティアも知っている。しかも名前を変えたのはその後だ。もし、その時に出会って渡したとするなら、辻褄は合う。いや合ってしまう。

「何でここに来た?! 目的はなんだ?!」
「はい。私達の主の仕事は街道の警備だったんですが、この周辺に野盗が塒を構えているという情報を数日前に手に入れたので、この森を鋭意捜索中でした。その結果この森に仕掛けられた罠を解除しつつ、塒を発見したので時折様子を伺っていたら、何か異変が起こったということが分かりましたのでチームを二分して、私たちが強行偵察任務ということでここに来ました」
「チームを二分?」
「はい。最初は野盗の数がどれだけいるか不明でしたので、私たちがちょっかいをかけて、もう1つのチームが現在作っている罠のエリアまで誘き寄せる計画でした」
「もう1チームねぇ」

 シャルティアはまた厄介ごとが、と舌打ちを1つ。

「それで全員でここに来たのは何人だ?」
「ここに来たのが私を含めて7人。それで――」
「待て。7人? 6人じゃなくて?」

 シャルティアの視線が周囲に転がった死体に向けられる。戦士が3人、神官が1人、魔法使いが1人――そしてこの女。人数が合わない。
 その疑問に満ちた視線に女はさらっと答えを返す。

「はい。あと非常事態時にエ・ランテルまで救援を求めるためのレンジャーが1人」
「何だと……?」

 先ほどの魔法使いの声は非常に大きかった。そう、この窪地全体に聞こえるような――そんな大きさ。

「くっ!」

 目を大きく見開いたシャルティアは、疾風をはるかに超える速度で一気にこの窪地を駆け上がる。一気に上まで躍り出、周囲を見渡すが、闇夜を見通すシャルティアの目をもってしても木々の奥まで見通せるわけではない。耳をそばだてるが、風が起こす草木の揺れる音以上は掴みきれない。
 知覚系の能力や捜索系魔法をシャルティアは持っていない。この状況下でこの森の中から人間を1人探すのは恐らく困難だ。
 
「ちくしょうが!」

 逃げられた。正直、侮りすぎていた。
 ギリギリと歯が軋む。

「眷属よ!」

 シャルティアの足元の影が蠢き、あふれ出すように複数のオオカミが姿を見せた。無論、普通のオオカミとは違う。漆黒の毛並みは夜闇を纏ったようだし、赤い光を放っているような真紅の瞳は邪悪な叡智を宿しているのが分かる。
 それはヴァンパイア・ウルフ。7レベルという低位のモンスターだ。
 シャルティアの保有する能力の1つ――眷属招来で呼び出せるモンスターは複数あるが、その中で追跡できそうなものはこいつらしかいない。

「追え。この森にいる人間を食い殺せ!」

 怒号とも言っても良い叫び声の命令に、10体のヴァンパイア・ウルフは一斉に森に駆け込んでいく。
 その後姿を見送りながら、シャルティア自身としては逃げている者を殺せる可能性は低いと判断している。レンジャーであれば追跡を回避するすべを知っているからだ。
 つまりは逃げ切られたと判断した上で、次の手を考えるべきだ。
 シャルティアは急ぎ戻ると、掴みかかるように女に質問する。

「聞かせなさい。そのレンジャーは別チームに戻る可能性はあるの?」
「無いです。彼は私たちのチームが壊滅するような状況にあった場合は、そのチームを捨てて都市に戻る手はずとなっています。それが最も私たちが生存する可能性が高い選択肢だからです」

 都市に直ぐに戻り援軍を要請する。それに答えてくれる準備を整えているのだとしたら、壊滅した1チームを少ない人数で無理に救援を行うよりは確かに助かる可能性は高い。まぁ、投降して直ぐに殺されないこと前提だが。

 賢い。
 負けた際の準備、用心の仕方、そういったものをしっかりと考えた上で行動している。そのためシャルティアは追い詰められたといっても良い。
 ヴァンパイアがいるという情報はほぼ確実に都市に持ち帰られたというとことだ。シャルティアの外見まで見定められたかは不明だが、人間の視力で夜間の窪地の中央付近にいたシャルティアを観察できたとは思えない。

「糞!」

 シャルティアは吐き捨て、自らの考えに没頭する。
 アインズからもらった命令は――

 今回、狙う獲物は犯罪者だ。消えても誰も文句を言わなさそうな。
 そんな犯罪者、例えば野盗とかの中に武技や魔法を使える者がいたら、吸い尽くして奴隷にしても構わないから絶対に捕まえろ。犯罪者の中で世界情勢や戦のこととかに詳しい奴がいたらそいつも逃がすな。そして騒ぎは起こすな。我々――ナザリックが動いていると知られるのはおいおい厄介ごとを引き起こしかねない。
 
 ――以上だ。

 ならば現状は指令のギリギリ許容範囲内だろう。

 ヴァンパイアがいたという情報は持って帰られるが、自らの名前やナザリックに関する情報を漏らしては無い。つまりはナザリックとここを襲撃したヴァンパイアを結びつけられる線は無いわけだ。それを踏まえて推測するなら、現状の情報で都市にいる者たちが考えで一般的なのは、ここの野盗どもが野良ヴァンパイアに皆殺しにあったというところだろう。
 無論、穴は色々とあるが、それ以上は情報を手に入れなければ行きつけないだろう。
 
 シャルティアは安堵のため息をつく。それから更に思考の渦に飲み込まれる。
 
 次なる問題は、それを踏まえた上でこの女をどうするかである。
 魅了状態でも完全に記憶が失われているわけではない。安全策をとるなら殺した方が良い。だが、そこで問題になるのはモモンという人物、そしてポーションの件だ。
 
 もし仮にこのポーションを何らかの目的や理由があって渡したとするなら、この女をここで殺すということはアインズの目的を阻害する行動になりかねない。それは甚だ不味い行為だ。

 生かして返した場合、雇った人間たちになんでこの女のみが助かったという疑問を抱かせることとなる。そして様々な情報――特にシャルティアの外見を知られることとなる。現状ではさほど問題にはならないが、将来的にどのような結果になるかは想像できない。
 では殺した場合はどうなる? もし計画があった場合はそれの完全な放棄だ。

 一番良いのはアインズと連絡を取ることだが、シャルティアには《メッセージ/伝言》の魔法を使うことはできない。
 では女を連れたまま転移して直接会いに行ったらどうだ。
 これもまた微妙だ。なぜならナザリック大地下墳墓は転移系での侵入を阻害する防御魔法が張り巡らされている。その中を自在に転移できるのはリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを所持する者のみだ。残念ながらシャルティアは持ってはいない。そうなると様々な設置された転移門等を使用して移動することとなるが、かなりの時間が掛かる。時間的には3時間あれば大丈夫だと思われるが、現在ナザリック大地下墳墓は守護者ではコキュートスしか残っていないために警備状態をより強固にしている関係上、転移門発動も自在というわけには行かないはずだ。無論、闘技場に出現したように自らの魔法を使ってもいいが、飛べる距離はかなり抑制される。
 時間が掛かるというのは不味いのだ。
 なぜなら救出部隊が来たとき、女がいないと知られるから。
 確かに殺すなら後腐れが無く問題が解決する。だが、アインズに生かして返せといわれた場合、非常に厄介ごとになる。連れて行けば当然、今回の件にナザリック大地下墳墓が動いている、という重要な情報を握られるためにアインズが記憶を弄るしか無いだろう。
 それから返した場合、それは雇い主に色々と疑問を抱かせる筈だ。浚って記憶を消す。そこまでしなくてはならない何かがあったのかと。そうなるとこの一件に関する追及が、そのまま返すよりも厳しくなるだろう。

 ならばたまたま間違えたということでこの女も眷属にしてしまうべきか。
 シャルティアの眷属は最大数10。現在ブレインしか眷族にしてないので、まだまだ余裕はある。だが、それはアインズの目的を阻害する行為を自らの判断で行うということだ。それも知っていながら、故意的に。

 ではどうすればよいのか――。

「アインズ様に叱られる……」

 誰にも聞こえないほど小さな声で呟き、シャルティアは頭を抱える。
 たまたま女が来たんですと言っても、何でそれより早く撤収しなかったんだ? と返されて終わりだろう。女をどのように処分しようが――もはやどちらに転んでも叱咤は避けられない。だが、どちらの方がまだ許されるか。
 worstよりはworse。

 シャルティアは考え、考え、頭から煙が出るほど考え、結論を出す。
 殺すよりは生かして返した方がまだ可能性の幅が広がる。殺してしまっては取り返しが付かないときがあるが、生きていればなんとでも出来るはずだ。
 シャルティアはそう判断する。いや、自らを必死に騙しているといっても間違いではないが。

「おまえの名は?」
「バニアラです」
「わかった……よぉーく、覚えておくぞ、その変なお菓子みたいな名前をな! そこで待ってろ!」

 ――散れ、眷属ども――
 シャルティアは感覚的に細い糸で繋がったヴァンパイア・ウルフに帰還の命令を下す。
 運が良いのか悪いのかは不明だが、別働のチームにもレンジャーにも遭遇はしていなかったようだ。帰還が終了したのか、そのまま糸が切れる。
 一つ仕事を終え、バニアラという名の女を適当な場所に立たせておくと、少し離れた所に自らのシモベである3体のヴァンパイアを呼び集める。

「とりあえずここにあるものは全て回収。撤収する」

 回収する時間があるのか不明だが、ここにあったものを全て持ち出せば、それを狙っての行動だと勘違いしてくれる可能性はある。最低でも適当に捜索したような形跡は残すべきだろう。

「それじゃ女はどうします、ご主人様?」

 ブレインの質問に対し、シャルティアの視線がちょっと離れたところで寂しそうに立っているバニアラに向かう。

「そのままにしておきなさい」
「いえ、他の女です」
「……はぁ? 他の女?」
「ええ、ご主人様。あいつらが性欲を処理するために捕まえてる女どもが奥にいるんですが、どうしますか?」

 シャルティアは顔を引きつらせる。
 なんだ、それは。

「……なんで、言わなかった?」
「申し訳ありません。なんどか話そうとはしたんですが」

 脳裏に激しい炎が吹き上がり、ブレインに叩きつけたくなるが、それを必死に堪える。アインズに会わせ、情報を聞き出すまでは殺してしまっては不味い。必死に激情を鎮火させ、シャルティアは睨む。視線が物理的に力を持ちかねない眼光だ。それを受けたブレインが数歩後退してしまうほどの。

 シャルティアは再び頭を回転させる。
 別に顔を見られていないならここに置き去りでも構わないだろう。だが、それは正解なんだろうか。女だけ何で殺されなかったとか思わないだろうか。いや、それを考えたらバニアラのみ生存する方が変だろうか。
 やがて、シャルティアは頭を抱えた。

「どうし――」
「ああ? そんなの知るかよ!」

 なんでそんなこと教えるのよこいつ、という表情を浮かべるシャルティア。知らなければ何をしようが自己弁護できる。だが、知ってしまった以上それを行うことは自らの主人に対する明確な反逆だ。

「もういい。知らない! 置いていく。その女どもの中にバニアラを突っ込んでおきなさい」
「よろしいのですか?」
「良いのか悪いのか、わかんねぇんだよ、糞が! ちょっとは黙れ!」
「申し訳ありません、シャルティア様」
「撤収するぞ! はやく取り掛かれ」

 ヴァンパイアたちが頭を下げ、行動を開始する中、ゆっくりとシャルティアは頭を抱え込みながらうずくまる。

「……叱られる……どうしよう……」






――――――――
※ 悪役側の最強モードだから爽快感が微妙ですね。
 それと情報を知っている人間からすると、非常に間抜けなシャルティアでした。知らないと言うことを前提に上手く書けてると良いんですが。ナーベラルはポーション渡したことなんとも思ってなかったから報告してませんよーというのは次回アインズの回で。31話「準備1」でお会いしましょう。



[18721] 31_準備1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/06/02 20:33



 シャルティアはナザリック大地下墳墓9階層を黙々と歩く。
 その後ろにはブレイン。時折、興味深げに辺りを見渡し、コキュートスの配下の警備兵を見て、瞠目する。その表情の変化は自らの想像を超えた存在への畏敬でもあり驚愕でもある。
 ただ、そのキョロキョロと辺りを見渡す姿は、第三者からすれば少々恥ずかしくも感じるもので、シャルティアのシモベにはふさわしくない態度である。本来であれば主人であるシャルティアへの評価が下がるような行為だが、シャルティアはそれを黙認するかのように何も言わない。

 いや、単純にシャルティアにはそんな態度に反応する余裕は無かったのだ。

 通路を無言で歩くシャルティアは、普段の黒いドレスでは無く、白い輝きを放つ見事なドレスを纏い、そのドレスに合った装飾品で身を飾っている。宝石の嵌った金のティアラは見事な輝きを放ってはいるが決して派手ではない。大きく開いた首周りには白金の細いネックレスを3つ。白色の絹でできたような輝きの手袋をはめたその姿は、まさにどこかの王女のようだった。
 ブレインはブレインで豪華ではあるが、落ち着いた作りの黒色の服を着込み、その上に立派な胸当てを着用していた。鎧は非常に細かい装飾が掘り込まれてはいるが、単なる美術品ではなく、それが実用に耐えうるだけのものであるというのは一目瞭然で感じ取れた。そして腰には2本の刀。一本は昔から使用しているもので、もう一本は新たに与えられたものである。

 ブレインに服を宛がったのも当然、野盗崩れな格好でこの階層を歩かせることを忌避する感情によるものだ、そしてシャルティアのもう1つの感情によるものでもある。

 目的地近くになるにつれ、シャルティアの歩運びはより一層遅くなり、顔が引きつったものへと変わっていく。
 ナザリックに帰ったシャルティアは身嗜みを整えるという名目で、一旦自らの私室に戻っている。これ以上時間をかけることは不敬に値するだろう。
 それはシャルティアも当然理解している。だが、頭で理解していても、心では踏ん切りのつかないことというのは多々あるものだ。

 幾度目かのため息をついて、シャルティアは現実に立ち向かう。

 見上げた目の前、そこにある扉をノックする。左右に控えたビートル種のロードナイトは何も言わない。
 数十秒ほどの時間が経過してから、扉がゆっくりと開く。そこから姿を見せたのは1人のメイドだ。アインズの室内で仕えている一般メイドの1人である。

「……アインズ様にお目通りがしたいの、伝えてくれる?」
「……畏まりました。少々お待ちください」

 シャルティアの口調に違和感を覚えたメイドは一瞬口ごもるが、了解の意を伝えると、ゆっくりと、音がしないような速さで扉を丁寧に閉める。
 
「あー、逃げたい……」

 ぼそりとシャルティアが呟く頃、再びゆっくりと扉が開き、中から先ほどのメイドが姿を見せた。

「どうぞ、中へ、シャルティア様。アインズ様がお待ちです」



 アインズが最初に思ったことはシャルティアの表情が硬く、暗いということことから、任務を失敗したかというものだ。しかしながら後ろに控えたヴァンパイアらしき存在はアインズの記憶に無い。ならば最低限の任務は成功していると思えるのだが……。
 そこまで思考し、アインズは自らの考えを破棄する。
 推測してもしょうがない。なぜならもう少し待って、シャルティアの報告を受ければ疑問は払拭されるだろうからだ。そう判断し、ただ黙ってシャルティアの行動をそのまま伺う。
 シャルティアはシモベを引き連れたまま、無言でアインズの向かっている机の前まで歩くとゆっくりと頭を下げる。慌てたように後ろに控えたシモベも続いて頭を下げた。

「……ただいま戻りました、アインズ様」
「……良く戻った、シャルティア」

 僅かにアインズは眼を細める。 
 シャルティアがあの変な廓言葉を使わない。それはすなわち何らかの理由により、精神的に高ぶっているということだ。
 あまり良い報告にならない――そうアインズは考え、思考をマイナスに切り替える。そうすればどれだけ酷い内容を聞かされても、そんなものかと思えるから。

「……では早速報告を聞かせてもらえるか」
「その前に……失態を犯した身、アインズ様の前で頭を上げて話すことはできません」

 シャルティアはそれだけ言うと、片足を曲げかける。しかし――

「――シャルティア」

 突如響いた静かだが強い意志を込めた声に、シャルティアは自らの行動を止め、アインズを慌てて見る。

「シャルティア。お前はナザリック大地下墳墓の最大戦力の一角であり、階層守護者だ。そのお前が他者の目のあるところで敬意ではなく、その他の意味で容易く頭を下げようとするな。大体、まだ報告は始まっていないのだぞ? 謝罪は少しばかり早いな。――皆、出ろ」
 
 アインズは手を軽く振り、室内の全ての者に外に出るように指示する。それを受けて室内の一般メイドたちは扉の方へと歩き出す。アインズはメイドたちの後姿を見送ると視線を上に動かし、天井にいる者たちを見据える。

「お前達もだ」

 その声が届くや否や、ゆらりと空間が揺らめき、複数の天井に張り付いた何かが姿を現す。それは人間大の大きさを持つ忍者服を着た黒い蜘蛛にも似た生き物だ。
 それはエイトエッジアサシン。
 不可視化を自在に行い、8本の脚に付いた鋭い刃を用いて飛び掛りからの脅威の8回攻撃を行ってくるモンスターだ。特に恐ろしいのは首を狩って一撃死を与えてくることだろう。
 7体のエイトエッジアサシンたちは鳥が舞い降りるような静かさで床に張り付く。その内のチームリーダーと思しきモノが口を開く。
 
「しかし我らコキュートス様の命を受け――」

 だが、アインズはそれすらも許さない。

「――私の言葉は全ての命令を凌駕する。二度は言わん。下がれ」
「はっ、畏まりました」

 エイトエッジアサシンたちは一斉に頭を下げると、メイドたちの後を追うように床を這うような滑らかな動きで部屋を出て行く。最後の一体が扉から出て行くのを確認すると、再びシャルティアに向き直った。

「すまなかったな、シャルティア。では報告を始めよう。まずはそこにいる男のヴァンパイアが捕虜だな?」
「はい、左様です」
「あ、どうも初めまして、アインズさま?」

 突然、ブレインに蹴りが飛んだ。ブレインの体はそのまま空を飛ぶように吹き飛び、壁に大きくぶつかって跳ね返る。
 その一撃は容易く腹を突き破り内臓を幾つも破壊している。アンデッドであるために血はこぼれないが、苦痛までは完全になくなるわけではない。転がった状態で苦しげにブレインは呻く。
 蹴りつけたシャルティアは一気にそんな転がったブレインに肉薄すると、追撃として何度も蹴りを叩き込む。

 なんだ、一体?
 急激な状況の変化に耐え切れず、一瞬現実逃避しようとアインズはそんな思いを押し隠し、ただ状況を理解しようと眺める。この体になってから多少の動揺では表情に出ないのは良かったことなんだろう。

「シモベ風情が何で至高なるお方――アインズ様に対し馴れ馴れしく口を開いているの? 私が許可したか、おい! お前はただ聞かれたことだけ馬鹿みたいに答えればいいんだよ。アインズ様と許可無く話せるとか思うんじゃネェよ」
「ああ、ありがとごじゃいまず、ごじゅじんざま」

 シャルティアに蹴られながら、それでも恍惚とした表情を浮かべるブレイン。

「つーか、むかつくなぁ。お前がもっと早くあれも言っておけば叱られるのも減ったっていうのに。それにアインズ様に対する忠誠心低いんじゃないか、お前」

 なるほど理解した。
 アインズは頷く。
 しかしながらこれによって2つ問題が生じた。
 シャルティアの対応を見るに、シャルティアの作ったシモベはアインズに対して絶対の忠誠を抱いて無いかもしれないという問題だ。これではアインズの計画していた優秀な人間を強制的にシモベにすることで、情報収集等の組織運営を上手く行っていこうという計画は破棄する必要がある。
 下手にシャルティアに対する忠誠に駆られて、ナザリック内に不和を撒かれたり、他の守護者等に敵対意識を持たれてはたまったものではない。
 そしてこの問題はシャルティアのみの問題かということだ。実験の必要がある。

「シャルティア――」
「はい!」

 シャルティアのかんばせに浮かんでいた鬼が一瞬で変わり、無垢な美少女のものへと変化する。そして蹴られていたブレインのぼこぼこになった顔には、シャルティアへの歓喜が浮かんでいた。その2つが合わさった光景はアインズが引いてしまうほど違和感に満ち満ちたものだった。

「……罰は自らの部屋で与えよ。それとだ……シャルティア。敬意を向けてくれるのは嬉しい。だが、そこまで過剰な敬意を示す必要は無い。お前も私からすればアインズ・ウール・ゴウンの仲間が残してくれた宝の1つ。私の友人、ペロロンチーノが創造した存在だ。つまりは私はお前の後ろにかつての仲間を感じるのだ。そんなお前に強い敬意を向けられると少々むず痒く感じてしまう」

 シャルティアは目を潤ませ、アインズを真紅の瞳で凝視する。

「――感謝いたします」

 2度、3度言葉を発そうとして、口ごもり。必死にそれだけを紡ぐシャルティア。そしてゆっくりと深く――そう深く頭を下げる。それは神からの啓示を受けた巫女の崇拝の姿勢。
 崇拝とは神に向けるもの。
 今のシャルティアの行為はまさに神に捧げるためのものだった。

「では戻って来い。話を始めようか」



 一通り話を聞き、ブレインからさらに情報を得たアインズはゆっくりと顔の前で指を組む。

「なるほど……バニアラか……」
「はい……。アインズ様が本当にあの女にポーションをお渡しになられたのですか?」
「ふむ……」

 ポーションを渡した人物――モモン。
 その名前はアインズにとって非常に聞き覚えがあるものだ。
 ナーベラルが冒険者登録をする際に、名前を聞かれたとメッセージを送ってきたことがあった。そのときに適当な名前でよいと返答した際、アインズならどのような名前をつけるかと聞かれたので、モモンと答えた。
 どう考えても、その名前にそのポーションでは、渡した奴の正体はナーベラルだ。

 アインズは頭を抱えたくなる気持ちを堪え、シャルティアをただ黙って眺める。その視線を受け、シャルティアがおどおどとアインズの反応を伺っている。

 アインズが困っているのは、そんな報告をナーベラルから受け取っていないと言うこと。そしてモモンという人物に対する自らの考え――正体がナーベラルであろうという予想を、シャルティアに告げるかどうかだ。 
 素直に教えた場合、シャルティアとナーベラルの仲が悪くなるのでは。そんな思いがアインズの頭を過ぎる。

 今回のシャルティアの任務は多少のミスはあったものの、上手くいっていたと考えても過言ではない。もしバニアラという女が出てこなければ、ヴァンパイアが暴れているという情報だけで話は終わったはずだ。シャルティアの外見はほとんど知られなかっただろう。しかしながらバニアラを帰したことによってシャルティアの外見は完全にギルドに流れた。まぁ、逆にバニアラを捕まえて情報を聞き出したからこそ、レンジャーを逃がしたという情報が入ったのだから、プラスマイナス、ゼロと考えても良い。
 だが、それをシャルティアが納得するかは別問題だ。
 下手すると足を引っ張った、そうシャルティアが考えてもおかしくは無い。ではそんな存在をシャルティアはどう思うのか。おいおいナザリックの安定を揺るがしかねない問題に発展しないだろうか。
 
 ナーベラルから報告を受けていたならば、それを部下に伝えなかったアインズが悪いということで謝罪して話は終わったかもしれない。だが――いや、ここはやはりアインズが泥を被るべきだろうか? 真実を語らないということは問題になるかもしれないが。

 硬質な音が響く――。
 それは選択肢に迷った、アインズの指先がテーブルを叩く音だ。

「アインズ様。もし極秘の件であれば……」
「いや……。許せ。その女の件は実のところナーベラルの一件に拘ってくる話でな。聞いてはいたのだが、おまえに伝えるのを忘れたのだ。すまん……」

 アインズは机に額がくっ付くよう深々と頭を下げる。

「め、滅相もありません。わたしが調子に乗らなければこのようなことになりませんでした。お顔をお上げください!」
「私の失敗を許してくれて感謝する」
「なんて勿体ないお言葉」

 頭を上げたアインズは自らの考えに没頭する。
 ナーベラルとシャルティアのミスは置いておくとしても、致命的な問題は騒ぎを起こすことがどのように不味いかを理解して無いということだ。

 アインズのユグドラシルの魔法職としての強さは、確かに死霊系魔法や即死効果の魔法を使わせれば上位にはいれるだろう。だが、そういった魔法は対策がしやすい。それらも評価の対象にすれば、一点集中タイプのアインズの総合的な魔法的な強さ評価は中の上程度だ。マジックアイテムをフル装備して上の下、仲間たちが残した全ての最高位アイテムを装備してようやく上の中ぐらいだろう。
 つまりアインズよりも強い存在はいくらでもいる。

 そしてアインズが取っていない、クラス的にも強い職は多くある。
 バランスブレイカーと称される魔法職『ワールド・ガーディアン』。アインズの天敵ともいえる対アンデッド最高の魔法職『ホリー・バニッシャー』、攻撃魔法極限特化型魔法職『ワード・オブ・ディザスター』。そういったクラスを持っているプレイヤーは厄介な強さを持っている。

 アインズは昔の最も輝いていた頃を思い出す。

 かつてナザリック大地下墳墓に1500人が攻め込んできた際には仲間たちがいた。
 ワールド・ガーディアンの職についていた者もいたし、公式チートとも言われたユグドラシル上10人しかいない戦士職最強の存在もいた。『アインズ・ウール・ゴウン』最盛期の総合力は恐らくギルド最高峰だっただろう。その上で侵入者を消耗させつつ、分散させ各個撃破していったから勝利をつかめたのだ。
 しかし、仲間は今は誰もいない。

 もしユグドラシルのプレイヤーの中でも最上位500人に数えられるような存在が100人でも攻めてきたら、ナザリック大地下墳墓は落とされる可能性がかなりの確率であるだろう。そうでなくとも100lvのプレイヤーが150人でも攻めてきたらほぼ落とされると考えても良い。
 アインズの保有する最大の切り札たる8階層の存在を全力で動員すれば、150人程度でも落ちないだろうが、代価が莫大なものなので容易くは動かしたくは無い。
 現在は絶対無敵でも最強でもないのだ。だからこそ世界情勢がつかめるまで、静かに行動するよう強く諫めてきたのだ。
 仮にユグドラシルプレイヤーがいたとして、敵対するような状況を避けるために。

 それは外装に変化していたとしても自らが人間であるという意識を捨てられるかどうかは不明のためだ。異形であれば今のアインズのように精神的に多少の変化が見受けられる可能性があるが、エルフやドワーフという人間に近い種の場合は、罪の無い人間が殺されている現状を見たら敵対行動に出たり、敵意を抱く可能性は非常に高い。
 だからこそ、何らかの理由を欲して行動していたのだ。
 先に向こうから攻撃してきた。人を助けるために仕方なく殺した。誰かから命令されたために仕方なくやった。
 そんな言い訳ができればまだ交渉の余地があるだろうと。

 つまるところ討つべき悪という、大義名分を相手に与えたくないのだ。旗印を与えてしまっては、その下に集う者を許す結果になりかねない。

 確かにばれなければ何をしても良い。デミウルゴスにばれないように動けといったのもそんな意味合いでだ。逆にばれるという行為は非常に不利な立場に追い詰められるのだ。
 それが理解できているのだろうか。

「分かってないのだろうな」

 思わずもれ出た呟きにシャルティアがピクリと肩を震わせ反応する。おどおどとアインズの様子を伺うシャルティアに質問を投げかける。

「――結局生存者はバニアラ、逃げたレンジャー。あとは別働隊の冒険者だな」
「はい」
「ふむ……顔を見られたのはバニアラのみか……」
「殺しますか?」
「馬鹿を言うな。その女1人しかお前の顔を知らないんだぞ? 例えモンタージュを作ろうとも、その女の証言が一番信用されるんだ。なら大切にしておいて、重要なところで記憶を上手く改変させて操った方が良いだろう。殺したらそのモンタージュこそが最大の情報になってしまう。それをどうにかする方が面倒だ」
「あ、あと実は……」
「……構わん。言え」
「女が……」
「? バニアラ以外にか? なんだ、先ほどの話には出てこなかったぞ? どういうことだ!」
 
 アインズの怒りが含まれた声に、ビクリとシャルティアの肩を跳ねる。

「……すまん。少々興奮した」幾度か深呼吸を繰り返し、アインズは口を開く。「……もう隠し事はなしだ、シャルティア。会ったことを最初から全て語れ。理解したな?」

 鋭く睨むアインズに、硬直した顔で幾度も頭を上下させ、シャルティアは再び話し始める。


 シャルティアの隠していた内容も全て含めて話を聞いたアインズは、一度だけ手をパンと――骨だったのでカツンというほうが正解だが――鳴らした。

「素晴らしいぞ。シャルティア」
 
 何故褒められているのか理解できないという、不思議そうな表情をするシャルティア。

「シャルティア、お前は優しいな。その女達を助けに行ったのだろう?」
「……は?」
「女達が慰み者になっている。それを知っていたから、助けに行った。そして冒険者との遭遇は不幸な出会いだ。そうだな?」

 シャルティアの顔に理解の色が浮かび、深く頭を下げる。

「その通りでございます」
「ではそれを踏まえたうえでちゃんと報告してくれないか?」

 口を開きかけたシャルティアに手を向け、それを黙らせるとアインズは言葉を続けた。

「――たまたま馬車に乗っていたら盗賊どもに襲われ、捕まえて話を聞いてみたら、幾人もの女が酷い目にあっているという話を聞いた。同じ女としてそれが許せずシャルティアは盗賊の塒を襲ったわけだな?」
「はい、おっしゃるとおりです」
「そして女たちを救うところまできたのだが、新手が入り込もうとしていた。女のあまりに酷い境遇への怒りで我を忘れたシャルティアは冒険者達を皆殺しにしようとしてしまった。良くある悲劇的な話だ。悲しいものだな。……だが、ナーベラルが好意――ここが重要だな。好意で渡していたポーションによって我を取り戻し、自らの失態を知ったというわけだ」
「まさにその通りです」
「本来であれば謝罪するのが最も正しい行為だが、悲劇的な遭遇で殺害に至ったと言っても信じてもらえないだろう、と考えて恐怖のあまりに逃げてしまった。……最後がちょっと上手くいってないがこんなところか」
「はい、全てその通りです」
「と、私はお前から報告を受けたわけだ」
「はい。今、そのように報告させていただきました」

 アインズは一度だけ深く頷く。

「よし分かった。なら問題は解決だ」
「よろしいのでしょうか?」

 驚いたシャルティアに諭すようにアインズは口を開く。

「今の話で我々は自らの行動を正当化させるに相応しいだけの根拠を得た。そうだな?」
「はい……そうだと思います」
「……私が恐――警戒しているのは同等の存在のみだ。もし仮にそいつらが今回の話を聞いた場合、我々を悪と断定するかもしれない。そして我々を退治しようと行動を起こすかもしれない。だが、今の我々の正当な理由を聞いた場合、そいつらはどのように行動すると思う?」
「退治しようとする行動を止めますでしょうか?」
「正直分からないな。だがな、そいつらとて我々と戦うことで命を失うことは忌避したいはず。つまりそいつらも本気で戦いたいとは思わないだろう。ならばもしかすると我々の話を聞くことで、矛を収めようとするかもしれないだろ? 一応、無理があるが多少は納得がいくお話なんだからな。それに邪悪な行いをしている奴を攻撃するのは心が痛まないだろうが、もし仮に相手が自らを正当化させる理由――それも善意から来ているものを持ち出して来たらどうだ? 戦うべきか迷うんじゃないか?」

 アインズはシャルティアの表情を眺めながら言葉を続ける。

「無論、謝罪として何か――金銭が妥当だと思うが――を支払うことになるかもしれないが、その程度大した出費でも無いだろう。向こうが嵩にきて、無理難題を突きつけてくるなら跳ね除け、そのときは戦いに持ち込めばよい。我々を侮ったことを後悔させればな」

 そうシャルティアに言い切りながらも、アインズは無論、そんな上手く話が転がるとは思ってはいない。
 だが、ユグドラシルプレイヤーが本当にいたとしても、絶対に死は恐れるはずだ。例え復活のアイテムがあるとしても本当に自分が復活できるかどうか確かめたいと思うものはいないだろう。
 そして100レベル等、高位レベルというのは恐らくこの世界においては絶対者的な存在だろう。欲しいものは殆ど得られるような。それだけの力を得ながら、好き好んで失うかもしれないような手段に出るとは、普通に欲望のある者ならとうてい思えない。性欲や金銭欲、権力欲、食欲――欲望というものは力が大きいものだ。もし仮にナザリックが攻められるとしたら何らかの欲望からだろう。

 敵意を恐れているのも、ここに繋がる。
 まずナザリック大地下墳墓に攻めるべき悪という印があった場合、攻め込むものは正義や善になるのだ。攻め込んで宝を奪ったとしても気が咎めないだろうし、攻め落とせれば英雄扱いにされるのだ。これほど欲望を満たしてくれることは無いだろう。
 そして宝の山が2つあると仮定して、敵意を持っている奴が守ってる宝の山と、友好的な奴が守っている山、どちらを狙う? 普通は敵意を持ってる側だろう。
 まぁ、友好的な奴を騙してという者も中に入るかもしれないが、それは流石に少数だろう。そんな奴が同じような仲間を集めて、チームを構成し維持できるとはあまり思えないので、さほど警戒する必要は無いと思いたい。何かのきっかけで内部から崩壊すると考えても良いだろうから。

 例外的な存在は英雄願望の持ち主だが、それ以外は交渉でどうにかできるのでは、とアインズは現状では考えている。
 例外というのはあくまでも例外だ。そんなポンポンいるものではないのだし。


「さて、シャルティア、お前にあった話は理解したぞ。その上で私の判断だが――今回は私のミスが大きい。シャルティア、お前のミスを許そう。情報源をつれてきたことでかなりの情報が入ったことも考えれば、充分に許される範囲だ。今後はこのようなことが無いよう情報を共有する準備をしたいものだ」
「ですが、わたしの失態は間違いありません。罰をいただかないことには示しが」
「ふむ」

 アインズは困惑の表情を、顔の前で手を組むことで隠す。
 シャルティアに罰を与える。実のところそれは非常に難しい問題だから上手く誤魔化そうとしたのだ。それにシャルティアはかつての仲間、そしてアインズ・ウール・ゴウンが作った存在。それを自分の考えだけで罰を与えるというのも少々嫌な感じがする。
 だが、シャルティア自身にそう言われてしまっては仕方が無い。

 ではどのような罰が相応しいのか。
 金銭的処分といっても給料を払っているわけでもない。地位を下げるといってもシャルティア以外に守護者を任せられる強さを持つものはセバスかパンドラズ・アクターのみ。どちらも相応しくは無い。謹慎という手が一番良いかもしれないが、現状最大戦力を1つを遊ばせておくというのも少々アレである。鞭打ち? 勘弁してくれだ。
 単なる一般人であるアインズにはこの場合に最も適した罰を与えるアイデアが浮かばない。
 前例というものが無いのが最も厄介だ。
 基本的に罰というのは会社内であれば、前例または法律といったものを基準に考えられる。ナザリックには特定の法律もなければ、前例も当然無い。下手するとこの一件が前例になる場合もある。簡単に決められることではない。
 ならば一先ずは――

「……そうか。では追って知らせる。とりあえずは下がってよい」
 
 ――時間を稼ぐ。

 
 シャルティアとブレインが部屋を出て行く。
 扉が閉まると同時にアインズは頭を抱える。

「頭が痛いな」

 実際この世界の戦力はたいしたことが無いことが分かりつつある。表に出てこない力はあるのかもしれないが、現状では警戒すべきは存在するのか不明な同じユグドラシルのプレイヤーだろう。
 
 しいて問題を述べるとしたら、守護者に代表される部下達が力に自惚れすぎていることだ。
 今回のシャルティアのミスだって相手を洞窟内におびき寄せた上で襲えば問題は生じなかっただろう。
 ナーベラルもそうだ。報告によると怪しまれてはいないということだが、今回シャルティアが連れてきたヴァンパイアの話からするとポーションはかなり高額なアイテムだということ。それを簡単に渡して怪しまれないというのは虫の良い話だ。最も納得できる話は怪しまれているが、ナーベラルが気づいていないというところか。
 最強であるが故の過信。
 これは注意しろといってもなかなか難しいことなのかもしれない。

 それにシャルティアはクラスで『血の狂乱』というペナルティにも近い特殊能力を持っている。シャルティアなら余裕で抑えられると思っていたのだが、自ら興奮状態になるというのは予想してなかった。
 やはり単純に人選を間違えたというところか。
 今のところアウラは上手く任務をこなしているようだし、各員の性格の違いへの認識不足から来るミスであることを祈るだけだ。
 この辺りはアインズ、自らが注意し、なおかつ時間の経過によってこの世界の一般常識を学べば、解決されることを祈るぐらいが関の山なんだろうか。
 しかし、都市に潜入しているナーベラルの件は早急に解決すべき問題だろう。

 そう考えると今回のシャルティアのミスを帳消しにしつつ、手段を講じる良いチャンスかもしれない。とりあえず、単なる村人は難しいかもしれないので、突っ込まれたときのアンダーカバーを作り直しておくべきだろう。

 そこまで考え――

「はぁ……だるい」

 ――アインズはぐったりと机の上に顔を伏せる。

 元々単なる一般人であるアインズにカリスマや重厚感といったものは皆無である。だが、それでは上に立つ者としてあまりに情けなさ過ぎる。ナザリックの元NPCの全員がアインズを主人として仕えるなら、アインズもまた主人に相応しい姿勢をとる必要があると考えている。
 ゆえに必死に口調を変えたり、重々しく行動を行っているつもりなのだが、そのため気ぐるみの中に入ってるような疲労感が残る。無論アンデッドには疲労というバッドステータスはないのだから、そんな気がしてる程度なんだろうが。

 さらに最上位者であるアインズの周囲には、常時複数の誰かが傍についている。これは現在ナザリック大地下墳墓の警備状況が一段階上がっている状況に起因するものだが、視界の隅にちらちら映る影は知っていたとしてもどうも気になるものだ。
 勿論、命令すれば今のように全員外に出すことはできる。だが、支配者というのは複数の部下を周囲にはべらすものなのでは、というイメージがアインズにあるためにその方法を取るのもどうも気後れする。

 結果、体の芯にずっしりとした重みがかかり、だるさがアインズを襲うのだ。

「慣れれば楽なものなのかね」

 ドアが突如ノックされる。
 アインズは跳ね起きるように体を起こし、着ている柔らかなローブを整える。

「失礼します、アインズ様」

 再びドアが数度ノックされる音が響き、それからゆっくりと開きながら、優しげでかつしっとりと濡れたような女性の声が滑り込んでくる。
 室内に1つの人影が入ってきた。

 その人物を簡単に称せば、艶やかな茶色と白色の毛並みを持つ直立歩行する雌のシェットランド・シープドッグだ。それもメイド服を着た人間大の。
 つぶらかな瞳は英知と慈悲が宿り、そのシェットランド・シープドッグを漫画家が擬人化したような表情に、一目で分かる慈母の微笑みが浮かんでいた。
 何らかの香水だと思われる芳しい匂いが、歩く動作と共に揺れる全身の体毛から漂ってくる。
 その後ろから先ほど外に追い出した3人のメイド。そして不可視化を行いながら入り込んでくる7体のエイトエッジアサシン。
 アインズは先頭を歩く犬人ともいうべき存在に話しかける。

「ペス、良く来た」
「はい。色々とご相談事をお持ちしました。アインズ様」
 
 ペストーニャ・ワンコ。
 現在ランドステュワードのセバスがいないため、替わりにナザリックの生活面を完全に管理しているメイド長である。守護者よりはレベル的にはかなり落ちるが、最高位の神官魔法まで使いこなす存在でもあった。
 そして愛称はペス、である。
 
 メイド服からどうやって出しているのか、茶色の尻尾がパタパタと動く。恐らくはメイド服の尻尾の部分に穴を開けているのだろうが、本当にそうなんだろうか。微かな好奇心がアインズの心の中に生まれる。

「簡単なものなら良いのだがな」

 好奇心を表に出さないようにしながら、アインズは机の前まで来たペストーニャに話しかける。

「はい」

 ニコリと笑ったペストーニャは、突然何かを思い出したように恥ずかしそうに顔を歪める。

「申し訳ありません。忘れていました」

 何を? アインズがそう問いかけようとするよりも一瞬早く、ペストーニャが言葉を続ける。いや言葉というよりは違うものなんだろうか。

「――わん」
「…………」

 アインズは眼をぱちくりさせるが、ペストーニャは満足したように微笑む。

「どうかしましたか、わん」

 アインズはペストーニャの設定を思い出し、次に作った人物を思い出し、何も言わないこととする。だいたい元々は自分が食べ物系の名前だからといってペスカトーレと付けようとした人だ。流石に漁師は可哀想だろうと言うことで変更になったが。

「…………いや、なんでもない。それより来た理由から解決していこうか」
「はい。わかりました、わん。まずは副料理長よりです、わん。ポーション瓶の数量が残り3000本を切りました。補給はどうされるのかという質問です、わん」
「そんなに使ったのか。日産何本ぐらいだった?」
「はいです、わん。ポーションの種類にもよります、わん。一体何のポーションの日産数量をお答えした方が良いですか、わん」
「そうだな……」

 アインズの脳裏に浮かんだのは先ほどのシャルティアとの会話にあったポーションである。

「マイナー・ヒーリング・ポ-ションだな」
「はい……副料理長個人でなら、およそ日産464本ですかと……わん。あとアインズ様ならご承知だと思いますが、これは6時間の休憩を取ってMPが全快した状態から、作成に時間の経過を必要としないということを前提にしたものです、わん。つまりは4回転した場合です、わん。実際は休息時間や作成時間も掛かりますのでこれよりもっと遙に少ないです、わん」
「その計算方法で、最高位のポーションだと?」
「20本です、わん」

 魔法は第10位階まであるが、ポーションに付与できる魔法の最高位階は通常は第5位階までだ。特殊なクラスを取っている事で第6位階まで可能とするが、それはまぁ例外である。通常、単純な計算で表現してしまうと、最高位――第5位階のポーションを作った際のMP消費量は、魔法を発動した場合の20倍に匹敵する。
 それだけで考えると、MPの消耗量的にポーション作成にMPを使うことは勿体無く感じられるが、魔法を使用することができない人物が、魔法を発動させる手段としては安価であり、便利なものである。MPを費やして作ったとしても、そして高い金を出して買ったとしても惜しくないぐらいに。

「ペスが協力すればもっと多くなるんだろ?」
「はい、ですわん。先ほどと同じ計算方式でしたら、マイナー・ヒーリング・ポ-ションが日産1332本です、わん」

 アインズは頭の中で商売について考える。
 ブレインの話ではマイナー・ヒーリング・ポ-ションは売れば結構な値になるという話だった。商業ルートを開発して冒険者ギルドに卸すと言うのも悪くは無い。
 無論、そんなことをすれば色々と面倒なことがあるかもしれないので、今の状態では難しい話だ。やるにしても十分な――様々なバランスについて検討した上でだろう。回復のポーションが大量に出回ることで、無数の問題が生じるのは簡単に分かることなのだから。
 とはいえ現金を稼ぐ手段があるというのは心強いことだ。
 マイナー・ヒーリング・ポ-ションが1本、50金貨。掛け率半分だとして25金貨。金貨1枚が日本円での価値で考えると10万円。日産1332本の場合は桁外れな金額となる。

「ポーション瓶以外の原材料は?」
「ユグドラシル金貨は数え切れないという言葉が相応しいだけありますし、ゾルエ溶液も同じように無限といっても良いほどあります、わん」

 ユグドラシルでのポーションの作り方はゾルエ溶液という液体を満たした瓶の中に、ポーション作成系技能者のスキル発動にあわせて、込めたい魔法を使える人物が魔法を発動させるという方法になっている。その際に製作費としてユグドラシル金貨は自動的に消費されるのだ。
 特殊なポーション作成溶液もあるが、それは基本的にイベントアイテムであり、一般的にはゾルエ溶液以外は使われない。

「ならまずはポーション瓶を他のもので代用するところから考えよう。シャルティアが良いシモベを作ったので、その話を聞けばアイディアも浮かぶだろう。とりあえずは生産を中止しておいて、ポーション瓶は取っておいてくれ」
「かしこまりました、わん」
「次に司書長から同じく巻物の羊皮紙の件で話がありまして――」
「それは私が自身で出向く予定だ。それは彼の口から直接聞こう」
「かしこまりました、わん。では次の件ですが……入りなさい…………わん」

 一瞬、口調を忘れたペストーニャに、大変だなという感情がこみ上げる。
 そんな中、1人のメイドがゆっくりと室内に入ってきた。手には蓋の付いた銀の盆を1つ丁寧に持っている。
 アインズの前まで来ると、メイドは無言で蓋を外した。ペストーニャはその盆の中に手を入れ、乗っていた食器を取り出し、アインズの前に置いた。

「ん……」

 アインズはそれを直視し、うめき声じみたものを漏らした。
 黒い塊が食器皿の上にドンと鎮座している。拳2つぶんほどの大きさだろうか。炭特有の焦げたような匂いが辺りに漂いだす。
 何も言わずにアインズは添えられたナイフとフォークを持って、それを二つに切り分ける。中も完全に炭化している。もはやこれが元々なんだったか、外見から予想できる者はいないだろうという酷さだ。

「これが……ドラゴンの霜降り肉で作ったステーキか?」
「はいです、わん」

 注文していたものの、あまりの酷さにアインズは持っていたナイフとフォークを銀盆の上に投げ出す。2つがぶつかり、澄んだ音色を立てる。

「……では作ったメイドにそのまま料理の勉強をするようにと伝えておいてくれ。料理長にも頼むぞ」
「かしこまりました、わん」
「他には?」
「いえ、これぐらいです、わん。あとはアウラ様がナザリックに戻ってきましたので、後ほどご報告に来るかと思います、わん」
「アウラがか……分かった。ではその前に私はこれから図書室に向かう。転移で向かうので付いて来る者はいらん」
「かしこまりました、わん」






――――――――
※ ペストーニャは異形です。遊星からの物体xばりの変身能力は製作者サイドで削除されてますので、このままです。
 次回、ナザリックの話が続く31話「準備2」でお会いしましょう。



[18721] 32_準備2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/02/22 19:41



 アインズは自室で自らの右手薬指に嵌めた、ナザリック内の無限転移を可能とするリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを起動する。目的地はナザリック第10階層内にある巨大図書室。与えられたタグは『アッシュールバニパル』。最古とされる図書館の名前である。

 一瞬視界がブラックアウトし、画面が切り替わるように光景が変化する。
 そこには多少ドーム状に広がったそこそこの広さを持つ部屋であり、アインズの向かいには両開きの巨大な扉が鎮座していた。
 その玉座の間への扉に匹敵するだけの大きさの扉の左右には、3メートル近いアイアンゴーレムが巨立していた。

「扉を開けよ」

 アインズの言葉に反応し、両脇のアイアンゴーレムは扉に手をかけるとゆっくりと押し開ける。重い音が響き、人間数人が並んで入れるだけ開いた扉の中にアインズは歩を進めた。

 そこは図書館というよりはもっと別の何かを――そう例えば美術館のようなものを想像させた。床、本棚には無数の装飾が施されており、本棚に並んだ本自体もまるでその装飾の一部として置かれているようだった。
 埃ひとつも落ちて無い、磨かれた床には寄木細工で美しい模様が描かれている。
 上部は吹き抜けになっており、2階にバルコニーが突き出し、そこにも無数の本棚が部屋を覗き込むように取り巻いている。半円天井には見事なフレスコ画がびっしりと書かれており、豪華な細工と相まって隙間すらないほどだった。
 部屋の所々にガラス張りの展示机が置かれ、何冊かの本がその中に並べられていた。
 光源は無数にあるが、そのどれも強い光は灯されていない。人なら薄暗いと眉を寄せる程度の光量だ。 
 室内の広さは一瞥では見渡せない。いや、本棚が邪魔になって見渡すことが出来ないというほうが正解か。
 
 図書館に相応しい沈黙の中、アインズの後ろでゆっくりと扉が閉まった。入り口からの光がなくなったことでより一層暗くなったような感じがする。静寂が音として聞こえそうなほどの沈黙と相まって、不気味な雰囲気が立ち込めだす。
 無論、闇夜の中ですらそれを見通す目を持つアインズからすると、真昼の明るさのために全然不気味には感じないのだが。
 
 アインズは奥に向かって、多少足早に歩を進める。
 現在いる部屋は『理の間』。この図書室は『知の間』、『魔の間』、そして用途別の小部屋――各員の私室等という風に分けられている。それを考えると目的地は少々遠い。

 アインズが通り過ぎていく通路の左右――何列にも渡って並ぶ本棚には無数の本が収められている。

 ユグドラシルにおいて本というのは複数の目的で存在する。
 
 まず1つが傭兵として召喚するためのモンスターのデータだ。
 ナザリック内のモンスターは3種類に分かれる、まず1から完全にプレイヤーと同じように作ったNPC。次が自動的にPOPする30レベル以下のモンスター。そして最後が80レベルまでの傭兵として召喚できるモンスターだ。
 この傭兵として召喚できるモンスターはまず、本に特定の召喚儀式を行い、レベルに応じた金貨をつぎ込むことで召喚される。そのためこの本がないと召喚できないのだ。

 次がマジックアイテム。
 特定のデータクリスタルは本の形態をしているものにしか宿らない。一回こっきりの魔法発動アイテムが本の形のアイテムとして一般的だ。スクロールとの違いは、スクロールはその魔法を使うことができるクラスで無ければならないのに対し、本の形態のアイテムは誰でも使用できるというところだ。

 そしてイベントアイテム。
 特定の職業への転職に必要となるアイテムが、本という形態をとることはさほど珍しいことではない。アインズもスケルトン・メイジからリッチへと転職する際に『死者の本』というアイテムを必要とした。他にも『武技研究本』、『4大精霊異聞』等々が存在する。

 最後に外装データだ。
 剣や盾、鎧といった外装のデータがインプットされている本だ。これを特定の鍛冶作成技能を保有するものが、それに応じた資源に対して使用することで外装が出来上がるという形になっている。

 ナザリック大地下墳墓内のこの図書館にある無数の本は、ほとんどが最初か最後の目的で集められたものだ。勿論ここまで集める必要はまるでない。
 実際流石のアインズ・ウール・ゴウンの全財産を投入しても、この1/10万のモンスターも召喚できないだろう。
 さらには溜め込んだ様々な鉱物に代表される全資源を使っても、外装の1/10万も製作できないだろう。
 それなのに何故、ここまであるかというと書物自体は大して費用の掛かるものではないので、悪乗りしたギルドメンバーがコピーしまくった結果である。

 横目で本を眺めながら歩くアインズ。
 そんな行く手を遮るように、突如、本棚の間から幽鬼のようにふらりと人影が音も無く姿を見せる。

 図書館の闇に溶け込むような漆黒のフード付きローブを纏っている。腰のベルトには宝石が先端に填められたワンド、そして複数の宝珠を紐でくくりつけてあった。
 フード下の顔――それは骸骨に薄い皮を貼り付けたような、ミイラにも似た真っ白の顔。手は骨と皮ばかり。動くたびに体を覆っている微かな闇が揺らめく。
 それはアンデッドのスペルキャスターの中でも有名なモンスター、リッチ。ただ、ユグドラシル内では俗称白リッチといわれる31レベルのリッチ系モンスターでは下から2番目だ。ちなみに色違いの近親種として赤リッチとか黒リッチと俗称される存在もユグドラシル内にはいる。

 ただ、単なるリッチとは違うのはその左手上腕に嵌めているバンドだ。
 そこには『司書J』と記載されていた。

「ようこそ、アインズ様」

 聞き取り辛い掠れた声をあげ、リッチはゆっくりと――しかしながら深々と頭を下げる。片手を胸に当てたしっかりとしたものだ。

「ああ。頭を上げよ」リッチが頭を上げるのを確認してから言葉を続ける。「今日は司書長に会いに来た。どの部屋にいる」
 
 すこしばかりリッチは考え込むような姿をとり、口を開く。

「司書長は現在、スクロールの作成に入られてますので、製作室でございます」
「分かった。先導を頼む」
「かしこまりました。こちらです」

 リッチが先に歩き出す。
 無論、アインズが部屋の場所を知らないわけではない。だが、支配者が誰も共をつれて歩かないのも変かと思った程度だ。

 途中他のリッチやキャスター系のアンデッドを横目で見ながらアインズは歩いていく。


 案内された先の部屋は元々は広かっただろう作りをしていた。
 だが、現在は四方には大きな棚が置かれ、それ以外にも様々なものが所狭しと並べられている。
 棚の中には無数の触媒――鉱石、貴金属、属性付与石、宝石、各種様々な粉末、様々な動物の色々な器官等々が綺麗に整頓していた。さらには無数の羊皮紙の束、巻かれているものから巻かれていないものまで。種類もそれぞれだ。
 これらは全て使用される資源である。
 無論、ここにあるのがナザリック大地下墳墓内の全てというわけではない。これの数百倍にも匹敵する量の資源は宝物殿内の一室に集められている。
 この部屋にあるのは、あくまでもスクロールを作成するのに直ぐに使われることが多いアイテムを揃えているだけだ。スクロールを作るのに鉱石なんかが必要かというと、その辺りは微妙である。殆どのスクロールには使われないが極僅かに――3000の魔法の中で2、3つ使われる程度ある。そのため、使われる以上ここに置かれているという具合だ。
 
 そんな部屋の中央にかなり大型の製図台が置かれ、その上には一枚の羊皮紙が広げられていた。

 そしてその前に人間と動物を融合させたような骨格を持つ骨が1つ、立っていた。
 身長はそれほど高くない。150センチ程度だろうか。
 2本の鬼のような角が頭蓋骨から飛び出し、手の指の骨は4本。足の形もまっすぐ伸びたというより、逆間接的に伸びている。そして足先はひずめだ。
 そんな異様な姿を鮮やかなサフラン色のヒマティオン――古代ローマの衣服――で覆い隠している。さらに1枚を突き出した角が破かないようにしながらフード状に被り、もう1枚を腰に更に巻いている。計3枚纏っているという計算だ。
 そして7色の宝石の填まった白銀のブレスレット、首からは黄金のアンク十字、骨の指には巻きつくかのような複数の異様な指輪、腰巻代わりのヒマティオンに付けた宝石。そのどれもがまぁまぁな魔力を持つマジックアイテムだ。
 そして剣を下げるように腰に複数の巻物入れをぶら下げている。

 外装や装備しているものは変わってはいるものの、実態はスケルトン・メイジ。アンデッドの最初級種族である。先ほどのリッチの前段階の存在である。
 だがこのスケルトン・メイジこそ、この巨大図書室の司書長――ティトゥス・アンナエウス・セクンドゥス。
 戦闘系に特化するのではなく、製作系に特化して『アインズ・ウール・ゴウン』の元メンバーに作り出された存在だ。
 種族クラスはレベルを全然入れてはいないものの、それ以外のレベルは製作系の魔法職に相応しいものを持っている。実際先ほどのリッチよりはレベル的には高い。戦闘力的には微妙だが。

 羊皮紙が置かれた製図台の直ぐ横に置かれた小さな机の上に、ティトゥスが骨の手を伸ばす。向かった先は山のように積まれた金の輝き――ユグドラシル金貨だ。
 突如、その骨の手の下でユグドラシル金貨の一部がどろりと溶け、それ自体が意志を持っているかのように羊皮紙の上に動き出す。
 流れ込んだ金の蛇は羊皮紙の上でのたうち、まるで予め所定の位置があったかのように広がっていく。
 ほんの一呼吸の間に、羊皮紙の上に金の魔法陣が描かれた。複雑であり、それでいながら繊細なものだ。

 そこに魔法が発動した。

 本来であればそれでスクロールの完成だ。アインズは見慣れた光景に感心もせずに、そう思っていた。
 その時までは――。

 真紅の色。
 決して起こらないはずの色が製図台で起こる。
 アインズが驚愕する中、羊皮紙が料理の際アルコールに引火するように燃え上がり、瞬き2つ分の時間で鎮火した。

 まるで先ほどのが幻であったかのように、炎が吹き上がっていた形跡は室内には殆ど残っていない。空気にすら焦げたような匂いはない。
 だが、それが実際に起こった出来事だと証明するものが机の上に残っていた。
 それは羊皮紙の残骸――燃え残りだ。
 
 まるで予期していたというわんばかりの冷静さでティトゥスはアインズに向き直る。

「無様なところをお見せしました。アインズ様」

 冷静な男性を思わせる声に、かまわんという風にアインズは手を振る。それよりもっと重要なことがある。

「何故、今のようなことが起こったのだ?」
「これは羊皮紙を温存しておくために、この世界で一般的に流通している羊皮紙を使ったことが原因と推測されます。無論、現状では残念ですが――恐らくは、という言葉が最後に付いてしまいますが」

 羊皮紙も複数の種類がある。なぜかというと位階ごとに限界の羊皮紙があるから、というのが説明的には分かりやすいだろうか。
 例えば単なる一般的な羊皮紙であれば第2位階の魔法までならスクロールとしての材料となるが、それ以上の位階の魔法のスクロールの材料にはならない。仮に最高級の羊皮紙であるドラゴンハイド――竜の皮を使ったものなら第10位階まで魔法全てをスクロールに込めることが出来る。
 無論、ドラゴンハイドは竜を狩らねば手に入らない一級品だ。
 そのため昔はアインズ・ウール・ゴウンのギルド員皆で乱獲したが、それはユグドラシルの話。この世界にまでドラゴン――そしてそれ以外の生物もその存在を確認するまでは、その皮を使った羊皮紙の使用を制限するのは当然だ。
 補給が無いのに消費するなんて、そんな愚はおかせない。いつ何時、絶対に必要となる瞬間が来るともしれないのだから。

「この世界の一般的な羊皮紙ではスクロールを製作するには相応しくないというのか?」

 アインズの視線が燃えさしに向けられる。

「その可能性は非常に高いかと想定されます。この世界のスペルキャスター達が使用する物と、同程度の羊皮紙を活用している筈ですが……。勿論これはシャドウデーモンたちが無数にある中から、特別粗悪品を持ち帰ったという事は考えにくいと仮定した場合になりますが」
「だが、一度の失敗では羊皮紙の所為ともいえないのではないか?」

 そういいながらもアインズは羊皮紙の所為だろうと確信している。
 あり得るとしたら、この世界に来たことでスクロール作成技能のみが異常をきたしている場合だ。しかしながら今まで実験で使用した魔法、マジックアイテム、そしてアイテム作成系技能がなんら問題なく使用できた現状を考えるなら、その可能性は低いと判断せざるを得ない。

「外から持ち帰った羊皮紙で数度実験を行いましたが、そのどれも同じ結果――炎上に終わってます。炎上しているのは、恐らくは魔力を羊皮紙が封じ込められない結果によるものだと、私は愚考します」
「……だがこの世界のスペルキャスターたちはその羊皮紙を使っている……スクロール製作技術の違いか? 粗悪品を有効活用するすべに長けているという」
「可能性は非常に高い、と。もしよければ……」
「ああ、1人、2人捕まえてどうやってスクロールを作成しているか、聞いた方が良いか」
「私もそうしていただければ、この世界で一般的に流通している羊皮紙を使っての、スクロール作成の成功に一歩踏み出せるかと思っております」
「ふむ……」

 誘拐に関しての利益と不利益について考え出したアインズにティティスは言葉を続ける。
 
「もしくは私の知るスクロール作成方法に耐えられる、羊皮紙の早急な発見しかないのではないですかと」
「……了解した。一般流通しているものはセバスとナーベラルに任せるとして、その他のものはアウラ、デミウルゴスに任せて早急に捜索させる。この世界独特のモンスターがいるかもしれん」
「ではアインズ様、スクロール作成作業は羊皮紙を温存するという意味で、現状をおきまして一時凍結ということで宜しいでしょうか?」
「それしかないだろうな」
「かしこまりました」

 恭順の意を示したティティスを一瞥するとアインズは踵を返す。

 指輪による転移を行わずに、図書館内を出口に向かって歩きながら、アインズは物思いにふける。
 しなくてはならないことを思い出しているのだ。

 まずはアウラの話を聞くと同時に、デミウルゴスと一緒の指令である羊皮紙捜索を命じる。
 次にシャルティアの新たなシモベの話を聞いて、誘拐に出るべきか考えるべきだろう。それにナーベラルに与えた新たなアンダーカバーが上手く効果を発揮しているかも調べなくてはならない。
 まだまだやるべきことは色々ある。睡眠を不要とするアンデッドの体のおかげで、時間をフルで使用できるのは幸運なことだ。

「いや、不幸なのか?」

 何よりの不幸は、組織の管理運営というアインズ以外に任せられそうな人物がいないというのが問題だ。現在、様々な仕事を与えることで適正を見てはいるが、小首をかしげる程度の結果しか生まれていない。
 そして組織の管理運営の中で、今、最も必要なのは情報の管理なのだが、仮にシャルティア辺りに任せたとしてもちゃんとしたアインズの望む結果が出るかは想像できない。巨大な竜が足元を歩く蟻を気にしているのか、そんな想像がつかない程度の不安がある。

 情報というのは無数にある中から、価値のあるものを探す、宝探しにも似た行為だとアインズは考える。だが、シャルティア辺りでは宝を見つけたとしてもそれを宝と認識しない可能性があるのだ。

「なんで組織の運営に長けてるみたいな設定のNPC作っておかなかったかな……」

 かつての仲間達に愚痴っていても仕方が無い。
 アインズは気を取り直すと、なんらかの手段を考える。
 いくつか案は浮かぶものの、その中でも最も良い手は単純に人を雇うということだろう。
 しかしながらその雇った相手は信用できる存在なんだろうかという疑問も当然生じる。もしかしたら敵対者が内部情報を入手するために送り込んできたスパイという可能性は考えるべきものだ。力で倒せない敵がいたら、倒せるような情報を集めたりするのは基本。
 もしアインズがナザリックみたいな組織を敵に回した権力者なら、倒せる存在を準備するだろう。つまりはシャルティアやセバスのような存在を、自らの陣営に取り込もうと何らかの手段を取る。色仕掛けでも財宝でも何でも良い。とにかく欲望を刺激して、アインズを裏切らせるよう行動するだろう。
 そのためにはナザリック内の情報が必要だ。

 つまりはその辺りを考えた上で、その人物の背後関係をクリアしないことには、人を雇うことだってできない。
 結局めんどくさいことには代わりが無い。

 そこまで考えたアインズは、はたと気づく。

「なんだ、記憶操作を併用して洗脳してしまえば良いじゃないか……。ならどこかで敵対者でも捕まえて実験してみないと。まずはあのヴァンパイアにやってみるか……?」



 ■



 左右にはカタコンベの側面のように、穴が掘られ、布で巻かれた死体が三段になって安置されている。松明を思わせる明かりが揺らめくことによって陰影を作り出し、まるで置かれた死体が動き出しているかのようにも見える。
 空気はかび臭く、時折微かな腐敗臭も漂ってくる。そん中、遠くより生者を呪詛する死者の怨念の声、生きた者を喰らいたいという欲望の喘ぎ、温かな体に触りたいという渇望のため息が交じり合い1つの声として聞こえる。
 
 そんなアンデッドが突如襲ってきそうな雰囲気を漂わす空間において、無造作な歩き方でブレインは通路を歩く。
 単なる一般人であれば数歩歩いただけで恐怖のあまり硬直するだろうし、冒険者であっても急速に神経をすり減らそうとする世界。だが、ヴァンパイアとして生まれ変わったブレインにとっては、まさに自らの生きる世界という幸福感にも似た感情がわき上がってくるようだった。

 肌に纏わりつくような死の気配。染み込むような墓場の冷気。空気に溶け込んでいる死者の気配。
 たまらない。
 ブレインは大きく息を吐く。無論、呼吸を不用とするアンデッドの一員であるヴァンパイアなので、本当の意味で息を吐いたのではない。人間的な感覚でしてみただけだ。

 途中、アンデッドとして蠢く、知性の低い存在やブレインよりも高度の知性を持つ存在を横目にしながら目的地に向かう。
 アンデッドという存在は生きていたときは生にしがみつき蠢く醜い存在、スペルキャスターが使役する邪魔な存在としか認識しなかった。
 それが究極の美。
 それをこの身になって知るとは。

「ああ、ご主人様……」

 感嘆のため息が漏れる。いや、ブレインはその姿を思い出すだけで恍惚とした世界に漂える。
 目、髪、鼻、耳、口、指、声、服、匂い。どれもが超一級品の存在。

 シャルティア・ブラッドフォールン。

 この世界が生まれて以来の美の化身。
 世界で最も美しく、可憐にして優雅。即ち究極の美の象徴である自らの主人。
 そんなシャルティアの最初のシモベとなり、彼の心は優越感と恍惚感で支配されていた。今まで、人間というつまらない生き物、劣った生き物として生まれてきたことを後悔したことは多い。もし自分がもっと別種族であれば、人を超える肉体能力を持つ生き物であればどれほど最強の剣士になれたかと思って。
 だが、今になって思えば、人間として生まれてきたのは、自らの主人たる絶世の美の結晶、シャルティアに仕えるためなのだと理解できた。

 そんな主人が統べるこの階層を気に入らないわけがない。
 
 確かに9階層も素晴らしかった、それはブレインも認めるところだ。
 どんな王族ですら作りえないだろう、豪華さを兼ね備えた世界。ブレインが入ったことがあるのはエ・エステーゼ王国の王城ぐらいだが、比較するのが可哀想なぐらいだ。神々が住まう宮殿といっても可笑しくなく、逆に誰もが納得する光景だった。通路に無数に飾られている美術品の1つでも目が飛び出るような価値があるのは間違いがないだろう。
 そしてそこを守護する警備兵達もかなりの腕が立つ存在ばかり。ブレインが今まで遭遇してきたどんなモンスターを鼻で笑うような存在だ。ブレインが決死の覚悟を抱いて、あるとあらゆるアイテムを駆使してようやく5分以上の勝負が出来るというクラスのモンスターが、隊列を組んで歩いている姿はもはや滑稽としか思えなかった。
 特に通された部屋の左右を守っていた巨大な蟲にも似た警備兵は、今のブレインよりも遙に強いだろうと思われた。もはや強さの桁が違いすぎて、どの程度強いのか想像もつかないほど。
 
 そして警備兵が守る部屋の主人。
 この地下墳墓の最高支配者。
 自らの最高の主人すら支配する王。
 死を具現したような姿を持つ魔術師。
 渦巻くような力を周囲に放つ、そんな存在。

 絶対者――アインズ・ウール・ゴウン。

 堂々とイスに座るその姿はまさに御伽噺の魔王だった。
 列強とされる国の国家予算に匹敵するだろう値の付くような豪華にして重厚なローブを纏い、その身を飾るアイテムは恐らくは伝説という伝説を全て塗り替えるようなものなのだろう。
 そして何より、話していて現世界の知識に非常に偏りがあるが、長い間封印でもされていたような不気味さがあった。

 世界は広い。そんなことは誰もが知る事実である。
 しかしながら今のブレインほどそれを強く実感しているものはいないだろう。
 数体もいれば1つの都市を容易く蹂躙しそうな存在たち。それがあくまでも下級のシモベとして存在する場所なんか誰が想像するというのか。
 そして自らの主人たるシャルティアを筆頭に、単騎で一国を相手にしても勝利を収めるようなものもいる。大陸を支配する、それが容易いだろう軍団の一員になれたことにブレインは湧き上がるような喜悦を感じた。

 腰に下げた新たな剣を見下ろす。
 拵えはまさに一級品である。芸術品として例えるなら、どんな好事家もが飛びつくような作り。
 それは今まで使っていた刀の代わりに、自らの最高の主人より与えられたものだ。長さや重さは微妙に違うが、直ぐに手になれる程度の違いでしかない。
 ブレインは刀を抜き放つ。
 鈴の音色のような澄んだ音が聞こえ、周囲に冷気が立ち込める。自らその前に身を投げ出したくなるようなそんな刀身には、ほのかな青の冷気が漂っていた。
 金額にしたらどれだけのなるか想像もつかない素晴らしい魔法の刀だ。前に持っていた刀が金額にして金貨五千枚。だが、この刀は少なく見積もっても金貨数万というところだろうか。
 そんな刀をぽんと投げ渡す自らの主人の偉大さを思い出すだけで、ブレインは身を震わせる。

「あー、イキそうだ……」



 第2階層と第3階層をぶち抜いて作られている、俗称『死者の井戸』。
 それはおおよそ直径150メートル、深さ45メートルにおよぶ巨大な円筒形の形をした部屋だ。それを2つに分けるように一本の、幅15メートルにもなる通路が上を横切る。
 ブレインは楽しげに下を眺める。
 無数の死体に無数の死体が山のように折り重なっていた。腐乱死体が、溺死体が、白骨死体が、轢死体が、時折蠢きながら山を転げ落ち、また新たな山を作る。そんな地獄の光景が広がっていた。
 こここそ、低位のアンデッドが生み出される場所だ。現在は生まれていないようだが、侵入者によって数が減らされた場合、新たな弱いアンデッドはここで偽りの生を与えられることとなっている。
 
 ブレインはそのまま下を眺めながら通路を歩き、死者の井戸を横切る。そのまま道なりに進み、十字路を右に曲がった突き当りの扉。そこがブレインの目的地だ。
 今までの一枚の石でできた重くかつ無骨な扉とは違い、同じような石では出来ているものの、しっかりとした装飾が施された扉だ。
 ノックを繰り返す。
 やがて重い音を立てながら扉が開いた。
 
 そこから顔を覗かせたのはヴァンパイアの1人だ。ブレインにとっては知らない顔だが、この部屋にいる以上はシャルティアの側女だというのは知っている。立場的にはブレインと同格かもしくは高い。

「シャルティア様に命じられた巡回終わりました。お取次ぎください」
「……シャルティア様は現在湯浴みの最中です」
 
 ほとんど無表情のような、見下すような目で冷たくヴァンパイアは答える。

「お取次ぎは……」

 ブレインは馬鹿かと自答する。
 ヴァンパイアの視線がより一層冷たくなった気がする。いや、事実冷たくなったのだろう。

「……シャルティア様からは貴方が戻ってきたら、ここで門番として誰も入れないよう守れと伝えるように、とお言葉を承っています」
「はっ! 分かりました、この命が――この体が動く限りは通しません」
「……ではよろしくお願いします」

 ヴァンパイアが扉を閉める。
 ブレインは自らの最高の主人より与えられた命令に歓喜し、この扉は決して誰も通さないと硬く決心する。この扉を死守したら、もしかしたら褒めてもらえるのではという微かな欲望を抱いて。


 ブレインは扉の前で不動の姿勢をとり続ける。
 ほんの30分ぐらいだろうか。

 突如、ブレインの目の前の空間が揺らいだ。

「むっ!」

 腰に手を走らせ、僅かに腰をかがめる。右半身を僅かに前に出し、いつでも切りかかれる姿勢だ。
 揺らいだ空間は瞬時に元へと戻る。だが、先ほどはいなかった人物がそこには立っていた。
 
 両肩に鞭を巻きつけ、動きやすそうな服装。
 そこに立っていたのは1人のダークエルフの少女だった。
 ダークエルフ。
 黒い肌を持つエルフの近親種であるその種族は、人間よりも長い寿命を持つことで知られる。王族にもなればほぼ不死とされる種族だ。ただ、外見年齢は人間と同じように途中までは成長することでも知られている。そこから考えればその少女は見た目どおりの年齢だろう。
 そしてエルフと同じように人の美的センスからすると、非常に美しい外見を持つ。その少女もまた非常に美しい外見をしていた。

 無論、自らの主人、絶対の美、シャルティア・ブラッドフォールンには勝てないが。

「おう、そこでストップだ」

 攻撃を仕掛けずに、敵意を感じなかったためだ。
 それにナザリック大地下墳墓にどのような人物がいるという話はまだ聞いていないが、それでもここまで平然と来れるところから推測するに、このナザリックに所属するダークエルフだろうというのは簡単に想像できる。そうでなければ途中のモンスターに殺されることは確実だなのだから。
 天真爛漫という言葉が相応しそうな笑顔で自らの指に填めた指輪を眺めていたダークエルフは、ブレインに声をかけられ不満げに顔をゆがめる。

「えっと、誰?」

 第一声はそれであったが、ブレインはそれも当然だと納得する。シャルティアのシモベになったのは殆ど今日のことだ。この目の前のダークエルフが知らないのも当然である。

「俺はシャルティア様の忠実なシモベ。そしてこの扉を守るようにと命令を受けたブレイン・アングラウスだ」
「はぁ」

 気の抜けたような返事で答えるダークエルフ。

「あたしね。アインズ様のご命令でここの馬鹿に会いに来たの。わかりますか?」

 馬鹿という言葉に反応し、刀を振るいたくなる気持ちを抑える。もしかすると主人の友人かもしれないという思いからだ。殺したりしたら主人が怒るかもしれないと。

「了解した。でもな、ご主人様は誰も通すなって言ったんだ」
「ふーん。アインズ様のお言葉を伝えに来たあたしを足止めするなんて……。あの馬鹿、ついにとち狂ったの? それともシモベすら上手く管理できないの?」

 はぁ。と、ダークエルフは心の奥底から漏れ出したような、深いため息を1つ。

「……あたしの名前はアウラ・ディベイ・フィオーラ。馬鹿と同じ守護者なの。入れてくれる?」

 聞いたことの無い名だ。ブレインは記憶を辿ってみるが、そんな名前は聞いたことが無い。
 しかしながら恐らくはこの墳墓内でも指折りの実力者なのは間違いが無いだろう。しかも自らの主人と同じ守護者なる存在だという。無論、主人を馬鹿とは認めるわけにはいかないが。
 しかし、だとすると通すべきだろうか。
 ブレインは逡巡し、決意する。

「悪いな、やっぱりさっき言ったとおりだ。ご主人様は通すなといった、ならばここは通せねぇ」

 理解できない存在、どちらかといえば狂人を目撃したように、アウラは眼を大きく見開く。微かに口を開くが言葉は続かない。まさに絶句ということ表現が相応しい態度だった。

「本気? それとも……あの馬鹿……あたしを敵に……。あっそ、なら力づくで通るからもういいよ」

 歩き始めようとするアウラに対し、ブレインはゆっくりと息を吐きながら腰を落とし、柄に手を伸ばす。

 抜刀の構え。

 息を細く長く。
 意識の全てが一点に集中するように狭まっていき、その極限に達した瞬間、逆に莫大に膨れ上がる。周囲の音、空気、気配。全てを認識し知覚できる、そんな世界に達する。それこそ彼が持つ1つ目の武技――『領域』。

 いや、これは違う。

『領域』の効果範囲は半径3メートル。だが、今やその倍、半径6メートルまでを知覚している。さらには生命とも言うべき奇妙な感覚すらも加算されている。これは『領域』を超えた『領域』。

「すなわち『神域』」
「あっそ」

 ブレインの独り言に、アウラはつまらなそうに返事をする。

「それ以上進むというなら四肢の一本ぐらい置いていってもらうぞ」

 無論、殺す気はない。しかしながら相手はかなりの強敵である。ならば死なない程度の一撃を与える。この肉体が強化されている状態にあっては、もはや『神速』も『神速』を超えた一撃となる。
 
「すなわち――『神速2(仮称』」

 良い名前が浮かばなかったブレインに対し、何をしてるんだろうという眼で見るアウラ。
 その警戒の無さ。
 ブレインはこのアウラは抜刀という技を知らないのだろうと判断する。

「来い」
「はいはい」

 やる気なさそうに返答したアウラはブレインを伺う。それから困惑を顔に浮かべた。

「いいの?」
「来い」

 何をしている。
 そんな口調で返答するブレイン。
 それを受けてアウラは頭をかしげる。理解できないものに遭遇したといわんばかりの態度で。無論、抜刀という技を知らなければそれは奇妙な格好をしてるとしか思えないだろう。だが、刀身の届く距離になれば、それは獣が飛び掛る準備をしていたのと同じだと、強制的に知ることとなる。
 それに自らの主人を馬鹿にした口の悪さに対する罰も与える必要があるだろう。
 そう、痛みを持って――。
 
 互いが互いの出方を伺う時間が経過し、じれたアウラが動き出す。

 愚かな。
 にらみ合いというのは先に動いた方が不利。それは手が読まれる可能性があるからだ。そしてなにより抜刀は待ちの剣。それが分からないとは――見た目と同じでアウラはそれすらも知らない子供だということか。ならば最初の一撃は脅す程度で留めるのが優しさか。
 ブレインはそう判断し、僅かに殺意を弱める。

 そんなアウラは場を動かずに、やはり不思議そうな顔をしてから、魔法を発動させた。
 自らの考え違い――接近してくるだろうと思っていたブレインが慌てるよりも早く、魔法は効果を発揮する。

《ヴァリアス・マジカルビースト アイ・オブ・カドブレパス/魔獣の諸相 石化魔獣の瞳》
 
 アウラの瞳がまるでおぞましい獣のように変化し――

「……なんだったんだろ?」

 ――アウラの不思議そうな声が、急速に石と化しつつあったブレインに最後に届いた言葉だった。



 アウラは見慣れた――というほど来た事は無いが、部屋に入ると寄ってこようとするヴァンパイアを手振りで跳ね除け、無遠慮に進む。慌てたようなヴァンパイアに、付いて来ないようにという意味合いを含んだ一瞥くれることも忘れない。

 ナザリック大地下墳墓第2階層の、シャルティアの自室のあるこの一角はどの部屋も先ほどの墳墓然とした様子とはかけ離れた作りとなっていた。それらの部屋は貴族が住むに相応しい立派、かつ豪華な作りとなっている。空気は芳しい香りが漂い、部屋の光量も十分な明るさだ。
 ただ、部屋間は通路によって結ばれるのではなく、部屋と部屋で繋がれているのが奇妙といえば奇妙か。
 数人どころか十数人が寝れそうな異様に大きいベッド――殆ど肌のあらわなヴァンパイア・ブライド付き――のある部屋、使い方を想像することもできないような奇妙な器具の置いてある部屋、乱雑に武器が放り込まれた部屋等々。
 そういった幾つかの部屋を通り過ぎ、空気中に含まれた水分が多く感じる部屋に出た。
 その部屋には肌も露わというより全裸のヴァンパイアたちが幾人もおり、その群がっている中央、そこに目的の人物をアウラは発見する。
 脱衣所だろう空間には無数の化粧品が並ぶ台や、姿見の鏡、そういったものが置かれている。

「何しに来んしたんでありんすか?」

 白のバスローブを着たシャルティアが、イスに陶然と座りながら、アウラに声を投げかけた。
 怪訝そうなものに無作法さを咎めるような雰囲気を混ぜ込んだ声を受けて、アウラも微かに眉を寄せた。とはいえ、近寄ってこようとしたヴァンパイアを止めたのは自分だ。シャルティアの立場からすると突然、自分の家の奥まで乗り込まれたような感じなのだろう。そう思うことで納得する。
 自分だって突如誰かが私室に乗り込んできたら、なんで応接室代わりの場所で待ってないのかと問うだろうから。

「ふーん。叱られたという話のわりにはしょぼくれてないね」

 シャルティアの視線に険が入るが、直ぐに抜け落ちる。そんな変化にアウラはあれ、っと思うが表情には出さない。

「いうわぇ。でもまぁ、わたしのミスなんだしいわれてもしょうがないでありんすね」

 アウラにいうのではなく、独り言のようにシャルティアは呟く。

「結構へこんでんす。守護者でわたしだけがミスしてるんでありんすから。頭、痛いでありんすぇ」
「……周りのどっか行って」

 シャルティアはアウラの言葉を受けて迷っていたヴァンパイアに立ち去るように命令を下す。

「それで何のようでありんすか? 出来れば手短にして欲しいんでありんすぇ。 またお風呂に入る予定でありんすから」

 水浴を最も好むアウラからすると、熱い湯に浸ることの喜びは微妙に分からない。とはいえ、これから話す言葉を聴いてもそれだけの余裕を保てるのか興味はつかない。

「そーいや、変な門番に会ったよ」
「ああ、あれ」

 面倒なものの名を聞いたというように顔を歪めるシャルティア。

「何なの、アレ?」
「アインズ様のご命令で時間的にもう昨日になるのかしら、捕まえてきた人間でありんすぇ。 邪魔でありんすから殺したいんでありんすが、色々情報を持ってるらしくて、アインズ様からそのまんま捕まえておくようにって命を受けていんす。そのため、あんまりあんな男の顔を見てるのもヤダから、警備と門番代わりに使ってるってわけでありんすぇ」
「門番ならせめてもう少し良い武器渡してあげればいいのに」
「まぁぇ。でも探すのも手数だしぇ。そんなわけで、そこら辺に転がってた刀を上げたんでありんすぇ。 ほんと、最初持っていた武器があまりにしどくて」

 長ネギを振り回してるほうが匂いがつくから嫌だ、と軽く笑うシャルティアをアウラは冷たく眺める。その表情に何か感じるものがあったのか、シャルティアは口を閉ざした。

「……で、さっきの門番の件の続きなんだけどさ。アインズ様の名前を出したのに、あたしを通さなかったよ」

 冷たい見下すようなアウラの表情にシャルティアはぎょっとしたものを浮かべ、次に慌てたように口をパクパクと動かすが言葉にはならない。
 アウラはそのまま両肩の鞭に手を伸ばす。
 その行為の理由は戦闘態勢。それが分かったシャルティアは顔を凍りつかせる。

「……本当に?」
「ほんとう」
「深く謝罪させてください」

 座っていた椅子から立ち上がると、シャルティアがアウラに深く頭を下げる。

「武器抜いてないし、なんか畏まるような格好を取ったから殺さないで石化で済ましたけど……ちゃんと教育した方がいいんじゃない?」
「返す言葉もありません」
「……昨日、今日シモベになったなら教育が最初でしょ。あんな態度取る奴を門番なんかにして、もしあたしの代わりにアインズ様が来ていたら大問題だよ」
「まったくおっしゃるとおりです。そこまで融通が利かないとは思ってもいませんでした」

 はぁー、とアウラは大きなため息をつく。鞭は丸め、肩に巻きつける。頭を下げたまま、アウラを見ないシャルティアに言葉を連続して投げかける。

「少し抜けてるんじゃない?」
「はい、申し訳ないです」
「ほんと、ミスがどうのってさ。するべくしてしたんじゃない?」
「申し訳ないです」
「あなた守護者なんでしょ。そんなミスを繰り返してどうするの?」
「はい、すいません」
「ミスしたら普通は挽回するように他の働きで取り返すのが普通でしょ。それなのに何?」
「はい、頭が回っていませんでした」
「そんなにお風呂入りたかったわけ?」
「いえ、滅相もございません」
「でも。あたしが来たときのあの余裕はそんなこと言ってないけど」
「はい、注意不足で油断していたための言葉です。アインズ様のご命令をお持ちされた方のご気分を害し、申し訳ありませんでした」
「謝ってるけどさぁ。本当に悪いと思ってるの?」
「はい、思ってます」
「…………ふぅ」

 ペコペコと頭を下げるシャルティアにアウラはため息をつく。とりあえず気分も収まったし、ここに来た理由を話すべきだ。シャルティアを責めることに夢中になって、アインズからの命令を言い忘れたりしたら大問題だ。
 それにここの一件を片付けて、はやく自分の階層の新たな部下に色々と指示をしなくてはならない。

「……さて、本題にはいろっか」
「はっ」
「アインズ様からの勅命を伝えます」
「承ります」
「シャルティアは低位――2レベルまでのアンデッドからなる軍勢を準備し、進撃できるように外に整えておくこと」

 シャルティアは頭を上げるとアウラを注視する。アウラの言葉、それはつまりは――

「攻めるみたいよ」
「……指揮官は?」
「コキュートス」

 ざっくりと切り捨てるような言葉を受けて、シャルティアは自らの内に生まれていた淡い希望を投げ捨てる。

「了解しましたとアインズ様にお伝えください。問題が無ければ聞きたいのですが、何処を攻めるつもりで?」
「ああ、それはね――」





――――――――
※ アンデッドの軍勢の話はコキュートスの回なんで、あと6話ぐらいあとかな? 攻める先は今のところ話にも出てないところなんでご期待には答えられないと思いますけど。
 つーか、血が流れてなかったら勃たないよね。うん、ファンタジーだし、なんとかなるんだよきっと。
 次回……なんだろう……変な話な33話「準備3」でお会いしましょう。準備3で良いのかなぁ……。



[18721] 33_準備3
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/10/02 06:55



 ピニスン・ポール・ペルリアは困っていた。
 いや困っていたというのは軽い表現だ。なぜなら、彼女は現在、命の危機にさらされているのだから。
 とはいえ、彼女の感情的には困っていたという言葉が最も相応しい。
 自然の体現とも言うべき彼女からすると、生と死、奪うものと奪われるもの――弱肉強食はあくまでも自然の営みの一環なのだから、仕方がないと認識するしかないからだ。
 無論、だからといって死にたいわけではない。まだ彼女は若い――そう人間で言うところの30年も生きてはいないだろう。彼女の同族からすると幼い子供も同然だ。そんな若さで死を望むほどの変わった種族ではない。

 では何故、それに対して抵抗しないのか。

 確かに彼女が頑張れば勝てないまでも時間を稼げるはずだ。しかしながらそれを行わない理由のひとつは、ある意味、諦めが彼女を支配していたからだ。
 そして次に助けを求めるような種族が近郊にいないのも問題だった。時間を稼いだとしても、そこで話が終わってしまうのだ。次に打つべき手が無いために。
 無論、周辺に同族やそれに連なる種族はいる。
 だが、彼女の命を奪おうとするものを追い払うことのできる存在はいない。それは強さ的な考えから来るもの――戦っても勝てないから――であればまだ簡単だったかも知れない。しかしながらそれは生物の命の循環を重視する――弱肉強食なのだから仕方が無いという――種族的なものの考えから来ていたためだ。
 そのため彼女を助けてくれるような存在はいなかったのだ。

 つまり彼女の命は風前の灯火だったのだ。



 ■



 バハルス帝国とリ・エスティーゼ王国の中央を走る境界線たる山脈――アゼルリシア山脈。その南端の麓に広がる森林――トブの大森林。

 膨大な広さを持つこの大森林は、王国で暮らす人間の生活圏の1/5に匹敵するほどの広い敷地を持っている。
 これは確かに大森林が広いこともそうだが、人の生活圏内というのはさほど大きくないことに起因する。人の生活圏は基本的には平野が主となっているのだ。
 これは幸運なことと言えるだろう。強大なモンスターの生活圏とかち合わないことが多いのだから。
 ――いや、だからこそ人間の先祖は平野を生活圏としたのかもしれない。

 単純に人という種族は弱いのだ。それゆえに群がり、知性から生み出される武器や魔法で身を守る。
 それに対しモンスターと分類される生き物の大半は強大である。
 鋼鉄を凌ぐ硬い外皮や爪や牙を持つもの、魔法にも似た特殊能力を持つもの、桁はずれた肉体機能を持つもの――そんな強大な存在であるモンスターの生活圏は、隠れる場所が多い、敵が少ない、もしくは直ぐに逃げられる、日差しに当たらない、等の障害物の多い地形を重要視するものが多い。それからすると丸見えな平野に生活の場所を求めるものは少ないのだ。
 
 平野とそれ以外。
 
 これで人とモンスターの生活圏が明確に区切られていると考えると分かりやすいか。そんなモンスターの生活圏である原生林に入るのは、一部の職業に付いた者であり、特に依頼を受けた冒険者ぐらいなのだ。

 勿論これは人の話であって、エルフやドワーフという種に関してはまた別の話なのだが。


 さて、蛇足から話を戻し、トブの大森林。
 浅い部分は猟師や薬草を探す者が入り込むものの、奥地まで入った者は少なく、出た者も少ない。そんな場所である。
 アゼルリシア山脈には膨大で多様な鉱床が眠っているのだが、取り囲むように存在する危険な大森林をわざわざ踏破する者はいない。大森林はあくまでも南端部分を取り囲んでるにしか過ぎないからだ。アゼルリシア山脈北部から入り込めば解決する問題だからだ。
 それに生い茂った原生林は闊歩が難しく、見通しが悪い。そのため何時何処からモンスターに襲われるか不明なために、絶えず注意をしなくてはならない。そのため原生林の冒険は非常に神経をすり減らす作業となる。

 それらの理由により、探検するものは少なく、詳しい地形はあまり判明していない。
 一部の冒険者たちがロマンや財宝を求めて冒険を繰り返してはいるが、本腰を入れてどこかの国が動いたということは歴史上一度たりとも無い。
 ただ、森で取れる希少な薬草には十分な価値がつけられるが、命と金のバランスを考えてみるとあまりに釣り合いが取れない。それぐらいならもっと別の――それこそかつての遺跡を探った方がメリットは良い。
 そのため依頼抜きでトブの大森林を冒険するものは、勇敢か無謀さのメーターがぶちぎれた本当に一握りである。

 そんな人の手のはいらない秘境であり、モンスターたちの楽園かつ生存競争に日夜明け暮れる場所。それこそがトブの大森林である。

 その南端部分。
 トブの大森林に入り、おおよそ直線距離で30キロ。アゼルリシア山脈より流れる人の手によっては名前が付けられていない川が巨大な湖を形成する場所より、3キロほど東――バハルス帝国側。
 
 巨木が立ち並ぶ一角。そこにピニスンの木があった。


 ピニスン・ポール・ペルリア。
 種族名はドライアド。
 森の妖精の種族であり、木の妖精だ。人ともエルフとも表現できそうな女の外見に、肌は磨かれた木の光沢を持ち、緑の髪は新緑を思わせる。超がつくような一級の芸術家が木から作り出した裸婦像、そんな姿だ。
 自らの木と密接な関係を持ち、そこより離れることはそれほど出来ない。それは離れれば離れるほど弱体化して行き、最後は命を失ってしまうためだ。さらには自らの木を切り倒されればそれでも存在を喪失してしまうために、自らの木やその他の木を大切にし、それを傷つけようとするきこり等と諍いを起こしたりもする。
 外見的は勇ましくは無いが、そんな木々の番人という言葉が相応しい種族だ。
 

 ピニスンにとっての幸せは日差しを浴びることであり、大地から吸い上げる水が自らの木の中を流れることであり、自らの木が風に揺れてその葉を揺らす音を聞くことである。
 そんな時間がどれほど流れたか。
 ドライアドにとっての時間という概念はさほど価値のあるものではない。数世紀に渡って生きる存在が、数年程度の時間に価値を見出すわけが無いのだから。
 そんな彼女が始めて困惑した。
 彼女が困惑するというのは、恐らく自我意識を持って以来初めてのことだろう。先ほども述べたとおり時間という概念が太陽が昇って落ちてという程度しかない彼女にとっては、それがどれぐらい前かを知るすべは当然無いし、答えるすべは無い。太陽の上り下りの回数を数えるようなことをしないためだ。
 
 そんな初めての困惑の元――それはゆっくりと自らの木に向かって伸びてきつつある蔦だ。
 
 絞め殺す蔦<ギャロップ・アイビー>。
 木に巻きつき、ゆっくりとその木を駄目にする植物だ。ただ、普通の蔦との違いは、ギャロップ・アイビーはモンスターにも属する植物ということだ。
 名前の『絞め殺す』。これは木を絞め殺すのではない。生物を締め殺すために付けられた名前なのだ。
 蔦を伸ばし、木を巻きつくと同時に、鞭にもなる蔓を巻きついた木の枝から幾本も垂らす。そして木の近くを歩む生物めがけ巻きつけるのだ。そして絞め殺し、栄養を取る。そんな植物モンスターが正体である。
 木に巻きつくのは、当然、その木の栄養を奪い、自らのものとするためだ。死体から栄養を補給できない間は、巻きついた木から奪う。そのために奪われる木は、いずれは枯れていくこととなる。

 そんな植物モンスターが枯れつつある近くの木から、ピニスンの木を目指し蔦を伸ばしつつあるのだ。
 このままでいけばその内、ピニスンの木に巻きつき、ゆっくりと栄養を奪っていくだろう。

 ピニスンも幾つかの魔法を使うことはできる。だが、その中で植物に有効な魔法は持っていない。ピニスンの持つ魔法の力は、魅了や困惑といった精神に作用するものが少しである。残念ながら当然のごとく植物には効かない。

 もし友好的な人型生物が通りかかればお願いしたり、敵意ある人型生物なら魔法をかけてギャロップ・アイビーと戦ってもらうことはできただろう。しかしながら、このドライアドの住処まで来る人型生物は数年に一度あるかないかである。
 残念ながらピニスンはそんな人型生物を見たことが無かった。
 そのため、徐々に諦めが彼女を支配しつつあった。


 そんなある日。
 普段はピニスンは自らの樹の中で眠りについている。無論、妖精である彼女にとっての眠りというのはぼんやりとした夢現状態であり、半ば覚醒した状態といっても過言ではない。
 そんな彼女の感知能力に引っかかる何かの存在。

 瞬時に覚醒状態に移行したピニスンは、注意深く周囲を伺ってから、自らの木から顔を覗かしてみる。

 それは傍から見ると、木に芽が出来、それが枝になっていく過程で人にも似た顔になったという光景だろう。一種異様な光景だ。
 そんな風に頭だけを覗かせたピニスンの視界の中、4体の奇妙な生き物がゆっくりと歩いているのが木々の隙間から垣間見えた。
 
 体長4メートル。身長は2メートルを越える。下半身は四足のまるでトカゲやワニのような爬虫類を思わせるもので、その上に筋骨たくましい人と爬虫類を融合させたような体が乗る。
 ケンタウロスの爬虫類版というのが最も簡単な説明か。
 片手に2メートルはありそうな、良く磨かれた鋼鉄のハルバードを持っていた。鋼鉄以上の強度を誇る鱗の上には、馬用にも転用が利きそうなプレートメイルで更に身を包んでいる。
 盛り上がった肉体はその内に秘めた力を感じさせ、きらびやかに磨かれた武器や鎧は練度の高さを髣髴とさせ、いかつい顔に宿る英知の輝きは深い知性を思わせた。
 ピニスンが遠くから見たどんな森の生き物よりも強大な存在に感じられる生き物達だ。


 ピニスンが見たことが無いこの種族。
 それはユグドラシルでいうところのドラゴタウロスという種族だ。
 彼らはその中でハイ・ウォリアーと呼ばれるモンスターである。38レベルと然程レベルが高いわけではないが、豪腕という特殊能力によって強化された武技ウェポンブレイクをもって、剣しか使わない幾人ものプレイヤーを泣かせた事があるだろうモンスターだ。


 その内の1体。先頭を歩くドラゴタウロス・ハイ・ウォリアー。
 その目がぎょろっと動き、ピニスンを捕らえる。
 ピニスンは慌てて木の中に潜り込んだ。
 見つかっただろうか、いや見つかってないだろう。そんな不安を抱きながら、自らの木の内部から透かすように様子を伺う。
  
 ゆっくりと先頭のドラゴタウロス・ハイ・ウォリアーが向かう先を変え、ピニスンを正面から見据えるように歩き出す。後ろの3体は歩くのを止めると、視線だけを向けてくる。
 無論、木の中にいるピニスンは見つからないはずだが、それでも鋭い眼光が正面から叩きつけられるのは非常に恐ろしい。
 やがてドラゴタウロス・ハイ・ウォリアーはピニスンの木まで来ると、周囲を見渡した後、小首をかしげながら手を差し出す。ピニスンの頭ぐらい簡単に包んでしまうような四本指の巨大な手だ。
 それがピニスンの木を触り、撫で回す。
 偽装しているのではないだろうかという疑惑を解くための行動だろう。

 突如、一本の蔓が鞭のようにしなり、ドラゴタウロス・ハイ・ウォリアーの分厚い首に巻きつく。近くの木に巻きついたギャロップ・アイビーが餌にするために蔓を伸ばしてきたのだ。
 そしてブチブチという音を立てて、容易く引きちぎられる。
 再び、今度は数本飛んで来る。だが、結果は同じだ。時間をかけるまでも無く容易く引きちぎられる。それ以上は蔓が無くなったのだろう、飛んで来る気配は無かった。

 その間、ドラゴタウロス・ハイ・ウォリアーはギャロップ・アイビーをチラリと一瞥する程度。大したことがないといわんばかりの態度を表した。

 このモンスターなら私を助けてくれる。
 ピニスンはそんな確信を抱く。だが、どうやって頼むかだ。

 ピニスンの視線がドラゴタウロス・ハイ・ウォリアーの持つハルバードに動く。ピニスンの木を簡単に切断しかねないそんな武器に。

 魔法をかけるのはどう見ても命取りだ。ならばお願いするしかないだろう。
 しかし、大丈夫なんだろうか。ピニスンは迷う。下手したらこのモンスターに自らの木が切り倒されるのではないだろうかと。
 だが、ここで彼らが行ってしまったら、もしかするともう奇跡は起こらないかもしれない。

 ピニスンは逡巡し、そして決心する。

 ――あのー。



 ピニスンは待っていた。
 さきほどのドラゴタウロス・ハイ・ウォリアーは主人の命令を受けて、近隣を捜索していた部隊だということで、助けていいか主人と連絡を取り合うということに交渉の結果なったのだ。
 太陽が一度沈み、最も高い位置まで昇った頃、1つの小さな影がピニスンの方に歩いてくるのを発見した。

 先頭を歩く人影の後ろに複数の影。ドラゴタウロス・ハイ・ウォリアーも入ればもっと別のモンスターもいる。その姿はつき従う従者を思わせた。
 ならば先頭を歩く小さな者が主人か、そう判断したピニスンは目を凝らし、絶句する。
 
 その人影はダークエルフ。
 ピニスンは驚き、眼を大きく見開く。長老より話には聞いたことがあるが眼にするのは当然初めてだ。
 ダークエルフ。それはエルフの近親種族。だが、エルフが森に住居を構えるのに対し、ダークエルフは洞窟や地下に住居を構える。性格は普通。悪でもないし善でもない。エルフのような自然に強い敬意は持っていないが、ある程度は無為なことはしない種族である。
 何よりの驚きは、まだ少女といっても良い年齢だったことだ。

「ふふふーん」

 ダークエルフの少女は楽しげに鼻歌を歌いながら近づいてくる。後ろの複数――計8体のモンスターたちは20メートル以上後ろで立ち止まった。少女のみ、そのままピニスンの木の前まで来ると片手を気楽に上げた。

「こんにちわー」
 ――こんにちわー。

 ピニスンは木の中から全身を出して、鏡のように片手を上げる。そして同じように語尾を延ばして挨拶をすると、少女はちょっと驚いたような顔をしてから、満面の笑顔を浮かべた。

「何でも困ってるって話を聞いてきたんですけど?」

 ピニスンは口ごもる。ピニスンたち妖精や精霊とは異なり、ダークエルフは外見年齢はほぼ生誕と合致し、時間の経過と共に成長する種族だ。外見が幼いということは、中身もまだ幼いということ。そんなまだまだ幼い子供に危険を被ってくれとは言い出せない。
 そのピニスンの葛藤を看破したのだろう。ダークエルフの少女は朗らかに笑う。

「大丈夫ですよ、あたし1人じゃないですから」

 その言葉はピニスンに踏ん切りをつけるには充分な言葉だった。
 確かに考えてみれば後ろのモンスターたちが呼んで来たのがこの少女だ。少女に無理でも、あのモンスターであれば問題なく解決できるだろう。あれほどのモンスターなのだから。ピニスンは後ろのモンスターたちから少女へ視線を動かす。

 ――助けてくれるんですか?
「まずはお話を聞いてからかな。無理なお願いもあるかもしれないし」

 全くその通りだ。とはいえ昨日の様子からすると楽勝なことだとは思えるのだが。
 ピニスンは頷くと話し始める。しばらくピニスンの置かれている状態を話す。
 その話が終わった頃、少女は大きく頷いた。笑顔が浮かんでいた。

「なるほど、了解。ちょうど良かった。それなら何とかできるよ」
 ――本当に?!
 
 うんと頷く少女に、じゃあとピニスンは言葉を続けて、

 ――助けてくれま――

 そこまで言いかけると、少女はそこまでと言わんばかりに片手を突き出す。

「えっと、助けてもいいけど、こっちもお願いしてもいい?」

 確かに代価を要求するのは当たり前だ。モンスターと戦ってもらうこととなるのだから。

 ――どんなお願い?
「うん。あたしナザリックというところから来たんですけど、植え替えてもいい? ほらそうすれば助けることにもなるしね」
 ――……え?
「えっと、あたしの階層にあなたを持っていっても良いですか?」

 ピニスンはダークエルフの住居とする場所を思い出し、困ったように返答する。

 ――太陽と風、水が無い場所だとちょっと……

 それに対して少女は朗らかに笑った。

「大丈夫! 偽りの太陽だけどちゃんと光合成できるし、雨は魔法で起こしてるし、風だって魔法で操作してるから全然問題ないよ」

 ピニスンは驚く。
 自然の力を行使するスペルキャスター――ドルイドの魔法に天候操作というものは存在すると、聞いたことがある。
 実際、彼女も非常に弱いながらも自然の力を使った特殊能力や魔法を行使できる。そこから予測すれば確かに非常に難度は高いだろうが、ドルイドの力を持ってすれば天候操作も可能だろうとも思える。だが、そんな大自然を意のままに操る領域というものは、力の桁が違う。
 もはや御伽噺、伝説、神話――そういったものに足を突っ込んだような力だ。

 まさかそれが実際に存在するとは。

 ――……あなたがやるの?

「ん? 違うよ、マジックアイテム」

 ピニスンはそんな凄いマジックアイテムが存在することに驚き、続くダークエルフの少女の言葉を聞き逃す。いや、聞き逃して正解だったのかもしれない、少女の――無論、あたしもできるけど――という言葉は。

 ――凄いんだね……
「そうかなー?」
 ――凄いんだよ、そのマジックアイテム!
「ふーん」

 あまり納得のいってない少女にちゃんとそのアイテムの凄さを説明した方が良いかと思案する。
 それほどのアイテムなのだから恐らく、マジックアイテムの最高級品たるアーティファクトと呼ばれるものだろう。多分、部族か何かに伝わっている至宝ゆえに、大したことがないと思っているのか。
 無知は罪ではないが、時と場合によっては恥をかくものである。少女が恥をかかないように、折角出合ったのだから教えてあげるべきだろうか。
 幼い妹に物を教えるような気持ちになっていたピニスンはそこで頭を振る。
 とりあえず、その辺りは今現在は重要な点ではない。もし住処を変えたなら、そのときに説明してあげればよい。
 
 ――でもあなたがそんなこと勝手に決めてもいいの?
 
 ピニスンを野原に咲く花と同じように考えて欲しくない。持って帰ったら親に怒られましたので返します、では困るのだ。植え替えるという行為はピニスンが命をかけているという事を理解しているのだろうか。

「大丈夫だよ。許可もいただいてるし。それにあたし実はかなり偉いの」
 ――……本当に?
「ふふーん」
 
 自慢げなものを浮かべた少女だが、そこでピニスンの疑惑に満ち満ちた視線に気づいたのか、多少むっとした顔をする。

「あんまり信じてない?」
 ――うん、ごめん。結構。
「ぶー」

 間髪いれずのピニスンの返答に、不満そうに頬を膨らます少女。その姿を見て誰が偉いと思えるのだろうか。

「まぁ、いいや。来てもらえればあたしがえらいの理解してもらえるしね。そんなわけで植え替えて良い? それとも駄目?」
 ――植え替えて私は何をするの? 酷いことされるのは嫌だよ?
「そんなことしないって。あたしの部下になって働いて欲しいんだ」
 ――働くって?

 先ほどのモンスターを思い出し、ピニスンは遠慮したい気持ちで一杯になる。あれほどのモンスターとピニスンを一緒に考えてもらわれては困る。あまり荒事はピニスンは得意ではない。

「そんな不安がらなくても大丈夫。暴力沙汰にはならないから」
 ――本当に?
「ほんと。部下になってやって欲しい仕事のはね、あたしの守護している場所にある、森の管理をして欲しいの。今、あたし人の暮らせそうな場所を作りたくて色々やってるんだけど、森はあっても木が適当に生えてるだけなの。切っても良い木の選抜とか、木の育成とか手伝って欲しいんだ」

 個人的には木は適当に伸びるものだとピニスンは思うが、育成に関しては心惹かれるものがある。ただ、気になる点が1つ。

 ――人? ダークエルフじゃなくて?
「うん」

 人の事はピニスンも知っている。しかしながらダークエルフと仲が良かったのだろうか、という疑問が浮かんだ程度だ。まぁ、よくは理解できないが人にためにピニスンの力が欲しいということだろう。
 
 ――怖いモンスターいない?
「大丈夫。あたしの部下になれば襲われないよ」
 ――……いるんだー。

 ニコニコと笑う少女にピニスンは抵抗の意志を急速に無くしていた。

 考えてみれば悪い話ではない。
 問題は植え替えのときぐらいか。大地が合わなくて、もしくは根を傷つけられることによる命の危険。だが、このままここにいれば緩慢な死が訪れるのだ。
 そのピニスンの不安を読んだのか、少女は笑う。

「大丈夫。掘り返したときと植え替えるときに治癒系の魔法を発動するから。それにもやっぱりどうしても帰りたいということになったら、ここまで持ってきてあげる」
 ――治癒の魔法も使えるの?
「もっちろん」

 ここまできてしまってはもはや抵抗の意味は無い。死にたくないのなら今差し伸べられた手をとるべきだ。
 そして確かに住み慣れた場所を離れることへの寂しさはある。だが、それよりも大きな今までとは違う光景への好奇心があった。
 ピニスンは、了解したという風に頷く。

 ――よろしくお願いします。ご主人様
「よし、任しておきなさい」

 ドンと自らの薄い胸を、少女は丸めた手で叩く。

「そして――あたしの名前はアウラ。アウラ・ディベイ・フィオーラ。あなたのお名前は?」
 ――ピニスン・ポール・ペルリア。アウラ様って言ったほうが良い?
「うーん。別にいいよ、あなたはそういう意味で部下にするんじゃないから。ただ、守って欲しいこともいくつかあるんだ。その辺はあとで説明するから。まずは色々とやっちゃおうか」



 ■



「ふーん。それで移したわけでありんすか?」
「そうだよ。ピニスンの知り合いのドライアド数名と一緒にね」
「それ以外はどうしたんでありんすか?」
「放置。殺すのが目的ではなかったし。アインズ様は人と共存できそうなモンスターがいたら、交渉して仲良くなれ、そして第6階層につれて来いって言われたから。こんどは長老とかいうトリエントと交渉する予定」

 何故、弱い存在をわざわざナザリックに部下として引き入れるのか。捕虜にした人間の監視させたりするのが目的なのだろうか。
 シャルティアは理由を知っていそうな、横のアウラに問いかけようと口を開きかけ、口ごもる。アウラは楽しげに眼下のアンデッドたちを見下ろしている。その無邪気な姿を見ていると、理由を聞くのが負けたような気がするのだ。
 シャルティアも眼下のアンデッドに視線を動かす。

 シャルティアとアウラがいるのは、第1階層入り口入って直ぐの広間の少しばかり高くなったバルコニーだ。本来は弓兵やスペルキャスターを配置し、迎撃するための場所だ。現在は位置転換され、アウラとシャルティアしかいない。

 この弱いアンデッドの群れも謎だ。
 ナザリックのアンデッドの平均は恐らく16レベルぐらいだ。それから考えるとこの低レベルアンデッドの目的が予測できない。アインズの思惑が理解できればもっと適切な行動をとることが出来るのに。
 そんな風にシャルティアが思考の迷路に捕らわれている最中、横のアウラがポケットから何かを取り出そうとしている。

「ピニスンたちを招いたその働きを称えて――じゃじゃーん!」
「何だぇ、それ?」

 アウラはシャルティアの前に銀で出来た腕輪のようなものを突き出す。無骨な銀の作りの、手首に填めるのがちょうど良さそうな代物だ。実際、それは時計と同じ働きを持つ一般アイテム。ユグドラシルでは非常に見慣れたものであり、アウラほどの存在が自慢げに見せる価値があるかというと決して無い。
 だが、それをアインズから褒美として賜れたものであれば一転する。
 自らの失態とアウラの成功。それを見せ付けられるようで、ジリジリとした感情がシャルティアの心に浮かび上がる。只でさえ、指輪を下賜された守護者とされてない守護者という隔絶した違いがあるのだ。
 
 しかしながらシャルティアはそれを表に出すほど子供でもない。ただ、返答が冷たくなってしまったのは、仕方が無いことだろう。

「それが?」
「ふふーん」

 そのシャルティアの返答に気が付かなかったのか、アウラはそれをいじりだす。突如、女性の声がその腕輪から流れた。

『く、じ、じゅうはち、ふんです』
「こなたの声はもしかして……」
「すごいでしょー! ぶくぶく茶釜さまのお声!」

 至高の41人であり、アウラを創造した人物。そして今は姿を隠した存在。そしてシャルティアを創造したペロロンチーノの姉にあたる方。
 その声をいつでも聞くことの出来るアイテムともなれば、その価値は計り知れない。至高の41人によって生み出されたナザリックの高位者で、そのアイテムを欲しがらない者はいないだろうと断言できる。
 欲望がメラリとシャルティアの中で燃え上がる。そのアイテムを欲しくて欲しくてたまらないのだ。
 だが、その一方でアウラからそれを譲り受けることは出来ないだろうという、適中率100%の予測も立つ。
 当たり前である。
 自らを創造した人物の声を聞けるアイテムを、手放す者がナザリック内に存在するわけが無い。大体、逆の立場を考えれば当然の答えだ。しかしながら、淡い期待を抱くのは勝手だろう。

 シャルティアはアウラに話しかけようとして――空間転移による乱れを常時展開している防御魔法によって感知する。振り返った先にはアインズが立っていた。
 跪こうとする2人を手振りで止め、アインズはシャルティアとアウラの横まで来ると、広間に集められたアンデッドたちを一瞥する。

「兵の数は揃ったようだな」
「はい。ご命令どおり集め終わりんした。ゾンビ2500、スケルトン2500、グール900、アンデッド・ビースト400、スケルトンアーチャー200、スケルトンライダーが120です」
「……あれほど下等なアンデッドでもこうやって集めてみると壮観なものだ。数とは偉大だな」

 アインズは広間に集められた兵力を確認する。 
 レベル1以下のスケルトンとゾンビ。レベル1のグール。レベル差が色々とあるアンデッド・ビーストの中から、レベル1から2のものが集められている。そしてレベル2のスケルトン・アーチャーとスケルトンライダー。
 圧倒的な戦力不足だ。これなら予定通り不利な戦いが出来るだろう。ただ、問題はグールか。
 アインズはグールを今回の実験に参加させるべきか検討を行い、直ぐに答えを出す。

「……ご苦労だった、シャルティア。だが、グールは下げろ。グールの麻痺毒は少々奴らには手ごわいだろうからな」
「はっ!」

 何か言いたげだがそれを隠し、畏まったシャルティアから視線を動かす。向かった先で、アウラの手に持った腕輪を見たアインズが苦笑いを浮かべる。

「気に入ったようだな」
「はい!」
「そうか」深く頷いたアインズは楽しげに言う「なら、もう隠しボイスは発見したか?」
「え? なんですか? それ?」
「また見つけてなかったか。そうだな……連続して10回、早く起動させてみるといい」

 アウラは素早く、手の中の腕輪を操作する。
 
『く、じ、く、くくく、くくくくく――』
 
 突如、声が途切れ――

『あ゛ーん! 連続で押してんじゃねーぞ!』

 ――どすの効いた女性の女性の怒鳴り声が響く。

「! 申し訳ありません、ぶくぶく茶釜さま!」

 電気でも走ったかのようにアウラは飛び上がると、両膝をつき、リングを両手で掲げながらペコペコと頭を下げる。ぎょっとしたのはシャルティアもそうだが、アウラほどではない。驚いた表情でアインズを見つめる。

「今のは一体なんでありんしょうかぇ……」
「あー。すまん、そこまで驚くとは思ってもいなかった」

 まさかアウラがそこまでの反応をするとは思ってもいなかったアインズは、心底悪かったといわんばかりの口調で謝罪する。そして跪いたアウラを立ち上がらせる。

「今のは計10個ある隠しボイスの1つだ。暇なとき全部探してみるといい」
「他にはどのようなものがあるんですか?」
「うん? うーむ、確か」昔の記憶を蘇らせようと、呟くように言葉を発するアインズ「ロリ娘の口調でおにいちゃんと呼ぶ奴とか、チュパ――!」

 ぴたりとアインズの動きが止まり、ぎぎぎという擬音が相応しいような動作を持ってアウラの方に頭を向ける。

「なんでしょうか?」

 そんな無邪気なアウラの返答を聞き、アインズは困ったように顔を歪める。
 一度与えた褒美を奪うのは不味い。しかしながら幼い子にあんなものを聞かせて良いのか。それにあれを聞くことで忠誠心が目減りしないだろうか。いや、この世界には成人指定とかは無いだろうから問題ないのでは……。
 アインズはあんな声――いや音だろうか――を冗談でも入れたぶくぶく茶釜に文句を言いたい気持ちをぐっと堪える。まさか、あんな遊びアイテムにここまで苦悩しなくてはいけないとは。

 逡巡し、やがてどうすべきか決定したアインズは搾り出すような声を上げる。

「いいか、アウラ。これは絶対に守らなければならない命令だ」
「は、はい!」
「……7時21分の後に19時19分の音声案内を聞くなよ? なんでかは聞くな、分かったな?」
「は、はい。了解しま――」
「――そ、それで他には何の話をしていたんだ?」
「はい。他にはアウラが集めてきたドライアドの話をしていんした」

 話題を変えるためだろうと理解し、すぐにそれに乗ってくれるシャルティアに感謝の念を向けると、アインズは返答する。

「ああ、それか。――疑問があるような顔だな、シャルティア」
「はい……何故、弱いモンスターを集めておられるのでありんすか? 確かにナザリックには妖精系のモンスターはおりんせん。でありんすが、6階層まで侵入した者を撃退するには力があまりに足りていないように思われんす。わざわざ招く意味合いがあるのかと疑問に思っていんす」

 アインズは考え込むようにシャルティアを眺めてから、口を開く。

「我々がこの世界の存在と共存しているという建前を作りたかったんだ。交渉しなくてはならないような強敵が出現した場合のことを考えて、私達も良い事をしてるんですよ、という場所を設置することは悪いことではないと判断してな」

 仮に邪悪な行いをしているとして討伐対象になったとしても、そうでない部分を見せることで相手の矛先を鈍らせたり、交渉に持ち込んだり出来るよう、善なる部分を持ちたいという考えである。
 そして1階層から3階層までは地下墳墓、4階層は地下湖、5階層は氷結地獄、7階層は灼熱地獄。ナザリックの階層から考えれば見せ掛けの楽園を作るのに最も適した階層はやはり6階層だ。それに何より敷地面積が最も広いというのも適した環境だといえるだろう。

「上手くいくでありんしょうかぇ?」
「さてな。だが、第6階層に敵意なく集めた存在が、我々は優しい者でもあると証言してくれるだろうよ。それ以上は期待していない。それにもう1つ。多種多様の部下を持つ事は悪いことではない。だからこそナザリック大地下墳墓に元々所属してないモンスターたちを従属させようと思っている」
「なるほど」

 ようやく納得がいったような様子のシャルティアを見て、苦い思いがアインズの心中に生まれる。アウラはそうでもないようだが、シャルティアは力こそ全てと考える傾向が強い。恐らくはナザリックの中でも最もそうかもしれない。
 戦闘中の前線指揮官にはいいかもしれないが、現状のような微妙な問題が存在する中では使い勝手が悪いと言える。
 とはいえ、先の失態を半ば許したように守護者を遊ばせる余裕も無いのも事実。つまりはアインズがしっかりと手綱を取った上で行動させるほか無い。

 何でここまで頭を使わなくてはならないのか。自らの会社の上司は結構丸無げだったはずだ。それとも知らないだけで結構頭を使っていたのだろうか。

 そんな不満が頭を過ぎるが、そんな思いを振り払う。自らはギルド長であり、絶対権力者。このナザリックの――アインズ・ウール・ゴウンの栄光を守るものだ。最初っから困難は理解していたはずだ。
 その困難の1つ1つが栄光への道に繋がっているのだと思えば、歓喜の表情で受け入れられる。
 ……無論、嘘だが。
 
 アインズがそんな風に決心を固めていると、再びシャルティアから質問が投げかけられる。
 
「おしまいにアインズ様、差し出がましいことでありんすが、質問させていただいてもよろしいでありんしょうか」
「――許す」
「こなたのアンデッドの群れをあの部族にぶつけることに意味があるのでありんしょうかぇ? もし必勝を狙うならもつとも強大なアンデッドの軍勢を配備し、攻め込むのが得策かと考えんすが」

 当然の疑問だろう。守護者クラスの存在からすればあの程度のアンデッドでは5000もいたところで、掃討まで数分持たないかという程度でしかない。ただ、仮にデスナイトが相手をするとなると流石に1体では、1秒2体としても2500秒は掛かる。範囲攻撃を出来ない対象への時間稼ぎにはもってこいだ。
 しかしながら結局は時間稼ぎしか出来ない程度の存在を、これほどまでに集めて何をするんだというところだろう。

「アウラ、お前はどう思う?」
「あたしもシャルティアと同じです。弱い奴を指定で集めさせたということは、それ自体に意味合いがあるとは思うんですが、それがどういう意味なのかまでは……」
「故意的に波状攻撃を仕掛けるおつもりでありんしょうかぇ?」

 弱いモンスターほど早くPOPする。ゾンビやスケルトンであればかなり早い速度で出現するだろう。

「残念ながら外れだ。今回の全ては実験のためだ。私の思いどおりに事が進んだら、その時にこそ真意を話すとしよう」

 それで話は終わりだといわんばかり態度でアインズは言葉を切る。シャルティアもアウラも納得したのか、理解したといわんばかり態度で頭を下げた。
 実験が失敗するかもしれないのだから、あまり偉そうなことを言いたくないというアインズの考えだが、部下の2人はそう思わなかったようだ。
 感心したような、期待に満ちた目でアインズを見つめてくる。恐らくは深い思案あっての事だと判断したのだろう。自ら、ハードルを上げたことに対しての後悔がアインズの中で生まれる。
 これで大したことじゃないと思われたらどうするか。ならば別の話も準備してごまかせばよい。

「……今回の一連の件が終わったときシャルティア、お前に指輪――リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンの予備を渡す。今回の件で急な命令が下るとは思うが、適切な行動をとることを期待している」
「はっ!」
「それと――あのヴァンパイアは何処だ? ブレインだったか?」
「……はい。今、わたしの自室の方にいんす 」
「ふむ……なら行くか」
「アインズ様が行くまでもありません。今呼んで来ます」
「いや、色々としなくてはならないことが……何か隠してないか?」
 
 おどおどと目が動くシャルティアに鎌をかけてみる。

「あ……今……石です」

 石? アインズは思わずシャルティアを凝視する。何故か、シャルティアだけでなく、アウラも視線を避けるようあらぬ方角に目を向ける。
 また、何かあったのか。
 連発して起こる予想外の事態に、アインズは頭を抱えたい気持ちがぐわっとこみ上げてくる。
 組織運営ってこんなに苦労するものなのか。世界中の会社の上役の給料が高いのも当然だ。
 そう叫んで転がれたらどれほど楽か。しかしながらアインズ・ウール・ゴウンにそのようなことは許されない。
 アインズは瞬時に精神の均衡を取り戻す。
 石化はステータス変化の1つにしか過ぎない。容易く治せるものだ。ならばここは黙認するのが主人として正しい行為だろう。そう判断したアインズは気にしないこととする。

「…………理解できないが、まぁいい。解除して……いや、良い。共に行くか」
「はっ!」
「ではアウラ。ドライアドにナザリックの一般的な知識を与えておいてくれ」
「はい。分かりました」
「よし、行動を開始するとしよう」






――――――――
※ アウラは結構穏便に仲間にしてます。まぁ、相手が交渉から入ったからなんですが。
 次は……どういう人生を歩むことになるのか。エンリが出る話ですね。34話「準備4」でお会いしましょう。



[18721] 34_準備4
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2010/10/24 19:36



 ポリポリという軽快な音がその家に広がっていた。

 丸太で作ったこの住居はさほど広くない。大きな広間が1つと、それに隣接した小部屋が2つ。当然2階もロフトも無い。ただ、全てが大きく作られている。人というよりはもっと大きな生物のことを考えて作られたような感じだ。
 小部屋の片方は簡素な2段ベッドが2つ置かれただけであり、安宿の一室を思わせる作りとなっている。もう一方はがらりとしており、たった1つのものを除いて何も置かれてはいない。
 1つとはぽつんと壁に立てかけられた巨大な姿見の鏡だ。外ぶちは金の輝きをもつ金属で出来ており、全面に渡って奇妙なルーンのようなものが細かく彫り込まれている。鏡はまるで水を凍結したように表面に曇りは全く無い。それ以外に変わったところは無い鏡だ。
 
 そんなここで生活していくには少々大変な、ある意味作りかけとも取れるような小屋だった。
 そんな小屋の広間の中央には大きなテーブルが1つ。そしてその周りに6つのイス。どれも木で作られたさほど立派ではない。実用性を重視した作りのものがあった。

 そんな一風変わった家の広間にいたのは、2人のメイドだ。

 両者とも非常に美しいために、住居と雰囲気がまるであっていない。そのためになんとも表現できない、奇妙なちぐはぐ感が生まれていた。

 イスに座っている1人は健康的な褐色の肌の持ち主で、ころころと表情が変わる非常に明るい女性だ。年齢的には20になる頃だろうか。活発な雰囲気が三つ編みにすることによって急増している。尻尾が生えていたならパタパタと振っていそうだ。

 そしてもう1人は先ほどの女性とはまるで正反対なほど、落ち着いた雰囲気を漂わせた人物だ。ナザリックに存在するメイドの中でも身長、雰囲気共に年齢がある程度上のように思われる。恐らく20台半ば過ぎか。
 夜会巻きにした髪が雰囲気と相まって非常に似合っていた。

 前者のメイドの名をルプスレギナ・ベータ。後者の名前はユリ・アルファ。
 両者共にセバス直轄の戦闘能力を保有したメイドだ。

 
 ルプスレギナの手がテーブルに置かれた木の皿に伸ばされる。
 そこから摘み上げられたのはポテトを薄くスライスして、油で揚げたものに塩を振りかけた食べ物だ。それが口に放り込まれ、ポリポリと音を立てる。

「いやー、美味しくてとまらないっすね」 
「美味しい?」
「美味しいっす。ユリ姉が食べられないのが残念っす」

 朗らかに笑う女性からは嫌味はまるで感じられない。ユリと呼ばれた女性も、その間も食べ続ける少女に苦笑いを浮かべる程度だ。

「そんなに食べると太ると思うよ?」
「大丈夫っす。私は食べても太らないタイプって奴なんで」
「そうかい? なら、ボクの分もたっぷりと食べてくれよ。残すとペスの奴に悪いからね」

 この食べ物――ゴールデン芋のスライス揚げという名がユグドラシルではついているが――を持ってきたのはメイド長自身だ。それもわざわざユリに手渡しで。
 そんなユリとメイド長の互いに親しみを込めた口調に、その光景を黙ってみていたルプスレギナは首を傾げたものだ。
 そんな今まで聞こう聞こうと思っていた謎を解き明かすチャンスだと判断し、口を開く。

「ユリ姉はペストーニャ様と仲がなんで良いんですか?」

 メイド長という地位についているペストーニャはナザリックの中では、戦闘メイドであるユリより立場的に上だし、レベル的にも上だ。決して様を外して呼んで良いわけではない。大体、セバスに知られれば叱られるだろう。
 いない場所でのみ敬称を略して呼んでいるというなら一気にユリの評価が駄々下がりだが、そうではないことはルプスレギナは良く知っている。
 階層的にはほぼ同じ階に存在しているが、与えられた立場的にも接点がまるで無い。いや、同じ神官同士と考えればまだルプスレギナの方が接点があるといえるだろう。ならば何故というところだ。

「ああ、至高の方々が仲が良かったからかな。ボクを創造者したやまいこ様、ペスを創造された方、アーちゃんを創造された方は同じ女性同士ということもあって良くお喋りをしていたから。そんなわけでボクたちも仲が良いってわけさ」
「……アーちゃんて誰っすか?」
「アウラ」
「やっぱりー! 守護者の方をちゃん付けはまずいっしょ!」
「大丈夫だって。時と場合、すべきところを間違いなければ叱られないから」
「いわれてみれば……アウラ様、ユリ姉に飛びついていましたね」
 
 ルプスレギナはアウラが飛びつくところを思い出す。胸に埋もれて苦しそうだったな、なんて思いながら、正面にあるユリの異常なまでに豊満な胸にちらりと視線を走らせる。
 そんなルプスレギナの横顔を何処を見てるんだかと、困ったような顔で見るユリ。

「でかいっすよね。メロン……スイカっすか? ちょこと齧ってみたい気持ちになるっす」
「何を言ってるんだか」

 やれやれと肩をすくめるユリ。

「そんなにでかいと楽師にちょっかい出されないっすか?」
「ボクはちょっかいかけられたこと今のところ無いね。君がどう思ってるかの予測は立つけど、実際は彼、意外にマトモだよ?」
「はぁ。なら良いっすけど……。あんまりすかないんすよね、あの人」
「しょうがないよね。チャウグナー種族自体、性格が悪いからね。でもその中にしてはマトモだと思うよ?」
「まぁナザリックの者にちょっかいかけたら不味いってことぐらいは理解してるってことっすかね?」
「多分ね」

 そう答えてから、ユリは苦笑いを浮かべる。

「……ボクはシャルティア様のほうが怖いよ。なんか変な目でこっち見るんだよね。飢えた獣みたいな目で」
「まぁ、シャルティア様はあれっすから……」
「悪い人じゃないんだけど、あの性癖はちょっとね」

 2人で顔を見合わせ笑う。無論、悪意というよりも事実を言っているという雰囲気が多分に含まれていた。
 
「しかし、暇っすねー。侵入者来るなら早く来てくれないもんすかね?」

 欠伸の真似事を行うルプスレギナの姿に微笑を浮かべる。

「フラグを立てたようだね」
「んい?」
「ほら」

 ユリの指差す方、窓にはめ込まれたガラス越しに、小屋に向かって進んでいく1つの影があった。

 それは一台の荷馬車だ。
 それがごとごとと揺られながら向かって来ている。御者台に乗って手綱を持っている女性は農民のような姿をしているのだが、それに対して繋がられた2頭の馬は毛並みの良く、体躯も立派な見事なものだ。道の無い草原の中、荷馬車を問題なく引っ張ってきているのだからそのほどが分かるというものだ。
 農民と立派な馬。その二者の隔絶したギャップが強い違和感を生み出している。
 まだ距離にしてはかなりあるが、荷馬車が揺れるたびに複数の何かが乗っているのが伺える。

「ポリポリ……なんすかね? 侵入者っぽくはないっすけど?」

 最後に口にくわえていたポテトを食べきると、ルプスレギナは片眉を上げる。
 どちらかといえば商人とか街に食料を持っていく農民みたいだと、呟くルプスレギナ。しかしながらそれにしては馬が立派すぎる。あんな汚れて服を着た人物には不釣合いだ。
 考えられるのは主人から貸し出されたとかそういった類の話か。しかしながら答えを出すには、現状では少々情報が足りない。

「そうだね。取り合えずは友好的に会ってみようか」

 ユリはそう言いながら、両手を伸ばし、テーブルの上に置かれた自らの頭を持ち上げる。そして首の上に乗せると、切断面をチョーカーで隠すと同時に固定する。
 デュラハンであるユリとしては頭をぶら下げて行っても良いのだが、それが初対面の人間相手には、非常に不味い対応だというのぐらい理解できる頭はある。

 2度、3度落ちないことを確認すると、立ち上がった。

「さて、行こうか」
「了解っす」

 ぴょこんという感じで立ち上がったルプスレギナと共にユリは扉に向かって歩き出した。

 
 外の日差しは意外に強い。
 ユリは日差しを遮るように片手を上げて、太陽を隠す。
 意外に冷たい風が草原を駆け抜けていくが、それに負けないとでもいうようにジリジリと照りつけてくる太陽は、いまだ頂点まで上っていない。これからまだ暑くなりそうな雰囲気だ。
 ユリは別に温度の変化は苦ではないが、強い日差しは好きでは無い。少しばかり今出てきた丸太小屋を物惜しげに見てしまうのは致し方ないところだろう。

 今ユリたちが出てきた太小屋は、ナザリック大地下墳墓の地表部分、正面門の脇に建てられたものだ。目的としてはいわば関所の詰め所のようなものである。
 そんなものをわざわざ建てたのは、ナザリックに勝手に入って勝手に死ぬのは良いが、せめてその前に一言ぐらい警告をしておこうというアインズの狙いのためだ。無論、善意ではない。アインズとしては今だ世界の状況を把握してないために、最低限度の友好性のアピールとしての警告が真の目的だ。警告はしたんだよという言い訳にも使うためにこの丸太小屋が新築されたという寸法だ。アインズ自身としては人の住居に勝手に乗り込んできたなら、死のうがどうなろうが自業自得だという考えの持ち主なのだから。
 ただ、何も知らない子供とかが入り込んで死んでしまうのは、哀れであるという感情も無いわけではない。好物の最後の一個を地面に落としてしまった友人に向ける程度の哀れみがアインズにだってある。
 ようはこの2者のメイドは侵入者が死んで構わない人物か、判断するという役割を与えられているのだ。
 
 手を翳したまま、僅かに目を細め、ユリは進んでくる荷馬車を見る。
 向かってくるのはかなり大きいが幌のついていない運搬用のものだ。馬の手綱を持っている少女の後ろ――荷馬車には幾人もの人の気配のようなものが感じられる。
 ユリはゆっくりと呼吸を吐き出し、注意深く気配を探ることとする。
 武道家<モンク>系統のクラス、キ・マスターが保有する特殊能力『気探知』。生命体の数と自らとの力の差を感じ取る能力だ。力の差は漠然とし分からないし、アンデッドや人造生物<コンストラクト>のようなものの探知は出来ないが、不可視の存在も看破できる等、まぁまぁ使い勝手は良い。
 
「なるほど」

 ユリは小さく呟くと、一瞬だけ荷馬車のさらに後ろの草原に視線を動かす。それから荷馬車に戻すと集中を解く。

「気づいてるっすよね」
「うん」

 ルプスレギナの確認の言葉にユリは軽く返答をする。

「それよりそろそろ言葉遣い」
「はい、了解しました、ユリさん」
「はい。良く出来ましたルプスレギナ」

 微笑むと、ユリは客を出迎えるメイドに相応しい表情を作る。その横でルプスレギナも同じようにしている。その2人の姿は見るものによっては全然似てないのに姉妹と思わせるものがあった。

 やがて荷馬車はかなり近くまで来ると、ゆっくりと止まる。御者台から少女が降りるよりも早く、荷馬車からバラバラとゴブリンが降り立った。

 ユリたちに動きは無い。
 荷馬車がユリたちに近寄ってくる間に、後部に複数のゴブリンの姿を認識し、ユリは一応は戦闘準備も念頭に入れた上で行動すべきかとも考量し、却下した経過があるからだ。
 というのも、もしゴブリンたちが攻撃の意思表示を見せたなら、そのときは容赦なく殺せばよい。そう判断したのだ。
 それはさきほどの感知では、掃討するのにさほど時間の掛からない程度の存在としか受け取らなかったことを思い出したからだ。

 そんな決定を下したユリの前で降り立つゴブリンの数は全部で15体。荷馬車一台に良くぞ入っていたと褒め称えたくなる数だ。

 基本的にユグドラシルではゴブリンの最低レベルは1だが、様々な――スペルキャスターやロードといった――種類や特殊部族、職業がおり、そして背格好が同じゴブリンでも名前の前にレベルが与えられることのよって、強さに変化がある。
 そしてこのレベルの高さは武装の良さや、衣服の豪華さによって判断できる作りとなっていた。これはよくあるRPGのゲームで、色が同じでもちょっと外見を変えることで別の強さのモンスターになるのと同じ要領だ。

 荷馬車から降り立った中でも最も多い――12体のゴブリンは、背格好は雑魚モンスターとしての最低レベルゴブリンだが、それよりかは非常に武装が整っている。
 チェインシャツに円形盾<ラウンドシールド>、腰に肉厚なマチェットを下げている。チャインシャツの下は茶色の半袖半ズボン。それにしっかりとした毛皮で作った靴も履いている。腰には小物入れらしきポシェット。
 小柄ながらもしっかりとした筋肉の隆起が、腕や足の鎧に覆われてない部分に見え隠れしている。

 恐らくはレベル8クラスのゴブリン。そうユリは判断する。

 そんな12体のゴブリンは馬の手綱を受け取ったり、荷馬車と馬を固定している棒との固定紐を確認したり、御者台に乗っていた少女を降ろしたりと慌しく行動を開始する。遅れて降り立ったのは3体のゴブリン。

 最初に降り立ったのは一回り大柄のゴブリン。
 姿格好は戦士といっても過言ではない。ゴブリンとは思えないほどの筋骨隆々の長躯。それを実用第一主義な無骨なブレストプレートが包み、使い慣れたようなグレードソードを背中に背負っている。鋭い視線を周囲に飛ばしながら、ゆったりとした動きで歩を進める。

 その右横には人型生物の髑髏を被ったスペルキャスターのゴブリンだ。
 手にはみすぼらしいながらも自分の身長よりも長い、くねった様な木の杖を持っている。全身はどこかの部族がつけそうな奇妙な装飾品等で身を飾っており、胸の部分が僅かに膨らんでいる。顔を良く見ると確かに女の可愛らしさがある。何で男と女でこんなに違いがあるの、と疑問符が浮かんでしまうほど。

 左隣には歪んだような印を首から提げた神官らしきゴブリン。叡智というよりはずる賢そうな顔をしている。レベル8ゴブリンのものよりは立派なチェインシャツを纏い、腰にはモーニングスター。

 ゴブリンリーダー、ゴブリン・メイジ、ゴブリン・クレリックといったところか。ユリは言葉には出さずに呟く。

 どのゴブリンたちも服とかは汚れているように見えるが、実のところそれほど汚いわけではないようだ。というのも臭いにおいが殆どしないからだ。
 それに時折ゴブリンリーダーを中心とした、しっかりとした組織立った動きが伺える。
 それは傭兵。そんな言葉が最も似合った一団だ。

 そして最後にゴブリンたちの手によって御者台と荷馬車から1人づつ少女が丁寧に降ろされる。
 御者台に乗っていた少女は栗毛色の髪をみつあみにして胸元ぐらいの長さに伸ばしている。日に焼けて健康的な肌に、黒い瞳。そこそこ可愛い顔立ちだ。
 もう1人は御者台の少女を小さくしたようなようだった。恐らくは妹だろう。両者共にそれほど裕福ではない、農民の姿格好だ。
 おどおどと周囲を見渡し、ユリたちを驚きの目で観察しているようだった。まるでこんな場所にこんな格好をした人がいるのが信じられないような。2人からは困惑と圧倒されているという雰囲気を感じ取れた。
 
 ユリとルプスレギナが見ている前で、突如、一斉に降り立ったゴブリンたちが女性を取り囲むように隊列らしきものを整える。
 そしてなんだか奇妙なポーズをとった。思わずユリもルプスレギナも目をぱちくりしてしまうような。
 それからタイミングを取るように互いの顔を見合わせてから、ゴブリン全員の調和の取れた大声が辺りに響く。

「おれたち、エンリの姉さん親衛隊!」

 恥ずかしそうに中央の2人の少女も奇怪なポーズを一瞬取って、直ぐに辞めると俯き、真っ赤な顔で地面を凝視した。
 
 シーンという音が正しいぐらい、辺りが静まり返る。遅れてゴブリンたちから歓声が上がった。
 ユリは思わず口をぽっかりと開けてしまった。あまりにも想定外過ぎる。ユリほどの存在が、今起こったことを完全に理解するまでにしばらくの時間が必要だったのだ。
 それに対しゴブリンたちは上機嫌だ。

「ひゃっはー。決まったぜ、兄弟!」
「準備に1日はかけたもんなぁ。最初は決まらなくて大変だったし」
「おれたちの努力も報われたぜ!」
「おう。メロメロだな。メロメロ」
「でもよぉ不味いぜー。おれたちにはエンリの姉さんがいるって言うのに」
「断るって辛いことだよなぁ」

 口々にゴブリンたちが互いの肩を叩きながら騒ぎ立てる。そんな騒ぎの中心にいた少女たちは今だ恥ずかしげに顔を俯かせたままぴくりとも動こうともしない。
 耳が真っ赤だ。そんな益体も無いことをユリは思う。

「エンリの姉さんも感動してるみたいだぜ! そんな顔を真っ赤にしてまで感動してくれるなんて、俺達もほんと、嬉しいですぜ」
「やっぱ、ポーズがいいんすよ。美しさと偉大さ、それと慈悲深さを体現した、勇ましいポーズ!」
「そして中央のエンリの姉さんがとったポーズを強調する。やっぱこれが考え付いたリーダーは天才ですよ!」
「だろう? 特にエンリの姉さんにやってもらったポーズは相応しいだろ。三日三晩寝ずに考えただけはあるだろ?」

 凄かったよ。ひっくり返ったカエルみたいだったよ。そう、エンリと呼ばれている少女に声をかけた方が良いだろうか。そこまで考えユリは思い出す。
 アインズから言われている客人の名前を。

「……まさかエンリさまですか」

 そのまさかという部分に何を感じ取ったのか、エンリと呼ばれた少女は消えてしまうような声ではいと返答した。エンリの後ろに隠れるように、妹だろう少女が顔を真っ赤にしたまま逃げ込む。
 2人とも穴があったら確実に潜っているだろう。

「あー。えっとよくいらっしゃいました。アインズ様からいらっしゃったら――」
「ちげぇよ! エンリの姉さんは俺の嫁!」
「そいつはリーダーとはいえ許せねぇな!」
「はぁ。俺が姉さんはもらうに決まってるじゃないですか! 俺これからの人生設計もう立ててるんですから。まずここから帰ったら――」
「俺……妹さんでいいなぁ……」
「………………ろりこんだめぜったい」
「YES、ロリータ。NO、タッチ」
「えっと、いらっしゃったら――」
「いや、エンリの姉さんを幸せに出来るのは俺しかいねぇ!」
「ふむ……君達のように腕力でしか考えられないような存在にエンリの姉さんを任せられるわけが無いだろう。大体我が神はこう言っているんだよ、汝、エンリを幸せにせよと。キラーン」
「きも! キラーンって口で言う奴始めて見たぞ!」
「つーか、てめぇの神って悪神だろ!」
「だいたいマッチョこそ全てだ。逞しい男に女は惚れるってもんよ! お前みたいな筋肉のつきが悪い奴に任せられるわけねぇだろ」
「……いがいにおんなのほうがすきかも……」
「いや、そりゃ無い」

 ……こいつらうるせぇ。
 微笑を浮かべたまま、ユリの眉間がピクリと動く。どうしてくれようか。そう思ったとき――

「ぶははははっはは! 最高っす。面白っす!」

 ――突如、ユリの横から爆笑が響く。それに押されるようにゴブリンたちのおしゃべりが止む。

「――ルプスレギナ」

 たしなめるようなユリの言葉を受けてもルプスレギナの笑みは元には戻らない。

「いやー。最高っす。つーか、よくいらっしゃいました、おふた方。アインズ様より来たら歓迎するようにって言われてるっす」
「ええ。エンリ様と妹のネム様ですね。我々ナザリック一同、お待ちしておりました」
「あ、はい。えっとよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げるエンリ。隠れるようによろしくお願いします小さな声がした。

「ネム!」

 後ろにいる少女を引っ張り出そうとするエンリを止め、ユリは周囲で今だ誰がエンリの夫かについて語っているゴブリンたちを見る。

「それでこちらのゴブリンたちは?」
「はい。あの――」
「おれたちはエンリの姉さん親衛――」
「あなたたちには聞いてませんから」

 ユリにばっさり切られ、ゴブリンリーダーがしょぼんと肩を落とす。

「えっと、アインズさん……様からもらった角笛を吹き鳴らしたら出てきた方々で……あの、私を今まで守ってくれてました」
「そうでしたか」
 
 さてどうするか。ユリは考える。
 エンリのように招いている人物を中に入れることは問題ではないが、アインズに忠誠心を持たない存在を多数入れることはあまりよろしいとは思えない。品位の無い存在では特にそうだ。
 一応はアインズに連絡を取り、その上で行動すべきだろう。
 ではその順番だ。まずは客人であるエンリとネムをナザリックの待合室に招いた上で、アインズにゴブリンの件を相談。そういった流れで行くべきだろう。勿論、エンリとネムがそれに反対しなければだ。

「ではまずエンリ様とネム様をお連れします。あちらの方々は後でアインズ様の許可を求めてからということでよろしいでしょうか?」
「あ、結構ですよ。俺たちはここで待ってますので」
「左様ですか? エンリ様、このようにおっしゃってますが、それでよろしいでしょうか?」
「え? え?」

 どうしようという風にきょろきょろと視線を動かすエンリにゴブリンリーダーが助け舟を出す。

「ああ、気にしないでくださいよ。エンリの姉さん。俺たち堅苦しそうなところは苦手なんで。ここで待ってますんで」
「とのことですので、エンリ様、ネム様。参りましょう」

 今だ迷ったままのエンリを多少強引にユリが連れて歩き出す。エンリの片手を握り締めネムもそれに続く。
 やがて3人は丸太小屋に入っていった。



 ■



「で、お姉さんは付いていかないので?」
「ん? まぁ、ユリ姉が行くから私まで行くまでもないっしょ。――うんでさぁ、何処までマジ?」

 ルプスレギナはにやりと肉食獣の笑みを浮かべた。それに対し、ゴブリンリーダーも歴戦の戦士が浮かべる笑顔でもって迎撃する。周囲の馬鹿話をしていたゴブリンたちは今だ口は動かすものの、注意をルプスレギナに向けているのは見渡せば一目瞭然だ。警戒感の強く混じったものが自らに向けられる感覚に、ルプスレギナは笑みをより濃くする。
 そこにいるのは狩りを始める前の獣にも似た生き物だった。

「何の話ですかね?」
「本気でやったわけじゃないんでしょ? あの馬鹿騒ぎ」
「なんのこと……」

 そこまで口にしてゴブリンリーダーは黙る。無駄だと理解したのだ。

「はぁ。簡単ですよ。あなたたちは俺たちより遙に強い。あなたたちが俺たちを殺す気になったら守りに入っても多分、1人1秒が関の山でしょうよ。でも、俺たちを馬鹿にしてればもしかすると1人3秒ぐらいは時間が掛かるかもしれない。エンリの姉さんと妹さんを守る時間はあればあるに越したことは無いですからね」
「はーん。それで降りる際に馬と荷馬車を固定していた縄を切ったわけだ」
「ええ、そうです。もしかしたら姉さんと妹さんぐらいなら、馬に乗って逃げ出す時間を稼げるかもしれないってわけですね」
「それに後ろに数人いるよねぇ」

 初めてゴブリンたちの顔つきが変わる。警戒感、恐怖感そういった諸々に。

「……そこまで分かるんですか」
「まぁね。騎馬兵が2かな? 獣の匂いが2だし。それともう2人。これは何だろう……わざわざ連れて来なかったことを考えると飛び道具関係……弓兵かな?」
「正解ですよ。弓兵です」
「せっかくだからこっちに呼んだらどうっすか?」
「……おい」
 
 しばし逡巡し、それから近くにいたゴブリンの一匹に顎をしゃくる。
 そのゴブリンはポシェットから鏡のようなものを取り出すと、光を反射させ、合図を後方に送る。

「いや、まじであんた化け物ですよ」

 この距離で気づかれるのか、そういう思いが篭った言葉にルプスレギナは笑う。

「門番が雑魚じゃ話にならんでしょ?」
「ですかね。もう少し可愛いところだと思っていたんですが、間違いだったみたいですね。それであの丸太小屋にアインズ様とおっしゃる方がいるんで?」
「な、わけないっすよ」
「ですよねー」

 やっぱりなと笑うゴブリンリーダー。

「転移門の鏡<ミラー・オブ・ゲート>って言われるアイテムがあるんすよ。二点間を結んでほぼ無限に転移することが出来るマジックアイテムがね。まぁ、色々と細かい設定があるみたいで軍勢とか動かせないみたいっすけど……よくしらないっす」
「すげぇアイテムですね」

 アイテムの効果を考えれば、それがどれほど凄まじいものか誰でも推測は立つ。恐らく欲しいと思わないものは殆どいないほどの物だろう。ゴブリンリーダーですら無数の使い方が考え付くほどだ。金額にしたら小国の国家予算を優に超えそうだろう。

「で、俺たちはこのまま待っていて問題ないですかね?」

 その言葉の裏にあるもの。それを認識したルプスレギナは何も言わずに、ゴブリンリーダーを無表情に眺める。

「どうにせよ。悪い方に転がるんならエンリの姉さんと妹さんだけは命張ってでも助けさせてもらいますよ?」

 僅かに腰を屈めたゴブリンリーダー。そしてその周囲のゴブリンたち。それらに囲まれつつも平然とした顔でルプスレギナは話を続ける意志を現す。それが理解できただろうゴブリンたちに、動揺の色が浮かんだ。
 つまりはルプスレギナからすると周りのゴブリン如き、警戒するに値しないものだと公言しているのだから。

「なんであの時連れて逃げなかったんですかね?」
「簡単ですよ。2人はやばすぎる。せめて数が少なくなれば思ったんですよ。あの小屋にいるのかな、なんて考えていたのが馬鹿みたいですね」
「彼女達に悪いことが起こると思った理由は?」
「口封じ、証拠の抹消。エンリの姉さんからここの主人に依頼されたって話は聞きましたが、あんたたちみたいな存在がいるのに単なる農民の姉さんにお願いする理由が今一歩理解できない。あの村の人間じゃなくちゃいけないとするなら、それはどういうことなのか。それは成功を期しての行動なのか。本当に生きて帰って欲しかったのか。そんな疑問からですね」
「危険がありそうだと認識してるなら、来なければ良かったんじゃない?」
「はん。来なかったら下手すると村に迷惑が掛かるでしょうよ。ここにくれば始末する気なら少ない被害ですむ。まぁ、個人的には村の全員よりは姉さん1人の命のほうが重いですけどね」
「その辺の話は彼女にしたの?」
「まさかするわけ無いでしょう。でもそれとなく姉さんが何を考えてるかは聞きましたよ。だから一同覚悟を決めてここに来たってわけです」

 ルプスレギナは周囲を見渡す。これだけ警戒しつつも今で剣を抜かないのはこちらの様子を伺っているためか。剣を抜いたらもはや敵意を見せたも同然。だが、言葉ですんでいる今ならまだ敵意を突きつけたわけではない。
 つまりは彼らも不安なのだ。彼女はどうなるんだろうと。そして今自分達に起こることで、彼女に起こることを予測しようとしている。だからぎりぎり挑発にならない程度の警戒心を現しているのだろう。
 ルプスレギナは感心したように笑い、それから真面目な顔を作った。

「……ゴブリン。アインズ様はあの2人をお客様として迎え入れろと言った。ならば安全は絶対に保障する」
 
 それからにんまりと顔を崩した。

「つーわけで、あなた方も今のところはお客様っす。まぁ、お客様にそんな口を向けるのは不味いことなんすけど、許して欲しいっすねー」

 ゴブリンリーダーはルプスレギナの顔をしばらく眺め、それから深く頷いた。

「……信じますぜ、美人のメイドさん」
「超をつけて欲しいけど勘弁するっす。それともし彼女たちに何か起こりそうなら、命乞いは私がしてあげるよ」
「たのんます」

 ぺこりと頭を下げるゴブリンリーダーにルプスレギナは邪気の無い笑顔を向ける。

「私は好きっすよ。忠義に厚い奴って」



 ■



 アインズは今少々手が離せないそうなで、しばらく応接室の方で待っていて欲しいとの事で通された部屋で、エンリは絶望を感じていた。

 エンリはちょこんと長椅子に軽く腰掛ける。
 借りてきたというよりも、塒から浚われてきた小動物を思わせる雰囲気で、落ち着かなく周囲をきょときょとと見渡している。その横にはネム。やはりこれまた姉と同じような姿で周囲を見渡している。

 エンリもアインズという魔法使いが凄そうな人だというのは理解していた。だから一般人としての魔法使いではなく、物語に出てくるような魔法使いが住処とする塔にでも住んでいるんだろうな、そんな風に考えていたのだ。
 だが、来ているとまるで違う。
 それはお姫様が出るような物語に入り込んでしまったような、夢のような煌びやかな世界。
 自分がいて良い世界ではない。

 暖炉の上、左右に飾られたガラスで出来た今にも飛び立ちそうな鳥の細工。これ1つ壊しただけで自分の生涯年収を払っても弁償できないほどだろう。
 座っているソファーは綺麗で、自分の服の汚れが付かないだろうかと心配してしまうほど。
 エンリの16年の人生で始めてみたシャンデリアから降り注ぐ、松明でもランタンでも蝋燭でも無い魔法の光。
 置かれた調度品は深い趣のあるものばかりで、立派な家具という言葉の代名詞にもなりそうなものばかり。特にエンリの前にドンと置かれた黒檀の漆塗りのテーブルの重厚さ。価値の分からないエンリでさえ、どれだけ高い物かぐらいは理解してしまう。
 飾られた絵はまるで生きている綺麗な女性をそのまま塗りこんだ精密さ。
 そして下に引かれたカーペットを汚したりしたら怒られないだろうか。座ったまま軽く足を上げて、出来るだけ設置面を少なくするという努力をした方が良いのだろうか、そんなことを思ってしまうほどの柔らかさ。

 エンリは緊張のあまりに倒れてしまいそうだった。ネムもそれが幼いながらなんとなく理解できるのだろう。子供特有の好奇心をこれっぽちも発揮していない。
 胃が痛くなるような緊張感が襲い掛かってくる。空気がぴんと張り詰め、どこかに逃げ出したくもなる。もう数分もすれば2人のどちらかが気絶してもおかしくは無い。

 ――そんな時、ノックが繰り返された。

「ひぅ!」

 びくんと肩が竦み、それに反応し、半ば抱きついていたネムも大きく体を震わす。

「失礼します」

 入ってきたのは銀のサービスワゴンを押してきた1人のメイドだ。汚れひとつも無いほど綺麗で、非常に高価そうなメイド服を着て非常に綺麗な女性。その顔に浮かんでいるのは、優しげな笑顔だ。だが、こちらを見た瞬間一気に激怒の表情になるのでは。そんな不安がエンリを締め上げる。

「お飲み物をお持ちしました」
「け、結構です!」

 すさまじい速さで返答するエンリに、呆気に取られたような表情を一瞬だけ覗かせるメイド。

「……あ、左様ですか?」
「は、はい」

 緊張しガチガチのエンリとなみだ目のネムの気持ちが伝わったのだろう。作り物ではない優しげな笑顔を浮かべると、失礼しますと言ってから、エンリの横に腰掛ける。そして緊張に凍りついたエンリの肩に優しく手を置いた。

「エンリ様。それほど緊張しないでください。エンリ様もネム様もお客様です。のんびり何も気にせずに待っておられれば良いんです」
「で、ですけど……。もしここにあるものを壊したらと思うと……」
「ご安心ください。ここにあるものはアインズ様のお持ちのものからすれば正直大したものは置かれていません。壊されたところでアインズ様はふーんと思う程度でしょう」
「そ、そんな。ここにあるもの全てですか?」  

 見渡すエンリの目からすれば、どれも金額を考えれば頭が痛くなりそうなものばかり。それが大したものではないというのか。

「はい。アインズ様は非常にお金持ちなんですよ」
「そ、それは知ってます」

 あれだけの報酬を支払った人物だ。金持ちだろうとは薄々予測は出来ていた。それでもこれは想像できない。

「ですからご安心を」
「と言われましても……」
「では何かお飲みください。そうすれば少しは気も楽になると思います」
「ですけど……」

 銀のワゴンの上に載ったカップに目を走らせる。白い陶器で出来た繊細な一品だ。ふちは金。側面には深く綺麗な青色で、模様とも絵ともいえるようなものが描かれている。それはエンリが持つだけで壊してしまうのではと怯えてしまうほど。

「――」
 
 エンリが断ろうと声を出す前に扉が数度ノックされる。メイドは一瞬だけエンリに目を走らせ、それから立ち上がるとしずしずとドアに向かった。そして軽く開け、外の人物を確認した。
 それからエンリに向き直ると来た人物の名を告げる。

「アインズ様がまいりました」
「お待たせした。ようこそ我がナザリックに」

 ドアを開けたメイドが横に退くと、そこから奇怪な仮面をつけ、光を吸い込むような深みある豪華な漆黒のローブを身に包んだ人物が入ってきた。エンリの知っている村を救ってくれたアインズ・ウール・ゴウンと名乗る魔法使いだろう。だが、前に比べると落ち着いたような雰囲気がある。
 それに遅れ、もう1人のメイドが部屋に入ってくる。
 アインズはエンリとネムの前に置かれたソファーに腰掛ける。そしてテーブルの上に何も置かれてないのに気づくと、前からこの部屋にいたメイドに声を飛ばした。

「飲み物は出さなかったのか?」
「も――」
「――私が断ったんです」

 その声に含まれた非難めいた感情を認識したエンリは慌てて口を挟む。それに押されるようにアインズはそうかと呟いた。

「良く来てくれた。エンリにネムだったな。約束の食事の前に、少し話が聞きたいのでね。口が渇くとあれだ。どうだね? 飲み物でも?」
「おまえって呼ばないんですか?」
「……あの時は色々と混乱していたのでね。それにここは我が家であり、客を迎える立場だ。取り繕ったりもするさ」
 
 あの時は転移して1日目の混乱しきった頃だった。だが、今では10日も経過し、しなくてはならない方向性――『アインズ・ウール・ゴウン』の伝説化及び維持というもの生まれつつある。ならばいつまでもあんな口調で話はしてられない。貫禄と威厳を持った話し方で頑張らねばならないのだ。
 
 ――結構、時折ぼろが出るけどな。

 アインズは心中呟く。

「そんなわけだ。別に別人ということは無いぞ?」

 軽く仮面を触りながら、笑いを込めた口調でアインズはエンリに返答する。
 結局のところその辺りが不安だったのだろう。少しばかりエンリの肩が下がる。

「飲み物はいらないと言うことなら、てきぱきと聞きたいことを聞かせてもらおうか」

 少しばかり考え込むように口を閉ざしてから、アインズは話し始めた。

「まずは帝国の野営地に行って羊皮紙を渡すことだが、問題なく行ったのか?」
「はい。帝国の凄く大きい……私からすると凄く大きい野営地まで行きました。そうしたら村を襲った騎士と同じ格好の人たちが4人馬に乗って出てきて。それで私に何をしに来たのか言ってきたので、それで村が襲われた話と鎧、羊皮紙を置いていきました」
「何か、特別な行動を向こうはしてきたかね?」
「いえ。特別は無かったです。羊皮紙と鎧を受け取ると直ぐに引き返しました」
「なるほど……」

 これで村の襲撃は帝国で無い可能性が非常に高くなった。100%とはいえないまでも、それに近い可能性はある。

「あのゴブリンたちは角笛で呼んだんだと思うんだが、危険があったのかね?」
「いえ、夜。遠くで獣のほえ声が聞こえたもので。危ないかと思って……」
「なるほど。……ん? そのつもりで渡したんだ、使ったからと言って何か思ったりしないさ」
「そうですか」

 見るからにほっとするエンリ。
 他に聞きたいことはとアインズは考え、特別に浮かばないことに気づく。知りたいことは山のようにあるが、彼女では知らない方が多いだろう。とりあえずは目的のメッセンジャーの仕事をこなしてくれたことでよしとしよう。

「ありがとう。聞きたい話は終わりかな。とりあえずは食事中に浮かんだら聞かせてもらうよ」
「はい。それでこれをお返しします」

 エンリはパッとしないボロいカバンの中からスクロールと1つの角笛を取り出し、テーブルの上に置く。それはアインズが出発前に渡した、本拠地転移のスクロールとサモンニング・ゴブリン・トループの魔法の込めたアイテムだ。

「いや、これは君のほうで持っておくといい。まぁ、こちらのスクロールは回収させてもらおう」

 転移のスクロール自体は貴重品ではないが、本拠地転移のスクロールは貴重品だ。なぜなら本拠地転移のスクロールは通常手段では作り出すことができないから。

「それとあの……ゴブリンさんたちは」
「ん? ああ、ここまでは連れてきてはいないが、入り口で簡単な食事をご馳走しているよ」
「あ、そうじゃなくて……」

 言いたい意味が分からない。
 アインズは訝しげにエンリを見つめ、さらに言葉を引き出そうと無言を保つ。それから少ししてからエンリが口を開いた。

「あの、お引取りになるんですか?」
「……そういう意味か」了解したという意味を込めてアインズは頷く。「……私のメイドが話を聞いたところ、君に忠誠を尽くすということでね。私は引き取ろうとは考えていないが……まぁ、君が引き取ってくれというならそうしても構わないが?」

 ルプスレギナが情報を収集したところ、アインズに対する忠誠心は欠片も無いとの事。ならば引き取ってもしょうがない。それでも引き取るということなら、殺すか実験に使用するか。
 マジックアイテムによる召喚は魔法による召喚と違い、召喚した存在が長く残る場合があるのがアインズの実験によって判明した。ただ、長く持つモンスターと時間で消えてしまうモンスターの違いまでは現在のところ判別していない。それの実験に使えるだろうか。
 それともこの世界の人間が使った場合の比較検討用に使うべきか。

「あ……」

 何かを考え込むエンリにアインズは一応、助け舟を出すこととする。

「……あのゴブリンたちを養うことが出来ないというなら、多少の食料援助等はしても構わないが?」
「いえ。あの……」少し辛そうに言いよどんでから口を開く。「村の人が一杯亡くなりましたから、ゴブリンさんたちが働いてくれるなら皆嬉しいと思います」
「なるほど……」

 あのゴブリンたちはレベルがあるだけあって、小柄でも普通の人間よりも筋力や耐久力には優れている。今の村の状況を考えると、ちょうど良い働き手になるだろう。
 これは上手い。
 アインズは降って湧いた幸運に躍り上がらんばかりだった。
 ゴブリンが村人達に打ち解け、一員となって行動してくれれば、そして信頼を勝ち得れば、それを召喚する要因となったアイテムを渡したアインズの立場もさらに向上するだろう。ならばあの村においてアインズはまさに救いの主だ。何か行動する際にあの村を一回踏むことによって、色々と有利に事が進めるかもしれない。
 まぁ、その分、あの村の治安や安全に対して多少留意しなくてはならないかもしれないが、その辺は許容範囲だろう。

「そうかね? それならそうすると良い。彼らもそれほど悪いようには見えないしな。君に忠誠を誓っているのは本気だろう。ならば私が引き取るというのは失礼な行為だった、許して欲しい」
「うん。ごぶりんさんたち、けっこう楽しいんだよ」
「ネム!」

 口を挟んだ妹を叱りつけるエンリに、構わないという風に鷹揚に手を振ってから、アインズはネムに顔を向ける。

「そうか。人間と同じようにゴブリンも悪い奴らと良い奴らがいる。あのゴブリンたちは良い奴らということだな」
「うん」

 こくこくと頷くネムに、アインズも釣られるように頭を振る。

「ならば大切にしないとな」
「うん」

 チラリとエンリに視線を走らせ、その話題を打ち切る。

「さて、食事の準備は終わってるはず。子供には退屈だったろう。行こうか?」
「い、いえ、食事は結構です。私たちではこんな凄いところ……」

 プルプルと首を振る。

「ふむ……。まぁ、無理にとは言わないが……折角、ドラゴンステーキを主としたコースを用意していたんだが?」
「どらごんですか?」
 
 ドラゴン。エンリの聞いたことのある色々な物語に出る悪役でもあり正義の味方でもある。ただ、どの話でも凄い力を持つとされる存在だ。そんな存在を食材にするというのだろうか。
 ありえない。からかってるだけだ。もしアインズが言ってるのでなければそう思っただろう。だが、眼前の魔法使いの言ってることは事実と思わせる何かをエンリに感じさせた。

「甘い食べ物もあるぞ。アイスクリームというものは食べたことがあるか?」

 ネムはアインズに話しかけれて首を横に振る。甘いものなんていったらせいぜい果実がもっぱらだ。街まで行けば色々とあるのだろうが、村での生活ではそんなものは食べられない。

「冷たくて、それでいて甘くて……口の中で蕩けるんだ。甘い氷とか雪みたいなものさ」

 エンリもネムもごくりと思わず唾を飲み込んでしまう。

「一度食べてみると良い。――コースの内容はどうなっている?」

 メイドの1人がはいと返事をしてから、食事の内容をそらんじる。

「本日の予定は、一皿目オードブルはピアーシングロブスター、ノーアトゥーンの魚介をヴルーテソースで」
「二皿目オードブルはヴィゾフニルのフォアグラのポワレをご用意させていただいてます」
「スープ はアルフヘイム産サツマイモと栗のクリームスープ」
「メインディッシュは肉料理を選ばせていただきました。これはさきほどアインズ様がおっしゃっていたヨトゥンヘイムのフロスト・エンシャント・ドラゴンの霜降りステーキ」
「そしてデザート。インテリジェンスアップルのコンポート、ヨーグルトをかけて。それに黄金紅茶のアイスクリーム添えです」
「食後のお飲物ですが、コーヒーは好みがあると思いましたのでこちらの方でルレッシュ・ピーチ・ウォーターがよろしいかと思いましたので準備しております」
「以上になります。もし何か変更の点がありましたら、すぐに変えさせていただきますが」

 何を言っているか分からない。
 エンリもネムも呆気に取られたようにメイドを見つめる。魔法の詠唱? そんな考えが浮かぶほどだ。
 豪華なオートミールとか柔らかな白パン。そんなものが2人のイメージの限界だ。それからあまりに逸脱しすぎている。

「ふむ……フォアグラは好き嫌いがあるんじゃないのか? 子供が好きとは思えん。それにしつこいメニューばかり並んでいるように思える。さっぱりしたものでは他には何がある?」
「はい。でしたらオードブルサラダとしてホタテガイのサラダ、プラムスターのコンフィ添えがございます」
「そうだな……先ほどのよりもこちらの方が良くないか?」
「え?! 私ですか?!」

 いきなり振られたエンリは慌てて答える。もはや何を言っている意味不明なのに話を振られても困る。

「あ、あの。い、いえ、お任せします」
「そうか?」

 なんとかその一言を搾り出すように紡ぐのが精一杯だ。アインズはそのままさらに食事についてメイドと話し続ける。
 そんなアインズを、ネムが専門用語を連発する人間に対するような憧憬の眼差しで凄いと呟くのが聞こえた。それにはエンリも同意する。あまりにも自分達と生きている世界が違う。
 嗜好品に金を出せる人間は必然的に裕福である。その中でも食べてしまえば消えてしまう、食事に力を入れることが出来るというのは、その中でも一握りだ。

 住居、知識、そして力。そんな全てを兼ね備えた魔法使い。
 エンリのような単なる農民が相手に出来るような人では無いのだろう。恐らくは王とか言われるような天上人を相手にするのが相応しいだけの人物。この仮面を被った魔法使いはそれほど凄い人なんだろう。
 そんな人に救われたんだ。
 そんな尊敬の思いが、エンリの心中に湧き上がる。

「あの……」
「ん? なんだ?」
「助けてくれてありがとうございました」
「ありがとうございました」

 エンリにあわせてネムもぺこりと頭を下げる。一瞬、アインズは言われている内容が理解できずに、頭の上にクエスチョンマークを浮かべるが、納得したのか鷹揚に手を振った。

「気にすることは無い。もし私がもっと早く気づいていたら君達の大切な人が死ぬことは無かっただろう。君達が助かったのは生きようとした君達の努力の結果だ」
「それでも……あなたのような凄い魔法使いが駆けつけてくれなかったら、私は……それに妹も殺されていました。本当に助けてくれてありがとうございます」

 アインズは只黙って肩をすくめる。

「まぁ、君達がそう思うならそれで構わないよ。私は先ほどの言ったように君達の努力のおかげだと思うがね。さて、そろそろ食事にもでも行こうじゃないか」

 アインズはゆっくりと立ち上がると、先頭を歩くようにドアに向かう。遅れて立ち上がったエンリは自らの服が軽く引っ張られるのを感じた。

「お姉ちゃん」

 ネムがエンリの服をつまみ、何か言いたげな顔をする。エンリにはネムの言いたいことがその顔をから読み取れた。

「うん。こんな凄い人に救われたんだって皆にも教えてあげようね」

 アインズが何者なのか知りたがっている者は実のところ村には多くいる。その理由は簡単だ。あれほどの騎士――デス・ナイトを使役する存在が単なる魔法使いと考える者はいない。ならば自分達を救ってくれた人は、伝説とか物語に出てくるような英雄と呼ばれる存在なのではないだろうかという憧れにも似た気持ちからだ。
 自分達が生きている貧しい世界に、凄い存在が姿を見せてくれた。そんな思い。

 そして今、それを肯定する幾つもの事実が、エンリとネムの前に姿を覗かせたのだ。

 エンリはアインズの後ろ姿に目を奪われる。

「伝説って本当なんだ……。物語じゃないんだ……」






――――――――
※ アインズは食事が出来ません。なので飲み物を飲んでる振りをするでしょう。
 2日で27k書き上げました。けっこう疲れました。読んでる方は疲れませんか? 大丈夫だと嬉しいです。ちょっと急ぎ足で書き上げたものでミスがあったらごめんなさい。
 次回35話……ナーベラルパートだけど出番少な目?な「検討」でお会いしましょう。



[18721] 35_検討1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2010/11/14 11:58



 冒険者ギルドの4階まで階段を上り、その男は荒い息を繰り返す。
 恰幅が良い。いや、肥満体とも言って良い体つきだ。腹部にはたっぷり過ぎるほど脂肪がつき、顎の下にもこれでもかといわんばかりに肉がついている。それだけ肉がつくことによって、冴えない肥満型ブルドックというのがぴったりの顔つきになっていた。
 光を反射するほど髪は薄くなっており、残った髪も白く色を変えていた。
 だが、服装は見事なものだ。恐らくは平民では着ることのできないようなベルベットのジャケットを着ている。指輪や衣服はどれも良い仕立てのものばかり。それは彼の財産状況を赤裸々に映し出していた。 

 エ・ランテルは王直轄領の都市であるために、王から派遣された役人たちが都市の管理運営を行うこととなっている。そして都市長ともいうべき役人達の頭。それが彼――パナソレイ・グルーゼ・ヴァウナー・レッテンマイアである。

 外見に反してと言って良いのか、彼は無能ではない。それどころか有能の部類に入る人物である。
 というのもこの都市は帝国との戦いの最前線となるために、色々な根回しや様々な物資の管理ということを行う必要性が出てくる。確かに商人や役人たちに任せればことは足りるが、それでも最終的な決定を下すのは彼だ。それが正当なのか判断する必要が出るために、細かく、様々な知識を持たなくてはならない職業でもある。

 そんな彼は荒い息で呼吸を繰り返す。

「大丈夫でしょうか?」

 そんなパナソレイに声をかけたのはギルドの受付嬢、イシュペン・ロンブルである。ちなみにここまで彼を押してきたために手が疲れているのは上手く隠しての質問だ。

「プヒー。プヒー。大丈夫じゃないよ、君ぃ。プヒー」

 鼻が詰まっているのか、呼吸音が豚の鳴き声のようにも聞こえる。

「なんというのかね。プヒー。もっと年寄りや私のように、プヒー、恰幅の良い者のために、プヒー1階で集まっても良いのではないかね。プヒー」

 鳴いているのか喋っているのか。そんな疑問が浮かぶようなパナソレイの発言にイシュペンは頭を下げた。

「申し訳ありません」
「プヒー。プヒー。まぁ仕方が無いがね。プヒー」

 額に滲んだ汗を、取り出したハンカチでぬぐうとパナソレイは歩き始める。

「プヒー。ここからは私1人でも行ける。ご苦労、プヒー、だった」
「はい。失礼します」

 階段を下りていくイシュペンにチラリと視線を送るとパナソレイは歩き出す。
 もし仮にもう一度だけイシュペンを振り返っていたのなら、イシュペンが怪訝そうに頭を傾げながら階段を下りていく姿を見ることができただろう。
 しかしながらパナソレイは振り返らなかった。
 そのまま汗を拭きながら歩き、直ぐに目的のドアの前にパナソレイは立つ。開けようとして、一瞬だけ迷う。

 冒険者ギルドの4階。そこはギルド長の部屋や重要書類の保管庫等ギルドの重要情報が詰まった部屋が揃っている。そして今目の前にある部屋は会議室だ。使用目的は基本的にギルドや都市全体に関わるような重要案件ばかり。
 ここに呼ばれて聞かされた話で、得てして良かった件は殆ど無かった。
 この扉を開けるのが少しでも遅れれば、それだけ幸せでいられる。そんなことを考えたパナソレイを笑える者は、都市の管理運営という難関な仕事について少しでも知っていればいないだろう。
 手に持ったハンカチで最後に顔全体を拭うと、背筋を伸ばす。たるんだ腹がブルンと揺れた。

 ドアはノックなんかしない。この都市の最高権力者は王ではあるが、実質上はパナソレイだ。

「待たせた、プヒー」

 扉を開けると同時に、全ての者に声をかける。

 一歩踏み込み、パナソレイは室内を一瞥する。
 さほど広くない部屋だ。およそ6メートル四方、もう少しはあるだろうか。中央にテーブルが置かれ、椅子が6脚。窓は無いために若干の閉塞感がある。
 テーブルの上には何枚かの紙が乱雑に散らばっていた。羊皮紙でも厚紙でもないところに、ギルドの本気の情報――重要性が垣間見える。ただ、現在は回し読みして最後にテーブルの中央に投げたというほうりっぱなし感があった。
 それと幾つかのコップ。そして飲み物の入った大き目の瓶が2つ。

 椅子に座っているものは全部で4名。見慣れた顔が2人と見慣れない顔が2人。
 
 見慣れた顔の1人は精悍な壮齢の男だ。
 動きやすそうな体にちょうどあった長袖、長ズボンを履いている。服の裾や襟首に防御魔法が込められたために微かな燐光――魔法光とも呼ぶべきものが灯っている。腰に下げた鞘には見事な装飾。収まっているロングソードの柄も立派な作りだ。そしてこれにも魔法のきらめきがあった。
 身長はさほど高くないが、巨木を思わせるようなそんな体の引き締まり方をしている。そして逞しいな筋肉が付いているのが、服の盛り上がり方から判断できる。黒い髪に見事な黒い髭を蓄えている。
 一角の戦士。そんな言葉が相応しく、実際に言葉通りの人物だ。

 そしてもう1人の見慣れた顔。それは非常にやせぎすで神経質そうな線の細い男だ。
 年にして30歳後半には入り込んでいるだろう。
 深い緑色のローブを纏っている。そしていつも持ち歩いている、内部に魔法の力を宿す水晶を先端に埋め込んだ、背の高い黒檀のスタッフを後ろの壁に立てかけている。指には3つの指輪をしている。そして腕を守る腕甲<ブレイザー>。どれも一級の魔法の守りの込められたものだ。
 薄ぼんやりとした金色の髪に深い青の鋭い瞳。もうすこし肉が付けば美形といっても良いだろうが、今は飢えた猛禽類を思わせた。

 見知らぬ顔であり、この部屋唯一の女性。いや女性だったというべきか。
 それは非常に高齢の老婆だ。しわくちゃな顔、しわくちゃな手。肩の辺りでバッサリと切られた髪は真っ白。鉤鼻がまるで物語に出る魔女のようだった。
 着ている服は平民が着そうな作業着だ。元は白かったのだろう所々に緑の染みを作り、微かに草の香りを漂わせている。ここに呼び出されたのにそんな格好をしていること自体が、彼女の重要性がわかる。

 そして最後の1人。
 短く刈り上げた金髪。四角い顔。温和そうな中に鋼の意志を感じ取れる男だ。
 やはり30歳後半に入り込んだような雰囲気を感じ取れる。
 服はやはり平民風の上下だが、素材自体は良いものを使っているのが見て取れた。首からは4大神の一柱、地神の聖印を下げている。質素だが、貧しい雰囲気は漂ってない。神官に相応しい清貧という言葉が似合いそうだ。
 そして体つきは良いが、戦士というほどの鍛え方ではない。ただ、身長はこの中で一番あるのか、全体的に全てが大きい。テーブルの上で組んだ手の大きさは人の顔を容易く覆えるのではないというほどだ。

 パナソレイはそのまま何も言わずに歩くと、空いていた上座にどっかりと座り込む。そして今だ止まらぬ汗をハンカチで拭う。そして誰も使っていないコップを1つ取ると、瓶から水を注ぐ。
 そして一息で飲み干す。
 水に柑橘系の果物の絞り汁をすこし混ぜたのだろう。冷たい喉越しに僅かな甘みが、まるで体内に吸収されていくのが分かるような清涼感を感じさせる。
 再び、水を注いだところで、見慣れた男の1人が口を開いた。

「お呼び立てして申し訳ありません。お待ちしておりました、パナソレイ様」
「プヒー。ああ。また厄介ごとか? ギルド長」

 皮肉交じりの返答にギルド長と呼ばれた戦士風の男――プルトン・アインザックは苦笑を浮かべた。

「全くその通りです」
「だろうな。プヒー……それでこの者たちは?」
「はい。今回の件で、知恵を借り受けるために特別に招かせていただいた知恵者達です。まずこの人物が――」

 パナソレイは手を上げ、プルトンの紹介を遮る。

「ふむ。初めましてだな、薬剤師どの。確か名前はリィジー……リィジー・バレアレ殿だったか」

 やはりという顔をしたのがパナソレイと面識のある2人。そして驚きの表情を浮かべたのが面識の無い2人だ。
 パナソレイは面識の無かったはずの2人の顔に最初に浮かんでいた、パナソレイを低く評価するような色が薄れたの鋭敏に感じ取る。
 この雰囲気の変化が好きなのだ。
 パナソレイはハンカチで汗を拭いながら、笑みを隠す。
 
 パナソレイの外見は非常に冴えない。異性には好かれるよりも相手にされないことの方が多く、若い頃出席した舞踏会でも、殆どが壁にこびりついてようなものだった。
 それはまぁ仕方が無いことであるし、彼自身、ほぼ諦めきっていた。だがそんな外見が役に立つこともままあるのだ。それは初対面の交渉の際だ。頭の中身まで外見と同じと思ってもらえるのは、相手の思惑を外し、交渉ごとを有利に進めるための良いカードに使えるのだ。
 事実、面識の無い2人がパナソレイの評価を一気に持ち上げているのが、手に取るように感じ取れる。

「やはりご存知でしたか」
「当たり前だろうが、プルトン。この都市のポーション市場の6割を握り、生産性であれば随一の薬師にして魔法使いたる彼女を知らんわけが無いだろう」
「ほぉ。わしのような一介の職人の名前までご存知とは。感服いたしました」

 老婆が丁寧に頭を下げる。それに対しパナソレイは悠然と手を振った。

「いや、あなたの作るポーションによって助かったわが国の兵は多い。また数ヶ月もすれば帝国がちょっかいをかけてくることは自明の理。そのときはまたお願いしたいのだが?」
「承りました。そのときはわしの弟子を全員動員してでも、必要な量のポーションを準備させてもらいますぞ」
「それは嬉しい言葉ですな。ならばまた後日、詳しい話をつめたいものですな」
「畏まりました、そのときをお待ちしておりますぞ」
「では宜しく頼みますぞ、バレアレ殿」
「了解じゃ。都市長殿。それとわしはリィジーでかまいませんぞ」
「そうですか、感謝します」

 来たかいがあったというものだ。
 いずれやらなくてはならない問題の下準備が上手くいったことに内心ほっとするパナソレイ。そして顔を見慣れぬ神官の下に動かす。

「さて、そしてあなたが地神に仕える高位の神官、ギグナル・エルシャイ殿ですな」
「左様です。お初にお目にかかる、都市長殿。私のこともギグナルとおよびください」
「これはありがとうございます」

 互いに軽く頭を下げ、挨拶を交わす。

「あなたの治癒の技によってやはり多くの兵士の命が救われました。王に代わり感謝の言葉を述べさせていただきたい」
「お気にされず。かの戦争の後にしかといただいております」
「左様でしたか」

 そう口にしながらも、当然パナソレイは知っている。報奨金だって支払ったのだから当たり前だ。

「それにいただいた報奨金で神殿の設備もより一層整いました。感謝しなくてはならないのはこちらの方です」
「いや、いや、働きに対する正当な対価でしょう」
「我々、地神に仕える者の社は広く開いていると覚えていただければと思います」
「了解しました。その言葉を聞くだけで不安が解消されるようです」

 パナソレイは最後の見知った顔に視線を向ける。

「そして……久しぶりかな? 魔術師ギルド長――テオ・ラケシル殿」
「一月振りではないですかな? 都市長。それと殿は必要ないですな」
「そうか? なら、そうするとしよう。……さてこれほどのエ・ランテルの最高の力を持つものたちが集まって、何の会議をするのかそれそろ教えてはくれないかね? 私は厄介ごとが起こったので、急いで来て欲しいぐらいしか聞かされてないのだがね?」

 おそらくその辺に関与した情報はテーブルに放り出された紙に記載されていると判断し、パナソレイはテーブルの上に投げ出された紙を手にすると読み進める。

 それはバニアラという1人の女冒険者が自らの身、そして仲間達に起こった出来事を述べたものだ。
 要約してしまえばモンスターに襲い掛かられ、パーティーが壊滅したという、冒険者としてならさほど珍しくない報告書だ。
 ただ、問題はモンスターの正体がヴァンパイアであるということか。そのため女冒険者からの調書に付属するように様々な質問への返答も記載されている。
 例えば、その洞窟内を塒にしていた野盗の惨殺光景。圧倒的な能力を垣間見れる破壊痕。読めば読むほどヴァンパイアの戦闘能力の高さを思い知らされる結果となった。
 幾度か繰り返し読み直し、パナソレイは頭の中に完全に叩き込む。
 見知らぬリィジーとギグナルが呼ばれた理由についても、漠然とながら納得のいく答えを得られたパナソレイは深く頷く。

「なるほど……さて、私はあまりこういったことは詳しくないのだ。無知な人間に1から教えるように丁寧に説明してくれないか?」

 冒険者ギルド長――プルトンと、魔術師ギルド長――テオは同じ冒険者パーティーで長く組んできた仲である。そのために互いの顔を見合わせるだけで、漠然としたニュアンスを掴み取るという優れた共感性を持っている。
 そんな彼らが互いを見合い、プルトンが口を開く。

「パナソレイ様。ヴァンパイアがエ・ランテル近郊で目撃されました」
「ふむ……」

 確かに近い。だが、それほど騒ぐことか。そう思いながらも、都市長としてパナソレイはそんな言葉は口には出さない。

 モンスターとは人の世界は近いが、それでも境界線が引かれている。ゴブリンやオーガ、オークといった異種族の侵攻やグリフォンやマンティコア、コカトリス等の魔獣が餌を求めて姿を現すことはある。だが、それ以外のモンスターが人の前に姿を見せる時は大抵が追いやられたり、移住の最中だったりと例外はあるものの一時的な場合が多い。
 しかしながらアンデッドは違う。
 アンデッドは生者が死を迎えた、その場所その時に不浄なる生を持って生まれてくる場合の多いモンスターである。そう戦場や遺跡等で。そしてそれは生のある場所――人の世界の最も身近に存在するモンスターだということでもある。
 都市の中にアンデッドモンスターが生まれる場合だって当然ある。いや、無い方が珍しい。そのために死が最も多く集まる墓地は、中からの攻撃に対して防御されており、アンデッドが出現しやすい夜には誰も入れないようにしっかりとした施錠がかけられるのだ。
 そういう意味ではアンデッドは見慣れたとも、よく聞くとも言っても良いモンスターたちだ。
 確かに、ヴァンパイアはアンデッドの中でも強大な力を持つ。
 冒険者ではないパナソレイは流石に詳しくは知らないまでも、ヴァンパイアがアンデッドの中でも5本の指に数えられるほど強い存在だというのは認知している。
 
 しかしながら、倒せないわけではないはずだ。

「それは大変だな。冒険者を雇わねばならん、いくらほど予算を考えねばならんのかな?」

 そんな軽口をパナソレイは叩くが、片方の眉を上げるだけの結果に終わる。
 それは互いの顔を見合わせるようにしながら、渋い表情を浮かべる者達が眼前にいたからだ。それはどう評価しても、良くないことの表れである。

「…………どうしたのか聞かせてもらえるか?」

 その質問に対し、互いに顔を見合わせ代表者が決められる。それは魔術師ギルド長であるテオだ。

「問題はそのヴァンパイアが《アニメイト・デッド/死体操作》の魔法を使ったことです」

 その言葉によって室内に沈黙が落ちる。
 それはパナソレイにとっては理解できない静寂だ。ヴァンパイアが魔法を使ったからなんだというのか。元々ヴァンパイアは様々な特殊能力を保有するというアンデッドモンスターではないか。そこまで厄介ごとだというのだろうか。
 パナソレイは先ほど読んだ書類に目を落とす。確かにその辺りはしっかりと、まるで重要であるかのように書かれていた。しかしながらその真意までは読み解くことができなかったのだが。
 そんなパナソレイの困惑が、集められた皆には理解できたのだろう。

「魔法を知っているものからすると、非常に厄介な問題を孕んでいるのです」
「つまり?」
「《アニメイト・デッド/死体操作》は第3位階に属する魔法です」
「それが?」
「第1位階から伝説とされる第10位階まで魔法は存在するとされてます。まぁ、この上に神々すら到達できない領域の魔法があるという一説もありますが、それは何も根拠の無い話。この際は置いておきましょう」

 テオは軽く首を振り、パナソレイを正面から見据え、言葉を続ける。

「さて、現存するこの世界で最高の魔法使いというのは誰かご存知ですか?」

 どういう意味だと目線で問いかけるが返事は無い。ならば神話とか御伽噺を用いずに、真面目に返答をするなら浮かぶ名前はたった1つだ。

「帝国主席魔法使い。フールーダ・パラダイン」

 パナソレイの答えに、テオは正解ですと言うように頷く。

「それではかの大魔法使い、フールーダ殿が使いこなせる位階はどの領域かご存知ですか?」
「そこまでは知らんが……」
「第6位階です。そう聞くと大したことが無いように思われるかもしれませんが、第6位階の魔法を使いこなせた存在は最も近年で200年前。かの御伽噺の13英雄と呼ばれる方々です。……お分かりになりますか? 本当に10段階あるのかは不明ですが、あるとされる中で人間最高の魔法使いが第6段階なのです。まぁ13英雄に封じられた、魔神たちは第7位階まで使ったという伝説もありますが……」
「ふむ……」

 漠然とだが言いたいことが理解でき始めたパナソレイは、再び流れ出した汗を拭う。

「つまりは第3位階を、下から数えた方が早い程度の魔法の位階だという考えをまずはお捨てください」
「わかった。その程度の位階でもかなりの使い手だということだな?」
「はい、左様です。そして本題に入ります」

 教え子に指導する教師のような口調でテオは続けた。

「基本的なヴァンパイアの難度はおよそ60。これはAといわれるクラスの冒険者パーティーが、相手にしてちょうど良い程度の強さです。パーティー構成によってはBでも何とか相手にできるでしょうが、準備しだいでしょうが勝算は低くなります。そしてこれに加えられるのが第3位階魔法を使える者は、昇格試験を受けてなかったとしても潜在的に最低でもBクラスの能力を持つ冒険者と見なされるという考えです」

 言いたいことがほぼ理解できたパナソレイは眉をひそめる。

「つまりはお前はこう言いたい訳だな。Aクラスパーティーに匹敵するモンスターがBクラスの技術を持っていると」
「はい」
「ふむー」
「テオに続けさせていただきますが――」プルトンがテオのバトンを引き継ぐように話し始める。「Aクラスがどれほどのものかというと、Aクラスの冒険者の割合というものは、その国の冒険者のおおよそ2%程度と考えられています。王国内の冒険者は2000人ほどだとされていますので、Aクラスは王国全土の中で40人しかいない計算になります。お分かりでしょうか? Aクラスというのはそれほどのレア度の高い存在だというのが」
「なるほど」

 パナソレイは深いため息にも似たものを吐き出す。

「なんとなくかもしれんが、理解はした。それを踏まえたうえで聞きたい。かなりの厄介ごとか?」
「非常にです」
「間違いなく」
「違いないのぉ」
「大変な厄介ごとです」
「ふむ……それでどうするば良いと諸君達は思う?」
「答えは1つです」プルトンは引き締まった顔で言葉を続ける。「最低でもA+クラス数パーティー合同での討伐こそ最善の手だと判断します」
「そ、それは無理だ! 不可能すぎる! 大体そんなクラスの冒険者パーティーはどこにいるというのだ!」
「王国に2パーティー、帝国に2パーティーいますので1パーティー借り受けます。これで3パーティー。そしてアーグランド評議国に4パーティー、このうち――」

 驚き、大きく眼を見開くパナソレイ。遮るように口を挟んだ。

「本気か? プルトン。アーグランド評議国のパーティーを王国内で動かすのか? それは本当に本気で言っているのか?」
「はい」

 はっきりと頷くプルトンを見て、パナソレイの眼は更に大きく見開かれ、まるでこぼれ落ちそうな領域まで達する。それから力が抜けきったようにぐったりと椅子の背に体重をかける。そして力なく首を振る。

「不可能だ。この地が王の直轄領であり、王の許可を貰ったとしてもかの国の冒険者を動かすことは……色々な問題を生じさせる結果になりかねない」
「スレイン法国を刺激しかねないという奴ですな」

 事実を容易く言葉にするテオに、パナソレイは恨みがましい視線を送る。しかしながらそ知らぬ顔だ。舌打ちしたい気持ちを殺し、プルトンを睨みつける。

「……他国にはいないのか? アーグランド評議国以外……カルサナス都市国家とかローブル王国なんてどうだ?」
「カルサナス都市国家のギルドには最高でAクラスですし、ローブル王国のギルドには1パーティーしかいません。手放すとは思えませんので恨まれるとは思いますが、パーティーと直接交渉するしかないでしょう。ですのでなかなか結果は厳しいと予測されます」
「では3パーティー合同ならどうだ?」
「無理じゃろう、都市長」

 初めて発言するリィジーに視線を送る。

「ヴァンパイアで第3位階魔法を行使する相手ならば、A+クラス2パーティーなら互角よりは優勢な勝負ができよう。じゃが、都市長。それはあくまでも、そのヴァンパイアが使えるのが、最高で第3位階ならばじゃ」

 言いたいこと。そしてここにいる誰もが警戒していること。それがようやく理解できたパナソレイは顔を青くする。

「最高でも……つまりは……」
「そうじゃよ。最高でもじゃ。もし仮に、最悪の中の最悪の事態。第3位階より高い位階の魔法を行使できる場合は、厄介ごとという言葉ではすまんじゃろう」
「……私達はこう考えます。もし第4位階を行使できるならA+クラス4パーティー、第5位階を行使できるならA+クラス10パーティーは最低でも必要だと」
「したがって相手の能力を判断できてない状況では、3パーティーでは無駄に命を奪われる結果に終わりかねない」
「馬鹿な……」

 A+クラス冒険者パーティーの強さを単純に評価すると、千人以上の兵士に勝利すると言われている。これはかつて、2000人からなる兵士達を壊滅させたパーティーがいることに起因するものだ。このときは兵士側に1000名弱の、そして冒険者側には死傷者なしという終わり方を迎えた。
 では、だ。
 そんな冒険者3パーティーでは少ないと言わしめるヴァンパイアは一体何者なのか。
 そのあまりの危険性を完全に認識したパナソレイはコップを掴むと、一息に煽る。そして叩きつけるようにコップをテーブルに下ろす。

「ではガゼフ殿に協力を仰ぐのはどうだ?」

 ガゼフ・ストロノーフ――王国最強の戦士。A+冒険者パーティーの戦士を超えるとされる人物。王国の切り札とも言うべき存在だ。

「確かにガゼフ殿に勝てる戦士はいないでしょう。ですが、冒険者パーティー四人とガゼフ殿が戦った場合、勝つのは恐らく冒険者側です。例えるならガゼフ殿は素晴らしい剣を持った戦士、冒険者はちょっとぼろいけど剣、盾、鎧、癒しの薬を数本と装備した戦士という違いでしょう。冒険者パーティーであれば、多種多様の手段――ガゼフ殿を例に取るならガゼフ殿の4倍は何らかの手を用いることができる。この差は特殊能力を保有するモンスターを相手にした場合、はっきり言って大きいです」
「うむ……」
「都市長。現在は近郊で目撃されただけですが、仮にエ・ランテルまで乗り込んできたなら、撃退するのはほぼ困難です」
「ぐむぅ」

 プルトンの言葉を受け、パナソレイは痛々しいうめき声を上げる。
 言いたいことは理解できる。エ・ランテルにA+クラスの冒険者がいない以上、人海戦術でぶつかるしかないだろうが、アンデッドには疲労や睡眠欲といったものが無い。ならば太陽が昇るまでとにかく兵をぶつけ続けるしかないという、最悪な展開が予測されるということだ。
 しかもそこまでやって滅ぼすのではなく、撃退というのはあまりにもあれだ。

「A+クラスのパーティーを集められないとするなら、手段は他には無いと思われます。おそらくは我が魔術師ギルドの宝物庫を探しても、それほどのヴァンパイアに有効なマジックアイテムの発見は不可能でしょう」
「大災害と同じじゃ。頭を低くして通り過ぎるのを待つしかないの」
「神官としては不快な思いを隠しきれませんが、無駄に命を捨てるのは愚かな行為です。ただ、無辜の犠牲が出るぐらいなら我ら神官がせめてもの盾にはなるつもりですが」
「都市まで侵入されれば、推定される犠牲者の数は想像を絶するじゃろうからな」

 集められないなら、怯えてすごすしかない。それがこの場に集まった全員の総意なのだろう。だが、それを黙認していては都市長という地位にいる意味が無い。
 集められないなら何らかの手段を模索し、少しでも良い結果を残すように行動すべきだ。
 ならばまずは情報だ。そう、口を開こうとしたパナソレイに、横手から水をかけられる。

「そんな生易しい問題ではない。リィジー殿」

 プルトンが諦めきった顔に苦いものを走らせながら、笑う。

「もし第4位階を行使できるなら都市の存続規模、第5位階を行使できるなら王国の存続規模、それ以上なら周辺各国の存続規模の問題なんですよ。これはね」

 テオとプルトンは苦笑いを。まさかそこまでという顔するのはリィジーとギグナル。

「そこまで問題ですか? 確かに強敵なのは間違いがありません、ですが!」
「相手は一国の軍に匹敵する存在です。しかもそれが個人として行動してるのですよ? 知性を兼ね備えている以上、様々な魔法を行使することによってこちらの動きの裏をかいてくることも考えられます」
「膨大な兵力に匹敵する力が様々な場所に突如と出現する恐怖。……想像もしたく無い」

 数万規模の軍勢であれば、行軍の形跡から何処にいるか発見することはまだ容易だ。さらには維持するためには、それに見合うだけの膨大な食料を必要とする以上、長期の作戦行動は難しい。
 ではそれが個人だった場合はどうか。さらには不可視化等の魔法を使いこなし、隠密行動に長けた個人だった場合は。
 それは飛行の魔法を使って上空から都市に侵入することも可能だろうし、城門前まで旅人に化けて接近することもできるだろう。食料だってさほど必要とはしない。しかも生きている者を憎む、そんなモンスターが周辺にいるというのだ。

 強大なモンスターという理解から、危険すぎるモンスターへと認識が変化したリィジーとギグナルは沈痛に顔を歪める。

 室内を重い空気が漂い、静寂が完全に支配する。誰かのつばを飲み込む音すら聞こえるほどだ。

「はぁ……最悪だな」

 パナソレイのポツリと呟いた声に、皆が賛同の意志を見せる。

「ヴァンパイアの弱点は日の光と神官の浄化と聞くが、それを駆使してどうにかできないのか?」
「まず不可能でしょう。それほどの魔法まで使える存在が日の遮断関係――仮に言うなら闇系の魔法を1つも収めていないという、都合の良い考えは難しいでしょう」

 パナソレイの視線は救いを求めるようにギグナルに向かう。

「申し訳ありませんが、恐らくはアンデッドを一瞬で消滅させる浄化はほぼ効かないでしょう。かのスレイン法国の6大神官長や最高神官長、3局院長、それに6の巫女姫たちの力を持ってしても不可能だと思います」

 近隣国家の中、A+を越えるとされる最高の神官の力を持っても浄化することが出来ない。それは強大という言葉ではすまないアンデッドの存在を感じさせるものだ。パナソレイは汗を拭こうとし、既に流れていないことに気づく。

「……テオ、そんな化け物が何故この辺りに現れた? 一体どんな伝説に出ていた化け物だ? 何か情報は無いのか」
「いえ、そのような伝説はございません」
「そんなことがありえるのか? では今までこの世のどこかにこっそり隠れていたというのか、生者を憎むアンデッドが? 私は知らんが、第3位階魔法というのは個人で容易く学べるものなのか? テオ、魔術師ギルドのお前なら知っているだろう。独学で修められるものなのか?」
「……不可能です」 

 静まり返った室内を切り裂くような、鋭さを持った声がテオより聞こえる。
 独学でその領域まで上り詰める。それは有り得ない。ならば、それは教師たりうる存在がいるということの証明だ。それは下手すればその教師に値する人物も調べなくては危険かもしれない。
 そんな不安が皆の頭を過ぎった。

「……どこかの国が後ろにいるというのはどうだ? 後ろにそれを教育、もしくは支配している者がいるというのは?」

 いるならその者と交渉すればよい。生者を憎むアンデッドよりはまともな交渉ができるだろう。しかしながらパナソレイのアイデアはすぐさま破棄される。

「国がいるのはありえないでしょう。それほどのヴァンパイアを使役するようなスペルキャスターがどこかの国にいるという情報は、今だ流れたことがありません。それにヴァンパイアの性格からも、生きてる存在と友好的に協力関係を生み出せるとは思えません」
「血を吸われ、眷属になった魔法使いがいるというのはどうかの?」
「魔術師ギルドに集められた基本的なヴァンパイアの情報からすると、ヴァンパイアが生み出せるのは最高でもレッサーヴァンパイア。教師としては失格です」
「とすると、人間を裏切ったものがいる……そう考えるのが一番精神的には落ち着けるな。邪教というものはいつの世もある。冒険していれば遭遇する邪教の中で、死者を称える一派という奴はそう珍しくは無い」
「もしくは……」ギグナルが神官としての知識から、最も適切なアンデッドの名を上げる「最悪な想像をするなら、教師役がかの……国堕し」

 再び沈黙が室内を支配する。
 国堕しこそ最強とされるヴァンパイアであり王族<ロード>の名を名乗った存在である。その力を持って1つの国を死都とし、死者の国を作り上げたという。
 しかしながら最後は13英雄によって滅ぼされた伝説の存在だ。200年近くたった今でも、時折、国堕しの持っていたマジックアイテムを発見したとか、財宝の場所を書いた地図等のデマ情報が流れる場合もある。
 アンデッドの教師がそんなアンデッド。
 もはやため息しか出ない。

「国堕しの弟子? 最悪という言葉が相応しい想像ですな」
「ちなみに国堕しは第5位階の魔法まで使用したとされてます。もしそのヴァンパイアがそれだけの力を持っていたら13英雄の力に縋らなければならないということですな」
「最後の冒険で殆ど亡くなったとされるが、生きている方もいらっしゃるかもしれん」
「エルフの王は生きているのでは?」
「そういう噂は聞くが本当かどうかは不明じゃな。その辺りはスレイン法国が五月蝿かろう」
「……雑談にずれ込んでいるようだ」

 疲れたようなパナソレイの言葉が、会話の熱を奪う。瞬時に静まり返った部屋に静かな声が広がった。

「では結論を聞かして欲しい。まず、そのヴァンパイアはかなりの強敵である」
「まさにその通りです」
「A+クラスの冒険者パーティーを集めることができない場合は、頭を抑えられた亀のようにしているしかないということだな?」
「悔しいですが、それしかないかと」
「では近隣の村にはなんと連絡する?」
「せいぜい、見回りを行い、アンデッドの根城になった場合をいち早く発見することだけかと」
「ふむ……発見しても恐ろしくて手は出せないか。笑ってしまうな」

 ため息混じりの皮肉に返答する声は無い。誰もが同じ思いを持ち、やるせなさを抱いているのだから。ポツリとプルトンが呟く。

「……ただ、その前にそのヴァンパイアの所在を確認し、情報収集に励むべきでしょう」

 ピクリとパナソレイの眉が動いた。

「1つ聞かせてくれ、そのヴァンパイアの存在は確定したことなのか? 誰かの見間違えということは無いのか?」
「いえ、それは無いでしょう。その辺りは念入りに調べました」
「なるほど……では聞きたいのだが……何故、この女は生き残った? 生かして帰す理由が無い」

 パナソレイは報告書を数度、指で叩きながら質問をする。

「それは我々でも疑問に思いました。それで考えられたのが、1つは遊びという答えです」

 アンデッドは生きている者に激しい憎悪を持つ場合が大半である。ただ、賢い存在になればなるほど、容易く殺すのではなく、いたぶったり、自滅するように差し向けるという邪悪な行いをするモノも中にはいる。例えば兄弟で殺し合わせる。見知らぬ第三者を殺させるといった。
 そんな歪んだ嗜虐心を満足させるために、自らの姿をアピールし、恐怖に陥れようという計画なのではないかという可能性だ。
 そしてもう1つは――

「あとはポーションの受けたことによるダメージが、想像以上に大きかったということです。ただ、これは多少違和感があります。それほどのダメージを受けたなら、殺して情報が流出しないようにすべきだと思います」

 室内にいた皆が腕を組み、考え込む。だが、既に話し合っていたことなのだろう。誰も納得のいく答えを出すものはいない。
 そんな中、ふと、パナソレイは1つの考えが浮かんだ。

「ポーションを渡した人物が近くにいるかもしれないと考えたという線はどうだ?」

 ざわりと室内の空気が揺らいだような気がした。互いに顔を見合わせ、パナソレイの予想を否定する材料となるものを探そうとする。だが、浮かんではこない。
 あるとしたらA+クラスのパーティーと五分の勝負をするであろうヴァンパイアが、その何者かを恐れたという点のみ。
 しばしの時間が流れ、プルトンが口を開く。

「可能性は低いまでも、絶対に無いとはいえませんな」
「……リィジー殿。ヴァンパイアを撃退しうるほどのポーションは作れるのかな?」

 パナソレイに問われた薬師はしわくちゃな顔をより一層しわくちゃにする。

「確かに治癒のポーションはアンデッドにダメージを与えるもの。それを踏まえて考えても、難しいとしか言えませんのぉ。なぜなら、それほどのヴァンパイアを撤退まで追い詰めるほどのポーションは、私や弟子――ひいては私の知っている者では作れないと思いますな」
「それほどの治癒の薬は魔術師ギルドでも聞いたことはありません」
「スレイン法国に伝わるアムリタと呼ばれる秘薬ではどうですかな? あれは神々の力を宿すと聞きますが」
「……ギグナル殿。流石にスレイン法国の最高機密に属するであろうポーションのことまでは、我々魔術師ギルドでも知りえない情報です。もしかしたら出来るのかもしれませんが、想像に想像を重ねた答え――推測とか予測の領域の答えになってしまいます」

 そのポーションをくれた相手の名前もこの紙には記載されていた。

「モモンだったか? その人物は呼び出したのか?」
「はい。本日来る予定になっています。まだあと1時間はありますが……」
「そうか……。なら一応軽く話を聞くとしよう。仮にポーションを浴びたことによって逃走を図ったのなら、どのようなポーションによって逃げ出したのか、見せてもらおうではないか。それにどんな人物なのか楽しみだな」

 パナソレイはコップに水を注ぎ、それを含む。話すことによって乾いた喉に、心地よい冷たさが流れ込む。

「……はぁ。それとこの洞窟で遭遇したようだが、その理由は分かるか」
「それは予測できます。先ほどおっしゃっていたとおり、ヴァンパイアは日光に対し脆弱性を持っています」

 テオはそこで一旦区切ると、パナソレイの様子を伺う。パナソレイが何も言わないところを確認すると再び話し続けた。

「ですので基本、日光の届かない場所を塒とします。そしてヴァンパイアの大半は生者に歪んだ優越感を持っているために、言葉は悪いですが餌の多い都市に居を構える場合は、下水道のような場所ではなく豪華な住居の地下に。野外ではそこそこ大きな洞窟を占拠する場合がほとんどです」
「つまりは塒を探していてたまたま……ということか」
「はい。それ以外はあまり考えられないでしょう。かなり荒らされていましたので、特別なマジックアイテムを求めてという可能性も無いわけではないですが……」
「なるほど……」

 このヴァンパイアに関し、聞きたいことは粗方聞いた。あとはそのモモンという人物の話を聞きつつ、最終的な手段を模索するべきだろう。
 ならば別の話をここでしておくのも時間的な意味合いで良いだろう。

「さて、モモンという人物が来る前に聞きたいことがあるのだが……。特に冒険者ギルドの長であるプルトンと、魔術師ギルドの長であるテオに思い出して欲しいことがあるのだ」

 プルトン、テオ、リィジー、ギグナルの顔を見渡し、パナソレイは口を開く。

「この中で、アインズ・ウール・ゴウンという名に覚えのある者はいないか?」

 その4人は互いの怪訝そうな顔を見合わせ、頭を左右に振る。そんな彼らを代表してプルトンが口を開いた。

「聞き覚えの無い名ですが、その人物は何者ですか?」
「ふむ……実のところあまり知らぬ人物でな。私もガゼフ殿から多少聞いた程度に過ぎないのだが……」

 何かを考え込むようにパナソレイは口ごもり、多少の時間を置いてから話し続ける。

「恐らくは噂には聞いていると思うが、エ・ランテル近郊の村が帝国の騎士の格好をした、複数の者たちに襲撃をされるという事件が数件起こった。まぁ、その騎士達は既に殺されたのだが。その騎士の始末を行い、村人達を救った魔法使いの名だ」
「ほう」

 誰かが感嘆のため息を漏らした。
 帝国の騎士は武装、練度共にかなり優れている。それは王国の兵士とは段違いなほど。そんな帝国の騎士を複数人、たった1人で撃退したなら、それはかなり腕の立つ魔法使いであるという証明に繋がる。まぁ、偽装の場合でも弱すぎる者は選んで無いだろう。最低でも帝国の騎士ぐらいの腕はあるはずだ。

「そしてそれは魔法使いが直接行ったのではなく、使役する騎士のようなモンスターが行ったという。そのモンスターの強さはガゼフ殿が軽く剣を合わせ確かめたが、向こうも本気ではなかっただろうが互角。もし仮に本気を出せば自分に匹敵するかもしくは凌ぐという話だ」
「……今回はこの部屋では有り得ない話ばかり聞きます」

 テオがそう呟き、リィジーとギグナルがそれに同意するように縦に頭を振った。

「魔法使いが使役するモンスターというものは単純に言えば、自らよりも弱いものというのが基本です。確かに大儀式や複数の魔法使いを集中運用すること、特別なマジックアイテムの補佐を受けること、強力なマジックアイテムを行使することによって例外を生むことはできます。ですが……基本は有り得ない話です」
「つまりは、その魔法使いは単純にそのガゼフ殿と戦った、騎士のようなモノより強いということのじゃな」

 そうはっきり言い切ると、リィジーは苦笑いを浮かべる。

「それが本当ならじゃがね」
「まぁ、ガゼフ殿のお世辞とか、過大評価とかと考えた方が良いだろうな」
「ですな。流石にそれは……」

 ガゼフより強いかもしれないモンスターを行使する。
 もし仮にそれが本当だとすると最高の魔法使いフールーダと同格、もしくは超える者ということになってしまう。それは今までの常識からすると信じたくは無い。そこにはそんな気持ちがあった。

「それで本当に聞きたいのは、これなんだが……何かの関連性があると思うか? すさまじい力を持つヴァンパイアの存在。そして村を救った謎の魔法使いの登場」

 黙り、思考の渦に飲み込まれる。最初に口を開いたのはテオだ。

「……偶然というには少々出来すぎていますね」
「ですが、片や村を救い、片や人を殺す。まるで正反対ですな」
「ならば――」

 それを切っ掛けに、色々な意見が飛び出す。だが、どれも矛盾があり、納得のいく答えにはならなかった。やがてギグナルがポツリと呟く。

「逆に考えてはどうでしょう。ヴァンパイアがいるからその魔法使いは姿を見せたというのは?」
「そうだったとしたならどれだけ救われるか」

 寂しげな笑みでパナソレイは答える。
 そうであればどれだけ素晴らしいか。しかしながら、そんなに上手くいくわけが無い。
 期待すれば裏切られたときショックが大きいものだ。それよりは最悪を想定しているほうが救われる。そんなパナソレイの人間観が都合の良い話を一蹴する。

「情報の足りない今では何処まで行っても、想像の域をでない。アインズ・ウール・ゴウンの件は、後の検討材料にしておこう」
「そうですな。我々冒険者ギルドのほうでも情報収集に多少力を割いておきます」
「頼むぞ、プルトン。金銭的負担は余りかからないぐらいでな」
「かしこまりました」
「さて、ではモモンという人物が来るまで休憩としよう。プルトン、悪いがそのモモンという人物の情報を聞かせてくれるか?」
「畏まりました。では私の部屋の方で行いましょう」

 皆がバラバラに立ち上がり、室内から出て行こうと動き出す。そんな室内から出て行く影の数は、総数で7つあった。






――――――――
※ もう、対面の人や面識のある人を、家の名前で名を呼ぶのは失礼とかいうむちゃ設定作るかも。これから同じやり取りするの面倒だし。
 会議は踊る、されど何も決まらない。まぁ、情報が足りなさすぎるわけです。個人的には特定のキャラを除いて、登場キャラは油断等はあっても、馬鹿にならないように注意したいところですが……作者が馬鹿だからどうしてもなぁ……。
 さて、そろそろフールーダのレベルが大体読みきれる人も出てくるかも知れませんが、内緒で1つよろしくお願いします。
 次はモモンがこの会議に参加ですね。36話「検討2」でお会いしましょう。

 今回みたいにごちゃごちゃ書いていて、読みにくかったら教えてください、検討しますので。



[18721] 36_検討2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2010/11/14 11:55


 昼時の冒険者ギルド――1階受付はさほど込むものではない。というのもこの時間まで冒険者がたむろすることは少ないからだ。
 基本、仕事を遂行するために都市を離れる冒険者は、夕暮れが来るまでに少しでも距離を稼ごうと、朝早くから出発する。これはまぁ、旅人の当たり前の知識なのだが。
 それにギルドの依頼の更新は基本的には朝方だ。その関係もあって仕事を求める者は、より良い仕事を見つけようと朝早くからギルドを訪れる。
 そのためにお昼時はガラッとしているのだ。勿論、これはエ・ランテルの話であり、王都のような様々な仕事が舞い込むところにもなれば、また別の話ではあるのだが。

 受付嬢――ウィナ・ハルシアは、誰にも悟られないように欠伸を上手くかみ殺して、ぼうっと入り口の扉を眺めていた。ちなみに欠伸の回数は、この3分間で10回を数える。
 昼飯を食べた後に眠くなるのは人間として避けられない宿命だが、食事前のすきっ腹でこれだけ眠くなるのはわけがある。それにぼうっとしてるのも、当然ワザとではない。
 今日は他のやるべき仕事が少なかったために、この時間までに既に殆どが終わってしまってためだ。つまりは今現在、ウィナは非常に非常に――この部分を数度強調するぐらい――暇なのだ。
 軽く頭を動かし、同僚が遅く来た冒険者のリーダーを相手にしているのを羨ましげに眺める。忙しすぎるのも確かに嫌だが、何もせずに座布団を置いたイスに座っているのも嫌なものだ。
 もぞもぞと、安産型と言われる少しばかり大きめなお尻を動かし、ウィナは座布団の位置を微調整。そうしてから11度目の欠伸をかみ殺す。
 このまま隣で冒険者とトブの大森林近郊で出没するモンスター退治に関する話をしている同僚の声でも聞きながら、のんびりしているかと諦めきった頃――

 ゆっくりと入り口の扉が開く。

 日光を背負いながら1人の男がゆっくりと入ってきた。腰にはそこそこ立派な剣を下げたこと以外、特に評価すべきところの無いような冴えない男だ。服装はさほど貧しくも汚れてもいないが、あまりぱっとするモノでもない。駆け出しの冒険者よりは、ちょっとだけ良い格好だ。ただ、無骨なガントレットがあまりにも浮いているが、冒険者というものはそんなものだ。
 首元から下げられたブラス製のギルドメンバーカードが、男の動きに合わせ揺れていた。

 つまりはノービスもしくはFクラスの冒険者ということか。ウィナは心の中で納得し、男の行動を目で追う。
 男は周囲を見渡し、観察するように伺っていたウィナと視線を合わせると、カウンターに向かって歩き出した。

 ガタンという、突如聞こえた横からの微かな音に反応し、ウィナは隣で説明をしているイシュペンの方に視線を動かす。

 ――そして目が合った。
 イシュペンは目だけをぎょろっと動かし、ウィナを見つめている。たまたま前にいる冒険者は手元にある羊皮紙を見下ろしているために気づいていないようだが、失礼極まりない行為だ。

 何やってるの、こいつ。
 あまりに異様な行為に、思わずそんな言葉を口にしそうになって、それを抑える。というのも先ほど入り口から入ってきた男がウィナの前に立ったからだ。

「――申し訳ないです。約束の時間に遅れました」
「えっと」
「ああ、モモンっていいます。今日、ギルド長に呼ばれて来ました」

 その言葉でウィナは上司から言われた内容を思い出す。
 本日、モモンという名前のノービス冒険者が呼ばれているので、来たら4階の会議室まで案内するように、という話だ。時間は――そこまで考えたウィナは、確かに約束の時間から既に30分以上経過していることに気づく。

「モモンさんでしたか。話は承っています。では早速4階の会議室までご案内しますので、付いてきていただけますか?」
「はい、お願いします」

 イシュペンがカウンターの下で、ばたばたと手を振っているが努めて無視をする。恐らくは私が相手にするとでも言いたいのだろう。
 というより、今相手をしている冒険者に集中しろ、である。曲がりなりにも受付嬢として仕事をしているのだ。今目の前にいる冒険者に集中しないで如何する。
 ということを帰ったら言ってやろうかなんてことを思いながらウィナは立ち上がると、先行するように歩き出す。
 

 カウンター裏手のドアを開け、モモンを4階に案内していく中でウィナが思ったのは、なんでノービスの冒険者を4階という最重要機密等が多くある階の会議室に案内するのだろうか、というごく当たり前の疑問だ。
 しかも本日はその4階の会議室には、エ・ランテルでも有数の重要人物たちが集まっている。その会議に参加するほど重要な人物には、後ろからついてくるモモンがどうしても思えないのだ。

 そこで先ほどのイシュペンの変わった行動を思い出し、彼女が言っていたことを思い出す。

「ああ、ライバルか……」
「は?」

 思わず呟いた言葉に、すぐさま後ろから反応がある。ウィナは誰もいないと思って呟いていた独り言を、聞かれたような恥ずかしさに耳まで真っ赤にする。そして後ろを肩越しに見ると、片手を振りながらモモンに必死に言い訳をする。

「い、いえ、なんでもないんです!」
「そうですか?」

 なんでもないようには見えない、そう言いたげな顔をするモモンから視線を動かす。
 恥ずかしい。思いっきり恥ずかしい。あとでイシュペンを殴る。そんなことを思いながら、互いに何も言わずに階段を昇りきり、ウィナはモモンを約束された4階の会議室前まで案内する。

「こちらになります」
「はい、ありがとう」

 ノックをし、部屋の中に入るのを確認したウィナはその場を後にする。

 そんな帰ってきた彼女を迎えたのは、イシュペンの歯をむき出しにした歪んだ表情だ。

「……何よ、その顔」
「私が案内しようと思っていたのに」

 ぶすっと膨れた顔で返事をするイシュペン。その反応はまるで恋する少女のようで――。

「あんなのが趣味なの?」
「なわけないでしょ」

 一言でばっさりと切られる。

「あの人はそんなんじゃ無いわ。私が見込んだ、宿命のライバルね。今回ついに彼に教えられると思ったのに……」
「何を言ってるの、こいつ」

 ドヤ顔で遠くを見るように呟くイシュペンを前に、ウィナはため息をつく。
 イシュペンも悪い奴ではないのだが、奇怪なところが一箇所だけある。それさえなければいい友人なんだけどなぁ。
 そんなことを思っていると、イシュペンの好奇心に満ち満ちた目がウィナを正面から見据えている。

「――な、なによ、その目」
「何事だったの?」
「ん? モモンって人の件?」
「ええ。ノービスにも拘らず4階の会議室に、それも都市長とかと一緒の時に呼び出されるんだから、かなりの厄介ごとでしょ?」
「でしょうねー」
「まぁ、私のライバルだから呼ばれてもそんなものかなんて思うんだけど――」
「――その考えはおかしい」

 常識で考えればノービス、駆け出しの中の駆け出しの冒険者が4階の会議室に呼ばれるなんて言うのは聞いたこともない事件だ。考えれば考えるほど、色々な予想が頭を過ぎる。
 例えば、身分を隠した大貴族とか、すさまじい力を持った戦士とか……そこまで考え、ウィナはないないと頭を振る。どう贔屓目に見ても――イシュペンのような例外は除いて――大したことの無い冒険者だった。

「だったらなんで呼ばれたのかな?」
「だから私の――」
「この前から言ってるけど、あなたのその考えはおかしいから」

 軽くイシュペンに言い返すが、確かに先ほどのモモンという人物の件は、ウィナの好奇心を強く刺激する内容だ。誰かに聞いてみようかな、そんなことを軽くでも考えてしまうほど――。



 ■



 遅れて入ってきた男――モモンに、冒険者ギルドの長であるプルトンが全員を代表して、各自1人づつ紹介していた。都市長であるパナソレイは当然一番最初のはずなのだが、願って順番を最後に回してもらっている。
 というのも、モモンという人物を観察する時間が少しでも欲しかったからだ。確かにモモンという人物に関する大雑把な部分はプルトンから聞いた。しかしながら聞くと見るではやはり違うのだ。
 
 パナソレイは豚顔をしつつも、モモンをじっくりと観察する。
 最初に思ったのは、室内なのにガントレットを外さないのは何らかの理由があるのかという益体も無いことだ。
 とはいえ、冒険者は変わった者が多い。ギルド長であるプルトンが触れなかった問題に、あまり冒険者というものを知らない人間がなんのかんの言うのは不味いだろう。
 そう判断したパナソレイは黙って、仔細に眺めることとする。

 表情や立ち振る舞い、そして纏った空気に、驚愕するほどの何かは感じない。基本的には単なる一般人だ。しかしながら若干、姿勢や動きといったものが綺麗な気がする。パナソレイはモモンという人物が、元々何らかの高度な教育や躾を受けたのだろうと予測する。
 実際、貴族の三男とかが冒険者になるのはさほど珍しいことではない。無論、大抵は最初の冒険で命を落とし、大成するのは一握りもいないのだが。
 トータルとしてパナソレイのモモンという人物評価は、元々はそういう上流階級出身なんだろうか、という疑問が浮かぶ程度ものだ。それ以上は残念ながら掴めなかった。

 それよりもパナソレイが驚いたのは、モモンが非常に自然体だということだ。
 ギルド長といった都市の権力者たちを30分も待たせたというのに、それをなんとも思っていない図太さ。それどころか、待たせて何が悪いという、圧倒的な高慢ともいえる空気が漂っていた。
 冒険者というものは基本的には時間に厳しい。というのも約束とか契約というものを、彼らは決して裏切らないように行動するからだ。そう知っているパナソレイからすれば、このモモンという人物はあまりに異端だ。

 駆け出しだからこんなものなんだろうか。

 さほど冒険者一般に関して詳しいわけではないパナソレイは、そう判断する。いや、そう判断するしかなかった。流石にモモンが自らのことを、上位者として考えているわけはないだろうと思って。

「――そして順番が狂って最後になるが、エ・ランテルの都市長――パナソレイ・グルーゼ・ヴァウナー・レッテンマイア殿」
「プヒー。はじめましてモモン君。プヒー」
「はじめまして、都市長殿」

 軽く頭を下げるモモン。
 そこでパナソレイは、本当に微かに眉を寄せた。

 侮蔑、疑心、困惑、失望。
 初対面の人間にそういった感情を込めた眼で見られることは非常に慣れている。しかしながら今まで経験したことの無い、形容しがたいものを一瞬だけモモンの瞳から感じ取ったのだ。これは多くの人間――海千山千の人間たちと会ってきたパナソレイだからこそ、鋭敏に察知したのだろう。その証拠に周囲の誰もなんとも感じてないのが、見て取れる。
 その奇妙な感覚はなんだろうか。パナソレイは考え込み、非常に似た瞳の持ち主に思い当たる。

 そうだ。王国の貴族に1人だけいた。影で蛇とも嫌悪される大貴族。
 あの実験対象を観察するような、瞳孔の大きく開いた気持ちの悪い瞳に似ているのだ、と。

 再びモモンの瞳を正面から覗き込み、パナソレイは全身を襲うような寒気に襲われた。何故、寒さを感じたのか残念ながら表現することはできない。
 外見やにじみ出る人間性から判断するなら、どう好意的に評価しても、そこらにいそうな凡百の人間だ。決してパナソレイが寒気を感じるような人間ではない。

 ただ、何故か――油断はできない。これは慎重性を要する対象だ――。
 そう思った、パナソレイは表情を引き締めた。

 その表情の変化は室内の全てのものに伝わった。
 当たり前だ。悪く言えば豚のような締りの無い顔が、急激に都市長の顔つきへと変化したのだから。

「ん!」

 喉に溜まった悪いものを押し出すかのような、そんなパナソレイの声が室内に響く。

「――はじめよう、プルトン」
「はい、都市長」

 臨席する都市長の言葉に押されるように、プルトンはモモンに話し始める。

「実は今回来てもらったわけは大したことではないのだよ。ある女性の冒険者が冒険の最中、大怪我をしてね。その際に君から貰ったというポーションが非常に優れた効果を発揮したのだよ。それで、その話を聞きつけた私たちが、それを見せて貰おうと思って呼ん――」

 突然、パンと小気味の良い、手を打つ音が室内に響く。その音に気圧されるようにプルトンは口を閉ざした。全員の視線が音の出所――厳しい顔をしているパナソレイに向けられる。

「よせ、プルトン……隠し事は無しだ。真実を告げるべきだろう」
「それは都市長……」

 プルトンは眉をひそめる。当たり前だろう。強く信頼できる冒険者ならともかくとして、相手はつい最近ギルドの所属したばかりの新人だ。この都市周辺に危険なヴァンパイアが徘徊している――なんていう機密性の高い情報を流すには、危険が大きすぎる。もしこの情報が外に知れれば、すさまじい問題になるのは確実だ。それぐらいなら無理があろうが、適当な嘘で塗り固めた話でお茶を濁した方が良い。
 それは出席しているテオ、リィジー、ギグナルも同意見なのだろう。プルトンと同じように眉をひそめていた。

「……モモン君。私は君を高く評価している。そのために真実を口にするべきだと思うが、この話は内密にしてもらえるかね?」
「勿論です」

 打てば響くというような反応。だが、この場合においては信用性の欠ける返答に、誰の目からもそう見えた。しかしながら初対面の都市長が高く評価するといった人物だ。それに対し、面と向かって異を唱えるのはどうも気後れする。
 プルトン、テオ、リィジー、ギグナル――4人は互いに目配せをしあい、誰かがそう言葉を発することを押し付けあうが、その火のつきそうな爆弾を拾い上げるものはいない。
 やがて、諦めたようにプルトンがため息にも似た感じで息を吐き出す。

「畏まりました。では――まずはこれは他言無用の件だ。もしこれが変なところから私の耳に入るようなら、少々君の立場が不味いことになると理解したうえで聞いて欲しい」

 構わないのか? そう言いたげな表情でプルトンはモモンを凝視する。
 元Aクラス冒険者の威圧を込めた視線と、乗り出してきそうな気迫を平然と受け流し、モモンはその先を続けろといわんばかりに顎を軽く動かした。そのあまりの豪胆かつ生意気な態度に、一瞬プルトンは息を呑む。いや息を呑んだのはプルトンだけではない。パナソレイとモモンを除く全ての人間が、驚きのために息を呑んだ。

「――わかった。覚悟ができているなら話そう」一息ついてプルトンは話を続ける「つい先日、エ・ランテル近郊の街道警備ということで派遣された冒険者の一団が、モンスターに襲われ壊滅した。一団を襲ったモンスターの名前はヴァンパイアだ。そしてこのヴァンパイアは魔法を習得しているために、通常の固体よりも遙に強いだろうという予想を私達は立てている」
「モモン君が知ってのとおり、技術を習得しているモンスターは厄介だからな」
「どの程度の位階の魔法まで使えるかは、知ってもさほど違いはなかろうて。今現在覚えておいて欲しいのは、そのヴァンパイアが技術をも習得している厄介なモンスターだということじゃからな」
「Aクラスとされる私のアンデッド浄化でも、効果はない程度の強さとだけ理解してくれていれば良いでしょう」

 プルトンの話を補佐するように他の3人が口々に、モモンに一斉に話しかける。そのまるで何かを覆い隠すかのような行為に、モモンはピクリと眉を動かした。そしてモモンはその考えを吐き出す。

「――つまりは強さの部分が知られたくない。そういうことですね?」
「っ!」

 隠したい箇所をピンポイントで指摘され、誰かがうめき声をもらした。

「隠す理由は考えれば簡単に分かり――」
「――結構だ、モモン君!」プルトンは片手を上げ、モモンの言葉を途切る。「今回君を呼んだのは、申し訳ないが君の考えを聞くために、ではないのだ!」

 プルトンの激しい感情のこもった声によって、静寂が訪れる。
 モモンとプルトンは互いを見つめたまま、何も言わない。室内にいる誰もが、プルトンとモモンの間の空気が火花を放ったようにすら感じられた。
 いや、違う――モモンは平然としたままだ。
 その光景にあるのは、プルトンがモモンに対して重圧的に出ようとしているのだが、ことごとく失敗しているさまだ。本来であればプルトンこそ地位も実力も持っている強者のはずなのに、圧倒的弱者のはずのモモンとこうして比べてしまうと、鎌を持ち上げた蟷螂のようにしか思えない。

「……本当に……ノービスか……」

 テオの呟き。それにリィジー、ギグナルが無意識のうちに、微かに頭を振り、同意の意思を示す。
 老いたりとはいえAクラスの冒険者を相手にしても一歩も引かないその姿。大器とかそんな生易しい言葉ではなく、もっと別の何かを感じさせた。
 
 そんな光景にため息を漏らしたのは、黙って様子を見ていたパナソレイだ。
 パナソレイ自身、やはりこのモモンという人物は異様な精神構造を――もしくは何らかの理由でノービスにいるだけの実力者では、という困惑の感情を隠しきれてはいない。だが、他の4人の比べれば予測できた分、精神的な衝撃は少なかったと言えよう。

「……なぁ、プルトン。このモモンという人物は一筋縄ではいかない相手だろう。先も言ったとおり、正直に全てを語るべきだと思うぞ? ……プルトン、後は私が引き継ぐ」

 有無を言わせぬ強い意志を込めてパナソレイは話し始めた。

「……それで、だ。生還した冒険者の1人。女性なのだが、彼女は君から貰ったポーションを投げたところそのヴァンパイアは撤収したという話なのだ。それでモモン君。君を呼んだのはそのポーションをまずは見せて欲しいということなのだ」

 ピクリとモモンは表情を動かす。その表情の変化を観察しながら、パナソレイは慎重に言葉を選んで話し続ける。

「勿論、モモン君の警戒は分かる。最下級のポーションの金額はおよそ金貨50枚。今回その倍額100枚を約束しよう。売ってもらえないだろうか?」

 悪い話ではないはずだ。ただし、このポーションをモモンが作っている――数を持っているならだ。遺跡で発見したとかのように、何らかの理由によって数本程度しか持っていないなら、もしかすると断ってくる可能性がある。モモンが作成に関わってないとするなら、先ほどまでのヴァンパイアとポーションの関連性への予想が、正しい可能性は非常に低くなるといえよう。

「……了解しました」

 軽くモモンは頷くと、持ってきていた小袋から一本のポーションを取り出し、それをテーブルの上に無造作に置いた。

 置かれた瓶はガラスでできており、非常に細かい細工の施された作りとなっている。
 パナソレイが大貴族が使うような香水瓶の間違いではないだろうか、と思ってしまったほどだ。戦闘中に使ったりして壊してしまう可能性が高いものに、これほど凝ったものを使う理由は無い。あるとしたら単純にこれを壊してしまっても、なんとも思わない金銭の持ち主ぐらいだろう。
 中に入った液体の色は赤。外見的には一般的な治癒のポーションのものと何ら変わることは無い。

 一同の目がポーションから離れ、リィジーの元へ動く。

「では、失礼しますぞ」

 リィジーは皺だらけの手を伸ばし、ポーション瓶を自らの手元に引き寄せる。
 その瞬間、目の色が変わった。目の中に爛々と輝く光を宿し、目つきは急激に鋭く尖り、頬は興奮のあまりに紅潮し、その精力的な動きはまるで一気に何歳も若返ったようにも思えた。今そこにいるのは、まさに薬師としてエ・ランテル内で名の知られる職人の姿だ。

「ふむ……ふむ」

 リィジーはポケットから取り出した、小型の拡大鏡でポーションの中を真剣に眺める。沈殿物がないかといわんばかりに底を眺め、そして周りにこびりつく固体はないかと凝視をする。
 ぶつぶつと口の中で言葉にならない言葉を呟きつつ、真剣に効能を確かめる。
 やがて瓶の蓋を緩め、その匂いを手で仰ぐことで嗅ぐ。僅かに鋭い目がより鋭くなった。リィジーは逡巡し、それから直ぐに迷うことなく中の溶液を数滴自らの手の上に溢すと、それを舐めた。

「っ……」

 何を気づいたのか。喘ぐような吐息をリィジーは漏らすと、蓋を閉め、魔法を詠唱する。

《アプレーザル・マジックアイテム/道具鑑定》

 リィジーの鑑定の魔法が発動し、ポーションの魔法の効果の一部を見定める。そして何を知ったのか、驚愕に顔をゆがめたリィジーは再び魔法を発動させた。

《ディテクト・エンチャント/付与魔法探知》

 2つ目の魔法をかけた、リィジーの衝撃はどれほどだったのか。ぐらりと体が揺れ、そして――

「くっ!」

 ――がっくりと崩れ落ちるリィジー。

「如何しました! リィジー殿!」

 場が悄然となるのは当然だ。直ぐに近くにいたギグナルが駆け寄る。毒物の存在を彷彿とさせたのは仕方が無いだろう。

「何が!」
「どうしたのだ! 本当に治癒のポーションなのか?! 何をリィジー殿に渡した!」

 場が騒然となる中――

「くくっ……ふぁふあははは!」

 ――突如、壊れたような笑い声が、狭い室内に響き渡った。ゆっくりとリィジーが顔を上げる。そこには狂人のような壊れた笑みが浮かんでいた。誰もが――モモンを除き――あまりのリィジーの急激な変化に気圧され、話すどころか指一本すら動かせなかった。

「くくく! 見るがいい、これを! テオ殿! ここに、ここにポーションの完成形があるんじゃ! 私達が――私達薬師や錬金術師、全てのポーションの作成に係わる者達が、数百年研究の歴史を積み上げてなお届かない理想の形がじゃ!」

 リィジーは興奮しきったために紅潮した顔で、荒く浅い呼吸を繰り返す。そして決して離さないと表明するかのごとく、手で堅く握り締めたポーション瓶をテオに突きつける。

「一体、どうなされた? リィジー殿」

 落ち着くように話しかけたギグナルにぎょろっとリィジーは目を動かす。大きく見開いた目は、まさに顔からこぼれ落ちそうだ。

「――ポーションは劣化する。そうじゃな!」
「……な、当たり前です。……常識ではないですか」

 ポーションは作成の段階で、錬金術によって生み出される特殊な溶液を必要とする。この溶液は薬草や鉱物等の混合体に、複数の工程を経過させることで作り出される。
 当然薬草等を使用する以上、ポーションの材質は製作時期からどんどんと劣化するのは当然の理だ。

「そうじゃ。その通りじゃ! ポーションには薬草や錬金術によって生み出される特殊な溶液を使う。そのために時間の経過と共に劣化するのは当然の理! だからこそ《プリザベイション/保存》の魔法をかける」そこで一拍置いて、結論を口にする。「そう今まではな」

 皆の目がポーションに集まった。言いたい事がわかったのだ。

「これは! 分かるか、小僧ども! このポーションは、このポーションはな! これだけで形質劣化がしない、つまりは完成されたポーションなんじゃ! どんな者も開発できなかったな!」

 ぎょろっとリィジーは血走った目をモモンに向ける。

「小僧、このポーションはどこかで拾ったのか? それとも――作ったのか?」
「私の知っている方が作りました」
「その方法は?!」
「……勿論、知ってます」

 あまりの興奮具合にリィジーの唇の端に泡が浮かんでいる。それでもなおリィジーのボルテージは上がる一方だ。

「ならば、このポーションの作成方法を教えてもらいたい。報酬は金貨3万」
「!」

 誰もが驚く。
 リィジーが提示した金額は、まさに桁外れなものである。一般的な職人等が1日の労働で得れる賃金は、銀貨1枚程度である。つまりは職人30万日――821年分の給料ということだ。これは都市長であるパナソレイからもしても、破格過ぎる金額にしか思えない。実際、パナソレイの持つ全財産に匹敵するだけの金額だ。
 そしてそれに対するモモンの返答は冷たいものだった。

「――お断りします」
「ならば倍額を出そう」

 即座に倍額を約束するリィジー。ちなみに金貨6万枚にもなればパナソレイの全財産をはるかに超える。

「――お断りします」
「ああ、そうじゃろうな。こんなはした金では教えられないものよな! 決して誰も到達した者のいない最高の知識の1つだものな!」

 リィジーがモモンを睨む。それは敵を前にした者がするべき目だ。決して話を聞くために呼んだ人間にして良い眼ではない。
 そんなリィジーを酷く冷たい目で見ながら、考え込むようモモンは口元を手で覆う。僅かに口が動いたのを確認できた者はその場にはいない。
 その覆われた下で、口はこう動いたのだ――計画の第一案を破棄します――と。

「わしは10歳の頃、この世界に入った。薬師の世界にな! それから努力したんじゃ! 経年劣化しないポーション作りのために! 分かるか! 小僧ども! 努力に努力を重ね、研究に研究を繰り返してなお届かない、理想のポーション! それの答えが今ここにあるんじゃ! 誰もが――薬師に錬金術師、ポーション作成に関わる誰もが欲する答え! 今までにポーション作成に携わってきたあるとあらゆる者たち連綿と求めたものの答えじゃぞ!」

 ぎょろっと睨みつける。

「それを欲して何が悪い。その答えのためなら犯罪者になろうが安いものじゃ!」

 リィジーは枯れ木のような指を伸ばし、モモンに突きつける。かすかに指周りに青白い雷光が揺らめいたのは、見ている者たちの見間違いではない。

「何を!」
「――《ライトニング/電撃》。攻撃魔法を突きつけるなんて正気ですか! リィジー殿!」

 パナソレイを除く、自らの腕に自信のある人間達が立ち上がった。リィジーの近くにいたギグナルは、モモンの盾になるべく動こうとするが、テオにかすかな身振りで止められる。
 ライトニングは一直線に貫通する攻撃魔法だ。人間程度では壁にもならないで、貫通して後ろの人間もその魔法の対象にするだろう。それよりは治癒の魔法をいつでも発動できるよう準備していた方が良い。
 プルトンはジリジリとリィジーとの距離を詰めようと、少しづつにじり寄ろうとする。

「薬師でもないきさまらは黙っていろ! 小僧! このポーションの作成方法を話せ! なんの薬草と鉱物を使う。それとも使わないのか。生物の器官等を使う方式なのか!」

 室内の緊張感が高まったその時――酷く冷静なモモンの声が、室内に響いた。ライトニングの魔法があと一歩で自らに発動するという状況において、モモンは平然と席に座ったまま、楽しげな笑みを浮かべていた。
 そんな光景を前に、パナソレイは目を見開く。
 リィジーはかなり興奮しており、場合によっては本当に魔法を発動しかねない。それに対してモモンは、やせ我慢や撃ってこないと高をくくっているのではない。撃たれようとどうにかする自信がある。そうパナソレイには理解できたのだ。
 ゆえにパナソレイはモモンへの結論を出す。
 ノービスは絶対にありえん。この男。下手したら、かなり上位の冒険者だ、と。

「ゾリエ溶液――」
「なんじゃそれは! それが材料なのか!」

 リィジーの叫び声にも似た怒声を受けてなお、モモンは冷酷とも言って良い顔で魔法を呟くように品名を挙げていく。

「リュンクスストーン、ヴィーヴルの竜石、黄金の秘薬」
「そんなもの――」

 聞いたことが無い。でたらめだ。そう言おうとしてリィジーは唇を噛み締める。破れた唇から血が流れ出すほど。
 もしモモンの言葉をでたらめだと断定してしまっては、彼の全てを否定せざるを得ない。あれは真実、これは嘘なんて都合の良い判断をするためには、何か1つでも言い返せる材料が必要なのは当然だ。ブラフをかけても、鼻で笑われて終了するのは、する前から予測が付く。ならばこそ正解を指摘することで、綻びから真実を見つけ出すこと必要があるのだ。しかしながらリィジーはモモンの上げた名前を何も知らない。
 つまりは今のリィジーには全てを信じるか、全てを疑うかのどちらかしかないのだ。

 疑うことは簡単である。認めなければ良いだけだ。モモンの言葉の全てを偽りだと思えば良い。
 だが、何よりも恐ろしく、リィジーの体を震わせるのは――モモンが真実のみを口にしている場合だ。

「聞いたことが? リュンクスストーンは治癒系の効能を強める効果がありますし、ヴィーヴルの竜石は属性ダメージ量の増大という効果があります」

 リィジーは何も言わずにモモンの冷笑を浮かべた顔を、穴が開きそうなほど凝視する。
 リィジーの年齢から来た勘が叫ぶのだ。この男は真実のみを口にしていると。ならばそれは――。

 リィジーはもはや何も聞きたくないとばかりに必死に、されど弱弱しく頭を振る。そんな急激に真っ青な顔になったリィジーの気持ちが分かったのは、この場にいるものの中ではテオだけである。
 テオもまた、自らを襲う恐怖に耐えているのだから。

 モモンは鼻で笑うと、最後の駄目押しの台詞を口にする。

「あなたは先ほど10歳のころからこの道に入ったと言っていました。それでは聞かせてください。何一つ知らないようですが」モモンはニンマリと亀裂のような笑みを浮かべた。「――何をされてきたのですか、そのお年まで?」

 リィジーは何も言えずに、喘ぐように呼吸を繰り返す。自らの人生の全ての否定。それを目の前で突きつけられて、反論の言葉をすることすら許されない。当たり前だ。事実なのだから。
 必死に努力してもなお届かない頂から、見下すように笑われるのだ。その人間が努力すれば努力しただけ、今の言葉を肺腑を抉る。

「――申し訳ないです。知識の欠片も無い人間に説明できるほど、ポーション作成は簡単ではないので」

 無知に教えるものは無い。
 そんな意味合いを込めた言葉をリィジーに投げかけると、モモンは侘びとして丁寧に頭を下げる。それと同時に糸が切れたようにリィジーはへたり込んだ。

 先ほどの緊張感は何処にも無い。あるのは痛ましいまでの静寂だ。
 リィジーは片手で目を覆い隠して、何も発しようとはしない。年相応、いや、一気にさらに年を取ったようにも見える。

「……都市長。今、街中での魔法使用に関する規定に、抵触する魔法行使がありました」
「うむ……」

 最も現在のリィジーの気持ちが分かっているテオが、パナソレイに摘発を行う。目の前で魔法を使用した犯罪行為が行われたのだ。凶行に出た気持ちは理解できるが、魔術師ギルドの長という立場がそれを黙認することは出来ない。

 そしてパナソレイとしても、現状は板ばさみだ。
 無論、法は守らなければならない。
 攻撃魔法を完全に発動したわけではないが、それでもそれを脅迫に使用したのは事実だ。しかも都市長という自らの前で。ならば違法行為として規定の罰を下さなくてはならない。
 しかしながら、これより帝国の侵攻があるだろうと予測される中で、リィジーというポーション作成に長けた人間を拘束し、罰を与えるのは、将来的に王国の兵士を何人も殺す結果に繋がりかねない。正直、モモンという今現在、最も警戒すべき人間を相手に犯罪行為を行ったのでなければ、なんのかんのと理由をつけて、金銭的な処分で終わりにしたいぐらいだ。
 パナソレイが眉を顰めていると、それを見越したようにモモンが口を開く。

「待ってください。私も怪我はしませんでした。ですので今回は不問ということでも私は構いませんよ」
「……そうかね」

 1つ貸しということか。いや、それで済んだことに感謝すべきか。
 パナソレイはそう思いながら、軽くモモンに頭を下げる。

「では、モモン――殿がこう言ってるので、都市長たる私の権限を持って今回に限り不問とする。テオ、問題は?」
「いえ、ございません」
「では、プルトン」
「ございません」
「よし、ではそういうことだ。皆、席に戻れ」

 今までリィジーを止めようと立ち上がっていた、テオ、プルトン、ギグナルが席に戻る。

「さて、リィジー殿、結論を聞かせてくれ。このポーションはヴァンパイアが逃げ出すに値するものなのか?」

 リィジーはぼんやりとパナソレイに真っ赤に充血した目を向け、あやふやに頷く。

「……治癒のポーションとしての効果は殆ど変わらんと思う。……そのためにダメージ量で逃げたとは考えにくいの。しかしながら、このポーションがどれほどの物か知っているとしたら、もしかすると逃げ出すかもしれん……」
「つまりは?」
「ポーションの作成者を恐れた……先ほど、都市長が言われていた意見じゃよ」

 一斉に全員の視線がモモンに集まる。ついさっき、モモンと初めてあった頃では、今のリィジーの発言はある意味失笑の域だっただろう。しかしながら今では違う。皆の目の前にいるこの男は、想像も出来ない何かを持っている可能性が高いから。
 皆が黙っている中、小さく椅子が動く音がする。
 それはリィジーが立ち上がった音だ。

「すまぬ。わしは少々疲れました。良ければ退席したいのじゃが……」

 そこにいるのは見た目どおりの、しわくちゃな老婆だ。もはや先ほどの気迫のかけらも無い。
 パナソレイは幾通りかの慰めの言葉と、臨席して欲しいという要望の言葉が浮かぶが、口を割って出た言葉はどれでもなかった。

「……うむ。今回は役に立つ話を聞かせてくれて感謝するリィジー殿」
「申し訳ない、都市長。それに皆さんも」

 リィジーは最後にモモンに向き直る。

「モモン殿、先ほどの失礼を許して欲しい」

 リィジーは深々と頭を下げた。それは自分の孫のような年齢の者にするものではない。完全に自らよりも上の人間に働いた失礼を謝罪するものだ。それをモモンは冷たい目で見つめてから、鷹揚に頭を振り、了解の意を示す。
 年下の者が、年上の者に上位者として振舞う。何も知らない第三者からすると、不快にも思える行為だが、先ほどの光景を目にした4人からすると、当たり前の光景にしか見えなかった。

「それとじゃ、正当な金額。それにさきほどのわしの無礼を謝罪する意味を込めた金銭を追加で支払うので、ポーションを1本でよい。売ってはもらえないじゃろうか?」

 リィジーは大きく頭を下げる。もししろといえば最敬礼だってするだろう。そんな真摯さがそこにはあった。しかしながらさきほどの一幕を考えれば、モモンが断ったとしても仕方ないだろう。だが、モモンは快く承諾する。

「どうぞ」
「おお! 感謝する!」

 目はらんらんと輝き、これから恐らくポーションを調べに調べつくすのだろう。そんな気迫がそこにあった。リィジーはポケットを漁ると、小さな皮袋を1つ取り出す。それの口を開くと、中身をテーブルの上に転がした。
 煌びやかな輝きが複数転がった。それは4つの宝石だ。

「55金貨相当のアヴェンチュリン、17金貨相当のファイアーアゲート、25金貨相当のブルークオーツ、48金貨相当のジルコンじゃ。収めて欲しい」

 モモンは何も言わず、リィジーの皮袋を取ると宝石を収め、それを自らのポケットに納める。

「では、失礼」

 リィジーはそのまま部屋を出て行く。扉がパタンという音を立てたのを合図のように、パナソレイは再び話し始める。

「ふむ。モモン殿、本来であればあなたに聞きたかったことはこれで終わりなのだが、もう少しだけ話に参加して欲しい。聞きたいことはエ・ランテル近郊に出現したヴァンパイアのことだ。プルトン、ヴァンパイアの外見等が記載されている用紙を彼に」
「いや、結構。口頭で構いません」

 プルトンがヴァンパイアの外見を説明すると、モモンは数度軽く頭を振る。

「何か知っているのか?」

 パナソレイの期待を込めた質問への、モモンの返答は非常に簡素なものだった。

「知っています」

 一瞬、部屋が静まり返った。誰もが今、耳に入った情報を信じられなかったのだ。
 当たり前だ。この都市の冒険者ギルド、そして魔術師ギルドの長が知らない情報を、たかだか最下級ランクの冒険者が知っているなんて誰が思うだろうか。いや、その反面、誰もが納得もしていた。モモンという人物なら知っていてもおかしくは無いと。

「やはり知っているのか」
 
 テオが問い返したのも当然だろう。そしてモモンが当然というように頭を軽く振ったことによって、ため息のようなものが室内に充満する。

「ふむ……聞かせてもらえるか?」
「…………」

 モモンは黙して語らない。
 その沈黙をパナソレイは正当な対価を要求するもの――当然の要求だろうと認識した。そのために微笑む。

「無論、報酬は払おう。そしてその情報を裏付ける証拠が発見次第、さらなる追加報酬も約束しよう」

 その言葉が引き金になったように、モモンは口を開く。

「――カーミラと呼ばれるヴァンパイアです。話によるとかの国堕としの3人の弟子の1人だとか」
「な!」
 
 その驚きの声は4人から漏れたものだ。さきほど、モモンがいない最中に話していた1つ。あまりにも危険な可能性が真実だ、と肯定する人物が現れたことに対する驚きの声だ。

「君は何者なんだ」

 ポツリとプルトンが呟く。

「君は只者ではない。そうだ、君は凄い人物としか思えん。それは認めよう。今この場にいる誰もがそれを決して否定しないだろうしな。しかしながら――そんな人間が何故、ノービスの冒険者なんていう地位にいるんだ。どうして名の知れた冒険者ではないんだ?」
「そんなことが聞きたいのですか?」

 モモンの視線を受けた者――室内にいた皆が一様に頷く。当たり前だ。知りたくないなんて思う者がいるはずがない。

「……私はそのカーミラというヴァンパイアに村を滅ぼされたものです。そして復讐のためにそのヴァンパイアを追ってきてるんです」
「なんだと……」
「ではあれがどれほどの強さなのか知っているのか?!」
「勿論です。私が子供の頃あれは第3位階まで使いこなしていました。もしかすると現在は第4位階まで使いこなしているかもしれません」
「うむ……」

 第3位階の魔法を使いこなすヴァンパイア。それを追う彼は何者なんだ。誰もが口にはしないが、同じ疑問に突き当たる。
 当然だろう。モモンが来る前の会議ではこのカーミラなるヴァンパイアを倒すには、最低でもA+クラスの冒険者数パーティーが必要という結論に達したのだ。では彼はたった1人でそれだけの働きが出来るというのか。王国最強の戦士である人物ですから不可能なことを。

「正直に言おう。カーミラは非常に強いと我々は予測している。だが、君には奴に勝つ何らかの手段を用意しているというのか?」

 パナソレイの質問に対し、モモンは軽く笑う。その先を聞くまでも無く答えが理解できる、そんな笑みだ。そして事実、モモンの答えはそんな予想を肯定するものだった。

「――勿論です。そうでなければ追うなんて事は考えてもいません」
「――おお!」

 歓声混じりの声が意識せずに皆から漏れる。すさまじい力を持つヴァンパイアがエ・ランテル近郊にいるという、絶望的な現状を打破することのできる人間が目の前に現れたのだ。それも意図しないところから。
 これで喜ぶなという方が無理だ。

「神よ。これもあなたのお導きでしょうか」

 ギグナルなんかは神に祈りを捧げ始めるほどだ。その中で幾分か冷静さを保っているテオは、自らの好奇心も満足させるべくモモンに問いかける。
 
「……しかし、どうやってそれを可能とするんだ? ポーションを使用してなのか? それとも何らかのマジック・アイテムなのか?」
「それを教えることは出来ません。どこから漏れるとも限りませんから」

 言い切るモモンにテオは一瞬鼻白むが、考えてみると確かに正しい。ヴァンパイアの特殊能力には魅了の魔眼というものがある。下手に退治方法を聞いた人間に使用され、その方法を喋ったりしてしまっては、モモンが勝てなくなる可能性もあるのだから。

「ならばとりあえずはカーミラなるヴァンパイアの情報は、最優先でモモン殿にも流すということで」
「異論はございません」
 
 パナソレイの提案に対して、代表してプルトンが答える。これで1つの厄介ごとへの対処方法が垣間見えた。そんな安堵感に支配されつつあったパナソレイは、もう1つ聞いてみたいことを思い出す。

「それではアインズ・ウール・ゴウンという人物に心当たりは……」
「私の師匠です」
「なんだと!」

 呆気ない。そうとしか言いようが無いほど簡単にモモンは、パナソレイの疑問に答える。

「ゴウン殿は――」
「――アインズ様ですね」

 表情こそは微笑んでいるが、その中にあるのは威圧だ。アインズという人物に対するモモンの忠誠心を強く感じとったパナソレイは、引きつるような表情で言い直す。

「アインズ様は一体どれほどの力をお持ちなのかな?」
「知りません」

 軽く言い切ったモモンは軽く肩をすくめる。そして爆弾を放り込んだ。

「おそらくは第6位階ぐらいは使いこなせるでしょう」

 皆が息を飲み込む。それから口々に吼えた。

「なんじゃそりゃ! ぐらいということは、それ以上もありえるのかよ!」
「はぁ! 私がそれほどの人物を何も知らないということは、そんなのが世に埋もれているというのか! いやまさか13英雄……いや、ありえん!!」
「oh my god!」
「帝国の主席魔法使いと同格とは、凄いものだ」

 第6位階を使いこなせるというのは凄いという認識はあるが、それがどれほど凄いことかが漠然としか理解できていないパナソレイと、冒険者として経験から魔法の位階の差を強く実感しているプルトン、テオ、ギグナルの間に桁外れな温度差が生まれている。実際にそれを認識している3人はパナソレイをじとっとした目で直視する。慌てたのはそんな視線を送られるパナソレイだ。

「な、なんで、そんな目で見る」
「いえ、羨ましいなと思いまして」
「本当ですな、都市長殿が羨ましい」
「テオ、ギグナル殿。魔法を使わない人にとってはぴんと来ない話だ。仕方ないだろう?」
「まぁ、そうなんですけどね」
「全くだ」

 ふぅと3人が揃ってため息をついた。
 まるで自分ひとりだけ隔絶しているような寂しさにパナソレイは襲われる。確かに冒険者としての共通意識が無いからといって、これは酷いのではないだろうか。そんな益体も無いことを思ってしまうほど。

「それにしてもアインズ――様は凄い方なんだな。とするとその弟子であるモモン殿も――」
「まぁ、第3位階魔法までなら使いこなせます。ですがカーミラが逃げたのは私の師であるアインズ様を恐れたためでしょう」
「そうだったのか。……ならば基本的にはこういうことはやらないのだが、昇格試験を早く始めてしまおうか」
「よろしいのですか?」

 モモンはイシュペンの語った内容を思い出し、プルトンに疑問としてぶつける。

「特例だよ」プルトンはにやりと笑う。「もしかすると将来カーミラと戦う際、最前線に出てもらう必要が出るんだ。急いででもランクを上げてもらわないとな」
「それであれば一気にBランクをあげても良いのでは? 第3位階までこなせるというのだから」
「そこまでは上手く行かんよ、ギグナル殿。一応、各国各都市の冒険者ギルドは、共通した規則というものがある。昇格の場合は試験を行う必要があるというのは、その最たる例の一つだ。偽造していった場合、将来的にモモン殿の足を引っ張る可能性も無いとは言えないからな」
「冒険者ギルドも我が魔術師ギルド同様、規則に縛られるか」
「仕方ないだろう、テオ。規則というものはそういうものだ。しかし――調べさせていただいた情報によるとポーターを見事勤められたという話だから、戦士かと思っていたのだがスペルキャスターとは……」
「ああ、あれですか。種明かしをするなら、このマジックアイテムの働きによるものです」

 モモンは自らのはめているガントレットを外すと、テーブルの上にゆっくりと置いた。

「このガントレットの名称はイルアン・グライベル。アインズ様からいただいた、私の宝物の1つです」
「ふむ……無骨だが、傷の無い……一体どんな魔法の効果を持っているのかな?」
「ああ、それは単純に着用者の筋力を増大させる働きです」
「ほー。少し調べさせていただいても?」
「ああ、どうぞ」
「では、お借りする」

 好奇心に目を輝かせ、そのガントレットをテオは手に取ると魔法を発動させる。

《アプレーザル・マジックアイテム/道具鑑定》

 テオは大きく目を見開き、硬直する。全身が寒気に教われるように震えだした。唇は言葉にならない言葉を押し出そうとするが、やはりブルブルと震えるだけだ。
 その急激な変化は先ほどのリィジーを彷彿とさせ、プルトンとギグナルの2人は目を合わせると、座ったまま、イスを軽く動かす。
 そんな中、ごくりという唾を飲み込む音が聞こえ、やっとのことでテオは言葉をつむぐ。

「…………これは…………最上位のマジックアイテム…………アーティファクト級です」

 プルトンとギグナルが先ほどのテオと同じような姿を取りながら、ガントレットを凝視する。テオは恐ろしくも偉大なるものを触っているかのような丁寧な扱いで、ゆっくりとガントレットをモモンの元に戻す。

「アインズ様は……偉大な人物ですな……」

 モモンはそれに対して微笑で答えた。



 ■



 モモンの出て行った扉をぼんやりと眺めながら、室内にいた全員は脱力し、力なくイスにもたれる。
 自らよりも上の相手と同席すると精神をすり減らすものだ。
 パナソレイたちのほうが権力、財力、コネクションとこの都市においては圧倒的なものを持っているはずのなのだが、モモンというノービスの冒険者はそんな物差しでは計れないものを後ろに持っていることが、赤裸々に証明した。もはやカーミラなるヴァンパイアを倒さない限りは、モモンという人物なくして都市の平穏は守れないほど。

 しかもモモンという人物は、今だ底を感じさせないものがあった。本人は第3位階魔法を行使できると言う話だが、本当にそうなのか。第4位階魔法を使ったとしても、さほど驚きを感じさせないものを持っていた。さらには――そう、さらに恐ろしいのはその後ろにいる人物。

 アインズ・ウール・ゴウンという名の魔法使いだ。

 今の錬金術、薬学の知識では到達不能なポーションを作成する能力。驚異的なヴァンパイアが慌てて逃げ出すほどの――おそらくは戦闘能力を保有。圧倒的な魔力を保有するアイテムを、容易く与えられるという決定ができるほどの財力。
 
 それは確かにモモンという人物が忠誠心を持つほどに相応しい存在だろう。

 パナソレイは頭を抱えるように抱き込む。
 ほんの1日で色々と力のバランスが一気に狂った気がする。

 体を起こしたギグナルが、夢見心地な気分で言葉を発する。

「……あれが最上位、人の手では作り出せないとされるアーティファクトですか。初めて見ました」

 アーティファクトとはほぼ最上位とされるマジックアイテムの総称である。人の手では製作は不可能であり、神や高位のドラゴン、悪魔や天使といった存在にしか作れないとされるアイテムだ。その魔力は膨大であり、不壊。伝承によれば一度だけだが、死者すらも蘇らせることすら可能とするアイテムもあるという。
 かの13英雄が幾つも所持していたとも言われるクラスのものであり、このアイテムを求めるのも冒険者としての夢の1つであることが多い。
 実際、Aクラスの冒険者であるギグナルを持ってしても、見たのは先ほどが始めてというレア度だ。当然金銭で換算すれば桁が違うだけの金額になる。安く見積もっても金貨数十万枚はくだらないだろう。

「……しかし、もっと煌びやかなものかと思っていたのですが」
「だが、あれは見事なものだったぞ。戦士としていうなら作りがしっかりしていたし、傷が殆ど無かった。大切にしまい込んでいたなら兎も角、既にアレを所持したまま冒険に出ているんだ、傷がつかないわけが無い。とするとあのガントレットは非常に傷つきにくい材質でできている可能性がある。無骨ながら良い一品だ」
「私も見るのは2度目です」
「私が見た王国の秘宝、国宝剣とかは確かに見事な作りだったな」
「おお、都市長殿。王国の秘宝、一度は見てみたいですな。まぁ無理でしょうが」
「戴冠式に見ることができるが、拝謁の機会はまぁ、回ってこないだろうな、残念ながら」

 さて、といいながらパナソレイは体を起こす。それを見た全員が同じように姿勢をただし、話を聞く体勢を取る。

「で、どう思った?」
「現在ある乏しい情報からですが……そこから考えると、何ら食い違いや矛盾の無い話ですね」
「少しばかり上手い情報のように思えたがな?」
「それは?」
「我々が欲しいと思ったそのままの情報だ。ヴァンパイアの正体、アインズ・ウール・ゴウンなる魔法使いの正体、そしてモモンなる人物とポーション……」
「上手く行き過ぎているということですか?」

 パナソレイは黙り、考える。まるで彼自身が自らの考えに納得してないようだった。
 
「いや……私が心配性なだけだろう。先ほどテオの言った通り、食い違いも矛盾も無い情報だ。ほぼ真実と思っていいだろう」

 そういいながらも表情の晴れないパナソレイを、補佐するようにプルトンは案を出す。

「ですが、一応、裏は取るように行動しておきましょう」
「……そうだな。……そうしてくれるか、プルトン。必要経費は後ほど出してくれ」
「了解しました、都市長」 

 プルトンの視線を受け、了承するようにテオも頷いた。

「それで一応聞きたいのだが……この部屋の会話が漏れるということはありうるのか?」

 パナソレイはそう言いながら、自らの質問をありえないと判断する。今までこの部屋で行った会議は一度たりとももれた形跡が無い。
 なぜなら一見するとここは単なる部屋だが、周囲は鉛板で覆われており、出入り口は1つしかない。誰かがこっそりと侵入しようとしても非常に目立つだろう。大体隠れる場所だって無いのだ。仮に不可視化した存在がいたとしても、この狭い部屋で誰にも気配や存在を感じさせないなんて行いは不可能だろう。

「まずはありえません」

 自信満々に言い切るのはこの部屋を持ち主であるプルトンだ。ただ、続けて言葉を発するテオは、浮かない顔をしている。

「全くです。……ただ、もし仮にアインズなる人物が第6位階まで修めているとなると、絶対の自信はないとしか言えません。正直、第6位階なんて想像の領域です。もしかするとこの部屋を覗けるような魔法があるかもしれませんが……」

 そこまで言ってテオは頭を振る。被害妄想とかの領域だと。疑いだしたら何でも疑える。
 確かにその通りだと、パナソレイも納得する。疑おうとしたらこの部屋に何者かが侵入している場合だってあるではないか、と。誰にも知られないように室内に潜り込むことは不可能だし、よしんば出来たとしてもこの狭い部屋のどこにいるというのか。
 パナソレイはチラリと室内を見渡す。テーブルの下だって、天井だって無理な話だ。出来るとしたら影に溶け込む能力でも持ってない限りは不可能だろう。
 ふと、イジャニーヤと呼ばれる暗殺集団がそんな能力を持っているとも言われていることをパナソレイは思い出すが、頭を振って追い出す。ばかばかしい――なんの脈絡も無い話だ。
 だいたいそんなことを考えていたら、御伽噺に出てくるシャドウドラゴンとかナイトストーカーとか、そんな化け物の存在だって考えなければならないではないか。
 ふぅと、パナソレイは息を吐き出し、頭の中からそんな考えは完全に廃棄する。いま考えなければならない話は御伽噺ではないのだ。

「さて、ではプルトン。騒ぎにならない程度の情報規制を行ったうえで、周辺都市の冒険者ギルドに報告してくれ」
「了解しました。アインズ殿とモモン殿の2者に関してはどうしますか?」
「うむぅ。下手に情報を流して厄介ごとに巻き込んだりすると、あまり良い感情をもたれないだろう。出来る限り隠し通してくれ」
「では、そのようにはからいます。伝言の羊皮紙<スクロール・オブ・レポート>を使用して緊急に送ります」
「魔術師ギルドのほうも同じようにおこなっておきます」
「頼む、テオ。それとカーミラの件は私の方から王にお伝えしておこうと思う。今から出て……15日ぐらいか?」

 プルトンとテオが微妙な、ギグナルは不思議そうな顔をする。
 王都までは街道を使ってもおよそ280キロ。馬であれば通常の移動でも1日に42キロの踏破は可能だ。それから単純に計算すると7日で到着するはず。パナソレイが述べた日数はその2倍。あまりにも時間がかかりすぎる。

「一体、何故それだけの時間が?」

 ギグナルは思わず問いかける。重要な情報を持っていくのに、何故もっと急がないのだと。それに対し理由を知っているプルトンとテオは苦い顔を浮かべる。これは王国全体の微妙な問題に触れる話になりかけているからだ。事実、パナソレイも苦笑いを浮かべていた。

「色々あるんだ、ギグナル殿」

 その言葉では納得のいかないギグナルに、パナソレイは苦笑いを浮かべたまま話を続けることとする。

「ご存知だと思うんだが、冒険者ギルドは基本的に権力に寄り添わないというルールがある。スレイン法国のように飲み込まれることを避けるためにな」
「カーミラの一件はそんなことを言っている場合ではないでしょう」
「王国上層部は現在、王派閥と対立派閥に分かれて権力争いをしているんだ。もし仮に冒険者ギルドの一部が王派閥に力を貸したと知られれば……非常に厄介なことになる。下手をすると冒険者ギルドさえも2つに分かれるかもしれない」
「そこをどうにか……」
「……ギグナル殿。危険なんだ。王国内部が既に割れかかっているのに、冒険者ギルドまでも割れる原因を作りたくは無い」

 パナソレイから話を受け継ぎ、プルトンが言葉自体は優しいものだが、はっきりとした拒絶の意志を込めて言い切る。その意志の固さを感じ取ったのだろう、ギグナルは攻め方を変えることとする。

「では、私が神殿に掛け合うなり、冒険者を雇うなりして早馬を飛ばせば」
「都市長である私が王への連絡に冒険者を使うのか? つまりはその程度の部下しか持っていないと。それで都市長を任せられるのだろうかかね?」
「ならば街道周辺にモンスターが出るということにすれば」
「そしてその街道周辺の貴族に責任を取らせるのかね? それとも街道を作ろうと行動したラナー王女にかね? 調査してモンスターが出没した形跡が無かったなら、都市長である私の虚偽ということで終わるのかな? それともそんな偽りを述べた私を都市長に据えた王の責任かね?」
「そんなのは……」

 言いがかりだ。そう思い、王国内の内部対立はそれほど深刻なものなのかとギグナルは理解する。

「例えカーミラという危険なモンスターがいようとも、結局は人間の対立は避けられん。もし帝国の進軍が無ければもっと早くに分裂し、内紛が起こっていたかもしれん」

 その言葉を最後に室内には重い沈黙が訪れる。

「……何で言ったのかは理解してもらえるな?」
「わかっています。私が1人で先走らないようにですな?」
「そういうことだ。納得はいかないかもしれないが、理解はしてもらえたと思う。さて、今回の会議はこれで終了ということかな」
「そうですね……」

 プルトン、テオ、そして今だ納得しきれない顔をするギグナルと見回し、パナソレイは会議の終了を決定した。



 ■



「く、ははははははは」

 アインズは笑う。
 それは絶対者が弱者を嘲り、哀れむ――そんな笑いだ。

「つまるところ、この周辺国家の人間社会に警戒すべき強者はいないということか。さて、さて、さて、どうするかな。どうした方が良いかな」

 アインズは薄く笑いつつ、この先の計画の大幅修正を必要性を深く実感していた。背負っていた重みが一気に軽くなった開放感をその身に感じながら。
 とはいえ、完全に荷物がなくなったわけではない。

 例えば同じユグドラシルプレイヤーがいるのかどうか、早期発見のための警戒網の作成は重要な案件の1つだろう。ではそれをどのように作成していくかだ。
 現状、デミウルゴスに任せた囮としての魔王ぐらいか。あとはユグドラシルプレイヤーであればこの世界の存在よりも強いはずだろうから、必ず目立つはずという考えを元に何らかの計画を立てるべきだろう。

 自らの席から立ち上がると、広い室内をアインズはゆっくりと歩き出す。
 そして目の前の誰かもいない空間に語りかける。無論、不可視化を行っている対象がそこにいるわけではない。単純に自らの考えを独り言という形でこぼしているだけだ。

「闘技大会を開くなんていうのも面白いかもしれんが、現状の立場では無理だ。ではダンジョンを作って広く冒険者を募集するというのはどうだ? ナザリックの一部開放か……。面白いが不快だ。だが、効果はありそうだ。ユグドラシルプレイヤーで元の世界に帰りたいと思うものを呼び寄せるために、そういう系統の噂を流して……」

 そこまで呟き、アインズは頭を左右に振る。

「いやいや、焦ることは無い。今現在王国と帝国にかけているモーションの結果を待ってもいいだろう。もしかしたらその間にもっと状況が変化するかもしれないしな。それにユグドラシルプレイヤーが、上手くこの世界に溶け込んでいる可能性もあるのだから」

 それに行った方が良いものがある。それは現在進行形で行われているナザリックの強化計画だ。戦力の拡大はもはや必要ないかもしれないが、頭脳担当や交渉担当という存在の必要性は今だ失われていない。

「面倒ごとは残っているか。おい――」
 
 アインズは後ろで控えているメイドに声をかける。

「アウラとシャルティアを呼んで来い。色々と今後の計画について話し合いたいと伝えろ」
「――畏まりました」

 命令を受けた2人のメイドが部屋を出て行く姿を見ながら、こみ上げてくる嘲笑の笑みを隠しきれずにアインズは溢す。あとは人間以外の種族にも目を向ける必要が出てきたわけだ。それはコキュートスの実験が上手くいくことを祈るべきだろう。

「ふぅー。楽になったな」

 アインズは首を軽く回しながら、扉を眺める。次の手をどうするかと考えながら――






――――――――
※ アインズ大興奮とナザリック産ポーションぱねぇの回でした。あとは最初の計画ってばんばん狂うよね、の回でもあります。このようにアインズの計画は今後も狂って、修正に追われる……かな? まぁ修正可能な失敗ならまだマシということで。
 そろそろ最強ものらしくアインズの凄いところを出したいものです。
 では次回まだモモンの話が続く「昇格試験」でお会いしましょう。



[18721] 37_昇格試験1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/02/20 21:52





 モモンは冒険者ギルドの外に出る。通りはちょうど昼時になったらしく、仕事の手を止めた人たちによって騒がしさが増していた。それは食事をする場所を求めているのか、飲食店を中心に人の出入りが激しくなっている。
 モモンはそんな通りを歩きながら、顔に思わず浮かび上がる冷笑を、手で覆うことで隠す。人の目のあるこんな場所では勝ち誇った笑みを浮かべることはできない。無論、道行く人がモモンを気にしているわけが無いとは思うが、それでもどこに目があるともしれない。
 そこまで分かっていても、何も知らないで思うように操られる人間たちを思い出すだけで、どうしても笑みがこみ上げてくるのだ。

 モモンは下唇を噛み締め、必死に笑みを殺すと、のんびりと歩く。日差しを浴びることに満足しているような、そんな歩み方で。

 モモンは宿屋に向かって歩く最中、変な行動は一切しない。振り返ることも、道を遠回りすることもだ。それは警戒を完全に怠っている歩き方だ。
 不意に襲撃を受けたなら、その一撃は確実に食らうだろうという無造作かつ無警戒な歩みで、モモンは歩を進める。
 
 スペルキャスターであるモモンは、尾行等の察知は複数の魔法的な防御手段によって行うところである。しかしながら立場上、下手な魔法行使が不味いことぐらい当然理解できる。そのため基礎肉体能力に通常は頼っているのだが、流石に本職が相手となると誤魔化される可能性が高いし、このように人通りが激しいと看破できている自信は残念ながら無い。
 そのためにシャドウデーモンを借り受けたのだが、現在は全て出払っている。
 今はモモン自身に警戒能力がゆだねられているのだ。
 ただ、本職でもないのに無理に警戒という行為を取るとなると、どうしても動きに違和感が出る。そう考えたからこそ、逆にモモンは完全に警戒というものを取ってないのだ。

 昼時の騒がしさが満ち満ちた広場を抜け、モモンが滞在している宿屋近くまで近づく。この辺りでもやはり昼の休憩に入っている者の姿はちらほら見れる。騒がしさに若干顔を歪めながら、宿屋の近くまで来たとき、モモンは急に道を折れる。
 向かう先は裏路地だ。
 歩き、曲がり、やがて静かな一角に出る。そこでモモンは壁に背を持たれかける。一応は周囲を目線だけで見渡すが、尾行者やモモンを伺っている者の気配は感じ取れない。
 モモンが僅かに不満げに唇を尖らした、その時。モモンの背中が接触している部分――影が一瞬だけ揺らめく。

『参りました。ナーベラル様』

 シャドウデーモンの抑揚の無い冷たい声がモモン――ナーベラルの耳、直ぐ後ろから聞こえる。
 短距離だが影から影への転移を可能とするシャドウデーモンの特殊移動方法、シャドウ・ワープによってナーベラルの背面に移動したのだ。
 シャドウデーモンは影状になり、身を潜めることができるモンスターである。
 そんな平面に過ぎない影が三次元になろうと蠢く様は、異様なものを感じさせただろう。しかしながらこの周囲にその光景を目にするものはいない。
 ナーベラルは何かを考え込むように口元に、握りこぶしを当てる。無論、口を読まれなくするための動作なのだが。
 
「周辺の警戒は?」
『見て回りましたが、こちらを伺っているものはいません』
「それで、私が出た後の会議の様子は?」
『とりあえずはナーベラル様が退出されたあとすぐに会議は終わりました。内容としては――』

 一通りの話を聞き終わったナーベラルは頷く。とりあえずはこのシャドウデーモンはまた仕事につける必要がある。

「行きなさい。冒険者ギルド長に付き、情報を入手しなさい」
『了解いたしました』
 
 再び影が揺らぐ。ナーベラルは周囲を目線だけで軽く見回すと、自らの主人と連絡を取り合うこととする。そして《メッセージ/伝言》を発動させる。

「――アインズ様」
『ナーベラルか。今回はご苦労だった』

 主人の口調が非常に嬉しげなのは何故か。
 色々と考え、ナーベラルは相手を上手く誘導できたことを喜んでいるのだろうと納得する。

「いえ、私は何も」

 事実、ナーベラルは何もしていない。会議に呼び出される前、カーミラという存在の設定やモモンの役目の修正事項について打ち合わせたぐらいだ。その所為で指定された時間には遅れることとなったが。

「全てはアインズ様のご計画通り。このガントレットの一件といい、敬服いたします」
『うむ……まぁ、結果よければすべて良しだな』

 ナーベラルがアインズよりガントレット――イルアン・グライベルを受け取った際、アインズの想定していた用途は、ナーベラルの肉体能力の高さを追求された時だ。このガントレットをしているから高いんだ、と偽りを述べるための準備だったのだが。そしてもう一点。ナーベラルの幻術は完璧ではないために、触られると鋭い人間であれば若干の違和感を感じる可能性は高い。それを避けるためでもあったのだが。
 それがアインズやモモンの評価を高める方面でも、使用されるとは思ってもいなかった。

「しかしこれがアーティファクトだということですが」
『困ってしまうな』

 アインズの口調に苦笑いにも似たものが生まれる。

『この世界のマジック・アイテムも大したものがないということだろうな』

 それからフフン、と鼻で笑うアインズ。口調にかなり色々な面で満足している雰囲気が漂う。

『それよりかはこの一件によって、アインズ・ウール・ゴウンという名が売れたということは、王国からの勧誘はかなり高い評価になるだろうと思ってよいだろう。……まさに一石二鳥。うむ、うむ』
「流石はアインズ様です。私なんか何もしていないのに、全てアインズ様のお望みのままに全て進んでいます」
『おっと、そのようなことは無いぞ、ナーベラル。お前の働きが無ければ、ここまでうまく事は進めなかっただろう。さて、次なる手を打つ前にあのポーション職人に関する情報を集めておけ』
「はい。それはシャドウデーモンを中心に、ということでよろしいでしょうか?」
『そうだ。現在のシャドウデーモンはどのように配置している?』
「はい。都市長、冒険者ギルド長、Bクラスの冒険者パーティーにそれぞれつけております」
『では手が足りないな』
「残念ですが」
『ならば仕方が無いだろう。追加であと何体か送るとしよう。準備に少々時間が掛かるが、送る際には《メッセージ/伝言》で連絡する』
「畏まりました」
『では、これ以降の行動を言い伝える――』

 アインズから下される様々な指令。それはやはり情報収集関係の仕事だ。しかしながら今までに比べれば非常に詳細になったといえる。つまりは計画の第一工程が終了し、第二工程――より細かなところまでアインズの計画が進んでいることを意味する。

 自らの主人の計画が進むことへの、そしてそれに対して自らが働いているという実感。
 それがナーベラル・ガンマにとっての何よりの喜びだ。いや、ナザリックでアインズに使える全ての喜びだろう。その中において――

「――皆より少しリード」
『ん? 何か言ったか?』
「いえ、何でもありません。アインズ様」
『ふむ。そうか……』

 伝わってくる、頭を傾げながら言っているようなアインズの雰囲気に、ナーベラルは本当に微かな笑顔を見せるのだった。



 裏路地を離れ、宿屋に戻ってみると最初に出迎えたのが、主人のむっつりした顔だ。
 何か言いたげな表情を浮かべているが、モモンはそれを完全に無視する。言いたい事があるなら直接言いに来れば良い。それに観察の対象になる気はしない。
 ミシミシと音の立つ木の階段を昇り、あてがわれている部屋の扉を押し開ける。
 その瞬間――

「モモンさん!」

 ばっとベッドから飛び上がった女がいた。バニアラだ。

「ありがとうございました!」

 ばたばたと慌ててバニアラは駆け寄り、モモンの足元のひれ伏す。

「頂いたポーションのお陰で命が助かりました! ありがとう。本当にありがとうございました! 何があったかは実のところ言うことはできないのですが――」
「いえ、いえ。大変だったみたいですね。ギルド長から聞きましたよ」

 モモンは優しげな笑顔を浮かべ、ひれ伏すバニアラの手を取り、優しく立たせる。バニアラは眼を潤ませながら、そんなモモンの手を硬く握り締めた。とはいってもガントレットをはめているモモンにとっては、バニアラの手の感触なんか無いのだが。
 そのとき、初めて何かに気づいたというようにバニアラの目が大きく見開かれる。

「ギルド長? 何かあったんですか?」
「ああ、大したことではないです。ポーションの件で呼ばれまして」
「申し訳ありません!」

 再び足元にひれ伏し、頭を下げる。

「起こった一件を聞かれた中で、モモンさんからポーションを頂いたという話まで聞きだされて――。ご迷惑をおかけしました!」
「ああ、本当に気にしないで」

 再びモモンはバニアラの手を取り、立たせる。

「そうなんです。絶対に殺されたと思いました。頂いたポーションを投げつけたら、何か怯えたみたいで。本当にありがとうございます。命が助かりました」

 かすかに涙ぐんでいるバニアラ。それは恐らく目の前で起こった仲間の死が関係しているのだろう。そして実際に自分も死を覚悟していたはずだ。それが九死に一生を得たともすれば、その感動の度合いも分かるというもの。

「ありがとうございます。本当にありがとうございます」

 ペコペコと頭を下げるバニアラにモモンは微笑む。
 モモン自体としてはバニアラという劣る人間に、このような笑顔を向けなければならないというのは、憤懣やるかたない。しかし、そうせざるを得ない。
 というのもアインズよりモモンに下された指令の中に、バニアラと仲良くなるようにというものがあるためだ。モモン自身としてはカーミラという情報を握るという意味でも、唯一にも等しい目撃者は殺すべきだと思い、そう進言した。しかしアインズの返答は違った。
 殺さない方が、そして記憶を操作する方が、より完璧なカーミラという偽者ヴァンパイアの情報を与えるのに役立つ。という目論見を口にしたのだ。
 無論、その目的や狙い。そういったものはモモンにも理解できるし、自らの主人の決定に異論を挟むような理由も無い。

「ああ、ですから気にしないで」

 再びモモンはバニアラを立たせる。それから自らのバックに手を入れる。

「使ってしまったんでしょ? こちらをどうぞ」

 出したのは前にあげたのと同じ下級治癒薬<マイナー・ヒーリング・ポ-ション>だ。それをバニアラの手の中に押し込む。



 バニアラは不思議そうな顔で貰ったポーションを眺めた。

「あの時、2本しかないと――」
「ああ、あれから作りましたから」
「ええ!」

 バニアラは経験豊富な冒険者ではない。だが、それでも貰ったポーションの価値は、先ほどの冒険でしっかりと実感した。
 さらにはポーションの工房で作成するところを眺めたことがあり、その作業の大変さを知るバニアラからすると、この目の前の冴えない男の発言はまさに驚きだった。特にその辺の水を汲んできましたといわんばかりの気軽さは。

「如何したんですか?」
「あ、いえ、あ、そうなんですか」

 バニアラの顔に完全に理解したものがあった。
 それは目の前の男がどれほどの人間かということだ。旅立つ前のこの宿屋の主人との会話で、薄々ながら理解していたことが今、ここで完全に証明されたのだ。
 金貨50枚にも匹敵する価値――もしかしたらそれ以上の価値のあるポーションを、無償で提供できる人間は只者であるはずが無い。

 ――世界が違うんだ。
 僅かながら、バニアラの心に寒々しい風が吹く。

 バニアラは英雄というものに憧れる。御伽噺に出てくるような人を助け、ドラゴンを倒し、街を救うような。それは彼女が幼い頃、幸せだった――そしてまだ生きていた母親に寝物語として聞かされた物語に起因するものかもしれない。もしかすると自らの村がモンスターに簡単に滅ぼされたとき、誰も助けてくれなかった悔しさの――英雄がいれば助けてくれたのにという渇望から来るものかもしれない。

 だが――そう、しかしながら彼女は憧れるだけだ。なぜなら実際に彼女は自らが英雄になれるとは考えていないのだから。
 例えば王国最強とされる戦士ガゼフ・ストロノーフ。彼は若い頃から天賦の才を持っていたとされる。そして噂に聞く、そのガゼフと互角の勝負をした戦士ブレイン・アングラウスも。
 英雄に近づける存在は、すべからく才能を持っているのだ。
 しかしながらバニアラは才能を持っていない。彼女はそれを事実として認識している。冒険者として大成できるかは知らない。しかしながら彼女では英雄にはなれないのだ。

 そんな中――自分が努力しても追いつけないような人間。バニアラが必死に昇ろうとする巨大な階段を一段抜かしで軽やかに超えていくような存在。それが今、目の前に立っているのだ。
 
「――ああ、英雄の可能性を持っている人なんですね、モモンさんは」

 不思議そうな顔をするモモン。
 羨ましいとも憧れとも、嫉妬ともしれない感情がバニアラを包む。

「羨ましいです。よくは知りませんが、多分、凄く強いんでしょうね」

 モモンの顔に初めて困惑というものが浮かぶ。何故に自分がこんなことを言われているのか分からないのだろう。事実バニアラだって何でこんなことを言ってるのか自分でも理解できていない。

「どんな感じなんですか? 劣るものを見るという感覚は。優越感なんですか? それとも哀れみなんですか?」

 なんということを言っているのだろうか。それが理解できながらも止まれない。バニアラは自らの心の奥からにじみ出る黒いものに飲み込まれていた。

「羨ましいです! 持ってる人が! 私もあなたのように英雄としての才能が欲しい!」

 感情が高ぶったバニアラの瞳から涙がほんの少しこぼれる。
 そんなバニアラを見ているモモンの目が冷たく、鋭いものへと変わる。そしてバニアラに激しい怒りの炎が伝わってきた。それは殺意にも似たほどだ。
 バニアラはぐっと言葉に詰まる。
 当たり前だろう。あれほど善意を持って優しくしたのに、その対象からあんな言葉を叩きつけられれば怒って当然だ。どんな罵声が飛び出るのか。バニアラが首をすくめながらそれを持っていると――モモンの表情が急激に変わる。
 
 それはまるで空から飴玉でも降ってきたような驚愕の表情だ。それから不満げな顔に変わり、怒りが再燃焼し、空虚なものになり、がっかりしたものと変わる。そんな百面相を得て、最後に行き着いた表情はぶすっとしたものだ。
 そしてモモンの言葉がまるで平坦なものと変わる。

「あー。おま――いや違う。えっと、あなたは生き残ったんでしょ?」

 不思議そうなバニアラに向かってモモンは言葉を続ける。

「えっと、英雄としての才能って言うけど、英雄というのは、人にはできないことをする者の意味だと私は思う。さらにその結果として多くの人が救われるということも必要かもしれないけど。それって才能が必要なものなの?」

 非常にしどろもどろにモモンは呟く。バニアラは思わずキョトンと目をぱちくりさせてしまった。

「えー、あなたが生きて帰ったことで、ギルドにヴァンパイアのより詳しい情報が流れたわけ。だからこそ、ギルドはいろいろな面で動くことができた。これによってどう世界が転がるかは不明だけども、命が失われるよりは助かる命の方が多い方向に進んでると思う。ならば、それはまぁ英雄とはいえないまでも英雄に近い行為なんじゃないのかな?」
「でもそれは、モモンさんがポーションをくれたお陰で……」
「モモン……じゃない。私はポーションを渡したけれども、そのポーションを投げたのはあなた自身でしょ? 私が投げろといったわけじゃないでしょ? 違う? あなたが決めて、あなたが選んだ。そうでしょ? それに多くの人とか言っていたけど、個人的な考えで言わせてもらえれば、1人でも人を救えれば英雄だと思うけど?」

 慰めようとしてくれているんだ。バニアラはそう思う。非常に言葉は拙い。だが、その分、何故か。必死さが伝わってくるような、心がほのかに温まるようなそんな気がする。

「それに――」

 モモンは眉をひそめる。まるで何か信じられないことを言わなくてはならないように。

「……個人的には努力して力を得ている、あなた方のほうが凄いと思う……」
「慰め、ですか?」
「……本気みたい」

 まるで別人が語っているのを聞かせているようなモモン。それはもしかしたらモモンも昔同じようなことを誰かから言われたのかもしれない。

 バニアラは思う。
 多くの人を救うような英雄にはなれないだろう。才能が無いのだから。でもモモンの言ったようにほんの少しの――たった1人かもしれないけど――人を救う、英雄未満な冒険者にはなれるかもしれない。

 バニアラの涙はいつの間にか止まっていた。

 モモンは話は終わったといわんばかりに自らの与えられた寝台に歩き出す。そんな後姿にバニアラは声をかけた。

「――あの、モモンさん。――ありがとうございます」

 モモンはぶすっとした顔で振り返ると、肩をすくめ、再び寝台に向かう。
 照れ屋なのかな。
 寝台の上に横になったモモンに対して、そんなことをバニアラは思った。



 ■



 2日後――

 呼び出されたモモンは冒険者ギルドのドアをくぐる。
 時間帯の指定は早朝。武装等を整え、約1日間の仕事をこなせる準備をしてくること。そういったギルドからの呼び出しである。扉の先は市場の朝のせりにも似た熱気が満ちていた。
 張り出された羊皮紙を前に、仲間共に吟味する者。壁際によって他のパーティーだろうメンバーと、何かを交渉する者。他のパーティよりも一瞬だけ早く、羊皮紙を剥ぎ取り、カウンターに持ち寄る者だっている。
 そんな活気に溢れた場所を縫うようにモモンは歩く。
 カウンター席に座っていたイシュペンがいち早く、そんなモモンの姿を見つける。というよりも視線のみをきょろきょろ動かしていたのに、モモンが入ってくるなり固定したところを考えると、待っていたという方が正解か。
 それを察知したモモンは他の受付に行くのではなく、まっすぐにイシュペンの元に向かう。
 モモン自身としてはあまり望んではいないが、イシュペンが直接なんらかの指示を受けているとしたら、他の受付嬢の所に行くのは無駄になるからだ。

「モモンです。呼ばれてきたのですが?」
「よくいらっしゃいました。ギルド長が待ってます」

 ざわりと空気が蠢く。それは驚愕によるものであり、誰何のものである。
 当たり前だ。ブラスのプレートを下げた人間がギルド長の部屋に呼ばれるなんてことがあるわけが無い。それは常識的に考えれば当たり前のことである。ギルド長と最下級の冒険者がどうやったら接点が持てるというのか。トップと底辺である。実際ここにいる冒険者の中、ギルド長の部屋に呼ばれたことのある冒険者なんか、一握りもいない。

 その中にあってイシュペンのみがやはりな、という予想通りという顔をしているのが混乱に拍手をかける。つまりはギルドの受付嬢からすると当然と思っても良い出来事だということ。
 そしてイシュペンがニヤリと笑う。

「――場所を案内いたします」
「あ、知ってるから結構です」

 モモンのバッサリと断ち切るような言葉を受け、笑顔を浮かべたまま、イシュペンの表情が凍りつく。

「え?」
「いや、だから知ってるから案内はいりません」

 なんだと? 凍りついた笑顔が砕け散り、そんな言葉が非常に似合うような、ショックを受けたような表情が浮かんだ。

「……」
「では」
「あ、待ってください! 勝手にギルド内を歩かれては困ります」
「なら、後ろから付いてきてください」
「……はい」

 必死に頭を回転させても上手い言葉が浮かばない。やがて、イシュペンはさっぱりとした笑顔を見せる。なんというか、一枚取られたと強敵に送るような笑顔で。



 モモンはイシュペンを後ろに引きつれ、カウンター後ろのドアから冒険者ギルド4階を目指す。ドアが閉まり、足音が聞こえなくなった辺りでざわめきが戻った。
 だが、先ほどのより良い仕事を求めるものとは違う。

 あのモモンという人物は誰だと、声なき声が上がっているのだ。
 互いが互いの顔を目配せしあい、情報を持ってる者を探す。

 冒険者というものが酒場で管を巻いて、酒場の主人から仕事を請け負う――そう思う一般人は非常に多い。というのも冒険者のドロップアウト組みである、俗にハンターと呼ばれる存在はそういった者が非常に多いのだから。
 しかしながら本当の冒険者は違う。
 彼らは酒場にいるときでも情報交換を密に行う。周辺のモンスター状況とその能力、マジックアイテムの相場、他の冒険者達の噂や請け負った仕事の中身、周辺都市の冒険者の話。非常に精力的に情報収集を行うのだ。
 なぜなら、それを怠った冒険者は、生還率が下がるといっても良いからだ。

 モンスターの状況知っていれば、出てきたモンスターを的確に対処できるだろう。
 マジック・アイテムは高額だ。それゆえに的確な時期を見定めて買うことによって、より良い武装の強化を図れる。
 さらには他の冒険者の話を聞くことで様々な知識、そして警戒すべき点、注意すべき点を得ることもできる。

 情報は冒険者にとっての、冒険というモンスターに対する最初の一撃なのだ。この一撃を積み上げているか、積み上げていないかで生還率が大きく変わるのは当たり前だろう。

 そんな冒険者たちがモモンという異様な人物の情報を求めて、知る人間を探すのは極当たり前の光景なのだ。いや、逆に行わなければそちらの方が不自然だろう。

「罰則じゃないのか?」
「罰則でギルド長の部屋までは普通呼ばれんだろう」

 どこかのパーティーの誰かが自らの考えを呟き、即座に別のパーティーの誰かが否定する。幾つもの予想が上げられるが、次の瞬間には否定される。そんなことが続き――

「やはりな」

 静まり返った一階受付に、ぽつりと小さな納得の声が上がった。
 一斉に目が集まる。口にした冒険者は誰だと。

 そこにいたのは旋風の斧というパーティー名で名の知られる一行だ。Eクラスという冒険者では最も多いランクの一行だが、能力的にはその1つ上のDクラスに匹敵すると評価されている。さらには構成員の1人である、ニニャにいたってはCクラスの能力はあるとされる人物だ。

 周囲の目が集まったことで、旋風の斧のメンバーがしまったという顔をする。

「おい、ペテル知っている人物なのか?」

 旋風の斧のリーダー、ペテル・モークと仲の良い冒険者が話しかける。

「ああ」

 言葉を濁し、逃げようとする意志を見せるが、周囲の視線を受けてそれは不可能な望みだとペテルは気づく。諦めた表情を浮かべたペテルは、自らが雇ったときの話を聞かせることとなった。無論、全てではない。要約した重点だけの話だ。
 しかし、同じ冒険者として生活をしているものたちからすれば、様々な点でモモンという人物の変な部分に、違和感というものを強く感じてしまう。そのあまりにも経験と実力がちぐはぐとした行為。それは――

「ギルドの秘蔵っ子っていう線?」
「ありえるな」

 誰がか呟いた答えを、誰かが肯定する。
 そうだ。経験が少ないのは、英才教育を箱庭で受けてきたからではという答えだ。
 実際に魔術師ギルドで教育を受けている一部の魔術師に、頭でっかちのタイプは時折見受けられる。そんな人間を守ったりして共に冒険をした人間であれば、モモンという人物に酷似したものを感じ取れるのだ。

「王都の魔術師ギルドから来たとか?」
「いや帝国の魔術院とかどうだ?」

 王国の魔術師の最高学府を出身地だと予測するものもいれば、帝国の最高学府を出身地だと予測するものもいる。ただ、どうにせよ、まだ冗談半分だ。可能性があるな、という程度の噂話程度でしかない。事実、今だモモンという人物は真鍮<ブラス>のプレートを持つ最下級の冒険者でしかないのだ。これから注意すべきライバル。それがモモンという人物に相応しい評価だろう。
 しかしながら最後の爆弾が、彼らの考えを一撃で吹き飛ばした。

「ああ、そういえばあの人、都市長たちが会議していたときに呼ばれてましたよ」

 ウィナの手によって放り込まれた爆弾は、見事冒険者達の間で爆発した。
 静まり返った一階の受付室の中、誰もが互いの顔を見合わせる。

「昇ってくるな」
「ああ。しかし1人なのか?」
「だとすると……」

 そのコネクションを考慮すると、仲間として取り込む価値があるかもしれない。
 冒険者は互いに互いの顔を見合わせる。取り合えずはモモンという人物について多少、不味くない程度に調べようと。



「よく来てくれた、モモン殿」

 モモンがノックをし、入ってみると最初に出迎えたのはギルド長の笑顔だ。非常に好意的というか、最初にあった際の雰囲気が嘘のようである。ギルド長――プルトンは軽く両手を開き、歓迎の意思表示をする。プルトンは今まで座っていた仕事用の立派なデスクから立ち上がると、部屋の中央に置かれた向かい合う4人がけほどのソファーを指差す。

「さぁ、こちらにかけてくれ」

 室内はさほど広くは無いが、見事なものだ。
 15メートル四方ぐらいの部屋には柔らかな絨毯が敷かれ、壁の大きな本棚には何冊もの分厚い本や巻物の束が並べられている。部屋の中央には先ほどのソファーとテーブル。窓にはガラスがはめ込まれているが、日光を避けるために現在は薄いカーテンが掛かっている。
 室内の調度品はどれも豪華さというよりは、実用性を重視したような素朴な作りだ。

 モモンがソファーに座ると、プルトンはデキャンターと陶器のコップをモモンに見せる。

「飲み物はいるかね?」

 ガラス製のデキャンターの中に入っている液体に色は付いてない。水か、香料入りの水というところだろうか。貰う必要は無いが、貰ったとしても悪くはない。しかもギルド長自らがわざわざ入れると言っているのだ。貰ってやるのがここは正しい処世術だろう。

 はるかに劣る人間のことまで考えるとは、自分も丸くなったものだ。

 モモンは内心自らの成長にそう満足しつつ、軽く頭を縦に振る。それを受けて、プルトンはデキャンターの中の液体を陶器のコップに入れて、モモンの前に音の立たないよう丁寧に置いた。
 それはギルド長という――支部ではあるが――1つの組織の長ともいうべきものが、対外的な立場的には遙に下の者にする態度ではない。そのプルトンの取る姿勢こそが、今の現在のモモンという人物の評価であり、都市での立場ということだろう。

 モモンは目の前に置かれた陶器のコップを手に取る。ガントレットを外さないモモンに対し、プルトンは何も言わない。無論、マナー的には非常に失礼な行為だが、はめているアイテムは魔術師ギルドの長であるテオの言によるとアーティファクト。ならばそれを外したがらない気持ちは冒険者として理解できるからだ。

 モモンはコップを口元まで持っていき――
 恐らく――この都市に来て始めてモモンの目が驚きに見開かれる。驚きの元は単純だ。冷たい。その一点に要約される。

「冷たいです」

 モモンの呟きにも似た問いに、一瞬だけプルトンは目の中に困惑を浮かべるが、直ぐに納得したように頷いた。

「ああ、これは冷却の容器<デキャンター・オブ・リフリジレイト>と呼ばれるマジック・アイテムだから、飲み物が冷たいんだ」
「大きな奴は見たことがありますが、デキャンタータイプのものは私が知らないだけかもしれませんが、始めて見ました」
「そんなものかね? 私は大きい奴のほうが見たことが無いが……」
「幾らぐらいなんですか? それ」
「これは……確か金貨150枚ぐらいだった気がするな。今は違うのかもしれないがね」

 ナザリックに帰るとき、買っていくか。そんなことを思いながらモモンは陶器のコップを口元に当て、中の液体――かすかな香料の匂いが漂う水を喉に流し込む。
 モモンがコップをテーブルを上を置くのと同時に、モモンの前のソファーに座ったプルトンは口を開く。

「わざわざ来てもらったのは、昇格試験の内容が決まったからなんだ」
「なるほど」

 予測どおりである。モモンはその話の先を促すように、目配せを行う。

「今回、モモン殿にやってもらう仕事の内容は墓地の巡回だ」
「墓地ですか……」

 モモンがこの都市に滞在している時間はさほど長くないが、情報収集という仕事のために潜入した関係上、ほぼ都市の大雑把なことは熟知している。


 エ・ランテルは帝国との戦争の最前線の都市である。
 そのために通常都市とは違う点が多々ある。その際たるは3重の城壁を持っていることだろう。他にも武器等の鍛冶師が多くおり、薬師のいる治療院等も通常の都市よりも多い。そんな戦闘に密接に関係した職種が多くいるのだ。まぁ、娼館も多かったりするのだが。
 
 そしてもう1つ。
 外周部の城壁内にそれはある。
 それとは――巨大な墓地である。外周部の1/4。西側の区画を完全に使った巨大なものである。

 この世界において死者を戦場において転がしたままということは、ほぼありえないのだ。これはアンデッドという存在が事実として存在する以上は、当たり前の考えである。
 アンデッドは生者が死を迎えた、その場所その時に不浄なる生を持って生まれてくる場合の多いモンスターである。戦場や遺跡等で。そしてそれは生のある場所――人の世界の最も身近に存在するモンスターだということでもある。そしてその中でも無残な死者や、弔われない死者から生まれる可能性が高いのだ。
 そのために巨大な墓地――弔う場所が必要なのだ。これは帝国も同じであり、戦争中でも協定を結んで互いに丁重に弔うものである。なぜならアンデッドは生者共通の敵なのだから。
 多くの命が失われる戦争において、巨大な墓地といえども葬るだけの場所があるかというと、その疑問は正しいものである。

 実際、現在墓地の使用率は100%だ。新たな死者を葬る余地は無い。では死者が生まれたとき、どうするのか。それを答える鍵はこの周辺国家に共通の死生観にある。

 人の魂は肉体に宿る。そのために肉の無くなった骨というのは、魂の抜け切った残骸に過ぎないという死生観がこの周辺国家では一般的だ。これは帝国も同じであり、違うのはスレイン法国ぐらいである。
 つまりは古い死体――白骨化した死体は掘り返し、粉砕してしまうのだ。
 そしてこの掘り返す作業と、粉砕する作業の間。白骨化した死体がスケルトンとして動き出すということは時折あるのだ。
 そのために冒険者を雇って、その間の墓地の警備を行うことは多くある。いや、エ・ランテルの冒険者なら一度はやってみたことのある、ひどく一般的な仕事である。


 そんな珍しくない仕事を昇格試験にするのかと思い、モモンはその考えを否定する。一応、対外的にはモモンは低位の冒険者だ。高難度の仕事を昇格試験の内容にはできないだろう。
 逆にモモンはある意味、この都市の切り札的な存在になるかもしれない人物だ。そういう意味合いでは今回の試験内容は対外的にもちょうど良い仕事なんだろう。

「なるほど、了解しました」
「それでまだ、1人ということで良いのかね? 今回は昇格試験という関係上、ノービス以上の冒険者には参加しては欲しくはないのだが」
「ええ、構いません。」

「それより、今回の昇格試験の参加者は私一人で?」
「ああ、そうなっている。問題は無いだろう?」
「ええ。魔法の効果範囲に巻き込むという恐れは無い方が楽ですから。では詳しい内容を聞かせてもらえますか?」

 一瞬、プルトンが鼻白む。仲間と共に冒険をしてきた前衛の戦士としては、あまり気分の良い話ではないのだろう。

「では本日の17:00から仕事の開始となる。終了は明日の6:00。巡回の回数は3回。1度目が20:00、2度目が明日の1:00、そして最後の3度目が5:00だ。大体巡回にかかる時間は30分から1時間と思っている。待機する場所は基本、中央区画の墓守の建物を使用して欲しい」
「基本ということは何かあった場合は臨機応変にということですね」
「勿論。冒険者として適切な行動を取って欲しい」

 プルトンは眉をひそめ、モモンを観察するように言葉をつむぐ。

「本来であれば勝てないだろう難易度のモンスターが出た場合は、情報収集を中心に行動してもらって、離脱するようにという話をするのが一般的なんだが……モモン殿の場合は必要ないだろう?」
「そうですね。必要ないと思います。それでどのようなモンスターが出るんですか?」

 モモンの機嫌が悪くなっていないのを確認し、プルトンは安堵の息を漏らす。つまらないことを言ってモモンのこの都市に対する評価を下げられてしまっては厄介ごとなのだから。
 単純にカーミラという強大なヴァンパイアに現在太刀打ちできるであろう存在は、今現在目の前にいるモモンと師であるアインズしかいない。つまりこの2人は周辺国家が知れば、我先にと協力を要請するだろう人物ということだ。
 幸運なことにモモンという人物はエ・ランテルに来ている。このアドバンテージを失うわけには行かないのだ。

「ふむ……本当はそれを調べるところから昇格試験は始まっているんだが……まぁ、構わないだろう。モモン殿だしな」
 
 プルトンは思い出すかのように言葉にする。 

「一般的なのがゾンビ、スケルトンだ。戦争後だとゾンビ・ウォリアーやスケルトン・ソルジャー等の武装したモノが生まれるときがある」

 武装していない戦士の死体がアンデッドとなったとき、いつの間にか武装していることには様々な説があるが、最も有力な説が死者の念による武装化――魔法にも似た様なのがあるが、それが行われているのだろうという意見だ。

「他には死体喰いたるグールやグールの上位種ガストやワイト。本当に極まれに通常武器の効かない非実体な幽霊<ゴースト>や死霊<レイス>という存在も現れるな。あとは寄生蛆の母<パラサイト・マゴット・マザー>、とかそこから生まれる、卵を産み付ける大型蝿<ジャイアント・デポジットフライ>、死のオーラの集合体たる不浄なる闇<ヴォイド>とかかな」
「なるほど」

 特に聞く限りモモンが警戒しなくてはならないほどの強敵が存在するようには思えない。ならば問題は無い。いや、問題なんか元々無いのだが。
 充分とばかりに席を立とうとしたモモンにプルトンが声をかける。

「そうそう。都市長殿がモモン殿と友好の意を結びたいということで、軽くパーティーでもしないかという話だが、どうかね?」
「いや、興味ないので」
「……綺麗どころも集めるという話だぞ。胸の大きいのから小さいのまで――」
「やはり興味ないです」

 何言ってんだこいつ、という冷たい目でプルトンを凝視するモモン。

「……そ、そうだよな。今から昇格試験だしな。私は何を言ってるんだか」

 ハッハッハ。と乾いた笑いを浮かべるプルトンを前に、モモンは冷たい目のまま席から立ち上がる。

「話は終わりのようですし、私は行きます」
「では宜しくお願いするよ、モモン君」

 軽く握手を――ガントレット越しだが――交わすと、モモンは部屋を出て行く。



 そんな後姿を眼に、プルトンは1つ計画が失敗したことに、僅かな失望の思いをかき消せなかった。

 冗談交じりでの軽い口調での招待だが、モモンにはばっさりと断ち切られた。女では靡かないかと、プルトンは心のメモ帳に記する。
 いや、まぁその場になってみないと男というものは分からないものだ。下半身の頭は別物であるとプルトンは自らの経験上のことを思い出す。
 女なら一夜で数十枚もの金貨を使う、最高級の娼婦でよければ数人ぐらいはあてがえるのだが。
 こっそりと送り込んでみようか。そんな作戦をプルトンは去り行くモモンの後姿を見送りながら考える。実際、モモンを取り込む計画は都市長も深く賛同している。
 とりあえずは金、女、あとは権力。モモンが欲しいと思ったものを与えて、この都市に執着をしてもらわねばならないのだから。

「まずは酒で酔わせて、女を数人あてがってみるか」

 女衒ではないのだがなぁ、とプルトンは呟きつつ、自らのデスクに戻っていった。






――――――――
※ つーか、モモンさん。中身は一応、女性格です。女が近寄っても嬉しくないです。いや、男だから嬉しいということも無いですが。それとバニアラさんの感情は憧れ60、感謝20、嫉妬10、名声欲5、その他5ってところでしょうか。恋愛感情は無いですよ?
 最後に。後ろの人がんばりました。それと作者はバニアラの心境が上手く説明できただろうかと、頭をかかえました。
 次で昇格試験は終わらせたい。38話「昇格試験2」でお会いしましょう



[18721] 38_昇格試験2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/01/22 07:28



 墓守の建物。
 名前は仰々しいが、実際は木でできた納屋のようなみすぼらしい建物だ。一言で言い切ってしまえば掘っ立て小屋だ。
 大きさは10メートル四方というところか。部屋の一角には4神に捧げられた祭壇が置いてある。そしてもう一角には暖炉、その横手には燃料として使用するための木々が積み重なっている。そして入り口脇には墓を掘るために使用される様々な道具が置かれていた。道具には使用された形跡――スコップであれば土が付いていたりしている。
 壁を構成する木の板は隙間があるのか、微妙な温かさの空気が室内に流れ込んでくる。冬にもなればここで一夜を過ごすのはかなり厳しいことが予見されるが、今は時期的に夏。その心配は無い。
 逆に虫が入り込んでくるが、不快といえば不快だ。
 そんなみすぼらしい建物の中、上からたれ下げられたカンテラの明かりの下、モモンは床に毛布を広げ転がっていた。
 カンテラの周りには、光に寄ってきた虫が飛び交い、その中でも大き目の蛾がぶつかり、ばたばたと音を立てている。

 モモンの昇格試験。
 その中身はこの墓地で1夜過ごし、夜警として巡回すること。そしてこの夜にアンデッドが出た場合はそれを倒すことである。勿論、アンデッドが出なければ単なる夜警で終わりだ。しかしながらそんな上手く終わる場所ではない。

 この広大な墓地は中央区画と東西南北の4方位にそれぞれ区画分けされている。それぞれは特殊な神聖魔法を込めた壁で遮られ、もし仮に強大なアンデッドが出たとしても、区画ごとに閉鎖し、各個撃破しやすい形となっている。これは昔あった失敗から得られた経験の知恵である。
 さらには各区画には避難所が設けられ、非常時にはそこに逃げ込むような手はずが取られている。
 そこまで聞けば誰も分かるだろうとおり、もはやアンデッドモンスターが出没するということを、前提に考えられた墓地である。これも戦場で死んだ無数の者を葬る場所――死が多く集まる――ということのためだろう。

 言葉は悪いが、呪われた土地ということだ。


 ぼんやりとモモンはカンテラに集まる虫を眺める。
 巡回の回数は3回。1度目が20:00、2度目が明日の1:00、そして最後の3度目が5:00だ。大体巡回にかかる時間は30分から1時間。そのため睡眠をとることはできない。

 現在の時刻は0:00を回ったところ。既に一回見回りに行き、何事も無く終了している。

 いや、正確に述べるなら、一方的な攻撃でけりがついたというところか。
 
 モモンと入れ替わりに墓所外に出て行った警護の神官の話によると、墓地内の東側区画の一部が現在、掘り返されているとのこと。そのためもしアンデッドが出没するとなるとその辺りだろうという注意を受けて、注意深くモモンは見回ったのだが、そこでスケルトン4体を発見したのだ。
 スケルトン4体程度の雑魚モンスターごとき、魔法を使うまでも無い。モモンは無造作にそこに乗り込み、鞘に収めたままの剣を4度振るっただけだ。
 これ以降アンデッドは発見できなかったので、これで1度目の見回りは無事に終了だ。

 ギルド長も言っていたが、特別強敵となるようなモンスターが出没する可能性は低そうだ。モモンは床に転がったままつまらなそうに欠伸を1つ。
 今回の任務に対し、様々なアイテムをアインズより一時的に借り受けたが、それを使う可能性は低いと思われる。
 ――そこまで考えた時、モモンはゆっくりと体を起こした。そのまま歩くと、立て付けの悪いドアを押し開ける。ミシミシという音と共にドアは開き、周囲の墓地の空気が流れ込んできた。
 
 静まり返った世界を見透かすように、モモンは外を眺める。
 かすかに漂う死者の匂い。
 それがどのような匂いなのかを、口で説明することは非常に難しい。それはナザリック大地下墳墓の1階層から3階層に入った者のみが感じる、死者の雰囲気とも言って良いものなのだから。

「いるな……」

 モモンは目を細め、闇を見通すように射抜く。
 闇を事実見通す目を持ってしても、墓地に動くものは存在しない。耳をそばだててみても同じことだ。
 ここからは感じないし、動く影は確認できない。しかしながら闇の中に、生が歪んだアンデッドの気配を感じる。しかしながら濃厚というほどの濃さでもない。モモンでは気づいたのが正直運が良かった程度の薄さだ。

 弱いアンデッド――スケルトンやゾンビ程度か?

 口の中で呟きながらモモンは、剣を腰に下げ、時間には少々早いが出立の準備を整える。



 モモンが墓地内を巡回すること、10数分。東側区画の一角に松明と思しき明かりが2つ揺らめく。そしてその明かりに照らし出されるように人影が複数。
 それを視認したモモンはその場で動きを止めると、影に溶け込むように身を潜める。背を低くするだけでは不十分だと考え、直ぐ側の墓石の後ろに回りこむ。もともと明かりを持たずに行動をしているモモンを、この明かりの無い場所で、なおかつこの距離で発見することはほぼ不可能だ。しかしながら魔法には闇視を得るものや生命を感知するものもある。油断をするわけにはいかない。

 墓石から少しだけ顔を覗かせるモモンの視界に映るのは、松明の燃え上がる赤い炎に照らし出される複数の人影。
 まずは松明を掲げたスケルトンが2体、先行する。そしてその後ろに人間が1、さらに二列縦隊で3人づつの6人で計7人となっている。

 先頭を堂々と歩くのは黒いローブを着た男だ。
 白蝋じみた病的な白い肌が、松明を照り返し、ぼんやりと輝いているようにも見える。
 頭部には髪の毛は一本も見受けられない。それどころか眉毛も睫も――体毛が一本も生えていないのでは無いだろうかと思えるほど毛らしきものが無い。そのために爬虫類にも似た気持ち悪さがある。
 骨と皮ばかりという言葉が相応しい腕が伸び、黄色の汚い爪の生えた手でしっかりと黒い杖を握っている。それはまさに人間というよりは、アンデッドモンスターにも似ていた。

 先頭を歩く男以外は皆同じような格好だ。
 これまた黒色のローブで、全身を完全に隠している。ローブは染めが荒いというか、ところどころに斑のような色の濃淡が浮かんでいる。どう評価しても質の良いものではない。そして頭には、顔までも隠した目だし帽状態の黒三角頭巾。
 手には同じような木のスタッフ。先端には変わった紋様のようなものが形取られていた。
 身長はそれぞれだが、体の輪郭からすると全員男だろうか。

 そんな一行の姿を見ながら、モモンは困惑した。

 外見だけで判断するなら非常に怪しい存在であり、攻撃を仕掛けるべきかもしれない。何よりこんな夜更けに墓地でこいつ等は何をしているんだ、という当然の疑問が生じる。大体、先行して松明を持っているのはアンデッドたるスケルトンだ。
 しかしながら今この場所にモモンがいるように、もしモモンの知らない特別なこの都市特有の儀式の参加者だったりしたら――そう考えると、範囲型の攻撃魔法を問答無用で叩き込むような行為は不味いだろう。
 モモンはこの都市に来てまだ15日ほどだ。知識は蓄えようと色々と情報収集はしてきたが、今だこの都市の全てを知っているわけではない。
 もし夜半に急な何かが起こって、死者を葬らなければならないとかいう理由があったりしたら。
 モモンは一行がゆっくりと歩いていく後姿を見送りながら、考え込む。

 今回の依頼はアンデッド退治。生きている人間は対象外ということで問題ないのではないだろうか。そこまで言い訳を思い描き、臨機応変という言葉を思い出す。
 
「誤射も一発ぐらいなら……」

 モモンはため息を軽くつく。
 無論、そんなわけには行かない。
 モモンの個人的な感情面では面倒なので殺して、死体は埋めてしまえばよいと言っている。しかしながらアインズに命令を受けたモモンとしては、そのような愚かな感情によってこれ以上失敗をすべきではないと叫んでいる。

「ああ、もう、メンドクサイな」

 モモンは遠ざかっていく一行に目をやると、ゆっくりと歩き出す。殺害というある意味最も簡単な解決策が取れない以上、せめて何をするためにここに来たのか。その程度の情報は入手すべきだろうし、最低限の判断材料を得るべきだろう。
 最終的には殺しても良いのかどうかという結論を。



 一行は後ろにモモンを引きつれ、墓地の一角まで歩いてくる。その間、一行がモモンに気づいている気配はまるで無い。
 一行はようやく到着したのであろう、墓地のある場所で何事かを開始し始める。つい最近掘り返されたような、そんなかび臭い土の匂いが漂う場所だ。
 一行は円陣を組み、一斉に何事かを呟きだした。
 風に乗ってモモンの場所まで、うねるような呟きが聞こえてくる。時に高く、そして時に低く。唱和の取れたその囁きは、祈りのようにも感じさせる。
 ただ、それは死者に対する敬遠なものや厳かなものではない。それどころか逆に何かを冒涜するような、あまり良い雰囲気のものではなく、何らかの邪悪な儀式のように思えた。
 では攻撃を仕掛けても良いのか。

 それがやはりモモンには分からない。

「この魔法はあまり好きじゃないんだけどなぁ」

 今より発動させる魔法は、逃げの一手のために使うものだ。モモンの個人的な好みからすると、あまり好きではない魔法に数えられる。というのもモモンの好みは、基本的に派手な攻撃魔法なのだから。しかし、この魔法は単純だが、効果的な結果を出す魔法でもある。これより何が起こるかわからないのだから、最低限の警戒はすべきだろう。それに攻撃されるならこの魔法をかけておいた方が良い。
 人間を侮るな。
 アインズに何度となく言われた台詞だ。モモンはその言葉を納得はいかないが、十分納得している。最高位者たるアインズの決定や助言にけちを出せるような愚か者はナザリックにはいないのだから。
 アインズが知った上で白を黒と言っているなら、それは黒なのだ。黒と認めない愚か者はどのような手段を使用しても黒と認めさせる。それがアインズに忠誠を尽くすものがすべき行動だ。

「じゃぁ、やりますか」

 モモンは軽く呟くと、魔法を発動させた。



 カジットは呪文を唱える。それは呪文というよりも祈願に近い言葉だ。
 そこに含まれたものは死に対する深い願いであり、生を歪められた存在に対する祈願だ。
 周囲の闇がより濃くなる。そして周辺の死が強まっていく感覚。生暖かい空気の中に、ピリピリとした肌をそばだてるものが徐々に含まれていく。この墓地の場所に満ちるもの――それはカジットにとって非常に慣れたものだ。

 カジット・ノーライフ。

 邪教集団『ズーラーノーン』の幹部に数えられる者の1人の名前である。第3位階までの魔法を使い、アンデッドモンスター作成方法に長ける存在で、教団を支配する十名の幹部の中でも上から数えた方が強いだけの権力を持つ。
 少なくない賞金すら掛かっていながらも、こうやって平然と都市の中の墓地を歩くだけの自信と、力を兼ね備えた人物だ。
 そしてカジットと共に円陣を組む者たちは、カジットが英才教育を施した自らの高弟である。そこらの魔法使いよりも、優れた魔法を使用することができる者たちだ。

 この都市はカジットにとっては非常に素晴らしい都市だ。まさに花丸を上げたくなるほど。
 というのも、現在カジットがいるこの強大な墓地にその理由がある。
 この都市の近辺では死者が非常に多く作り出される――それも戦争という怨念の多く生まれる場所によって、作り出される死者が多いのだ。そしてそこで作られた死者はこの墓地に埋葬される。確かに葬られる際に、しっかりとした手順を踏んだ神聖な儀式を受けることとなる。しかしこの巨大な墓地のように、怨念を抱いた死者が一度に集められると、どれほど正しい儀式を踏んだとしても、負の生命が互いに凝縮しあい、夜にもなると一種の異界ともいうべき空間が形成されるのだ。
 これほどアンデッドの誕生に向いた場所は無い。
 しかしそれほど適した場所とはいえ、大抵は低位のアンデッドしか生まれないものだ。だが、カジットならば、その場に溜まる力を生かして、より高位のアンデッド生み出す場所として活用できるのだ。

 今回もそれが目的でこのような行為を行っているのだ。
 そしてその行為自体は今までに数度。行ってきたが、全て問題なく終了した。今回もそのようになるはずだった。


「――で、そこで何をしているのかな?」

 突如、そんな軽い声がカジットたちに届いた。
 詠唱を中断し、ぎょっとした顔で高弟の幾人かが声のしたほうを向いた。そこには暗闇の中、ぼんやりと輪郭のみあった。形からするとそれは人間の男だろう。
 この墓地に侵入すること数度、初めての第三者との遭遇に殆どの者が浮き足を取られる。余裕を感じさせる男を前に。

「――カジット様」
「うろたえるな」

 高弟の1人の何かを求めるような声に対し、低く重々しい声でカジットは答える。

「何者だ?」
「単なる冒険者だよ。この墓地の警戒をしているね」

 カジットは周囲に視線を走らせる。その男以外に誰かがいるようには思えないが、1人しかいないはずが無い。ではどうやって潜んでいる者を引きずり出すか。そして何故、目の前の男は姿を見せたのか。何を目的としたものか。
 考えれば考えるほど、男の目的が読めない。カジットは困惑しつつも、高弟達に周囲の警戒を行うように指だけで合図をする。

「お前だけか? 他には?」
「私だけだよ」
「1人? 1人で何をしてるんだ?」
「それはこちらの台詞。そっちこそこんな場所で何をしてるわけ? カジットさん?」

 カジットは自らの名前を呼んだ愚かな弟子をチラリと見る。自らのミスに気づき、何か釈明するよう手を動かす愚か者から視線を逸らす。帰れば自らがどのような罰を受けるか、それが理解できているのだろう。その弟子の肩が力なく下がる。

「――お前の名は?」
「モモン」

 聞いたことの無い名前だ。一応、この都市の中の高位の冒険者の情報は集めている。その中にはモモンという人物の名前は無かった。一体何者なのか。偽名だろうか。そこまで考えカジットは疑問を追いやる。どちらにしろ解決方法はたったの1つ――殺すだけだ。

「仲間は?」
「だからは私1人だって」
「……何でこんな場所にいるんだ?」
「夜警。それでそっちは何してるの?」

 何故この男はこれほど簡単に喋るのだろうか。あまりにも簡単に話すために言うこと全てが信用できなくなっていく。カジットは再び《ダーク・ヴィジョン/闇視》と《シースルー・インヴィジビリティ/透明化看破》によって、特殊な視力を得たその目で周囲の様子を伺う。やはり何もいるようには見えない。
 ならばこの男は単なる愚か者と判断して次の手に出るべきだろうか。
 カジットはモモンに向けるものを何にするか決定する。

「お前は……バカか?」

 カジットの心の底からの思いのこもった言葉。モモンは不思議そうに顔を傾げる。それには答えずにカジットは命令を下した。

「スケルトン。松明を奴の方に投げ捨てろ」

 命令にあわせて2体のスケルトンが、モモンの方に松明を放り投げる。モモンの下までは届かないが、それでも松明の明かりにモモンは十分に照らし出される。
 逆に松明の明かりが届かなくなり、周囲に遠ざけられていた闇がカジットたちの下に戻ってきた。それにあわせ、カジットの冷たい平坦な声が響いた。

「――殺せ」

 瞬時に迷うことなく周囲の男達が、そしてカジットが魔法を詠唱する。唱えられたのは《マジック・アロー/魔法の矢》。カジットから3本、男たちからは2本の合計15本の光弾が、棒立ちの姿勢のままのモモンに殺到する。
 そして何本もの光弾に叩きのめされ、モモンの体が大きく吹き飛ぶ。松明の明かりの外にまで飛び出しながら、無造作に大地に転がった――。

「周囲を警戒しろ」

 カジットの命を受け、周囲に動く気配が無いか、高弟たちが円陣を組むように警戒に当たる。しかし周囲の闇の中、行動するものはいない。必死に耳を凝らしても同じことだ。墓地は相変わらず死の静寂を保っていた。

「……本当に愚かだな。1人で来るとは」

 動くものがいないことを確認したカジットは、馬鹿にした笑いをモモンに向ける。それを聞きつけた周囲の高弟たちも追従するように笑みをこぼす。

「さて……死んで無かったなら生贄にでも使ってやろう。調べろ」

 顎をしゃくると、さきほどミスした高弟の1人が足早にモモンの元に進み出る。
 大地に転がったモモンの体は、投げ出された人形のようにも見えた。四肢をぐったりと放り出し、ピクリとも動かない。モモンの元に来た高弟の1人は、覗き込むように顔を眺める。
 薄闇の中ではっきりとは見えないが、唇には吐き出したであろう血が付着し、目は見開いたまま白いものへと変わっている。傍からするとそれは完全に死んでいる。
 一応、念を入れて高弟は、モモンの喉首に手をやった。喉は今だ体温を感じるが、鼓動は伝わってこない。十数秒、そのままの姿勢を維持するがやはり鼓動は伝わってこなかった。
 振り返り、カジットに視線をやると頷く。

「……死んでいます」
「それで……何者だ?」
「こいつ自身が言っていた様に単なる冒険者のように思えます」高弟はモモンの持ち物をあさりつつ答える「クラスは……真鍮です」
「ブラス?」くつくつとカジットは笑う。「ふん。ブラス程度の冒険者が愚かな」

 カジットは腹の底から笑う。
 ここに連れてきたのは自らに従うものの中でも高弟たちだ。全てが第2位階の魔法を使いこなす者の集団。そんな者達が放つ《マジック・アロー/魔法の矢》の集中攻撃を食らえば、Dクラスまでの戦士であれば確実に殺せるだろう。それはブラス程度の冒険者に送るものではない。
 過剰すぎる。
 本当に勿体ないことをした。

「持ち物はどうしますか?」

 高弟の視線ははめられたガントレットに向けられているが、カジットは首を振る。魔法使いにとっての武器は魔法だ。剣や鎧、小手なんかを手に入れたところで上手く使いこなせない。だいたい、冷静になって考えれば分かるだろうが、クラスの低い冒険者がカジットたちが欲しがるような重要なアイテムをもっているわけが無い。

「愚か者。そのようなガラクタはどうでよい。儀式を行う。早く戻って来い」
「はっ! 師よ、申し訳ありません」

 離れた高弟は近くに落ちていた松明を拾い上げ、皆のところに戻っていく。モモンの体を闇が包み込んでいく。

「下らんゴミの所為で、この儀式は今日でひとまず中断だ。お前達の全て込めて儀式を完了させよ」

 口々に周囲の高弟達から同意の声が響く。カジットはスケルトンが掲げる松明の中に、皮袋から取り出した奇妙な粉を振り掛ける。その瞬間、紅蓮の赤き色から、青とも緑とも取れるような色へと炎の色が変化した。
 スケルトンによって掲げられるそんな松明の明かりの中、カジットが円陣の中に入り、とうとうと語る。

「さぁ、至高のアーティファクトたる死の宝珠に全てを集めるのだ」

 カジットがそう言いながら、スタッフを持つ手とは別の手に握ったマジックアイテムを、天に突き上げるように伸ばした。時折ゆれる松明の明かりによって、カジットの影が揺らめき、無数の影を思わせる。
 静まり返った墓地。
 周囲にわだかまる闇。
 炎とは思えないような色が、周囲に奇怪な明かりで照らし出す。松明から上がる獣脂の焼ける匂い。それらが混じりあい、ある種の幻想的とも言っても良い光景を生み出す。
 周囲の高弟達が極度の興奮状態から、トランスに入りかけたその瞬間――

「つまりは、敵ということで問題解決ですかね――」


 ――それを邪魔する声がした。
 カジットと高弟達は皆、我に返り、一斉に視線が声のした方に向かう。そして驚きの声が上がった。
 松明の明かりが届くかどうかという薄闇の中、死んだはずのモモンが平然とした顔で立っていたのだから。

 マジック・アローは第1位階――最下位の無属性攻撃魔法ではあるが、誘導性能に非常に優れ、一度放たれれば回避は不可能。なおかつ無属性であるために、防ぐことが困難だという魔法である。そんな魔法を計12本もの魔法を食らって、ブラス程度の冒険者が生き残れるわけがない。
 だが、彼らの前で平然としているということは、何らかの手段でそれを防いだとしか考えられない。とすると防ぐ唯一の手段。それは第3位階魔法にある防御魔法を使って、完全にダメージを打ち消したということだ。
 しかし、それでは矛盾が出てしまう。
 第3位階もの魔法を使える者がブラスであるはずが無いからだ。

 高弟達は混乱し、最も混乱している男に視線を飛ばす。それはモモンの生死を確かめた男だ。
 そう、その男が先ほどモモンが死んでいることを確認したのだ。ならば死者がアンデッドとしてではなく、生き返ったというのか。
 
「馬鹿な! 先ほどまで死んでいたはず!」
「死ぬわけ無いじゃない」

 モモンはあきれ返ったといわんばかりに軽く手を広げる。驚く高弟達は自らの師に対し、どのようにするべきかの判断を仰ぐ。それは部下としては正しいのかもしれないが、命の奪い合いを行おうとしている中にあっては、あまりにも致命的な行為だ。

「さて、攻撃してきたからには、殺しても問題ないでしょ?」

 モモンの広げた手のひらの中で炎が吹き上がり、それが集約し小さな球となる。その魔法は良く知られている魔法だ。そして自らの師が使う魔法でもある。それに気づいた高弟たちが慌てて魔法を発動させる。その魔法が発動すれば、自らたちの命がなくなる可能性が高いと理解できるから。
 防御魔法を発動させようとする者。マジックアローを放とうとする者。魅了の魔法を放とうとする者。脱力させる魔法を発動させようとする者。盲目の魔法を使おうとする者。炎の矢を放とうとする者。2体のスケルトンも手に持った松明で殴りかかろうと走り出す。
 ――しかし先手を取って準備し始めていたモモンを、止めるのに充分な速度で行動をおこせたものはいない。

《ツインマキシマイズマジック・ファイヤーボール/二重最強化・火球》

 モモンの広げた手のひらの中で、通常の2倍近く巨大に膨れ上がった火球が2発。それが同時に放たれる。
 ――着弾。
 広範囲に渡って業火が吹き上がり、一瞬墓場の周囲を煌々と照らす。魔法によって生み出された炎は瞬時に鎮火。しかしながらその破壊力は絶対なるものだ。
 効果範囲にいた6人の高弟、全てが大地に転がっていた。スケルトンは崩壊し、体を形成していた骨は脆くも灰になり、風に乗って流れ出している。
 そんな中、立つ影は1つ。

「ふーん。耐えるんだ。《エネルギーイミュニティ・ファイヤー/火属性無効化》?」

 そう問いかけ、カジットの顔に僅かな火傷の跡があることに気づく。
 ならば《エネルギーイミュニティ・ファイヤー/火属性無効化》より下の防御魔法。《プロテクションエナジー・ファイヤー/火属性防御》だろう。あれだけの火力の防ぎきるためにどれだけの魔力を注ぎ込んだのか。
 モモンは一度に全員を殺しきれなかったことに多少残念な気持ちが湧き上がるが、まぁ、許容範囲だろうと自らを慰める。実際、一撃で終わってしまうのは味気なさ過ぎるのだし。痛みの分は復讐したいという欲望もある。

「単なるバカではなく、第3位階まで使いこなすバカか!」
「……バカ? 人間ごときが……」

 モモンは眉間をひくつかせる。

「簡単には殺さないよ?」
「それはこちらの台詞だ! こちらの準備は既に整っている! 充分な死の量が集まった、この至高の宝珠の力を!」

 カジットは手に持った珠を掲げる。
 黒い鉄のような輝きを持つ、無骨な珠だ。磨かれてもいなければ形を綺麗に整えられてもいない。なんとか珠というべき形を取っているというべき、原石とかいう言葉が似合いそうなものだ。
 突如、業火に魂を焼き尽くされたはずの6人の高弟たちがむくりと起き上がる。それは生命の意志のある動きではない。死によって支配された動きだ。
 よたよたとモモンとカジットの間に立ち塞がるように動く。そんな光景を、モモンは不思議そうに眺める。

「ゾンビ? そんなので私の相手がなると?」
「ふはははは。その通りだな。だが、それでいいのだ! 襲え!」

 最下級のアンデッドたるゾンビに魔法を使う能力は無い。爪をむき出しに襲い掛かってくる元高弟達。それをつまらなそうにモモンは見ると、魔法を発動させる。

《ファイヤーボール/火球》

 再び打ち出された火球が炎を撒き散らし、範囲内にいた全ての高弟達を飲み込む。瞬時の炎が去ったあと、再び崩れ落ちるように高弟達が転がった。容易く一掃しながらもモモンの顔は冴えない。
《アニメイト・デッド/死体操作》は複数体を一度にアンデッド化させる力は無い。では今何をしたというのか。
 モモンの視線がカジットが手に持つ黒い塊に動く。先ほどの発言はブラフでもなく、おそらくはあのアイテムの力だろう。ならばあのアイテムは、複数をゾンビにして使役できるという効果なのだろうか。
 その程度の効果で至高なんという大それた言葉を使うだろうか。

 至高というのはアインズ様たち41名の方々に相応しい言葉だ。モモンではなく、ナーベラルがそう思っていると――

 まるでモモンの疑問に答えるかのように、カジットの歓声が響いた。

「充分だ! 充分な死の吸収だ!」

 カジットの手に持つ黒い塊がこの墓場の闇を吸い込み、ほのかな光を発しているように見えた。それは心臓の鼓動のように緩やかに脈を打っている。

 突如、大地が動いた。
 ――それは巨大なものが動こうとしている振動だ。
 
 そして大地が割れる。
 ――下から巨大なものが出ようとしてだ。

 割れた大地から、ゆっくりと白いものが姿を見せた。
 それはおおよそ3メートルはある人骨の集合体だ。無数の人骨が連なり、形どるものは首の伸びた4足の獣――ドラゴン。無数の骨を組み並べて作った尻尾が、一度、ドスンと大地を叩いた。

 それはスケリトル・ドラゴンと呼ばれるモンスターである。
 モンスターのレベル的にはモモンからすればさほど強くは無い。ヴァンパイアにも劣る存在だ。しかし、このスケリトル・ドラゴンはたった1つ、モモンにとっては致命的なまでの特徴を持つ。
 初めてモモンの顔に驚きと、苛立ちが浮かんだ。

「ふははははは!」
 
 カジットの壊れたような笑いが辺りに響く。

「さて、魔法に絶対なる耐性を持つスケリトル・ドラゴン。スペルキャスターにとっては手も足も出ない強敵だろうよ!」

 その通りである。
 スケリトル・ドラゴンはスケルトンが大抵持つ特殊能力に加えて、魔法に対する耐性を有している。それはつまり、モモンの魔法ではスケリトル・ドラゴンには通用しないことを意味している。ならば――
 モモンは鞘に収めたままの剣を抜き放つ。
 鞘と剣は紐で結ばれており、容易くは鞘がすっぽ抜けないようにされている。

「――殴り殺す」

 モモンは踏み込む。
 反撃をしようと前足を上から叩きつけてくるスケリトル・ドラゴンの一撃を綺麗に掻い潜る。前足が起こす豪風に髪の毛を揺らしながら、モモンは完全にスケリトル・ドラゴンの胸元に飛び込む。
 そしておもむろに全身の筋肉を込め――フルスイング。

 3メートルはあるスケリトル・ドラゴンの体が大きく吹き飛んだ。
 遅れて、ズスンと地面が揺れるような衝撃が広がる。

「なんだと!」

 驚愕したのはカジットだ。
 第3位階の魔法を使うだけでなく、戦士としてスケリトル・ドラゴンを吹き飛ばすだけの戦闘能力を保有する。そんな偉人は聞いたことも見たことも無い。どれだけの才能に満ち満ちていればそんな行いができるというのか。
 特にその筋力。
 スケリトル・ドラゴンは骨で構成されている関係上、見た目よりは軽い。だが、あくまでも見た目よりは、だ。魔法の力の追求に日々追われる、魔法使いの筋力でできる芸当ではない。
 慌ててスケリトル・ドラゴンの巨体の後ろに隠れるように移動しながら、カジットは叫ぶ。

「――き、貴様何者だ! さてはA+クラスの冒険者か! 名を騙ったな!」
「いやいや、ノービスだけどね」
「嘘を言うな! あれだけのことができる人間がA+でないわけが無い! この街にはいないはずだったが、私を追ってきたのか!」

 口から唾を吐き出しながら、憎憎しげにモモンを睨み付けるカジット。

「何でそう興奮するのか。冷めるよなぁ」
「き、きさま!」

 2ヶ月間の大儀式によって生み出されるスケリトル・ドラゴン。それがこんなわけも分からない奴に負けるというのか。カジットは歯が砕けんばかりにかみ締める。
 ゆっくりとミシミシキシキシと音を立てながらスケリトル・ドラゴンが起き上がる。胸部を構成する骨に大きくひびが入り、ぽろぽろと骨の残骸が零れ落ちる。

《レイ・オブ・ネガティブエナジー/負の光線》
 
 カジットの手から放たれた黒色の光線がスケリトルドラゴンに当たり、負のエネルギーを持って、傷を急速に回復させていく。

「魔法に対して絶対耐性とかいうわりに、魔法で回復させることができるんだからおかしいよね」

 モモンの茶々入れを無視し、カジットは魔法を使う。

《リーンフォース・アーマー/鎧強化》
《レッサー・ストレングス/下級筋力増大》
《アンデッド・フレイム/死者の炎》
《シールド・ウォール/盾壁》

 立て続けにカジットはスケリトル・ドラゴンを強化する魔法を使い続けた。
 スケリトル・ドラゴンの骨の体が堅くなり、偽りの生命によって生み出されている魔法的な筋力が増大し、生命を奪う負の黒炎が全身を包む、そして不可視の障壁が盾のように体の半面を覆う。

「ならこっちも」

《リーンフォース・アーマー/鎧強化》
《シールド・ウォール/盾壁》
《プロテクションエナジー・ネガティブ/負属性防御》

 モモンも立て続けに防御魔法をかける。
 やがて充分な防御魔法を掛け合った2人はまるで鐘でもなったかのように、タイミングよく戦闘に入った。



 モモンは剣を振るう。
 スケリトル・ドラゴンの前足を強打しながら、僅かに眉を顰める。
 先ほどは上手く決まったが、状況は決して良いとは言えない。というのもまず武器が不味い。
 スケリトル・ドラゴンは骨によって作られた体をしているために、刺突武器によるダメージを完全に無効にし、斬撃武器でのダメージも半減してしまう。最も効果的にダメージを与えるはずの殴打武器は、モモンは持ってない。そのために現在は鞘を無理に使用している状態だ。それでも戦況的な意味合いでは押してはいるが、実際は剣を振るった際のバランスは悪く、効果的にダメージがスケリトル・ドラゴンに伝わっているとはいえない。
 さらに鞘が付いているために、剣を振った際のバランス感覚も微妙に狂う。
 これが戦士であれば上手くバランスを取ることも出来るのかもしれないが、モモンはスペルキャスター。あまりその辺まで上手くこなせているとは言い切れない。

 スケリトル・ドラゴンの前足が、身をかがめたモモンの頭上を横殴りに振り抜かれる。スケリトルドラゴンを包む黒い炎が、回避したモモンの体に纏わり付くが、《プロテクションエナジー・ネガティブ/負属性防御》の防御効果に阻まれ直ぐに掻き消える。
 防げなかったら回避したとしても、追加効果によるダメージを受けていただろう。

《レイ・オブ・ネガティブエナジー/負の光線》

 カジットから魔法の光線が飛び、スケリトル・ドラゴンの傷を癒す。
 これもまたモモンが眉を顰める要因の1つだ。多少の傷を与えても、直ぐに後方に控えるカジットが傷を癒してしまう。ではカジットを先に攻撃したらどうかという案だが、これはカジットがモモンとの一直線上に、スケリトルドラゴンを配置するように動くことで防がれてしまう。
《ライトニング/電撃》のような貫通する魔法を使用したとしても、スケリトル・ドラゴンの魔法に対する絶対耐性によって防がれてしまう。範囲系の魔法である《ファイヤーボール/火球》はカジットの防御魔法によって殆ど効果は無い。
 ならば精神系魔法等の、抵抗を撥ね退ければ一撃で勝負が付く魔法――。

《――チャームパーソン/人間魅了》
《――マインド・オブ・アンデス/不死の精神》

 モモンとカジットが同時に魔法を発動させる。モモンは人間種を魅了する魔法を。そしてカジットは精神系魔法を無効にする魔法を。
 結果――カジットが勝ち誇ったようにニヤリと笑い。モモンは舌を打たんばかりに顔を顰める。
 カジットの笑みに気を惹かれすぎたのだろう。モモンの顔に影が掛かった。

 モモンの視界内全体に広がる白い塊。
 ――回避は難しい。
 瞬時に、思考をめぐらせ、剣先を肩に当てることで剣を盾のように構える。剣を持つ手と接触していた肩から、全身に痺れるような衝撃が走り、モモンの体が大きく中空に舞い上がる。
 顔面を狙ったスケリトル・ドラゴンのテールアタックによって、吹き飛ばされたのだ。

「と、っとっと」

 バランスを崩すことなく見事な動きで足からしっかりと着地するものの、モモンはたたらを踏みながら後退する。
 絶好の機会だというのに、スケリトル・ドラゴンの追撃は来ない。それはカジットを守るために、あまり近くから離れないのだ。そんなスケリトル・ドラゴンを観察しながら、モモンはビリビリと震える手を、ぶらぶらと数度振って痺れを追いやろうとする。
 そんな中、カジットがスケリトル・ドラゴンの影から顔を覗かせ――
 
《――アシッド・ジャベリン/酸の投げ槍》
《――ライトニング/電撃》

 カジットから飛来した緑色の槍のようなものがモモンの体にぶつかる。本来なら酸の飛沫による負傷を与えるそれは、モモンの鎧の数センチ手前で弾け、魔法の効果を失って掻き消える。それと同時にモモンの指から放たれた雷撃は、スケリトル・ドラゴンが前に立つように動くことで無効化された。
 
 カジットとモモン、両者が舌打ちを交わす。

「防御魔法をかけているか」
「そっちも後ろに隠れてないで出て来たら?」
「何故、そんなことをしなくてはいかん?」
「時間が掛かると不利なのはそっちだと思うけど?」
「……」
 
 図星をつかれたカジットが鋭く、モモンを睨む。それに対し、モモンは平然と笑う。

「……仕方あるまい」
 
 何かを決心した、そんな態度で再びカジットは奇怪な球を握り締める。そしてそれを天に翳した。

「では聞こう! たった1体だと思ったか、と! 見よ! 死の宝珠の力を!」

 ぐらりとモモンの体が揺れる。それは再び、大地が振動している証だ。
 再び大地が割れ、無数の人骨で形成された竜が姿を見せる。

「……2体目か」
「ふん! 半年にも及ぶ大儀式の結果をここで使用しなくてはならんのは少々勿体ない気もするが、お前を殺し、そのままこの都市に死を撒き散らせば、多少は元は取れるだろうよ!」

 あまり動揺してないモモンを前に、カジットは怒りとも困惑とも知れないものを声に混ぜながら、勝ち誇ったように怒鳴る。

「ひゅっ」

 鋭く息を吐き捨て、モモンは走る。常人では考えられないようなスピードによる疾走。虚を突かれたカジットが驚きの表情を浮かべるが、それは無視する。
 スケリトル・ドラゴンは自らの攻撃範囲内に入ってきたモモンに対し、その前足を叩きつけようとする。
 モモンは体を捻り、右に並ぶスケリトル・ドラゴンの前足の一撃を潜り抜ける。しかし、そこに待つのは左のスケリトル・ドラゴンの尻尾による、地を抉るような低い薙ぎ払いだ。
 モモンは大きく飛び退く。目の前、ギリギリの空間を巨大な尻尾が音を立てながら薙ぎ払っていく。そして途中で動きを変え、上に跳ね上がる。そのまま飛び退いたモモンめがけ振り下ろされた。
 大地が振動するような重い一撃を、左に回避したモモンだが、右側のスケリトル・ドラゴンが迫り、その前足を叩きつけてくる。

「ぐっ!」

 勢い良く振り下ろされた前足を、剣で受け止める。半端ではない重みが掛かるが、モモンは平然とそれを受け止め、逆に押し返す。攻めていたスケリトル・ドラゴンが後退し、またほんの少しの戦闘中の空白の時間が生まれる。

「……お前は何者だ? 武技も使わずに防ぎきるとは……どうやってその肉体能力を得ている!」
「普通に鍛えて」
「バカにしているのか!」
「切れやすい奴だなぁ。あの女といい……なんか腹が立つなぁ」

 ギロリとモモンはカジットを睨む。カジットでさえ寒気を感じ、一歩後ろに下がってしまうほどの強い視線だ。

「やれ! スケリトル・ドラゴン!」

 再び、2体のスケリトル・ドラゴンがカジットから離れない程度の距離を保ちながらモモンに襲い掛かってくる。

 スケリトル・ドラゴンの攻撃を避け、踏み込もうとして、もう一体の攻撃を回避するためにそのチャンスを失う。そんな戦いが何度繰り消されたか。朝日が昇るまでそんな戦いが続くと思われる中にあって、ついに決定打になる出来事が起こる。

《アシッド・ジャベリン/酸の投げ槍》

 顔面めがけ飛んできた魔法の槍を、思わずモモンは顔を振って回避してしまう。
 それは充分な失策だ。当たっても効果は無いのだから気にしなければよい。しかしながら、思わず顔をめがけ飛んできたために反射的に回避してしまった。これは直接戦闘能力には力を入れていない、スペルキャスターならではの失策だろう。
 そのミスのつけは大きい。
 ミシィっという大きな音と共にモモンの視界が急激に変化する。一気に横に流れていくのだ。
 一瞬の無重力を味わい。地面に叩きつけられる。スケリトル・ドラゴンの尻尾の薙ぎ払いを左上腕部分に受けたのだ。ごろごろと転がり、今、自分がどうなったのか認識できなくなる。
 何回転したのか。
 ようやく止まったモモンだが、複数の防御魔法によって守られているためにさほど痛みは無い。ただ、転がったモモンの目の前に2体のスケリトル・ドラゴン。両方とも前足を持ち上げている。

 絶体絶命だろう。そう、普通であれば。

「降伏するなら助けてやっても良いぞ?」

 勝利を確信したカジットがモモンに対し、サディスティックな笑みを浮かべて返事を待つ。
 無論、命乞いをしたからといって、死の宝珠に半年もかけて込めた力を全て解放させることとなったモモンを助ける気は無い。しかしながら、命乞いをさせた後で、踏み潰されるときモモンがどのような表情を浮かべるか。カジットはそれが楽しみで仕方が無かった。
 
 それに対して上半身のみを起こしたモモンは怒りに表情を歪めた。

「……げ…ふ…いが」
「……何?」

 距離が離れすぎていてモモンの声は聞こえない。この場所が墓地という静寂に包まれた場所だから、なんとか聞こえたような小さな声だ。
 モモンがじろりとカジットを睨む。それはカジットからすると非常に不快な目つきだった。下から見上げられているはずなのに、見下されているような視線。
 今度の声はカジットも聞こえた。それは――

「人間風情が舐めた口を叩くなよ、ゴミが」
「――何?」

 人間風情。
 まるで自分が人間ではないと言わんばかりのモモンの発言にカジットは混乱するが、これ以上は楽しめないと判断し、命令を下す。

「潰せ、スケリタル・ドラゴン!」

 2つの前足が動き出す中、モモンは呆れたように笑った。

「……で、さぁ。……勝てたと思った?」

 スケリトル・ドラゴンの骨でできた前足が、転がったままのモモンを叩き潰そうと振り下ろされる。瞬き1つでぺしゃんこになるだろう、その中にあってモモンの魔法は発動した。

《テレポーテーション/転移》

 瞬時にモモンの視界が切り替わった。

 モモンが飛んだ先は上空500メートルの地点。
 無論、翼の生えていないモモンは大地に向かって落下する。空気抵抗を考えなければ、おおよそ10秒足らずでモモンの体は地面に叩きつけられることとなる。
 上下の認識が難しい漆黒の世界の中、轟々と風が全身に吹き付けてくる。そんな常人であれば恐怖に捕らわれたとしてもおかしくない世界にあって、モモンは平然と笑う。

《――フライ/飛行》

 徐々に落下が治まり、モモンの体は空中に固定される。下を見れば先ほどの戦場。カジットと2体のスケリトル・ドラゴン。モモンの姿が見えなくなったことに驚いているのか、周囲をきょろきょろと見渡している。
 モモンは視線を動かし、墓場の周囲を見渡す。探したのはカジット以外の人間だが、その姿は確認できない。だが、注意に越したことは無い。

《ディテクト・ライフ/生命感知》

 魔法の発動によって、周辺の生命の感知を行う。その結果、やはり周辺に人ほどの大きさの生命は無いと認識できる。ならばそれは――。

「……モモンを止めて、ナーベラルになっても良いってことかな」



「……《フライ/飛行》の魔法まで使えるとはな」

 上空からゆっくりと降りてきたモモンに向けられたその声に含まれるものは警戒だ。自らと同等の位階までの魔法を使用できる人間を侮るのは間違いだし、《フライ/飛行》の魔法で逃げなかった理由が浮かばない。特にスケリトル・ドラゴンと遭遇した時点で、撤退できたにも関わらずしなかったのが解せない。

「ふん。勝算でもあるというのか? 魔法に対する絶対耐性を有するスケリトル・ドラゴンに?」
「まぁね。それに勝つ方法ならいくらでもあるんだけどね」
「何?!」

 その余裕に満ち溢れた表情にカジットは危機感を覚え、即座にスケリトル・ドラゴンに攻撃の命令を下す。2体のスケリトル・ドラゴンは意外な身軽さを持ってモモンに接近。その無数の骨でできた巨大な前足を振り下ろす。その攻撃を食らう間一髪で、モモンは魔法を発動させた。

《ディメンジョナル・ムーブ/次元の移動》

「またか!」

 再びモモンの姿が掻き消える。
 姿の消えたモモンを追いかけ、カジットの視線は空に向かった。それは先ほどと同じように何らかの手段を使って上空に逃げたとからだ、と判断したからだ。しかし、モモンが何処に行ったのかは、痛みを持ってカジットは知ることとなる。

「――ぎゃぁ!」

 墓地の中、カジットの悲鳴が響き渡る。突如としてカジットの左肩から灼熱感が発生し、思いっきり何かで叩かれたような鈍痛が心臓の鼓動にあわせるように全身に広がったのだ。
 カジットが驚きながら、その部位を見てみると、鋭い切っ先がそこから飛び出していた。

「――がぁ、がぁ!」

 次の瞬間、剣が無造作に引き抜かれ、再び激痛が走る。骨を削るようなガリガリとした感触が、体内から伝わり、激痛と相成って不快感を増大させる。剣によってできた傷口からドロドロと血が零れ落ち、黒色のローブがじっとりと濡れていくのが感じ取れる。
 カジットは苦痛のあまりに口から涎を垂らしながら、何が起こったのかと慌てて振り返った。
 
 そこにはモモンが不思議そうな表情で立っていた。

「そんなに痛い?」
「――――っ!」
 
 モモンの先端を血で塗らした剣を片手で弄ばせながらの質問。それに対してカジットは苦痛のあまりに言葉にならない。
 前線に出ないスペルキャスターとして、さらには多くの人間に傅かれるカジットは、痛みを与えることはあっても与えられたことは殆ど無い。そのために痛みというものへの耐性は低いといえた。

 額を脂汗に濡らしながら、頭の中でスケリトル・ドラゴンに命令を下す。接近してくるスケリトル・ドラゴンから逃げるようにモモンは後方に飛び退った。《フライ/飛行》の移動力は普通に走るよりも早い。
 その空いた隙間に、2体のスケリトル・ドラゴンが割り込むように体を入れた。

 スケリトル・ドラゴンの後ろ。今まで安全だろうと思った位置を確保し、冷静さが多少なりとも戻ってきたカジットの頭に、モモンが行った魔法が理解できた。それは――

「転移魔法だと!」

 《ディメンジョナル・ムーブ/次元の移動》という魔法は第3位階にあることはあるが、この魔法は魔法使いからすると、相手との距離を離したりする逃げの魔法と認識されている。
 ただ、それは肉体能力に劣る魔法使いの場合だ。戦士顔負けの者ならその魔法は十分に攻撃魔法と同等の価値が出る。いや、防ぎようがない分、下手な攻撃魔法よりも強いといえよう。
 カジットは肩を抑えつつ、モモンを睨み付ける。

「なるほど。貴様の切り札は転移して私を殺すということか!」

 確かに厄介な切り札だ。カジットはそう思う。スケリトル・ドラゴンには魔法が効かないなら、術者を殺せばよい。確かに当然な作戦だ。そして転移魔法を有効に活用されるとなると、カジットではそれを防げない可能性が高い。
 しかし、それに対するモモンの返答は軽いものだった。

「いや、いや。そんなわけないじゃん」

 カジットは一瞬、モモンが何を言っているのか理解できず、目をぱちくりさせる。それを補足するようにモモンは動き出す。

「まぁ、こうやって殺すことも容易ですよ、という実演をしたまでだって」

 何を言ってるのかなぁ、そんな軽い態度でモモンは抜いていた剣を鞘に収めた。
 一瞬、カジットは何を言われたのか理解できなかった。当たり前だ。今までこちらが圧倒的な立場にいたのだ。それを逆転する手を見せたと思ったら、自らの手でそれを放棄する。それは狂人の仕業だ。いや、それとも――浮かび上がった考えを、カジットは頭を振ることで追いやる。そんなことは認められないと。

「……貴様、狂ってるのか?」
「本気でそう思ってるのかな? それとも……認めたくは無いのかな?」

 ニンマリとモモンが笑う。その笑みを受け、一瞬だけ、カジットは全身を震わす。
 怒りではない。それは――恐怖によるものだ。初めて敵にしてはいけない人物を相手にしてしまった。そんな不安がカジットの脳裏を過ぎったのだ。しかしもはや遅い。カジットはモモンを睨む。
 そんな視線を気持ち良さそうにモモンは受け入れ、そして笑みを強くする。これで終わりだと。

「スケリトル・ドラゴンは魔法が効かないっていう自信があるみたいだし、特別に見せてあげる。そして死も一緒に与えてあげるよ」

 パンという手を打ち合わせる音が響く。
 それからモモンは両手を離した。その瞬間――両手の間には、白い電撃が弧を描いた。龍のごとくのたうつ雷撃の反応を受けて、周囲の空気がバリバリという放電を発して、輝く。
 それはまるでモモンが白い光に包まれたようだった。

「……かっ」

 カジットは目を開く。言葉はもはや無い。それが自らの認識を遙に超えた魔法。それだけが理解できる程度だ。目に焼きつくような白い光の中、モモンが薄ら笑いを浮かべているのが見えた。
 それがカジットの頭に冷静さを呼び戻す。
 馬鹿にすることはあっても、馬鹿にされたことが無い。してきた人間にはそれ相応の報いをもたらしてきたという生き方からきたものだ。
 前に立ちふさがるスケリトル・ドラゴンの巨体。それを思い出し、必死に己の自尊心を呼び起こす。

「――はん! 愚か者が! どれほど強大な魔法であろうとも、魔法に対する絶対耐性を有するこのスケリトル・ドラゴンが倒せるものか! 行け! 殺せ!」

 隠し切れない恐怖によって裏返った声での命令を受け、左右に控えた2体のスケリトル・ドラゴンは動き出す。巨体が接近する中、モモンはまるで愚かな弟子に教育する冷酷な師の笑みを見せた。

「魔法に対する絶対耐性? 確かにスケリトル・ドラゴンは魔法に対する耐性を持ってる。でも、それは第6位階以下の魔法の無効化という能力だよ?」

 スケリトル・ドラゴンが腕を振り上げる。そんな中、カジットにはその言葉に含まれた意味が理解できる時間は殆ど無かったといえる。

「――つまりはそれ以上は無効化できないということなんだけどね。じゃぁね、愚か者」

《ツインマキシマイズマジック・チェイン・ドラゴン・ライトニング/二重最強化・連鎖する龍雷》

 モモンの両手からそれぞれ一本ずつ、のたうつ龍ごとき雷撃が打ち出された。人間の腕よりも太い電撃はスケリトル・ドラゴンにそれぞれ襲い掛かる。

 膨大な魔法の雷をその身に受け、スケリトル・ドラゴンの白い巨躯が打ち震える。
 龍が巻きつくように、スケリトル・ドラゴンの全身を覆う雷撃は、死体を動かす偽りの生命を全て焼き尽くしていく。
 その結果は瞬時なものだ。
 魔法に対する絶対耐性を持っていたはずのスケリトル・ドラゴンは、魔法によって生み出された雷撃をその身に受け、数百年たったもののごとくボロボロと崩壊していった。
 スケリトル・ドラゴンが完全に崩壊しても、まだ雷撃は消えたりはしない。2つの龍は獲物を狙うかのように頭を持ち上げ、最後に残った獲物へと空中を駆ける。

 驚愕してその様子を見ていたカジットの視界全部を、真っ白の雷光が埋め尽くした。
 助けを請う時間も、悲鳴を上げる時間も無い。
 小さく、あっ、という呟きのみを残し、まるで光に飲み込まれるようにカジットは雷撃に貫かれる。
 筋肉が痙攣を起こし、奇怪な踊りを踊るように、カジットの体は立ったままのたうつ。
 体内から急激に焼き尽くされていき、雷撃が去って行った後、火傷による煙を上げながらカジットは大地に転がった。
 肉の焼ける匂いが周囲一帯に広がっていく中において、もはやカジットはピクリとも動かない。

 モモンは肩をすくめると、筋肉が焼け付いたために体を丸めるように転がっているカジットに声をかける。

「うーん、肉の焼ける良い匂い。ところで、私みたいに《フォックス・スリープ/擬死》でも使ってる?」

 それからフンと鼻で笑った。そんなわけない、と。



「さてさて、死体を埋める前に、冒険者らしくお宝チェックをしないと」

 モモンは色々と聞いた、勝利を収めた冒険者として正しい行動を取る。
 基本的に人間が相手の場合は、所持品をギルドに提出することが推奨されている。あくまでも推奨であり、個人で売り払っても問題は無い。ただ、ギルドを通してない場合は、相手が持っていたものが下手に盗品だったりした時、いらぬ疑いが掛かる可能性がある。そのため一般的に冒険者はギルドを通して売買等を行うのだ。

 当然モモンもギルドを通して行おうとは思っている。それは目立ちすぎるのを避けるためだ。とはいってもレアなものがあれば盗品でも構わないで、ナザリックに持って帰ろうとは思っているが。
 なにより驚くような宝は無いにしても、売ってこの世界の金に換えれば、もしかするとアインズに褒められるかもしれない。
 多少のわくわく感をもってモモンは魔法の発動を選択する。
 まず調べるべきなのはカジットだろうが、面倒なので大雑把に一度に探知を行う。

《ディテクト・マジック/魔法探知》

 魔法を探知する魔法の発動によって、一気に周囲の魔法のアイテムを判別する。
 モモンの視界の中、魔法のオーラを有するアイテムがほんのりと輝く。反応があるのは6人とカジットのローブ。カジットのスタッフ。更にカジットのしている指輪。そして最後がカジットの手から離れ、地面に転がった珠だ。
 その中でも最も魔力が大きいのは珠だ。

 モモンは珠の元まで歩み寄り、無造作に拾い上げる。不恰好なアイテムであり、価値があるようには見えないが、魔法のアイテムともなれば別だろう。真価を見定めて、ナザリックに持って帰る価値が無ければ即座に売れば良い。
 その瞬間――

 ――従え

 モモンの頭に響く声。それは男でも女でも無いような奇怪なものだ。人にあらざる存在が無理矢理、人の言葉を使っているという違和感がある。

 ――我に従え

 ぐらりとモモンの視野が揺れる。珠に引きずり込まれるような感覚。それは精神攻撃の一種だ。

 ――我に従って死を撒き散らせ
「あーうるさい」

 モモンは珠を睨む。何を考えての行為かは不明だが、この程度の精神攻撃でモモンが支配されるわけが無い。頭を軽く振ることで容易く、精神支配を弾く。

 しかしインテリジェンス・アイテムとは。

 驚きにモモンは目を見開く。そしてモモンは砕くというアイデアを破棄した。知性を持つアイテムはモモンも知らない系統だ。もしかするとアインズが喜んでくれるのではないかという期待が浮かぶ。

 ――ありえん。我が支配を弾くとは。汝、真に人間か?
「さてねー」
 ――いや、違う。汝、人にあらざる存在か

 ピクリとモモンの眉間が動く。

 ――我と共に人間たる種に死を与えよ。それこそ我を掴めし者の定め。死を撒き散らせ
「煩い」
 ――従え。我に従って、死を撒き散らせ

 今だ頭の中で従え、従えと繰り返し響く声。それに対してモモンは目を細めた。
 すぅとモモンは息を音を立てて吸い込む。それは心という溶鉱炉に風を送る行為にも似ている。

「――お前のような理解するだけの知能が無い、低級なアイテムをアインズ様に見せて、喜んでもらおうなんて考えた私が馬鹿だった」

 ミシリ、という音が珠から起こる。イルアン・グライベルの肉体強化が強大な効果となって発揮されている。
 それを可能にした感情――憤怒。
 それこそが今のモモンの感情をの全てをしめるものの名だ。

 ――!!
「――聞け、屑な石ころ。私はナーベラル・ガンマ。アインズ様たち至高の41人に忠義を尽くすものだ。その私が貴様のような下等なマジック・アイテムごときに支配されると? さらには従えだと? よく聞けよ、ガラクタ。私の定めは至高の方々に忠誠を尽くしきることだ。理解したなら少しは黙っていろ。同じことは二度と言わんぞ? お前如きアイテムでアインズ様が喜んでくださると思った私の愚かさをこれ以上見せ付ける行為はするなよ?」
 ――……
「ふん」

 モモンは皮袋――リィジーにポーションを渡した際にそのまま貰った皮袋に珠を放り込む。

「カスが。今度同じことを言ったら砕くどころじゃすまないからな」



 ■



「……なんだ、あれは」

 誰にも聞こえないよう、小さな声で呟く。それから目に焼きついた白き雷光の跡を、瞼の上から擦ることで追い払おうとする。

「……信じられん」

 信じられないが、今目にしたことは事実だ。
 ギグナル・エルシャイの仲間の冒険者。同じくAクラスの冒険者、スペルキャスターにして盗賊。ベベイ・オータンは驚愕の思いを押し殺し、自らの次にしなくてはならないことを思い出す。

 今回ここに来たのはモモンという人物の調査だ。ノービスの昇格試験の監査如きで、Aクラス冒険者のベベイほどの人物が呼ばれることは常識で考えればありえないといえる。事実ベベイ自身、依頼を受けた際は馬鹿にされているのかと思ったほどだ。しかし仲間であるギグナルの話を聞き、自らに依頼が来た理由が良く理解できたのだ。
 何より実態は監査ではなく、調査というほうが正解だということも。
 モモンという謎の人物の能力を調べろ。そういうことだ。
 特に危険かつ邪悪に近い、《アニメイト・デッド/死体操作》の魔法を使って、モモンにモンスターをぶつけるほど。

 モモンという人物の能力の一端は垣間見た。それはまさに信じられないものだ。
 スケリトル・ドラゴンを剣を使って吹き飛ばす。
 そして何より、魔法に対する絶対耐性を有するスケリトル・ドラゴンを魔法の力で滅ぼす。それこそが最も信じられない。
 ベベイは自らが低位だが魔法が使えるということも相成って、今、モモンが使用した魔法の強大さが手に取るように分かった。あれは第3位階でも第4位階でもない。より高位の魔法だ。第5、いや第6位階。もしかしたらそれ以上の伝説とも言っても良いクラスの。

「……やはり、信じられん」

 再び、自らの心の内を吐露し、ベベイは身を潜めていた場所から、僅かに体を動かす。
 この情報を持って帰れば、都市どころか、国家クラスまでも驚愕させるに相応しい、激震を生み出すだろう。しかしモモンという人物がこの能力を隠してたとするのなら、それは今、かなり不味い情報を得たということに繋がる。

 様子を伺っていたことが知れたら、殺される。
 ぞくりとベベイの背中を冷たいものが過ぎる。このベベイの予想は非常に高い確率で当たるだろう。

 直ぐに撤退を。

 ベベイは慎重に身を動かす。最もモモンに見つからないように、それでいてアンデッドと遭遇したりしないような帰路を脳内に描く。
 伏せていた場所から少しづつ動こうとし――

「あれは第7位階魔法。ナーベラルが使える位階からすると、上から2番目の位階に属する攻撃魔法だな。……魔法の説明もしたほうが良いか?」

 突如聞こえた第三者の――男の声が、ベベイの動きを釘付けにした。直ぐ背後。それほど離れてはいないが、真後ろではないという微妙な距離からの声。
 盗賊であるベベイに感知されないよう、そこまで接近されたということか。飛び退こうとして、それが適わないことによって生じる悲鳴を、ベベイは必死になってかみ殺す。
 特に動かなくなった手足を見て、その驚きは一層強まった。
 闇から手が伸びていたのだ。それも人間のものではない。鉤爪のはえたモンスターのものだ。混乱する思考の中、モモンが準備した伏兵かと考える。

 それを問おうと口を開こうとして、瞬時に口も手によって押さえつけられた。
 
「さて、さて。もう帰るみたいだが、すぐには帰せないんだ。少しばかり時間を頂戴させてもらおう」

 影から伸びた手が、ベベイの腕、足、口を押さえ込む。必死に動こうとするがまるで動かない。どれほどの力があるというのか。必死に目だけを動かし、情報を得ようとするが後ろにいる男の正体はまるで分からない。何らかの魔法によって動きを止められているようだった。
 必死に懐の中に入っている巻物へとべべイは手を伸ばす。ここで死ぬことになっても、最低限、今、手に入れた情報は渡さなければならない。
 しかし、そんなベベイの必死な行動を、あざ笑うように後ろからの声は続く。

「何かを取り出そうとしているみたいだが……《メッセージ/伝言》か? 無駄だな。この周囲は私が占術や探査術といった情報系の魔法は一切無効とする防御魔法を展開している。だから《メッセージ/伝言》も効果は発揮しない。大体、そうでなければナーベラルに既に発見されていたはずだぞ?」

 真実か偽りか。
 ベベイの心に迷いが生まれる。しかし現状においては、選択できる手は限られている。偽りだと判断し、必死に巻物へと手を伸ばそうとする。ほんの数センチが非常に遠い。
 そんな必死に抵抗をするベベイの耳に、後ろにいた謎の人物の歩くことが聞こえた。それはゆっくりではあるが、ベベイの元に向かっている。
 そして真後ろまで到着する。その間、必死に抵抗を繰り返していたベベイだが、その体はまったく動いていなかった。

「心配する必要は何も無い」ひやりとした手が――骨のような手がベベイの頭に置かれる「殺したりはしない。お前が気分良く家に帰れることを私は保障するとも。さぁ、気を楽にしてくれ」

 そして――



「やれやれ」

 記憶を操作され、得た情報をギルド長に報告しようとこの場を離れていくベベイの後姿を見送りながら、アインズは《パーフェクト・アンノウアブル/完全不可知化》を解除する。第9位階魔法という高位に属するこの魔法は、音や気配、体温、振動、足跡。そういった諸々すらも感知されなくなる最高位の不可視化魔法である。

「まぁ、ナーベラルのほうはこれで問題なしか」

 今回はナーベラルに失態は無かった。最後のベベイという盗賊も、アインズが隠しておかなければ《ディテクト・ライフ/生命感知》で発見できただろう。ただ、その場合はもしかすると《メッセージ/伝言》の魔法によって、ナーベラルの情報――第6位階魔法の《テレポーテーション/転移》が使用できるという情報が漏れていた可能性はあるが。

「……まぁ、可能性の話だが」

 そうはならなかった以上、可能性で考えても仕方が無い。第一、ベベイの記憶の中では感知しきれてなかったので、いくらでも誤魔化せたとは思うが。

「しかし……」

 アインズはベベイの足元。土が多少めくれた場所を眺める。

「冒険者も侮れないものだな……」

 もし記憶を読まなければ、確実にアインズも気づかなかっただろう。手足を押さえられたベベイが、必死に描いた盗賊文字による警告のメッセージなんか。
 強さではこちらの方が圧倒的に上だが、それでも何らかの手段を使って追い詰めに来るかもしれない。それはアインズを持ってして、警戒の念を再び呼び戻すのに十分な出来事だった。

「それに……」アインズはナーベラルの去っていた方角を向く。「何で楽できるようにナーベラルを送り込んだはずなのに、仕事っぷりを確認するためにわざわざ出向かないといけないのかなぁ。まぁ、敵地に乗り込むかもしれないという危険性も考えて、自分で来なかった罰なのかなこれは?」

 人選ミスとは思いたくない。事実恐らく、ナーベラル以上に適切な人選は無いだろう。その点に関してはアインズも自信がある。例外的にパンドラズ・アクターがいることはいるが。
 ただ、お願いしたいのは、自分達が――ひいてはナザリックが最強であると思っていることは構わない。だが、この世界に生きるものを侮る考えは捨てて欲しいということだ。
 しかしそれは――

「……難しいか」

 アインズはそう判断する。こればっかりは絶対な支配権を持つアインズが、命令しても変化させるのは難しい問題だ。恐らくはこの世界の存在がナザリックの存在に、それもNPCとして生み出された戦闘能力を保有している存在に敗北を与えない限りは決して変わらないだろう。
 つまりはアインズはその辺りも踏まえたうえで命令を出さなくてはならない。

「はぁ。面倒だな。しかし……スケリトル・ドラゴンを召喚するとはこちらの世界の魔法使いも侮れないじゃないか。私ですら下位アンデッド作成で1日12体が限界だというのに。サモン・スケリトル・ドラゴンとかいう魔法でもあるなら欲しいものだな」

 それからアインズは軽く肩をすくめた。

「さて、そろそろ何か言わないか? なにか独り言を言ってるみたいで寂しく感じるぞ。より良い考えがあったのなら言ってもらいたいのだが?」
「いえ、アインズ様。完璧な行動だと思っておりんしたので、わたしが言うことはなもないかと」

 ゆらりとアインズの直ぐ後ろに、《パーフェクト・アンノウアブル/完全不可知化》を解除して、シャルティアが姿を現す。シャルティアだけだ。他には誰もいない。

「……カーミラ候補はやはりここでは見つけられんか」
「はい。流石にこなたの都市では変なところから繋がりがあるかもしれんせんから」
「そう……だな。ではとりあえずナザリックに撤収するか」
「はい。……ところでナーベラルにはなも言んせんでよろしいのでありんすか?」
「ああ。私が来てると知ったら、自らの力を疑われたのではと思うかもしれんからな」
「そのようなことは無いかと。逆に感涙に咽び泣くかと思いんすが」

 自分ならそうでしょうと言葉を続けるシャルティアに、多少引きながらアインズは返答する。

「いやいや、それはそれで困ってしまうものだ。まぁ、情報を一部持って帰られたのだから、確かに多少口馬をあわせなければいけないところもあるだろう。また前のように《メッセージ/伝言》を使って操り人形をするか」

 ふと気づいたようにシャルティアはアインズに質問をする。

「そういいますれば、アインズ様。何故、スケリトル・ドラゴンとの戦闘も、記憶からかき消したりしなかったんでありんすかぇ? 」
「ふむ。そこまで改変してしまった場合、この戦場跡に我々の見落としたものがあったとき、記憶の食い違いがでるために非常に厄介になると判断したからだ。それを考えればスケリトル・ドラゴンの一体の退治ぐらいなら全然許容範囲だろ? 今回の問題は第7位階魔法を使ったということなんだから」
「確かに。あの程度のアンデッド退治ぐらいなら、冒険者であれば容易いことでありんしょう。まぁ、ヴァンパイアに苦戦するようでありんすが」

 シャルティアの返答を聞き、ようやく思い出したとアインズは言わん顔で、頬にあたる部分を骨の手で掻く。

「……そうだったな。ヴァンパイ如きにも苦戦するんだったな。もしかして不味かったか? スケリトル・ドラゴンも強敵だとか……」
「正直よく分かりんせん。こなたの都市にいる冒険者もそんな弱くは無いと思うのでありんすが……」
「……まったく。面倒なことだ。なんでそんな弱い存在ばかりなんだ? 我々の常識が通じないではないか……」



 ■



「それ嘘ですよね」

 ベベイの報告を聞いた魔術師ギルド長であるテオの第一声はそんなものだった。
 Aクラス冒険者のベベイの偵察によって得た情報を疑う。それはベベイの能力を疑っているのと同意語だ。そんな侮辱にも似た言葉をテオが即座に返した中にあって、ベベイの表情に怒りは見えない。それはうまく隠しているというのでも無い。ベベイとパーティーを共にして、幾多の試練を突破してきたギグナルですら、テオの発言に幾度も頷いているように、ベベイすら自らが見たものを信じきれて無いものがあったのだ。

「もう一度、もう一度聞きます。本当に、モモン殿、たった1人でスケリトル・ドラゴンと戦ったのですか?」
「ああ」
「しかも勝った?」
「ああ」
「――嘘ですよね?」
「……いや、本当だ」

 テオはやれやれといわんばかり態度で頭を左右に振ってから言葉を発する。

「スケリトル・ドラゴンは魔法に対する完全耐性を有するアンデッドモンスター。スペルキャスターの大敵ですよ? それをどうやってスペルキャスターのモモン殿が倒したのですか?」
「剣で殴ってだ」

 室内が静まり返った。
 何を言ってるんだこいつ。隠そうとしても隠し切れない感情が、テオの上に浮かんでいる。そしてそれに気づいていながらもベベイは何も言わない。それは逆の立場なら絶対に思う事だと理解しているからだ。

「……いえ、それもありえますよね」必死に何かを誤魔化しながら、テオは苦笑いを浮かべる。「あのアーティファクトの力です」
「おお、そうか。あのアーティファクトの」

 追従するようにギグナル。その顔も苦笑いが浮かんでいた。言っていて有り得ないなという気持ちが、両者を苛んでいるのが一目瞭然だ。

「では、スケリトル・ドラゴンでは無かったというのならどうだ?」

 この部屋の主であるプルトンが口を開いた。

「……見間違いはありえない。スケリトル・ドラゴンを俺達が見間違うはずが無い。そうだろ、ギグナル」

 ベベイの発言に苦いものを思い出したのであろう、ギグナルは目を細くする。そこにはかつての苦い記憶が浮かんでいるのだろう。

「……俺達はカッツェ平野において、かつてあの化け物と遭遇したことがある。あの数百人もの骨を合わせて作ったような、死によって汚染された体。あんなおぞましいアンデッドを見間違うはずが無い! 特にアイツには仲間を2人も殺されたんだぞ!」

 室内が静まり返る。ベベイの言うとおり見間違いでもないとするなら――

「スケリトル・ドラゴンの討伐難易度およそ48。Bクラスの冒険者でなんとかなる程度。それを1人で倒したということは――」ありえないようなことを口にするように、テオは一瞬息を吸い込んでから続ける。「Aクラスに匹敵する剣の腕を持つことになります。だとすると第3位階を魔法を使いこなし、なおかつ剣の腕もAクラスの冒険者級。なんですか、そんなスペルキャスターは私は聞いたことが無いですよ! だいたいそれは魔法も使える戦士じゃないですか!?」
「――テオ、興奮するな。そんな冒険者はここにいる誰も聞いたことは無い」

 プルトンに自制を求められたテオは、興奮し乱れた髪を手ぐしで整える。そんな姿を横目で見ながら、プルトンは室内の3人に自らの考えを話す。

「パナソレイ様が言っていたように、彼は常人では考えられない冒険者と思うべきだろう」

 同時に3人が頭を振る。ベベイの報告を聞いてなお、普通の冒険者だと思う者は、頭を思いっきり殴られて陥没している可能性を疑うべきだろう。多少でも知識のある冒険者であれば、当然と思うことなのだから。

「もしかするとかつて13英雄を目にした者は、同じような感想を抱いたのかもしれないな」

 そんなプルトンの呟きが聞こえつつも、誰も反論は持ち出さない。モモンという人物は英雄といっても過言ではない力を持っているということが証明されたのだから。もし仮に彼が13英雄の1人だと名乗ったとしても、否定できる自信は無い。それどころか認めてしまうだろう。

「もはや理解できない強さって奴だな」

 ベベイが呆れたように言う。
 事実、Aクラス冒険者を持ってして、モモンの強さは底が知れない。本当はベベイが様子を伺っていたのも知っていたとか言われても、やっぱりという感想しか浮かばない。

「モモン殿と会って、自分の常識がどんどん壊されていく気がします」

 テオの意見に皆が同意し、はぁ、というため息をつく。それからギルド長の部屋全体に脱力感が満ちた。

「しかし、感謝の言葉が絶えませんね。モモン殿がいて本当に救われました。スケリトル・ドラゴンと遭遇したら、Bクラス以上で無いパーティーはほぼ壊滅でしょうから」
「……しかし最近、この都市周辺で出ているアンデッドモンスターの強大さが増しているのでは?」
「あのヴァンパイアが原因だと?」

 ちらりとベベイを横目で伺いながらプルトン。それに対してベベイは何も言わない。ギグナルから薄々は聞いているのかもしれないが、公式に話を受けたわけではないので、知っているような雰囲気は見せてはいけない。

「いや、そんなことは無いと思います。強大なアンデッドの存在に引っ張られるように、出現するという話は魔術師ギルドのどの文献にも記載されてはいないですね。おそらくはたまたまでしょう」
「なるほど」
「……しかしどうにせよ、モモン殿はこれでFクラスの冒険者ということだ」

 そして室内の全員が一斉に苦笑する。あれがFクラスかよ、という笑いだ。

「もう、A+の冒険者の資格を与えてもいいんじゃないか? あれがFだなんて笑い話だ」
「まったく、ベベイの言うとおり。しかし彼がそれほど強いということは、師にあたるアインズという人物はどれほど凄いのか」
「なんだ、ギグナル。そんな奴がいるのか? あのモモンの師匠だろ? ……もう第7位階魔法を行使できるって言うことでいいじゃないか」

 苦笑いを浮かべながらのベベイの発言に異論を言うものは誰もいない。なんかそれでもいいんじゃないかという脱力感にも似た感情が全員を支配しているのだから。

「それでモモン殿はこれから?」
「そうだ。もう少ししたら時間的にも来てもおかしくは無い」
「ならば我々は――」
「そうだな、ギグナル殿とベベイ殿は隣の会議室に移動してくれ」

 ギグナルとベベイの了解を得、2人は隣の会議室に移動する。
 それから30分ほど経った頃、モモンがノックの後、入ってくる。

「おはよう、モモン殿――」



 ■



 昇格試験も終わり、ナザリック大地下墳墓に戻ってきたナーベラルが最初にしたことは、服をちゃんとしたものに着替えることだ。
 ちゃんとしたというのは無論、メイド服のことである。
 メイド服を着る。それはまさに戦闘メイドとして創造されたナーベラルにとっては、正装に着替えるといっても過言ではない。
 他の戦闘メイド――ユリやルプスレギナと軽い挨拶を交わし、ナーベラルは地下第9階層に下りる。

 そしてアインズに報告するために、主人の私室まで来たナーベラルを迎えたのは、幾人もの存在だ。部屋の主人以外に、この部屋にここまで集まったのは初めてだろうという人数だ。

 シャルティア、アウラの守護者を筆頭に、司書長――ティトゥス・アンナエウス・セクンドゥス。そして殆ど裸同然の格好をし、蝙蝠の羽を生やした女悪魔がアインズの前で平伏している。これはおそらくはデミウルゴス配下だろう。
 アインズの座る椅子後方にはメイド長ペストーニャと、戦闘能力の無いメイドが2人。天井の存在はこの際置いておく。
 室内を瞬時に見渡し、そう納得したナーベラルがアインズに頭を下げるよりも早く、アインズが軽く手を上げた

「良くぞ帰ってきた、ナーベラル。お前の報告は後で聞こうと思っている。まずはそこに並んでいてくれ」
「はっ、畏まりました」

 アインズは自らの座る場所に垂直になるよう、一直線に並んでいるものたちの方を指し示す。ナーベラルは深く頭を下げると、アウラの横に並んだ。

「では、司書長。デミウルゴスが手に入れた羊皮紙の具合はどうだった?」
「はい。検査の結果、第1位階から第3位階の魔法を込めることに関しては問題は皆無です。しかしながらやはりそれ以上のものを込めようとすると失敗に終わります」
「そうか……。だが、これで低位のスクロール作成に関しては問題は解決だな」
「はい、現状のところ問題は生じておりませんので、その判断でお間違いはないかと思います」
「ご苦労、司書長」それからアインズは視線を動かし、平伏する女悪魔に目を向ける「お前もご苦労だった。デミウルゴスにはよくやったと伝えてくれ」
「畏まりました」
「さて、ところでデミウルゴスが発見したこの羊皮紙。これは通常の羊から取れたものとは違うのだろう? なんという羊から取れたものなんだ?」
「アベリオンタールです」

 間髪いれない女悪魔の返答を受け、アインズは目を数度瞬かせてから、重々しく頷いた。

「ふむ。そうか……アベリオンタールか。……特別な能力は持っているのか?」
「単なるタール属に類する生き物です。特別な力は持っていないと思われます」
「そうか、よく分かったぞ」

 アインズは納得したという態度で話を打ち切る。しかし、実のところ、アベリオンタールなんていう品種をアインズが知るわけが無い。内心はクエスチョンマークで一杯だ。
 質問をしなかったのは、単純に部下の前で無知な姿を見せるのは、少々恥ずかしいからだ。それに羊の品種が分からなくても、デミウルゴスに任せていけば何ら問題はないだろうと考えたからでもある。
 アインズは気づかれないように周囲の部下達を見渡す。

 アインズは何でも知っている、そんな風に部下達は行動するが、正直勘弁して欲しい。アインズは絶対であるとか態度に出されても、無いはずの胃がきりきり痛むだけなのだ。
 アインズ個人としては、流石はアインズ様と納得するのではなく、実は知らないんだろうなと察知して、それがどういう品種のものか質問をすることで、間接的にアインズに教えてくれるような部下が欲しいものだ。しかし、そういう部下はナザリックにはいないということも認知済みではある。
 絶対の忠誠の代価として、その辺の頭が回る存在がいないのだ。恐らくはデミウルゴスなら何とかしてくれるとは思うのだが……。
 アインズは軽くため息をつき、女悪魔に向き直る。

「そのタールは大切に飼育するのだぞ。絶滅とかされて羊皮紙を得る手段がなくなっては困るからな」
「畏まりました。デミウルゴス様にはそう伝えておきます」

 うんうんとアインズは頷く。そして女悪魔に下がれと軽く手を振ることで意志を伝える。最後に一度深く頭を下げた女悪魔は静かに部屋を出て行った。

「さて、次だが、ナーベラルお前の報告を聞こう」
「畏まりました」

 ナーベラルは立っていた場所から、先ほどの女悪魔が平伏していた場所――アインズの机から少し離れた、イスに座る者でも全身が見える場所に跪く。それから話を始めた。

 アインズはナーベラルの昇格試験に関する話を黙って聞く。アインズが知っていた情報を補足するような報告だが、アインズはそれに対して口を挟まない。知らないということを前提にした態度だ。
 一通り聞き終わった段階で、可笑しそうに笑い声を上げた。

「なるほど、構わないじゃないか。歓迎として酒の一杯ぐらいご馳走になったらどうだ? 毒無効のアイテムがあればアルコールによって酔うことも無かろう?」
「ですが……」
「向こうの腹はこちらの情報を得ることと、パイプを作ることだ。前者は注意しなくてはならないが、後者はこちらとしても忌避すべきことでもなかろう。無論、お前が嫌なら無理にとは言わないが?」
「畏まりました。アインズ様。彼らの歓迎を受けたいと思います」
「頼むぞ、ナーベラル。ただ、感情に任せて殺したりするようなことの無いようにな? 先方はあの都市では権力を持っている存在なんだから」
「それは問題ございません、アインズ様。私も人間の社会を学び、昔よりは温厚になったと自負しております」

 アインズはナーベラルを真剣に眺め、それから視線を少しばかり外してから囁くように答える。

「……そうか。おまえがそう思ってるなら、そうなんだろうな……」
「はい!」

 自信満々のナーベラルの表情。それを眩しいものを見るように眼を細めるアインズ。

「それで報告は終わりか?」
「はっ! あ! まだ1つだけ、大したものではございませんが、あの都市の冒険で珍しいものを手に入れましたので、アインズ様に多少でもご満足いただければと」
「ほう」

 ナーベラルが懐から取り出した皮袋。それを見たペストーニャが横にいるメイドに指示を出す。銀の盆を取り上げ、ナーベラルのほうに向かおうとするメイドを、アインズは手を上げることで止めた。

「構わん。ナーベラル。ここまで持って来い」
「はっ」

 必死に隠そうとはするが隠し切れない喜びの感情を声に塗し、頬を僅かに紅潮させながらナーベラルは立ち上がった。
 本来であれば誰か第三者が受け取り、アインズの元まで持ってくるのが正しい行為だ。実際、デミウルゴスの配下とはいえ、さきほどの女悪魔の場合は後ろに控えるメイドが銀の盆の上に乗せて、アインズの元まで羊皮紙を運んだ。しかし、それを省略するということは、ナーベラルの立場の高さを、そして信頼の強さを周囲に教えることでもある。
 つまりは今、ナーベラルはアインズに『お前を信用しているから、直接もってこい』と言われたのと同じということだ。事実、幾人かの嫉妬の目がナーベラルに突き刺さる。ただ、それにナーベラルは気づかない。

 なぜならナーベラル自身には『お前達を創り出しし、至高なる創造者の代表たる私は、献身にして滅私奉公を尽くすメイド――ナーベラルに対して、その忠義に相応しいだけの信頼を寛大にも有している。それゆえ、本来ならば許されないところではあるが、特別に至高なる我が元までその身を直接運び、汝が手に入れたであろう詰まらなきものの開帳を許す』と聞こえたのだから。

 弾むような足取りで、ナーベラルはアインズの机の前まで来ると皮袋を非常に丁寧に置く。
 中身を心配してではなく、主人に捧げるということを注意しての行動だ。

 ナーベラルが先ほどの位置に戻っていくのを見送りながら、アインズは皮袋から1つの黒い珠を取り出す。それを手に取り、アインズはぐるぐると回しながら外見を観察する。それから魔法を唱える。

《オール・アプレーザル・マジックアイテム/道具上位鑑定》

「ほう。これは珍しいではないか」

 アインズは感心したように頷く。

「40レベル相当のアイテムとは……。ふむ……。我々がナザリックを得たのは80レベルほどだったから、地下の宝物殿にあるアイテムもその辺のものが多い。逆に40レベル相当のアイテムというのは殆ど無いからな。コレクター魂を刺激されるではないか。それにインテリジェンス・アイテム?」

 アインズは何か喋れという言わんばかりに軽く小突く。しかし、何も声が聞こえないことに頭を軽く傾ける。それから何か納得したように、数度頷いた。

「ナーベラル、素晴らしい贈り物だ」
「はっ! ありがとうございます!」
「この働きに対し、何か渡さねばならんな。まず、40レベルのアイテムを貰ったのだから、同等の価値であるイルアン・グライベルは本当にお前にやろう。それと、追って褒美を出そう」
「ありがとうございます!」

 幾人かの羨ましげな視線がナーベラルに向かう。ちなみに最も強く激しいのがシャルティアで、一番弱いのがアウラだ。

「さて、そのうち、このアイテムはどうにかして話させてやろうではないか。今はそれよりもしなくてはならないことがあるからな、とりあえずは宝物殿に置いておこう」

 そう呟き、アインズが黒い珠を机の端に置こうとして――

 ――お待ちください、偉大なる死の王よ

 アインズは動きを止める。突如、聞こえてきた初めて聞く声に困惑したのだ。しかし直ぐに周りの部下達が、アインズの手に視線を集めていることを悟り、誰がその声を出したのかを理解した。

「ふむ。インテリジェンス・アイテムだったな」

 アインズは手の中の宝珠を、自分の目の前に無造作に置く。それからしげしげと眺めるが、何かを言う気配は無い。一体、何事だとアインズは考え、もしかしたらと口に出す。

「発言を許す」
 ――感謝いたします。偉大なる死の王よ

 予想は当たっていたようだ。再び話し出した宝珠に意識を向ける。その際、アインズの耳に微かに聞こえてくる、シャルティアとアウラの偉大なるの後に至高なるという言葉もつけたほうがいいんじゃないか、という小さな声での相談は努めて無視する。

 ――まずはあなた様のその絶対なる死の気配に、敬意と崇拝を向けることをお許しください
「まぁ、許そう」
 ――ありがとうございます。この世に存在するどの死よりも深き方、崇高なるその身に会えたことをこの世界に存在する全ての死に感謝します

 アインズはそのお世辞にしては心の篭りすぎている言葉に、背中がむず痒くなるものを感じながら、堂々としているように見えるよう胸を張る。

「それで、話しかけたということは、何か言いたいことでもあるのか?」
 ――はい。私風情があなた様にお願いを言うのは非常に不敬だということは重々承知しております。ですが、なにとぞ、この願いを叶えていただければと思います
「何事だ?」
 ――はっ。私は今まで死を撒き散らすためにこの世界に生み出されてきたと思っておりました。ですが、あなた様という偉大なる死の王を前にして、初めて私が生まれてきた理由を悟ったのです
「ふむ?」
 ――私はあなた様に仕えるためにこの世界に生み出されたのだと
「……ほう」
 ――偉大なる死の王よ。私の忠誠をお受け取りください。そしてあなた様の忠実なるシモベの端に、私も並べていただけますようお願いします

 頭があったら深々と下げているであろう、真摯な声だ。背もたれに体重を預けたアインズは丸めた左手を口元にあて、考え込む。部下にするメリット、デメリット、信頼できる存在かどうか。

 偉大にして至高なる死の王で決まりね。
 ナーベラルまで参加して、そんなことを言っているシャルティアとアウラの結構大きい声もやはり無視する。

「……良かろう。シャルティア!」
「はっ!」
「お前にくれてやる。アンデッドを支配する能力を持つお前には相応しい能力をこのアイテムは有しているぞ」

 しかしながら、シャルティアは申し訳ないという顔をして、アインズの様子を伺っている。

「……申し訳ありません。アインズ様より与えられるアイテムということであれば嬉しいのですが、40レベル程度のアイテムですと、私のクラス――カースド・キャスター及びカースド・ナイトの能力である『カースによる低位アイテムの破壊』によって壊れてしまう可能性が」
「ふむ……そうだったな。ならばナーベラル、お前に渡そう」
「え? よろしいので?」
「かまわん。お前が手に入れたものだ。何かに使えるのならば、お前が使うのが妥当かもしれん。それとイルアン・グライベルは取り返したりはせん。このマジック・アイテムをお前に貸すのだと思っておけばよい」
「はい!」
「それで構わんな?」
 ――私に異論や反論はございません。あなた様の命令に、そして決定に従うのみであります
「……それでなんと呼ばれたい?」
 ――どのような名でも構いません。偉大にして至高なる死の王よ
「……そういうわけにもいくまい。ならば先ほどの魔法で調べた死の宝珠でいいだろう」

 アインズはナーベラルに見えるよう、宝珠を掲げる。

「ナーベラル受け取れ」

 そうして放り投げた。放物線を描き、中空を舞った宝珠は、所定の位置に落ちるかのようにナーベラルの手の中に納まった。

「では、ナーベラルの報告は以上か?」
「はっ!」
「そうか、ではナーベラル。下がれ。そしてこれからも情報収集を頼むぞ」
「畏まりました!」


 部屋を外に出たナーベラルはドアが閉まると同時に、肺の中が空っぽになるほど大きなため息をつく。それからぐにゃりと背筋を歪むぐらい脱力をする。
 その姿にタイトルをつけるならちょうど良いのが、緊張感からの解放であろうか。

 アインズという人物をナザリックの存在が傲慢にも評価するなら、ナザリック大地下墳墓の頂点にして、ナーベラルたちにとっての最後の創造神だ。全てを捧げてもまだ足りぬ存在を前に、緊張するなと言うのはかなり困難だ。
 その分、褒められたときの感動はまさに天にも昇るようなものなのだが。

 緊張感からの開放と、褒められたことに対する喜びを記憶の中で追体験するナーベラル。そのとき手に持っていた宝珠が1つ脈動をする。

 ――ナーベラル様。かつてはこれほど偉大なる方に忠義を尽くしていたとは知らずに、暴言を吐いたことお許しください

 延々と繰り返されるアインズからの褒め言葉を味わっていたナーベラルは、意識を呼び戻した宝珠にちょっとばかりの苛立ちを覚えるが、それは直ぐにかき消す。

「まぁ、アインズ様の偉大さを知らなかったわけだしね。今回ぐらいは多めに見るよ」
 ――感謝いたします

 ナーベラルは手に持った宝珠を見下ろす。考えていたのはこの宝珠はナザリックで言うところのどの程度の地位に位置するのかということだ。
 アインズは何も言っていなかったが、至高の41人に直接創造された者よりどの程度下においてよいのか。これは難しい問題だ。そう、誰かに問うべきだと判断するしかないほどの。

 ――ではナーベラル様。偉大なるアインズ様のシモベとしてこの私を使い潰していただきますよう、お願いします。
「了解。その内このナザリック内の順位という奴を教えてあげるから」

 ナーベラルはそう言いながら、ふふんという自慢げな顔をした。






――――――――
※ 長かった……。ここまで書いたむちむちぷりりんを褒めてください。まぁ本当に重要なのはクォリティなんだというのは知っていますが……。
 そしてここまで一度に読まれた方。非常にgreatです。そしてお疲れ様でした。2回に分けても良い長さでしたね。でもまぁ、これでモモンの出番はまた休みです。
 次はちょっと変な話で、コキュートスの出番あるのかな。そんな39話「タイトル未定1」です。



[18721] 39_戦1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2010/12/31 14:29


 バハルス帝国とリ・エスティーゼ王国の中央を走る境界線たる山脈――アゼルリシア山脈。
 その南端の麓に広がる森林――トブの大森林。
 そのトブの大森林に入り、おおよそ直線距離で30キロほどアゼルリシア山脈めがけ進んだ先。そこにアゼルリシア山脈より流れる、人の手によっては名前が付けられていない川が巨大な湖を形成する。
 およそ20キロ四方よりなる巨大な湖は、ひっくり返した瓢箪のような形を作っており、上の湖と下の湖に分かれている。そのため上と下で生活している生物も違う。上の大きい湖の方が水深も深いために大型の生物が、そして下の湖はそれより小型の生物が生活の場所としていた。
 その下の湖の南端。

 そこは湖と湿地が入り混じったような場所が広がっており、そこにリザードマンの大型の部族が点在してた。


 リザードマンとは爬虫類と人間を掛け合わせたような生き物である。
 モンスターと評価されるよりは、ゴブリンやオーガ等に並ぶ亜人種として分類分けされているそれは、人間ほど進んだ文明は持ってはいないし、その生活を知れば一般人の目からは野蛮としか思えない。しかし、彼らには彼らなりの文化を持ち、洗練されたとはいえないまでも文明を作り出している。

 成人したオスのリザードマンの平均身長は190センチであり、体重は110キロにもなる。肥満ではなく、筋肉がしっかりとしたかなり屈強な肉体だ。全身の筋肉は隆起しており、人間の筋力の平均値というものがあるなら、それの1.4倍ほどはあるだろう。
 腰からは太いワニのような尻尾が伸びる。それはバランスを取るためにもっぱら使われるが、戦闘にもなれば140センチにもなる尻尾は充分な武器にもなった。
 爬虫類と聞くとトカゲを思い出すかもしれないが、事実、その頭部はトカゲにも似ている。
 足は水中や湿地等での動きやすさを重視した進化の過程によってなっており、水かきをつけた足幅の広いものだ。その分、陸地での動きは若干苦手ではあるが、基本的な生活圏を考えればそれは問題にならないと理解できるだろう。
 薄汚れたような緑色から灰色または黒までの色を持つ鱗は、トカゲのものではなく、ワニを思わせる角質化した強固なものだ。人間が使用する下手な防具よりも強固。これに特別な生物の皮から作った鎧等を纏うことで、板金鎧にも勝りかねない装甲となる。
 手は人間と同じ5本指で、先端はさほど長くない鉤爪になっている。
 この手で振るわれる武器等は、非常に原始的なものだ。というのも基本的に鉱石等の武器を手に入れるチャンスが無いために、モンスターの牙や爪から作り出した槍や、石を付けた鈍器を最も多く使う。


 そんなリザードマンの階級社会は頂点に来るのが、族長である。これは血筋で選ばれるのではなく、単純に部族で最も強いものがなる。この族長を選ぶ儀式は数年に1度の頻度で行われる。
 そしてそれを補佐する選ばれた年長者からなる長老会。その下に戦士階級、一般のオスリザードマンが続き、一般のメスリザードマン、幼少のリザードマンという風に社会構成を作っている。

 無論これに属さないものも存在する。ドルイドからなる祭司たち。そして狩猟班を構成するレンジャーたち。無論、これらは独自の判断と行動を許されてはいるが、それでも族長の下に位置し、族長の命令には従うことを求められる。

 祭司たちは天候予測から危険の予知、治癒魔法等を使用しての部族の生活の補佐を行う。特別な神という存在よりは、祖霊崇拝にも近いリザードマンの宗教的観点からすると、祭司たちの役割は魔法を使用しての生活環境維持ということだ。
 そして狩猟班の役割は漁猟が第一だが、普通のリザードマンたちも協力するため、最も重要な彼らの仕事は、森での活動となる。
 リザードマンは基本雑食であるが、主食は50センチほどにもなる魚であり、あまり植物や果実等は食べない。
 狩猟班が森に入り、肉を取って来ることもあるが、それは稀な場合である。狩猟班が森には入る例で最も多いのは、材料を集めるための木々の伐採等だろうか。陸上はリザードマンにとっても安全な生活環境ではないために、森に木を切りに行くという行為だけでも、こういった技術者が選ばれるのだ。

 このように役割分担がしっかりと出来た父性社会が、リザードマンの生活社会だ。

 そしてただ、例外的に、完全に族長の指揮から外れた存在もいる。
 それは――旅人だ。
 旅人と聞くと異邦人をイメージするかもしれないが、それはありえない。基本的にリザードマンは閉鎖社会であり、部族外の存在を受け入れるということは滅多にしない。
 では旅人がどんな存在か。
 それは世界を見ることを望んだリザードマンのことである。

 基本的にリザードマンは生まれた場所からよほどのこと――餌が取れなくなった等に代表される非常事態以外は離れないものである。だが、非常に低い確率だが、外の世界を見たいと渇望するリザードマンが現れるのだ。それが旅人だ。
 旅人は、部族を離れると決めたとき、特別な焼印を胸に押す。これは部族を離れた存在だという印だ。
 そして外の世界に旅立つのだ。

 ただ、殆どが返ってこない。旅で倒れたのか、それとも新たな世界を見つけそこで生きているのか。
 しかしやはり稀な可能性で見聞を終え、帰ってくるのだ。そして生まれ故郷の部族に帰ってきた旅人は、その持ち帰った知識ゆえ高い評価を受ける。ある意味、権力から離れた存在だが、それでも一目置かれた存在へとなるのだ。



 ■



 湖の南端部分の湿地はかなりの範囲にわたって広がっている。
 その一区画というべきか。そこに無数の建物が湿地の中に建っていた。家の土台は湿地の中であり、そこから足が伸びて家を支えている。川床にも似た光景だ。
 それこそリザードマンの住居である。
 リザードマンは変温動物ではない。一応はその厚い皮膚が水中でも体温を維持してくれるが、長期間にわたる水中生活は体温の低下を生み出す。そのため、水から離れた場所に居を構えるのが一般的だ。つまりはリザードマンの平均的な住居は、水面から足が伸びた住居になるということだ。

 ザリュース・シャシャはそんな住居の1つから姿を見せる。
 空は透き通るような青一色であり、燦燦と照りつける太陽が昇っている。刷毛で掃いたような白く薄い雲がほんの僅かにあるだけの良い天気だ。遠く、北の方角に突き立つような山脈がはっきりと見える。
 
 リザードマンの視野は広いため、頭を動かさなくても上空の太陽がそのまぶしい姿を見せているのが目に入る。上下の瞼を動かし、目を細めると家の階段をリズミカルに下りる。
 その最中、ザリュースは黒鱗の胸におされている、焼け印の痕を軽く鉤爪で掻く。別に痒いわけでも、何らかの意味を持ったものでもない。それはおされて以降新しく生まれた、彼のなんとなく癖になった行為にしか過ぎない。

 一番下の段から湿地に降りた際、腰に下げた彼の愛用の武器と鱗が当たり、カチャリと音がする。
 抜き身であるそれは、反対側が半透明に透けて見える、そんな青白く透き通った刀身を持つ。刀身の形は異様だ。幅広の刀身は先端部分で急激に曲がり、シミターというよりも鎌に思える。さらに驚くべきは刀身と握りが一体化しており、鍔になる部分が無いことだ。そのため、湖に張った氷が自然に割れ、それをそのまま武器にしたような雰囲気が漂う。
 この武器を知らぬリザードマンはさほどいない。周辺全ての部族に存在するリザードマン達の中で、4至宝と称されるマジック・アイテムの1つ、凍牙の苦痛<フロスト・ペイン>だ。

 それほどの武器を持ち歩くというのが、特別なことなのかというと、そうではない。例え村の中にいても、何らかのモンスターが出現するということはさほど珍しいことではないため、危険な場所に居を構えるリザードマンからすれば当たり前の武装なのだ。

 ザリュースは歩き始める。
 目的地は2箇所。その1箇所に置いてくる土産もちゃんと背負っている。
 それは1メートルにもなる巨大な魚だ。リザードマンの主食でもあるそれを、4匹も背負って歩く。ザリュースの鼻に届く、生臭い匂いはまるで気にならない。それどころか非常に腹の減る匂いだ。思わず食べてしまいたくなるほど。
 そんな欲望を鼻を数度鳴らすことで追い払い、そのままザリュースは村の中――湿地をパシャパシャと足音を立てながら歩く。

 背の高い葦のような植物が、無数にある住居を中心とした一体からは綺麗に除去されている。それはこの辺り一体が『緑爪<グリーン・クロー>』部族の村ということを意味しているからだ。

 まだまだ緑の色が鮮やかな鱗の子供たちがシャーシャーと笑い声を上げながら、走り抜けていくがザリュースが背負っているものに気づくと動きが止まる。それ以外も住居の影から子供達が、ザリュースを――いや背負った魚をじっと見ている視線。彼らの口元はかすかに開き、涎が溜まっていることだろう。少しばかり離れてもやはり視線は追いかけてくる。しかし、それは飢えて死にそうなものではない。いうならおやつを欲する系統のものだ。ねっとりとした粘着的なものは一切含まれていない。
 それに苦笑を浮かべながら、気づかない振りをしてザリュースは歩く。これは渡す相手が決まっているのだ。それは残念ながら子供達ではない。子供達にこんな表情を浮かべることが出来る。ザリュースはそれに幸せを感じていた。

 5年前は決して見れなかったその光景に――。

 諦めきれない視線をその背中に受けるのを感じながら、その視線に喜びを感じながらもザリュースは振り返らずにそのまま進んでいった。
 

 やがて点在する住居を抜けると目的地である小屋が見えてきた。
 この辺りは村はずれであり、もう少し進めば水深も深くなる。その微妙な境界線に建てられた小屋は見た目よりもしっかりと作られ、ザリュースの家よりも大きい。
 奇怪なところは若干傾いているところか。そのため家の半分ほどが水没している。

 ザブザブと村中よりも大きな水音を立てながらザリュースは小屋に接近する。もう、太ももの辺りまで水につかっている。そのために背中の魚も浸かっているが、もはやあと少しである気にするほどのことは無い。
 ただ、歩きながらも注意は怠らない。ここまで来ると何らかのモンスターや水生の獣が出現したとしても不思議ではない。まぁ、あの小屋の主が自らの縄張りに入り込んだ存在を黙認するならばだが。

 小屋がまじかに迫る。
 そこまで来るとザリュースの匂いを嗅ぎつけたのか、中から蛇の鳴き声が聞こえてきた。その鳴き声にあるのは甘えたがっている感情だ。
 ニュルリと蛇の頭が窓らしき場所から姿を現す。濃い茶色の鱗を持ち、瞳は琥珀の色。それはザリュースを確認すると、甘えるように巻きついた。

「よしよし」

 慣れた手つきでザリュースは蛇の体を撫でる。蛇はまるで気持ちよさそうに目を細めた。そしてまたザリュースにも蛇の生暖かい皮膚触りは心地よい。
 この生き物こそザリュースのペット。名前はロロロ。子供の頃から育てているために、まるで意志疎通ができるような気さえするほどだ。
 
「ロロロ。餌を持ってきたぞ? ちゃんと仲良く食べるんだぞ?」

 ザリュースは持ってきた魚を窓越しに中に放る。どちゃともばしゃとも表現できるような音が中からした。

「本当は遊んでやりたいんだが、今から魚の様子を見に行かねばならんのでな。また後でな?」

 言われている内容が理解できているのか、蛇は数度名残惜しげに体をザリュースにこすり付けると、体を引っ込めた。そして中からむしゃぶりつく音と咀嚼音が聞こえる。
 元気に食べている。
 その激しい咀嚼音に体調が悪くはないことを確信し、ザリュースは小屋を離れることとした。


 ◆


 小屋から離れたザリュースが向かったのは、やはり少しばかり村から離れた場所だ。この辺りはしっかりとした固い地盤があり、湖畔という言葉が非常に似合う。
 ザリュースはペタペタという擬音が似合うような動きで森の中を黙々と歩く。本来は水中を進んだほうが早いのだが、陸上で何か変なことが起こってないか、調べながら進むのがどうも癖になってしまっているのだ。ただ、木々によって視界が遮られるこの場所にあっては、ザリュースでもかなり精神的に磨り減る。
 木々の隙間から、目的地が姿を見せる。ザリュースは何事も起こらなかったことに対し、安堵のため息を1つ。そのまま木々をすり抜けながらあと少しの距離を足早に進める。

 そして突き出した枝を掻い潜るようにすり抜けたザリュースは、そこで驚きに目を見開いた。いるわけが無い存在がそこにいたのだ。
 それは黒い鱗のリザードマン。 

「兄者――」
「――お前か」

 黒い鱗を持つリザードマンは振り返ると、近づいてくるザリュースを出迎えるようにぎょろっと睨む。このリザードマンこそグリーン・クロー族の族長でもあり、ザリュースの兄でもある、シャースーリュー・シャシャである。
 二度に渡り、族長選抜に勝ち抜き、今期は戦わずして地位を維持している彼の肉体は圧巻の域に到達している。並ぶと、平均的な体躯のザリュースがまるで小さく見えるほどだ。
 リザードマンは成長すればドラゴンになるという伝説があるが、シャースーリューこそそれを体現するものと言われるのも理解できる。
 黒色の鱗には傷が白いものとなって走り、雷鳴が黒雲を切り裂いているようにも映る。
 背中には巨大な大剣――2メートル弱にもなる無骨で分厚いものを背負っている。鋼鉄でできた剣は錆防止と鋭さを高める魔法が掛かっており、その切れ味は永久的なものだ。また同時にこの剣は族長の証でもある。
 ザリュースは兄に並ぶように湖畔に立つ。

「この様なところで何をしている」
「……本気で言っているのか? それは兄者のセリフではなく、俺のセリフだ、兄者。こんなところに族長が自ら足を運ぶものじゃなかろう?」
「むぅ」

 言葉に詰まったシャースーリューは視線を動かし、目の前の湖を眺める。
 それは奇妙といえば奇妙な場所だ。少しばかりすぼまった場所で、しっかりとした棒がその場所を囲むように、半球状に連なるように湖面から突き出している。棒と棒の間には非常に目の細かい網がぐるっと覆っている。
 それの用途は見るものが見れば一目瞭然だろう。
 生簀である。

「もしかして……摘み食いか?」

 ザリュースの言葉に、シャースーリューの尻尾が跳ね、バチバチと地面を叩く。

「むぅ。そのようなわけが無かろう。俺は飼育の具合はどうか、伺いに来たのだ」
「……」
「弟よ、その兄を見る目は何だ?!」

 強い口調で言い切ると、ずいっとシャースーリューは1歩前に出る。まるで壁が迫ってきたような圧迫感。その気迫はまさに族長を長期に渡って維持してきた存在だけある。ザリュースですら数歩下がりたくなるほどの烈火のごとくだ。
 だが、今は完璧な切り返しがある。

「飼育の様子を伺いに来たのなら、別に欲しくはないということか。残念だ、兄者。良く育っていれば貰ってもらおうと思ったのだが」
「むぅ」

 バチバチという音が止み、尻尾がうなだれる用に地面にひれ伏す。

「美味いぞ。しっかり栄養を取らせて太らせたからな。漁で取れるものより脂が乗っている」
「ほう」
「噛むと口の中に良質の脂がにじみ出るように浮かんできてな。ぶつりと噛み切ると口の中で溶けるようだ」
「ほ、ほう」

 再びバチンバチンという尻尾の立てる音が上がる。しかもさきほどよりも激しい。
 そんな尻尾を呆れたようにザリュースは視認しながら、兄にからかい半分の口調で言う。

「義姉者が言っていたぞ。兄者の尻尾は素直すぎると」 
「何? あやつめ、夫たるこの俺を愚弄するとは。だいたい、何処が素直なのだ?」

 今はピクリとも動いていない尻尾を肩越しに見ながら答える兄の姿に、ザリュースはどのような反応をしたら良いのか浮かばず、ああという乾いた返事を返すのがやっとだった。そんな弟の姿に思うものがあったのか、シャースーリューは言い訳をするように言い返す。

「ふん。あやつめ……。お前も結婚すれば今の俺の気持ちが分かるだろうよ」
「俺に結婚は出来ないさ」
「ふん。下らん。その印のためか? 長老どもが何を言おうと無視しておけば良かろう。だいたいこの村でお前に寄られて嫌がるメスはいなかろうよ……。ただ、結婚しているのは別にしておけよ」 

 何も答えない自らの弟にからかいを含んだ調子で、さらに続ける。

「まぁ、お前も結婚という奴の苦労を知るべきだな。この俺だけでは不平等ではないか」
「おいおい、兄者。義姉者に言うぞ」
「ふん。どうだ。これが結婚という奴の苦労の1つだ。族長たるそして、お前の兄たる俺を容易く脅すことが出来る」
 
 静かな湖畔に楽しげな笑い声がしばし響く。
 それから笑いを止め、再び目の前の生簀を直視しながら、シャースーリューは万感の思いを込めて言葉を漏らす。

「しかし見事だ。お前の……」

 言葉に詰まった兄に救いの手を伸ばす。

「養殖場か?」
「そうだ、それだ。我らの部族始まって以来、このようなことを行った者はいない。そしてこの成功は既に多くの者が知っている。このままで行けば、羨望の思いでお前の魚を見ている多くの者が真似るだろう」
「兄者のおかげだ。色々と皆に話をしてくれたことを知っているぞ」
「ふん。弟よ。多くの者に事実を話したからだといってそれが何になる。そんなものは世間話でしかない。お前が努力し、この養殖場で魚を美味そうに育て上げたからこそ意味があったのだ」

 養殖場は最初は失敗続きだった。当たり前だ。話を聞き、それでイメージして作っただけにしか過ぎない。囲いを作る部分の作成だって失敗続きだった。1年間も時間を掛けて試行錯誤し、その結果生簀が出来上がったが、それで終わりではない。
 魚を放したあとで、世話もしなくてはならない。餌だって取ってくる必要がある。
 どんな餌が良いのか調べるために様々な餌を投じ、幾度生簀の中の魚を殺したことか。囲いの網をモンスターに破られ、全てが無に帰ったことだってある。
 食料として捕まえた魚をおもちゃにしていると後ろ指を差されたこともあった。バカだと言われた事だってある。
 しかし、その努力は今、目の前で実りを迎えているのだ。

 湖面を大きく成長した魚が泳ぐ影が映る。それは漁で取れるもの中でも、かなり大きい部類のものだ。小さかった魚を1から育てたと聞いて信じれるリザードマンはいないだろう。そうザリュースの兄と義理の姉を除いて。

「……見事だぞ、弟よ」

 同じ風景を共用しながら、ポツリとザリュースの兄は呟く。その言葉には無数の思いが込められていた。

「兄者のおかげでもある」

 答える弟の口調にも無数の思いが込められていた。

「ふん。俺がなにをしたというのか」

 確かに兄――シャースーリューは何もしていない。ただ、それは対外的な意味では、だ。
 魚の調子が悪いときに祭司たちが突然この場所に現れたのだって、囲いを作る部分の材料集めの時だって、漁で取れた魚を配るとき生きている状態で元気な魚が回ってきたことだって、さらには魚の餌を探す過程で果実を持ってきた狩猟班だって。
 手助けしてくれた者は、誰に頼まれたかは決して明かさなかった。
 しかしどんなバカだって、誰が影で頼んだものか理解できる。そしてその人物が、そんな行為にたいする感謝の言葉を受け入れる気が無いのだって知っている。

 族長が部族の階級とは迂遠な旅人に――例え肉親であろうと――肩入れするのは、色々と不味いのだから。そのため、ザリュースの出来ることなんかたかが知れている。

「兄者。もっと大振りになったら最初に持って行くからな」
「ふん。楽しみにしているぞ」

 くるりと背を返し、シャースーリューは歩き出す。そしてポツリと呟く。

「すまんな」
「……何を言う、兄者。……兄者は何も悪くなんかないさ」

 その声が聞こえたのか、聞こえなかったのか。何も言わずに湖畔に沿って遠ざかっていくシャースーリューの後姿を、ザリュースはただ眺めていた。


 ◆


 生簀の様子を確認し、村まで戻ってきたザリュースはふと違和感を感じ、空を眺める。別に何でも無い空だ。蒼い空が何処も広がり、北の方角には薄い雲を被った山脈がある。
 気のせいかと意識を戻しかけた時、天空に奇妙な雲が掛かっていたのに気づいた。

 時同じく、村の中央にぽつんと浮かんだ、太陽光を遮る黒雲――それも雨雲を思わせる厚い雲によって影が村に掛かる。
 誰もが驚き、天空を見る。
 それは祭司達の天候予測からすると、本日は1日晴天という話を聞いているからだ。祭司達の天候予測は魔法と歴年の経験から来る知識によって成り立つ、精度の非常に高いものである。それが外れたことへの驚きが誰もが最初に感じたことだ。だが、驚きの種類は次に始まったことによって変わる。
 ただ、異様なのは黒雲の大きさはそれほどでもなさそうに思えるし、そして村に掛かっている黒雲以外の雨雲が何処にも無いことだ。まるで村の頭上に掛かるように誰かが召喚したかのようだった。
 
 より異様さを増す行為は、誰もが奇怪に思っている中で起こった。
 雲はまるでこの村を中心にするように渦巻きながら、その範囲をどんどんと広げていったのだ。まるで青空が得体の知れない黒雲によって犯されていくように、すさまじい勢いで広がっていく。
 異常事態だ。
 こんな光景は誰もが見たことが無い。

 慌てて、周囲を警戒する戦士階級のもの。家にように飛び込むように逃げ込む子供達。ザリュースは腰を低くかがめ、周囲をうかがいながらシミターに手を伸ばす。

 やがて黒雲が完全に天空を覆う。無論、それは通常の現象ではない。なぜなら遠くに視線をやれば今だ青空が見えているからだ。まさにこの村を中心に黒雲は立ち込めている。

 僅かに風が強まり、ひんやりとした空気が村の中に流れ出し始めた頃、村の中央が騒がしくなった。そちらの方角から風に乗って聞こえる、リザードマンの声帯をいかした甲高い擦過音。

 それは――警戒音。それも強敵を意味する、場合によって避難を勧める類の。

 そちらの方伺ったザリュースは、リザードマンにしては速い足運びで、湿地を駆ける。
 走る、走る、走る。
 湿地という歩運びが難しい中にあって、尻尾をくねらせてバランスを取る。人であれば到底不可能な速度を持ってザリュースは目的地――警戒音の発されたと思われる場所に到達する。
 そこではシャースーリュー。そして戦士たちがまるで円陣を組むように、村の中央を睨んでいる。その視線の先を追った、ザリュースもまた睨みつけてしまった。
 無数の視線の交わる先――そこにモンスターが存在したのだ。

 それは揺らめく黒い靄のようなモンスターだ。
 靄の中におぞましい無数の顔が浮かび、直ぐに形を崩す。浮かぶものは様々な種族の顔だが、1つだけ共通しているものがある。それはどの顔も無限の苦痛を受けている――そんな表情を浮かべていることだ。
 その顔から、風に乗って、すすり泣く声、怨嗟の声、苦痛の悲鳴、断末魔の喘ぎ等が輪唱になって聞こえてくる。

 ぞっとする。

 そのモンスターから、ザリュースの背中が凍りつきそうな怨念を感じる。ザリュースほどのものでそれだけの精神的な不安を受けているのだ、他の者たちの動揺はさぞかし強いだろう。
 そう思い、見渡してみる。確かに周りにいる殆どのリザードマンの呼吸は荒い。戦士階級しかこの場にはいないにもかかわらず、まるで見知らぬモンスターに怯える子供のようだった。

 そのモンスターは村の中央に陣取ったまま、一切動かない。

 どれだけの時間が経過したのだろうか。ぴんと張り詰めた空気は、何かあれば即座に怒涛の展開を示すだろう。ジリジリと互いの距離を詰めようと動いている戦士たちが良い例だ。彼らは必死に自らの精神的な重圧を撥ね退け、動き出しているのだ。シャースーリューが剣を抜くのを視界の隅で認識し、それに遅れない速度でザリュースも静かに剣を抜く。
 もし戦いとなるならシャースーリューよりも早く、最初に突撃するつもりだ。
 
 空気中に澱むように溜まった緊迫感がより濃くなっていく。
 突如――怨嗟の声が止んだ。肩を空かされたように戦士たちの動きが止まる。
 モンスターが発していた幾つもの声が混じりあい、1つの声となる。それは先ほどのまでの意味の分からない呪詛のものとは違う。しっかりとした意味を持ったものだ。

『――聞け、我は偉大なる方に仕えるもの』

 ざわめき。そして互いの顔を見合わせる。ザリュースのみ、いや、ザリュースとシャースーリューのみ視線を動かさない。

『汝らに従属を要求する。ただ、偉大なる方は汝らを支配するに足る生き物なのか、その価値が見たいとおっしゃっている。寛大なる偉大なる方は汝らに準備の時間を下さる。必死の抵抗を――汝らの価値を偉大なる方に見せるための時間だ。本日より数えて8日。その日、偉大なる方の軍が汝らを2番目に滅ぼしに来るだろう』

 ピクリとザリュースの顔が歪み、鋭い歯をむき出し威圧の唸り声を出す。

『必死の抵抗をせよ。偉大なる方が汝らに見出すだけの価値があると理解されるように』

 煙が一瞬たりとも同じような形を取らないよう、そのモンスターは歪にゆがみながら形を変えつつ、中空に浮かんでいく。

『ゆめ忘れるな。8日後を――』

 そのまま何も邪魔することの無い中空を森の方角めがけ飛行していく。その後姿を多くのリザードマンが見送る中にあって、ザリュースとシャースーリューは遠くの空をただ黙って眺めていた。


 ◆


 かなり大きい、この村最大の小屋――集会所として使われるそれは普段は殆ど使われていない。絶対権力者である族長がいる以上、集会という行為がさほど行われず、そのため小屋の価値が無いのだ。
 しかし、その日は小屋の中に異様な熱気が立ち込めていた。
 その場には部族の戦士階級以上の殆どのリザードマンがいる。祭司達、狩猟班、長老会。そして旅人であるザリュースも。皆、胡坐をかき、シャースーリューに向かって座る。
 それはまさに会議の形だ。
 つまりは多くのものから尊敬される族長であるシャースーリューが、様々なものの知恵を借りたいということだ。それがどれだけの非常事態なのか、理解できないものはこの場にいない。

 族長であるシャースーリューが会議の始まりを告げる。

 そして口を最初に開いたのは祭司頭である。
 年齢のいったメスのリザードマンであり、奇怪な文様を白の染料で体に書き込んでいる。それは色々な意味を持つそうだが、ザリュースはその意味は多少しか知らない。まずは結婚している者のものであり、得意とする魔法の分野のものであり、年齢にものだったか。他にも詳しくは知らないが、どの儀式に参加できるかとか、対外的に地位を示すものとかも書かれているはずだった。

「天を覆った雲をおぼえておるな?」そこで言葉を切ると周囲を見渡し、皆に思い出させる。「あれは魔法じゃ。《コントロール・ウェザー/天候操作》と呼ばれる第6位階魔法じゃ。あれほどの魔法を使えるものに歯向かうのは愚かのすることじゃ」

 祭司頭の後ろに並ぶ、同じような格好をした者達――祭司たちが、同意をするように頭を振る。ただ、第6位階といわれてもそれがどういったものなのか理解できず、幾人かが疑問のうなり声を上げる。

「ふむ……そこの」

 どう説明すれば良いのかと困惑した表情を浮かべた祭司頭は、指を1人のリザードマンに突きつける。指を指されたリザードマンもまた困惑げな表情で、自らを指差す。

「そうじゃ。お前、わしと戦って勝てるか?」

 指差されたリザードマンは慌てて首を左右に振った。
 祭司頭と武器のみを持って戦うのであれば勝てる自信はある。しかし、魔法までも使用してならば勝算は低い。いや低いどころか無いとも言える。それは祭司頭の魔法で、様々な種類のモンスターが屠られているという事実から来る推測だ。

「まぁ、おぬしが戦士としてどれほどの力をもつ者かは知らぬ。ただ、その者が勝てないと思うこのわしは、第2位階までしか使うことはできん」
「つまりは3倍強いということか?」

 誰かの質問にため息をつきながら、祭司頭は嘆かわしく頭を振った。

「そんな単純なものではない。第4位階を使えるのなら、わしらの族長すら多分殺しきれるじゃろう」ざわりと場が揺らぐが無視して続ける。「第5位階を使いこなせるなら戦士達を全て同時に相手にして勝てるじゃろう。ならば第6位階はどの程度か理解できるか?」

 最後に絶対とは言えんし、恐らくという推測の言葉が入るがな、というと祭司頭は口を閉ざす。
 ようやく第6位階という魔法の凄さを知り、静まり返った部屋の中に、再びシャースーリューの声が通る。

「つまりは祭司頭は――」
「逃げたほうが良かろうと思う。戦っても勝てまい」
「何を言う!」

 太く低い咆哮と共に、がばりと立ち上がったのは巨躯のリザードマンだ。体格の良さだけであればシャースーリューに並ぶだろう。全身の鱗に細かな傷を作り、自己出張の激しい隆々とした筋肉。
 戦士頭である。

「まだ戦ってもいない内から逃げよというのか! 大体あの天気の変動ですら、何らかの儀式や道具によって起こしたものかもしれないではないか!」

 そうだ、そうだと幾人もの声が上がる。それはまだ若く、血気盛んな戦士達の声だ。

「大体、あの程度の脅しで逃げ出してどうする!」
「――貴様の頭には脳みそは詰まってないのか! 戦ったときには遅いというておるのじゃ!」

 戦士頭とにらみ合うように、祭司頭も立ち上がる。二人とも興奮しており、互いに威嚇音を無意識のうちに出している。一触即発という言葉が誰もの頭に浮かんだそのとき、冷たい声が響く。

「……いい加減にせよ」

 まるで寝ている最中に水を流し込まれたような表情で、戦士長と祭司長がシャースーリューに顔を向ける。それから両者とも頭を下げ、謝罪すると互いに腰を下ろした。

「――狩猟頭」
「……戦士頭の意見も、祭司頭の意見も理解できるし、納得できる」

 シャースーリューの問いかけに答えるように、ひょろっとしたリザードマンが口を開いた。痩せているといっても、筋肉が無くてではない。極限までも絞り込んだようなそんな細さだ。

「ゆえに時間はあるのだから、様子を伺ってはどうだろうと思う。それに向こうも軍で来るといっているのだ。相手の軍を観察した後でも良かろう?」

 幾人かの同意するような声が聞こえる。情報が足りない中でああだこうだ、言っていても意味が無いという意見を持つもの達だ。

「――長老」
「なんともいえぬ。どの意見も正しく感じる。あとは族長が決めることだろう」
「ふむ……」

 シャースーリューの視線が動き、幾人ものリザードマンの間から垣間見れる、ザリュースを正面から見据える。ザリュースには、兄が目の中で頷くのが感じ取れた。背中を優しく押されるような気持ちで――ただそれは断崖絶壁かもしれないが――己の意見を口にしようと手を伸ばす。

「族長。意見を述べさせて欲しい」

 誰が手を上げたのか。
 その場にいるリザードマン、全ての注意がザリュースに集まる。その大半がついに動いたかという期待であり、状況が動くことを確信しているものであった。ただ、それに対し眦を上げたリザードマンたちもいる。

「旅人のおぬしが口を出すことではない! 会議に参加させてもらっているだけで感謝すべきじゃろう!」

 長老会に所属する老人の1人が声を上げる。それに追従するように幾人かの声があちこちらから飛ぶ。ただ、集まった数からするとそれは非常に少ない。逆にそんな声を上げたものを鬱陶しそうに見る眼がある。

「下が――」

 バンと床を1本の尻尾が激しく叩く。その音が長老の発言を鋭い刃物のごとく断ち切った。音の発生源へ振り向いた長老が尻尾を力なく垂らす。誰が発したものか。それを知ったものの誰もが黙りかえる。

「騒がしい」

 危険な感情を込めた、シャースーリューの声。声のところどころに、リザードマンが激情時に上げる唸り声が混じっている。それを前に口を挟めるものはいない。小屋の中の緊張感が一気に増し、先ほどまで熱気があったはずなのだが、極寒の冷気すら感じられる。
 いや、だがその中にあって口を開くものがいた。その勇気は賞賛されるべきものだが、誰もが余計なことをするなという非難の視線を送る。

「しかし、族長。あれはおぬしの弟だからといって特別扱いは困る。旅人は――」
「騒がしいと言った。聞こえなかったのか?」
「ぐむぅ……」
「今、知識ある全てのものたちを参加させているのだ。旅人の意見も聞かなくてはおかしかろう」
「旅人は――」
「――族長が構わないというのだ。それとも従わぬのか?」

 その言葉を言われては、族長の下に位置する長老会が口を開くことは躊躇われる。旅人――ザリュースの発言を妨げたのは、社会構造的に正しくない行為だと判断したからだ。もし、今、族長の言葉を無視して従わなかったら、社会構造上正しくない行為を自分たちが行うこととなる。
 黙った長老会から視線をそらし、シャースーリューは他の頭たちを見据える。

「祭司頭、戦士頭、狩猟頭。お前達も聞く価値が無いと思うか?」
「ザリュースの言なら聞く価値はある」最初に答えたのは戦士頭だ。「あの凍牙の苦痛<フロスト・ペイン>を持つものの意見を聞かぬなど、そんな戦士はおらん」
「俺達の仕事を奪いかねない男の意見だ。十分に聞く価値があるな」

 おどけるように狩猟頭も答える。最後に残った祭司頭は肩をすくめる。ちらりと長老会を伺ったのはどういう狙いか。

「当然聞くとも。知識あるものの言葉を聞かぬのは、愚か者のすることじゃ」

 痛烈な皮肉を受け、長老会の幾人が顔を顰める。シャースーリューは3人の頭の意見に頷くと、話を進めるように顎をしゃくる。ザリュースは座ったまま、口火を切る。

「……戦うべきだ」
「ふむ……理由は?」
「それしか道は無い」

 言い切るザリュース。だが、それは質問に対する答えではあるが、正しい答えであるとは言い切れない。本来であれば族長が理由を聞いたのだから、道が無いのであれば何故道が無いのかをきちんと説明すべきだ。それをしないということはそこに理由があるというのか。
 シャースーリューは自らの弟の考えの読みきろうと、口元に丸めた手を当て、深く考え込む。

「……しかし勝てるかの?」
「勝てるとも!」

 シャースーリューが何も言わない間に、祭司頭の不安を受け、それを吹き飛ばすような勢いで戦士頭が叫ぶ。しかし、祭司頭はただ目を細めるだけだ。勝てるとは思っていないのが明白な態度だ。
 
「……いや、今のままでは勝算は低かろう」

 戦士頭の意見を正面から否定したのはザリュースだ。戦うべきという意見を述べながら、勝てないと言い切るザリュースの矛盾した発言にその場にいる皆が困惑した。

「……どういうことなのだ?」
「戦士頭。相手はこちらの情報――戦力というものを知っているはずだ。でなければあのような上から見下ろすような発言は無かろう。ならば今ある戦力では善戦は出来ても勝利を収めることは不可能だろう」

 誰もが納得できる考えだ。
 あのモンスターが述べた台詞には、今のザリュースの意見を肯定させる要素が多分に含まれている。では、どうするのだ。誰もがそう問いかけようとした、その瞬間。機先を制すようにザリュースは口を開く。

「ならば相手の計算を狂わす必要がある」

 シャースーリューはなるほどと口の中で呟く。弟の狙いが読めたからだ。しかし、それを皆の前で口にすることは戸惑われる。ザリュースがそのまま小屋の中にいるリザードマンたちに演説をするさまを只黙って見るだけだ。

「……皆、かつての戦いを覚えているな?」
「無論だ」

 そう、誰かが答えた。
 5年前に起こったそれを、早くも忘れるほどこの場にいる誰もボケてはいない。いや、ボケていようとあの戦いを忘れることはできないだろう。
 かつてこの湿地には7つの部族があった。緑爪<グリーン・クロー>、小さき牙<スモール・ファング>、鋭き尻尾<レイザー・テール>、竜牙<ドラゴン・タスク>、黄色の斑点<イエロー・スペクトル>、鋭剣<シャープ・エッジ>、朱の瞳<レッド・アイ>である。
 だが、その内現存する部族はその内5つ。
 2つ部族が存在しなくなるほどの、多くの命が奪われた争いがあったのだ。

 その元々の発端は主食となる魚の不漁が続いたことだ。
 その年はたまたま水質の変化があったのか、取れてもあまり大きくなっていなかったのだ。そのため狩猟班は湖の広い範囲にまで手を伸ばす結果となった。無論、他の部族だってそれはいえることだ。
 やがて漁をする場所を巡って狩猟班同士がぶつかり合うこととなる。ただ、そこにはお互いの部族の食べるものが掛かっているのだ。お互いに引くことはできない。

 口論が喧嘩に、喧嘩が殺し合いに発展するまで、さほど時間は掛からなかった。
 やがて狩猟班をバックアップするように互いの戦士達が動き出し、食料を巡って熾烈な戦いになっていったのだ。

 周辺7部族のうち5部族を巻き込んだ戦いは、3対2――緑爪<グリーン・クロー>、小さき牙<スモール・ファング>、鋭き尻尾<レイザー・テール>対黄色の斑点<イエロー・スペクトル>、鋭剣<シャープ・エッジ>の戦いへと変化し、戦士階級のみならずオスのリザードマン、メスのリザードマンまで参加する部族総出のものへとなっていった。当たり前だ。賭けているのは食料だ。もし負ければ後が無いのだ。

 やがて、数度の総力戦を得て、グリーン・クロー部族を含めた3部族側が勝利を収め、2部族側は部族という形を取れなくなり、散っていくこととなる。これは後に争いに参加しなかった部族に吸収されることとなったのだが。

 戦いの発端となった食糧問題は、皮肉にも湿地で生きるリザードマン総数が激減したことによって解消されることとなった。主食の魚が皆の手に回るようになったのだ。

「それがどうしたのだ?」
「奴の話を思い出してくれ。奴はこの村に2番目という話をしていた。ならばここ以外に他の村も同じようなメッセンジャーが行っているのではないか?」
「おお……」

 ザリュースの言いたいことが理解できた幾人かが納得の声を上げる。
 そしてほんの一握りのリザードマンが、己の言いたかったことを代表してくれたザリュースに感謝の念を送る。彼らは自らの立場ゆえに思っていても口に出せなかった、戦士階級でも地位の低いものたちだ。

「つまりは同盟を再び組むというつもりだな!」
「……まさか」
「そうだ。同盟を組むべきだ」
「かつての戦のごとくか……」
「それなら勝てるのでは?」

 隣同士で囁きあい、それに他の者が参加しだし、やがては大きなものへと変わっていく。小屋全体がザリュースの考えについて検討しあう中、シャースーリューのみ黙ったまま、口を開こうとはしない。
 充分に検討できるだろう時間が経過した頃、ザリュースが再び口を開く。

「間違えないで欲しい。俺が言いたいのは、全部の部族と、だ」
「なんだと?」

 その意味を、この場のいる者の中で2番目に掴んだ狩猟頭が驚きの声を上げた。ザリュースはシャースーリューを正面から見据える。その直線状にいたリザードマンたちは我知らずと道を開け、一直線に道が開く。

「竜牙<ドラゴン・タスク>、朱の瞳<レッド・アイ>とも同盟を結ぶことを提案するぞ、族長」

 大きなどよめきが起こった。
 殆どのものが考えてもいなかった発言だ。まさに爆弾を投じたような騒ぎに繋がってもおかしくないほどの。
 
 先の戦いには加わらなかった竜牙<ドラゴン・タスク>、朱の瞳<レッド・アイ>の2つの部族。それは交易等が無いために、使者にどのような行為に出るか想像が難しいということならず、ドラゴン・タスクに至ってはイエロー・スペクトルと、シャープ・エッジの生き残りを迎え入れたために、禍根が強く残っているのは想像に難くない。
 その2つの部族との同盟。
 もし、それが出来るなら確かに勝算はあるかもしれない。そんな淡い期待がこの場にいるリザードマンの皆に浮かぶ。

 そんな隠し切れない興奮がにじみ出てる場にあって、ポツリとシャースーリューは口を開く。

「誰が使者となる」
「俺が行こう」

 それはザリュースの即答であり、シャースーリューの予期した答えだ。周囲のリザードマンが感嘆の呻きを上げ、互いの顔を見合わせ頷く。それはまさに的確な人選だと判断してだ。しかし、たった1人だけその意見に不満を抱くものがいる。

「――旅人がか」

 シャースーリューがまるで見下すように言い切る。氷のような視線がザリュースを貫く。
 その気配に押されるように、周囲の誰もそれ以降の言葉を口にすることが出来ない。ただ、黙ってその激しい感情が自らの上に落ちてこないことを祈るだけだ。
 しかし、シャースーリューの本音を知るものは違う。その瞳にある本当の感情を知るものは。

「――族長。今はあまりにも非常事態だ。旅人という存在だからといって、話を聞かないものでは組むものも組めん」

 ザリュースはシャースーリューのツララの如き視線を容易く撥ね退ける。しばし睨みあい、シャースーリューは寂しげに笑った。諦めなのか、自らの言葉で弟を阻止できない虚しさなのか、はたまたは内心では適格者だと認めている自分への嘲笑なのか。透き通ったような笑いだ。

「――族長の印を持たす」

 それは族長の代理人という意味合いを持つ。決して旅人に持たせてよいものではない。長老会の数名が何か言いたげに身動きするが、口にする前にシャースーリューの激しい眼光を受け、言葉にすることはできない。

「感謝する」

 ザリュースは頭を下げる。

「……他の部族への使者は俺が選抜する。まず――」


 ◆


 夜にもなれば涼しげな風が吹く。湿地ということである程度湿度も高く、暑さと相まって息苦しいが、夜にもなればそれは落ち着き、逆に風が多少肌寒いぐらいだ。無論、リザードマンの頑丈な皮膚を持ってすれば、なんともない程度の変化なのだが。
 バシャバシャと湿地を歩くザリュース。向かう先はペットであるロロロのいる小屋だ。
 時間もあるように思えるが、何が起こるか不明だ。さらに敵が約束を守るかどうか、そしてザリュースの旅を邪魔する可能性。そういったことを思案すると、ロロロに乗って湿地を旅しようという計画が最も適している。

 バシャバシャと歩く音がゆっくりとなり、そして立ち止まる。背負ってきた様々なものを詰め込んだ皮袋の中身が、中で大きく揺れた。動きを止めたのは月光の下、見慣れたリザードマンがロロロの小屋から出て来たためだ。
 そしてザリュースと互いの視線を混じり合わせる。
 さほど距離は離れていない。10メートルだろうか。その距離が詰められないザリュースに小首を傾げると、その黒い鱗のリザードマンは自ら距離を詰める。

「――俺は、お前が族長になるべきだったと思っていたぞ」

 それがそのリザードマン――シャースーリューの第一声だった。

「……何を言う、兄者」
「かつての戦いを覚えていよう」
「当たり前だ」

 あの会議でその話題を出したのはザリュースだ。覚えていないわけが無い。そしてシャースーリューもそんなことが言いたいのではないとザリュースは思う。

「……お前は戦いが終わった後、旅人となった。あの時、お前の胸に焼印を押したことをどれほど後悔したか。殴ってでも止めるべきだったのではとな」

 ザリュースは頭を激しく振る。あのときの兄の顔は、今なお心に突き刺さった棘だ。あんな顔をさせてしまったことに対する。

「……兄者が許してくれたおかげで、俺は魚の養殖方法を学んでこれたのだ」
「お前であればこの村にいながらその方法を見つけただろう。お前のような聡明な男こそこの村を背負って立つべきものだったのだ」
「兄者……」

 過去に起こったことは決して元には戻らない。そしてもし――なんて言っても意味が無い。既に起こったことなのだから。しかし、それでもそう考えてしまうのは2人が弱いからか。
 いや、そうではないだろう。

「……族長ではなく、お前の兄として言わせてもらおう。1人で大丈夫かなぞ言わん。無事に生きて帰って来い。無理はするなよ」

 その言葉に傲慢な笑みでザリュースは返す。

「当然だ。全て完璧にこなして帰ってくるとしよう。この俺ならば容易いことだろう」
「ふむ」苦笑が自然にシャースーリューの顔に浮かんでいた「ならば失敗したら、お前の養殖している奴の中で一番脂の乗った奴を食わせてもらうぞ」
「兄者。それは全然嫌ではないので、こういうときに言う奴としては失敗だぞ」
「……ちっ」

 そして2人は静かに笑いあう。
 やがてどちらともなく笑うことを止めると真剣な表情で見合わせる。

「それで本当にあれだけがお前の狙いか?」
「……何を言う? 何を言いたい?」

 僅かばかりにザリュースは目を細め――それからしまったと内心で思う。自らの兄の洞察力を考えるなら、今の行為も不味い、と。

「……小屋でお前の話を聞いていてな。何故、最初っから分かりやすく説明しなかったのかと。まるで意見を誘導するような出し惜しみをする話し方だと思ってな」
「…………」
「……かつての戦いは、単純に小競り合いが無くなったため、リザードマンの数が増えたこともまた問題の1つだったのだろうよ」
「兄者……それぐらいにすべきだろう」

 ザリュースの鋼の思わせる口調は、シャースーリューの自説の正しさを証明したようなものだ。

「やはり……そうか」
「……それしかなかろう。かつての戦いを繰り返さないためには」

 はき捨てるようにザリュースは言う。ザリュース自身、碌でもないと認識している魂胆を秘めた策だ。薄汚れている。出来れば兄には知られたくない類の。

「……ならば、もし他の部族が同盟を組まなかった時はどうするのだ? 力の衰えたものと最初から逃げたものでは相手にならん」
「そのときは最初に……潰すしかないだろう」
「最初に同族を滅ぼすというのか」
「兄者……」

 説得するような意志を込めたザリュースの声を聞き、シャースーリューは大したことがないというかのように笑う。

「分かっているともお前の考えは正しい。そして俺もそれに同意しよう。部族の存続。それを上に立つものとして考えなくてどうするか、とな。だから気にするな、弟よ」
「ありがたい。ではこの村に連れてくるということでよいのか?」
「うむ。主戦場になるのは1番目の村だ。できるだけ先に送って、防衛の準備を整えなくてはならん。もしかしたら俺がいないかもしれんが、その場合は残っているものに伝えておくとしよう」
「頼むぞ、兄者。でこれから行く部族が1番目だった場合はどうする?」
「そのときは戦士たちはこの村に集めておく。お前が戻ってき次第出発しよう」
「了解した」
「それと食料の件だが、お前の生簀の魚はもらうぞ?」
「無論だ。ただ、稚魚だけは残しておいて欲しい。なんとか巡回サイクルが上手く起動に乗り出したのだ。たとえ村を捨てる結果になっても、あれは将来役に立つ」
「お前がそう言うならそうなんだろう。わかった。取るものに強く言っておく。それで何食分になる?」
「そうだな……干物をあわせて、1000食ほどになるだろう」
「なるほど……1000食か。ならば一先ずは問題ないな」
「ああ、では兄者。行かせて貰う。……ロロロ」

 ザリュースの声に反応するように、窓から蛇の頭がにゅっと姿を見せる。月明かりを反射し、鱗がぬめぬめとした、それでいて綺麗に輝く。

「出かけよう。こちらに来てくれるか?」

 ロロロはしばらくザリュースとシャースーリューを眺めていたと思うと、頭を引っ込める。重いものが歩き出す水音、そしてゴボゴボという音が響く。
 
「ふむ……そうだ」
 
 突如、シャースーリューは思い出したように言葉を紡ぐ。実際はいつ言うべきか様子を伺っていた気配のある唐突さだ。

「……狩猟頭に言って避難できそうな場所は探しておく」
「頼む、兄者。それと人数はどうする、予測はしていたのだろう?」

 問われたシャースーリューは僅かに言いよどむが、直ぐに返答する。予期していたとはいえ、口にするのはすこしばかり心が痛むという態度で。

「……戦士階級10、狩猟20、祭司3、オス70、メス100、子供……多少というところだな」
「……子供は置いていかないか? 邪魔では?」
「それだと反対意見の方が強くなり、決まらなくなるだろう。ある程度は不満の解消のために連れて行くべきだろうな」
「だが、子供を選ぶのだけでも揉めかねん」
「なるだろうな。ゆえに選ばれたオスとメスの子供を優先すればよい」
「それしかないか?」

 シャースーリューの草臥れた笑みを受け、ザリュースは黙る。小屋のほうからパシャリと水面を跳ねる音がする。2人は音のしたほうを観察するように眺め、互いに笑う。それは懐かしいものを思い出すような、憧憬を多く含んだものだ。

「ふむ……あれも大きくなったな。先ほど小屋に入って驚いたぞ?」
「ああ、兄者。俺もだ。あそこまで大きくなるとは思ってもいなかった。拾ったときは、かなり小さかったのだぞ」
「信じられんがな。戻ってきたときにはかなりの大きさだったしな」

 2人ともかつてのロロロの姿に思いをはせていると、小屋から少しばかり離れたところの水面から、4匹の蛇の頭が伸び上がっている。そして4匹の蛇は同じような動きで水面を掻き分け、ザリュースたちによってくる。
 突如、蛇の頭が大きく持ち上がり、水面から巨大なものが姿を見せる。それは巨大な爬虫類のような獣。4本の頭はくねる首を通してそれと繋がっていた。
 ヒドラ。
 それがロロロの種族の名である。

 5メートルにもなる巨体を意外な素早さで動かし、ロロロはザリュースの元まで来る。
 ザリュースはロロロの上に、木に猿が登るような軽やかな動きで昇る。

「無事に帰って来い。それと悪役っぽく行動することは無い、似合っておらんぞ? 昔のように、犠牲なんか1人もださんとか言っているほうがお前らしい行動だ」
「……俺も大人になったということだ」

 そんなザリュースの言葉を受け、シャースーリューは鼻で笑う。

「尻尾に殻の付いた小僧がいっちょまえに……。まぁよい。無事にな。もしお前が帰ってこなかったら、最初に攻める相手が決まるな」
「無事に帰ってくるさ。待っていてくれ、兄者」

 それから少しの時間だけ、万感の思いを抱きつつ互いの顔を見つめあい――それから、何も発することなく両者の影は離れていった。



 ■



 ロロロに乗って湿地を旅すること1日。
 恐れていた遭遇は無く。無事に目的地だろうと思われるところにザリュースは到着する。
 
 その場所は湿地の中、緑爪<グリーン・クロー>部族と同じ作りの住居が幾つも建っており、その周囲を先端が尖った木の杭が、外に突き出すように囲んでいる。杭の壁の隙間は大きく開いているが、大型の――ロロロのようなサイズのモンスターの侵入は阻止するだろう。家屋の数はグリーン・クローよりも少ない。ただ、住居自体の大きさはグリーン・クローよりも大きい。そのため現状では人数的な意味ではどちらが勝っているかは不明だ。
 そんな住居の1つに、風に揺られる1つの旗があった。そこにはリザードマンの文字でレッド・アイと記されていた。

 そう、こここそザリュースが最初に選んだ目的地――朱の瞳<レッド・アイ>部族の住処だ。
 
 一通り見渡したザリュースは、安堵の息を吐く。
 昔、得た情報と変わらない湿地に住居を構えていた。これは非常に幸運なことだ。かの戦で住処を移転させた可能性も考え、下手したら部族の捜索から始まるかと思っていたのだから。
 ザリュースは自らが進んできた方角に振り返る。その視線の先にあるのは自らの村だ。今頃、村も大慌てで色々な行動に出ている頃か。離れると不安が込み上げてくるが、攻められている可能性はほぼ無いと考えて良いだろう。

 それはザリュースがここまで無事にたどり着いたことがその証明だ。
 偉大なる方とやらが油断しているのか。それともザリュースのこの行動も手の中なのか。それは誰にも不明だ。ただ、今のところ相手は言ってきた約束を違える気も、戦争準備も阻止する気も無いということだ。
 
 無論、偉大なる方なる敵が阻止する気で動き出したとしても、ザリュースは自らの信じる行いをするほか無いのだが。

 ザリュースはロロロから降りると、背中を伸ばす。肉体的な疲労は、ロロロという安定感の無いヒドラの上に載っていたことによる筋肉の強張りぐらいだ。その強張りが背を伸ばすことで和らぎ、心地よさすら感じる。
 顔を見せだした太陽に対して手を掲げ、それを隠す。
 それからロロロにここで待っているように指示をすると、背負い袋から魚の干物を取り出し、朝食として与える。本当はこの辺りで自らの食事を調達するように指示したいところだが、レッド・アイ部族の狩猟場所を荒らしかねないことを考慮すると、そのような命令は出せない。
 ロロロの蛇の頭を全部、数度撫でるとザリュースは歩き出す。

 ロロロの近くにいてはヒドラを恐れてでてこない可能性がある。ザリュースは敵対的な意識を持つ使者としてではなく、同盟を結ぶためのメッセンジャーだ。相手をこれ以上威圧するのは望むところではない。
 
 ジャバジャバと水音を立てながら歩く。
 視野の端、レッド・アイ部族の戦士階級の者が幾人か、杭の壁越しに並行するように歩いていた。武装はグリーン・クローと何ら変わることが無い。鎧は何も着ず、手には木を削りだし先端に尖った骨をつけた槍。スリング用の紐らしきものを持っている者もいるが、石を備えてないところから、すぐに攻撃する意志がないことは見て取れる。
 ザリュースも下手に刺激しないように、注意を払わないように歩く。
 
 しばし歩き、ザリュースはおそらくは正面門だろうと思われるところまで来た。村を構築している範囲からすると、部族規模としてはグリーン・クローよりも若干小さいぐらいか。
 まぁ、数が全てはないのは事実。
 ザリュースはそこでこちらを警戒し、様子を伺っているリザードマンたちに向き直り、声を張り上げるた。

「俺はグリーン・クロー部族のザリュース・シャシャ。この部族を纏め上げる者と話がしたい!」

 声が聞こえた証拠として、幾人かの戦士階級らしきリザードマンたちが慌てだす。ザリュースはその場に立ったまま動かない。視界の中で数人のリザードマンが村の各所に離れていくのを確認したときも、武装した戦士階級のもの達が門の中で集まりだしたときも。

 やがて、さほど短くは無いが、長くは決して無い時間が経過し、1人の捻じれた杖を持った年配のリザードマンが姿を見せる。後ろには5人の屈強な体躯のものを連れて。年配のリザードマンは全身に白の染料で文様を描いていた。

 ならば祭司頭か。
 ザリュースはそう思い、堂々と迎え撃つ。今は対等だ。決して頭を垂れるわけには行かない。その祭司の視線が胸の焼印を確認するように動いたときも、ザリュースは不動の姿勢を保ったままだ。

「グリーン・クロー部族のザリュース・シャシャ。ある話を持ってきた」
「……良く来たと言わん。部族を纏め上げる者が会うそうだ。付いて来い」

 奇妙な言い回しに、僅かにザリュースは困惑する。
 何故、族長でないのか、という疑問だ。それに旅人であるザリュースが問題なく、部族を纏めるものと対話ができるというのも、微妙に違和感を覚える。というのも旅人という存在の地位はさほど高くないから。そのために兄より身分の証明になるものを借りてきたのだが、それの提出を要求されなかったというのも困惑の対象だ。

 ただ、部族を纏め上げるものとの対話は待ち望んでいたことだ。下手に話を振って、臍を曲げられては厄介だ。そのために違和感を覚えつつもザリュースは一行の後をただ、黙って付いていく。


 ◆


 案内された小屋はそこそこ立派なものだ。
 ザリュースの部族であれば兄のものよりも一回りは大きい。小屋の壁には珍しい染料によって文様が施され、住むものの身分の高さを証明している。
 気になる点といえば窓に相当されるものが無く、開いているのは所々にある風の取り入れ口ぐらいか。ザリュースたちリザードマンは闇の中でも平然と見通すことが出来る。しかし、それでも暗い中で生活するのが好きというわけではない。
 ならば何故こんな暗そうな小屋で生活しているのか。
 ザリュースは疑問に思うが、それに答えてくれるそうなものはいない。

 ザリュースは後ろを振り返る。案内してくれた祭司も共に連れ立った戦士たちも、皆すでにこの場にはいない。
 最初、案内してくれた者が全員離れると聞いたときは、ザリュースをして無用心すぎる行為だと思ったものだ。それとなく問いかけてしまうほど。
 というのもザリュースが会いに来たのは部族を支配する長だ。部族の者から軽く見られていては話にならない。
 しかし、この場から離れること。それが纏め上げるもの――族長代理の望みということを聞いたとき、ザリュースはこの小屋の中で待つ者の評価を一段高めた。
 武装した戦士たちに取り囲まれたとしても、兄にはああ言ったものの無事には帰れなくても良いと、内心では考えているザリュースに対しては効果は無いに等しい。逆にその程度かという失望感が先にたっただろう。
 しかし、来るだろう使者の腹の中まで読んだ上でこのような行動を取ったとするなら、かなり早く話は進むだろうし、ザリュースの身も保障されたようなものだ。
 遠くの方でこちらを伺っている者たちの存在は故意的に無視し、ザリュースは扉まで歩み、無造作に押し開ける。

 扉の中は想像どおり暗い。
 外との光量の差が、闇視を持つとはいえ、ザリュースの目をしばたてる。
 中から漂う空気には薬湯なのか、緑のツンとする匂いが混じっている。老年のリザードマンでもいるのだろうか。そんなザリュースの思いは容易く裏切られる結果となった。

「よく、いらっしゃいました」

 暗い室内から声が掛かる。それは非常に若い声だ。ようやく光の変化になれたザリュースの視界に1人のリザードマンが姿を見せた。
 白い。
 それがザリュースの第一印象である。

 雪のような白い鱗にはくすみもまるで無い無垢なものだ。つぶらな瞳は真紅――ガーネットの輝きを宿したかのようだった。スラリとした肢体はオスのものではなくメスのもの。
 全身を赤と黒の文様が描いている。それは未婚のものであり、ほぼ多種の魔法を学び、成人したものだ。

 ――槍で突き刺されたことがあるだろうか。
 ザリュースはある。一瞬、焼けたものを押し込まれたような激痛が走り、心臓の鼓動にあわせて痛みが全身を叩くものだ。そして今、まるでその感覚を味わっていた。
 痛くは無い。しかし――

 ザリュースは何も言わずに佇む。
 その沈黙をどう受け取ったのか、彼女は皮肉げな笑みを浮かべた。

「かの4至宝の1たるフロスト・ペインを持つ者でもこの身は異形に見えるようですね」

 アルビノは自然界では非常に珍しい。というのも目立つために生き残ることが難しいからだ。
 文明を持つリザードマンでも似たようなところがある。日光に弱く、視力も弱い存在が生き残れるほど確たる文明社会ではないのだ。そのために生きて成人することが珍しいアルビノは、生まれてすぐ間引かれることすらある。
 アルビノは通常のリザードマンからすれば、邪魔な存在であればまだまし、酷いときはモンスターの一種にも見られるのだ。
 事実、彼女は真紅の瞳を持っているがために崇拝されるが、それはあくまでもリザードマンとしての仲間ではなく、部族の捧げもの――旗印としての地位だ。
 リザードマンの仲間として彼女を扱ったものはいない。それは彼女の部族でも、だ。ならば他の部族の存在が彼女を見たとき、その反応は予測が付くというもの。
 そのために皮肉が思わず漏れたのだが、返事は返ってこない。

「――どうしました?」

 今だ扉の前に立ったまま、何も行動を起こさないザリュースに、中のメスリザードマンは訝しげに問いかける。いくら外見がこうだからといっても驚きすぎだ。なにかあったのか。そう彼女は困惑し――

 ――それには反応せず、ザリュースは一声鳴く。

 その鳴き声は語尾を高音に持ち上げ、ビブラートをかけたものだ。このビブラートの可変幅はある決まった高さである。
 それを聞いたメスのリザードマンは目を見開き、口を微かに開ける。驚きでもあり、困惑のためでもあり、そして照れたものでもある。
 
 その鳴き声はこういわれる。
 求愛の鳴き声と。
 
 そこで初めてザリュースは自分が何をしたのか。無意識に何を行ったのか理解し、人であれば赤面しただろうように、尻尾がばたつく。その激しい動きは小屋を壊すのではないかと思わんばかりだ。

「あ、いや、違う。いや違うではなく。そうではなく、えっと――」

 ザリュースの驚きや慌てようが彼女を逆に冷静にしたのだろう。メスのリザードマンはカチカチと歯を鳴らし微笑むと、ザリュースに困ったように問いかける。

「落ち着いてください。あまり暴れられると困ります」
「! ああ、すまん」

 ザリュースは頭をクィッと動かし、謝罪すると家の中に入る。その頃は一応は尻尾は垂れ下がり、なんとか冷静さを取り戻したようだった。ただ、ピクッピクと尻尾の先端が動くところから、完全には返ってないようだった。

「どうぞこちらに」
「――感謝する」

 家に入り、彼女に指し示されたのは床に置かれた、何らかの植物で編んだ座布団のようなものだ。ザリュースはそこに腰を下ろすと、彼女はその向かいに腰をすえる。

「お初にお目にかかる。グリーン・クロー部族が旅人。ザリュース・シャシャです」
「丁寧にありがとうございます。レッド・アイ部族の族長代理を務めさせていただいている、クルシュ・ルールーです」

 互いに自己紹介を終えると、値踏みをするように様子を伺いあう。
 暫しの沈黙が小屋を支配するが、いつまでもこうしているわけにはいかない。ザリュースは今は客人。ならば最初に話を振るべきは主人であるクルシュの番だろう。

「まず使者殿。お互いに硬くなって話すことも無いと思います。お互いに隠すことなく話したいですから、楽にしていただいても結構ですよ?」
「それは感謝する。固い口調での話には慣れてないもので」
「さて今回、こちらに来られた理由をお尋ねしても?」

 クルシュはそう言いながら、内心では大体の予測は出来ている。
 村の中央に突如として現れたアンデッドモンスター。さらに《コントロール・ウェザー/天候操作》の魔法。それが起こってから他の村の英雄とも呼ばれるオスが来たのだ。想像される答えは1つだ。ザリュースの返答にどう答えるか、そうクルシュは思い――すべてをぶち壊される。

「――結婚してくれ」

 ――――――。
 ――――――?
 ――――――?!

「――はぁあ?!」

 クルシュは一瞬、自らの耳が疑う。予想とかけ離れたというか、完全に違う世界の言葉を聴いた思いだ。

「確かに来た目的は違う。本来であればそちらを先に済ませてから行うべき話だとは俺も重々承知している。だが、自分の気持ちに嘘はつけん。愚かな男だと笑ってくれ」
「う、え、あぁ。はぁ……」

 生まれて以来一度も聞いたことが無い。そして自分には決して縁の無い言葉だと思っていたものを聞かされ、半ば、パニックに陥ったクルシュ。思考が混乱という名の暴風によって千切れ飛び、全然まとまらない。
 そんなクルシュにザリュースは苦笑いを浮かべ、続けて話す。

「すまん。大変、申し訳なかった。この非常事態に混乱させるようなことを言って。今の答えは後日聞かせてもらって構わない」
「う、あ、ああ」

 なんとか自らの精神を再構築、もしくは再起動に成功させ、クルシュは冷静さを取り戻す。しかしながらすぐに先ほどのザリュースの言葉が浮かび、熱暴走しそうになる。
 冷静に思えるザリュースだって自らの尻尾が動き出さないよう、精神の力を全て動員して押さえ込んでいる。そんな2人によって再び、沈黙のベールが舞い降りた。

 ようやく、十分な時間をかけ、一先ずは発言を心の奥に押し込んだクルシュは話の内容について真剣に悩む。そして先ほどまでの話の内容を思い出す。暴走しそうになる感情を必死に抑えながら。
 そうだ。ザリュースがここで来た理由を先ほど質問したんだ。
 クルシュは来た理由を再び尋ねようとして、それに対するザリュースの言葉を思い出した。

 ――聞けるか!

 バシンと一度、クルシュの尻尾が床を叩く。そんな尻尾の動きを目にし、ザリュースは自らの軽率な行動を恥じる。不快にさせてしまったかと思い、沈黙を選ぶ。
 やがてそんな互いの沈黙にじれたようにクルシュは口を開いた。

「この身を恐れないとは流石というべきですか?」
「?」

 クルシュの皮肉交じりの言葉に対して、何を言ってるんだろう、というザリュースの表情が迎撃する。

「?」

 クルシュもまた何考えてるんだろうこの人は、と疑問を浮かべる。

「この白き体を恐れないのか? といったのです」
「……かの山脈に掛かる雪のようだな」
「……え?」
「――綺麗な色だ」

 そんな言葉、一度も言われたことが無い。
 混乱しているクルシュを前に、ザリュースは無造作に手を伸ばすとクルシュの鱗にすっと手を走らせる。艶やかで磨かれたような綺麗な――そして僅かに冷たい鱗の上を、流れ落ちるようにザリュースの手が動いた。
 そして互いに何をしたのか、そして何をされたのか理解し、動揺が全身を駆け巡る。何故そんなことを思わずしてしまったのか、そして何故そんなことをされたのか。疑問が焦りを生み、焦りが混乱を生む。2本の尻尾がバシンバシンと家を叩く。家が揺れたような気さえする勢いで。

 やがて互いに顔を見合わせ、次に互いの尻尾の状況を認識し、時間が止まったのではという急な勢いで尻尾の動きは止む。

「…………」
「…………」

 重いと表現すべきか。それとも緊張感があるというべきか。沈黙が2人の上に降り、そして互いの様子をちらちらと伺う。

「……何故この時期になんですか?」

 クルシュの言いたいことが理解できたザリュースは単純に答える。

「一目ぼれという奴だし、今回の戦いで死ぬかもしれんから後悔の無いようにな」

 非常に素直な、自らの感情をまるで隠しもしないその言葉にクルシュは一瞬だけ詰まる。しかし、どうしても納得のいかない言葉に、我を取り戻し、更なる質問とする。

「……かの剣、フロストペインを持つ方が死ぬと思われているのですか?」
「相手は今だ未知数の敵。油断はできまい?」
「それほど強いと?」
「……伝言を持ってきたモンスターを見たことがあるか? 俺の村に来たモンスターはこんな姿をしていたのだが」

 ザリュースのモンスターの描写を受け、クルシュは首を縦に振った。

「ええ。同じモンスターですね」
「アレがどんなモンスターかは知っているか?」
「いえ、申し訳ないですが。私の部族のものは誰も知りませんでした」
「そうか……あれとは一度遭遇したことがあるが」そこで言葉を止めると、ザリュースはクルシュの態度を伺うように話す「俺は逃げ出した」
「――え?」
「勝てなかった。いや、勝てたかもしれないが、良くて半死半生だっただろう」

 クルシュはあれがそれほど恐ろしいアンデッドだったのか。そう理解し、戦士たちを抑えたのは正解だったと安堵する。ザリュースはそんなクルシュの内心には気づかずに、そのまま話を続けた。

「あれは精神をかき乱す絶叫を吐き出す攻撃方法を保有している。さらには非実体のモンスターで、魔法の掛かってない武器での攻撃は無効化する能力も持っている。数で押しても勝てんよ」
「私達ドルイドの魔法に、一時的に剣に魔法を付与するものがありますが……」
「……精神を混乱させる絶叫の能力は防げるか?」
「抵抗力を強化することはできますが、全員の精神を守るのは少々力が足りません」
「なるほど……それは祭司の誰にでもできるのか?」
「抵抗力の強化であれば殆どの祭司が。精神を完全に守るのであれば、この部族では私だけです」

 ザリュースはそこで彼女が単なる立場だけ与えられたものではないと認識する。つまりは魔法の力では彼女こそこの村では最強なのだ。
 ならばやはり彼女に真なる意味で理解を求めた方が早い。
 ザリュースは隠すことなく、クルシュに話すことを決定する。

「レッド・アイ部族は何番目に襲うという話だった?」
「4番目ですね」
「そうか……それでどうするつもりなのか聞かせていただきたい」

 しばらくの時間が流れる。
 考えていたのはクルシュからすれば話すことに何のメリットがあるだろうかということだ。グリーン・クローは戦うことを選んだ。ザリュースはそのために共に戦ってくれという同盟を組むために来たのは予測できる。ではどうすればレッド・アイにとっての利益になるか。
 元より同盟を組む気はない。レッド・アイ部族の見解としては避難という方向に意見は固まっている。しかし、それを素直に言葉にして良いものか。

 そう考え、思考の渦に飲み込まれたクルシュに、ザリュースは目を細め、独り言のように話しかける。

「本音で話させてくれ」

 何を言い出すのか。クルシュは自らの考えを一時中断し、ザリュースに注目する。

「今回警戒しているのは避難した後の話だ」
「?」
「仮に今住み慣れた場所を移して、今と同じように生活していくことが可能だと思うか?」
「無理……いえ、難しいでしょう」

 そうだ。少し考えれば誰でも理解できることだ。この場所を離れて新たな生活圏を作るということは、その場所の生存をかけた戦い――生存競争に勝つ必要がある。そしてリザードマンは別にこの湖の覇者というわけではない。この湿地だって長い年月で獲得したもの。
 そんな種族が、見知らぬ場所で容易く生活圏を構築できるはずが無い。

「つまりは食事も満足に取れないときが充分にありえるということだな」
「そうですね」

 何を言いたいのか、理解できずに思わず棘の生えた怪訝そうな声で答えてしまう。

「では、もし周辺5部族が同じように避難した場合はどうなると思う?」
「それは――!」

 それを考え、彼女は言葉に詰まる。ザリュースの本当に言いたいことが理解できたためだ。
 只でさえ新たな生存競争に飛び込むに当たって、主食となる魚を競合する存在がさらに出来た場合はどうなるというのか。それは恐ろしい事態へ発展しかねない。かつての戦いのように。
 それを踏まえてザリュースの提案を考えた彼女は驚愕すべき答えに結びつく。

「まさか……勝てるかどうか不明な戦いを行うのも……」

 彼女が兄であるシャースーリューと同じところまで答えが出たことを認識したザリュースは草臥れたように笑う。

「……そうだ。他の部族も含めた、数減らしも考えに入れている」
「そのために!」

 そのために軍勢を構成して戦うといっているのだ。例え負けると分かっていても関係なく。ただ、リザードマンの数を減らすためだけに。
 生存競争に戦えるだけの戦士、狩猟班、祭司以外は死んでも構わないという考えは極論ではあるが得心がいく。いや、死んでもらった方が長期的に判断するなら、正解かもしれない。
 単純に数が減れば食料も少なくてすむ。そうすれば新たな場所でも、もしかしたら争うことなく生存できるかもしれない。5部族が逃げ込むよりは可能性は高い。

 クルシュは必死でその考えを否定する意見を探す。

「――その新しい場所がどれほど危険かもしれないのに、最初から数の減った状態で始めろというのですか?」
「では聞かせてくれ。もし仮に生存競争に容易く勝てたときはどうするのだ? もし主食となる魚が少なくなったら。今度は5部族で殺しあうのか?」
「魚も良く取れるかもしれないではないですか!」
「取れなかったら?」

 彼女はザリュースの冷たい問い返しに詰まる。ザリュースは最悪に近い事態を想定した上で行動を起こしている。彼女は希望的観測を主に考えている。彼女の考えでは悪い事態が起こったときに惨事となるだろう。
 しかし、ザリュースのアイデアならそうはならない。しかも敗北して成人したリザードマンたちの数が減ったとしても、それは名誉ある戦死だ。同族で食事を巡っての殺し合いではない。

「……もし拒絶されたなら、この部族に対して最初に戦いを挑む必要があるだろう」

 ザリュースの暗い声に彼女はぞっとしたように、前に座る男を見据える。
 言っていることは他の部族からすると妥当なことだ。単純にレッド・アイ部族のみ、体力を保ったまま別の場所には行かさないということだ。
 数を減らされた部族が向かった先で、戦士階級以上のリザードマンを温存しているレッド・アイ部族に滅ぼされるという危険性を考えるなら、回避手段はそれしかないだろう。それは部族を預かるものとして当然の考えだ。

「ただ、逆に同盟を組んでいれば、敗北したとしても向かった先で、まだ部族間の殺し合いになる可能性が低いのではないかと思っている」
 
 不思議そうな表情をした彼女に苦笑を浮かべつつ、ザリュースは共に戦った仲間という共通認識を得るということだ、と説明した。
 彼女は良く考えていると思うしかなかった。共に血を流し合った部族であれば、食料状況が悪くなったとしても直ぐに殺し合いには発展しない可能性があると言いたいのだと。
 しかし、それは彼女の考え、そして経験からするとどうだろうと思うしかない考えでもある。

 僅かに俯き、黙って自らの考えに没頭し始めた彼女から眺めたまま、ザリュースは疑問に思っていたことを口にする。

「話は変わるのだが、この部族はどうやってあの時期を乗り込めたのだ?」

 突如、クルシュの顔が跳ね上がった。質問したザリュースが驚くような反応だ。
 クルシュは目を細め、ザリュースを凝視する。まさに穴が開きそうなそんな鋭い視線。それほどの視線を向けられる理由が浮かばずザリュースは困惑する。

「――それを言う必要があるのですか?」

 吐き捨てるような口調。憎悪に満ちた、まるで話していた人物が変わったのでは、そんな錯覚すら引き起こしかねないクルシュの変化だ。しかし、ザリュースにしても引くことは出来ない。もしかしたら全てが救われる答えがあるかもしれないのだから。

「聞かせて欲しい。祭司の力か? それとももっと別の業があるのか? もしかしたらそこに救いが――」

 そこまでザリュースは言って、言葉に詰まる。もし救いがあったとしたら、クルシュはそんな辛そうな姿を見せるだろうか。ザリュースはほんの少し前の自分を愚弄したい気持ちで膨れ上がる。少し考えればなんとなく予測できただろうと。
 クルシュはそんなザリュースの心の動きが理解できたのだろう。まるで全てを自らも含めた全てを嘲笑うように鼻を鳴らす。

「正解です。そこに救いなんかありません」そこで言葉を止め、疲れたような笑いを浮かべて「私達が行ったのは同族喰い――子供達を食らったのですよ」

 ザリュースをして口が利けないほどの衝撃が襲う。そしてそれと同じぐらい秘密にしたいことであろうことを話してくれたクルシュの精神的な安定性に不安を抱く。何故話してくれたのか、と。
 
 クルシュにしても何故話したかは不思議だった。
 こんな話を他の部族の者にすることがどれだけ軽蔑される内容かは十分に理解している。それなのに何故――。
 やがて何かを決意したのか、吹っ切ったのか。クルシュは話し始める。

「あの頃――他の部族が戦を始めた頃、やはり私たちの部族でも同じように食糧不足からかなり不味い状態になっていました。しかし私達の部族が戦に参加しなかったのはレッド・アイは祭司の数が多く、戦士達が少ないという部族構成のためです。どういうことかというと祭司の数が多い分、魔法で食料が作り出せたからです」
「ただ、祭司の魔法で作り出せる食料も部族全体からすると微々たる量です。ゆっくりと死に向かって
緩慢な滅びの道を進むしかなかった。しかし、ある日、族長が食料を持ってきたのです。真っ赤な肉を」

 ギギギとクルシュの歯がきしむ。
 ザリュースは彼女がかつての族長に対し、敵意を持っているのか。そう思い、そして否定する。クルシュの表情は族長に対する憎悪で歪んでいるのではないと。

「その肉がなんの肉か。皆薄々と理解はしていました。だって少し考えれば理解できることではないですか。ですが、目を閉じてその肉を食べていったのです、生き残るために。ただ、そんなものが長く続くわけが無い」
「魚が取れ始めたとき、溜まった不満は一気に爆発しました」クルシュは笑う「それを食べていたのは、理解しながら食べていたのは私達も一緒だというのに。本当に今、思えば滑稽ですね」

 ザリュースは何も言わない。言う資格も無い。そんなザリュースに特別な反応を示すことなく、クルシュは続ける。

「……私の目を見てください。私達の部族レッド・アイは時折、私のような瞳を持って生まれてくるものがいます。そういうものは長じて何らかの才――私の場合は祭司の力ですが、を発揮します。そのために族長に継ぐ権力を持つこととなるのですが……私達が集って族長に反旗を翻したわけです」
「そして結局数が減ったことによって餌が回るようになった」
「そうです」

 クルシュは肯定する。その視線はザリュースを正面から見つめているが、その奥になる過去を思い出しているようにぼんやりとしている。

「……族長は正しかったと今は思うんです。結果として食事が回るようになり、私達の部族は生き残れました。あの反旗を翻した時――あの時、族長は最後まで決して降伏することなく、無数の傷をつけて死んでいきました。その最後の止めを刺したその瞬間、私に笑いかけたのです」

 血を吐き出すようにクルシュは言葉を紡ぐ。
 族長を殺したときから、彼女の心に徐々に溜まっていった膿だ。クルシュを信じ族長と戦った――この部族のものには決して言えなかったであろう膿を、ザリュースという人物の前でようやく吐き出すことが出来たのだ。そのために言葉は止まることがない。水が上から下に流れるように。

「あれは殺した相手に投げかけるものではない。憎悪も嫉妬も敵意も呪いも何も無かった。非常に綺麗な笑顔だった! 族長は現実を見据えた上で行動して、私達は……私達は理想や敵意のみで行動したのではないか。本当に正しかったのは族長ではないか! いつもそう思うのです! 族長が殺されることで――諸悪の根源とされた人物が死んだことによって再び私達の部族は纏まりました。しかも数が減ったことによる食糧事情の回復という大きな土産まで付いて!」

 そこまでが彼女の限界であった。
 クークーと微かな鳴き声を上げ、生物の構造的に涙は大きくは流れ落ちないが、精神的に泣き崩れる彼女の肩をザリュースは近寄り、優しく抱きしめる。

「――俺達は全知でも全能でもない。その場その場で行動を決めるしかないのだ。俺だってもしかしたら同じ立場ならそうしたかもしれん。だが、慰めは言いたくはない。正しい答えなんかこの世にあるものか。ただ、俺達は歩くだけだ。後悔や苦悩で足の裏を傷だらけにしながら。お前も歩くしかない、そう俺は思う」


 しばらく時間がたち、クルシュはザリュースから体を起こす。

「無様な姿を見せました? 軽蔑しましたか?」
「どうして?」心底不思議そうにザリュースは問いかける「何処が無様なんだ。それに道を苦悩しながら、傷つきながらそれでも進む者を、無様と思うほど、愚かなオスに俺が見えたのか? ……お前は美しい」
「――! ――!!」

 尻尾がのたうち、床を数度叩く。

「……やばいなぁ」

 ポツリと呟くクルシュに、その言葉の意味を問い返さず、ザリュースは他の質問を投げかける。

「現在、レッド・アイは魚の養殖は行っていないのか?」
「養殖?」
「そうだ。主食となる魚を自分達の手で育てることだ」
「そのようなことは行ったことがありません。取れる魚は自然の恵みですから」
「それは祭司――ドルイドとしての考えらしいが、歪めることができるか? 食べるために魚を育てるという考えに。俺達の部族の祭司たちは同意したが」

 クルシュは自らの部族の祭司たちを思い返し、コクンと首を縦に動かす。

「……可能でしょう」
「ならば魚の養殖の仕方を教えておこう。重要となるのは魚に与える餌だ。これはドルイドたちが魔法で作る果実を使うんだ。あれを与えることでより良い成長をもたらしてくれる」
「その技術を教えてもらっても本当に構わないので?」
「当然だ。隠しても仕方ないし、教えることで多くの部族が助かるなら提供は当然だ」

 クルシュは深々と頭を下げる。養殖という技術はリザードマンのどの部族も持ってないものだ。どれだけの価値があるかは深く考えないでも分かる。それを提供するというのなら。どれだけ頭を下げても軽いものだ。

「感謝します」
「感謝は……しなくてもかまわん。その代価として聞きたいことがある」

 ついに来たか。
 ザリュースの真剣な顔を見、逃げたかった質問が来ることをクルシュは確信する。

「レッド・アイ部族はまもなく起こるであろう戦に対して、どのような方針を採るか聞かせて欲しい」
「……現在、昨日の話し合いでは避難と決まっています」
「では、族長代理クルシュ・ルールーに問う。今も同じ考えか?」
「……」

 クルシュは答えない。
 今する返答で、レッド・アイ部族の運命が決まると思うと、答えてよいのか自信がわかないのだ。 
 その不安がザリュースにも感じ取れたのだろう。ただ、困ったように笑うのみだ。

「……お前が決めることだ。かつての族長がお前に笑いかけたのは、お前こそが次の族長だと予測したからだ。ならば族長代理としてその使命を果たすべきだろう。俺は話すべきことは全て話した。あとはお前が決めるだけだ」

 それを聞き、クルシュは微笑む。

「族長代理として聞きます。どの程度が避難民として逃がすつもりなんですか?」
「予定している各部族の避難民は戦士階級10、狩猟20、祭司3、オス70、メス100、子供多少を予定している」
「……それ以外は?」
「――場合よっては死んでもらう」

 予期していた答えを聞かされ、クルシュは黙って虚空を見上げる。そしてポツリと呟いた。

「――そうですか」
「それで結論を聞かせて欲しい。レッド・アイ部族族長代理クルシュ・ルールー」
「…………」

 その言葉に答えを返さずに。クルシュは黙ったまま考える。ザリュースもまた詰め寄るようなことはせずに、ただ黙ってクルシュの答えを待つ。
 
 クルシュは様々な案を練る。
 ザリュースを殺すことも無論、想定して。殺した後、村の全員で逃げればどうか。彼女はその考えは破棄する。将来的に非常に危険な賭けだ。大体、本当に彼、一人でここまで来たという保証はどこにもない。
 ならば彼に約束した後で逃げ出すというのはどうか。これもまた問題だろう。下手したらレッド・アイ部族と戦うことで――戦う相手を変更することで、間引きを行う方向に計画を変更しかねない。結局、もし同盟を組まないといえば、その答えを持った上で部族に帰り、レッドアイを滅ぼす軍を連れてくるだろう。
 ただ、ザリュースが気づいていないのか、1つだけ穴がある。しかしながら、結局、食糧問題は付いて回る問題だ。

「そうですか……」

 クルシュは悟ったように笑う。
 最初っから話は詰んでいるのだ。彼にこの話を聞かされた時点で。グリーン・クローが同盟を組もうと動き出した段階で。レッドアイ部族が生き残る方法は同盟に参加し、共に戦うしかないだろう。それはザリュースも理解している。
 それにもかかわらず、答えを――クルシュの答えを待っているのは、同盟を結ぶに足りるリザードマンが指揮しているかどうかを見定めようとしてるのだ。

 あとはその決定を口から出すかどうか。
 
 ただ、その言葉を口に出せば多くの命が奪われるということに他ならない。しかし――

「2つだけ言わせて欲しい。1つ目は俺達は死ぬために戦うのではない。勝つために戦うんだ。なんだかんだ不安を感じさせることを言ったかもしれないが、全て敵に勝てば心配しすぎただけだという笑い話で終わる。そこだけは間違えないでくれ」
「そして2つ目だ。奴らは俺達に価値を示せといった。ならば逃がしてくれるのか。逃げた場合はそれが価値を示したと判断するのではないかという不安があるということだ」

 クルシュは了解したと頷く。
 ほんと、このオスは優しい。そう感じながら、自らの決定を口に出す。

「……我々、レッド・アイもあなた方に協力しましょう。族長の笑顔を無意味なものにしないために。そして最も多くのレッド・アイ部族のものが生き残れるように」

 深々と頭を下げるクルシュ。
 ザリュースの胸の内に無数の言葉が生まれる。だが、強い決意を込めた彼女の言葉に、答えられるものはたった一つしかない。

「――感謝する」

 同じくザリュースを頭を下げた。


 ◆


 早朝。
 ザリュースはロロロの前でレッド・アイ部族の門を眺めていた。
 思わずクワッと大きく口を開け、欠伸をする。昨晩遅くまでレッド・アイ部族を巻き込んだ会議にオーバーザーブとして参加し、少々眠いのだ。しかし時間はあまり残っていない。本日中にもう1つの部族のところまで着く必要がある。
 
 ――眠い。
 ザリュースは再び欠伸をする。今なら安定感は悪いがロロロのうえでも眠れそうな気がする。

 昇りだした黄色にも思える太陽の方を眺め、それから門へと視線を戻したザリュースは困惑する。
 門から出てくる異様な存在がいたのだ。
 それは草の塊だ。
 短冊状の布や糸を多数縫いつけて垂らした服に、雑草がところどころから生えている。湿地で横なっていれば遠目から見たら、単なる草としか判別できないだろう。
 
 ああ、あんなモンスターを何処で見たことがあるな――。
 
 旅人として旅をする中で見た光景を、ザリュースは思い出してしまう。後ろのロロロが警戒したような低い鳴き声を上げる。
 無論、それが誰なのか、ザリュースは理解している。間違いようが無い。僅かに白い尻尾がそれから少しばかり顔を覗かせているからだ。
 ピコピコと機嫌よさそうにゆれる尻尾をぼんやりと眺めながら、ロロロを落ち着かせている間に、その草の塊はザリュースの元まで到着する。

「――おはようございます」
「ああ、おはよう。……問題なく部族は纏め上げれたみたいだな」

 視線を動かし、レッド・アイの住居を眺める。朝から殺気だった雰囲気で、忙しそうに色々なリザードマンが走っている。並んで同じ方角を見ながら、クルシュも答えた。

「ええ。問題はありませんでした。本日中に教えてもらった場所に出立できるはずです」
「それでクルシュがこちらに来た理由は?」
「簡単です、ザリュース。あなたはこれからどうするのですか?」

 夕方から早朝までかけて行われた会議で、もはや互いの名を呼ぶのに違和感は無い。

「俺はこれからもう1つの部族、竜牙<ドラゴン・タスク>部族の元に向かうつもりだ」
「そうですか……。ならば私も同行しましょう」
「――何?」
「不思議ですか?」

 ばさばさと草の塊が動く。顔を見ることができないから、どのようなつもりで言ったのか不明なためにザリュースをしても反応に困る。

「不思議というか……危険だぞ」
「危険じゃないところが今、あるのですか?」

 ザリュースは口ごもる。冷静になって考えれば、クルシュを連れて行くことはメリットが大きい。しかし、危険が分かりきった場所に惚れたメスを連れて行くというのは、オスとして嫌なのだ。

「――冷静ではないな、俺は」

 草に隠れて見えないが、僅かにクルシュが笑ったようだった。

「……しかしその格好は?」
「似合いませんか?」

 似合うとかそういう問題ではない。しかし褒めたほうが良いのか? ザリュースは答えに迷い、問い返すこととする。

「似合うといった方が良いのか?」
「まさか」

 ばっさりと断ち切るクルシュ。ザリュースの体から力が抜けたのも仕方が無いことだろう。

「単純に太陽の光は私には辛いのです。ですので外に出るときは大抵これを着ているんです」
「なるほど……」
「それで私が共に行くことに賛成してくれますね?」

 言っても無駄だろうし、彼女がしっかりと部族に言い聞かせていたところは昨晩確認した。それに彼女を連れて行くことは、同盟を組むという目的で考えても有利に運ぶはずだ。もはや反対意見が無い。

「……わかった。力を貸してもらうぞ、クルシュ」

 本当に心の奥から嬉しそうにクルシュが答える。

「――了解しました、ザリュース。任せてください」
「出発の準備はできているのか?」
「勿論です。ちゃんと背負い袋に詰め込んでいます」

 言われて背中の辺りを注意してみてみると、草に僅かにこぶができている。
 ザリュースは納得すると、ロロロの後ろに昇る。遅れてクルシュも昇った。草が自らの体を昇る異様な感覚に、ロロロが不満げにザリュースを睨むが、それを何とか押し宥める。

「では行くぞ、安定感が無いから俺に掴まってくれ」
「分かりました」

 クルシュの腕がザリュースの腰に回り――ちくちくとした草の感触がザリュースをくすぐる。

「……」

 なんとなく予想していたのと違う感触に、ザリュースは口を曲げる。

「――どうしましたか?」
「いや、なんでもない。行くぞ?」
「ええ、お願いします。ザリュース」

 何が嬉しいのか。
 非常に楽しげなクルシュの声を聞き、ザリュースはロロロに進むように指示を出す。



 ■



 竜牙<ドラゴン・タスク>族。
 この湖にかつて存在した7部族中、5年前の戦の際に参加しなかった部族の名である。部族の掟としては強さこそ全てという考えがあり、全部族間最大の武力を持っているとされている。
 今回の戦いにおいて最も協力を要請しなくてはならない部族であろう。

 しかしながら他の部族との交流が無いために、どのような部族なのか。現在の族長は誰なのか。そういった情報がまるで無いために行くこと自体非常に危険が予測される。しかも先の戦いで滅びた2つの部族の生き残りを迎え入れたということがより一層危険を高めていた。



 前方に見えた村を視界に入れながら、腰に手を回し密着したオスの顔を、クルシュは呆れたように横から覗きこむように眺める。表情は初めて会ったときから、何も変わらない真面目なものだ。

「本気でこのまま乗り込むのですか?」

 正気を疑うようにクルシュは前に座るオスに尋ねる。

「ああ、今度向かう部族はクルシュのところとは違う。伝え聞くなら強さこそ重視されるところだ。下手にロロロから降りて向かえば、族長に会うまでに問題が生じるだろうからな。それに……敵意を向けられる理由は充分にある」

 何かの確信を持ったザリュースの答えに、クルシュは無数に浮かんだ言葉をかき消す。自らよりも世界について知っているものが言うことなのだ。まさか何の情報も無くこの部族に会いに来たわけではないだろう。
 ならば信頼するしかないだろう。

 ロロロに乗ったまま村に近づいていく。
 ロロロを視認していたのであろう幾人もの戦士たちが手に武器を持って、油断無くザリュースたちを監視する。これ以上近づけば戦いになる。そんなピリピリとした空気が立ち込める限界まで接近すると、ザリュースはロロロを止め、上から降りる。遅れてクルシュも下に降りた。
 戦士たちの幾つもの鋭い視線が2人に向けられる。ザリュースは一歩だけ前に出た。
 そして半身でクルシュのことを隠すと大声を張り上げる。

「――俺はグリーン・クロー部族のザリュース・シャシャ。この部族を纏め上げる者と話がしたい!」
「私はレッド・アイ部族、族長代理クルシュ・ルールー。同じく部族を纏める者に会いにきました」

 その瞬間――ぐわんと空気が大きく動く。まるで感情が質量を持って襲い掛かってきたようだ。
 ロロロの4つの頭が瞬時にのたうち、大顎を開けると周囲を威圧の唸り声をあげつつ、睥睨するように頭を動かす。高く続く唸り声を受け、怯えたように空気が一瞬だけひるむ。
 しかしそれでもなお、無数の敵意ある目が、2人を射抜かんばかりに押し寄せてくる。これほどの憎悪はクルシュにしてみれば初めて経験だ。少しばかり胃が滲みあがるような感触に襲われる。僅かに身震いしたためだろう。纏っている服が揺れ、刺した草が互いに擦りあい大きな音を立てる。
 すいっとザリュースがクルシュの前に動いた。
 それが何の意味でかは考えるまでも無い。

「……庇わなくてもこの程度問題ないけど」
「庇うつもりは無い。ここに来ると決めたのはクルシュなのだから。ただ、元々この視線を受けるのは、部族を滅ぼした俺にこそ相応しい」

 クルシュは何も言わずに前に立つオスを、なんとも表現のつかない感情を持って眺める。無論、服の下のため、誰も見られないのだが。

「重ねて言う! 俺はグリーン・クロー部族のザリュース・シャシャ。そしてこの者はレッド・アイ部族の族長代理クルシュ・ルールー。この部族を纏め上げる者と話がしたい!」

 戦士たちが予想以上に集まりだすが、誰も族長らしきリザードマンをつれてきた形跡は無い。ザリュースは不動の姿勢を崩さないが、何かが起これば瞬時に行動するだけの心構えを既に終わらせている。そして後ろに庇ったクルシュも何らかの事態には瞬時に魔法を使うだけの覚悟をしている。
 ロロロが警戒の唸り声を発するだけの静かな空間。その場にいるどのリザードマンも警戒を緩めない。そんな中――

「っ!」

 ――小さく聞こえる、ザリュースの息を呑む声。それに反応しクルシュもザリュースが驚いた先を見、そして息を呑んだ。

 それを一言で表すなら、異形。
 250センチを超えるだろう巨躯のリザードマンがゆっくりと、しかしながら確実に2人の方に向かってくるのだ。それだけなら異様という言葉は相応しくないかもしれない。だが、そんな表現が正しいには訳がある。
 まず――右腕が太く大きい。シオマネキの片方の鋏が大きいのと同じような異様な外見である。いや、左腕が細いのではない。左腕だってザリュースと同等はある。ただ単純に右腕が太いのだ。
 左腕の指は薬指と小指が、根元より無くなっている。
 口は何かに切り裂かれたのであろう、後ろの方まで裂けている。尻尾は潰したような平べったいものであり、リザードマンというよりはワニのものをくっつけたように思える。
 そんなクルシュをして、自らよりも異形と思ったほどだ。

 だが、それら全ての外見よりも、何より目を引いたのは――胸に押された焼印だ。
 そんなリザードマンがザリュースたちをしげしげと眺め――
 
 ――乾いた木をぶつけ合う様な擦れるような音が漏れる。それは異形のリザードマンの鋭い歯がすり合っているのだ。それは恐らくは笑い声。

「よくぞ来たな。フロスト・ペインの持ち主」
「お初にお目にかかる。俺はグリーン・クロー部族のザリュ――」

 そこまで言うと異形のリザードマンはいらんいらんとでも言うかのように手を振る。

「名前だけ聞こうじゃねぇか」
「……ザリュース・シャシャ。それでこちらがクルシュ・ルールーだ」
「そっちはもしかして……植物系モンスターか? まぁ、ヒドラを連れてるし、別のモンスターを飼いならしていても不思議ではねぇか」
「……違います」

 服を脱ごうと動きかけたクルシュに対し、再びいらんいらんとでも言うかのように手を振る。

「冗談を本気にするな。めんどくせぇ」
「――っ」

 ざわざわと草を動かすクルシュを退屈そうに見て、それからザリュースに視線を動かす。

「んで、来た理由を聞こうか?」
「そちらの名前を聞いても良いだろうか?」
「ああ、俺は竜牙<ドラゴン・タスク>族長、ゼンベル・ググーだ」

 ニヤリと歯を剥き出しに笑うゼンベル。予測された答えと言え、旅人が族長を勤めているという事実にクルシュは驚きを隠せない。しかしながらその反面、納得のいく答えでもある。これほどのオスが単なる旅人であるはずが無いという。
 そんな風にクルシュが納得する中、ザリュースはまるで驚いていないように平静を保った声で話を続ける。

「なるほど。ではつい最近奇妙なモンスターがこの村には来なかっただろうか?」
「ああ、あの偉大なる者の使いな」
「来たのなら話は早い――」

 話しかけたザリュースに対し、ゼンベルは手を上げてその言葉を止めさせる。
 
「俺らが信じるは強者のみ。その言葉を示したいのであれば剣を取るんだな」

 ザリュースの前に立った巨漢のリザードマン。竜牙<ドラゴン・タスク>族長、ゼンベル・ググーは切り裂かれた口をニヤリと笑みの形に変える。鋭い牙が剥き出された。

「なっ」
「……なんとも分かりやすい言葉だ。ドラゴンタスクの族長よ。時間を無駄にすることの無い言葉だ」
「かかかか――」


 ◆


 強いものが族長として選ばれる。リザードマンであれば当然のことである。しかしながら部族の存続をかけた問題に対しても、そんなことで良いのだろうか。
 クルシュはそう思い――それから自らがそんなことを考えたことを不思議に思う。

 今の自らの考え方はリザードマンのものではない。普通のリザードマンならゼンベルの発言に対して不思議にも思わなかっただろう。実際、周囲の戦士達は納得した様子をみせている。
 ならば自分はどうして?
 何者かに魔法的な攻撃を受けたのだろうか。そんなわけが無い。魔法等に関してはリザードマンの殆どに負けない自信がある。その自信は魔法の攻撃なんか受けてないと騒いでいる。

 不思議に思い、クルシュはザリュースを伺う。

 ザリュースとゼンベル。
 二人が並ぶとまるで子供と大人のようだ。ザリュースは小さいわけではない。ゼンベルが大きすぎるのだ。さらに筋肉の盛り上がりも半端ではない。ザリュースとは一回りも違う。
 体の大きさで全てが決まるわけではないのは、クルシュも知ってはいる。しかし、それでもこれだけの差を目の当たりにすると、嫌なものが心を支配しようと蠢くのを抑えきれない。

 嫌なもの?
 
 自らの心のうちに浮かんだ、その奇妙な感情に意識の手を伸ばす。なぜ、クルシュは嫌なものを感じているのか。いや、予測は付く。

 そしてクルシュはかすかに笑う。

 ――本当に自分は愚かだ。あんな簡単に――。いや種族的な種の保存という奴はそういうものなんだろうか。

 クルシュは再び笑い、ザリュースの肩を叩く。

「準備で足りないものは無い?」
「無いな。何ら問題は無い」

 クルシュは再び、その肩を叩く。
 たくましい肩だ。
 肩に手を置いたまま、ふとそんなことを考えてしまう。クルシュがオスの体を触るときなんて、魔法をかけるときぐらいなものだ。恐らくは服越しとはいえ、既に生まれてきてからオスを触った時間よりもザリュースには触れている気がする。

「……どうした?」

 今だ手を離さないクルシュに違和感を感じ、ザリュースは問いかける。

「――え?! ああ、えーと、祭司の祈りよ」
「なるほど。クルシュの部族とは違っても助けてくれるか、祖霊は?」
「我が部族の祖霊はそれほど心が貧しくは無いわ。頑張って」

 ザリュースの肩から手を離し、クルシュは祖霊に祈りと謝罪を送る。

 そんな中、2人から少し離れたところで、ゼンベルは右腕一本で巨大な槍――3メートル近い鋼の槍、ハルバードを掴む。普通のリザードマンであれば両腕でなければ使えないような行為を可能とするのは、その異様な巨腕だ。
 そして無造作に――一閃。
 なぎ払うように振り回されたそれは、少し離れたところにいるクルシュに届くほどの風を引き起こす。

「か…大丈夫?」
「さて……何とかはするつもりだ」

 勝てるかと聞こうとし、クルシュは止める。勝たなくてはならないと理解した上でザリュースは戦うのだ。ならばこのオスが負けるはずが無い。
 たった1日の旅、出会ってからは2日にしかならないが、それでも理解できることがある。

「さて、準備はできたか、フロストペインを持つ者よ」
「問題は無い」

 無造作に背中をクルシュに見せ、ザリュースは戦闘となるべき円陣の中に歩く。
 はぁ、とクルシュはため息をついた。その思わず目で追ってしまう後姿に溢すように。



 クルシュが長い間――実際はさほどなんだろうが――手を置いた肩から温もりが薄れていく。
 これより行うのは族長を決めるときに行う戦闘の略式だと思えば良いだろう。そうなると一騎打ちのため、魔法等をかけて戦うのは違反行為だ。
 温もりが心をざわめかせた時、クルシュが手を離さなかった時、防御魔法でもかけたのかと思った。しかし魔法をかけた気配は無い。
 それなのに何故、ここまで心が沸き立つのか。

 これは自分がオスだからか。メスに良いところを見せたいと思う気持ちか。

 ザリュースは強敵を相手にそんなことを考え、笑みをこぼしてしまう。
 自分もオスなんだなぁと理解して。枯木だ、と兄に言われたが……そんなわけではないということの証明を受けて。

 リザードマンたちによって作られる円陣の中に入り、腰に下げたフロスト・ペインをすっと掲げる。ザリュースの戦闘意志に反応するように、刀身に霜のような白いものが纏わりつく。
 ざわりと周囲のリザードマンたちがどよめいた。
 それはかつてのフロスト・ペインの持ち主を知っているシャープ・エッジ部族の生き残り達だ。それ以外にもフロスト・ペインの力を目の辺りにした者たちの。
 フロスト・ペインの真の持ち主しか引き出すことのできない能力の発動を前にして、ゼンベルの凶悪な顔が歓喜に崩れた。いや歓喜といってよいのか。それは歯を剥き出しにした唸りたてる獣のものだ。

「殺すのは望むところではないのだが?」

 挑発するようなザリュースの発言を受け、周囲の戦士達の感情が悪い方に一気に上り詰める。しかし――。桁外れなまでの水飛沫と水面を叩く音が瞬時に冷静さを取り戻させる。ゼンベルが自らの持つ槍の穂先を湿地に叩きつけたのだ。

「ほう……ならば俺に負けだと思わせな。それに……満足か?」
「……満足した。お前は確かにこの部族を纏め上げている」
「きさまら聞け! もし俺がこの戦いで死んだら、こいつがお前達の族長だ! 異論や反論、うざってことは一切認めねぇ!」

 納得したわけではないだろう。しかし、周りの戦士たちから反論の声は出ない。事実ザリュースがゼンベルを殺したとしても、歯を噛み締めながら従うだろう。そう感じさせるだけのカリスマをゼンベルは有していた。

「俺は旅人なんだが……?」
「関係ねぇな。俺達の部族は強者こそ偉大な存在だ。お前が旅人だろうと別の部族だろうと、な。だから殺す気で来い。俺はお前が戦ってきた中でも最高級の相手だろうよ」
「確かに……了解した。それと俺が死んだ場合――」

 ちらりとザリュースの視線が後ろにいるクルシュに動く。

「おうよ。お前のメスは無事に帰してやる」
「……まだ『俺の』じゃないがな」
「ふん。むちゃくちゃ狙ってるじゃねぇか。あの植物モンスター。そんなに良いメスなのか?」
「むちゃくちゃな」

 後ろで1人のリザードマンが頭を抱えながら蹲ったのは、この際置いておく。

「そいつは見てぇもんだ。勝ったら帰す前に剥いでみるか」
「……なんだか非常に負けたくない理由ができたな。お前ごときにクルシュの姿は見せんよ」
「むちゃくちゃ惚れてんじゃねぇか」
「ああ、むちゃくちゃ惚れてる」

 メスのリザードマンの何人かが、蹲ったリザードマンに何事かを話しかけると、そのリザードマンはいやいやするように頭を振っているのもこの際、置いておく。

「はっ!」

 すさまじく嬉しそうにゼンベルは笑う。

「だったら勝ってみせな! 死んじまったらすべて終わりだからなぁ」
「そうさせてもらうつもりだ」

 ザリュースとゼンベルは話は終わりだといわんばかりに互いを睨む。

「――行くぞ?」
「――来い」

 短い応答。しかし、互いに動かない。
 周りで見守る全てのリザードマンが焦れだした時、初めてザリュースがじりじりと距離を詰めだす。湿地という水を多分に含んだ場所にあって、水音がしないようなゆっくりと動きだ。
 それをゼンベルは不動の姿勢のまま待ち受ける。

 やがてザリュースがある距離に達した瞬間――轟音が飛びのいたザリュースの眼前を流れていく。それはゼンベルの振った槍が巻き起こした音だ。
 
 それは何の技も無い、単なる振り回しである。しかし、それゆえにすさまじい。
 再び飛び込もうと身構えたザリュースを狙うように槍が構えられる。ゼンベルは巨大な槍を右腕一本で振り回しているのだ。旋風のようなその動きはひとたび振るわれたとしても、瞬時に構えが元に戻る。

 ザリュースは攻めあぐねる。

 どう攻略すれば良いのか。
 答えは簡単だ。避けた上で飛び込めばよい。理論は分かる。だが、それを実際に行うことは困難を極める。しかも槍は長い武器だ。それゆえに受けたとしてもフロスト・ペインの特殊能力も効果が無い。
 
 ならば――。

 ザリュースはゆっくりと間合いに入る。豪風を巻き起こしながら槍がなぎ払われてくる。
 更に踏み込み、槍の刃物がついてない部分をフロスト・ペインで受ける。すさまじい衝撃がフロスト・ペインを持つ手に走る。さらに、ザリュースの体が浮いた。
 成人したリザードマン――110キロにもなる重量を、片腕の腕力のみで吹き飛ばしたのだ。それはまさに常識離れした腕力である。

 ――興奮。

 自らの族長の圧倒的な臂力を目の当たりにした戦士たちが、咆哮を上げる。
 バシャバシャと尻尾を使いながらバランスを保ち、後退するザリュース。

 痺れた手を振りながらザリュースは僅かに目を細める。
 ゼンベルのそれは子供が棒を振り回すような大した技術の無い、単なる振り回しだ。しかしながらその巨躯――想像を絶する筋力から来る振り回しは単純に強い。
 単純であればあるほど、破るのが難しいのはなんでもそうだ。
 受けた場合は確かめたとおり、吹き飛ばされ次の行動に移すことができないので、良い手ではない。
 ならば最初の計画通り、飛び込むしかないのだ。ミスすれば一撃でよくて戦闘不能、悪けば即死という暴風の中に。
 しかし、3メートルという距離は遠い。攻撃可能距離に近づくまでに、構えなおしの時間を十分にゼンベルに与えてしまうだろう。遠心力を利用しての攻撃である分、中に踏み込んだ方が遅いという考えはできるが、距離が近くなった分、回避も困難になる。先端部分の斧にも似た部分では無いとはいえ、鋼鉄の棒で殴られるだけのダメージは予測される。しかもあの筋力ではやはり致命傷になりかねない。

 戦略を立て直しつつあるザリュースに戦い始めたところから今だ一歩も動いていないゼンベルは、ニンマリと笑って問いかける。

「どうした? フロスト・ペインの能力は出さねぇのか?」

 ニヤニヤという笑みは挑発だろう。
 そんなゼンベルにザリュースは答えを返さない。

「昔、俺はあいつに負けたんだよ。フロスト・ペインを持っていた奴に」

 ザリュースは思い出す。ゼンベルの言うオスに心当たりはある。鋭剣<シャープ・エッジ>部族の族長である。そしてザリュースが首を取った相手でもある。
 ザリュースはゼンベルという一点に集中させていた意志を少しばかり緩め、周囲に広く拡散させる。
 無数の敵意がある中で、最も強いものはシャープ・エッジ部族の生き残り達のものだろう。

「この左指はそのときに受けた傷が元でな」

 ピラピラと指が2本無い左手をアピールするようにゼンベルは見せ付ける。

「あの俺を負かした能力を発動させれば勝てるかもしれねぇぞ?」
「そうか?」

 ザリュースは冷静に、ひどく冷静に返す。
 確かにあの能力は強い。
 1日に3回しか使えないだけあって、使えばかなりの確率で勝利をもたらしてくれるだろう。ザリュースが前の持ち主と戦ったときに勝てたのは、すでに3回使ってしまった後だったからだ。もしあの時使われていれば、ザリュースの命は奪われていただろう。
 しかし、そんなフロスト・ペインの力を知っている者が教えるように言うだろうか。

 ザリュースはゼンベルというリザードマンをより一層用心すべき相手と判断する。全力を隠して勝てる相手ではない。

 ザリュースは覚悟を決めたように飛び込む。
 それをハルバードがすさまじい速度で迎撃する。

 ザリュースは避けるのではなく、フロスト・ペインで受ける。その受けるポーズを見たリザードマンの誰もが、再び吹き飛ぶことを予測した。しかし、たった2人だけ違う結果に終わると確信していたものがいる。
 そのうちの1人はクルシュだ。
 ザリュースが何の意味も無く、結果の予想できる行動に出るとは思っていない。非常に色々と考えた上で行動するオスだ。それぐらいは出合ってほんの短い時間だが、目で追っていて完全に理解している。
 持ち上げられたフロスト・ペインとハルバードがぶつかり合い――

『フォートレス!』

 ――戦技が発動された。
 先ほど吹き飛ばされたはずのザリュースが、今度はゼンベルの一撃を受けて、びくとも動かない。それはまさに要塞の如くである。
 ゼンベルが驚き――いや感心に目を見開く。
 その瞬間――ザリュースは疾風の動きでゼンベルに肉薄した。ハルバードを戻そうとしても遅い。完全に力を殺されたハルバードでは引き戻すまでにその筋力をもってしても多少の時間が掛かる。ザリュースが肉薄するのは十分な時間が。
 そしてフロスト・ペインがゼンベルの肉体を切り裂――。

『アイアン・ナチュラル・ウェポン』

 ――鮮血が舞った。

 溢れんばかりの大きな歓声が上がり、非常に小さな悲鳴が上がる。

 鮮血を撒き散らし、後ろに逃げるように後退したのはゼンベルではない。顔に2本の、血が流れ出るほどの傷跡を作ったのはザリュースだ。
 ゼンベルは先ほどまでとは逆に、逃がさないとばかりにザリュースに肉薄するよう踏み込む。そしてザリュースの肉体を先ほど抉ったもので攻撃する。
 それは――爪だ。
 フロスト・ペインと爪がぶつかり、硬質な金属音が響いた。遅れて、手から離されたハルバードが水音を立てた。

 リザードマンの爪は人のものより堅く尖っている。しかしながらこのように金属音が響くほど堅いわけではない。そう、これは肉体武器を鋼のごとく堅くするという戦技の1つ『鋼鉄の肉体武器<アイアン・ナチュラル・ウェポン>』の働きによるものだ。
 先ほどまで適当という言葉が相応しかった槍さばきに比べ、繰り出される手刀は熟達者の領域まで足を踏み込んでいる。

 そうだ。
 ゼンベルは戦士ではなく、己が肉体を武器とする格闘家としての技量を積んでいるのだ。

 数度の応酬。
 ゼンベルが手刀で攻撃し、ザリュースがフロスト・ペインで斬りつける。そんな攻撃を互いに避け、弾き、ほんの少しの距離が開く。

「――はっは、生き残ったかよ!」

 ゼンベルは左手の指に付着した血と肉片をべろりと舐める。
 同じくザリュースの口から人より長い舌が出て、己の人で言うなら頬にあたる部分にできた傷口から流れる赤い液体をぺろりと舐める。
 目を貫くつもりではなった手刀の一撃はギリギリでザリュースが頭を傾げることで回避された。そして傷も深いわけではない。まだまだ戦意はある。

「つーかよぉ。あの技を使わない奴を倒しても手加減されてるような気がするんだよなぁ」

 両の拳を握り締め、数度、胸の前でぶつけ合うゼンベル。

「悪いが。あれは使うつもりは無い」
「ふーん。負けてから本気じゃなかった発言は無しだぜ?」
「そんなことをいうタイプに見えてるのか?」
「……いや、そりゃねぇな。――使う気がねぇなら行くぞ!」

 肉体攻撃を剣で受ければ、攻撃した側が傷つく。それは当たり前の通りである。しかしながら戦技はそんな常識すらも変えてしまう。

『アイアン・スキン』

 肉体を攻撃の瞬間だけ強固な鉄と同等の硬度に高める戦技の発動を持って、太い足がブォンという音を立てながらザリュースを蹴りつける。
 それを避けざまにフロスト・ペインで足を切りつけるが、やはり金属音が響き弾かれる。

 ザリュースは感嘆に目を見開く。
 魔法の剣を弾く。
 それがどれほど戦技を高めたら、そしてどれだけの時間を『アイアン・スキン』につぎ込んだらできるのかと驚愕して。

 ザリュースもいくつか学んでいる戦技は、多数を考えたものが主だ。周囲を攻撃する『ワールウィンド』や背後等――視野外からの攻撃を完璧に知覚する『アイズ・イン・ザ・バック』などだ。
 強大な個の敵に対して効果的な戦技は有していない。それに対し、ゼンベルは自らの能力を最も高める方向に戦技を得ている。
 不利であるといえば不利だろう。

 しかしながらザリュースは自らの勝利を確信した。


 圧倒的な手数による攻撃。
 蹴り、殴る。
 ゼンベルの肉体能力から繰り出される一撃は早く、重い。その前にあっては流石のザリュースも攻撃はやめ、防御するのが限界のようだった。
 連打に次ぐ連打。
 重さと破壊力をかねた一撃を防ぎきれなければザリュースの敗北は確実である。周囲を見守るリザードマンたちは連撃を繰り出す自らの族長の勝利を確信し、応援の声を上げる。

 しかしながら周囲の声とは裏腹に、戦う2者――そして見守るもう1人――はどちらが現在優勢なのかを理解したうえで攻防を繰り返す。


 時折ゼンベルの爪がザリュースの体をかすり、その度ごとに血が滲む。傍から見ればザリュースが押され、ピンチになっているように思えるだろう。しかしながら、ゼンベルは連撃を弾かれる一度ごとに自らの勝算が無くなっていくのを感じ取り、だんだんと心の中で焦りが強くなっていくのを抑え切れなかった。

 フロスト・ペインは刀身に冷気を宿すことで、切り裂いた相手に追加で冷気によるダメージを与える能力を持つ。それ以外にも、武器を交えた相手にも多少の冷気ダメージを送り込む力を持っている。つまりは肉体武器と刀身がぶつかるだけでも、僅かな冷気がゼンベルを蝕みつつあるのだ。
 手はかじかみ、足は痺れ。すこしづつ動きは鈍くなっていく。
 それを理解しているからこそ、ザリュースは防戦一方――言い換えればほんの少しづつダメージを与える手段を選んだのだ。回避しないのはそのためだ。

 確実な勝利をとる道を選ぶ。
 それは油断が無いという意味で、今のゼンベルにとっては最大の敵だ。

 飛び込んできたザリュースに対して放った必殺の一撃。
 あれを防ぎきられた段階でゼンベルの勝算はかなり低くなったのだ。更には数度にかけて行った挑発にも乗らなかった時点で。そんな奴が油断なく、もっとも安全かつ確実な戦い方をする。
 それは難攻不落の要塞に単騎で戦いを挑むようなものだ。

 かつて戦ったあるオスのリザードマンがゼンベルの脳裏に浮かぶ。あの頃よりも自らは強くなった。それでいながら自分の胸にも足りないリザードマン――ザリュースには届かない。無論、フロスト・ペインの能力によって負けると言い訳することもできるだろう。
 しかしそのような情けないことは言いたくもない。
 
 流石はあのオスを殺したものか。

 連撃を止めることなく。それでいながらゼンベルは頭の冷静な部分で、自らの蹴打をフロスト・ペインで防ぐ、眼前のザリュースに賞賛を送る。



 弾かれ、弾かれ、また弾かれる。
 だんだんと自らの族長の一撃が容易く弾かれるようになってきたのが、周りのリザードマンたちにも分かるのだろう。歓声が訝しげなものへと変わっていく。
 実際、ゼンベルの四肢はかなり動きが鈍くなってきた。それでいながら今だ防戦一方のザリュース。どれだけ油断が無いというのか。

 ザリュースは強い。
 クルシュは確信を持って言える。
 リザードマンの殆どがその屈強な肉体能力で押し込むように戦うのに対し、ゼンベルと同じようにザリュースは技術をもって戦う。そしてその技術を補佐するのがフロスト・ペインだ。もし仮にフロスト・ペインを通常の戦士に渡して、今と同じようにゼンベルと戦えるか。それは不可能だろう。武器は強いが、それを十全と引き出すことができる、そして引き出すように技術を磨いているのだ。
 そして何より強いのは、その読みあいに勝てる頭の回転だ。
 槍を捨てたときの一撃を回避できたのは、ザリュースが油断せずに読んでいたからだ。そしてフロスト・ペインの特殊能力を発動させないのも。

 旅人の焼印を押してまで出た旅で、どれだけのものを手に入れて戻ってきたのか。

「ほんと、すごいオスだなぁ……」



 やがて――どれだけ時間が経ったか。見ているリザードマンからするとさした時間ではない。しかし、戦いあう2者からはどれだけの時間に思えただろうか。
 そんな時間が経過し、全身から血を流すザリュースと、今だ無傷のゼンベルがそこにはいた。
 今だ戦意を失っていないザリュースを褒めるべきか。周囲のリザードマンたちはそう評価する。自らの族長とここまで戦ったものはいないと。

 そんな中、ゼンベルは何も言わずに構えを解く。

 何が起こったのか、周囲のリザードマンたちが固唾を呑んで見守る中、ゼンベルは大きく声を張り上げた。

「おれの負けだ!」

 どよめく。
 何が起こったのか理解できない。そんな表情をしたリザードマンばかりだ。ただ、1人のリザードマンだけが円陣の中に小走りで駆け込んでいく。
 それはクルシュだ。

「大丈夫?」
「まぁ、死ぬような傷は無いはずだし、これから考えられる戦においても問題にはならないと思う」
「はぁ。とりあえず治癒の魔法をかけるわ」

 服をごそごそといじり、顔を露出させるクルシュ。それから治癒の魔法をかけ始める。傷口が先ほどまでの痛みの熱さではなく、心地良い温もりの暖かさに包まれていく。
 治癒の魔法を受けながら、ザリュースは顔を動かし、先ほどまで戦っていたゼンベルを見る。
 ゼンベルは周囲を部族のものに取り囲まれ、何があったか、ザリュースが何を狙っていたのかという説明を行っている。

「こんなものね」

 2度、魔法をかけたクルシュの治療完了の言葉を受け、ザリュースは自らの体を見下ろす。
 傷口から流れ出た血によって今だ全身傷だらけのようだが、ザリュースは自らの傷が完全に癒えたことを感じられた。体を動かすと少しばかり引っ張られるような微妙な感覚が残るが、だからといって傷口が開くとかそういうことは無い。

「――ありがとう」
「どういたしまして」

 クスリと笑ったクルシュ。剥き出された真珠色の牙が美しい。だがらこそ素直にザリュースは言葉にする。

「――綺麗だな」
「なっ!」

 互いに黙る。
 クルシュからすればなんでこのオスは平然とそんなことを言うんだ、という思いからの沈黙である。普段から褒められたことの無いクルシュにしてみれば、ザリュースというオスは心臓に悪い発言が多すぎる。
 ザリュースからするとクルシュが黙った理由が分からない。もしかすると何かヘマをしたのではないかという不安が頭を過ぎる。正直、メスは自分の人生に関係ないだろうと思っていたために、どのような行動を取ればいいのか不明なために、ザリュースも結構一杯一杯なのだ。
 そんな如何したらよいのかという困った2人を助けるように声が掛かった。

「おいおい、羨ましいじゃねぇか、こんちくしょう」

 2人揃ってゼンベルを見る。
 非常に似通った――顔のぐるんと回った同時の動きに、話しかけたゼンベルが一瞬口ごもる。

「あー。俺も癒してくれねぇか? 白いの」

 クルシュのアルビノの顔を見ても平然とした態度。しかしながらゼンベルの外見を始めて見た時の印象を思い出し、そんなものかと納得する。

「はいはい。……でも良いの? この部族の祭司にやらせないで」
「ああ、かまわんかまわん。それよりかなり痛いんだよなぁ。やってくれねぇか?」
「あなたがやれって言ったんだからね?」
「おう。俺が無理矢理やらせたということで1つ頼むぜ」

 クルシュはため息を1つつくと、治癒の魔法をかけ始める。

「あっちは良いのか?」
「ん? ……ああ、理解させたぜ。どうして俺が負けたのかをな」

 ザリュースとゼンベル。2人の視線がリザードマンたちに向けられる。
 ザリュースはいまだ無数の敵意ある視線が送られてくるが、心なし減ったようにも感じられた。そして少数だが好意的な視線が混じりだしたようだった。

「はい。終わりました」

 ゼンベルに対して、クルシュが治癒の魔法を使った回数はザリュースよりも多い。見た目には出てなかったが、それだけ深手だったということだ。

「ほう。うちの祭司よりも凄いな」
「ありがとう。素直に受け取っておくわ」
「さて、互いに傷も癒えたことだし、早速で悪いが話に入っても構わないか?」
「おお! 話を聞かせてもらおうか――といいたいところだが」そこでゼンベルは言葉を切り、にやりと笑う。そして――「酒だ」

 ザリュースとクルシュ――2人とも何を言われたのか分からないような、不思議そうな顔をした。そんな2人を面白そうに見ながらゼンベルは子供にも分かるように説明する。

「めんどくさい話は酒の席でするもんだ。わかるだろ?」
「わかんねぇーよ」

 憮然とした顔でザリュースは小さく返答する。命がけで戦った挙句酒盛り、というのに即座に付いていけるほどスレてはいないし、荒んでもいない。ただ、何か祝いたいことがあったときにやるような奴だろうと、自分を納得させる。
 そんなザリュースを――初めてみるオスのそんな顔をしげしげと眺めるクルシュ。その好奇心ともいうべき何かによってきらきらと輝く目を避けるように、ザリュースはどうにでもしてくれといわんばかり表情で、了解の意志を伝えた。


 ◆


 陸地に置かれた2メートル近い焚き火台から、紅蓮の炎が夜空に届けといわんばかりに燃え上がっていた。その巨大な赤い光源によって夜闇は遠ざけられている。
 その焚き火台の近くにドンと置かれた、高さ1メートル以上、口の直径は80センチほどはある壷。そこからは発酵臭が風に乗って漂っていた。
 何十人というリザードマンが入れ替わり立ち代わり、その壷の中の液体を汲み上げる。
 しかし、幾度汲み上げても気配はその壷からは感じられなかった。
 
 これがザリュースの持つフロスト・ペインに並ぶ、4至宝の1つ。『酒の大壷』である。
 無限に尽きることなく酒を生み出すとされるが、味自体はさほど良いものではない。人間の多少でも酒を飲んだことのあるものであれば、かすかに眉を顰めて然るべき一品である。しかし、リザードマンからすればこれこそ美味い酒である。
 そのためお客さんが尽きない有様だった。

 そんな壷が置かれた場所から少し離れたこの場は、非常に静かなエリアだった。なぜかというと、その答えは一目瞭然である。それは酒に酔った幾人ものリザードマンが突っ伏しているからだ。
 ぐてっと転がり、ピクリとも動かない。いや、呼吸をしている証に胸は動いているし、尻尾がくねる者もいる。
 ここは完全に酔ったリザードマンの廃棄場所なのだ。

 そんな場所を、植物系モンスターと呼ばれる服を脱いだクルシュは、尻尾のみまるで別の生き物ように陽気にくねらせ、地面に注意を払いながら歩く。
 アルビノの体を大勢の前で晒しながら歩くのは、生まれて以来初めての経験だ。族長が異形と言うこともあり、多少は驚かれたが、すぐに溶け込めたのだ。まぁ、今だ多少、奇異の眼がクルシュを追ってくるが、それでも殆ど気にならない程度だ。
 心がスッとするような感覚。
 それは開放感なのだろうか。
 クルシュは両手に食べ物を持ち、そんな風に心を――揺らしながら歩いていく。

 向かった先ではザリュースとゼンベルが、大地の上で胡坐をかきながら2人で飲みあっていた。
 椰子の実にも似た木の実の殻を、杯として使っている。なみなみと入った液体は透き通るような透明。しかしながら強い発酵臭が漂う。
 前にツマミだろう、魚が生のままドンと置かれている。歩いてきたクルシュにニヤリとゼンベルは笑いかける。

「おう、植物系モンスター」
「……その呼び名どうにかならない?」

 もう脱いでるのに。
 そんな呟きを完全に無視するゼンベル。
 実際何度言っても止めないのだから、このオスはいつまでもこうやって自分をからかうつもりなんだろう。そう理解し、クルシュは無駄な抵抗は辞めることとする。

「それで話は終わったの?」

 ザリュースとゼンベル。2人は互いの顔を見合わせ、頷く。

「一通りな」
「それで何の話だったわけ?」

 ザリュースとゼンベル、2人で話がしたいということで、クルシュは席を離れるように頼まれたのだ。そうはっきり言われてしまっては仕方無く、席を離れて食べ物を取ってきたのだが、本音で言うなら話に参加させてもらいたかった。もしこれからの戦のことであれば自分も無関係ではないのだから。
 不味いことは聞かないまでも要約したこと聞かせて欲しい。そんな気持ちで言葉をつむぐ。

「オス同士の話だ」

 ザリュースが不機嫌そうになったクルシュを宥めるように口を挟む。

「クルシュの部族でした話と変わらないさ。あとはこの部族が食事の少ない中どうやって残ったかだ」
「ああ」

 それはクルシュも興味のある話だ。教えろ、という無言の圧力を込めたクルシュの瞳を受け、大したことではない、そう前置きをしてからゼンベルは話す。

「元々俺達は数が少なかったんだ。だから戦争に参加してまで、食い物を求めなくてもなんとかなったというのが正解だな。まぁ、個人的には趣味の一環として戦争には参加したかったんだけどな。長老どもが教えて切れなかったという寸法よ」

 そりゃ教えないだろうな、とクルシュは思い、同じような表情のザリュースと互いに頷きあう。

「それでどうするの? 同盟を組んで一緒に戦うの?」
「あん? ああ、ザリュースには伝えたんだが――戦うに決まってんじゃねーか。つーか、お前達が来なくても俺達は戦ったぞ?」
「ホント、戦闘狂って感じね」
「ほめんなよ、照れんじゃねぇか」

 褒めてないけど。そう言いたげなクルシュ。そんな彼女の表情を気にしてないのか、気づいてないのか。ゼンベルはクルシュに頼みごとをする。

「そうそう、植物系モンスター。お前からも説得してくれよ。何度言ってザリュースが族長になってくれないんだよ」

 その言葉にくたびれた様にザリュースは表情を歪めた。クルシュが離れてから、幾度と無く繰り返された問答なんだ、ということが分かるような疲れっぷりだ。

「部族も違うし、俺はた――」旅人と続けようとして、ゼンベルも同じだと思い別の話題を振る「なんで旅に出ようと思ったんだ?」
「あん? ああ、フロストペインの前の持ち主に負けたからだ」

 何かそういう部族の掟でもあるのか。そんな風に思った2人にゼンベルは軽く言った。

「負けたからショックでよぉ。ならもっと強くなろうと思ってな。なら、この辺よりももっと色々と行ってみてえじゃねぇか。だから旅人になったってわけよ」

 自らとまったく違う目的に、ザリュースは肩を落とす。なんとなく浮かんでいた親近感がどこかに吹っ飛んでいったと感じだ。クルシュが慰めるように、優しく肩に手を置いたのが救いといえば救いか。
 そんなザリュースたちに気づかず、ゼンベルは機嫌よさそうに続ける。

「あの山には強ぇやつがいるんだろうなと思ったわけよ、俺は。なんたってでっかいからな。そして、そこであった奴に色々と教わったわけさ。ついでにあの槍もな。いらねぇと思ったけど、出会った印だとか言われちまうとな」
「……そうだったのか、良かったな」
「おう、あんがとよ」

 ――皮肉も通じない。
 ザリュースは酒をぐいっと呷る。喉が熱くなり、収まった胃から熱が体内に広がっていくようだった。そんなザリュースに非常に静かな声が掛かる。今までの雰囲気とは違う声に、誰が発したのか一瞬ザリュースが分からないほど。

「で。おまぇの予測によると勝てるのか?」

 声を発したゼンベルの顔を見ながら、真剣に考え、そしてザリュースは答えを述べる。

「……それは不明だ」
「まぁ、そりゃそうだよな」

 絶対に勝てる戦いなんか無い。しかも相手の戦力等が一切不明な状態で勝てるなんて口にできる者がいるはずが無い。

「ただ……向こうの狙いから判断すると、皆殺しは狙っていないはずだ」
「ああ、あのモンスターが言った話ね」

 何でザリュースがそういったのか理解できないゼンベルに対し、即座に答えたのはクルシュだ。そして今だ不思議そうなゼンベルに対し、教師のような口調で教えようとする。

「あのモンスターが言った言葉を思い出してくれる?」
「すまんな。おれはそのときに寝てたんで話を聞いてねぇんだ」
「……誰かから聞いたでしょ?」
「はん。面倒だったんで、忘れたぜ。奴らが攻めてきたら返り討ちにすりゃいいって考えたぐらいだな。覚えてることは」

 駄目だ、こいつ。そんな顔で説明することを放棄するクルシュ。

「……向こうはこう言ったんだ。必死の抵抗をして、支配するにたる価値を示せってな」

 ゼンベルの顔が危険な感情を孕み、恐ろしげに歪む。

「むかつくな。最初っからこっちを下に見てやがる」
「向こうはこっちの抵抗を破る程度の兵力を集めて、有無を言わさない圧倒的な力で潰しにかかってくる可能性がある。ただ、それでも支配を狙っているなら皆殺しにはしないはずだ」
「ふざけやがって」

 ゼンベルが危険な唸り声を上げた。あのザリュースとの戦いにおいてもこれほどの敵意は浮かべてなかった。それだけ不快だということか。

「……だからその思い上がりを叩き潰す。5部族を集めこちらが準備できる最大の力を示してやる。まずは横っ面をはたき倒して、それでこちらが生半可な存在じゃないという価値を示してやるんだ」
「はん、いいねぇ。そういう話の方が分かりやすくて好きだぜ」

 どうやって戦うか、そんな話題に熱を帯びていくオスの2人に、水をかけるようにクルシュは言う。

「あまり向こうのプライドをズタズタにするメリットは無いと思うわ。最低限の価値を示す程度でいいんじゃない?」
「おいおい、いやみな野郎に頭を下げるのかよ?」
「ねぇ、ザリュース。……避難が危険なことは理解したわ。でも私は鎖で縛られても、命があるほうが良いと思うんだけど」

 ポツリとクルシュはもらす。
 2人ともその考えを否定することも、奴隷根性だとあざ笑うこともしない。その考えを馬鹿にできるものは増長した者か、将来を考える能力の無い者だ
 誰だって支配されたいわけではない。ただ、それでも殺されるよりは未来がある。未来さえあれば可能性が残るのだ。すぐに考えつくのが、養殖の手法が皆に広がれば、今いる場所を捨てて逃げられるかもしれないということだろう。
 そんな可能性を捨て、死ねと命令する方が上に立つものとして異常をきたしている。

「耳をそばだててくれ」

 ザリュースの静かな声に、風に乗って聞こえてくる笑い声に3人は揃って耳を傾ける。

「支配されたらこんなこともできないかもしれないからな」
「できるかもしれない。そうでしょ?」
「そうだな。ただ、向こうはこちらの価値を求めているんだ。どうにせよ戦闘は避けられない」

 クルシュは頷く。
 それは充分に理解している。避けられない戦いだということは。しかしながら――

「でも言いたいのは……死なないでね」
「――死なないさ、あの答えを聞くまではな」
「――!」

 クルシュとザリュースは夜空の下、互いに真剣に見つめあう。
 そして約束を交わすのであった。






 ――完全に部外者となり、憮然としたゼンベルを横にしながら。



 ■



「ほう。見えてきたじゃねぇか」

 ロロロの一番後ろに乗ったゼンベルが前方を見据えながら、にやりと笑う。
 数百メートル先に、1番目に指定された部族――鋭き尻尾<レイザー・テール>族の村が見え始めた。村はグリーン・クローと同程度の大きさだが、あふれ出したリザードマンたちが精力的に走り回っている様が見て取れた。

 戦士階級のもの達が幾つもの組を作って、互いの武器を振るう訓練したりしている。オスのリザードマンたちは木の杭を村の周囲に立てるように忙しそうに働いていた。メスのリザードマンたちは何かを村の中に運び込んだりしている。
 それはまさに戦争準備である。

「この雰囲気。たまらねぇものがあるな」

 ゼンベルが鼻をスンスン鳴らせ、空気中に漂う匂いを嗅ぐ。ザリュースもこの雰囲気は嗅いだことがある。かつての戦いのときに。
 血が沸き立つような、そんな興奮を誘われる匂いだ。
 ある意味そんな匂いをかいだことが無いのであろうか、クルシュはそんな2人とは違った感想を述べる。

「この子に乗ったままだと危なくない?」

 離れていても感じ取れるようなピリピリとした空気に、現在、植物系モンスターと化しているクルシュは不安を口にした。ロロロというヒドラが接近することで、血に飢えたリザードマンたちが殺到することを恐れたのだ。
 ザリュースは顔を知られているかもしれないが、クルシュとゼンベルは違う。さらにレイザー・テール部族の全てがザリュースを知ってるとも限らない。
 もしかすると攻撃されるのではないかという不安が生じるのも当然だろう。そんなクルシュに安心させるように優しくザリュースは答える。

「いや、逆だ。ロロロに乗ってきているからこそ危険が無いんだ」

 不思議そうな顔――は見えないが、雰囲気を漂わすクルシュにザリュースは簡単に説明する。

「兄が先に来ているはずだし、兄なら俺がロロロに乗ってくることを絶対に教えてるはずだ。だからロロロの姿が見えたという情報は兄の元にもう行ってるはずだ」

 事実、ロロロがゆっくりと湿地を歩く中、村から1人の黒いリザードマンが幾人もの戦士達と共に姿を見せる。ザリュースはその見慣れたリザードマンに見えるよう、手を大きく振った。
 黒いリザードマンは周囲を囲むリザードマンたちに何かを話し、解散させた。それから腕を組むと、ロロロが来るのを待ち受けるように門から少し歩いたところで、仁王立ちの姿勢をとる。

「あれが兄だ」
「へぇ」
「ほぉ」

 2人の声が重なった。クルシュは純粋な気持ちで、ゼンベルは強者を発見した獣のような気持ちで。

 ロロロが進むに連れ、両者――ザリュースとシャースーリュー――の距離は当然縮まる。やがては互いの顔がはっきりと見える距離まで近づき、ザリュースとシャースーリューは互いに顔を見つめあう。
 顔を見合わせていないのは4日足らず。しかしながら互いに二度と会えないかもという可能性があった分、感慨深いものがある。
 やがてシャースーリューがニヤリと笑う。同じような表情をザリュースも浮かべていた。そして今だ距離があるにも係わらず、声を張り上げ言葉を交わす。これ以上に我慢をすることを互いにできなかったのだ。

「良く帰ってきたな、弟よ!」
「ああ、良い知らせを持って帰ってきたぞ、兄者!」

 そこでシャースーリューの視線がザリュースの後ろに座る2人に動く。腰に回ったクルシュの手が、緊張感から多少こわばるのをザリュースは感じ取れた。

 完全に2者の距離は無くなり、ロロロはシャースーリューの前まで来ると、慣れたように歩みを止める。そしてシャースーリューに甘えるように4本の頭を伸ばした。

「すまんが、食べ物は持ってきてないぞ」

 その一言を聞いた瞬間、ロロロの4本の首はふてくされたようにシャースーリューから離れる。無論、ヒドラにはリザードマンの言葉を理解する能力は無い。しかしながらペットによくある主人の家族との共感能力とも言うべきもので感じ取ったのだろう。もしくは単純にシャースーリューから餌の匂いがしてなかったからか。

「さて、降りよう」

 ザリュースは後ろに座る2人に声をかけるとロロロの上から身軽に飛び降りる。そして手を伸ばすとクルシュの手を取る。そうやって降りてきたクルシュに目を止め、シャースーリューは訝しげに顔を歪めた。

「その植物モンスターはなんだ?」

 クルシュは肩を多少落とすが、特別な反応はもはやしない。ゼンベルのお陰であろう。だが次の爆弾には流石の彼女も硬直する。

「俺の惚れたメスだ」
「ほう」

 感嘆のため息をシャースーリューは上げた。そして自らの弟と今で手を繋いだままのクルシュに遠慮の無い視線を向ける。

「なるほど……まぁ、聞きたいことは1つだな。美人か?」
「ああ、結婚も考え――っ!」

 突如、手に走った痛みにザリュースは口を閉ざす。手を繋いだ相手が、ザリュースの手に爪を立てたのだ。それもおもいっきり。そんな2人を憮然とした顔でシャースーリューは観察する。それからたった一言、思いの篭った言葉を口にした。

「なるほど……面食いめ。何が……『俺に結婚は出来ないさ』だ。かっこつけおって。単に惚れた相手がいなかっただけではないか。……さて、グリーン・クロー族族長シャースーリュー・シャシャだ。同盟を組んでもらって感謝する」
 
 確認というよりも遙に強い口調でのシャースーリューの発言だが、今更動揺するクルシュとゼンベルではない。

「こちらこそ。レッドアイ部族、族長代理のクルシュ・ルールーです」

 クルシュの次はゼンベルが答えるだろうと皆が思ったのだが、予想に反してゼンベルから挨拶は聞こえない。その場の皆が不審がっている中、ゼンベルはシャースーリューの上から下まで数度、無遠慮に観察する。
 満足したのか頷きつつ、ゼンベルは口を開く。

「ほぉ、お前がか。かの祭司の力を使いながら戦うことのできる戦士。噂には聞いたことがあるぞ?」
「ドラゴン・タスクまで知られているとは驚きだな」

 挨拶ではない挨拶。そんなゼンベルの肉食獣を思わせる笑みに、同等のもので返すシャースーリュー。

「あんたの弟が良いって言うまでは、ドラゴン・タスク族の族長をやっているゼンベル・ググーだ」
「それはそれは良く来られた」
「でよぉ、ちっと戦わねぇか? やっぱ、どっちらが上かしっかりと話つけねぇとならねぇだろ?」
「……悪くは無いな」

 ザリュースに止める気はない。リザードマン的な考えからすると、強いものが強い言葉を持つのは当然なのだから。もし2人が戦いあうことでこれから先の話がうまく進むとするなら、満足いくまでやるべきだろう。
 しかしながら2人の争いまでには話は進まなかった。シャースーリューが軽く手を上げ、ゼンベルの戦闘意欲を削いだからだ。

「――と思ったのだが、今は少々時間が悪いな」
「なんでだよぉ?」

 ゼンベルの不満げな顔に、シャースーリューはニヤリと笑う。

「……そろそろ斥候に出た者たちが戻る。敵の詳しい情報が分かるという予定だ。それを聞いてからでも遅くはあるまい?」


 ◆


 1つの小屋が各族長たちの会議室として使われることとなった。
 その小屋に集まったのは各部族の族長、そしてザリュースの計6人である。

 無論ザリュースからすれば旅人である自らが出席するということには、異議を唱えた。しかしながらシャースーリューの自らの弟と呼ぶという意見に反論した族長は誰もいなかった。そのために無理に押し切られ参加することとなったのだ。

 シャースーリュー、クルシュ、ゼンベルは当然にしても、他の2人の族長が反対しなかったのは、かつての戦いにおいてフロスト・ペインを持っていた前シャープ・エッジ族族長を屠ったオスだと知っていたからだ。
 更にはレッド・アイ部族にドラゴン・タスク部族との同盟を成功させたほどの勇者の意見も聞いてみたい、というのは上に立つものとして当然だろう。


 さほど広くない小屋に6人は円陣を組むように座る。クルシュが白い肌を見せたとき、3人の族長達は驚きの色を隠せなかったが、今では冷静そのものだ。
 まずは互いの挨拶を終え、最初に口火を切ったのは小さき牙<スモール・ファング>の族長である。リザードマンとしては小柄は肢体だが、その四肢は鋼のように研ぎ澄まされている。元々は狩猟班に所属していたらしく、飛び道具の腕であれば恐らくはこの湖のリザードマン全ての中で、最も優れた腕を持っているだろう。事実、族長を決める際も、全て投石の一撃で終わらせただけの能力を持つ。
 そんな彼が敵の軍隊の場所を知るべく、全ての狩猟班を動員して探していたのだ。

「敵はおよそ5500強」

 全リザードマンの数を足したよりもはるかに大きい数字。
 それに対して驚きの声は上がらない。この場に合って驚くような者はいない。

「……それで敵の首魁は?」
「私の確認したところでは良く分からなかった。中に赤い巨大な肉の塊のようなモンスターがいたが、その辺まで近寄ることは流石に困難でね」
「どのような構成なのですか?」
「ふーむ。アンデッドモンスターの群れだったよ。スケルトンとゾンビの群れさ」
「リザードマンの死体を利用しているのか?」
「あれは人間という種族のものだと思うがね。尻尾は無かったからね」

「先手をうって攻撃をかけれねぇのか?」
「難しいだろうね。場所は森の一角を切り開いて作った広場だ。一体どれぐらいの時間をかけたんだろうかね。切り出しただろう木材が無いこと等も考えるとちょっと目的がつかめないが、何を考えてのことやら。――おっと話がそれた。とりあえずは森の中だ。我々なら兎も角、戦士まで連れては難しいね」
「では狩猟班のみでのは?」
「勘弁してくれよ、クルシュ君。現状25名程度の人数でどうやって5000を超えるアンデッドに損害を出せと? つかまって潰されて終わりさ」
「ふむ……祭司の力を動員してはどうだ?」

 シャースーリューの意見に数人が頷き、クルシュに視線が集まる。しかしそれに答えたのはザリュースだ。

「いや、辞めておいた方が良いな」
「なんでだよ?」
「向こうは今のところ約束を守っている。しかし攻撃されてまで約束を守るとは思えん」
「確かにそうですね。最低でも全部族が集まるまではこちらから攻撃を仕掛けないほうがよさそうですね」
「ならば篭城戦ですかね?」
「まもるのむずかしい」

 たどたどしい言葉がリザードマンの1人から出る。それは鋭き尻尾<レイザー・テール>の族長だ。
 金属のものとは違う光沢を持つ白い鎧で、全身を包んでいる。
 ほのかな――魔法の力を発した鎧。それこそ4至宝の1つ『ホワイト・ドラゴン・ボーン』である。

 それはアゼルリシア山脈に棲息するとされる、冷気の力を持つホワイト・ドラゴンの骨から削りだして作られた鎧である。無論、単なる骨から削りだしたものに――元がたとえこの世界の強者的存在であるドラゴンとはいえ――魔法が宿るはずが無い。しかしながら、その鎧はいつの間にか魔法の力を保有していたのだ。
 ただ、その力は呪いによるものかもしれないが。
 なぜなら、ホワイト・ドラゴン・ボーンは喪失される知力の分だけ、装甲を強固にするからだ。賢いものが着れば鋼鉄どころか、魔法銀たるミスラルや伝説ともされるアダマンティンにも匹敵する。
 ただ、一度奪われた知力は決して戻っては来ない。この辺りが力の源が呪いともされる所以だ。
 
 元々はリザードマンの中では、聡明で名が知れた彼がこの鎧を着たことによって、その鎧の強度はリザードマンたちが持つ武器の中で最も鋭い、フロスト・ペインを持ってしても弾かれる可能性が高いほど。しかも普通であれば知力を殆ど奪われ白痴化する例が大半にもかかわらず、彼は今だ回転力のある頭を保持している。
 その辺りが族長として選ばれた理由なのだが。

「こ、ここしっち、あしばわるい。かんたん……かべこわされる」
「なら打って出ますか?」
「はん、いいじゃねぇか。守るより攻めたほうが気持ちが良いってもんだ。1人で相手を5体倒せばいいんだろう? 楽勝だって」

 ゼンベルの発言に互いの顔を見合わせる他の参加者。結果、クルシュがそれを流すように話し始める。

「とりあえず、今の状態だと壁が簡単に破られると思います。ですので私達レッド・アイが補強等をさせてもらいますので協力をお願いします」

 他の族長達が同意として頭を縦に振る。寂しそうなゼンベルも含めて。

「とりあえずは篭城の準備をするとしよう。あとは指揮官等の運営機能の構築だな」
「まず祭司たちのまとめはクルシュ殿に任せましょうか。そのついでに戦争時も指揮権を持ってもらいましょう」

 それが良いと答える声に1人異論を発するものがいた。

「族長たちで別働隊を作るべきだ」

 発言者であるザリュースに全員の視線が集まる。

「なるほど……」
「ああ、なるほーど、せいえいつくる?」
「そうです。敵の数は多い。首魁を討たなくては負けてしまうかもしれない。それにあのアンデッドモンスターのような存在が出てきた場合、数ではなく少数精鋭で討つ必要がある」
「しかし指揮官の不在は不味いのでは?」
「せんしかしらから、せ……せんば……えらべばーいい」
「指揮官なんか無くても前の敵殴るだけでいいじゃねぇか……」
「……別働隊は後方から指令を出して、敵の本陣の発見や戦況的に不味くなったら動き出すというのは?」
「上手くいきますか?」
「いかないとなー」
「ならばザリュースも含めて、6人で1つでよいのか?」
「いや、更に分けて3人の2組にしましょう」

 数を分散させるということは2箇所で戦えるということでもあるが、逆に言うなら脆くなるということでもある。その不利益さを認識した上で、何のメリットを考えてザリュースがそれを発言したのか。みなの視線がその答えを望んでいると理解し、ザリュースは答える。

「敵の首魁を打つ隊と、首魁の守備を釘付けにする隊の2つだ」
「それは……敵の守備隊を食い止めるのは危険が大きいな」
「し、しかたなーい」
「ならば私達3人の族長と、ザリュース殿が呼んで来られた族長の2つに分けるのが賢いでしょう。隊の役目は臨機応変に変化させればいいでしょう」
「うむ。それがいい。問題ないな、ザリュース」
「ああ、了解した。クルシュにゼンベルも問題は無いか?」
「こっちは特別には無いわ」
「俺もだ。好き勝手殴れねぇのは残念だがな。勝者には従うぜ」
「では、向こうの襲撃まであと4日か?」
「だなー」
「ならばしなくてはならないことは?」
「投石の準備をしなくてはならないし、壁の強化。それと各部族の交流を図り、それぞれがちゃんと動くように組織立て無くてはならないだろう」
「その辺りの仕事の割り振りはシャースーリューに任せたいとスモール・ファング族としては思っている」
「おれたちもーそれでいいー」

 クルシュとゼンベルもそれに同意するように頷いた。

「では、俺が指揮を執らせてもらう」

 シャースーリューは再び見渡し、反対意見が無いかの最終的な確認を行う。誰一人、反論ない。それを受け、シャースーリューは頷く。

「ではこれから4日間で行うべきことを細かく決めていこう」


 ◆


 一通り仕事を終えたザリュースは騒がしい村の中を抜けるように歩く。幾人ものリザードマンがザリュースの胸に押された焼印と腰に下げたフロスト・ペインを見て、敬意の挨拶を送ってくる。
 多少わずらわしくもあるが、士気を上げるという意味でも答えないわけにはいかない。自信に満ち満ちた、そんな余所行きの表情を作ると、往々しくザリュースは答える。

 そんな態度を取りながらザリュースが向かった先は、村の外壁の部分である。そこでは急ピッチにクルシュの知識にある壁を製作しているところだった。

 幾人ものリザードマンたちが作業を行っていた。 
 木でできた杭と杭の間に植物で下地を作る。そしてその上から水気の少ないような泥を塗っているのだ。そしてそこに祭司達が何かの魔法をかけると、水気が飛んだのか、ひび割れた壁のようなものが出来上がった。そして今度は裏から同じような作業を繰り返しだす。

 ザリュースは何をしているのか理解できず、周囲を見渡し、それを説明してくれるような人物を探す。それはすぐに見つかった。

「クルシュ!」

 植物モンスターの格好をしたリザードマンが、ザリュースの声に反応し振り返る。

「ああ、ザリュース。どうしたの?」
「いや、何をしているのかと思ってな」

 湿地をバシャバシャと歩きながらザリュースはクルシュの横に並ぶ。それから目の前で繰り返される作業を指差した。
 
「あれは一体?」
「泥壁よ」

 頭部にあたる部分を掻き分けて、その顔を露出させたクルシュが一言で答える。

「一体どんな敵が来るのか不明だから、簡単には村に入り込まれないように作りたかったんだけど……時間が無くて半分も終わらないわ」
「そうか……しかし泥なんかでは簡単に砕かれるのではないか?」
「…………」

 クルシュの黙ったままの視線を受け、何か間違ったことを言ったかとザリュースは内心で慌てる。

「はぁ。大丈夫。確かに薄い泥では簡単に打ち砕かれるけど、分厚い泥壁は簡単には壊れないわ。急ピッチだし充分な材料が集まらなかったから、雨を受けたりすると少しばかり弱くなるけど、そう簡単には破壊されないから」

 確かに考えてもみれば、分厚くなったものは何でも壊すのに大変だ。
 そう納得したザリュースの前で何十人ものリザードマンたちが必死に作業をしているが、その壁ができているのはほんの一部だ。あと3日頑張ったとしてもさほど進まないだろう。しかしながらあるのと無いのではまるで違う。

「現在、覆えない部分は塀の作り方を変更して、引き倒されないような構造に作り変えてるわ」

 クルシュの指差す方角。
 そこでは杭を抜き取り、三角形の足場の上に突き出すように組まれている。そして杭と杭の間には、草で編んだ紐が何本も弛みながらも連なっていた。ザリュースが思い出してみると、レッド・アイ族の塀もそのようにできていた気がする。あの時は質問することができなかったが、今回は問題ないだろう。

「アレは一体?」
「あの足場の上に重りを載せて、引き倒されたり、押し倒されたりしないようにするの。そしてあの紐が間をすり抜けてくるものを止めるためのものね。ぴんと張ってると刃物で切り裂かれちゃうから、わざと弛ませてるわけ」

 ザリュースの質問に、声を弾ませ答えるクルシュ。それはザリュースに教えられるのが嬉しいのだ。今まで教えられていた立場だったというのも1つだし、ある感情から来るものでもあった。

「なるほど……あれなら確かに簡単には壊されないな」

 感心した声のザリュースに、自慢げな呼吸音を立てるクルシュ。

 ザリュースは深く頷く。
 かなり急ピッチではあるが、充分な要塞化が進んでいるといえよう。確かに人やドワーフたちが作るようなものには非常に遠い。しかしながら足場の悪い湿地という場所を考え、これ以上は現状ないだろう。

「ところでザリュースは戦士達に――」

 クルシュがそこまで口にした時、2人の元に風に乗って戦士達の騒ぎ声が聞こえてくる。熱気に満ち満ちた激しいものだ。

「一体何事?」

 クルシュは声の流れてきた方角に顔を向けるが、残念ながら家に隠れて何が原因かまでは分からない。しかしどこかで聞いたことのある歓声だ。
 そんな風にクルシュがどこかで聞いたのか、と自らの記憶を手繰っている中、ザリュースには答えを述べる。

「ああ。これはゼンベルが戦っているのではないかな? 今頃、兄と遣り合っているのだろ」
「そうだわ。ザリュースが戦ったときの歓声にそっくりなんだ」

 納得いったクルシュの中に新しい不安が浮かび上がる。

「でも勝てるの? あなたのお兄さんが負けると面倒なことにならない?」

 一応はこの同盟の最高指揮官はシャースーリューだ。そんな命令を下す人物が敗北を喫したりした場合、非常に厄介なことになるだろう。
 というのもリザードマンは強さに1つの重みを置く。弱い奴では信頼できないという種族的な考えのためだ。そのため勝者が敗者に従うというのを納得できるものは少ないだろう。結果、命令が上手く通らなくなる可能性は非常に高い。特にゼンベルを族長とするドラゴン・タクスの者はシャースーリューの命令を聞かなくなるだろう。
 そんなゼンベルの強さを目の前で見せられたクルシュの不安も当然だ。しかしながらザリュースはさほど心配していなかった。

「さぁな。しかし兄も強いぞ。特に祭司の力を使用させる時間があればあるほど強くなる。下手すれば俺でも負ける」

 自らに強化魔法をかけまくったシャースーリューは半端じゃ無く強い。さらに模擬戦では使わないだろうが、攻撃魔法まで使い始めたら、フロストペインを持っていなかった頃のザリュースでは相手にならなかったほどだ。
 かつてザリュースが前の持ち主を倒したとき、フロスト・ペインの1日に3回までしか仕えない必殺技とも言っても良い特殊能力を、3度使わせた相手こそシャースーリューなのだから。

「ならば良いけど……」

 今だ不安を隠しきれないクルシュに兄の戦う姿を見せてやるべきかと思い出したザリュース。そんな2人の前をぐったりした戦士達が数人、横切って歩いていく。

「……あれは? 何かの病気かしら?」
「……ああ、ゼンベルが酒を飲ませた結果」
「な! 皆、急がしい時期に!」
「そういわないでくれ。各部族の意志をまとめるという意味での苦肉の策でもあるんだ」

 そういいながらゼンベルはそんなことを考えている気配は無かったのをザリュースは思い出す。しかしクルシュはなるほどと納得の意志を示した。
 彼女の記憶にあったのはドラゴン・タスク族での酒盛りの光景だ。あれによって急激に仲が深まったような記憶が、彼女のイメージをより良いものとしている。

「それなら仕方ないわね」
「……そうだな。仕方ないな」

 ふと、クルシュが黙る。
 ザリュースは聞き出そうとはしない。ただ、黙って待つだけだ。やがて、クルシュはポツリと呟いた。

「避難の方は進んでいる?」
「ああ、あっちも順調だ」

 各部族の選別されたものたちは現在一箇所に集められている。そこで出発の時を待っている状態だ。

「あっちは問題なく進むかしら」
「そればかりは分からないな。もしかしたらこの湖からリザードマンは全て滅びるかもしれない」

 ザリュースは今まで言わなかった1つの不安を口に出そうと決心する。全てが決まったこの状況下で故意的に話さなかった内容を告げるのは、あまりにも卑怯な行為だ。無論、そんなことザリュースだって理解している。それでも惚れたメスに隠し事はしたくないという、単純だが強い意志は抑えきれない。

「1つだけ不安があるんだ――」

 ザリュースの隠し切れない不安を込めた声を受け、クルシュが笑った。その笑いはしてやったりというものだ。あまりにもクルシュらしくない――場違いな表情に、ザリュースはそれ以上の言葉を紡げない。そんなザリュースの代わりに口を開いたのは当然、クルシュだ。

「――あの時、言わなかった奴かしら? ならば敵がこの動きを読んでいた場合。同盟を組むことを待っていた場合でしょ?」

 ザリュースは黙る。その通りだと。
 向こうが時間を与えたのも、価値を見せろといったのも、纏めあげた全部族を一気に潰したいという狙いを持っていた場合だ。そうだとすると逃げ出したリザードマンを追うだけの能力はないかもしれないという予測が立つ。しかしその場合もまた問題を含んでいるのだ。
 既にその案に気づいていたクルシュは、その場合の結果、生まれる問題を述べる。

「それでも、結局、食料問題はいずれはでてくる問題でしょ?」
「……ああ」

 結局、避難の方向で考えると、食糧問題はどうしても生まれてしまうのだ。

「不安は色々あるわ。ザリュースみたいに色々考える人はそうでしょうね。でもなんだかんだは1回勝って、それから考えましょう?」
「向こうが一回で諦めるとは思えないぞ?」

 結局、敵の戦力や目的、そして正体に至るまで全てが不明だというのが問題なのだ。情報があればそれに応じた行動が取れただろう。しかしながら皆目検討の付かない現状では、最悪を予測した上で、最も安全だと思われる策を取るしかない。
 それには答えずにクルシュは――

「見て――」

 クルシュは手をあげる。その先には何もないが、指し示したいのはこの村の全てなのだろうとザリュースは理解できた。

「全てのリザードマンの部族が1つの目的に向かって努力している姿よ」

 確かに様々な部族のリザードマンたちが同じ目的に向かって進んでいる。
 ザリュースの脳裏に昨晩の一部の戦士たちでの宴会が浮かんだ。そこにはどの部族もなかった。確かにかつての滅ぼされた2つの部族の生き残りにわだかまりがなかったといえば嘘にはなる。しかしながら、その恨みすらも飲み込んで今回の一件に当たるというのだ。
 皮肉なことだ。
 ザリュースは口の中で呟く。外敵が出来ることで団結するその光景を目の当たりにするとは。

「守るべきは可能性よ、ザリュース。今回のこの全部族の同盟が、私達を発展させてくれるはずだわ」

 クルシュの頭が壁に動く。
 ザリュースも見たことの無い技術。しかし、これは他の部族の知るところとなった。ならばこの壁はいずれ、全てのリザードマンの部族で使われるだろう。このしっかりとした壁があればモンスターが中まで入ってくることは無くなるだろう。

「ね、勝ちましょう、ザリュース。後のことなんか分かるはずもない。もしかしたら倒してしまえば敵はいないかもしれない。そうしたら私達は発展できるわ。もう、食糧問題なんかで同族殺しをしないでいい世界が来るかもしれない」

 微笑むクルシュ。ザリュースは胸からこみ上げる気持ちを抑える。もし開放したらとんでもないことになりそうで。ただ、これだけは――

「やはりお前は良いメスだ。――初めて会ったときのことを、今回の戦いが終わったら聞かせてくれ」

 クルシュは微笑をより明るいものとした。

「分かったわ、ザリュース。終わったとき答えは言わせて貰うわ――」


 ◆


 準備の時間というものは非常に速く流れるものである。

 そして――約束の日が来る。

 太陽がじりじりと亀のような動きで天に昇り、澄み切った青い色を見せる。
 風はいつもどおりの涼しげなものだが、音というものを一切運んでこない。痛いほどの沈黙が世界を包んでいる。
 刺せば破裂するような緊張感。
 誰かがごくりと唾を飲み、誰かが荒い息で呼吸を繰り返す。

 その場にいるリザードマンたちが言葉を発さなくなってから、どれだけの時間が経過した頃だろうか。
 突如、天に穴が開くように、ぽつんと黒雲が生まれる。それは前に起こったような勢いで範囲を広げ、どんどんと青かった空を覆いつくしていく。
 だが、その下にいるリザードマンたちに驚愕や畏敬。そういったものは無い。ただ、前方のみを見据えるのみだ。

 やがて完全に黒雲が天を覆い、太陽光を遮ったことによる薄闇が周辺を漂いだした頃――
 リザードマンたちの視線の先。森と湿地の境界線からゆっくりと、しかしながら無数といっても良いほど何かが現れだす。木々によって隠れているためにどれだけいるのかは分からない。ただ、無限とも思えるように後から後から姿を見せはじめた。



 攻め手はゾンビ2500体、スケルトン2500体、アンデッド・ビースト400体、スケルトンアーチャー200体、スケルトンライダー120体。
 総勢5720体に、指揮官および守護兵。



 対する守り手はリザードマンの5部族同盟。
 グリーン・クロー部族、戦士103名、祭司5名、狩猟班7名、オス124名、メス105名
 スモール・ファング部族、戦士65名、祭司1名、狩猟班16名、オス111名、メス94名
 レイザー・テール部族、重装甲戦士89名、祭司3名、狩猟班6名、オス99名、メス81名
 ドラゴン・タスク部族、戦士125名、祭司2名、狩猟班10名、オス98名、メス32名
 レッド・アイ部族、戦士47名、祭司15名、狩猟班6名、オス59名、メス77名
 計、戦士429名、祭司26名、狩猟班45名、オス491名、メス389名
 総勢1380名に、部族の族長およびザリュース。



 ■



 後の世にて超越者<オーバーロード>の名をもって知られる至高帝アインズ・ウール・ゴウン。神王長とも称される偉大なる存在が、直轄のナザリックを動員して戦争を行ったのは、カッツェ平野の大虐殺が最初とされる。
 2つの国家が軍事力を動員してぶつかり合いながらも、戦争ではなく大虐殺と呼ばれるのは、至高帝アインズ・ウール・ゴウンの圧倒的なまでの力によって、敵軍に膨大な死者を生み出したためとされる。その圧倒的で一方的な行いは、戦争ではなく大虐殺と呼ぶのが最も正しい、と。

 そしてそれ以降も、ナザリックが動いた戦いで戦争と名づけられた行いは歴史上数少ない。

 しかしながら歴史には語られない戦争――カッツェ平野の大虐殺の前に、小さな1つの戦いがあった。


 その歴史に残らない、規模からすると非常に小さな戦争。
 
 ――今その戦いがゆっくりと幕を開こうとしていた。






――――――――
※ べ、別にあなたに褒められたからって、頑張ったわけじゃないんだからね! 変な勘違いしないでよね!
 ……はい、すいません。ちょっとテンションおかしいです。今回も長かったです。お疲れ様でした。こうやって読むとやはり何回に分けたほうが良かったですかね? その場合は読みにくいとか感想で言ってくださいね。
 あとは恋愛イベント発生です。爬虫類とか、主人公関係ねー、とかの意見は却下します。
 リザードマン頑張れ、ナザリック負けろ。そう思ってくれた人がいてくれると嬉しいです。さて、次回は40話「戦2」ですね。今月中に更新できるはずだけどなぁ。でも燃え上がるようにかける自信がないです……。



[18721] 40_戦2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/10/02 06:54
 そこは木で作られた一室だった。
 飾りの一切無い、木がそのままむき出しの、ログハウスのような素朴な作りである。ただその部屋は、天井までの高さは5メートルはあるだろうし、広さ的にも15メートル四方は軽くある。
 そんな広い部屋には調度品は殆ど置かれていなかった。そのため、生活を主に考えて作られた部屋ではないのは、一目瞭然であった。いや、1つだけ巨大な鏡が壁にかけられてはいたが。
 そんな非常にがらんとしたその部屋は、普段であれば寒々しい光景が広がるばかりなのだが、この数日間だけはそうではなかった。

 室内には無数の人影があったのだ。 

 そんな室内の――鏡の前に置かれたテーブル。
 何処からか運んだのであろうそれは、重厚かつ頑丈なしっかりとした作りであり、ログハウスのような室内の雰囲気とはまるでそぐわない。そんな違和感だらけのテーブルの上には、丸められた無数の羊皮紙が並べられていた。
 これ全てが魔法を込めたスクロールである。

「これが転移系のスクロールです」

 そしてテーブルの上に、また1つスクロールが置かれた。

 置いたのは人影の1つ、人間の――メイド服と呼ばれる装束に身を包んだ女性だ。
 非常に端正な顔立ちをした、大人しげな女性だが、その眼は堅く結ばれ、その下の瞳を見ることはできない。話すことも嫌だといわんばかりに、口もしっかりと閉じられていた。濡れたような――まるで別の生き物であるかのように艶やかな光沢を持つ黒い髪は、サイドアップでまとめられている。
 肌の色も黒。
 それを包み込む服の色も黒。ただそれは通常のメイド服とは大きく違う。
 
 肘上までを覆う、ガントレット、クーター、ヴァンブレイス、そしてリアブレイスの中程までを合わせた様な、黒の材質に金で縁取りし、紫の文様が刻み込まれた腕部鎧。ハイヒールにも似たソルレット、リーブ、ポレインを融合させたような脚部鎧も腕部鎧と同じような作りだ。
 メイド服のスカート部分も、布の上に魔法金属を使用した黒色の金属板を使い防御力を増している。それも魔化したメテル鋼、ミスラルとベリアットを混ぜこんだアダマス鋼、魔法金属ガルヴォルンの三重合金板だ。胸部装甲も同じ金属を使っている。
 勿論、込められた魔法も一級品だ。ユグドラシルでも90レベル以上のプレイヤーしか手に入らないようなデータクリスタルの中でもレアデータを使用している。
 その防御能力の高さを考えるなら、戦闘用メイド服というよりはフルプレートメイルを魔改造しましたという方が正しいだろう。
 そんな彼女の同僚と同様の、戦闘用のメイド服だ。 

 そしてほっそりとした肢体を包む、魔改造メイド服の襟に当たる部分を立てて、喉元を完全に覆い隠している。腰には一本の剣を鞘に入れて下げていた。

 彼女こそ、セバス直轄の戦闘メイドの1人であるエントマ・ヴァシリッサ・ゼータである。

「これぐらいでしょうか。あとは《メッセージ/伝言》のスクロールですが、あれはかなりの量になります。このテーブルの上を一旦片付けてからで良いでしょうか?」

 エントマは集まった人影の1つに話しかける。その影はゆっくりと頭を縦に振った。

「ソウシヨウ」

 非常に聞き取りづらい発音で、エントマに声が掛かった。
 その発音は例えるなら硬質な金属をぶつけ合わせ、そこから生じる音を持って無理矢理に人の言葉としている――そんな人に在らざるもの以外、決して口にすることができないような音程からなっていた。
 事実、それを発したのはまさに異形――。
 2.5メートルほどの巨体は二足歩行の昆虫を思わせる。悪魔が歪めきった蟷螂と蟻の融合体がいたとしたらこんな感じだろうか。身長の倍以上はあるたくましい尾には鋭いスパイクが無数に飛び出している。力強い下顎は人の腕すらも簡単に断ち切れるだろう。
 白銀に輝く硬質そうな外骨格をしたそんな存在――名をコキュートスといった。

 そして同じようにテーブルを囲んで立つ者たち。
 そのどれもが昆虫に良く似た姿をした異形たちだった。蟷螂のような者、蟻のような者。巨大な脳みそのような、昆虫という言葉に疑問を抱くような者もいた。
 皆、外見は大きく異なる。
 しかしながら、そのものはたった2つの共通点があった。それは皆、コキュートス配下のシモベであるということ。そしてナザリックという組織に仕えているということだ。

「承りました」

 エントマは深々と頭を下げる。それを受け、周囲にいた昆虫にも似た者たちがメイドの手を煩わせまいと動き出す。
 自らの部下が動くのが当たり前という顔をコキュートスも、そしてエントマもしている。
 それはナザリックに所属するものなら至極当然の光景だ。至高の存在に直接作り出されたコキュートスやエントマと、シモベでは地位が格段に違うのだから。

 一通り、テーブルの上が片付けられたのを確認し―― 

「では、最後にコキュートス様。お渡ししておきます」

 ――口も動かさずにエントマは言うと、足元に置いていた鞄を取り上げる。そしてその中から何枚もの丸めた羊皮紙を取りだした。

「《メッセージ/伝言》のスクロールです。アインズ様からはデミウルゴス様の働きで、羊皮紙に対する不安はなくなったので、いくらでも使ってかまわないという指示を受けております」
「ソウカ……デミウルゴスニハ感謝シナイトナ」

 コキュートスは差し出されたスクロールの内、数枚を4本の腕の1本で取り上げた。

「コレデマタ、デミウルゴスト差ヲ引キ離サレタナ」

 周囲のシモベたちへ苦笑いを向けつつのコキュートスの言葉。それを受け、追従の微かな笑いが漏れた。

 羊皮紙を手に、コキュートスは物思いにふける。

 コキュートスもナザリックで低位の魔法を込めるための羊皮紙の在庫量が少なくなってきたという話は聞いていた。しかしながら、それはナザリックの守備を任命されたコキュートスには、如何することもできない問題だった。当たり前だ。守護を命じられているのに、外に探しに行けるかというのだ。
 そしてその問題を解決したのはデミウルゴスだ。彼が問題なく使える羊皮紙の発見に成功したのだ。

 自らの同輩の任務の成功。
 それはまさに喜ぶべきことである。事実、コキュートスも喜んだ。しかしながら、心の奥底で上がる嫉妬の炎を完全に押し殺すことができなかったのだ。自らの同僚が、至高の存在であるアインズの役に立つ行い――羊皮紙の発見――をしたというのが、羨ましくて羨ましくて堪らないのだ。
 無論、コキュートスだってそれぐらい理解できる。外に出ないコキュートスと、外で任務に当たっているデミウルゴスとの自由の幅ぐらい。
 自らの仕事はナザリックを守備すること。
 恐らくは他の守護者の誰に下されたどんな命令よりも、それは大役である。当たり前だ。下賎なやからを、至高の存在である方々が御座します場所に踏み入れて良いわけが無い。

 しかし、侵入者がいなければコキュートスがしっかり働いているという証明も、またできないではないか。

 守護者にとって、自らの主人の役に立つというのは信じられない歓喜を生み出す。その歓喜をコキュートスも味わいたいと常日頃から思っていたのだ。

 そのチャンスが今、この場にある。

 コキュートスは首を動かし、鏡に映った光景を見ながらスクロールを握り締める。

 鏡には室内の映像が映るのではなく、どこかの湿地のような光景が浮かんでいた。これこそ遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>の予備だ。

 そこに映る光景こそ、コキュートスがこのアウラが建てたログハウスに2日ほど詰めていた理由だ。

 今回の戦争――いや実験においてアインズより受けている指令は、決してコキュートスが表に出ないことである。勿論、自らのシモベもそれに同じだ。
 ならば、現状、湖に展開している兵力だけで勝利を収める必要がある。
 しかしそれに成功させれば、アインズに自らの忠誠心捧げることができるのだ。

「ゴ苦労ダッタ。アインズ様ニハ感謝ノ言葉ヲ述ベテオイテ欲シイ」

 エントマは再び優雅なお辞儀をしてみせる。

「デハ……帰ルノカ?」
「いえ、この戦いの結果を、この場で見届けるようにとご指示を頂いております」

 お目付け役か。
 コキュートスはそう判断し、自らに課せられた大役に対する高揚感を感じる。ならばそろそろ始めるとしよう。
 コキュートスは《メッセージ/伝言》を発動させ、アンデッドたちの指揮官に命令を下す。

 ――進軍と。



 ■



 一段高くなった壇の左右に篝火が立てられ、周囲に揺らめくような明かりを放っていた。
 時間的には明かりを焚くにはまだまだ早い。しかしながら空に掛かった厚い雲のお陰で、火を焚いたとしてもおかしいものはなかった。
 そんな壇上には幾人ものリザードマンたち。各部族の長、各部族の頭。そんな重要な人物達がいる。そしてその前の広場には、無数のリザードマン。
 リザードマンたちからはざわめきが広がっていた。不安や焦り、恐怖。そういったものを必死に隠そうとして、それでいて隠し切れない動揺のざわめきだ。
 それも当然だろう。
 これから行われるのは戦争。命を懸けたものだ。隣にいる親しい友人が次の瞬間は死体になるかもしれない。大地に転げ倒れるのは自分かもしれない。
 そんな戦場にこれから赴くのだ。今日という日を迎えるに当たって、当然覚悟は決めている。それでいてもその場に直面してしまえば、恐怖しない方が精神的におかしい。

 そんなざわめきを断ち切るように、各部族の長の中から、1人のリザードマンが進み出る。
 そのリザードマンを知らないものは誰もいない。今回の5部族同盟のまとめ役でもある、シャースーリュー・シャシャを。

「聞け! すべてのリザードマンたちよ!」

 凛とした声が広がった。広場が水をうったように静まり返る。
 もはやその場にいる全てのリザードマンからは音は立たない。静まり返ったその広場に、シャースーリューの声がやけに響く。

「認めよう、敵は多いと」

 声は立たない。しかしながら広場の空気に動揺という色が付いたのが、誰の目からも明らかだった。
 シャースーリューは少しの時間を置いてから、再び声を張り上げる。

「しかし恐れることはない! 我ら5つの部族は歴史上初めて同盟を組む。この同盟によって、このひと時のみ、我らは1つの部族となるのだ」

 それが如何したのか。
 疑問に満ち満ちた視線を受け、その真意をシャースーリューは明かす。

「5つの部族の祖霊が我らを――違う部族の祖霊すらも我らを守ってくれる」

 祖霊は自らの部族の者を守護してくれる霊だ。それが他の部族の者まで守るなんていう話は聞いたことがない。その場にいた多くのリザードマンがありえないものを見るような、そんな視線をシャースーリューに向ける。
 自らに集められた疑惑の視線を無視し、シャースーリューは声を張り上げる。

「各祭司頭よ!」

 その声に反応し、後ろに5人の――各部族の祭司頭を引き連れたクルシュが歩み出る。自らの着ていた服を脱ぎ捨て、その白い鱗が表に出す。
 アルビノの白い鱗を見、無数の嫌悪の表情がクルシュの視界の中に映った。しかしながら平然としたまま、クルシュは微笑む。

「各祭司頭の代表たるクルシュ・ルールーよ!」

 シャースーリューのその声に反応し、さらに一歩踏み出る。

「祖霊を降ろせ!」
「――聞きなさい。この1つの部族の子供達よ!」

 この新たに生まれる部族がなんなのか。
 毅然とした態度で、その話を滔滔と語るクルシュ。声は時に高く、低く、唸りを上げるような、歌うような口調で。

 最初は殆どの者がアルビノの姿を嫌悪していた。だが、少しづつそんな色は薄れていった。それは神秘的な光景だったのだ。
 クルシュは語るのと同時に、僅かに体をくねらせる。それによって白い鱗が篝火の炎によって無数の輝き――照り返しをみせ、まさに祖霊がクルシュの体に降りてきたようにすら映えたのだ。

 崇拝しきった表情。
 その表情を目の前の広場の殆どのリザードマンが浮かべていることを確認し、クルシュは儀式を進める。

「5つの部族がこの度たった1つの部族となる。それは5つの部族の祖霊があなた方全てを守るということ! 見なさい! 全てのリザードマンたちよ! 今ここに無数の――他の部族の祖霊たちがあなた方の元に降りてくる姿を!」

 ばっ、とクルシュはその手を広く上げ、天空を指す。無数の視線が釣られて動くが、無論、そこには曇天が広がるばかりだ。何かの魔法的存在が姿を見せているようには思われない。しかしながら、そんな集まったリザードマンの一人が呟いた。
 小さな光だ――と。
 最初は小さかった声が少しづつ大きくなる。その場に集まったリザードマンの幾人からか、見えるといった声が上がり始めたのだ。小さな光という者、同じリザードマンだと叫ぶ者、巨大な魚だと呟く者、子供だと驚く者、あれは卵だと目を疑う者。
 そんな声に引っ張られるように、その場にいる殆どのリザードマンが様々なものを己が目にする。
 それはまさに祖霊の降臨だった。それ以外にリザードマンたちには考え付かない。

 祖霊が俺達を守りに来たんだ!

 そんな叫び声が上がったのも当然の流れだろう。

「感じなさい! その力があなたたちに流れ込むことを!」

 どこか遠くから、それでいて非常に近くから心の間に滑り込むように聞こえるクルシュの声。
 その声に誘導されるように、何か力のようなものが自らの体に降りてくるのを多くのリザードマンたちが感じ取れた。

「感じなさい! あなた方の元に5部族の祖霊が降りてきた力を!」

 その場に集まった全てのリザードマンたちが確かに感じていた。
 沸々と湧き上がってくる力。先ほどまでの不安がどこかに飛んでいくような高揚感。酒を飲んだように体内から熱が吹き上がってくる。
 それはまさに無数の祖霊が降りてきた証だ。

 自らの前に広がった、その恍惚とした表情からクルシュは視線をそらすとシャースーリューに頷く。

「さぁ、すべてのリザードマンたちよ。祖霊は我らの上に降りた。確かに数では負けていよう。だが、我らに敗北はあるか?!」
『無い!』

 シャースーリューの言葉に反応し、今だ恍惚としながらも、多くのリザードマンたちの唱和が響き、ぐわんと空気がうねる。

「そうだ! 祖霊の降りた我らに敗北は無い! 敵を倒し、勝利を祖霊に捧げるぞ!」
『おお!』

 歓喜のうねりが戦意の上昇へと変わる。もはやそこに不安を抱くリザードマンはいない。来る戦いに向け、戦士となったリザードマンだけだ。


 これは魔法の効果によるものではない。この戦闘前の儀式が行われる前に全てのリザードマンにはある飲み物が振舞われている。この飲み薬は短い時間ではあるが酩酊、多幸感、幻覚などをもたらす特殊な薬物を煎じて作ったものである。
 これによって一種のメディテーションの効果をもたらされているのだ。
 クルシュの話はこの効果が出るまでの時間稼ぎである。
 種を明かしてしまえばつまらないものである。しかしながらその効果を目の辺りにした――祖霊が降りてくる姿を見たリザードマンたちにとってすれば、それはまさに勇気の湧き上がる儀式だ。


「では、身を包む塗料をまわす。本来であれば各部族一色だが、今、皆の体には各部族の祖霊が降りている。5色使い、その身を飾れ!」

 シャースーリューの言葉に反応し、幾人もの祭司達が、集まったリザードマンの中に陶器の壷を持って入っていく。
 リザードマンたちは陶器の壷より塗料を取り、体に思い思いの文様を描き始める。特別な規則性は当然無い。これはそのリザードマンの体に降りた祖霊が、勝手に描いているとされているからだ。そのため、皆、なんとなく指が走るままに、自らの体に文様を描いている。

 今回は5つの祖霊が降りているということもあり、全身を殆ど覆う者が多い中にあって、グリーン・クロー族の者は殆ど文様を描かない。これはザリュースとシャースーリューという部族でも指折りの者がさほど描かないことに起因する。
 つまりは2人に近い祖霊が降りてきている。そう考えるものが多いために、同じようにほんの少ししか描かないのだ。いうならアイドルを真似るファンというところなんだろうか。

 一通り見渡し、皆が書き終わったことを確認したシャースーリューは、自らの大剣を抜き放ち、門へと指し示す。

「出陣!」
『おおおおぉぉぉ!!』

 無数の咆哮が合わさり、耳が張り裂けんばかりのものとなって周囲に響く。


 ◆


 ナザリックの軍勢は、2つの軍隊に分かれている配置されている。
 リザードマンたちの向かって左側にゾンビを配置し、右側にスケルトンという具合だ。スケルトンアーチャーとスケルトンライダーたちはスケルトンの後ろに配置されている。
 アンデッド・ビーストは本陣なのか、後方に配置される形式だ。

 それに対して寡兵のはずのリザードマンたちも部隊を2つに分けている。ゾンビの側にメスのリザードマンと狩猟班。スケルトンの側に戦士、オスのリザードマン。祭司たちは壁に囲まれた村の中だ。

 外にリザードマンが出てきているのは当然、篭城戦の有利がまるでないのが分かっているからだ。何処からも援軍が来ない状況。さらに頑丈という言葉からは遠い壁。それに対し、アンデッドたる敵軍は食料も睡眠も不要な軍勢。
 簡単にこれだけ不利な状況なのだ。篭城は愚策中の愚策と言えよう。

 しかしながら外で隊列を組むと、酷く実感するのが彼我の兵力差だ。
 1人に対して5体。10人に対して50体。比率は変わらない。しかしながら1000人に対して5000体は圧倒的な差にも感じられる。それは5000体ものアンデッドが隊列を組めば、それだけで異様な圧迫感を生み出すからだ。
 数の差は、戦う前から戦意を失う可能性を充分に有している。しかし、そんな状況下にあって、リザードマンたちにもはや恐れの色はない。祖霊が降りてきている彼らの前に数は問題ではないのだ。

 やがて、アンデッドたちがゆっくりと動き出した。動いたのはゾンビとスケルトンだ。温存する気なのか、スケルトンアーチャーとスケルトンライダーが動く気配はない。
 それに答えるようにリザードマンたちも動き出す。

「おおおおおぉぉぉお!!!」

 割れんばかりの鬨の声が湿地に響き渡った。
 それにあわせ、無数の水音。水が跳ね、泥が散る。

 ゾンビとスケルトン。最初は一直線に並んで進軍を開始したにも関わらず、両者の距離は少しづつ開く。それはゾンビが動作がのろく、スケルトンは機敏だということ。そして何よりも湿地という足をとられる場所だということだ。
 ゾンビのような鈍いモンスターでは非常に動きが遅くなるが、スケルトンのように軽い体のモンスターはそれほど動きが遅くならないということだ。
 そのため、最初の激突はスケルトンと戦士階級のリザードマンたちで行われた。

 リザードマンたちに陣形なんて殆ど無い。とにかく走って殴るという乱暴なものだ。
 先頭に立ったのは、各部族の戦士頭5人だ。本来であれば指揮官たる人物が前に飛び出る。場合によっては愚かな行為だろう。しかし、思い出して欲しいのはリザードマンたちの部族で最も高い地位に着く人物、それは最も強い者だということを。そして強くなければ命令を聞かせられないということを。彼らが前を走らなければ、リザードマンの士気も低下するのだ。
 続いて突撃してきたのは、レイザー・テール部族の重装甲戦士89名だ。彼らは皆、皮製の鎧でしっかりと身を包み、皮の盾まで所持した全部族最高の防御力の持ち主達である。
 そんな彼らが盾を構え、まるで1つの壁になってスケルトンの軍勢に突き当たる。

 激突――スケルトンの先頭集団とリザードマンの先頭集団がぶつかり合う。
 そして――無数の骨が飛散し、リザードマンたちが食い込むようにスケルトンの軍団の陣形に入り込んだ。

 怒号が響き、骨の砕ける音が無数に起こる。時折、うめき声も聞こえるが、圧倒的に骨の砕ける音のほうが大きい。
 一撃目はリザードマンのほうに、圧倒的優勢で進んだ。

 もしこれが人間の軍隊であったら、この結果は逆転していただろう。
 スケルトンは骨の体を持つため、刺突武器によるダメージを殆ど無効にし、斬撃武器による攻撃にも耐性を持つ。そのため刃物を一般的に使う人間の軍勢では、有効的なダメージを与えるのは難しいからだ。
 ならばスケルトンは強いのか? それは違う。なぜなら刺突、斬撃に強い反面、スケルトンは殴打武器に弱いという弱点も兼ね備えているからだ。
 リザードマンたちの主武器は石で作ったメイスのような無骨な武器だ。それはスケルトンを相手にするにはこの上無い武器となる。リザードマンの武器が振り下ろされるたびに、スケルトンの骨の体が脆くも崩れた。一撃を耐えたとしても、続く一撃で完全に破壊される。逆にスケルトンの持つ錆び付いた剣の一撃は、リザードマンの厚い鱗の皮膚で弾かれる。時折怪我を負うものも当然いるが、致命傷になるほどの深いものではない。

 最初の突撃。
 それだけで600体近いスケルトンが湿地に沈んだのだ――。



 ■



 鏡に映る光景を目にし、コキュートスは瞠目する。
 まだ最初のぶつかり合いでしかないが、リザードマンは戦闘能力は予測以上。おそらくはスケルトン・アーチャーとスケルトンライダーぐらいだろうか、五分以上の勝負が出来るのは。
 見ている間にもスケルトンが一気に崩されていく。スケルトンとゾンビでは相手を疲労させる程度しか役に立たないのではないだろうか。

 そう推測すると、有効的な兵力はアンデッド・ビースト400体、スケルトン・アーチャー200体、スケルトンライダー120体の720体。数の上では逆転してしまう。いや、それでも時間を掛けてゆっくりと潰していけば問題はないだろうか。
 コキュートスは頭の中で計算する。

 アンデッドは強い。特に持久戦において勝てる存在はそうはいないだろう。アンデッドは恐怖も痛みも何も感じない存在なのだ。さらに疲労も睡眠も無縁だ。
 これがどれだけ戦争では有利に働くかは、説明するまでも無いだろう。

 さらに、石で出来たメイスを頭部に全力で叩きつけたとしよう。生物であれば下手すれば即死、運が良くてもすさまじい激痛と出血が襲うだろう。殴られた相手は急激に戦意を喪失するのは自明の理だ。勿論、戦士等のように苦痛に対する制御訓練を行い、それでも戦意を喪失しない者は当然いる。しかし普通のものであればそれ以上の戦意は当然なくなるだろう。
 それは生物として当然だ。

 ではアンデッドはどうか。
 簡単だ。――その程度大したことがないと襲い掛かってくるのだ。
 頭を割られた? ならば中身を撒き散らしながら襲ってくるだろう。
 腕をへし折った? ならば折れた手で痛みも感じずに襲い掛かってくるだろう。
 足を切り飛ばした? ならば這いずりながら襲い掛かってくるだろう。

 そう、アンデッドは偽りの生命力を全て失うまで動き続けるのだ。人間のように戦意を失うことなく。即ち、アンデッドとは最良の兵士でもあるのだ。

 個としての強さは現在リザードマンが勝っている。ただ、それがいつまでも続くとは限らない。
 コキュートスはリザードマンたちの評価を一段上げ、一息に潰せる存在ではないと判断する。ならば、ここでしなくてはならないのは、持久戦に持ち込むことだろう。

「一端引カセテ、様子ヲ伺ウカ?」
「それが良いと思われます」
「それよりアーチャーをライダー動かすべきかと」
「いや、いや、それよりもこのままぶつけ続けて、敵の疲弊を待つべきかと」
「疲弊させてどうする? 敵の本拠地を落とさねば回復されて終わりだろう?」
「確かに。防備を固めているようですが、脆い壁です。あの村を落として、それから包囲殲滅すればよいのでは?」

 幾人かのシモベの返答を受け取り、コキュートスは《メッセージ/伝言》のスクロールを手に持つ。ちらっとエントマの様子を伺う。
 エントマはやはり目を閉じたまま、鏡の方に顔を向けていた。その表情に感情の色は一切浮かんでいない。仮面を被っているような変化の無さだ。コキュートスは彼女の正体を思い出し、表情を伺った己の愚を悟る。
 ――あれは飾りでしかない。
 そうだ、彼女の顔に表情が浮かぶわけが無いのだ。

 コキュートスは彼女の顔から、後ろにいるであろう自らの主人の感情を掴み取ることを諦めると、スクロールを発動し、軍勢の指揮官にメッセージを飛ばす。



 ■



「――舐めてんのか?」

 ゼンベルが呟く。その呟きは小さいながらも、泥壁の上で様子を伺う、その場にいた全員に聞こえるだけの大きさを持っていた。

「ふむ……スケルトンとゾンビしか動かない現状がか?」
「ああ、そうだ。弓兵も騎兵も動こうとしねぇ。こっちをバカにしてるとしか思えねぇ」
「ですね。一気にこっちを落としに来ると思ったんですが……予測が外れましたな」
「ぞんびのほううまくいってる」

 ゾンビと敵対しているのはたった45名しかいない、数少ない狩猟班だ。投石しては後退し、投石しては後退しを繰り返している。そして少しづつだが、スケルトンと距離をあけるように誘導していた。メスのリザードマンたちはスケルトンの横っ腹に食いつくように移動しつつある。

「変な動きじゃねぇか」
「……全くですね」

 誘導というよりも完全にそちらに意識を取られたようなゾンビの動き。あんな行動を認める指揮官がいるだろうか。いやいるはずがない。しかし現実にそう動いている。ならば、そこに敵の狙いがあるのだろうか。

「何だか、理解できないな」
「ああ……」

 どれだけ頭を悩ませても、ゾンビの行動に意味があるようには思えない。

「もしかして指揮官になる存在はいないんじゃないか?」
「ん? ざりゅーすはなにをいう?」
「……つまりアンデッドは最初に指令されたとおりの動きしかしてないってこと?」
「ああ、そうだ」

 アンデッドの中でもゾンビやスケルトンという最下級の存在は知性が無いに等しい。通常、支配者が命令を細かく下すのだが、その支配者がいない場合は最後に与えられた命令を愚直なまでに遂行する。
 つまりはゾンビには支配者がいなく、近くのリザードマンを殺すようにという命令を受けているだけなのではないかという考えだ。

「つまりよぉ。今回の戦争は指揮官がいないでどれだけ戦えるかの実験ということか?」
「かもしれないな」
「ふざけやがって」

 シャースーリューが吐き捨てるように言う。流石のシャースーリューも腹に据えかねるものがあるのだろう。こちらは命を賭けているのに、向こうにしてみれば実験程度だとしたら我慢できないものがある。

「落ち着いてくれないかね、シャースーリュー。まだそうだと決まったわけではないのだから」
「ああ、すまん。……順調なのは良いことなのだからな」
「ああ、兄者。その通りだ。今のうちに出来るだけ数を減らさないといけないからな」

 戦闘における疲労というものは馬鹿にならないものだ。しかも乱戦にもなれば、その精神の磨り減り方は半端じゃないものとなる。乱戦になれば前後左右、どこから襲われるか分からないのだ。数回武器を振るうだけでも、普通に振るう倍の疲労を感じさせる。
 しかしアンデッドにはそれがない。いつまでも同じスタミナを保ったまま襲い掛かってくるのだ。
 時間が経てば経つほど、生物と死者のそういった差は明白となっていく。

 時間はすなわちリザードマンの敵なのだ。

「ちっ。おれも行けりゃぁよぉ」
「がーまん。ぜんーべる」

 確かにゼンベルの豪腕を持ってすれば、スケルトンは一気に片付いていくだろう。ただ、それはゼンベルという人物を敵に紹介する行為でもある。ザリュースたち6人は特別に選抜された隊として、切り札として存在しなくてはならない。どうしようもなくなれば当然出るべきだろうが、そうでないなら敵の本命が出るまでカードを表に返すことはしてはならない。

「しかし、こちらに来ないということは我々にとっては好都合じゃないか」ザリュースは皆に話しかけ、賛同を意志を受け取りつつ、自分の横にいるクルシュに問いかける。「あっちの方は順調か?」
「……ええ、儀式の方も順調ね」

 村の中を見ているクルシュがザリュースの質問に答える。いま、村の中で祭司たちが行っている行為は、リザードマンのもう1つの切り札になる可能性を備えた儀式だ。本来であれば非常に時間の掛かる行いのはずだが、全ての部族の力が纏まることによって、今回の戦闘中に使えるまでの速さで儀式は進んでいる。

「……協力し合うってこんなに凄いことなのね」
「ふむ……そうだな。かの戦いの後も細々とは情報を交換していたんだが……この戦いが終わった後、色々としたいことが増えてきたな」

 シャースーリューの発言に、他の族長達も大きく頷く。この戦いをして、始めて発展という可能性をまざまざと見せ付けられたのだ。そんな5人を眺め、ザリュースは笑った。

「? 何が可笑しいの?」

 そんなザリュースを目ざとくクルシュは見つけ、不審そうに問いかける。

「いや、なんかこんな時だが、嬉しくてな」

 一瞬、言いたいことの意味を考えたクルシュだが、そのザリュースの思いを瞬時に読み取る。

「――そうね。ザリュース」

 微笑むクルシュを目にし、ザリュースは眩しそうに目を細める。2人とも憧憬と自愛に満ちた眼差しであった。
 2人の体は離れている。当たり前だ。こうしてる間にも死んでいくリザードマンがいるのだ。それを理解してなお、己の心に正直なそういった行為が取れるはずが無い。しかしながら、ザリュースとクルシュの尻尾のみが別の生き物のように動き、突っついたり離れたりをしている。

「ふむ……」
「どうですかねぇ、おにいさま?」
「完全に私達は部外者ですね」
「あつーい」
「結論……若いということは良いことだな。未来がある」

 可愛い後輩の姿を目にした、先輩リザードマンの4人がうんうんと頷く。
 無論、そんな声が聞こえないはずが無い。ザリュースとクルシュは互いに何をしているのか、それを思い出し、ばたばたと尻尾を揺らしながらきりっとした顔を作った。

「兄者、動き出したぞ?」

 あまりの違いようにシャースーリューたちは苦笑いを浮かべながら、視線を敵陣地に移す。スケルトンライダー達が大きく回るように動き出したのだ。

「おいおい、こっちを狙ってくる気かぁ?」
「騎兵で? こっちを攻撃することで動揺を誘うつもりか?」
「いやいや、戦士やオス達の後背を取って、包囲殲滅じゃないですか?」

 不味い。
 皆、何も言わずに同じ結論に達する。スケルトンライダーの機動性は非常に厄介だ。
 初手からスケルトンライダーが動いてくれれば最初に潰せた。しかしながら乱戦状態に入っている戦士やオス、ゾンビを誘導している狩猟班、スケルトンの横っ腹から投石を始めたメス。現状では、スケルトンライダーを抑えられる手が無いのだ。

「流石に私達が動いた方が良いでしょうね」

 スモール・ファングの族長の発言を受け、シャースーリューも頷く。

「問題は誰が動くかだ」
「こちらに来たら皆でやるしかないのでは?」
「そうだな。あとは上手く嵌ってくれることか」
「乱戦中のリザードマンは動かせませんし、メスのリザードマンに動いてもらいますか?」
「それしかないだろう。しかし、もし嵌ったら……」
「そのときは私の出番でしょうから、私たちが力を見せて、ザリュースたちが温存というところですか?」
「それが良いだろう。弟よ、それで構わないな?」
「ああ、こっちはそれで問題ない」
「ではこちらもカードの一枚を切ろう」


 ◆


 スケルトンライダー。
 それは骨の馬に乗ったスケルトンであり、持つ武器は長槍だ。機動性に長ける以上の特別な力を持たない存在だが、この湿地において、その移動力の高さは郡を抜いている。骨の体のために泥にさほど潜り込むことなく、馬並みの速度で駆けるが可能だからだ。
 120体の全スケルトンライダーは迂回をしつつ、リザードマンの後ろに出るように移動する。目的は後背からのリザードマンの殲滅である。

 進行方向左手――村の方向から3人のリザードマンの姿を確認するが、それをスケルトンライダーは無視する。そう、命令に無いのだから攻撃されるまでは相手にしない。知性の無いアンデッドとはそういうものなのだ。

 駆け抜け、もう少しで後ろに回る。そんなとき、先頭を走るスケルトンライダーの視界がくるんと一回転した。ぽんと投げ出されたスケルトンライダーは、大きく中空を跳び、勢い良く湿地に大きく転がることとなった。
 人であれば混乱し、即座の行動が取れないだろう。しかし、知性の無いアンデッドたるスケルトンライダーは冷静に状況を把握。
 自らが落馬したということを認識し、即座に立ち上がろうとする。結構の距離を吹き飛ばされたが、下が柔らかい湿地ということもあり、問題なく立ち上がることに成功する。しかし、やはりスピードが早かったため、生じた多少のダメージによろめく。
 そこにもう一騎のスケルトンライダーの転倒がぶち当たった。

 砕け散った2体のスケルトンライダーの骨が、湿地に飛散した。
 そんな光景があちらこちらで起こる。
 ――それはトラップだ。
 木を使って湿地の中に、穴が掘ってあったのだ。それにスケルトンライダーの馬が足を突っ込み、それの勢いで転倒しているのだ。

 そんな光景が広がりながらも、スケルトンライダーは次から次へと転倒をし続ける。
 本来であれば、速度を落とすなり対処を取るだろう。しかしながらスケルトンライダーはそんな行為はとらない。なぜなら命令されてないのだから。
 そのままの速度を維持したまま、突撃していく様は集団自殺のようにも見える。そして予測どおり転倒していく。

 しかし、そんなトラップだが、所詮は足止めでしかない。確かに多少のダメージを与えはするが、スケルトンライダーを倒すまでのものではない。

 そう。
 そのトラップは足止めでしかないのだ。

 ビュンという空気に穴を開けるような音がした。そして湿地に転がる、スケルトンライダーの一体の頭部が弾け飛んだ。
 敵対的行動。
 それを認識した、転倒しているスケルトンライダーたちは周囲を見渡す。
 そんな中、再びもう1体のスケルトンライダーの頭部が、ガラスが砕けるように弾け飛んだ。
 そして認識する。

 距離にして80メートルぐらいだろうか。そこにいる3人のリザードマンのうち、1人が持っていたスリングを振り回していることを。そしてそこから放たれた石つぶてが、スケルトンライダーの頭を砕いたことを――。


 スケルトンライダーが戦闘を開始するのと同時に、スケルトンとの戦局も転換の時期を迎えていた。

 数多くの弓なり音の後、飛来する矢が雨音の様な音を一瞬だけ立てる。
 200体のスケルトン・アーチャーがスケルトン諸共、リザードマンたちに矢を降り注いだのだ。1射では終わらない。2射、3射……。

 この攻撃はリザードマンたちにとっても不意打ちだった。
 幾人ものリザードマンが矢をその身に受け、崩れ落ちていく。スケルトンと戦闘をしながら、その矢までは防ぐことはできない。当然、スケルトンにも矢は突き刺さる。しかし、ダメージは入らない。当たり前だ。刺突攻撃に対する耐性を持つ、スケルトンとぶつかり合ってるからこその攻撃なのだから。
 
 スケルトンを前に押し出し、後ろからスケルトンアーチャーが矢を放つ。手としては完璧な手段だ。2500体もいたスケルトンを倒しきるまでの時間を考えれば、それだけでリザードマンは全滅しただろう。
 しかしこの攻撃を行うのも遅すぎる。もしこの攻撃を最初期に行っておけば、致命的な結果をもたらしただろう。ただ、既にこの一面においては大局は決しているのだ。

 少なくなったスケルトンを無視し、後ろにいるスケルトンアーチャーに向かってリザードマンは走り出す。戦士階級とオス、そしてメスのリザードマンによる挟撃を受け、壊滅しているスケルトンでは、もはや抑えることはできない。

 200本の矢が降り注ぎ、幾人ものリザードマンが泥濘に倒れ伏していく。しかし、それはある意味運がない者だ。鎧を着ていないリザードマンの皮膚は、厚いが矢によって簡単に貫かれる。しかし盛り上がった筋肉が矢から命を守ってくれるのだ。
 そしてスケルトンアーチャーの魔法的な筋肉の無さもまた1つの要因となる。それはリザードマンの命を奪うほどの強弓では無いということだ。
 当たった数に対し、倒れるリザードマンが少ないのはそのためだ。

 リザードマンたちは雄たけびを上げながら突き進む。両腕を交差させ、頭を庇いながら。
 再び矢が降り注ぎ、リザードマンが倒れていく。そんな中、矢に体を貫かれながらも、ひた走りに突き進む。

3射――

 それがスケルトンアーチャーの限界だった。知性があれば後退しただろう。一旦引いて、今だ残るアンデッドの軍勢と共に戦えば、効果的な運用がなったはずだ。
 しかしながらそんな複雑な命令を許容する脳は無い。そのため、単純な命令の受諾したまま――距離が詰まってなお、リザードマンに向かって冷静に矢を放ち続ける。
 そしてスケルトンとの時と同じように、リザードマンという津波に飲み込まれた。もはやその距離で弓兵が活躍する出番は無い。一方的なリザードマンの攻撃を受けて、次々湿地に倒れこんでいく。

 今だゾンビの群れは残るものの、殆どのスケルトンは湿地に沈んだのだ。

 そしてようやく動きだすものたちがいた。
 それはアンデッドビーストである。ウルフ、スネーク、ボア――様々な動物の死体によってなるそのアンデッドたちは、ゾンビの耐久性と動物の機敏さを兼ね備えるモンスターたちだ。
 アンデッドビーストはリザードマンめがけ突き進む。早いものは早く、遅いものは遅いという隊列も何も一切考えない突撃を持って。

 低い位置からの攻撃というのは意外に回避しずらい。アンデッドビースト達は足を噛み、動きを鈍らせてから止めを刺すという獣の正しい攻撃を行ってくる。
 疲労しつつあるリザードマンにとって、それは厄介な手段だ。動きが鈍くなりつつあるリザードマンの幾人かがアンデッドビーストによって喉笛を噛み千切られていく。
 戦士頭が先頭に立って戦うが、動揺の色の浮かびだしたリザードマンたちに援軍が来る。

 突如、湿地が盛り上がった。そこに姿を見せたのは、盛り上がった泥のような存在だ。高さにして160センチ程度。リザードマンよりも低い。それは手も足も頭も何も無い、円推の形をした泥だ。
 その姿は、シーツを被っておばけとかやっている子供を思い出すと分かりやすいだろうか。
 
 それが突如、動き出す。
 足もないのに意外に俊敏な動きで、アンデッドビーストに向かって進みだす。湿地だというのに水音が立たないのは足を使っての移動を行っていないことの現われか。
 突如、人であれば腕があるだろうかと思われる部分に、身の丈よりも長い鞭のようなものが伸びだした。

 それはリザードマンたちの切り札の2つ目。
 祭司たちが全員で力を合わせ召喚した、湿地の精霊<スワンプ・エレメンタル>だ。

 本来であれば膨大な準備時間がいるはずのそれは、儀式に参加する人数の増大という要素を持って、この戦争中に発動を可能とする。勿論、この儀式が終わった段階で殆どの祭司が精神的疲労から、意識をなくしているのだが。

 スワンプ・エレメンタルはアンデッドビーストの群れの中に突撃していく。
 そしてその鞭のような触手でアンデッドビーストを叩き、掴み上げていく。無論敵対的行動を取るスワンプ・エレメンタルにアンデッドビーストも立ち向かう。その爪で引き裂き、牙で噛み砕く。
 恐怖を知らぬもの同士の戦いだ。しかしながら徐々にスワンプ・エレメンタルが有利になっていく。これ単純に戦闘能力の差だ。祭司26名の合同で行われた儀式によって召喚された精霊の力の方が勝っているということの証明だ。
 それに勇気を取り戻したのか。リザードマンたちが突撃を敢行する。

 凄惨な殺し合いが始まる。今までのスケルトンを相手にしたものとは違う、リザードマン側にも負傷者が出る戦いだ。しかし、単純に人数的な意味で勝っているリザードマンが少しづつ押し出す。



 ■



 負ける。
 それがコキュートスが現状で思ったことだ。

 知性を持つアンデッドがいないこと。それがここまで弱いとは。
 コキュートスは自らの考えの浅はかさに頭を悩ます。この状況下から逆転の一手。あることはあるが、それはあまり良い手ではない。なぜなら、それが動くということはほぼ敗北と同意語だ。

 だが、自らの主人に負けますと言えるだろうか。コキュートスはスクロールを手にする。この場合送るべき相手は――

「……デミウルゴスカ?」
『ふむ、そうだとも友よ。君が私に《メッセージ/伝言》を飛ばしてくるとは、一体何事だね?』

 非常に落ち着いた深みのある声がコキュートスの脳裏に響く。そう、ナザリックの守護者のまとめ役でもあり、侵入者に対する防衛の責任者でもあるデミウルゴスならば良い考えが浮かぶだろうと判断してだ。
 ある意味ライバルでもある存在に助けを求めるなんて、悔しい思いが無いのか、と聞かれれば少々あると答えるだろう。しかしながら敗北は最も認めるべきではない事態だ。そのためであればどれだけ頭を下げても惜しくは無い。

「実ハ――」

 現状の説明。
 数枚のスクロールを費やして行われたそれを、黙って聞いていたデミウルゴスは、困ったようなため息をついた。

『それで私にどうして欲しいのかね?』
「力ヲ貸シテ欲シイ。コノママデハ敗北シテシマウ。私ノ敗北ナラ別ニ構ワナイガ、ナザリック大地下墳墓ヒイテハ至高ノ方々ニ泥ヲ塗ルヨウナマネハデキン」
『……アインズ様は本当に勝利をお望みなのかね?』
「何? ソレハドウイウ意味ダ?」
『それはアインズ様が何故、そんな下等なシモベで軍を構成したのかという疑問さ」
「フム……」

 それは確かにコキュートスも思った疑問だ。ナザリック大地下墳墓最低クラスのシモベで、軍を構成しなくてはならない理由があるとは思えない。しかし、それで構成したからには……

「……何カノ狙イアッテノコトダト?」いや、それしか考え付かない。「デハ、一体、ドンナ狙イガ?」
『……幾つか推測が立つが、ね』

 流石はデミウルゴスか。
 コキュートスは口には出さずに、守護者のまとめ役たる悪魔に敬意の念を持つ。

『さて……コキュートス。君はその場所に何日かいたわけだ。ならば攻める前にリザードマンの情報を集めるべきではなかったのかね?』
「ムゥ……」

 確かに当然だろう。しかし――

「シカシ、アインズ様ハアノ軍隊デ落トスヨウニト命令サレタ」
『そうだね。しかし少し考えて欲しいのだよ、コキュートス。そこで最も重要なのはアインズ様の狙いではないかね? もし村を落とすことが最重要な任務なら、落とせるよう頭を使って考えるべきではないかね?』
「ムゥ」

 コキュートスは言葉を紡げない。デミウルゴスの話はまさに的を射ているから。

『そこを考えて、君にシモベが与えられたのだろうね」
「……ワザト勝テナイ兵力ヲ与エラレタ?」
『可能性は非常に高いとも。もし君が情報を収集していれば、村を落とす兵力がそれでは足りないことを知ったかもしれない。そうすれば前もってアインズ様にご報告できただろう。それがアインズ様の狙いではないかな? つまりはアインズ様はこうおっしゃっているのだよ。自らの命令を絶対視するのは正しいが、もし命令の遂行が難しい場合はすぐに判断を仰げとね』

 つまりはアインズの真意を確かめ、それに対して行動すること。
 デミウルゴスが言いたいのはそういうことだ。

『意識改善の一環だろうね。他にも狙いはお持ちのようだが……』
「他ニモ?」

 コキュートスは慌てたようにデミウルゴスに問いかける。既に1つにミスを犯しているのだ。これ以上のミスをしたくは無いという必死の思いで。

『メッセンジャーを村に送ったようだが、ナザリックの名前は一切出してない。そして君にも前に出るなと言われている。とすると――』

 コキュートスは固唾を飲んで、デミウルゴスの言葉を待つ。しかし、その言葉はデミウルゴスの口から話されることは無かった。

『っ! コキュートス、申し訳ないが、急ぎの用事が入ったようだ。申し訳ないがこれで終わりだ。君の勝利を祈っているよ』

 突如としてデミウルゴスが急に話を打ち切ったのだ。そして《メッセージ/伝言》の魔法は消える。コキュートスは慌て、この部屋にいるある人物に視線を動かす。そこではエントマがボロボロになったスクロールを、手から無造作に落とすところだった。
 それは使用した形跡を示すもの。つまりそれは――。
 デミウルゴスが慌てて、魔法を打ち切った理由を悟り、コキュートスは深く考え込む。切り札を出すべきだろう。敗北しかけるまで出すなと自らの主人にいわれた切り札を。しかし、それは本当にアインズの目的にそぐう行動なのか。

 コキュートスは恐らく初めて、アインズの目的に対して深く考えをめぐらす。しかしながら、結論はやはり1つしかない。
 コキュートスは《メッセージ/伝言》の魔法を発動させる。

「――指揮官タル、リッチニ命令ヲ下ス。進メ。リザードマンニ力ヲ見セツケロ」



 ■



 豪華な――しかしながら古びたローブで、その骨と皮からなる肢体を包み、片手には捻じくれた杖。骨に皮が僅かに張り付いたような腐敗し始めた顔に邪悪な英知の色を宿す。体からは負のエネルギーが立ちこめ、靄のように全身を包んでいた。
 そんな死者の魔法使い。

 それこそ――リッチ。

 邪悪な魔法使いが死んだ後、その死体に負の生命が宿って生まれるという最悪のモンスターだ。今までの知性の無いアンデッドモンスターとは違い、宿した英知は常人を凌ぐほど。
 コキュートスからの命令を受け、湿地を一瞥する。そして直ぐ後ろに控えていた、自らと同じように生み出されたアンデッド――血肉の大男<ブラッドミート・ハルク>に命令を下す。

『あの3人のリザードマンを殺せ』

 指し示した場所にいるはずの3人のリザードマンに向けて、2体のブラッドミート・ハルクが歩き出す。スケルトンライダーを屠ったようだが、ブラッドミート・ハルクはより強い。

 ブラッドミート・ハルクとは、真っ赤な肌をした贅肉だらけの大男のアンデッドだ。
 汗の代わりに血のような赤い粘液が、肌を流れている。一歩一歩と歩くたびに、だぶだぶの肉がブルンブルンと揺れる。
 単純な腕力で殴ることしか出来ない下級のアンデッドだが、再生能力を保有し、単なる物理攻撃では同レベル帯であれば、非常に倒すまでに時間の掛かる存在でもある。

 スペルキャスターであるリッチは近接戦ではさほど強いわけではない。そのためブラッドミート・ハルクを自らの横に控えさせておく方が、本来であれば正しい考えだろう。
 しかしそれではいけないのだ。
 与えられた命令は力を見せ付けてやれだ。それを行うのに最も適した行動はたった1人で、リザードマンの本拠地を陥落させることだ。
 リッチは歩みながら薄く笑う。

 容易いことだと。


 ◆


 アンデッドビーストを掃討し終わったリザードマンたちは疲労に肩を落としながら、安堵の息を吐く。少なくない負傷者が出た。これは早急に村まで運んで休ませなくてはならないだろう。
 今だ戦える者たちも実のところ、座ってしまいたいほどの疲労感がある。全身がだるく、武器を持ち上げるのも億劫だ。だが、それにまだゾンビを片付けなくてはならない。

 戦士頭が指揮を執る。
 今だ戦えるものはゾンビを相手にしに行くぞと。
 その時――

 ――業炎が上がる。その炎は2体の精霊をたった一撃で半壊状態まで持っていく。そしてもう一発。
 その2発目の炎によって、精霊は崩れるように消え去った。

 何が起こったのか。
 
 困惑に周囲を見渡すリザードマンが、たった1つのアンデッドの存在を視認した瞬間、再び火球がそのアンデッドの手より放たれる。
 頭ほどの大きさの火球は、一直線に中空を駆け、先頭に立っていたリザードマンたちの中に突き刺さる。
 通常、火を水にぶつければ消えるだろう。しかしながら魔法という理によって成り立つ現象は、そんな当たり前の現象も変化させてしまう。火球が水面にぶつかった瞬間、そこがまるで固い床であるかのように、そこを中心に炎が巻き上がったのだ。
 紅蓮の烈火が数人のリザードマンたちを包み込む。
 半径5メートルを包み込む炎が吹き上がり、そして消える。
 幻、そんな風に思っても仕方が無い、急激な消失だ。だが、しかし――漂う、焼けるような匂い。そしてそこに崩れ落ちたリザードマンたちは幻ではない。

 ゆっくりとアンデッドが向かってくる。先のスケルトンアーチャーを潰したように、突撃を敢行すべきだろうか。リザードマンが迷っている間に再び火球が飛来。
 爆発し、周辺のリザードマンの命を瞬時に奪う。
 それはまさに圧倒的な力だった。祖霊が降りているはずの、リザードマンの幾人もが恐怖に怯えるほどの。
 幾人かが突撃しようとして、機先を打ってきた火球によって焼き払われる。

「逃げよ!」

 ビリビリと震えるような気迫の篭った怒鳴り声がする。それは戦士頭の1人。

「あれはおそらくは強敵。今までの戦いとは違う!」

 そうだろう。たった1人で進んでくるその姿。
 それは圧倒的な威圧感をリザードマンの誰にでも感じさせた。

「お前達は戻って族長に、そしてザリュースに伝えよ」
「俺達が時間を稼ぐ!」

 再び飛んできた火球が炸裂し、幾人ものリザードマンが倒れる。

「逃げよ! そして伝えよ!」

 5人の戦士頭はリザードマンたちを村に逃がしながら、互いの距離を取る。先ほどの火球が破裂した際に生じる効果範囲を計算しての距離だ。つまりは誰か1人到達させる。それが目的の決死の陣だ。

 離れた互いの顔を見合わせ、全力で駆け出す。
 距離にして200メートル。絶望的な距離だが、それでも行かないわけにはいかない。そしてもし倒れても後ろで見えているだろう族長。そしてザリュースがどうにかしてくれると信じて。


 ◆


 今まで押していたリザードマンたちが逃げてくる。
 その光景をザリュースは冷静に睨んでいた。いや、ザリュースはその強大な敵が姿を見せた頃からずっと注意を払っていたのだが。
 
 1体のアンデッドが炎より来る死を撒き散らしていた。その動きは今までの知性の無いものとは違う。
 おそらくは敵の司令官に当たる存在だろう。
 そのアンデッドはリザードマンがある一定の距離に入った瞬間、《ファイヤーボール/火球》による範囲攻撃で迎撃してくるのだ。その炎の一撃を受けてなお立っている者はいない。既に5人に分かれて突撃を試みた戦士頭たちは、途中で皆、死んでしまった。
 距離にして200メートル。それだけしかない。しかしながら何も無い湿地という場所を考えると、その距離は地獄へと変わる。

 リザードマンの飛び道具はスリング。これで200メートル離れた目標にぶつけるのは至難の業だ。それに高位のアンデッドは魔法を込めた武器でなければダメージに行かない存在がいる。もし仮に向かってきているアンデッドがそうであった場合、怒らせるだけだろう。
 今、向こうは余裕を見せてのんびり進んできているのだ。下手に突っつくのはバカのすることだ。

 そして数で攻め込まなかったのは賢いとザリュースは思う。
 範囲攻撃を行う存在に、有象無象が挑んだとしても死ぬのは目に見えているのだから。つまりはここは精鋭が行くべき舞台だろう。
 ただ、それが問題だ。

 確かにザリュースたちなら、《ファイヤーボール/火球》の1撃や2撃ぐらいなら余裕を持って耐えきれる。しかしながら敵の元にたどり着くまでに、1撃や2撃という数ではすまないだろうし、到着してからが本番だ。正面から《ファイヤーボール/火球》を食らいながら進むのでは、結局は負けてしまうのは予測に難しくない。
 5人の戦士頭のように、途中で湿地に倒れる可能性の方が高い。

 ザリュースの見る中、最後の戦士頭が炎に包まれ、そして湿地に倒れこんだ。

「絶望的な距離じゃねぇか」
「ああ……」

 ザリュースたちはアンデッドの元まで、無傷――もしくは多少の負傷でたどり着く手段について議論を重ねる。

「湿地にもぐって潜むというのは?」
「祭司の力を持っても……かなり難しいです。不可視化の魔法が使えれば……」

 不可視化の魔法をかけ、飛行の魔法による移動を行えば一気に接近は出来るだろう。ただ、祭司の魔法にはそのようなものはない。

「ならよぉ。盾を作って構えながら進むというのはどうだ?」
「盾を作るのに時間がかかりすぎる」
「家をぶっ壊して……とかどうよ?」

 自分で言っておきながら駄目だなとゼンベルは苦笑いを浮かべる。炎の爆発だ。ある一面を防いだとしても熱量は回って流れ込んできるだろう。熱が入り込まないように、完全に覆った盾を作るには時間が無い。
 あーだ、こーだ、とアイデアを出し合うクルシュとゼンベルは、ザリュースが冷たい顔でぶつぶつと呟いているのに気づく。

「どうしたの、ザリュース?」

 少しばかり怯んだクルシュは恐る恐る問いかける。ザリュースというオスがしそうもない顔をしていたのに不安を覚えて。

「いや……盾があると思ってな」


 ◆


 順調に物事は進んでいる。2体のブラッドミート・ハルクは今だ戦闘中。そしてその間に自らは村に向かって問題なく進んでいる。
 幾度か、突撃を仕掛けてくる気配があったが、間合いに入った瞬間の《ファイヤーボール/火球》の力を見せ付けてからは無駄な抵抗だと悟ったらしい。5人組が分かれて突撃してきたのが、間合いに入られた最長記録だろうか。
 それでも100メートルが限界だった。

 リッチは無人の荒野を行くが如く、黙々と歩く。しかし油断はしない。不可視化の魔法による隠密や、沼地に隠れているのもがいないか。奇妙なところは無いか、注意を払うことを忘れてはいない。

 目的の村までもはやそれほど距離は無い。
 しかし、リザードマンも村に到着されるのは遠慮したいはず。ならばそろそろ反撃が来るだろう。
 そう思ったリッチは村を眺める。

『ふむ』

 どうやら向こうの切り札だろう。1匹のヒドラの姿が見えた。それがゆっくりとリッチに向かって歩き出す。
 あれが切り札だとするなら、圧倒的な能力で切り伏せてしまえばリザードマンの戦意も喪失するだろう。そうすればより簡単に村を破壊できるはずだ。

 リッチはヒドラが自らの間合いに入るのをのんびりと待ち構えることとする。
 そして間合いに入るかどうかと言うところで、ヒドラは走り始める。そう、リッチに向かって。

『愚か。200メートルを踏破できると思ったか。所詮は獣か』

 リッチは嘲笑を浮かべつつ、自らの手の中に《ファイヤーボール/火球》を作り出す。
 そしてそれをヒドラに向けて放つ。
 《ファイヤーボール/火球》は一直線に飛び、目標を外すことなく、ヒドラに直撃する。真紅の業火が上がり、ヒドラの全身を嘗め回す。ヒドラの全身が松明であるかのような、そんな炎上の仕方だ。
 そんな中、よろめきはするもの、ヒドラの足は止まらない。炎に包まれながらも走ってくるのだ。いや、瞬時に炎は消えるのだから、それは目の錯覚だろう。ただ、そんな光景はヒドラの並々ならぬ意志をリッチに感じさせた。

 リッチは不快げに顔を歪める。
 己の魔法を一撃耐えた。そんな行いによって、自尊心を激しく傷つけられたのだ。確かにヒドラの身にはエネルギーダメージを軽減する類の防御魔法がかかってはいるようだ。しかしながら高位でもないそれに、己の魔法を完全に打ち消す働きは無い。
 
 ヒドラという魔獣であれば、生命力にも溢れているだろう。ならば一撃ぐらいは耐えても当然か。
 
 そう、リッチは判断し、自らを慰める。
 そうして、なおこちらを向かってくるヒドラに冷たい視線を送った。まるで自らの魔法を軽視されているような気がするのだ。
 一撃食らって、この痛みが分かってないとみえる。死ぬためにこちらに向かってくるとは。

『……わずらわしい、死ね』

 再び火球が放たれ、ヒドラにぶつかる。業火がヒドラの全身を焼き、これだけ離れていても肉の焼ける匂いが漂ってくる気さえする。死なないまでも、こちらに向かってくることをためらうだけの負傷は充分に与えただろう。
 しかし――

『――何故、止まらん? 何故、向かってくる?』


 ◆


 ロロロは走る。巨体ではあるが、湿地ということもあり、その疾走はリザードマンとほぼ同等の速度だ。湿地にバシャンバシャンという大きな水音が激しく立つ。

 琥珀色の瞳は熱で白濁し、4本あるうちの2本の頭は既に力を失っていた。
 それでもなお走る。
 再び火球が飛び、ロロロの体に当たる。火球の中に詰まっていたであろう熱量が一気に膨れ上がり、ロロロの全身を嘗め回す。ガンガンと叩かれるような痛みが全身を包み、目は乾燥し、熱せられた空気が肺を焼く。
 
 全身が焼けただれ、激痛は先ほどから収まることなくロロロに警告を発する。これ以上食らったら死んでしまう、と。

 それでも――走る。
 走る。
 走る。

 足は止まることなく、前へ前へと送り出される。それはまさに信じられないような行いだ。
 熱量によって鱗が剥がれ、その下の皮膚が捲れ上がり、血が噴出している。それでもなお止まろうとしないのだから。

 ――ロロロはヒドラという魔獣である。

 魔獣は人を超えたような知力を持つものから、そうではない――動物と何ら変わらないものまでいる。ロロロはどちらかといえば後者の存在だ。
 動物程度の知恵しか持たないロロロ。それが死に瀕して、それでもなお前――苦痛を与えてくるリッチにめがけ走ることは不思議だろうか? 後ろを見せずにただ、ひたすら前に進む姿は不可解であろうか?

 不思議だろう。
 そして不可解だろう。
 事実、敵であるリッチは理解できないものを感じている。何らかの魔法で操られているのか、そんな考えすらしている。

 だが、違う。
 そう、違うのだ。

 リッチには理解できないだろう。
 動物程度の知性しかないロロロ――彼は自らの家族のために走っているのだ。


 ロロロは自らの親とも言うべきヒドラの存在の顔を知らない。別にヒドラは生みっぱなしの存在というわけではない。そしてロロロが生まれる前に死んだわけでもない。
 ロロロは未熟児だったのだ。通常のヒドラは8本の頭を持って生まれてくる。そして年を取るごとに数を増やし最大で12本まで増やすのだ。
 しかしロロロは4本しか持たない。言葉は悪いが、そんな奇形といってもよい存在が、生きていける程、自然という場所は甘い世界ではない。そのため、ロロロの母に当たる存在はロロロを捨てたのだ。
 これは別に母親が酷いわけではない。自然であれば当たり前の光景なのだ。
 生まれてすぐの、親の庇護下に無いヒドラ。たとえ、将来的に強大な存在になる可能性を秘めていようとも、幼い命が助かるわけが無い。事実、その命が尽きるのは時間の問題だと思われた。

 そう、その場をオスのリザードマンが通りかからなければ。
 そのリザードマンが、共にいたドワーフたちの危険だという声を無視して拾い上げなければ。
 必死に多くのドワーフを説得し、自らが飼う事を決めなければ。

 ――そしてロロロは母であり、父であり、幼馴染の友人である存在を手に入れたのだ。


 ロロロはなんとなく思っている。何で自分はこんなに大きいのだろうかと。なんで頭がたくさんあるんだろうか、と。自分の親でもある存在を見ながら時折思うことだ。
 だからロロロはこうも思っているのだ。
 多分、この頭のどれかが落ちて、自分の親のようになるんだと。
 そうしたら――何をしてもらおうか。久しぶりに一緒に寝るのも良い――。

 そんな思いを吹き飛ばすように、炎がロロロの視界を覆いつくし、再びガンガンと激痛が全身を叩く。小さい声で悲鳴のような鳴き声を立てる。もはや激痛が走らない場所は無い。後ろから安らぎにも似た温かな感覚が伝わってくるが、炎によってあぶられたロロロの体からすると、非常に弱弱しいものでしかなかった。

 無数のハンマーで殴打するような激痛が、ロロロを苦しめる。
 痛すぎて痛すぎて、考えが1つにならないほどだ。
 足が必死になって、ロロロを止めようと痙攣という形で信号を送ってくる。
 しかし――だ。

 しかし――それでロロロの足は止まるのか?
 
 ――否。

 足は止まらない。ロロロは進む。確かに歩みは遅くなった。炎が肉を焼き、筋肉を引っ張っているのだ。通常のときと同じようなスピードで走れるわけが無い。
 1歩、足を踏み出すだけでも激痛が走る。
 呼吸は苦しい。息を吸い込むだけでも一苦労だ。もしかすると肺まで焼けているのかもしれない。

 それでも止まるような足は持っていない。

 もはや動く頭は一本しかない。あとの頭はピクリとも動かない単なる重しだ。そのロロロの白濁した視界の中、リッチが自らの手の中に、再び火球を作り出すのが僅かに写る。

 生物として直感できる。
 この一撃を受ければ死ぬと。だが、ロロロは恐れない。前へ前へ、ただひたすら前へ――。
 
 ロロロが必死に――しかしもはや全ての力を使いきり――よろめくような速度で数歩歩いたとき、紅蓮の炎球はリッチの手より放たれ、ロロロめがけ中空を切って飛ぶ。
 それはロロロの命を全て燃やし尽くすだろう。それは抗いようの無い事実だ。

 即ち、それは死。
 全ての終わりである――。




 ただし――
 
 そう――そのオスがいなければだ。


 そのオスがそんなことを認めるだろうか?
 そんな理不尽なことを?
 
 そんなわけがあるはずがない!



『――氷結爆散<アイシー・バースト>!』

 ロロロの後ろから飛び出、併走したザリュースが、手にした魔法の剣を叫び声と共に振りきる。

 まるで剣を振った先の大気が一気に凍りついたように、ロロロの前に白い靄の壁のようなものが立ちふさがった。それは極寒の冷気。フロスト・ペインによって生み出される冷気の本流だ。

 それこそフロスト・ペインが持つ能力の1つ。
 1日に3度しか使えない大技。『氷結爆散<アイシー・バースト>』。範囲内の存在を一気に凍りつかせ、大きな損傷を与える技だ。
 
 巻き起こった冷気の壁が物理的な強度を持つように、飛来する火球を阻害する。炎を内包した珠と冷気の壁――魔法という理が、2者がぶつかりあうに相応しいと判断する。
 着弾――。
 豪炎が上がり、白の霧氷と熾烈な争いを始める。
 その2つは、まるで白の蛇と赤の蛇が共食いをするかのように食らいあった。一瞬の均衡の後、2つは同等の力であると評価され、互いにその力を失う。
 
 《ファイヤーボール/火球》と『氷結爆散<アイシー・バースト>』。
 両者は何も無かったかのように消えうせたのだ。

 近くにはなったとはいえ、まだまだ遠く――そこでリッチが驚愕し、慌てるのが見える。自らの放った魔法が消されたことに対する態度として、最も正しい姿をしている。
 そうだ。
 確かにザリュースたちとリッチの距離はある。しかしながら、もはや顔の表情を――動きを充分に判別できる程度の距離でしかないのだ。
 ロロロの必死の歩みは、不可能だと思われた道のりを踏破し、3人をここまで無傷で運んできたのだ。

「ロロロ……」

 ザリュースは一瞬だけ言葉に詰まる。なんというべきか、ロロロの働きに最も適した言葉は何か。無数の言葉の中、ザリュースが選んだ言葉は非常に簡単なものだった。

「ありがとう!」

 まるで幼馴染に向ける子供のような口ぶりでそう言い捨て、ロロロを振り返ることなくザリュースは走り出す。そしてザリュースのすぐ後をクルシュ、ゼンベルが続く。
 白濁した視界の中、後姿を見送り、自らがすべきことを終えたことを悟ったロロロは最後に小さく鳴く。
 それは自らの家族に送る応援の鳴き声だった。


 ◆


 まさかという思い。
 己の魔法が打ち消されたのだ。
 何をしでかした。リッチはそう思う。

『ありえん!』
 
 リッチは再び魔法を発動させる。放つ魔法は当然《ファイヤーボール/火球》だ。己の魔法をかき消したのが、こちらに向かって走ってくるリザードマンのしたことだと認めたくなかったのだ。
 放たれた火球が、3人のリザードマン目掛け、中空を駆ける。

 そして先頭を立つリザードマンが剣を振った瞬間、生じた冷気の壁によって火球は弾かれ、両者は消えうせる。そう、それは先ほどと同じ姿で――。

「いくらでも撃って来い! 全てかき消してやる!」

 聞こえてくるリザードマンの怒声。
 リッチは己の魔法を打ち消した存在が、そのリザードマンと認めるしかなく、不快な面持ちで舌打ちをする。

 己の魔法である《ファイヤーボール/火球》は、もはや通じない可能性が非常に高い。
 ただ、リザードマンが言っているように、全てというのは不可能だろうと推測が立つ。流石に、そんなブラフにひっかかえるほど、リッチもそこまで愚かではない。
 なぜなら、もし本当にそうならヒドラの後ろに隠れる必要は無かったはずだ。隠れながら接近してきたというからには、回数の限界はあるはずだ。
 しかしながら――もしかするとあと10回は使えるかもしれないし、1回放つごとに体力を消耗するだけで、回復さえすれば無数に放てられるのかもしれない。
 《ファイヤーボール/火球》であれば、150発近く撃てるリッチとしては、ザリュースの発言がどこまでブラフなのかが判別できなかったのだ。

 リッチとリザードマンたち。2者の距離はもはやさほど離れてはいない。
 距離にして40メートル。
 さらに見たところ向かってきているのは戦士だ。魔法使い系のアンデッドであるリッチにとって、接近戦は望むところではない。
 ゆえに《ファイヤーボール/火球》は使えない。流石にこの状況下にあって、あと何発火球を防げるかを確かめてみるほど愚かではない。もし仮にヒドラの後ろにいて隠れてなければ――距離が迫ってなければ実験をしてみたかもしれない。しかし、もはやそんなことをしている機会は、あの忌々しいヒドラによって潰されてしまったのだ。

『おのれ……ヒドラ風情が』

 リッチはそう判断し、次の手を打つ事とする。


 ユグドラシルというゲームにおいて、魔法を使用することのできるモンスターは最大で6つまで有している。無論、ボスモンスターといった特定のモンスターを除いてだ。
 そしてリッチも同じように複数の魔法を発動する能力を有している。


『――ならば、これはどうかな?』

 ちょうど好都合なことに殆ど一直線だ。ならば――
 駆けてくる――もはや距離のかなり迫った3人のリザードマンたちに対し、リッチは指を突きつけた。その指には雷撃が纏わり付いていた。

『受けよ、我が雷を! 《ライトニング/電撃》!』

 白い電撃が走る。そして――



 離れていても確認できる。リッチの指に宿った白い光――雷撃を。フロスト・ペインの『氷結爆散<アイシー・バースト>』は冷気系及び火炎系の攻撃を防ぐことは知っている。しかし雷撃は防げる自信はない。しかし、かけるしかないのか。それとも散会し、的を減らすのが上策か。
 一か八かの可能性にかけるか、最小の被害で抑えるべきか。
 ザリュースはフロスト・ペインを持つ手に力を込める。
 空気中がピリピリとした電気を含んだ気がした。それは雷撃が飛んでくる証だ。

「おれに任せろっぉ!」

 叫び声とともに、ザリュースの肩が抑えられ、ゼンベルが前に躍り出た。それと同じくリッチの魔法の発動。

『――《ライトニング/電撃》!』
「うぉおおおお! 『――レジスタンス・マッシブ!』」

 電撃がゼンベルの肉体を貫通するように流れ込むその一瞬、ゼンベルの肉体がパンプアップした。
 瞬き1つにすらならない時間の経過後、本来ゼンベルの肉体を貫き、後ろを走るザリュースとクルシュに流れるはずだった電撃が、ゼンベルの肉体に弾かれるように飛散したのだ。


『抵抗する屈強な肉体<レジスタンス・マッシブ>』。
 それはモンクたちが使う気の力を、一瞬だけ全身より放射することによって魔法による損傷を減らす戦技である。これこそフロスト・ペインの切り札『氷結爆散<アイシー・バースト>』によって敗北したゼンベルが、旅の間で学んだものである。範囲魔法だろうが、ダメージを与える魔法であれば効果を発揮する。


 動揺の声がリッチ、そしてザリュースたちから上がる。しかし、リッチに比べて、仲間を信頼していたザリュースたちの驚きは非常に小さい。そのためリッチが驚愕している間に、なお一層距離を詰めることを可能とする。

 駆けながら、なるほどとザリュースは思う。
 あのときの一騎打ちにおいて、もし『氷結爆散<アイシー・バースト>』を使っていたらこの技で防がれていただろうし、使った一瞬の隙を付いて敗北を喫していただろうと理解して。

「はは! 楽勝だぜ!」

 ゼンベルの余裕を感じさせる声にザリュースは顔を緩ませる。しかしながら直ぐにその表情を引き締めた。なぜなら、ザリュースの耳に――非常に小さかったが――苦痛の色を含んだ声が微かに聞こえたからだ。
 ゼンベルほどのオスが苦痛をかみ殺せなかったのだ。ならばそのダメージは小さくはないはずだ。それに、もしその戦技が完璧なら、ロロロを前に出して走るなんていう作戦に同意するオスではない。
 
 ザリュースは前を睨む。もはや彼我の距離はさほどない。25メートルあるだろうか。
 200メートルという距離。あれだけ長かった距離がもう、これだけだ。


 距離が迫り、リッチは目の前まで来た一行を強敵と判断する。自らの放った魔法を防いだ能力は見事と評価すべきだろう。無論、まだ他の攻撃手段は有しているが、防御に関しても考える必要がある。
 リッチはリザードマンを今なお下に見ている。しかし、それが油断に繋がるかというとそうではない。
 リッチは愚か者ではないのだから。

 リッチはニヤリと笑い、魔法を発動させる。

《サモン・アンデッド・4th/第4位階死者召喚》

 湿地にゴボリと泡が立ち、円形の盾とシミターを持った4体のスケルトンたちが、リッチを守るために立ち上がる。それはスケルトン・ウォリアー。スケルトンとは比較にならないだけの強さを持ったアンデッドだ。
 他にも召喚できるアンドッドはいるが、スケルトン・ウォリアーを召喚したのは冷気攻撃を避けるためだ。リッチと、骨でできたスケルトン系のモンスターは冷気に対する完全耐性を持っているから。

 自らの魔法によって生み出された親衛隊に守られながら、リッチは一行があと少しの距離を詰めるのを、見下すように見守る。それは挑戦者を迎え入れる王者の態度だ。


 やがて両者の距離は迫る。
 たった――10メートル。
 それだけしかもはや無い。そう、それだけしかもはや無いのだ。ザリュースはリッチが直ぐに攻撃してくる気配が無いのを確認し、後ろを振り返る。
 190メートルという踏破した距離を。
 200メートルの何も隠れるところの無い死地。ロロロ、フロスト・ペイン、ゼンベル、クルシュ。どれか1つ欠けただけでも不可能だった距離。絶対的難攻不落の距離。それはもはや無い。手を伸ばせば届くような距離を残すだけ。
 それは乗り越えられたのだ。
 後ろでロロロが運ばれていくのが、少しばかりの安堵を生み出し、ザリュースはその心を押し殺す。その残る10メートル。それが最大の難関だということを理解しているからだ。ザリュースは浮つきそうな心にカツを入れ、リッチを睨んだ。

 恐ろしい存在だ。ザリュースはそれを正直認める。
 目の前のモンスターは本当に恐ろしい。炎で薙ぎ払う魔法、雷で貫く魔法、アンデッドを召喚する魔法。それだけではなく、あと幾つ魔法を持っているか不明なのが、さらに恐怖に拍車をかける。
 もしこんな場所で遭遇するのでなければ、遠目で確認した瞬間、全力で逃げることを考えるだろう。それほどの敵だ。
 対峙するだけで、尻尾はピンと張り、本能が逃げることを要求してくる。ザリュースの左右に並ぶ、ゼンベルもクルシュも同じように尻尾がピンと張っているのが、横目で伺えた。
 2人とも今のザリュースと同じ思いなんだろう。そう――直ぐに逃げたい気持ちを押し殺して、リッチの前に立っているのだ。
 ザリュースは尻尾を動かし、2人の背中を叩く。
 2人が揃って度肝を抜かれたような顔でザリュースを覗き込む。

「俺達ならやれる」

 ザリュースはそれだけ呟く。

「そうね。ザリュース。私達ならやれるわね」

 クルシュは尻尾を動かし、ザリュースに叩かれた部分を撫でながら答える。

「ふん。楽しいじゃねぇかよ!」

 傲慢な顔で、ゼンベルは笑う。
 そして3人は最後の距離を詰める。
 

 ――彼我の距離8メートル。

 
 ここまでの疾走で荒い息を繰り返すザリュースたちと、呼吸をしないリッチ。
 両者の瞳が交わった。口を開いたのはリッチが先だ。

『我は偉大なる方に仕えし、不死なる魔法使い――リッチ。頭を垂れるなら、汝らの命は保障しよう』

 ザリュースは思わず笑ってしまった。このリッチは何も分かっていないと知って。
 頭を垂れる? 馬鹿を言うな。ここまでザリュースがどのような思いを抱いて来たと言うのだ。

 そんなザリュースの態度にリッチは不快感を示すことなく、言葉を続ける。

『ここまで来たのだ。汝らの命は助かるだけの価値を示したと我は思う。選抜はなった。ゆえに頭を垂れよ』
「――ならば1つ聞かせてくれ。皆はどうなる? 後ろにいる部族の仲間達は?」
『――知らぬ。価値の無いものが存在を許されるとは思えんがな』
「そうか――なら答えは1つだな」

 ザリュースは心底楽しそうに笑う。ゼンベル、クルシュの笑い声が唱和した。
 その笑い声を不審そうにリッチは眺める。何故、目の前のリザードマンが笑っているのか、それが理解できないのだ。恐怖で狂ったにしてはおかしい。その程度しか思わない。

『――答えを聞こう』
「くく。答えが必要だとは……」

 ザリュースはフロスト・ペインを持ち上げ、握りを確かめる。拳を持ち上げ、変わった構えを取るゼンベル。クルシュは特別な行為は起こさない。ただ、深く自らの中にある魔力に手を伸ばす。いつ、魔法を発動しても良いように。

「答えは――断る、だ!」

 その返答を充分な敵対的動作と判断し、スケルトン・ウォリアーたちはラウンドシールドで体を隠しつつ、シミターを構える。

『ならば――死を受諾せよ!』
「お前こそ――死者は死の世界に返れ! リッチ!」

 この瞬間、この戦いの行く末を決める最後の戦いの幕が開く――。



「進めやぁ! ザリュース!」

 誰よりも早く踏み込んだゼンベルが、その巨腕の一撃をスケルトン・ウォリアーに叩き込む。
 スケルトン・ウォリアーが盾で防いだのにも構わず、ゼンベルは無理矢理そのまま押し出すように力を込める。盾が大きく凹み、後退したスケルトン・ウォリアーと別のスケルトン・ウォリアーがぶつかり合い、バランスを乱す。さらに尻尾で別のスケルトン・ウォリアーに攻撃を行うが、それは外れてしまう。
 その開いた隙間に体を踊りこませるザリュース。
 
『防げ!』

 リッチの命令を受け、2体のスケルトン・ウォリアーのシミターがザリュースの体に振り下ろされる。
 避けようと思えば避けられるだろう。受けようと思えばフロスト・ペインで受けられるだろう。しかしながらザリュースはどちらもしない。回避行為を行うということは、一手自らの行動を遅らせるということ。
 リッチを前にそんな無駄なことは出来ない。
 そしてなにより――

「《アース・バインド/大地の束縛》!」

 泥が鞭のように持ち上がり、2体のスケルトン・ウォリアーに絡みつく。泥でできた鞭はそれが鎖で出来ているかのように、2体の動きを一瞬だが、ザリュースがその隙間を抜けきるだけの時間を封じる。
 
 そう。
 ――クルシュもいる。
 ザリュースは1人では戦っているわけではない。ならば仲間を信頼するだけだ。

 クルシュの魔法といえども、完全に動きを封じられたわけではない。振り下ろされたシミターが微かにザリュースの体に傷を作る。しかし、その程度が何だというのか。高揚しきった心が痛みを痛みとは感じさせない。
 ザリュースは走る。
 自らに手を突きつけているリッチにめがけ。攻撃魔法を受けたとしても、それを耐えぬいてたどり着く。その意志で走る。
 
『――愚か! 恐怖を知れ! 《スケアー/恐慌》」

 心を鷲掴みにされるような、ぞっとする感覚がザリュースを襲う。
 視界がぐらりと揺らぎ、自らが立っているところが理解できず、得体の知れない不安が立ち込め、周囲から何かが襲い掛かってくるような気さえする。

 ザリュースの足が止まりかける。
 《スケアー/恐慌》の魔法の影響を僅かに受けて、精神的動揺から足が動かないのだ。

 ザリュースもゼンベルもクルシュも強くは出た。しかしながらリッチは自らよりも強い、強大なモンスターだというのを充分に理解している。本能は逃げろと叫んでいたのだ。しかしそれを意志の力でねじ伏せることが出来るからこそ、特別な部隊に選ばれたのだ。そんな押し殺したはずの本能が、リッチの魔法という支援を受け、一気に肉体の支配権を取ろうと動き出したのだ。
 心は前に足を出せ、そう叫んでいる。だが、動かない。

「ザリュース! 《ライオンズ・ハート/獅子ごとき心》」

 クルシュの声と共に、恐怖が一瞬で払拭され、倍する闘志が燃え上がってくる。リッチは不快げにクルシュを睨む。そして指を突きつけた。

『煩わしい! 《ライトニング/電撃》』

 誰もいない角度で白い雷光が走り――

「ぎゃん!」

 クルシュの悲鳴が響く。
 ザリュースの心が激しい憎悪に支配されそうになる。しかし、それを押さえ込む。確かに憎悪は良い武器にもなる。しかし、強者を相手にした場合は、逆に足を引っ張りかねないからだ。強者を相手にしたときに必要なのは激しい感情と、冷静沈着な思考だ。
 ザリュースは振り返らずに走る。
 今、リッチは後衛のクルシュを攻撃した。つまりはその間にザリュースが距離をつめられることを意味する。

 リッチの表情に、過ちを犯したのを理解した色が浮かんでいた。
 それが己の愛するメスを傷つけられたザリュースの顔に、嘲笑というものをもたらす。

『ちぃ! 《ライ――》 』
「遅い!」

 横手から思いっきりなぎ払ったフロスト・ペインが、突きつけようとしたリッチの手を弾く。

『ぐぅ!』
「魔法は使えないと思ってもらおうか!」

 ザリュースは自らの腕に伝わる感触に、微かに目を細める。やはり切った感触に違和感が残る。それはリッチが武器に対するなんらかの耐性を有していることに他ならない。
 ただ、無傷ではない。
 そうだ。ダメージに対する抵抗を有しているなら、それ以上のダメージを与えてしまえば良い。
 斬って斬って斬りまくる。それだけだ――。
 無論、言うは易く行なうは難し。その言葉ぐらいザリュースだって知っている。しかし単なる戦士であるザリュースにはそれしか出来ないのだから。

『舐めるなよ、リザードマン。《サイレントマジック・マジック・アロー/無詠唱化・魔法の矢》』

 3本の光弾が突如、リッチの眼前よりザリュースめがけ飛ぶ。何の動作も無い発動に、思わず剣を盾のように構えるが、魔法の矢はそれをすり抜け、ザリュースの体に重い鈍痛を走らせる。
 無詠唱化した魔法は阻止することが不可能。

「くっ!」

 さらにマジックアローは通常では不可避の魔法。ザリュースですら避けることは出来ない。しかしながら――

『ぐ!』

 歯を食いしばったザリュースは、リッチにフロスト・ペインを叩きつける。
 マジックアローは不可避の魔法ではあるが、その分、破壊力に乏しい。確かに鍛えてもいないものならば容易く殺せるだろう。しかしながらザリュースの肉体は苛め抜いた結果にあるもの。この程度の魔法で戦闘不能になるほど脆くは無い。

『《サイレントマジック・マジック・アロー/無詠唱化・魔法の矢》』

 再び光弾がザリュースの体に打ち込まれる。芯まで響くような傷み。それを押し殺してザリュースは剣を振るう。
 その攻防が数度。徐々にザリュースの体の動きが鈍る。重い鈍痛が俊敏な動きを阻害しているのだ。痛みに無縁なアンデッドとの違いが赤裸々に出た瞬間だ。
 それを理解したザリュースとリッチ。対照的な表情を浮かべた。

 しかしながら、ザリュースの心の中の中は冷静だ。逆に勝ち誇るリッチを哀れに思うほど。


 リッチはザリュースに比べて強者である。
 強者の前において、弱者では太刀打ちは出来ない。それは当たり前の結論である。
 だが――弱者の力を束ねれば、それは強者にも匹敵するのはまた1つの事実である。


「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」

 ザリュースの痛みが消え去り、活力が戻ってくる。後方より飛んできた治癒の魔法に、激怒した調子でリッチは叫ぶ。

『リザードマンがぁ!』

 そう。ザリュースは1人で戦っているのではない。信頼できる仲間と友に戦っているのだ。クルシュ、ゼンベル。そして――

「ロロロ……。俺は負けない!」
『リザードマン風情が……偉大なる方によって生み出された我に対し!』

 憎悪に燃え上がる目で、リッチは3人のリザードマンを睨む。その中でもザリュースを。
 後ろのクルシュにリッチは魔法を飛ばしはしない。それは先の失敗を思い出してだ。それよりは前にいるザリュースを潰した方が良いという考えて。

 リッチが召喚魔法を使わないのは、先ほど召喚したアンデッドがまだ生きているからだ。あれらが滅びるまでは、新しいものが召喚できない。そのために再び、単調な繰り返し――リッチが無詠唱化した魔法の矢を飛ばし、ザリュースがリッチの肉体を切り裂く――が行われる。
 この戦いはいつまでも続くように思われた。
 ならばこの戦局を打破するのは、後方で戦っている者に任せるしかない。どちらかの援軍が来たとき、この戦いに決着は付く。
 それをザリュースもリッチも認識していた。


 ◆


 電撃に全身を叩かれた苦痛を押し殺し、クルシュは魔法を発動させる。

《サモン・ビースト・3rd/第3位階自然の獣召喚》

 ドボンという音を立て姿を見せたのは、150センチはあるだろう巨大な蟹だ。まるで今まで湿地で眠っていましたといわんばかりの存在の登場だが、勿論、これは《サモン・ビースト・3rd/第3位階自然の獣召喚》によって召喚されたものである。
 魔法で呼び出されたものだ。当然、ただの蟹ではない。それは前に向かって進む姿だけで理解できるだろう。それがスケルトン・ウォリアーに向かって進みだし、ゼンベルの横に立ってその巨大な鋏で殴りつける。
 意外な援軍を受け、ゼンベルの顔にニヤリと深い笑みが浮かんだ。
 クルシュを守りながら四方から攻撃を受けていたゼンベルからすると、非常に嬉しい助けだったのだ。

 クルシュは戦局を伺いながら、荒い息で呼吸を繰り返す。

 ここに来るまでにロロロに発動した治癒魔法等、立て続けに魔法を発動しすぎた。
 さらにはいま、召喚魔法までこなしたクルシュの体がゆらりと揺れる。もはや魔力の消失が激しすぎて立っていることができないような状態なのだ。自らの傷も癒さないのはそのためだ。それだけの余力が無いのだ。
 しかし、ここで倒れれば前で戦うゼンベルとザリュースに不安を抱かせかねない。クルシュの口から血が流れる。自らの口腔内を傷つけ、意思を取り戻そうというのだ。

「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」

 そしてザリュースに治癒の魔法を飛ばす。その瞬間、視界が変わり、全身に冷たい水の感触が伝わる。そこがどこかクルシュは一瞬だけ理解できなかった。彼女はいつの間にか泥に埋もれるように転がっていたのだ。
 おそらくはほんの一瞬だけ気を失い、泥に伏せてしまったのだろう。クルシュは無理に立とうとはしない。いや、もはや立ち上がる力も無ければ、そちらに割くだけの力も勿体ないという判断だ。クルシュはぼんやりとする意識の中、仲間を見つめる。

 4体のスケルトンウォリアーと互角の勝負をするゼンベルも、リッチの魔法攻撃を受けるザリュースも満身創痍だ。
 クルシュは必死に呼吸を整え、魔法を飛ばす。

「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」

 ゼンベルの傷を癒し、

「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」

 ザリュースの傷を癒す。

「がはぁっ……」

 クルシュは荒い息で呼吸を繰り返す。
 呼吸が変だ。必死に空気を吸っても、入ってきていないような感覚に襲われる。
 これは魔力の使いすぎによる症状だろう。ガンガンと頭が叩かれている様に痛む。しかし、それでも必死にクルシュは目を見開く。
 ここまでどれだけの犠牲を払ってきたというのか。今更最初に戦線を離脱することが出来るものか。

 クルシュは落ちそうになる眼に力を入れる。そして唱える。

「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」


 ◆


 ゼンベルは握り締めた拳をスケルトン・ウォリアーの頭蓋骨にたたき付ける。ミシリというめり込む感触が、砕ける感触へと変わる。そして1体のスケルトン・ウォリアーが滅びていった。

「2体ぃいい。がはぁはぁああ」

 疲労を吐き出すような深い息を吐き、残ったスケルトン・ウォリアーを睨む。クルシュの召喚したカニの姿はもう無い。だが、2体のスケルトン・ウォリアーを受けもってくれたおかげで、ゼンベルが2体屠れたのだ。
 クルシュからの支援があって、何とかここまで片付いた。あと2体。終われば次はリッチだ。

「はぁ!」

 太い右腕に力を込める。まだ動く。
 左手は傷だらけであまり力が入らない。剣を受ける盾として使いすぎた。だらんと垂れる腕をぼんやりと眺める。

「まぁ、良いハンデじゃねぇか」

 誰に対する言い訳なのか。ゼンベルは呟き、スケルトン・ウォリアーを睨んだ。そして左腕を動かす。ちょっと動かすだけで痛みが走るが、それがどうしたというのか。
 大体先ほど自らの首が重りにしかならなくなっても、駆けた存在がいる。それに笑われるような真似を、ゼンベル・ググーができるものか。

「ふぅ……」

 スケルトン・ウォリアーがどの程度の強さなのか。それは2体いればゼンベルと互角――いや、スケルトン・ウォリアーが優位であろう。それだけの強さを持っているのだ。
 正直に言えば4体相手というのは絶対に勝ち得ない戦いだ。同時にではなくとも、1対1でも繰り返せば、途中で疲れ果て、敗北は確実だ。

 それなのに、今だゼンベルは立っている。
 ゼンベル自身、不思議なぐらいだ。

 いや、違う。理由は分かっている。ゼンベルはスケルトン・ウォリアーの向こう、ザリュースの背中を見る。リッチという圧倒的で強大な存在に一歩も引かないその姿。

「でけぇじゃねぇか……」

 そうだ――。
 たまりきった疲労の所為で体の動きは鈍いが、それでも前のザリュース。そして後ろのクルシュと戦っているのだ。

「おいおい、ザリュース。傷だらけじゃねぇか。俺のときよりもひでぇぞ?」

 襲い掛かってきたスケルトン・ウォリアーに豪腕を振るい、1体を殴り飛ばす。もう1体の振るったシミターを左腕で受けきれずに、わき腹の辺りにまた傷を作る。先ほどのクルシュの魔法で癒えた辺りだ。

「クルシュの声も、聞こえてくる辺りが低いじゃねぇか」

 再び飛んでくるクルシュの魔法によって、傷が癒えていく。後ろを振り返れないが、その声は水面ギリギリだろうか。どんな格好で魔法をかけてきているのか、予想できる。それでもなお、彼女は魔法を行使しているのだ。

「……良いメスだな」

 妻にするなら、ああいうメスが良い。
 ゼンベルはザリュースの選択眼に敬意を示す。

「おれが最初に倒れるなんて情けねぇ姿は見せられねぇって、な」

 巨腕でフェイントをかけ、尻尾で弾く。そしてにやりと笑った。
 一応、あいつらよりも年上なんでな、と思って。
 2体のスケルトン・ウォリアーが盾で身を隠しつつ、ジリジリと間合いを詰めてくる。その盾にザリュースの背中が隠れた。それはゼンベルに激しい感情を引き起こす。

「邪魔なんだよ。良いオスの背中がみえねぇだろうがよぉ!」

 ゼンベルは雄叫びを上げつつ、踏み込んだ――。


 ◆


 やがてどれだけ繰り返されたか。
 リッチとザリュースの拮抗した戦いは続く。その時、リッチがにやりと笑った。その笑いはザリュースの心身を凍りつかせるようなものだった。
 1つの水音が聞こえたのだ。それは誰かが倒れる音。

『見よ! お前の仲間は倒れたぞ!』

 振り返ることは出来ない。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。見たくないといえば嘘になる。しかしながら、敵は圧倒的な力を持つ存在。後ろを向くという行為すら行っている余裕はない。振り返った瞬間、勝負が付くのは目に見えている。そんなことをするためにザリュースはここまで来たわけではない。
 しかし後ろから来るであろう、敵の援軍はどうにか処理しないと不味い。
 リッチの魔法を一撃だけ受けるか。ザリュースがそう覚悟した時、立ち上がるような激しい水音と、骨を何本もへし折るような音が響く。

「ザリュース! こっちは終わりだぁ! あとは――まかせたぁ!!」
「……《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》」

 ゼンベルの血を吐くような叫び声にあわせ、バシャンと大きなものが倒れる水音が響く。
 クルシュの呟きにしか思えない声にあわせ、ザリュースの傷が回復していく。

『むぅうう!』

 リッチの不快げな顔。後ろを見なくても分かる。2人とも自らのすべきことを完璧に遂行したのだろう。ならば次は――

「俺の番だな!」

 振り下ろされたフロスト・ペインをリッチが手に持った杖で弾く。

『ぐぐぐ……我はリッチ。近接戦に劣るからといって舐めてもらっては困る!』


 しかしリッチに勝算は低い。3度斬りつけられると、そのうち弾けるのは1度だけ。残り2度はリッチの体を切り裂く。スケルトンと似たような斬撃武器に対する耐性を有してはいるが、それでもこの状況下は非常に不味い。

 特に最後の治癒魔法。あれによって流れが変わった。
 召喚魔法は準備に時間が掛かる。前に敵がいる状態では難しい。
 このままでは押し切られてしまう。そう考えたリッチは最後の手段に出ることとする。あまり良い手ではない――場合によっては悪手だが、それでも残った手はこれぐらいだ。


 突如、背を向け走り出すリッチに、ザリュースは戸惑いながらも追撃の一撃を与える。走りながらの一撃では腰がのらない為に、その場で止まっての斬撃だ。いわばザリュースの渾身の一撃を背中に受けて、リッチの体が揺れるが今だ倒れはしない。リッチの無限では、とも思えるような体力に舌打ちしつつ、離れたリッチに詰め寄らんとザリュースは走り出す。
 少しばかりの距離を取ってから、振り返るリッチ。その顔は憤怒に歪んでいる。
 そして――

 ――リッチの手の中に灯る赤い光。それは《ファイヤーボール/火球》。
 この近距離で? 自爆覚悟か――?
 そう思ったザリュースはリッチの視線が自らに向いていないことに、恐怖を感じる。リッチが向かう視線の先、それは倒れ伏しているだろう、クルシュにゼンベルだ。

 どうする。
 2人を見捨てればリッチに止めはさせる。いわばこれは大きな隙だ。もはやリッチもザリュースも体力は殆ど残っていない。このチャンスを捨てた場合、勝てる可能性は一気に低くなる。
 リッチに勝つために――そのためにここまで来たのではないか。2人を見捨てるべきだ。2人も許してくれるだろう。

 ――だが、だ。
 ザリュースは何かを見捨てたことは一度も無い。
 共に戦った仲間を見捨てる、そんな選択肢を選んだりはしない。
 ならば――2人を助け、リッチを滅ぼす。
 それを選択すればよい!

『――氷結爆散<アイシー・バースト>』

 ザリュースは自らの足元に突き立てるように冷気による壁を作る。

「ぐわぁぁああ!」

 噴きあがる冷気の渦に、ザリュースの全身が一気に凍り付いていく。激痛という言葉ですら生ぬるい。そんな痛みが全身を叩きのめす。
 必死に意識を失わないように、リッチをその鋭い眼光で射抜きながら、ザリュースは苦痛に耐えようとする。
 耐え切れない悲鳴が上がる中、ザリュースとリッチ――2人を巻き込んで、冷気の靄が周囲を広く支配していく。



 リッチは自らの予測どおりに物事が進み、ニンマリとした笑いを浮かべる。
 見捨てておけば、勝利を掴めただろうに、と。
 リッチは冷気と電撃に対する完全耐性を持っている。この冷気の本流の中にあって、平然としてられるのはそのためだ。手の中に作り出していた火球の魔法構成を握りつぶす。放つことでリッチの周囲にわだかまる、白い靄とぶつかりでもしたらまさに自爆になってしまうからだ。
 あの2人のリザードマンには、この靄が消えてから追撃の一手を撃てばよい。先に潰すべきは立っていたリザードマンだ。周囲を見渡し、リッチは顔をゆがめる。1つだけ計算違いがあったためだ。

『……さて、どこにいるのやら』

 計算違い、それは――この視界内を完全に覆う靄だ。
 リッチは闇を見通す目は有してはいるが、こういった視認困難状態を看破する能力は有していない。そのため、敵の居場所が分からなくなってしまったのだ。
 ただ、さほど心配することも無いかもしれない。あの苦痛にまみれた声からすると、かなりのダメージを受けたと思われる。自らの放った《ファイヤーボール/火球》を打ち消せるだけの冷気の放射だ。それを受けたということは《ファイヤーボール/火球》の一撃を受けたということと同等のはず。
 あれだけの傷を負っている状態では、それは下手したら致命傷だ。そこまで行かなくても殆ど動くことは出来ないだろう。ならば後は押しつぶせる。
 それでは、まずはこの靄の中から走って抜けるべきか。そう考え、すぐにリッチは自らの考えを破棄する。

 ――今、動けばここにいることをばらしてしまう。

 まず最初にすべきは、アンデッドを召喚しておくことだろう。壁があればもしリザードマンが生きていたとしても、勝利は確実になるのだから。
 魔法を発動させようとしたリッチの耳に、不意に水音が飛び込んだ。


 ◆


 ――リザードマンたちに伝わる4至宝の1つ、凍牙の苦痛<フロスト・ペイン>。
 決して凍らない湖が初めて凍ったときの氷より出来たとされるそれは、蒼く透き通ったような刀身を持つ。そして内包する魔法の力は3つ。
 1つ目は刀身に冷気を宿すことで、切り裂いた相手に追加で冷気によるダメージを与える能力。
 2つ目は1日3度しか使えない大技、『氷結爆散<アイシー・バースト>』。
 そして3つ目は――


 ◆


 ボッ、そんな空気を切り裂く音が立つ。
 それが何か、それを認識するよりも早く、リッチに視界に鋭利な刃物の先端が映る。
 強い衝撃がリッチの頭部を襲う。
 左目より入った刀身はリッチの頭部をかき乱す。

『がぁあああああ! 何故、死んでないぃいい!』

 リッチの絶叫が上がった。
 左の眼窟を貫き、フロスト・ペインが深く突き刺さり、自らの命が一気に無くなっていくのを感じて――。
 剣を頭からはやしたまま、よろめくリッチの前に、全身に霜をつけたザリュースが薄れていく靄の中、姿を見せた。
 リッチには理解できない。あれだけの冷気のダメージを受けながら、今だ立っているザリュースの存在が。


 フロスト・ペインの持つ3つ目の能力。
 それは、装備者に冷気に対する守りを与える能力――。


 無論、流石のフロスト・ペインの冷気防御といえども、『氷結爆散<アイシー・バースト>』を無効するほど強いわけではない。冷気によるダメージはザリュースを蝕み、立っているのがやっとの有様だ。息は荒く、動きは鈍い。尻尾だって力なく水面に垂れ下がっている。もはや呼吸するのだって億劫な様だ。これ以上の戦闘行動は不可能に近い。今の一撃は狙ってのものではない。もはや残っていない力を駆使して、勘に任せての一撃だ。
 その一撃が当たったのは幸運でしかない。
 ザリュースは閉じてしまいそうになる瞼を必死に開ける。
 リッチに叩き込んだ、最後の力を込めた一撃。それは充分に致命傷の手ごたえがあった。
 戦う力が残っていないザリュースは、淡い期待を込めてリッチに見る。
 
 もがき、よろめくリッチ。
 自らの肉体を保っていられないのか、顔の皮膚が剥がれ、骨には皹が走り出す。服すらもボロボロと崩れだしていた。滅びはもはや時間の問題だ。ザリュースは自らの奇跡的な勝利を確信した、その瞬間――
 ――ザリュースの喉元に骨と皮の手が伸び、締め付ける。

『わ、我は御方に生み出されし、シモベ……その我がこのようなことで滅びて……たまるものか!!!』

 跳ね除けようと思えば、容易そうな締め付けだ。しかし――

「――ぐわぁああ!」

 ――全身を激痛が走り、ザリュースの口から悲鳴が漏れる。
 負のエネルギーが流れ込み、ザリュースの生を奪いだしているのだ。苦痛には耐えるすべを学んでいるザリュースでもこのおぞましい、血管内に冷気を注入されるようなおぞましい痛みを耐えるすべは持たない。

『死ねぃ! リザードマン!』

 リッチの顔の一部が欠け、中空でボロボロになって消えていく。
 リッチの命も尽きようとはしているのだ。しかしその主人に対する忠誠心によって、生に必死にかじりついているのだ。
 時間では倒せない。このまま我慢比べであればザリュースに勝算は無い。
 ザリュースは必死に抵抗しようとするが、体が上手く動かないことに恐怖を感じる。
 ザリュース自体残っていた生命力は殆ど無いのだ。リッチの接触による負のエネルギーの注入は、その残った生命力を根こそぎ奪いだしてる。
 ザリュースの視線が揺れ、朦朧としだす視界。まるで世界が白い霧に覆われていくような、そんなボンヤリとした世界が広がりだした。

 だんだんと抵抗の力を失っていくザリュースに、同じく消え行く意識を動員しているリッチは勝利の笑みを浮かべる。
 このリザードマンを殺し、向かった来たあと2人のリザードマンも殺す。このリザードマンたちは恐らくはトップクラスの存在だろう。ならばこの者たちを殺せば、偉大なる方――自らを生み出した方に対する捧げ物としては上出来だ。

『死ねぃ!』

 ザリュースは必死に抵抗しようとするが、肉体が上手く動かない。毒が回るように全身の体温が冷たく変わっていくのが感じられるのがおぞましい。
 呼吸すらも難しい。そんな世界にあって、知覚能力だけが鋭敏に働いていた。

 まだ、死ねない。

 必死に走ったロロロ。
 盾となったゼンベル。
 自らの魔力を全て使い果たしたクルシュ。
 
 それだけでは無い。この戦いで倒れた全てのリザードマンを背中に背負っているのだ。
 必死に戦う手段を考えるザリュースの耳に、かすかな音が飛び込んできた。


 ――クルシュの優しげな声。


 ――ゼンベルの気楽そうな声。


 ――ロロロの甘えたいときの鳴き声。


 聞こえるはずが無いだろう。
 クルシュは意識をなくし、ゼンベルも昏睡状態だ。特にロロロはここからかなり離れている。
 意識が混濁したために、そんな声をザリュースの脳が勝手に想像しているのだろうか? 出合って1週間足らず仲間達の言葉を? ペットの鳴き声を?

 違う。
 そう、違う――。

 皆はここにいる――!

「――ぉぉ、おおおおお!!」
『?』

 半分意識を失っていたザリュースから、雄たけびが上がる。
 それからぐるっとザリュースの目玉が動き、リッチを見据えた。先ほどまで、視線の合わなくなった目とは思えないほどの覇気を保持している。

「クルシュ! ゼンベル! ロロロ!」
『!』

 もはやその体の何処にそれだけの生命力があるというのか。一瞬、一瞬。膨大な負のエネルギーがザリュースの生命力を貪り、食い荒らしているはずだった。事実、ザリュースの四肢は重く、体は凍りついたように寒い。
 にも係わらず、名を叫ぶたびに、ザリュースは少しだけ力がわいてくるのを感じていた。沸いてきた先は生命力からではない。
 胸の奥――それは心だ。
 ギシリと音が鳴る。それの出先はザリュースの右手。硬く握り締められた拳だ。いまそこに残った全ての力を掻き集める。

『ばかな!』

 まだ動くのかと、信じられないようにリッチはザリュースを睨む。
 不味い。
 リッチの内心にあわ立つような感情が走る。もっと負のエネルギーを流し込まなくては負ける。それは認めてはいけない。自らはリッチ。今回のナザリック大地下墳墓より出兵された軍の現場の総責任者だ。
 そして何より、偉大なる死の王――アインズ・ウール・ゴウンが生み出した存在。
 その自分にこんな敗北は許されない――。

『し――!』
「これで終わりだ、化け物!!!」

 一瞬だけ早く。
 そう、リッチが負のエネルギーを流し込むよりほんの一瞬だけ早く、渾身の一撃――。
 硬く、硬く握られた拳が、フロスト・ペインの柄に叩き込まれる――。
 ザリュースの殴りつけた拳から血が滲むほどの一撃を受け、左の眼窟から入り込んだ剣先はリッチの頭部を完全に貫通した!

『おおおお!!!!』

 死者であるリッチには痛みという感覚は殆ど無い。しかしながら――偽りの生命の全てが失われる感覚は理解できる。

『おぉぉ……ぉ……ば……かな……あい……ずさ……ま』

 リッチの目の中に敗北という言葉を完全に理解した色があった。糸が切れた人形のようにザリュースの体が崩れる。バシャッと水音が広がる中――

『……お、おゆる……し……を……』

 自らの主人に対し謝罪の言葉を上げ、リッチの体が崩れる。それは時間に抗ってきたのだが、それが崩れ、一気に時が流れ込んできたようだった――。



 ■



 静まり返った部屋。その鏡に映った光景が信じられずに、誰もが口を開かない。
 そんな中、メイド――エントマは口を開く。今受けた主人の命令を伝えるべく。

「……コキュートス様、アインズ様がお呼びです」
「――承ッタ」

 頭を垂れたまま、コキュートスはゆっくりとエントマの方を向いた。シモベたちの不安げな視線をその身に受けながら、コキュートスは屈辱を噛み締める。だが、その反面、賞賛の気持ちもあった。
 見事な戦いだった。
 勝算8%。
 それがコキュートスが計算した、リザードマンの勝利の可能性だ。これは単純に近距離からの戦闘を行った際のものだ。あれだけの距離という、魔法使いに圧倒的な有利な戦闘状況から開始して、勝利を掴み取る。その勝算は当然、8%よりも低くなるだろう。
 彼らはそんな難関を突破したのだ。

「見事……」

 コキュートスは最後に鏡に視線をやり、そこの映る光景に賞賛の言葉を投げかけた。



 ■



 ザリュースは漆黒の世界から体が持ち上がるような感覚に襲われる。それは不快な感覚ではない、心地よい感覚だった。
 目を開く。寝起きのぼんやりとした世界が映し出された。

 ここは何処なのか。
 一体、どうした自分はこんな場所に寝ているのか。
 
 幾つもの疑問が浮かび、自らの体にのしかかるように重みがあることに気づく。

 ――白い。

 今だ寝起きのはっきりとしないザリュースの頭に、最初に浮かんだ言葉はそれだ。そして目覚めるにつれ、それが何か理解できる。
 それはクルシュだ。クルシュが自らに圧し掛かるように寝ているのだ。

「ぁ……」

 クルシュが生きていた。
 強い安堵に思わず声を出しそうになり、それをギリギリのところでザリュースは抑える。寝ている彼女を起こすのも忍びないと思ったのだ。思わず触ってしまいそうになる心を必死に抑える。鱗が綺麗だからといって、流石に眠るメスの体を撫で回すのは不味い。

 ザリュースはクルシュのことを頭から必死に追い出し、別のことを考えようとする。
 考えるべきことは色々とある。
 
 まずは何故、自分がここにいるのか。
 記憶を探り、何があったのか思い出そうとする。最後の記憶はリッチが滅びていく姿だ。あれからぷっつりと記憶が途切れている。しかしながら、自分がここで横になっているということは、部族側が勝利を収めたということだろう。
 自らに圧し掛かるように寝るクルシュを起こさないように、注意を払いつつ安堵のため息を1つ付いた。この数日間の間にあった重荷が少しばかりなくなったようだった。確かに冷静に考えればまだまだ重荷はある。例えば、今回の戦争が終わったとしても、今だ敵の正体は不明だし、目的もつかめてはいない。もしかすると再び、攻めてくる可能性は十分すぎるほどある。いや、予測が正しければ再び来るだろう。
 しかし、今だけは心を緩ませて欲しいものだ。ザリュースは伝わってくるクルシュの体温を感じながら、再び軽くため息をついた。

 それからザリュースは自らの体に軽く力を入れる。全身問題なく動く。どこかは失うかもしれないとも思っていたが、運がよかったということなのだろう。
 自らの幸運に安堵を得つつ、ザリュースは周囲を見渡す。壁際に積まれている自らの見慣れた荷物を発見し、ここが数日間滞在している家だと気づく。
 室内にクルシュ以外のリザードマンはいない。この家はこの部屋しかない小さなものだ。他にいる場所は無い。ではゼンベルは如何したのか。不安が過ぎる反面、ゼンベルほどのオスが、という気持ちも湧き上がる。
 そんな僅かなザリュースの動きに反応したのか、クルシュの体が動く。柔らかった体に一本、芯が入ったような感覚。それは目覚めようとしているのだろう。

「うんぅ」

 クルシュの可愛らしい鳴き声が上がる。それからボンヤリとした瞳をくるくると動かし、周囲を伺っている。そして下にひいたザリュースを確認すると、相貌を崩す。

「むぅうう」

 寝ぼけているクルシュはザリュースの体に手を巻きつけると、自らの体をザリュースに擦り付けるように動く。それはまるで自らの匂いをつける動物の仕草だ。
 ザリュースは硬直し、クルシュのされるがまま。
 白く艶やかな鱗が冷たく心地よい。さらには漂ってくる薬草の匂いが芳しく、まるで思考がまとまらなかった。自分も手を回しても良いのだろうか。そんなことをザリュースは考えてしまう。
 そんな風に悶々としていると、徐々にクルシュの瞳にピントが合い始める。そして自らの下にいるザリュースと視線が交わった。

 ――硬直。
 手回したまま動かなくなったクルシュに、何を言うべきか。そう考えたザリュースは一番当たり障りの無いことと言うこととする。
 
「――俺も手を回してよいか?」

 いや、一番当たり障りが無いということは嘘だったようだ。その結果、クルシュは威嚇音を上げ、尻尾をバタンバタンとめちゃくちゃに動き出す。そしてザリュースの体から、横になったままゴロンゴロンと転がっていき、壁にぶつかった辺りで動きを止める。

 うつ伏せのクルシュから微かに聞こえてくるうめき声。そして、ばかばかわたしのばか、なんて声も聞こえてきた。

「とりあえずはクルシュも無事のようで何よりだ」

 その言葉でやっと冷静さを取り戻したのだろう、クルシュは顔を上げ、ザリュースに笑いかける。

「あなたも無事で良かった。部族の祭司たちが治癒魔法をかけたから大丈夫だとは思っていたけど、やっぱり少し心配だったから」

 その言葉の中に、自らが知らない情報の匂いをかぎつけ、ザリュースは質問する。

「あれから一体如何したか知ってるか?」
「ええ、多少は。リッチをあなたが倒したお陰で、敵は引いていったみたい。あと、お兄さんの方も無事にモンスターは倒したらしいわ。それで私達3人は助けられて……っていう話」
「ならばここにいないゼンベルは……」
「ええ、無事よ。あなたよりも回復力があったんでしょうね。治癒魔法をかけられてすぐに意識を取り戻したらしくて、戦後処理で今動いてるはずよ。私は疲労が強すぎたんで、それだけ聞いたらまた意識が飛んでしまったみたいで……」

 クルシュは立ち上がるとザリュースの元に戻る。すぐ横に座ったクルシュに対し、ザリュースも起き上がろうとするが、それはクルシュが優しく留める。

「無理をしないで、私達の中で一番酷い傷だったんだから」

 そのときの姿を思い出したのか、クルシュの口調が一気に暗いものへと変化する。

「無事でよかった。本当に良かった……」

 目を伏せたクルシュを慰めるように、ザリュースはさする。

「答えを聞くまでは死んだりしない。俺からすればクルシュが死んだんじゃないかと、不安だったぞ」

 答え――それが何に対する答えなのか、それを思い出したクルシュは真剣な顔でザリュースを見つめる。それは自らの心と対話する1人のメスの姿だった。

 そして、互いに何も言わない、静かな時間が生まれる。
 ゆっくりとクルシュの尻尾が動き、ザリュースの尻尾に絡みついた。白と黒の2本の尻尾が絡み合う様は、蛇の交尾を思わせた。
 ザリュースは言葉無くクルシュを見つめる。クルシュもまた、ただ黙ったザリュースを見つめる。互いの瞳の中に、自らの像が写るのが見えた。
 ザリュースは微かな声を上げる。いや、それは声ではない。鳴き声だ。クルシュと初めて会ったとき上げてしまったもの。
 
 ――求愛の鳴き声。
 
 ザリュースは鳴き声を上げた後、何もしない。いや、できなかった。ただ、ひたすら、心臓が激しく脈打つばかりだ。

 そしてクルシュの口から同じような声――鳴き声が流れる。同じように高く、語尾を震わせる鳴き声。それは――求愛を受け入れた鳴き声だ。

 クルシュの面には何とも言えない、蠱惑的な表情が浮かんでいた。もはや完全にザリュースはクルシュから目が離せなくなっていた。クルシュがザリュースに覆いかぶさる。それはまるで寝ていたときと同じような体勢だ。
 互いの顔に距離は殆ど無い。熱い吐息が交じり合い、触れ合った胸を通して心臓の音が同調するように脈打つ。そして2人は1つに――




「おう! やってるか!」

 バンと扉が勢いよく開き、ゼンベルが乗り込んできた。
 クルシュもザリュースも、互いに動けない。両者ともまるで氷の彫像にでもなったようだった。
 ザリュースをしてみればゼンベルほどのオスが近くに来たというのに、全然知覚出来なかったことの驚きもある。だが、何よりもあまりにも想像しない展開だったのというのがあった。
 そんな2人――上にクルシュを乗せたままのザリュースを不思議そうに見、ゼンベルは首を傾げつつ尋ねる。

「なんだ、まだはじめてなかったのか?」

 何を言われているのか、ようやく理解し、2人は黙ったまま離れた。そしてゆっくりと立ち上がる。その際の2人の顔は俯きがちだった所為でゼンベルからは見えない。いや、見えなかったことを喜ぶべきだろう。そう、嫌な事は後に回すべきだろうから。
 2人が黙って、ゼンベルの前に立つ。
 不思議そうに2人を見下ろすゼンベルが、体をくの字に曲げた。

「――がはぁ」

 腹筋に叩き込まれた2人分の拳を受けて、息を吐き出す。そしてゼンベルの巨体が床に沈んだ。

「うごぉ……いいもんもってんじゃねぇか……とくにくるしゅぅ」

 ザリュースはともかく、メスリザードマンの憤怒の一撃は、ゼンベルすらも倒しかねないものだということだ。
 無論、一撃でこの気持ちが収まるわけがない。しかしながら、殴打を繰り返してもどこかにぶっ飛んでいった雰囲気は戻ってこない。それが理解できる賢い2人は早々に諦める。
 軽く互いの手を握りつつ、ゼンベルに質問をすることとした。

「色々と聞きたいことがあるが、現在の状況を教えてくれるか?」

 ザリュースとクルシュが手を繋いでいるのだが、それに対してはもはや何も触れない。ふーん、程度の関心すらゼンベルは見せない。当たり前のことが当たり前に落ち着いた、彼にとってはその程度のなのだ。

「うん? 今は部族を挙げて帰還の祝いをしてるぞ?」

 それは体に降ろした祖霊を元の地に戻ってもらう儀式だ。それを行っているということは戦争の終了だと判断したということだろう。ザリュースは少しばかりの安堵を息を吐く。

「では兄が先頭に立っているそれを行っているわけか」
「まぁな。とりあえずは敵を狩猟班が探しにいったんだが、発見できず。そのためによぉ、まぁ、一応警戒はするが、おめぇの兄が勝利宣言出したってところだ。俺がここに来たのもおめぇの兄に言われてな」
「兄が?」
「おう、おめぇの兄は――『ガハハハハ、あいつらは2人で休ませておけばよかろう。もしかしたらやってるかもな、ガハハハ。邪魔しちゃ悪いが、気になるな。ガハハハハ』って言ってたぞ?」
『嘘だ!』

 ザリュースとクルシュ。2人の怒号にも似た咆哮を受け、ゼンベルはあとずさる。

「お、おう。確かにガハハハとは言ってなかった気がするが……」
「兄がそんなことを言うはずが無かろう。まったく……」
「いや、そんなニュアンスのことを……」
「――最低」

 『氷結爆散<アイシー・バースト>』に匹敵しかねない極寒の冷気を伴った声が、クルシュの口から流れ出る。ザリュースですらぞっとするような恐ろしい声だ。それを向けられたゼンベルは、身震いをすると一瞬で硬直する。

「で、何しに来たんだ?」
「おう、じゃ……」
「邪魔にしにとか言ったら、考えられるだけの魔法を叩き込みます」

 クルシュの発言は冗談ではない。それはザリュースにもゼンベルにも理解できた。

「あーっと。まぁ、なんだ。お前達を誘いに来たってわけよ。一応、俺達は立役者だろ。出ないわけにもな、これからも考えると……」
「そうか……」

 ゼンベルの濁したような言葉に真意を理解し、ザリュースは苦笑いを浮かべる。次の戦いの可能性も考え、強さのアピールをするのは良いタイミングだということか。我々にはこんな強い者達がいるんだという。

「了解だ。クルシュも構わないよな」

 少しばかり不満そうにぷくっと頬を膨らませるクルシュの姿は、湿地に住むデルメスカエルに似ていた。しかしながら可愛さが全然違う。そんなことをザリュースは考える。

「なら、いかねぇか?」

 互いを見つめあいだしたザリュースとクルシュに、ゼンベルは暇そうに話しかける。

「あ、ああ。そうだな、行こうか」
「ええ」
「おっしゃ!」

 3人で揃って外に出る。家の階段を降りきり、湿地に足をつけた段階で、クルシュとゼンベルの視界から一瞬でザリュースが掻き消える。突如、飛び込んできた巨大なものがザリュースを弾き飛ばしたのだ。

 ――ドンゴロゴロゴロバシャシャン。音で例えるならそんな感じだろうか。

 そしてザリュースの代わりに、2人の視界にはロロロがいた。4つの首は元気そうにくねり、湿地に転がったザリュースに嬉しそうに鼻を向けている。

「ロロロ! お前も無事か!」

 泥まみれになりながらザリュースが立ち上がり、ロロロの近くに戻る。そして体を優しく撫でながら様子を伺う。やはり傷はない。あの火傷が嘘だったように癒えている。魔法の力がどれだけ偉大か分かるものだ。
 ロロロは鳴き声を上げながら、甘えるように全部の首をザリュースに巻きつける。ザリュースの全身がロロロで隠れて見えなくなるほど、執拗な絡みつき方だ。

「こらこら、ロロロ、止めなさい」

 笑い声を上げながらザリュースはロロロに止めるように言うが、ロロロは嬉しそうな鳴き声を上げたまま、ザリュースから離れない。

 バシャン。バシャン。バシャン。

 突如、ザリュースの耳に飛び込んでくる、一定のリズムで繰り返される水音。それの発生源を探したザリュースは困惑する。
 水音の発生源はクルシュだ。非常に温和な微笑を浮かべ、ザリュースとロロロを見つめている。しかしながらその尻尾はある一定を刻みつつ、地面に叩きつけられていた。
 クルシュの横にいたはずのゼンベルが、引きつった顔で少しづつ離れていく。

 ロロロの動きが止まる。ロロロも何かの違和感を感じているのだろう。

「どうしたの?」
「い、いや……」

 不思議そうに問い返すクルシュを前に、ザリュースは困惑する。クルシュはどう見ても微笑んでいる。それはロロロとザリュースの再会を祝っているものしか思えない。それなのに何故、これほどの怖気が全身を走るというのか。

「変なの――」

 再び微笑むクルシュ。
 そして離れるロロロの首。自由になるザリュース。びくびくするゼンベル。あまりにも異様な空気がそこに漂っていた。そんなものに耐えられなくなったように、ゼンベルは口を開く。

「おし、ロロロ。おれと先に行っておこうぜ」

 無論、ロロロにリザードマンの言葉を解する能力はない。しかしながら空気を読んだかのように、ロロロはゼンベルを乗せると意外な速さでバシャバシャと走り出す。
 2人が走っていく中、残されたザリュースとクルシュの間に奇妙な沈黙が落ちる。
 クルシュが手で頭を抱えながら、左右に振った。

「あー、もう。……何してるのかしら。なんだか自分の心が自分のものでないみたい。あまりにも理知的でないって分かるのに、自分でそれを止めることができないなんて。うん、呪いとかと一緒だわ」

 その気持ちはザリュースにも理解できる。そう、クルシュと始めてあった時の彼がそうだったのだから。

「クルシュ。正直に言う。――嬉しいぞ」
「――な!」

 バシャンと一回、桁外れなまでに大きく水音が上がった。そしてザリュースはクルシュの横に並ぶ。

「ほら、聞こえるか?」
「え?」
「俺達が守ったもの。そしてこれからも守らなければならないものだ」

 風に乗って聞こえてくる騒ぐ声。酒盛りをしているのだろう。それは祖霊を返すためであり、戦勝を祝うものであり、死者を追悼するものだ。
 本来であれば酒は貴重品なので、こういったときでなければ行われないのだが、ここ数日間で頻繁に行われているのは、ゼンベルたちが持ち込んだ4至宝の1つのお陰だ。その無限の酒の量の所為でもあり、全ての部族がいるという数の多さもあり、信じられないような騒ぎとなっていた。
 そんな騒ぎの声に耳を傾けながら、ザリュースは横にいるクルシュに笑いかける。

「まだ何も終わってないかもしれない。また偉大なる方とか言う奴が攻めてくるかもしれない。それでも……今日だけは安らごうじゃないか」

 そしてザリュースはクルシュの腰に手を回す。
 クルシュはザリュースに引き寄せられるまま近寄ると、その肩に頭を預ける。

「行こうか?」
「ええ……」少しだけ躊躇った後、クルシュはこう続けた。「……あなた」

 2人のリザードマンは共に連れ添いながら、騒ぎの中に消えていく――。



 ■


 その地ではザリュース達、リザードマンに絶望を教えるための鐘が鳴ろうとしていた。



 扉がゆっくりと閉まっていく。今までこの部屋にいた人物が出て行ったのだ。
 アインズは手にしていた羊皮紙から、今閉まった扉へと目を動かす。それから人差し指のみを立て、天井に突きつけた。

「エイトエッジアサシン――」

 天井に動く気配が複数。
 今まで気配無く天井に張り付いていた蜘蛛型の忍者のようなモンスター――エイトエッジアサシン達が、最上位者の言葉を受け、身動きをしたのだ。扉に目を向けたまま、アインズはエイトエッジアサシンに命令を下す。

「任務を与える。降りて来い」
「畏まりました」

 その言葉と共に不可視の存在が音も無く、床に降り立つ。ここで初めてアインズはエイトエッジアサシンに視線を向ける。
 エイトエッジアサシンが不可視といえども、アインズのような不可視看破能力を常動化している者からすれば、容易く認識できる。そしてシャルティアとアウラ。そしてメイド長――ペストーニャ、司書長――ティトゥスといったこの部屋にいる上位者たちも、空気の動き、振動感知、不可視感知等の能力によってエイトエッジアサシンの認識には成功している。

「4名でナーベラルを尾行しろ」

 今扉から出て行ったナーベラル。
 そのアインズの自らの部下を尾行しろという言葉に、特別な反応を示す者はこの部屋にはいない。なぜなら自らの主の決めたことは絶対なのだから。エイトエッジアサシンは深く頭に当たる部分を下げるだけだ。

「……何か異様な行動を取っていたら、捕縛せよ。殺害等は慎むこと。何を持って異様とするかの判断はお前達に任せる。ただ、判断が付かない場合は私の元まで誰が戻ってこい。監視期間はナザリックを出るまでだ」
「――畏まりました」
「なら、行け」
「はっ」

 滑るような動きで4体の蜘蛛にも似たモンスターが動き出す。残った3体は再び天井へと戻っていく。音も無く扉が閉まっていく中、アインズの言葉を待つように室内の全員の視線が集まる。
 しかしながらアインズは口を開かない。
 ナーベラルが、そしてエイトエッジアサシンが出て行った扉を、考え込むように睨むだけだ。

「ところでアインズ様、まことにわたしの能力をお忘れになっていたんでありんすかぇ?」

 シャルティアが思い出したようにアインズに尋ねる。それに対し、アインズは少しだけ寂しさと懐かしさを交えた色を浮かべて答える。


 シャルティアの能力――カース・ナイトのクラス能力である『カースによる低位アイテムの破壊』。
 呪いの騎士<カース・ナイト>はボーナスを得る代わりに、同程度のペナルティも得るクラスである。ぶっちゃけ不人気職でもあった。そんなクラスをわざわざシャルティアに組み込んだことをアインズ――いやモモンガは、製作者であるペロロンチーノに疑問に思って尋ねたものだ。
 その時どれだけ自慢げに説明を受けたか。
 製作会社の裏を突いたぜ、と言いたげでかつ自慢げなペロロンチーノの声。
 それを――かつての黄金に輝いて頃の記憶を、アインズが忘れているわけが無い。


「……な、わけがなかろう? 逆にシャルティアがアレを貰ってしまったらどうしようかと不安だったぞ?」

 その答えにシャルティアは頤に白魚のごとき指を1本だけ当て、小首を傾げた。外見的に14歳ほどの美少女だからこそ、絵になる光景だ。中身がどうであろうとも。
 そんなシャルティアの態度にアインズは力を抜いたのか、苦笑いを浮かべながら思うところを口にした。 

「……アレの忠誠をお前達は信用したのか?」
「あれって死の宝珠のことですか?」

 不思議そうに尋ねたのはアウラだ。アインズとの会話という2人だけの世界に、ハイハイ私もいましたといわんばかりに、突然横から口を出されたシャルティアは、非常に不満げな表情を浮かべる。いや、目の色が充血するように真紅に染まりだしているのはかなり怒っている証拠だろうか。
 しかし、そんなシャルティアの変化を完全に無視して、アウラはそのまま続ける。

「えっと、あたしは信用しましたけど……」

 偉大なるアインズ様を前にすれば忠誠を誓うのは当たり前だよね。
 偉大にして至高なる死の王でしょ……ガキがもう忘れたの?
 そうだった、シャルティア、ごめん。
 ……まぁ、許してあげるんす。でも忘れちゃ駄目でありんすからぇ。
 そんなことを言い合ってる2人を無視し、アインズは後ろに控えていたペストーニャに己の考えを述べる。

「私は信用していない。だからナザリックの外に出るナーベラルに与えたのだ」
「はい」

 突然、話を振られても微動だにしないペストーニャこそメイドの鑑か。しかしながら先ほどまで話を振られていたのに、気づくと無視されている2人の守護者は慌てて、アインズに話を振る。

「つまりは危険であることを考えて、このナザリックから故意的に遠ざけた?」
「……そうだ。アウラ」
「でありんすが、それでありんしたら壊してしまうのが」
「……シャルティア。それは早計過ぎる考えだ。お前の悪いところだ。破壊は簡単かもしれないが、それで失うものまで考えておくべきだろう」

 アインズは1呼吸分――アンデッドであるアインズは呼吸の必要が無いが――間を開けると、自分の考えるところを言う。

「知性あるアイテムというものは私の知らない分野のアイテムだし、さらには今のところアレ1つしか知らないのだ。破壊は勿体ないだろう。ただ、知らないアイテムというのが不安でもあるわけだ。どんな秘密が隠されているかもしれないし、あのアイテムを探知したりする技が無いとも限らん。さらには相手を支配する力とかな」
「だからですか……」

 アインズがエイトエッジアサシンに、ナーベラルを監視するように命令を出した理由を悟り、室内の全員が納得の意を示す。
 危険なアイテムである可能性も考慮したから、ナーベラルに持たせ、そして任務の一環としてナザリックから外に出す。ナーベラルに言わないのは向こうに、そう考えていると知られないため。
 それに精神支配系の能力を持っていた場合、アンデッドたる存在では効果は無いが、ナーベラルなら一応は効く。
 そんな生贄たる存在には、本来であれば適当なシモベをチョイスして様子を見るのが、一番良いだろう。だが、あの状況下ではナーベラル以上に適任はいない。

「しばらくナーベラルに持たせて何も無ければ良し。何かあったら……」
「了解しました。場合によってはナーベラルを救出するチームには私も入れていただければ」

 ある意味、ナザリック大地下墳墓において最も癒し系の技に長けた、ペストーニャの発言にアインズは重々しく頷く。

「当たり前だ。そのときは最高のメンバーで構成する。当然、守護者には全員参加してもらうぞ?」

 シャルティアとアウラを代表とする室内の全員が、揃ったように共に頭を下げる。
 アインズたち――至高の41人に創造された存在は、どんなものでもいわば強い絆で結ばれた、そして互いに敬愛すべき仲間だ。至高の41人のために犠牲になるのは仕方が無いことだが、それでもそれ以外の存在が利用して良い存在ではない。
 もし仮にナーベラルがどこかの誰かに利用されるようなことがあるならば、標的の抹消のため、振るわれる力はとどまるところを知らないだろう。標的の発見が面倒だからという理由で、国単位で破壊の限りをし尽くしておかしく無いほど。

 そんな思いで受け止めているとは気づかないアインズは、うんうんと軽く頷く。
 自らの部下たちの団結力、そして友情に感動してだ。


 そんなとき、扉をノックする音が小さく響く。
 室内が大きいということもあり、鋭敏な知覚力を持たないものであれば聞こえないだろう大きさだ。しかしながら高位の存在は基本的な能力の数値的な面も高いため、幾人かの視線が扉に向かった。
 少し遅れて、扉の直ぐ側に控えていたメイドが扉を開け、来た人物の確認作業を行っている。室内にいた皆が、誰が来たのかの大体の予測はしている。現在、この部屋に来るようにと呼ばれて、来てないのは1人しかいないのだから。
 メイドは外の者の確認が終わると、扉を閉め、アインズの元に向かって歩き出す。そして直ぐ側まで来ると、お辞儀をし、口を開いた。

「アインズ様。コキュートス様とエントマ様がいらっしゃいました」
「そうか」

 予測されていた通りの人物の来訪を受け、アインズは頷く。

「入れろ」
「畏まりました」

 メイドが再び扉を開けに戻っていく中、室内には微妙な緊張感にも似た空気が漂いだした。それは失態を犯したコキュートスがどのよう目に会うのかと不安がっているのだろう。
 そんな空気に対し、アインズは苦笑するだけだ。元々敗北は想定範囲内の結果に過ぎないのだから。

「失礼イタシマス」
「失礼します」

 部屋の中にコキュートスが入ってくる。その直ぐ後ろをエントマが続く。コキュートスはアインズの机の前まで歩いてくると、深く頭を下げた。エントマは途中でコキュートスの後ろを離れ、横に並ぶアウラたちの隣に並ぶ。
 アインズの前に跪くコキュートスのその姿は、己の罪を認識し、如何様な裁きも受けるという、受刑者の姿にも似ていた。

「コノ度ハ私ノ失態、誠ニ申シ訳アリマセン。コノ――」

 アインズはまだ続きそうなコキュートスの言葉を、手を上げることで止める。

「……コキュートス。今回戦ってみてどうだった?」
「ハッ、兵ヲオ預カリシタニモ――」
「――そういうことが聞きたいのではない。どうすれば勝てた、と聞いているのだ」

 コキュートスが僅かに――昆虫にも似ているのでよくは不明だが――不思議そうな表情を浮かべ、アインズの質問に対し、しばらく黙って考え込む。それから自らの思うところを口にした。

「マズハリザードマンヲ侮ッテイマシタ。モット慎重ニ行動スベキダッタカト」
「ふむ! その通りだ。たとえ私達からすれば弱い存在でも侮るのはいけないことだ。理解してくれて嬉しいぞ」

 チラリとアインズはシャルティアに視線を向ける。それに気づいたのか、シャルティアが僅かに目を伏せた。自らのかつての失態を思い出したのだろう。

「他には?」
「ハイ。マズハ情報不足ダッタカト。相手ノ実力、地形。ソウイッタモノガ無イ状態デハ勝算ハドウシテモ低クナルカト」
「ふむふむ」

 満足そうに頷くアインズに、コキュートスは少しばかり心が軽くなる。

「他には?」
「指揮官ノ不足モ問題デシタ。低位ノアンデッドナノデスカラ、臨機応変ニ指令ヲ下セル存在ガイルベキデシタ。ソレニリザードマンノ武器ヲ考エ、ゾンビヲ主ニブツケ疲労ヲ誘ウ。モシクハ個別ニ動カサズ全テヲ一度ニブツケルベキデシタ」
「それ以外には?」
「……申シ訳アリマセン。直グニ思イツクノハコノ辺リガ……」
「そうだな。その通りだ。素晴らしい。無論、いくつか他にも考え付くが、コキュートスは充分に学んでくれた。ところで何故最初っからそうしなかったのだ?」
「……考エ付キマセンデシタ。単純ニ力デ押セバヨイト思ッテオリマシタ」
「そうか、だが、アンデッドどもが死んで色々と考えたわけだな?」

 嬉しそうなアインズの雰囲気に、室内の幾人かが怪訝そうに伺う。ナザリックから出した兵が壊滅し、敗北を喫した割にはアインズが満足しているのが不思議なのだ。実際それはコキュートスも同じだ。ここに来たときはそれなりに重い罰を与えられるだろうと予測していた。しかし、何だか方向性が変というか、罰にしてもそれほど重いものが下されるような気配が無い。

「コキュートス。お前は謝罪したいみたいだが、何か問題があったのか?」
「――ハッ?」
「スケルトンやゾンビどもが壊滅した。それが私が支配する――そして『アインズ・ウール・ゴウン』が作り上げたナザリック大地下墳墓に何か影響を与えるのか? そう思ってるとするならそちらのほうが問題だな」

 驚き、何も言えないコキュートスからアインズは視線を動かし、シャルティアに向ける。

「あの程度の損耗でナザリックがどうにかなるのか? シャルティア、スケルトンたちの消耗はいつ回復する?」
「あの程度のアンデッドなら、復活にかかる時間は1時間ですので、もう既に新しいのが生まれてありんす頃かと」
「――ということだ」
「デスガ、私ガ敗北シタノハ事実――」
「気にするな、コキュートス。もとより勝てなくても問題ない話だ。つまるところ敗北もまた、私の計画の一環だ」
「ヤハリ、アインズ様ハ勝利ヲ考エラレテナカッタノデスカ?」
「本当はデミウルゴスに言われるまでも無く、気づいて欲しかったぞ」

 アインズの視線がエントマに動き、それを理解したコキュートスが頭を下げようとするのを手で止める。

「構わん。ただ、別に勝っても問題はなかった。私の立てた計画とは勝利や敗北はどうでも良く。コキュートス、お前が何を手に入れてくるかが問題だったのだ」
「ソレハ?」

 不思議そうなコキュートスを無視し、アインズはペストーニャの方を向く。

「アレを持て」
「はい。ただいま」

 ペストーニャは歩いて部屋の隅まで行くと、それを持って戻ってくる。それとは蓋の付いた銀の盆だ。そしてテーブルの上にそれを静かに置く。

「これを見るが良い」

 コキュートスは立ち上がり、アインズの机の上に置かれた銀の盆を眺める。ペストーニャが蓋を外し、持ち上げた中にあるモノ。それが何か、コキュートスは一瞬分からなかった。周囲に漂いだした炭特有の焦げたような匂いが無ければ、いまだコキュートスは考え込んでいただろう。

「……コレハ……ナンデショウ。マサカ、単ナル消シ炭……デスカ?」
「5日練習したメイドの作ったステーキだ」

 単なる黒い塊。それがステーキだという。コキュートスはあまりに信じられずに言葉をなくす。

「料理は専用のスキルが必要だな?」
「ハイ」

 ユグドラシルにおいて料理は専用のスキルが必要となる。まぁ、一時的な能力向上等のボーナスがあるのだから、当たり前の事だといえよう。

「メイドは料理をするスキルを持っていなかった。そして3日たってもやはり料理は成功しない」

 アインズは黒焦げの肉を添えられたナイフで切り裂く。中まで完全に炭素化していた。

「つまりはスキルが無いことをしようとしても失敗に終わるということだ。……実際、私もやったが肉を焼くということすら満足にできなかった」

 調理場でアインズが料理をしようとしただけで騒ぎになったものだ。それだけの騒ぎを引き起こしながら、アインズが料理してみるとやはり出来上がったのは黒焦げ肉。肉を焼き始めてからの記憶すら漠然としているのだ。それはぞっとする体験だった。確かに肉を焼くというのも好みの焼き加減を狙うと難しくなる。しかし、単に焼くだけが出来ないのだ。

「……私は知りたかったのだよ、コキュートス。スキルとして存在しないものは得ることが出来るのかと」

 つまりはコキュートスの一件は、既に出来上がった存在であるアインズたちが、新たなものを得ることが出来るのかという実験でもあったのだ。戦術や戦略といったものを得られたなら、アインズたちにも成長の可能性はあるということの証明に繋がるのだ。コキュートスが負けやすいように準備をしておいたのは、負ける方が得るものが多いのではないだろうかという、単なるアインズの勝手な考えだ。
 実験の結果はアインズにとって満足のいくものだった。コキュートスは成長の可能性を見せてくれたのだ。

 無論、手に技術をつけるのと、知識の一環として学ぶのでは大きく違う。
 アインズが将来的に狙っているのは――もしあるならだが――この世界特有の魔法体系の習熟である。魔法というものは技術なのか、知識なのかという問題は、今なおアインズの中で残ってはいる。ただ、今回はその知識的な面での成長実験だったということだ。
 もっと単純で簡単な知識面での成長実験は、アインズの頭の中にもあった。しかし、今後のことも考えるなら、戦術や戦略といったものの習熟は重要な要点だ。ならば、経験をつませるという意味でも一石二鳥だったのだ。

「お前は成長の可能性を私に教えてくれた。充分な働きだ」

 つまりは性格もまた変わりかねない危険な可能性も有しているのが、それでもひとまずは満足だ。

 アインズは思う。
 成長しようと考えない最強は、単なる停滞だ。いつかは追い抜かれるだけだ。
 100年先の軍事技術を持っていたとして、それは確かに最強かもしれない。だが、そこで止まっていればいつかは最強の地位から落ちることとなる。今は周辺国家の中では強いかもしれない。だが、その強さがいつまでも保たれる。そう考えて行動するものは単なる愚か者だ、と。

「……そう。全て私の計画通りだ。コキュートスご苦労だった」
「ハッ」

 釈然とはしていないが、コキュートスは再び跪き、アインズに頭を下げる。

「アインズ様。リザードマンはどうするんですか?」
「実験は終わったし、どうでもよい存在だな。掃討して情報が漏れないようにするか?」

 リザードマン以外の種族が戦闘に参加している気配は無かった。ならばリザードマンの世界はさほど大きく無いだろうと予測が出来る。別にあの小さな世界で情報が止まるなら放置でもまるで問題は無いだろう。しかし、アインズの最大の不安の解決のために、放置は出来ない。場合によっては全力で潰す必要がある問題だ。アインズの保有する切り札を使ってでも。
 アインズにはそうアウラに話しかけ、僅かにコキュートスが身動きするのを視界の端で捉える。

「どうした、コキュートス?」
「アインズ様、ヨロシイデショウカ」
「かまわないが……」
「アレハ殺シツクスニハ勿体ナイカト」
「ふむ……そうだな」

 アインズは考える。確かにリザードマンを支配下にするという考えも元々あった。
 アインズはコキュートスを眺める。それからコキュートスの性格を思い出し、気に入ったのかと納得する。コキュートスは強い者には敬意を払うタイプだ。その強さとは単純な力の強さばかりではない。もっとも敬意を払うのは心という目には見えないものだ。
 しかし今の状態では簡単には支配できないだろう。

「……滅ぼしても構わないし、無視しても構わない。……と思っていたのだがな、1つ知りたいのだ。私たちが弱いと思われるのは癪ではないか?」

 アインズは守護者達を見渡す。誰も何も言わないが、その瞳に宿したものの感情は充分に理解できる。

「――アウラ」
「はい。すっごくむかつきます」
「――シャルティア」
「『アインズ・ウール・ゴウン』に敗北は似合いんせん」
「――コキュートス」
「……強者トイウ言葉ト存在ヲ教エルベキカト」

 アインズは楽しげに微笑む。

「では――少しばかり本気を出そうではないか。ガルガンチュアを除く全ての守護者に命令を下す。出撃だ」
「はっ」

 その場にいた3人の守護者の声が同調する。

「シャルティア。私も出る。兵の準備を整えろ」
「畏まりんした。ではナザリック全軍10万の準備を整えんす」
「じゅ……それで移動までにどの程度の時間がかかる?」

 かかる時間を計算しだすシャルティアに、アインズは駄目出しをする。

「私はリザードマンたちがナザリックを大した敵ではないと思ってる時間が不快なのだ。すぐさま出撃で来る数で構わん。……そうだな。ナザリック・オールド・ガーダーを出せ」

 オールド・ガーダーというアンデッドの警備兵がいる。
 ナザリック・オールド・ガーダーはナザリック大地下墳墓にしか存在しない、オールド・ガーダーの上位アンデッドといえる存在である。様々な効果を付与された魔法の武器を持ち、魔法の鎧と盾に身を包み、戦技の幾つかを習熟するそのアンデッドは、優秀な警備兵として存在する。
 レベル的には18。ちなみにスケルトン・ウォリアーは16である。

「数はいかほどで」
「全部だ」
「では、6000体でよろしいでありんしょうか」

 一瞬だけアインズの動きが止まる。そんなにいたのかという驚きによるものだ。しかし、すぐに隠し――

「聞こえなかったか? 全部だ」
「はい。申し訳ありんせんであ――申し訳ありませんでした」

 頭をたれるシャルティアにアインズは鷹揚に手を振った。

「ではシャルティア。《ゲート/異界門》を使い、兵力を一気に移動させよ」
「わたし1人の魔力では限界が」

 シャルティアの質問に予期しているアインズは、ペストーニャの方を向く。

「ペストーニャ。お前が支援しろ。お前の魔力をシャルティアに渡してやれ」
「畏まりました」
「ついでにルプスレギナにも働かせろ。――アウラ」
「はい」
「お前のシモベで最も強いものを選伐し、私の親衛としろ」
「畏まりました」
「コキュートス。お前が次回は先陣だ。その働きを私に指し示せ」
「ハッ。先ノ敗北ノ借リヲ返サセテモライマス」

 アインズはにやりと笑うと、両手を広がる。

「よし。ならば行動を開始せよ。それとデミウルゴスにもいったん戻るように伝えろ」




 誰もいなくなった部屋にアインズの小さな呟きが吸い込まれていった。

「しかし……失態だな。リッチより強いアンデッドを指揮官にするべきだったか」

 今回の指揮官であるリッチは、アインズが下位アンデッド作成で作り出したものだ。この世界に来てから、毎日のように様々なアンデッドを、限界まで作り出して8階層に溜め込んでいるのだが、その1体である。

 下位アンデッド作成。
 それは10レベルから24レベルまでのアンデッドを作成する能力だ。ちなみに上位アンデッド作成は25レベルから40レベルである。
 
 その下位アンデッド作成では最強のリッチが負けたというのは、少々リザードマンを甘く見すぎていたという思いは隠しきれない。

「……困ったものだ」

 メッセンジャーにナザリックの名前を出さないよう指示したのは、ユグドラシルプレイヤーを警戒してだ。ユグドラシルの種族の中にもリザードマンはいる。もしあの部族の中に紛れていたら、という可能性を考えて出させなかったのだ。
 時間を与えたのはもしプレイヤーがいた場合、ギルドや仲間を呼ぶかもしれないからという、様子見のつもりでいたのだ。しかしながらリザードマンしか集まらなかった以上、他のプレイヤーはいない可能性が強いと判断して攻めさせた。
 そしてプレイヤーを引きずり出すつもりだったのが、指揮官に据えたリッチの存在だ。リッチという――リザードマンでは勝てないような強者の存在が表に出れば、プレイヤーが相手をするために出てくると思っていたのだが、単なるリザードマンに負けてしまった。
 結果として、いない可能性は非常に高いが、完全に保障は出来ないというところか。それこそが最大の問題だ。
 もし仮にプレイヤーがいた場合、既に敵対行為を行ってしまったのだ。下手に見逃すことは出来ない。

「だからこそ行くんだけどな」

 個人的には嫌だが、確認をしなくてはならないだろう。
 守護者に任せないのはどのような結果に終わるか予測が出来ないからだ。守護者の幾人かには、相手を侮る部分が時折感じられる。今回のナザリックの敗北でその考えが変われば良いが、今まで積み上げたものが変わるにはそれなりの時間が掛かるだろう。
 侮りを捨てきれない状態で行ったのなら、相手がプレイヤーだった場合、レベルや人数にもよるだろうが、守護者の全滅に終わる可能性だってある。それは避けなくてはならない。

「だが……戦闘になった場合、勝てるか?」

 アインズは天井に張り付くエイトエッジアサシンの事も考え、口の中でその不安の言葉はかみ殺す。
 ユグドラシルプレイヤーとしてのアインズの強さは微妙だ。確かに非常に面倒な対策さえ取られなければ、どのような相手をも瞬殺するだけの隠し玉は持っている。しかしながら既にwikiに載っている隠し玉だ。
 『アインズ・ウール・ゴウン』というギルドは最強クラスであるがゆえに、wikiにギルドメンバーのある程度の情報は記載されてしまっているのだ。知らない相手なら敗北はありえないが、知っている相手ならめんどくさい事になる。

「……出すか? あれを……」

 アインズは第8階層のアインズが保有する最大規模の切り札について思いをはせる。
 あれは多くのプレイヤーたちがチートだと叫んだ、かのワールドチャンピオンに匹敵する存在だ。そしてかつての1500人からなる討伐隊を全滅させ、第2次討伐隊が編成されなかった理由。それを動かすときが来たのだろうか。

「しかしなぁ……ほんと困ったものだ……」

 アインズは頭を抱え込みたくなるのを自重し、深く考え込む。
 なんでこんなに色々と考えなくてはならないんだろうと思いながら。






――――――――
※ さて、これで今年最後の更新です。皆様良いお年を。
 そして新年明けてここを読まれてる方、今年もよろしくお願いします。
 5月スタートですから、もう7ヶ月が過ぎたことになります。プロットを見る度に「まだ、ここなのかよ」とげんにょり来ますが、完結に向けて頑張って行きたいと思っております。
 では次回は41話「戦3」ですね。またお会いしましょう。



[18721] 41_戦3
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/02/20 21:42



 危険感知能力という言葉がある。
 冒険者の中でもシーフに代表される探知系の技能保有者が、重要視する能力であるそれは、読んで字の如く、危険を感知する能力だ。

 この能力は直感――推理や考察などによらず、感覚的に物事を瞬時に感じとること――による場合と、経験等の推理や考察から察知する場合の2種類存在する。虫の知らせとも言われる心のざわめきが前者であるなら、僅かな周辺環境の変化――微かな匂いや、僅かな音、そういったものから敵の奇襲等を見破るのが後者だ。

 そして後者の場合、戦場に出ることやたった1人で旅をする場合に、鍛えようとしなくても独りでに鍛えられる場合がある。これは言うまでも無く、死線を掻い潜ったことによる経験から来るものである。安全な場所だと思って気を抜くことや、状況の変化の察知に失敗したりすることが、死に直結する環境のため、無意識でもこの危険感知能力が厳しく鍛えられるからだ。

 そしてリザードマンのような生物は人間よりも、その能力に優れる率は高い。それは生物的な能力――感覚器官の鋭敏さから来るものであり、厳しい生存環境から来るものでもある。人間であれば、一応はモンスターから離れた安全な場所で眠るだろう。しかし、リザードマンの生存する環境下では直ぐ横にモンスターが存在するのだ。
 そんな環境下であれば、危険感知能力が人間よりも優れるのも納得してもらえるだろう。


 そんなリザードマン。
 特にザリュースからすれば、家の外の雰囲気の変化の察知に失敗するわけがない。


 緊張感とも取れるような空気のざわめく気配に、ザリュースは敏感に反応し、目を開く。
 見慣れた――といっても寝泊りしているのは数日間だけだが――室内が目に入る。明かりの入ってこない室内は、人であれば目を凝らしても見ることが出来ないが、リザードマンであればさほど苦ではない。

 室内に異常は無い。

 周囲を見渡し、それを確認したザリュースは、僅かな安堵の息と共に体を起こす。
 今まで眠っていたにも関わらず、ザリュースの意識は平時となんら変わらない状態まで覚醒している。寝ぼけたりはしていないどころか、直ぐに戦闘に移れるような肉体の活性状態だ。
 無論これは、ある程度鍛えられた戦士であれば当たり前ではある。そしてまた、リザードマンという種族の眠りの浅さに起因するものだ。

 しかしながらザリュースの横で寝る、クルシュに起きてくる気配ない。
 ザリュースという暖かさを感じさせる存在を失ったクルシュは、まどろみの中、微かに不満げな鳴き声を上げているだけだ。

 本当に深い眠りだ。
 通常時であればクルシュもこのざわめきを感じ取り、目を覚ましただろう。しかしながら今回は失敗してしまったというところか。

 ザリュースは少しばかり後悔していた。多少、クルシュの体に負担をかけ過ぎただろうか、と。
 ザリュースは昨晩の記憶をたどり、確かにクルシュの負担の方が大きかったかもしれないと納得する。あのリッチという強大な敵を倒してそのままの流れで、だ。オスであるザリュースよりは、メスであるクルシュの方が負担は大きかったということだ。
 個人的にはそのまま寝かしておきたい。しかしながら、耳をそばだてれば家の壁を通して、多くのリザードマンが慌てているのが聞き取れるのだ。そんな何らかの非常事態が起きている状況下で、寝かしておく方が危険だろう。

「クルシュ、クルシュ」

 ザリュースは数度、多少強めにクルシュを揺さぶる。

「ん、んぅ」

 尻尾がくねり、それから直ぐにクルシュの赤い瞳が姿を見せる。

「ん? んうぅ……?」
「何かあったようだ」

 その一言で、未だ眠たげだったクルシュの瞳が大きく見開かれる。それを確認し、ザリュースはそばに置かれていたフロスト・ペインを手にすると立ち上がる。遅れてクルシュも立ち上がる。
 人間であれば服を纏ったりと色々しなくてはならないことがあるかもしれないが、リザードマンにその必要はない。2人は揃って家の外に出る。


 外に出て、騒ぎの発生源はすぐにザリュースは、そしてクルシュは理解した。

 その原因は――天空。
 村の頭上を覆うかのように広く掛かる、厚い黒雲を確認して。
 これは通常のものとは違う。ザリュースが遠くを見れば、雲ひとつない晴天が広がっていた。

 つまりこれは――。

「また……来たのか」

 そう。
 偉大なる方の存在の手の者が、再び来訪したことを意味する符丁――。

「そうみたいね」

 同じものを見、確信したクルシュが同意する。5部族の、共に戦ったリザードマンたちも同じように天空に掛かる雲を視認することで騒いでいる。しかしながら、そこに恐怖の色はない。
 昨日の戦い――圧倒的な不利を跳ね除けた上で得た勝利が、心を強くしているのだ。現状では、また来たか程度の動揺しか生んでいないのだ。
 
「行こう」
「ええ」

 ザリュースとクルシュは村の正面門に目掛け走る。
 バシャバシャという水音を立てながら、疾走。幾人もの戦闘準備を整えつつあるリザードマンの横を通り越し、大して時間を掛けずに正面門まで到着する。
 多くの戦士階級のリザードマンたちが門から外を伺っている。そんな中に1つの異形なリザードマン。片腕が異様に太く逞しい影――ゼンベルだ。
 激しい水音を立てながら走ってきた2人に対し、ゼンベルは軽く手を上げることで挨拶とし、すぐに門の外を顎でしゃくる。

 ゼンベルの横に並び、門から外を伺うザリュースとクルシュ。

 250メートル向こうの岸辺。湿地と森の境目ともいうべき場所。
 そこにいたのは隊列を組んだスケルトンたちだ。それもかなりの数。前回の数と比較するなら同数ぐらい、いや少し少ないぐらいだろうか。リザードマンを数倍する数である。

「また来やがったな」
「ああ……」

 ゼンベルに答え、ザリュースは1つ、舌打ち。

 予測できていた結果だ。あれで敵の攻撃は終わらないだろうとは思っていた。
 しかしながらあまりに早すぎる。負傷したリザードマンを治癒魔法で完全に癒す時間も、死者を弔う時間も、防備を強化する時間も無く攻めてくるというのは予想外だ。
 ザリュースは僅かに顔を顰める。相手をあまりに甘く見すぎたかと。
 スケルトンとゾンビの大群をあれだけ滅ぼしたのに、再び大軍を動かすだけの力を持っていたとは。

「……あのリッチが召喚した骸骨よりは弱いだろうけどよぉ」

 その言葉の後ろにある意味。それは今隊列を整えているスケルトンは、この前に攻めてきたスケルトンよりも強いと、ゼンベルは判断しているということだ。
 ザリュースもそこに並ぶスケルトンを、真剣に観察する。どれだけの力を持つ存在なのか、どれだけの警戒が正しいのかを見極めるために。

 外見的には確かにスケルトンのようだ。
 刺突攻撃に対して完全耐性を有する、その肉のついていない骨の体。それも厄介だが、最も厄介なのは筋肉がついていないため、どれだけの肉体能力を有するか外見からは判別できないことだ。
 外見的に決定的に違うのは武装だ。先のスケルトンは持っていたのは錆び付いた剣だった。だが、今回来ているスケルトンたちは立派な胸当て<ブレスト・プレート>を纏い、片手には逆三角形を伸ばしたような形状の盾――カイトシールド、もう片手には各種多用な武器を持っている。背中には矢筒と合成長弓<コンポジット・ロングボウ>。
 攻守長短に対してしっかりと装備を整えている。
 それだけで先のスケルトンとは、段違いであることが読み取れる。さらには心なしか、体格も良いような気さえする。
 そこまで観察したザリュースは、ある事実を発見し、己の目を疑い、数度手で擦る。しかしながら依然として、それは事実として存在していた。

「え?」
「ば、バカな……」

 クルシュの驚きの声にあわせ、同じ事実に気づいたザリュースは、血を吐かんばかりの呟きをもらす。それにゼンベルが反応した。
 
「……おう、ザリュース。おめぇも気づいたかよぉ」

 ゼンベルの、やはり血を吐かんばかりの声。それは信じられないものをその目にしたために。

「ああ……」ザリュースはそこで口を閉ざす。言いたくはない。言ってしまうと恐ろしくなるから。しかし言わないわけにもならない。「……魔法の武器のようだな、あれは」

 クルシュが横でこくこくと首を縦に振っている。

 ――そうだ。
 そのスケルトンたちが持つ様々な武器。それは魔法の力を付与されているのだ。あるスケルトンは炎を宿す剣を所持したと思ったら、別のスケルトンは青雷光を宿すハンマーを持っている。穂先が緑がかった光に包まれた槍を持つ者、どろりとした紫色の液体に包まれたようなシックルを持つ者だっている。

 そんなザリュースの驚きを、ゼンベルは容易く強める言葉を放る。
 
「ちげぇぞ。鎧や盾もよく見てみろ。ありゃ……全部魔法の武具だ」

 ゼンベルの言葉にザリュースは目を凝らす。
 そして思わず呻き声を上げてしまった。盾も鎧も日光を反射したとは思えない、まるでそのもの自体が光を宿しているというように見えるという事実に気づき。

 一体どれほどの存在であればあれだけの数の、スケルトンの兵士に魔法の装備を持たすことが出来るというのか。確かに一時的に、または単純な切れ味を高める魔法を込めた武器なら、大きな国なら長期間の計画を立てれば可能だろう。しかし、魔法の武器にそれぞれの属性を――それも多種多様となってくると話が変わってくる。
 ザリュースは旅に出て、山に住んでいたドワーフたちから様々な知識を得た。
 ドワーフは山の種族であり、金属に関しては優れた能力を所持する種族だ。そのドワーフたちが酒の席で語るような英雄譚――ドワーフの大帝国を築いた王、ミスラルの鎧に身を包んだ英雄、ドラゴンを一騎打ちの末に殺した者、そしてかの13英雄の1人『魔法工』。そんな者達の話ですら、あれだけの魔法の装備を整えた兵団の話はない。

 では今、ザリュースが目にしているものは何だというのか。

「……神話の軍隊か」

 人の物語ではないとするなら、もはやそれは神の物語の世界だ。
 ザリュースは全身をぶるっと、1回だけ大きく震わす。あまりに予想以上、決して敵にしてはいけないものを敵にしたのではと思って。

 だが、だ。
 これも分かっていたことではないか。相手は恐らくは強者だと。元よりここには全滅覚悟で集めたのだ。その計画の発案者である自らが怯えてどうなるというのか。想像を絶するほどの強敵だった。それは理解した。問題はそれだからどうするかだ。
 勝利が自分の心を緩めたのか。
 相手の話を思い出せば、ザリュースたちリザードマンは相手の第一波を撃退することで価値を示した。ならば、相手は最低でも何らかの交渉は取ってくるだろう。そのときに怯んでいれば、評価が下がる可能性は高い。
 そう判断し、自らの心に活をいれ、ザリュースはスケルトンたちを睨む。
 その中にいるだろう敵の指揮官を見透かそうと――そのとき、ぞくりとするような冷たい風。それがザリュースの全身を撫で回す。

「風が……」

 クルシュも寒いのだろう。自らの体を抱きかかえるようにしながら、空の状況を伺っている。
 確かに空には厚い雲が掛かっており、日光を遮ることで肌寒さを感じてしまうのだろう。それは当たり前の予測であり、通常であれば間違いのない答えのはずだ。しかし、ザリュースは直感する。
 それだけでは無い、と。

 再び風が吹きぬけ、身震いするような寒さがクルシュは襲われたのだろう。再びぶるりと、体を震わせている。フロスト・ペインを所持しているザリュースは、冷気防御効果の一環として、ある一定以上のダメージのこない寒さは感じることが出来ない。だからザリュースはクルシュをぐぃっと抱き寄せる。

「大丈夫か?」
「ええ。……暖かい」

 俺もさみいな。そんなことを言っているゼンベルは2人とも視界に入れず、ザリュースは自らの体温をクルシュに分け与える。傍から見れば仲の良いつがいが抱き合っているような姿で、ザリュースはクルシュに質問をする。

「クルシュ。この時期にこんな寒い風が吹くっていう話を聞いたことがあるか?」
「いえ、ないわ。でも天候操作魔法を発動させているから、こんな寒い風が起こったとしてもおかしくはないかもしれない」

 クルシュもまた、ザリュースにしか聞こえないような小さい声で自らの推測を返す。それを聞き、ザリュースは顔を歪める。

「不味いな……」
「え? 何が?」
「おいおい、なんかやべぇ雰囲気だぜ?」

 ゼンベルの言葉どおり、この異様な寒さをもたらす風によって、この場に集まったリザードマンたちが不安げな表情を浮かべていた。顔に宿っていた先ほどまでの自信に溢れていたものは殆どない。幼子のような不安がにじみ出ていた。

 ザリュースの不安が的中だ。
 この時期からするとありえないような冷たい風――つまりはありえないような自然環境の変化。それがリザードマンの士気をがた落ちにしているのだ。
 これはリザードマンが魔法というものを知らないためであり、そして自然は決して人の手で支配できるものではないという経験からだ。つまりは自然を変化させた、即ちそれを行った存在は人を超越しているという想像に繋がるのだ。
 そう。これから戦うだろう敵がどれほどの存在か。この吹き抜ける冷たい風は、その強大さを雄弁に物語っているのだ。

「上手い手だな」

 舌打ちをしつつもザリュースはこの魔法の効果を認める。一気に士気を下げた手腕は見事だとしか言えないだろう。士気の低下を狙っての行動だとするなら、ここで駄目押しをする――

「動き出しやがった」
 
 そうだ。スケルトンたちが動き出したのだ。
 ザリュースはぎりっ、と歯を噛み締める。大きく動こうとした尻尾は意志の力で押さえ込む。やはりこのタイミングで動くか、と。

 浮き足立ったように周囲の戦士階級のリザードマンたちが動揺する。これから攻めてくるのかと警告の唸り声を上げているものさえいる。その中において、ザリュースは違うと判断する。
 あれは戦闘のための動きではない。だが、動揺しているリザードマンからすればそれは攻めてきているとしか思えない。
 ザリュース、そしてゼンベルが落ち着かせようと声を上げかけた瞬間――

「――落ち着け!」

 ビリビリと空気が軋むような、裂帛の気勢が響く。その声は大きすぎるわけではない。しかし抗うことの出来ないような、自信と貫禄に溢れていた。
 その場にいた全てのリザードマンがその声に呑まれ、動きを止めて声のあった方向を見る。

 そこにいたのはシャースーリューである。

「もう一度言う。落ち着け」

 静まり返ったこの場所に、シャースーリューの声だけが響き渡る。

「そして怯えるな。戦士たちよ。祖霊を――お前達の後ろにいるだろう多くの祖霊を失望させるような行為は慎むのだ」

 冷静さを取り戻し、静まり返ったリザードマンたちの間を抜け、ザリュースの側まで歩いてくる。

「弟よ、向こうの動きはどうだ?」
「ああ、兄者。動き出したが……戦闘準備とは違うみたいだ」
「ほう」

 動き出したスケルトンたちが作ったのは、500体からなる十列横隊だ。

「なにをする気だぁ?」

 ゼンベルの呟き。それはその場にいる誰もが思ったことだ。幾らなんでも隊列を組みなおしただけではないだろう、と予感して。そしてその質問が出るのを待っていたかのように、スケルトンたちは再び動き出した。 

 その横隊が一部の狂いもない完璧な行動を取りながら、中央から左右に分かれたのだ。そうして20体分ぐらいの間が空く。その隙間――そこには1つの影があった。
 大きさ自体は大したことは無い。250メートルという距離があっても、ザリュースよりは小さいだろうと自信を持って言える。その影は漆黒のローブを纏い、手には黒い靄のようなものを上げる、杖のような何かを持っている。
 昨日戦った強敵、リッチを髣髴とさせるような格好だ。ゆえに、恐らくは魔法使いだろうと推測が立つ。

 ただ、それを目にしたザリュースの背筋に冷たいものが走る。
 昨日のリッチを遥かに凌ぐ、強者の予感を覚えて。

『……おお!』

 何をするつもりなのか。固唾を呑んで見守るリザードマンたちが、一斉に動揺の声を上げた。突如としてその魔法使いを中心に、10メートルにもなろうかという巨大なドーム状の魔法陣が展開されたのだ。
 魔法陣は蒼白い光を放つ、半透明の文字とも記号ともいえるようなものを浮かべたものだ。それがめまぐるしく姿を変え、一瞬たりとも同じ文字を浮かべていないように思える。

 日光が遮られているために、リザードマンたちの場所から非常にはっきりとそんな光景が見えた。
 もしこれがリザードマンに敵意を持ってない存在が行っていることなら、幻想的とも言える光景だ。蒼く澄んだ光が姿を変えつつ、周囲を照らす様は。
 しかしながらこの状況下で見惚れているわけにはいかない。

 あれはなんだというのか。一体何をしようとしているのか理解できずに、ザリュースは困惑する。
 魔法使いが魔法を使う際、あのような魔法陣が空中に投影されることはない。今、相手が行っていることはザリュースの知識にない行動だ。そのため、この場で最も魔法に関する知識があるだろうメスに問いかける。

「あれは、一体?」
「し、しらない。あんなもの知らないわ――」

 ザリュースの質問に、クルシュが怯えたように返す。魔法に関する知識があるからこそ、何をしているのか理解できないのが余計恐怖に繋がるのか。
 ザリュースが宥めようとした、次の瞬間。
 魔法が発動したのか、魔法陣が弾け、無数の光の粒となって天空に舞い上がる。そして一気に――爆発するかのように天空に広がった。





 リザードマンは知らない。
 そしてまた世界も知らない。

 この世界で始めて使われる魔法。
 それは500年前、そして200年前に使われたことのある最高位魔法と同等のもの。
 

 超位魔法が内1つ――世界を改変する大魔法。


 即ち、それ――





 結果、湖は――



 ――凍る。



 何が起こったか理解できたものは誰一人としていなかった。そう、その場にいたリザードマン誰もが、だ。
 族長として類まれな才覚を持つシャースーリュー、祭司の力に優れたクルシュ、そして旅人として経験をつんだザリュース。リザードマンの歴史上、恐らくは才覚という言う点では上から数番目に位置するだろう者達ですら、そのあまりの事態を直ぐには理解できなかったのだ。

 己の足が氷の下にあるなんて、理解できなかったのだ。

 遅れて――目の前で起こっていることを脳が受け止められるだけの時間が経過し、絶叫が上がる――。

 リザードマンの誰もが、そう――誰もが悲鳴を上げたのだ。
 ザリュースとてそうだ。クルシュもシャースーリューも、そして豪胆では随一だろうゼンベルも。自らの心の奥底、魂から這い上がるような恐怖に我を忘れて絶叫を上げる。

 そのあまりにも恐ろしい事実。決して凍らないとされる湖。自らが生まれてからずっと変わらずに存在した事実。
 それが歪められ、凍りついたのだ。
 氷というものは知識としてあるだけだろう。そう思ってきていたのだ、全てのリザードマンが。
 
 その恐怖は、いわば太陽が西から昇りだしたのを目にした人間が上げるのに似たものだった。

 リザードマンたちは慌てて足を引き上げる。氷自体は幸運なことにさほど厚いものではなかったため、直ぐに割れるのだが、割れた先から即座に凍り付いていこうとする。下から立ち昇る冷気、即ち突き刺すような冷たさが、これが幻ではないことを強く示唆する。
 ザリュースは慌てて泥壁に昇ると周囲を見渡す。そしてそのあまりの光景に絶句した。

 視界範囲内の湖が完全に凍り付いている――その風景を目にして。
 およそ20キロ四方よりなる巨大な湖。その視界範囲内の全てが凍り付いているのだ。

「嘘……」

 隣に昇ってきたクルシュが周囲を見渡し、ザリュースと同じようにあんぐりと口を開ける。そのぽっかりと開いた口からは、魂が抜け切ったような声が漏れ出た。
 信じたくないのはザリュースも同じだ。

 決して凍ったことがないとされる湖。それを凍らせることが出来る存在なんかいるわけがない。そうだ。目の前で起こったとしても信じることが出来ないのだ。

 一体どれほどの力を持つものがそのような行いを可能とするのか。

「早く上がれ!」

 兄であるシャースーリューの怒号が響く。その声に驚き、ザリュースとクルシュは泥壁の下を見下ろす。
 そこには幾人からのリザードマンが力なく倒れていた。さほど数はいないが、それでもちらほらと見える。まだ無事なリザードマン――戦士階級の者がほとんどだ――たちが協力し合い、倒れた者を凍りついた沼地から引き上げる。
 引き上げられるリザードマンは皆、顔色が悪く。体を小刻みに震わせている。
 ザリュースが見た感じ、体温の低下による症状によく似ている。立ち上る冷気によって生命力を奪われたのだろう。

「兄者、俺が見て回る!」

 フロスト・ペインを所持するザリュースにこの程度の冷気ならば、影響を受けるほどのものではない。

「いや……行くな!」
「何故だ、兄者!」
「これから敵が動き出すはずだ。ここから離れることは許さん! 全てを見ろ。1つとして情報を取り逃すことは許さん! 世界を見て回ったお前こそ適任なのだ!」
「しかし魔力を温存すべきでは……」
「愚か者! すべきことを間違えるな!」

 ザリュースから視線を逸らし、シャースーリューは周囲の戦士階級のリザードマンたちに話しかける。

「今からお前達に冷気に対する魔法の守り、《プロテクションエナジー・フロスト/冷気属性防御》をかける。直ぐにこの氷から離れるように、村の中を言って回れ。そして意識をなくした者がいたら応急処置を行うのだ」
「私もかけるわ」
「頼む」
「それとクルシュは俺と手分けをして、危険そうな者がいたら治癒の魔法をかけてくれ」

 クルシュとシャースーリューによって、魔法の守りが6人のリザードマンにかけ始められる。
 ザリュースは泥壁に上ったまま、敵陣地を睨む。今すべきことはシャースーリューから言われたこと。相手の一挙動も見逃さぬよう、鋭い視線を送る。

 不安がザリュースの頭を過ぎる。これほどの――湖を凍らせるほどの魔法を使う相手を、普通に見ていても問題はないのかと。目が潰れたりはしないのかと。
 だが、そんな起こるかどうかわからないことに怯えて、敵の動きを見ていませんでした。そんな言い訳が出来るものか。兄に言われたことを完璧に行わなくてはならないのだから。

「よいっしょっと」

 横に上ってきたゼンベルが、気楽そうに敵陣地を眺める。

「もうちっと気楽にしろよ。おめぇの兄貴はあれだろ、お前の知恵を期待してんだろ? 別になんか見逃したって、怒られはしないさ。それよりは注意しすぎで視野を狭めんなよ?」

 ゼンベルの気楽そうな声、それはすっとザリュースの頭が冷えたような効果をもたらす。
 その通りだ。ザリュースは1人でやっているわけではない。多くの仲間と共に戦っているのだ。出来ることを皆で行って、そしてそれを束ねればよいのだ。
 ザリュースは視線を動かす。
 ゼンベル以外の戦士階級のリザードマンたちも同じように泥壁に昇り、敵を観察している。
 そう、1人で戦っているのではない。どうやら圧倒的な力――魔法を見せ付けられ、動揺していたようだ。
 ザリュースは息を吐き出す。心に溜まった淀みを吐き出すように。

「すまない」
「いいって事よ」
「……そうだな。ゼンベルもいるのだからな」
「ふん。頭に関しては期待すんなよ?」

 微かに笑いあい、敵の動きを眺める。

「しっかし。湖を凍らせたのがまじであれなら。ありゃ、本当の化け物だな」
「ああ。桁が違うな……」

 魔法使いは王者のごとき堂々たる姿で、ザリュースたちの村を眺めている。その小さいはずの体が異様に大きく見えてくる。

「……あれが偉大なる方とか言う奴なんだろうな」
「恐らくは。湖を凍らせるほどの魔法を使うものが複数いるとは思いたくないな」
「だなー。ああ、納得だよ。こんなことを仕出かす化け物からすれば、俺達リザードマンなんか糞みてぇなもんだろうな。あー糞。あー糞! 俺達が虫を邪魔だから潰す程度の存在にしか思われてないんだろうな」
「…………」

 ザリュースに言葉はない。なぜならザリュースもそう思っているから。

「抵抗って言葉がバカみたいに思えるな」
「……向こうが降伏を許さなかったら、どうする?」

 ゼンベルが驚いたようにザリュースを見る。それからニヤリと笑った。

「突撃って言う名前の自殺をしてやるよ。まぁ、良い経験だろうよ。世界を狂わすほどの化け物を相手に出来るなんてな」
「……ブレないな」
「……そいつは……褒め言葉だよなぁ?」
「その……つもりかな?」
「つーか……動き出したぞ」
「ああ、そうだな」

 湖を凍らせた魔法使いが、杖を持たない手を挙げ、村へと手を振る。
 それに答えるように、森から隊列を組んで全身鎧を纏った騎士のような者たちが進み出た。数はさほど多くはない。全部で40体だ。

 その戦士達の身長は2.3メートルほどだろうか。
 左手には体を3/4は覆えそうな巨大な盾――タワーシールドを持ち、巨体を包むのは黒色の全身鎧。血管でも走っているかのように、真紅の文様があちらこちらを走っている。そして機能性を重視したものとは違い、棘を鎧の所々から突きたてたまさに暴力の具現だ。
 そしてその手には6メートルにもなる槍。槍騎兵が持つに相応しいであろうその槍には、布が吊るされていた。
 槍旗である。
 そんな者たちが、漆黒のマントをたなびかせながら、一糸乱れぬ動きで湿地に踏み入る。足元で氷を踏み砕きながら、黙々と進んでいく。
 
 そしてやはり完全に乱れぬ動きで、間隔を取りながら湿地を進んだその者たちは、手にした槍を数メートル隣の戦士と交差させていく。
 槍が交互に組み重なり、40の異なる紋様の描かれた布が垂れ下がる中、一本の通路が出来上がった。

「……王の通り道か」

 まさにその通りだった。
 その下の凍りついた湖を、魔法使いはゆっくりと歩いてくる。
 いつ現れたのか、後ろに複数の影を引きつれ。

 先頭に立つのは、湖を凍らせた――もはや力の桁が理解できない魔法使い。それ以上になんと思えば良いのか。リザードマンの平均よりも低い背格好だが、その体躯に想像を絶する力を内包している、その化け物を。
 纏っているのは闇を切り抜いて作ったような漆黒のローブ。まるで光を吸い込んでいくかのようだ。そして、手に持った杖は苦悶の表情を歪め消えていくオーラを撒き散らしている。
 そのフードの下――それはほぼ骸骨の顔。空虚な眼窟の中、真紅の色がほのかに揺れている。
 無数の――それもザリュースでは到底理解不能であろうと思われる――魔法の装飾品に身を包み、堂々と歩を進めてくる。

 その魔法使いの少しばかり後方、左右に並ぶのは、ダークエルフの少女と銀髪の少女だ。

 ダークエルフの少女の金の絹のような髪は、肩口で切りそろえられている。金と紫という左右違う瞳。
 耳は長く尖っており、薄黒い肌。エルフの近親種、ダークエルフ特有の皮膚の色をしている。
 上下共に皮鎧の上から漆黒と真紅の竜鱗を貼り付けたぴっちりとした軽装鎧を纏い、さらにその上に白地に金糸の入ったベスト。胸地には何らかの紋様。
 腰、右肩にそれぞれ鞭を束ね、背中には巨大な弓――ハンドル、リム、グリップ部に異様な装飾がつけられたものだ――を背負っている。

 銀髪の少女の全身を包んでいるのは、柔らかそうな漆黒のボールガウン。
 スカート部分は大きく膨らみ、かなりのボリューム感を出している。スカート丈はかなり長く、完全に足を隠してしまっている。フリルとリボンの付いたボレロカーディガンを羽織ることによって、胸元や肩はまるで露出していない。さらにはフィンガーレスグローブをつけていることによって、殆どの体を隠してしまっている。
 外に出ているのは一級の芸術ですら彼女を前にしたのなら恥じるほどの端正な顔ぐらいものだ。白い肌――健康的というのではない白蝋じみた白さ。長い銀色の髪を片方で結び、持ち上げてから流している。
 
 2人ともリザードマンの美的感覚からするとあまりよくは分からないのだが、非常に美人なのだろうと思われる。
 そして一番最後を歩くのは――

「あれは……悪魔か?」

 ザリュースの呟きに、ゼンベルは疑問の表情を浮かべる。


 悪魔。
 それは暴力による破壊をもたらすデーモン。知恵による堕落をもたらすデビル。そういった異界の存在をまとめて呼ぶ時の名称である。それは邪悪極まりない存在であり、知性を持って生きる善良な存在全てを滅ぼすためにいるとされる。いわば悪の代名詞的なモンスターだ。
 人間社会であれば非常に聞きなれた単語ではあるが、リザードマンの世界ともなれば別だ。この場合、知らないゼンベルのほうが普通なのだ。というのも自然と共に生きているリザードマンからすれば、悪魔という存在はあまりに縁遠いのだ。これは単純に文明的なものもあるだろうし、隔絶した世界であるということも言えるためだ。

 ザリュースが知っているのは、旅をしている間にドワーフから聞いたお陰でだ。
 ドワーフの話では、悪魔という存在がどれだけ恐ろしい存在かを延々と語ったものだ。200年ほど前、悪魔の王的存在、魔神が配下の悪魔を引き連れ、世界を滅ぼしかけたという伝承だ。
 最終的には、かの13英雄が天界から9体の女神を降臨させ、滅ぼしたということになってはいる。その戦いの傷跡が、今なお残る場所もある。

 アンデッドが生きるものへの憎悪を宿した存在なら、悪魔は生きるものを苦しめるための存在だ。


 その悪魔の身長は2メートルほどであり、肌は光沢のある赤。刈り揃えられた漆黒の髪は濡れたような輝きを持っていた。
 赤い瞳は理知的に輝き、こめかみの辺りから鋭い、ヤギを思わせる角が頭頂部に向けて伸びており、背中から漆黒の巨大な翼が生えていた。
 鋭くとがった爪のはえた手で一本の王錫を握り、真紅の豪華なローブにそのしなやかな身を包む姿はどこかの王を彷彿とさせる威厳に満ちていた。

 一行は黙々と歩き、40の槍旗の下を潜り抜けてくる。歩いた距離は160メートル。村まではもはや90メートル程度しかない。そして、そこで歩みを止める。

 一体どうしたのか。
 幾人かのリザードマンが不安げに互いの顔を見合わせる。そしてこの場では最も賢いだろう人物に委ねることとする。

「……どうしますか、ザリュースさん。戦闘の準備を?」
「いや。その必要は無い。あのときのリッチを思い出してくれ。リッチよりも圧倒的に強いだろう魔法使いだぞ? この程度の距離を無視して攻撃を放つことは容易の筈。恐らくは……何か言いたいことがあるんだろう」

 納得という顔をするリザードマン。
 その間も向かってきた一行から視線を逸らさずに、ザリュースは観察を続ける。
 もはやこの距離にもなれば、かなり詳細に観察できる。そう、互いの目線すら交差する距離だ。
 先頭を立つ魔法使いのものはこちらを観察するものだろうか。ダークエルフのは、この状況下であるということを考えると、意外なほど敵意を持っているような視線ではない。銀髪の女のは嘲笑を交えたもの。悪魔のものには優しさすらあるのが恐ろしい。
 互いを観察しあう時間が多少流れ、それから先頭に立つ魔法使いが再び、杖を持たない手を胸の辺りまで軽く上げる。それに反応し、幾人かのリザードマンが動揺から尻尾を激しく動かす。

「――怯えるな。相手の前で無様な姿を見せるな」

 まるで大きくは無いが、刃物で切りつけるようなザリュースの叱咤の声に、その場にいたリザードマン全員の背筋がぴんと伸びる。

 そんなザリュースたちとは関係なく、魔法使いの前に黒い靄が複数起こった。
 数にして12。
 それは渦巻きながら少しずつ大きくなっていき、150センチほどの黒い靄となる。やがて、そんな靄の中におぞましい無数の顔が浮かびあがる。

「あれは……」

 ザリュースは思い出す。メッセンジャーとして村に来たモンスターのこと。そして旅をしていたときに見たアンデッドモンスターを。
 あれは精神的な攻撃を行ってくるため、ザリュースでも苦戦を免れないような非実体のモンスターだ。さらには非実体というのは魔法を付与された武器や、特別な金属から作られた武器、魔法、特殊な武技を使用しなくてはダメージを与えることがほぼ困難な存在でもある。
 リザードマンの全部族を合わせても、魔法の武器なんかほんの少ししかない。そのため、1体でも倒すのは非常に困難だろう。
 
 そんなモンスターを12体。しかも容易く生み出す――。

「有り得ない……」

 認めたくは無いが事実は事実だ。ザリュースは周囲のリザードマンを伺う。魔法使いが今、行ったことがどれだけ凄まじいことか理解してないのか、驚きはあるものの恐怖の色は見えない。多少の安堵と共に、ザリュースは魔法使いを見つめる。

「化け物が……」

 なるほど納得だ。確かに、あれだけの力を持つリッチが、忠誠を尽くすだけの桁外れの存在だ。
 ザリュースは絶望と共にそう思う。

 魔法使いは何事かを呟くと、行けといわんばかりに手を振る。そしてそのアンデッドたちは村を囲むように飛来する。
 
 そして唱和が響いた。

『偉大なる方の言葉を伝える』
『交渉を偉大なる方は望まれている。代表となる者は即座に歩み出よ』
『無駄な時間の経過は、偉大なる方を不快にさせるだけと知れ』

 それだけを言うと非実体のアンデッドは生み出した主人の下へと戻っていく。そして魔法使いの合図を受け、後方に控える銀髪の少女が、勢い良く手を合わせる。
 そして――そのアンデッドは瞬時に消滅した。

「はぁ!?」

 ザリュースは驚き慌て、思わず声を上げてしまう。今、目の前で起こったことが信じられなくて。
 今のは召喚したモンスターを帰還させたのではなく。消滅させたのだ。
 アンデッドの消滅。それは神官ならば行なえる行為だ。通常は退散させるのが精一杯だが、互いの実力に圧倒的な差がある場合は、退散ではなく消滅させることが可能となる。ただ、多くのアンデッドを消滅させようとなると、飛躍的に困難になっていき、それだけの力を必要とする。

 つまり銀髪の少女はそれだけの力を持つということ。
 さらにたったあれだけの言葉を伝えるためだけに、あれほどの強さを持つアンデッドを使ったということだ。

「くっくっく――」

 ザリュースは思わず笑いをこぼしてしまった。周囲のリザードマン――ゼンベルもあわせ――がザリュースを奇怪なものを見るような眼で眺める。そんな視線を無視して、ザリュースは微かな笑い声を上げる。

「い、いったいどうしたんだ、ザリュース?」
「いやな――くく」

 ザリュースの笑いは止まらない。
 当たり前だ。笑う以外にどうしろというのか。これだけの力の差を見せ付けられて――。

「弟よ!」
「――おお、兄者!」

 泥壁の下から声に反応し、見るとそこにはシャースーリューとクルシュの姿があった。2人は泥壁を登り、魔法使い一行を眺める。クルシュはゼンベルとザリュースの間に、無理矢理体を割り込ませる。その所為でゼンベルが落ちそうになるが、まぁ、許容範囲だろう。

「あれが敵の親玉か。見ているだけで背筋に何かが突き刺されるような存在感だな。お前達が倒したリッチのような外見だが……強さは比較にならんのだろうが……」
「だよなぁ。体はちっさいけど、どいつもこいつも化け物だぜ、ありゃ」
「ゼンベルの言うとおりだ、兄者。あの後ろに控える者たちも桁が違うぞ」
「――え!? もしかしてあれは悪魔? 悪魔を使役しているというの? あの魔法使い?」
「そうみたいだな、クルシュ。悪魔に支配されるような存在ではないだろうからな」
「信じられない。他にいるのはダークエルフともう1人は何かしら? 人間みたいだけど……」
「単なる人間ではなかろう。それに後ろで旗を持っている騎士たちも恐らくはかなりの強敵だろうな」
「おれたちで掛かったらどれだけ倒せるかねぇ?」

 ゼンベルの質問に答えるものはいない。色々と予測できるが、それを口に出すと周囲で耳をそばだてているリザードマンの士気を極端に下げると思ってだ。

「……そういえば兄者のほうは終わったのか?」
「うむ、大体は終わった。それにあの使者の言葉を聞いてはな」
「なるほど、確かにそうだな」

 優先度は使者が伝えた内容の方がはるかに高い。

「……そうだな。先にそちらを済ませねばなるまい。かの使者の言っていたことだが……ザリュース、来てくれるか?」
「…………」

 無言でザリュースはシャースーリューをしばらく見つめる。それから深く頷いた。一瞬だけ、シャースーリューは辛そうな顔をし、誰にも気づかれないほどすぐに元の表情へと戻す。

「すまんな」
「気にするな、兄者」

 シャースーリューはそれだけ言うと、泥壁から飛び降りる。湿地に張った薄い氷が割れ、水音が響く。

「では、少し行ってくる」
「気をつけてね」

 ザリュースはクルシュを強く抱きしめると、シャースーリューに続いて湿地に飛び降りる。

 湖面に張った氷を踏み砕きながらザリュースとシャースーリューは歩く。門から出てきた2人に対し、魔法使いの一行の視線が、物理的な重圧を伴うかのようにザリュースは感じられた。そして後方からは不安げな視線。その中で最も強い視線はクルシュのものか。尻尾を引かれるような強い思いを、必死にザリュースは耐える。
 そんな中、ポツリとシャースーリューが言う。

「……すまんな」
「……何がだ、兄者」
「……交渉が決裂したとき、場合によっては見せしめで殺されるからだ。分かっていただろう?」
「ああ……」

 ザリュースの答えは短い。だからこそクルシュを強く抱きしめたのだから。

「妻が出来て――」
「言うな、兄者。相手が複数を連れてきているのだ。兄者1人でいかせるわけには行くまい。向こうもたった1人では侮られたと思うだろうよ」

 そしてザリュースは確かにリザードマンでも名の知られた存在であり、交渉の場に連れて来るに相応しい者だが、地位的には旅人。殺されたとしてもリザードマンの団結的には惜しくは無いだろう。
 英雄が死んだとしても、他の王が生きていれば戦争は行えるということだ。

 そのまま2人は無言で歩く。

 やがて距離が迫り、相手の姿がはっきりと見えてくる。それで分かるのだが、その魔法使いの一行は、皆、さほど厚くない氷の上に、平然と立っている。体重が軽いとかそういう問題ではなく、何らかの魔法か何かを使用しているのだろう。
 
 互いの距離が殆ど無くなり、交渉をするには充分な距離となる。
 そんな中、ザリュースもシャースーリューも、心臓が激しい鼓動を打っていた。まるで心臓だけが飛び出してしまうような勢いで。
 それの元は緊張感だ。
 この圧倒的強者を前に、どのような交渉が最も正しいのか。それが不明なため、非常に強い重圧がのしかかっているのだ。
 
 本来であればへりくだるのが賢いのかもしれない。しかし、それで興味をなくされ、皆殺しという決定を下すかもしれない。だが、もし不遜だと判断されたらどうなるか。
 何が正解なのか、まったく分からないのだ。
 いうなら真っ暗闇の中、凄まじく切れ味の良い武器の上を、素足で渡っているようなものだ。

「来たぞ。リザードマンの代表、シャースーリュー・シャシャだ。そしてこっちがリザードマン最強の者」
「ザリュース・シャシャだ」

 その言葉に返答は無い。魔法使いの一行は上から下まで観察をするような視線をくれるだけで、何か行動を起こそうという気配はまるで見えなかった。
 交渉を要求したにも係わらず、異様な態度だ。一体、どうしたというのか。ザリュースとシャースーリューは目線だけで互いの顔を伺う。何か失敗したかと。
 そんな2人に答えを述べたのは、悪魔だった。
 
「我らが主は君達が聞く姿勢が出来てないと思われているのだよ」
「……何?」
「『平伏したまえ』」

 突如、ザリュースもシャースーリューも跪いて、頭を湿地の泥の中に突っ込んでしまう。そうするのが当たり前としか思えなかったのだ。
 非常に冷たい泥水が2人の体を付着し、身震いを起こす。割れた氷が再び凍り付いていく。
 起き上がろうとすることはまるで出来ない。全身にどれだけの力を入れてもピクリとも動かないのだ。まるで眼には見えない巨大な手が上から押さえ込むように、2人の体の自由を完全に奪っている。

「『抵抗するな』」

 再び放たれた言葉を耳にした瞬間、ザリュースもシャースーリューも自分の意志とは関係なく、力が抜けていく。
 2人が無様に泥の中に平伏する。そんな光景に満足をしたのか、悪魔が少しばかり離れ、自らの主人に話しかけるのが、見ることが出来ないザリュースの耳に聞こえた。

「アインズ様、聞く姿勢が整ったようです」
「ご苦労。――頭を上げろ」
「『頭を上げることを許可する』」

 唯一自由に動くようになった頭を動かし、ザリュースとシャースーリューは前に立つ魔法使いを下から見上げる。

「遅れたが名乗らせてもらおう。私はナザリック大地下墳墓が主人、アインズ・ウール・ゴウン。先は私の実験を手伝ってくれたことに感謝の意を示す」

 まるで感謝の意の篭って無い言葉を受け、ザリュースは一瞬だけ心から激しい怒りが湧き上がるのを感じられた。あれだけのリザードマンの命を奪いながら、実験だと言い切るそのおぞましさに、激情が炎となって心の中で燃え盛ったのだ。
 しかし、すぐにその感情は押さえ込み、完全に隠しきる。
 当たり前だ。目の前にしたのは、想像を絶する力を保持した存在。湖を1つ凍らせるような強大な力の化け物を、もし不機嫌にでもすれば、その瞬間何が起こるか想像すらできない。
 死ねるのならば幸せ、という地獄が待っていてもおかしくは無い。

 だからといって、おべんちゃらをいう気はこれっぽっちも無いが。

「後ろに控えるものは私の部下だが、特別今回の話に関わることは無いと思うので紹介は省こう。さて、それで本題だが……私の支配下に入れ」

 何かを言おうとしたシャースーリューを、魔法使い――アインズは軽く手を挙げ、止める。
 無視して話しても良いことが無いと理解しているシャースーリューは、大人しく黙ることとする。

「――しかしながら君達といえども、自分達が勝利を収めた相手の支配下なんかに入りたくはなかろう? ゆえに4時間後再び攻めるとしよう。もし君達が今度も勝利を収められたなら、私は完全に君達から手を引くことを約束しよう。それどころか君達に相応の謝罪金を支払うことすら約束しようじゃないか」
「……質問しても良いだろうか?」
「構わないとも」
「攻めてくるのは……ゴウン殿なのか?」

 後ろに控える銀髪の少女が僅かに眉を動かし、悪魔が微笑みを強める。恐らくは殿という言葉が気に入らなかったのだろう。しかし、特別な行動に出ないのは自らの主人が何も言わないからだろう。
 そんな2人を気にすることなく、アインズは言葉を続ける。

「まさか、そのようなことはしないとも。私の信頼の出来る側近……それもたった1人だ。名をコキュートスと言う」

 その言葉を聞き、世界が崩れんばかりの絶望感が、ザリュースを襲った。
 もし数で攻めてくるなら、リザードマンにも勝利の可能性はあっただろう。つまりは先の実験という、不快な進軍の流れを踏む行いである可能性があるからだ。それであれば万に1つの勝ち目はあるだろう。
 
 しかしそうではないのだ。

 攻め手はたった1人だという。
 一度敗北した者がたった1人で攻めさせる。罰という考えを除けば、その言葉の後ろにあるのは、絶対の信頼をその存在に与えているということに他ならない。
 桁外れの力を保有する存在が、信頼する側近。
 その側近もまた桁外れな力を持つのだろう。……リザードマンでは勝算が無いほどの。

「降伏を……」
「おいおい。まさか戦わないで降伏するとかつまらないことを言わないで欲しいのだがね? 勝ち逃げはつまらんぞ? ちょっとぐらいは戦おうじゃないか。こちらだって適度な勝利は得たいからな」

 シャースーリューの言葉を奪う形で、アインズは言葉の先を潰す。

 つまるところ見せしめか。この下種が。
 ザリュースは言葉には出さずに吐き捨てる。ただ、その反面正しい行いでもあると理解は出来る。

 アインズは実験で出した兵が壊滅したことにはこれっぽっちも腹は立てていないのだろう。しかし、敗北したという事実を残したまま、支配しようとしても上手く行かない可能性がある。特にリザードマンは強さを尊む。
 だから圧倒的な強さを見せ付ける気なのだろう。

 つまりは今から行われることは――生贄の儀式だ。
 リザードマンの多くを殺すことによって、反抗心を根こそぎ奪い取るための。

「話したいことは終わりだ。では4時間後にたっぷり楽しんでくれ」
「待って欲しい――この氷は溶けるのか?」

 勝とうが負けようが、この氷が張ったままではリザードマンが生きていくには辛い環境だ。氷自体はそれほど厚くは無いが、立ち込める冷気が少々厳しい。触れているものは冷気によるダメージによって死に誘われるのだから。

「……ああ。そうだったな」

 忘れていた。そんな軽い調子で答える。いや、事実、アインズからすれば軽いことなのだろうとザリュースは理解する。当たり前だ。これほど強大な存在からすれば、この程度の冷気はなんでもないのだろう。

「湿地を歩いて泥で汚れるのが嫌だったから凍らせただけだ。岸辺に着いたら魔法の効果は解除するとしよう」
「な!」

 ザリュースもシャースーリューも驚愕に息を呑む。

 今、この化け物はなんと言った――。
 泥で汚れるのが嫌だから凍らせた?

 もはやありえないとか、そんなレベルではない。
 力の桁が違いすぎる。自然の力すらも容易くねじ伏せる存在。それも汚れたくないからという下らない理由で。
 そんなものを前にしていたのか、とザリュースもシャースーリューも独りぼっちになった幼子が持つだろう恐怖に襲われる。

「では、さようなら。リザードマン」

 話すべきことを全て話し終えたと判断したアインズは、軽く手を振ると踵を返して歩き出す。もはや興味は無い。そういわんばかりの態度だ。

「じゃあねー。リザードマンさん」
「さらばでありんす、リザードマン」

 何も言わずに後ろに控えていた2人の少女が、そう声をかけるとアインズを追って歩き出す。

「『自由にして良い』 さて、たっぷり楽しんでくれたまえ、リザードマン」

 最後に残った悪魔が優しく声を響かせ、後ろを見せて歩き出す。
 ぽつんと残されたザリュースもシャースーリューも、泥の中に伏したまま、もはや立ち上がる気力が無かった。伝わってくる極寒の冷気すらもはや苦ではない。肉体以上に心に受けた衝撃は強すぎた。
 ただ、黙って遠ざかっていく化け物たちの集団の後ろ姿を見送る。

「ちくしょうが……」

 シャースーリューには似合わないような呟き。そこには無数の感情が混じりあっていた。



 戻ってきた2人を出迎えたのは、冷気から身を避けるために、泥壁の上に昇った各部族の族長達だ。ゼンベル、クルシュ、それに小さき牙<スモール・ファング>の族長に鋭き尻尾<レイザー・テール>の族長である。
 周囲にはそれ以外のリザードマンはいない。
 内密に話したいことがあるとだろうと予測しての行動だろう。ならば隠すことも無い、と考えたシャースーリューは、先の交渉ともいえないような交渉であったことを包み隠さず、単刀直入に言う。
 シャースーリューの重い言葉に、大きな反応を返すものはいない。皆、僅かに息を呑む程度だ。およそどのような交渉になるか予測はしていたのだろう。

「了解だぜ。……んで、氷はどうなるんだ? 溶けねぇ事には戦いにもならねぇぞ?」
「問題ない。魔法は解除するそうだ」
「ふむ。交渉の結果かい?」

 スモール・ファングの族長の質問に対し、シャースーリューは答えることなく、薄く笑う。それを見て、答えを理解したスモール・ファングの族長は、遣る瀬無さそうに頭を横に振った。

「君達が行っている間にちょっと調べたんだがね。……湖の中に敵の影があった。スケルトンの兵士のようだよ。恐らくは包囲する形で待機しているんだと思われるね」
「にがーす、き……かんがえない」
「かなり本腰を入れているってことは……」
「そういうことでしょうね」

 交渉に出なかった4人がため息をつく。恐らくはザリュースたちが思い至った、これから行われることが生贄の儀式であるという結論に行き着いたのだろう。

「で、どうすんだい?」
「……戦士階級のリザードマンは全て動員する。それに……この場にいる……」
「兄者……5人で許してもらえないか?」

 不思議そうな顔をしたクルシュを視界の端に捕らえながら、ザリュースはシャースーリューのみならず、オスのリザードマン全員に懇願するように続ける。

「向こうの狙いが自らの圧倒的な力を見せつけるためなら、リザードマンを皆殺しにはしないはず。ならば生き残った者を纏め上げる、中心人物は必要だ。この場にいる全員が死ぬのは、リザードマンの将来を考えるなら勿体無いことだ」
「……正論ですね、シャースーリュー」
「うん。ざりゅーす、ただしい」

 2人の族長は、ザリュースとクルシュを交互に見、それから同意の声を上げる。

「――いいんじゃねぇか? 俺も賛成だな」

 最後に残ったゼンベルの賛同を得られたことで、シャースーリューに弟の望みを否定する理由は無い。

「では。そうしよう。誰かは生き残って纏め上げた部族を率いていかねばならない。それは俺も考えていたことだ。――クルシュなら適役だろう。アルビノということがマイナスかもしれないが、その祭司の力は必要不可欠だろうしな」
「ちょっと待って。私も共に戦うわ!」

 話の内容が掴めたクルシュは叫ぶ。何故、今更、置いていくのかと。
 元々この地に来た段階で、あの存在と戦うと決めた段階で、命を失うことは既に覚悟済みだ。それなのに何故。
 そんな思いが彼女に叫び声を上げさせる。

「それに残るならシャースーリューの方が良いじゃない! 一番この中で信頼されている族長なんだから!」
「だから、いけないのですよ。向こうの狙いは圧倒的な力を見せ付けること。絶望させることで支配を容易とする狙いでしょう。ですが、もし生き残ったリザードマンの中に希望をもたらす様な者がいたら?」
「そして……この場にいる者の中で、もっと期待されてないのがクルシュだからだ」

 クルシュは言葉に詰まる。アルビノである彼女の評価が一番低いのは、覆せない事実だ。
 言葉による説得は不可能。そう思ったクルシュはザリュースを見つめる。

「私も共に行くわ。あなたは私をこの地に呼んだ時、覚悟を決めさせたじゃない。何故、今更になって言うの?」
「……あのときは場合によっては皆死んだ。しかし、今はたった1人ぐらいなら、充分に生き残れる可能性があるからだ」
「ふざけないで!」

 クルシュの怒りに呼応するように、ビリビリと空気が震えるようだった。幾度と泥壁を叩く音がする。クルシュの激しい感情によって、尻尾がのたうち暴れているのだ。

「――ザリュース。お前が説得しろ。4時間後にまた会おう」

 それだけ言うとシャースーリューは歩き出す。遅れて氷の割れる音とばしゃりという水音が響いた。泥壁から3人の族長が飛び降り、シャースーリューの後ろを付き従って歩き出したのだ。背中を見せたままゼンベルが、軽く手を挙げ挨拶とする。
 そんな後姿を見送り、ザリュースはクルシュに向き直る。

「クルシュ、理解してくれ」
「理解できるわけ無いじゃない! それに負けるとは決まってないかもしれないじゃない! 私の祭司の力があれば勝てるかもしれないわ!」

 その言葉がどれほど空虚に響いたか。言っているクルシュだって信じてないような台詞だ。

「メスを――自分の惚れたメスを殺したくない。そんな愚かなオスの願いを叶えてくれ」

 クルシュが悲痛な表情を浮かべ、泥壁から飛び降り、ザリュースに抱きつく。

「ずるいわよ!」
「すまん……」
「あなたは多分死ぬのよ?」
「ああ……」

 そうだ。生き残れる可能性は低い。いや、可能性は無いと断言できるだろう。

「私にそれを見送れと? たった一週間でここまで私の心を縛り付けておきながら?」
「ああ……」
「出会ったのは幸せだわ。でも不幸でもあるわ」

 ザリュースの体に回す、クルシュの手に込められた力がより強くなる。まるで少しも離したくないというかのように。
 ザリュースに言葉は無い。
 何を言えば良いのか。何を言ったら良いのか。そんな思いに囚われて。

 しばらくの時間が過ぎ去り、クルシュが顔を上げる。それは決意に満ちたものだ。
 クルシュが無理にでもついてくる気ではと、ザリュースの心に不安が吹き上がる。そしてそんなザリュースにクルシュははっきりと宣言する。

「――孕むわ」
「――は?」
「行くわよ!」

 クルシュに引っ張られるように、ザリュースは歩き出した。



 ■



 アインズたちの本陣となるべき場所は、コキュートスが昨日いた――アウラが木で作り上げた住居だ。
 要塞を建造する目的で其処は作られてはいるのだが、現在は時間的な意味で足りていないため、そこまでは進んでいない。コキュートスがいた大きな部屋を中心に、いくつかの部屋が建築されている程度だ。それも外から見れば、なんとか住居の形を取りました程度の酷いものである。
 現在も耳を澄まさなくても、建築中の音が聞こえてくる。

 アインズは部屋に入り見渡すと、後ろで顔を伏せるアウラに視線を動かす。
 一応、アインズを迎えるということで、部屋の内装は何とか整っている。所々に涙ぐましい努力の後を感じさせる。そしてやはりナザリックの第9階層等と比べてしまうと非常に見劣りしてしまう。
 アウラはそれを恥じているのだろう。
 まぁ、元々一般人であるアインズからすると、さほど気になることではないのだが。

「ここに留まると無理に言って悪かったな、アウラ。気にすることは何も無い。お前の働きは高く評価しているし、お前が私のために作っているものなのだから、この場はナザリックにも匹敵しよう」
「……はい」

 すこしばかり大きく目を開いたアウラ。これで慰めはなっただろうか、とアインズは考え。これ以上上手い言葉が浮かばないために、誤魔化すように周囲を再び見渡す。

 木の匂いがまだまだ残る部屋である。
 本来であれば防衛力がほぼ皆無なこの場所よりは、ナザリックまで帰還するほうが安全面では当然優れている。ここは防御魔法等が一切掛かっていない、ある意味紙のような場所なのだから。しかし、何故ここに残っているかというと、アインズは自らを囮にして、大魚を釣ろうという目的を持っていたためだ。
 湖からここまではかなり離れているために、追ってこられるのは――いるとしたらユグドラシルプレイヤーのみだろう。つまりこの場所への襲撃はプレイヤーの発見に繋がるという寸法だ。
 無論、危険ではある。しかしながらアインズの中に、虎穴に入らずんばという気持ちがあったため、こういう手に出たということだ。

 アインズの視線は部屋の奥に1つだけ置かれた白い椅子に止まる。非常に綺麗な白いものでつくられたそれは、芸術品としても優れていそうな作りだ。背もたれの部分が高く、どっしりとした作りである。あまりの見事な出来栄えに、この部屋では少しばかり浮いてさえいる。

「……あれは?」

 室内に置かれたイスはアレだけだ。とすると聞くまでも無く――

「簡素ですが、玉座を用意させていただきました」

 後方に付き従う部下――デミウルゴスの自信満々な声が答える。だろうな、と思ったアインズは更に質問を投げかける。

「……何の骨だ?」
「様々な動物のものです。グリフォンやワイバーン等です」
「……そうか」

 そう。
 その玉座は無数の骨で出来ているのだ。ナザリックの調度品としては存在しないものだから、これはデミウルゴスが出向いた先で作ったモノだろう。しかも、その玉座はどう見ても人間種族の骨にしか思えない頭蓋骨等が無数に使われていた。
 あれに座るのか、とアインズは僅かに逡巡する。しかし、部下が用意したものに座らないというのもあれだろう。何か正当な断り文句でもあれば別なのだが――。
 色々と考えたアインズはぽんと手を打った。

「……シャルティア。そういえばお前には冒険者を殺したという罰を与えるという約束だったな。今この場で与える。屈辱を、な」
「はっ」

 突然自分に話を振られたシャルティアは、少しばかり驚きながらも答える。

「そこに膝を折って頭垂れるんだ」
「はい」

 不思議そうな顔をしたシャルティアは、アインズの指差した場所――部屋の中央まで進むと言われたとおりの格好をする。

「ふむ」

 アインズはシャルティアのすぐ傍まで近寄ると、そのほっそりとした背中に腰を下ろす。

「――あ、あいんずさま!」

 発音としては『はいんずさま』としか聞こえないようなシャルティアの素っ頓狂な驚きの声が上がる。かなり動揺しながらも、ピクリとも動かないのはアインズを自らの背中に乗せているためだ。

「この場で椅子となれ。理解したな」
「はい!」

 やけに嬉しそうな声を上げるシャルティアから、デミウルゴスに視線を動かす。

「――すまんな、デミウルゴス。そんなわけだ」
「いえ。確かにアインズ様に相応しい最も高価な椅子です。流石はアインズ様。考えてもおりませんでした」
「そ、そうか……」

 きらきらと輝きそうなデミウルゴスの尊敬の視線を受け、アインズは何でこんな良い笑顔なんだと不安から目を背ける。
 むずむずとシャルティアの体が動く。アインズのお尻を、座りやすい位置に微調節しているような動かし方だ。奇妙なむず痒しさに、アインズはシャルティアの後頭部を見下ろす。

 ――荒い息だ。

 少々重かっただろうか。アインズの腰の下にあるシャルティアの背中は14歳の少女に似合う、ほっそりとしたものだ。自分が非常に恥ずかしい命令を下したことを認識し、アインズは少々調子に乗りすぎたかと考える。

 ――そうだ。シャルティアはかつての仲間が作ったNPC。ペロロンチーノもそんな風に使われると思ってはいなかっただろう。言うなら、かつての仲間を汚す行為ではないか。

「シャルティア、苦しいか?」

 ならば、止めるとしよう。そう続けようとしたアインズを、シャルティアがぐるっと頭を回し見据える。その顔は真っ赤に紅潮し、瞳は情欲に濡れたものだった。

「全然苦しくありません! それどころかご褒美です!」

 はぁはぁと体の中に溜まった異様な熱気を吐き出し、とろんとした瞳の中にアインズの顔が映っていた。てらてらと輝く真っ赤な舌が唇を嘗め回し、妖艶な照り返しを残した。僅かに体をくねらせる様は蛇のようでもある。
 どう見ても、完全に欲望の炎が燃え上がっている。

「……うわぁ」
「――あっ」

 おもむろにアインズは立ち上がる。今まであった心地良い重みがなくなったことに、シャルティアは驚きの表情を浮かべた。
 そしてズカズカと歩き出すアインズを、後ろから非常に残念そうな声が引っ張る。それを振り払いながらアインズが歩いた先にいるのはアウラだ。

「アウラ。あの椅子に座っていいぞ」
「え? 良いんですか? やった」

 ニヤリと残酷そうな、それでいて無邪気な笑いを浮かべ、アウラは走る。そして驚愕するシャルティアの背中に、勢いを込めて座る。

「ぐっ!」

 アウラの体が小さいとはいえ、装備品と体重に速度を合わせれば、かなりの負担となる。シャルティアが小さいながらも呻き声を上げてしまう程度に。
 もういいや。そんな空気を漂わせながら、アインズは白い玉座の元に向かった。

「……デミウルゴス。お前の椅子に座らせてもらおう」
「――畏まりました」

 嬉しそうに笑うデミウルゴス。それと対照的に絶望に染まった表情をするシャルティア。

「……シャルティア、罰だと言ったはずだ。喜んでもらっては困るんだ」
「申し訳ありませんでした! ですので、もう一度チャンスを!」

 アウラを乗せたまま、異常なほど必死に請願するシャルティア。そんな部下をアインズは心底困ったように見つめる。そして口の中で呟く。
 おい、ペロロンチーノ、どんだけ変態設定つけたんだ、と。

「諦めろ、シャルティア。……さて、まじめに本題を始めよう。どうだったかな? いい感じに彼らは驚いていたかな?」
「完璧だと思います、アインズ様」
「まったくでありんすぇ。 あのリザードマンたちの顔」

 アウラを乗せたままの――絶望が色濃く残る――シャルティアの言葉に、アインズは内心苦笑いを浮かべる。というのもリザードマンの表情の変化は殆ど読み取れなかったのだ。爬虫類よりは人間に似ていたが、人間とは表情の変化がまるで違ったからだ。勿論、相手が交渉に優れた人物だったからという可能性も当然あるのだが。

「そうか。ならば、示威行為の第一段階としては成功というところかな」

 アインズはほっと息を吐く。
 流石に通常であれば1日に3度しか使えない超位魔法。その中の、アインズが習熟している30種類の内の1つたる、《ザ・クリエイション/天地改変》をわざわざ発動させたのだ。全然驚いてなかったら目も当てられないところだった。

「さて、デミウルゴス。湖の氷結範囲の詳細なデータの集計はいつ頃になりそうだ?」
「現在行っておりますが、想定以上の広範囲に渡っているため、少々難航しているようです。よろしければ今しばらくお時間をいただければと思います」
「そうだな……。早急すぎたな、許せ」
「滅相もない」

 膝を突こうとするデミウルゴスを手で押し止め、アインズは骨の手を口にあて考える。予想以上に広い範囲で発動されたようだが、まぁ、魔法実験としては成功とするか、と。

 《ザ・クリエイション/天地改変》はフィールドエフェクトの変更を可能とする超位魔法だ。ユグドラシルであれば火山地帯の熱気を防いだり、氷結地帯の冷気を押さえたりという目的で使われるものだ。勿論、今回のアインズのようにダメージを与える用途でも使える、が。
 別に超位魔法を用いなくても示威行為は出来た。
 それにも関わらずに、今回発動させたのはどの程度の規模――範囲で効果を発揮するのかという実験もかねての行使だったのだ。《ザ・クリエイション/天地改変》はユグドラシルでは、かなり大規模の範囲を覆う魔法である。アインズがナザリックで行った実験では8階層全てを覆うことも出来た。ただ、外の世界ではどのように結果をもたらすのか不明だったのだ。
 ユグドラシルであれば1つのエリアだが、この世界ではそのエリアがどれだけの領域を占めるのかを知りたかったのだ。下手に平野にかけて、1つの平野を完全に覆ったとかなるとオーバーすぎるからだ。
 しかし湖1つともなると効果範囲が広すぎる。やはり超位魔法の行使には充分な注意が必要か。アインズはそう決定し、心に刻み込む。

「では、アウラ。警戒網はどうなっている?」
「はい! 4キロ範囲で警戒を行っていますが、現在のところ特別なものが引っかかったという報告は受けていません」
「そうか……完全不可知化を行って接近してくる可能性があるが、その辺はどうなっている?」
「問題ありません。それを見破れるものをシャルティアの協力を得て、使用しております」
「見事だ」

 アインズに褒められ、シャルティアに座ったまま、にっこりと笑うアウラ。先ほどの暗かった雰囲気はもはや無かった。

 そんなアウラから視線を動かし、中空に固定するとアインズは軽く安堵のため息をつく。
 これだけ警戒しておけば、突然超位魔法を打ち込まれるという、奇襲は受けないだろう。
 無論、遠距離からの超位魔法を打ち込まれても、一撃は耐え切れるものしかこの場には連れて来てはいないのだが。

 そこまで考えたアインズは死ぬのが一人いたと思って、そちらを見る。その視線の動いた先にいるのは、吸血鬼となったブレインだ。最後に部屋に入ってきて、所在なさげに目立たないよう端っこの方に立っている。
 そんなブレインの事を、守護者の誰も気にしていない。ブレインという存在を、視野に入れている気配もまるで無い――アウラは微妙だが。
 つまりは彼の存在価値は守護者からすればその程度だということだ。無礼な行動さえ取らなければ、どうでも良いと考える程度の。
 
 そんなブレインを逃がした方が良いだろうか。そう考えたアインズは、面倒になって考えることを止める。

「……まぁ、いいか」

 得るべき情報は大半聞き出したはずだ。そのため現在のブレインの価値としては、いてもらう方が役に立つと考えられるが、どうしてもというほどではない。今回連れてきたのも、この世界の住人特有の知識に期待した程度。死んだら死んだで、諦めがつく。
 それに何よりアインズに忠誠を尽くしてない存在だ。アインズが心配する必要性を感じないのもまた事実だった。

 そこまで考え、アインズはブレインを眺める視線に、不思議そうなものを混ぜ込む。

 大人しい、のだ。
 忠誠を向ける先であるシャルティアが椅子扱いされているのに、特別なんら行動をしようとはしない。
 何を考えているのか。
 アインズは少しだけそう思い、直ぐに頭から忘れ去る。どうでも良い事だと判断して。

「それで行動方針としては、リザードマンの掃討でよろしいのですか?」
「いや、そこまでする必要は無かろう」

 デミウルゴスの問いかけに、アインズは手を左右に振る。
 別にアインズは人を苦しめるのが好きだとか、殺すのが好きということは無い。結果として命が失われることは仕方が無い、必要な犠牲だと割り切っているだけだ。
 そんなアインズからすると、別にリザードマンを皆殺しにしなくてはならない理由も考え付かない以上、そこまでする必要性を感じない。

「しかし……まぁ、支配しやすいよう、強者は殺しておいた方がいいな」
「じゃぁ、アインズ様。あの時リッチとかブラッドミート・ハルクと戦っていた奴らを殺すというところですか?」
「……そうだな。あれらが強者っぽかったしな」

 アインズは鏡に映っていた光景を思い出す。

「そういえば、あの中に白いのがいただろ? 白蛇は縁起が良いというし、白いリザードマンはレアっぽかった。あれぐらいは生かして捕まえよう」
「畏まりました。コキュートスにはその旨を」
「頼む。それと死体は回収できると良いな。死体を使用して作ったモノと使わなかったモノ。同じデス・ナイトでも死体を使って作った方が強いような気がする。それにリザードマンの死体だともっと別の変化が出るかもしれないからな」
「畏まりました。死体を回収する者たちを用意しておきましょう」
「ではその役目、わたしのアンデッドたちに」

 アウラの椅子であるシャルティアが立候補する。

「ふむ。ではその件はシャルティアに頼もう。ただ、回収は一応、最後だぞ。死体を奪われるぐらいなら……とかの厄介ごとはごめんだ」
「はっ。では準備だけしておきんす」
「よし。とりあえずは以上だな。――さて、攻め込ませる前に一応様子を見ておくか」

 アインズはブレインに壁に掛かっている鏡を持ってくるように命令する。
 やけに素直に命令を聞くブレインを不思議に思いながら、シャルティアの命令かと自分で納得し、アインズは鏡に注意を向けた。

 遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>に、ゆっくりとリザードマンの村の俯瞰図が浮かび上がる。その中に粒のようなものが、うろちょろと動き回っているのが分かった。
 アインズは鏡に手を向け、それを動かすことで映る光景を変化させていく。
 まずは当然、拡大だ。
 それによってリザードマンたちが、必死に戦争準備をしている姿が赤裸々に映し出された。

「無駄な努力を」

 アウラを背中に乗せたまま眺めるシャルティアが、そんな光景に嘲笑を込めた声で呟く。デミウルゴスは優しげな眼差しでそんなリザードマンたちを眺めていた。

「さてさて、どこにいるやら。リザードマンの違いって微妙なんだよなぁ」

 アインズはあのときの6人を探そうとし、顔を顰める。
 外見が大きく違うならすぐに分かるのだが、微妙な差だとまるで同じリザードマンのように見えてしまうのだ。特にほんの少ししか見ていない場合は特にそうだ。

「おっと――これは鎧発見。これが投げていた奴か? で、グレートソード持ちはここと。やはり違いが微妙だな。片腕……発見」

 そこまで観察していたアインズは、困惑したようにせわしなく鏡に映る光景を動かす。

「……白いのと、魔法のシミターを持っていた奴がいないぞ?」
「魔法のシミター……ザリュースとか言っていましたっけ?」
「ああ、そうだ。そんな名前だったな」

 アウラの発言に、交渉の場に来たリザードマンを思い出す。

「家の中にいるんじゃないですか?」
「かもしれんな」

 流石に家の中までは、遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>で見通す事はできない。通常であればだ。

「デミウルゴス。無限の背負い袋<インフィニティ・ハヴァサック>を」
「畏まりました」

 一礼したデミウルゴスが、部屋の隅に移動されたテーブルの上に乗っている背負い袋を手にすると、アインズにそれを丁寧に手渡す。アインズはその背負い袋の中から一枚のスクロールを取り出した。
 そしてそのスクロールから魔法を発動させる。
 不可視かつ非実体の感覚器官の作成だ。魔法的な障壁があると侵入する事はできないのだが、通常の壁であればどれだけの厚さでも通り抜ける事ができる。もし、仮に侵入できなければ、そこには何らかの強者がいるという証明にもなる。
 遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>と連結させることで、目に入る光景を守護者にも伝わるようにすると、アインズは空中に浮かぶ目玉にも似た感覚器官を動かす。

「まずは、この家に入ってみるか」

 適当に最も近くにあるみすぼらしい家を選ぶと、アインズは感覚器官をその中に侵入させる。室内は暗いのだが、この感覚器官を通せば真昼のごとくだ。
 その家の中では、白いのが組み伏せられ、尻尾を持ち上げる様な形で、その上から黒いのが乗っていた。

 最初の一瞬、何をしているのか分からなくて。
 次の瞬間、何でこんなことをしているのかと理解できなくて。

 それから、アインズは無言で感覚器官を外に動かす。

「……」

 遣る瀬無さに満ち満ちたアインズは、無表情に頭を抑える。控える守護者たちはなんというべきか困った顔で互いを伺っていた。

「――まったく不快な奴らです。これからコキュートスが攻め込むというのに!」
「そうです。その通りです!」
「デミウルゴスの言うとおりでありんすぇ。 奴らには罰を与えるべきです!」

 アインズが軽く手を上げると、守護者達の言葉は止む。

「……まぁ、これから死ぬんだとか分かれば、そういうのもありだろう」

 うん、と自分の意見を肯定するようにアインズは頷く。

「おっしゃるとおりです!」
「あれぐらい、許すべきですよね」
「全く、全く!」
「……お前ら黙れ」

 守護者は全員、口を閉じる。そんな3人を見て、アインズは1つため息をついた。

「……なんだか力が抜けたな。まぁ、リザードマンの村には警戒すべき相手はいないと、もはや思っていいだろう。しかし油断はするな。こちらに向かって来ているかもしれないのだからな。アウラの警戒網にひっかかる者がいたら、私を含む守護者全員に出てもらうぞ」
「畏まりました。ナザリックで大体の打ち合わせをしたように、数が少ない場合は打って出る。こちらよりも同数または多い場合はシモベをぶつけることで敵の力を確かめると同時に、私達は全員撤退ということで」
「うむ、そうだ。相手の実力が分からない段階で、お前達をぶつけたくは無いからな」

 多少腰が引けた計画だが、重要な手駒を使う場合は、絶対に勝てる戦いしかしたくないというのが、アインズの行動方針だ。コキュートスにも実のところ勝ち得ないほどの強者を相手にした場合は、逃げるように命令しているのも、その一環だ。守護者をこんなところで失うなんて馬鹿すぎるから。

 仮にユグドラシルプレイヤーがいた場合は、リザードマンの村から手を引くなんて約束なんか守る気はない。味方に出来なかった場合は全力を持って滅ぼす。その場合は8階層を用いても。
 アインズは約束ごとを破ることに対する罪悪感を振り払う。
 最も重要なことのためならば、多少の嘘も方便だと自分をごまかして。

「……さて、後は上映時間になったら、コキュートスの戦闘風景でも楽しませてもらおう。ブレイン。全員分のイスをもってこい。戦闘光景はイスに座って眺めた方が楽しめるというものだ」
「はい。畏まりました」
「……イスのある場所は知っているのか?」
「外にいる者に聞こうと思います」
「……そうだな、では頼んだ」

 深くお辞儀をすると出て行くブレインを、僅かに頭を傾げながら見送り、興味をなくしたようにアインズは鏡に映る光景を眺める。
 必死に準備をしているリザードマンたち。
 アインズは微笑む。無駄な抵抗を必死で行おうとするその姿に、哀れみとも慈愛とも判別がつかないような思いが浮かんだのだ。


 ◆


 ブレインは扉を注意深く静かに閉める。人生で一番注意して、中の者達を刺激しないように。
 扉が閉まり、空間が隔てられたところで、ブレインは深く息を吐き出す。それと同時に体に奇妙に溜まっていた力が抜けていく。

「ふぅー」

 ブレインが己が全てを捧げるべき対象――シャルティアがイスにされても何もいわない理由。それは単純で明快だ。
 恐怖である。
 より正確に言うなら生存本能を強力に刺激されてと言うべきか。アンデッドに恐怖等の、負の精神作用効果はほぼ発揮しないはずなのだから。

 ナザリックという巨大なダンジョンを支配する存在が弱いわけではないのは理解していた。自らの主人であるシャルティアが今なお――ヴァンパイアという、肉体能力的に人間を軽く超越する存在になってなお、太刀打ち出来ない存在であると直感できるのだから。そのシャルティアの主人であるアインズが弱いはずは無いと。
 だが、あれほどの広大かつ、巨大な魔法を見せ付けられて怯えない者はいない。

 あれは化け物過ぎる。
 いや化け物という言葉では生易しすぎる。
 
 あれは神とか言われる存在だ。
 ブレインは、アインズという存在をもはやそうとしか思えなかった。

 正直に言おう。
 ブレイン・アングラウスは自らの幸運に安堵していたのだ。人間という陣営から、ナザリックという陣営に移ることが出来て。そしてそれと同等の哀れみを感じる。この世界の全ての生き物――搾取されるだけの哀れな存在へ。



 ■



 4時間という時間は瞬く間に過ぎ去る。

 今では氷の融け去った湿地――リザードマンの村正門には戦士階級のリザードマンが集まっていた。前日の激戦を生き残り、今回の戦いに参加する戦士階級のリザードマンの数はさほど多くは無い。
 全員で316名。
 オスやメスのリザードマンが戦いに参加しない理由は、シャースーリューの『敵の数が少ないということを考えると、多くでかかると邪魔になる可能性がある』という理由によるものだ。
 一見すると正当な理由のようにも思えるが、実際は勿論違う。

 ザリュースはリザードマンから少し離れたところで、集まってきた戦士階級のリザードマンたちを眺めていた。

 皆、全身に祖霊を降ろしている証でもある紋様を描き、鋭い刃物のような意志を顔の上に浮かべている。誰も敗北するだろうとは考えていない。
 そして周囲には戦いに挑む戦士達に声援を送るリザードマンたちがいた。こちらは負けるとは思ってない者もいれば、不安を隠せない者もいる。

 そんな光景を目にし、ザリュースは内心の淀みは一切表に出さないよう苦労して表情を作る。この戦いは敵の――アインズに対する供物だということを、他のリザードマンたちに悟られないように。

 そう。この戦いに恐らく勝算は無い。先のシャースーリューの発言の後ろにある意味は『勝算は無い。だから最低限の犠牲で済ませたい』という気持ちだ。
 そんな意味を知っているのは族長たちのみ。
 この戦いでアインズが、リザードマンに決定的な敗北を示したいと思っているのは事実だろう。そのためにリザードマンは完全な敗北を演じなくてはならない。もしそうしなかったら、本当に皆殺しに合うかもしれないのだから。つまりこれは止む得ない犠牲だ。ただそれでも、族長達は戦士階級のリザードマンたちを裏切っていると言われても、それを否定する言葉を持たないのも事実だ。

 ここに集めたときから多くのリザードマンは死ぬと思っていた。それからすれば犠牲は少ない方だと、ザリュースは自らを慰めることは出来る。しかし、それでも心に溜まった淀みが晴れることは無い。

 ザリュースはリザードマンから目を離し、敵の陣地を鋭く睨む。
 スケルトンたちは先と同じ位置のまま一歩も動いていない。そして全身鎧を纏った騎士のような者たちの姿は何処にも無かった。恐らくは森の中で待機しているのだろうか。
 コキュートスという存在らしき姿は見えない。そしてあの魔法使い――アインズの姿もまた見えない。しかしながら、どこかで観察しているだろうと間違えようの無い予測が立つ。

 そんなことを考えるザリュースの後ろから、バシャバシャという重いものが湿地を歩く音がし、

「――おう、ザリュース」

 ゼンベルの気楽そうな声が掛かった。

「ゼンベルか」
「おうよ」ゼンベルはぐるっと周囲を見渡し、ザリュースに問いかける。「クルシュはここには来てないみたいだが、おめぇの表情から推測するに何とか納得したみたいだな」
「……まぁな」
「どんな説得したんだ? ありゃ、ぜってぇ無理っぽかったのによ」

 気楽な、軽い話題を振っただけというゼンベルだが、ザリュースはそれを答えるすべを持たない。せいぜい濁す程度だ。

「色々だ。……そう色々だ」
「ふーん」

 少しばかり遠い目をするザリュースに、何かを感じたのかゼンベルはそれ以上問いかけることなく、視線を動かしリザードマンたちを見渡す。

「士気は最高って感じだな」

 ザリュースも同じように戦士階級のリザードマンたちを眺める。
 先ほどと変わらない、自信に溢れたリザードマンたちが戦いの時を待っている。これから戦う相手がどれだけのものかを知らないリザードマンたち、を。

「……だな。コキュートスという敵を前にしても、この士気を維持できれば良いのだが……」

 その言葉にゼンベルはピクリと顔を歪ませる。

「……あと少しでコキュートスとか言う奴に会えるんだがよぉ……どんなのだと思う?」
「それは姿格好という意味か? ……想像もできないな」

 アインズという存在とその従えていた部下から考えても、まるでイメージが浮かばない。通常イメージするなら巨大とかが相応しい気がするのだが、アインズが連れていたものに巨大なものはいなかった。

「おれはよぉ、ドラゴンとか思ってんだけど、どうよ」
「……ああ、なるほど。それは確かに当たりそうだ」

 最強の種であるドラゴンというのは確かに当たりかもしれないと、ザリュースは考える。
 普通であればドラゴンを部下にするなんというのは英雄譚の領域だが、アインズという名の化け物ならば妥当と考えられる。
 あの銀髪の少女が実は、ドラゴンが人間に変身していましたとか言われても、納得してしまう気がする。

「だろ。ドラゴンなんか見たことなんかねぇからな。最後の相手にするなら悪くねぇ」

 ゼンベルの発言にザリュースは軽口を返そうとして、あるリザードマンの姿を確認し、別の言葉にする。

「――兄だ」
「お? もう時間か?」

 門にシャースーリューの姿があった。全てのリザードマンたちがシャースーリューと、その横に立つ2体の湿地の精霊<スワンプ・エレメンタル>に注目する。
 クルシュが来ない理由。それはスワンプ・エレメンタルの召喚に魔力を流し込んでいるためだ。ザリュースに長時間効果の続く防御魔法を幾つかかけ、さらに精霊を召喚するともなれば、ほとんど身動きできないほど魔力を使うだろう。
 事実、2人で家を出たときに、そうクルシュから告げられたのだ。魔力を注ぎこむため、意識を失うだろう、だから会えないと。

 ザリュースは僅かに寂しさを感じ、村の方を見る。その視線の先、そこにクルシュがいるだろうと思って。

「おい、そろそろ終わりだぞ」

 ゼンベルがザリュースのわき腹を突っつく。その行為にザリュースは自分を取り戻す。
 シャースーリューの戦意向上の言葉は終わりを迎え、周囲のリザードマンの戦意は最大限まで昇りつめ、熱気が満ち満ちていた。

「――そろそろ時間だ。戦士たちよ、進むぞ!」

 先頭にシャースーリューと2体のスワンプ・エレメンタルを擁き、リザードマンたちはゆっくりと歩き出す。
 村から離れるのは、村を巻き込まないためである。
 ザリュースとゼンベルはその最後を歩く。

 ザリュースはふと振り返って村を眺めた。みすぼらしい泥の壁。そしてこちらを心配そうに、または無事に帰ってくるだろうと信じて見つめるリザードマンたち。
 ザリュースは微かなため息をつく。もう二度と戻れないのだろうと思って。

 そして歩き出す。コキュートスと戦うべく。


 ◆


 リザードマンたちは湿地を歩き、敵のスケルトンとちょうど中間地点に陣取る。
 隊列は考えてはいない。てんでバラバラに戦いの時を待っている。せいぜい、各部族長、そしてザリュースと2体のスワンプ・エレメンタルが先頭に立つ程度だ。
 そんなリザードマンの中に徐々に緊張感ともいうべき、微妙な空気が漂いだす。

 そんな中、突如スケルトン達が己の持っている武器を片手の盾にたたき出し始めた。

 本来であればタイミングが狂い、雑音にしかならないはずのそれは、スケルトンという存在が行うことによって完璧な調和の取れた音となる。5000のスケルトンが起こす音が、たった1つの音となるのだ。それはこんな場でなければ賞賛の拍手ぐらいはあってしかるべき行為だ。

 全てのリザードマンの目がその音によって集まる中、スケルトンの後方――森の木々が数本、横に倒れていく。
 木も細いものではない。巨木とも言って良いものだ。それを何者かが切り倒しているのだ。

 リザードマンの間でざわめきが起こる。目端の利くものが最初に気付きだしたのだ。
 姿が見えないので、幾人かで協力して切り倒しているという想像は当然立つ。しかし、少し考えれば分かることだが、あまりにも木が倒れる間隔の息が整いすぎているのだ。それはつまりは、たった一人で行っていることだ、と。
 さらには木を切り倒す前に、木が揺れる――木に刃物を打ち込んでいる形勢が無い。それはありえないようなことだが、一刀で切り倒しているということに他ならない。
 木を両断する。
 それはどれほどの腕力と刃物を用いれば可能となる偉業なのか。
 
 スケルトンが盾を打ち鳴らす音にあわせ、倒れた木々が大地を揺らす音が、離れたリザードマンたちの元まで徐々に近づきながら聞こえてくる。
 動揺が走る。当然だ。この状況下で動揺しない者がいないはずがない。
 ゼンベルもザリュースも、シャースーリューも動揺しているのだから。

 やがて、木が倒れ、森を切り開いた存在が姿を見せる。それにあわせてスケルトンの盾を叩く音が止んだ。


 それは白銀の塊である。天空の厚い雲が掛かっていなければ、どれだけ日光を反射しただろうかと思わせるような輝きだ。
 そして2.5メートルほどの巨体は二足歩行の昆虫を思わせる。悪魔が歪めきった蟷螂と蟻の融合体がいたとしたらこんな感じだろうか。その蟻とも蟷螂とも思わせる顔立ち、は。
 全身を包む白銀に輝く硬質そうな外骨格には冷気が纏わり付き、ダイアモンドダストのようなきらめきが無数に起こっていた。
 身長の倍以上はあるたくましい尾には、鋭いスパイク状の棘が無数に飛び出している。力強い下顎は人の腕すらも簡単に断ち切れるだろう。
 鋭い鉤爪を供えた4本の腕を持ち、それぞれに煌びやかな手甲を装備している。武器を手には持っていないのに、それをどうして行ったのか。疑問は尽きない。
 首からは円盤型の黄金色のネックレス。

 絶対的強者――それの登場だ。


 あれがコキュートスだというのか。
 ザリュースの心臓が激しく脈うち、呼吸がいつの間にか荒いものへと変わる。

 本能があれを勝ち得ないものだと騒ぎ立てているのだ。全力で逃げ出すべきだと。
 もはやリザードマンの誰もが言葉を発さない。目は姿を見せた存在にひきつけられ、そこから離すことができない。離せばそれで終わりだと理解できて。
 幾人かが我知らず知らずの内に後退をする。いや、幾人ではない。ほぼ全てのリザードマンが、だ。

「怯えるな!」

 シャースーリューの怒声が響く。それを受け、多くのリザードマンが電流を流されたように、体を震わす。

「引くな! 戦士たちよ! アレに勝てばこちらの勝利だ! 怯えず前を向け!」

 リザードマンたちに戦意が戻ってくる。しかしザリュースには分かる。兄の僅かな声を震え――恐怖を。

 ゆっくりとコキュートスが歩を進める。
 湿地に入り、スケルトンたちの間を抜け、堂々と――。
 そして距離が迫り、リザードマンとコキュートス。両者の距離が30メートルほどで歩みを止める。それからコキュートスは長く細い首の上に乗った昆虫の顔を動かした。それはまるで誰かを探すような行動だった。
 ザリュースは視線が一瞬だけ、自分の上で留まるのを感じた。

「――サテ、アインズ様モゴ覧ニナラレテイルコトダ。オ前達ノ輝キヲ見セテクレ」

 コキュートスの腕の一本が伸ばされ、やけに細く長い指がかかって来いとリザードマンたちに曲げられる。それに対し、シャースーリューが咆哮を上げる。

「突撃ぃいいい!!」
「うぉおおおおお!!」

 心の奥底からの咆哮を上げながら、321名――戦士階級のリザードマン316名、4部族長、そしてザリュースからなる、この場にいる全てのリザードマンがコキュートスめがけ湿地を駆け出す。


 突撃してくる有象無象。コキュートスは冷たく見据える。

「……数ガ多イナ。マズハ多少ノ数ヲ減ラサセテモラオウ」

 コキュートスは封じていたオーラを解放する。
 ナイト・オブ・ニヴルヘイムのクラス能力『フロスト・オーラ』。それを強化した極寒の冷気が、瞬時に100メートル半径を覆いつくす。
 極寒の冷気による、急激な温度変化によって、ゴウッと大気が悲鳴を上げた。


 爆風でも起こったように、コキュートスから生じた大気の壁がザリュースの全身を叩く。まるで起こった風が全身の体温を急激に奪ったように、極寒の冷気がザリュースの全身を取り巻く。
 そして激痛がザリュースを襲った。
 物理的な衝撃はほとんど無いが、大気の変化――極寒の冷気によって、それに匹敵するだけの苦痛をもたらしているのだ。フロスト・ペインの冷気防御を貫通して、これだけのダメージを与えるのだ。防御能力がまるで無いものであればまさにこの場は地獄だろう。
 
 この冷気によるダメージは、フロスト・ペインの1日3度の大技『氷結爆散<アイシー・バースト>』ほどでは無い。半分程度と言い切っても良い。
 しかしながらフロスト・ペインのアイシー・バーストが瞬時のものであるのに対し、この極寒の冷気は一秒一秒と猛毒のように全身を苛んでいく。この極寒の冷気の範囲にその身を浸すことは、時間の経過と共に死が近づくのだ。

 ならば、突撃か、後退か。
 対処方法はその2つしかない。そして後退という道は最初から無い。後ろに下がっても何も無いのだ。

「――ゴホッ!」

 突撃。ザリュースはそう大声を上げようとし、極寒の冷気が肺に入り込み、咽る。その喉に走る痛みがザリュースに冷静さを取り戻させる。
 ザリュースと族長達は覚悟を決めてきた。しかしその他のリザードマンは何も知らないで連れて来られたのだ。その思いが強い罪悪感としてザリュースを苛む。
 向こうの目的はこちらを殲滅することではないはず。圧倒的な力を見せ付けることだろう。
 ならば、これだけ力を見せ付けたのだ。あとはザリュースと族長達が犠牲になれば許してくれるのではないか。甘い考えかもしれないが、ザリュースの心にそんな思いが浮かぶ。
 本来であればシャースーリューを差し置いて、命令するのは間違っているというのは当然理解している。
 しかし――ザリュースは言うべき言葉を変える。

 無論、この行為は間違っている。
 日和見な発言だということも理解している。ここ――村に集められた存在は、全て犠牲だと理解している。そのつもりで集めたのだから。だが、それでも犠牲を望んでいるわけではない。
 誰も死なない可能性があれば、それを最も選びたかった。

 だからこそ、ザリュースは言う。

「下がれ! 後ろに下がるんだ!」


 ――しかし、全ては遅すぎる。


 リザードマンたちはその言葉を聴き、少しでも苦痛から離れようと後退を始める。しかし、コキュートスのフロスト・オーラの範囲は半径100メートル。脆弱な存在が踏破出来る距離ではない。
 ほんの数メートル。それが全てのリザードマンの限界だった。
 
 まずは体の動きが鈍り、氷が出来そうな冷たい水を湛えた湿地に倒れこむ。あとはもはや為す術も無く、凍死していくだけだった。
 316名からなる戦士階級のリザードマン。全てが脆くも崩れ落ちる。そして容易く死を迎えていった。
 そう。コキュートスに近寄ることも、逃げることも許されずに。

「フム。コンナ所カ」

 コキュートスのつまらなそうな声にあわせ、極寒の冷気が消え去る。それはまさに今まであったのが嘘のように。しかし、316名の死体がそれが事実あったことだと証明する。
 今なお動けるのは、たったの5人だ。
 されど残った5人のリザードマン。それは――即ちリザードマン最強の5人。
 彼らは即座に、一斉に、行動を開始する。
 
 飛礫が空を切る。先頭をきって走るのは、鎧を着たリザードマン。そしてその後ろを2人のリザードマンが続く。2体の――冷気によって全身に皹の入った――スワンプ・エレメンタルは動きという面で劣るために、2人のリザードマンの後方をノタノタと動く。そして最後のリザードマンは魔法を唱えつつある。

 まずは飛んだのは礫。コキュートスの喉元を狙った一撃だ。しかしながらそれは意味を成さない。なぜなら――

「――我ラ守護者クラスハ、皆、飛ビ道具ニ対スル完全耐性ヲ与エテクレルアイテムヲ所持シテイル」

 ――まるで見えざる盾でもあるかのように礫は弾かれる。

 次に挑む、先頭を走るリザードマンが纏う鎧は、リザードマンに伝わる4至宝の1つ。
 『ホワイト・ドラゴン・ボーン』
 同じく4至宝の1つ、ザリュースが持つフロスト・ペインの一撃すら弾くだけの硬度を持つ、リザードマン最硬の鎧。

 対峙するコキュートスは中空から剣を抜き放つ。
 まるで空間の中に隠し持っていたように。

 コキュートスが抜き放ったのは大太刀――全長200センチ、刃渡り150センチになる刀。銘を『斬神刀皇(ざんしんとうおう)』。コキュートスの所持する21の武器の内、鋭利さではトップクラスの武器だ。

 そしてそれを踏み込んできたリザードマン目掛け――一閃。

 空気をさえも切り裂いたような鋭い太刀筋が、大気の悲鳴――静かな音色を奏でて、辺りに響く。もしこんな場面でなければ、聞いていたいと思うような澄んだ音色だ。
 その音に遅れて、鎧ごと縦に両断された族長の体が、左右に分かれて湿地に崩れこんだ。
 リザードマン最硬の鎧を断ち切ってなお、斬神刀皇に刃こぼれなど無い。

 仲間の死に動揺を見せずに、後ろから左右に分かれ、2人のリザードマンは武器を振るう。

「チェストォ!」

 右からは武技『アイアン・ナチュラル・ウェポン』と武技『アイアン・スキン』を発動したゼンベルの右抜き手が、全力を持ってコキュートスの顔面めがけ突き進む。

「うぉおお!!」
 
 左からはフロスト・ペインで腹部を狙っての刺突。
 両者ともあるのは、接近戦であれば長い武器の使用は逆に困難になるという道理を狙った攻撃。
 
 無論、それは常人であればだ。

 コキュートスは僅かに身をかわしつつ、斬神刀皇の刀身の中ほどで、ゼンベルの腕を横から受ける。長い武器をまるで己の手足のように使った動きで。
 武技『アイアン・スキン』によって鋼鉄に匹敵する強度を持つゼンベルの肌だが、斬神刀皇の鋭利さがどれほどのものかは先の鎧で証明されている。
 スルリとゼンベルの腕に食い込んだ刃は、水面を進むような軽い動きで、容易くそれを断ち切った。
 切断されたゼンベルの右腕から噴きあがる血飛沫の中、腹部めがけ突き進んだフロスト・ペインは、コキュートスの別の手で優しく摘まれた。

「がぁああ!」
「――フム。ナルホド。悪イ剣デハ無イ」
「ちぃ!」

 びくともしないフロスト・ペインを手元に引き戻すのは諦め、即座にザリュースの蹴りがコキュートスの膝を狙って放たれる。それを避けることもせずにコキュートスは体で受ける。そして蹴り付けたザリュースの足に激痛が走った。
 それは考えるまでも無い。鋼鉄以上の硬度を持つ壁を、思いっきり蹴りつけたときの結果としては同じだ。

「《オーバーマジック・マス・スライト・キュアウーンズ/魔法上昇・集団軽傷治癒》」

 膨大な魔力を消費する代わりに、本来ならば使えないはずの上位位階の魔法を無理矢理行使する、そんな魔法強化による全体治癒魔法がシャースーリューから唱えられる。

「フム……」

 己の知らない魔法強化を使われ、シャースーリューを興味深そうにコキュートスは見る。そんな視線を妨げるように走ってきたのは、2体のスワンプ・エレメンタルだ。治癒魔法によって、斬り飛ばされた腕が治りつつあるゼンベルとの間に立って、コキュートスにその触手のような手で攻撃しようとする。しかし、その攻撃が届くよりも早く、コキュートスはわずらわしげに2体のスワンプ・エレメンタルを切りとばす。
 スワンプ・エレメンタルが泥の塊となって崩れ落ちる中、複眼に当たる部分、腹部、胸部とザリュースは拳で殴りつける。無論、傷つくのはザリュースのほうだ。すでに拳の皮膚は破れ、血が流れ出している。

「邪魔ダナ」

 コキュートスのスパイクの生えた尻尾がブンッと大きく振り回され、ザリュースの胸部を激しく殴打する。

「ごはぁ!」

 ぽきぽきという乾いた音と共に、バットで打たれたボールのように、ザリュースの体が大きく吹き飛び、湿地に転がる。数度、泥の中を回転するように転がってようやく止まるが、胸部の激痛と口からの吐血がザリュースの呼吸を困難にしていた。
 折れた骨が肺に突き刺さったのか、呼吸をしようとしても空気が入ってこない。まるで水中にいるような気分だ。さらには喉元に流れ込む生暖かい液体が、吐き気を催す。そして胸を見れば、幾重にもなる刃物でえぐられたような傷から、大量の血が流れ出ている。
 
 ――たった一撃で、このざまか。確かにまともに一撃を受けた。一撃で半死半生状態まで持っていかれるとは……。

 ザリュースはコキュートスという存在の強大さ、強さを甘く見ていたことに対する、己の馬鹿さ加減に罵声を心のうちで飛ばす。そして必死に呼吸をしようとしながら、ザリュースは未だ戦意の残る目で、追撃が来るかとコキュートスを睨む。

「戦意ハアルノカ。ナラバ返シテオクゾ」

 手の中に残ったフロスト・ペインを、泥の中に転がったままのザリュースの傍に無造作に放ると、コキュートスはザリュースを無視し、残った数名の方に向き直った。
 腕が生えたとはいえ、まだ体力を消耗しているゼンベルに、シャースーリューは治癒の魔法をかける。
 そんな2人の元に行かすまいと、注意を引き付けると言う意味で、再び礫が飛び――意味も無く弾かれる。

「――煩ワシイ」

 コキュートスは小さく呟き、小さき牙<スモール・ファング>の族長に対し、無造作に手を突き出す。

「《ピアーシング・アイシクル/穿つ氷柱》」

 人間の腕ほどもある鋭い氷柱が、何十本も数メートルという範囲に渡って打ち出される。
 その中に捉えられたたった1人のリザードマンに、氷柱は容易く突き立つ。
 胸部に1本、腹部に2本、右太ももに1本。そのどれもが肉体を容易く貫通しており、致命傷は間違いようが無い。
 何も言わずに、何も行動もせずに、糸の切れた人形のようにスモールファングの族長――最もレンジャーとしての腕に優れたリザードマンは倒れる。

「うぉおお!」
「《オーバーマジック・マス・スライト・キュアウーンズ/魔法上昇・集団軽傷治癒》」

 ゼンベルが突き進み、シャースーリューが再び治癒魔法を使う。ゼンベルがザリュースの傷を癒す時間を稼ぐつもりなのだ。
 無謀なのは承知の上だ。自らの武技がコキュートスの持つ方の前では無力なことも。しかし、ゼンベルには進むという道しかないのだ。

 間合いに入ってきたゼンベルに対し、コキュートスは無造作に斬神刀皇を振るう。

 その剣閃はゼンベルの視認速度を上回り――
 その速度はゼンベルの機敏さを遙に凌ぎ――
 その一刀はゼンベルの肉体を容易く断つ――

 頭部を失ったゼンベルの肉体が、血を噴水のように吹き上げ、それからドチャリと湿地に崩れ落ちた。ほんの僅かに遅れて、頭部も湿地の中に落ちた。
  
「……サテ、残ルハ2人カ……アインズ様ニ伺ッテイタガ、オ前達ガヤハリ最後マデ残ッタナ」

 一度もその場所から動いていないコキュートスは、残った2人を眺めながら刀を振るう。白く煙ったような刀身には血も脂も付着していない。まるで振っただけで全てが落ちたような綺麗さだ。

 なんとか立ち上がるだけの体力を回復したザリュースと、グレードソードを抜き払ったシャースーリュー。2人はコキュートスを挟む形で向かい合う。ザリュースは自らの胸から止まることなく流れる血を、手で掬い、顔に塗りたくる。
 それは祖霊を降ろすための紋様にも見えた。

「――弟よ、傷はどうだ?」
「不味いな。今だ、鈍痛が響く。それでも数回は剣を振るえるさ」
「そうか……。ならば充分だな? 実のところ、癒してはやりたいたいのだが、もう魔力が殆ど無くてな。油断すると倒れそうだ」

 笑っているのかカチカチと歯で音を立てて、シャースーリューが言う。それを受け、ザリュースが微かに表情を動かした。

「……そうか。兄者も無理をする」

 薄く笑うとザリュースは息を吐き出し、肩の力を抜く。フロスト・ペインを持つ手をダランと垂れ下げる。
 絶対的強者であるコキュートスを前に、ありえないほど油断しきった格好だ。そんな格好が出来るのは、コキュートスが襲ってこないと思っているからだ。
 コキュートスは絶対強者である。であるがゆえに格下相手に、自分から攻撃に出るはずは無い。
 それは強者の誇り。そして強者ゆえの驕りだ。

 ザリュースは大きく息を吸い込み、コキュートスを眺める。そして思う。

 なんと強いのか、と。

 チラリと視線を動かし、首を失い湿地に沈むゼンベルを見る。
 感情は動かない。
 当たり前だ。コキュートスと戦うとなったとき、皆死ぬだろうと思っていたのだから。
 ザリュースもシャースーリューも死ぬ。コキュートスという絶対的強者の前では、多少の強さなぞ意味が無いのだから。

 それでも――ザリュースはフロスト・ペインを持つ手に力を込める。
 ずきりと胸の辺りから激痛が走るが、努めて無視をする。
 最後まで諦めることなく――ザリュースは剣を振るうつもりだった。

 勝てないのは分かりきっていた。
 そして与えられた敗北は仕方ない。しかし、敗北を受け入れることは出来ない。
 なぜなら多くの命に嘘をついたのだ。勝てるという嘘を。そんな大嘘つきを信じた者がいたかぎり、敗北を受け入れることが出来るはずが無い。

 最後の瞬間まで、全力で――

「剣を振るい続ける!!」

 ザリュースの咆哮。それが辺りに響く。

 カチリ、とコキュートスの顎に生えた牙が噛み合わさり音がした。
 
「良イ。咆哮ダ――」

 コキュートスは笑ったのだろう。それは強者が弱者を見下すのではない。対等の存在として笑いかけたものだ。

「いいぞ、弟よ。その通りだ。最後まで振るおうじゃないか」

 シャースーリューも笑う。それは自らの弟を誇りに思う、そんな肉親の情に満ちた笑いだ。

「さて……待たせたな、コキュートス殿」

 シャースーリューの言葉にコキュートスは肩をすくめる。

「構ワナイトモ。兄弟ノ別レヲ邪魔スルホド無粋デハナイ。覚悟ヲ……イヤ、失礼。元々覚悟ハ決メテイタノダナ。デハ、来タ前」

 ぐっと踏み込むザリュースとシャースーリューに対し、コキュートスは斬神刀皇を一閃し、語る。

「本来デアレバ全テノ手ニ武器ヲ所持スルトコロダガ……侮ルツモリハ無イ。ガ、抜クホドノ強者デハナイ。オ前達ハナ」
「それは残念だ」
「全くだ――行くぞ!」



 2人は走り出す。湿地にバシャバシャという水音が響く。
 そのタイミングの悪さにコキュートスは僅かに首をかしげる。
 両者が同時に剣の間合いに入るのではなく、シャースーリューの方が先に入り込むタイミングだ。間違えたとのか、そう思い、直ぐに否定する。そんな兄弟では無いだろうと判断し。
 ならば何らかの狙いがあるのか、そう思ったコキュートスはなんとなく、ワクワクとした気持ちで待ち受ける。

 先に刀の間合いに入るのはシャースーリューだ。コキュートスはシャースーリューが何をするのかと、様子を伺う。
 シャースーリューは刃の届くギリギリ手前。そこで止まると――

「《アース・バインド/大地の束縛》!」

 ――魔法を発動させる。
 泥によって作られた無数の鎖が、コキュートスに向かって伸びる。それにあわせザリュースがひた走る。間合いを計らせないように、背中にフロスト・ペインを隠し。
 シャースーリューの発言はコキュートスを騙すためのブラフにしか過ぎない。
 いくら外骨格が硬いとはいえ、フロスト・ペインの切っ先に全ての力を込めれば抜けるはず。その思いがザリュースに防御を捨てた突撃を敢行させる。

 なるほどブラフかと感心したのは、コキュートスだ。
 通常であれば引っかかり、魔法の鎖に縛られ、後ろから駆けてくる者の一撃を受けたかもしれない。
 しかしながら勘違いをしている。
 彼らが相手をしているのはナザリック大地下墳墓第5層守護者、コキュートスだということだ。

「……レベル的ニ劣ル者デハ、私ノ守リヲ抜ケルコトハ適ワン」

 泥の鎖はコキュートスに触れる寸前で弾かれ、単なる泥となって湿地に落ちる。低位レベルではコキュートスの魔法に対する守りを貫くことは出来ない。

『――氷結爆散<アイシー・バースト>!』

 背後からの叫びと共にコキュートスの周りで霧氷の白い渦が起こり、周囲を包み込む。

 無駄な努力だ。
 冷気に対する完全耐性を持つコキュートスは、極寒の冷気をそよ風のごとく受け流し、ザリュースかシャースーリューが間合いに飛び込む瞬間を待つ。
 そして後方から来るザリュースが間合いに入り、コキュートスは一瞬だけ迷う。
 首を切り飛ばすだけで動きが止まるだろうか、と。
 防御を完全に捨てたザリュースが首を切り飛ばしただけで止まるとは思えない。では腕を切り飛ばして、次に首を刎ねるか。

 それも無粋。――一刀で葬ろう。

 ザリュースの防御を考えない全速疾走。
 それはコキュートスからすると、遅すぎる速度だ。
 白い靄の中、うっすらと見えてきた黒い影――ザリュースの持つフロスト・ペインにコキュートスは指を伸ばし、刀身を摘む。そしてそのまま動きを止めて、刀で切り飛ばそうとする。

 これであとは1人だけだ。

 わずかな失望と共にコキュートスは刀を振るおう――として、視線を動かす。
 そして思う――なるほど、と。

「おおおおぉお!!」

 周囲にわだかまる冷気を抜け、怒声と共にグレートソードが振り下ろされる。豪風を伴っての、靄を吹き飛ばすような勢いでの一撃だ。

 挟撃なのだから、片方が倒されるのは覚悟の上なのだろう。
 ザリュースの持つフロスト・ペインによる刺突も警戒すべきだが、それよりもシャースーリューの大上段からのグレードソードの切り下ろしの方がダメージは大きい。ザリュースはあくまでも囮にしか過ぎないということか。しかし――

「不意ヲ撃チタイナラ――静カニ行ウベキダナ」

 湿地を走る水音を隠しきれない以上、不意打ちにはならない。わざわざ冷気のダメージを受けてまで行う価値があるのだろうか。コキュートスは疑問に思う。それとも無駄な足掻きという奴なのだろうか。
 しかし敵が自らの攻撃可能領域に入ったのは事実。
 フロストペインを掴んでいる以上、ザリュースは敵ではない。殺す順番が変わっただけだ。そう判断し、コキュートスは刀を振るう。

 一閃。

 グレートソードごとシャースーリューを真っ二つに切り捨てる。
 そして返す刀でザリュースを――


 ◆


 コキュートスは斬神刀皇を振るおうとしながら、つまらなさを感じていた。

 強者として弱者をいたぶるのが好きなものがいる。シャルティアやデミウルゴスのように。
 強者として弱者を相手にしないものがいる。アウラのように。
 そして強者として弱者につまらなさを感じるものがいる。コキュートスのように――。


 第5階層守護者、コキュートスは武人である。
 いや、武人として至高の41名によって作り出された。
 そんなコキュートスにとっての喜びは戦いだ。そう、戦いなのだ。それは決して蹂躙ではあってはならない。両者が拮抗した、もしくはコキュートスが不利な、そんな戦いを渇望しているのだ。

 だが、そんな戦いは無い。無論、この世界に来てさほど時間が経っておらず、無いと判断するのは早急すぎるだろう。しかし、ブレインという人間としては最高峰だという剣士の腕前を見て、コキュートスは失望しか思わなかった。
 動きが鈍く、剣筋が悪く、武器は雑。
 そんな者のどこに喜びを感じればよいのか。

 今回、リザードマンの村を攻撃するに当たり、最初は期待を抱いていた。しかし2度刀を振るう中にあって、失望しか残っていなかった。あまりにも弱すぎて。

 コキュートスを満足させる――あるとしたら同位の守護者か、セバスまたは自らの主人。そして第8階層の存在ぐらいだろうか。
 そんな思いの篭った冷たい目で、コキュートスはザリュースの首に目掛け刃が走るところを眺めていた。


 ◆


 本来であればこれで戦いは終わりだ。
 ザリュースにコキュートスの攻撃を回避することも、防御することも出来ないのだから。
 しかし、まだ戦闘は終わらない――。

 
 ――そのとき、ヌルリと、フロスト・ペインを摘んだコキュートスの指が滑る。

 驚き、コキュートスは己の指に視線を向ける。
 白い霧が立ち込める中、コキュートスの指、そしてフロスト・ペインの刀身に赤いものが付着していた。
 それが指を滑らす原因となったものだ。

 ――血?

 コキュートスは困惑する。一体どこでと思い、霧越しに映る、ザリュースの顔を見て理解する。
 己の顔に血を塗りたくったのは、紋様を描くためではない。血を掬い上げ、フロストペインに塗りつける狙いだったのだ――。アイシー・バーストもコキュートスにダメージを与えるのが狙いなのではなく、その血が塗布していることを隠す為。背中に剣を隠したのもそうだ。
 ザリュースの攻撃を受け止めたとき、コキュートスが指で摘んだ。それを覚えていたからこそ、再び同じ手で来るかもしれないというわずかな可能性に賭けて布石を張っていたのだ。

 ――コキュートスに侮るつもりは勿論、無かっただろう。

 だが、もし、コキュートスがしっかりと摘んでいればそんなことにはならなかっただろう。流石のコキュートスといえども2本の指でザリュースの全身全霊をかけた突撃を耐え凌ぐことはできないのだから。
 さらにはもっと距離をとって摘んでいればもっと別の手があっただろう。しかし、この近距離では別の手を打つことは出来ない。他の手を動かすよりも早く、フロスト・ペインは迫る。

 コキュートスは思う。

 そして何より――シャースーリューという存在がいなければ決してこんな状況にはならなかった。
 ザリュースが何をしているのか、シャースーリューは理解していなかっただろう。
 しかし、兄として弟を信じ、そのための命を投げ出したのだ。雄叫びと共に、一瞬でも目を離させる狙いで。

 ほんの一瞬。
 まさに瞬き1つに匹敵する時間の中――ザリュースの全てを込めたフロスト・ペインが迫る中――コキュートスはガチンと下顎を1つ鳴らす。

「素晴ラシイ――」

 そしてフロスト・ペインはコキュートスの体に突き刺さり――――そして、傷を1つ作ることなく、容易く弾かれる。

「――スマナイ。弱イ魔力ノ武器デノ攻撃ヲ、一定時間無効トスル特殊能力ガアル。ソレヲ発動シテイル以上、オ前達ノ攻撃ハ無意味ダ」

 だが、コキュートスは故意的に1歩だけ下がる。それによってパチャッと泥が跳ね、コキュートスの白銀の体を汚す。


 たった1歩の後退。
 そんなものは何の意味も無い。下がったから何かあったということは無い。ザリュースの死は決まっており、コキュートスの勝利は絶対だ。
 しかし、それこそ絶対的強者――コキュートスが、弱者――ザリュースに見せた賞賛の表れだった。


 そして己の運命を悟り、しかしながら全てを出し尽くした者のみが浮かべることを許される、そんな透明な笑顔を浮かべたザリュースに、コキュートスの持つ斬神刀皇が振るわれた――。



 ■



「見事な戦いぶりだった」

 アインズは機嫌よく、目の前で跪き、頭を垂れるコキュートスに賞賛の言葉を送る。村に残ったリザードマンたちの絶望を具現したような姿は、目的を充分に達成したといっても良いものだったのだから。
 これなら充分に抵抗無く支配できるだろう。

 それにユグドラシルプレイヤーもいなかったのも、アインズの機嫌が良い理由のうちだ。

「アリガトウゴザイマス」
「さて、リザードマンの村を支配することとなったが、とりあえずは幾人かを選抜して戦士としての訓練をさせよう。どこまで強くなるか興味があるというものだ」

 アインズたちユグドラシルの存在は強くなれない――正確にはスキルが習得できないのでは、というのが幾つかの実験で理解できたことである。つまり強くなるにはそれ以外の面での強化が必要だということだ。
 では次の疑問として、この世界の存在は何処まで強くなるのだろう、というのは当然生まれて然るべきものだ。


 アインズはこう思っている。
 成長しようと考えない最強は、単なる停滞だ。いつかは追い抜かれるだけだ。
 100年先の軍事技術を持っていたとして、それは確かに最強かもしれない。だが、そこで止まっていればいつかは最強の地位から落ちることとなる。今は周辺国家の中では強いかもしれない。だが、その強さがいつまでも保たれる。そう考えて行動するものは単なる愚か者だ、と。


 もし仮にこの世界の存在がユグドラシルで言うところのレベル100を軽く超えることが出来るのなら、早急に何らかの手段を取る必要が出てくるというものだ。
 ブレインという手駒があることはあるが、シャルティアというユグドラシルの存在の力を受けて――ヴァンパイア化――しまっている。そのためにブレインの強さの上昇が、この世界の一般なのかというと疑問が生じる。
 つまりはユグドラシルとはあまり関係の無い、この世界の一般人的な存在での実験が必要だとアインズは考えているのだ。

「リザードマンに英才教育を施したいが、ブレインを使用してみるか」

 ちらりと部屋の隅で不動の姿勢を崩さないブレインに視線を送る。機嫌よさそうにぶつぶつと呟くアインズに対し、顔を上げたコキュートスが質問を投げかける。

「アインズ様。アノリザードマンハドノヨウニ処分サレルノデスカ?」
「あのリザードマン?」
「ハッ。ザリュースト言ウ者ト、シャースーリュート言ウ者デス」

 あの最後まで立っていたリザードマンかと、アインズは納得する。結局、死んだ奴らだが、死体はまだ湿地に転がっているはずだ。

「そうだな。死体をこちらで回収できるなら、その死体でデス・ナイトでもつくってみるか? ある程度強い者の死体を使って、デス・ナイトを作ったことは無いからな、良い実験になる――」
「――ソレハ惜シイカト」
「ふむ?」

 アインズの言葉に重ねるように言う、守護者達からすると無礼な態度を取ったコキュートスに、アインズは初めて興味を持ったように眺める。そして軽く手を挙げ、他の守護者の眉を顰めた表情を元の状態へと戻す。

「どういうことだ? 奴らは弱かったと思ったのだが……。それほど価値があったか?」

 アインズが遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>を用いて観戦していた中では、コキュートスの圧倒的勝利だったはずだ。特別見るべきところが無いほどの。それともアインズが見逃しただけか。

「……確カニ弱者デシタ。シカシナガラ、強者ニモ怯エヌ、戦士ノ輝キヲ見マシタ。アレハ処分シテシマウニハ勿体無イカト」
「ふむ……」

 正直、戦士の輝きとか言われてもアインズにはピンと来ない。漫画や小説でよく聞く『殺気』という単語があるが、それすらもアインズは「ふーん、そんなのあるのか?」としか感じないのだ。そんなアインズにとっては、戦士の共感という奴はわけの分からん世界の話だ。
 これはアインズが現在はこんな姿だが、元々は単なる一般の社会人ということに起因する。日本に生きる一般人が、殺気とか戦士の輝きという単語に深い感銘を覚える方がやばいだろう。まだ優秀な営業マンの輝きといわれた方が、漠然とだが分かるというものだ。

 そんなアインズだが、コキュートスという存在がそういうならそうなのだろうという程度の理解力はある。

「なるほど……勿体無いか」
「ハッ」

 勿体無いとか言われてもなぁ。というのがアインズの本心だ。しかし、この辺で主人として部下の考えを取り入れる度量も見せたほうが良いだろうか。
 アインズは暫し考え、自らには忠実な部下がいることを思い出す。
 周囲に並ぶ、臣下として相応しい――無言、かつ直立不動の姿勢を崩していない、そんな部下達を。

「デミウルゴス。どう思う?」
「アインズ様のお言葉こそ最も正しいかと」
「……シャルティア、お前はどうだ?」
「デミウルゴスに同じでありんすぇ。 アインズ様のご判断に従いんす」
「…………アウラ」
「はい。あたしも皆と同じです」

 答えになってない。アインズは頭を悩ます。
 そして色々と考え、守護者からすると大した問題ではないのではないか、という答えに行き着く。つまりはどちらに転がろうが、大したメリットもデメリットも無いと判断している可能性がある。

 無論、守護者の視点がどこにあるのかが、問題になる場合は当然ある。
 ようは100万円が端金だと考えてる者が大した金額じゃないよ、と言ったとき、その言葉がどれだけ信用できるのかと言う問題。いわば価値観の違いから来る差だ。

 聞いた意味が無かった――。
 仕方なく、アインズはアインズなりに、メリットとデメリットについて考える。

「……そういえばリザードマンの村を支配することになったが、代表になるものはいるのか? そんな組織だったものは無いのか?」
「イエ。代表トナル者ハオリマス」
「ほう。どんな奴だ」
「アインズ様ガオッシャッテイタ、白イリザードマンデス」
「あれか! なるほど、なるほど……」

 ならば利用できるか。そうアインズは考える。ピーピングも役に立つ、とも。

「つれてくるまでにどの程度の時間が掛かる?」
「オ許シヲ。ソウ仰ラレルト思ッテ、近クノ部屋マデ呼ンデアリマス」
「いやいや、良いぞ、コキュートス。時間を無駄にするのは愚かの行為だ。お前の判断は間違っていない。よし、では、つれて来るんだ」
「えっと、待ってください!」
「どうした? アウラ?」
「この場みたいなあまり見栄えのよろしくない場所で例え、従属する相手とはいえ会うのは、アインズ様には相応しく無いと思います。ナザリックの玉座の間でお会いすべきかと思います」

 シャルティアとデミウルゴスが同意という風に微かに頷く。

「……申シ訳アリマセン。ソコマデ考エガ至ラナカッタ、私ヲオ許シクダサイ!」
「ああ……」

 そんなことまるで考えた無かったよ。アインズはそう思い、さてどうするかと考える。そしてふと思い出す。あのときの言葉を。ならば――。

「――アウラよ」
「はい!」
「ここに来たとき言ったと思うが、お前が作りあげているこの場は――お前の思いが篭ったこの場は、ナザリックに匹敵すると私は考えている。あの言葉は嘘ではない。コキュートス。つれて来い。この場で会おう」
「ア、アインズ様!」
「アウラ。よすんだ」
「デミウルゴス!」

 なんで止めるの、とアウラは顔を紅潮してデミウルゴスに食って掛かる。

「アインズ様のお言葉は正しい。ならばアインズ様がこの場をナザリックと同等と看做されているという言葉もまた――」
「――正しい」

 シャルティアが言葉を続ける。

「アウラよ。もう一度言うぞ? 私は最も信頼できる部下――守護者の中の一員であるお前が、努力し作り上げているこの場所も、ナザリックと同等の場所だと思っている。例え、今現在製作中だとしてもだ。理解したな?」
「……アインズ様、ありがとうございます」

 深く頭を下げるアウラ。そして同じように頭を垂れる他の守護者達。
 コキュートスやデミウルゴスそしてシャルティアが何故頭を下げるのか。多少困惑するが、アインズは何かあったのだろうと深くは考えずに、コキュートスに指令を下す。

「コキュートス、では、つれてくるんだ」
「ハッ!」



 数分程度の時間がたち、アインズの元に真っ白なリザードマンが連れて来られる。
 白いリザードマンはアインズの前に跪き、顔を伏せる。

「名を聞こう」
「はい。偉大にして至高なる死の王――アインズ・ウール・ゴウン様。私はリザードマン代表のクルシュ・ルールーです」

 どこかで聞いたことのある仰々しい称号だ。アインズは一瞬、横に控えるシャルティアとアウラに視線を動かすが、すぐに戻す。

「……ふむ、良く来たな」
「はい。ゴウン様。私達、リザードマンの絶対なる忠誠をどうぞお受け取りください」
「ふむ……」

 アインズはしげしげとクルシュを観察する。
 なんとも綺麗な鱗だ。魔法の明かりを受け、艶やかな輝いている。触ったらどんな感触がするのかと、アインズはちょっとした知的好奇心に襲われる。

 何も言わないアインズにクルシュの肩が僅かに震える。それは寒さとかの外部的な要因からではなく、精神的な面――恐怖からだ。
 アインズが気に入らないとでも言えば、全てのリザードマンは皆殺しにあう。だからこそ、言葉の1つ1つも注意をしなくてはならない。そんな精神の磨り減るような気持ちのクルシュからすれば、アインズの不自然な沈黙はまさに恐怖の種だ。
 そう、相手がたとえ自らの連れ合いを殺した存在でも。

「……そうか。では受け取ろう。お前達、リザードマンはこれから私の支配下だ」
「――はい」
「さて、では要求をするとするか」
「はい」

 どのような要求が来るかとクルシュの体が震える。

「まずは幾人かのリザードマンを私の兵にするために鍛える。最も優秀なものを選び出せ」
「幾人でしょうか?」
「そうだな……まずは10人でかまわん」
「畏まりました。早急に手配します。一体、いつまでに選べばよろしいでしょうか?」
「2、3日中でどうだ?」
「はい、まったく問題はありません。最も才に優れたものを選びたいと思います」
「そうだな。あとは……現状では特別無いな」
「え? よろしいのですか?」

 顔を伏せたままクルシュが僅かに驚いたような声を上げる。どれだけの無理難題を押し付けられるかと思っていたら、これだけですんだのだ。当然驚くだろう。

「一先ずはな。クルシュ・ルールーよ。私の支配下に入ることでお前達リザードマンは繁栄のときを迎えるのだ。将来のリザードマンは感謝するだろう。私の支配下に入ったことを」
「いえ、ゴウン様という偉大な方に敵対しながら、これほどの慈悲を与えてくださり、私達は既に感謝しております」
「そうかね?」

 アインズはゆっくりと座っていた玉座から立ち上がる。そしてクルシュの傍に近寄ると、しゃがみこむ。そして肩に手を回した。
 クルシュの体がピクリと動き、震えがアインズに伝わる。

「それと特別にお前に頼みたいことがあるのだ」
「なんでしょう。ゴウン様の忠実な僕である私に出来ることであれば何なりと……」
「僕としてではなく、忠実な奴隷としてお願いしたいことがあるのだ――代価はザリュースの復活だ」

 バッと勢い良くクルシュの顔が上がる。
 その顔は驚愕に歪んでいる。そんな表情に勝ち誇ったような気分で、アインズはクルシュの観察を続ける。

 クルシュの表情は隠そうとしてるのだろうが、めまぐるしく動く。どのような感情が走ってるのかまでは、人間とはかけ離れているためはっきりとしたことは読み取れないが、喜怒哀は浮かんだだろう。

「そんなことが……」
「私は死と生を操ることすら出来る。死というのは私からすると状態の一種でしかないのだよ」

 クルシュの消え去るような声を聞きつけ、アインズはそれにも答える。

「毒や病気と同じだ。流石に寿命は無理だろうがね」
「……では忠実な奴隷としての私に何を望むのでしょうか? ……私の体でしょうか?」

 アインズは絶句する。

「いや、それは、ちょっと……」流石に爬虫類はねぇ、と思わず素に戻りそうになるが、アインズは必死にキャラを作る。「ゴホン。違うとも。簡単だよ、私を裏切るリザードマンがいないかしっかりと監視をして欲しいのだ」
「そのようなリザードマンをおりません」

 言い切るクルシュにアインズは嗤う。

「それを本当に信じるほど私は愚かではない。確かにリザードマンの思考形態まで熟知しているわけではないが、人間というものならば裏切りは珍しくは無い。だからこそ、内部を秘密裏に監視する者が欲しいのだ」

 クルシュが無表情に戻ったことに、アインズは話の持って行き方を失敗したかと内心慌てる。
 コキュートスに言われた関係上、できればザリュースを蘇らせる方向に話を持っては行きたいのだが、なんの代価もなしに復活させてしまうのは、微妙にメリットが少ない。
 だからこそ、クルシュというスパイを作成することで、そのメリットを補おうというのだ。

「……今、君の上に奇跡はある。しかし、その奇跡がいつまでもあるとは限らない。この瞬間を掴めなければ全ては終わりだよ?」

 立て続けにアインズは口を開く。

「死んだ人間を完全に元の状態に戻す。しかも記憶も、という話があって、それでも死んだ人間は元には戻らないと言い切る者もいる。だが、それは私からすると、単純に蘇らせる者を信じられないからだと思うのだよ。もしその人間に最も近い者――家族や親友、または恋人が蘇らせると言ったら、納得してしまうのではないかね?」

 クルシュはやはり無表情のままだ。
 アインズは失敗したかと内心思いながら、感情に強く語りかけることとする。デミウルゴスとか上手そうだから、任せれば良かったかなと思いながら。

「つまりはこう言いたいのだ。本当に大切なものを間違えてはいけない、クルシュ。君にとっての大切なものはザリュースではないのかね? 愛する男――そして幸せな家庭を築きたくないかね?」

 ピクリとクルシュの表情が痙攣したように動いた。

「おぞましい儀式をするとかではない。この世界にだってあるだろう? 復活の魔法が。それを使うだけだ」
「それは伝説の……」

 そこまで言ってクルシュは言葉をきる。
 目の前にいる存在がどれほどの者かを思い出して。

「クルシュ。君にとって最も大切なものは何なのかな? 考えて欲しいのだ」

 多少、アインズはクルシュに考えさせる時間を与える。特には一方的に捲くし立てるほう――考えさせる時間を与えない方が上手くいく場合もあるが、この場合は時間を与えるべきだろう。
 少しづつ視線が揺らぎだしたクルシュを観察し、アインズはあと一押しかなと判断する。
 次に提供すべきは無料ではないと、理解させることだ。只のものだと怪しんだりもするが、妥当かと思われるような金銭を要求されると納得してしまうものだからだ。

「先も言ったように無料ではない。君の仲間のリザードマンを内部からこっそり監視するのだ。場合によって苦汁の選択もするだろう。そして裏切らないように、復活させるザリュースには特殊な魔法をかける。君が裏切ったと私が判断したら、即座に死ぬような魔法だ。君は苦悩を得るだろう。だが、ザリュースの復活はそれに見合うだけのものが無いかね?」

 そんな魔法なんか無いけどな。
 そんなことを脳裡で思いながら、アインズは言うべきことは全て言ったと、言わんばかり態度でゆっくりと立ち上がる。そして両手を広げる。
 そんなアインズを苦悩に満ちた目でクルシュが見つめていた。

「そうそう。復活させた後、ザリュースには私からこう伝えよう。利用価値があるから蘇らせたと、ね。君の名前は一切出さないことを約束する」

 アインズは上手くいったかなと思いながらも、表情には出さない。無論、骸骨の顔に表情は殆ど現れないのだが。

「さて、クルシュ・ルールー。今、選択したまえ。奇跡は二度は起こらん。愛するザリュースをその手に取り戻す、最後のチャンスだ。どうする? 手を取るか? 取らないか? 選びたまえ」

 アインズはクルシュにゆっくりと手を差し出した。それと同時に守護者たちを釘を刺す。

「断ったとしても何もするな。――さぁ、返答はいかに? クルシュ・ルールー?」




 ■



 全身の脱力感が酷い。
 体の中がドロドロになっているようだった。
 異常な疲労感だ。どれだけ過酷な運動をしてもこれほどの酷い状態になった事は無い。

 ザリュースは重い瞼を必死に開ける。

 眩しい光が目の中に飛び込んでくる。リザードマンの目は自動的に光量を補正してくれるが、それでも瞬時の光には多少弱い。ザリュースは目をぱちくりさせ――

「ザリュース!」

 強く誰かに抱きしめられる。

「く、くるしゅ?」

 その声はもう2度と聞けるはずが無い。そう思っていたメスの声だ。
 ザリュースはようやく慣れた目で、抱きしめてくるメスを見る。
 それはやはり自らの愛したメス。クルシュ・ルールーだ。
 
 何故、これは一体。
 無数の疑問や不安がザリュースに襲い掛かってくる。最後の記憶は――自分の頭が湿地に落ちていく瞬間のもの。絶対に自分はコキュートスに殺されたはずだ。
 それが何故生きているのか。まさか――

「――くるしゅまでころされたのか?」
「え?」

 痺れたように上手く動かない口を動かし、ザリュースは問いかける。
 それに答えるのは、不思議そうなクルシュの顔。その表情を見て、ザリュースは僅かに安堵する。クルシュは死んだわけでは無いと知って。では一体どうして自分は生きているのか。
 その答えのヒントは横から掛けられた声だった。

「ふむ。復活したが混乱しているというところか。これでは戦闘中の復活は難しいな」

 その声の主に気付き、ザリュースは驚きながらそちらを見る。

 そこに立っていたのはアインズ・ウール・ゴウン。巨大すぎる力を持つ魔法使いだ。
 そしてその手には、まるで似合わないような神聖な雰囲気を漂わせる、30センチほどの一本のワンドを持っている。それは象牙でできており、先端部分に黄金をかぶせ、握り手にルーンを彫った非常に綺麗なものだ。この大魔法使いが持つのだから、凄まじい魔力を秘めたものなのだろうとザリュースは予測する。

 そしてその予測は正解だ。
 ザリュースは知らないが、それこそ蘇生の短杖<ワンド・オブ・リザレクション>。ザリュースを蘇らせたアイテムである。通常であれば神官系魔法の道具を、神官系魔法を使用することができないものが発動することは出来ないのだが、この系統の魔法のアイテムは特別に使用することができる。

 ザリュースは目線をキョトキョトと動かし、少しでも情報を収集しようと試みる。抱きしめてくるクルシュの影から見える光景。それはここが先ほどまでいたリザードマンの村だということだ。
 場所は広場であり、取り囲むように無数のリザードマンが平伏している。ピクリとも動かないその姿――それは異様なほど強い崇拝を感じさせるものだった。

「いったい……」

 アレだけの力を見せられれば平伏するのも道理だ。しかし、周囲のリザードマンからはそれだけではない、もっと強いものを感じる。
 リザードマンに神はいない。いうならそれが祖霊だ。しかし、周りにいるリザードマンから感じるのは自らの神に対する崇拝だ。

「ふむ。下がれ、リザードマン。誰かが言うまで村に入ってくるな」

 そんな言葉。
 それに誰も反対するものもいない。それどころか声を上げることなく受諾する。身動きする音と湿地を歩く水音。それだけを後に残して全てのリザードマンが広場から離れていく。
 まるで魔法で洗脳したかのような忠誠心にザリュースは驚く。

「アウラ? 出て行ったか?」
「はい。行きました」

 答えたのはダークエルフの少女だ。今までアインズの後ろにいたために視線が通らなかった関係で、ザリュースは気付くことができなかったのだ。

「そうか。ではザリュース・シャシャ。まずは復活おめでとう、といわせてもらおう」

 復活。
 その言葉の意味が理解できるまでザリュースは少しの時間が必要だった。そして理解したと同時に身震いするような感情が襲ってきた。

 復活――蘇らせたというのか、俺を。

 ザリュースは目を大きく見開き、口も大きく開ける。だが、言葉は出ない。喘ぐような息が漏れるだけだ。

「どうした? 別に復活に対して、リザードマンはさほど嫌悪感を抱いているはずではないのだろ? それとも言葉を忘れたのか?」
「ふ、ふっかつ……あ、あなたはししゃをよみがえらせられるのか……?」
「そう言っている。なんだ、その程度すら出来ないと思っていたのか?」
「だいぎしきを……おこなって?」
「大儀式? なんだそれは? 私1人で問題なく出来る行為だぞ?」

 その言葉を聞き、もはやザリュースに言葉は無かった。大儀式を行っての復活魔法はありえる。多くの神官を併用した――かの13英雄の1人が責任者を勤めた儀式で、事実蘇った者はいると伝説に残っている。
 それを1人で行うことが出来る存在。

 化け物? 違う。
 巨大な力を持つ魔法使い? 違う。

 ザリュースは完全に理解した。
 神話の兵を率い、悪魔を従える。
 つまり、それは――目の前にいる存在は神に匹敵する存在だ、と。
 ザリュースはよたよたと体を起こし、アインズの前に平伏する。クルシュも慌てて同じように平伏した。

「いだいなるおかた」

 それを見下ろしながらアインズはすこしだけ驚いたような様子を見せ、すぐに何かを納得したのか、軽く頭を振ることで答える。

「ちゅうせいをつくします」
「で?」

 何を要求するんだと言外に潜ませ、アインズはザリュースの言葉を待つ。

「りざーどまんにはんえいを」
「そんなことか。私の支配下に入るものには繁栄を約束するとも」
「かんしゃします」
「さて、いまだ言葉がたどたどしいぞ? 少し休めば慣れるだろう。今は休め。後ほど色々と決めなくてはならないことがある。まずは私の支配地であるこの村の警備をしっかりとしないと不味かろうしな……。まぁ、デミウルゴスと相談してくれ」

 アインズはそう言うと、この場から離れようと歩き出そうとする。だが、その前にザリュースはすべきことがある。今で無ければならないことを。

「おまちを。ぜんべるとあには?」
「死体はそこら辺にあるはずだ」

 アウラと共に歩き出そうとしたアインズは、足を止めると無造作に村の外の方角を顎をしゃくる。

「よみがえらせてはくださらないでしょうか?」
「……ふむ……蘇らせるメリットを感じないな」
「わたしをなんでよみがえらせてくれたのかはわかりませんが、ぜんべるとあにはりざーどまんでもつよいもの。かならずや、やくにたてるとおもいます」

 アインズはザリュースをしげしげと観察する。それからクルシュへと目が動く。

「考慮しよう。……2人の死体を保管しておけ。いくつか考えた後、復活させるかどうか考えよう。それと弱い奴の場合は復活できずに灰になる可能性がある。まぁ、大丈夫だとは思うが、その可能性も忘れないようにな。では約束どおり10人のリザードマンを選出しておけ」

 アインズはローブをはためかせながら歩き出す。そのすぐ横を歩くアウラの、あのヒドラ可愛いですよねー、とアインズと会話する声が遠くなっていった。
 ようやくザリュースは平伏した姿勢を崩すと、クルシュに尋ねる。

「じゅうにんとは?」
「10人のリザードマンを自らの兵として鍛えるつもりだから、選出しておけというのが最初に私達に下された命令よ」
「なるほど……」

 納得したようなことを言っているが、ザリュースからすると疑問は尽きない。
 あれだけ強い部下を保有しながら、何故、遥かに劣るリザードマンを兵にするというのか。それも10人ぽっち。リザードマンの立場からするとありがたい話なのだが、真意がまるで読めない分、強い違和感を感じてしまう。
 だが、支配ということにあまり興味を持っていないようだというのは、非常に幸運なことだ。あれほどすさまじい力を持つ存在が守護をしてくれるというのなら、それは意外にリザードマンの繁栄に繋がるかもしれない。
 ザリュースは体に張っていた力を抜く。

「いきのこった……いきかえったか……」

 これからどのような支配が待っているかは不明だ。だが、リザードマンの有効性をアピールできれば、それほど悪いことにはならないだろう。

「くるしゅ。じゅうにんのなかに――」
「ええ。ザリュースも入るのね」

 予測したとおり、そんな表情でクルシュは頷く。

「分かったわ。でも言われたとおり、今は休んで、疲労を回復させないと。大丈夫、あなたを運ぶぐらいは出来るから」
「ああ……たのむ」

 ザリュースは体を崩すように横になると目を閉じる。体を酷使した日に、深い眠りが待っているように、目を閉じると共に瞬時に眠りが押し寄せてきた。
 自分の体を撫で回す優しい手の感触を感じながら、ザリュースの意志は暗闇の中に再び落ちていった。






――――――――
※ お待たせしました。なんだかんだでリザードマン編だけで360k。小説1冊ぐらいでしょうか? かなりの量ですね。お付き合いいただきありがとうございました。
 執筆速度的には5日から書き始めて16日で110kですから、まぁまぁではないでしょうか。
 では次回は「42話、侵入者」でお会いしましょう。
 またなんか色々とあっちこっちに飛びそうだけど、1話で終わらせるよー。
 

 Q:フロスト・ペインの刀身に血をつけても凍りつくんじゃないですか?
 A:魔法の剣はファジー機能を搭載してますので、持ち主の思いにある程度反応します。というか、一撃与える伏線がそれ以上考え付きませんでした。突っ込み勘弁。
 あと復活のペナルティを一部変更しました。いくつかある復活魔法の位階によって蘇った後の経験値ペナルティが変わります。直さないと。



[18721] 42_侵入者1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/10/02 06:40
 130kですね。読まれる方お疲れ様です、そして私もお疲れ様です。






 バハルス帝国、帝都アーウィンタール。
 帝国国土のやや西方に位置するこの都市は、中央に鮮血帝との異名を持つ皇帝――ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスの居城たる皇城を置き、放射線状に大学院や帝国魔法学院、各種の行政機関等の重要なものが広がった、まさに帝国の心臓部ともなっている都市だ。
 現在、帝都アーウィンタールはここ数年の大改革によって生じた活気と混乱によって、帝国の歴史の中でも最も発展を遂げている最中であった。新しいものがどんどんと取り入れられ、多くの物資や人材の流入がある。そしてその反面、古く淀んだものが破棄されていっていた。
 そんなこれからの将来に対する希望的な光景に、ここで暮らす市民の顔も明るいものが多かった。

 そんな帝国の力の結晶たるこの都市の驚くべき光景というのは幾つもあるが、その中の1つ。帝都に来た者の大半が驚くもの。それは――ほぼ全ての道路が石畳に覆われているということだ。
 これは周辺国家でも類を見ないものだ。無論、帝国国内全ての都市が、そこまで行われているということは無い。ただ、それでも帝都を見れば帝国の潜在力が分かると、周辺国家の外交官が謳うだけのものはあった。

 その中央道路。
 放射線状に走る道路の中でも、街道からそのまま乗り入れており、帝都の主たる道路となっている道路の1つだ。
 そこは道の真ん中を馬車や馬が通り、脇を人が歩く歩道となっている。それ自体は一般的な道路となんら変わらないが、帝国の主たる道路だけあってそこらの都市のものとは違う。
 歩道がしっかりとした作りとなっているのだ。
 道路と歩道の境界線にはちょっとした防護柵が立てられており、歩くものの安全を確保している。さらに段差をつけることでより安全を確保していた。
 道路脇には夜になれば魔法の明かりを放つ街灯が一定間隔ごとに立てられていた。そしてある一定間隔で騎士が立ち、周辺の安全に目を配る。

 これほど立派な道路は近隣諸国を見渡してもそうは無いだろう。それほどの道路である。
 そんな道路脇の歩道を、歩く者の多くの中に、1人の男がいた。

 身長は170中ほど。年齢は20になるぐらいだろうか。
 金髪、碧眼、日に焼けた健康的な白い肌という帝国ではまるで珍しくない特徴の男だ。
 美形ではない。だが、別に悪いという意味でもない。ただ、多くの人間がいればその中に埋没してしまいそうな、十人並みという容貌だ。
 しかし、どこと無く人を引き付ける魅力を持っている。それは顔に薄く浮かぶ朗らかな笑顔からのようにも、自信に満ち溢れた堂々たる動きからのようにも思われた。
 男は機敏に、だが、歩くものの邪魔にならない程度の速さで歩道を進む。
 手足を振るたびに、シミ1つ無い綺麗で立派な服の下から聞こえるのは、鎖の擦り合う微かな音。鋭い者ならそれが薄いチェインシャツによるものだと察知しただろう。
 さらに男は腰の左右には2本の剣を下げていた。長さとしてはショートソードよりも若干短め。長さにして刀身部分が60センチあるかないかぐらいだろう。握りの部分はナックルガードで完全に覆われている。鞘は凝った物ではないが、重厚感のある安くはなさそうなものだ。そして腰の後ろには殴打武器である、メイス。これは特別立派な作りではない。念のために持っているというのが分かるような一品だ。
 そんな装備から、男が単なる戦士では無いのは、一目瞭然だ。
 武器を1つ、2つ持つというのは、この世界であれば当たり前といえば当たり前の光景だ。道行く人間を見ていれば武装したものを見るのは珍しく無いとわかるだろう。だが、刺突、斬撃、殴打と3種類の攻撃方法を備えているものはそうそういない。

 つまりはそういった可能性――様々な武器を使わなければいけないような状況、モンスターとの戦闘を考えた武装だということだ。

 つまりは男の正体は冒険者というのが予測される答えの第一だ。
 しかし、実のところ、彼は冒険者ではない。冒険者はどちらかと言えば守りの仕事。それに対し彼の仕事はもっとアグレッシブなものだ。

 冒険者というものはギルドが仕事を請負、調査し、適格だと思われるランクの冒険者に振り分けられる。つまりは適当な仕事なのかどうか、最初の段階でギルドが調査しているのだ。そのため、危ない仕事――市民の安全を揺るがすような仕事や犯罪に係わるような仕事は破棄される。
 要は麻薬に使われる植物の調達のような仕事は、ギルドが全力を挙げて阻止する方向に持っていくということだ。
 さらにギルドは生態系のバランスを破壊するような仕事も破棄する。例えば、ある森での生態系の頂点に立つモンスターをこちらから出向いて殺したりはしないということだ。そのモンスターを殺すことで生態系が崩れ、その結果として森の外にモンスターが出始めることを忌避するためだ。当然、頂点のモンスターが森の外に出てきて、人の生活圏を犯すというなら話は別だが。

 つまり、冒険者は正義の味方にも似たものだと考えると正しいのかもしれない。
 ただ、そんな綺麗ごとばかりで話は回るわけが無い。何よりも金が欲しいという者もいるだろう。見返りを求めて危険な仕事を行う者もいるだろう。モンスターを殺すのが好きだというものもいる。

 そんな者たち――冒険者としての光の面よりも、影の面を求めた者たち。冒険者のドロップアウト組み。そんな者たちを嘲笑と警戒を込めて『請負人(ワーカー)』という。
 そして今、道行く彼もその請負人の一員だった。


 ふと、彼は道を歩きながら何かに気付いたように顔上げる。周囲の人間達も彼と同じ方向を一瞬だけ伺い、すぐに興味をなくしたいように視線を戻す。中の幾人かは連れとその件を話のネタにしているようだったが。

 再び遠くから、風に乗って微かな歓声が聞こえる。その血に飢えた声は、戦いのときに聞こえるものに似ている。
 男の視線の先――かなり先だが、そこにあるのは闘技場。
 ワーカーである彼は別にそんなところに行かなくても、充分満足するだけの血を見ている。それに金をかけるという行為にも興味が無い彼が、行くことは殆ど無い場所だ。
 出てきた答えに興味をなくした男は視線を動かす。少しだけ、今日の闘技場で開催される試合を思い出しながら。
 
 やがて彼は騎士が立って周囲を警戒している4大神の神殿を横目に見ながら、角を曲がる。騎士達の視線が自らの腰に辺りに集まっているのは当然察知しているが、特別な行動は一切取らない。
 まぁ、当たり前である。そんな自分から怪しいですよという行動を取るほど、彼は愚かではないのだから。

 帝国の騎士とは専業兵士であり、警察機構も兼ね備えた者たちだ。
 さらにはある一定以上の任期を努めたものには、軽量化の魔法が掛かった全身鎧と、鋭さを上げた魔法の剣の貸与を許される帝国治安の要である。そんな者たちからすれば複数の武器を所持した男というのは、充分警戒の対象になるのだから。
 実際、道を歩けば騎士の多くが彼に注意を払っているのが感じ取れる。時には声をかけられたり、手配書と顔を見比べられたりする時だってあるぐらいだ。視線の1つや2つぐらい大した問題でもない。

 彼が道なりに幾つもの店の前を通りながら進んでいくと、やがて見慣れた看板が姿を見せた。

 看板には『歌う林檎亭』と書かれていた。

 林檎の木から作り出した楽器を使った、そんな吟遊詩人が集まったのが店の始まりとされる、酒場兼宿屋だ。外見は年季の入ったものだが、中は意外にしっかりとしている。隙間風なんかまるで無いし、床は綺麗に磨かれている。確かに宿泊代はそれなりの金額が掛かるが、それでも彼個人としてはオススメの店である。
 そして――何より飯が美味い。
 そんなのが、彼と――彼の仲間達の滞在する宿屋であった。

 彼は本日の夕食のことに思いを馳せながら扉をくぐる。彼の好みの豚肉のシチューが出れば最高だ、と。
 宿屋に入った彼の元に飛び込んできた声は、仲間からの労を労う声でもなく、帰還に対する声でもなかった。

「――だから言ってるでしょ! 知らないって!」
「いえいえ、そんなことを言われましてもね」
「別にあの娘の世話人でもなければ、家族でもないんだ。あの娘がどこにいるかなんか知るわけ無いでしょ」
「お仲間じゃないですか。私も知らないと言われて、はいそうですかと引くわけにはいかないんですよ、仕事なもんで」

 宿屋の一階部分。酒場兼食堂の真ん中でにらみ合う1組の男女。

 女は彼の非常に見知った顔だ。
 くすんだ金のような髪は短くばっさりと切られている。目つきの悪い顔には化粧っけというものがまったく無い。そんな彼女の最も目を引くところは、常人よりもはるかに伸びた耳。そう、彼女はハーフエルフという種族である。
 森の種族であるエルフは人間よりもほっそりとした生き物だが、彼女もその血を引いているのが一目瞭然な肢体は、全体的にほっそりとしており、胸にも尻にも女性特有のまろやかさというものがまるで無い。鉄板でもはめ込んだようだった。
 着ている物はぴっちりとした皮の鎧。腰には短刀を下げている。
 近くから見ても、一瞬だけ男にも勘違いしてしまうような、そんな女性だ。

 彼女こそ、彼の仲間であるイミーナである。

 イミーナに対し、向かい合っている男は彼も知らない人物だ。
 男はペコペコと女に対し頭を下げてはいるが、目の中に謝罪の色は一切無い。それどころか、嫌な色が混じっている。ただ、一応は下手に出ているところから判断すると、脳味噌無しではないようだ。
 男の腕周りや胸周りにはみっちりと筋肉が詰まっており、前に立たれただけで威圧感を感じさせる外見をしている。しかしそんな暴力を発散させている男だが、ワーカーの一員である彼女に対し、そんな手段にでるほど愚かではない。
 なぜならイミーナの外見は華奢だが、多少腕に自身がある程度の単なる男ならば、簡単に殺せるだけの戦闘能力を保有しているのだから。

「だからさっきから言ってるようにね!」
「何をやってるんだ、イミーナ」

 彼の声に初めて気付いたようにイミーナが顔を向ける。そして驚きの表情を浮かべた。
 イミーナほどの人物が会話に我を忘れて、彼が入ってきたことに気付いてなかったようだった。それは彼女がどれだけ激情していたかを充分に物語っている。

「……なんだい、あんた」

 男がどすの効いた声で彼に問いかける。目は鋭いもので、今にも殴りかかってきそうな雰囲気を放つ。無論、凶悪なモンスターと対峙する彼からすると、笑い話程度の雰囲気でしかないが。

「……うちのリーダーよ」
「おおお、これはこれは。ヘッケラン・ターマイトさんですね、噂はかねがね」

 急激な変化で先ほどの表情から一変して、愛想笑いを浮かべる男に、彼――ヘッケランは少しばかり嫌悪感を催す。
 なんの理由で来たのかは知らないが、この宿屋まで男は来たのだ。ヘッケランのことを知らないはずが無いだろう。
 恐らくは先ほどのどすの効いた声や雰囲気は、ヘッケランがどの程度の人間か計る意味で行ったに違いない。もし少しでも男の雰囲気にヘッケランが引いたら、その雰囲気のまま――威圧的に話を展開させるつもりだったのだろう。
 ヘッケランの好きでは無いタイプの男だ。

 確かにビジネスの一環として、そうやった方が上手く話を持っていけるというのはヘッケランも知っている。ヘッケランの同業者であれば、当たり前の交渉テクニックの1つだと判断するだろう。
 だが、ヘッケランはそういった交渉は好きではない。裏表無く、直球でのやり取りが好きなのだ。別に面倒くさいとか関係なく。

「……騒がしいな。ここは宿屋なんだよ。他にもお客さんがいるからな、騒がしいことはよして欲しいんだけどよ?」

 周りには客の姿は一切見えない。それどころか店の人間もだ。
 別に隠れているわけではないだろう。なぜなら、この店に泊まるのは大抵がヘッケランとの同業者。そんな彼らからすればこの程度の騒ぎは酒のつまみにしかならないのだから。姿が見えない理由は、単純に席を離れているだけだろう。
 
 ヘッケランは睨むように男の顔を見つめる。冒険者で言うならAにも匹敵するヘッケランの眼光は男のものとは比べ物にもならない。魔獣を前にしたように、先ほどとは逆に、男が一瞬だけひるんだような姿を取った。

「いや、申し訳ないですがね。そういうわけにも行かないもので」

 男が若干声を落としながら、話を続けようという意志を見せる。ヘッケランの眼光を浴びてなお、それだけの行動を取れるということは、確実に力を行使する仕事――特に暴力関係を生業とする仕事についている者だ。
 そんな者が一体?
 確かにやくざな仕事をしているが、こんな男は全然知らないし、こんな態度に出られる記憶は無い。それに仕事の依頼のようにはまるで思えない。
 困惑したヘッケランは眼光を弱め、最も簡単な男の正体を確かめる術を使う。

「……一体、何事だ?」

 簡単だ。男に聞けば良い。

「いえね。ターマイトさんのお知り合いのフルトさんにお会いしたいなと思いましてね」

 フルトといわれてヘッケランの脳裏に思い浮かぶ人物は1人だけだ。
 アルシェ・イーブ・リリッツ・フルト。ヘッケランの仕事仲間であり、優秀なマジックキャスターである彼女だけだ。
 そして彼女は、こんな男と縁のある女のようには思えない。幾つも死線を共に潜り抜けた仲間としてヘッケランはそう判断する。ならば厄介ごとと考えても良いだろう。

「アルシェ? あいつがどうかしたのか?」
「アルシェ……。ああ、そうでしたね。フルトさんとしか私達は言ってないものですから、混乱しましたよ。えっとアルシェ・いーぶ・りりっつ・フルトさんですね」
「で?! アルシェがどうしたって?」
「いえいえ、ちょっとお話したいことがありまして……内密の話なんですけど、何時ごろお戻りになるかと――」
「知るか」

 ばっさりと話をぶった切るヘッケラン。そのあまりの思いっきりのよさに男は目を白黒させる。

「で、話は終わりか」
「し、仕方ありませんね。この辺で少し待って……」
「失せろ」

 ヘッケランは顎で入り口の方向をしゃくる。そんな姿に再び男は目を白黒させた。

「はっきり言う。お前はどうも好きになれねぇ。そんな奴が俺の目の入るところにいるのはどうも我慢できねぇんだ」
「ここは酒場ですし、私が……」
「そうだな。酒場だな。酒を飲んだ奴が良く喧嘩をする場所でもあるもんな」ニヤリとヘッケランは男に笑いかける。「そう警戒しないで安心しろよ。あんたが喧嘩に巻き込まれて大怪我したとしても、こっちには治癒の魔法が使える神官がいる。無料で直してやるよ」
「少しぐらいは金を取った方がいいんじゃない?」

 イミーナがニヤニヤと悪い笑みを浮かべながら、横から口を出す。

「ありがたみが違うってものよ」
「――だってよ」
「脅す気……」

 男の言葉は途中で途切れる。目の前のヘッケランの表情が急激に変化していくのを受けて。
 ずいっとヘッケランが一歩踏み出し、男との距離を詰める。互いの顔しか視界に入りそうも無い距離だ。

「はぁ? 脅す? 誰が? 酒場で喧嘩ぐらい起こるのは珍しいことじゃねぇよな? おめぇ、親切に忠告してやってる俺に対して、脅すだぁ? 喧嘩……売ってんのかぁ?」

 ビキビキと眉間に青筋を立てたヘッケランの形相はまさに、死線を無数に潜り抜けた男のものだった。
 気圧された男は一歩後退すると聞こえるように舌打ちをつく。それから男はせかせかと入り口の方に歩きだした。必死に取り繕うとはしているものの、その背景に恐怖があるのは一目瞭然だった。
 そして入り口のところまで来ると顔だけで振り返る。そしてヘッケランとイミーナに吐き捨てるように怒鳴る。

「フルトんちの娘に伝えて置けよ! 期限は来てるんだからってな!」
「あぁ?」

 ヘッケランの唸り声じみた返答を受け、そのまま慌てるように男は宿屋の外に出て行く。
 男が出ていくと、ヘッケランの表情がころりと元に戻る。もはや顔芸の一種だといわれても信じてしまうような変化だ。実際、イミーナがぱちぱちと軽い拍手を行っている。

「それで、何事だ?」
「不明。さっきあなたが聞いていた内容と同じことしか聞いてなかったから」
「あちゃー。ならもう少し話を聞いてからでも良かったか」

 しまったと頭を抱える。

「アルシェが帰ってきたら聞けばいいじゃない」
「……だけどさ、あんま首突っ込みたくないんだよな。なんか嫌な話っぽくないか?」
「いや、そりゃ、分かりますけどね。あなたリーダーなんだし、頑張ってよ」
「リーダー権限で、同じ女であるイミーナが聞くってことで」
「勘弁してよ。私もヤダよ」

 パタパタと手を振るイミーナも、ヘッケランも思いっきり苦い顔をしている。

 冒険者やワーカーに共通認識として、やってはいけない行いというものは幾つもある。
 最も有名というか当たり前なのが、互いの過去を調べることや聞き出そうとすること。これは言うまでも無く、何故してはいけないかは理解できるだろう。
 次に欲望を晒すこと。
 これは欲望を正直に表に出した場合、チームとして機能しなくなる可能性があるからだ。例えば毎日金が欲しいといっている仲間は大金の掛かった仕事や、漏らしてはいけない重要な機密の保持などでどれだけ信用できるのだろうか。異性が欲しいと言っている者と、同じ部屋で眠れるだろうか。別に聖人君子になれというわけではない。要は互いを信用できるように隠すべきところは隠せということだ。

 そう意味では変な男が会いに来て、何か揉め事を起こしている雰囲気がある。そんなアルシェは信頼性がぐんと下がった状況だということだ。これは決して、なぁなぁで済ませて良い問題ではない。
 ほんの少しでも不安を残すことは、命をかけた仕事をしている彼らにとって許容出来ない。ただでさえヘッケランのチームは微妙なチームだ。これ以上爆弾を抱えることは無理な話だ。

 それが充分理解できるヘッケランは頭をぼりぼりとかく。その際はっきりとイヤだという表情を浮かべることを忘れない。

「仕方ないか。帰ってきたら聞くしかないな」
「よろしくー」

 笑顔で手を振るイミーナに、ヘッケランは据わった目を向けた。

「何、逃げようとしてるんだ? お前も聞くんだよ」
「ええー」嫌な顔するイミーナだが、ヘッケランの表情がまるで変わらないことに諦める。「仕方ないわね。あんまりどぎつい話にならないと良いんだけど……」
「それで、今どこに行ってるんだっけ?」
「え? ああ、あの仕事の裏を洗いに行ってるわ」
「依頼主のバックだったか?」
「それと目的地近郊の歴史や状況もよ」
「ああ。じゃぁ、いないと思ったらロバーデイクと一緒ってことか」
「そう。2人で色々回ってくるって。それで、あなたのほうはどうだったの?」
「変なところの無い話だな、幾つかのパーティーは受けるという方向で動いているみたいだ。どうもおれたちがこのままじゃ最後になりそうな雰囲気だな」
「ふーん。その前に厄介ごとも持ち上がると」
「……うむー。関係する話じゃないといいんだがなぁ」

 2人がそんな話をしていると、扉が開く時にたてる、きしむような音が酒場に響く。大きく開いた扉から、2人分の人影が宿屋の中に入ってきた。

「――ただいま」
「調べてきましたよ」

 男女の声。
 先に入ってきたのは金髪の痩せぎすな、まだ少女という言葉が相応しいような女性だ。年齢にして10台中ごろから後半にかけてというところか。
 艶やかな髪はやはり肩口ぐらいでざっくりと切られ、目鼻立ちは非常に整っている。美人というよりは気品があるという雰囲気での美だ。ただ、表情が硬いというか人形のようなものがそこにはあった。
 手には自らの身長ほどもある長い鉄の棒。そこには無数の文字とも記号とも知れないようなものが掘り込まれていた。
 着ている物はゆったりとしたローブ。その下には多少の防御効果のある厚手の服。魔法使いとわかる格好だ。

 そんな女性に続いて入ってくるのは、こちらはがっしりと着込んだ男だ。
 全身鎧を纏い――流石にフルフェイス・ヘルムまでは被ってないが――、その上に聖印の描かれたサーコートを着ている。腰からはモーニングスターを吊るし、首からはサーコートのものと同じ聖印を下げていた。
 茶色の髪は刈り上げられ、僅かな髭をたたえたがっしりとした顔立ちには爽やかなもの。外見的な年齢では、30台ぐらいだろうか。この場にいる誰よりも年のいった、年長者としての振る舞いがそこにはあった。

 前者の女性がヘッケランの仲間、アルシェ・イーブ・リリッツ・フルト。
 後者の男性がロバーデイク・ゴルトロンである。

 ヘッケランのチームは男が2人に女が2人で構成されている。これこそがヘッケランのチームが、微妙なチームだという所以だ。


 基本的にワーカーのみならず、冒険者のパーティーは性別がどちらか一方で固まるものである。
 というのも冒険者として一つ屋根の下で長期に渡って生活したり、危険を潜り抜けていく中で、恋愛感情に結びつく場合が多いからだ。
 恋愛関係の生まれたチームは解散する可能性が高い。それは冷静な判断への信頼性が薄れることが1つの要因だ。
 例えば戦士と盗賊が恋愛関係になっているとする。モンスターが現れ、後方にいる盗賊と魔術師が襲われた。その際にその戦士は冷静に、場合によっては恋人である盗賊を見捨てて、魔術師を助けるだろうかという疑問が浮かび上がってくるからだ。
 冒険者は仲間を信じなくてはならない。それは当然だ。自らよりも強大なモンスターと対峙するのだから。もしそんな不安が生まれて、冒険者の武器の1つであるチームプレイが出来なければ、その冒険者は次の冒険で命を失うだろう。
 そのため、基本的には男女別々で構成するか、恋愛禁止。もしカップルが生まれたら解散とするチームは多い。
 ヘッケランのチームもそんな爆弾を抱いているのだ。


「おお、お帰り」

 あまりにもグッドタイミングというかバッドタイミングというべきか。帰ってきた2人にヘッケランは固い口調で答える。

「どうしました、2人とも?」

 ロバーデイクが年長者とは思えないような、丁寧な口調で2人に話しかける。これは彼自身の性格もそうだが、ワーカーとして対等であるというところからも来ている。歳を取っているからえらいというものでは無いということだ。

「アア、イヤ、ナンデモナイヨ」
「マッタク、マッタク」
 
 ヘッケランとイミーナのばたばたと手を振る仕草を、じと目で観察する2人。

「えっと、とりあえずはここで話すのはなんだ。あっちで話すか」

 ヘッケランが指差したのは店の奥の丸テーブルだ。その意見に反論が無い、残り3人は即座に頷く。そちらに動きつつも、ヘッケランはアルシェとロバーデイクに視線を送る。
 2人でかなりの時間、外を歩き回っただろうと予測されるのだ。特にロバーデイクの格好。せめて飲み物ぐらいは用意してやるか。
 そう考えたヘッケランは、初めてあることに気付いた。

「おい、イミーナ。そーいや主人は?」
「買い物。で、私が留守番役ってわけ」
「まじかよ……なら適当に飲むか?」
「――私は大丈夫」
「ああ、私も大丈夫です」
「……そうかい?」

 2人がそう言うなら構わないが、遠慮はするなよと言わんばかりのヘッケランの問いかけに、アルシェもロバーデイクも頷くことで答える。ならば良いけど、といいながらテーブルまで来た一行は席に座る。

「うんじゃ、俺達『フォーサイト』の打ち合わせを始めるか」

 全員がそれと同時に浮かんでいた表情をかき消す。僅かにテーブルに身を預けつつ、顔を多少寄せる。人がいない酒場でも、どうしてもこんな話し方をしてしまうのは職業病のようなものだ。

「まずは依頼内容の確認だ」

 全員の視線が集まったことを確認してから、ヘッケランは言葉を続ける。口調は今までとはころりと変わり、非常にまじめなものとなっている。締めるときはしっかり締める。それはリーダーとして当たり前のことだ。

「今回の依頼者はフェメール伯爵。依頼内容は王国国土にある遺跡――ナザリック大地下墳墓の調査。報酬金額は前1000、後800。さらに調査結果による追加報酬有り。ただしあまり期待するなとのこと。それと今回の依頼においては他のワーカーの参加も予測されている。調査日数は最大で3日。調査の中身としてはどういった遺跡なのかを多角的に調べること。最も重要なものはモンスターがいると思われるが、どのようなものが生息しているか等。まぁ、一般的な遺跡調査だな」

 廃棄されたかつての都市跡や遺跡にモンスターが巣くう場合は非常に高い。そのためワーカーの調査といったらほぼ強行偵察と呼ばれる類のものだ。

「発見されたものは金額換算で2割が伯爵の、残りが発見したワーカーチームのものだ。ただ、最優先権は伯爵が有する。この辺も当たり前だな。それで行き帰りの足と滞在中の食料は伯爵側の負担。以上だな。さて、アルシェ、ロバーデイク。調べた内容の発言を」
「――ではまず私。フェメール伯爵の宮廷内の状況はそれほどよくは無い。鮮血帝に無下に扱われているという噂があった。ただ、彼自身無能ではないし、子供も愚かではないとされている。この状況下で犯罪に絡んだ仕事はありえないと思う。それと金銭的に追い詰められていないという情報もあった」
「王国国土にある遺跡の調査ということですが、私とアルシェさんで調べましたがその辺りに遺跡があるという噂も、歴史も確認されませんでした。ナザリック大地下墳墓というからには墓地なんでしょうけど、そんな場所に墓地があるというのが解せないぐらいです。周辺地理的には小さな村がある程度ですね。その村で情報を収集すれば少しは何か掴めるかも知れませんが?」
「無理だ。出来る限り隠密裏の行動を要求されている。目撃者に対して何かする必要はないし、しないで欲しいというのが依頼者側の要望だ」
「――ちなみにその周囲は王国の直轄領。下手な行動は王国、ヴァイセルフ王家を敵に回す」
「つまりは一般的な汚れ仕事ってことだろ?」
「そうですね。ただ、微妙な問題もあるでしょうね」
「まぁね。帝国で働いているワーカーが、王国内で暴れたら色々と問題になるでしょうし、下手したら伯爵にまで飛び火するかもしれないんだから」
「――でもその割には発見したものは持って帰っても良いといっている」

 うーんと全員で頭を悩ます。
 冒険者なら絶対に回ってこないような仕事だ。こんな他国の遺跡調査なんていうほぼ犯罪に近い仕事は。

「大体、どうやってその遺跡の情報を伯爵は手に入れたんでしょうね? 私達の調査では調べがつかなかったということはあまり知られてなかった墳墓なんでしょうけど……」
「――トブの大森林近くなんでしょ? 森を切り開いた時に発見されたとかはどう?」
「――変。小さな村しかないのに、そんなに森を切り開くとは思えない」
「王国が何か軍事的な意味で行動した結果という可能性が無くもないですが、小さな村しかないそんな場所に立地的な面でのメリットがあるようには思えません」

 4人はふむと頭を悩ませる。今回の仕事は本当に受けても良いものかと。

 冒険者ギルドという後ろ盾になるものが無いために、仕事に対する詳細な調査は当然必要になってくる。最初にしっかりと依頼人の背後関係を洗い、仕事をする場所を調べる。さらには依頼内容まで調べてようやく仕事を引き受けるのだ。ここまでしても厄介ごとに引っかかる時は多々ある。
 仕事には命が掛かっているのだ。それだけ調べてもまだ足りないと思うぐらいでなければ、ワーカーはやっていける仕事ではない。自分達の手に負えないような危険の匂いがするなら、どれだけ好条件でも降りる必要があるのだ。

「……金銭的な面の確認をしたが、前金として渡された――」

 ヘッケランはテーブルの上に一枚の金属板を置いた。そこには色々な文字が細かく掘り込まれている。

「――金券板を帝国銀行で確認したが全額払い込み済み。いつでも現金化可能だ」

 金券板は帝国が運営している銀行が保証する、小切手のようなものだ。
 かなり細かな作りをしているのは偽造されないためである。
 手続きに時間が掛かるということと、手数料が取られるというデメリットはあるものの、メリットは計り知れないほどある。
 例えば金貨は1枚10g。1000枚にもなれば10kg。かなり嵩張るためにこういったものを使って、取引を楽に済ませるものは多い。特に貴族や商人、そして冒険者のような高額な取引を行う存在たちが。
 諸国では通常は冒険者ギルドがこういった業務を行う場合があるのだが、帝国の場合は帝国自身が保証して行っているのだ。

「罠っていうことも無いんだ……。まぁ、この金券板を渡してきた時点で本気だとは思ったけど」

 イミーナは手を伸ばし、テーブルに置かれた金券板を取ると、外から入り込む明かりに透かすように見る。金券板に細かな文字が浮かぶ。
 裏切るつもりのある相手は大抵が前金を払わないパターンだ。
 イミーナからすると金貨1000枚を支払ってまで罠にはめるなんてことをされるほど、聞いたことも無い貴族に恨まれた記憶は無い。ならば信頼しても良いのではという思いが浮かぶ。

「私は――」
「ストップ。イミーナ、まだ終わってないんだ。もう少し頭を柔らかくしておいてほしい」
「はいはい。じゃぁ聞かせて。何で急ぎの仕事だと思う?」
「――不明。伯爵の関係者等になにか非常事態が起きているという話は無い。数日内に何かイベントがあるという話も無かった。遺跡内部から何かを持ち出せという依頼でも無い」
「王国の方でも特別動いているという話は無いみたいです。まぁ、ちょっと前の情報になるとは思いますが」

 今回の仕事は本日の早朝依頼内容を聞かされたと思ったら、出発は明日早朝。その時間までに返事が無かった場合は断ったと考える、というものだ。
 確かに急ぎの仕事というのは珍しいものではない。フォーサイトの一行だってそんな仕事をしたことだってある。ただ、問題は今回の仕事は1パーティーでのものではなく、複数のパーティーを雇っての仕事だということだ。

「――他のパーティーは?」
「受けるという方向が3つ。断るのが1つ」
「そちらから特別な情報は手に入らなかったので?」
「隠していたのか。それとも何も手に入らなかったのか。何も」

 お手上げという風にヘッケランは肩をすくめる。

「――なら可能性は対立する者がいる」
「ありえますね。そうなら急ぐ理由も多くの者を雇う理由も出てきます」
「もしそうだと仮定するなら……私達レベルのチームのうち3つが雇われたということは……ワーカーはさほど問題ないとして、冒険者の動きをチェックしないと不味いみたいね」
「それよりは注意すべきは、埋伏だな。目的を果たしたと思ったら寝首をかかれるなんてゴメンだ」
「埋伏か冒険者。確かにまだ冒険者の方が良いですね。彼らならまともな交渉が効くし、酷いことにはならない」
「ワーカーの場合はマジで殺し合いになるからね」
「――リーダーどうするの?」

 大体意見は出し尽くした。あとは推測とか予測の類の話だ。

「決める前に1つ言っておく必要がある事があった」

 隣に座るイミーナが僅かに息を呑む。

「アルシェ。お前に会いに変な男が来たんだ」

 アルシェの作り物のようにも思える感情の乏しい表情。その眉がぴくりと動いた。その反応を見て、知っている人物かとヘッケランは了解する。

「そいつは最後にこう言った。……なんだったっけ?」

 ヘッケランはイミーナに問いかけると、何を言ってんの、という視線が迎え撃った。やがて本気で覚えてないということを理解すると、疲れきった声で答える。

「『フルトんちの娘に伝えて置けよ。期限は来てるんだからってな』」
「だ、そうだ」

 皆の視線はアルシェに向けられる。
 一呼吸。大きく息を吐き出し、アルシェは口を開く。

「――借金がある」
「借金?!」

 ヘッケランは思わず驚きの声を上げてしまう。無論、ヘッケランだけではない。イミーナもロバーデイクも驚きの表情を浮かべていた。ワーカーとしてどれだけの報酬を得たかは、等割にしている関係上、互いに知っているのだ。自分の懐に入った金額を考えれば、借金なんてありえないような話だ。

「一体いくらなんです?」
「――金貨400枚」

 そのアルシェの答えに、再び互いの顔を見合わせる。
 安い金額ではない。それどころか通常の人間で考えるなら破格な額だ。一般職人の給料が1月3金貨。つまりは133か月分の給料に匹敵する額だ。
 彼らクラスのワーカーでもこの金額は、1回では稼げるかどうか微妙なラインだ。
 彼らのチームはワーカーでもかなり上位。冒険者ならAクラスに匹敵する能力を保有するパーティーだ。そんなクラスでも1回では稼げない可能性があるほど大金。それほどの借金を一体どうして作ったというのか。

 その疑惑に満ちた目の含むところを察知したのだろう。アルシェは顔を暗いものとする。
 本心からすると、当然言いたくは無い。しかし、言わないわけにもいかない。ここで話を打ち切ることはパーティーの輪を考えたら、追い出されてもおかしくは無い状況だと理解できるからだ。
 決意したアルシェは口を開く。

「――家の恥になるから言えなかった。――私の家は鮮血帝に貴族位を奪われた家系」

 鮮血帝――ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。
 その異名の通り、己の両手を血で染め上げた皇帝だ。
 父である前皇帝を不慮の事故で失って即位。直後、当時5大貴族と呼ばれていた自らの母方の父――祖父が長をしていた貴族家を、皇帝暗殺の容疑で断絶。さらには自らの兄弟も次々に葬った人物だ。その中、母に当たる人物も不慮の事故で亡くなっている。
 無論、反旗を翻したものはいる。だが、既に前皇帝の頃から、騎士という力を握りつつあった鮮血帝にとっては敵ではなかった。圧倒的軍事力で立て続けに有力貴族の掃討を開始。数年で自らに忠誠を尽くすものだけが残るという結果となったのだ。
 さらには無能はいらない、という発言と共に、多くの貴族の位を剥奪していった。
 そして有能であれば平民でも取り立てるという行為が、一気に皇帝の権力を絶大なものとしていったのだ。大きな反乱となる前――国土が荒れないように行っていった、敵対貴族の掃討はまさに見事としかいえないものだった。そしてそれが当時、10代前半の少年が行ったものだと信じられる者がいないほどに。

 そんな人物のおかげで没落した貴族は珍しくは無い。ただ――。

「――でも両親は今だ、貴族のような生活をしている。無論、そんなお金があるわけが無い。だから少し性質の悪いところから金を借りて、そんなことに当てている」

 3人は互いの顔を見比べる。
 うまく隠してはいるが、互いに苛立ち、不機嫌、怒りの感情が透けて見えた。
 アルシェが最初に仲間になったときの発言『――魔法の腕に自信がある。仲間に入れて欲しい』。ほっそりとした子供が、自分の身長よりも高い杖を両手で持って、そんなことを言ってきたのだ。そのときの互いの顔を思い出そうとすれば思い出せる。そんな驚きだった。そしてその後のアルシェの魔法の実力を知ったときの顔も。
 それから2年以上、幾つもの冒険――1歩間違えれば死ぬようなものを超えて、かなりの金を得ても、アルシェの装備が大きく変わったようには見えなかった。
 その理由が今、ようやくわかって。

「マジかよ。いっちょガツンと言ってやろうか?」
「神の言葉を言ってきかすべきですね。いやいや、神の拳が先ですかね」
「耳に穴開いてないかもしれないから、まずは穴を開けるところからはじめない?」

 いやいや、これはどうだと互いのアイデアを言い合う仲間達に、アルシェは声を投げる。

「――まって欲しい。ここまで来た以上、私から言う。場合によっては妹達は連れ出す」
「妹がいるのか?」

 こくりと頷くアルシェに、残る3人は顔を見合わせる。言葉には出さないが、この仕事を辞めさせたほうがいいんじゃないかという思いからだ。
 ワーカーは確かに金を稼げる仕事だ。それは冒険者よりも。しかし、その反面、非常に危険度の高い仕事でもある。安全を確認した上で仕事を選んでいるつもりだが、それでも予期せぬ出来事というのは珍しくは無い。
 下手すれば妹を残して死ぬ事だって考えられる。だが、ここから先は余計なお世話だというのが、皆の心にあった。

「そうか……。ならひとまずはアルシェの問題は了解したとしよう。で、その件の解決は任せるとして……今回の仕事を請けるかどうかだ」

 ヘッケランはそこまで言うと、アルシェに冷たい視線を送る。

「アルシェ。悪いがお前の決定権は無い」
「――悪くなんか無い。問題ない。金銭に絡む問題を持っている私では、正しい答えは出せないとの判断だということぐらい理解している」

 金に目がくらんで、という奴である。

「――正直、このチームを追い出されないだけマシ」
「何を言ってるんだか。お前さんみたいな腕の立つスペルキャスターが仲間に入ってくれたことは、俺達にとってもラッキーなことだぜ」

 素に返り、ヘッケランはアルシェに言う。これはお世辞でもなんでもない。事実だ。
 特に彼女の生まれ持った才能。奇跡的に与えられたその目は、ヘッケランたちフォーサイトにとって非常に役立つ働きをしたことが幾度と無くある。
 魔法使いは魔法力と称される魔法のオーラのようなものを、体の周囲に張り巡らしている。魔法の使う腕が高まれば高まるほど、それを感知する能力も高まる。しかしながらこれはなかなか感知するのが難しく、する方が珍しいぐらいである。
 しかし様々な才能を持って生まれてくる子供の中で、時折この魔法力の感知に長け、ほぼぴたりと当てられる子が存在する。

 アルシェ・イーブ・リリッツ・フルトは、まさにそんな力を持って生まれた者だ。そして同じ力を持つ者はヘッケランたちが知る中では、帝国にもう1人しかいないほどの貴重な。
 
「しかし魔法学院もこれほど優秀な子を良く外に出したわよね」
「全くです。この歳で私と同格の位階まで使いこなせるのですから。もしかすると第6位階まで到達できるかもしれませんよ」
「――それは難しいと思う。実のところこの目だけでも食べてはいけるとは思う。でもそんなに稼げないから」

 少しばかり砕けた空気が戻ってきた辺りで、ヘッケランは1つ手を叩く。その乾いた音が全員の視線を集めた。

「さて、今回の依頼は受けるか、どうか? ――ロバーデイク」
「構わないと思います」
「イミーナは?」
「いいんじゃない? 久方ぶりの仕事だしね」

 ワーカーの仕事だってそう頻繁にあるものでもない。特にこんな高額の仕事はそうだ。
 基本的に安い仕事をこなしたり、2月ほど仕事が無かったりはざらなのだ。実際、この1月、まともな仕事は無かった。犯罪に関わる仕事はあったが、フォーサイトとしてはゴメン被るものばかりだ。そのため、ここらでドカンと稼ぎたい気持ちは十分に分かる。

「なら――」
「――私に気を使ってるなら、それは遠慮したい。もし今回の仕事を請けなくても他にも手はある」

 3人の視線が交わり、そしてイミーナがニヤリと笑う。

「まっさかー。考えてもみなよ、悪い仕事じゃないって分かるでしょ?」
「そういうことです。あなたのためではないですよ」
「だってよ」
「――感謝する」

 ペコリと頭を下げたアルシェに、3人は互いに目配せをしあい笑いかける。

「じゃぁ、アルシェは俺と金券板を換金。残る2人で冒険の道具の準備に入ってくれ」

 冒険に使うための道具、ロープや油、魔法の道具などのチェックを怠ることは出来ない。几帳面なロバーデイクと盗賊としての技術を持つイミーナに適した仕事だ。いや、ヘッケランが向いていないということもあるのだが。

「さて、行動を開始するんだが……アルシェ」

 何と言うように頭を傾げるアルシェに、ヘッケランは疑問に思ったことを口にする。

「なぁ、報酬は今のところ全額で1800枚。借金を返すには足りない額だぜ?」

 確かに4人で割れば450枚。借金は返せる額だろう。しかしながらフォーサイトの場合は報酬を貰った場合は5で割ることとしている。この4が各員の報酬で、残る1がパーティー管理の運営費用だ。この1からポーションやスクロール等の消耗品代及び宿代等の雑費が出されることとなるのだ。
 つまりは今回の仕事の報酬は1人360金貨ということだ。

「――問題ない。それだけ支払えばまた少し待ってもらえる」
「残り40枚ぐらいなら貸してあげるよ」
「そうですね。この次の報酬で返してもらえればよいわけですから」

 決して上げるとは言わないのがパーティーとして当然の行為である。お互いが対等なのだから、

「――それは遠慮する。もう、いい加減親が返すべき。せめてもの親孝行で時間だけあげる」
「そりゃ当然だわ」

 4人で顔を見合わせ、笑い声を上げると各自すべき仕事に取り掛かっていた。



 ■



 帝都の一区画。そこには無数の立派な邸宅が立ち並んでいた。高級住宅街。主に貴族達の邸宅が並ぶ、帝都でも最も治安の良い区画の1つだ。
 古いながらもしっかりかつ豪華な作りをした邸宅は、数十年以上、主人を変えることなく過ごしてきた。
 しかしながら現在は鮮血帝によって、中の住人が変わっていれば、空になった所もあった。


 貴族──の邸宅というのは1つのステータスシンボルである。金が勿体ないからといって、邸宅を飾らない存在というのは貴族階級では嘲笑の対象だ。これは貴族であるという力を内外にアピールするための物であると同時に、相手を迎え入れるための場所として使うからだ。
 貧しい邸宅と豪華な邸宅。招かれたとき、力を感じるのはどちらかと言えば理解しやすいだろう。
 金を持ちながらも邸宅を飾らない存在というのは、自分を良く見せようとする意思を持たないと判断されるのだ。

 そのため邸宅に金をかけるのは正しい行為なのだが、それはそれに相応しい力を持つものの場合だ。

 立ち並ぶ邸宅の1つ。そこは未だ住人をその内に入れた館であった。
 そこの応接間。

 硬い表情で室内に入ったアルシェを出迎えたのは彼女の両親だ。貴族とはこういうものだという品の良い顔で、仕立ての良い服を着ている。

「おお、お帰りアルシェ」
「お帰りなさい」

 2人の挨拶に答えるよりも、アルシェの視線が向けられた先になるのはテーブルの上に乗ったガラス細工だ。非常に細やかに彫刻の施された杯を形取ったもので、それなりの値段を感じさせる。
 アルシェが頬を引きつらせるのは、それが今まで家の中で見たことが無いものだからだ。

「──それは?」
「おお、これはかの芸術家ジャン──」
「──そんなことは聞いてない。それは今までうちに無かった。何故そんなものがある?」
「それはね、これを買ったからだよ」

 気軽な──今日の天気を話すような口ぶりでの父親の言葉に、ぐらりとアルシェの体が揺れる。

「──幾らで?」
「ふむ……確か交金貨25枚だったかな? 安かろう?」

 がっくりとアルシェが肩を落とす。今回の報酬で借金を返してきたら、更に借金が増える原因を見せられれば誰だってこうしたくもなるだろう。

「──何故買った?」
「貴族たるもの、こういったものに金をかけなければ笑われてしまうものだよ」

 自慢げに笑う父親に、流石のアルシェも敵意を感じる目で見てしまう。

「──もう、うちは貴族ではない」

 父親の表情が硬くなり、赤くなる。

「違う!」父親はダンとテーブルを強く叩く。応接間の分厚いテーブルであったため、ガラス製の杯がまるで動かなかったのは幸運か。「あの糞っ垂れな愚か者が死ねば、我が家はすぐに貴族として復活するのだ! 我が家は代々帝国の貴族として存在してきた歴史ある家。それを断絶することが許されるだろうか!」
「これはそのための投資だ! それにこうやって力があることを見せることで、あの愚か者にも我が家は屈しないということを見せ付けるのだ!」

 愚かだ。アルシェは興奮し鼻息の荒い父親をそう評価する。あの愚か者とは鮮血帝のことだろうが、アルシェの家程度なんとも思ってもいないだろう。だいたい、そんなことを考えずに、もっと別の手段で見返させるべきではないだろうか。
 世界が見えていない。アルシェはそう判断し、力なく頭を振る。

「2人とも喧嘩はやめて頂戴」

 のんびりとした母親の口調に、アルシェと父親の睨みあいは止む。無論確執を残しつつも、第三者の顔を立てるという意味での一時中止でしかないが。
 母親は立ち上がると、アルシェに小さな小瓶を差し出した。

「アルシェ。あなたに香水を買ったのよ」
「──幾ら?」
「金貨5枚よ」
「そう……ありがとう」

 アルシェは母親に礼を言うと、大した量の入ってない小瓶を受け取り、それをしっかりとしたポケットの中にしまいこむ。
 アルシェからすると、母は冷たい目で見ることが難しい。というのも化粧品のようなものは確かに賢い考え方だといえるからだ。
 身なりを整え、良いパーティーに出席し、力ある貴族に見初められる。女の幸せは結婚にあるというそんな考えは、貴族の観点からするとかなり正しい考えだ。そのための投資として化粧品を買うことは間違ってはいない。
 しかし、それでも今のこの家の状態で香水は無いだろうという思いも浮かぶ。

「──何度も言ってる通り無駄使いはするべきではない。最低限の生活に必要な分だけ消費すべき」
「だから、言っているだろう! これは必要な消費だと!」

 憤怒のため顔がまだらに染まっている父親を疲れたようにアルシェは見る。幾度となく繰り返し、なぁなぁで終わってきた問題だ。こうまでなってしまったのはアルシェの所為でもある。もっと早く、何らかの力技を使っていればこうはならなかったかもしれない。そして『フォーサイト』の面々に迷惑をかけることも無かっただろう。

「──私はもう家にお金を入れない。妹達と家を出て暮らす」

 その静かな声に激昂したのは父親だ。事実この家に金を入れている人物がいなくなるのはまずいという程度の考えは浮かぶ。

「今の今まで暮らして来れたのは誰のお陰だと思っている!」
「──もう恩は返した」

 アルシェは言い切る。この数年で渡した金額は安い額ではない。そしてこの金は冒険で得た、仲間と共に強くなるための費用だ。確かに報酬の個人の取り分の使い道は各員それぞれだ。
 ただ、暗黙の了解として、大半が自らを強化することに使われるのが当然だ。いつまでも武装をより良いものにしない仲間を見て、どう思うだろうか。
 武装を強化しないということは、下手すると1人だけ弱い状態でいる可能性だってあるのだ。
 だが、ヘッケランたちフォーサイトの面々は決してアルシェに対し、何か言おうとはしなかった。それに甘えすぎていたのだ。
 アルシェは強く睨む。その強靭な意志を感じさせる視線を受け、父親はひるんだように目をそらした。当たり前だ。死線を潜り抜けてきているアルシェが、単なる愚かな貴族に負けるはずが無い。
 何も言わなくなった父親を一瞥するとアルシェは部屋を出た。


「お嬢様」

 部屋を出たアルシェに、見慣れた顔が恐る恐るという感じで声をかけてくる。

「──ジャイムスどうした?」

 長年仕えた執事のジャイムスだ。その皺の多い顔は緊張感を漂わせた硬いものだ。即座にその理由に思い至る。それは父親が貴族でなくなった頃から時折見る顔だからだ。

「このようなことをお嬢様に言うのは心苦しいのですが……」

 アルシェは手を上げることで、これ以上言わせまいと言葉を遮る。応接室の前で行うべき会話ではないと判断し、2人で少しばかり離れる。
 アルシェは懐から小さな皮袋を取り出し、それを開いた。中かには様々な種類の輝きがあった。最も多いのは銀の輝きだ。ついで銅。最も少ないのが金だ。

「──これでどうにかなるだろうか?」

 皮袋を受け取り、中身を覗き込んだジャイムスの顔がわずかばかりに緩む。

「給金、および商人への返済……何とかなると思います、お嬢様」
「──良かった」

 アルシェも安堵の息を漏らす。自転車操業だが、まだ何とかなると知って。

「──父に買わせない様に出来なかった?」
「無理です。お知り合いの貴族の方を伴って来られました。途中幾度か旦那様には言ったのですが……」
「──そう」

 2人で揃ってため息をつく。

「──少し聞きたい。もし今雇っている者たちを全員解雇した場合、最低限どれだけの金額を用意したほうが良い?」
 
 ジャイムスの目が少しばかり開き、寂しそうに微笑む。

「畏まりました。おおよその金額を計算し、お持ちしたいと思います」
「──宜しく頼む」

 そのときタッタッタっという軽いものがそこそこの速さで移動してくる音が響く。それもアルシェに向かって。避けることは簡単だが、流石に避けるわけにはいかないだろう。
 振り向いたアルシェに向かって走ってくる影が1つ。そして速度を緩めることなくアルシェにぶつかってきた。体重の軽いアルシェよりももっと軽い体躯だ。正面から受けとけることは容易いが、そういうわけにも行かない。受けると同時に、後ろに下がり、その勢いを殺そうとする。


 胸の辺りに飛び込んできたのは、身長は110センチほどの少女だ。年齢は5歳ぐらいだろうか。目元の辺りが非常にアルシェに似ている。そんな少女はぶぅと不満げにピンク色の頬を膨らませた

「かたーい」

 これは飛び込んだアルシェの胸が平坦だといっているのではない。
 冒険者用の皮を多分に使った服は防御能力にも長けている。それはつまり胸部から腹部にかけては、硬質な皮を使ったりしていること。そこに飛び込んだのだ。潰れるような思いだったことだろう。

「──大丈夫だった?」

 少女の顔を触り、頭を撫でる。

「うん、大丈夫。お姉さま!」

 ニコリと少女は楽しげに笑う。自らの妹にアルシェも笑いかける。

「……では私はこれで」

 2人の邪魔をしまいと離れていく執事に目礼を送ると、アルシェは自らの妹の頭を撫で回す。

「ウレイ……走るのは……」

 そこまで言おうとして、アルシェは口ごもる。貴族の令嬢が廊下を走るというのは不味い行為だ。しかし、父親に言ったようにもはやアルシェたちは貴族ではない。ならば走っても良いのではないか。そんな考えが浮かぶ。
 その間もアルシェの手は止まらず、結果、頭がぐしゃぐしゃに撫で回され、少女は屈託も無い笑い声を上げる。アルシェは周囲を見渡し、もう1人がいないのを確認する。

「──クーデは?」
「お部屋!」
「そうなの……少し話したいことがあるの。一緒に行きましょ」
「うん」

 妹の朗らかな笑顔。これを守るのは自分だ。そう強く感じ、アルシェは妹の小さな手を握る。
 アルシェの小さな手でもすっぽり収まるより小さな手から、暖かな体温が伝わってくる。

「お姉さまのおてて硬いよね」

 アルシャは空いている手を見る。冒険によって幾度となく切れ、硬くなった手はもはや貴族の令嬢の手ではない。だが、それに後悔は無い。この手は当たり前の手だ。いや、この手だからこそ、友──フォーサイトの仲間たちと共に生きた証なのだから。

「でも大好き!」

 妹の両手でぎゅっとアルシェの手が握られる。アルシャは微笑んだ。

「ありがと」



 ■



 早朝。
 未だ太陽が昇らぬ時間に、伯爵の敷地には無数の者たちが集まっていた。戦士、魔法使い、神官、盗賊。ほぼ全員がそのどれかの分野に属している者ばかりだ。
 最後に到着したヘッケランたち『フォーサイト』を入れて、その数は18名。
 この場にいるその人数こそ、伯爵に今回の仕事のために集められた、帝都内でも腕に自信のあるワーカーたちだった。

 雇われただろうワーカー・チームがお互いに少しばかりの距離をとって、チームメンバーだけで集っている。そして互いを値踏みするように観察しあっていた。最後に登場したフォーサイトの面々に視線が一気に集まる様はある意味、壮観なものを感じさせた。
 互いに群れているその中央では、3人の者たちが集まって、互いに情報を交換しているのか何事かを話し合っている。あれらがチームの代表者たちなのだろう。

 ヘッケランたちは薄闇がまだ立ち込める中、目を凝らし誰がいるのかを確認する。帝都内での商売敵ぐらいは大抵調べているため、外見を見ればどのチームが雇われたのか予測はつくというものだ。

「うげぇ、あいつもいるのか」

 3人のワーカー。
その中にある男がいるのを確認したイミーナは、吐き捨てんばかりのそんな強烈な嫌悪感むき出しの声をあげる。一応は低い声で言っているとはいえ、ヘッケランたちが周囲の反応を伺ってしまうほどの敵意を込めて。

「イミーナさん」
「わかってるって、ロバーデイク。一応は今回の仕事仲間だしね。……でもあいつの顔を見ていたくないね」
「――私も好きでは無い」
「まぁ、好きか嫌いかではいうなら、私も嫌いですが」
「……おいおい、これから挨拶するのに、嫌なこと言うなよ。顔に現れちまうだろ?」
「頑張ってください、リーダー」

 ロバーデイクの気楽そうな声に、他人事だと思いやがってと顔を顰めると、ヘッケランはその3人のワーカーの下に歩み寄っていく。

 近づいていくヘッケランに最初に声をかけたのは、黒色に染め上げられたフルプレートを着用しているワーカーだ。鎧が変な丸みを持っているために、人というよりも直立するカブトムシのような甲蟲に近いような外見だ。腰には両手持ち用の巨大な戦斧。
 顔を完全に覆う兜の隙間から男の低い声が漏れ出る。

「やはりお前のところも来たのか、ヘッケラン」
「おう、グリンガム。なかなか良い話だと思ってな」

 気楽そうにヘッケランは手を挙げ、それを残る2人に対する挨拶とする。

「おまえさんのところは……」鎧を着た男のチームに首を向け、人数を数えると再び尋ねる「5人ってことは他のメンバーはどうしたんだよ」
「のんびり休憩中だよ。まぁ、この前の仕事で色々と壊れたものの修理とかもしなくてはならなかったしな」

 この男――グリンガムがリーダーを務めるチーム、『ヘビーマッシャー』は全メンバーで9人という大所帯ワーカー・チームだ。人数が多いということは仕事に対して様々なアプローチが取れるということであり、非常に応用性に富んだ行動を取ることが出来るというとだ。その反面、意志の決定までに時間が掛かるということでもあり、動きが鈍くなりやすいということ。
 少し考えればこのように一長一短であり、2つに別れてもおかしくないチームを、完全に掌握しているのだからこの男の管理運営能力の高さを物語っている。

「ふーん。大変だな。しかし……がっぽり稼いだりして残った仲間に恨まれたりしないように、俺達のサポートに回るなんてどうよ?」
「馬鹿をいうな。帰ったらたらふく奢ると約束してるんだ。お前達には悪いが、俺達が最も稼がせてもらうぞ」
「おいおい、勘弁してくれよ」

 互いに笑いあうとヘッケランは別の男に向き直る。

「そちらさんと正面から顔を合わせるのは初めてだな」

 よろしくと手を伸ばすと、その男も握り返してくる。
 眉目秀麗。その言葉がまさに相応しい青年だ。その非常に整った顔の、口元だけが微笑みの形を伴っていた。胸当てと皮鎧を纏い、腰にははるか南方の都市より流れるとされる刀。
 そんな人物の切れ長の目が動き、ヘッケランを見据える。

「――『フォーサイト』。噂はかねがね」

 鈴の音色を思わせる涼しい声だ。その外見に非常に相応しいと称するのが正解か。

「そっちもな、『天武』」

 この帝都において剣の腕においては並ぶものがいない。闘技場でも不敗の天才剣士。彼を知らないものはワーカーにはいないだろう。
 そんな『天武』はある意味彼1人で構成されるワーカー・チームのようなものだ。

「王国最強といわれる、かのガゼフ・ストロノーフに匹敵されるといわれる剣の天才と一緒に組めて嬉しいぜ」
「ありがとうございます。ですが、そろそろかの御仁が私――エルヤー・ウズルスに匹敵すると言われるべきでしょうね」
「おー。言うねー」

 エルヤーが薄く笑い、傲慢とも取れるような表情を浮かべた。それを受け、ヘッケランは目の中に浮かびそうになった感情を隠す意味で、瞬きを繰り返す。

「じゃ、遺跡ではあんたの剣の腕に期待してるぜ」
「はい。お任せください。今から行く遺跡に苦戦するようなモンスターがいればよいのですが」
「……どんなモンスターがいるかは未知数だぜ? ドラゴンとか出るかもよ?」
「それは恐ろしい。ドラゴンぐらいであれば苦戦はしそうですね」

 そうかい、そうかいと顔だけで笑いながら、ヘッケランは感情を殺す。
 エルヤーが剣の腕だけなら、A+の冒険者にすら勝てる可能性があるということを考えると、大言壮語とも言い切れない受け答えだ。それに己の腕に自信を持つことは良い事だし、能力をアピールすることはワーカーとして重要なことだ。
 しかしながらそれも度を過ぎなければ、だ。

 世界最強の種族たるドラゴン。
 天空を舞い、口からは種別に属した様々なブレスを吐く。鱗は硬く、その肉体能力は群を抜く。年齢を重ねたものにいたっては魔法をも使いこなす。人間とは比較にならない寿命を誇り、蓄えた英知は賢者ですら平伏すという。個人主義ということが無ければ、この世界はドラゴンによって支配されていたことは間違いないだろう。
 また、かの13英雄の最後の冒険ともなった――敗北した相手『神竜』もドラゴンだとされている。
 話のネタだからといって、そんなドラゴンを対象に上げられてなお、あれだけ傲慢に振舞えるのだからもはや驚くしかない。どれだけ自意識が肥大しているというのか。

 これから向かう遺跡にどれだけのモンスターがいるか知れないのに、エルヤーの思考パターンは全体の足を引っ張りかねない危険なものだと判断して間違いは無いだろう。

 あまり近寄らない方がいいか。
 倒れるのは勝手だが、寄りかかられたりしたら面倒だ。ヘッケランはわずかな微笑を浮かべたまま、そう判断し、エルヤーの扱い方について修正を加える。利用してポイ、という方向に。

「あちらがフォーサイトの方々ですね」

 イミーナを目にし、エルヤーの視線が鋭いものへと変わっている。エルヤーはスレイン法国の出身とされている。スレイン法国は人間こそ最も尊いと考える宗教国家だ。そんな出身地の者からすると、人間以外の血が混じるイミーナは一等低い存在だ。そんな女が自分と同じ位置にいるのが不快なのだろう。そんな雰囲気がその目の中には宿っていた。

「……おいおい、俺の仲間になんかするなよ?」
「勿論ですとも。今回の仕事に関しては仲間です。協力し合いますとも」

 一応は仲間ということになっているのに、何かしでかすようなことはしないとは思うが、ヘッケランは釘を刺すことは忘れない。エルヤーという男はなんというか力を持った子供がそのまま大きくなったような恐ろしさというか、精神的なアンバランスさを感じさせるのだ。釘をさしておいても安心できないような、そんな嫌なものを感じる。
 警戒しておくか。ヘッケランは心中でそう決定する。

「とりあえず、野営の順番等に関してはそちらで決めていただいて結構です。よほどのことが無い限りは全体を統括される方の指示に従います」
「了解した」
「では一先ず私は戻ってますので、何かありましたら声をかけてください」

 グリンガムが答えるとエルヤーはヘッケランたちに一礼をし、歩き出す。
 エルヤーが向かう先。そこに立っている複数の女性を見て、ヘッケランの顔が一瞬だけ歪みそうになる。しかしながら感情を表に出すわけには行かない。どういう感情を持っているか知られることが不利益になる場合だってある。チームのリーダーがそのようなことでは失格だ。
 ヘッケランは鉄面皮を作ると、汚物から目を離すように視線を動かし、残る最後の1人の方に向ける。

「よう、パルパトラ」
「よう、ヘッケラン」

 金髪、碧眼。白い肌は日に焼け、健康的な色となっている。ヘッケランと同じ帝国では珍しくない人種だ。顔立ちも凡庸。取り立てて評価すべきところが無い。
 年齢は20台半ばに入りかかったところか。
 着ているものフルプレートメイル。背中にはスピアとかなり大きなシールドを背負っている。攻撃よりは防御を重視した構成。そのことから『鉄壁』とも称される男だ。

「ヘッケランも思っただろうけど、アレは危なすぎるよな」

 他者に聞こえないほどの大きさでパルパトラが困ったように言う。それに対してヘッケランも頭を振る。

「――だな。潰れるのは仕方ないにしても、共倒れで潰れるのはごめんだよなぁ」
「あれが強いのは事実なんだろうが、強さに自信を持ちすぎてるのは危険だな」

 横からグリンガムが口を出す。グリンガムもそう思っていたのだろう。いや、エルヤーの態度を見て、そう思わないワーカーはいないだろう。

「大体、あいつってどれぐらいの強さなんだ? 戦っているところ見たことあるか?」
「あー、ヘッケランも知らないか。俺も実は見たことは無いんだ。闘技場なんか行かないし、組んで仕事をしたこともないし。グリンガムは?」

 グリンガムの兜がフルフルと左右に動く。

「強い奴なんか色々いるからな。やっぱ、筆頭は王国最強のガゼフ・ストロノーフ。対抗馬としては帝国ならば4騎士かな?」
「『重爆』『不動』『雷光』『激風』か。アーグランド評議国のドラゴンロードは?」
「おいおい、人間の剣士のみにしようぜ。流石にマジもののドラゴンは除外だろう」
「それじゃアーグランド評議国の大抵が駄目か。あそこは亜人ばっかりだしな。亜人も強い奴がいるんだがなぁ……竜騎士とか良い線いくと思うし……。えっと、それなら闘技場の『鬼王』も駄目だろ……ローブル王国の聖騎士様は?」
「ああ、いたなぁ。聖剣を使う女だっけ? でも単純な剣の腕のみだとどうだろ?」

 会話がエキサイトする。ワーカーとして強敵についての情報を集めるのは当然なのだが、やはり戦士として同業他社の情報というものは最も興奮してしまうものだ。

「スレイン法国は平均が高いけど、突出した奴がいないし、いても神官系だからな」
「王国のA+の女冒険者は?」
「あぁ、『胸ではなくあれは大胸筋です』な。あれは強いよなぁ」
「……その勝手につけた二つ名呼んで半殺しにあったAクラス冒険者いるぞ……」
「剣の腕のみとすると……厳しいな。冒険者やワーカーなら『勇者さま』とか『ダークロード』。『クリスタル』のセラブレイト、『豪炎紅蓮』のオプティクス、それとブレイン・アングラウスなんてどうだ?」

 初めて会話が止まった。

「誰、それ?」

 パルパトラが不思議そうにグリンガムに尋ねる。

「知らないのか。王国では結構有名だと思うんだけどな」

 お前は知らないかと、ヘッケランは尋ねられ、首を横に振る。

「そうか知らないか……」

 少しばかりがっかりとした感じでグリンガムは、昔の記憶を掘り起こしながらブレインという男について話す。

「俺が昔王国で開かれた闘技大会に出たとき、準々決勝で当たった相手だ。無茶苦茶、強かったぞ」
「それってガゼフ・ストロノーフが優勝した時の大会だろ?」
「そうだ。まぁ、結局ブレインも決勝でガゼフには負けていたな。だが、あれは凄い戦いだったぞ。まさに剣士として見る価値のある戦いだった。……あの攻撃をどうして弾けるんだとか、あそこでこうやって剣を曲げるかと……ほんと感心したな」

 グリンガムほどの男がそれほど言う。そしてかの近隣国家最強とされる戦士、ガゼフとそれほどまでに互角に戦いあったというなら、その実力は超一級だろう。
 知らないだけで世の中には強い奴も色々といるのだなと、ヘッケランは感心する。

「その……ブレインというのとエルヤー、どっちが強い?」
「ブレインだな」即答するグリンガム。「今はどうなったのか知らないが、まさに剣の天才だったな。俺なんかほんの2撃で剣を落とされたものだ。無論、今はあのときよりも強くなったから、そう簡単にはいかない自信があるが……。まぁ、エルヤーよりも上だと思うぞ」

 肉を叩くような重い音と女性の押し殺したような悲鳴が上がる。
 この場にいるワーカー全ての視線が一箇所に集まる。幾人かは腰を微かに落としつつ、戦闘に入れるような体勢だ。
 そこではエルヤーの前に仲間――疑問が付くが――の女性が倒れている。殴り飛ばしたのだろうと、想像に難しくない。
 不快感に襲われたヘッケランはあることに気づき、自らの仲間――イミーナの方を慌てて目を向ける。そこではイミーナが能面の表情で、いまだ戦闘体勢を維持しつつあった。その姿勢は抜き放たれようとしている剣だ。もう少し何かがあれば、即座に攻撃に移るだろうというギリギリ感を放っている。
 慌てて、ヘッケランは抑えるように手で指示をする。
 個人的にはヘッケランもイミーナと同じ思いだ。しかしながら、他のチームのことに首を突っ込むことは出来ない。無論、やろうと思えば出来ないことは無い。ただ、その場合は全てを背負い込む覚悟が必要だ。事実、他のチームの者も幾人かが不快気に顔を歪めるだけで、実際に行動しようとはしないのだから。
 イミーナはエルヤーの背中に卑猥な手つきを突きつけると、舌打ちを1つ。

「……さて、おしゃべりはこの辺にしないか?」

 空気を変える様に、ヘッケランは他の2人に言う。

「……そうだな、ヘッケランも来たことだし、最も重要なことを決めようじゃないか」
「エルヤーは辞退したが、チーム全体の指揮権は誰が持つ?」

 グリンガムの言葉に沈黙が落ちる。
 ワーカー・チーム4つ。確かに戦闘力としてはかなりのものだが、それらを統括して指揮を執るものがいなければ上手く動くことは出来ないだろう。腕が何本あっても無駄になるだけだ。
 そして個性豊かなチームを上手く運用するとなると、なかなか難しいものがある。特に文句の出ないようにとなると困難極まりない。
 ここで自分がとリーダーシップを取ろうとしないのは、下手すると他の3チームに恨まれかねない結果になるからだ。

「正直、全体の指揮官は選別しなくても良いんじゃないか?」
「それは問題の先送りだ。戦闘を開始したときに厄介ごとになるぞ?」
「……一番いいのは1日交代じゃないか?」
「あー」
「だなー」
「なら、ここに来た順に指揮権を持っていくか」
「エルヤーのところ、『天武』は如何する?」
「エルヤーが指揮を投げたし、飛ばしで構わないだろう」
「なら、まずはうち『ヘビーマッシャー』の番だな」
「よろしく、グリンガム」
「了解した。まぁ、帝国内に関してはさほど凶悪なモンスターも出ないだろうし、問題ないだろう。問題になるのは王国内、それも大森林近くなってからだな」
「あー、順番逆にすればよかったか」

 ヘッケランがワザとらしく頭を抱えると、2人が静かに笑う。そしてすぐに表情を引き締めると、ようやく明るくなってきた庭のある方向を向く。既に周囲のワーカー殆どがそちらの方に向き直っていた。
 そこでは1人の執事が歩いてくるところだった。背筋を伸ばした歩き方。それは伯爵に仕える者に相応しい、そんな態度だった。
 執事はワーカーたちの前まで歩いてくると、一礼をする。それに答える者はいないが、それには意を介さずに口を開く。

「時間になりました。今回、我が伯爵家の依頼を受けていただき、誠にありがとうございます」
「当家から同行する者は御者2名。目的地は王国内にありますナザリック大地下墳墓。調査のため滞在する期間は3日。追加報酬はご主人様がその情報から何を得られたかによります。ですので、後日ということになります。問題が無い様であれば付いて来て下さい。準備しました馬車のところまでご案内させていただきます」

 何故、そんな墳墓の情報を知っている。またはどんな情報を優先的に持ち帰ればよい。
 いろいろな疑問はあるだろうが、聞いて答えてくれることと答えてくれないことの区別ぐらい、経験からワーカーの誰もが理解できた。もし教えてくれるなら依頼してきた段階で教えてくれるのだろうから。
 そのため何も言うことなく、全員が後ろについて黙々と歩き出す。
 そんなワーカーの一番最後を歩くのは、ヘッケランたちフォーサイトの面々だ。

 ヘッケランの横に並んだイミーナが呟く。

「あの糞、死んだほうがいいと思うんだけど」

 エルヤーに対して我慢しきれないイミーナが憎憎しげに吐き捨てる。かなり押し殺した声なのは、怒りのためかそれとも自制が働いているからか。ヘッケランには読みきれないが、後者であることを祈るしかない。

「噂には聞いていましたが、下劣な男ですね」
「――最悪」

 フォーサイトの誰もが不快感を顕わにする。当たり前だ。イミーナという女性を仲間にしている以上、エルヤーのしていることは許しがたいことだ。
 エルヤーのチームはエルヤーを除き、全員女である。それもエルフの。単純にそれだけならばイミーナも他のメンバーも不快感を表さなかっただろう。しかしながら先ほどのエルヤーの態度のように理由がある。

 それはエルフの女性が全員、最低限の装備はしているが、よく見れば服などさほど良い仕立てのものではない所にある。そして短く切られた髪から突き出している、エルフの長かっただろう耳は、中ほどからすっぱりと切り落とされていた。
 それは奴隷の証。
 彼女達、エルヤーのチームメンバーは皆、スレイン法国から流れてきたエルフの奴隷だ。

 スレイン法国では人間以外の種族の奴隷を許している。そしてエルフの場合は奴隷の証として、焼け印ではなく、耳を真ん中から切り落とすのだ。
 確かに帝国では基本的に奴隷制は導入していない。
 しかしながら、闘技場で戦っている亜人等、暗黙の了解として認められている場合がある。エルヤーの連れているエルフの奴隷もその関係だ。
 バハルス帝国、リ・エスティーゼ王国、スレイン法国の三ヶ国は国民の中の人間の割合がほぼ100%であり、周辺諸国と比べると異種族に対する排他的な空気がある。そのため亜人――実のところイミーナも――には少々暮らしにくい国なのだ。

 ただ、ドワーフだけは別だ。
 バハルス帝国とリ・エスティーゼ王国の中央を走る境界線たるアゼルリシア山脈。その山中にドワーフの王国があり、帝国はそこと貿易をしている関係上、ドワーフの人権はしっかりと守られているからだ。

「エルフが可哀想なのは理解できる。だが、今俺達がやらなければならないことはあのエルフを助けることではない」

 イミーナは何も答えずに深いため息をつく。
 納得は出来ないが我慢する。そんな不機嫌さ100%の了承の合図を受け取り、ロバーデイクもアルシェも不快感を押し殺す。最も苛立っている者が我慢しているのに、自分が表に出すことはよろしく無いという考えだ。



 ワーカー全員で向かった先にはあったのは、かなり大き目の幌馬車が2台。それを引く馬は通常のものとは違った。その馬を見たワーカーの誰かが呟く。

「――スレイプニール」

 そう。
 その馬車を引く馬の足の数は8本。その馬の種類こそ、スレイプニールといわれる魔獣の一種だ。
 通常の馬よりも体躯は大きく、筋力、持久力、移動力に優れている。そのため人が飼いならしている、陸を走る獣の中では最高とされる生き物だ。無論、その分金額もかなり高い。軍馬10頭以上にも匹敵する価格で取引される馬で、貴族でも滅多なことでは保有できない馬だ。

 それを2頭立ての馬車2台なので計4頭。もしかすると冒険の最中失われることも考えると、良く出したとしか言えない。

 いや、違う――ヘッケランは思い、その場にいる多少は見通すことの出来る者も思う。それほどの急ぎの仕事なのかと。

「こちらの馬車をお使いください。食料等は中に積み込んであります」
「――ロバーデイク」
「了解しました」

 各チームから最低1人、代表になる者が歩み出ると、幌馬車の中を覗き込み、執事の話を肯定する声を上げた。
 幌馬車にはかなり大量の保存食が積み込まれ、水を生み出す魔法の道具も置かれている。目的地までの距離を考えるなら、充分すぎる量だ。今回の件は隠密行動を主に行って欲しいためという依頼内容のため、これからは物資の補給が出来ない。しかしそれを考えても問題は無いだろう。
 念を入れて各チームの物資等の管理を行っている代表達が話し合い、問題が無いことの確認を取っている。

 ヘッケランはグリンガムの元による。話しておかなくてはならないことがあるためだ。

「すまない、グリンガム」
「どうした?」
「馬車の分け方なんだが、『天武』とうちを別にしてくれるか?」

 グリンガムの兜がイミーナを確認するように動く。それから頷いた。

「了解した。なら俺達が天武と一緒の馬車になろう」
「すまない。感謝する」
「まぁ、気にするな。今回の件では仲間だ。着く前から問題を起こされるのは真っ平ごめんだ。――では、行くか」

 管理を行っていた者たちが充分、納得をしたような姿勢を見せ、それに合わせグリンガムが声を上げた。



 ■



 目的地であるナザリック大地下墳墓までの行程の4/5、問題になることは一切起こらずに到着できたのは帝国の治安の良さのためであろう。
 帝国領内は騎士たちが巡回することで平穏は守られており、モンスターが徒党を組んで彷徨っているということはほぼ稀であるし、野盗が出没することも稀だ。そのため、問題は残る1/5――王国領内に入ってからとなる。
 王国領内に入ればその仕事の内容上、街道上の移動ではなく、人の通らない平野等を移動することになるからだ。人の通らない地を踏破するともなれば、モンスターとの遭遇率は急激に上昇する。
 確かにこれだけのワーカーが揃っていれば、大抵のモンスターに対処は効くだろうが、それでも油断をするわけにはいかない。バジリスクやコカトリスのような石化を行うようなモンスターや、チンのような致命的な猛毒を持っているモンスターがいるのだ。ちょっとした攻撃が命取りになる可能性があるのだから。

 しかし、王国領内に入っても幸運なことにモンスター等と一回も遭遇することなく、目的地――ナザリック大地下墳墓に到着したのは、ヘッケランたちワーカーに幸運の女神が微笑んだからだろう。もしくはその大所帯にモンスターが怯えたのか。


 ナザリック大地下墳墓。
 周囲は6メートルもの高さの厚い壁に守られ、正門と後門の2つの入り口を持つ。正門横にはまだ新しそうなログハウスのような家が建っている。
 内部の下生えは短く刈り込まれ、綺麗なイメージを持つが、その一方で墓地内の巨木はその枝をたらし、陰鬱とした雰囲気をかもしだしていた。
 墓石も整列してなく、魔女の歯のように突き出した乱雑さが、下生えの刈り込み具合と相まって強烈な違和感を生み出している。その一方で天使や女神といった細かな彫刻の施されたものも多く見られ、一つの芸術品として評価しても良い箇所もところどころある。
 そして墓所内には東西南北の4箇所にそこそこの大きさの霊廟を構え、中央に巨大な霊廟があった。
 中央の巨大な霊廟の周囲は、10メートルほどの鎧を着た戦士像が8体取り囲んでいた。
 敷地内に動く者の影は一切無し。


 それが飛行の魔法を使って上空から眺めてきた、ナザリック大地下墳墓の地上部分の情景である。

 今回の仕事を請けたワーカーたち18名は、ナザリック大地下墳墓後門から300メートル離れたところで、遠目に観察を行いながら、もたらされた情報に眉を顰める。
 その中でも最も眉を顰めた者――スペルキャスターに代表される、ワーカーの中でも知恵のある者たちが頭を抱えて、相談しあっていた。

 生じた疑問は、何でこんなところに地下墳墓があるのだろうかである。
 確かに書面上の調査でも奇怪なものは感じていた。
 しかし、もう少し隠してあったり、木の伐採跡があったりしたなら理解できたのだ。しかし到着し周囲を見渡せば平野しかない場所だ。墳墓を築くのはあまりにも不向きな場所過ぎる。

 まず単純な墓としての利用性を考えるなら、人里から離れたこんな場所にこれほど立派なものを築くのは奇妙な話だ。あまりにも不便すぎるのだから。
 では死者を祀る場ではなく、故人の為した業績を後世に伝えるモニュメントとしての目的となると理解できなくも無いが、ナザリックという名前に関してまるで伝わっていないことが違和感を覚えさせた。さらにモニュメントとしてなら、地表部分に墓石が無数にあるというのが理解できない。

 さらには各チームが調べても情報が無かった。それは即ち今まで発見されてない、もしくは入ることを許されなかったというどちらかを意味するはずだ。しかし外見的にあまりにも立派であるのに、まるで情報が無い。
 ログハウスがあるということは誰かが管理しているのだろうが、その辺の情報もやはり一切無かった。この近辺が直轄領ということも考慮すれば、王国の兵士が管理しているのだろうが、その割には念の入った警戒をしているようには見えない。

 結局、あまりもチグハグしているのだ。
 
 そんな喉に引っかかったような奇妙な異物感が、眉を顰めさせる原因となっていた。
 正直に言ってしまえば、罠と考えるのが妥当すぎる風景なのだ。ただ、罠だと考えると不明な点が無数に残る。帝国の領内ではなく王国の領内、ワーカーたちを送り込む目的等だ。
 つまりワーカーたちは頭を悩ませつつも、まるで見当がつかなかったのだ。


「で、どうするんだって?」

 疲れた顔で戻ってきたアルシェに、ヘッケランは軽く声をかけた。

「――とりあえずは夜になったら3チームが隠密裏に行動を開始する。残った1チームは冒険者の振りをして、ログハウスの中の人物と友好的に交渉しようという方針」
「なるほど。明るいと侵入がばれやすいからね」
「――そう」

 ナザリックの周囲を囲む壁は高く、誰も見張っている者がいない関係上、今から侵入してもばれにくいとは思えるが、それでも不測の事態という奴は起こりえるものだ。せめて暗い中行動した方が、多少は安全が高まるだろう。
 それにそれだけの時間、観察を続けていればナザリック内で動きがあったりと、何らかの情報を得られるかもしれない。
 今回の仕事はタイムリミットがあるが、それでもここで時間を潰したとしても惜しくは無いと、知恵者たちは考えたのだろう。

「ですが《インヴィジビリティ/透明化》の魔法などを使えば安全に偵察できるのではないですか?」
「――それも確かに考えた。でも、面倒になる可能性があるなら、全てを一度にやってしまったほうが良い。最低でも多少は調べられる」

 《インヴィジビリティ/透明化》の魔法だって、看破する手段が無数にあるように、完璧な魔法ではない。もし仮にワーカーが魔法を使って接近しているということを――何者かは知らないが――ナザリック大地下墳墓の警護に関わる者が理解したら、警戒レベルは当然上がるだろう。下手したら数日間、潜入が一切出来ないほどに。
 それを避けるため、全てを同時に行動するという作戦を立てたというのだ。
 
「なら、しばらくは休憩時間みたいなものか」
「――そう。各チームが持ち回りで様子を伺おうということになった。順番は伯爵の家に着いた順。つまりはリーダーを取った順でもある」
「なるほど。つまりはおれたちが最後ってわけか」
「――そう。基本は2時間交替。私達の番はまだまだ」

 そこまで言うとアルシェはぐるりと首を回し、力無くため息をつく。

「お疲れですね」

 ロバーデイクにこくんとアルシェは頷く。

「――疲れた。ここまで時間が掛かったのも、全てはあの最悪男が強行突入を提案した所為。説得するのに非常に苦労した。あの男は協調性という言葉を知らない」
「……ああ、エルヤー」
「最低の糞野郎で充分よ」

 殺意すら篭っているイミーナに苦笑いを浮かべ、ヘッケランは話題を変えようと腐心する。

「なら、俺達の番まで宿泊地に帰ってのんびり待つか」
「賛成です。雨はしばらくは振らないと思うんですが、念のためにそういった準備もしないと不味いですからね。イミーナさん、あなたの出番なんですからいつまでもそんな怖い顔をしてないでください」
「――あいよ。あー、本当にむかつくわー。少し離れたところに建てるからね」
「予定している敷地内なら構わないけどな?」

 本当は良くは無いが、下手に近くに建てて喧嘩沙汰はごめんだ。

「じゃぁ、行くか。おい、グリンガム。俺達は先に帰ってるな」
「おう!」

 最初の監視チームである『ヘビーマッシャー』のリーダー、グリンガムに手を振り、4人は歩き出す。

「――しかし考えれば考えるほど不可思議。伯爵が依頼したのも納得できる」

 その声に反応し振り返ると、アルシェが足を止めてナザリック大地下墳墓を凝視していた。
 ヘッケランたち3人も立ち止まり、ナザリックの壁を眺める。かなり厚くしっかりとした作りの壁は、石を積み上げたものではなく、まるで巨大な一枚の岩盤から削りだしたかのようだった。300メートルもの石を持ってくることは不可能なので、何らかの手段で継ぎ目を巧妙に隠しているのだろうが、これほどの技術は人のものでは無いだろう。
 石の種族、ドワーフによるものか。はたまたは人を遥かに超える叡智を持つドラゴンのもの。もしかすると未だ知らない種族の可能性だってある。
 外の壁を観察するだけで、無数の想像が生まれる。

 ヘッケランは浮かび上がるニヤニヤ笑いをかみ殺し、ワクワクとした気持ちを押し潰すのがやっとだった。

「……分厚いのは恐ろしいアンデッドを封じるためだったりして」
「――うわー怖いー」
「――ヘッケラン。私に似てない。というか気持ち悪い」
「はい。すいません」
「しかしなんでこんなところにあるんですかね? 墳墓が突然空間から沸いて出たとかなら話は通るんですけどね」

 小声で言ったロバーデイクに、3対の白い目が向けられる。

「バカいうなよ」
「――つまらない」
「無茶苦茶な……」
「そこまでいうこと無いでしょう。ちょっと思っただけなんですから」

 ショックを受けた顔で、ロバーデイクが呻く。

「でも――少しだけ楽しみ」
「そうね。この墳墓がなんのためにあるのか。どういう者が葬られてきたのか。知的好奇心が思いっきり刺激されるわよね」
「だな。未知を知るって少しばかりワクワクするものな」


 ◆


 夜空の下、13名のワーカーは一斉に行動を開始した。
 最初の目的は、ナザリックの壁への接近だ。
 全身鎧を着ている者が多くいる中、隠密行動は不可能のように思われるが、それはあくまでも常識の範疇での考えでしかない。魔法という常識を打破する技を使いこなす者が多くいる中、この程度は不可能でもなんでもないのだ。
 まず使用するのは《サイレンス/静寂》。周辺の音を完全に殺す魔法をもってすれば、鎧の軋む音も大地を駆ける音も響かない。
 次に《インヴィジビリティ/透明化》。これによって不可視となれば、通常視野での目視による発見はほぼ困難だ。
 念を入れ、上空には《インヴィジビリティ/透明化》と《フライ/飛行》、さらには《ホーク・アイ/鷹の目》の魔法が掛かったレンジャーが、一行が問題なく壁まで接近できるように周辺の監視を行う。何かあれば即座に対応するため、手には麻痺の効果のある特殊な矢を準備している。

 全員が問題なく壁に到着する。ここまでは予測の通りだ。
 監視している最中、ナザリック大地下墳墓は夜にもなっても、何かが警戒している雰囲気は無かった。警備兵どころか、墓守の姿すら確認できなかったのだ。大体、ログハウスから外に出る影すらなかった。
 そんな警備のザルな墳墓外壁への到着に、これほど魔法を使っての警戒はオーバーすぎるほどだ。これは単純に依頼者への――隠密裏に行動して欲しいという――義理を果たしているにしか過ぎない。
 それと王国から犯罪者として指名手配を受けるのはこりごりだという。

 ただ、ここから先は問題でもある。壁を乗り越え、地表部分の捜索。及び地下墓地内の侵入だ。
 《インヴィジビリティ/透明化》の魔法効果時間が持続している間に、次の手に移る。

 次はナザリック大地下墳墓の内部侵入だ。
 手は2つ。壁を乗り込める方法と、門を開けて入り込む方法である。

 門は格子戸のような隙間のあるタイプである。問題は隙間があるとはいえ、流石に人が潜るには幅が狭すぎるということだ。大きさは4メートル近く。無理に押し開けることは困難だ。さらに壁は一枚の石で出来たかのようなつるりとしたもの。登攀は非常に難度が高い。登攀用具を持ち出し、昇るともなるとそれなりの時間が掛かるというものだ。
 ただ、歴戦のワーカーたるもの、既に計画済みである。

 30センチほどの奇妙な棒が突然、中空に浮かぶとそれが地面に落ちる。それは姿の消えた人間が持ち上げたかのように中空に浮かび、歪んだと思うと突然淡い光を放つ。この特殊な棒――蛍光棒は歪められることで中に入っている錬金術で作られた特殊な液体が混合し、明かりを灯す仕組みになっているのだ。一度落とされたのは《インヴィジビリティ/透明化》の魔法は、発動時に所持しているもの全てに掛かるもののためである。見えるようにするには、一度所持品から手放さなければならなかったのだ。

 数度、光は左右に動くと、役目を終えたといわんばかりに棒は破壊される。光る錬金術溶液は地面に振り掛けられ、土をかけられることで完全に痕跡を隠されてしまう。

 しばらくの時間が経過し、ロープが3本、壁から垂らされた。ちょうど良い間隔に結び目ができた登攀用のロープだ。これは上空にいたレンジャーが、ナザリック大地下墳墓内部から垂らしているのだ。
 そんなロープがギシリギシリと揺れる。
 透明化を見通す目を持つ者がこの場にいれば、ロープを登っていく者の姿を確認できただろう。
 アルシェのような筋肉よりは魔法に長けたスペルキャスターでも、単純な腕力でこの程度の登攀はできる。というよりは出来るように筋肉トレーニングを要求される。

 先頭を行く者が、登りきったところで魔法の詠唱。
 それに続き、ロープが3本、中に向かって垂らされた。その先端は誰が持つでもなく、空中にアンカーでも打たれたように、ピクリとも動かず固定されていた。それだけ見れば非常に脆そうなイメージだが、誰も心配することなく、空中から垂らされたロープを伝って内部に下りていく。

 全員が下りきった段階でロープにかけられた魔法の力は失われ、力なく落ちてくる。そんなロープは纏められると代表となる者が担ぐ。中空に丸められたロープが浮かぶ姿は異様だが、こればかりは仕方が無いことだ。

 こうして13名のワーカーは全員ナザリック内への侵入を果たした。彼らが歴戦たる証拠は、この一連の動作からも判別できる。なぜなら、この間の全ての行動は、互いの姿を見ることが出来ない、音が聞こえないという過酷な状況下で行っているからだ。
 詳細な打ち合わせ、チーム内での互いの行動パターンの把握、信頼。そういったものが無ければ決して行えないような見事な動きだった。無論、1つのチームに関しては支配者と被支配者の関係によって上手く動いているのだが。

 そして、ここで一旦、団体行動は解散となる。
 最初の目的は4箇所ある小型の霊廟である。ナザリックに侵入を果たしたチームは3チームなので、一箇所は調査しないということで決定されている。

 《インヴィジビリティ/透明化》の効果時間が切れ、全員の姿が浮かび上がる。互い互いに軽い挨拶を行うと、全チームは打ち合わせにある自分達の担当する霊廟を目指し、走り出す。
 身を屈め、少しは墓石や木々、または彫刻に姿を隠すように薄暗い墓地を走る。この間も《サイレンス/静寂》の持続時間は続いているので音は立たない。


 ◆


 『ヘビーマッシャー』のリーダーであるグリンガムは霊廟に近づくにつれ、僅かに目を見開く。
 予想以上に立派なものだからだ。

 霊廟はかなりの大きさの建物で、石を積み上げて作られていた。側面の石壁は削ったようにつるつるとしている。建てられてかなりの時間が経過しただろうにもかかわらず、霊廟に雨とかの染みはまるで無いし、風雪による欠けも無い。
 3段ほどの大理石で作られた昇り階段の先には、厚そうな鉄の扉が嵌っていた。扉も錆が無いほど見事なまでに磨き上げられ、黒い鋼の輝きを宿していた。
 どれだけしっかりとした手入れがされてきたかを髣髴とさせる建物だ。

 ――つまりは何者かが手入れをしているのは確実か。
 グリンガムはそう判断し、視線をログハウスのほうに向ける。

 仲間の盗賊が前に進み出ると、ゆっくりと階段から調べ始める。まだ《サイレンス/静寂》が掛かっているために、ハンドサインによる後ろに下がれという合図を受け、ゆっくりと後退することは忘れない。範囲型の罠に掛かるのを避けるためだ。
 盗賊は非常に念入りに調べている。多少じれったいがこれは仕方が無いだろう。

 なぜなら、人の魂は肉体に宿る。そしてその魂は肉体が腐り落ち始めた時に、神の御許に召されるという。そのため死者は直ぐに墓地――大地に葬られるのが基本なのだが、貴族等の一部の力を持った特権階級の場合は少しだけ違う。
 すぐに地面に埋めると、死体は隠されてしまい、本当に腐敗したのかを確認するには掘り返さなくてはならなくなる。そのため、死者が確実に腐りはじめたという目で見える証拠が欲しいため、直ぐには埋めずにある一定時間安置するのだ。この安置場所は流石に自分の家を選ぶものはいない。
 このとき選ばれるのが、墓地の霊廟である。ここに一定時間安置し、腐敗しはじめたところで魂が確実に神の御許に送られたと、神官立会いの下、判断するのだ。
 この安置する場所は基本は霊廟の共有スペースだ。広い場所に幾つも石の台座が置かれており、その上に安置することとなる。幾つもの腐敗し始めた死体が並ぶ光景は、一見するとすさまじいもののようにも思われるが、この世界の一般的な常識からするとごくごく当たり前の光景である。
 ただ、大貴族のような権力と金を持つ者になると、さらに少しばかり話が変わる。このとき使用される霊廟は共有のものではなく、家が所有するもの先祖伝来の場所が使われるのだ。そんな亡くなった権力者が神の御許に召されるまでの間、休む場所――そういったところであるが故に、家系所有の霊廟はある意味、力の象徴である。
 調度品や宝物で飾られることが全然珍しくないほどに。

 つまりは霊廟はある意味、宝物室にも似ている。ただ、それは逆に当たり前なのだが、侵入者除けとして危険な罠が仕掛けられているということ考えられる。いや、これだけ立派な霊廟なら、あるのが普通だろう。それも危険極まりないものが。
 そのためいつも以上に、仲間の盗賊が慎重に調べているのだ。

 階段を調べ終わり、次は扉に取り掛かろうと盗賊が動きだそうとしたころ、突然、周囲の音が戻ってくる。
 《サイレンス/静寂》の効果時間が切れたのだ。ちょうど良いタイミングといえばタイミングだ。盗賊は音を立てずに扉の前まで寄ると、再び念入りに調べ始める。そして最後にコップのようなものを当て、中の音を聞き取ろうとした。

 何秒間かして、盗賊はグリンガムたち仲間の方に頭を数度左右に振ってみせた。
 そこに込められた意味は『何もなし』。
 ヘビーマッシャーの全員が納得の行かない顔をするが、盗賊はやはり頭を左右に振る。盗賊自体、不可思議なのか怪訝そうに幾度も首をひねっていた。
 これほど立派な霊廟が『何もなし』というのは考えにくいということだ。
 しかも鍵すら掛かってないことは謎だが、盗賊がこれ以上不明だというなら、ここからは前衛の仕事だ。

 グリンガムは前に出ると、盗賊が油を垂らした扉に手をかける。その直ぐ後ろには盾を構えた戦士が控える。
 グリンガムは、扉を一気に動かす。ゆっくりと重い扉が動き出す。油を前もってかけていてくれたおかげでか、はたまたはここを管理している者が几帳面なのかは不明だが、重さの割りにスムーズに開いていく。横に控えていた戦士が、開いた扉とグリンガムの間の線上に立って、盾を突き出し突如の奇襲や罠の作動から庇ってくれる。

 何かが飛んでくることも無く、鉄の扉は完全に開かれ、ぽっかりとした暗闇がヘビーマッシャーの前に姿を見せた。

「《コンティニュアル・ライト/永続光》」

 魔法使いによって戦士が構えていたメイスに魔法の明かりが灯される。光量をある程度は自在に操作できる魔法の明かりによって、霊廟の中が顕になった。
 そこは豪華な一室と見間違いそうな場所だった。

 部屋の中央には神殿の祭壇にも使われそうな白い石製の棺。2.5メートル以上はあるそれは、繊細だが派手ではないような彫刻が掘り込まれている。四隅には鎧を纏い、剣と盾を持つ戦士らしき白亜の像。そして――
 
「――あの紋章知ってるか?」
「いや、知らないな」

 見たことの無い紋章が金糸で描かれた旗が、壁から垂れ下がっていた。王国の大抵の貴族の紋章を暗記している魔法使いが記憶にないということは、王国の貴族のものではないと考えるのが妥当だ。

「王国が出来る前の貴族のものか?」
「200年ものか」

 200年前の魔神によって滅ぼされた国は多く、この大陸内で200年以上歴史を持っている国というのは意外に少ない。ワーカーや冒険者達が漁る遺跡というのは、この辺の時代で生まれたのが多いのだ。

「もしそうだとすると、あれほど綺麗な形で残るって、どんな材質のもので編まれているんだ?」
「魔法による保存がされているのでは?」

 互いに疑問を口にする中、盗賊が注意深く中に入り込み、室内を捜索する。
 残った一行は扉には太い鉄の棒を挟み、何かが作動しても簡単には閉まらないようにした。それから内部の明かりが漏れないように、半分以上閉める。盗賊が注意深く内部を伺う間、グリンガムたちも周囲の警戒は怠らない。仕方なしとはいえ明かりを使ったのだ。誰かに見られている可能性だってある。
 やがて、外に動く気配なしと判断する頃、盗賊は旗の下まで到着しており、しげしげと旗を眺めていた。
 そして触り、驚いたように手を引く。

「……こいつはかなりの値打ちだろうな。これ金属の糸を編んで作ったものだ」
「はぁああああ!?」
「んだ、そりゃ?」
「そんな旗あるのか?!」

 驚愕の声が面々から漏れる。そして慌てて全員で旗の下まで近寄ると交互に触る。その冷たい感触はまさに金属のものだ。 

「おいおいおいおい。こんなの聞いたこと無いぞ?」
「俺もだ……」
「なんだよ、この霊廟……。どこの大貴族のものだ? いや、大貴族とかじゃなくてもしかして王家のものか?」

 どれだけ細くした金属でこの旗を作り上げているのか。どれだけの値段がつくものなのか。想像もできない驚きに、ヘビーマッシャーの全員は絶句する。

「持って帰るか?」

 盗賊がどうすると言いたげな顔で他の4人の様子を伺った。最初に驚きから立ち直ったのはやはりグリンガムだ。

「流石にそれは嵩張るだろう。かなりの重量だろうしな。後で取りに来ればいいんじゃないか?」
「了解」

 他の意見が無いことを確認した盗賊は頷き答える。

「捜索した結果だが罠は無論無いし、隠し扉等も無い」
「……ならば、頼むぞ」

 グリンガムが魔法使いに向かって頷く。こくりと了解の意を示した魔法使いは魔法を発動させる。
 
「《ディテクト・マジック/魔法探知》。――魔法のアイテムは感じられないな」

 周囲の魔法の波動を探知する魔法を使った魔法使いの発言に、僅かながっかり感が霊廟内に広がる。それも当然だ。最も高額な宝が無かったのだから。
 魔法の道具は高額である分、単なる強化魔法がかけられた剣でも結構な値段になるのだ。単なる軽量化の魔法の込められたフルプレートメイルだって、それだけでかなりの財産なのだ。

「ならば、後はこいつか」

 目が集まったのは部屋の中央に置かれた石棺だ。

 盗賊がしっかりと調べ上げ、何も無いという評価を下す。
 グリンガムと戦士は頷きあうと石棺の蓋をずらし始める。かなり大きいため、それなりの重量があるかと思われたのだが、逆に想像よりも遥かに軽い。動かし始めた当初、バランスを崩しかねなかったほどだ。
 ゆっくりと石棺の蓋が動き、その中からランタンの明かりを反射し、無数の煌びやかな輝きが放たれた。
 金や銀、色とりどりの宝石といった、無数の光沢を放つ装身具の数々。無造作に散乱するように散らばった金貨の数々。
 旗から予測はしていたとはいえ、グリンガムはその光景に、鎧の下で思わず満面の笑みを浮かべてしまう。注意深く観察した盗賊が手を入れ、無数にある輝きの1つ――黄金のネックレスを取り出す。
 それはやはり見事な一品だった。黄金の鎖で作った単なるネックレスのように見えるが、鎖の部分に細かな彫刻が掘り込まれている。

「……安く見積もっても金貨100枚。場所によれば150枚はいく」

 盗賊による価格鑑定の結果を受け、口笛による感嘆の意志を示す者がいる。ニヤニヤ笑いを浮かべる者がいた。そこにあるのは歓喜だ。

「こいつは……この墓地は宝の山かもしれませんな」
「すげぇな。こいつはとてつもなくすげぇ」
「全くだ。しかしこんなところに宝物置くなんて勿体無いもんだぜ。大切に使ってやるからな」

 そう言いながら、魔法使いが宝の山から大降りのルビーの嵌った指輪を取り出し、宝石の部分にキスをする。

「でっけぇー」

 神官が手を入れ、大振りの金貨の山に手を突っ込む。そしてそれを掬い上げ、手からこぼす。
 金貨同士がぶつかる澄んだ音色が響く。 

「見たことの無い金貨だな。どこの時代のどこの国のものだ?」

 ナイフで軽く傷をつけた盗賊が感嘆するように言う。

「こりゃ、かなり良い金貨だな。重さもなかなかあるし、交金貨の2倍は価値があるな。美術品として見なすならもう少しは行くと思うな」
「こいつは――くっくくく……」

 笑いが止まらないというように幾人かが含み笑いを漏らす。これを全て集めればかなりの金になる。とんだ臨時報酬だ。これだけあれば、1人当たりの分け前は半端じゃないだろう。
 誰もがこの金をどのように使うかについて、考えてしまうほど。

 勿論、誰が所有するか、最低でも王国の管理地だろう場所の財宝を奪うことがどういうことなのか、それぐらいは分かっている。だが、ワーカーというものは冒険者と違い、平然と宝を奪う。そしてその行為に疑問を抱いたりはしない。

「さぁ、お前達。神様に感謝するのは後回しにして、とっとと集めるぞ。これから本命に向かうんだ。遅いと他のチームに先を越される」
「――おう!」

 グリンガムの言葉に威勢の良い返事が返る。それは大金を発見した興奮に満ち満ちたものだった。


 ◆


 ナザリック大地下墳墓。その中央に位置するのは巨大な霊廟だ。周囲は、10メートルほどの鎧を着た戦士像が8体取り囲んでいる。そんなまるで動きかねない戦士像の足元。そこにヘッケランは僅かに身を屈めながら、霊廟の1つの方角を注意深く監視していた。
 しばらくして、霊廟から身を隠しつつ、疾走してくる5人の姿をとらえる。その影の走る姿に異変が無いこと、周囲にそれを発見するものがいないこと。そういった諸々の問題が生じることなく、ヘッケランの元に無事に駆けて来る姿に、安堵の息を吐く。

 ヘビーマッシャーの面々が接近すると、ヘッケラン周辺の音が突然消えるが、これは先ほどと同じ《サイレンス/静寂》の効果範囲に入ったためだ。
 足元から体を出して身振りをするヘッケランの元に、先頭を走っていたグリンガムが走りこむ。そして《サイレンス/静寂》の効果を打ち消したため、周囲の音が戻ってきた。

「おう、グリンガム。遅かったな」
「悪い。おれたちが最後だったみたいだな」

 ヘッケランの言葉を受け、最後に来たグリンガムは軽く謝罪の形に手を動かす。

「まぁ、無事みたいだし、問題は無いさ。ここじゃなんだ、霊廟の中でこれから先どうするか決めよう」

 ヘッケランはグリンガムを先導するように身を屈め、歩き出す。一番にここに来た関係上、ある程度は既に捜索済みだ。

「そっちはどうだった?」

 後ろから掛かるグリンガムの声。そこにあるのは隠し切れない興奮だ。つまりは先ほどのヘッケランと同じ状況ということ。
 ヘッケランはニンマリと笑みを浮かべ、懐に入れた宝の山を思い出す。そして顔だけ後ろに向けるとグリンガムに同じだけの興奮を見せる。

「かなりあったぞ、ウハウハだ」
「そっちもか。この墳墓に来て正解だな」
「まったくだ。どんな宝の山だって言うんだか。ここに葬られてる偉人さんには感謝しないとな」
「これだけ見つけると、中にはあんまり無いかもしれないな」
「いや、俺はもっとあるほうに賭けるね」
「ほほぉ。なら今回見つけた財宝を少し賭けるか?」
「いいねぇ。更に財宝を見つけて、お前さんからももらう。最高だね」

 2人で声を上げないよう、だが、大爆笑というほどのはっきりとした笑みを見せ合った。

 誰かが所有しているだろう墳墓の宝物荒らし。当然犯罪ではあるが、それを気にするような者は冒険者なら兎も角、ワーカーにはいない。もし気にするようなら、ワーカーなんかになっていなかっただろう。

「……あれは?」

 1体の巨像の足元に、石碑と言っても良い物がぽつんと置かれていたのだ。暗くあまりはっきりとは見えないが、そこには何かの奇妙な文字が書き込まれているように思われた。

「あれは?」
「あれか?」

 ヘッケランは闇の中、目を凝らすことで、グリンガムが何を疑問に思ったのか把握する。それはヘッケラン自身先ほど疑問に思った物だ。
 ヘッケランは足を止めずに、霊廟の入り口に向かいながら、調査した結果をグリンガムに告げる。本来であれば魔法を使ってまで得た情報を容易く提供するのはどうかと思われるが、今回に限っては大きなチーム――一応は協力し合う仲間だ。隠すことで全体の不利益に繋がる可能性だってある。それに書かれていた文字の内容は、ヘッケランたちもエルヤーたちも皆目検討がつかなかったもの。もしかするとグリンガムが知っているかもという淡い期待が浮かぶ。

「あれは石碑みたいなもので、文字が書かれていたんだ」
「なんと?」
「知らない言語だったんで、うちのアルシェが先ほど解読の魔法で読んだんだが、『タロスVer2.10』と書かれているみたいだな」
「……なんだそりゃ? この墳墓に関係する言葉なのか?」

 ヘッケランの声はヘビーマッシャーの面々に聞こえていただろう。だが、誰も何も言わないということは誰も知らない可能性のほうが高い。まぁ、こんなものかと、自らに浮かんでいた淡い期待を追い払い、グリンガムの質問に答える。

「アルシェの考えでは。数字が何らかの意味合いを持つんじゃないかってさ。この墳墓内のリドルに関する言葉だと思われるが……まぁ、記憶のどこかに留めておいたほうが良いかも知れないな」
「そうだな。そうしておこう」

 巨像の前を抜け、白い石材によって作り出された10段になる階段を昇ると、そこに霊廟の入り口が広がっていた。やけにひんやりとした空気がそこからは流れ出ている。

「死者の匂いだな」
「ああ。そうだな」

 グリンガムの呟きにヘッケランは同意する。墓場特有の匂いが、その冷気に混じるように僅かに漂ってくるのだ。ワーカーたるもの時折嗅いだことのある匂いだ。それはアンデッドたちが漂わせる匂いにも似て。

 中に入るとそこは大きな広間である。左右には無数の石の台が置かれており、その先には下り階段がある。その先の扉は現在、大きく開かれていた。

「こっちだ」

 ヘッケランの先導でグリンガムたちは階段を下りる。
 階段を下りて直ぐにあるのは大広間だ。まるで外部からの侵入を阻むような作りになっている部屋に、ヘッケランの仲間たち『フォーサイト』と『天武』の面々がいる。ただ、チームの数が1つだけ少ない。

「さて、これからどうする? まだ彼らが来てないようだが……」
「予定の時刻は過ぎているが……」

 ログハウス内の情報を持ってくるチームが今だこない。それは何事かあった証拠。最低でもログハウスの中には誰かがいたのだろう。
 安全策を取るなら一度撤退した方が良い。与えられた時間はまだあるのだ。無理に進む必要は無い。
 しかしながら、ある1つの思いが彼らの思考を奪う。
 
 それは来るまでに手に入れた宝の輝きだ。あの無数の輝きが、頭にこびりつき離れないのだ。

 ログハウスの方でも戦闘があったようには思われなかった。中の人間の茶のみ話に付き合っているのだろう。単に遅れてきているだけだ。
 そうやって、ヘッケランは己の根拠の無い想像に納得する。

「ここで待っていても仕方ないし、とりあえずは中に入ったら各自それぞれの行動を取る。ただし階段を発見しても今日は下まで降りない。こんな線でどうよ?」
「問題ないな」
「こちらもです」
「ならこの先を少しだけ調べたんだが、奥の扉を開けると、その先20メートルほどで十字路になっているんだ。そこで解散して奥を調べるということでどうだ?」
「問題ありませんね」
「了解した」
「うんじゃ、いきますか?」

 ヘッケランの提案は即座に受け入れられる。それは皆同じ思い、同じ欲望に捕らわれているからだろう。そうして彼らは一歩を踏み出す。ナザリック大地下墳墓への第一歩を。
 そして絶望への第一歩を。


 ◆


 時は僅かに戻る。
 『鉄壁』パルパトラ率いるワーカー・チームはナザリック大地下墳墓外周の壁沿いに歩き、ログハウスに近づく。近寄って分かることは、ログハウスは建築的な面では大きさを除けば極普通のものだということ。
 そのため外から観察して思うことは、せいぜい外枠が大きいので、これだけ大量に木を持ってくるのは大変だっただろうということ程度だ。それとしっかりとした作りの所為で、内部の明かりが漏れないため、中に誰かいるのか不明だ。
 正面の門は後門と同じような作りだが、大きく開かれており、役目をこれで果たしているのかという疑問が浮かぶ様だった。
 

 パルパトラは背負い袋から魔法の道具である千変の仮面/カメレオン・マスクを取り出すと、それを被り、顔立ちを変化させる。
 流石に友好的には振舞うが、王国の人間だろうと思われる人物の前に素顔を晒したくはない。それになんといっても既に他のチームが墳墓を荒らしている最中だ。全ての罪を被るようなことはしたくもない。

「行ってくる」

 一行に声をかけ、パルパトラはログハウスに接近する。警戒は怠らないが、流石に家の前に罠が無いか捜索しながら行くのは気が狂っている。
 当然も何事も無くログハウスに到着すると、ドアを強くでは無いが、音がしっかりと立つように数度叩く。それから声を上げる。

「申し訳ない。道に迷った者なんですが、どなたかいらっしゃいませんか?」

 温和そうに聞こえるよう、努力して作った声だ。
 少し待つが、返事が無い。もう一度声を張り上げるべきか、そう判断し、ドアを叩こうとしたところで、ドアが動く。

「ようこそ、お客様っす」

 パルパトラ一行は目を白黒させた。
 というのも、大きなドアを開けたところ――そこに立っているのはメイド服を着た美しい女性だったからだ。
 美という言葉にも色々とあるが、彼女に相応しいのは太陽のような美という言葉だろう。健康的な褐色の肌の持ち主で、ころころと表情が変わる非常に明るい女性だ。年齢的には20になる頃だろうか。
 もし彼女と大貴族の館であったなら違和感なんかこれっぽっちも覚えなかっただろうし、屈強な男や陰鬱な男がログハウスから出てきたなら別になんとも思わなかっただろう。
 しかし、目の前の女性――容姿、格好共に、このナザリック大地下墳墓の脇にあるログハウスにはあまりにも似つかわしく無い。

「どうしたっすか?」
「い、いや、思いがけず美しい女性に会えたもので……」
「うおっ。お世辞がじょうずっすね」

 てへへと笑う女性に、パルパトラの警戒心が僅かに緩む。
 
「ささ、中にどうぞ」
「これは失礼します」
「お仲間の皆さんもどうぞっす」

 中に人がいた場合、他のチームが墳墓内の調査に入り込んでるのを目撃されないよう、足止めをするのも役割の内だ。パルパトラは中に入ることに迷いは無い。
 しかし、全員が入ることは出来ない。当たり前だ。魔法の道具を被ることで顔立ちを変えたのはパルパトラのみ。他の仲間の顔を覚えられるわけには行かない。

 殺してしまえば簡単なのだが……。
 そんな物騒だが、酷く当たり前の考えを一瞬だけ浮かべ、パルパトラは即座に破棄する。依頼主からは騒ぎは起こさないようにといわれているのだから。
 まぁ、どうしようも無くなったら殺すしかないが。

「いや、無骨な面々です。長居はする積もりもありませんし、私だけ御呼ばれするということで」
「そうっすか?」
「ええ。それにあなたみたいな美女は独り占めしたいですから」
「……口が上手いっすね」
「いえいえ事実ですから」

 互いに笑いあう。

「なら、どうぞっす」

 入った部屋はまさにログハウスだ。ただ、かなり天井や部屋等が大きく作られており、外部から予測した部屋数が多いかもという予測は裏切られる。全体的に大きな作りのため、まるで自分が小人になった――そこまで行かなくても背が縮んでしまったような、落ち着かない気分にさせられる。

「ささ、かけてくださいっす」
「ああ、これは申し訳ないです」

 パルパトラは指し示された椅子に腰掛ける。フルプレートメイルを着用しているため、かなりの重さだったためか、椅子がミシリと嫌な音を立てた。そしてメイドはパルパトラの前に座る。

「飲み物欲しいですか?」
「ああ、お構いなく」

 心配はないとは思うが、何か入ってる可能性も考えて飲み物は断る。もはやこの辺はワーカーとして危険な仕事をしてきた者の悪癖のようなやつだ。

「いや、しかしこんな場所にあなたのような美しい方がお1人でいるとは思いませんでした」
「まぁ、今は1人っすけど、いつもじゃないっすよ?」
「そうなんですか? ……確かにご格好はメイドのようですが、もしよければご主人様に合わせてもらえればと思うんですが」
「……ご主人様っすか」

 ぴたりと口を閉ざしたメイドを見て、パルパトラは一体何が不味かったのかと考える。何も怪しい行動はしていないはずだ。

「……無理だと思いますよ。私のご主人様はお忙しい方ですから」

 突然口調が変わったメイドに対し、パルパトラは警戒感が強まるのを感じた。しかし、ここに来たのは出来る限りの情報を入手すること。ここで下がっていては仕方が無い。

「……そうですか。ところでご主人様は王国の貴族か何かで? ここを管理されているようですが」
「貴族? 違いますよ」

 メイドの目がゆっくりと細くなった。その瞬間パルパトラは寒気を感じる。前に座っているのは単なる人間のメイドだ。腕も細く、首だって細い。パルパトラが攻撃を仕掛ければ容易く命を奪えるだろう程度の。
 しかし、何故か。パルパトラは前に座っているのが巨大な獣であるかのような予感を覚えたのだ。

「……一体、何をされているので?」
「この墳墓で支配者をやっています」
「支配者……?」

 言われた意味が一瞬だけ理解できずに、パルパトラは目を白黒させる。

「そうです。支配者です。ナザリック大地下墳墓の支配者、アインズ・ウール・ゴウン様。それが私の主人の名前ですから」

 微笑む姿は非常に美しい女性のもの。しかし、その下に――その皮一枚の下に何か棘のようなものがある。
 ぎょっとしたパルパトラに、ニコリとメイドは笑いかける。

「……お忙しいといいましたけど、今頃侵入者を如何するかで忙しいんだと思います」

 椅子が倒れる音が響く。それはパルパトラが急に立ち上がったためだ。
 そしてパルパトラはドアに向かって走った。そしてドアを力いっぱい開いた。

 転がり出るようにドアから飛び出したパルパトラに、仲間達が驚きの声を上げた。

「不味い! 罠だ!」誰何の声を遮り、パルパトラは怒鳴る。「直ぐにメッセージの魔法で連絡を取れ。撤退を提案するんだ」

 パルパトラがログハウスから離れるように動きつつ怒鳴る。目はドアに向けられ、メイドが出てきたら即座に対応するつもりだ。

「……無理だ。何か妨害がされている」

 仲間の魔法使いの発言に、パルパトラは目を丸くし、即座に考え込む。

 考える中身はたったの1つだ。
 見捨てるべきか、はたまたは最低限の努力をしてみるべきか、である。

 時間的にも今頃は中央の霊廟に入り込んだ頃だろう。門をぐるっと回って宿泊地に向かうか、大墳墓を横切って向かうか。横切って向かうなら途中にある霊廟で少しだけ努力しても構わないだろう。

 他のチームのために命をかける気はしないが、それでも最低限の努力はしてやるべきである。
 というのもワーカーは冒険者のように後ろ盾やサポートをしてくれる存在がいるわけではない。確かに貴族等力ある存在が汚れ仕事等用にパトロンとなってくれる場合はあるが、それでも冒険者のように仕事柄完全に心を許すことはできない。
 そんなワーカーにとって最も信頼できるのは、ライバルである他のワーカーなのだ。確かに仕事を奪い合い、時には殺し合いに発展することもある。ただ、命や恩の貸し借りはワーカーが絶対視するものの1つだ。そんなため、ワーカーの風潮で、恩を仇で返すようなワーカーは最も嫌われ、寝首をかかれても仕方が無い存在だというのがある。

 ちらりとパルパトラはログハウスを睨む。あの女を締め上げて情報を吐かせると言うのも1つの手だ。しかし、情報を吐き出させるまでの時間を考えると非常に惜しい。

「霊廟に向かう! 続け!」

 暫し考え、結論を出したパルパトラが走り出し、正面の門を駆け抜ける。他のメンバー達もパルパトラの後ろを続く。恐らくは色々な考えがあるだろうが、リーダーの言葉に即座に従うのは良いチームの証拠だ。


 墳墓を駆け抜け、中央にある大きな霊廟への階段を駆け上る。
 そしてそこに誰もいないことを確認したパルパトラは、正面に開いた扉から中を伺う。薄暗く、地下に伸びる階段には人の気配を一切感じさせない。

「撤収するぞ! ばれてる!」

 大声で怒鳴った。
 パルパトラの声が内部で反射し、異様な音となって響いていく。パルパトラは耳を澄ませる、それに帰ってくる声は一切無い。

「パルパトラ! 下に幾人か女が来たぞ?」

 霊廟の入り口で、下を警戒していた仲間が報告の声を上げる。
 パルパトラの脳裏に浮かんだのは先程のメイドだ。まるで巨大な獣と対峙したような怖気を感じた。だが、それでも逃げ切れる自信はあった。

「戦闘が考えられる。防御魔法をかけてくれ。それから行こう」

 すべきことはした。
 パルパトラはゆっくりと武器を構える。


 パルパトラたちが霊廟の階段を降り、墓地に出るとそこにはメイド服を着た女性達が立っていた。その数は4人。
 誰もが非常に美しく、それがゆえに異常さが際立っていた。

「また会ったすね」
「…………掃討開始」
「止めなさい。シズ。アインズ様のご判断は数名は生きたまま捕まえろということよ。最後にできればという言葉がついていたけど」
「…………了解」
「……肉団子」
「……エントマも駄目よ」
「このごろ美味しい肉団子を食べてません。ルプーもそうでしょ?」
「私は揚げた芋でいいっすね。確かに肉は大好物っすけど、エンちゃんと同じものは……」
「…………合成溶液」
「いや、あれまずいっす。ミルクみたいな色だから味もそうに違いないと思った、私の期待感を返せっす。まぁ口つけたから我慢して全部飲んだっすけどね?」
「…………実はあれカロリーめちゃ高。およそ15食分」
「まじっすか!」

 ガツンとガントレット同士が思いっきり強く叩きつけられ、メイドの1人の内心の感情を意味する音が大きく響く。

「――それぐらいにしなさい? 歓迎されて無いとはいえお客様の前よ」
『はい!』

 3人の声が綺麗に調和する。敬礼しそうなほど、ぴしっと背筋を伸ばした他のメイドたちに満足したのか、代表と思われる、ガントレットを填めたメイドがパルパトラたちに正面から向き直る。

「……さて、初めまして。ボク……失礼しました……私はアインズ様に仕えるランドステュワードたるセバスの直轄メイド――それの代表を務めさせていただいているユリ・アルファと申します。短いお付き合いになるとは思いますが、お見知りおきを」

 女性――ユリは優しく微笑む。恋に落ちたとしてもおかしくは無い、そんな魅力的な微笑だ。一瞬だけ惚けそうになるが、即座に意志を強く持ち周囲に目を配る。

「アインズ様はこうお伝えするようにおっしゃっていました。『ナザリックを漁らなかった君達には生きて帰るチャンスを与えよう。ここから外に出ることが出来たなら、それ以上は決して追わない』と」

 圧倒的強者の弁。
 上位から下位を見るような物言い。
 言葉の端々にある優越感。
 パルパトラたちからすれば非常に不快なものだ。少しぐらい痛い目を見せてやりたいと思うぐらいに。しかしながら外見からとは裏腹に、メイドが強者なのではというワーカーとしての感が叫ぶ。そのため、パルパトラたちは何も言わずに睨むだけだ。

「そして皆さんのお相手をするのは――」
 
 ユリがガントレットを打ち鳴らす。高く響く金属音に会わせ、墓地が揺れる。

「――ナザリック・オールド・ガーダー、出なさい」

 ゆっくりと大地を割って、8体のスケルトンが姿を見せた。
 スケルトン自体は大したことが無い敵だ。パルパトラ達であれば何体でも相手に出来る。恐らくは数百体に襲われても恐怖すら感じないで、作業のように滅ぼせるだろう。
 それを考えれば地面より出てきた、たった8体程度のスケルトンなんか、敵ではないはずだ。

 しかし、今、目の前に姿を現したスケルトンたちは違う。
 パルパトラの仲間達が一斉に唾を飲み込み、無意識のうちに1歩下がる。

 どこかの国の親衛隊が使用しそうな立派なブレストプレートを着用し、紋章の入ったカイトシールドを持ち、その手には各種多様な武器を所持している。背中にはコンポジットロングボウを背負っていた。
 その手に持つ武器に盾、そして纏う鎧。それらの全てに魔法の力を感じさせる輝きを宿していたのだ。

「マジックアイテムを所持させているのか……」
「ありえんな。まったく」
「甘く見れないということか」

 口々に仲間たちが呟く。
 マジックアイテムで装備させたスケルトンが、単なるスケルトンのわけが無い。特に魔法の武器でも特殊な効果を持つ武器はかなりの高額だ。
 パルパトラたちですら各員1個持つのがギリギリぐらいだ。それを8つ。並大抵の財力では出来ないことだ。それともこの墳墓の主人が作成しているのか。

「皆さんの数的に、この程度で充分だと思われます。ご安心を私達は決して手を出しません。あなた方がこれらのアンデッドを突破して脱出できたら勝利です」
「光栄だな。これほどのアンデッドで相手にしてくれるとは。しかし――」

 パルパトラは考える。
 いくらなんでも、これほどのアンデッドを無数に用意することは容易くないはずだ。この程度の充分、そして外に出たら追わないという発言から考えると、予測される答えは1つだ。

「――これがナザリックの最大戦力か? この程度で俺達を止められるとでも?」

 パルパトラの質問に、僅かにユリが動揺したように目を動かせる。
 
 図星か。
 そんなユリを見て、パルパトラはそう判断する。

 侵入者に対し、外に出たら追わないという発言は奇怪極まりないものだ。だが、突破されたら打つ手が無いと考えれば理解できる。恐らくは中にいる他のチームの対策に追われてそこまで余力が無いのだろう。あとは強者っぽいメイドがどの程度いるかは不明だが、先程の発言からメイド長とも言える存在が今ここにいて、その数しか率いてないということを考えると、さほどの数はいないだろう。
 メイド4人、魔法の武具を装備したスケルトン8体。いてその倍ぐらいというところか。

 出口となる場所にかなりの兵力を集める。非常に賢い考え方だ。ならばしなくてはならないことは1つだ。

「ここにいる全てのスケルトンを倒した上で突破すれば良い、違うか?」

 後から続くだろうチームのために、ナザリックの最大戦力であるだろう、ナザリック・オールド・ガーダーは撃退すべき。そんな考えである。
 後のチームが脱出できたとしても、疲労した状態でここでぶつかったら勝てるかどうかは運次第になるだろう。それならばまだ全然疲労していないパルパトラが殲滅するのが、最も貢献した戦いかたというものだ。
 無論、ナザリック・オールド・ガーダーという初めて遭遇するアンデッドが、どの程度の強さを持つかは不明だ。しかしながら絶対に対処しきれないほどの強さではないはずだ。
 それが如何してかというと数にある。
 はるかに強いなら8体もの数はいらないだろう。もしもっといたなら、その全てに魔法の武器を持たせるだけの、財力等の力を持つことが可能というのか?

「――馬鹿馬鹿しい」

 これで全力、いや最低でも過半数だというならまだ理解できる。

「皆、あれで全部だと思うか?」
「流石にアレだけの武装をしたアンデッドがもっといるというのは考えにくいな」
「まぁ、ナザリック内部にはあと何体かいても不思議ではないけどなぁ」
「奴らを倒して道を開くとしようか」

 決意を強く固めたパルパトラたちに、少しばかりユリは驚いた顔をする。そんな答えは計算外だったのだろう。

「まぁ、そういう突破の仕方もありますね。応援してます、では頑張ってください」


 ◆


 ユリたちは困った表情で、必死に応援を繰り返す。
 あまりにも想定外な光景に困惑も隠せなかった。まさかこれほど……、そういった思いがあったのだ。

「いや、まじいっすね」
「…………これほどとは思ってもいなかった」
「コキュートス様もびっくり」
「このままじゃ……全然良いところがなく終わっちゃう」

 ユリたちの見ている前でハンマーが振り下ろされる。

「ありゃ、不味いなぁ。あれ戦士死ぬっすよ」

 胸部に雷撃を宿したハンマーの一撃を受けて、戦士が崩れ落ちる。金属がきしむような音と重い物が倒れる音。激しい戦闘が続くこの中にあっても、非常に響き渡る。

「神官さん。早く治癒魔法かけないと戦士が死んじゃいますよ」
「…………無理。今ので戦線が崩壊した」

 心配そうに呟くユリにシズが頭を横に振って答える。
 先程まで戦士が抑えていた2体のナザリック・オールド・ガーダーが自由となり、1体が神官に、1体が後衛に回ろうとしている。先程から2体受け持っていたところに更に追加の1体が入ることとなるのだ。もはや神官に魔法をかける余力はまるで無い。3方向から襲い掛かってくる攻撃を凌ぐので精一杯だ。

「盗賊では火力不足ですね。何か切り札を持ってないんでしょうか?」

 魔法使いを守って戦っている盗賊が、更に追加で1体を受け持つ形となった。これで2体だ。硬い鎧を纏うナザリック・オールド・ガーダーに盗賊の持つ軽目の武器ではあまりにも決定力に欠ける。なんとか身軽に回避しているが、疲労する人間と疲労しないアンデッドの差は大きすぎる。

「なんだか泣きそうな顔でこっち見てますね」
「手でも振っておくっすか?」
「それぐらいで良いんじゃないですか?」
「おっけっす」

 パルパトラにニコニコと笑いながらルプスレギナは手を振る。

「…………当たった」
「ルプーが注意力を散漫させるから」
「うぇー。私が悪いんすか?」
「…………頑張れ」
「そうね。彼らにも頑張って欲しいわ」

 ユリの言葉にその場にいたメイド、全員が頷く。

 パルパトラのワーカーチームとの戦闘は終始、ナザリック・オールド・ガーダーが押し捲っている形だ。もはや無駄な抵抗としかいえないような戦いっぷりは見ているユリたちのほうが哀れみを感じていた。
 最初は戦闘前の自信はなんだったのだ? とか笑っていたのだが、あまりにも良い所が無い戦闘のため欠伸が混じりだし、今ではパルパトラたちを応援しているのだ。

「いや、ここまで一方的だとなんとも言えないっすね」
「…………スペルキャスターの切り札は何か無いのかな?」
「さっき唱えた召喚魔法じゃないかな?」
「第3位階?」
「いや、あれが切り札は弱すぎでしょ。ただ、一気に召喚モンスターで壁を作ろうという考えは良かったと思うな」
「確かにっす。攻撃が届かなければ多少は立ち直しが効いたかも知れないっすからね」
「でも次の飛行の魔法を使う手段は駄目よね」
「逃げるつもりなのか、上空から魔法を使うつもりなのか不明だったけど……」
「…………射殺対象として良いマト」

 魔法使いは既に致命的な一撃を受け、地べたに転がっている。誰かがフリーになれば治癒の魔法なりポーションなりを使って戦列復帰が可能なんだろうが、今は誰にも余裕というものが無い。
 結果、盗賊がカバーに入って止めを刺されないようにするのがやっとだ。

「しかし何で彼らはこれしかいないと思ったのかな?」

 ユリにはなんとなくだが彼らの思考が読めていた。
 例えとしては不適切で変かもしれないが、つまりはこんなことである。

 親しい友人に、君に興味のある異性がいるから連れて行きたいと言われ、うきうきとした気持ちで飲み物を用意していたとしよう。そして友人が来たとき、連れてきた異性が8人もいたら、どう思うだろうか。
 まだ、あと5992人いると思うか。それともこんなにいるのかと驚くのか。さらにこれ以上の絶世の美形たちがいるとか考えていられるだろうか。
 ようは驚きで思考がパンクしたのだろう。
 いや、自分の都合の良い方向に物事を考えてしまったということもありえる。これは彼らが馬鹿なのではない。絶望から目をそらす為、自らの勇気を奮い立たせるため。人間の生存本能が最大限に働いたためかもしれないのだから。

「どうにせよ、絶望的っすね」
「そうね。ジリひんだわ」
「手段としては他の盗人どもが戻ってくるまで、防御に徹することで時間を稼ぐというのはどう?」

 エントマに全員のしらけた視線が突き刺さった。

「戻ってこれるはずが無いじゃないっすか」
「…………自明の理」
「無理よね」

 苦痛に塗れた悲鳴と共に、何かが倒れる音。4人のメイドは音の生じた方を向き、がっかりしたように話す。

「あ、盗賊も倒れた」
「こりゃ、勝負あったっすね」
「やっぱ、さっきの段階で命乞いを聞いてあげるべきだったんじゃ……」
「いやあそこまで自信満々だったのよ? 何か企んでると思うでしょ、普通」

 盗賊が撒き散らしたであろう血の濃厚かつ新鮮な匂いが、メイド達の元まで届く。

「美味しそう……」

 まるで顔を動かさずにエントマが呟くと、ギチギチギチと異様な音が顎の下辺りから響く。

「よしなさい」

 嗜めるのはユリだ。
 アインズから受けた命令は死体の回収だ。絶対なる主人の命令に理由を尋ねる必要は無い。そのため目的はまでは知らないのだが、エントマに食べられた死体を持っていくわけにもいかないだろう。

「新鮮なお肉……」
「アインズ様にあとで尋ねてみるから、今は我慢しなさい」
「しかし逃げ切られるか、どうかの実験のつもりだったんですよね?」
「そうみたいっすね」
「コキュートス様は追いついて殺せると計算されていたみたいだけど……」
「……正面から戦うとは……」
「相手の戦力を分析しないとこうなるってことね。さぁ、生き残っているのは拷問室送り、死んだのは……アインズ様にご報告しましょう」


 この夜、こうして『鉄壁』パルパトラ率いるワーカー・チームは姿を消すこととなる。



 ■



 十字路で各チームそれぞれ違う道を選んだのだが、エルヤー・ウズルスが選んだのは最も奥に向かうだろうと思われた、真正面の通路だ。
 途中石造りの扉や無数の曲がり角があったのだが、適当に選択して黙々と墳墓内を歩いている。その間、何も無いのが非常に退屈である。モンスターどころか罠1つ無い。
 この道は外れだったか。そう思い、エルヤーは舌打ちを1つ打つ。

「ノロマが。早く進みなさい」

 エルヤーは立ち止まりそうになった10メートル先を進ませるエルフの奴隷に、強い口調で命令を下す。エルフの奴隷は一瞬だけ体を震わせると、とぼとぼと歩き出した。彼女にはこの墳墓に入ってから、殆ど立ち止まることを許さないで歩ませ続けている。
 それは言うまでも無く、命取りにも近い行動だ。
 現在のところ幸運にも何事も無く進んではいるが、下手に罠があったら彼女の命は失われる可能性が高いだろう。
 そんなエルフの奴隷に捜索させながら歩かせているというよりは、鉱山に持ち込むカナリアのような使い方である。別に前を歩く彼女に、技能が無いわけではない。エルヤーのチームはエルヤー自身と3人のエルフの奴隷よりなる。レンジャー、プリースト、ドルイドの技術を持つエルフだ。

 そんなレンジャー技能――捜索するスキルを持つ彼女の使い方としては、あまりにも勿体無い命令の仕方である。

 しかしこれには彼なりの理由がある。

 それは単純に前を歩くエルフに飽きたのだ。
 これだけを聞けば多くの者が驚くだろう。それは倫理観の問題ではなく、金銭的な面での驚きだ。
 
 スレイン法国の奴隷商との取引は、安い金では全く無いのだ。特にエルフの外見や、所持している技術によって金額が跳ね上がる。大抵の場合、エルフの女性は目が飛び出るような額の付く商品であり、一般市民では到底手の出せない領域での取引されることとなる。
 技能持ちエルフともなれば、特殊効果を保有する魔法の武器一本分ぐらいの額になるだろう。それはエルヤーでさえ、そうぽんぽん買うことの出来る金額ではない。
 しかし『天武』での報酬はエルヤーが独り占めしているので、上手く物事が進めば意外に早く回収が出来る。だからこそ飽きたなら、死んだとしても惜しくない使い方が出来るのだ。

 ――今度はもう少し胸のある女が良いですね。

 エルヤーはとぼとぼと歩くエルフの後姿を見ながら、そんなことを思う。

 ――胸を強く握り締め、悲鳴を上げさせるのが楽しいのですから。

 今回の依頼は幾つものチームとの共同ということもあり、数日間、一切エルフを抱いていない。別に抱いたとしても誰からも文句は出ないだろうが、不快感は生じるだろう。それがどれだけ不利益に繋がるかという、エルヤーもワーカーとしての常識ぐらいはわきまえている。
 そのため溜まった欲望が、そんな考えをエルヤーに抱かせた。

「次のには、あの女みたいなのを希望してみますか」

 エルヤーの脳裏に浮かんだのは『フォーサイト』の1人。エルヤーを不快な目で睨んできたハーフエルフだ。

 非常に不快な女である。隣にもう1人少女とも言えるような女性がいたが、別にあの娘に不快げな目で見られるのは仕方ないことだとエルヤーも納得する。しかし、人間よりも劣るであろう生き物が、人間様にあのような目を向けることは許されない。

 思い出すだけでエルヤーの端正な顔に怒りの炎が浮かぶ。それを伺い、隣で歩く2人のエルフは怯えたように身を震わす。
 その怒りが自分達に向けられることを恐れたのだ。エルヤーはこんなダンジョンの中でも平然と殴りつけてきたりする男なのだから。
 さらには自分達と同じような存在が増えることへの哀れみ。そして増えるということは、自分達の誰かが殺させるかもしれないという恐怖もあった。

「あの不快な顔を抵抗しなくなるまで殴ってやりたいですが……」

 それは無理な注文だ。奴隷のエルフは使用者の手に届くまでに、様々な手段で完全に心を砕かれている。そんなエルフの奴隷が反抗できるはずが無い。
 想像の中でイミーナの顔を数度殴っていると、前を歩くエルフが立ち止まっていることに遅れて気付いた。

「何故、止まるんですか? 歩きなさい」
「ひぃ……あ、あの音が聞こえます」
「音ですか?」

 勇気を振り絞って答えるエルフに対し眉を顰めると、エルヤーは全神経を耳に集中させる。辺りは静まり返っており、聞こえそうなのは静寂さが生み出す音のみだ。

「……聞こえませんね」

 ただ、エルフの聴覚は人間よりも優れている。エルヤーに聞こえなくても、エルフには聞こえている可能性が高い。確認の意味で隣にいる2人にも問いかける。

「お前達はどうですか?」
「は、はい、何か聞こえます」
「き、金属のぶつかる音みたいです」
「ほう。……そうですか」

 金属音が自動的に起こることはまず有り得ない。
 ならば、何者かが立てている音。つまりはこの墳墓に入ってから初めての戦闘になる可能性があるということ。それを考えると、わくわくとした気持ちがエルヤーに浮かぶ。

「その音の元に行きますよ」
「は、はい」

 エルフの奴隷に先行させ、音のあったという方角に近づく。それにつれ、徐々にエルヤーにも聞こえてきた。
 それは確かに金属音。
 硬いものと硬いものが激しくぶつかり合う音。さらには裂ぱくの気合などの喧騒。それは戦闘をしているときに起こるもの。

「別のチームですか?」

 浮かんでいた喜悦にも似た感情に水をかけられたように、エルヤーはため息をつく。

「まぁ、いいでしょう。もしかしたら援軍ということで戦えるかもしれませんし」

 徐々に目的地に近づくにつれ、エルヤーは違和感を覚える。戦闘にしては変だと。まるでこれは――

 エルヤーの疑惑は角を曲がったとき氷解した。
 そこはかなり大きい部屋となっていた。天井までの高さにして6メートル以上。広さもかなりのもので、何十人もが走り回っても問題ない広さだ。そんな室内にいたのは立派な鎧に身を包んだリザードマンが10体。巨大なタワーシールドを持ち、血管でも走っているかのような、真紅の文様が走る黒色の全身鎧を着た巨躯が1、そして最後の1人――。

 エルヤーはその最後の1人に引きつけられるものを感じた。

 人間の戦士だろう男だ。体躯は中肉中背。大して強い印象を抱かせない。
 仕立ての良い服の上からは、鈍い光沢を放つチェインシャツを着用している。
 黒髪は適当に切られているために長さは整ってない。そのためぼさぼさに四方に伸びていた。赤眼は鋭く。だが、今は驚きのためか僅かに丸みを帯びていた。
 外見的にはさして強い印象を受けない。若干、真紅の瞳に珍しさを感じる程度。
 だが、何よりエルヤーがひきつけられたのはその腰に下げた刀、そして体の安定感の良さだ。

 リザードマンたちは黒騎士と対峙しながらも、手を止め、荒い息を吐きながら、エルヤーたちを不思議そうに眺めていた。そして男は若干離れたところで、その対峙を観察するような態度。

 エルヤーの疑問への答え。
 それは模擬戦である。リザードマンが黒騎士と戦い、男は立ち位置的にも指導官というところだろうか。これなら戦闘と勘違いしてもおかしくは無い。

「こんなところまで……侵入者か?」

 男が怪訝そうにエルヤーたちを眺め、腕を組む。堂の入った姿勢だ。この中では黒騎士とこの男が最も腕が立つのだろう。
 エルヤーはリザードマンを視界から外す。リザードマンはどれもエルヤーより弱いし、さらには人間以外の種族をエルヤーは好きではないから。
 男に真正面から視線を向け、エルヤーは持っていた刀を肩に担ぐようにする。

「ここの方ですか? 今まで誰も迎えに来てくれなかったから、こんな深くまできてしまいましたよ」
「来訪者が来るとは聞いてないんだがな?」男は考え込むような顔をしてから、深いため息をつく。「……第1階層とはいえ、ここまで無事にこれるわけが無い。お前さん、ここまで誘導されたんだろうよ。とりあえず、今現在の受けている命令はここにいるリザードマンを鍛えろなんでな。即座に後ろを見せて出て行くなら気にしないぞ?」
「そんな寂しいことを言わないでください。ここまで誰とも戦っていないから退屈でしょうがなかったんです。あっと遅れました。エルヤー・ウズルスです。お見知りおきを」
「ああ、ブレイン・アングラウスだ」

 男の軽い態度には、エルヤーという帝国でも名の知れた剣士と対峙した驚愕といった感情は無い。
 その態度に自分を知らないのかと、エルヤーは一瞬だけ怒りから眉を顰める。しかしながらこんな場所に住むものでは知らなくて当然かと、男――ブレインの無知を許そうとする。だが――

「……ブレイン?」

 ――どこかで聞いた名だと思い、そしてその名前を記憶という棚から引き出す。
 そして即座に思い至った。
 見る眼が無かった男――グリンガムが言っていた、自らよりも強いと評した男の名前だと。

 あの時の会話は奴隷のエルフの使った魔法によって盗み聞きしていたのだ。だからこそ、自分よりも聞いたことが無い、ブレインとかいう男を上に評価されて腹を立てたのだ。その怒りのぶつけどころは魔法を使っていたエルフだったというわけだ。

「ああ、知ってますよ。あのガゼフに負けたとか言う」
「うん? ……知ってるのか。……懐かしい話だな」

 僅かに遠い目をするブレイン。そこに執着する色は無い。
 つまりは勝てないことに――及ばないことに納得した者か。
 エルヤーはブレインの態度にそんな判断を下し、この負け犬が、と内心で嘲笑する。その考えが表情にも浮かんでいたのだろう。

「お前は何も知らないんだな」

 エルヤーに話しかけた、ブレインの瞳に宿った感情は哀れみだ。

「昔の俺もお前みたいな奴だった。天からの才能に溺れ、そして敗北を知り、強さを求めた。最強と――誰にも負けない強さを求め、当面の目的はガゼフを打ち倒すことだった……」そこで大きくため息をつく。「ただな……俺もお前も――所詮は人間としての強さを極めつつあるにしか過ぎないんだよ。本当の強さというものは、そういうものとは桁が違うんだ。……本当に強いというのはそんなものじゃないんだ」

 フルフルと力なく頭を左右に振る。

「ご主人様であるシャルティア様には触ることすら出来なかった。コキュートス様は俺の開発した最速の武技を見て、遅すぎるがそれが本気なのかと呆気に取られた。アウラ様は単純な戦闘能力ではシャルティア様以上だと聞く。そしてこのナザリック大地下墳墓の主人、全ての守護者の方々が傅くお方、アインズ様に至っては1つの湖を完全に凍らせるのだぞ?」

 後ろに控えているリザードマンが、うんうんとブレインの話に相槌を打つ。

「強いというのはそういうことなんだ。俺達――人間ごときでは決して到達できない領域に御座します方々。そういう方々が持つ強さこそ、最強と呼ばれる類のものなんだ。俺達のは……強さ? 最強? 笑ってしまう。そんなものは子供が棒を振り回すようなものだ。天才? 天稟? そんなもの人間の領域の言葉にしかすぎないんだよ。アインズ様や守護者の方々の前ではくその役にも立たない。あっそ、で終わりだ。……だからな、自害しろ。そうすれば自分は強いんだという希望だけを抱いたまま、絶望を知らずに逝ける」
「――くっ、くはは、ははははは!」

 エルヤーは爆笑をもらす。ブレインが真面目な顔で何を言うのかと思って、黙って聞いていれば笑い話だったとは。

「ははははぁ、はぁ、はぁ」あまりの哄笑に息を切らせ、それを整えながらエルヤーは言う。「笑わせないでください。そいつはあなたに才能が無いからでしょうよ。だから負けたんです。私は違いますよ。その証明として、このナザリックの支配者であるアインズって奴も倒してさしあげますよ、この刀でね」

 ゆっくりと刀を抜き払う。
 無論単なる刀ではない。『神刀』と呼ばれる属性を持った一級品の武器だ。今回の仕事の報酬で得た金で魔法を込めるつもりのため、まだ魔法は付与されてないがそれでも鋭い切れ味はエルヤーに自信をもたらす。
 遥か南の都市より流れた、この武器。これをもってすればブレインの言うアインズという者も倒せるだろう。エルヤーはそう確信する。

「大体湖を凍らせるって、常識的に考えてありえないでしょう。それともどれだけ小さな湖なんですか、それ」
「……余計なお世話だとは思うし、信じられないのも理解できるのだが、アインズ・ウール・ゴウン様が視界に入る、湖の全てを凍らせたのは事実だ。あの方々の力は世界すらも歪めるレベルだぞ?」
「あの方々の強さはおそらくは神様とかそういうレベルだと思うぜ?」

 ブレインの後方で立つリザードマンたち。最も腕が立つだろうと思われる黒い鱗のリザードマンと片腕の太いリザードマンが話しかけてくる。それに対しエルヤーは辛らつに言い返す。

「黙りなさい、爬虫類。知恵の無いあなた方には何も聞いてません」

 リザードマンたちが憮然とした雰囲気で黙ったのを見て、エルヤーはふんと鼻で笑う。爬虫類風情が人間に話しかけるな。そう強い感情を発露しながら。

「大体、神とか……馬鹿じゃないんですか?」
「……ナザリック大地下墳墓はその辺のモンスターを捕まえて、国を滅ぼしてくださいといったら、軽く成し遂げるような存在が多くいる場所だぞ。そしてアインズ様はその頂点に立たれる方だぞ? そんな方が神であったとしてもおかしくは無いと思うがな。そして、そんな方を倒す……本気でそう思っているのか?」
「無論。私の剣の才を持ってすれば必ず出来ること」

 大体、神とか――例えにしても笑ってしまう。
 もしこれがドラゴンとかを例えに出されれば、凄く強いのかとも思ったが、いくらなんでも――

「神は無いでしょ。神は」

 くくくと笑うエルヤー。それに対し、ブレインは深いため息をつく。

「何の根拠も無い自信……愚かとはこういうことか……。シャルティア様に戦いを挑んだ俺はこんなにも愚かだったのか……。まるで自分の無様な鏡だな……」

 さらに続けて、何かを言おうと口を開きかけたところで、真紅の瞳を大きく見開く。それは突然、上位者から声を掛けられた者が浮かべる驚きだ。

「――コキュートス様!」

 空中にお辞儀をするブレイン。ある意味滑稽なその姿にエルヤーはあざ笑い、リザードマンは緊張のあまり背筋を伸ばす。
 コキュートスから《メッセージ/伝言》の魔法を持って下される命令を受諾し、ブレインはエルヤーを始めて敵と認識した目で眺める。

「これからお前のその増長を打ち砕く。そういう命令が来た」
「そうですか、出来るものならどうぞ? そうですね、ハンデとして全員で掛かってきても問題ありませんよ?」

 ブレインはなかなかの強者。そして黒騎士も同等か。かなり遅れて、氷で作ったようなシミターを持つ黒い鱗のリザードマン。その次が片腕の太いリザードマンだろう。
 少々厳しいものがあるが、エルヤーに負けるかもという考えは無い。
 一度も負けたことが無い、天凛の持ち主。だからこそできる考えだ。

「……お前達も後ろで何もせずに見てろ。実際、あいつはお前達では勝てないし、それにコキュートス様の命令は俺が戦うところを見せろ、だ。それとデス・ナイトさんはリザードマンを守ってやってください。こいつらに何かあったらかなり不味いことになります」

 リザードマンに命令を下し、デス・ナイトに依頼をし、ブレインは自らの腰に下げた刀を抜き放つ。
 エルヤーはその刀身を見た瞬間、魂を吸い込まれそうになる。
 綺麗な作りなのだ。刃紋はぼんやりと輝いているようで、それに対比し地の部分は深みある黒色。

 エルヤーは自らの刀と内心比べて、激しく嫉妬する。自らが持つものよりははるかに上の武器だと判断して。
 もし金額にしたらどれほどになるのか。どれだけの強い魔法が――特殊能力を保有しているかで金額は変わってくるだろうが、それでも数万はいくだろうか。

「良い刀ですね。あなたを殺したら頂くとしましょう」
「出来るものならどうぞ……だったな?」

 先程のエルヤーの言葉を真似したブレインの物言いに、舌打ちを1つ。

「ならば、そうさせてもらいましょう!」

 エルヤーが走り出し、ブレインも走り出す。お互いの体重を込めた一撃が、火花を散らす。

 片側が攻撃、片側が防御。そして次に攻撃した側が防御し、防御した側が攻撃をする。そんなゲームのような戦い方が現実であるはずが無い。
 攻撃して攻撃して攻撃をする。それが勝つための戦いだ。

 刀同士がぶつかり合う。
 重く高い金属音が響き渡る中、刀に込められた相手の動きや狙いを読み、少しでも有利になるように動く。刀身に沿って刀を走らせたり、即座に引いて突きに切り替えたりという具合にだ。
 そうすることで結果、効果的なダメージを与えるチャンスが生まれてくる。

 エルヤーとブレインの戦いもそういうものだ。
 刀がぶつかり合うと同時に、即座にフェイントを交えながら、互いの隙を突こうと動く。そして再び刀がぶつかり合う。

 刀がぶつかり合う音が止まずにどこまでも続く。いや、あまりにも激しく続くために、まるで1つの金属音が長く響くようだった。

 有利なのはエルヤー。確かにブレインも見事な動きはする。しかし一瞬だけ動きが遅く、判断に時間が掛かる。それはこのレベルの戦いであれば致命的だ。
 数十度の互いの武器の交差を得て、ブレインの体をエルヤーの持つ刀が斬りつける。
 しかしながらやけに硬質なチェインシャツに阻まれ、切り傷を与えるには至らない。チェインシャツ越しに鈍器で殴ったような、軽い打ち身を与えるのがやっとだ。
 そのため、エルヤーはブレインの顔や手といった肌を露出している箇所を攻撃しようとするが、流石にその辺りはガードが固く、胸や肩といったところを中心に攻撃を繰り返す。

 数度。
 ブレインの体をエルヤーの持つ刀が殴打した頃、と、と、と、という感じで後退するブレイン。絶好の機会だというのにエルヤーは追撃をかけない。それは自らとブレインの剣の腕の差を認識したからこそ来る余裕のためだ。

「大したことが無い!」

 エルヤーは強く断言した。
 短い時間の攻防だが、刀を交えたお陰でブレインという男の実力をほぼ完璧に把握したためだ。そこそこは強いが、この程度の強さなら幾人も下してきた。その程度の強さだと理解して。

「確かにやるな」

 それに対し、ブレインは素直に賞賛する。しかしその褒め言葉を受けてもエルヤーにとっては喜びを感じるものではない。弱者の賞賛なんか飽きるほど浴びてきたのだから。それよりは弱者の嫉妬や憧れといった感情を向けられる方が強い喜悦を感じられる。

「……この程度で私より強いとは……あの男、やはり目が腐っていましたね」

 エルヤーはこの場にいないグリンガムの見る眼の無さをあざ笑う。

「……俺の剣技はかなり落ちたからな。この肉体になったとき、急激に失われてしまったよ。昔に比べて半分程度かね」

 エルヤーは不思議そうに顔を歪める。ブレインの言っている意味が理解できなかったからだ。まるで肉体が変化したような奇妙な物言い。ただ、その意味は直ぐに理解することとなる。

「だから……人では無いものとして、これから戦うとするぞ?」

 ブレインが僅かに身構え、踏み込む。

「なっ!」

 豪風。ブレインの踏み込みはまさにそんな言葉が相応しい。先の踏み込みをはるかに凌駕した動き。人間というくびきから解き放たれたかのような速度だった。
 その踏み込みから続く、白き閃光のごとき速度で振り下ろされる刀に、何とか視認できたエルヤーは負けじと刀をあわせる。
 刀と刀がぶつかり、甲高い音で――刀が悲鳴を上げる。その2つの刀がぶつかるあまりの勢いに、刀身が僅かに欠け、火花と共に飛び散った。

「ぐぅ!」

 エルヤーは歯を噛み締め、軋む手で次のブレインの一刀に合わせ、刀を振るう。
 再び、火花が飛び散り、金属音が響き渡る。

 再び、と、と、と、という感じでブレインが後退する。
 やはりエルヤーは追撃しない。ただ、これは先程の理由とは大きく違う。
 ろくに刀がもてないほど、ビリビリと手が震えるためだ。もしもう一撃あったら、無様にも刀を落としていただろう。
 エルヤーは愕然とする。ブレインの人間を超越したとしか思えないような、その圧倒的な肉体能力を前に。
 もし巨人のような巨躯であったり、桁外れなほど筋肉が隆起していれば、今の速度も腕力も納得がいっただろう。しかし、ブレインの肉体は中肉中背。いくら鍛えた肉体だからとはいえ、あれだけの力は常識から外れている。
 そんな驚愕の表情を隠しきれないエルヤーに、皮肉っぽい笑みをブレインは向ける

「技術を失い、肉体能力を得た。こういうことだ」
「き、汚いぞ! 何をした!」
「汚い? ……本気で戦いだしただけだが?」
「嘘を言うな! そんな肉体能力があるものか! 魔法を使っただろう!」

 魔法を使ったからといって何か問題があるわけではない。逆に持っているものを使ったとして、何か問題があるだろうか。ブレインはエルヤーのまるで豹変したような態度に頭を傾げる。

 エルヤーからすればブレインの肉体能力の向上――それはまさにイカサマだ。全ての剣士はエルヤーに負けるために存在するのに、今、ブレインはエルヤーを凌駕した。それは決して許されるものではない。

「おまえら! 何をぼうっとしてる! 魔法をかけろ! 1人であんな力が出せるものか! 誰かに魔法をかけてもらったからに違いない!」
「……おいおい。1対1じゃないのかよ」そこでブレインもあることを思い出す。「まぁ、確かにシャルティア様に頂いた力といえば力か……」
「な、なんだ。やはりイカサマか! 汚い奴め! はやく奴隷ども魔法をかけろ!」

 エルヤー――自らの主人からの命令に慌てて、エルフたちが魔法をかけ始める。
 肉体能力の上昇、剣の一時的な魔法強化、皮膚の硬質化、感覚鋭敏……。無数の強化魔法が飛ぶ中、ブレインはその様を黙って見つめる。
 幾つもの魔法による強化がされていくにしたがい、エルヤーの顔に再び軽薄な笑みが浮かびだす。

「馬鹿が! 余裕を見せたな! お前が勝つにはとっとと攻撃するしかなかったのにな!」

 膨大な力がエルヤーの体を走る。
 今までこれだけの魔法による強化を受けたとき、敗北したことは決してなかった。それがどれだけ強大な敵でもだ。
 ブンと刀を振るう。通常よりもかなり早くなった剣閃だ。これならブレインにも互角……いや互角以上に戦えると自信を持って。

「……シャルティアとかいったか。お前のご主人様」
「そうだ。この世界で最も美しい方だ」
「そうか。それならお前の首を持って会うとしよう。そしてねじ伏せて犯してやろう」
「――ふふははははは!」

 爆笑。
 心の底から可笑しいと、ブレインは大爆笑する。ブレインの後方、リザードマンたちもその顔に苦笑とも哀れみとも読み取れるような笑みを浮かべている。

「な、なにがおかしいぃい!!!!」

 笑うことはあっても笑われることがほぼ無いエルヤーにとって、ブレインの哄笑は決して我慢できるものではない。そのため自らの主人を犯すといわれて、ブレインが何故爆笑したか、それにも思い至らない。

「いや、本当に……ふははははは!」
「糞が!」

 ブレインの哄笑はしばらくの間続く。エルヤーは憎憎しげに睨むが攻撃しようとはしない。今ここで攻撃して一撃で殺してしまっては、後悔させる時間が無いからだ。必死の抵抗を打ち破って殺してこそ、自らの不快感は拭われるというものだ。
 やがて、息が切れたようにブレインの笑い声は止まった。

「いや、本当にお前は一流の道化だな。俺ですらここまでは酷くなかったぞ? ……とはいえ、俺の最愛の主君、輝ける黒い花たるシャルティア様への侮辱、見過ごすわけにいかん」ブレインの目が煌々と輝く。真紅というよりも血の様などす黒い輝きだ。口が開き、やけに尖った犬歯が突き出される。それは人間のものではない。「ここからは全力を出させてもらおう、ニンゲン」

 その変貌。人にあらざる狂相。
 エルヤーも冒険の中、見たことがある。

「ヴァンパイア!」
「ご名答」

 簡潔に答えると、ブレインは刀を腰に戻す。チン、と音が響く。

 ヴァンパイア。
 ブレインの人間という生き物から逸脱した力の根源を理解し、エルヤーは急速に浮かびつつある不安を押しつぶそうと努力する。
 ヴァンパイアは強いモンスターだ。確かにエルヤーなら1対1での勝負であれば勝ちを拾える。ただ、それは剣技を知らない単なるアンデッドの場合だ。ヴァンパイアの肉体能力や特殊能力に技術、さらには魔法の装備まで備えた場合はどうなるというのか。
 いや、負けるはずがない。
 エルヤーは頭を軽く振り、生まれた不安を追い払う。

「そうだ! 俺が負けるはずが無い!」
「──滑稽だな。吼えれば不安が消えてなくなるとでも思うのか? まさに昔の俺だな」

 ニンマリと、血に飢えた獣が浮かべそうな笑みを見せるブレイン。

「舐めるなぁあ! ブースト!」
「ブースト2!」

 通常魔法による強化の場合、最も強い効果のものが意味を発する。しかし武技の場合は別の効果と見なされ、累積することとなるのだ。2つの武技による強化。それはエルヤーの肉体機能を極限まで上げ、今のエルヤーは小さな巨人とも言うべき肉体能力を得た。
 一般的に知られてる武技であれば、ブレインも理解できる。

「効果時間のある肉体強化の武技か。ならば準備は整ったということか。では、こちらも最大の力で相手をしよう」

 ブレインはゆっくりと腰を落とす。
 抜刀の構え。
 それを目にしたエルヤーは内心笑う。確かに刀に自信を持つ剣士ならば刀での戦いを望むであろう。ならば待ちに徹し、刀の届く距離に入った瞬間、最速で斬りつける抜刀は良い手だ。
 しかし──エルヤーにはそれは意味の無い行為。

 エルヤーは自らの武技を発動させる。

「ファング!」

 刀を振った延長上に放たれるのは風の刃。
 それは陽炎のような揺らめきを残しつつ、高速でブレインに飛来する。そして回避をしないブレインの胸部を切り裂く──。
 武技『ファング』によって生じる風の刃の斬撃力は、放つ者の渾身の一撃をかなり弱めただけの破壊力を持つ。通常であればさほど破壊力は生まれないのだが、現在のエルヤーの一撃は想像を絶するものだ。かなり弱めたといえどもチェインシャツぐらいなら両断しかねない斬れ味を持つ。
 しかし、驚愕に目を見開いたのは攻撃したはずのエルヤーだ。

「なんだと!」

 両断されると思ったチェインシャツは今なお健在。それだけではない。例えチェインシャツによって斬撃を防いだとしても、生じる衝撃までは消せないはず。しかし、姿勢は崩れず、ブレインの表情には笑みすら浮かんでいる。
 思い出さなくてはならないのは、ヴァンパイアの特殊能力。その中のある武器耐性だ。
 神刀であれば貫けるはずのそれだが、ファングという武技によって生み出された風の刃には、貫通するだけの力はない。ただそれでも風という特殊要素によるダメージは存在するが、それも高速治癒でほんの数秒で癒される程度である。

 結局、ファングではダメージを与えても、致命傷にはほど遠いということだ。

「ちくしょうが!」

 己の必殺の一撃にも匹敵する技。それを持ってしても殺せないことにエルヤーは激しい怒りを覚える。

「悪いな。その程度避けるまでも無い」

 ブレインの挑発じみた発言に、エルヤーの全身から火が出そうなほどの怒りがこみ上げる。その反面、脳の一部が冷静に戦略を立て始める。ヴァンパイアでも神刀の一撃は耐えられないはずだ。ならばこの一撃を心臓に正確に叩き込めばよい。しかし、ブレインの取るあの構えは待ちの構え。踏み込んで刀を振るうでは、先手を取られることは明白。
 ではどうするか。

 エルヤーは再びファングを放つ。
 狙いは一点。
 ブレインの目に真空の刃が叩き込まれた。両目を潰されたブレインめがけ、エルヤーは走る。

 人を超えた知覚能力を持つヴァンパイアといえども、最も頼っている感覚器官は視覚である。その視覚を潰されてしまえば、流石のヴァンパイアといえども回避は困難極まりない。

 されど誰が知ろう。
 ブレイン・アングラウスという男が、ガゼフ・ストロノーフという男に敗北を喫したため、再び戦ったときに勝つために開発した武技の名前を。

 その武技の1つ『領域』。それよりヴァンパイアの肉体能力をもって生まれた『神域』。
 それは半径6メートル。その内部での全ての存在の行動の把握を可能とするもの。この武技を使用している間は仮に1000本の矢が降り注いだとしても、自らに当たるもののみを切り払うことで無傷での生還すら可能とする。そして離れたところにある小麦の粒ですら両断するだけの精密な行為すらも容易いそんな武技。
 それは言うなら、知覚領域の結界。

「スラッシュ!」

 両目を潰されたブレインに、エルヤーの武技が迫る。
 武技によって速度を増した刀の一撃は確かに人の領域を超越したもの。だが、しかし――

「――遅い」

 ブレインの冷たい言葉。その言葉がエルヤーの耳に届くよりも早く、ブレインのもう1つの武技が発動する。
 それは――

「――神速2段」

 エルヤーの放った武技を倍する――否、数倍する速度での刀が腰から放たれる。エルヤーの目には光が走ったようにしか思えなかった。外から見ているリザードマンからすれば何が起こったのか理解できないそんな速度だ。
 常識外の速度を持って放たれた刀は2度、エルヤーの体を通り抜ける。
 
 一瞬の空白――。

 遅れて、エルヤーの刀を持つ手がずるりと動く。そして床にやけに重い音とともに肘の辺りから切断された手が落ちた。持っていた刀は落ちた衝撃で根元から折れる。
 いや、違う。
 折れたのではない――ブレインの武技によって切断されていたのだ。

「――見たか。これが俺の最速の剣」それからブレインは寂しそうに呟く「……ちなみに本気を出されていないときのコキュートス様の通常攻撃の速度でもあるんだな、これが」

 バシャバシャと大量の液体が床を叩く中、喪失した――心臓の鼓動にあわせ血を噴き上げる右腕を、エルヤーは呆けたように見つめる。

「ひゃ、ひゃ、ひゃ……」

 ようやく状況を完全に把握したのか、引きつるような声が上がる。腕より昇ってくる激痛。そういったものがエルヤーに混乱をもたらしていた。

「うで、うでがぁぁああ! ち、ちゆ、ちゆをよこせ!! はやくしろ!」

 エルフに向かって割れ鐘のような声で叫ぶエルヤー。しかしエルフたちは一切の動きを見せない。その瞳にあるのは歓喜である。今まで虐げられていたものの暗い喜びだ。

「はぁ、目を見ろ」

 ブレインは戦意を喪失したエルヤーに近寄ると髪を掴み上げ、正面から真紅の瞳を覗かせる。
 次に糸が切れたように暴れなくなったエルヤーの首に手をかけ、喉を圧迫する。エルヤーの意識が数秒で失われたのを確認し、ブレインは部屋の隅においてあったポーションを持ってくるようにリザードマンに指示を出した。
 本来であればリザードマンの傷を癒すためのものだが、ここでエルヤーを殺すわけにもいかない。そう、コキュートスに命令を受けたのだから。

「さてと」

 ブレインはただ黙ってエルヤーを眺めているエルフに向き直る。
 エルフたちに動きは無い。ただ、そのどんよりと濁った瞳の中に愉悦の色が浮かんでいた。
 
「あー、お前達、このあと死ぬかもしれないぞ?」

 侵入者を捕縛せよ、生死に係わらず。ただ、なるべくなら生きたまま捕まえよ。それがコキュートスより与えられた命令でもある。エルフも侵入者。温情ある判決があるかはまさに神――アインズのみぞ知るだ。
 ブレインのそんな言葉に対し、エルフは何も返さない。
 ブレインはエルフの瞳を覗き込み、はんと吐き捨てる。
 それは受け入れた者の瞳。ブレインが野盗と共にいた頃、浚われてきた女達が数日後に見せていたもの。

「つまらん目だ」

 自らに与えられた指令からすればこのエルフを殺す必要は無い。そして今の光景はコキュートスが見ているはず。ならばブレインにこのエルフに対して何かすることはない。
 刀を鞘に収め、リザードマンたちに向き直る。

「さて、充分な休みも取れただろう。訓練を始めるぞ?」



[18721] 43_侵入者2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/10/02 06:42


「押し返せ!」

 かび臭さと死の匂いが充満する玄室に、グリンガムの怒鳴り声が響いた。
 部屋の大きさは25メートル四方か。天井までの高さは5メートル以上はあるだろう。そんな部屋には魔法使いの作り出した魔法の明かりと床に落ちた松明に照らされ、溢れんばかりの人影があった。
 部屋の隅に追いやられているのがグリンガムたち『ヘビーマッシャー』の面々だ。そしてその他の玄室を覆いつくさんばかりの存在はゾンビ、そしてスケルトンからなる低位のアンデッドの群れ。
 その数は数えるのが馬鹿馬鹿しくなるほど。

 そんな死の濁流をグリンガムと盾を持つ戦士が2人で正面から受け止め、後衛に回さないための堤防となっていた。

 グリンガムのフルプレートメイルにゾンビの振り回す手がぶつかる。死体となったことで通常の人間よりは力が出せるとはいえ、鋼の鎧を傷つけることが出来るはずがない。腐敗し脆くなった手が砕け、腐敗臭を放つ分泌物がフルプレートメイルに付着する。
 スケルトンもまた同じだ。手に持つ錆びた武器ではフルプレートメイルを貫けるはずが無い。

 無論、偶然という言葉がある。場合によっては攻撃が抜ける可能性だってあるだろう。そんな雰囲気がまるで見られないのはその身に掛かった防御魔法のお陰だ。
 グリンガムは手に持つアックスでなぎ払うが、1体倒れても直ぐに別のアンデッドが開いた穴を埋めようと向かってくる。そしてそのまま押しつぶそうといわんばかり距離を詰めてきた。

「ちくしょ! 数多すぎるだろ!」

 グリンガムの横で盾を構える戦士が苦痛の声を漏らす。全身をすっぽり覆うほどの盾のため、一切の攻撃が体には触れてないが、盾は汚い液体で完全に覆われている。
 メイスでゾンビやスケルトンの頭を砕いているが、やはり圧力に負けるようにゆっくりと後ろに下がりつつある。

「一体、これほどの敵何処から現れたんだよ!」

 戦士の疑問も当然だ。
 グリンガムたちは十字路で分かれてから幾つかの部屋を捜索。残念ながら霊廟のような宝物は発見できなかったが、幾つかの部屋で少なくない額の宝を発見しつつ、牛歩の歩みで少しずつ探索を繰り返していた。そしてこの部屋に入り、同じように捜索をしようとし始めたとき、部屋の他の扉が不意に開くと、一体何処から現れたという数のアンデッドが流れ込んできたのだ。
 ゾンビやスケルトンなど大した敵ではない。しかしながらその数はまさに暴力だ。
 もし引き倒されたり、覆いかぶされたりした場合、死なないでも身動きが出来なくなってしまうだろう。そうなればアンデッドの群れは後衛に襲い掛かる。
 流石に後衛もそう簡単には負けないだろうが、この数の暴力の前だと少々不安がある。
 このままでは致命的なミスで戦線が崩壊する。そう判断したグリンガムは、温存しようと思っていた力を解放することを決定する。

「一気に勝負をつける! 頼む!」

 その言葉を聞き、今まで投石を繰り返していた後衛が動き出す。
 元々、グリンガムたちヘビーマッシャーからすれば、この程度のアンデッドなら敵でもない。ただ、敵でもないからこそ、力を出来る限り温存しようと後衛が待機していたのだ。
 後衛が動くならこの程度のアンデッドの掃討は容易いのだ。

「我が神、地神よ! 不浄なりし者を退散させたまえ!」

 聖印を握り締めた神官の叫び声が、力となる。不浄な空気に満ちた玄室に、まるで爽やかな風が通り抜けたような清涼感――通常よりも強い神聖な力の波動が生まれた。神官のアンデッド退散能力の発動だ。
 それに合わせ、神官に近かったアンデッドたちが一気に崩壊し、灰となって崩れ落ちる。

 アンデッド退散は互いの実力に圧倒的な差がある場合は、退散ではなく消滅させることが可能となる。ただ、多くのアンデッドを消滅させようとなると、飛躍的に困難になっていき、それだけの力を必要とするのだ。
 40体近いアンデッドが一気に崩壊したのは、それだけグリンガムの仲間の神官の力が優れているということに他ならない。

「吹き飛べ! 《ファイヤーボール/火球》」

 魔法使いから火球が放たれ、アンデッドたちの群れの中央で爆発する。炎が一瞬だけ上がり、その範囲にいたゾンビやスケルトンが偽りの生命を焼き尽くされ、崩れ落ちる。

「まだまだ! 《ファイヤーボール/火球》」
「我が神、地神よ! 不浄なりし者を退散させたまえ!」

 再び範囲攻撃が放たれ、アンデッドの数は激減する。

「行くぞ!」
「おう!」

 盾を捨て、メイスを両手で構えた戦士と共にグリンガムはアンデッドの群れに殴りかかる。魔法使いたちに任せれば掃討は容易なのにグリンガムたちが突撃する理由は、出来れば魔力は温存して欲しいというのが本音だからだ。特に神官のアンデッド退散は使える回数が決まっている技。対アンデッドに特化したクラスについている人物だからこそ、この墳墓においては切り札になりかねないのだから。

 動く死体の集団に飛び込み、グリンガムは斧を振るう。血というよりはドロドロの液体が、斬り飛ばした体の部分から――心臓が動いていれば吹き上がっただろうが――死体であるために勢いなくどろりと流れ落ちる。切断面から吐き気を催すような悪臭が漂うが、我慢できないほどではない。
 いやもはや鼻はバカになっている。そのため、さほど問題になる臭いではない。

 戦士と協力し、攻撃して攻撃して攻撃する。防御なんかは当然考えてもいない。
 魔法の補助があり、硬い鎧に身を包むからこそ出来る。そして弱いアンデッドが相手だからできる無理矢理な突撃だ。
 時折グリンガムの頭部を殴られた衝撃が走るが、しっかりとした鎧であるために衝撃は吸収され、首に掛かる負担も殆ど無い。胸や腹を殴られたとしても、やはり大した衝撃は感じない。

 戦士と共にグリンガムが腕を振るうたびにゆっくりとだが、確実にアンデッドの群れは駆除されていく。後衛を襲おうとしたアンデッドは盗賊と神官によって倒されていく。


 部屋の床が腐った死体と骨の欠片によって覆われるころ、動くアンデッドの影は無くなっていた。

「ふぅー」

 グリンガムのため息に合わせ、全員が息を吐く。流石に負けないとは思っていたし、後衛は途中から見守るだけだったが、それでもこれだけの数のアンデッドを相手にすると精神的な疲労はかなりある。

「さぁ、扉を閉めて休息を取ろう」
「それよりはこの部屋から離れた方がいいんじゃないか? 酷い匂いだと思うんだよ」
「違いない。それに何でこの部屋に入ったときに襲われたか謎だしな」
「全くだ。アンデッドの姿なんか今まで全然見なかったし、気配も感じなかったぞ? 一体何処から沸いて出たって言うんだ」

 確かに、とグリンガムも納得する。
 この部屋の出入り口は3つ。グリンガムが入ってきた扉と、その他に2つ。アンデッドはこの3つの扉から流れ込んできたのだ。そう、グリンガムたちが通ってきた扉からも。
 それにこの酷い部屋で休む気はどうもしない。それに鎧にこびりついた、どろりとした液体をせめて布で清めたいものだ。これだけの悪臭の液体だ、拭うだけでは恐らく気休めだろうが、それでも一張羅だ。少しは綺麗にしておきたい。

「では、移動を――」

 そこまで言葉にして、グリンガムは口を閉ざす。仲間の1人、盗賊が口に指を1本あて、耳を澄ましているからだ。
 グリンガムも耳を欹て、そしてコツリ、コツリという何かが規則正しく叩く音を聞き取る。

 全員の視線が音のした方――グリンガムたちが入ってきた扉の方に向けられる。

「敵……だろうな」
「ああ、音は1つだものな」

 全員でゆっくりと武器を構える。先頭に立つ戦士は盾を構えると、その後ろに半身を潜める。魔法使いは明かりの込められた杖を扉に突きつけ、即座に魔法を放つ準備をしている。神官は聖印を掲げ、盗賊は弓の狙いをつける。
 コツリ、コツリという音が大きくなり、扉からその姿を見せるものが1体。

 豪華な――しかしながら古びたローブで、その骨と皮からなる肢体を包み、片手には捻じくれた杖――これが音を立てていたのだろう。
 骨に皮が僅かに張り付いたような腐敗し始めた顔には邪悪な英知の色を宿していた。体からは負のエネルギーが立ちこめ、靄のように全身を包んでいた。
 そんな死者の魔法使い。その名を――

「――リッチ!」

 いち早くモンスターの判別に成功した魔法使いが叫び声を上げる。

 そうだ。その姿を見せたモンスターの名を――リッチ。
 邪悪な魔法使いが死んだ後、その死体に負の生命が宿って生まれるという最悪のモンスターだ。今までの知性の無いアンデッドモンスターとは違い、宿した英知は常人を凌ぐほどだ。

 グリンガムたちはリッチと聞いて瞬時に戦闘態勢を変える。細かく説明すれば、一直線上に誰も並ばない。そして範囲魔法を警戒し、ある程度の距離を置くということだ。
 リッチはかなりの強敵でありAクラスで微妙、A+クラスで互角という存在である。グリンガムたちでは少々厳しいという相手だ。ただ、幸運なことに今回の構成メンバーにはアンデッドに対しては素晴らしい強さを発揮できる仲間がいるというのが心強い。
 そして距離をとられれば非常に厄介だが、この距離であればかなり有利に戦闘を持っていけるだろう。

「墳墓の主か!」

 グリンガムはそう判断する。リッチは死者の魔法使いであり、アンデッドを支配する側の存在だ。時にはアンデッドの群れを支配し、生者とも場合によっては取引をする。
 1つの廃城を支配する有名なリッチがいるぐらいである。
 そんなリッチであればこの墳墓の主だといわれても可笑しいことはまるで無い。

「おれたちが大当たりか、超らっきー!」
「別に墳墓の主人をやることが依頼じゃないっていうのによ!」
「ヘビーマッシャーのパワー見せてやるか!」
「神の加護を見せようぞ!」

 口々に他の仲間が吼える。リッチという強敵を前に、恐れを吹き飛ばす意味での咆哮だ。

「防御魔法――」

 決意を決めた仲間たちにグリンガムは作戦を叫ぼうとし、違和感に襲われる。その違和感の発生源は即座に分かる。目の前にいる強敵、リッチだ。

「……どうしたんだ?」
「不意をうつ……つもりじゃないよな?」

 リッチはグリンガムたちを視認しながらも、一切何か行動しようという気配をみせない。杖を持ち上げることも、魔法を唱えることもだ。ただ、黙って眺めている。
 これにはグリンガムたちも困惑を隠せない。即座に戦闘に入るだろうという予想を崩されたのだから。しかし先手を取って攻撃することは二の足を踏んでしまう。

 確かにアンデッドは生きる者に敵意を持つ。しかしながら一部の知恵を持つものとは、交渉することが出来るのも事実だ。大抵の場合は不利益な取引となるのだが、時にはアンデッド側からの取引ではるか昔の、失われたアイテムを得る場合だってある。
 なによりリッチほどの強敵なら、交渉でどうにか出来るなら交渉で終わらせるべきだろう。例え、多少の不利益を被ったとしても。
 それらを考慮すると先手を打って攻撃するのは、あまりにも浅はかな行動としか言えない。それは交渉の可能性を完全に破棄する結果に繋がるのだから。
 グリンガムたちは互いの顔を伺い、同じことを考えているという結論に達する。
 そしてチームリーダーであるグリンガムが口を開いた。

「あのー、交渉したいのだが……」

 リッチはそのおぞましい顔をグリンガムに向けると骨ばった指を唇に当てる。
 意味は――静かにしろ。
 リッチにはあまりにも似合わないジェスチャーだが、強者に対してそんなことを言えるほど勇敢――いや、自暴自棄ではない。
 グリンガムは素直に口を閉ざす。そして静まり返った室内に一種類の音が聞こえてきた。

 グリンガムは耳を疑う。
 聞こえてきた音はコツン、コツンという何かが床を叩く音。それも複数――。

 グリンガムたちは全員で顔を見合わせる。聞こえてきた音から想像される答えが信じられなくて。
 そして――

「ぶぅううう!!」

 ――全員が一斉に吹き出した。

「誰だ! あのリッチが墳墓の主だって言ったのは!」
「ふざけんなよ! あんなのありえねぇだろ!」
「おいおいおいおいおい――勝てるわけないから!」
「いくらなんでも神の加護にだって限界がありますよ!」

 ゆっくりと入ってきたのはリッチ。それも6体を数える。最初から部屋にいたものもあわせれば計7体。リッチという最強クラスのアンデッド・スペルキャスターがその数である。これだけいれば1つの小都市を攻め落とすことすら可能かもしれない戦力だ。
 確かに同種の存在である以上、攻撃手段は統一されている。つまり完璧に全ての攻撃を無効化にする手段さえそろえれば、7体全て倒せるのも道理だ。

 しかし、そんな手段をそろえているわけが無いし、そろえられるわけが無い。ならば小都市を落とせるかもしれない存在と正面から戦いあうしかないということ。
 絶対に勝算が無いこの状況下、グリンガムたちから、もはや戦意というものは完全に失われた。

『では、はじめるか』

 交渉する気のまるっきり皆無な、リッチのそんな言葉に合わせ、ゆっくりと杖が持ち上がる。それを悟ったグリンガムの咆哮が響く。

「撤退!」

 その言葉を待っていましたといわんばかりに、チームの全員が走り出す。目指したのはリッチが入ってきた扉とは違う扉だ。2つあるが先頭を走る盗賊が向かう方に全員で走る。無論、その扉の先がどうなっているのかとか考える余裕は無い。リッチの群れというありえないような敵から少しでも生き残れるチャンスを得ようと行動するだけだ。

 一行は開け放たれていた扉を駆け抜け、走る。
 先頭は盗賊。そのあとをグリンガム、魔法使い、神官、戦士という順だ。これは特に考えた結果ではない。たまたまそうなったという順である。

 一行は走る。扉を抜けて出た通路。迷うことなく走る。
 曲がり角。本来であれば罠やモンスターの存在を警戒すべき場所だろうが、後ろから足音がする中、注意深く観察をする余裕は無い。運を天に任せ、駆け抜ける。

 通路の左右には石で出来た扉があるが、開けて飛び込む勇気はわいてこない。
 金属鎧を纏う者が走る、けたたましい金属音が通路に響く。
 《サイレンス/静寂》をかければよいのだろうが、そのためには立ち止まる必要がある。後ろからリッチが追ってくる足音が聞こえる中、流石にそれだけの余裕も無い。

 走り、走り、走る。もはや自分達が何処を走っているのか。さっぱり分からない。
 幸運なことにモンスターと一切遭遇せずに、そして罠に掛かることなくここまで来られたことが救いだ。

「――まだ、後ろから来てるか!」

 走りながらグリンガムは叫ぶ。答えたのは最後尾を走る戦士だ。

「いる! 走ってきてる!」
「ちくしょ!」
「走って追っかけてくるなよ! 飛行の魔法使って来いよ!」
「飛行してきたら、連続で魔法が飛んでくるだろ、ばか!」
「小部屋に閉じこもって、交渉を――」

 息も絶え絶えに魔法使いが叫ぶ。この面子の中で最も体力が無い彼は、もはや倒れそうな雰囲気だ。
不味いとグリンガムは判断する。魔法使いの体力的にこれ以上は持たない。
 リッチのようなアンデッドモンスターは疲労というものはない。このままでは追い詰められ、体力がなくなった一行はゆっくりと殺されていくだけだ。

「なんで、リッチがあんなにいるんだよ……」

 常識で考えればありえない話だ。リッチほどの強大なアンデッドが、他の同程度の強さを持つアンデッドと仲良く共存するというのが。

「この墳墓の主はリッチより強い奴なんですかね!」

 考えられる答えはそれしかない。しかし、そんなアンデッドいるというのか。グリンガムはその答えが出せない。

「ちくしょう! このくそったれ墳墓が!」

 ぜいぜいと切れる息を吐き出し、最後尾の戦士が怒鳴った。

 その瞬間を待っていたように、床に光の紋章が浮かび上がる。それはグリンガムたち全員を範囲に捕らえられるほど大きなものだ。

「なっ!」

 誰の声か、悲鳴にも似た声が響き――



 ――一瞬の浮遊感。そしてグリンガムの視界は漆黒の世界によって包まれる。そして足元からはペキパキという何かを踏み砕いた音と共に、ゆっくりと体が沈んでいく感触。まるで沼に落とされたような感覚だ。

 静寂のみが支配する漆黒の世界。
 グリンガムはそれに飲まれたように、小さな声で尋ねる。

「……誰かいるか?」
「――ここだ、グリンガム」

 即座に、仲間の1人――盗賊の声が返る。それもさほど遠くない距離。恐らくは先程走っていたときの間隔程度だろう。

「他には誰かいないか?」

 返事は戻ってこない。予測できた答えだ。明かりが無い時点で魔法使いはこの場にいないことは想像がつくし、そうなると魔法使いより後ろにいた神官や戦士がいない可能性が高いのだから。
 盗賊だけでもいたのは幸運だと思うしかないだろう。

「……俺達だけみたいだな」
「みたいだな」

 一歩も動かずに周囲の雰囲気を伺う。深い闇は何処までも広がり、自分達が完全に闇に飲み込まれたような恐怖感が湧き上がる。
 誰も動く気配は無いが――

「明かりをつけるか?」
「それしかないよな」

 動くこと――行動することでこの静寂を破壊するのでは、罠が発動するのでは、そんな無数の不安が浮かぶが、残念ながら人の目では闇を見通すことは出来ない。どうしても明かりは必要だ。

「じゃぁ、ちょっと待ってくれ」

 盗賊の声がするほうから闇の中、ごそごそと何か動く気配がする。そして明かりが灯る。
 手に持った蛍光棒を高く掲げた盗賊の姿が最初に目に入る。そしてその光を反射する無数の輝き。それは霊廟で見た宝物の輝きを思わせる。

 だが――違う。

 グリンガムは湧き上がりそうになる悲鳴を堪える。盗賊もまた引きつるような表情を見せた。

 無数の輝き。それは室内を完全に埋め尽くす蟲――それはゴキブリとよばれる種類のもの――の輝きだ。この部屋は小さなものでは小指の先、巨大なものでは1メートルを超えるサイズのゴキブリで埋め尽くされているのだ。それも何重にもなって。
 足元で割れるような感触はゴキブリを踏み潰していったものだ。そして見れば腰の辺りまで埋まっている。それはどれだけゴキブリが積み重なっているのか、想像もしたくない。

 室内は広いのか、壁際まで明かりが届かない。蛍光棒の照明範囲が15メートルだということを考えれば、この室内の広さがどの程度かおおよそ理解できる。天井を見れば明かりが届いているのだろう。無数のゴキブリの群れが光に照らし出されていた。

「なんだ……よ、ここ」

 盗賊が喘ぐように呟く。気持ちはグリンガムには良く理解できた。声を上げると動き出しそうな予感を覚えたのだろう。

「一体何が起こったんだよ?」
「……落とし穴じゃないのか?」

 盗賊が怯えたように周囲を見渡す中、グリンガムは漆黒の世界が広がる前の、最後の光景。足元に浮かび上がった光の魔法陣を思い出し、盗賊に尋ねる。

「そりゃない。アレはもっと別の何かだ」
「ならば転移関係の……」

 有り得ない……いや、転移魔法は当然ある。例えば第3位階の《ディメンジョナル・ムーブ/次元の移動》などだ。それ以外にも当然ある、それは――

「――確か第6とか第5位階のどちらかに全員を飛ばす転移魔法があったよな」
「ああ……そうだった気がするな」
「まさか、それぐらいの……」

 最低でも第5位階を使いこなせる存在。そんなものはそうは聞いたことが無い。しかしながらグリンガムは納得もしていた。もし、そんな化け物がいれば、あの数のリッチが共存しているのも理解できる。そしてグリンガムたちと戦えという命令を与えることも。

 グリンガムは寒気に襲われる。この墳墓の危険性を強く実感して。そしてこんな依頼をしてきた伯爵に対し激しい敵意が浮かびあがる。無論この仕事を請けたのはグリンガムたちであり、責任という面で考えるなら、しっかり調べなかったグリンガムたちに問題がある。
 しかし、伯爵はある程度の情報を持っていたはずだ。そうでなければこの墳墓を調べろという依頼は――アレだけの報酬とワーカーを集めて、出したりはしなかっただろう。こんなどれだけ凄まじい力を持つのか不明な化け物が支配する墳墓に送り込んだりは。

「早く逃げよう。ここは……地獄だ」
「ああ」

 グリンガムはこの部屋で何より恐ろしいことが1つある。どうやら盗賊は気付いてないようだが、それは幸運なことだろう。
 恐ろしいこととは、ゴキブリが一切動いていないのだ。まるで死んでいるかのように、ピクリとも動いていない。考えられるだろうか。これだけ覆い尽くしながらも一切動いてないその姿が。

「――いや逃げることは出来ないかと思われますよ?」

 突如、第三者の声が響く。

「誰だ!」

 グリンガムも盗賊も慌てて周囲を見渡すが、動く気配は無い。

「あっと失礼。我輩、この地をアインズ様より任されております、恐怖公と申します。お見知りおきを」

 声のした方向。そこに向かった視線は異様なものを捕らえる。ゴキブリを跳ね除け、下から何かが出ようとしているのだ。
 距離的に近接武器では届く距離ではない。盗賊は黙って弓を引き絞る。グリンガムもスリングを取り出そうとし――止める。いざとなったらこの腰まであるゴキブリの群れをかいくぐり、切りつけてやると考えてだ。

 やがてゴキブリを押しのけ、変わったゴキブリがその姿を見せる。

 そこにいたのは2本の足で直立した、30センチほどのゴキブリだ。
 豪華な金縁の入った鮮やかな真紅のマントを羽織、頭には黄金に輝く王冠をちょこんと乗せている。手には頭頂部に純白の宝石をはめ込んだ王杓。
 なにより驚くべきなのは、直立しているにもかかわらず、頭部がグリンガムたちに向かっていることだ。もし通常の昆虫が直立したなら、当然頭部は上を向くこととなるだろう。しかしながら目の前の奇怪な存在は違うのだ。
 それ以外、取り立てて他のゴキブリと変わるところは無い。いや、これだけ変わっていれば充分か。

 グリンガムと盗賊は互いに視線を交わし、グリンガムが交渉することとする。盗賊が弓に矢を番えたまま、下に向けるのを確認すると、恐怖公に話しかける。

「お前は……何者だ?」
「ふむ。先程名乗らせていただきましたが、もう一度名乗った方がよろしいですかな?」
「いや、そういうことではなく――」そこまで口にしたグリンガムは、すべきことや尋ねることがそんなことでないことを思い出す。「……正直に言う。交渉しないか?」
「ほほぅ、交渉ですか。御二方には感謝しておりますし、交渉しても構いませんよ?」

 その言葉に含まれた謎の意味――何故感謝しているのか、そこに引っかかりを覚えるが、現在の圧倒的不利な状況で問いかけるわけにはいかない。

「……交渉としてこちらが欲することは……俺達を無事にこの部屋から出してもらいたいということだ」
「ふむ。なるほど。当然の考えですな。しかしながらこの部屋の外に出ても、現在はナザリック大地下墳墓の第2階層目。地上に戻れるとは思いませんが?」

 第2階層――。
 その言葉にグリンガムはフルヘルムの下の目を大きく見開く。

「地表にある霊廟を多少下がったところにある扉をくぐったところが、第1階層という数え方でよいのか?」
「普通はそうではないですかな?」
「いや、一応確認しておきたかったんだ」
「ははぁ、まぁ第1階層から転移させられたのだから混乱するのも道理ですな」

 ウンウンとどうやってか頷く恐怖公を前に、グリンガムは氷柱を突き刺されたような寒気を感じる。
 それは先の話を肯定されたことによる恐怖。

 つまりはどうやってかは知らないが、罠として転移の魔法を使っているということ。それはどんな魔法でどんな魔法技術なのか。魔法使いではなくとも、それがとてつもないことだという理解は出来る。

「……確かにこの墳墓から出る道も教えて欲しいが、そこまでは望まない。この部屋から出してくれるだけでいい」
「ふむふむ」
「こちらからは……そちらの欲しいものを差し出そう」
「なるほど……」

 恐怖公は深く頷き、何か考え込むような姿勢を取る。
 静まり返った部屋の中、暫しの時間が流れる。そして恐怖公は納得したように頷くと、言葉を発する。

「欲しいものと言うのは既にありますので、そちらが提供するものとしては不十分ですな」

 口を開こうとするグリンガムに、前足を上げることで黙らせると、恐怖公は更に続ける。

「その前に、何故感謝しているのかという疑問を覚えられたようですし、お答えしたいかと思います。我輩の眷属が共食いには飽き飽きしたようで。そのため餌の御二方には先程も言ったとおり感謝しているんです」
「な!」

 盗賊がその言葉を理解すると同時に矢を放つ。
 空を切って飛んだ矢は、恐怖公の真紅のマントによって絡めとられ、力なく落ちる。

 そして――部屋が蠢く。
 ザワザワという音が無数に起こり、巨大なものとなる。
 そして津波が起こる。
 それは黒い濁流だ。

「2人しかいないのが残念ですが、眷属の腹に収まってください――」

 盛り上がった巨大な波が、グリンガムと盗賊を飲み込む。それは津波に正面から飲み込まれたらこうなる。そんな光景だった。

 黒の渦に飲み込まれ、グリンガムは鎧の隙間に入ってくるゴキブリを必死に叩く。
 こんな小さな蟲の集団に、武器が効くものか。それよりは普通に手で叩いた方が早い。そのため既に武器は捨てており、もはやどこに行ったのか皆目見当がつかない。
 もがく様に手を振り回そうとするが、全身に覆いかぶさってきた無数のゴキブリによって上手く動かすことが出来ない。その光景は溺れた者が手を振り回す姿に似ている。グリンガムの耳に聞こえる音は、無数のゴキブリが蠢くザワザワという音のみ。
 それにかき消され、仲間の盗賊の声は聞こえない。
 いや、盗賊の声が聞こえないのも当然だ。彼は口の中、喉、そして胃にまで入り込んできたゴキブリによって言葉を出せる状況ではないのだから。

 ちくちくという痛みがあちらこちらからする。それは鎧の隙間から侵入したゴキブリが、グリンガムの体を齧る痛みだ。

「やめ――」

 グリンガムは叫ぼうとして、口に中に入ってくるゴキブリに言葉を詰まらせる。必死に吐き出すが、少しだけ開いた唇の間に別のゴキブリがこじ開けるように入り込んでくる。そして口内をもぞもぞと蠢く。
 耳にだって小さいものが入り込んだのか、ガサガサ音が酷く大きくなり、むず痒さが広がる。
 顔をザワザワと数えられないだけのゴキブリが動き回り、噛み付いてくる。瞼に走る痛み。だが目を開けることは出来ない。目を開ければその結果がどうなるか簡単に予測がつくから。

 もはやグリンガムは自分がどうなるか理解できる。このまま生きたままゴキブリに貪り食われるのだと。

「こんなの嫌だ!」

 絶叫を上げる。そして口の中にゴキブリが流れ込んでくる。もぞもぞと動き、喉の奥に入り込もうとする。そしてズルリという感触と、喉を何かが滑り落ち胃に収まる感触。そして吐き気を催す。
 グリンガムは必死に蠢く。
 これならリッチと戦って死んだ方が良かった。こんな死に方はゴメンだ。

 そんな思いすらも黒い渦は飲み込んでいく――。


 ◆


 ふと目を見開く。
 視界に入ってきたのはどこかの天井。石で出来たものであり、白色光を照らす物がそこに埋め込まれている。自分がどうしてそこにいるのか分からず、周囲を見渡そうとして、頭が動かないことに気付く。いや、頭だけではない。手首、足首、腰、胸と何かが縛り付けているか、その部分がまるで動かない。さらには口には何かが填められており、閉ざすことが出来ない。
 理解不能な状況が恐怖を引き起こし、叫び声を上げたくなる。
 目だけを動かし、必死に周囲を確認しようとして声が掛かる。
 
「あらん、起きたのねん?」

 濁声がかかる。女とも男とも判別しづらい声だ。
 動けない視界に入り込むように姿を見せたのはおぞましい化け物。

 それは人の体に、歪んだ蛸にも似た生き物に酷似した頭部を持つ者だった。太ももの辺りまでありそうな6本の長い触手がうねっている。
 皮膚の色は溺死体のような濁った白色。やはり溺死体のような膨れ上がった体には、黒い皮でできた帯を服の代わりにもうしわけ程度に纏っている。肉料理に使う糸のように、肌に食い込んだ姿はおぞましい限りだ。もしこれを美女が着ているなら妖艶なのだろうが、このおぞましい化け物が着ていると吐き気すら催す。
 指はほっそりとしたものが4本生えており、水かきが互いの指との間についていた。爪は伸びているが、全部の指にマニキュアが綺麗に塗られ、奇怪なネイルアートがされていた。
 そんな異様な存在は、瞳の無い青白く濁った眼を彼に向けた。

「うふふふ。寝覚めは良好かしらん?」
「ハァハァハァ」

 恐怖と驚愕。その2つの感情に襲われ、荒い息のみが彼の口から漏れる。そんな彼の頬に、恐怖に怯える子供を安心させる母親のような優しさを持って、その化け物は手を這わせる。
 やたらと冷たいぬるりとした感触が、彼の全身に寒気を走らせた。
 これでぷんと匂うのが血や腐敗臭なら完璧だろうが、匂ったのは花の良い香り。それが逆に恐怖を感じさせる。

「あら、そんなに小さくさせてまで怯えることないわよん」

 その化け物が向けた視線の先は彼の下腹部。肌に伝わる空気の感触で、ようやく自らが裸であるということを理解する。

「えっと、名前を聞いたほうがいいかしらん?」

 ほっそりとした指を頬に当たる部分にあて首を傾げる。もし美女がやれば良い光景だろうが、やっているのは蛸頭の水死体のような化け物。不快感と恐怖感しかしない。

「…………」

 目のみをキョト、キョトと動かす彼に、化け物は笑いかける。触手によって口元は完全に隠れているし、表情も殆ど動いていない。しかしながらそれでも笑みだといえるのは冷たいガラス玉のような瞳が細くなったからだ。

「うふふふ。言いたくないのねん? 可愛いわん、照れちゃって」

 化け物の手が彼の裸の胸を字でも書くように動く。彼からすれば心臓を抉られるのではないかという恐怖の方が浮かぶ、そんな動きだ。

「先におねえさんの名前を聞かしてあ、げ、る」語尾にハートマークがつくような甘ったるい言葉――濁声だが。「ナザリック大地下墳墓特別情報収集官、ニューロニストよ。まぁ拷問官とも呼ばれているわん」

 長い触手がうねり、その根元にある丸い口を見せた。鋭くとがった牙が周囲を取り囲む中、舌であるかのように一本の管がヌルリと突き出される。それはまさにストローのようだった。

「これでそのうち、チューって吸ってあげるからねん」

 何を吸うというのか。そのあまりの恐怖に彼は体を動かそうとするがまるで動かない。

「さて、さて。あなたは捕まったの。私達にねん」

 そう。最後の記憶は前を走るグリンガムと盗賊が消えたところ。そこから完全に記憶が途切れ、現在に繋がっている。

「自分が何処にいるか。それぐらいは分かるでしょ?」ニューロニストは笑うと言葉を続ける。「ここはナザリック大地下墳墓よ? 至高の41人。その最後に残られた方、モモ――いえ、アインズ様の御座します場所。この世界でも最も尊き場所」
「はいんふはは?」
「そう、アインズ様」

 何かを填められ、言葉にならない彼の言葉を理解し、ニューロニストは彼の肌に手を這わせる。

「至高の41人のお1人。かつて至高の方々を統べられた方。そしてとてもとても素晴らしい方よん。あなたも一度、その姿を見れば心の底より忠誠を尽くしたくなるわん。私なんか、アインズ様にベッドに来るよう呼ばれたら、初めてを差し上げてもかまわないのん」

 クネクネではなく、グネリグネリと照れたように体を動かす。

「ねぇ、聞いてん」照れた少女が文字を描くように、彼の裸の胸に文字を書く「この前アインズ様がいらっしゃったとき、私の体をじろじろと見たのよん。あれはまさに獲物の選別をするオスの視線ね。それから照れたように視線をそらされたの。もう、キュンって胸は高鳴るし、背筋はゾクゾクきっちゃったわん」

 そこでぴたりと動きを止めると、彼の目を覗き込むように顔を近づける。その異様な外見から必死に逃げようとするが、体はピクリとも動かない。 

「シャルティアとかいう小娘もアインズ様の寵愛を狙ってみるみたいだけど、女として年齢を重ねた私の方が絶対に魅力は上よん。あなたもそう思うでしょ?」
「はあ。あうあいあう」

 肯定しなかったらどうなるのか。その恐怖が彼に同意の声を上げさせる。
 口を開けたままの意味が不明な彼の返事を受け、ニューロニストは嬉しそうに目を細める。そして両手を組むと中空を見据える。それはまるで天を拝む狂信者のように。

「ふふふ、あなたって優しいのねん。それとも事実を事実として言ってるだけなのかしら。でも何でか呼ばれないのよね……。ああ、アインズ様……ストイックなところも素敵……」

 プルプルと感動に打ち震え、そのたびに肉が揺れる様は脂身だけの肉を思わせた。

「……はぁ。ぞくぞくしちゃったわん。あっとごめんなさい、私の話ばっかり」

 そのまま俺を忘れてくれ。そんな彼の思いを無視し、ニューロニストは話を続ける。

「これからのあなたの運命について話しておくわねん。あなた、聖歌隊ってご存知?」

 突然の質問に彼は目を白黒させる。そんな彼の疑問をニューロニストは知らないと判断したのか、説明を始めた。

「賛美曲、聖歌、賛美歌を歌い、神の愛と栄光を称える合唱団のことよん。あなたにはその一員となってもらうの。あなたのお仲間と一緒にね」

 それだけならば大したことではない。彼もさほど歌には自信があるわけではないが、別段オンチということは無いのだから。ただ、ニューロニストという化け物が、そんなまともなことを狙っているというのか。彼は内心滲みあがる不安を隠しきれずに、ニューロニストを横目で伺う。

「そうよん。聖歌隊よん。アインズ様に忠誠を尽くしていない、愚かなあなた達でも大きな声で歌うことによって、アインズ様に対する捧げ物となれるのよん。目指すのは合唱よん。あぁ、ぞくぞくしちゃうわん。アインズ様に送るニューロニストの歌唱よん」

 気持ち悪い目玉に靄が掛かったような色が浮かぶ。それは自らの考えに興奮しきったためか。細い指が蟲にように蠢く。

「うふふふふ。さて、あなたの合唱をサポートしてくれる者たちを紹介するわねん」

 今まで部屋の隅にいたのだろうか、何人かが彼の視界に入るように唐突に姿を見せる。
 その姿を見て、一瞬だけ彼は呼吸を忘れる。それは邪悪な生き物だと一目瞭然で分かる、そんな奴らだったからだ。
 体にぴったりとした黒い皮の前掛け。全身は白というよりも乳白色。そしてそんな色の皮膚を――仮に紫色の血が流れているとするなら――血管が全身を張りめぐっているのが浮かび上がっている。
 頭部は黒い皮の、顔に一部の隙もなくぴったりとしたマスクをしており、眼は見えるのか、そしてどこから呼吸をしているのか不明だ。そして非常に腕が長い。身長は2メートルはあるだろうが、腕は伸ばせば膝は超えるだろう。
 腰にはベルトをしており、そこには無数の作業道具が並んでいた。
 そんなのが4体もだ。

「――トーチャーよん。この子達と私で協力してあなたに良い声で歌わせてあげるわん」

 嫌な予想。歌うという意味がどう意味なのかを悟り、彼は必死に逃げようと体を動かす。しかしやはり体はまるで動かない。

「無駄よん。あなたごときの筋力じゃ切れないわん。この子達が治癒の魔法をかけるから、たっぷりあなたは練習できるわよん?」

 私って優しいでしょ。そんな邪悪なニュアンスを込めた口調でニューロニストは言葉をつむぐ。

「はへへふへ!」
「ん? どうしたのかしらん? 止めて欲しいの?」

 目に涙を滲ませながら叫ぶ彼に、ニューロニストが優しく問いかける。そして6本の触手がゆらゆらと揺らめいた。

「良いかしらん? あのお方が残られたことで、私達、至高の方々によって作り出された者は存在することを許されているのよ? あのお方に仕えるということで存在する理由があるのん。その尊きお方のお住まいに、土足で入り込んだ盗人に対して、私達が一片でも慈悲をかけるって? 本気でそう思ってるの?」
「おへははふはっは!」
「そう。そうねん。後悔は大切なことだわん」

 ニューロニストが細い棒を何処からか取り出す。先端部分に5ミリほどの大きさの棘の生えた部分がある。

「まずはこれでいくわねん」

 それが何に使うのか理解できない彼に対し、ニューロニストは嬉々として説明する。

「私を作り出された方が尿道結石という奴で苦しんだって話でねん。それに敬意を評して、まずはこれからおこなうのん。ちょうど小さくなってることだし、楽にいけるとおもうわん」
「はへへふへ!!」

 何をされるのか理解し、泣き喚く彼に、ニューロニストは顔を近づける。

「これから長い付き合いになるのよん。これぐらいで泣いていたら大変よ?」



 ■



 突如襲ってきたグール4体を退治し、一息ついたヘッケランたち『フォーサイト』の足元。そこに魔法陣が広がった。次の瞬間、そこから起こった回避不可能な蒼白い光に包まれて、気がついたら視界に飛び込んでくる風景は一変していた。

「なんだ?」

 ヘッケランは呆けたように呟きをもらし、慌てて周囲を見渡す。現状の把握も重要なことだが、仲間たちの安否の方がより重要だ。見渡し、すぐに仲間たちの確認は取れる。
 イミーナ、アルシェ、ロバーデイク。
『フォーサイト』の面々は先ほどの魔法陣に入り込んだ隊列を守ったまま、誰一人欠けることなく揃っていた。互いの安全を確認し、安堵の息をつくより早く、4人は周囲を油断無く見渡す。

 そこは薄暗い通路が一直線に続いていた。通路は広く高い。それは巨人でも歩けるようなそんな建築形式だ。通路に掲げられた松明の炎の揺らめきが陰影を作り、影が踊るように動く。通路の伸びた先、そこには落ちた巨大な格子戸がある。格子戸の空いた隙間からは、白色光にも似た魔法的な明かりが入り込んでいた。通路の反対を見るとかなり奥まで進んでいるようで、途中に幾つも扉があるのが松明の明かりに照らされ分かる。
 全体的に静まり返り、聞こえるのは松明がはぜる音ぐらいなものだ。

 取りあえず即座に襲ってきそうなモンスターはいない。そう判断しながらも、視線のみは注意深く周囲を走らせる。

「ここがどこだか分からないけど、今までとは雰囲気がまるで違うわね」

 確かにさきほどの墳墓とはまるで違う。こちらの方が文明の匂いがするというべきか。フォーサイトの面々が周囲を見渡し、ここが何処なのか把握しようとする中にあって、アルシェの態度だけが少しばかり違っていた。

「――ここは……」

 その言葉に含まれた感情を機敏に感じ取り、ヘッケランはアルシェに尋ねる。

「知ってるのか?」
「――似た場所を知っている。帝国の闘技場」
「ああ、言われてみればそうですね」

 ロバーデイクが同意の声を上げた。ヘッケランとイミーナも声までは上げないまでも、同意の印として頭を縦に振る。
 闘技場でモンスターや獣と戦う。それはワーカーであればさほど珍しくは無い仕事だ。普通の戦闘では満足の出来ない観衆を楽しませるために、ワーカーが雇われることはよくあるのだ。そう、時にはワーカー同士が戦う事だってある。
 フォーサイトの面々も闘技場でモンスターと戦ったことは昔あった。そのときの光景――待合室から通路を通り闘技場に出る、その途中の通路とこの場所は、確かに雰囲気やその他で類似しているところがある。

「なら、奥は闘技場ですね」

 ロバーデイクが格子戸の方を指差す。

「だろうな。ここに転移したってことは……そういうことだろうな」

 闘技場に出て来いという意味だろう。そこで待つのは何かまでは想像もつかないが。

「――危険。転移の罠なんか聞いたことが無い。いまだ未知の魔法を使うことができる存在がいるのか、もしくはかなり進んだ魔法技術を持つ者がいるのか。どちらにしてもこの墳墓を根城にしている存在を敵にするのは危険」

 魔法技術に関する知識は殆ど無い者だって、転移という魔法がどれほど高位なのかは知っている。そんなものを罠のように発動させるとなると、それを仕掛けた者の魔法に関する知識がどれほど優れたものか想像がつく。そうではなく未知の――アルシェすら知らない魔法による移動を行ったとしたら、完全に相手の実力の予測が出来ない。
 つまりはどちらにせよ敵対するということは、危険極まりない博打のような行為だ。

 しかしながら土足で入り込んだ者に対し、好意的に対応してくれる者は少ない。いやいないと言い切ってもおかしくは無い。ナザリック大地下墳墓に入り込んだ瞬間、ヘッケランたちの運命は半分決まったようなものだ。願わくは、墳墓に仕掛けられた罠が、現在住む者たちが仕掛けたもので無いことだ。昔の罠をそのまま使っているというなら、まだ生き残れる可能性が出来るのだから。

「――もしかすると500年前の遺跡なのかもしれない」
「ああ。昔、進んだ魔法技術があったっていう奴ですか」
「大陸を支配し、直ぐに滅びた国。現在は首都のみが残るという?」
「――8欲王。この世界に魔法を広めたといわれる存在。あの時代のものであればもしかすると……」

 フォーサイトの面々は顔を見合わせ、息を吐く。このままここで揉めていても仕方が無い。結論を出す必要がある。

「……向こうを調べてみますか?」
「行くまでも無いでしょ。どうせ封鎖されてると思うけどね」
「道は1つしかないな。勝者には生を与えてくれる興行主がいることを祈るだけと」

 ヘッケランの言葉が方針を固める。
 ヘッケランを先頭にロバーデイク、イミーナ、アルシェと続く。
 格子戸に近づくと勢い良く上に持ち上がった。それを潜り抜けたフォーサイトの視界に映るものは、何層にもなっている客席が中央の空間を取り囲む場所。

 まさに闘技場だ。
 長径188メートル、短径156メートルの楕円形で、高さは48メートル。帝国の闘技場と比べても遜色が無い。いやもしかしたらこちらの方が上かもしれない作りだ。様々な箇所に《コンティニュアル・ライト/永続光》の魔法が掛かり、その白い光を周囲に放っていた。
 そのため真昼のごとく周囲が見渡せる。
 客席を見たフォーサイトの面々は驚き、口ごもる。
 
 無数の客席には無数の土くれ。ゴーレムといわれる人形が座っていたためだ。

 ゴーレムとは主人の命令を受け、忠実に動く魔法的な手段によって生み出される無生物のことだ。食事も睡眠も疲労も、そして老化さえしないそれは、門番や警備兵や労働者として非常に重宝されるものである。製作するのは非常に時間と費用が掛かるために、命令を入力する前であれば、最も弱いものでもかなりの高額での売買となるものだ。
 ワーカーとして名の知れているヘッケランたちでさえ、ゴーレムを買うとなると結構大変だろう。それだけ高額が付くものなのだ。
 それがこの闘技場にいたっては、無数に並んでいる。その光景はこの闘技場を保有する者が、どれだけの金を持つか、そしてどれだけ寂しいものなのかを意味する記号のようにヘッケランたちには思われたのだ。

 互いの顔を見合わせ、静まり返った闘技場にヘッケランたちはその身を入れる。

「外?」

 イミーナの声に反応し、空を見上げてみるとそこに浮かんでいるのは夜空だった。周囲の明かりが強いため、星々の輝きが邪魔されて見通すことが出来ないが、それでも闘技場の上に広がるのが夜空だというのは間違いが無い。

「外に転移したってことか?」
「――なら、飛行の魔法で逃げれば――」
「とあ!」

 貴賓席があると思われるテラスのような場所。その場所から跳躍する影が1つ。
 6階だての建物に匹敵する高さから飛び降りた影は、中空で一回転をすると羽根でもはえているように軽やかに大地に舞い降りる。そこに魔法の働きは無い。単純な肉体能力での技巧だ。盗賊でもあるイミーナが驚くほどの見事な動きだった。
 足を軽く曲げるだけで衝撃を完全に受け殺したその影は、自慢げな表情を見せた。

 そこに降り立ったのは1人のダークエルフの少女だ。
 金の絹のような髪から突き出した長い耳をピクピクと動かし、太陽のようなという言葉が似合いそうな満面の笑みを浮かべている。
 上下共に皮鎧の上から漆黒と真紅の竜鱗を貼り付けたぴっちりとした軽装鎧を纏い、さらにその上に白地に金糸の入ったベスト。胸地には何らかの紋様が入っていた。
 その色の違う瞳を見た、イミーナが驚きの声を上げる。

「お――」
「挑戦者入ってきました!」

 ダークエルフのその明るい声に合わせ、どんどんと闘技場が揺れるような音がする。
 周囲を見渡せば、今まで一切動いていなかったゴーレムたちが、足を踏み鳴らしているところだった。

「挑戦者はナザリック大地下墳墓に侵入した命知らずの愚か者達4人! そして、それに対戦するのはこのナザリック大地下墳墓の主、偉大にして至高なる死の王。アインズ・ウール・ゴウン様!」

 ダークエルフの言葉に反応し、向かいの扉が開く。扉が完全に開ききり、薄暗い通路から闘技場へと姿を見せる者。それは一言で表すなら骸骨である。
 ほぼ白骨化した頭部。ただ、その空虚な眼窟には意志たる赤い炎が灯っている。
 漆黒に輝き、金と紫色の紋様が入ったかなり高価そうなフルプレートメイルを纏い、右手には抜き身の剣をぶら下げていた。

 どんどんという足踏みが止まると、拍手へと変わった。
 それはまさに王者を迎え入れるものだ。

 周囲のゴーレムたちによって生じる、鳴り止まない万雷の拍手の中、骸骨のような存在がゆっくりと入ってくる。その手に持つ武器や装備で、これから行われることは一目瞭然だ。

「――申し訳ない」

 アルシェが呟く。

「――私の所為でこんなことになった」

 これから行われる戦闘は恐らくはフォーサイト始まって以来の激戦だろう。もしかすると死者が出るかもしれないほどの。そしてそんな状況に追い込まれたのも、元をただせばアルシェの借金が原因だ。アレがなければこんな情報の足りない墳墓に来るという仕事は降りただろう。
 つまりはアルシェの所為で仲間が死ぬかもしれないのだ。

「気にするな」
「ですね。皆で決めて選んだ仕事です。あなただけの所為ではないですよ」
「そーいうことよ」

 ヘッケランとロバーデイクが笑いかけ、イミーナが最後にアルシェの頭を撫で回す。

「さて、まずは無理だとは思うが対話してみるか」

 アインズは闘技場に入り、剣を持たない手を振るう。それは何かを払うような動作にも似ていた。
 静寂が舞い降りる。全てのゴーレムの拍手が一瞬で止み、耳に痛いほどの静寂が戻ったのだ。ゆっくりと歩いてくるアインズに向き直ると、ヘッケランは真剣な声を出す。

「まずは謝罪をさせていただきたい――」
「……アインズ・ウール・ゴウンです」
「――アインズ・ウール・ゴウン殿」

 アインズは立ち止まると、剣を肩に乗せ、その先を待つように顎をしゃくる。

「この墳墓にあなたに無断で入り込んだことに関して謝罪させていただきたいと思います。不法侵入したことを許してもらえるのなら、それに相応しいだけの謝罪金として金銭をお支払いしたい」

 暫しの沈黙が流れる。それからふうっとアインズはため息をついた。無論、アンデッドたるアインズに呼吸をする必要は無い。そのためそういう行為を行ったというだけではある。

「ナザリックに許可なく土足で入り込んだ者に対し、無事に帰したことは私達が占拠して以来一度も無い。例えお前達が勘違いしてようが、知らなかっただろうが関係は無い。その命を持って愚かさを償え」

 それだけ言うとアインズは剣を肩から下ろし、戦闘体勢に移行しようと動き出す。

「もし許可があったとしたら?」

 ぴたりとまるで凍りついたようにアインズの動きが止まる。そこから感じられるのは強い動揺だ。ヘッケランは自分の何気ない言葉がそれほどの影響を与えたことに内心驚くが、それは表情には出さない。確実に敵対しかないだろうと思われた道に、わき道が突如現れたのだ。これを利用しない手は無い。

「……何?」

 消え去るような小さな声でアインズが尋ね返す。

「もし許可があったとしたら?」
「……馬鹿な……いや……可能性は無いわけではない? ならば何故……ここに……」

 動揺からか、アインズは頭を振りつつ思考の海に飛び込む。
 ヘッケランも必死に頭を回す。一体、どんな風に話を持っていけば最も生き残れる可能性が高いかを。

「……誰が許可を出した?」
「あなたがご存知じゃないんですか、彼を」
「彼……?」
「名前までは言っていませんでした。ですがなかなか大きな化け物の外見をしていましたよ」
「大きい? それは……」

 ヘッケランはこの危険な綱渡りのゴールが何処になるのか、必死に考える。
 アインズは怪しんでいるが、真実かも知れない――真実だと思いたいという2つの葛藤の間に挟まって動けないような状況だ。だからこそ踏み込んで質問をしてこないのだろう。

「どんな外見だ、言ってみろ」
「……てかてかしていましたね」
「てかてか……?」

 再び考え出すアインズにヘッケランはまた危ない状況を切り抜けられたことに、内心で安堵の息を吐く。

「どんなことを言っていた?」
「ナザリック大地下墳墓にいるアインズによろしく頼むといっていましたね」
「……アインズ?」

 ピタリと動きが止まる。ヘッケランは不味いことを言ったかと表情を引き締める。

「……アインズによろしくと言ったんだな?」
「ええ」
「くはははははは!」

 ヘッケランの答えを聞いて、アインズは高らかに笑う。それは気持ちの良いものではない。ドロドロとした熱を発する激しいものだ。

「……愚か者だ。俺は愚か者だ。こんな馬鹿どもに騙される、俺は最も馬鹿だ!」

 ピタリと動きをアインズは止め、ヘッケランたちを見据える。眼窟の中に宿る、真紅の炎ごとき揺らめきがどす黒い輝きに染まりだす。物理的な圧力すら伴うような視線を受け、ヘッケランたちは一歩後退する。

 そこにあるのは憤怒。
 先ほどまで絶対者と、自らを非常な高みにおいていた者が、激怒のあまりにヘッケランたちと同等のところまで降りてきていた。

 イグノニックに水をかけるという言葉がある。
 イグノニックとは乾燥地帯の草原に生息する、毛の長くふわふわした4足の魔獣だ。頭部には鋭い角を生やし、体長は牛と同等。美味い肉が取れることでも知られている。
 そんな魔獣だが温厚で戦いを好まないおとなしい性格のため、この魔獣を狙っての狩猟はよくあることだ。しかし、そんな魔獣が飼育されないのには理由がある。
 それは水をかけると異常なまでに暴れだすのだ。
 その獰猛さは自らの体躯の数倍にもなる魔獣ですら襲い掛かるほど。
 さらには水を吸った毛は鋼鉄以上の硬度となる。まるで鉄の塊が桁外れの速度で、鋭い角で刺し殺さんとぶつかって行く。そんな戦闘方法を取るのだ。

 イグノニックに水をかける。それは大人しく容易い相手をこちらからわざと激怒させ凶暴化させるという、つまりは馬鹿な行為の例えだ。
 そして今のヘッケランたちにこれ以上相応しい言葉はないだろう。

「クゥ、クズがぁあああああああ!! この俺がぁ!! 俺と仲間達が、共ににぃぃぃいいいいい!! 共にぃい作り上げた俺達の、俺達のナザリックに土足で入り込みぃい!」

 激しい怒りが抑えきれずに言葉に詰まる。アインズはまるで深呼吸をするように肩を動かし、激しく言葉を続ける。

「さらにわぁあ! 友の、俺のもっ、最も大切な仲間の名を騙ろうとするぅう! 糞がぁああ!! 許せるものかぁああああ!!」

 アインズが激しい口調で叫ぶ。その怒りは何処までも収まる様子を見せないほどのもの。
 しかし、ふと急激に静まり返った。
 それはぶつんと何かが切れるような変貌。その急な変わりようは対峙するヘッケランたちですら、異様に感じさせるのに充分だった。

「……激しい感情もまた抑圧されるか」

 まるで他人事のようにアインズは言葉を紡いだ。話している意味が理解できないヘッケランたちに、アインズは微笑みすら浮かべるような穏やかな態度で話しかける。

「この身になってからというもの苦痛や感情というものが、ある程度の域に達すると抑圧されるのだ。例えば右腕を失った状態でお前達は戦闘できるか? 激しい苦痛に襲われ、戦闘行為が一切取れない可能性もある、そうだな? しかし私は違う。右腕を失ったとしても問題なく戦闘行動を取れるだろう。それはある一定以上の痛みを感じないためだ。腕を切断された痛みが、せいぜい腕を軽く打った程度の痛みで抑えられるというのかな? それが感情にも言えるんだ。激しい怒りは押さえ込まれ、すぐに冷静さを取り戻す。とはいえ……抑えられた結果の弱い怒りは長く持続するのだがな」

 アインズはそれだけ言うと話は終わりだといわんばかりの態度を示す。それは持っていた剣を強く握り締め、足幅を少し広めに取る――戦闘姿勢だ。

「アウラ」
「はい、アインズ様」

 今まで静かに様子を伺っていた少女が口を開く。ヘッケランたちに向ける視線には敵意の色が見えた。つまりはあの少女も掛かってくるのかと、ヘッケランたちはダークエルフの少女に対しても構える。

「では予定通り下がっていろ。後片付けのみ頼む」
「畏まりました」

 アウラは後ろに下がり、アインズのみが対峙する。

「さて、はじめようか」


 アインズという戦士と対峙し、ヘッケランが最初に思ったことは目の前の敵が戦士や剣士ではないと言うことだ。どちらかと言えば魔獣のような、その優れた肉体能力で押してくる敵に感じられた。
 それは無造作な立ち方であり、身構えからだ。いうなら素人の雰囲気なのだ。しかし相対し感じる重圧は強大。人間大の体躯が膨れ上がり、圧し掛かってくるようだった。
 こういった存在を敵に回した場合、恐ろしいのは一気に畳み掛けて来た場合だ。

「来ないのか? なら行くぞ?」

 その言葉と共にアインズが踏み込む。そして大上段からの大振りの攻撃。
 破壊力はあるが、その分隙だらけのはずの攻撃はアインズという桁外れの肉体能力を持つものが行えば、それはもはや最強の一撃となる。
 
 ――受けるのは危険。
 高速で迫る剣を感じ取りながら、瞬時にヘッケランは判断する。受ければその破壊力と正面から競いあうこととなる。その場合、肉体能力の差で絶対に押し切られるだろう。
 ならば取る手段は1つ――。

 ギャリと剣が削られるよう嫌な音を残し、アインズの振るった剣は大地に振り下ろされる。
 ――受け流しである。
 たとえどれほどの力が込められていても、受け流せられるなら問題ではない。そして受け流され、大きく体勢の崩れた体がヘッケランの前にある。纏う鎧は恐らくは超一級品。ヘッケランの持つ剣では抜けない可能性がある。ならば狙うはむき出しの頭部。放つは武技――

「ダブル――スラッシュ!」

 双剣が光を走らせ、アインズの頭部に走る。

 ヘッケランの持つ武器は短い。そのために相手の懐に飛び込まなくてはなら無いというリーチの不便さを意味する。しかしながらそれはまた、相手の懐でも剣を振るえるという意味。
 逆に普通の長さの武器ではヘッケランの間合いで、剣を持って防ぐことは困難を極める。

 頭部めがけ疾走する双剣。
 普通の敵ならその一撃を食らうだろう。
 一流の敵ならかすり傷で耐え切るだろう。では――超一級の敵は?

「くぉっ!」

 アインズは奇怪な叫びと共に大きく跳ねのく。自らの頭部に走った剣は左手を上げることで即席の盾とする。金属音が響き、舌打ちをする無傷のアインズ。
 これでガントレット、ひいてはフルプレートメイルが一級品だということが肯定された。

「――《マジック・アロー/魔法の矢》」
「《レッサー・デクスタリティ/下級敏捷力増大》」

 アルシェの魔法が光の矢となりアインズめがけ飛ぶ。ヘッケランの敏捷力を増大させる魔法がロバーデイクから放たれる。
 
「児戯を!」

 それに対しアインズは見もしない。光弾を完全に無視し、ヘッケランめがけ距離を詰める。
 光の矢がアインズの体に触れる前で弾けて無効化される中、そしてアルシェが驚愕の表情を作る中、アインズは刺突による攻撃を行う。剣の伸びた先にあるのはヘッケランの胸部。
 閃光の速度で剣が伸び、胸を貫くか否かのところで、ヘッケランは体を捻る。ガリガリという音が胸で起こり、断ち切られたチェインシャツの鎖が中空を舞う。
 刹那の見切り。
 いやあまりにもアインズの攻撃が早すぎたために、回避が遅れ、刹那の見切りになってしまったという言い方が正解か。ロバーデイクの魔法の補助が無ければ、不可能だっただろう偶然の行いだ。
 切り裂かれる鎧ごと引っ張られそうになるのをヘッケランは耐え、体勢を維持すると、再び武技を発動させる。

「ダブルスラッシュ!」
「おおっ!」

 身を屈める様な無様な格好でアインズはそれを回避し、詰まった距離を離そうと後ろに下がろうとする。

「逃がす――か!」

 アインズを逃がすまいと、ヘッケランは踏み込む。そのヘッケランの顔の直ぐ横を、音と立て走りさる何か。
 それは矢だ。
 イミーナが放った矢がアインズの顔めがけ飛ぶ。

「ちっ!」

 ヘッケランの後ろから――隠れるように放たれた高速で飛来する矢。それは常人であれば回避は不可能だろう。しかしやはりというべきか、常人ならざる反射神経をもつアインズはギリギリで回避する。

「――《フラッシュ/閃光》」
「《レッサー・ストレングス/下級筋力増大》」

 アインズの前で閃光が弾ける。本来であれば視野を奪われるそれも、アインズにとっては何の意味ももたらさない。ただ、わずらわしさを感じる程度。

「邪魔を!」

 筋力が増大したヘッケランに距離を詰められ、舌打ちをするアインズ。

「――《リーンフォース・アーマー/鎧強化》」
「《アンチイービル・プロテクション/対悪防御》」

 アルシェとロバーデイクの魔法がヘッケランの守りを固める。
 ヘッケランの攻撃を避け、剣で弾き、反撃をしようしたアインズの顔面を狙って再び矢が飛ぶ。

「くそ! また邪魔を!」

 矢をガントレットで払いのけるが、その動きが止まったところに、ヘッケランの攻撃が再び走る。そしてアルシェとロバーデイクの魔法がヘッケランをどんどんと強めていく。


 アインズは強い。
 その人間では到底及ばない肉体能力。魔法に対する耐性。そして纏う一級品の鎧。戦士として欲しいものは全て持っているといえるだろう。
 しかしながら弱点もある。それは強大な肉体能力を保有するものによく見られる、技術というものが無いということだ。いうなら野生の獣だ。全ての攻撃が大振りだし、次の攻撃を考えたものではない。さらにフェイントというものをほぼしてこない愚直な攻撃だ。
 確かに全ての攻撃が一撃必殺という戦士が憧れるようなものであり、人間とは桁が違う。だが、どこに来るというのが分かっていればまだ対処の仕様がある。

 無論、そうだからといっても全てがギリギリの瀬戸際での攻防だ。もし振り降ろされる剣の角度を誤って受け流せば、剣を破壊され、致命的な傷を受けるだろう。薙いでくる剣の間合いと速度をほんの少しでも読み違えれば、真っ二つになっているだろう。
 今まで投げたコインの出目が全て表を出してきたような幸運。それに守られているにしか過ぎない。しかし、それをなしているのはたった1つのこと。それはチームワークである。死地を共に潜り抜け、互いの行動すら把握するだけの仲になったからこそ出来る、1つの――フォーサイトという生き物ごとき行動。

 つまりフォーサイトとして存在するなら、決して敗北は無いということ。

 ヘッケランは僅かに頬に浮かぶ笑みをかき消す。
 少しずつだが剣が届くようになってきた。いまだアインズは無傷である。ただ、その一級品の鎧に、剣はかすりつつある。このまま順調に、緊張感を切らさずに行けば、必ずアインズに致命的な傷を与えることは可能だ。
 そう確信し、双剣を振るう。

「――――!」

 アインズは一閃を転がるように避け、頭部を狙った剣撃を、ガントレットを嵌めた手で弾く。飛来した矢は剣で弾く。アルシェとロバーデイクの魔法がヘッケランを更に強化する。

「くそ!」

 アインズは怒号と共に、剣を破れかぶれのように大きく振るう。無論、人間では到底出すことの出来ない速度でだ。それを避けたことでヘッケランの攻撃が一瞬だけ止むと、後ろに走り距離を取る。
 ヘッケランは追撃をしようかと考え、荒くなりつつあった呼吸を整えることを選択する。アンデッドであるアインズはどれだけ行動しても疲労することが無いが、人間であるヘッケランたちは徐々に疲労していく。持久戦になったら不利なのだ。休めるときに休むのが正しい。

「どうしてだ?」

 距離を取ったアインズは、不思議そうに呟いた。

「何故、こいつらは死なない?」
「はぁ?」

 死ぬことが確定のようなアインズの言葉。確かにアインズの戦闘能力は高い。だが、それでも当たり前のように言われればヘッケランでなくとも腹が立つだろう。

「コキュートス!」

 その言葉に反応したのは貴賓席。そこからアウラと同じように――だが、まるで違う異形が舞い降りた。
 それは白銀の塊である。周囲にある無数の明かりを反射し、きらきらと輝く。
 そんな2.5メートルほどの巨体は、二足歩行の昆虫を思わせた。悪魔が歪めきった蟷螂と蟻の融合体がいたとしたらこんな感じだろうか。全身を包む白銀に輝く硬質そうな外骨格には冷気が纏わり付き、ダイアモンドダストのようなきらめきが無数に起こっていた。
 跪こうとするコキュートスをアインズは止める。

 アインズをはるかに勝るような異形の存在。それの登場に、フォーサイトの面々は戦慄する。アインズ1人でもこの有様なのに、これ以上増えた場合、勝算は無いに等しいから。

「……聞かせろ、コキュートス。何でこいつらは生きているんだ?」

 だが、そんなフォーサイトの面々を無視し、アインズは現れた異形――コキュートスと話す。

「私は33レベルの戦士に匹敵する能力を有しているはずだ。それから考えればこいつらを容易く殺したとしてもおかしくは無いはずだな、コキュートス。それなのに未だ殺しきれていない。それもたった1人もだ。何故だ、コキュートス。お前が推測したこいつらのレベルが実は外れていたのか? いくら私の単純な肉体戦闘能力を確かめるため、殆どの装備を外しているとはいえども、これは無いだろう?」
「彼ラノ能力的ナ面ハ、私ノ予測ノ範疇カラハ外レテハオリマセン」
「では、なんだ? 何故殺せない?」
「ソレハ経験ノ差デス。アインズ様ノ能力ナラ確カニ彼ラヲ容易ク殺セルデショウ。デスガ、全テヲ使イコナシテイルワケデハナイタメデス。全力ヲ出シ切レテナイ以上、彼ラヲ容易ク殺スコトハ出来ナイカト」
「持っている全ての能力を使いこなせてないから?」
「左様デス」
「なるほど……経験というものはスキルには無いものだからか。ふむ……なるほど、ならば私の成長計画と矛盾は生じないか。データとして存在しながらも経験が無いということは、逆説的には経験は積み上げることが出来るということ。なるほど……経験か」

 幾度となく頷き、満足したようなそぶりを見せたアインズは、再びフォーサイトと向き直った。
 その雰囲気の変化を感じ取り、ヘッケランは嫌な予感を覚える。

 いくつもの死線をくぐったことによって鍛えられた直感が騒ぎ立てるのだ。危険だと。

「鎧を脱ぐ」

 アインズは独り言のように呟く。
 それに対するフォーサイトの面々の思いは『何をこいつは言ってるんだ』、それだけだ。
 
 フルプレートメイルというのは着脱に非常に時間のかかる代物である。誰かの手助けが会ったとしても3分は掛かる。それを1人で脱ぐというならもっと時間が掛かるだろう。大体、戦士が自らの体を守る鎧を脱ぐということにメリットがあるのだろうか。
 剣を抜いた者がいる前で鎧を脱ぐという考えが信じられず、フォーサイトの面々は呆れたようにアインズを見つめる。いや半分以上馬鹿にしていると言っても良い。攻撃を仕掛けないのは、ヘッケランが動こうと微かに腕を動かした瞬間、コキュートスが同じように腕を動かしたからだ。
 それは牽制である。
 そちらが動くなら、こちらも動く。そういう意志を見せられてなお、動くことはできない。

 だからアインズが鎧を脱ぎだす、愚かな光景を黙って見つめるということで、無言の内に行動方針を固める。敵の前でのんびり鎧を脱ぐ者をあざ笑ってやればいい。そう考え、フォーサイトの面々が浮かべていた光景は容易く覆された。

 アインズは無造作に手を振った。――その瞬間、鎧から黒い蒸気が噴きあがる。
 そして起こった出来事にヘッケランたちが驚くよりも早く、アインズの鎧は完全に消え去っていた。そう、それはまるで鎧が蒸気を固めて作っていたかのような、そんな光景だった。
 全身が晒される。
 黒い長ズボンは仕立ての良いもので、銀糸を使って脇に奇妙な紋様が描かれていた。それに対して上半身は裸である。
 頭部と腕部は完全に骨だけとなっている。肋骨部分には肉のこそぎ落ちた皮のみが、こびり付くようについていた。その下、腹部はがらんどうで背骨が見える。そんな肋骨の終わるぐらいのところ。その奥――心臓にしては下すぎる位置に、脈動する赤黒い球体が入り込んでいた。
 動くたびに首から下げた金のシンボルをぶら下げたネックレスが揺れる。
 
「……な、なにが?」
「嘘。魔法で作っていた?」
「そういう特殊能力を保有する魔法の鎧じゃないの?」

 口々に騒ぎ立てるヘッケランたちを無視し、アインズは剣を放り投げた。投げ出された剣は、闘技場の大地に転がり、鈍い輝きを放つ。
 それを目にし、再び、ヘッケランたちは大口を開けた。
 剣を捨てる――それは敗北を受け入れたものがする行為。ただ、アインズの態度にはどこにも敗北の色は無いし、敗北したと認める状況でもなかったはずだ。
 そのためヘッケランはアインズが何を考えているのか分からず、困惑する。しかしながらいつまでもアインズの行動を伺っているわけにもいかないだろう。そのため、覚悟を決めて尋ねることとする。

「……何を?」

 それに対してアインズは薄く笑った。そしてゆっくりと腕を広げる。それは信者を受け入れる天使のような、わが子を抱きしめる母親のような、そんな優しく抱きしめるような腕の開き方で。

「何をしようというのか分からないか? ならば言葉にしてやろう」

 アインズはニンマリと哂う。

「遊んでやる。掛かって来い、ニンゲンども――」


 空気が変わった――。
 先ほどまでのアインズとは雰囲気がまるで変わっている。本来であれば武器――装備品を放棄すれば、その分弱体化するはずだ。しかしながら目の前にいるアインズは先ほどよりも強大な存在になったようにヘッケランには感じられた。そう、まるで一回り以上体格が大きくなったような、そんな威圧感に襲われる。
 剣を放棄することで自信をみなぎらす存在。
 それから考えられる答えは2つぐらいなもの。1つはモンクのような自らの肉体を武器とするもの。しかしながらそれにしてはさきほどの戦い方――回避の仕方が慣れたものではなかった。
 そうなるともう1つの可能性――

「――スペルキャスター?!」

 ここへ来て初めてアルシェは思い至る。目の前の存在、アインズ・ウール・ゴウン。それは魔法使いなのではないかと。

 その想像が浮かばなかった理由は簡単だ。誰が自らのチーム最強であり、歴戦の強者であるヘッケランと対等に戦う魔法使いをイメージできるものか。魔法使いは戦士よりも肉体的な面で脆弱なのは至極当然なのだ。体を鍛える時間があるなら、魔法を磨く時間に費やすのものなのだから。そのため戦士と対等に戦える魔法使いは存在しない。
 それが――世界の常識。
 そんな常識を覆す存在。そんなものが目の前にいると誰にわかるだろうか。

 そのため、アルシェの声にあるのは否定して欲しい、拒絶して欲しいという哀願の思いだ。もし肯定された場合その態度にあるのは、アインズは戦士としての自分よりも、魔法使いとしての自分に自信を持っているということになる。
 それがどんな意味を持つか。それは言うまでも無いだろう。

 単純に多少の魔法を使うだけのでもその戦闘能力はぐんと上がる。強化系魔法をいくつか使うだけでも充分強くなれるのは、現在のヘッケランを見るだけで理解できるだろう。
 しかし、アインズの持つ自信はそんな生易しいものではない。アルシェを遥かに超える――そんな絶対的な自信に満ち満ちている。

 しかしながら、アルシェにはそれを否定するだけの理由がある。

「ようやく気づいたのか? 愚かな奴らだな。いや、私の――仲間たちのナザリックに土足で入り込むネズミだ。その程度の知恵しかなくて当然なのかな?」
「――そんなわけがない! あなたからは魔法の力を感じない!」

 アインズは不思議そうに頭を微かにかしげる。それから何かに思い至ったのか、肩をすくめた。

「お前達は魔法使いの魔力を感知することが出来るんだったな?」
「――そう! あなたからはまるで魔力を――」

 そこでアルシェは顔色を変える。ヘッケランたちはアルシェが何故、そこで言葉を止めたのか分からず、不思議そうな表情をした。そんな中、理解したのは敵対しているアインズだ。

「まるで――感じないんだろ? スペルキャスターだと言っている私の魔力が?」

 そうだ。
 その通りだ。アルシェはアインズの魔力を一切感じられない。しかし、これはアインズが神官系統の魔法を使う存在であれば、間違いではない。ただ、そうなるとアインズのスペルキャスターとしての能力は完全に未知になってしまう。

「それはそうだろうな」

 アインズはアルシェに、そしてヘッケランたちに見えるように自らの両手を広げてみせる。ガントレットを先ほどまで填めていた手は、骨しかないアンデッドらしいものだ。その10本の指にはそれぞれ指輪。それも一瞥するだけで魔法の力を込めたと理解できるようなものである。

「この指輪を取れば分かるさ。部下にも貸し出していた奴なんだがな」

 アインズはそう言いながら指輪の1つを外す。そして――

「――おげぇぇぇぇ!」

 アルシェのいる場所から嘔吐する音。殆ど液体の吐瀉物がバチャバチャと闘技場を叩く。酸味がかった匂いが辺りに漂いだす。

「なにをしたの!」

 アルシェの背中を摩ろうと走り出したイミーナが、アインズが何かをしたのかと睨みつける。それに対し、アインズは正直困惑したように、だが不快気に言う。

「何をしてるんだ、この女? 突然吐くとは、失礼にしても限度があるだろうが」
「――皆、逃げて!」

 瞳の端に涙を浮かべたアルシェが叫ぶ。

「そいつは化け――おえぇええ!」

 再び耐えられないようにアルシェが吐き出す中、ヘッケランたちは理解する。アルシェが吐いた理由を。
 アインズという前に立つ存在が何かをしたわけではない。あまりの緊張と恐怖、そしてアインズの持つ膨大な魔力に耐え切れず、アルシェが吐き出したのだ。
 つまりそれは――

「――勝てるわけが無い! 力の桁が違う! 化け物なんていう言葉で収まる存在なんかじゃない!」

 泣く子供のようなアルシェの叫び。

「ようやく気づいたということか」アインズは嘲笑う。「しかし、逃がさないがな」
「――無理無理無理!」

 発狂したように頭を振るアルシェを抱きしめるイミーナ。

「落ち着いて! ロバーデイク!」
「分かってます! 《ライオンズ・ハート/獅子ごとき心》」

 ロバーデイクの魔法が飛び、恐怖状態から和らいだアルシェが心配するイミーナから離れ、生まれたばかりの子鹿のようによたよたとした足つきで杖を構える。

「――皆、逃げるべき。あれは勝てる存在じゃない」
「……了解したぜ、アルシェ」
「ええ、よく分かりました」
「ああ。アレが凄い化け物だってね」

 既に3人ともアルシェの豹変を受け、警戒のレベルを最大限まで上げている。
 先ほどよりも更に神経を尖らせ、フォーサイトの面々はアインズを睨む。ほんの一瞬でも視線を動かすこと、それが命取りになると理解した表情で。

「しかし逃げられねぇ」
「後ろを見せるのは危険だしね」
「少しでも時間を稼げる手段を見つけないといけませんね」
「……来ないのか?」

 アインズの挑発にヘッケランは乗らない。敵の戦闘能力はアルシェの態度からして、今までで遭遇したどんな存在よりも上位だと簡単に予測がつく。勝利を考えて行動するのではなく、逃げるための時間を稼ぐように行動する。
 ならば狙いは一点。
 魔法を唱え始めた――最も魔法使いが無防備なる瞬間。
 確かにアインズは戦士としての能力にも優れている、だからこそそれに全てを賭けるしかない。無詠唱化されてしまえば終わりな、このちっぽけな可能性に。
 つがえた矢を引き絞るように、ヘッケランは体全身の力をばねの様に溜め込み始める。

「ではこちらから行くとしよう」

 アインズがゆっくりと手を動かし――

 ――今だ!
 ヘッケランという矢は放たれる。恐らくはその踏み込みはヘッケランが今まで行ってきたどんな踏み込みよりも早いだろう。蹴り上げた足によって大地が噴きあがる、そんな踏み込みだ。
 
 刹那。
 まるで転移したような速度で急激に目の前に迫る刃をものともせず、アインズは魔法を1つ唱えた。

《――/――》



 アインズの目の前数センチにまで迫った刃は、何に触れることなく空を斬る。そして――ヘッケランは内部から破裂した。
 吹き上がった血や肉片が、闘技場の大地に広く飛散した。

 何が起こったのか。
 ロバーデイクもイミーナもアルシェも理解できなかった。アインズという目標を失い、踏み込んだ速度を殺しきれずに、ヘッケランが飛び込むように闘技場の大地に転がってなお、理解できなかったのだ。
 大地に転がってピクリとも動かなくなっても。目に鮮やかなピンク色の肉片が遅れて地面に落ちてきたも。転倒したショックで仰向けに転がり、その頭部の失った体を晒しても。
 そう、一言も無く、チームリーダーであり頼れる男であるヘッケランが、死んだなんて理解できなかったのだ。

「ヘ、ヘッケラン?」

 イミーナの呟き。そこで初めてロバーデイクが我に返る。ヘッケランが向かった先にいたはずのアインズ。あれはどこに消えたのかと。慌てて頭を振って探すロバーデイクの視線がアインズの姿を捕らえる。そして絶句――。
 アインズがいたのは全員の後ろ。最後尾であるアルシェの背後。そこでゆっくりと手を振り上げ――その手には金属の輝き。

「ア――!」

 ロバーデイクが叫ぶより早く、アインズの手に持っていたナイフがアルシェの肩に振り下ろされる――。

「――ぎぃいい」

 突然生まれる激痛。それにアルシェは悲鳴を上げる。何が起こったのか、何で痛いのか。わけの分からないアルシェは混乱し、体をくねらせる。そして逃げる。体を竦ませ、ロバーデイクの方へ。
 走り出す瞬間、新たな苦痛が生まれるが、アルシェはかみ堪える。

「……やはり罪悪感というものはこれっぽちも感じないか……。これは人間に対する親近感がなくなったことに対するものなのか? それとも人間性の希薄化によるものか。……だが、あの娘に対する哀れみが合ったから助けに行ったわけで。とすると余裕があるときや完全に第三者に対しては、上から見下ろすという意味で慈悲をかけられるということなのかな?」

 逃げ出したアルシェを追おうとはせずに、血に濡れたナイフに指を這わせながら、ぶつぶつとアインズは呟く。
 話している意味はまるで分からないし、アインズも知ってもらおうと思って話しているのではないだろう。

 アインズのナイフに落としていた視線が動く。向けられた先にいるのは治癒の魔法を使い、アルシェを癒しているロバーデイク。

「まぁ、いいか。とりあえずお前達を掃除する方が先だ」

 アインズの手から落ちたナイフが中空で靄のように消えていく。それは先ほどの鎧のように。

「一体、何をしたんですか?」

 震える声でロバーデイクは尋ねる。
 転移の魔法を使用し、アルシェの後ろに回った。それからロバーデイクたちが混乱している間にナイフを準備する。そこまではまだ理解できる。
 第6位階の魔法すら使う化け物だと理解したうえで。

 ではヘッケランを殺したのはどうやってだ。転移の魔法を使うと同時にヘッケランを殺す魔法を使ったというのか。そんな時間は決してなかった。

「不思議か? 大したことはして無いんだがな」

 アインズは種を明かす。その生き残っている面々の心をへし折るような答えを。

「最初に第10位階魔法《タイム・ストップ/時間停止》。そして第8位階魔法《エクスプロード/破裂》をその男に」転がったヘッケランにアインズは指を向ける「それから第3位階魔法《ディメンジョナル・ムーブ/次元の移動》で後ろに回って、第7位階魔法《クリエイト・グレーター・アイテム/上位道具創造》でナイフを作っただけだ」

 大したことが無いだろ? そう続けるアインズ。
 空間が凍ったような静寂。それはロバーデイクたちが形容しがたい恐怖に襲われたため。そんな中、必死に――必死に勇気を振り絞りイミーナは尋ねる。

「……時間を止めたの? だ、第10位階魔法を使って……?」
「そうだ。時間対策は必須だぞ? お前達が70レベルになる頃には用意しておかなくてはならないものだな」

 ガチガチと歯が音を立てる。それはイミーナだけではなく、アルシェ、ロバーデイクもだ。

 嘘だ。そう叫べれば幸せだ。目の前の化け物――というよりは神の領域に立つ存在の言葉を全て否定して、耳を塞いで蹲れればどれだけ楽になれるか。

 確かにかなり強いというのは理解できていた。特にアルシェにとっては。しかしそれでもここまでの存在だとは理解できてなかったのだ。
 第10位階魔法。神すらも到達できない位階。そんなものの存在は机上の空論でしかない。8欲王が使ったとされるそれは、存在の確認がされなかったため、そうでしかなかったはずだ、今の今まで。
 そしてそれを使って時を止める。もはや詰まらない冗談のような世界だ。

 時を止められるような存在。人が決して支配することも制御することも出来ないはずの時の流れ。それを操る者を相手にどうしろというのか。剣一本持って大森林の木を全て切り倒せといわれた方がまだ出来る可能性があるではないか。
 アインズ・ウール・ゴウン。
 それは人という種では決して勝ち得ぬ存在だ。

「アルシェ! 逃げなさい」

 ロバーデイクが膝を付かないのは、未だ戦おうという勇気がわくのは仲間に対する思いからだ。

「空を見なさい! ここは恐らく外です。飛んで逃げれば逃げられる可能性もあります! あなただけでも逃げなさい! 時間を1分……いや10秒は稼いでみせます!」
 
 両手でメイスを握り締め――

  
 ――ポンとロバーデイクの肩が叩かれる。

「っあ……」

 ロバーデイクの体が動きを止める。誰が肩を叩いたか見なくても分かるために。目の前にいたはずの存在――アインズ・ウール・ゴウン。時の流れすら操作できる神ごとき存在。それがいつの間にか視界から消えているのだから。
 肩に掛かった手から冷気が流れ込んできて、氷の彫像になった。そんな気さえするほど体の自由が利かない。

「――無理だがね?」

 優しい――敵意を一片も感じさせない声がロバーデイクに投げかけられる。メイスが力無くロバーデイクの元から離れ、大地に落ちる――。

「今は何をしたか聞きたいかね?」硬直し、誰も動けない中、機嫌よくアインズは種明かしをする「無詠唱化した《タイム・ストップ/時間停止》を使っただけだとも。大したことが無いだろ? ただ、10秒も時間を稼ぐのは無理だと思うぞ?」

 さて、とアインズは呟き、戦意を失いつつある3人を眺める。

「……そうだ。いいことを考えた。誰か1人だけ逃げるチャンスを上げようじゃないか。逃げるならそこを走っていくといい。ただし逃げる者を後ろから追いかけるものがいる。逃げ切れなかったら……まぁ可哀想なことになるね。――アウラ、出口の扉を開けてあげなさい」
「了解しました」

 アインズはロバーデイクたちが入ってきた方向を指差す。アウラがとんと飛び上がると、靴がほのかな光を発し、その姿がかき消える。

「さぁ、アウラは転移して扉を開けてるだろう。行くならどうぞ。仲間を見捨てて行くといい。さて誰が逃げるのかね?」

 アインズが手を向ける。その顔に浮かんだ表情は邪悪そのもの。誰が逃げるのか、非常に楽しみにしているといわんばかりの顔だ。恐らくは仲間割れをするのを見たいのだろう。
 確かに冒険者と違い、ワーカーチームは金銭的な面での結びつきが強いチームも多い。
 しかし、フォーサイトは違う。

「……アルシェ行きなさい」
「そうよ、行きなさい」イミーナが微笑んだ。「私達は互いしかいないけど、あなたは妹さんがいるんでしょ? なら私達を見捨てていきなさい。それがあなたのすべきことよ」
「――そんなの! 私のせいで!」

 ロバーデイクはアインズに即座に攻撃する意志が無いのを見て取ると、アルシェの元に歩く。そして懐から小さな皮袋を握らせる。

「大丈夫ですよ。あのアインズという化け物を倒してあなたを追いかけますよ」
「そうよねー。そのときはあなたの奢りで一杯ね」

 イミーナも小さな皮袋を取り出すとそれを握らせる。
 それがどういう意味を持つのか。横から見ているアインズには分からないが、アルシェには分かる。ロバーデイクはヘッケランの死体の元まで行くと同じような皮袋を取り出し、それをアルシェに放った。

「一言だけ言わせて貰うが、私は最初にそのこそ泥を殺すと約束する」

 もはやアルシェが逃げることが決まりつつある中、不満げにアインズは3人に口を挟む。喧嘩も何もなく、綺麗に決めていったことが不快なのだ。そんなアインズに対し、3人はチラリと見る程度だ。いや、アルシェのみがイミーナを凝視している。
 イミーナはアルシェに対し微笑む。その透き通ったような笑みを、横から見ていたコキュートスが数度軽く頭を振った。

「……さぁ、行ってください。それと宿に預けてるお金好きにしていいですから」
「私もね」
「……じかいじた。ざぎにいってる」

 無論、3人とも信じていない。
 アインズという想像を絶する存在を倒せるなんて、これっぽちも思っていない。これが最後の別れだと知っているアルシェの言葉はもはや言葉にならず、殆ど嗚咽のようだった。アルシェは魔法を唱え始める。

「上空はモンスターがいるから逃げたとしても捕まるぞ」
「――《フライ/飛行》」

 アインズの忠告を無視し、アルシェは魔法を発動させる。そして最後に仲間を一瞥すると、無言で地表を飛行していく。

「……あぁ、そうか。走るより早いし、疲労しないからな」アインズは忘れていたというといわんばかり態度を見せる。「しかし、仲間割れもしないでよく決めたな。もっとこそ泥に相応しい見苦しい行動をするかと思っていたぞ」
「彼女が最も逃げられる可能性が高いですから」
「そうよ。外なんだから飛行の魔法を使えるあの娘こそ、最も逃げ足が速いからね」
「……外ねぇ」

 ふいっとアインズは星の浮かぶ空を眺め、ニタリと哂う。その哂いに2人は嫌な予感を覚えた。

「良い事を教え――」
「――アインズ様」
「どうした、コキュートス」

 突如口を挟んだコキュートスに、アインズは多少不快げに、されど親しみを込めて尋ねる。

「今殺セバ、彼女ノ元マデ悲鳴ガ聞コエルカトト思イマス」
「おお! コキュートスも恐ろしいことを考える。しかし実の所、飛行の魔法の移動力はかなり高いんだ。残念だが、難しいだろうな。良いアイデアを出してくれたこと感謝するぞ、コキュートス」
「アリガトウゴザイマス」
「……まぁ、確かに大声で泣いたら聞こえるかも知れんな。では、さっさとそのこそ泥を殺すか。この世にお別れを告げる覚悟は出来たか?」

 ロバーデイクがメイスを拾い上げ、アインズに近寄る。自らの直ぐ前に立つロバーデイクにアインズは薄く笑い掛ける。
 イミーナはふぅーと長く息を吐き――

「――あああああ!!」

 ――箍が外れたような叫び声と共に、イミーナが矢を引き絞る。そして――放つ。ロバーデイクがすぐ側にいるとはいえ、誤って命中させてしまうほど下手で無い。この距離なら百発百中だ。
 しかし――飛来した矢はアインズの前でまるで壁でもあるかのように弾かれる。

「無駄なことだな。だが少し……遊ぶか。《トリプレットマジック・グレーター・マジックアキュリレイション/魔法三重化・上位魔法蓄積》」

 3つの魔法陣がアインズの前に浮かび上がる。

「うぉおおおお!」

 似合わないような雄叫びを上げ、アインズの顔面にロバーデイクのメイスが叩き込まれる。何も考えない全力の一撃。アインズが回避するわけが無いという思いから、全身の力を込めた一撃だ。
 しかし、それは容易く弾かれる。メイスを握る手首に負担が跳ね返ったため激痛を感じ、ロバーデイクはメイスを落とす。アインズはそんなロバーデイクに一瞥すらしない。そんな価値すらないという態度だ。

「《トリプレットマキシマイズマジック・マジック・アロー/魔法三重最強化・魔法の矢》」

 アインズは中空に浮かんだ魔方陣の1つに魔法を込める。

「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」

 ロバーデイクの治癒魔法がアインズに飛ぶ。アンデッドは治癒系の魔法で逆に傷を受けるためだ。しかしそれもまた前にアルシェが使った攻撃魔法のように、まるで見えざる壁があるかのように効果を発揮しない。

「《トリプレットマキシマイズマジック・マジック・アロー/魔法三重最強化・魔法の矢》」

 完全に2人の攻撃を無視し、再び魔方陣に魔法を込めるアインズ。
 飛来した矢がアインズの顔面に突き立とうとして、やはり弾き返される。それを見たイミーナが弓を投げ捨てる。もはや飛び道具は効果が無いと判断してだ。

「《トリプレットマキシマイズマジック・マジック・アロー/魔法三重最強化・魔法の矢》」
「《マジック・ウェポン/武器魔化》」

 抜き放ったショートソードを腰に構え、突撃するイミーナにロバーデイクは魔法をかける。そして最後の魔方陣に魔法を込め終わったアインズに突き立てる。
 そして――容易く弾かれる。

 驚きながらも、内心で予測もしていたのだろう。寂しげな笑顔を浮かべたイミーナにアインズは指を突きつける。ロバーデイクが間に割り込もうとしているが、アインズの魔法の発動はそれよりはるかに早い。

「ご苦労様――《トリプレットマキシマイズマジック・マジック・アロー/魔法三重最強化・魔法の矢》そして《リリース/解放》」
「あっ……天使」

 放たれたのは魔方陣から90、アインズから30、計120本にもなる光弾。
 それが弧を描きながらタイミングよく殺到する様は、イミーナが呟いたように天使の翼のように見えた。しかし、それはそんなに慈悲のあるものではない。
 殴打。殴打。殴打。殴打――。
 頭を、胸を、腹を、腕を、足を、顔を、股間を――。

 120の光弾。それはイミーナの全身を殴打する魔法の力だ。イミーナが吹き飛んだ後も餌に群がる魚のように、光弾はイミーナの肉体に叩き込まれる。イミーナが意識を失ったのはどの段階なのか。
 棍棒で殴打されるような痛みの中、決して声を上げない。骨が砕け、内臓が破裂しても、苦痛の声は上げない。

 ほんの一瞬。
 イミーナがいた場所には誰もいない。僅か後方に薄く広がったミンチ肉が転がるばかり。鎧はひしゃげ、着用していたものは血と肉の中にガラクタとして混じっていた。

「イミーナ……!」
「仲間と共に築いたものを漁る、薄汚い盗賊にしては豪華な死だ」

 つまらなそうに吐き捨てるアインズに、ロバーデイクは怒りに満ちた表情で睨む。もはや憤怒という言葉しかその顔には無い。70センチ程度の距離でロバーデイクは、憎悪のみの目でアインズの空虚な眼窟を睨む。
 そんなどんな人間でも離れたくなるだろう視線を受けても、アインズはなんとも思わない。いや、思うような精神構造はしていない。
 ロバーデイクは拳を握り締め、叩き込む。狙うは一点。アインズの肋骨の終わる場所辺りで脈動する球体だ。
 それはそこが弱点だという予測からの一撃。

 拳が吸い込まれるように叩き込まれ――けたたましい破裂音が響く。

 すさまじい衝撃を受け、ロバーデイクの拳が弾き返る。その反動で想像を絶する巨大な力の反撃を受け、完全に破壊されたロバーデイクのガントレットが大地に落ちた。
 よたよたとアインズから後退するように下がり、ロバーデイクは驚愕の顔で拳を見つめる。ガントレットがガラクタになるほどの破壊の力を受けながら、その下にあったロバーデイクの拳にはかすり傷1つ付いていない。あまりにも異常な事態だ。しかしながらアインズという存在を考えれば、なんとなくだがこの結果こそ相応しいような気が、ロバーデイクはしていた。

「感謝するんだな。お前は今、最強のマジックアイテムに触れることが出来たんだぞ? ワールドアイテムの中でも私が保有することで最強となる、私の名前が刻まれたワールドアイテム。かつての戦いにおいても到達した大半のプレイヤーを殺しつくす要因となったものにな。――シャルティア!」

 アインズはロバーデイクに平然と背を向けると、貴賓室に再び声をかける。その態度――ロバーデイクにはアインズを傷つけることが出来ない、と言わんばかりの態度。
 いや、事実そうだ。どんな攻撃も決して届かない。アインズはそう理解しているがゆえにこういった行動に出ているのだ。ロバーデイクにはアインズという化け物を傷つける手段は無い。だからこそ、冷静に考える必要がある。最悪でもアルシェが逃げるための時間を稼ぐ必要がある。

 ロバーデイクが後ろに下がりながら、必死に頭を回転していると、貴賓室から先程のアウラ、コキュートスと同じように1人の少女が舞い降りた。
 銀に輝くような美しさを持つ人間の少女だ。憤怒に支配されつつあるロバーデイクが、美しさに目を奪われかけるほどの美の持ち主だ。
 ふっと、シャルティアが視線を動かし、ロバーデイクを正面から見つめる。真紅の綺麗な瞳。それがまるでロバーデイクの心臓を握り締めた、そんな感じがした。動くこと――呼吸すら困難な重圧が襲い掛かってくるようだった。
 少女の視線がそれてなお、ロバーデイクに動くことは出来なかった。

「シャルティア。さきほどの少女を捕まえておけ」
「畏まりんした、アインズ様」

 少女――シャルティアはアインズにニコリと微笑む。ただ、その輝かんばかりの微笑を横から見て、ロバーデイクの背中を怖気が走る。あれは単に化け物が美しい皮を被っただけの存在だと直感して。
 
「何故、こちらを直視しない?」
「え、だって……」

 シャルティアがもじもじという言葉が似合いそうな動きを見せる。アインズは自らの体を見下ろし、頭をかしげる。

「単なる骨だぞ?」
「アインズ様のは特別です! もう、そんなこと言わせないでください。恥ずかしいです……」

 顔を両手で挟むと、いやんいやんと顔を振る。

「シャルティア……ほんとお前ぶれないな……。というか少し真面目にやれよ……。まぁいい。行って捕らえろ。ただ、ある用途があるのでな。傷をつけたりするのは厳禁だ」
「畏まりんした。無傷で捕らえたいと思いんす」
「狩りを楽しんで来い」
「はい。そうさせてもらいんす」

 シャルティアはアインズに深くお辞儀をするとゆっくりと歩き出す。その1歩1歩がアルシェの命を縮める行為だと、理解していながらロバーデイクには動くことが出来ない。
 一瞥すらせずにシャルティアはロバーデイクの横を通り過ぎて歩いていく。走れば直ぐに追いつく距離。だが、それが遠く感じる。
 シャルティアの歩く足音が遠くなり、アインズはロバーデイクに話しかける。

「さて、取引をしようじゃないか」
「どんな取引ですか」
「お前が協力してくれる限り、アルシェという少女は殺さないという約束だ」
「どのような……協力ですか?」

 ろくでもない協力だろう。それは分かっているが、それでも仲間の命が助かるかもしれないという可能性はロバーデイクにとっては魅力的なものだ。

「今、追いかけていった私の部下は神官系なんだが、その信じる神はお前達の信仰する神とはまるで違ったものだ。というよりも私からするとお前達の信仰する4大神という方が知らないんだがな。それで知りたいのは神官系の魔法を使う存在は、本当に神から力を得ているのかという疑問だ」
「……何を言っているですか?」
「……神という存在を見たことがあるか?」
「神は私達の直ぐ傍にいます!」
「その答えにあるのは、つまり直接は見たことがないということだな?」
「違います! 魔法を使うとき、大きな存在を感じるのです。あれこそ神です」
「……それが神だと誰が決めた? 神自身か? それともその力を使った者か?」

 ロバーデイクは様々な神学論を思い出す。アインズが思った疑問。それに対する答えというのははっきりとは出ていない。未だ、様々な神官の間で揉める原因とはなっているが、それでもあれが神といわれる存在の一部だろうという結論は出ている。
 口を開こうと思ったロバーデイクに、アインズは重ねるように話す。

「……まぁ、それを高次存在――神というものだと仮称して考えると、それは元々無色なものなのではないだろうか、私はそう思ったりもするんだ。ようは力の塊だ。それに色の着いた液体を垂らすことでいろいろな変化が生じる、……まぁ、魔法という法則が存在する世界で、何を考えているんだという突っ込みは自分でもあるんだがね。実際に神がいたって可笑しくはないしな」
「…………」
「すまない。そういうことが言いたかったんではないんだ。まぁ、単純にお前たちの信仰する神の力。それを習得できないだろうかと思ってな。……ぶっちゃけ人体実験をしたいんだ」

 さらりと危険極まりないことをアインズは口にする。

「……人体実験?」
「そうだ。例えば記憶の一部を変化させ、お前が信仰する神を別の神にした場合、どんな結果を及ぼすのかとかだな」

 狂っている。ロバーデイクの正直な感想はそれだ。
 この目の前にいる存在は、考え方からして狂人の発想という領域に到達している。
 1歩下がったロバーデイクを興味深そうにアインズは眺める。その視線がまるで実験動物を観察する学者のようで、ロバーデイクは吐き気すら覚えた。

「協力してくれるなら報酬として、アルシェという女の安全は保証しよう」
「それを信用できる証拠は……」
「あるわけが無いだろ? お前が信じるかどうかだ。まぁ、信じないならそれでも構わない。無理矢理に協力させるだけだ。その場合はあの女も実験材料だ」
「……あなたには慈悲が無いのですか?」
「笑わせるな。ナザリックに土足で入り込んできた者に慈悲なぞかけるか」

 ロバーデイクは空を見上げる。星の浮かぶ空を。
 そして大地を見る。仲間2人の無残な死体の転がる闘技場を。

 深いため息。無数の考えが浮かび、1つずつ考慮する。そして最終的な答えを出す。

「条件がさらに1つ。仲間の死体を弔わせてください」
「……仕方が無い。そして感謝してもらおう。ナザリックに土足で入り、友の名を語ろうとした貴様らに一片でも慈悲を与えられることを。……お前の仲間の死体を利用するのは諦めよう」

 死は絶対なものとして存在する。死者を蘇らせることなんて不可能なこと。せめて仲間の魂が安息を得られるように、アルシェが少しでも救われるように、と神官としてロバーデイクは祈る。



 ■



 荒い息でアルシェは呼吸を繰り返す。
 周囲の草や樹が風でゆれるたび、びくりと身を震わす。そして小動物の動きを持って、周囲を見渡した。
 確かに周囲は森という場所であり、光の届かない場所は多くある。いや、自然林ごときこの場所では、鬱蒼と茂った木々の枝によって天空からの明かりは遮られ、地上部分に明かりは殆ど無い。
 人の目では歩くことも困難に近い場所を、明かり無くアルシェが行動できるのは当然理由がある。それは現在彼女が発動している魔法、《ダーク・ヴィジョン/闇視》によって周囲を真昼のごとく見渡すことが出来るからだ。
 しかし見渡せるといっても、人ぐらい簡単に隠れられそうな下生え。その後ろに充分に身を潜められそうな巨木。ザワザワと揺れる枝等。注意を払うべき場所は無数にある。
 魔法使いであるアルシェではモンスターに飛び掛られたりしたら、力で振り払うことは出来ない可能性のほうが高い。本来であれば仲間が即座に助けてくれるだろうが、現在は助けてくれる人も、前を受け持ってくれる人も、治癒してくれる人も誰もいないのだ。
 つまりは接近戦を挑まれる前に知覚し、距離をとるなり逃げ出すなりする必要がある。それが分かっているからこそ、精神を張り詰めて周囲を伺う必要があるため、精神的な疲労は通常よりも激しい。

 元々最初は外に出たなら、飛行の魔法を使って一気に逃げる計画だった。しかし、木々の上まで昇ったとき、夜空の中、切り絵の影のような黒く巨大なものが何かを探すように飛行しているのを目撃し、その考えは放棄した。
 その巨大な蝙蝠のような存在。それを視認してしまっては、流石に飛行速度の勝負をする気にはなれなかった。《インヴィジビリティ/透明化》の魔法は視覚を騙すことはできても、蝙蝠の保有する特殊な感覚器官を騙すことはできないからだ。

 アルシェは周囲を伺い、再び浮かぶとトロトロとした速度で中空を進む。
 本来の《フライ/飛行》からすれば非常に劣る速度で進むのは、周囲を伺うためだ。全力で飛んでいると、流石に周囲を伺う余力はないし、視認のタイミングが遅れる。そうなるとモンスターのど真ん中に飛び込むことだって考えられる。それを避ける手段はやはり速度を落として飛行するということだ。


 やがてアルシェは自らを包む、魔法の膜が弱まっていくのを感じ取った。《フライ/飛行》の制限時間が経過してしまったのだ。
 ゆっくりと足を地面につける。
 問題はここからどうするかだ。再び《フライ/飛行》の魔法を使うこと自体は問題ではない。その程度の魔力は残っているのが、目を瞑れば感じ取れる。しかし、《ダーク・ヴィジョン/闇視》も必要不可欠だし、モンスターがいた場合を考えて《インヴィジビリティ/透明化》。そして戦闘が避けられない場合の魔力も残しておかなくてはならない。
 アルシェの使える魔法の中でも、第3位階魔法である《フライ/飛行》は最も位階の高い魔法だ。いうなら最も魔力を削る魔法だ。出来れば使わないで魔力を温存したいのは事実。
 墳墓に入り、ここに転移させられる間、かなりの魔力を消費してしまったからだ。残った魔力では《フライ/飛行》もあまり回数は使えないだろうし。

 しかし、この森という足場の悪い地形を簡単に踏破する魔法は惜しい。さらに《フライ/飛行》の魔法が失われるということは自らが何処にいるのか、方向感覚が消失するということだ。

 森というのは言うまでもなく、まっすぐ進んでいるつもりでも徐々に向かう先が狂ってくるもの。これは生えている樹を迂回したり、倒木を乗り越えたりした時などに、どうしても起こってしまう。さらに目立った標識になるものがない以上、自分がどこを歩いているのかを知覚することは非常に困難なのだ。

 飛行の魔法が発動している間は木の上まで昇り、周囲を伺うことで自分の現在位置の確認は取れた。特に闘技場の直ぐ傍に巨大な樹があったことが幸運だった。それらを始点に方角をつかめることが出来るのだから。しかし魔法の切れた今となっては、それは困難を極める。流石に樹を登攀し、周囲の状況を伺うなんて余裕は無いからだ。

「──どこかで休む」

 アルシェは呟く。
 確かに休んで魔力を回復させれば、《フライ/飛行》の使用回数も格段に増えるし、太陽の下で行動した方が安全だ。特に森とかに住むモンスターは夜行性のものが多い。
 この暗い森を無理に進むより、一夜を明かしたほうが安全性は非常に高いだろう。

 しかし、何処なら安全なのかというのがアルシェには分からない。
 もしこの場にイミーナがいれば教えてくれただろう。しかし頼れる仲間はいないのだ。

「──イミーナ、ロバーデイク」

 アルシェは巨木にもたれかかり、仲間を思い出す。

「……うそつき」

 これだけ時間がたったのに2人が追ってくる気配は無い。闘技場で何かが起こった気配も無い。そして2人が何らかの手段でこちらと連絡を取ろうとする気配も無い。そこから導き出される答えは1つだけだ。

 彼らの死。
 
 いや、無論分かっている。闘技場を出る前から分かっていたことだ。彼らがアインズという桁の違う存在に勝てるわけが無いと。だが、それでも淡い期待を抱いてしまったのは、アルシェが愚かだからだろうか――。

 アルシェはぺたんと座り込み、背中を樹にあずける。
 アルシェは目を閉じる。無論危険なのは分かっている。しかし目を閉じたかったのだ。
 2人──いや3人のことを思いながら、目を強く閉じる。

 樹の冷たい感触が頭部に心地よく感じられる。少し休むと、自らが疲労していたことを強く感じさせる。高ぶった緊張感が精神的な疲労として、のしかかってくるようだった。

「──はぁ」

 首の力を抜き、頭を後ろに傾けるような、見上げるような角度を取る。
 そして目を見開いた。

 《ダーク・ヴィジョン/闇視》によって明るい世界の中、それが視界に入ったことが理解できなかった。
 アルシェを見下ろす人物がいたのだ。
 それはアルシェの見たことの無い、非常に美しい少女だった。
 着ている服は場所から考えると、あまりにも適してない柔らかそうな漆黒のボールガウン。白蝋じみた白さを持つ肌。そして長い銀色の髪を片手でつまんでアルシェの元まで垂れないようにしていた。
 貴族であるアルシェですらこれほどの美しい少女を見たことが無い。もし舞踏会に出れば引っ張りだこだろうし、その美貌だけで欲しいものは全て手に入るだろう。
 そんな少女の真紅の瞳に、吸い込まれそうなものを感じていた。
 
 だが、すぐにアルシェは我に返る。こんな場所にこんな格好をした者がいるはずがない。さらに彼女は両足を樹に付け、垂直に立っているのだ。

 考えられるのはアインズの言っていた追跡者。だが、この森に昔から住んでいる住人ということも絶対に無いとは言い切れない。

「鬼ごっこは終わり?」

 淡い期待は容易く裏切られる。

「──追跡者」

 アルシェは飛び起きると、距離を取りつつ、少女目掛け杖を突きつける。少女はそんなアルシェに興味をなくしたように、樹を歩き、地面に降り立つ。

「ほら早く逃げないと」
「──ここであなたを倒せば安全に逃げられる」

 といいながらもアルシェは内心苦笑いだ。アインズという存在がよこした追跡者に勝てるはずがないと理解しているからだ。そんな弱いものを送り出さないだろう。
 それなのにこんな態度に出たのはあくまでも相手の反応を伺うためだ。

「ならどうぞ。僅かぐらいなら遊んであげんす」

 彼我の強さの差を完全に理解した態度。つまりは彼女にとっては、アルシェとの戦闘は完全に遊びの領域だということ。

「──《フライ/飛行》!」

 アルシェは魔法を詠唱すると、逃亡を開始する。地上をトロトロと飛行する余裕は無い。一気に上昇する。両手で顔を庇い、枝の間を抜け、一気に木の上に出る。

 夜空の下、アルシェは周囲を見渡す。先程見た巨大なこうもりにも似たモンスターがいることを警戒したのだ。しかし、周囲に存在は確認されない。ならば逃走するだけだ。

「ほら頑張れ、頑張れ」

 逃げ出そうとするアルシェに綺麗な声が掛かる。どきんとアルシェの心臓が1つ大きく鳴った。視線が彷徨い、どこにいるのかを探す。そして向かった先は、アルシェの更に上空。
 そこにいつからいたのか、先程の少女がいた。

「――《ライトニング/電撃》!」

 突きつけた杖の先端から青白い雷撃が夜闇を切り裂き、彼女に突き刺さる。アルシェの使える最大の攻撃魔法だ。それに貫かれてなお、彼女の顔に浮かんだ微笑は絶えることが無い。

 アインズに匹敵するだけの存在。アルシェはそう確信する。それはつまりはアルシェでは勝ち得ない存在だということ。逃げ出そうとするアルシェに、少女の楽しげな声が掛かる。

「眷属よ」

 少女の背中から巨大な羽根が伸びた。それはコウモリの羽根の様で、ただ、あまりにも巨大だった。背中から分離するように飛び立ったのは翼幅5メートル、体長1.5メートルにもなるコウモリだ。無論、真紅の瞳を持つコウモリが単なるものであるはずが無い。
 バサバサという音を立てながら飛び上がるコウモリの近くで、ニンマリと少女が哂った。アルシェの全身が凍りつくような、年齢に全く似合わない笑みで。

「さぁ、頑張って逃げてくんなまし――」


 アルシェは逃げる。
 只ひたすら逃げる。
 相手を撒くために木々の中に突入し、枝で己の体を傷つけながら逃げた。
 仲間を置いて逃げたのだ。せめて逃げ切らなければならない。そのためならどんなことでもしようと思っていた。

 そしてどれだけ飛んだか。数度《フライ/飛行》の魔法をかけ、アルシェの魔力が完全になくなった頃、アルシェは絶望を直視していた。

 壁だ。
 不可視の壁がそこにあったのだ。

 世界はまだまだ続いているのに、アルシェの体を遮る壁があったのだ。現在アルシェがいるのは上空200メートルの地点だ。ここまで不可視の壁が伸びている。

「――これは」

 絶望に満ちた声でアルシェは呟く。手で触れながら飛行する。だが、壁だ。壁だ。壁だ。壁だ。
 そう、どこまで行っても手には固い感触が伝わる。

「これは一体?」
「壁よ」

 答えが無かったはずの独り言に答えが返る。誰の声か予測が出来たアルシェは草臥れた顔で振り返る。
 そこにいたのは予想通りの人物。先ほどの少女。そして周囲に飛び交う3体の巨大なコウモリ。

「何か勘違いしてるみたいけれど、ここはナザリック大地下墳墓第6階層。つまるところは地下よ」
「……これは?」

 アルシェは世界を指し示す。天には星空、風は流れ、大地には森が広がる。そんな場所が地下であるはずが無いという思いと、この者たちならそれぐらい可能だろうという思いがぶつかる。

「至高の41人――かつてこなたの地を支配され、わたし達をお作りになりんした方々。その方々が作り出したわたし達ですら理解不能なシステムよ」
「――世界を作った? それは神様の……」
「そうよ。わたし達の神様の如き存在なの。アインズ様を筆頭にかつていらっしゃった方々は」

 アルシェは周囲を見渡す。
 もはや彼女は受け入れていた。流石にこれだけのものを見せ付けられれば受け入れしかない。
 もう自分が生きて帰ることは出来ない、と。

「さて、逃げないの?」
「――逃げられるの?」
「無理よ。元々逃がすつもりなんか無いんでありんすから」
「――そう」

 アルシェは杖を両手で握り締め、少女に飛び掛る。もはや魔力は無いために魔法は使えない。しかし、それでも最後まで逃げる努力はする。それがフォーサイト最後の1人となったアルシェのすべきことだ。

「はいはい、ご苦労様」

 決死の突撃を行うアルシェに、少女は詰まらなそうに言葉を投げかけた。

「じゃぁ、これであなたの逃走は終わり。最後に泣き崩れ無かったのが残念かな?」

 少女は振り回された杖を容易く手で受け止め、自らの方に引っ張る。体勢を崩して引き寄せられたアルシェと少女。2人は空中で抱き合う。
 少女はそのままの勢いでアルシェの首元に顔を埋める。アルシェは暴れて振りほどこうとするが、膠で固めたように少女の体は離れない。生暖かい息が首筋にかかり、ゾクリとアルシャは体を震わせた。

「……ふーん、汗臭い」

 ワーカーであるアルシェからすれば仕事の最中、体を綺麗に出来ないのは仕方が無いことだ。これはワーカー、冒険者、旅人。外を旅するものなら当然であり、汚いといわれても「だから」と笑って言い返せるようなことである。
 しかし、自らよりも年下の、それも非常に綺麗な少女に言われると、羞恥の色が浮かぶのも仕方が無いことだ。
 少女の顔がアルシェの首筋から離れる。その真紅の瞳を覗いた瞬間、アルシェは嫌悪感に襲われた。女の体を貪ろうとしている、情欲に塗れた男のような感情を宿していたから。

「帰ったらまずはお風呂に入りましょ?」
「――!」

 言い返そうとしたアルシェは驚く。自らの体がまるで動かないことに。まるでその真紅の瞳に全てを吸い込まれてしまったように。そこでようやく少女の正体にアルシェは気付く。

 人間ではなく――ヴァンパイアだと。

「……それから」アルシェの顔に少女が顔を近寄せると、ぬるりと唇を割って出た舌が、アルシェの頬を舐める。「……塩味」

 ニンマリと少女は笑い、アルシェは絶望に心を軋ませた。
 少女の笑いが深くなる。
 まるで裂けるように唇が耳まで達する。虹彩からにじみ出た色によって、眼球が完全に血色に染まっていた。
 そして口がパクリという擬音が正しいような開き方をした。先ほどまで白く綺麗な歯が並んでいた口は、注射器を思わせる細く白いものが、サメのように無数に何列にも渡って生えていた。ピンクに淫靡に輝く口腔はぬらぬらと輝き、透明の涎が口の端からこぼれだしている。
 ぞっと、心の底から噴きあがる恐怖にアルシェは包み込まれる。

「あはっはっはは。そうよぉおお、あなたの頭の中が快楽でぐじゃぐじゃのぬちゃぬちゃになるまで、いろいろしてあげるのよぉおおおお。自分からもとめてくるまでぇえええ、どれぐらいの時間がいるのかしらあああぁああ!」

 げたげたと笑う血の匂いを撒き散らす化け物を前に、アルシェは自らの心を手放す。
 最後に家で待つ2人の妹の顔を思い浮かべながら。

「うんんんん? 気絶しちゃいましたかああああ? じゃあああぁぁあ、起きたら楽しみましょうぅううねえええええ」



 ■



「これがニューロニストの集めた情報になりんす」

 シャルティアから渡された用紙を自室で受け取り、アインズは眺める。3日前に侵入した者たちから引き出した情報が記載されていた。依頼してきた人間の名前。侵入者の正体。そういうことが書かれた用紙だ。
 その他にも、侵入者の持ち物に関してはシャルティアが第2階層で管理を行う。死んだものはアインズが実験に使うので保存しておくということも記載されていた。
 用紙に目を通しつつ、アインズは頭を傾げる。ニューロニストの手腕に不安はないが、必要なのは信頼できる情報なのだから。

「なるほど……しかし、苦痛は裏切らないというが、拷問という手段では全てが肯定されてしまうだろう。この情報の精度はどれほどなのだ?」
「え?」
「──え?」

 シャルティアの驚きに反応し、アインズは不思議そうな声を上げる。

「わたしが思いんすには《ドミネート/支配》の魔法を使用して集めたものと思いんすが?」

 2人は互いに顔を見合わせた。
 《ドミネート/支配》の魔法は《チャームパーソン/人間魅了》をより強化したような魔法で、掛かった相手を意のままに操ることが出来る。これをもってすればどのような情報も吐き出させることが出来るだろう。
 何故にそれに気づかなかったのか。アインズだって使える魔法だ。
 シャルティアの不思議そうな視線に対する言い訳を考えるべく、アインズは頭を巡らせる。
 
「違うのだ。シャルティア」一拍おいて、頭を回転させたアインズは続ける。「その書面にはどうやって情報を入手したと書いてある?」
「そこまでは書いておりんせんが……」
「そういうことだ。どうやって情報を入手したのか。そしてその情報の精密度はどれぐらいなのか。そういった面まで書かなくては食い違いが出るだろ?」

 ここでシャルティアが始めて気づいたような顔をした。

「申し訳ありんせん。そこまで注意しておりんせんでありんした!」

 無理矢理な言い訳であり、筋の通らない会話だが、何とか誤魔化せたようだ。謝罪するシャルティアに若干の罪悪感を抱きつつ、アインズは鷹揚に頷く。

「構わないとも、次回から注意してくれれば全然問題ない」
「はい、畏まりんした。……ところであの神官は結局如何されたんでありんすか?」

 あの神官というのがロバーデイクのことと、直ぐに理解できたアインズは答える。

「アウラに作ってもらった住処で実験している」
「一体どのような?」
「神の存在証明。……いや、哲学的なもしくは宗教的な問題ではなく、実際にありえる問題としての証明を行いたいと思ってな」
「それは一体?」
「いや、魔法があるんだ。本当に神がいたとしても可笑しくはなかろう。人間の延長で神が存在した場合、自分の信者を殺してる存在がいたときどのような対処をする? 自らが管理している世界のバランスを崩す存在が出たらどうする? 私だったら直接叩き潰すぞ」

 神ごときが何の問題があるのか。そんな不思議そうなシャルティアにアインズは苦笑しつつも続けて言う。

「もし神が存在するとしたら、その神は殺せる存在なのか調べておいた方がよかろう?」
「なるほど……完全に殺しきれなければ面倒でありんしょうしね」

 ユグドラシルというゲームにおいて、神は倒しても良い存在であるし、イベントで倒すこともあった。しかし、この世界においてそれは可能なのだろうかということだ。人間よりアインズははるかに強い。では神と呼ばれる存在がほんとにいたとき、それはアインズたちと比べてどの程度の強さを保持するのか。

「まぁ、そんな目的の一環で記憶をいじったんだが、別に問題なく魔法は使えていた。つまりは4大神とか言う存在はいなく、やはり巨大な力の存在がいるんじゃないかと仮定している。その巨大な力の存在に方向性をつけることで、神の各種の力に変わる」

 そこまで説明してからアインズは再び苦笑いを浮かべる。

「まぁこれ以上は危険だろうから中止だな。良く分からないエネルギーを弄び過ぎるのは危険だろうからな。まぁ、そんなことを言ったら魔法はどうなるんだという問題になるんだが……難しく考えるだけ無駄ということで納得した方が精神的にも良かろう。そして神が力の方向性の具現なら、その方向性を支配してしまえばよい……。そうすれば神すらも支配できるだろう」

 シャルティアは神すらも支配すると言ったアインズに敬愛を込めた視線を送る。自らの主人は──至高の41人はまさに神ごとき存在だという認識をNPCは持っている。それを肯定されたような喜びがあったのだ。

「流石はアインズ様」
「まぁ、その手段は全然浮かばないんだがな」

 お手上げという感じでアインズは手を動かす。それを受けてもシャルティアに失望は無い。今は浮かばないだけだろうと確信しているからだ。遠くない未来、必ずや自らの主人は神すらも支配すると信じているからだ。

「そうだな、そのうちデミウルゴスにも聞いて色々と考えてみるか。さて、あの女は如何している? 出来る限り傷をつけないという約束をしているのでな」
「あの女……アルシェちゃんのことでありんすね。今は尻尾を生やしたところまででありんすね」
「尻尾……? ライカンスロープにでもしたのか?」

 獣人であるライカンスロープに変身させる手段なんかあったのだろうか、そんな風にアインズは思い、シャルティアに尋ねる。

「いえ、アナ……」
「もういい」

 アインズはシャルティアの言葉をばっさりと切る。

「でありんすが、アインズ様。これだけは聞かせてくんなまし」
「何をだ?」

 かなり嫌な予感を覚えるが聞かないわけにはいかないだろう。部下の話を聞くのも、良い主人としての勤めだ。

「アインズ様は彼女に傷をつけるなと命令されんした。でありんすが、 ……処女ぐらいは奪ってもいいでありんすね?」
「――ペロロンチーノ!!」

 アインズはかつての仲間の名を叫ぶ。己を創造した人物の名を呼ばれたシャルティアは目を白黒させた。アインズの興奮は直ぐに収まり、冷静さが帰ってくる。

「……すまん。ちょっと興奮した。……そうだよなぁ。お前に渡したんだもなぁ。私が悪いよなぁ……。まぁ、うん、止めておいて上げなさい」
「あの娘から奪って欲しいと嘆願してきたときはどうすればよろしいでありんしょうかぇ? それともアインズ様がお奪いになりんすか?」

 そんなこと知るかとか、ナザリックに乗り込んできた奴が悪いとか、色々な考えが浮かぶ。結局、両者が合意の上なら良いだろうということでアインズは自らを納得させる。

「……魔法とか脅迫とかそういう手段ではなく、奪ってほしいというなら……良いんじゃないかなぁ?」
「畏まりんした。ではそういう態度になるように、ゆっくりと楽しみたいと思いんす」
「そうか……お前が楽しんでくれるなら嬉しいよ」

 投げやりに手を振り、アインズはその話は終わりにしようと考える。ふと皮袋のことが脳裏に浮かんだのだが、シャルティアが何も言ってこないのだし、大したものではないのだろうと判断し、口を閉ざす。
 広い空間の中を一瞬だけ沈黙が支配する。本来であればアインズの後ろに並んでいたであろうメイドは全員退室していたから。
 その沈黙に押されるようにシャルティアは口を開いた。

「……しかし何故、神のことを調べようと思われたんでありんすか?」
「……元々目的の一貫だからだ」真面目な話だと安堵したアインズは続ける。「私の計画は大きく分けて2つだ。1つが英雄たるアインズ・ウール・ゴウンを作るということ。そして英雄となった場合、その先にあるのが神格化の道だ」

 これは大抵の場合がそうだ。人間の歴史を読み解けば、それが行われる可能性が高いことだと理解できるだろう。

「ただ、この世界のように本当に神の存在がいた場合、神格化はなるのかどうか不明瞭な点があった。だから神がどんな存在か確認したかったのだよ。まぁ、今回の実験で全てが理解できたとは思ってないがな」

 実際に神が本当にいる世界の場合、神格化というものは行われない可能性の方が高い。だが、神という存在がどのようなものか認識することで、神格化のための種を世界に撒けるのではという計画の元の実験だったということだ。
 ぽかんと口を開けるシャルティアに、若干恥ずかしいものを感じ、アインズは早口で言い訳をするように続ける。

「折角なのだ。大英雄で止まるのではなく、神の位まで上り詰めたいではないか。その意味ではリザードマンの村での一件は予想外の快挙だ」

 リザードマンの殆どがアインズを神に匹敵するもの、または神とみなし頭を垂れたのだ。つまりは小さい世界ながらも神格化はなりつつあるということだ。だからこそ自信を持って、更に進んだ実験に取り掛かれたのだが。

「なるほど。ではもう1つの計画といわすのは?」

 アインズは口ごもる。

「わたしに話せない内容であれば」
「そんなことは無いのだが……笑うなよ? 誰にも話してないのだからな」

 アインズは黙り、シャルティアは誰にも話してないことを聞かされるという喜びに打ち震える。
 アインズは少しの時間葛藤する。これはある意味夢物語のような話だ。まともな者なら考えることもしないような狂人の発想。実際アインズだって真剣に考えたことは無い。しかし、リザードマンの村を支配し、絶対に実現不可能なことでも無いのではと思い至るにいたったのだ。
 だからシャルティアに聞かせる。それは自らを追い込むという意味でも。

「これは夢物語のような話だ」

 最後に言い訳をして、アインズは語る。これ以上の最終的な目的はありえないという、狂人の目標。それは──


「──世界征服だ」


 室内が静まり返る。

「アインズ・ウール・ゴウンはかつてたった41人で上位10位内のギルドとして君臨した。即ち大英雄──不偏の伝説となって当たり前の存在。その当然を行って、ようやくかつての仲間たちへの恩返しとなる。だが、そこから一歩踏み出したいと私は望んでいる」

 アインズは言葉を途切り、中空に視線をやる。その間、シャルティアは一歩も動かずにアインズの話を聞いていた。

「──かつての仲間たちにここまでやったのだという自慢するためのものを作り出すのだ。それは──シャルティア、世界征服以上のものがあるか?」
「ございません、アインズ様」

 シャルティアがゆっくりと頭を下げる。その顔は紅潮し、歓喜に満ちていた。
 大命を与えられた部下に相応しい感動が、シャルティアの全身を包んでいたのだ。



 シャルティアが出て行き、得た情報を眺めていたアインズは、頭を抱え考え込む。

「しかし、これが帝国サイドのアプローチだとすると、王国のアプローチは来ないのか?」

 予定が狂ったとアインズは考える。これだけ時間がたったのにもかかわらず、なんの反応も無いということは、アインズが大したことが無いという判断なのだろうか。しかし今まで集めた情報から推測すると、アインズの能力は絶対。決して王国も安く見るとは思わないのだが……。

「想像もできないような動きをされると困るな」

 別にアインズは知者というわけではないと自らを評価している。計画には穴が多いだろうし、情報の漏れも多分にあるだろう。
 王国や帝国の人間が計略という点で、自分の上を行っているという可能性だって充分ありえるのだ。警戒を怠るわけには行かない。

 アインズはゆっくりと椅子にもたれ、天井を見上げる。視界に入るエイトエッジアサシンは努めて無視をする。というよりこの頃無視が上手くなってきたとアインズは思う。

「シャルティアに言ってしまったな」

 世界征服。
 本気で行えるとはアインズも思ってはいない。未だこの世界には知らないことが多いし、他のユグドラシルプレイヤーの存在の可能性もある。それらのことを考えればまさに夢物語であり、狂人の発想だ。
 大体どうやって世界を征服するというのか。暴力だけで征服できるほど簡単では無いだろう。
 しかし、これに関してアインズはリザードマンの村を手に入れたことによって考え方を一転した。もしかすると暴力だけでも征服できるのではないかという方向にだ。
 リザードマン村において、アインズは絶対者として既に君臨している。つまりは力こそ全てだと思う種族もいるということだ。別に人間が最も多い種族で、人間を支配しなくてはならないという理由は無い。もし何だったらリザードマンこそ最も多い種族にしてしまえば良いのだ。

「しかしどうにせよ、知恵のあるものが少ない」

 世界征服という方向で行動しろと守護者に言ったら、デミウルゴス以外は戦争による支配を主として行動し始めるだろう。それはユグドラシルプレイヤー等、アインズたちに匹敵する存在がいるかもしれない現状では危険極まりない行為だ。
 だからこそ、そういう手段以外で征服行為を行ってくれそうな者、忠誠を尽くしてくれる知恵あるものの存在が必要なのだ。それに征服した後、統治するには現状では不可能に近いのではないかと思いもある。
 しかしシャルティアに血を吸わせ、眷属を増やす方法では、アインズに対する忠誠心に乏しいために良い手とはいえない。

「私に忠誠を尽くしてくれる賢者系の存在が欲しい……」

 今回捕まえた冒険者――ワーカーを利用して、記憶の書き換えから忠誠心を得ようとしたが、これは失敗に終わった。
 精神医でもなんでもないアインズにはどこの記憶をどのようにいじればよいのか検討も付かなかったのだ。セーブ&ロードが出来ないため、結局殆どの記憶がでたらめになった人間が1人完成するという最悪の結果に終わったのだ。

「もう少し色々と考えてみるか……」

 アインズは呟き、イスにもたれ掛かる。
 どうにせよ今回の侵入者が1人も帰らなかったことで、何らかのアプローチはしてくるだろう。その結果を見て行動しても良いだろう。

「しかし……世界征服は……真面目に考えると少し恥ずかしいな……」






――――――――
※ さて、ここまで読まれた方、お疲れ様です。分割で更新した方が良いという意見が多くあったんですが、アレ実のところ読みやすさの質問をしていたんですね。100kを2話の同時更新か、200kの1話更新どちらが良いですかという。今回はミスで2つの間が開きましたけど……。 
 ご意見はお気楽にどうぞ。ただ、俺はこう言ったのに……とかは無しでお願いしますね。いや、そんな人はいないとは思うんだけど……。

 さて、次回は外伝『頑張れ、エンリさん』を1……出来れば2まで書きたいですね。本編は『?』、『王都(外伝にまわすかも)』、『?』、『?』、『?』で前半(?)の終了予定です。もう少しお付き合いいただければと思っています、ではでは。










































































「では、これがお約束の交金貨100枚です。それと証文ですね」

 皮袋の中を眺め、満足げに頷いた後、前に出された羊皮紙にアルシェの父親は躊躇わずにサインをする。そして最後に家紋を押す。その慣れた手つきは幾度となくしてきた証拠だ。

「これでかまわないかね」

 差し出された羊皮紙を眺め、男は頷く。ヘッケランとイミーナがこの場にいたら嫌な顔したことだろう。フォーサイトが滞在していた宿屋に来た男だと思い出して。
 男は差し出された羊皮紙を幾度か眺め、問題が無いこととインクが乾いていることを確認すると丸め、羊皮紙入れに放り込んだ。

「はい。確かに」それから父親の前にある皮袋を指差し、男は尋ねる。「ところでお確かめにならないので」
「まぁ、金貨の一枚ぐらい無くとも構わないとも」
「そうですかね?」

 鷹揚に答える父親に対し、男は頷くように返す。
 無論、ちゃんと入っていることは確認ずみだ。それでもこういう状況に追い込まれている家が、金貨1枚でも大切だと考えない時点でかなり不味い。いや、そんな人間が家主を勤めている段階で終わりなのかもしれない。
 男にとっては良いお客さんであれば問題は無いのだが。

「では金利や返済時期のほうもいつもの通りで構いませんね?」

 ちゃんと証文に書かれていることだが念のために確認を取る。変な問題になって騎士とかが絡む問題になって欲しくは無いのは男も同じなのだ。貴族のような特権階級にあるものは、己の意のままに動くと考えるものがいたりもする。大抵が鮮血帝に追い払われたとしても、問題を起こす一部というのはいるのだ。
 男だってそれほど綺麗な身ではない。問題が生じ、勝てたとしてもそれなりの出費はあるのだろう。だからこそ念を押すのだ。
 
 その書いてある質問に対して、やはり鷹揚に──自分を上位者として疑わない態度で頷く父親。
 男は了解の意味を込めて頷いた。

「ではそれでやらせてもらいますので、ご返済はちゃんとお願いします。……ところで娘さんは元気ですかね?」
「うん?」

 男はこの家には娘が3人いることを思い出し付け加える。

「アルシェさんのほうです」
「ああ、アルシェか。今、稼ぎに行ってるよ」
「……そうですか」

 娘が働きに行っている間、お前は何をしているんだ?
 男はそんな風に思うのと同時に、瞳の奥に宿りそうな軽蔑の色は上手く隠す。貴族のような権力階級の人間は、他人の顔色や雰囲気に敏感なものが多い。へたすると商人よりもだ。無論ばれたところで大したことは無いだろうが、面倒なことになるのは男としても望んではいない。特に相手はお得意様なのだから。
 それでもこのような父親を持ったあの少女に哀れみの気持ちだってある。
 男だって鬼ではないのだ。
 ただ、最も大切なのはちゃんと金利を含めた分まで返してくれることだ。そして幾度と無く自分の所から借りてくれること。他人の家の事情まで首を突っ込む気にはなれない。

「ちょっと金を稼いでくるものだからといって、生意気になりおって」

 不快げに呟く父親に対し、男は多少眉を寄せる。何か面倒ごとになった場合、返済にまで影響を及ぼして貰っては困るのだ。それにこの家からはかなり金利の面で儲けさせてもらっている。出来ればこの関係を長く続けていきたいものだ。そのためいつもであれば気にしないことに首を突っ込んでみる。

「何かありましたか?」
「いや、大したことではない。自分が大きくなるまでどれだけの恩を受けたか忘れた愚かな娘が、跳ね返っただけだ」
「それなら良いんですがね……」
「全く! ガツンと言ってやら無くてな! 貴族というものがどういうものかを」

 男は内心思ったことは決して口には出さない。しかし、一言だけ言いたくなった。

「大変ですね」
「そのとおりだよ。全く、あの馬鹿娘は……」

 誰がという部分を故意的に隠した男の言葉を、当然自分の苦労のことだろうと受け止め、ぶつぶつと呟く父親。

 交金貨100枚ともなれば大金だ。男の給料十か月分に匹敵する。しかしいつものパターンであれば父親が直ぐに使い果たす可能性は非常に高い。その場合また呼び出されるだろうが、返済が終わるまでは貸さない方が良いかと男は判断した。
 そこで男は室内を見渡す。

 男の目から見ても見事な調度品が無数にある部屋だ。最低でも貸してる金額は回収できるだろう。それにもし調度品で回収できなくても──。
 男は瞳の中に浮かんだ感情を隠すように、目を伏せた。

「だいたい、あのような汚い仕事をフルト家の娘がしなくてはならんというのがおかしいのだ。仲間は平民出身者のようだし、品性もさぞかし下劣だろう」
「……そうですかね?」

 男は酒場で見た2人の顔を思い出し、考え深げに口にする。その口調に込められた感情をどのように思ったのか、父親は言い訳をするような早口で更に喋る。

「む、平民全てがという気はない。冒険者をしているという意味でだ」
「かもしれませんね」
「だろ。娘が反抗的になったのもそいつらの所為かもしれんな。一度がつんと言ってやる必要があるな。大体、娘たるもの、父親の言うことを聞くのが道理だろう。私に対して何かを言うなんて10年早い」

 全く不快だと腹を立てる父親を一瞥し、男は椅子から立ち上がる。

「……では私は他に回らなければならないところがあるので、これぐらいでお暇させてもらいます。ご返済のほうよろしくお願いしますね」



「お姉さま、いつ帰ってくるんだっけ?」
「もう少しだよ?」

 その部屋には2人の少女がいた。ベットをイス代わりに、ちょこんと並んで座った2人は、まるでそっくりな容貌だ。
 その白い頬にほのかな朱色を混ぜた様は、天使を思わせる。そして姉に多少似た顔は、将来の大花を容易く想像させた。
 2人とも御揃いの染み1つ無い純白のフリルのふんだんについたワンピースドレスを着ており、そこから伸びた白い足がパタパタと動いていた。

「ほんとうに?」
「ほんとうだよー」
「そうだっけ?」
「そうだよー」
「お姉さま帰ってきたら引っ越すんでしょ?」
「そうだよー」

 2人は楽しそうに笑う。引っ越すというのがどんな意味を持つのか、深く考えているわけではない。だが、大好きな姉とこれから一緒に暮らすということ。それが嬉しいのだ。
 姉──アルシェはよく外に出かける事が多い。なにをしているかまでは知らないが、なんだかとても大切なことをしているというのは2人とも知っている。だから我が儘は言わないと決めているのだが、それでも優しい姉と一緒に遊びたいという欲求は止められない。

 そう、2人ともアルシェが大好きなのだ。
 優しく、いろいろ知っていて、暖かい姉が。

「お姉さま、まだかなー」
「まだかねー?」
「楽しみだね、クーデリカ」
「うん、楽しみだね、ウレイリカ」
「ごほん、読んでもらうんだー」
「いっしょに寝てもらうんだー」
「クーデリカずるーい」
「ウレイリカもずるーい」

 そして2人は互いの顔を見合わせて、同じ楽しげな笑いを浮かべた。そして鈴が鳴るような可愛い笑い声が起こる。

「じゃあ、クーデリカも一緒。お姉さまと一緒」
「うん、ウレイリカも一緒。お姉さまと一緒」

 そして2人は笑う。これから来るだろう、楽しい時間を夢見て──。








[18721] 44_王都1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/10/02 06:51




 リ・エスティーゼ王国、王都リ・エスティーゼ。
 人口900万ともなる王国の首都でもあるそこを一言で表現するなら、古き都市という言葉が最も相応しいだろう。これは歴史あるという意味でもあり、淡々と続く日常の延長でもあり、古めかしいだけのしょぼくれた都市――そんな毛色の違った様々な意味合いを持った言葉でもあった。
 それは1つの通りを歩けば直ぐに理解できるだろう。
 左右に立ち並ぶ家々は古く無骨な物が多く、新鮮さや華やかさというものがまるっきり欠けている。ただ、それをどのように見るかは人によって違う。
 そう、歴史ある落ち着いた佇まいと見る者だっているだろう。

 そんな都市でもある王都は、舗装されていない道路が多く、雨に濡れれば直ぐに泥まみれとなってしまう。いや、別に王国が劣っているわけではない。ただ、帝国や法国と比べる方が悪いのだ。

 そんな通りは道幅もそれほど大きいものは無い。
 流石に馬車の前――通りのど真ん中を歩く者はいないが、通りをごちゃごちゃと歩いているその姿には、ごみごみとした猥雑さがあった。
 そんな通りを、王都の住人は慣れたものですり抜けるように歩いていく。互いに正面から歩いていっても、ギリギリのところで器用に回避するのだ。

 そんな都市の一角をセバスは歩いていた。
 王都では珍しいとも言って良い、石畳でしっかりと舗装された大きな道幅を持った通りである。
 というのもその通りの左右に立ち並ぶ家屋は大きく立派なものが多い。言うなら王都のメインストーリーである。確かに人は多いし、活気に満ちている。
 そんな人々が幾人も振り返る中、セバスは意に介さずにぴんと背筋を伸ばし、もくもくと歩く。

 目的地をしっかりと定めた、迷いの無い足取りは、幾度と無く通っている者の歩運びだ。そう、セバスが向かっている場所は、王都に来て以来、幾度と無く通ったところである。
 やがて、その目的地が僅かに見えてくる。

 長い壁が続く。壁の高さは6メートルほどであり、一辺150メートルほどはあるだろうか。その壁の向こうに、角度的に少しばかり頭の部分を見せている塔がある。高さ的にはそれほどではない。せいぜい5階建て程度だろうか。しかしながら周囲にその塔ほどの建築物が無いために、対比的に非常に高く感じる。
 そしてその塔に隣接するように複数の建物があった。
 これら全てを含めて、王国の魔術師の多くが所属する団体の本部であり、新たな魔法の開発を行う研究機関、そして魔法使いの育成を行う教育機関の一端を担っている――王国魔術師ギルド本部である。

 セバスはその壁に沿って歩き、やがてしっかりとした門の前に立つ。金網状の扉は大きく開かれ、門の左右には武装した戦士の姿が見える。
 戦士に止められることなく――一瞥されるだけで――、セバスは門を潜る。
 その先、少しばかりの白い昇り階段があり、3階建てほどの荘厳さを感じさせる古き白亜の建物に繋がる扉があった。無論、その扉も来訪者を歓迎するように開かれている。

 セバスは扉を潜る。
 そこにはエントランスホールが広がった。3階ほどの吹きぬけて作ったような高い天井からは、魔法の明かりを灯したシャンデリアが幾つも垂れ下がっている。
 右手の方にはソファー等が置かれ、客を迎えて話せるようになっていた。
 左手にはボードが置かれている。そこに張り出された羊皮紙を幾人かの魔法使いや、冒険者のような者達が真剣に眺めていた。
 奥にはカウンターが置かれ、幾人かの年若い男女が座している。皆一様に、建物に入る際に掲げられていたエンブレムを、胸元に刺繍されているローブを着用していた。
 カウンター横手の左右にはデッサンの人形を思わせる、目も鼻もない等身大のほっそりとした人形――ウッドゴーレムが立っていた。警備兵ということだろうし、人間を置かないのは魔術師ギルドとしての見栄だろう。

 セバスは左右に置かれたものには目もくれずに、コツコツと規則正しい足音を立てつつ、カウンターに向かう。

 カウンターに座していた青年が、セバスを確認し、僅かに目で挨拶を送ってくる。セバスはそれに答えるように軽く頭を下げた。間を置かずに数度来ている――そしてその青年が管理者の1人なのか大抵いるために、もはや顔見知りの領域だ。

 そして目の前に立ったセバスに青年はあるかなしかの微笑を浮かべ、いつもの挨拶を行う。

「ようこそ、いらっしゃいました、セバス様。当、魔術師ギルドへ」数度の呼吸を置いて、青年は続ける。「ご用件をお伺いしても?」
「はい。魔法のスクロールを売って頂きたい、そう思ってまいりました」
「ご要望のスクロールはございますか?」
「いえ、とりあえず、いつものリストを見せていただけますか?」
「畏まりました」

 ここまでという、少し長い何時もの挨拶を終え、青年はカウンターの上に大きめの書物を置く。
 中は紙を使い、表紙には皮を張って作った立派なものだ。表紙に金糸を使った文字を縫いこんである部分も考えれば、これだけでそこそこの値が付くだろうというものだ。
 セバスはそれを自らの手元に引き寄せると、ページを開く。
 そこに書かれた文字は残念ながらセバスの読める文字ではない。いや、ユグドラシルの存在では読むことが出来ないというべきか。言葉はこの世界の奇怪な法則によって理解できても、文字は別だ。
 しかし、そんな問題を解決するためのマジック・アイテムをセバスはアインズより預かっている。

 セバスは懐から眼鏡ケースを取り出し、開く。
 中には1つの眼鏡が入っていた。ほっそりとしたフレームの部分に使われているのは銀のような金属。そして良く見れば細かな文字――紋様にも思えるものが掘り込まれている。レンズの部分は蒼氷水晶を非常に薄くまで磨きかけたもの。
 それを取ると目にかける。
 僅かに青い視界の中、読めなかった文字がセバスにも読めるようになっていた。

「ふむ……」

 呟き、丁寧だが、すばやくページを捲る。
 そのまま止まることが無いと思われたセバスの手が急に止まった。そして僅かに視線を動かす。

「何かございましたか?」

 カウンターにいた女性の1人に、セバスは優しく声をかける。

「あ、いえ……」

 顔を赤くし、うつむく女性。

「綺麗な姿勢だな……と思いまして」
「そうでしたか?」

 セバスは僅かに微笑む。その微笑を受け、女性は僅かに顔を赤らめる。
 白髪の紳士という言葉が相応しいセバスは、漂わせる雰囲気や姿勢が綺麗であり、見ているだけで惚れ惚れしてしまうような存在だ。確かに顔立ちも整っているが、それ以上にその他の部分が目を集めてしまう。街中を歩けば女性の9割は年齢に関わらず振り返らせる、そんな人物なのだ。そんなわけでカウンターに座る女性がセバスを凝視しても、仕方がないことだし、良くあることだ。
 女性がセバスに視線を送っていた理由に納得したセバスは、再び視線を本に落とす。

 しばらくの時間が経過し、セバスは顔を上げる。

「申し訳ないのですが、この魔法――《フローティング・ボード/浮遊板》の詳しい内容を聞かせてもらえますか?」
「畏まりました」青年は詳しい内容を話す。「《フローティング・ボード/浮遊板》は第1位階魔法であり、半透明の浮遊する板を作り出すものです。板の大きさや最大搭載重量は術者の魔力によって左右されますが、スクロールからの発動の場合は1メートル四方、搭載重量50キロが限界です。作り出した板は術者から最大5メートルまで離した上で後ろを付いてこさせることが出来ます。これは後ろを付いてこさせるだけなので、前に動かしたり等の行動は取れなく、もし術者がその場で180度回転した場合は、その場で止まったまま術者が接近するまで待っています。基本的には運搬用の魔法であり、土木工事関係で見られる場合があります」
「なるほど」セバスは1つ頷く。「ではこの魔法のスクロールを売ってもらえますか?」
「畏まりました」

 打てば響くように青年は答える。人気の無い魔法をセバスが選んだことに対し、青年に驚きの色は無い。なぜならセバスが買い求める魔法のスクロールは大抵の場合がこういったあんまり人気の無い魔法だ。それに余剰在庫が捌けるというのは魔術師ギルドにとっても良いことなのだから。

「スクロールを一枚でよろしいですね?」
「はい、お願いします」

 青年が隣に座った男に対し軽く頭を動かす。
 今までの話を聞いていた男は即座に立ち上がると、カウンターの後ろの壁、奥へと続く扉を開けて中に入っていく。スクロールは高額の商品でもある。流石に警備しているからといって、カウンターにドンと置くわけにはいかないのも当然だ。

「直ぐにご用意いたしますので、少しお待ちください」
「ええ」

 了解したとセバスは頭を軽く下げると、カウンターを離れ、その横手に立つ。カウンターで仕事をしている人数は決まっているのだから、その邪魔にならないようにということだ。
 5分ほどして先ほど出て行った男が戻ってくる。その手には丸めた一枚の羊皮紙が握られていた。

「セバス様」

 セバスは懐から小さな皮袋を取り出しながら、カウンターに再び近寄る。

「こちらになります」

 カウンターに置かれた羊皮紙に、セバスは目をやる。丸められた羊皮紙には、しっかりとしたもので、その辺で簡単に手に入るものとは外見から違う。黒いインクで魔法の名前が記載されており、その名前と自らの求めた魔法名が一致することをセバスは確認した。それからやっと眼鏡を外した。

「確かにそうですね。これを頂きます」
「ありがとうございます」青年は丁寧に頭を下げる。「こちらのスクロールは第1位階魔法ですので金貨10枚を頂戴します」

 ポーションに比べれば安い値段だが、これはスクロールが同系統の魔法を使える者にしか通常は使えないということに起因する。つまりは誰にでも使えるポーションの方が高くなるのは自明の理ということだ。
 勿論、安いといっても金貨10枚は非常に高額ともいえる。しかしセバス――いやセバスの仕える人物からすれば大した金額ではない。
 セバスは懐から皮袋を取り出す。その口を緩めると中から一枚の硬貨を取り出す。
 白金貨だ。
 金貨の10倍の価値のあるそれを青年の手の上に乗せる。

「確かに」

 青年は硬貨をセバスの目の前で確認するようなことをしたりはしない。それぐらいの信頼は勝ち得る程度は取引を行っているのだから。



「あのおじいさん。カッコイイよねー」
「うん!」

 セバスが魔術師ギルドを出て行くと、カウンターに座っていたものたちが口々に騒ぎ立てる。
 そこにいたのは叡智を宿した女性ではなく、まるで憧れの王子様に出会った少女のようだった。カウンターに座る男性の1人が僅かに顔を顰め嫉妬の表情を浮かべるが、決して口には出そうとはしない。
 他の男性は逆に女性の発言を肯定するような意見を口に出す。

「ありゃ、かなりの大貴族に仕えていたことのある人だよな」
「うん、立ち振る舞いが凄い綺麗だものな」

 うんうんとカウンターに座る一同は頷く。
 セバスの姿勢や顔立ち、服装。そしてかもし出す雰囲気。それはまさに気品に満ち満ちたものだ。大貴族本人だと言っても納得がしてしまう、そんなレベルのものだ。

「お茶とか誘われたら、絶対行っちゃうよね」
「うん、行く行く!」
「凄い知識も持ってそうだしなぁ。というか、魔法の知識を持ってるけど、あの人も魔法使いなのかな?」
「かもしれないなぁ」

 幾つもの魔法の名前が載った書物を読むことが出来る。そしてその中からセバスが選ぶ魔法は、的確につい最近開発された魔法ばかりだ。つまりは魔法に関する充分な知識も持っているということが推測として立つ。もし命令をされて買いに来たのならば、書物を開かないで即座にカウンターでその名前を出せば良いはず。それをしないで書物から選ぶということはセバスが買う魔法を選んでいるということだ。
 単なる老人では決して出来ない、つまりは専門的な教育を受けた者――魔法使いと考えるのも当然だろう。

「それにあの眼鏡……すごく高そうだしな」
「マジック・アイテムかね?」
「いや、単なる高級品眼鏡じゃないかな? ドワーフ製とか」
「うん、あんな綺麗な眼鏡持ってるんだから凄いよね」
「俺はあの時一緒に来た美人さんにまた会いたいなぁ」

 ポツリと思い出したように呟いた男性に、反対の声が上がる。

「え、あの人はちょっと煩すぎるよね」
「うん、セバスさんがかわいそうだったもの」
「まぁ、絶世っていってもいい美人だけど、あんな騒がしいのはなぁ……」
「さ、おしゃべりはそれぐらいにしよう」

 カウンターに向かって歩いてくる冒険者の格好をした人物を目にし、青年は口にした。





 魔術師ギルドから外に出、軽く空を見上げてから、セバスは次に行くべき場所に思いをはせる。

 第一として自らの主人より与えられた命令は、国家が保有するであろう兵器。これについての情報収集である。無論、兵器に関する情報を入手せよといわれて簡単に行えることではない。例えば王家秘蔵の兵器とかになれば情報を集めるのは、調査系ではないセバスには困難極まりない。
 そのため予測される兵器に関する情報収集に着手した。これは警備についている兵士の様子や、冒険者を相手にしている酒場の主人の話等から得る手段だ。
 これで全体的な王国の兵器レベルの予測をしようというのだ。

 次に科学技術レベルと魔法技術レベルが一体どの程度なのか。何ができて何ができないのか、特に最優先は情報収集系の技術である。
 魔法というものが存在するこの世界にあって、科学技術はさほど発展していない。確かに魔法使いという一部の技術者しか使えない技術よりは、多くの者が使える技術を研究するものは多少いるが、画期的なものは見つかってはいないのが現状だ。
 そのため魔法技術さえ手に入れれば、アインズからの指令はこなしたも同然だ。
 現在セバスが行っているのは、そのための準備である。まずは顔を売ろうとしているのだ。

 最後が強者の存在の確認だが、これに関してはセバスは置いておいても良いと判断している。それは強者の存在が一切確認できないからだ。一応、王都でも最強とされる冒険者の姿は遠目から確認したが、大した強者のようにも思えなかった。

「いや、彼女だけは別ですか……」

 セバスはたった一人だけ、強者と思われる存在を思い出す。セバスと比べればはるかに弱いが、直轄のメイドと比較するなら、敗北の可能性が極僅かだがある存在。
 要注意という人物を。
 セバスは彼女の顔――いや姿を思い出し、軽く首を振った。
 彼女に関しては主人より、調査の凍結指令が下っている。面倒ごとになりかねない問題は一先ずおいておけという旨でだ。
 そのため取り急ぎ、セバスがしなくてはならない懸案事項は無い。

「さて、どうしますか」

 セバスは呟き、己の髭を撫で付けると、ふらりと歩を進める。
 特別、目的地を定めたものではない。
 この頃のセバスの趣味である、都市の散策。それを行おうと思っただけだ。片手に持っていたスクロールをくるりと回し、歩き出すその姿は、機嫌の良い子供のようでもあった。

 王都の中でも中央とされる治安の良い部分から外へ外へと遠ざかるように、足を進める。
 やがて幾つも通りを曲がり続ける中、路地は薄汚れた雰囲気を纏い出し、わずかな悪臭が漂う。生ゴミや汚物の臭いだ。服に染み込んでくるようなそんな空気の中をセバスは黙々と歩く。

 そしてふと立ち止まると、周囲を見渡す。完全な裏道に入ったのか、狭い路地は人がすれ違うのが限界なほどの細さだ。

「ふむ……」

 無造作に歩いたのだが、目印が無いこんな路地にいても、自分が今どのあたりにいるのかセバスは直感的な意味合いで大体の場所を掴んでいる。そのためかなり自分が歩いたということが即座に理解できた。
 セバスの肉体能力を持ってすれば大した距離ではないが、普通に歩いて帰るとなるとそこそこの時間が予測される。あまり遅くなるのも家で待っている者に悪い。

「……帰りますか」

 もう少し散策を続けたのも事実ではあるが、自らの趣味に時間を割きすぎるのは仕えるものとして良い行動とは言えない。
 セバスは踵を返すと、細い路地を歩き出す。
 もくもくと歩くセバスの前――20メートル先にあった鉄の重そうな扉が、軋みを上げながらゆっくりと開いていく。セバスは立ち止まると、何が起こるのかと只黙って見ていた。
 重い扉が完全に開かれ、どさりとかなり大きい袋が外に放り出される。中に詰まっていただろう柔らかいものがぐにゃりと形を変えるのが見て取れた。
 扉がセバスの方に開くため、扉の影に隠れてほうり捨てた人物の確認は出来ない。しかしながら扉は開いてはいるものの、ゴミでも捨てるように放った人物は一旦中に入ったのだろうか、続いての行動を起こさない。

 セバスは一瞬だけ眉を顰め、そのまま歩を進めるべきか、それとも別の方向に足を進めるか迷う。わずかな逡巡の後、静まり返ったその細く薄暗い路地へとそのまま歩を進める。
 やがて大き目の袋との距離が迫る。口は開いているが、セバスはそれから視線をそらす。そしてその袋の口から漂ってくる臭いからも意識をそらす。同じように僅かに開いている扉からもだ。

 好奇心、猫をも殺す。

 厄介ごとの雰囲気が漂う袋や家の中に、興味を持っても良い事は無いだろう。セバスはそう判断したのだ。
 
 セバスは袋を避けるように路地の反対側の壁により、すれ違う。

 そして――コツコツという規則正しい足音が止まった。
 セバスのズボン、そこに何かが引っかかったような軽い感触があったのだ。セバスは視線を下げることを迷い、目を前に向けたまま動きを止める。セバスは動揺し、困惑していたのだ。
 それは非常に珍しい光景だ。もしこの場にナザリックに属する者がいれば驚きの表情を浮かべただろう。それほどの状況にセバスは今立たされていたのだ。
 そして覚悟を決めて視線を下に動かした。そこで予測されていたものを見つける。

 セバスのズボンを掴むその細い枝のような手を。
 そして袋から姿をみせている半裸の女性を――。

 袋の口が今では大きく開き、その女性の上半身が大きく外に出ていた。
 元は活発だったのだろう青い目は今ではどんよりと濁りきっている。ぼさぼさに伸びたさほど長くない金髪の髪は乏しい栄養環境によるものか、非常にボロボロになっていた。顔立ちからは美醜は判別が付かない。当たり前だ。殴打によってボールのように膨らんだその顔で、判断が付くはずが無いだろう。
 そしてがりがりに痩せきった体には、生気といえるようなものがほんの一滴も残っていなかった。そのため年齢を判断することはまるで出来ない。老婆のようにも、まだ幼い女性のようにも思えるほどだ。
 枯れ木のような皮膚には爪くらいの大きさで、淡紅色をした斑点が無数に出来ていた。

 それはもはや人間の死体だ。いや勿論、死んでいるわけではない。そのセバスのズボンを掴む手が雄弁に語っている。だが、息をするだけの存在を生きているとはっきり言い切れるだろうか。
 彼女はそんな存在なのだ。

「……手を離してはくださいませんか?」

 セバスの言葉に反応は無い。聞こえていて無視をしているのではないのは一目瞭然だ。瞼が膨らんでいるために僅かに線のように開かれた、中空を見るように投じられた濁った瞳には何も写っていないのだから。

「手を離してはくださいませんか?」

 セバスは重ねて問う。
 セバスが足を動かせば、その枯れ枝以下の指を払うことは用意である。もはや力の入ってないその指がセバスのズボンを掴んだのは幸運程度の何かでしかないのだから。
 そう、幸運は2度も起こる訳はない。

「……私に何か言いたいことでも?」

 セバスが動こうとした時――

「おい」

 どすの効いた低い声がセバスにかかる。
 扉から男が姿を見せていた。盛り上がった胸板に太い両腕。顔には古傷を作った、暴力を生業にするもの特有の雰囲気を多分に匂わせた男だ。

「おい、爺。こんなところで何を見てんだ?」

 男は目を細くし、セバスを睨みつける。それからこれ見よがしな大きな舌打ちを1つ打つと、顎をしゃくる。

「失せな、爺。今なら無事に帰してやるよ」

 セバスが動かないのを見ると、男は一歩踏み出す。男の後ろで扉が重い音を立てて閉まる。

「おう。爺、耳が遠くて聞こえねぇのか?」

 肩を軽く回し、次に太い首を回す。右手をゆっくりと持ち上げ、握り締める。暴力の使用を決して迷わないタイプだというのが明確な態度だ。

「ふむ……」

 セバスが微笑む。老年の紳士とも言うべきセバスの深い微笑みは、安堵と優しさを強く感じさせるものだ。だが何故か、男は強大な肉食獣が突如目の前に現れたような気分に襲われた。

「おぉ、おう、なん――」

 セバスの微笑みに押され、言葉にならない言葉が男の口から漏れる。呼吸が荒いものに変わっている事さえ気付かず、男は後ろに僅かに下がろうとする。
 セバスは今まで片手に持っていた魔術師ギルドの印の入ったスクロールをベルトに挟む。それから一歩だけ、開いた分の距離を詰めるように正確に男の方に足を進め、手を伸ばした。その動きに男は反応することさえ出来ない。音にならない音を立て、セバスのズボンを摘んでいた女性の指が路地に落ちる。
 まるでそれが合図だったかのように、セバスの伸ばした手が男の胸倉を掴み、そして――男の体がいとも容易く持ち上がった。

 それは第三者がもしこの場にいれば、まるで冗談のような光景のように感じられただろう。
 外見的な特長であれば、セバスと男を比べるならセバスに勝ち目は無い。若さ、胸板、腕の太さ、身長、体重、そして漂わす暴力の匂い。どれを取ってもだ。
 そんな紳士然とした老人が、その腕で屈強で十分な体重があると思われる男を片手で持ち上げているのだから。これが逆だったのならまだ信じることができたという光景だ。

 ――いや、違う。その場でもしその光景を見る者がいたら、その二者の間にある『差』というものを鋭敏に感じ取ったかもしれない。人間は生物が持つ勘――生存本能というものが鈍いといわれるが、これだけはっきりしたものを突きつけられれば即座に悟っただろうから。


 セバスと男の間にある『差』。
 それは――
 
 ――絶対的強者と絶対的弱者という差。


 完全に地面から両足を持ち上げられた男は、両足をばたつかせ、体をくねらせる。そして両腕でセバスの腕を掴み掛かろうとして、何かに悟ったように、恐怖の感情が目の中に宿った。
 遅いながらも、ようやく男は気付いたのだ。目の前にいるセバスが、外見とはまるで違う存在だということに。無駄な抵抗が、目の前の化け物をより苛立てる行為に繋がると。

「彼女は『何』ですか?」

 静かな声が恐怖で硬直しつつあった男の耳に飛び込む。
 感情のまったく感じさせない、いや清流のごとき静けさを湛えた声。それは男を平然と片手で持ち上げるという状況にまるで似合わないものだ。だからこそ恐ろしい。

「う、うちの従業員だ」
 
 僅かに緩んでいるために声は出せる。男は必死に、恐怖によって裏返る声を上げた。そんな男の返答に、セバスは即座に返す。

「私は『何』ですかと尋ねました。それに対するあなたの答えは『従業員』ですか」

 何か言うべき言葉を間違えたかと男は考える。しかしこの場合、最も正解に使い筈の答えのはずだ。男は大きく見開いた目を怯える小動物のようにキョトキョトと動かす。

「いえ。私の仲間にも人という存在を物のように扱う者たちがいます。あなたがその認識ならば、このような扱いは当然だろうと思ったのです。ですが従業員という答えから推測すると、同族であると認識し、このような行為を行っていたと理解していたわけですね。それでは重ねて質問をさせていただきましょう。彼女をどうするので?」

 男は少し考える。だが――

 ミシリと音が鳴ったようだった。
 セバスの腕により力が入り、男の呼吸が一気に苦しくなる。

「――ぐぅう!」

 セバスが掴む手に力を入れたことによって、男は呼吸が難しくなりにより奇怪な悲鳴を上げた。そこにある意志は『考える時間は与えないから、とっとと話せ』である。それが理解できただろう男は、即座に口を開いた。

「び、病気だから神殿につれて――」
「――嘘をあまり好きませんね」
「きひぃっ!」

 セバスの腕に込められた力が強くなり、より一層呼吸が苦しくなった男は、顔を真っ赤に染め上げながら奇怪な悲鳴を漏らす。袋に入れて運搬するという行為を百歩譲って認めたとしても、袋を路地に投じたその姿に、病気だから神殿に連れて行くという愛情は一切感じられなかった。
 あれがゴミを捨てる行為だというのならば認められるが。

「やめ……かぁ」

 息が苦しくなりだし、命の危険に晒されはじめた男は、後のことを一切考えずに暴れだす。顔面を狙って飛んでくる拳は、容易く片手で迎撃する。バタつかせた足がセバスの体に当たり、服を汚す。しかしながらセバスの体は一切動かない。
 ――当然だ。
 数百キロを思わせる鋼鉄の塊を、単なる人間の足で動かせるはずがない。太い足で蹴られながらも、平然と、まるで痛みを感じないようにセバスは続ける。

「正直に話されることをオススメしますが?」
「がぁ――」

 完全に呼吸が出来なくなった男の真っ赤に染まった顔を見上げ、セバスは目を細める。完全に意識を失うギリギリの瞬間を狙って、手を離す。
 聞く者が痛そうに顔をゆがめてしまうほどのガツンという大きな音を立て、男が路地に転がった。

「げぎゃぁあああ」

 肺の中に最後に残った空気を悲鳴として吐き出し、それからカヒューカヒューとむさぼるように酸素を取り入れる男をセバスは静かに見下ろす。それから再び手を喉元に伸ばす。

「ちょっっ、ま、まってくれ!」

 セバスの伸ばした手がどのような意味を持つものか。それが理解できるほど、その身に恐怖として焼き付けられた男は痛みに耐えながら、セバスの手から転がるように離れる。

「ま、まってくれ。本当だ。神殿に連れて行くつもりだったんだ!」

 意外に心が強い。それとも別の恐怖を与えられているからか。
 セバスはそう判断し攻撃の手を変えることを検討する。ここはある意味敵の陣地だ。男が扉の奥に助けを求めないということは、即座に援軍は来ないだろうが、それでも長時間ここにいることは面倒になるだけだ。

「神殿に連れて行くといいましたね。ならば私が連れて行っても問題は無いかと思いますので、私が預かりましょう」

 驚き、男の目が左右に動く。それから必死に言葉を紡いだ。

「……あんたが本当に連れて行くっていう証拠がねぇだろ」
「ならば一緒に行けばよろしいのでは?」
「今は用事が会っていけねぇ。だから後で連れて行くんだよ」セバスの顔に何かを感じた男は、早口で言葉を続けた。「それは法律上、おれたちのものだ。あんたが何かをするのなら、それはあんたがこの国の法律を破ったってことになるぜ!」

 ぴたりと動きを止め、セバスは初めて眉を寄せる。
 最もセバスにとって痛いところを突かれた。
 アインズはある程度は目立つ行動をとってもかまわないと言ってはいたが、それは金持ち娘というダミーを演じるための行為としてだ。出来る限り騒ぎを起こさずに、静かに情報収集を行う。それが主人の本当の意志だ。
 法律を破るというのは下手すると司法の手が伸び、調査された場合は被っているアンダーカバーが破られる可能性まで繋がりかねない。
 つまりは大きな騒ぎに直結しかねない問題だということだ。

 ならばこの女性を見捨てるのが正しい行為か。

 男には法律知識を収めた雰囲気はまるで無い。それに関わらず、その言葉には自信に満ち溢れていた。とするとそういった法律に関しての入れ知恵をしている者がいるということ。ならばその法律関係の話は適当に言っているのではなく、理論武装した結果の真実である可能性が高い。
 セバスが腕力に物を言わせて押し通すことは容易だ。しかしこうなってしまうと、その行為は当然セバスの首を絞める。
 勿論、法律なんか糞食らえと行なうことも出来る。ただ、それは最後の手段であり、自らの主人の目的に関わるときのみの最終手段だ。この見知らぬ女性のために行って良いものではない。

 男の下卑た笑いが、迷うセバスを苛立てる。

「主人に内緒で厄介ごとを抱え込んで良いのかぁ?」

 にたにたと笑う男に、初めてセバスははっきりと分かるように眉を顰めた。そんな態度に男は弱みを感じ取ったのだろう。

「どこぞの貴族に仕える方か知らないけどなぁ。法律を破るのはご主人様に迷惑がかかるんじゃねぇか? あん?」
「……私の主人がその程度どうにかできないとでも? 法律は強者にとっては破るためのものですよ?」

 一瞬だけ男は怯んだような雰囲気を見せるが、すぐに自信満々な姿を見せつけた。

「……ならやってみるか? うん?」
「…………ふむ」

 セバスのはったりに、男が怯んだ様子は無い。実際にこの男――そして後ろ盾が実際にいるなら、なんらかの権力者との強いコネがあり、それだけでは司法は動かないという自信があるのか。
 この方面からの攻撃は効果が無いと判断し、セバスは別の角度からの攻撃に移る。

「……ですが、彼女が助けを求めた場合、例えどのような形態の従業員であろうと、彼女の意志を尊重するべきだと思われますが?」
「む……いや……それは……」

 男が困ったようにブツブツと呟く。
 化けの皮がはがれた。
 セバスは男の演技力の無さ、そして頭の回転の遅さに安堵する。もし男がそれも法律上と嘘でも言い出したら、この国の法律関係の知識に乏しいセバスには、どうすることも出来なかっただろう。結局、法律関係の知識を己の物とせずに聞きかじっただけだからこのざまなのだ。セバスにとっては有利なことに。
 セバスは男を視界から追い出すと、女性の頭を抱き上げる。

「助けて欲しいですか?」

 セバスは問いかける。それから女性のひび割れ、かさかさの唇にその耳を近づけた。
 耳に掛かるのは微かな呼吸音。いや、これは呼吸音なのか、しぼんだ風船が最後に空気を抜けきるような音が。
 答えは返ってこない。セバスは微かに頭を左右に振り、もう一度尋ねる。

「助けて欲しいですか?」

 幸運は2度も起こるものではない。
 当たり前だ。幸運とは運の良いこと。たまたまの出来事だ。それが何度も起こるほうが変だろう。意志の殆ど無いほど衰弱した彼女がセバスのズボンを掴む。それ以上、幸運が起こるはずがない。

 セバスの問いかけは無駄になる。
 男はそう思い、微かに下卑た笑いを浮かべた。
 その女性のおかれた環境、そしてその地獄のような状況。それらを知るものからすれば当たり前のことだ。そうでなければ廃棄しようと、外に出したりはしなかっただろうから。


 そう、先にセバスのズボンを掴んだのがそれが幸運だったらだ――。


 ――彼女にとっての幸運はセバスがこの通りに足を踏み入れた。そこで終わっていたのだ。それからの先は全て彼女の生きたいという意志が起こした行為。
 それは――決して幸運ではない。

 ――微かに。
 ――そう。
 本当に微かに女性の唇は動く。それは呼吸のような自動的に行うものではない。はっきりとした意識を感じさせるものだ。

「――――」

 その言葉を聞き、セバスは一度だけ大きく頷く。

「……天から降り注ぐ雨を浴びる植物のように、己の元に助けが来ることを祈るだけの者を助ける気はしません。ですが……己で生きようとあがく者であれば……」セバスの手がゆっくりと女性の目を覆うように動く。「恐怖を忘れ、おやすみなさい。あなたはこの私の庇護下に入ります」

 その優しく暖かい感触にすがる様に、女性はその濁った目を閉じた。
 信じられないのは男の方だ。だから当然の台詞を口に出そうとする。

「嘘――」

 声なんか聞こえなかった。そう吐き捨てようとした男は凍りつく。

「嘘……ですか?」

 いつの間にか立ち上がったセバスの眼光が男を射抜く。
 それは凶眼。
 心臓を握りつぶすような、物理的圧力さえ兼ねたような眼光が男の呼吸を止める。

「あなたが言いたいのは……この私が嘘をあなたごときについたと言いたいのですか?」
「あ、い、あ……」

 ごくりと男の喉が大きく動き、溜まっていた唾を飲み込む。目が動き、セバスの腕に釘付けになる。調子にのって忘れていたあのときの恐怖を再び思い出したのだ。

「では彼女は連れて行きます」
「ま、待て!」

 声を張り上げた男にセバスは一瞥を向ける。

「今だ何かあるのですか? 時間を稼ぐつもりとでも?」
「ち、ちげぇ。信用できるものをもらいたいって……ことだ」
「信用できるもの? それは?」
「か、金だ。あんたが……本当に神殿に連れて行くとも信じられねぇ。どこかにドロンという可能性だってあるはずだ」
「彼女を連れて消えることに何か目的があるとは到底思えませんが? 何か彼女に価値でもあるので?」
「そ、そんなわけは無ぇ。でもならあんたが何でその女に執着するんだよ。あんたなら女はいくらでも選べるだろうよ」

 セバスは僅かに目を細める。この女性を助けようとした、心に生じた波紋がどこから生まれたものか。本当に理解できなかったためだ。他のナザリックの存在であれば、大抵が面倒ごとを避けるために無視しただろう。手を弾き、そのまま歩を進めたはずだ。
 セバスは自分でも説明できない心の働きを、今は考えるべきではないと棚上げ、男に答える。

「……まぁそれはどうで良いでしょう。もしあなたが私が神殿に連れて行くかどうか、不安だというのならばあなたも一緒についてくればよろしいのでは?」
「お、おれは今はちょっと忙しい……」

 一瞬だけ沈黙が降りる。セバスとしてはこれ以上腹を探って時間を無駄にする気はない。

「……保証金的な意味合いで金を預かりたいということですね? 了解しました。いくらほどですか?」
「……金貨100枚」

 なるほどとセバスは納得する。これが男の最後の手か、と。
 金貨100枚という大金を提示することで、何かを引き出そうとしているのだろう。狙いが時間か、はたまたは別のものかはセバスには読めない。ただ、単純な金銭的な狙いとは別に、何らかの理由があるはずだ。金貨100枚にもなれば重量1キロ。かなりの膨らみになる。それに金貨100枚を持ち歩いている人間はそうはいない。
 そのため、セバスが持って無いと思って、無理難題として男は提示しているのだろう。
 セバスはだからこそ即答する。

「承りました」

 セバスは皮袋を取り出す。男の目に訝しげな色が浮かんだ。当たり前だ。金貨100枚というのはそんな小さな皮袋に入る金額ではない。

「宝石なら信じ……」

 そこまで言った男は路地に転がった硬貨に目を釘付けにした。その銀色にも似た硬貨の輝き。それは白金貨。金貨の10倍の価値のあるそれが、計10枚転がっていた。

「そうそう、白金貨10枚はこの状態の彼女にはつりあわないほどの高額だと思いますが。これで双方あったことを忘れてはどうでしょうか?」
「あ、ああ……」
「それに、次回あったときは彼女の治療に掛かった金額は請求させていただきます。無論、これはあなたが彼女を引き取りに来た場合ですが……金銭には糸目をかけずに治療行為を行うつもりですので、高額になることを約束しますよ。それと保証金ですので彼女を引き取りに来る場合は、全額の返済もお願いします」

 セバスはそれだけ言うと、もはやこの場に用は無いと女性を胸の前に担ぎ上げ、歩き出した。





 現在セバスが滞在している家は、建築ギルドに頼んで借り受けたそこそこ大きな屋敷だ。周辺に立ち並ぶ館は大きく立派なものが多く、王都でも治安の良い分類に入る区画に建てられた館だ。
 セバスとソリュシャンというたった2人で住むにしては非常に大きすぎる館ではあるが、遠方の大商人の家族というアンダーカバーを被っている以上、みすぼらしい館に住むことは出来ない。

 そんな館に着き、家の扉を潜ると、即座に出迎えてくる者がいた。この館にはセバスを除けばたった1人しかいないのだから、当然出迎えた人物はもう1人――セバス直轄の戦闘メイドのソリュシャン・イプシロンである。

「おかえり――」

 ソリュシャンの言葉は止まり、下げかけた頭も動きを止める。ソリュシャンの冷たい視線はセバスが胸の前で掻き抱いたものへと向けられていた。

「……セバス様。それは一体?」
「拾いました」

 その短い返答にソリュシャンは何も言わない。だが、空気が一瞬だけ重いものと変化した。

「……そうですか。ではそれをどうされるのですか?」
「そうですね。まずは彼女の傷を癒して欲しいのですが、お願いしてもよろしいですか?」
「傷ですか……」ソリュシャンはセバスの抱いた女の様子を伺い、納得したように頭を振ってから、セバスをじっと見つめた。「もしそうだとするなら、神殿に置いてくれば良かったのではないでしょうか?」

 セバスが始めて目を見開く。

「……でしたね。私としたことがそれに気づかないとは……」

 そんなセバスをソリュシャンが冷たい目で見据え、ほんの一瞬だけ両者の視線が交差する。先に目を逸らしたのはソリュシャンだ。

「今から捨ててきますか?」
「いえ。ここまで連れてきてしまったのです。私たちで有効活用する手段を考えるべきでしょう」
「……畏まりました」

 ソリュシャンは演技を除けば、あまり表情を大きく動かすタイプの存在ではないが、今のソリュシャンの表情はまさに能面であった。そしてその目に宿る感情の光は、セバスをして理解できないもの。
 ただ、現在の状況がソリュシャンにとってはあまり歓迎していないことぐらいは手に取るように分かる。

「まずは肉体の健康状況を調べていただけますか?」
「了解しました。では早速ここで調べましょうか?」
「それは流石に……」ソリュシャンからすればその程度の存在なのかもしれないが、玄関で行うべき行為ではないだろうとセバスは判断し、言葉を紡ぐ。「空いている部屋もありますし、そちらでお願いしてもよろしいですか?」
「……了解しました」

 玄関から客室に女性を運ぶ間、互いに話そうとはしない。ソリュシャンもセバスも無駄話というものはあまりしない性質だが、それ以上に微妙な空気が2人の間にあった。
 客室の扉を女性を抱いたセバスに代わり、ソリュシャンが開ける。現在は厚手のカーテンが閉められているため室内は暗いが、淀んだ雰囲気はまるで無い。幾度も開けられているために空気は新鮮なものだし、室内は綺麗に掃除が行き届いている。
 入ってくる光がカーテンの隙間から漏れるものと、扉から入ってくるものだけだが、セバスの足取りに狂いはまるで無い。清潔なシーツが敷かれたベットの上に女性を静かに下ろした。

「では」

 隣に並んだリュシャンが無造作に女性の体に巻きつけた布を毟り取る。その下からは女性のボロボロの肢体が晒される。そんな酷い姿を目にしても、ソリュシャンの表情に変化は無い。

「……ソリュシャン任せます」

 セバスはそれだけ言うと部屋から出て行く。女性を触診し始めたソリュシャンに、それを止める気配はまるで無い。
 廊下に出ると、中のソリュシャンに聞こえないよう小さく呟く。

「愚かな行為です」

 呟いた言葉は即座に廊下に消え、答えるものは当然誰もいない。
 セバスは髭を無意識に触る。何故あの女を助けたのか。セバス自身はっきりとした理由を言うことはできない。もし仮定するなら、窮鳥懐に入れば猟師も殺さず、というところなのだろうか。
 いや違う。

 何故助けたか。

 それは――彼女が弱者だからだ。
 セバスはナザリックのランド・スチュワートであり、その忠誠は至高の41名――全てに捧げられている。現在はアインズ・ウール・ゴウンの名をその身に宿した、ギルド長。彼こそが全てを捧げて仕えるべき存在である。
 その忠誠に偽りは無く。己が命すらも容易く捨てることを迷わないだけの忠義を捧げているつもりだ。

 だが、しかしながら――もし仮に、至高の41名の中で1人だけに忠義を払えといわれれば、選ぶだろう存在がいる。


『たっち・みー』
 セバスを生み出した、『アインズ・ウール・ゴウン』最強の存在。ワールド・チャンピオンと言われる9人からなる桁の違う存在の1人。
 システム上許されているからといってPKに代表される行為を行うことで、より強大になっていたギルド。その前身たる集まりを、彼が最初の9人として作ったのは弱者の救済のためだというと冗談の話のようだろう。しかしそれが事実なのだ。
 モモンガがPKに合い続け、腹を立てゲームをやめようとしたところを救った。ぶくぶく茶釜がその外見から一緒に冒険をする相手が見つからなかったところを進んで声をかけた。そんな人物なのだ。

 そう。
 ――そんな人物に創造されたセバスも似たところを持っていたのだ。


「これは呪いなんですかね……」

 暴言だろう。もしこの台詞に込められた真意を、他のアインズ・ウール・ゴウンに属する存在――至高の41人に創造された存在が聞けば不敬だと攻撃される可能性だってある。それほどの言葉だ。
 しかし――

「アインズ・ウール・ゴウンに属さぬ存在に哀れみという感情を持つことは正しくは無い」

 セバスは重々しく呟く。
 至極当然のことだ。
 一部の例外――至高の41人にそう設定された存在、例えばペストーニャのような者を除き、アインズ・ウール・ゴウンに属さぬものは容易に切り捨てる行為こそ正しい。例えばある村の少女とメイドの1人、ルプスレギナは仲が良い。だが、状況によってはルプスレギナはその少女を即座に切り捨てるだろう。
 これは冷酷なのではない。もしその行為を冷酷だとなじる存在がいたら、よく分からないとそんな不思議そうな表情を浮かべながら返答するだろう。至高の41人に創造された存在の思考であり忠義。それを単なる人間の――くだらない感情で判断すること事態が間違っているのだ。

 セバスが一直線に唇を噛み締めた頃、ソリュシャンが扉から出てきた。

「どうでしたか?」
「……梅毒にあと2種類の性病。肋骨の数本及び指にヒビ。右腕および左足の腱は切断されています。前歯の上下は抜かれています。内臓の働きも悪くなっているように思われます。裂肛もありました。その他の打ち身や裂傷等は無数にあるために割愛させていただきたいと思いますが……まだいくつかありますが他のご説明が必要ですか?」
「いえ、その必要は無いでしょう。重要なのはこの一点ですから。――治りますか?」
「容易く」

 即答であり、セバスも予測していた答えだ。しかし、一応、念をいれて確認を取る。

「……腱の切断等もですか?」
「無論です」
「では、お願いします」

 僅かにソリュシャンの目が細まり、そして即座に伏せられる。

「……畏まりました。あの女性を無傷の状態――そう、あのような行為が行われる前までの、肉体の状態を戻すということでよろしいですか?」セバスの首肯を受け、ソリュシャンは丁寧に頭を下げた「直ちに治癒を行いたいと思います」
「では治療が終わったら、お湯を沸かせて彼女の体を拭いてもらえますか? 私は食事を買ってきます」
「畏まりました。……セバス様。肉体の治療は容易いことですが……精神の傷を癒すことは私には不可能です」ソリュシャンはそこで言葉を句切ると、セバスをじっと見つめ尋ねる。「精神を癒すのであればアインズ様をお呼びするのが一番だと思われますが……お呼びしませんか?」
「……アインズ様に来ていただくほどのことはありません。精神の方はそのままでかまわないでしょう」

 ソリュシャンは深く一礼すると扉を開け、中に入っていく。セバスはそんな後姿を見送ると、ゆっくりと背中を壁に持たれかけさせる。

 彼女を神殿に置いてくる。ソリュシャンはそう言った。それに対してセバスは忘れていたといったが、あれは嘘だ。無論、セバスがそのことに気づかなかったわけが無い。いや、実のところセバスは最初に神殿に連れて行ったのだ。女性に姿を包んでいた布はそこで貰ったものなのだから。
 セバスの入った神殿で神官にどれだけ驚かれ、どれほど非難めいた眼で見られたか。完全にセバスが女性に酷い行いをしたと思われたのだ。
 どうにか誤解を解き、治癒を依頼したのだが、そこで問題が1つ出てきた。ざっと診察をしてもらったのだが、性病等の病気の治療は出来るし、打ち身なども治せる。しかし、腱の切断や強引に抜かれた歯等の古傷は神殿では癒せないと言われたのだ。これは単純に古傷すら治せる治癒魔法――そこそこ上位の魔法を使える者がいなかったためだ。

 そこでセバスは逡巡した。彼の約束した保護。
 それはどこまでの行為をそれと呼べば良いのか、不明だったからだ。

 病気を癒し、良い環境で休ませれば体力は回復はするだろう。だが、将来的に出来上がる右手と左足は動かずに、食事を噛み砕くのも少しばかり難しい、そんな女性の姿がセバスの約束した保護なのだろうか。
 確かに普通の人間であればそれだけで充分な保護だ。しかしセバスは違う。

 彼ならばもっとより良い状態に彼女を助けることが出来る。
 ソリュシャンはアサシンであるが特殊なクラスを保有しているために、神殿で行える治癒よりもより上位の治癒が行える。そう思ったからこそ連れてきたのだ。そして結果、彼女の体はかなり戻るだろう。衰えた肉体だって、各種の治癒系魔法を行えば短期間で完全に癒せるはずだ。


 問題はそこからだ。
 彼女をどうするのか――。


 セバスは息を1つ大きく吐き出す。
 内部に溜まった様々なものをこうやって吐き出せたなら、どれだけ楽になれるか。しかし、何も変わらない。心は混乱し、思考にはノイズが入る。

「愚かな話です。この私があのような女1人に……」

 セバスは偽りの結論を出す。
 答えは出ない。ならばせめて問題を後に回そう。時間稼ぐにも似た行いだが、セバスからすればそれが納得の出来る最大の答えだったのだ。

 靴の音を響かせ、セバスは歩き出した――。



 ソリュシャンは指の形を変える。ほっそりとした指がより伸び、数ミリほどの細い管のような形まで変わった。元々ソリュシャンは不定形のスライムであり、外見はかなり変えることが出来る。指先の形を変えることなど容易いことだ。

 部屋の扉を一瞥をし、外にセバスの気配がなくなっていることを鋭敏に知覚すると、ソリュシャンはベットに横になった女の元に静かに近寄る。

「セバス様の許可もいただきましたし、面倒ごとは早急に解決させていただきます。あなたもその方がよろしいでしょうしね。それに気づいてないでしょうし」

 ソリュシャンは変形してない手を広げ、体内に隠しいれていたスクロールをズルリと取り出す。
 ソリュシャンが隠し入れているのはこのスクロールだけではない。スクロールに代表される消費系マジックアイテムから始まり、武器や防具なども当然に仕舞いこんでいる。人間であれば数人は飲み込めるのだ、なんの不思議も無いだろう。

「さて、セバス様が戻ってくる前に食べてしまうとしますか」

 ソリュシャンは封を切り、スクロールを広げる。中に込められた魔法は《ヒール/大治癒》。第6位階の高位治癒魔法であり、なおかつ病気等のバッドステータスをあらかた回復させる魔法だ。
 通常、スクロールはその魔法を使うことのできるクラスを保有していないと効果を発揮しないもの。つまりは神官系のスクロールを使うのには神官系のクラスを持っていなくてはならない。しかし一部の盗賊系クラスが保有するスキルはそれを偽り、持って無くても持っているように使いこなすことが出来る。
 ソリュシャンはアサシンとして盗賊系クラスの延長を幾つも習得している。そのためソリュシャンが本来は使えないはずの《ヒール/大治癒》のスクロールを使おうとするのも、そういう種があってのことだ。

「まずは眠らせて、と」

 ソリュシャンは体内で睡眠効果を有する毒と筋弛緩系の毒を、クラス能力として調合すると、女に覆いかぶさるように動いた。



 セバスが食料を買い込んで戻ってくると、ソリュシャンが部屋の外に出てくるのはほぼ同時のタイミングだった。ソリュシャンの左右の手には湯気の立つ桶が2つあり、その中には手ぬぐいが数枚放り込まれている。
 お湯は両方とも汚れており、手ぬぐいにも汚れが付着しているようだった。どれだけ彼女が汚れていたかを示唆するようだった。

「ご苦労様でした。治療の方は問題なく解決した……ようですね」
「はい。なんら問題なく終わりました。ただ、服が無かったので適当なものを着せましたがよろしかったでしょうか?」
「当然かまいません」
「左様ですか……そろそろ睡眠系毒の効果が切れる頃だと思います。……これ以上するべきことが無いのであれば、私はこれで下がりますが?」
「……特別はありません。ご苦労でした、ソリュシャン」

 ソリュシャンは頭を下げると、セバスの横を通り歩き出す。
 セバスは扉をノックすると、扉を静かに開ける。

「入ります」

 厚手のカーテンは開けられ、室内に太陽の明かりを入れている。そんな室内のベッドの上には、1人の少女が寝起きなのか非常にぼんやりとした表情で、半身を起こした状態でいた。

 それはまさに見間違えるようだった。
 ぼさぼさで薄汚れていた金髪は今では綺麗な艶やかさを湛えていた。こけて落ち窪んでいた顔は、この短期間ではありえないほど急速に肉付きを取り戻している。かさかさに割れた唇も健康的なピンク色の輝きに変わっていた。
 外見を総合的に評価するなら美人というよりは、愛嬌のあるという言葉が似合いそうな女性だ。
 こうやって見ると、年齢もなんとなく判別が付きそうだ。恐らくは10台後半ぐらいだろうが、その経験したであろう地獄が年齢以上の重みを表情に作り出している。
 ソリュシャンが着せた服は白いネグリジェだ。ただ、ネグリジェにありそうなフリルやレースといった装飾を極力そいだ質素なものである。

「体の状態はどうですか? 完全に癒えたとは思いますが、何か変なところはありませんか?」

 返答はまるで無い。ぼんやりとした視線にもセバスの方へと動こうとする意志はまるで無かった。だがセバスはそんなことを気にもしないように言葉を続ける。いや、最初っから余り期待してなかったのが明白な行動だ。
 彼女のボンヤリとした表情は、寝起きだからという類のものではないとセバスは直感したためだ。心がこの場に無い、そんな人間の表情だと。

「お腹が減っていませんか? 料理を持ってきましたよ」

 セバスやソリュシャンは調理が出来ないため、買ってきたのは即座に食べれるものだ。胃腸の状態まで回復しているかは不明のため、14種類の材料を使ったという粥を買ってきたのだ。
 木の器に盛られた粥には、僅かに色を付けた出汁で作られている。その中に風味をつけるために入れられたごま油が、食欲をそそらせる匂いを漂わせていた。
 その匂いに反応し、女性の顔が僅かに動く。

「では、どうぞ」

 完全に己の世界に閉じこもっているわけではないと把握し、セバスは木のスプーンを入れた器を彼女の前に差し出す。
 女性は動かないが、セバスも無理に勧めるような行動は取らない。両者がそのままの姿勢で動かないという、空白の時間がしばし流れる。
 もしこの場に第三者がいれば焦れるだけの時間が経過し、ゆっくりと女性の腕が動く。痛みに怯え、強張ったような動かし方で。例え外傷が完全に癒えようと、記憶に刻まれた痛みの記憶は、今でも深々と開いているのだ。

 彼女は木のスプーンを掴み、その中に粥を薄く掬う。
 そして口に運ばれ、垂下した。五分粥と同量の水分のこの粥はどろりとしたものであり、セバスの依頼で非常に細かく切ってもらい、じっくりと煮た14種類の具材は、よく噛まずとも良いほどだ。

 喉が動き、粥が胃の中に納まる。
 女性の目が僅かに動く。本当にわずかな動きだが、それは精巧な人形から人間への変化だった。
 もう片方の手がブルブルと震えながら動き、セバスから器を取る。セバスは器に手を添えたまま、彼女が置きたい場所に動かす。自らの元に抱え込んだ器に木のスプーンを突き刺し、女性は流し込むような勢いで粥を食べる。
 ちょうど良い熱さまで冷えていなかったら、絶対に火傷をして悶絶しただろうという食べ方だ。口から毀れた粥がネグリジェの胸元を汚す。
 最初の頃は全然想像もつかない速度で食事を食べる。それはまさに飲んでいるというのが正解な勢いだ。

 即座に空になった器。
 それを抱えこんだまま、彼女はホウとため息をつく。完全に人間の顔となった彼女の目が僅かに細まる。粥が胃に収まり、清潔で肌触りの良い服、体を綺麗にされたことなどの相乗効果が彼女の精神を緩め、睡魔が取り付きだしたのだ。
 だが、瞼が閉ざされかかると、彼女は大きく目を見開く。そして怯えるように身を縮めた。
 瞼を閉じることに恐怖を持っているのか、はたまたは今の状況が失われてしまう――幻のように消えてしまうことを恐れたのか。それとももっと別のことによることなのか。傍から見ているセバスでは分からない。
 もしかすると彼女自身分からないことかもしれなかった。

 だからセバスは安心させるように、優しく話しかける。

「体が睡眠を欲しているのでしょう。無理はされずにゆっくり眠られると良いでしょう。ここにいれば何も危ないことはありません。この私が保証します。目を覚ましてもこのベッドの上にいますよ」

 初めて女性の目が動き、セバスを正面から捕らえる。
 青い瞳にはさほど光は無く、力も無い。ただ、あのときの死者の瞳ではなく、生者の瞳になっている。

 口が僅かに開き――閉ざす。そして再び開き――再び閉ざす。そんなことを数度繰り返す。セバスはそんな行いを暖かい微笑みを浮かべながら見守る。決して焦らせたり、何かしようとはしない。ただ、黙って見つめる。

「あ……」

 やがて唇を割って、小さな声が漏れた。一度毀れれば、その先は早い。

「あ……ありが……ござ……ぃます」

 自分の置かれている状況への確認等ではなく、感謝を最初に口に出す。彼女の性格の一端が掴め、セバスは作り笑いではない笑みを浮かべた。

「お気にされずに。私が拾い上げたからにはあなたの身の安全は出来る限り保障しましょう。41人の方々を除き、何者が来ようとも負ける気はしませんので」

 少しばかり女性の目が見開く。それから口がわなないた。
 青い目が潤み、ボロボロと涙が毀れる。それから大きな口を開け、女性は泣き出す。火の付いたように。そんな言葉がまさに正しい泣き方だ。
 泣き声に混じり、呪詛が吐き出される。
 己の運命を呪い、その運命を与えた存在を憎悪し、助けがあのときまで来なかった事を恨む。その矛先はセバスにも向けられていた。
 もっと早く助けてくれれば。そういう恨み言だ。
 セバスの優しさを受け――人としての扱いを受けたことで、今までの耐えに耐えてきた何かが崩壊したのだ。いや、人間の心を取り戻したが故に、今までの記憶に耐えられなくなったというべきなのだろうか。

 彼女は頭を掻き毟り、ブチブチという音が共に髪が毟られる。ほっそりとした指に、金の糸が無数に絡んだ。

 セバスはそんな彼女の狂乱を黙って見ている。粥を入れていた器がスプーンと一緒にベットに転がる。それを取ろうともせずに黙って見つめる。セバスからすれば彼女の恨み言は全く的外れなものであり、勝手な言い分にしか過ぎない。
 人によっては彼女の恨み言は不愉快であり、激怒して然るべきものだろう。しかしセバスの表情の怒りの色は全く無い。その皺の刻まれた顔には慈悲のようなものがあった。
 セバスは身を乗り出すと彼女の体を抱く。
 男が女を抱くというのではなく、父親がわが子を抱きしめるような色気の無い、ただ愛情のみがある抱き方だ。
 一瞬だけ彼女の体が硬直し、その今までの彼女の体を貪ってきた男達とは違う抱き方に、凍りついた体が僅かに緩んだ。

「もう大丈夫です」

 その言葉を呪文のように幾度も唱えながら、彼女の背中をポンポンと優しく叩く。泣いている子供を宥めるように。
 
 一瞬だけ、しゃくりあげ――それからその行為に反応し、彼女はセバスの胸に顔を埋めるとさらに泣く。だが、先ほどの泣き声とは少しばかり違うものだった。


 暫しの時間が経過し、セバスの胸元が彼女の涙で完全に濡れた頃、ようやく彼女の泣き声が止む。ゆっくりとセバスの胸元から離れ、その真っ赤になった顔を隠すように俯く。

「あ……ごめ……さい」
「気にしないでください。女性の涙に服がどれだけ濡れたとしても何にも問題はありません。いえ泣かれる女性に胸を貸したというのは男にとっての誇りですよ」

 セバスは懐から、綺麗に洗われた清潔なハンカチを取り出すと、それを彼女に差し出す。
 しかし、その綺麗に折り目のついたハンカチを前に彼女は逡巡する。これほど綺麗で高額そうなものを使っても良いのだろうかと。

「お使いください」
「です……ど、こん……きれいな……おかり……のは」

 おどおどとセバスを伺う女性の顎に手をかけると上を向かせる。そして彼女が何が起こったのかと硬直している間に、瞳に――そして未だ残っている涙の跡を優しくふき取る。

「あ……」
「さぁ、どうぞ」セバスは僅かに湿ったハンカチを彼女の手に握らせる。「それに使われないハンカチは可哀想なものです。特に涙を拭うことのできないハンカチはね」

 セバスは微笑みかけると、彼女から離れる。

「さぁ、ゆっくり休んでください。起きたら色々と今後について相談しましょう」

 魔法とは万能なもので、ソリュシャンの魔法による治療によって肉体は回復し、精神的な疲労も全て抜け切ってはいる。そのため今から普通に行動することだって出来るだろう。しかしながら彼女が地獄にいたのはせいぜい2時間ほど前の話。精神的な傷が、長時間の会話によって何らかの影響に繋がり兼ねない恐れはある。
 実際、先ほど泣き出したように、彼女の精神の均衡は安定しているとは言い切れない。いや安定はまだ全然していないだろう。一時的に魔法によって精神的なものを癒すことは出来るが、根本の治療にはならない。肉体とは異なり、ぱっくりと開いた傷を癒すことは出来ないのだ。
 精神的な傷の完全なる治療が出来るのは、セバスの知る限り自らの主人――それと可能性としてはペストーニャ――ぐらいだろう。
 セバスはそのため話を打ち切り、休ませようとするが彼女は口を開く。

「こんご、で……か?」
「ええ」セバスはこのまま話を続けてよいか、彼女の精神的に不味くないか思案し、結果続けることにする、「このままこの都市にいるものあれでしょう。どこか頼れるところは?」

 女性は顔を伏せる。その反応はセバスに失言という言葉を思わせるに充分な行為だ。

「そうですか……」

 さて、困ったとセバスは口にはせずに思う。しかし、即座に何か行動しなくてはならないということもないだろう。明日に回してもまずいということは無いはずだ。

「ではそうですね。お名前とか聞かせてもらえますか?」
「あ……わた……は、ツー……ツアレ……す」
「ツアレですか。そうそう、私の名前を告げていませんでしたね。私の名前はセバス・チャンといいます。セバスと呼んでくださって結構です。私はこの館の持ち主であるソリュシャンお嬢様に仕えることを仕事とする者です」
「そ……ゅしゃん……ま……」
「ええ、ソリュシャン・イプシロン様です。とはいえあなたが会うことはあまり無いと思われますよ」
「……?」
「お嬢様は気難しいお方ですから」

 その言葉で全てを語ったと言わんばかりにセバスは口を閉ざす。それから少しだけ静かな時間が過ぎてから、セバスは再び口を開いた。

「さぁ、今日はゆっくり休んでください。あなたのこれからに関しては明日にでも相談しましょう」
「はい」

 ツアレがベットに横たわるのを確認すると、セバスは粥を入れていた器を手に、部屋を後にする。
 部屋を出たところで気配を完全に隠して立っていたのはソリュシャンだ。アサシン系のクラスを有しているソリュシャンが完全に気配を隠すと、セバスですら発見は困難であるが、そこにいるだろうと予期していたセバスに驚きは無い。

「どうしましたか?」

 ソリュシャンが立っていたのは盗み聞きのためだろうが、セバスはそれを咎めることはしない。
 そしてソリュシャンもセバスに叱られるとはまるで思っている様子は無い。だからこそ隠れずに立っていたのだが。

「……セバス様。あれはどうなされるのですか?」

 セバスは少しばかり自らの背後の扉に意識を向ける。扉はしっかりとしたものだが、完全に音を遮断するほどの防音効果は無い。ここで話していれば中に多少は聞こえるはずだ。
 セバスは歩き出し、ソリュシャンも無言でその後ろに続く。
 少しだけ歩き、ツアレに音が届かなくなっただろうというところで足を止める。

「……ツアレのことですね。とりあえずは明日、どのようにするか決めようと思っていますが」
「……出すぎた言葉かもしれませんが、あれは邪魔になる可能性が非常に高いと思われます。早急に処分を行うべきかと」

 処分というのがどう意味を含んでいるのか。
 ソリュシャンの冷酷な言葉を聞き、セバスはやはりと思う。これがナザリック――至高の41人に従うものとして、ナザリックに属さぬ存在に対し最も正しい考え方だ。ツアレに対するセバスの方が異常なのだ。

「その通りです。アインズ様より与えられた命令に邪魔になるようなら早急に対処しなくてはならないでしょう」

 ソリュシャンが若干不可思議そうな表情を浮かべた。それが分かっていながら、何故という表情だ。

「もしかすると彼女にも使い道があるかもしれません。拾ってしまったのですから、単純に捨てるのではなく。有効に使う方法を考えなくてなりません」
「……セバス様。あれがどこでどのような理由で拾ってきたものかは存じておりませんが、あのような傷を負う環境にあったということは何かをしてきた人間がいるということ。そいつらが生きていては厄介ごとだと思うのでは?」
「それに関しては問題ないでしょう」

 言い切るセバスに対し、ソリュシャンは不審そうに顔をゆがめる。何を隠しているのかと疑う表情だ。

「もう既にその者たちは処分したということでしょうか?」

 殺害は騒ぎの種になりかねない行為だといわんばかりのソリュシャンに、セバスは苦笑をもらす。まるで逆の立場だ、と。

「いえ違います。ただ、もし、問題が生じるようであれば、何らかの手段をとります。ですからそれまでは様子を見てもらえますね? よろしいですね、ソリュシャン」
「……畏まりました」

 直属の上司たるセバスに言われてしまっては、不満は非常に残っているがソリュシャンも言い返すことはできない。それに問題が何も生じないのならば、確かに黙認しても良い問題だろうから。






 6日に近いだけの時間が経ち、セバスは再び家の扉を開ける。本日も魔術師ギルドによってスクロールを買い、冒険者ギルドに行って依頼したい場合の契約ごと等を聞いて戻ってくるという、情報収集の一日だ。
 扉を潜り、館の中に入る。数日前ならソリュシャンが出迎えてくれた。しかし――

「おか……りなさ……、せばす……ま」

 現在その役目は、ぼそぼそと喋る素足の全然でない長いスカートのメイド服を着た少女の仕事となっていた。
 ツアレを拾った翌日、相談した結果。ツアレをこの館で働かせることとなったのだ。

 客として館に滞在しても良かったのだが、それはツアレが拒否したのだ。助けてもらい、それでなおかつ客として扱われるのは遠慮したい。お礼にもならないだろうが、せめて何か働かせて欲しい、と。
 その考えの裏にあるのは、不安だろうとセバスは見ている。
 つまりは自分の不安定な立場――この館にとっては厄介ごとの種であると理解しているからこそ、役に立つことで捨てられないようにしようというのだ。
 勿論、セバスは捨てたりはしないとツアレには言っている。行く場のまるで無い人間をぽんと捨てられるのなら、元々拾ったりしなかった。
 だが、心に出来た傷から出ている考えを変えるだけの、説得力を持っていないのは事実だった。

「ただいまです、ツアレ。仕事の方は問題なく?」

 こくりとツアレの頭が縦に動く。
 それほど長くない髪は綺麗に切り揃っており、その上にちょこんと乗った白のホワイトブリムも揺れた。

「もんだいはな……ったです」
「そうですか。それは良かった」

 雰囲気は思いっきり暗いものだし、表情も滅多なことでは笑わないが、人間としての生活を続けることで少しはその身を苛むものが薄れたのか、声も大きくなってきたようだった。

 セバスが歩き出すと、その横をツアレも歩き出す。
 本来であればランドステュワードであるセバス――上位者の横を歩くというのは、メイドとして正しくない行為である。しかし、元々メイドとしての訓練をまるで受けたことの無いツアレでは分からない作法だし、セバスもメイドとしての心構えを叩き込もうという気持ちは無い。

「本日の食事は何になるのですか?」
「はい。じゃがいも……つかっ……シチューです」
「そうですか。それは楽しみです。ツアレの料理は美味しいですから」

 セバスの微笑と一緒に告げた言葉を受け、ツアレは顔を真っ赤にすると下を向く。メイド服のエプロンの部分を恥ずかしそうに両手で掴みながら。

「そ、そんな……と、な……です」
「いえ、いえ。本当ですとも。私は料理が全然出来ないので助かりましたよ」
「そんなこ……」

 テレながらぶつぶつと言葉をこぼすツアレ。だが、実際セバスはツアレに感謝している。
 あるマジックアイテムを嵌めているため、セバスもソリュシャンも実のところ食事は取らなくても良いのだが、演技の関係上食事は取っていたのだ。ただ、セバスもソリュシャンも料理が出来ないため、調理されたものを館まで持ち帰って食べるというのが基本であった。
 それが調理されたものを持って帰らなくても、館で食事が食べられるようになったというのは面倒ごとが一つ減って楽になったといっても良いことなのだ。

「食材の方は大丈夫ですか? 足りないものとか買ってきてほしい物があったらおっしゃってください」
「はい。あ……でしらべておね……いしにいきます」

 ツアレは館の中では、そしてセバスの前では普通に行動できるが、今だ外の世界には拒否感を抱いている。そのため外に行く仕事は任せられないため、食材の調達等はセバスの仕事だ。
 ツアレの料理は豪華なものではない。それよりは家庭料理という雰囲気の素朴なものだ。そのため高価な食材は必要ないので市場に行けば即座に揃うものばかり。セバスとしても市場で様々な食材を知ることで、この世界の食に関する知識を得ることが出来るので一石二鳥だと考えている。
 ふとセバスはあることにひらめく。
 
「……あとで一緒に買いに行きますか」

 ぎょっとした表情をツアレは浮かべる。それから怯えたように首を振った。

「いえ、い……です」

 やはりかという言葉はセバスは呟かない。
 この数日でツアレは動けるようになり、精神も安定したようなそぶりを見せている。ただ、それはあまりにも早い回復だ。セバスは捨てられる不安から、無理に動いているのかと予測していたのだが、それもあるだろうが本質は若干違うのでは予想を修正する。
 ツアレは働き出してから、外に出るような仕事は絶対に行おうとはしない。
 ツアレはこの館という世界を自分を守ってくれる絶対の壁とみなすことで、自らの恐怖を押さえ込んでいるのだ。つまりは外の世界――ツアレを傷つけた世界とは違うんだという線引きをしているのだ。それによってツアレは動けるようになった。
 しかし、それではいつまでもツアレは外に出ることは出来ない。
 ほんの数日で外に出ろというのは、ツアレの精神を考えれば酷なものだろうとセバスにも分かっている。もっと時間をかけてゆっくりとならして行く方が安全だろう。ただ、それは時間がある場合だ。
 セバスはここで身を落ち着ける気も、一生涯すごす気も無い。あくまでも情報収集の任務として潜り込んでいる来訪人にしか過ぎない。
 もしアインズより撤収の命令が出れば――。
 ツアレがその時どうなるかは不明だが、出来る限り様々な可能性を与えられるように、少しでも前倒しで何かをしておくべきである。

 セバスは歩くのを止め、ツアレを正面から見つめる。照れたように、顔を赤くしたツアレが顔を俯かせるが、セバスはその頬に手を挟むようにして顔を持ち上げる。

「ツアレ。あなたの恐怖は分かってます。ですが安心してください。この私、セバスが守ってみせます。あなたにどのような危険が迫ろうと、その全てを打ち砕き、守りきってみせます」
「…………」
「ツアレ。踏み出してください。あなたが怖いなら目を瞑っていてもかまいません」
「…………」

 今だ迷うツアレの手をセバスは握る。そして卑怯だと思われる言葉を口にした。

「私を信じてはくれませんか、ツアレ」

 沈黙の帳が廊下に下り、ゆっくりとした時間が経過する。それからツアレは瞳を僅かに濡らしながら、色の良くなった唇を割る。真珠を思わせる前歯が覗いた。

「……せばすさまはずる……です。そんなこ……いわれたらむりな……ていえません」

 そして投げ出すようにセバスの胸の中に身を寄せる。セバスはツアレの震える肩を片手で優しく抱いた。

「安心してください。これでも私は充分強いので……そうですね。私より強い方は41人ぐらいしかいませんよ」
「おおい……ですか?」

 その微妙な数字に、自分を慰める意味で冗談を込めて言ったのだろうと判断し、ツアレは微笑む。それにセバスは笑うだけで答えたりはしない。

 セバスはツアレを抱きしめていた手を離すと、再び歩き出す。
 隣でツアレが少しばかり寂しそうな表情と、セバスの手が回った肩を擦っているが、それは見ない振りをする。
 ツアレがセバスに対して淡い恋心まで行かない程度の微妙な感情を懐いているのは知っている。ただそれは、地獄から助けられたことによる洗脳じみたものだし、頼れる人物に対する依存心にも似たものであるとセバスは推測している。
 それにセバスは老人であるため、ツアレがもしかすると家族愛にも似たものと、男女の愛を間違えている可能性だってあるのだから。

 そしてツアレが本当の意味でセバスを愛したとしても、それに答えられる気がしない。
 これほど隠し事をし、立場が違っている今では。

「ではお嬢様にいくつかお話をしたら、あなたを迎えに行きますので」
「そりゅ……ゃんおじょう……ま」

 少しばかり暗い顔をするツアレ。セバスはその理由を知っているが何も言わない。
 ソリュシャンはツアレとは顔を合わせていないし、合わせても一瞥するだけで何も言わずに立ち去る。流石にそこまで相手にされて無いと不安が生じるし、ツアレの立場からすると非常に恐怖感を懐くのだろう。

「大丈夫ですよ。お嬢様は昔から誰に対してもああです。あなただから特別ということではないですよ。……ここだけの話、お嬢様は性格の悪い方でしてね」

 微笑を浮かべ冗談めいた口調でセバスが言うと、ツアレの顔に浮かんでいたものが若干薄れる。

「可愛いらしい子を見ると、むすっとするんですよ」
「……わた……そんな。おじょう……まほど……」

 慌ててツアレは手をパタパタと振る。
 同性が見ても見惚れるような美貌を持つソリュシャンとでは、比較にもならないと思ってだ。ツアレは確かに整った顔立ちをしているが、それでもソリュシャンと比べれば太刀打ちできない。
 ただ、外見の美醜の判断には個人差というものがある。

「私はお嬢様よりツアレのほうが外見的な容姿で言うなら好きですよ」
「そ! そん……!」

 顔を真っ赤にし、俯かせるツアレに微笑ましいものを見つめる視線を送り、その表情の変化に眉を寄せる。

「それ……きたな……から……」

 先ほどとは一転し、真っ暗な表情になったツアレに対し、はぁとセバスはため息をつく。そして前を見据えながら話しかけた。コツコツという足音とそれより小さな足音が廊下に響く中、それほど大きくは無いがセバスの言葉はツアレの耳にはっきりと飛び込む。

「宝石はそうですね。傷が無い方が価値は高く、綺麗とされる」その一言を聞き、ツアレの表情が一気に暗いものと変わる。「しかし――人間は宝石ではありません」

 ふっとツアレは顔を上げ、セバスの横顔を見る。その真剣な横顔を。

「ツアレは汚いと言おうとされたようですが、人間の綺麗さというものはどこにあるのでしょう? 宝石であればしっかりとした鑑定基準があります。ですが人間の綺麗さ――それの基準というのはどこなんでしょうか。平均ですか? 一般的な意見ですか? ではそれに属さぬ少数の意見は意味の無いものですか?」一呼吸置き、セバスは更に続ける。「美というものの評価が人それぞれであるように、人間の綺麗さ。それが外見以外にあるとするなら、歴史ではなく内面にこそあると『私』は思います。歴史は結局内面や外見に影響を与え、過ぎていくものでしかないのですから。私はあなたの過去を全て知ったわけではないですが、あなたと数日過ごして得た内面から評価するなら、汚いとはこれっぽちも思ってません」

 セバスは口を閉ざし、廊下は足音のみが響く世界へと変わる。そんな中、ツアレが決意したように口を開いた。

「……きれいだ……おっしゃってくれるな……、わたしをだ――」

 コツリと音を立ててセバスの足音が止まる。セバスの前にはこの館で最も豪華な作りである扉がある。ツアレも言いかけていた言葉を止め、その扉の奥に誰がいるかを思い出す。

「ツアレ。ではまたあとで」

 僅かに寂しげにお辞儀をしたツアレを残し、セバスは扉を叩く。そして返事を聞かずに扉を開いた。ゆっくりと扉を閉める中、セバスはツアレが最後に言いかけた言葉に少しばかり頭を悩ませる。
 あの後に続く言葉はセバスの予測が正しければ『抱く』そういった系統のものだっただろう。

「本当に困った」
「何が困ったの?」

 この館は借り受けているという関係もあって、部屋数は多いものの室内の調度品は殆ど無い。しかしこの部屋に客を招いたとしても恥ずかしくないだけの調度品が揃っていた。ただ、見るものが見れば歴史を感じさせるものが無い、薄っぺらい部屋だと見切れただろう。

「独り言を失礼しました。お嬢様、ただいま戻りました」
「……ご苦労様、セバス」

 ツアレの知る館の主人、ソリュシャンがつまらなそうな表情を浮かべたまま、部屋の中央に置かれた長いソファーに腰掛けていた。実際その表情は演技でしかすぎない。ツアレというソリュシャンからすれば部外者が館にいるため、高慢なお嬢様という馬鹿な仮面を被っているのだ。
 ソリュシャンの視線がセバスから離れ、扉に向かう。

「……行きましたね」
「そのようですね」

 互いに互いの表情を伺い、ソリュシャンがいつもどおり先に口を開く。

「いつ、彼女を追い出すのですか?」

 顔を見合わせるたびにソリュシャンが発する言葉を受け、セバスも同じように返す。

「ちょうど良いときが来たらです」

 普段であれば話はそこで終わりだ。ソリュシャンがわざとらしいため息をついてそれで終わりになる。しかし今日はそれで終わりにする気は無いようで、ソリュシャンは返答する。

「……そのちょうど良いというのはいつなのですか? あの人間を抱え込むことで迷惑な事態になるとも限りません。それはアインズ様の御意志にそむくことでは?」
「今のところ何も起こっておりません。……単なる人間が起こす事態に恐れ、弱いものを捨てるというのがアインズ様に仕えるもののすることとは思えません」

 セバスとソリュシャン、2人の間に静寂が落ちる。
 セバスは軽く息を吐く。

 非常に不味い状況だ。
 ソリュシャンの表情には何の感情も浮かんでいないが、セバスに対して苛立ちを感じているのは実感していた。それも徐々に強まっていっている。
 セバスが強く言っているためにソリュシャンがツアレを害するようなことは無いが、それでも絶対の保証にはならなくなりつつある。
 あまり時間が無い。セバスはそれを強く噛み締める。

「……セバス様。あの人間の存在がアインズ様の指令に対する害になった場合――」
「――処分します」

 それ以上は言わさず、セバスは言い切る。ソリュシャンは黙り、セバスを感情の読めない目で見つめてから、頭を下げた。

「では私の言うべきことは何もありません。セバス様。今の言葉を忘れないようにお願いします」
「勿論です、ソリュシャン」
「……ただ」

 ソリュシャンの呟き程度の大きさの声に含まれた強い感情は、ぴたりとセバスは足を止めるだけの力を有していた。

「……ただ、セバス様。アインズ様にご報告はしなくてもよろしいのでか? あの人間のことを」
「……」セバスは沈黙し、幾秒か経過してから答える。「問題ないでしょう。あの程度の人間のことでアインズ様のお時間を割くのは申し訳ないと思いますし」
「……アインズ様はセバス様に毎日決まった時間に《メッセージ/伝言》の魔法で連絡を取られているはずです。その時にいくつか言うだけではないでしょうか?」
「…………」
「故意的に隠されているのですか?」
「まさかそのようなことはありません。アインズ様に対してそのようなことは――」
「ならば……」そこまで言ってソリュシャンは先ほどと同じ展開になると判断し、別の言葉――爆弾を投ずることとする。「……まさか利己的な判断で、アインズ様にご報告をしてないとかではないですよね?」

 緊迫した空気が流れる。
 ソリュシャンが僅かに身構えたのが、セバスには理解でき、自らの立場の危険性に強い実感を覚えた。

 ナザリックに存在する全ての者は『アインズ・ウール・ゴウン』――至高の41人に絶対の忠誠を捧げなくてはならない。守護者のシャルティア、デミウルゴスを筆頭にそう考えるものしかいないと断言しても良いだろう。セバスだってその1人だ。
 ただ、だからといってそうなるかもしれないという可能性だけで、哀れな存在を見捨てるというのは若干間違っているのではとセバスは思う。
 そんなセバスの考え、それに対して他のナザリックに存在する者の大半が、賛同しないことも理解できていた。
 ただ、そんなセバスの認識がどれだけ甘いものかは、数秒前のソリュシャンの対応ではっきりと示されてしまった。
 場合によっては至高の41人によってナザリック内部の管理という面では最高責任者たる地位を与えられたセバスと事を構えても、問題の抹消を図るというまでソリュシャンが考えているとは思ってもいなかったのだ。

 ――セバスは微笑む。
 その微笑を見て、ソリュシャンの表情に怪訝そうなものが混じった。

「……勿論です。アインズ様にご報告してないのは利己的なものではありません」
「根拠を提示してはいただけますか?」
「根拠というほどのものではないですが、私は彼女の料理に関する能力に対して非常に高く買っています」
「料理ですか?」

 ソリュシャンの頭の上にクエスチョンマークが浮かんだようだった。

「そうです。それにこの大きな館に住んでいるのがたった2人では少々奇異の目で見られるのではないですか?」
「……かもしれません」

 それにはソリュシャンも同意するしかない。館の大きさや金持ち振りに対して、働いてるものが少ないというのは絶対に変だ。

「では最低限の人数はいてしかるべきだと思います。もし何かあって館に招いたとしても、料理が一品も出せない状況は不味くは無いですか?」
「……つまりはアンダーカバーの一環であの人間を使っているというのですか?」
「その通りです」
「しかしあの人間である必要性は……」
「ツアレは私に感謝をしています。ならば少しは変なところがあっても、決して外には漏らしたりはしないでしょう。もしこれが口の軽い人間を雇った場合、この館に住んでいる者の異常さを大声で語られていたかもしれませんよ?」
「…………」少しばかりソリュシャンは考え込み、そして頷く。「確かに」
「そういうことです。アンダーカバーの一環までアインズ様に許可を求めなくてはならないということもないでしょ。それどころか、それぐらい自分で考えろと怒られてしまいますよ」
「…………」
「そういうことです。ご納得いただけましたか?」
「……了解しました」

 納得できないところは多々あるが、とりあえずはこの辺で勘弁してやろうという態度でソリュシャンは頷く。

「では、一先ずはこれぐらいでよろしいでしょうか?」セバスはソリュシャンが頷くのを確認してから先を続ける。「これから私は食事が終わったらツアレと外に出ようと思ってます。留守の管理をお願いします」
「承りました、セバス様」

 セバスは部屋を出て行く。ソリュシャンの視線が背中に突き刺さっているのを感じながらも、振り返ることはできずに、逃げるように部屋から立ち去った。





 翌日。
 誰かが扉を叩く音を聞きつけ、セバスは玄関に向かう。そして扉についた覗き戸の蓋を持ち上げた。
 覗き戸から見えたのは恰幅の良い男とその左右の後ろに控える王国の兵士だ。
 恰幅の良い男はそこそこ身奇麗であり、仕立ての良い服を着ている。胸からは銅色に輝く重そうな紋章をぶら下げている。血色の良い顔にもたっぷりとした肉がつき、食べている物のせいか脂ぎった光沢が浮かんでいた。
 そしてもう1人――異質な男がいた。
 顔色は悪いというより、光にまるで当たっていないような青白い肌。目つきは鋭く、痩せこけた頬に相まって猛禽類のようだった。着ている黒い服はだぶつき、中に隠しているだろうものを感じさせない。
 セバスの第六感を刺激するのは男から漂うのは血と怨念。

 ――暗殺者か?

 セバスはそう思い、この一行の正体や目的がいまいち判断できなかった。そのため当たり前の質問をおこなう。

「……どちら様でしょうか?」
「私はブルム・ヘーウィッシュという役人なんだがね」

 先頭に立つ、太った男が多少トーンの外れた甲高い声で、自らの名前――ブルムと告げる。
 役人が何故? 暗殺者ではないのか? セバスがそう困惑している間にブルムは続けた。

「王国には知っていると思うが人身売買を禁止する法律がある。……ラナー王女が先頭に立って立案し、押し通したやつなのだがね。今回はその法律をこの館の人間が違反をしているのではないかという話が飛び込んできてね。確認のために来させてもらったのだよ」

 そして入れてもらえるかね。という言葉でブルムは話を終わらせる。セバスは困惑し、それと同時に厄介ごとが飛び込んできたことを強く認識する。
 主人が留守である等の断り文句は色々と浮かぶが、実際におこなった場合、非常に厄介ごととなりうる可能性がある。
 ただ、問題はブルムが本当に役人であるかどうかの保証がないということだ。
 王国の役人はブルムも下げている紋章を持ち歩くが、だからといって本当に役人であるという保障にはなりえない。もしかすると――大罪になるが――偽造している可能性だって無いわけではないのだから。
 とはいっても人間を数人、館の中に入れて何が問題だというのか。セバスであれば問題なく解決できるだろう。

 そんな風にセバスが考えている間に生まれた沈黙をどのように受け止めたのか、ブルムは再び口を開く。

「まずは申し訳ないが、この館の主人に合わせてもらうかね? 無論、いないというのならば仕方が無いが、調査に来た我々が帰ることは余り喜ばしいことにはならないと思うのだがね」

 まるで申し訳なく思ってない顔でブルムは笑う。その裏にあるのは権力という力を駆使するぞという、恐喝じみたものだ。

「その前に後ろの男性は?」
「ん? 彼はサキュロントという名の人物でね。今回の件を我々に持ち込んだ店の代表のようなものだよ」
「サキュロントです。お初にお目にかかります」

 薄く笑う暗殺者のようなサキュロント。
 セバスはその笑みを見て、敗北を直感した。その笑みに浮かんだものは罠に掛かった獲物を嘲笑する残忍な狩人のもの。完全に根回しをされた上でこの場に来たとしか考えられない。そう考えるとブルムも恐らくは本当の役人である可能性が高い。この場で偽役人を連れてきて、罪を誘発するような行為は避けるはずだから。
 ならばここで断った場合の対応も既に出来ているはず。であるなら少しでも相手の腹を見た方が良い。
 セバスはそう判断する。

「……畏まりました。お嬢様にお伝えしてきます。少々この場でお待ちください」
「ええ、待ってますとも。待ってますとも」
「ただ、早急にお願いするよ。我々もそんなに暇ではないのだからね」

 サキュロントが哂い、ブルムは肩をすくめる。

「畏まりました。では」

 セバスは覗き窓の蓋を落とし、ソリュシャンに会いに踵を返す。だが、その前にツアレに奥で隠れているように言わないといけないだろう――。


 部屋に案内され、ソリュシャンの顔を見た2人に浮かんだのは驚愕の一言に尽きる。連れてきた兵士は扉の外で待っているため、部屋に入ったのは2人だけだ。
 これほどの美人がいるとは思ってもいなかったという顔だ。徐々にブルムの表情はだらしなく緩み、その視線は顔と胸の間を行ったり来たりする。目には肉欲のようなものが浮かび、唾を数度飲み込む。
 それに対してサキュロントの表情は逆に徐々に引き締まっていく。警戒すべきかどちらか。分かりきっていた答えを得ると、セバスは2人に、ソリュシャンの対面のソファーに座るよう促した。
 座っていたソリュシャンと、座ったブルムとサキュロントの両者は、互いの名を交換しあう。

「それで一体何かあったんですか?」

 ブルムがわざとらしい咳払いをすると

「ある店から報告があってね。ある人物が自らの店の従業員を連れ出したと。その際には不当な金銭を別の従業員に渡したと聞いてね。先も聞いたのだが、法律では金銭での人身の売買を禁ずるのだが……まるでそれに違反しているようではないかね?」
「そうですか」

 ソリュシャンのつまらなそうな物の言い方に2人は目を白黒させる。今この場から犯罪者が出ると脅しをかけているのにもかかわらず、そんな態度を取るとは思ってもいなかったのだ。

「面倒なことはセバスに任せてます。セバス、後をよろしく」
「良いのかね? 今、君が犯罪者になるかもしれないのだよ」
「まぁ、怖いですわ。ではセバス、私が犯罪者になりそうだったら知らせに来なさい」

 では御機嫌ようというとソリュシャンは満面の笑顔を見せ、立ち上がる。部屋を出て行く彼女に誰も声をかけない。美女の笑みがどれだけ力を持っているかを示した良い例だ。
 パタンと扉が閉まる音がする前、外にいた兵士がソリュシャンの美貌に驚いたのか、驚愕の声が聞こえた。

「――ではお嬢様にかわり私がお話を聞かせていただこうと思います」

 セバスは微笑みながら、2人の前に腰を下ろす。その笑顔を見て不思議なことにブルムは鼻白んだようだった。しかしそれを庇うようにサキュロントが口を挟む。

「そうですね。ではセバスさんに聞いてもらいましょうか。ヘーウィッシュ様が玄関でおっしゃっていたように、うちの従業員が行方不明になってね。ある男を締め上げたら金を貰って渡したというじゃないか。これは王国では違法となっている人身売買だと気づいてね。うちの店で働く人間がそんなことをしているとは思いたくも無かったんだが、仕方く訴えでたというわけなんですよ」
「そのとおり。人身売買なんていう犯罪はラナー様がおっしゃったとおり許されるものではない。だからこそ、自らの店で働いていたものがそんなことをしてしまったと訴えでるサキュロント君は非常に偉いとしか言えないな!」
「ありがとうございます、ヘーウィッシュ様」

 なんだこの茶番は。セバスはそう思いながら頭を働かせる。目の前の2人がグルなのは確実だ。そしてかなり準備しているだろう以上、敗北は確定した事項だろう。だが、どうすれば多少は有利に話を持っていけるか。
 セバスの勝利条件はなんなのだろうか。

 そこまで考え、セバスは眉を顰めようとするのを、必死に抑える。
 ナザリックのランドステュワードたるセバスの勝利条件はこれ以上騒ぎが大きくならないように、静かに問題を解決することだ。決してツアレを守ることではない。

 だが――。

「まず聞きたいのは、金を貰ったというその男の偽証という可能性があるかと思われますが、その男は今どこに?」
「彼は人身売買の容疑で捕縛され、留置所だよ。そして彼の話を聞き、詳しく調べた結果――」
「――男からうちの従業員を買った人物が、あなたセバスさんだろうという調査結果が出たんだよ」

 セバスは白を切るべきか。嘘をつくべきか。はたまたはちゃんとした反論すべきかを迷う。
 館にいないといったらどうか。死んでしまったといったらどうか。無数の考えが生まれるが、向こうも簡単に引く気はないだろう。

「しかしどうやって私と判断されたんでしょう。証拠となるものは?」

 それはセバスをして不明だった。自らの名前や正体になるものを残してないあの場に残していない以上、証拠となるものは一切無いはずだ。それなのにどうやってこの場所まで調べたというのか。外出中はいつでも尾行等が無いか警戒してたつもりだ。セバスに感じ取られず尾行が出来る者がこの都市にいるとは思えない。

「スクロールですよ」

 サキュロントの答えを聞き、セバスの頭に最初に浮かんだのは疑問だ。それから直ぐに理解する。
 ――魔術師ギルドで買ったスクロール。
 あれは確かに通常の巻物とは違った、しっかりとした作りとなっている。外見を知っている人間であれば、持っていたスクロールが魔術師ギルドで購入したものだというのは理解できただろう。あとはそこからどんな人間なのかを調べる等、足で稼げばある程度は調べが付くだろう。
 特にセバスのような執事の格好をした人間がスクロールを持っていれば目立つだろうし。

 ただ、それでもツアレがここにいるということの証明にはならない。たまたまよく似た別人という可能性だってあるはずだ。
しかしもしこの中を調べられたら厄介なこととなる。そう、こんな広い館にツアレを含めてもたった3人で生活しているということを。
 観念し、その部分は認めるしかないだろう。セバスはそう判断する。

「……私は確かに彼女を連れ出しました。それは事実です。ですがそのときの彼女は肉体的にも非常に酷い傷を負っており、命の危険に晒されていたからこそ、そういう手段を使うしかなかったのです」
「つまりは金銭で彼女の身柄を引き取ったという事実を認めるのかね」
「その前にその男性と話させてはもらえませんか?」
「それは残念だが出来ないな。口裏を合わせるられては困るからな」
「その際は――」

 ――横で話を聞かれても構いません。そういいかけセバスは口を閉ざす。
 結局これはできレースだ。普通の手段ではその男の所まで届かないだろうし、届いたとしても有利に持っていける可能性は低い。つまりこの線から攻撃することは時間の無駄ということだ。

「……その前に彼女の全身にあれほどの酷い傷をつけるような仕事。それが行われていることを認める方が国として不味いのでは――」
「うちの仕事は結構厳しいものでしてね。怪我を負うのは仕方が無いことなんですよ。ほら鉱山とかでも色々あるでしょ。それと同じですよ」
「……あれはそういう怪我では無いと思うのですがね」
「ハハハ。接客業ですが、お客さんの中には色々な人がいますからね。こっちもなるたけ怪我をさせないようにしてるんですが。まぁセバスさんの話は理解できました。次回からは少しは――そう少しは注意しますよ」
「少しですか?」
「まぁそうですね。それ以上は金が掛かってしまいますし、色々とね」

 サキュロントは唇の端のみを吊り上げるような哂いを浮かべる。それに対してセバスも微笑を浮かべた。

「――そこまでだ」セバスの反論を途中で遮るとブルムはふぅとため息を1つ付く。それは愚か者を相手にした人間がしそうなものだ。そしてブルムは己の考えをセバスに説明する。「私の仕事は奴隷として売買されてないかの確認であって、その従業員の身の安全等の確認は別のものがすべき仕事だ。今回の件に関しては関係が無いとしか言えないね」
「……ではそういったことを専門に行っている役人の方を教えてはくれないでしょうか?」
「……ふむ、教えてあげたいのは山々だが、色々と難しい面があってね。残念だが他人の仕事にまで首を突っ込む人間は嫌われるのでね」
「……ではそれまで待っていただきたい」

 ニヤニヤとブルムは笑う。その言葉を待っていたといわんばかりの態度で。
 そして同じようにサキュロントも哂った。

「……全く、待ちたいのは山々なんだが、相手の店から既に書面として提出されている以上、強制的にでも君たちの身柄を押さえ、早急にでも調査しなくてはならないのだよ。我々としても」

 つまりは時間もないということ。

「今のまま、状況証拠的には君が犯罪を犯したということは確実だが、サキュロント君は寛大な処置で済ませてもかまわないと言っているんだよ。勿論、示談における慰謝料の発生はあるがね。それに人身売買に関する犯罪が起こりそうだということで書面を起こしてしまった。それの破棄にもお金が多少掛かるんだよ」
「それは一体どのような」
「それはですね。まずはうちの従業員を返して欲しいんですよね」

 予測された答えにセバスは内心で頷く。そしてそれだけではないだろといわんばかり態度で、一度頭を振った。

「それと従業員を連れ出された期間、本来であれば稼げたであろう金銭的出費を穴埋めして欲しいんですよ」
「なるほど。その金額とは?」
「金貨で……そうですね」サキュロントは室内をぐるっと見渡し、「300枚」
「……非常に高額ですが、どのような内訳なんですか? 1日辺りどの程度で、どういう科目からなっているんですか?」
「ま、待ってくれたまえ」ブルムが話を遮るように口を挟む。「それで終わりではないだろ、サキュロント君」
「おっとそうでした。それに被害届けを出してしまった以上、内輪で片をつけたとしても、破棄費用がかかるんでしたね」
「そうだとも。サキュロント君、忘れてしまっては困るよ」

 ニヤニヤと笑うブルム。

「……たが」
「ん?」
「いえ何でもないです」

 セバスは呟き、微笑む。

「えっと、申し訳ありませんね、ヘーウィッシュ様」サキュロントはブルムに頭を下げると「書面の破棄には慰謝料の1/3が妥当とされてますので金貨100枚。合計として400枚ですかね」
「私は彼女を連れて来る時、金銭を支払っていますがそれも含めるのですか?」
「まさかだよ、君。いいかね。先方との示談が済んだ場合は君は奴隷を買わなかった。そういうこととなるわけだ。つまりそこで発生した金銭は無かったということになる。君がどこかで落としたということだね」

 金貨100枚を丸々落としたとしろというのか。まぁ、既に半分に分けて懐に収めているのだろう。そうセバスは判断し、事実セバスの知らないことだが、その予想は正しくもあった。

「……しかし、彼女の体はまだ完治してません。今連れ出せば再び再発する可能性があります。それにこれからの治療で彼女は死んでいるかもしれません。全て金銭で片を付けることは?」

 サキュロントの目が異様なきらめきを持つ。
 その変化を感じ取り、セバスは自らのミスを強く実感する。ツアレに執着しているのがばれたと認識したのだ。

「……金では片をつけるのは難しいですな。金ではなく、うちは従業員を取り戻したいのですから」

 その発言を受け、ブルムがどうしたんだという顔でサキュロントを見つめている。欲しいのは金なのに、なんで突然という顔だ。

「そうですな。死亡した場合は彼女に掛かった金銭を補填していただくのは当然のことですが、彼女の治療が終わるまでの間、おたくのお嬢さんを貸していただくというのはどうでしょうかね?」
「おお! それは確かにそうだ。穴を開けるならその分誰かを提示するのは当然だな!」

 セバスは微笑をなくし、無表情になる。
 サキュロントは本気で言っているのではないだろうが、こちらに隙があれば強行する気ではあるだろう。ツアレに執着したのがばれた所為で、厄介ごとが大きくなる可能性を目の前に突きつけられてしまった。

「……欲を掻きすぎるのは問題では?」
「馬鹿を言うな!」

 ブルムが顔を真っ赤にし、大声を出す。
 殺される前の豚のような叫びだ。そんなことを思いながら、セバスは何も言わずにブルムを見つめる。

「欲とは何だ! これはラナー王女の意志によってできた法律を守ろうという気持ちから出た行為だ! それを欲とは! 無礼にもほどがあるだろう!」
「まぁまぁ落ち着いてください。ヘーウィッシュ様」

 ブルムはサキュロントが口を挟むと即座に怒りを沈静化させる。その急な収まり方は、先の怒りが本気で無かったことを示唆している。
 酷い演技だ。セバスは心の中で呟いた。

「しかしだね、サキュロント君……」
「ヘーウィッシュ様、とりあえずはこちらの言うべきところは終わりました。明後日、その結果、どうされるか聞きに来たいと思います、よろしいですよねぇ、セバスさん」
「畏まりました」

 話が終わり、セバスは外にいた兵士を連れ、4人を玄関まで案内する。そして送り出し、最後に残ったサキュロントはセバスに笑いながら言葉を投げかけた。

「しかし妾下りの彼女には感謝しないとね。廃棄処分品がここまで金の卵を産んでくれるとは思いませんでしたよ」

 その言葉を最後に残し、扉がパタンと音を立てて閉まる。
 セバスは黙って扉をしばらく見つめる。セバスの表情には特別な感情は一切浮かんでいない。冷静な表情のままだ。しかしながらはっきりとした何かが浮かんでいた。
 それは怒りである。
 ――いや、怒りなんていう生易しい言葉でその感情を表現は出来ない。憤怒、激怒。そういった言葉の方が正しいだろう。

「ソリュシャン。出てきたらどうですか?」

 そのセバスの声に反応し、ぬるりという感じで影からにじみ出るようにソリュシャンが姿を見せる。ソリュシャンが収めているアサシン系のクラスの能力で影に溶け込んでいたのだ。

「話は聞いていましたね」

 セバスの言葉は確認にしか過ぎない。そしてソリュシャンは当然と頷く。

「それでどうされるんですか、セバス様」

 そのソリュシャンの問いに即座にセバスは答えることが出来ない。そんなセバスにソリュシャンははっきりとした冷徹な視線を送った。

「……あの人間を渡して終わりにしますか?」
「それで問題が解決するとは思えません」
「…………」
「弱みを見せたら骨の髄までしゃぶろうとしてくるでしょう。そういう類の人間です、あれは。ツアレを渡して問題の解決には繋がるとは思えません」
「ではどうされるのですか?」
「分かりません。少し外を出歩きながら考えたいと思います」

 セバスは玄関の扉を押し開ける。そして日差しの中に消えていった。


 ソリュシャンは背を向け出て行くセバスの後ろ姿をじっと見る。それから左手を持ち上げ、開いた。
 こぽりと水面に何かが浮かび上がるように、手から突き出すように巻物が姿を現した。今まで体内で保管していたスクロールだ。本来であれば緊急事態の連絡用――現在ではデミウルゴスの働きによって低位スクロール作成の目処は立っているが、ソリュシャンが出発する頃はその目処が立っていなかったため、この《メッセージ/伝言》のスクロールは緊急用だったのだ――として渡されたものではあるが、これは使うべき事態であるとソリュシャンは判断したのだ。
 スクロールを広げ、中に込められた魔法を解放する。使用済みとなったスクロールは脆く砕け散り、灰となって床に降り落ちるころには完全に消失して消え去った。
 魔法の発動にあわせ、何か糸のようなものが相手と繋がるような感覚を覚え、ソリュシャンは声を上げた。

「アインズ様でいらっしゃいますか?」
『ソリュシャン――か? 一体、何事だ? お前の方から連絡をしてくるとは異常事態か?』
「はい」

 一瞬だけソリュシャンは言葉をきる。これはセバスに対する忠誠、自らの考え違い等を思ったために生まれた時間だ。
 だが何よりもアインズへの忠誠心は強く強固だ。
 そしてナザリック、そして何より至高の41人の利益を最大に考え行動すべきなのに、セバスの現状はそれを無視した行動だといえる。
 そのため主人の判断を仰ごうと口を開く。

「セバス様に裏切りの可能性があります」
『はぁ! ……うぇ?! マジでか?! ……うん、ゴホン。……冗談はよせ、ソリュシャン。証拠も無くそういう発言は許されるものではないが……あるのか?』
「はい。証拠というほどではありませんが――」






 セバスは歩く。目的なんか特別に定めてはいない。足の進むままにだ。
 やがて通りの1つ、そこに人だかりが出来ていた。
 そこから怒声とも笑い声ともいえないものと、何かに対する殴打音。人だかりからは死んでしまうとか、兵士を呼びに行った方がという声が聞こえてきた。
 人の所為で見えないが、殴打音やそういった話からすると何らかの暴力行為が行われているのは確実だ。

 セバスは面倒くさそうな顔をし、別に道を行こうかと考え、方向を変えようとする。
 ほんの一瞬の時間だけ迷い――歩を進める。

 足の向かう先は人だかりの中央である。

「失礼」

 その一言だけ残して、すり抜けるようにセバスは中に入り込んでいく。老人が異様とも断言しても良い動きで、目の前を滑るように摺り抜けていく姿は驚きと畏怖の対象だった。セバス以外も中に向かって進んでいる者がいるようで、通してくれという声も起こっているようだったが、セバスほど人ごみを器用にすり抜けることが出来てないようだった。
 セバスは背中に人ごみを構成する者たちからの無数の驚愕の声を浴びながら、人ごみを抜ける。
 そしてその中央。そこでセバスは何が起こっているのかを確認した。

 セバスが見た光景、それは余り身なりの良くない男達が複数で、ナニカを蹴りつけているものだった。
 セバスは無言で更に歩を進める。男に手を伸ばせば届く、そんな距離まで接近する。

「なんだ、爺!」

 その場にいた5人の男。そのうちの1人がセバスに気づき、誰何の声を上げた。

「少し騒がしいと思いまして」
「おめぇも痛い目を見てぇのか」

 ずいっと男達がセバスを取り囲むように動き出す。それによって今まで蹴られていた存在の正体が明かされた。男の子だろうか。ぐったりと横になり、口からか鼻からかは不明だが、血が流れている。
 長く蹴られた所為でだろう。意識を喪失しており動いてはいないが、それでもセバスが傍から見た感じでは命はまだあるようだった。

 それからセバスは男達を眺める。周囲を取り囲む男達の体や口から漂う酒の匂い。そして運動とは別の意味で紅潮した顔。
 酔っているからこそ暴力を制御できていないのか。
 それを理解したセバスは無表情に尋ねる。

「何が原因かは分かりませんが、それぐらいで終わりにされてはどうでしょうか?」
「はぁ? こいつが持っていた食いもんで俺の服を汚したんだぞ、許せるかよ」

 男の1人が指差すところ。確かに僅かに何かが付着している。しかしながら、服といっても男達の服は皆薄汚れている。それを考えればさほど目立つ汚れではない。確かに服を汚されたことは不快だろう。しかしここまですることほどのことではない。そう思える程度の汚れだ。
 セバスは5人の若者の中で最も強く感じられる人物に視線を送った。守護者クラスからすれば人間にとっての働きアリと兵隊アリのような微妙な違いも、セバスならばなんとか感じ取ることが出来る。

「しかし……治安が悪い都市です」
「あ?」

 まるで遠くの何かを確認するようなセバスの発言に男の1人から不快気な声が漏れた。自分たちを無視していると思ったのだろう。

「……失せなさい」
「あ?」
「もう一度言います。失せなさい」
「てめぇ!」

 セバスが最も強いと判断した男は顔を真っ赤にし、握りこぶしを作り――そして崩れ落ちる。
 驚きがあちらこちらから起こる。そして残った4人の男達からも。

 セバスがしたことは簡単だ。ピンポイントで顎を高速で揺らしただけだ。ただ、その際視認すらできない速度で殴り飛ばすことは可能だった。だが、それでは他の者たちに恐怖を与えることは出来ない。だからこそ早いと思わせる程度の速度で殴ったのだが。

「まだやりますか?」

 静かに呟くセバス。
 その冷静さと異様さは男達の頭から酒気を抜くのは容易いことだった。そして仲間の1人、最も腕っ節が立つ男が容易く倒される。それは恐怖にもつながった。もはや人数が多いからという余裕は無い。

「あ、ああ。お、おれたちが悪かった」

 数歩後ろに下がりながら、男達は口々に詫びを入れる。セバスは侘びをいれる対象が違うだろうと思いながらも、口には出さない。
 男達が気を失った仲間を連れて逃げていく姿から視線を逸らし、セバスは少年の方に踏み出そうとする。しかし途中でその足をとめた。
 自分は何をしているのかと、頭の冷静な部分が語りかけてくる。今しなくてはならないのはツアレをどうするかである。そんな自分が他の厄介ごとを背負うことは無い。元々こうやって厄介ごとを背負ったからこそ、今こうなったのではないか。
 セバスは首を振ると、少年から目を逸らし、歩き出す。たまたま視線があった人物を指差した。

「……その子を神殿に。胸の骨が折れている場合もあります。それを注意して運ぶ際は、板に載せて余り揺らさないように」

 それだけ言うとセバスは歩き出す。人ごみを掻き分ける必要は無かった。セバスが歩くと一気に割れたのだから。



 セバスは再び歩き出し、そして気づく。
 その身を尾行する気配に。無論、たまたま同じ方向に歩いているだけの人物というものもいるだろう。しかし数度道を曲がりながらも、セバスの後ろを歩いてくる人物をどのように判断すればよいのか。

「さて……」

 セバスは迷う。この尾行しているものが一体何者なのかと。
 ツアレやソリュシャンではない。足音や歩幅は成人男性のもの。それも1人。
 セバスが思い出そうとしても尾行してくような成人男性に心当たりは無い。あるとすれば先ほどあった不快な男達か、ブルムとサキュロントの関係者辺りだろう。

「では捕まえますか」

 セバスは道を曲がり、薄暗い方、薄暗い方と歩き出す。それでも尾行は続く。

「……しかし本気で隠す気があるんでしょうかね?」

 足音は隠しているものではない。それだけの能力が無いのか、はたまたはもっと別の理由によるものか。セバスは頭を傾げ、それも確認すれば良いかと簡単に考える。そろそろ人の気配が無くなりかかった頃、そしてセバスが行動を開始しようとし始めた頃、しわがれた――それでいながらまだ若い男の声が後ろの尾行者から投じられた。

「――すみません」





――――――――
※ セバス、フルボッコ。人を助けようなんてするから……。つーか、セバスェ……ニコポ……ただし※
 ちなみに1つ。気づかなかったらそれでかまわないのですが、ソリュシャンは別に悪いことはしてないと思います。まぁ、何のことか不明でしたら気にしないでください。 
 では次回は「王都2」。変なスタートしますよ?



[18721] 45_王都2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/10/02 06:57

 雨が降っていた。
 ポツリポツリというものでは無い。ザーザーと耳鳴りが起こっているような、そんな騒がしい雨音を立ててだ。
 雨が地面に落ち、水面を作る。王都の路面は水はけまで考えられて作られたものではない。特に裏路地にもなれば、だ。結果、路地一面が水に浸ったような巨大な湖と変わる。そうやって出来た湖面は、打ち続ける雨によって大きく乱れていた。

 ――大雨によって灰色に染まった世界。そこは飛散する飛沫が風に吹かれて舞い上がり、水の匂いが満ちていた。
 そして王都という場所がまるで水の中に沈んでしまったかのような、そんな雰囲気をかもし出していた。

 そんな灰色の世界の中、その人物はいた。
 住処はあばら家。いや、あばら家という言葉ですら勿体無い。
 支柱となるのはほっそりとした木々。成人男性の腕の太さ程度だろうか。天井になるのは襤褸切れで、壁の代わりに襤褸切れがだらしなく垂れ下がっている。
 あばら家の住人は、いまだ幼い少年。
 年のころ、6歳ぐらいだろうか。そんな子供が1人、住居とはいえない住居の中にいたのだ。手足は細く、一目で栄養状態が良くないと分かる。少年はゴミが無造作に捨てられているようにその中で全身を丸め、大地に薄い布を引いて、その上に転がっていた。

 考えれば支柱となっている木々も、襤褸切れで作ったあまり頭のよくない住居も、これぐらいの子供がなんとか作りそうなものだ。
 しかし、そんな子供が作りそうな住居だ。防水性や暖房のことを考えたものではないため、外とまるで変わらないような環境である。
 
 雨が降ることにより大気中の温度は下がり、身震いをするような冷気が漂うのは道理。
 特にその冷たい雨によって濡れた少年の体からは、凄まじい勢いで体温が奪われていっていた。
 少年の吐く息が、一瞬だけ己の存在感を示すが、即座に温度を奪われ空気中に消えていった。

 少年の体は震えているが、それを防ぐ手段を持ち合わせてはいない。
 元々着ている襤褸切れのような服に、保温効果があるわけが無い。そして住居としている襤褸切れと木々で作った、隙間だらけの家にも雨を凌ぐだけの力は無いのだから。
 天井からは水が滴れ、床からはじくじくと水が上がっている。その両方に挟まれ、服が意味を成さないほどだった。
 ただ、この全身に染み込んでいくような冷気が、少年の殴られて痣だらけになった体には心地良く感じられたのは、最悪の中で何かを探そうというのならば、たった1つのちっぽけな幸運だろうか。

 誰も通らなくなった路地を、少年は横になったまま眺める。
 皆、当たり前だが家の中に閉じこもっているのだろう。聞こえてくるのは雨音と自らの呼吸音ぐらいだ。まるで自分以外の全てがこの世界にいないのではないか。そんな風に思わせるような静けさだ。

 幼いながらも少年は自分が死ぬのだろう、そう理解できた。

 死というものがどんなものなのか、それを完全に理解できるほどの歳ではないため強い恐怖は無い。それに死というものを恐れるほど、自らの生に強い執着心があったわけでもない。

 富や権力等持つものは全てが失われる死を、強く恐れる。これは当然だ。今まで持っていたもの、幾らでも楽しめるチャンス。そういったものを失うことを、楽しむ者はいないだろう。だからこそ死から逃れようと様々な手段を使うのだ。魔法や秘薬といったものを使ったり、竜の英知や悪魔との取引を求めたり。
 しかしながら殆ど何も持たない彼からするとさほど、というものだったのだった。今まで生にしがみついていたのは、痛いことは嫌だからという逃避にも似た行為だ。

 現在のように、痛み無く――寒さはあるものの――死ねるなら、死も悪いものではない。

 濡れた体は徐々に感覚をなくし、意識はぼんやりとし始めている。雨が振る前に住処を移した方がよかったのだろうが、たまたまたちの悪い男たちに絡まれて、暴力を振るわれた体ではここまで戻ってくるのが精一杯だったのだ。

 不幸なのだろうか。

 2日、食事を食べていないというのはいつものことなので不幸ではない。両親がいなく育ててくれた人物がいないのも、昔からのことだから不幸ではない。襤褸切れを纏い、不快なにおいを漂わせているのも当たり前のことなので不幸ではない。腐ったものを食べ、汚水で腹を膨らますような生き方も、記憶のある頃からしていれば不幸ではない。

 ただ、たまたま住んでいた空き家を奪われ、頑張って作り上げた住居を遊びで壊され、そして酒に酔った男達に暴力を振るわれて体のあちらこちらを痛めた。これらが殆ど同時に押し寄せてきたのは不幸なのだろう。

 ただ、それも終わりだ。
 不幸はここで終わり。

 死は幸運な者の前にも、不幸な者の前にも現れる。

 ――そう、死は絶対である。


 目を閉じる。
 もはや寒さも感じなくなりつつある体には、目を開けることも億劫だったのだ。

 その時、変な音がした。
 雨を遮るようなそんな音。消え入るような意識の中、それに子供特有の興味を引かれ、彼は瞼に力を込める。
 細い線のような視界の中、それが映った。  

 そして彼は閉じかけた目を大きく見開く。
 そこには綺麗なものがいた。

 それがなんなのか一瞬だけ理解できなかった。
 例えるなら宝石のようなとか黄金の塊のようなとか、そんな麗句はいくらでもあるだろう。しかしそれはそういうものを見たり知ったりするような生活をしている人間からすれば、の言葉だ。
 廃棄された半分腐りだしたものを腹に収めるような生活をしている者にそんな言葉は浮かばない。
 そう。
 だからこそ彼が思ったのはたった1つだ。

 ――太陽のようだ。

 彼の知る最も美しく、最も届かないもの。それを頭に浮かべたのだ。
 雨によって灰色に染まった世界。空を支配しているのは厚く黒い雨雲。だからだろうか。見る者がいないからと旅立った太陽が、自分の前に現れたのではないか。
 そんなことを思ったのだ。

 それは手を伸ばし、彼の顔を撫でた。そして――


 少年は人ではなかった。
 少年を人とみなすものはいなかった。

 だが、その日、彼は人間となった。



 ■



 リ・エスティーゼ王国、王都。その最も奥に位置し、外周約800m、20もの円筒形の巨大な塔が防御網を形成し、城壁によってかなりの土地を包囲しているロ・レンテ城。
 その20もの円筒の塔の1つにその部屋はあった。

 完全に明かりが落とされて漆黒のそれほど広くない部屋に、ベッドが1つ。その上に横になっている少年と青年のちょうど境目ぐらいの年齢の男がいた。
 金髪は短く刈り上げられ、肌は健康的に日に焼けた色をしている。

 クライム。
 それだけの名前しか持たない、『黄金』と称される女性の、最も近くにいる兵士だ。


 そんなクライムの目覚めは早い。
 日の昇る時間よりも早く目を覚ます。

 深い暗黒の世界から意識が戻ってきたと認識した段階で、即座に思考は冴え渡り、肉体の機能はほぼ完全に起動状態まで移行している。寝つきと寝起きの良さは、クライムの自慢の1つだ。
 目が見開かれ、そのつりがちな三白眼に鋼のごとき意志が灯る。
 明かりが1つも無い真っ暗な世界の中、クライムはもぞもぞと体を起こす。その動きに反応し、下から木が軋むようなギシギシという音が響いた。

「ふぁ」軽く欠伸を漏らすとしわがれた声でクライムは呟く。「光れ」

 クライムの発したキーワードに反応し、天井から吊り下げられたランプに白色の明かりが灯り、室内を照らし出す。《コンティニュアル・ライト/永続光》が付与されたマジックアイテムである。
 これはクライムの部屋が特別製ということではない。
 松明やランプによって明かりを取るのが当たり前のように思われるかもしれないが、このような石で作られた塔のように空気の通りが余りよくない場所で、燃焼させることで明かりを発するようなものを使うのはあまり良いことではない。そのため初期費用はかかってはいるが、ほぼ全ての部屋に魔法的な明かりが組み込まれているのだ。

 白色の光に照らし出された部屋は、床や壁が石で作られているため、石の上に薄い絨毯をもうしわけ程度に敷いている。木で作られた粗末なベッド、武具も入れることが出来そうなやや大き目の衣装ダンス、引き出しつきの机、木製の椅子には薄い座布団が置かれている。部屋の隅には白色のフルプレートメイルが鎮座していた。
 部屋の中に置かれているものはその程度だろうか。
 みすぼらしいと感じるかもしれないが、これは彼のような地位の人間からすると有り余るような好待遇である。
 通常の兵士は個室なんて与えられず、大部屋に二段ベッドを置いて集団生活をおこなうのだから。そういう者はベッドに私物を入れるための鍵付きの木箱しか無いのだ。それからするとクライムがどれほど恵まれているかは理解できるだろう。

 体に掛かっていた厚手のタオルケット――周囲は完全に石で作られているため室内の温度は、どの時期でもある程度低い――を剥ぐと、クライムはベッドから身を起こす。
 衣装棚を開け、その中から服を取り出す。
 そこに置かれた姿見を見ながら服を調えていく。
 金属の匂いがこびりついている年季の入った服を着て、最後にチェインシャツを被るように着用する。本来であれば更に鎧をまとうのだが、そこまではしない。代わりにポケットになる部分が、大量にある変なチョッキやズボンをはいて終了だ。そして手に持つのは桶とその中に入れたタオルである。
 最後に姿見を覗き込み、変なところは無いか、服装の乱れはないかとチェックをする。
 クライムの失態は下手をすれば、王女であるラナーへの攻撃の材料にされる場合がある。多少でも恥ずかしいところはあまり他人には見せられないからだ。

 しばし自分の姿を眺め、満足げに1つ頷くと、クライムへ部屋を出る。
 そして向かった先は大広間である。

 大広間という名前に相応しいだけの大きな部屋である。塔の1階部分を丸ごと使っているような広さを持っていた。
 普段であればもわっとした熱気があるのだが、流石にここまで早い時間だと人は誰もいない。がらんとした空間は静まりかえり、静寂が音として聞こえてきそうだった。
 周囲のかけられた魔法の明かりによって室内は照らし出されている。
 明かりに照らし出され。広間の中には杭に結わえた鎧が立ち並び、弓の的となる藁で作った人形もある。壁沿いには刃を落とした様々な武器が立ち並べられた武器棚が見える。
 この広間の用途は勿論、兵士たちの訓練場だ。

 ロ・レンテ城外はヴァランシア宮殿のある敷地でもある。そのため訓練場も外ではなく、中に作られているのだ。とはいっても外でしか出来ない訓練もあるので、その場合は端っこの方を使ったり、王城の外で行ったりもするのだが。

 クライムは静まり返った広間の中に、ひんやりとした空気を掻き分けるように入ると、端っこでゆっくりとストレッチを始める。
 時間にして30分以上、念入りにストレッチをしたクライムの顔は若干ではすまないほど紅潮していた。額には汗が滲み、吐く息にもその熱気が込められていた。
 額に手をやり、汗を拭うと、クライムは武器棚に近づき、刃をなくした練習用のやたらと分厚く大きな鉄剣を一本、その幾度もまめを潰したことによって硬くなった手で抜き取る。
 そしてポケットに金属の塊をつめだした。
 幾つもの金属の塊を充分に詰め込んだ服は、フルプレートメイルと同等の重さをかねたものへと姿を変える。魔法を込められてない単なるフルプレートメイルには強固さとの引き換えに、その重さと動きに対する阻害がデメリットとして存在する。そのため本来であれば実戦を考えるなら、着用した状態で行うのが正しい訓練ではある。
 しかしながら、流石に単なる訓練でフルプレートメイルまで持ち出すのは、あまり見ないのもまた事実である。それに彼に与えられた白色の鎧を訓練で着るようなことはできない。

 グレートソードを超える巨大な鉄剣を強く握り締め、上段に構えるとクライムは息を吐きつつ、ゆっくりと剣を振るう。そして振り下ろした剣が床を叩くギリギリで止めると、息を吸いつつ再び上段の構えと持ち上げる。素振りをする速度を徐々に増しながら、その鋭い目つきで、目の前の空間を強く睨み、ただひたすらに没頭する。

 それを繰り返すこと、200回以上。
 クライムの顔は完全に紅潮し、汗が滴るように顔を流れる。息は体内に溜まりつつある熱気を吐き出すように、温度を急上昇させていた。
 兵士としてかなり鍛えられたクライムだが、大型のグレートソードの重量はそれを持ってしても厳しいものがある。特に振り下ろした剣が床に付かないように、速度を殺すのにはかなりの筋力を必要とする。
 呼吸は荒くなりつつあるが、いまだクライムにその素振りをとめようとする気配は無い。

 暫しの時間が経過し、500を超える頃、クライムの両腕は悲鳴をあげるように痙攣をし始めた。顔からは汗が滝のように流れ出している。しかし剣を止めようとする気配は無い。
 この辺りが限界だということはクライムにも理解している。それでもクライムに止めるという意志はない。
 だが――

「――それぐらいにしたらどうだ?」

 第三者の声が掛かる。慌て、声のした方を振り返ったクライムの目に、1人の男性が飛び込んできた。
 屈強という言葉以上に似合う言葉は無い。そんな鋼を具現したような男だ。年齢はまだまだ若く、30にいくかいかないかというところか。巌のような顔は顰められ、年齢以上に老けて見えた。
 髪はかなり短く刈り込み、さっぱりというより危ない感じを出している。
 その人物を王国の兵士で知らないものはいないだろう。

「――ガゼフ様」

 王国戦士長ガゼフ・ストロノーフ。王国最強、そして近隣国家でも並ぶ者がいないとされる戦士である。
 そんな男が動きやすそうな格好でクライムのことを眺めていたのだ。

「それ以上はやりすぎだな。無理をしても意味が無いぞ」

 クライムは剣を下ろし、ブルブルと震える自らの腕に視線をやる。

「おっしゃられるとおりです。少々無理をしすぎました」

 無表情に感謝の意を示すクライムにガゼフは軽く肩をすくめる。

「本当にそう思っているなら、同じセリフを言わせないで欲しいものだがな」

 クライムは言葉を返さない。
 そんな反応をするクライムに、ガゼフは再び肩をすくめた。2人にとっては幾度と無く繰り返したある意味挨拶のような会話だ。クライムが自らの肉体を酷使しすぎる訓練を行っている中、ガゼフは口を挟むというのは。
 ただ、本来であればこれで話は終わり、互いに自分達の訓練に再び没頭することとなる。
 しかしながら本日は違った。

「どうだ、クライム。1つ、剣を交えてみないか?」

 ガゼフの言葉に、クライムの無表情な面が一瞬だけ崩れかける。どうして、そんなことを言うのだろうかという疑問の表情を浮かべかけたのだ。先の通り、2人はこの場で会っても互いに剣を交わすようなことはしない。今まではそれが不文律だったのだ。
 ガゼフが負けるようなことはありえないが、もし苦戦でもしたら色々とガゼフの足を引っ張ろうとする貴族の良い攻撃材料になるだろう。平民であるガゼフが、剣の腕だけで今の地位まで登りつめたことに対する貴族達の感情は良いものでは無いのだから。
 
 そしてクライムが当然のように負ければ、ラナーの身辺を任せられないと色々な貴族が自らの子弟を近づけさせようとするだろう。ラナーという絶世の美女であり、婚約者のいない王女がクライムという貴族出でもない兵士1人を重宝し、身辺警護を任せているのを不快に思っている貴族は多いのだから。

 そんな立場が立場であるが故に、彼らは互いに剣を交わすことが出来なかったのだ。

 それを破る。それは一体どんな理由によるものか。
 良い理由なのか、悪い理由なのか理解できず、クライムは困惑し動揺するが、表情には決して浮かべようとはしない。
 ただ、クライムの前にいるのは王国最強といわれる戦士だ。普通の人間であれば知覚できないような、ほんの一瞬の感情の乱れを鋭敏に感知し、ガゼフは返答する。

「つい最近、すごく強い戦士――あれはナイトか? と戦って、な。少し歯ごたえのある奴と訓練をしたいと思っていたんだ」
「凄く強い戦士ですか?」

 王国最強といわれるガゼフを持ってして強い戦士と言わしめるような者。それは一体どんな奴だとクライムは考える。
 帝国でも名高い『重爆』『不動』『雷光』『激風』の4騎士。とかだろうかと考え、もし彼らとぶつかったのなら戦争だなとその考えを破棄する。次に浮かんだのは、「とある」岩のような人物であるが、もし彼女なら普通に名前を言っても良いだろう。
 そんなクライムの困惑をやはり理解したのだろう。ガゼフは苦笑いを浮かべると、クライムに問いかける。

「まぁ、気にするな。上手く説明できる気がしない。……それよりどうだ?」

 ちらりと武器棚に目をやり、そして周囲に誰もいないことを確認し、クライムは1つ頷く。
 話を誤魔化された感は無いこともないが、それより王国最強といわれる人物に稽古をつけてもらえるというのは何よりも捨てがたい。

「では、一手お願いします」
「ああ」

 2人で揃って武器棚に向かうと、自分達にちょうど良いサイズの剣を取り出す。ガゼフがバスタードソードを選んだのに対し、クライムは小型の盾とブロードソードだ。
 それからクライムは、ポケットなどから鉄の塊を取り出す。自分よりも強者を相手にするのに、こんなものを持ったままというのは失礼に値する。勝てないにしても全力で剣を振るうべきだからだ。
 やがて完全に準備を整えただろうクライムに対して、ガゼフは尋ねる。

「それで腕は大丈夫か?」
「ええ。もう大丈夫です」

 クライムが両手を振るい、その動かし方に嘘はないと判断したガゼフは頷いた。

「個人的にはタワーシールドを使って欲しいのだが……」
「タワーシールドですか? あれは少しばかり……申し訳ないのですが」

 その言葉に先のガゼフの言葉に出たナイトというのがタワーシールドを使っているのだろうと推測する。だが、あれほど巨大な盾を上手く使って戦える自信はクライムには無い。

「いや、気にしないでくれ。それよりも準備がよければはじめようか」
「ええ、ではお願いします」

 ゆっくりとクライムは剣を下に構え、盾で隠すようにした半身をガゼフに向ける。クライムの視線は鋭く、意識も既に訓練のものではない。同じように実戦さながらの気配がガゼフからも漏れる。
 たとえ刃を落としたといっても鉄の棒だ。当たり所が悪ければ、それは命を失いかねないものだ。それを使っての訓練であればそれは実戦といっても過言ではない。

 にらみ合い、だが、クライムから動くことは出来ない。
 先ほどの鉄の塊を捨てたため動きやすくなったが、それでも踏み込んでガゼフに勝てる気がしない。肉体能力という意味でも、経験という意味でもガゼフの方が圧倒的に上だ。下手に踏み込めば簡単に迎撃を食らうだろう。
 ならばどうするか。
 それはガゼフの持っていない部分で戦うしかない。
 肉体や経験、精神的な面と、戦士として必要な部分は完全にクライムが負けている。差があるとしたら武装の面だ。
 ガゼフはバスタードソード。それに対してクライムはブロードソードとスモールシールド。本来であれば魔法の武器であったりしたら差が生じるだろうが、これは訓練のもの。武器での差は無い。
 ただ、ガゼフが1つの武器であるのに対し、クライムは2つの武器を有している。これは力が分散する代わりに攻撃手段が増えるというメリットもある。

 ――一撃を盾で弾き返し、剣を振るう。もしくは剣で流し、盾で叩く。

 狙うはカウンターと戦略を立て、クライムはガゼフの動きを真剣に観察する。
 幾秒かの時間の経過と共に、僅かにガゼフが笑う。

「来ないのか? なら、こちらから――これから行くぞ?」

 絶対の余裕をみせつけ、ガゼフは剣を構えた。腰を僅かに落とし、バネが押し込まれるように肉体に力が篭り始める。クライムもいつ剣を振るわれても弾けるよう、自らの体に力を込める。そしてガゼフが踏み込み、剣が盾を狙ってわざと振り下ろされる。

 ――早い!

 クライムはそう感じ、弾くように盾を動かすことを諦める。単なる防御に全身の神経と能力を回す。
 そして直ぐ次の瞬間――すさまじい衝撃が盾を襲った。
 盾が一発で砕けたのでは、そう感じるような衝撃であり、盾を持った手が完全に動かなくなるようなものだ。こんなものを受ける事は出来ない。自らの甘い考えを叱咤するクライムの腹部に、別の衝撃が走った。

「がはっ!」

 クライムの体が吹き飛ぶ。石で出来た床の上に転がり、ごろごろと転がる。
 ガゼフの足がクライムの腹部を強く蹴り飛ばしたのだ。

「……剣しか持ってないからといっても、そこに注意を向けすぎるのは不味いぞ。今のように蹴られたりするからな。今は腹を狙ってやったが、例え股間にパッドを入れていても、金属製の足甲とかで蹴られると運が悪いと潰れたりもするからな? 相手の全身を見て、一挙動に注意を払え」
「……はい」

 クライムは腹部から上がってくる鈍痛を堪え、ゆっくりと立ち上がる。ガゼフが本気で蹴れば例えチャインシャツを着ていたといっても、戦闘不能まで持っていくことは容易だ。しかしそうはならなかったということは、本気で蹴ったのではなく、吹き飛ばすこと狙いに足を添えてから強く力を入れたのだろう。
 クライムはガゼフに感謝をしながら再び剣を構える。

 王国最強の戦士に稽古をつけてもらえるというこの時間がどれだけ貴重か。

 クライムは再び盾を前にジリジリとガゼフに迫る。ガゼフはそんなクライムを黙って見つめる。このままで行けば先ほどと同じことの繰り返しだ。クライムは迫りながら作戦の立て直しを迫られる。

 王国最強の戦士、ガゼフ・ストロノーフ。肉体能力も桁が違うと思っていたが、それでもクライムの想像の範疇を超えている。盾で弾けるなんてどれだけ侮っていたというのか。
 平然と待ち構えるガゼフのその姿は、圧倒的余裕を感じさせる。全然本気を出していない事を考えれば、クライムごときガゼフからすれば本気を出すほどの存在ではないということだろう。
 
 だが、それが――悔しい。

 悔しいというのは傲慢な考えだろうか。
 確かにガゼフという最強の男に対し、クライムごときがそう考えるのはおこがましいだろう。クライムは王国内の兵士と比べるなら強者の類だ。しかしガゼフが指揮する戦士より少し強い程度、冒険者でいうならBクラスに届かない程度の能力しかない。
 クライムの限界はそろそろ見え始めている。これだけ朝早くから剣の修行をしても、成長は今一歩無い。その程度なのだ。
 そんなクライムが才能の塊の男に対し、本気を出してくれないことが悔しいなんて失礼な話だ。本気を出してもらえない自らの才能の無さを恨むべきなのだ。

 しかし――クライムは『ギィッ』と歯を噛み締める。
 胸に宿る思い。その1つのため、に。


 ほう、とガゼフは嘆息し、かすかに表情を変える。
 前に立つ少年とも青年ともいえる者の表情が変わったからだ。先ほどまでは言うなら有名人に会った子供のような、ワクワク感があった。しかし今目の前にいるのは強者を前にした戦士のもの。
 ガゼフは内心での警戒レベルを一段階引き上げる。
 されど――

「――意志を変えたからといっても、彼我の能力の差は歴然としているぞ? さて、どうする?」

 はっきり断言してしまえばクライムに才能は無い。誰よりも努力をしようと――どれほど肉体を苛め抜いても、才能が無ければ高みには昇れない。ガゼフやかつてガゼフが戦ったことのある最大の強敵、ブレイン・アングラウス。そんな男のようにはクライムはなれないのだ。
 誰よりも強くなろうとしていても、それは決して夢や幻の領域を出ない。

「意志が肉体を凌駕する。そんなものは偽りだ」

 ガゼフはそんな者を見たことは無い。肉体を凌駕する意志を発揮したものなんか。火事場の糞力のような、リミッターの解除なら見たことはあっても、意志が肉体を超えることは無い。
 ゆえにあるものでどうにかしなくてはならない。

 何故、クライムに稽古をつけてやろうと思ったか。
 それは単純だ。ガゼフは無駄な努力をひたすらに行うクライムを見てられなかったのだ。人間に才能によって限界値というものがあるなら、その壁にひたすら体当たりを続ける少年を見て、哀れみを感じてしまったのだ。

 だからこそ、別の手段を学ばしたいのだ。
 才能による限界があっても、経験による限界はないと信じて。

「――来い、クライム」

 独り言に裂帛の気合を込めた答えが返る。

「はっ!」


 ダッとクライムは走る。
 先ほどとは違い、真剣な表情になったガゼフがゆっくりと剣を担ぐ。
 上段からの振り下ろし。
 盾で受け止めれば動きを完全に殺され、剣で受ければ弾かれる。防御という行為の意味をなくしてしまう攻撃。受けるのは愚策だが、クライムの持つ武器はブロードソードであり、ガゼフの持つバスタードソードよりも短い武器だ。
 飛び込むしか手段は無い。そしてガゼフはそれを迎撃せんと待ち構えている。
 虎口に飛び込むような行為――しかし迷いは一瞬。

 クライムはガゼフの剣の間合いに飛び込む。
 待っていたとガゼフが剣を振るう。それをクライムは盾で受け止める。すさまじい衝撃は先ほどよりも強い。腕に伝わる痛みにクライムは顔をゆがめた。

「残念だ。先と同じ結果に終わるとは」

 そんなクライムの腹部に、わずかな失望を浮かべたガゼフの足が添えられ、そして――

『フォートレス!』

 クライムの叫びと共に、ガゼフが僅かに驚きの表情を浮かべる。
 
 戦技であるフォートレスは別に盾や剣でなければ発動できないというものではない。やろうとすれば手だろうと鎧だろうと出来る。しかし一般的に剣や盾で受け止めたときに発動させるのは、発動のタイミングが非常にシビアだからだ。鎧で発動させた場合、下手すれば相手の攻撃を無防備に受けるという可能性もある。ならば最低でも剣や盾で受け止めたときに発動させたいと思うのは人間の心理的に当たり前の話ではないか。
 それになによりフォートレスは無敵の技ではない。衝撃を殺しているように見えるが、実際は武器や盾にダメージを移し変えているようなものだ。下手すれば盾や武器の方が壊れてしまう。
 しかし、ガゼフのように蹴りという危険性の無い行いをすると分かっていれば、それらの問題も解決する。
 
「狙ったか!」
「はい!」

 ガゼフの蹴りの力はまるで柔らかいものを吸収されるように抜ける。本来であればそこに込められていた蹴りのダメージは鎧に伝わり、鎧の耐久力を減らすだろう。しかしガゼフの蹴りといえども、相手を吹き飛ばすことを目的とした蹴りだ。大したものではない。
 足が伸び、力を入れることが出来ないガゼフは蹴りを諦め、足を床に戻そうとする。不利な姿勢を戻しつつあるガゼフに、クライムは切りかかる。

『スラッシュ!』

 戦技を発動させての、大上段からの一撃。

 たった1つ、自信を持って放てる技を作れ。
 そうある戦士から受けた言葉を胸に、才能が無いクライムが必死に鍛えたのは上段からの一撃だ。
 クライムの肉体はこれ見よがしな筋肉の鎧には覆われてはいない。元々筋肉が良く付くような恵まれた体でもないし、そして重い筋肉をつけても有り余る機敏さを潜在的に持つわけでもなかったからだ。
 無限を思わせる繰り返される鍛錬による、それに特化した筋肉の構成。
 それがクライムの行ったことであり、そしてその結果が上段からの振り下ろしだ。

 クライムが剣を振るう速度の中、たった1つだけ速度的にオカシイのではないかと思わせる、剛風を巻き起こすような剣閃。それがガゼフの頭部めがけて振り下ろされる。

 当たれば致命傷なんてことはクライムの頭から抜け落ちている。ガゼフという男がこの程度で死ぬわけが無いという絶対的な信頼があってこその技だ。
 硬質の金属音が響き、持ち上げられたバスタードソードと振り下ろされたブロードソードがぶつかる。
 ここまでは予期されたこと。

 クライムは全身の力を込め、ガゼフのバランスを崩そうとする。
 しかし――ガゼフの体はビクとも動かない。
 片足というバランスの悪い状態でも、クライムの渾身の一撃を容易く受け止める。それは巨木がその太い根を大地に這わしているように。
 クライムの全身の力を込めた最高の一撃に戦技。その2つを足し合わせても、片足のガゼフと同等にもならない。その事実に驚くが、クライムの目が自らの腹部に動く。
 ブロードソードで切りかかるということは距離を詰めるということ。再びガゼフがクライムの腹部に足を添えられるということを可能とするということでもある。
 クライムが飛び退くと同時に、蹴りがクライムの体を襲った。
 すこしばかりの鈍痛。そして数歩の距離でにらみ合った2人。

 ガゼフは僅かに目尻を下げ、口元をほころばせる。
 笑みではあるが、それには不快なものの無い、さっぱりとしたものだ。クライムは僅かにむずがゆいものを感じた。父親が息子の成長を目にした時に浮かべるような、ガゼフの笑みを前に。

「見事だった。だから次からは多少本気でいくな」

 そしてガゼフの表情が変わった。
 クライムの全身を怖気が走る。王国最強の戦士。その人物が目の前に姿を見せたことを直感し。

「ポーションを実は1本だけ持っているんだ。骨折ぐらいなら元に戻るから心配するな」
「……ありがとうございます」

 骨折ぐらいはするぞと暗に言われ、クライムの心臓がバクンと大きな音を立てる。怪我には慣れているとはいえ、好きなわけではないのだから。

 ガゼフが踏み出す。クライムを倍する速度での踏み込みだ。
 剣先が床をするような非常に低い軌道を取りながら、バスタードソードがクライムの足をめがけて走る。遠心力を伴ったその速度に慌て、クライムはブロードソードを床に突き立てるような形で、自らの足を守りにいく。
 両者が激突するクライムがそう思った、その瞬間――ガゼフの剣が跳ね上がった。ブロードソードの側面に駆け上るように、バスタードソードが切りあがる。

「くっ!」

 体ごと顔を逸らしたクライムの直ぐ横をバスタードソードが抜けていく。巻き起こる風に髪の毛が何本も持っていかれるような速度。
 このほんの一瞬でここまで追い詰めてきたガゼフという人物への恐怖を込めて視線だけでそれを見送ったクライムは、バスタードソードが急激な速度で停止、そして反転したのを目にした。
 考えるよりも早く。
 生存本能に追い立てられるように、突き出したスモールシールドとバスタードソードがぶつかり、再び甲高い金属音を立てる。

 そして――

「――がっ!」

 激痛と共にクライムの体が横に吹き飛んだ。転がり、床に叩きつけられた衝撃で手からは剣が滑り落ちる。
 スモールシールドとぶつかり跳ね上がったバスタードソードはそのまま横に流れ、大きく開いたクライムのわき腹を強打したのだ。

「流れだ。攻撃して防御してでは無く、次の攻撃に移るように流れを持って行動しなくてはならない。防御も攻撃の一環で行うんだ」

 落とした剣を拾い、わき腹を押さえ立ち上がろうとするクライムに、ガゼフは優しく声をかける。

「折らないように力は抜いたからまだ出来るとは思うが……どうする?」

 まるで息の切れてないガゼフに対し、緊張と痛みで呼吸を乱すクライム。
 数撃すら持たないこの有様ではガゼフの時間を奪うだけだ。しかし、それでもクライムは少しでも強くなりたいがため、ガゼフに頷き、剣を構える。

「よし。なら続けるか」
「はい!」

 しわがれた大声をだし、クライムは駆ける。



 打たれ、吹き飛ばされ、時には拳や蹴りまで食らったクライムは息も絶え絶えに石の床に転がる。床の冷たさが、チェインシャツや服越しに熱を奪っていき、非常に心地よい。

「ふぅふぅふぅ」

 流れる汗を拭おうともしない。いや、拭う気力すらない。
 あちらこちらから湧き上がる痛みを堪えながら、全身から昇って来る疲労感に支配されたクライムは、軽く目を閉じる。

「お疲れ様。へし折ったり、ひびが出来たりしないように剣は振るったつもりだが、どうだ?」
「……」床に転がったまま、腕を動かしたり、痛みのある部分を触ったりしながらクライムは目を見開く。「問題は無いようです。痛みはありますが打ち身程度です」

 打ち身でもジンジンと響くこの痛みは軽いものではないが、そこまで言う必要は無い。

「そうか……ならポーションは必要ないな」
「ええ。下手に使うと筋肉トレーニングの効果がなくなったりしますから」
「本来なら超回復するはずなのに、魔法の効果で元に戻ってしまうからな。わかった。これから王女様の近辺警護にいくのだろ?」
「はい」
「ならば一応渡しておこう。問題があるようなら使うといい」

 こつりという音を立て、ポーションがクライムの傍に置かれる。

「ありがとうございます」

 体を起こし、ガゼフを見る。
 一度たりとも剣を届かせることの出来なかった男を。
 クライムとは違い、無傷の男は不思議そうに問いかける。

「どうした?」
「いえ……凄いと思いまして」

 額に汗は殆ど無い。息も切れていない。これが床に転がる自分と、王国最強の男との差かと、クライムは嘆息をつきつつ納得する。それに対してガゼフは苦笑いのようなものを見せた。

「……そうか。そうだな……」
「なんで――」
「――なんでそんなに強いかという質問に関しては上手く答えることは出来ないぞ? 俺は単に才能を持っていたからだからな。ちなみに戦い方を学んだのも傭兵をやっている中でだ。貴族が品性がないと叫ぶ、この足癖の悪さもその辺で学習したものだしな」

 強くなるコツはない。そうガゼフは断言し、クライムは若干がっかりとした気分となる。もしかしたらガゼフのような練習をすれば、多少は強くなれるのではないかという希望を否定されて。

「クライムはそういう意味では向いているな。殴ったり蹴ったりも行う、手足をそういう意味で使った戦い方」
「そう……ですか?」
「ああ、剣士として練習を受けたわけでないのが良い方向に進んでいる。剣を持つとどうしてもその剣で戦うことに集中してしまうのがいるが……それは良いことではない。お前のような全身を使った剣こそ実戦で意味のあるものだ。まぁ泥臭い……冒険者向けの剣って奴だな」

 クライムは普段から浮かべている無表情さを打ち消し、苦笑いを浮かべる。まさかガゼフという王国の最強の人物に、クライムの剣の腕をそれほどの評価をされるとは思ってなかったためだ。

 クライムは誰かに戦い方を教わったわけではない。というよりこの王城に来た頃のクライムという人物に剣を教えてくれる人はいなかった。だから大広間などで剣の修行をしている兵士達の動きを盗み見て、そうやって学んでいったのだ。だからこそ全てがチグハグであり、剣の王道を守らない動きだ。
 不恰好な剣と貴族に裏で嘲笑される、そんなクライムの剣を褒めてもらえるとは思わなくて。

「さて、俺はもうこれで行くとしよう。王の食事に間に合わせないといけない。お前は良いのか?」
「ええ。今日はお客様がお見えですので」
「お客様? どこかの貴族の方か?」

 あの王女の元に、と不思議そうなガゼフにクライムは答える。

「ええ。アインドラ様です」
「おお、あのアインドラ家の変人2巨頭の1人か」

 クライムは無表情に顔を戻し、それには何も答えない。主人の最大の友人の悪口を言うわけにはいかないからだ。それに貴族の視点からすると変人かもしれないが、この世界を大きく見渡して考えるならば、王族にも匹敵しかねない人物だ。ガゼフほどの人間――もう片方の変人と仲が良く、世界的にも名の知られた人物であれば言えるかもしれないが、クライムごときがそんなことをいえるはずが無い。

「なるほどな……。そういうことか、ご友人の方が来ているのではな……」

 ガゼフはしみじみと頷くが、考えていることは外れているだろうとクライムは直感する。
 ガゼフは友人が来ている為にクライムと一緒の食事が出来なかったという感じのイメージを持っているようだが、実際はクライムもラナーに食事に誘われたのだ。ただ、流石にそこまではとクライムから遠慮させてもらったのだ。
 実のところ、アインドラともクライムは面識があるし、ラナー繋がりで仲良くさせてもらっているため、別にクライムが食事に参加しても他の貴族のように拒絶反応を示したりはしないだろう。
 それでもあの2人に挟まれての食事はクライムの精神を限界まで削ぎ取るというのは予測できる。だからこそ断らせてもらったのだ。

「ならば食事が終わった頃に行くのか?」
「はい、その予定です」
「そうか……それなら長々とつき合わせて悪かったな。朝食もそろそろ始まってるだろうし、時間的にも頃合だろう」

 食事が終わればこの部屋も騒がしくなる。

「はい、今日はありがとうございました。ガゼフ様」
「いや、気にするな、俺も楽しかったからな」
「……もしよければまたこのように稽古をつけてもらってもよろしいですか?」

 一瞬だけガゼフは口ごもり――その反応を知ってクライムが謝罪するよりよりも早く、口を開く。

「構わないぞ。余り人のいないところ時間帯であれば」

 その葛藤がどういうものだったか分かるからこそ、クライムは下手な言葉を言わない。軋む体に力を込め、立ち上がる。そしてただ、自らの素直な思いだけを舌に乗せる。

「ありがとうございます!」

 鷹揚に手を振り、ガゼフは歩き出した。

「さて片付けるとしよう。食事に間に合わないと厄介ごとだ。……そうそう、あの上段からの攻撃はなかなか良かったぞ。ただ、あそこからどうするかまで考えておいた方がいいな。上段を避けられたり、受けられたりした後だ」
「はい!」



 ■



 ガゼフとは別れ、汗を持ってきたタオルを濡らして拭い、汗の臭いがしなくなったクライムが次に向かった先は、大広間とはまるで違った場所だ。
 多くの人間がザワザワという声が少し離れた場所から聞こえてくる。
 さきほどクライムがいた大広間に匹敵する部屋には、多くの人間が長椅子に座り、歓談している。その暖かい雰囲気に混じって、食欲をそそる良い香りが漂ってくる。
 食堂である。

 ガヤガヤという音を抜けるように食堂を突っ切り、クライムは幾人もが並ぶ列の後ろに着く。
 幾つも重なって並んでいる容器をクライムも、前に並ぶ者と同じように取る。木のお盆に木のシチュー器。そして木のコップである。
 順番に食事を貰っていく。
 大き目の蒸かし芋が2つ、固めの黒パン、そしてホワイトシチューという食事だ。
 それらが木の盆の上に盛られ、良い香りが漂う。クライムは胃が急激に刺激されるのを感じながら、食堂を見渡す。

 ガヤガヤと騒がしく兵士達が食事をしながら談話をしている。今度の休日はどうするとか、食事の話、家族の話、たいしたことの無い任務の話などの、一般的な日常会話が殆どだ。

 そんな中、クライムは開いている席を見つけ、そちらに向かう。
 そして長椅子をまたぐように腰掛けた。両脇に兵士が座り、互いに友人だろう人物達とおしゃべりを楽しんでいる。クライムが座ろうとも、近くに座っている兵士は一瞥をするだけで即座に興味をなくしたように視線を離す。

 それは傍から見ると異様な雰囲気である。
 まるでクライムの周りだけ凪が起こっているようだった。
 周囲は楽しげな会話が続いているが、クライムに話しかけようとする気配を見せるものは誰一人としていない。確かに見知らぬ人間に話しかける者はそうはいないだろう。しかし同じ兵士という、同じ職場の人間であり、時には命を助け合う関係と考えればこの対応はいささか異様だ。
 まるでクライムという人物がいないような、そんな空気であるような対応だ。クライム自身、誰とも話そうという雰囲気を見せることない。自分の置かれている立場を充分に理解しているからだ。


 このロ・レンテ城を警備する兵士は単なる兵士ではない。
 王国の兵士は一般的に兵士として取り立てられた平民だ。しかしながら王族に近く、王国の様々な重要情報に近いこの場所を守るものが単なる平民であって良いはずがない。
 そのため、ロ・レンテ城を警備する兵士は貴族による推薦のあった、身分のはっきりした平民が選ばれるということになっている。
 もしこの場所で兵士が何かした場合は推薦した貴族が責任を取るという形であり、害をなそうとする者を食い止めるという目的だ。

 ただこの結果、あるものが生まれる。
 それは『派閥』である。
 人間が数人いれば生まれるという派閥が兵士内でも当然あるのだ。これは考えるまでも無く当然だと理解できるだろう。
 推薦する貴族が元々どこかの派閥に所属しているのだ。その貴族によって選ばれた兵士も、当たり前のように取り込まれることとなる。逆らうような者は元々選ばれるわけが無いので、派閥に所属しないような例外はほぼいないといっても過言ではない。
 
 確かに推薦した貴族が何処の派閥とも組んでいないという場合は考えられる。しかしながら現在は大きな意味では王派閥と、それに対する貴族派閥という2つに分かれて睨み合っている状況。この2つの巨大派閥の前で蝙蝠のように飛びかうほどの政略に長けた貴族は存在していない。

 そのため先ほども述べたように、例外はほぼいないような状況となるわけだ。そう――ほぼ、である。
 ――そんな派閥が遠慮してしまうような存在はやはりいるのだ。

 それがクライムである。
 クライム自身の境遇や置かれている立場から考えれば、当然王の派閥に所属するのが当たり前だ。しかしながら王女たるラナーに近く、兵士というより私兵のような立場が組み込まれるという行為を抑止する。
 強い権力を持つわけではないが、王族に近い立場の存在。さらには身分不確かな、貴族という自らの立ち位置からすると、眉を顰めてしまうような存在。

 それは王派閥からすれば取り込めば扱いに困りかねないが、そのままにしておけば普通に自分達に協力してくれる存在。対立貴族派閥からすれば取り込めばかなりのメリットがあるが、巨大な危険を同時に持ち合わせるような存在となる。
 
 確かに王派閥として考えるなら、違和感のある結論なのかもしれない。
 ただ、派閥と言っても無数の貴族からなる集まりだ。その全てが一枚板であるわけが無い。派閥というのはあくまでの思考の方向性やメリットを考えて纏まるものだ。ならば王派閥にだってクライム――身分不確かな平民――の存在を忌避する者もいれば、対立貴族派閥の中にはクライムを中に引き込みたい者だって当然いる。
 共通して言えることだが、クライム1人のために派閥が割れるような行為を行う馬鹿がいるだろうか?
 そんなわけで相手の手に渡るのは避けたいが、だからといって自分たちの懐にも入れたくない。そういう人物としての評価を両派閥から得るに至っているのだ。


 クライムはそんな対応に、別に気にもせずに食事を始める。
 蒸かした芋をナイフで2つに分ける。割れた部分から湯気がぼんやりと上がる芋を、クライムはフォークで突き刺すと口に運ぶ。

「ほふ、ほふ」

 ちょっと熱いがこれぐらいが丁度良い。熱を口の中で冷ましつつ、クライムは芋を噛み砕く。結構振られた塩は普通であればしょっぱく感じるかもしれないが、クライムのように訓練で大量に汗をかいた者にはちょうど良い味にしか思えなかった。
 白く濁ったシチューにスプーンを入れ、具と一緒に掬い取る。薄い肉の切れ端や、にんじん、キャベツといったものと一緒に食べていれば美味しいために直ぐになくなってしまう。ただ、全部の汁を飲んでしまわないのは兵士の基本だ。
 パンを割ると、それを汁に浸した。噛み応えのある硬いパンもこうすれば柔らかく食べることが出来る。
 ふやけたパンをしゃぶるようにクライムは口に入れた。

 10分立たずに朝食は終わりだ。
 芋が大きかったため、おなかは充分に膨れている。

「さて」

 席を立とうとしたクライムにたまたま通りかかった兵士の一人がぶつかる。
 ガゼフとの訓練で痛めていた箇所に肘が入り、クライムは無表情ながらも痛みを堪え、動きを止める。
 ぶつかった兵士は何も言わずにそのまま歩きすぎる。空気に当たったとしても何か言うだろうか。周囲の兵士達も当然何も言わない。
 その光景を見ている幾人かが多少眉を顰めるが、それでも何かを言おうとするものはいなかった。

 痛みが通り過ぎ、息を長く吐き捨てたクライムは食器を持って歩き出す。
 その表情には何の感情も浮かんではいない。さきほどの激突もなんとも思ってないようなそんな素振りだ。いや、実際になんとも思ってないのだろう。
 この程度の嫌がらせは日常茶飯事だ。兵士がぶつかってきたが、熱いシチューが食器の中に入っていたときにやられなかったのは幸運だったと思う程度の出来事なのだ、クライムにとっては。
 足を出されて転ばされかける。たまたまぶつかって来る。

 ――だからどうした。
 クライムは平然と歩を進める。相手だってこれ以上のことは出来ない。特に食堂という人の目が多い場所では。

 クライムは胸を張り続ける。目を前に向け、俯いたりはしない。
 己が変なところを見せるのは、それは自らの主人であるラナーに迷惑をかけることなのだ。自らの後ろにはラナーという自らが絶対の忠誠を捧げる女性の評判が掛かっているのだから。
 


 白色のフルプレートメイルを身につけ、武装を完璧に整えたクライムはヴァランシア宮殿に足を踏み入れる。

 ヴァランシア宮殿は大きく分けて3つの建物から成り立っているのだが、そのうちの1つ。王族の住居として使われる、最も大きな建物に入る。
 先ほどまでクライムがいた場所とは違い、光を多く取り入れるように設計された宮殿はクライムには非常に眩しく映る。
 広く清潔な廊下には時折フルプレートメイルを着用し、不動の姿勢を保つ騎士がいる。宮殿警備の騎士だ。

 帝国の騎士というのは平民等から取り立てられた、専業兵士のことを指す言葉である。それに対して王国の騎士というのは貴族階級を持つ者で、兵士としての任務を行っている者を意味する言葉である。そのため兵士を纏め上げる隊長としての任務に従事している者が大半である。
 ちなみにガゼフの戦士長という地位は、騎士位の授与を反対する意見が多かったため、与えられなかった王が、苦肉の策としてガゼフに与えた地位である。それ以降、ガゼフが剣の才能があると判断し、選伐した精鋭の兵士を戦士と呼ぶようになったのだが。

 そんな者の前をクライムは頭を垂れながら通り過ぎる。騎士にもなれば大抵が礼を返す。嫌々している者が殆どだが、中には心を込める者もまたいた。


 当然のようにゴミ1つ落ちてない、それどころか埃すら落ちてないと歩く者に思わせるほど綺麗に磨かれた広い廊下をクライムは歩く。その歩運びに合わせて白色のフルプレートが鈴のような澄んだ音を立てるが、これはミスリルを混ぜて鍛えこんだことによるものだ。
 王宮で働くメイドとすれ違うのだが、その殆どがクライムを見るたび顔を顰める。
 この静かな宮殿で、騒がしい音を立てる兵士に対して向けられたものではない。身分の低い汚らわしいものを視界に入れてしまったことに対する怒りの感情を込めてのものだ。
 メイドにまでそのような態度を向けられるが、クライムの表情に感情は一切表れない。

 通常のメイドとは違い、王宮内で働くメイドは低位の貴族の娘が箔付けで来ている場合が多い。ある意味、メイドの方がクライムよりも身分が上の可能性のほうが高いのだ。
 そのため、メイドがそんな態度をするのも当然だと、クライムは考えている。それにラナーの前では身分の低いクライムにまで礼をするのだ。ならばラナーのいない場所で不快感を顕わにしたとしてもかまわないではないか。
 そういった思いがクライムの無表情さに拍手をかけ、相手にもされないと勘違いしたメイドたちがより一層の悪意を抱くという悪循環が生まれていることにクライムは完全に気付いていない。
 そういうことに気付ける性格なら、もっと上手く取り繕うことも出来るだろう。

 そんな生真面目というよりは、ある一点しか見えてないクライムとしては、ほんの一握りのメイドが示す丁寧な礼。そちら方が厄介だったりする。
 貴族の令嬢に心を込めて返されると、身分の低い出のクライムとしては、困惑して慌ててしまうためだ。

 クライムの立場というものは非常に難しいものだ。
 本来であればクライムにラナーに仕えることは出来ない。それは彼の身分から来るものだ。卑しい生まれの彼に、王族の身辺を警護するような大役は回っては来ないのが一般だ。王族の身の回りを守るのは最低でも貴族階級を持つような者と相場が決まっている。
 ただ、王国にはガゼフ・ストロノーフという王国最強の兵士と、その最精鋭とされる兵士たちという例外がある。それにも増して、王女たるラナーが強く言えば、それに対して公然と反対できる者も少ない。
 王や王子等の王族であれば意見を言うことはできるだろうが、王が認めている以上、そこに嘴を突っ込むことにメリットは無い。ラナーのように王に最も可愛がられている者を相手しても良いことは無いのだから。

 彼が個室を持っているのもその一環だ。
 クライムという存在が宮廷におけるどのような地位につけてよいのか、それがはっきりと判明しないためだ。
 通常の単なる兵士であれば個室での生活は出来ない。大部屋での集団生活となるだろう。しかしクライムは単なる兵士とは違い、ラナーの身辺警護を中心とし、ラナーに色々と雑多な命令をされる人物。
 そのため貴族という階級を重んじるものたちからすれば、どこに置いてよいのか不明な人間という厄介な対象なのだ。

 メイドたちや騎士の大半が、ちぐはぐな対応をとるのはその所為でもあった。


 やがてクライムは最もよく来る部屋の前まで到着する。
 女性の王族の部屋まで、男である彼が来るのは特例中の特例としかいえない。下手すれば王ですら止められる、ある意味王国で最も入ることのできない場所なのだから。
 クライムは無造作に扉のノブを捻る。
 ノックを忘れるという非常識極まりない行為だが、当然これは部屋の主人の意向を受けてのことだ。どれだけクライムが抵抗しても許してくれなかったのだ。
 結局折れたのはクライムだ。流石に女性に泣かれてしまっては分が悪すぎる。

 しかしドアをノックもせずに押し開けるということは、クライムに強いストレスを与えるのも事実だ。絶対にこんなこと許されるはずが無い。そう思いながら開けるのだから当然だろう。

 扉を開けようとして、かすかに開いた扉から流れ出てくる、激しい熱を持った言葉の応酬にクライムは手を止める。
 聞こえてくる声は2つ。両方女性のものであり、2つともよく知っているものだ。
 片方の声の持ち主が扉の外とはいえ、クライムに気づいていないのはよほど熱中しているからだろう。ならばその熱意を冷ましたくは無い。そのためクライムはそのまま部屋の中の声に耳をすませる。盗み聞きをしているという罪悪感が生まれるが、それでもこの熱意ある話を中断してしまう方が罪悪感を覚えるだろうと思ってだ。

「――ら言ってるでしょ。まず、基本的に人間は目先のメリットを重視するものだって」
「うーん……」
「……ティエールの言っている順繰りに他の作物を育てるって言う計画。……そんなことで実りが良くなるとは到底思えないけど……結果が出るのはいつ頃になるの?」
「大体、6年ぐらいは必要だと試算は出ています」
「ならばその6年間、別の作物を育てることによって金銭的にマイナスにはどれぐらいなるの?」
「作物の種類にもよりますけど……通常時を1とするなら0.8ぐらい……0.2の損失になると思っています。ただ、6年後以降はずっと0.3の収穫増は見込める予定です。牧草栽培による家畜の飼育も軌道に乗ればもっと上は目指せるでしょうね」
「……それだけ聞くと誰もが飛びつくような話に聞こえるけど、その6年間続く0.2の損失が許せないでしょうね」
「……その0.2の損失は無利子無担保で国が貸し出して、取れるようになったら回収という方法を取れば問題ないと思うのですが……。収穫量が増えない場合は……回収しないとかして。何より収穫が増加すれば4年で支払える計算になりますし」
「難しいでしょうね」
「どうして?」
「だから言ったでしょ。人間は目先のメリットを重視する――安定志向の者が多いの。確実に6年で1.3になるといわれても、迷うのは当然よ」
「よく……分からないわ。実験している畑の様子は順調なのですけど……」
「実験が上手くいっているかもしれないけど、絶対は無いわけでしょ」
「……確かにありとあらゆる状況下を想定した上での実験ではないから、絶対とはいえないわ。その土地や気候、そういったものを全て考慮するとかなり大規模に実験を行わなくてはならなくなるし……」
「ならば難しいわ。先の0.3の収穫量の増加が最低か平均かは不明だけど、説得力が無くなる。とすると充分なメリットを約束できるものにしないと。目先のメリットを約束した上で」
「なら6年間の0.2は無償で提供するという方法では?」
「対立する貴族派閥が喜ぶでしょね。王の力が弱くなるって」
「でも、6年後からそれだけの物が取れるようになれば、国力も増大するわけなのですから……」
「すると、対立する貴族の力も増大する。そして王の力は1.2だけ下がると。王の派閥を構成する貴族達が絶対に認めるわけが無いわ」
「ならば商人の皆さんにお願いして……」
「あなたが言っているのは大きな商人でしょ? そういう商人だって色々と対立があるし、下手に王の派閥に協力したらもう1つの派閥の仕事が上手くいかなくなったりするでしょうね」
「難しいわね……アルベイン」
「……根回しというのが上手くないからあなたの政策は抜け落ちが多すぎるのよ。まぁ……大きな2つの派閥が出来てしまっている段階で、難易度は非常に高いって理解は出来るのだけれど。……王の直轄地だけで行うのは?」
「兄たちが許さないでしょうね」
「ああ、あのバ……叡智をあなたのために母親のお腹の中に置いてきてくれた方々」
「…………別に母親まで一緒じゃないのですけど」
「あら。なら王の方にかしら。しっかし、王家も一枚板じゃないとか痛すぎるわ……」

 部屋の中は静まり返り、カチャリと何かと何か、陶器と陶器がぶつかり合った際に起こるような小さな音さえも、クライムの元まで届く。

「――それと、そろそろ入って良いわよ」
「……え?」

 中からの声にクライムの心臓がどきりと1つ飛び跳ねる。気付いていたのかという驚愕と、やはりかという納得の思いを擁きつつ、クライムは扉をゆっくりと開く。

「――失礼します」

 ペコリと頭を下げ、それから上げたクライムの視界には非常に見慣れた光景が飛び込む。
 王女であるラナーの私室ともすれば、部屋の主を除けばクライムが最も知っている。豪華ではあるが、派手ではない――そんな部屋の、窓の近くに置かれたテーブルには2人の女性。
 そこに座っているのは金髪の2人の淑女だ。両者ともドレスを纏っているが非常に似合っている。
 1人は当然自らの主人でもあるラナーだ。
 そしてその向かいに座った――金髪の髪を器用に巻いた、かつらでも被っているような変な髪形をしている女性。彼女の紫色の瞳はアメジストを思わせ、唇は健康そうなピンク色に輝いていた。
 その外見的な美貌はラナーには劣るものの、ラナーとは違った魅力に溢れている。ラナーが宝石の輝きとするなら、彼女は命の輝きとも言うべきか。

 その女性こそラキュース・アルベイン・フィア・アインドラ。
 薄いピンク色を主としたドレス姿からは想像もつかないが、彼女こそ王国に2つあるA+冒険者パーティー――その片方のリーダーを勤める女性であり、自らの主人のラナーの最も親しい友人だ。
 年齢にして19歳。その若さで偉業を幾つも成し遂げ、A+という地位まで上り詰めたのはその溢れんばかりの才能のお陰であろう。
 僅かな嫉妬の感情がクライムの心の奥ににじみ出るように浮かぶ。しかしそんな醜い感情を即座に振り払う。

「おはようございます、ラナー様。アインドラ様」
「おはよう、クライム」
「おはよ」

 クライムは挨拶を終えると彼の所定の位置――ラナーの右後方に移動する。そして止められる。

「クライム。そっちじゃなくてこっち」

 ラナーの指差すところは自分の横のイスだ。
 そこでクライムは不思議に思う。円形のテーブルを囲むように並べられた椅子の数は5つ。これはいつもの数だ。ただ、紅茶の注がれたカップが合計で3つ置かれているのだ。
 ラナーの前、ラキュースの前、そしてラキュースの隣の席――ラナーが指差した席とは違うところに。

 まだ湯気が立っているところをすると、注いだばかりのように思われる。これはクライムのものだということなのか。するとそこに置かれている理由は、つまりはラキュースの横に座れという意味なのだろうか。それともたまたま退かしたとかなのだろうか。
 本日のお客人はラキュースだけと聞いていたが、王がいらっしゃったのか。ありえそうな答えを思い浮かべ、クライムは自らを納得させる。

「しかし……」
「あ、私は構わないわよ。ティエールの口調が昔に戻るのは好きだしね」
「アインドラ様……」
「前も言ったけどラキュースで良いわよ」チラリとラキュースはラナーに視線をやり「クライムは特別ね」
「……むか」

 語尾にハートマークが浮かんでいるような甘ったるいラキュースの声色に、ラナーが口でそんなことを言いながら微笑んだ。口元だけを動かした笑いを、微笑といえるならばだが。

「……冗談はおやめください」
「はいはい」
「え? 冗談なの?」

 驚いたようなラナーに対し、ラキュースはぴたりとわざとらしく動きを止めると、それからはぁと大げさなため息を吐く。

「当たり前でしょ。まぁクライムは確かに特別だけど、それはあなた『の』だから特別なのよ」
「私『の』? うふふふ」

 クネクネと体を揺らすラナーから困ったように視線を逸らしたクライムは目を見開いた。
 部屋の隅、そこに残る暗がりに溶け込むように1人の人間が膝を抱えるように座っていたのだ。黒髪が顔を半分隠しており、着ている服は黒色の体にぴったりとしたもの。
 この部屋の雰囲気にはまるで合わない女性だ。

「な?!」

 驚き、腰に下げた剣を掴むクライム。
 ラキュースという人物がいながらもあそこにいたことに気付かなかったのかと混乱が押し寄せてくるが、賊である可能性を考え、即座に臨戦態勢に移行する。
 腰を落とし、ラナーを守るように動き出すクライムの視線の先を見たラキュースがはぁとため息をつく。

「そんな格好してるからクライムが驚くのよ」

 その冷静な声に警戒や危機感というものはまるで無い。その口調に込められた意味を薄々と悟り、クライムは肩から力が抜けていくようだった。

「了解、ボス」

 意外に低い声で返事が返り、暗がりの中座っていた女性は、異様な身体能力を使って座った状態からひょいっと飛び跳ねるように立ち上がる。

「あっとクライムは知らなかったのね。うちのパーティーの1人――」
「――ティナさんよ」

 ラキュースの言葉の後を、ラナーが続ける。
 蒼の薔薇といわれる冒険者パーティーのメンバーの内、ティアとティナという女性は今まで対面したことは無かった。何でも盗賊系の役目をこなしている人物だとはクライムも聞いていたのだが――その外見を知り、なるほどと納得する。
 スラリとした肢体を全身にぴったりと密着するような服で包むその姿は、確かに盗賊系の技術を収めた者のようだったからだ。

「……これは失礼しました」

 クライムはティアという女性に深々と頭を下げる。ラキュースの知り合いであり、ラナーが知っている以上、客人であろう。そんな人物に対して臨戦態勢を取ってしまったのだ、下手すれば頭を下げる程度で済まされる問題ではない。

「む? 気にしないでいいよ」

 鷹揚に手を振り、クライムの謝罪に答えると、まるで音のしない、野生の獣を思わせる滑らかな動きでテーブルまで近寄る。それからティナはラキュースの横の椅子を動かして座る。先ほどクライムが疑問に思ったカップのある場所だ。
 コップの数からはありえないとは思うが、クライムは周囲を見渡し、もう1人のあったことも無い女性もいるのかと念を入れて探す。
 ラキュースは何故クライムが周囲を見渡したのか即座に理解したのだろう。口を開く。

「ティアは来てないわよ」
「あの娘の今日の予定は色々な情報収集のはず、うちの鬼ボスの命令で」

 鬼という言葉に反応し、恐ろしい微笑みを浮かべるラキュースから視線を逸らしつつ、クライムは尋ねる。

「そうでしたか、一度会ってみたかったのですが」
「クライム、ティナさんとティアさんは双子で髪の毛の長さも殆ど同じなのよ」
「だから片方を見ておけば問題なっしんぐ」
「そうでしたか」

 とりあえずは納得したクライムを、無遠慮な目つきでティナが眺めてくる。我慢しようかと思いながらも、もし自分の至らない点を見つめたのかとクライムは思い、思い切って尋ねることとする。

「何かございましたか?」
「大きくなりすぎ」
「……は?」

 意味が分からない。疑問詞を幾つも頭の上に浮かべたクライムに、ラキュースが詫びるように口を挟む。

「いえ、こちらのこと。気にしないでね、クライム。いや、本当に気にしないで。本当に」
「はぁ……」
「……なんのことなの? アルベイン」

 クライムは無理に承知したが、ラナーは納得がいかないように口を挟む。ラナーを見て、ラキュースが嫌な顔をした。

「ほんと、クライムのことになると……」
「あ、わたしね――」
「――黙れって。お前の姉妹を連れてこなかったのは、ラナーに変なことを教えようとするからなの。だからその辺を理解してあなたも黙ってくれない?」
「へいよー、ボス」
「……アルベイン。なんのことなの?」

 ラキュースがラナーの追求を受け、本気で引きつった顔をした。絶対教えられない事を、教えてくれと攻めてくる人間を前にした苦悶の表情も浮かんでいる。
 クライムが口を挟もうかと思ったとき、ラキュースがぐるっと視線を回して向けてくる。

「えっと……クライム、その鎧愛用してくれてるみたいね」
「ええ、素晴らしい鎧です。ありがとうございました」

 無理矢理というところを遥かに超えた話題の転換だが、クライムは客人に恥をかかせまいと同調する。
 クライムはラナーより与えられた白色のフルプレートメイルに手を這わせた。ミスリルを4分の1も使い、肉体能力の向上系魔法が込められた鎧は軽く、硬く、動きやすい。
 そんな素晴らしい鎧の製作のために、ミスリルを只で提供してくれたのがこの『蒼の薔薇』の一行だ。どれほど頭を下げても感謝の念が尽きることは無い。
 頭を下げかけたクライムをラキュースは止める。

「気にしないでいいわ。私達がミスリルの鎧を作る際の、その残りを渡しただけだから」

 残りといえども、ミスリルとなれば非常に高額な金属である。Aクラスにもなればミスリルで全身鎧を作るだけの財力を持つだろうし、Bクラスになればミスリルの武器ぐらいは持つかもしれない。それでも只で渡すという行為を行えるのは、A+ほどの実力者ぐらいだろう。

「それにティエールに頼まれたら嫌とはいえないし」
「――あの時、お金貰ってくれなかったよね。貯めていたお小遣いがあったのに……」
「……王女がお小遣いってなんか間違ってない?」
「領地からのお金は別に取ってます。クライムの鎧は私のお小遣いで買いたかったの」
「そうよね。クライムの鎧は全部自分のお金だけで作って渡したかったんだよねー」
「……そこまで分かってるなら、只でくれなくても良いのに。アルベインのばか」
「バカっていうかしら、普通……」

 むっとしたラナーとニヤニヤとした笑いを浮かべるラキュースが、喧嘩にもならない口喧嘩を行いだす。
 そんな光景を目にし、クライムは壊れそうになる無表情を硬く押し留める。
 こんな光景を――穏やかで暖かい光景を見ていられるのも全て自分を拾い上げてくれた人物のお陰だ。しかしそれを強く表に出すことは許されない。
 感謝の念だけなら出しても構わないだろうが、その奥でクライムに宿る、ラナーへの強い感情だけはみせてはいけない。

 この――恋心は

 クライムは己の感情をぎゅっと握りつぶし、無表情を強く厚いものとする。そして握りつぶした感情の代わりに、幾度も言ったことのあるセリフを口にする。

「ありがとうございます。ラナー様」

 少しだけ――毎日のように、誰よりも見つめ続けてきたクライムだからこそ分かるような、ほんの少しの寂しさを込めながらラナーは微笑むと、同じように言葉を返す。

「どういたしまして。ところでさっきの……」
「――クライムもここで話を聞いていても詰まらないでしょ! 今日ぐらい何か別のことをしたら?」
「え? ここで一緒に話を聞いていても良いと思うんですけど?」
「……あなたが集中しないから駄目よ。私だって暇がいつでもあるわけじゃないんだから」
「忙しいものね」
「ええ。A+の仕事ってそんな頻繁には無いけど、色々とやらなくちゃならないこともあるしね」

 クライムはラナーの警護という自分の仕事を思い出し、僅かに眉を顰める――とはいっても殆ど無表情ではあるのだが。
 しかしA+冒険者の2人がいるというなら、自分の警護なんか邪魔と同等というのも事実。それならば友人とのひと時を邪魔するのも悪いだろう。ラナーという女性の友人は彼女ぐらいしかいないのだから。

「そうですね。ご友人との大切なひと時をお邪魔するのは……」
「私は全然かまわな――」
「――ありがとう。そういえば何かすることあるの?」
「いえ、ラナー様に何か無いのであれば、私にはありません」
「私は……クライムと……」
「なるほど。なら少し頼んでもいいかしら?」
「ラナー様に何も無ければ喜んでさせていただきます」
「だって、どう? クライムをちょっと借りてもいい?」

 ラキュースとクライムが見れば、ラナーはティナに頭を撫でられているところだった。

「2人とも完全に私を無視している……」
「よし、よし。可哀想、可哀想」
「……何してるの?」

 不思議そうに、それでいて半眼で見るラキュースに、ラナーはぶぅっと頬を吹くらまし答える。

「2人が私を無視するから」
「……ほんと、クライムの話になると子供になるわね。まぁいいわ、クライムをちょっと借りるわね」
「え? ……えー」
「良いわよね。あなたとの話は今日中にしっかりとやっておきたいの。だから他の仲間たちへの伝言をお願いしたいのよ」



 ■



 王都の大通りをクライムは歩く。人ごみに混じると、外見的な特徴では、さほど目を引くところが無いクライムは、完全に溶け込んでしまう。
 街中に出るに当たって、流石に白のプレートメイルは目立つということのため、脱いでいる。特殊な錬金術アイテムを使えば鎧の色を変えられるとはいえ、流石にそこまでして着用しようとは思わない。大体、街中を歩くのにフルプレートメイルで武装してというのは行き過ぎだろう。
 そんなクライムは装備を軽いものとしている。そのため多少目を引くものといえば、服の下のチェインシャツと腰に下げた単なるロングソードぐらいか。
 これぐらいの武装なら通りを歩く人間でも、時折見かけるもの。歩いている人ごみが割れたりするほどの重武装ではない。

 現在のクライムの格好は正しい反面、間違ってもいる。
 兵士であるなら兵士らしい格好があるし、ラナー直下の兵士としての行動なら与えられた純白のフルプレートメイルを着るべきだろう。勿論、クライムにも言い分はある。今回は兵士としての仕事でもないし、ラナーより与えられた大切なフルプレートメイルをラナーを守るという任務の以外に使いたくないという考えだ。そして何より、目立ち過ぎたくないというちょっとばかりの羞恥心もあった。
 ただ、そんな風に考えるのもクライムが兵士であり、冒険者では無いからだ。
 
 冒険者であれば目立つ格好をするというのは、さほど変な行為ではない。無論、隠密行動を取る必要があるときなどの例外は除いてだ。冒険者にとって目立つ格好というのは、ある意味自分達の宣伝に繋がる。そのため奇抜な格好を取ることで、強い印象を残し、噂を高めていくことで名を売って行くという者もいる。
 これを恥ずかしい行為だと思うような冒険者は、逆に愚かと判断されるだろう。しかし例外というものはどこにでもいるもので、クライムが今から会いに行く『蒼の薔薇』の一行ほどのレベルであれば、その必要なんかはまるで無い。
 彼らクラスになれば、歩いた後がそのまま噂の対象であり、敬服の道が出来るからだ。

 やがて道の横手に1つの冒険者の宿が見えてきた。敷地全体を使って建物を建てるのでは無く、宿屋である建物、馬小屋、そして剣を振るえるだろう庭というふうに、広い敷地を贅沢に使った宿屋だ。
 宿屋部分も外からも分かるぐらい綺麗な建物であり、部屋だろう場所の窓には透き通ったガラスがはめ込まれていた。

 最高級の宿屋であり、腕に自信があり、かなり高額の滞在費を払える冒険者が集まる場所だ。
 クライムはその宿屋の扉を開ける。
 1階部分を使った広い酒場兼食堂には、その広さからすると少なすぎる冒険者達がいた。つまりはそれだけ上位の冒険者というものは少ないものなのだ。
 店で上がっていたわずかなざわめきが一瞬だけ収まり、店に入ってきた人間に対する好奇の目が集まる。クライムはそんな視線を一身に浴びながらも、意に介さず、見渡す。
 屈強な冒険者ばかりだ、その場にいる殆どの冒険者がクライムを倒すことが出来るだろう。その中でもクライムを瞬時に倒せる者もちらほら見える。
 だが、彼が探す人物はそんなレベルではない。
 即座に店のある一点で視線が止まった。当たり前だ。あれほどの存在を見落とすわけがない。

 クライムの視線の向かった先――そこは店の一番奥。天井から吊り下げられた明かりの外れ。若干薄暗くなった辺り。そこにある丸テーブルに座った2人の人物へ。

 1人は小さい。漆黒のローブで全身をすっぽりと覆っている。
 長い漆黒の髪が流れ、わずかな明かりを綺麗に反射している。顔は見えない。それは光の加減ではなく、額の部分に朱の宝石を埋め込んだ、異様な仮面でその顔を完全に覆い隠しているためだ。目の部分にわずかな亀裂が入っているだけで、その奥にあるだろう瞳の色さえ確認できない。

 そしてもう1人。
 先の人物が小さいなら、こちらは圧倒的なまでに大きい。巨石――そんな言葉が脳裏に浮かんでしまうほど。全身はある意味太い。これは脂肪が付いているという意味ではない。
 丸太を思わせる太い腕。頭を支えるための太い首は、やせぎすの女性の両太ももを合わせたぐらいはあるのではないか。そんな首の上に載った頭は四角い。力を入れるためにしっかりと噛み締める顎は横に広がり、周囲の様子を伺うための瞳は肉食獣のようだった。金色の髪は短く刈り上げられており、機能性のみを重視している。
 服によって隔されている胸板はこれ見よがしに盛り上がっている。鍛えに鍛えきった胸筋が即座にイメージされた。はっきり言えば女としての胸ではもはや無い。

 A+冒険者パーティー――蒼の薔薇。
 女性のみで構成された有名な冒険者パーティーの一員である内の2名。
 魔法使い――イビルアイ、戦士――ガガーラン。その2人だ。

 クライムはそちらに向かって歩き出す。入ってきた時から注意は払っていたのだろうが、自分達に向かって歩き出したため、確認が取れたのだろう。目的の人物が1つ頷くと、ハスキーな大声を上げた。

「よう、童貞」

 店の人間から一斉に視線がクライムに集まる。しかし、揶揄の声は上がらない。それどころか、即座に興味がなくなったように視線が離れていく。一握りの哀れみにも似たものを交えて。
 周囲にいる冒険者達のさっぱりとした対応は、ガガーランという人物へのお客さんに、なんらかの態度を取るのは勇気ではなく蛮勇だとこの場にいる全ての者が知っているからだ。そう。Aクラス、Bクラスの冒険者であってもだ。
 ある意味恥ずかしい呼ばれ方をしながらも、クライム自身、平然としたもの態度で歩き続ける。
 ガガーランがクライムのことをそう呼ぶが、どれだけ言っても変わることをしない。ならばもはや諦めるのが最も有効な手なのだから。

「お久しぶりです、ガガーラン様――さん。それにイビルアイ様」

 イビルアイ、ガガーランの元まで到着すると、ぺこりと頭を下げる。

「おう、久しぶりだな。なんだ? 俺に抱かれたくて来たのか?」

 イスに座りなと顎でしゃくりながらも、ニヤニヤとその四角い顔に肉食獣の笑みを浮かべ、ガガーランはクライムに尋ねる。クライムは無表情に横に振る。
 これもガガーランのいつもの挨拶といえば挨拶だ。しかしながら別に冗談というわけでもない。もしクライムが冗談でもそうだと答えれば、即座にガガーランに二階の個室に連れ込まれるだろう。
 初物食いが好きと公言して止まない、ガガーランはそういう人物でもある
 そんなガガーランに対し、イビルアイは正面を向いたまま、一切顔を動かしていない。仮面の下で視線だけ向けてきているのかもしれないが、クライム程度ではイビルアイほどの人物の視線まではつかめない。

「いえ、違います。アインドラ様に頼まれまして」
「ん? リーダーに?」
「はい。伝言です。本日はラナー様の元に泊まるとのことです」
「おいよ。それで?」
「いえ、それだけです」
「ふーん、それっぽちのためにご苦労なことだな?」

 ご苦労様という笑いをその太い顔に浮かべたガガーランにまだ言うべきことがあると、クライムは思い出す。

「今日、ガゼフ様に剣の修行に付き合ってもらうという幸運に恵まれたのですが、教えていただいた自信を持って放てる一撃――大上段からの一撃でしたが、ガゼフ様に褒められました」
「おう、あれか!」この宿屋の庭で軽く修行をつけてやった剣を思い出し、ガガーランは破顔する。「ふーん、やるじゃねぇか。でもよ……」
「はい、満足することなく、より鍛錬に励みたいと思います」
「それもそうだけどな。その技は破られると思って次に繋げる技もそろそろ作っておけよ」

 返答をせず、自らの言った言葉の真意を理解しようとしているクライムに、ガガーランは笑う。それほど深く考える必要は無いのだが、と。

「本当は無数の手からその場その場に適した、剣を振るうのが正解なんだ。でもよ、おめぇにはそれができねぇ」暗に才能が無いからとガガーランは言う「だから3連続ぐらいは自分で自信を持てる剣を作れ。相手が攻撃に転じれないような3連撃だ」
「はい」
「まぁ、モンスター相手とかになるとそういう奴は通じねぇ。でも人間相手なら通じるはずだ」
「はい」
「パターンって奴は覚えられると終わりだが、初見の奴なら結構効果的だからな。押して押して押しまくれるの作れよ」
「分かりました」

 クライムは大きく頷く。
 今朝、ガゼフという人物にあそこまで攻め込めたのはあの1回だけだった。それ以外は即座に見切られ、反撃を受けるだけだった。

 ではそれで、自信を喪失した? 否。
 ではそれで、絶望した? 否。
 逆だ。
 逆なのである。
 凡人が王国――いや周辺国家最強の戦士にあれだけ迫ることが出来たのだ。本気を出していなかったというのは当然あるだろう。しかし、あれは明かりのまるで無い、漆黒の道を進むクライムを充分に励ましてくれたのだ。
 お前の努力は完全には無駄ではないと。

 それを思い出せばガガーランの言いたいことは分かる。
 その連続攻撃がうまく作れる自信は無いが、それでも生み出して見せるという熱い思いが心の底から湧き上がっていた。次にガゼフと戦うときには、もう少し本気を出してもらえるような強さを手にしておくと。

「……そーいや、イビルアイにも何か頼んでいたよな。魔法の修行を付けてくれだっけか?」
「はい」

 ちらりとクライムはイビルアイに視線を送る。その時は嘲笑を受けて、終わりになった話だ。何も変わってない状況下で同じ話をしたとしても、同じ結果しか残らないだろう。
 しかし――

「小僧」

 聞き取りづらい声がした。
 仮面を被っているためにしては、非常に不可思議な声だ。例え仮面を被っていようと、それほどの厚さではない以上、声ぐらいはある程度分かるはず。しかし、イビルアイの声は女だろうという以上、年齢や感情といったものを読み取らせない。年寄りのようでもあり、少女のようでもある。そして感情の無い平坦な声として聞こえるのだ。
 イビルアイが付けている仮面が、恐らくは魔法のものなのだろうと予測は立つ。しかしながらそこまでして何故声を隠すのか。それはクライムの知らないことだ。

「お前に才は無い。別の努力をしろ」

 用事はそれだけだと言わんばかりの、切り捨てるような発言。
 それはクライムも承知のことだ。
 クライムに魔法の才能は無い。いや、魔法の才能だけではない。
 どれだけ剣を振るって、血が滲み、豆が潰れて手が硬くなっても、望む領域には到達できなかった。才能ある人間であれば容易く越えられるだろう壁。それすらもクライムでは踏破不可能な絶壁なのだ。
 ただ、そうだからといってその壁を越える努力を怠ることは出来ない。才能が無い以上、努力してほんの1歩でも進めると信じておこなっていくしかないのだから。

「ですが、13英雄の伝説では……」

 13英雄のリーダー、彼こそ単なる凡人だったという伝説だ。皆よりも弱く、だが、傷つきながら剣を振るい続け、誰よりも強くなったという英雄。
 それに対してイビルアイは口ごもる。まるでそんな伝説が真実であるかのように。
 しかし、イビルアイは否定の言葉を紡いだ。

「後天性才能なんか嘘みたいなものだ。才能を持つ者は最初っから保有している。……才能とは開花する前の蕾であり、誰もが持つものだというものがいる……。フン、私からするとそれは願望でしかない。劣った者が己を慰めるための言葉だ。かの13英雄のリーダーもそうだろう。持っていながら開花してなかっただけだ。それはお前とは違う。努力してそれなんだからな。……そう。才能は歴然として存在する。持つ者と持たざる者は存在するのだ。だから……諦めろとは言わんが、それでも分を知れ」

 イビルアイの厳しい台詞に一瞬だけ沈黙が降りる。そしてその沈黙を破ったのもやはりイビルアイだ。

「ガゼフ・ストロノーフ……奴こそ良い例だ。ああいう奴こそ才能を持つ人間というのだ。クライム……お前はああいう奴を目指しているのだろうが、努力して届く差なのか?」

 クライムに言葉は無い。今日の訓練で届く距離ではないのを実感したからだ。

「まぁ、ガゼフは例えとして悪いかも知れなんがな。……あれに匹敵する剣の才能の持ち主は、かの13英雄にしか私は知らん。そこのガガーランもかなりの腕を持つがガゼフには勝てんしな」
「……無茶言うなよ。ガゼフのおっさんはありゃ人間というか英雄に片足突っ込みそうな存在だぜ?」
「フン。お前も巷では英雄と言われる女……疑問詞が付くが……だろうが」

 一瞬だけ言葉を濁したイビルアイにガガーランは笑って答える。

「おいおい、イビルアイ。俺は思うんだがな、英雄って奴は人間の領域を超えた存在――桁外れの才能を持った化け物じゃねぇのか?」
「……否定はせん」
「俺は人間だよ。英雄に足を踏み込むことの出来ないな」
「……それでもお前は才能を持つタイプの人間。クライムのような才能を持たない人間とは違う。クライム、お前がするべきことは星に手を伸ばし走り続けることではない」

 自分に才能が無いというのはクライムが重々承知していることだ。だが、ここまで才能が無いと連呼されるとがっくり来るのも事実だ。しかし、だからといってクライムに今の行き方を変える意志はない。
 
 ――この身は、王女のために。その思いのために――。

 まるで表情の変わらない、無表情の中に殉教者のような何かを感じ取ったイビルアイは仮面の後ろから舌打ちを飛ばす。

「……これだけ言っても止めないのだろうな」
「はい」
「愚かだな。実に愚かだ」ブンブンと頭を振り、理解できんと言う。「適わぬ願いを持って進むものは、確実に身を滅ぼすぞ? 己の分を弁えろというのだ」
「……理解しています」
「即答とはな。それに理解しているが弁える気はないということか。愚かという言葉を通り越したところにいる男だ」
「なんでぇ、イビルアイ。クライムが心配だから苛めていたのかよ」

 ガガーランの言葉にイビルアイががっくりと肩を落とす。それからガガーランに向き直ると、胸倉を掴むように手袋をした手を伸ばし、怒鳴る。

「脳筋。少し黙れ!」
「でもそういうことだろう?」

 胸倉を捕まれてなお、平然としているガガーランの言葉を受け、イビルアイがぐっと詰まった。それから席に身を沈めると、話題を変えるように、クライムに矛先を変える。

「ならばまずは知識を増やすんだな。魔法の知識を増やせば相手が何をしてこようとしているのか理解できるだろう。そうすればより的確な行動も取れるだろう」
「無数にある魔法を全部覚えたり知ったりするのは酷じゃねぇか?」
「そんなことは無い。魔法使いが重点的に使ってくる魔法というのはさほど多くは無い。その辺りから覚えていけばいいんだ」

 その程度出来ないなら諦めろと、吐き捨てるようにイビルアイは呟く。

「それにせいぜい3位階まで覚えればとりあえずは問題が無いだろうしな」
「それで思うんだけどよぉ。帝国の主席魔法使いが6位階まで使えるとか言うけど、10位階までの魔法もかなり知られているんだろ? 何でなんだ?」
「ふむ……」

 まるで教師が生徒に教えるかのような気配を漂わせつつ、イビルアイはローブの下で何かを行う。すると周囲の音の聞こえ方が遠くなったような気がクライムはした。なんというか、テーブル周囲が薄い膜に覆われたような感じなのだ。

「慌てるな。つまらん魔法を発動させただけだ」

 魔法使いではないクライムにとって、魔法を発動させるということがどれほど警戒しての行為なのかは分からない。ただ、そうまでしなくてはならない重要な話として、ガガーランの質問に答えるつもりなのだという思いが、クライムの姿勢を正す。

「かつての神話――物語とされるものの1つに8欲王といわれる存在がいる。神とも言われ、その絶大なる力でこの世界を支配したとも言われるものたちだ」

 8欲王の物語はクライムだって知っている。御伽噺としての人気は非常に無いため聞かれることは殆ど無いが、ある程度の知識ある人間なら知っている物語だ。

 要約してしまうと500年前、8欲王という存在が現れた。空よりも高い身長を持つとも、ドラゴンのようだとも言われる8欲王は瞬く間に国を滅ぼし、圧倒的な力を背景に世界を支配していく。だが、彼らは欲深く、互いのものを欲して争いあい、最後は皆死んでしまったという物語だ。
 人気が無いのも当然の物語だが、この話が本当に御伽噺かどうかに関しては、意見の分かれるところだ。クライム自身からすればかなり誇張された物語だと思っている。ただ、それでも冒険者の中では、実在した存在――力も現代のどんなものよりも持った――だと思っている者がちらほらいる。
 彼らが根拠とするのは、遥か南方にある1つの都市だ。それは8欲王が大陸を支配した際、首都という名目で作られたとされる都市の存在だ。

 クライムが自らの考えに浸っている間にも、イビルアイの話は続く。

「8欲王は無数の持ち物を持っていたとされるのだが、その中、最も力を持つアイテムにネームレス・スペルブック……そんな名で呼ばれる魔法書が存在する。これが全ての答えだ」
「あん? つまりはその本に載っているということか?」
「そうだ。8欲王といわれる伝説の存在が残した想像を絶するマジックアイテムたる書物には、全ての魔法が記載されているとされているんだ。如何なる魔法の働きか、新たに生み出された魔法も自動的に書き込まれるという」

 8欲王の神話は知っていても、そんな書物の話はまるで聞いたことも無い。それがどれほどの希少性を持つか薄々と気付いたクライムは何も言わず、そのまま耳を傾ける。

「ガガーランの予測したとおり、それを元にしているからこそ、最高で6位階までしか使える人物がいないはずなのに、さらにその上位の魔法の存在を我々は知っているのだ。無論、ここまでのこと――ネームレス・スペルブックという存在までを知る人間はそうはいないがな」
「ああ……俺も知らなかったしな」

 そうそうとイビルアイは話を続ける。

「その書物には10位階までの魔法の記録があるんだが……実のところ全部で11位階まで記載されているらしいぞ。11位階の魔法はたった1つしか記載されてなかったみたいだがな。私もこの話は伝え聞いただけなので、本当に1つしか載ってないのか。はたまたはその他の11位階の魔法を見逃したのかまでは知らん」
 
 クライムの喉がごくりと鳴る。
 恐らくは今の話は知る人ぞ知るというレベルのものだ。下手すればそれだけで破格の情報料が発生しかねないほどの。冒険者という情報の大切さを知る者がこんな重要な話を只で漏らしていいのだろうか。そんな心配さえクライムには生まれてしまう。
 そんな不安にも似た感情を誤魔化すように、クライムはイビルアイに問いかけた。

「そのネームレス・スペルブックを求めたりはしないのですか?」

 それがどれほどの宝か漠然とだが理解できるからの、そして最強クラスの冒険者である彼女達なら届くだろう宝だと思っての質問だ。
 それに対してイビルアイは馬鹿をいうなといわんばかりに、鼻で笑う。

「ふん。それを見た奴の話では、強固な魔法の守りがあるため、正統な所有者以外は触れることすら出来ないという話だ。流石にそれほどのアイテムを欲するほど、私は愚かではない。8欲王のような愚かな死はゴメンだしな」
「13英雄の武器を持つことで知られる人物がリーダーを務めるパーティーですらそうなんですか?」
「……桁が違うそうだぞ、あれは。古今東西、全てのマジックアイテムを束ねたに等しい力を有しているとか」

 まぁ見た人間からの話なので、私は詳しくは知らないがな。そういって話を終えるイビルアイ。

「そんなわけで、魔法の勉強をしっかりと収めるんだな」
「分かりました」

 クライムの返事を聞き、イビルアイが珍しいことに少しだけ迷ったような素振りをしてから、口を開いた。

「力を欲してるからといって、人間をやめるような方法を取るのはよせよ」
「人間を辞めるですか……物語にあるような悪魔との融合とかですか?」
「それもあるし、アンデッド化や魔法生物化といったものもそうだな。特にアンデッド化が最も有名か」
「そんなこと普通の人間にはできませんよ」
「そうなんだがな。……アンデッドへと変化すると、心も歪む場合が多い。理想に燃え、それを適えるための手段であったはずが……肉体の変化に心が引っ張られおぞましいものへと変わるんだ」

 仮面の下の声がはっきりと分かる1つの感情に彩られた。それは憐憫である。
 誰かを思い出しながらのイビルアイの言葉には非常に重いものがあった。それをガガーランが眺め、やけに明るい声を出す。

「朝起きたらクライムがオーガになってたら、姫さんが驚愕すんだろうなぁ」

 そのガガーランの発言に、イビルアイは裏を意味をちゃんと受け取ったのだろう。再び感情の読めない声へと調子を戻す。

「……確かにそれも1つの手だな。変化系の魔法を使えば一時的な変化ですむ。はっきり言うがそれも1つの手だぞ。肉体能力の向上という意味では」
「それはちょっと勘弁して欲しいです」
「強くなるという意味では純粋に効果的だ。人間という生き物自体は、さほど能力的に高いわけではないからな。同じだけの才能を持つなら基礎となる肉体能力が高い方が有利だ」

 それは当然だ。技量が同じなら肉体能力の高い方が有利なのだから。

「実際、かの英雄である13英雄は人間以外の種族が多かった。例えば旋風の斧を振るいし戦士はエアジャイアントの戦士長だし、祖たるエルフの特徴を持ったエルフ王家の者がいれば、我らのリーダーの持つ魔剣キリネイラムの元々の持ち主――4大暗黒剣の所持者であった暗黒騎士は悪魔との混血児だ」
「4大暗黒剣ですか……」

 子供が13英雄ごっこをするとなると、2、3番目の人気者となる暗黒騎士は4本の剣を持っていたとされる。それは邪剣・ヒューミリス、魔剣・キリネイラム、腐剣・コロクダバール、闇剣・月光喰い、である。13英雄という存在は御伽噺の領域の存在だが、暗黒騎士はその中で最も現実味に溢れた存在なのだが、それは4大暗黒剣の内の1本をもっている者が、王国最高の冒険者チームのリーダーであることに起因する。
 そしてその言葉にガガーランが反応した。

「無限の闇を凝縮し生み出された最強の暗黒剣、魔剣キリネイラムか……あのよぉ、全力で力を解放すると、1つの国を飲み込む漆黒のエネルギーが放射されるってマジなのか?」
「なんだそれは?」

 困惑したようにイビルアイ。

「うちのリーダーがこの前、1人の時に言ってたんだよ。パワーを全力で抑えるのは自らのような神に仕えし、女性で無いとうんぬんかんぬんって」
「そんな話は聞いたことが無いが……」不思議そうに首を傾げるイビルアイ「持ち主が言ってるのだから真実かもしれんな」
「なら暗黒の精神によって生まれた、闇のラキュースもマジもんなのか?」
「何?」
「いや、この前、1人でぶつくさ言っていてよぉ。なんか気付いてないみたいだからどうしたのかと盗み聞きしていたら、そんなこと言っていてな。油断すれば闇のラキュースが肉体を支配し、闇の魔剣の力を解放してやるとかやばいこと言ってんだよ」
「……可能性はないとは言えないな。一部の呪われたアイテムが所有者の精神を奪うというのはありえる話だ。……ラキュースが支配されたら厄介ごとではすまんぞ。それで……何を話していたのか尋ねたか?」
「ああ。直ぐに尋ねたさ。そしたら顔を真っ赤にして、心配するなって」
「ふむ。呪いを払うべき神官が、呪いのアイテムに支配されるなんて恥ずかしいだろうな」

 クライムは無表情ではいられなくなり、眉を顰める。
 今の話を聞く限り、ラキュースが邪悪なアイテムに支配されつつあるかもしれないということだ。先ほどまでいた場所のことを考えれば、焦燥感は強くなる。

「……ラナー様が危ない?」

 今すぐに飛び出そうとするクライムをイビルアイが抑える。

「慌てるな。今すぐどうにかなるという問題ではないだろう。例え闇の力に支配されそうになっても、我らのリーダーが知られないうちに支配されるはずが無い。私達に何も言わないということは恐らく支配しきれると踏んでいるからなのだろう。しかし……あの剣にそんな能力があったとは……私も知らなかったぞ?」

 イビルアイは自らの蓄えた叡智にわずかな自信の喪失を感じる。そして満足するのではなく、より知識を集めるべきかと兜の緒を締める。

「一応、念を入れてアズスさんに伝えておくか?」
「ライバルの手を借りなくてはならないというのは少々口惜しいが……姪のことだ、伝えておいた方がいいだろうな」
「うんじゃ、さっそく動いておくか?」
「うむ。ラキュースをいつでも支援できる準備は整えておくべきだ」

 ガガーランとイビルアイが立ち上がる。それにあわせてクライムも立ち上がった。

「わりぃな、クライム。色々とヤリあいたいんだけどよ、そんなことを言ってる余裕がなくなっちまったぜ」
「いえ、気にしないでください。ガガーラン様」

 ガガーランがじっとクライムを見つめ、疲れたような笑いを上げる。

「まぁいいか。うんじゃ、帰るんだろうからよ、うちのリーダー頼むわ。よろしくな、童貞」



 ■



 王城への帰り道、クライムは思案しながら歩を進める。考え事はラキュースという人物がラナーの近くにいることへの不安だ。ラキュースという人物は最高峰の冒険者のパーティーの1人であり、リーダーだ。そんな人物がもし呪いに飲み込まれれば、その結果がどうなることか。一介の兵士であるクライムに予測することは出来ないが、物語でよくあるパターンは血に飢えて暴れだすというものだ。
 ラキュースが暴れだした場合、クライムに止められるはずが無い。それが出来るのは恐らくは王城内ではガゼフぐらいだろう。そう考えると、確実にラナーに被害が及ぶと思われる。
 イビルアイは呪いに簡単に飲み込まれることは無いだろうと判断していたようだが、もしかするとティアという人物をつれてきていたのは呪いに支配される可能性も考えてではないだろうか。

 クライムは無表情を壊し、眉を顰めた。
 ラナーに進言し、ラキュースとの会話を打ち切ってもらうべきか。
 現在、2人の知者が様々なことを相談しあい、重要な案件についての方針を決めているのだろうが、クライムからすればそれ以上にラナーの安全の方が重要だ。
 ただ、問題は下手するとラキュースの顔を潰しかねないことだ。呪いを制御できると判断しているのに、ど素人が下手な口を挟んで、友人たる王女を引き離したら、面目丸つぶれだ。

 クライムは逡巡する。そして結論を出す。
 やはりクライムの知る限り最高の叡智を持つ者であるイビルアイを信じるべきだろう、と。
 
 そう決心したクライムの足が少しだけ速くなる。とりあえずの方向性は決まったのだが、不安と焦りが速度を速めているのだ。
 そんなクライムを足を止めようというのか、前方に変わったものを発見してしまう。それは人だかりであり、2人の兵士が困ったようにその様子を眺めている光景だった。
 人だかりの中心からは騒ぐ声。それも真っ当なものではない。
 聞こえてくるのは怒声とも笑い声ともいえないものと、何かに対する殴打音。人だかりからは死んでしまうとか、兵士を呼びに行った方がという声が聞こえてきた。人の所為で見えないが、殴打音やそういった話からすると何らかの暴力行為が行われているのは確実だ。

 クライムは表情を硬く凍らせると兵士の元に歩く。

「何をしている」

 突如、背後から声を掛けられた兵士は驚き、クライムへと振り返る。
 兵士の武装はチャインシャツにヘルム、そしてスピアだ。チェンシャツの上からは王国の紋章の入ったサーコートのようなものを羽織っている。王国の一般的な兵士の格好ではあるが、その兵士からは錬度の低さを感じさせる。
 まず体躯はさほど立派なものではない。次に髭は綺麗に剃られてなく、チェインシャツも磨き抜かれてないために薄汚れた感じがしていた。全体的にだらしなさが漂っていた。

「お前は……」

 兵士は自らよりも年下のクライムに突然声をかけられたことに対する、困惑と多少の憤怒を感じさせる声で尋ねてきた。

「非番中の仲間だ」

 言い切るクライムに、兵士は困惑の色をその顔に浮かべる。年齢的には自らよりも下だが、まるで自分の方が立場的に上だという雰囲気をクライムが匂わせているからだ。
 とりあえずは下に出るほうが、賢いと判断した兵士達は、背筋を伸ばす。

「なにやら騒ぎが起こっているようでして」

 それぐらい分かると、クライムは叱咤したい気持ちをぐっと抑える。王城警護の兵士とは違い、通常の兵士は平民が取り立てられたもので、さほど訓練をつんだものではない。言うなら平民に毛が生えた程度でしか無いのだ。
 おどおどとしている兵士から人だかりの方へ、クライムは視線を動かす。この2人に期待しても良いものは返ってこない。ならば自分が動けばよい。

「お前達は待っていろ」
「はっ」

 そう決心したクライムは、兵士の困惑した声を背に人だかりに歩を進める。

「通してくれ」

 そう言いながら掻き分けるように無理矢理体を押し込んでいく。多少の隙間はあるといっても、クライムにその間をすり抜けるようなことは出来ない。いや、そんなことが出来る人間がいたらそっちの方が異常だ。

 必死に掻き分ける中、中心の方から声が聞こえる。

「……失せなさい」
「あ?」
「もう一度言います。失せなさい」
「てめぇ!」

 不味い。
 まだ見えないが暴力が振るわれようとしている。
 起こりうる事態の予測に、更に急いで人を掻き分けたクライムの開けた視界に飛び込んできたのは、1人の老人の姿である。そしてそれを取り囲もうとする男達だ。男達の足元にはボロ雑巾のようになった子供の姿がある。
 老人は身なりの良い格好をしており、どこかの貴族やそれに従うようなそんな品の良い人物のようだった。そして老人を取り囲もうとする男達は皆、屈強であり、酒に酔った雰囲気を漂わせている。どちらが悪いのか、一目瞭然の光景だ。
 男の1人、最も屈強そうな男が拳を強く握り締める。老人と男、比べればその差は圧倒的だ。その胸板、腕の太さ。そして漂わせる暴力の匂い。男が殴りつければ、老人の体なんか簡単に吹き飛ぶだろう。それが予測できる周りの人間達は、老人の身にこれから起こる悲劇を思い、微かな悲鳴を上げる。
 ただ、その中にあってクライムだけが、微妙な違和感を感じていた。
 確かに男の方が屈強そうに見える。だが、絶対的強者の雰囲気という奴は、老人の方から漂ってくるような気がしたのだ。
 一瞬だけ呆け、その短い時間の間に老人に対して男が暴力を振るおうとするのを、止めるチャンスをクライムは失う。そして――

 ――男が崩れ落ちた。
 クライムの周りから驚きの声が上がる。誰もが老人では勝てないと思っていたのだ。しかし蓋を開けてみたら、結果はまるでその逆だ。これで驚くなという方が嘘だろう。

 老人はピンポイントで、男の顎を高速で揺らしたのだ。それもかなりの速度で。クライムのような動体視力を鍛えていない人では、殴ったとしか理解できない早さだった。

「まだやりますか?」

 老人の静かな、深みのある声が静かに男達に問いかける。
 その冷静さ、そして見かけによらない腕っ節。その2つを持ってすれば、男達の頭から酒気を抜くのは容易いことだった。いや、周囲の人間だって飲み込まれているのだ。男達にもはや何かをしようという意思は完全に無い。

「あ、ああ。お、おれたちが悪かった」

 数歩後ろに下がりながら、男達は口々に詫びを入れる。そして無様に地べたに転がった男を抱え逃げていく。クライムはその男達を追おうという意志はなかった。普段であればあったかもしれないが、その老人の姿に心を奪われたように動けなかったのだ。

 一振りの剣のようなそのピンと延びた姿勢。戦士であれば誰もが憧れるような、そんな姿だったのだ。

 老人は子供のほうに一歩だけ足を進め、そして首を振る。それから踵を返し、歩き出した。その際、周りにいた人間の1人に指さす。

「……その子を神殿に。胸の骨が折れている場合もあります。それを注意して運ぶ際は、板に載せて余り揺らさないように」

 それだけ言うと老人は何も言わずに歩き出した。人だかりは一直線に割れ、その老人のための道を開く。誰もがその老人の背中から目を離せない。それほどの姿だったのだ。
 クライムは慌てて、転がった少年に駆け寄る。そしてガゼフから貰ったポーションを取り出した。

「飲めるか?」

 尋ねるが返事は無い。というより完全に意識をなくしている。
 クライムは蓋を開け、少年の体に降りかける。ポーションは飲み薬と思われがちだが、別に振りかけたとしても問題は無い。魔法とはかくも偉大ということだ。
 まるで肌に吸収されるように、溶液は少年の体内に吸い込まれる。そして少年の悪かった顔色に赤みがかった色が戻った。
 クライムは安心したように1つ頷く。
 ポーションを使ったのだから恐らくは問題はもはや無いはずだ。だが、念のために神殿まで連れて行ったほうが良いだろう。遅れてやってきた兵士の姿をクライムは確認する。先ほどの2人にさらに3人ほど増えている。
 やっと来た兵士たちに周囲の人間の非難の視線が向けられるが、こればかりは仕方が無いことだろう。様子を伺って、安全になったから来たように見えたのだろうから。
 クライムは居心地が悪そうにしている兵士の1人に声をかける。

「この子供を神殿に」
「一体何が……」
「暴力行為が行われていたんだ。治癒のポーションを使ったから問題はないとは思うが、念を入れて神殿まで連れて行って欲しい」
「あ、はい。分かりました」

 クライムを上役として命令を聞くのは、先ほどの兵士が後から来た兵士に伝えているためだろう。実際はクライムと兵士は同格なのだが、その辺まで説明してやる必要は無い。

「宜しく頼む」
「ではその暴力行為を行っていた者はどうしましょうか?」

 クライムは男達が去っていった方向に視線を送る。流石に気を失った男を運んでだと速度的にも遅い。直ぐにその背中が見つかる。

「あの男達だ。警備詰め所まで連行してくれ」
「了解しました」

 兵士が2人駆け出す。その姿を確認し、クライムはここで自分がすべきことは終わりだろうと判断した。王城勤務の兵士が、これ以上、他の職場に乗り込んでどうこうするのは止めた方が良いだろうから。

「この場で何が起こっていたかを最初から見ていた人間から、詳しい話を聞いてもらえるか?」
「了解しました」
「では後は任せた」

 命令されることで自信を持ってきびきびと動き出した兵士を確認し、クライムは立ち上がり駆け出す。一体どこにという兵士の声が届くがそれを無視してだ。

 老人が曲がった通りまで来ると、クライムは足の速度を落とす。
 それから老人を追って歩き出した。何故追っているのか。それは本当に下らない理由だ。
 通りを進んでいく老人の背中が目に入る。
 早く声をかければ良いとは思うのだが、その勇気が今一歩わかない。老人の背中に目がついているのではないのか、そんな威圧感とも取れるようなものが押し寄せて来ている為だ。目には見えないが分厚い壁のようなものを感じてしまったのだ。

 老人は道を曲がり、薄暗い方、薄暗い方と歩き出す。クライムはそれに続く。後ろについて歩きながらも、クライムは一度も話しかけることが出来なかった。
 これじゃ尾行だ。
 クライムは自らがやっていることに頭を抱える。幾ら話しづらいからといってもこれは無いだろうと。状況を変えようと、悶々としながらクライムは後に続く。
 やがて人の気配が完全に無いような裏路地に差し掛かり、クライムは勇気を振り絞った。

「――すみません」

 くるりと振り返った老人。
 髪は完全に白く、口元にたたえた髭も白一色だ。だが、その姿勢はすらりと伸び、鋼でできた剣を髣髴とさせた。堀の深い顔立ちには皺が目立ち、そのため温厚そうにも見えるが、その鋭い目は獲物を狙う鷹のようにも見える。
 どこかの大貴族、もしくはそれに連なる人物のような品の良さを漂わせている。
 クライムの見てきた貴族でも、これほどの人物はそうはいない。

「何か御用ですか?」

 老人の多少しわがれた声だが、凛とした生気に満ちている。目には見えない圧力が押し寄せてくるようで、クライムはごくりと喉を鳴らす。

「あ、あ」

 老人の迫力に押され、クライムは言葉が出ない。そんな姿を見て、老人は体に張り詰めていた力を抜いたようだった。

「あなたは一体?」

 口調に柔らかさのみが残る。それでようやく圧力から開放されたように、クライムの喉が普通に動くようになった。

「……私はクライムというもので、この国の兵士の1人です。本来であれば私がやらなければならなかったことを代わりにやっていただきありがとうございました」

 深々と頭を垂れるクライム。僅かに老人は考えるように目を細め、クライムの言ってる内容に思い当たったのか、あぁ、と小さく呟く。

「……構いません。では私はこれで」

 話を打ち切り歩き出そうとする老人に、頭を上げたクライムは問いかける。

「このようなおこがましい願いを口に出す私を笑って欲しいのですが、もしよければ先ほどの技を伝授してもらえないでしょうか?」
「……どういう意味でしょうか?」
「はい。私はより強くなれるよう、肉体や知識を求めているのですが、あなたの先ほどの素晴らしい動きを見て、その腕を少しでも教えてもらえればと思って今、お願いしました」
「私にメリットが……いえ、確かあなたは兵士だとかいいましたね。では少しお聞きしたいことがあるのですが、つい先日ある女性を拾ったのですが――」

 それからセバスと名乗った老人の話を聞かされたクライムは、激しい怒りを覚えた。
 ラナーの布令した奴隷解放をそのように悪用するものがいた、そして今だ何も変わっていないそんな現状に不快感を隠せなかったのだ。
 いや、違うクライムは頭を振った。
 国の法律で奴隷の売買は禁止されている。しかし、奴隷の売買じゃなくても、借金の方で劣悪な環境下で働かせるというのは珍しい話ではない。そういう抜け道がごろごろとあるのだ。いや、そういう抜け道があるからこそ、奴隷の売買禁止という法律はなんとか制定されたのだ。
 ラナーのした行為はほぼ無駄に等しい。そう寂しい思いが脳裏を過ぎり、それを振り払う。とりあえずは今考えなくてはならないのは、セバスの状況だ。

 そしてクライムは眉を顰めた。どうしようも無い状況下であるために。

 虐げられた女性と考えると味方したくなるので、この場はもっと別のものに置き換えて考えよう。
 屈強な炭鉱夫がいたとしよう。彼は炭鉱の劣悪な環境下によって肺を病んでしまった。その結果、もはや死ぬばかりとなった体だった。そこをセバスが拾って癒した。そこに現れたのが炭鉱主だ。そしてその男を渡せと言う。契約ではその男は炭鉱で働かなくてはならないとなっているから。
 さて、セバスが炭鉱夫を庇って渡さないことは良いことなのだろうか。
 人間的な面で見れば弱者の救済という正しい行為だろう。しかし国の法律からすれば、その契約の内容にもよるが炭鉱夫の契約違反の可能性があり、もしくはセバスによる監禁といわれても仕方が無いことだ。
 王国に働く人間の衛生環境まで考えられた法律は無い。そのため、炭鉱夫が肺を病んだとしても、それは仕方ないことであり、炭鉱主が責められることは無いのだ。したがってこの場合悪いのは炭鉱夫もしくはセバスだ。

 したがって女性の問題でも、セバスの方が圧倒的に不利な立場に置かれている。確かに女性の契約内容を調べることで反撃に出ることは出来るだろうが、それだけの行為を行う存在――犯罪者が、その辺の手回しが抜け落ちているとは考えられない。

 法律上訴えられれば、セバスの敗北は必至だ。
 彼らが訴えでないのは、そうしない方がよりふんだくれると判断したからだろう。

「それであなた方の力でどうにかなりますか?」

 圧力をかけて彼女に関わらないようにしろというのだろう。それは出来るか出来ないかで言えば……出来ない。
 現在王国は2つに別れている。もし敵対派閥であった場合、王女が圧力をかけた場合、勢力を削ぎ取ろうとしていると思われる可能性は非常に高い。もしそう思われなくても、何らかの譲渡や交換条件を提示してくるだろう。女性1人ぐらいなら、と簡単に考えることは出来ないのだ。
 権力の行使というのはそう簡単なものではない。特に王国のように2分している場合は。
 では、その女性は助けるだけの、貴族との取引をしてまで助けるだけの価値があるのか。
 いや無いだろう。彼女を助けるメリットは無いと断言できる。その場所の情報を得るのならばもっと別の手段があるし、その女性しか知らないような情報も期待できないだろう。

 クライムは吐き捨てたくなる気持ちをぐっと堪える。
 メリット、デメリットを考え、1人の人間の人生がどうなろうと見ない振りをせざるをえない自分に対して、激しい怒りを感じたためだ。
 ただ、クライムはラナーに使える兵士。ラナーのためならば何を犠牲にしても惜しくは無い。見ず知らずの女性1人なんか言うに及ばず、切り捨てて当然だ。

 ただ、彼女に関わらないように圧力をかけることは出来ないが、法律を盾に迫っているなら、法律を武器に彼女を助けることも出来る。

「……主に聞かなくてはならないですが、その女性を主の領地に逃がすというのはどうでしょうか?」
「……領地に逃がして問題が無いでしょうか?」
「無いと思われます。奴隷売買は違法であり、その法律違反をあなた方が行ったという名目で、主自身が取り締まったとすれば良いかと」
「……そうなると私の主人に迷惑がかかるのでは?」

 クライムは黙る。セバスの主人は商人であるいう話だ。噂等が生じる可能性は高く、確実に迷惑をかけるだろう。そして女性を失った分、なんらかの見せしめ的な行為をとってくる可能性はある。

「それ以外の方法は無いのですか?」
「難しいかと」

 クライムは即答する。あってもラナーに迷惑をかけるものしかない。

「……彼女の話では、その場所には他にもいるそうです。男女に関係なく」
「…………」
「あなた方の力では助けられないのですか?」

 セバスの口調自体は強いものでなければ、感情を込めたものでもない。どちらかと言えば静かで優しげなものだ。しかし、セバスの言葉の1つ1つがクライムの心を抉るようだった。

 無理なのだ。
 そんなことをしている人間たちだ。それなりの手段を様々な権力機構につぎ込んでいるだろう。そしてその後ろにいる貴族もかなり権力を持っている筈だ。強権を発動しての調査や救出行為は、下手すれば派閥間の全面的な抗争に発展する可能性を秘めている。根回しが既に行われている中に、根回しをせずに飛び込むというのは、色々と揉めるのが基本である。
 もし強権を発動した場合、またその強権が発動されるかもしれないと、敵対派閥は思う可能性がある。そうなると王国を2分する内戦に繋がりかねない。
 それをラナーの手で起こさせるわけには行かない。
 そのためクライムは何も言わない。いや、言えない。

「申し訳ないですが……」

 頭を垂れるクライムをセバスは黙って見つめる。

「分かりました。ですが、彼女を逃がすことは出来るんですね?」
「それは主に聞いてみないと確約はしかねますが、可能かと思われます」
「了解しました」

 静寂が2人の間を流れる。
 クライムは何も言わない。結局のところセバスの真に望んでいることはこちらは一切出来ないのだ。そんな人間がどんな面をして、セバスに願い事を言えというのか。

 重い沈黙の帳が下り、やがてその重圧に耐えられなくなったクライムが口を開こうとしたその瞬間、セバスがクライムに質問を問いかけた。

「1つ聞かせていていただいても良いですか? 何故、あなたは強くなりたいのですか?」
「え?」
「あなたの先ほどの頼みである。訓練をつけて欲しいという頼みに関しての質問です。その答えが納得の行くものであれば訓練をつけても構いません」


 セバスの質問に、クライムは目を細める。
 何故、強くなりたいのか。

 クライムは両親の顔を知らない捨て子だ。王国内でこれはさして珍しくない。そして泥の中で死んでいくこともまた珍しいものではない。
 クライムも雨の日にそうやって死ぬ運命だった。
 ただ――クライムはあの日、太陽に出会ったのだ。薄汚く、薄暗がりを這い回るだけの存在は、その輝きに魅入られたのだ。

 幼い頃は憧れで、そして成長するにつれ、その思いは形をより強固のものへと変えていった。

 ――恋である。

 この気持ちは殺さなくてはならないものだ。吟遊詩人が歌う英雄歌のような奇跡は、現実の世界では決して起こらない。太陽に手が届く人間がいないように、クライムの恋心は決して届かない。いや届いてはいけない。
 クライムの最も好きな女性は他人の妻となる定めなのだ。王女である彼女が、クライムのような身分不確かな平民以下の存在のものになるはずが無い。
 結婚適齢期であるラナーが結婚して無いのが、そして婚約者がいないのが不思議なのだ。
 もし王が倒れ、王子が国を継げば直ぐにラナーはどこかの大貴族と結婚させられるだろう。恐らくはその辺の話も既に王子と大貴族の間で出来ているはずだ。もしかすると周辺国家のどこかに政略の一環として出されるかもしれないが。

 今、この瞬間――それは時を止めるだけの価値があるような、そんな黄金の時間なのだろう。

 もし訓練――強くなろうという努力に時間を費やさなければ、その黄金の時間を少しでも長く味わえる。
 クライムは幾度も言うように才能の無い、単なる凡人だ。今の強さは限界を思わせる訓練の結果得たものだ。年齢が15ぐらい――捨て子であるため、正確なところはわからない――であるということも考えれば、これ以上の負荷をかけるような訓練は意味が無いかもしれない。より肉体が出来上がるまでは。
 またクライムは単なる兵士としてはかなりの強さを持つ。ならばここで満足して、訓練する時間を潰してラナーの近辺に付き従った方がより良い時間の使い方だろう。
 そう、そして残り少ない黄金の時間を有用に使えるといってもいいはずだ。

 しかし――本当にそれで良いのか?

 クライムは太陽のごとき輝きに憧れた。それは嘘でもなく、間違ってもいない。クライムの心からの思いだ。
 ただ――

「男ですから」

 クライムは笑う。

 そうだ。クライムはラナーの横に並びたいのだ。太陽は天空に燦々と輝いている。人では決してその横には並べない。それでもより高く昇り、少しでも太陽に近い存在になりたいのだ。
 いつまでも憧れ、見上げるだけの存在ではいたくない。

 これは少年のつまらない、だが、少年に相応しい思いだ。

 憧れる女性に相応しいだけの男になりたい。

 その思いを抱いているからこそ、どれだけ仲間のいない生活にも、どれだけ苦しい修行にも、睡眠時間を削っての勉学にも耐えることが出来るのだ。

 愚かな思いだと笑いたいのならば、笑えばよい。
 本当に人を愛した者でなければ、つりあいの取れるような男になりたいと思ったことの無い者には決して理解できないような思いだろうから。

 真剣にその様子を観察するセバスは、目を細める。クライムの短い答えに込められた、無数の意味を理解するように。
 それから1つだけ頷いた。

「分かりました。1つ修行を付けてあげましょう」

 信じれないような思いにクライムは目を見開き、それから感謝の意志を示す。だが、セバスはそれを手で差し止めた。

「ただ申し訳ないですが、見たところあなたには才能が無い。ですので本当に修行をつけるとなるとかなりの時間になってしまいます。ですが、私にはそれほどの時間はありません。ですので短期で効果がありそうな修行を付けたいと思うのですが……かなり厳しいですよ?」

 クライムの喉が1つ鳴った。
 セバスの瞳に宿った色が、クライムの背をぞくりと震わせる。本気になったガゼフを超えるような、そんなありえない力を持った眼光だったのだ。即答出来なかったのは、そのためだ。

「はっきり言います。死ぬかもしれませんよ?」

 冗談ではない。
 クライムはそれを直感する。死ぬのはかまわない。ただしそれはラナーのためならばだ。決して自分勝手な理由で命を落としたいとは思わない。
 臆病者ではない。いや臆病者なのかもしれない。

 1つ唾を飲み込み、クライムは迷う。暫しの時間、遠くの喧騒が聞こえるほどの静寂が周囲を支配する。
 それからクライムはセバスに問いかけた。

「死ぬ可能性はどの程度なのですか?」
「……さて。それは分かりません。あなたの心次第ですから。……もしあなたに大切なものがあるのならば、這いつくばっても生にしがみ付きたい理由があるのならば大丈夫でしょう」

 武術に関することを教えてくれるのではないのか? そんな疑問がクライムの脳裏に浮かぶが、現時点で問題となるのはそこではない。セバスの言葉の意味を考え、飲み込み、そして答えを出す。

「なら、お願いします」
「死なないと判断しましたか」

 這いつくばっても生にしがみ付きたい。それならばまさにクライムのことだ。そんな自信をクライムの目を覗き込むことで読み取ったのだろう。セバスは大きく頷く。

「了解しました。ではここでその修行を行いましょう」
「ここで、ですか?」
「ええ。時間もほんの数分もかかりませんよ。武器を構えてください」

 一体、何をするのか。未知への不安と困惑、そして僅かばかりの期待と好奇心で心をまぜこぜにしたクライムは、そんなことを思いながら剣を抜く。狭い通りに剣が鞘走る音が響いた。
 正眼に剣を構えたクライムをセバスはじっと見つめる。

「では行きますよ。意識をしっかり持ってください」

 そして次の瞬間――
 ――セバスを中心におぞましいものが吹き荒れる。

「あ……」

 クライムにもはや言葉は無い。セバスを中心に起こったもの、それは殺意である。いや、殺意といわれる部類に属するものだという方がより正解かもしれない。クライムの心臓を一瞬で握り潰したのではと思えるような、色の付いたような気配が怒涛のごとく押し寄せてくるのだ。
 直感できる。
 それは人間ごとき下等な生物が起こせるようなチャチなものではない。もっと上位の存在が起こすようなそんなレベルのものだ。
 殺意の黒き濁流に翻弄され、クライムは自らの意識が白く染まりだすのを感じる。あまりの恐怖に意識を手放すことで、受け流そうとしているのだ。

「……こんなものですか。何が男なんでしょうね?」

 薄れゆくクライムの意識の中、やけに大きくセバスの失望したような声が聞こえた。
 その言葉の意味、それはどんなものよりも大きくクライムの心に突き刺さる。ほんの一瞬だけでも、前方から来る恐怖を忘れさせるほど。
 バクンと1つ心臓が大きく音を立てた。

「ふぅ!」

 クライムは大きく息を吐き出す。
 あまりにも怖くて、逃げ出したくて。でも涙目で必死に耐える。剣を持つ手は振るえ、剣先は狂ったように動いている。全身が引き起こす震えがチェインシャツから騒がしい音を響かせていた。
 それでもクライムはガチガチと震える歯を必死に噛み締めようと、セバスの恐怖に耐えようとする。
 そんな無様な姿をセバスは鼻で笑い、目の前まで上げた右拳をゆっくりを握り締めていく。瞬き数回にも及ばない時間の経過後、まるでボールのような丸い拳がそこにはあった。
 それがゆっくりと弓を引き絞るように、後ろを下がっていく。
 何が起こるか、それが理解できるクライムは、がたがたと震えながら、顔を左右に振る。無論、そんな意思表示はセバスには届かない。

「では……死んでください」

 確定していることを教えるような冷たい口調でセバスは言う。限界まで引き絞られた矢が放たれるように、ゴウッ、という風を引き裂く音を立てて、セバスの拳が走る。
 間延びした時間の中、セバスの拳がクライムの顔面めがけ突き進む。
 これは即死だ。
 クライムは直感した。自らの身長を遥かに凌駕する巨大な鉄球が、猛速度で突き進んでくるような完璧な死のイメージがクライムの脳裏を支配する。剣を上げて盾にしたところで、セバスの拳はそれを容易く砕くだろう。
 もはや全身は動かない。あまりの緊張状態に置かれたことで体が硬直しているのだ。
 最初から殺すつもりだったのか。
 クライムの切れ切れになった思考が必死に回転し、そんなことを思う。

 ――死は絶対である。

 クライムは諦め、そして苛立つ。
 ラナーのために死ねないのなら、なんであそこで死ななかったと。
 あのときの憧れ。そしてそれからの憧れ。それを捨てることは許されない。全てはラナーのために。

 苛立ちは激しい怒りへと転じ、なみだ目を浮かべながら、クライムの体を縛る死への恐怖という鎖を砕く。
 もはや遅いかもしれない。
 セバスの拳を避ける時間は無いかもしれない。
 それでも動かなくてはならない。
 
 クライムは体を捻るように、必死に動く。普段に比べるならそれは鈍亀の動きだが、クライムの全身全霊をかけた必死の動きだった。剣を上げないのは、自らが持つ剣程度でセバスの拳を止めることはできないと直感しているためである。
 そして――

 ゴゥッ、という音を立てて、セバスの拳はクライムの顔の横を通り過ぎる。それから静かな声が届いた。

「おめでとうございます。死の恐怖を乗り切った感想はどうですか?」

 ――――。

 ――言われた意味が分からなく、クライムは呆けた顔をする。

「どうでした、死を目の前にした気分は? そしてそれを乗り越えられた気分は?」

 クライムは荒い息で呼吸を繰り返しながら、何かが抜け落ちたようなぼんやりとした顔でセバスを見た。殺意なんか嘘のように無い。セバスの言葉の意味が脳に浸透し、ようやく安堵が生まれる。
 まるでその激しい殺意が支えていたように、クライムの体が糸を切った人形のように崩れ落ちる。
 路地に這い蹲り、新鮮な空気を貪るように肺に送り込む。

「……ショック死しなくて良かったですよ。時にはあるんです、死を確信してしまったがゆえに、生命を維持することを諦めてしまうということが」

 クライムの喉の奥にはいまだに苦いものが残る。これが死の味かと確信を持つ。

「あと数度繰り返せば、並の恐怖なら乗り越えるようになるでしょう。ですが注意しなくてはならないのは、恐怖は生存本能を刺激されるものです。それが完全に麻痺していると、絶対に勝てない戦いに身を投じかねません。その見極めをしっかりと行う必要があります」
「……し、失礼ですが、あなたは何者なんですか?」

 喘ぐようにクライムは下から問いかける。

「それはどういう意味ですか?」
「あ、あの殺気は常人が出せるものでは無いように思います。あなたは一体……名高い方だとは思うのですが……」
「ああ、有名ではないと思いますよ。単に腕に自信があるだけの老人にしかすぎません。今はね」

 クライムは微笑むセバスの顔から目が離せない。温厚に笑っているだけのようだが、ガゼフを遥かに凌ぐ絶対的な強者のようにも思われたのだ。いや、もしかするとそうなのかもしれない。
 ガゼフという近隣国家最強の戦士を遥かに凌ぐかもしれない存在。そして今はということは昔はそうではなかったということなのだろうか。王国最強以上の者――

 ――クライムは自らの好奇心をそこで満足させる。これ以上は踏み込んで良い問題ではないと考えて。
 それでもセバスというこの老人は一体何者なのかという疑問だけは強く心に残る。もしかして御伽噺の13英雄とかなのか。そんな思いすら起こるほど。
 セバスはそんなクライムの驚愕の視線をスルーして問いかける。

「ではそろそろ、もう一度やりましょうか?」



 ■



 クライムと別れ、セバスは帰宅の道をたどる。あれから数度繰り返したことによって、そこそこの時間がたってしまった。
 とりあえずはクライムと連絡をつける方法は出来たので、あとはツアレをクライムに渡して安全を図るべきだろう。それから先は臨機応変に対応していくしかない。
 頭を悩ませながらもセバスは館に到着する。
 扉を開けようとする手が止める。扉の向こう、直ぐの場所に誰かがいる。気配はソリュシャンのものだが、何故扉の直ぐの場所にいるのか読めなくてだ。
 何かの非常事態なのだろうか。
 セバスは内心に嫌なものを感じながら扉を開ける。そしてあまりにも想定外の光景を目にして硬直した。

「おかえりなさいませ、セバス様」

 そこにいたのはメイド服を着たソリュシャンだ。
 ぞわっとしたものがセバスの背中を走る。
 商人の令嬢という演技をしており、何も知らない人間――ツアレが館にいる中でソリュシャンがメイド服を着る。それは演技をする必要がなくなったからか、もしくはメイド服を着なくてはならない理由があるのか。
 前者ならツアレに何かあった場合、そしてもし後者なら――

「――セバス様、アインズ様が奥でお待ちになられております」

 ソリュシャンの静かな声を受け止め、セバスの心臓が1つ跳ねる。強敵を前にしても、守護者クラスの存在を前にしても平然と対峙できるセバスが、自らの主人が館に来たというだけで緊張したのだ。

「な、なぜ……」

 舌がもつれる様に言葉を紡ぐ。そんなセバスをソリュシャンは黙って見つめる。

「セバス様。アインズ様がお待ちです」

 これ以上言うことは何も無い。そういう態度を見せるソリュシャンに付き従うように、セバスは歩を進める。その歩き方は断頭台へと歩かされる死刑囚のような重いものだった。






――――――――
※ クライムコンセプト。超美人のお姉さんに憧れて、努力する中学生。
 というわけでクライムサイドの話でした。話の展開が遅いですね。まぁ王国側の話をしておかなくてはならないので、申し訳ないですが許してください。次回で王都の話は終えたいなぁ。
 では次回、王都3でお会いしましょう。



[18721] 46_王都3
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/10/02 07:00




 セバスと別れ、戻ってきたクライムはラナーに何があったかを伝える。通りであったこと、セバスの話、そしてセバスが助けたという女性。
 そしてその女性を匿ってもらえるかというクライムの質問に対し、迷いの時間は数秒も無い。即座という言葉が相応しい速度で発された、ラナーの返事は快いものであった。
 
「うん、構いませんよ」
「ありがとうございます」

 優しく微笑んでいるラナーに、クライムは深い感謝と共に頭を下げる。
 王女であるラナーの領地はかなり広く、それを考えれば女性の1人ぐらい匿うことなぞ容易いことだ。領内の外れの方の村にでも入れてしまえば、滅多なことでは情報は漏れないだろう。つまりは彼女の安全はかなりの確率で保証できるということだ。
 これで突然現れたにも係わらず、自らに修行を着けてくれたセバスへの恩義を返せる。そしてラナーがそう判断したということは、迷惑をかける可能性も低いのだろうと、クライムは胸を撫で下ろした。

「クライム……心配した? 私が断ると?」

 僅かに悲しげな色を含んだラナーの言葉に、クライムは弾かれたように頭を上げる。

「そ、そのようなことはありません! お優しいラナー様なら決して断らないとは思っていました。ですが、それによってラナー様にご迷惑をかけては従者として許されることではありません! ですのでもし、心配していたとするなら、ラナー様にご迷惑をかけることに対してです!」

 クライムはあの拾われた日から、ラナーをこの世界でも最も優しい女性の1人であろうと信じている。
 慌てて言葉を紡ぐクライムを見て、微かにラナーは唇の端を優雅に緩めた。その態度に先の発言が冗談だったと悟り、クライムは安堵のため息をつく。
 ラナーという女性を悲しませることがあってはならない。そんなクライムの感情は、憧れの女性を眩しく仰ぎ見たことのある男性ならば理解できるだろう。

「……少しばかりその老人に会ってみたいわね」
「うんうん、でもおじいさんかー、残念」
「……はぁ」

 横で話を聞いていたラキュースが興味を惹かれたように呟く。それに同意するようにティアが頭を縦に振る。
 それは王国最強であるA+冒険者としての意志を含んだ言葉だ。
 クライムが見るところガゼフ級という人物――セバス。そんな人物が居れば情報が耳に入っているはずなのに、A+冒険者である2人ですら名前に覚えが無い。それは興味を惹かれてしかるべき存在だ。

「外見を偽ってるとかありそうね」
「うーん、かもしれないね」
「A+やAクラスの冒険者で老人はいなかったし」
「外見から考えると、世捨て人って線も消えそうだしね」
「なら、女性の件でもう1度会う約束をしております。その際先方にお尋ねして、もし許可をいただければお会いしてみますか?」
「ええ、よろしく、クライム」
「畏まりました」

 クライムはラキュースに頭を下げ、これで1通りの話は終わりだという空気が室内に生まれる。しかしながら、それをラナーは容易くぶち壊した。

「ところで、クライム。本当はもっと言いたいことがあるんでしょ?」

 王女という地位に相応しい、落ち着きながらも豪華なこの部屋の空気がピキリと音を立てて凍りついたようだった。ラキュース、クライムは互いの顔を見合わせ、言葉無く視線を駆使して相談を行う。ティアはぼんやりとその光景を眺めているだけだが、そのぼんやりとした空気はまるで自分に話しかけるなという無言の障壁のようでもあった。

「……何を?」

 ごくりと唾を飲み込み、クライムはラナーに尋ねる。そんなクライムを迎撃したのは不思議そうなラナーの瞳だ。

「クライムはもっと別のことを言いたいんですよね? もっと別のことを私にお願いしたいんですよね?」

 ニコリと笑うラナーに、クライムは冷や汗が背筋を流れるのを感じ取った。
 同じテーブルに座っているラキュースが僅かに怪訝そうに表情を歪め、それから何を言っているのか予測が付いたのか、しかめっ面へと変化する。

 クライムが言いたいことはたった一言。
 助けれないのか。
 それだけである。
 他にも捕らわれている人が居て、それらの人に救いの手を伸ばせないのか。だがしかし、そんな思いを込めた言葉をクライムは告げるすべを持たない。
 目を閉じて知らない振りをすれば、何事も無く全て終わるのだ。多少の罪悪感は残るだろうが、実際に被害が出るよりも良い。

「その様なことは何もございません、ラナー様の勘違いかと」
「そう? クライムの考えていることは大体分かるんだけど」
「で、では今回が初めてお間違いですね。わ、私は何も特別なことを願ってはお、おりません」
「本当に?」

 覗きこむように、ラナーがクライムの顔を伺う。

「は、はっ……その通り、です」

 じわりと額に滲み出した汗を感じながら、クライムは言葉を濁す。ここから先は踏み込んでも利益どころか不利益しか出ない領域だ。ラナーという自らの主人の利益を考えれば、クライムの考えたことは破棄すべきアイデアである。
 ラキュースも眉を顰めているのは、ラナーが言いたいこととクライムの思いを理解しているからだ。

「ねぇ、アルベイン。クライムの言う、セバスさんの拾ったという女性のいた地域から何か調べがつかない?」

 答えの前にはぁ、と1つのため息。

「……あんまり首を突っ込むべき話じゃないと思うけど?」
「なんで?」
「なんでって……」

 無邪気そうに顔を傾げたラナーに、脱力をしたようにラキュースは説明する。

「王都の闇に首を突っ込むのはよした方が良いということ。まぁ、あなたがどうこうされるということはないだろうけど、それでもあんまり良いものは見れないと思うわ」

 困っている人がいて、救いの手を伸ばす。それは素晴らしい行いだ。しかし、事はそんな簡単にはすまない。王族という圧倒的な権力を持っていようともだ。それらの人を救うという行為は、それらを苦しめている存在と敵対する行為に繋がるのだから。
 闇社会というのは欲望によって生じる、社会の腐敗した部分だ。当然、利権関係で王家とだって繋がっている犯罪者だっているだろう。ある意味必要悪な部分があるのだ。それとの敵対行為は弱りつつある王家に大きな落とし穴を作りかねない。
 だからこそクライムも、その他の人を助けるという関係の発言は一切しなかったのだ。

 ラキュースは迷う。
 そういう汚れを王国で最も綺麗な人物に見せてよいのか。そしてそんなものの存在を知って、ラナーという女性が変に動き出したらどうすれば良いのか。
 ――答えは出ない。

「お願い、調べてくれる?」

 じっとラキュースは友人の顔を見つめる。この友人は人の気持ちを理解するのが鈍い女だ。ただ――チラリとクライムに視線を流す――クライムの気持ちだけは異様なほど理解するのが早い。
 もしかして気持ちを理解しない、空気の読めない女というのは演技なんでは無いだろうかと持ってしまうほど。
 いや――。
 ラキュースは被りを振る。いくらなんでも自分や王家を追い込むような演技まではしないだろう。

「無理」
「なら誰かにお願いするから――」
「――止めておきなさい。友人からの警告よ?」
「なら苦しんでる人は見捨てるの?」
「……それは……」
「仕方が無いんじゃないですか? 運が悪いからと諦めてもらうのが一番ですよ」

 元々、イジャニーヤの一員であるティアの発言は容赦が無い。

「民が苦しんでいるのを、見捨てるのが正しい王家の人間の行動なの?」
「…………」
「……むぅ」

 クライムとラキュースは言葉に出せない。
 確かにラナーという女性ならするだろう行為ともいえるからだ。

 黄金と称されるこの女性は民を考え、弱きものを考え、助かろうと足掻くものへ手を差し伸べる。

 そんな女性なのだから。

 クライムは思わず現れてしまいそうになる敬愛の念を必至に堪える。クライム本人としては非常に嬉しいのだが、ラナーのことを考えれば良い行動とはいえないために。
 ラナーとラキュースは見つめあい、そしてラキュースは折れる。

「はぁ、分かったわ。調べてくるから少し待っていて。ティア行くわよ。あなたのコネクションを使って、盗賊ギルドから情報を買ってきましょう」





「調べてきたわ」

 それがものの3時間足らずで帰ってきたラキュースの1言だった。
 先ほどまではドレスを纏っていたのに、今のラキュースは服装を変え、非常に動き安そうな格好をしている。冒険者が鎧の下に着る厚手の服だ。ただ、王女の前にくるということもあって、その中でも充分に綺麗なものを選んでるのだろう。泥や汚れ、あとは血の色といったものが一切無い。
 それに動きにあわせて、微妙に花のような良い香りが立ち込める。香水なんて自分の位置をばらすようなものを冒険する人間が使うはずが無いので、それなりに気を使っていることか。

「お帰りなさい。さぁ、座って」

 ラキュースとティアはラナーの指し示した、3時間前まで座っていた席にどかりと座る。その体を投げ出すように座り込む姿は、情報収集を急いだために疲労したことを充分に物語っていた。

「お、お早いのですね」

 テーブルに座ったラキュースとティアの前に飲み物を準備しながら、クライムは尋ねる。
 デキャンターのようなものから注がれる水には、ほのかな柑橘系の匂いが漂っていた。グラスを掴み、ラキュースは一気に呷る。綺麗な――染み1つ無い健康的な喉がごくごくと動き、果実水を即座に胃に収めた。

「はぁー」

 こつんと置かれたグラスに、クライムが再び果実水を注ぐ。クライムはラキュースの横に座るティアに視線を動かす。両手でグラスを掴み、ハムスターとか小動物を思わせる雰囲気でちびりちびりと飲んでいるティアのグラスには、果実水はまだ充分に入っている。
 それを確認すると、クライムは自らに許可された席へと腰を下ろす。

「ありがとう、クライム」

 今度はゆっくりと唇を湿らすように、果実水を含んでから、ラキュースは1つため息をついた。

「えっと、元々、盗賊ギルドも厄介だと思っていたみたい。それで彼らが内偵を進めていたお陰で、直ぐに情報が集まったわ。始める?」
「ええ、お願いします」
「……ねぇ、ティエール。私はこれをあなたに言って良い話なのかどうか判断がつかないわ。こういった世界があるというのは知るべきだろうと思うけど、それが正しいのかまではね」
「……教えてアルベイン。知るべき事だと思うから」
「……なら一切隠し事はしないわ。それに言葉もあまり濁さない。構わないわね?」

 じっと見つめるラキュースに、ラナーは微笑む。それは何も考えてないようにも、強く決心しているようにも思える不思議なものだ。ラキュースもじっと見つめ、僅かに首をかしげた。読めないのだ。

「まずは彼らは3つの店を経営……持ってるわ」ラキュースの表情が険しくなる。「1つが子供とか年齢が若い子を使っているところ。1つが成人しているけどなんとかなる人。そして最後が……先の2つでボロボロになった人が回されるところで、廃棄目的の使い方をするところ。最も下種なお客さんが集まるところよ」

 処分を兼ねたところね、とラキュースは最後に呟く。

「で、その店はディーヴァーナークの8本指という奴らが色々と運営管理を行っているわ」
「ディーヴァーナーク? 堕落と快楽の魔神ですか」

 クライムが横から尋ねる。
 13英雄が倒した魔神とは別ではあるのだが、ディーヴァーナークは魔神の1体であり、穢れた欲望などを統べるとされる、神話において炎神に焼き尽くされ、魔界に封じ込められたという存在だ。
 そんな魔神の持つ8本指は、人の大きな欲望8つを意味するとされていた。

「それじゃ、邪教集団が後ろにいるのかしら?」
「そうだったらよかったんだろうけど、残念ながら違うわ。単純にその名前を使っているみたいね。盗賊ギルドの調べによると」

 邪教集団なら討伐する大義名分が出来る。これは流石に後ろに貴族がいたとしても庇うことの出来ない、重大な法違反だからだ。流石に神殿まで敵にするような人間を、いくら同じ派閥の貴族でも庇ったりしないだろうし。

「えっと、戦闘能力に長けているのは8人中5人。その他は店の金銭的な管理、法律的な管理、貴族とのパイプの強化やもみ消しの3人のようね。一応、その8人の外見的特長や能力を大雑把に教えてもらってきたわ」

 ラキュースは厚手の紙を数枚取り出し、テーブルの上に広げた。

「失礼します」

 クライムは手を伸ばし、紙に走り書きされた文章を読む。女性の手で書かれたそれは、ラキュースかティアの手によるものだろう。
 名前、外見、そして主となる戦法。使っている武器等々、非常に細かく書かれている。
 同じように紙を眺めていたラナーは興味を失ったように紙を戻す。王女であるラナーからすれば興味を引かれないのも当然か。

「えっと、強いの?」
「……何を基準に考えるかね。私たちからすれば全員大した敵じゃないわ。でもクライムからすれば強敵というより勝てない奴が何人かいるわね」

 恐らく3人。もしかするともう1人追加というところだ。
 クライムは全部の紙を眺め、そう判断する。

「えっと、それでその店は元々貴族とかのお払い箱になった女性が安く売られてきて、働かされているみたい。安く売られてくるのは処分も兼ねてるからね。それに最悪なタイプの性欲の発散にも使われているんでしょうね。最後の店ではかなり人が死んでるみたいよ。多分殺されてるんでしょうね。バラバラになった手や足の処分というのも見つかってるらしいわ」

 太陽が雲に隠れるように――ラナーという女性の美貌にわずかな影が掛かる。その表情を見て、こんな世界のことを聞かせるべきではない。しかし知ってもらいたい。その2つの相反する感情がクライムの中に生まれる。

「そして厄介なことに裏にいる貴族はイズエルク伯ね」

 ラキュースの言葉を聞いて、先ほどのラナーよりも強くクライムは眉を顰める。
 王宮内の権力闘争はラナーまで飛び火しかねない危険な大きな炎だ。そのため彼は貴族の権力闘争もある程度は知るように努力している。無論、どこの派閥からも遠慮されてはいるために、充分な知識を持っているわけではないが、食堂や訓練所などでの兵士の動きを見ていれば僅かには理解できる。
 闇のもぐった部分は不明だが、それでもクライムの知識ではイズエルク伯は――

「――王派閥の中堅貴族ですか」

 みたいねとラキュースが肩をすくめる。
 貴族の令嬢ではあるが、冒険者としての名高い彼女は貴族社会に関する知識はクライムより劣る程度しか持っていないはずだ。そんなクライムの疑問をラキュースは容易く答える。

「盗賊ギルドで聞いたわ。当然、後ろ盾のイズエルク伯についてだって盗賊ギルドだって調べているわ。その店の用途はどうも、派閥の強化や寝返りなんかに使っているみたいよ? 下種な欲望を満たして後腐れは無い」

 反吐が出るとラキュースが呟く。

「さて、大雑把に説明したけどこんなところかしら?」
「完璧」
「そう、ありがとう、ティア。さて、どうするの?」

 沈黙という帳が室内に下りる。そしてそれを切り裂くのはラナーの一言だ。

「兵士を動かして、ずばっと」
「無理ね」

 ずぱっと切ったのラキュースだ。その勢いに押され、ラナーはそれ以上を口には出さず、別の手段に思考を巡らせる。

 王女だからといって兵士を動かせるのはかなり難しい。
 王女直轄の兵士がいればこんなことを考えるまでも無いのだが、残念ながらラナーには直轄の兵士はクライムぐらいなものだ。そのため兵士を動かすとなると命令を下す必要が出てくる。そうやってこの場合は王派閥の兵士を動かすこととなるだろう。
 しかしながら相手の後ろ盾となるイズエルク伯は王派閥の貴族。どのようなコネクションがあるのかまでは不明だが、動員した兵士の動きが遅くなる確率が非常に高いのは容易く想像できる。
 では貴族派閥の兵士を動員したらどうなるのか。
 それは対立派閥に一撃を食らわせることの出来るチャンスを、敵対しているはずのラナーから貰ったようなものだ。全力で命令をこなし、そこに囚われている人は助かるだろう。しかしその結果として確実に王派閥の勢力をそぎ落とすものとなり、王派閥に亀裂を入れかねない原因へと繋がる。

 つまりは兵士を動員等、ラナーの権力を使った行為では良い結果をもたらすことは出来ない。そのため次の案は――

「冒険者を動員したら問題は解決しますよね?」
「……でしょうね」

 ポツリとラキュースは答えるが、その目に宿っているのは否定的な意志だ。次に説明したのはティアだ。

「冒険者なら問題は解決する。でもイズエルク伯の問題は解決しない」

 イズエルク伯が裏で手を引いている商売を潰した場合、禍根は確実に残る。それが例え王女の命令だとしても。いや王女の命令だからこそというべきか。派閥の中心になる人物が派閥にダメージを与える行為をするのだから、派閥を大きく揺らす問題に繋がりかねない。
 イズエルク伯が裁かれればもっと大きな問題に発展するだろう。
 つまりはどう転がっても王派閥にはダメージとなる。だからこそラキュースは反対しているのだ。どっちにしてもラナーという友人の不利益にしかならないから。

「どうして? イズエルク伯が捕縛されれば問題は解決じゃなくて?」
「だから、そんな単純にはいかないのよ。派閥を揺るがしかねないの」
「……そんな悪い人は派閥に必要あるのかしら?」
「……派閥というのはそんな簡単なものではないわ。そしてある意味イズエルク伯が必要悪とされている可能性だってあるんだから」
「依頼人を隠せばいいんじゃない?」
「ギルドはその辺を調べるから、ラナーが依頼したということを完全に隠すのは難しいわ。ワーカーを雇うしかないけど……ワーカーは信頼性にかける場合があるから」
「ならアルベインが雇うというのは?」
「勘弁してよ。一応私も貴族の娘よ。下手なこと出来るわけ無いんじゃない。家に迷惑が掛かるわ」
「そうなの? でも正しいことしてるんだから……」
「はぁ。……いい? イズエルク伯が運営している店をどうにかするなら、イズエルク伯と交渉しないといけないわ。もしくはイズエルク伯に黙らせるだけの圧力をかけないといけない」
「王女である私なら圧力ぐらいできますよね?」

 ね? とラナーはクライムとラキュースを交互に見る。
 分かんないかなぁ、そう疲れたように言ってから、ラキュースはクライムへチラリと視線を動かす。そしてそんな視線に含まれた意味を、クライムは鋭敏に理解した。

「……ラナー様。正直、圧力をかけるのは難しいかと思います。ここまで考えてくださったラナー様のお優しさは皆、充分に理解しております。ただ、これは非常に繊細な問題。歯を噛み締めて、目を伏せるのが得策かと」

 クライムはそうは思わないのだが、ラナーは根回しの大切さをあまり理解しない、わが道を行くタイプの女性だ。今回のような微妙な問題である場合、突き進んだ結果大怪我をする可能性は非常に高い。それをみすみす見過ごすわけにはいかないのだ。
 自分の好きな女性が、ズタズタに傷つく、茨の道をあえて行くことを望む男はそうはいない。クライムはそれぐらいなら自分がズタズタに傷ついて、切り開いた少しは安全な道を歩いて欲しいと思うタイプの男だ。
 囚われ、奴隷のごとき扱われ、そして死んでいく人は可哀想だし、そんなことをする奴らには吐き気すら催す。しかしクライムにとって最も大切な女性はたった1人であり、その人物のためならば目を逸らすのも仕方が無いことだと考えていた。

「クライム以外の直属の兵士を私も持つべきでしたね」
「そうだったかもしれません」
「持っていても貴族関係の問題は解決しないけどね」
「王女様は綺麗なお飾りだから」
「ティア!」
「事実」

 重い沈黙が落ちる。ラキュースはティアに鋭い視線を送るが、爆弾発言を行ったティアの表情に変化は無い。

「アルベイン、クライム。やっぱりお飾りなんですよね」
「そ、そのようなことはございません!」

 クライムは大声で言う。それは誤魔化すポーズのようであり、そしてそんなことに騙されるラナーではない。

「……本当ですか?」
「うっ……」

 純粋なラナーの瞳に飲み込まれたように、クライムは言葉を続けることが出来なくなる。ティアの言ったことは事実だとクライムも思っているから。
 ラナーは目を閉じ、頤を上に向ける。
 そのまま数秒の時間が経過する。クライムはなんと慰めればよいのか考えるが、ちょうど適した言葉を思い浮かべることが出来ない。ラキュースも無言で、顔を歪めるだけだ。

「……仕方ありません。レェブン候を呼んで下さい。つい最近の色々な事態に対する会議で来てましたので、まだ王都内にいるはずです」
「候をですか?」

 クライムの記憶では6大貴族の1人で、王派閥に属する貴族だ。ただ、その中でもある意味異質な存在であり、レェブン候の兵士達もあまり王派閥の兵士と仲が良い雰囲気をみせない。
 そんな人物を? という疑問が浮かぶが、ラナーの命令であればクライムのすべての考えに優先される。ただ、念のために1つだけ確認は取る。

「……もう遅い時間ですがよろしいですか?」

 クライムの視線が動き、窓の外の光景を確認する。外の天空には星星が浮かび、夕闇が世界を支配している。ただ、夕食の時間にはまだなっていないが、これからアポイントも取っていないのに呼ぶというのはある意味あまり品の良いことではない。
 勿論、王女であるラナーの召喚を受けて、大貴族といえども断れるわけが無いが。

「構いません。私から緊急でお願いしたいことがあると伝えてくれれば、来ていただけると思います」
「畏まりました。ではこれからレェブン侯をお呼びしてきます」

 クライムはゆっくりと席から立ち上がった。

「アインドラ様、では少し失礼します」
「ええ……。ねぇ、ティエール。蝙蝠を呼ぶなんて、何を考えているの?」

 そんなラキュースの疑問の声を背中に聞きながら、クライムは部屋を出る。





 1人の男がラナーの前に姿を見せた。後ろにクライムを引き連れて。
 金髪を完全にオールバックで固め、切れ長の碧眼は冷たい光を放っていた。顔色は光に当たっていない人間特有の不健康な白。長身痩躯と相まって蛇のような感じのする男だ。
 年齢は40代になってないのだろうが、不健康な白さがやけに歳を取っているようにみせた。

 身嗜みは完璧としか言う言葉が無い。何か特別な獣――恐らくはモンスターに属するもの――の毛で作られたのだろう金糸の入ったダブレット。前ボタンや衿周りの装飾は非常に凝っており、光の反射する様を考えるならボタンには小粒の宝石が埋め込まれているのだろう。
 細い立て衿が首を取り巻き、ヒラヒラの純白のシュミーズが首を包み隠している。謁見にも使える最高級の服を、見事に着こなしている様は、まさに王国の6大貴族の1人に相応しい姿だった。

 男は室内に入ると、非常に品良く頭を下げる。

「お呼びになられたと、ラナー殿下」
「はい。良く来てくれました、レェブン侯。頭を上げてください」

 イスに座ったまま、ラナーは答える。
 顔を上げたレェブン候の顔には薄い笑いが貼り付けたようにあった。それはどちらかといえば陰湿なものではあるのだが、何故かこの男には非常に似合っており、薄気味悪いという以上の印象を与えない。

「どうぞ、こちらに」
「はい」

 レェブン候は室内に入り、ラナーの元まで近寄る。

「しかしこのような遅い時間に一体何事でしょうか? 殿下がお呼びともなればいつ如何なる時でも馳せ参じる気持ちではありますが」
「ありがとうございます。王国最高の知者たるレェブン侯にそう言ってもらえ、これ以上の安堵できる返事はありません」
「滅相もございません。それに王国最高の知者は私ではなく、私の前にいらっしゃる方です」

 2人は互いに慎み深く笑いあう。そしてラナーの視線が動く。

「クライム。あなたは隣の部屋に」
「畏まりました。ラナー様」

 部屋の入り口脇で不動の姿勢をとっていたクライムは、1つ頭を下げると部屋の外へと出て行く。隣の部屋、控えの間に移動したのだ。

「さて、レェブン候。どうぞ、おかけください」
「これは恐縮です」

 レェブン候はラナーに指差されたイスに腰を下ろす。ラナーはグラスに水を注ぎ、レェブン候に差し出す。

「どうぞ?」
「これはお手自らとは」

 レェブン候はそれを取ると口に含む。

「クッツの果実水ですね。非常に美味です」
「それは良かったです。これよりはツィルの果実水の方がお好きかとも思ったのですが」
「いえいえ。ツィルの果実水はこの年だと、少々甘みが強く感じて、どうも口に中に残ってしまうんです。その点、クッツの果実水の酸味はちょうど良いですね」
「そうですか。では次回もクッツの果実水をご用意しておきますね」
「それはありがとうございます。ですが、次回は私のほうから何かご用意しましょう」
「それはレェブン候に悪いですわ。こちらがお呼びしたんですから」
「いえいえ。殿下のような美しい方への贈り物をしてそれを受け取ってもらえるというのは、男にとっても嬉しいものです」

 そして一拍の空白の時間が開いた。レェブン候は細い目でラナーを観察し、ラナーはどこから話せばよいのかと考えて。
 そして最初に口火を切ったのは、当然ラナーである。
 
「……あなたの知恵をお借りしたいのです」

 単刀直入だ。駆け引きが殆ど無い言葉に、レェブン候の少しばかり切れ長の目が開き、驚きの色を湛える。しかしながらすぐさま平静を取り戻し、その色は隠された。

「私に知恵ですか……殿下に分からぬ問題があったとは……。それに答えられる自信がありませんな」
「大丈夫だと思います。宮廷のそういうことにはレェブン候の右に出るものはいないと思っておりますので」
「……ほう」

 微かに驚きの声をレェブン候は上げる。

 ラナーという人物は人間関係の上手いやり取りが非常に苦手な人間だというのが、レェブン候の知っていることだ。そして権力闘争においてもラナーは係わったことがほとんど無い。
 では今の発言『宮廷のそういうこと』というのは一体何を指しての言葉か。
 もし権力闘争等の暗い話であった場合、一体どこからその情報を入手しているのか。
 クライムという線はほぼ消える。それは自らの兵士の中でも選りすぐりの者に時折監視させているためだ。どこかの貴族が擦り寄ったという話は聞かない。
 では『蒼の薔薇』の一行か。それもまた消えるだろう。リーダーのラキュースは親しいだろうが、あまり貴族社会に関係を持とうとしないタイプだ。深い部分まで知っているはずが無い。

 では2つの派閥を彷徨ったために蝙蝠と呼ばれるようになったからだろうか? 蝙蝠だから自分の方に飛んでくるかもという考えか?
 そこまでをレェブン候は考え、のんびりと微笑む。情報が少ない中、予測を立てすぎると変な方向に行ってしまうのは自明の理。もう少し情報を集めてからでも構わないだろうと判断して。

「とりあえずはどのようなことお聞きしたのでしょか?」
「王派閥の影の支配者、というより王派閥を影で纏めている方としてイズエルク伯をどうにかすることは出来ませんか?」
「……は?!」

 爆弾が突如目の前に投じられた、そんな顔をレェブン候はした。もしこの場にいれば誰もが驚くだろう。レェブン候という人物は、通常それほど大きく表情を変えないのだから。
 ラナーは更に説明が必要なのかと、レェブン候の驚きを完全に無視して、のんびりと話を続ける。

「……いえ、本来であれば王派閥、他の2人の大貴族のどちらかに話を聞くべきかもしれませんが、ブルムラシュー候は帝国に情報を流してますよね? そうなると……」
「少し待っていただきたい!」

 細い目を大きく見開き、レェブン候は僅かに掠れた声を上げる。

「ブルムラシュー候が……」
「ご存知でしょ? だからブルムラシュー候の元には、重要な情報は多く集まらないようにされてるんじゃないんですか?」
「…………!」

 レェブン候は絶句し、ラナーを見つめる。
 ラナーは先ほどと全然変わらない穏やかな表情で、違ったかしらとか呟いている。

「あ、なたは……」

 殿下という言葉を忘れるほど、レェブン候は驚愕していた。
 ラナーの言っていることは間違っていない。6大貴族の1人で、王派閥の大貴族ブルムラシュー候が王国を裏切っているのはレェブン候のみが知る事実である。そしてそんな彼を潰せないのは、彼を処分してしまうと派閥間の均衡が崩れてしまうためだ。
 そのためレェブン候が必死になって貴族派閥に知られないよう上手く誤魔化しつつ、帝国に重要な情報が流れないようにしているのだ。そう今までは完璧に行ってこれたはずだ。
 ではこの場所から全くでないラナーという人物はどうやって情報を得たのか。自らの作った情報封鎖が緩んでいるのか。

「どうやってそこまで……」
「少しは話を聞けば分かりますよ? メイド達とも時折話をしますし」

 メイドの話なんか、どれほどの信憑性があるというのか。確かにここで働くメイドはどこかの貴族の娘であろう。そして家を気に入られようと話をするというのは充分考えられる。しかしそうやってラナーに流される情報のどれほどが真実か。しかし、それだって……。
 ありえないという思いがレェブン候の心中を支配する。
 しかしながら、ラナーの言っていることは――メイドとかの話等からの推測は――事実なのだろうとレェブン候の優秀な頭脳は納得もする。
 目の前の女性は無数のゴミから、綺麗な部分だけを選りすぐって、宝石の嵌ったネックレスを自作したのだと。
 故に――

「――ばけものか」

 ラナーという女性に相応しい評価が小さく漏れ出た。
 充分に聞こえているだろうに、ラナーは微笑むだけで無礼を嗜めるようなことはしない。レェブン候は先ほどまでの自らの考えを破棄する。
 これは対等に相手をするに相応しい相手だと。そして過去の記憶は真実だったと。
 
「――畏まりました。襟懐を開かせていただきます。ただ、その前に本当のラナー殿下とお話をしたいのですが?」
「本当というのは?」

 不思議そうに、そしてある意味無邪気そうにラナーは聞き返す。

「昔ある少女を見たことがあります。私の理解できないような高度な洞察から、計り知れない価値のある言葉を述べていた少女です。無論、私がその言葉に価値があると思ったのはかなり後のことですが」静まり返った室内にレェブン候の独白が響く「……ただ、私は当時はその少女の瞳を見て、価値が無いなと思ったのを覚えています」
「価値が……無いですか?」

 ラナーが静かに尋ねる。

「はい。世界に対し何とも思ってない。全てを軽蔑している人間がしそうな空虚な瞳をしていたものですから」

 室内の一変し、冷たくなった空気から身を守るようにレェブン候は肩をすくめた。

「ただ、それからしばらくして再びあったときの少女の瞳はまるで変わっていたのを覚えています。私はね、殿下。お聞きしたいのですよ、上手く誤魔化されているのか。それとも変わったのかを」

 両者の瞳はぶつかり合う。しかし火花を散らすようなことは無い。どちらかといえば2匹の蛇が絡みつくような陰湿な争いだ。
 そして突如、ラナーの瞳の奥がどろりと濁る。
 その瞳に宿る色の変化を目視し、レェブン侯は懐かしいものを見たと薄い笑いを浮かべる。

「やはりですな、ラナー殿下。その瞳、昔見たものにそっくりです。あれから演技をされていたわけですか」
「違うわ、レェブン候。演技をしていたわけではないわ。あなたが見た時の私は満たされたのよ」
「……殿下の兵士、クライム……君ですか?」
「そう、私のクライムのおかげだわ」
「ほう。あの少年に殿下を変えるほどのものがあったとは……。汚らしい子供にしか思えませんでしたが……ふむ、殿下にとっての彼とはどんな存在なのですかな?」
「クライムですか……?」

 すっとラナーの視線が中空をさ迷う。それはクライムという人物がどれほどの価値があるのか。それを表現するにはどんな言葉が妥当かを考えてだ。



 ラナー・ティエール・シャルドロン・ランツ・ヴァイセルフ。
 彼女という存在を一言で表現するなら『黄金』である。それはその輝かしいまでの美貌から来る言葉だ。しかしながら、そんな美貌すら霞む、1つの才能を持っているということを知る者は少ない。
 彼女が持つ才覚とは、内政の天才というべきものである。

 その才能はまさに神がもたらしたものとしかいえないようなものであった。閃きによって成り立っているようにも思われる彼女の考えは、無数の情報の欠片から、とてつもない洞察によって考察されたものなのだ。
 恐らくはこの大陸を見渡しても、彼女に匹敵する才能を持つ人物はいないだろう。
 唯一匹敵する存在といえば人間以外の存在である。ただ、それでも少ない。人という種を超える存在達であってすら、彼女に匹敵する存在は極少なのだ。
 ナザリックでは有効活用されてはいないとはいえ、悪魔的叡智の持ち主であり、軍略、内政、外政――国家作用すべてに関して極限までの才能を持つ、守護者統括であるデミウルゴスを持ってして、ほぼ五分といえばその桁の狂いっぷりが理解できるだろうか。
 人間は自らの視点で物事を考える。そういう意味では奇人や変人というレッテル張りこそ、彼女の天才さを表現するに、単なる一般人である凡人が下す評価としては正しいのかもしれない。 
 つまりはラナーはそれほどの天才なのだ。

 ただ、彼女には1つの欠点があった。それは人の考えが理解できないということだ。
 単純に彼女は自分が理解できることが、何故、即座に他の人間は理解できないか、それが分からなかったのだ。そして同じように彼女に匹敵するだけの才覚を持つ人間は無く、彼女の言葉の真意を掴み取れるものはいなかった。それは結果として彼女の発言は誰にも理解できないということに繋がる。
 天才が故の孤独といえば通りは良いかもしれない。

 もしここに彼女と同格の存在がいれば、彼女の天稟を悟れただろう。そうすればその結果は違ったはずだ。
 しかしながらそうはならなかった。
 結果としてあったのは幼い少女が理解不明なことを言うという、気持ち悪いまたは薄気味悪いという評判だった。ラナーは非常に可愛い少女でもあったため、嫌悪されることは少なく、愛はある程度与えられた。しかしながら自分の言ってる意味を誰も理解してくれないというのは、少女の精神育成に多大な負担をかけ、ゆっくりと時間をかけて少女は歪んでいった。
 いや歪みかけた。

 子犬がいなければそうなっただろう。

 それは本当に気まぐれだ。ある雨の日、少女は死にかけていた子犬を拾った。その日が無ければ、もしかするとここには1人の魔王が生まれたかもしれなかった。人の気持ちを理解できず、数字でしかものを見ることが出来ない、大多数の人間を満たす魔王が。

 拾われた子犬は、飼い主である彼女に1つの目を向けた。
 重い目だ。そう彼女は思った。
 無邪気に尊敬を向ける目。
 人の考えが理解できない彼女が、それでも重いと感じてしまうほどの、誰もが理解できるような考え――心の篭った目。

 人の考えが理解できない彼女にとって、その瞳は嫌悪であり、驚愕であり、愉悦であり、感動であり、そして――人間だった。

 そう、彼女は自分と同じ人間をそこに見出したのだ。無論、それは才能という意味ではない。劣る者に教師が熱心に教えるがごとき――そういった対応を彼女は子犬に対してのみ覚えたのだ。

 少女の拾った子犬は、やがて彼女の心の中で少年になり、そして男となった。
 子犬の時も、少年の時も、男となった時も、その瞳は彼女を眩しく純粋な瞳で射抜く。

 でも、それはもはや苦ではない。
 その瞳があったから、彼女は幾分か普通に人として他人と会話ができるのだ。酷く劣った生物を相手にできるのだ。


 
「クライム……そうですね。この糞ったれな王国なんかどうでも良いから、クライムと結ばれれば……うーん。ついでにクライムを鎖で繋いで、どこにも行かないように飼えればもっと幸せかもしれません」

 室内の空気が凍る。流石のレェブン候も驚愕の表情を浮かべた。
 王国で最も美しいといわれる女性の、子供っぽく甘い発言が当然のように飛び出ると思ったからだ。いや、本当のラナーが姿をみせたことを考えれば、そこまで甘ったるいものではないかもしれないが、それでもそっち系の話が出るかと思っていたのだ。
 今聞かされた言葉はレェブン候の想像からしてもあまりに突拍子もなさすぎる。そのためにフリーズしたのだ。しかしながら直ぐに再起動する。もしかしてこちらをからかっているのではないかと判断したためだ。

「飼えばよいではないですか。殿下のすることに……いや、難しいですな。協力者がいないと」
「そうですね。王女という外見を維持するとなるとそのようなことは難しいでしょう。……それに無理矢理にこちらを見てもらっても仕方が無いのです。あの目のまま、鎖で完全に縛り付けて、犬のように飼ってみたいと思うのです」

 他人の性癖を聞かされて喜ぶ人間はそうはいない。レェブン候はラナーという女性の心中に触れ、できれば数歩下がりたい気分だった。

「犬……飼うとか……つまりは愛していないということですか?」

 何を言ってるんだ、と馬鹿を見るような目でラナーはレェブン候を見つめる。

「愛してますよ? ただ、あの目が凄く好きなんです。犬のように纏わり付いてくる姿が好きなのです。この頃、なんか奇妙に聞き訳がよくなってしまって……つまらないんでしょうね」
「申し訳ありません、少々理解できない話でして」
「理解してもらいたいとは思いません。私が彼を好きだと、愛しているとわかってもらえればそれで良いのです」

 おかしい。
 レェブン候は頭を振りたい気持ちで一杯だった。
 凄い――王女が単なる兵士を愛しているという爆弾発言を、場合によっては国が揺らぐような話を聞いているはずなのに、それ以上のとてつもないことを聞かされている気がする。

「まぁ、性癖というのは……」
「性癖ではなく純粋な愛なのですが」

 訂正するようにレェブン候の意見を遮るラナーに、そんなわけないだろと突っ込みを入れたくなる気持ちをぐっと押さえ込む。
 常人であれば思わず突っ込んだであろう。それを耐えるのだから、流石は大貴族として権力闘争を掻い潜ってきた人物であった。

「まぁ、愛ですね……ええ。ただ、現在の段階ではクライム……殿と結ばれるのは――」
「難しいでしょうね。それは充分に理解してますよ。状況から考えると非常に困難だと。全部の権力が私の手の中に集中している状況であれば問題なく出来たでしょうけど、現在の王国の状況ではどのような手段を投じても不可能でしょうね」

 ラナーのどろりとした瞳に苛ついたものが浮かんだ。絶対にクライムの前では浮かべそうも無い、そんな表情も一緒に。

「殿下なら国を取れるでしょうに」
「無理ね。私はクライム以外の人間がなんで考えていることについて来れないのかが理解できないのです。つまりはクライム以外の人の気持ちが分からないんですよ」

 なるほどと、レェブン候は納得する。
 つまりはラナーを懐に収めるにはクライムと結ばせる協力をすれば良い。そうすれば強大な味方の誕生だ。
 レェブン候は今回呼ばれたことを感謝する。

「とりあえず、わが子と婚姻を結ぶというのはどうでしょう?」

 ピクリと額を悪い意味で動かしたラナーを差し止めるように、レェブン候は手を上げる。

「わが子と婚姻を結び、殿下はクライム君と子をなせばよい。わが子の跡継ぎは子供の最も愛した女性との間の子――私からは孫ですか、にすれば良い。そして申し訳ないが、殿下が母親というふうに偽装してもらう」
「なるほど。偽装結婚で血を入れるということですね」
「はい。そうすれば殿下は愛した男との間に子をなせ、わが家は偽装ですが王族の血を引き入れることが出来る。両者の得にはなっているかと思いますが?」
「非常に素晴らしい。王派閥の重鎮たるあなたが言えば、父も無下には出来ないでしょうし」

 素晴らしいのか。レェブン候は脱力を覚える。
 なんというか、ラナーという人物の評価を上げてよいのか、下げてよいのか見当がつかない。言えることは通常の女の子、女の子した姿は真っ赤な偽者ということだ。
 女が男の前で偽装することは良く知っている。いうなら化粧も上手い人間がやれば変装と同じ領域なのだから。

「ご子息は今お幾つでしたか?」
「5歳になりました」
「では可愛い――」
「そのとぉおりです!」

 細い目が大きく見開かれ、レェブン候が声を張り上げる。突如上がった大声にびくりとラナーが体を震わす。

「あ、……ゴホン。失礼しました」
「あ、いえ……」

 ラナーとレェブン候の2人は互いに顔を見合わせ、それから僅かにそらす。

「さて話が反れてしまったようですね」
「ですが、非常に実りのある脱線でしたが」

 それは両者ともそう思う感想だ。互いに大きなメリットのある話だ。レェブン候は王家の血を入れ、ラナーは愛する男と結ばれる。

「そうですね。ただ、レェブン候をお呼びしたのはある理由があってです」
「確か、イズエルク伯をどうにかすること……だとか?」
「はい。その通りです」

 ラナーはレェブン候にイズエルク伯の店の話を始める。それを黙って聞いていたレェブン候は大きく頷いた。そしてラナーより渡された紙に目を通し、再び大きく頷いた。

「理解いたしました。そう珍しい話ではありませんが……つまりは娼館を潰して、その中で囚われている人々を救いたいということですね」

 この娼館を潰したところで意味は殆ど無く、ある程度威圧をかけるだけにしか過ぎない。喉元を過ぎればこのような娼館はまたどこかの貴族が経営するだろう。それをいちいち潰していくつもりなのか。
 レェブン候はそんなことを思いながら、とりあえず今回はラナーの願いを叶えるよう行動することを決心する。
 自らの息子との婚姻に関して好意的に考えてもらっているのだから、もっとパイプを太いものとして、完全に味方に引き込みたいためだ。

「今回問題になるのは伯爵が王派閥ということでしょうか。王に忠誠を尽くしているのではなく、利益を考えての行為ではありますが」
「なら父からの命令で、権力を使えばその問題は解決するのではないのですか?」
「逆です。伯は権力的にはさほどですが、兵力的にはそこそこある人間です。幾つものコネクションを持ち、トータルとして発言力はそこそこ高い人物です。そんな人物を排斥しかねない行動は派閥にヒビを入れます。ですので権力という方面からその店を切り崩す行為は避けた方が良いでしょう」
「つまり?」

 ラナーは不思議そうに尋ねた。人の気持ちが分からないラナーからすると、自分の損失となるイズエルク伯から他の貴族が手を引かないメリットが不明なのだ。
 デメリットしかないではないかと言いたげな顔をしている。
 それを見てレェブン候は僅かに背筋を冷たいものが流れるのを感じた。

 ラナーは人間の気持ちが分からない。それはつまりはどれだけ友人としての関係を作ったと思っていても、彼女自身はなんとも思ってないということだ。つまりはどれだけ友好を深めたとしても、デメリットがメリットを上回ると判断した時点で切り捨てられる。
 信義や恩義、友情、愛情、貸し借り。そういったものは彼女には通用しない。
 ならばラナーという女性を上手く縛り付ける手段は1つ。

 クライムを懐に収めることだ。
 だが、ここで問題が出てくる。それはクライムを懐に収めようとすると、それは確実にラナーの知るところなり、下手すると厄介な敵を作ってしまうということ。
 そこまで考えたレェブン候は笑う。
 だが、しかし、そんな危険な爆弾だからこそ、懐に収める価値があるというもの。
 とりあえずはここではラナーに恩義を売るのではなく、クライムに恩義を売ったと考えるべきだろう。

「……何か邪悪な笑みを浮かべられていますね」
「そうでしたか? イズエルク伯の力を削いだ後の考えてしまったもので」
「そうですか」

 ラナーが無邪気に微笑む。黄金という言葉がまさに相応しい。そう思ってしまうほどの輝かしい微笑だ。
 ただ、今のレェブン候からしたら、何を考えているという疑ってしまうものなのだが。

「さて、権力を使って強制的に店との関係を切らせるのではなく、伯のほうを上手く誘導して切らせてみせましょう」
「可能なのですか?」
「勿論ですとも。彼には幾つか貸しもありますし、そしてある程度は友好があります。そして何より貴族派閥の人間に知られ、情報を奪いに行動しつつあるという話を流します。一応、そんな娼館が存在しているのは、法律の面からすれば危険ギリギリの行為です。ですので関与があるということを知られれば、下手すれば失脚にも繋がりかねません。そのように私が色々と吹き込んでしまえば、潰してくれたことを逆に感謝してくれるでしょうね」
「では関係が切れた後、店の方はどうされるんですか?」
「そちらは潰してしまいましょう。貴族派閥の人間に情報を持っていかれる前に掃討したという名目で」
「手段はどのようにですか? 候の兵士を動員して行うのですか?」
「いえ、冒険者を使います。兵士を集めて使っても良いですが、その場合はある程度の人数が必要になります。王都内で下手に兵士を大きく動かすと目立ちすぎますし。その結果、情報が大きくもれると考えられます。そうやって貴族派閥の人間に調査という名目で口を出されると厄介ですので」
「一騎当千の冒険者で、情報が漏れるのを少なくするわけですね」
「そうです。殿下には個人的に友好関係の深い冒険者たちがいましたね」

 頷くラナー。

「その彼らに、さらに私の子飼いの冒険者パーティーを動員します」
「それで順繰りに潰して回る?」
「いえ、短期に潰してしまわないと厄介です。もしかすると貴族派閥の者が兵士を動員して情報を奪おうと来るかもしれません。都市の治安維持とか名目立てされると引かざるを得なくなりますし」

 店の中に変な情報があった場合、非常に厄介な問題になる。そのため突撃し、即座にあらゆる資料を奪う必要がある。

「問題は時間が少なく、店が4つあるということです」
「蒼の薔薇のメンバーに2手に分かれてもらうとして、私の子飼いが1つ。どう考えても1つ手が足りません」
「仕方ないですから、それは諦めましょうか? それとも他の冒険者を雇いますか?」
「冒険者を雇うとなると、色々と面倒です。金ですべてこなしてくれるワーカーを雇いたいところですが、今回の件は出来る限り情報の漏洩を避けたい仕事。出来れば殿下の蒼の薔薇と、私の子飼いだけで終わりにしたいですね。……見捨てるべきでしょうし、見捨てるとしたら最後の最悪の店でしょうね。その店に重要な情報等があるとは思えません」

 そこで少しばかりラナーが考え込むような素振りを見せる。

「どうかいたしましたか?」
「クライムが……それを望まない……。でも危険……」

 その短い呟きだけで、ラナーが何を考えているかは充分理解できる。

「クライム君は皆を助けたいと思ってるのですか? 子供ですね」

 そして苦笑いをレェブン候は浮かべた。
 実際、最後に回された店で働かされている人間を助けられる可能性は低い。まず回復魔法をかける費用、次にかけたとしても回復させることの出来ない人間だっているだろう。それに助けた後、如何するのかという問題だって出てくる。
 それが分からず、只助けたいと思ってるだけだとしたら、子供としかいえないだろう。

「ですけど、だからこそのクライムなんですが」

 にっこりとラナーは笑う。そこで初めてレェブン候は、ラナーが美しい女性だと知ったように目を細めた。今、ラナーの浮かべた表情に嫌なものはなかった。純粋に惚れた男を自慢する女のものだったからだ。

「ではしょうがありません。クライム君には最後の店の近くにいてもらって、どこかの店を攻略し終わったメンバーと共に潜入してもらいましょう」
「他のメンバーと共に他の店の襲撃メンバーに入ってもらうのはどうですか?」
「それも悪くはありませんが、怪我を負う可能性もあります――」
「――それが良いですね。クライムには見張り番をやってもらって、襲撃を終えたメンバーと共に最後の店を襲ってもらいましょう」
「しかし……正直、何故、その娼館を潰そうというので? メリットがあまりにも無いことは理解されていると思うのですが?」

 不思議そうなレェブン候にラナーはそんなことかと笑う。

「クライムがそれを望んでいるからです」
「と言いますと?」
「クライムの思うラナーと言う女性像を演じていると言うだけですよ」
「……演技で捕まえると大変ですよ? 男とはそんなものじゃないと思いますが……」

 妻と子を持つ身としてのレェブン候の言葉には重みがあった。だが、ラナーにはそれは分からない。言葉どおりの意味でしか。

「そうですか? まぁ、完全に鎖で縛るまでの我慢ですし、別に全部が演技と言うわけでもないですから。単純にクライムが思ってることをやってあげたいと言う気持ちだけですから」
「それならよろしいのですが……」

 よろしいのか? そんな疑問を抱きつつ、あんまり納得はしていないが、愛の形は人それぞれだと無理矢理にレェブン候は納得する。

「では時間も無いことですし、早急に動きましょう。恐らくは王女の下に私が行ったということは既に情報として流れつつあるはずです。この機を逃せば監視が厳しくなることは確実ですので」
「レェブン候にはご迷惑をおかけします」
「何。我が子の――偽りの妻のためとあらば、この程度のご協力はなんでもないというもの。私は早急に冒険者を動かすのと同時に、伯爵の下に行こうと思っております」
「1時間後に行動開始ということ問題はないですか?」
「私の方は冒険者の予定も空いておりますし、問題はございません。ですが殿下の方は?」
「私の方も問題ありません。蒼の薔薇の予定は先ほど聞いておりますので」
「では動くとしましょう」
「そうしましょうか。隣の部屋にクライムと蒼の薔薇のリーダーのラキュースがいます。彼らにも説明をしてもらえますか」
「畏まりました、殿下」





 クライムは黒い塊を手に持つ。プルプルと震えるそれは非常に柔らかい性質のもので、クライムの手の中で重力に引かれて平べったく姿を変えていた。
 そんな液体が詰まったような奇妙な玉を、クライムは自らの体――鎧に叩きつける。
 バシャっと音を立てるように広がった球体は、クライムの白いフルプレートメイルに黒色の斑を作る。先ほどのクライムが持っていたものは、黒い染料が入った玉。そういう認識が正しい光景であった。
 だが、それで終わりではない。そんな単なる玉を潰したわけではないのだ。

 クライムの鎧を汚した黒い染料がもぞもぞと動き、全身に広がるように鎧の表面を流れ出したのだ。そしてものの数秒でクライムの鎧は、一箇所の塗り残しも無く、輝かしい純白からつやの無い漆黒へと変わる。

 クライムが潰した球体こそ魔法の染料<マジック・ダイズ>と呼ばれるアイテムである。高位のものであれば、酸や炎、冷気等に対する抵抗のボーナスをくれるものもあるそうだが、クライムが使ったものは単なる色変えの効果しかない。
 これを使ったのも言うまでも無く、クライムの着用する純白のフルプレートメイルは目立ちすぎるためだ。だが、逆にこうやって色を変えてしまうと、通常のイメージが強いため、即座にクライムと結び付けられないというメリットもある。

「クライム」

 色変えが終わったのを確認し、準備が終わったと判断したのであろう。ラキュースが近寄ってくると、今回の計画の最終的な目標等の確認作業をはじめた。

 今回の仕事は4つの娼館を襲い、中に囚われている人の救出、そして内部資料の奪取である。その際、店の人間は優先的に掃討し、客は出来れば気絶程度で押さえる。客を助ける理由はレェブン候がこの一件を武器に脅して利用するためだ。
 4つの娼館への襲撃は、2つの店は蒼の薔薇がパーティーを2つに分けて対処。もう1つの冒険者パーティーがもう1つ。クライムは最後の娼館の監視に当たる。
 その後、襲撃の終わったパーティーがクライムと共に、最後の娼館に襲撃をかけるという戦法を取る。
 今回の仕事は非常に秘匿性が高く、貴族派閥の人間に知られてはいけない。そのため、大騒ぎになるような行為は出来る限り慎むこと。および情報が持ち出されることをなるべく避けること。

 クライムはラキュースの説明を受け、大きく頷く。

「了解しました」
「それじゃ、そっちも気をつけて」
「おう、話は終わりか?」
「ガガーラン様」

 少し離れたところで装備を確認している蒼の薔薇の一行――イビルアイ、ティアとティナ。その3人の元からガガーランが歩いてくる。
 装備も宿屋にいた頃とは違い、全身一級品の魔法のアイテムで身を包んでいる。
 スパイクの突き出した、どす黒い赤色のフルプレートメイルの胸の部分には、目のような紋様が書き込まれている。これこそ有名な鎧『凝視殺し<ゲイズ・ベイン>』だ。
 その小手の部分は少しばかり変わり、絡み合った一対の蛇が掘り込まれている。接触した相手を治癒させる力を持つ古代の一品、『ケリュケイオンの小手<ガントレット・オブ・ケリュケイオン>』。
 そして腰に下げた両手で使いそうなほど大きさのウォー・ピックは『鉄砕き<フェルアイアン>』。王侯貴族が着用しそうな真紅の豪華なケープは『真紅の守護者<クリムゾン・ガーディアン>』。鎧の下で見えないが『抵抗の上着<ヴェスト・オブ・レジスタンス>』や『竜牙の魔除け<アミュレット・オブ・ドラゴントゥース>』、『上位力のベルト<ベルト・オブ・グレーターパワー>』『飛行の靴<ウィングブーツ>』、『竜巻の頭飾り<サークレット・オブ・ツイスター>』を装備し、指輪にも強大な魔法の力が宿っていた。
 これが王国最強のA+冒険者パーティーの片割れの一員にして、最高峰の戦士であるガガーランのフル装備だ。

「何しにきたの?」

 冷たい言葉を返すラキュースだがその身を包む魔法のアイテムもガガーランに劣らず優れている。
 まずはその名を極限まで高めている魔法の剣――魔剣キリネイラム。バスタードソードほどのそれは、鞘に納まれているためその漆黒の夜空を思わせるという刀身を見ることは出来ないが、柄の部分だけでも非常に素晴らしい作りだというのが分かる。特にその柄頭にはめ込まれた巨大なブラックサファイヤの内部では、魔法の炎ごとき揺らめきが輝いていた。
 そして着用するフルプレートメイルは白銀と金によって作られたとしかいえない輝きを放ち、様々な部分に無数のユニコーンを刻み込んでいた。これこそ乙女のみしか着用できない、汚すこと適わずとされる『無垢なる白雪<ヴァージン・スノー>』。
 そんな輝かしいばかりの武装に対して、その背中を守る外套はネズミ色の木綿製のようなものだ。これは『ネズミの速度の外套<クローク・オブ・ラットスピード>』といわれる移動速度や敏捷性、回避力を上昇させる外見からは想像も出来ないほど強力なマジックアイテムなのだ。
 それだけではない。ガガーランに匹敵するほど、マジックアイテムを装備している。

 1つだけでも目が飛び出るほど高いそれらを、これだけ持っているのもA+冒険者だからこそだろう。

「おいおい、リーダーは言うこときついね。これから戦いに行く童貞に色々といいことを教えてやろうと思ってな」
「ど! ……はぁ。まぁいいけど、あの娘の所為でかなりの急ぎの仕事よ。あんまり余裕ある時間はないんだからね? とっとと終わらせなさいよ?」
「あいよ。でもよ、ラキュース。そいつ使って大丈夫なのか?」
「そいつ……ってキリネイラム? 別に大丈夫だけど……」
「そうか? まぁ、無理するんじゃねぇぞ? やばいと思ったらいつでも教えてくれよ」
「ええ? 良くは分からないけど、分かったわ」

 蒼の薔薇のメンバーの下に頭を捻りつつ歩き出すラキュースを見送り、ガガーランは懐から変わったものを取り出す。そしてそれをクライムに突きつけた。

「こいつを持っていけや」

 ガガーランが手渡してきたのはハンドベルだ。それも3つ。外見的には非常に似通っているが、そのベルの部分に刻み込まれた絵は全て違う。そしてクライムはそれが何か、そしてどのような時に使用するか聞いたことがあるため知っている。

「これは……」
「別に使うとは思ってないが、何かあったときの用心のためだ」
「しかし……」

 クライムが迷ったのは、このマジックアイテムは襲撃をかける彼らこそ使うべきものではないか、と判断したためだ。そんなクライムの心配をガガーランは鼻で笑い飛ばす。

「はん。こっちはティアとティナが二手に別れるんだ。盗賊系のアイテムの出番はないぜ。それよか、お前さんが持っていた方が良いってことよ」そこでガガーランは少しばかり声を落とす。「ただ、だからってそれを使おうとするなよ。状況を良く見て考えて使うんだぜ?」

 クライムが尋ねようとした、ちょうどその時、イビルアイの焦れたような声が飛ぶ。

「まだか、ガガーラン!」
「おう。今行くって!」

 くるっと再び視線を戻し、ガガーランはクライムに忠告を与える。

「俺達が先にお前のところに着いたなら問題はねぇ。でももう1つのパーティーって奴がついた場合、全然知らないお前を面倒な奴だと思う可能性は高い。そりゃ、異質な奴をパーティーに入れた場合、上手く動かなくなる可能性があるからな。その時は迷惑が掛からないようにするんだぞ?」
「はい。それは分かっています」
「なら、いいさ。まぁ油断すんじゃねぇぞ?」

 その言葉を最後にガガーランは仲間の方へ歩き出した。その大きな後姿を見送り、それからクライムは渡された鐘を見つめた。



 この世界においては基本的に、日が沈むと同時に寝るような生活が一般的である。これは明かりを灯すのもお金が掛かるという理由である。貧しい家庭からすれば、ランプを灯す油だって節約したいと思うのは当然だ。そのため、村落の生活というのは健康的なものとなる。
 ただ、都市のような場所にもなればそうではない。まず《コンティニュアル・ライト/永続光》が付与されたマジックアイテムが街頭代わりに使われているようなところは全然違う。そして一部の仕事というのは日が沈んでからが活動時間になるというものだ。華やかな歓楽街なんかまさにその通りだ。
 しかしクライムの向かった先、狭い路地にはそんな言葉は通じない。

 静まり返った路地をクライムは無言で、明かりを持たずに歩く。真っ暗な路地を明かり無しに歩けるのは、鎧のヘルムの部分が闇視の兜<ヘルム・オブ・ダーク・ヴィジョン>と同じ用法で作られているためだ。
 15メートル先までが限界だが、その細いスリットから覗く光景はまさに真昼の如しだ。
 ミスリルで出来ている鎧は、通常のフルプレートメイルほどの騒がしい音は立てないため、静かな雰囲気が壊れることは無い。腰に吊り下げたクロスボウが鎧にぶつかる音も大したものでは無い。
 よほど聴覚に優れた人物か優秀な盗賊でなければ、クライムの歩く音は家の中からでは聞き取ることは出来ないだろう。

 やがて、セバスがツアレを拾った場所を通り越し、数軒先まで行った所で、クライムは近くにあった家屋の扉に手を当てた。
 少しばかり力を入れ、ゆっくりと――出来る限り音がしないように押し開ける。その行動は扉が当然開くと知っている、そんな人間特有の迷いの無い動きである。
 扉が開かれ、モワリと古臭い空気が流れ出す。

 真っ暗ではあるが、問題なく見通せるクライムは、その中に滑らすように体を入れた。
 扉を後ろ手に閉めると、クライムはまずは耳を済ませる。音は何も聞こえてこないことを確認すると、クライムは次の手に移った。
 ゆっくりと歩き出したのだ。
 クライムの体重を受け、床がミシミシと軋む音を立てる中、注意深くクライムは歩を進める。床が木製である場合腐っている可能性がある。そうなるともし地下があったりした場合、底が抜けて天然の落とし穴が発動することもあるからだ。

 完全に真っ暗な室内は、クライムが歩くたびに舞い上がる埃とカビの匂いが充満していた。幸運なのはそれ以外の匂いがしないということだろう。
 都市内部にだってモンスターがいる。例えば1メートル級の大きさを持つジャイアントラットやジャイアント・コックローチなどだ。そういったモンスターはそれ特有の匂いを放つ。それが無いということはこの家屋にはいないということの現れである。

 そうやって充分に安全を確認すると、クライムは扉のところまで戻り、僅かな隙間を作る。そして伺うように外を監視しはじめた。残念ながら角度的な問題もあって、クライムの位置からでは目的の娼館はまるで監視できない。
 クライムが監視しているのは別の家屋だ。

 何故、別の家屋を監視するのか。
 その理由は簡単である。
 クライムが監視している家屋も、その娼館の一部だからだ。
 目的の娼館は2階建てではあるが、1階部分も2階部分も大した使われ方をしてはいない。本当に使われているのはその地下部分である。そう。本当の店舗は地下に広がっているのだ。
 そしてクライムが監視する家屋、それはその店舗のもう1つの入り口――非常用の隠し出口として存在すると、盗賊ギルドの調べで分かっているからだ。

 本来であれば通常の入り口として使われている家屋を監視するほうが良いと思うかもしれない。しかし、盗賊として優れた能力を持つティアが、先に周辺の様子を伺った結果、この家屋が一番安全だろうとみなしたのだ。
 ティアのような超越した盗賊系のスキルを保有する人間であれば、入り口の建物も監視できるだろう。しかしながらド素人であるクライムには逆立ちしても無理な話だ。そのため、この家に隠れて見張っているのだ。

 クライムの監視する家屋は外見的には周辺の家屋とまるで同じ作りであり、非常にぼろい外装だ。しかしながら中から明かりは一斉漏れ出てない。非常口であることを考えれば、人がいるはずなのだからそう考えるとかなりいじられている可能性はある。

 じっとクライムは動かずに外の光景を眺める。そして――

「クシュン」

 ――可愛らしいくしゃみを1つ。
 周囲を見渡し、それを聞いた人間とかがいないことを確認する。それから腰につけた皮袋からハンカチと非常に薄い布を取り出した。
 次にヘルムを取り外す。ヘルムを被っていたことによる闇視の効力が切れ、一気に闇が押し寄せる。クライムは一瞬で周囲を見ることは出来なくなっていた。
 しかしながら予期していたことだ。クライムは一切慌てずに行動を続ける。
 クライムはハンカチで鼻をかんだ。この家屋に溜まった埃で恐らくは真っ黒になった鼻汁がついたことだろう。数度繰り返して鼻をかみ、鼻のむず痒さが取れたことを確認すると、クライムはハンカチをたたむ。それから口や鼻を中心に布を巻きつけ始めた。そうやって布で完全に顔の下半分を覆うと、再びヘルムを被った。

 呼吸が若干苦しいが、埃を吸うよりはなんぼかマシだ。

 クライムの心境を言葉にするとそんな感じである。
 それから再び黙って外の光景を眺め始めた。

 そんな中思い出したのはある1人の老人だ。
 彼は非常に強かったし、目的はある意味一致している。しかしながら主人に迷惑がという発言があったように、巻き込むわけにはいかないだろう。そして何より正体の知れない第三者を巻き込むのは危険がある。
 信用できるとクライムはセバスを見ているが、この問題はラナーにまで発展しかねないものだから、力を借りるわけにはいかない。


 ただ黙って様子を伺う、そんな退屈な時間がどのくらい経過しただろうか。クライムは突如、異様な音を耳にする。
 重く巨大なものが放り出されるような音だ。
 響いた音色は金属製のもの。フルプレートメイルを着た戦士を放り捨てるような音に、クライムは慌てて外の様子を伺う。しかし、クライムの位置からでは何も見ることは出来ない。
 もう少し扉を開け放って様子を伺うべきだろうか。クライムは逡巡した。

 それが幸運を招いたのだろう。
 クライムが監視していた扉。それが開かれたのだ。中からの光を背中に浴びながら、1人の男が顔を出す。人相風体共にあまり良いとは言えないような男だ。そんな男の片手には金属の反射がある。抜き身のショートソードを片手にしているのだ。

「おい! 扉がぶち壊されているぞ!」

 外の様子を伺っている男は、中にいるのだろう者に声をかける。
 何の扉が壊されたのか。それは考えるまでも無く、入り口の扉だろう。あの鉄の扉が何者か、彼らの知らない人物によって破壊されたということだ。

 他の店を落とした人物達が来たのだろうか。だが、もしそうだとしたなら、何故クライムには何も教えないのか。冒険者がクライムがいると邪魔だから、教えないで攻略を始めたのか。はたまたは――。

「貴族派閥の人間が動いた?」

 クライムがここにいると知らない人間が動いた可能性だってある。そうなると推測されるのは貴族派閥の人間だ。
 不味い。
 クライムは焦りを覚える。
 もし貴族派閥の人間だった場合、内密で終わらせようという計画がぱぁだ。

 クライムは困惑しながらも選択を突きつけられる。
 どうするかである。貴族派閥に情報が漏れた場合、伯爵に手が回るだろう。そうなると王派閥の力が削がれるということになる。無論クライム本人の考えとしては、あのような外道な店の経営に係わっている腐れ貴族なんかどうなっても良い。しかし、王派閥の弱体化は望んでいないのだ。
 王派閥の弱体化はラナーにとって不利に働く。それを許せるはずが無い。
 クライムは決心する。
 ゆっくりと心を静める。ラナーの敵の排除に心は揺らいだりはしない。あの子供の時、拾われた恩義。そしてそれから育てられた感謝。そして愛情。ラナーの幸せのためならば、己の命を投げ打つ価値があるというもの。
 クライムは剣を抜き放ち、扉から躍り出た。狙いは様子を伺っている男だ。

 ミスリルの金属鎧とはいえ、流石に完全に音がしないわけではない。突然、自分の後ろで金属の音がしたことを受け、男は慌てて振り返る。
 しかしながらすべては遅すぎる。
 見えたのは剣のきらめきと、闇の中から姿を見せた黒い影のみだ。

 クライムの剣が振り下ろされ、頚部を切裂かれた男は血を噴出しながら路地に転がる。手から零れ落ちたショートソードがカランという音を立てた。
 クライムは男の生死を見届けるまもなく、家屋に飛び込む。明かりの満ちた部屋に飛び込んでも、魔法的な視野強化を受けていたクライムに問題は生じない。
 そこにいたのは男がもう1人。
 ショートソードと皮鎧というさきほどの男とまるで同じ格好だ。姿格好がラキュースの見せてくれた資料に載ってないことを確認し、一気にクライムは距離をつめる。

「な! なんだてめぇ!」

 慌てた男は室内に入ってきた黒い金属鎧を着たクライムに、ショートソードを突き立てようとするが、クライムはそれを容易く剣で弾く。
 そして上段から一気に剣を振り下ろした。
 ショートソードで止めようとするが、クライムの全体重の掛かった重い一撃を受け止めるにはあまりに不十分だ。ショートソードを弾き、そのままクライムの剣は男の肩口から入り込み、胸部に抜ける。

「ぎゃぁああ!」

 男の絶叫が響き、どさりと床に転がる。床の上でビクリビクリと体が痙攣している。
 クライムは致命傷だと判断し、即座に部屋の奥に飛び込む。そして誰もいないことを確認すると2階に駆け上った。

 それから1分。
 全部の部屋を見渡して他に敵がいないことを確認すると、再び入り口まで駆け戻ってくる。横目で床に転がった男がピクリとも動いてないことを確認し、外に飛び出る。僅かに切れつつあった息を整えながら、外に転がった死体を家屋の中に放りこむ。扉を閉め、水袋を取り出すと、中身を路地に溜まった血にすべて溢す。
 皮袋に入れられた水特有の匂いと、噎せ返るような濃厚な血の臭いが混じり、多少は血の臭いが薄れたようだった。流石に近くまで寄られると誤魔化せないが、距離があれば気にも留めないぐらいだろう。
 そうやって大雑把な後始末を終えると、クライムは慎重に入り口の家屋に向かった。

 路地には分厚い鉄の扉が転がっていた。扉は木に鉄板を両側から打ちつけ、さらに真ん中にも別の金属をはめ込んだ重厚なものだ。
 扉は凄い力でこじ開けられたのだろう。ノブの部分が異様な形にひしゃげていた。
 まず人間の腕力でこんな行為が出来るわけが無い。考えられるのは何らかの道具だ。いや、道具を使ったとしても普通の人間に短時間で出来る業ではない。
 そうなると考え付くのが魔法という存在だ。
 アイテムを破壊する類の魔法というのは存在する。それを使って蝶番や鍵を破壊してから放り出したとするなら――かなり重かっただろうが納得はいく。
 クライムは家屋内に目をやる。ぽっかりと口を開いた入り口から通路がそのまま続いており、奥に閉まった扉。
 人の気配は感じられない。そして聞き耳を立てても聞こえてくる音は無い。しかしながら侵入者がいることは確実だ。

 そのことを確認し、クライムは慌てて先ほど襲撃した家屋へと駆け戻る。
 扉を蹴破るような荒い動作で開き、中に飛び込む。そして血の匂いが立ち込める室内を見渡す。先ほど家屋内をぐるっと見渡したが、地下へ通じる扉や通路は見つからなかった。つまりは隠されているということだ。

 クライムは盗賊系のスキルを納めていないため、室内を見渡したぐらいでは発見することが出来ない。もしこの場に小麦粉のような細かな粉があって、時間があるならそれを振りまき、吹き飛ばして見つけるという手段を取っただろう。
 粉が隠し扉の隙間に入ることで見つけやすくなるという方法だ。しかし、手元に小麦粉が無ければ、それを巻き散らかす時間も無い。クライムがこうしている間にも謎の侵入者は歩を進めているのだろうから。
 だからこそクライムは懐からマジックアイテムを取り出す。取り出したのはガガーランに渡されたハンドベルだ。書かれた絵を見比べ、3つの中から目的の物を選ぶ。

 取り出したマジックアイテムの名前は、隠し扉探知の鐘<ベル・オブ・ディテクトシークレットドアーズ>。

 それを1度振る。持ち主のみに聞こえる涼しげな音色が広がった。
 その音色に反応し、床の一角に青白い光が灯る。それは点滅を繰り返し、クライムにここに隠し扉があるとアピールをするようだった。
 クライムはその場所を記憶にとどめると、この家の1階部分をぐるっと回った。そしてその場所以外に魔法に反応したところは無いと確認すると、元の場所に戻る。

 あとはこの隠し扉を開けて中に潜入するばかりなのだが、クライムは目を細め、隠し扉を眺める。それからため息を1つ付くと、再び3つのハンドベルを取り出した。
 今度選んだものは、先ほどとは違う絵のかかれたものだ。そしてそれを同じように振る。
 先ほどに似た、しかしながら違う鐘の音色が広がった。

 罠解除の鐘<ベル・オブ・リムーブトラップ>。

 あるかどうか分からない罠を警戒して使うには勿体ないのだが、戦士であるクライムに罠を発見解除する能力は無い。そして罠にかかった時の対処法も1人では上手く取れない可能性がある。それぐらいなら、1日の使用回数に制限はあるとはいえ、ここで1回ぐらい無駄に使ったとしても仕方が無い。
 他に問題があるとしたら、このマジックアイテムでも大掛かりな罠や魔法的な罠、そして難易度の高い罠を解除することは出来ない。ただ、そこまで大掛かりなものは無いだろうと判断してだ。
 そして、今回ばかりはクライムは読み勝ったようだった。

 ガチリという重い音が、隠し扉から響いたのだ。

 クライムは隠し扉の隙間に剣を差込、こじ開けるように開く。
 木の床の一面がぐわっと持ち上がり、向こう側に倒れる。隠し扉の裏側にはセットされたクロスボウが付けられていた。クロスボウに番えられた矢の先端部分が、明かりに照らし出され、金属とは違う奇妙な反射の仕方をした。
 クライムは場所を変え、クロスボウを眺める。
 先端部分に付着したのはヌラリとした粘度の高い液体のようなもの。十中八九、毒だ。
 もし無造作に開けようとしていたら、毒を塗られたボウが射出されていたことだろう。

 僅かに安堵の息を吐き、クロスボウを取り外せないか、クライムは調べる。残念ながらしっかりとセットされているため道具が無ければ外すことは出来ない。
 仕方なく、矢の部分だけ努力して取り外す。
 初心者の多くが行うミスの1つは。せっかく手に入れたというのに、使う際自分の体を最初に傷つけてしまうことだ。それを避けるため、クライムは最初っから自らの持っているクロスボウに矢をセットしておく。

 毒を使うことを忌避する人間は多い。冒険者の大半がそうだ。毒なんか悪役の使うものだと。
 しかしながらクライムはあまりその辺にこだわる人間ではない。特に自分が弱いということを知っている人間からすれば、ありとあらゆるものを使うのは至極当然だからだ。そんなクライムが普段、毒を使わないのは、ラナーに仕える兵士が毒を使っていては世間体があまりに悪すぎるためだ。
 しかしながらこのような危険な状況下で使わないのは、バカのすることだ。

 準備を終え、クライムは隠し扉の奥を覗く。
 そこそこ急な階段が下に向かって伸びており、その先は角度的に見ることが出来ない。階段も周囲も石で固められたしっかりとしたものだ。
 クライムは階段に一歩踏み込む。念のために剣で床を突っつきながら、そのまま1歩、2歩と歩を進める。

 非常に危険極まりない行為だ。
 戦士1人で潜り込むなんか気の狂った行為と思われても仕方が無い。
 しかし、これしか手段が無いのだ。
 入り口の方から入り込むという手段もあったが、その場合は先に潜入した相手が味方なら良いが、敵だった場合は得る物が無いということになってしまう。それどころか対立することになるし、こちらの扉から人を逃がしてしまうということになる。
 そうなると隠し扉の前で陣取り、逃げてくる者を捕まえるという方法もあるが、その場合は重要な情報を他の潜入者に奪われるだろう。消極的だが、最も賢いのは様子をそのまま黙って見ていて、何があったのかを伝えることだろう。
 しかしそれではラナーの不利益に繋がる可能性が高い。

 故に最も危険な手を取る。

 入り口から侵入した人間が引き付けている内に、こちらから入り込んで中の情報を回収するなり、貴族風の人間を捕まえるなりした方がメリットが大きい。問題は戦士であるクライムにどこまで盗賊の真似事が出来るかだ。
 階段を下りきると数メートル先に扉がある。
 注意深く床を突っつきながらクライムは進む。非常口通路にクロスボウ以上の罠を仕掛けるとは思えないが、それでも重武装をした戦士が落とし穴の1つで無力化するというのはよく聞く話である。それだけは避けなくてはならない。

 ちょっとの距離に充分な時間を掛けるという慎重さで歩を進め、クライムは扉の前まで到着した。クライムは盾を前に構えると、離れた場所から木の扉を剣で突っつく。それを数度。
 接触による罠の発動が無いことを確認すると、木の扉に耳を近づけ、中の音を聞き取ろうとする。
 やはりクライムには何も聞き取れない。

 再びマジックアイテムを使うか迷い、それから勇気を出してドアノブを掴み――捻る。
 しかし……動かない。

「鍵か……」

 残念そうにクライムは呟くと、3つのハンドベルの内、最後のハンドベルを振る。
 鍵解除の鐘<ベル・オブ・オープンロック>。

 魔法の力によって鍵は外され、かちゃりという音と共に、今度はドアノブが回る。
 クライムは僅かに扉を開け、中の様子を伺う。
 広間だ。
 部屋の隅には人が入れそうな檻や木箱といったものが幾つか置いてある。荷物置き場だろうか。それにしては少々広くも感じられた。
 向かいには扉の付いてない出入り口。クライムが耳を済ませてみると、遠くの方で騒ぎが起こっているのか少々騒がしい。
 隙間から見る範囲内に人気が無いことを確認すると、クライムは身を屈めるように室内に入る。そして中ほどまで来た辺りで――

「ふん。あちらが陽動で、こちらが本命かと思ったんだがな」

 突然掛かる声。クライムが視線を動かした先には木箱の陰から1人の禿げた男が姿を見せるところだった。別に転移したとか、透明化をしていたとかではなく、単純にクライムの知覚能力では感知できなかったのだ。
 男の上半身は裸で、筋骨隆々のその肉体には無数の刺青が掘り込まれ、地肌が見えないほどだ。
 その姿を見て、ゾクリとしたものがクライムの背中を走る。

 頭の中に浮かんだのはラキュースが盗賊ギルドで買ってきた情報の1つ。8本指という者たちに関してのものだ。
 クライムは即座にクロスボウを構えると、問答無用で射出した。
 
 毒の塗られた矢は男目掛け、中空を走る。
 狙った箇所は最も大きい胴体である。回避するか、木箱に隠れるか。その2つぐらいしか対処が無いはずなのに、男は第3の対処を取る。

「――ふん」

 男は容易くボウを手で掴み取ったのだ。そしてせせら笑うと無造作にほうり捨てる。
 カランという音が立ち、ボウが床に転がった。

「もういいぞ」

 その声に反応し、男とは反対側の木箱の陰からもう1人の男が姿を見せる。
 片手にはレイピアを持ち、中性的な美貌を持っていた。まるで友人を歓迎するような優しげな微笑をその整った顔に浮かべていた。
 ぴったりとしたハードレザーアーマーを着ているが女性用の胸の部分があるものではなく、男性用のものだ。

 クライムの喉を苦いものがこみ上げる。
 8本指のうち、クライムが勝てないと判断したのは3人。そのうちの2人が姿を見せたのだから。
 己の不運さには頭が下がる。
 4つ店があって、なんでここに上の2人がいるんだと。それともここが最も重要な店だったのか。だとすると他の侵入者に情報を持っていかれる前にどうにかしなくてはならないのだが……。
 クライムは頭を巡らせる。いや、それしか手段が無いからだ。

「何故、ここに?」

 2人に挟まれたクライムは油断なく両者を視界内に収めるように動きつつ、尋ねる。まさかこの場所にいつもいるわけではないだろう。それに他の侵入者があった時点でここに来ると読んでいたのか。

「《アラーム/警報》だよ。分かるかなぁ?」

 レイピアを持った男――外見上は――が嘲笑うように告げる。舌打ちを堪え、クライムは剣と盾を構える。

「やる気だってさ、ゼロ」
「……ふん。ここまで来たんだ。やる気に決まっているだろう。なぁ、侵入者?」

 クライムはそれには答えない。そして鞘に手を這わせ、1言だけ呟く。それに反応したのはほかでもない、クライムの持つ剣だ。それに魔法の力が突如宿ったのだ。剣に宿った白い光は神々しく輝く。

「へぇ。《マジック・ウェポン/武器魔化》と《ブレス・ウェポン/武器祝福》ってところかな? 同時に2つの魔法が掛かるなんて結構なマジックアイテムだよ、あれ」
「ふん。なら殺した後でより強くなれるということだ」
「ゼロは気楽だなー。凄いマジックアイテムを持ってるんだから強敵だとか考えないの? ねぇ、君。そんなアイテム何処で手に入れたの? くれたら命ぐらいは助けてあげても良いよ?」

 クライムはやはり返事をしない。助けてくれるなんて言うのは大嘘だと読めるからだ。

「そっか。まぁ良いや。それじゃどうする? 皆で掛かる? それともどちらかは向こうに行く?」
「ルベリナ」
「はーい、何?」

 非常に軽い口調で男――ルベリナがゼロと呼んだ男に返事をする。

「とっととこちらを片付けて、向こうの対処をするぞ」
「そりゃそうだよね。お客さんに迷惑かけてるもの。りょーかい」
「……壁を作って守れと命令してますし、時間は稼げてるでしょうけどね」

 突然新たな声が割り込む。

 まだいたのかとクライムは慌てて確認をする。先ほどのルベリナの『皆』という発言には違和感を感じていたが、これでそういうことかと納得もできた。やはり同じように木箱の後ろから男が姿を見せたのだ。
 クライムの記憶にも当然ある。クライムが勝てるかどうかギリギリのラインの男で、名前をサキュロントと言ったはずだ。
 確かに彼1人だけなら勝算はある。しかしながらこの状況下ではまるで無いとしか言いようが無い。
 ただ、ある意味劣った存在が戦闘に参加するというのはクライムにとって悪いことばかりではない。そこが弱点となるからだ。
 しかし、そんなクライムの甘い期待は即座に破棄される。

「君は壁際で見てるんだね。邪魔になるといけないから」
「了解です、ルベリナさん」

 ルベリナの命令を受けて、サキュロントが壁際によったのだ。それは戦闘に参加する態度ではない。

「というわけで、君さぁ。2人しか相手をしないけど、寂しくないよね?」
「ふん。何を話しているんだか」クライムが何も言わないのを見て、ルベリナに叱咤交じりの声をゼロは上げた。「そいつに喋る気はないのは一目瞭然だろうが。とっとと片をつけるぞ」
「まぁまぁ。もうちょっと待ってよ、ゼロ。そろそろだからさ」

 ――ガチリという音が重く響く。
 クライムが入ってきた扉から聞こえる音だが、後ろを見る余裕はない。しかしその音が何かは予測は出来る。

「……びっくりした? 自動式の鍵だよ。開いてから一定時間ごとに鍵が自動的に閉まる仕組みになってるんだ。ドワーフ細工の一品だよ。凄いでしょ」

 楽しそうなルベリナの声。
 つまり喋るかけていたのは時間を稼ぐためだったのかと、クライムは判断する。
 後ろの逃げ道は閉ざされ、つまりは逃げる道は強者2名を乗り越えた先にあるということ。いや、もう1つ。
 クライムはハンドベルを取り出すチャンスを油断無く伺う。懐に手を入れた段階で敵に何をする気なのかばれる。つまりはチャンスは一度。それを見逃してはいけない。

「ところで、君さぁ。見たところ戦士だよねぇ。どーやって扉開けて入ってきたの?」
「……さぁね」

 ルベリナの顔が大きく歪んだ。

「はっははは」突然の哄笑。「――反応するなんて、君、馬鹿だねぇ。ここでは無視するのが一番なのに、図星を突かれて反応しちゃったね。……ゼロ、彼は何らかのアイテムを保有しているよ。鍵を開けることの出来るね」
「ふん。ならそのチャンスは与えん」

 ずいっとゼロが踏み出し、歩き出す。その歩運びは堂々としたもので、挑戦者を迎え入れる王者のものだった。
 それに対してクライムは剣と盾を構えたまま、ゆっくりと後退をする。目的は壁である。2人に攻撃されるのは仕方ないが、それでも攻撃される範囲を狭めようというのだ。
 だが、そんなクライムの行動は2人とも読めている。左右から挟みこむように、そしてクライムの直線状に向かいの入り口を配置して。
 
 走って向かいの入り口まで走るのは愚だ。
 背後からの一撃を食らうだけ。そう判断したクライムはまずはルベリナを相手にすべしと考え、動き出す。

「へぇ、まずは私? 良い考えだねぇ」

 ルベリナとゼロ比べて僅かでも勝算があるのはルベリナだ。ただ、そのクライムの判断はルベリナからすれば不快な行動でもある。
 ダンとルベリナが踏み込み、クライムの顔を覆うヘルムがガリガリという耳障りな音を響かせる。

「へぇ、良い鎧じゃん」

 頬の辺りに響く振動を無視し、クライムは剣を振る。しかしルベリナには届かない。既に剣の届かない間合いまで離れているのだ。入りと出の速度が桁を外れている。いやクライムがそう思うだけで、ガゼフやガガーランといった超一級からすると大した速度でもないのだろう。しかし今戦っているのはクライムだ。
 まるで中空に浮かんだ鳥の羽を相手にしているように捉えることが出来ない。
 クライムはそう思い、ルベリナを睨む。

「残念だな。頬を貫通させてやろうと思ったのに」

 頬の辺りへの攻撃は、外れたものやクライムが回避したものでなく、狙ったもの。頬では致命傷にならないということを考えれば、ルベリナの性格の一端がつかめようというものだ。

「おいおい、こっちに注意を向けすぎるのは危ないよ?」
「――ふん!」
「ごっ!」

 ルベリナに注意を払っていたクライムの肩口に衝撃が走り、それに押されるようによたよたと横に歩く。盾を引き上げ、その後ろに隠れるように睨む。細いスリット状の限定された視界の中に、追撃の一手を加えようと飛び込んでくるゼロの姿。

「っ!」

 ゼロの踏み込みにあわせて、クライムは剣を振り下ろす。
 ゼロはクライムの剣の腹を横から叩き、方向を変えさせると、腹部めがけ拳を叩きつける。
 グワァンという激しい音。それは金属と金属のぶつかる音のようでもあった。

「がはぁ!」
「はいはい、こんどはこっち!」

 よたよたと後退するクライムの太ももに辺りから、ガリガリという音が何かが走り抜ける衝撃が響く。クライムは声のあった辺りに適当に剣を振るう。
 しかし触れる感触はない。
 闇雲に振るう剣では届くわけが無い。冷静な戦士としての感覚がそう叫ぶが、振るわなければ更なる追撃を食らう可能性だってある。無駄な剣の振りは疲労を誘うが、この状況ではするしかないのだ。
 ヘルムの下でクライムは顔を歪めながら、敵のいる場所を捉えようと周囲を確認し始めたところで、視界の隅で何かが動くのを捕らえる。慌てて盾を構えようとし――

 金属音と共に胸部に強い衝撃と痛みが走る。
 よたよたと後ろに後退しながら、自分の全面に盾を構えつつ視線を飛ばす。そこにいたのは予想通り拳を突き出したゼロだ。
 胸部を殴られた衝撃で呼吸が乱れる。殴打系の攻撃は内部に浸透するようにダメージを伝える。魔法の掛かったフルプレートだから耐えれるものの、クライムが受けたダメージは小さくない。

「ふん。ルベリナ、遊びすぎだぞ? ほかに殺さなくてはならない奴がいるんだ」
「ええ? ああ、そうだよねぇ。侵入者がいるんだったね。ちょっと忘れてたよ」

 ルベリナの言動にわずかな殺意が混じる。つまりはこれからは本気になったということか。
 クライムは必死に呼吸を整えようとする。服の下から噴きあがった汗がダラダラと流れているのが感じ取れた。実戦は幾たびもこなしたことがあるが、これほどの死を目視しながらの戦闘は初めてだ。
 すさまじい勢いで精神力が削られていくのをクライムは感じていた。そして無駄な行動やダメージが体力を奪っていくのも。

「もういい。疲労し始めたこいつならお前でも安全に殺れるだろう。参加しろ、サキュロント」
「はい、ゼロさん」

 ゆっくりと今まで様子を見ていた男が壁際から離れ、囲むような位置に動き出す。抜き放ったのはショートソードだが、その刀身にはぬらりとした輝きがあった。
 クライムの左手がダランと力なく垂れる。持った盾が非常に重く感じられた。肩口から伝わる赤熱感は折れてはいないこそ、ヒビぐらいは入っていそうだった。胸部、腹部からも同じようにジクジクとした痛みが響く。

 囲まれ、ゆっくりと距離が迫る。一息の距離になったとき、3者の攻撃は確実にクライムの命を奪うだろう。

 クライムは喉に苦いものを感じていた。
 これが死の味か。

 クライムは自らの体が震えるのを感じていた。
 ラナーの下に帰れないと、心が泣いているのか。

 死というものを前にした時、人は殉教者の心になるという。それは戦闘中にあっては諦めに似た感情だ。そしてそういう者は次の攻撃で命を失う。それは至極当然だ。戦闘は命の奪い合い、諦めた人間が命を奪えるはずも無いのだから。

 しかし――クライムの剣を握り締めた手からは力が抜けない。
 この剣はラナーから貰ったもの。それを手放すことは出来ない。
 クライムの脳裏に自らが最も愛する女性の像が浮かぶ。

 
 クライムは突如ヘルムを外し、床に落とす。甲高い音を立ててヘルムが床を転がった。そして自らの主人にわびの言葉を呟いた。

「――ふん」
「――あらまぁ」
「――誰だ?」

 8本指の3者は眼前でクライムが行う行動に、何かの意味があるのかと注意深く様子を伺う。諦めた人間の行動にも良く似ていたが、クライムの目に宿る闘志は死を受諾した者のものではない。
 クライムは自らの鼻や口の周りを覆っている布を取り外し、喉に絡まった死という味を唾と一緒に吐き出した。

「何を負けた気になっているんだろう」

 クライムは嘲笑する。それはこの出来すぎな状況を作った運命に対してだ。
 クライムは力を込め、肩口まで盾を持ち上げる。痛みなんか我慢だ。
 そう、クライムはいつだって我慢してきた。痛みを堪え、厳しい訓練に耐え、嘲笑に耐え、愛している女性を失うだろう未来に耐え。
 そして耐えながらも1歩1歩進んできたのだ。恵まれた人間が階段飛ばしで昇っていく中、クライムは1段1段、時間をかけながら昇ってきたのだ。
 ならばこの場もクライムが昇るための階段にしてやればよい。

 そしていつもの様に勝って、ラナーの後ろに立ちに行けば良いのだ。

 ニヤリとクライムが成長しきってない顔に獰猛な笑みを浮かべる。
 それに対してゼロとルベリナは僅かに、本当に僅かにだが警戒心を浮かべる。先ほどまでにあったのは確実な勝算だった。それが今では圧倒的な勝算になっていると感じたのだ。

「スペルタトゥー起動」

 ゼロのキーワードの詠唱により、刺青にほのかな光が浮かぶ。

「ふーん。2つ目のタトゥーの発動とは……結構、本気? サキュロント下がってるんだね。ちょいっと厄介な敵になったみたいだ」
「……何も変わってないみたいですが?」
「ふん。だからお前は下なのだ」

 コォオオと、息を吐きながら、ゼロは体内の熱を爆発的に燃やす。全身が赤くなり、凄まじい力が貯められているのが目視できるようだった。

「先に行くよ、ゼロ」

 ダンとルベリナが踏み込み、むき出しとなったクライムの顔を目掛けレイピアを走らせる。遊びを捨て本気となったルベリナの一撃は、容易く鎧を貫通する。クライムの鎧は非常に硬いがそれでも貫通できる自信があった。
 しかしながら、不安が1つだけルベリナの頭を過ぎる。

 盾と鎧は同時には貫通できないのでは、という思い。

 貫通しないで止められれば、圧倒的に不利になるのはルベリナだ。
 だからこそクライムの無防備となった頭を狙う。
 盾で受けたならそのまま貫く。剣で弾いたなら、そのまま滑らして貫くという狙いで。

 クライムはその『心臓貫き<ハート・ペネトレート>』と呼ばれるレイピアを前に、顔を逸らせるように回避行動を取る。
 ルベリナの顔に冷酷な笑みが浮かぶ。そのまま剣先を跳ね上げて頭部を貫通してやると。

 一瞬の後――剣先が肉に突き刺さる感触。しかし血は思ったよりも吹き上がらない。

「なっ!」

 ルベリナの驚く声。
 ハート・ペネトレートの剣先が貫いたのはクライムの頬。同時にクライムが頭を動かし、更に頬の奥へと剣先を進める。剣先が反対側の頬を貫いた後でクライムは歯を動かし、噛み締めた。
 ガリガリという歯が削られるような感触が、ハート・ペネトレートを伝わってルベリナの元に届く。

「ほほほかんふうさせはかったんはろ」

 口からぼたぼたと血を吐き出しながらクライムはそう、ルベリナにつげ、全身の力を込め剣を振るう。

「まずっ!」

 ハート・ペネトレートを引き戻そうにも、痛みを無視して1人の人間が全力で歯を噛み締めている力の方が強い。引き戻すことを止め、レイピアを手放そうとするが、全ては遅すぎる。クライムの剣はルベリナに目掛け走り、そして――。

 ――もし相手が1人であれば勝利を収めただろう――。

 クライムの体は大きな音を立てて吹き飛ぶ。
 鎧を着た1人の男性の体が中空に浮かび、数メートル吹き飛ぶのだ。それがどれだけの一撃かは語るにはおよばないだろう。

「油断のしすぎだ」

 豪腕でクライムに一撃を食らわせた姿勢で、ゼロがルベリナに呟く。

「ああ、助かったよ、ゼロ」

 ルベリナは床に転がっていたハート・ペネトレートを拾い上げる。ゼロの一撃を受けた衝撃でクライムの頬から離れたのだ。
 血と唾液、そして僅かな噛み跡。魔法の剣にこれだけの跡を残すというのだから、一体どれほどの力で噛み締めていたのか。
 ルベリナは床に転がったクライムに視線をやり、驚くような光景を目にする。

 ゆっくりと立ち上がるクライムの姿だ。ゼロの一撃を受けて、それもまともに受けて立ち上がる。そんな人間は滅多に見れるものではない。

「ゼロ! お前こそ遊んでいるじゃないか!」
「いや、これは驚いたな。鎧のお陰か、何かは不明だが、死なないとは頑丈な」

 がはっという声と共に、立ち上がりつつあったクライムが血反吐を吐き出す。半死半生。そんな言葉が相応しい姿だ。目はうつろで、右手も左手も力なく垂れ下がっている。顔は裂けたのか、酷い有様だった。
 しかしそれでも、戦うという意志がそこにはあった。

「殺すぞ! こいつ! サキュロント、お前も何を見てるんだ! 参加しろ!」
「は、はい!」

 余裕が無くなった声でルベリナが叫び、3人がクライムに迫る。

 耳鳴りのする耳に聞こえる声。それに反応するように、荒い息でクライムはそれを迎撃せんと剣を持ち上げた。勝算は非常に無いが、それでも負けるわけにはいかない。
 勝ってラナーの元に戻らなければならないのだ。
 ぐらんぐらんと揺れる視界の中、クライムは必死に敵を見据える。剣先も揺れているが、それでもまだ戦える。
 クライムは睨みつけ、そして――



「――1人に対して複数とはあまり良い趣味とは言えませんね」

 そんな静かな声が響いた。
 剣を抜いて殺し合いをしている最中だというのに、誰もが動きを止める。そしてありえないようだが眼前の敵から視線を動かし、声のした方に向けた。そんな無防備な姿を見せながら、誰も不意を打とうとはしない。
 それは全員が全員、その声から圧倒的な力を感じ、その人物の確認こそを何よりも優先したからだ。敵から目を離してでも。

 全員の視線が交わった先、そこに立つのは1人の老人だ。
 執事風の燕尾服を着用したその人物に汚れは一切見受けられない。ここが自らが仕える主人の館であるといわんばかりの綺麗な格好であり、自然な態度だ。しかしながら赤い靄でも纏っているかのように、濃厚すぎる血の匂いを漂わせていた。
 室内の全員の視線を浴びながら、老人は歩を進める。コツリと靴が乾いた音を立てた。何をしたわけでもない。単に足を部屋に踏み入れただけだ。

 殺意も敵意も何も感じられない。

 だが、ゼロ、ルベリナそしてサキュロント。その3人は見えない圧力に押されるように、無意識の内に1歩後退する。その老人が足を踏み入れただけで、部屋が小さくなったような迫力があったのだ。

 クライムは何故、その人物がそんなところにいるのは分からなかった。だから、声を上げる。

「ぜ――じじょうぉ」

 危うく老人――セバスの名前を言いかけ、クライムはとっさに浮かんだ呼び方を叫ぶ。サキュロントがいる以上セバスの正体はばれている。しかしクライムはそんなことを知らないため、正体を隠そうとしたのだ。
 そんな配慮を含んだ呼びかけに、セバスは苦笑いを浮かべた。

「……さて。私の――弟子がお世話になったようですね」すっとセバスが腕を差し出し、自分の方に招くようにジェスチャーをする。「お相手をしてさしあげましょう。――さぁ、掛かってきなさい」






――――――――
※ ラナーの設定コンセプト。女郎蜘蛛系お姉さん。別にヤンデレでもSでもないです。ちなみにラキュースでもデメリットが大きくなれば切り捨てるよ! あ……病んでるわ……。

 ラナー「どーでもいいけどクライムが助けてって顔をしてるし、助けてあげようかな。というかクライム飼いたいわー」
 レェブン候「まぁ力貸すか。関係している店が法律違反でやばいよ。それを知った貴族派閥が動いて、おまえさんを失脚させようとしているよ。だから変な情報が奪われる前に潰したよって言えば伯爵も仕方ないから納得すんだろ」
 クライム「すげー、ラナー様すげー。ラナー様のためなら死んでもいいです」
 って感じが上手く説明できてます? 頭の中の言葉を取り出すって難しいですよね。
 さて、次回『王都4』でお会いしましょう。これで王都は終わりです……終わるよなぁ?

























――――――――


「そんなところで何をしているのか、聞かせてもらおうか」

 そんな声がした。やれやれと頭を振って、デミウルゴスは視線を向けた。その先にあったのは仮面を付けた子供のような体躯を持つ者。
 飛行系の魔法を使っているのか、ゆっくりとデミウルゴスのいる屋根へと降りてくる。

 あまり時間もかけられない。デミウルゴスは標的が屋根に降り立つのを見届けてから、特殊能力を発動させる。

『――自害せよ』

 低位の存在であれば強制的に支配する強大なる能力。支配の呪言が放たれ――そしてデミウルゴスは目を細める。

 標的はいまだ健在――。

「……困ったものだね」





 以下、むちむちぷりりんが面倒になったらデミウルゴスVS蒼の薔薇戦は省略。その時はご容赦ください。戦闘シーンは疲れるのよ……。それと支配の呪言を50レベルから40レベルに引き下げ。そうしないと将来出る人がやばいじゃんということ発覚。



[18721] 47_王都4
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/10/02 06:38




 ゆっくりと応接室の扉が開いていく。しっかりと油が差されている扉は引っかかることなく開いていくはずなのに、いまはやけに遅く、内外の圧力差があるような遅さで動いていく。それはセバスの心中を察知したような動きだった。
 本当にセバスの心中を察知してくれるのならば、扉には開かないで欲しいところなのだが、現実ではそのようなことは決して起こるはずが無い。扉は完全に開かれ、そこからセバスの視界に入る応接室は、何時もと変わらない光景だ。
 しかしながら何時もと違い、部屋の中には強大な存在が3人。
 1人は白銀の武人。そして1人は悪魔。そして最後は――

「遅くなりまして申し訳ありません」

 入り口のところでセバスは拝礼にも似た、深いお辞儀を応接室の机の向こうで座る存在に向ける。ナザリックのランドステュワードというほぼ最高の地位に位置するセバスが頭を垂れる人物は、現在は1人しかない。
 そこに座るのは当然、セバスの主人。
 絶対なる存在たる『至高の41人』が内、1人。

 ――アインズ・ウール・ゴウン。

 ナザリックの支配者にして、この世界における極大級の戦闘能力を持つ存在である。
 その空虚な眼窟には、ぼんやりとした赤い光が灯っている。それがセバスの全身を上から下まで眺めるように動くのが、頭を下げたままの姿勢を保つセバスには感じられた。
 それからアインズは、面倒げなそぶりでオーバーに手を振った。

「よい。気にするな、セバス。これは連絡無しに来た私のミスだ。それより、そのような所で頭を下げていてもしょうがなかろう? 早く部屋に入って来い」
「はっ」

 頭を下げたままのセバスにかけられた声に反応し、頭を上げる。それからゆっくりと1歩踏み出した。
 そしてゾクリと背筋を振るわせる。
 異常なほど巧妙に隠されてはいるが、セバスの鋭敏な感覚は殺意と敵意を感じ取ったのだ。
 セバスの視線がゆっくりと動く。
 動いた先、コキュートスもデミウルゴスも武装はしてないし、セバスに注意を払っているようには見えない。ただ、それはあくまでも常人の視点からだ。
 セバスは十分に知覚している。
 まずコキュートスは己の武器を抜いた時、一息の呼吸でセバスを切り飛ばせる距離を維持している。セバスが動くのに合わせて、微妙に動くほど。
 そしてアインズの傍に立つデミウルゴスは、何かの非常事態にはアインズの盾となるのに最適な場所を維持している。両者とも最大の警戒をセバスに向けているのだ。
 これは決して味方にするべき態度ではない。
 何ゆえにそのような態度を向けられるのか。それが理解できるセバスは、バクンバクンと激しく脈打つ心臓の音が、この場にいる皆に聞こえているのではと思うほどの重圧を感じていた。

「そこで止まった方が良いと思うがね」

 デミウルゴスの涼しげな声がセバスの足を止める。
 アインズとの距離は今だあるが、さほどでもない。こんなものかなと思う程度だ。しかしそれは、普段のアインズであればもっと近寄れといったであろう差。アインズがそれに対して何も言わないということが、距離以上の広がりを感じさせ、セバスの背中に重くのしかかる。

 ちなみにソリュシャンはセバスと共に部屋に入ったものの、扉直ぐ脇で待機という形である。

「さて――」骨の指でどうやっているのかは不明だが、パチリとアインズは指を鳴らす。「まずはセバスに問おう。何故、私がここの場に来たのか、理由を説明する必要があるか?」

 ぞわっとしたものがセバスの背中を走った。
 セバスは背中が汗でびっしょりと濡れるのを感じながら、僅かに視線を下げつつ、重い口を開く。

「……いえ、必要はございません」
「そうか? ならばお前の口から聞きたいものだな、セバス。お前からの報告は受けていないが、この数日中、何か可愛いらしいペットを拾ったそうじゃないか?」
「はっ」
「さて、まずは聞かせてもらおう。何で私に報告をしなかった?」
「はっ……」

 セバスは微かに肩を震わせながら、じっと床を見据える。なんと言えば良いのか。なんと言えば最悪の自体に発展しないで済むのか。そればかりを考えてだ。
 セバスが何も言わずに、黙っているのをアインズは眺めながら、ゆっくりとイスにもたれかかる。ギシィという音がやけに大きく部屋に広がった。

「どうした、セバス? 汗を酷くかいているようだな。ハンカチを持っていないなら貸してやるぞ?」

 アインズはオーバーなアクションで、何処からか純白のハンカチを取り出す。人差し指と中指で挟んだハンカチを、セバスのほうに無造作に放った。机を乗り越えて投じられたハンカチは途中で広がり、ファサッという擬音が正しいような動きで床に落ちた。
 アインズはそのハンカチを指差す。

「拾って使え」
「はっ」

 セバスは1歩だけアインズの元に近寄ると、落ちたハンカチを拾い上げる。それからセバスは逡巡する。

「……別にそのハンカチにお前の可愛いペットの血がついているとかそういうことは無いぞ? 単に汗が見苦しかっただけだ」
「はっ……お見苦しいものをお見せして、申し訳ありませんでした」

 セバスはハンカチを広げると、自らの額に浮かんだ冷や汗を拭う。

「では聞かせてもらおうか。何故報告しなかった? ……私の命令を無視した理由を聞きたいのだ。このアインズ・ウール・ゴウンの言葉はお前を縛るには相応しくなかったのか?」

 その言葉が室内の空気を大きく揺らす。
 セバスは慌て、必死に言葉を発した。

「滅相もございません。じつはあの程度のことはアインズ様にご報告するまでもないと、私が勝手に考えたためです」
「…………」

 室内に沈黙が落ちる。しかしセバスの全身には突き刺さるように殺気が3つ。デミウルゴス、コキュートス、そしてソリュシャンのものである。もしアインズが命令違反だと決定すれば、即座に3者の攻撃がセバスに襲い掛かるだろう。
 死ぬこと自体はセバスは恐ろしくは無い。ナザリックのために死ぬのは最大の喜びだ。しかしながら裏切り者として処分されるというのは、何よりも激しい恐怖。
 至高の41人に創造された存在が、裏切り者として処分されるなぞ、恥辱の極み以外の何物でもないのだから。
 再びセバスの額に汗が噴出すだけの時間がかかり、アインズが口を開く。

「……つまりはセバスの愚かな判断だった……というわけだな?」
「はっ。その通りでございます、アインズ様。私の愚かな失態をお許しください」
「……ふむ。……理解した」

 頭を垂れ、謝罪したセバスの元に、感情を一切感じさせないアインズの声が届く。処分という判断を即座に決定しなかったため、僅かながら室内の空気が元に戻る。
 殺意にレベルがあるとするなら、数段階は戻ったようなそんな変わり方だ。
 だが、セバスに安堵の息は無い。なぜならその前にアインズがセバスの心臓を跳ね上がらせる一言を口にしたからだ。

「ソリュシャン。そのセバスのペットを連れて来い」
「畏まりました」

 ソリュシャンが動き、静かに扉が閉められる。セバスの鋭い知覚能力は扉の向こうでソリュシャンがゆっくりと離れていくのを感じ取った。
 ごくりとセバスの喉が唾を飲み込む。
 この場にはアインズ、コキュートス、デミウルゴスの3名がいる。異形の姿を取る3者だ。それも姿を幻術を隠すことをしていない素のままで。つまり、それは正体をツアレに見せるということ。
 それは見られて構わないのか、見られたところでどうにかするからなのか。

 やがて遠くの方からこの部屋に向かってくる、乱れのない気配と動揺し乱れた気配の2つをセバスは感じ取る。

 ――どうするか。
 セバスの視線が動き、中空を見つめる。
 彼女がここに来たのなら、セバスは決定しなくてはならない。しかしながら答えはたったの1つしかない。視線はセバスを観察し続けるデミウルゴス、そしてアインズへと動く。
 そして最後に力なく床へと落ちた。

 扉がノックされ、そして開かれる。姿を見せたのは2人の女性。
 ソリュシャンとツアレだ。

「つれてまいりました」

 ツアレが入り口で小さく息を呑むのが、背中を見せたままのセバスにも聞こえる。悪魔を具現した姿を取るデミウルゴスを見て驚愕したのか。白銀の巨大な昆虫であるコキュートスを見て戦慄したのか。死を象った存在たるアインズを見て畏怖したのか。はたまたはその全てか。
 守護者の2者の不快感はツアレを前に強くなる。ある意味、セバスの罪の形こそツアレという女性なのだから。向けられた敵意にツアレが顔色を悪いものとする。
 この世界における絶対者である守護者、それも2名からの敵意は、脆弱なあらゆる存在を根源から怯えさせる。ツアレという女性が泣き出さないのもある意味奇跡のようなものである。
 セバスは振り返らないが、その背中に視線が向けられているのが充分に感じ取れる。それはツアレのものであり、彼女の勇気の源泉はセバスという人物がそこにいるということなのだ。

「デミウルゴス、コキュートス。止めろ」

 アインズからの静かな声が響き、室内の空気が変化する。いや、ツアレに向けられていた敵意がかき消されたというべきだろう。守護者2名を嗜めたアインズは、ゆっくりと左手をツアレに向けて差し出す。それから手のひらを天井に向けると、ゆっくりと手まねをした。

「入りたまえ。セバスの拾ったペットたる人間。――ツアレ」

 その言葉に支配されるように、ツアレは1歩、2歩と震える足を動かし室内へと入る。

「逃げないとは勇気がある。それともソリュシャンに言われたか? お前次第でセバスの運命が決まるとでも?」

 カタカタと震えるツアレはそれには何も答えない。セバスは自らの背中に向けられた視線がより強くなるのを感じる。それは言葉以上に雄弁にものを語る。
 室内に入り、セバスの横にツアレは並ぶ。コキュートスがツアレの背後に控えるように立った。
 びくりとツアレの体が恐怖で動き、セバスの服の裾が掴まれる。ふと、セバスはあの路地で掴まれたことを思い出す。それと同時に、もっと賢く振舞えばこのようなことにはならなかったという後悔の念を。
 ツアレに対し、デミウルゴスは冷たく見据え――。

『ひざ――』

 ――ぱちりと指を鳴らす音がした。そして口を開きつつあったデミウルゴスは、指を鳴らした自らの主人の意志を即座に理解し、それ以上の言葉を発することをやめる。

「――よい。よいのだ、デミウルゴス。私を前に逃げない勇気を称え、ナザリックの支配者たる私の前での無礼を許そう」
「申し訳ありませんでした」

 デミウルゴスの謝罪にアインズが鷹揚に頷いた。

「ああ」ギシリと背もたれに寄りかかられたイスが音を立てる。「まずは名乗るとしよう。私の名前はアインズ・ウール・ゴウン。そこにいるセバスの支配者だ」

 その通りだ。
 アインズ・ウール・ゴウン――至高の41人は、セバスを支配する方々。
 その言葉にセバスはぶるりと背筋を振るわせる。絶対なる主人にそういってもらえるというのは、生み出された存在からすれば最大の歓喜を引き起こす。
 ただ、どうしてか。思ったよりも歓喜の度合いが少なく、背筋を震わせる程度だったというのが疑問か。
 セバスがそんな思いを浮かべている間にも会話は続く。

「あ、……わ、わたし……」
「よい、ツアレ。お前のことはある程度知っている。そしてそれ以上の興味は私には無い。お前はそこで黙って待っているがいい。お前を呼んだ理由は後で分かる」
「はっ……はい」
「さて……」アインズの空虚な眼窟に浮かぶ赤い光が動く。「……セバス。私は聞きたいのだ。お前には目立たないように行動しろといったはずだな?」
「はっ」
「にもかかわらず、下らない女のために厄介ごとを招いた。――違うか」
「間違っていません」

 下らないと言うところでツアレの体ピクリと動くが、セバスは反応せずに答える。

「それは……私の命令を無視した行為だと思わないか?」
「はっ。私の浅慮がアインズ様の不快を招いたことを深く反省し、このようなことが二度と起こらないよう、充分な注意を重ね――」
「――よい」
「はっ?」
「よいと言った」アインズが姿勢を変え、再びギシィとイスが音を立てる。「失態は誰にでもあることだ。セバス、お前のつまらない失態を私は許そう」
「――アインズ様、感謝いたします」
「しかし、だ。失態は償わなければならない。――殺せ」

 部屋の空気が張り詰め、そして数度温度が下がったようだった。いや、違う。そう感じたのはセバス1人だ。他の2人の守護者、ソリュシャン、そしてアインズは平然としたままなのだから。
 ゾワリとしたものがセバスの背中を走る。何を殺せというのか。そんなことは尋ねるまでも無く理解できるから。
 やはりという思いと、あって欲しくないという思いが、重いものとなってセバスの口を鈍らせた。

「……なんと……おっしゃいましたか……」
「ふむ……その失態の元を消去し、セバスのミスは無かったことにしようというのだ。まさか失態の元がそのままでは、他の者に示しがつかんだろ? お前はナザリックのランドステュワード、上に立つべき存在だ。それがミスをそのままにしていてはな……」

 セバスは息を吐く。そして再び吸う。
 強敵を前にして決して乱れることの無いセバスの息が、弱者が強者を前にしたように乱れているのだ。

「セバス。お前は至高のか――41人に従う犬か? はたまたは己の意志を正しきとする者か?」
「それ――」
「――答えの必要は無い。結果でそれを私に見せろ」

 セバスは眼を閉じ、そして開く。
 迷いは一瞬。いや、一瞬という長い時間を迷う。それはコキュートスやデミウルゴス、ソリュシャンが敵意をみせるほど充分な時間。それだけの時間を得て、セバスは結論を出す。

 セバスはナザリックのランドステュワード。

 それ以外の何者――でも無い。
 自らの愚かな逡巡がこの結果を生み出したのだ。もしもっと前に許可を仰いでいれば、このような結末は待っていなかっただろう。
 全て己の所為である。

 セバスの瞳は硬質の光を帯び、鋼の輝きを灯す。そして自らの横に並んだ、ツアレへと向きを変える。ツアレの掴んだ指が離れる。ツアレはセバスの顔を見、そしてセバスの決定を理解した。
 微笑み、ツアレは目を閉じた。
 顔に浮かんでいる表情は絶望でも、恐怖でもない。今から起こることを受け入れ、認める。そういった殉教者のごとき表情だ。
 それを前にしてセバスの動きに動揺はない。もはやセバスの心は深くに沈められている。そこにいるのはナザリックに忠誠を尽くす、1人のシモベの姿だ。

 ならば、主人からの絶対の命令に従わない理由が無い。謝罪も当然無く、あるのは主人からの命令を只こなすのみ。

 セバスの拳は硬く握り締められ、唯一の慈悲たる瞬殺の速度を持ってツアレの頭部めざし走る。

 そして――



 ――拳は硬質のものに受け止められる。

「――何を?」
「――っ」
「…………」

 セバスの不快げな声が向かった先は、ツアレの頭部を消し去るために放たれた拳を受け止めた存在――コキュートスへだ。コキュートスの腕の一本がツアレの後ろから突き出され、セバスの拳を正面から受け止めたのだ。
 アインズの命令ゆえに行った一撃をどうして止めるというのか。これはコキュートスの叛意を示す行為なのか。
 しかしながらセバスの中に生まれた疑問は即座に解消されることとなる。

「セバス下がれ」

 苛立ちを覚えながらも2撃目を繰り出そうとしていたセバスはアインズの言葉を聞き、その拳に込められていた力を抜く。コキュートスに対する叱咤ではなく、セバスを抑止する言葉。つまりはコキュートスがセバスの攻撃を受け止めたのは、元々そういうことだったということだ。
 出来レースである。ようはセバスの意志の確認こそが狙いだったのだ。

 覚悟をしていたとしても精神的な負担は大きい。命の危険が去ったことによって、緊張感が抜けたツアレはなみだ目で体を震わせる。見ればガクガクとツアレの足が乱れ、倒れそうになっているが、セバスは支えるようなことはしない。
 いや、今更何をしろというのか。
 ツアレが怯えている中、まるでそんな人間がいないかのようにアインズとコキュートスは会話を始める。

「コキュートス。今のは確実にその女を死に至らしめる攻撃だったか?」
「間違イゴザイマセン。即死ノ一撃デス」
「ならばこれをもって、セバスの忠誠に偽り無しと私は判断する。ご苦労だった、セバス」
「はっ」

 硬い表情でセバスは頭を下げる。

「――デミウルゴス」
「はい」
「異論はあるか?」
「ございません」
「コキュートス」
「ゴザイマセン」
「よし。ならば次の話に移るとしよう」

 ぱちりとアインズが指を鳴らせる。それから立ち上がり、手を一閃させる。

「既にこの館に来る前から決定していたことだが、セバスたちの働きによって、充分な情報は集まったと判断している。したがってセバスの無罪は確定した以上、ここに長くとどまる理由ももはや無い。これよりこの屋敷は引き払い、ナザリックに撤退するものとする。セバス、その女はお前が好きにしろ。お前の忠義を確かめた以上、どのようにしようとも私から言うことは無い――と言いたいところなのだが……ナザリックのことを好き勝手話されるのは厄介だと思わないか、デミウルゴス」
「その通りかと思います」
「どうすべきか?」
「……一応は確認を取るべきかと」
「そうだな。……セバス、ツアレの処分はもう少し待て。殺害ということは無いと思われるが、絶対ではないと知れ」

 そう言いながら、困惑気にアインズは頭を傾げる。ツアレの処分がどうなるか不明だという態度だ。
 ナザリックの最高責任者であるアインズが、即座に判断しかねる問題なのかとセバスは驚きを隠しきれない。

「アインズ様。私のミスでこの館を――王都から撤退をするのでしょうか?」
「……そうでもあるし、そうではないとも言える。先も述べたように、この辺りで得るべき情報は粗方得たと判断してだ。これ以上ここに潜っていることをメリットはあまり無い。撤退した方が安全だろうという計算からだ」

 セバスはごくりと唾を飲み込む。このような行為はおこがましいが、それでも撤退するというのならすべきたった1つのことだ。

「ではおこがましい願いを1つあるのですが――」

 アインズは手を上げ、セバスの言葉を切る。

「――聞くことは出来ない。聞いたとしても即答しかねるのでな。予定よりも時間が大幅にオーバーしている。ナザリックに待機させていたアウラやシャルティアが勝手な行動を取るという心配がある。ひとまず私はナザリックに戻り、詳しい説明を行うつもりだ。お前の願いはその後だな」
「――畏まりました」
「《グレーター・テレポーテーション/上位転移》」

 セバスの返事を聞くのが早いか、魔法が発動し、アインズの姿は瞬時に掻き消える。転移の魔法でナザリックに帰還したのだろう。それを見送ったデミウルゴスが、ソリュシャンの方を向いた。

「その人間を別室に連れていきなさい」
「はい、デミウルゴス様」
「いえ、私が連れて行きます。問題は何も無い。そうですよね、デミウルゴス?」
「……そうだね。セバスの言うとおりだ」デミウルゴスは微笑を浮かべ、扉へと手を向ける。「どうぞ?」
「付いてきなさい」
「……はい」

 かすれるような声でツアレは答えるとセバスに続いて歩き出す。
 扉が閉まり、廊下を2人分の足音が響く。互いに言葉無く、歩き、ツアレの部屋の扉が見えてくる。さほど長くない距離だが、それ以上に時間の経過が長く2人には感じられた。
 扉の前まで来て、ようやく決心がついたようにポツリとセバスが呟く。

「謝罪する気はありません」

 背後からセバスの後を続いて歩いてくるツアレの体がピクリと小さく跳ねるのが、セバスは感じ取れた。

「ただ、あなたが殺されかかったのは私のミスです。もしもっと別の手段を取っていれば、このような結果にはならなかったでしょう」
「……セバス様」
「このようなことは2度と無いように心がけたいとは思いますが、無いとは言い切れません。そして私はアインズ様――そして至高の41人の忠実な僕。もしもう1度、同じようなことがあったら、同じような態度を取るでしょう。……ですからあなたは人の世界で幸せになりなさい。そうなるようにお願いしてみるつもりです。……記憶の操作をアインズ様は行えるはず、悪い記憶は全て消して、そして生きなさい」
「……セバス様のことは?」
「……私の記憶も消してもらいましょう。覚えておいても良い事は無いでしょうから」
「良い事ってなんですか?」

 ツアレの言葉に含まれた強い意志。それを感じ、セバスは振り返る。
 セバスを迎撃したのは涙目ではあるが、強く睨むような目をした女性である。セバスは僅かに動揺し、説得の言葉を考える。

 ナザリックは非常に素晴らしい場所であり、まさに神の祝福を受けた場所である。しかし、それは至高の41人によって創造されたセバスやその他の者たち、そしてナザリック大地下墳墓のシモベだから思えることだ。
 才能も、能力もないつまらない人間にとってあの地が救いになるのかどうかは完全に不明だ。そしてあの地ではツアレの命の価値は低く見られるだろう。弱き人間という異質な存在にそれが耐えられるだろうか。
 人の幸せは人の世界にある。セバスはそう考える。

「……ナザリックではあなたの命は大した価値を見出してはもらえないでしょう。それはあなたが今まで居た所と何の代わりがあるというのですか? 人の世で幸せになりなさい」
「私は今、幸せです」

 はっきりと言い切るツアレに、セバスは哀れみを感じた。

「……地獄でちょっとした出来事を幸せと感じ取っているようですが、あなたがいるところは地獄です。地獄の幸せなんか、人間の世界の幸せに比べれば大したものではないでしょう」

 最悪を見ているからこそ、多少良くなった悪い場所でも幸せだと感じてるにしか過ぎない。セバスはそう判断したのだ。
 しかしながらツアレはそんなセバスの考えを笑う。

「……私はここが地獄なんて思えません。おなか一杯食事はでき、ひどいことはされない。……私は小さい村に生まれ、育ちました。そこの生活だって厳しいものでした」

 ツアレの目が一瞬だけ遠くを見るように動く。そして直ぐに元に戻り、セバスを正面から見据えた。

「おなかをキュウキュウ減らしながら畑を耕し、実った食べ物は殆ど領主に持っていかれる。自分の口に入るものなんか、ほとんど残らないんですよ。そしてそれだけ働いたって領主とかの貴族からすると、私達なんておもちゃみたいなものです。悲鳴を上げたって笑いながら犯すんですから。笑ってるんですよ。わたしはあの――」
「――分かりました」

 引きつったような笑いを浮かべるツアレを引き寄せ、セバスは胸の中にすっぽりと収める。震える肩を優しく抱いた。今まで耐えてきた糸が切れたように、泣き出したツアレの涙が服にしみこんでいくのをセバスは感じ取る。

 彼女の見てきた、生きてきた世界が全てであるはずがない。ただ、それでもツアレにとっての人の世界とはそういうものだったということだ。
 セバスはじっと考える。
 何が最も良いのか。そして答えは1つしかないことを確認する。

「……コキュートスの配下にリザードマンが入ったという話を聞きました。それと同じように私の配下に入ったということにすればなんとかなるかもしれません」
「それじゃ――」

 セバスの胸に抱かれたまま、ツアレは顔を上げる。

「ツアレ。ナザリックにあなたを連れて行ってよいか、アインズ様にお尋ねします」
「ありがとうございます。それにセバス様が私を拾われた時に報告されていたら、私はボロボロの状態で処分されたかもしれないんですよね」
「アインズ様は寛大なお方。そのようなことは無いと信じてます」
「ですが、絶対ではない」

 セバスは何も言わない。自らの主人への忠誠心と哀れな女性。2人を天秤にかけ、可能性を避けたのは事実だ。
 セバスはツアレの肩に回していた腕から力を抜くが、ツアレは離れようとはしない。ぎゅっとセバスの服を掴んだまま、濡れた瞳でセバスを見上げていた。
 その瞳に何かを期待しているような色がある。セバスはそう直感するが、それが何を期待しているかまではわからない。
 ただ、その前に確認すべきことがあるとセバスは思い出す。

「1つだけ、確認を。人の世界に未練は無いのですか? 帰りたいと思うところは無いのですか?」

 ナザリックに招かれたからといって、人間社会と永久的に関係を持てないということは無いだろう。別に監禁する目的で連れて行くのではないのだから。しかしながらそうなる可能性だって無いわけではない。

「……弟……に合いたいという気持ちは少しあります。でももう昔を思い出したくは無いという気持ちの方が強いので……」
「分かりました。では、あなたは部屋に入りなさい。私はアインズ様にもう一度お会いしてきます」
「はい――」

 ツアレはセバスの服を掴んでいた手を離し、その手を巻きつけるようにセバスの首に回す。ぎょっとしたのはセバスだ。モンクとして桁外れな力を持つセバスからしても、完璧なる動作だ、そんなことを考えてしまう動きだったためだ。いや、動揺したためにそんな馬鹿みたいなことを考えてしまったのだろう。
 表情には一切表さないものの、どうしようと混乱するセバスを無視し、ツアレはつま先立ちをする。
 そしてセバスとツアレの唇が重なる。
 優しく重なっていた時間はほんの一瞬だ。直ぐにツアレの唇は離れる。

「ちくちくしました」ツアレが体を離すと、自分の唇を両手で押さえる。「幸せなキスは初めてです」

 セバスは何もいえない。だが、ツアレはセバスの表情ににっこりと明るく笑う。

「では私はここで待ってます。よろしくお願いします、セバス様」
「あ、ああ……わ、分かりました、ちょっと待っていてください」



「どうしたのかな? 顔が赤いようだが?」
「何でもないとも、デミウルゴス」

 セバスが部屋に戻った時の第一声がそれである。顔が赤いといわれ、セバスは呼吸を深く静かなものへと変える。さきほどの動揺を表に出していては、主人を迎えうる従者として失格だと判断してだ。唇へと思わず動きそうになった手を押し留め、セバスは完璧なる従者に相応しい表情を作った。

 それから2分後。空間がぐにゃりと歪む。
 そしてその歪みが元に戻ると、そこには1人の人物が立っていた。無論、アインズである。
 セバス、コキュートス、デミウルゴス、ソリュシャン。部屋にいた4人は一斉に跪き、頭を垂れる。

「出迎え、ご苦労」

 アインズはその手に持った、人の苦悶を浮かべるような黒い揺らめきが起こるスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを振る。それから机の後ろに回るとイスに腰掛けた。

「立て」

 4人は一斉に立ち上がり、非常に機嫌のよさそうなアインズに視線を送った。

「さてさて。デミウルゴス、お前が心配性だというのはこれで立証されたな。私はセバスが裏切るなんてこれっぽちも思っていなかったぞ。お前たちは用心しすぎるのだ」
「申し訳ありませんでした。更には先ほども言わせていただきましたが、アインズ様のご判断に異を唱え、私の詰まらない意見を認めてくださってありがとうございました」
「かまわないとも。私だってミスをする。デミウルゴスがチェックをしてくれていると思えば、安心できるというものだ。それに私を心配してくれての発言に、何かをいうほど狭量ではないと思っているぞ」深々と頭を下げたデミウルゴスから視線を動かし「それで願いというのはなんだ、セバス」
「その前にアインズ様にお聞きしたいことが」少しばかり間を置き、アインズの表情をセバスは伺ってから言葉を続ける。「ツアレはどのようにしましょうか」

 少しばかりアインズは考え、それからどうしてセバスがそんなことを言っているのか、答えに行き着いたように頷く。

「えっと、あの女性を解放した場合、我々ナザリックの情報が漏れる、だったか?」

 デミウルゴスはアインズの視線を受け、頷いた。

「はい。どういたしますか?」
「なら時間をかけて記憶を弄ればいいだろう。ある神官の協力もあって、洗脳こそは無理だが、記憶の操作に関してはなかなか上手くなったと思うぞ」
「処分してしまう方が楽だと思いますが?」

 デミウルゴスの意見に、ソリュシャンが同意するように頭を縦に振った。アインズはそれを見て僅かに考え込んだ。2人も同じ意見だとすると……というところである。
 セバスは内心非常に慌てる。
 アインズが決定してしまったら、それを変更させるのは容易いことではないからだ。問題は許されたとはいえ、デミウルゴスやコキュートス、ソリュシャンのセバスに対する好感度は下がっているはず。もし下手に反対意見を口にしたら、確実に不快感をあたえるだろう。
 しかし、ここは発言すべきだ。
 セバスはデミウルゴスに反対する意見を述べようと口を開きかける。しかし、それを発することは無かった。というのもその前にアインズが口を開いたからだ。

「……よせ、デミウルゴス。なんの利益も無く殺害行為を行うのは余り好きではない。というより殺した場合、あとでの回収が不可能だからな。生きていれば何かに使える可能性があるしな」

 安堵の息をセバスは殺す。まだツアレの扱いが決定していないからだ。

「畏まりました。……では私が支配している牧場で働かせますか?」
「ああ、家畜を飼っているんだったな」

 デミウルゴスには似合わないなとアインズは笑う。それに対してデミウルゴスは品良く微笑み返した。そんな2人を、セバスは何も言わずに様子を伺う。
 主人が機嫌よく話している最中に、横から口を挟むことほど愚かなことは無いだろう。
 下手なことを言ってアインズの不快を買ってしまったら、ツアレの運命は碌なものにならないだろうという判断である。

「お前の牧場があるからこそ、スクロールの保有量を考えずに、ふんだんに使えるというもの。非常に素晴らしい働きだ。今後もよろしく頼む」
「ありがとうございます」
「ちなみにその家畜は潰して食料にしたりはしないのか? ナザリック内の食料事情も良くしないといけないからな」

 デミウルゴスの視線がアインズからそれ、どこか遠くを見るようなものへと変わる。それから視点がアインズへと戻ってきた。

「……肉質が悪く、食料としては不合格ラインかと。栄えあるナザリックで使用するには……」オススメできないとデミウルゴスは微笑んだ。「まぁ、死んだ家畜は潰して、他の家畜に食べさせておりますが。そのままだと食べないので、ミンチにしてですが」
「そうか……。なんとかタールだったか? タールということは山羊だよな? 山羊って肉を食べるのか?」
「雑食のようです」
「ふーん。そういうものなのか。まぁ、山羊のことなんか詳しくは知らないし、この世界の特有種かもしれないしな」

 アインズは小首をかしげ、とりあえずは納得する。

「しかしナザリックの指揮官たるデミウルゴスが、牧場経営とは非常に似合ってないな。もし面倒なことだったら、誰か回しても構わないぞ? お前にはそれ以外にやってもらわなくてはならない仕事があるのだからな」
「いえ、非常にやりがいのある仕事であり、アインズ様の下にスクロールの材料を持っていけることは喜びですから」
「そうかそうか」

 アインズは嬉しげに笑う。
 セバスは逆に内心眉を顰めた。同じナザリックで至高の方々に仕える身として、デミウルゴスの性格は熟知している。あのデミウルゴスが単なる牧場を経営するわけが無い。ならば肉を食べる山羊を飼育する牧場とは一体何か。
 それを考えた時、セバスの脳裏を鮮烈なものが走った。
 デミウルゴスが何を飼育しているのか予測がついたからだ。
 そんな場所にツアレを送り込むことが出来るだろうか。確かにツアレの身の安全はデミウルゴスは保証するだろう。しかし、彼女の精神までは保証しないだろう。

「しかし山羊も哀れなものだが、ナザリックのために働けるのだ。これ以上の幸せは無いだろうな。そうだな、デミウルゴス?」

 一瞬だけ、デミウルゴスはアインズを伺うような視線を送ってから、大きく頷く。

「まさにおっしゃるとおりです、アインズ様」
「では山羊のことはこれまでどおりデミウルゴスに任せるとしよう。山羊の生態とか知らない私よりはお前の方が上手く扱えるだろうからな」
「はい、アインズ様。……アインズ様は何もご存知無い、そういうことですね?」

 奇妙なデミウルゴスの言い方にアインズはわずかばかりに表情を動かすが、とりあえずは同意の印として大きく頷く。

「……まぁ、そういうことだ」
「畏まりました。山羊の管理は完璧にこなさせてもらいます」

 デミウルゴスの満面の笑顔。それは主人の暗黙の了解を得たという部下のものだ。
 一息ついた。
 口を挟むならばこのタイミングしかない。セバスはそう判断し、口を挟む。

「――アインズ様」
「どうした、セバス」
「ツアレですが、ナザリックで働かせようかと考えております」
「何……?」
「ツアレは食事を作ることが出来るという能力を保有しています。ナザリックでは料理が出来るのは現在、料理長と副料理長の2人のみ。今後のナザリックのことを考えると、もう少しは料理が出来る人間がいた方がよろしいかと考えます。さらに人間が働いているというテストケースを作ることも充分なメリットが考えられます。それに人間という劣った生き物でもナザリックでは働かせてもらえるというアピールは、非常に良い前例として使えるのではないでしょうか? 他にも――」
「――わかった、わかった、セバス」

 濁流のようにツアレの有効性をアピールするセバスに対し、アインズは手を上げてそれを止める。

「わかったぞ、セバス。お前の言うことは良くわかった。確かに料理を行える存在が少ないというのは考慮すべき点だと私も思っていた」
「しかし、アインズ様。彼女はナザリックに相応しい料理が作れるのでしょうか?」

 セバスは一瞬だけデミウルゴスを鋭く睨む。そんなセバスに対して、デミウルゴスは微笑をみせた。
 嫌な奴だ。
 セバスは口の中で言葉を殺す。
 アインズが許したといっても、デミウルゴスはセバスを許してはいない。だからこそ、ツアレの処分をセバスの望まない形に落とそうとしているに違いない。そうセバスは判断する。
 そして事実その考えは間違ってはいない。僅かに呆れた様にしているのはどちらかといえばセバスよりの思考回路をしているコキュートスだ。ちなみにソリュシャンはセバスも罰を受けるべきだろうと、デミウルゴスよりである。

「……そうだな。どうなんだ、セバス?」
「……ツアレが作れるのは家庭料理です。ナザリックに相応しいかといわれると……お答えするのが難しいかと」
「家庭料理ですか。ジャガイモを蒸したような食事をナザリックで出すことは無いと思いますが」

 その微笑に嘲笑を含んでデミウルゴスが言う。

「家庭料理が出来るということは、料理長に請えば他の料理もマスターできるということ。今ではなく将来を見ておくべきでしょう」
「それなら私の牧場で、料理を作るのに協力して欲しいものだね。ミンチを作るのも大変なんだよ?」
「私は――」

 騒がしい2者の会話。それをアインズは眺める。
 そして、その奥に浮かぶ光景を――。


 ◆


「で、今日は何処に行きますか?」
「炎の巨人を――」
「氷の魔竜を――」
「……ふぅ。ウルベルトさん、炎の巨人のボス、スルトのレアドロップを取りに行こうという話が前にあったのを覚えていないのですか?」
「たっちさんこそ覚えていませんね。魔竜狩りをやっていかないと特殊クラスへの転職条件が揃わない人がいるんですけど?」
「……それはそうですが、レアドロップだってやまいこさんの強化には必要なものなんですよ?」
「あ、ボクは別にいいけ……」
「原初の炎ですか? ならば原初の氷だって必要になるでしょ? なら先に魔竜狩りを」
「……課金して今ドロップ率が高くなってるんです。魔竜よりもスルトの方が標準ドロップ率低いんですから、先に片した方が良いと思ってです」
「だったら私が今度、課金しますよ?」
「……けど、ど、ど……」
「……サキュバスとかのエロ系モンスター狩りに深遠に潜るのは?」
「弟、黙れ」
「悪魔系なら7大罪の魔王討伐ぐらいしに行きたいね。結構色々と準備がいるとは思うけどさ」
「……たっちさん、我が侭言うべきじゃないと思います。今集まってるメンバーを見れば氷の魔竜を退治に行ったほうが効率が良いでしょ?」
「いや、我が侭言ってるの、ウルベルトさんですよ。だいたい私達は別に効率だけを考えてゲームをしてるわけじゃないんですから」
「魔法職最強と戦士職最強が喧嘩すんなよ……」
「あの2人は昔からああだから。私が声をかけられた時からあんな感じ」
「ピンクの肉棒に話しかけるなんて、たっちさんは偉大だよなぁ」
「……茶釜さんもペロロンチーノさんも武器構えるの止めようね? ギルマス特権使うよ?」
「7大罪の魔王ってどっかのギルドが攻略してなかった?」
「傲慢は退治されたらしい。ネットにアップされてた」
「7大罪全部倒したら、確実にワールドアイテム手に入りそうですよねー」
「ワールドアイテムといえば、無限エネルギーとかいうカロリックストーンをメインコアにした最強ゴーレムを作りましょうよ」
「ぬーぼーさん。それよりは武器の方に埋め込んだ方が良いと思いますけど?」
「個人的には鎧も悪くないと思いますけどね」
「まぁ、その辺は色々と考える必要がありますよね」
「ですねー、モモンガさん」
「カロリックストーンを何度も手に入れる方法は分かりましたけど、隠し7鉱山から取れる金属を大量に消費しますからねぇ」
「各ギルドがそれぞれを分割して管理している段階で、使ったら2度と手に入らないでしょうからね。仲良く順番にというわけには行かないでしょうしね。……『トリニティ』とかに情報売ってみたらどうです?」
「『2ch連合』にも売って、ぶつかり合わせるんですか? 流石はベルリバーさん、策士ですなぁ」
「『2ch連合』といったら、またアライアンスを組むことを計画してるみたいですよ?」
「え? そりゃなんで?」
「なんとかとかいうギルドが手に入れたワールドアイテムを強奪した所為で、向こうさんのギルドが方針を変換したためだそうですよ」
「あちゃー。でも前のように上位ギルドアライアンスは難しいでしょうね」
「――ならモモンガさんに決めてもらいますか?」
「それが良いでしょう。ギルド長どうします?」
「……え? ……え? ああ、そこで振りますか? ……全く。……ならいつもどおりあとくされ無しの多数決で決めましょうか」
「いつもどおり異存はありません」
「こっちもです」
「じゃあ、新金貨はウルベルトさん。旧金貨はたっちさんでやりましょうか。はーい、皆さん、金貨を手に持ってください。こあれから2人の説明が始まりますよー」


 ◆


「――イイ加減黙レ、アインズ様ノ前ダゾ」

 徐々に白熱し始めたセバスとデミウルゴス。その2者にコキュートスが水をかける。そんな2人を凝視しているアインズを対し、両者共に顔色を変える。感情を感じさせない視線だが、その強さは並ならぬもの。激しい叱咤が飛んでもおかしくは無いと、セバスもデミウルゴスも直感する。

「アインズ様の前で、失礼しました!」
「愚かな行為をお見せして申し訳ありません!」

 慌てて、謝罪としての深いお辞儀をアインズに向けるデミウルゴスとセバス。しかしその反応は非常に不可解なものであった。

「――あははは!」

 室内に突然、笑い声が響く。非常に楽しげな明るいものだ。それの発生源はアインズ。
 ここまで機嫌よくアインズが笑い声を上げた記憶は無く、コキュートスもデミウルゴスもセバスもソリュシャンも、全員があまりに信じられない光景に目を白黒させる。

「構わないとも許す、許すぞ! そうだ! そうやって喧嘩をしないとな、あははは」

 何がアインズの琴線に触れたのかはさっぱり不明ではあるが、セバスはとりあえずは安堵の息を誰にも気付かれないように吐く。

「あはは……ちっ、楽しさも抑制されるか……」

 突如、糸が切れたように無表情へとアインズは戻る。しかしながら今だ僅かに機嫌がよさそうにしているのはセバスの見間違えではないだろう。自ら直ぐ横の机に立てかけた、ギルド長――至高の41人のまとめ役である印たるスタッフを指で撫でつつ、アインズは朗らかにセバスに話しかける。

「さてツアレだが、良いじゃないか、家庭料理。確かに料理人は必要だろうと私も思っていた。元々ツアレに関してはセバスに任せるつもりだったのだ。お前が良いと思うこと、ナザリックに損失を出さない程度であれば何をしても構わないとも。それにだ。例え、私は疑っていなかったとはいえ」疑っていなかったというところに非常にアクセントが置かれたものの言い方でアインズはセバスに告げる。「お前を疑ったものを止めなかったのは事実だ。まずは許せ」

 アインズは言い終わると、机にくっ付くぐらいに頭を下げる。

「め! 滅相もございません! 全て私の不徳のなすところ!」
「その通りです。疑ったのは私達のミス! アインズ様が謝罪する必要はありません!」
「その通りです! セバス様を最初に疑ったのは私! アインズ様は謝罪するのではなく、私を罰してください!」

 慌てて、詰め寄りかける部下達に手を挙げ、アインズは黙らせる。それから再び自らの考えを述べた。

「その侘びとしてツアレはセバスに任せる。さて、デミウルゴス。先も言ったようにナザリックに害をなさない範疇であれば、ツアレの安全を保証するようにお前の頭を使え」
「畏まりました。帰還後、即座にツアレの話をナザリック内に伝えます。個人で行動しても危険が無いようなまで」
「よし。以上でツアレの待遇は決まりだな、それで良いな、セバス?」
「はっ!」

 セバスは90度を超えそうな勢いで頭を下げた。アインズへの忠誠心をより強く、セバスは感謝の意を示したのだ。

「さて、と。あとセバスは私に何か願い事があるのだな?」

 セバスは一瞬だけ口ごもる。それはこれ以上強請るのは、失礼に値するからではないかという思いが頭を過ぎったためだ。

 アインズがセバスに対し謝罪をしたのは、あれはツアレの待遇を良いものとするために、ワザとやってくれたものではないかとセバスは考えている。
 現在のツアレはある意味アインズからの謝罪の印としての贈り物だ。その送り物に対して何かが起こった場合、それはアインズへの無礼にも繋がりかねない。したがって、ツアレの安全性や周辺は完全に保証されているのだ。
 それほど寛大さを見せてくれる自らの主人に、これ以上のことを言うのは、優しさにつけこんだ薄汚いことなのではないだろうか。

 そんなセバスの混乱をアインズは掴んだのか、朗らかに話しかける。

「構わないともセバス。言うだけなら只だ。ほら言ってみろ」

 その主人の言葉がセバスに勇気を与え、口を開かせる。

「はっ。あの女を助けた際、他にも幾人か囚われているという話でした。もしよければその人間達を助けたいと」
「セバス。それはあまりにも虫の良い願い。あなたのその甘い考えが問題を引き起こしたのでしょう? それを考えればそのような願いは決して口には出せないと思うのですが?」

 デミウルゴスが眉を顰めた。しかしながら――

「――ん? いいんじゃないか? 何か問題があるのか?」

 そんな気楽そうなアインズの言葉を受け、デミウルゴスの瞳孔が僅かに広がる。

「……いえ、アインズ様がよろしいというのであれば、私に反対の意見なぞございません」
「いや、反対の意見の有無ではなく、問題があるかという質問なのだが……。別にそいつらがナザリックを愚弄したわけでも、私を馬鹿にしたわけでもないのだろ? さらには苦しめることで我々に利益があるわけでもない。ならば助けても良いではないか」
「……しかし、強者がその背後にいる場合がございます。セバスは色々と調べたかもしれませんが、裏にもぐった強者まで調べがついたとは思えません」

 アインズは理解に至ったのか、ああと声を上げた。

「……そうか。いるか不明とはいえ、事を構えるのも問題か。大義名分があれば問題はないかと思ったのだが……早計だったな」

 アインズの考える基本的な行動方針では、まずはナザリックの維持が第一優先だ。次に来るのがほぼ同格だがナザリックの拡大と他のプレイヤーとの戦闘行為を避けるということ。ほぼ同格というようにナザリックの拡大が少しばかり上で設定されている。
 ナザリックの拡大に関係の無いような問題で、厄介ごとを被りたくはない。
 アインズはそう考え、セバスの意見を却下しようかと決める。そしてセバスへと視線を動かした時、セバスとデミウルゴスの2人を視界に入れたとき、考えは変わった。

「――助けることを許可しよう」

 ざわりと室内の空気が動く。先のアインズの発言は深く考えないで述べた言葉であり、今度のは考えた上での言葉である。両者の重みは圧倒的なまでに違う。
 ではアインズがその考えを決定する要因とは何か。その答えがこの場にいるセバス、デミウルゴス、コキュートス、そしてソリュシャン。誰の頭にも浮かばなかったからだ。
 主人がどのように判断したのか、それを言葉にされる前に察知するのが良き、かつ優秀な部下だ。それが出来なかったため動揺が空気を揺らがしたのだ。

 忠誠尽くすべき主人の考えを理解できず悔しいという思い、そして無能な自らを恥じる思い。
 そういったものを宿した部下たちを前に、アインズは無視するように己の考えを告げる。

「困っている人を助けるのは当たり前――だからな」

 まるで誰かが言った言葉をそのままなぞる様なアインズの発言に、その場にいた全員が目を白黒させる。あまりにも自らの主人が言うのは相応しくないような言葉に思えたからだ。
 今までの行為、全てをひっくり返すような言葉だ。

 アインズという存在がどのような者か。
 各員少しづつの違いはあるものの、おおよそ共通の認識として、絶対者という言葉が上げられる。
 その他にはナザリックを作り出した至高の41人の1人であり、そのまとめ役。最後までこの地に残った、ナザリック大地下墳墓の住人全てが絶対の忠誠を捧げるべき相手。
 英知に富み、先を見通し、部下の失態を寛大な心で許し、働きに対して膨大な褒美を与えるだけの太っ腹なところを持つ。それに対してはナザリックの外に対しては冷酷で計算高く、利益を考えた上で行動する、そんな存在だと。

 そんな存在が、困っている人がいたら助けるのが当たり前だいう発言をするとは――まさにポカーンである。

 特に驚いたのはデミウルゴスだ。
 先の牧場での会話で、アインズは一体どういう生き物を飼っているかを理解したうえで、暗黙の了解を示したとデミウルゴスは判断したのだ。それがもしかしたら違うかもしれないというのだから。

 空気の変質はアインズにも伝わる。


 やばい。何かミスった。
 守護者やソリュシャンの呆気に取られたような表情を見て、アインズは自らの失態を悟る。
 昔を思い出し、そしてある人物が言った台詞。それを口にしたのだが、何が悪いのか不明だがミスったことは事実だ。これによってのカリスマ――支配力の低下をアインズは危惧する。

 確かにアインズは強い。一対一で戦えば、守護者が相手でも敗北はありえないだろう。
 ただ、それはゲームだった頃の話だ。実際の戦闘はそう上手くいくものではない。それは侵入者たちと魔法を封じて戦った時に良くわかった答えだ。圧倒的な肉体能力を持ち、レベル的な面で考えても強者であったアインズが、遥かに劣る冒険者4人に押されていたのだから。本気での戦い、命の奪い合いという経験値の不足しているアインズでは、もしかすると格下相手でも負ける可能性は充分にあるのだ。

 だからこそ、自分を守る強大な鎧であるナザリック大地下墳墓。そこへの支配力の低下というのはアインズにとっては恐ろしい状態なのだ。
 無論、所詮は単なる一般人であるアインズ自身としては、自らにカリスマなんか無いのは重々承知している。しかし、それでも今まで上手くやれてきていたような気がしているのだ。失うには惜しすぎる。
 そんな思いから、アインズは必死に思考を回転させ、偉そうな存在が言いそうな台詞を考える。

 ――これだ!

 アインズは浮かんだ考えを慌てないよう、偉そうに口にする。

「アインズ・ウール・ゴウンが、いるかどうか分からない強者に怯えるというのはこれ以上無い愚かな行為ではないか? ナザリックにおいて不敗を誇る我々が」

 その場にいる守護者たちの表情を伺いたくなる気持ちをぐっと堪えて、アインズはどうどうとしている演技を行う。もし心臓があれば、緊張感からバクバクと激しく鼓動を繰り返しただろう。


 デミウルゴスが、セバスが、コキュートスが、ソリュシャンが、僅かに目を見開く。先の言葉に比べると遥かに理解できたためだ。
 そして深い説得力がそこにはあった。
 アインズ・ウール・ゴウン。至高の41人によって作り出された最高の存在が、存在すら不確かなものに怯え、震えるのは愚かだ。確かに強者はいるのかもしれない。しかし、守護者が敗北を喫したのはたった1度。守護者クラス1500人という圧倒的多数で攻められた時のみだ。そしてその時も至高の存在によって撃退された。つまり守護者は敗北したが、至高の41人の支配するナザリックは不敗であるといっても良い。
 アインズ・ウール・ゴウンは強者だ。
 警戒は必要、だからといって影に怯える必要も無い。そして本当にいたとしても、下から出る必要だって無い。

「昔言ったように敵意を無理に買う必要は無いが、困っていたものを助けるという名目ならば、正義は我々の上にある。もし何か言ってきたならば、見せ付けてやろうじゃないか、我らの強大さを」
「つまりはもし強者が裏にいる可能性を考え、我々の強さを見せ付ける手段として、弱者救済の皮を被るということですね」
「ん? ……そういう……ことだな?」
「畏まりました」

 代表しデミウルゴスが口を開き、そして全員が一斉にアインズに頭を垂れる。

「ではこの都市1つを巻き込んだ、力の行使を――」
「よせ!」慌ててアインズはデミウルゴスを止める。「情報をわざわざ流す必要は無い。もし強者がいれば慌てて調べだすだろう。そうすれば逆に相手の情報も入手しやすくなるというものだ。我々は静かに行動するだけでよい」
「まさにおっしゃるとおりです。アインズ様の深謀遠慮には感服いたしました。流石は私達の支配者であられるお方。その英知、私の及ぶところではありません」

 デミウルゴスが満面の笑みを浮かべて、アインズに同意する。
 海底に身を潜めた魚を目視で発見することは困難だが、その魚が餌を求めて上まで浮上してくれば、視認も容易となる。

「流石ハアインズ様」
「困っている人を助けるのは当然だとか……そこまでお考えの言葉だとは思いませんでした」
「全くです」
「え? ……そ、そうか? う、うむ、そんなわけだ。な、納得したようだな? ではその辺はセバスに任せ、我々は撤退をしよう。とりあえずはこの館内を綺麗に掃除し、変な情報を残さないようにしないとな。そうだよな、デミウルゴス?」
「まさに」
「そういうわけだ、セバス」
「畏まりました」僅かばかり慌てたようなアインズに、セバスは深く頭を下げる。自らの願いを叶えてくれた主人に対する、深い感謝の気持ちを込めたものだ。「……ところで中にいる人間は皆殺しにすべきでしょうか?」
「ん? ん……別にそこまでする必要は無いだろう。こちらから率先して情報を流す必要は無いが、完全に流れないようにしても意味が無い。幾人かの命はあったほうが良いだろうな。臨機応変に任せる。ただ、ナザリックに来たいと要望する人間以外のものを連れては来るなよ?」

 誘拐ではなく、自由意志による行為だ。そんな建前を作るための狙いだろう。
 それに対してはセバスも理解できる。そのため即座に返答した。

「畏まりました」
「……しかし、やはりそういうところなんだから女だろうな?」
「だと思われます」
「……女、これ以上増やして価値あるのか? 個人的には肉体労働とかさせることを考えると男の方が嬉しいんだが……。女なんかがこれ以上増えることに必要性を感じないのだが……」

 そういわれてもセバスに言葉は無い。無論、アインズも実際返答が聞きたくて、セバスにこぼしたわけでは無い。直ぐにアインズの中で何らかの答えが出たのか、肩を竦めた。

「まぁ、良いか。では行動を開始しよう」



 ■



「さてと」

 ツアレを拾ったところまで来たセバスは厚い鉄の扉に向き直る。扉は木に鉄板を両側から打ちつけ、さらに真ん中にも別の金属をはめ込んだ重厚なものだ。人が道具も無しに破壊するのは困難だと、一目瞭然で理解できるほどの。
 セバスはノブを掴み、捻る。
 途中で回した手は止まる。こういう店なのだ。当然、鍵が掛かっている。

「鍵開けは不得意なのですが……仕方ないですね。私なりの鍵開けといきましょうか」

 セバスは困ったように呟くと、ノブを再び捻った。もしこの光景を見ている者がいれば、単にノブを回したんだろうな。そんな風に思えるほどの軽やかさだ。そこに不自然な力の入り方は無い。
 しかし、そこにかけられた力。
 それを測定したらどの程度のものになるだろうか。恐らくは人間では決してでないようなほどの力が込められていたのだろう。

 金属が無理矢理曲げられる音が響き、耐え切れなくなったノブと鍵が大きく歪み、破壊される。そのままセバスは扉を開く。引かれた扉をそれで終わることなく、セバスはそのまま力を込めた。
 蝶番が悲鳴を上げ、壁から別れを告げる。
 かなりの重量があるだろう分厚い扉が――防御を考えて作られているはずの扉が、人間の常識外の力を受けて引っこ抜かれたのだ。

「なん! ……だ……?」

 扉の直ぐは通路になっており、その奥の扉から顔を出した髭の生えた屈強な男がその光景を見て絶句した。
 それは当然だ。
 分厚い扉を片手に持っている老人がいたら、誰でもそんな表情を浮かべる。特にその扉の重量を知っている者ならなおさらだ。

「錆びてるのか、開きづらかったですよ? 来客のことまで考えて、扉には油を差しておいたほうが良いかと思いますね」

 セバスはそう男に声をかけると、手に持った扉を後ろに放る。セバスの手を離れるまで、まるで紙か何かの重さしか持たないようだった扉は、空中で元々の重さを取り戻し、地面に落ちる時には騒がしい音を周囲に響かせた。
 男は完全に惚けていた。
 その間にもセバスは家の中に進んでいる。

「――おい、どうしたんだ?」
「――今の音は何だよ!」

 男のいる後ろから別の男の声。
 ただ、セバスを直視している男はそれに反応することなく、セバスに声をかけた。

「……ああ……い、いらっしゃいませ?」

 完全に混乱に陥った男は、セバスが目の前まで来るのをぼっと眺める。元々こういうところで働いている人間だ。暴力には慣れており、色々な事態に対処するだけの覚悟は出来ている。しかし、目の前で起こった光景はあまりに常識から逸脱していた。
 後ろから男の仲間が問いかけてくるのを無視して、男は媚いるようにセバスに笑いかける。生存本能が媚いることが最良だと考えたためだ。
 いや、ここに来ている客の1人に仕える執事だと、必死に自分を騙そうとした結果かもしれない。

 髭面の男が頬を引きつらせた顔で、必死に愛想笑いを浮かべるのは、あまり見栄え的にも良いものではない。
 それはセバスにしてもそうだった。

 セバスは微笑む。

 優しげであり、微笑ましいものである。
 しかしその目に宿る感情は好意的なものは一切なかった。

「退いていただけますか?」

 ドガン。
 いやゴバァン、だろうか。

 人間が大きく吹き飛んだ、その際に上げる音というのは。
 屈強な成人男性1人。それが武装しているのだ。全体重で85キロはゆうにあるだろう。
 それが中空で冗談のように回転しながら、目にも留まらぬような速度で横に吹き飛んだのだ。男の体はそのまま壁に激突し、水の弾けるような音を盛大に立てる。
 巨人の拳が家屋に叩きつけられたように、家が大きく揺れた。

 立ちふさがっていた邪魔な男がいなくなったために、開いた扉の隙間から、セバスは身を滑り込ませるように中へと侵入する。そして後ろ手に扉を閉めると、優雅な動作で室内を見渡した。
 敵地への侵入というよりも、無人の家屋を散策しています、そんな雰囲気で。

 中には2人の男。
 壁一面に広がった真紅の花を呆気に取られたように見ていた。つんとした匂いは血や内容物によるもの。
 その中に僅かに酒の匂いがある。ナザリックでは決して見られないような安物の匂いだ。
 セバスはツアレから聞いた、この家屋の間取りを思い出そうとする。彼女の記憶はボロボロであり、大したものが残っていたわけではないが、下に本当の店があるとは聞いている。
 床を眺めるが、下に続く階段は巧妙に隠されているのか、セバスに発見することは出来ない。

 自らが発見できないのであれば、知っている人間に聞けばよい。
 そんな当たり前のことをセバスは行う。

「失礼。少し聞きたい事があるのですが?」
「ひぃ!」

 声をかけられた男の1人が掠れたような悲鳴を上げる。もはや戦うとか、そういう言葉は一切頭には浮かんでいない。
 入ってきたのは1人。つまり先ほどまでこの部屋にいた3人の男の中で、最も腕っ節の立つ男を殺したのは、この老人だということだ。
 もしこれが普通に遭遇したのなら、これほどの怯えは見せないだろう。しかし、人間1人を容易く吹き飛ばし、壁でミンチを作るような化け物に対して、刃渡り60センチ程度の武器で戦いを挑む勇気なんかあるわけが無い。いや、それは勇気とは言わず蛮勇と呼ぶべきか。
 セバスの外見が単なる老人、それも品の良さげなものだというのが、より一層恐ろしさを増している。見た目から化け物であれば、ああ、そういうものかと思えなくも無いが、まるで人間のような素振がより一層、異質さを感じさせるのだ。
 男たちはガタガタと怯えながら、セバスから少しでの離れようと壁にもたれかかる。

「この下に用があるのですが、行く方法を教えていただければと思うのですが?」
「……そ、それは」

 それを第三者にいうことは裏切りだ。粛清の対象になったとしてもおかしくは無い。
 言うべきか、言わざるべきか。そんな男たちの迷いを、一太刀で断ち切る言葉をセバスは発する。

「あなた方は2人いますね」

 ぶわっと男たちの額に脂汗が滲み、ぶるっと背筋が震える。
 2人いるから1人はいらない。そう眼前の化け物がはっきり断言したのだから。

「あっ、あっ」
「あそこだ、隠し扉があるんだ!」

 男の1人が恐怖のため、言葉を発せない間にもう1人が大声で叫ぶ。喋れなかった男の方が、喋った男に憎悪の目を向ける。自分の命が失われる可能性を知った男が、失う原因となった男に向けて然るべき目だ。
 それに対して喋った男が向けたのは勝ち誇ったような目だった。

「あそこですか」

 知って眺めてみれば、確かに周囲の床との間に切れ目のようなある。

「なるほど、感謝いたします」

 にっこりと優しげに笑うセバスに話した男は希望を抱く。
 ここから全力で逃げて、明るくなったら直ぐに王都の外に出る。もう、こんなやばい奴と会うような人生からは足を洗う。多少はたくわえもある。それで食いつなぎながらまともな職を探すんだ。
 今までの人生を悔い、そして新たな生き方をすることを信じてもいなかった神に約束をする。もしこの王都で信仰心を高い順に選んでいたら、この男達はかなり上位に位置しただろう。
 しかし、結局のところ、今までの人生の汚れというものはいつまでもへばりつくものである。
 
「では役目も終わりましたね」

 セバスが微笑み、その言葉の後ろにある意味を直感した男達は青い顔でガクガクと震える。それでもほんの少しの淡い期待を抱き、言葉を口にする。

「た、たのむよ。こ、ころさないでくれ!」
「駄目です」

 シンと部屋が凍りついた。2人の男はそろって目を丸くする。信じられない言葉を聞いたように。
 セバスがぐるっと首を回す。ミシミシと間接が大きく鳴った。

「だって、話したじゃないか! なぁ、何でもするから助けてくれよ!」
「確かにそうですが……」セバスはため息混じりの息を吐き出し、頭を横に振る。「駄目です」
「じょう……だんですよね?」
「冗談だと思われるのは勝手ですが、結果は1つしかありませんよ?」
「……かみさ……ま」

 僅かにセバスの目が細くなる。ツアレを拾った時の姿を思い出して。
 そんなことに加担していた者に神に請い願う、そんな権利があるわけがない。そしてセバスにとっての神は至高の41人。それを侮辱されたような気がして。

「自業自得です」

 その全てを断ち切るような、鋼の言葉に男達は自らの死を直感する。
 逃げるか、戦うか。その選択肢を突きつけられた瞬間、男たちが迷わず選んだのは――

 逃げの手である。
 こんな化け物と戦ったって結果は見えている。それよりは逃げた方が少しでも生き残れる可能性がある。そう判断し、その判断は正しい。
 数秒、いや1秒単位でだが、彼らの寿命は延びたのだから。

 扉目掛け走り出した男達に、一瞬でセバスは追いつくと、くるんと軽く体を回転させた。疾風が男達の頭の辺りを通り抜け、男達の体は糸が切れたように床に転がる。ポンと2つの球体が壁にぶつかり、血の跡の残して床に転がる。
 遅れて男達の、頭部を失った首からは大量の血が床に流れ出した。

「……自分が今までに行ってきたことを考えれば、どうなるかは自明の理でしょう?」セバスの視線が中空を彷徨う。「あなたもそうならないことを祈っていますよ。……さて、さて」

 セバスは広がってきた血溜まりを避けるように、ゆっくりと歩き出す。回し蹴りで頭のみを蹴り飛ばすという行為自体、ありえないような速度と力だ、最も恐ろしいのはセバスの足を包むその靴に、一切の汚れが付いてないことだろう。
 床に付いた隠し扉にセバスは足をたたきつけた。
 金具の壊れる音。そしてぽっかりとした床が口を開ける。しっかりとした作りの階段を、ガランガランと意外に大きな音を立てて破壊された扉が滑り落ちていった。


 ◆


 その部屋はそれほど大きくはない部屋であった。
 がらんとした部屋には衣装タンスが1つ。そしてベッドが1つしかない。
 ベッドは藁にシーツを引いたような粗末なものではなく、綿を詰め込んだマットレスを敷いた貴族が使いそうなしっかりとしたものである。ただ、機能性を重視したようなそれはさっぱりとした作りで、貴族の使用するものに良くありがちな装飾は一切施されていなかった。
 そしてその上には裸の1人の男が座り込んでいた。

 年齢的にも中年を大きく越えた頃だろう。体躯は暴食の名残がこびりつき、情けない体となっている。
 顔立ちは元々が平均すれすれだったのにも係わらず、そこにたるんだ贅肉を付着したことによって、急激に点数が下がっている。豚のような――そういっても良い外見だ。豚は豚でも知性の欠片もない、侮辱の意味での豚だ。
 彼の名はブルム・ヘーウィッシュという。

 彼は振り上げた拳を下――マットレスにむかって叩きつける。
 そして、マットレスのものとは違う音が響く。

 ブルムの弛んだ顔に喜悦の表情が浮かんだ。手に伝わってくる肉がひしゃげる感触と共に、ぞわぞわとした心地良いものが沸き起こったのだ。

 ブルムの組み敷いた下には、裸の女がいた。
 顔は大きく膨れ上がり、所々で起こっている内出血が顔をまだらに染め上げていた。鼻はひしゃげ、流れ出した血が固まりこびりついている。唇も瞼も大きく腫れあがり、元々の整っていた顔立ちはもはや何処にもなかった。体にも内出血の跡は見られるが、それでも顔ほどではない。
 先ほどまで庇うという意味で必死に持ち上げていた手はだらしなくベッドにたれ、水中に漂っているかのような姿だった。
 どう見ても女の姿に意識があるようには思えなかった。
 周囲のシーツにも飛び散った血が色を変えて付着していた。

「おい、どうした。もう終わりなのか? あぁん?」

 拳を持ち上げ、下ろす。
 ガツンと拳と頬肉、そしてその下の骨がぶつかり、ブルムの手にも痛みが走る。
 ブルムの表情が歪んだ。
 
「ちっ。痛ぇじゃねぇか!」

 怒気に合わせて、再び拳を叩きつける。
 ゴツリという音と共にベッドが軋む。ボールのように膨れ上がっていた女の皮膚が裂け、拳に血が付着した。ねとりとした新鮮な血液がシーツに飛び、真紅の染みを作る。

「…………ぅぅ」

 殴られてももはや女は動こうともしない。これだけの殴打を繰り返されれば命に係わる。それにも係わらず命があるのは、別にブルムが手加減しているからではない。女が死んだところで、処分代としてそれなりの金を払えば問題は解決するのだ。
 そんな女が生きているのはベッドのマットが衝撃を受け流してくれているため。もし硬い床の上で殴られていたら、既に命を落としていただろう。
 実際ブルムはこの店で数人の女を殴り殺している。
 まぁその度ごとに処分費用を払っているため、多少は懐に堪えているというのが内心ではあったかもしれないが。

 ピクリとも動かない女の顔を眺めながら、ブルムはぺろりと自らの唇を舐めまわす。
 この娼館は特別な性癖を満たすにはもってこいの場所だ。普通の娼館ではこのようなことはまず出来ない。いやできるかもしれないが、かなりの金を取られるだろう。もし、領地持ちの貴族であれば、何のかんんの理由を付けて、平民を連れて行けるかもしれない。
 しかしながら、彼にはそんなことは出来ない。
 ブルムは元々は平民である。
 単に自らの主人の貴族の目に留まり、取り立てられたに過ぎない。そのため、彼は金銭による報酬は貰っても、領地を持っているわけではないのだから。

 奴隷がいた頃はよかった。
 奴隷も財産だ。それを手荒に使うような者は軽蔑される傾向にある。財産を派手に、そして無駄に使いすぎるとそういう目で見られるのと同じ理由だ。
 しかし、ブルムのような特殊な性癖を持つ人間にとってすれば、奴隷というのはもっとも手っ取り早く、己の欲望を満たすことの出来るたった1つの手段だというわけだ。
 それが奪われてしまった以上、ブルムにとってすれば、こういったところで発散するしかない。もしこの場を知らなければどうなったことか。

 ブルムの主人の貴族に、協力するようにと言われて正解だったということだ。
 通常であればブルム程度の地位の人間では入れないこの店に、彼らの良いように権力を行使したり偽造したりすることで入れてもらっているのだから。

「感謝します――我が主人よ」

 ブルムの瞳に静かなものが浮かぶ。ブルムの性癖や性格からは信じられないかもしれないが、彼は自らの主人である貴族のみには深い感謝の念を懐いている。
 ただ――
 ジワリと腹の底からこみ上げてくる炎――怒り。
 自ら奴隷という、己の歪んだ欲望を失う原因となった女へと向けるもの。

「――あの小娘!」

 怒りによって生じた、急激な容貌の変化は驚くほどのものだった。顔は紅潮し、目は血走る。
 自らが組み敷いた女に、自らが仕えているはずの王家――王女の顔が重なった。ブルムは内面から吹き上がった苛立ちを拳に集めて、叩きつける。
 ガツンという音とともに、再び新鮮な血が飛散する。

「あの顔を、ぐしゃぐしゃにしたら、どれだけ、気持ちいいかなぁ!」

 何度も何度も女の顔を殴りつける。
 拳が当たり、口の中を歯で切ったのだろう。驚くほどの量の血が、膨らんだ唇を割って流れ出す。
 もはや女は殴りつけられたとき、ピクリと反応するばかりだ。

「――ふぅふぅ」

 数度殴り飛ばし、ブルムは肩で息をする。額や体には油を思わせるようなてらてらとした汗が付着していた。
 ブルムは自らの組み敷いた女を見る。もはや酷い有様という言葉を通り越し、半死半生より死の淵に数歩進んだところにあった。それは糸の切れた人形。
 ごくりとブルムの喉がなる。
 ボロボロになった女を抱く時ほど、興奮することはない。特に美しければ美しいほど良いのだ。美しいものが壊れている時ほど、嗜虐心を満足させてくれるものはないのだから。

「あの女もこういう風にしたらどれだけ気持ち良いか」

 ブルムの脳裏に浮かんだのはついこの前行った屋敷に女の顔が浮かぶ。この国の王女、最も美しいといわれる女性に匹敵するだけの美貌を持つ女を。
 勿論、あれほどの女をどうにかできるはずがないのは、ブルムだって分かっている。ブルムの性癖を楽しませてくれるのは、この娼館に落とされてきたような廃棄処分1歩前の存在である。
 あれだけの美しい女であれば、よほどの貴族が大枚をはたいて買い込むことだろう。無論、そうなるようにブルムは動かなくてはならないのだが。

「ああいう女を一度は殴ってみたいものだな」

 もしそんなことが出来たのなら、どれだけ楽しく、そして満足することができるか。
 当然、無理だろうからの夢だ。

 ブルムは自らの組み敷いた女に視線を動かす。裸の胸が僅かに上下に動いている。それを確認し、唇がイヤらしくつり上がった。
 ブルムは女の胸を鷲掴みにする。込められた力に反応し、女の胸はぐにゃりと大きく形を変える。優しさなんかない、力を込めただけのものだ。痛いだけでしかないだろう。
 ただ、当たり前のことだが、女の反応は全くない。その程度の痛みに、もはや反応できる状況ではないのだ。ブルムが組み敷いている女の、今現在人形と違うところは唯一柔らかいというぐらいだろうから。

 ただ、ブルムはその抵抗の無さにわずかばかりの不満足さを得ていた。

 助けて。
 許して。
 ごめんなさい。
 もうやめて。

 女の悲鳴がブルムの脳裏に浮かび上がる。 

 そう言ってるうちにやっちまうべきだったか?
 ちょっとばかりの残念さを感じながら、ブルムは女の胸をもみ続ける。

 この娼館に回される女の大半が精神的に壊れかかった状態で、大半が意識を逃避している状況である。それからすれば今日ブルムの相手をしている女はまだまともな方だったといえよう。

「あの女もそうだったか?」

 ブルムの脳裏に浮かんだのは逃がしたと言われた女だ。色々と問題にはなったそうだが、ある意味外部であるブルムもそこまでは知らない。逃がしたとされる男がどのような運命を辿ったかとかに関しては聞きたいとも思わない。
 ただ、この娼館にいた女を助けた男がいると聞いて、これほど馬鹿な奴がいるのかと呆れたぐらいだ。
 どれだけの男に、場合によっては女や人以外のものに抱かれたかしれない女なんか庇うだけの価値があるというのか。特に会って話をした際、金貨数百枚もの大金を出しても構わない雰囲気をかもし出した時には笑いを堪えるので精一杯だった。
 そんな価値があるのか、と。

「そういえば、あの女もいい声を出したな」

 記憶を辿り、上げていた悲鳴を必死に思い出す。この娼館に回ってきたにしてはまだまともだった女を。
 ブルムはにやけ、己の獣欲を満たすべく動き出す。組み敷いていた女の裸の足を片手で掴むと、大きく開く。ほっそりとした骨が浮かんでいるような足はブルムの手ですっぽりと包めるような細さしかない。
 大きく開いた股の間にブルムは体を寄せる。
 ブルムは己の欲望によって硬くなったモノを掴み――


 カチリという音と共に、扉がゆっくりと開く。

「な!」

 慌ててドアの方を見たブルムの視界に、どこかで見た老人の姿があった。そして即座にその老人の正体に思い至る。
 あの館で会った執事だと。
 老人――セバスはかつかつと気にもしないように部屋に入ってくる。ブルムはそのあまりにも自然な動きに、何も言うことができなかった。
 何故、あの館の執事がここにいるのか。何故、この部屋に入って来るのか。理解できない事態に遭遇したことで頭が真っ白になってしまったのだ。
 セバスはブルムの傍に立つ。そして組み敷いた女性を見てから、冷たい視線をブルムを送る。

「殴るのが好きなのですか?」
「な!」

 その異常な雰囲気にブルムは立ち上がり、服を取ろうと動き出す。
 だが、それよりも早く、セバスの行動は始まった。
 パンという音がブルムの直ぐ傍で鳴った。それと同時にブルムの視界が大きく動く。
 遅れてブルムの右頬が熱くなり、痛みがジワジワと広がりだす。
 殴られた――いやこの場合は平手打ちをされたというべきか。そのことをブルムはようやく理解する。

「なっ!」

 ブルムが何かを言うよりも早く、パンと再びブルムの頬が鳴った。そしてそのまま止まらない。
 左、右、左、右、左、右、左、右――。

「やめろぉ!」

 殴ることはあっても殴られることのないブルムは、痛みのため目の端に涙を浮かべる。
 両手で顔を庇うように持ち上げながら後退をする。
 両の頬からは熱せられたような痛みがジンジンと広がった。

「ひ、ひさま! こんなことをしてもよいとおもふのか!」

 真っ赤に膨らんだ頬が、言葉をしゃべると痛い。

「してはいけないので?」
「はたりまえだ! はかもの! わはひがはれはとおもっていふ!」
「単なる愚者です」

 ブルムが離れた距離を容易くつめると、パン! と再びブルムの頬が鳴った。

「はめろ!」

 親に殴られた子供のように、ブルムは頬を庇う。
 暴力行為が好きでも、殴る相手はいつでも無力な存在であった。抵抗できる、そして殴ってくる相手に対してブルムができることは一切無い。
 たとえ、単なる老人であるセバスでも、ブルムは怖くて殴れないのだ。絶対に抵抗できないという確信が無い限りは。

 そんなブルムの内心が理解できたのか。興味を失ったようにセバスの視線が動き、女性に向けられる。

「全く酷い有様ですね……」

 女の直ぐにしゃがみこんだセバスの脇を、ブルムは駆け抜ける。
 
「はかは!」

 ブルムの頭が熱を持つ。なんと愚かな老人か。
 この館にいる者を呼び集めて、痛い目を見せてやる。自分という人間にこれだけのことをしたのだから、容易く許せるはずが無い。苦痛と恐怖を充分に味あわせてやる。
 脳裏に浮かんだのは執事の主人である、あの美貌を持った女。

 従者の失態は主人の責任だ。主従まとめてこの痛みの責任を取らせてやる。誰を殴ったか思い知らせてやる。

 そう考えながら、たるんだ腹を上下に動かし、ブルムは外に飛び出る。

「はれか! はれかいないのか!」

 大声で叫ぶ。
 叫べはすぐに従業員の誰かが来るのは当然のことだ。
 しかしその考えを、ブルムは裏切られることとなる。それを知ったのは通路に出たときだ。

 静まり返っているのだ。
 まるで人がいないように感じられるほど。

 ブルムは素っ裸のまま、怯えたようにキョロキョロと見渡す。
 通路にあるその静寂――異様な雰囲気がブルムに恐怖を与えた。
 左右を見れば幾つもの扉がある。そこから誰も出てこないは当たり前だろう。特殊な性癖――それも危険なものを持つ者が多く来るこの店では、中の音が聞こえないよう、しっかりとした扉を使っているからだ。
 しかしながら、何故誰も来ないのか。

 ブルムがさきほどの部屋に案内される際、幾人かの従業員の姿を見た。どれも屈強な姿をしており、セバスなんていう老人とは比較にならないほどの立派な体躯をした者たちだ。

「はんで、でてこないんは!」
「――死んだからですよ」

 静かな声がブルムの叫びに答える。
 慌てて振り返ればセバスが静かな表情で立っていた。

「奥に数人いるようですが……大抵は殺しつくしたからです」
「ほ、ほんなわけはない! はんにんいるとおもってるんは!」
「……従業員らしき方は上に3人。下に10人。そしてあなたのような方が7人でしたね」
「…………」

 何をこいつは言ってるんだろう。そんな顔でブルムはセバスを見る。

「当然、生きてる方もいますよ。ですがあなたを助けには来れないでしょうね。足を砕いて、腕をへし折ってますから」
「!」
「さて、あなたは生かして返す必要性を感じません。ですのでここで死んでいただきます」

 刃物を抜くとか、武器を構えるとかの行動は一切セバスは取らない。ただ、黙って間合いをつめるだけだ。その極普通の行動にブルムは恐怖する。セバスの言った言葉が決して嘘ではないことを感じ取り。

「はて! はて! おはえ……いは、あははにほんのないはなひがある!」

 損の無い話。そんなものは無い。とりあえずこの場の時間さえ稼げればそれで構わない。しかしセバスにそれに付き合う気は無かった。

「興味ございません」
「はらなんでほんなことをふる!」

 こんなことをされる筋合いは無い。大体どんな理由があって自分が殺されなければならないのか。ブルムの思いはセバスに初めて届く。

「……あなたがやってきたことを考えても分からないのですか?」
「?」

 ブルムは思い返す。何か、不味いことをしてるだろうかと。
 そのブルムの表情に浮かんだ感情――罪悪感やそれに準じたものが浮かび上がらないことを読み取り、セバスはため息をつく。

「……そうですか」

 セバスの発した言葉と同等の速度を持って、セバスの前蹴りがブルムの腹部を強く蹴り飛ばした。

「生きる価値が無いとはこのことですね」

 内臓を幾つも破裂させ、悶絶死したブルムに言葉を吐き捨てる。それから奥――いまだ人の気配の残る方へセバスは歩を進めた。




 ◆




「やれやれ、少しは考えるべきじゃないか? 多少派手なサービスはあったほうが、身を潜めた魚が食いつくには良い餌かもしれないが、扉を破壊しては目立ちすぎるだろう」

 デミウルゴスの呟きは風に吹かれ、消えていく。
 下を見れば、セバスが壊した扉の姿があった。今、デミウルゴスがいる場所は向かいの家屋の屋根の部分である。
 その上に立つデミウルゴスの格好はあまり品の良いものではない。
 前で合わせるタイプのフード付きのローブを纏い、そして顔にはアインズより借り受けた魔法の仮面を被っている。装飾の無いつるっとした仮面は、《ダーク・ヴィジョン/闇視》の効果を常時発動しているマジックアイテムだが、デミウルゴス自身、闇視の能力を有しているため、顔を隠すということ以上の意味合いは無い。

 何故、こんな場所にデミウルゴスが1人でいるか。それはデミウルゴスの意志によるものではない。笑みを含んだアインズより、セバスに協力するようにという指令を受けたためだ。
『仲間なのだから、協力して行うこと』
 スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを手に持って、かつて発揮できなかったリーダー権を発動させたような、そんな面白そうなアインズから。

「困ったものだが、この困難を乗り越えるのがアインズ様の望みか」

 デミウルゴスとしては己の能力を考えるに、充分なバックアップを望んではいた。隠密行動というのはデミウルゴスの不得意な分野だからだ。アサシンであるソリュシャンを付けてくれるだけでも充分だったはずだ。
 しかし、デミウルゴスにはその内心を主人に告げる言葉は生まれなかった。

 デミウルゴスの口元がニンマリとだらしなく歪む。

『守護者であるデミウルゴスを支援につけるのだから、問題はないな』

 自らの主人の、デミウルゴスに対する強い信頼を込めた言葉を思い浮かべたためだ。ああまで言われてしまっては、無理だからバックアップを付けてください、とは言いづらいではないか。

「アインズ様は恐ろしいお方だ」

 デミウルゴスをして、理性より感情を優先させるとは――。
 
「おっと、いけないね」

 デミウルゴスはだらしなく歪みきった顔を意志の力で押さえ込む。自らの主人の言葉を思い出すだけでゾクリとしたものが走り、生きる者を苦しませるのと同等、もしくはそれ以上の愉悦を感じてしまう。
 しかしながら、そんな最高の感情を押し殺すのは惜しいが、今しなくてはならないことは別にあるのだから。
 何より今後もそういうわけには行かない。
 今回限り、感情を優先させるのは今回限りだ。次回からはたとえなんと言われても、任務の完全なる遂行を第一に考える。
 そう決心したデミウルゴスは次に打つ手を考える。

「やれやれ。手が足りないものだね」

 デミウルゴスは一瞬だけ自らの能力を行使して、悪魔を召喚することを考える。サキュバスなどは精神操作系の特殊能力や魔法を持っている。こんな状況下や場所では使い勝手が良いとも言えるだろう。しかしながら悪魔に対して人間が強い忌避感を持つのは自らの牧場で分かっている。
 一応、人を助けるという名目でここに来ているのだ。悪魔を使ったりするのは少々不味いだろう。
 悪魔を召喚する奴は大抵の場合『悪』とレッテルを貼られるのだから。

 そのため手が足りないという状況から来る不満は、その状況を生み出した、この場にいない人物に向けられる。

「――先に行きすぎだよ、おろかもの」

 扉を破壊された家屋に人影はなく、当然、侵入したセバスの姿は見えない。
 本来であれば、指令どおりセバスと一緒に歩を進めて行動するのが正しいことなのかもしれない。しかしどうもデミウルゴスとセバスの仲は良くは無い。別に憎みあっているとか、足を引っ張りたいという気持ちは皆無なのだが、なんとなくそりが合わないのだ。
 そのため2人で役割を分担したのだ。
 セバスが内部に乗り込み、人を救出する。デミウルゴスは救出した人間をナザリックまで転送する。そんな役割に。
 勿論、デミウルゴスのすべきことはそれだけではない。情報があまりに多く漏れるのを避けるために、周辺の監視をおこなっているのだ。

「しかし……あの甘い考えで、どれだけの厄介ごとを背負い込んだのか」

 セバスを思い、仮面の下の顔をデミウルゴスは歪める。

「アインズ様の部下に対する優しさを利用するというのが、まったく不快だな」 

 デミウルゴスが不満を漏らすというのは滅多にありえる光景ではない。それを目にすれば同僚の他の守護者も驚きの表情を浮かべるだろう。
 それだけデミウルゴスはセバスとはそりが合わないのだ。まだ性格が正反対のペストーニャの方がそりが合うほどに。

 セバスとのそりが合わないのも、実際に確認できた。
 セバスは急ぎで救出することを選択し、デミウルゴスはナザリックでの受け入れ準備や今までセバスのいた屋敷からの撤退準備を優先させるべきと考えたのだ。2人の意見は物言いに終わり、結果セバスが先行して突入をすることとなった。
 遅れて、飛行能力を使用して近くの家屋の屋根に到着したデミウルゴスが見たのが、破壊された扉だということだ。

「誰が見ているか不明だし、国家権力が動くかもしれない。好奇心を強すぎるほど刺激するような侵入跡はバカのすることだろう?」

 はぁとため息をつき、さてどうするかとデミウルゴスは考える。

 扉を直した方が良いのは当たり前なのだが、デミウルゴスには修理関係の魔法は使えない。幻術も同じだ。ぶっちゃけて、デミウルゴスに出来ることといったら、せめて扉を立てかけるぐらいだろう。もしくは扉を隠して、元々開いているんだと思わせるぐらいか。
 どちらの方が良いか。
 迷ったデミウルゴスに声が突如掛かった。


 この場所に到着するまで、デミウルゴスは細心の注意を払っている。
 自らの主人は多少情報が漏れるのも良し。そういう考えを聞いてはいるが、デミウルゴスが素顔で街中を歩けば、その悪魔的な外見を持つこともあって、目立ちすぎるだろう。
 だからこそ、スクロールから《インヴィジビリティ/透明化》の魔法を発動し、不可視状態で移動してきたのである。
 10位階までの魔法を使用することはできるるものの、デミウルゴスの使える魔法の種類は非常に少ない。数えるのが容易なほどだ。そのため《パーフェクト・アンノウアブル/完全不可知化》のような感知不可能な魔法を使えないため、貰ったスクロールによる発動を行ったのだ。
 次に身に纏った衣装は黒色。更にはかなりの上空からの飛行によっての到着だ。これら細心の注意によって、デミウルゴスの発見はほぼ不可能に等しいだろう。
 誰が《シースルー・インヴィジビリティ/透明化看破》に《ダーク・ヴィジョン/闇視》をタイミングよく発動させておき、さらには夜空に注意を払う者がいるだろうか。そんな人物がいるという可能性は考えられないほど低い。
 しかし、その日に限って、そんな人物はいたのだ。


「で、そんなところで何をしているのか、聞かせてもらおうか?」

 デミウルゴスの背後より掛かった声は、くぐもったような奇怪なものであるため、どんな存在が声を発したかまではデミウルゴスには理解できない。
 迂闊。
 デミウルゴスはセバスのことを考えていた以上に、仮面の下の顔を歪める。

 デミウルゴスは能力の基礎値は高い。単純にレベルが100レベルに達しているためだ。それに異形種の存在は人間種や亜人種よりも1レベルごとの能力値の上昇値は高い。ただ、それでもシーフやレンジャー系統に代表されるような探知能力に長けているわけではない。
 アインズやアウラ、シャルティアならば魔法によって代用するだろうし、セバスやコキュートスではその戦士の勘が感知能力の代わりとなるだろう。しかし、デミウルゴスにはその能力は無い。そのため、気付くことなく、相手の接近を許してしまったということだ。

「基礎能力だけに過信している痛い目を見るということかね?」

 デミウルゴスはため息をつく。なんという失態だと、自らの情けなさに頭を抱え、即座に現状を修正する方法を考える。

「なにを言っている? こっちをゆっくりと振り返れ。変な行動をしたら即座に命を失うと思ってもらおうか? 味方かもしれんが、間違いで命を失いたくは無いだろ?」

 攻撃するという意志が偽りで無い、そんな張り詰めたものを感じ、デミウルゴスはゆっくりと振り返る。

 そこにいたのは小さな存在だ。デミウルゴスと同じような黒色のローブを纏い、長い黒髪が風に揺らめいている。その顔は仮面によって隠されていた。
 イビルアイ。
 デミウルゴスは知らないが、そんな名で知られる王国最高の冒険者パーティーの片割れ、『蒼の薔薇』の一員だ。

 謎の人物を前にデミウルゴスから口を開く。少しでも話の主導権をとるのが狙いだ。

「私はここに人を助けるために来たのだがね? 君はなにをしに来たのかね?」
「なに……」

 先手を取って問いかけられ、イビルアイの声に動揺の色が混じる。デミウルゴスは薄く笑うと、更に言葉を紡ぐ。

「君が私の邪魔をするというのなら、殺さなくてはならないのだが?」
「……なるほど、目的は同じか。何故、そのような怪しげな格好をしている?」
「……君に言われるとは思わなかったが……秘密裏の行動だからだよ」
「ふむ……」

 互いの相手の出方を伺う時間があり、次に口を開いたのはイビルアイだった。

「そうか、理解した。ならばこの後は我々が継ぐ。お前は立ち去れ」
「……」

 イビルアイの言葉に、正当性が向こうにある雰囲気をかぎつけ、デミウルゴスは困惑する。法を後ろ盾にする者特有の傲慢さと意志の硬さを感じ取ったのだ。

「…………その言葉だけでは信頼できないな。証拠を見せてもらおうかな?」
「……見せたら従うのか? その前に仮面を外して顔を見せてもらおうか? この王都に住むものなら、私が何者かは知っているだろう?」
「…………」

 デミウルゴスは自分が非常に厄介な状況に追い込まれたことを理解した。この国の権力機構に繋がる存在に遭遇する可能性は考えてもいたが……。

「……知ってはいるとも、しかし君がその人物だという証拠にもならないな。そちらもその仮面を外したらどうかね?」

 常時仮面を被った有名人なんかいるわけが無い。デミウルゴスと同じように顔を隠すという意味で今仮面を被っているのだろう。そう考えたが故の言葉だ。しかし、この場にあってはそれは大きなミスだった。

「なに? 仮面を外せ……?」
「そうだと――」

 言葉を遮るように、イビルアイがゆっくりと身構える。

「――正直に言ってやろう。……お前がどこの貴族に雇われた存在か不明だから、逃がす気は元々なかった。しかし、それ以上に私を知らないということに興味を惹かれるぞ? 『蒼の薔薇』のイビルアイを知らないようなこういった世界の住人には、な」

 その言葉に含まれた意思。
 デミウルゴスは交渉の余地無しと判断する。

「……時間を稼いでいたのかね?」
「それもある」

 そして仮面を被った2人は互いを見やった。
 2人のいる屋根の上を風が流れる。


 イビルアイはゾクリとしたものを感じた。それが屋根を流れた風ではなく、自らの前にいる者からだと直感する。吹き付けてくるような嫌悪感と焦燥感、そして圧し掛かった来るのような重圧。
 Aクラス以上が相手にするような上位モンスターが纏う、圧力。それをはるかに上回るようなものだ。
 今まで生きてきた時間、経験を凌ぐ、イビルアイにとっての始めての経験。それでも立ちすくみそうになりながらも、行動しようとするのはイビルアイが非凡な身であることの所以だろう。
 ただ、イビルアイは動こうとするが、ほんの少しの硬直はデミウルゴスクラスの超が付きそうな存在からすれば、あまりにも大きな隙である。

『自害したまえ』

 支配の呪言がデミウルゴスからイビルアイに放たれ――

「なに!」
「なに?」

 驚きの声が2つ上がった。前者がイビルアイのもので、後者がデミウルゴスのものだ。
 イビルアイは大きく飛びのく。飛行の魔法が掛かっているため、足をつけることなく不安定な屋根を軽やかに飛びのくことができる。
 後方に離れたイビルアイに追撃をかけることなく、デミウルゴスは頭を振った。
 そしてイビルアイとデミウルゴスの2者は、仮面越しに互いの動きを見極めようと、にらみ合いを始める。


 強者であるデミウルゴスが即座に攻撃を仕掛けない理由はたった1つである。

「……やれやれ」

 デミウルゴスは自らの攻撃手段の1つである支配の呪言が効果を発揮しなかったことに、さらなる厄介ごとを理解したのだ。

 支配の呪言は効けば致命的な能力である。だが、無敵でも最強でもない。結局は音声による精神作用の技だ。それを知っていれば防ぎような幾らでもある。
 例えばその人物が40レベル以上であること。または精神作用、もしくはその系統の1つである支配系に対する完全耐性。はたまたは音による攻撃なので音波攻撃無効。それ以外にも知能低下による言語能力に対する理解能力の低下など防ぐなら手段は無数にある。
 問題は眼前の敵が一体、どのような方法で防いだかということだ。
 もし仮にレベルが上であることによって防がれたとしたら、面倒なこととなる。

「やつめ、適当な仕事をして」

 デミウルゴスの不満はセバスに向けられる。
 支配の呪言を防げそうな人物がいるという情報をデミウルゴスが聞いてないことから、王都での情報収集ということで送り出されたセバスに対してだ。
 しかし実のところは違う。
 セバスはイビルアイという人物に関しての、ある程度は情報を集めている。デミウルゴスにその情報が伝わらなかったのはアインズの失態だ。
 アインズは元々は単なる1社会人であり、上に立つような地位のあったものではない。そのため、情報の大切さまでは知ってはいるものの、部下に対してどの情報を伝えるべきか、いつ伝えるか、そういったことが上手くないのだ。

 シャルティアという失敗例があったにも係わらず、同じ事をするのだから駄目な奴だといわれても仕方が無いところだろう。しかしアインズの立場に立って言い訳をするなら、このような状態――デミウルゴスをセバスのバックアップとして出撃させる。さらにイビルアイと遭遇するなんて事態は考えてもいなかったし、セバスから上がってきた無数の情報の中、必要と思われる情報のみを説明する時間も無かったというところか。
 そんなことを知らないデミウルゴスはセバスに対して不満を思うのだが。

 そんなわけで、情報を持たない、いわば暗闇に明かりを持たずに放り込まれたような状況であるデミウルゴスは、行動を大きく抑止されていたのだ。


 そしてイビルアイ。彼女もデミウルゴス同様、動けない状況だった。
 なぜなら相手がどれほどの強者か不明だからだ。いや、圧倒的な強者だというのは、経験から直感できる。ただ、勝算が何パーセントあるのか、はたまたは逃げ出した場合逃げ切れる可能性は何パーセントあるのか。そういうハイレベルな点での予測が判別できないからだ。

 では目の前の敵はどれほどの存在か。
 ここで考えの1つとなってくるのは、先ほどの攻撃だ。
 目に見える攻撃をされたわけではないが、眼前の謎の存在からの放たれる何か異様な感覚があった。これはかなりの知識をもつイビルアイをして、未知のなんらかの技だった。

 『歴戦の冒険者は戦う前から勝利を得る』

 これは情報の大切さを語る言葉である。つまりは戦闘前の情報分析から来る準備で大抵の場合、勝敗が決するということだ。歴戦であればあるほどこの傾向は強い。そのため、逆に遭遇戦を嫌う傾向になっていくのは仕方が無いことだ。
 つまりはイビルアイもデミウルゴス同様、暗闇の中に明かりも持たずに放り込まれたようなものだった。


 少しの時間、互いの動きを伺いあい、最初に動いたのは不利な方――デミウルゴスだった。
 時間の経過が有利に働くのはイビルアイだと互いに理解していたがゆえだ。

 ダンと踏み込み、一気にイビルアイにデミウルゴスは迫る。保有する無数の攻撃手段からデミウルゴスが選んだのは拳による一撃。
 途中から移動手段を飛行の魔法に切り替えることで、足場の不確かさのペナルティは受けない。

 デミウルゴスの肉体能力は守護者の中では最弱である。アインズには流石に負けないにしても、それ以外の者には勝算は確実に無い。戦闘メイドと五分、もしくは多少優れる程度だ。そんな彼が肉弾戦を選んだのは、彼が慎重派であるためだ。
 手札を切ることを避けたというわけだ。

 迎え撃つイビルアイが収める魔法の数は100を凌ぎ、接近してくる相手に対して放つべき魔法も無数にある。しかし、無数の戦いをこなしてきたイビルアイは直感した。その辺の魔法では打ち勝て無いと。
 巨大なドラゴンが突撃してきたイメージ。それを遥かに凌ぐ何かを鋭敏に感じ取ったのだ。

「《トランスロケーション・ダメージ/損傷移行》」

 デミウルゴスは未知の魔法を使われたことに警戒感はあったため、僅かに威力を殺し、様子を見るという意味での拳をイビルアイ目掛け叩き込む。
 デミウルゴスが想像していたような盾のようなものは生まれずに、イビルアイの小さく薄い腹部に拳が突き刺さった。

「……おや?」

 デミウルゴスの拳には、分厚い布団を叩くような感触が伝わってきたのだ。
 反撃とばかりにイビルアイの拳がデミウルゴスの肉体に突き刺さるが、デミウルゴスの魔法的な守りを突破するには至らない。デミウルゴスの肉体は神聖系の属性武器でなければ、ダメージを軽減する能力を有しているのだから。

「くそ!」

 拳を押さえながら、飛びのいたイビルアイに対してデミウルゴスが追撃を行わなかったのは、自らの知らない魔法を使われたことに対して、警戒感を覚えたためだ。

 両者の距離は離れる。それはイビルアイが望んでいたもの。

「追撃をかけなかった己の愚かさを悔やめ!」手の内に現れた龍のごとき雷に、イビルアイは自らの魔力を貪り食わせる。「くたばれ! 《マキシマイズマジック・ドラゴン・ライトニング/最強化・龍電》!」

 威力を増大したために太さを増した雷撃が、龍のごとくのたうちながらデミウルゴス目掛け走る。デミウルゴスの漆黒のローブが雷光が白く染まった。
 これで倒しきれる自信は無いが、それでもかなりのダメージを追うはず。
 自らの使える最高位の攻撃魔法を放ったイビルアイはそう考え、続く手を考える。
 
 デミウルゴスは接近してくる雷撃を前に頭を僅かに傾げた。防御手段は一切取らない。そして雷龍がデミウルゴスの体を飲み込むと思われた瞬間――雷光が周囲に飛散した。
 まるでさきほどの白い光が嘘だったように静寂と暗闇が周囲に戻ってくる。

 ――無傷。

 デミウルゴスの衣服に焼け跡すらない。
 それを見たイビルアイの仮面の下の顔が大きく歪んだ。

「お前は何者だ!」

 叫び声。そこには様々な感情を含んでいるものだった。

「私の魔法を無効にできる存在なんか会ったことも無い! 上位ドラゴンでも……魔神でもだ! お前は何者だ!」
「良い声だね」

 静かな声が風にのって流れる。その声に含まれた感情は戦闘中、敵に向けるものではない。
 
「……なに?」
「今、その仮面の下ではどのような表情を浮かべているのか。それを思うだけでも楽しくなってくるよ」

 ゾワリとしたものがイビルアイの背筋を震わす。頭のおかしい奴というのは幾らでもいるものだ。だが、イビルアイからすればどんな奴でも自らよりも弱い存在。焦りを感じたことは無い。
 ただ、今目の前にいる奴はやばすぎる。
 雷撃によるダメージを無効にする能力――雷撃ダメージ無効――を持つモンスターもいるが、それとは違う反応だった。
 そうなると次に浮かぶ考えは、魔法を無効化する特殊能力のことだ。ただ、それは――両者に圧倒的な力量差がなければ難しい。もし仮に魔法無効化だとすると――つまりは目の前の奴は、イビルアイを遥かに凌ぐ、圧倒的にやばい存在だということ。

「しかしあまり遊んでもいられないのが残念だよ」

 デミウルゴスの雰囲気の変化はイビルアイの背筋を振るわせる。
 本気になったとしたら――。
 この世界の頂点クラスに位置する自ら。それを凌駕するだろう存在の本気。それは――イビルアイは必死に生き残る手段を探す。この100年。決して感じたことの無い命の危険に身を震わせながら。
 ただ、イビルアイが手段を打つより早く、デミウルゴスの魔法は発動し始める。

「《イートアンダイディ――/食い散らかす――》」

 しかしデミウルゴスの魔法は放たれる前に目標を消失する。

「何?」

 デミウルゴスの顔が動き、10メートルほど離れた廃屋の屋根を眺めた。
 そこにはイビルアイ。そしてもう1人の人影があった。
 漆黒の衣装に身を包んだ女性だ。それがまるでイビルアイを後ろから抱きかかえるように立っていた。

「くんかくんか、よいにほい」
「遊んでいる場合か、あほ!」

 まるで緊張感の無いことを話す、首筋に顔を埋めた仲間の1人であるティナを無理矢理引き剥がし、イビルアイは叫ぶ。
 その言葉に込められたものを鋭く感じ取り、表情こそ変化は無いものの、ティナの瞳に宿る色が強くなる。

「きょうてき?」
「桁が違う! 私の魔法をなんらかの手段で無効化し、肉体能力でも私を凌駕する存在だぞ! 最低でもA+冒険者以上、恐らくは英雄クラスだ!」
「やば……」

 イビルアイの肉体能力は、『蒼の薔薇』の戦士であるガガーランを単純な意味なら凌ぐ。確かに純粋な戦闘になれば経験や技、武装に長けるガガーランが勝つだろう。ただ、イビルアイは元々魔法使いだ。それを考えればイビルアイの戦闘能力は桁が違う。
 そんな彼女を持って桁が違うと言わせる相手。それはどれほどの存在か。
 その言葉はティナの思考を切り替えさせるには充分だ。

「逃げるぞ! 全員でなければ勝てん!」
「りょうかい。ちんこやろう」

 ティナの性癖から来る最大の罵声が漏れる。
 別に罵声に反応したわけではないが、デミウルゴスの瞳がグリュリと変化した。縦に割れた金色のものへと。

 デミウルゴスが保有するクラスの1つ『ゲイザー』。
 なんらかの凝視能力を特殊能力として保有する者しかなれないクラスだ。様々な視線能力を得られるこのクラスの特殊能力の1つ――石化の視線。
 視線攻撃は別に視線を合わせなくても、その様々な効果を発揮することができる。難点は距離が短いことだが、利点としては視界内の複数を同時にターゲットに出来るということだろう。ユグドラシルというゲーム上では効果範囲を示すかっこ悪いエフェクトが起こるのだが、この世界ではそのようなものは起こらない。
 抵抗に失敗したものを即座に石と変える視線が2人に向けられる。
 だが、その前に――

「大瀑布の術!」

 その声と共にティナとイビルアイを覆い隠すように下から水が吹き上がる。屋根という場所で起こるのだ。自然のものではないのは当たり前だ。
 その水は半球を描いて、完全にその内に2人を包み込んだ。
 下から上に吹き上がる、滝のごとき水は飛沫を上げながら白濁し、奥の2人の姿がほぼぼんやりとしか捉えることはできない。
 これでは凝視の効果も乏しいだろう。

「――忍術? とすると忍?」

 忍はシーフ系の中でもアサシン関係のスキルを多く必要とするクラスであり、60レベルを超える存在でなければなれない職業である。直接戦闘能力を多少失う代わりに忍術を多く収めるカシンコジ、逆に直接戦闘能力を高めるハンゾウなどのクラスが存在する。
 同程度の戦士などよりは弱いが、デミウルゴスとて直接戦闘だけでは余裕で戦える相手ではない。

「……あまり強そうではないんだが……」

 身に纏っていた武器や防具。魔法のアイテムだとは思われるのだが、デミウルゴスに警戒感を抱かせるほど強力なものは無かった。
 とはいえ、油断しすぎるのも問題があるだろう。せめて肉体能力を上昇させる必要はある。

 デミウルゴスの服の下の肉体が隆起する。
 『デモニックエッセンス』の悪魔の諸相の1つ。おぞましき肉体強化。そのままだが、筋力を一時的に増大させる技だ。これで大瀑布の術をぶち破るつもりなのだ。

 シャルティアは神官系、アウラがドルイドからの派生したビーストテイマー系、コキュートスが戦士系とあるようにデミウルゴスにも保有しているクラスの系統がある。
 それはモンスター系統といっても良いものだ。
 凝視攻撃、ブレス、モンスター召喚、呪い、毒や病気などのバッドコンデション。そういったものを得るようなクラスばかりで構築されている。
 先ほどのゲイザーもデモニックエッセンスもその一環だ。

 強化された肉体を持ってデミウルゴスは跳躍する。しかし、それを待っていたかのように、瀑布の向こう側から女性の声が聞こえる。

「――不動金剛の術」

 滝の輝き――水の飛散する輝きが別のものへと変化する。それは金剛石の輝きだ。見れば瀑布が流れを止め、巨大で強固な宝石の塊へと変わっていた。

「っ!」

 デミウルゴスは拳を止め、巨大な塊――そしてその奥に僅かに見える2人分の影を眺める。

 忍術は種類が少なく、そして位階というのが無い代わりに、消費したMPの量で効果が変わってくる。いうなら第1位階不動金剛の術、第2位階不動金剛の術、第3位階不動金剛の術……とあるというわけだ。そして膨大なMPを消費して発動させる最高レベルの忍術はかなり強力だ。ベースとなる効果は第10位階魔法よりも上だろう。
 そして厄介なのはどれぐらいの位階に匹敵する効果が発揮されているのか、外見からは全く同じなため想像がつかないことか。
 
 不動金剛の術は物理攻撃に対して比類ない盾を生み出す。魔法攻撃には脆い盾なのだが。ただ、魔法攻撃手段をあまり持たないデミウルゴスではこれを破壊できず、向こうに時間だけを与える可能性も無いわけではない。
 派手に戦うべきか? デミウルゴスは思案する。
 デミウルゴスの強い攻撃手段は得てして、範囲攻撃が多い。『内臓が入し香炉』、『明けの明星』、『ソドムの火と硫黄』などの特殊能力に代表されるように。
 しかし、派手すぎる。空から光の柱なんかが落ちてきたら、目立ちすぎだろう。そう。それはある路地で扉が壊れているよりも。

 さて、どうするか。

 そう考えながらデミウルゴスは軽く、コツコツと金剛石の盾を叩く。そして舌打ちを1つ。それは自らが騙されたことに関して理解した者が浮かべるものだ。

 軽く叩く――その瞬間、全てが砕け散った。
 宝石のごとき無数のきらめきを上げながら散っていくが、そのどれも地面にまで残っているものは無い。その破壊された奥には2人分の人がいた。いや、人のようなものというべきか。
 それは膨らんだ服。それがまるで人間のように立っていた。

「……遁術」

 着用している鎧を確実に喪失する代わりに、それを身代わりに転移を行う忍術。鎧が喪失するぐらいなら死んだ方がましだという人間が多い、ユグドラシルでは死に忍術だ。
 しかしこの場にあっては効果的だ。

「逃がしてしまったようだね」

 悪魔を召喚して後を追う。自らの主人に謝罪し、援軍を送ってもらう。幾つかのアイデアがデミウルゴスの中に生まれるが、それらを全て破棄する。
 別に逃がしたところで問題になるわけではない。もしデミウルゴスの正体がばれていては厄介なことになるが、たまたま屋根で遭遇して戦闘になっただけの問題だ。それに重要な情報を流した記憶も無い。
 ならばそれは致命的問題からはほど遠いということ。
 それに――。

 デミウルゴスは預かってきたスクロールを開く。そこに書かれた魔法は《メッセージ/伝言》である。

「セバスに謝罪をしないとね。即座に撤収すべきと。助けるべき相手がもっといたとしてもね」

 デミウルゴスの仮面の下の顔。そこには僅かな笑みがあった。




「イビルアイ、大丈夫?」
「ああ……無様な姿を見せたな」

 自らのリーダーであるラキュースの言葉に反応し、イビルアイはのろのろと立ち上がる。
 ここまでティナに連れて来られてから、糸が切れるように崩れ落ちてしまったのだ。その原因は精神的な疲労だ。イビルアイが精神的疲労というとありえないような話だが、彼女はどちらかといえば人間の近い面がある。だからこそだろう。

「いえ、それは構わないわ。誰だって怯えることはあるもの」
「そんなことより、行かねぇと不味いだろ?」

 今行っている場所には、ある男が1人でいるはずなのだから。ただ、それをイビルアイは止める。

「止めた方がいいな。行ったら死ぬぞ?」
「みなそろったけど、かてない?」

 ぴたりと動きを止めてイビルアイがティナを見る。

「無理だな。あれは私以上の存在だな」
「あなた以上って……そんな……」

『蒼の薔薇』の誰もが絶句した。イビルアイに勝てる存在なんか聞いたことがないと。
 イビルアイの単体での戦闘能力は、現在の『蒼の薔薇』全員を凌駕する。そのイビルアイ以上といわれれば当然の反応だろう。

「私に勝ったあの時のフルメンバーに私が参加しても、あいつに勝つのは難しいだろうな」
「婆さんを入れてもかよ」

 即座に立ち直ったガガーランがぼりぼりと頭を掻く。
 現在はいないが、イビルアイを除く『蒼の薔薇』の誰よりも強い人物。それをいれても勝てないとなるともはやどうしようもない。論外にそういうニュアンスを含ませて。

「……何だと思います?」
「奴の正体か? ……上位ドラゴンといった人間をはるかに凌ぐ存在だろうな。それ以上は流石に分からん」
「そんな存在がなんでいるの?」
「知るか」
「やべぇ、死んだか、クライム。……童貞のまま」
「……人助けに来たとか言っていたからもしかすると生きているかもしれないがな」
「ますます目的が不明だわ。……なんかイメージに合わないというか……」

 『蒼の薔薇』全員で頭を捻る。そんな桁の違う存在が、何で1人で人間の都にいるのか。まるでイメージに合わないというか、チグハグしている。

「すまんな。交渉の余地をなくしてしまって」
「まぁ、大きなミスだよね」

 ティアのつっこみを受けて、イビルアイがぐぅとうめき声を上げる。
 イビルアイの今回の行動は、自らが最強であるということに自信を持ちすぎたものだ。もし賢く立ち回るのなら、ティナかティアにバトンタッチして相手の正体を掴むように行動すべきだっただろう。

「まぁ仕方が無いでしょう。交渉でどうにかなるなら、頭を下げて許してもらいましょう。お金ならあの娘に出してもらえば良いわけですし。問題は――」
「いびるあいよりもつよいやつなんかきいたことがないっていうことだねー」
「伝説レベルでいいならいるがな」
「伝説じゃなく世界に隠れていた存在だとすると、そいつが動き出した理由が知りたいものね」

 まさか、イビルアイ以上の存在が本当に人助けのために来たとは思えない。もっと深い何らかの目的のためだと考える方が理解できる。

「魔神とかか?」
「……魔神クラスでも、私たちなら勝てる」

 かの13英雄が戦った魔神。それにすら勝てると言われて、ラキュースが苦笑いを浮かべた。つまりはその謎の存在は魔神を遥かに凌ぐ存在だということだ。
 国を滅ぼし、多くの生物を苦しめた存在よりも強者。そんな存在が隠密裏に行動をしている。
 相手が敵意を持って動き回っているのでなければ構わない。しかしもし持っていたら?

「……それって下手したら世界の危機じゃない?」
「やばいねー」

 同じ考えに達したティナが呟く。遅れて全員が同じ結論に達したのか、暗い顔でため息をついた。



 ◆



 突如乱入したセバスに全員の目が集まる。
 警戒の色が強く、そして嘲りの色もあった。ここまで潜入してきたのだから、只者では無いという考えはあっても、単なる品の良い老人にしか見えない者にそこまで警戒することができなかったのだ。
 特にゼロとルベリナという強者である2者にはその色が強い。

「おじいさん、来る場所間違えてるんじゃないの?」
「これは申し訳ありませんでした。ここで皆さん集まられて何をしているのかと思いまして、ちょっと興味を引かれたものでして」
「ここじゃ女は抱けないからお部屋に帰ったら?」

 ルベリナがからかう様に言うと、それを遮るようにゼロが動いた。

「ルベリナくだらんお喋りは止せ。お前が侵入者だな」
「そうですね。そういうことになっていると思います」
「愚かな。そこの小僧と同じく、俺がいる時に侵入した己の不幸を嘆くが良い」

 僅かにセバスが苦笑いを浮かべる。
 その笑い方はゼロを不快に思わせた。圧倒的余裕を感じさせる笑いだったのだ。
 それはゼロという男を前にして良い笑いではない。
 
 だからこそ、ゼロは一撃で決めることを決心する。

「ふん。死ね、じじい」

 ゼロの3つの刺青がほのかな光を放った。
 ゼロの付いているクラスであるシャーマニック・アデプトは、動物の肉体的能力を自らに憑依させ、行使を可能とする。ゼロの場合は足のパンサー、背中のファルコン、腕のライナサラスだ。これらは1日での使用回数が決まっているため、通常はそのどれかを選択して起動させるのだが、ゼロはそれはしない。
 1度に使用するのだ。
 これら3つの動物の能力を同時に行使して放たれる、ゼロの一撃はもはや桁が外れている。

「――あぶ!」

 前情報でそれを知っていたクライムは喉を震わせ、必死に叫ぼうとする。 

 ゼロの必殺技だ。
 それは単純に拳で殴りつけるだけだが、そのスピード、そしてそこに込められた特殊な力より生まれる破壊力の桁は違う。数トンのライナサラスが時速80キロ近い速度で、軽やかに突撃してくるにも匹敵する一撃。まともに食らえば即死は間違いない。

 一気にゼロはセバスに迫る。
 それに対して、あまりの速度のためか。セバスは動こうとしない。それどころか、防御自体が遅れていた。

 ゼロの拳が繰り出される。
 そして一撃がセバスの無防備な腹部に突き刺さった。完璧な決まり方で。
 セバスが大きく吹き飛ぶ。
 当たり前だ。フォートレスなど戦技を使用していれば吹き飛ばないかもしれないが、セバスにそれを使った形跡は無い。
 つまりは致命傷だ。

 そうなるはずだった。
 そう――
 誰もがそれを予測し、そして――外れる。

 セバスは――ピクリとも動かなかったのだ。


 ゼロの全ての力を込めた拳、それを真正面から腹部のみ――己の筋肉のみで受け止めたということになる。
 それは誰が目にしても信じられない光景だった。もはや常識の範疇には無い光景といっても過言では無いだろう。
 両者の肉体の差は明白。にも係わらず、それとはまるで反対の結果が出ているのだから。

 その場にいる全員の中で最も信じられなかったのは無論、ゼロ本人である。己の最大の自信の一撃。それを受けて平然としてられる生物なんかいるわけが無い。そして今までそうだった。そう思っていたのにも係わらず、現在の結果があるのだから。だからこそ、目の前を黒いものが通り過ぎてなお、行動することが出来なかった。

 セバスの足が中空高く上がる。ゼロの鼻先を潜り抜けた――飛燕の動きで。

 高く、高く上がった足は勢いを込めて落ちてくる。
 踵落とし。
 そう言われる技である。ただ、速度と込められた力は尋常ではない。

「……なんなんだ、お前は」

 ゼロが呟き、セバスが唇を僅かに吊り上げた。
 ゴキリともゴジャリとも聞こえるようなおぞましい音が響く。何百キロにもなる重量に人が潰されるように、頭を砕かれ、首や背骨を容易くへし折られたゼロが床に伏せる。

 室内が静まり返った。
 その部屋に満ちる空気を一言で表現するなら『ポカーン』である。ジクジクとゼロのひしゃげた頭部がある場所から流れ出す血を避けるように動きつつ、セバスはゼロの拳が突き刺さった辺りをパンパンと払った。

「ふぅ、危ないところでした。もし警告が遅れたら死んでいたでしょうな」

 絶対、嘘だ! 警告なんかなかったぞ!
 その場にいた3人。口には出さないが全員が同じ叫び声を心の中で上げる。

「助かりましたよ。弟子」
「あ、え……えぇ」

 クライムに言葉は無い。当たり前だ。なんといえばよいのか。これだけの常識はずれな光景を前に。

「なに? なに? というか、なに?」

 ルベリナが今目の前で起こった光景を信じられないように、惚けた顔で床に伏せたゼロと無傷のセバスを交互に見る。

「なにがあったのよぉ!」

 見ていたがそれでも信じられない。ゼロの強さを最も知っていたルベリナの絶叫は当然のものだ。

「大したことではありません。私のほうが少しだけ強かったということです」

 少しじゃないだろう。
 その場にいた全員が先ほどと同じように、思いを1つとする。

「さて、あとはおふた方ですか」

 セバスがルベリナとサキュロントに視線を向ける。サキュロントは怯え、ルベリナは前に踏み出す。この両者の違いは、己の腕にどこまでの自信があるかだろう。ゼロという人物を除けば最強であるルベリナと、ゼロに遠く及ばないことを知っているサキュロントの。
 相手はこちらを殺しに来ている。ならば前に踏み出すしかない。ルベリナはそう考える。目の前で起こった信じられないようなことを頭から捨て去って。
 あんなのはまぐれであり。偶然。そう信じるしか無かったのだ。
 王国にはガゼフ・ストロノーフといわれる周辺国家最強の戦士がいる。あれと比べられれば確かにルベリナもゼロも負けるだろう。ただ、それでも多少は善戦するはずだ。勝てないにしても、傷のいくつかは負わせる自信がある。そんな自分が、こんな見たことも聞いたことも無いような老人に負けるはずが無い。
 そう考えれば、なんらかのトリックを使っている可能性がある。例えば、殴打による攻撃を無効とするマジックアイテムなどを。
 ゼロの攻撃も避けなかったのではなく、避けれなかったということだってありえるではないか。

 だからこそルベリナは踏み込む。己の技に全てを託し。

「はっ!」

 ルベリナの手に持ったハート・ペネトレートが白銀の残光を残しながら、セバス目掛けて伸びる。クライムと戦った時の遊び交じりのものではない。己の放たれる最高の速度の一撃だ。狙うのは喉。
 外から見るクライムとサキュロント、両者の目に止まらない閃光の一撃。

 そして金属のへし折れるような甲高い音が響いた。
 いやそれだけではない。もう1つ。骨が砕ける音。
  
「……さて、あと1人ですね」

 セバスの指から、へし折られたハート・ペネトレートの先端が床に落ちる。そして270度首を回転させたルベリナもまた崩れ落ちた。

「なんだ……」

 サキュロントの呟き。そしてクライムの驚愕の顔がセバスに向けられる。たった数分、いや、それすらたっていないというのにあまりにも状況が変化している。いや変化しすぎているといっても良い。

「お、いや、あんた」

 サキュロントが思わず後ずさりをする。あの館で会ったとき、これほどの人物だとは思わなかった。いや、もはやどこからか夢の世界に突入しているような、そんな奇想天外な予測が出来るはずが無い。
 セバスが歩を進めるのにあわせ、サキュロントは下がる。

「まってくれないか! 降伏する! あんたが欲しがるすべてのものをやる。おれはこれでも組織ではそこそこの地位にいたんだ。あんたが喜びそうなものだって渡せるはずだ! 本当に待ってくれ!」
「興味がありません」

 後退を続けていたサキュロントの背中が壁に当たり、どんと音を立てる。それ以上後ろに下がれなくなったサキュロントの顔色が青を通り越し、紙のような色となった。

「――待ってください!」

 サキュロントとの間合いを拳の届く距離まで詰めたところで、ぴたりとセバスの足が止まり、顔がクライムのほうに動いた。空になったポーション瓶を懐にしまいつつ、クライムは再びセバスに声をかける。

「彼の処罰はこちらに任せてはいただけないでしょうか?」
「……」
「すべて話すというなら、根元から一気に刈り取れる可能性があります。今後このようなことが起こらないようなシステムを作るきっかけになるかもしれません」
「……」

 僅かなセバスの雰囲気の変化に、自らの生きる道を見つけたサキュロントが慌てて約束をする。隙だらけに見えるセバスを前にしても攻撃を仕掛けようという気は一切起こらない。いや、なにより隙だらけに見えるのが怖い。

「そ、そうだ。本当にそうだ。俺は全てを話す。約束する。嘘偽り無く話すと」
「ふむ……」

 セバスの手が動く。いや、その場にセバスの動きを捉えるほどの動体視力を持っているものはいない。そのため何が起こったか2人とも理解できなかった。ただ、意識を失ったサキュロントが崩れ落ち、そしてその胸が無事に動いていることを確認して、ようやくセバスがサキュロントの意識を刈り取ったと分かったのだ。

「……了解しました。このようなことが二度と起こらないようにと言われてしまっては、私も弱いですから」
「ありがとうございます」

 殴打された痛む体を震わせながら、クライムは頭を下げる。

「気にしないでください。彼を生かして渡すということは、より良い情報の拡散が狙えますので」
「?」
「こちらの話です。しかし酷い傷ですね」

 セバスがクライムの近くによると、すっと手を伸ばす。
 普通の手に見えるがその恐ろしさは桁が違う。一瞬だけ硬直し、それからクライムは逃げかけるが、それがどれだけ失礼なことか知っているために、その場に踏みとどまる。そんなクライムの感情の動きを理解したのか、セバスは僅かに微笑んだ。

「傷を治すだけですよ」

 セバスの手が鎧に触れる。その瞬間、鎧を通して何か暖かいものが全身に流れ込んだ。

「気による傷の回復です。古傷等は治せないみたいですが、あなたが受けた傷ならあらかた治ると思いますよ」

 傷が熱を持ち、瞬時に冷える。その時には、クライムの体からは残っていたあらゆる痛みが綺麗に抜け落ちていた。

「ありがとうございます!」

 再び深々と頭を下げるクライムに、セバスは大したことがないと手を振った。

「それよりあなたに……ん? なんですか?」まるで声が受信するかのように、セバスは額に手を当てる。「……そうですか。分かりました、早急に撤退……。しかしまだ意識が無く、意志の確認が……。無論です、わが主をこれ以上……分かってます。意識があったのは8人ですね。ええ、ええ。分かりました」はぁ、と軽くセバスはため息を1つ。「申し訳ありません。本来であれば全員連れて行きたいところなのですが、幾人かは意識が無く、意志を確認することが出来ませんでしたので置いていきたいと思っております」
「考えを確認というのは?」
「こちらの話ですので、お気にされず。ちなみにここに来られたのは、特定人物の救出とかで?」
「いえ。誰というわけではないですが、苦しんでいる人を救出するという目的もあってです」
「ほう」

 セバスが初めて感心したように声を上げた。

「やはりそういう方もいらっしゃるようですね。私が会ってきた方は、碌でもない者しかいなかったもので。では残していく人はお任せします。他の方々は私のほうで預かって傷を癒しますので」

 クライムは一瞬だけ迷うが、セバスという人物を考え、それが最も良い手だろうと判断する。確かに正体の知れない謎の人物だが、その性格は優しく、決して人を苦しめる人物ではないとクライムは確信している。そのセバスが連れて行くといっているのだ、下手にこちらで預かるよりも良い結果が待っているのではないか。

「分かりました。よろしくお願いします。それとこの瞬間まで助けられず、申し訳ありませんでした」
「いえいえ。あなたと会った時の話を思い出せば、今回ここに来られたのは並々ならぬ覚悟あっての事だと分かっております。あなたを責めるようなことは決してありません」
「ありがとうございます。ではやはりお助けになられた方々を一緒にどこかに離れるのですか?」
「そのつもりです」

 セバスが助けたという人物と一緒にこの辺りから逃げるつもりなのだろう。だからこそ行きがけの駄賃としてここに乗り込んできた、そういうことなのだ。そう、クライムは納得する。

「ではもう会うことは?」
「恐らく無いのではないでしょうか?」
「そうですか……また訓練をしていただければ……なんて思っていたのですが……残念です」

 セバスが微笑む。

「もし機会が会った時はして差し上げますよ。……さて、私は早急に撤退させていただきます。あなたはここで色々とやっておくべきでしょう」



 ◆



「ご苦労様でした、クライム」一通りの説明を受けたラナーは微笑を浮かべる。「あなたが無事でよかったと思っています」
「ありがとうございます」

 深々とクライムは頭を下げる。
 こみ上げてきた欠伸を、顔を下に向けたその一瞬を狙ってかみ殺す。
 ラナーの元に戻ってきて、色々と報告をしていたら朝日が間も無く昇ろうという時間になってしまった。クライムは兵士として鍛えられているため、1日ぐらいなら睡眠を取らずに行動できる。しかしながら死に直面した戦闘を乗り越えただけあって、精神的な疲労が激しい。油断すれば立ったまま眠れるほど、睡眠に対する欲求を抱え込んでいる。
 それをラナーも感じ取ったのだろう。クライムに対して優しく微笑みかけた。

「今晩はお疲れ様でした。戻ってゆっくり休んでください」
「はっ」

 クライムの視線がラナーの近くにいるレェブン候の元へと動く。その視線に含まれた思考をラナーは瞬時に読み取る。これはクライムが相手だから出来ることだ。

「候とはもう少し話をしておくつもりです」
「では、私も残りますか?」

 ラナーが今だ眠らないのに自分が眠ってよいのかという思いと、睡眠をしっかりとらなければラナーの役には立てないという思いの2つがクライムの中でぶつかり合う。それにもう1つの理由もあるが。
 その戦いに終止符を打ったのはやはり自らの主人の意向だ。

「いえ。それにはおよびません。クライムは睡眠をとってきてください。普段より遅い時間での来室を許します。疲労を後に残さないように」
「畏まりました」

 主人の命令に従わないわけには行かない。
 クライムが深々と頭を下げ、そして部屋を出て行く。扉が閉まる音を聞きながら、ラナーは顔を僅かに高揚させ、レェブン候に微笑みかける。

「嫉妬ですよね、あれ」
「……全くその通りだと思います」
「……乗ってくださってありがとうございます」

 少しばかり寂しげにラナーは言う。クライムはレェブン候とラナーが一緒に夜を明かすということで変な噂が立つのを心配して、自分も残るという雰囲気を匂わせたのだろう。不要な心配だが、それでもクライムの気持ちは嬉しく思う。
 今晩無数の情報を得た。それをある程度は噛み砕き、統一した意見にしなくてはならないだろう。
 特に謎の人物の出現というのは早急にある程度の目安をつけておくべき、重要な案件だ。

「さて、どう思われますか?」
「あまりにも情報が少ないですが……セバスという人物と屋根の上の人物――未確認者としておきましょう。2者はなんらかの関係を持っているのは間違いがありません」
「目的が一致していたからですね。しかし、だからといって友好的な関係と断言することも出来ない」

 イビルアイが遭遇した謎の存在――未確認者。そしてクライムが遭遇したセバスという老人。両者共に『人助け』のためにその場に来たらしいが、それをどこまで信用してよいのかという問題だ。
 確かにセバスという人物の行動は発言と一致している。しかし未確認者はあくまでも言葉だけであり、それが真実であるという証拠は一切無いのだ。

「敵対的である場合は……監視という線は消えますね。イビルアイの話から推測すると、そういう類のスキルを保有しているようには思えなかったそうですから。そうなるとセバスに攻撃を仕掛けるために来たと考えるべきでしょうけど、大規模な戦闘行為が行われた形跡は発見されませんでした」
「イビルアイとの遭遇によって方針を変更したという可能性もありえますね」
「どうにせよ、敵対関係である場合、セバスと未確認者が戦闘を行わなかった段階で、強さ的な意味合いでは同格でしょうね」
「それは飛躍があるのでは? 確かに未確認者はイビルアイ殿が、セバスに関してはクライム君が強さを認めていますが、イビルアイ殿とクライム君の強さが違う以上、両者が同じぐらい強いということは難しいかと」

 王国最強の冒険者集団の1つ『蒼の薔薇』。それに所属する魔法使いと、単なる兵士では格があまりにも違いすぎる。

「セバスに未確認者が戦いを挑まなかった理由が不明です。セバスは数人の人間を運び出したとのこと。同格でないのであれば、そこを襲えばよかったではないですか」
「ふむ」

 同格ではなく、セバスが上であれば襲えなかった理由は分かる。しかしそうなると何で来たの?という疑問が残るわけだ。

「個人的には未確認者は、セバスが運びだした人間の運搬協力にいたのではと思ってますがね」
「それであれば確かに納得が出来るような気もします。では2者の関係は友好的なもので?」
「じゃないかと。まぁ、想像の範疇を超えませんが」
「ではこの2人の関係は?」
「何者かの部下と仮定するのが最も正解でしょう」

 クライムが遭遇したセバスの話では商人の主人に仕えているということだが、それは嘘だろう。しかしその姿格好、そして立ち振る舞い。それは優秀な執事のものだ。これはラナーに長く仕え、そういう世界を見てきたクライムが保障することだから間違いが無い。

「セバスという人物が、未確認者に仕えている可能性は?」
「無いとは言い切れませんが、可能性としては低いです。恐らくはこの地には来てない人物がいると思われます」

 未確認者のイビルアイに対する対応。セバスのクライムに対する対応。それはまるで違うものだ。確かにイビルアイとクライムでは最初の立ち位置が違う。しかしながら、あまりにもかけ離れている。もしセバスが未確認者に仕えていたら、クライムも殺されていた可能性がある。
 それよりはそれぞれ同じ主人に仕えていて、別々の指令を受け取ったという方がありえそうだ。そしてその主人がこの地に来ていないというのは、来ていれば2者がもっと協力した行動をとるだろうからだ。

「その主人はどのようなものだと思われますか?」
「王国に敵意は持っていないでしょう。ですが、今はまだという線が濃厚です。主人は人の常識の範疇での思考を持っていますですので、どちらにも転ぶでしょう」

 人を助けるということは、人をちゃんと認識しており、慈悲やその他の感情を持っているからと考えるのが妥当だ。例えば人間を遥かに凌駕するドラゴンであれば、人間が苦しんでいても興味を持たず通り過ぎる可能性だってある。
 人が道端でもがいている虫を相手にしないのと同じ要領だ。ただ、犬や猫という動物になれば助ける者だって出てくるだろう。慈悲の感情を刺激されたりして。
 つまりラナーはセバスや謎の存在の裏にいる者が、人間に対して慈悲を持てる存在だと判断したのだ。そして人間にも似た感情を持つということは、敵にも味方にもなるということ。
 ただしこの考えにも穴があるとラナーは見ている。
 セバスの言っていることに嘘があった場合だ。

 ただ、間違っていないと自信を持っていえることは、桁の違う存在を使役する以上は、その存在もまた桁が違うだろうということ。
 ふと、何かを思い出したようにレェブン候は表情を変える。

「そういえば、殿下。アインズ・ウール・ゴウンなる存在を知っていますか?」
「いえ、知りません」

 いや嘘だ。その名前は僅かに聞いた覚えがある。しかし、レェブン候から素直な話が聞きたいと考え、ラナーは知らない振りをする。

「そうですか。……つい最近、エ・ランテルに非常に腕の立つ魔法使いが現れたという話で、その師匠の名前がそうだと聞いております。今回の桁の違う人物、そしてエ・ランテルに出現した腕の立つ人物。何か関係があるのかと思いまして」
「可能性は非常に高いですね」

 名は知られないが桁の違う存在が一度に王国に出現する。ならば何らかの関係があると見てもおかしくは無い。友好的なものか、敵対的なものかまでは不明だが。

「なんでも第6位階クラスの魔法を使うとかですから、帝国の主席魔法使いと同格の力はあるか――」
「――1。そのアインズ・ウール・ゴウンという人物はより上の力を保有している。……2。アインズ・ウール・ゴウンという人物とセバス、そして未確認者は関係が無い。どちらが良いですか?」

 レェブン候の言葉を遮り、ラナーは言う。
 その言葉にレェブン候は頭を傾げた。後者はまだしも、問題は前者――1番だ。
 帝国の主席魔法使い、フールーダは周辺国家最強といわれる魔法使いであり、彼を超える人物は13英雄しかいないとされる。そんな人物よりもぽっとでの人物を、場合によっては上位に据える理由が浮かばなかったのだ。ただ、適当に言っているのではないのはラナーの自信に溢れた態度から読み取れる。
 では知らないというのが嘘なのだろうか。しかし、そんな嘘をつく理由が無い。

「何故、そこまでアインズという人物を上に評価しているのですか?」
「簡単です。セバスと未確認者。この2人と何らかの関係があるかもしれないと考えているからですよ」

 レェブン候は困惑する。その2者との関係が、その強さ基準に繋がる理由が分からなかったのだ。
 単純に考えればラナーはセバスと未確認者はフールーダよりも強いと言っているようなものだ。イビルアイより上だからといって、フールーダより上に位置づける意味が分からない。
 そのレェブン候の困惑を読んだように、ラナーは言葉を続けた。

「イビルアイ……正体をご存知ですか?」

 王国最強の魔法使い。それ以上の正体があるというのだろうか。
 もしかすると13英雄とかか。そんなレェブン候の予測は斜め上に裏切られた。

「彼女の正体は『国堕とし』ですから」

 爆弾が静かに爆発した。
 レェブン候は驚愕に目を見開く。それから思わず、自らの耳の穴に指を差込み、捻る。あまりの情報に己が耳を疑ったのだ。しかしながら何か異常は発見されない。
 ぱっくりと口を開き、数度言いかけ、閉じる。ようやく口を開けるようになったのは、レェブン候という人物からすれば信じられないような時間がたってからだった。
 
「なんですと!」

 国堕とし。
 1国を滅ぼした最悪のヴァンパイア・ロード。13英雄が滅ぼしたとされるそれであり、大陸の歴史にそのおぞましき名を残す化け物中の化け物だ。誇張無しの伝説の通りであれば、国が全力を挙げて勝てるかどうか微妙な存在。1国を滅ぼし、アンデッド溢れる都に変えたと言われる、下手したら魔神より上位の化け物だ。
 もはや御伽噺や伝説の中でしか名前を聞くことの出来ないはずだった。それが今なお生存し、さらに王国で生活している。
 
 それを知ったレェブン候の腰が砕けなかったことを賞賛すべきだろう。

「馬鹿な……生きていたのですか?」
「そうですよ」

 のんびりと答えるラナーに、一瞬だけレェブン候は腹を立てる。
 そんな生易しい情報じゃないだろうという思いだ。国堕としは伝説どおりであれば、下手したらこの王国が滅ぼされかねない存在だぞと。しかしレェブン候の煮えたぎった脳裏は瞬時にある1つの情報を思い出し、一気に冷える。

「ちょっと……待ってください……」ごくりとレェブン候の喉が唾を飲み込む。そのあんまりにも信じられないことを思い出し。「……国……国堕としが……勝算無しと……判断したというのですか? 屋根にいる存在を見て」
「ですね」
「そんなにのんびりしていることですか!!!!」

 イビルアイ。かの伝説の化け物が、『蒼の薔薇』全メンバーと協力しても屋根の存在には勝てない、そう判断した。つまりそれは――。

「この国のどこかに国を滅ぼす……いえ、周辺国家を纏めて滅ぼせる存在がいるということですぞ!!」
「ですね。まぁ、敵意があるかは不明ですが」
「何をのんびりしているのですか!! あなたはあほですか!! どうにか対処を取るべきでしょう!!」
「どうやってですか?」

 その静かな声にレェブン候の頭に冷静さが戻ってくる。確かにどうしろというのか。下手にちょっかいを出せば、そちらの方が危ないではない。数度呼吸を繰り返し、興奮から乱れた息を整える。

「……殿下。私のさきほどの愚かな言葉をお許しください」
「構いませんよ。普通はそういう態度取ると思いますから」
「では……どうしますか?」
「未確認者ですか?」
「はっ。即座に王にご報告をして?」
「……止めた方が良いでしょう。どうしようもないんですから」

 ピラピラとラナーは手を振る。

「しかし……」
「王の動きには常時、貴族の目が集まってます。そして王が僅かにでも動くとなると、説明を求める声が起こるでしょう。結果はいうまでも無いことです」
「それは……」

 レェブン候としてそれに異を唱えることは出来ない。
 王のみに教えたとしても王が動けば、それに対して色々と煩い口を挟む者は絶対にいる。そうなると王は説明を余儀なくされるだろう。もし王国が2つに割れてなければ、王が絶対の権力を持っていれば問題はなかっただろうが、現在はそんな状況ではない。最も力を持つ貴族の1人が、帝国に情報を流している現状なのだから。
 そして王が説明を行わなければ、邪推が混乱を巻き起こすことは確定している。
 説明しても大混乱は間違いが無いのだが。

「それにイビルアイの正体については誰にも漏らすことは出来ません。だってイビルアイは私の友人の友人です。今の関係を壊したくは無いです。最大戦力を裏切るなんて馬鹿のすることでしょ? ではそれを除外してそういう存在がいる、そして王国内に蠢いているという情報を流します。それを知った貴族の方はどんな行動をしますか?」
「……桁外れの大混乱。下手をすれば王国が壊れますね」
「ほら。どうしようもない」
「周辺国家に協力を要請してはどうでしょう?」
「信じますか? レェブン候だったら」
「……信じられるわけが無いです」レェブン候は頭を抱える。「……今日は殿下の元に来なければよかった……。これからは安眠できない日々が続きそうです」

 取るべき手段が無い。せいぜい冒険者に情報を流し、探してもらうぐらいだろう。しかしそれは敵ではない存在を敵に回す行為にも繋がりかねない。
 結局は情報が不足しすぎているのだ。
 相手のスタンスが読めないために、踏み込むことが出来ない。そしてなにより相手の戦力分析も上手く行ってないことが問題だ。つまり頭を抱えて転げまわるぐらいしか手段が無い。

 そんな苦悩を見せるレェブン候に対して、ラナーはのんびりとした表情のままだ。
 レェブン候の脳裏に怒りが宿る。無論、これは八つ当たりだ。厭味でも言ってやろうかと考えた辺りで、ふと、あることを思い出す。

「そういえば……先ほどのアインズ・ウール・ゴウンという存在に関連する話に戻るのですが、カーミラという存在がイビルアイ殿の弟子にいるのでしょうか?」
「いえ、そこまでは知りませんが」

 どうして? と尋ねるラナーにレェブン候は説明する。

「エ・ランテルにモモンというアインズ・ウール・ゴウンの弟子を名乗る人物が来たのですが、彼の話ではカーミラという吸血鬼を追っているとのことで、それが国堕としの弟子だとか――」

 つい最近、エ・ランテルで起こった話を粗方聞いたラナーが大きく1つ頷いた。

「……聞いてみないと分かりませんが、嘘じゃないですか?」
「何故、そんな嘘を?」
「王国内部に潜り込む狙いだからじゃないでしょうか? 危険な存在と敵対していると知れば、その存在が出現した時に頼りたくなります。恐らくはそのヴァンパイアもグルでしょう。自作自演という奴ですね。……とすると、セバスという人物や未確認者とは別の口なのかしら? あまりにもチグハグしているし」

 もしセバスはそうなら今回の救出劇にあわせて、こちらとパイプを持ったはずだ。それをしなかったということは別の狙いなのか、はたまたはエ・ランテルの件もラナーの予想とは外れているのか。

「不明ですが、できればアインズ・ウール・ゴウンという人物とセバス、そして未確認者が協力関係で無いことを祈るだけですね。別口であればぶつけ合うというという可能性だってありえますから」

 もし協力関係があった場合は対処が取れなくなる。レェブン候もそれに同意するように頷いた。

「全くですな。しかしそう考えるとゴウンという人物とは交渉の余地は充分に――」
「とりあえずはちょっと本気で情報が欲しくなりました。レェブン候、その辺りの詳細な情報を全部いただけますか?」

 ラナーは目を細める。自らの描くクライムとの幸せな生活に厄介な存在が姿を見せた、と。そこでレェブン候の表情が固まっているのにようやく気づく。

「……その件で1つ厄介なことを先に言わせていただこうと」
「……なんでしょう」

 厄介なことしか今日は無いな。そういう感情を2人とも正直に浮かべる。

「アインズ・ウール・ゴウンの元には既に使者が出立してしまいました」
「……今からどうにかなりませんか?」

 今現在の入手した情報を考えれば、どれだけ友好的に交渉してもおかしく無い存在だ。何よりセバス、未確認者との関係すらあるかもしれない人物。それは単なる使者ではなく、王家の人間が直接出向いてご機嫌を取るべき相手だ。

「私の力では不可能です。既に私が遅れに遅れるように手段をとってしまいました。ですので、これ以上は不可能です。最低限、友好的に物事が進むようにやったつもりですが……甘かったかもしれません」
「ならば野盗に襲われ、皆殺しというのはどうでしょう?」

 ラナーが普段どおりの優しげな顔で、冷酷な言葉を紡ぐ。しかし、この場にいるのは、その手段が残酷だとかいうような子供ではない。

「……悪い手ではないと思いますが、現在そこまでの手の者がおりません」
「『蒼の薔薇』の皆にお願いするとか……」そこまで言ってラナーは首を横に振る。流石に全部話したからといって、そこまでの汚れ仕事をしてくれる可能性は低いだろう。「ワーカーを使っては?」
「難しいです。王の名代の馬車を襲うということは、王国に弓を引く行為。騙したとしても、馬車の紋章を見て、直ぐに引くでしょう」
「そういう知識の無い方を探すとか」
「それだけで時間がかかりすぎます」
「私、自らが行きますか?」
「……悪く無い手ですが、無理でしょう。『黄金』と言われる方が外に出ただけで面倒なことが起こります。ちょっと考えるだけで4つは浮かびますね」
「……ならば使者には変な行動を取らないことを祈るだけですね」
「それしかないでしょうな」

 レェブン候は壁を見つめる。その向こう、遥か先にはかのアインズ・ウール・ゴウンと呼ばれる人物のいる場所があるという。どのように物事が進んでいくか。それによっては王国を揺るがしかねない問題となるだろう。
 レェブン候の胸中を不安が過ぎるのだった。



 
――――――――
※ 次は諸国3。そしてあれとあれで前半は終了させます。ナーベラルの話はちょっと置いておきます。エンリさんの話も。前半が終わったら半年は休む予定ですので、その間に気力を回復させて書きたいです。



[18721] 48_諸国3
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/09/04 20:57




 ガゼフ・ストロノーフは王城の透き通った高級ガラスの向こうの景色を、ただ黙って眺めていた。
 そこでは3台の馬車が王城を抜けて、走り出していくところだった。
 ゆっくりと走り出した、先行する馬車は非常に豪華な作りである。鍛え抜かれた毛並みの良い馬が4頭。横手には王家の紋章が打ち込まれており、細やかな作りの装飾が施されている。
 王家の力を誇示したそんな立派なものだ。

 ガゼフの不快げな視線は、その後ろを続く馬車に向かう。

 続く馬車は、数段劣るとしか言いようが無かった。確かに先行する馬車と同じぐらいの立派な馬が引いているが、その数は2頭。送れずについてくるために付けられた馬なのだろう。馬車の横手には何の紋章も刻まれてはいない。馬車自体の大きさも一回りは小さく、結果的に2台が並ぶとあまりのみすぼらしさがより一層目立つようだった。
 何のために並べているのかと問われたら、前を行く馬車の引き立て役のためとしか言えないようなものがそこにはあった。

 最後尾を走る馬車も、2番目の馬車と同じような作りだ。
 ただ、こちらの馬車は荷物などを積み上げているのが見える。前の2台とは違い、積荷運搬用の馬車なのだろう。そのためガゼフはそれほど不快げな視線は送っていない。

「――行きましたな」
「そのようですな」

 突然の背後からの男の声に、ガゼフは驚くことなく答える。その人物が近寄ってくるのは気配で分かっていたのだから。ただ、ガゼフは話しかけないでくれればという思いを持っていたのは事実だった。
 ガゼフは背中を見せたまま話すのは失礼に値するという思いで振り返る。ガゼフが平民上がりなのに対して、その人物は貴族の生まれであり、王国の中でも6人の大貴族に数えられる男なのだから。決して振り返りたくて振り替えるわけではない。

 振り返ったガゼフに目に入ったのは、長身痩躯と相まって蛇のような感じのする男だった。金髪をオールバックに固めているために、大きく額が出ている。顔色は光に当たっていない人間特有の不健康な白。

 レェブン候と呼ばれる人物である。
 王派閥の貴族でも最も力のある存在だ。王に直接仕えているガゼフからすると、決して機嫌を損ねてよい貴族ではない。
 しかしながらその蝙蝠とも言われる態度は、ガゼフからすると好きではなかった。両方の派閥を、利益を求めてさ迷う姿は。

「真ん中の馬車がアインズ・ウール・ゴウンという人物を乗せるための馬車ですね」
「そのようですな」
「……ガゼフ殿も行きたかったとか?」
「はい」
「どうしてですかな?」
「会ったことのある相手ですから」
「なるほど……」

 まだ話を続けるのかと、ガゼフは内心面倒に感じていた。好きでもない人物のため、簡単な受け答えしかしてないのに、そんなに話すことがあるのだろうか、と。
 遠くなった馬車の僅かにたなびく土煙に視線をやり、ガゼフは憎憎しげに思う。
 今回の馬車の出立時期が遅れたのも、この人物が色々と口を挟んだからだ。もしそんなことをしなければもっと早く王都を出ていただろう。
 もしかするとアインズという魔法使いを乗せるための馬車が貧相なのも、この男が一枚噛んでいるのかもしれない。そう思いながら、ガゼフは決して顔にはその感情は出さない。

「ガゼフ殿。1つ聞きたいのだが、ゴウンという魔法使いと戦った場合、勝てるかな?」
「……難しい質問ですが、魔法使いは距離を取るもの。距離を取られれば私では絶対に勝てないでしょうな。私よりは『蒼の薔薇』や『真紅の雫』なら勝てるのでは?」
「王国最強の冒険者集団ですかな? ……ふむ」
「彼らなら様々な手段を有してます。私のように武器を振るうだけの者とは違った戦い方をしてくれるでしょう。ただ……レェブン候には失礼ですが、勝つ勝てないを考える前に、味方に引き込むべき手段を考えるべきかと」

 レェブン候は苦笑いを浮かべた。

「全く、ガゼフ殿のおっしゃるとおりだ。しかしながら最悪の事態は考えなくてはならないからな」

 最悪の事態を引き起こそうと行動するものが多すぎる。
 ガゼフはそう言葉にしたい気持ちを押さえ込んだ。決して――仮かもしれないが、同じ派閥に所属する権力者に言ってよい言葉ではない。

「せめてアインズ殿が乗る馬車はあれより良いものに出来なかったので?」
「……無理だな。魔法使いの地位はさして高いわけではない。かの帝国のように国が全面的なバックアップを行って、支援しているわけではないのだ。地位に相応しくない馬車を送り出すことは不可能だ」
「ならば、途中の街で交換してしまうというのは?」
「面白い考えだが、それは難しいだろうな。一応、あれは王命で出した馬車だ。交換するということは王命に従わないということ。それに中に乗っている人間もな」
「どうしたので?」
「貴族派閥の息が掛かっている」

 最悪だ。
 ガゼフは言葉にはせずに、ただ、呻き声を上げてしまう。
 あの時の貴族達の愚かさは重々承知している。アインズという人物を単なる魔法使いとしか考えていない、そんな愚かさを。

「もう少し別の人選は無かったので?」
「……無理だ。あの時、ガゼフ殿に反対していた貴族を思い出して欲しいのだが、選任された儀典官はあれの血縁らしくてな。他の儀典官をねじ込もうと動いたのだが、少々難しかった」

 おやとガゼフは思う。
 どうもレェブン候はアインズという魔法使いを高く評価している気配がある。それとも王国の民を助けてくれたという恩を重視しているのか。

「結局は……ゴウン殿が温厚な人物であり、儀典官が空気を読んでくれることを期待するしかないのだが」
「アインズ殿は冷静なお方のように見えました。よほどのことが無ければ、問題は無いと信じたいものです」
「……そうかね? ならば私もそう信じたいものだ」あまり信じている表情ではないが、レェブン候はそう答えた。「では、ガゼフ殿。これで」
「お帰りなられるので?」
「ああ。そろそろ屋敷の方に戻ろうと思ってね。そのあとはあと少し王都ですべき仕事が終わったら、領地の方に戻るつもりだよ」
「そうですか。そろそろ収穫の時期にもなりますし、領内の仕事も山のごとくでしょう」
「全くだ。忙しい時期の始まりだ。収穫の時期のみならず、帝国の宣戦布告の時期なのだからな。念のために色々と準備はしなくてはならないだろ?」

 その皮肉めいた言葉に初めてカゼフは苦笑する。敵意に属するものが無い、そんな感情をこめたものを。

 帝国はこの時期になると小競り合いを仕掛けてくる。それが分かっている貴族は何らかの準備をして備えておくが、面倒に感じて行わない馬鹿な者もまた多い。平民を絞れば解決する問題だと。
 その点、レェブン候の派閥はしっかりとした準備を行っている。あまり好きでは無い人物だが、その優秀さは味方として肩を並べるのに満足できるものだ。

「では、レェブン候。またお会いしましょう」
「ではガゼフ殿。また会おう」





 レェブン候の執務室は広いように思われがちだが、実際はさほど広くはない。
 6大貴族に数えられ、王都でも指折りの屋敷に住むレェブン候からすれば小さいとしか言いようが無い広さだ。この部屋で幾つもの重要な決定がされていると知ったら、驚く人間が多いかもしれない。
 部屋の全部の壁には本棚が置かれ、その中には紙の書物や付箋を貼った羊皮紙などが綺麗に整頓されている。そのために部屋が小さく見えるのかというとそうではないのだ。確かに理由の1つにはなるだろうが。
 最も大きな理由は、目には見えないところにあった。
 レェブン候の屋敷はレンガの壁でできており、その上に漆喰が塗られるという貴族であれば極普通の構造となっている。では執務室はどうか。他の部屋と変わらないつくりではある。
 しかしその壁の奥。
 壁の内側には、銅板が部屋を包むように埋め込まれていたのだ。
 これは銅板など金属板で囲むと、魔法による探知を阻害する働きを持つためだ。占術による盗聴、監視、目標捜索などを。
 金属板で覆うというかなり金のかかる作業が必要なために、大きな部屋を執務室として持つことが出来ないのである。

 そんな魔法的な防御まで考えられた部屋にレェブン候は入り、重厚な執務机の向こうにある、唯一のイスにドカリと腰を下ろす。それは草臥れ果てた人間が行うような、そんな力無い座り方だった。
 それから顔を隠すように覆う。
 その姿は誰がどう見ても、王国でかなりの力を持つ大貴族の姿には思えないだろう。それよりは疲れ果てた単なる中年男性という方が正解だ。
 はらりと垂れてきた金髪を、無造作に掻き上げる。
 それからイスの背もたれに寄りかかると、顔を歪める。そして怒鳴った。

「どいつもこいつも馬鹿ばかりか!」

 本当にどいつも現状を理解していない。いや、理解していてこの有様を容認しているとするなら、とんだ謀略家だ。

 王国の現状はかなり追い詰められている。
 帝国の頻繁な示威行為の所為で、食料の問題などゆっくりと様々な問題が沈殿しつつあるのだ。大きな破綻が無いような気がするが、それは村々に目をやって無いからだ。
 帝国は騎士という専業戦士を保有しているが、王国にはそんなものはいない。そのため、帝国の侵略となると、平民達を集めて兵士を作らなければならない。その結果、村々には働き手がいなくなるという時期が生まれる。
 そんな帝国が狙うのは当然、収穫の時期だ。
 収穫の時期に一ヶ月も男手がなくなるというのは非常に問題なのは言うまでも無い。ならば平民をかき集めなければ良いという考えもあるだろう。しかしながら専業戦士からなる、練度武装共に長けた、帝国の騎士の前には、数倍の兵を集めなくては容易く打ち負けるのだ。
 実際一度、あまり集めなかった所為で大きく敗北したことがあった。そのときは一気に王国の力が衰えたものだ。今はなんとか回復したが、それは数字上のことだとレェブン候は充分に把握していた。

 それだというのに――

「屑は裏切りを! アホは権力闘争を! 馬鹿は不和を撒き散らす!」

 6大貴族の1人であるブルムラシュー候は裏切り行為を行い、帝国に情報を売り渡している。貴族達は王派閥と貴族派閥に分かれて権力闘争。王子たちは王の後の地位に互いに狙いあう。

「さらにはアインズ・ウール・ゴウンとか言う魔法使い……もっと丁重な対応をすべきだろう! カーミラという国堕としの弟子と戦えるだろう人物だぞ!」

 執務机をバンバンとレェブン候は叩く。その憤懣のはけ口として。

 レェブン候がアインズ・ウール・ゴウンという魔法使いの元に、使者を乗せた馬車を送るのを遅らせた理由はある情報を手に入れたためだ。それはエ・ランテルでの情報である。

 国堕としという伝説の化け物がいる。それはかつてかの13英雄に滅ぼされた存在だ。
 伝説のとおりであれば、一国を容易く滅ぼせる力を持つとされる化け物中の化け物。そんな存在の本当に弟子であった場合、カーミラの戦闘力も桁が違うこととなるだろう。実際、カーミラというヴァンパイアが非常に強い可能性は充分にあると、エ・ランテルの冒険者ギルドの内密の見解で出ているのだから。
 では、そのカーミラを追う事の出来る、アインズという魔法使いの力は一体いかほどのものか。

 手の者が秘密裏に手に入れたそんな情報を《メッセージ/伝言》で聞き、レェブン候はアインズ・ウール・ゴウンがどれほどの人物か、大体は把握したのだ。
 決して侮って良い相手ではない。
 だからこそ、エ・ランテルからの使者が来るまで、王が現状の対応を考え直すまで、時間を稼ごうとしたのだ。

 アインズ・ウール・ゴウンを最大の敬意を持って招くために。

 しかしそれは上手くいかなかった。
 まずはエ・ランテルから使者が到着するのが遅すぎるためだ。これは王派閥に所属する都市長に対する厭味だろう。街道にある貴族派閥の都市ごとで、使者が時間を奪われていると推測が立つ。

 どいつもこいつも下らないことをして。
 レェブン候は不機嫌に表情を歪める。

「何が重要なのか、少しでも考える頭を持つ奴はいないのか!」

 いやいるのだが、そういうのは大体がレェブン候の派閥に所属してしまっている。本来は他の6大貴族にそれぐらい優秀な人間がいてもおかしくは無いのだが――

「どいつもこいつも出がらしが!」

 レェブン候は吼える。
 色の付いた水ばりの脳みそしか持たない貴族達に対して。

「しかし――どうする? 考えろ、私」

 荒い息を整えつつ、レェブン候は頭を悩ませる。
 これから続くであろう、王国の受難。そして王国を維持運営していく手段を。
 とりあえずは謎の魔法使いに対する方法だ。


 レェブン候が内密に得た情報を直接流しても良かったが、王の周りには貴族派閥の手の者が潜り込んでいるのは確実であり、レェブン候としても思う存分動くことが出来なかった。
 レェブン候は王派閥でありながら、貴族派閥とも繋がっていると噂されることがある。これはある意味事実だ。

 現在、王国は2つの派閥に分かれてはいるが、両者の橋渡しとなって様々な政策のことで話し合い、一時的でも協力を要請する貴族が必要だった。そうでもしなければ真っ二つのまま、いつまでも揉めるだろう。さらには王が毎回強権を発動することとなるだろうから、色々な意味で不満が貴族で起こり、結果、王国の力は削がれる。
 それらを避けるために、レェブン候は内密に行動するのだ。人は己と同じような人間を信頼し、逆の人間を警戒する。欲望に塗れた貴族達を信頼させるのは、無欲な人間ではなく、強欲な――己の欲望を明確に表に出す人間だ。
 だからこそレェブン候は望まぬ欲を見せ付けるのだ。
 それに彼ほど橋渡しに向いた人物はいない。貴族は家の歴史や血、大きさを重要視する傾向が強い。そのため6大貴族の彼だからこそ、我慢して話を聞いてやろうという貴族派閥の者は多かった。

 そのためにレェブン候は自らの利益が出るという立場で、貴族派閥の人間と交渉を行う。
 それは傍目かすれば、欲望という血を求めて飛び交う蝙蝠のような姿にも思えるだろう。

 レェブン候だってそんな恥知らずな真似はしたくない。
 特に愚かな貴族どもが自らをそういう人間だと見なし、汚らしい話を持ってくる時には。
 しかし、貴族派閥の意見だからイヤだとか、王派閥の意見だからイヤだとか。子供のようなことを考える貴族どもを相手にするためには、常識のあることを言ってられないのだ。この王国の現状を良く知れば。
 そのためレェブン候は歯軋りをしながら、蝙蝠のごとき様をする。

 そんな彼だからこそ王派閥に所属しておきながらも、完全なる王の協力者として行動できないのだ。レェブン候にはっきりとした利益が入るという行為以外で動けば、次から貴族派閥のものに信じてもらえなくなる可能性がある。そうなれば橋渡しをする者がいなくなって王国が完全に割れる可能性は充分にあった。
 なぜならそういった謀略も、帝国や法国から受けているのだ。


「王都まで来たもらったら、最大限の歓迎を行うように手段を取るしかないか。王にもお願いして……そうなると王都にいる間の館の準備もしないといけないし……」

 非常に後手に回る手だが、現在ではレェブン候が取れる手段は恐ろしく無い。
 レェブン候は深いため息をつく。

 なんでこんなに面倒なことをやらねばならないのか。別にレェブン候は大貴族ではあるが、宮廷内での仕事を割り当てられているわけではない。それなのに……。
 
 レェブン候でも全てを捨ててしまいたくなる時もある。どうしてどいつこいつも現状をしっかり見ないで、くだらないことをやっているんだと。砂で城を作っているというのに、周りでは子供が暴れているのだ。
 そんな状況では、破滅願望に襲われても仕方が無いだろう。

 しかし、そんな彼が頑張れるもの当然理由がある。

 コンコンという扉を叩く音がする。
 その音の出所は低い。一瞬だけレェブン候がレェブン候じゃないような顔をした。即座に取り繕ったレェブン候は声を上げる。

「入りなさい」

 その声を待ちわびていたように、扉が勢い良く開く。
 そして最初に子供が姿を見せた。

 まだまだ幼い少年だ。
 可愛らしく無邪気な少年の頬は、白い肌のため、ピンク色に綺麗に紅潮していた。
 年齢にして5歳ほどだろうか。少年はたったったと部屋を走り、レェブン候の膝まで来る。

「部屋の中で走るなんてはしたないですよ」

 その少年を追いかけるように、女性の声がした。少年の後ろに立っていた女性だ。
 顔立ちは綺麗なのだが、何処と無く暗い雰囲気を持つ女性だ。幸の薄そうなという言葉が非常に似合っている。服装も質こそは良いのだが、少し暗めの色を使ったドレスだ。
 軽くレェブン候に頭を下げると、かすかな微笑を見せた。

 レェブン候もまたかすかに――少しばかりの照れを持って――笑った。
 妻が笑うようになったのはいつの日だったか。ふと、レェブン候はかつてを思い出す。


 レェブン候は今よりも若かった頃、才覚に溢れる者が持つだろう野望を抱いていた時期があった。その野望とは王位。
 王位略奪という不敬なる夢だ。
 若く才覚に自信を持っていたレェブン候は、これほど自らの生涯の目標として、相応しいものは無いだろうと思ったのだ。そしてそれに向かって黙々と行動を開始した。勢力を増大し、富を集め、コネを増やし、政敵を蹴落とし――。
 妻を迎えたのだってその一環にしか過ぎない。妻なんか、婚姻関係というものが高く売れるなら誰だろうと構わなかったのだ。どのような女が来ようとも問題は無かった。結局、美人ではあるが薄暗い女が来たのだが、レェブン候が問題としていたのは、女の実家とのコネのほうだったのだから。
 夫婦生活は普通であった。
 いや、普通というのはレェブン候の勝手なイメージである。目の前の妻と結婚した時にも、1つの道具として充分に気を払ってはいたが、愛というものは一切無かったのだから。

 そんなレェブン候が変わったのはたった1つの出来事。

 レェブン候の目が自らの膝元に来た、我が子へと移る。

 最初、わが子が生まれたと知ったとき、道具が1つ増えた程度のものしか感じなかった。しかし、この生まれたばかりの子が自らの指を握った時。レェブン候の何かが壊れたのだ。
 ぶにゃぶにゃとした人というよりは猿にも似たわが子。決して可愛いとかそんな感情が生まれたのではない。その指に伝わるほのかな暖かさ。それを感じた時に、なんというか馬鹿馬鹿しくなったのだ。 
 王位略奪なんてゴミのように感じたのだ。
 野望に燃えた男は、いつの間にか死んでしまったのだ。
 そして出産後の妻に礼を言ったときの、彼女の表情は今なおレェブン候の中では――決して口には出さないが――大爆笑のネタである。あの誰こいつという表情は。


 無論最初のうちは跡取りを産んだことに対する一時的な変化にしか、レェブン候の妻は思っていなかった。しかし、それからのレェブン候の異常なまでの変化は、本当に狂ったかとまで彼女に思わせたのだ。
 しかしながら、今までの夫と変化した後の夫。どちらが良いかといわれれば、妻である身としては後者を選んだだろう。ちょっと時折扱いに困ることがあるが。

 膝によじ登ろうとしていた自らの子供を、レェブン候は両手で持ち上げる。
 子供は楽しげな笑い声を上げ、レェブン候の膝の上に収まった。服越しに子供特有の高い体温が伝わる。

 今のレェブン候の目的はたった1つ。
『我が子に完璧な状態で自らの領地を譲る』。そんな父親としてありがちなものへと変わったのだ。
 レェブン候は膝の上に乗せた、我が子を優しく見つめると、問いかけた。

「どうしたんでちゅか? リーたん? ちゅっちゅ」

 これが唇を尖らせてちゅっちゅとか言っている大貴族の姿である。
 それを見て子供がきゃっきゃと笑い声を上げた。

「――あなた。赤ちゃん言葉を使うのは、子供の言語能力を高めるのによくはありません」
「下らん。お前の言っている事は根拠の無い噂でしかない」

 とは言いながらも、自らの子供の教育に悪いのはいかんとレェブン候は内心で思う。
 自らの子供ならば、確実に才能は持っているはず、いや持っていなくても全然構わないのだが、親がそれを伸ばしてやるのは当然。親が子供に悪影響を与えるのは不味いだろう、と。
 しかし愛情込めた言い方だけは譲れない。

「ねぇ、リーたん? どうしたのかな?」

 僅かに困ったような表情をする妻を視界の外に追い出し、重ねてレェブン候は問いかける。

「えへへへ、えっとね」

 内緒話をするように、自らの子供が口に紅葉のような手を当てる。その姿を見て、デレっとレェブン候の目尻が緩んだ。
 王国の6大貴族の1人と言われた男のものとは思えないものがあった。

「なんだろ? パパに教えてくれるんですか? うわー、なんだろう?」
「きょうのおしょくじがね」
「うんうん!」
「ぱぱのすきなものなんだよ」
「うわー! パパうれしいなぁ~! ……何が夜に出るんだ?」
「はい。ガブラ魚のムニエルです」
「そうか。――どうしたんですか?! リーたん?!」

 レェブン候はぶすっとした顔のわが子に気づき、慌てて尋ねる。

「ぼくがおしえたかったの!」

 レェブン候の後ろに雷光が走ったようだった。そんな驚愕の表情を浮かべる。

「そうでちゅ……んん。そうだね~、パパが悪かったね、ごめんねリーたん。……何故、教えるんだ」

 眉を顰めたレェブン候の視線を受け、妻は処置無しと顔を手で覆う。

「リーたん。じゃぁパパに教えてくれるかなぁ?」

 ぷんと機嫌を損ねた子供はそっぽを向く。それに対して、レェブン候は激しくショックを受けた表情をした。今にも死を選びそうなそんな絶望に満ち満ちた表情を。

「ごめんね、リーたん。パパ、ばかだからわすれちゃったよー。だからね、おしえて?」

 チラチラッとレェブン候を伺う我が子にもう一押しと判断。

「パパにおしえてくれないの? パパないちゃうかも」
「えー。えっとね、パパの好きなお魚さん」
「そっか! パパ。うれしいなぁ!」

 レェブン候は自らの子供のピンク色の頬に、キスを繰り返す。それがくすぐったいのか、子供は無邪気な笑い声を上げた。

「よーし。じゃぁ、おしょくじにしようか!」
「――まだ調理は終わってないようです」
「……そうか」

 盛り上がった気分に水をぶっ掛けられて、レェブン候は不満げな表情をする。調理人に急ぐように言うのは簡単だが、ちゃんとした準備や手順、そして決まった時間で動いているのだ。我が侭でそのリズムを狂わせれば、調理人のベストの料理が作られないだろう。
 だからこそ、レェブン候は不満に思いながらも、命令をしたりはしない。我が子にはいつでも最も美味しいものを食べさせてやりたいから。

「さぁ、お父様はお仕事の最中です。行きますよ」
「はーい」

 元気良く声を上げる自らの子供に、レェブン候は寂しさを隠しきれない。

「待ちなさい。仕事はもう終わりだ」
「本当ですか?」
「うむ。安心しろ、仕事の方は本当にもう終わっている」
「……本当ですか? 明日に回せるからとか考えられてませんか?」
「…………」

 じっと妻に白い目で見つめられながらも、レェブン候は膝の上の我が子を下ろそうとはしない。それどころか、ぎゅっと抱きしめる有様だ。

「……もともと手は行き詰ったところだ。今急いで何かをしなくてはならないということもない」

 これは言い訳ではない。
 アインズ・ウール・ゴウンの件だって、数日は空き時間があるし、王と話し合わなくてはならないこともあるだろう。そう考えれば即座にレェブン候は動かなくてはならない、早急な案件は現在はない。
 それを見て取ったのか。妻は数度頷いた。

「畏まりました。しかし……大変そうですね」
「全くだ。もう少し、こう、動くのではなく、共に考えてくれる人物がいると嬉しいのだがな」
「私の弟では?」
「彼は君の実家の方の領内で手一杯だろう? こちらに来て仕事を押し付けるわけにいかんよ。他に君の知っている者で任せられるものはいないかね?」

 数度繰り返した質問を妻にし、そして同じ答えが返ってくる。レェブン候と同レベルで仕事をこなせる者はいないという。
 膝の上に乗せた子供が、そんなレェブン候に良いアイデアがあると口を開く。

「パパ、ぼくがね。パパのおしごといっしょにがんばる」
「うわー。リーたんありがとう! もう大好き!」

 何度も繰り返し、レェブン候は可愛いことをいう我が子の頬にキスをする。
 そんな至福のときにあっても、本当に誰かいないものか。そんな思いを消すことは出来なかったが。




 この数日後、ラナーという人物と深い協力関係を持つことになるのだが、それはまた後の話である。



 ■



 ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。帝国の若き皇帝にして、鮮血帝と恐れられる人物の執務室。幾人もの人間が並ぶ、静寂の中、たんたんと仕事が進むべき場所だった。
 普段であれば。

「くはははは!」

 その日、機嫌の良い笑いが室内に木霊した。そのような笑いを浮かべられる人間はこの部屋にはたった1人しかいない。部屋の主人、その人のみである。
 ジルクニフの笑い声を受け、幾人かが互いの顔を伺う。

 誰が問いかけるか、を。

 突然、ジルクニフが笑い出した理由についてはおおよその予測は立つ。このように突然ジルクニフが感情を顕わにするということは珍しいことではない。そしてそういうときは必ず『ある』理由があった。
 ただ、その笑い声を挙げた理由については誰も質問が出来ない。
 この部屋にいる者たちは皆優秀であり、帝国の首脳部に近い者達ばかりだ。しかしながらそれでも帝国に激震を数度起こした、かの鮮血帝相手の質問はどうしても気後れしてしまう。これがもしも政治のことであれば口を開いただろう。だが、もしこれがジルクニフの個人的なことであった場合、不快を買うかもしれないと思ってしまうのだ。
 
 そんな彼らが最後に視線を向けたのは、ローブを纏った老人――帝国主席魔法使いフールーダ・パラダインへだ。
 その視線を受け、仕方が無いという顔でフールーダは機嫌の良さそうなジルクニフに問いかける。

「どうされました? 皇帝陛下」
「おお、じい」ジルクニフは目の端に浮かんだ涙を拭う。「今、《メッセージ/伝言》が届いたのだがな。ワーカーは誰一人として戻ってきてないようだ」

 それは笑う話なんだろうかと、その場にいた全員が思うが、ジルクニフは違ったようだった。

「いやいや、やはりナザリック大地下墳墓に潜むアインズ・ウール・ゴウンなる魔法使いは桁が違うな。じい以上の魔法使いの線は充分にありだな。おっとその前に一応、確認しておくべきだな。おい。私は最高レベルの冒険者を突っ込ませろと命じたはずだが、冒険者でなくワーカーを動かした理由は切捨てが容易のためだったな?」

 その件に関して動いた中央情報省所属の者が一歩前に出る。

「はい。ワーカーは冒険者と違い、その後ろに――」
「――それぐらいで良い」

 長くなりそうだった話をジルクニフは手を上げ、止めさせる。

「では次の質問だ。雇ったワーカーどもはそれなりの力量を持っていたんだろうな?」
「はい。ご命令どおり、ワーカーたちは帝都でも指折りの者が揃えさせていただきました。冒険者でいうならAクラスに匹敵するかと」
「つまりはそいつらが全滅――ああ、歓迎されているかもしれんか。こいつは厄介ごとだな?」
「確実にそうです。Aクラスの冒険者に匹敵するワーカーの壊滅は、長期的に見ると帝国内の治安に関わってくる可能性があります」

 帝国では騎士が巡回し、人間の生活圏までさ迷い出てくるモンスターを狩っているが、厄介なモンスターは冒険者やワーカーに任せている。そのため歴戦のワーカーの壊滅は非常に頭の痛い問題になりかねない。

「ならその辺の対策を考えておけ」
「はっ」

 帝国内の治安に関する者達が数人、頭を下げる。

「さて、それでは対処しなくてはならない相手はアインズ・ウール・ゴウンだな。じい、占術の結果はどうなった?」
「それが何らかの防御手段が施されているのか。内部の情報は一切手に入りませんでした」
「ほう。金属で覆っているのか? それとも魔法的な防御手段をとっているのか?」
「不明でございます」
「ふむ……念のために聞くが、弟子が可愛いから無理をさせなかった? なんてことはないだろうな?」

 イスに座っているジルクニフが立っているフールーダに問いかける。顔は微笑を浮かべているのだが、瞳はまるで笑っていない。冷たさと黒いもののみがそこにはある。横でジルクニフの顔を見ている者達が、喉を鳴らしてしまうほどの威圧感があった。
 しかし、そんな重圧のある瞳もフールーダには決して通用しない。

「そのようなことはございません。何が重要かは私も分かっております。未知の魔法使いに対する情報。それがどれだけ大切であり、帝国に利を成すか。それを考えれば、ほんの数人の弟子の命ぐらい容易く支払えます」

 ころっとジルクニフの表情が明るく、親しみのあるものへ変わる。

「だろうな。じいがその程度の簡単な計算が出来ない筈が無い。とするとどうしたら内部の情報を集められる?」
「魔法的手段では不可能ですな。第3位階魔法では無理でしたので」
「より上位の魔法ではどうだ?」
「使用できるものがいません。私も占術系の情報収集魔法は収めておりませんので」
「ふむふむ。ならば内部に諜報員を送り込める……訳が無いな」

 使用する技術が違うといっても、歴戦のワーカーが誰も帰ってこないようなところに潜り込めるはずが無いだろう。

「ならばどうするかな?」

 そしてジルクニフは心の底から楽しそうに笑う。それを見ていたほぼ全員が厄介ごとの予感を覚え、キリキリと胃から伝わってくる痛みを感じていた。前回、ジルクニフがこの表情を浮かべたときは、抵抗貴族の何人かの家の断絶だ。それも無から有罪足りうる罪を作り出しての。

「行くぞ」

 全員が一瞬だけ呆ける。ジルクニフの発言の真意が掴めなかったために。それが不満だったのか、ジルクニフはもう少し細かく説明する。

「ナザリックに私自ら行って、アインズ・ウール・ゴウンに会うしかないだろ?」
「危険です! ワーカーが戻ってこないような場所に行かれるのは危険としか言いようがありません!」

 即座に反対したのは当然だ。ワーカーが1人も戻らないような危険地帯に帝国の最重要人物を送れるはずが無い。しかしそんな反対意見をジルクニフは鼻で笑い飛ばす。

「未知の存在がそこにいる。それだけで問題ではないか。それにワーカーを雇った人間の大元が私だと、向こうがその情報を手に入れるまでにどれだけの時間が必要だ?」
「幾つもの壁をかませておりますので、通常の手段では到達は不可能かと」
「じい。魔法でどうにか出来るだろ?」
「魔法は万能のように見えるかもしれませんが、ある程度の決まったものであり、ありとあらゆることが出来るわけではありません。しかしながら支配や魅了といった精神系の魔法を使い、占術などの情報収集系魔法までを駆使するば、もしかしたら届くかもしれませんな」
「フールーダ殿には失礼ですが、そのような手段での情報収集も警戒して行っております」

 中央情報省の者が即座に否定する。帝国は魔法も国家の重要な戦略の1つである考え、力を大きく入れている。そのため魔法の重要性は充分に知っている。だからこそ、ありとあらゆる工作時には魔法に関しての警戒は怠らない。
 ただ、帝国の最も力ある魔法使い――人類最高レベルの魔法使いであるフールーダからすると疑問は残る。

「それはせいぜい第3位階程度の情報収集系魔法に対する警戒では? より高位の魔法への警戒までしているとは私は思えないのだが……? 他にも新たな魔法が開発されている可能性だってあるのだから」

 第3位階以上の魔法を使いこなせる人間は少なく、そして知られている魔法の数も減っていく。第5位階魔法や第6位階魔法に至っては、どんな魔法があるか知っている者は殆どいないだろう。
 それに元々この世界に流れている魔法の大半はかの8欲王が流したものであり、ある都市から流れてくるものだ。そしてそれを元に様々なところで新しい魔法が開発されている。
 そういった未知の魔法に対する備えまで完璧に出来ているはずが無い。フールーダはそう確信しているのだ。

 しかし、フールーダの考えは想像を元にしているのも事実。他国と諜報戦を行っている者達からすると、笑ってしまうようなものだ。空想に怯えていては何も出来ないと。

「そのようなことはありません。その辺りまでしっかりと考えて行っています」
「……ならば私のところまではたどり着かないと?」
「恐らくは」
「それは非常に好都合ではないか。まさに私自ら危険に飛び込む価値があるというもの。それに向こうは羊皮紙を渡してきたのだぞ? 無論、私の元まで届くと思っての行為かはしらないがな? それでもその後でワーカーが侵入したのだ、確実にこれが帝国の返事だと思うだろう。だからこそそれが違うということを示さなくてはならない。勝手にやった部下がいるんだとな」
「しかしながら、その考えが通るような常識のある相手でしょうか?」

 ジルクニフの言っていることが通じるのは、ある程度の理性を持ち、打算などが出来る相手のみだ。言葉の意味が通じないような相手にそんなことを言っても無駄だろう。

「さぁな。どうにせよ、こちらの第一手は防がれたんだ。第二手に出るしかないだろ?」
「ですが……」

 いまだ言い募る配下に、ジルクニフは歯をむき出しにする。

「危険か?」
「は……い、いえ……」

 ジルクニフの浮かべた表情は笑みからはかなり遠い。苛立ちと興奮。様々なものがそこにはあった。そんな中、最も大きいものは好敵手を前にした、貪欲な獣のような感情。

「私の人生で危険でなかったことなんか1つも無かった。伯父を殺した時も、兄弟を殺した時もだ。一手、誤れば私が殺されていただろう。しかし、私は全てに打ち勝ってきた。今度もだ。私は負けない」

 ジルクニフは室内にいる全ての者を見渡す。その堂々たる姿はまさに皇帝のものだった。 

「一手防がれて理解できた。ゴウンなる魔法使いは敵に回すには危険な存在だとな。ならば……味方に引き込むしかあるまい? 何を代価にしようがな? 土地、異性、権力、地位、金。欲しいものはくれてやれば良い。じいに匹敵する魔法使いならどれだけでも価値はある。それに王国に渡すわけにもいかないだろ?」
「か、畏まりました」
「さて、ナザリックに向かうルートは3つ作って、それぞれを内密にそれぞれの勢力に流せ」
「釣りをされるのですか?」
「そうだ。どのルートの私が襲われるか、チェックしろ。近衛隊の中でも指折りに指示を出せ。それとじい」
「はい」
「ナザリックに向かう人間、じいの弟子を数名選伐しろ。それとじいにも当然来て貰うからな?」
「畏まりました、皇帝陛下」
「それと確認だが、あれを持っていけば精神操作は受け付けないのだろうな?」

 ジルクニフの言うアレというのが、帝国に代々伝わる至高の宝物であるマジックアイテムだと瞬時に誰もが悟る。

「無論でございます。あれは精神に影響を与える一切に対する守りを与えるアイテム。それを魔法で破ることは出来ません」
「精神を操作された後で、アレを着用した場合は?」
「精神操作を破り、元の状態にもどることとなります」
「なるほど。ならば分かったな? 私が戻ってきた時に、アレを着用してなければ、その時は」
「残す弟子たちに伝えておきます」
「よし。では直ぐに準備を始めろ。少しでも早くナザリックに到着するよう行動するんだ」





 周囲を高い壁に守られた敷地があった。騎士たちが複数で巡回に当たるその地は、帝国の中でも最秘奥の地。
 帝国魔法省だ。
 騎士達に与えられる魔法の武器や防具の生産。新たな魔法の開発。作物等の生産性への魔法実験などを行う、主席魔法使いフールーダ・パラダインを頭に置いたこの敷地は、帝国の魔法の真髄が詰まった場所でもある。
 幾つもの建物が並び、その1つ1つが壁で仕切られている。
 上空を見れば、飛行生物に乗った皇帝直轄の近衛隊の1つ『ロイアル・エア・ガード』の姿や、それに共だって警戒に当たっている高位魔法使いの飛行する姿があった。

 そんな帝国魔法省の最も奥に1つの塔がある。
 そこにはこの帝国魔法省に所属している人数からすると、非常に少ない魔法使い達が出入りをしていた。
 第3位階の魔法まで使いこなせるかなり腕の立つ魔法使い、もしくはそれなりの理由を得たごく一部の魔法使いしか入れない塔なのだ。

 フールーダは自らの直属の弟子数人を引き連れ、その中に入る。
 フールーダに気が付いた魔法使いたちの礼の中を抜けるように進んでいく。

 時折、警戒に当たっている騎士の姿があった。
 全身の身を包むのは魔法の全身鎧であり、利き手とは逆の手には魔法の盾を着用し、腰から下げたのは魔法の武器。背中の帝国の紋章が入った真紅のマントも当然魔法のものである。
 確かに鎧にも剣にも掛かっている魔法の力は弱いが、それでもこれだけの武装を帝国とは言え、普通の騎士が出来るものではない。そして何より単なる騎士が、帝国の重要機関の1つであるここに配属されるわけが無いのだ。
 そう。
 彼らこそ皇帝直轄の近衛隊の1つ『ロイアル・アース・ガード』に所属する騎士たちの雄姿である。

 通路を抜けると、すり鉢状になった空間に出た。その上部にフールーダは出てきたのだ。
 フールーダの到着を発見した、その場で忙しそうに働いていた魔法使いたちの中で最も地位の高い者が、慌ててフールーダの前に駆け寄る。
 その駆け寄った男の魔法使いが何者か、フールーダはその蓄えられた知識から瞬時に答えを導く。自らが指導した30人の弟子の1人であり、この場所の副責任者だ。

「問題は?」
「なにもございません、師よ」

 深々と頭を下げた弟子の言葉に、もう1つの意味が含まれていることを瞬時に理解し、フールーダは微妙な表情を浮かべた。

「自然発生にも繋がってはいないか」
「はい。最下級のアンデッド、スケルトンの存在発生にはいまだ繋がってはおりません。現在は単なる死体を配置することで、ゾンビの発生に繋がるかの実験を行うところです」
「ふむふむ」

 フールーダは自らの長い髭をしごき、眼下に広がる光景を見つめる。
 そこには十数体からなるスケルトンたちがいた。それが一斉に畑作業を行っているのだ。鍬を持ち上げ、振り下ろす。その動作が左右のどのスケルトンを見ても狂ってない。横から見たら重なって1体のスケルトンしかいないのではと思わせるものだ。
 あまりにも調和の取れたその光景は、ある意味マスゲームにも似たところがあった。
 
 これが帝国が内密に進めている、大型プロジェクトの正体だ。
 それは『アンデッドによる労働力問題の解決』である。
 アンデッドは飲食も睡眠も不要とし、疲労することもない。いわば完全なる労働力だ。確かに知性が無いため、命令されたこと以上のことは出来ないし複雑なことも出来ない。しかしながら傍で細かく命令をしていれば解決する問題でもある。

 仮にアンデッドを農地に放って命令を遂行させれば、どれだけのメリットになるかは想像の範疇を超えているのが理解できるだろう。人件費の削減による物品の単価の低下、農場や畑の大型化、危険な作業における効率化などだ。それはまさに夢のプロジェクトだといっても良い。
 しかしそんな完璧にも見えるプロジェクトを大々的に行えない理由も当然ある。

 それは反対勢力の存在だ。特に神官を筆頭とした勢力である。
 生を憎む死の具現であるアンデッドを、そのように使うことを許さないというもの。魂を汚す行為であると反対するもの達だ。
 それにアンデッドの基礎の肉体となるものでも問題が生じる。たとえ、罪人の死体を利用したからといっても、刑が執行された時に罪は綺麗に拭われており、それ以上は冒涜であるという意見を持つ彼らを説得するのは困難だ。
 もしこれが食糧問題が常時あって、餓死していく人間が多いともなれば説得には繋がったかもしれない。しかし、帝国の食糧事情は非常に良く、労働力という面で問題が出たためしが無いのだ。
 結局このプロジェクトの裏にあるのは、強兵に繋がった問題である。そのために神官たちはプロジェクトに反対しているわけだ。

 それにアンデッドの労働力が一般的になった場合の人間の労働者が解雇されるのではという不安や、アンデッドが本当にいつまでも言うことを聞いているのかという不安。さらにはアンデッドが無数にいることによって、生と死のバランスが崩れ、より巨大な力を持つアンデッドが自然発生しないかという不安もまたあった。

 現在この地で行われているのは最後の不安の解消である。スケルトンたちを一定数集めることで、アンデッドが自然発生しないかという実験を行っているのだ。

「根本的な理由はいまだわからずか」
「はっ、申し訳ありません、師よ」

 何故、アンデッドが自然に発生するのか。その根本となる理由の追求は将来的に重要な意味を持つ。


 カッツェ平野という地がある。
 最強のアンデッドの一角、一切の魔法を無効とするスケリトル・ドラゴンすら出現するとされる場所だ。その地は帝国と王国の戦争の主戦場として使われることが多いためか、アンデッドの出現率が非常に高い。
 将来的に帝国があの辺りを支配することになった場合、アンデッドが頻繁に出現するような地を領内に収めたくは無い。そのためどのようなプロセスを得て、アンデッドが出現しているのかという理由を知ることは、統治の役に立つのは間違いが無い事実だ。もしかしたらアンデッドを二度と出現しないようにすることができるかもしれないのだから。


「そうか。分かった」

 自らの師からの叱咤が無いことに安堵した副責任者が、再び頭を下げる。
 フールーダは再び歩き出す。すり鉢状になった部屋を大きく回りこむように。入ってきた扉の向かいにあった、扉の前まで来る。扉の前で守っていた騎士が押し開いた扉を、フールーダは入り込む。
 扉の先は入ってきた時と同じような通路がある。だが、先ほどの通路とは違い、人の気配が無い。良く見れば、なんとなく薄汚れたような感じがあった。
 フールーダは弟子を連れて、その通路を歩く。ほんの少し歩いた先に下へと伸びる階段があった。
 
 下への螺旋階段は長い。
 コツリコツリという複数の靴の音がどれだけの時間響いたか。さほどの長さではないのだろう。せいぜい地下7階ほどか。しかしそれとは思えないほど空気が重く沈んだものへと変わっていく。
 これは決して地下に来ただけの物とは思えない。
 その証拠に、フールーダを含んだ全員の顔に緊張から来る硬さがあったからだ。

 最下層。
 そこはちょっとした広間になっており、重く大きい鉄の扉が1つだけあった。
 その場にいるものの表情は硬く、険しい。戦闘態勢に入りつつあるといっても良いだけの緊迫感があった。
 フールーダの硬い声が、全員に警告を発する。

「決して油断するな」

 いつも聞かされる注意に対して、同行していた魔法使いたちが一斉に深く頷く。
 フールーダの警告は、この場所に来るたびに繰り返されていることだ。そのため同行している魔法使いからすれば、もはや耳にタコができているだろう。しかし、そんな警告でもこの奥にいるものを知っていて、表情を緩めることができる者はいなかった。
 この奥にいるのは究極のアンデッド兵。スケリトル・ドラゴンを凌駕する存在なのだから。

 幾人が一斉に守りの魔法をかけ始める。純粋な物理防御系の魔法のみならず、精神を守護する魔法をかける。充分な準備時間が経過し、フールーダが自らの弟子たちの顔を見渡す。

 それから1つ頷くと、扉開封のキーワードを唱えた。

 ゴウンという音と共に、ゆっくりと重い扉が開いて行く。
 真っ暗な室内からは冷気のようなものが流れ出し、幾人かの魔法使い達が寒そうに肩をすくめる。
ごくりと誰かの唾を飲み込む音が、大きく響いた。それほどの緊張感と静寂がその場にはあった。

「行くぞ」

 フールーダの言葉に反応し、魔法使い達は大きく頷く。魔法の明かりが複数灯り、室内の闇を追い払う。逃げた闇は光の外にわだかまりより濃くなった、そんな感じさえした。
 フールーダを先頭に、一行は歩を進める。
 
 冷気を抜けるように歩くことほんの少し。さほど広く無い部屋であるということもあり、最奥が見えてくる。そこにあったのは1つの巨大な墓標だ。いや、目を引くのはそれではない。墓標に鎖で雁字搦めにされた、磔となった者だ。
 それは全身を親指よりも太い鎖で縛られていた。更には巨大な鉄の球体によって動きを拘束されている。どんな存在でも指一本でも動くことすら不可能な、そんな状況にあった。
 しかし、一行の中にはその太い鎖を見てもまだ不安を残す者もいる。その存在なら容易く砕いて、自由を得るのではないかと。

 その存在の外見は黒色の全身鎧を着た騎士という感じだった。しかし、あまりにも違いすぎる。まず目を引くのがその体躯の巨大さだろう。身長は2メートルをゆうに超えている。
 そして次に目を引く黒色の鎧は、血管でも走っているかのような紋様が描かれ、暴力の具現したような棘があちらこちらから突き出していた。
 兜は悪魔の角を生やし、顔の部分は開いている。そこにあるのは腐り落ちかけた人のそれ。ぽっかりと空いた眼窩の中には生者への憎しみと殺戮への期待が煌々と赤く灯っていた。
 そんなアンデッドが生者に対する怨念を周囲に巻き散らかしている。

 自然発生したアンデッドの中では伝説級の存在。
 あまりにも伝説すぎて、どんな賢者でもこの存在を知る者はいないだろう。このデス・ナイトと呼ばれる存在を。

 デス・ナイトの瞳に宿る赤い光が瞬くように動き、その場に来た魔法使いを嘗め回すように動く。いや、光の瞬きからはそれが見渡しているというのは理解できないだろう、常識であれば。しかしながら魔法使い達の体を震わす怖気のようなものが、それを感じさせるのだ。
 ここまで同行した者はフールーダの弟子の中でも高位の存在である。いうなら第3位階魔法の行使すら出来る者たちだ。しかし、そんな彼らをして、自らの歯がカチカチと音を立てるのを止めることが出来なかった。

「――心を強く持て。弱きものは死を迎えるぞ」

 フールーダの警告の声。
 しかし精神系の守りの魔法をかけてなお、湧き上がる恐怖は止められない。それでも逃げずに耐えれるのは魔法の守りのお陰だろう。
 ゆっくりとフールーダがデス・ナイトに近づく。それに反応し、デス・ナイトが四肢に力を込めた。己の前に立つ、愚かな生者を抹殺しようと。
 ギャリッという、鎖が大きな悲鳴でも上げるように軋む音を立てるが、デス・ナイトの体はびくともせずに僅かに動く程度だった。それはどれだけ鎖でしっかりと縛られているのか、そしてどれだけデス・ナイトを警戒しているのがが分かるほどだった。
 フールーダが手をデス・ナイトに突きつける。
 魔法の明かりが闇を追い払う場所にあって、フールーダの魔法の詠唱が響く。《サモン・アンデッド・6th/第6位階死者召喚》を改良して作った、フールーダのオリジナルスペルである。

「――服従せよ」

 フールーダの声。それに対するデス・ナイトの瞳に宿るものは、相変わらずの生者への憎悪だ。

「……いまだ支配できず、か」

 フールーダのその声には口惜しさがあった。5年経ってなお、このアンデッドを支配できないと知って。


 カッツェ平野では先も述べたようにアンデッドが頻繁に出現する。基本的にはスケルトンやゾンビという低級のアンデッドだが、生者を憎むアンデッドは両国にとっての敵であるため、王国と帝国が互いに兵を出し合って――王国は冒険者をだが――カッツェ平野の討伐を繰り返しているのだ。
 その中、帝国の騎士の中隊がこの伝説級のアンデッドを発見したのだ。
 討伐を開始して数十秒。
 参加した騎士たちの表情が引きつった。その圧倒的な強さに。そして数十人もの騎士を殺されたところで、対処の術なしと判断。撤退を開始したのだ。無論、そんな化け物をそのままにしておくわけにいかない。帝国内部で討論が繰り返された結果、フールーダ率いる高弟たちが動員されることとなったのだ。
 フールーダ達が勝てたのは単純にデス・ナイトに飛行する術がなかったためである。上空からの一方的な攻撃を数度繰り返すことで、デス・ナイトの動きを弱めたのだ。そしてその圧倒的な強さに引かれたフールーダはデス・ナイトを捕縛。
 そして現在ここで縛りつけ、幾つもの魔法、幾つものマジックアイテム、幾つもの手段。通常のアンデッドなら支配できるありとあらゆる手段を使ってフールーダはデス・ナイトを支配しようとしているのだ。


「惜しい……これを支配できれば、私はかの魔法使いを超えた、最強の魔法使いとなれるものを」

 かの13英雄、死者使いのリグリット・ベルスー・カウラウ。それを遥かに凌ぐと。

「師は既にかの魔法使いを凌駕していると思いますが?」
「全くです。13英雄なぞ過去の存在。現在を生きる師には勝てません」
「私も師は既に13英雄を超えているとは思いますが、ただ、師がデス・ナイトを支配できれば、帝国は最大の力を得るでしょうな」
「個では群には勝てないといいますが、それは個の力が弱いだけ。このデス・ナイトは最強級の個でありますがゆえ」
「しかし師ですら支配できないとなると……このデス・ナイト。一体どれほどの力を持つというのか」

 慰めのようにも聞こえる弟子たちの声だが、これは別に慰めではない。事実も多く含まれている。
 まず、フールーダであればガゼフと同格のアンデッドを支配することはできる。無論、一体が限界だろうが。しかしながらこのデス・ナイトを支配することはいまだ出来ない。ならば単純に考えれば、このアンデッドはガゼフよりも上だという結論に達する。
 しかし、それは単純な考え方であって、魔法によるアンデッド支配はもっと複雑なシステムからなる。
 基本的にアンデッドの支配や破壊は神の力を借りた神官の領域である。神の力でなるところを無理矢理に魔法の力で代用しようとしているのだから色々と食い違いが生まれるだろう。
 実のところ、単純な理論でよいのであれば、フールーダはこのデス・ナイトを支配できてもおかしくないはずなのだ。

「うむ。……されど強さというものはじゃんけんのような関係。我々魔法使いであればデス・ナイトに勝てるだろうが、それより弱いスケリトル・ドラゴンは勝てない。そう考えると、このデス・ナイトは一体、どの程度の強さを持つと計算されるのか」
「データのようなものがあれば早いのですが」
「冒険者どものランク分けですか? あれも基本となる数値は大雑把なものだとか」
「ですが……未知の怪物を除けば、あの数値は充分に役立つ領域かと」
「デス・ナイトのような伝説級の存在に関しては、あまりにも役に立たないがな」
「デス・ナイトなどのモンスターを無数に記載した秘伝書。あれには乗ってないので?」
「さてな」フールーダは髭をしごく。「かのエリュエンティウには完全なるものがあるのやもしれんが、流れるのは不完全な代物のみよ」

 何か疑問を持ったらしい、弟子の1人が隣の弟子に問いかける。その声は小さいものだが、部屋自体が静寂の塊。以外に大きい音となって聞こえた。

「エリュエンティウとは一体どういう意味なのですか?」
「都市の名前だろ?」
「それは知っています。しかし奇怪な名だと思いまして」
「ああ……確か一度調べたことがあったが、あの辺りの古語で『世界の中心にある――』」

 雑談をし始めた弟子に警告を送るという意味で、フールーダは杖で床を叩く。ここは伝説級のアンデッドのいる危険な場所、決して心を緩めてよい場所ではない。
 その警告を充分に理解したのだろう。即座に沈黙によって、室内は満たされる。あるのはただ、デス・ナイトが鎖を断ち切ろうと蠢く音だけだ。

「行くぞ」
「はい」

 複数の同意の声を受け、デス・ナイトの前からフールーダは歩き出す。流石のフールーダも入ってくる時と、出て行くときの足の速度を一定にすることは出来ない。どうしてもかのデス・ナイトの前から去る時は、足早になってしまう。それは弟子も同じことなのだが。

 フールーダは闇の中、歩きながら先ほどの弟子の話を思い出す。
『エリュエンティウ』。
 かの8欲王が作り上げた国の首都にして、最後にたった1つ残った都市。そして桁の違う魔法の武具を装着した、30人の都市守護者なる人物達が守る都市でもある。
 あの地にあるとされる8欲王の残したマジックアイテムであれば、自らの魔法技術もより進歩するのだろうとフールーダは思いをはせる。決して誰も手に入れることは無く、唯一13英雄のみが幾つか持ち出すことを許可されたという超級のマジックアイテム。

 13英雄。かつての英雄。フールーダであれば肩を並べられる存在のはずなのに、彼らは許可を許され、そして自分は許されない。
 フールーダの心に黒い炎が揺らめく。
 
 フールーダは慌てて、その炎を消そうと己を慰めることを考える。自分の今の地位、そして築いたもの。それらは決して13英雄に劣るものではない。いや、帝国の魔法使いの中では、フールーダの地位は13英雄を越えるだろう。
 だが、一度湧き上がった黒い炎――嫉妬は消えたりはしない。

 この嫉妬は才覚や能力に対するものではない。魔法の深遠を覗き込むチャンスを得ているということに対するものだ。
 フールーダは最高位の魔法使いである。それは誰もが認めることであり、人間の魔法使いとしては、彼に並べるものはかつての13英雄ぐらいだろう。しかしながら、デス・ナイトの使役は不可能であり、全部で10位階まである魔法は第6位階までしか使うことはできない。
 そういった状況が魔法の深遠には今だ遠いということを、フールーダに味あわせる。
 フールーダも良い年だ。第6位階魔法の1つをかけることで時間の経過を操作し、老化を遅らせているがそれでもゆっくりと死に近づいている。
 そう。
 フールーダは魔法の深遠を覗くことなく死ぬのだ。
 もし優れた先達がいれば、ここまでもっと早く来れたかもしれない。しかしながらフールーダの前には誰もおらず、自ら道を作るしかなかった。

 フールーダは近くにいる弟子達をさりげなく見渡す。
 フールーダという人物が作った道を進んできている者達を。
 
 浮かぶのは嫉妬だ。
 自分が、この場にいるどの者よりも才覚を持つ自分が、弟子達のレベルに到達できたのは、幾つの時だったか。いや、考えるまでもない。確実にこの弟子達よりも上の年齢だ。教える者が、先を歩み導く者がいるのといないのではどれだけ違うのか。
 何故、自分には師がいないのか。
 フールーダはいつもの思いをもう1つの思いで押しつぶす。
 いいじゃないか。自分は先達として歴史に名を残す。自分の後を通って魔法使いとして大成す者はすべて私のおかげなのだから。

 弟子こそが私の宝だ。もしこの中で1人でも私より上に昇れる者がいたら、それは私のお陰だ。
 そう慰めながら、フールーダは自らの弟子の1人、今はもはやいなくなった弟子に思いを寄せる。
 あの少女ならば、一体、どの位階まで上り詰められたか。

「――アルシェ・イーブ・リリッツ・フルトか」

 優秀な娘だった。あの若さで第2位階魔法を収め、第3位階魔法まで足をかけていた。あのまま行けば、フールーダの領域まで何時かは到達した可能性もあっただろう。結局、彼女はなんらかの都合でフールーダの弟子をやめてしまったのだが……。
 あの時はなんと愚かなと、失望するだけだった。

「惜しいことをしたか」

 もしかすると自分は大きな鳥を手放してしまったのかもしれない。
 あの娘が今、どこにいるのか。少しばかり探してみようかという気も起こる。もし第3位階魔法まで使えるのであれば、それなりの地位を約束与えても良いだろう。
 とは言っても、今しなくてはならない仕事が終わってからだ。

 フールーダは合言葉を唱え、重い扉を開く。
 そして外に出ると、周囲の弟子と同じように数度、呼吸を繰り返した。デス・ナイトの気配が強く残る室内では、空気が重く、呼吸しても空気が肺にしっかりと入っていかないような気分に襲われるのだ。
 後ろで扉が閉まっていく音を耳にしながら、フールーダは周囲の弟子達に向き直る。

「それでは明日、私はナザリックなる地に行くことになっている」ぐるりとフールーダは弟子達を見渡す。「どのような人物が待ち、どのような結果が待つかはまるで不明だ。命の危険もあろう。しかしながらそこに同行する者を数名選ぶ」
「その役目、私に」
「いえ。私を!」

 即座に幾人かの声が上がった。

 ふむ――。
 
 フールーダは見渡す。その幾人かの瞳に宿るもの。それは野望である。

 弟子は幾人もいるが、フールーダの後継という称されるものはいない。主席魔法使いという地位は皇帝から与えれるものであるため、皇帝の覚えの良い仕事をこなそうという者も多い。しかしながら、高弟たちが本当に望むものは、フールーダの呪文書であり、装備。つまりは魔法使いとして最も優れているという称号だ。
 そのため、フールーダの横に立ち、盗めるものは全て盗もうというのだろう。

 ――心地良い。

 フールーダは内心で静かに笑う。魔法使いたるものそうでなければいけないと。危険だからと尻込みしていては、魔法の深遠には決して到達できない。
 魔法とは英知の塊であり、危険極まりないもの。しかし、人の力を超越した技術でもあるのだ。それを修める者が何ゆえ危険を恐れるのか。

「かの地、ナザリックにはガゼフと同格、もしくはそれを凌ぐアンデッドを使役するものが居を構えているという。もし真実そうであれば、叡智を交換し合うのも良いな」

 デス・ナイトを支配する。
 その言葉はそのナザリックの主人がアンデッドを使役するというのなら、惹かれるだろう提案だとフールーダは考える。
 そして、もし仮に――皇帝との話であったが、本当に自分よりも優れた魔法使いであれば、それはどれだけ心弾む会談となるか。もしかしたらデス・ナイトを支配する技を持っているかもしれない。そうだとしたら、どれだけのものを支払えば教えてくれるか。
 期待、不安、興味。いろいろなもの混ぜ込み、フールーダは年甲斐も無く感じる興奮を、その顔に紅潮という形で表す。

「……師に匹敵するだけの叡智を持つ者が、いまだ地に埋もれていたのは考えにくいですが」
「全くです。占術を行ったものが数人、意識を失ったというそうですが……その魔法使いによる結界とは言い切れませんがゆえ」
「……私はナザリックにいる者が、私を超えていたらこれほど喜ばしいことはないがな」

 遠くを見るような眼をしたフールーダに、弟子達は何も言わなかった。最高位として誰も並ぶ者がいない――伝説以外では――魔法使いの気持ちを、理解できるものなんかいるはずがないのだから。




 そしてフールーダはこの数日後、願いを叶えられることとなる。



 ■



 巨大な水面がその部屋にはあった。
 いや、そこを部屋というのは大きく間違っているだろう。周囲を見渡せば、円筒形の白亜の石柱が立ち並び、細かな装飾の入ったフリーズを持つエンタブラチュアを支えている。
 その神秘的で荘厳な雰囲気は神殿と判断して間違いが無いものがあった。
 床は磨かれた大理石で出来ており、途中から下に向かう数段の階段をえて、水面となっていた。いうなら神殿内にあるプールというところだろうか。プールと言っても、せいぜい10メートル四方程度だ。
 天井部分は無いため、夜空に浮かぶ月が水面に映り、水がまるで碧い微光を放っているかのようだった。そして空から降り注ぐ月明かりが、水面のみならず壁や床で反射し、この場所自体が白い燐光に覆われているようだった。そのために、明かりが無くても眩しいほど良く見える。
 そんな神秘的な場所を僅かな風が、円柱の隙間を抜けて流れていく。
 
 しかしそんな神秘かつ荘厳な場所ではあるが、無粋な者たちの姿もあった。

 円筒形の石柱の周りには、全身鎧を纏い、剣を下げた者たちの姿があったのだ。ただ、鎧も剣もどれもが充分な機能を持っているが、細かな装飾の施された観賞用じみたことろがある。
 そんな全身鎧の作りのため、確かに無粋ではあるが、神秘性を損なうまでには至っていなかった。いや、そのためにそういった武装で全身を整えているのだろう。
 それに驚くことに、円柱の数の3倍に匹敵する数でありながらも、そこにいた者は全員が女で構成されていたのだ。
 基本的に肉体的な能力は男の方が優れているため、女が兵士として取り立てられることは滅多にない。それなのにこの見た目でもわかる重要な場所に配置される理由。それはたった1つしかないだろう。
 彼女たちはこの神秘的な地に配属された儀仗兵なのだろう。


 この場所――
 スレイン法国。その主なる都市である神都にある6大神殿。その内、水神殿にある神都最大聖域の1つ。
『ティナゥ・アル・リアネス』。『水神の目』の名を持つ場所であった。


 周囲は静寂に満ち満ちている。
 周囲に立つ兵士――スレイン法国では神殿衛兵の名で呼ばれるのだが、彼女達がまるで動かないからこその状況だ。その姿はまるで彫像と勘違いしてしまうほど。全身鎧がすりあう音すらしないのだから、どれほど不動の姿勢を保っているのか。それはまさに賞賛に値するだろう。

 やがて時間は経過する。
 沈黙では無く、静謐という言葉が相応しい場所に一種類の音がした。

 それは素足で石の上を歩く音だ。
 ペタリペタリ。
 そういう音が複数起こる。僅かに神殿衛兵のフルヘルムが動き、聖域に入ってきた人物達に向けられる。

 先頭を立つのは1人の老婆だ。純白の髪に皺だらけの顔。しかしながら単なる老婆ではないのは一目瞭然だ。その目に宿るのは叡智であり、慈愛であり、力だ。
 身に纏った純白の神官衣には魔法文字が組み込まれ、指には強力な守りの力を有した指輪をそれぞれの手に。額には無骨ながら強大な魔力を保有するヘッドバンド。首からは何かの力を込めた聖印を下げている。
 そしてその老婆の直ぐ後ろ。

 そこを歩くのは1人の少女だった。歳は非常に若く、いまだ大人の印が現れていないように思われる。その両目には布が巻きつけられており、その手を2人の若い女性に引かれながら歩いてくる。
 目が隠されているために、その顔立ちを見ることは出来ない。しかしながら非常に整っているようだった。ただ、緊張しているためか、その表情は仮面の如く硬い。艶やかで長い金髪が風に煽られ、月光を反射させる様は光に包まれているようだった。
 額にはまるで蜘蛛の巣のように、頭部を糸で覆うようなサークレット。糸のように見えるのは無数の小粒の宝石であり、サークレットの中心には青い水晶のような大きな宝石が埋め込まれていた。
 纏っているものは僅かに前の開いた布のようなものだ。
 あまりにも薄絹であるために、月明かりを浴びて、その下の裸体がほぼはっきりと浮き上がっている。そんな薄絹を腰の辺りの細い紐一本で合わせているため、風の気まぐれで少女の全てが見えそうでもあった。
 そんな少女が素足で歩いてくるのだ。いや、少女だけではない。少女に付き従うように、同じような格好をした女性たちが入ってくる。
 違うことは目を覆う布が無いことと、年齢がもう少しは上の者もいるということか。いや、もしかしたら先頭の少女こそ、最も年齢が下かもしれない。

 ある意味、男にとっては垂涎の光景だ。だからこそ、この場にいるのはすべて女性なのだろう。
 やがて、老婆はプールの前まで到着する。そしてそれに続く全ての者が立ち止まった。

「ではこれより大儀式を行う。……水の巫女姫を中に」

 目を布で覆っていた少女の手を引いていた女性が、そのプールの中に少女を誘導する。
 少女は何も言わずに水の中に入る。水の中に入ればその温度の差に一瞬、驚くだろう。しかしながらその表情に変化は見られない。それは何が起こるかを知っていたからか。それとも別の理由か。

 腰まで浸かった水の巫女姫といわれた少女をそのプールの中心に据えると、後ろに続いていた者達が続けて入る。
 やがてプールの中に水の巫女姫を中心とした、円形が出来上がった。
 水を吸った服は素肌に張り付く。そのため、もはや全裸と変わらない光景がそこには広がっていた。しかしながら全員何も言わない。水の巫女姫は無表情を。その後に続いた者達はその表情の中に、緊張を隠し持っていた。

「では水の巫女姫にすべての力を集めよ」

 プールの外にいる老婆の声に答えるように、一斉に水の巫女姫の周りの者達が言葉を紡ぎだす。それは聖典の一部。水神に捧げる祈りの言葉だ。

 水面に波紋が起こる。気まぐれな風によって起こっているものではない。まるで水が意志を持ったように規則正しく波紋が生じる。それはまるで水の巫女姫に向かって起きているようであった。
 いや――違う。
 起きているようなのではない。それは水の巫女姫に向かって起きているのだ。
 
 周囲の女性たちの顔色がゆっくりと悪くなっていく。魔力を消費した際の、魔力欠乏における肉体疲労だ。
 その魔力の流れを感じ、充分だと判断した老婆は、次の指示を出す。

「では、発動せよ。第8位階魔法『プレイナーアイ/次元の目』を」

 大儀式。
 それは集団の魔力をある1人の術者に纏め上げることによって、一時的に膨大な魔力をその身に蓄えさせる手段である。
 周囲の高位神官たちから送り込まれた膨大な魔力。
 それを一身に蓄えた水の巫女の鼻から、一滴の血が流れる。周囲の神官たちから流れ込まれる膨大な魔力を維持しようというのだ。それは己の身を蝕む行為だ。
 しかし水の巫女の表情に苦悶の色はない。

 そして水の巫女は、己の限界を遥かに超えた魔法の発動を行う。

「《オーバーマジック・プレイナーアイ/魔法上昇・次元の目》

 第8位階魔法による占術。

 占うべきは、ナザリック大地下墳墓。その目的はそこにいるという神にも似た姿を持つ存在の調査だ。

 水の巫女の魔法が発動する。
 しかし何の変化も無い。静寂はいまだそこにあり、月明かりが静かに舞い降りている。
 金属のすれるような音が起こる。小さいながらも、多くの者が起こせばそれは交じり合って大きな音へと変わる。それは周りを囲む衛兵の動揺の音だ。
 老婆が不快げな視線を周囲に放った。ただ、老婆もどうしてこのようなことが起こったのか、不安は隠せない。

 本来であれば、像が浮かぶはずだったのだ。
 水の巫女の前に魔法の投射映像が。それが魔法の結果であり、効果なのだから。
 それが何も起こらない。
 今までに行われた無数の儀式の中で、このようなことはない。確かに目標が何らかの魔法的防御に守られたため、黒い映像しか写らないということはあった。しかし何も起こらないということは決してなかったのだ。
 では今回に限って何があったと言うのか。

 その疑問が頂点に達しようとする時、空中に文字が浮かぶ。それを読めたものは誰もいなかった。なぜなら、それは日本語というこの世界ではほぼ存在しない文字で書かれているのだから。それにそれ以上に混乱すべきことがあったのだ。

 ゆっくりと水に身を浸していた神官たちが崩れ落ちる。
 魔力の欠乏から意識の喪失というものは起こりえるもの。しかしながら大儀式でそこまで喪失することは無い。ちゃんと魔力の喪失量まで考えられて、余裕を持ってメンバーの人数は集められているのだから。何より、自分でどれだけ喪失しているというのは感覚として理解できるのだ。幾らなんでも意識を喪失するほど、消費することはありえない。

「手を貸せ! 引き上げるのだ!」

 老婆の声に反応し、即座に幾人もの衛兵たちが駆け寄ってくる。そして一斉に水の中に入りだした。残った衛兵は剣を抜き払い周囲の警戒を始める者が半数以上である。

「そなたらは、直ぐに外にいる神官を呼んでまいれ!」
「はっ!」

 指差された3人の衛兵が走り出す。その頃には衛兵達はプールの中央に広がった、金の花を思わせる水の巫女をまず最初に助けようと、水を掻き分けながら進む。

 老婆は指示が終わると、空中に浮かぶ文字を眺める。もし異界系の魔法使いであれば未知の文字を読む魔法があるので読めただろう。しかし、神官である老婆にはその文字を読むことはできなかった

 しかしながら文字の変化ぐらいは分かる。
 老婆の目が険しいものとなった。


 最初に浮かんでいた文字には『――第2防御結界への攻撃を確認。占術での特定の結果、この地でのナザリックに対する占術の発動を確認。これによりこの場の者をナザリックへの敵対者と見なし、アインズ・ウール・ゴウンは反撃を行う』と記されていたのだ。

 そして変化した文字は『第一攻撃開始。低級悪魔の群れの召喚。起動『ルーンスミス』スキル。ルーン作成技能より《サモン・アビサル・レッサーアーミー/深遠の下位軍勢の召喚》を発動』とあった。


 突如――空中に深遠が出来る。
 ぽっかりとした黒い穴は何処までも何処までも吸い込みそうな、漆黒の色をたたえていた。円というが何処から見ても真円に見えるので、実際は球体状なのだろう。

 その空虚な穴から感じる気配に、手の開いていた衛兵たちは剣を向ける。ただ事ではない、しかしながら神官の回収が終わってない中での撤退は不可能。
 ゆっくりと水面から回収された神官たちを庇いつつ、何が起こっても良いように、穴を囲むという陣形を取り出す。

「水神官副長。お下がりください」
「構うんじゃない。それよりも意識のない神官たちを下がらせなさい」
「はっ」

 水の巫女を1人の衛兵が担ぎ上げると、全力で外に目掛けて走り出す。それを視界の隅に捕らえて老婆――水神官副長は安堵する。これでどのような最悪の事態が起こったとしても、叡者の冠は守られる。
 そのタイミングを待っていたように、球体が変動する。

 まるで球体から産み出されるように、何体も大理石の床に落ちる。ちなみに何体かプールの中に落ち、水しぶきを上げた。

「なっ!」

 誰かの悲鳴じみた、驚きの声が上がった。それに反応し、現れた存在たちも声を上げる。

「ギャギャギャギャ!」

 そんな奇怪な声を上げたのは、子供よりは若干大きい程度の悪魔達だ。
 やたらと大きな頭を持ち、そこには瞼の無い真紅の瞳、鋭い牙がむき出しになった口がある。肉体はやたらと引き締まっていた。鋭い爪の生えた両腕は長く伸びて、床に付いているほどだ。
 肌は死人のように白く、月明かりの下、病んで死んだ死体のようだった。

 彼らはライトフィンガード・デーモンと呼ばれるモンスターたちである。

「この聖域に邪悪なるものたちの侵入を許すとは!」
「討て!」

 衛兵達が走り、ライトフィンガード・デーモンたちに剣を振り下ろす。それを巧妙に避けた悪魔達は反撃に出る。

「な!」
「うそ!」

 デーモンたちと対峙した衛兵たちが一斉に騒ぎ始めた。それは痛みから来るものではなく、どうしようもない混乱からくるものだった。

「鎧が!」

 そんな叫びを上げた衛兵を見てみれば、その着ていたはずの鎧がどこかに無くなってしまっていた。

「――剣が無い!」
「嘘! 聖印が無くなった!」

 起こるのは自分達の所持品が無くなったという叫び。この状況下になれば誰もが答えに行き着く。この目の前のデーモンに盗まれたのだ、と。そう考えればデーモンはその手で攻撃をしてきたはずなのに、一切の損傷を負わなかった。ならばこの悪魔はそういう存在であると考えるほか無い。


 ライトフィンガード・デーモン。その名は『手癖の悪い悪魔』という意味だ。
 ユグドラシルでは初期ではどのようなアイテムでも奪えるという設定であり、ワールドアイテムでも奪えるだけの存在だった。しかしながら運営会社が多くのプレイヤーからの不満のメールをもらったためにパッチが当てられ、自らの同等レベルのアイテムまでしか奪えないという弱体化がされたモンスターだ。
 それでもポーションとか盗んでいくために、不満に思うレベルの低いプレイヤーは多かったが。
 

「糞! 返せ!」
「指輪! あれは婚約者からもらったものなのよ!」
「というか、なんてものまで盗むのよ!」

 衛兵達が剣で――盗まれていない者は――デーモンを攻撃する。
 ユグドラシルでは最低位レベルの悪魔であり、大した特殊能力を持っていないモンスターなのだが、この衛兵達にとっては強敵だった。
 いや、衛兵達を庇うわけではないが、彼女達も苦しく訓練をこなしてきた者たちだ。ローブル王国の民兵よりも剣の腕は確かだ。それにもし彼女達の裸体を見るチャンスがあれば、その綺麗に割れた腹筋は触りたくなるものがあるだろう。それだけ体も鍛えている。
 しかし、それでもこのデーモンたちには剣は届かない。

 甲高い奇怪な声を上げながら、デーモンが振り下ろされた剣を回避する。しかし、剣の間合いからは決して離れない。そうなれば直ぐに衛兵達も気付く。
 馬鹿にしているのだと。

「くそ!」
「こんちくしょ!」
「ちょっと、ほんと返しなさいよ! あんなもの盗んでどうするのよ!」

 剣が当たったとしても大したダメージを与えることが出来ない。幸運なのはデーモンが衛兵を殺すような攻撃をしてこないことだろう。それを完全に理解し、水神官副長は安堵する。これなら自分が神官たちを守らなくても命に別状は無いと判断して。
 周囲を衛兵に守られていた水神官副長は攻撃に移行する。

「《ホーリーオーラ/善の波動》!」

 水神官副長の魔法の発動と同時に、周囲に善の波動が放たれる。悪の属性を持つ存在に対してのみ効果のある第4位階魔法だ。善の波動がデーモンの体に巻きつくかのように、見て取れるほど動きが鈍った。

「行けるわ!」
「食らえ!」
「というかホント、返してよ!」

 剣が当たりだし、徐々に空気に血の匂いが漂いだす。しかしながら最下級のデーモンとはいえ、モンスターの中では強い部類に数えられる種族だけあって、そう簡単に倒れはしない。
 やがて、デーモンたちが後ろを見せ、走り出す。

「待て!」
「糞!」
「ちょ! まって! ほんと、待って!」

 デーモンたちは驚異的な跳躍を見せ、その虚無の球体に飛び込む。その瞬間、分解されるように姿は消えていく。衛兵達もギリギリまで追ってはいたが、流石にその球体めがけて飛び込むだけの勇気を持つ者はいない。
 衛兵の視線が水神官副長に集まる。老婆は顔を横に振った。

「良い。死傷者が出なかっただけマシと考えなければならん」

 水神官副長の視線が空中に浮かぶ文字に目をやる。その文字はやはり記憶の中のものとは少し変化していた。

 そこに書かれていたのは、『一定時間の経過を確認。第二攻撃へ移行。中級悪魔の群れの召喚。起動『ブラッドメイガス』スキル。サクリファイス・ブラッド技能より――――失敗。必要数以上の味方の死亡が確認されず』という文字だった。

 撤収を指示しながら水神官副長は頭を悩ます。

「……本気で攻撃してくるつもりは無かったのか。はたまたはあれぐらいしか出来なかったのか」

 そして自らの考えを即座に否定する。絶対に後者は無い。
 何らかの手段で第8位階という人間が発動できる最高位の魔法を防いだ存在が、あの程度のカウンターしか出来ないわけが無い。ならばやはり警告の意味と捉えるのが最も正解に近い筈だ。

「つまりはナザリックの主人は第8位階を防ぎ、カウンターとしてデーモンらしきモンスターを送ってだけの力の持ち主か」

 水神官副長はそこまで言うと、心の底から笑う。
 冗談じゃないと。そんな存在がいるかと。しかしながら目の前で起こった事実は決して覆せない。
 慌てて撤収していく衛兵を見渡し、自らの周りで耳を欹てている者がいないことを確認すると、己の思いをしみじみと呟く。

「……神というのもあながち間違いではないのか?」

 話を聞いた時は冗談だと思った話。
 ナザリックの主人が死の神『スルシャーナ』に似た姿をしているという。

「紛争になるぞ? 下手したら大宗教論争になるやもしれんな」

 スレイン法国は6大神を信仰し、それが協調することで組織として、国として成り立っている。いうならそれぞれが別の神ではあるが、同じ目的、同じ方向を向いているため協力できているのだ。ではここで神が1柱だけ降臨した場合はどうなるか。
 
 下手すれば6つの神殿内での勢力バランスが一気にひっくり返る可能性がある。しかしながら今回あったことを揉み消すことは出来ない。内密にすることが難しいのではなく、これほどの事件を隠した場合の後日起きるであろう問題――それがたまらなく恐ろしいのだ。
 いや、自らの胸の内に収めるのが怖いだけかもしれない。
 神が本当に現れるなら、それは膝を折り頭を垂れるだろう。自らが従うべき存在を前に。
 ただ、相手が『スルシャーナ』に似た姿だというのが恐ろしい。命あるものに永遠の安らぎ、そして久遠の絶望を与える神。そして他の5神よりも強大だとされる神。
 もし本当に――。

 水神官副長はぶるりと体を振るわせる。そして祈りを捧げる。己が神ではなく、死の神『スルシャーナ』に。何卒、神の罰を与えないようにと。



 ■



 ゆっくりと白い輝きの塊が身を起こした。
 それは巨大な存在だった。

 それはドラゴン。
 この世界における最強の種族であり、かつては世界を支配した種である。

 ドラゴンという生き物を見たり聞いたりしたものは確実に爬虫類を思い浮かべる。だが、それこそ間違いなのだ。ドラゴンは猫科の動物に非常に酷似した特徴を持っている。
 筋肉組織、眼球の運動方法、例を上げれば暇が無いぐらいである。
 特に重要なのは数千にも及ぶ筋肉組織から生まれる、その巨体からは想像も出来ないほどの俊敏な動きだろう。鍛えてない動体視力ではドラゴンの動きを視認すらできない。
 全身を満遍なく覆う鱗は鋼鉄よりも硬く、並の金属では刃こぼれするばかりだ。たとえ鱗を貫いたとしても筋肉がその刃物が深く刺さるのを止めてしまうだろう。殴打武器でも同じことだ。筋肉の層にはじかれるばかりだ。
 口から放たれるブレスは前方に存在するものをことごとくなぎ払い、知恵は人間を超え、賢者ですらひれ伏すという。

 そしてそのドラゴンは非常に美しい姿をしていた。白い微光を纏ったかのような体は艶やかに流れ、優雅で気品を持っている。これが本当に最強の種なのか、芸術品なのではと思わせるほどだった。

 ドラゴンは遠くを見る。
 いや感じようとする。その世界が揺らめく様を。

「どうされました? プラチナム・ドラゴンロード様?」

 そんなドラゴンに自らの騎士が声をかけてきた。ドラゴン・センスでその場にいるのは理解しているが、目を向けずに話すのも礼儀に反すると考え、ドラゴンは目を動かす。
 自らの直ぐ脇、そこにいるのはドラゴンが選んだ騎士だ。
 ドラゴンの鱗そっくりな白銀のスケイルメイルで身を包み、長い白銀の槍を携えている。ドラゴンをモチーフに作った鎧姿は、直立するドラゴンのようでもあった。
 誰が知るであろうか。その鎧こそかの13英雄の1人『白銀』という2つ名を持つ者が着ていた鎧であることを。

「いや、なんでもない」

 その瞳に決してなんでもない色を宿しながら、再びドラゴンは目を向ける。
 騎士も同じくそちらの方角に目を向けるが、何も見えない。いや、ドラゴンも何かが見えているわけではないのだろう。そんな騎士の困惑に対し、ドラゴンは説明するように話しかける。

「世界が悲鳴を上げたような気がしてな」
「悲鳴ですか?」

 ドラゴンの知覚能力は桁が違う。ならば自分では決して感知できないようなことを知覚したのだろうと騎士は判断し、それ以上問いかけることはしない。

 ドラゴンは何も言わない。しかしながらこの感覚を昔味わったことがあると、生存本能が騒ぎ立てていた。

 いつ味わったかを思い出すことは容易い。
 なぜなら、あの時の記憶は決して忘却の渦が飲み込もうとはしないから。

 ――8欲王。かつて自らが同族と共に戦った存在。そしてドラゴンの殆どを狩り殺した存在。あの巨大な敵が発動した魔法によく似ているのだと。

 ドラゴンは歴史を思う。
 あの存在たちによって、強者と呼ばれるようなドラゴンは狩りつくされた。ドラゴンロードと今の世で言われる存在は、かつての――500年以上前のドラゴンロードからすれば子供にしか過ぎない程度の力しか持たない存在だ。
 それにワイルド・マジック。
 始原の魔法と呼ばれる世界の神秘を使えるものも、このドラゴンが知る限りでは自らしかいない。
 もしもっと前から組織を組んで戦っていれば勝てただろうか。それはこのドラゴンが500年以上何度も思い返すことだ。

 結論としては勝てただろう。なぜならかつてのドラゴンロードは8欲王にも勝ったのだから。
 確かに1王に対して複数で掛かった。1王を殺すのに、ドラゴン側の被害は十倍は出ただろう。それに8欲王は死んでも復活の魔法で蘇った。
 しかしながら8欲王は蘇るたびに弱くなっていったのだ。もし数が揃えば押し勝てただろう。だが、そうはならなかったのが、事実だ。

 結局世界は犯し、汚された。

 ワイルドマジックは失われ、世界には8欲王が溢した魔法が主となった。


 ドラゴンは長い首を捻り、自らの後ろにある武器に視線をやる。ここに置いて以来、決して誰にも触れさせたことの無い武器を。水晶の刀身を持つ、煌びやかな剣。8欲王が振るい、己が同族を殺しに殺した武器。そしてかの13英雄のリーダーに値する人物が所持した剣。
 かの8欲王の色濃い地にて、祝福を代価として借り受けた一品。
 名を――。

 そこでドラゴンは不思議そうに目を瞬かせた。

「なんと言ったか」暫しの時が開き、ドラゴンは搾り出すように言葉を紡ぐ「……ギルティ武器だったか?」

 無論、それの正否を答えるものがいるはずが無い。ドラゴンはわざとらしいため息を1つつくと、再び、ある方角を睨む。その先――ドラゴンの知覚能力を超えたはるか先。
 そこにあるのはアゼルリシア山脈南端部分、1つの巨大な湖がある場所だった。






――――――――
※ 戦闘シーンが無いと簡単に書けます。というかちょっと頑張りすぎました。次は向こうを書くので、少し時間をおきます。
 次回は『会談』かなぁ、ネタバレを避けるという意味でも。
 オーバーロードでは出来る限り登場シーンが来る前に、そのキャラを匂わせるということを努力しています。でも、そろそろ出したかどうか自信がなくなってきたぞ?



[18721] 49_会談1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:1c6b9267
Date: 2011/09/29 20:39





 ナザリック大地下墳墓第9階層。
 そこはそれまでの階とはまるで違う、王宮をも凌ぐような煌びやかな通路が広がる。そんな御伽噺に出てきそうな通路に満ちる荘厳にして豪華な雰囲気に、まるで相応しくない足早な歩運びを行う者が2人いた。
 そんな性急な動きをする者がいれば、当然のように非難の目で見られるか、叱責されるであろう。この地はナザリック大地下墳墓を支配する、至高の41人といわれる神たる者たちの自室がある場所。それほどの崇高なる地に相応しくない行為が許されるはずが無いのだから。NPCでなく、単なるシモベであれば死が与えられる可能性だってある。
 そんな場所ではあったが、誰一人として叱責しようとする者はいない。

 それどころかそれらの人物を視認すると、今まで通路を巡回に当たっていたコキュートス配下の兵士達――ノコギリクワガタにも似た姿を持つ親衛隊、守護騎士<ガーディアンナイト>が、壁際に寄った。そのまま直立不動の姿勢を維持しながら、自らの前を2人が通り過ぎるのを待つ。

 NPCのメイドたちも同じことだ。
 通路脇によると、深く頭を垂れ、自らの前を通り過ぎるまでは少しも動こうとはしない。

 誰もが最高の礼を取りながら、忠誠心をあらわにする。
 それは至極当然の理だ。
 大体、その2人の人物を叱咤できるような者がいるはずが無いだろう。いや片方の人物だけならば叱責できるかもしれない。メイド長たるペストーニャ・ワンコであればある意味、同格に近いのだから。しかしもう1人の人物の姿あっては出来るはずが無い。
 その人物が白といえば、ナザリック内では黒ですら白となる。その人物が小走りに移動するのならば、小走りに移動するのが第9階層の正しい移動の仕方となるだろう。
 
 このナザリック大地下墳墓の主人にして、至高の41人の総括者であるアインズ・ウール・ゴウン。そしてそれに追従する執事であるセバスに、叱咤できる者がいるはずが無い。



 アインズとセバスは慌てながらも会話を続ける。

「アインズ様が直接お出になることもないかと考えますが?」

 数度繰り返されたセバスの発言にアインズは顔を前に向け、足を動かしたまま、何も答えようとはしない。そんなアインズの僅か右後ろに続きながら、アインズの無表情な横顔に浮かんでいるものを読み取ろうとセバスは視線を送る。

 また1つ扉の前――セバスの記憶では至高の41人の1人、弐式炎雷の部屋だ――を過ぎた辺りでアインズはぼそりと告げた。

「……私は会う必要があると考えている」

 アインズたちが急いでいる理由は非常に簡単なものである。

 つい数分前、アインズの元に《メッセージ/伝言》が届いた。それの差出人は地表部にあるログハウスにいるユリ・アルファからである。
 内容は王国の使者が到着し、アインズに会いたいという旨を伝えてきたということ。
 かなりの時間待っていた王国サイドからの接触に、アインズはそれまでの行動を中止して慌てて動き出した。ここで下手を打って全てがご破算になってしまっては目も当てられないから。
 ただ、あまりにも準備が足りてないのは事実だった。
 流石にこの素顔のまま出るわけにも行かないし、服装だって整っていない。アイテム・ボックスにも礼服のようなものは入れていない。
 それらの理由のためにセバスをつれて自室に急いで戻っているというわけだ。
 本来は指輪――リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンの力を使って転移を行えば良いのかもしれないが、残念ながらアインズの自室にはタグが無いために部屋への直接転移を行うことは出来ない。そのため、小走りで移動をしているわけだ。

 そんな話を聞いたセバスは、アインズが直接使者に会うという意志を示したことに、そこまでする必要があるのかという思いを消せなかった。

 勿論、セバスだって使者を舐めているわけではない。
 使者が王家の紋章を下げた馬車に乗って来た以上、使者を出迎えるのであればリ・エスティーゼ王国ヴァイセルフ王家の者と同等の扱いをすべきだというのは充分理解している。
 ただ、セバスを不快に感じさせているのは、使者が突然来たことだ。

 早馬が知らせたとかの礼儀を示した上で、使者が来たというのならばこちらも礼儀を尽くす必要があるだろう。しかしながら何も知らせずに、直接乗り込んでくるというのはこちらを下に見ている行為ではないか。
 そしてもう1つ明白な理由があるからこそ、使者は突然来たのだろうとセバスは判断している。それはナザリックには使者を歓迎するだけの力が無い、そう判断されたためだと考えられるからだ。

 それだけ下に見られている中、更に主人であるアインズが直接出向く道理は無い。


「なにゆえでしょうか?」

 再び問いかけてきたセバスに、アインズはやはり視線を向けずに呟くように言った。

「……その質問に答える前に……王都でデミウルゴスをお前のバックアップに出した時の話なのだが……忍がいたそうだ」
「聞いております」
「だったな」

 セバスの返答を聞き、アインズは数度頭を軽く振った。
 王国での一連の問題を終わらせた後、あれから何があったのかという話をナザリックでデミウルゴスから聞いたとき、その横にセバスがいたことを思い出したためだ。

「その忍が現れる前、デミウルゴスは仮面を付けた魔法使いらしきものと戦闘をおこなった。その者の名前は――イビルアイ」

 セバスは何も言わずに頭を一度だけ振った。

「セバス、お前の報告を受けて聞いている。イビルアイという魔法使いは恐らくはお前の直轄メイドに勝つかもしれない人物だったな?」
「はい」

 セバスはアインズに、イビルアイのことをそう報告している。
 イビルアイという人物の外見や、その人物に関するある程度の情報――所属する冒険者集団の名前などと共に。そしてイビルアイが戦闘メイド――50レベル以上からなるメイドたちに勝利を収めかねない存在だと。
 しかしながら今ではその判断が揺らいでいた。
 そんなセバスの自信を失ったような雰囲気にアインズは気付くことなく、話を続ける。

「その報告は受けており、デミウルゴスに伝え忘れたのは私の失策だ。許せ」
「滅相もございません。本来であればあの時デミウルゴスと話す機会があったにも係わらず、伝え忘れた私めが……」
「まぁ、その辺の話はもうよしておこう。デミウルゴスを困らせてしまったしな」

 ナザリックに戻ってきて、デミウルゴスが最初にしたことはイビルアイという情報を流さなかったことへの、セバスに対する嫌味だった。それが蓋を開けてみたら、自らの主人であるアインズが頭を下げたのだ。
 嫌味を主人に言っていたと知ったあの瞬間のデミウルゴスの驚愕した顔。そしてそれに続くしどろもどろの対応。その姿はその場にいた誰もがしばらくは忘れられないだろう。

「話を戻すが――」アインズは肩越しにセバスを見る。「――疑問に答えてくれるか? ……セバス、お前の感知能力は別に相手のレベルが分かるわけではないのだろ?」
「はっ。漠然とどの程度かというのが理解できるだけです」
「なるほど……そうなるとやはり謎だな」
「何がでしょうか?」
「簡単だ、セバス。お前のその感知能力はどこまで当たっているのかだ」

 セバスは表情に混乱の色を僅かに浮かべた。自らの主人が何を言いたいのか掴み取れなかったからだ。

「数値としてレベルが判明するなら兎も角、漠然とした感知というのならば、確証があるわけではない。セバスの判断が間違えている可能性は充分にあるわけだろ?」
「確かに……絶対とは言い切れません」

 セバスには1つの不安があった。あの時、デミウルゴスの戦いを詳しく聞いていたときに思った疑問だ。

「ただセバスの感知能力が当たっている可能性も充分ある。それがイビルアイという存在だ」
「……しかしながらイビルアイは《ドラゴン・ライトニング/龍電》を自信を持って放ったという話。もしかすると私の感知が外れているのかもしれません」

 セバスは僅かに視線を伏せ、答える。
 これがセバスの不安である。
 例えば直轄のメイドの1人であるナーベラルはスペルキャスターであるが、彼女は第8位階魔法までを行使できる。それから考えれば第5位階程度の魔法に自信を持つイビルアイはどの程度か。
 単純な計算では戦闘メイドには遠く及ばないだろう。しかしセバスはイビルアイは戦闘メイドに匹敵すると判断している。これは大きく食い違っているではないか。

「いや、それは早計だな、セバス。……デミウルゴスの支配の呪言を防いだ段階で、イビルアイが精神系無効のアイテムを所持しているか、それともなんらかの防御魔法を使用したか、はたまたは40レベル以上の存在だということが確定する。そうなるとセバスの判断は間違ってない可能性が出てくるわけだ」

 精神系攻撃全般を無効にするアイテムはかなり高レベルだ。確かに支配のみとか、魅了のみとかの精神系攻撃それぞれに応じたアイテムは大したレベルではない。しかし、デミウルゴスという存在を知らずに、ピンポイントで支配系精神攻撃対策をしていたとは考えにくい。
 では40レベル以上だとしたなら第5位階魔法に自信を持つ理由はなんだというのか。

「と、仰いますと?」
「確かに使用した魔法はたかだか第5位階程度の――雑魚い攻撃魔法だが、デミウルゴスと近接戦をおこなった際に拳を使ったというのが引っかかるのだ」
「それは?」
「ああ。イビルアイは攻撃に武器――ダガーとかを使うのではなく、己の拳を使った。それは拳に自信を持っていたからに違いないだろう」

 セバスは大きく頷く。
 まさにその通りだ。幾らなんでも刃物を使わないで拳を使ったのだ、それなりの自信がなければ出来ない行為だ。

「そうかと考えられます」
「ここから想定するに私はイビルアイは、スペルキャスター兼モンク職を修めていると判断している」
「おお!」

 セバスは驚きの声を上げる。
 確かにその考えは正しい気がする。そこまで自らの主人はちょっとした情報からそこまで深く考えて、予測していたのかという感情を込めて。
 その声にアインズは気分を良くしたのか、舌はより一層回転を早めた。

「……それで最低40レベルを超えているのだろう。そしてセバスの判断が正しいなら幾らなんでも40レベル程度の存在に直轄のメイドが負けるはずは無いだろうから、最低でも同程度の50レベルぐらいはあってもおかしくは無いというわけだ」
「なるほど!」
「私はな、イビルアイは60レベルはあるのではないかと判断している」

 突然の飛躍だが、先ほどと同じようになんらかの根拠があるのかと、セバスは判断しその先を待つ。

「その理由というのをお聞きしても?」
「構わないとも」アインズはふふん、と自信を持った口調で続ける。「デミウルゴスが遭遇した忍だ。忍は60レベル以上のシーフ系クラスから取るのが普通だ。それがいるということ。そして支配の呪言を無効化したイビルアイという存在。そこから考えるなら、蒼の薔薇というA+冒険者は60レベル程度の実力者の集まりと考えるべきだろう」

 ナーベラルの情報では、冒険者は同程度のメンバーでチームを組むのが基本だ。そしてユグドラシルというゲームだってそうだ。
 ならばその忍1人のレベルが突出して高いという可能性はよりは、蒼の薔薇全員が同程度の強さを保有していると考えるべきであろう。
 ただ、そんなアインズの断言はセバスからすれば、頭を傾げてしまうものでもあった。

「……お言葉ですが、アインズ様」アインズが何も言わないということに、発言の続きを待っていると知り、セバスは言葉を紡ぐ。「遠目から蒼の薔薇の一行を監視しましたが、それほどの実力者はいなかったように感じました。……無論、私の感知が当たっていればですが」

 セバスが感じ取ったのはイビルアイのみが突出して強いというもの。他の蒼の薔薇のメンバーはそれほどの力を感じ取れなかった。
 僅かにアインズの歩く速度が遅くなる。

「そこだ」アインズは考え込むように言う。「そこでセバスの直感がどこまで正しいか不明な点が出てくるのだ。イビルアイは間違ってなく、他のメンバーだけ間違えたということはあるのか?」
「……分かりかねます」
「だろうな。ただ、忍ならセバスの探知能力を誤魔化す手段も有しているのではないか?」
「それは……無いとは言い切れません」

 ユグドラシルというゲームには無かったが、この世界であればそういった技術はあってもおかしくは無い。隠密系のスキルの一環として。
 アインズは内心ため息をつく。シャルティアのシモベであるブレインに軽く話を聞いたが、忍に関して詳しい情報を持ってはいなかった。アルシェに尋ねるという線も考えたが、あれはちょっと勘弁したいとアインズが避けてしまったという経緯がある。

「情報は充分集めたと判断したのだが……穴あきだらけだったとはな」

 ユグドラシルというゲームで培った知識。それとこの世界での知識。それがいまだ完全に1つにならず、乖離しているというのが問題だ。

「そう考えるともしかするとこの世界の人間はこう、某漫画のように気を使って戦闘力――レベルを上昇させたりできるんじゃないか? いや、ナーベラルはそんなことは言ってなかったからA+冒険者とかはというレベルだが」無茶苦茶だと言い切れないところが怖い。「まぁ、いいか。とりあえず、そんなわけで私は蒼の薔薇の一行は60レベルクラスの集まりだと考えた」
「……他のメンバーもですか?」
「そうだ。常時本気を出してないだけという線だってあるだろ?」
「……かもしれません」

 セバスは納得はしていないが、とりあえずは頷く。

「まぁ、そんなわけで。一番最初のセバスの質問である、私が直接使者に会う必要性なのだが、もしかするとだが60レベルの冒険者を保有する王国だ。あまり高圧的に出ても面倒なことになるだけだろ?」
「それは……そうかもしれませんが……」

 アインズの想像が正しく、蒼の薔薇が60レベルの冒険者5人による構成だとしても、正直、ナザリックの敵ではない。守護者1人にすら勝てないだろう。
 しかもA+冒険者は王国に2パーティーだけだ。それから計算すればアインズの考えは、用心しすぎるともいえる。
 セバスはそう考えるが、アインズはより一歩踏み込んで考える。
 忍は60レベルからのクラスだ。それはあくまでも最低レベルであり、実際のレベルはもっと高いことだって考えられるし、王国内部にそれを超える切り札があってもおかしくは無い。
 デミウルゴスには勝てないと判断したのだから100レベルという可能性は無いと信じたいが。
 それでも何が起こるか不明な以上、出来る限り友好的に行動すべきだ。

「まぁ、カーミラという存在がいるという情報。そしてそれに対して私が切り札になりうるという情報だって流しているのだ。無碍な扱いは受けないだろう」

 都市長の近くに送り込んだシャドウデーモンの情報では、都市長はかなり慌てて使者を王都に送ったとアインズは聞いている。それから結構な時間が経過していることを考えれば、アインズという魔法使いの情報は王都に伝わっているはず。
 カーミラという架空のヴァンパイアが強敵だというのは都市長も理解していた。ならばアインズの立場はかなり高いものになっていなくてはおかしい。
 アインズはそう判断しているのだ。

 ただ、セバスは疑問が残る。
 それなら何故、来ることを先に知らせなかったのか、という先ほどの疑問だ。王国にはそういった礼儀的な行動は無いためだろうか。それに60レベル以上というカードを持つなら、カーミラという存在はさほど恐ろしい相手ではないじゃないか、と。
 セバスがそんなことを考えている間にも、アインズの自室の扉は見えてくる。

 扉の左右に立つ2体の昆虫のようなモンスターが、深い敬礼をアインズとセバスに送ってくる。ここまで来てようやく余裕が出来たのか、アインズは軽く手を上げることでそれに答えた。
 アインズは当然だがノックをすることなく扉を開けると、室内に飛び込むような勢いで入っていく。
 続くセバスは深い礼を取ってから、ゆっくりと室内に入り込んだ。

 アインズが一目散に向かったのは衣装ダンスである。
 無造作に扉を開ける。
 そこには無数の服が並んでいた。それらの服をもしこの世界の人間が目にすることがあれば驚嘆しただろう。それほど仕立てが良く、見事な材質で出来たものばかりだからだ。絹などの一般的な材質ではなく、もっと別の物――モンスターに属する獣の毛とか金属糸製品が多かった。
 そして冒険者であればより驚いたであろう。そこに修められた服が、全て魔法の力を放っていることに。魔法の品物ともなれば込められた魔力にもよるが、金額は跳ね上がる。最低レベルの魔力でも50倍は変わる。それを考えれば、それらの服装の値段を瞬時に出せる者はいない。

 アインズは手を伸ばし、両手にそれぞれ違う服を取り出す。適当に取り出したものではあるが、両方ともアインズが日常的に纏っている長いローブである。唯一の違いは込められた魔力が僅かなものだということか。
 それらを交互に見比べると、アインズは頭を振った。

「全く、何が良いのか分からん」

 冠婚葬祭用のスーツというならアインズだって直ぐに準備できるが、王国から来た使者――貴族社会の知識詳しい人間を出迎えるのに相応しい格好とか言われると、そんなの考え付くはずが無い。
 恐らくは恥ずかしく無い格好をすれば良いというのはアインズだって即座に判断が付く。
 では、その恥ずかしくない格好というのはどういう物を指すのか。それは単なる一般人であるアインズに考え付く範疇を遥かに凌駕している事態だ。
 これはアインズが無知なのではない。一般的な人間であれば必要としない知識なのだから。どの世界にファンタジーの世界に転移するかもしれないから、貴族社会に相応しい格好について学んでおく、なんていう奇天烈な思考を巡らせる者がいるというのか。
 アインズの視線は隅のほうにかけられていた紋付と袴に動く。

「地方の伝統衣装とか歴史上での正装。いや魔法使いとしての正装とかと言い張ればいいのかも……」

 それから首を振った。常識的に考えて無理過ぎるだろから。
 それよりはセバスをつれてきた理由に任せるべきだ。

「セバス、どれがいい?」

 アインズは服を前にセバスに問いかける。
 アインズが通常纏っている服装は、ユグドラシルというゲームでの防御能力等を第一に考えた、実用重視のものである。当然、見事なつくりの一品ではあるが、使者と顔を合わせるという状況下において正解なものかは不明だ。そして先にも述べたようにアインズには何が良いのかわからない。
 だからこそセバスである。
 執事という設定にすべてを賭けて、セバスならば的確な格好を提案できるのだろうとアインズは判断したわけだ。

 そしてその賭けは当たる。
 セバスは服を眺めると――

「それよりはあちらの物が良いかと」

 ――セバスは白色を主としたマントを取り出す。普段アインズが着る黒系のローブを考えると、あまりにも目立つ。
 
「それは……派手じゃないか?」
 
 アインズはいまナザリックに来ている使者を、新しい取引を持ってもらえるかもしれない会社の社員として考えている。一般人であるアインズにとっては、それが最大限近いイメージなのだ。
 そのために服装と考えて、アインズの脳内に浮かんだ光景は落ち着いたスーツだ。落ち着いたスーツの色というのは言うまでもない。さらに現実世界で黒系や紺系のスーツを着たことはあっても、白色のスーツを着たことは無いアインズはマジで、と言わんばかりに動揺した。
 己のイメージからあまりも掛け離れているために。

「そのようなことは無いかと思われます。相手は使者だということを考えると黒系よりは豪華さを前に出したもののほうが良いかと」
「そういうものなのか……?」

 アインズは自信なさげに頷く。自分のイメージとのあまりの乖離に、何が正しいのかまったく想像がつかなくなったためだ。

「……ならばセバス。服装一式、お前のコーディネイトに任せる」
「畏まりました。ではこの系統を主軸に合うように選ばせていただきたいと思います」
「う……む、頼む」

 執事として、主人の服のコーディネイトを任された。
 そんなセバスの喜びは瞳に、無数の星々となって現れた。
 目をきらきらとさせたセバスから逃げるように視線を動かし、アインズは目を目的無く動かす。なんとなくとてつもなく恥ずかしい格好になるのではと思ったためだ。しかしそれが正しい格好だといわれれば抵抗の余地はない。

「はぁ」

 セバスには悟られないように小さなため息。
 しかしこんな場所でいつまでも時間をかけるわけにはいかない。どのような服だろうが、セバスがそれだというなら着る覚悟が必要だ。そんな風に思っていたアインズは、現実逃避という意味でか、ふとあることを思い出す。

「ああ、そうだ。目は潰しておけ」

 即座に何のことか理解したセバスは、服を選ぶ手を止め、アインズに深く頷く。

「畏まりました。誰に伝えましょうか?」

 アインズの視線が上に動いた。セバスの視線も同じく上に動くが、そこには何も変わらない天井が広がるだけだ。セバスの目では不可視状態の存在を発見することは出来ないから。
 しかし、感じることは出来る。天井に張り付くように存在する複数の気配を。

「エイトエッジアサシン。無傷で捉えることは出来るか?」

 アインズの言葉が届くと、天井に人間大の大きさを持つ、忍者服を着た黒い蜘蛛にも似たモンスターの姿が浮かび上がる。他のエイトエッジアサシンが姿を見せないところを考えると、恐らくはこのモノがリーダー格なのだろう。

「相手にもよります、アインズ様。我らは暗殺の技は長けていますが、無傷となると相手の実力にも左右されるかと」

 アインズは骨だけの顔を顰める。
 エイトエッジアサシンは不可視化を自在に行い、8本の脚に付いた鋭い刃を用いて戦闘方法を行うモンスターだ。特に恐ろしいのは首を狩って一撃死を与えてくること。暗殺者としてはなかなか使えるが、無傷となると微妙になってくる。
 では相手の実力はどの程度か。
 エイトエッジアサシンは49レベルのモンスター。普段であれば問題はないと判断するだろうが、蒼の薔薇という存在への不安がアインズを悩ませる。もしかしたら奴らもかなり強いのではという不安だ。
 では別のモンスターと考えてみても、ナザリックにはシーフ系のモンスターは少ない。エイトエッジアサシン以上に向いている者はぱっとは浮かばなかった。

「うむぅ」

 エイトエッジアサシンが死んだとしても金貨を使うことで、本から呼び出せば良いのだろうが、そんな勿体無いことはしたくない。ナザリックの金貨はあれだけあるが有限だ。これから先のことまで考えると無駄使いはしたくない。

「バックアップ……だな。アウラに伝達。目を潰せ、と。そしてエイトエッジアサシンはアウラの命令を聞いて行動せよ」
「畏まりました。ではこの部屋の警護は?」
「必要ないだろう。私も部屋の外に出るしな。……で、デミウルゴスはまだ戻ってこないのか?」
「まだ戻ってきているという話は聞いておりません」
「だな……」

 王国の使者が来た段階で《メッセージ/伝言》をデミウルゴスに送ったのだが、まだ戻ってくるまでには時間がかかるということだった。
 アインズは顔をゆがめる。
 実際、使者を出迎えるというのは、アインズとしても行いたくない行為なのだ。まず、どんなことになるか想像もつかないし、どんなことを言われるかも不明だ。さらには使者に対する礼儀というものも自信なんかあるわけがない。
 だからこそ本来であればデミウルゴスがいれば任せたかった。そうでなくても幻術などを使用して姿を隠して、アインズの後ろに控えさせて、操り人形のように逐次アインズの次の対応を指してくれればよかった。

 アインズは軽くため息をつく。
 入社試験の最終面接ばりのプレッシャーが押し寄せてきている。精神的なものはほとんど感じないにもかかわらず。なんでこんなに逃げたい気分になるのか。
 
 デミウルゴスがいないということで最初はセバスに任せるかという考えもあった。王都の時と同じくパンドラズ・アクターに任せるということも考えた。
 しかしながら今回の使者は場合によっては、ナザリックの将来を決める重要な案件を有している可能性がある。ゆえにセバスには任せられなかったのだ。
 必要なのは執事や俳優ではなく、先を見通して方針を決める英知に富んだ存在だ。

 ――絶対、俺の出番じゃないよな。

 そんな言葉はアインズは口の中で殺して外には漏らさない。
 ナザリックの支配者たるアインズに弱音は認められないし、主人が不安を口にしては下の者が動揺してしまうから。
 しかしそれでも言いたくなるときはある。
 今回の使者との交渉が、ナザリック大地下墳墓という仲間たちと生み出した拠点を左右しかねないのだから。

 ――嫌だ。この重圧感。逃げたいぞ。

 しかし誰に頼むわけにもいかない。
 そしてあのスタッフを手に取ったのだ。ギルド長の証を。ならば最善を尽くし、努力するだけだ。

 アインズは瞼もないのに、目を閉じる。外からみれば空虚な眼窟に浮かんだ赤い光が消えて見えた。
 そして再びゆっくりと灯る。

「……準備は終わったか?」

 静かな――覚悟を決めた静かな声がセバスに投げかけられた。





 ナザリック大地下墳墓の地表部。
 かつては毒の沼地があった場所は、現在は草原へと変わっていた。静かな風が草原の草を揺するという牧歌的な景色が広がる中、突然どんと白亜の壁が聳え立つ。
 門から内部を覗けば広がるのは、巨大な戦士像などが置かれた墓地。
 草原という場所を考えればあまりにも似つかわしくない異様な光景だ。何の理由も無ければ敬遠したくなるような、何かが致命的に食い違ったような気持ち悪さが存在する。

 そんな人が忌避したくなる場所に、現在は3台の馬車が止まっていた。そこには御者がおり、中に乗ってきた人間の身の回りの世話をする者がいる。
 ただ、それだけではない。
 馬車の周囲には馬に乗った武装した戦士が合計6名いた。彼らは皆同じ紋章を胸に刻んだフルプレートメイルを着用していた。どこかの貴族の私兵という評価が最も相応しいだろう。
 そんな戦士達が熱い視線を送る先にいたのは、1人のメイドであり、1人の戦士であり、1人の貴族風の男だった。

「遅い」

 口を開き、苛立ちを隠してもいない鋭い声がメイドに放たれる。
 言ったのは貴族風の高齢な男だ。
 皮膚は皺だらけであり、骨と皮しかないと思えるほど痩せている。髪は殆ど残ってない上に白く細いため、遠目からすると――いや近くからでも禿のように見えた。
 全体的に評価して、スケルトンとかリッチといったモンスターに似ているという感想が暴言とは言い切れない男だった。

「遅すぎる。一体いつまで我々を待たせるつもりかね?」

 何処に王家から遣わされた使者をこんな場所で待たせる者がいるか。
 言葉にそういう無言の声を込め、老人は不快げに睨む。

「大変申し訳ありません。今、アインズ様は急ぎで準備をされております。ですのでもうしばらくお待ちいただければと思います」

 ペコリと頭を下げたのはメイド――ユリ・アルファである。その非常に整った顔に深い謝罪の感情を込めての行動だ。男であれば即座に許してしまいたくなるのだが、この問答は既に数度――いや十数度繰り返されているもの。効果はかなり薄くなっている。実際老人の不機嫌さは即座に戻ってくる。

「急ぎの準備というが、ここに来ること以上に何が重要だというのかね?」

 嫌味を込めての発言。ユリは深く頭を下げる。その下でどのような表情をしているかは不明だが。
 そんなユリに追撃の言葉を放とうと、口を開きかけた老人に、横で眺めていた戦士が声をかける。

 戦士といっても、顔を守るヘルムを外したその顔立ちには気品のようなものが漂っていた。生まれたときからそういった生活をしてないものには無理な、貴族の雰囲気ともいえるもの。
 確実に王国内に領地を持つ、どこかの貴族である。それが兵士を連れて警護してきたと考えるのがもっとも妥当な線だった。
 実際、彼はアルチェルと同じ貴族派閥のある一門に所属する人物だ。

「アルチェル殿。そう目くじらを立てる必要も無いじゃないですか。このような田舎臭いところに住んでいる住人。礼儀という言葉を知らないのも当然です」

 アルチェルといわれた老人は微妙な表情を浮かべた。

「そうはおっしゃいましてもな」

 立場的には上だが、権力的な意味合いでは戦士の方が上なのだろう。アルチェルの態度は決して孫ほどの人物に向けるものではない。

「確かに王家からの使者をこのような場所で待たせるというのは、あまりにも無礼でありますが、それは礼儀を知るものからすれば。蛮族や亜人などにアルチェル殿は同じことをおっしゃるのですかな?」
「……そうですな」
「アルチェル殿。もしなんでしたら馬車の方でお待ちになったらどうですかな?」
「……悪くはない提案ですな」アルチェルは抜けるような青空を眺める。「ただ、この天気ですと、中も熱せられますので」
「あー、そのとおりですな。風が流れない分、暑く感じますな。これは申し訳ない」

 戦士は微妙な謝罪の表情を浮かべ、軽く頭を下げる。

「……でしたら、先ほども提案させていただいたように、応接室がございますので、そちらで待ったいただければと思うのですが」

 先ほどのユリの提案。
 それを同じようにアルチェルは一言で切り捨てる。

「あそこに広がる墳墓の中で待てというのか?」

 こいつは何を言っているんだという表情を隠さずにアルチェルは言う。何が悲しくて墓場で休まなくてはならないのか。確かに快適さは格段に上だろう。しかし、死の匂いが漂うような場所で待っていたいとは全然思えない。

「……いえ、そうではなくてですね」

 ユリは言葉を濁しながら視線を動かす。その視線の向かった先がログハウスと知り、アルチェルの顔にははっきりとした侮蔑が浮かぶ。

「あんなちゃちなログハウスで待つのかね?」
「いえ……あそこからナザリック内部に入る道がありまして」
「……墳墓に入る道かね?」
「そうですが、ナザリック大地下墳墓の下の階はアインズ様のお屋敷となっております。その階まで移動されて――」
「アインズ……アインズ・ウール・ゴウンという魔法使いは墳墓にすんでいるのかね?」
「はっ? はい。左様ですが?」

 それがどうしました。そんな表情のユリに、アルチェルはおぞましいものを見えるような目で睨む。
 常識的に考えて墓場に住むような人間なんか、どの程度の人間か言うまでもない。はっきり言ってしまえば穢れた仕事をするような人にして人に有らざるよう存在だ。おそらくはアルチェルのような貴族の人間が生涯関係を持たないような地位の者。そんな人間に会うために自分が派遣された。そのことが何より非常に不快なのだ。
 不快な表情で黙ってしまったアルチェルに対して、ユリは何か失態を犯したかと疑問を感じる。そして両者ともに別の感情に支配されて黙った。

 静かになったそんな2人を興味深げに眺めていた戦士はユリに話しかける。

「ところでそちらのお嬢さんは、ゴウン……とかいう魔法使いの何なのかね?」
「私ですか? 私はアインズ様に仕えるメイドの1人です」
「メイドの1人? とするとゴウンというのは何人もメイドを抱えているのかね?」
「はい。左様です――」ユリは紹介されたときの名前を思い出す。「――クロード様」
「ふーん。ちなみに君がもっとも美人かね?」
「……わかりません。美しいという評価は、それをつける人によって変わりますので」

 奇妙な感情の入った相槌をしつつ、クロードの視線が再びユリの全身を嘗め回すように動く。
 ユリはわずかに視線を伏せる。クロードの視線に含まれている感情はいうまでもなく理解できる。肉欲である。
 十分満足したのか、クロードの視線はユリの胸の辺りで固定される。

「ちょっと聞いても良いかな?」
「はい、なんでしょうか?」
「自分が美人だということは否定しないんだ」

 きょとんとユリが不思議そうな顔をした。

「……美人なのは間違ってませんですから」

 何を当たり前のことを、とユリは断言するような口調で言う。
 至高の41人によって美貌を持たされて生み出されたのだ。そんな自分が美しくないわけがない。それを否定することは至高の41人の美的センスを否定することに繋がる。
 ただ、至高の41人に生み出された他の存在も、ユリと同じように美貌を持たされて生み出されているわけだ。そのため、自分の方が美しいと断言するのは、やはりその存在を作り出した至高の41人を侮辱する行為に繋がる。そのためあのような返答になったということだ。ただ例外的に至高の41人に直接言われた場合は、否定する可能性も有る。謙遜というものを示すという意味で。

 そんなユリの心中を理解できないクロードが、今度はきょとんとした。いや確かにユリは美しい。クロードが抱いてきた女ではこれほどの美貌の女はいない。今まで自分が満足してきたレベルが何なんだ、と思ってしまうほどだ。
 クロードが知る限りという範囲まで広めても、ユリの美貌に匹敵できるのはたった1人しかいない。
 それは『黄金』といわれる女性だ。
 ユリはクロードからすれば、それほどの美貌の持ち主と評価される。
 そんな女が、他の者に関して自分の方が美しいと断言できない。それは遠慮によるものか、それとも本当に同じぐらいの美貌の持ち主がいるのか。
 ごくりとクロードは喉を鳴らす。
 こんな田舎に来るような仕事を受けて最悪だと思っていた。しかしうまく立ち回れば、かなり旨い目を見れそうだと。

 再びじれたのか。アルチェルが苛立たしげに口を開いた。

「それで主人はいつ来るのかね?」
「もう、まもなくかと」

 とは言ったものの、ユリはアインズがいつ来るか知らされていない。しかし、それを正直に言うことはデメリットしかないというのは馬鹿だってわかる。だからこそ、遅れて申し訳ありませんという謝罪の雰囲気を持って言う。
 ただ、本音はちょっと黙ってろではある。
 至高の41人のまとめ役である、そして最後に残った1柱。それほどの存在をそこまで急かすとは、温厚なユリと言えども内心、苛立ちを覚えてしまう。決して内心は表には出さないが。

「その台詞は先ほども聞いたよ。こんな場所で待たせた上に、いつ来るのか確実な時間も言うことができない。我々を――王家よりの使者を馬鹿にしているのかね?」

 アルチェルの言葉には嫌味というレベルを通り越し、明確な敵意があった。実際、ここまで待たされた経験はない。いや、待たされた経験はあるが、それでも最高級の扱いを受けた上で待たされていたのだ。
 草原の真っ只中、日差しを避けることも、飲み物も出ることなく待たされる。こんな経験は初めてであり、不快だった。額にわずかに滲む汗も、着ている服が張り付くような感覚も。

「……いえ、そのようなことは」

 ユリが言い訳をしようと口を開きだしたとき、ログハウスの扉が開く。その一瞬だけ視界が揺らめくような、眩暈のようなものがアルチェルを襲う。しかし短い時間で終わるために、アルチェルは気のせいだと判断してそれ以上気にも留めない。
 それよりはいま注意すべきは別にあるのだから。

「――お待たせして申し訳ない」ログハウスから出てくる者が言葉を発する。「私がアインズ・ウール・ゴウンという」

 アルチェルもクロードもそちらを目にすると、絶句する。嫌味の1つでも言ってやろうかというアルチェルの思いは簡単に砕かれたのだ。

 ログハウスからアインズ・ウール・ゴウンはアルチェルたちの方に普通の速度で歩いてくる。
 最初に目を引いたのは羽織るように着用している純白のマントだ。それはアルチェルもクロードも目を見開くほどの一品。その下の服も金色を主に、細かな細工が入っている。
 儀典官として幾度も仕事をこなしたアルチェルは、他国にも王国を代表して出向いたことがある。その儀典官のどんな仕事を思い出しても、いま目の前にいる人物が着ている服ほど立派なものを目にしたことはない。
 異様なのは顔は仮面で隠しているために素顔をうかがうことはできない。それどころか手袋のようなものまで着用しているために肌を一切外に晒してなかったことか。

 しかしそんなことはアルチェルからすればまだどうでも良いことの一環だ。
 それよりも優先すべきことがある。
 正直に認めるしかないだろう。どのようなときでも動揺にしないと自らを評価していたアルチェルは、アインズを前に度肝を抜かれていた、と。

 アルチェルなど貴族にもなれば、服というのは素肌を隠すという意味以上のものを持つ。それはその人間がどの程度の地位を持っているかを簡単に説明するためのものだ。服を見ればその人間がどの程度の地位を権力、財力などを持っていると判断がつくのだ。
 王であれば王にふさわしい格好が、平民であれば平民にふさわしい格好があるというわけだ。
 ではアルチェルをして驚愕するような見事な服を着るアインズ・ウール・ゴウン。
 彼はどれほどの力を持つのか。

 アルチェルはアインズという人物が魔法使いだとは聞いてはいたが、どの程度の権力者として判断してよいのか迷っていた。
 王国での魔法使いという存在は、社会階級的には高くは無い。これが帝国であれば生きる伝説といっても良いフールーダがいるため、かなり高くなるだろう。しかしそういった存在がいない――宮廷魔法使いのような一部の例外はいるが、そういった人物は同時に貴族としての地位も持っている――王国では魔法使いはある種の手に職のある存在と同等の階級におかれることとなる。
 だからこそ、魔法使いのメイドであるユリに対して高圧的な立場で出ることができたのだ。社会階級的に低くなるために。
 しかしながらアインズの纏う服は、自らが低い階級の存在では無いですよということを明白に語っている。単なる魔法使いではなく、それに何かが付随した魔法使いだった場合は、対応の仕方が変わってくる。

 アルチェルは動揺から即座に立ち直る。いまだクロードが動揺しているところからすれば、かなり早い回復だ。
 これは経験の差から来るものだろう。

「ふむ、君がアインズ・ウール・ゴウンか」
「そう……です」

 アインズの静かな返答。そして互いに黙る。
 アインズは内心の不安を必死に押し殺しながら、黙ったアルチェルを眺める。
 何かの面接をしたことがある人間なら、この微妙な沈黙を感じたことがあるだろう。

 アルチェルもまたアインズを伺う。自らの行動をどのように取るべきか決定するために。
 アルチェルの仕事はアインズ・ウール・ゴウンに王の言葉を聞かせるのが第一ではある。同時に、同じ派閥に属する貴族からはどういった人物か。そして手元に取り込むことが出来るのかを調べるという依頼を受けていた。
 だからこそアインズ・ウール・ゴウンという人物の内面を多少は知る必要がある。
 そのための初手は威圧。水面に石を投げ込んで、その波紋を調べようという狙いだ。

「……そこにいたのに出てこなかったのかね?」

 アインズはアルチェルが何を言っているか理解できなかった。
 これは単純に知識の違いだ。アインズからすれば、ログハウスはナザリックの通り道だ。別にそこにいたわけではない。だからこそ言われた意味が分からないとばかりに、不思議そうな雰囲気を漂わせるのだった。
 そんなボンヤリとしたアインズを前に、アルチェルは言葉が足りず、嫌味を言うことで罪悪感を感じさせようと狙いが外れたことを悟る。
 もう一度同じ手段を取っても効果は薄い。そう判断したアルチェルは投げ出すように言った。

「ログハウスにいたのに出てこなかったのかね?」
「ああ! いやいや、ログハウス内には私の住居たるナザリックの内部に通じる通路があるんです。いまそちらを通ってこっちに来たのですよ」
「さきほどメイドが言っていた通路か……。さて私は陛下より派遣された儀典官。アルチェル・ニズン・エイク・フォンドールという。そしてあちらが――」アルチェルは戦士を指し示す。「――私をここまで警護してくれたクロード・ラウナレス・ロキア・クルベルク殿だ」
「はじめまして。ゴウン殿」
「これはお見知りおきを」

 軽く頭を下げるアインズ。それを目に、アルチェルは内心頭を傾げる。
 アインズの対応にはなんというか忠誠心の欠片も無いのだ。アルチェル自身貴族派閥に所属していることもあって、王にはさほど忠誠心をささげていない。しかしそれでも王の命令だといわれれば、それなりの演技――敬意を表するだろう。
 そういったものがアインズから一切感じられない。平民だとしてももう少しは謙るだろう。他国の人間でもだ。
 それよりは今までそういった権力とは関係の無い生き方をしてきたような姿。
 同じことを思ったのか、クロードがアルチェルのすぐ横に寄ってくるとぼつりと呟いた。

「冒険者みたいですな」

 ああ、とアルチェルは納得する。
 力だけでのし上がろうとする、品位も高貴な血も無い、階級社会の鼻つまみ者。アルチェルのもっとも嫌いなタイプの存在に酷似している。そう考えればアインズという人物の格好も納得がいく。
 一部の優秀な冒険者の所持金は桁が違う。どれだけかというと、アルチェルぐらいの貴族ですら相手にならないほどだ。
 もしアインズ・ウール・ゴウンという人間がそれだけの冒険者だとすれば、これほど見事な服を持っている可能性も無いとは言い切れない。
 そんな風にアルチェルが考えている間に、アインズはユリと話を始める。

「ユリ。先に戻っていなさい」
「し、しかし……よろしいのでしょうか?」
「ああ。歓迎の準備をしておきなさい」
「かしこまりました」

 ユリは頭を下げると、ログハウスに歩いていく。その後姿を見送りながら、クロードが残念そうな声を僅かにあげた。その視線はユリの尻の辺りに固定されているが。

「では……陛下からの言葉を伝える前に確認をしたいのだが、その仮面は?」
「これは魔法的なものでして」
「外したまえ」

 アインズは動きを止める。仮面を外した場合、その下にあるのはアンデッドの素顔だ。これを見せるわけにはいかない。だからこそログハウス内部に控えさせているデス・ナイトの出番だろうかと考える。あのときのガゼフと同じ手段でどうにかできるだろうかと考えて。

「……申し訳ないのですが、これを外すわけにはいかないのです」
「仮面を付けたまま、陛下の言葉を聞くと? それを少しばかり無礼だとは思わないのかね? それともその程度の礼儀すら知らないのかね?」
「いや、滅相も無い。仮面を付けたまま聞くというのは失礼に値するとは知っております。ですが魔法的な理由あってのこと。この仮面を外した場合、多くの被害が出るかもしれないので」

 被害という言葉を聞き、アルチェルは眉を顰める。
 実際、王から聞いた話ではアインズという魔法使いは仮面をつけているということ。その下が別人という可能性も無いわけではないが、そこまでの確認はアルチェルの仕事ではない。
 仮面を外すように言ったのも、アインズという人物に対して優位に立ちたいという狙いだ。本当に外されて被害が出た場合、責任を上手く転換できる自信が無い。それにクロードに下手に怪我をされても厄介だ。
 だから、アルチェルは言葉を引っ込める。

「……仕方が無い」
「ありがとうございます」
「……では陛下の言葉を伝える」

 こんな草原、しかも墳墓の横でと思わなくも無いが、仕事は仕事だ。確実にこなさなくてはならない。
 アルチェルは羊皮紙入れから丸められた1枚の羊皮紙を取り出す。そして蝋に王家の紋章が押されていることを確認させようと、両手で持ってアインズの前に恭しく差し出す。
 それに対してアインズは手を伸ばした。羊皮紙を渡すつもりなのかと考えてだ。一応、相手が両手で持っているということを考えて、両手を差し出す。アインズの頭にあったのは名刺交換的なものだ。
 これは別に外れてはいない。もしアルチェルがいなければそれが正しい作法だ。しかしながら儀典官という人物が一緒に来ているときは、これは非常に無作法だ。

「な!」

 慌ててアルチェルは羊皮紙を引き戻す。何をする気だと驚いて。
 同格もしくは上位の存在であれば手にとって開くのは普通だが、同格でないのであれば、間に1人挟むのが当然だ。こうすることで地位的に対等にするという狙いで。だからこその儀典官だ。
 王国や帝国ではそんなことは無いが、国によっては王の言葉を臣下に直接投げかけないで、途中に王の言葉を聞かせる者がいたりするのもその一環だ。または王という地位に神聖な意味を持たせるという狙いもあったりするが。

「どうしましたか?」

 アインズの不思議そうな声。
 それを受けて、アルチェルは仏頂面を。クロードは若干面白そうな表情を浮かべていた。今の短いやり取りで、アインズ・ウール・ゴウンという人物がまったくといっても良いほどマナー――宮廷作法という知らないということを悟って。
 他国になれば作法は当然僅かに変わってくる。しかしそれでもある程度は共通している部分が在る。それらを知らないというのは周辺国家の知識も皆無ということ。

 つまりところ、アルチェルのアインズ・ウール・ゴウンという人物の評価は、礼儀を知らない蛮族などと同じというところまで落ちる。ナイフやフォークを使わずに、手づかみで料理のフルコースを食べるような。
 着ている服が自分が買えないような立派なものだというのもアルチェルを不機嫌にさせる。

 ――なんでこんな者がこれほどの服を……。
 
 アルチェルは気づかないが、自らの心の大元に在るのは嫉妬だ。礼儀作法を知らない蛮族とも思えるような相手が、自分の手が届かないような服を着ている。それが非常に不快なのだ。
 自分よりもはるかに劣る者が、自分の恋人よりも非常に優れた相手を連れていたら、激しく嫉妬するだろう。そういう心の働きに似たものだ。
 アルチェルの視線に見下すようなものが宿る。


 アインズはアルチェルが何も言わないことに困惑を隠しきれなかった。
 なんで、黙ったのか。
 ミスをしたようなのだが、何がミスなのかさっぱり分からない。

 ――やはりセバスを連れてくるべきだったか。

 王都で色々と動いたからこそ、状況がどのようになっているかわかるまでは隠しておこうと思ったのが裏目に出ている。今からセバスを呼んでも遅くないだろうか。
 名刺交換の段階でミスをした営業の気分で、アインズはアルチェルを眺めた。


「陛下からの言葉を伝える」

 アルチェルが先ほどよりも硬質な声でアインズに告げると、羊皮紙を広げる。
 アインズは少しばかりほっとした。話が進んだことに対しての安堵だ。そんなアインズに冷たい声がかかる。

「……何故、膝をつかないのかね?」

 一瞬だけアインズは何を言われたか分からなかった。

「聞こえなかったかね? 陛下のお言葉を伝えるのに、礼儀を示したまえ」

 アインズはそのまま立ったまま、どうするかと迷う。
 アインズの頭に浮かんだのは漫画とかアニメにありそうなシーンだ。そういったシーンでは王の前にいる者は片膝をついている。ならばやはり自分も膝をつくのが正しいのだろう。
 膝を屈するというのは敗北的な意味合いで使われるが、この場合アインズは礼儀作法の一環だと考えていた。アインズ・ウール・ゴウンは邪悪を演じていたが、礼儀を知らなかったわけではない。礼儀作法として跪くのが正しいのならば、そこはすべきだろうという判断が浮かぶ。それにカーミラという強大な存在に対しての切り札になりかねない相手に、上からの命令はしない筈だ。
 アインズはそう考える。
 では何を思案しているのか。
 単純に、付くのは漫画のように片膝を付くべきなのか、はたまたはリザードマンが平伏したときのように両膝なのか。礼儀作法ではどちらの方が正しいのか知らなかっためだ。
 
「……どうしたのかね?」

 アルチェルの苛立ちを感じる声。
 何をそんなに怒っているのか。ちょっとだけ面倒なものを感じながらアインズは結果、両膝を大地に付けた。イメージしたのは土下座だ。

 アルチェルはため息を必死に耐える。隣ではクロードが鼻で笑っていた。教養が無いのだろうと思ってはいたが、これほど無い人間は珍しいと知って。
 アルチェルは両膝をついたアインズを前に、いくらでも文句が生まれるが、もはやこれぐらいしないと話が進まないと考えた。知識無い愚者を相手に、自分の大切な時間を無駄にしてもしょうがないだろうから。
 アルチェルは羊皮紙を広げる。そこに書かれていた王、自筆の文章を読み上げる。名代で無い部分にアインズという人物に対する重要さが読み取れる。


 その読み上げられる話を聞いていたアインズは正直何を言われているのか分からなかった。非常に装飾過多であり、どんなナルシストが書いているのかと思ったほどだ。
 貴殿の善良なる心情と神が授けた幸運が、蹂躙を待っていたかのごとき貧しき村に救いの手を与えてくれたことを感謝するとともにうんぬんかんぬん。
 もっとすっぱりとはっきり書けないのか。そういう叫びが起こりそうな気持ちをぐっとこらえる。ほんの1分程度の文章ではあったが、英語のヒヤリングをしていたような疲労感がアインズを襲ってきていた。

 最後に書いた王の名前を読み上げ、アルチェルが羊皮紙を巻き取る。

 その間にアインズは書かれていたことをまとめる。
 村を救ってくれてありがとう。お礼とかしたいから王都に来てね。
 それだけだ。

 アインズは疲労感を感じながら立ち上がる。膝に付いた汚れを払ってから、顔を上げると眉を顰めたアルチェルの顔があった。

「どうかされましたか?」
「いや……なんでもないがね」

 絶対になんでもないわけが無い顔でアルチェルは言うと、羊皮紙をアインズに差し出した。

「…………」
「…………」

 アインズはようやく今度は受け取ってよいのかと、羊皮紙に手を伸ばした。アルチェルが引っ込めないことを確認し、両手で再び受け取る。

「それで……それだけですか?」

 困ったのはアルチェルだ。何をこいつは言っている。そんな表情でアインズを見る。
 王からの手紙以上に何を求めているんだ、と。しかしアインズという人物は礼儀の無い人間。ならばどのような質問を持っていてもおかしくは無い。だからこそ尋ねる。

「……それ以上に何か?」
「……カーミラという存在について何かご存知ですか?」

 幾らアインズでもこの微妙な空気は充分に感じている。
 確かにこの世界の一般的教養や、貴族社会の決まりごとという物に関しては欠けている部分が多くある。しかし、元々ちゃんとした社会人として会社で働いていたのだ、完全な馬鹿ではない。
 だからこそ何故、ここまで軽く見られているのかという疑問が滲み浮かぶ。
 自分の重要性がわかっていての対応なのか? それとも知らなくての対応なのか? 自分――アインズがどの程度の存在だと知っているのか? 王国は切り札を持っているのか?

 アインズはもう少し友好的に事が進むと思っていた。ナザリックひいてはアインズ達は王国内の人間を、どちらかといえば救っている方だから。それなのに何故、こんな敵意に近いものを向けられなくてはならない。
 僅かに黒い炎が心の中で揺らめく。
 全てが面倒だ。力で強引に物事を進めればどれだけ楽か。
 そんな欲求はナザリックをより安全に維持し、将来の究極の――荒唐無稽な目標のために、アインズは抑えこむ。それでもカーミラという存在を知ってなお、アインズに対してそういう行動に出ているのかという疑問は尽きない。

「陛下に直接尋ねなさい」

 知らないことは答えられない。しかし知らないと、自らが教養が無いと判断している者に答えるのは嫌だ。その心がアルチェルに微妙な答え方をさせる。
 もしこれがもっと友好的に相手をすべき相手であればこんな答えはしなかっただろう。
 王より伝え聞いたガゼフの話や、自らが前で会話した結果、アルチェルのアインズへのイメージはたった1つだ。強い力を持った蛮族。
 教養が無く、知識も無い。脳みそがない分、手駒としては使える。
 ある意味最悪の評価である。

「……では羊皮紙には王都まで来て欲しいと書かれていましたが、どのように王都まで行くのでしょう。魔法でですか?」

 バカかこいつ。
 アルチェルの瞳に宿った考えはたったその一言だ。常識すら知らないのかという感情が瞳に宿る。

「……馬車に乗ってだとも。あちらの馬車があるだろう?」
「あの紋章の付いた馬車で行くのですか?」

 豪華な――王家の紋章が入った馬車にアインズの視線が向けられている。
 アルチェルは本気でここに来たことを、そしてアインズという男の頭の悪さに嫌悪する。常識で考えればそんなわけが無いだろう。その程度も言葉にしなくてはならないのかと。

「……君の乗るのは後ろだ」
「あれですか……」

 貧しく、ぼろい馬車だ。2つの馬車が並ぶことでより一層、両者の差を強く感じる。
 どう贔屓目に考えても村を救った魔法使いとして――国賓級の扱いを受けて招かれるのではない。国賓級の出迎えならば紋章の入った馬車に乗るのは当然だろう。そうアインズは考えての先ほどの質問だった。しかし答えは違う。ならば馬車を用意したのは王家なんだろうから、結局はアインズをその程度としか見てないという判断まで行き着く。

「……私も馬車を持っているので、それに乗っていっても良いので?」
「陛下が好意で用意してくれた馬車には乗らないと?」
「……好意ですか」

 本気で好意なのか? そうアインズは思うが、ぐっと堪える。

「……ならば仕方ないですね」

 アンデッドのはずなのに頭が痛い。しかし王国という国の上位と関係を持てるようになったのだ。ここは我慢をして、これを機会に根を張れば良い。第一歩を踏み出したのに、この程度に我慢出来なくなってもしょうがない。
 行くとするならナザリックから連れて行く者も必要だろう。やはり身の回りの世話をする人間は必要だろうから。
 セバスは外した方が良いとして、メイドを何人かというところが妥当だ。

「……その前に出立の準備が必要です。少し時間をいただけないでしょうか?」
「これ以上、私にこんな汚い場所で待てというのかね?」
「…………」僅かにアインズの仮面の下の表情が凍りつく。「……もう一度お聞きしてもよろしいでしょうか? 少し時間をいただけないでしょうか?」
「これ以上――」

 墓地という穢れた場所で王家の使者を待たせるというのはどういう考えだ。そういう言葉を告げようとして、その前に横からクロードの声が掛かる。
 今まで静かに2人を見ていたのだが、ある目的に適いそうだと判断して口を挟んだのだ。

「――まぁまぁ。確かにゴウン殿の準備も必要でしょう。私の部下達も休ませたいですしね。ただ、その前に1つお願いが」
「何でしょう?」
「せめてもう少し落ち着ける場所が良いのですが?」
「なるほど」

 アインズは周囲を見渡す。
 かつて周囲に広がっていた毒の沼地に比べれば、はるかに過ごしやすい場所だとは思うが、確かに草原ではのんびり出来ないだろう

「ではナザリックの内部は非常に美しい場所があります。そちらで休まれると良いでしょう」

 やはり墓場か。
 そう眉を顰めたアルチェルにクロードはまぁまぁと声をかけた。

「今から出てもエ・ランテル到着までに時間が掛かります。それよりはもしよければ、ゴウン殿。今晩とめてもらえませんかな?」
「……まぁ構いませんよ。準備が忙しくてお相手できないとは思いますが」
「ふむ」
「まぁ良いではないですか。ゴウン殿の服装をご覧ください」

 クロードの言葉にアルチェルはアインズの服を眺める。確かにその服装は非常に素晴らしい。いや、服装のみが、だ。
 ならばそんな人間がどのような場所で暮らしているのか、少しばかりの興味もわいてくる。もしこれでみすぼらしければ、それはそれで笑い話の種になるのだから。

「はぁ、了解しました。ではゴウン殿、休憩の取れる場所まで案内してもらえるかな?」
「了解しました。では馬の方はログハウスの脇に繋いでおいてくれれば、あとで手のものをやりますので」

 アインズはアルチェルとクロード、クロードの部下やアルチェルの身の回りをする者達をつれてログハウスに向かう。結構な大所帯となったが、アインズは別に気にすることも無かった。その奇妙な余裕がアルチェルからすると、不快に感じられる。
 相手のどこかが嫌いになると、やることなすことがすべて嫌いになるというタイプの人間がいる。アルチェルはそういうタイプの人間だった。

 アインズはそんな不満げな視線を背に受けながら、ログハウスの中に入る。そしてそのまま足取りを止めることなく、1つの部屋を開けた。
 そこにあるのは巨大な姿見の鏡だ。外ぶちは金の輝きをもつ金属で出来ており、全面に渡って奇妙なルーンのようなものが細かく彫り込まれている。鏡はまるで水を凍結したように表面に曇りは全く無い。
 これこそ転移門の鏡<ミラー・オブ・ゲート>と言われるマジックアイテムである。鏡はこの部屋に来た3者を移すのではなく、その向こうに別の光景を映し出していた。

「こ! これは一体……」

 驚きの声を上げるアルチェルに、アインズは内心でチロチロと燻っていた憤懣が、僅かに鎮火していくのを感じる。とはいっても優越感を前に出したりするのは不味い。

「一体、これは何なのですかな?」
「マジックアイテムですよ。2点間を繋げる魔法の力を持っています。つまりこれで用いて転移を行っているということです。さぁこの中に入りますよ」

 躊躇う2人に対して、アインズは先に足を踏み込む。そして鏡の光景の中にアインズが浮かぶ。
 アルチェルとクロードは互いの顔を伺う。そして意を決し、クロード、アルチェルの順番で鏡の中に入る。
 瞬時に視界が変わった。薄い皮膜に触れたと思って時には、別の光景となっていたのだ。

 広がるのはまさに美としか形容できない光景だった。
 王宮を、いや今までアルチェルが見てきたどんな光景よりも遥かに凌ぐ美しさだ。
 アルチェルは呆気に取られ、言葉も出ない。

「こちらになります。応接室でまずは喉を潤してください」

 アインズが通路にある扉を指す。扉の左右には非常に美しい2人のメイドが控えていた。1人はユリであり、もう1人は始めてみる顔だ。
 アインズの言葉に見え隠れする優越感。それがアルチェルを不快にさせる。今まで自らよりも遥かに劣ると信じていた男にこれだけのものを見せられたのだ。劣等感が桁外れなほど刺激される。

「これほどの財を一体どうやって成しえたんだ」

 硬質な声がアルチェルから出た。

「……仲間達と一緒にですが」

 自慢というものを感じ取れるアインズの言葉。それはアルチェルの目を細めた。
 富という物は無から生まれるわけではない。ある場所からある場所への移動だ。ではアインズ・ウール・ゴウンの財。それは本来であれば別の人間の下に行くべきものでは無いのだろうか。

「財を溜めているようだが、税金は支払っているのか?」
「はぁ?」

 僅かにアインズの返答に苛立ちが含まれる。クロードが僅かに困った顔をするが、しかしアルチェルは気にしない。

「充分な税金を納めているのかと聞いているんだ。ここは王国の領内であり、王国の法律が支配する場所。その地で生きるなら収益に応じた税金を支払う必要がある。そしてこれほどの建物に相応しいだけの税金を支払っている者がこの辺りにいるという話は聞かないのだが?」
「…………」
「仲間と築いたという話だが、王国の領内にあるものを不当に占拠しているだけだと言い切れなくもないのではないか? この地が墳墓だとするなら、墳墓の所有者は基本的に王国、もしくは神殿に返るもののはずだ」

 基本的に墳墓など墓場は公共のものであり、個人所有というのは滅多にない。勿論、墳墓の一区画を個人所有にするというのであれば当然あるが。
 そして常識的に考えれば、アインズの話は考えれば考えるほど胡散臭い。
 これほどの煌びやかな場所を個人的に作り出せることが出来るだろうか? ――否。不可能だ。
 ではこれほどの調度品を人知れず集めることができるだろうか? これもまた否。不可能だ。

 建築するための人手、これほどの調度品を集める膨大な金銭の流れ。そういったものを一切残さずに建造することができるはずが無い。
 それらのことを考えれば答えは1つしか生まれない。
 
 アルチェルは元々この墳墓の下には煌びやかな場所が隠されており、それをアインズという人物が不当に占拠したと決定づけていた。
 つまりは王国の財産を不当な手段で横領しているのだ。
 つまり踏み込んで考えれば、アルチェルの手に渡るだろう宝は、知られないうちにアインズが横から奪っていたのだ。

「不当の占拠であれば、それは――」
「――まぁまぁ、アルチェル殿。それぐらいで」
「…………」

 クロードが横から止めに入る。

「まぁ、ゴウン殿。アルチェル殿の言うことも事実ですよ。不当な占拠と思われても仕方が無い状況が揃っています。ただ、まぁ、なんというか我々の心の内に留めても、まぁ、構わないのですが?」

 贈り物で満足するだろうクロードとは別に、アルチェルの不満は今にも溢れんばかりだ。たとえ、何か凄い宝をもらったとしても、必ず、アインズが不利になるように行動してやる。
 そうアルチェルは考える。

 アインズの肩が大きく動く。上がり、それから力なく下に落ちる。
 ぐうの音もでないか。アルチェルはそう考えた。しかしアインズの中に生まれたのはそういったものではない。

「――別に俺に関しての話ならば、どうでも良いんだ」 

 静かな声だ。感情という物を一切感じさせない、平坦な声。

「別に俺自身は大した者だとは思っていない。だから何を言われてもそうなのかなと思うし、侮辱をされても我慢できる。――しかしだ。お前達は俺の仲間が作ったものに対してけちを付けたな。……この俺の大切な仲間たちと一緒に作りだした、宝に唾を吹きかけたな! 糞共がぁ!」

 アインズから吹き上がるのは、目で見えるような憤怒。
 噴出すような感情の本流を感じ、一瞬、アルチェルもクロードも息を呑む。しかしながらいまだその表情に余裕の色はあった。それは自らが何の目的でここに来たのかという理由によるもの。そしてアインズが上で見せた従順な姿によるものだ。
 王家の威光がある以上、たとえ礼儀知らずといえども何かできるはずが無い。そう考え、逆に今のアインズの行為に対してどのようなペナルティを与えるべきか考える余力すらある。

 しかし、アルチェルもクロードも、そしてクロードの後ろにいた者たちも、自らの体が震えだしたことにようやく気付く。

 広い通路が温度を急激に下がっていくような感覚に襲われたのだ。冬の到来のような冷気。しかし吐く息は白くは無い。つまりは感覚的なものにしか過ぎないと、判断するだけの時間が合っただろうか。
 ぴたりとアインズの動きが止まる。そして懐に手を入れると、一枚のスクロールを取り出した。懐にそれほどのものを入れるスペースすらないのにどうやって、と疑問をアルチェルたちが思うよりも早く、アインズはそれを無造作に広げた。

「……死すら生ぬるい。この世界にあるのか知らないが、地獄まで連れて行ってもらえ。《サモン・モンスター・10th/第10位階怪物召喚》」

 羊皮紙が燃え上がるのと、魔法陣が床に浮かびあがるのはほぼ同時だった。燃え尽きた灰の欠片が中空に掻き消えていく中、先ほどまで無かったものが広い通路を半分は占拠するようにいた。
 伏せというポーズを取っていてなお、見上げるほどの巨躯がアルチェルたちに影をさす。
 それは竜を思わせる長い尻尾が伸びた巨大な犬。その頭部は3つあり、燃え上がるような眼光が3対、アルチェルたちを見下ろす。それはケルベロスといわれるモンスターだ。

 アルチェルたち、皆の背筋が凍る。
 背中に氷水でも流し込まれたような、そんな感覚が押し寄せてくる。
 化け物。
 いや、そんな言葉ですら生易しいものの出現を受けて、動物の勘がわめきたてているのだ。戦士が武器を抜くということすら忘れてしまうほど。

 アインズがモンスターを召喚した狙い。
 それが理解できないはずが無いが、あり得ない信じたくないという気持ちがアルチェルの胸襟で沸き起こる。
 王国に対して弓を引く行為。そんな愚かな行為をするはずが無いという、アインズからすれば都合の良いといわれるような気持ちが。 

 ケルベロスの横に立っていたアインズは、そんなアルチェルたちを一瞥すると興味を失ったように、踵を返す。背を見せたアインズに、後ろから恐怖のためにひび割れた声が掛かった。

「わ、私は陛下からの使者だぞ! そのような行為を陛下が許すと思ってか!」

 その言葉こそが自らを守ると考え、アルチェルは叫ぶ。いまだこの状況下にあって言葉でアインズを縛れると判断したのだ。
 ふう、とアインズは息を吐き出した。そして肩越しにアルチェルを見ると静かに、本当に静かに言葉を紡いだ。

「……だからどうした?」

 そのアインズの言葉に含まれていた感情。それを鋭敏に感じ取ったように、召喚されたモンスターであるケルベロスはゆっくりと動き出す。
 低い唸り声に満ちた感情は誰にでも分かるような、はっきりとした敵意。

「……好意や敬意を従属と勘違いしていたのか? ならばその勘違いの代価を支払え。そして愚かな主人に仕えた己の不運を恨め」

 自らの切り札。それが容易く破り捨てられ、アルチェルは頭の中を真っ白にしてたたずむ。ようやくクロードたちが剣を抜き払う。しかし、本来であれば守るべきアルチェルの前に立とうというものは誰もいなかった。
 今まで自信を持っていた鋼の輝きが、その魔獣と比べるとそのあまりの小ささに泣き出したくなるほどだった。

「待って欲しい! アインズ殿、謝罪を受け入れてくれないか? 我々は君の力を確かめるという意味で無理を言ってみたのだ! 君は合格だ! 陛下にしっかりと伝える!」

 このままでいれば確実に命が奪われる。そういった必死の思いが、クロードに恐怖を乗り越えさせ口を開かせる。しかし、アインズの心を揺るがすには力が足りない。

「……残骸はこことエ・ランテルの間ぐらいの距離にばら撒いておけ。使者は途中でモンスターに襲われて誰もこれなかった。……そういうことだ。喰らえ、ケルベロス」
「本当に待ってくれ――いや、待ってください! ゴウン様! 本当に悪かった。やりたく無かったが、王からの命令だったのだ! なぁアルチェル殿!」
「……あ、ああ」

 理性はクロードに賛成すべきだが、いままで蛮人だと評価していた人間に頭を下げるという踏ん切りがアルチェルは付かない。
 しかしクロードからすれば、何を迷っているとアルチェルを殴り飛ばしたい気持ちに駆られる。今、命を、全てを握っているのがどちらか。それは言うまでもない。そしてクロードはまだ死にたくないのだ。

「アルチェル! ゴウン殿に謝罪を!」

 必死の叫びにようやく、アルチェルは決心する。己の肥大していた傲慢を、恐怖がねじ伏せたのだ。

「も……申し訳なかった、ゴ、ゴウン殿。私が言いすぎたようだ」

 不貞腐れた子供のような謝罪。クロードが顔を引きつらせたのも当然だろう。どう聞いても、本気での謝罪のようには思えないのだから。
 しかし、そんな謝罪でもほんの少しは効果があった。

「……ケルベロス」

 クロードの頭も、アルチェルの頭も瞬時に噛み千切れるという辺りまで移動していたケルベロスが、主人の声を聞き動きを止める。
 その場にいたナザリックに属さない全ての者の顔に、ほんの少しの希望が浮かぶ。

 だが、アインズはそれらを容易く閉ざす。

「――悲鳴と呪詛以外、もはや聞きたくないぞ」

 後ろで凄惨な光景が広がり、絶望の悲鳴が聞こえる。鎧ごと肉体が食いきられる、想像を絶するような音でも、もはやアインズは振り向こうとはしない。
 ただ、不快なために。


 不快というが、別段、人の死体や殺される様が精神衛生上まずいということは無い。
 アインズはこの体になってから、惨殺などの行為に忌避を感じない。好き好んでていうことは無いが、人が同族というような共感を覚えないためだ。それは邪魔な虫を殺すような感覚に似ている。気分よく眠っていたのに起こしてくれた、わずらわしい虫の足をもいで殺すような行為に罪悪感を覚えないのと同じことだ。

 では時折見せるアインズの優しさは何か。
 それは雨に濡れている子犬を見たときに、人の心に浮かぶようなもの。さまざまな余裕があれば、子犬に餌をやるかもしれないし、もしかしたら飼おうと行動するかもしれない。しかし、一瞥して通り過ぎたりもするだろう。そういうことだ。
 ちなみにある村娘はこの第9階層を見てこう言った。
『こんな凄いところを作るなんて、お友達の方も凄い方だったんですね』
 何の裏も無い無邪気な言葉。それがアインズの心をピンポイントで射抜いたのだ。
 アインズにとって、かつての仲間達を褒められるということは非常に嬉しいこと。だからこそ気に入ったのだ。アインズ自身、ちょろいと自嘲して笑ってはいたが。


「ユリ。先ほど言ったように、残骸の回収を任せる。手が足りなかったら、誰か使っても構わない」
「畏まりました」

 深々とユリは頭を下げる。その横にいたルプスレギナもだ。
 それから持ち上げた2人の顔に何かに気づいた色が合った。瞳が僅かに動き、アインズ以外の人物を捕らえている。それを悟ったアインズは振り返った。
 最初に視界に入ったのはもはや生きた人間がいない――いや人間という形が残っていない、血の海が広がる通路。その横に寄った、血に塗れたケルベロス。
 そして次にアインズの視界に入ったのは待ち望んでいたものだった。

「良い香りです」
 
 いつ来たのか。デミウルゴスが肉塊の飛び散る血の海に立っていた。いや、微妙に足は床には付いていない。その身は僅かに浮かんでいる。

「遅くなりまして申し訳ありません」

 そして一礼。顔を上げたデミウルゴスの視線がアインズの服を眺める。それから微笑を浮かべた。

「アビ・ア・ラ・フランセーズですか? 非常にお似合いです」

 デミウルゴスは世辞ではなく、心の底からそう思っていっているのだろうが、今のアインズからすれば不機嫌を強める言葉だ。

「それはどうでもよい。それよりもデミウルゴスに早速相談したい件がある。私の部屋に行こう」
「その前に。私がここに来るころ、アウラが表に出て行ったようですが、よろしいのですか?」
「ああ。それはアウラに頼んだ件を片付けに行ったのだろう。なんら問題は無い」
「かしこまりました」
「では、掃除を頼む」

 ユリとルプスレギナ。2人の了解を受け、血の匂いが強く立ち込める場所を背に、アインズは無言でデミウルゴスを伴って歩き出した。





 ナザリック大地下墳墓から離れること1キロ以上。
 草原の中に小さな1つのテントがあった。いや、小さいとは言っても、人間3人ぐらいであればその身の内に収めることのできるサイズだ。
 そしてそんなテントの入り口はわずかに開いている。ほんの少し――亀裂のような隙間からは1人の男が双眼鏡を使って遠くの地、ナザリックをじっと眺めていた。そのまるで動かない姿は置物か、人形のようにも勘違いしてしまうほどだ。わずかに肩の辺りが上下していなければ、実際にそう思ってもおかしくはなかった。
 長く細い呼吸を繰り返しながら、男は真剣な面持ちでナザリックを眺める。そんな男に天幕の中から声がかかった。

「どうだ?」

 その声は男を人間に返したようだった。凝った肩を数度回し、男は中に声をかける。

「……いやあれから動きはないな」

 男の位置から見えるのはナザリックの壁でしかないが、その辺りで動くものは一切ない。そんな男の返答を聞き、先ほどとは違う男の声がテントの中からした。

「なら報告の必要はなしか」
「そうだな。今のところ、必要は無しだ」
「……正門監視はあっちのチームの仕事だ。ミス無くやっていることを祈るだけだな」

 テントにいる彼ら3人が何者なのか。
 それを一言で言い表すならば、帝国に所属する隠密だ。
 第2位階魔法を行使できる魔法使いでありながら、野外での隠密行動などのスキルを有するレンジャー。そんな2つのスキルを同時に持つ、帝国の中でも非常に優秀な野外活動を主とする隠密たちだ。それも最精鋭という言葉が相応しい、下手な騎士程度であれば瞬殺するだけの実力者でもある。
 そんな彼らがこの場所――ナザリック大地下墳墓の監視に3名。
 ――いや、それだけではない。

 すべてを知覚できるものならば、ナザリックの周辺にも同じような構成で監視しているものたちが他にもいることに気づくだろう。そんな彼らの総数は4チームであり、計12人にも達する。
 たった12名と考えるかもしれないが、この人数は彼らのようなエキスパートの総数の3/5に値した。
 帝国の800万を超える人口に対して、それだけしかいない彼らをこれだけの人数動員するということが、帝国にとってナザリック大地下墳墓の監視という行為がどれほどの意味を持つのか、それを言うまでもないだろう。
 実際、ここまでの警戒は常識では考えられないほどであり、恐らくは鮮血帝の統治になってからの警戒レベルでも最上位クラスだ。

 そんな彼らだが、草原にテントを立てていれば目立つのではないかという疑問は当然生まれるだろう。しかしながら、レンジャーとしてのスキルを持つ者がそんな愚かな失態をするであろうか?
 まるで目立ってはいないというのが答えだ。

 これは魔法の力によって生じた結果である。
 このテントは『溶け込みの天幕<カモフラージュ・テント>』と呼ばれるマジックアイテムであり、傍から見ると草原に溶け込んでいるようにしか見えないのだ。

 
 答え終わると、疲れた目を指で解し、男は再び双眼鏡を目に当てる。
 すると――

「動きがあったぞ」

 監視をしていた男の声が若干低くなる。そこにあるのは当然警戒の感情。
 男の双眼鏡の小さな視界の中、ナザリック大地下墳墓からゆっくりと空に舞い上がる影があった。男たちまでかなりの距離があるために、影は小さく感じられるが、実際は遥かに大きいだろう。
 翼をはためかせ、その長い尻尾が鞭のようにしなる。上昇の速度に対して、翼のはためきは小さく回数が少ない。なんらかの魔法的な種族能力によるものだろう。

「いつものワイバーンか?」
「いや……それとは全然違う気がする」

 男は記憶にあるワイバーンと上空に上がっていく影を比べる。ナザリックを監視していると、時折、ワイバーンのような影が空中に飛び上がり、周辺を監視するように飛び回ることは数度あった。しかし今回飛び出したのは、幾度か見たワイバーンとは異なる姿をしている。
 いや、確かにナザリックから幾度か飛び出したワイバーンも、男の記憶にあるものとは少し違ったのは事実だ。だが、今回のは完全に違い、ワイバーンとは全然似ていなかった。
 
 男がワイバーンを始めてみたのは、帝国南方に位置する山脈が多くある国が最初だ。
 その国は飼いならしたワイバーンによる空中騎兵隊を組織している。そしてそんな国のある場所を監視するために送り込まれた時に、ワイバーンの姿を見たのだ。
 そのときのワイバーンの姿は長い尻尾は蠍のようであり、前足はそのまま翼のようになっていた。ドラゴンにも似た姿だったのを良く覚えている。

 しかし、今回飛び立ったのは翼の生えた蛇という生き物がぴったりな姿をしていたのだ。
 では、あれはなんという生き物なのか。
 男の記憶の中のモンスター知識という棚をひっくり返すが、答えを導き出すことは出来ない。一気に上昇していく蛇は高度3キロほどにも達しただろうか。その辺りで平行に移動を開始する。

「一応、静かにしておくか」
「ああ。そうしよう。それと《メッセージ/伝言》を使って警告を送った方がいいかもしれないな」

 これだけ高さがあれば発見される可能性は無いとは思うが、相手は未知のモンスターだ。絶対という言葉は存在しない。
 男はそういうと、出口を閉め、テントの中で他の仲間達と息を殺す。そんな中――

 ゲロゲロゲロロ~♪

 男は目を白黒させながら周囲を伺う。テントの中には当然、仲間の2人の姿。
 その両者とも驚いたような表情をしているところを考えれば、蛙の鳴き声は2人のどちらかのお遊びではないのだろう。
 男の耳にはテントの外から静かな草原を風が走りすぎていく音が聞こえる。どれほど耳を澄まして聞こえるのはそれだけだ。男は重い沈黙が支配したテントの中、押さえ込んだ声で問いかける。

「……今、蛙の鳴き声が聞こえなかったか?」
「……あ、あぁ」

 同じように静かな声が返ってきた。他の仲間たちも周囲の音を聞き取ろうと、聞き耳に集中している。

 もし、これが沼地であれば別段不思議とも思わなかった。しかしながらここは草原であり、蛙がいて良い場所ではない。いや、確かに一部の蛙がいるのは事実だが、それはどちらかといえばモンスターと呼ばれるものである。
 カモフラージュ・テントは視覚による発見に対しては非常に優れた力を有しているが、聴覚や嗅覚までは誤魔化す力は持っていない。そのために動物系のモンスター――魔獣に代表されるようなモンスターには効果が薄い場合がある。それにモンスターには特殊な感知能力を持つ者だっている。ドラゴン・センスや生命感知のような特殊なものだ。

 先ほどの蛇だって特殊な感知能力があったりしたら嫌だからこそ、用心をしてテントの中に潜んだのだ。

 蛇が飛び立つと同時の出来事。
 これは偶然か、はたまたは不幸な遭遇か。ただ、どちらにせよ非常事態ではある。
 男たちはモンスターが接近しているのかと判断し、おのおのの武器に手を這わせる。しかしモンスターの正体が判別できないため、撤退か交戦かを選ぶのが難しい。
 できればたまたまであり、戦闘になるようなことを避けられたら良いと3人とも考える。ただ、戦闘に入るにしても、撤退するにしても準備は必要だ。

「《クィック・マーチ/早足》」

 第1位階魔法の発動。これによって3人の移動速度は一気に上昇する。正確に言えば20%の上昇である。
 続けて同じ位階の《カモフラージュ/溶け込み》。これによって視覚での発見は多少難しくなったはずだ。《インヴィジビリティ/透明化》の方が効果的にも思えるが、草原という場所を考えるならばこちらの方が正解だ。

「《メッセージ/伝言》で連絡を」
「わかった――何?」
「どうした?」
「《メッセージ/伝言》が発動しない……?」

 《メッセージ/伝言》が発動しない理由はいくつか考えられる。金属の部屋のような場所に閉じこもる時や、魔法的な防御手段を講じられる時、そして相手が死んでいるときなどだ。
 ただ、どの場合でも非常事態である。なぜなら《メッセージ/伝言》を送る相手は、それが来ると知っているのだから届かないような場所に閉じこもるはずが無い。
 3人の男達は互いの引きつった顔を見合わせる。
 答えは1つぐらいだろうから。

「不味い! 直ぐに撤収するぞ!」

 慌てふためき、彼らが行動を取ろうとするよりも早く――

 ゲロゲロゲロゲログワァグワァグワァ♪

 ――再び、蛙の鳴き声。
 瞬間、信じられないような眠気が男たちの身に降りかかってきた。
 第2位階魔法まで使える男たちは、これほどの睡魔は魔法によって生み出されたものだと瞬時に悟る。第1位階魔法である《スリープ/睡眠》によく似た睡眠欲であったがために。しかしながらそれを悟ったところですべてが遅すぎる。
 武器を足に突き立てようとする意識すら持たないのだ。
 男たち3人が崩れ落ちるようにテントの床に転がる。そして心地良い寝息を立てるのであった。
 男達が眠りに付いて直ぐ、テントの入り口部分が揺らぐ。ただ、そこを見ても誰もいない。入り口の向こうに広がるのは先ほどと変わらない草原の景色のみだ。風の悪戯だろう。そう思ってもおかしくは無い――入り口部分が誰かの重みを受けて沈んだりしなければ。



 ナザリック大地下墳墓を飛び立った蛇のようなモンスター――それはケツァルコアトルという名前を持つ。そんなモンスターの背には2人の姿があった。
 1人はケツァルコアトルというペットの主人であるアウラ・ディベイ・フィオーラだ。流れ行く風をその身に受けながらも、太陽を浴び燦燦と輝く金髪は一切乱れたりはしない。いや、流れ行く風もその身に受けていないというべきか。
 それは魔法的に産み出した鞍に乗っているために、蛇がどのような動きをしようがその身は安定性を保ち、風圧を受けることは無いためだ。
 
 そしてもう1人の影。
 アウラの後方――そこには同じような鞍に乗った蛙のようなモンスターがいた。
 ツヴェーク・プリーストロード。
 直立したピンク色の蛙が煌びやかで装飾過多な杖を持ち、見事な神官衣を纏っているというモンスターだ。そう表現すると可愛らしく弱いイメージを持つかもしれないが、実際はもっと強くおぞましい。痩せた蛙をモチーフに歪ませ、それに邪悪をトッピングしましたといわんばかりの姿をしているのだから。さらにたった6つしか魔法は使えないとはいえ、神官系第10位階魔法までを行使する70レベル以上という位置に存在する強大なモンスターである。
 
「アウラ様。すべて寝かしつけたという話です」

 蛙のような口からもれ出たのは、やたらと流暢かつ渋い男の声である。なんというか外見とのあまりのギャップに、苦笑が起こっても仕方が無いような、そんな感じであった。しかしアウラからすれば慣れた声だ。

「ふーん」

 ――軽く頷く程度の。ツヴェーク・プリーストロードは言葉を続ける。

「現在エイトエッジアサシンが捕縛を開始しております。ツヴェーク・シンガーソングライターに何か新たなご命令はございますか?」
「睡眠の呪歌の効果はどれぐらい?」
「耐性、能力によって変動しますが最短で30秒ですが、たいした実力者でもないようなので数分は持つかと思われます。あっと、もしくは攻撃を一回受けるまでです」
「そっかー」

 うんうんとアウラは頷く。それだけあればエイトエッジアサシンであれば問題なく捕縛できるだろう。とりあえずは自らの主人からの命令は完了したと判断しても良い。

「じゃぁ、バード達は即座に撤収。5匹しか今はいないんだから直ぐに帰って、安全な湖でも入っていて。エイトエッジアサシンは回収してナザリックへ……人数の方が多いか」
「はい。監視者の数は計12人です。しかしながらエイトエッジアサシンであれば問題なく運べると思われます。一応、聞いてみますか?」
「うん。お願い」
「はい」

 ゲロゲロとツヴェーク・プリーストロードは低い鳴き声を上げる。蛙に似たツヴェーク族は特殊な会話方法を持ち、数キロであれば《メッセージ/伝言》を使っているかのように連絡を取り合うことが出来るという能力を持っている。ユグドラシルではツヴェーク族の住居に乗り込むときは、全てを相手にしなくてはならない覚悟をすべきといわれる所以だ。
 その能力でツヴェーク・シンガーソングライターと連絡を取った、ツヴェーク・プリーストロードは満足そうにアウラを見る。

「問題ないとのことです」
「みたいだね」

 アウラの視力はかなり下にいる小さな点を完全に捉えている。エイトエッジアサシンがナザリックにぐるぐる巻きにされた何かを運んでいく影を。
 その複数の手を上手く使って同時に3体運んでいるのも見て取れた。

「じゃぁ、撤収に入ろうか。行こう、ケツァルコアトル」

 蛇は長い首をもたげ、アウラを見つめると、主人の意を受け下降を開始する。かなり急な角度での下降だが、やはりアウラもツヴェーク・プリーストロードの体勢も崩れたりはしない。逆にその急激な下降による景色の変化をアウラは楽しんでいるぐらいだ。

「テントの回収は行わないのですか?」
「アインズ様いわく、回収しない方が何が起こったか不明で怖いだろうだって。しかしあの程度の上手く隠れていたとか思っていたのかなぁ?」

 ツヴェーク・プリーストロードは主人の言葉を受け、チラリとテントのあるだろう方角を見る。探知系のスキルは所持していないが、基本的な能力値の高さを生かしさえすればなんとか、草原の一箇所に変なものがあると分かる。

「……距離があれば大丈夫と思ったのでしょう」
「まぁ、そっか。遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>で常時周辺を監視しているなんて思わないか」

 コキュートス配下が常時、ナザリック大地下墳墓周辺は警戒している。知性を持った群体<インテリジェント・スウォーム>を主に、時折恐怖公が協力して。それ以外にも占術などの魔法を使っての探知だって行っている。遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>による警戒もその一環だ。
 元々、彼らの存在は来たときから感知しており、テントを作る姿も静かにコキュートスの配下が監視していた。すべて収穫の時期が来るまで、放置していただけだったのだ。
 その真剣に監視する姿を物笑いの種にするために。

 地表が近くなり、アウラはケツァルコアトルにログハウスに向かうように指示する。風を切って翼の生えた蛇が走る。
 やがてログハウス付近。アインズに回収するように命じられた馬と馬車の元に、ケツァルコアトルは羽のような軽さで舞い降りた。
 巨大な蛇が現れれば、馬が怯えたり、興奮したりしてもおかしくは無い。しかし、馬は平然としたもので、まるでケツァルコアトルが親しい存在であるかのような態度を見せる。

「えっと、ケツァルコアトルをナザリックに戻し次第、展開している隠密のとばりは解除しちゃって」
「畏まりました、直ぐに連絡をさせていただきます」
「それと馬車の移動は――」

 そこまで言った段階でアウラは言葉を止める。門が音を立てて開き、中からは戦闘メイドの1人、エントマが出てきたからだ。そしてその後ろにはナザリック・オールド・ガーダーたちの姿があった。
 格子状の門であれば、ナザリックの地表部は覗ける。しかし、エントマの姿もオールド・ガーダーの姿も隙間からは伺えなかった。まるで地から沸いたように、突然と姿を現したのだ。

「アウラ様」
「ん? 馬車の回収を手伝ってくれるの?」
「はい」

 表情を動かさずエントマが同意する。いや、エントマに表情を動かすのは無理なのだが。
 ただ、何処と無く、アウラから逃げたいような素振りを感じさせるのは気のせいではないだろう。

「あなたには効果ないでしょ?」
「……強制的に友好的にさせられる匂いは嫌いです」
「ごめんね。馬ぐらいあたしのスキルでもどうにかなるとは思うんだけど、自信ないしね」

 ビーストテイマーとして最高の腕を持つアウラが、本気で自信がない筈が無い。結局本音はテイムするのが面倒くさいからだろう。
 そう思ったエントマの雰囲気に微妙に呆れたものが漂い、それを敏感に察知したアウラは苦笑いを浮かべる。

「えっと、じゃ、早速回収を始めようか!」

 やけに威勢の良い声をかけてアウラはシモベたちに命令を下す。その後ろをエントマの『逃げたな、こいつ』という雰囲気が追うのだった。






――――――――
※ 分割という意見の方が多かったので分けました。ではでは、会談2でお会いしましょう。



[18721] 50_会談2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:1c6b9267
Date: 2011/10/06 20:34




 一通りの話を聞いた後で、デミウルゴスが瞳を閉ざした。アインズは内心は恐る恐るだが、態度には出ないように注意をして問いかける。

「やはり不味かったか?」
「はい」

 デミウルゴスの即答を聞いて、アインズはやはりと思う。

「……アインズ様の優しさが裏目に出ました。上位者としての態度を取って行けば、あのような結果にならなかった可能性もございます」
「そうか……」

 予測は出来ていたが、断言されると気が重い。
 しかも激情に駆られて殺すというのはとんだ失態だ。今まで殺すよりも生かしていたほうが何かに使える。そういう意思で行動していたのにも関わらず、なんで重要なときにそういった行動を取らないのか。
 王国と事を構えるのは最終的には仕方が無いかもしれない。しかし、まだまだ未知の部分が多い中、敵対行動に出るつもりは無かった。この結果、ナザリックの存続に関わるような展開になったら、かつての仲間にどのように謝罪すれば良いのだろうか。

「しかしながら……王国側の行動は少々稚拙なもの事実」

 アインズはあごを動かし、続けろとジェスチャーを送る。

「馬車の準備や使者の送り方。基本的にナザリックを重要視していないのが読み取れます」
「セバス」
「はっ。私もデミウルゴスと同じ意見を持ちました」
「そうか。ではどうする? 我々重要視しないのであれば同じことが繰り返されだけだ。いや、確かに次回はより上手く行くだろう。しかし、スタート時点の評価の低さはどうにかしたいものだな。それに蒼の薔薇の件もある」
「……それであれば、アインズ様。手段の一つとして私がお勧めしたいのは王都にモンスターを送り込むことです」
「何? 蒼の薔薇にぶつけるのか?」
「その通りでございます。70レベル台のモンスターを送り込み、王都内で暴虐の限りを尽くさせます。これを蒼の薔薇が倒せるなら、かれらの実力はそれだけあるということ。蒼の薔薇が逆に全滅したなら、それはそれでナザリックに敵はいなかったと知るということ。アインズ様がそのモンスターを殺して名を売るというのも良いかもしれません」

 アインズが本当に警戒しているのはユグドラシルプレイヤーの存在。
 その存在がどの程度いるか不明の段階で、人の大量殺戮等をして敵に回すという愚は犯したくは無い。正義の味方を気取るユグドラシルプレイヤーとは戦いたくは無いのだ。
 しかしこれだけ情報を集めても、漏れや不安があるという現状に不満を感じているもの事実だった。

 アインズはしばらく考え、それからデミウルゴスに頷いた。

「そうするか」

 その言葉にデミウルゴスは酷薄な笑みを浮かべた。凄惨な光景が頭の中に浮かんでいるのだろう。

「では何を送り込むかは私の方で決定しても?」
「そうだな……。そうしてくれるか?」
「かしこまりました」

 どれほどおぞましく、多くの人間に絶望を与えることの出来るものを送り込むか。デミウルゴスはそれを考えただけでもわくわくとしてくる思いを堪えられないようだった。
 そんなデミウルゴスに失敗はないとは思っていても、一応念は入れて針をさした方が良いと判断し、アインズは警告を込めた低い声で呼びかける。

「……デミウルゴス。承知しているとは思うが、我々が送り込んだと言う証拠を握られないようにしておかねばならない」
「はい、十分注意を払って送り込みたいと思います」
「…………」

 アインズよりも優秀なデミウルゴスがこうも言い切るのだから問題は無いだろう。アインズがそう考えた時、魔法の発動と共になんらかの糸のようなものが繋がる。
 慣れた《メッセージ/伝言》の発動である。
 アインズは嫌だなと思いながら、送ってきた相手であるユリの声に耳を傾ける。

 一通り聞いた段階で、デミウルゴスとセバスの両者が自分に注目していることに気付く。《メッセージ/伝言》が飛んできたということを理解していたのだろう。

「……はぁ」アインズはため息を1つ。それからデミウルゴスを眺めた。「《メッセージ/伝言》だ。バハルス帝国の先触れが来たそうで、皇帝があと少ししたら来るそうだ」
「ほう」

 デミウルゴスが歓心の声を上げる。セバスも僅かに目を見開いた。
 友好的ではない隣国まで、一国の頂点が出向いたということに対する驚きの表れだ。つまりは皇帝はナザリックに対する重要性を熟知していると言うこと。ワーカーを送り込んできたのが帝国の貴族であるということを考えると、その辺りのことも何かあるのかもしれない。
 デミウルゴスは頭の中で無数の可能性を検討し始める。

「しかし、どんな目的を持って来たのか」

 アインズの呟きにデミウルゴスは一瞬、怪訝そうな顔をする。考えるまでも無く答えは1つしかないだろうから。
 その一瞬の表情の変化を鋭くアインズは捉える。

「デミウルゴス、答えよ」
「アインズ様にお会いしにだと思われ――」
「――愚か」

 アインズの叱咤が飛び、デミウルゴスが体を硬直させる。

「その先を知りたいのだ。何故、皇帝は直接来た? どういう狙いがその後ろにある?」
「それは……」

 デミウルゴスには答えられない。当たり前だ。情報が少ない中、そこまで答えられるはずが無い。可能性ならば幾つか考えられるが、自らの主人にそのようなあやふやな話をするのはデミウルゴスの望むところではない。
 自らの主人が真に考えていたところまで見抜けず、結果として自分が無礼な行為を行ったと知り、デミウルゴスは羞恥のあまりに自害を望むほどだった。
 だからこそ、安堵の息を漏らすアインズの表情はつかめなかった。

「良い。良いのだ、デミウルゴス。少々意地悪な問いかけであったな。自らが下らない失態を犯したことで、不機嫌になっていたようだ。許して欲しい」

 頭を下げたアインズに、デミウルゴスもセバスも大きく慌てる。

「何をおっしゃいます! アインズ様のお優しさに付け込んだ、奴らが薄汚いだけ!」
「その通りです。私の王都の一件があったからこそ、波風を起こさないようにと考えていただけたお優しさは充分に理解しております」

 アインズは僅かに驚いたようにセバスを見つめ、それから力なく下を向いた。

「気付いてしまったか」
「元より……」


 デミウルゴスはセバスとアインズを見比べ、何故アインズが使者に対して下に出たのか、その真意を掴んだような気がした。
 セバスが行った行為は決して悪いことではない。しかしそれは片側から見た場合だ。
 あの店がどのような経緯を持って経営されていたのかは不明だが、経営を維持できたということはなんらかの権力者との繋がりがあったからだろう。そんな店に襲撃をかけ、人を浚ったという行為は確実に権力者の恨みを買った筈だ。
 もしアインズが王国の救世主と紹介されていれば、その行為は美談の1つになるが、そうでなければ厄介ごとになる可能性は充分にある。もし権力者が貴族であった時、さらに強い力を王国内で持っている場合は特に厄介だ。

 無論、これはセバスと言う人物を表に出さなければ問題にはならないかもしれないが、絶対に秘密にできるかと問われたなら首を傾げてしまう。
 秘密というのは漏れると考えたうえで、計画を立てるほうが正解なのだから。

 相手の今回の出方を考えると王国の救世主という線は消えている。ならばセバスというカードを一枚渡している状況では、下から出る方が厄介ごとにはならないはずだ。下手に怒らせて、カードを悪いように切ってこられた場合、困る可能性だってあるのだから。例えば犯罪者であるセバスを引き渡せのように。
 アインズの取った行動は、力でどうにかしようと考えないのであれば、部下を守るということを前提に自らを投げ打った良策だ。

 デミウルゴスに続き、同じ思いを抱いたセバスも身震いする。
 アインズが自らの部下をどれだけ大切にしているか、充分に理解できるために――。


 自らの部下の忠誠心がゲージを破壊して上昇している中、アインズは流れないはずの汗が大量に流れているような、そんな幻覚に襲われていた。
 まさに綱渡りだ。
 そしてこれ以上の会話は何かボロを出しそうな気がすると判断したアインズは、全てを終わらせるようにもっていくことを決める。ただ、その前にセバスに対する謝罪はする必要がある。
 セバスは悪くも無いのに、悪者にしているような気がするから。


「すまないな、セバス」

 アインズは頭を下げる。その行為は2人を驚愕させるには充分だった。何故、自らの偉大なる主人は頭を下げるのか。

「本来であればセバスに目立つような行為を取らせなければ、このようなことでお前を悩ませるはずは無かったはずだ。あの時の私の考えが甘かったと言わざるを得ない。だからお前が気にすることは無いのだ」

 デミウルゴスもセバスも瞳の端に光るものを宿す。
 なんという寛大かつ慈悲に溢れた方なのかと思って。

 ――この方だからこそ最後まで残ってくれたのか。

 自らたちを生み出した至高の存在は姿を隠した。しかしそれでもなお、最後まで残ってくれた――自らたちを捨てないでくれた方がいる。
 その思いはデミウルゴス、そしてセバスの忠誠心をより高め、もはや狂信という領域まで到達させる。


 2人が己の思いを燃え上がらせている中、アインズは許してくれたのかと判断し、口を開く。

「さて、皇帝が何故……私に会いに来たかは不明だが……デミウルゴス!」

 デミウルゴスは一礼をする。アインズの言いたいことは命じられずともわかる。

「では準備の方は私にお任せいただけるでしょうか?」
「ああ。任せるとも、デミウルゴス」
「畏まりました! そのご期待にお答えできるよう、全力を尽くしたいと思います!」

 デミウルゴスの熱意に満ちた返答。
 アインズは心の中で拍手喝采をデミウルゴスに送る。
 引き受けてくれてありがとう。もし演技をしてないなら、そう叫んでデミウルゴスの手を握っただろう。
 そんな思いをおくびにも出さずに、アインズは重々しく頷く。

「では、全権をゆだねる。したいようにするが良い。ナザリックにある大半のものの使用を許可しよう」
「ありがとうございます、アインズ様。ではアインズ様もお召し物をお代えください」
「む?」

 アインズは自らの来た白や金に彩られた服を見る。

「アインズ様はやはり闇と共にあってこそ、栄えるお方。その服も良いものですが……」
「……セバス。デミウルゴスと相談の上、服を見繕ってくれ。ただ、装飾過多なのはちょっと……」
「畏まりました」

 2人の声が揃って聞こえる。アインズは安堵したように、デミウルゴスに軽く声をかける。
 アインズの心の中では、すべてデミウルゴスが終わらせてくれるだろうと判断して、すでに終わった話となっていたのだ。

「では、デミウルゴス。私がすべきことは何かあるか?」
「いえ。アインズ様は玉座に腰掛、来訪した者たちにナザリック大地下墳墓の主人として、絶対なる支配者としてお相手されるだけでかまいません。あとの雑務は我々が」
「…………?」アインズは目をぱちくりさせる。「やはり私が相手をしなくてはならないか」
「おお、アインズ様。やはり弱者たる人間の相手はお好きにはなれませんか。しかし、相手が礼儀を尽くしてきたのです、こちらも礼儀を取るべきでしょう。たとえ、下等な虫けらといえども」

 いや、そういうことではなく。
 アインズはそう言いたい気持ちをぐっと押さえ込む。重役会議に新入社員を出すなよ、と叫べればどれほど楽か。しかしそういうわけにはいかない。アインズはこのナザリックのトップに座する者なのだから。
 王国の失敗で、あと時抱いた覚悟がどこかに吹き飛んでいる。
 アインズは己の駄目さ加減にしょんぼりとしながら、再び覚悟を決めようと自らに声援を送る。

 ――頑張れ、俺。
 ――負けるな、俺。

 少しばかり自分が馬鹿なような気がするが、それでもなんとか皇帝を迎え入れる覚悟は湧き上がる。

「そうか。では私は準備を整えたらあちらで待つとしよう」





 6台の豪華な馬車が草原を疾走する。
 草原という場所にも係わらず、その馬車は驚くほど上下しない。それはその馬車が外見のみならず、様々な場所に驚くべき金額を注ぎ込んでいるからだ。
 まずは車輪の部分。これは快適な車輪<コンフォータブル・ホイールズ>といわれるマジックアイテムである。さらに車体部分にも軽量な積荷<ライトウェイト・カーゴ>という魔法的な改造が施されている。
 合計すると目玉が飛び出るほどの金額を費やいている馬車を引く馬。それはスレイプニールといわれる魔獣の一種である8足馬だ。それらを合計して6台分ともなれば、費やした経費を計算するのも馬鹿馬鹿しくなるだろう。

 そんな単なる金持ち程度では乗れない馬車の周囲には、見事な体躯の馬に乗った者たちがいる。
 総数で20人を超えていた。
 皆、チェインシャツに腰に剣、背中には矢筒とロングボウという同じ武装を整えている。
 武装自体は傭兵といっても通りそうな格好だが、その規律取れた動きは決して単なる傭兵に出来るものではない。その目は鋭く、周囲を油断なく警戒している。
 これほど開けた草原でありながら警戒を怠らないというのは、愚かにも思えかねないが実際は違う。下手なモンスターは致命的な攻撃を行ってくるものが多い。石化の視線を行ってくるモンスターに近寄りたいと思うものがいるだろうか? 猛毒のブレスを吐いてくるモンスターに近寄りたいだろうか?
 そういった危険なモンスターを遠くから察知するには、風によらない草の動きなどに注意を凝らす必要があるのだ。

 そして上空に目やれば、そこにも警護の手はある。
 そこにはヒポグリフと呼ばれるモンスターに乗った者たちの姿があった。
 飛行できる騎乗動物――これらはモンスターだが――は売買するなら非常に高額になるのは説明する必要が無いだろう。彼らの目的もまた地上の者と同じで、馬車の警護である。

 これほどの警護をされている馬車の中にいる人間が、大した地位で無いはずが無い。

 それも当然である。
 その馬車の一台にいる男こそ、隣国バハルス帝国の支配者。鮮血帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスなのだから。

 ジルクニフの馬車はまるで豪華なホテルの一室を思わせた。壁や床には柔らかな絨毯が貼り付けられ、座る場所も柔らかで長期間乗っていても痛くなるようなことが無いつくりだ。
 実際、広くないということを除けば、ここで生活している方が快適なつくりだという人間がどれぐらいいるかは想像もできないほどだろう。
 そんなところにいるのは4人の男。馬車とも言えば4人も乗ったら狭く感じるというイメージが強いが、それは本当に贅沢な馬車に乗ったことの無いイメージにしか過ぎない。
 4人の男はみなゆとりあるスペースを保っていたのだから。
 そんな男のうちの1人は当然、この馬車の主人である皇帝、ジルクニフである。その顔に微妙な笑みを浮かべつつ、報告を楽しみながら聞いている。
 そしてもう1人。それは皇帝に報告をする者。
 白く長い髭を生やした老人であり、その名を近隣諸国で知らないものはいないとされる、生きる伝説。フールーダ・パラダイン。
 そして皇帝の横にはバインダーに書類を挟み込んだ秘書官。ロウネ・ヴァミリネン。
 そして最後は金属製の全身鎧に身を包んだ男だ。流石に馬車の中にあってはそのヘルムは外しているために、その髭の生えた野生的な素顔が露出している。
 彼こそ帝国4騎士といわれる者の1人、『雷光』バジウッド・ペシュメルだ。

「以上の時刻より、ナザリック大地下墳墓の周辺を監視しているものから報告がございません」
「なるほど、すべて殺されたか」

 気楽そうな皇帝の言葉だが、隣に座ったロウネは僅かに眉を動かす。彼ら1人1人はかなりの金額を投資して育成した、帝国内でも類を見ないほどのエリートだ。そんな簡単な言葉で済ませられる出費ではない。
 そんなロウネの雰囲気を変化を、隣も見ずに理解したジルクニフは、淡い期待をそぎ落とそうと薄い笑いを浮かべたまま、フールーダに問いかける。

「じい。それ以外の理由で連絡がつかなくなった可能性は?」
「ありえますな。4つのチーム全てを同時に巻き込むような、巨大な魔法的防御手段を講じられればそうなるのでしょうな」
「その可能性は?」
「……空から太陽が落ちてくるような可能性ですな」
「そうか。世界中が常時真っ暗になるよりは、殺された――は言い過ぎにしても無力化されたと考えた方が安心できるな」
「無力化ですんでいると助かるのですが」

 算盤を弾いて用いたような、硬質な声。そんなロウネの考えをジルクニフは笑い飛ばした。

「買い戻すのに非常に金が掛かるぞ? それよりは見捨てた方が安くないか?」
「確かにそうです。……しかしながら見捨てれば彼らの士気が下がるかと?」

 ジルクニフは初めて笑みを消す。

「侮りすぎだ。そいつらもその程度の覚悟は承知の上だ。そうだろ?」
「おっしゃるとおりです」
「ただ、またカードを持たれたのは痛いな」

 これでワーカーに続いて2枚目だ。
 しかしながらジルクニフは少しばかりの楽しみも感じていた。
 カードを持たれたとしても、別に問題は無い。カードゲームだって使ってこないカードに警戒する人間はいないだろう。重要なのは、相手がどのようにそのカードを切ってくるか。その一点に集約される。
 ジルクニフが楽しみに思っているのは、未知の相手の手を覗き込むことのできる瞬間だ。

「……それよりも陛下。危ないんじゃないですか? 先行して俺達だけで様子を見に行きましょうか? 何か様子が変わっていると厄介ですし」

 皇帝に対しての言葉遣いとしては、失格の印が押される礼儀の無い喋り方だ。
 バジウッドは元々、王国の最強の戦士ガゼフ・ストロノーフと同じく平民上がりである。そのため色々と修正されたが、それでも時折喋り方に育ちが出てしまう。しかしこの場においてそれを注意する者はいない。
 バジウッドがここにいるのは皇帝をお喋りで楽しませるためにではない。買われているのはその高い戦闘能力。ならば言葉程度大した問題ではない。そう、バジウッドはその腕でジルクニフを守れば良いのだ。

 だいたい喋り方に品が無くとも、バジウッドは別に馬鹿ではない。4騎士の唯一の平民出身であり、まとめ役に就いているのは伊達ではないのだから。

「早馬は送っているのだろ?」
「はい。既に『ロイアル・エア・ガード』を送っています」
「私の弟子も同行させております。《メッセージ/伝言》が帰ってこないところを考えると、まだ着いてないのでは無いでしょうか?」
「今の移動速度だとナザリック到着は何時間後ぐらいだ?」
「はい」ロウネが懐から時計を取り出し、その時刻を確認する。それから口を開いた。「およそ1時間後かと」
「まぁ、ならば4騎士を出したところで、あまり意味が無いだろう」
「どういう意味ですか?」
「最初からこっちを害する気持ちなら、対処の仕様が無いということだ。まぁ、運次第じゃないか」

 ピラピラと軽く手を振るジルクニフを除く、全員が顔を見合わせる。
 自らの皇帝である、ジルクニフは微妙に変なところがある。
 悪い意味ではないが、自らの命を軽く考えている気配がある。もしくは自らの命が奪われるはずが無いと高をくくっているのか。
 馬鹿なことなために命を投げ出すという意味ではない。すべきことのためであれば、自分の命も賭けのチップになるということだ。問題はすべき事と言うのが、常人だと微妙に思ってしまうこともそれに含まれるということだ。
 つい最近であれば、ガゼフ・ストロノーフを帝国に勧誘するために、周囲を騎士に守られていたとはいえ、戦場に入って声をかけたこともそうだ。

「それよりは王国の使者がナザリックに到着したせいで、会えなくなるというのが一番詰まらんな」
「……運次第といわれましたが、その可能性はどの程度で?」
「うん? ああ、あの化け物女がどのように動くかだな」

 ジルクニフが警戒心を表に、化け物と呼ぶ女はこの周辺国家にたった1人しかいない。

「……ラナー王女がですか?」
「ああ。あれがこっそり動いていたら厄介だな。あれは人の気持ちが理解できない分、純粋なメリットを的確に提示する。アインズ・ウール・ゴウンを引き込むにたるメリットを用意してるだろうな。……いや、道具の1つとして相手の気持ちも使用するんだから、本当は理解できてるんじゃないか? あの気持ち悪い女、誰か暗殺してくれないものか」
「それがご命令でしたら即座にイジャニーヤを呼び集めますが?」

 ロウネの言葉にフールーダが微妙な表情を浮かべる。

「よせよせ。あの女には新たな技術を発見してくれなくては困る。殺すよりは生かしておいたほうがちょうどいい。……あの女その辺まで理解してるんじゃないか?」
「ありえますね」

 ラナーの提案を行うタイミングは微妙に帝国の動きを読んでいるのではと思うときがあった。特に、公表を惜しんでいるときなど特にその雰囲気を強く感じさせる。もし、そうだとしたらラナーという女は、目も耳も無い状況で、帝国の動きを感知してうまく転がしているということになる。
 こういった得体の知れなさが、ガゼフさえも部下にしようとするジルクニフが、いまいち欲しがれない理由だ。

「もしラナー王女が動いていた場合の陛下の安全は?」
「問題ないだろ、じい。俺を殺すよりは利用しようと考えるだろうさ。あの女なら」

 それはどうだろうかと3人――もしかしたら2人の男は思う。
 現在、鮮血帝とも恐れられる目の前の人物の下、帝国は絶対的な組織を作ろうと邁進している。その絶対的な組織の頂点たる人物を今失うことは、その歩みが一気に瓦解する可能性があった。
 なにより現在、皇帝の世継ぎはいまだ幼い。
 将来的に帝国がどの程度の巨大な国家となるか。それを悟れる者であれば、何を犠牲にしてもいまここで皇帝を亡き者にしようと思うはずだ。王国や法国のような近隣諸国は特に。

「まぁ何か起こりましたら、私の元まで」
「ん? じいの転移魔法か?」
「はい。それで陛下ぐらいなら問題なくつれて戻れますので」
「ならば俺たちはその盾を見事こなしてみせますって」
「私はその辺で小さくなって邪魔にならないようにします」

 まじめな顔でそう言い切るロウネに微妙な笑い声が上がった。そんな中、コンコンと馬車の扉がノックされる。馬車に僅かにかかる振動は、いまだ動いていることを意味する証だ。

 この馬車は占術対策や防御効果を考えて、ほぼ全面を金属板で囲まれている。そのために外を覗くための窓というものは無い。バジウッドが動き、扉に手をかける。別に問題は無いはずだが、念のための用心というやつだ。
 扉を開ける。草原の新鮮な風が流れ込んできて、室内の人間の髪をかすかにくすぐる。
 扉の外、馬車に併走するように空を飛んでいたのは、《フライ/飛行》を使っている魔法使いであり、フールーダの高弟の1人だ。

「失礼いたします」

 飛行状態の人間が、頭を下げるというのは微妙に変な光景だ。ジルクニフも苦笑いを浮かべると指示を出した。

「そこで話すのもなんだ、入れ」
「ははっ。失礼いたします」

 滑り込むように馬車に入り、魔法使いは扉をしっかりと閉める。そんな僅かな時間ももったいないように、ジルクニフは魔法使いに尋ねた。

「届いたか?」
「はっ、はい。今、《メッセージ/伝言》が――」
「――何だって?」
「はい。現在ナザリック大地下墳墓のログハウスにてメイドに陛下の来訪予定を告げたとのことです」
「で、王国の馬車は?」
「はい。現在、その姿は発見できずとのことです」
「ふーん」

 考え込むように、ジルクニフは唇に指を当てる。隠したのか、隠す必要があったのか。どちらも考えられる。

「……それ以外に報告は?」
「以上になります」
「陛下、偵察していた人間を探さないので?」
「止せ、止せ、バジウッド。そいつらは部下が勝手に送り込んだことだ。私からの使者が探しに行ったら、私が知っていたことになるじゃないか」

 ジルクニフは座席に深々と座りなおす。

「まぁ、あとすべては1時間後だ。楽しもうじゃないか」




 ジルクニフを乗せた6台の馬車と、20人の騎士たちは草原のど真ん中にあるナザリック大地下墳墓に到着する。
 騎士たちや御者の視線はログハウス入り口の部分に立つ、1人の美女――ユリ・アルファに向けられていた。6台の馬車からは全身鎧を纏った3人の騎士――4騎士の残りの3人が降りる。巨大な盾を持つ者、ハルバードを持つ者、立派な鎧を着た者の3者だ。その他にフールーダの高弟たる魔法使いなどが降りだした。
 各員が慌しく行動する中、本来であれば一番最後まで開かれるはずが無い馬車のドアが開かれた。
 降車台すら準備されていないのに、姿を見せたのは全員の中で絶対最後に降りるべき人物――皇帝たるジルクニフだ。慌てて、降車台を準備しようと動き出す者たちに手を差し出して止めると、ひらりと飛び降りる。
 そして優しい微笑を浮かべると、ユリの方に向かって歩き出した。後ろではジルクニフと同じようにフールーダたちも飛び降り始めていた。流石に皇帝がああやって降りたのに、降車台を待つなんていう行動は取ってられない。

 周囲の反応でその登場した――そして自分に向かって歩いてくる人物が誰かわかったユリは丁寧に頭を下げる。

「お待ちしておりました」そして頭を再び上げと、自己紹介を行う。「私は皆様を歓迎するよう任せられたユリ・アルファと申します」
「それはありがたい。私はバハルス帝国の皇帝。ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスだ。まぁ隣国での地位など聞いてもしょうがないだろうから、単なる1人の人間としてこの場合は親しみを込めてジルで結構だよ」

 笑顔をジルクニフはユリに向ける。
 皇帝というよりも非常に気さくな1人の青年という笑い方だ。好青年という言葉を当てはめるとしたら、今のジルクニフほど似合う者がいない。女であれば心が動いてしかるべきの笑みを受けても、ユリのまじめな表情は崩れない。
 そしてそんな瞳を覗き込んでいたジルクニフも、僅かな波紋すらユリの中に起こらなかったことを悟る。
 趣味じゃないのか、はたまたは仕事中は仕事と自分から切り離すタイプなのか。はたまたは絶対の忠誠を捧げるべき対象に命じられた仕事の最中だからか。
 読み取れないな。
 そんな呟きはジルクニフの心の内だけに留める。

「お戯れを。主人――アインズ・ウール・ゴウン様より皇帝陛下を歓迎するように受けておりますので」
「そうかい。それは残念だ」

 おどける様に、ジルクニフは肩をすくめる。

「それはゴウン殿は?」
「準備を整えているということですので、もうしばらくお待ちいただければと思います」
「なるほど。ではどこで待たせていただけるのかな? あのログハウスかな?」
「いえ。せっかく、日差しも良いのです。ここでお待ちいただければと思います」
「ふむ」伺うように、ジルクニフの視線が細くなる。「了解した。では我々は馬車に戻るとしよう」

 その声に幾人かの騎士の瞳に憤りに似た感情がわきあがっていた。例え隣国の――場合によっては敵となっているかもしれない者の居住地とはいえ、一国の皇帝に対してこの場で待てというのは無礼ではないかという思いだ。しかし、そんなことを言い出すものはいない。自らの主君が納得しているのに、臣下である自分たちが言えるはずも無いから。

「お待ちください」ユリの静かな声が響く。「こちらでお待ちいただく以上、失礼の無いように持て成せとアインズ様よりお仰せつかりました」

 アインズ様という言葉にちょっとだけの驚きを浮かべ、それからジルクニフは楽しそうに頷いた。その動作を了承ととったユリはログハウスに向き直る。

「では準備をさせていただきます。来なさい」

 ユリの命令に従い、ログハウスの扉が開き、巨大な何かが出てくる。

「げぇ!」

 1人の叫び声が起こった。ここが調理場であれば、鶏が絞め殺されるときにあげたものだと思っただろう。
 その声を上げた人物。それが誰か理解した帝国の人間、全員に動揺が走った。
 それは帝国主席魔法使い、フールーダ・パラダイン。かの伝説の13英雄に並ぶとも上回るともされる男。それほどの人間が、驚愕のために目を大きく見開いて、ログハウスから出てきたものを凝視していた。
 それに引っ張られるように、全員の視線が同じ一点を凝視する。

 ログハウスから出てきたのは、暴力の匂いが立ち込めるような黒鎧を着た者だ。その巨躯で大理石でできたようなテーブルを担ぎ上げながら、外に出てきたのだ。

 どさりと言う音が聞こえる。
 フールーダの近くにいた高弟の1人が真っ青な顔で力なく、両膝を地面につけていた。いや、連れてこられた4人の高弟。ほぼ全員が同じような状態だ。真っ青な顔を驚愕という形に凍りつかせ、喘ぐような短い呼吸を繰り返す。

「ありえん。馬鹿な……いや、ありえん。あれはデス・ナイトなのか……?」

 まるで我を忘れたように、言葉をぼそぼそと呟くフールーダ。その光景は誰がどう見ても非常事態だ。フールーダの状況から騎士たちは危険と判断し、黒鎧に対して僅かながらの警戒態勢をとる。

 フールーダは信じられなかった。
 目の前での光景。
 自らがいまだ支配することのできない最強のアンデッドが、持ってきたテーブルを草原に下ろす姿は、まさにメイドのシモベのようだ。それが何を意味するのか理解できないほど、現実からは逃避してはいない。
 小船が嵐の日に波に弄ばれるように、フールーダは精神的は強い動揺によって翻弄されていた。
 しかしフールーダは鋼のごとき意志を取り戻す。
 その可能性だってあったのだ。ガゼフに匹敵するアンデッドを使役するという段階で。
 自らよりも上位の魔法使いには会いたかったのは、フールーダの願いだ。
 それがいま叶っただけじゃないか。そうやって必死に自らの心の安定を保つ。それができないフールーダの弟子たちは強いストレスから過呼吸を起こしていたのだが。

「どうした? じい」

 ジルクニフの心配そうな声。親しい人間の異常を不安がっているような態度は演技であり、その内面にあるのは、何が起こったのか説明しろという強いものだ。フールーダは普段であれば即座に説明をしただろう。
 しかし、今はそれがわずらわしい。お前に説明することすら時間が勿体無い。そういった態度を表に出し、フールーダはジルクニフを完全に無視する。それに驚くのは周囲の人間だ。
 自らの主君にそのような行為をとるのだから。

「問いたい! あれはデス・ナイトでよろしいのですかな?!」
「はい。左様です」

 フールーダの緊張したような声に対して、ユリの声は何も変わらない平然としたものだ。

「あれは、ゴウン殿の?」
「はい。アインズ様のシモベの一体です」
「なんと! あれをゴウン殿は支配しているというのか!」

 ここまでくれば周りで聞いている誰でも話の中身はわかる。つまりはあのデス・ナイトを支配するというのはフールーダをして偉業といえるのだろうと。
 では――では、だ。
 あれはどのように判断すればよいだろうか。

 ログハウスから再び、デス・ナイトがテーブルを持って出てくる。
 そして先ほどのデス・ナイトに渡した。それはバケツリレーと言われる行為に近い。無論、姿を見せるのは2体では終わりではない。計5体のデス・ナイトによるバケツリレーだ。

 フールーダの体が揺らぐ。
 その表情はあまりにも信じられないものを見たように、凍りついたまま一切動かない。

「あ……あ……」

 ぺたりとフールーダは地面に座り込む。その口を大きく開けた呆けたような表情で。

「フールーダど、殿?」

 騎士の1人が喘ぐ様に問いかける。問いかけたのは1人だが、周りにいた騎士全員の顔に同じようなものが張り付いていた。それは帝国最強とされる4騎士の上にもだ。
 フールーダはかの13英雄に匹敵するとも超えるとも言われる男。騎士からしてもその圧倒的な魔法の数々は驚愕に値し、帝国最大の守護者と尊敬するものは多い。そんな尊敬を一心に受ける男のその小さな姿。それは圧倒的な混乱を招くものだった。
 フールーダの瞳に力が宿る。しかし、その瞳には周囲の混乱は入ってこない。当たり前だ。それ以上に先に確認しなくてはならないことがあるのだから。
 フールーダはユリに問いかける。

「お聞きしたい。あ、あれも?」
「はい。アインズ様のシモベですが?」
「あ、ありえない……どんな魔法で……いや、私との能力の差……。質問が、ゴウン様は第何位階までの魔法をお使いになるのですかな?」
「それはアインズさまに直接お尋ねください」

 すっぱりと切り捨てるような冷たいユリの発言にフールーダの表情が凍る。
 そして沈黙が支配した。
 騎士たちは単なる一介のメイドの言葉とは思えず、ジルクニフは興味深げに、そして――

「ふふはははははは」
 
 ――それを破壊するように笑い声が上がる。心の底からの歓喜に満ち溢れた、この場には――そして今までのフールーダの行動からすればイメージに合わないそんな笑い。
 あまりの気持ち悪さにバジウッドは眉をひそめる。いま、そんな笑いを浮かべる状況だろうか。どう考えても警戒すべきタイミングであり、笑いは相応しくない。それともユリの言葉に、自らでは理解できない何かがあったのか。
 自らの仲間である他の騎士に警戒の合図を送ると、立ち上がったフールーダに近づき問いかける。

「フールーダ殿。ここは危険な場所なのか? 陛下の警護に――」
「――馬鹿が」

 フールーダがはき捨てるようにバジウッドに言い切った。罵声を飛ばされても、バジウッドは何も言えなかった。正面から見つめてくるフールーダの瞳に宿った危険な光、それに威圧されて。

「お前にはここがどのような場所か理解すらできていない。……桁が違うのだよ。あのデス・ナイト1体で軽く見ても騎士がどれだけ必要となるかわからない化け物だ。それを5体。お前たち4騎士が全力でかかって何とか1体受け持てて終わりだ。それすら感じ取れず、どのように警護するんだ? この状況下で守れると思っているのか? 武装を解いているからといってもその特殊能力はいまだあるのに?」

 英雄のオーラ。
 フールーダから叩きつけてくる気迫はまさにそれだ。ただ、心地よいものではない。
 宿った魔法の力は巨大であり、帝国最強の4騎士すら同時に相手にできる。そういう英雄たる人物の狂気が、まるで声とともに荒れ狂うようだった。
 騎士たちが鳥肌を立てたのも仕方が無いだろう。
 そんな中、ナザリックに所属する者、そしてジルクニフのみが平然としたままだった。

「しかし……デス・ナイトを支配する。それもあれだけの数を! 素晴らしい! 素晴らしい! こんな近くの地にかくも偉大な人物がいたとは! 素晴らしい! ふははははは!」

 瞳の端には涙があり、その顔には壊れたような笑いがあった。
 ――いや、違う。違うのだ。
 それは帝国の主席魔法使いという地位をかなぐり捨てた、魔法という深遠を覗き込もうとする1人の男の素顔だ。フールーダの英雄然とした表情の下にいつもあったものが、強大な魔法使いの存在を確認したことで剥げただけにしか過ぎない。

「陛下。さて、さてどうしますか? 転移の魔法を使って逃げますか? 今ならお逃げになることもできると思いますぞ? いやいや、この地の方が寛大であればですがね」

 フールーダの嘲笑を浮かべるような表情に、ジルクニフは笑いかける。

「そっちの顔の方が好きだぞ、じい。そして聞き返そう。俺が逃げると?」

 フールーダの顔に亀裂が走る。その裂けたような狂人の笑いは、見る者に恐怖を与えた。

「流石ですな、陛下。私と同じですな。私は見てみたい、会ってみたいですな。あのデス・ナイトを使役する稀代の大魔法使い。アインズ・ウール・ゴウン殿に」
「それほどか」

 1体ですら支配できないフールーダに対して、5体を支配するアインズ・ウール・ゴウン。単純に考えればフールーダの最低でも5倍は優れた魔法使いということになる。

「ははは、まさにそうですぞ、陛下。おそらくは私をはるかに凌駕するでしょう。私が生きているうちこれほどの力を持つだろう魔法使いに会えると思うと興奮しますな」

 フールーダの弟子たちはみな顔色悪く、騎士たちも自分たちがどんな存在の庭にいるのか悟ったようで顔色が悪い。平然としているのはジルクニフ、フールーダぐらいだ。

「陛下、どうすればいいんですか?」

 バジウッドが困惑したように、ジルクニフに問いかける。ジルクニフは全員を見渡す。
 フールーダや弟子たちは別としても、騎士たちの精神は徐々に張り詰められていっている。それはいつ切れてもおかしくは無いほど。これはかのフールーダの異常っぷりや、いまの話で聞いたデス・ナイトの強さ。そういったものによって対策がまるで浮かんでいないことに対する不安が起因している。
 抗えない死が近くにあるよといわれて、平然としてられるジルクニフが異常なのだ。ちなみにフールーダは魔法という叡智への興味が死への恐怖を凌駕している。

「どうしようもなかろう?」
「はっ? それでよろしいので?」
「……魔法に関してはもっとも詳しいじいがあれなんだ。もはやすべて向こうに任せるほかあるまい」
「逃げるとかどうですか?」
「逃げられると本気で思っているのか?」

 バジウッドは逃げる算段の相談が聞こえているにもかかわらず、平然と色々な準備を整えているメイドに目をやる。

「人質にとったらどうですかね?」
「取れるのか?」
「……無理っぽいですね」

 実際、取れそうな気がしない。バジウッドからすると、デス・ナイトよりもあの1人のメイドの方が底が知れない。他の3人の騎士たちもそれには同意の印を送ってくる。全力で戦いを挑んで、数十秒持ちこたえられるかなんて、馬鹿な想像をしてしまうほど。

「……準備ができました。こちらでおくつろぎください」

 その言葉に反応するように見れば、草原の上に椅子とテーブルが複数用意されていた。純白のテーブルクロスがかけられ、パラソルが影を作っている。荷運びをしていたデス・ナイトたちは全員、邪魔にならないようログハウス横に並んでいた。

「飲み物もご用意させていただきました」

 テーブルの上に置かれた、デキャンターには冷たそうな水滴が付着しており、中にオレンジ色の液体の揺らめきがあった。そしてその横には透明かつ薄いガラスで出来たであろうグラス。そのどれもが精巧な細工が施されていた。
 皇帝という最高級のものに包まれて暮らすジルクニフをして、驚きのために目を見開くほどのものばかりだ。

「それと何かございましたら、私どもにお声をかけてください、皆」

 ログハウスが開き、メイドたちが出てくる。あまりの美しさに、今まであったことを一瞬とはいえ忘れてしまうほどのメイドたちだ。
 ジルクニフたちは当然知らないが、ルプスレギナ・ベータ、ナーベラル・ガンマ、シズ・デルタ、ソリュシャン・イプシロン、エントマ・ヴァシリッサ・ゼータの戦闘メイド5人だった。

「ぐぶっ!」

 再び奇怪な声が漏れ、全員の視線が再びフールーダに集まる。フールーダはよろよろと歩くと、今回このためだけに強制的に呼び戻されたナーベラルに話しかける。

「……お、お1つ聞きたいのですが、よろしいでしょうか?」

 非常に敬意を込めた、礼儀正しい話し方だ。もしかするとジルクニフに話しかけるとき以上に心がこもっているような感じさえある。

「はい、なんでしょうか?」
「あ、ぁあ。アインズ・ウール・ゴウン殿――いや」フールーダは大きく頭を振った。「アインズ・ウール・ゴウン様はあなた様よりも上位の位階の魔法を使えるのでしょうか?」
「……はい。当然です」

 ナーベラルの目が動き、自らの何もしてない指を捕らえる。見れば僅かにそこには今まで指輪をしていたような跡があった。

「おお……。失礼ですが……あなた様は……第8位階は使えるのでは?」
「……左様です」

 その言葉を聞くとフールーダはよろよろとテーブルの所まで戻り、椅子にどすんと腰を下ろす。本来であれば最初に座るべき皇帝を差し置いての行為だ。誰かが叱咤してもおかしくは無いだろう。しかし誰も注意できない。
 フールーダのプルプルと肩を震わせながら、溢れている歓喜の笑みを手で覆うことで隠そうとしている姿。そしてそのメイドが言った第8位階魔法の行使を可能とするという発言。それがどれほどの意味を持つか、それがわからないほど馬鹿なものはこの場には来ていない。

 騎士たちが互いの顔を伺う。
 英雄たるフールーダが到達しているのが第6位階魔法。それを超越した領域にある第8位階魔法。それがどれほど桁が違うのか、理解は当然出来ないが予測は十分に出来る。
 それは単純に目の前のメイドはフールーダをはるかに超越した存在だということ。そしてそんな存在がメイドをしているというイカレた事実。
 もはやあまりの事態過ぎて頭が痛くなったとしてもおかしくは無かった。

「はははははっはっは! 凄い! 凄いぞ! もはや個人では到達できるはずが無い、第8位階の魔法を可能とする存在がここにいたんだ! 聞いたか、お前たち!」

 フールーダの狂気すら感じる視線が、自らの弟子たちに向けられる。

「メイドがだぞ! 久遠にも等しい寿命を持つドラゴンや、人間をはるかに凌駕する種族ではなく、単なる人間のメイドがだぞ! さらにアインズ・ウール・ゴウン様はそれを超える力を持つという!」

 フールーダは椅子からガタリと音を立てるほどの勢いで立ち上がり、小走りにナーベラルの前に来ると、膝を大地に付けて哀願する。

「おお! 早く、早く、アインズ・ウール・ゴウン様に会わせて欲しい。本当に少しでも良いから、その宿している魔法の力を愚劣なるこの身に授けてはくれないか!」

 フールーダは再び視線を自らの弟子たちに向ける。

「私たちは今、最高の伝説の場所に足を踏み入れつつあるんだ! 良いか! ここから瞬き1つもするな! すべてが宝だ! この地はまさに伝説の雰囲気を十分に宿している地だ!」 
「フールーダ、少し落ち着かないか!」

 流石にこの狂乱は看破できなくなったと、ジルクニフが声を張り上げる。一瞬、ジルクニフにも何か言いかけたフールーダの瞳にようやく理性の色が戻ってくる。

「フールーダ。勘違いするなよ? 今回は帝国として来たのだ。お前の魔法に関する知識を求めに来たのではないと」
「……陛下、失礼しました。少々興奮してしまったようです。皆様方にも失礼しました」

 フールーダは立ち上がり、ペコリとメイドたちに頭を下げた。

「そうだぞ、じい。飲み物でも飲んで、少しは落ち着け。さて、いただけるかな?」
「畏まりました」

 ジルクニフの前に置かれたグラスに、ユリによって金色の液体が注ぎ込まれる。周囲には柑橘系の甘い香りが漂いだした。
 果実水をジルクニフは一口含む。そしてその美味さに笑いを浮かべてしまう。それは今まで自分が飲んできた飲み物は何だという笑いだ。そして回りでも騎士たちが驚きの表情を浮かべている。皇帝と言う贅を尽くしているジルクニフですら驚いたのだ、騎士たちの驚きはジルクニフの非ではないだろう。事実、礼儀というものを忘れて、勢いよく飲む者の姿は珍しくは無かった。
 そして口々に驚きの声が上がっていた。

「美味いぞ」
「なんだこの飲み物。酸味と甘みがちょうど良いところで調和している」
「喉越しが最高だ。口の中にしつこい甘みが残らない」

 そんな驚きの声を耳にしながら、再びジルクニフも飲み物で喉を潤す。
 ナザリックは飲み物すら最高だというのか。ジルクニフは苦笑いを浮かべる。飲み物1つに敗北感を強く抱かせてくれるとは、という思いと共に。

 日差しを避けながら、草原を走る風の音を聞くという時間をどれだけすごしたか。やがてユリがジルクニフが望んでいた言葉を告げた。

「お待たせしました。アインズ様の準備が整いましたので、こちらにどうぞ」





 半球状の大きなドーム型の部屋に到着したジルクニフの前には、巨大な扉が鎮座していた。3メートル以上はあるだろう巨大な扉の右の側には女神が、左の側には悪魔が異様な細かさで彫刻が施されている。そして周囲を見渡せば、禍々しい像が無数に置かれている。
 タイトルをつけるなら『審判の門』とかどうだろう。ジルクニフは門を眺めながらそんなことを考えてしまう。

 大きな室内は沈黙が支配し、静寂が音として聞こえてくるぐらいだ。
 そう。ここまで連れてこられた誰もが何も言葉を発さない。時折動きに合わせて起こる鎧の金属音ぐらいが唯一の音だ。
 騒がしくしないのが礼儀だとかの以前に、ここに来るまでに目の前に広がってきたあまりにも美しすぎる光景に、全員が魂を引き釣り出されていたのだ。
 まるで神話の世界、神々の居城。
 そんな言葉が相応しい光景を前に、飲み込まれないようにしろと言う方が酷だ。実際、ジルクニフですら、きょろきょろと歩きながら周囲を見渡してしまう衝動は抑えられなかった。
 それほどの世界が広がっていたのだ。

 ジルクニフは肩越しに後ろ――ここまで付いてきた自らの配下の者を見る。
 バジウッドら4騎士、それに選ばれた精鋭騎士10名。フールーダに高弟4名。秘書官であるロウネに、その部下2名。計22名。
 その誰もが肩身を狭くしている。
 自らの矮小さを強く実感させられる、帝国の贅を集めたとしても作り出せない通路を通ってきた結果がこれだ。
 もはやナザリック大地下墳墓という場所、そしてアインズ・ウール・ゴウンという人物に対して浮かぶイメージは巨大すぎて、形容しがたいものとなっていた。
 それも仕方ないことだろう。
 ジルクニフは自嘲げに笑みを浮かべる。優れたものに頭を下げるのは人間として当たり前の行為だ。これほどの建築物――華美な調度品を前に、敬意を示さない人間のほうがどうかしている。

「困ったものだ」

 ジルクニフは呟く。
 この扉を奥に待ち構えるアインズ・ウール・ゴウン。
 フールーダをしのぐ強大な魔法使いであり、おそらくは歴史上においても類を見ない存在。居を構えた場所の華美さは人間の想像を超え、付き従う者も強大な力を持つ。
 いうならありとあらゆる力を持つ存在だ。

 王国が引き込む前に、自らの陣営に入れたい。そう考えていたころの自分を嘲り飛ばしたいものだ。

 金銭で引き込むのは無理。
 力でも無理。
 異性でも――ユリらメイドを頭に浮かべて――無理だろう。まぁ男と仮定してだが。
 地位や権力などをこれほどの居住区を持つ者が必要とするはずが無い。
 ならば何を欲するか。

 ジルクニフには想像も付かない。人がイメージできる欲望では、アインズ・ウール・ゴウンを動かすにたるものになるのか。これほどのものを持っていて、ジルクニフが提示できる程度のもので心を揺らがせられるのか。

「……難しいかもしれんな」

 ジルクニフはアインズ・ウール・ゴウンという人物に対して取るべき手段を頭の中で無数に考える。結論は処置なし。敵対的な状況下に持っていかないようにするのが、最も賢いという答えに行き着く。
 そんな思いを含んだ声は、ぼそりと発せられる。ジルクニフが思ったよりも大きく響く。
 しかしそれに反応するものはいない。それほど皆、周囲の世界に引き込まれているのだ。

「ではこの奥が玉座の間となります。アインズ様はそちらでお待ちです」

 ユリがこれで自分の仕事は終わりだと、深い一礼をジルクニフたち一行に向けた。

 その言葉を待っていたのか、その扉はゆっくりと開いていく。誰が押し開けているのでもない、重厚な扉に相応しいだけの遅さで開いていく。
 幾人かが息を呑む。それも数人単位ではない、おおよそ十数人以上。この場に来た人間の大半が行う。それは覚悟を決めてなかったための動揺の現れ。逃げたいという気持ちの結露。この扉が開かないことを望んでいた者が多くいたということだ。
 だからこそ、扉が自動的に開いていったことを感謝するべきだろう。もし覚悟を待っていたら、いつまでも開くことが出来なかっただろうから。

 そこは広く、高い部屋だった。壁の基調は白。そこに金を基本とした細工が施されている。
 天井から吊り下げられた複数の豪華なシャンデリラは7色の宝石で作り出され、幻想的な輝きを放っていた。壁にはいくつもの大きな旗が天井から床まで垂れ下がっている
 玉座の間という言葉が最も正しく、それ以外の言葉は浮かばない部屋だ。
 そしてそこから吹き付けてくる気配に、ジルクニフたち一行は顔色を一瞬で青よりも白に染め上げる。

 中央に敷かれた真紅の絨毯。その左右に並んでいるのは形容しがたいほどの力を感じさせる存在たちだ。
 悪魔、ドラゴン、奇妙な人型生物、鎧騎士、二足歩行の昆虫、精霊。大きさも姿もまちまちな、ただ、その内包した力だけは桁が違う存在。そういったものが左右に無数に並んでいたのだ。数にしておおよそ、100は超えるだろうか。
 その者たちがジルクニフたちを無言で見つめてくる。ある種の階級や権力を持つ人間はその瞳に力があるとされるが、物理的な力を持って押し寄せてくる気がするのは、ジルクニフをして初めてだった。

 ジルクニフの後ろから聞こえてくるのは、掠れたような悲鳴。小刻みに揺れる金属音。
 それは部下たちが恐怖を感じていることを示す印。

 しかしながら、正直に言おう。
 ジルクニフは自分の部下が恐怖を顕わにすることを叱咤する気は無く、逆に誰一人として逃げないその心を褒めてやりたい気持ちで一杯だった。これほどの存在――人間として潜在的な恐怖を抱いてしまう上位存在を前に、逃げ出さないということを。

 ジルクニフはアインズ・ウール・ゴウンに対して考えていたレベルを十数段階上昇させる。今まで警戒し、上方修正してなお甘かったと知ったために。もはやアインズ・ウール・ゴウンという存在に対しては帝国存続とか言うレベルではなく、種――人間のみならず亜人などの種族存続規模の存在だと判断している。

 ジルクニフの視線は絨毯の先へと動く。
 そこは階段があり、左右に幾人かが並んでジルクニフたちを眺めている。ナザリック大地下墳墓の、アインズ・ウール・ゴウンの側近だろう。それはダークエルフ、銀髪の美少女、白銀の直立する昆虫、そして悪魔。
 そして――

「あれが……」

 水晶で出来た玉座に座り、異様な杖を持ったおぞましい死の具現。
 骸骨の頭部を晒しだした化け物。
 まるで闇が一点に集中し、凝結したような存在。

 ――あれがアインズ・ウール・ゴウン。

 頭部には見事な王冠のようなものを被り、豪華な漆黒なローブを纏っている。指では無数の指輪が煌く。これだけの距離があってなお、身を飾る装飾品の値段は、帝国の一年間の国家予算をして足りないだろうと、ジルクニフは悟る。
 アインズ・ウール・ゴウンの頭蓋骨の頭部には、流れ出したような血にも似た色の光が空虚な眼窟の中に灯っている。その血色の灯火がジルクニフたち一行を舐めるように見渡しているのが感じ取れた。

 人でないという事実に驚きはこれっぽちも無い。逆に人間でなくて良かったという思いが湧き上がる。
 人間でない化け物だからこそ、桁外れの超越者だと強く実感できるのだ。

「ふぅ」

 ジルクニフは薄く息を吐き出す。それは覚悟の吐息。
 ここまでで扉が開いてさほど、時間がたっているわけでは無い。何もおかしくない程度の時間だろう。しかし、いつまでも入り口に突っ立ているわけにはいかない。だから――踏み出す。

「行くぞ」

 後ろの者のみに聞こえるような小さい声を発する。見ている者はジルクニフの口が動いてないのに、言葉が出たことに驚くだろうか。これは魔法とかではなく、ある種の単なる特技である。こういった場においては重宝する特技でもあった。
 ただ、ジルクニフの言葉に反応し、動き出そうとする気配は感じ取れない。

 仕方ないか。

 ジルクニフは考える。アインズ・ウール・ゴウンの前まで行くということは、左右を並ぶ異形の者たちの前を通るということ。恐らくは襲われないと知っていても、あれほどのモノの前を歩くのは勇気が要るだろう。
 襲われないというのは楽観的な判断ではない。
 今回のように玉座の間が使われるというのは、大抵が儀式的な面を持ち、国威を示すという理由であるというのは誰もが知る事実だ。そういったときでない場合は、もっと小さい場所を使うのが一般的である。つまりこの場所を選んだということ自体、ナザリックの力を見せ付けるという狙いがあり、本気でこの場で殺すつもりは無いということの証明になる。

 そしてその異形を抜けた先にいる者たち。その者たちの内包する力は桁が狂った領域。
 最後、玉座に腰掛ける――アインズ・ウール・ゴウン。

 ようやく悟る。
 ジルクニフは心の底から悟る。あれが『神』とか言われる力の存在なんだろうと。精神防御のアイテムをしてなお、感じ取れるプレッシャーの桁は違う。油断すればこの鮮血帝と言われた男ですら膝を折ってしまうだろう。

 だから行かねばならない。

 ジルクニフがアインズ・ウール・ゴウンを観察したように、あちらもジルクニフを観察しているのだ。ここで評価が失格であれば、今後帝国の運命はどうなるか。最低でも多少の価値はあると知ってもらい、帝国の存続に繋げなくてはならない。
 厭世気味であり、自分の命すらチップに出来ると思っていた男が、このざまとは笑えてくる。
 ジルクニフは嘲笑する。今まで自分は圧倒的な強者を知らないがゆえに、上から見下ろすように行動していただけ。子供の幼さで斜に構えていただけと悟り。

「行くぞ!」

 ジルクニフは歩を進めだす。後ろの気配が追従するのを感じ取る。
 柔らかな絨毯だが、今のジルクニフの気分からすればあまりにもふわふわしすぎている。
 無数の吹き付けてくる気配を受け流し、ジルクニフは前のみ――アインズ・ウール・ゴウンから目を離さずに歩き続ける。もし目的の人物から目を離したら、足運びが止まってしまうだろうと直感しているためだ。

 ジルクニフは別に戦士として優れているわけではない。騎士たちが怯えるこの中を歩けるのは、単に慣れであり、皇帝としての行き方で培った精神力だ。

 やがて階段の下まで到着する。
 本来であればこちらの身分を名乗るであろう者がいるのが基本だが――。

「アインズ様。バハルス帝国皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。お目通りをしたいとのことです」

 玉座に最も近い位置に立つ悪魔の言葉に、死をモチーフに神々が作り上げたような者は口を開く。

「良くぞ来られた、皇帝よ。私がナザリック大地下墳墓主人、アインズ・ウール・ゴウンだ」

 思ったよりもまともな――人間に近い声だ。ジルクニフの心に少しばかりの安堵が生まれる。
 例え、伝わると言っても虫のキチキチ鳴くような声だった場合、その中に含まれる感情を理解するのは難しい。確かに抑揚の無い声ではあるが、これなら人間の常識で含まれた思考を読める可能性があることを知って。

「歓迎を心より感謝する。アインズ・ウール・ゴウン殿」

 骸骨の顔であるために表情はさっぱり分からない。どういった口火の切り方がもっともこの場には相応しいのか、ジルクニフは考え込む。そんな空白の時間を切り裂いたのはジルクニフでもアインズでもない。

「アインズ様。下等なる種である人ごときが、アインズ様と対等に話そうというのは不敬かと思われます」悪魔の言葉は続く。「『ひれ伏したまえ』」

 ガシャンという金属音がジルクニフの背後から無数に聞こえる。確認せずとも想像は付く。自らの臣下が悪魔の言葉に従ってひれ伏しているのだろう。必死に立とうとしているのかうめき声のようなものが聞こえる。
 おそらくは強力な精神攻撃による強制効果。
 ジルクニフの肌に付くように首から下げられているネックレスが無ければ、自らもひれ伏していたことが予測できる。
 たった1人ひれ伏さないジルクニフに無数の視線が集まる。実験動物を観察するような、そんな冷たい目だ。

「――よせ、デミウルゴス」
「はっ」

 デミウルゴスという名の悪魔が頭を下げる。

「……ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス殿。遠方より来られた君に対して、部下が大変に失礼な行いをとった。勝手な行いとはいえ、部下を御せなかった私の不徳、許していただけると嬉しいのだが?」

 ジルクニフの心に警戒と安堵が同時に吹き荒れる。警戒はアインズ・ウール・ゴウンが力のみで行動するタイプの存在で無いと知って。安堵はアインズ・ウール・ゴウンが力のみで行動するタイプの存在で無いと知って。

「無論。主人の意を勘違いし、部下が暴走するのは良くあること。もしかすると、私――帝国の人間も同じようなことをやっている可能性がある。その時はアインズ・ウール・ゴウン殿の寛大なお心に慈悲をお願いしたもの」
「おお。了解した。この私の名で寛大な処置を行おう」
「感謝する」

 まずはここでワーカーが侵入したというカードを1枚切ってくるとは。やはりこの化け物は頭も切れる。だが、すべてはここからが勝負だ。
 ジルクニフは決意を固める。おそらくは今まで行ってきたどんなことよりも危険で、そして――楽しい交渉の始まりだ。強さでは勝てない。しかし、人の知恵を思い知らせてやる。
 その覚悟が正面から、強くアインズ・ウール・ゴウンを直視する力へと変わる。
 アインズ・ウール・ゴウンが僅かに驚いたような行動を取ったのは、人の勇気を知ったからか。そうジルクニフは考える。

 両者の視線が交わる。
 そしてジルクニフは今まで浮かべていた堅い表情を壊し、朗らかな――親しみを込めた笑顔を見せた。

「アインズ・ウール・ゴウン殿。貴方に会えた事を……神に感謝してもよろしいかな?」

 アインズ・ウール・ゴウンが息を吐き出す。まるでここからが本番だと活を入れるように。

「……随意に。私個人は神なぞは信じないが、だからと言って君の信仰の邪魔をしようという気持ちも無い」
「……神は信仰しないのか?」スレイン法国に伝わる神とは関係が無いのかとジルクニフは考える。「……それならば勝手に感謝させてもらうよ。さて、話をする前に私の名前は少々長いので、そうだな……親しみでも込めてジルクニフと呼んでもらえれば幸いなんだが?」
「……そうかね? ではジルクニフと呼ばせてもらおう。私はアインズでかまわないとも」
「感謝するよ。アインズ」

 親しみを込めたジルクニフに対して、アインズは観察するように会話を続ける。

「アインズと言う絶対的支配者に会えたことは、私にとって本当に感謝すべきことだよ。私も皇帝として、上に立つ者として色々な重圧を感じるときがある。貴方はどうかな?」
「確かに感じるときがあるな」
「……そうか。では同じような……当然貴方の方が上だとは思うが、同じような重圧を持つ者として友好を深めたいのだが?」
「……それは?」
「友となろうじゃないか」

 ある意味傲慢な言葉に、玉座の間の空気が重くなったようだった。しかしジルクニフはその表情を変えることなく、ただアインズを見つめる。
 それを受けて、玉座に腰掛けたアインズはゆっくりと姿勢を変える。その骨の指を頬に当て、しげしげとジルクニフを眺め返す。

 ボールは放った。次はそのボールをアインズがどのように扱うかだ。

「……友か」

 アインズの声にあるのは僅かな笑い。それを受けてその横に立つ者たちも微妙な表情を浮かべた。圧倒的弱者が圧倒的強者に対しての言葉ではないから。

「従属の間違いじゃありんせんの?」

 鈴を転がすような音色が響き、そのあとミシリという音がした。銀髪の少女が微妙に表情を歪め、その横に立つダークエルフの少女が呆れたような顔をしていた。ジルクニフの動体視力では何が起こったか理解はできなかったが、まるでダークエルフが銀髪の少女に蹴りを入れたようだった。
 そんなことを視界に留めながらも、アインズは無視を決め込み、それから口を開く。

「友か……良いじゃないか。友となろう」

 かすかな動揺をジルクニフは肌に感じる。ナザリックの者たち、そして自らが引き連れて来た部下達のものだ。それは劣等な存在に対して、アインズが友と認めたことに対する感情の吐露であろう。
 それと同時にジルクニフはアインズという存在に対して、底知れない恐怖を感じた。アインズの返答はジルクニフにしても意外過ぎたのだ。

 何故、友となる。
 何故、従属を要求しない。
 絶対的強者――圧倒的立場な者が、何故受け入れる。

 従属を要求すれば、そこから無数の手段を取れるよう思案していた。友となるという返答は、ジルクニフのそれらの予測の範疇には無い。
 何故、友となることを受け入れたのか。まさか本気で友達になろうと受け入れたはずが無い。では何が狙いか。
 ジルクニフにはアインズの思考を読みきることは出来ない。
 
 ただ強者と戦う際、足を払う方法を考えるのが弱者の戦い方である。それは強者の驕りを利用しての戦い方ともいえる。しかし、強者が決して驕らない存在だとしたら、その戦い方は出来ない。
 弱者唯一の戦い方は意味をなくすのだ。
 アインズはまさにそれだ。強者としての驕りを感じさせる行動を取らない。

 そこまでを考えて、ジルクニフの動きを牽制する意味での行動だろうという可能性が浮かぶ。
 強さだけでは無い。
 ジルクニフはアインズという存在が恐ろしいのは、その内包したであろう力のみならず、その叡智だと強く認識する。

「感謝するよ、私の新たな友アインズよ」
「よいと言うことだ。私の新たな友ジルクニフよ。それよりは本題に入ろうじゃないか。私の寿命は長いが、君たち人間の寿命は泡沫の夢のようなものだろう? あまりくだらない話で時間をつぶす必要も無かろう。さて、ここには何用で来たのかね?」

 ここからが本番だ。
 ジルクニフは今までの短い時間で無数に立てた計画のうち、最善と思われるものを用意する。

「君が素晴らしい力を持った人物であり、本当は私の部下にならないかと声をかけに来たつもりだったんだが、その考えは破棄させてもらうよ。その代わり……ここに国を作らないか?」
「……ほう?」
「この地に君の国を作り、君が王となって支配する。とても素晴らしいことだと思うし、君に相応しい地位だと思うんだ。そして私達帝国は君を最大限バックアップして、この地に建国する手伝いをしたいと思う。どうだろう?」

 アインズの横に立つ者たち――コキュートスを除いて――の顔に感心の表情が浮かんだ。己の主人に相応しい地位だという判断からだろう。
 そんな者たちを視界に捉え、ジルクニフは大したことが無いと考える。やはり警戒すべきはアインズただ、1人。
 返答をせずにジルクニフを黙って眺めるアインズがやがて口を開いた。

「……ジルクニフよ。君にメリットがあるようには思えないのだが?」

 予測された答え。だからこそ、ジルクニフは心の底からという演技で答える。

「帝国は君がこの辺りに国を作ることを支援する。そうすれば君たちも感謝してくれるだろ? 君たち――アインズの支配する国と私の帝国、友好的な同盟国となりたいのだ。将来を見越してね」

 納得のいく答えのはずだ。返答はいかに。
 ジルクニフはアインズという存在が罠に嵌ることを祈る。
 そして――

「いやそれには及ばない。それより私は、ジルクニフ――君の下に跪こう」

 言葉にならないどよめきが起こった。ナザリックに属するものたちから吹き上がったのは動揺であり、驚愕であり、自らの主人が下につくということに対する憤怒だ。ジルクニフが何からの魔法的手段を用いたのではと、勘ぐる者たちもいた。
 デミウルゴスですら、驚愕に目を見開き、アインズの顔を眺めたほどだ。

 この中にあって、アインズの言葉に驚愕とは違う反応を示したのはたったの1人――遅れてもう1人の2人だった。
 1人はジルクニフ。遅れて別の反応をしたのはデミウルゴスだ。
 両者とも表情には何も出てはいない。すべては瞳の奥、ほんの少しだけの感情の発露にしかその変化を映し出さない。しかし、その2人に浮かんでいるのはまったく違ったもの。
 ジルクニフは策を見破られたことに対する憤怒。
 そしてデミウルゴスは驚愕のあとは感心であり、尊敬だ。

「……何を言う、アインズ。君は誰かの臣下になるような男ではない。それよりは上に立つべき人物だよ」
「……感謝するよジルクニフ、そう言ってくれて。では君の下に跪いたことにしてくれないか。実際は友人だし対等ということでね」
「…………っ!」

 友人という関係をここで利用するかと、ジルクニフは舌打ちをしたい気持ちを押さえ込む。
 アインズは今までの交渉の流れで、友人というものは地位を越えたものだと提示してきている。実際、これだけの力の差がありながら、対等の交渉をしているのは友人だからだと言われてしまえば、確かに反論のしようが無い。
 そうやって来ているのに、今更こちらから先ほどの話とは別に、主従関係はしっかりやろうなんて言えるはずが無い。第一友人としての関係を望んだのはジルクニフなのだから。
 この化け物。
 ジルクニフは親しみを込めた笑みの下で、アインズに対する無数の呪詛を吐き出す。

 初めてナザリックの者たちにあった動揺が和らいだ。そんなジルクニフの僅かな変化を悟って。

「――し、しかし」
「――私はね、ジルクニフ。君たちの力を借りるだけ借りて作られた国に価値は無いと思うのだよ。それに君に悪いではないか。帝国という力を借りるだけ借りて、メリットがそちらにあまりに無いのでは。君は友人と言ってくれたね? 私に国を――領土をくれるというのならば、代価として君の下につこう。それなりの地位があればその辺にでも据えてくれると嬉しいのだがね? 帝国の傘下ということになっている私に」

 黙ったのはジルクニフだ。圧倒的に有利な言葉を引き出したにも係わらず、何も言うことができないという状況下だ。その異様さはその場にいるすべてのものに伝わる。
 一体、何があったのか。
 アインズの言葉にはどういった意味があったのか。
 領土をくれるなら配下として従う。極当たり前のことであり、そこに変な部分は一切無い。確かにアインズという力ある存在が、人ごときの下に付くというのは違和感があるが。
 ジルクニフの沈黙をアインズはどう受け止めたか。じれたように再び口を開く。

「私が君の下につくといっているのに、何か問題でもあるのかね? 私の友よ」

 その言葉にジルクニフは覚悟を決め、同意する。
 ジルクニフにとっては脅しにしか聞こえない言葉を前に、抗う手段を持たなかったのだ。

「……いや、何も問題は無いとも。君という人物が帝国の中に入ってくれことほど嬉しいことは無いよ、友よ。では地位の件だが、辺境伯ということでどうだろう?」

 皇帝の血を引く分家筋が公爵となり、その下が侯爵、伯爵、子爵、男爵と次ぐ。辺境伯は帝国では侯爵に順ずる地位を持つ。いうなら皇帝の血を引かない――婚姻関係によって流れている場合は多いが――貴族階級での最上位だ。
 独自の軍事力と、広大な領地、ある範囲においては帝国の定める法律以外の法を定める権利を有している貴族。そう考えるとアインズには相応しい地位だ。

「……辺境伯は何人帝国に何人かはいるのかな?」
「今では2人だね」

 辺境伯は鮮血帝の時代になってから、その保有する力のために解体されてきた貴族の位階でもある。ジルクニフが皇帝になった時には5人。帝国の周囲を守るようにいたのだが。

「ならば私が3人目の辺境伯になるわけだ? そんなにいるものなのか……」
「……そうだが?」

 なぜそのようなことを言うのか。言葉にするまでも無く、当たり前のことを。
 そこまで考えたジルクニフはアインズの狙いを読み取る。先ほどの『対等』という言葉をここで示せということだろう。

「……確かに辺境伯はほかにもいる。それでは君に送る地位としては確かに不足だね。私のもっとも親しい友人である君には……新しい地位である辺境侯を作って送ろう。それではどうだろう?」

 辺境伯自体が侯爵と目されるので、それを考えれば呼び名が変わっただけにしか過ぎない。しかし、その呼び名と言うのは重要な意味を持つ。つまりはジルクニフはアインズという人物が特別な地位を作って送るだけの存在と、高く評価しているということを内外に示す働きを持つからだ。
 順位的に考え辺境伯が侯爵に順ずるなら、辺境侯は公爵に順ずると考えても、多少は屁理屈が入るがおかしくは無いだろうし、それを聞いた貴族たちはそう思うだろう。
 皇帝の血族たる公爵と同格。そして保有する戦力を考えればそれ以上の存在。つまりは皇帝に限りなく近い地位と帝国の貴族であれば思っておかしくは無い。
 それはアインズが暗に要求していただろう地位に相応しい、とジルクニフは考える。

 アインズは沈黙する。
 その特別に作った地位でも満足できないのかとジルクニフが思い出したとき、アインズは口を開いた。

「そうか……新しい地位か。……誰をお手本にして良いやら」

 支配者の貫禄を持つアインズが今更とジルクニフは考え、その言葉が臣下としてという意味を含んでいると言うことに気づき、苦笑いを浮かべる。

「はっはっは。厳しい冗談が上手いな。普通に辺境伯と同じようにしてくれれば良いよ。それにある程度は私と同等ということを匂わせよう」
「……ああ。……了解した。君の臣下として最低限の忠誠を周囲には知らしめるつもりだが、ジルクニフがそうしてくれると厄介ごとに巻き込まれないですむ。……頭を下げたことが無いので、上手く臣下としての礼儀を尽くせる自信が無いのでね」
「理解したとも。その辺りは私からもサポートする者を送ろう」
「……そうしてくれると嬉しいな。さて話は変わるが、私の知っている辺境伯……辺境侯と帝国の定める辺境侯が同じものなのか、その辺りの相違が無いか確認が必要だと思うが、どうだろう」
「その通りだとも。領土を得た際の税など、帝国の定める法律は知ってもらわなくてはならない。その辺りの詳しい説明は必要だと思うね」

 辺境伯と言うのは他の国にもいるが、当然微妙な違いは存在する。下手すると国によっては独立国と同じ扱いになる場合もある。それに辺境侯という地位を作るなら、帝国貴族階級に組み込んで色々と細かな調節を定める必要がある。

「なるほど。ではその辺りは私の側近――デミウルゴス辺りに任せよう」
「了解した。彼だな」ジルクニフが視線を送ると、デミウルゴスはやわらかい笑顔を見せる。「その辺りは細かく決めるとしよう。私はすぐに帝国に戻り、君という新たな貴族の誕生と、この地を占領するための宣戦布告を王国に対して行うつもりだ。それでアインズ・ウール・ゴウン辺境侯でゴウン辺境領だね。帝国の領土としての準備を整えておこう」
「いや、アインズ・ウール・ゴウン辺境侯にアインズ・ウール・ゴウン辺境領で頼む」

 ジルクニフは微妙な表情を浮かべた。

「ゴウン辺境領では駄目なのかね?」
「駄目だな。正式な名称はアインズ・ウール・ゴウン辺境領だ」

 ぶっちゃけ変な名前だ。どこに自分のフルネームを領土に付ける者がいると言うのか。しかし、そこにこだわるところを考えると、譲れない線なのだろうと判断は付く。

「……まぁ一度もないと言う事は無いから、それでいこうか」

 狂人とかの類がそういった行為に出たことはある。それと勘違いされないよう、貴族には内密に知らしめておく必要があるだろう。
 下手な噂――侮辱する類のものでもされて、アインズの耳に飛び込んだりしたら厄介だから。

「納得してくれて嬉しいよ。それではよろしく頼むよ。何か協力できることがあれば、言ってくれると嬉しいのだが?」
「……即座には浮かばないな。ただ、こちらの使者を置かせてもらえる場所など、君と直ぐに連絡を取れる手段の確立したいのだが?」
「……了解した。その辺りは検討しておこう」
「ならば私の秘書官を置いておくので、その辺りのすり合わせをお願いしても良いかな?」
「ああ。構わないとも」
「では……ロウネ・ヴァミリネン!」
「――はい!」

 デミウルゴスの支配の呪言によって、いまだ床に平伏していたロウネが声を上げる。

「私の新たな友であり、帝国の新たなる辺境侯に詳しい帝国の法律などを教えてさしあげろ。今日から残ってな」
「…………ぁ」
「どうした? ロウネ」
「い、いえ、何も私でなくてもと思いまして。後日他の者を――」
「ロウネ。お前の仕事だ」

 ジルクニフの拒絶を許さぬ言葉に、ロウネが絶望に満ちた顔をしてから、力なく返答をする。

「……畏まりました」
「ではアインズ。彼が教えてくれるはずだ」
「そうかね? では先ほども言ったようにデミウルゴスだ。彼に教えてやってくれ。それとデミウルゴス?」
「はい。『自由にしたまえ』」

 支配の呪言の消失に伴い、今まで襲っていた重圧が解かれたことに対して、安堵の息がジルクニフにも聞こえてくる。

「さて、友よ。帝国まで戻るということだが、もし良ければ私が――いや私の手の者が送っても構わないが?」

 アインズの提案に少しばかりの好奇心が湧き上がる。しかしジルクニフはそれを振り払った。それだけのはずが無いのだから。

「好意、感謝するよ。しかし、一応馬車で来た身だ。最後まで馬車で行動するとしよう」
「アンデッドの首なし馬などなら休み無く……」
「……すまない、友よ。ほんと気持ちだけで感謝するよ」
「そうか?」

 わずかばかりの残念さは演技なのか、本心なのか。ジルクニフには検討もつかない。まぁ、演技の可能性は濃厚だ。アインズという存在が帝国に入った、皇帝の近くにいるということを帝国内に宣伝する目的だと考えるのが妥当だろうから。

「ではこれで帰らせてもらおう」
「折角だから一晩ぐらい泊まっていかないか? 色々歓迎しよう」
「いや、それには及ばないとも。即座に帰って色々と行動に移さないとね」
「そうか? 本当に残念だ。デミウルゴス……お客様を外まで送って差し上げなさい」

 軽い口調でアインズはデミウルゴスに命令を飛ばす。本当に友達を外に見送るようにという軽いもの。しかし、それは2人からすればその中に含まれた本当の意味を直感するには充分だ。
 デミウルゴスが本心から微笑を浮かべる。想像も付かないような邪悪を浮かべて。

 ジルクニフは肌が泡立つのを押さえ込めなかった。
 自らには効果は無くても、デミウルゴスの言葉には強制効果がある。それを使って連れて来た臣下に何かを仕掛けるつもりだろう。宿泊を勧めたこともその一環。
 友となり、辺境侯の地位を得、帝国に入り込んだ直後から蠢動するという気を露骨にこちらに叩きつけるとは。
 無論、あくまでもこれは誇示に過ぎないのだろうが。

「いや、結構だよ。即座に色々と行動するから」

 アインズは不思議そうに頭を傾げた。
 ――わざとらしい真似を。ジルクニフは微笑を浮かべた顔の下で、憤懣を必死に抑える。

「そうかね? まぁそれならば良いのだが。では外で待機ししているだろうメイドに言うと良い」
「ありがとう、友よ」
「気にするな、友よ」

 ジルクニフがアインズに背を向けた瞬間、いままで平伏していた1人の男が立ち上がった。

「アインズ・ウール・ゴウン様! 1つ、お願いが!」

 血を吐きそうな真剣な叫びを上げたのは、フールーダである。誰もがいきなりの展開に驚く中、再び声を張り上げた。

「何卒! 私のあなた様の弟子にしてください!」

 玉座の間が静まりかえる。
 初めて困惑したようにアインズがジルクニフを眺めた。
 流石にこの展開は予測していなかったのだろう。ジルクニフはわずかばかりに胸がすく思いだった。

「すまないが、彼は何者かな?」
「ああ、帝国の主席魔法使いを任じられているフールーダという」
「フールーダ・パラダインと申します。アインズ・ウール・ゴウン様」

 深々とフールーダは一礼をする。それはジルクニフにすら見せたことの無い、真摯で忠誠心に溢れたものだった。

「私はゴウン様の偉大な魔法の力に魅せられ、その強大な力を一端でも欲するものです。この全てを捧げる代わりに、ゴウン様の叡智、そして魔法の技を伝授していただければと思います! 何卒、お許しくださいますよう、お願いいたします」

 フールーダはそこまで言い切ると、跪き、頭を垂れる。床の赤い絨毯に額が沈んでいる。
 アインズは困惑したように、杖を数度撫でると、ジルクニフに問いかける。

「……どうすれば良いかな、ジルクニフ。私は問題ないのだが、彼は君の国でも指折りの存在だろ? それを勝手に弟子にするわけにはな」

 アインズからボールを放り投げられたジルクニフは跪いたフールーダを眺め、即座に判断する。
 フールーダという人物を失うのは惜しい。フールーダを有効に活用すれば一軍に匹敵する戦力になるし、その叡智は帝国随一だ。しかしこの場で拒否すれば、フールーダは絶対に恨みに思うだろう。
 下手したら潜在的な敵を作り、アインズの弟子となるために帝国を売り渡すような行為に出る可能性だってある。
 出来ればフールーダなみに――後継者が生まれるまで待てと言いたいところだが、それがいつになるか不明瞭だ。そこまで考えれば即座に決断することで度量の広さを見せて、フールーダに対する貸しとすべきだ。

「いや、構わないとも。フールーダ。お前の主席魔法使いの任を解く。つまりはもはや帝国の臣下ではないと知れ」
「おお、陛下。感謝します」
「え? そんなんでいいの?」ポツリとアインズの呟き。しかしそれは誰の耳にも入らずに、中空に消えていった。「……デミウルゴス」

 アインズの呼び声にデミウルゴスは一礼で答える。

「……どう思う?」
「……と言いますのは?」
「うむ……なんというか……」

 アインズは言葉を濁す。その姿に僅かにジルクニフは安堵する。先ほどまでの謀略家としての姿は無く、困惑した1人の人間のようだったために。

「そうだな……。単なる人間ごときに私の叡智を受け止められると思うか?」
「問題ございません!」叫んだのはフールーダだ。「確かにゴウン様の深淵なる叡智をすべて納められるとは思ってもおりません。ですが、その欠片でも得ることができれば、この身、それ以上の喜びはありません!」
「……弟子となるからには、私の命をき――」
「はい! ゴウン様に全てを捧げて、教えを請いたいと思っております」
「うむ……」

 アインズはまるで反対意見を探すように周囲を見渡す。

 シャルティアは何でか優越感に満ちた顔をしている。
 アウラは当然だよね、と今にも言いそうな顔だ。
 コキュートスは――虫で微妙にわからない。
 デミウルゴスは無表情だが、先ほどの答えを考えればアインズに任せると言うところだろう。

 結局反対意見っぽいものはなさそうだ。そう判断したアインズは1つ頷いた。

「良かろう。お前を私の弟子としよう」
「ありがとうございます!」

 歓喜に満ち満ちた声は、人生の絶頂期に達した人間が上げるものだ。いや、フールーダの絶頂期はもしかすると今この瞬間から始まるのかもしれない。

「さて」アインズは何処からとも無く、一冊の本を取り出す「デミウルゴス。渡して来い」

 黒皮の表紙の本を丁寧に受け取ったデミウルゴスは、その本を持って階段を降り、フールーダに手渡す。神より賜ったような恭しさでそれを擁いたフールーダにアインズは声をかける。

「開け、我が弟子よ」
「はい!」

 弟子という言葉に強い歓喜の感情を発散し、フールーダは跪いた状態で恭しく頭を下げる。
 それからフールーダはゆっくりと注意深く書物を広げる。古臭くかび臭い香りが立ちこめ、それとともに魔力が周囲に広がっていくのが感じ取れた。周囲の温度が下がるような濃厚な魔力だ。フールーダの肌に鳥肌が立つ。

 これほど強大な魔力は――そこまで考えたフールーダは自らの師を盗み見る。玉座の間に入って、最初にアインズを目にしたときの衝撃を思い出す。あの吐き気をもよおすような魔力の奔流を。
 フールーダはそこで今はそんなことを考えるべきでは無いと、自らの立場を思い出す。自分の弟子が他の事を考えていたら容赦なく叱り飛ばすだろうから。
 フールーダは開いたページに目を落とす。その中は薄い紙にびっしりと文字が書き込まれていた。

「読めるか?」

 フールーダは文字読解の魔法をかける。そして驚愕に目を見開いた。
 それは叡智の塊だ。死者に関する様々な知識や魔法儀式が無数に、これでもかといわんばかりに記載されていた。フールーダのいままでの人生で手にした何よりもより凄い魔法書だ。
 あまりの緊張に手が震える。
 それがどれだけの価値があるかは計り知れない。近隣諸国にあるどんな本よりも貴重品だ。魔法使いであれば所有者を殺すことすら考えるほどの書物。それをフールーダは今、手にしているのだ。

「理解できるか?」

 ゆっくりと、それでいて丁寧にページをめくる。
 両眼は血走り、書かれている魔法の深淵を理解しようと努める。しかし、その知識はあまりに深く、あまりに難解だ。フールーダの長い人生で得てきた全ての記憶を動員しても、その一部にしかたどり着けない。

「理解できるか?」

 再び自らの師から声が掛かる。

「理解……できません。いえ、一部は理解できるのですが、全体としてのことになると……」
「ならば私の知識を伝授するにはまだまだ足りないようだな」
「……申し訳ありません」

 師を失望させたかと、フールーダは小さくなりながら謝罪する。
 先ほどの幸福感が一気に失われ、目の前が真っ暗になるような絶望感が怒涛のごとき押し寄せてくる。しかし、その絶望を与えたのがアインズの声なら、救いあげてくれるのもまたアインズの声だった。

「良い。フールーダよ」

 その崇拝すべき師の優しげな声にフールーダは顔を上げ、アインズの顔を凝視する。

「我が弟子よ急ぐ必要は無い。ゆっくりと学んでいけばよかろう。まずは師としての命はその本を理解することだ。その次に別の本を理解してもらう。それまでは私の持つ叡智を与えることはよしておこう。下積みが無い者に魔法の深淵を触れさせることは危険だからな。とりあえず、私の所持する図書館を開放しよう。何か調べたいことがあればそこで調べると良い。デミウルゴスは別件があるから……シャルティア」
「はい」
「後で司書長であるティティスとフールーダの顔を合わせておけ。それとフールーダが私の弟子になったということをナザリック内に伝えておくのだ。後ほどフールーダの部屋の準備やその他諸々の件でペストーニャとも相談しておけ」
「畏まりました」
「それと我が弟子よ。私を呼ぶ時はアインズで構わない」
「畏まりました、我が師――アインズ様」

 フールーダは与えられた本を書き擁き、深々と頭を下げる。その表情には歓喜を浮かばせて。

「さて、ジルクニフ。つまらないものを見せた」
「いや、興味深い光景だったよ」

 いままで黙ってアインズの対応を観察していたジルクニフは、いまだ頭を下げるフールーダを見下ろしながら答える。
 フールーダは完全に忠誠心をアインズに捧げている。恐らくはアインズの命令であれば、どのようなことも平然と行うだろう。それが帝国内に被害を出すことであっても。
 帝国主席魔法使いが死に、アインズ・ウール・ゴウンの熱狂的な弟子が生まれた。
 アインズが人の扱い方も長けるという実例を見せてもらえたことは、ジルクニフのアインズという存在に対する警戒心をより一層強める働きがあった。

「とりあえずは私はこれでお暇させてもらうよ。直ぐに色々と連絡を取ったりするつもりだ、友よ」
「うむ、我々ナザリックは君のためであれば直ぐに門を開くと知っておいてもらおう」
「それは心強いよ、我が辺境候」
「ああ。我が皇帝よ、また会うとしよう」





 会談が終わり、アインズの自室には守護者たちとセバスの姿があった。
 アインズを含め、総数6人。
 この場に集まったのは、ナザリックはついに後ろ盾を得たということから、大きく動いていく時期を迎え、細かなことを決めていく必要があるとアインズが判断したためだ。
 今後の行動方針をより固める目的である。

 自らの机の向こうに座ったアインズが語りだすよりも早く、アウラが最初に疑問を投げかける。

「何故、アインズ様は国を作るということに反対し、人間の下に付くことをお決めになったのですか?」

 この場にいる殆どの者が感じた疑問だ。自らの主人であるアインズの決定に逆らう気はこれっぽちもないし、それが最も正しいとは思っていても、疑問というのはどうしても起こる。それにアインズが何故そういう選択肢を選んだかという真意を知ることは、よりアインズの役に立てるという考えている。
 理解できなかったら、アインズの望まぬ行動を取ってしまう可能性だってのだから。その辺りが顕著なのはすでに失敗を犯しているシャルティアとセバスだ。両者とも非常に真剣な顔で、アインズの言葉をそしてその真意を僅かとも逃がさないような気配を漂わせている。
 アインズは全員の視線が集められるプレッシャーに押されながらも、己のあの時抱いた考えを述べた。

「国を作ったとしてそれを上手く管理できるかという問題がある。廃墟となった国を持っては、アインズ・ウール・ゴウンの名が泣こう」

 確かに納得のいく答えである。
 しかし守護者達の目が、それを聞いて薄い笑いを浮かべているデミウルゴスに向かう。ナザリック最高の知能を持つ、守護者のまとめ役であるデミウルゴスであれば、その辺りの問題はどうにかなるのではないかという疑問が浮かぶためだ。
 一歩踏み込んで考えれば、デミウルゴスの能力にアインズが疑いを持っているということだろうか?
 そんな疑問の視線が向けられたデミウルゴスの行動は、他の守護者からすると混乱に匹敵する行動だった。

「――くくくく」

 デミウルゴスの笑いが響く。そう――デミウルゴスは笑ったのだ。全員から能力を疑われているのにも係わらず。しかし、その場にいた全員が次の瞬間、驚きの声を上げた。

「……君たちは本当にアインズ様の計画がそれだけだと思っているのかね?」

「え?」
「何?」
「ナンダト?」
「ほう」
「……ぇ?」

「皆、少しは考えるべきだ。我らの主人にして、至高の41人のまとめ役であったアインズ様がその程度の思考しかされてない筈が無いだろ?」

 アインズがごくりと出もしない唾を飲み込む中、守護者達は『確かに』と互い互い同意の頷きを行う。ジルクニフの対応を思い出してみれば、それ以外にも何かがあったのは確実。
 守護者達はそれが何かが分からず、悔しさを微かに顔に浮かばせる。
 このような頭で、アインズの役に立てるのかという不安が過ぎるためだ。

「やれやれ……アインズ様。私の仲間達にもアインズ様の真の狙いを告げておいたほうが良いかと思われます。今後の方針にも係わってくるのではと思われますが?」

 全員の視線がアインズの元に集まった。それは愚鈍なる自らに教えて欲しいという、哀願の思いを込めた視線だ。
 全員の顔を見渡し、アインズは一息、いや数度呼吸を繰り返す。
 それからゆっくりとイスから立ち上がった。そして守護者全員に背を向けと、デミウルゴスに肩越しに賞賛の言葉を送った。

「……流石はデミウルゴス。私の全てを見切るとは……な」
「いえ。アインズ様の深謀遠慮。私の並び立てるところにはございません。さらには理解できたのは一部だけではないかと思っております」

 賞賛に対して、敬意の一礼でデミウルゴスは答える。
 そんな2人だけの――自らが崇拝する主人と同じ世界に踏み込んでいるデミウルゴスに、シャルティアは嫉妬の問いかけを行う。

「どういうことなんでありんすか?」

 それに答えず微笑を浮かべるデミウルゴスに、アウラも不満げに頬を膨らませる。

「アインズ様。あたし達にも教えてください」
「本来デアレバ、ゴ説明ヲ受ケズトモ気付カナクテハナラナイノデショウガ……コノ愚カナル身ヲオ許シクダサイ」

 背を向けたままのアインズの行動は、愚鈍なシモベに対する不快感を意味しているのではと、アインズの狙いが読めなかった者たちは怯える。
 至高の41人――その最後に残った慈悲深き者、アインズの役に立てないのでは、それは生まれてきた意味が無いのだから。
 そんな守護者たちの哀願にアインズは答える。
 振り返ると、ギルド長の印たるスタッフをデミウルゴスに突きつけたのだ。

「そうか。ならばデミウルゴス。お前が理解したことを他の者たちに説明することを許す」
「畏まりました」

 デミウルゴスは頷くと、仲間たちに話し始めた。





 行きと構造は何も変わってないのにも係わらず、馬車が走るたびに起こる振動が大きく感じられるのは、馬車内の空気が重いためか。それとも乗っているメンバーが変わったことか。
 行きが一軍のみで構成だとするなら、帰りは二軍を含めた構成だ。
 フールーダの代わりには高弟の1人。ロウネの代わりには部下の秘書官。変わってないのは残る2人、ジルクニフとバジウッドだ。
 そんな中、ジルクニフを除いた3者は滅多に見られないものを目に、言葉無く固まったまま座席に座り込んでいた。3人はチラチラと時折同じ方向に目をやる。
 そこでは皇帝であるジルクニフが眉を顰めて、物思いにふけっていたのだ。ジルクニフはいつでも薄い笑いを浮かべている男と認識を強く持たれている。実際、3者の中では最も面識のあるバジウッドでさえ、ジルクニフのそんな表情は見たことが無かった。
 
 ジルクニフの硬い表情は、ナザリックを出立してからずっとだ。時折、苦虫を噛み潰したような顔をしたりするが、決して余裕ある表情はつくろうとはしない。
 その理由は問いかけるまでも無く、即座に浮かぶ。

 かのナザリック大地下墳墓。そこで行われた一連の出来事の所為だ。
 あの恐ろしい者たちの群れ。そしてその先にいる存在。最後には玉座に座った『死』。
 また、恐怖だけでもない。
 贅を凝らした輝かしい建築物、調度品の数々。それは畏敬の念をも引き起こす。

 軍事力や経済力などの内包する力の桁が違う存在を前に、帝国がこれから向かえる受難の日々は、政治には疎いバジウッドですら充分に理解できる。帝国は貴族たちの力をそぎ落とし、皇帝が絶対的権力を得ようと行動してきた。それが今、一気に覆されるのだから。
 たとえこの馬車がさまざまな探知魔法によって警戒され、周囲を騎士たちが守っているとはいえ思い出すだけで身震いするような恐怖がこみ上げてくる。
 ナザリックと言う場所で見た恐怖を追い払おうとしていると、ジルクニフが見慣れた皮肉げな笑みを3人に向けた。

「そうチラチラこちらを見るな。注意力が散漫になるだろ?」
「陛下」

 3人の声が重なる。その声には安堵の色があった。我らの皇帝が戻ってきたという思い、そしてある一定は行動方針が決まったことだろうという予感からだ。

「……しかしやることが山積みだな。まずはフールーダの後継を早急に決めなくてはならないだろう。誰か良いやつはいるか?」

 問いかけられた高弟の目に欲望の色が浮かぶ。フールーダの後継、帝国主席魔法使いという地位は喉から手が出るほど魅力的な地位だ。魔法使いを組織的に運営管理している帝国の最高位の席だから。
 いままでは大英雄とも言える存在が座っていたために、決して手の届くところではなかった。野望を抱くにはあまりも相手が悪すぎた。そんな絶対の諦めが支配する席が、いま目の前にあるのだ。
 高弟は自らがこの馬車に呼ばれたことを感謝するとともに、最大のチャンスだと考える。
 しかし続くジルクニフの言葉に、その欲望は容易く壊された。

「今度の主席魔法使いには場合によって、アインズと魔法的に戦ってもらう可能性があるからな」

 まさに一瞬で鎮火だ。もはやこれっぽちも欲望を感じない。それどころか、この世界で最も就きたくない席となった。あんな化け物と魔法を競い合うなんて、荒れ狂う海目掛けて500メートル近い崖を飛び降りた方が生き残るチャンスがあるというもの。
 いや死んだ方がマシな可能性だってある。
 だからこそ高弟は自分以外の人間に押し付けることを即座に考えた。

「それでしたら第4位階魔法まで使える者がおりますので、その中から決められたらどうでしょうか? 私は残念ながらそこまで使えませんが」
「今回連れて来た中にいるのか?」
「いえ。帝都において重要な実験を任されておりますので。今回は選ばれてはおりません」

 可哀想に、と高弟は心の中で呟く。ここに来ていれば、これから与えられる帝国主席魔法使いという地位がどれだけ危険なものか分かるだろうに。知らないために先ほどの自分と同じく欲望に目を眩ませて、その地位を欲するだろう。
 審問椅子と知らないで。

「……なるほど。ではその者たちの詳細な情報を集めてから、面接と行こう。しかし、何故フールーダは即座にアインズに弟子入りをしたのだ? 確かに強大な力は持つだろうが、それでも魔法の力に長けるかどうかは不明だろ? あのデスナイトが全ての答えなのか?」
「それ以外にもあるかと思います。実のところ、師は相手の使える位階を正確に見抜くという特殊な力を持っておりました」
「ほう」
「それでア……ゴウン辺境伯……違いました。辺境候の能力を見抜かれたのだと思います」
「なるほど」

 ジルクニフは頷く。彼もそういう存在がいる事は知っていたからだ。
 生まれながらにして特殊な力を持つ者、それは小さい特殊能力から強大なものまで多種多様だ。
 ジルクニフが知る中で伝説級の特殊能力を持つ者としては、ある小国の王女だろう。その王女はドラゴンの失われた秘奥とされるものから来る特殊能力を持つという。

「つまりはアインズは強大な魔法使いであるというのは完璧に確定か」

 車内が一瞬静まり返る。
 空白が生まれたと知った秘書官は自らの疑問を口に出す。

「……ところでロウネさまはどうされますか?」

 それに対する皇帝の答えは簡潔明瞭だった。

「あれはもはや信用できん。帰ってきたとしても閑職に回せ。ナザリックでなにかされている可能性がある」

 腐っているかもしれない林檎を、他の林檎と混ぜることは出来ない。そういう決定だ。
 維持されている魔法なら感知魔法で調べることも出来るが、高弟は何も言わない。あのアインズという存在の魔法を感知できる自信が無いのだ。いや、人間の魔法が通じる気がこれっぽちも沸いてこない。
 最高の師であり、これ以上の存在はないと思っていたフールーダのあの姿を目にしてしまっては。

「しかし陛下。ゴウンという人物……人じゃないからなんと言えばいいのか。辺境候はどのようにご覧になられました? 強大な力を持った化け物とはわかったのですが」

 バジウッドの質問はやはり4騎士だけあって戦闘に関連したものだった。それに対してはジルクニフは冷笑を浮かべる。

「あのアインズという化け物が恐ろしいのは力ではない。その英知だ。それは自ら、私の下に降りたことが充分に物語っているだろ?」
「……帝国の下に付いたのは中からむさぼる気でしょうか?」
「確実にな」

 簡単に肯定しないで欲しい。そんな思いを3人は同時に抱く。あんな化け物に腹の中に入られるというのはあまりにも恐ろしい事態だ。
 だからこそ問いかける。どうにかする手段を聞くことで自らの精神を安定させようと。

「どうするのですか? 法で縛るのですか?」

 秘書官の問いも当然のことであり、アインズに対する切り札になるのでいう感情が見え隠れした。
 というのも現在、帝国では貴族たちを締め上げるのに、法を使ってゆっくりと締め付けている。アインズが帝国の貴族となるなら、法律で締め上げることは出来るだろう。

「……なんだ? お前が首に鈴でも付けてくれるのか?」
「…………っ」
「まぁ悪い手ではないが、アインズを怒らせるのは愚策だろ? だが、幾人か送ってナザリック内などの情報は集めたいものだ。法を盾に怒らない程度に動く必要はあるな」
「では、辺境侯に対して帝国はどのような手を?」
「ん? ああ、決まっている。アインズというおぞましき化け物は帝国の中に潜り込んだ。このままにしておけば帝国という肉を食い散らかすだろう。だから餌を与える」
「餌ですか?」
「人を食う獣でも、餌を与えられていれば――腹を満たされ続ければ、即座に襲い掛かったりはしないだろう。共存するのが正解だと知らせるんだ。金の卵を産む鶏を殺す愚を教えてやる。アインズという化け物が満たされるような餌を」

 ジルクニフの言う餌というものがどんなものを指すのか。それは誰にも分からなかった。しかし聞く勇気はどこにも存在しない。なぜなら、お前が餌だとか言われたらどうすれば良いのか。

「……何故、建国には反対したんでしょうか? 帝国を乗っ取るのが簡単だと言う考えでしょうか?」
「違うな。俺の策を読んでいたんだ」3人の顔に浮かんだ疑問にジルクニフは丁寧に答える。「この地は帝国、王国、法国の3カ国の利益がぶつかる地だ。もしここに建国した場合はどうなったか。必然、アインズという化け物は注意の的となり、潜在的な敵となっただろう。そうなれば3カ国による対アインズ同盟が秘密裏に組まれた。しかし、アインズは帝国にもぐりこんだ。つまり周辺国家が警戒するのは、アインズという恐ろしい武器を持った帝国だ」

 ふんとジルクニフは自嘲げに笑う。

「危険な武器を持った奴が、この武器に対する同盟を組みましょうと言って信じてもらえると思うか? 周辺国家はアインズという存在に注意を払うだろうが、それ以上に帝国の動向に注意するだけだろうさ」
「では断ればよろしかったんじゃないですか?」

 ジルクニフはバジウッドを馬鹿かという眼で見た。

「お前……もしアインズが王国側に回ったらどうする気なんだ? 責任を取って倒してくれるのか?」

 バジウッドは恥ずかしそうに俯いた。
 考えれば即座に分かることだ。ジルクニフは最悪よりは悪い状況を選んだということだ。

「……つまりは同盟を最初から潰したいという狙いがあったということでしょうか?」
「そこだ」

 ジルクニフは疑問を提示した秘書官を指差す。

「そこが疑問なんだ。つまり絶対の力を持っていたら同盟なんか無視して潰せばいいんだ。そうできなかった理由があると考えても良いだろう。もしかしたら、ゆっくりと人を殺すのが好きだとかそんなおぞましい理由かもしれないがな。まず我々がすべき手は、アインズが餌を食らっている間に情報を集めることだ。それもアインズを倒せるような存在の情報を」
「いるのでしょうか?」

 言ってはみたものの、いるとは思えない。あんな存在を、桁の違う存在を倒せる存在など。世界最強種のドラゴンでも無理なのではないか、そんな思いを抱いてしまうほどの相手を。
 それに対するジルクニフの答えは自信に溢れたものだ。

「いるさ」
「そんな者が?!」
「いただろ? あの玉座の間に」

 そこまで言われれば分かる。
 アインズに並ぶようにいた4体の化け物たち。ダークエルフ、銀髪の美少女、銀の昆虫、悪魔の4者を指しているのだと。

「……離反させるのですか?」
「そこまで行けるとは思えないが、無駄かもしれないが手は打っておく必要がある。金や地位、異性を与える準備をして離反させるんだ」
「危険ではないのでしょうか?」
「確実に危険だ。だが、アインズの保有する戦力は推定だが桁が違う。下手すればこれは周辺国家などではなく、種族存続規模の問題となるかもしれない。俺が死んだ後ならどうでもいいのだが、死ぬ前に大戦争を起こされるのは迷惑なんだ。だからこそ危険は承知で行動すべきなんだ」





「――つまりはそういうことだ」
「何、デミウルゴス。わたし達がアインズ様を裏切るとあの皇帝は思ってありんす。そう、あなたは考えてありんすと、おっしゃるの?」
「うーん、意外にあの人馬鹿なんだね」
「忠義トイウ言葉ヲ知ラナイト思ワレル」

 守護者達がジルクニフを笑う。
 アインズ、そして至高の41人に創造された自分達が裏切ると思っているのかと。
 無論これはデミウルゴスの考えであり、ジルクニフは本当に考えているかは不明だ。しかしそんな話でも、非常に不愉快なのも事実だった。

「ぶっ殺しちゃおうか?」

 危険な発言を行うアウラに、シャルティアは笑いかける。

「ヴァンパイア化が一番よ。優秀ならナザリックで働いてもらえば良い」

 その言葉がいつもの変な口調でないのが、激怒の強さを思わせる。コキュートスは何も発しないが、大顎がガチガチという警告音を発し始めている。

「アインズ様の前ですよ?」

 セバスの冷静な声によって、瞬時にシャルティア、アウラ、コキュートスの憤怒が薄れる。そのあとを引継ぎ、デミウルゴスが再び話し始める。

「……さて、以上のことからアインズ様が注意をして集めている強者の情報。それはこれからは帝国が我々に代わって集めてくれると言うこと。周囲に情報を収集する者を放たなくても、皇帝の周辺に注意すれば良いということだ」

 そのデミウルゴスの説明を受け、守護者達そしてセバスの目に理解の色が浮かんだ。それだけではない。それだけのことをあの短い時間で瞬時に判断してのけた、アインズに対する尊敬の念は天元突破してなお足りない。

「なるほど!」
「さすがはアインズ様!」
「感服いたしました。そこまでお考えだとは」
「素晴ラシイ……」
「私も驚きました。あの短い時間であそこまでお考えだとは。このデミウルゴス、心底感心しました」

 アインズはその頃になってようやく振り返る。その顔には照れたようなものがあった。それも当然だろう。アインズを見る全ての眼には敬意と尊敬、崇拝といった恭しい感情があったのだから。

「そうか。しかしデミウルゴスにはすべて読まれてしまっていたな」
「いえ。アインズ様があのような対応を取らねば、そこまで読みきることはできませんでした」

 全員が頷き、デミウルゴスを同意する。

「しかし流石はアインズ様。ナザリック最高の頭脳を持つデミウルゴスよりも優れてありんすとは」
「ホントだよね! 凄いよね、アインズ様!」
「アインズ様ガ優レタ才ヲ持ツノハ知ッテイマシタガコレホドトハ……。流石ハ至高ノ方々ヲ纏メ上ゲラレタ方」
「全くです。慈悲深く、英知に優れる。アインズ様に勝る主人はいないでしょう」

 アインズは賞賛を一身に受けながら、照れたように敬意の声を手振りで抑える。

「それぐらいで一先ずは充分だ。それよりもこれからのことを考えなくてはならないだろう。帝国との交渉はデミウルゴスに任せても良いか?」
「はい。お任せください」
「そうか。色々と厄介な仕事を押し付けて悪いな。ではロウネとか言う秘書官から話を聞いて、それを書物にまとめてくれ。それを図書館のリッチたちに覚えさせよう。いや、私が作ったリッチで良いな」
「畏まりました」
「シャルティアはフールーダ、そして秘書官の部屋も一緒に頼む。コキュートスはナザリックの指揮官となってしっかりと警戒しておけ。アウラは森の隠れ場の完全なる完成を急ぐのだ。セバスはこれまで以上にナザリック9階層、10階層を綺麗にし、客がいつ来ても良いようにしておけ」

 全員が一斉に頭を下げる。

「よし! 恐らくは王国と帝国の戦いの際に、ナザリックの偉大さを見せ付ける時が来るだろう。準備を怠らず進めよ」
「はっ!」

 唱和の取れた声がアインズの自室内に響き渡った。



 ■



 この数日後。


 帝国はアインズ・ウール・ゴウンという魔法使いを臣下にしたことを発表。次にアインズ・ウール・ゴウンを辺境侯という地位に据えることを公表した。
 そして与えられるべき領地は王国、エ・ランテル近郊である。
 王国の領土を与えるということに対して、帝国は『元々アインズ・ウール・ゴウンはその辺り一帯を支配していた存在であり、王国は現在、不当に占拠しているだけである。そのため、本来の主人に返す必要がある』と宣言した。
 これに従わない場合は帝国は侵攻すら辞さない、と。

 無論、そのような暴論を王国は受け入れられるはずが無い。即座に『アインズ・ウール・ゴウンなる人物に王国の領土を支配していた歴史は無く、正統性も無い』と反論。『帝国が侵略行為を行おうとするなら、王国は断固たる処置を行うだろう』と宣言した。

 王国の大半の貴族は帝国の侵攻は毎年起こる行為であり、これもその一環であろうという認識を持っていた。そのため深く考えることなく、アインズ・ウール・ゴウンというどこの馬の骨とも知れない魔法使いを駒とした、帝国の侵略の正当とする行為を嘲笑った。
 特に一介の――取り立てて名の知られていない魔法使いに、わざわざ高い地位を作ってまで与えたことを。これは侵略行為に良くある、正統な王族を立てて、相手国家への揺さぶりとする行為と思われたのだ。

 この頃にはカーミラというヴァンパイアの情報やアインズ・ウール・ゴウンという人物の能力の高さは貴族内に伝わってはいたのだが、さしてそれを重要視する人間は少なかった。
 まず理由の1つ目は王国において魔法使いというのは、さほど高い地位を占めている者ではないということ。理由の2つ目は帝国との戦いで魔法使いが大きく戦場を左右したことが無いこと。理由の3つ目は王国内で魔法使いが何かの偉業を果たしたことが無い、つまりは実績が無いことだ。
 これらの理由から強い力を持つといわれても、軽視していたのだ。

 が、幾人かは別の感想を抱いていた。

 その根拠となるのは、帝国の今回の戦いに向けて動員しはじめている数である。
 今回の侵攻には帝国8軍のうち、7軍が動員されつつあるというのが知らせであった。これは今までの侵攻で、帝国4軍までしか動員されてないことを考えると破格の数だ。
 次にスレイン法国の宣言である。

 エ・ランテル周辺は三カ国の利害に係わってくる場所であり、帝国と王国が小競り合いをする時は必ず法国も宣言を出していた。両者からすれば嘴を突っ込んでくるなというものではあったが。
 大抵の宣言は、エ・ランテル周辺は法国のものであるという感じのものである。
 しかしながら今回は趣が大きく異なっていた。
 『法国には記録が無いために判断することが出来ないが、もしアインズ・ウール・ゴウンが本当にその地をかつて支配していたものだとするなら、その正統性を認めるものである』という旨を公表したのだ。

 王国の貴族達からすれば何を馬鹿なという憤怒の宣言だ。横からしゃしゃり出て、適当なことを言うなという者が王国内では殆どであった。しかし、その中に含まれた真意を理解するものも当然いる。黄金と称される女性、6大貴族の1人、戦士長などだ。

 彼らは充分に理解したのだ。
 スレイン法国の宣言に含まれている『我々はアインズ・ウール・ゴウンと敵対する意志は無い』という国家の判断を。周辺国家最大の国力を持つスレイン法国が、たった1人の魔法使いを相手にするのを避けたという事実を。

 今度の帝国と王国の戦い。
 これは中身に含まれているものは、今までとは大きく異なったものである。そういう理解――一部の人間ではあったが――とともに王国と帝国の軍は動き出すのであった。





――――――――
※ やっと当初の予定の帝国辺境侯になったよ。ああ、長かった。
 では次回、前半最終話「■■■」でお会いしましょう。次の話のタイトルがわかった人、書いちゃ駄目ですよ? ばればれでしょうけどね。
 あ、しまった。なんで友達でオッケーしたか書いてないや。偉い人が言ってくれたからミーハーな気持ちでオッケーしただけなんだけど。そのうち修正しておきます。

















































 そして最も悲劇的なことが起こる。


 ――哄笑が響き渡った。
 室内一杯に響き渡る。それは何かからの解放のようであり、鎖が解かれた獣の雄たけびようにも聞こえた。
 そんな笑い声を上げる、自らの師をフールーダは嬉しそうに眺めていた。
 師の喜びはフールーダにとっても喜びなのだから。

「素晴らしい、素晴らしい。フールーダ、最高だぞ」
「ありがとうございます。師に喜んでいただき、私も嬉しく思います」
「周辺国家に所属する強き者の話は充分だ。次は冒険者の強さに関して教えてくれ。とりあえずはA+冒険者。蒼の薔薇の構成メンバーの推定される強さだ」
「かしこまりました」

 フールーダは帝国で得た情報を話し始める。メンバーの能力を話すたびにアインズは笑みを浮かべるのだった。

 本当にアインズは楽しそうに笑った。
 それは――それは本当に楽しそうに。




[18721] 51_大虐殺
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:1c6b9267
Date: 2011/10/18 20:36




 帝国の宣言からちょうど1カ月後。
 麦畑は秋の実りを抱き、黄金の色に輝く時期を迎えていた。爽やかな風が流れ、空の青さは抜けるような透明さを抱く。白い雲はほんの少し、それも薄く残るばかりだ。
 これからより寒さが増していくと過ごしにくい時期になるのだが、その間のこの時期は1年を通して最も体に負担が少ない。大きく息を吸い込めば涼しげな空気が、肺に入り込んでくる。少し前まであったもわっとした熱気を含んだ空気はもはや何処にも無かった。

 そんな寝台に入って出たくなくなる季節なのだが、そんなことが出来る者は王国内でも一握りの特権階級者だ。なんといってもこの時期こそ、下手すれば1年を通して最も忙しい季節なのだから。
 農村では一年間の苦労によってなった実りの収穫に励み、税の回収に役人が走り回る。それに合わせて商人たちが村々や都市間を飛び回る。
 誰もが忙しく走り回る。
 それは城塞都市エ・ランテルでも同じことだった。

 ただ、エ・ランテルの喧騒は王国内の他の都市とは、多少趣が異なっている。活気とは違う、もっと別の感情によって発散される熱気によって、都市全体が熱されるようだった。
 熱気の発生源は、エ・ランテル三重の城壁の最も外周部の城壁内。
 そこには無数の人がいた。ほとんどがぱっとしない格好をした者ばかりだ。大半が平民なのだろう。ただ、その数は呆れるほど。おおよそ20万はいるだろう。
 別にこれだけの人間が常時エ・ランテルにいるわけではない。確かにエ・ランテルは3カ国の領土に面するところにあるために、交通の便は激しく様々なものが行き交う。物資、人、金、本当に様々なものだ。そしてそういった都市は必然大きくなっていくもの。
 しかしそれでも流石にこの区画のみに、20万もの人間はいない。
 では、何故、これほどの人間が今ここにいるのか。
 それを簡単に説明してくれるのが、一部の若者たちだ。

 木と藁で形を作り、それにベコベコになった鋼鉄の盾と鎧を着せたマトめがけて、刃の付いてない槍で突く訓練を受ける若者たちが多いのだ。それが何をしているのかは一目でわかるだろう。それは戦闘訓練だ。
 そう――ここに集まった者たち王国の民20万人は、帝国との戦争のために集められた兵士たちなのだ。

 威勢の良い掛け声が飛び交う。もちろん、正の感情で行っているものは少ない。ほとんどがこれから行かなくてはならない、命の奪い合いを行う場所への恐怖。訓練しなくては生きて帰れないという焦燥感。そういったものに突き動かされているだけだ。
 ただ、真面目に訓練する者が全てでは無かった。
 帝国との戦いは1年に1度というペースで起こる。そのため折れてしまう人間もまた多い。やる気が無さそうに石畳の上に――目立たないように端っこで横なっている者。隣の人間と愚痴のようなものをこぼしている暗い者。膝を抱えて蹲る者などだ。
 年行けば年いくほど、そういった傾向は強かった。

 戦意はほぼ最悪であり、生きて帰れることのみを望む兵士たち。
 それが王国の軍勢の内情だった。これは仕方が無いことだろう。強制的に連れてこられて、褒美の無い命の奪い合いに本来の忙しい時間を奪われるのだから。生きて帰れたとしても、奪われた時間の負担は徐々に首に紐のように絡み合っていく。
 それは緩慢な死が近寄ってきているのと変わらない。

 そんな兵士たちの横を荷馬車が走り抜けていく。その荷台は膨れ上がり、膨大な糧食を乗せていた。
 常識的に考えれば王国全土の人口の2%以上にもなる人間を、ひとつの都市で受け入れ生活させるには困難を極める。しかしながらエ・ランテルは帝国との戦いにおける前線基地的扱いを受ける都市であり、王国の兵力を受け入れる場所だ。
 幾度と無く繰り返される帝国との戦いの内に、たかだか20万程度と笑えるまでの準備をするに至っている。食料庫は巨大であり、おそらくはこの都市で最も大きい建物だろう。
 ならば何故、荷馬車でわかるように、ピストン輸送が繰り返されているのか。
 答えはたった1つだ。それだけの食料を動かす必要があるという事実はたった1つのことを指す。

 無気力なそぶりを見せていた者たちが、その荷馬車を恐怖の目で睨み付ける。自らの真横に近寄ってきた死神を凝視するような眼差しで。
 これから始まることを理解している者たちは大抵そうだった。

 食料の大規模輸送。
 それは帝国との戦いが迫っていると言うことを示していたからだ。




 三重の城壁の最も内週部の城壁内。
 その中央に位置する場所にエ・ランテルの都市長、パナソレイ・グルーゼ・ヴァウナー・レッテンマイアの館がある。都市長という地位に相応しいだけの立派な屋敷ではあったが、そのすぐ横に建築された建物と比べてしまうと幾段か見劣りしてしまった。
 その館こそ、この都市で最も立派に作られた建物。ではその建物で誰が住んでいるのかと考えれば、答えは1つしかないだろう。この都市での最高指導者の屋敷に比べて、より優れた地位に座る人間のための建物。
 それは貴賓館。
 王やそれに順ずる地位の人間が来た場合のみ、開かれることとなる館である。
 そして現在、その館の一室。そこには幾人もの男たちの姿があった。

 簡易式の玉座に座っているのは当然、リ・エスティーゼ王国国王であるランポッサⅢ世だ。
 その斜め後ろに影のごとくつき従うのは、王国最強と言われる戦士――ガゼフ・ストロノーフ。
 その2者の前にはテーブルが置かれており、それを挟むような形で左右に6人の男たちがイスに座っている。全員身なり良く、その顔には品と言うものがある。それは決して一代では宿るようなものではなく、歴史によって大家のみが宿せるようなものだ。
 全員の前のテーブルの上には無数の紙が広げられ、さらには大きな羊皮紙なども散乱している。さらには空になった水差しが隅に幾つか置かれ、各員の前に置かれたコップには中身がほとんど入っていない。
 それらはこの部屋の中でどのような激論が繰り広げられたかを語るようであり、この部屋での時間の経過を充分に物語っていた。
 実際、男たちの顔にも色濃い疲労の色が見える者が多くいる。
 そんな中、最も疲労の色が見えない者が口を開く。

「帝国からの例年通り、宣戦布告および戦場の指定が届きました」それは蛇のような男であり、レェブン侯として名の知られる王国6大貴族の1人だ。「場所は――」
「――ふん。いつもどおりの場所だろう。カッツェ平野だろう?」

 レェブン侯の言葉を横から奪った男。それは年齢にして40歳半ばだろうか。若かったころは屈強な肉体を誇ったのだろうが、年という時間の経過による衰えが見える。それでもその声には精力的な張りがあった。
 貴族派の盟主であり、今回の戦争の兵士の1/5を準備したボウロロープ侯だ。

「その通りです。おっしゃられるとおり例年の場所です」
「……例年と同じ場所を指定してくるとは、帝国の侵攻も例年通りということかな?」

 細身であり、温和な顔立ちの貴族が口を開く。声にわずかばかりの安堵の色がある。それは決して侵攻されている側が出して良い感情ではない。王国の領土が犯されていると言う事実を前にして。
 そのためだろう。その部屋にいた貴族の幾人かの目に冷たいものが一瞬だけ宿ったのは。

「残念ですがブルムラシュー侯。そうは行かないでしょう。帝国は今回、かなりの兵力を動員してきました。おそらくは何らかの目的があるのだと思われます。油断すれば命を奪われかねませんよ?」
「それだがね、レェブン侯。ヘンテコ貴族に対する見栄という奴ではないかね? 土地をあげますよ、とまで宣言したのだ。最低限、兵は充分な数だけ動員せねばなるまい? ヘンテコ貴族……なんと言ったか――」

 ピンピンと尖った髭を指で弾きながら、痩せぎすの貴族が口を開く。

「――アインズ・ウール・ゴウン辺境侯ですよ。ペスペア侯」
「それだ! 魔法使いで貴族だったか?」
「ここの都市長殿といい、ガゼフ殿といい警戒すべき魔法使いだとか?」

 この場に集まった誰よりも若いだろう人物が口を開く。若く整った顔立ちをしているのだが、その顔に浮かべている冷笑が
好意をまったく感じさせない。

「その通りです。リットン伯」王の背後に控えていたガゼフが口を開く「アインズ・ウール・ゴウンは警戒すべき魔法使いです。おそらくは帝国主席魔法使いのフールーダに匹敵する……いえ、帝国の対応を考えればより上位の魔法使いとみなすべきでしょう」
「魔法使い1人程度に大変なことだ。1人で何ができると言うのか」

 侮蔑ともわかる微笑を浮かべ、リットン伯はガゼフの警戒心を笑う。
 フールーダという魔法使いの名は遠く、周辺諸国に知られている。しかし、その実力がどれほどかと言うのを詳しく知っているものはいない。というのも実際に魔法使いであるフールーダが王国との戦争に出てきたためしは無く、その魔法で軍を壊滅させたなどと言うことはないからだ。
 そのために王国の貴族の中にはフールーダなど大した事無しと判断する者も多かった。つまりは帝国の箔つけのためだと言う考えだ。この考えを持つ者は、冒険者など魔法を使う職との関係を滅多に持たない高位の貴族に多く見られた。
 リットン伯もその1人だ。
 彼の知識にある魔法使いは手品師の一種のような存在だ。無論、神官だけは別だが。

「……そうはいえないだろう。飛行の魔法を使って範囲攻撃を行われれば非常に厄介だ。遠距離から攻撃魔法を撃たれても痛いな。とはいえ、専門職である魔法使いをそのような勿体無い使い方しないだろうがな。ただ、帝国のアインズ・ウール・ゴウンへの待遇は異常すぎる。単なる魔法使いなら、そこまでのことはしないだろう。警戒はしてしかるべきだと思うが?」

 6大貴族最後の1人であるウロヴァーナ伯が重々しく呟く。髪は真っ白であり皺だらけの顔には、しっかりと年を積み重ねた人間特有の威厳が宿っていた。リットン伯とは対照に、最も年齢が上だということもあり、その一言は重みを持った話し方だ。流石のリットン伯も不承不承うなづく程度は。しかしそれに対して意見を述べるものがいる。

「ふん。何がアインズウールゴウンだ。リットンが言っていたように、たった1人で何が出来る。空を飛んできたなら弓矢で射殺せばよい。遠距離からでも同じこと。単なる魔法使い1人に何が出来るか! 魔法使い1人で戦況が変えられたことがあろうか! ウロヴァーナ伯はそのような話は知っておられるのか?!」
「……聞いたことは無いな」

 実際、そのような話があったということは聞いたことが無い。物語は例外として。

「それが答えではないか。どれほど強大な力を持とうと、1人で戦場を左右させることなぞできるはずが無い」
「……ドラゴンなどはどうですかな?」
「ブルムラシュー侯……」何をこいつは言っているんだという苛烈な視線を向ける「その魔法使いは人間であろうが、何故ドラゴンなどの話が出てくる」
「い、いえ。個人で軍に匹敵する……」
「人間の話をしている時に、ドラゴンの話をしても意味が無かろう。前提条件が間違っているわ! 何を考えているのか。魔法使い1人に警戒し――」ギロリとガゼフをボウロロープ侯は睨み「――影に怯えるなど、王国貴族として恥ずかしいと思わんのか?!」

 ボウロロープ侯の言うことも確かである。
 そう6大貴族の幾人かは同意のサインとして頷いた。実際、たった1人の魔法使いに何ができるというのか。
 しかしながら残る幾人かはその言葉には頷かない。単なる魔法使いでは出来ないことでも、その魔法使いならしでかすのではないだろうかという不安が残るために。

「第一、その魔法使いに送った使者はいまだ帰らないところを見ると、元々そいつには敵対する意図があったのだろう。恐らくは使者は既に殺されていよう」
「だと、思われます」

 レェブン候は頷く。使者は行方不明と宮廷内に発表しているが、実のところ既に使者の死体は回収済みである。

「例え何があっても、一国の使者を殺害するような、品位の全く無い下劣な行いをするような奴に怯えてどうするというのか」
「……そうとは言い切れないのでは?」
「どういう意味かな?」

 僅かに声のトーンが落ち、ボウロロープ侯はレェブン侯に問いかける。今までの対応からすれば丁寧といっても差支えが無いだろう。
 これはボウロロープ侯がレェブン侯に対して、対等に近いと見なしているからである。

「帝国の人間が使者を殺したという可能性もあるわけです。自分たちに側に引き込むつもりで」

 と、レェブン侯は口にしながらも、可能性は低いと見なしている。これはラナーも同意見だ。
 使者の死因は獣の噛み跡と判明しているが、かなり巨大な獣によるもので、召喚したモンスターであってもこれほど巨大な獣はいないというイビルアイからのお墨付きも出ている。そうなると帝国による工作の可能性はかなり低くなる。
 もっとありえるのは、逆鱗に触れたというところか。

「ふん。そうかもしれないが、その魔法使いが帝国の側に回り、良い駒として利用されているという現状は変えようがあるまい?」
「その魔法使いを王国に招き入れることは――」
「ストロノーフ! 帝国で高い地位をもらいながら、裏切ると? 誇りがあるならばそのようなことをするわけが無かろう。裏切るなぞ最低のカスのすることだ!」

 レェブン侯は視線を動かさずに、視界の隅にかすかに浮かぶ1人の貴族を眺める。
 最低のカスはここにいますよ、と言えたら気持ちがよいだろう。そんな暗い感情を呼び起こしながら。

「王国に住居を持ちながら、王国を裏切る厚顔無恥なものには痛い目を与えてやりたいものです」
「まったくですな」
「まぁそんな話はどうでも良い。それよりは現在は帝国との戦争について考えねばならんだろう。話を戻そうではないか」ボウロロープ侯が大きな声を上げる。「たとえ、帝国が何かを企んでいようと、例年通り平野に赴くのであろう?」
「そうなるかと思いますが――」

 黙っていたランポッサⅢ世がレェブン侯の視線を受け、口を開く。

「そのつもりだ。その理由は言うまでも無く、皆わかるだろう」

 6大貴族の全員が頷く。若干、1名ほどわかって無さそうな者がいたが。

 帝国の騎士は重装であり、馬に乗った戦いを主とする。そんな敵国に対して、カッツェ平野という地の利を与えるという行為は愚策だろう。エ・ランテルに引きこもり、攻城戦に引き釣り込んだ方が王国の死者は少なくなり、勝率も跳ね上がるだろう。
 しかし王国にしてもそれが許せる状況には無いのだ。
 まず大量に民を動員していることが問題だ。本来であれば収穫の時期を迎え、貴重な時間であるはずなのに、戦場に駆り立てられているのだ。出来れば早急に兵たちを元の職場に戻さなければ、王国の財力はより一層悪くなるばかりだ。
 次に20万の兵を長期間食べさせると言うのは、流石にエ・ランテルをしても厳しい。
 そしてもし攻城戦になれば、大量の魔法使いを有する帝国の戦略は今までとは違った動きになるだろう。それはどのような動きになるのか不明なために、結果として予測できないということになる。
 20万もの兵を動員するからだという考えもあるかもしれないが、帝国の騎士は強く、錬度武装共に王国を遥かに凌ぐ。20万もの兵を動員しなくては危険なのだ。

 だからこそ、王国側としても選択肢は無い。今までと同じ、正面からぶつかれる平野を戦場に選ぶ方が、王国にとっても有利に運ぶために。

「畏まりました。ちなみに陛下、帝国の軍は既に平野に展開しているようです」
「そうか……」
「ここで平民たちに食事を食べさせているだけではなく、そろそろ働いてもらう必要があるようですね」
「リットン伯の言うとおりですな。我々も軍を動かせるように準備いたしましょう。ボウロロープ侯の方の準備はどうなのですかな?」
「問題ないとも、ペスペア侯。俺の軍はすぐにでも動かせられる。では、陛下」
「……ならば全軍を動かす準備を頼む」
「では陛下。誰が全軍の指揮権を? 俺であれば問題はありませんが?」

 質問の形でランポッサⅢ世に問いかけているが、実際の中身はまるで違う。そこにあるのは全軍の指揮権をよこせという目には見えない圧力だ。
 ランポッサⅢ世とボウロロープ侯。どちらの方が軍隊の指揮官として優秀かと問われたなら、ボウロロープ侯の方が優秀だと答える貴族は多いだろう。そして今回のボウロロープ侯の準備した王国軍の1/5――4万もの兵は断とつ首位だ。
 もしここに王がいないのであれば、当然指揮官はボウロロープ侯のものだったに違いない。
 しかし王はここにいる。そうなるとランポッサⅢ世が指揮権を持つのは当然だが、貴族派閥に所属する貴族たちがそれを素直に受け入れるはずが無いだろう。
 威圧をかけるボウロロープ侯の問いかけに、ガゼフの眉が僅かに動くが、それを目にしながらボウロロープ侯は相手にもしない。ボウロロープ侯からすればガゼフという人間は単なる剣の腕が立つだけの平民。本来であれば王と6大貴族以外がこの部屋に入っていることすら我慢できないのだから。

「……レェブン侯」
「はっ」
「侯に任せる。全軍を無事、カッツェ平野まで進軍させよ。そして軍の展開、および陣地の作成を任せる」
「畏まりました」

 レェブン侯がランポッサⅢ世の命を受けて、頭を下げる。ボウロロープ侯からすれば欲しかった地位が横から奪われた形になるが、レェブン侯では文句を言うわけにはいかない。彼の優秀さは知られており、強く批判することは難しい。そして何より、レェブン侯はどちらの派閥にも所属する人間でもあるのだ。ボウロロープ侯の配下にもレェブン侯に恩義があるものもいる。
 そういった者の前で強く批判をしていては、己の器が疑われるようなもの。
 だからこそ、ボウロロープ侯も同意の印を見せる。

「レェブン侯。俺の軍も任せるぞ。何かあったら言ってくれ」
「ありがとうございます、ボウロロープ侯。そのときはお願いします」

 詰まらないやり取りだが、貴族として必要な行いでもあった。

「ではひとまずはこれで解散としよう。レェブン侯。後はよろしく頼むぞ」
「畏まりました、陛下」

 6大貴族の全員が室内から出て行き、残ったのはランポッサⅢ世とガゼフのみになる。
 ランポッサⅢ世がゆっくりと頭を回す。ゴリゴリという音がガゼフの耳にも届く。よほど凝っていたのか、王は少しばかり気持ちよさそうな顔をした。

「お疲れ様です、陛下」
「ああ。本当に疲れたとも」

 ガゼフは苦笑を浮かべる。王派閥と貴族派閥の縮尺がここにあったのだ。その疲労はたまったものではないだろう。しかし、ランポッサⅢ世よりも苦労をしてきた人間だっているのだ。

「そろそろ来るかな?」
「彼はまだ厳しいのではないでしょうか?」
「そうだ――」

 ランポッサⅢ世が言い出した辺りで、扉が数度ノックされる。それから扉がゆっくりと開かれ、目的の人物の1人が部屋に入ってきた。
 室内に入ってきたのは、冴えない肥満型ブルドックというのがぴったりの顔つきの男だった。髪は光を反射するほど薄くなっており、残りの部分も白く色を変えていた。
 体は肥満体とも言って良いほど丸い。腹部にはたっぷり過ぎるほど脂肪がつき、顎の下にもこれでもかといわんばかりに肉がついている。
 冴えない男だが、その瞳には深い英知の輝きがある。見掛けと内面が大きく食い違っているような雰囲気を持った男だ。ランポッサⅢ世は深い好意的な笑みをその男に向けた。

「良くぞ来たな、パナソレイ」
「陛下」エ・ランテルの都市長、パナソレイが自らの主君に頭を下げる。それから視線を動かす。「久方ぶりですな、ガゼフ殿」
「これは都市長。あの時はお世話になりました」
「いえいえ。そのようなことはありません。周辺の巡回に当たっていただき感謝しております」
「今日はあの鼻息はやらないのか?」
「陛下……」苦笑いを浮かべる、パナソレイ。「私を軽んじない方にしても意味がございません。それに陛下にそういったことは」
「すまん、すまん。冗談だ。許せ、パナソレイ。さて、本来ならおしゃべりに時間を費やしたいことなのだが、余り時間が無い。だから悪いがおしゃべりは無しで頼むぞ?」
「畏まりました、陛下。その前に1つご質問が」

 ランポッサⅢ世は続けるように顎を動かす。

「扉のすぐ脇に白い鎧を着た騎士のような若者がいたのですが、彼は遠ざけないのでよろしいのでしょうか?」

 一応、防音の作りとはなっているが、完全に漏れないようにするには少々難しい。扉の前に立って耳を澄まされれば、もしかしたらこの重要な会談の中身が聞き取られてしまう可能性がある。
 そのことをパナソレイから聞いた、ランポッサⅢ世とガゼフはその人物が誰か即座に思い至る。クライムという青年を。

「彼は大丈夫だ。私の娘の身辺を警護する者であり、信頼できるものだからな」

 ちらりとパナソレイはガゼフを伺い、頷くのを確認すると了承の印を見せる。

「なるほど。畏まりました。では……さっそく始めますか?」
「いや……」王は逡巡し、返答する。「いや、まだあと1人来ていない。彼が来るまで待とうではないか」
「左様ですか。では先に都市内の糧食等の出費に関する話をしておきましょうか? それと侯から頂いた資料を基に計算した1年後の王国の国力等の話もございます。」
「うむ。頭が痛くなる話は先に済ませておきたいものだ」

 こうして語られ始めたパナソレイからの話は、内政全般に疎いガゼフですら、眉を歪めてしまうようなものだ。
 そんな現状でこの国は大丈夫なんだろうかという金銭の出費。糧食としてかき集めることへの王国内への影響。特に大きい問題は、ここに集められた平民を帰還させたあとに起こる国力の衰退だ。
 パナソレイからの推測という部分――好意的に見ているだろう推測ですら、引きつりたくなるような状況だ。
 ランポッサⅢ世はガゼフよりもわかったのか、完全にしかめっ面だ。

「なんということだ……」
「もし……これで来年も同じようなこと――帝国の侵攻があれば、王国は内部からの崩壊が近づく結果になると思われます。税収が今のまま行えば飢え死にしていく平民が多数出現するでしょうし、軽くすれば様々な箇所に回せる資金がなくなると思われます」
「…………」

 ランポッサⅢ世が額に手を当て、顔を隠す。
 数年間の帝国のちょっかいを場当たり的な対処で片をつけてきた結果だ。帝国の狙いがわかったときにはもはや遅かった。

「陛下……」
「困ったものだな。もっと早く行動しておけば……せめて派閥が完全に二分される前、まだ私の側についてくれる者が力を持っているうちに対処しておけば……おろかな話だ」

 そんな優しい話ではない。その頃に対処しようとしても、おそらくは王国を二分する戦争が始まり、弱ったところを帝国に飲み込まれただけだっただろう。
 ランポッサⅢ世の世になる以前よりの、王家が行動してこなかったツケが回ってきたのだ。積み重なってきた汚れを一代で落とすことは不可能だったに違いない。
 室内が暗い沈黙に支配される。そしてそんな雰囲気を断ち切るように、部屋にノックがこだまする。
 そして入ってきたのはレェブン侯である。

「皆様、お待たせしました」
「レェブン侯。手間をかけてすまなかったな」
「いえいえ、お気にされず、陛下。あの場合は私に投げていただくのが最も正解だったでしょう。ただ、申し訳ありませんが、あまりこちらに長くもいられないので、手短に問題を解決させていきましょう」

 いつもの蛇のような冷たい顔だが、ガゼフはそこに人間の感情。それも好ましいものが浮かんでいることに確認する。

 ――この人物の性格を見通せなかった、俺は本当に愚か者だ。

 ガゼフは口惜しい気持ちと共に、王都を離れる前に王の私室で行われた話し合いを思い出す。そこで集まった4者――ランポッサⅢ世、ガゼフ、ラナーとレェブン侯。後者の2名から話される話は、ガゼフの凝り固まった宮廷観をぶち壊すだけの驚きだった。
 ガゼフが最も嫌っていた人物こそ、最も王のために尽力を尽くしてという事実は、驚愕の一言では言い表せなかった。

「わが娘といい、レェブン侯といい、迷惑をかける」

 イスに座ったレェブン侯に真摯な表情を向けと、ランポッサⅢ世は深々と頭を下げた。

「へ、陛下。おやめください。私としても陛下に相談せずに色々と動いた身。もっと早く別の手段を取っていればという悔恨の念がございますがゆえ」
「レェブン侯。私からも謝罪をさせてください」ガゼフが深々と頭を下げる。「レェブン侯の真意を知らずに、上辺の態度に騙され、レェブン侯に対して不敬な念を抱いておりました。愚かなこの身をお許しください」
「ガゼフ殿、お気にされず」
「……とはいいましても」

 ガゼフの後悔の念が非常に深いことを、レェブン侯はその言葉に込められた感情から悟る。ならば何かの罰を与えた方がガゼフにとっても心が休まるに違いない。
 了解したようにレェブン侯は数度頭を振った。そしてガゼフに罰を与える。

「了解しました。……昔から私はガゼフ殿と呼んできました。ストロノーフ殿ではなく。今後も親しみを込めてガゼフ殿と言わせていただきたい。私はあなたに敬意を持っていましたので」

 罰にならない罰。
 この人物の真価が見通せなかった、自分の目は節穴だったに違いない。そういう思いを抱きながら、ガゼフは心の奥底から感謝の言葉を漏らす。

「ありがとうございます、レェブン侯」

 ガゼフの呼び方に今まで以上の感情が篭っていることを悟りながら、レェブン侯は何も言わない。これ以上はガゼフの問題なのだから。

「さて早速ですが、陛下よろしいでしょうか?」

 ランポッサⅢ世が1つ頭を動かすのを確認し、再びレェブン侯は口を開く。

「最初は……アインズ・ウール・ゴウンの弟子たる、モモンという冒険者の件です。ラナー殿下の考えではアインズ・ウール・ゴウンが王国に接触を行うために派遣したものの確率が高いとのことでした」
「その件ですが、モモンと連絡を取ったのですが、師の行いに関して自分は一切関係が無いと突っぱねられまして」
「なるほど。もはや接触は不可能ですか」
「モモンという人物に謝罪を行うことで、間接的にアインズ・ウール・ゴウンへの謝罪とはならないか?」
「不可能でしょう、陛下。都市長の話を聞く限り、王国に対しての秋波……媚ではないでしょうが、は途切れていると思われます。もはや完全に帝国の臣下でしょう」

 そうかと言って、ランポッサⅢ世はイスにもたれかかる。
 アインズ・ウール・ゴウンは単なる魔法使いとして考えてはいけない。おそらくはありえないような力を持つ者を臣下にした強大な魔法使い。国堕としという過去に滅んだ存在に匹敵すると考えた方が良いという存在だ。

「講和を結び、アインズ・ウール・ゴウンに領土を渡すことで見える敵とする。それがラナー様の計画でしたか?」
「そうですね。帝国も臣下にしたとはいえ、いえあれだけ高い地位を与えたからこそ、強大さと危険度は充分に理解しているはずです。ですので包囲網を作れればそれに越したことは無いと考えるはず」

 力の中でも権力というものは、強くなればなるほどそれに敵対する力も強くなる。アインズが領土を持ち、巨大な力を振るうようになれば、それに対して危機感を持つものなどが敵に回るはずである。

「ではこの都市は譲り渡すのですか?」

 パナソレイが感情を感じ取れない声で問いかける。都市長である彼からすれば非常に複雑なところなのだろう。

「そうは流石にならないようにしたいところです。帝国との今回の戦いを上手くやり過ごし、講和の条件として帝国とエ・ランテルの間の領土を譲り渡す。そういったところでしょうか?」
「……問題は貴族たちが何を言うかだな」
「ある程度敗北をすれば受け入れるでしょうが、そうでなければ陛下が逃げたと思われるでしょう」
「つまりはレェブン侯。今回の戦いはある程度負ける必要があるということか」
「そのとおりです。ガゼフ殿。その際に上手く貴族派閥の力をそげればよいのですが」

 室内が再び、沈黙に支配される。レェブン侯の言っていることは頭では理解できる。とても重要なことだ、と。しかし感情では理解しがたいのだ。
 敗北と言うのは王国内から集めた平民が死ぬことを意味している。
 何万人、何千人、何百人の死亡。それは数字ではたいしたことが無いようなイメージを持つが、どれだけの縁のある人々の嘆きがあるかは、少しでも想像力のある人間であれば容易いだろう。

「ある程度の死者が出ることはもはや避けられない以上、仕方が無いことです。そうすることで王国は帝国と講和を結び、その後にアインズ・ウール・ゴウンと帝国の不和を狙う。それが今後の王国の未来を守る手段となっていくのですから」

 王国の方針はそれしかない。不和を狙って行動していく間に、王国の力を取り戻す。そして2者のどちらかを敵とすることで、どちらかを味方に引き入れるのだ。出来るなら帝国と。


 この考えは戦争が終わった後、友好関係を結んでいくということを前提に考えているが、これは変なことではない。
 戦争と言うのは国と国の交渉手段の1つである。殴り合って強いほうが弱い方に言うことを聞かせる喧嘩と考えるともっとも近いだろう。
 当然、人間しかいない世界であればそうはならないかもしれない。人種の違いや宗教の違い、言葉の違いによって互いを殲滅するまでの殺し合いが始まるかもしれない。
 しかし、この世界は人間だけのものではなく、モンスターが存在し、亜人たちが自らの国を作る世界だ。アンデッドは生きるものを憎み、人を凌駕する存在が幾らでもいる。
 そんな世界の中で、最も似た価値観を持つ同族である種族を、殲滅まで追い込むというのが馬鹿馬鹿しいというは即座に理解できるだろう。
 種というクラスで考えれば、共存していければそれが最も賢いのだ。ただ、同じ種であるがゆえに生存圏が重なり、同じ価値観を持つがゆえに戦争が生まれるのも、仕方が無いことであった。

 だからこそ帝国と同盟を結びたいのだ。
 ラナーの話を聞いた者たちは、アインズ・ウール・ゴウンは国堕としを超える、単騎で国を滅ぼせる存在と推測している。そんな者が人間という種であるはずが無いのだから。いや人間だったかもしれないが、逸脱した存在は人という種ではない。
 同盟を結ぶなら、まだ価値観が同じ種の方が良い。別の種と同盟を結ぶのは最後の手段にしておきたい。


 ほぼ全員が仕方ないと、苦虫をかみ殺した頃、レェブン候が思い出したように口を開く。

「そしてもう一件。お話しておきたいことがございまして、そのアインズ・ウール・ゴウンに関連しているとされる人物で、血塗れという人物がいるのですが」
「おお。私からも陛下にしようかと思っていた話です」
「それは一体?」

「はい。カルネ村には『血塗れ』エンリという傭兵団長がいるそうです」
「カルネ村?」

 ガゼフは自らが出向き、初めてアインズと遭遇した村だとすぐさま記憶を蘇らす。襲撃をかけられた村であり、決してそんな血塗れなどと呼ばれるような人物がいる雰囲気は無かった。

「はい。血塗れのエンリは、ゴブリンやオーガなどのモンスターを指揮するという人物だそうで」

 亜人との関係性に、即座にガゼフは血塗れのエンリとアインズが、なんらかの繋がりがあると理解する。

「なるほど。エンリという女性とアインズ・ウール・ゴウンの関係か」
「そこで問題が。一部の貴族が血塗れのエンリがアインズ・ウール・ゴウンと何らかの関係があるという情報を手に入れたようで。捕縛せよと言っているものが幾人かおりまして」
「それは厄介だな。これ以上怒らせたくはないのだが……私から何らかの理由を作って認めない方が良いか?」
「いえ。送り出しましょう」

 3人の視線がレェブン侯に集まる。
 これ以上アインズ・ウール・ゴウンを怒らせた場合、この戦いでの後の友好関係に問題が出ると判断しているのだ。もし帝国が対アインズ・ウール・ゴウンに協力してこないなら、アインズと同盟を結び、帝国を揺さぶる計画となっている。
 その仮初の同盟を結ぶのに、アインズをこれ以上怒らせるのは危険すぎる。
 
「モモンなる人物に情報を流した上で、です」
「なるほど。送り出さなければ貴族派閥の人間が煩い。送り出した後、辺境侯と禍根が残るような事態になられるのも困る。だから情報を流すことで、謝罪とするということですね」
「ええ。その通りです。出来れば貴族派閥の中でも血気さかんな人物達を送り出すよう、ボウロロープ侯に言っておきましょう」



 ■



 草原のど真ん中に野営地があった。
 運んできた木で周囲に簡単な柵を作り、天幕をその内側に円を描くように並べる。同じように運んできた木で組み立てた、あまり頑丈そうには思えない物見やぐらが3つほど、野営地内ににょっきりと姿を見せている。
 立派な天幕は中央部付近に集まり、みすぼらしい天幕は外周部に並ぶ。ただ、1000人規模ともなると天幕の数も膨大になり、野営地もかなりの範囲に広がっていた。
 時間は月が昇る時間ともなっており、無数の天幕の中では、行軍に疲弊した者たちが泥のように疲れ果てた顔で睡眠を貪っている。
 そんな静かとも思える野営地で、唯一人の声が聞こえるのは、中央となる場所だ。
 そこには大きなかがり火が1つ、置かれていた。
 紅蓮の炎は天を焦がすように立ち昇り、生じる無数の火の粉が闇に溶け込むまでの短い時間、大地に落ちた星のように輝く。周囲にわだかまる闇もその明るさの前には近寄ることが出来ない。
 そんな揺らめく赤い明かりの中、夜警の順番を待つ者たちがいた。
 数人という単位ではなく、100人はいるだろう。野営地の規模からすると妥当ではあるが、広場だけを見渡せばその数はかなり多くも感じられた。それだけの人間が、時間が経過するのを待つ間、互いでおしゃべりをしているのだ。小さい声で話していても、合わされば大きな声となる。
 広場から響く声音はそういった、夜警のおしゃべりによって、生じる音だった。


 そんな声が風に乗って非常に僅かしか聞こえないような、野営地の外れ。柵の部分と天幕の境目を、3人の兵士が巡回に当たっていた。
 3人とも同じようなランタンを腰に引っ掛け、槍を手で持って歩いている。あまり緊張感のあるようには思えない、だらしない態度での巡回だった。しかしそれも仕方がないとも言える。
 というのも草原という場所である以上、そして月明かりがある以上、見咎められず大人数で接近できるはずが無い。だから草原に人や動物の影が見えない今、彼らが本気で警戒する理由がなかったためだ。
 それにこの3人だけの巡回であれば、もっと注意深く行動するかもしれない。しかし巡回しているのは彼らばかりではない。柵沿いにぐるっと見渡していけば、同じようにランタンの明かりが動いているのが即座に発見できた。

 つまり、夜警である彼らの仕事は、周囲の開けた場所を、3人で1チームを作り交代で一周ぐるっと見回る。そんな簡単な仕事だということだ。緊張感すらもてないような。

 彼らは柵に沿って歩いているのだが、時折、腰につるすランタンを邪魔者に向ける視線を送っている。
 空から落ちてくる月明かりの方が明るく、ランタンの明かりによって逆に影を作っているよう感じてしまうためだ。出来れば消して歩きたいところだが、このランタンの明かりが物見やぐらに立つ兵士に、非常事態を知らせる合図にもなるもの。緊急事態のことを考えれば、消すわけにはいかない。

 兵士の1人が槍を小脇に抱え、服を直すような姿をとりながら、満点の星空を眺めた。

「……ちょっと寒いか?」

 吐く息は白くは無いが、夜闇が体温を奪っていくような感じがした。そんな彼に隣に並ぶ男が笑う。

「こっちはまだ暖かいだろうが」

 確かに男たちの生まれた場所からすると、この辺りはまだ暖かい。少しばかり羨ましいほどに。そんな彼に別の男がやはり笑いながら話しかけてきた。

「服がわりぃよ。もっと厚手の服を着てくりゃいいのに」
「そうだぜ。服は厚いほうが安全ってな」

 鎧を配布されなければ、個人で所有できるはずが無い単なる農民である彼らからすれば、厚めの服は精一杯準備できる防御力のある服だ。もちろん、武器に対して効果が見込めるかというと疑問ではあるが、それでも無いよりはましという程度に。

「あんまり厚い服は持ってないんだよ……」

 そのしょんぼりとした声に、疑問の声が返る。

「冬はどうするんだよ。真冬にその格好は死ねって言っているのとおんなじだぞ?」

 そうだ。彼らの村のあるあたりは王国でも北の方に位置する。
 その辺りまで行けば冬の寒さは身を切裂くようなもの。寒いと言った男の格好では厳しすぎるどころか、凍え死ぬだろう。

「お前、前は持っていたよな? あのぼろいの」
「……前の奴は弟に上げた。そんで今回の収穫で準備する予定だったんだよ」

 全員が言葉無く、暗い雰囲気で下を向く。実際、その言葉だけは笑えない。農民であり、裕福でない彼らからすれば絶対に笑える話ではない。彼らも同じ状況なのだから。
 声の調子が一段も二段も落ち、暗いものが含まれる。

「……だんだん、きつくなってくるよな」
「……ああ。蓄えも乏しくなってきたし。村のみんなは無事に収穫終わってるかな」
「そうだといいんだけど。難しいんだろうな。村に帰って最初に見るのが腐った果実とか、最悪だもの。今回はそんなことにならないようにしたかったんだけど」
「やっぱ、死んだってことにして何人か隠れるしかないぜ? 幾人かでも男手が村に残ればそれだけでもかなり収穫できるだろうしよ」
「ほんと、それしかないな。でもばれたら厄介だし……」
「厄介じゃすまねぇよ。重税かされるとかだぜ。隣の村でそんなことがあったって言う話を聞いたな」
「でも、今の生活の方が厄介だろうが。戦争で生き残れても村で餓死とか……そんな死に方になりたいか?」
「真っ平ごめんだな。それにこのままじゃ、家族を食べさせられなくなるからな……」
「……嫌だよなぁ。戦争はごめんだよ、ほんと」
「……戦争は仕方ないだろ。それよりも問題は糞どもの頭の無さだ」
「俺達農民は絞れば絞るだけ、税を吐き出すと思ってるんだろうさ。貴族のお偉方は」

 唾を地面にはき捨てるのと同時に、男の1人が押し殺した声で呟く。その言葉には憎悪がはっきりと色付いていた。
 踏み付けられる側からすれば当然の思いだ。
 ここに来た――戦争のために集められたことに不満はあるのは確かだが、国土を守るためであり、自分達の村まで伸びてくるかもしれない戦火を消すためだと思えば、それは我慢できる。しかし、それならば税の軽減や、褒美といったものをくれても良いだろう。そういったことを一切せずに、税は普通に取り立てられれば、何故、こんな苦しい思いをしなくてはならないと思うのも当たり前だ。

 3人のため息が唱和する。
 なんでこんな人生なんだろうと。

「まぁ、だが、少しは運がいいかも知れないな?」
「なんでだ?」
「俺たちが今から行くのは戦場じゃないらしいからな」
「エンリとかいう女を捕縛するためだっけ? ……でも、こんなに人数必要なのか? 女1人だろ?」
「貴族様の軍だから全員連れて行くってことだろ? うちの近くの村の人間じゃないか、ほとんどが」
「ああ、そうだったな。どこかで見た顔が多いと思った」
「つーわけで運が――」

 ――突如として、ごうと風が吹き抜ける。天幕が風の煽りを受け、バタバタとはためく。遠くからは今の風で消し飛ばされた松明に対する不満や、驚きの声が上がっていた。

「……すげぇ、突風だったな」

 思わず、風が通り過ぎていった先を見つめる。無論、風に姿や形があるわけではない。条件反射の1つのようなものだ。そんな自分を笑い、男はぼさぼさになった髪をてぐしで整えながら友人に声をかける。
 しかし返事が無い。
 どうしたのかと見てみれば柵の向こうを真剣な顔で眺めている。それも2人そろって。
 柵の向こうに広がるのは草原である。歩きながら見ていたが、当然そこには何も無かった。何かあったらお喋りなんかしてられなかっただろう。では、どうしたのか。
 男は疑問を感じながら、友人の視線の先を追う。そして男も硬直した。
 自分が気づかれたと知ったのだろう。それは片手を上げ、軽い挨拶を投げた。

「ちわーっす」

 女の声。
 こんな草原のど真ん中に、いつの間に現れたのか。
 村娘が1人。垣根で作ったバリケードからさほど遠くない場所に立っていた。
 月明かりの下、その姿ははっきりとわかる。
 確かに可愛らしいが、それほど美人というわけでもない。村の中では上位という顔立ちだ。服装は大したものではない。トータルとして判断するなら、単なる村娘だ。
 遭遇した場所が場所なら。

「おいおい……」

 農民から徴収された兵士からすれば、決してありえない光景だ。こんな村から遠く離れた場所に村娘が1人なんて。
 人間の生活圏内であり冒険者が巡回していたって、獣やモンスターがさまよっている可能性が非常に高い場所に、村娘が1人でいるわけが常識的に考えてあるはずが無いのだ。
 武装していれば腕に自信があるのだろうと、100歩は譲れるだろう。しかし、その村娘は武装なんて何もしていない。単なる麻の服だし、ナイフすら帯びているようには思えない。

 モンスター?
 そんな考えが浮かぶ。村娘の格好をしたモンスターではないかと。そしてその疑問を氷解する

「どうもっす。血塗れのエンリっす」

 ひょいと手を上げ、挨拶を行ってくる奇妙な女。その女――エンリの言った意味が頭に染み込んでくる。
 エンリという名前、それは自分たち――いや、貴族様どもが捕らえると言っていた人物の名前ではないか。そんな人物が何をしにこんな場所まで?
 疑問が嫌な予感に変化していく。そしてエンリの言葉はそれを肯定するものだった。

「いやー。私を捕まえたいってことなんで、先に来たわけっすよ。ちなみに捕まりたくは無いんで、ぶち殺させてもらうっす」

 にっこりと笑顔を浮かべる。
 月明かりによって生じる顔の明暗によって、その笑みは異常なほど不気味に見えた。

 だが、相手は1人。こちらは1000人。まだ勝算はある。そんなことを思い浮かべた男をあざ笑う様に、エンリは口を開く。

「ちなみに――」

 どこにいたのか。エンリの後ろに醜悪で捻じ曲がったようなゴブリンたちが姿を見せる。
 数にして30体。全員が真っ赤なとんがり帽子を被り、鉄の靴を履いている。そしてその手には手斧。月明かりを浴びて、青い光を放っているようだった。

「――1人ではないっすよ。アインズ様にお願いして創造してもらったレッドキャップっす」
「敵襲!! 血塗れのエンリだぁああ!!」

 友人の絶叫。それに合わせて男も叫ぶ。

「ここだ!! 血塗れのエンリとモンスターだぁああ!!」
「さてと、もう少し派手にいくっすか。《ブロウアップフレイム/吹き上がる炎》」

 ボンという膨らんだものが弾けるような軽やかな音と共に、一気に野営地が明るくなる。
 物見やぐらの1つが炎上し、巨大な松明のごとき輝いているのだ。上の部分から燃え上がった人間が落ちていく。

「こっちだぁああ!!」

 驚愕しながらも男たちは叫び、エンリから離れるように動き出す。
 元々戦意は皆無に等しかったうえ、あれほどの光景を見せられればもはや戦う意志はまるで無かった。魔法使いというのは彼らからすると、理解できない力を持った存在であり、武器が効くとは思わない存在である。
 何が運が良いのか。
 ほんのちょっと前の自分達に唾を吐きかけ、男たちは逃げながら繰り返し叫ぶ。正直、来てくれる人間が自分達の盾になってくれれば、なんていう思いを抱きつつ。

「血塗れのエンリが魔法をつかったぞぉおお!!」
「こっちだぁぁあああ!」

 そんな男たちを笑顔で――しかしながら冷酷な輝きを放つ瞳で眺めながら、彼女は顔を数度なでる。そして仮面が外れてないことを確認すると、レッドキャップに冷酷に命令を下す。

「行け。そしてあらかた刈り取って来い。ただし出来る限り死体は綺麗な状態で残しておきなさい。アインズ様が回収して実験に使うということなので」
「畏まりました」

 レッドキャップの一体がだみ声で答えると、ゆっくりと野営地に歩き出す。

「……あらかたっすよ? 幾人かは血塗れのエンリが二度と狙われないように、情報を流してもらうんだから生かして逃がすっすよ?」

 レッドキャップたちは全員が頷き、いっせいに走り出す。その口からは殺戮への歓喜の声が漏れ出ていた。

「……うーん、ほんと全員殺されないっすかね?」

 立て続けに起こる悲鳴と断末魔の叫びに、彼女は僅かに懸念を抱く。しかしそれが杞憂だったと分かったのは7分後だった。
 その時には野営地には血に沈み、ほうほうの態で逃げ出すたった10の影があるばかりだった。



 1000人を超える人間が、たった30体のモンスターに殺されつくしたのだ。
 たったの7分間で。
 向かってくる人間ばかりではなく、逃げまどう人間も、隠れようとする人間もいる中、その短い時間で殺しきれるのは、まさに冗談のようであった。どれだけ彼我の戦力に差があるというのだろうか。
 
「血塗れのエンリにふさわしいっすね」

 目の前に並んだ、真紅の帽子を被るレッドキャップを眺めながら、独り言を呟く。
 並んだものたちの帽子から漂う濃厚な血の匂い。それに満足げに目を細めた。

「うんじゃ、お前達はこの辺で警戒をしてるっす。野生動物に持っていかれたりしたら勿体無いっすからね。じゃ、私は先に戻って回収を要請するっす」

 レッドキャップ達が深く頭を下げるのを確認すると、女は草原を走り出した。目的地は当然、ナザリック大地下墳墓である。
 女は当初は2本の足で走っていたのだが、月明かりの下、その姿はゆっくりと4つ足の生き物へと変わっていく。
 ほんの数秒にも満たない時間の経過後、やがて狼と呼ばれる生き物が草原を疾走するのだった。



 ■



 3日後――早朝。
 朝日が大地を照らし出す時間帯。
 カッツェ平野といわれる場所にも、太陽はその慈悲を与えていた。カッツェ平野は赤茶色の大地が掘り返されたような新鮮さを持ち、草木はあまり生えないという景色がかなりの範囲で広がる場所である。
 夜にもなれば、そして太陽が出ている時間帯もアンデッドのモンスターが蠢く場所でもあり、危険な地として広く知られる場所でもある。

 そんな平坦な場所に、どんと目立つ巨大な建築物があった。
 周囲はしっかりとした大木が、周囲を拒絶するような頑丈な壁となっている。壁の向こうには無数の旗が揺らめく。その中で最も多いのはやはりバハルス帝国の国旗だろう。
 それが無数にたて昇るのも、当然である。ここが帝国の――6万もの騎士たちを駐屯させる地なのだから。

 今回の出兵に関して帝国が動員した騎士の数は6万。それが全て収まるだけの駐屯地といえば、それがどれほど広大かは説明の必要が無いだろう。
 本当に見事なつくりであり堅牢な要塞と言っても過言ではないような見栄えを持つ。
 しかもところどころの大地が盛り上がり、攻められても容易くは落ちないような堅固な作りとなっている。これは平野の中にこのような地形がたまたまあって、それを有効活用して要塞を作り出したのではない。この大地の盛り上がり自体が、魔法による土木作業の結果だ。

 流石にこれは魔法使いを国家の柱の1つにしている帝国でも、この地に到着して一週間では出来ない作業である。
 大地の盛り上がりは、数年間の帝国の侵攻での蓄積の結果だった。何度も何度も同じ場所に駐屯地を作り、魔法による土木作業を続けた結果ということだ。

 そんな要塞の建造という結果に対して、王国が何の対処も見せなかった理由は、単純にこの駐屯地に攻め入るようなことが一度も無かったため、無駄な労力をかけまいという理由からだった。盛り上がった大地を魔法の力を使わないで戻すとなると大きな工事になるし、するとなると出現するアンデッドにも注意を払わなくてはならない。
 そうなると、黙認してしまった方が金銭的な出費が少ないためであった。

 そんな巨大な駐屯地の上空を、3騎のヒポグリフが飛んでいた。それらは大きく円を描くように舞いながら、ゆっくりと降下を始める。騎士であれば誰も知る、皇帝直轄の近衛隊の1つ『ロイアル・エア・ガード』の儀典式降下である。
 つまりは帝国の使者の到着を示す降下の仕方である。

 やがて3騎のヒポグリフは背に乗せた者と共に、駐屯地の一角に舞い降りる。
 そこには既に10人の騎士たちが待ち構えていた。帝国から来た使者を迎えるための人数としては妥当な数だろう。

 ヒポグリフの背から1人の全身鎧に身を包んだ男が降り立ったとき、待っていた騎士たちの顔に驚きが走った。
 ヘルムを外しているために、その端麗な顔が表に出ていたために誰か即座に理解できたのだ。いや、被ったままでもわかっただろう。その特徴的な鎧を見れば。

 かすかな風にそよぐ金の髪に、深い海を思わせる青の瞳。屈強な意思を感じさせる引き締まった唇。騎士としてこうであれという典範のような男だった。
 その男を知らない騎士は誰もいない。何より、その男の全身鎧を知らないものがいるはずが無い。希少金属であるアダマンティンをもって作られ、さらには強力な魔法によって魔化された鎧。それほどのものは帝国でも数えるほどしか存在しない。
 その鎧を着るものこそ、帝国の騎士の最高位に立つ者の1人。

 彼こそが帝国最強の4騎士の1人、『激風』ニンブル・アーク・ディル・アノックである。

「将軍の方々は今どちらに?」

 涼しげな、それでいてピンと伸びた声で寄ってきた騎士にニンブルは問いかける。

「はっ。本日王国との戦争を行うということで、こちらには代表しましてカーベイン将軍が向かって来られております」
「そうか……。それで辺境侯は既にお着きかな?」
「いえ、辺境侯はまだこちらにはお見えになられてはおりません」
「了解した」

 安堵のため息がニンブルから漏れる。その辺りで新たな登場人物がその場に姿を見せる。

 完全に髪を白く染めた壮年の男であり、穏やかな雰囲気をかもし出している人物だ。
 着ているものは騎士たちと同じ鎧ではあるが、あまりその人物には似合っていない。その男はどちらかといえばもっと貴族風の格好のほうが似合っているといえた。
 数名の警護を引き連れてきたその男は、どんな人間でも地位の高さを感じ取れる。

「ニンブル、良くぞ参った」

 破顔すると騎士というよりは、品の良い貴族というイメージがより強くなる。声色も穏やかなものであり、こんな戦場の匂いが強い場所にいるのが嘘のようでもあった。

「カーベイン将軍」

 ニンブルは略式の敬礼でそれに答える。

 ナテル・イニエム・スァー・カーベイン。
 もともと平民でありながら、その才を認められ先代の皇帝に取り立てられた、第2軍の指揮官である将軍である。個人の武勇は無いに等しいが、堅実な指揮官としてその名は高く、戦えば決して負けることは無いといわれる名将である。そのためもあって指揮する第2軍の士気は非常に高い。
 実際、カーベインの連れて来た騎士たちの、一挙一動にはカーベインに対する敬意が見え隠れしていた。

「今回の遠征の最高指揮官である、将軍に出向いていただき感謝の言葉もありません」

 帝国軍は第1軍から第8軍まであり、その軍ごとの最高責任者は将軍という地位に就く。そして第1軍の将軍が大将軍という軍全てに対する指揮官となる。
 その第1軍――大将軍がいない場合は、その次の順番が若い軍を指揮する者が統括へと就任する。つまりは今回の場合は第2軍の将軍であるカーベインが最高責任者ということだ。

「いやいや。ニンブル。そう畏まらなくても良いよ。君も陛下のご命令でここには来たのだろ? ならば別に私の指揮下に納まるわけではないんだ。対等にしてくれて結構だよ」

 そうはおっしゃられましても、そう言いながらニンブルは苦笑いを浮かべた。
 軍の最高責任者は皇帝であり、その下に大将軍がつく。カーベインはその下、つまりは第三位の存在だ。
 では帝国最強といわれる4騎士はどの程度の地位に就くのか。
 皇帝よりの直轄命令を遂行する場合が多い4騎士は権限だけで言えば、将軍と同格のものを有することとなる。しかしながら、年齢や経験、貫禄。そういったもので負けているというのに、対等での対応というのも外部がいないところでは難しい。

 そのニンブルの困り顔を好ましく見ていたカーべインは微笑む。

「いや、無理を言ったかな? ただ、軽い気持ちで任務に当たってくれたらと思ったんだがね。さて、ではおしゃべりもこれぐらいにして本題に入ろう。ニンブル、今回ここに来た理由は何かな?」
「はい、大した理由ではございません。今回の任務は辺境侯にお会いして陛下からの手紙を渡すのと、辺境侯の戦闘を目に焼き付けるのが任務です」
「おお、辺境侯か。それで質問なのだが、侯は一体何時ごろお見えになるのかな? すでに王国の軍勢はゆっくりと陣形を整えつつある。もう少ししたら開戦だ」

 辺境侯が戦端を開く。
 それは遠征前に、ジルクニフより命じられたことの1つだ。
 それと納得しがたいことが1つ。

 場合によっては辺境侯の指揮下に入れ、だ。

「なぁ、ニンブル。辺境侯とは一体、何者なのかな?」

 カーベインは前から思っていた疑問を口にする。
 それはカーベインのみならず、帝国である程度の地位を持つ者であれば誰もが思う疑問である。

 アインズ・ウール・ゴウン辺境侯というのは何者なのか。

 帝国は現在、貴族の力を削ぐために様々な手段を用いていた。今回の遠征だって、費用の大部分を支払うように命じたりもしている。そうやって真綿で首を絞めるように行動している。
 そんな中、まるで時間の流れを逆行するように、辺境侯という新たな――それも最高位といっても過言ではない地位を与えてまで招き入れた人物。
 噂では強大な魔法の力を有し、莫大な力をも兼ね備えるという。その強大な魔力に引かれ、フールーダはその地位を捨てて、弟子になったという。

 無論、これらカーベインが聞く話は真実なのか、偽りなのかは全くの不明だ。唯一フールーダがその地位を降りた。そして弟子になったという話のみは事実だという。

「…………」

 ニンブルはそれには答えようとはしない。重要機密に関すること、周りでニンブルの様子を見ていた騎士たちはそう判断する。しかし観察眼に優れたカーベインは、ニンブルの沈黙が恐怖と困惑に彩られたものだと見て取った。

 帝国4騎士の1人が怯える相手。

 それはどのような存在か、カーベインには想像も付かない。いや、もしかしたら自分の観察や推測が間違っていると判断した方が、理解できるというものだ。かの4騎士が恐れているなんか、自分の勘違いだとした方が。

 カーベインが色々と考えていると、1人の騎士が向かって走ってくる。
 鎧胸部に刻まれたエンブレムはその騎士の地位、そして高さを示している。それからすると1人で走ってくるほど低い地位のものではない。

「将軍!」
「どうした? 何かあったのか?」
「はっ。辺境侯の旗を立てた馬車が一台、門の前に到着されました。いかがなさいますか?」

 カーベインはチラリとニンブルを伺う。それに対してニンブルは1つ頷いた。

「わかった。すぐに通せ」
「はい。それで……中の確認は行いますか?」

 例え中に誰が乗っていようと、駐屯地に確認無く入ることは出来ない。通常は魔法による検査などを行って、幻術による返信などではないかという確認をするのは基本だ。その辺りがしっかりとルールとして確立しているのが、魔法使いを国家の柱として管理育成している帝国ならではだろう。
 そこからすれば、辺境侯を検査するのも当然であり、通常なら言われずにすべきことだ。では何故、この騎士はわざわざ問いかけに来たのか。
 カーベインは再びニンブルに視線を送る。それに対する答えもやはり予測のとおりだった。

「将軍。辺境侯は重要な人物。決まりというのは知っていますが、何卒、そのようなことなく通していただきたい」
「……その必要は無い。何よりもすぐに、辺境侯を通すんだ」
「はっ!」

 騎士の返答。そこには安堵の色があるのをカーベインは感じ取る。騎士を動揺させる、そんな馬車が来たというのだろうか。カーベインは怖いもの見たさの、好奇心が湧き上がるのを押さえ込めない。
 そして特別な扱いをするほどの相手だという辺境侯に対する好奇心もまた強まっていた。


 一台の見事な馬車がゆっくりと先導されるように、カーベインたちの方に近寄ってくる。それから目をそらさずに、ニンブルが言葉を発する。

「皆様。最敬礼でお願いします」

 何? という表情がカーベインたちの顔に浮かんだ。帝国の法律上、辺境侯の方が地位は高いかもしれない。そして確かに今回場合によっては指揮下に入れという命令を受けている。
 だからといって将軍よりも上の地位をそのままに軍隊に含めてしまっては、指揮権の混乱が必ず生じよう。だからこそ戦場において最敬礼というのは滅多にされないこととなる。騎士が自分の指揮官が最敬礼をしている光景を目にした場合、その人物がより上位の指揮官だと勘違いするだろうから。
 それが戦場の暗黙の了解である。
 にも関わらず、要求されたのは最敬礼という皇帝を迎え入れる、最上位の礼儀を示せと言うのだ。

 あまりにも納得がいかない言葉だが、ニンブルの表情や態度を見ていれば、好きでしろといっているのではないという理解は出来る。つまりはそういった対応をすべき人物だということ。それに皇帝の命令である指揮権の委譲に絡んだ話なのか。

「皆、最敬礼を行うように」

 カーベインが命令することによって、混乱していた騎士たちに安堵が生まれる。命令ならば従えばよいのだ。そこに自分の考えは必要ない。ニンブルの安堵を横目で見ながら、カーベインはヘルムを外し、最敬礼の準備を取るように指揮する。
 全員がヘルムを外しその顔を外気に晒していると、ゆっくりと馬車が一行の前で止まる。

 カーベインたちの前で止まった馬車は、見事という言葉しか生まれない。
 恐らくは帝国内でもこれほどの立派な馬車はそう無いだろう。細かな装飾に、よくわからない飾りが突き出していたりしている。多少ゴテゴテしていると言えるが、それは元々平民であり、もらっている金銭に対して質素な生き方をしているカーベインだからこそそう思ったのだろう。貴族辺りならば、また別の感想を抱いたに違いない。
 それでも辺境侯の財力が桁外れなのだろうという、その一端を目にした思いだった。

 御者は確かに異様だ。これなら騎士が緊張したのも分かると、カーベインは頷く。
 御者として座るのは、全身真紅のフードを纏った存在だ。その下は一切見えないし、こちらに一瞬たりとも目を送ってこないのが、異様な雰囲気をかもし出す。
 人間というよりはもっと別の――ゴーレムとかの可能性があるような、身動きの少なさだ。

 そうやって全員で観察をしていると、馬車の扉が開き、最初に1人の人間が降り立つ。その人物を見たカーベイン、そして騎士たちは驚きの表情を隠しきれなかった。

 それは老人。
 かつては純白のローブは今では漆黒へと変わり、クリスタルを思わせる輝きを放つ数珠を首から提げている。手にした杖からはピリピリとした魔力の波動のようなものがカーベインたちの皮膚を叩く。両手に大き目の宝石をはめ込んだ指輪をそれぞれにして、黄金の輝きをもつ手甲に身を包んだ者。
 その人物を見間違うことは決してありえないだろう。帝国が世界に誇る最高の魔法使い。そして辺境侯の弟子となり、主席魔法使いの地位を降りたとされる人物を。
 フールーダ・パラダイン。
 歴史に名を残すだろう最高位の魔法使いだ。

 確かにカーベインも――ある程度の地位の騎士であれば、フールーダという魔法使いが辺境侯の下に付いたというのは耳にしている。しかし、ここで会うとは正直思っていなかったのだ。
 自分たちが幼かったころから帝国に仕えてきた、帝国のかつての重鎮中の重鎮。例え戦場において――そして役職を蹴り、辺境侯の弟子となった現在では、地位は将軍の方が上だとしても感情までもは付いていかない。

 そんな驚愕に支配されたカーベインたちをフールーダは無視し、馬車に声をかける。

「師よ、着きました」
「ああ、わかったぞ、弟子よ」

 中から声が返り、ゆっくりと姿を見せるものがいた。

 格好はフールーダに似ている。
 漆黒のローブ、豪華ではあるが装飾が派手ではない程度に抑えられた杖、銀の輝きに宝石をはめ込んだネックレス。ただ、その顔は奇怪な仮面に覆われていた。
 そして何よりも目を引くのはその両手。
 左手のガントレットは悪魔のような邪悪な生物からもぎ取ったようだった。黒を基調に禍々しい形状を取っている。捻じれた様な棘が突き出し、指先は鋭利に尖る。金属だと思われるのに、奇怪な分泌物を排出しているような薄汚れた輝きがあった。目にするだけで魂から否定されるようなおぞましさが、全身を走り抜ける。
 それに対して右手は純粋無垢な少女を思わせた。純白を基調に、すらっとした形状を取っている。金の奇妙な紋様が全体に走っているが、それすらも美しさを高めるための装飾になっていた。目が奪われるとはまさにこのことだ。絶世の美女を前にしたように、魂が吸い込まれそうだった。

 カーベインは即座に悟る。いや、頭で理解するのではなく、魂で感じ取ったのだ。
 これが皇帝が警戒する魔法使いだ、と。
 この人物だからこそ最敬礼が必要なのだ、と。

 周囲にいた騎士たちが、氷柱を突き刺されたような寒気に身を震わせる。遠めで様子を伺っていた者たちが、息を呑む。
 戦争が始まるという熱気が一気に掻き消え、熱の篭った喧騒が一気に無くなっていくようだった。

 たった1人。
 仮面で顔を隠した貴族がたった1人姿を見せただけで、温度が一気に数度は下がったような、身の毛も凍るような冷気に襲われたのだ。
 戦場であっても、どんなモンスターと対峙しても、どんな強者と面と向かっても恐怖しない者たちが、親に叱られる子供のような頼りなさをその身に宿したのだ。

 静まり返った中、タラップを降りる音がやけに響く。いや、動物的な本能が、その存在をしっかり捉えておかないと逃げられないと判断し、全神経を集中させているのだ。

「人間なのか……」

 誰かの呟き、それがやけに大きく聞こえる。
 だが、その場にいた全ての人間が、その小さな風が吹けば消えるような声に同意する。姿を見せただけで動物的本能を強く刺激してくる者が人間であるはずが無い。

 アインズがゆっくりと大地に降り立ち、前に掛かったマントを跳ね除ける。漆黒のマントがバサッという音とともに広がり、まるで黒翼が展開されたようだった。

「よ、よこ、ようこそお出でいただきました、辺境侯」

 ニンブルがひざまつき、頭を垂れる。その声は震え、明確に恐怖を物語っている。
 そう。帝国最強とされる4騎士の1人が怯えているのだ。しかし、それに対して何か特別な感情を抱く者はいない。なぜなら自分達だってそうなのだから。

 辺境侯。
 今まで帝国に無かった地位に座る者。
 強大な魔力を有し、フールーダですら頭をたれる大魔法使い。

 その言葉を誰もが充分に、心の底いや魂の底から理解できた。

「……皆様、最敬礼を」

 頭を下げたままのニンブルの静かな声に引っ叩かれる様に、ありとあらゆる者たちが慌てて跪く。カーベインも騎士も。その場に来たわけではない者たちも、たまたま目にしてしまった者たちも、そうしなくてはいけないという緊張感を持って。
 静まり返った場所に、仮面でくぐもった声が響く。

「……ご苦労、頭を上げよ」

 しかし、誰も頭を上げようとはしない。
 静寂が響く中、再び声が聞こえる。

「頭を上げよ。というよりも立ち上がって構わない」

 その声に含まれた微妙な感情に、全員が一斉に頭をあげ、立ち上がる。その様は弾かれたように、という言葉が相応しい様だった。

「私がアインズ・ウール・ゴウン辺境侯だ。今回は色々と面倒をかけるがよろしく頼む」

 頼むという雰囲気の一切無い、抑揚の無い声。しかし、それも当然ではないだろうかという思いが、その場にいた一同の心に浮かぶ。
 そんな中、ニンブルが口を開いた。

「……ようこそおいでくださいました。ゴウン辺境侯」

 ニンブルをアインズはしげしげと眺め、それから隣にいるフールーダに問いかけた。

「……フールーダ。あれは?」
「はっ。帝国最強とされる4騎士の1人。『激風』ニンブル・アーク・ディル・アノックです」
「最強?」
「無論帝国での、です」

 かすれたような笑い声が上がる。

「フールーダ。我々ナザリックも帝国の一部だぞ?」
「おお、申し訳ありませんでした。それを考えるならなんと評価してよいのか……。そうですな。単なる騎士です」

 侮辱であった。しかし、ニンブルは何も言わない。悔しいという感情すら起こらない。
 当たり前である。
 あのナザリック大地下墳墓の強大さを見たもの、そして仮面の下の素顔を見るものとして、何かが言えるはずが無い。ただ、これは激風の心がへし折られたとかではない。
 象に綱引きで人間が負けたからと言って悔しがる者がいるだろうか? イルカに水泳で負けたからと言って腹を立てるものがいるだろうか? 
 敗北は当たり前のことなのだ。
 ニンブルが何も言わないのは認めているからである。

 人間という種では、アインズ・ウール・ゴウンに勝てるはずがない。
 ニンブルが知る限り、最も人間としての高みにあった大英雄――フールーダはアインズの足元に身を投げ出した。それほどの存在に、人間が勝とうと思うのは思い上がりと言うのだ。

「……ジルクニフには言っておいた方が良いな。せめてもう少し良い格好をさせてや――」
「――師よ」
「どうした? フールーダ」
「あの者の武装は帝国で作られる武装では最高峰のものであり、これらを凌ぐものはございません」
「……ジルクニフもあまり魔法には金を回していないのかな?」
「――辺境侯。それぐらいにされたらどうでしょうか?」

 緊張感が一気に増した。
 その言葉を聞いた全ての者――アインズとジルクニフを除き――の額に脂汗が滲む。

 死んだ。
 そうカーベインは思う。
 自分は死ぬ。それでもジルクニフに忠誠を尽くす身として、訂正を要求しなくてはならない。

「貴殿の地位は重々承知しておりますが、共に戦うべき戦友に向ける言葉ではないと思うのですが? それに陛下は充分な金銭を回しております。もしそう思われるのであれば、今までの最高責任者がしっかり働いていなかったからではないでしょうか?」

 カーベインはフールーダにそれとわかるように視線を送る。
 はっきりとした皮肉だ。お前の弟子が無能ではないかという。ここまで言ってしまえば激怒は裂けられない事実であろう。しかし、それでも自分に対して何かをすれば辺境侯に対する皇帝の武器となるはず。
 そういう忠誠心がカーベインの恐怖を押さえ込む。

「……共に戦う?」

 不思議そうなアインズの言葉に、カーベインは僅かに眉を潜める。
 正直言えばそこに食いつくかという疑問だ。何故に皮肉に関して何も言わないのかと。

「何故、私がお前たちと共に戦わなくて無くてはならないのだ?」
「というのはどういう意味なのでしょうか?」
「まず、私が戦闘の口火を切るということの許可をもらっているのは知っているか?」
「……それは陛下から聞いていますが?」
「ならば共に戦う必要はないだろう?」

 言ってる意味がわからない。
 両者が疑問に満ちたとき、フールーダが横から声をかける。

「わが師はこうおっしゃているのだよ。師の軍勢だけで終わらせるから、帝国軍の必要は無いとね」

 空白が生まれる。
 あまりにもあまりな言葉だ。

 王国は20万の兵を動員している。それに対してどれだけの軍勢を用意しているというのか。
 動揺したカーベインを無視し、ニンブルが丁寧に懐から紙の手紙を一通取り出す。封をしている蝋の上には皇帝の印が押されたものだ。

「辺境侯。陛下よりお手紙を預かっております」

 アインズはそれを聞くと、片膝を大地に付ける。
 それはあまりにも自然であり、ある意味美しいとも言えるような流れだった。

 その臣下の礼に驚いたのはニンブルのほうだ。正直、まさか礼儀を見せるとは思っていなかったのだ。
 当たり前だ。あれほどの力を持つ存在が、あれほどの部下を揃える存在が、本気で人間である皇帝に忠誠を尽くすと思えるだろうか。傲慢かつ軽んじた態度で手紙を受け取る姿しか、通常はイメージできないだろう。
 それにあれほどの高位の地位に座す者が、こうも自然に臣下としての礼儀を示す姿が似合いとは思えなかったのだ。
 4騎士の1人バジウッドからの話で、アインズという人物が英知を持つ者だとは聞いていた。つまりそれだけではなく、礼儀作法も完璧なのだろう。
 動揺したニンブルにアインズは問いかける。

「読み上げないのか?」

 ニンブルは己が思いに囚われていたことに気づく。

「失礼しました。ですがこれは陛下から辺境侯への友情を込めたお手紙とのことで、私にそれを開封する権利は有しておりません」
「それを先に言って欲しかったな」
「た、大変申し訳ありません!」

 立ち上がりながら不満をもらすアインズに、ニンブルは謝罪をする。
 これは確かにニンブルが悪い。皇帝からの手紙と聞き、場所が戦場であれば、それは重要な意味をもった命令書であると考えても可笑しくは無い。そうであればよほどの非常事態以外、皇帝に対する礼儀を示すのは道理である。
 そのアインズの臣下としての礼儀を示した姿は、カーベインや騎士に好ましい印象を強く与えた。恐怖が強かった分、傲慢さを感じさせた分、重要なところでは敬意を示す。立派な姿を取れる人物だという像が頭に焼きついたのだ。

 普段悪いことをする人間が、ちょっと良いことをすると実は良い人なのではと思われる理論である。

 アインズは立ち上がると、ニンブルより手紙を受け取り、それを開くことなく無造作に懐に入れる。その行為にニンブルは不思議そうに声を上げた。

「読まれないので?」

 じっとアインズはニンブルを眺める

「な、なにか?」
「……う、む。まぁ、なんだ。友からの手紙だというなら、時間のあるときにゆっくりと読めばよいかと思ってな」
「なるほど。それも道理だとも思われます」

 横からカーベインが口を挟む。
 友達として戦争に来たのではなく、辺境侯として戦争に来たというならば納得のいく答えだ。

「なかなか分かる者だな。フールーダ? それと先ほど言い過ぎたようだな。私は帝国の貴族になってまだ間もない。あまり帝国内の魔法技術まで詳しくは知らなかったのだ」
「い、いえ。こちらの方こそ失礼な口を叩き、誠に申し訳ありませんでした」
「ふむ? 何か失礼なことを言ったか?」
「……!」

 なんと度量の大きい人か。
 カーベインは正直感心する。まさか自分の弟子のかつての地位を忘れているはずが無いのだから、その程度は自らの言い過ぎでの謝罪に含まれるという意味だろう。

「フールーダ、御仁は何か失礼なことをいわれたかな?」

 その問いにフールーダは微笑みで答える。師の寛大な言葉を理解し、その意志に副うように答えた。

「いえ。何もございませんでした」
「――感謝いたします、辺境侯」

 それに対してアインズはなんでもないと手を振る。何も無かった。そう言いたげな態度で。

「ん? んん、まぁ、そちらがそうしたいというなら、そういうことにしておこう。ではこれから戦争の準備に入りたいのだが、私の軍を呼ばせてもらいたいのだが構わないかね?」
「勿論ですとも、辺境侯」カーベインは返答は朗らかかつ好意に満ちていた。「しかし、今からということはこちらに到着されるのは何時ごろになられるのかな? 時間が掛かるようなら他の将軍達にも話しておかなくてはならないので」

 アインズは頭を傾げる。

「……その前に戦争の手順はどうなっているのかね?」
「王国との戦争は時間指定の上での戦争ですので、ある意味決闘に近い形を取っています。今回であれば、戦場で両軍の将がまみえ、最終勧告を行います。その後に戦闘開始ですね」
「なるほど……その最終勧告には私は関係ないのだろ?」
「そうですが、もしお望みでしたら同席されても問題はないかと思います」
「……いや、それには及ばない。私の役目はたった1つ。王国軍に先制攻撃を仕掛けることだからな。さて、それだけ聞ければ充分だ。さきほどの質問に答えさせてもらおう、将軍。到着は今だ」
「どういう意味でしょう、辺境侯?」

 疑問に満ちたカーベインの質問を無視し、アインズは魔法を唱える。それは当然《メッセージ/伝言》である。

「――シャルティア。《ゲート/異界門》を開け、そして私の兵をこちらに呼ぶのだ」アインズの仮面の奥の瞳が、カーベインを見つめる。「さて、将軍。悪いのだが、私の軍を駐屯地に入れてくれないかね?」

 たびたびの怪訝そうな顔をしたカーベインに何かが繋がるような感覚とともに、声が響く。物見台に立つ、魔法使いのものであり、《メッセージ/伝言》を使った緊急時の伝言手段だ。

「カーベイン将軍! 後方より軍勢を確認しました!」

 カーベインはその言葉を聞くと、アインズに視線を送る。ただ、恐らくはとは思うが、それでも確証を得るために問い返すことにする。

「どこの軍のものだ?」
「旗は……辺境侯のものです! と、突然、黒い穴のようなところから出てきております!」

 黒い穴? 少しばかり疑問が浮かぶ。しかし辺境侯の軍勢が来たというのに、門の前で押し留めるのは良い判断とはいえない。それどころか本人がここで自分の軍を呼ぶと言って許可を申請しているのに、留めていては侮辱と取られる可能性だってある。

「なるほど……では門を開けて招きいれよ」カーべインは視線を門の方に動かす。「一体いかほどの人数かな?」
「お、およそ300ほどです」

 少ない。カーベインはそう思う。帝国が6万、王国は20万。それからするとあまりにも少なすぎる数だ。
 カーベインはアインズのゆったりとした姿を横目で見る。
 この人物が300しか呼んでこなかったのはなんらかの理由があってのことだろう。
 門がゆっくりと開いていく中、カーベインはそう判断する。

 門が開き――

 ――すべてが静まり返った。
 戦場という場所での興奮なんかはどこかに飛んでいった。ただ、異様な空気と重い沈黙が全てを支配する。まるで静けさという音が一気に広がっていくようだった。
 聞こえるのは何も知らないものの声だけであり、その光景を知る者には静寂しかない。
 騎士たちのヘルムから覗く目は、釘付けだった。

 それは今、もっとも噂になっている謎の新興貴族。
 アインズ・ウール・ゴウン辺境侯の軍。数は少ない。確かに300ほどだろう。ただ、それを笑ったり侮ったりできるものは、駐屯地にはいなかった。


 それは異様な軍だった。
 白と黒のコンストラクトというのだろうか。
 白――それは3メートルはある人骨の集合体。無数の人骨が連なり、形どるものは首の伸びた4足の獣――ドラゴン。それがゆっくりと歩を進めてくるのだ。
 その上には黒――身長が2メートルは越える騎士が乗っていた。左手には体を3/4は覆えそうな巨大な盾――タワーシールドを持ち、右手にはフランベルジェ。巨体を包む黒色の全身鎧は、血管でも走ってるかのように真紅の紋様があちらこちらを走っていた。
 手綱無く、騎士は下のドラゴンと意思を結んでいるかのように、乱れない行軍を続ける。

 下のドラゴンに似た形状をしたアンデッドの名は、騎士たちも知っていた。
 これは騎士たちが帝国領内のモンスター退治も任務と与えられるからだ。
 勝てる敵と勝てない敵の見極め方は重要であり、帝国領内で出現したモンスターの知識を充分に理解することは生存につながる。そのために騎士たちは座学も求められている。厳しい指導の中で得た知識の中に、そのアンデッドモンスターの名があった。
 決して勝てないから手を出すな。そのモンスターは監視に留め、優秀な冒険者を即座に雇うように。
 そういう評価をされたモンスター――スケリトル・ドラゴン。
 では上に乗る恐ろしき存在は何か。

 それが1体であれば、ここまでの沈黙は無かっただろう。
 その死人の軍勢の数は――300。

 数は少ないものの、一騎当千を地で行くような恐るべき軍勢である。

「私の軍だよ、将軍」

 騎士たちと同じく絶句したカーベインに、アインズは楽しげに紹介した。



 ■



 カッツェ平野に両軍が展開され、にらみ合ったまま時間がゆっくりと経過していく。

 王国軍約20万に対して帝国軍約6万。
 相対すると彼我の兵力の差ははっきりとわかる。あまりにも王国が多く、あまりにも帝国が少ない。しかし、双方に余裕の色も緊迫の色も無い。
 確かに王国の方が圧倒的な兵力を有している。しかし個としての強さは圧倒的に帝国側なのだ。

 王国の民兵として徴収された者たちは、例年のように駆り出されるこの戦場でしか、武器の使い方を習ったことが無い。鎧も何も無く、ただ武器を持っているものがほとんど。今から起こる命の奪い合いに、恐怖におびえていない者は少ない。
 それに対して帝国の騎士は全身をしっかりとした武装で固め、訓練に次ぐ訓練、実戦に次ぐ実戦で強固に鍛えられている。命を奪い合い、そしてこの地に伏す覚悟だって充分にある。
 これだけの肉体的、そして精神的な差があれば、兵力さも圧倒的な有利とはならない。

 しかし、それでも単純な兵力の差は大きい。もし疲労無く恒久的に戦える者ならば、差にはならないのかもしれないが、人間ではそうはいかない。疲労していけば、能力に差があってもやがては追いつかれることになる。
 そして帝国にしても無駄に騎士を殺したくは無い。騎士1人を鍛えるのにかかる時間や費用を考えれば、即座に理解できるだろう。農民1人と騎士1人。損失の額は桁が違う。

 収穫の時期にこれだけの兵力を動員すると言うことは、王国の力をそぎ落とすことにつながる。それにこれだけの大きな戦争をするとなると生まれる出費、これを自分に敵対したり警戒すべき力を持つ貴族に支払わせるように、ジルクニフは行動してきた。従ってここで軍を撤収させても、帝国側はある程度は利益を得ているのだ。

 だからこそ基本的に戦争は今まで睨み合いで終わっていた。

 今回もそうなるだろう。王国の貴族の大半が、心の中ではそう甘く考えていたのだ。
 例年であれば帝国側は数度の軽い前哨戦のあと、一度軽くぶつかって、それから撤退という行動に出るのが基本である。
 ただ、帝国の騎士たちが要塞のごとき駐屯地より出立しながら、一切動く気配がなかった。

「動きませんね」

 ガゼフの横にいたレェブン候が、帝国の陣形を眺めながらポツリと呟く。
 周囲はガゼフ直轄の優秀な兵やレェブン侯の直轄の兵などの精鋭に守られた、おそらくはこの陣地で最も安全な場所だ。
 だからこそレェブン侯は安全に、目は帝国の騎士たちに送られている。
 動かないと言うのが、移動したりとかではなく、進撃を開始しないということだと理解し、ガゼフは同意する。

 帝国に動き出そうという気配が無い。
 レェブン侯が疑問を持つように、帝国は駐屯地前に陣取ったまま動き出す気配が全く見られない。既に最終的な交渉の決裂は終わり、あとは武力を持って話を解決する番になっているにも関わらず。

 だからこそ王国も動くことは出来ない。
 それは王国から攻め込むことは危険を意味するからだ。というのは帝国は騎兵が主であり、それとの王国の戦い方は待ち構えて槍衾を作ることだ。そうせずに昔、先手を打って帝国に攻め込んだ貴族たちがいたが、瞬く間に殺され、王国がかなりの損害を被ったことがある。
 それ以降、王国の対帝国の戦法は槍衾を作り、防衛に努めることである。そうしても時折食い破られ、中を蹂躙されたりもするが。

「帝国の重装騎士による突撃まではもう少し時間があるのが普通です。駐屯地に動きがあるようなので、もう少しでしょう」

 ガゼフは遠方に目をやり、帝国陣地に起こっている微妙な空気の緊迫感を感じ取る。
 かなりの距離があるが、それでも卓越した戦士であるガゼフからすれば、その微妙な空気の変化は充分に感知できた。

「毎度のパターンとはいえ、この微妙な緊迫した空気がどうも苦手です。嫌なことはさっさとしてしまった方が、精神的な面でも助かります」
「確かに、微妙に左翼に微妙な動きがありますね」
「ああ、ボウロロープ侯ですか」

 王国は両翼に貴族派閥の者たちを配置し、中央を王派閥の人間が固めている。ちなみに両翼に各5万。中央に10万という構成だ。

「焦っているというより、腹を立てているのでしょう。エンリを捕縛しに行った1,000名もいまだ戻らず。ボウロロープ侯は非常に不快気に思ってるみたいですから」

 ガゼフはつい先ほど、戦闘前に顔を合わせた貴族を思い出す。無論、ガゼフを一瞥もしようとはしてなかったが。

「まぁ、戻ってくるのが遅いとか思っているんでしょうが、実際は全滅しているのでしょうけどね」
「……失うにしても1,000は大きかったのでないでしょうか?」
「1,000程度の出費はたいした問題ではないです」

 貴族派閥の人間が死ぬということは、仕方が無いと割り切ることは出来ても、1,000人の平民が死ぬということはあまり賛同できないガゼフは、微妙な表情を作った。
 それにガゼフは元々は平民である。同じ平民の死というのは堪えるものだ。それを悟ったレェブン侯は謝罪を入れる。

「これは失礼を。多少言葉が過ぎました」
「いえ。レェブン侯の考えられていることもわかります。ですのでお気にされず」

 レェブン侯はガゼフの視点よりも、もっと上位の視点からすべて見ている。ガゼフは目先の1,000人の命を惜しいと残念がっているが、レェブン侯は王国の将来の勢力図を見据えた上で、1,000人の命なんかたいした価値にはならないと判断しているのだ。どちらが合っているとか、どちらが間違っているとかの話ではない。

「お? ようやく動き出しましたか」

 中央を空けるように帝国軍がゆっくりと2つに分かれだしたのだ。分かれた花道をゆっくりと進みだす軍勢がいた。ガゼフもレェブン侯も見たことが無い、奇怪な紋章を記した旗を持つ軍勢だ。

 ただ、2人とも目が釘付けになる。
 それからガゼフは絶句した。あの時の戦闘を思い出し。
 
 あれはデス・ナイト。アインズ・ウール・ゴウンがその近辺に待機させていたアンデッドの兵士。恐らくは本気で戦えばガゼフですら1体を倒すのがやっとの相手。
 それが――

「――あの数だと? ありえん」

 ぶわっとガゼフの額に汗が滲む。
 デス・ナイトの数は300ほど。対する王国の兵は20万。
 300対20万。単純に考えれば勝てる戦いだ。しかしそれは人間など疲労する存在が相手の場合だ。疲労したところを潰すことが出来るから、数の暴力という手段は有効なのだ。
 だが、アンデッドのような疲労しない存在を相手にした場合、その脅威は一切変わらない状況ということになる。
 つまり20万いても勝てない確率は非常に高い。いや、ガゼフが疲労しなければ、そして300人もいれば、20万の兵を皆殺しに出来る自信はある。

「不味いぞ……」

 息を荒く、顔を顰めるガゼフに、緊迫感を持った声でレェブン侯はささやく。

「あれはスケリトル・ドラゴン。恐るべきアンデッドです。そしてガゼフ殿の反応を見るところ、上に乗る存在もかなりの強敵のようですね」
「ええ。私と対等に戦ったアインズ・ウール・ゴウンの警備兵です」
「……あれが」

 レェブン侯は呆気に取られたような顔をし、それから数度頷いた。
 アンデッドの軍勢は左右にゆっくりと展開して行き、帝国軍の最前線に立つ。6万の兵の前に300人が展開するのだから、一人一人の間は大きく開いており、あまり迫力があるとはいえない姿だ。しかしそれでもガゼフの態度から、どれだけ警戒しても足りない相手だというのは充分にわかる。

「わかりました。真正面からぶつかったら、かなり膨大な死者が出そうですね。計画……貴族派閥の兵力をそぎ落とすという計画を前倒しで進めましょう。辺境侯に貴族派閥の人間をぶつけるように、王にお願いしてみます」

 そこまで言ったレェブン候も、油断無く帝国軍を眺めていたガゼフも目を点にする。
 突然、黒い壁のようなものが辺境侯の軍の前に浮かんだのだ。それはさほど大きくは無い。せいぜい縦3メートル。横2メートルほどか。鏡のようにも思えるそれから2人の人間が姿を見せた。
 仮面をつけた人物と、かつての帝国主席魔法使いフールーダである。

「あれはアインズ・ウール・ゴウン」
「あれがですか」

 ガゼフの思わずもらしてしまった呟きに、レェブン候は真剣に眺める。
 その王国内でも話題になり、強大な魔力は桁が知れないと思われる人物。

 それが腕を一振りする。それに合わせるように突如としてそのアインズを中心に、10メートルにもなろうかという巨大なドーム状の魔法陣が展開された。フールーダがその範囲に囚われていることからすると、害をなすものではないようだが、そのあまりにも幻想的な光景は驚きの種だった。
 魔法陣は蒼白い光を放つ、半透明の文字とも記号ともいえるようなものを浮かべている。それがめまぐるしく姿を変え、一瞬たりとも同じ文字を浮かべていないようだった。

 王国から驚きの声が上がる。それは見事な見世物をみたときに上げるような、緊張感の全く無いものだ。
 しかし、その場にいた2人は、その巨大な魔法陣に言い知れない不安を感じていた。

「私は自分の軍の元に戻ります。ガゼフ殿は陛下の守りにお入りください」
「わかった。陛下の御身をお守りしよう」

 ガゼフはそういいながら、中央本陣――無数に旗が並べてある場所を振り返る。

「では、行動を開始しましょう」

 2人は慌てて動き出す。ただし全てが遅すぎるのだが。





 いないな。

 アインズは魔方陣を展開しながら、そう判断した。
 王国の軍の中にプレイヤーはいないと。

 ユグドラシルと言うゲームの中での超位魔法は強大である。しかしその反面、発動までに時間がかかるというペナルティがある。強ければ強いほど時間がかかるようなシステムとなっていた。それも自軍に属するものが使えば使うほど、追加時間ペナルティが掛かることによって一層の時間がかかるようになっていた。これは超位魔法の連射だけでギルド戦争が終わらないようにするための、製作会社の抑止の手段としてだ。
 つまり逆に言い換えればそれほど強いと言うこと。
 そのため大規模戦の際は、超位魔法を発動しようとする者を最初に潰すべく行動するのは基本だ。転移魔法による突貫、出の早い超位魔法による絨毯爆撃。超遠距離からのピンポイントショット。それら無数の手段を使ってでも、妨害に出るのが基本中の基本だ。

 しかし、今回、アインズにはそういった攻撃は1つも飛んでこない。それは逆に言えばユグドラシルプレイヤーの存在の不在を証明するもの。

 誰も悟られないが、仮面の下のアインズの口が笑いの形に歪む。いや、骸骨であるアインズの顔には、笑顔と言うものを浮かべることは不可能なのだが。

「もはや、囮になる必要もなしか」

 それだけ呟くと、アインズは純白の小手に包まれた、己の手を開く。そこには小さな砂時計が握られていた。

「かきんあいてむー」

 昔に大流行した青のネコ型ロボットのような口調でアインズは呟く。そして迷うことなく握りつぶす。アインズの――いや鈴木悟の昼食2回分の金額が飛んでいく。

 元々超位魔法を課金アイテムを使って、即座に発動させることは出来た。しかしそれをしなかったのはアインズが言ったように、囮となってユグドラシルプレイヤーの存在を確認するためだった。しかし不在ならば、もはや囮となって長い発動時間をぼうっとする必要も無い。

 砕けた砂時計から零れ落ちた砂が、アインズの周囲に展開する魔法陣に風とは違う動きを持って流れていく。
 そして――超位魔法は即座に発動する。


《イア・シュブニグラス/黒き豊穣への貢》


 黒いものが王国軍右翼の陣地を吹き抜けた。
 いや吹き抜けたといっても、実際に風のように動いたわけではない。事実、平野に生えた雑草も、そこにいた王国の兵たちの髪がゆれるといったことも無い。
 
 ただし、そこにいた王国軍右翼5万。

 その命は即座に全て――奪われた。





 何が起こったのか。それが理解できたものは誰一人としていない。ただ、右翼を形成していた全ての生き物が突然、糸でも切れたように大地に転がったのだ。それが特にわかったのは敵対している帝国である。
 目の前で起こった信じられないことによって生じたどよめきが、大きなうねりと変わる。
 アインズが魔法陣を構成していた段階でなんらかの魔法を使うのだろうという思いはあった。しかし、それがここまで恐ろしいものだと誰が予測できるだろうか。
 5万人の命を瞬時に奪いつくす、猛悪な魔法だと。

 そんな中、ただ1人歓喜の声を上げる者がいた。

「素晴らしい……」

 アインズのすぐそばに控えていたフールーダだ。
 これほどの強大な魔法を前に、歓喜の念が押し寄せてくる。アインズが強大な魔法使いであり、比類ない魔法使いであるというのは知っている。しかし、その巨大な力の一端に直接触れられたというのは、言葉には出来ないような感情をフールーダに味合わせてくれたのだ。
 ゾクゾクと背筋に震えるものが走る。
 そんなフールーダに、アインズは機嫌よく言葉を投げかけた。

「何を満足しているのだ? 私の魔法はまだ終わってはいないぞ?」

 黒き豊穣の母神への贈り物は、仔供達という返答を持って帰る。
 熟れた果実が大地に帰るように――。



 最初にそれに気づいたのは誰だっただろうか。誰かはわからない。ただ、おそらくは帝国の騎士たちだっただろう。

 遠くから、最も安全な場所から見ていた騎士たちが最初に気づいたのは至極当然だ。安全だと思えるからこそ、ヘルムの細いスリットから覗ける、小さな視界でも発見できたのだ。
 黒い渦が王国の兵士たちの命を奪った後――天に昇って消えていった後。
 天空に――世界を汚すような、おぞましい漆黒の球体が姿を見せたことを。

 隣の人間が上を見ていれば、すぐにそれに気が付く。そうやって、帝国の騎士たちはやがて全員がただ黙って、空に浮かぶ球体を眺める。
 目を離せないのだ。まるで世界から拒絶されるような、その球体から。

 目が離せないのは帝国だけではない。王国の兵士たちも声無く、ただ黙って空に浮かぶ球体が徐々に大きくなっていく姿を見つめる。
 逃げようとか、戦おうとか。そんな人間的な思考は出来なかった。ただ黙って痴呆のごとく眺めるばかりだった。

 やがて――充分に実った果実は落ちる。
 
 落ちた球体は大地に触れると弾けた。
 水袋が大地に落ちて破裂するように、熟れた果実が大地に広がるように。
 落下地点から放射線状に、中に満ちていたものが広がった。それはコールタールのようであった。光をまったく反射しない、どこまでも漆黒が広がるような、そんな粘液質な液体。それによって息絶えていた王国の兵士たちの姿が隠される。
 ただ、誰かが――もしくは全ての人間が予測していたように、それだけでは終わらない。いやまだ始まったばかりなのだ。

 ぽつんと、黒い液体が広がる大地に、1本の木が生えた。
 いや、あれは木なんて可愛いものでない。
 1本のだったものは、数を増やしていく。2本、3本、5本、10本……。そこに生えたのは――無数の触手だ。

『メェェェェェエエエエエエエ!!』

 突然、可愛らしい山羊の声が聞こえた。それも1つではない。まるで何処にもいないはずの山羊が群れで姿を見せたようだった。
 その声に引っ張られるような動きで、ぼこりとコールタールがうごめき、吹き上がるように何かが姿を現す。
 それはあまりにも異様過ぎて、異質過ぎたものだった。

 小さくは無い。高さにして5メートルはあるだろうか。触手を入れると何メートルになるかはよくはわからないほどだ。
 外見は蕪という野菜に似ている。葉の代わりにのたうつ黒い触手、太った根の部分は泡立つ肉塊、そしてその下には黒い蹄を生やした山羊のような足が5本ほど生えていた、が。
 根の部分――太った泡立つ肉塊の部分に亀裂が入り、べろんと剥ける。それも複数箇所。そして――

『メェェェェェエエエエエエエ!!』

 可愛らしい山羊の鳴き声が、その亀裂から漏れ出る。それは粘液をだらだらと垂らす口だった。
 それが5体。
 カッツェ平野にいた全ての人間たちに、そのおぞましい姿を見せたのだった。


 黒い仔山羊。
 超位魔法《イア・シュブニグラス/黒き豊穣への貢》によって生じるモンスターである。強力な特殊能力は持たないものの、その耐久力は郡を抜いているモンスターだ。
 そしてそのレベルは――90を超える。


 音が無かった。
 山羊の可愛らしい鳴き声が聞こえる以外の音は何も無い。ただ、その眼前で行われていることが信じられず、認めることが出来ずに、誰も言葉を発していなかった。26万もの人間が集まっておきながら、誰一人として声を立てることが出来なかったのだ。
 そんな中、アインズは楽しげに笑う。

「見よ、フールーダ。最高記録だ。5体召喚は私ですらやったことのない数だぞ。やはりあれだけ集まってくれていたのに感謝しなくてはならないな」

 黒い仔山羊は《イア・シュブニグラス/黒き豊穣への貢》で死亡した存在の、レベル総計に応じた数が召喚される。通常は1体召喚できれば恩の字であり、滅多に2体なんか召喚できるものではない。
 しかしそれが今回は5体。
 ゲーマーが自分の打ちたてた記録を楽しむように、アインズもまた記録として喜んでいた。既にアインズの頭の中ではあそこにいるのはポイントのようなものであり、生きた人間ではないのだ。

「おめでとうございます、師よ」

 そんな嬉しそうなアインズに頭をたれながら、フールーダはその強大すぎる魔法に畏敬の念をより一層強める。
 この方からすれば、あれもまた児戯の1つか、という思いから。そして実際に目の辺りにした、世界における究極の力の1つの結果を前に。己が手を伸ばしても決して届けないと思われる魔法。ただ、この師についていけば、もしかしたらという希望がふつふつと湧き上がる。

「本当にお見事です、師よ」

 帝国に突如現れた謎の貴族があげる陽気な声は、風に乗って騎士たちにも届く。
 帝国の陣地の中にガチガチという音が響き始める。
 それは鎧が上げる音。
 着ている者たちの体が震えているのだ。それを誰が笑うことが出来るだろうか。あのおぞましい召喚魔法を発動させる存在の、陽気な声を聞いて鳥肌が立たないものは誰一人としていない。
 そして帝国の騎士全てが1つの願いを抱いていた。
 どうぞ、アインズ・ウール・ゴウン辺境侯が理性的な人物であるように。我々を味方だと思っていてくださいますように、と。
 もはや、それは神への祈りに似ている。
 邪悪な神や不幸を呼び集める神に祈りを捧げることで、自分には厄が回ってこないように願う姿に。


 そんな願いをその背に一心に集めながら、アインズは次の段階に移行する。これでも充分な結果は出していると思われるのだが、一応駄目押しをしておいた方が良いだろうという軽い気持ちで。
 ここで圧倒的な力を見せ付けることは、帝国での英雄という地位を獲得するのにチャンスだろうと判断で。

「さぁ、はじめるか。蹂躙を開始するがいい」

 召喚者であるアインズの命令を受けて、ゆっくりと黒い仔山羊たちが動き出す。
 5本の足を異様な動きで、機敏に動かし始める。優雅というよりは一所懸命な動きであり、それはある意味笑ってしまう光景だったかもしれない。
 自分たちに降りかからなければ。

 巨体を軽やかに動かし、5匹の黒山羊たちは走り始めると、そのまま王国の軍に突撃を開始した。





「あれは夢だよなぁ?」

 異形の魔を遠くに、王国の兵士の1人が呟く。しかしそれに答える声は無かった。皆、眼前に広がっている光景に釘付けとなっており、答える余力が無かったのだ。

「なぁ、夢だよな? 俺は夢を見ているんだよな?」
「ああ。とびっきりの悪い夢だ」

 二度目の問いかけにようやく答える者がいた。半分ばかり現実を逃避したような声色だったが。
 ありえない。
 信じたくない。
 そんな感情が兵士達の中で蔓延している。徐々にその姿を大きく――近くなっていく異形の存在を前に、あまりにも現実を認めたくなかったのだ。

 もしこれが単なるモンスターであればまだ武器を振るう勇気がわくだろう。しかし、片翼の軍を瞬時に殺しつくした後に出てくるモンスターが、単なるモンスターであるはずが無い。絶対に勝てないような、突き進んでくる巨大な竜巻を目にしたように、誰一人として立ち向かう勇気がわかなかったのだ。

 巨大で異様な存在が、その太く短い足を器用に動かして、かなりの速度で走ってくる姿は面白いとも言える。しかし、それは自分に害をおよばさない安全な場所からならばだ。

「槍を構えよ!」

 言葉が響く。
 見れば貴族の1人が叫んでいた。

「槍を構えよ! 助かりたいと思うものは槍を構えるんだ!」

 兵士達はその言葉に弾かれるように、槍を一斉に構え、槍衾を形成する。
 頭の冷静な部分からはその手に持った、ちっぽけな槍に何の意味があるだろうという思いが浮かぶ。しかし、助かる手段はそれぐらいしかないという思いも同時に浮かぶ。

 大地を抉るような踏みしめ方をする蹄からは、走って逃げることは不可能に近いと嫌でも理解してしまうのだ。
 ただ、ひたすらに自分のところには来ないでくれという願いを擁きつつ、モンスターが突撃してくるのを待ち構える。

 そして突撃が敢行される。
 それは巨大なダンプカーが、ねずみの群れに飛び込む光景に似ていた。

 当然のごとき王国の軍では、震える手で槍が無数に構えられている。しかし巨体であり、屈強な肉体を持つ黒い仔山羊たちにそれが何の意味を持つだろうか。槍は爪楊枝よりも容易くへし折れ、黒い仔山羊たちに傷1つつけることは出来ない。
 槍を構えていた兵士たちですら、命が失われる瞬間。それが当たり前のような光景にも思えていた。
 魔法の武器ですらないのに、どうやって傷をつけようというのか。
 王国の兵士たちの中に、黒い仔山羊たちの巨体が乗り込む。

 絶叫が上がり、絶叫が上がり、絶叫が上がる。

 肉片が中空を舞った。それも1人や2人なんていう少なさではない。何十人どころか百人以上。巨大な足で踏みしめられ、振り回される触手で吹き飛ぶ。
 街の人間だろうが、貴族だろうが、農夫だろうが肉片と化してしまえば何も関係はなかった。皆同じように、死が与えられたのだ。
 無数の人間をその巨大な足で踏みにじって満足し、そこで止まるのかというとそうではない。
 黒い仔山羊たちは走る。
 とにかく走るのだ。王国の軍の中をとにかく。

「ぎゃぁああああああぁぁ!」
「おぼぉおお!」
「やめぇええええ!」
「たすけてててええええ!」
「いやだあああああ!」
「うわぁあああああ!」

 巨大な足が下ろされるその度ごとに絶叫が上がる。黒い仔山羊たちの太い足の下で人間が踏み殺される音、戯れにめちゃくちゃに振り回される触手によって体を分断させる音。そういった音が続く。

 蹂躙。
 その光景にそれ以外の相応しい言葉があるだろうか。

 幾人かが必死に槍を突き出す。巨体であり、回避という行為を行う気が黒い仔山羊には無いのだ。確実に槍の穂先が命中する。しかしその肉塊の体に少しもめり込んでいかない。
 必死になって攻撃をしても意味が無いとわかるまでに、中央の軍が一気に真ん中近くまで、黒い仔山羊たちの進入を許す。

「撤退だ!! 撤退をしろ!!」

 遠くから聞こえる絶叫。その声に反応し、全ての人間が走り出す。それはまさに蜘蛛の仔を散らすような動きだった。しかし、人間よりも黒い仔山羊は早い。

 グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ――。
 グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ――。
 グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ――。
 グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ――。
 グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ――。

 無数の音が――人間が踏み殺され、肉塊が出来上がる音のみが絶え間なく続いた。



「撤退だ!! 撤退しろ!!」

 レェブン侯は絶叫を上げる。
 もはやあんなものを相手にどうにかすることが出来るはずが無い。もはやあれは人間では太刀打ちできないような相手だ。
 レェブン侯の言葉を聞き、周囲の兵士たちが慌てて逃げ出す。武器を放り出し、

「アインズ・ウール・ゴウン。ここまでの存在、魔法使いだったか」

 侮っていた。こんなに桁が違うとは想像もしていなかった。
 レェブン侯は暴れる化け物を見ながら、周囲の兵士たちに続けて叫ぶ。

「撤退だ! もはやこの戦いは戦いなどで無い。単なる虐殺の場だ! とにかく逃げるんだ!」
「侯!」馬に乗ったレェブン侯に仕える兵士の1人が、ヘルムをはずしながら叫ぶ「王は! 王はどうなさいますか!」
「そんなことを言っている場合ではありません、侯! こちらに迫ってきています!」

 見れば先ほどよりも黒い仔山羊の姿は大きい。徐々にこちらに迫って接近してきている。レェブン侯を狙っているというよりは適当に走った結果だろう。実際、他の黒い仔山羊はレェブン侯のいる場所から遠く離れている。

「王はどの辺りだ!」
「あちらです!」

 兵の指差す方を見れば王旗がある辺りには、既に黒い仔山羊が一頭迫っていた。
 レェブン侯は逡巡する。助けに行ってどうなるのか。ただ、この王国の状況下でランポッサⅢ世を失うということは瓦解につながりかねない問題。
 ただ――

「侯! 早くお逃げください! あんな化け物に人間が勝てるはずがありません! 早く!」

 そうだ。まさにその通りだ。王国最強のガゼフが剣を抜いても勝てる敵ではない。

「軍を――20万の軍に匹敵するか、たった1人で。ありえなんだろう! 幾らなんでもそれはありえんだろうが! 国堕としより強いというレベルじゃなかろう!」
「侯!」

 もはや声というよりは悲鳴にそれは近い。そんな兵士の警告を受け、レェブン侯は怒鳴り返す。

「わかっている! 逃げるぞ!」

 蹄の音は近い。怖くて後ろを振り返ることが出来ない。だからこそレェブン侯は馬に拍車をかけた。
 大混乱の中、抜けるように馬の一群は走り抜けていく。半分、馬を操るという行為は諦めている。というのも狂ったような勢いで馬が走り始めているためだ。人が操るよりも、馬に任せた方が安全に逃げられそうだという予感を覚えたためでもある。
 馬がここまで恐怖に耐え切れたのも、軍馬として訓練を積んだお蔭であろう。もし、普通の馬であれば恐怖のために行動不能状態になっていただろうから。

「化け物め! あの化け物魔法使いめ! あんな奴が人の世界にいてよいはずが無いだろうが!」

 馬の疾走に合わせて上下に動く視界の中、レェブン侯はアインズに対して呪詛をはき捨てる。

「糞! どうにかしなくては。人の世界を――未来を守る手段を考えなくては」

 馬の激しい脈動を尻の下から感じながら、レェブン侯は周囲を兵に守られながら走る。帰ったらラナーを交えて、あの桁の違う魔法使いへの対策を定める必要がある。このままにしていては、全ての人間を支配されかねない恐怖があった。

 さて、レェブン侯は1つだけ勘違いをしている。
 レェブン侯は黒い仔山羊の外見や暴れ方を見て、知性は無いに等しいと判断した。ただ、暴れ方は巨体を利用した最も賢い戦い方だとは思わないだろうか? 小さい存在をもっとも多く殺すための手段としては最高の方法だと。
 そしてレェブン侯は自分の方に接近しているのを見て、たまたまこちらに向かっているのだと判断した。それは本当にそうだろうか? レェブン侯が叫んだ直後から兵士たちが逃げ出すのを悟り、レェブン侯が軍の指揮官だと理解したのではないだろうか。

 実際、黒い仔山羊の知性は外見から想像できないほど高い。人間と同程度には。

『メェェェェェエエエエエエエ!!』

 やけに近くで黒い仔山羊の鳴き声が響く。
 レェブン侯の額に脂汗が滝のごとき流れる。怖くて振り返れないが、なんとなく、後ろから生暖かい空気を感じたような気がしたのだ。
 そして再び聞こえる――

『メェェェェェエエエエエエエ!!』

 ふと思う。自分の周りは馬に乗った兵士たちに守られているはず。
 では、その馬の蹄の音はどうしただろう?

 聞こえるのは巨大な蹄の音が1つ。それにかき消されたのか、他の蹄の音は聞こえない。
 ドクンと、大きく1つ心臓が鳴った。

 自らの――疾走する自らの足元に巨大な影があることを悟り。そしてそこから一本の長く太いものが伸びているのを理解し。

「だ……」

 馬は狂ったように走る。もはやレェブン侯が操るよりも早く、おそらくはこの馬が生まれて以来の速度を出しているだろう。それでも影はいまだ大地にある。

「いやだ!」

 レェブン侯は目を見開き、それでも後ろを見ることが出来ずに、馬を走らせる。
 まだ死ぬわけには行かない。王国がどうのなんてどうでも良い。国が滅びるというなら滅びればよいのだ。アインズ・ウール・ゴウンと敵対することが死を意味するなら、この国を捨てて逃げても良い。

 馬鹿だ。
 本当に自分は馬鹿だ。
 貴族派閥と王派閥をうまくかみ合わせるためにこんな戦場に来た自分が馬鹿だ。アインズ・ウール・ゴウンが凄まじい力を持つと知っていたのだから、なんとか理由をつけて王都にいればよかった。
 将来の王国のために、なんて少しでも考えなければ良かった。

「いやだ!」

 まだ死ぬわけには行かない。
 まだあの子が幼いうちに死ぬわけには行かない。そして――愛するようになった妻を残して死ぬわけには行かない。

「いや――」

 レェブン侯の前に子供の像が浮かぶ。
 可愛いわが子だ。
 生まれてきた小さな命。それからゆっくりと育っていくさま。病気にかかったことだってある。そのときはどれだけ大騒ぎをしたものか。呆れたような妻を見て、半狂乱で叫んだ姿は今思い返せば大恥だ。
 あのぷにぷにした手に薔薇のような頬。絶対に成長したら、王国中で話題になる青年になるだろう。
 さらには天才であり才能があると、レェブン侯は確信を持っている。自分より優れた才能を持っている、その片鱗を時折うかがえる。
 親の欲目と妻は言うが絶対にそんなはずが無い。

 そんな子供を生んでくれた妻には深い感謝を抱いている。無論、それを口に出したことは滅多に無いが。何故と問われればそれは恥ずかしいからだという言葉が最もレェブン侯の心を正確に代弁している。
 個人的にはそろそろもう1人、欲しいなんて思ったりもしているぐらいだ。

 こんな戦場に出るのではなく、あの2人をその手でかき抱いて――。


 意識が失われるのは一瞬であった。
 最後に肉が潰れる様な音が聞こえ、レェブン候の意識は消失する。



 逃げ惑う兵士たちによって大混乱の中、ガゼフはゆっくりと前を見据える。
 一直線に突進してくる黒い仔山羊に対してガゼフは剣を抜き払う。周囲にはガゼフ直轄の兵士たちの姿は無い。

「ここを抜かれると、陛下の場所なんでな」

 大地の揺れを感じながら、ガゼフは息を鋭く吐き捨てる。そしてその手に握った剣を構えた。
 人間を踏み潰しながら迫り来る巨体に対して、なんと心もとないことか。
 暴走する馬車であれば容易く止めることが出来よう。虎が突っ込んできても、避けざまに一撃で首をはねることが出来るだろう。それだけの自信があるガゼフが、黒い仔山羊を前にどうなるのかまるで想像が付かなかった。
 無論、生き残れる可能性は低いと考えているが。

「陛下を頼むぞ」

 送った部下たちに届かないだろうが、声を送る。
 直轄の兵士たちは別にこの混乱の中で逸れたのではなく、王を守るために送り出したのだ。
 兵士たちが接近してくる化け物に対して、どれだけの働きが出来るかと言うのは疑問である。それでも一枚の盾程度の働きはするだろうと思ってだ。

「ふぅうううう!」

 ガゼフが大きく息を吐き出すと同時に、周囲の人の流れが大きく変わる。それはさきほどまでは乱雑な流れだったのだが、それがガゼフを避けるような動きとなったのだ。まるで黒い仔山羊との一直線のルートが出来たようだった。

 どんどんと人間を踏み砕きながら、黒い仔山羊が接近してくる。
 ガゼフは剣を構えながら、その全身をくまなく観察する。どこを攻撃すれば最も効果的な一撃を与えられるのか。武技の1つであるウィークポイントを発動させているのだ。しかし―――

「―――弱点無し」
 
 実際に弱点が無いのか、はたまたは圧倒的な差がありすぎて読めないのか。それはガゼフにはわからない。ただ、失望は無かった。なぜなら元々、そんなところだろうなと思っていたためだ。
 続けて武技を発動させる。
 第6感の強化とも言うべき能力、フューチャー・サイト。

「来いよ、化け物」

 黒い仔山羊はその声を聞きとどめたように、一直線にガゼフに向かってくる。両者の距離はみるみる迫っていた。
 正直に言おう。
 ガゼフは怖かった。許されるなら、周囲の兵士たちと同じように走って逃げたかった。フューチャー・サイトによって感覚が強化されているために、様々なことを悟れる。蹄にはいまだ傷が無いところを見れば、単なる剣では傷が付かない可能性がありえる。踏みしめる度にめり込む深さから考えれば、即死は間違いが無い。
 理解できれば理解できるほど、恐怖はより強いものへとなる。
 今、周囲を逃げ惑っている兵士たちよりも、ガゼフは強い恐怖に晒されているのだ。しかし後ろは見せられない。王国最強の戦士が逃げるわけには行かないのだ。

 ――距離は迫る。

 蹄が舞い上げる土がガゼフに届くような距離。
 炉端を歩く虫を無視するように、黒い仔山羊はガゼフめがけて突っ込んでくる。

「装備をしっかりと整えて上で来るべきだったか」

 完全にフル装備で来るべきだった。貴族たちに変な顔をされるのを避けるとか考えるべきではなかった。
 ガゼフは後悔するが、もはやそれは遅すぎる。己の腕に自信を持ちすぎた結果がこれだ。いや、完全に装備を整えていても意味が無かった可能性のほうが高い。
 
 黒い仔山羊がまじかに迫る。大地を揺らすような勢いで。
 ガゼフは追い立てられる兵士達の横を、すり抜けるように黒い仔山羊めがけ走る。
 人ごみを見事にすり抜けながら、脇にそれるような形で場所を移動していく。真正面から突撃した場合、横幅があるために回避をすることが出来ないためだ。
 ほんの50センチ足らずを、黒い仔山羊の巨大な蹄が走りすぎていく。それに合わせて――

「――ちぇい!」

 ガゼフはその横をすり抜けるようにしながら、剣を振るう。相手の速度がそのまま相手を切裂く武器となるということだ。
 蹄と剣が接触した瞬間、凄まじい衝撃がガゼフの剣を持つ手に掛かる。腕ごともぎ取られるのではないかと思うような衝撃だ。
 踏みしめていた足が、大地に2本の線を残しながら一気に後ろに流れる。

「ぐぐぐううう!」

 腕から剣がもぎ取られるのは避けれるもの、腕から激痛が昇る。筋肉か腱か、どちらかをあまりの負荷のために痛めたのだろう。
 ガゼフは荒い息で、自らの後方を睨む。そこにあるのは巨体だ。
 初めて、爆走を開始してから初めて黒い仔山羊は立ち止まっていたのだ。

 そして触手の一本が霞んだ。

 全身を貫くような怖気。ガゼフは咄嗟に剣を構えた。その瞬間、途轍もない衝撃が剣より伝わる。そのまま体が空中に浮かび上がるような浮遊感を感じた。
 ガゼフをして何も見えなかったが、触手でなぎ払ってきたのだろう。
 
 ガゼフの体が大きく中空を飛ぶ。
 飛ばされたガゼフの体はありえないような滞空時間を得て、大地に転がった。それも数度以上の回転をつけながら。ただ、その回転は死体が投げ出されたものとは違い、人間が投げ出された力を殺そうと自分から回転する姿だった。


 黒い仔山羊はほんの1秒、逡巡する。
 自らの攻撃を喰らいながら、命を失わなかった存在に対して追撃をすべきかという思考が浮かび上がったためだ。しかし、それには及ばないという結論に即座に達した。標的は幾らでもおり、いちいち動きを止めて殺す価値も無いという判断したからだ。
 見れば――目は無いのだが周囲の知覚は充分出来る――群れを成して逃げている獲物がまだまだいる。触手のレンジから離れた相手を追って、時間を潰すこともないだろう。
 王国最強の戦士ガゼフ・ストロノーフ。
 黒い仔山羊からすればそんな男も、その辺りにいる単なる兵士となんら変わらない、弱いというカテゴリーに入るものであり、さほど気にするほどの存在でもなかったのだ。
 黒い仔山羊は再び疾走を始める。召喚者の命令に従って、肉塊を作る作業を開始したのだ。


 軋みをあげるような体を駆使して、ゆっくりとガゼフは立ち上がった。遠ざかっていく黒い仔山羊を睨む。
 たった一撃。
 ひしゃげた鎧の下で、攻撃を受けた手はへし折れている。剣が壊れなかったのは単なる運の問題だろう。
 ガゼフのその顔からは完全に感情が抜け落ちていた。
 何故、自分が助かったのか。
 それは言葉が通じない化け物が相手だとしても、戦士としての勘で理解できる。
 完敗とかそういう問題ですらない。土俵に近寄ることすら出来なかったのだ。
 かみ締めた唇から、真紅の血が流れ出す。それからガゼフは突き上げてくる激痛を押さえ込むと、必死に走り出した。例え勝てないとしても、あと一撃受けられるのが限界だとしても、それでも王を守らなければならないと。



 ランポッサⅢ世のいる本陣は、無数の貴族の家の旗がはためき、王国軍のもっとも奥深くにある場所である。
 先ほどまでは無数の貴族がいたのだが、今では残る者は少ない。殆どが逃げ出し、いまこの陣地に残っている者は容易く数えられる程度である。いや、正確に言えばそこにいるのはたったの2人だ。

 1人は驚くべきことにランポッサⅢ世である。そしてもう1人、平民の格好をした男だ。
 その平民の格好をした男が、ランポッサⅢ世から装備品を剥ぎ取っているのだ。誰がどう見ても、強奪しているようにしか思えない姿ではあるが、ランポッサⅢ世に抵抗の気配は無い。それどころか任せているようにも思われた。

 その平民の格好をしているのはクライムだった。
 白い全身鎧をすでに脱ぎ去り、その辺りにいる平民と何も変わらない格好をしている。

 本来全身鎧は簡単に脱げるものではないが、クライムはその手に持った魔法の剣を使用し、留め金の部分を容赦なく破壊していった。
 ランポッサⅢ世の鎧も魔法の掛かった一級品だが、それでもクライムの剣ならば破壊することも何とかできる。

「しかし今から逃げてどうにかなると思うか?」

 地響きのような足音はかなりの速度で迫りつつある。その極限の状況にあって、ランポッサⅢ世の口調は平然としたもの。さきほどまでこの地にいた貴族達の混乱しきった声とは比べ物にならない。
 問題はその口調は、生きることを諦めている人間に特有なものというべきか。
 ここで死んでも構わないという執着心の無さが、口調に現れているのだ。

「まず、無理でしょう。馬に乗って逃げれば奴は確実に追ってきます。見ておりましたが大勢で逃げている者を優先的に攻撃しているようです。だから我々が助かる手段はこれしかありません」

 先ほどまで残っていたガゼフ直轄の兵士達を、馬に乗せて団体で逃がしたのはその理由かとランポッサⅢ世は悟る。そしてその兵士達の表情に浮かんでいた、見事な笑顔の理由を。そしてここにいた貴族達に馬を渡して逃げるように薦めたのかも。

「クライム。おまえはどうしてそこまで」

 分かるのかと、ランポッサⅢ世は続ける。
 これほどの極限状況において、情報を収集できるのはごく一部の人間ぐらいだ。よほど精神的にタフでなければ出来ないだろう。

「私はあの化け物よりも恐ろしい人を見たことがあります。ですので誰よりも早く行動できたためです」

 王都で向けられた凄まじい殺気。それがあったためにクライムは誰よりもいち早く、我を取り戻すことができたのだ。
 鎧を脱ぎ捨て、剣を捨て、兜だって捨てたランポッサⅢ世にクライムは土を付け始める。

「陛下。これでも逃げられるかどうかは運次第です。もし……そのときはお許しください」
「良い、クライム。私はお前のアイデアを採用しただけだ。そのときは運が無かったと諦めよう」



 黒い仔山羊は無数にあった旗を触手で吹き飛ばし、満足げに周囲を観察する。
 この辺りが本陣なのだろうが、もはや人の気配は無かった。
 近くに人間が2人おり、重なるように大地に転がっていた。両者とも生きてはいるが、今まで無数に殺してきた多くの人間と同じで、鎧を着ない者であり、薄汚れた格好をしている。いままで十分に殺戮をしてきたモノからすれば、特別な魅力を感じない人間だった。
 とりあえずは行きがけの駄賃として踏み殺すかと動き出した時点で、ゆっくりと離れていく一団がいることに気付く。馬に乗った一団であり、全身鎧をしっかりと着た姿は単なる兵士ではないことを意味している。

 他の仲間はと様子を伺ってみると、そちらを追いかけているモノはいない。
 自らの召喚者の願いは蹂躙であり、多くの人間を殺すこと。そして馬に乗るような地位の高いものを殺すことだ。わざわざその辺りにいる人間を殺すために時間を費やすより、逃げていく人間を殺す方が先である。
 それに黒い仔山羊の召喚時間だって無限ではないのだから。

 黒い仔山羊は大地に転がっている人間から興味をなくすと、即座に再び走り出すのだった。




 
 アインズはその光景を数度、頷きながら眺めていた。
 これなら充分に食べさせることが出来るという満足感と共に。

「さて、出番だ」

 アインズはその黒い小手を嵌めた手を、地獄へと変わり、崩壊しつつある王国の軍勢に突き出した。

「起きろ、強欲。そしてその身に喰らうがいい」

 アインズの行動に答えるように、無数の青い透けるような光の塊が王国から尾を引きながら飛んで来る。その小さな――握りこぶしよりも小さな光の塊は、アインズの黒い小手に吸い込まれるように消えていった。
 13万を超える光の玉が吸い込まれていく様は、まるで幻想のようにも見えた。

 アインズの嵌めた小手こそ、ユグドラシルで200しかないワールドアイテムの1つであり、その名を『強欲と無欲』とよばれるものだ。
 強欲の名を付けられた小手は、着用者が本来であれば手に入れることが出来た経験値を、横取りし貯蔵するという能力を持つ。そして無欲の名を付けられた小手は、強欲が溜め込んだ分を吐き出して、経験値の消費を必要とする様々なときに、代わりとなってくれるという代物だ。
 青い光はその経験値回収のエフェクトにしか過ぎない。
 アインズは既に100レベルを超えた余剰経験値まで溜まっており、これ以上入る余裕は無い。そうなれば当然、経験値は無駄に消えるということになる。ただ、それではあまりに勿体無さ過ぎる。
 超位魔法『ウィッシュ・アポン・ア・スター/星に願いを』に代表される経験値を消費する魔法やスキル、特殊能力は幾つかもあり、そういったものは得てして同程度のものと比べれば、当然強いものだ。そして何よりアインズが保有するワールドアイテムの究極の能力は、5レベルドレインに匹敵するだけの経験値を消費する。
 些少ならまだしも、かなりの量の経験値を無駄にすることは、プレイヤーとして絶対に許せるものではない。そのためにプレイヤーがいるかもという可能性を考えながらもワールドアイテムを持ち出して、現在強欲に吸わせているのだ。

 まぁ、アインズとしてもゲームの世界と同じように、実際にこのように経験値を回収できたというのは、驚きだったりするのだが。

 ただ、その光景を横で見ているものからすれば、それはどのような光景に映るか。
 経験値ではなく、アインズが集めているものはたった1つにしか見えなかった。
 それが何か。

 それは――魂である。

 今目の前で残酷に死んでいった王国の兵士達の魂をアインズが回収している。そうとしか見えない光景だったのだ。それも綺麗なガントレットで吸収していれば、まだ救いある死が与えられるような気がしただろう。しかし吸い込まれるのは漆黒の、邪悪をイメージするようなガントレット。
 ならば、アインズという人物を表現する言葉は1つしかない。

「――魔王」

 ポツリと騎士の誰かが呟く。
 その言葉は近くの者たちの心にすっと入り込んだ。何故なら、それ以上に辺境侯という謎の貴族、20万もの兵士達を蹂躙する魔法を使う魔法使い、そして魂を収穫する存在を的確に表している言葉は無かったから。
 あの地獄のような光景。そして耳に残るような断末魔の悲鳴。
 それらを踏まえた上で、それ以上に相応しい呼び名はあるだろうか?

「――魔王だ」
「――魔王だ」

 ざわめきが広がり、口々に魔王と呟く。

 アインズ・ウール・ゴウン辺境侯。またの名を魔王と言われ、軍部に絶大な恐怖をもたらせる存在の異名が付けられた瞬間である。


 当然、魔王という言葉はアインズにだって聞こえる。
 最初は魔王なる人物が登場したのかと、正直思ったほどだ。しかし、それを指すのが自分だと知り、アインズは仮面の下の表情を歪ませる。

 アインズの計画では、今回の戦いで圧倒的な凄さを見せつけ、高い評価を得るのが1つ。そしてその後、良い奴らしいところをアピールすることで、帝国の英雄という地位を得、将来的に起こるであろうデミウルゴス演出の魔王と戦うという予定だったのだ。
 つまりアインズが欲していたのは英雄という地位だ。

 ――それが何故?

 アインズは『強欲』に経験値を吸わせながら、頭を捻る。
 デミウルゴスやフールーダから、この作戦なら確実に英雄と呼ばれるようになると太鼓判を押されていたのだ。それが何故、魔王なのだろうか。
 魔王とは魔法王の略ということはあまりなさそうな雰囲気である。
 つまりはどこかで計画が狂ったということだ。それがアインズには理解できない。しかし、正直自分の計画は大抵失敗するという開き直りがある。だからもはやどこかで方向を転換すれば、何とかなるだろうという程度にしか考えてなかった。

「……意外に溜まったな。レベル差のため経験値がごく少しになっても、数がいればそれなりになるということか。これは以外に役立つかも知れんな」

 アインズは『強欲』に溜まった経験値を満足し、小手を見ながら肩を振るわせる。溜まったポイントを何と交換しようかと喜ぶ主婦の姿である。ただ、そんな姿を騎士たちが恐怖の目で見つめているのには、まるで気がついていなかった。

「さて――」

 くだらない行いだが、した方が良いとデミウルゴスに言われたことを思い出す。
 今も鏡を通して守護者全員はこちらを見ているはずだ。緊急時の介入に備えて。だからこそ、最後まで格好をつけなくてはならない。個人的にはいやなのだが、英雄としてデビューするには人々の心を握るのは当然必要な行為だ。
 アインズは決心し、行動しようとする。
 ただ、その前にアインズは空を見上げる。太陽は燦燦と照っているのに、僅かに薄い雲がかかったような薄い靄のようなかかっているように見える。

「――戻れ、第8階層に」

 アインズはここまで連れてきた最大戦力の1つをナザリックに撤収させる命令を送る。誰が気づいただろうか。太陽と重なるように、巨大な発光体があったのを。

 命令を与えた、アインズは1つ息を吐くと、帝国の陣地を振り返る。
 全身に万を遥かに超える人間の視線が集まったのを感じた。押されるような圧力だ。アインズは単なる視線でも、これだけ集まれば充分な力を持つということを強く実感する。
 もしアンデッドでなければ、精神攻撃無効でなければ、その圧力に押され、何も行動が出来なかっただろう。しかし、アインズはさほどの苦とも思わずに行動をする。

 ゆっくりと手を広げたのだ。
 友を抱くように――、悪魔が翼を広げるように。

 静寂の中、遠くから王国の兵の上げる悲鳴が聞こえる中、アインズの物静かな声はやけに響く。

「――喝采せよ」


 ただ、ひたすら全ての視線が集まる中、アインズは再び言葉を口にする。

「我が強大なる、至高なる力の行使に対し、喝采を送れ」

 最初に拍手が送られたのは、アインズのすぐ横に控えていたフールーダだ。その顔には十分な理解と、歓喜の色があった。それに揺り起こされるように、ぱらぱらと始まった拍手は、万雷の喝采へと姿を変える。

 無論、本気で喝采を送っているのではない。例え敵といえども、あれほどの残虐な殺戮を見せる人物に拍手を送りたいとは思わない。あれは戦争ではなく、大虐殺だ。
 ただ、それでもそう言える者がいるだろうか?
 超越した存在に、そしていまだモンスターが存在している中、罵声を飛ばしたり不満を口に出来るだろうか?
 そんなことが出来る者は誰一人としていない。
 
 万という単位ですら出来そうも無いほどの万雷の拍手は、全ての騎士たちの恐怖の表れなのだ。喝采が欲しいなら送るから、決して不満に思わないでください。そういう心の表れであった。


 アインズは仮面の下で顔を歪める。自分の思うように進んでいる人間がしそうな、満足げなものだ。

「さぁ、一歩一歩踏み出していくぞ。この世界にな――」





 この戦いにおいて王国の死傷者はおおよそ13万人であり、帝国側の死者は0である。そんな圧倒的過ぎる結果は、周辺国家に激震となって伝った。
 そしてこれ以降、アインズ・ウール・ゴウン辺境侯の名は一気に高まる結果となる。





















 ふわりという空気の流れの変化に、『プラチナム・ドラゴンロード』の二つ名を持つ、最強のドラゴン、ツァインドルクス=ヴァイシオンは浅い眠りから意識を取り戻す。
 その意識の中を驚きが大部分を占めていた。
 自らの広範囲に及ぶ、知覚領域を乗り越え、身近に迫ったことに対する驚きだ。
 通常はドラゴンの鋭敏な知覚を誤魔化すことは出来ない。不可視だろうが、ドラゴンが眠っていようが、ある程度の範囲に入り込んだ段階でドラゴンはそれを即座に知覚する。そんなドラゴンの魔法的感覚器官を潜り抜けることが出来る存在がどの程度いるだろうか。
 長き時を生きたツアーですら、そんな能力を持つ者はほんの幾人も知らない。例えば既に亡くなってはいるが13英雄の1人、暗殺者イジャニーヤ。あの老人であれば技術をもってそれを行えるだろう。それ以外にいるとしたら――。
 親しい人間の雰囲気をツアーは感じ取り、その目をゆっくりと見開いた。

 ドラゴンの目は闇を見通す。
 真昼のごとく見える視界の中、ツアーの知覚領域に引っかからずに接近できる数少ない――見知った人物がいた。
 ドラゴンの鋭敏な知覚を誤魔化して、ここまで来たということに対する――無邪気な悪戯に成功した人間特有の、笑みがそこには広がっていた。

「久方ぶりじゃな」

 その人物は、腰には立派な剣を下げた人間の老婆だ。
 髪は白一色に染まり、生きてきた時間の長さを表していた。ただ、その顔には完全に皺に覆われてはいたが、それでもその下には活発さを感じさせるものが轟々と流れていた。
 見た目とは違うものを感じさせる人物だ。

 ツアーが記憶の中にある彼女と見比べていると、老婆の眉が危険な角度で釣りあがる。

「なんじゃ? わしの友は挨拶すら忘れてしまったのか? やれやれ、ドラゴンもボケるということかのぉ」

 ツアーは牙をむき出しに低い笑い声をあげる。友人の性格を思い出し、こういう奴だったと。

「すまないな。かつての友に会えて嬉しく思っていたんだよ」

 その答えに対する老婆の返答は、ツアーが予測したとおりのものだった。

「友ねぇ? わしの友はあそこにいた中身が空っぽの鎧なんだがのぉ。……まぁ、今は中身が入っているみたいだがの?」
「そのとおりだとも。昔とは違い、私の騎士が入っているよ」

 昔、ツアーは老婆や仲間たちと共に旅をしていたとき、遠くからがらんどうの鎧を操っていたころがあった。そのため、正体を明かしたとき騙したと憤慨されたものだ。そのときの恨みを――正体を明かすとき、当然ヘルムを取り外して驚かしたという行為を、いまでもこう形を変えながら、チクリチクリ言われるのは勘弁して欲しいものだ。
 しかし、その反面、こういった何度も繰り返すやり取りが楽しいのもまた事実。特に懐かしい友とのこういったやり取りは。
 ツアーは充分ににやけると、老婆の指に目をやる。

「……ところで指輪はどうしたんだね? 人の域を超える至宝は?」
「話をかえるつもりかのぉ。しかし目ざといの、ドラゴンの財宝に対する知覚力かねぇ。……まぁ良いて、あれは若いのにやったよ」

 やるとか簡単に言ってよいアイテムではない。あれは『始原の魔法』によって作り出された、いまでは同じものの製作は困難に等しいだけのアイテムだ。しかし、老婆という友人であれば、変な人物には渡していないだろうと、ツアーは納得する。それが信頼というものだ。

「そうか、君がそれでよいというなら、それで良いのだろう。……ところで君は噂を聞いてはいたが、冒険者をやっていたのではないかね? その一環でここに来たのか?」
「まさかじゃ。ここには友人として遊びに来たんじゃよ。冒険者なんかは引退じゃよ。もうこんな婆を働かせるのは勘弁して欲しいものじゃ。後釜は泣き虫に譲らしてもらったよ」
「泣き虫?」ツアーは考え込み、閃きを覚える。「……もしかして彼女のことかね?」

 そのツアーの口調に含まれた微妙な感情に、正解を読み取った老婆はにやりと笑う。

「そうさ、インベルンの嬢ちゃんさ」
「あー」呆れたような声をツアーは上げた。「彼女を嬢ちゃんといえるのは、君ぐらいだな」
「そうかい? あんたの方が言えるだろうよ。わしはあの娘とほぼ同じぐらいの年じゃからなぁ。それに対してあんたはもっと行ってるじゃろ?」
「まぁそうだがね。でもよくあの娘が冒険者をやることに納得したね? どんなトリックを使ったのかな?」
「はん。あの泣き虫が愚痴愚痴言っておるから、わしが勝ったら言う事聞けといってな、ぼこってやったわ!」

 カカカと老婆は心底楽しそうな笑い声を上げる。

「……あの娘に勝てる人間は君ぐらいだよ」
「まぁ、仲間たちも協力してくれたしの。それにアンデッドを知るということは、アンデッドを倒すすべも知るということ。地の力では勝てんとしても有利不利の関係があればそれも覆せるわい。それに泣き虫が強いといっても、より強きものはおる。例えばおぬしであればあの嬢ちゃんも容易く倒せよう。己に縛りさえかけてなければ、おぬしはこの世界でも最強の存在なんじゃから」
「……かもしれないが。まぁ、とりあえずは流石は人間最高位の魔法使いだけはあると素直に感心するよ。……そういえば先に1つ質問をしても良いかな?」
「なんじゃい? わしに答えられることであればかまわないが?」
「あの武器だが、ギルティ武器で良かったかね?」

 ツアーが送った視線の先にある武器を目にし、老婆は頭を横に振った。

「ギルティ武器? 違うのぉ。確かあれはギルド武器じゃ」
「ああ!」 ツアーは頭にかかっていた靄が消えて行ったような、そんな気分を抱く。「そうだ、そうだ。彼がそう言っていたな。8欲王の保有していた最高位の武器、ギルド武器の1つだと! そうか、そうか。ギルド武器だったか」

 ツアーは喉から骨が取れたような開放感を抱く。それと同時にそのときの思い出が波のごとく押し寄せてきた。それを懐かしく思い出しつつ、老婆に本題を問いかける。

「さて、ではではリグリット。今日ここに来た理由を聞こうか?」

 老婆はふむと頷くと、真面目な顔をした。

「うむ。ツアー。つい最近――三週間ほど前、ある平野で強大な魔法を行使したというアインズ・ウール・ゴウンという魔法使いを知っておるか?」






――――――――
※  お疲れ様でした。これで前半は終了で、ここからは後半になります。
 ちなみに後半第1話のタイトルは『凱旋』を予定しています。
 最低でも半年は休みをもらう予定でして、復活の時期は未定です。ですが忘れられないうちに戻って来たいものです。もしかしたらチロチロと後半以外を公開するかもしれませんけど。
 何かあったら「小説家になろう」に書き込むと反応すると思います。あっちで『むちむちぷりりん』を探してみてください

 では本当にここまでお付き合いただきましてありがとうございました。アインズ・ウール・ゴウン辺境侯の活躍?する後半でお会いしましょう。
 ではでは。






 それとここまでお付き合い頂いた方に質問が。外伝的にオーバーロードで何か読んでみたいシーンとかありますか? あったら書き込んでくれれば書くかも知れません。

 その際のご注意を。

1.書き込んで欲しい話は『 』で囲ってください。スルーしないようにという注意からです。
2.選ばれなくても怒らない。書きやすい話や書きにくい話、伏線で使いたくない話などがありますので。
3.予想と違う話でも怒らない。シャルティアとアウラのいちゃいちゃした話が読みたかったのに、蓋を開けてみたらマジで喧嘩してるんだけど、とかですね。
4.1人1つにしてください。そんなにないとは思いますが、1人からたくさん選ぶのもあれですから。
5.短くても文句を言わない。出来れば1人5kぐらいに抑えたいなぁ。無理だろうけど。
6。×××板行きは却下です。

 以上ですね。書き込んだ人はこれらの了解は得たとみなしますので。
 基本的にこれってどんな話を望んでいたのかという意識調査の面もありますので、気楽に書いてくださって結構ですよ。







[18721] 52_凱旋
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:a65bc0f8
Date: 2012/03/29 21:00
「あんなものがあるものか!」

 男の野太い声に合わせ、テーブルにコブシが叩きつけられる。
 飲み物の入った複数の――7つのコップが倒れたりしなかったのは、叩きつけられたコブシに絶妙な力が入っていたからではなく、テーブル自体が頑丈なものだったためだ。もしコップが倒れれば大惨事は免れなかっただろう。というのもテーブルには書類を含んだ、濡れやすいものが無数に乗っていたのだから。
 大声に反応した者はいない。男と同じ席に座した他の6人の男たちは、黙って大声を上げた男に同じように視線を向けている。ただ、その瞳には様々な――異なる感情を含んでいた。
 同情、理解、困惑、そして侮蔑――。

 大声を上げた男は数度呼吸を繰り返し、己の体内に宿った熱を吐き出す。それから己の前に置かれたコップを無造作に掴むと、ぐぃっと一息に呷った。充分に中身の入っていたコップが一気に空になるほどの勢いで。
 それだけ飲み干さなくては、己の喉の渇きを癒せなかったのだろう。そんな行為を黙って見ていた1人の男が口を開く。

「取り敢えずは追撃をどうやって行うかを考えるべきでしょう」

 その男の発言は、先ほどの大声を上げた男の激情を再燃させる。

「お前はさらにあれに追撃をしろと言うのか!」

 先ほどよりも強い感情を込めた声は、まるでビリビリと大気を震わすようであり、心弱いものであれば目を伏せて怯えてしまうほどの威圧を兼ねていた。しかし、向けられた男も決して心が弱い男などではない。平然と見返し、その顔には薄い笑みすらある。

「そうですが。何か変なことを言いましたでしょうか?」
「変な? 変とかそういう問題ではない! あれのどこに追撃の必要がある! もはやあれは王国の軍としての体裁も整えてはいない、王国よりかき集められた単なる平民だ! 逃がしてやるのが人間として正しい行いであろう!」
「……その意見には反対させていただきますね、将軍。私たちは帝国の軍を皇帝陛下より預けられたもの。そして今回この地まで来たのは王国軍を完膚なきまでに叩き潰すためです。その絶好の機会が今ここにあるのではないですか?」
「絶好の機会? お前は今が絶好の機会だというのか。あの哀れな者たちの後ろから襲い掛かることが!」
「そのとおりですとも。私たちは帝国の将軍。ならば帝国の民が戦争で亡くなる可能性を多少でも下げるよう行動すべき。それは将軍だって当然と考えていただけますよね? でしたら、何故、今、王国の哀れな敗残兵を後ろから襲ってはいけないので? それとも将軍は王国の兵士たちがエ・ランテルまで戻って、防備を固めてから襲えと言うのですか?」
「そうは言わん! しかし幾らなんでも人の道から外れよう! 大体、もはや大勢は決した。あとは使者を送っておけば大抵の問題は解決するだろう。何も後ろから襲わずともな!」

 この天幕に集まったのは帝国8軍の将軍の内、今回の遠征に参加した7人の将軍たちである。
 大声を上げているのが第3軍将軍、ベリベラッド。顔に無数の傷跡のある、剣の腕が立つことでも知られる将軍である。筋骨隆々であり、1人いるだけで室内が狭くなるような威圧を兼ね備えている。そんな人物であるために、全将軍の中で、最も迫力がある人物として有名だ。
 それに対して口を開いているのは帝国第8軍将軍、レイ。最近皇帝に選ばれて将軍になった人物だ。ベリベラッドとは対照的に優男といっても良い外見をし、貴族の血が流れているのは一目瞭然な端正な顔をしている。しかし、将軍に選ばれたのは血ではなく、その才能だ。そしてその見掛けとは裏腹な豪胆な性格はその采配にも現れる。
 そんな2人の睨み合いに対して、他の将軍は口を開こうとはしない。しかし、その瞳を見ればどちらを応援しているかは即座に理解できる。ほぼ全ての将軍が同意しているのはベリベラッドの方だ。
 レイからすれば嘲笑したくなる甘い考えに、同僚たちが賛同しているというのは笑ってしまいたくなる話だった。無論、すぐさま表情に出してしまうほど、レイは甘い人間ではないが。

「それは少々甘くないですか? まだ使者を送ってないのです。であれば、そうならないかもしれない。私は最悪の事態を考えて行動するべきだと思うのです」
「追い詰められた兵士が何をしでかすかは分からない。王国の戦意は低下しているのは確実だ。ならば徹底抗戦などの結論を出させないように、下手なちょっかいを出すべきではない!」
「今は良いかもしれませんが、都市に帰れば士気も上がるかもしれません」
「あのような虐殺があった状態で、都市に着いたところで士気が上がるはずが無かろう。……それよりは帝国は王国の兵士たちの死を悼むという宣言を出して、行われるであろう交渉を有利に持っていくべきだ」

 虐殺。
 その言葉にレイはあのときの光景を思い出す。
 あの圧倒的な戦いを。魂の奥底から握り締められる圧倒的な絶望の戦場を。

 ――美しかった。

 そしてその後の魂の収穫祭。
 全てが美の光景だ。圧倒的なまでの暴力にこそ許された芸術。人間という劣等種族では到達できない領域での――神話の世界を具現した幕間。
 それを思い出したレイは思わず、色の付きそうなため息を吐き出す。堅くなった股間が、鎧の部分の間で潰され、痛みが走るがそれもまた心地よい。

 レイからすればあれは絶対の美とも呼ぶべき光景であったが、残念ながらその意見に同意してくれるものはほとんどいなかった。帝国軍の誰もがあれは無慈悲な虐殺であり、決して戦争ではないと考えているのだ。
 勝利を喜ぶ声よりも、王国の兵士たちの無残な死を哀れむ声の方が多く聞こえる。
 帝国の圧倒的勝利に同意するのではなく、否定し、嫌悪するという有様だ。

「だからこそ駄目押しです。敗残兵を刈ってやりましょう。麦の穂を落とすように王国の兵士たちの頭を。あの戦いで多くの兵士が死んだのです、ここで追撃をすれば王国の国力の急激な低下は確実。ならば王国の併呑も時間の問題となりましょう」
「貴様! それでも!」

 ガタリと音を立て、立ち上がったベリベラッド。鎧の下の筋肉は臨戦態勢に入っているのが誰もが察知できた。
 将軍たちは各員が武器は所持したままここに集まっている。刃傷沙汰にもなれば、帝国の最も優秀な指揮官が2人失われることは間違いが無い。将軍であるベリベラッドが武器を抜くことは無いと思いたくもあるが、その反面、意外に短気な部分がある男。何をしでかすか分からない不安がある。
 そんな何が起こるか不明という危険を前に、レイは余裕の表情を崩さない。
 別にベリベラッドに勝てるとか、剣を抜くはずが無いとか考えているのではない。あれだけの暴力を見せ付けられた後では、この程度の威圧なんか、微風に等しいためだ。

「待て、両者、落ち着け」

 睨み合う両者を止めたのは今回の遠征に関しての最高責任者である将軍、帝国第2軍将軍ナテル・イニエム・スァー・カーベインだった。
 カーベインに止められてはベリベラッドももはや何も言うことは出来ない。真っ赤に顔を染め上げたまま、ガタンと勢いを立ててイスに座ることで己の意を示すだけだ。

「まずは両者の考えはそれぞれ帝国の将来を考えた重要な意見であり、両者共に帝国の役に立つように考えていると言うのは分かっている。だからこそ熱くなりすぎるな」
「……申し訳ありません。少々興奮しすぎたようです、ベリベラッド将軍」
「……こちらこそだ、レイ将軍。謝罪する」

 両者ともに軽く頭を下げるが、遺恨は決して流れていない。お互いへの憤懣や侮蔑といった感情はその瞳から拭われていないからだ。それはレイにもベリベラッドにも、そして2人を見守っている他の将軍たちにも理解できていた。
 特にお互いを見詰め合う2者には明白だ。
 お前が意見を変えないなら、こちらも決して変えない。そういう意志がベリベラッドから伝わってくるのが、レイには充分すぎるほど感じ取れた。
 微妙な緊張感の篭った静寂の中、ポツリと将軍の1人が言葉をこぼす。

「……あの辺境侯とは一体何者なのだ」

 その疑問は誰もが思い、そして答えの出ないものだった。
 まずはあれほどの魔法。王国の兵士をあれほど虐殺する魔法というのは、将軍たちの知識の中には無い。
 次に魂を喰らう行為。
 そこから考えられる答えは部下たちが口々に話す『魔王』という存在としか思えなかった。

「危険人物だな」
「……違わない。個人であの力は危険すぎる。もしあの力を都市で解放されれば、都市が簡単に滅ぼされるぞ」
「……あのおぞましい化け物が消えるまでの時間を考えれば、都市1つの消滅は確実でしょうね」
「その程度で済めばいいが……私はあれが辺境侯の全力とは思えない。まだ、より凄い力を隠しているのではないか、とさえも思っている」
「その意見には同意する。見せるための力って奴だな」
「辺境侯の連れてきた兵士はどれほどの強さなんだ?」
「……魔法使いに聞いたが笑ってしまうほどの強さだぞ? ショックを受けて夜、寝られなくなるぞ? それでも聞きたいのか?」
「……これ以上ショックを受けることも無かろう。もったいぶらずとっとと聞かせてくれ」
「1体でかの王国最強の戦士、ガゼフ・ストロノーフと同格以上。そしてアンデッドなので疲労しないでいつまでも戦えるそうだ」
「……すまん。笑ってしまいそうだ。つまりはなんだ、無限に戦える最強戦士の群れということか。……帝国の騎士全軍で戦っても持久戦という行為が出来ない以上、敗北する可能性が高いというのか」
「そうだな。たった300人足らずで帝国全軍を相手に出来るっていうことだ」
「……馬鹿にしているな。というか、何なんだ、その桁の違う世界の話は」
「……魔神とかそういう存在を前にした者たちもこんな思いだったのかな」
「魔神なら13英雄によって滅ぼされた。ではあの化け物に対して互角の力を持つ存在はいるのか?」
「……10万を越える兵を一瞬で滅ぼせる存在なんて聞いたことが無い。いや、人間ではいないだろうな」
「あんな危険な人物が帝国にいて良いものなのか?」
「……皇帝陛下はたぶらかされているのではないだろうか……」

 レイはそんな事を聞きながら、手に取ったコップを口に当て、中に入った飲み物を一口含む。別に喉が渇いたからではなく、同僚たちの下らない言葉に対して浮かべた嘲笑を、じっと見つめてくるベリベラッドに悟られないためだ。
 帝国の中でもトップクラスに力と才能を持つ男たちが集まって、安い酒場でくだを巻いている者たち程度のことしか出来ていない現状。これが可笑しくないといったら何が可笑しいと言うのか。

「レイ将軍。あなたはかの御仁に関してどのようにお思いですか?」
「……素晴らしい方です。かの方さえいれば帝国の国防は完璧になるでしょうし、帝国の領土も拡大の一方でしょうな」
「……危険ではないと?」
「さて?」レイは笑いを浮かべる。そのはっきりとした敵意は向けられた将軍たちが全員眉を潜めるほどの。「危険かもしれませんね。辺境侯に対して対策を立てようとしている皆様からすれば」

 沈黙が落ちる。レイを除く将軍たちは互いの顔を伺っていた。

「辺境侯は今回の戦いでの最大の……いえ唯一の功労者です。その方に対しての陰口というのは私は好きではないですな」
「そういうつもりでは……」
「その通りだ。レイ将軍。我々はそういう意図で話をしていたのではない」
「ではどういうおつもりで?」

 将軍たちから返答は無かった。レイが嘲笑を浮かべかけた中、1人の将軍が口を開く。

「帝国の未来のためを考えての話に決まっているだろうが」
「ベリベラッド将軍。帝国の未来と言うのは?」
「決まっている。個人が強い力を持った場合、陛下の絶対的な権力が崩される可能性があるからだ。かつてのように無能な貴族どもが力を持っていた時代に戻ってしまうのは困るだろうが」
「ほう。つまりは無能な貴族と辺境侯が同格ということですか?」
「それは少々、穿ちすぎだな、レイ将軍」
「おや、カーベイン将軍もベリベラッド将軍と同じお考えということでしょうか?」
「近い考えではいる。辺境侯は新しき貴族。その辺境侯に対しての対策を考えておくことは帝国の将軍として、帝国の治安を維持するものたちとして当然ではないだろうか?」
「確かに、仰るとおりですね」

 レイは数度頭を縦に振る。
 言葉でどれだけ覆おうと、その真意である恐怖は隠しきれない。
 単純に辺境侯が怖いから対策を考えているといった方が、人間らしいではないか。そうレイは思いながらも、顔には出さない。
 離れることの出来ない強者に対しての弱者のとるべき手段は、媚びへつらうか、敵対するかだ。この場にいる者たちは全員敵対を主眼においているが、レイは違う。
 あれは敵対して助かるような甘い相手でも、敵対してどうにかなるような相手でもない。皇帝はそれに気が付いているからこそ、辺境侯という特別な地位にあの存在を据えたのだ。
 ただ、将軍たちが敵対行動に出るのは勝手だが、自分まで巻き込まれては目も当てられない。
 どこかで辺境侯と関係を持つ必要がある。
 そうレイが考えた辺りで、天幕の外が騒がしくなる。分厚い天幕は数重にもなっており、中の音を外に漏らさない作りになっている。それは逆もまた同じ。つまりは外の音が聞こえると言うのは、かなりの状況だということ。

「何があった?」
「……見てくるか?」

 将軍たちまで騒がしくなった辺りで、1人の騎士が慌てて飛び込んでくる。

「へ、へ、へ」

 騎士のあまりの焦りが言葉を形取らせない。
 そこにあるのは礼儀を失うほどの焦り。
 つまりはそれだけの事態を引き起こせる、騎士が慌てふためくような人物ともなれば、予測が付く。
 そしてその考えは正しかったことは即座に証明される。

「へ、辺境侯がお出でになられました」

 予期できた答えとはいえ、室内が静まり返り、将軍たちは互いの顔を伺う。先ほどまで話にあったとはいえ、その人物が来るとなると覚悟が必要だ。
 レイを除く全員の目がこの場での最高権力者に向かう。

「お通ししろ」

 カーベインの静かな声に弾かれたように、騎士が外に走り出していく。辺境侯という人物を入り口で止めているのだ。任務とはいえ、白刃の上を素足で歩くような気持ちだっただろう。走り去る後姿にあった安堵の色は、そういった感情の表れだ。
 騎士が走り去った後、外にあったざわめきは一気に止む。まるで人がいなくなったような静寂に、将軍たちは焦りと不安を覚えた。
 辺境侯。
 物理的に絶対なる力を持つ人物であり、皇帝を除き上位者がほぼいない存在。戦時中であれば貴族は将軍たち軍属の人間の下に付くこととなるが、そういった帝国の法律でかの存在を縛れるだろうかという不安がある。
 もし止められたことに怒りを買った場合は?
 不快だと判断し、力を行使する気でいた場合は?
 帝国法はあくまでも法律であり、絶対者たる皇帝の声1つで歪ませることは容易。ならば、辺境侯という人物もある意味法律で縛れる存在ではないかもしれない。絶対的強者を法律ごときでは縛れないのは当たり前だからだ。
 普通に物を考えられる人間であれば、あれほどの強大な力を行使できる辺境侯が帝国法に触れた行いをしたとしても、敵に回すぐらいなら恩赦を与えるであろう。ならば将軍たちの命だって、辺境侯の手の中にあり、絶対に安全だとはいえない。
 ゆっくりと入り口の幕が持ち上げられる。
 将軍たちの喉がごくりと唾を飲みこむ。これより入ってくるのは、危険極まりない、帝国の法でも縛れない可能性のある存在。将軍たちは一斉に立ち上がる。座ったまま迎えるほど、命知らずの者はいない。
 先頭を歩き中に入って来たのはかつての帝国主席魔法使いフールーダ。そしてその後ろからゆっくりと入ってくる人物。アインズ・ウール・ゴウン辺境侯。その見事な服装はその財力を瞬時に理解させる。
 室内の空気が一気に重くなり、空気が粘液質なものへと変わったように肌に張り付いてくる。そんな中、カーベインは口を開いた。
 
「ようこそ、辺境侯。わざわざこちらに来ていただけなくても、呼んでいただければ出向きましたものを」
「……それには及ばないとも、将軍。あなた方は戦後処理などで忙しいだろうしね」
「そう言っていただけると感謝いたします」

 この理解力のありそうな穏やかな感じが、逆に将軍たちに気持ち悪さを感じさせる。まるで何か演技をしているようなそんな微妙な違和感が、人間観察にも長けた将軍たちの勘に引っかかるのだ。そのために何か裏で隠しているような異様な雰囲気がある。
 一体何を考えている。そして真意はどこにある。それが読みきれずに、将軍たちもどのような対応で、どのように行動すればよいのかが判断できない。
 そんな同僚たちの困惑が手に取るように分かり、レイからすれば物笑いの種だった。


 アインズ・ウール・ゴウン辺境侯。
 彼の真意であり、将軍たちに対してどのような感情を持っているかというのは少し考えれば理解できることだ。
 まずレイの判断するところでは、あの虐殺は別に王国の兵士を殺すためにやったはずが無い。わざわざあれほどの――おぞましい力を誇示したということには理由があるのは当然だ。何の理由も無く、恐怖されるような魔法を使う馬鹿には決して思えないのだから。
 そうやって考えれば、辺境侯の真の狙いはあの虐殺を見せ付けることであり、敵に回すことの愚を教え込むことだと読める。もちろん、見せ付けるべき対象は帝国の人間だ。
 あれは帝国――より正確に言えば皇帝に対するプレゼンテーション。己の圧倒的な力を見せつけ、歯向かうことの愚を教える行為なのは間違いが無い。
 ただ皇帝という上位者の存在を認める、臣下になって辺境侯という地位に甘んじていることから、お前たちが敬意を示すならばこちらも最低程度は見せようと言葉以上に物を語っている。
 つまりは辺境侯の全ての行動が、敬意を示してくるならば即座に敵意を見せるつもりは無いと語っていると思われた。
 それが何故なのかは分からないが。
 問題となるのは各将軍たちの動きだ。
 彼らはあの強大な力を持つ辺境侯に敵対的な行為を取るような方向で動きつつある。レイからすれば非常に愚かな考えであり、忌避したい動きだ。そんな自殺を望むような行動を取る理由がどこにあるというのだろう。
 いや、レイも将軍たちの取っている行動の理由は理解できなくも無い。
 単純に怖いからだ。
 人間を超越したような力を見せ付けられ、どうにかしないと自分に降りかかってくると考えている。頭を低くし通り過ぎることを祈るでもなく、従うことで慈悲にすがるでもなく。
 そのために辺境侯に対しての敵意という、最も愚劣な選択肢を選ぼうとしている。人間の愚かさ、可愛らしくも無様な姿と言えなくも無いが、そんな沈み行く船に残るつもりはレイにはまったく無い。
 そして同じ将軍だからと、十把一絡げにされては困る。レイは自分だけは他の将軍たちと違うというところを見せなければと考えていた。


 レイは目の奥に宿る輝きを巧妙に隠し、カーベインと辺境侯の話に耳を傾ける。

「それで、辺境侯がお出でになられた理由を聞かせていただけますでしょうか?」
「ああ。それはたいしたことではないとも。今後の予定と私の軍はどこで待機すればよいのか聞かせてもらえればと思ってね」
「おお! これは失礼しました。今回の戦いでの最高功労者に対してお話が行ってないとは。全て私の失態です、お許しください」
「かまわないとも。色々と忙しいだろうしね。……そうそう、王国の兵士の死体の処理はこちらでしておこう」
「……よろしいのですか?」
「ああ、綺麗な死体だしね。こちらで処分しておくよ」

 何が綺麗な死体なのか。そしてこの提案は呑んだほうが正解なのか、間違いなのか。そういったカーベインの困惑がレイには手に取るように読めた。答えは1つしかないだろうに。そう思いながらも声には出さない。実際、カーベインも同じ答えに行き着く。

「辺境侯のお手を煩わせるのはご迷惑だと思いますが、よろしいというのであればお願いしても良いでしょうか?」
「もちろん、感謝するよ。将軍」
「では……取り敢えずこの先どうするかは皇帝陛下と相談してということになりますので、その結果が出次第、辺境侯の方にはご連絡差し上げます」
「了解した。こちらも死体の処理などに時間がかかるだろうしね。ゆっくりでかまわないとも」
「感謝いたします。それでは辺境侯の兵などを休ませる天幕の準備を――」
「それには及ばないとも、将軍。場所さえ貸してくれれば天幕はこちらの方で準備しておくとも」
「左様ですか?」
「左様ですとも」

 ちょっとした冗談のような口ぶりだが、それで笑えるほど豪胆な者はいなかった。まず冗談のつもりか分からない。そして何が機嫌を損ねるか不明な相手に対して、笑えるはずが無い。

「……では将軍。私の軍を置いても良い場所を教えて欲しいのだが?」
「畏まりました。では部下に案内させましょう」
「それであれば私がご案内しましょう」

 レイはゆっくりと立ち上がる。

「はじめまして、辺境侯。私は帝国第8軍の将軍をさせていただいているレイと申します」
 そして深く敬意を込めたお辞儀を向ける。それは自らの最上位の主人である皇帝に向けるものと同等か、もしくはそれ以上のものだ。

「そうか、レイ将軍。将軍に案内を頼むのは心苦しいのだが、お願いしてもよろしいかね?」
「もちろんですとも。辺境侯」
「そうか……カーベイン将軍。レイ将軍を少しばかり貸してもらうがかまわないかね?」
「ええ。ではレイ将軍、辺境侯を駐屯地で開いている場所に案内してくれ」
「はい。では辺境侯参りましょうか」



◇◆◇


 辺境侯という人物をつれて帝国の陣内をさっそうと歩く。恐怖に彩られた視線がどこまでも追ってくるのが、レイには感じられた。様々な視線を受けることは慣れているが、これほどの恐怖一色の視線と言うのはいままでに経験したことが無い。少しばかり心地良くもあった。
 やがて開けた場所が姿を見せる。辺境侯がぼそりとレイに告げる。

「ここかね」
「はい。この辺りであれば辺境侯の兵を駐屯させることも容易でしょう」

 開けた場所は本来であれば皇帝直轄の軍や第一軍を駐屯させる、もっとも場所的に良い地区である。2万を越える兵を集める場所だけあって、辺境侯の軍勢ならば逆に広すぎるほどだ。

「ふむふむ……これぐらいならばちょうど良いか」一歩、辺境侯が前に出る。「見よ、フールーダ。我が魔法を《クリエイト・フォートレス/要塞創造》」

 瞬時の後、先ほどまで何も無かったはずの陣地には、巨大な漆黒の重厚感のある塔が聳え立っていた。
 レイは目の前で起こったことに、口を大きく開ける。
 砦などの建築は非常に苦労する作業だ。それが一瞬だ。

「な、なんと素晴らしい! これほどの要塞を即座に構成し、作り出す。クリエイト系魔法の極限を見た思いです、わが師よ!」

 興奮したフールーダの声。しかし、いまだレイは言葉を発することが出来ない。レイはただ、その塔を眺める。強固かつ重圧感に溢れたそれは、まさに聳え立つという言葉が相応しい。
 両開きの扉は厚い作りだというのが概観からでも判断が付く。さらには5階建てだろうと思われるのに、その高さは30メートルを超えている。つまりは一階分の高さがかなりあるのか、それともそれだけしっかりとした作りだということだろう。
 横から昇ってくる存在を追い落とすために、壁面には無数の鋭いスパイクが飛び出している。最上階の部分には四方を睨む悪魔の彫像。
 下から見上げるとのしかかってくるような重圧感。塔が立った所為で暗くなったというのは理解できるのだが、闇が光を貪っているようなイメージが浮かんでしまう。
 離れたところからでもこの威圧は十分に感じ取れるはずだ。その証拠にこちらを伺っているだろう騎士たちから一切、声が聞こえてこない。辺境侯の異名として定着しつつある『魔王』という言葉が後押しをする感じで、吟遊詩人が歌う『悪魔の塔』という言葉が似合う雰囲気だった。

「少しばかり大きいバージョンで構築させてもらったが問題なかろう?」
「は、はぁ」

 掠れたような声でしかレイは返答が出来なかった。あれほどの殺戮の光景を見せられてなお、こんなことまで出来るのかという驚きで思考が支配されていた。
 頭の冷静な部分が、辺境侯が1つ魔法を使うだけで、なんでこれほどまでに驚愕しなければならないのかと文句を告げている。しかし、レイの思考の大部分は麻痺するような痺れが襲っていた。特にこんなことを考えると、さらに強くなる。
 他の魔法はどれだけ習熟しているのか、と。

「さて、では私たちはこの中に入るとしよう。私の軍は直ぐにこちらに向かうように指示を出すつもりだ。付き合ってもらって悪かったな、レイ将軍」

 辺境侯が背を向け、歩き出そうとする。それに慌ててレイは声をかけた。

「お、お待ちください、辺境侯。少しばかりお話が」

 今にも門をくぐって塔に入ろうとしていた辺境侯は、ぴたりと動きを止める。仮面の下にあるであろう瞳が、レイを映し出しているのが感じ取れる。
 我知らずに喉が1つごくりと音を立てた。『悪魔の塔』の前でこちらを見つめてくる辺境侯に出来る陰影が、非常に似合っていて、それと同時に非常に恐ろしい。
 自分が愚かな発言をしたのではないかと、先の発言を撤回してしまいたいほどの後悔すら浮かび上がってくる。

「……かまわないとも。ただ、ここではなんだ。折角、住居を作ったのだから中でどうだね?」

 遠慮します。自分の天幕で行いましょう。
 そう言えたらどれだけ安堵できるか。そんな夢みたいなことを思いながら、レイは微笑む。引きつってないことを祈りながら。

「あ、ありがとうございます、辺境侯。折角お作りになられたお住まいに、最初に招いていただけ、幸運を神に祈りたい気持ちで一杯です」
「そうかね。それほどでもないと思うがね。……では行こうか?」

 辺境侯の言葉に合わせ、扉がきしむような音を立てて開いていく。
 なんでこんなに不安を感じさせる作りになっている。
 レイは心の中で愚痴をこぼす。
 自動で開く両扉を潜り抜けた先には通路が続き、そしてまた突き当りには両開きの扉がある。通路自体には魔法の明かりが灯り、歩く分は全然問題が無い。
 ただ、後ろで扉が閉まった時にはレイの心臓が大きく跳ね上がった。幾らなんでも、出てこられなくなるなんて事はないと信じたい気持ちで一杯であった。
 通路を3人で歩き、奥の扉が開いた瞬間、レイの目がくらむ。
 中から毀れてきた光に目が慣れたレイは、その光景に感嘆の声を漏らした。

 そこはエントランスホール。床は白く、天井は高い。
 気品と贅を凝らした作りとなっていた。
 貴族としてレイは生を受けたが、さほど立派な家系でもなければ、金を持っていたわけでもない。そのために贅沢という単語とは縁の無い生活を送ってきたために、物の価値を見るという眼に関しては非常に劣る。しかし、それでもこの場所がかなりの贅を凝らしているのだろうということの推測は立つ。

「さて、向こうにソファーが置かれているし、そこでどうだね?」

 物珍しさと周囲をきょろきょろと見回していたレイは、辺境侯の言葉に我を取り戻す。そして案内された先にある、柔らかなソファーに、辺境侯とフールーダを前にして腰を下ろした。
 ふわりとした感触と共に、何処までも沈んでいきそうな柔らかさ。それでいてしっかりと受け止めてくれる堅さを併せ持っていた。
 もし誰もいなければ、レイはソファーに座ったり立ったりと子供のように繰り返したかもしれない。それほどまでにソファーを一瞬で気に入っていた。しかし、今はそんなことをする時ではない。
 それが理解できていたレイは、後ろ髪を引く思いを断ち切り、ちらりとフールーダの方に目をやる。
 その意味合いを鋭く理解した辺境侯は、安堵させるような優しい声でレイに告げる。

「問題は無いとも、レイ将軍。フールーダは私の忠実な弟子。決して私にとって不利益な事はしないとも」
「無論でございます、わが師よ。私はあなた様の巨大な魔力によって支配された者。この身が尽きようとも決してお心にそむくようなことはありません」

 深々と頭を下げたフールーダ。その姿はレイに辺境侯という人物の強大さをよりはっきりと実感させる。
 言うまでも無く、フールーダという人物は帝国の主席魔法使いという地位にあり、周辺国家において並ぶもののいない力を持つ人物だ。おそらくは13英雄といわれる伝説の人物に匹敵するともいわれるほどの。そんな英雄たる人物が絶対の忠誠を、それも驚くほどの短期間で忠義を尽くすほどの人物――。
 レイは仮面の下を覗きたいという好奇心に襲われる。仮面の下が化け物であることを期待して。
 逆に単なる人間であるほうが恐ろしい。単なる人間がここまでの強さを得られるというのはある意味非常に恐ろしいことだからだ。

「――とのことだよ、レイ将軍。私も我が弟子の忠誠心は信じるに足ると思うが……君はどう考えるかな? 君がどうしてもと言うのであれば、下がらせてもかまわないがね?」
「いえ、それには及びません」仮面の下の素顔に対する考察を止め、レイは辺境侯に答える。「辺境侯がそう判断されているということであれば、間違いはきっと無いでしょう」
「それは良かった。それでレイ将軍。一体何を話したいのかね?」

 レイは一息飲む。ここからは本当に命がけの賭け事となる。だが、これに勝つことが出来れば、自らへのリターンは桁が違うものへとなろう。
 レイは覚悟を決め、口を開く。

「辺境侯。私は1つの野望を持っております」
「……話したまえ」
「はい。それは第1軍の指揮官、すなわちは帝国大将軍の地位に就くことです」
「ふむふむ」

 辺境侯は頷くだけで決して何だとは言って来ない。自分から言質を取られるようなことや勘違いされるようなことは口には出さない。貴族の処世術にありがちな対応だ。
 強大な力を有するだけではなく、そういった目ざとさを併せ持つ。それは非常にやり難い相手ではあるが、その反面レイからすれば望んだ相手でもある。

「その際に、お力添えがあればと思いまして」

 じっと、仮面の下で辺境侯がレイを眺めているのが痛いほど分かった。視界の端にいるフールーダの表情に変化は無い。今まで忠誠を尽くしていた皇帝が選んだ将軍が、裏で取引をしようとしているにもかかわらず何の反応も示さない。それは忠誠の対象が完全に皇帝から離れて、辺境侯の下に向かっていることを意味する。

「……私のメリットは何かな?」

 正直あるとは言いがたい。
 あれほどの力を持つ存在が今更、どれだけの力を欲するというのか。
 それにレイ自身、帝国大将軍の地位に執着心は無い。単純にそう言った方が理解されやすいだろうと思っただけだ。なぜならば、レイが本当に欲しているもの。それは――

「――私の忠誠ではいかがでしょうか? 辺境侯が欲するように私も動かせていただきますし、陛下と意志が対立した場合は辺境侯を支援させていただきたいと思います」

 ――辺境侯の部下となることでの命の安堵であり、あの強大な力への憧れだ。

 他の将軍たちは皇帝の臣下として辺境侯への対策を考える。彼らからすればレイの行為は裏切りである。しかし、裏切りを薄汚いと言えるのは、自分の命が失われることが確実と知りながらも大海原に飛び込むような愚か者のみだ。

 レイは人間として自分が生き残れる道を模索し、そしてその上で、神話のごとき存在の部下として、己もまた神話の一部となることを望んでいた。レイが美しいと魅了された強大な力の一端になれることを渇望していたのだ。
 レイはこの心の動きを知っている。
 決して手の届かないモノに憧れる子供のような気持ちの具現。
 それは憧憬。

 とてもとても高みにある力を目にして、その輝きに瞳を焼かれてしまったのだ。

 しばしの沈黙が流れる。
 レイはごくりと唾を1つ飲み込んだ。正面からじっと見据えてくる辺境侯。彼が何を考えているのかさっぱり掴めなくて。だからこそ、さらにメリットを続けて言う。

「他の将軍たちは辺境侯を恐れ、対処するための手段を考えておりました」

 瞬間、フールーダの元から冷えつくような気配が立ち込める。細めた目の奥に冷酷な感情が見え隠れしていた。

「……それは真実なのかね、レイ将軍」
「無論ですとも、フールーダ様。おふた方が来る前、そういった話がありましたので」
「師よ。これは許しがたい行いです。皇帝に命じて――」
「フールーダよ。命じてではない。私は皇帝の部下であり、辺境侯という地位、彼の下についているものだ」
「こ、これは申し訳ありませんでした」

 陛下ではなく皇帝と呼びつけにするところに辺境侯の内心の感情が現れている。レイはそう思い、自らの考えが間違ってないことを知る。バハルス帝国という強大な、そしてより強大になる可能性を充分に持つ国の頂点を、さほどの人物とはみなしていない、と。

「なるほど。なるほど。レイ将軍が私に仕えたいというのは理解できた。しかし私も帝国の臣下。みすみす反逆者を認めるようなことをするとは思っていまい? だいたい君の地位はジルクニフが与えたもの。反旗を示せば即座に奪われよう」
「確かに。しかし、私は辺境侯のおそばに控えるというのは皇帝陛下にとっても良い結果になられると信じております」
「…………」辺境侯の姿勢の変化に、ソファーがかすかな音を立てる。「……なるほど」

 しばしの時間の経過、思案の海に沈んでいたであろう辺境侯の声が上がる。
 その言葉に含まれている感情を鋭く知覚し、レイは安堵の息を殺す。
 賢い人物だからメリットを理解してくれると判断しての行為だが、その賭けに勝った。もし、何も理解できないような知力に劣る人物だったら、自分の今までのすべてが無に帰すところだった。
 力のみではなく、英知にも優れる。そのレイの予測は正しかった。顔の筋肉を総動員し、必死に漏れ出る笑みを殺す。己がすべてに対して一歩リードしたと知って。

「確かにジルクニフにも利益があるか」
「その通りでございます、辺境侯。皇帝陛下にしても渡りに船でしょう」
「そういうことでは仕方がないな。レイ将軍。許可しよう」
「師よ、一体どのような理由からでしょう」

 フールーダの疑問に満ちた声が横から放たれる。かつての主席魔法使いとは言え、権力闘争などに関して近寄ったことのない人物では悟れないか、とレイは判断する。

「……フールーダ。それを私が答えなくてはならないのかね」

 微妙に固い声が辺境侯から響く。
 自分の弟子が無知をさらしたのだ。上に立つ者として恥を感じたのだろう。
 レイはそう思い、フールーダに僅かな哀れみを込めた視線を送る。それをフールーダも悟ったのだろう。僅かに顔に朱が走る。
 
「……レイ将軍。私の代わりに答えてくれないかね」
「よろしいのですか?」
「私の考えたことがあっているかの確認もしたいからな」
「はっ。フールーダ殿、簡単なことです。辺境侯のお力は強大です。ですので皇帝陛下はそのお力を簡単にはふるって欲しくはないはずです。そのため力の面で補佐を行い――辺境侯に力を振るう機会を出来る限り少なくしたいと考えられるはずです。その力に私がなればよいのです。もちろん、私たちが結託しているというのは疑りの対象でしょうが、そこは辺境侯に一言言っていただければ問題ないことです」

 レイで無ければ力の面での補佐はいらないと言ってしまえば、皇帝に取れる手段はない。
 それどころか、皇帝はレイを辺境侯の横に付けた上で、逆にレイを自軍に引き込もうとするだろう。
 レイは興奮によって自らの顔が充血していくのが感じ取れた。今、自分は帝国の行方を動かしかねない場所まで上ったと。大将軍すらも足下に置いて。
 そんな自分ならば目の前の人物も決して無碍にはしないはず。レイはそう考える。

「ああ、なるほど……。師よ、申し訳ありません。そこまで考えが至らず」
「気にする必要はない。これからも分からないことは聞いた方が良いぞ。特に魔法とは奥の深いもの。生半可な知識で行えば失敗が待っていよう。単なる失敗であれば問題はないが、それが死につながらないとも限らん」
「おっしゃるとおりです」
「だからこそ、おまえに魔法を教える際は時間をもらっているだろう? 私の力では当たり前だが、フールーダの力では当たり前で無い場合があるからな。慎重に教える必要がある」
「やはりそうでしたか。私のつまらない質問にそこまでお時間をかけていただき、師のお心遣いに感謝いたします」
「しかし即座にそこまで判断できる人間はそうはありません。流石は辺境侯です」

 レイの賞賛をつまらなげに辺境侯は手を振って答える。

「偶然だ」
「――ご謙遜を」

 即座にレイは答える。
 この人物の近くにいれば、そして役に立っていれば自分は何処までも高みに上れると確信し。
 そこで自分も輝けるのでは、と。





 レイが塔を出て行く姿を見送ると、アインズは直ぐ傍に控えていたフールーダに声をかける。

「私は部屋に入る。フールーダよ、お前も好きな部屋を選んで使うが良い、もう良い時間だしな。今日一日は戦争など色々あって疲労しただろう? ゆっくり休むが良い」
「お優しい心遣いありがとうございます。ですが――」
「――良い。お前の知恵はまた明日貸してもらうかもしれない。そのときに頭が回らないでは困る」

 フールーダの言葉を遮り、アインズは語る。アンデッドであるアインズに疲労という概念は無いが、人間であるフールーダは別だ。魔法で疲労を回復させるものもあるが、あれは神官などの使う魔法で、アインズの使用できる魔法ではない。
 ポーションでならあるが、使用するのは勿体ない。普通に休めばよいのに、緊急時でもないのに消費アイテムを使うなんて馬鹿馬鹿しい限りだ。だいたい、薬漬けというのは聞こえが悪い。
 そんなアインズの考えに知らず、フールーダが感謝するような瞳で見つめてくる。
 アインズからすると非常にくすぐったく、そして『なんで感動しているのだろう』という思いを隠しきれない。部下の体調管理もある程度は上司の責任ではないか。

「畏まりました。では私も休ませていただこうと思います。それで警備の方はどういたしましょうか?」
「……そうだな。周辺の警備は取り敢えず、デスナイトたちに任せるとしよう。明日にでも死体の回収作業なども含めてナザリックより幾人か呼び集めよう」
「畏まりました」

 フールーダの下げられた頭から視線を逸らすと、アインズは部屋の1つに向かって歩き出す。自分が先に行かないと、忠誠心が異様に高いフールーダが動かないことはナザリックでもよくあった。
 アインズは扉の1つを無作為に選び、その前に立つ。
 この周りにある部屋はどれも同じもの。何を選んだところで変わったところは無い。
 アインズは扉を開き、部屋に入る。そこは小さなホテルのシングルルームという雰囲気だった。シングルベッドに簡易の机にイス。そして隣の部屋にはユニットバス。それで一部屋という構成だ。
 部屋を横切りつつ、仮面を外し、その骨の顔を外に晒す。仮面に遮られない空気が、心地良く骨の顔を撫でる。
 微かに浮かぶ開放感にアインズはため息を吐き出しつつ――無論、肺が無いのだから真似ごとにしか過ぎないが――ベッドに横になった。靴は面倒なので脱いでいない。持っていた仮面は頭の横辺りに投げ出している。
 アインズがベッドに横になったのは睡眠をとるためではない。
 アンデッドであるアインズの肉体は睡眠や疲労といったものとは無縁だ。しかしながら時折、それらを再び味わいたいという思いに軽くとらわれることがある。睡眠欲、性欲、食欲など喪失した欲望もそれらの類だ。数秒も満たない時間で掻き消える感情であり欲望だが。
 ではベッドに横になったのはそういった感情のようなものの表れかというと、いつもであればそうだが、今回はそれでは無い。
 単純に横になると肩が楽になった気がするのだ。疲労しない肉体を思えば、それも気のせいだとは理解している。だいたい神経自体走ってないのだから。単純に人間であった頃の残滓が、そんな思いを抱かせるのであろう。
 天井をボンヤリと眺めるアインズの考えは、先ほどのレイという男のもの。
 アインズはボソボソと独り言を呟く。
 昔に比べて独り言が多くなった気がするし、事実そうであろう。
 大組織の頂点に立って、未知の世界で間違いないように運営していかなければならないというプレッシャー。そして腹を割って語ることの出来る相手のいないための弊害だ。

「しかし……帝国も一枚板ではないということか……。困ったものだ。ジルクニフも何をしているんだか。絶対的な権力者じゃないのか? あのワーカーの記憶ではそうだったはずなんだが……」

 アインズとしては絶対の権力者――ジルクニフに近い席を得られ、ある意味安泰だと思っていた。しかし、そうではないということが判明してしまった。

「レイ将軍か……。まったく、部下なのに主人であるジルクニフを裏切るなよ。ナザリックでは裏切るような奴は多分いないぞ。しかし……ジルクニフはあいつが欲深い人間だと知って泳がせていた場合、厄介ごとに巻き込まれる可能性があるな。ミスったかもしれないな……」

 ゴロリと小さなベッドの上で体を転がしながら、別のことを考える。

「それにどうも騎士たちに怖がられているようだ」

 アインズは歩いている最中の視線を思い出す。あれはどう考えても英雄に向けるものではない。アインズが辺境侯という地位――貴族階級としては上位者だから緊張してという線も無くも無いだろうが。

「その辺の方向も修正しないといけないし……。やはり魔法の選択を間違ったみたいだな。あれが一番効率的に良いからと思ったんだが……炎系の魔法で焼き払ったほうが見栄え的に良かったかもしれないなぁ。ユグドラシルであればあの辺の魔法は受けが良いんだが……」

 経験したことが無いし、この世界での一般的な人間の考え方も知らない。だからこそアインズはユグドラシルであれば、というイメージで行動するしかない。しかしながら、それがどうもこの世界の常識と強く乖離しているところが多々あるということを、このごろ良く実感できるようになった。
 乖離してなければ当初の予定通り英雄と呼ばれる存在になっていただろうから。

「……弱すぎる。なんであの程度の魔法で怯える。単なる超位魔法だろう。課金で発動時間を短縮した。特殊なスキルだって一切使ってないし、強化もしてない程度の」

 独り言を呟きながらも、自分の何が悪いのか、当然アインズは分かっている。
 単純な一般常識の欠如だ。そして次に人間という生き物の立場に立って考えることが出来ていないという点。

 この肉体になってからの人間は『動物』だ。面識の全く無い人間であれば『蟻』と言っても良いほど。好きこのんで殺す気はないが、邪魔をするなら踏みつぶしても罪悪感に駆られることもない程度の生き物である。かつての仲間たちを賞賛したある村娘などの一部の例外を除いて。
 そういった意識が生み出す、視線を『動物』視点に上手くあわせていないが故に生じるギャップだ。

「……やはり帝国で一般人として生活をして少し勉強しないといけないな」

 アインズはナザリックという場所から滅多に離れることなく、この世界を生きてきた。安全性や目立つことを恐れて。しかし、今それが不味い事態となって降りかかっている。
 今後も予測される事態を避けるには、やはりその世界で生きるしかない。
 そうなると色々な問題がある。

「しかし住む場所とかどうするか。コネとか無いし、不動産屋とかも無いみたいだし……ジルクニフにお願いするというのも……セバスにこっそり聞くか。一軒屋とか帝国の基本的な価格だと幾らぐらいなんだろう」

 ベッドの上で再びゴロリと寝返ると、アインズはさらにぶつぶつと呟く。

「無駄遣いはしたくないしな」

 宝物殿には唸るほど金貨はあるし、アインズだって莫大な金額を保有している。しかし、それらを無駄に使うことは出来ない。まずナザリックの運営資金、さらにもしNPCが死亡した場合の蘇生費用、30レベル以上のモンスターを召喚する場合に消費される金銭。そういった諸々の理由に使われる。
 だからこそアインズは金が欲しい。
 領地をもらったら税収を普通に取って、その金でさらにナザリックを守るモンスターを召還してやろうと画策しているほどである。
 しかし、それでも辺境侯という地位にいる者が宿屋の一室では話にならないだろう。
 地位に見合った生活という言葉ぐらいは流石にアインズだって知っている。その言葉の意味が本当に成す部分を知らないにしても。

「他に……領地問題は全部デミウルゴスに丸投げで問題ないだろうが、あいつを働かせすぎか? しかしそれ以外に……」

 ナザリックの面々を思いだしても、領地を運営管理できそうな顔が頭に浮かばない。アインズに領地管理なんか出来る気がしない。色々と考えていたアインズは面倒になり頭をかく。

「面倒だ。恐怖公に任せるとかどうだ。公とかついている貴族風な奴のことだ、意外に上手く管理するやもしれん。ジルクニフが置いていった秘書官を前に立たせて、恐怖公が後ろから操作する」

 そこまで考え、『あー』といううめき声を上げる。さすがに恐怖公は色々な面で不味いかと判断して。

「はぁ。前途多難だな。まずはナザリックに連絡を送り、綺麗な死体の回収作業を命令して、それを媒介に召喚などに用いるようにしないと。雑務がたまっていくなぁ」アインズはベッドに顔を伏せ、呟く。「……ジルクニフの宮殿を見せてもらうのが楽しみだな。本当の宮廷なんかそうは見られないからな」

 不幸の中に僅かな楽しみを見いだす。そうすればまだ頑張れるから。
 そう考えるとアインズはごろごろとベッドの上を幾度も転がる。その時、懐で何かが潰れるような異様な感覚が走る。そこでようやく入れっぱなしになっていた手紙を思い出した。

「そう言えば読んでなかったな」

 アインズは懐から取り出し、蝋を剥がして中の手紙を取り出す。広げて眺めるが、やはり文字が読めない。この世界の法則で言語は自動的に翻訳されているが、文字まではその力は及んでいない。
 だからこそあの場では読まなかったのではなく、読めなかったのだ。

「やれやれ」

 アインズは空間に手を入れると中から眼鏡を取り出す。セバスがかつて王都に向かったときに使用していた物と同じものだ。
 それを着用し、アインズは皇帝の手紙を読み進める。読み進め、数度読み直し、アインズは深く頷く。

「……なるほど。確かに流石はジルクニフだ」

 親愛なるアインズから書き始められた文章は、友人であるジルクニフで終わっていた。その中身は要約してしまえば将軍達に対する絶対な命令書だ。逆らうならば国家反逆罪として捕らえるというものであり、命令しているのはアインズの指揮下に入るようにというものだ。
 今回は将軍達がアインズの願いを聞き届け、問題なく指揮権を委ねられたが、考えてみれば突然現れた男の命令を聞くはずがない。口頭での命令は受けているだろうがそれでも、だ。だからこそジルクニフは側近に手紙を持たせて送ってきたのだろう。
 アインズはジルクニフの細かな手腕に頭が下がる思いだった。
 上に立つというのはこういう細かなところまで考える必要がある。
 ナザリック大地下墳墓の支配者という地位に立つアインズも、所詮は単なる一般人。こういった細かな部分での行き届きがまるで上手くない。
 アインズは強く考える。
 ジルクニフは上に立つよう教育を受けてきたのだろう。そんな人物を出来る限り真似をすれば、ナザリック大地下墳墓の支配者に相応しくなれるのではないかと。

「努力せねば。せっかく帝国の貴族に……ジルクニフの友となったのだ。横で観察していれば私でも……立派な支配者になれる……いや演技ぐらいは出来るようになるはずだ」

 かつての仲間達がいれば問題はなかった。皆で相談し、色々なことを決めていけただろう。アインズは意見をまとめるだけで良かった。そして幾人かはアインズよりも高い教養を受け、深い知識を持っていた。
 彼らがいれば――仲間達がいれば、アインズは何も心配することが無かっただろう。
 しかしいない今、アインズこそが――モモンガという人物こそがナザリック大地下墳墓を支配し、維持し、管理していく最高責任者であることを失念してはいけない。
 もちろん、それだけではない。ナザリックの代表者であり、アインズを通して全ての者はナザリック大地下墳墓、ひいてはかつての友人達を見るのだ。

 友を汚すことは許されない。
 支配者に相応しい者へ。ナザリック大地下墳墓の主人として。
 かつての友たちが呆れないように。

 アインズは虚空を睨み、その意志を強く心に抱くのだった。



◇◆◇


 バハルス帝国、帝都アーウィンタール。
 その中央に位置する皇城の最重要区画の1つである皇帝の執務室。
 その部屋は深夜遅い時間だというのに、普段以上に多くの者たちが詰めかけていた。多くといっても部屋の大きさからすれば少ない数だ。というのもこの場にまで入室を許される者は、全員が皇帝の信任厚い側近ばかりであり、その才能は皇帝が直々に目をかけたほど。言うならこの部屋こそ帝国で最も優秀な者たちのみが入ることを許される場所だ。有象無象の類では入ることが出来ない。そのために室内にいる者の数は当然抑えられることとなる。
 そして今、そんな広い部屋へと入ってきた騎士に、室内の全員の目が向けられた。向けられたものに眠そうなものは1つとしてない。皆、爛々と輝いている。
 そんな病的な雰囲気すらある視線の束を受けても、騎士に動揺の色は当然見受けられない。
 入ってきたのが帝国最強とされる4騎士の1人、『激風』ニンブル・アーク・ディル・アノックであるためだ。彼のような歴戦かつ死線を潜り抜けてきた者からすれば、この程度の視線でも大したものではない。
 ただし、その端正な顔に浮かんだ表情には、僅かに疲れらしき影が見て取れるが、それは仕方がないだろう。王国との一戦を見届け、すぐに帝都まで戻ってきたのだから。例え飛行する魔獣に乗っているとはいえ、単純に考えれば今日一日での移動距離は半端ではない。
 それだけの強行軍を行った人物に対して、汚れた鎧を拭う僅かな時間すらも与えられなかったのは、この室内に集まった全員が待ち望んだ情報源であるためだ。それを知っているがために、ニンブルもまた疲労した体を押して現れたというわけだ。

「よくぞ戻った、ニンブルよ」
「ありがとうございます。皇帝陛下」

 ジルクニフの優しげな声に対して、ニンブルは深く頭を下げる。

「さて、私は《メッセージ/伝言》で一応聞いているが、この者たちには教えていない。ニンブル。おまえの口から説明するがいい」

 一瞬だけニンブルの顔に怪訝そうな色が浮かんだ。
 なぜ、そんなことを。という疑問だが、それは即座に皇帝に対する忠誠心でかき消される。主人がそういうのであれば、部下である自分の行うべきはそれに従うこと。
 何があったのかを理解し、そしてそれに対しての政策を考える必要がある者たちの、ぎらぎらとした視線を浴びながら、ニンブルは口を開く。
 言うべきは最も重要な部分。帝国の政略に関わってくる最重要点。

「――今回の戦いにおいて王国側の死傷者は恐らくですが、10万を遙かに超えていると思われます」

 その言葉に対し――

「ははは――」

 ――室内に複数の穏やかな笑いが広がった。冗談だと判断した幾人かの闊達な笑いだ。
 常識で考えれば当たり前だ。
 今回の戦いにおいて王国側が動員した兵力は20万を超えるという。その兵力の半分以上をどうやって殺すというのか。
 確かに帝国側の動員した兵力は6万以上。その中には神官や魔法使いなども含まれるので、純粋な戦闘員だけで考えるなら5万前半だろう。そこから単純に計算するなら1人につき2人以上殺せばよい。王国の動員された民兵と、帝国の専業戦士である騎士の実力の差を考えれば不可能ではない。
 しかし、戦争というものは実際はそんな簡単にいくはずがない。一直線に並んで、ただ前の敵を殺せと言うのとは違う。
 正面からぶつかり合えば数の差は大きくのしかかってくるし、命をかけた戦いというのは精神の消耗を激しくさせ、予期せぬ事態を生みかねないものだ。
 人数というのはそれ自体がまさに凶悪な戦略の1つになりうる要因を秘めている。だからこそ、王国は帝国に倍する兵力を動員する。弱い魚が群れを作って強者を追い払うように。
 それだけの兵力差を飛び越え、それだけの殺戮を行うことなぞ、生半可な手段では不可能。
 ジルクニフという帝国の頂点に立つ者の部屋での報告であり、冗談をいうような場ではないと理解した上でも、考察すれば考察するほど、冗談だと考えてしまう。

 しかし、笑い声をあげた者たちはすぐさまその異様な雰囲気を理解する。
 あげた笑い声は尻すぼみに中空に消えていった。

 それは帝国の皇帝たるジルクニフの真剣な表情。そして帝国4騎士といわれる個人としての武勇では最強たるとされる人物たちが決して冗談めいた表情を浮かべてなかったことに起因する。それ以外にも幾人か同じような表情を浮かべる文官がいる。
 それらの表情を浮かべている者たちに共通の事項はたった1つ。

 ――アインズ・ウール・ゴウン辺境侯という人物を目にした者たち。

 静まりかえった室内にジルクニフの声が流れるように響く。

「そうか。それでは詳しい話を聞かせてやれ」

 ジルクニフの言葉に頷いたニンブルに即座に質問が放たれる。誰もがその情報を待ち望んでいたというのが理解できる早さで。

「帝国の軍にも同程度の戦死者が出たと言うことですか?」

 それならば理解できるという雰囲気で、側近の1人が問いかける。それに対してニンブルの答えは明瞭だった。

「帝国兵力に犠牲はございません。死傷者ゼロです」
「…………」

 室内が静まりかえる。
 それから爆発したように騒がしくなった。

「何を言っているんですか、あなたは!」
「どういうことですか! 何をアノック殿は言っているのですか!」
「意味が理解できません! 帝国の兵力に犠牲無く、王国兵士に犠牲が出るなど……王国側のみに災害でも起こったというのですか?」

 すっと手を挙げたニンブルの動作に喧噪がわずかに止む。ただ、側近たちの目には険しいものが浮かんでいた。彼らは皆、文官ではあるが、それでも皇帝が優秀だと目をつけ引き上げた者たち。その視線は歴戦の戦士にも匹敵させるものがあった。
 そこにある感情は変なことをこれ以上言うことは許さないというもの。
 そんな視線を浴びながら、ニンブルは力無く笑う。
 自分もそう感じておりますといわんばかりの、無力感あふれる笑いを。

「今回の一戦はすべて辺境侯の軍勢によって行われております」

 室内の空気が僅かに変化し、幾人かの視線がジルクニフに向かう。それに対して皇帝は微妙な笑みを浮かべたまま口を開く気配がなかった。
 側近たちは新たに貴族となった人物の知られている情報を思い出そうとする。
 

 アインズ・ウール・ゴウン辺境侯。
 その人物に関してはまさに未知という言葉が最も相応しい。この部屋に集まっている皇帝の頭脳であり、手足ともいえる側近たち――彼らをしても詳しいことは知らされてない。
 むろん、ジルクニフには何度も情報をほしいという旨は伝えてある。しかし、なぜか言葉を濁されて終わっただけだ。
 そのために帝国上層部において噂されない日は無い、そんな人物にまでなっていた。
 ジルクニフの政略は皇帝という地位についてから、軍事力を背景に貴族の力を削ぐということで一貫している。だからこそ鮮血帝とまで言われているのだ。
 そんな皇帝が自らに次ぐ地位――それも辺境侯という新たに作ってまで――高い地位を与えた人物だ。噂にされない方が変であろう。
 自分たちの陣営に取り込めないか。
 皇帝に対する牽制に使えないか。
 はたまたは辺境侯を経由して皇帝に媚を売れないか。
 無数の思惑が魑魅魍魎として形取っているような、そんな注目の的の人物。その人物が原因の根元にいるとすれば、興味も沸く。


「つまりは……辺境侯は20万の兵力を打破しうる兵力をお持ちということですか?」

 納得はいかないが何とか理解は出来た。そういう匂いを込めながら側近の1人は問いかける。
 いったい、それほどの兵力をこの周辺のどこに隠していたんだとか、一体何者なのだという疑問ばかり浮かび上がる、が。

「何万……いや何十万もの兵力を動員した? いや、何十万程度で可能か? 辺境侯とはどこかの国の王族?」
「亜種族という線も考えられる」
「それよりはそれだけの兵力を帝国国境付近に動かしたにもかかわらず、いっさいの情報が回ってきてないことは不味いことでしょう。皇帝陛下のご意志でしょうか?」
「食料やその他はどこから生み出したのか。私はそちらの方が気になりますね」
「そういうことなのですか、陛下?」

 側近たちの質問に対して、ジルクニフは嫌な笑いを浮かべて答えた。

「まぁ、話は終わりではないだろう。ニンブル続けろ」
「はっ。まず辺境侯ですが、何万もの兵力は有しているとは思います。ですが、その兵力を見たわけではないので、私の勝手なイメージだということを納得してください」
「……そのお答えは変ではありませんか? 持っているからこそ王国の兵力を討ち滅ぼせたのではないのですか?」

 その質問に対し、ニンブルは爆弾を投下する。

「今回の戦いにおいては辺境侯が指揮した軍勢はおおよそ300です」

 沈黙。
 無数の視線にあるのは理解できない感情。そして一部の――アインズ・ウール・ゴウンという人物を見たことのあるごく少ない者たちの、あれならできるという確信にも似たもの。

「……アノック殿はお疲れなのでは?」
「300って……ドラゴンの群れでも支配しているのですか?」
「何を言っている? 300というのは何かの隠喩ですか?」
「皇帝陛下。真実を教えてはいただけないのでしょうか?」 
「確かにその300の兵力はドラゴンにも匹敵するのかもしれません」周囲で起こるざわめきを無視してニンブルは続ける。逆の立場なら自分だってそう思うと考えて。それから1人の人物に視線を向けた「その300はすべてがデスナイトと言われる者たちです」

 ガタッと大きな音がした。
 まずは帝国4騎士の内、ニンブルを除いた3名。そして新たに主席魔法使いの地位についた男だった。その中でも主席魔法使いの驚愕は大きい。
 口をぽっかりと開け、目には異様な光、そして怯えたように身を震わせていた。その異様な姿が300の軍勢がどれほどのものかを充分に周囲の者たちに理解させる。
 デスナイトという未知の存在の強さを肌身で実感させたのだった。

「そんな……馬鹿な……。あんなモノを300も支配しているだと? 辺境侯というのはどれほどの……化け物だ。もはや人間の及ぶところではないぞ。フールーダ様が弟子になったというのも理解できる」
「……主席魔法使い殿。そのデスナイト。強いのですか?」
「桁が違う。……あの凶悪なアンデッドに勝てるのは英雄といわれる領域に足を踏み込んだ者ぐらい。それが300というのは国1つでは討伐できない数だ」

 問いかけた側近の1人に対して、はっきりと断言をした。
 しかし国1つで討伐できない。その言葉の意味を真に理解することは難しい。というのもあまりに想像できないからだ。ただそれでも異様さと強さは充分すぎるほど伝わってくる。
 側近たちの頭にあったのは、帝国4騎士たちと同格の強さを保持する兵士が300人というところ。疲弊という概念を考えず、相手が逃げないと言うのであれば何とかそれぐらいは出来ると、4騎士の強さを知るものは考える。しかし――

「……なるほど。それだけの軍勢を持っているなら10万もの死傷者を生むのも道理かもしれません……ですがそんなに簡単にいきますか? そんなに強い存在であれば王国の兵士も蜘蛛の子を散らすように逃げるでしょう」

 当たり前だ。
 300人で考えれば10万人を殺すのに、1人辺り335人を殺す必要がある。そんなに殺している間に相手が撤退しないはずがない。ならば、という疑問は続いてのニンブルの言葉で、より一層の混乱へと引きずり込まれる。

「……辺境侯はそのデスナイトすらも使ってはおりません」

 室内に静寂が完全に舞い降りた。ほとんどの側近の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんでいるようだった。
 誰の言葉も無い中、ニンブルがたった一言だけはっきりと宣言した。

「アインズ・ウール・ゴウン辺境侯が行われたのはたった1つの魔法の行使。それだけで王国の軍勢は壊滅したのです。それもものの10分程度で」

 その言葉が室内にいた者たちの脳内に染み渡るまでには結構な時間が必要だった。
 冗談だと判断した方が生易しい言葉。今までの生きてきた、そして勉強してきたすべてを根底から覆すような言葉。それをどうしても受け入れられなかったためだ。
 静寂に支配された時間が経過し、1人の男が最初に口を開いた。

「大変申し訳ありません、皇帝陛下」
「ん? どうした?」
「もはや私がここにいてやることは無いと思われますので、退室してもよろしいでしょうか?」
「何を言っている?」

 不快げに向けられたジルクニフの苛烈な視線を浴びながらも、それでも新たに主席魔法使いになった男は言葉を発する。

「人間の魔法でそれだけの破壊力のある行為を行うことは出来ません。ですので、そのようなことを本当にやっており、しかも仕掛けがないのであるとするならそれは人間の領域には無い者。つまりは神などの世界に立つ存在です。ですので人間の魔法使いである私よりは、神官や吟遊詩人などをお呼びになった方が正解かと思われます」

 自棄と言うよりは、魔法というものに詳しいからこその絶望と諦めだ。

「それとよろしければ私以外の者を主席魔法使いに据えた方がよいかと思います。……皇帝陛下と共に行った魔法使いが私を推薦したという理由がわかりました。あれだけフールーダ様の跡を継ぐことに興味を持っていた奴が何故とは思っていましたが……そんな化け物と多少でも魔法を交えたいなんて思う者がいるはずがございません。そしてそれは私も同じことです」
「それは認められん。おまえこそがフールーダの跡を継ぐだけの力を持つ魔法使いだという調べがついている」
「私ではアインズ・ウール・ゴウン辺境侯の……いえ、確実に足下にも届かないでしょう。研究に次ぐ研究、鍛錬に続く鍛錬。帝国の財と材、それらを使用しても」
「……あれと戦うことの愚かさは重々承知している。あれは……強さと英知を兼ね備えた存在だ。おまえに期待しているのはそういうことではない。もっと別のことであり、帝国の魔法分野での切り札でもあるおまえをそんな勿体ない使い方はせん。だいたい、仮想の敵にかのフールーダがいるんだぞ?」
「……申し訳ありませんでした、皇帝陛下。混乱し、見誤っていたようです」
「かまわない。誰だって生贄にされる、そう思うだろうからな。それでおまえの考えるところ、アインズの強さはどれほどだ」
「先も言ったように人間の領域からは完全に逸脱しています。一言で表すなら辺境侯は魔法という深淵の奥底に潜む化け物です。私ごとき凡才では深さの判別すら出来ない奥底に潜む」
「……なるほど」深く理解したとジルクニフは頭を振り、そらから視線を動かす。「さて、私が《メッセージ/伝言》で得た情報をおまえたちに言わなかった理由がわかったか? こうやってでなければおまえたちは《メッセージ/伝言》の方が偽りだと思ったはずだろ?」

 《メッセージ/伝言》は信用性に欠けるというのが一般的なイメージだ。
 つまりは魔法をかけた相手の認識違いや、嘘を言っていた場合むちゃくちゃな情報が流れることとなる。それら不安から生じる低評価が、一般的に《メッセージ/伝言》による情報伝達網の発展を抑止してきた。

「こういうことだ。さて、アインズという辺境侯がどれほどの存在かも理解したな? ではどうする?」

 楽しげなジルクニフの言葉に返事はなかった。
 神様なみに強い存在が貴族になりました。どうしましょうといわれても、人間では対策なんて考えられるはずがない。黙った側近たちの中、1人がぽつりとこぼした。

「ゴウンという化け物をどのような鎖で縛り付けるのですか? 個の力で国を滅ぼせそうな化け物を」

 それは皆の思いの代弁だろう。自分たちの住む国の中に、桁の違う、人間と見なして良いのか不明瞭な存在が入り込んでくるのだから。それでも通常であれば決して口には出さなかっただろう。しかしそのような言葉を発してしまうと言うこと事態ある意味、辺境侯という地位を与えた皇帝に対しても、わだかまりがあったとも言える。
 しかし――

「いつから」ピリピリとした空気がジルクニフから流れ出す「帝国の重鎮たる辺境侯を呼び捨てにするよう許可が出た? 誰の許可があってだ?」
 
 がちゃりと金属の音が響く。
 帝国4騎士。その2人が鋼の表情で一歩踏み出したのだ。それは罪人を裁く執行官の顔だ。
 ジルクニフからこぼれ出る鮮血帝たる所以の気配に、室内の殆どの人間の背筋に冷たいものが流れる。

「聞かせろ。帝国の皇帝たる私以外の誰かの許可を得たのか? 私の友人であるアインズの許可でももらったのか?」
「も、申し訳ありません。つい暴言を……」

 ジルクニフの苛烈な視線の先にあった側近が喘ぐように陳謝する。暫しの時が流れ、ジルクニフは軽く頭を振ると口を開いた。

「次はない。アインズの価値を考えればおまえごときゴミにも等しい。それに……どこまでアインズの諜報の手が回っているか不明だ。決して愚かな発言や対応をとるな。アインズはこちらの手も見透かしてくるような英知に溢れる存在だ。変なところを、突っ込まれるような姿も見せるな。お前達の暴言を逆手に取り、帝国内部にナイフを突き入れてくるかもしれないと知れ」

「畏まりました」

 側近達からそう返事が一斉にあがり、その後、訓練していたようにほぼ同時に頭が下がる。その光景にようやくジルクニフは満足げな態度を取り、視線に込めていた鋭いものを隠す。

「先の質問に関しては色々と考えている。お前達が心配することではない。ただ、まず近い問題としては凱旋を祝う準備をしろ。辺境侯の凱旋だ」

 本来であれば将軍や騎士たち――帝国軍将兵ら全員を祝うのが当たり前ではある。たった1人の個人を優先するという考えは異様ともいえた。しかし、この場でアインズという人物の行ったことを知った者で反対意見を述べる者は誰1人としていなかった。

「アインズの軍功面での帝国への貢献は充分すぎるほどだな。そして能力もおまえたちの想定を遙かに上回ることを証明した。これで以後、異論反論に一々対応する必要が無くなったな?」
「理解しました。こればかりは結果を見せられなければ信じられなかったでしょう」
「ただ……少しばかり桁が違いますが」

 側近の1人の呟きに、ジルクニフは苦笑を浮かべる。

「そういうな。私だって王国側の被害はもう一桁少ないと思っていたさ。流石はアインズだな。流石は我らの辺境侯だ」


 そう口にしながら、ジルクニフは内心ではアインズに対して罵声を吐き出したい気持ちで一杯だった。
 ジルクニフの真なる狙いは周辺国家によるアインズ・ウール・ゴウン包囲網の完成だ。しかしこの被害を知ってなお、おいそれとそれに参加しようというものは、もはやいないだろう。特に王国の被害は桁が違う。一気に国力を減少させたことは確実であり、包囲網の一角は既に崩れているともいえる。
 もし、それをアインズが狙ってやったことだとしたら?
 ジルクニフは誰にも悟られないように、頭を小さく振る。
 いや、狙っていた可能性は高い。
 ジルクニフのアインズという存在――化け物に対して最も警戒しているのはその英知だ。あの面識を持った短い時間でこちらの手を読んでくるという。それだけの相手だからこそ、ジルクニフの真の狙いは読まれている可能性は高い。
 それを踏まえたうえで考えれば、そんな魔法――《メッセージ/伝言》でアインズが使った魔法を聞いた時、身震いしたものだった――を使ったのにも理由があるのが見えてくる。
 勿論、あの魔法しかなかったということも考えられるが、そうではないだろう。
 あんな評判を落とすような恐ろしい魔法を使うことの狙い――それはジルクニフ以外にも力、またはアインズという恐怖をはっきりと誇示する目的が考えられた。
 相手は当然、王国であり、そして第三国だ。
 あの戦いはスレイン法国も魔法による監視を行っていただろう。そんな風にあの一戦を注目していた者たちに。

 また一手後手に回った。いや、こちらがアインズの実力を確かめようとしたのを逆手に取られた。
 ジルクニフは舌打ちを抑える。
 一桁少ない被害であれば、ジルクニフの狙い通り、対アインズの包囲網は作れたかも知れない。しかし……。

 ジルクニフは己の顔が歪みそうになるのを鋼の自制心で押さえ込む。
 この場での会議はアインズの耳に聞かれている可能性だってある。だからこそジルクニフはアインズの友人という姿勢を出来る限り崩してはいけない。アインズ自身は見破っているだろうが、対外的にはという意味で。
 ジルクニフは笑顔を見せる。
 アインズへの敵意を巧妙に隠して。そして側近達に心無いことを語る。
 それでも恐ろしい男だという思いまで完全に隠せたかは自信がなかった。


「……しかしながらこれで充分なアピールは成功だ。辺境侯という地位に相応しい力を有していると言うこと。内外への充分な宣伝も。美味そうな匂いが立ちこめだしただろう」
「辺境侯に近寄りたいと思う貴族どもはどうされるのですか? 辺境侯の不快を買っては危険では?」
「問題ない。アインズは智謀の男。何が利益を生み、何が不利益か重々承知している。その辺りでこちらに対して火の粉を振りまいてくるようなことは無いだろう。上手く利用しようとするだろうしな」
「それの方が危険では?」
「違うな。最も恐ろしいのはアインズが自分で動き出すことだ。貴族の馬鹿どもを手足として使うのであればいくらでも監視が効く。それに動きが少しでも掴めれば全体の動きの予測はある程度はつく。インヴィジブルハウンドなどの不可視のモンスターを退治するには水場に引き寄せろと言うそうじゃないか」
「なるほど。それと同時に馬鹿どもを取り巻かせることで重みにするということですね?」
「そうだ。そうやって鎖で縛るように動きを鈍らせる」
「鎖を断ち切ったらどうされるので?」
「派閥を作ったりしないとしても、馬鹿どもが取り巻いていればそれでも充分な抑止になる。無論、それらを囮にしてアインズが動く可能性は非常に高い。あいつは1を見れば、10は看破するだけの眼力があるだろうからな」

 しみじみと語るその姿に、側近達は自らの主人が辺境侯という人物に対して、どれほど高い評価をしているかを深く感じ取る。これほどまでにジルクニフが敬意とも警戒とも知れないものを示すのは、辺境侯で2人目であった。

「それほどまでに陛下は辺境侯のことを高く評価されているのですね」
「ああ。あいつは会った際の少しの会談で、こちらの策を読んできたからな。しかもそれを上手に取ってという反撃までしてくるほどの相手だ」
「それは……」
「まぁ、つまりは決して油断できる相手ではない。……愚痴を言っても仕方が無い。まず私に次ぐ歳費をアインズへの資金として準備しておくよう、財務関係にねじ込め」

 財務関係の管理に関与している者の幾人かが無理難題を押しつけられた表情を一瞬浮かべる。しかし、今までの話を聞いていれば辺境侯という人物がどれほど帝国を揺るがす存在か充分に理解できる。
 嫌なんていえるはずがない。こんなちょっとしたことに、帝国の未来が大きくかかっている可能性があるのだから。

「幾人かの貴族の歳費を押さえてしまっても?」
「かまわん。何が重要かは判別できるだろう?」
「かしこまりました」
「それにアインズの邸宅の準備だ。一等地に最も見栄えの良い館を。幾つかこういう時のために用意していた奴があるだろうから、それらの中で見繕え。それとそこで働く者たち。メイドは見栄えをも重視しろ。……まぁ、あのメイドたちと比べられてはどうしようもないが、な」
「あのメイドたちに勝てる女なんてそういませんよ、なぁ、『重爆』?」
「全くです」

 4騎士の1人、『重爆』のレイナース・ロックブルズが、『雷光』バジウッド・ペシュメルの言葉に静かに同意する。レイナースは4騎士の紅一点である。
 深い青の瞳は極寒の色を称え、表情は固まったように動かない。人形めいた顔立ちは非常に整ってはいる。そんな顔半分を隠すように長い薄い金色の髪が垂れていた。その下に僅かにだが、黒いアザが垣間見える。頬の半分ばかりを覆う黒いアザを、レイナースがあまり外に出したがらないのは誰もが知っている事実である。
 そんな女性は色つやの良い唇を僅かに開く。隙間から真珠のような歯がちらりと覗いた。

「……あのメイドは私たちよりも強く、私が見たどんな女性よりも美しかった。……少々嫉妬してしまうほどです」

 まるで人形のように動かない表情で、さらに平坦な話し方からは嫉妬の色は見えない。しかし、親しい他の4騎士はかすかな感情を感じ取れていた。
 それはたぶん、レイナースが言うように嫉妬という感情だろう。

「確かに」ジルクニフが頷く。「あれの正体は人間以外の生き物だという方が納得のいく美貌だったな。伝え聞く悪魔や天使のように」

 そんなジルクニフの言葉に、側近達の幾人かは男として当然の興味を引かれる。皇帝という地位に立つ、ある意味どんな女でも選べる男の心からの賞賛を聞いて。しかし、この場でそんなことを口に出せるのは4騎士筆頭であるバジウッドのような男だけだ。

「……さて、忘れていけないのが戦勝祝いの贈り物だ。その辺りの準備もよろしく頼むぞ」
「一度に準備しますと、陛下の歳費を超える可能性もございますが?」
「それは仕方あるまい。ただ、それが他の貴族たちに知られるようなことは避けろ。アインズの周りに馬鹿が集まってくれなくては困る。あくまでも私の下にいるということにしなくては不味い」
「戦争の話が漏れ出れば近寄らないのでは?」

 その質問に対し、バジウッドが口を開く。

「そいつは違うとも。軍事力を背景にした陛下の行動のため、各貴族派閥は軍事力の面を補ってくれる存在を求めている。実際俺達や将軍達に軽く声をかけてくる奴は多いぜ。軽くって言っても言葉が軽いだけで目は真剣だからな。てめぇの娘を取引に持ち出す奴なんかごろごろいるぐらいだ。全部受けてたら嫁が今頃50人は超えてるぐらいだぜ。年齢は様々で」

 バジウッドは単なる平民上がりの自分に、色々と声をかけてきた記憶の中の貴族達を嘲笑しながら続ける。

「だからこそ強力であれば強力であるほど魅力的に映るって寸法さ。もちろん賢い奴は近寄らないだろうが、最も賢い奴は足下で腹を見せて転げ回るさ。もちろん、幾人か送り込んで安全を確認したあとにな」

 なるほど、などの声が起こる中、側近の1人が羨ましげに呟く。

「……そんな力を持つ辺境侯は数日内に呆れるほどの贈り物――戦勝祝いとして各貴族の方々から受け取るでしょうね。どれほどの美術品や財が集まるか見てみたいものです」
「くっ! ははははは!」
「へ、陛下?」

 突然の哄笑に側近たちが驚いたように目を丸くする。割れんばかりの笑いがしばし続き、それからジルクニフは己の目尻に浮かんだ涙を拭った。

「すまんすまん。少しばかり面白すぎる冗談だった。財か。アインズの住む居城を見た後で、アインズを感嘆させる財が贈られるとは到底思えなくてな」
「ナザリック……でしたか。そこはそれほどの場所で?」
「白亜の宮殿。神の座する聖地。最高級の物のみで構築されたような場所……だったな。もちろん、すべてを見たわけではないが、会ったときにアインズが身につけていた物の価値の合計が、帝国の国家予算に匹敵すると言われても納得できたぞ」
「それほどの……」

 あまりにも想像できない光景に側近達は言葉に詰まる。荒唐無稽すぎるためだ。そんな中、ある1人が致命的な失態に気がつき、慌ててジルクニフに尋ねる。

「では……贈り物はどうしましょうか? 金銭的な価値ではなく、希少性を重視したものということでしょうか?」
「……確かに。それは困ったな……。誰か良いアイデアは無いか?」
「……ならば勲章を作ってお渡しするというのは? 圧倒的多数を屠った者にしか渡されないような勲章を作って」
「それは悪くないな」

 ジルクニフが頷く。
 部下に任せることで、アインズの不満が生じた場合はそちらに逸らすつもりだったが、勲章であれば価値としては充分だろう。何よりアインズには帝国の勲章はまだ授与されていない。そういったことも考えれば妙案だ。
 本来であれば戦勝の祝いだが、新しい勲章の製作までも考えるなら、充分な祝いになる。

「では勲章の製作にかかれ。どうせアインズしか付けることの無い勲章だ。豪華にやって良いぞ」
「畏まりました。ではすぐに典礼の者などを動員して製作に入ります」
「よし。色々と決めていかねばならないことも多いが、ひとまずはアインズの凱旋を迎える準備を大急ぎで行え。それと平行して王国と会談する準備と草案を作っておけ。戻ってきた将軍たちの幾人かの話を聞いてからだが、最低でもエ・ランテル近郊はアインズに渡すためにもらわなければ話にならないからな」

 エ・ランテル近郊という領土をアインズに渡すことで、帝国は法国、王国に対する備えにもなる。そして彼らがアインズにちょっかいをかけてくれれば向こうから生贄が飛び込んでくれることとなる。

「ではついでにアンデッドの多発する地帯である、カッツエ平野も納めてしまえばちょうど良いですな。あそこに沸くアンデッド討伐に騎士を割くのも、犠牲者が出るのも金銭的に大きな出費でしたから」
「確かに。あそこの警備をしないで良いとなると、そこそこ余裕が出ますね。……どうされました? 陛下」
「ん? いや、あの地をアインズのものにするというのが良いことなのかと思ってな」
「それはどうして?」
「……無限の兵団を作り出してきそうな気がしてな。アンデッドは食料等を必要としないからな。……いや、まぁ、しても仕方が無い不安だな。よし、あそこも当然アインズに渡すとしよう。帝国にまるで損が無いことだしな」
「その辺境侯の領土問題ですが、領土での収益が順調になるまで帝国の支援も必要でしょうか?」
「……必要ない。アインズがどの程度まで行えるか、魔法的手段で解決するのか、その辺りの力は見たいからな」
「では支援の用意はしなくても?」
「まさか。準備はしておけ。アインズが言って来た場合は即座に貸し出し、恩を売る準備をしておくんだ。まぁ、そんなことにはならないだろうが、こちらの腹を読んでくる可能性もあるからな」
「では陛下。辺境侯に渡す領土の線引きをお願いしたいのですが?」
「そうだな。あとは王国側がどの程度の譲歩をするかだが、最低でもエ・ランテル近郊どころか都市そのものを欲しいな」

 幾重も城壁を持つ王国の守りの柱。
 そして3国への街道を持つ重要拠点。それを王国が簡単に差し出すはずがない。しかしながらジルクニフもそして側近たちも手にしたという態度が言葉の端々にあった。何故なら――

「……辺境侯の武を全面に押し出せば問題ない交渉になるでしょう」
「だろうな。いざとなったらアインズにもう一度頼むだけだ」

 側近の言葉にジルクニフは笑う。
 アインズという人物は非常に危険であり、恐怖してしまう存在だが、直面している王国はもっと恐怖だろうと。

「今日は美味い酒が飲める。王国の運命に乾杯だな。あー、鎖の一環としてはアインズに妻をあてがった方が良いかな」
「……陛下。あの方はそのぉ、子供が出来るんですかね?」

 子供が出来るのかという奇怪な質問をしたバジウッドに視線が集まるが、答えを語る気配がないことを確認するだけで終わる。ジルクニフもまた答えそうな気配はない。

「さぁな。しらんよ。ただ、子供が出来るとかそんなことはどうでも良い。妻という鎖で縛れるか確かめてみるだけだ」
「貴族の皆様のそう言ったお考えは少しばかり理解できませんね。結婚って奴は愛し合った者同士って気がするんで」

 その言葉に側近のほとんど、貴族という社会を知っている者たちが苦笑とも嘲笑とも取れる微妙な笑いを浮かべた。その中にあってジルクニフが浮かべたものは違う。決して嫌みなところも計算しているところもない、本当に無邪気な笑い方だ。

「バジウッド。私はおまえのそう言うことは好きだぞ。色々な貴族に娘をどうだと薦められているにも関わらず、断っているおまえの考え方はな。ただ、貴族というのはそうは行かないものさ。家と家の繋がり、そういった物が優先される。もしかするとこのまま行けば、非常に嫌だが、私の側室にあの気持ちの悪い女が送られてくるかもしれない。そういうものなんだ」

 そう言いきったジルクニフを後押しするように、側近の1人が口を挟む。

「どこかの貴族が辺境侯の親族の地位を手にする前に、何らかの手段を執られた方が良いかとは思います」
「そうだな。牽制は必要か。しかし館に招かれた辺りで……夜這いを仕掛けられるアインズの姿は見てみたいものだがな。まぁ、良い。何か考えてみるか。ちょうど良さそうな相手を捜してリストアップしておけ」
「下は幾つぐらいからでしょうか?」
「そうだな。別に気にすることはないだろう。出来るようになるまでは妾でも作れば良いんだから」

 そう命令を下し、アインズの姿を思い描いたジルクニフも疑問を抱く。
 あの服の下は一体どうなっているんだろうか、そして性欲というものはあるのだろうかと。



◇◆◇


「おはようございます、辺境侯」

 朝。再び塔の中にその身を見せたレイがアインズに深い敬礼と共に、挨拶を行う。後ろに付き従った5人の騎士たちも同じような姿勢を見せた。ソファーに座ったままアインズは手を軽く挙げて、挨拶の返答とする。

「さて、レイ将軍、それで今日の予定はどうなっているのか? 王国の軍に追撃を行うのかね?」
「はい。昨晩、あれからの会議で追撃は皇帝陛下のご命令あってからと決定しました。幾つかの軍団でこの陣地を固め、王国側に威圧をかけるという案に決定しました」
「そうか。しかし下手に王国側に圧をかけるのは、ネズミのごとき反撃を食らうのではないかね?」
「問題はないかと考えております。辺境侯のあれほどの力を見せつけられ、それで反撃に出るというのはもはや狂人の領域。流石な王国の者達といえども、そのような手段にはでないでしょう。それに綺麗な死体の回収は辺境侯がされると言うことですが、その他の死体の埋葬作業を行わなければなりません」
「そうだな……」

 アインズは少しばかり悪いことをしたという気持ちになる。潰れた死体の埋葬作業は、作業に従事する者たちにかなり精神的な負担をかけさせるだろう。
 ナザリックからアンデッドの群れを呼び出して作業させようか。
 アインズはそんな案を考えるが、口には出さない。今のアインズがやたらと恐れられていることは理解できる。ならば、あまり下手なことを言ったり、出しゃばったりしない方がよいだろうと判断したためだ。
 アインズは思いを口の中のみでもごもごと言葉にする。

「……アンデッドって良い労働力なんだが……その辺が分かってくれれば良いのだが……。意識改善をしないと駄目だろうな。アンデッドは良い労働力ですって」

「……? ……何かおっしゃいましたか、辺境侯?」
「いや、何でもないとも。それでレイ将軍、他に話はあるかね?」
「はい。それでですが、帝都に先行して帰還する組があるのですが、今回の戦争の最高功労者である辺境侯には先行の組に入っていただきたいのです」
「異論は無いとも」

 軍団と一緒に帝都へ帰還するというのは、一週間以上の時間が掛かることとなるが、こればかりは先行して帰るわけにはいかないだろう。
 アインズはそう考え、鷹揚に頷いた。

「ありがとうございます。それで移動系の魔法をかけることで行軍速度を上昇させたいと考えておりますが、辺境侯の馬車にもかけてもよろしいでしょうか?」
「む? ……そうか。いや、大丈夫だ。こちらはこちらで準備しておこう」
「畏まりました。一切の補給をしないで帰還する予定ですので、3日で帝都に到着予定となっております」
「それは早いな。補給しないと言うのは、食料等は持てるだけ持つと言うことかね?」
「……それなのですが、荷物を軽くするため、食料の大部分は魔法で生み出されるものとなります。そのために辺境侯には非常に申し訳ないですが、味の方がお勧め出来ないものへとなってしまいます」

 食料の大部分を魔法で補うと聞いてアインズはふむ、と頷く。
 こういったところがアインズの知識との差だ。
 アインズがこの世界を大雑把に知って驚いたのは、文明レベルに関してだ。
 最初は中世から近世の欧州というのがイメージであった。確かにそれは一部で間違えていないとも言えた。農村の生活はその程度だ。しかし、ある一面においては近代を遙かに超える点がある。
 それは魔法という技術によって生み出される部分だ。
 例えば燃料や電気などを一切必要としないで、明るい光源を作り出す魔法のアイテム。有限ではあるが異常なほど水を生み出す革袋。膨大な馬の食料を容易く生み出す飼い葉桶。微妙な味の麦粥を無限とも思えるほど作り出す鍋など。
 そういった存在があると、アインズの知識からなる予定との乖離は大きくなってしまう。
 アインズは声を口の中で転がす。

「……ほんと、人と共に暮らさなくてはならないな」
「何かおっしゃいましたか、辺境侯?」
「いや、なんでもないとも。レイ将軍。……食料の件は問題にならない。フールーダ。問題ないな?」

 アインズは元々食料は必要ではない。だから共に連れ立つ食料が必要な人物に確認する。

「もちろんでございます。ある程度の食料であれば師の統べる地より持ち出しております」
「そうか……。それで後ろの騎士達は?」
「はっ。この者達は辺境侯の偉大さにひれ伏した者たちであり、私の忠実な部下達です。帰還の最中、私に何かご用がございましたら、この者達に命じていただければと思います」

 騎士の1人が一歩踏み出す。

「あれほどの強大なお力を持つ、偉大なる辺境侯にお仕えでき、これ以上の喜びはありません。私たちを使い潰す気でなんなりとご命じください」
「……了解した。しかし使い潰したりはしないさ。私は忠実な部下には優しい男だ。なぁ、フールーダ」
「おっしゃるとおりです。確かに師は忠誠を尽くす者にはお優しい方」フールーダの優しげな声色が変わり、目には鋭きものが宿る。向けられた先にいるのは当然騎士達。「しかしだからといって師の優しさに甘えるような者ならば、師がお手を下す必要も無く、私の魔法でその命奪ってやると知れ」
「無論! フールーダ殿。そのようなことは決してございません!」

 慌てながらもはっきりとした口調で騎士が叫ぶ。必死という言葉が似合いそうな感じで。

「あれほどの偉大なるお力を見せられてなお、辺境侯にご迷惑をかけるなど考えられません!」

 フールーダがアインズを伺い、その視線に含まれているものを悟ったアインズは大きく頷く。

「……レイ将軍。見事な忠誠心を持つ騎士を貸してくれること、感謝するとも」
「ありがとうございます」

 レイばかりではなく、騎士達も頭を下げる。

「私に対する忠義は当然褒美を持って答えるつもりだ。おまえ達が忠義を尽くしていくなら、それに相応しいモノをやろう。望むモノを考えておくが良い。……個人的には金貨などのつまらないもので無いことを願っているよ。そんなモノは私じゃなくても手にはいるだろ?」
「…………」

 レイ、そして騎士達から返事はない。
 アインズはその奇妙な沈黙に眉を顰めるが、そのまま言葉を続ける。

「まぁ、ゆっくりと考えておくと良いさ。まだ忠義を欠片も見せてもらってないのだからな」
「お一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

 騎士の1人がアインズに問いかけた。それに対してアインズは出来る限り優しい声を出すよう心がける。

「なんだ、言ってみろ」
「はい。へ、辺境侯は……死者の復活も可能なのでしょうか?」

 ざわりと空気が動いたようだった。
 レイを含め騎士達の顔にあるのはそんなことが出来るはずが無いという否定的なものだった。事実、帝国に死者の復活を行える人物はいない。かつての主席魔法使いであるフールーダですら出来なかったことだ。
 帝国の人間達の知る復活の魔法というのは、ほとんど神話の世界の話でしかなかった。
 それに対してアインズは不思議そうに頭を振り、顔をフールーダに向ける。

「スレイン法国ならば可能と聞くな?」
「はい、師よ。スレイン法国の大儀式、もしくは最高神官長クラスの存在であれば可能と聞きます。それ以外にも英雄と言われる領域に上り詰めた神官も」
「だそうだが……、質問に質問で問いかけよう」アインズはソファーに座ったまま、ずいっと体を前に押し出す。「何故、その程度のことが出来ないと思った?」
「っそ、その、そのようなことは!」
「おまえ達の顔にはそうはっきりと書いてあったぞ?」

 図星を突かれ、騎士達に言葉はない。別にアインズ自身はなんとも思っていないが、騎士の怯えたような表情にあるのは侮ったと思われたのではないかという考えだ。アインズに押さえるように一歩下がり、ごくりと喉が動く。
 レイが慌てながら口を挟む。

「部下が失礼しました。あれほどの強大な魔法を見せていただけたのに、辺境侯のお力を信じないようなことを口にしてしまって。この失態は私の方――」
「――良い」

 アインズはレイの早口をたった一言で止める。

「復活は神官の領域。魔法使いである私では使えないと思うのは当然だ。剣のみに時間を費やした戦士に、優秀な盗賊の真似事が出来ないようにな。しかしだ――」

 アインズは薄い笑い声を上げながら、さらに続けた。

「死者の蘇生。それが本当に神官のみの技だと思っていたのか? ……くだらん。知るが良い」
 
 アインズは手を広げてから、強く握りしめる。返すチャンスを失い、いまだ填めていたワールドアイテム『強欲と無欲』がガチャリと金属音を立てる。漆黒の恐ろしい小手に全ての視線が集まる中、アインズははっきりと言葉にした。

「決して逃れ得ぬ死すらも、この手の内よ」

 静まりかえった室内。そんな中、アインズは戯けるように肩をすくめた。

「とはいえ、死者の復活には膨大なエネルギーを必要とする。これは死という領域から魂を引きずり出した際、その魂にかかる負担だ。この負担に魂が耐えきれない場合は、その肉体は灰と変わる。それは魂の消滅であり、二度と復活できないことを意味する。仮に復活できたとしても、魂にかかった負担はその者の肉体を脆弱にするだろう。……この負担を和らげるには、より上位の魔法の力を必要とする。無論、私ならば使えるがな」

 当然、嘘である。
 まず復活に関する蘊蓄だが、結果的にそうなるからユグドラシルの魔法と比べての勝手な想像だ。もしかするとはずれているかも知れない。
 それに魔法職ではあるが、アインズの魔法系統の中に復活に関わる魔法はない。いや、あることはあるが、アンデッドとしての復活であり、決して騎士が望んだような復活ではないだろう。そして当然神官系の魔法は使えないので、復活の魔法をかけることは出来ない。
 しかしアイテムなら持っているし、ナザリックに帰ればペストーニャがそれを行える。
 そう考えれば満更嘘でもないか。
 アインズはそう思い、最初に質問をしてきた騎士に指を向ける。騎士の体がびくりと大きく動くが、それは無視して言葉を発した。

「そういうことだ。納得したか? ただ、死者の復活の儀式はよほどの忠誠を見せてくれない限りは無理だな。まず復活魔法に使う触媒はかなり高額なものだからな」
「……か、畏まりました。忠義を尽くします、い、偉大なる辺境侯に」

 掠れるような声で騎士が返答すると、ゆっくりと頭を垂れた。アインズは軽く頭を振り、それに答える。

「期待しているぞ。ただ……面倒ごとはごめんだ。私が死者の復活すら出来るというのは極秘事項だ。おまえ達が軽い口を持っていないことを祈るぞ? 互いの不利益に繋がるからな」
「畏まりました」

 レイを含め騎士達全員の頭が綺麗に下がった。
 それを見ながらアインズは、自らの対応は合格点だったな、と内心で自己評価を行っていた。




 3日という時間が過ぎた。

 それだけの時間をかけて、帝都の近くまで騎士達は帰還していた。
 最初の日の数時間。カッツエ平野を進むと言うこともあって張りつめていた緊張感は、いまではその欠片もなくなりつつあった。王国と違い、帝国の街道はかなり安全面が確保されているためだ。
 しかしながら、一行の中、一部の騎士達の緊張感は異様なほど高い。
 ある馬車を中心とした一団は、まさに戦闘態勢に入っていると言わんばかりの警戒心を周囲に放っていた。例え仲間の騎士でも変な行動をしたら斬るとでもいわんばかりの。
 ただ、そんなのは本当に一部だ。たいていの騎士は馬車を故意に視界に入れることなく、帰ってからのことに思いを寄せる。
 
 そんな緊張感が、騎士達の間で徐々に取り戻されていく。
 そしてそのピークは先頭を走る騎士達が、帝都近郊で自らの前方に見事な武装を整えた一団を発見した時だ。

 その者達の着る鎧は白銀のごとく輝く。ミスリルと鉄の合金鎧に、同じ材質の武器。
 彼らこそが騎士の中でも選りすぐられた精鋭達のみが入ることを許される、皇帝直轄の近衛隊の1つ『ロイアル・アース・ガード』だ。
 それらの者が立てている旗。それは帝国の皇旗。帝国軍でも皇帝に直接率いられているときにしか立てることを許されない、最も尊い旗である。
 騎士達はゆっくりと馬の足をゆるめる。
 少しばかりの信じられない気持ちを一緒に。

 ここに近衛隊が待っているというのは、先触れの知らせで知っていた。しかし、まさか皇帝がいるとは思ってもいなかったのだ。
 近衛隊がゆっくりと2つに分かれ、騎士達はある人物を確認する。

 バハルス帝国の頂点に立つ人物。
 皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。
 帝国の最重要人物が帝国軍を迎えに帝都の外まで出てきたのだ。それはありえないような行為であり、このような事は恐らくは帝国の歴史を調べても滅多に出てこないだろう。
 最高位に立つ者が自分の部下を出迎えるなど。
 その後ろには4人の騎士が追従する。完全ミスラル製の希少鎧に身を包んだ『重爆』『不動』『雷光』『激風』の4騎士だ。ある意味、皇帝が直轄軍を率いて出迎える最高の形だ。

 考えれば大勝した軍を労いに出てきたと考えることは出来る。しかし、そんなことを思う騎士は何処にもいなかった。
 当たり前だ。誰にだって分かる。帝国軍を迎えに出たのではない。
 皇帝が出迎えに来たのはたった1人。その1人のためにここまで来たと。

 ぐるっと視線が動き、後方に見え隠れする馬車に視線が向かう。
 そう。
 アインズ・ウール・ゴウン辺境侯の馬車に。

 軍というものは命令があって初めて行動をするものではある。しかしながらその瞬間にあって誰もが何も命じられることなく、自発的に行動していた。
 軍勢が割れていった。アインズの乗る馬車に道を譲るように、分かれていったのだ。

 そんな中をアインズの馬車は進み、ジルクニフの前までたどり着く。隣に平行して走っていたレイもまた同じように。


 アインズは馬車を降りると、ジルクニフと向かい合う。
 その瞬間、この頃よく感じる気配がアインズを包み込んだ。
 それは周囲の騎士達から向けられた視線の圧力だ。身をくすぐられるような気さえしてくるほどの。

 アインズは仮面の下、表情の浮かばない顔を顰める。周囲から向けられる視線に動揺している己が身を嘲笑って。
 精神の強い動きは直ぐに押さえ込まれるが、弱いものは種火のようにアインズをくすぐる。その結果の微かな動揺。もはやこれは慣れるしかないと知っていても、どうも慣れる事のできない感覚だ。
 ただ、それは許されないことだ。

 アインズは視線をジルクニフに向ける。
 堂々たる姿勢であり、王者の気配すら立ち込めていた。浮かべている友好的な笑顔も、また王者に相応しい威圧をも含んでいるようだった。
 アインズの心に嫉妬ともいうべき感情が微かに沸き上がる。
 今まで生きてきた人生経験の豊富さと言う差はあるが、同じ支配者として段違いの姿を目にし。

 軽く――出ない息を吐き出す。
 臣下の数などの差はあっても、アインズも友と作り上げたナザリック大地下墳墓の支配者。そして友のいない間はアインズこそが代表として、ナザリックを背負って立っている。だからこそ恥ずかしい姿を見せることは出来ない。そんなことをしては友達たち――かつてのギルドメンバーたちが眉を顰めてしまうだろうから。

 アインズは背筋を伸ばし、堂々と見えるように歩き出す。
 後ろに遅れてフールーダ、そしてレイが続く。

「陛下」

 アインズはジルクニフの前まで来ると、臣下としての礼を取る。後ろで同じように気配が動くのが感じ取れた。

「よくぞ、無事に戻ってきてくれた、辺境侯」

 ジルクニフがアインズの元に近寄り、手を取ってアインズを立たせた。

「ありがとうございます」
「そんなに堅くならないでくれ、我が友、アインズよ。君の圧倒的な力は話で聞かせてもらったよ。まさに君こそ帝国の最高の戦力だ。私は君という友人を持てて、これ以上の喜びは無いとも」
「ありがとうございます」

 再び、そんなに他人行儀しないでくれとジルクニフは朗らかに言うと、後ろで控えるフールーダに視線を向ける。

「それにじ――」ジルクニフは咳払いを1つ。「フールーダ。調子の方はどうかね? 我が友人、アインズの元で魔法の研究は進んでいるかね?」
「残念ですが、陛下。わが師の教えは深遠であり、私が今まで生きてきた中で得てきた知識では灯火にすらなりえないほど。進んでいるとは決して申せません」
「そうか……私としては魔法院などで教師の役目を少しでもしてもらえないかと考えていたのだがね?」
「無理でしょう。わが師の教えを理解できるような位置にいる者は、私がいた頃はおりませんでした。深すぎる知識は身を滅ぼすだけでしょう」
「そうか……残念だ」

 ジルクニフは最後にレイに視線を向けると、即座に興味を失ったような軽い素振りで何も言わずに逸らす。

「さて、アインズ。君の帰還を祝い、パレードといこうじゃないか」
「パレード?」
「ああ、そうだ。今回の戦いにおける帝国の勝利を祝う国民たちに、その姿を見せてやって欲しいんだ」
「……なるほど。了解しました……ジルクニフ」

 ジルクニフはアインズの言葉にニコリと笑うと、手を大げさに広げる。

「今回の戦いにおける最高の勲労をした辺境侯の帰還だ。派手にいこうじゃないか。国民に先触れは行っているか?」
「はい、陛下。既に連絡済です」

 ジルクニフの後ろに控える4人の騎士の1人が返答する。

「騎士達の装備は整っているか?」
「はい、陛下。完璧に整っております」
「ではアインズの馬を引け。辺境侯に相応しい馬を」

 聞き逃してはいけない言葉を前に、アインズは言葉を失う。
 それが何故か。
 理由をはっきり言おう。

 馬に乗れる自信が無かったためだ。
 ユグドラシルにおける騎乗スキルというのはドラゴンやワイバーンなどの飛行系モンスター等変わったモンスターに乗るためのもの。単なる馬であればスキル無しに誰でも普通に乗れた。
 ただ、乗れると言っても所詮はゲームであり、コントロール操作による非常に簡単なものだ。実際に馬を操るのとはまるで違う。
 もしアインズに汗が流れたならば、滝のように流れていただろう。まさか馬に乗れないなんてカッコ悪いことは言えないし、乗ったとしても馬が暴れたりしたらどうなるというだろうか。特に落馬なんてしたら。
 こんなに多くの者の目がある前で。
 そんなことになればどんな評判が立つだろう。今まで自分が作り上げた全てが一気に崩れ去る可能性だってある。
 ある程度の地位にある者は馬に乗れるのが当たり前と言う、この世界の考え方はアインズだってもはや知っている。フールーダとの会話の中で得た情報の1つだ。
 ある程度の地位の人間で馬に乗れないと言うのは、いうなら成人男性で自転車に乗れないと言うのと変わらない珍しさを持つ。しかし、それでも乗れるかどうかの確認はあってしかるべきだろうと、アインズは微かな八つ当たり気味の苛立ちと一緒に考える。

「……ジルクニフ。そのような馬よりももっと別のものを召喚して、それに乗ったりしないか? 馬ではな……」
「……それは勘弁して欲しいのだ、アインズ。これより多くの市民が君の凱旋を祝うために集まっている。その中、騒ぎは一層起こるようなことは避けて欲しいんだ」
「そ、そうか」

 そういわれてしまうと、何も言えない。確かに良い意味での騒ぎなら良いが、これ以上悪い意味での騒ぎはあんまり起こしたくは無い。
 気がついたら後ろが崖だったような気分で、アインズは仮面の下の顔を引きつらせる。

「勿論、アインズの言っている意味も分かる。君ほどの力を持つ魔法使いであれば、自らの召喚した強力な魔獣に乗れないことを不快に思うのも。だからこそ侘びというわけではないが、君に似合った馬を用意させてもらった」

 ジルクニフのこちらに、という声に会わせてアインズの前に一頭の馬が引き出された。
 8本の足を持つ馬だった。見事な純白の毛並みで、それに相応しいだけの鞍が付けられている。その体躯は見事であり、何処までも駆けていくであろうという雰囲気を感じさせた。
 そんな馬が引き出された時に起こったのはどよめき。まるで信じられないとでも言いたげな雰囲気だ。
 それらが意味するところ。
 馬のことは何も知らないアインズですら容易に推測が立つ。それはこの馬が非常に高額なものであるということだ。

「さぁ、受け取ってくれアインズ。私からのささやかなる贈り物だ」

 友人に自慢の贈り物をする人物に相応しい笑顔で、ジルクニフがアインズに馬を指差す。

「あ、ああ。感謝す、するよ、ジルクニフ。こ、こんな素晴らしい馬をもらえて」
「そんなに感動しなくても良いともアインズ。気にしないでくれ。色々と考えたのだが。これ以上君に相応しい馬がいなくてね。スレイプニール種の中でも何百頭の一頭しかいないといわれる白毛だ。……気に入ってくれているみたいで嬉しいよ」

 その笑顔に対してアインズは『こんちくしょう』と言いたく気持ちをぐっと抑える。
 ジルクニフの笑顔がアインズが馬に乗れないことに対する嘲笑のような気さえし始めていた。
 魅了系の魔法と言う線もあったが、アインズは残念ながら人間種以外に対しては修めていない。巻物で所持はしているが、皆の前で巻物を取り出して魔法では変に思われるだろう。
 アインズは助けを求めるようにフールーダの方に顔を動かす。

「師よ、お気にされず。私は適当な馬でも貸していただこうと思います」
「そ、そうか……」
「ああ、アインズ。心配しないでくれ、フールーダにもちゃんと馬の準備はしてあるさ。流石にアインズの馬ほど立派ではないがな」
「皇帝陛下。師に対してこれほど素晴らしい馬をいただけること、弟子としても感謝しますぞ」
「気にしないでくれ。友人の我が侭を聞いてもらうんだ。この程度は当たり前のことさ。まぁ、凱旋を祝っている気持ちもあるがね」

 アインズに対してジルクニフは微笑を浮かべたままウィンクを1つ。
 そんなジルクニフの親しみを込めたお茶目な仕草は、普段であれば大して何も思わないであろう。せいぜい『良い歳なのに外見の良い人間がやると違うな』程度。しかし今のアインズからすると、やたらと不快だった。

「さぁ、アインズ。馬に乗って凱旋と行こうじゃないか」
 
 敵しかいない。
 アインズは初めてここが敵地だと理解した。タイミングよくナザリックから救援が来るはずが無く、フールーダの助けは無い。そしてよい切りかえしや、逃げる手段も浮かばない。
 ならば覚悟を決めるしかなかった。
 アインズは自分ならやれると根拠無く必死に思い込むと、出もしない唾を飲み込み、スレイプニールに近寄る。
 そして――

 急に立ち位置を変えたスレイプニールの――蹴り上げられた蹄がアインズの顔面に真正面から炸裂した。


 絶句。
 まさにその言葉が相応しかった。
 アインズ・ウール・ゴウン辺境侯の頭部が潰された。
 それがその光景を見ていた誰もが思ったこと。

 魔獣であるスレイプニールは、通常の馬よりもより強い筋力を持つ。そんなスレイプニールの蹄の一撃は強力かつ、致命的なものだ。顔面が潰れて御の字、ほぼ確実に頭が弾けるのが普通と言っても良い一撃だ。
 仮に兜を被っていたとしても潰され、平たいミートパイの出来上がりだろう。
 スレイプニールは馬ほど臆病ではないが、保有する馬を超える肉体能力は単にじゃれて来ただけでも人間が死ぬ可能性がある。だからこそしっかりと躾けられる。
 それにも関わらず、何故にスレイプニールが暴れたか。いや、暴れたというよりあれは拒絶のようにしか思えなかった。

 そのために騎士たち、近衛隊たちが絶句したかと言うとそうではない。

 事実と直面し、眼を疑わない者はいなかった。
 その即死の攻撃を受けたはず――死体があるであろう場所に、平然とした者が今なお立っていた為に。
 避けたのではなく、防いだのでもない。一撃を真正面から受けてなお、平然としていた。
 それはまさにありえないような光景であり、その一部始終を見ていた誰もが信じることの出来ない光景であった。
 理論的に判断すればどう考えてもおかしいのだ。しかし、事実は事実として変えようが無い。そのあまりの矛盾が思考を狂わせる。
 しかし、その攻撃を喰らった人間のことを考えれば、その空前絶後の光景も当たり前に思われる。

 そう――あの、大虐殺をたった1つの魔法で行ったアインズ・ウール・ゴウン辺境侯ならばそれが当然ではないだろうか、と。
 スレイプニールの蹄ごときで死ぬはずが無いのでは、と。


 ただし、その光景を初めて目の当たりにする皇帝直轄の近衛隊は別だ。
 ヘルムの下では驚愕に目を見開いていた。


「このスレイプニールを殺せ!」

 そんな周囲の静寂を切裂き、怒号がジルクニフから上がった。

「我が友に害をなそうとする馬なぞ必要は無い! 直ぐに殺して侘びとせよ!」

 その声に即座に周辺にいた近衛隊が、驚愕を忠誠心で叩き潰し動き出す。その先頭に立つのはニンブル。手には既に抜き放たれた剣があった。
 そしてそれだけではない。フールーダも魔法を放つ準備をしている。何かあれば即座に魔法をスレイプニール目掛け放つだろう。
 周辺に漂う殺気にスレイプニールが興奮したように身震いするが、暴れようという気配は見せなかった。今まで自分を育ててきてくれた人間に対する信頼があるためだ。
 ニンブルが一気に踏み込み、その剣をスレイプニールに突きたてる。その絶妙な瞬間――

「まぁ、待ってくれないかね?」

 ――平然とした口調でアインズは止める。
 仮面を撫で回しながら、歩き出した足取りに狂いは無い。
 それはアインズが一切損傷を負ってない証。スレイプニールという魔獣の一撃を顔面で受けて、それでいながら怪我を一切していないという証明。もはや驚くことが無いと心の底から思っているニンブル、そして大虐殺を見た騎士たちでも連続する驚きのあまりに心が麻痺している。
 ある意味慣れた者たちですらそうなのだ。
 近衛隊は違う。はっきりとした動揺――いや混乱があった。何か途轍もなくおぞましい――もしくは強大な力の持ち主を前にした、哀れな小動物のように。
 そしてたった一人の貴族のために、自らの主君が率先して都市の外まで迎えに出向いた理由を強く実感する。

 これは――この男は単なる貴族とかそういうレベルで考えて良い類の者では無い。

 そんなことを考える者たちを前に、アインズは平然とした口調を崩さない。崩すようなことは一切起こっていないのだから当たり前だ。アインズからすれば今のはなんでも無い――風が顔に吹き付けてきたというのと、まるで変わらない出来事なのだから。埃が目に入れば嫌な思いはするだろうが、だからといって暴れるというほどのことではない。

「ジルクニフ。この馬は私にくれたものだ。何も殺す必要は無いだろ?」

 スレイプニールはアインズの防御を超えるだけのレベルを有した魔獣ではない。そのために蹴られたが、それでも強く押された程度のものしかアインズには感じられなかった。だからこそ不快感などは一切無い。
 逆に攻撃されたと言うのは良いチャンスだと判断していた。

「しかし、アインズ。君に攻撃したスレイプニールをそのままにしておくのは」
「気にしないとも。こんな体だ。この馬が怯えるのも分かるというもの。ゆっくりと慣らしていくさ」

 アインズはそういいながら仮面を手で拭う。幸運なことに汚れもついてないようだった。ならば別にアインズが怒るほどのこともない。

「そうかね? それで君が良いというのであれば構わないが……時間をくれれば別のやつを用意しても良いが?」

 アインズは内心慌てながら、続ける言葉を考える。
 別の馬を用意します。それに乗ってくださいでは完璧な計画が崩れてしまう。
 そう。アインズは馬に乗らなくても良い策を決行する必要があるのだ。

「……気にしないとも。多少刃向かってくれたほうが……楽しいじゃないか」

 アインズの言葉にジルクニフの瞳の奥に僅かな揺らめきがあった。
 まるで己の策を利用してきた相手に対して、敵意を示すように。
 非常に巧妙に隠されたそれは、生半可な洞察力では決して悟れないほど。事実アインズはそれには気が付かない。

「……そうか……。うん、アインズがそれで良いというのであればそれで構わないとも」
「感謝するよ、ジルクニフ。ではこの馬は私の方でナザリックに送るとしよう。流石に私に慣れない馬に乗るわけには行かないだろう!」
「確かにそうだな。では別の馬を用意しよ――」
「――いや、それには及ばないさ! 流石に他の馬にまで蹴られるのは勘弁だ。それに君からもらった馬以外を使うと言うのは失礼だろ? だから問題なければ馬車を引いてもらおうと思う!」
「なるほど……わかったとも」

 ジルクニフが頷き、アインズもまた頷く。落としどころとしてはちょうど良く、両者共に利益があった。

「それで馬車を使うのは問題ない。ただ、たとえ仮面で顔を隠しているとはいえ、今まで君が乗っていたような姿が見えないような馬車は少し困る。こちらで馬車を用意するまで少し待ってくれるかね?」
「いや、それには及ばないとも。馬車の一台ぐらいこちらで用意させてもらおう」
「そうか……何から何まで迷惑をかけるな。それにしても今回は本当に申し訳ない。まさかこのようなことが起こるとは想定外だった。許してくれ」

 アインズに対してジルクニフは軽く頭を下げる。下げると言っても大したものではない。本当に軽くだ。
 ただしそれでも周囲がどよめくだけの効果はある。自らの皇帝、バハルス帝国の頂点に立つ人物が、臣下に頭を下げたと。
 その行為ははっきりと物語っていた。
 ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスがアインズ・ウール・ゴウン辺境侯をどういう存在と見なしているかを。

「いや、いや、気にしないでくれ。私はこの通り動物には愛されない男なのでね」

 そして自らの主君の謝罪を平然と受け入れる辺境侯。
 そこには誰の目からしてもはっきりとした両者の関係があった。

「……ちなみにアインズ。スレイプニールに蹴られた顔は痛くは無いのかね? 治療の必要があったら直ぐにさせてもらうが」
「さて、どう思う? ジルクニフ」
「さっぱり想像が付かないな。君の感じからすると、一切の傷を負ってないようだが……魔法か何かで防いだのかね?」

 ジルクニフの質問に対してアインズはおどける様に手を広げ、それには答えず別の答えを返した。

「秘密さ。ではすまないが少しばかり時間をくれないか。準備をさせてもらおう」



◇◆◇


「おかえりなさいませ、アインズ様」
『おかえりなさいませ』

 セバスの言葉に遅れて、一斉に声が上がる。
 ナザリックに帰還したアインズが声の方を見れば各階層守護者にメイドたち、というある意味でのオールスターが揃っていた。
 アインズは鷹揚に手を上げ、それに答える。

「まずは長く待たせて悪かった。本来であれば何時でも帰るチャンスはあったのだが、色々な理由によりそれが叶わなかったことを許して欲しい。特に最も大切な時に呼び出し、長い時間拘束してしまって悪かったな、デミウルゴス」
「滅相もございません、アインズ様。お疲れのお体をまずはお部屋の方で休ませてください」
「……そうもいかんのだ」アインズはデミウルゴスに対して頭を振る。「これから戦勝を祝うパレードだ。直ぐに行かないと不味い」
「……即座にナザリックの武威と力を示すに相応しい儀仗兵をご用意いたします」
「ナラバソレハ私達ノ役目」

 声を張り上げたのはコキュートスだ。胸をバンと強い勢いで叩くと、直ぐに跪き頭を垂れる。

「何卒、ソノ役ヲ与エテイタダケマスヨウ、オ願イイタシマス」
「まった、ずるい! あたしも!」

 ばっとアウラが飛び出す。そして直ぐにコキュートスの横で跪く。

「威圧感を出すってことでしたらあたしのシモベとかが良いと思います!」
「違いんす。ここは私のシモベのような美しさを持つ者たちを出すべきと愚考しんす」

 アウラに薄く笑いかけ、シャルティアが跪く。

「はん。まさに愚考。腐りかけとか出したら不味いでしょ」
「……犬とか出すよりはマシだと思いんす」
「…………あん?」
「…………うん?」

 額をゴリゴリとぶつけながら、ギリギリと睨みあうアウラとシャルティア。それを普段であれば止めるだろうが、この場は完全に無視しコキュートスが売り込みを開始する。

「私メニオ任セヲ。アインズ様ノ御栄光ノ僅カナ輝キニナレレバ、ソレニ勝ル喜ビハゴザイマセン」
「ずるい!」
「それなら私だって!」

 コキュートス、アウラ、シャルティアの諍いは徐々に熱を帯び始める。ナザリックのために、そしてアインズのためならば、その命すらも平然と投げ出すほどの絶対の忠誠を持つ守護者。その横に並ぶのは同僚であり、共に同じ主人を仰ぐ仲間だというのにも関わらず、この瞬間においては互いを敵だと判断しているような苛烈な感情をその視線に含みだす。
 これは仕方が無いことであろう。
 凱旋パレードというのは力を誇示するという側面を持つ。つまりそのパレードにおいてアインズの周囲に付き従うというのは、ナザリック大地下墳墓の武威を示し、そしてアインズの力を見せ付けるという意味。
 だからこそ決して誰かに委ねて良い仕事ではない。
 互いの忠誠心を認めているとはいえ、各々が内心では自分こそが最も忠誠心を強く持っているという者たちだからこその諍いだ。

 3人の争いが力での解決に及びそうな雰囲気を得るに至った頃、デミウルゴスが小さく、それでいてはっきりとしたため息を皆に聞こえるように吐き出した。

「……アインズ様を失望させない方が良いと思うがね?」

 コキュートス、アウラ、シャルティアが慌ててみれば、そこには無表情で立っているアインズの姿があった。無論、普段からアインズの骸骨の表情にほとんど変化はないのだが。

『申し訳ありません』

 3人の声が合わさり、同じようなタイミングで頭を下げる。

「……いや、怒ってないとも。お前達の忠誠心の現れ、嬉しかったぞ。ただ、今回はジルクニフにあまり派手なことはしないでくれと釘を刺されているのでな。シモベを連れての参加は避けようと考えている。まぁ、デス・ナイトの少しは参加させても良いだろう」
「そ、そうでありんすか。残念です」
「全くです」
「ウム」
「それではお戻りになられたのは一体どのような目的でしょうか?」
「それだ、セバス。パレードに参加するに相応しい服装を任せようと思ってな。それと上の開いた馬車だ。御者はジルクニフの部下を借りるとしよう」
「なるほど。畏まりました」

 セバスは薄く笑う。
 それを見てアインズは何故か、奇妙な不安を感じた。

「お任せを、アインズ様。全ての者たちが崇拝してしまうような服を選択したいと思います」
「……そこまで頑張らなくても良いのだが……」
「いえ、ここは非常に重要かと思われます。アインズ様の偉大さを愚劣な下々の者に分かりやすい形で示すべきです」
「……デミウルゴスまで」
「そうですよ。でもアインズ様の偉大さを服装でしか判断できないなんて哀れですよね」
「アウラも良いことを言う。所詮、ナザリック以外の下等な存在。至高の御方であられるアインズ様の崇高さは理解できんせんでありんしょうね」
「……下等ト言イ切ル気ハナイガ、哀レナコトダ」

 全く全くと守護者のみならず、メイドたちも同意の声を上げる。そんな中、ぽつりとアインズだけが置いていかれたような気分だった。だからポツリとこぼす。

「……セバス……派手なのはあんまり好まないのだが?」
「下品な物は決してお選びしません。アインズ様に相応しい衣装を必ずや」

 異様な迫力を持ってのセバスの言葉に、アインズの唾の出ない喉がごくりと音を鳴らした。

「まずはアインズ様の旗を準備させろ。それとデス・ナイトのマントがあれでは侮られる。直ぐに綺麗なものを」
「畏まりました。メイド達を総動員し、デス・ナイトたちのマントを順次整えていきます」

 メイドを代表し、ユリがデミウルゴスの指令に頷く。

「ではアンデッド達を使って、デスナイトの鎧を綺麗に磨くとしんしょう」
「私ハデス・ナイトノ持ツ旗ト、武装ヲ準備シマショウ。アノフランベルジュデハ、儀仗兵ガ持ツニハ少々魅力ニ欠ケマス」

 シャルティア、コキュートスがそう言うと、最後に残ったアウラがキョロキョロと辺りを見渡し、きらきらと輝く目で誰とも無く問いかける。

「じゃ、あたしは何をしよう! アインズ様の武威を大々的にアピールするために!」
「……無インジャナイカ?」
「……え?」
「さて、アインズ様。お時間も少ないようですし、ドレスルームに」
「あ、ああ。ああ、おまえ達、あまり派手な格好は慎めよ」
「無論です、アインズ様」

 アウラを除き全員が頭を下げるが、そんな姿にアインズはやはり胸騒ぎを感じるのだった。



「……え?」





 アインズとフールーダという人物を失った場所で、いまだ片膝をつくレイに対し、ジルクニフは冷たい視線を向けた。口を開くがその言葉も感情という色が一切含まれていない。

「レイ。アインズの護衛を買って出たそうじゃないか。ご苦労だったな」
「いえ、陛下。帝国での最も重要な人物であられる、ゴウン辺境侯の警護であれば多少の労苦など、なんでもございません」
「そうか……」

 ジルクニフは再びレイを冷たく見据え、それに対してレイは微笑みで持って答える。

「しかし……私は考えてみるとレイを多少働かせすぎたやもしれん。すこしばかりのんびりしてみるのも良いんじゃないか?」
「ありがとうございます、陛下。ですが辺境侯の身辺警護の任がございますので」
「レイ!」ジルクニフが怒りをその面に露わにする。「お前、誰がその任に就けと言った! 勝手に決めたと言うのであればその首もらうぞ」

 ジルクニフの背後に控える帝国4騎士がずいっと前に一歩踏み出す。圧倒的威圧感から、熱くも無いのにレイの頬を一筋の汗が流れた。しかし、レイは微笑を浮かべたまま表情も口調も乱そうとはしない。

「陛下。これより辺境侯の凱旋です。血で汚すようなことは避けられた方が良いかと」
「……言うじゃないか、反逆者」
「陛下。反逆者というのは少々厳しいお言葉かと」
「ほう。ではどういう理由あっての行為なのだ、レイよ。私ではなくアインズに尻尾を振った理由は」
「簡単でございます、陛下。私が帝国を最も愛しているからです」

 ジルクニフは顎をしゃくると、続けろと言葉を促す。

「はい、陛下。辺境侯は絶対なる力の持ち主。ですが、それを信じない者や既得権益に執着する愚かな者がいるでしょう。それらによって辺境侯が力を行使するのは帝国にとって不利益となります」
「だからお前がアインズの敵を排除することによって、帝国にアインズの力が降り注がないようにするというのか?」
「はい、陛下。そのとおりでございます」
「だが、別にお前である必要は無い」
「やもしれません。しかし、陛下。他の将軍達は辺境侯を危険視しておりました。私でなければ辺境侯の不快を買う可能性があったための行為です」
「……ふむ」
「それに辺境侯ほどの人物に対して、将軍位でも無い者が警護を買って出た場合、それは辺境侯ほどの方を軽く見ていると同意ではありませんか」
「なるほど……口は回るようだな……お前の言いたいことは充分理解できた。しかし――」

 レイはここで切り札を投入する。

「――それに陛下。辺境侯の許可を取っております」

 ジルクニフが苦い顔をし、口を一直線に閉める。数秒以上の時間が経過し、それから大きなため息と共にレイに頷いた。

「レイ将軍。お前の考えはわかった。今後もアインズの警護を頼む。第8軍から厳選して騎士達を警護に付けろ。ただ、それが重要だからといって、警護任務だけに没頭されても困る。それ以外の仕事も当然してもらう。そういった諸々に関して、お前とは個人的に幾つか話したいことがある。時間を作って会うとしよう」
「畏まりました、陛下」

 レイは顔を伏せ、その浮かび上がる表情を隠す。
 辺境侯という美獣の爪や牙になれる。その瞬間が近づきつつある。そう思うだけで、股間が堅くなっていくのを感じ取れた。
 レイは自らがこの時代に生まれたこと、そしてアインズという存在の直ぐ傍にいられた幸運に感謝をする。そして自らの前で偉そうな姿を見せる男に対して嘲笑を浮かべていた。全て自分の計画通りだと。


 無論、ジルクニフもまた己の目的、読みどおりの展開に内心嘲笑を浮かべていたのだが。





 少年は駆ける。
 向かった先の帝都アーウィンタールの主要たる大通りには、いつも以上の多くの人が詰め掛けていた。
 その場に集った人々から生じる興奮がうねる様に渦巻き、熱気すら立ちこめているようだった。これから現れる人物、この国の頂点に立つ人物を一目でも見ようとして。

 少年は人ごみの中をすり抜けるように進む。
 多くの人がいるとはいえ、少年の小柄な体が通り抜けられないほどではない。やがて少年の体は人ごみを抜け、一番前まで進み出た。無論、数度の罵声はあったが、少年はそんなものを気にしたりはしない。いや、いちいち気にしていては最も良い場所は取れないのだから。
 
 人波をかき分けて進んだ、最前列。
 横手を見れば自分と同じようにすり抜けてきたであろう少年少女の姿。そして今から来る人物を一目でも見ようとする若い女たちの姿があった。
 その場に集まった誰の目にも期待と興奮の色がある。

 自分のいる国の皇帝。
 少年がその人物のことで知っているのは、即位してから生活が楽になったと言う両親の話ぐらいだ。それと当たり前のことだが、自分では決して近寄ることも出来ないような地位にいるということ。
 天上人という言葉が相応しい存在。
 少年は憧憬の視線で門の方を見る。
 時間の経過が待ち遠しく、何度も何度も辺りをきょろきょろと見回してしまう。
 大通りには軽装の鎧を着た者達が、それ以上飛び出す者がいないか警戒しながら注意に当たっている。そのピリピリとした雰囲気も、それ以上の濃厚な雰囲気でかき消されていた。

 お祭り騒ぎ。
 そんな言葉が相応しいような、そんな熱気の中、時間は過ぎていく。

 ざわめきが一段と大きくなった。それは今から何かが起こるという現れ。それを敏感に察知し、少年は視線を周りの人間と同じ方角に向ける。そして少年の目の中に飛び込んでくるのは、門を潜って通りを進む一団。それが何か分からないほど、少年は無知ではない。
 帝国の騎士――少年は知らないことだが、実際は近衛隊である――たちの登場だ。
 少年ぐらいの歳であれば憧れの職であり、友達たちを木の棒を持ってなりきったりもする。そんな者たちが少年の視界の中、徐々にその姿を大きくしていく。
 歓声が上がる。
 王国との戦争において圧勝した自国の兵士を祝って。

 少年は声無く視線に尊敬と憧憬を宿して、前を通り過ぎていく帝国の国旗を掲げた騎士たちを凝視する。
 全身を包む鋼の鎧は綺麗に磨かれ、太陽の日差しを反射している。そのためキラキラと輝くようだった。馬の蹄の音が規則正しく響く。
 周囲からは歓声が、若い女たちからは黄色い声があがる。
 少年は大きく目を見開き、瞬きすら惜しいという風に騎士達の姿を目に納めていく。
 自分も将来きっとああなってやるという夢を抱きながら。

 どれだけ騎士たちが行軍していったか。
 ある時、少年は違和感を覚えた。実際少年の周りの者たちも同じように違和感があったのだろう。困惑さがざわめきを起こしている。
 それは――静まりかえっていたからだ。
 少年たちのいる場所よりも、門に近い市民たちから声が上がっていないのだ。
 別に騎士たちの行軍が終わっているのではない。まだまだ続いている。それにも関わらず声が起こっていない。

 何があったのか。
 誰もが抱いた疑問ではあるが、それはやがて氷解する。
 1つの馬車の少年の――そして同じような疑問を持つ者たちの視界に入ることで。

 何故に静かになっていたのか?
 答えはそれはその存在を目にし、魂を奪われたからだ。

 すべての者たちの視線の先にあったのはスレイプニールという8本足の馬がひく馬車。
 そこに乗る影は2人。
 1人は黄金の冠を被った男。立派な胸当てを着、その整った顔には僅かな笑みがある。堂々たるその姿は、全身鎧を包んだ騎士を上回るほど。
 バハルス帝国現皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。まさに帝国を発展させているという言葉が相応しいだけの人物。誰もが目を引きつけられるような雰囲気を持ち、すべてを委ねたくなるような空気を放つ。

 しかし、魂を奪った存在ではない。
 本来であれば皇帝にすべての視線が集まっていただろう。だが、この場ではそれは逆だった。
 皇帝に集まる視線はほとんど無い。
 すべてはその横――。

 やる気がなさそうなのか恥ずかしいのか、片手を軽く上げている人物が乗っていた。
 先ほどまでの騎士達が光を反射しキラキラと輝くならば、その人物は自分から輝いているようだった。
 宝石を無数に付けた長い帽子を被り、飾り気は無いが銀に輝く仮面で顔を隠す。身を包む純白のローブは黄金の紋様を宿していた。白い手袋をした手には巨大なダイアモンドを先端にはめ込んだ杖を握っている。

 それは――光の存在だ。


 もしアインズと同郷の人間がこれを見たなら、成金趣味やド派手というマイナス面のイメージを持つかもしれない。しかし今、アインズの姿を見ている者たちは皆そんなイメージは一切持っていなかった。
 ただ、そこから匂い立つような力に引き付けられていた。

 力というものは無数にある。
 外見の美醜などを含む魅力、権力、肉体能力、そしてアインズが示している財力――。

 生物は力という面に強く惹かれる傾向がある。いや、世界に生きる殆どの生き物がその傾向を若干は持っているのだが、その中でも人間という弱き種族はそれが強い。
 種としての脆弱さ――ドラゴンなどの種族と比較すれば一目瞭然だろう。外敵――モンスターなど――が跳梁跋扈する危険な世界。
 そんな環境下であるために、安全な場所を確保したいという本能や欲求を刺激されるためだ。そして弱者が最も簡単に得る手段は強者の影に隠れること。だからこそ強者に引き寄せられる。
 当然、そういった本能の薄い者だって多くいるし、スレイン法国のように国にしっかりと守られている民の場合はその手の欲求も薄い。
 さらには許容範囲というのだってある。強大すぎる力は恐怖の対象にだってなりうる。超位魔法を使ったアインズのように。

 しかし、今この場にいる者たちはその欲求を強く刺激されていた。
 あの馬車に乗る者は誰なのか。
 どこの大貴族様なのか。
 無数の疑問が浮かぶが、決して口には出せない。それほどまでに飲まれていた。


 そんな馬車の後ろを歩む者たち。おおよそ100名。それは磨き抜かれた漆黒の禍々しい鎧に身を包んだ戦士たち。その巨躯は人間の平均を遙かに超え、顔は同じような仮面で隠されている。腰に下げた剣は見事な鞘に収まっているというのに、その内包しているだろう力を感じさせるほどの魔法の武器。
 先ほどまでの騎士たちを遙かに超える力を感じさせる――いや、この戦士たちを見てしまってはどんな騎士もちっぽけに思わせた。
 そんな戦士たちの先頭の者が持つ旗に描かれたのは、今まで見たこともない紋章。

 財と武。
 2つの力をまざまざと見せつけながら、一行が通り過ぎていく。少年を含め、その場にいた者たちに強い印象を刻み込みながら。
 通り過ぎ、ほっと誰かが息を吐いた。
 その馬車が通り過ぎるまで、呼吸を忘れ、見つめることしか許されなかったように。
 ゆっくりとざわめきが起こり、互い互いに色々な名前が出る。先ほどの馬車に乗った人物が誰かに関しての話だ。
 少年は耳を大きくさせ、その話に注意を傾ける。いまだ騎士達のパレードが続くが、そちらはもはや半分以上意識から抜け落ちていた。

 無数の名前の中、やがて1つの名前が大きく上げられる。


 少年はその日、帝国の最も新しい大貴族アインズ・ウール・ゴウン辺境侯を知る。





――――――――
※  凱旋終了です。
 4月中は忙しくなりそうなので、次は5月ぐらいの更新を狙っています。タイトルは『日々』。100kぐらいの話を予定しています。閑話として何点か10kぐらいのアインズ以外の人の帝国での話を注入したいです。
 こんな感じです。


 雇われた館は恐ろしいところだった。

ソリュシャン「なんですか、この桟に溜まった埃は!」
人間メイドA「も、申し訳ありません!」
ナーベラル 「これだから、アインズ様のお世話は任せられないのです!」

 人間メイドAに襲い掛かるイジメと嫌がらせ。※
 しかし枕を涙で濡らす日を続ける人間メイドAのひたむきな努力は実り、心強い味方が!

ニューロニスト「脳みそを弄って、苦痛を感じないようにしてあげるわん」
人間メイドA 「…………なんか違うだろ、おい」

 頑張れ、人間メイドA! アインズの世話を任されるまで!


 ……結構、嘘じゃないから困る……。


※例1:歩き出そうとすると時間停止魔法を発動され、進路に割り込むように家具を移動させられる。その結果、小指をぶつける。
 例2:買い物に行く際、アウラのペットに乗せられ、大急ぎで駆け出され、安定感の無いジェットコースターなみの恐怖を味わう。
 例3:普通の人では手の出ないようなナザリックの高級品を食べさせられ、味を忘れられなくなる。



[18721] 53_日々
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:a65bc0f8
Date: 2012/06/09 14:02




 秋にしては寒く感じられる夜風が吹き抜けていく。
 服の前をしっかりと合わせたくなるような風の中、その男は鋼のごとき不動の姿勢を維持したまま立っていた。
 そんな姿勢こそ、その男には非常に似合っている。
 彼こそ王国戦士長であり、周辺国家最強の戦士と言われる男。ガゼフ・ストロノーフだ。

 ガゼフが今いる場所は城塞都市エ・ランテルにある3つの城壁の内、最も外側にある壁の上の部分。周辺にはこの場所よりも高いものがないため、妨げの無い風はより勢いを増して駆け抜ける。
 髪を風で大きく揺らし、服がはためく。吐く息は瞬時に後ろに流れ去っていった。
 そんな場所でガゼフは沈黙の中、鋭い視線を投げかけている。
 夜闇を射抜かんばかりの眼光の先にあるのは、地上を歩いている人の群れ。

 いや人の群れと言ってもバラバラであり、固まってもせいぜい十人程度だ。
 歩く人々の足取りは覚束無く、格好はぼろぼろで非常に汚れているのが都市からの明かりで確認できる。
 それは敗残兵の群れと呼ぶべきもの。

 あまりにも無惨な姿だった。
 足を引く者、怯えたように身を縮めながら歩く者、ヨタヨタと歩く者。
 全ての者に共通して言えるのは、時折、幾度と無く後ろを振り返って何者かがいないかを確かめているということ。
 その恐怖に縛られた無様な姿を、ガゼフは決して笑うことは出来ない。同じ国の民ということを除いてもだ。
 あの地獄を被害を受ける側から見た者で、笑うものがいたらそれは頭がおかしい証拠だ。

 カッツェ平野での戦い、いや虐殺によって多くの王国の民が死亡した。
 理解不能な力によって多くの命は即座に奪われ、続いて現れた想像を絶するような力を持つモンスターによって蹂躙されつくした。
 なけなしの軍規は完全に崩壊し、生き残った兵士達は四散した。何も考えず、生にしがみつこうと逃げ出した。
 我先にと逃げた者を責めることは出来ない。
 ガゼフですらあの場では何の役にも立たなかった。そして前に立つべき者たちですら逃げたのだ。そんな場所で剣をろくに振るったことのない民の逃走を、どんな権利があっても叱咤できる筈が無い。
 そんな四散した兵達は皆が皆、このエ・ランテルを目指し歩く。
 兵士ばかりではない。傭兵たちもだ。
 何故か? 

 食料の問題があるだろう。
 バラバラに逃げた場合想定される危険もまたあるだろう。
 しかしそれ以上の理由が一つだけある。
 
 それは『恐怖』だ。

 戦士として様々な死線を潜り抜けてきたガゼフですら、あのたった一人の魔法使いによって起こった地獄の光景。それが今でも目について離れない。目を閉じればまざまざと思い出せる。
 ではそんな光景を単なる一般人が見た場合どうなるのか。それは心を大きく傷つけるだろう。
 耳をそばだてれば聞こえてくる。
 悪夢を見る者たちの無数のうめき声、暗がりに怯える者の恐怖の叫び。そういった無数の声が都市内から。

 だからこそ城壁に守られた安全な場所だと思えるところに逃げ込む。しかしそれでも心は理解している。あんな化け物が再び具現すれば、この堅い城壁ですら容易く破られるだろうと。

「哀れなものだ」

 ガゼフの呟きは誰に当てたものか。
 それはガゼフ自身分からなかった。もしかするとガゼフも自覚はしていないが、己に当てたものかもしれない。
 そんなガゼフの耳にコツリコツリと足音が届く。
 この城壁に立っているのはガゼフと見張りの兵だけ。一直線にガゼフの元に向かってくる足音は見張りの兵の革靴の音ではない。鉄のプレートの入った重いものだ。
 足音はそのままガゼフの後ろまで辿り着く。

「ガゼフ様」

 しわがれた声が響いた。
 予測したとおりの人物の登場を受け、ガゼフは少しばかり意識を向ける。

「……王はどうなされた」
「はっ。ご就寝されました」
「そうか。ほぼ休み無くここまでお戻りになったんだ、お疲れだろう。……よくぞ王をお守りしてここまで連れ戻した。お前の働きは見事だ」
「ありがとうございます。ですが臣下として当然の務めです」
「そうだな……。だが、あの地獄の中から王をお連れして逃げられた働きは称賛されてしかるべきだ、クライム」
「お褒めいただきありがとうございます。それで、ガゼフ様はそこで部下の方々をお待ちなのでしょうか?」
「そうだな。それもあるな」

 ガゼフ直轄の部下達。それはたゆまぬ努力の結晶だ。
 特別な才能は欠片も持ってはいないが、それでも施した過酷な訓練に耐え抜き、ガゼフにとって最高の誇りともなった者達。
 王国とそこに生きる者を愛した男達。
 彼らが1人でも多く帰ってくれることは、ガゼフにとって心の底からの願いだ。

「……私もそう願っております。あの方達は決して何かに隔てて会話をするような人たちでは無かった。陽気で、優しく……そして強く……これからの王国に無くてはならない人たちです」
「感謝する……クライム」
「いえ……事実ですから」
「それと……な。友人が戻ってこないかと思ってな」
「ご友人ですか?」
「ああ、そうだ」

 ガゼフの脳裏に一人の男の顔が描かれる。蛇のような男であり、ガゼフが嫌っていた男が。

「……まだ色々と話したいことがあるんだ……」

 掠れた声が風に乗って消える。

 そう。まだ話したいことは山のようにある。
 ガゼフの勝手な勘違いで嫌っていたために、宮廷で会ってもあまり会話をすることがなかった。だが、彼の真意が聞けた今、ガゼフの中では共に酒でも飲みながら夜を通して話したい男となっていた。
 無事に帰ってきてくれれば彼の力は今後の王国にとって役に立つことは間違いがないだろう。

 これからの王国のために必要な者達。
 しかし、ガゼフの頭の冷静な部分は嘲笑を送っていた。

 帰ってくるはずがない。
 ここで眺めているのはお前の感傷にしか過ぎない。
 もうあの地獄で、化け物に魂すらも食われて死んだ。

 そんな無数の声が聞こえてくる。
 実際、ガゼフだって悟っている。
 カッツェ平野から部下達も、そしてレェブン侯も帰ってこないと。
 それでも希望を捨てることは決して出来なかった。
 ひょっこりと、危うく死ぬところだったと笑顔を見せながら帰還してくれるのではないかと。



 ガゼフは先ほどから一度もクライムに向き直らず、ただ都市の外を眺めている。その視線の先にあるのは、カッツェ平野だろう。
 クライムはガゼフの背中を見つめる。
 小さかった。
 普段であればその自信に満ちた背は大きく、不動の巨石を思わせた。それが今ではそのまま闇に消えてしまいそうな不安がある。

「人の技とは……思えなかったな」

 風に吹かれ直ぐに消えてしまうような呟きだが、クライムの耳にしっかりと入り込む。そのガゼフの言葉にあったのは、信じがたいことに『諦め』だった。
 いや――クライムは頭を振る。
 あれほどのものを見せつけられれば、ごく当たり前の感情だ。
 例え王国最強の戦士であり、周辺国家最強と言われていても、天変地異のごとき人の勝ち得ぬものを前にすれば、当然そういった気持ちになるだろう。
 クライムは一人の名前を頭に浮かべる。

 アインズ・ウール・ゴウン辺境侯。今まで名を聞かれなかった大魔法使い。

 クライムが知っているのはそれぐらいだ。
 ただ、その人物の使う魔法はいまだ瞳に焼き付いている。

 強大なる御技。
 十万以上の兵を殺戮する魔法。
 人外の領域ですら踏破し、その先まで突き抜けたような力。
 そしてそれは単騎で国と戦える存在。

 ぶるりとクライムの体が震える。風によって感じる寒さとは別種のもの。その発生源は心。そして生み出している原因は恐怖。
 あの光景を思い出すと、ひび割れた心が叫び声を上げる。あの絶対的な絶望が今なお身近にあるようで。
 自分が生きてきた全てが壊れ、作り替えられていくようなそんなものさえ感じる。

「……もしあのとき、礼儀を尽くして連れてくれば、王国の味方としてその力を振るってくれたのだろうか?」

 再び、ガゼフがぽつりと呟く。
 先ほどの言葉に『諦め』があったのならば、今度の言葉には『悔恨』があった。
 一期一会。
 そのチャンスを手から零した結果がこれではないかという無念。自分が別の手段を採っていれば、この悲惨な光景は目の前に姿を見せなかったのではないか。そういう思いがひしひしとクライムに伝わってきた。

 クライムには言葉が無かった。
 ガゼフにそんなことは無いです、と言うことは容易い。
 クライムはガゼフが何か失態を犯したとは思っていない。アインズという魔法使いがこれほどの力を持つなんて、誰に予測できるというのか。
 しかし、これはガゼフの心の問題であり、アインズという魔法使いと会ったことのあるガゼフのみを苦しめる罪悪感だ。それは誰にも共有することはできない。
 それでも貴族達はガゼフを責めるだろう。いま、ガゼフを苦しめている罪悪感――アインズ・ウール・ゴウンと最初に会った際に味方に出来なかったことを。

 意を決し、クライムは小さい背中に声をかける。

「ガゼフ様の所為ではありません」

 流れる風がゴウゴウと音を立てる中、それでもクライムの声は聞こえたはずだがガゼフは決して返事をしようとはしない。
 それでもクライムは続ける。

「ただそれでも、もし失態を犯したと思われるのであれば、次善の策を取られるべきです。溢した水が盆に返らないならば別の水を盆に戻すように。私のような知恵の無い者でも今後、アインズ・ウール・ゴウンの強大な力を前面に打ち出し、帝国の力は増大すると思っております。ですがそれを踏まえて、王国は進んでいかなければならないと考えております。ガゼフ様はその進むべき道を切り開かれる剣となるべきです」

 つまらない慰めだ。
 しかし、それでも王国は滅びておらず、生き残っている者達がいる。ならばその力を合わせていけば――どのような未来が待つかは不明でも、少しは明るい道が選べるはずだ。
 クライムは子供じみた信頼をガゼフの背にかける。

 数回の呼吸程度の時間が経過し、風に乗ってガゼフから軽く吹き出すような息が聞こえた。

「そうだな」

 無数の思いが籠もった同意の声。そしてガゼフの声に張りが戻る。

「……それが生き残った者の務めだな」
「おっしゃるとおりです」
「なら幾つか手を打つとしよう」

 振り返ったガゼフの瞳には力があった。クライムが憧れる王国戦士長としての瞳が再びそこに姿を見せていた。

「冒険者などの魔法使いに協力を要請して、対アインズ・ウール・ゴウン……そこまで行かなくても対策を立てなくてはならない。いま必要なのは辺境侯がどの程度のことが出来るかを調べることだ。そして兵力の増大だな」
「兵力の増大ですか?」

 多くの兵を失った王国で、さらに兵力を駆り立てるのはあまりにも危険な行為だ。そのクライムの疑問にガゼフは即座に答える。

「一般的な兵力では意味をなさないし、国力の低下を招くだけだ。必要なのは数ではなく質。取り敢えずはブレイン・アングラウスという男を探すことを王に進言しようと思う」
「ブレイン……アングラウスですか?」

 聞いた覚えの無い男の名だ。

「そうだ。かつては私と同等の腕を持っていた戦士だ。どこの貴族にも雇われずに去っていったが、今でも王国にいるのであれば彼の剣は役に立つだろう」
「そのような人物が!」

 クライムは驚きから声を上げる。確かにそんな人物が味方になってくれれば心強い。

「それに蒼の薔薇と真紅の雫の両冒険者パーティーにも協力を要請しよう」
「王国最強の冒険者たちに!」
「辺境侯という存在に勝つには、王国の力をまとめ上げるしかない。それだけでなく周辺諸国にも協力を仰ぐべきだろう」ガゼフは頭を振る。「いや、これ以上は進言の幅を超えるな」

 ガゼフは大きく空を見上げる。
 クライムもつられて空を見上げた。厚い雲に覆われた空に、輝きは一切無い。それはまるで王国の将来を暗示するかのように。

「星は地表に降りているだけさ」

 クライムの不思議そうな顔にガゼフは笑う。

「星は俺達だ。俺達が輝いて王国を照らし出せば良い。戦おう。辺境侯の力は偉大であり、勝算はまるで見えない。それでもかの力が再び王国に向けられるのであれば、次こそ勝たなくてはならない。そのための準備をしていくぞ」
「はっ!」

 クライムは強く返答する。
 クライムはこの国を愛しているわけではない。
 しかし、一人の女性に拾われたクライムは、彼女のためであればその命を捨てることに迷いはない。
 彼女が愛しているだろう国のためであれば、クライムは全てを捨てる覚悟があった。


 ■


 王都に戻って最初にクライムが向かったのは当然、自らの主人であり、命を捨てても構わない女性であるラナーの元だ。
 そしてクライムの一通りの報告を受けたラナーが悲しげな声を上げる。

「なんと言うことでしょう」

 ラナーが繊手を上げ、目を押さえる。
 クライムはその可憐な姿に、そして悲しむ姿に王国の希望を見た。
 自分を救ってくれた女性はいまなおその優しい心を抱いたまま、成長しているということを感じ取って。
 クライムは心の底からの歓喜を必死に押し殺す。例え違うといえども、王女の悲しみの涙を前に、喜びを表すわけにはいかない。
 流れた涙を拭い、ラナーがクライムに話かける。

「本当に大変だったでしょ、クライム。無事で本当に良かった」
「ありがとうございます。多くの方々のお陰で無事に生還できました」

 ラナーが立ち上がると、クライムの元まで歩く。そして優しく抱きしめた。

「ぁつ、ひ、、ひぃ、ひめ」

 喘ぐような呼吸を繰り返すクライム。漂う芳しい香りがラナーの体臭だと知って、混乱はより大きくなる。
 もし鎧を着ていなければ、ラナーの体の柔らかさまで感じ取れただろう。鎧に潰されて形を変えている彼女の双胸を、そしてドレスの下の体温を。背中に手を回してよりそれを強く感じたい。
 そんなことを考え、自らに嫌悪感を持つ。
 自分を救ってくれた宝石のような女性に対して、なんと下衆な欲望を抱いているのだろう。
 助けられた自分と、男としての自分。二つの感情がぶつかり合う。
 そんな時間がどれだけ経過したか、やがてラナーがクライムを解放し一歩下がる。

「本当に無事で良かった」

 ラナーの瞳には涙が浮かび上がっている。一瞬でクライムの中にあった欲望の炎は鎮火する。

「ありがとうございます!」

 クライムは深く感謝の念を込めた礼を向けた。
 こんな優しい人に、自分という男はなんという失礼なことを考えているのだ。
 そんな罪悪感がクライムを襲う。
 この優しき人のために、自分の全てを投げ打ってでも忠義を見せる。クライムはそんな思いをより強めていると、ラナーが涙に濡れた顔で微笑んだ。

 ――美しい。

 その表情はクライムの心臓が大きく跳ね上がるほど美しかった。
 ラナーが瞳を手で押さえる。
 零れる涙を抑えているのだろう。
 クライムは優しい王女の悲しみを強く感じ、己の心を締め付けられるようだった。
 
「帰ってきて早々私のところに来てくれてありがとう、クライム。今日はゆっくり休んでください」
「はっ、ありがとうございます」



 クライムが退室し、ラナーは押さえていた手を離す。
 そこに涙の跡はなかった。いや、涙が流れていた気配すらない。
 ラナーは冷然とした顔でイスに腰掛ける。既にラナーの心に死んでいった王国の民のことなど残っていない。
 クライムの憧れる王国の優しい姫は、クライムの退出と共にいなくなったのだから。
 クライムが望むからラナーは優しい王女を演じているだけ、クライムがいなければラナーはそんな面倒な演技をする気はこれっぽちも無い。

 ラナーの頭にあるのは、民が減ったなら増やせばよいということ。そのための手段――後家を優遇して結婚させるなどの政策が無数に頭に浮かぶ。
 その政策には愛した者と死に別れた人の嘆きなど何処にもない。人の心が上手く理解できない彼女にとって、感情というのは完璧な計算を狂わせる邪魔な要素でしかない。
 この世界に大切なのはクライムだけであり、それ以外の全ては数字だ。王国の人間という数が減ったなら増やせばよいだけ。
 ただ、それだけである。

 ラナーはカップを持ち上げ、冷たくなりつつあった紅茶を優雅にあおる。
 
「詰めの段階に入ってきたわね。……どうやって逃げましょう? 父には死んでもらわないと大変か」

 戦略や戦術という才能は無いが、内政的に王国が詰みだしているのはラナーからすれば確実。だからこそ安全に逃げる手段を検討する。
 肉親すらも数でしかない彼女に、犠牲にするという行為に迷いはない。クライムさえいればどうでも良いのだから。

 カップを下ろしたラナーの唇が、くすりと笑みの形に歪む。王国でも最も美しいと言われる女性の、最も美しい笑顔だ。
 そして扉に優しい視線を送る。

「……手を背中に回してくれても良かったのに」



□■□■□



 ジルクニフに紹介された館は正面に大きな本館、その左右にはそれぞれ別館を配し、小さいながらも綺麗な庭園まで備えていた。裏手に回れば木々が茂り、清涼な空気が静けさの中、流れる。
 本当にここが帝都の一級地に建てられた屋敷なのかと思わせるだけの土地面積だ。
 周辺に並ぶ邸宅も大きいものが多いが、それらと比較しても広く、恐らくは1位、2位を争うレベルであろう。
 かつて帝国の大貴族と言われていた人物の保有していた邸宅というのも納得出来る、見事さだった。

 アインズはジルクニフに連れられ、本館の中を案内される。床は埃が一切無いほど磨かれ、窓にはめ込まれた少しばかり濁ったガラスも綺麗に掃除されていた。
 無数にある部屋には立派な家具が置かれ、すぐに生活が出来るように準備が整えられていた。とはいえ、部屋数を考えれば、幾つかの部屋ががらんどうであったのは仕方が無いことだろう。
 置かれた家具はどれも黒や茶色の落ち着いた色のものが多い。煌びやかなもので飾り立てるよりも、 静謐さを前に押し出しているようだった。
 暗い色ばかりに感じられるため、カーテンや絨毯などは派手な色にしようと考える者もいるかもしれないが、アインズはそんなことが浮かばないほど充分に満足していた。
 家具に宿った静けさが、アインズの心をくすぐる。
 アインズは正直派手なものは好みではない。侘び寂びとまではいかないが、日本人的静けさをどちらかと言えば愛する男だ。
 ゲームの世界であれば、そして短い時間の付き合いならば派手なものもまぁ良いだろう。しかし長く使うことを考えると、周囲が金や銀などがふんだんに使用され、輝くものばかりではあまりに落ち着かない。
 アインズは光り物を好むカラスでは無い。
 特に服に宝石を縫いこむというのは、どういう美的意識から来ているかが理解できない。というより何で自分はあんな外装を手に入れようなどと思ったのか。
 ユグドラシル時代の自分の考えは思い出せないが、リオのカーニバルに参加する気の無いアインズは、そんな無数に浮かび上がった愚痴を追い払う。
そして隣に立つ友人に、心からの言葉を告げた。

「素晴らしい館だ」

 そのアインズの第一声を聞き、そしてその裏にはっきりと感じ取れる感情を悟り、横で案内したジルクニフも安堵の笑みを浮かべる。

「お世辞にしても嬉しいよ、アインズ」
「いやいや、お世辞を言っているつもりは無いとも、ジルクニフ」
「そうかね? アインズの住んでいるナザリックを考えてしまうとあまりの貧困さに悲しくなってくるのだが、これが限界と言うことで理解してくれないだろうか?」
「……ジルクニフ。比較すべき対象が間違っているとも。ナザリック大地下墳墓と比べては全てが劣ってしまうじゃないか。あれを例外とすれば、ここは素晴らしい館だ」
「ああ、そうだな。君の住むあの場所と比べる方が愚かだったな」

 友と作り上げたナザリック大地下墳墓が、その辺りの家屋に劣るはずが無い。そんな思いを宿すアインズの言葉ではあるが、神域ともいうべき第9階層などを目の辺りにすればどんな人間でもアインズの言葉は事実だと納得するだろう。
 歴然とした差があるからこそ、アインズは素で答える。
社会人が持つべきお世辞やおべっかなどの言葉は当然どこかに忘れていた。
 そしてそんな答えを投げかけられた、ジルクニフに怒りは当然生まれてこない。

 皇帝として、皇太子として、特別な生き方をするために生まれてきた男として、ジルクニフは最高のもので囲まれてきた。
最高の家具、最高の芸術、最高の衣服、そして最高の異性。
そうやって審美眼が鍛えられてきたからこそ、ナザリックの素晴らしさが下手すればアインズよりも理解できる。
 だからこそアインズの答えは極当たり前にしか思えなかったのだ。

 両者がナザリックの素晴らしさという点で同じ結論に達した頃、アインズはボソリと呟く。

「ただ少しばかり広すぎるな」
「広すぎるかね?」

 アインズはジルクニフの質問に大きく頷く。
 アインズの頭に浮かんだ帝都に連れて来る予定の者と比較すると、部屋数の方があまりに多い。空室が大量に出る程だ。
 かといって空室を満たすため予定の幅を広げて、連れて来る数を増やした場合、それもまた問題が生じる。
 何故ならアインズは帝国の、そして帝都の治安などの状況を詳しく知らない。そんな危険があってしかるべき場所に、己の身を守ることの出来なさそうなレベルの低い者を同行させるのは主人として愚かな行為だ。
 では空室をそのままにすれば良いかと考えると、すこしばかり勿体無い気もする。
 そこまで考えたアインズはジルクニフに問いかけた。

「……一つ聞きたいのだが、どれぐらいまでのものならつれてきても良い?」
「……それは……そういうことか」

 ジルクニフの顔に理解が浮かんだ。
 アインズの言う「どれぐらい」というのが、どれぐらい人から離れたもので良いかという意味だと。

「パレードにはデス・ナイトを連れて出たから、あの程度は問題ないかな?」

 それを聞いたジルクニフが苦笑いを浮かべる。

「出来ればやめて欲しいと言うのが本音だな。一応この辺りは貴族達の住居が立ち並ぶ区画でね。アインズが変なことはしないと言うのは承知しているんだが、それでも他の貴族達が警戒して重武装の者達が行き交うようなことになっては欲しくない」
「……デス・ナイトぐらいならば門番代わりにちょうど良いかと思うが?」
「確かにあれが門の前に立つだけで充分な警備になるだろうな」

 あの圧倒的迫力ならば、とジルクニフは小声で呟く。

「その通りだ。しかもアンデッドである奴らであれば、どれだけ働かせてもまるで問題は無い。素晴らしいと思わないかね?」
「……疲労しない、休まない兵は確かに魅力的だが……私は人間の方が良いよ。何が起こるかわからない心配をこれ以上抱え込みたくは無い。それにアンデッドはあまり良い顔をされないからね」

 アンデッドは基本的には生者に敵対する邪悪な存在であり、神官たちが最も毛嫌いする相手だ。そういうものが帝都内で堂々と立っているというのは色々な意味で不味い。
 アインズもその辺りは頷けるが、パレードで歩かせたように顔を隠せば誤魔化せるのではないかという思いが、素直に納得させてくれない。
 しかし、帝都の主人が嫌がるならば、お客さんとして納得せざるを得ないという理解はある。

「そうかね? それは……まぁ仕方が無いな。非常に残念だが、出来る限り人間からかけ離れた者を連れてくるのはよそう。そうなると警備兵だが……」

 アインズは代案を考える。
 警備兵を置かないというのも手の一つだが、それでは舐められる可能性だってある。結局のところ、警備兵を置くと言うのは抑止の手段であり、その家の権力を知らしめる目的だ。ならばある程度の者を配置したいところだが……NPCたちを置くのはどうも気が引ける。ナザリックとはここでは重要性がまるで違うのだから。
 しかしNPCを除くと、人の外見を持つ部下が少ない。デミウルゴスの配下にいる魔将といわれる悪魔たちの中に人間に近い外見の者がいたなぁとか思い出すが、どうも門番に相応しい格好ではなかった。シャルティアのヴァンパイアも却下だろう。
 そこではたと思い出す。亜人ならどうだろうと。

「リザードマンとかは?」
「……出来ればやめて欲しいものだ。リザードマンなどは滅多に見たことが無いな。王国の北方、評議国付近であれば都市でも見るそうだが……」
「そうか……」

 行けると思ったアイデアが即座に却下され、僅かにアインズはしょんぼりした。

「……ふむ……こうやって考えると、やはり人間に近い者が少ないな」
「少ないのか……君の居城には」

 ジルクニフの疲れたような呟きを無視し思案したアインズは、これ以上脳を回転させるのは煙が上がるという結論に達する。アインズのある程度の支配者生活でよく理解したことは、面倒ごとは上手く押し付けるべしということ。
 アインズの脳内にちょうど良く浮かんだのは一人の男だった。

「……ならばまずは警備の兵はレイ将軍にお願いして、その関係から力を借りるとしよう」
「それは非常に素晴らしい考えだよ、アインズ。先ほどの君のアイデアも素晴らしかったが、流石に帝都にモンスターを配置されるとね。勿論、私に頼んでくれても構わないが?」
「いや、館まで準備をしてくれた君にこれ以上の迷惑はかけたくはないな」
「……私のことを考えてくれて、嬉しいよ。まぁ、気が変わったらいつでも言ってくれ。君の頼みなら最優先で叶えさせてもらうよ」
「それはありがたい、ジルクニフ。さて、外の問題は片がついたとして、次は中のことだな。館の管理などに人間以外の者を使用しても問題は無いかな? 外に出さなければ良いわけだし」

 館の管理には清掃など無数に行うべき事柄がある。 
 アインズ自身は別に汚くても気にしないが、客を招いた場合のことも考えてしかるべきだ。
 アインズはぼろが出るという意味で他の貴族とは会いたくは無いが、それでも会談を持たざるをえない場合が生じてもおかしくは無いと覚悟はしている。
その際に汚い部屋を見られては、アインズ・ウール・ゴウンの恥だ。
 では館の管理に手が行き届くかと思考すると、不安が強く残る。
 まずナザリックのメイドたちを連れてくるという考えだが、先ほどの理由――帝国の詳しい状況などを知らない状態で一般メイドを連れてくるのは不安が大きい。
 それに元々ナザリック大地下墳墓内のメイドの数は非常に少ない。
41人の一般メイド、6人の戦闘メイド、それにメイド長。ここに連れて来ることでナザリックに手が回らなくなったら、そちらの方が馬鹿だ。
 ちなみにここより広いナザリックの第9、10階層の清掃は一般メイドたちとそれに従うゴーレムなどが行っている。その他としてスライム系のモンスターが使われる場合も多い。
 そういったゴーレムやスライムなどの者たちを連れてくるべきだろうか。
それとも折角だから人間だけで管理できるように努力すべきか。
 アインズは考え込み――そんな迷いを感じ取ったのだろう。ジルクニフが口を開いた。
 
「ならば私が声をかけて、メイドを集めるとしよう」
「君が?」
「単なるメイドならば簡単に集められるが、辺境侯の館ともなればしっかりとした者を集める必要があるだろ。普通であれば友好関係のある貴族のコネを使うものなのだが……残念ながらアインズにはその辺りが無いだろ? フールーダもその辺のコネは無いはずだ。だから代わりに私が貴族達に口をきいてみよう」
「そうか……ではよろしく頼むよ」

 ナザリックであればまるで関係の無い人間達が入り込むということに嫌悪を示しただろうが、そこまでの思い入れの無い場所であればと、アインズは軽く答えた。

「そうなると、君が紹介してくれるメイドたちの住む場所はどこにした方が良いと思う? それなりのメイドなんだろ?」
「そうだな。普通であれば一階などの部屋を宛がうのが普通だが、この館は居住性を最大限考えられた造りだからな。別館の方が生活する場としては格が落ちるから、あちらに用意してくれれば良いさ。それと貴族に声をかけてみるだけだからなんとも言えないが……」

 ジルクニフはニヤリと笑う。いままでアインズが見たことも無いような笑い方だ。

「綺麗どころが集まると思うよ」
「ほう。ナザリックのメイドたちのようにかね?」
「……すまない。それは比較する対象が悪い。訂正して、そこそこ綺麗どころが集まってくるよ、だな」
「綺麗どころか……。確かに見た目もある程度は必要だな」

 未婚の美女が1人いると、男の働きが目に見えて変わるのは会社ではよくあることだ。そんなことをぼんやりと思っていたアインズは続く言葉の意味が一瞬だけ理解できなかった。

「……女性には興味は無いのかね?」
「? なんで女性への興味の話になる?」
「いや……興味がなさそうだから……?」
「メイドの話だからとはいえ……」

 歯切れの悪いジルクニフにアインズは頭を傾げる。
 ジルクニフという男からすると、あまりにも変な態度だ。
 そう考え、唐突に頭に電球が灯る。かつての仲間の一人である、ペロロンチーノのエロゲー講座によくあったシーンが脳内を駆け巡ったために。

「……あぁ、そういうことか。そうだな、女に関する興味はさほど無いな」

 この体が口惜しい。
 アインズは冗談半分そんなことを思う。実際、性欲があれば冗談ではなかっただろうが、その辺が殆ど抜け落ちている現状では、異性を性欲の対象としてみることは殆ど無い。
 常時賢者状態100レベルである。

「そうか。……ふむ、なるほど。ちなみに男性には?」
「……勘弁してくれ」
「そうだろうな。いやすまないな、ちょっとした好奇心だとも。では……とりあえず、仕事を見事にこなせる者を優先させよう」
「そうだな。そちらの方が良いな。綺麗どころはナザリックから連れてくれば事足りるだろう」

 なんとなくだが、ジルクニフの言葉には別の意図もあったような気もしたが、アインズではそこまでを見抜くことは出来ない。微かな困惑を抱くアインズに、それを忘れさせるようにジルクニフは話しかける。

「では次は別館を案内しよう。その次は庭園かな」





 様々な荷物がナザリックより運ばれ、館内に置かれていく。
 基本的な調度品はそのままジルクニフが準備してくれたものを使う予定だが、館の生活環境を良くする為、そして一部の部屋の調度品はより良いものへと交換するための作業だ。
 そのほかに館に魔法的防御を施したり、外部からの侵入者対策を準備したりと、ナザリックより連れてこられた数多くのシモベたちが忙しく働いている。
 そんな騒ぎの中、アインズは館の中を歩く。隣にはセバスが控え、現在の進行している引越し作業の簡単な説明を行う。
 とはいえ大抵の説明に対し、アインズは鷹揚に頷くだけだ。別に部屋の使用目的や誰が使うかなど対して興味もないし、なにか問題が生じるとも思っていない。ただセバスが説明してくるから聞いているだけだ。
 やがて初めてアインズの興味を引く話題が出てくる。

「以上で、部屋の割り当ては終わりです。あとは右の別館の方になりますが、あちらはナザリック以外の者たちにあてがう予定です」

 アインズは顔だけ動かし、セバスを見つめる。
 その反応にセバスの顔もより引き締まる。

「そうか。生活環境はしっかりと整えてやれ。辺境侯は下々の者にも優しいと言うところを見せる必要があるし、辺境侯という地位に相応しいだけの財力を見せる必要がある」
「おっしゃられるとおりです。上に立つものはそれなりの物を見せ付けなければなりません」

 だからといってあの格好はどうなんだろう。
 アインズはそう思うが口には出さない。ただ、一応念は押しておく。
 ナザリックには膨大な金銭が眠っているが、それを無駄に使う気はない。あれは仲間達と集めたものであり、使うならナザリック大地下墳墓の強化などをメインとすべきだ。

「無駄に金をかける必要は無いぞ? まだ税収とかそういったものがまるで無い、土地無き貴族なんだからな」

 いまアインズが持っている金は大半がジルクニフから取り敢えずということで与えられた支度金だ。勿論、欲しいならもっと出すから言ってくれとは言われているが、だからといってそれに甘えるほどアインズははしたなくは無い。

「承知しております。アインズ様よりお預かりしております費用の範囲内で、品物を揃えさせていただきたいと考えております。ただ、人数によっては調度品の数が足りなくなる可能性がありますが、その場合は帝都内で購入いたしましょうか?」
「……アウラが開拓した避難所に、木が余っていたはずだ。それを使って生産しろ。作るための外装は図書室にあったはずだ」
「では鍛冶長に任せて作り出させます」
「そうだな。それとそれ以外の素材は宝物殿に投げ込んである。パンドラズ・アクターに協力を仰ぎ、そこから持ち出してかまわん」
「畏まりました」
「それでメイドたちは何人ほど連れてくるんだ?」
「はい。一先ずはナーベラル、ルプスレギナ、ソリュシャンを同行させました。遅れてですが、ユリ、シズ、エントマを連れてくる予定です」
「お前直下のメイドたち全員ということだな。ナザリックの方に問題は生じないか?」
「問題はございません、アインズ様。現在のナザリック第9階層、及び第10階層はペストーニャの管理下、なんら問題は生じておりません。私が王国に向かった際に、仕事を一部委譲しておりましたが、その経験が生きているものかと」
「なるほど……問題がないというならば構わない。ただ、それで連れてきたメイドの数を考えれば少々この館は広い。だからといって無理をさせないように働かせろ。ジルクニフがメイドを連れてきてくれるまで、その少ない人数で上手く活用して欲しい」
「はい、そのことで一つご提案が」
「なんだ?」 
「私が王都で拾ってきた娘達のことですが、あの者たちはこれまでナザリックのメイドとして働かせておりました。今回こちらで働かせようかと考えております」

 一瞬だけアインズの頭に『1人寝が寂しいからか』という言葉が浮かんだが、それは言っては不味いだろうと飲み込んだ。

「……上手く行くのか? ジルクニフが連れて来るメイドたちは恐らくは優秀な者たちばかり。そんなメイドたちと比べて劣っていた場合が問題だ。ナザリックはその程度のメイドが働ける場所だと見なされないか?」
「問題ないかと思います。彼女達にはしっかりと教え込みました。その辺りはペストーニャの保証つきです」
「ほう……」
「それに人間のメイドを連れていたほうが何かと良いと思いました」

 アインズは黙って考え込む。セバスの言うことも道理だと。
 人間以外のものばかりで構成された場合、人間の行動が理解できずに変なミスを犯す可能性だってある。

「確かにメイドの数が少ないと思われるのも業腹だな。よかろう、つれて来い」
「ありがとうございます」
「それで警備に関してだが――」

 アインズにとっての心配はそこだ。
 レイ将軍から兵を借りる予定にはなっているが、アインズはそれをあまり信頼していない。弱すぎるだろうと予測できるからだ。そのため見せ物として役立て、内密にナザリックからの警護部隊も配置させるつもりである。
 帝国の確固たる地位についたアインズに直接的な敵対行動をしてくる存在は無いと思いたいが、実際に無いとは言い切れない。そして帝国、王国の表の見える範囲内にはプレイヤーがいないことは確定だろうが、見えない所にはいる可能性だって皆無ではない。
 そして何より法国の問題がある。フールーダから得た情報をアインズなりに分析した結果、想像される最悪の答え。

「――あそこにはプレイヤーの匂いがある……」
「プレイヤーですか?」
「……いや、何でもない。聞かなかったことにしろ。それより警護のことが聞きたい。どうなっている?」
「はい。庭園にはアースワームを放ち、地中よりの監視を行わせる予定です」

 アースワームはその名の通り、大地の長虫――ミミズを巨大にさせたような外見の、毒々しい色をしたモンスターだ。それだけで判断すればさして恐ろしくはないように思えるが、実際は大地から現れて人を丸飲みにする肉食ミミズであり、酸の体液を射出し、ドルイドの魔法を幾つか使用する、というやっかいなモンスターでそのレベルは60を超える。単純なレベルで比較するなら、戦闘メイドよりも強いモンスターだ。

「それに屋根などにガーゴイル、家屋内にナイト・ゴーレムとシャドウデーモンを配置する予定です」
「そんなところか。それでアースワームだが、レイの貸してくれる騎士を襲ったりはしないだろうな?」

 今のところナザリック内で命令無く、同じ陣営の者を攻撃したと言う報告は上がっていない。リザードマンやヒドラが安全に暮らしているように。しかし本当に大丈夫かと問われれば疑問が残る。特に知性がなさそうなモンスターが相手だと。

「問題はないかと。念を入れて蠱毒の大穴に入れて寄生させましたので、完全に支配下に入っていると思われます」
「……そうか。あそこに入れたのか……なら大丈夫か」
「そしてアインズ様のお部屋に代表される幾つかの部屋には防護の準備を整えております。さらに脱出路の準備を複数用意いたします」
「脱出路の準備は非常に重要だ。転移以外の手段は当然あるのだろうな?」
「もちろんでございます。現在穴を掘っている最中です」
「よろしい。それだけ聞ければ十分だ。取り敢えずはそのままセバスの指揮下で、お前が必要だと思われる工事を行え」
「承知いたしました」
「では私は準備が整うまで、ナザリックの自室で待機するとしよう。なにかあった場合は即座に報告せよ」
「承りました」

 頭を下げたセバスを横目に、アインズは転移魔法を発動させナザリックへと帰還する。フールーダと相談した上で、スレイン法国への対応を考える必要があると思いながら。



□■□■□



 ジルクニフに館を案内されてから3日が経過した。
 その間に本館内の家具の設置、シモベの秘密裏の配置、本館内の魔法的防御網の形成、ナザリックからメイドの受け入れ、レイから借り受けた騎士達による館の警備など無数の事柄が完了していった。
 つまりは3日間で問題なく辺境侯の館として活動できる準備が整ったと言うことだ。


 アインズは自室でゆっくりとイスにもたれかかる。軋む音が一切しない総革張りのイスに。
 伸ばした足は足置き台に乗せ、心からリラックスした姿勢を取った。
 このアインズのお気に入りのイスはジルクニフから提供されたものではなく、ナザリックから運んで来たものである。それもアインズが選抜した上で。
 皮は黒色で派手なところは一切無い、現在のイスになるまで色々とあった。
 最初にセバスが選んだイスはハイ・ベヒモスの金皮製イスだったのだが、あまりにも室内の雰囲気に合わないということで交換させたのだ。
 アインズは室内を見渡し、その静かな装飾に満足げな笑みを浮かべる。

「やはり落ち着く」

 ナザリック内のアインズの自室もいうほど派手ではないが、それでも絨毯が目に痛いような気がする。そういったものが一切無いこの部屋はアインズとしても寛ぎの場であった。

「セバスがあまり良い顔をしないが、こればかりは了解してもらうしかない」

 セバスだけではない。この部屋を見た守護者全員が不満げな表情を露わにし、ナザリックの支配者たるアインズはもっと良い部屋にすべきだと言ってきた。この場合のもっと良いとはアインズ的な美的感覚からすれば派手な部屋だ。
 それをアインズは己の一存で通した結果が、現在のこの部屋だ。
 アインズが決定したことに守護者が異を唱えるはずが無い。即座に了解の意を示し頭を垂れたが、そこに完全に納得した気配は無かった。

「しかし、この世界の美的感覚はちょっと変じゃないか?」

 飾り立てれば良いというわけではないだろうとアインズは考えるが、本当に変なのは実はアインズだという可能性だってある。
 同じ日本人の意見が聞きたいものだ。そんなことをぼんやりと考えていると、部屋がノックされる。
 アインズは声をあげ、入室の許可を与える。
 部屋に入ってきたのはセバスだった。

「アノック殿がお見えです」
「アノック? 誰だったか?」

 アインズは思い出そうとするが名前に思い当たるものがない。というよりこの世界では文字が読めないやら、名前が長いやらで半分以上記憶することを諦めている。
 恐らくはアインズが覚えている名前は出会った数の半分も行かないぐらいだろう。

「帝国4騎士のお1人、『激風』ニンブル・アーク・ディル・アノック殿です」
「ああ、そんな奴もいたな」

 アインズは戦場であった姿を思い出そうとし、ぼんやりとした形ぐらいは記憶から呼び覚ます。

「それで何をしに来たんだ? また贈り物か?」

 先日からこの館にやたらと贈り物が届く。幾多もの貴族達からの戦勝祝いという名目の贈呈品だ。小さいものではネックレスなどから、大きいものでは人間大の彫像まで。本当に様々だ。
 平民であれば驚くようなものばかりなのだろうが、美術品の価値が全く把握できない男であるアインズは、それらの全ての管理をセバスに一任してしまっている。そのために贈られてきているのは知ってはいるが、どんな物が贈られているかはさっぱり知らない。
 価値のあるものがあるのであれば、自分の部屋に置かれるだろうと思ってる程度だ。
 そして部屋を飾るものが増えてないということは大したものは無いのだろうと、漠然と考えているアインズに対し、セバスは頭を振った。

「いえ、おそらくはメイドの紹介と帝都の案内でしょう」
「そうか!」

 アインズは喜色を込めて返答する。
 帝都の散策はアインズが待ち望んでいた行いだ。
 この世界に来てから2ヶ月以上の時間が経過しているが、その間に都市を散策したことは一度も無かった。未知の世界、未知の文化。そういった事柄に好奇心を刺激されながらも、安全のためやタイミングが悪く一度も叶わなかったのだが、それがようやく叶う瞬間が近づいてきている。
 もしこれ以上待たされるのであれば、ジルクニフから釘を刺されていたとはいえ、こっそり見学に行こうかという企みを企てていた矢先のことだ。アインズの機嫌は急上昇で良くなる。
 しかし直ぐに表情を歪めた。

「……喜んでいる時ぐらいは精神を平静なものにしないでくれても良いだろうに……。まぁ良い。ここまで呼べ」
「畏まりました。それと共に連れているメイドはどういたしましょうか?」
「ああ、そうだったな……。玄関で待たせておけ。メイドたちにはすべきことがある」
「承りました。ではアノック殿をお呼びします」
「うむ、頼んだ」

 セバスが部屋を出ると、アインズは机を指でリズミカルに叩き始める。
 子供がピクニックに行くのを楽しむような気持ちと、そんな自分を恥ずかしく思う気持ち。二つの間で揺すられながら。
 やがてセバスがニンブルを連れて戻ってくる。
 扉を開け、入ってきた2人にアインズは機嫌よく声をかける。
 それに対して返礼をしようとしたニンブルが、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。

「どうかされたかな、アノック殿」
「い、いえ、そのお顔は一体どうされたのですか、辺境侯」

 ああ、とアインズは朗らかに笑う。
 アインズは立ち上がり、ニンブルの元まで歩むと、手を差し出す。

「握手をしようじゃないか」

 ニンブルが戸惑ったような素振りを見せるが、アインズはそれを無視して更に手を突き出す。そこまでされては仕方がないと、ニンブルも手を伸ばす。互いの手が握手という形を取ると思われた瞬間、ニンブルの表情が大きく歪む。

「うわ!」

 悲鳴と共に手を離すと、ニンブルは数歩後退をした。その顔は強い驚きに引きつり、目は大きく見開かれていた。
 それもそのはずだろう。手と触れ合うと思いきや、そのまま肉の中に手が入り込んで、骨を触ったのだから。
 
「い、いまのは」
「つまらん幻術だよ」

 アインズは手をピラピラと振りながら、答えを述べる。

「実際はこの手は肉も皮も無い。それはこの顔だって同じこと」

 アインズは顔に手を当てる。
 その顔は肉も皮もついた普通の顔だ。しかし手は顔の中に半分入り込むような形を取る。

「街に出るのにちょうど良いと思ったんだがな」
「な、なるほど。そのお顔はそう言うことでしたか。失礼しました、辺境侯。取り乱してしまいまして」
「いや、気にすることはないさ。ただ分かってくれたと思うが、触られると問題が発生してしまう程度の幻術だ。その辺りも理解した上での案内を頼む」
「畏まりました。決して辺境侯の使っていただいた幻術を無駄にするような行いはしないと約束させていただきます。しかし見事なものです。そのさえない風貌であれば決して目立つようなことは無いでしょう」
「……そうか。そう言ってくれると……この顔を選んだ自分の考えが間違ってなかったと安堵できるよ」

 アインズは憮然とした気持ちで、その顔――の下の骨の素顔――を撫でながらニンブルの顔を眺める。
 イケメンだ。
 というよりもこの世界の容姿の平均値は非常に高い。帝都でパレードをした際、何気なしに人々を見渡したが、元の世界ではテレビに出れそうな人間を多く見かけた。
 それと比較して考えれば、アインズの作った幻影の容姿はかなり下の位置になり、ニンブルの評価も悪意の無い正当なものだ。
 しかし帝都探索において重要なのは目立たないこと。それが目的だったのだから、選択に間違いは無い。いや、目立つような風貌を作る方が愚かなのだ。
 そんな思いで心を癒し、アインズはニンブルに語りかける。

「ではメイドたちを紹介してくれるかな?」

 


 エントランスホールにはメイドたちが並んでいた。ジルクニフの言葉を聞いた貴族達が、アインズと親しくなるために送り込んできたメイドたちだけあって、若く綺麗な者たちが揃っていた。
 レイより借り受けた騎士達が、アインズという強大な力をもつ人物を前にしながらも、面付きヘルムの下から視線を投げかけるほどの女性達である。
 そんな者たちのことを一人一人眺めたアインズの感想は非常に簡素なものだった。

「なるほど、なるほど」

 それで終わりである。
 仮にアインズに性欲などが働いていれば、もっと別の不埒なことを考えたかも知れない。しかしそういった感情がほとんど無いアインズからすればその場に並んだ14人のメイドは単なる従業員だ。しっかりと仕事をこなしてくれればそれで構わない。
 そして選ばれたということはその辺の仕事はしっかり行う人材が選ばれたはずだ。ならばアインズから言うことは何もない。
 とはいえ――

「さて、アノック殿」
「はっ! どうされました、辺境侯」
「面白い見せ物を見せよう。楽しんでくれると嬉しいのだがね」

 アインズは笑う。
 その笑顔を目にしたニンブルが得体の知れない悪寒に襲われるたように身震いする姿を、アインズは微かに嘲笑した。
 視線を動かし、レイから借りた騎士達にも向ける。
 アインズの仮面の下の顔を幻影と知らない騎士達。その動きや雰囲気に、昨日まで無かった微かな気の緩みを感じ取れた。
 例えあれだけの虐殺を行った人物だとはいえ、凡庸な顔を見てしまえば恐怖も和らぐのだろう。

 それが勘違いだと知って貰わねばな。
 アインズは呟き、明るい笑顔を浮かべた。

「一応、念を押させて貰おうと思ってね」

 アインズはメイド達に向き直る。
 メイド達も何が起こるのかと、表情には浮かべないが瞳の奥にほんの少しの怯えを浮かべている。そんな姿にアインズはより笑みを強くし――

「《マス・ドミネイト・パースン/集団人間種支配》」

 ――魔法が放たれる。
 目標はアインズの眼前に立つ14人のメイド。
 魔法は即座に効力を発揮し、その14人のメイドの意識を完全に支配する。瞳にあった光は失われ、自由意志を喪失したメイド達はもはやアインズの完全な支配下だ。

「さて始めようか。この中で私のことを調べ、情報を流せと言われたものは手を上げよ」

 ばっとメイド達の手が上がる。
 その光景にアインズは嘲笑を浮かべる。それとはまさに対照的にニンブルはその光景に表情を凍りつかせる。そして戦闘メイドの幾人かが敵意をその瞳に宿していた。

「フールーダより聞いたのだが、魅了に対する対策というのはあっても、支配(ドミネイト)や人形化(マリオネット)に対する対策は僅かしか無いようだな。ジルクニフが着用しているネックレス……だったか? あれは別らしいが……。そういった精神作用に関する魔法の一部を喪失しているとの話だが……良い勉強になっただろ?」

 ニンブルは言葉無く、アインズを見つめている。その瞳にある感情を察知したアインズは笑みを濃くした。

「おやおや顔色が悪いぞ、アノック殿。調子が悪いなら何処かで休むか?」
「め、滅相もございません」
「ちなみにこの手の魔法は切れた後、自分が何をしていたか覚えている。だから魅了などの精神操作による情報収集が用いられないわけだ。口封じできない相手にかけたりした場合、厄介ごとになるからな。だが……」

 目を細め笑みを浮かべるアインズが言外に匂わせた意味を悟り、ニンブルが荒い息で呼吸を繰り返す。

「ニンブルにも理解してもらったことだ。では始めよう。上げなかった者は列から離れてあちらに行け」

 メイド達が3人、列から離れてアインズの指さす場所に向かって歩く。

「11人か。これは多い数なのかな? それと聞いておくべきことが一つだけあったな、アノック殿」
「はっ!」
「……そんな大きな声で返事しなくても聞こえているとも、そうだろ?」
「お、おっしゃるとおりです、辺境侯。失礼いたしました」

 怯え、微かに身を震わせているニンブルにアインズは優しく問いかける。

「では聞かせてくれ。帝国の一般的なルールとして、貴族というのはメイドに情報収集を命じて送り込むものなのかね? まるでスパイを送り込むように」
「そ。そのようなことは決してありません、辺境侯。そ、そして皇帝陛下も貴族達がメイドに情報収集を命じさせているとは思ってもいなかったはずです!」

 少しずつ声の大きさが上がっていくニンブルに、アインズは冷徹な視線を向ける。

「だが、これが結果だ」
「あ、ぁ……。お、ま、お待ち下さい、辺境侯! お怒りはごもっともですが何とぞ、何とぞ、お怒りをお鎮め下さい。辺境侯に対して働いた無礼、必ずや謝罪させます! 平に、平にお許し下さい!」

 跪き、祈りを捧げるようなポーズを取るニンブルから、アインズは興味を失ったように視線をそらせる。
 瞬時にニンブルの表情が凍り付いた。
 カッツェ平野の大虐殺を己の目でしっかりと見たニンブルに取って、これほど恐ろしいことはない。アインズの怒りがどの程度かによって、あの地獄は帝国の頭上に落ちてくる。
 それがはっきりと想像できるニンブルは必死に謝罪し、少しでもアインズの怒りを和らげるしか道はなかった。

「私も知りませんでした! 陛下も同じのはずです! 一部の愚かな貴族たちのしでかしたこと! 何とぞお許し下さい!」
「ああ、了解した」

 ニンブルはアインズが何を言ったか理解できなかった。それほどまでに軽く聞こえたのだ。

「変な顔をするな。一応、確認はするが別に関係ない者まで罰を与えようと言う気は無い」

 安堵を浮かべつつあったニンブルを視界の外に追い出し、アインズはいまだボンヤリと手を挙げたメイド達に命じる。

「では手を上げたものにこれから命じる。お前達に私の館での情報収集を命じた者の前で、このように言うがいい。『お前が私の足元に平伏して、慈悲を願わないのであれば、これがお前の運命だ』。それが終わったのならば、自らの喉をナイフで切り裂け。ソリュシャン!」
「はい、アインズ様」
「人数分、ナイフを用意せよ。特別なものを準備する必要は無い。ただ、よく切れる物が良いな」
「畏まりました。至急ご用意いたします」
「よし、行け」

 アインズの命が下されると、即座にソリュシャンが歩き出す。
 残った者たちの表情は二極化している。至極当然の命令だと思っているナザリック勢と、顔色悪く硬直している帝国臣民という具合だ。
 アインズはニンブルに冷たい視線を向ける。
 それに打たれたように、ニンブルが身を震わせた。アインズは苦笑いを浮かべると、軽い口調で問いかける。

「何か問題があるかね? 勿論、帝国の法で家に潜り込んだスパイをどのように扱うと言うのが決まっているならそれに従うが……」
「そこまでの細かな場合はございませんが、関係する帝国法をもって裁くことは可能かと思われます」

 慌てて知識を動員して答えたニンブルは、どうすれば最も相手の貴族に罰を与える手段となるか必死に頭を働かせる。最も重罰になるように手を尽くさなければ、アインズの怒りは収まらないだろうと判断して。

「ではその場合は相手の貴族に損害賠償でも請求するのかね」

 その質問に答えようとニンブルが口を開きかける。だが決して言葉は出なかった。ニンブルの視線の先で、アインズのにこやかな雰囲気が一気に変わり、歯をむき出しに敵意を露わにしていたために。

「舐めるなよ、人間」

 低い威圧を込めた声に、広い室内の空気が一気に下がったようだった。
 
「こちらに喧嘩を売ってきたんだぞ? ナザリック大地下墳墓の支配者である私に。その愚考がどのような結果になるか、存分に味あわせたいところだが、それをこの程度で抑えてやろうと言っているんだ。それともそれすらも理解できないのか?」

 誰も答えられないような重圧の中、ニンブルは必死に掠れるような声で答える。

「い、いえ、滅相もございません」
「ジルクニフに伝えておいてくれ。幾人かの貴族が数日内に消えることになるかもしれないが許してほしいとな」
「か、畏まりました。必ずお伝えします」
「アインズ様。お持ちしました」

 ソリュシャンが戻ってくるがその手にナイフは無かった。しかしソリュシャンの正体を知っているアインズは、ソリュシャンが何処にナイフを収めているのか瞬時に悟る。

「よろしい。なら渡してやれ」
「畏まりました」

 ソリュシャンはメイドたちの前に立つと一人一人、手渡しでナイフを渡していく。見ればまるでその手の中から湧き出すように、ナイフが姿を現していた。
 手品のような光景だが、そこには種も仕掛けも無い。スライムであるソリュシャンはその体内にナイフをしまってきただけだ。
 全員にナイフを渡し終えたソリュシャンが、アインズの方に向き直り頭を垂れる。
 アインズは鷹揚に頷き、エントランスにいる全ての者、特に騎士達に視線を送る。青ざめた顔で恐怖を必死に堪えている者達の上に、アインズが幻影の顔を晒したときにあった軽んじた空気はなかった。
 十分に恐怖を教えてやった。
 自らの特殊能力を使用せずに、口と行動だけで刻み込んだ己の手腕に満足しつつ、最後の命令を下した。

「行け。そしてお前達に愚かな命令を下した主人に、私を不快に思わせた結果を示して来い」

 ◆

 エントランスホールからアインズはソリュシャンを供だって自室へと向かう。帝都内を見学するのに、いつもの格好ではあまりに目立つ。そのために用意しておいた服へと着替えようというのだ。
 別段、衣服の形状があまりに違うということは無いので、アインズ一人で部屋に戻っても問題ない。
 しかし、上に立つ者がそのようなことができるはずが無い。

 アインズはいつも疑問に思うのだが、誰かを伴うのが何故か当たり前なのだ。

 後ろに誰かがついて回るというのは慣れないうちは奇妙な感じがしたものであり、不満をセバスにも述べたことがある。
 しかしそういうものだと言われてしまえば、それ以上強い態度に出ることも出来なかった。
 アインズの上層階級の知識である漫画やテレビでは、言われてみればそうだった気もしたし、かつての仲間達の作り出したNPCにその程度のことでは強く出れなかったためもあって。

 普段であればアインズの後ろにはセバスが控えるが、今に限っては残ったメイドたちを別館に連れて行く仕事があった。そのため残った戦闘メイドからソリュシャンを選んで、アインズは同行させた。
 つまりは単なる偶然でソリュシャンを選んだのだが、その選択肢は正しかったとアインズは考え、後ろに控えるソリュシャンに問いかける。

「なんだ、ソリュシャン。言いたいことがあるなら言っても構わないぞ」

 僅かに後ろでソリュシャンが動揺したのだろう。規則正しかった足音が大きく狂う。
 無言の状態で数歩互いに歩き、それから意を決したようにソリュシャンがアインズに尋ねてきた。

「素晴らしいメッセージではありましたが、アインズ様に逆らった愚かさを後悔させるのであれば、私達にご命令いただければ即座に」
「……あれはあくまでも脅しでしかない」

 アインズは足を止めるとソリュシャンに向き直る。
 不思議そうな表情をしたソリュシャンに苦笑いを浮かべつつ――眼窟の中に浮かんだ赤い揺らめきが変化する程度だが――説明をする。

「お前は仮にメイドの誰かがナイフを持った状態で、私に会いにきた場合、問題無く通すのか?」
「そのようなことは決して……」

 言葉を切り、理解した素振りを示すソリュシャンにアインズは続けて説明する。

「そういうことだ。ナイフの回収など何らかの対処をされるだろう。だがナイフが無ければ私の命令を実行できなくなる。そうなると魔法で操られ、思考力の低下した者は直線的な行動を取りがちだ。この場合はどうにかしてナイフを手に入れようとするのだろうな。そうやっているうちに時間の経過による魔法効果の解除だ」

 アインズは肩をすくめる。
 魔法の持続時間を延長するスキルもあるが、今回はそれを使ってはいない。

「効果時間が経過し、魔法が解かれたメイドは主人に自分が何をされたか真剣に話すだろう。それを聞いた主人はどのような態度に出る? どうだ? 良い脅しになっただろ」
「仰られるとおりです」

 本気で脅しをかけるなら、やはり送り出したメイドが確実に自害する方がより良い脅しにはなっただろう。その手段も命令次第で簡単に行える。しかし、単に命令されただけのメイドに死ねと命令するほどアインズも冷酷ではない。

 確かに上から命じられただけのメイドを哀れむ気持ちが無いとは言い切れない。しかしそれは非常に些少だ。
 愚かな主人に仕えた不運を恨めば良い。
 その程度の思いで簡単に塗りつぶせる。
 蟻に親近感を覚える人間がいないように、人間に親近感を覚えるアンデッドはいない。
 アインズが覚える人間への親近感は、あくまでも鈴木悟という人物の残滓だ。そしてその残滓が最も執着するのはナザリックのことであり、人間のことではない。

 そしてアインズは人を苦しめて喜ぶという趣味は無い。
 道を歩いていて少し離れたところにいる蟻を、わざわざ踏み潰しに行くようなことはしないし、進路上にいても気が向けば歩幅を変えて助けることもあるだろう。
 ただ、踏み潰す必要があったり、歩幅を変えるのが面倒な時、踏み潰すことに哀れみや戸惑いを感じないというだけだ。
 この場合であれば、結果として脅しの効果があれば良いのだから。メイドの命に関してはさほど興味が無かった。助かろうが死のうが、魔法をかけて送り出した時点でアインズの目的は達成している。

 脅しをかけるならもっと別の魔法を使って他の手段もあったが、それを取らなかったのはもう一つだけメイドを送り出した理由があったからだ。

「そして、送り出したメイドの中に、暗殺者などの武器を忍ばせるのが得意な者がいた場合はあれで死んでくれるだろうよ。つまりは送り返したメイドの運命を見るだけで、どんな奴を送ってきたのか理解できる。ソリュシャン、場合によっては働いてもらうぞ」
「畏まりました」

 敬意を込めて頭を下げたソリュシャンを一瞥し、アインズは数日かけて考えた対策が完璧だったと自画自賛する。

 それとソリュシャンには言わなかったがもう一つだけ理由があった。
 それは帝国の法律をどの程度まで自分に適用してくるつもりかという探りだ。
 アインズは帝国の法律の下、貴族位をもらっている。ならば貴族としてのアインズに譲歩を要求してくる可能性だって当然ある。勿論、それを受け入れる受け入れないはあるだろうが、そのギリギリのラインを探って。
 だからこそニンブルに法律の件を尋ねた上で、意志をごり押ししてみた。つまりあれはアインズからすればこちらの意思をどの程度強引に押し通せるかという戦いであった。
 結果――

 的外れであり、これ以上は心配性の類だな。

 アインズは自分の考えが大きく外れていたことに苦笑を送る。
 帝国にアインズを法律で縛ろうという意志はないと判断しても良いのかもしれない。

 メイドを泳がせるという考えもあったのだが、それは対処するのが面倒になる可能性もあるため、今回は破棄して入り口で一網打尽にした。中に入り込んだメイドは他のメイドたちの運命を――結果はどうあれ――目にしている以上、恐怖から裏切ったりは出来ないだろう。

 アインズは鼻で笑うと、再び歩き出す。
 既にアインズの興味に先ほど送り出したメイドのことは無かった。あるのはこれからの帝都散策だけであった。



□■□■□



「ここが帝都の中心であります、大広場です」
「ほぉ、見事なものだ」

 帝都の中心たる皇城の直ぐ側の広場。
 恐らくは様々な用途に使用することを前提に考えられた場所を見渡し、アインズは感嘆の呻きを上げた。
 それはまさに驚くべき光景だった。
 右を見ても左を見ても、たくさんの露天が立ち並び、様々なものが売りに出されている。無数の屋台からは美味しげな匂いが漂い、威勢の良い声が通りがかる者に投げかけられる。
 帝国の活気を全身で感じ取れるようなそんな場所だ。
 確かに日本での繁華街、それも大都市におけるものと比べれば多少劣る。しかしそこにあるのは祭りの時に似た活気であり、異世界を強く感じさせる匂いが立ち込めていた。
 そんな場所を行き交う人々を眺めながら、アインズはニンブルに呟く。

「しかし視線が集まるな」

 アインズ達に集まってくる視線は膨大で、広場にいる全ての者のこちらを凝視しているのではと思えるほどだ。耳をそばだてれば、店の話題にもなっている気配さえある。

「……全くですね」

 ニンブルの同意を受け、アインズは互いの服装を見る。
 アインズは平民の服装であり、さらに全身には魔法による幻術をかけている。端から見ればその辺りを歩く平民と変わらないだろう。それに対してニンブルは皮鎧で武装し、腰には剣を下げるという、帝国領内であればさほど珍しくない格好である。
 二人の格好から考えればこれほどの視線が集まるのは異常である。
 しかし、視線が集まる理由は二人の直ぐ後にあった。

「流石はアインズ様。何もせずともそのお体から漂う高貴なる気配が全ての者の目を引きつけるのですね」
「まさにその通り。人間程度の下等な弱者であれば、アインズ様の強大なる力を感じ取るのも至極当然です」

 アインズは何も言わずにニンブルを見る。
 ニンブルも何も言わずにアインズを見返した。
 二人の気持ちは一つとなっている。

 お前達が付いてきているから目立つんだよ、である。

 まずアインズは平民の格好をしている。そしてニンブルは皮鎧だ。この段階で目立つのはニンブルであろう。それなりの容姿をした屈強そうな戦士ともなれば、人目を集めても可笑しくはない。しかし、集めても直ぐに離れていく。
 そう、ソリュシャン・イプシロンとナーベラル・ガンマ。この二人がいなければ。

 絶世とも言っても良い美女二人。そしてそれに付属される大した格好でもない二人の男。
 どんな人間でも興味を刺激される取り合わせだ。
 特にこういった露天の立ち並ぶところでは。

「うーむ。2人に聞きたいのだが、何故ここにいるんだ?」
「アインズ様のお傍に控える者がいるのは当然です」
「アインズ様を警護する者は入用です」
「……まずソリュシャン。来なくて良いと告げたはずだ。次にナーベラル。アノックがいるし問題は無いと言ったな? それにこの私より弱い者が警護して何の意味があろう」

 2人は笑顔を浮かべたまま、それには答えない。そこにあるのは明確な拒絶だ。
 それを暫く眺め、アインズは大きくため息をついた。

「すまないな、アノック。この2人はこのまま連れて行こう」
「よ、よろしいのでしょうか?」
「言っても聞かないような気がする……」
「さ、左様ですか」

 苦笑いを浮かべたニンブルに、ソリュシャンが平然とした態度で言葉を発した。

「主人が間違ったことを行っていたら、命を持ってしても止めるのが部下の務めです」
「ソリュシャンの言葉は行き過ぎとは思いますが、私としては素晴らしい職場が失われるようなことにはなって欲しくは無いので」

 一瞬だけの空白が生まれる。それからアインズはおどける様に肩を竦めた。

「やれやれ、ナーベラルは辛らつだ」

 再びニンブルが苦笑を浮かべる。

「事実でございますが、アインズ様。強大なお力をお持ちのアインズ様の下に付くことは安全を意味しますので」
「言いすぎかと思います、ナーベラル」

 ソリュシャンとナーベラル。2人が互いを一瞥し、即座に視線をそらせる。しかし意識は剣となって互いの間で斬りつけあっていた。剣戟によって生じるピリピリとした空気が、アインズとニンブルの顔を曇らせる。

「まぁ、なにはともあれ!」

 やけに大きな声でニンブルが朗らかにアインズに話しかける。

「最初に見に来たのがここで宜しかったのですかな?」
「ああ、もちろんだ!」

 アインズも朗らかに答える。

「やはりこういった物資の行き交う場というのを観覧するのは非常に役に立つことだ。それに好奇心を強く刺激されるぞ」

 アインズの言うことに嘘はない。
 様々な露店で売られている品物は、アインズの好奇心を強く刺激した。
 例えばアインズの知識に無い、日本に無かった様々な食品。西瓜を細長くしたような食料はどのような味がするのか。ジャガイモに似た食品はやはりジャガイモに似た調理をするのか。ブドウとしか思えない食品は、やはりアインズの知るブドウと同じなのだろうか。
 そればかりではない。
 布を売っている店、装飾品を売っている店、怪しげなものを売っている店。どれもが未知であり、全てが輝いて映った。
 いうなら今のアインズは海外に初めて出た人間が、露天で興奮しているような感じである。

「でしたらここで眺めていないで散策してはどうでしょう」
「それは非常に素晴らしいな。近くで見ればもっと変わった発見があるやもしれんが構わないか?」

 アインズの視線の先は多くの人が行き交う中である。警護という観念から考えれば、決して良い顔をするはずがない。しかしニンブルが話を振ってきたように、簡単に答える。

「構いませんとも。辺境侯に相応しきお姿をしていれば不味かったでしょうが、今のお姿であれば大した問題にはならないでしょう」ニンブルの視線が動き、2人の絶世の美女を捕らえる「まぁ、目立つことは間違いないですが、誰に辺境侯と分かるでしょうか。そして私も普段はヘルムを被っておりますので、この格好で見破られる可能性は低いでしょう。以上の点から問題はないと考えております」
「なるほど……ではアノック殿。私はジルクニフから出来る限り帝都内で力を行使するのは止めてくれと頼まれている。何かあった時はよろしく頼むぞ」
「無論、この命に代えましても、御身の安全はお守りいたします。ですので辺境侯は気を楽に散策をお楽しみ下さい」
「期待しておこう。……では行くぞ、ソリュシャン、ナーベラル」

 活気の中にアインズはその身を投じると、周囲を渦巻く喧噪が熱気となって全身を包み込む。
 露天から通り過ぎる者へかけられる呼び声、老若男女の笑い声、威勢の良い値引き交渉の声。そして時折聞こえる殺伐とした声。
 まさに帝国の繁栄を凝縮したような、そんな場所だった。
 アインズは雰囲気に酔ったようなふらふらとした足取りで、幾多の露天を冷やかし半分で眺め、売られている商品を興味深く触る。
 誰がどう見ても満喫しているというのが一目瞭然な、そんな姿だった。

「ふむー。素晴らしい。非常に素晴らしい」
「……楽しんでいただけたようで何よりです」
「心の底からな」

 陽気に答えるアインズに、それとはまるで正反対に暗い声が届いた。

「少しばかり疲れましたね」

 ナーベラルである。確かにナーベラルの発言も当然のものだ。
 2人の美女を引き連れているために、なんらかの立場の人だと判断した者達が道を開けてくれるので、人混みはさほど気にはならない。しかしそれを差し置いても好奇心を強く刺激されているアインズは休むことなく歩き続けた。
 アンデッドであるアインズは疲労しないが、ドッペルゲンガーであり魔法使いであるナーベラルの肉体的な面はさほど優れてはいない。であれば疲れは当然溜まるであろう。

「確か――」
「……ならば最初っから付いてこなければよいのです」

 アインズが何か言うよりも早く、冷ややかなソリュシャンの声が響く。
 互いににらみ合い、両者が何か口を開こうとするよりも早く、アインズが鋭く叱咤した。

「いい加減にしろ。周囲の良い見せ物だ」

 にらみ合う2人の美女は見せ物として非常に優れていたらしく、多くの視線が集まっていた。アインズは頭を振ると、先頭に立って歩き出す。
 そのまましばらく歩き、広場の外れの方まで移動するとようやく足の運びを遅める。そしてニンブルに問いかけた。

「汁気の多い果実を食べたいものだ。こうも日差しが強くては喉も渇こう」

 ニンブルが奇妙な表情を浮かべたことを悟ったアインズは、苦笑と共に2人のメイドの方を目で示す。両者ともいまだ喧嘩状態であるため余所余所しく、物理的にはっきりとした距離が開いていた。

「なるほど……でしたら甘いものの方がよろしいですね」
「そうだな。甘味はささくれだった心を和らげてくれるからな」
「畏まりました。では……」

 ニンブルが周囲を見渡す。

「あちらがよろしいでしょう」

 ニンブルの視線の先を追ったアインズは、深い緑色のゴツゴツとした外見をした果実らしきものを売っている露天を目にする。それは巨大なライチというイメージが最もアインズの知識の中では酷似している。

「あれは……果実のようだが」
「その通りです。レインフルーツと呼ばれるものでして、皮を一枚剥いた中の果肉は非常に人気があることで知られております」
「ほぉ。ならばそれを頂くとしようか」
「畏まりました」

 ニンブルは直ぐにその露天に向かい、複数のレインフルーツを購入して戻ってくる。
 アインズはレインフルーツを受け取り、ニンブルの指示通り皮を剥く。アインズが思ったように剥き方はライチに非常に酷似していた。
 中からは姿を見せたのはピンク色の果肉。漂う芳香は酸味のまるで無い柑橘系のもの。果汁が果肉に表面に浮かび上がり、口の中に涎が溢れるようなそんな瑞々しさだった。

「うむ。非常に美味そうだ。しかしこれだけでは腹持ちが悪そうだな」
「あくまでも果実ですので」
「そういえば最初の方に美味しそうな串肉を売っている店がありましたね」

 ナーベラルが独り言を言うように、しかしはっきりと聞こえる大きさの声で語る。
 ふうとアインズがため息を一つ。

「……では私が買って参りましょう」
「そうだな、ソリュシャン。頼むぞ」
「いえ! ソリュシャン様にはこちらに残っていただきたいと思います」

 慌てるように声を発したニンブルに、アインズは謝罪するように語る。

「では悪いが頼んでも良いかな。我が儘な部下で申し訳ない」
「いえ、そのようなことはございません。直ぐに戻ってきますので」

 走り出すニンブルの背中に3人が送る視線は冷たいものだった。
 ニンブルが人混みの中に消えていく姿を目で追いかけながら、3人は揃って果実を口元に運ぶ。しかしそれを噛み砕くようなことはしない。

「さてあの男は信じたかな?」
「恐らくは」
「愚かなこと。私達がアインズ様のご命令を無視してついて来たと思っているとは」

 ソリュシャンとナーベラルが微かに目元だけを下げる。

「しかし三つの利点まで考えた上での行動とは流石はアインズ様」
「まぁ、内一つはデミウルゴスに言われたからの行動だがな」

 ちらりとアインズはナーベラルに視線を送り、それを受けてナーベラルが目で礼を示す。

「上手く誘導しろ」
「畏まりました。上手く演技してみせます」
「ジルクニフがそんなことをする男とは思わないが……デミウルゴスの言うことだしな」
「しかし嫌な役目です。例え演技とは言え、アインズ様の圧倒的な力のみで支配が成り立っているなどとの嘘をつくのは」
「……本命はアウラ様のお仕事とか?」
「そうだ。アウラはエルフの権利を勝ち取るという目的で私の支配下に入っているという情報を流す。ナーベラルの行為はその前準備だ。……ではソリュシャン。尾行はいまだちゃんと付いてきているか? こちらを見失ってないな?」

 ソリュシャンは果実を少し齧ると、口をモゴモゴと動かす。しかしまるで別のところに口があるかのように、明瞭に言葉を発した。

「はい。これだけ目立っておりますので問題ないようです」

 アインズは果汁で顔が汚れたと言わんばかりの態度で、顔を手ぬぐいで乱暴に拭う。特に下あごの辺りを。

「念を押しておくが、もしかするとアノックの手の者が後ろから警護しているという可能性もないわけではない。こちらからの攻撃は決して許可しないぞ。それと尾行者はこのまま泳がせるつもりだ。撒いたり……ましてや見失ったりしないようにな」
「それは問題ございません。隠れているつもりでしょうが、既に私のスキルでロックしておりますので、見失ったりするようなことは距離が離れない限りはございません」

 暗殺者でもあるソリュシャンは自信を持って答える。

「ならば全ては順調だな」
「まさに。しかしアインズ様の帝都見学。それにこれほどの無数の策謀があったなど、誰が気付きましょう。まさにアインズ様の英知には並ぶ者がおりません」
「よせよせ。まだこれからが勝負だ。ちゃんと人ごみに紛れて分断するぞ」

 2人が目のみで了解の意を示すのを確認し、アインズは布を乱暴にポケットに押し込む。2人は果実を完全に食べ終わり、汁で汚れた指を清潔なハンカチで拭う。

「しかしやはり食べることはできんな」

 歯で果肉をかじることは出来ても、口底がないために下に落ちてしまうのだ。いや有ったとしても喉も胃も、更には舌だって無いのだから味わうことすら出来ない。
 すこしばかり残念に思いながら、アインズは歯形が小さく付いたフルーツを眺める。

「捨てるか」

 持ち前の貧乏性が勿体ないと大声で叫んでいるが、有効活用する手段も何も頭に浮かばない。持って歩くのも果汁で汚れるので遠慮被りたい。アイテムボックスに放り込むのもなんだか嫌だ。
 露天で食べ物が売られていた以上、どこかにゴミ捨て場があるはずだと、周囲を見渡したアインズは、己を凝視する視線に気が付く。
 それは目の前の2人からだ。

「私の食べ残しだが……いるか?」
「はい!」
「是非とも!」
「……もっと欲しいなら買ってきてもらうぞ?」
「違います!」
「それを頂きたいのです!」

 アインズは2人の剣幕に若干引くが、それでも差し出す。

「1つしかないから2人で半分にして――」

 その言葉が言い終わるより早く、ソリュシャンが手を伸ばした。
 アインズの持つ果実に、上から手をかぶせる。その手が退かされた時には、アインズの手の上にはもはや何も残っていなかった。

「うわ……」
「ご馳走様でした」

 ナーベラルの呆気に取られた声とソリュシャンの満足げな声。そこにはまるで正反対な感情が篭っていた。

「ソリュシャン。貴方は素晴らしい友人でした」
「……ナーベラル。これは仕方が無いことです」
「何がでしょう。納得できないことであれば、全力で戦闘を仕掛けさせてもらいます」

 おいおい。
 アインズが止めようとするよりも早く、ソリュシャンが口を動かさずに語る。

「あの男が帰ってきます。演技の関係上、あなたがアインズ様の果実を食べるのは不味いでしょ? それにそうやって喋るのは如何なものかなと」

 ナーベラルが大きく目を見開き、ぐるっと顔を回す。そして急いで帰ってくるニンブルに凄まじいまでの憎悪を込めた視線を向けた。
 ちっ。
 やけに大きく舌打ちを一つ。それから鋭い視線をソリュシャンに向け、口を動かさないように喋る。

「次は譲りなさいよ」
「仕方ないわね」

 少しばかり勝ち誇ったソリュシャンを一瞥すると、ナーベラルの表情は直ぐに先ほどのものに戻った。

「遅くなりました。エイノック羊の焼き串です」

 ニンブルが手に持ってきた数本の串を差し出す。大降りの肉が数切れ刺されたもので、肉の表面には程良く脂が滲み、焼き加減もちょうど良さそうだった。肉の焼ける腹の減るような良い香りにまじって、タレの甘い香りが立ちこめる。

「いやいや、アノック殿。すまないな、走らせてしまって。ナーベラル、私の分も食べると良い」
「ありがとうございます」

 遠慮という言葉を忘れたようにナーベラルはニンブルの手から串を奪っていく。
 それを次から次へと胃に収めていく。そのあっぱれな食べっぷりに、ニンブルは微かな驚きを顔に宿した。
 美しい顔立ちを考えれば似合っていそうもない食べっぷりだが、それが逆に違和感なく感じられる。その奇妙な似合い方への驚きだ。

「さてアノック殿、これからどこに案内してくれるのかな?」
「そうですね。大学院や帝国魔法学院を見学してみては如何でしょう。許可を得られないと内部に入ることは出来ませんので、今回は外からということになりますが」
「それは素晴らしい。帝国が誇る学院は非常に興味深い。フールーダとも相談したのだが、私の領地を上手く管理してくれる人材を募集したりしたいとも思っていたからね」
「そうでしたか。そうと知っていれば許可をお取りして置いたものを。見学が終わりましたら帝国美術館や練兵所を覗きに行ってみましょう」
「ほう。美術館などもあるのか。少しばかり興味が引かれるな」

 やはりキンキラのものばかりあるのだろうか、そんな疑問を抱きながらアインズは告げる。

「はい。辺境侯のお目にかなうものが有ればよいのですが」
「アノック殿、楽しみにさせて貰うよ」
「畏まりました。ではナーベラル様も食べ終わったようですし、移動しましょう」
「ああ、そうしよう」

 そして――


 ■


「――分断したわけだがな」

 ナーベラルとニンブル。2人と別れたアインズは裏路地で周囲を見渡す。静かな路地に活気は無く、日差しが遮られている箇所もあるために、昼時だというのに少しばかり暗い。
 さらに禿げた石畳やそこから伸びる雑草などが、管理が行き届いていないことを証明していた。
 それら全てが相まって、寂れた雰囲気と治安の悪さを感じさせる。
 流石にどんな世界であろうと貧富の差をなくすことは不可能だと実感させてくれる光景だ。

「予定通りですね」

 後ろからソリュシャンが語りかけてくる。
 アインズは鷹揚に頷くと、歩き始める。取り立てて目的地を定めたものではない。というよりここが何処か、帝都の知識が皆無なアインズにはさっぱり見当が付かなかった。
 見渡しても取り立てて目印になるようなものは無く。代わり映えの無い家屋が続くばかり。
 だがアインズはここがどこか知っていると言わんばかりの自信に満ちあふれた態度で歩く。
 これは別に演技ではない。魔法を使えばどのような場所からでも帰還することは容易だと知っていれば、誰だって迷い無い態度で歩くことが出来よう。

「それでソリュシャンよ。尾行はまだ問題なく続けられているか?」
「……はい。問題ございません。一定距離を維持したまま、後方からこちらに追従しております」
「追従……まぁ、良い。護衛とはぐれるなど、ここまで隙を晒したのだ。仕掛けてくるとしたらそろそろだろう。どのような者が来るかは未知数だが、決して実力を十全に発揮するな。相手にこちらの底を知られるような行為は厳禁だ」
「畏まり……」ソリュシャンが途中で言葉を奇妙に途切れさせ「アインズ様。前方に複数の人間の気配がございます」
「……たまたまの可能性は?」
「無いとは言い切れませんが、ピリピリとしたものがございます」
「ふむ……」

 アインズは前方を眺めるが、その人影というものをみつけることは出来ない。そしてそのピリピリとしたものを感じることも出来なかった。
 しかし暗殺者であるソリュシャンの持ちうるスキルであれば間違えようがないだろう。

「仕掛けてきたか?」
「可能性はございます。どうなさいますか?」
「愚問」アインズはにやりと笑う「こちらからその罠に乗り込んでやろう。こちらとしてもどのように仕掛けてくるかは興味がある」
「畏まりました。ではアインズ様。その先の通りを左手に曲がっていただけますか?」
「なるほど、そちらか」

 アインズはソリュシャンに先導させ、複数の人間の気配というものの場所に向かう。
 そして目を疑った。
 予期していたのはアインズ達に襲いかかるための包囲網。しかし実際にあったのは小汚い格好をした男達5人と、それに囲まれた1人の少女という状況だった。
 男達は体つきはよいが、さほど警戒する危険性を感じはしなかった。実際、腰にも手にも武器らしく物は所持していない。
 
 対して少女は10代中頃だろう。容姿はそこそこだ。元の世界では目を引かれるだろうが、この世界であれば平均よりも少し上というところか。
 そんな中、アインズが目を引かれたのは少女の着ていた服だ。それは先ほどニンブルの案内で外から見た帝国魔法学院の生徒達が着ていた物である。

「……どうやら仕掛けて来たわけではないようですね。無視しますか?」

 興味を無くしたようにソリュシャンは告げる。それに対し、アインズの考えは違った。

「罠だな」

 断言した主人の物言いに、ソリュシャンは困惑を隠せなかったようで不思議そうな表情をする。

「罠ですか?」
「確実にな。常識的に考えて、たまたま裏路地に入ったら少女が男達に囲まれているなどと言う状況に遭遇すると思うか? それはどんなタイミングだ。ふん、馬鹿馬鹿しい」
「なる……ほど……?」
「これは尾行者の罠だな。少女を助けろと言わんばかりではないか。つまりは向こうの狙いは少女を私たちに助けさせることだろうな」
「では無視しますか? それとも少女ごと葬りましょうか?」
「いや、ここはあえて罠に乗る。少女を助けることが相手のどのような利益に繋がるか不明だ。相手の手に乗ることで、そこから敵の狙いを引きずり出すのも悪くない」
「流石はアインズ様。そこまでのご判断とは」
「見ろ、こうしていても一切少女に危害を加える様子がない。確実に私たちを待っているのだろうよ。へたくそな演技だ。仕方がない、主演が舞台に登場してやろうじゃないか」
「はっ!」

 アインズはゆっくりと姿を見せると、侮蔑するような口調でその場にいた全ての者に告げた。

「少女一人を囲んで何をしているんだ?」

 囲んでいた男達の顔に困惑の表情が浮かんだ。まるで予期していたのはと違う人物が登場したとでも言いたげに。

 帝国4騎士が登場すると思っていたのか?
 アインズは男達の顔に浮かんだ表情に、既にお前達の策略が狂っているのだと内心で思いつつ嘲笑を送る。

「失せろ」

 アインズは親指を立てて、命令を下す。その自信に溢れた表情は圧倒的強者だから出来るものである。

「な、なんだ、おめぇ」

 男の一人。最もがたいの良い男が困惑した声を上げてから周囲を見渡す。誰かを捜すような態度に、アインズは浮かび上がってくる笑いを隠しきれなかった。

「残念ながらここにいるのは私たちだけだぞ。ほら、かかってきても良いんだぞ? しかしチャンスをやろう。失せろ」

 完全にバカにされていると理解したのだろう。男たちの顔が怒りから紅潮し、憤怒の表情へと歪む。
 それを敵対行為と捉えたソリュシャンがすっと流れるような動きで、アインズの前に踏み出る。そして両手を広げたと思うと、手には大降りのナイフが握られていた。
 鋭いナイフは誰が見ても実用性を重視したもの。それも決して身を守るための物ではなく、相手に致命傷を与えるために作り出された物だった。

「なっ!」

 その男達の驚きはソリュシャンがナイフを構えたことか、はたまた何処からともなくナイフを準備したことに対するものか。それともそのナイフを用いる目的が理解できたためのものか。

「……殺しますか?」
「ふむ……まぁ構わないかもな。死体は我々の実家に送るとしようか」
「承りました」

 人を殺す。
 平然と言える内容では無いはずにも関わらず、世間話のように言う2人を見る男達の表情が変わった。
 薄々とは気が付いていたではあろうが、明確に生きる世界が違う危険な存在に喧嘩を売ったと悟ったのだ。

「お、おまえら、いったい……」
「今から死ぬあなた方が知る必要はありません」

 男達の表情にはっきりとした恐怖が宿った。
 絶世の美女であるソリュシャンの冷徹な言葉に、それを実際に行うだけの力を持つと本能が感じ取ったためだ。
 それだけで無い。無造作に詰め寄っていくソリュシャンに得体の知れない感情を抱いたのだろう。及び腰になったその姿は、逃げるタイミングを伺っているのが丸分かりだった。

 やれやれ。
 アインズは内心で肩をすくめる。その男達の反応で、アインズ達がどの程度の存在か一切知らされず雇われたというのが明白になった。所詮は捨て駒ということだ。
 ならば必然的に少女の方が本命である可能性は高い。

「さて、ここまでを冗談にするか、本当にするかはお前達次第だ。これが最終警告だ。失せろ」

 男達は互いの顔を見合わせ、脱兎の勢いで逃げ出す。
 殺そうと思えば姿が消えるまでに幾度も殺せただろう。実際、ソリュシャンが殺害を許可する視線をアインズに向けてきた。しかしアインズは縦に頭を振ったりはしなかった。
 殺す価値すらない。
 アインズの男達への評価はその程度だ。逃がしたところで困ることなど何一つとして無い。
 そしてアインズは男達のことを忘却する。
 アインズ・ウール・ゴウンという強大な存在が、体格が良いだけの人間にそれ以上の思考を割く必要すらない。アインズは少女に向き直ると、優しげに語りかける。

「それで怪我はないかな?」
「あ、ぁ、あ、ありがとうございます」

 少女が感謝を口にする。顔色は若干悪く、事態のあまりの急変に思考が付いていっていないという態度だった。それだけでなく、恐怖から来る怯えもあった。恐怖の対象はソリュシャンがメインで、アインズがサブと言うところ。恐らくはソリュシャンとの会話で「殺す」などの言葉を使ったことに対してだろう。
 アインズは反省をする。
 男達から救った相手がもっと薄暗い社会の人間だと思っても可笑しくはない会話だった。もう少し濁して伝える方が良かった。相手がどのような策を練っているか不明な以上、出来る限り法に触れる行為は避けるべきだった。

 後で悔いるから後悔という。
 そんなことをぼんやりと思いながらアインズは少女を眺め、浮かび上がってくる困惑を隠しきれなかった。

 あまりにも自然な怯えかたなのだ。
 本当に単なる少女が恐怖に捕らわれているようで。

 ……もしかして本当に単なる一般人?

 アインズは頭を横に振りながら、心の中で生じた疑惑を必死に塗り潰す。ゲームのイベントじゃ有るまいし、そんな偶然があるはずがない。たまたま裏路地に入って、たまたま少女が屈強な男達に絡まれている。そんなことが起こりうるはずがない。
 これは全て何者かの陰謀である。そう考えた方が納得がいく。
 だが、完全に疑問を消すことは難しい。
 もしそうだったら、先ほどまでの自分の説明はなんだったのか。
 ソリュシャンをチラリと横目で伺い、アインズは少女からより一層の情報を引き出そうと話しかける。

「そうか。それはよか……」

 突如、ソリュシャンがアインズの耳元に口を近づけ、本当に小さく告げる。

「……アインズ様。こちらに駆けてくる者が」
「失礼」アインズは少女にそれだけ言うと、少し離れソリュシャンに尋ねる「……尾行者か?」
「いえ。それとは別口です」

 アインズは何がなんだかと思いながら、新手が来るという方向に視線を向ける。
 ほんの少しの時間が経ち、姿を見せたのは一人の少年だった。年のほどは少女と同じか若干上。息を切らせているのはここまで全力疾走したからだろう。秋の空気は涼しげなものを宿しているが、少年の額には汗が滲み流れていく。
 凛々しい顔立ちではあるが、目を最も引くのは左目を覆う眼帯だ。
 魔法によって肉体的な欠損すら癒えるこの世界において、眼帯をしていると言うことは、それほどの金銭的は余裕がないか、はたまたはそれがマジックアイテム。そう言ったところだろう。
 そう考え、アインズは少年の服を見て、後者だろうと判断する。
 着ている服は少女と同じ帝国魔法学院の服だった。
 少年は少女を目にすると、安堵の息を吐き出し、表情が一気に緩む。

「無事だったのか!」

 そして少女の怯えを察知すると、アインズに警戒の視線を送ってきた。敵意すら含まれた少年の視線に反応し、ソリュシャンがゆっくりと前に出ようとする。殺意などは何処にもなく、先ほどまで持っていたナイフは握られてはいない。
 しかしナイフなど無くてもソリュシャンは人間を容易く殺せる存在であるし、人間ごとき劣等生物に自らの敬愛する主人へ敵意を向けられて許すほど慈悲深い性格もしていない。

 さきほどの男達よりも少年は危険な場所に立っている。
 それが理解できたアインズは、ソリュシャンに対して手を軽く持ち上げることで意志を示す。
 即座にソリュシャンはアインズに頭を下げると、元の位置に戻った。

「ち、違うの!」
 
 その時になってようやく少女は少年の表情に含まれた考えを悟り、慌てて叫ぶ。

「この人たちが助けてくれたの!」

 少年の顔に困惑が生まれ、数度アインズと少女を見比べる。
 アインズは戯けるように肩をすくめた。
 そのポーズでようやく少年の顔に浮かんでいた険しいものが溶けて消えていった。

「そうでしたか、勘違いして申し訳ありません」
「い、いや、構わないとも――」
「こんな治安の悪いところに一人で来るなよ、バカ」

 アインズが言い終わるよりも早く、少年は少女の方に向き直ると叱咤する。

「うん……ごめんね」

 頭を下げ、少年に謝る少女。そのまま2人はどうしてここに来たとか、そんな会話を始め出す。
 アインズは何となくだが、とてつもない場違い感を全身で受け止めていた。
 2人の間の空気におっさんには入れない、精神的な空間障壁のようなものが張られているような感じがしたのだ。一言で言えば『むず痒い』。

 ああ、俺もこんな青春を送ってみたかった。
 そんな憧憬をアインズに感じさせるが、その感情の波は即座に収まる。
 それがアインズには苛立ちを覚えさせた。

 この肉体に変化してからは強い感情が生じた場合、強制的に沈静化させられる。つまり今のように冷静さが急激に戻ってきたと言うことは、あの2人を眺めてそれだけ強い憧憬を得たということの証明になる。

 それほど強く憧れてなんかいない!

 アインズは己の心を叱咤する。確かにアインズは高校を卒業すると同時に働きだしたため、学生生活は若干短いと言えよう。さらに中学、高校生活もさして明るいものではなかった。
 しかしそんな暗い生活を払拭するように、ユグドラシルでの日々は素晴らしかった。まさに黄金のように輝いていた。
 そう――アインズの青春は遅れて来たユグドラシルでの仲間達との冒険にある。そしてその輝きはあの2人を見て、羨ましがるようなちんけな物ではない。
 ならばあんな関係を見て羨ましがるなど、かつての仲間達との素晴らしき日々を汚す行為だ。
 
 アインズが己の無様な心に怒りを感じながら眺めていると、2人の会話は終わりを迎えたようで、揃ってアインズに向き直る。

「助けてくださってありがとうございます!」
「……あ、ああ。良かったな……」
「では私たちはこれで」
「ああ、気を付けるんだぞ」

 物分りの良いおじさんと化したアインズを尻目に、2人は歩き出す。
 2人で去っていく姿――少年と少女は並んではいるが、完全にくっついてはいない。その微妙な空間が2人の関係を如実に示しているようだった――を見送りながら、アインズは呆然と呟いた。

「……まさか、本当に関係ない……単なる遭遇だったのか……。嘘だろ……」

 ソリュシャンがはっきりとした驚愕を表に浮かべる。自らの主人のぐったりと倒れこみそうな姿を前にして。

「ど、どういたしましょうか?」
「お、驚きだぞ、ソリュシャン。これは本当にまるで関係ない遭遇だったみたいだぞ……」
「いえ、そうであると決まったわけでもないかと愚考します! 全ては今後の布石としての陰謀という可能性もございます! 決してアインズ様の予測が外れたわけではないと考えます!」
「……その可能性もあるか」

 なさそうな気配を感じるが、そうでも思いこまないとやってられない。
 それにソリュシャンが必死に慰めてくれているのだ、落ち込んでばかりもいられない。
 しかしアインズのやる気メーターは完全に空だ。もはや何をするのも億劫だった。

 強い精神の動きは抑圧されるが、そこまで行かないレベルの波は押さえ込まれたりはしない。弱い怒りが長く続いたりするのはそのためだ。その例で言うなら今のアインズは弱い脱力感が長く続いている状態と言うことだろう。
 アインズは肩を竦めると、ソリュシャンに話しかける。

「もう、とっとと帰るか」

 転移魔法で帰って、屋敷からナーベラルに魔法で命令を送れば良い。
 そんなことを考えていたアインズに対し、ソリュシャンが引き締まった表情を向けた。

「アインズ様。現在、何者かが周囲に展開するように包囲網を形成しております」
「……ほう」
「……包囲網を縮めてきております」
「その中には私達しかいないのか?」
「はい。私達が包囲網の中心となっております」

 今度は確実だ。そう思いながらもアインズは自信が持てない。というよりもなんだかどうでも良くなっていた。

「ならば待っていてやろうじゃないか。どんな手で来るか興味がある」
「でしたらアインズ様、こちらに」

 ソリュシャンに言われ、アインズは壁を背にするように立つ。
 それから数十秒後、半円を描くようにアインズたちを包囲したのは、家々から飛び降りてきた総勢8名の男達だった。
 飛び降りたと言うのに、音も無ければバランスを崩したりもしない。まるで猫か何かを彷彿とさせる姿だった。しかしながらかつて闘技場でアウラの見事な着地を見たアインズとしては驚きは何もなかった。
 それどころか見苦しいとも言える。

 アインズは冷めた目で男達を観察する。
 全員が都市迷彩を思わせる色の服を着て、着地の際も金属の音がしなかったと言うことは隠密行動を主眼に置いた武装で整えていると言うことだろう。
 顔はすっぽりと布で覆っており伺う事は出来ないが、隙間から覗く瞳はいやに輝きが無い。暴力に慣れていると言うよりも人を殺すことを職業としている雰囲気。
 さきほどの男達とはまるで違う、異質な気配を放った者たちだった。

 少しばかり何故かアインズはほっとした。
 今までの辛い空気が拭われていくような気がして。

「なんとも直線的な手だ……」

 アインズの呟きに答えることなく、その中でも中心人物と思われる男が口にする。

「……辺境侯とお見受けする」
「そうだが……サインでも――」

 言葉が終わるよりも早くきらめきが起こり――複数の金属音が高く響き渡る。アインズの前に躍り出たソリュシャンが抜き放ったナイフで、投擲された飛び道具を迎撃したのだ。
 大地に落ちた長い針のような武器は、数にして8。
 両手にナイフを構えたソリュシャンが薄い笑いを湛えながら宣言する。

「アインズ様に対する攻撃をこの私が許すはずが無いでしょう」

 全員からの奇襲を完全に迎撃したその姿は驚くべき光景であり、常人であれば目を疑うものである。実際、男達の瞳に初めて人間的な感情、驚きが宿る。

「……強い」
「……むっ」

 思わずという感じで毀れ出た言葉が、放った攻撃に自信があったことを示している。しかしそれを破られながらも、それでも撤退するという気配は無い。

 まだ切り札があるのか、それとも職業的なものか。
 アインズはそんなことを考えながら相手の動きを伺う。

「……流石は辺境侯のメイド。その女は強い。幾人か死ね」
「畏まりました」

 了解の意を示し、男達は一斉に刃物を抜き放つ。
 ソリュシャンのナイフを肉体で受け止め、残った男達がアインズに殺到すると言う手なのだろう。男達は良いポジションを得ようと、じりじりと動く。

 張り詰めた空気。
 小さな呼吸音でさえ、全てが崩壊するのではと思えるような静寂の中、ソリュシャンが問いかける。

「アインズ様。全て殺すべきでしょうか? それとも幾人か瀕死で留めますか?」

 決死の覚悟を決めている男達に対し、ソリュシャンの言葉は何処までも場違いなほど軽く聞こえる。男達が突貫してきても容易く仕留められる。そんな余裕がそこにはある。
 しかし決してそれは油断ではない。
 歴然たる事実。
 単なる人間の男達と、ナザリックの戦闘メイドであるソリュシャンの間でははっきりとした差があった。
 それを感じられるからこそ、男達は襲い掛からない。いや襲いかかれない。
 決死の覚悟ですら届かない、そんな巨大で高い壁が前に立ちはだかったような気がして。

「むぅ……」
「これは……」
「つっ!」
 
 男達の瞳に焦りが浮かぶ。
 目つき険しくソリュシャンを睨む。

「なんとも、これは……」
「8人でも……勝てぬ」
「倍は……いる」

 男達の目にはソリュシャンに容易く迎撃される自らの像が浮かんでいた。

 決死ではなく必死。
 獅子の前のネズミ。
 逃げることも攻撃することも出来ず、立ち往生した男達にアインズが問いかける。

「さて……聞かせてくれないか? 私は魔法使いだぞ? 私を自由にした時間が長ければ長いほど、お前達を容易く殺せると思わないのか?」
「…………」
「もしかしてそれを教えられてないのか? ……私の暗殺許可は何時出た? まさか今さっきとは言わないよな?」
「…………」
「……ソリュシャン、尾行者は?」
「まだ……おります」
「はぁ。答えは出たな……とっとと失せろ」

 冷ややかな声が響く。発したのはアインズだ。

「…………」
「お前達は私の力を見るための捨て駒だ。ならばここでお前達を殺すことは私にとっての不利益。それにお前達も死にたくはないだろ? ほら、互いの利益は一致する」
「……愚か。死など」

 ヒュンという音と共に、言葉を発しようとした男の一人の首がぱっくりと裂ける。
 噴き上がる大量の血が、雨のごとく石畳を染め上げていく。

「かっ、かっ」

 男は喉を押さえるが、噴き出す血が止まるはずがない。そのまま男の目はぐるりと動き、白目をむき出すと崩れ落ちた。

「……な、なに?」
「伏兵……?」

 何が起こったのか、それを理解できる者は男達の中にはいなかった。しかし、ソリュシャンの腕を見た者はその目を大きく見開く。ソリュシャンの持っているナイフはいつの間にか鮮血に染まっていた。
 ならばそのナイフで切り裂いたのは明白。だが、男との距離を考えれば、ナイフが届くはずがない。投擲し、回収したというのは無理がある。
 では何故か?
 その疑問はナイフの先に目をやれば即座に解消されるものだった。

 男達は目を大きく見開く。そのあまりな光景に。

 腕が伸びていたのだ。元々ソリュシャンの腕は細く繊手という言葉が似合いそうなものだ。それはメイド服の上からでも十分に悟れる。
 しかし今のソリュシャンの腕は骨や筋肉などの人体の構造を無視したように、細くくねった物へと変わっていた。その長さは2メートルを超えよう。決して人間に出来るとは思えないような変化である。
 その腕ならばどうやって男の喉を切り裂いたかは理解できる。その鞭のようにしなる腕が、男達の動体視力では捕らえることすら出来ない動きを可能としたのだ。
 驚愕の表情を色濃く残し、男達は大きく飛び退く。
 その腕の攻撃範囲から逃れるように。

 ごくりと唾を飲み込む音が大きく響く。

 それを合図にしたように、ソリュシャンのぐにゃりと曲がった腕が鞭のようにしなり、人の物へと戻る。しかしその異質さはもはや隠しようがない。

「英知に長けたアインズ様に対し、『愚か』などと最も相応しくない暴言を吐くとは……」

 ソリュシャンが鼻で笑い、それから顔をぐにゃりと大きく歪める。それを目にした男達の覆面から覗く目が大きく見開かれる。整った顔立ちが嘘のようにグニャグニャと変化したのだから。

「……不快だったために思わず攻撃してしまいましたが……抱擁を与えるべきでした。己の皮膚が溶け、肉が焼かれていく苦痛を味あわせるべきでしたでしょうか、アインズ様? その『愚かさ』を後悔させるべく」

 濃密な血の匂いが周囲に立ちこめる中、ソリュシャンの言葉は何処までも軽く聞こえた。
 しかしその口調に含まれた思考は、男達が一斉にナイフをアインズから反らし、ソリュシャンに向けるほどのプレッシャーがあった。いや、その前から――顔の形が変わった頃から男達はナイフを向ける意志を持っていたのかも知れない。ただ、タイミングを逃していただけで。

「……困ったものだ。私のメイドは危険だな。君たちが持つナイフよりも恐ろしい」
「お戯れを。それよりアインズ様、どういたしましょう?」
「……ソリュシャン、後は私が片づけるとしよう」
「畏まりました」

 アインズは一歩前に進み出ると、ソリュシャンが前に出ていた間に準備していたものを取り出す。

「これを見ろ」

 掲げたのは巨大な宝石だ。
 これほど大きいものが本当にあるのかと思えるものであり、イミテーションだろうと考えてしまうほどの。
 しかし別にこれを見せつけることがアインズの狙いではない。男達がこちらを向いてさえいれば良いのだ。
 その宝石を掲げると同時にアインズは魔法を発動させる。

《サイレントマジック・マス・ドミネイト・パースン/無詠唱化・集団人間種支配》

 無詠唱化した魔法が男達の意識を縛り上げる。

「さて、準備はよしだな」

 最初に行わなければならないのは男達の正体だ。
 一応、正体に心当たりはあった。しかしアインズは先ほどの失態が記憶に新しいために、今まで問いかけることが出来ないでいた。ここでまた外れたらと思ってしまい萎縮していたためだ。
 アインズは咳払いを一つ。

「さて、お前達が何者なのか聞かせて貰おう」

 魔法によって完全に支配されている男は、通常であれば拷問をされたとしても話さないことを即座に答える。

「我らはイジャニーヤ」
「ほう! やはりお前達がイジャニーヤか!」
「ご存じなのですか、アインズ様?」
「ああ。フールーダより聞いたことがある。かつての13英雄の1人にイジャニーヤという名の暗殺者がいたという。その弟子達が技術を受け継いで今なお暗殺集団を形成していると。雇うのにはかなり金がかかるそうだが……ではお前達を雇ったのは誰だ?」
「知らぬ」
「……何故だ?」
「我らは辺境侯を殺すように命令を上の者より受けただけ」
「ああ、そうか。なるほど」

 当たり前だ。あくまでもこの者達は実戦部隊でしかない。
 そうなると知りたいことは何も知っていない可能性が高い。
 ふーむ、とアインズは考え込む。
 殺すつもりは元より無かったのだが、これで完全になくなった。
 イジャニーヤという暗殺集団のような隠密系スキルを持っていそうな存在は欲しかった。ナザリックの強化という面でも、コレクター的視点からしても殺すのは勿体ない。
 では無傷で解放というのも、アインズを狙ったと言うことを考えれば面白くない。

「取り敢えずはお前達は解放する。しかし、私を狙った罰は与えなくてはならないな」

 アインズは良いことを考えたと、ニンマリと笑った。




 ある通りに2人の人影があった。

「役に立たないなぁ」

 片割れである女が戯けるように言いながら、男のように短い金髪をかき上げる。
 顔立ちは整っているが、それは猫科の生き物の可愛らしさだ。瞬時に肉食獣としての素顔を見せ付けるような。さらに筋肉が乗ったすらりと伸びた体格が、猫科の獣の持つ優美さを強くイメージさせる。
 そんな猫のような女が着用しているのは皮鎧であり、腰にはスティレットと呼ばれる刺突専門の武器を四つほど下げ、それ以外にも双頭モーニングスターを下げている。
 その姿は戦士と見なして間違いではないだろう。
 己に対する強い自信とそれに釣り合うだけの能力を感じさせる女だった。

 細められた青い瞳は愉快げな色を宿し、女の心の内を十分に物語っていた。

「そう思わない? イジャニーヤとか言って、結構な金払っているのにさ」
「……………………」

 女の質問に対し、聞き取り辛い返事が返る。
 女の直ぐ横にいた人影。それは非常に小さく、異様な男だ。
 まず服装が腰に布を巻き付けているだけである。ただ、異様なのはその服装ではない。肉も脂肪も無いほど痩せており、さらにしわくちゃな姿はミイラを彷彿とさせる。
 ぽっかりと開いた眼球の無い目が女に向けられ、歯の抜け落ちた口がもごもごと動く。
 声は小さく嗄れているために、何を言っているのかさっぱり分からない。しかしその女には十分に聞こえているようで、即座に返答した。

「ああ、まぁね。捨て駒だけどさ。噂に聞いた辺境侯の力の一端を見るための」

 角度的には女のいる場所からではアインズ達の姿は一切目にすることは出来ない。しかし、女はまるで先ほどまで見ていたような素振りで口にする。

「……………………」
「うーん、そりゃ確かに。それで結局、あいつらを操ったのはどっちだと思う?」

 女の言っているのはアインズの掲げた宝石だ。

「辺境侯は魔法を使える。でもあのアイテムの力によるものかも知れない」
「……………………」

 女は大きく頷く。

「ああ、そうだね。そう思うね、私も」
「……………………」
「さて、どうしようか?」
「……………………」ミイラのような男に何を言われたのか、女が顔を堅くした。そして舌打ちを1つ「……………………」
「マジで? 漆黒とか陽光とかが動いた場合、私でもちょっと厄介……。貴方も苦手でしょ? 特に英雄クラスしかいない漆黒教典の連中はね」
「……………………」
「え? 風花? なんだ教典内のマジものの情報収集担当じゃない。ならサクっと殺しちゃおうか?」
「……………………」

 ミイラが強い物腰で言葉には思えない言葉を告げる。それに対して女が頭を掻く。

「はいはい。さくっと殺っちゃいますよ。遊んだりしないって。流石に法国の特殊部隊相手にそこまで遊ぶ気はしないから。大丈夫、信用してよ」
「……………………」
「ああ、そうだね。ここでの仕事が終わったら次に風花の皆さんが探す姫さんから奪った秘宝を使える奴を捜して、それから行方不明のバカの捜索か。まぁあいつはどうなってもいいけど超レアアイテムの回収ぐらいはしないと」
「……………………」

 ミイラが肩を竦め、女が朗らかに笑う。

「全くだよね。人数が足りないって。漆黒教典の十一神徒を真似ているなら、それだけ増やしてくれればいいのに。うちの教祖も人使い荒いから」
「……………………」
「ああ、うん」女は満面の笑みをたたえる「私が裏切ったから今じゃ十神徒か。いやいやご苦労様です」
「……………………」
「あいよー。うんじゃ行動開始しようか。まずはぶち殺しからね」




 アインズは駆けてくるニンブルを目にすると、軽く片手を上げる。
 それを目にすることでより速度を増したニンブルがアインズの元に辿りついたのは直ぐのことだ。
 ニンブルの息は荒く、どれだけ必死に走ったのかが一目瞭然であった。呼吸を整えようとするニンブルから視線を動かし、ナーベラルに視線を送る。
 50レベルを超えるナーベラルも、魔法職である関係上肉体能力値はそこまで高くない。恐らくはニンブルよりも高い程度。さらにマジックアイテムでの強化もされてない関係上、若干息を乱し、顔を紅潮させていた。
 そんなナーベラルは走った影響とは別の意味で、微かに頭を動かす。そこに含まれた意味合いを掴んだアインズは、浮かびそうになる笑みを必死に堪える。

「はぁ、はぁ、辺境侯。はぐれてしまい申し訳ありません」

 額に滲んだ汗を拭いもせずにニンブルは謝罪を告げる。

「ああ、気にしなくても良いとも。ゆっくりと好きな速度で帝都内を散策できたからな」

 案内人兼警護が逸れるという失態は非常に大きいもの。しかしながらアインズの計画ではぐれるようにし向けた以上、ニンブルを責めるのは少しばかり可哀想だ。
 だからこそ話を変えて誤魔化す。

「しかし……あちらの方が騒がしいようだが、何か催しごとでも行っているのかね?」

 アインズはニンブルが駆けてきた方に目をやりながら問いかける。先ほどよりは収まってきたが、アインズの視線の先は騒がしい。
 ニンブルがはっきりと嫌そうな感情を表情に浮かべる。幾度か口を開きかけ閉ざすという行為を繰り返し、ようやく覚悟が出来たのか言葉を発した。

「……なんでもあちらの通りで頭のおかしい集団が姿を見せたようで」

 言葉を濁したニンブルにアインズは重ねて問う。

「頭がおかしい……? 一体どのように頭がおかしいのかな?」

 アインズの口元に微妙に浮かんでいる笑みに気が付かず、ニンブルは答えた。

「詳しくは分かりませんが、集団で裸になって卑猥な踊りを踊っているようでして。しかも騎士が捕らえようとすると見事な動きで回避してそのまま……。周囲には人だかりが出来ておりましたし……何を考えた者たちなのか……」
「そうか。そうか」

 アインズの表情に浮かんだ笑みをニンブルはどう受け取ったのか、慌てて擁護する。

「お待ち下さい、辺境侯。普段であればこのような変なことは決して起こったりはしないのです。それが何故か今日に限って……」
「……いやいや、気にするほどのことではない。酔った人間が踊っているのだろうよ。よくあることだとも。酔いが醒めれば自分が何をしたのか嫌悪で涙を流すだろうよ。本当に元気なのは良いが、風邪を引かないといいな」

 機嫌良く笑うアインズに、ニンブルは追従の笑みを浮かべた。


 ■


 館に帰ったアインズ、そしてソリュシャン、ナーベラルの3人を戦闘メイドの4人とセバスが出迎えの挨拶を送ってくる。
 これはいつものことだ。ただ、ナザリック大地下墳墓の場合はこれに儀仗や親衛、アインズの近辺警護を行っている守護者やそのシモベたちなどが加算され、非常に派手なものとなる。下手すればアインズがその声で威圧されそうになるほどの。
 それからすれば寂しげなものだが、アインズとしてはこれぐらいの方が肩が凝らなくて良い。
 挨拶に軽く頷くことで答えると、アインズは自室へと歩き出す。後ろに控えていたメイド2人はエントランスホールで別れ、各々の仕事を始める素振りを見せた。
 アインズの歩運びにあわせるように、セバスが横手に並んだ。
 その行為にアインズは違和感を感じる。セバスがアインズの後ろに続くことは珍しいことではなく、極当たり前の行為だ。しかし大抵の場合、アインズの横に並ぶことは無い。

「どうした?」

 アインズの疑問に対し、セバスは即座に囁いた。

「お客様がお見えです」

 アインズは館に帰ってきた際に馬車が止まってなかったことを思い出す。
 ただ、巨大な館に相応しく、馬車を止める場所も広いため一台、二台程度ならその屋根つきの駐車場にすっぽりと隠れてしまう。
 だから見逃したかとアインズは顔を顰め、セバスに問いかける。

「……何? 誰だ? ジルクニフか?」
「いえ、違います。皇帝よりの使者だとのことです。既に4時間ほどお待ちです」
「……使者だと? 何をしに来たんだか。しかし4時間も待たせているとは……もしかして私達が帝都見学に行ってからすぐか? これは少しばかり不味いな。直ぐに行くとしよう」
「その前に御召替えを」
「……そうだな。確かにこの格好は不味いな」

 皇帝の使者であるならば、辺境侯に相応しい身なりをする必要がある。流石にアインズもそれぐらいは分かる。
 直ぐに自室に戻ると身支度を整え、幻影から仮面へと顔を隠すものを変えたアインズは使者が待っている部屋まで向かう。
 部屋に入ったアインズを前に、立ち上がりかけた使者をアインズは手で差し止める。そして向かいのソファーに腰掛けると開口一番謝罪の言葉を述べる。

「ジル……皇帝陛下の使者である君を待たせたことまず謝罪させてもらおう」
「滅相もございません、辺境侯! 頭を下げていただかなくても結構です!」

 頭を下げかけたところで使者に止められ、アインズの頭はそのまま直ぐに上がる。

「それは感謝させていただこう。それで使者殿が来られた目的は何になるのかね?」
「はい」

 使者は一枚の羊皮紙を広げ、その文面を読み上げる。

 それは3日後に城で行われる授与式や戦勝祝いなどの式典の案内だった。そこでアインズが内外に対して辺境侯という地位を公式にアピールすることになっている。
 流石のアインズも自分がその式典の主賓の1人だというのは理解できる。上手くこなせるか不安な所があるが、3日にもあればだいたいの流れは暗記できるだろう。
 そんな思いで聞いていたアインズは続く使者の言葉に息を飲んだ。

「そしてその後、各国の大使を招いた舞踏会が開かれることとなっております」
「…………何?」

 動きを完全に止めたアインズに対し、使者は怪訝そうな顔をした。自分が何か変なことを言ったのか、辺境侯の不興を買うようなことを言ったのか。そういった不安が滲み出るような表情だ。
 だからこそ慌てて問いかける。

「どうかなされましたか、辺境侯? 何か?」

 慌てふためいた使者に、アインズは溢すように問いかけた。

「武……道……会?」
「? あ、いえ。失礼しました。舞踏会です」

 自らの言い間違いかと理解した使者は再び、今度ははっきりと一言一言を区切るようにアインズへと語る。
 それによって己の聞いたことに間違いが無いことを確信してしまったアインズは、血を吐くように呟く。

「…………なん……だと?」





――――――――
※ 書籍化作業により次回更新は7月を回ると思います。のんびり待っていただけると幸いです。



[18721] 54_舞踏会
Name: 丸山くがね◆bee594eb ID:a65bc0f8
Date: 2012/11/24 09:16
 小説家になろう様の方に公開しているものと同じです。160kになるので、読まれる方はご注意を。






 アインズはナザリック大地下墳墓に帰還を果たし、己の自室に戻るとイスにどかりと腰をかけた。
 その乱暴な態度はアインズの内心を強く物語っている。

「……舞踏会か」

 ぽつりともらした呟きには複雑なものがあった。その中で最も大きいのは「踊れるわけ無いでしょ、この馬鹿ぁ!」という絶望にも似たものである。
 単なる社会人であるアインズは今までに踊りなどを学んだ経験は無い。従って今からでも未来に起こりえる可能性の予測は立つ。
 しかし、だ。
 アインズ・ウール・ゴウン辺境侯が踊れないと聞いたならば、それはどのような目で見られるか不安が残る。貴族という生き物がどういうものか漠然とだが知りつつあるアインズは、貴族が品位、そしてそれに連なる様々なものを重視しているというのを理解している。場合によっては見栄を張るぐらいなのだから。
 その様々なものの1つがダンスである。
 特に今回の舞踏会には他国の人間も来るはずであり、その場での失態は大きな余波を生むだろう。辺境侯という今まで作り上げた立場が瓦解することは無いにしても、それに匹敵するだけの何かが起こったとしてもおかしくは無い。
 それに凱旋の際にあの派手な格好をしたアインズが、実は貴族の作法は全然出来ません、などとなったらどのようになるか。今ある評価が一気に地の底にまで落ちるのは間違いが無い。

「盆踊り……いや何を考えている……。時間はいま少しある。その間にダンスを覚えればいいんだ。最低でも基礎を」

 アインズは強く決心し、ぼそぼそと呟く。
 しかし、不安は大きい。

 世の中には2種類の社会人がいる。
 1つは社会に出てからも勉強する社会人。そしてもう1つが社会に出ると勉強しなくなる社会人である。アインズは後者であり、勉強は学生の頃しかやってなかった。脳みそ──この肉体にあるのか不明であるが──が固くなっているのは間違いなく、ちゃんと覚えられるのだろうか、という不安だ。
 無いはずの胃が痛くなるほど不安を覚えながら、アインズはさらに何かに気が付くと、空虚な眼窟の奥に真剣なものを宿した。

「しかし……その前の典礼なども知らないぞ? そのあたりもやはり一般常識なのか?」

 貴族社会を垣間見てきたがそこまでは詳しくは知らないアインズは、頭を抱えようとしてぐっと堪える。やはり貴族などという立場に立つべきではなかった。という思いがそこにはあった。
 だが、もはや逃げることは出来ない。
 恨みをぶつけて良いなら、セバスに凱旋の時あれほど目立たなければ、もう少し立場的に楽だったかもしれないと言いたいぐらいだった。

 アインズは机の上にあった小型の鈴を鳴らす。
 遅れて扉がノックされた。
 アインズはドア横に立つメイドに1つ頷いた。メイドは頷き返すと扉を開け、外の人物と何かを話している。
 そして扉を閉ざすと、アインズの前まで歩いてきた。

「セバス様がおいでです、アインズ様」
「入室を許可する」
「畏まりました」

 アインズがセバスを呼んだのだから、来た人物がセバスなのは当たり前である。しかしこういった形式がアインズという絶対的支配者には必要だ。
 アインズがトコトコ扉の前まで向かい、ガチャっと開けてはいけない。
 支配者はイスに座ったままシモベを顎で使うべきだと考え、それをナザリックの全NPCたちは望んでいるからだ。
 アインズの一般人的思考ではこういった形式も眉を顰めたくなるが、上司的思考では部下の望みを叶えるのも当然という考えが浮かぶ。結果、文句を言えずに七面倒な対応を余儀なくされるわけだった。

「失礼いたします、アインズ様」 

 セバスが部屋に入り、アインズに忠誠を向けてくる。その姿に鷹揚に頷き、自らの元に来るようにアインズは指示を出した。セバスが目の前まで来ると口を開く。

「良くぞ来たな」
「お呼びとあらば即座に」

 アインズは少しばかり口ごもった。ダンスが出来ないと発言した場合の、自らへの忠誠心が変動する可能性を考えて。しかし、もはやアインズには手はない。これで忠誠心が一気に下がったらその時は記憶でも操作してやると、内心で決意を固めてから問いかける。

「セバスよ……。私は実はダンスというものが出来なくてな。それでお前の助けを借りたいのだ……。失望するか? ナザリック大地下墳墓の主人たる私がダンスを出来ないことを」
「いえ、そのようなことは決してございません」

 セバスから即座に返答があった。

「アインズ様に苦手とする分野が無ければ、私たちが存在する意味が無いというもの。私たちの喜びはアインズ様のお役に立てることなのですから」
「……そうか、それは礼を言わせて貰おう。それでは続けてセバスに問う。……ダンスは出来るか?」
「いえ、申し訳ありませんが、私もその分野は習得しておりません」
「まぁ……そうだろうな……」

 予測された答え。というよりもナザリック大地下墳墓にダンスが出来そうなNPCは記憶に無い。
 アインズは内心では奇妙な雄たけびを上げながら、床に転がりたい衝動を一瞬だけ覚えた。

 何故、俺はパンドラズ・アクターにダンスが出来るという設定を書いておかなかった。あんなオーバーなアクションとか、意味の無いキャラ設定なんて作っておくべきじゃなかっただろう。
 後悔とはまさに『あとにくいる』ものだ。アインズはそれに心から納得する。

「では、セバスよ。ナザリック内にダンスが出来そうなものはいるか?」
「であれば、デミウルゴス様はどうでしょうか?」
「デミウルゴスか……。知識としては確かに持っていそうだな。しかし、何から何までデミウルゴスに頼るというのもな……」

 デミウルゴスには命令を与えナザリックの外で任務に付かせているのだが、あまりにも頻繁に呼び戻している。振り返ってみれば、本当に些細なことで呼び戻しているような気さえしてくる。
 これはデミウルゴス以上に知恵があり、ナザリックを指揮できる者が欠けているためだ。戦闘指揮においてはコキュートスをその任に就けようとしているが、知略の面でのナザリック運営を補ってくれる人材の欠如が大きな問題となっている。
 この問題を大きく感じているのがアインズだけだというのもまた問題だ。
 シャルティア、アウラ、コキュートス辺りは力で解決しようという傾向が強く、敵がいるなら自分が1人で落としてくるという守護者──管理職にあらざる思考を持っている。

 もう少し考えてくれよ、などとアインズは思うが、守護者の性格や思考の設定はかつての仲間達の行った結果であり、叱咤するべき対象はかつての仲間たちであろう。
 それにアインズ自身、単なる社会人であるために、実際に守護者達の考えが間違っているのかどうかという点に関しては自信がない。
 だからこそデミウルゴスにおんぶに抱っこという形が出来上がっていた。

(フールーダがナザリックに所属したことで大きく変わるかと思ったが、あれは魔法キチな面があるから……微妙に役立たないし……)

 フールーダは自らがより強大な魔法の力を得るという点に固執している部分があり、微妙に帝国の一般常識──特に貴族社会に関しては無知な部分がある。今までの人生でそんなことに労力を割かずに、魔法の深淵を覗き込むことに集中していたためだ。そしてそれを歴代の皇帝たちが認めてきたからでもある。
 そんなフールーダだからこそ、強大な魔法の力を持つアインズには心底敬服しているのだが、時と場合によっては良し悪しということだろう。

「仕方が無い。デミウルゴスに聞いてみるか」
「それがよろしいかと。それと私はナザリック内にダンスが出来る者がいないか、色々と当たってみたいと思います」
「そうだな……そうしてくれ。私が知らないだけで誰か踊れる者もいるかもしれないからな」
「はっ!」





 《伝言/メッセージ》の効果時間が切れて魔法が解除され、アインズはゆっくりと頭を抱え込もうとし、それを途中で止める。アインズの執務室には先ほどと同じようにメイドが控えているからだ。
 確かにこの部屋にいるメイドは空気であり、一切気にする必要がないとセバスからも言われているが、それでも支配者に相応しい行動を出来る限り取って行きたいとアインズは考えている。だから頭を抱えるなんて行動は取れない。
 しかしどうしてもその行動が取りたかったアインズはゆっくりと立ち上がると、扉の近くに立っていたメイドに声をかけた。

「席を離れる。寝室にいるつもりだ。誰かが来たならばここで待たせて、呼びに来い」
「畏まりました、アインズ様」

 深々と頭を下げたメイドから視線を外し、アインズは寝室に向かう。
 部屋には天蓋付きベッドが1つ鎮座している。そのキングサイズのベッドにアインズは身を投げ出す。
 身が沈むような柔らかな感触に擁かれながら、アインズは靴を脱ぎ捨て、もぞもぞと尺取虫のようにベッドの中央へ進む。
 そして「あー」などと言いながら右へ左へ転がった。

「やばいな……デミウルゴスもダンスに関しては詳しくないとは……これは想定外だぞ……」

 不味い、不味い。などと言いつつもさらにごろごろと転がる。
 唯一の救いは典礼であればどのようにするべきか、儀典官などからの指示があるはずなので、そのリハーサルで覚えれば問題ないだろうと言われたことだ。
 ただし1つ脅されたことがあった。それは舞踏会などは最初に皇帝、もしくはそれに準ずるだけの地位や働きをした者などが踊る場合が多い。そのために下手すれば貴族達が周囲で見守る中、アインズがトップバッターとしてパートナーと一組だけで踊る可能性を示唆された。
 不安がもっと強くなれば感情が抑止されるのだろうが、いまだそのレベルには達していない。アインズは「あー」や「うー」などと言いながらベッドの上を再び転げ回る。もはやおっさんの行為ではない気もしたが、子供に戻って転げ回りたい気分だったからだ。
 きちんと伸ばされたシーツや毛布がしわくちゃになるが、それ以上に頭が一杯のアインズにそちらに回す余力はなかった。

「あとはセバスに任せた俺が知らない奴に期待するしかないが……そんな奴いたか?」

 頭の中で色々なNPCを思い返すが心当たりは一切無かった。
 そうやってアインズがベッドの上で転がっていると、慌てて走ってくる音がアインズの鋭敏な聴覚が捉える。アインズの部屋のみならずギルドメンバー41人、全員の部屋はしっかりとした防音が施されている。それにも関わらず音を捉えられたのはアインズの聴覚が優れているだけではなく、その人物が大慌てで、しかもかなりの速度で走っていることを意味している。

「……これは……メイドか?」

 アインズの推測は当たり、すぐに寝室がノックされる。ノックのリズムはさほど慌ててはいないが、それはアインズの寝室だから最低限の礼儀を思い出したというところだろう。
 アインズはもぞもぞとベッドから降り、靴を履きなおしてから自らの服装を見下ろす。
 多少、皺が寄っているが、ちょっと引っ張ることでそれらは直ぐになくなる。アインズは頷くと、ドアを開いた。

「何用だ? 忙しないようだが?」
「はっ! アインズ様、お休みのところ申し訳ありません。ある方がダンスの件でお話があるとのことでいらっしゃってます」
「何!」

 アインズは目に宿る灯火を明るいものにする。

「そうか! 直ぐに案内せよ!」

 案内せよと言っても、いるのは執務室なのは間違いが無い。アインズはメイドをすり抜けるように寝室の外に出ると廊下を歩き出す。
 慌ててメイドが後ろを付いてくるが、それを気にも留めない速さで歩いたのはそれだけアインズが期待に胸を打ち震わせていたからだろう。
 執務室の扉を大きく開く。

 そして期待を込めて見渡した。いたのはユリ・アルファ、シズ・デルタ、ナーベラル・ガンマの3人、そしてセバスの姿だった。
 確かに女性ならばダンスなどのそういった設定を組み込まれている可能性は充分にありえる。アインズはなるほどと思い、お辞儀をしてきたその3人に対して大きく頷く。
 まさか3人もいるとは、と思いながら話しかけようとし──

「──これはアインズ様、お久しぶりに会えて、我輩嬉しく思います」

 突如、第三者の声がした。男の声だが、セバスのものとは違う。
 慌ててアインズが視線を向けた先、執務机の後ろにいたために見えなかった者が横から姿を現した。
 そこにいたのは30センチほどのゴキブリだ。
 豪華な金縁の入った鮮やかな真紅のマントを羽織、頭には黄金に輝く王冠をちょこんと乗せている。手には頭頂部に純白の宝石をはめ込んだ王杓。直立しているにもかかわらず、頭部が真正面からアインズを見ている。
 それが誰かアインズが知らないはずが無い。

「恐怖公!」
「ははぁ! アインズ様。忠義の士、恐怖公でございます」

 すっと礼儀正しいお辞儀を見せる。デミウルゴスに匹敵するだけの優雅さだ。
 アインズは内心「どうやって腹の辺りで体を曲げた」などと驚愕しつつも、冷静に答える。

「良くぞ来たな。それで……何用だね?」
「おや? セバス殿から聞きましたが、ダンスを指導できる人物と探していると聞きまして、我輩、これは駆け参ぜねばと思い、シルバーに乗ってここまで参りました」

 メイドが慌てていた理由がなんとなく理解できた。

「そ、そうか……。だが、シルバー? なんだ、それは?」
「はい。我輩の騎乗ゴーレムである、シルバーゴーレム・コックローチでございます」
「…………そんなのいたの?」
「はい。るし★ふぁー様がお作りになってくださったゴーレムでございます。ちなみになんでもボディは超希少金属のあまりをちょろまかして、そして希少貴金属スターシルバーを溶かして作ったコーディング剤で覆っているそうです。強さは我輩を遥かに超える70レベルだとか」
 
 アインズの視界の隅でぐらっと戦闘メイドの誰かの体が大きく動いていた。その動きは充分に内心の驚きを語っている。
 それはそうだろう。
 アインズは頷く。ゴーレムとはいえ、自分よりも遥かに強いゴキブリなど微妙なショックを受けるに充分だ。
 しかしそんな可哀想なメイドたちにアインズは慰めの言葉を掛ける余裕は無かった。というよりもそれ以上に聞き逃せない言葉があったためだ。

「…………やぁろぉう…………。あれをちょろまかしたとか……」

 あの希少魔法金属の採掘所はある事件で奪われ、アインズ・ウール・ゴウンが独占していた希少金属は市場に流通するようになった。その際はアインズ・ウール・ゴウンに売らないようにという宣言付きで。そのために非常に入手が困難になった経緯があった。
 もちろん、最初に発見して鉱脈をあらかた掘っていたので、再発生する金属の生産量など遙かに超えた量を懐に蓄え込んでいたが、ゴーレムの作成にあらかた回っていたので、ギルド内でもあまり出回らない金属であった。
 アインズ自身、そのためにあるアイテムの作成に使う金属を別の金属に変えたぐらいなのだから。
 
 しかし憤怒は即座に収まる。それにいまさら言ってもしょうがないことだ。それどころか、振りかえってみればそれも懐かしい思い出。怒っているのも馬鹿馬鹿しい。
 それよりは今しなくてはいけない問題は別にある。

 アインズは恐怖公を眺め、複雑な感情を抱く。
 どの世界にゴキブリにダンスを教わる者がいるのだろう。
 アインズは言いようが無い感情に襲われるが、抑止される前にそれらを全て飲み込んだ。それしかないのであれば、そうするほかないのだから。

 人類始まって以来のゴキブリに物を教わる人間――いやアンデッドというのも乙な物だ。などとアインズは必死に自分を誤魔化す。

「……よろしく頼むぞ、恐怖公」
「畏まりました、アインズ様。我輩、アインズ様がゴキブリの舞踏会に出ても問題無いレベルまで教えますぞ」

 アインズは一部の聞きたくない台詞は頭の中から除外する。

「……そうか、それは本当に心強いな! それで私のダンスの相手は……恐怖公なのか? それとも別のメスゴキブリなのか? 流石に1人でエアダンスというのはちょっと厳しく感じるが?」
「いえいえ。私や他の同族では流石にサイズが違いましては問題がありましょう。そしてお一人では成長が鈍ります。やはりパートナーあってのダンスですとも。それで、どなたか他にダンスを得意とする方はおられないのですか? 出来ればアインズ様が踊られる国の社交事情についてある程度の知識がある者がよいのですが?」

 そんな相手はいない。フールーダは先の通り、その辺の知識はない。
 アインズは必死に考え、いないことを確信する。
 貴族を1人ぐらい浚ってくるか。
 そんな危険な考えを遂行する手段を頭の中で練りだしたとき、セバスが声を上げた。

「そういえば、シャルティア様の所に1人、帝国貴族の娘がおりませんでしたか?」





 ブレイン・アングラウス。
 それはシャルティアによって生み出されたヴァンパイアの名前である。生者であった頃は剣の腕を高めることのみを追求した男であったが、現在では自らの主人であるシャルティア・ブラッドフォールンのためにその全てを捧げることに喜びを感じるようになっていた。
 そうなった理由の1つとして、当然シャルティアによってヴァンパイアに変えられたからと言うのがある。
 そしてもう一つは己が誇りに思っていた剣の腕は所詮はより強大な存在の前ではゴミ同然で、ガゼフ・ストロノーフによって知った敗北など糞みたいなものだと知ったためだった。

 そんな男が第2階層にあるある玄室の前で不寝番を行っていた。アンデッドであるヴァンパイアには疲労や睡眠欲などがないために最も適した仕事の1つといえよう。
 扉の前で不動の姿勢を維持しつづける。
 無造作に立っているように見えて、その実、意識は周囲に拡散し蟻一匹も見逃さないだけの警戒ぶりだ。
 突如、そんなブレインの目の前の空間が揺らいだ。

「むっ!」

 ブレインは刀に手を伸ばす。
 もちろん、ナザリック大地下墳墓は強固な魔法によって守られているために、侵入者などは考えにくい。しかしブレインとしては念のために僅かに腰を下げ、構えを取る。かつての失敗が頭の中をよぎるが、もしかしたらという可能性が極微少でもある以上は注意は怠れない。
 空間の揺らめきが1人分の姿を取る。

「──!」

 ブレインは転移してきた人物を目にして、口を大きく開く。
 自らの主人に連れられて──それも数度しか会ったことがない、ナザリック地下大墳墓の最高支配者である天上人──アインズ・ウール・ゴウンが自らの前にたった一人で姿を見せたためだ。
 何故、1人なのか。
 ブレインは困惑する。
 支配者が供を連れずに歩くという行為は聞いたことが無い。供を連れるという行為は警護という意味もあるが、それ以上に権威を示すという意味がある。
 もしアインズという至高の存在が供を引き連れて歩くならば、行列となり目の前を過ぎるのに1時間ぐらいかかる方がブレインとしては納得がいく。
 しかし、周囲を見渡しても従者の姿は無い。

 まさか、何者かが偽装しているのでは。

 そう考え、それ以外の理由に思い至る。
 国を容易く滅ぼすような超級の化け物──自らの主人であるシャルティアを含め──を従える存在が、警護という意味であれば供を連れる必要などあるはずが無い。何故なら、そんな化け物たちよりも強いのだから。
 個にして万を蹂躙できる存在が、周囲に煩わしい存在を侍らすだろうか。

 そんな思いからブレインは目を凝らし、本当に天上人かを判断しようとして唐突に悟る。
 放たれる異様な気配が自らの主人であるシャルティア・ブラッドフォールンを上回るほどの『死の気配』だと知り、ブレインはそれが誰かを知性ではなく、感情で確信し、我知らず声を上げてしまう。

「げぇ! アインズ様!」

 そして即座に直立不動の姿勢を取ると同時に、己の口を押さえる。今、慌てて、思わず口にしてはいけないような発言をしてしまった。最高支配者の名前の前に「げぇ」などと。もし聞こえていれば自分の首が切り飛ばされてもおかしくは無い。
 ブレインはチラリと視線をやり、自らの主人の主人から吹き上がるようなプレッシャーを全身で感じる。
 自らの主人、シャルティア・ブラッドフォールンに代表される守護者は皆、ブレインでは勝てないと即座に理解できる存在感を放っている。ヴァンパイアとなり恐怖を感じなくなったブレインでさえ、怯えてしまうほどの鬼気を。

 転移してきた超越者は無言でブレインを眺めていた。
 それがどういう意味を持っての行動か分からず、我知らずブレインの呼吸は荒くなった。アンデッドであるために呼吸は意味を成さない作業でしかないが、人間であった頃の肉体の記憶がそうさせた。
 ブレインは慌てて跪く。

「ひ、平に、平にご容赦を」

 ブレインの額が床に音を立てて叩きつけられた。
 自らとリザードマンに剣を時折指導してくれる、第5階層守護者であるコキュートスが謝罪の究極の形として教えてくれた土下座である。
 そのまま凍るような時が流れる。ヴァンパイアになってなければ冷や汗が全身をびっしょりと濡らしただろう。

「――良い」
「ははぁ! 感謝いたします!」

 重く静かな声に、いまだ顔を上げずにブレインは感謝を告げる。
 重圧が溶けていくような開放感をブレインは頭を下げたまま感じていた。

「……シャルティアに会いに来た。今、室内にいるのか?」
「ははぁ! 少々お待ちください!」

 ブレインはばね人形のように跳ね上がると、即座に後ろの扉に向かって全力でダッシュ。
 そしてしっかりとした装飾の施された扉を激しく幾度も叩く。連打という言葉こそが最も正しい勢いだ。主人の扉の叩き方ではないと知りつつも、それ以外の叩き方は全て非礼に値するような気がしたためだ。
 もし仮に礼儀正しくノックした場合、それはアインズ・ウール・ゴウンというナザリックの最高支配者を僅かでもドアの前で待たせるよ、とブレインが判断していると見なされる可能性がある。ブレイン1人の失態で許されるならば、それは構わないかも知れないがシャルティアの失態に繋がった場合、それはどうやって謝罪を請えばよいのか分からない。
 そんな混乱がそこにはあった。

 やがて重い音を立てながら扉が開いた。

 顔を見せたのはシャルティアの側女の1人である。非常に美しい顔立ちではあるが肌の色は白蝋であり、瞳の色は真紅。ヴァンパイア・ブライドと言われるシャルティアのおもちゃ兼従者だ。

「シャ、シャルティア様にお会いしたいと──」
「――騒がしい。シャルティア様のお部屋をそのように騒がしく叩くことを誰が許すというのですか」

 ブレインの言葉に被せるようにヴァンパイア・ブライドは平坦な声を発した。この部屋にいるヴァンパイア・ブライドはシャルティアの側女であるために、立場的にはブレインよりも高い。そんな女性であるためにブレインを見る目は下等な存在を見下すようなものであり苛立ちすらあった。

「それにシャルティア様はただ今、入浴中です。お取次ぎは――」
「――アインズ様です! 至高の御方であられるアインズ・ウール・ゴウン様です!」

 逆にブレインが被せるように声を発し、そしてヴァンパイア・ブライドの目が訝しげに細まる。言われた内容がピンと来ないようであり、その真紅の瞳がゆっくりと動いて、少しばかり離れたところに立つ人物を捉えた。
 変化は劇的なものがあった。
 まず細められていた眼は転がり落ちそうなほど大きくなり、閉ざされていた口はO(オー)に広がる。

「う──」

 ヴァンパイア・ブライドは口を押さえると、ブレインを睨み付ける。

「それを先に言いなさい!」

 扉の前に立つブレインを押しのけるようにヴァンパイアは外に出ると、深い敬礼を送った。

「よ、ようこそ、偉大にして至高なる死の王たるアインズ様! シャルティア様のお部屋までおいで下さいまして、か、感謝いたします!」
「ああ……。それでさきほどもその男に言ったのだが、シャルティアに会いに来たのだが……」
「はい、いらっしゃいます! 直ぐにアインズ様が御出になられたことをお伝えしてまいります!」
「そうか、よろしく頼む。入浴中ということならば少しばかりここで待つが?」
「い、いえ! アインズ様をそのような場所で待たせるわけには参りません。どうぞ、中へ!」
「……そうか? ではそうさせてもらおう」

 ヴァンパイア・ブライドがきっ、と視線をブレインに向け、非常に小さな声で怒鳴りつけた。

「手が足りないからあなたも入りなさい! そしてアインズ様に失礼無いようにお相手をして! 貴方をシャルティア様の眷属と認めての大役よ、絶対にミスをしないように!」

 正直、ブレインとしては遠慮したかった。桁の違う領域に立つ存在をもてなせなどと言われても、逃げたいぐらいだ。しかし、そんなことをいえる状況でもないことは充分に理解できた。
 せめてシャルティア様に対して不快に思われないようにしなければ。
 その決死の覚悟でブレインは1つ頷いた。


   ■


 アインズはヴァンパイア・ブライドに先導され、シャルティアの住居に入る。シャルティアの家は幾つもの玄室からなっており、先ほどまで外に立ち込めていた死と腐敗の匂いは一切無かった。あるのは濃密で甘ったるい匂いであり、香を焚いているためなのか僅かに空気に色が付いているようだった。
 室内の照明は若干落とされて、室内に薄絹がつるされている。その薄絹にピンク色の光が当たり、僅かに輝く様は淫靡なものがある。
 全体的に室内を評価して、ハーレムか何かを想像して間違いなかったが、現在はその気配は一切無い。

「シャルティア様は!」
「湯浴みから出られて、いま大急ぎで乾かされているところよ!」
「不味いわ! これ以上アインズ様をお待たせするわけにも!」
「シャルティア様が分かってない筈がないでしょ! そんな事よりも手を動かしなさい! もしこちらに来られたら恥よ!」
「アインズ様には何をお出しすればいいの? 新鮮な血?」
「ちょっと! そこの拷問道具、片付けて! 急いで!」

 扉一枚を隔てても聞こえるほど、バタバタと忙しい。
 室内に唯一置かれたイスにアインズはもたれ掛かりながら、横でピンと背筋を伸ばしているヴァンパイアを眺める。
 その男の顔は完全に引きつっていた。やたらと緊張しているのが伝わってきて、アインズとしても座り心地が悪い。
 空気を読める人間であれば、何か適切な声をかけてやるのだろうが、そういったスキルをアインズは持ってないために、両者とも黙ったままの時間が過ぎていった。
 アインズがこのヴァンパイアに付いて覚えているのは、シャルティアが捕らえた捕虜でそこそこの情報を持っていたと言うこと。名前は――と考え、頭に浮かばない。
(ブレイン? プレイン? 確かそんな名前だったはずだ)
 あまり真剣に覚えなかったために、時間の経過と共に記憶から滑り落ちている。

 やれやれとアインズが頭を振ると、横のヴァンパイアがびくりと動いた。このまま微妙な空気を維持していても、無いはずの胃に厳しい。話題を作る良いタイミングだとアインズは考え、口を開く。

「……どうした? 何かあったか?」

 アインズが周囲を見渡しても特別な変化はない。耳をすませば、ヴァンパイア・ブライド達が別の部屋で右往左往しているのが聞こえる程度だ。

「いえ、何もございません、アインズ様!」
「そうか? ……ブレ……インだったな?」
「はっ!」

 先ほども名前を思い出そうとしていたのだが、ようやく思い出せたことに安堵する。これまでに色々とあったとはいえ忘れかけるとは、とアインズは己の記憶力に不安を抱く。
 痴呆などアンデッドのこの身に起こりえるのだろうか?
 そんな下らない考えを追い払い、ブレインに問いかける。

「少しばかりお前に聞きたいのだが……アルシェという帝国貴族の娘の事は知っているか? このナザリックに侵入した罪によって捕縛され、シャルティアに与えられた娘なのだが」
「…………!」
「どうした?」

 アインズはブレインの顔に微妙な困惑が浮かんだのを見抜く。

「シャルティアには一切傷を与えるなと命令してあったために生きていることは間違いないなのだが……何か知っているようだな」
「あ、はぁ。確かに……知っておりますが……」
「どうした?」
「……あ、いえ……その、なんともうしますか……。いえ……はい……」
「ブレイン、答えろ。アルシェについてお前が知っていることを隠さずに言え」
「はっ! 私も詳しくは知らないのですが、その娘はシャルティア様のペットで……私が見たのはその……シャルティア様のご命令で自分で……その……なんと申しますか……慰めてと言いましょうか……」
「…………? …………! …………そうか…………」
「はい。それを見るようにシャルティア様に命令されたとき位でして……そのう……」
「あ、その辺で充分だ。話しづらいことを聞いたな。了解した……」

 調教の一環で見たんですね、分かりました。などと言えないアインズは話題をそこでうち切る。
 結果、男2人で視線を一切合わさずに、気まずい時間をボンヤリと過ごすはめとなった。その沈黙がアインズにとって心地よくもある。
 やがてバタバタという音が近づいたと思うと、アインズたちのいる部屋への扉が大きく開いた。

「遅くなりまして、申し訳ありませんでした、アインズ様!」

 複数人のヴァンパイア・ブライドを引き連れた銀髪の少女が開口一番謝罪の言葉を投げかけてくる。
 言うまでもなくシャルティアだ。風呂に入っていると言っていたのは冗談では無かったらしく、髪の毛は濡れてぺたりと額に張り付いている。さらに普段であれば結んでいる髪もそのままストレートに流していた。

「いや、いや、湯浴みの最中に急に来て悪かったな。本来であれば《伝言/メッセージ》の魔法でも使って、アポイントを取ってから来れば良かったにもかかわらず」
「何をおっしゃいますか。ナザリック大地下墳墓はアインズ様の物。ならば何処に何時、赴かれようとご自由であり、私たちにそれをお止めする権利はございません!」
「……そうか。それは感謝するとも」
「感謝などと止してくんなまし、アインズ様。それで今回いらっしゃったのは何ようでございんしょうかぇ?」

 言葉使いが変わったことにシャルティアの余裕が戻ってきたことを悟り、アインズは本題を尋ねる。

「昔、シャルティアに渡した人間の娘がいただろ? アルシェという少女だが、彼女に利用価値が出てきたのでね、あわせて欲しいのだ」
「アルシェ……ああ、あの犬でありんすね」

 ニンマリとシャルティアが笑う。心の底から楽しげであり、アインズに少しばかり自慢したがっているような、子供っぽい部分も見え隠れしていた。

「アインズ様のご指示通り、一切の傷は与えておりんせん。例えあの娘が奪ってくれと泣き叫んでも決して純潔は散らしておりんせんし、裂傷が出来ないように尻尾も徐々に大きくしていきんした。充分に調教し終わった頃でして、完璧な仕上がりとして充分に楽しんでいただけると思いんす!」

 脱力がアインズに襲いかかった。
 しかしシャルティアを叱る事は出来ない。シャルティアをこのように設定したかつての仲間である、ペロロンチーノこそが諸悪の根元だ。それにアルシェを渡せばこのような未来の可能性はあった。実際、あの時のシャルティアの会話を断ち切ったアインズこそ悪い。

「……いやそういうことが聞きたいのではなく……利用価値というのはあれの経験……違う。貴族に関する知識という面で力を借りたくてな……。……まともな思考回路は残しているのか?」

 アインズが恐る恐る尋ねると、僅かにシャルティアの顔が引きつる。それを目にし、アインズもまた引きつるような思いを抱いた。

「……べ、別に問題はないかと思います。多分ですが……」
「……そうか……。ならば連れてこい。少し聞きたいことがある」
「畏まりました!」

 慌ててシャルティアがヴァンパイア・ブライドを連れて部屋を出ていく。再びアインズはブレインと視線を交え、そしてどちらとも無く反らした。
 聞くとも無しに隣の部屋からシャルティアの慌てふためく声が聞こえてくる。

「犬を連れてきなんし! 尻尾は外して!」
「――汚れは?」
「風呂に投げ込んで最低限の汚れを落としてくんなまし! 直ぐに! アインズ様がお待ちよ!」
「服は、服はどうしましょう?」
「……ああ! 今まで着せて無かったわぇ。 適当に準備!」
「サイズがあわない場合は詰めますか?」
「そんな時間は無いわ。魔法のかかった服であれば、サイズは合うはず。それを持ってきなんし!」
「それではシャルティア様のご洋服でよろしいですか?」
「しかたありんせんでありんすね! それより急いでくんなまし!」

 パタリと音がすると、シャルティアが現れた。その顔には微妙な笑顔が浮かんでいる。媚を売るような、もしくは相手の出方を窺うようなものだ。

「アインズ様、急いで準備をさせておりんすによりて、その間、わたしの部屋にどうぞ」
「……そうさせて貰おう。ご苦労だった、ブレイン。下がって良いぞ」
「はっ! ありがとうございます! アインズ様!」

 ブレインが微かに安堵の息を吐き出すのをアインズは鋭く知覚した。無礼だという思いはない。ブレインの今の立場が親会社の会長が突如来社したために、それを必死で接待する系列子会社の新入社員というところだろうと理解できたためだ。
 アインズの瞳に宿る灯火に優しげな物が混じる。
 数度、うんうんと頷き、アインズはブレインの肩に手を置いた。びくりと震えたブレインにアインズは優しく声をかけた。

「ご苦労だった」

 俺は殺されるのか。
 そんな顔をしたブレインを後ろに、アインズはシャルティアの先導に従って歩き出した。


   ■


 シャルティアの部屋は外見とは裏腹にと言うべきか、はたまたは外見通りというか、少女らしいものであった。可愛らしい机にイス、天蓋付きセミダブルベッド。壁紙はクリーム色であり、アインズが警戒していた様々なおもちゃが散乱していると言うことはなかった。
 先ほどまでの部屋からすればまるで違った光景だ。
 アインズはイスに座って、ベッドに腰掛けたシャルティアと向かい合う。机の上にはコーヒーが置かれているが、アインズはそれに手を出したりはしない。というよりも飲食が出来る体ではないからだ。

「シャルティアはこういったものが飲めるのか?」
「はい。私は飲めます。ですが、普通の人間が食べるようなものはさほど美味しいとは思えませんし、食べたからと言って成長したりといったことは一切無いのですが」
「なるほど。アンデッドの中でもヴァンパイアは特別か」

 血を吸うのだから当たり前だな、などと思いながら、物を食べられるということが少しだけ羨ましくもあった。帝国の市場に並んだ様々な食べ物。それがどのような味をしていたのだろう。
 アインズはそんなことを思いながら、良い香りを漂わせるコーヒーを指で押して遠ざける。

「それでアルシェを必要とされる理由をよろしければ教えていただけんすか?」

 アインズは鷹揚に頷くと、シャルティアに一連の話を行った。神妙に聞いていたシャルティアは話が終わると、大きく1つ頷く。

「なるほど……舞踏会でありんすか……。しかしそうなりんすとパートナーはどうされるんでありんすか?」
「う……む、アルシェがまともならば任せようかと考えていたんだが……」

 舞踏会で問題となるのは最初にアインズ達だけで踊るときだ。それ以降は別の人間に誘われても拒絶すれば良いだろうと考えている。アインズという存在に強制できる人間はジルクニフぐらいしかいないだろうから拒否は簡単だ。

「それは止めた方がよいでしょう。あれをナザリックの代表とするのは少々問題かと思います!」
「そうか? しかしそれ以外に私のパートナーをこなせる者がいないからな……」

 言うまでもなく舞踏会はパートナーが必要となる。しかしそれをこなせる者はナザリックにはいない。流石に恐怖公の眷属をパートナーとして連れて行くことはどんな状況下でも不可能だ。気が狂ったと思われるだろうし、アインズだってそう思う。
 そのためにパートナーをアインズと同様に1から鍛えるか、アルシェが踊れるならばという前提が付くがアルシェを選ぶしかない。
 アインズ的には何らかの魔法でアルシェを支配して連れて行くのが一番だろうと考えていた。
 アインズがアルシェを選ぶ理由は、経験者であればアインズが失態を犯したとしても直ぐにサポートしてくれるだろうという考えがあったためだ。もしこれが互いに1から訓練を受けた者同士では、サポートは困難だろう。

「私がアインズ様のパートナーを勤めさせていただきます!」
「何! まさかシャルティアは踊れるのか?」

 確かにシャルティアの外見は姫といっても過言でない。もしかするとペロロンチーノがそういった設定を組み込んでいる可能性がある。しかし、そんな希望ははかなく消えた。

「いえ、私も踊ることは出来ません」
「そうか……」
「しかしアンデッドである私であれば、時間を最も上手く活用することが出来るでしょう。睡眠を不用とし、疲労を感じない私であれば」
「……なるほど……それも道理か。了解した。ではシャルティアに私のパートナーを頼もう」
「畏まりんした、アインズ様」
 
 ぐっと握りこぶしをシャルティアがさり気なく作ったのを、アインズは努めて見なかったことにする。そのとき、扉がノックされる。

「入りなんし」

 シャルティアの返事に従い、一人の少女が入ってきた。
 着ている物はゴシックドレスではあるが、その顔立ちはアインズの記憶にあるものだ。

 アルシェ・イーブ・リリッツ・フルト。

 若干、堅かった表情は柔らかく崩れ、頬が染まっていたり瞳が濡れているなどの点はあるが、あの時から殆ど変わっていない。
 五体満足の姿にアインズは満足感を得る。
 彼女には傷をつけないというのが約束であり、それが守られているからだ。
 首の周りが円を描くように色が変わっているような気がするが、怪我は無いようなので努めて無視をする。

 アルシェは部屋に入ると、一直線にシャルティアの前まで歩く。そして足元にひざまづいた。いや、より正確にいうなら、その姿勢は這い蹲っているというほうが正しい。その動きはやたらと慣れた動きで、違和感が一切無かった。
 シャルティアが無造作に足を上げると、アルシェの体の上に乗せる。
 ふわぁ、という息とも声とも言えるような音がアルシェの口から漏れた。
 続いてシャルティアの指が伸び、アルシェの口の中に差し込まれると舌を摘んで引き出し、2本の指でもてあそぶ。アルシェもそれに答えるように舌を動かし、シャルティアの指に透明の唾を塗りつけて、舐め取っていく。

 恐ろしいのはその間、無意識のように両者が行動していることだ。シャルティアはアインズに視線を向けたままだし、アルシェもそれが極当たり前のように指の動きに合せて舌を動かしている。
 まるで授業中にシャーペンを指で回転させているような自然な動きだった。

「……ペロロンチーノ。お前が望んでいた光景がここにあるんだろうな。つーか……ドン引きだわ」
「ペロロンチーノ様がどうかされんしたかぇ?」

 指をアルシェの舌から離れ、銀色の橋が途切れる。アルシェの舌が惜しむように動いてから、口腔に戻る。

「いや、なんでもないが……アルシェ・イーブ・リリッツ・フルト。お前に問いたいことがある」
「……はい。大ご主人様」
「大ご主人様? ……まぁ、良い。お前は帝国の皇帝主催の舞踏会に出席した経験はあるか?」
「ございません。ですが規模は違いますが、舞踏会には出席したことがございます」
「そうか。ではその際のマナーや、その他諸々を教えてくれ」

 じっとアルシェがアインズを見つめる。それから口を開いた。

「大ご主人様……畏まりました。その代わりにお願いがあります」

 すっとシャルティアの指が伸び、アルシェの顎を軽く持ち上げると覗き込むように顔を近づけた。アルシェの頬が赤く染まり、唇が若干突き出されるが、シャルティアの行動はアルシェの望んでいたものではなかった。

「犬の分際でアインズ様にお願い? 不快だわ」
「良いのだ、シャルティア。働きには等価を与えるべきであろう。それが例え、犬だとしても、な」
「……なんと、お優しいのでありんしょう 。流石はアインズ様」

 感激に目を潤ませるシャルティアから視線を動かし、アインズはアルシェを見つめる。

「願いを言うが良い。等価であるが故に不可能なこともあるだろうがな」
「畏まりました。では私の純潔をシャルティア様に奪って欲しいのです」
「…………」

 アインズは自分の耳に指を入れ、何か詰まってないかを確認する。それから大きく溜息を吐いた。

「……本当にそれで良いのだな?」

 アルシェがこくりと頷く。アインズは肩を落とし気味に了解した。

「……好きにするがいい……」


   ■


 客を見送り、レイは草臥れたようにソファーに身を沈める。いや、レイは心身ともに非常に疲れていた。瞼ごしに目を揉み解し、大きく溜息を吐き出す。
 それから側に控えている執事に声をかけた。

「次の客は少しで良いから待たせておけ」

 レイは今日、既に6人の貴族と面会している。かかった時間は9時間以上。時間の長さも疲労の原因ではあるが、それ以上に話に無駄があるというのがレイの精神力を削った。
 恐らくは本題のみで終わらせてくれれば、その1/10になっただろう。将軍としてどちらかといえば手短な話を愛するレイとしては貴族の社交辞令に満ちた会話は苦手ではあった。
 勿論、やろうと思ってできないわけではない。だからこそ、これほどまでに時間が掛かったのだ。

「ふぅ」

 再び溜息を吐き出し、首を回す。固まっていた首がゴキリと小気味いい音を立てた。

 今まで会って来た貴族は、みなアインズ・ウール・ゴウン辺境侯に近寄りたい貴族達だ。
 現在のバハルス帝国は皇帝を頂点に擁いた絶対君主制の国である。そのために皇帝の関心を得るということは、力を得るということに直結する。
 才能がある貴族は良い。しかし才能無く、貴族としての家柄だけで地位を維持してきたような貴族は皇帝に媚びへつらう位しか家を維持する手段が無かった。
 しかしながら媚を売ったところで、数多の貴族の1人として埋没してしまう可能性がある。だからこそ、現在の帝都では様々な手段によって家を安泰せしめようとする者たちが暗躍する場合が多かった。
 そしてそんな貴族達の目の前に放り出された巨大な宝石の輝きこそ、辺境侯だ。

 帝国の貴族家が潰されていく中、新たに最高位として作られた家に座る謎の貴族。
 膨大な魔力を持ち、その力のみで王国を蹂躙できるという噂の主。
 さらには皇帝が最も信頼し、高い地位を与えたといわれる存在。

 媚を売るには最適の相手だろう。
 そしてそれを考えるのは吹けば飛ぶような木っ端貴族ばかりではない。かつては帝国の重鎮とも言われていた大貴族たちもそうだ。
 実際、レイが今日あっている貴族達は全てが大貴族といわれるような家柄の者たちである。それよりも下の貴族たちからも会いたいという旨は受けてはいたが、時間が無いことから断るぐらい、様々な伝から会いたいという大貴族達のメッセージが届いていた。

 大貴族達が辺境侯に最も期待しているのは、その武力だ。
 皇帝は自分が帝位に就くに当たって、その武力を背景に苛烈な改革を行っていった。

 独自の軍隊を持つ大貴族家は皇帝の勅命で王国との戦争に借り出され、軍事費を搾り出された。その結果、体力を奪われ、いまでは無残な有様な家が多い。
 反旗を翻した家や、そこまで行かなくても皇帝の命令に逆らった家はある。
 しかし、そんな家はもはや残っていない。一族郎党なで斬りである。
 その過酷さこそが、鮮血帝と呼ばれる所以だ。

 だからこそ各大貴族は皇帝の帝国軍に匹敵する武力を欲していた。それこそ単騎で万を殲滅できる人物ということだ。
 もしどこかの貴族派閥に肩入れすればそれだけでその派閥が一気に力を取り戻すだろうし、下手すれば皇帝に対してもある程度の要求を通せるようになるかもしれない。
 そういった「昔の夢よ、もう一度」という狙いを持って、貴族達がレイに近寄ってきているのだ。

「個人的には迷惑な話なんだがな……私はあくまで辺境侯の従者のようなものであり、主人に意思を告げる力は無いと分かってくれれば嬉しいんだが……」

 レイは確かに大貴族が見抜いているようにアインズの下に潜り込んでいる。しかしそれはアインズがレイの価値を見出して配下に取り込んだというより、レイがなんとか足元に座させてもらったという方が正しい。
 決して大貴族達が思うように、辺境侯派閥に属しているわけではないのだ。

 そして主人の意志が何処にあるか分からないうちに、勝手に貴族派閥に属するとも属さないとも決めることは出来ない。更には会いたいという願いを叶えられる権利などあろうはずがない。また大貴族たちを相手にしないわけにもいかない。
 本来であれば面会してどのような考えを抱いているか問いかけたかったが、現在は辺境侯は屋敷の方にはいないようで連絡を取る手段がなかった。確かに言付けを願ったが、その返事は未だ来なかった。

 レイは暗いため息を再び吐き出す。
 勝手に行動して不興を買えば、レイごとき容赦なく切り捨てるだろう。そうなれば皇帝に睨まれているレイは容赦なく殺される。レイが生きているのは後ろにいる辺境侯がいるからだ。

「……さて我が身を守るという意味でも、次の方を呼んでくれ。確か、これで最後だろ?」
「はい。明日、会いたいという方々はいらっしゃいますが、本日は最後となっております」
「そうか……」
 
 明日もあると知り、多少草臥れた声を出すが、レイは最後という言葉に気力を取りもどす。
 
「で、最後の貴族の名前はなんだった?」
「グランブレグ伯でございます」

 よく見知った貴族の名前を出され、レイの顔に安堵の色が浮かんだ。

「伯が! ……そうか、あの御仁なら意外に早く終わりになりそうだな……」

 執事に通された貴族は立派な体躯をした人物であり、見ようによっては戦士とも思える人物であった。ただ、その品位は確かであり、貴族の中の貴族といっても良いだろう。
 そんな人物が礼儀正しく、レイの前のソファーに腰掛けた。

 互いに挨拶を行うと、開口一番にグランブレグ伯は王国との戦いの勝利を祝ってくる。それに対してレイも感謝の意を伝えるというごくごく当たり前の会話だった。
 これはレイが既に本日だけで6度繰り返したパターンである。しかし今までの人物とはここからが違った。

「将軍もお疲れのようですし、本題に入りましょうか?」
「これはありがとうございます」

 レイは破顔した。まさに自分の知っているグランブレグ伯らしい行動だ。 

「数日後行われる式典で、エ・ランテル近郊から王国は撤退し、帝国の領土になることを宣言されるそうです」
「早すぎる!」

 レイは慎みを忘れ、大きな声を上げた。
 エ・ランテルを譲渡するように、帝国の外交官が王国と交渉しているのは知っていたが、結果が出るのがあまりにも早すぎた。
 交渉は規模が大きくなるほど時間がかかる。数ヶ月単位は基本であり、今回のような一件であれば1年かかったとしてもおかしくはない。しかし、冷静に考えれば分かる気もした。

「辺境侯のあれほどの力を全面に押し出されれば、それも仕方がないと言うことか」

 王国が全面的に白旗を振ったと言うことだ。

「そればかりではありませんよ。帝国は代わりとして王国との数年に及ぶ不可侵条約を締結します」
「何故……。辺境侯がいらっしゃるのだから、王国の運命は風前の灯火でしょう?」
「さて……陛下が何を考えていらっしゃるかは分かりません。ある時期で約を破棄するつもりなのか、はたまたは肥え太らせてから食べる予定なのか。どうにせよ結ぶことで帝国に利があるのでしょうな、陛下が考えられたのでしょうから」
「なるほど……それでその話はどの程度まで漏れているので?」
「噂というレベルでならばある程度の貴族なら知っているでしょう。それ以上の貴族であれば詳しい話も知っていると思われますよ」
「そういう理由があって面会を求める者が増えたと言うことか」

 レイはようやく貴族達が自分に擦り寄ってきた最大の狙いを知った。
 皇帝に選抜される将軍に貴族はあまり近寄ったりはしない。皇帝という絶対権力者が後ろにいるために、不興を買うのではと恐れるためだ。
 そのために将軍達は貴族社会とは距離を置いた場所に立っている。高い貴族位を持つ将軍であれば多少話は異なるが、レイのような弱小貴族位では殆ど秘境に住んでいるような物だ。レイがそういった話を知らなかった理由はその辺のパイプがないためだ。
 
「でしょうな。エ・ランテルは3国の要所。あの地を守りきるだけの力がある独立貴族が手にすれば、それがどれだけの力と富を生むかの想像は容易です。そんな御仁とパイプを持ちたいのは誰もがそうでしょう。今回の舞踏会は無数の欲望が渦巻くお祭りになりますよ」

 レイもグランブレグ伯も思わず軽い笑い声を上げる。今からでもその光景が目の前に浮かぶようだった。

「いや、いや面白い話でした。伯との会話はつまらない貴族のおべんちゃらを聞くよりも何倍も楽しい。さて……それで伯は何をお求めかな?」
「おやおや、単刀直入ですな、将軍」
「伯の場合もそちらの方がよろしいでしょう?」

 違いないとグランブレグ伯は笑った。

「何、お一つ聞きたいことがありまして、将軍。……あなたには正妻がいらっしゃいませんでしたね? 私の娘はどうですか?」

 レイはまだ10歳ほどの少女を顔を思い出す。

「辺境侯にでは無く、私にですか? 将軍位は陛下より授かったもの。陛下のお心次第で私は罷免ですよ?」
「辺境侯が将軍に価値があるとお考えでしたら、他の将軍の方よりも安全と思われますが? 陛下も辺境侯と正面切って抗争される気が一切無いのは今までの対応で透けて見えております」

 グランブレグ伯は帝都凱旋での、辺境侯と皇帝の仲の良さのアピールを語る。
 そしてそこでの辺境侯の素晴らしい姿を。
 レイもその辺りは今までの貴族達との会話で幾度も聞いている。自分も知っているが、第三者の話として聞くとそれもまた面白い。特に何処に目を引かれたかで、その人間の欲望が透けて見えるために。

「だからこそ貴族の方は辺境侯と面識を持ちたいのでしょうね」
「全くですな。そんな方々だからこそ、辺境侯に娘を差し出したいのでしょう。正妻の地位を得ればその貴族家は安泰ですので」
「伯もそうされれば……」
「ははは、将軍もお人が悪い。私は他の大貴族の方々と正面切って喧嘩をするつもりはありませんよ」
「なるほど。だから私と言うことですか」

 グランブレグ伯は何も言わずに微笑む。暖かい笑顔だが、一枚捲ればもっと別の顔が隠れているのがはっきりとわかるものだった。

「そうなると、今度の舞踏会にはかなり綺麗所が集まるのでしょうね」
「でしょうな。辺境侯に面識を持てるところまで行かない貴族からすれば、その場で娘を紹介出来る良いチャンスでしょうから」

 今までの舞踏会では皇帝に娘を紹介する場でもあった。それが今回は辺境侯に紹介する場ということだ。

「今回の舞踏会は本当に面白くなりそうでしょ、将軍?」





 今回の舞踏会の会場として、帝城に複数あるそういう用途の部屋の中でも最も大きい場所が使用されていた。無論、単なる部屋の大きさだけを考えれば、帝城にはより広い部屋だってある。しかし、舞踏会の会場となると、単に広さだけで片がつくものではない。
 
 舞踏会は単に踊るだけの会というわけでは無く、それは1つの権力闘争の場であり、縁故を強めるための場所でもあるがゆえだ。

 それも今回の舞踏会は皇帝が開いたものであり、つまりは今回の場所に来た者は、皇帝の声がかかったある程度の地位のあるものばかり。皇帝の招きに逆らえる貴族は少ないために、結果として派閥を超えて様々な貴族達が集まることとなる。
 ようは通常であれば会えない様な天上人や、敵対派閥の貴族などと渡りをつける良いチャンスでもあった。

 そこまで考えられているため、他人との会話が面倒なほど広すぎても狭すぎてもいけなく、相応しい様式を整えた場所で無ければならない。
 それらまで考えれば部屋の数は自ずと限られてきたのだ。

 そんな部屋にはいまや多くの貴族達が華やかな格好で集まり、穏やかな表情で談話をおこなっていた。天気の移り変わりや、自らの趣味などの穏やかな話を語り合っているが、それは表面的なものでしかない。
 談合、他派閥との交渉、威圧など、そういったドロドロとしたものが透けて見える。
 夫人や連れられた息女などの女達も互いの服装などを微笑みの仮面の下で観察し、自分達の敵となる人物を探しており、たわいも無い会話に紛れて棘をぶつけ合っていた。
 ある意味、今回の舞踏会こそ貴族社会の醜悪な部分を集約した部分といえよう。

 そんな彼らの話題として最も最新トピックスは新たに領土を得た貴族の話題だ。
 彼らの貴族としての目からすれば、先に行われた式典において一部拙いところもあったが、辺境侯という人物は貴族社会を知る人物に思われた。
 これには若干の驚きがあった。
 辺境侯という人物は強大な魔法使いであり、かつての主席魔法使いフールーダのような人物を僅かにイメージしていたためだ。フールーダは自分は魔法使いであると公言し、貴族社会とは線を引いていた。そのために式典などでは非常に荒い動きが多々見受けられた。
 それに対して辺境侯は──という具合に。

 無論、厳しい眼で見ればまだまだというべきだろうが、それでも貴族の品位に関して知識にあると言うのは彼らからしても好ましい。
 それに貴族社会にさほど詳しくない方が彼らからすれば嬉しいのだから。


 彼らがにこやかに微笑む中、真剣に働く者たちだって多い。
 見事な料理が乗ったテーブルでは、《毒感知/ディテクト・ポイズン》が付与された専用の道具を持った従者が料理を取り分けており、部屋の端に目をやれば楽団が雰囲気を壊さぬように静かな曲を奏でている。
 さらには貴族達の中を選りすぐったメイドたちがすり抜けるように歩きながら、貴族の言葉に従って働いていた。彼女達はメイドであると共に、毒殺等の暗殺の警戒訓練を受けた、ある意味その道のプロ達である。

 無論、帝国の最高権力者が開いた舞踏会で暗殺などを行えば、その結果がどのようなことになるかの想像ができないほどの愚か者は数少ない。しかしそれでもこれだけの欲望が集まれば、何が起こるかは不明であり、警戒は怠れなかったためだ。


 権力と欲望が入り混じり、警戒が行われる中、同じ派閥の令嬢同士が裏表の無い他愛も無い会話をしているのが、僅かな清涼剤だ。
 皆、気品と美しさを兼ね備えた少女達である。顔に施しているのが僅かな紅だけだというのだから、その可憐さは決して化粧によって作られたものではなく天然のもの。
 しかも着ている服は見事なものばかりであり、家の格を感じさせた。
 和気藹々とおしゃべりをする彼女達の話題にあるのは、辺境侯と呼ばれる新たな貴族の正体だ。
 仮面を被っておりその素顔はうかがい知ることが出来ないために、令嬢達の意見としては2つに分かれている。一つは絶世の美男子だ。そしてもう1つがその間逆である想像を絶するほどの醜悪さだ。
 自分達の父親にアピールするようにと婉曲に言われているため、その話題は大いに盛り上る。
 令嬢達も大半が自分達の婚姻は家の道具としての面が強いというのを理解しているために、仮面の下がどんな顔だろうと覚悟は出来ている。しかしそれでも凛々しい美丈夫を求めるのは少女としての思いだろう。
 そんな令嬢達の会話はやがてひと段落を迎えた。そのとき、1人の令嬢が穏やかに話しだした。

「それで皆さん……ちょっとした相談があるんですの」

 言い出したのは家柄的には最も高い家の息女だ。
 たとえ友人同士といっても家柄の差は少女達の中にも歴然とした順位を作り上げる。彼女達に他の令嬢の集まりのように厳しい上下階級が無いのはこの少女の性格によるところが大きいために、全員が慕っているほどだ。
 そのために即座に全員が聞く姿勢を取った。

「えっと、辺境侯にどなたが見初められたとしても、喧嘩せずにいきたいんですの」

 その言葉に含まれた意味を理解できないような令嬢はいない。令嬢達は微かに横目で仲間達をチラ見する。
 もし仮に辺境侯に見初められたら、その婚姻相手の家の地位は一気に上昇するのは確実である。そうなれば派閥の主導権をその家が取ったとしてもおかしいことは無いもない。そのために派閥間でも若干のぶつかり合いはあり、同派閥他家の娘の服装を一段低いものを強制する家だってある。
 事実、目を凝らせば、そういう令嬢の姿はあった。特に美しい娘ほどその傾向は強い。

「大丈夫ですわ。そんな人間はいません」

 少女の問いかけに優しく答えた令嬢がいた。そしてそれに賛同し、他の令嬢達も強い調子で頷く。
 無論、そこには何の根拠も無い。たとえ彼女が保証しても、家の都合ではそれは容易く破られるだろう。しかしそれでも今まで優しく扱ってきてくれた少女に恩返しをしたいという気持ちがそこにはあった。

「そうです。もしそんなことになったら、夫に言いつけます」
「まぁ」

 別の令嬢の発言に全員が破顔する。

「そうよね。夫に泣きつけばいいのよね」
「それはそうね」

 夫というのは言うまでも無くアインズ・ウール・ゴウン辺境侯である。かの人物に泣きつけば瞬時にそんな下らない家の対立はなくなるだろう。
 当たり前だ。帝国で指折りの大貴族、そして眉唾な噂ではあるが、それでも圧倒的な軍事力を持つ魔法使いに誰がおいそれと逆らえるものだろうか。

「私が選ばれたら、皆さんを側室に推薦しますわ」
「それは……難しいでしょうね。他の派閥の方を入れないと色々と問題になるでしょうし……。それに辺境侯としての家を強化するのであれば……そちらの方が賢いですし……」
 
 やがて互いの顔を見ながら、思いを述べる。誰が辺境侯に見初められたとしても喧嘩せずに、互いの家の協力を取り付けるように行動する、と。


 そんな会話を耳にして顔に微かに歪めているのは、その少女達の1人に懸想していた若き青年貴族だ。友人達から慰められるように肩に手を回されたりもするが、それを乱暴に払いのける。
 結局のところ、権力や家柄というのはなによりも大きな壁として存在する。
 好き、嫌いでどうこうなる世界ではないのだから。

 ■

「はぁ、綺麗ごとを言える家はいいわよね」

 小さくぼやいたのは額をでこっと出した少女だった。
 その左右には2人の少女が並んでいる。3人ともあまりパッとしない格好だ。服装は良い仕立てのものだが、何処と無く古臭い感じがする。それに彼女達は外見にあった色ともいえない。

「不味いよ、レーちゃん」
「……レーちゃんはよしなさいよ」
「ヴァネルラント公の集まりだよ。聞こえたら大変だって」
「はいはい」

 少女は髪を軽くかき上げる。金糸のような輝きがそこにはあった。

「はぁ。お父様も無理難題を言いつけてくるんだから。私が辺境侯に見初められる可能性なんて低いでしょうが……娘で博打うつなって言うの」
「で、でもレーちゃんなら選ばれる可能性はあると思うよ」
「うんなわけないでしょ」
「そんなこと無いよ。レーちゃんは凄い美人だもの。きっと選ばれるよ」

 その言葉は決してお世辞ではない。
 レーちゃんと呼ばれた少女は非常に美しかった。
 金の髪を後ろに流し、額を大きく出した髪形をしている。
 意志の強さを感じさせる瞳の色は赤に近い黒。盛り上がりに欠ける点が難点といえば難点だが、それ以外にマイナス点が付けられる場所は無い。

「レーちゃんはよしなさいって。って、さっきも言ったけど……」

 じろりと少女が半眼を送り、視線の先にいた少女がびくりと体を震わせる。

『でも私にとってレーちゃんはレーちゃんだから』

 二人の声が唱和する。レーちゃんといわれた少女はニヤリと笑い、レーちゃんと呼んでいた少女は驚きの表情を作る。

「あんたのパターンなんてお見通しよ。ふふふ」
「フェンドルス様。そろそろ終盤に入る頃です。良い位置に移動しておく必要があると思いますが?」

 冷静に声を上げたのはボブカットの少女だ。3人の中では最も身長が高く、低い2人と並んでいる所為でやたらと高く見える。

「……はぁ。親がお金使ってまで娘を潜り込ませたんだから、一応働いておかないと不味いか……。はぁー面倒。夢を見るのもそれぐらいにしておきなさいって」

 そこまでぼやいた少女はボブカットの少女に冷たい口調で言い切る。

「リズ。あんたもあれよ、うちみたいな没落貴族は見放した方がいいって、親に忠告しておきなさい」
「……フェンドルス様」

 リズと呼ばれたボブカットの少女はそれ以上何も言わず、眉を顰める。

「はいはい。暗い顔するのはやめ。取り敢えずは私達はこの辺で見てましょう」
「よろしいのですか? ここはあまり良いとは思えませんが?」
「落ちぶれ貴族が前に出て、いい場所を取ってたら不快に思う人は多いでしょ。やめておきましょうね、親に悪いけど」
「左様ですか……」
「はぁ。我が世の春よ、もう一度って考えてるみたいだけど……辺境侯か……」
「どうしたのレーちゃん?」
「うーん、おもいっきり得体が知れないわよね。王国軍を10万人一掃した大魔法使いらしいけど……」
「フェンドルス様は同じ魔法使いとして感じるところは無かったのですか? 凱旋を見に行かれたとは聞いておりましたが?」
「うん? そんなに便利な能力じゃないわよ、感知するって言ってもなんかつかめたらラッキーって言う程度のものだし、実際私は何にも感じなかったわね。それよりはドンだけ凄い宝石で身を飾っているのあの人っていう驚きの方が強かったし」

 少女は自分の目の前で手を左右に振る。それからしみじみと告げた。

「あの娘だったら辺境侯がどれぐらいの魔法使いか分かったんでしょうけどね」
「あ、レーちゃんの学校の友達?」
「そう。昔の友達。冒険者だかなんだかになっちゃった娘。今頃、どこで空を眺めているのかしらね」

 少女はぼんやりとした視線を部屋の一角に向けた。そこには真紅の絨毯が敷かれた階段が伸びており、その上はちょっとしたテラスのようになっていた。階段突き当たりはカーテンが垂れているが、その奥にさらに道が続いている。
 テラスに1人のでっぷりとした男が、見た目とは裏腹な、品の良い声を上げた。さほど大声を出していないというのにも関わらず、広い室内に響き渡る。
 呼んだのは貴族の名前だ。
 それに伴い、カーテンが開かれる。
 そこに立っていた2人の男女が集まっていた貴族達の様々な感情を含んだ視線を浴びながら、微笑みを浮かべ優雅に階段を降りはじめた。その男女が下まで降りきれば、再び貴族の名が呼ばれ、カーテンが開かれる。
 それを繰り返し、幾人もの貴族達が優雅にパーティー会場に入場していた。

「あ、生徒会長じゃない。あの人も来ているんだ」

 視線の先、ちょうど階段から降りてくる貴族の令嬢を見て、レーちゃんと呼ばれた少女は声を上げる。
 少女の通っている学校におけるトップの姿があったために純粋に驚いてだ。

「公爵家のご令嬢ですね」
「すっごーい、きれー」
「公爵家は結構上だから、そろそろ貴族たちの来場も終わりね」


 先ほどからふとった男──儀典官が呼び上げているのは、次に入場する貴族の名前だ。
 この順番こそが参加貴族の順位を示すものであり、後ろになればなるほどその貴族が高い地位についていることを証明している。これは基本的にどの国でも一緒ではあるが、帝国においてはもう1つだけルールが存在していた。
 それは皇帝の評価だ。
 つまりは皇帝の覚えがよければ、同程度の地位でも後ろに回され、場合によっては爵位を超える時もありえた。
 同じ爵位でも明確な順番がそこにあるということ、そしてその順番を他の貴族達の前で公表するということは、貴族の自尊心を満足させる働きがある。
 事実、いま呼ばれた貴族とその供である夫人の目には僅かな優越感があった。しかし2人が階段を下りる頃、次なる貴族の名前が呼ばれることで、彼らの瞳に宿っていた感情は塗り替えられ、微かな嫉妬を抱くのだが。


 呼ばれた貴族の爵位と名前を聞き、粗方入場が終わったことを悟った少女は舞踏会場で一段高くなった場所に目を向ける。
 テーブルと何席ものイスが置かれており、四隅を唯一武装した騎士達が守っている。最強と名高い、帝国四騎士が守るその場所はいうまでもなく皇帝たる人物が座す席だ。
 しかし、そこに腰掛けている者はいない。

 通常、主催者であれば最初にここに来て、招いた客を歓迎するのが普通である。しかし絶対的な権力を持つ、皇帝に関しては話は別だ。皇帝こそ最後に呼ばれる名前である。

 儀典官が身なりを正すのを見た少女は連れの2人に声をかける。

「そろそろ辺境侯の来場よ」

 その少女の考えは集まっていた全ての貴族達が擁いていたものであり、全員の視線が階段に向けられる。しかし、結果として予測は外れる。
 儀典官が上げた名前は辺境侯のものではなかったためだ。

「皆様。リ・エスティーゼ王国使者のイブル侯爵とそのお連れの方々のご来場になります」

 ざわりと微かな困惑が貴族達の中を走った。

「あれ? 違うみたいだけど……どうしてみんな驚いているの?」

 少女は問いかけに呆れた表情を作った。それから自身の眉の間を乱暴に揉み解しながら答える。

「少しぐらい宮廷のことについても知っておきなさいよ。一応は貴族家なんだから……。いい? まだ辺境侯が呼ばれて無いにも関わらず、国賓を入れるのよ? 帝国は辺境侯を他国よりも上に見なしていると公言しているようなものじゃない」
「常識で考えれば、ありえない判断です」
「でもそれしかないんだろうから……信じられないわね……」

 少女の呟きは集まった貴族たち、皆が抱いたものだ。
 自国の貴族を他国より重視すると内外に発表するような国は通常はありえない。それが当たり前である。
 しかし、そうではないのだ。
 つまりは辺境侯──アインズ・ウール・ゴウン侯を、帝国皇帝ジルクニフがどれだけ重要視しているかの証明であり、齧りつけば涎が垂れ落ちるほどの地位を持つということの証明である。
 貴族達の殆ど、特に意味が分かる女達の目に真剣な炎が強く宿った。父親などが小さい声で発破をかけている例だってあった。

 国賓もまた帝国がどの順番で重視しているということを証明している。つまりは最初に呼ばれた国であるリ・エスティーゼ王国は周辺国家では最も下に見ていると言うことだ。

 微笑みの形に顔を固定した使者が、幾人もの連れと来場する。
 彼らからすれば見世物の気分であり、決して気分は良くは無いだろう。しかし、皇帝からの招きであり、様々な貴族と会えるチャンスを逃すほど愚かではない。
 そんな色々なものを混ぜこぜにした感情が、笑顔の下にあった。

 それから幾多の国賓が呼ばれ、最後がスレイン法国の使者達だった。
 カーテンの後ろから入ってきたのは3人だ。先頭にスレイン法国の典儀に使われる法衣を着用した使者。そしてその後ろには2人の護衛官を従えていた。
 法国からの使者が入場する姿を見た貴族達がざわめく。大きく動いたのは帝国4騎士だ。その動きにあるのは困惑でもあり、驚愕でもあり、そして警戒だった。
 確かに使者の法衣は見事ではあるが、空気が変貌するほどのものではない。貴族達が注視しているのは後ろに控える2人の護衛官だ。

 1人は屈強な男であった。
 厚い胸板、太い腕。日に焼けた顔には満面の笑顔が浮かんでいた。
 そしてもう1人はスラリとした美青年だ。柔らかな笑顔を浮かべている。
 両者とも派手なところは無く、変わったところは無い。しかし、見るだけで普通の人間とは違うものを感じさせた。ある種の強者が放つ、人を引き付けるような魅力を。
 彼らはすたすたと気取ることなく階段を降り、会場の片隅に位置どる。

 国賓の来場が終わり、貴族達は次こそが辺境侯の入場だろうと階段上を見上げ、儀典官の顔に緊張が浮かんでいるのを見つける。
 それに疑問を抱くよりも早く、ありえない人物の名前が呼ばれた。

「バハルス帝国皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス陛下のご来場です」

 貴族達の困惑は一気に膨らむ。いまだ登場してない貴族を思ってであり、皇帝の横に並ぶ女性を眼にしてだ。
 慌てたように貴族達が頭を下げる中、貧しいともいえるような質素な格好をした女性を連れたジルクニフが階段を優雅に下りる。
 内縁の妻と目される女性が公の場に出ることは滅多に無い。それは出身地位が低いことが理由の1つであり、他の理由はその容姿に起因する。
 この場に集まった婦人達と比較すればよく分かる。下から数えた方が早い容姿だ。彼女が着飾っていないのは、見事な衣装ではその容姿がより一層悪く見えてしまうからだ。
 女性達の瞳に蔑みの色が浮かぶが、皇帝に近い地位に座る貴族達の瞳にはそれは無い。その女性が決して容姿で皇帝に選ばれた人物ではないためだ。

 かつて1人の貴族が問いかけたことがある。何故、彼女を選んだのかと。
 それに対してジルクニフはこう告げた。
「美しいだけの女ならば幾らでもいるし、欲しいだけ集められる。しかし子供を──将来の皇帝を育てられる女は少ない。あれはそれが出来る珍しい女だ。それに自分の子供は容姿が劣る可能性があるから、美しい女との間に美しい子供を作れ。自分が立派に育ててやると言う女だぞ? 外見だけで、頭が空っぽな女よりも何倍も面白いな」と。
 実際、公ではないにせよ、政治のことに関与できるジルクニフの手の付いた女は彼女しかいなかった。

 2人はそのまま進むと壇上の席に座る。合図をテラスに立つ男に送った。
 それはまだ入ってくる人物がいると言うことの証明。つまりはジルクニフ──帝国の頂点に立つ男が、帝国の貴族の一員たる辺境侯を主催者として歓迎しようとしていることを意味している。
 それがどれほどのことか理解できない貴族は極少数を除いていない。

 そして声が上げられる。

「皆様、これよりアインズ・ウール・ゴウン辺境侯のご来場となります」





 辺境侯の登場を待ち望んでいた貴族達は、己の目を疑った。姿を見せたのが謎の貴族ではなく、6人の女性たちだったためだ。
 彼女達が何者か。それはその身に纏う服が雄弁に語っている。

 メイドである。
 彼女達が着ている服はメイド服と呼ばれるものに酷似していた。決して貴族が社交界で着るものではない。そんな彼女たちがその場にいることはあまりにも場違いなはずだった。しかしその光景を目にする誰もがその言葉を発することが出来ない。
 脳の冷静な部分はこれがありえないことだと、叫び声を上げている。
 通常メイドのような地位の低い者が、階段の上に姿を見せることはありえない。貴族を下に見るとことが──こういった場で──許されるはずが無いからだ。

 しかし――しかしだ。
 声を上げることが出来るだろうか。

 その圧倒的な美を前に。

 どんな貴族のどんな血を引く女よりも美しい顔立ちをした娘達。それも姉妹などの血縁ではなく、それぞれが違った美を放った6人の美姫。彼女たちほどの美しい女性であれば、メイド服を着ていたとしても貴族と同等の扱いをしても良いのではないだろうか。そんな思いすら込み上げる。

 美しい女は見てきた。そして抱いてきた。そういった男であっても、これほど美しい女たちが一同に会した光景を目にしたことは無い。
 自分の美貌に自信を持つ女達は、自分が完全に敗北したことに対して嫉妬の念は起こらなかった。何故なら、超一級の芸術家がクリスタルを削りだして作り出した美に負けたとして、何の悔しさが生じるだろうか。既に基礎の段階で勝敗は付いているのだから。

 その場に集まった貴族達は息を飲み、美しさを少しでも目に焼き付けようと、6人の女性をただ黙って眺める。
 恐らくはこの場にいたのが単なる平民であれば、ここまでの反応は示さなかったであろう。しかしながらこの場にいるのは美しいものに見慣れてきた審美眼確かな貴族達である。そのために衝撃は平民よりも遙かに大きかった。

 楽団ですら演奏することを忘れてしまい、静寂の場と変わった会場へ、メイドたちはゆっくりと左右に並んで階段を降りはじめる。ただし、かなりの間隔を開けて、だ。
 2人のメイドが階段下まで降りたのに対し、次の2人のメイドは階段中腹。そして残りの2人のメイドは最初の位置から一切動いてなかった。
 その奇怪な行動はメイドたちが、その手に真紅の絨毯を持っていることで氷解される。

 並んでいたメイドたちが左右に別れて絨毯を広げると、階段にそれが敷かれた。
 その次に互いあわせに向き直ると、背筋を伸ばし、綺麗な姿勢で頭を垂れる。それはまさに主人の登場を待つ、メイドの見事な姿である。

 顔が隠れたことで魔法が途切れたように──一部の貴族達はいまだ視線を外せなく、人によっては臀部などに視線を釘つけにしているが──貴族達の視線が動き、新たに姿を表した男女を捕らえる。
 1人は見事なまでに美しい、純白のタキシードでスラリとした肢体を纏った男だ。
 白金を使っていると思わせる輝きを放ち、汚れは当然のように無い。一着で大貴族一族の一年の生活を支えることすら余裕であろう服だ。
 その顔はやはり仮面に隠れているが、その人物こそ辺境侯であるのは明白だ。

 ただし、本来であればこの場の支配者になるべき人物であったが、この瞬間においては添え物にしか思われなかった。
 その横に並ぶ銀髪の女性。いやもっと年若く、成人になったばかり程度の年齢に思われた少女の存在があるためだ。

 それは女王──支配者の雰囲気を漂わせる少女だった。
 距離があるというにも関わらず、その顔に傲慢な、そして真紅の瞳には嘲りの感情が浮かんでいるのが感じ取れる。しかしそれが少女にはそれが非常に似合っていた。

「おおぉ!」

 幾人かの貴族達がうめき声を上げた。
 全てを下に見下す1人の女王が、視線が隣に立つ辺境侯に動いた瞬間、1人の可憐な少女へと変わったためだ。
 それは男として羨望したくなる視線だった。自分には決して向けられない、辺境侯のみに向けられる感情をそこに感じ取り、幾人もの男が嫉妬の念を抱く。

 思わず頭を垂れたくなるような2人組み──特に少女の方──が、真紅の絨毯が敷かれた階段をゆっくりと降りはじめる。少女が辺境侯に手を預けながら降りてくる光景は、まさに女王の降臨を思わせた。
 そして2人が通り過ぎると、メイドも頭を上げて、その後ろを静々と歩き始める。
 1人の女王と男、そして美しい6人のメイドからなる一行が階段の下まで降りた。

 基本、こういった場にあっては、男が女の替え添えに回る場合は多い。それは男と女、どちらが派手で金の掛かった服を着ているかを見るだけで一目瞭然だろう。だからこそ、男1人でこういった会場に来る者は無く、必ずパートナーを見繕うのが基本だ。勿論、例外はいないわけでもないが。
 ただ、だからといって男が下に見られるなどのことは絶対にありえない無い。
 こういった集まりでの際、女というのは男の身を飾る宝石のようなもの。女が輝けば輝くほど、それを連れた男の力を誇示する面がある。女の美しさも、男の代理戦争の一面に過ぎないのだ。

 だからこそ全ての貴族達が理解する。

 辺境侯という男が──これ以上無い宝石でそれも無数に身に飾っているということが、どの貴族もが足元に及ばないだけの力を持つと言うこと。
 幾人もの貴族達が男としての敗北を知り、目線を下げた。

 貴族達が道を作る中、辺境侯の一団はゆっくりと歩き出す。向かった先で座していたジルクニフがゆっくりと立ち上がると、壇上から降りる。
 そして柔らかい笑顔と共に両腕を広げた。

「良く来てくれたな、我が友。アインズよ」

 まるでその辺りの貴族が友人を迎え入れるような、そんな気楽な態度であった。対して辺境侯も答える。

「招いてくれて嬉しいよ。ジルクニフ」

 互いに抱き合い、軽く背中を叩く。それは貴族としての態度ではなく、男友達の姿だった。
 その光景に貴族達がジルクニフの言いたいこと、そして見せたいことを十分に理解した。

「さぁ、最も大切な友人も来たことだし、舞踏会を始めよう」

 そのジルクニフの声に我に返り、楽団が曲を奏で始め、静かなざわめきが戻りだす。しかしながら、殆どの者の目が、壇上の席に腰掛ける4人とその後ろに付き従う6人のメイドたちから離れることは無かった。



「かはっ」

 同じ部隊に所属する仲間が息を吐き出す。それはまるで溺れていた者がようやく水面に上がったときにあげるものと酷似していた。
 見事な体躯を持つ、漆黒聖典第7席次『巨壁万軍』エドガール・ククフ・ボ-マルシェは仲間の背中をその分厚い手で叩く。

「おいおい、大丈夫か? こんなところでマウス・トゥ・マウスはしたくはないぞ」

 並びの良い白い歯をむき出しに笑うエドガールに対し、男は苦笑いを浮かべるだけだった。その微妙な笑いに真剣なものを感じ取り、エドガールも表情を真剣なものへと変える。

「……それで辺境侯の強さはどんなもんだった?」

 漆黒聖典最下位の席次――つまりは最弱の――第11席次である彼が、ある意味危険な場所であるここに連れてこられた理由はたった1つだ。その彼の特殊な力を期待してである。

「その前に……あの6人のメイドだ」
「ほほぉお。あの美女たちか。なんだ、惚れたか? そりゃ確かに国でも見ないような……」そこまで軽口を叩いた辺りで、仲間の顔に浮かぶ真剣な表情にもはや完全に冗談を言える空気ではないと悟る。「……あれがどうした?」
「私たちよりも強い」

 言葉を溢そうとし、それを飲み込む。数度繰り返してエドガールは問いかけた。

「おいおい……本気か? あの娘っこたちがか? ……いや、嘘のはずが無いわな。そいつがお前の力だし、冗談を言う性格ではないからな。しかし……あれがか……それにしても6人全員がか? 1人ぐらいだよな?」

 一握りの期待を込めての問いかけは即座に否定される。エドガールは天を仰ぐ。


 漆黒聖典。
 それは11人からなるスレイン法国最強の特務部隊の名である。
 彼らを知る者は、大抵が暗殺部隊だと思っているが、実のところは違う。
 彼らは人類最強の守り手である。当然、守るべき対象は人類というか弱き種族である。
 600年も昔、強大な他種族との生存競争に敗れ、滅びつつあった人間種族を救った神々――6大神の教えを強く体現した存在である彼らは、自分たちこそ人類最強であるという自負を抱いて、今なお上を目指して鍛錬を積んできている。
 かの周辺国家最強の戦士ガゼフ・ストロノーフ。彼が最強と言われるのはあくまでも漆黒聖典の者達が表舞台に出ないためにしかすぎない。もし仮に出れば最強の座は容易く奪えるだろうと、彼らは考えており、そしてそれは事実でもあった。
 流石にフールーダに匹敵する魔法使いはいないが、並ぶだけの――第六位階の魔法を使用可能な――神官などが極秘ではあるが、所属しているほどだ。

 特別な例外を除き、彼らに勝てる人間はいないはずだった。
 そんな漆黒聖典のメンバーを容易く越える存在が幾人も出てくれば、その衝撃は信じられないほど大きい。


「そしてあの少女」
「ふむ」

 もう何を言われても動揺しない。そういった意気込みは彼の話を聞いて一瞬で吹き飛ぶ。

「あの少女は私達の隊長なみに強い」
「……だと! それはまさか……ありえん……いや、こればっかりは信じられん……」

 嘘の筈は無いと理性が叫ぶが、感情が信じてくれない。こればかりは同僚の誰に聞いたとしても信じるものがいないだろう。漆黒聖典最強の存在たる第1席次。つまりは6大神の血を覚醒させた唯一の存在。竜王と対等に戦える存在と同格だというのだから。
 それもあんなに美しい少女が。
 エドガールは必死に感情を押し殺す。今重要なのは冷静な思考であり、凝り固まった考え方ではない。それに縛られてはすべき任務を見失う。

「……もしやあの少女も神人か?」
「その可能性が無いとは言い切れないが……真なる竜王の可能性だってある」
「500年の――世界盟約を破ってだと? いやそうか。確かに、この状況下ではまだ盟約は破られていないな」

 エドガールは眉を潜める。世界を汚す猛毒に対する同盟。スレイン法国がかたくなに守る最強の契約。それが最悪な事態でも破られて無いと知って。
 
「エドガール。少しだけ注意して欲しいんだが、彼女と隊長。どちらが強いかまでは分からないんだ。両者とも私より桁外れに強いと感じ取れる程度で……」
「そうだったな……」

 小銭しか使ったことがない者では、9億と10億どちらも大金としか思えないようなものだ。その微妙なニュアンスを上手く受け取り、エドガールは頷く。ただ、どうにせよ。あの少女は容易く国を滅ぼせるような存在だということだ。

「それで辺境侯も隊長なみに強いのか?」

 仲間が困ったように表情を歪める。その微妙な表情にエドガールは困惑した。普通に考えればあれほどの強さを持つ少女を連れているのだから、同格程度の力を持っていてもおかしくはない。何を迷う必要があるのだろう。

「どうした?」
「いや……実は全然強さを感じなかったんだ」

 疑問を抱き、首を傾げる。

「それは一体いかなるわけだ?」
「辺境侯が影武者を出している。辺境侯は何らかの手段で強さを隠している。実は辺境侯は強くない」

 男が指折りながら可能性を羅列していく。

「最後はありえんだろ? 10万を超える軍勢を殺しつくしたと言うし、実際、その光景は騎士に潜り込んだ風花の人間が見ているのだろ?」
「マジックアイテムと言う線がある」
「ああ、なるほど。規格外品。神々の残せしアイテムか」

 うんうんとエドガールは頷く。

「それ以外に実はあの少女の方が本命という可能性だってあるだろ?」
「ふむー。ちと良くわからんな。その辺は頭脳担当の仕事だ。取り敢えずはまだ情報が不足している以上、辺境侯に接触を持ったりアクションを起こしたりするのはやめたほうが良さそうだな。というか隊長なみにあの少女が強いと聞いて、金玉がきゅうっと縮み上がったぞ」
「それは悪かったな」

 顔を顰めた友ににやりと男らしい笑いを向けると、エドガールはジルクニフと話しているアインズ・ウール・ゴウンを眺める。

「さて。その仮面の下はどんな顔をしていることやら」



 ジルクニフはまさに完璧なホストであった。
 というのも話が上手く、面白い。
 身近な題材を会話のネタにしながらも、引き込まれるような話の展開や描写だ。そして上手いタイミングでこちらにも話を振って、会話を引き出してくる。本来であればそのまま何時までも話をしていたかったが、完全にのめり込めなかったのは、これから待っているダンスのためだ。
 それを考えるだけで胃が痛い。
 勿論、アインズに胃は無いのだから、そんなのは気のせいである。気持ち悪いのも緊張などの所為ではなく、気のせいである。

 そんなのは嘘だ!

 アインズは叫びたい衝動に駆られる。胃がむかむかとし、きりきりと痛みが走っているのに、これがアインズの思いこみであるはずがない。
 それともこれが幻肢痛と呼ばれる奴なのだろうか。
 恐らくは残滓のごとくある、人間の精神が緊張のあまりに叫び声を上げているのだろう。
 これほど多く集まった観客の前で踊るなど、どんな拷問なのか。仮面の下で視線を動かし貴族達を眺めれば、談話をしながらアインズたちに注意を払っているのが丸分かりだった。
 恐怖公の監修の下、ダンスの練習はみっちりと積んだ。
 アンデッドであるアインズもシャルティアも、休息や睡眠といったものが必要でないために短い時間ではあったが、その内容は非常に濃い。数日の訓練は、普通の人間であれば数週間にも匹敵するものだっただろう。
 それだけの訓練をこなしたために「人事尽くして天命を待つ」と言う言葉があるが、ここに来るまでのアインズの心境はそんな感じだった。それだけの自信と僅かな諦めがあった。
 しかし、こうして貴族達を前にすると不安がこみ上げる。
 アンデッドであるために、精神の大きな変動は抑止される。しかし、その波が連続して起こる場合は完全な抑止が不可能。

 アインズはちらりとシャルティアに視線をやる。シャルティアがどのようにしているかで自らの不安を紛らわせようというのだ。

 視線を送った先でアインズは頭を抱え込みたくなる気分に襲われる。

 アインズのホストがジルクニフなら、シャルティアのホストはジルクニフが連れた女性──名前はロクシーというらしい──である。そのロクシーが幾度もシャルティアに話しかけているのだが、冷笑を浮かべて軽く流す程度を繰り返している。
 人間ごときと馴れ合う意志を持たない。そんな態度が完全に読み取れた。

 確かにペロロンチーノと言うアインズの友人である男に創造された、ナザリック大地下墳墓の守護者シャルティア・ブラッドフォールンとしては正しい態度なのかもしれない。それに対してアインズは強く言うことはできない。
 しかし帝国の辺境侯アインズ・ウール・ゴウンのダンスパートナーとしては失格な対応だとしかいえない。

 アインズはコツンとテーブルを叩く。
 手袋で包まれてはいるが、アインズの骨の指が鋼鉄よりも強固な硬さを持つために、意外に良い音が響く。
 その瞬間、後ろに控えていたメイドたち、そしてシャルティアの視線が集まった。何時の間にか直ぐ後ろまで控えたメイド──ユリを下がらせ、シャルティアに軽く顔を向ける。

「シャルティア。私に恥をかかせるな」

 シャルティアは何も言わずに頭を軽く下げると、満面の笑顔を浮かべた。それはまさに夜薔薇が咲き乱れるような光景を幻視できそうな美しさだった。
 
 シャルティアの微笑を目にした貴族達の一部から「ふわー」とかいう気持ち悪い類の声が起きたり、「ぎぎぎ」などという歯軋りと殺意の視線がアインズに向けられたりもするが、ジルクニフが頭を抱えていることだし、この際それらは無視する。

「失礼いたしました。ロクシー様。ちょっと入場までにお時間があったもので、すねてしまいましたわ。大人気なかったですよね」
「いえ、そんなことはありません、シャルティア様。私もその気分は本当に良く分かりますわ」

 少しばかり背伸びした──演技だが──少女と、大人の女性の穏やかな会話が始まる。
 それを聞きながら――

 シャルティア、すげぇ。

 ――アインズはそんなことを思いながらも決して態度には出さない。代わりに軽くため息をつくと、微笑を浮かべながら見つめてくる──ただ目の奥が笑ってない気がする──ジルクニフに話しかけた。

「シャルティアが失礼したね、ジルクニフ」
「いや、なんでもないさ。確かに長く待たせたことは事実だ。今度はもう少し考えるとしよう」
「いや、いや。シャルティアの我が侭に過ぎないとも。気にしないでくれ」
「そうかい、それは嬉しいな。それでこれから主賓に代表して踊って欲しいのだが……本来は私達も一緒に踊るのが基本なんだが……」
「ああ、言いたいことは分かっているとも。今回は私達だけで踊らせてもらうよ」

 アインズはそう告げると、ゆっくりと立ち上がる。後ろに控えていたユリがイスを動かした。

「シャルティア」
「はい。アインズ様」

 頬を微かに赤らめたシャルティアの手を引き、ゆっくりと立ち上がらせる。アインズは無数の凝視をその身に浴びながら舞踏会場の中央へと歩く。
 突然、楽団が奏でる曲が変わった。
 彼らが真剣という表情を通り越し、必死に奏でる姿は失敗した場合何が起こるかを知っての形相だ。

 流れ出した曲は静かな曲であった。
 アインズは何気ない態度で見渡し、この曲に奇妙な反応を示す者がいないか、確認する。
 貴族達ははじめて聴く音楽に首を傾げていた。帝国で一般的に奏でられる曲とは完全に違った系統だ。幾人かはあまり良い反応を示していないが、こういったものには個人の好みというものがある。
 デスメタルを最高だという者がいれば、クラシックしか聴きたくないという者だっているということだ。

 アインズは微かな笑いをかみ殺す。
 どこの世界にこんな曲でダンスをする者がいるのだろうと。

 会場に流れる曲こそ、ユグドラシルのゲームサウンドだ。

 ユグドラシルもサウンドを搭載しており、場所に応じた曲が響く作りとなっている。しかし、モンスターの移動音など細かなサウンドエフェクトも同時に存在するために、音楽を聞くことによって重要な音を聞き逃すことを嫌う人間は非常に多い。
 そのためにユグドラシルの音楽は聞く者が殆どいない、誰もいない辺境を旅する際に暇つぶし程度に聞くという程度の扱いでしかなかった。アイテムとの抱き合わせ販売のミュージックデータ集で初めて聞いたという人間は多いほどだ。

 アインズはシャルティアの手を引いて、部屋の中央に出る。そして音楽に合せて、シャルティアと踊り始める。
 この曲を恐怖公が選んだのは、帝国で一般的に使用されている曲では、ダンスの荒さがばれる可能性があると考えてだ。今までに聞いたことが無い曲であり、かなり違った形式の踊りであれば、致命的な失敗さえ見せなければ、そういったものと誤魔化されるだろうからだ。
 アインズは恐怖公に言われたことを思い出しながら、動く。

 もっとも重要なのは姿勢。指の伸ばし方や顔の動かし方。そういった細部こそが重要なのだ。大きく派手な動きも目を引くが、それはこじんまりとした程度でなければ良い。逆に練習の度合いが足りない場合、派手は動きは雑に見える。
 
 アインズはシャルティアと優雅──水面下では必死に足をばたつかせているが──に踊る。
 幾度も──いや幾百度も練習した動きを。



「あれはどこの舞踊の礼法なのですかな? 何かの決まった流れがあるように見受けられますが……」
「さて……浅学でして……。この曲も聴いたことが無いですな」
「辺境侯のご出身の地の曲では?」
「でしょうな。奇怪……といっては失礼ですが、変わった曲ですな」
「そうですか? 私はこの静かな感じが好きですがね」

 幾人かの貴族達がアインズの踊りを眺めながら、小さい声で呟きあう。一挙一動を見逃さないような鋭いものをその瞳に浮かべて。
 十分に観察し、1人の貴族がこぼす。

「なるほど。やはり貴族の礼儀はご存じの様子」

 曲もダンスも何処か見慣れないものでは在ったが、それでも練習を積んだ動きかどうかぐらいの判別はつく。彼らの判断ではアインズの動きは十分にダンスに触れたことをある者のものとしか思えなかった。
 確かに厳しい目で見れば拙い部分もあるとは言えよう。しかし、そこまで厳しく見る必要もない。実際、彼らだってそこまで上手く踊れる自信はないのだから。
 この場で最も重要なのはそういった教育、つまりは貴族社会の生き方を知っているかどうかだ。
 そしてそれが合格と見なした貴族達は続く手段に思いをはせる。
 
「ふむふむ。であれば……辺境侯とお話する際はこちらも油断は出来ませんな」
「全く。貴族としての礼儀を知らないもので在れば、言葉での戦いで勝てると思っておりましたが……かの御仁はその辺りも修めているご様子」
「隙が無いとは……流石は辺境侯と称えるべきでしょうかね?」
「まさにおっしゃるとおりです。しかし……厄介ですな」
「何がですか?」
「彼女ですよ。辺境侯のダンスパートナーを務めている」
「……年齢の割に胸が大きいですな。のわりに動きがダイナミック。下着を着ていてあれだというのであれば、作り物のにおいが――」

 1人の貴族のことを視界の外に追いやり、その場に集まっていた貴族は静かに話し合う。

「あれほどの女性を連れてこられるとは……困ったものです」
「然り。あれほどの美貌を持つ女性を側に控えられては……なんとも……。親の欲目を入れたとしても私の娘では彼女には勝てませんな。侯爵様のご息女では?」
「無理を言わないで欲しい。あの少女には勝てませんよ」
「そればかりか、あのメイド達。辺境侯と婚姻関係を結ぶのはかなり難しいですな。見てください、女達の諦めきった顔」
「まぁ、こればかりは仕方がないでしょう。一踊りされた後の辺境侯に、ダンスを申し込む際はあれだけいる美姫たちと比較されることは確実。確実な敗北に飛び込み、更にそれが嘲笑のタネになるなど、女性からすれば我慢出来ないでしょうな」
「しかし、あの少女とはやはり婚姻を結ばれているのでしょうかね? どなたかあの少女について何か知っておられる方はおりますか?」

 全員が顔を横に振った。

「情報を集めた方がよいですな」
「ええ。しかし……あれほどの美少女であれば噂ぐらいは耳に入っても良いはず。この曲といい、辺境侯はやはり遠方の国から来られたのかな?」
「もしくは昔から外に出さずに、自分の手元で育て上げていたという可能性もありますぞ」
「掌中の珠ですか。まぁ、あれほどの少女であればその価値はありますな」
「……しかし、あれほどの美しい女性……夜闇の女神というべき少女がどこのどなたなのか。せめてお名前ぐらいは聞かせて欲しいものです」

 美に対して懇願するような、そんな熱い感情を滲ませた青年貴族の言葉に、年いった貴族達は苦笑いを浮かべる。
 彼の心を支配する少女への思いを理解して。ただそれはあまりにも不味い。
 辺境侯の連れた女性を称えるのは良くても、彼の感情はその先までがある。辺境侯を不快にさせる可能性の高いものが。しかし止める気はなかった。派閥内でも権力闘争はあるし、誰かがミスをすればそれを踏み台にするチャンスも生じる。
 1人の若手貴族を失うことがさほどの犠牲ではないのであれば、必要な犠牲ですむ。
 互いの目の奥に宿る物を読みとり、他の貴族達は彼を焚きつけようと話し始めた。


 ただ1人、シャルティアに視線を動かし、ぽつりと言葉をこぼす貴族がいた。

「魔性の美か……。恐ろしいな……」

 その貴族は真紅の瞳が自分を射抜くように動いた気がして、身を震わせると人混みに隠れるように移動していった。

 ■

 一度の失敗もせずに、アインズとシャルティアはダンスを終える。万雷の喝采を全身に浴びながら、アインズは仮面の下を拭いたくてしょうがなかった。もちろん、アンデッドであるために新陳代謝は無いが、それでもべっとりと汗で濡れているような気がしてたまらない。それだけプレッシャーを感じていたのだろう。
 アインズは安堵の息を軽く吐き出しつつ、再び用意されている席へと戻る。
 そこではジルクニフとロクシーも笑顔で拍手していた。

「お見事でした」
「全くだよ、アインズ。素晴らしいダンスだった。それにそちらのレディも」
「ありがとうございます」

 シャルティアがスカートの端を軽く持ち上げ、無邪気な少女が浮かべそうな無垢な笑顔を見せる。さきほどから思っていたことだが、改めてアインズは思う。まるで別人だ、と。
 二人が席を座るやいなや、ジルクニフが問いかけてくる。

「それでは悪いんだが、そろそろ貴族に君を紹介したいんだ。共についてきてくれるかね? 多くの者達が君と話したいとうずうずしているようでね」
「もちろんだとも。同じ帝国貴族と面識を持つのは重要だからね」

 アインズは一も二もなく頷く。
 恐怖公とアルシェ。二人から聞いたこういったパーティーの基本を思い出す。
 これから始まるのは自己紹介を兼ねた顔つなぎだ。
 本来であればパーティーの主催であり、貴族との面会で多忙のはずのジルクニフが先導する例はあまりないそうだが、そうでないところをみるとそれだけ重要視してくれているのだろう。

 友人になろうというのは本気だったのかもなぁ。

 アインズはジルクニフの心配りを嬉しく思う。ただ――アインズは目だけを動かして、こちらを伺っている貴族達を眺める。どれだけの時間がかかるのだろう。仮に1人数分だとしても時間単位でかかることは間違いがない。アンデッドであるために疲労はもはや縁の無い言葉だが、それでも顔を顰めたくもなる。

 本当に名刺無しにどうやって彼らは名前と顔を覚えているんだ?
 
 アインズは既にその疑問の答えを得ている。アルシェ曰く「顔と名前の記憶は貴族の必須技能ですから」とのことだ。そうアインズが考えている間に、ジルクニフに続いてロクシーまでもが立ち上がる準備を始める。
 仮面を被っているために表情が読まれたわけではないが、微妙な空気を読みとったのか、説明するようにジルクニフが告げる。

「女性の方もいるからね。私と君以外にも女性がいた方が良いだろからさ」
「……そういうものかね?」
「そういうものだとも。シャルティア嬢は君にとってどんな関係と言うことでよいのかね? 婚姻相手などであれば共に連れ立って歩くべきだろうし、そうでないのであればあまり一緒に来て欲しくはないんだ。悪いね」
「ふむ……」

 それが貴族社会の礼儀だとしたら、婚姻関係でも無いシャルティアを連れて行くことは不味いだろう。
 アインズとシャルティアは互いに目を交わせ、それからアインズが小さく頷いた。

「畏まりました。では私はこちらで待っております」
「すまないな」
「いえ、滅相もございません。アインズ様はごゆるりと」

 アインズはシャルティアに軽く手を挙げ、挨拶を送ると二人と連れだって壇を降りる。後ろからは壇の周囲を守っていた武装した兵士達が追従する。
 
 確か、帝国4騎士とか言ったか。

 そんなことを頭の片隅で思い出し、それを振り払う。いま考えねばならないことは、もっと重要なこと。こういった場で注意しなければならないことだ。
 ジルクニフに先導されながら、アインズは必死に思い出す。

 最重要なのは言質を取られないことだ。
 こういった大勢の前での言質を取られるのは、時には厄介な事態を引き起こし、場合によっては辺境侯はその程度の人間だと侮られる可能性に繋がる。
 御しやすいと思われるのはアインズとしても癪だ。
 アインズは仮面の下で貴族達を睨む。

 ここから始まるのはアインズの不得意な場での戦い。
 ただし、敗北はナザリックの名を傷つけることとなる。

 アインズはダンスの成功で緩んだ兜の緒をしっかりと締めた。
 


 顔ごと動かして、シャルティアはアインズの後ろ姿を追う。今もジルクニフを仲介に白髪の老人と会話している。話が弾んでいると言うより、互いの腹を探って上辺での挨拶をしているようだった。
 しかし、そのために深くまで話が入り込まず、別れの挨拶を始めている。
 これで何十人目だろうか。
 すこしづつアインズの動きに精細が欠けてきたような感じがした。これはずっと後ろを眺めてきた――身近に控える存在だから気が付いたのだろう。

「アインズ様もお疲れのご様子。何かしてこちらに戻ってきていただいた方がよろしいかしら」

 シャルティアは唇に指を当て、ボンヤリと呟く。そんな時――

「失礼します」

 シャルティアの前に1人の貴族が進み出た。
 髪は金色。瞳の色は青。整った顔立ちに見事な衣装を纏っている。身長は高く、すらりと伸びた肢体は鍛えられた雰囲気があった。
 青年貴族が優雅に会釈をする。それに対してシャルティアも静かに微笑む。
 興味はこれっぽちも無かったが、自らの崇拝している主人の意志を受け止め、それはおくびもださない。
 シャルティアの微笑みを受けて微かに頬を赤らめた貴族が問いかけてくる。

「お手をお借りしても?」

 つまりはダンスに自分を誘っているのだ。
 ――この私を?
 シャルティアは内心で嘲笑する。
 ――人間ごときが?
 この私の手に触れたいと?

「――くきっ」

 思わずシャルティアの口から奇怪な音が漏れてしまった。一瞬、青年貴族の表にも僅かな困惑の色が浮かんだようだった。しかしそれを誤魔化す気はなかった。

 ――バカめ。
 この身に触れることが許されるのは至高の方々のみ。いや、まぁナザリックの仲間やシモベも許してあげましょう。ただ、それはゴミには許されない行為。
 殺すか? 右手を軽く振るだけで終わる。
 いやここで殺すのはアインズ様をご不快に思わせる。それは絶対に避けなくては。

 シャルティアは顔を動かさないように、周囲の目を伺う。
 視線が幾つも集まって来ている。それがシャルティアにどのような手に出ればよいのかを迷わせる。

 ここで騒ぎが起こっているの皇帝は知っている筈。
 にも係わらず主催である男が何故、動かない? これ自体が何かの理由がある? ……面倒だな。
 
 邪魔をする人間であれば殺せばよい。しかしここではそれは出来ない。
 だが、本当に出来ないのだろうか。自分の今の立場は人間を1人殺すことすら許されない地位なのだろうか。
 シャルティアの目が細まると、その視線を遮るようにユリ・アルファがその貴族の前にすっと立った。そればかりか、シャルティアの身近に他のメイドが近寄ってきている。

「シャルティア様はご遠慮したいとおっしゃっております。お下がり下さい」
「シャルティア嬢か良い名だ。さて、彼女は何もおっしゃってはいないと思うのだが。下がるのは君の方だろう。メイド風情が」

 思わず、シャルティアは嗤う。
 ユリ・アルファは確かにメイドである。しかしそうであれと至高の存在に生み出されたのだ。ならばシャルティア・ブラッドフォールンとユリ・アルファに立場の差は大きな問題だろうか。どちらもその使命を尽くすために生み出されたというのに。

「ユリ、下がって」
「よろしいのですか? シャルティア様」
「ええ、構わないわ」
「そうだとも、下がってくれないか?」

 ユリが一歩下がると、シャルティアは勝ち誇った表情を浮かべた青年貴族に微笑みかけ、真紅の唇を開く。

「――失せろ、糞。お前の臭い息を私に吐きかけるな。そして私の名を呼び、至高の御方々に付けていただいた、尊き名前を汚すな」

 何を言われたのか理解できないと、青年貴族が目をぱちくりさせる。そんな態度により一層、シャルティアは酷薄な笑みを強いものへと変え――青年貴族の横に並んだ人物を目にして表情を一瞬で緩める。

「私の連れに何かようかね? これに何か言いたいことがあるなら私を通してくれると嬉しいのだが?」
「アインズ様!」

 シャルティアは背筋をぞくぞくと震わせる。一瞬、自分がアインズの所有物になった気がしたためだ。
 いや所有物はそうなのだが、普段は自らの主人は慎み深く、慈愛の心を持って創造物たる自分たちを相手をされる。しかし、今の一瞬だけ、己の所有物に対する雰囲気がそこにあったのだ。
 先ほどの極寒の表情を一瞬で変え、瞳を走ったのは情欲の色。アインズが望むのであれば、この場で何をされても構わない。そんな狂ってもいる感情が瞳からこぼれだしてしまう。
 
 それを目にし、青年貴族は言葉をなくす。最初から相手にもなってない、つまらない独り相撲と知って。
 もはや戦う気力すらない。
 口の中でもごもごと青年貴族はわびを入れると、アインズとシャルティアの前から立ち去る。

「やれやれ。私たちはダンスが苦手だというのに、な。上手く捌けていたのであれば邪魔をしたな」
「アインズ様」

 シャルティアは席から立ち上がると、アインズの腕にもたれ掛かる。アインズが一瞬だけびくりと動くが、シャルティアの体をしっかりと受け止める。
 そんな態度に喜びを感じながら、シャルティアは体をこすりつけるように動かしながら甘えた口調で話しかける。

「怖かったんですよ、アインズ様。あの男がいやらしい目で私を見て……」
「えー? んん! そうか、それは……、シャルティア許せ。お前を怖がらせてしまった、私の過ちを許してくれ」
「駄目です。許しません。ですから、今日は一緒にいてくださいね」
「……ああ、分かったとも。今日はこのまま一緒に行動するとしよう」



 緩やかな時間はこうして流れていった。





 こいつは何をさっきから言っているんだろう。

 あの舞踏会から5日が経過し、帝都内に与えてくれた邸宅で、アインズが最初に考えたことはそれであった。
 すわり心地の良いソファーに腰を下ろし、背もたれに背中をペッタリとつけたアインズはしげしげと前に座る男を観察する。
 さきほどからひっきりなしにペラペラと喋る貴族。歳は50代を半ばほどは過ぎているが、髪はまだまだふさふさと生え、血色の良い顔と相まって、遥かに若く思える男だ。
 そんな男の、綺麗に刈り揃えられた髭が動くさまをぼんやりと眺めるアインズの頭の中には、彼の言っている内容の半分も残っていなかった。
 確かに聞く気を喪失しているためなのも理由の1つではあるが、それ以外は貴族の社交辞令に溢れた会話に慣れていないこと、そして彼の会話があまりにも回りくどく理解しづらいためだった。しかも話の半分は余談であり、アインズの聞くという意欲をガリガリと削いでいった。

(本題だけであれば数分で終わっただろうよ。それを下らない話題でずるずると長引かせて……。というか結局何が言いたいのかサッパリ分からんぞ?)

 アインズは仮面の下で目だけを動かして、壁に備え付けられた時計を確認する。貴族と部屋に入室した時間から逆算し、時間がどれほど経過したかということを知ると、より一層、肩が落ちる気分にさせられた。

 別にアインズだって暇ではない。時間を持て余しているから話を聞いているのではないのだ。
 どちらかと言えば今のアインズは忙しい身だ。エ・ランテルを自らの領土として数ヵ月後には与えられるために、その前準備が色々とあるためだ。
 個人的には「とっとと帰れ」と言えれば、どれだけ楽だろうとは考えている。
 しかし、貴族社会の礼儀というものをさほど知らないために、どのように対応すれば良いのか分からず、相手に譲るしかなかった。
 アインズの社会人生活でも自分が上位者の立場で、相手と面会したことが滅多に無いことも理由の1つだ。基本的に上役と会う場合は、相手が話を打ち切ってくる。そのためにアインズ──鈴木悟はそれに身を任せるだけでよかった。絶対に落とせない営業の時は食いついたが。
 そのためにどういう風に話を打ち切れば、相手に対して自分が有利な位置で、なおかつ機嫌を損ねたり貴族の品位が無いと思われずに終わるのかが不明瞭だった。

(滑らかに回る口だな。どんな高級な油を塗っているんだ)

 アインズは目を細め、貴族のつややかな唇を睨む。
 流石にアインズもそろそろ限界だった。特に今日はすべきことがある。
 会議を行うために、守護者を呼び集めているのだ。特に忙しく外で働いているデミウルゴスを呼んでまで。
 既に待たせている以上、こんなくだらない話には何時までも付き合っていられない。

 アインズは軽く手を上げる。そこに含まれた意味を察したのだろう、貴族のおしゃべりが止まった。

「非常にためになるお話だったと思う。この後も聞いていたいのだが、なにぶん忙しい身。この辺りで話を終えたいと思うのだがどうだろう?」
「そうですな。私も辺境侯とのお話が面白すぎて少々、時間を忘れてしまったようです。申し訳ありません」

 貴族の微笑を目にし、アインズは心の中で「ちっとも思ってないくせに」と毒づく。それと『とのお話』という部分に「喋っていたのはお前だけだ!」とアインズは嫌な顔をするが、流石に仮面をつけているためにばれることは無い。
 対して貴族は微笑みながらアインズに問いかける。

「それで、もしよろしければ、私の邸宅の方でお暇な時にお話をしませんか? 今度は私の方で辺境侯を歓迎させていただきたい」
「……ふむ」

 アインズは考えこんだ。大抵がこんな感じで終わるな、と。

 舞踏会が終わってからというもの、毎日のように貴族達がアインズの邸宅に押し寄せて来た。
 同じように腐りやすい──領地で取れた新鮮な果実などを持ってだ。そして同じように無駄話をダラダラと垂れ流し、そして次回の約束を取り付けようとする。それも大抵が自分の邸宅に招きたがっているのだ。
 何か理由があるのだろうが、その辺りはアインズに分からない。

(デミウルゴスにさりげなく聞いてみるか)

 そう決心したアインズは貴族に対して笑いかけるように答える。

「申し訳ない。時間が無いのだよ、理由はいわなくても分かるだろ? それらの問題が綺麗に解決した暁には貴殿の邸宅に御呼ばれするとしよう」
「……おお、そうでしたな」

 貴族が破顔し、アインズは溜息を堪える。
 彼ら貴族はなんだか知らないが、それらしいことを匂わせると、勝手に納得してくれるのだ。少しばかりどんな納得の仕方をしたのか不安な部分もあるが、アインズが言葉にしたことではないので彼らが勝手な勘違いをしたところで、そこまでの責任は持つ気は無い。それに彼らがそれを盾にしたときは断固たる対応を取る考えであった。

「ご理解いただけたようで何よりだ。セバス、見送りを」
「畏まりました」

 不動の姿勢で直立していたセバスがゆっくりと歩くと、部屋の扉を開く。貴族はまだ話し足りない人間がするような、そんな残念そうな表情を一瞬だけ顔に浮かべるが、直ぐにそれを塗り潰す。

「では、また辺境侯お会いしましょう」
「ああ。そうだな。今度は私の方から赴かせていただきたい」
「ほう! それは嬉しいですね。辺境侯をお迎えするとなると準備が必要です。何時にするかここで決めていただいても構いませんか? 辺境侯をお招きするに相応しいものを準備させていただきます」

 社交辞令に決まっているだろうが。
 アインズは心の中で思う。だが、短いながらも貴族生活の中で若干分かってきたことだが、向こうもそれを理解したうえで話をしてきているのだ。
 アインズ自身は自分を招くことがそれほど価値があるようには思えないのだが、向こうはそう考えていない。どうにか理由をつけて自宅に招こうとしていることも感じられていた。

 決まってこんな感じのやり取りがある。だからこそこんな時にどんな対応をすれば良いかも決まっていた。
 アインズは軽く笑う。
 そして演技のように手を広げて、答えた。

「君に私を招くに相応しい準備ができると言うのかね?」

 貴族の目が部屋を飾る調度品に動いた。どれも派手ではないが、品の良いものであり、アインズとしても自慢の一品だ。
 勿論、アインズに美的センスがあるわけではない。どちらかと言えば無い方だろう。
 これらを集めていたのはギルドメンバーの一人である。彼はデザイナーの卵であり、自分の製作したものを宣伝する目的でユグドラシルというゲームを行っていた。
 クリエイトツールを使用することで、外見を変えることのできるユグドラシルというゲームのメリットはこういったところにも現れていたのだ。
 実際、彼のみでなくデザイナーを目指すもの、デザイナーとして駆け出しの者などもゲームに参加していた例は多数ある。貴重な材料や貴金属を好きなだけ使って、そしてそれの完成品を現実のように見れるのだから時間を費やしても十分なメリットがあったためだ。

(……それが嵌りすぎて、駄目人間になる一歩手前だったんだがな)

 そんな彼が自分のセンスを信じて集めた調度品などをアインズたちにも渡してきたのがこれらだ。実際、そこそこのデザイナーになった人物の作品も中にはある。

 希少な材料──この世界においても──ふんだんに使い、元の世界でのデザイナーが作った調度品は、貴族の目はどのように捉えたのか。
 アインズの見たところ、低い評価を下した雰囲気は皆無であった。
 今までの貴族達と同じように、アインズの目の前にいる貴族の顔にも苦笑いに似た微笑が浮かぶ。

「これは辺境侯、手厳しいですな。確かにこれほどのものを準備するのは難しそうです。一体、これらはどこでお手に入れたものなのですかな? 帝国の一般的な美術品からするとかなり外れたものが多く見受けられますが……。どのような芸術家の作品でしょう?」

 また話し出しそうになる貴族に対して、アインズは断ち切る意味を込めて、鋼の口調で答える。

「帝国以外からだよ。さて、そろそろ……」
「おお、そうでしたな。では、辺境侯」
「ああ、またそのうちに会うとしよう」

 貴族がセバスと共に部屋を出て行き、扉越しに微かに聞こえる足音が小さくなっていくと、アインズは背を伸ばす。
 アンデッドではあり、肉体的疲労は感じないとはいえ、人間の残滓が精神的疲労を訴えていた。しかし、部下の目の前で、伸びをするわけにはいかない。

「ご苦労だったな、シャルティア」

 アインズは今までアインズの横に座って、無言で微笑んでいた少女に語りかける。

「いえ、滅相もありんせん、アインズ様」

 シャルティアはアインズの膝の上に優しく乗せていた手をどかす。
 シャルティアを横に連れていると貴族の話が早いのだ。そう、あれでも話が短くなっているのだ。
 アインズはげんなりしながら思う。
 あとはなんだか知らないが、女性の話題が出ないと言うのも嬉しい。
 美人がどうの、とか言われてもそれに対して上手く切り返せないアインズとしては、最初っからそういった話題が出ない方が楽だ。そのために迷惑だとは感じたのだが、毎回シャルティアを連れて貴族達と面会していた。

「しかし舞踏会以降、シャルティアをこちらの館に待機させてしまって悪いな。向こうは大丈夫か?」
「はい。あちらは私のシモベに任せておりんすによりて、なんら問題はありんせん。それにアインズ様は悪いなどとおっしゃりんすが、私はアインズ様のお側にいれて幸せです」
「……むぅ、そうか。いや、照れるな」

 アインズはカリカリと頭をかく。それに対してシャルティアが鈴の音が鳴るような軽い笑い声を上げた。

「さて、では次は……会議だな。セバスが戻り次第行くとしよう」

 ◆

 アインズがセバスとシャルティアを引きつれ、扉を開ける──言うまでも無く扉を開けたのは、外に控えていたユリ・アルファである──と、室内にいた3人が立ち上がり、深々と頭を垂れた。中にいた3人とはデミウルゴス、コキュートス、アウラの守護者たちである。
 アインズは鷹揚に手を振りながら語りかける。

「ああ、気にするな。座って良いぞ」
「ありがとうございます」

 3人の守護者に、新たに加わったセバスとシャルティアを含めた全員が同じ趣旨を口にする。頭は上げたものの、イスに座ろうとする気配は見せなかった。
 主人より先にイスに座るような、忠誠心の低い者がこの場にいるはずが無い。
 それが理解できるアインズは、足早に守護者達の横を通り抜けながら、上座に置かれた最も豪華なイスに腰掛ける。そして再び同じ台詞を言うと、今度は守護者達も素直に従った。

「さて、話を始める前に、遅くなったことを謝罪させてもらおう。特にデミウルゴスには悪いことをしたな」

 アインズは貴族との面会で時間に遅れたことを謝罪する。数分ぐらいの遅れどころか、十分単位での遅れであるために、口調も若干真面目なものだ。
 守護者の中でもデミウルゴスを名指ししたのは、外で最も忙しく働いている者である彼を、ちょっと問題があるたびに呼び戻すということを繰り返しているために、アインズとしても前から罪悪感を抱いていたためだ。
 対してデミウルゴスは目を細めて笑う。

「そのようなことはありません、アインズ様」デミウルゴスが微笑みを浮かべながら答える。「私ども至高の御方々に創造されたものはアインズ様にお仕えすることこそが最上の喜び。アインズ様が謝罪されることなど何一つとしてありません」
「デミウルゴスの忠誠心にはほとほと感心してしまう。何か欲するものがあれば遠慮なく言うが良い。何かあるか?」
「いえ、何もございません。ただ、もし頂けるというのであれば、今後もアインズ様に忠義を尽くすことのご許可をいただければと思います」
「……全く、デミウルゴスは欲が無い。お前の、いやお前達の忠義、ありがたく受け取るぞ」
「ありがとうございます」

 言葉はデミウルゴスだけであったが、部屋にいる他の者たちも同じように深い忠誠心を表に出した、敬遠なる動きでゆっくりと頭を下げた。

「……では、これより会議をはじめるとしよう。では議長役としてデミウルゴス頼む」
「畏まりました」デミウルゴスはアインズに頭を下げると、守護者達に視線を向けた。「さて、皆、これから会議を始める。議題はアインズ様が支配する都市、エ・ランテルを中心とした領土の管理運営に関するものだ。ではその前にアインズ様、お言葉を頂戴出来ますでしょうか?」

 そう言われるだろうと、予測していたアインズは頭の中で組み立てていた台詞を口にした。

「これよりデミウルゴスから話があったように、エ・ランテル周辺の我が領土をどのように管理運営していくかの議論を始める。既に私はどのように統治していくかを考えてはいるが、守護者であるお前達の意見もまた聞きたい。というのも私の想像も及ばないような画期的な意見が出るのでは……と考えているためだ。とはいえ、無理に搾り出す必要は無い。お前達ならばどのように支配していくかという話を求めているのだ。私の顔色を窺うことなく、雑談のような気楽な気分で自由に意見をぶつけ合うが良い」

 そこでアインズは思い出し、最後に付け加える。

「それと守護者各員、忙しい中わざわざ来てくれたことに感謝する」
「何をおっしゃいますか、アインズ様! 我ら至高の御方々に創造された者、アインズ様のためであればこの程度の行為は苦労でもございません!」
「デミウルゴスの言うとおりです! アインズ様が感謝なんてしないください!」
「誠ニ。アインズ様ノオ役ニ立テルコトコソ、私達ノ喜ビ」
「そうです! 私たちのほうが感謝しておりんす。アインズ様のお役に立てて」

 一斉に口々に臣下の言葉を述べる守護者達に、アインズは満足げに頭を動かし、それからデミウルゴスに顔を向けた。

「では、デミウルゴス、始めよ」
「畏まりました、アインズ様。では諸君、アインズ様のお言葉をしっかりと抱いて、私達なりの統治について考えよう」

 それが口火を切るように様々な意見が飛び交いあう。
 アインズはそれを聞きながら、内心で満足げに頷いていた。勿論先程の発言にある「どのように統治していくか」など考えているはずが無い。というより単なる一般人であるアインズにそんなこと出来る能力が有るはずが無い。
 アインズに出来るのは表計算ソフトとデーターベースソフトを使って、プレゼンテーションを行うことがなんとか出来る程度だ。統治などに関する知識など皆無だ。さらに世界が変われば、今までの世界で使えてきたであろう知識がまるで意味を成さない可能性があるのは当然だ。
 農業だって、牛が道具を引っ張っているとか、魔法で大地が耕されたという状況なのに、機械による全自動が当たり前の世界の知識が役に立つはずがない。
 ぶっちゃけ、アインズはそういう意味で自分の役立たずっぷりは十分に理解していた。

 勿論、アインズだって役立たずに終わる気はなかった。さりげなく、帝国法などの帝国の法律関係の書物を読んだりして勉強をしたつもりだった。しかし、殆ど頭に入らない。
 今までの人生の中で得てきた知識とは、まるで違った学問であったためだ。読書のかいもあって、欠片のようなものは頭の中に宿ってはくれたが、それだってアインズがアンデッドであり、睡眠を不必要とする肉体でなければ、まるで収まらなかっただろう。
 興味が湧かず、更には回りくどくて難解な書物など、そんなものだ。
 そんなアインズだからなのかもしれないが、彼らの会話。特にデミウルゴスの発言は「なるほど」としか思えなかった。

 流石はナザリック大地下墳墓最高の知恵者。

 アインズはデミウルゴスの話を聞くたびに、内心では感嘆の声を上げていた。守護者の誰かがどうしてそのようなことをするのかと問うと、納得がいく答えが返るのだ。
 デミウルゴスのイメージする管理社会は、矛盾無く、完璧な統治としかアインズからすれば思えなかった。
 このまま行けば「私の心はデミウルゴスが知っているようだ」とでも言えば、完璧な統治をしてもらえるように思えた。
 しかし、そんな気持ちをアウラの一言が完全に砕く。

「でもさ。何で人間なんかをそこまで優遇して管理しなくちゃいけないの?」

 室内が静まり返る。
 アインズは「何を言ってるんだ、アウラ?」という驚愕のものであったが、守護者のものは「確かにその通りだ」という目から鱗が落ちたという類のものだった。

「全くだね、アウラ。君の言うことは正しい」
「そうぇ。人間なんかをそこまで優遇して管理する必要も無いわね」
「アノ土地ヲ支配スルノハ、金銭ナドヲ得ルタメ。ナラバアインズ様ノオ力ヲオ借リシテ、アンデッドニ働カセレバ済ムコト。人間ヲ重要視シタ政策ヲ取ル必要ハ無イナ」
「アインズ様にかしずくアンデッドの群れ。美しいね」
「全くだわ。それこそ偉大なる死の王たるアインズ様に相応しい光景でありんしょう」

 興奮が守護者たちの中に宿りだした中、この部屋で唯一冷静な主が声を発した。

「しかし人間にも良いところがあると思いますが?」

 セバスの発言に、守護者達は顔を見合わせる。そして代表して、デミウルゴスがやけに優しくセバスに問いかけた。

「何処に? どんな部分がね?」
「それは……」

 デミウルゴスに対して、セバスは言葉を呑む。
 悪魔の表情が何を言いたいのか理解しているためだ。そんなセバスに対して、シャルティアが救いの手を伸ばす。

「……セバスの言う通りかもしりんせんわ。だって人間を殺すのって楽しくない? わたしは今度、親と子で殺し合いとかさせてみたいわ」

 ……全然救いの手ではなかった。ただ、そこにはデミウルゴスに有った、セバスへの敵意は僅かも無い。あるのは心の底からそれが見たいという好奇心に溢れたものであり、言葉の内容とは裏腹に非常に無邪気な雰囲気であった。

「強者ハ別デハアルガ……弱者ヲ有益ニ活用スルトナルト試シ切リカ? 訓練ハ実際ニ武器ヲ持ッテ殺シアッタ方ガ練習ニナル」
「うーんとあたしのペットの餌にもいいかも」

 人が飼っているペットに生き餌を与えるような、そんな口調でアウラも言う。それら守護者の人間の有効活用方法を受け止め、デミウルゴスは良かったね、とセバスに告げる。

「……確かにセバス、君の言うとおりだね。羊にも価値があるね」

 セバスは何も言わずに静かに目を閉ざした。そんな執事に片方の唇を釣り上げたデミウルゴス。
 羊?
 アインズは不思議そうに思うが、生贄の羊のことを隠喩しているのだろうと納得する。その際、どこかで昔同じような感じのことを聞いた気がするが、そこまでは思い出せなかった。

「ならばあの辺りで人間の繁殖場を作ると言うのはどうだろう?」
「いいんではない? 15歳ぐらいから始めて、毎年産ませるの。それで45ぐらいになりんしたら潰して……」
「卵ヲ作ルトイウワケニハ行カナイノダカラ、結婚相手ヲ準備スル必要ガアルガ、ソレハドウスル?」
「無理矢理決めればいいんじゃないかな? 狭い部屋にでも押し込んでおけば、勝手に番うでしょ? 孕まなかったら潰しちゃえばいいんだし」
「食料はアンデッドに生産させて、ただひたすらに腰だけ振っておけば良いか……。人間にとっては最高じゃないかな?」
「……やはり不細工は殺して、見た目の良いものを残していくべきなのかしら。そうすると一夫多妻などの方針が良いかも……」
「いや、見た目だけで選別しないほうが良いとも思うね。それに別にアインズ様のお側に控えさせるわけでないないのだから気にするほどことはないだろう」
「そういうものでありんしょうかぇ? 殺すにしても醜いものよりは美しいものの方が楽しいと思うんけれど……まぁ、デミウルゴスが言うことなら了解しんす」
「でもさ。45歳はちょっと産めないと思うよ。30歳ぐらいでストップさせて、子供を育てさせればいいんじゃないかな?」
「しかし45歳では殺してもあまり面白くないと思いんす。殺すなら、生命に満ちあふれ、希望を持った人間の方がいい声で叫ぶんでありんすから」
「デアレバ、ソレグライノ年齢ニナッタ人間ハ殺シテ、アインズ様ガオ持チノ『強欲と無欲』ニ吸ワセレバ良イノデハ?」

 セバスを除く、全員の顔に明るいものが走った。

「素晴らしい!」
「まったくだ。私達の楽しみばかりを考えてしまった……恥じるべきだね」
「うんうん。命をアインズ様に捧げるのは正しい姿だよね!」
「どうにせよ、人間の技術の発展をどのように支配するか、アインズ様に相談したいと思っていたのだが、それであればその辺の心配もなくなるね」
「技術ノ発展?」
「そうさ。魔法技術の発展を許せば、私達を害する存在が発見されるかもしれない。今の技術が進歩しない方が支配者たる我々にとっては好都合だ」

 そこでアインズは「なるほど」と思った。
 話の最中、幾度と無く――もっぱらセバスより――出た話がある。それが識字率を上げるなどの教養を平民に与える手段だ。
 例えば学校を作って、そこでアインズの素晴らしさを伝えよう、などの案が出たが、それに対してデミウルゴスは一貫して否定的な側に回っていた。
 それがそういった考えに基づいてのことだったのかと、アインズは感心してしまった。
 実際、被支配者は愚かな――盲目の羊であってくれた方が支配者としては楽だ。逆に変に自由などの知識があるほうが面倒だ。鞭で打たれるのが当たり前と覚えさせておけば、支配も楽に続く。
 楽しみを知らなければ、今あるもので満足するだろう。自由を知らなければ、自由を求めようとしないだろう。
 ブラック企業を知るアインズとしては可哀想に思うが、自分が支配者となって考えてみれば、それこそ必要な行為であると断言できた。
 そして何より技術を発達させないというのは、自分たちのアドバンテージを維持できるために重要なことだ。もちろん、自分の領土だけ発展の波を止めていても意味がないので、その辺りは考える必要があるだろうが。

 しかし──アインズはコツンと机を軽く叩く。
 その瞬間、今まで人間牧場の運営方法について楽しげに話していた守護者達の顔つきが変わる。真剣な面持ちでアインズの眼差しをむけた。

「各守護者よ。楽しげに話しているところ、悪いのだがそれは却下だ。人間達に苦痛を与えるのは私の望むところではない」
「その理由をお聞きしても?」
「はぁ。本気で言っているのか、デミウルゴス」

 恥じるように顔を伏せた守護者に対して、アインズは語る。

「私に匹敵する存在がいるかもしれない状況で、そのような敵に回す行為は避けたい。先の戦においては帝国貴族としての正しい務めであった。しかし、エ・ランテル周辺をそのように支配するのは、帝国貴族の正しい務めではなかろう。そういった場合、言い訳がきかん。昔言ったはずだぞ、私は英雄となることを望んでいると」
「なるほど、失念しておりました」
「いや、構わん。途中までの話は私の心を読んでいるのではと思ったほどだったぞ、デミウルゴス」
「ありがとうございます!」
「統治方針としては先程の……話がずれる前の感じでよかろう。しかし……私が実は気にしているのは、どうやって統治するかなのだ」

 守護者達が不思議そうに顔をかしげた。

「いや、悪魔やアンデッドに全て任せては、なんというか……いらん敵意を買いかねない不安がある。だからできれば人間達を支配して、それに統治を任せたいのだが……」
「なるほど……そういうメンバーがいないことにアインズ様は心配されていると」
「そういうことだ」
「浚って、調教しては?」
「シャルティア。ちょっと黙れ」
「……はい」

 しょんぼりと顔を伏せたシャルティアを視界の隅に置いて、アインズは守護者達に話し続ける。

「私は英雄であり、帝国の大貴族だ。そんな男はどのように人間を集めれば良い──」

 アインズがそこまで言った辺りで扉が数度躊躇いがちにノックされた。
 守護者達の視線が向けられ、それがどういう意味かを悟ったアインズは軽く頭を縦に動かす。
 許可を得て、代表して扉に向かったのはアウラだ。扉を開き、外の者を確認する。

「ユリです」
「入れろ」

 アインズの返事を受け、アウラが外に立っていた戦闘メイドの1人であるユリ・アルファを室内に招き入れる。
 メイドとしての一礼を見せるユリにアインズは話しかける。

「どうした? ユリ」
「はい。アインズ様にお目通りしたいと言う貴族が参っております。どういたしましょうか?」
「またか……」アインズは手で顔を隠すと、乱暴に言い捨てた「私は体調不良だ。そう伝えて追い返せ」
「畏まりました」

 再び一礼をして部屋を出て行くユリを見送り、アウラが口を開く。

「アインズ様が嘘を言うなんて不必要です。邪魔だから失せろで十分だと思います」
「そうもいくまい。一応私も貴族だ。他の貴族どもとある程度の関係は維持しておきたい……しかし、あの舞踏会で舐められたと思うか、シャルティア?」

 ばっと顔を上げたシャルティアが即座に答える。

「そのようなことは決して無いと思いんす!」
「そうか。ならば何故だと思う?」
「……よろしいでしょうか、アインズ様」
「なんだ、デミウルゴス?」
「恐らくですが、それはアインズ様が貴族としての十分な教養や礼儀を持つところを大勢の前で公表したからだと思われます?」

 アインズはデミウルゴスが何を言っているのか理解できず、そのまま続けるようにと指示をした。

「はい。つまり、一言で言い切れば、貴族の常識が通じるので、彼らなりの常識の範疇で行動してきているのでしょう」
「……そういうことか」

 狂人に近寄るものはいない。それは何を仕出かしてくるか不明なためだ。
 対して、アインズは貴族としての礼儀──ひいては常識を持つと、舞踏会で大きく公表した。そのために貴族達は礼儀を知るものであればと、その礼儀の範疇で行動してきているのだろう。実際、彼らが土産として持ってくる新鮮な果実は、腐るからなどと理由をつけて、突然の面会を求める理由があってのことだろうと、アインズは薄々気がついていた。 

「さて、ではどうするか」

 貴族としての品位を持つということ証明するために行ったことが、思わぬ事態を招いている。しかしこれはアインズが我慢すれば良いことかもしれない。貴族の一員と見なされているのだから。
 ただ、貴族としての礼儀を知らないアインズは、どこかで致命的なミスをしかねないという不安も持っていた。
 モモンガもしくは鈴木悟という人物が侮辱されるのはまだ良い。しかしアインズ──アインズ・ウール・ゴウンという名前を持つ者が侮辱されるのは我慢できない。

「アインズ様。そろそろ次の段階に移るべきかと思われます」
「何?」なんのことだ。そう問いかけるほどアインズは愚かではない。いや、己の手に余るようなナザリックの最高支配者としての経験が、アインズに知ったかぶりをさせる。「やれやれ。少し早いのではないか?」
「そのようなことはありません。そろそろかと」

 わけも分からず答えるアインズと、全てをお見通しですよというべき表情のデミウルゴス。その2人の会話についていけない守護者達がボソボソと言葉を交わす。

「ねぇ、シャルティア。何を言ってるの?」
「そ、そんなこと私は分からないわ。コキュートスは?」
「アインズ様ノ深謀遠慮ヲ、私達如キニ見抜クコトガ出来ヨウハズガ無イ。ココハデミウルゴスコソ見事ト称エルベキデアロウ。流石ハナザリック最高ノ知恵者ト。オ前ハドウ思ウ、セバス?」
「私はどのような命であれ、アインズ様のお言葉を遂行するだけですから……」

 アインズはそんな守護者達に顎をしゃくる。

「デミウルゴス。守護者達に説明を」
「畏まりました。アインズ様は仮面を着け、貴族社会に溶け込まれました。ここで重要なのは仮面をつけたまま、何故行動されているかと考えるべきだということなんだよ?」
「それは素顔をさらしたら人間達が怯えるからでしょ?」

 アウラが即座に答える。
 アインズも同じく内心で頷いた。

「その通り。そのかいもあって舞踏会を通じ、貴族達はアインズ様と会話し、貴族の礼儀を知ると知ったね? 実際、アインズ様に会いにきている貴族がいるというのが、その証明だよ。では、そろそろ仮面を取り、その素顔を見せる時だと言うことだ」
「フム……ソコガ分カラン。何故、素顔ヲ見セル必要ガアルノダ? 人間トイウ弱キ生キ物ハ、アインズ様ノ素顔ニ恐怖ヲ抱キ、敵意ヲ抱クノデハ? アインズ様ガ欲シテイル英雄トイウ地位ハ遠ノクトト思ウノダガ? ソレ……」コキュートスが何かを悟ったように口を閉ざす。「英雄……仮面ヲツケタママ、素顔ヲ晒サナイ英雄カ……」

 不味い? アインズはそう思うが、冷静に考えてみると、怪しすぎる。ならば幻影で偽りの顔を作ればいいじゃないかと思った。しかし──

「それであれば幻影でいいんではない? ルプスレギナがアインズ様より頂いた顔を変える仮面を持っていたのではないでありんしょうかぇ?」
「見破られたら? もし何かあって、最も重要な時にその幻影を打ち破られたら?」
「ならアインズ様ご自身の魔法で良いじゃん。アインズ様の魔法を打ち破れる存在なんかいないよ」
「とも言えません、アウラ。私は色々と巻物を買い込みましたが、やはり未知の魔法は幾多も有るようです。幻影を完璧に打ち砕く魔法が無いとも限らないでしょう」
「セバスの言うとおりだよ。それがアインズ様の恐ろしいところ。今まで決して幻影などに頼らず、仮面で全て補ってきている理由はそこにある筈だとも。全ての行動を予測し、注意深く行動をされてきているのさ」

 おお! というどよめきが起こった。
 すげー、と目をキラキラとさせながら顔を向けてくる守護者に、アインズは軽く頭を振る。

「さて、話を戻そう。素顔を見せると、人間が恐怖を抱くということだが……」デミウルゴスは冷笑を浮かべる。「抱かせればいいじゃないか。アインズ様が理知的であるという宣伝は終わったのだから、次は恐怖と力を演出するべきだろ? 勿論、最初から素顔を見せていれば、こうはならない。しかし、アインズ様と話した貴族は警戒しながらも、普通に会話が出来たことを思い出すだろう。そして大きなメリットを与えれば、欲望に身を滅ぼすために近寄ってくるとも」

 デミウルゴスはそれだけ言うと、アインズに頭を下げた。

「お見事です。全て計算づくとは……」
「……いや、そこまで私の全ての策略を読み切る、デミウルゴスこそ見事だ。……そこまで私の心を読んだのだ、準備は任せても良いか?」
「勿論です。アインズ様のお目に適うようなものを準備したいと思っております」

 ◆

「あら、来たんですか?」
「来て早々にそういうことを言われるとはな」

 ジルクニフは冷徹な声を投げてきた女に、憮然とした表情を向けた。帝国広しといえどもこんな台詞を投げかけてくる女は皆無といっても過言ではない。いや、数ヶ月前からその数は増えてはいるだろう。辺境侯という存在を受けて。しかし、人間ではこの女ぐらいだ。
 普段であれば皇帝としてそんな言葉を許すはずが無いのだが、この女だけは別だ。
 ジルクニフはこの部屋──この辺り一帯の主人である女を眺める。
 4つのイスを置いた丸型のテーブルに腰掛けた女の身を飾る宝飾品は最低限度のものであり。室内の雰囲気からは大きく浮いている。
 そして顔立ちもさほど整ってはいないし、気品に溢れているわけでもない。貧乏貴族の娘が主人面をしてイスに座っているようだった。

「お待ちしておりました、とか可愛いことを言ったらどうだ、ロクシー?」

 ぼやきながらジルクニフは部屋を横切り、女──ロクシーの座るイスの前に腰掛けた。

「いえ、別に待ってませんから」再び冷徹な言葉を吐く。「まだ身篭って無い娘がいるんですから、とっとと妊娠させてあげてください。私の部屋に来る時間は無いと思うんですけど?」
「ふん。厳しいな」

 次代の皇帝を作るのも現皇帝の役目ではあるが、それを真正面から突きつけられると、ジルクニフとしても顔を顰めてしまう。

「それで私の部屋に来たのはどうしてなんですか? 別に無駄うちしたくて来た訳ではないのですよね?」
「……お前の見たところが聞きたい」

 初めてロクシーの瞳に興味の色が浮かんだ。

「アインズから手紙が届いてね。内輪の小さなパーティーを開くから出席して欲しいということなんだ。それで……舞踏会でアインズと会ってどう思った?」
「一般人」

 打てば響くように言葉は返る。

「としか思えませんでしたね。その代わり、連れたあの少女は恐ろしく感じました。一部の貴族が平民を見下すのとは違い、あれは人間以下のものを見る眼です。あれは……人間ではないですよね?」

 ジルクニフは何も言わずに頭を縦に振る。勿論、あれの正体までは完全には判明していないが、人間である筈が無い。

「それにあの周囲にいたメイドたちも同じような雰囲気を幾人か放っていました……。帝国4騎士の方々は誰に警戒していたのですか? 辺境侯じゃないですよね?」
「そこまで気がついていたか……。アインズ以外の全員だな」

 アインズは理知的な男であるが、その部下までそうだという保証は無い。だからこその警戒だった。無論、あのシャルティアという少女がアインズの側近としてあの玉座の間にいたのだから、無駄な努力だった可能性は高いが。

「そうですか……。ならばそれらの者を支配する辺境侯が、一般人という評価自体が間違っているんでしょうね。まぁ例外的に主人は無能ですけど、優秀な臣下が揃っている場合もありますが……優秀な者を集められる段階で、無能であるはずが無いですよね」
「……そうだな。アインズの場合は例外ではないな。あの男の擬態は見事なものだよ。よくぞあそこまで一般人の振りができると感心してしまうほどだ。もしかすると何らかの魔法によるものかもしれないな」
「辺境侯と会っての感想はそんなものですね。……あまりダンスには慣れて無いようなイメージもありましたが、十分に貴族社会のマナーはご存知の様子でしたし……同じ魔法使いでもフールーダ様とは大きく違いますね」
「ふむ……」
「それであの舞踏会を開いた結果はちゃんと他国に伝わったんですか?」

 ジルクニフは目を細めてロクシーを睨む。強烈な眼光を浴びてなお、ロクシーにひるむ様子は無い。自分が殺されないと知っているのではなく、自暴自棄でもない。
 殺すならその程度の男であり、見切りをつけることができると見なしているからだ。
 ある意味、ジルクニフとしても厄介な相手だった。ロクシーのこういった部分は、君臨するべく育てられ、支配することに慣れたジルクニフからすれば新鮮であると同時に苦手であった。
 ある意味少し離れたところに置いて眺めていたい人物であるが、それが出来ないのは彼女が非常に優秀だからだ。
 優秀というのは頭のデキでない。
 いや、確かに賢さという意味ではジルクニフの会って来た女性の中でも五本の指に入るだろう。しかし彼女の真価はそこではなく、『母親』であるというところだ。

 自身の栄達を望まず、出身家の利益を考えない。ある欲望はたった一つ。それは次代の皇帝を立派に育て上げたいという無欲なもの。そして無能な子供──次代の皇帝レースに脱落した子供にも、母親としての愛情は与えることが出来るという希有な才能だった。

 ジルクニフが美貌などを重視して選んだ、愛妾の大半が欲望にその目を曇らせたところがあった。貴族であれば、出身家の利益などがあるのだから当然であり、それを責めることは出来ない。
 事実、ジルクニフの母親だってそうだった。
 ジルクニフは今もあの優秀な競走馬に向ける目は思い出せる。

 ジルクニフが得ることの出来なかった母親。望んでいた完璧な例が、ロクシーという女だった。

 そしてジルクニフ自身、自分は親としては失格だと思っている。子供を愛するということが頭では理解出来るのだが、それを上手く表現することが出来ないのだ。
 自らの父親がしてくれた――愛情を与えるということができない。だからこそ、ジルクニフはロクシーを手放せなかった。
 父親が愛情を与えられないならば、母親が真っ直ぐな愛情を与えればまだ子供はまともに育つだろうと考えて。
 無論、皇帝に愛情などいらないなど言い切ることは可能だ。しかし、父親から愛情をもらったジルクニフにはそれが正しいと断ずることは出来なかったのだ。

 ジルクニフは少しだけため息を吐き、言い訳するように言葉を紡いだ。

「どこに目があるか分からん」
「私程度でも読めるのです。辺境侯であれば即座に看破したと思いますよ。勿論、それを表に出すような方ではないからこそ、厄介な相手なんでしょうけど」
「……はぁ。リ・エスティエーゼ王国の使者は理解してない雰囲気だ。法国はさっぱりわからん。近くに潜ませていたが、魔法で阻害しているしているらしく、情報を得られなかったな。諸国連合などの他の国は理解しているようだが……それ以上にアインズという剣を帝国が振るうのでないかと考えているようだな。そして神官どもの脳みそは空っぽだ」
「……帝国の内部は貪り食われるということですか」
「……うまそうな餌を提供できなければな。やれやれ、アインズめ。戦であれほどのデモンストレーションをしてくれるとは……」

 ジルクニフが考え込む素振りを見せると、ロクシーが冗談交じりの口調で問いかけた。

「ところであのメイドは皆、美しく優秀そうでした。陛下の後宮に招いたりはしないのですか? 婚姻関係を結ぶというのは辺境侯との仲をより強めるのでは?」

 先ほどのロクシーと同じように即座にジルクニフは返答する。それも心底嫌そうな表情というおまけつきで。

「勘弁してくれ。あの者たちまで入れると、私の嫌いな女の順位が大きく変わりそうだ」
「確か……一位が黄金の姫で、二位が竜眼の王……いえ、今では女王ですね。そして三位が聖王女でしたね。……私は黄金の姫と陛下の間に生まれる子供は、素晴らしい才能を持つだろうと思うんですが?」

 ロクシーの言葉には「嫌でも子供作れよ」という提案じみたものがあった。
 ジルクニフは絶対に断ると心の中で宣言する。

「止めておいた方がいいな。あの女は自分の好きな男との間に子供を作っておいて、それを私の子供だと言いくるめようと行動しそうな雰囲気がある。しかも私が老いたら平然と殺しに掛かって、自分の子供と本当の夫で帝国を統治しそうな気さえする」

 ロクシーが苦笑いともいえそうな微妙なものを浮かべ、ジルクニフの想像を笑う。

「それは……考えすぎでは? 確かに彼女の話を聞く限り、考え方が理解できない部分はありますが……そこまでのことをする娘とは思えないのですが……」
「いや、やる。お前はまだ理解できるが、あの女は理解できん。あいつだけは絶対に嫌だ。……アインズの周りの女も嫌だが……」
「まぁ、そこまでおっしゃるならば無理とは言いませんが……。それでお聞きしたいのはそれだけですか?」

 ジルクニフが1つ頷くと、ロクシーが微笑んだ。その笑顔は今日、ジルクニフがこの部屋に来て最も明るいものだった。

「話が終わったら、とっとと他の娘のところに行ってください。一度妊娠した娘のところには絶対に行かないようにお願いしますね」

 ジルクニフは眉間に皺を寄せた。

 ◆

 ある日のアインズ邸宅の玄関口には立派な身なりの男が立っていた。
 歴代の流れる貴族の血が作った、品位を感じさせる顔立ちであり、白く綺麗に染まった髪がそれをより一層強める。温和そうな瞳の奥には英知が宿っていた。
 彼こそ大貴族の1人として数えられる、グライアード侯爵である。

 グライアードはドアノックを使うと、軽く微笑む。
 侯爵たる自分が供も連れずに他の貴族の館を叩くなどありえないことだと。

 直ぐに扉が開き、執事が姿を見せる。

「ゴウン邸へようこそおいで下さいました」

 一礼をするその姿勢にグライアードは瞠目する。
 辺境侯が見事なメイドと女性を連れているのは舞踏会で知った。そして執事もまたそれらに劣らない人物だと僅かな態度から掴み取ったのだ。

(ふむ……。我が家の執事たちに見せたいものだ)

 グライアードに長く仕える筆頭執事である人物は別としても、他の執事に目の前の人物ほど優秀なものはいないだろう。その執事は頭を上げると、問いかけてくる。

「まずはご招待状を拝見してもよろしいでしょうか?」
「ああ、これだとも」

 グライアードは準備していた招待状を差し出す。
 薄い銀の板に文字を刻み込んだものだ。それを恭しく受け取った執事は眺め、微笑む。

「畏まりました。では中へどうぞ」
「うむ」

 敵地に乗り込む気持ちでグライアードは一歩踏み込む。いや、実際に敵地なのかもしれない。
 グライアードは舞踏会で眺めた、仮想敵たる辺境侯の姿を脳裏に浮かべる。
 出身等から不明な得体の知れない人物であり、強大な力──財力、権力を有する。そして性格は温和であり、貴族としての礼儀を持つ──そんな男を。

 執事に案内されて静かな廊下を歩きながら、今までにあった様々なことを思い出す。
 最も印象に残っているのは、情報収集の一環で派閥の者にメイドを送るように示唆した件だ。その結果を思い出し、グライアードはミリ単位で眉を顰める。
 その件は失敗に終わったらしい。仮定でしか判断出来ない理由は、メイドを送ったはずの貴族は「辺境侯は恐ろしい人物だから、絶対に関係を持ちたくない」と言って、何があったのかを一切語ろうとしなかったためだ。
 その貴族は今では辺境侯の名前を聞くだけで怯え、舞踏会にも出席を拒んだほどの無様な有様を晒している。

 グライアードが集めた情報では、メイドが死んだという噂があることから、何をされたのか大体の予測は付く。恐らくはメイドの死体を送りつけられたのだろう。
 やりすぎだとは思わなくも無いが、似たようなことはグライアードだってやったことがあるので、辺境侯を責める気持ちにはなれない。
 温和な性格ではあるが、それぐらいは平然とするだけの性格も兼ね備えるということだろう。
 大貴族である彼を殺しにかかることはありえないと思われるが、言葉には注意を払った方が良いだろう。

 そんなことを考えながら歩いていると、前方に1人のメイドが立っているのを発見した。その美しい顔立ちには覚えがあった。舞踏会で辺境侯の側に控えていたメイドの1人だ。
 ここまで先導してくれていた執事が、メイドの前でグライアードに語る。

「侯爵様。今回のパーティーは趣向を凝らしたものであり、これを胸に着けて欲しいのです」

 執事がそういうと、メイドが薔薇のようなものを見せた。それをまざまざと目にし、グライアードは瞠目する。

「これは薔薇水晶で作ったものかね?」

 そう。それは透き通る輝きを持つ水晶であり、模ったものは薔薇であった。
 その精巧な作りはまさに神の技だった。ある種のモンスターが生きている者を石化できるように、水晶化出来るモンスターが薔薇を変えたのではと思わせるだけのものだった。

「はい。水晶を薔薇状に削ったものです。侯爵様におつけしてもよろしいですか?」
「あ、ああ、頼む」
「では、ソリュシャン」
「畏まりました」

 メイドがグライアードの胸に水晶の薔薇をつける。その間もグライアードの目は、あまりにも見事すぎる作りの薔薇から離れることが出来なかった。
 観察すれば観察するほど、その見事さが理解できる。
 花弁を作る水晶の薄さ。これらは張り合わせるのではなく、1つの水晶から削りだしているのだ。魔法で大雑把なものを作るのではなく、これはまさに職人──それも神技級の天才職人がどれほどの注意と、時間を割いて作り出したものか。
 グライアードはメイドが離れてなお、その目を薔薇から離すことができなかった。
 大貴族である彼ですらこんな芸術品は持っていない。
 まざまざと辺境侯と呼ばれる未知の貴族の財力を見せ付けられる思いだった。

 グライアードは頭を振り、視線を動かす。
 今なお引きつけられており、眺めていたい欲求に襲われるが、それを可能にしたのは自らが大貴族と呼ばれるものであるという自負だ。
 貴族である以上、見栄は重要なもの。それを辺境侯の館に入って早々失って、我を忘れるなど恥ずるべき行為だと己に言い聞かす。

「すまない。案内してくれるかね?」
「畏まりました。こちらへどうぞ」

 執事に案内された部屋は広く。そこには幾人もの人がいた。彼は目を細める。
 そこにいたのは大貴族と呼ばれるような、高位のものばかりだった。そして帝国の貴族のみに絞られ、他国の人間や、神官などの貴族以外の高い地位に着く者もいない。唯一、大貴族ではない男──レイ将軍を発見するが、グライアードは彼が辺境侯の派閥に付いたという噂を思い出す。レイは誰とも喋らずに、じっと壁にもたれかかるように立っていた。

 そしてグライアードは呆れたように惚ける。勿論、顔には一切出してはいないが、それに自信がないほどの衝撃だった。
 先ほどグライアードが驚愕した薔薇の作り物。それをこの部屋にいる全ての者がしているのだ。

(どんな財力だ! 辺境侯は一体、どうやってその財を築き上げた! それとも魔法で作り上げているのか!)

 心の中で大きく叫ぶ。あまりにも荒唐無稽な光景としか思えなかった。
 財、力、美。それらあり得ないほどの桁外れのものを持つ辺境侯。一体、どこで培ってきたものなのか。噂では人間以外の種族――ドラゴンの変身した姿であるなどと言う噂も流れているが、それらが真実である気さえする。
 グライアードは数度、深呼吸を繰り返す。辺境侯の強大さは十分に思い知った。だからこそ頭を切り換え、冷静さを保つ必要がある。今回のパーティーの真なる目的を見破り、それを派閥に有利にするのが、派閥を纏める者のすべき事なのだ。
 辺境侯の強大さに目を眩ませていては、失敗する可能性がある。

(ではこれからどうするか。ここで立食パーティーでも行うのかな? それは少し興ざめだな……。これほどの財を持つ人物ならば、想定外の事をしてくれても良いと思うんだが……)

 普段であれば他の派閥のボス格とつまらない話をするのだが、ここでも同じようにやって良いものか。
 グライアードは室内を再び見渡す。
 グライアードが立食パーティーと思った要因として、奥の壁には食事の乗ったテーブルがあった。もちろん、飲み物もある。ただ、普通であればいるだろうメイドなどの給仕をする者の姿が奇妙なことに見受けられなかった。つまりは大貴族、自らの手で料理を取れということを宣言しているのと同じことであり、それは無礼――引いてはそんなことをさせる主人の礼儀知らずを蔑むことに繋がりかねない。
 そう、普段であればそうだ。
 しかしそれが辺境侯ほどの財力があるものの行いだとすると、それには何か深い意味があるように思われた。
 だからこそ誰も不満や文句を言おうとする者はいない。それぐらいの考えが浮かばないような貴族はこの場にはいないからだ。

 そのほかに目を引くものは、人の等身よりも大きな鏡だろうか。

(ここで何をするというのだろう)

 パーティーをしたいということだったが、ここで辺境侯が何を望んでいるのか、何をしようとしているのかが読みきれない。そして他の大貴族の顔からもそれはさっぱり読みきれなかった。
 そんな中、1つの叫びが上がる。

「美味い!」

 視線が集まる。それは食事の置かれた辺りにいる貴族の上げたものだった。

 その叫びは数多の貴族達の興味を引きつけた。声を発したのがその辺りの貴族であれば興味も引かれなかったが、声を上げたのは同格の大貴族。そんな人間が己の品位を疑われるような行為をしてまで感動を表に出す料理。引かれないはずがない。
 決して慌てないが、それでも興味津々な態度で貴族達は料理の置かれたテーブルに近寄り出す。今までは一見すると良くありがちな食材を良くありがちに調理したものにしか思えない。だからこそ、様々な高級食材を食してきた貴族達の興味を掻き立てなかった。 

 先ほどの声を上げた貴族が、夢中になって食事をばくばくと貪っている。次から次に食べ物に手を伸ばし、頬は大きく膨らんでいた。あまりにも品位のない態度であり、嘲笑されて可笑しくない。
 しかし、それ以上に貴族達に強い好奇心を懐かせる。
 それほどのものなんだろうか、と。
 金に物を言わせて高価な食材を最高の料理方法で食してきた、そんな貴族が貪るほどの食べ物。

 そして、それはグライアードも同じことだった。
 水晶の薔薇を人数分用意できる辺境侯の財が準備する食事。それに興味が湧かないはずがない。
 部屋にいた全ての貴族が食べ物の置かれたテーブルに集まると、数多の料理に思い思いに手を伸ばした。

 グライアードが手を伸ばしたのは鳥の腿を揚げた料理だ。それは一口サイズに切り分けられており、銀の取り針が全てに突き刺さっている。その料理を取ると口に入れる。
 銀の針を抜くと、噛み締めた。

「うま!」

 思わず叫びが漏れた。
 恥ずかしいという思いは浮かばなかった。周りからも同じ類の声が聞こえるし、これほど美味い料理に対して黙ったまま食べるというのは失礼だ、などという気持ちすら起こる。
 柔らかな肉を噛み締めるたびに口の中に旨みたっぷりな汁が溢れる。

「うま!」

 再び、叫んでしまう。
 ありえない。冷めているはずなのに、なんでこんな事が起こりえる。
 グライアードは自分が今まで食べてきた料理が何だったのか、というべき驚愕に襲われながら噛み締める。
 飲み込み、次の料理と集まった貴族達が全員手を伸ばしかけたとき、扉がノックされ、開かれる。
 
 我に返り、料理に夢中になってしまったということに羞恥を感じ、扉に向き直ると、そこに立っていたのは案内した執事であった。

「皆様、長らくお待たせしました。パーティー会場の準備が整いましたので、移動をお願いいたします」

 執事は室内を歩くと、グライアードが目を止めた鏡の前で立ち止まる。

「ではこの中にどうぞ」

 一瞬、何を言われたのか。理解できた者はいないように思えた。そこにあるのは鏡であり、扉のようには見えない。
 しかし執事の顔は真面目なものであり、冗談を言っている気配はまるで無かった。
 室内に満ちた混乱を、1人の男がばっさりと断ち切る。

「なるほど。辺境侯の魔法ということですね」

 レイ将軍である。
 彼は歩き出すと、鏡の前に立つ。そして手を伸ばし、鏡に触れた。いや触れたように思えた。次の瞬間、起こった光景にグライアードは目を疑った。
 レイの伸ばした手が鏡の中に、まるで湖面に沈むように入っていったのだ。

「では皆さん、お先に」

 それだけ言うと、レイは鏡の中に入っていった。

「なんという……」
「これが辺境侯の魔法?」
「なんと……」

 室内がざわめく中、レイに続いて鏡に向かう者たちがいた。レイの知り合いや、最初に向かうことで辺境侯の覚えをよくしようとする者たちだ。信頼していたから、直ぐに来ることができましたとアピールする狙いだろう。
 グレイアードもその手は十分に使えると考え、歩き出す。

 数人並び、グレイアードは鏡を潜る、そしてまばゆい輝きが目の前に広がった。
 そこはまさに別世界だった。思わず口を半開きにして、眺めてしまう。

「白銀の世界だと……」

 そう。そこは氷結した世界。壁や床、そういったもの全てが青みがかった氷から削りだされている。氷のシャンデリアが吊るされ、意外に柔らかな白色光が室内を照らしていた。赤い布が敷かれ、金の燭台が置かれた氷のテーブルには先ほどのものよりも豪華そうな食事があった。
 そんな部屋だが、寒くない。身を震わせるような冷気が漂っていても可笑しくないにも関わらず、寒さというものはこれっぽちも感じなかった。
 それらが相まって、御伽の世界のように感じてしまった。

 室内には先に向かった貴族以外にメイドたちの姿があった。
 どのメイドもグライアードですら滅多に見たことが無いような美貌の者ばかりであり、辺境侯が舞踏会に連れてきた者以外にも美しいメイドたちを控えさせているということに驚いてしまうほどだった。

 グライアードの後ろから来る貴族達も皆が驚きの表情を浮かべる。そういった感情を強く表に出すということが笑われる世界にあって、目撃した貴族は誰1人として侮蔑の雰囲気は漂わせない。
 それ以上に「貴方もか」といった親近感すらあった。

(当たり前だ! なんだこの部屋は! 魔法とはこれほどのことが容易に出来るものなのか! ではあのメイドたちも魔法で作り出しているのか!)

 心の中で絶叫しながら、グライアードは差し出された銀の盆の上に乗っているグラスを1つ取る。中に入っているのはクリアブルーの飲み物であり、かすかなアルコールの匂いがした。
 飲むべきか、飲まざるべきか。
 グライアードは迷う。
 毒とかアルコール度数などを心配したのではない。これを飲むことで、自分の今まで培ってきた常識が、粉々に砕かれることを警戒したのだ。
 迷い。そして同じようなドリンクを飲むことで絶叫している貴族達を視界に入れる。
 今まで飲んだことも無いようなものへの好奇心が、グライアードを強く掻き毟る。そして他の貴族たちが次を欲するその姿に、自分のお代わり分が無くなるのではという焦りが。

 一口、口に含み──即座に飲み込むと、グライアードは何も言わずに飲み干す。

「うまい……」

 深い溜息と共に、グライアードは天井を見上げた。
 アルコール度数はかなり低いようだが、口の中に広がる潤沢な香り。

「世界にはこんな美味い酒があったとは……俺は人生を無駄にしてきたんだろうか……」

 グライアードが己の人生について振り返っていると、執事が鏡を抜けて姿を見せた。そして声を上げた。

「皆様、お待たせしました。これより主人、アインズ・ウール・ゴウン辺境侯とジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス陛下のご登場となります」

 その言葉にグライアードは今になってホストである辺境侯の姿が無かったことを思い出す。
 そんなことに頭が回らないとは、と失態に心中でぼやきながらも、これほどの部屋を見せ付けられればそのあまりの素晴らしさに忘れてしまっても仕方がないと考える。そして続いた飲み物の素晴らしさのせいだ。
 無論、辺境侯がいれば最初に目に入ったのは間違いが無い。毎回、辺境侯の格好には敬服という念しか起こりえなかったほど、見事な装いなのだから。

 全員の視線が鏡に向かい、それを裏切るように部屋の中央に歪みが生じた。空間が歪んだような異様な光景だ。そして歪みが元に戻ったとき、そこには二人の人影があった。

 1人はグライアードも見慣れた人物だ。豪華な衣装を着こなす貴公子。帝国皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスである。
 そしてもう1人は当然の如く、舞踏会の際に見慣れた仮面をし、その時とは違う豪華な衣装に身を包んだ人物。辺境侯――アインズ・ウール・ゴウンであった。

 辺境侯が派手な礼を見せる。それはまるで数百回以上は行わなければ決して出来ないような優雅で、見事な礼であった。

「皆様、私のささやかなパーティーに参加していただき、誠にありがとうございます。慎ましいものしかございませんが、楽しんでいただければ幸いです」

 その言葉に室内にいた貴族達――グライアードを含め――苦笑いを浮かべてしまう。この何処が、ささやかで慎ましいものだというのか。もしこれが貴族の慎ましいパーティーの基準だとしたら、今まで帝国で行われた貴族のパーティーは、酒場での平民の打ち上げ以下だ。
 グライアード、そして貴族達がそんなことを考えている間にも、辺境侯の言葉は続く。

「先の舞踏会では皆様と歓談する時間がありませんでした。今日はそれを取り返そうと思ったのです」

 なるほど。
 グライアードはこのパーティーの真の狙いを理解し、辺境侯という人物の評価を一段下げる。
 ここで歓談の場――貴族用語では交渉の場を開くということは、行うだけの理由や狙いがあると言うこと。つまりはここから辺境侯の狙いが読めるということだ。
 もし自分であればこのような行為はしないだろう。辺境侯が誰と話そうが、自分の手の中を見せる行為であり、それは悪手である。そして話しかけられた貴族も、深い話をするのを戸惑うはずだ。つまりは無駄話で終わるだろう。
 もし本当にそれがしたいのであれば、幾らでも内密裏に交渉出来るチャンスはあったはずだし、こんなパーティーを開く必要はなかった。
 例え、どれほどブラフを混ぜようが、それぐらい見破れない自信の無い貴族が派閥の長をするはずがない。
 グライアードが心の中で薄く嗤う。

(それとも見破れないとでも思っていらっしゃるのかね、辺境侯。そうだとするなら舐められたものだ。確かに貴殿の財力、そして力は十分に思い知った。まさに帝国でも最も噂になる貴族に相応しいものだ。私の持ちうる力では何一つとして勝ち目はないだろう。しかし派閥の長を務めるものとして、仮面で顔を隠そうと、その下に走る感情を、そして企みを見抜いてやろう)

 そう決心していると、一つ気になることにグライアードは気が付く。それはジルクニフの表情だ。僅かに――しかし見る者からすれば思いっきりはっきりと――ジルクニフが嫌な顔をしていたのだ。ジルクニフほどの男に、そんな顔をさせる何か。それはグライアードには思い当たらない。しかし、その理由は即座に解明される。

「そして親愛なる皆さんを信頼し、私の素顔をお見せたいと思います」

 その言葉と共に辺境侯が仮面を外し――室内の貴族達はどよめくと同時に大きく頷く。
 仮面の下から現れた顔は人間のものではなく、おぞましいアンデッドのものだった。思えば、魔法による幻影など脳裏によぎっても良いはずなのに、すとんと納得する。

 なるほど、と。
 確かにこういう人物ならばこれほどの力を持つのは当然だ、と。

 グライアードの心中に恐怖などの感情は無かった。その理由は今までの辺境侯の対応にある。

 確かにその素顔は身構えてしまうものだ。アンデッドは基本、生ある存在を憎む敵意に満ちた存在だと、幼き頃から神官などに教わってくるのだから。しかし、辺境侯が貴族としての品位を持つ人物であると知っているが故に、その恐怖が若干和らげられ、逆にどうやればその力に触れられるかと派閥の――いや、自分の利益までも考える余力が出てくるのだ。

 グライアードは笑う。それは諦めたような、空虚なものでもあった。

(なるほど……。辺境侯とはこういった存在……財力を持ち、純粋な力を持つ……化け物か……。人間では太刀打ち出来なくても仕方がないのか……)

 仮想敵などどれだけうぬぼれていたのだろう。
 グライアードははっきりとした敗北を悟った。

 しかし派閥の長として敗北で終わるわけには行かない。グライアードは笑顔を作ると辺境侯に向かって歩き出した――。






――――――――
※  舞踏会は以上で終わりです。では次の邪神でお会いしましょう。



 
 巨大な門を前にクリアーナは唾を飲み込む。
 今日からここで働かせてもらうということになってはいるが、それでも今までの職場よりも大きい館ともなれば緊張してくる。さらに今まで仕えていた主人の格よりも上だ。
 クリアーナは横目でチラリと門の左右に控える帝国騎士の姿を確認する。
 不動の姿勢を維持したまま動かない騎士の姿は、拒絶するような何かを感じさせた。

 ――やっぱり止めておけばよかったかなぁ。

 クリアーナの前に立つ館の主人は、アインズ・ウール・ゴウン辺境侯と呼ばれる貴族だ。
 つい最近貴族位に昇ったと言うことで、どんな人物かなどの詳しい情報はクリアーナも知らない。前の主人に聞いても大したことは教えてもらえなかった。
 ただ、帝国の頂点に座す、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス皇帝陛下に続く地位の人物であり、帝国貴族社会における台風の目ともいわれるべき存在だということだけは聞けた。
 他にも凄い魔法使いだとか、貴族の力を削いでいる皇帝陛下が恐れから高い地位を与えたとか、キラキラ輝いているとか、眉唾な噂話はクリアーナの耳に入り込んできている。
 実際のところはさっぱり分からない、そんな貴族だ。

 この門の向こうに、クリアーナと天と地ほども地位が違う人が待つ、と思うと気が重くなっていく。
 しかし、立候補してしまった以上、逃げることは許されない。そんなことをしでかせば推薦状を書いてくれた前の主人に迷惑が掛かる。さらには悪い噂を立てられた上での無職だ。
 次の職場を見つけるのが非常に難しいだろう。

 マイナス的な意味合いで意を決し、クリアーナは騎士に向かって歩き出した。

  ◆

 クリアーナはメイドである。
 メイドといっても多種多様なメイドがいるが、仮に階級をつけるのであれば上位のメイドという地位につけるだろう。
 まず生まれが良い。
 よく勘違いされがちだが、一般人がメイドになろうと思ってもそう簡単に成れるものではない。貴族など高い階級の者に仕える以上、教養や礼儀作法は必須だ。さらにはそういった場所で働くことに対する保証なども必要となってくる。
 ではクリアーナはどのようにその辺りの諸問題をクリアしたか。

 クリアーナの名前はクリアーナ・アクル・アーナジア・フェレックと言い、歴とした貴族階級の出身だ。かなり下の貴族であり、貴族ということがおこがましい程度の家であるが。
 しかし貴族の生まれであり、家に汚点が無いという事は、十分に身分の保証となってくる。
 では次に教養や礼儀作法、特にメイド仕事を学習するかだが、これは彼女の母親が教師となって指導してくれた。
 クリアーナの母親は元々大貴族の家でメイドとして働いていたため、自分達の娘達にメイドとしての教育を幼い頃から施したのだ。
 これは慧眼だと言うほかないだろう。
 下級貴族という地位を最大限に使え、最も未来が広がるように子供達を育て上げたのだから。
 そういったことよりクリアーナは幾つかの問題をクリアしていた。
 
 次にメイドとして逃げられない評価がある。
 それは顔――美醜だ。
 どんなに言葉を綺麗に飾ったとしても、やはり美醜の面で劣る者はそれなりの扱いを受ける。雇う側の貴族でもやはり見栄えが良い女性を集めることは、一つのステータスとなるのだから。
 同じ職場でも表の仕事と裏の仕事に篩い分けられるようなものだ。
 そしてクリアーナの美醜はどうかといえば、これは……及第点をあげても良いだろう。
 決して美女ということは無いが、ほのぼのとした顔立ちをしている。特に特徴的なのはそのぱちくりした目だろう。
 そのためか、前に仕えていた貴族に安心できる顔立ちと言われたことがある。ただ、これはクリアーナからすれば喜んで良いことかいまだ不明だが。

  ◆ 

 帝国騎士に案内され、クリアーナは一つの立派な扉の前に立つ。本館を抜けてきたために左右に同じ扉が並んでいた筈だが、緊張のあまりに周囲を見渡す余裕は無かった。そのためこの館で最も立派な扉のようにも思える。
 奥にいるのはかの大貴族、辺境侯だろうか。
 数度呼吸を繰り返し、心が些少でも冷静さを取り戻すのを確認しノックする。

「どうぞ、お入りください」

 中から返答が聞こえる。
 女性?
 辺境侯は男性であったはずだ。ではその傍に仕える者の声だろう。
 そう納得するとクリアーナは唾を飲み込み、扉を静かに開けた。

「失礼いたします」

 そこは応接室だった。中にいるのは2人。
 そしてクリアーナは続く言葉を失った。目を何度もぱちくりさせる。
 そんな来訪者をどう思ったのか、部屋の中にいた人物が先に声を上げた。

「はじめまして、私はこの館で働いているメイドのルプスレギナと言います」

 待っていたのが辺境侯では無いとかの考えはどこかにすっぽ抜けた。
 クリアーナが何も出来なくなった理由、それは出迎えたメイドがあまりにも美しかったためだ。
 クリアーナが見てきたどんな女性すらも及びもつかない美貌の持ち主。
 普段であれば暫く絶句したままだっただろうが、メイドとして受けてきた教育がクリアーナの意識を取りもどさせ、返答させる。

「フラベラ伯爵家より紹介されてまいりました、クリアーナ・アクル・アーナジア・フェレックです。よろしくお願いいたします」

 深いお辞儀をし、頭を上げたクリアーナは手に持った紹介状を誰に渡すべきかと視線を動かす。
 しかし室内にいる相手は目の前のルプスレギナを除けば、もう一人しかいない。
 そちらの人物も女性だ。
 帝国人によく見かける金の髪は肩口ぐらいで綺麗に切り揃えられている。
 顔立ちは整っているが、目の前に絶世の美女がいることを考えれば、まぁまぁの美人だとしかいえない。
 服装は私服であり、色は落ち着いたもの。ある程度裕福な街娘が着るような仕立てで、決して貴族が着るものではない。
 足元に置かれた鞄、そしてそのピンと背筋を伸ばした立ち方。そういった諸々から彼女の正体は当然見えてくる。つまりは彼女もまたクリアーナと同じメイドなのだろう。それも今日から働くこととなった。
 ならば紹介状を渡すべき妥当な相手は、目の前のルプスレギナしかいない。

「こちらが紹介状になります」

 差し出した羊皮紙をルプスレギナは受け取ろうとはしない。困惑したクリアーナにその理由を答えた。

「紹介状に関しては後ほど上の者が受け取る手はずとなっております。取り敢えずはそれはそのままお持ちください。私は部屋の方に案内するよう指示を受けただけですので」

 え、そんなんでいいの?
 クリアーナは疑問を抱くが、自分の先輩であろうメイドがそういう対応をする以上、そう納得するほかない。

「畏まりました」
「本来であればお掛けくださいと言うところですが、直ぐに移動しましょう。その前に、貴方とこの子で同室と言うことになっています」

 指し示す先にいたのは、予想の通りもう一人の女性だ。
 
「同室になりましたパナシス・エネックス・リリエル・グランです。よろしくお願いします」
「私はクリアーナ・アクル・アーナジア・フェレックです。こちらこそよろしくお願いします」

 互いに頭を下げあい、ちゃんとしたメイドの教育を受けている人のようで、クリアーナは内心で安堵する。メイドというのは専門職ではあるが、中には変なのもいる。そういう人間と同室になったりするともう最悪だ。この館ではそう言った心配がなさそうな雰囲気で、クリアーナは安堵の息を軽く吐く。

「それではあなた方の部屋へと案内しますね」


 ルプスレギナに先導され、クリアーナとパナシスの2人は別館まで案内される。
 別館が本館に比べて劣るのは当たり前だが、案内された別館はこれまた見事な館だった。
 通常の貴族であれば本館と言っても過言ではないだけの立派な作りだ。辺境侯という地位についた貴族の権力をまざまざと見せつけてくれるようだった。
 驚く二人を後目にルプスレギナは館に入り、どんどんと進んでいく。二人も慌ててそれに続いた。
 やがて幾つかの扉の前を通り越し、一つの扉の前でルプスレギナは足を止める。そして二人の顔を見渡した。

「ここがあなた方の部屋です。この部屋にある全ての家具は2人で仲良く使ってください。仕事着は衣装ダンスの中にあります。サイズ等は問題なく合うはずですので」

 少しばかり違和感のある言葉に、クリアーナは内心で頭を傾げる。
 それはパナシスも同じだったようで、ルプスレギナに問いかけた。

「仕事着の準備が終わっていると言うことは、私達が来ることをご存知だったと言う意味でしょうか?」
「いえ、違います。メイド服は全て魔法が込められています。存じているかは分かりませんが、魔法の装備品は着る者の体格に合わせて変化しますから」

 一瞬だけ何を言っているんだろうとクリアーナは思った。
 魔法のアイテムは大抵が高額なものとなる。貸し出すメイド服にそんな価値をつけてどうすると言うのか。
 パナシスも同じであったようで、少しばかり口が開いていた。そんな2人の動揺を知ってか知らずか、ルプスレギナは説明を続ける。

「ご主人様への紹介を含めまして、他のメイドたちとの紹介等、後ほど誰かが呼びに来ると思いますので、それまで室内で大人しくしていてください。最後にもし何か問題や疑問等ありましたら、後ほどユリ・アルファメイド長代理補佐指揮官隊長殿に告げてくれれば対処してもらえると思います」
「メイド長代理補佐指揮官隊長殿……ですか?」

 困惑して問い返したクリアーナにルプスレギナは笑顔を向ける。
 ルプスレギナが浮かべた満面の笑顔は、女のクリアーナが引き込まれてしまうほどの華やかな美しさを放っていた。

「じょーだんっすよ」

 まるで別人ではと思われるような、冗談めかした口調でそれだけ言うと、さきほどのメイドに相応しい表情に戻った。
 その急激な変化は驚くと同時に、ルプスレギナという女性にあっているようにクリアーナは感じた。

「ユリ・アルファメイド長代理です。では私はこれで下がります。お疲れ様です」

 本当に簡単な説明だけで終わらせると、踵を返して歩き出すルプスレギナ。幾つかの疑問や聞きたい点などは残るが、後ほど告げるように言われてしまっては聞くのも失礼だ。
 2人は顔を見合わせ、同時に扉に視線を向ける。

「私が開けますね」
「よろしくおねがいします」

 パナシスが静かに扉を開き、隙間から顔をのぞかせる。
 そして動きを止めた。数秒の時間が経過し、パナシスが驚愕の表情でクリアーナに振り返る。そして感心したように呟いた。

「すっごいわよ、これ」

 思わず好奇心を刺激されたクリアーナは爪先立ちに後ろから覗く。
 そして思わず瞠目した。
 立派な調度品の数々が置かれ、窓には曇ってはいるがガラスがはめ込まれている。最も目を引くのが二つ置かれていた立派なベッドだ。
 清潔な純白の布団が掛けられ、入り込んでくる日差しで輝いているようだった。
 それはまるで二人が掃除する貴族の部屋のようだ。

「……本当にこの部屋を使っていいの?」
「さっきそう言っていたけど……」
「イジメの一環で罠に嵌めるとか。実は間違えて案内したとか」

 ありえる、と二人は顔を見合わせる。
 これは貴族向けの来賓用室ではないのだろうかという思いが頭をよぎる。
 貴族の娘が行儀見習いの一環として働いているような、特別なメイドならともかく、クリアーナのようなメイドにこんな素晴らしい部屋を用意するわけがない。
 壁は石造りで冬は寒く、日差しは入ってこない。薄暗さと湿気によって空気が悪くなるような、そんな部屋が単なるメイドの部屋としての相場だ。それからすればあまりにも違いすぎる。
 チラリとクリアーナはパナシスを横目で見る。そしてパナシスの視線とぶつかった。

「あっ」
「……あははは」
「……つまりは」
「……そっちでも無いということね」

 どちらかが特別なメイドという線は外れだ。

「取り敢えず確認してみましょう」
「何処を?」

 不思議そうに問いかけたクリアーナに、パナシスは指を衣装棚に向ける。

「あの中にメイド服が入っていたら、私たちの部屋の可能性は高いわ」
「なるほど!」

 二人はお互い頷きあうと、部屋に入る。
 あまりにも綺麗にされているためにおっかなびっくりだ。
 そして衣装棚を開け放った。そしてそこにメイド服が数着揃えられているのを確認する。

「……と、いうことは?」
「嘘……、ここが私たちの部屋なの? 本当に?」

 驚きが理解を生み、それが脳内に浸透するにつれ二人の顔は一気に変わる。喜色満面へと。
 二人は夢の世界にいるようにふわふわとした足取りで部屋を横切り、最初に向かったのはベッドだ。そして勢いよく飛び込む。

「すっご! ふわふわ!」
「うわー、沈みそうな感じがするけど、マットレスがしっかりしているから気持ち良い!」
「肌触りも最高!」
「なにで出来てるの! きもちいー!」
「すごいすごいよ!」
「さいこー!」

 しばし転げ回り、一息つく。
 まるで憧れた貴族の生活のようだ。
 もし相手がいなければ貴族の令嬢ごっこでも、子供のようにおこなっていたかもしれない。2人は天井を見上げ、心の底からの感嘆の吐息共に呟く。

「あー、さいこう」
「うん、さいこう」
「ちょう、さいこう」
「すっごく、さいこう」

 どちらかとも知れず、二人はくすくすという笑い声を上げ始めるのだった。



 辺境侯の館で働き出し、クリアーナは毎日、無数の驚きに直面した。
 まず驚きの一つは、この別館がメイドや警備の騎士たちに宛われた建物だという事実だ。この大きく立派な館を一つメイドたちの部屋として使うという意識がまず信じられない。
 メイドたちを一部屋に押し込め――二段ベッドを使用させて――部屋を開けるということをしないのだ。
 更に湯浴みだって暖かい湯が張っている。
 普通の貴族の屋敷であれば、メイドとして人前に出る場合もあるのだから、当然湯には入れてもらえるが、大抵は冷めた残り湯だ。主人や上の人間が入った後、燃料が勿体無いから沸かさないために、冷えるのは当然だ。
 しかし辺境侯の館では違う。
 しかも一つの湯に皆で順番に入るのではなく、本館と別館でそれぞれ別だし、別館も男女で別々に湯を沸かせるという形を取る。
 こんな燃料の勿体無い使い方は普通の貴族はしない。
 湯を沸かせる魔法のアイテムもあるが、それは高額だし、普通の貴族はそれを複数持つぐらいならもっと別のところに金をかける。
 それらの常識が辺境侯には当てはまらない。
 桁の違う圧倒的な財力を見せ付けられるようだった。

 そして食事だって残り物では無い。いま作りましたといわんばかりの暖かい食事をしっかりと食べさせてくれる。
 しかもパンはある程度は食べ放題だし、柔らかなお肉の入ったスープもお代わり自由。新鮮な果物もついてくる。
 更に晩餐の残りでしか食べたことの無いような肉料理も、時折出てくるのだ。まるで自分がメイドではなく、裕福な貴族の令嬢になったような感激をクリアーナに味あわせてくれた。
 そして何よりクリアーナを驚かせたのは、貴族が使いそうな見事な食器を使わせてくれることだ。初日、壊したら大変だと怯えるように扱った記憶は懐かしい。いや、いまでも時折怯えてしまうこともある。
 壊したら確実にクリアーナの一ヶ月分以上の給料が飛びそうな食器で食べる時は。
 
 まだ驚いたことは無数にあるが、その中で最も心に残っているのは『連休』なるものだ。
 辺境侯が取り入れた良く分からないシステムであり、クリアーナは聞いた時頭を捻ったものだが、連休とは仕事をしなくても良い日を2日連続で与えてくれること。
 つまりは8日間働いたら、2日も休めるという素晴らしいシステムのことだ。
 これはメイドとしてはあり得ないほどの好待遇だ。
 貴族の階級が高くなればなるほど、そこで働く者の待遇が良くなる傾向はあるが、辺境侯の館の待遇は常識を越えたレベルであり、裏を疑りたくなるような領域。
 実は売り飛ばすために、良い生活をさせているんだよと言われるほうが納得できる、そんな最高の生活だった。

 ではその好待遇が仕事の過酷さに出るのかというとそうではなかった。
 あまりメイドの数がいないので一人辺りの仕事量は必然的に多くなるが、それでも待遇から考えれば遙かに釣り合わない程度だ。
 それに仕事量が多いだけで過酷な仕事はない。
 基本的に仕事は別館勤務であり、本館での仕事は簡単なものばかりを任せられる。本館での大半が掃除だ。
 非常に高額なものの掃除が多いので、心臓がバクバクいうがそれ以上のことはない。きちんと丁寧に仕事をこなしていれば誰からも文句を言われたりはしない。
 本館では、ことが済めば追い出されるように別館に移動を命じられ、メイドとしてのプライドをチクチクと刺激されはするものの、そういったことを考えてもトータルとして素晴らしい職場だった。


 クリアーナは一日の仕事を追え、自室へと歩みを向けた。
 夜にもなれば館は暗がりに包まれ、月明かりが取れない曇天の日にもなれば廊下を歩くのが億劫になるのが当たり前だ。貴族であれば魔法の明かり等なんらかの照明器具を用意するのが基本ではあるが、普通はメイドたちの生活環境の場まで用意してくれることは少ない。
 しかし、この館においては違う。

 クリアーナは手に持った魔法の光源を高く掲げる。
 周囲に照らし出された白色の光が、昼間と変わらない明るさをもたらしてくれた。
 そう。メイドたちには魔法の明かりが各々貸し与えられるのだ。
 これ一つを売り飛ばすだけでかなりの金となるだろう。もちろん、そんなことは恐ろしくて出来ないが。

「ほんとうに辺境侯って財力がある貴族なのね」

 感心しているクリアーナの横で、同じように自室へと向かっていたパナシスが言葉を紡いだ。

 同じ部屋になってからというもの、2人はセットで仕事を与えられている。
 一日の労働で疲れた体ではあるが、共だって歩むものがいると元気が沸いてくる。
 2人は大きくならない程度の声で会話をしながら、廊下を歩く。

 パナシスと同じ部屋で暮らして数日にもなれば、ある程度は互いのことが分かってくるし、お互いの家庭環境なども話題に出る。
 クリアーナが知る限り、パナシスも下級貴族の出身で、両親と妹がいるそうだ。
 さらには妹が帝国魔法院で勉強しているために、魔法のアイテムのことも家族の話題に上がるため若干は詳しい。だからこそ魔法のアイテムなどを貸し与えられているということが、どれほど財力的に桁が違うことなのかクリアーナよりも詳しかった。

「ほんと、妹に自慢できるわ」 

 ニコニコと笑うパナシスにクリアーナも微笑む。

「あとは人間関係が最高ならもう何も言うことは無いのに」
「パナシス不味いって」
「別館まではあの方々はこないでしょ?」
「うーん、ベータ様は別だと思うけど……。あんまり上の人の悪口はね」

 何処の天国なんだろうという職場で、クリアーナが学んだことは幾つかあるが、その一つがメイドとしての格である。
 生まれや経験、年齢によって上下関係が生じるのは当然なのだが、この館においてはそれは少々異なった意味合いを持つ。
 まずメイドとして上に立つのは絶世の美貌を持つ6人の美女達だ。
 ユリ・アルファ。ルプスレギナ・ベータ。ナーベラル・ガンマ。シズ・デルタ。ソリュシャン・イプシロン。エントマ・ヴァシリッサ・ゼータ。以上の6人のメイドだ。
 そしてこの6人を纏めているのがユリ・アルファなので、彼女こそこの館のメイドの頂点といえよう。
 彼女達6人のメイドは何を言うまでも無く、クリアーナたちとの身分の違いをまざまざと感じさせるものがあった。実際に彼女達の方が上役だと言うのは、この館の執事である人物からの指導でもあったが。

「そうね。ベータ様はこちらに時々お姿をお見せになられるわね」パナシスが周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから言葉を続ける「でもなんで……ねぇ、クリアーナ。あなたこの館に入ってから悪口を聞いたことがある?」
「……それは不思議だよね……」

 メイドともいえども人間であり、自分より優れた相手に対して当然、僻みもする。
 休憩時間にいない人間の悪口を言い合うのは極当たり前の光景だ。貴族など自分達より地位的にかけ離れて高い人間の悪口は危険なので言わないまでも、同職の中で上に立つ者への悪口は良いおしゃべりの材料となる。
 しかし辺境侯の館において、それは無い。
 6人の絶世の美貌を持つメイドたちの悪口をいう者が皆無なのだ。
 その6人のメイドたちの性格が良いからなどの理由ではない。
 クリアーナからすれば6人のメイドのうち、幾人かの性格は最悪の類だ。

 それはソリュシャン・イプシロンとナーベラル・ガンマの2名のことだ。
 それからすればシズ・デルタ、エントマ・ヴァシリッサ・ゼータの両名は表情が一切動かないために、人形が歩いているような得体の知れなさに襲われるがまだ我慢できる。

「アルファ様とかベータさんとかは性格がいいのに」

 ユリ・アルファは仕事の最中は非常に冷たいが、別館に戻る時間になれば労を労ってくれる。そして最初に会ったルプスレギナ・ベータは非常に好意的な対応を見せてくれる。
 それらの人物に対してナーベラル・ガンマとソリュシャン・イプシロンは、クリアーナたちを完全に見下している態度を取っている。同じメイドだと言うのに、まるでお偉い貴族のような雰囲気で応対するのだ。
 高みから見下しているようなそんな態度で。

「綺麗だとあんなに歪むのかしらね?」

 パナシスがぼそりと呟く。
 言葉には出さないが、クリアーナも表情で同意する。

「それとも寵愛を得ているという自信からかしら」

 正妻のいないように思われる辺境侯がその6人のメイドに手を付けている可能性は非常に高いと二人とも考えている。
 というより手を出していて当たり前だろう。クリアーナの知る限り、男とはそういう生き物だ。
 だからこそ悪口が聞こえないのが不思議となる。

 出身階級の低いメイドが貴族の愛妾になるというのは、時折聞く話である。そしてそういったものは大抵が勝ち組と見なされるものであり、羨むべき話だ。
 鮮血帝の御世になって貴族階級のものたちの権力が削がれたといっても、メイドたちからすれば大貴族の側室(流石に正室を夢見るほど夢見がちではない)はまさに憧れの地位だ。
 当然、正室と仲良くやったり、確固たる地位を築いたり、子供を生んだりとそれ以降も努力することは無数にあるし、無理矢理などの例外を除けばだが。
 そういう意味では噂が徐々に聞こえだした辺境侯の愛妾という地位はまさに垂涎。裕福な暮らしに憧れる女であれば、誰もが目標にしてもおかしくはない。
 クリアーナは既に諦めているが、その夢を捨てきれないメイドは幾人も知っている。さらにクリアーナがこの館に来ると知って、同輩が妬ましげに見ていたのを覚えている。

 しかし狙うにしても辺境侯の傍に控えることが出来なくば夢物語だ。
 そんな壁として登場するのが6人のメイドだ。

 自分の顔立ちに自信があっても、かの6人と比べてしまえば伸びていた鼻は簡単にへし折られる。あれらの女性を前に、自分の方が上だなんて言うことは恥ずかしくて出来ない。
 そんな絶世の美女6人を傍に控えさせている辺境侯に声をかけてもらえるはずが無い。実際、クリアーナたちの本館での勤務の殆どが雑務であり、辺境侯などに関する仕事は一切回ってこない。
 さらにその6人の誰かが辺境侯には必ず付いているようで、単なるメイドが呼び出されたり、直接に仕事を与えられることは決してない。
 クリアーナが辺境侯を見たのはたった一度だけ。この館に来た最初の日に挨拶を行った際のみだ。

 6人のメイドがいなければ自分達が辺境侯の傍に控えられると考えてもおかしくは無く、そういった思いから悪口が出るのが普通だ。だからこそ悪口が発生するのだ、普通であれば。
 それが不思議だった。

「何を話しているの?」

 突然声をかけられ、後ろめたさから飛び跳ねるような勢いでクリアーナとパナシスは振り返る。そこに立っていたのは同じメイド服に身を包んだ女性だ。
 豊かな胸が大きく盛り上がっているのが制服の上からでもハッキリ分かる。
 彼女は二人よりも僅か先に入った先輩だ。性格も大人しく上品で優しいという、先輩に持つなら完璧という女性だ。それもあって二人が最も親しくして貰っているメイドである。

「せ、せんぱい」
「おど、驚かさないでください」
「ふふ、ごめんなさい」
「明かりも持たないでどうしたんですか?」

 彼女の接近に気がつけなかった理由の一つは明かりを持っていなかったことだ。もう一つはおしゃべりに夢中になっていたことだろう。

「いえ、なんだかあなた達が楽しそうにおしゃべりしているものだから」

 微笑んだその笑顔に、悪戯っ子の何かを2人は垣間見た。

「もう、先輩ったら……」
「ふふふ、ごめんなさいね。そんなに驚くとは思わなかったわ。でも……」すっと表情が真剣なものへと変わる「ここならおしゃべりぐらい多少は許してもらえると思うけど、本館に行ったら駄目よ」

 表情は硬いが瞳は笑みを宿している。
 軽い叱責というところだろう。それに安堵し、2人は交互に謝罪した。

「申し訳ありません」
「お許しください。それと……もちろんです。あちらでは決しておしゃべりなんかしません」

 本館勤務と別館勤務では空気が違う。
 本館でおしゃべりが出来るほど、クリアーナも神経が図太くない。

「なら……よくは無いけど、ストレスを溜めすぎるのもいけないしね。程々にしておきなさいね」
「はい」
「それで何を話していたの?」

 好奇心に目を輝かせた先輩に、2人は顔を見合わせてからさきほどの話を話す。
 6人のメイドに対しての話を聞くにつれ、先輩の表情が凍りつく。クリアーナが変だ、と思ったときには先輩は小さく、それでいて鋭く叫んだ。

「よしなさい!」

 驚くような硬い声だ。
 一瞬で顔が引きつっている。
 青ざめた顔で周囲を素早く見渡し、その話が誰にも聞かれていないかを確かめている。その姿は小動物のものに良く似ていた。
 困ったような微笑を浮かべながら嗜める。そんなイメージがあった女性のあまりの豹変振りに二の句が告げない。
 かすかに目を大きくし、先輩は言った。

「決して、あの方たちの悪口を言ってはいけないわ。考えても駄目よ!」
「か、考えても……ですか?」
「それは難しいんじゃ……」
「そうね、あなた方は後発組だったものね。でもよく聞きなさい。決してあの方達を怒らせてはいけないわ。あの6人の方々は私たちとは比較できない地位のお方々よ。下手すればその辺の貴族様よりも」
「そ、そんなわけ」

 メイドとしての地位が高いのは理解できる。しかし貴族よりもと言うのは言い過ぎだろう。そんな思いから口を挟もうとし――

「そんな訳あるの!」

 ――びくりとクリアーナとパナシスは体を震わす。先輩である彼女の言葉に決して冗談や大げさに言っている気配はない。

「決してあの方々の悪口を言っては駄目よ」
「は、はい」
「わ、わかりました」
「いうまでも無いけど、最も怒らせてはいけないのは辺境侯様よ。あの方を怒らせれば……殺されるわ」
「殺されるって……」

 貴族を不快にさせて殺されるという話はよく聞く。しかし、貴族達の生活を知る者からすればそれはかつての話だ。鮮血帝の御世になってから、放免して紙を回すというのがある意味最大に重い罰だろう。

「良いかしら、ここは素晴らしい仕事場だわ。給金、待遇……」

 二人とも頷く。それはまさにその通りだ。

「でもその代わり、絶対に守らなければならないことを守らなければ、その者は行方不明になるわ」
「……いるんですか?」

 聞きたくない質問だが、確認のためにする必要はある。
 冗談だと笑って欲しかった希望は容易く砕かれる。
 ごくりと唾を飲み込んだ二人の前で、先輩メイドは頷いた。

「いるわ。それだけじゃない。私は一番最初に集められたメイドの一人なんだけど、十人以上いたのに最初の日を超えられたのは私ともう二人だけよ」
「それって……」
「もちろん、その人たちは全員辺境侯様の情報を調べるように言われていた人たちだったけど」
「……それって可笑しくないですか?」パナシスが不思議そうに顔を歪める「だってその人達は皆、スパイみたいな人なんですよね? ならそんなに簡単にしゃべりますか?」
「魔法で操って、全て聞き出したのよ。そして最後にこうおっしゃられたわ『お前達に私の館での情報収集を命じた者の前で、このように言うがいい。お前が私の足元に平伏して、慈悲を願わないのであれば、これがお前の運命だ。それが終わったのならば、自らの喉をナイフで切り裂け』って」

 二人は何も言えず先輩メイドの顔を凝視する。
 嘘だよ、とか笑い出したりしないかと穴が空くほど。しかし先輩メイドの表情は硬く険しいもの。決して嘘を言っている顔ではない。
 つまりは真実。
 そのことが心に染みこむに連れ、体が大きく震え出す。今まで天国だと思っていた場所が、一枚薄布をはぎ取るだけで凄惨な場所に変わってしまったような恐怖に晒されて。

「あの6人のメイドの方々は全員が、そんな辺境侯様に絶対の忠誠を尽くしている人よ。怒らせれば何が起こるか分からないわ」
「わ、わたしたち大丈夫でしょうか?」
「だから言ったの。考えちゃ駄目よって。それを除けばここは良い職場だわ。三食は美味しいし、お風呂には入れる。ベッドは最高だし、給金も高いし、休みだってローテで与えられる。でも……辺境侯様のお側に仕える人たちは恐ろしいわ。特に私たちが時折会う、あの6人の方々は狂気的な忠誠を、辺境侯様に誓っているわ。あの優しげなベータ様であっても、辺境侯様の悪口を聞けばぞっとするお顔をする」
「ご、ごらんになられたことがあるんですか?」
「あるわ……、二度と見たくない」

 ぶるぶると震えだした先輩の顔は青を通り越し、白くなっていた。
 そのにじみ出るような不安は、二人がいままでイメージしてきたルプスレギナという女性の像を完全にうち砕くだけのものがあった。

「近くにいた私ですら怖かったのよ。向けられた人なんか倒れそうだったわ」
「そ、それでその人は」
「このお屋敷を守る騎士の方だったんだけど、次の日から来なくなったわ。……単に元の職場に返されただけかもしれない。でも騎士全員の雰囲気が一変したから……良いことは起こってないはずよ」

 クリアーナの脳内に騎士たちの姿が浮かぶ。これ以上ないと言うほどの真剣な態度を取る騎士たち。その完璧な規律の正体が目の前に姿を見せた気がした。

「そういえば……」何かを思いだしたようにパナシスがぼそりと告げる「裏手に林みたいなのがあるじゃない」

 クリアーナと先輩の2人が頷くのを確認してから、パナシスは続ける。

「あそこで見たんだ……。いままで見間違いだろうと思っていたんだけど」
「……何を?」
「地面がね、盛り上がって動き出すのを」
「……? それってモグラとか?」
「……人間よりも大きく盛り上がったんだよ? 暗かったから見間違いだろうと思っていたんだけど……もしかしてそれが騎士なのかなぁ?」
「……いや、いくらなんでも……ねぇ」
「冗談……じゃないんだ……」

 青白い顔で見合わせる3人に、唐突に声が掛かる。

「あのー」
「ひっ」
「きゃ!」
「ひぃ!」

 飛び跳ねるように体を動かし、3人揃って声をかけてきた人物を見た。
 そこに立っていたのは奇妙なメガネをかけた一人の女性だ。
 年齢は20ぐらい。外見時には整ってはいるが美人と言うほどではない。いうならクリアーナと同じぐらいか。

「な、なにか、あ、ありましたか?」

 彼女自身も驚いたように周囲を見渡している。
 手に明かりは持っていないが、薄闇を透かし見ることが出来るようだった。

「あ、い、いえ。と、突然お声をかけられたもので」
「あ、そうでしたね。申し訳ないです」

 ぺこりと頭を下げられ、クリアーナ達が困惑する。

「そ、そんなことをされなくてツアレ様」
「ああ、いいんです。様なんかつけてもらわなくて」

 ツアレと呼ばれた女性は、ぱたぱたと手を振る。そんな姿は普通のメイドと変わらない。
 しかしながら馴れ馴れしくすることはできない。彼女の立場はクリアーナたちとは違うためだ。
 確かに彼女の地位も一般的なメイドと変わらず、仕事の内容もだいたいがクリアーナ達と変わらない。
 ただ、彼女の勤務は本館がメインで、別館での仕事はあまりこなさない。
 クリアーナ達の仕事が終われば即座に追い出される場所でも、彼女はそういったことなく働ける。
 これが意味するところは、つまりユリ・アルファに代表される6人のメイド達は、彼女が本館で仕事をすることを全面的に認めているということ。

 このツアレという女性ばかりではない。こういったメイドはそのほかにも幾人かいる。恐らくは昔から辺境侯の下で働いてきている人物達だと思われるが、それ以外の何かがありそうな予感を覚える。
 そんな女性に対し、丁寧にクリアーナは問いかける。

「それでこちらにはどのようなご用件で?」
「あ、えっとですね。ある人を捜しているんですが」

 ツアレの探している人物のいる場所に心当たりはあった。
 直ぐにツアレに教えると、感謝の言葉を残して彼女は歩き出す。
 暗闇へと明かりも付けずに去っていく姿を見送りながら、3人の話題はツアレのものへと変わる。

「それであの人は……どんな位置づけなんでしょう?」
「良くは分からないけど、あの6人の方々も扱いに困っている感じだわ。基本的にガンマ様とイプシロン様は相手にしてないようだけど……」
「多分、セバス様に惚れているか何かで、実際手もついてるんじゃないかな?」
「うそ?!」

 パナシスの言葉にクリアーナと先輩メイドは驚きの声を上げる。

「たぶんだけどね。セバス様を見ている目がうちの妹がする目に似てるけど、その色が強いからの予想」
「そうなんだ……」
「あの程度の年齢差は珍しくないけど……良いなぁ。勝ち組かぁ」

 はぁ、と3人はため息をつく。ツアレの登場によって、この館の恐怖を一時的でも忘れられたのは大きかった。いや、だからこそツアレの話題へとなったのだろう。

「羨ましい」
「ほんと」

 再び3人で顔を見合わせため息をつき、自分達がどこで雑談をしているかをようやく思い出す。

「さ、行きましょう。こんなところで長く喋っていると色々と不味いことになるから」
「そうでしたね」
「とりあえず今日の夕食が楽しみです。この頃ジャガイモをごろっと食べてないから、食べたいなぁ」
「ごろってどんな表現?」
「え? 言わない?」

 そんな3人の会話が徐々に遠ざかり、それと同時に明かりも離れていった廊下に、ゆっくりと動く者があった。
 まるで影が膨れ上がり二次元から三次元へと進出したようなそんなモンスターは、去っていった3人の後姿を眺めてから、ゆっくりと再び影へと身を潜める。
 そして再び警護の役目を果たすべく動き出すのだった。





[18721] 55_邪神
Name: 丸山くがね◆bee594eb ID:43d90956
Date: 2013/02/28 21:45






「あああああ」

 濁点の付きそうなおっさん臭い声を上げながら、アインズは大きく息を吐き出す。それは安堵の溜息であり、溜まっていた──肉体的ではなく、精神的に──疲労を吐き出すようなそんなものだ。
 それからソファーにゆっくりと身を沈める。柔らかなソファーはアインズの全身を優しく受け止め、包み込んでくれる。
 総革張りのソファーも悪くは無いが、この柔らかなソファーも捨てがたい。
 そんなことをぼんやりと思いながら、アインズは頭もソファーに預け、ぼんやりと天井を見上げると、自分に声をかける。

「お疲れでーす」

 非常に気の抜けた態度であり、ナザリックの支配者に相応しい態度を取るように時折心がけている男からすれば見っとも無い姿だった。しかしここは帝都内のアインズの私室であり、普段であれば控えているメイドたちも現在は下がらせている。
 ならばこれぐらい良いじゃないか、とアインズは考えていた。
 自室ですら寛げなかったら、そんなのは自室ですらないとも。

 勿論、アインズがこんなに気を抜いているのも理由がある。
 それを一言で言ってしまえば、顔を晒してから2日間、貴族達の来襲がぱったりと途絶えたためだ。
 今までの忙しさから解放されたがための、空虚感がアインズを包んでいたためだといっても良いだろう。地獄の忙しさを乗り越え、暇になったりするとベッドから離れなくなってしまう現象と同じことである。
 勿論、精神的な影響をさほど受けないアンデッドでありながら、こういった状況になるのは、アインズの中に残っている人間の残滓によるものだろう。

 アインズは自分の中に残っている人間の精神構造に複雑なものを感じながら、今後の方針をぼんやりと考える。
 そうなると2日間押し込めていた不安が滲みあがってきた。

「……うーむ。来ないと来ないで不安に感じるものだな」

 顔を晒したのは少々早かったのではないかという思いが駆け巡る。しかし、アインズよりも知恵に優れるデミウルゴスが太鼓判を押したのだ。問題はないはずだ。
 そうアインズは思い込むことにし、己の中に生じた不安を無理矢理に霧散させる。

「取り敢えずはシャルティアをナザリックに帰還させておくべきか。貴族達が来ないのであれば、シャルティアをここに置いておく理由も無いしな」

 シャルティアにはナザリックの警備を固めて欲しい。確かに彼女はアインズの身を守るために、守護者の一人はここに配置すべきだと意見も出したし、デミウルゴスもそれには賛同していた。
 守護者の中でその任がこなせる者はたった一人しかいない。
 帝国ではエルフは奴隷とされている場合があるので、ダークエルフであるアウラは警備兵としては置けない。あまりにも異形の姿であるコキュートスも論外。そしてデミウルゴスは色々な仕事に忙しく駆け巡っているので除外。ガルガンチュアなど置けるはずがない。
 そういった理由でシャルティアだ。
 外見的にはさほど人間と変わりないし──本性は別に──、そして貴族達にも周知されていることだ。彼女が館内にいたとしても変に思う者はいない。そういう意味ではまさに適任だろう。

 しかしアインズ自身の考えとしては自身の安全よりもナザリック大地下墳墓の警備の方が硬くしておきたかった。
 守護者各員の心配は確かに理解できるのだが、この館にはセバスがいるし、危なければ即座に転移すれば良いのだから。それに敵によって帝都の拠点であるこの館を失っても痛くも無い。ならば出来る限り、兵力をここに置いておくというのは愚策だろう。
 そこまでぼんやりと考えたアインズはふとアウラから連想して、奴隷という存在に思いをはせる。

「奴隷……。買うなら筋骨たくましい男の奴隷だな。抑止力として武器を持たせた屈強な男の存在は必要だし……な。女などいらんわ、セバスじゃあるまいし」

 ナザリックから兵を連れてくれば問題はまるでないが、そういうわけにいかない。
 顔を晒したとはいえ、それはまだ上位貴族達のみだ。平民達の前で晒したわけではない。これは単純にアインズという人物をどの程度知っているかを考えての行いだ。
 辺境侯という存在がすぐに攻撃をしたりはしないということを知っている貴族ならば問題はないが、辺境侯を殆ど知らないであろう平民では、アインズが素顔を晒した際の衝撃の度合いは大きく異なる。これは言うまでも無いことであろう。
 だからこそ平民達に怯えられる情報をアインズから漏らす気はまだ無かった。勿論、大貴族達が流す可能性は十分に考えるが、それに関しては計算ずくである。

 そんなわけで目立っても問題ない、つまりは人間の兵力をアインズは欲していた。
 これは抑止という意味でもある。
 確かにアインズは強いし、セバスだっている。それに戦闘メイドたちだっているのだから、いまだ存在が不明なユグドラシルプレイヤーを除けば、大概の相手は撃退できるだろう。
 しかし、老人や美女を見た目で判断し、舐めてかかってくるだろう相手がいるのも事実だ。
 そのために見せ掛けの戦闘力として、屈強な男たちがいると便利だとアインズは前から少し考えていたのだ。

「それに力仕事などもあるからなぁ……。流石に数トンとかのものをセバスが一人で持っていたら不味いだろ……。警備ということで借り受けている騎士たちに雑務をお願いするというのも、人材がいないということを知られるみたいで情けないしな」

 アインズの邸宅は確かにレイ将軍配下の騎士達に守られてはいる。彼らの熱意は確かに一級品であり、一部の騎士は死んでも良いというほどの忠義の姿勢を見せる。
 アインズの口に出した褒美を狙ってのものだ。
 実際、軽く幾つかの褒美を与えている。アイテムを与えては勿体ないので、病人などで有ればペストーニャを呼んだりしてだ。
 下位の病気治療の魔法では治らないはずの病人を、アインズが預かって一日で癒して返した日から、彼らの忠誠心は限界を突破していた。
 これを現金と見る者はいるだろう。確かに見返りを求めての忠誠は信用できないという人間もいるが、アインズはどちらかといえばそちらの方が信用できると考えていた。メリットがあれば裏切らないということの裏返しだからだ。そういう意味では理性を重んじる男の方がアインズとしては使い勝手的にも嬉しく、感情を優先させる女の忠義は信用できないでいた。
 デミウルゴス辺りにすると「感情を掴むと非常に信頼できます」とのことだし、セバスのつれてきた女のことでもそうだと理解できるが、そこまで女の心を掴むすべを知らないアインズからするとやはり女の忠誠は鬼門の部類だった。
 アインズが無償での忠義を示してくれる者で信頼しているのはナザリックの存在だけだ。
 そんな騎士たちであればアインズの命令に従って汚れ作業や肉体作業を行ってはくれるだろう。しかし、それはあまりにも恥ずかしい。
 アインズは辺境侯という地位に就いている。ならばそれほどの地位に就いているだけの力を誇示する必要がある。
 大貴族がみすぼらしい格好をしていれば、それは単に嘲笑の種である。それと同じことで、肉体労働させる人材がいないというのも、笑われてもおかしくはない。

「それに奴隷ならば裏を調べる必要も無いだろうし……購入の件は真剣に検討しても良いな。闘技場に出てる剣闘奴隷なんていたら買って良いかも……」

 アインズは脳裏に屈強な戦士達を浮かべる。昔見た映画に出演していた、海外のマッチョな俳優たちをだ。
 無論、ナザリックのシモベ達からすればゴミ同然だろう。しかしそれでも見せかけの兵力としては、アインズの脳内では合格だった。
 もし奴隷を購入したら、どこに住まわせるべきかなどと考えていると、扉が数度ノックされる。
 びくりと体を震わせてから、アインズは己の服装を整える。

「セバスです、アインズ様」
「……入れ」

 扉越しに聞こえた声に、務めて重々しく答えると、扉が静かに開く。
 そしてセバスが部屋に入ると、深々と一礼を示した。対してアインズは支配者らしく鷹揚に答える。

「どうしたセバス。何かあったのか?」
「はい。アインズ様。一つ面倒なことが」
「なんだ? どこかの貴族でも来たのか? いや、それであれば面倒とは言わんか」

 皮肉めいたアインズの質問に、セバスは眉を顰めながら答える。

「はい。どうもそのようなのですが……」
「なんだ? はっきりしないな。何があった?」
「はっ。馬車が一台参りまして、辺境侯様――アインズ様に乗って欲しいと」
「爵位に敬称を付ける? ということは相手は貴族ではないのか?」
「はい。御者が使者も兼ねているようでして、どちらかの貴族の御方とお約束でも?」
「いや、そんな約束はしてない。……セバスがそう聞いてくると言うことは、馬車を送るという旨の連絡をしてきた貴族もいないのだろ? それで……セバスは面倒と言ったな? ならばそれで話は終わりではないのだろ? 続けろ」
「畏まりました。実は、問題となるのはその馬車──見事な馬車ではありますが、どこの家紋も刻まれていないようなのです。更には御者に問いかけてはみたのですが、向かう先も不明とのことで……。いかがいたしましょう? 非常に怪しいのですが」
「それは……罠などはありえないな」
「かと思われます。まさか、堂々とアインズ様の別邸まで来て、乗って欲しいまで言うのが罠とは……。極秘の会談と見せかけて、向かった先で罠にかけるなどでしょうか? ならばもう少しアインズ様を誘導するような嘘をついてくるかと……」
「そうだな……なんというか。罠の雰囲気が無いというか……」
「それにどうも非常に礼儀正しい対応を向こうが示すのです。アインズ様を特別なお客様と認識しているような雰囲気もありまして……どういう対応をして良いのか……」

 なんだそりゃ、などと思いながらアインズは入ってるか不明な脳みそをフル回転させる。
 しかし答えは出ない。
 御者に魔法をかけて情報を入手するという線も考えたが、実のところ魔法も万能ではない。つまりは途中で御者が変わってしまえば、魔法で得た情報と行き先は、大いに異なる結果となるだろう。これが魅了などの精神操作系の魔法に対する対策の一つらしいと、アインズが知ったのはつい最近の話だ。
 とりあえず断ったらどうなるんだろうか、という好奇心が湧いてくる。しかしロールプレイングゲームのようにセーブやロードが出来るわけでもない。断られたらそれで話が終わりとなってしまう可能性だってあった。

 静かに考え込んだ時間はさほど無かっただろう。どうにせよ相手の懐に飛び込まれなければ情報は入手できないわけで、更にはこの謎の馬車の存在はアインズの好奇心を刺激していた。
 ならば出てくる答えは一つ以外あり得ない。

「御者に聞け。私以外の者の同行は認めないかを。もし認めるならばソリュシャンを同行させる。認めないならば、私一人で行くとしよう。勿論、どちらになろうが、隠密理に馬車を追ってくる者を選抜せよ。エイトエッジ・アサシンなどを使用する許可を与える」
「畏まりました、アインズ様」
「それでは……今回の仮面はどうする? 落ち着いたものが良いと思うよな? 先方も目立たないものを望んでいるようだしな」
「いえ、ここは辺境侯という地位に相応しい物が良いかと思われます」
「……そうか。でも鳥の羽が生えたのは嫌だぞ?」

   ◆

 途中で馬車を乗り換え、御者が変わるなどを繰り返し、ようやく目的地に着いたらしき時には十分な時間が経過した頃だった。巨大な帝都であっても端から端まで着いてしまうだけの距離を走ったのは、アインズに場所を悟られないという目的ではなく、尾行を警戒してだろう。
 アインズは横に乗る美女の耳元に口を寄せると囁く。

「……ソリュシャン。尾行は?」
「はい、アインズ様。6名。上空に2名。地上に4名。全てナザリックの手の者です」
「その尾行が見破られている可能性は?」
「非常に低いかと思われます。三百メートルは各員離れております。これは上空の存在が指令塔として命令を出しているためだと思われます」
「そうか……ならば虎穴に入りに行くとしようか?」
「畏まりました。では私が先を」
「いらん。辺境侯が、メイドを先に送るような腰抜けだとは思われたくもない」

 二人がそんな会話をしていると、外を歩く音が聞こえ、扉の向こう側から男の声がした。

「辺境侯様。目的地に到着いたしました。降りていただけますでしょうか?」
「分かった。今、降りよう」

 扉は向こう側から開かれ、外気が流れ込んでくる。その中にあったのは土の匂いだ。
 アインズは月光にその身を晒し、周囲を見渡す。
 戦士達が周囲を囲むなどということはなく、途中で交代した御者がいるだけだ。そしてその場は墓地であった。

「ふむ……夜のデートコースとしては不合格な場所だが、これが帝国風という奴かな?」

 御者がアインズの問いかけに苦笑いで答える。

「すまないな。下らない冗談だった」
「いえ、非常に面白かったです。辺境侯様」
「そうかね? それで……私に会いたい御仁はどこにいるのかね?」
「はい。申し訳ありませんが、実はここからもう少し歩きまして……」
「ああ、気にするな。歩くのも健康に良いという奴だ。夜の墓地というのもなかなか乙なものだしな」

 御者の作ったような笑顔に罅が入る。その原因となったのは憤怒などではなく、怯えだ。アインズとしては素直な思いだったのだが、不快さから皮肉を口にしたと思ったのだろう。

(実際、墓地というのも悪くはない)

 夜空は多少の雲がかかっているために月光は遮られてはいるが、魔法の光源があるために墓地内はさほど暗くない。しかも綺麗に整列されているためか、不吉さなども皆無だった。
 ぐるっと見渡しても動く影は無い。いや、アインズは遙か上空に一瞬だけ動く影を見つけるが、直ぐに目をそらす。

「……ナーベラルか」
「は?」
「いや、何でも無い、何でも無い。こっちの話だ。それよりも何処に案内してくれるかね?」
「はい。こちらです、辺境侯様。足元の方、大丈夫でしょうか? 申し訳ありませんが明かりをつけるのは許されておらず」
「問題ないさ。私は意外に夜目が効くんだ。それにもし無理だったら魔法でどうにかするさ」

 そういいながらも、アインズは心の中で小首を傾げる。
 墓場に馬車で乗り込み、さらには声を潜めるでもなく、ここまで堂々としていれば明かりをつけるぐらい大した問題ではないだろう。
 微妙に対応がちぐはぐしていることが気になったのだ。

(……ある程度は口をふさぐだけの力があるが、同格の対抗貴族家があるために派手すぎる行動は取れない。もしくは墓場の管理に関する家か)

 アインズはその辺りかと予測し、御者の後ろをソリュシャンを引き連れ続く。
 着いた先は霊廟であった。御者は慣れた雰囲気での石の扉を押し開ける。
 中から香の甘い匂いが漂い出す。
 御者はアインズとソリュシャンを霊廟内に招き入れると、扉を閉める。アインズがここから何をしているのかと考えていると、ソリュシャンが顔を下に向けているのを発見する。
 アインズも釣られて下を見るが、石の床があるだけで何か変わったところがあるようには思えない。そんなアインズにソリュシャンが告げる。

「下に大きな空間がございます。恐らくは隠し部屋かと」

 なるほどと、アインズは頷く。
 盗賊系の能力を持っていないアインズではそういったものを発見することは困難だ。特にこの世界ではそうだ。スキルを持っていない料理を行おうとすると、炭ができあがるのと同じ理論だ。 
 ソリュシャンの声が聞こえた御者は僅かに驚いたような表情を浮かべながら、奥に置かれた石の台座に近寄ると、石の台座の下の方にある意外に細かな彫刻を押し込んだ。
 壊れることなく、それは動くとガチンという何かが噛み合う音がした。そして一拍後、ゴリゴリと言う音を立て、ゆっくりと石の台座が動き出す。その下から姿を見せたのは地下へと続く階段である。

「では、まいりましょう」

 そのまま御者に従ってアインズは階段を下りる。
 途中で一度折れ曲がった階段を下りきると、そこは広い空洞が広がっていた。壁や床はむき出しの地面ではあったが、人の手が入っているために簡単に崩れたりしそうな雰囲気はない。
 空気もまた淀んではおらず、何処から取り入れてるかは不明ではあるが、新鮮なものだった。
 ただ、そこは決して墓場の一部ではない。もっと邪悪な何かであった。
 壁には奇怪なタペストリーが垂れ下がり、その下には真っ赤な蝋燭が幾本も立てられ、ボンヤリとした明かりを放っている。踊るように揺れる灯りが、無数の陰影を作る。微かに漂うのは血の臭いだ。

 そしてそこには三人の人影があった。その内の一人に御者は話しかける。

「公爵様。辺境侯様をお連れしました」

 それはアインズがパーティーを開き、貴族達に素顔を見せたとき、最初に向かってきた貴族だ。

(確か、ウィンブルグ公爵だったか?)

「よくぞ、来てくださいました、辺境侯――様」

 その言葉にアインズは仮面の下で顔を歪める。公爵に様をつけて呼ばれる理由が思い至らない。しかし、顔を見せたことによって、警戒の意味もあるのかも知れないと判断したアインズはそこには深く追求することなく流すこととする。

「好奇心を刺激されてしまったからね。秘密裏に呼ばれたからには、楽しいパーティーでも始まるのだろ、公爵?」
「はははは。まさに」

 公爵は機嫌良く笑うと、隣にいた神官のような服装をした――ただ黒い――男の方を向く。

「行こうか、皆も待ち望んでいよう」
「畏まりました。クレマン殿。私は公と共に皆様の準備をしているので、辺境侯様をお願いします」
「分かりました。では辺境侯様、私が部屋の方まで案内させていただきますので、着いてきてください」

 答えたのは猫のようなところのある女だ。紫の瞳がじっとアインズを見つめていた。

「ああ、よろしく頼む」
「ではまた後で、辺境侯様」
「……ああ」

 なんか奇怪な敬意を示してくる公爵と別れ、アインズはクレマンと呼ばれた女の案内で別の部屋に通される。
 そこは玄室のような作りであり、奥に一つの石製のイスがどんと置かれていた。そんな部屋の中央まで来た辺りでクレマンがアインズに話しかける。

「あれに座って待っていてくれますか?」

 口調こそは丁寧ではあったが、その中には先ほどまで微かにはあった敬意が皆無であった。先ほどの態度は公爵の前だったからだということなのだろう。
 更にはその目にはアインズを値踏みするようなものがあり、実力を計っているようにアインズには感じられた。
 アインズは若干不快に思う。公爵の護衛かもしれないが、そんな目で見られる筋合いは無い。そんな思いをぶつける最適な標的として、アインズはあるものを選択する。流石にクレマンを選ぶことは出来ない。

「いらんよ」
「はい?」

 不思議がるクレマンを無視して、アインズは巨大な石の玉座に近寄る。

「薄汚いイスだな」

 アインズはそれだけ言うと玉座に手をかけた。軽く動かす。幸運な事に下まで固定されてないようで、僅かに動く。

「まさか、私をこんな汚い石の塊に座らせたいのではないだろ?」

 クレマンにじっと視線を向けながら、アインズは石の玉座を――二トンはあるだろうものを片手で持ち上げる。
 クレマンが驚愕したように一歩後退し、腰を軽く落とす。それは即座に反応出来る、戦闘態勢だ。
 アインズはそんな態度に聞こえるようにわざとらしく鼻で笑うと、玉座を放り出す。放り出すといってもアインズの腕力を駆使した投擲だ。それは剛速球を投げるに等しい。
 壁と玉座がぶつかり合い、あり得ないような激突音が響き、大地が揺れるような音がする。
 砕け散った石が周囲に飛び散り、壁には蜘蛛の巣のような罅が入っていた。天井からぱらりぱらりと土がこぼれ落ちてくるが、抜ける気配は無かった。
 天井が抜けてきた時を考えて準備していた魔法を解除しつつ、クレマンの様子をアインズは横目で伺う。

 そこにいたのは単なる女だ。
 壁の激突音で「ひっ!」と軽い悲鳴を上げたクレマンは、土埃が天井から落ちてくるたびにびくりびくりと肩を竦めている。
 それにまるで小動物のような動きで、横倒しになった大きく欠けた石の玉座を眺めていた。浅く荒い息がその内心を雄弁に物語っている。
 先ほどまで腰を落としていたのが戦闘態勢であるとしたら、今の落としている姿は少しでも自分の身を小さくすることで、アインズの視界内に体を入れたくないというもの。
 そんな姿にアインズは先ほどまでの評価を一段下げることにする。

(やはり……護衛とかではなく、単なる女か。公爵に気に入られているから私に対して偉そうな態度を匂わせてしまったというところだな。やれやれ、単なる小娘の跳ね上がりに苛立つとは……大人の度量を見せるべきだったか? まぁ、舐められても困るし、妥当な判断だったと思いたいものだな)

「……汚いイスは無くなったな。さて、私は何処に座るとしようか?」
「では私がイスに?」

 今まで黙っていたソリュシャンの久しぶりの声を聞き、アインズは軽く脱力する。

「それも悪くはないが――」
「――で、では私が」

 クレマンが恐る恐ると問いかけてくる。その瞳にはあるのは怯えた光であり、完全にアインズには単なる平民の小娘にしか思えなかった。

(俺は女に座るような者だと思われているんだろうか? ……結果的に人が苦しむことになっても構わないが、だからといって率先して人を苦しめたいとは思わないのだが……。やはりこれが平民的な反応なんだろうか? 仮面を取るのは避けた方が良いのかなぁ)

「いらん」

 かつてのシャルティアを思い出しながら、アインズは言い捨てる。クレマンがびくりと肩を振るわせた。
 そこまで怯えなくても良いだろうとアインズは内心でぼやきながら、先ほどまで石の玉座があった場所に指を突きつける。

《上位道具作成/グレーター・クリエイト・アイテム》

 魔法の発動と共に、そこには黒曜石で生み出された玉座が鎮座していた。揺らめく蝋燭の光を反射し、黒く輝くその玉座はまさに見事な物であった。

「嘘……本当に魔法使い……あれだけの肉体能力を持った……? ハハ……冗談。あり得ないでしょ……」

 呆然としたような女の声を無視し、アインズは鷹揚に黒曜石の玉座に腰掛ける。ゆっくりと足を組みながら、肘掛に右腕を乗せると、手の甲に顎を乗せる。それからゆっくりとクレマンへと顔を向けた。

「何か言ったな? 何だ?」
「イぃ、いえぇ、な、何でもナいでス!」

 何かが壊れたような引きつった笑いを浮かべ、幾度も裏返った声で返事をする女に、アインズは鼻で笑う。別に本気でおかしいわけではなく、支配者に相応しい傲慢な態度を演技してだ。
 それが見事にはまったのだろう。クレマンがブルリと体を震わせた。そのタイミングを待っていたように、入ってきた木のドアが音を立てて開かれ、息を乱した公爵が顔を覗かせる。

「何事ですか! 何か凄まじい音がしましたが!」
「ああ、大したことは何も起こってないさ、公爵。私が座るべきイスがなかった物でね、準備させてもらっただけだ」

 公爵の目が動き、横倒しになった石の玉座に釘付けになる。何か言いたげな素振りを見せ、それから頭を横に振った。

「ならば仕方ありませんね。もうしばらくお待ち下さい、辺境侯様」

 それだけ言うと立ち去る公爵に対して、アインズは意外に物わかりがよい、と思う。普通であれば壁や玉座の状況から、もう少し大きな反応を示しても良いところであろう。ただ、冷静に考えてみれば、アインズが強大な力を持つと知る者からすれば、十分に納得のいくところなのしれない。
 王国の軍を十万も殺し尽くした男であれば、壁に大きな罅を入れることも用意であろう。それにアインズの開いたパーティーでも、参加した全ての貴族が口々にその財と力を称賛していた。
 それらが相まって、この程度アインズからすれば容易いことと判断されたに違いない。

 計画していたとおりに物事が進展していることに、アインズは仮面の下で満足げに笑いを浮かべる。
 この調子で行けば、アインズ・ウール・ゴウンの名は不偏のものとなるだろう。その時にギルド長としてかつての仲間達に顔向けが出来るというもの。
 喜悦をアインズが感じていると、横にソリュシャンが並び、耳元に口を当ててくる。

「アインズ様。こちらを伺う者をおりますが処分いたしますか?」

 アインズの視線が、部屋の隅にいつの間にか移動して、小さくなろうとしているクレマンへと動く。それから部屋全体をぐるりと軽く見渡し――

「警備の者だろ? 無視しておけ」
「畏まりました」

 一礼するとソリュシャンが離れる。
 そのまましばらく時間が過ぎる。クレマンに話しかけようと思っても、一番遠い場所でおどおどとこちらの様子を窺っている女に話しかけるのもなんだかなという気持ちが働いたので、アインズはぼんやりと待つことにした。
 ソリュシャンがアインズを待たせるという行為に不快げな雰囲気を放つが、それはアインズ自身が押しとどめた。
 待たせた結果を見てから判断すべきなのだから。

 やがて扉が叩かれ、そして開かれる。
 ついに何か始まるのかと、若干期待した気持ちで扉を眺めたアインズは出てきた者達を見て、完全に硬直した。

 入ってきたのは男女交えて、総数二十人ほどだ。
 顔は骸骨を思わせる覆面を被っており、うかがい知ることは出来ない。問題はその下だ。上半身、下半身共に裸である。
 もしこれが若者のものであれば五歩ぐらい譲って、男の裸でもまだ我慢出来たしれない。鍛え抜かれた体であれば三歩ぐらいで済むだろう。
 しかし――違う。
 中年というより老人の皺だらけのものであり、弛んだぶよぶよとした皮のものだ。老人で無ければ、あるのは中年のだらしない肉体は油の詰まった肉袋だ。
 男がそうなのだ、女だってそうだ。第一の感想は干し柿である。

 アインズは仮面の下で目を閉ざす。
 見たくなかった。もはやそれは精神的ブラクラでしかなかった。

(な、なんだ、これは……ヌ、ヌーディスト……ビーチではない。グレイブヤード? ヌーディスト・グレイブヤードなのか? ……なんで俺はこんなところに呼び出されたんだ? いやヌーディストとかではなく……噂の乱交とかだったらどうする? それとも仮面を愛する貴族達の集会とか言われたら、俺はどうすれば良いんだ?!)

 アインズが仮面の下でアンデッドであるにも係わらず非常に動揺していると、先頭に立つ男――当然、全裸である――が声を発する。

「辺境侯様! 仮面をお取り下さい! そしてその真なるお顔をお見せ下さい!」 

 公爵の声だ。
 こいつ実は狂人だったのか、などと思いながら、アインズはどうするか迷う。正直こんな狂人たちの前で仮面を取ることが良いことなのか、判断があまりにもつかなかったのだ。
 アインズの真なる素顔とは公爵の知っているアンデッドの顔であることは間違いない。しかし、真の素顔を晒した場合、なんだか得体の知れないことが起こりうる可能性がある。

「辺境侯様! どうぞ、仮面をお取り下さい!」

 繰り返され、アインズは覚悟を決める。
 もはやあまりにも理解出来ない事態であり、この仮面を外すことが良いことか悪いことかもは判断つかなかったのだ。

「……ならば見るが良い。私の素顔を」

 アインズは仮面を外し、そのアンデッドの素顔を晒す。
 動揺が走った。
 だが、それはアインズが想像していたものとは違い、マイナスではなくプラスの雰囲気を醸し出していた。
 一斉に変質者達はひれ伏す。そして声を合わせて、呼びかける。

「邪神様! 邪神様のご光臨だ!」

 おお、という称賛の呻きが響く。
 アインズは嫌な予感を覚えつつ、目だけで周囲を見渡す。
 いない。
 邪神など何処にもいない。
 何処を見渡しても、それらしきおぞましき存在はいない。
 何処を見渡しても、それらしい絶対者はいない。

 ならば残る答えは一つである。ソリュシャンというわけでもないだろうから。

 どうみてもそうとしか考えようがなかった。
 つまりは――

(――俺が邪神か!!)

 そう内心で絶叫する。
 そしてアンデッドであるにもかかわらず、アインズは混乱する。

 おかしい。
 おかしすぎる。
 何故こうなった。
 王国軍を一撃で崩壊させた強大な魔法使いであり、そして貴族の礼儀を知る人物。アンデッドではあるが、それでも即座に危険をまき散らす存在ではない。
 そう理解してもらうよう、腐心した筈ではなかったのだろか。

 それなのに、何でこうなった? それとも邪神とはこう……良い意味を持った神様なのだろうか?

 しかし、そんなアインズの動揺は一瞬であった。
 確かにアインズ一人で立案した計画であれば、失敗したと思っただろう。しかし、デミウルゴスやフールーダの賛成を得た計画が狂うのはあまり無いはずだ。
 思案すれば出てくる答えは限られていた。

(この場にいるのは、帝国の中でも一部の勘違いした者達ということだな)

 そう結論を出したアインズは薄く嗤う。

 さて、どうやってこの勘違いしている者達を利用してやろうか、と。


   ◆◇◆


 それは万物の死であり、全ての終焉であり、例えようが無いほどの悪であった。
 僅かな動きで、おぞましき地獄の闇が現世に侵食してくるような気配が立ち込める。更には精神や魂を腐敗させる風が吹き付けてくるようだった。
 絶望の具現を前に、彼は吐き気をもよおす。
 しかし、唾と一緒に飲み込み、決して無様な姿を見せないよう、必死に努力する。

 ──当たり前のことだ。

 眼前に座する死の邪神。
 その感情を感じさせない瞳に宿る意志が、自分達に対して何を思っているのか窺い知ることが出来ないのだから。
 良い方向に転がるか、悪い方向に転がるか。
 それが問われる状況下で、不快な姿勢を晒せば、悪い方向──死が自分達の命を奪うのは確実だろう。それが仮に恩寵だとしても、ごめんこうむりたい。

 弱者が強者に対してみせる姿勢として最も正しいのは、崇拝であり、服従であり、敬服だ。

 それ以外の行動──吐いたり、逃げたりは苛烈な怒りを受けるだろう。
 その場にいる弱者である誰もが、理解している。だからこそ、怯えていながらも彼の仲間達は、誰一人として無様な姿を見せなかった。

 立派だ。

 彼は少しだけ、その場にいる同じ目的を擁いた者たちを評価する。
 これまでは同じ方向に顔を向けてはいても、心の奥底では侮蔑の感情も抱いてはいた。しかし、今は違う。
 死の恐怖と直面しながらも、決して無様な姿を見せない者たちに、ある種の親近感を感じていた。

 実際、それは彼だけではないだろう。
 覆面からの覗く瞳には、彼が今抱いているのと同じ感情が見え隠れしたのだから。
 同じ体験をした者が、親近感を抱くことは珍しいことではない、特に彼らが直面している状況下であれば、普段以上の強い親近感が湧いたとしてもなんら疑問は無かった。

 彼たちが見ている中、見事な漆黒の玉座に座った滅びの王が、ゆっくりと口を開く。
 しかし言葉は出ずに、再び閉ざされる。
 それは何か言いたげな素振りのようにも思われたが──。

 彼は、内心で頭を振った。

 いや、違う。
 そんなことをしようとしたのではない。恐らくは体内の冷気を吐き出したに違いないだろう。

 彼は感じていたのだ。その裸の体を覆いつくす鳥肌。そしてつま先からこみ上げてくるような冷気を。
 勿論、彼が現在、裸であるために、単純に寒さを感じたなどという下らない理由によることではないのは確実だ。

 それは目の前にいる死の王の存在。そして語られる神話の内容だ。

 彼らが信仰する邪神は、名無き邪神と呼ばれ、死と暗黒を統べると言う。その邪神は極寒の世界に居城を作り、死した魂を凍りつかせて弄ぶといわれていた。
 ならば今の動作は伝説に語られる、魂を凍りつかせる吐息であるのは間違いないだろう。

 彼の心に少しだけの安堵が生まれた。
 息を吐き出しながらも、自分達の誰一人として死んでいないということが、逆説的に、神は即座に死を与える気が無いということを意味しているのだから。

 彼は恐る恐る、自らが信仰する神を伺う。
 その素顔から視線を逸らし、衣服を眺める。
 着ている服は貴族が一般的に着用するものである。所々に豪華な刺繍を付け、その刺繍の品と豪華さで地位を誇示するタイプのものだ。
 では、かの存在のそれはどうか。
 貴族として幼い頃から質の良いもののみを目にしてきた人間特有の審美眼からすれば、まさに人の手では創れないような一品であった。かすかな光沢のようなものがあるが、それは衣服の材質と言うよりは宿した魔法の力によるものの気がする。
 一体、買うとしたらいかほどの価格が付くのか、彼には想像もできない。

(いや、神の衣服を買うなど……傲慢も良いところか)

 座っているのは見事な漆黒の玉座であり、光を無数に反射しているさまは黒曜石ではないかと思われた。

(なんと美しい。今までのつまらない玉座に座っていただけないのも当然だな)

 横に目をやれば転がった巨大な石の玉座。人間が何人も協力しても動きそうも無い石の塊。
 あんなものをどうやって動かしたのか不明ではあったが、神にできないことなど無いに違いないと考えると、納得もいった。

 そんな邪神の人の世での名前は──アインズ・ウール・ゴウン辺境侯という。
 たった一人で王国の軍勢を滅ぼしつくした魔法使い。初めて聞いた時は、何のプロパガンダだと思ったものだ。帝国騎士達が行った大勝を、一人の人間が成したことにすることで、何を皇帝は企んでいるのかと。
 しかし、今、目の前にいる滅びの邪神を前にすれば、王国軍が滅んだのも当然だと言える。そして魂を貪り喰らったという噂も。

(ああ、違うんだ。魂を貪り食らったのではないんだ)

 彼は噂の発生源であろう帝国騎士たちに、優越感めいた気持ちで語りかける。

(偉大なる死の王は魂を凍りつかせ弄ぶ。殺した者の魂を集めて、己の居城を飾り付ける目的なんだよ。おお、なんと恐ろしい。未来永劫、解放されぬ魂は居城に泣き声を響かせると言うが……。まさに凶悪の所業よ)

 勿論、そんな悪を信仰し、崇拝する彼らも悪ではあろう。しかし、魂すらもおもちゃにするという大悪からすれば、子供だましも良いところであろう。

 彼が邪神のおぞましき姿を失礼にならない程度に眺めていると、その横を衣服を纏った一人の男が通り過ぎる。そして全員の前に立ち、邪神──アインズの前に立つ。

(神官どのか……)

 この邪教集団のまとめ役は高位のある貴族であるが、神官と呼ばれるその男は生贄の手はずを整えたり、この邪神殿の管理に当たっている男だ。実際に魔法を使用できるために、元々はどこかの神官であったのだろうと噂されていた。

「偉大なる邪神よ。いと尊き御身のお姿を私どもの前に現せて下さったことを深く感謝いたします」

 ゆっくりと頭を下げる神官に合せて、彼らも一斉に頭を下げた。

「……良い。頭を上げよ」

 ぶっきらぼうと言うか、静かな声だった。
 感情の無い平たい声は、聞くだけで不安が滲みあがってくる。
 危険な肉食動物と対面したような、突如、敵意を向けられても可笑しくないような雰囲気があるのだ。それは遅延魔法にも似ている。何時発動するか不明な、危険な魔法にも。
 しかしそれらとは違い、人の世で動くことができるという知性を持つがゆえに、彼でも僅かではあろうが、邪神の雰囲気を感じ取ることが出来た。
 高位の貴族として様々な狸たちと交渉してきた経験が、その声に僅かに含まれた、呆れているような気配を敏感に察知したのだ。

(いや、違う。多分、こちらを試しているんだ)

 魂を弄ぶような邪神だ。人間ごとき弱小な存在と同じ精神構造を持っているはずがないだろう。にもかかわらず人である彼が、気配を察知できたのは、わざとそういった雰囲気を放っている可能性が高かった。
 つまりはこちらの価値を計っているのだ。

 彼は身震いする。もし、その試験に不合格だった場合はどうなるのか。
 同じように感じたのか、彼の視界内でも幾人かの者たちが同一のタイミングで身震いしていた。

 問題は何に呆れているかだ。不満なのか。退屈なのか。何に起因してのものかが読みきれない。

(考えろ、考えるんだ。何を呆れていられるんだ?)

 普段であれば、人の上に立つ者としては、こんなことは考えない。しかし、相手は強大な力の持ち主であり、ここにいる全ての者を殺すのに迷い無いと思われる人外の王。ならばどれだけ警戒をしても足りることは無い。
 そしてそれ以上、邪神は何も言うことなく、口を閉ざしたままだ。

(神官どのは……)

 神官も邪神の反応に戸惑っている雰囲気が、後ろからでも掴めた。

(この馬鹿が)

 いつもであれば決してそうは思わなかっただろう。神官が黙々と邪神に対する儀式を行い、手はずを整える姿を知っているのだから。ある意味、神官の敬虔な態度には彼も頭が下がった。
 しかし、この場で邪神を不快にさせれば、こちらの命が危ない。せめて気分良く、人間と同じように感じてもらえるかは不明であったが、だからといって魂を凍りつかせたいなどと思われないうちに、己の世界に帰ってもらいたいものだった。
 もしかすると帝国に貴族として現れたのも、自分達の召喚が変な方向に転がって、想定外のところに出現させてしまったかもしれない可能性も無いではない。

「贄を! 御身に若き魂を!」

 神官が突然、そう口にした。生贄の儀式を行うと。
 これは悪い手ではない。彼も大いに頷く。
 生贄を捧げることで不快な気分を少しは収めてもらえれば恩の字だ。最低でも悪い方向に転がったりはしないだろう。

「……え」

 かすかな驚きの声が漏れる。
 恐らくはその横に立つ女のメイドが上げたものであろう。
 彼がそう思っていると、一番後ろに用意されていた皮の袋がバケツリレーの形式で前に持ってこられる。皮袋の口は紐で縛られているが、大きさとして子供が一人入るのに十分なサイズだ。
 この皮袋を持って前に回すと言うことは、邪神に捧げものをする意志があると言うことであり、信仰心の表れであるとされている。だからこそ枯れ木のような老婆でもそれに必死に持とうとした。
 そのためなのか、生贄として選ばれるのは子供が多かった。 
 彼もその皮袋を持ち、前の人間に渡す。そして視線を回し──

(……もう一つ?)

 少し離れたところを、もう一つの皮袋が前に向かって渡されてきている。
 やがて2つの皮袋が床に置かれる。中を確認しないのは、殺意を削がないためだ。たとえ中に入っているのが人間だと知っていても、直接目にしてなければ、意外に残酷なことも出来るものである。
 そしてもう一つ理由がある。それは人間であることを確認しないこと。もし仮に捕まったとしても、人間というのは嘘で動物だと思っていたと論理武装するためである。

 6人の男女が前に進み出る。そしてその手には鋭い刃物。
 彼らは順番で選ばれた者たちだ。本来であれば3人なのだが、今回は二つ袋があると言うことで、その倍の人数だ。
 彼は羨ましく思う。この最高のタイミングで死の邪神に、生贄を捧げるチャンスを得れる彼らに。
 そして剣が振り上げられ、サディスティックな熱気が満ち──

「良い!」

 再び声が発せられた。先ほどよりも力強いものだ。

「……死は私の支配するところ。いずれ来る命を私以外の者が、無下に奪うのは多少不快だ」

 剣を持っていた6人の男女が怯えたように後ずさる。魂を捧げ、死の存在より褒め言葉をもらえると思っていたら、真逆の言葉が返ってきたのだから、驚きもより大きかったのだろう。
 ただ、考えれば納得のいく答えだ。
 死を支配する存在からすれば、生きている者はすべて己のものであろう。そして死を絶対的強者として与えるのであれば、人間ごときに勝手に死を作り出されるのも不快ということだ。

「申し訳ありません!」

 6人の男女は一斉に頭を下げる。合せて彼も、そして周囲の者たちも頭を下げる。もしかすると今まで行ってきた生贄の儀式は、邪神を不快にさせるだけだったかもしれないのだから。

「……そ、それでは、贄はどういたしましょう」

 神官の問いかけに、彼は身震いをする。そんなことを神に問いかけるな、と。
 ただ、邪神は思ったよりも温厚であったのか、呆れているのかは不明ではあったが、答えを返す。

「そのままにしておけ。それよりもだ。今まで私のために生贄を捧げてきたのだろう、お前たち?」
「っ! わ、我らが神に届くよう、数多の贄を捧げさせていただきました。神においてはお好みに合いましたでしょうか……」

 声が尻つぼみで小さくなっているのは、先ほどの応答で、贄を喜んでないと知ったからだ。嘘をつかないのは、それの方が危険だろうと理解出来るからだ。

「うむ、うむ。お前達の信仰は私にとっても喜びだ。そんなお前たちに私は褒美をやろう。何を望む?」

 一瞬だけ言われた言葉の内容が理解できなかった。しかし、その言葉が徐々に脳裏に浸透し、信じられないような快感を覚える。

「無論、お前達への褒美は現世での利益を考えている。さて、なんだ? 金とか異性などというつまらぬ欲望ではないだろうな。皇帝の地位もこの人数分与えるのは難しいな」

 最後に邪神は軽い笑い声を上げる。
 しかし彼らの中で笑えるものはいない。つまりは辺境侯たる神は、帝国皇帝の地位すらも容易く与えることができるものだと告げているのだから。
 ならばそれはこういうことだ。

(やはり帝国の貴族になったのはもっと違う狙い。想像を絶するような邪悪な企みがあってのことに違いないのか)

 彼の考えたことは、他の貴族達も思ったようでぶるりと体を震わせていた。ただ、その裏にある感情までは見抜くことが出来ない。恐怖なのか、それとも彼と同じく興奮のものなのか。
 彼がそう裏にあるであろうおぞましい計画について思いをはせている間に、邪神は問いかけてくる。

「それでは聞こうか。何が欲しい? お前達の望みはなんだ?」

 問われたのであれば、答えは一つだ。この教団に彼が所属した理由、そしてこの場にいる者たちが所属した理由。それは──

「不老不死を! 不老不死を私達に!」

 それを待ち望んでいた声は幾多も重なり、不老不死以外を求める声は発せられない。

 生まれた瞬間から死に向かって歩を進める。それが生物である以上、避けることのできない宿命である。肉体は衰え、精神も弱くなっていく。しかし、それを受け入れられるかというと、それは別問題だ。
 誰だって何時までも若さを保ち、美味いものを食べ、美麗な異性に囲まれたいものだ。もしこれが一度も経験したことがないのであれば、我慢できたかもしれない。
 しかしこの場にいる者は、そんな欲望を上位貴族として経験してきたからこそ、喪失するのが惜しくなってしまっていた。
 だからこそ魔法に手を出し、薬物に手を出し、そして信仰に身を染めた。

 それがこの邪神を信仰する教団の正体である。

 己の欲望を晒しだした声は、方向性は同じものであっても、調和は一切取れていない。そのために雑音としか意味を成さないようであったが、その中で死の王はそれを理解した素振りを示した。ゆっくりと手を上げたのだ。
 そこに込められた意味を見抜けない者はいない。即座に神殿内には静寂が戻ってきた。

「――愚か」

 小さい声。ただ、そこにある圧力は誰にでも理解できる。まるで巨大で分厚い壁が前方から迫ってくるような、そんな威圧感だ。

「お前達は私の手の中から逃げたいと言うのだな。この私の手の中から」

 ゆっくりと手が突き出され、それが握り締められる。
 その瞬間、魂を弄ぶ死の支配者が何を言いたいのか彼は──そしてその場にいた誰もが理解できた。
 死を支配する存在の前で、不死を願う。つまりは永遠にその手から逃れること。ならばそれは憤怒を擁いても当然のことだ。
 逃げるべきだ。
 そんな思いがこみ上げるが、足はガクガクと震え、動こうとはしなかった。凶悪な肉食獣に直面した小動物のように、死を与えられるのを待つだけであった。
 ただ、そんな中でも彼は必死に声を張り上げた。その結果、最初に殺されるかもという思いが脳内を過ぎったが、せめてもと行動に出る。

「ち、違うのです!」

 何が違うのか。言葉を発した彼も続く言葉が浮かばない。口をパクパクと開閉し、息のみを外に吐き出す。汗がびっしょりと吹き上がるのを彼は感じた。
 邪神は決して優しい神ではない。どちらかと言えば冷酷な神である。だからといって即座に命を奪われなかった今までの流れに油断して、愚かな行動を取ってしまった。 
 あそこは静かに様子を伺うべきだったのだ。

 彼にとっては何十分にも感じられるような時間が経過し、邪神は呆れたように、肩を竦めると口を開く。

「……不老不死はやれんが、代わりに……そうだな。お前達に若さを取り戻してやろう」
「え?」

 誰かの問いたげな声に、邪神は鷹揚に頷きながら答える。
 彼は何かを考える余裕は無かった。
 許されたと知って、気が抜けて倒れこみそうになるのを必死に耐えるので精一杯だったのだ。

「若返りだ。お前達を望む若さに戻してやろう」

 全身を再び鳥肌が走った。それが本当に行われるとするならば、不老不死の前の部分、不老がある意味実現するようなものではないか。

「とはいっても、だ。この人数全てに若さを取り戻すとなると、力が分散する分、長く取り戻すことは出来ないが……10日ほどと言った頃だろう。まぁ、お試し期間という奴だな」

 彼は思わず周囲を見渡してしまう。互いに値踏みしあうような視線が交差しあう中、邪神は更に告げる。

「もし次回があれば、その際には私のために最も貢献したもの一人の若さを完全に取り戻してやろう」

 ざわりと空気が大きく揺らいだ。
 発言内容が脳内に染みこむと、喉がごくりと鳴った。欲望が胸の中で轟々と炎を発する。

「ではお前達に祝福をやろう」

 いつの間にか、邪神の手は変質していた。それは善を意味するだろう純白の右手であり、邪悪を意味するだろう漆黒の左手であった。まさに邪神に相応しいともいえる見事なものであり、その内包した力は桁が違うと直感してしまうほどだ。

「解放。超位魔法《ウィッシュ・アポン・ア・スター/星に願いを》」

 何か、目に見えざる力の波動が駆け抜け、驚愕の声が起こる。
 彼が手を見れば肌の皺は無くなり、瑞々しい張りが戻っている。脂肪はこそぎ落ち、たるんだ肌には筋肉が戻っていた。記憶にうっすらとだけ残っている、若かりし頃の体へと戻っていたのだ。
 それが決して幻術などで無い証拠に、触っても何も変わらないし、全身の感覚が鋭敏さを取り戻している。
 そして変化は彼だけではない。
 子供が乱暴にぶかぶかになった覆面を取り外している。
 若く豊満な肢体を持つ女が泣き笑いしながら自らの豊満な胸を触っていた。
 筋骨たくましい男が、己の肉体を誇示するようにポーズを取っている。

 歓喜に満ち満ちた声によって、まるで玄室が爆発したようだった。

「ああ、神様! 貴方様こそ、真なる神です!」
「偉大なる邪神様! 私の信仰をお受け取りください!」
「おお、絶対なるお方! まさに貴方様こそ、死すらも超越されるお方!」

 彼も震えながらこれこそ真なる神の御技だと敬服する。
 神官たちの使う魔法の力の源は神である。しかし、だからと言って神は信者に特別な奇跡を与えない。どれだけ金銭面で奉仕したとしても、若返らせたりは絶対にしてくれない。魂は安息の地に向かうだろうと、死した世界での褒美を語ってくれる。

 それが違う。
 目の前の邪神は違う。

 信仰に相応しいだけの奇跡を具現化して、与えてくれるのだ。
 ならば先ほどの「もし次回があれば、その際には私のために最も貢献したもの一人の若さを完全に取り戻してやろう」も真実だと言うこと。

(次は俺だけが、俺だけが独占して……若さを取り戻す。たった10日などではない! そして忠誠に忠誠を尽くして、幾度も若さを取り戻してもらうんだ!)

 彼が欲望に満ちた目で周囲を眺め、同じ色に燃え上がった瞳を見つける。

(お前も、お前も、お前もか。だが、許さない。俺こそが邪神様にお役に立つんだ)

 彼が思いを新たにしていると、歓喜と崇拝の声で玄室内は満ちる。

「邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様!」

 永遠に終わらないような祈りの声は、冷ややかなたった一言が断ち切った。

「──静まれ」

 重い静寂が戻る。たとえ、歓喜と驚愕の中にあっても、敬服すべき偉大なる主人の声を聞き逃すはずが無い。
 失望したように顔を隠す邪神に対し、彼を含め、全ての者が膝をつき、威光によって頭を垂れる。
 静寂の中、滔々と声が響く。

「お前達が望んだ若さを取り戻してやった。その時間は10日。それが過ぎれば、再び先ほどの体に戻っているであろう。それとお前達が望んだのだ。屋敷に戻れなくなったとしても、私は責任はとらん」

 誰かが唾を飲む音がした。
 それは与えられた時間に絶望したのか。それとも若さを取り戻した自分を屋敷の人間が見間違わないだろうかと言う不安からきたものか、それは彼にはわからなかった。

「それとその人間はかい……私の方でどうにかしておこう。問題はないな?」

 神の決めたことに不平を漏らすことが出来るはずが無い。ただ、一言だけ聞く必要があるだろう。
 彼がそう考えていると、神官が思いあたったようで、口を開いた。

「よろしいのですか? 至高のお方にそのような雑務をしていただいても」
「構わない。贄なのだろ? 私の方で処分しておこう」
「畏まりました!」

   ◆

 玄室内に先ほどまであった熱気はもはや薄れてなくなっていた。室内にいたのは3人の男女だ。そのうちの一人である神官が、女に伺うように問いかける。

「クレマンティーヌ様。一体どうしましょうか? 辺境侯に完全にこの教団を奪われてしまいました」

 問いかけられた女──クレマンティーヌは転がった巨石の玉座を眺め、それから玉座があった箇所を眺める。先ほどまで魔法で作り出されていた黒曜石の玉座の姿は、座する者がいなくなると即座に消失してしまっていた。

「……はぁ」

 草臥れ果てたようにクレマンティーヌは肩を落とす。いや、もはや彼女は精神的な面で、完全に疲労しきっていた。泥をすすり、血路を開くことすらやってきた彼女が、だ。それほどまでに、さきほどまで目の前で起こっていた現象への衝撃は大きかった。自らの中に蓄えこんだ知識がある分、起こったことがどれほど凄まじく、力の桁が違うのか理解できたためだ。
 クレマンティーヌレベルまで理解はしていないだろうが、神官が教団を横から奪った敵を、爵位までつけて呼んでいるのは、彼自身も強大な力に飲み込まれているのだろう。

「なんていうか……神々ってあんな感じだったんでしょうね。本当に」
「………………」

 答えたのは神官ではなく、女の直ぐ横にいた人影。非常に小さく、ミイラを彷彿とさせる異様な男だった。
 ぽっかりと開いた眼球の無い目がクレマンティーヌに向けられ、歯の抜け落ちた口がもごもごと動く。
 声は小さく嗄れているために、何を言っているのかさっぱり分からない。しかし十分に聞こえているようで、クレマンティーヌは引きつった笑いを浮かべる。

「あー、もう疲れて、そんな演技をする気さえしないって」
「………………」
「うん。そうだね」
「………………」
「世界は広いね。なんというか……いままでの自分に対する自信が一瞬で蒸発してしまったと言うべきか、馬鹿馬鹿しいというか。どうにせよ、もう二度と会いたくない」

 無視された形であったが、今まで沈黙を守っていた神官は驚きの視線を向けた。
 そこに込められた意味を掴みとり、クレマンティーヌは眉を顰める。

「あんなのに勝てるわけ無いでしょうが」

 吐き捨てがちに神官に告げる。
 あれは勝算とかを考えて良いレベルの化け物ではない。
 この教団を上手く運営するために、邪神などと架空の神を作り出していたが、先ほど言ったようにあれが本当に神だとしても変だとも思わないだろう。

(あれと戦おうとかしなくてよかった)

 辺境侯が来ると聞いて、場合によっては王国軍を十万単位で滅ぼすと噂される眉唾な力を、確かめてみるかなどと考えていたが、それがどれだけ愚かしいことだったかいまなら分かる。
 アレを知ってしまうと、戦闘に入れば、自分が一撃すら持たなかっただろうと理解できる。
 まさに噂は真実だった。

(化け物じみた筋力のみならず、魔法でも桁が違うとか……。神人レベルとか真なる竜王クラスと考えて……いえ、それ以上の超級の化け物や神とかと見なすべきでしょうね)

 命拾いしたという事実にクレマンティーヌは大きく息を吐き出す。

「ではどうしましょう? このままでは……」

 隣で神官が焦燥感にかられたように呟いている。そんな姿にクレマンティーヌは呆れたように問いかける。

「あなたは一生懸命頑張るよねー。びっくりしなかったー?」
「いえ、非常に驚きました。しかし、私の与えられた役目が、そして偉大なる盟主に対しての忠義の思いが、意志を強く持てる働きをしてくれました」
「ふーん……」

 この教団は元々、ズーラーノーンの下部組織として運営するために作り出されたものだ。邪神という存在は元々、スレイン法国では信仰されている、闇の神が他国では信仰されていないという面を利用して、作りだしたものだ。
 儀式だって適当なもの。単純に貴族達の弱みを握るために、人間を殺させていただけにしか過ぎない。

「まさか、あんな本物が現れるとは思わなかったけど」
「それでどういたしましょう。このままでは盟主に顔を向けられません」
「あっそー。じゃぁ、盟主が貴方にするだろう罰をプレゼントしてあげるー」

 ヒュンという音が立ち、神官の目玉にスティレットが突き刺さる。グリッと大きく回されたスティレットが抜き取られ、物言わず神官は崩れ落ちた。転がったまま全身を痙攣させているが、それはあくまでも肉体反応としてのもの。
 脳をかき回されて生きていられるはずがない。
 秘密結社であるズーラーノーンに共に属する者が殺されたが、横にいた男に変化は見受けられなかった。目を向けるような素振りすら見せない。浮かんでいるのは神官の運命だと知っていたような冷たい態度のみだ。

「どうにせよ。この教団を奪われた段階でお前の運命は決まったみたいなものなんだよー。一思いに殺されただけマシだよねー」

 痙攣が止まりつつあった、もはや死体と化しつつあった神官に冷たくはき捨てると、クレマンティーヌは枯れ木のような男を冷たく見据えた。

「うんでさー、どーするー。ここで殺しあおうかー?」
「………………」

 男の「演技は疲れたから止めたんじゃなかったのか」という場違いともいえる問いかけに、クレマンティーヌは思わず苦笑を浮かべた。

「はぁ、癖みたいなものだね。素を出しているつもりでも、なんかふとした拍子にでちゃう。……それで、どうするの?」
「………………」
「そう。裏切るよ。私が持っている火の巫女姫の証は、その辺の風花を捕まえて渡すわ。それでもう教団とも法国とも関係が無い場所を目指して逃げる」
「………………」
「……馬鹿じゃない? あの邪神を見たでしょ? あれに盟主が勝てる可能性は低いわ。あれに間違えなく勝てる存在なんて、多分……神人ぐらいでしょ。いや……神人でもどうだろう」

 スレイン法国は6大神という存在を信仰し、その国民の中には神の血を──濃い、薄いはあるが──引く者がいる。そういった者は、潜在的に強くなれる可能性を有していた。
 そういう意味ではクレマンティーヌも、神の血を引いているといって良い。
 ただし、それはあくまでも血を引いているに過ぎず、神人と呼ばれる存在はまたそれとは違った。

 神の血を引く者の中で、神の力に目覚めたものを神人と呼ぶのだ。
 現在、神人はスレイン法国に二人。それがクレマンティーヌがかつて所属していた漆黒聖典と呼ばれる秘密部隊の隊長であり、法国の神官長である。
 その能力は桁が違い、神々の残した武具に身を包んだ場合、個人で大陸を滅ぼせるとまで言われる。
 ただ、それでも──
 大陸内、並び立つ者は極少数とまで言われる神人ですら、先ほどまでこの玄室にいた化け物と戦った場合どうなるかが、クレマンティーヌですら予測がつかなかった。
 人間程度の強さに対する判断力では、遥か高みにある化け物同士、どちらが強いかなどと判別がつくはずが無い。両者とも強いというレベルでしか計れないのだ。

「………………」
「かもね。しかし、本当に邪神がいるとは」
「………………」
「まぁ、確かに。普通に神様かもしれないし、法国以外で生まれた神人かもしれないか。あとは竜王とか? 大罪者の血を引いている線もあるし……分からなーい。それでそっちはどーするのー。裏切りが許さないっているなら殺しあおうよー」
「………………」
「は? まじ?」

 クレマンティーヌは驚いたように男を見下ろす。思わず耳をほじくり、何も詰まってないことを確認する。

「……いや、まぁいいけどさ。……裏切ってくれる人間は多い方が嬉しいわ。まぁ、そうよね。貴方だってアレには勝てないものね」
「………………」

 クレマンティーヌは苦笑いを浮かべる。憮然とした男の「あんなのに勝てる人間がいるか、アホ」という言葉はクレマンティーヌも強く同意するところだ。

「あー。そうね。取り敢えずは聖王国に逃げようか。あっちは風花も教団もあんまり動いてないし。あそこでしばらく身を潜めて、それから考えるとしましょう!」

 良い考えだとクレマンティーヌは笑い、男もそれに頷いた。

   ◆

「やれやれだったな……」

 馬車に戻って開口一番飛び出たのは、愚痴であった。
 アインズはアンデッドであるために疲労感を感じたりはしないはずなのだが、肩ががっくりと下がるような気分を抱いていた。
 何故、俺が邪神。生贄とかなんだよ、そりゃ。邪教集団とか馬鹿じゃないの。などという様々な感情を集合体が、疲労感の発生源であった。

 アインズは隣で寝かされている少女を眺める。

 アインズとしては生贄とされていた二人の子供は、即座に解放するつもりであった。その辺に放り出して、知らん振りでも全然構わないと思ってもいた。というのもアインズが命を助けたのは、生贄など捧げられても正直困るという一般人的思考からだ。
 決して可哀想などと言う人間らしい気持ちからではない。
 確かに皆無かと問われれば、頭を捻ったかもしれない。人の命を奪うことに迷いは無いが、それでもまるで関係の無い命を奪いに行くほど、アインズは残酷ではないのだから。
 それに殺すことにもメリットが無い。経験値という観点からしても、せいぜい2点ぐらいだろうから。
 ただしそれ以降は考えてみれば蛇足であった。
 利益があれば殺害を黙認しただろう価値の無い命に、アインズが別になんのかんのと手を割く必要もない。だからこそ最初は放置と考えたのだ。それが一番面倒でない気がして。
 ただし、放り出すよりは少しぐらいは優しいところをアピールするのが、色々な面で良いかもしれないと判断し、アインズは御者台に座る男に命じる。

「騎士の詰め所まで向かえ。そこでこの少女達を手渡すとしよう」

 せめてそれぐらいはしてやっても罰は当たるまい。折角助けたのだから、最後まで面倒を見てやろう。そんな気持ちでアインズは判断したのだ。
 御者は驚くほど従順に、アインズの命令に従い、夜の帝都内を走らせていく。来る時に馬車を乗り換えたぐらい警戒していたのが、ある意味嘘のようだった。

(あれは……私達に警戒する意味ではなく、尾行を警戒してという意味だったのか?)

 来る時は外が覗けない様に板が張られていた窓も、いまでは解放されている。そこから外にチラリと視線をやったアインズは、馬車の中で寝る二人の少女へと動かす。
 横に寝かせた少女を眺め、それからソリュシャンの横に寝かせたもう一人の少女を眺める。髪の毛をかきあげ、その横顔を観察する。
 整った顔立ちの少女たちであり、二人とも非常に酷似した顔の作りをしている。
 身長的にも重さ的に同じぐらいなので、恐らくは双子なのだろう。

「ふむ……」

 アインズは少女の顔だちをじっくり見つめた。

「……なんというか、品が良いな……」
「でしょうか?」
「ああ……」

 この世界はアインズの元いた世界に比べ、美形が多い。ただ、この二人は単なる美形とは違ってこの数日間で飽きるほど見た──特にパーティーの際に──貴族の令嬢的な雰囲気がある。
 アインズは手を持ち上げると、ひっくり返したりして、確かめる。
 その手は非常に柔らかだった。

「これは……もしかして本当に貴族か?」

 手は柔らかく、爪の形も良い。アインズ的には常識的な子供の手のように思われたが、この世界の子供の手は生活レベルに応じて荒れてくる。少女の手は、平民ではありえないような綺麗さだった。
 それに服も多少ほつれてはいるが、平民が着るものよりは段違いで質がよかった。

「ソリュシャン、この者たちの服の仕立て、私の目ではなかなかのものと思うが」
「まさにアインズ様の仰るとおりかと。ナザリックに存在するどのような者の服に劣りますが、確かに平民のものとは思われません」
「なるほど……ならば答えは一つか。ソリュシャン、騎士の詰め所に向かうのは止めだ」
「畏まりました。ではどちらに向かわれるので?」
「邸宅に戻るとしよう」

 貴族の令嬢がなんらかの理由があって浚われたのでは、とアインズは想像したのだ。

「悪くはないじゃないか。意外に良いネタになるかもしれないな」

 少女たちを家まで戻せば、もしかしたら恩義を売れるかもしれないと判断したアインズは、ソリュシャンが御者台の方についている窓を開き、そこから馬を操る男に命令を下す姿を眺めながら、今晩の行動について考える。
 今回の一件は利益に繋がったのだろうか、と。
 超位魔法であり、経験値を消費する魔法までを使った価値はあったのだろうか。あの戦争で得た経験値、さらには転移前から貯蓄されていた経験値はこれで空になってしまった。
 超位魔法《ウィッシュ・アポン・ア・スター/星に願いを》は普通の超位魔法のように発動に時間の掛かる物ではないために、課金アイテムを使用しなくても済んだが、それでも心の中で貧乏性のアインズは転げ回っていた。
 ただ、もし、あそこで奇跡を起こさなかった場合はどうなったのか。口だけでうまく誤魔化すことはできただろうか。
 邪神と見なされ、崇拝されている中、何もせずに帰った場合のことを考える。
 アインズは首を傾げる。

「損はしてないだろう。いや、そう思いたいものだ」

 目先の利益だけを追い求めると、大きな魚を釣り逃がすのは営業マンを行っていたときに知った事実だ。ある程度餌を食べさせておけないと、別の漁師が横から持っていってしまうのだ。
 そういった部分を考えれば、今回の手は完全な損とは言い切れない。正直、大判振る舞いが過ぎたかもしれなかったが、完全にデメリットしかなかったとは思っていない。 

「問題は……邪神だと思っているのが、あの集団以外にもいるのかどうかと言うことだな……。計画を修正した方が良いのか……。レイを使って、意識調査をしてみるか? 私をどのように思っているのか……。英雄、邪神、大貴族……あとは……」
「神に匹敵するお方、ではないかと」
「……そうか? ではそれも付け加えるとしよう」

 アインズはソリュシャンにそう答えつつ、いまだコンコンと眠る少女たちを再び眺める。

「しかし目が覚めないが……魔法かな?」
「いえ、先ほど血管内を流れているものを吸って調べましたが、薬物によるものです。大したことのない……失礼いたしました。人間のこれぐらいの子供にとってはかなり強力なものです。実際に心拍数や体温などがかなり低下しております。さらにこの薬物であれば、体内器官のどこかに強い負担をかけると思われます。これぐらいの年齢の子供であれば、何らか後遺症を残す可能性は有ります」
「生贄として殺されるのだから、それほど強い薬でも問題ない。目覚めるのが一番問題だと言うことか。それで……大丈夫なのか?」

 アインズの保護下にある間に死なれては厄介だ。

「出来れば早急に毒を抜いた方が良いと思われます」

 その言葉を聞き、アインズは考える。
 消費アイテムを使用して目覚めさせるのは少々勿体無い。この世界を知れば知るほど、ユグドラシルのアイテムそのものの入手は困難だと分かってきた。消耗品系のアイテムを、単なる貴族の娘程度に使うのは眉を顰めてしまう。邸宅に戻れば、神官系の魔法を使うことのできる者がいるのだから。
 それに何より、アンデッドであるアインズは睡眠系のバッドステータスとは無縁であった。そのために睡眠回復のアイテムはほんのちょっとしか持っていなかった。
 一言で表せば、今のアインズの心の働きは、貧乏性とよばれるものである。

「ルプスレギナを呼ぶとしよう。……場合によってはナザリックまで戻ってペストーニャに会うとしよう」


   ◆◇◆


 アルシェ・イーブ・リリッツ・フルト
 彼女が冒険者を、ワーカーをやって来た中で、死と言うのは身近に感じられるものであった。
 自分がモンスターを殺す時、話したことのある同業者が死んだときなどに、だ。
 今回の依頼で死ぬかもしれない。そう思ったことは幾度となくある。
 想定外のモンスターなどと遭遇した時には特にそうだ。
 それでも彼女が冒険をやめなかったのは、これ以上に見入りの良い仕事なんてなかったからだ。

 死の恐怖と戦いながら金を稼ぐ日々。
 精神が磨り減るような思いを抱きながら、それでも戦い続けられたのは、幼い妹たちの未来を案じてだった。
 モンスターの一撃で骨をへし折られ、腕を噛み千切られ、腸を溢しながらも、それでも今まで戦ってきた。そんな彼女でもそれには耐えられなかった。

 彼女はあの光景を覚えている。

 仲間の一人、ロバーデイク。
 非常に気立ての良い神官であり、甘いものが好きな男だった。
 帝都にいる最中は甘いものをよく食べていたのを知っている。冒険に出ている最中は逆に一切食べず、不思議がった彼女が聞いた時、験を担いでだと寂しげに笑ったのが良く思い出せた。
 彼女が連れ出されたのはそんな彼の前であった。

 いや、それをロバーデイクと呼んで良いのだろうか。
 そこにあったのは肉団子だ。

 ピンクの肉団子。生々しい、目も覚めるような赤色が所々走った生肉の塊。
 その上にロバーデイクの頭が乗っていた。顔はうつろで、意識を感じさせない。それでも──生きていた。
 手も足も何もない肉団子になっても。

 そしてアルシェは見た。見させられた。
 齧るメイドの姿を。
 いやあんなおぞましい化け物をメイドと言うのは失礼だ。単にメイドの格好をした化け物と言うべきだろう。

 そしてアルシェは聞いた。聞かされた。
 ロバーデイクが悲鳴を上げる姿を。苦痛に身──肉団子であったが──を振るわせる姿を。

 肉を噛み千切られ、血を啜られ、そして回復魔法で癒される。何度も何度も繰り返される拷問すら生易しいその光景。
 苦痛に身を捩る仲間の姿。
 彼女は冒険者として死を感じることは何度もあった。しかし、それでもこんな様になってまで生かされ、そして食べられるというのは想定していなかった。
 あれが次の瞬間の自分の姿だと悟った時、泣き、吐き、そして漏らした。

 心がへし折れた。
 もはや再起不能なまでに反抗心は砕かれた。

 おぞましいと思っていた感覚に多少の気持ちよさが混じった時、彼女はそれに縋ることを覚えた。
 そしてそれこそが最も自分が長生きできる手段だと知ったのだ。
 確かに、そんな生はゴメンかもしれない。
 それでもあんな肉団子はゴメンだった。まだ愛玩物として生の方が受け入れられた。
 自らの主人である化け物が自分を玩具だと判断しているのは重々承知していた。だからこそそこが命を繋ぐチャンスなのだ。

 面白い、飽きない玩具であれば破壊されたり捨てられたりはしない。
 媚を売ることを理解したのだ。

 舐めろと言われればなんでも舐めた。性行為の一つとして舐めるという行為があるのは知っていたが、異性経験のない彼女にしても、まさか同性のものを舐めるときが来るなど思ってもいなかった。それでも笑顔で舐めた。
 しろと言われた事はなんでもした。
 自分で慰めることは殆どなかったが、それでも皆無だと言うことではない。ただ、それでも多数の目の前で慰めたことなどなかった。それでも笑顔で慰めた。

 そうして主人が楽しげに笑うたびに、自分は生きてると知った。
 その頃には嫌だったはず全てが、快感へと変わっていた。

   ◆

 久しぶりに帰ってきた自分の主人、シャルティアがアルシェの前に服が投げ出す。
 ちゃんとした服であり、普段着用することを許されるような、胸の部分と股間の部分だけがむき出しの服とは違う。
 アルシェは、不思議なものをその顔に浮かべ、四つんばいのまま主人を見上げる。
 彼女は基本的に玄室にいる間は服の着用は許されていない。動物の耳を模ったヘアバンドと、尻尾以外の何も着用はしていない。
 例外的に服を着たのは──

「早く着なんし」

 主人からの言葉に、記憶を呼び覚ましていたアルシェは慌てて服を着る。
 苛立った雰囲気などは一切ないが、山の天気のように変わりやすく、そして雷雲のごとき短気な部分を持つことは今までの生活でよく知っている。
 つまらないことでヴァンパイア・ブライドの何体かが、容易く滅ぼされる姿を幾度となく目にしてきた。
 主人の機嫌を損ねたくない彼女は慌てて服を手にする。
 非常に良い仕立てであり、布もかなり高級なものを使用しているのが分かる。しかし、アルシェに驚きはない。このナザリック大地下墳墓で使用されるものは、アルシェの生きてきた世界にあるどんなものよりも高級品が揃っている。
 外で買えば破格の衣服であろうが、このナザリックに存在する衣服の中ではかなり下のほうである可能性は高い。

(いえ……これは違う?)

 アルシェは主人の勘気を買わない程度に眉を顰める。
 着用してみると、自らの主人の衣服に匹敵するような感じがしたのだ。

(もしかして……)

 これほどの衣服を纏うことを許された理由が何か、薄々とアルシェは悟る。
 尻尾をつけたまま下着を着用するのはちょっとだけ面倒ではあったが、アルシェは服をまとう。

「よろしい。ではついて来なんし」

 そしてくるりと振り返ると、シャルティアは歩き出した。当然、アルシェもその後ろを続く。
 幾度か転移し、彼女達が着いたのはナザリック第9階層である。

 アルシェは驚きの声を飲み込む。
 この豪華さは前に一度だけ見たが、それでも驚嘆を隠し切れなかった。
 学院に通っていた頃、一度帝城の中まで入ったことはあるが、それすら足元に及ばないレベルでの豪華さだ。
 更には転移門を守るモンスターたち。
 底知れない強さを持つ者たちであり、アルシェなどたった一撃で殺せるだけの気配を漂わせている。

「行きんすよ」

 それだけ告げると主人が歩き出し、一斉にモンスターたちが頭を下げてくる。
 これだけ強大なモンスターを使役する主人。背中を見れば小さく、本当に少女のものだ。決して領域外の力を有するなんて思えない。
 しかし──
 ぶるりとアルシェは身を震わせる。
 自らの主人こそ、このナザリックという魔王の居城における最高位者の一人。その力は逃亡した時も思い知ったが、あれすらも本当にお遊びだったというレベル。

 アルシェは笑顔を浮かべる。主人に媚を売る、いつもの表情を。

 廊下をひたすら歩き、幾度か人間以上の背丈を持つ武装した蟲の衛兵とすれ違いながらやがて目的地であろう扉が目に入った。扉の横には2体の昆虫にも似た衛兵が直立不動を維持したまま警戒に当たっている。
 アルシェはそこが誰の部屋か知っている。
 ここでダンスを教えたのはつい最近の出来事だ。

 主人が背筋をピンとはると、扉をノックする。勿論、アルシェも命じられる前から、出来る限り無礼がないように背筋は伸ばしている。
 ここがこの魔王の居城、その支配者の部屋だ。無礼な態度だと思われれば、即座に殺されるだろう。

 中から顔を見せたメイドに自分達が来たことを告げる。
 それから暫く待たされるが、その間一切の話題はない。ただ、黙って時間が過ぎるのを待つだけだ。
 こういうときに立場の違いを思い知らされる。アルシェがどれだけ媚を売ろうが、所詮は愛玩動物であり、決して言葉を交わすほどの対象ではないと。
 やがて扉が開かれる。
 主人が部屋に入り、それに追従する形でアルシェも部屋に入る。笑顔を浮かべながらも、内心では怯えていた。
 相手を不快にさせればそこで自分の運命は決まる。それもこの部屋の主人は化け物たちを統べる魔王。無礼を働けば、ロバーデイクよりも過酷な運命が待っているだろう。
 アルシェは貴族として生きてきた中で得てきた、礼儀作法を必死に行いながら、無礼にならない程度に室内の状況──ひいては情報を──得る。
 ぱっと見た感じ、部屋にいたのは──

 アルシェは固まりかけた表情を笑顔で覆い尽くす。
 そこにいる人物達の正体を、アルシェは教育の一環で聞いている。いや、たまたま一人のヴァンパイアの男が教えてくれたと言う方が正解か。
 彼が自分に抱いているのは共感に近い、奇妙なもののようだと、アルシェは認識していた。
 敵意を抱いている気配も、ナザリックの者達が抱く、アルシェを下に見るような感じがない。なんというか遠い自分を見るような、そんな気配だったのだ。
 アルシェに対して、同じような雰囲気を抱いていたのは、偶々遠くを歩いていたリザードマンの一団ぐらいしかこのナザリックでは見たことがなかった。

 そんな彼は優しげと言っても過言ではない態度で、まるで失敗したことがあるかのように、アルシェに細かく説明をしてくれた。
 決して怒らせてはいけない最高位者たちを。一人で国を容易く滅ぼせる――無知であれば笑い飛ばしてしまうような――力を持つ存在。それは――

 ダークエルフの少女、アウラ。
 蟲の戦士、コキュートス。
 そしてゆっくりとアルシェの後ろに回るような位置取りへと移動した、主人である吸血鬼、シャルティア。

 ――その三名だ。

 そんな存在達の暖かいところが皆無な視線を全身に浴び、アルシェの体の芯をゾワリと震わすような恐怖が走り抜けた。しかし、全てが終わった後に与えられるだろう快楽を思い描くことで、それを必死に塗りつぶす。お尻の尻尾がむず痒かったが、そんな態度を示せるわけがない。

「アインズ様、娘ガ来マシタ」

 カチカチと硬質な音と人間以外の存在が無理矢理に声を作ったような音に合せて、イスがキシィと動く。
 今までアルシェに背を向けて座っていた──大きなイスであり、背もたれも大きかったために気がつけなかった──ナザリック大地下墳墓の主人が、イスを回すことで振り返った。

 媚を浮かべようとしたアルシェの顔は凍りつく。
 魔王を思わせる男──ダンスの練習をするということを得てなお、恐怖を忘れることの出来ない男。自分達のパーティーを崩壊させた化け物。
 その男が膝の上に乗せている人形のような可愛らしい双子。
 決してアルシェは忘れることの出来ない。残骸になった心の奥底で埋もれるように輝いている宝物。
 それを目にし──

「あああああああ!」

 雄たけびが上がった。
 アルシェは自分でも信じられないほど、心の底から何かがこみ上げてきたのが理解できた。
 砕けたはずの、もはや完全に奴隷と化した心に、炎が灯されたのだ。
 アルシェはアインズを魔法の目標とするために手を突き出し──

 ──喉元に刀が突き当たられ、鞭が構えられ、後ろから伸びたほっそりとした指が頭を鷲づかみにする。

「殺しんすが?」

 平坦な声を発したのは、頭部を握りしめたシャルティアのものだ。彼女の桁外れな腕力を考えれば、アルシェの頭など生卵のように簡単に砕けるであろう。

「愚カ者。私達ガイルノニアインズ様ニ触レルコトガ出来ルハズガナイ」

 カチカチと音を立てながら、喉に刀を突き立てたコキュートスが告げる。恐らくはアルシェが瞬きをするよりも早く、首を切り落とせるだろう。

「そうそう。魔法を使おうとする時間なんかあげないよね」

 無邪気な笑顔を見せるアウラではあるが、鞭を振るうだけで衝撃波でアルシェの体を引き裂けるだろう力を有しているのは伝え聞いている。

 桁が違う存在を3人を前に、何か出来るはずがないことは知っていた。
 そしてその3人がいなくても、死の王に少しでも痛みを与えることが出来ないのも知っていた。そんなことが出来たならば、仲間は誰一人として死ななかっただろうし、自分もここにいない。
 愚かな行為をした、そう確信を持ってアルシェは言える。
 殺されて御の字、下手すればロバーデイクと同じ肉団子。いや今回行ったことを考えればそれ以下は十分にありえる答えだ。
 それでもアルシェは胸を張って言える。

 自分の先に待つ未来がどれほど無残なものだと知っていても、再び同じ状況下に遭遇すれば、行うことは変わりないだろう。

 アルシェは目に力を宿し、アインズを睨む。
 それを目に出来る怪物たちが不快げに動いたのも視界の隅で捕らえている。それでも決して止めようとはしない。
 自分の最後の矜持だ。もはや亀裂が入った、いまにも壊れそうなものではあったが。

「よい。シャルティア、アウラ、コキュートス。アルシェを解放しろ」
「はっ!」

 一斉に声が響き、アルシェの周りから武器が離れる。頭を掴んでいた手が最後まであったが、それもまた離れた。
 死を覚悟していたとはいえ、生が目の前にぶら下がれば、覚悟という物は薄れる。
 アルシェはガクガクと痙攣する足に力を入れる。それから目じりに浮かんだ涙を拭い、前方で大切な妹達の顔を眺めるアインズを睨む。
 膨大な魔力が押し寄せ、吐き気を催してしまうが、それでも必死に耐える。

「なるほど……お前の知人であることは間違いがないようだな」

 アルシェは迷う。正直に言って良いか。ただ、あんな反応を示した以上、隠してももはやメリットはない。

「……妹」
「ふむ……なるほど……さて、どうするか」

 何故、この死の王は妹達を人質に取っているのか。
 常識で考えれば理解できない。アルシェに言うことを聞かせるなんて容易くできることだ。わざわざ妹達をここまで連れてくる理由が思い描けない。
 ただ、アインズの告げた言葉に含まれた微妙なニュアンスで、妹達をここに連れてきたのは偶々だと知り、自分の軽薄さに苛立ちを覚える。
 やはりあそこは知らない振りをするべきだった。

 瞳に涙が滲む。
 アルシェの心の底からこみ上げてくる恐怖は想像を絶した。
 愛玩物でも生きられるならまだ良い。もしロバーデイクと同じような肉団子にされたら、どうすれば良いのか。どうやって殺してやれば良いのか。

 来るかもしれない最悪の光景にアルシェが怯える中、平坦な声が響く。

「そういえば……お前に与える褒美のことがあったな。私がシャルティアを供としていた所為で、あのときの願いはまだ叶えていない筈だな? ならばあの時と意見は変わったか、聞かせてもらおう」

 空気が動いた気分をアルシェは抱いた。
 目の前の化け物の意図が一瞬だけ把握できなかった。
 そして言っている内容が頭の中に染みこんでない、アルシェの口は言葉を紡ぐことができなかった。
 次に問われた意味を理解し、それでも口を開くことが出来なかった。物語でよくある、願い事を歪めて叶える悪魔を思い出したのだ。
 言った後で「聞いただけだ」などと嘲笑されたら、アルシェの心は完全に砕け散るだろう。それがあまりにも恐ろしくて。
 ただ、そんなアルシェに焦れたように、アインズは繰り返し問いかける。

「ほら。言ってみろ。……私は意外と律儀な男だ。願い事は無理ではない範囲で叶えてやろう。ただ、お前を現状外に出すのは難しいな。それはお前から受けた利益の範疇を超えているからな」

 アルシェはその言葉に賭けるしかないことに気がつく。もしこれ以上黙ったままでいた場合、周囲の者たちが不快に思う確率は非常に高い。特に自分の主人はそういった反応を示すだろう。
 だからこそ、まさに神に祈る気持ちでアルシェは口を開く。

「なら妹達を無事に帰して!」
「……本当にそんな願いでいいのか?」

 問い返してきた言葉に、アルシェは「構わないと」即座に答えようとして、何も言えなかった。
 ここまで脳を酷使したことはないというだけ、必死に思考をめぐらせる。確かにこの化け物は約束は守ってきた。自分が生きているのもロバーデイクの願いのお陰だ。確かに結果は悪かったが、それでも最悪ではなかった。
 ならば多分ではあるが、それがあまりに不快な願い出なければ、叶えてくれるだろう。
 ここでの願いは非常に重要だ。どうすれば妹達、そして自分も幸せになれ──その瞬間、アルシェの目の前に光が宿った気がした。

「私達、三人を……」

 間違ってないか、幾度も問いかける。本当にチャンスは一度きりなのだろうから。

「私たちが考える幸せを維持したまま……ここで暮らさせて欲しい。魔法などによる幻術などではなく」
「……本当にそんな願いでいいのか?」

 先ほどと同じ問いかけに、アルシェは怯えながらも頭を縦に振る。

「……幸せというのは抽象的過ぎて難しい願いだな。まだ若返らせて欲しいとか、不老不死を欲しいとかの願いの方が分かりやすい」

 アインズの視線がアルシェをそれて天井に向かう。アルシェは何も言わない。自分はボールを投げた立場であり、投げる立場ではないのだから。

「アウラ。確か、お前の階層にログハウスを作るように言ったことがあったな」
「はい! 建ててあります」
「あそこにこの娘達を連れて行け。食事やその他諸々は与えてやれ。当然だが、安全は保証しろ。玩具を貰い受ける形になるが、構わないか、シャルティア?」
「勿論でありんすぇ。わたしの持ってありんす皆は、アインズ様のものでもありんすによりて」
「アルシェ・イーブ・リリッツ・フルト。飢えず、寝る場所があり、安全である。それは十分に幸せだろ?」

 アルシェは呆ける。
 突然、自分の目の前に投げ出されたものが信じられなくて。
 いまの彼女の心境を表すなら、星に願ったら金貨が降ってきたようなものであった。
 ただ、不死の王が自分の返事を待っていると知り、喉を振るわせる。

「……はい。幸せだと思います」

 口にしながら、何か裏がないかと疑ってしまうのは仕方がないことだろう。だが、そんなアルシェにもはや興味を失ったようにアインズは視線を動かす。

「そうか。ならばそうしよう。さて、ではアウラ、6階層まで案内してやれ。それと心配せずとも、この二人は魔法で眠らせているだけだ。時間が来れば目も覚めよう。……最後になるがアルシェよ。私のために働けば、それなりの褒美は約束しよう。姉妹揃って解放してやっても構わないと知るが良い」

 アルシェは深々と頭を下げる。未だ自分に突然与えられた状況に不安と懐疑の念を抱いてはいたが、それでも手渡された妹の温もりは真実であった。

   ◆

 アウラとアルシェ。そして眠ったままの二人の妹たち。それに続いてコキュートスが部屋の外に出ていき、今この場所に残るのはアインズとシャルティアだけになっていた。
 幾たびか伺うような視線を横から感じていたアインズに、ようやくシャルティアが問いかける。

「それで……よろしかったんでありんすかぇ?」

 なんとも答えに困る問いかけだ。意図を読みとろうとアインズは思考を巡らせ、面倒くさくなって問い返す。

「……ん? なんだ? 手放したことを勿体ないと思っているのか?」
「いえ、そのような事はございんせん。 先も告げんしたように、わたしの皆はアインズ様の物でありんすぇ。ただ、アインズ様に唾を吐いた人間をお許しになられてよろしいのでありんしょうかぇ?」
「……願いを叶えると言ったのも事実だし、それにフールーダがいるとは言え、あれの能力……それにあの娘が得てきたであろう知識は役に立つ。舞踏会の時十分に分かったではないか。そういうことだ」

 アインズはイスの背にもたれかかり、冷たい視線をシャルティアに向けた。その口元には冷ややかで邪悪な笑みがあった。
 妹たちから聞いた話では、アルシェは帝国の元貴族しかも魔法学院の出である。ならば、今後も重宝出来るだろう。特にいま人間を主とした官僚組織を作らなければならないと考えている状況下であれば。

「あの妹たちは意外に良い拾いものだった。あれほど……そう、私に戦いを挑む覚悟を抱くほど、妹達を愛しているんだ。ならば良い人質になるだろう」
「まさに仰るとおりかと思われんす。流石はアインズ様」

 シャルティアの称賛に平然とした素振りを見せながら、アインズは眉を潜める。

「……こんなところが邪神と思われるのか? まぁ、良い。取り敢えずはエ・ランテル近郊をもらった際の組織の構築は至急の課題だ。出来れば私に忠誠を尽くしてくれる者を見繕わなくては」
「アインズ様のご威光に触れれば、みな の者は頭を下げ、忠義の念を持つでありんしょう」
「……だと、いいがな」

 そんな簡単であればいいけどな、と心の中でぼやきながら、アインズは指を組み、視線を天井に向ける。不可視化を行っているエイトエッジ・アサシンたちが張り付いている姿は、この際は取り敢えず無視しておく。

「アンデッドを前面に押し出すと神殿などがうるさい……。それに領民が不安がるだろうから、人間の組織を作った方が良いよ……か」

 ジルクニフに言われていることを思い出す。
 本当はアンデッドを主とした潤沢な開発計画を考えていた。単純にアンデッドでやればたくさん畑を作れそうだよね、などという単純な考えからだ。そしてたくさん作れれば、色々と領民の負担も軽くなるだろう、とアインズにしては友好的な気持ちからだ。
 もちろん、この世界の金貨でナザリックの強化が行えるのだから、ありとあらゆるところまで慈悲をかけるつもりはない。ただし、アインズも豚は太らせた方がたっぷり食べられる程度の知識はある。
 エ・ランテルが慈悲深い領主によって支配されているとしれば、静かに大きくなっていくだろうから。

「しかし……あれはどういう意味だったのか」

 アインズは隣に立つ、シャルティアにも聞こえないような小さな声で独り言をこぼす。
 アンデッドを働かせて領土を富ませるというプランを最初に持ち出した際、「プランテーションを作ることによって、安価な食糧を生産。圧倒的な武力を背景に、経済侵略を企むということですね」などと意味の分からないことを言っていたが……。

「食い物で侵略出来るはずがないだろう……だが、デミウルゴスが言うぐらいなのだから……。何か手段があるのか? 押し売り? 大体、侵略など今現在は考えてないんだがな」

 デミウルゴスに「そういうことですね?」と問われたとき、いつものように「デミウルゴスは私の全ての狙いを読んでいる」と答えてしまった。それが――

「その内痛い目を見そうな気がする……。まぁ良い。シャルティア」
「はっ!」
「私はしばらくしたらあの娘とあって色々と情報を得ようと考えている。お前はどうする?」
「では、わたしもそれに同行させていただこうか、と。ただ、どのような情報を得られるおつもりでありんしょうかぇ? 一通りの事はあの娘から聞いたことがございんすが?」
「ああ、実は……」

 アインズは苦笑いを浮かべ、答える。

「学院生活に関してだな」






――――――――
※  では次の学院らぶこめおーばーろーどでお会いしましょう



[18721] 外伝_色々
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/05/24 04:48
 かつてのナザリック『姉弟の関係』。皆もおいでよ『デミウルゴス牧場』。登場『パンドラズ・アクター』。ナザリックの『守護者アウラちゃん』の4作です。


 ■■■




「じゃぁ、モモンガさん。やまちゃんとあんちゃん連れて、アウラのところにいますね」
「はい。了解です」
「約束の時間の20時には絶対戻ってきますから」
「分かりました。ただ、炎の巨人狩りの面子が時間よりも先に集まったら呼びますから、そのときは急ぎで来てくださいね」
「了解でーす」

 返答するモモンガの前にいるのは肉感的とも言えるようなピンク色の塊だ。
 スライム系の外装でこんな色にするものはあまりいない。てらてらした光沢のスライムが、プルンプルンゆれる様はあまり見栄えの良いものではないからだ。
 そんな何処となく内臓を思わせる姿が、意外に俊敏な動きをしながら、モモンガから離れるように移動を仕掛けたその時――

「ぶくぶく姉ェ」

 ――第三者の声が届き、硬直するようにスライムは立ち止まる。それからぐにゃりと動いた。前後というものが分かりづらいスライム系の外装だが、恐らくは声のした方を向いたんだろうなと流石にモモンガにも予測は立つ。

「おい。私をその名で呼ぶとは、次に実家に帰ったときが楽しみだなぁ」

 地獄の底から聞こえるような静かで重い声に、その人物は気押されるように硬直する。
 
「……怒るぐらいならそんな名前付けんなよ!」
「あーん? 私がネタにするのはいいんだよ。それとアインズ・ウール・ゴウンのメンバーもな。でもお前は駄目だ、弟」

 必死の抵抗をばっさりと切られたのは、華美な装飾の施された鎧で全身を包んだ戦士風の男だ。込められた魔法の力が周囲に放射され、光の翼を背負っているようにも見える。
 そんな全身鎧を纏い、顔も仮面で覆っているその人物を、男と判明するのは声質がそうだからだ。そして勿論ギルド長であるモモンガがその人物を知らないわけが無い。

「あ、どうも。ペロロンチーノさん」
「こんばんわです。モモンガさん」

 互いにペコリと軽く頭を下げあう社会人同士。プルプルと震える肉塊はペロロンチーノ横に並ぶと、塊から手が伸び、全身鎧を触りだす。

「ほんと、その鎧、どこかの聖衣みたいだなぁ」
「姉ちゃん、クロスって?」
「15年ぐらい前にアニメがリメイクされただろ? モモンガさんも知らない?」
「ええ。私、アニメとかはあんまりなもので」
「俺も……」
「お前はエロゲー原作しか見ないからな」
「そんなこと……ないよ……いやマジで。姉ちゃん、モモンガさんの前で俺の評価落とすようなことしないでくれよ……」

 両方の肩を落としたペロロンチーノになんと声をかければ良いのか。モモンガが言葉に詰まっていると、肉塊は今だ追撃の一手をやめない。

「……事実を事実といって何が悪いのかしら」
「姉が『ひぎぃ』とか『らめぇ』とか言っていた作品のアニメ化なんて見るわけねぇだろ!」
「……知ってはいるんだな?」

 うぐっと声を詰まらせるペロロンチーノ。なんとなく場が悪そうに立ち尽くすモモンガ。

「……なぁ、普通の作品にも出てるんだからエロ系は引退してもいいじゃん。5つも6つも名前変えながらエロゲーに出るのはやめね?」
「給料的にも拘束時間的にも美味しいんだよ?」
「それでもさぁ……」
「別に本番してるわけでも――」
「止めてくれ! 家族の生々しい話は聞きたくないんだ! しかもモモンガさんがいるんだぞ!」

 こんなときに存在をアピールするのはやめてくれないかなと、端っこで小さくなろうとしていたモモンガは呟く。

「もう、声優なんて辞めろよ!」

 ピシリと空気が変わったようにもモモンガは感じ取れた。恐らくはここは仲裁に入るのが最も正しいギルド長なんだろうが、残念ながら怒れる女性プレイヤーの前には立ちたいとは思わない。
 故意的にペロロンチーノの助けを求めるような視線は無視をする。

「ほう、言うじゃないか。お前だって私が水野のサイン貰ってきたときは無茶苦茶喜んでいたくせに。あのときなんだっけ? 私が声優についてくれたからです、とか土下座しながら言っていたよなぁ」

 うぐっと言葉に詰まるペロロンチーノ。それに何を思い出したのか、肉塊はプルプルと震える。

「そーいや、あいつ私と仲が良いだけあって、結構下ネタ好きだよ?」
「うるせー! 俺のみずっちは紅茶を嗜むお嬢様なんだよ! 姉ちゃんみたいにエロゲーに出る奴とは違うんだよ!」

 水野というのが誰なのか、モモンガは分からなく困惑するが、やがてペロロンチーノが良く話題にしていた声優だということを思い出す。
 つい最近出たゲームの音声案内もやっていると言う話だ。

「……あいつだって名前変えてエロゲー出てんじゃん。私と始めてあったの、エロゲーでだよ? 現実、見ろよ」
「違うんだよ! あれは野水って奴で俺のみずっちとは別人なんだよ!」

 狂乱したようにオーバーなゼスチャーで、思いのたけを迸らすペロロンチーノ。
 肉塊は恐らくという言葉がつくが、思いっきり引いたように体をのけぞらした。そしてプルプルと体を動かし、もう疲れたといわんばかり雰囲気でモモンガに向き直る。

「そうか。男って大変だな……。あっと、モモンガさん。二人とも待ってると思いますし、これで行きますね」
「あ、……ええ、ではまた後で……」

 モモンガとしてはショックを受けているペロロンチーノをここに置いたまま行ってしまうのは避けて欲しいが、それを言っても仕方が無い。遠ざかっていく肉塊と、がっくりしているペロロンチーノを眺め、ため息を1つついた。
 そしてぼやく。

「なんだかなー……」






――――――――
※ ぶくぶく茶釜は実のところ痩せてます。でも高校時代に急激に太っていた頃があって……そんな設定があったり。




 ■■■




 ローブル王国。
 リ・エスティーゼ王国の南西方角にある国であり、領土的には半分ほどの王国である。位置的な面ではスレイン法国に近いともいえるが、法国との貿易関係はほぼ途絶えている。というのもスレイン法国とローブル王国の間にある、ローブル王国全土を上回る広大な丘陵地帯――アベリオン丘陵と大森林――エイヴァーシャー大森林のためである。
 特にその妨げとなっている広大なアベリオン丘陵には多くの――ゴブリンやオークに代表される亜人種が無数の部族を作り、小競り合いを起こす、そんな場所のためだ。
 ローブル王国全土を取り囲むように存在する要塞線は、その亜人種の侵攻を阻止するために作り出されたものだ。しかしながら現在はゴブリンやオークを纏め上げるような存在がいないために、その要塞線が使われることも無いのだが。

 そんな広大なアベリオン丘陵には無数の亜人種の部族がある。そんな亜人たち――特にオークたちの住居となるのは天幕だ。これはオークたちが一箇所に落ち着いて生活する種族ではないことを証明するものである。
 
 曲がり牙<クルックド・タスク>部族に属する天幕の1つ。
 どの部族を見渡してもこれほど大きなものは無いだろう。おおよそ高さ10メートルにもなるそれは、支柱に持ち運びが困難なほど大きな木を使っている。
 そして同じクルックド・タスク部族の他の天幕にこれほど立派なものは無い。逆にみすぼらしいほどだ。
 その天幕は誰かが持ち込んだもの。即座にそう判断できる作りのよさである。

 そんな天幕の中央。そこにはイスがあった。
 白い骨を無数に付けて、イスの形を無理矢理取ったようなものだ。しかしながらその使用目的は一目瞭然である。どれほどの骨を集めて作り出したか分からないほどの巨大さ――およそ背もたれの部分で6メートルは超えていよう。そして無数に並べられる頭蓋骨の、空虚な眼窟のおぞましさ。
 それは――玉座である。

 しかしながらそれほどおぞましい一品でありながら、どのような芸術家が作り上げたのか。見る者の心に美しさを感じさせるものがあった。遠くから見れば、装飾の施された純白の玉座が瞳には映っただろう。

 そんな玉座だが、そこに座るものは誰もいない。まるで本来ならそこに座るものがいるのに、席を離れているために開けられている――そんな感じだ。
 ただし、その玉座の横に立つものはいる。

 ハンサム――その言葉こそが、そこに立つ彼の顔立ちを指し示すのに最も適した言葉だ。
 かすかにつり上がった眼が多少減点かもしれないが、すらっと伸びた鼻梁、色が薄くなったような薄い唇。そしてそこに浮かんだ柔らかな親しみを込めた微笑が、見る者に安心感を与える。
 
 非常に人に似通った容姿だが、決定的に人間と違うことがある。
 それは身長は2メートルほどもあり、肌は光沢のある赤。こめかみの辺りから鋭い、ヤギを思わせる角が頭頂部に向けて伸びており、背中から生えた漆黒の巨大な翼が彼が人ではないことを表していた。

 そしてそんな彼の前に複数の影が跪いていた。それはオークのものではない。
 悪魔。
 それがそこに立つものたちを端的に述べた言葉だろう。

「さて、定例会を始めようか」

 非常に優しげな言葉。心の奥底まで滑り込むような柔らかく、聞き心地の良い深みのある声が響く。
 そして彼はまるで誰かが座っているかのように玉座に一礼。それにあわせ跪く影達も深く、非常に丁寧に頭を下げる。まるで頭の下げ方が足りなければ何事かが起こると思っているような、非常に丁寧なものだ。

「まずはトーチャー」
「はい、デミウルゴス様」

 彼――デミウルゴスの声に反応したのは影の1つである。それは体にぴったりとした黒い皮の前掛けをした悪魔だ。全身は白というよりも乳白色。そしてそんな色の皮膚を――仮に紫色の血が流れているとするなら――血管が全身を張りめぐっているのが浮かび上がっている。
 頭部は黒い皮の、顔に一部の隙もなくぴったりとしたマスクをしており、眼は見えるのか、そしてどこから呼吸をしているのか、また声はどこから出しているのか不明だ。そして非常に腕が長い。立てば身長は2メートルはあるだろうが、腕は伸ばせば膝は超えるだろう。
 腰にはベルトをしておりそこには今だ血に濡れた、無数の作業道具が並んでいる。
 そんな悪魔こそ、トーチャーである。
 
「羊皮紙は順調に集まっております」
「素晴らしい」

 優しくデミウルゴスは手を広げる。

「トーチャーの集めている羊皮紙は非常に素晴らしい。アインズ様もお喜びだよ」
「ありがとうございます」
「羊たちは元気かね?」
「はい。剥ぎ取ると同時にすぐに治癒の魔法をかけますので、次の日には再び剥ぎ取れるようになっております」

 トーチャーは役目柄、簡単な治癒魔法をかけることができる悪魔である。そう、簡単に死なせないために。

「そうかね。羊たちの泣き声は心地良いからしばらく聞いていたいものなのだがね」
「ならばしばらく治癒の魔法をかけないで放置しておきますか?」
「いやいや、やめておこう。幼いほうがより良い羊皮紙が取れるのだ。幼いと即座に治癒魔法をかけないと死んでしまうかもしれないからね」
「畏まりました」
「そうだとも、博愛というものはとても大切なものだ。羊たちも大切にしてあげないとね」
「はっ」

 頭を下げたトーチャーからデミウルゴスは視線を動かす。次に話を聞きたい悪魔は――と視線を動かしたとき、1人の悪魔が頭を上げ、デミウルゴスに何かを問いたげな表情を浮かべているのに気づく。
 それに対し、許可するようにデミウルゴスは頷いた。

「……羊皮紙の件ですが、アインズ様には知らせないのでよろしいのですか?」

 その悪魔はアインズに『アベリオンタール』と羊の種類を教えた女悪魔だ。
 無論、羊の名前はそう伝えるようにデミウルゴスの命令を受けてやったことだが、あとで勝手にやったと切り捨てられるのは恐ろしいという感情が口を開かせる。

「気にすることは無いんだよ? アインズ様は代用品となる羊皮紙を得ることを重視してらっしゃった。事実、消費アイテムの代用品の発見は本当に重要な問題だ」

 天幕内の片隅に置かれたなめされたばかりの幾枚もの羊皮紙に、楽しげな視線をデミウルゴスは送る。あれは羊の親に協力させて剥がせたものだ。あのときの表情を思い出すだけで笑顔がこぼれそうになる。

「アインズ様は意外につまらない生き物にも慈悲を向けるだけの寛大さを持つ方だが、本当に何が重要なのかも理解される方だ。必ず黙認されるだろう。しかし気分はよろしくないだろうという判断で、偽りを述べたに過ぎない。君が心配する必要は無いとも」

 それからデミウルゴスは自らの前で頭をたれる全ての悪魔を見下ろし、言葉を告げた。

「ナザリック大地下墳墓――ひいてはアインズ・ウール・ゴウン様は至高の聖域たる存在。そのお方がスクロールの在庫が無い。そんなつまらない不安を持たなくてはいけないなんて、部下からすれば非常に悲しいことではないかね?」
「――そう。もし仮に他の生き物からそれに匹敵するだけの羊皮紙が取れるようなら、今の牧場はやめればいいのだよ? まぁ、その場合は廃棄処分が妥当だと思うがね。そうそう。主人が本当に何を欲していらっしゃるか。それを考え、行動するのが最も賢いシモベだ。わかったかね?」
「畏まりました」

 女悪魔が代表し、皆の意見を述べる。それに満足したようにデミウルゴスは優しく頷いた。

「さて、次はサキュバス。君だ。どんな良い話を聞かせてくれるのか楽しみだよ」
「――はい」

 声を上げたのは人間にも似た女性だ。
 背中から伸びた巨大な黒い翼に包まれた、肉感的な肉体はほぼ全裸であり、ちっぽけな金属板が重要な箇所を隠している。妖艶な美というものがその顔立ちや体躯から匂い出し、空気をピンク色に染めているようだった。
 しかしながら非常に美しいだろう表情は、緊張のあまりに凍りついたように動かない。

「順調に異種交配実験は進んでいます。ですが、残念ながら直ぐには結果は出ない実験ですので、いま少しお時間をいただければと」
「無論だとも。いくらでも時間は上げようとも。新たなる生命の誕生は喜ばしいことだ。それを追及する行為もまた神聖だ」

 まさに神官が自らの信じる神の教えを述べるような、慈悲と博愛のようなものに満ち満ちた表情を浮かべるデミウルゴス。
 安堵したようなサキュバスに声が掛かる。

「しかし――上手くいってないという噂を聞いたのだがね?」
「――!」

 サキュバスの肩がこわばり、全身が瘧が起こったように震えだす。サキュバスの横に控えた他の種類の悪魔が、微妙な動きを持って少しづつ離れようとする。これから起こるかもしれない何かを恐れて。

「どうかね、サキュバス。順調に進んでいるのかな?」
「は! じゅ、順調とは言い切れないものが……」
「うん、いけない子だ。そうだ、私の像に愛を捧げてみるかね?」

 デミウルゴスは微笑む。本当に優しい笑顔だ。そして一歩だけ足を、サキュバスに向かって進める。今だ、サキュバスとの距離はかなり離れている。しかしながらあと一歩で目の前に到達するような雰囲気が醸し出していた。
 前任者の行き着いた先を知っているサキュバスは必死に言葉をつむぐ。
 
「オ、オークたちの協力が上手く行きませんので! ですが、魅了の魔法をかけることによって無理矢理に進めています! デミウルゴス様の要望に答えられるような結果は必ず出るかと!」
「美的センスというのは種族によって違うからね」

 オークやゴブリン等の美的センスは人間のものと大きく違う。オークからすれば人間の美人は、醜悪極まりない存在だ。そのために異種交配というのはゲテモノの類になる。
 だからこそ、デミウルゴスは楽しいのだが。
 デミウルゴスの喜びは苦痛で上がる悲鳴だ。精神的な苦痛よりは、単純な肉体の苦痛で上がる方が好きだ。だからといって精神的なもので上がるものも嫌いではない。

「ならば、人間の方にかければ良いのではないかい?」
「は、はい、現在、一応、父親になる側にかけております」
「それだけ聞くと順調のように聞こえるのだがね?」
「……人間側が精神的に脆く。自傷行為に出たり等、色々と問題になりまして……」

 自傷行為どころか自殺するものもいないわけではない。そして残念ながら蘇生の魔法を使える存在は悪魔ではいない。そのために数が減ってしまう結果になってしまう。
 それを避けるにはナザリックの協力を得なければならないだろうが、難しいだろう。

「そのため、常時魔法によって知力を下げてしまう方が良いかと」
「……私は魅了から覚めた人間が上げる悲鳴はとても好きだよ?」
「畏まりました」

 ならば夜の監視も強める必要がある。サキュバスはそう判断する。しかしどのように考えても、与えられた部下でなんとかやりくりしようとすると、どこかで破綻が生じてしまう。
 サキュバスは覚悟を決めてデミウルゴスに口を開く。

「今の状態ですと、少々厳しいものがあります。ですので部下を増やしていただければと思います」

 緊迫した空気が天幕に満ち、デミウルゴスの笑顔が強まる。サキュバスはぞっとした顔でデミウルゴスの顔を凝視した。
 デミウルゴスは常時笑顔だ。そしてえげつないことを口にするときほど、その笑顔は強まる。

「……なるほど。まぁ、面白くなれば構わないとも。了解したよ、サキュバス。君の部下を増やそう」

 微笑むデミウルゴス。
 だからこそ怖いのだ。
 命が助かったサキュバスは額に浮かんだ脂汗を手でぬぐう。

「そうそう。この前捕まえたミノタウルスとか面白そうだと思うがね」
「はい! 素晴らしい考えかと。時機を見て計画に取り込んでみようと思っております」

 満足したようにデミウルゴスは微笑んだ。

「アインズ様には感謝をしなくては。ナザリックではこんな楽しいことはできないからね。ローブル王国にピクニックに行くときが楽しみだよ。死んでしまった羊の替えも必要だしね」デミウルゴスは微笑んだ「自分の作った牧場が大きくなっていくというのは本当に嬉しいことだね」

 そして玉座に誰かが座るように、綺麗で深い礼をする。それは王に仕える貴族のような、品の良いものだった。




――――――――
※ ぶっちゃけイメージ的にはナザリックNPC以外にはネウロのシックスです。ナザリックのシモベに対しては基本、アインズの道具と見なしていますのであそこまでの無茶はしません。シャルティアよりも優しいです。けど捨てるときは容赦なく。
 デミウルゴスの像? ああ、銅製のデミウルゴスの像に愛を囁いてもらうだけです。殷の紂王も好きな奴ですね。トーチャーのスペルはTorturerのはずです。
 ちなみにアインズは知りませんので、この辺のことは。
 
 ということで、子羊の悲鳴は止んだかね? アベリオンタールはローブル王国産です。それと時間軸上では戦3の前の話ですね。




 ■■■




 メイド――ユリ・アルファは感嘆のため息を思わずこぼしてしまった。
 転移した彼女を最初に出迎えたのは、天空に浮かぶ全ての星々を集めました、といわんばかりの輝きだ。
 
 広いなんていう言葉では表せないぐらい巨大な部屋の中央には金貨、宝石がとにかく山のように積み重なっているのだ。その山の高さは半端じゃない。10メートル以上の高さの山が山脈のように連なっている。枚数にして、数十億枚ぐらいだろうか。それとももっとあるのだろうか。
 しかも、その山に埋もれるように超一級の工芸品らしきものもある。
 ぱっと見ただけでも黄金で出来たマグカップ、様々な種類の宝石をはめ込んだ王勺、白銀に輝く獣の毛皮、金糸をふんだんに使った精巧なタペストリー、真珠色に輝く角笛、七色に輝く羽製の扇、クリスタル製の水差し、かすかな光を放つ精巧すぎる指輪、黒色と白色の宝石をはめ込んだ何らかの動物の皮で出来た仮面が目に飛び込んできた。
 無論、こんなものはほんの一握りだ。
 この巨大な宝の山の中にはこの程度の芸術品なら、恐らくは数百、いや数千個はあるだろう。

 傷つきやすい芸術品にはすべて保護の魔法が掛かっているというのだから恐れ入る。それぐらいなら別のところに飾っておけばいいのにとユリは思わなくも無いが、周囲を見渡したところで、こうせざるを得なかった理由を理解できた。

 それは――周囲の壁には同程度かそれ以上の宝物が置かれているのだ。
 
 壁には無数の棚が備え付けられており、そこには黄金の山以上の輝きがあった。
 ブラッドストーンをはめ込んだロッド、ルビーをはめ込んだアダマンティン製の小手、小さな銀の輪にはめ込まれたルビー製のレンズ、まるで生きてるかのようなオブシダンで出来た犬の像、パープルアメジストから削りだしたダガー、ホワイトパールを無数に埋め込んだ小型の祭壇、七色に輝くガラスのような材質で出来たユリの花、ルビーを削りだした見事な薔薇の造花、ブラックドラゴンが飛翔するさまを描いたタペストリー、巨大なダイアモンドが飾られた白金の王冠、宝石をちりばめた黄金の香炉、サファイヤとルビーで作られた雄と雌のライオンの像、ファイヤーオパールをはめ込んだ炎を思わせるカフス、精巧な彫刻の施された紫壇の煙草入れ、黄金の獣の毛皮から作り出したマント、ミスラル製の12枚セットの皿、4色の宝石を埋め込んだ銀製のアンクレット、アダマンティン製の外表紙を持つ魔道書、黄金で出来た等身大の女性の像、大粒のガーネットを縫いこんだベルト、全て違う宝石を頭に埋め込んだチェスのセット、一塊のエメラルドから削りだされたピクシー像、無数の小さな宝石を縫いこんだ黒いクローク、ユニコーンの角から削りだした杯、水晶球を埋め込んだ台座などなど。
 こんなものはほんの一部ですらも無い。
 そのほかにもエメラルドをふんだんに使った金縁の姿見、人間大の赤水晶、人間なんかよりも巨大な白銀に輝く精巧な作りの戦士像、何だかよく分からない文字を刻み込んだ石柱、一抱えもあるようなサファイヤなんかも鎮座している。

 あまりの輝きに驚くユリに、平然とした声が掛かる。

「行くぞ」
「はい」
「…………」

 ユリと頭を振ることで了解を意を示した。
 アインズはその財宝の山に一瞥もすることなく、全体飛行の魔法を発動させると、3人揃って中空に舞い上がる。
 飛び上がってみると理解できるのだが、空気が紫色のような色を僅かに湛えている。何かの光源によるものかと周囲を見渡しても、紫色の光を発しているものは無い。
 そんなきょろきょろと周りを見渡すユリに静かな声が掛かった。

「…………ユリ姉。空気が魔法系の猛毒を含んでる」
「え?」
「ん?」
「…………ブラッド・オブ・ヨルムンガンド?」

 ユリの視線の先にはもう1人のメイドがアインズの魔法によって浮かんでいた。
 もう1人のメイド――シーゼットニイイチニイハチ・デルタ。略してシズは、元々発する言葉は非常に小さい。
 不思議そうなユリの視線を、極寒の視線が迎撃する。それの発生源はじとっとした黒色の瞳だ。そこに悪意等の感情は無い。というよりもまるで感情を感じさせない目だ。シズの顔立ちは非常に整ってはいるが、悪くいえば能面のような表情の無さだ。
 オートマトンであるシズは基本的に感情を表に出さないから。 

 日本人を髣髴と――しかも高貴な血筋、姫とも呼ばれるような大和撫子を思わせる顔立ちをしているシズは、艶やかな黒髪を上で持ち上げ、落とすというポニーテールと呼ばれる髪形にしている。

 着ているメイド服はユリと同様の戦闘用のメイド服だ 
 ――肘上までを覆う、ガントレット、クーター、ヴァンブレイス、そしてリアブレイスの中程までを合わせた様な、黒の材質に金で縁取りし、紫の文様が刻み込まれた腕部鎧。ハイヒールにも似たソルレット、リーブ、ポレインを融合させたような脚部鎧も腕部鎧と同じような作りだ。
 メイド服のスカート部分も、布の上に魔法金属を使用した黒色の金属板を使い防御力を増している。それも魔化したメテル鋼、ミスラルとベリアットを混ぜこんだアダマス鋼、魔法金属ガルヴォルンの三重合金板だ。胸部装甲も同じ金属を使っている。
 勿論、込められた魔法も一級品だ。ユグドラシルでも90レベル以上のプレイヤーしか手に入らないようなデータクリスタルの中でもレアデータを使用している。
 その防御能力の高さを考えるなら、戦闘用メイド服というよりはフルプレートメイルを魔改造しましたという方が正しいだろう。
 
 さらには首元に巻いた大粒の宝石が輝くチョーカー、腕部鎧の下で見えないが指輪、ポニーテールを結ぶためのリボン、下着に至るまで一級品のマジックアイテムである。

 そして腰に下げた白色のステアーAUGにもう少し丸みを持たせ、銃床部分にもう2つのマガジンを差し込んだ奇妙な銃器を、まるで剣のように下げている。ちなみにこの銃器も、オートマトンもシズのクラスであるガンナーも、超大型アップデート『ヴァルキュリアの失墜』以降の存在である。

 そんなシズが猛毒の効果をもたらすものとしては、最大の効果を発揮するアイテムの名前を挙げる。

「ああ、正解だ。そうだったな。お前達には言ってなかったな。宝物殿のこの辺りは猛毒の空気によって汚染されている。毒無効系のアイテムや能力を持たない奴の場合は、3歩行かないうちに死ぬな」
「ですからボク――私たちな訳なんですね?」

 アンデッドのデュラハンたるユリと、オートマトンなシズの両者は共に毒無効能力を保有している。
 アインズはにやりと笑うと軽く頭を肯定の意味で振る。それから続けて言葉を紡いだ。

「シズをつれてきた理由はそれだけでなく、確認のためもあるんだがな」


 アインズたち一行はそのまま飛行の魔法によって黄金の山を踏み越えることなく、向かいにある扉まで到着する。いや、それを扉と形容してよいものだろうか。そこには扉の形をした、底なしの闇を思わせるものが壁に張り付いていたのだ。

「ここは武器庫だな。パスワードはなんだったか……」
「アインズ様、武器庫ということはそれ以外も?」
「ああ、ある。整頓好きな奴がかつての仲間にいてな。各用途ごとに分けられているはずだ。防具系、スタッフ系、装身具系、その他アイテム系、製作物系等に別けられているはずだ。ああ、あとはデータの状態のクリスタルを並べた部屋もあったな」

 アインズが指差す方角、壁沿いに視線を逸らしていくとやはり同じような黒いものが壁に張り付いているのがユリも見えた。

「奥で1つになっているから、何処から入ろうが大した違いは無い」

 アインズはそれだけ言うと、真正面の闇の扉に向き直る。
 特定キーワードに反応して開くタイプの扉だ。魔法や盗賊系のキャラなら無理矢理に扉を開ける方法があるが、アインズはその魔法は習得してないし、その技術も無い。そのためにキーワードを言わなくてはならないのだが――

「忘れた」

 当たり前だ。こういうギミックはナザリック内に結構な量がある。よく来る場所なら問題なく覚えているが、宝物殿はあまり来ない場所だ。そんな場所の扉の1つなんかいちいち覚えているわけが無い。
 そのため直ぐに思い出せなかった、アインズはほぼ全てに通じるキーワードを発声する。

「『アインズ・ウール・ゴウン』」

 その言葉に反応し、湖面に何かが浮かぶように、漆黒の扉の上に文字のようなものが浮かんだ。そこには『Ascendit a terra in coelum、iterumque descendit in terram、et recipit vim superiorum et inferiorum』と書かれていた。

「まったく、タブラさんは凝り性だからな」

 アインズは、『アインズ・ウール・ゴウン』のギミック担当の片割れ、そして真面目な方。そう評価されている人物のことを頭に思い浮かべる。
 ナザリック大地下墳墓内の細かなギミックの4割は、彼の手が入ったものだ。少々悪乗りしてるのではというほどの作りこみは、何だかんだと結構なフリーのデータ量を食いつぶしている。そのために彼自身が責任を取って課金アイテムを買い集めたほど。

 アインズは表面に浮かんだ文字を真剣に眺める。これがヒントであり答えなのは間違いが無いのだが、さてどういった意味だったか。
 時間を掛けながら、自らの記憶のどこかに沈んだ答えを探すアインズ。
 やがて、ため息を漏らしつつ、アインズは記憶の中にある、この扉を開けるためのキーワードを思い出す。

「確か――かくて汝、全世界の栄光を我がものとし、暗きものは全て汝より離れ去るだろう――だったか?」

 そう言いながらシズに確認を取るように視線を向ける。シズはそれに対して頭を縦に振った。
 ギミック担当の片割れである、この扉を作った人物によって作り出されたシズは、ナザリック全域の詳細なデータと、ありとあらゆるギミックを熟知しているというキャラ設定である。先ほどのパスワードもシズであれば簡単に解くこともできただろう。それを任せなかったのは、単にアインズが自分で開けたいという我が儘を起こしたにしか過ぎない。

 突如、闇がある一点に吸い込まれるように集まりだす。直ぐに先ほどの闇は跡形も無くなり、空中にこぶし大の黒い球体が残るだけだ。

 今まで蓋となっていた闇が消えたことによって、ぽっかりと開いた穴から奥の光景が覗ける。そこには今までの宝物が置かれていた場所とは違う、管理の行き届いた世界が広がっていた。
 そこを表現するなら、博物館の展示室という言葉以上に相応しいものは無い。
 多少光源が押さえられた部屋は長く、ずっと奥まで進んでいる。天井は高く5メートルはあるだろうか。人以外のものが入り込むことを前提に考えられたような高さだ。左右はもっとあって10メートルほどだろう。
 床は黒色の艶やかな石が隙間も無いほど並べられており、まるで一枚の巨大な石のようだった。そして天井から降りてくる微かな光を照り返し、静寂さと荘厳さを感じさせた。
 部屋の左右には無数の武器が綺麗に整頓された上で、見事に並べられていた。
 
「行くぞ」

 アインズは左右に控えた2人の返事を待たずに歩き始める。


 そこはまさに武器庫だった。
 ――ブロードソード、グレートソード、エストック、フランベルジュ、シミター、パタ、ショーテル、ククリ、クレイモア、ショートソード、ソードブレイカー、etc、etc。
 そこに飾られているのは無論、剣だけではない。
 片手用の斧、両手用の斧、片手用の殴打武器、片手用の槍、弓、クロスボウetc、etc。
 大きな分類だけでも言い切れないほどだ。
 そのほかにも武器といって良いのか分からないような、ごてごてとした武器も無数にある。一言で現すなら絶対に鞘に納まらないよという、外見のみを重視したような武器だ。もしかするとそういう武器の方が多いかもしれない。
 
 しかも殆どの武器が単なる金属で出来たものではない。
 刀身が青水晶みたいなもので出来ているものから、純白の刀身に金色の文様を宿したもの、黒い刀身に紫の色でルーンが刻まれたものまである。弦が光のみで構成されているようにも見える弓だってある。そんなものが無数にあるのだ。

 他に一瞥するだけ理解できる、危険そうなものもあった。
 刀身から新鮮そうな血がにじみ出てる両手用の斧とか、黒い金属部分に苦悶の表情が浮かんだり消えたりする巨大なメイス、人の手のようなものが絡み合ってできている槍、などこれまた数え切れないほどだ。
 
 恐らくは殆どが魔法の武器なんだろうなと予測は立つが、どんな魔法の効果を持ってるのかは見当もつかない。
 刀身が炎のように揺らめく武器はまだなんとなく予測が立つのだが、たとえば、見ているとギチギチと昆虫の足のように動く節足動物の腹のような剣に、どんな魔法の効果があるかなんて分かるはずも無い。

 コツコツと遠ざかっていくアインズの足音を我に返り、ユリは先行したアインズに遅れんとばかりに付き従う。
 ユリにほんの少し遅れて、シズ。歩きながらもきょろきょろと展示されている中身を覗き込んでいる。能面のような顔に僅かな赤みがかかっていた。

 静寂の中、200メートルほど――陳列されている武器の数は数千ぐらいだろうか――歩いた辺りで、終着点となる。長方形の部屋だ。そこには何も置かれて無くガラッとしている。左右を見渡すと同じような通路の出口らしきものがあった。
 先には――突然雰囲気が変わる。
 先ほどまでが博物館なら、そこは古墳だ。そこには明かりの落とされた暗い空間が広がっていた。幅や高さは同じようなぐらいだ。そしてその部屋の左右の窪みには玉座のようなものがあり、ほとんどに何かが置かれているように見える。
 一体、この場所は何処なのか。
 その位置から目を細めて中を伺おうとしたユリに、ちょうど良いタイミングでアインズの声が届く。

「この先は霊廟だな」

 不思議そうな顔をしたユリといまだ無表情のシズを眺めると、アインズは周囲を見渡す。

「この辺りにいるはずなんだが……」

 誰がいるというのか。ユリが不思議そうに顔をゆがめたとき――その声に反応したわけではないだろうが、別の通路から、今アインズたちがいる場所に姿を見せたものがいた。
 
 それは異様な外見をもった存在だった。
 人の体に、歪んだ蛸にも似た生き物に酷似した頭部を持つ者だ。頭部の右半分を覆うほど、刺青で何らかの文字が崩されながら刻み込まれている。それは扉に浮かんだ文字にも似ていた。
 皮膚の色は死体のごとき白色に紫色が僅かに混ざっており、粘液に覆われているような異様な光沢を持つ。指はほっそりとしたものが4本生えており、水かきが互いの指との間についていた。
 そんな異様な存在は、太ももの辺りまでありそうな6本の長い触手がうねらせながら、瞳の無い青白く濁った眼をユリたち一行に向けた。
 着ている服は黒一色に銀の装飾が施された体にぴったりと合うような革の光沢を持つ服だ。それと黒いマントを羽織るかのように前で僅かに合わせている。

 ユリはその人物を知っている。
 驚愕が叫びとなってユリの口から放たれた。

「タブラ・スマラグディナ様!」

 その人物こそ至高の41人の1人――単純な火力であればアインズすらも上回るスペルキャスターだ。

「…………違う」

 シズの呟き。そして腰から、銃器を抜き放つと、ストックを肩にあて、銃口を今姿を見せた者に向ける。
 自らの創造者に対する暴言。及び武器を向けるその姿勢、許しがたい大罪である。もしそれを黙認するようなら、ユリもまた同じだけの罪を犯したこととなる。だが――

「了解。シズを信じる」

 ユリは呟くと、胸の前で両の拳を叩きつける。ガントレットがぶつかり合い、ゴングの鐘のように硬質な金属音を上げる。
 ユリのガントレットはシズのものに比べて分厚い。シズは銃器を取り扱う関係上、指の部分の金属は薄くなっているが、ユリはこのガントレットが武器でもあるからだ。
 そしてユリは滑るような動きで、アインズとシズの前に立つ。スペルキャスターであるアインズも、ガンナーであるシズも近接戦闘ではユリに劣る。ならば両者の盾となって接近戦を挑むのはユリの役目である。

「何者だ!」

 ユリの誰何に、タブラ・スマラグディナに似たものは軽く小首を傾げるだけで答えようとはしない。あるかないかの薄笑いがユリを不快にさせる。
 だが、そんな彼の正体を晒したのはアインズの言葉だ。
 
「――パンドラズ・アクター。元に戻れ」

 不快そうなアインズの言葉を受け、タブラ・スマラグディナの姿がぐにゃりと歪む。それはユリも、そしてシズもある人物を思い出させるそんな変化の仕方だ。2人が思い出したのは、自らの同僚であるナーベラル・ガンマである。
 深みのある落ち着いた男の声がした。

「お久しぶりです、モモンガ様」

 タブラ・スマラグディナに似たものがいた場所に立っていたのは、1人の異形だ。
 その姿形は先ほどのものから完全に変わっている。
 服装は非常に整ったものだ。黒の2つボタンのダークスーツでそのすらっと伸びた肢体を包んでいる。シングルカフス、純白のシャツ、シルバーグレーのストライプネクタイ、黒の革靴。そして異様に長い4本指の白の手袋。
 ただ、顔は鼻等の隆起を完全に摩り下ろした、のっぺりとしたものだ。目に当たるところと、口に該当するところにぽっかりとした穴が開いている。眼球も唇も歯も舌も何も無い。子供がペンで塗りつぶしたような黒々とした穴のみだ。
 ピンク色の卵を髣髴とさせる頭部はつるりと輝いており、産毛の一本も生えていない。
 外見も異様だが、それに似合わないものが顔についていた。眼鏡である。鼻も耳も無いのにどうやってか、しっかりと顔に固定されているのだ。
 
 そんな奇怪な存在――ナーベラルと同じドッペルゲンガー。
 これこそパンドラズ・アクター。アインズが設定を作った100レベルNPCであり、この宝物殿を管理している存在である。そして45の外装をコピーし、その能力を3/4程と多少落ちるが、使いこなせる存在でもある。


「……お前も元気そうだな」
「はい。元気にやらせていただいています。ところで今回は何をされに来られたので、モモンガ様? メイドのお嬢様方まで連れて」

 ナーベラルに比べれば非常に聞き取りやすい喋り方で、パンドラズ・アクターは答える。お嬢様と言われ、戦闘メイドとしての誇りがあるユリは内心むっとするが、アインズに親しい人物ともなればそれを表に出すことは出来ない。
 ただ、この人物が一体どんな存在なのか、二者の会話から割り出そうと神経を研ぎ澄ますばかりだ。
 シズも自らを創造した方の似姿を取っていたという事で、その能面ごとき顔に僅かばかりの怒りの色を出す。それはシズを知る者からすると、大激怒というレベルだ。ではあるが、パンドラズ・アクターにその能力を与えたいのが、同じ至高の存在ということも考えれば、怒るに怒れない。
 そんなユリとシズの心中を完全に気にせずに、アインズはパンドラズ・アクターと会話を続ける

「マジックアイテムの発動実験のためにいくつか使おうと思ってな」
「ほう。ついにあれらが出るのですか?」

 パンドラズ・アクターの顔が霊廟に向かう。さりげなく眼鏡を指でくぃっと、上に持ち上げる。鼻も耳も無く固定されているのに、ずり落ちはするというのだろうか。

「……ワールド・アイテムは使わないし、仲間たちの装備も使ったりはしない。あれはあのままとっておけば良い」
「ならば最高でもアーティファクトですか。少々残念ですね。個人的には世界を切り裂くとされるワールドアイテムの力を見てみたかったりもするのですが。いや、いや見てよいというのならたっち・みー様の武器、ワールドチャンピン・オブ・アルフヘイムもいいですな。あ、それともヒュギエイアの杯も……」

 パンドラズ・アクターはぶつぶつと呟きながら、眼鏡のブリッジの部分に指をかけたまま怪しく笑う。メガネのレンズの部分が光の反射を受け、きらっと輝くのが不気味だ。
 パンドラズ・アクターはマジック・アイテム・フェチであり、それだけでご飯を食べられるという設定である。それがここまで気持ち悪いとは。
 アインズは自らの作った設定を思い出し、非常に居心地の悪い気分で微かに身動きする。正直、皆で作っていた時は、悪乗りという言葉が許された。だが、こうして1人で冷静に対峙してみると、子供の頃書いた文集を読まされている気がするのだ。

 そう黒歴史という奴である。

 現在のナザリックに他のギルドメンバーがもしいたら、悶絶して転がっている者も中にいるだろう。そんな気がする。特に誰とはいわないが……。

「では勝手に持っていくぞ」
「私に断る必要はありません。ここにあるものは全てモモンガ様たちのものなのですから」

 芝居がった口調と身振りで、周囲を指し示す。

「しかしながら少々残念ですな。モモンガ様がいらっしゃったのは、私の力を使うときがきたのか、と思っておりました」

 アインズは動きを止め、眼鏡をかき上げる異形を観察するように視線を送る。
 確かにそれはアインズも考えていたことだ。パンドラズ・アクターは設定上、ナザリック最高峰の頭脳と知略の持ち主である。平時では使用する方向が変な方に突っ走っているが、それでも非常時にはその頭脳は捨てがたいものがある。
 さらにはパンドラズ・アクターの能力も、応用性に富むものだ。下手すれば守護者全員分の働きが出来るほど。

 しかしながら、アインズが作った理由は戦闘や組織運営のためではない。この『アインズ・ウール・ゴウン』の形を残すためだ。

「……お前は切り札的な存在だ。単なる雑務で出す気はしない」
「……それはありがとうございます」何か言いたげな顔をしてから、パンドラズ・アクターは仰々しく頭を下げる「畏まりました。では今後もこの中の管理に勤しみたいと思います」
「よろしく頼む。それと今後、私の名はアインズと呼ぶように。アインズ・ウール・ゴウンだ」
「ほう……承りました。アインズ様」
 
 話は終わりだという態度で、踵を返そうとしたアインズにパンドラズ・アクターの声が飛ぶ。

「しかし、アインズ様。マジック・アイテムの実験とあらば私の力を使用すべきでは無いでしょうか?」
「…………」
「それにアインズ様の姿をとれば睡眠不要で行動もできます。時間の大幅な短縮に繋がるとは思いますが……どうでしょう?」

 パンドラズ・アクターは片手を胸に当て、自らをアピールする。僅か後ろに立つ、シズが小さくうわぁ、と声を上げるのがアインズにも聞こえる。なんというか……オーバーアクション過ぎるのだ。ぶっちゃけ、わざとらし過ぎる。
 特に行動や姿勢を端々に、俺ってカッコイイよね、という感情が透けて見える。
 これが確かにかっこいい男とかなら、似合うのかもしれないが、相手は卵頭だ。浮きまくっており、見ているこっちが恥ずかしくなってしまうほどだ。

 アインズは暫し、黙ってパンドラズ・アクターを眺める。やがて決定したのか。アインズは懐から1つの指輪を取り出し、パンドラズ・アクターに投げる。投げられた指輪は弧を描き、パンドラズ・アクターの手の中に見事に納まった。

「これは……リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン。所持する能力は――」

 語りだそうとするパンドラズ・アクターを片手を上げることで黙らせる。非常に残念そうなのはこの際置いておく。

「予備だがな。数日内にコキュートスを中心とした部下にお前のことを話しておく。そうしたら来い」
「畏まりました」

 指の先までピンと伸びたような非常に丁寧な、悪く言えば演技がかった礼をするパンドラズ・アクターの卵頭を眺め、アインズは軽く頭を振る。
 悪い奴ではない。そして能力的な面での性能も悪くは無い。しかしながら――

「うわー……」

 なんでこんな性格にしたんだろうか。昔の自分はアレがかっこよいと思っていたんだろうか。
 もしアインズの顔が赤面するなら、今完全に赤くなっていただろう。






――――――――
※ ユリたちの戦闘用メイド服ってどんなの? と思われる方はかの名作、プリンセスクラウンのグラドリエル様を思い出したり、ググったりしてみてください。あれ……fateの……セイ……。
 ステアーAUGでファンタジー感、壊しましたか? ご勘弁ください。
 ちなみにまほうのすてあーArmee Universal Gewehrだから、まほうのだんがんをまほうのちからでうちだすらしいですよ。このせかいにかやくでうちだすへいきはないっぽいですよ、いちぶをのぞいて。




 ■■■




 ナザリック第6階層、アウラが支配する階層はナザリック最大の広さを誇る。
 縦4キロ、横4キロにもなる正方形をしており、中心部に巨大な湖を持つ。ほぼ全域を森というよりはジャングルともいうべきエリアが広がり、平原は全エリアの1/20程度しかない。

 その中にぽつんという言葉が相応しいように闘技場が建てられ、そしてそれに隣接する第7階層への入り口たる階段のある建物がある。
 それ以外の人工的な建築物の姿は、アウラが建てた捕虜収容所的な意味合いを持つログハウスぐらいだ。

 では支配者であるアウラは一体どこで寝泊りをしているのか。

 森の中で?
 闘技場で?
 第7階層の入り口がある建物で?

 どれも外れである。
 実はそのジャングルの中に、アウラの居住区とも言える場所があるのだ。

 広大なエリアを占める原生林。その中に、一際目立つ巨木があった。まるで天を突くかのように伸びているその木の高さは40メートルを超える。幹周は高さから考えると不釣合いなほど太い。
 そんな異様な巨木。そここそがアウラの住居なのだ。

 樹の内部をくり貫いて作られている住居は、地下2階の上8階――計10階建てになっている。1歩踏み込めば、ログハウスを思わせるような素朴だが、質素ではない暖かい光景がそこには広がっていた。

 かつて、アウラを創造したぶくぶく茶釜がいた頃は、この樹に幾人かの来客があった。やまいこ、餡ころもっちもちなどの『アインズ・ウール・ゴウン』の女性メンバーたちだ。そしてそれらが創造した部下達と共に。
 そんな彼女たちがここでのんびり会話している姿は、アウラからすると非常に見慣れた光景でもあった。アウラもよくぶくぶく茶釜の膝の上に乗せられたものだ。

 しかし、現在。
 アウラは基本的にここで1人で生活をしている。アウラの直轄のシモベの多くがモンスター系であり、人型だったり、世話をできそうな存在がいないということが主な理由だ。
 そんな生活を無論、寂しいとアウラは思ったことが無い。外見的には確かにアウラはまだまだ子供といえる。しかしながら守護者であるアウラからすれば、寂しいという感情を抱く理由が無い。
 なぜならアウラには創造した神ごとき存在はいても、両親に当たるものはいないのだ。1人で生活して寂しいという感情が芽生えるはずが無い。
 ただ、生活をするには広すぎるために面倒だと思う程度だ。勿論、この場所は至高の存在よりアウラに与えられた場所であるために、決して文句を口には出したりはしない。しかし、それでも外での行動を最も好むアウラからすると、室内の掃除とかは精神的に面倒な仕事なのだ。
 室内、ちょっと影になった部分が汚れていたりするのはそんな理由からであった。



 アウラの一日の生活ははっきり言って不規則である。睡眠時間も惰眠を貪るときもあれば、殆ど眠らずに活発に行動することも多い。デミウルゴスやシャルティアのように睡眠不要の存在ではないが、睡眠をとらなくても疲労回復系の魔法を使うことで睡眠を取らずに行動できるからである。それにいざとなれば睡眠や飲食を不要とするアイテムもあるのだから。
 そういう意味では、惰眠を貪り、室内の掃除等で手を抜く、非常にルーズな性格こそアウラの本性であるとも言えるのではないだろうか。
 しかし、アインズより貰ったアイテムが、そのルーズな一面を解消させる働きを持っていたのもまた事実である。


 アウラの寝室は思ったよりも家具が置かれていない。がらんとした部屋と言っても過言では無い。床に敷かれたカーペットも薄茶色の地味なもの。この部屋を見て少女の私室と認識できるものはいるだろうかという疑問が生じるような部屋だ。
 しかし、恐らくは大抵のものが少女だと予見するだろう。
 それは室内の所々に置かれたものにある。

 それは等身大はあると思われるヌイグルミたちだ。窓から入り込む日差しを浴びながら、ちょこんと二頭身か三頭身のクマ、ウサギ、シカ……デフォルメされたそういった物が置かれているのだ。これらのものを確認しながら、少女の部屋で無いと判断するものの方が逆に少ないだろう。
 ……このヌイグルミ以外、少女の部屋と判断する材料が乏しいのもまた事実ではあるが。

 そんな室内のやけに高い位置に大きなハンモックがかけられ、そこではアウラがあどけない顔で気持ちよさそうに眠りについていた。どんな夢を見ているのか、時折楽しげに表情が変化する。本当に無邪気な少女の寝顔がそこにはあった。
 ピンクとホワイトの縞模様のコットンで出来たパジャマの上下を着用し、これまたピンク色のタオルケットで体をすっぽりと包むようにしている。
 そんな優しい時間がいつまでも続くようであったが、そういった空気は破られるためにあるのもまた事実。

『――はちじです』

 アウラではない、女性の声が室内に響いた。
 黒く長い耳がピクピクと動き、くわっとアウラの目が大きく見開かれる。そして自らの腕に嵌めたバンドを操作する。そしてハンモックの上から、アウラはボンヤリとした視線を天井に投げかける。

「うぅー」

 ぼんやりと呟き、暫し天井を見つめてから、再びアウラは目を閉ざす。
 睡眠欲が、目を覚まさなければならないという意志に打ち勝った瞬間である。そしてアウラは再び先ほどと同じような天使の笑顔を浮かべて――しかしやはりそういった空気は破られるためにあった。

 コンコンと室内に響いたのはノックの音。
 くわっと再びアウラの目が見開かれる。

「アウラ様、お時間になりました」

 部屋の外から掛かる女性の声。アウラは不満げに顔を歪めた。

「ううー」
「お部屋に入ってもよろしいですか?」
「うー、駄目」

 アウラはぶすっとした声で返事をすると、自らの体に掛かっていたタオルケットを外す。

「よっと」

 ハンモックから転がるように落ちる。無論、空中で器用に体勢を整え、床に着地するときは当然足からだ。アウラはぼさぼさになった髪を数度かくと、スリッパを履く。ペタペタという感じで歩き、扉の横に置かれていたクマの人形をポンと撫でる。
 短い足を投げ出すように座っていたクマのヌイグルミは、その手に押されるように僅かに揺れる。
 デフォルメされた大きな頭についた円らな黒い瞳に、微笑んでいるような口の縫いつけ。それには似合わないような短いけど、金属の光沢を思わせる艶やかな爪を持ったクマのヌイグルミのその動きは、まるでアウラに頭を下げているようだった。

 やまいこズ・フォレスト・フレンズ。そんな名前を持つヌイグルミの隣の扉を、アウラは開ける。
 そこに立っていたのは、メイド服を着たエルフの女性だ。

 奴隷の証として切り落とされた耳も今では元通りだ。
 アウラも使える単なる治癒の魔法では癒せなかったので、ペストーニャに足労願って、強力な癒しの魔法を使うこととなったが。
 そのときのエルフたちの歓喜の姿は、アウラですら少しびっくりするほどだった。たかが耳の損傷を癒すことがどうして嬉しいのか。

 ちなみにこのメイド服はメイド長であるペストーニャから貰ったもので、ナザリックの一般メイドが着るものと同等である。超一級品の布地を使って作られたものではなるが、セバス直轄の戦闘メイドの着るメイド服型鎧とは違って防御能力は、魔法強化されているとはいえ、せいぜいミスリル製フルプレートメイル程度しか無い。

「おはようございます、アウラ様」
「うん、おはよう」

 深々とお辞儀をしたエルフにアウラは欠伸混じりの返事をしながら、その横をすり抜けるように歩き出す。その後を追ってエルフが続く。

「うんと、服を着るだけだから付いてこなくてもいいよ」
「いえ、お手伝いします」
「……あたしそんな子供じゃないんだけど?」

 アウラは不満げに顔を歪める。流石に何度も繰り返された問答だ。アウラの機嫌が悪くなるのも仕方がないことだろう。
 なんだか知らないが、異様なほどエルフたちがアウラの面倒を見ようとするのだ。それは少々行き過ぎていると、アウラが判断するほど。
 歯を磨くのだって、食事を食べるのだって、全て手伝おうとするのだから。さらにはちょっと風呂に入らないだけでブツブツと言う。風呂に入ったら入ったで耳の後ろまで洗ったかどうか尋ねてくるし、時には一緒に入って洗おうともする。

 ちょっと、うざい。

 それがアウラのエルフに対する評価である。ただ、忠誠心の現れとして――尽くそうとしてやっていることだろうと理解も出来るので、殺したりするのはなぁとアウラは慈悲を与えてはいるのだが。

 ただ、この異様な忠誠心が一体どこから来たものなのか。それはアウラも良くは理解できてはいない。
 このエルフは先日侵入した奴らの生き残りである。殺しても殺さなくてもどっちでも構わなかったアインズは、近親種――ダークエルフであるアウラに処分を一任したのだ。
 アウラも別に殺しても殺さなくても構わなかったし、エルフという存在がナザリックにはいないということ。そしてもう1つの理由によって、命を助けるという運びになった。そのときの恩で忠誠を尽くしているのだろうと考えていたのだが、どうもそれとは違うようなのだ。
 アウラは頭をかしげながらも、別に問い詰める気もなかった。めんどくさいなーと思う程度である。

「ですがお洋服のコーディネイトを……」
「いつもの着るからいいって」
「ですけど……」
「ん? 何? ぶくぶく茶釜様がお決めになられた服に……ケチをつけるの?」

 頭を一切動かさずに、下から視線だけでアウラはエルフを見上げる。エルフの表情に怯えの色が強くなった。これ以上何も言われまいと、アウラは口には出さないが勝ったと思う。しかしエルフからの痛烈なカウンターが次の瞬間決められた。

「ですが、あの部屋に他の服を置かれたのもぶくぶく茶釜様ではないのでしょうか」
「ぐぅ!」
「他の服も着なくてもよろしいのですか?」

 アウラの表情が目に見えて硬くなる。
 エルフの言っているのはドレッサーに無数に並んでいる服のことだ。アウラは基本的には即座に戦闘の取れるような服や、武装を好む。それからするとシャルティア辺りが着そうなドレスは好きではない。
 しかし、そのドレッサーに並んでいる服は煌びやかなドレス等、少女らしい服装ばかりだ。これはアウラが集めたものではなく、ぶくぶく茶釜が集めたものであり、アウラを着せ替え人形に使っていたときの名残だ。中にはきぐるみまでもあるのだから。
 そういう意味ではそれらの服を着ることも、確かにアウラがすべきことのようにも思われる。
 アウラは逡巡し、重い口を開く。

「今日は色々とあるから駄目。……そのうち……着るから」
「はい。畏まりました。それと今朝のお食事の方ですが――」
「――いーよ、食事なんて。果実食べればおなか一杯になるしさぁ」
「それはいけません、アウラ様。しっかりと食事をしないとちゃんと成長できません」
「成長ねぇ……」

 アウラの視線がエルフの胸に動く。

「あんまりしないような……」
「エルフは基本的にあまり肉感的にはなりませんから……。ただ、ワイルドエルフのような種族は別ですし、ダークエルフもそうですよ?」
「……未来があるの?」
「恐らくは」

 アウラは色々と考え、最後にシャルティアを思い出す。
 アウラの顔にニンマリとしたジャアクナ笑みが浮かぶ。

「……まぁ、そういうことなら仕方ないか。食事の準備をしておいて。着替えたら直ぐに行くから」


 ◆


 食事が終わり、ちょっと膨れ上がったおなかを抱えるようにアウラは外に出る。小食のアウラにとっては、絶句するような食事の量があったためだ。というよりアウラを持ってして、この食材はどこから仕入れたのかと不思議がる量だった。答えのペストーニャから貰ったと聞いて納得もしたのだが。
 今日の天候は晴れ、南東からの微風だ。
 そんなのどかな天気に誘われるように、眠気が戻ってくるが、それは押さえ込む。

「ぷぅ」

 ちょっと動いたために苦しい息を吐き出したアウラ。今たっている場所は巨木前の少し広場になっている部分だ。広場の外は押し茂ったジャングルが姿を見せる。
 そこでアウラは周囲を見渡す。その行為が合図であったかのように、黒く巨大な獣が森の中からゆっくりと姿を見せた。
 黒いオオカミのようでもあるが、尻尾は蛇のものとなっている。全身の長さは20メートルにも及ぶ。首輪が日差しを浴び、きらりと光った。
 
 フェンリル。アウラのシモベの中でも最高レベルの魔獣でもある。北欧神話のフェンリルをモチーフにしているため、いくつかの直接系の特殊能力を保有するものでもあり、単純な戦闘能力であればかなりの強さを誇るであろう。

 そんな獰猛なフェンリルが、アウラの前ではまるで子犬のような顔付きに踊るような足取りで近寄ってくる。
 そしてその巨大な顔をアウラの近寄せ、こすり付けてきた。その巨体であればかなりの力となるだろうが、アウラはびくともしない。これはフェンリルがちょうど良い力を入れているのではなく、アウラの肉体能力が非常に高いからだ。

「もう、くすぐったいって」

 ぺしぺしと撫でるというより叩くという感じで、アウラがフェンリルの大きな顔を撫で回す。心地良さそうにフェンリルが鳴く。大きな子供を相手にするようにしていたアウラが、思い出したように撫でまわす手を止める。

「ちょっと待っててね、あの子に餌をやらないといけないからね」

 フェンリルの顔に憮然としたものが浮かぶ。かすかな鳴き声。それは甘える子犬のようであり、ふくれっつらをした子供のようでもあった。しかしアウラがそれ以上取り合わないというのを悟ると、不機嫌そうに離れ、興味をなくした子犬のように地べたに転がる。
 アウラは苦笑を浮かべながら、餌を与えなくてはいけない動物の名を呼ぶ。

「ロロロー! おいでー!」

 その声に招かれるように、森の木から一本の蛇がひょこり顔を見せた。そしてアウラを目にすると喜んで全身を見せようと動くが、途中で凍りついたように動きを止める。そしてゆっくりと後ろに戻っていく。

「?」

 アウラは不思議そうにロロロを見る。何かあったのかと思ってだ。

「どうしたの?」

 もう一度声をかける。ロロロは木の後ろに隠れつつ、じっとアウラを見ている。いや、その視線はアウラから多少外れている。それに気づき、ばっと、アウラは自らの後ろにいるだろうフェンリルに振り返った。

 フェンリルは詰まらなそうにそっぽを向いている。完全に興味をなくしたという雰囲気だ。しかしながらアウラのような尋常じゃない動体視力が持つ者が見逃すわけが無い。

「フェンリル! そんな目でロロロを睨んじゃ駄目!」

 アウラの叱咤を受け、びくんとフェンリルの体が跳ねる。そしてクゥーンと子犬のように鳴く。そう、その鋭い視線でロロロに敵意を送っていたことが、飼い主にばれた子犬のように。

「おいで、ロロロ」

 再び、恐る恐るという感じでロロロは全身を現す。
 アウラは突如、空間からずりっという感じで巨大な魚を取り出す。ただ、その魚はなんというか大雑把過ぎた。一言で表現するなら生き物というより、漫画の大雑把な魚を膨らませたというものだ。
 そしてそれを近寄ってきたロロロに差し出す。
 ロロロはそれ――骨も背骨以外は無いような奇怪な魚――を4つの頭で美味しそうに食べ始めた。アウラはニコニコと、フェンリルは不満そうにそんな光景を眺める。

 フェンリルのようなアウラ直轄のシモベは皆、飲食不要のアイテムを装備しているために、食事を与える必要が無い。しかしロロロにはそれを装備させて無いので、食料を与える必要がある。アウラの本性がルーズだとしても、自分が無理を言って連れてこさせた生き物の面倒を忘れるほど、ルーズではない。


 この奇怪な魚は本当に水中を泳いでいたものではない。金貨1枚を代価に、大釜から生み出したものだ。
 ユグドラシルの本拠地には、食料の自給自足具合というのがある。これをオーバーしてモンスターやNPCを配置できないようになっているのだ。しかし、それを誤魔化す方法がある。それがアウラが魚を買った大釜――正式名称ダグザの大釜だ。
 それを置いておけば、維持管理費として金貨を失っていくが、自給自足率をオーバーしてモンスターを配置できるようになるのだ。
 ちなみにナザリックは最低ではあるが、基本モンスターが飲食不要のアンデッドであるのが大きく、なんとか基本の状態でも維持できる程度である。それに配置しているモンスターが飲食不要のものが多いというのもまた1つの理由ではあるが。
 そのため現在、新たな参入した存在――リザードマンやエルフ、そしてこれから参入してくるだろう存在のため、自給率を上げる手段が問われているのだが。


 ばくばくと食べていくロロロの頭の1つを撫でるアウラ。そして必死に低い唸り声を押し殺すフェンリル。異様な光景の中、アウラは機嫌良さそうにロロロに話しかける。

「ロロロ。今日はあなたの飼い主もここに来るからね」

 その言葉の意味を理解したのか。ロロロの頭の1つが食べることをやめ、アウラに絡みつくように伸びる。これできつく締め上げられたら胃の容量的な問題で大変なことになったが、触れる程度のものであるため問題にはならない。アウラも機嫌よく笑う。

「もう、遊んじゃ駄目だって……冷たいねー。ロロロは。このすべすべした感じが……なんとも……。ツヴェーク系もいいけど……」

 バシンバシンとフェンリルの尻尾が自己アピールを繰り返す中、アウラはロロロの長い首を撫で回す。

「さぁ食事をしないとね。終わったら遊ぼ」
「オォーン!」

 そんなロロロとアウラの2人を前に、突如としてフェンリルが走り出し、森の中に消えていく。

「あー、怒っちゃったかな? でもロロロに意地悪したんだから、仕方ないよね」

 アウラは小悪魔系の笑みを、フェンリルの後姿に投げかけた。


 ◆


 アウラの住居たる巨木前の広場。そこには幾つもの人影が大地に座り、後ろの方ではモンスターがたっていた。ただ、その数は広場の広さからすると非常に少ない
 リザードマンが10人。ヴァンパイア剣士たるブレイン、メイド服を着たエルフが3人、ピニスンや幾人かのドライアド。そして木に手足が生えたようなトリエントが3体だ。
 その前、机の後ろに教師のように立ったアウラが、胸を張りつつ口を開く。

「ではあなた方に、あたし達ナザリックの偉大さがわかるお話をしようと思います」

 一斉に拍手が起こる。
 乱れの無い、まるで申し合わせていたようなタイミングでのだ。その拍手に機嫌を良くしたアウラは一度大きく頷くと、手を挙げ、その拍手を止める。

「まずはこのナザリックの成り立ちから話します」

 静まり返った中、アウラの声が響く。

「えっと昔、昔のことよ。ここに41人の神に相応しい方々――この方々が至高の41人。覚えておいてね。その方々が現れたの」
「本来であればナザリックはさほど深いダンジョンではなかったの。でもその方々は強大な力を持って改造をしたのね。当たり前だよね。相応しい場所になるように整えるのは当然だもん。そして生まれたのが全10階層になる現在のナザリック大地下墳墓」
「次に至高の方々はそこに存在するものたちを創造されることとなったの。広い場所を作ったけど、そこにいるのは下位のアンデッドだったから、自分達に代わって一部の管理を行う代表者を作ろうと思ったんだ。勿論、至高の方々であれば管理は簡単だよ? でもそんな小さなことまでするわけが無いじゃない。もっと大きなことをしなくてはならないんだから」
「そして生み出されたのが――」アウラはここで言葉をとぎる。そして誇らしげに胸を張った。「あたし達、守護者よ」

 そして聴衆の様子を伺う。
 全員静まり返り、一言ももらそうとはしない。アウラは眉を寄せる。確かに真面目に聞くのは当たり前のことだ。この最も大切な話をしている中、くだらない態度を取っていたのなら、例えアウラといえども容赦ない対応を取るだろうから。
 しかし、ここまでの静寂はアウラの求めていたものとは少し違う。

「あたし達、守護者はそうやって生まれたの」

 そして再び、フンスっと胸を張る。
 僅かにリザードマンやエルフ、ブレインは互いの顔を伺った。アウラが何を求めているのかを理解しようと。

「おお……」
「素晴らしい……」

 そして幾人かが恐る恐る驚愕の呻き声にようなものを漏らし、幾人かは感嘆の声を上げた。

「ふふん」アウラの機嫌が目に見えてよくなる。「そう。そして生み出された守護者はあたし、デミウルゴス、コキュートス、そして……シャルティアね。まぁあともう1人?いるけど、至高の方々によって生み出された守護者じゃないから今回は除外しておくね」
「さて、守護者を作り出した至高の方々は、次に自分達の面倒を見る存在を作ることを決定したんだ。至高の方々を単なるシモベごときやモンスターがお世話できるはずが無いんじゃない。至高の方々にはお世話するものもそれなりの者が選ばれるということだね」
「そしてセバスやペストーニャを代表される存在が生み出され、最後に司書長や拷問官、楽師、鍛冶師、管理官といった存在が創造され、ナザリックが完成したの」

 アウラはここで1つ大きく区切る。ここから先しなくてはらないことは最も重要なことだ。
 乾いた喉を潤すべく、机に置かれたコップから水を一口含み、飲み込む。

「さて、そうして作り上げたナザリックから至高の方々は幾度と無く旅に出たんだ。その度ごと膨大な財宝が宝物庫を膨らませていったの。なんでそんなことをするのか、そんな風に思ったかもしれないけど、至高の方々の求めるものは桁が違ったからみたい。ワールド・アイテム。そういう名前のアイテム……至高の方々ですら容易く手に入れることの出来ない究極のアイテムを求めていたみたい」
「でも、そんな至高の方々を嫉妬する愚かな者達がやがて生まれてくるの」

 アウラの声が僅かに低くなる。

「ナザリックに侵入しようとするものは幾度と無くいた。何度も財宝を持っていかれたりしたけど、そこまで深く潜られることは無かった……でもその日は違った」

 アウラの子供っぽい顔に憤怒とも憎悪とも取れる表情が浮かんだ。それは誰もが驚くような表情の変化だ。
 アウラはどちらかと言えころころと表情は変わっても、あまり憎悪に満ちた憤怒とかの表情は浮かべたりはしない。最もそれを知っているのはエルフだ。そんなアウラが憎憎しげに表情を歪めるというのはどんな異例の事態なのか。そんな恐れとも知れない感情が浮かぶ。

「至高の方々に嫉妬した存在――同じように強大な力を持つもの達が1500からなる軍団を作って、ナザリックを攻めてきたの」
「激戦だった……シャルティアが打ち滅ぼされ、コキュートスが切り伏せられ、そしてあたしも……」

 沈黙が落ちる。
 だが、ざわりと音が無く、空気が揺れたようだった。それはリザードマン、そしてブレインという守護者の強大さを知る者たちから起こった感情のうねりだ。

 アウラ、シャルティア、コキュートス、デミウルゴス。
 アインズに劣るだろうとはいえ、この4者の守護者の強さはもはや常識の範疇に留まるところではない。アウラが外見は非常に可愛い少女のものであっても、その手の一振りでブレインを容易く殺せ、数分とかけずにリザードマンの村を容易く殲滅できるような存在であるのは、薄々、理解できることである。

 ではそんな守護者を倒せる存在。それが1500人もいるというのはどういうことなのだろうか。
 もはやあまりのパワーバランスの崩壊に、ついていけなくなりそうだった。
 そんな幾人もの困惑を無視し、いや考えもせずにアウラは再び話し出す。

「デミウルゴスも当然破れた……でも」アウラは微笑む。ただ、それはアウラには似合わないとも思われた残忍なものだ。「第8階層。あたしたち守護者すら知らない未知の階層。そこで至高の方々は全41名を持って戦いを挑んだの」
「そこまでたどり着いた存在は1000とも1200ともされているけど、至高の方々は全てを打ち滅ぼされたんだよ」

 再びアウラは胸を張る。

「そしてよく戦ったと、守護者であるあたしたちは蘇らされ、ナザリックは再び至高の地へと戻ったの。これがあなたたちが仕えるナザリックの歴史」

 アウラの話が終わり、沈黙が落ちる。話がここで終わりなのか、まだ続くのか。その微妙な空気があったためだ。そんな中を切り裂くように、突如、拍手が起こった。そこにいた全ての視線がその人物に向けられ、絶句とも驚愕とも知れない息が漏れた。

「すばらしい……」

 そう呟きながら拍手を行う人物。いつの間にこの場にいたのか、それは守護者の一員であり、立場的にはその最高指揮官であるデミウルゴスだ。
 デミウルゴスの瞳からは留まることを知らない涙が溢れ、頬を伝っている。
 そしてその横には白銀の輝きを持つコキュートス。そして漆黒のドレスに身を包んだシャルティア。
 コキュートスは感動に打ち震えるように、数度頭を左右に振る。シャルティアも片手に持った純白のハンカチを目尻に当てていた。

「素晴らしい……本当に素晴らしい……」

 一斉に拍手が起こる。それは追い詰められた動物のようなそんな焦りを含んだものだ。
 リザードマンやブレインは恐怖に顔を引きつらせつつ、エルフも慌てて、トリエントやドライアドはよくは分からないが、そんな風に全員が拍手を起こす。

「すまない、アウラ。この先、良いかね?」
「ん? いいよ。あたしの話は終わりだしね」

 デミウルゴスは今だ流れる涙を拭おうともせずに、アウラに横に並ぶ。そして軽く手を上げる。一斉に拍手が止んだ。

「皆よ、アインズ・ウール・ゴウンの素晴らしさを理解できたと思う」

 嗚咽混じりの声は非常に聞き取りづらいが、一言一句聞き取ろうとその場にいた守護者を除く全員が必死に耳を傾ける。一言でも聞き逃せばやばいことになりかねない。そんな不安が生まれたためだ。

「良いかね。こんな素晴らしいところに所属できた君たちは非常に幸運なのだ。そしてその全てを捧げることが、そんな幸運に対するささやかな感謝の礼だと知りたまえ」デミウルゴスは全員の顔を見渡し、言葉を続ける。「何か質問は?」

 生徒達は互い互いの顔を見渡し、やがてリザードマンを代表するように、ザリュースが手を上げる。

「はい、ザリュース」

 アウラが教師のように指差す。

「はい」ザリュースは立ち上がる。そして口を開いた。「至高の方々は全員で41人とのことですが、アインズ様以外の方には会ってないのですが、あわせてはもらえないのですか?」

 一瞬だけ間が開いた、守護者の各員が互いの顔を伺う。その微妙な空気を察知し、ザリュースは不味かったかと不安を感じた。しかし、その不安を払拭するようにアウラが話し始める。

「現在、このナザリックにいらっしゃるのは至高の方々を纏めになられたアインズ様のみ。他の方々が何故、どこに行かれたかまでは知られて無いんだ。あたし達守護者ですら理解できないような理由によるものだろうと思ってはいるんだけどね」
「でもアインズ様がこの地にいらっしゃるということは、いつかはこの地に他の方々も戻ってこられるに違いない筈なの。そしてアインズ様がこの地にその名前を広めるというのは、他の方々が戻ってくるときの目印にするに違いないって思ってるんだけどね」
「じゃぁ、次の質問は?」

 手を上げるものがいないことを確認し、アウラは一度大きく頷く。

「よし。では、終わり!」


 ◆


 アウラがナザリックの物語を語り終え、残った守護者達は久しぶりに互いの状況を話すためにテーブルを囲んでいた。
 丸テーブルの上には4人分の飲み物が置かれていた。湯気がくねり上がり、紅茶の匂いが僅かにたつ。アンデッドであるシャルティアの前にも無論置かれている。生き血以外は飲んでも何の意味も無いし、好みではないが、付き合いという言葉は自らの辞書に記載しているからだ。
 紅茶の入ったコップを持ち上げ、その匂いを楽しんでいたデミウルゴスは目を細める。

「良い香りだ。これにあうのは……」

 そこまで言ったデミウルゴスは口を閉ざす。デミウルゴスの端正な顔に僅かに失態を悔いる表情があった。コキュートスは何をデミウルゴスが言おうと思ったのかを理解し、それを許す言葉を送った。

「カマワナイ、デミウルゴス」
「すまないね、コキュートス」

 デミウルゴスが続けようとした言葉は、コキュートスには不快な言葉だ。別に趣味を隠す理由は無いが、他の守護者を不快にする気も無い。そのためにデミウルゴスは謝罪したのだ。

「意外にエルフもやるでしょ?」
「フム……確カニ」

 コキュートスが器用にコップから紅茶を流し込むように飲む。
 アウラも口をつけ、その味に満足しなかったのだろう。壷から角砂糖を2つほど落とした。

「ところでアウラ?」

 一生懸命コップをかき回しているアウラに目を送りつつ、シャルティアが不思議そうに尋ねる。

「何?」
「あれは一体何だぇ?」

 シャルティアの指差す方に視線を向けたアウラが、ああと頷く。そこにあったのは壁の隅に鎮座している人形だ。それはデフォルメされたライオンに乗って、剣を抜いている耳の長い人間――恐らくはエルフだろう――のヌイグルミだった。無論、これも人間なみに大きい。

「――あけみちゃん」

 すっぱりと言い切ったアウラに対し、目をぱちくりさせて疑問を顔に浮かべるシャルティア。当たり前だ。それで理解できる方が只者ではない。

「えっと、やまいこ様の妹君に当たる方をイメージしたもの。一応は、やまいこズ・フォレスト・フレンズの中では一番強いんじゃないかな?」
「妹君がいらしゃったの?!」
「うん。いたみたい。でもエルフだからアインズさまたちの仲間になれなかったんだって」

 それがあのエルフを助けた理由のもう1つだ。あけみちゃんという存在がいたから、そして何度も見ていたからの慈悲である。

「悲シイ話ガアルミタイダナ」
「そうだね。姿が違っただけでナザリック――いやアインズ・ウール・ゴウンの方々の一員になれなかったんだ。悲劇的な話だ」
「そうね」

 しみじみと思いを飛ばす他の守護者達に対し、アウラはやまいこがここにいた頃を思い出し、そんな雰囲気はまるでなかったなと判断する。

「あっと……そういいんすれば8階層には何がいるのかしら」

 悲しい話から逃げるように、わざとらしく話を変えるシャルティア。それは答えがあることを求めてのものではなかっただろう。しかし――

「知ッテハイル」
「え? ――ちょ、教えてよ、コキュートス」

 驚き、話に食いつくシャルティアを押し留めるように、コキュートスは腕の一本をシャルティアに突きつける。

「シカシアインズ様ガオッシャラナイトイウナラ、ソレハ我々ガ知ラナクテモ良イコトダロウ」
「むぅ……でも……ぐぅ」

 アインズの名前まで出されてしまってはシャルティアに言葉は無い。

「恐らくはアインズ様の切り札に当たるんだろうね」
「……確かにかつての戦いのときは負けたけど……」
「それだけではないよ。恐らくは我々が反旗を翻したときに叩き潰すためもあると思うとも」

 ざわりとデミウルゴスを除く全ての守護者に動揺ともしれない空気が噴きあがった。

「馬鹿な!」
「至高ノ方タルアインズ様ニ対シ、我々ガ反旗ヲ翻スナド」
「……アインズ様は非常に賢いお方。私とセバスが遠方で仕事をしているというのが1つの理由になると思うのだよ」
「それはどういう意味?」
「簡単だとも。私とセバスを確かめているんだ。自分の目が届かないところでどのような行動に出るかをね」

 コキュートス、シャルティア、アウラの3人が互いに目配せを行う。それに対してデミウルゴスは苦笑いを浮かべる。

「……止めてくれないかね。私はアインズ様を、そして至高の方々を裏切ろうとは思ってもいない」
「当タリ前ダ」
「当然だよ。至高の方々に生み出されたあたし達に裏切り者なんてね?」
「無論。裏切りなんて冗談でも無いわ。……ただ、アインズ様がそう考えられたというからには、なんらかの根拠があるのでしょ? デミウルゴスやセバスが裏切るという」

 緊迫感ともいうべき空気がテーブルに立ち込める。
 『アインズ・ウール・ゴウン』に生み出された存在に、裏切りはありえないこと。そう今までは互いに思っていた。
 当たり前である。創造した神に唾を吐くような行為が許されるだろうか。自らの存在理由は至高の存在に仕える為にあるのだから。
 しかしそんな至高の存在が仲間が裏切りを働くかもしれないと考えているということは、ショックであった。この場合のショックはアインズに自らの忠誠心を疑られたことへの衝撃ではなく、そう考えさせたセバスであり、デミウルゴスに向けられたものだ。お前達の所為で自分達の忠誠心まで疑られた、どうしてくれるという類のものだ。

「私が何故アインズ様にそう考えられたかは不明だがね……コキュートス。これから王都に行くことになった」
「何? 一体?」
「アインズ様の身をお守りするためにだ」

 まさにシーンという音が相応しいような静寂が降りた。デミウルゴスの言葉に含まれた意味を理解して。

「セバスハ強イ」
「竜人形態を取ったら直接戦闘能力はナザリック最強だからね」
「全員で行った方がいいんではなくて?」

 デミウルゴスが頭を横に振る。

「全員で行かないということはアインズ様も判断を迷われているのだろう」
「お優しい」
「うん、だよね」
「全クダ……」

 守護者からすれば怪しいなら殺してしまえば良いという判断が先に立つ。
 至高の存在たるアインズにそこまで忠誠心を疑られた存在に、その身の存続を一瞬でも許すというのが許しがたいのだ。それと同時に、即座に殺すという決定を下さないアインズの優しさに触れられ、守護者からすると歓喜の念がこみ上げてくるのだった。

「つまるところは確かめるってことでありんすね?」
「そうだろうね。それ如何では……」
「フム……セバスト全力デ戦エルノハ魅力デハアルノダガ……許シガタイナ」
「コキュートス、違うって。アインズ様が迷われているというのに、あたし達で勝手に決め付けちゃまずいじゃん」
「アア、ソウダナ。スマナイ、皆」

 コキュートスの謝罪を守護者たちは快く受け取る。

「デミウルゴス、じゃぁ、その件に対してあたしたちが備えることはあるの?」
「そうでありんすね。わたしとアウラで何か準備しておいた方がいいなら、教えてくれると嬉しいんけれど?」
「いや、特には無いね。セバスが実際に裏切っていたら全守護者の力が必要があるかもしれないが、勘違いで終わるだろうと思っているしね」
「……ダト良イガ……。アレハチト優シスギル。ソレガ変ナ方向ニ転ガレバ……有リ得ナイ話デハナイダロウ」

 コキュートスはゆっくりと立ち上がった。前に置かれているコップの中には既に何も入ってはいない。

「どこに?」
「一応、武装ヲ整エテオコウト思ッテナ」
「了解。準備は大切だしね」

 歩いて部屋から出て行くコキュートスの背中に視線をやりながら、シャルティアはデミウルゴスに言葉を軽い調子で投げた。

「気をつけていってらっしゃい。守護者が側にいながら、アインズ様に怪我をさせたら、それが一番の大罪でありんす」
「無論、理解しているとも。私とコキュートスでそのようなことは決してさせないとも」

 デミウルゴスは再び紅茶の香りを楽しみながら、目をゆっくりと細くした。それは紅茶を楽しんでるのではなく、もっと別のものに思いを寄せている者の顔だった。






――――――――
※ これで一応は守護者を話に食い込ませた話は書いたかな?



[18721] 外伝_頑張れ、エンリさん1
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/03/09 20:59



 頑張れ、エンリさん・1



 首筋を流れ落ちる汗を、手の汚れてない部分――甲で拭い、エンリは毟っていた雑草を集める。それは結構な量になっており、潰れた草が青い芳香を放っていた。
 長い間の畑仕事で疲弊した体に、汗を吸い込み濡れた服が纏わりつき気持ちが悪い。
 エンリは気分を変えるために、うんと背筋を伸ばす。
 視界に入るのは一面の畑。
 そこに植えられたラール麦は先端を膨らませつつあった。これから収穫の季節に徐々に入っていき、やがて麦は金色に染まる。畑一面が黄金に染まるのは見事なものなのだが、その前に雑草取りという面倒な行為を、しっかりと行なっておかないと黄金の色が寂しいものとなってしまう。
 今はそのための苦労というわけだ。

 背筋を伸ばすことで強張った部分が緩み、がちがちになっていた体が柔らかいものとなる。そして畑仕事でほてった体に、吹き抜ける風が心地良かった。

 そんな流れる風が、エンリの元に村の騒がしい音を運んでくる。
 その騒がしさは何かを打ち込むような音や、力をあわせる掛け声等、普段であれば絶対に聞くことの無い音ばかり。


 現在、村は急ピッチで様々な計画が進行している。
 その中でも主に置かれているのが、村の周囲を囲む壁の建築。それと見張り台の建築である。そこにある要点は村の要塞化である。
 これはゴブリンリーダーとゴブリン・メイジが主となって立てた計画である。
 というのも現状では、村が襲われた場合対処できないからだ。

 村は平地に広がるように家が並び、中央に広場があるという形になっている。柵という柵は無く、誰でも簡単に入ってこられる。今の今まではこれでよかった。森が近いとはいえ、モンスターが村の近郊まで出現したことは無かったのだ。しかし、あのような凄惨な事件が起こってなお、これで良いと思えるものは誰もいなかった。
 しかしながら柵は作れても、これで安全かという問題に関しては誰も答えられなかった。

 そこに現れたのが、ゴブリンたちである。ゴブリンの持ち上げた村の要塞化という計画は、直ぐに満場一致をもって可決された。今なお魘される、悪夢が忘れられないために。

 最初に行ったことは家屋の幾つかを廃棄し、村を縮小させる所から始まった。というのも今まででは村が周囲に広がっていたために、壁で囲むとなるとかなり膨大な範囲に及ぶということで、人手の少なくなった今の村では難しい。そのため、いくつかの家を破壊することでその範囲を狭めようというのだ。
 これは村人がかなり殺されたために、家が余っているというのも大きな要因となっている。

 まずは余分な家屋を解体し、構築していた木を壁に流用する。無論それだけでは足りないので、大森林に向かい、木を切り出す作業が必要となってくる。これはモンスターに襲われる可能性があるのだが、ゴブリン・トループが周辺の警戒を行うことで簡単に問題は解決した。
 
 ただ、木を切り出すだけではなく、埋めるための穴を掘ったり、木を運んだりと言う膨大な作業力が当然必要になってくる。
 この力はどうしたか。

 その答えは、ナザリックの支配者であるアインズとの取引だ。アインズは金貨を回収したいと言う目的があったようで、金貨を受け取ることで労働力を提供することを約束したのだ。無論、そこにエンリからの頼みもあったという事実もある。

 何故、エンリという単なる村娘に、アインズという強大な力を持つ存在が気にかけてくれるのは、エンリ自身も良くは理解できていない。
 多分でいいのなら、妹と2人が招かれた際の食事の時に、非常に好意的になったというのは感じてはいる。だが、その時にした幾つもの話の中で、何がそこまでアインズという人物の琴線に触れたのかはエンリにとっても謎だ。

 さて、そんなわけでアインズとの細部の詰め合わせとなったのだが、村人からの何故金貨を回収したいのかと言う質問に対し――

「この周辺各国で使用されているわけでない金貨を第三者が入手することによって、あなた方が厄介ごとに巻き込まれるのを避けるため」

 ――という返答があった。つまりは珍しい金貨を求めて欲に駆られた人間が来るのを避けるという話だ。言われてみれば納得のいく答えである。確かにそんな危険性がありうるとなると、直ぐに安全に手放したいものだ。そして手放すとなると最も安全性が高いのは、最初に持ち込んだアインズしかいない。
 そのためにすぐさまアインズと、労働力の提供による金貨の交換となったのだ。

 そしてアインズが貸し出した労働力。それはストーンゴーレムと呼ばれる石の巨像3体だ。
 大きさはおおよそ3メートルほど。一応人型はしているものの、ずんぐりむっくりとした姿だ。腕は長く、足は短い。ゴリラとかをモチーフに子供が作ったような外見だ。

 貸し出されたのが奇怪な姿をした人形のようなもの。
 これに疑問を覚える者は村人にも幾人かいた。かなりの金貨との交換がこれではという声だ。しかしながら殆どの村人が、あれほどの力を持つ魔法使いが貸し出したのだから、金貨と同等の価値は絶対にあると納得していた。またゴブリンたちは、アインズがこれほどのものを貸し出すとは思わなかったと絶賛したのだ。

 ゴーレムが実際に動き出し、不満の声を上げた村人は直ぐに顔を赤め、己の見る目の無さを恥じた。それと同時にアインズという村を救った英雄の評価はさらに上がる。

 ゴーレムは疲労を感じず、命令に従って黙々と働く。しかも人間では到底出せないような力を持ってだ。多少不器用なところがあるので細かな作業は任せられないが、それでもこれらによって短縮できた時間は信じられないほどだった。
 これを目にして不満をいう者は頭のおかしい者か、嫉妬からの妬み根性が激しい者ぐらいだろう。

 ゴーレムの不眠不休の働きによって、急ピッチで壁の建築は進んだ。数ヶ月は掛かるだろう作業がほんの数日で終わったのだ。しかも多少、想定よりも広く村を囲む壁まで建築できたほど。
 壁のみにならず、見張り台の建築も容易く進んだ。これにより村の東西に見張り台が完成する運びとなったのだ。

 これらの作業を通して、村人のゴブリンに対する警戒感はほぼ完全に無くなったと言える。特に騎士という同じ人間が村人を殺して回ったのも1つの理由である。同じ種族でも命を奪う。それに対し他の種族であるゴブリンはエンリの部下として村のために働く。それなら同じ人間よりも信頼できるのではないか。そういった流れだ。
 そして何より力がある。傷を受けても神官が治癒してくれる。ゴブリンたちが戦士としての警戒に当たってくれる。

 こうして、ほんの数日で、ゴブリンたちは村に根を張り、その存在はいなくてはならないものとなったのだ。それはゴブリンの住居のある場所だけでも納得できるだろう。人間でもない種族であるにも係わらず、現在は村の中の特別に建てた――エンリの家に程近い――大きい家を本拠に暮らしているのだから。


 エンリが耳に入ってきた村の騒がしい音によって生じた物思いから帰る頃――

「エンリの姉さん、こっちも終わりましたぜ」

 ――一緒に雑草を毟ってくれていたゴブリンが、エンリに終わった旨を伝えてくる。

「あ、ありがとうございます」
「いえ、感謝なんて、滅相も無い」

 パタパタと照れたように土と草の汁に汚れた手を振るゴブリンだが、エンリはどれだけ感謝をしても足りないほどの恩義を感じていた。
 父親と母親を失ったエンリからすると、正直この畑の管理というのは厳しかったのだ。本来であれば村人の手助けを受けることが普通なのだが、村人の数が減った現状では、どこも自分の畑の管理で精一杯。しかし、ゴブリンが手助けしてくれることで、その問題も解決したのだ。
 さらにゴブリンはその他の人手の足りない者たちに、自ら進んで協力を申し出てくれたのだ。

 ここまでしてくれるゴブリンを忌避できるだろうか。
 カルネ村では人間よりもゴブリンの方がまだ良い隣人足りえるのではないか。そんな話が当然のように話題になるほど、現在のゴブリンの評価は高い。

 ぐっと背筋を再び伸ばしてエンリは空を見上げる。お昼の鐘がまだ鳴ってはいないが、時間的にも畑仕事の進み具合的にもキリの良いところだろう。

「じゃ、お昼にしましょうか?」

 ゴブリンはその潰れたような顔にはっきりと分かる朗らかな笑みを浮かべた。
 
「よっしゃってやつっすね。エンリの姉さんの飯は美味いからなぁ」
「そんなこと無いですよ」

 照れたようにエンリは笑う。

「いやいや、まじっすよ。エンリの姉さんの畑仕事の手伝いは、俺達の中でも最も競争率の高い仕事なんですから。美味い飯が食えるってね」
「うーん、それなら皆さんの料理も作りますよ?」

 3人分作るのも、20人分以上作るのも同じだ……なんてことは無い。火を焚く時間、料理を調理する時間や労働力。単純計算7倍の手間が掛かる。しかし、その程度、ゴブリンから恩義を受けているエンリからすれば大した問題ではない。

「いや、いや滅相も無い。姉さんの料理が食えるのは選ばれた者の特典ですから」

 優越感を感じさせる、にやりとした笑みを漂わせた小さな亜人に、エンリは困ったような笑いを向ける。
 ゴブリンたちがじゃんけんでエンリの手助けをする者を決めているのは知っているが、それほど評価が高いだけの料理を作っているかなという疑問を込めてだ。

「じゃぁ、帰って食べましょうか」
「いいですね……」

 そこまで言いかけたゴブリンは口を閉ざすと、鋭い目で遠方を見つめる。今までのおかしげな小さな亜人から、屈強な雰囲気へと急激に変わったゴブリンに息を呑み、エンリも視線の先を眺める。
 そこには一匹の黒い狼に乗ったゴブリンがいた。それが村の方に滑るような速度で、草原の中、軽快に進んでくる。

「ライダーさんですね」

 エンリの召喚したゴブリン・トループはレベル8ゴブリンが12体、レベル10ゴブリン・アーチャーが2体、レベル10ゴブリン・メイジが1体、レベル10ゴブリン・クレリックが1体、レベル10ゴブリン・ライダー&ウルフが2体、レベル12のゴブリンリーダーが1体の計19名によって構成されている。
 今現在エンリの前にいるのがレベル8ゴブリンであり、こちらに向かって進んで来る漆黒の狼に乗った毛皮付きの皮鎧と槍を持ったのが、レベル10ゴブリン・ライダーだ。
 
 ゴブリン・ライダーの仕事は草原を走り回り、早期警戒を行うことである。それからすると村に戻ってくるのは極当然の光景だ。

「……そうですね」

 ただ、ゴブリンの口調は重い。何か納得できないものがある。そんなニュアンスがそこにはあった。

「どうしたんですか?」
「……時間的に早いなと思いましてね。あいつなんですけど、今日は大森林方面の警戒に行ってるはずです……なんかあったのか?」

 ゴブリンの説明を聞き、エイリの胸の内に不安がこみ上げる。何かまた血なまぐさいことが起こるのではないかという不安だ。
 2人で黙ってみている内に、ゴブリンを乗せた大型の狼はエンリたちの下まで走り寄ってくる。狼は荒い息で呼吸を繰り返し、どれだけ急ぎで帰ってきていたのかを充分に物語っていた。

「どうした?」

 話しかけたのはゴブリンが先だ。それに対し、エンリに軽く一礼をするとライダーが答える。

「大森林の方で何か起こったっぽいな」
「……何がって?」
「よくは分かんねぇけど……かなりの数の何かが北上したんじゃないか?」
「それって騎士ですか?」

 2人の話にエンリは思わず口を挟む。単なる村娘であるエンリがしゃしゃり出て良い事は何も無いと分かってはいるが、どうしても聞いておきたいということはある。特に村を襲ったあの恐怖、忘れられたわけではないのだから。

「エンリの姉さん、上から失礼します。……自信は無いですがそりゃ違うと思います。木々が切り倒され通り道が出来てましたが、素足で歩いた跡が見られましたから、ありゃ人間ではないでしょうな」
「そうなんですか」

 野外を素足で歩く人間はまずいない。当たり前だ、人間の足の裏はそこまで固くないのだから。
 その答えを聞き、あからさまにほっとするエンリ。

「……じゃぁ、とりあえずリーダーに報告しますので、これで」
「はいよ、ご苦労さん」
「お疲れ様です」

 2人に一度、手を振るとライダーはオオカミを走り始める。その後姿を目で追っていくと、そのうち門のところまでたどり着き、ゆっくりと開いた門の中に体を滑らすように入り込んでいった。

「じゃぁ、帰りましょうか?」
「そうですね」



 井戸で手を洗い、家に帰ってきたエンリとゴブリンに少女の声が掛かった。 

「お帰り、お姉ちゃん」

 その声に合わせるように、ゴリゴリという石と石をこすりあうような音が聞こえる。視線をやれば家の陰になる場所で石臼のようなものを回している12歳ほどの少女がいた。
 エンリの妹であるネムである。

 石臼からは鼻を貫くような強烈な香りが漂っていた。先ほどのエンリの手から匂ってきた臭いに非常に酷似しているが、それを倍するような、少し離れたところからでも分かるほど強い臭いだ。
 ネムはもはや臭いに慣れたため、問題は無いだろうが、エンリは強烈な臭いに当てられ、目の端に涙を浮かべた。後ろに控えるゴブリンの顔には特別なものは一切表れてはいない。種族的なものか、はたまたは仕える主人の妹に当たる人物の前でそういった行動を取るのを抑えたためかは不明だが。

「ただいま。どう? ちゃんと潰せた?」
「うん。ばっちり」ネムの視線が動いた先、エンリが出かける前はこんもりと置かれた薬草が、今では残っているのはほんの少しだ。「でもお姉ちゃん、薬草の残りが少なくなってきたよ?」

 ネムの行っているのは薬草をペーストして壷に入れることで作業である。乾かして保存するタイプの薬草もあれば、潰して保存するタイプの薬草もある。

「そうなの? ならまた取りに行かないと……」

 薬草はカルネ村の大切な硬貨獲得の手段の1つだ。いや、それ以外には殆ど無いという方が正解に近い。
 確かに食べるだけなら畑の恵だけでも何とかなるが、服等の雑貨のことまで考えると薬草等の他の稼ぎは絶対に不可欠だ。
 しかし薬草を何処で手に入れるかというと、モンスターが当然のように闊歩する大森林だ。単なる村娘であるエンリにピクニック代わりに行ける場所では決して無い。

「お願いできますか?」

 だからこそ声をかけたのは、ネムに帰宅の挨拶として頭を下げたゴブリンだ。


 大森林はモンスターをその身に収めた危険極まりない場所ではあるが、カルネ村の村人に森の恵みという恩恵を与えてくれる場所でもある。それは薪、食料となる果実や植物、動物からは肉や皮、そして様々な薬草である。
 ある意味宝の山といっても良い場所だが、モンスターが存在することや、場合によってモンスターを村まで呼びかねない危険性があるため、今まではそう手を出せる場所ではなかった。
 そのため、狩人のような腕に自信と経験がある専業職たちが時折向かうのが基本だった。しかし、今現在、それを代理で行なっているのがゴブリン達である。
 そしてゴブリンたちの働きは見事であり、今までは手に入りにくかった新鮮な肉は手に入るようになり、食卓には新鮮な果実や植物が並ぶ。食糧事情は劇的に上昇したのだ。


「構いませんが……ちっとエンリの姉さんが一緒に行かれるのは難しいかもしれませんよ?」
「え? そうなんですか?」

 苦い顔をするゴブリンに、エンリは不思議そうな顔を向ける。

「ええ、先ほどのライダーの話ですが、かなりの数の何かが北上したと言っていたじゃないですか」
「ああ、はい」
「そうなりますとね、荒れるんですよ。森が」
「?」

 不思議そうな顔を再びしたエンリに、ゴブリンは細かく説明する。

「多くの何かが動いた場合、警戒の強いものなら一端自分の縄張りを離れたりするんですよ。そうなると縄張りが一時的にごちゃごちゃになることで無数の混乱が生じるんですね。ぶっちゃけ、モンスターとの遭遇確立が上昇しているため、危険度が高まってると。それに下手すると大森林の外にまで出てくる奴もいるかもしれせんしね。幾らエンリの姉さんが豪胆な方だからといって、危険に飛び込むことも無いでしょうし……」
「そうですか……」豪胆というところに疑問を抱くが、いつものお世辞なんだろうと思ってエンリは流す。「しかし困りましたね。この時期しかその薬草は取れないんです。ですから多少危険かもしれないですけど出来れば……」

 心配そうなネムに笑いかける。最後に残った家族を悲しませるような行為は避けたい。しかしそれでも大切な硬貨獲得のチャンスを逃すことをしたくは無いのだ。確かに優先度を考えると間違っているかもしれない。しかし村のために命を張っている彼らにも、自らを主人と見なしてくれる彼らにも、恩を返す必要はある。
 そう硬く決心しているエンリに、ゴブリンがちょっと待ったと手を突き出す。

「……うーん、まぁ、今のはおれの勝手な意見ですので、一応、リーダーに相談してみますよ。エンリの姉さんもそんな早く決めないでくだせぇ。適当なことを言ったなんて叱られるのも嫌なんで」
「そうですか? ……うーん……」


 大森林という危険な場所にエンリが同行することを前提とした話を2人――エンリとゴブリン――で交わすが、それは普通に考えれば奇怪なことだろう。危険な場所ならば、腕に自信のあるゴブリンだけを送り込めばよい。しかし、その考えは実は間違っている。何故なら、エンリの召喚したゴブリンたちには奇妙な弱点があったのだ。
 それは薬草の捜索や、狩った獲物の解体作業が下手だということだ。

 変な話なのだが、薬草を見せられても、目の前にある同じ薬草を見つけることができないのだ。頭を傾げるような話ではあるが、まるでそういった能力を喪失さらには習得できないようなのだ。
 まるで何者かに削られたように。

 そのため薬草を捜索するとなると、ゴブリン以外の者が行く必要がある。そしてゴブリンと同行するのは大抵がエンリだ。というのも当然だが、ゴブリンはエンリの部下であるためだ。確かにエンリが命令をすることで他の村人を連れて大森林に向かってはくれるだろう。実際、木々の伐採では幾人者村人と共に向かったのだから。だが、森の奥に踏み込むとなると、ゴブリンが最も忠義を尽くして守ってくれる人物こそ適任だという考えが村人にはある。
 これは別に村人がエンリを生贄として差し出しているのではない。何か危険が在ったとき、エンリならばゴブリンが死ぬ気で守る――即ち生還確率が最も高いと信じてだ。


 エンリが如何するかと悩みだした頃、くぅという可愛いらしい音がなった。その音にエンリは考えを一時中断する。見ればネムの不満そうな視線がエンリに向けられていた。

「お姉ちゃん、おなか減ったよ。食事にしよ?」
「そうね。ごめんね。じゃぁ、片付けたら手を洗ってらっしゃい。準備しておくから」
「はーい」

 元気の良い返事をするとネムは石臼のようなものを2つに分け、間に溜まっていた緑色のドロドロとしたモノを器用に小さな壷にヘラを使って移していく。エンリは何を作るかと考えながら、家の入り口に向かって歩き出した。

 今まで数日前に焼いた黒パン。干し肉の切れ端が入ったスープというのがお昼の一般的な内容だったのだが、先にも述べたようにゴブリンたちのよって食糧事情は急激に好転している。
 そのため、お昼は新鮮な野菜とお肉をたっぷり使ったスープは確定だ。
 エンリは口の中に広がった味に、少しばかり頬を緩ませながら家のドアをくぐった。


 ◆


 トブの大森林は入って直ぐであればさほど暗くも無ければ、足場が酷いわけでもない。これは村人が木々を必要な程度伐採しているためだ。そのため人の手が入った程度の森ぐらいの雰囲気しかない。ピクニックが似合うような、といえば雰囲気がつかめるだろうか。
 しかしながら薬草を探しに行くとなると、もっと深くまで入り込む必要がある。

 一直線に150メートルも進めば先ほどの雰囲気は一変する。足場は悪く、頭の上を茂った木々によって周囲は昼でも暗く、あちらこちらに闇がわだかまっている。木々によって視界は遮られ、遠くを見ることは勿論困難である。15メートル先が見えれば良いほうだろう。原生林という言葉がまさに相応しい景色となるのだ。
 その辺りからモンスターの姿が現れる確率も急上昇する。つまりは危険度がぐんと上がるということだ。


 そんな大森林の前にエンリは立っていた。勿論、1人ではない。周囲にはエンリに忠誠を尽くすゴブリン・トループの全員がそこには揃っていた。

 ゴブリンたちの武装はチェインシャツに円形盾<ラウンドシールド>、腰に肉厚なマチェットを下げている。チャインシャツの下は茶色の半袖半ズボン。それにしっかりとした毛皮で作った靴も履いている。腰には小物入れらしきポシェット。武装としては何一つとしては欠かしていない。
 そんなフル武装のゴブリンたちは、背負ってきた皮袋の中の荷物の最終チェックを行っておいた。大抵が水袋の中身や、肉厚なマチェットの鋭利さを確かめている。それ以外には雨が降ってきた場合の雨具だろうか。
 全員装備はしっかりとしているが、背負った荷物が少ないのは、戦闘の可能性は考えているが長時間の大森林内での行動を考えていないからだろう。

 そんなチェックをしているゴブリンの中でも、一回り大柄のゴブリンがエンリの元に歩いて来る。
 姿格好は戦士といっても過言ではない。ゴブリンとは思えないほどの筋骨隆々の長躯。それを実用第一主義な無骨なブレストプレートが包み、使い慣れたようなグレードソードを背中に背負っている。
 彼こそゴブリンの頭であるゴブリンリーダーである。

「じゃぁ、エンリの姉さん。先ほど言ったように、おれたちは森の周囲の様子を見て回ります。……大丈夫っすか?」

 ゴブリンリーダーはそのごつい顔を心配そうに歪め、エンリの顔を覗きこむ。それに対してエンリは微笑む。

「大丈夫です。そんなに奥には行きませんし、彼らが守ってくれますから」
「なら良いんですがね……」ゴブリンリーダーはエンリの視線の先にいる3体のゴブリンたちを順繰りに睨む。それから声を張り上げた「おい、手前ら、分かってるだろうが、姉さんに傷1つもつけんじゃねぇぞ?!」
「へい!」

 3体のゴブリンが同時に、威勢の良い返事をする。その返事に多少は満足したのか、ゴブリンリーダーは数度頭を縦に振る。

「しかしですね、正直、こんな危険なことをされなくて……」

 ゴブリンリーダーはエンリに振り返ると再び、渋い顔をする。村でも幾度と無く繰り返した会話を再びぶり返すのかと、エンリは多少だがうんざりした気持ちにさせられるが、エンリを心配しての発言である以上無碍にも出来ない。

「ですけど、やはり薬草を集めないとお金が手に入りませんし……」
「獣の皮とかでは駄目ですかね? あれならまだおれたちでも何とかなりますしね」
「悪くは無いですけど、やはり薬草が一番お金になるんです」

 獣の皮と薬草では金額の付き具合がはるかに違う。まさに天と地ほどの差が付くといっても良い。確かに非常にレアな動物のものであれば高額にはなるだろうが、そんなことは滅多にない。

「うーん。姉さんが心配されることも無いですぜ? ほんと、大丈夫ですから? 今のところ問題はありませんしね」
「でも何か起こってからでは遅すぎますし……実際、武装の強化は重要なんじゃないですか?」
「そりゃ、確かに……そうなんですがね……。しかし……止めませんかね……」

 止める気は無いだろうと思いながらも、ゴブリンリーダーはエンリが大森林に向かうことを止すよう口にする。

 それはエンリがお金を欲する理由にある。
 一言で現すなら、ゴブリンたちにより良い武装をさせるための金銭をエンリは稼ごうとしているのだ。
 それは自分たちが守るべき主人を、自分達の所為で危険に晒すということ。それでは本末転倒ではないかという思いがゴブリンリーダーの中にあるのだ。いや、その場にいるゴブリン全員の心にあるといっても良い。
 
 しかし、エンリとしても良い武装を整えるというのは金銭のかかる行為ではあるが、それを叶えたいと思うのは当然のことなのだ。命を賭けて守ってくれる存在に、欲しているものを渡せないというのでは、守られる者として恥ずべきことではないかという思いだ。
 勿論、村を守っているのはゴブリンなのだから、村人から金を徴収することだって出来るだろう。しかしエンリはできればそういうことはしたくは無かった。そのためゴブリンが欲する、武器の予備を買う金をエンリは稼ぐ必要があったのだ。そのための最も手段が薬草収穫である。

「ほんとうはあんぜんをかくにんできてから、エンリのお姉さんにいってもらえればよいんだけど……」

 後ろから口を挟んだのはゴブリン・メイジである。
 人型生物の髑髏を被ったスペルキャスターのゴブリンだ。
 手にはみすぼらしいながらも自分の身長よりも長い、くねった様な木の杖を持っている。全身はどこかの部族がつけそうな奇妙な装飾品等で身を飾っており、胸の部分が僅かに膨らんでいる。顔を良く見ると確かに女の可愛らしさがある。何で男と女でこんなに違いがあるの、と疑問符が浮かんでしまうほどだ。

「でも、安全になったかどうかの確認って出来ないんですよね?」
「うん、そう。ざんねんだけど、だれもわからない。せいぜいもりがおちついたかどうかだけど、わかるまでにじかんがかかる」

 それでは欲しい薬草の時期が終わってしまう。そうなると武装を整えるのにも時間が掛かってしまうということだ。

「大丈夫ですよ。そんなに深くはいきませんから」

 数度繰り返した問答で、やはりエンリの気持ちを変えることが出来なかったと理解したゴブリンリーダーは諦め、エンリを守る3体のゴブリンに視線を向ける。そして言うことはやはり先ほどと同じ内容だ。

「おれたちは守れねぇ。だからこそてめぇらが代表として、エンリの姉さんの命を守るんだぞ?」
「へい!」
「ほんと、みんなでこうどうできれば、いちばんあんぜんなのに」
「それだと後手に回ってしまうんですよね?」
「そう。だいしんりんのはしまでいどうしてきたものがいないか、はっけんするひつようがある。それもいそぎで」

 ライダーが持ってきた情報から予測される――大森林の端まで移動してきた、モンスターの存在。これが本当にいるかどうかの確認は、現在最初に行うべき問題だ。
 もし仮に森の外れである位置までモンスターが来ていた場合、村の近くまで出没する可能性は高い。村は壁に覆われてはいるが、その壁を登攀して中に入り込んでくるモンスターだって当然いるだろう。草食のモンスターだとしても、麦畑を襲われてしまっては目も当てられない。
 そのため定期的に大森林の捜索は必須だ。
 今回はその第一回。初めてということは、最も危険度が高いということに直結する。だからこそエンリの護衛にゴブリンを3体しか回せないのだが。

「だから、あまり奥に行かないといっても、危険なんすよ、姉さん」

 エンリはこくりと頷く。

「ですけど、この時期に取れる薬草が最も高額で卸せるんです。そしてその薬草はそんなに長く取れるものでもないですから……」
「……本当は全員で協力して姉さんを守って、それから捜索に移るというのがベストなんでしょうけどね」
「でも、そうするとこんばんはきけん」
「見張り台だって完成してるんだし、警戒すれば問題ねぇと思うんだがな……ストーンゴーレムもいるし」
「私の我が侭に頭を悩ましてもらって悪いんですが、皆さんは大森林の巡回に当たってください」

 はっきりと言い切ったエンリに、これ以上はしつこいだけだとゴブリンリーダーは納得するしかなかった。

「……兵力分散は愚策なんですが……ね。わかりやした。本当に注意してくださいよ? 妹さんを泣かせたくはないんで」

 ゴブリンリーダーは最後にそれだけ言うと、ゴブリンたちに出立の命令を下す。そしてエンリも3体のゴブリンをつれ、森の中に踏み入るのだった。


 ◆


 大森林内部。
 端から150メートルも進むと温度が数度下がる。それは単純に日差しが入ってこないためだ。とはいっても完全に真っ暗闇ということでもないから、エンリでも問題なく周囲の様子は伺える。
 ひんやりとした空気を掻き分けるようにエンリたち4人は森の中を進む。

 静かな大森林には時折鳥だと思われる獣の鳴き声以外はほぼ音が無い。それ以外はあっても梢の揺れる音ぐらいだろうか。その中をエンリたちの足音が響く。

 一行は二等辺三角形にも似た隊列で森の中を進む。中央にエンリを置いた形だ。
 広がった隊列というのは森の中だと維持が難しいので、基本は一直線になるのだが、エンリを守るという意味で無理矢理にこの隊列を維持しているのだ。その分、速度は落ちるがそれは仕方がないという判断だ。


 大森林に入って200メートルは来ただろうか、エンリは周囲の様子を伺う。目当ての薬草の生息する場所を探してだ。そして直ぐに発見できたのは幸運だったのだろう。木々の隙間に密集するように生えた薬草を。

 特定植物の群生地帯の発見というのは、知識等が無ければほぼ困難に近い行いだ。
 しかし別に彼女にそういった捜索能力に長けているわけでも、そういった訓練を受けたわけでもない。この程度の大森林の近郊に住む村人なら、生きていくうちにいつの間にか手に入れている知識の一環だ。

 ゴブリンが先行し、周囲の様子を伺ってから、無言でエンリを招く。
 エンリと2体のゴブリンは身を屈めつつ走ると、その薬草の生えた場所まで到着した。

 大量に生えた薬草は、ある意味硬貨の山のようにも見える。エンリは心の中で欲望が燃え上がりそうになるのを必死に抑えた。現在いる場所は危険なところだから、欲をかかずに、手早く済ませる必要がある。
 エンリは座ると、薬草を根元から注意深く毟り始める。適当に毟った場合、薬効効果が弱まる場合がある。特にこの植物は根に近いほうに薬効効果が溜まるもの。出来る限りギリギリから毟るのは当然の行いだ。

 ツーンと鼻を叩くような匂いも慣れてしまえば、なんら作業の手を止める障害にもならない。一本一本毟り、それを小脇に抱えたバックに潰れないように注意深く入れていく。
 ゆっくりと時間が経過する中、バックの中の薬草もそこそこの量になってきた。
 ゴブリンたちに協力を要請すればもっと早く済むだろうが、ゴブリンたちは周囲を油断無く警戒している。そんな彼らに薬草を毟ってくれなんていうほどエンリも愚かではない。

 無言で薬草を毟る、そんな作業がどれだけ経過したか。
 突如、ゴブリンが身を潜めるように、エンリの周りに座り込んだ。

 そして驚くエンリに、静かにとジェスチャーを見せた。何かの非常事態。それを悟ったエンリは初めて手を止めると、耳をすます。かすかに聞こえてくるのは何か大きなモノが動く足音のようなもの。

「これって……」
「何かこっちに向かってます。ここだとアレなんで少し動きましょう」

 エンリとゴブリンは立ち上がると、その音から離れるように、近くにあった木の後ろに隠れるように移動する。流石に巨木というわけではないので、全身を完全に隠しきれてはいないが、それでも遠目からは何もいないように見えるだろう。

 木の根元に伏せるような姿勢をとることで体の表面積を小さくする。その格好で4人は息を殺し、音の主が別の方角に行くよう祈る気持ちで待つ。しかし、やはり幸運には恵まれていなかったのか、その音の主がぬっと姿を見せた。

 身長は2メートル後半から3メートルはあるだろうか。
 顎を前に大きく突き出した顔は愚鈍そのものである。
 巨木を思わせる筋肉の隆起した長い腕は、猫背ということもあり地面に付く寸前だ。木からそのまま毟り取ったような棍棒を持ち、なめしてさえいないような毛皮を腰に巻くだけという格好だ。酷い匂いがこれだけ離れた場所まで漂ってくるような気さえする。
 所々疣が浮き上がっている肌は茶色っぽく、分厚い胸筋や腹筋をしている。外見から判断するにかなりの筋力を持っているだろうと予測が立つ。
 そんな、毛の完全にぬけ切ったチンパンジーを歪めたような巨躯のモンスター。
 それはオーガと呼ばれるものだ。

 それが鼻をひくつかせながら、キョロキョロと周囲を伺っている。木の後ろに隠れたエンリたちには未だ気付いてない様子だ。先手を打つかとゴブリンたちが静かに相談している。
 
 そんなオーガの目が突如一点で留まった。それは薬草の密集していた場所だ。

 そこでエンリは気付く。
 薬草を毟った際、手に付着した汁を。
 そう、ネムが潰した際に強烈な臭いを発していたあれだ。鼻が馬鹿になったエンリやゴブリンでは気づかないが、エンリのいる場所からは充分にその強烈な匂いが漂っているはずだ。
 そのエンリの焦りを感知したように、オーガの目がぎょろっと動き、エンリとゴブリンたちを捕らえた。

「うまそう」

 視線の先にいたのはエンリだ。その飢えた獣の目を浴び、エンリは全身をぶるりと震わせた。もしエンリが1人でオーガと遭遇したなら、彼女の運命は決まったようなものだ。
 しかし、この場において、それは有り得ない。

「おいおい、何言ってんだ、てめぇ」

 1体のゴブリンがゆっくりとエンリの前に立つ。無論、身長さがあるためにエンリの姿をオーガから隠すことは出来ないが、オーガは自分とエンリの間に入った小さな生き物に煩わしさを混ぜた視線を送る。

「小さいの、おれ、それ、くう」
「うせな」

 オーガの唸り声に混じった声に対し、ゴブリンの返答は簡単かつ簡素だ。握り拳に親指だけを立て、その辺りを指差す。
 その行為は充分にゴブリンの意思を表示している。

「おれ、それ、くう!」
「言ってんだろうが! うせろってよぉ!」

 すっと自然な動きで、ゴブリンが腰から下げていたマチェットを抜き放つ。それに遅れて他のゴブリンたちも抜き放った。

「ぐぅうう!」
「はん、かかって来いよ、色男」

 低い唸り声を上げつつオーガが、ゴブリンたちを睨み付ける。
 抜き放たれた3本のマチェットの刃の輝きが、僅かにオーガに冷静さを思い出させたようだった。
 しかしながらオーガとゴブリンの体格の差は歴然としており、大男と子供が向かい合っているようだった。オーガもそう感じたのだろう、1歩踏み込もうとして――

 ゴブリンは片手のマチェットを揺するように動かす。

 ――その足を止める。ゴブリンがマチェットを動かすたび変化する輝きが、オーガに警戒感を与えているようだった。
 ただ、今は警戒させることで足を止めることに成功しているが、その剣だって身長の差から見ると、頼りないほどだ。愚鈍なオーガならば、そのうちじれて襲い掛かってくるだろう。

「――この場はあいつが抑えます。おれたちは行きましょう」

 オーガの注意を引かないように小さな声でかけられた内容にエンリは驚き、残る2体のゴブリンを見る。3体で掛かればオーガといえども、という思いを込めてだ。しかし戦士の表情を浮かべた2体のゴブリンは冷静に判断を下す。

「エンリの姉さんをお守りするのが、おれたちのすべきことです」
「姉さん。間違っちゃいけません。姉さんが生き残ることこそ、俺達の勝利なんです。そのためなら仲間の命も惜しくは無いってことですよ」
「それにまだまだやばいっすからね」

 オーガに勝てるかどうかは不明だ。強さ的な面であれば互角だろう。そう考えれば3人でかかるというのも悪い判断ではない。しかしながら喧騒を聞きつけ第三者が現れた場合、非常に厄介ごとになるのは目に見えている。もしオーガが群れでいた場合等を考えるなら、確実に離れた方が良い。
 守るべき者がいるならば危険地帯から一刻も離れるのは当然だということだ。

 頭では理解できても納得がいかないエンリに、ゴブリンが男臭い笑みを浮かべながら、断言する。

「エンリの姉さん。信じてやってくださいよ。だいたいあいつが負けるなんて思いますか?」

 前で剣を抜き、オーガとにらみ合っているゴブリンが、振り返らずに親指を立てた握りこぶしを肩越しに見せる。その意思表示はエンリを納得させる。

「気をつけてください」

 エンリはそれだけ言うとゴブリンに手を引かれるように走り出した。


 ◆


 大森林を抜け出し、そこに待機していたライダーにエンリの護衛を任せると、付き従った2体のゴブリンは再び大森林の中へと消えていった。
 エンリはそれを祈るような気持ちで見守る。自らの我が侭でゴブリンを危険に晒したのだ。生きて――出来れば無傷で帰ってきて欲しい。そんな思いを込めて願う。
 そんなエンリにライダーの片割れが意外と軽い口調で話しかけた。

「そんなに心配ですかね? エンリの姉さんはどんと構えて、私の盾として良く働いたって言うぐらいがちょうど良いと思いますがね」

 上に立つ人間としてゴブリンが望むのはそれかと思い、エンリは俯く。
 自分には絶対にできないだろうという思いが心中を駆け抜けたからだ。ライダーの言っている像は、単なる村娘には難しい行いだ。

 そんなエンリに声をかけたのはやはり同じライダーだ。慌てているのはもう片割れのライダーの批判を込めた強い視線とも関係があるのだろう。

「おっと、別にエンリの姉さんにそうなって欲しいとかそうやって欲しいとかの意味じゃないですぜ? おれはエンリの姉さんののほほんとしたような穏やかな雰囲気ってやつはかなり好きですし、他の仲間たちも皆好きだと思います。それが突然、覇王みたいに成られてても……なんていうか困っちまいます」

 もう1体のライダーもうんうんと頷いている。ライダーは頭を掻きながら、必死に次に続く言葉を考え込み、そして口を開いた。

「あっと、おれは慰めっていうのはちっと苦手でして……何を言ってるかちょっと自信はないんですが、えっとなんでエンリの姉さんはそんなに心配されてるんですかね?」
「……ゴブリンさんは私のためにその場に残ってくださったんですから、心配するのは当然じゃないですか」
「そこが良く分からなかったんですよ。大体、エンリの姉さんが危険を承知で大森林に薬草を取りに行かれたのは、おれたちの武装の強化のためなんですよね。ならばエンリの姉さんを命がけで守ることは当然の義務じゃないですか。エンリの姉さんが危険に晒されたのも、元をただせばおれたちの所為なんですし」
「ですけど……」

 言い募ろうとしたエンリを差し止めるように、ゴブリンは手の平を見せる。

「そして大金を得ようとした以上、危険に晒されるのは当たり前じゃないですか。その結果が死だとしても、おれたちは受け入れます」

 その言葉にエンリはぐうの音も出ない。
 それはある意味当然と考えれば当然だからだ。

「まぁ、こんなのはおれたちの戦士としての勝手な考えであり、姉さんの考えとは大きく違うことぐらい分かってますがね」

 戦士と村娘。このまるで生き方が違う2人が、同じ思考パターンをしていたら、それはある意味非常に恐ろしい。

「……そんな風に心配してくれる、優しい姉さんだからこそ、おれたちが必死で守らなくちゃといけないなと思わせてくれるんですけどね」

 エンリはゴブリンの言葉に顔を赤くする。
 人間の美的感覚からすれば醜いともいえるゴブリンだが、ライダーの漂わせる雰囲気は立派な戦士のもの。そんな人物から真面目に賞賛されれば、あまり褒められることのない村娘であるエンリの顔が真っ赤になったとしても仕方が無いだろう。

「それに……オーガごとき負けるほど、おれたちは弱くないですよ」

 ウルフの背中に乗ったまま、ゴブリンはニヤリと笑うと、大森林を指差す。エンリが慌ててその先に視線を送ると、そこには3体のゴブリンの姿があった。

「でしょ、おれたちはエンリの姉さんの親衛隊。これっぽちのことぐらい切り抜けられなければ、名乗る資格がないってもんです」

 こちらに向かってくるゴブリンたちの足取りに狂いは一切見られない。それは彼らが完全な無傷であるということを意味している。
 エンリは喜び、手を振る。それに答えるように、真ん中のゴブリン――オーガの元に残ったゴブリンが手を振った。

 両者の距離は迫り、互いに喜びの声を上げる。その中で最も喜びの声をあげたのは当然、エンリである。

「無事だったんですね!」
「ええ、姉さん。なんとかなりましたよ」
「良かった!」

 上から下まで見ても傷は無いように見える。多少袖の部分に赤黒いものが付着しているが、恐らくはオーガの返り血だろう。
 ライダーはその姿を冷静に観察し、疑問を口にする。

「……それでオーガはぶっ殺したのか?」

 ゴブリンは短い武器を使用しているのだ。もし殺傷するような与えた場合、吹き出る血も大量になり、当然返り血も多くなる。それからするとゴブリンの服は汚れて無さ過ぎる。

「……いや、殺しちゃいないぜ?」
「なんでだよ」

 不思議そうに顔を歪めたライダーに、ゴブリンは答える。

「逃げ出したからな。もし仲間とかと一緒にいるなら案内してもらった方がいいだろ?」
「……ああ、そりゃそうか。一網打尽にしたほうがいいからな」
「じゃぁ、とりあえずエンリの姉さんを村まで護衛してから、リーダーの帰りを待つか」
「そんな感じで良いっすかね? 姉さん」

 突然話を振られ、エンリは一瞬だけ困惑するが、ゴブリンたちが決めたことなのだから、自分が決めるより正しいだろうと判断し頷く。

「よっしゃ、じゃあ、これが終わったら今日はオーガ退治だな」


 ◆


 ――深夜。
 エンリは深い眠りから、何者かによって引き起こされたのを感じた。目を開け、周囲に変わったことが無いか、目だけを動かし様子を伺う。そこに広がるのは、殆ど真っ暗な世界だ。窓の鎧戸の隙間から入り込む、月明かりのみが唯一の光源である。
 そんな貧しい光源に照らし出される中には、一切の異常は見受けられない。
 ただ、まだ眠りから完全に覚めきってないため、ボンヤリとした思考を支える感覚の1つ――聴覚が変わった音を聞きつけた。
 隣からの妹の健やかな寝息に紛れて、トントンというリズミカルな音。
 それが何か考え、即座にエンリは理解できた。何者かがドアを小さくノックする音だ。

 エンリは眉を寄せると、エンリとネム――2人の体に掛かっていた薄い布を器用にずらして、ゆっくりと寝床から立ち上がる。こんな遅い時間に一体何事だという思いを持って、妹を起こさないよう慎重に動く。
 ミシリミシリという家の床が立てる音が、今にもネムを起こしてしまうのではと思い、すこしばかり心臓の鼓動が早くなる。

 妹であるネムはあの事件があってから、寝る時は必ずエンリと一緒に寝ようとする。あの事件が引き起こしたことによる、妹への心の傷は非常に大きかったのだ。だからこそ頑なにエンリと一緒に眠ろうとする。
 エンリもそれを諌める気はない。なぜならエンリだって妹一緒に寝ることで安堵を得られるのだから。

 ただ2人で揃って寝ても、妹が悪夢に魘されるときもあれば、飛び起きることもあるのをエンリは知っている。だからこそ今、ぐっすり眠れているのなら、そのまま寝かしてやりたいと思うのは当然の姉心だ。

 エンリが歩いて玄関のドアに向かう中、やはりノックの音は止もうとはしない。

 のぞき窓から恐る恐る外を伺って見ると、月明かりに照らされるように扉を軽くノックするゴブリンリーダーの姿があった。エンリの心の内にこみ上げていた不安の代わりに、安堵の思いが浮かび上がる。

 ふぅと軽く息を吐き、エンリは外に声をかける。無論、妹を起こさないように小さな声で。

「ゴブリンリーダーさん、無事だったんですね」
「ああ、エンリの姉さん。何とかなりましたよ。おっと、起こしてしまって悪いですね」

 エンリは扉を開け、その隙間を潜るように外に出る。中に月明かりが入り込むことで妹が目を覚ますのを避けるためだ。

「ちょっと今から来て欲しいところがあるんですよ」
「今からですか?」
「はい、ほんと申し訳ないんですがね」

 深夜という時間を考えると眉を顰めるような話だ。
 人間の目は当然のように夜には適してはいない。だが、逆に闇視を持つモンスターは非常に多い。そのため夜は人以外の生物の時間なのだ。そんな時間、それも理知的なゴブリンリーダーがエンリを起こしてまでしなくてはならないこと。
 それはこの時間でなければならない、何らかの理由によるものだろうという推測は直ぐに立つ。
 
 そしてエンリは考え、直ぐにその理由に思い至った。
 それはオーガ退治の件だろうということだ。

 あの後ゴブリンリーダーと合流し、あったことを説明すると、ゴブリンリーダーは討伐隊――ほぼ全てのゴブリンを率いてオーガの跡を追跡することを決定した。ゴブリンリーダー達もオーガの足跡を、それも複数発見していたのだ。エンリたちを襲ったオーガもその内の1体であれば良いが、別のものだとするとかなりのオーガの群れが推測されるためだ。
 そうして出立したのが夕方前。

 そして戻ってきたのが、今なのだろう。それからすぐに呼びに来たと考えるのが妥当な線だ。

 よほどの重要な用件。それが理解できる以上、エンリにそれを断ることは出来ない。

「分かりました。どこに行けば良いのか、案内してくれますか?」


 案内されたのは外へと続く門である。静かな村の中、月明かりのみに照らされ、エンリは歩く。
 そして門を開けた先、そこにいる者たちを見て、エンリは立ちすくんだ。
 そこには5体のオーガが平伏していたのだ。その周りにはゴブリン・トループの全員が見張るように揃っている。全員無事に帰ってきたということへの喜びが、オーガがいることということ驚きで吹き飛ばされてしまっていた。

「え! あれは一体?」

 慌てて横に立つゴブリンリーダーに問いかける。

「いや、おれたちがオーガの群れを襲撃した際、7体いたんですがね。2体殺したところで投降してきたんですよ。それで如何するかを姉さんに決めてもらおうと思いましてね」
「え……」
「おい、お前ら! おれたちの姉さんが来たぞ! てめえらの命が姉さんの言葉で決まるんだからな!」

 その言葉に反応し、5体のオーガが一斉にエンリへと視線を向ける様はある意味圧迫感のあるものだった。エンリは驚き、後退しそうになる足をぐっと耐える。
 緊迫した一瞬とも、エンリからすると長い時間が経過し、オーガたちは口々に濁声で言葉を紡ぐ。

「おそろしい、ちいさいののしゅじん。おれたちあやまる」
「おまえ、おそうとかしたやつ、しんだ」
「わるいのしんだ」
「わびのしるし、もつ」
「おくりものする。だからゆるしてほしい」

 口だけではなく、長い手でジェスチャーを使ってまでの謝罪。それはエンリからすると悪いことを叱られた子供の姿のようにも思えた。しかし最後まで聞き、エンリは頭を傾げる。

「えっと?」

 エンリの前にオーガの一体が、自分達の巨躯で隠していた野生の獣を差し出す。

「これうまい。これ、おくる。おれたちをゆるしてほしい」
「やっととれたくいもの。おまえにたべる。そしてあやまる」

 そしてエンリの前に獣がドスンと音を立てるように置かれた。まだ生々しい血の臭いがその獣から立ち上がる。
 つまり、オーガはこの謝罪の代わりとして獣を上げるから許して欲しいと願っているのだろう。

「うんで、どうします?」
「え……どういう……?」

 エンリにゴブリンリーダーが問いかける。何がどうするというのか。
 そこでようやくエンリはここまで連れて来られた理由を思い出す。このオーガの処分のことを聞いているのだ、と。
 オーガを生かすのか、殺すのか。

 エンリは考える。
 生き物の命を奪うのは生きる過程で当然の行いである。しかしだからといって人間を襲って食べるオーガを容易く放免することは当然出来ない。もしかしたら今度は村の人間が襲われるかもしれないからだ。では遠くに行くように命令すれば問題は解決するだろうか。
 それはもしかしたら問題を先送りしているだけかもしれない。また戻ってきて、たまたま森に入っていた者が襲われるかもしれない。
 全ては予測の範疇を出ないが、可能性はあるし、低いわけでもないだろう。そう考えるなら殺してしまった方が安全だし、あとくされが無い。

 考え込むエンリに、ゴブリンリーダーがまるで世間話でもするかのように話しかける。

「……エンリの姉さん。オーガは人食い鬼とか言われますけど、結局は単なる肉食のモンスターにしか過ぎません。野生の獣を捕まえるよりは、人間とかを捕まえた方が簡単だから人間を襲うだけですんで」

 確かに野生の獣を捕まえるよりは、単なる人間であればそちらの方が容易に捕まえることが出来るだろう。獣と人間の機敏性を比べるだけで理解できる、至極当然のことだ。それ以外腕力だって、オーガに勝てる単なる村人なんてそうはいない。
 ならば食料を得るために弱いもの、容易く狩れるものを襲うのは、オーガのみならず生物として当然だ。

「まぁ、それでですね、飯をおれたちが用意すれば、奴らも村の人間を襲ったりはしません。奴らが人間を襲うのは食うためなんですから。そしてオーガよりは、おれたちのほうが動物は上手く狩れます。オーガが腹を減らすことは殆ど無いでしょうね」

 ゴブリンのアーチャーが非常に上手く動物を狩っているのは知っている。騎士によって殺されてはしまったが、村にいた狩人よりも巧みな技術を保有しているのだ。だからこそ村は新鮮な肉が良く食べられるようになったのだが。
 そしてこれでも全然本気ではないというのは、ゴブリン・アーチャーからエンリが直接聞いた話。恐らくはオーガ5体の食事ぐらい容易く補えるであろう。

 エンリはゴブリン・アーチャーに問いかけるような視線を向ける。その視線に即座に反応し、ゴブリン・アーチャーは口を開く。

「オーガの飯ぐらい容易く準備できますぜ。任せてくだせい」

 エンリの考えに対し、的確な答えが返ってくる。それにエンリは頷き、感謝の意を示す。

「でも、オーガの食事を用意してどうするんですか?」
「ああ、共存共栄って奴ですよ。いつまでもゴーレムを借りていられるわけではないですよね。そうなるとやはり力ある存在はいた方がいい。つまりは食事を与える代わりに肉体労働をしてもらおうと思いましてね」
「え? 村の住人として受け入れるってことですか!」
「まぁ、そこまでは流石に言いませんよ。ただ、村の近くで暮らしてもらって、村のために働いてもらおうと思ってるんですね」

 ニヤリとゴブリンリーダーが笑う。
 オーガのあの飢えた目を思い出すと、エンリとしては賛成したくない話だ。しかし、エンリよりも戦士として優れているゴブリンの頭がそういうのならば、エンリが考えるよりも正しいだろう。
 ただそれでも生じてしまう不安をエンリは口に出す。

「大丈夫ですよね?」
「大丈夫ですよ」

 ゴブリンリーダーの自信に溢れた答えが、エンリの不安を迎撃する。

「奴らには痛い目をみせました。おれたちに逆らう気なんかありません。それに飯までもらえるんです。どんな低脳でも変な行動には出たりはしませんよ」

 なるほどと、エンリは納得する。
 冷静になって考えれば、ゴブリンリーダーの言うことは確かだ。
 先の通り、オーガが人間を襲うのは食事のため。別に食事を用意されるのであれば、わざわざ人間を襲おうとはしないはずだ。さらには自分達よりも強い存在を相手にしてまで、そんな行為には普通は出ない。

「……分かりました。確かにオーガの命をとる必要も無いですよね」
「了解しました。なら、こいつらの命は助けます」
「あっと、それとこの動物は返しますので、オーガに上げちゃってください」
「良いんですか?」
「構いませんよ」少しだけ声のトーンを落として、エンリはゴブリンリーダーに囁くように尋ねる。「不味いですか?」
「いえ、全然」
「ではそういうことでお願いします」

 ゴブリンリーダーは大きく頷くと、オーガたちに向き直る。そして大声を上げた。

「良かったな! エンリの姉さんが、おめえらの命は助けてやるってよ!」

 目に見えてオーガたちの体から力が抜ける。今まで殺される可能性だってあったのだ。当然といえば当然の反応だろう。そしてオーガの1体がエンリの方をしっかりと見据えて口を開いた。

「ちいさいのつよい。それをしはいするおまえはもっとつよい」
「え?」
「おれたち。ちいさいのにつかえる。だからおまえ、かしらのかしら」
「……え?」

 エンリの驚きを無視するように、代表者だろうと考えられるオーガが頭を下げた。それに合わせて他のオーガたちも頭を下げた。

「おれたち、おまえのために、はたらく」
「……え!」
「つーか、エンリの姉さんにおまえはねぇんじゃねぇか?」
「いや、エンリの姉さんなんてもう言えねぇな。これからはエンリの姐さんだ!」
「エンリの姐さん!」
「良い響きっすね!」
「おめぇたちもエンリの姐さんに忠誠を尽くすんだぞ?」
「わかった。おれたちつよいのしたがう」
「あねさん、したがう」
「あねさん。あねさん。したがう」
「よっしゃ、エンリ親衛隊に新しい奴らが参入ってことだな」
「おうおう、良いじゃねぇか。流石はエンリの姉……姐さん。このままだとすげぇことになるぜ」

 エンリは目をぱちくりとさせ、それから――

「えーーーー!」

 ――エンリの悲鳴とも驚愕とも判断しづらい声が、夜闇の中大きく響き渡った。






――――――――
※ 柔らかく美味しそうだった獲物が逃げ出す。それは飢えたオーガにとって見過ごすことは出来ない事態だ。いつまでも目の前の小さく不味そうなのには構っていられない。
 オーガは無視して走り出そうとして――

「おいおい、行かせねぇって」

 ――やはり足を止める。
 目の前で遮るように邪魔をするゴブリン。それを殺さなければ後を追えないと完全に理解し、オーガは敵意と殺意を込めた視線でゴブリンを睨む。

 面倒になったので以下ゴブリンの見せ場カット。もう戦闘シーンは疲れました。ちょっと休みたいです。
 では次回はプロット上、最難関の話「王都」。面白く書ける自信がまるで無く、逃げたいのですが書かないとしょうがない。良くて1月後、順当に行って2月後、最悪エタるということで感じでお待ちください。ではでは。



[18721] 外伝_頑張れ、エンリさん2
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/05/27 23:17




 城塞都市エ・ランテルはその名に相応しい3重の城壁を持っている。その城壁に取り付けられた門は、外周部分にあるものが最も強固かつ巨大であり、その前に立てば圧し掛かってるような無骨な重厚感に満ち満ちていた。
 旅人が門の前で口をぽっかりと開けている光景が、さほど珍しいものでもない。まさに帝国が攻めてきても跳ね返せると、称される門である。

 そんな門の横手には検問所が設けられており、中では幾人もの兵士が日差しを避け、のんびりと寛いでいた。
 前線にも成りかねない都市の兵士にしては弛んだ空気ではあるが、検問所にいる彼らの役目は旅人のチェックである。違法な荷物の運搬や、他国のスパイ等の発見を仕事としている以上、都市に入る者がいなければ仕事は無いも同然だ。
 確かにこの検問所に努めることとなる兵士は特別なセンスを持つ、ある意味兵士の中でもエリートではある。そんな人間を遊ばせておくなんて勿体ないことがあるだろうか、という疑問は生じよう。しかし資料作成は上の仕事であり、肉体労働担当の彼ら――一般の兵士の仕事はやはり相手がいなければ意味の無い単純な作業がメインだ。
 都市に入る者がいなければ暇を持て余してしまうのも、仕事上仕方が無いことなのだ。

 では遊ばせないでせめてもの仕事として、周辺の警戒に当ててはどうかという疑問もあるだろうが、その仕事は城壁に立った歩哨が行っている。これは検問という仕事に熱中できるようにという寸法のためだ。
 
 そんな訳で、仕事の一切無い彼ら一般の兵士は――流石にカードゲームといった暇つぶしの遊びをしている者まではいないが、口からもれ出る欠伸を隠そうともしていなかった。
 勿論、現在は暇そうにしているが、忙しいときは非常に忙しい。特に早朝、門が開くぐらいの時間の忙しさは筆舌に尽くし難いほどなのだが。


 日差しが天空の最も高いところに昇りつつある、少しばかり暑くなってきた頃。

 机の上に肘をつき、ぼんやりと何も填まっていない窓から外を眺めていた兵士の1人が、ポコポコという音が似合いそうな雰囲気で荷馬車が一台、エ・ランテルに向かって進んでくるのを発見する。御者台には1人の女性の姿。幌の無いむき出しの荷馬車の上にも人が乗っている影は無かった。
 女性は武装をしているようには見えない。そこから推測される答えは――

 どこぞの村娘か。
 
 ――兵士はそう考え、自らの考えに頭を傾げる。
 近隣の村の人間が来ることはさほど珍しいことではない。しかし、女1人となると話が変わる。エ・ランテル近郊といえども野盗やモンスターが絶対にいないということは保障できない。そんな中、1人で向わせるだろうか。
 兵士は疑問を抱いたまま、視線を動かし、馬を見据える。そしてそこで再び混乱した。

 馬はやけに立派なもの。単なる村娘が持つことが出来るようなものではない。その体躯や毛並みは軍馬を思わせる。
 軍馬にもなれば購入するとしても、非常に値が張る。そして手に入れようとしても単なる一般人にはそう簡単には回されはしない。ワイバーンやグリフォンに代表されるモンスター系の騎乗動物を除けば、乗騎としては最高峰の存在を容易く手に入れるのが困難なのは道理なのだ。
 そんな軍馬を手に入れられる存在、それは基本的に何らかのコネ等があるものだけだ。
 奪えばという考えもあるかもしれないが、それだけの財産を奪った場合の報復は絶するもの。盗賊等も軍馬らしきものに乗っている人物には手を出すのを控える事だってあるほどだ。

 以上の件から、それだけの価値がある軍馬を所持する者が村娘であるはずが無い。となると考えられるのは、村娘の格好をしているが中身はまるで違うという予測が立つ。
 ここでヒントとなるのは、1人で旅をしてきたという点だ。つまりは自分の腕に自信があり、装備品に左右される存在では無いということだ。
 即ち、魔法使いに代表される、武装に左右される職業で無い存在。
 これは納得のいく答えだ。なぜなら魔法使いが良くなる職業である、冒険者等であればコネや金銭的な面もクリアでき、軍馬を手にいれることも用意だろうから。

「ありゃ、魔法使いかなんかか?」

 隣に来た同僚が、兵士も思っていた同じ疑問を口に話しかけてくる。

「かもしれないなぁ」

 僅かに眉を寄せて兵士は返答する。
 スペルキャスターは魔法こそが武器であり、場合によって武装した戦士よりも危険な存在だ。そして検問するには難しい相手でもある。
 まず第1に武器が魔法という――内面にあるもので発見することができない。つまりはどれだけの武器を所持しているか不明であること。
 次に魔法によって何らかのものを持ち込もうとしている可能性があり、それを発見するのが困難なこと。
 第3に専門的な持ち物が多く、かなり面倒な手続きを必要とすることなどが上げられる。

 正直に言ってしまえば、検問として持ち物を検査するには最も嫌な相手だといえよう。だからこそ魔術師ギルドから人員を借りてきて、協力を仰いでいるのだが……。

「アイツ呼ぶのか? いやだなぁ」
「仕方ないだろ? 魔法使いじゃないと判断して、通した後で問題になったら厄介なんだからな」
「魔法使いも魔法使いって格好してくれればいいのにな」
「怪しげな杖を持って、怪しげなローブで全身を包む?」
「そうだな。そりゃ見るからに魔法使いだ」

 互いに笑うと、今まで座っていた兵士は立ち上がる。それは今から来る魔法使いらしき少女を迎えるためだ。



 兵士達が見守る中、馬車は門の前まで進み、動きを止める。
 御者台からは少女が降りる。額には汗が僅かに滲み、日光下を旅してきたのが一目瞭然だった。日差しを避けるためだろう、長袖長ズボン。そのどれもあまり良い仕立てではない。どう見ても単なる村娘だ。
 しかしながら中身は違うかもしれないし、何かを隠しているかもしれない。
 兵士は油断無く少女に近づく。

「まずは色々と聞きたいことがあるので、向こうで構わないかね?」
「はい。構いません」

 兵士は少女を連れ立って詰め所に歩く。
 魅了等に代表される精神操作系魔法を警戒し、後ろから数メートル以上離れたところから別の兵士が2人を追いかけ、他の兵士達も少女が変な行動を取らないか、さりげなく横目で様子を伺う。
 そんな強い緊張感が漂っているのを感じ取ったのか、少女が首を数度かしげた。

「……どうかしたかね?」
「え? あ、いえなんでもないです」

 この微妙な空気を感じ取ったとすると、やはり只者ではないのか。そんなことを考えながら兵士は少女を連れ、詰め所に入る。
 直射日光下で無い詰め所は、外に比べて若干涼しい。
 ひんやりまではいかないが、涼しい空気に触れ、少女がふぅとため息のようなものを漏らした。

「ではそこに座ってもらえるかな?」
「はい」

 部屋に置かれていたイスの1つに少女が座る。

「まずは名前と出発した場所の名前を聞こう」
「はい。エンリ・エモット。トムの大森林近郊にあるカルネ村から来ました」

 兵士達が目配せを行い、1人が部屋の外に歩いていく。台帳に記載されているかどうかを確認しに行ったのだ。

 王国では一応は住民を管理するために台帳を付けている。
 一応というのはかなり大雑把なもので、生死に関する情報の更新が遅かったり、抜けていたりする場合が多いためだ。そのため、死んだ人間が生きていると思われたりというのはある意味日常茶飯事の出来事なのだ。それにかなり離れた都市にもなれば、情報が流れるのが非常に遅かったりもし、抜け落ちている部分が非常に多いとされている。
 王国の人口はその台帳で管理しているのだが、およそ数万単位で狂っているという試算もでているほどだ。
 そのため信頼しすぎるのは非常に不味いが、ある程度の役には立つという類のものと成り果てていた。
 そんな信用性の無い台帳の癖に、量だけはしっかりとある。その結果、調べ終わるまでにある程度の時間が掛かる。それを充分理解している兵士は、別の件から先に済ませていこうと、口を開く。

「まずは都市への通行料として足代を支払っていただきたい。人間が2銅貨、馬が4銀貨だ」
「はい」

 少女は懐からみすぼらしい皮袋を取り出し、口を緩める。その中からちょうど6枚の硬貨を取り出した。日差しを浴び、鈍く輝く硬貨を兵士に手渡す。
 皮製の手袋の上に置かれた硬貨を、しげしげと確認し、兵士は頷くと硬貨を自らの隣に置いた。

「確かに。次はエ・ランテルに来た理由なのだが」
「はい。私のとった薬草を売りに来ました」

 兵士は窓の外、荷馬車の方に目を送る。そこでは壷を動かしたりと幾人もの兵士が動いている最中だった。

「その薬草は名前と、壷の数を教えてもらえるかな?」
「はい。ニュクリが4壷、アジーナが4壷、それとエリエリシュが6壷です」
「エリエリシュが6?」
「はい」

 自慢げにエンリの顔が緩む。それを目にし、当然かと兵士は納得した。
 検問所に努める以上、当然として薬草に関する知識はある程度この兵士も持っている。エンリの言ったエリエリシュに関しても当然、知識にある。
 
 エリエリシュはこの時期の非常に短期間しか取れない薬草だが、治癒系のポーション作成には欠かせない薬草だ。そのため、非常に高額の値がつくものである。
 それを6壷ともなれば、内容量の多さにも当然よるだろうが、金貨100枚はくだらないはずだ。

「で、何処にもって行くつもりなんだ?」
「いつも卸している方がいますので」
「そうか……」

 ここから先に踏み込む必要もないかと兵士は判断する。実際、彼らの仕事は危険なものが中に入ることを阻止するのが仕事であり、中に入ったものの先を追うのは管轄外だ。今回の薬草には無かったが、興奮剤等に使用される薬草の場合、聞く方が拙いだろうということもあるのだから。

 兵士はふむ、と頷き、エンリの表情から目をそらす。
 今聞いた薬草は全て常用性等の危険性の無い薬草だ。
 そして聞いた話に怪しいところは無い。エンリの表情にも嘘をついている気配は無かった。
 壷の中に壷を隠したりしていないか、本当に言った薬草のものなのか、のチェックさえ終わってしまえば、彼の仕事は一先ずは終了だろう。次に任せる相手は決まっている。

 そんな時、ちょうど良く戻ってきた兵士が一度だけ頭を縦に振った。
 それはエンリという女性の登録があるということ。
 兵士は返答として頷く。
 
 ただ、これはカルネ村でエンリという女性が生まれたという記録にしか過ぎない。目の前にいる女性をエンリという人物だと保証するものでもなければ、エンリという女性がどのような人生を歩んできたかを保証するものでもない。
 もしかするとエンリという名前を使っているだけの人物かもしれないし、もしかすると生まれて直ぐに殺し合いの道に進んだ結果、血塗れのエンリといわれるような人物へと成長したかもしれないのだから。

 だからこそ最後にもう一つだけ調べる必要がある。

「了解した。ではあの方を呼んできてくれないか?」

 兵士は頷き、再び部屋を出て行く。

「これから荷物のチェックを行いたいのだが、良いかね?」
「え?」

 エンリは不思議そうに顔を歪めた。兵士は慌てて、自らの言葉に補足を入れる。

「あっと、別に何か問題があったわけではない。すまないがこれも規則でね。大したことをするわけではないから、安心して欲しいんだ」
「……そういうことなら、了解しました」

 エンリが納得したのを見て、兵士は内心で安堵の息を吐く。魔法使いかもしれない人物を好き好んで怒らせたくはないのは当然の考えだ。
 エンリと兵士。互いに何も話さず、沈黙が部屋を覆う。両者がそのあまりの空気に耐えかね、話題を探し始めた頃、先ほどの兵士がもう1人、男を連れて戻ってきた。

 それはまさに魔法使いだ。
 突き出したような鷲鼻、げっそりとした顔色の悪い顔にはびっしりと汗が噴いている。その鶏がらを思わせる手でねじくれた杖を握り締めていた。服装は怪しげな三角帽子を被り、熱そうな黒いローブを纏っている。
 兵士の個人的な感想ではそんなに熱いなら服を脱げば良いじゃないかとも思うのだが、個人的にその格好には思い入れがあるのか、魔法使いは頑なに格好を止めようとはしない。その所為か、魔法使いが入ってきた直後から、部屋の温度が数度上がったような気分さえする。

「その娘かね?」
 
 魔法使いの静かに語る声は、非常に違和感を感じさせた。
 外見年齢は推測するに20代後半だろうと思われるのだが、非常にしわがれた声で年齢の推測すらできないものなのだ。外見年齢が嘘なのか、それとも声が枯れているだけなのか。

「えっと……」

 エンリは驚いたように現れた魔法使いと、兵士を見比べる。兵士は驚くのも仕方が無いだろうと、内心頷いた。兵士も、魔法使いの声を初めて聞いた時驚いたものなのだから。

「こちらは魔術師ギルドから来ていただいている魔法使いの方です。簡単に調べていただきますので、少々お待ちください」兵士はエンリにそのまま座ったままでという合図を送ると、そこで魔法使いに軽く頭を下げる。「ではお願いしても?」
「当然」

 魔法使いは1歩前に出ると、エンリに正面から向き直る。そして魔法を詠唱した。

「《ディテクト・マジック/魔法探知》」

 そして魔法使いの目が細くなった。それはまるで獲物を狙う獣のようでもあった。そんな兵士ですら身構えたくなるようなものを向けられても、エンリに驚きは無い。
 それを見た兵士の心にやはりか、という思いが強まる。
 これだけの強烈な視線を向けられてなお、平然としてられる者が単なる村娘のはずが無い。最低でもモンスターと対峙したりしてきたものでなければ、この視線を受けてどうどうと出来るわけがないだろう。
 つまりこのエンリという少女は最低でも命の奪い合いに生きたことがあるということ。そこからの答えは、やはり魔法使いの可能性が高いということだ。

「我が目は誤魔化されん。そなた、魔法の道具を隠し持っているな。腰の辺りにな」

 エンリが初めて驚き、腰の辺りに目を落とす。
 兵士は僅かに身構える。剣とかの武器なら理解の範疇だが、マジックアイテムとかになれば兵士の知識の中には無いもの。人が未知を恐れるように、兵士も未知を恐れたのだ。

「これのことですか?」

 エンリが服の下からすっと出したのは、両手で隠せる程度の小さな角笛だ。みすぼらしい外見であり、兵士からすればチラ見で流してしまいかねないものだ。

「……これがマジックアイテムなんですか?」
「左様。外見に騙されてはいかぬ。これはなかなかの魔力をもっておるわ」

 兵士は瞠目する。この魔法使いがなかなかというほどのアイテムだ。どれだけの力を内包しているというのか。
 兵士はまるでみすぼらしい外見をわざと取っているようにも思え、刃物を突きつけられたような寒気を感じさせた。

「あ、それは――」
「無用。我が魔法は全てを見抜く」

 何か話そうとしたエンリを黙らせると魔法使いは再び魔法を発動させる。

「《アプレーザル・マジックアイテム/道具鑑定》。――むぅ」

 そして静けさが室内を支配した。
 魔法使いは黙り、その答えを待とうと兵士も黙り、エンリの結果を待って黙る。
 30秒ほどだろうか。やけに長く感じる空白の時間が過ぎ去り、魔法使いは口を開いた。

「これはゴブリンの群れを召喚するマジックアイテムだな?」
「そうです」

 エンリが僅かに驚いたように口を開く。

「なるほど。……都市内で使用する気……」
「ありません!」
「ふむ……。兵士よ」
「なんですか?」
「これはゴブリンを召喚し、使役するタイプのアイテムだ。どれだけの数を召喚するかまでは不明だが、即座に危険なものではない。ただ、突如として都市内でゴブリンが暴れるようなことがあれば、この者を重要参考人として捕縛すればよかろう」
「そうですか」
「とりあえずは即座に危険を発するものは持ってはいないし、持ち込もうとする気配はない。わが意見としては通しても問題はなかろうというものだ」

 マジックアイテムの知識としては魔法使いの方がはるかに上である。その人物がそれが良いと言うなら、無理に反対意見を押し出す要因もないし、受け入れるのが一番だろう。

「了解しました。お疲れ様です。エンリさん。これで全て終わりです」
「しかし……」

 何かを言おうとした魔法使いに兵士は尋ねる。

「何か?」
「いや、良い。別に大した話ではない。後はお前の仕事だ」
「……そうですか?」

 釈然とはしないが、兵士は問題が無いと判断された少女を、このまま留める理由も思いつかない。窓の外に目をやれば、荷物のチェックも思っているようで、なんら問題を発見できなかったようだ。

「ではエンリさん。エ・ランテルにようこそ」



 エンリが門を通り、都市の中に入っていく光景を見ながら、兵士は魔法使いに尋ねる。

「……凄いアイテムだったんですか?」
「ふむ……ゴブリンの群れがどれだけの数で、どれだけの強さを持つものかによって評価が変わるが……弱いものではないな」

 軍馬を持ち、凄いかもしれないマジックアイテムを所持する少女。
 兵士は興味を引かれた顔で、魔法使いに尋ねる。

「彼女は一体何者なんでしょうか?」

 魔法使いはローブの下からハンカチを取り出すと、額の汗を拭う。ハンカチが汗を吸って色を変える中、深く思案していた魔法使いはようやく口を開く。

「2つだ」
「は?」

 物分りの悪い生徒に教師が向ける視線をすると、魔法使いは更に先を続ける。

「ここまで1人で旅をしてきたということから推測するなら、まずは1つ目。彼女自身が自らの腕にある程度の自信がある――まぁ、魔法使いであるから一人旅をしてきた可能性」
「そして2つ目。あのマジックアイテムがあるから一人旅をしてきた可能性。前者なら単純だ。単なる魔法使いだと納得がいく」
「しかし若すぎますが?」

 魔法使いは色々と学ばなければならないことがあるために、初級をマスターするのでも成人を過ぎてからというのも珍しくないと兵士は聞いている。それからするとエンリは若すぎるのだ。

「……そこまでの力は無いと思うが、覚えておけ。魔法使いの場合、外見年齢と中身が一致しないことはあり得るのだと。かの偉大なる魔法使い、帝国最高の主席魔法使い。人類最高の魔法使いたるフールーダ・パラダイン老は200を超える年齢の持ち主だが、今だ初老とか聞く」
「つまりは彼女も――!」
「慌てるな」

 興奮した兵士に対し、やれやれと魔法使いは頭を振る。

「先も言っただろう。そこまでの力は無いと思うとな。若くとも才能を持つ魔法使いはいない訳ではない。特に帝国はしっかりとした学院を持っているからな。持っている才をしっかりと伸ばされた、若い魔法使いが帝国には多いと聞く」
「そうなんですか……」

 兵士はこれは記憶にとどめておく必要があると判断する。これからは若い人物でも魔法使いという可能性に関して考える必要があると。

「単なる魔法使いであればまるで簡単に納得がいくわけだ。しかしながら、2つめ。単なる村娘だとすると面倒だな」
「何故ですか? 単なる村娘の方が納得がいくと思うのですが? あのマジックアイテムがあるから一人旅をしてきたと」

 兵士の当然の疑問に、魔法使いはわざとらしいため息を1つつく。愚者を相手にしているような魔法使いの視線を浴び、兵士は一瞬だけ、ムカッとしたものが心中にこみ上げるが直ぐに押し殺す。相手からすれば自分は愚者なのだろうと納得し、次にこんな性格だったなと思い出して。

「もし仮に村娘であれば、その背後にはあれほどのアイテムを容易く渡せる存在がいるということ」
「……それは早計では? もしかすると彼女の家に代々伝わっているものとか、貰ったものとか……」
「どうやってあれほどのものを手に入れるのだ? それにあれは使いきりのアイテムだ。持って歩くのではなく、温存しようとするのが当然だろう?」
「確かに……そう考えると、彼女の後ろに何者かがいるというのが納得がいきますね」

 それなら全て理解できる。しかしそうなると、先ほどの魔法使いの面倒だというのは後ろにいる人物に向けた言葉なのだろうか。

「後ろに何者かがいるとすると……やはりあの娘は只者では無いかもしれんな」
「……何故ですか?」
「……最低でも金貨数千枚にも及ぶマジックアイテムを、単なる村娘にそなたなら貸し出せるか?」
「数千?!」

 驚愕の叫びが兵士の口から思わずこぼれる。
 マジックアイテムの金額が張るのは当然、兵士だって知っている。ただ、この詰め所に置かれたポーション系のアイテムは最高でも金貨150枚。比べるのが馬鹿みたいな金額の差だ。
 冒険者であればそれだけのアイテムを持っているものもいるだろう。しかし、それでもかなり上位か、幸運に恵まれたもの、バックにそれだけのパトロンがいる場合に限られるだろう。

「つまりはそれだけのアイテムを渡しても惜しくは無い存在だということか、はたまたはそれだけしても守りたいと思われるような存在か」
「…………」

 兵士は言葉無く、エンリの背中を捜し、都市を見る。無論、そこにはもはや姿はない。

「尾行させた方が良いでしょうか?」
「それは……われに聞く質問ではないな。そなたらが決めるべきだろう。ただ、怒らせない方がいいと思うぞ」
「ですか……」

 その言葉を聞き、兵士は再びエンリの背中を捜す。無論、結果は先ほどと同じだ。
 兵士はエンリの顔を思い出し、しっかりと心に刻み込んでおく。外に出ていくときは問題が無いだろうが、再びこの都市に来たとき、何かが起こるのではという予感を覚えながら。





 エンリはポクポクと馬車に揺られながら、通りを進んでいく。
 エ・ランテルは大きく3つの区画に分かれている。その中央区画は都市に住む様々な者のための区画だ。街という名前を聞いて一般的に想像される映像こそ、この区画である。
 その通りの一本のある店――村長に教えられた場所を目指しているのだ。

 目的地。それはエ・ランテルでも最も知られた薬師兼ポーション職人である、リィジー・バレアレの家だ。
 基本的に職人はギルドというものに所属するのが一般的ではある。これは仕事の奪い合いを避けるためや、物品の販売価格を調整するために組まれるものだ。しかしながら薬師の場合は、数が少ないためにギルドが作られることは少ない。
 しかしエ・ランテルのように前線基地にもなる都市となると、薬師の数は通常の都市に比べて数が多くなる。その結果、薬師のギルドのようなものも出来上がるのだ。
 エンリがリィジー・バレアレの家を目指すのも、薬師たちの小さなギルドの長のような仕事を行っており、ポーションや薬草の流通を管理している面があるからだ。
 どこかの薬師と深い繋がりがあれば、別にリィジー・バレアレの元に行かなくても良いだろうが、カルネ村には残念ながらそういったコネが無い。そのため取れた薬草は、リィジー・バレアレの元に降ろすのが基本となっている。

 やがて通りに奇怪な匂いが付き始める区画に差し掛かる。
 僅かに軍馬がこの先に進むことを嫌がる気配を見せるが、エンリの手綱によって不承不承進みだす。
 空気に付けられた匂いは何らかの薬品や潰した植物のもの。それはこの辺りが、薬師たちの並ぶ区画だということの証明だ。

 エンリはそのまま左右をきょろきょろしながら、ゆっくりと進む。やがてこの区画でも最も大きな家の前で、馬車を止めた。
 その家屋は周囲に並ぶものが、前に店舗を後ろに工房を、という感じで立てられたものに対し、工房に工房に工房という感じで建てられていた。

「ここ?」

 僅かに不安げになりながらエンリは馬車を前に寄せると、御者台から降りる。
 扉の横に文字が書かれているのだが、エンリは読むことが出来ない。そのため不安を感じながらも、数度ノックを繰り返す。

 返事は無い。

 再び数度のノック。

 やはり返事は無い。
 これで返答が無かったら、また時間を置いて来るしかない。エンリはそう判断し、再びノックを行う。

 ドタドタと言う音が扉の向こうから聞こえた。そして勢いを込めて、ドアが開かれる。

「――あぁん?」

 やたらとどすの効いた声と共に姿を見せたのは、潰した植物の汁が所々付着し、つーんとした匂いを放つ、ボロボロの作業着を着た女性だ。
 伸びた赤い髪はぼさぼさに乱れ、顔を半分ほど隠してしまっている。その髪の隙間からどんよりと濁りきった目が見える。目の下には凄いクマがあった。
 ぎょろっと半分以上すわった目が、エンリを確認しようと動く。
 顔立ちは非常に整っている。だが、目つきがやたら険しいために、美人というより怖いという雰囲気が先に立ってしまう。いうなら血に飢えた肉食獣系の雰囲気をかもし出している。
 さらにそんな外見であるために数歳は年齢を取っているようにも見えた。全てを差し引いて考えればエンリと同じぐらいか、もしくは若干上だろうという程度だ。
 そんな彼女は口を開く。そこらもれ出た言葉に友好性というものは皆無だった。あるのは純度100%の敵意だ。

「あんた誰よ?」
「えっと――」
「今、すっげぇ、忙しいの。後にしてくれる?」
「あの――」
「あぁん? 話聞こえてなかったのか? あ?」
「あ、いや――」
「とっとと終わらせて、眠いんだよぉお! いま、何時間起きてるか聞きたいか、こらぁ! あ?」
「えっと――」

 駄目だこれ。話を聞く気はまるで無い。
 エンリはそう判断し、どこかで時間を潰そうかと頭の中で半分以上考える。

「それぐらいにしたら?」

 家の中から別の人物の声が掛かる。男のものだ。
 それを聞いた女性の雰囲気が一転する。正面で向かい合っているエンリからすればその変化は、目を見開くようだった。そう、まるで女が無数の化粧道具で顔を整えるような変化だった。
 まず目が見開かれる。そして濁りきって光の無かった瞳に、キラキラと輝く星々が浮かんだ。死体を思わせる色だった肌には、頬を中心に薔薇色の光沢が浮かび上がる。
 そこにいたのはエンリよりも年下かもと思わせる少女。それも美しいもの。

「あ!」

 パタパタと乱れた髪を手で必死に整えつつ、少女は振り返る。

「いたんですね」

 口調も完全に違う。さきほどの人物が幻だったようだ。特にバックに花が咲くような演出効果があってもいいような雰囲気が漂っている。

「うん。疲れてるのは分かるんだけどお客さんみたいだしね」
「そうですね。ちょっと、興奮しちゃいました」

 てへっと少女が頭に軽く手を当てながら、中の男性に対して笑う。後ろでそのエンリが思わず、呆気に取られるほどの変化だ。

「入ってください。さぁ、どうぞどうぞ」

 非常に友好的になった少女に肩を抱かれるようにして、エンリは家の中に連れ込まれそうになる。しかし、まだ入るわけには行かない。エンリは慌てて、少女の家に招こうとする力に抵抗する。

「――馬車に荷物が」
「荷物?」

 ぴたりと力を止めると、少女はエンリの馬車に乗せられた荷物を確認する。

「あれは壷だけど、中に入っているのは薬草?」
「ええ。そうです」
「なら大丈夫。持って行かれても、うちが周りの職人に言えば買い取る人はいないから。その辺は商人も知ってるでしょうしね」

 それって問題の解決になって無いような気がする。
 エンリはそう思いながらも、再び肩に入りだした力に抵抗する気を無くし、家屋の中に入る。
 室内は薄暗く、外の日差しの中を進んできたエンリの目では中を見通すことはできない。数回、瞬きを繰り替えしたエンリの視界に広がったのは、店舗という雰囲気ではない部屋構えだった。
 さほど部屋自体は大きくは無い。
 どちらかと言えば客と話すための応接間だろうか。部屋の中央には向かい合った長椅子が置かれ、壁沿いには書類らしきものが並んだ本棚が置かれている。部屋の隅には観葉植物が置かれていた。
 そんな部屋の奥。そこには扉があり、そこから1人の男が姿を見せていた。平々凡々とした特別な魅力は感じさせない男だ。
 ただ室内にはそれ以外に男はいないのだから、彼女の雰囲気が変わった相手は間違いなく彼だろう。室内だというのに、無骨なガントレットを填めている。どこかで見たようなガントレットだが、あまりそういった物を知らないエンリからすれば良くあるもののようにも見えた。

「フェイ。私が荷物を中に入れておこうか」
「え? 良いんですか?」
「構わないから。リィジーにはお世話になっているし」
「じゃぁ、お願いしちゃいますね」

 微笑んだ少女――フェイに対し軽く頭を振ると、男は2人の横をすり抜け、外に出て行く。その後姿をフェイのキラキラとした目が追うように動いていた。
 エンリは男の口調に違和感を感じていた。それは年齢や性別が一致しないような、奇怪な異物感のようなものだ。しかしながら男に対して何か行動を取る理由も無い。それに元々そういう口調であり、気にしているようだった場合、非常に厄介ごとになる。エンリは物を売りに来た立場、自分から不利益になるような行動を取るべきではないだろう。
 そうエンリは判断し、商談を済ませるべく行動を開始した。

「あのー」
「ん? 何?」

 いまだ男の後姿から視線を動かさずにフェイは尋ねる。

「薬草を売りに来たんですけど……」
「うん? あー、薬草ね。うん。あー」

 初めてフェイはエンリに向き直り、考え込むように頭を傾げる。視線を動かした理由は扉の外へと消えていった男とも関係があるだろう。

「薬草……困ったなぁ」

 エンリは眉を寄せる。もしかしてどこと大口の取引でもして、薬草が余っている状態なんだろうかと考えてだ。

「実は……」
「いいんじゃない?」

 いつの間にか戻ったのか、両手に壷を軽々と持った男が口を開く。

「買ってあげれば? これから当分使うんだろうからね」

 それだけ言うと壷を置き、再び出て行く。フェイは一瞬、奥の方に視線をやってから、一度だけ大きく頷いた。

「そうね。うん、確かに。まだその領域には到達できないしね。うん、えっとどなただっけ?」
「カルネ村のエンリと言います」
「ああ、カルネ村の人!」

 フェイは微笑み、部屋の中央に置かれた長椅子に座るように指を指す。そして2人で向かい合って席に座る。

「えっと今回持ってきた貰ったものは何かしら?」
「ニュクリが4壷、アジーナが4壷、それとエリエリシュが6壷です」
「エリエリシュが6壷!」フェイが驚いたような声を上げる。「それは凄い……。よく集められたね。カルネ村の人なら品質は保障できるだろうし……全部あの壷のサイズでしょ?」

 フェイの指差した先にあるのは男が持ってきた壷だ。既に6つまでに増えている。

「はい。そうです」
「なら……カルネ村の人だし……多少色をつけて金貨126枚、銀貨7枚ぐらいでどう?」
「ええ! それで構いません!」

 エンリの前に提示された金額は今まで聞いたことも無いような額だ。いやアインズという偉大な魔法使いに提示されたものを除けばという意味でもあるが。

「なら、それでいいわね」
「はい。……ところであの人は恋人とかですか?」
「え?」

 商談も終わったという安堵感から生じた好奇心に負けたエンリの質問に、フェイは一瞬だけ口ごもり、誰を指した言葉か理解し、顔を真っ赤にする。

「え? えへへへへ。そう見えちゃう? えへへへへ。お世辞言ってもこれ以上上乗せはしないからね。えへへへへ」

 いやお世辞というより単なる疑問です。
 そんな思いは口には出さない。流石にエンリといえども空気を読むことぐらいは出来る。いや、完全にでれでれに溶け切ったフェイを前にそんなことを口に出来る人間がいるはずが無い。
 そしてエンリは内心安堵した。店の従業員ですかと聞かなくて。

 フェイは顔をぐいっとエンリに近づけ、声を落とす。

「まだそこまでは行って無いけどね。思いっきり狙ってるんだ」
「そうなんですか……」
「確かにそんなに格好良くは無いよ。でも凄く強いの。こう、ぐぃっと助けられて……えへへへへ」
「そ、そうなんですか……」

 エンリも少女として他人の恋話には興味がある。しかし、なんというかフェイの涎を垂らさんばかりの行動は少しばかり引くものがある。というよりも最初に出会ったときとは表情がまるで違うが、目の下のくまは健在だ。その所為もあって病人か狂人のようにも思える。

「……商談中、申し訳ないんだけど?」
「え?! あ、はひぃ!」

 唐突に話しかけられ、脳天から突き抜けたような奇怪な声がフェイから上がる。男も、そしてエンリも目を一瞬だけ丸くした。しかし、その件には触れないように、無視するように話を続ける。

「……えっと壷は全部持ち込んだよ」
「あ、ありがとうございます!」

 羞恥の赤に顔を染めながらフェイは答える。

「さっきも言った様に構わないよ、フェイ」
「あ、あのえっとほんと、凄い力ですよね。私、憧れちゃいます」
「……そう?」

 フェイの言葉を聞き、一瞬だけ男は視線をガントレットを填めた手に送る。そして肩をすくめた。

「まぁいいや。リィジーも不眠不休で色々とやってるようだし、そろそろ2人とも休んだ方が良いんじゃない?」
「心配してくれてありがとうございます。この商談が終わったらおばあちゃんにもそう伝えます」
「……壷は買い取ることにしたのなら、薬草置き場まで運んでおくよ」
「お願いしてもいいんですか?」
「まぁね」

 キラキラとした視線、キラキラとした表情で言葉を紡ぐフェイに対し、淡々と処理するように行動する男。
 なんというか、全然脈がなさそうだな。
 まるで対極な2人を見て生じた感想を、エンリは決して表情には出さないよう頑張る。
 男の背中がドアから出て行くと、フェイは視線をエンリに戻して尋ねた。

「とりあえず、支払いは交金貨で大丈夫?」
「あ、構いません」

 金貨での支払いになると非常に重くなるが、この際は仕方が無い。今回得た金貨の殆どの使い道は決まっている関係上、宝石でも問題は無いと思われるが、支払いは硬貨が基本だ。

「なら直ぐに持ってくるから」

 フェイはそう言うと立ち上がった。なんとなく弾むような足取りだったのは、エンリの気のせいで無い。なぜなら、フェイは男を追うように、ドアから出て行こうとするのだから。しかし――

 ――突如、外との扉が無造作に開けられる。そして2人の女性が入ってきた。

「はーい」

 舐めてくるようなヌルリとした、けだるい声。
 そんな声を上げた女性を見たエンリの視線が、ある一点で釘付けになる。
 その豊満な胸はまさに突き出すようだった。そしてそんな胸を充分にアピールする服は薄く、体の線がはっきりと見える。その体はまさにボンキュボンだ。
 肩口より長い茶色の髪をソバージュにしている。目の若干垂れた顔だちは非常に温和でいて、整っている。20代中ごろの、綺麗に化粧をした女性が動くだびに香水の良い香りが漂ってきた。

「……なんの用よ、売女」

 極寒の声がおどろおどろと響く。

「うわーひどいなー、ふぇいちゃん。えっと、かれにあいにきたんだ」

 語尾にハートマークが浮かんでいた。いや、そんなものを幻視したエンリだ。フェイに至っては空中に飛んでいるものを叩き落すような手振りさえしている。
 それからやたらと鋭い視線を向けた。

「彼は仕事が忙しいの。邪魔しないで帰れ。今なら性病に効く薬プレゼントしてやるから」
「……ひどいなぁ、フェイちゃん」

 女性の口調はまるで変わらないもの、目の奥にゆっくりと奇妙な感情の色が浮かび上がっているのそばで見ているエンリにも分かった。

「え、何? この状況……」
「あのー」

 一緒に入ってきていながら、今まで何も喋っていなかった女性が口を開く。
 こちらの女性は同時に入ってきた女性とはまるで違う。
 一言で言えば戦士だ。
 年齢は20いくかいかないか。赤毛の髪を動きやすいぐらいの長さで乱雑に切っている。どう贔屓目に見ても切りそろえているわけではない。どちらかというなら鳥の巣だ。
 顔立ちはさほど悪いわけではないが、目つきは鋭く、化粧っけはこれっぽちも感じられない。日差しに焼けた肌は健康的な小麦色に変わっている。
 そんな女性がエンリにこっち来いと軽く手を振る。

「うん、巻き込まれないほうがいいよ」
「あ、はい」

 小走りに駆け寄り、女戦士の横で振り返ってみると、フェイと女性のにらみ合う距離はだんだんと狭まる一方だ。

「師匠は店の奥?」
「あ、はい」

 一瞬だけ師匠というのが誰か分からず困惑するエンリだが、即座にあの男性を指しているのだろうと判断し、答える。

「そっか、参ったなぁ」
「不味いんですか?」
「非常に不味い。あの2人は平手打ちとか、そんな可愛いことで終わらせないから」そして女戦士はエンリを見据え、呟く「マジで殴りあう」
「え……。ちょ、止めてくださいよ!」
「嫌だよ……2人とも下手に権力者とのコネがあるんだから。あの2人だから殴り合いで止まるんだから」

 エンリと女戦士が怯えながら見ている間に、フェイと女性の距離は完全につまり、互いの額がゴリゴリとぶつかり合っていた。

「やるか」
「私はかまわないよ」

 そして2人が拳を握り締めた瞬間――
 ――ガチャリと音を立てて男が入ってくる。

「だーりん!」
「ちょ……」

 ハートマークを浮かべた女性が男に向かって小走りに走り出し、すかされたフェイが一瞬だけ踏鞴を踏む。
 女性が飛びつき、強く体を押し付けているため、むにりと胸の形が大きく変わっている。
 しかしそんな中にあって彼の表情に変化は無い。

「凄い……」

 エンリも男というものがどういうものか多少は知っている。あれだけの攻撃を受けて、エンリの知っている人間で、平然とできる者はいないだろう。
 まるで煩わしい同性に飛びつかれたような無表情さだ。

「もう、そんなくーるなところがす、き」

 男の胸に指を当てると、そこに何か文字を書いている。

「何しにき――」
「――ちょ、離れなさいよ!」

 フェイの怒鳴り声が響き、女に詰め寄る。そんな光景を見ながらエンリは女戦士とため息を付き合う。

「何んですか、これ?」
「いや、これが日常」
「苦労してるんですね」
「もう、めちゃくちゃ」

 そして2人で再びため息を付き合うのだった。


 ◆


 2日の時間を置いて、エンリの生まれ故郷であるカルネ村の壁が見えてきた。しっかりとした丸太が立ち並ぶ姿は鉄壁を思わせるものがあるが、エンリが見てきたエ・ランテルの城壁と見比べるとはるかに劣ってしまうのは仕方が無いことだ。

「いやーやっと見えてきましたね」

 そうエンリに声をかける者がいた。それは馬車にのったゴブリンである。
 今までいなかった筈のゴブリンがどうしてという疑問は簡単に答えられる。

 エ・ランテルにまさかエンリだけで向かったわけではない。ゴブリンたちに守られながら向かったのだ。当然、エ・ランテルに入る前にゴブリンたちを降ろしてきたというわけである。
 ただ、ゴブリンは全てではない。
 エンリを警護して来たのはゴブリンが5体、そしてゴブリン・クレリックにゴブリン・ライダーが1体だ。
 全員で守らなかった理由は新たにエンリの部下になった――なってしまったというべきか――オーガの存在だ。部下になってまだ時間がたってないため、忠誠心に疑問が残る。そのため完全に村の守りを空にすることは出来ない。そんなわけで警戒の意味を込めてゴブリンの大半を残してきたという寸法だ。

「そうですね。あと少しですね」

 カルネ村の壁が見えてきたからといっても、ここは隠れる場所が殆ど無い草原地帯。距離的にはまだまだかなりある。
 馬車はそのまま殆ど草に隠されつつある細い街道を、ゆっくりと進む。


 それからどれだけ進んだろうか。エンリにゴブリンの緊迫感を持った声が届く。

「エンリの姐さん。向こうを見てください」
「え?」

 隣に乗ったゴブリンの指差す方。そちらを見たエンリの視界に一台の幌馬車が見えた。草原の真っ只中を抜けるように走る馬車は、真っ黒な馬2頭に引かれている。エンリの記憶にまるで無い馬車だ。そしてその後方にはその馬車を守るかのように、4体の騎兵がいた。いや、あれは騎兵なのだろうか。
 4色のそろぞれ違う色の馬――赤、白、青、黒。そしてその上に乗った者は全身をフードで隠し、その下は完全に見えない。目にすれば異様な雰囲気をかもし出しているにもかかわらず、その気配はやけに希薄だ。

「あれは一体……」
「……あの御者台に乗ってる女、どこかで見たことが無いですかね?」

 エンリは目を細めて御者台に座る人物を見ようとする。しかしながら距離があるため、流石に完全に把握することは出来ない。

「……分からない……」
「そうっすか……ちと俺達は隠れています」
「あ、はい、お願いします」

 無論、隠れるといっても隠れる場所なんて殆ど無い狭い荷馬車の中だ。村で使うための様々なもの――新しい布とかを積み上げた荷物の後ろに隠れるように移動するのが精一杯だ。ウルフに乗ったライダーは、すこしばかり離れると、走るのを止め、草原に伏せるような形で姿を隠す。

 そんなこんなしている内に、その見慣れない馬車もエンリに気づいたのか、進む方向を微妙に変え、エンリの方へと進んできた。
 僅かにエンリの胸が不安で高鳴る。だが、その不安も直ぐに消えていった。その馬車を操作する御者台に座った女性。その顔に見覚えがあったためだ。

「ルプスレギナさん!」
「ちっす。エンリさん」

 並行するように走る馬車の御者台に座る女性――アインズのメイドであり、輝かしい美貌の持ち主だ。そんなエンリもよく知っているルプスレギナに、挨拶を送る。ちゃんとした街道とは言えないが、一応は街道を進むエンリの馬車に対し、草原を平然と進むルプスレギナの幌馬車。
 二者の差は圧倒的だ。
 その違いは引く馬の数であり、差だろう。

「……凄い馬ですね」
「? 確かにそうかも知れないっすね。アインズ様の保有されるアイアンホース・ゴーレムっすから」

 アイアンホース・ゴーレム。
 フルプレート・バーディング――馬用の全身金属鎧を纏った巨馬にも見えるそれは、エンリの村にいるストーンゴーレムと同じ種類の動く非生物だ。強固な肉体と装甲を持つため、敵のど真ん中に突っ込むことも出来る馬だが、戦闘能力自体はさほど高くない。

 ゴーレムと聞いて、エンリの頭に浮かんだのはストーンゴーレムの力強さだ。それほどのものが2頭で引けば、それは確かに草原も容易く走破できるだろう。千切れ飛んだ草が車輪に絡みついたとしても。
 エンリは馬と幌馬車から視線を動かす。その頃、後ろに隠れていたゴブリンが隠れる必要がなくなったと、エンリの横に戻ってきた。

「お久しぶりです、ルプスレギナさん」
「おお! ゴブリンさんじゃないっすか、ちわっす」
「エンリの姐さんに代わって聞きたいんですけど、今日はどうされたんですか?」
「姐さん……?」ちらりとルプスレギナの視線が動く。「ああ、エンリさんに頼まれたものを届けに、っすよ」
「もうですか?」

 エンリは僅かに驚いた。その後で安堵の息を漏らす。早急に薬草を売りに行って正解だったと

「ええ、早い方がいいだろうと思ってっすよ。それにアインズ様も早急に届けておけといわれましたしね」

 ニコリと満面の笑みを浮かべたルプスレギナに、エンリは眩しいものを見るように目を細める。いつも彼女は太陽のような明るい笑顔を浮かべているな、そんな思いがこみ上げてきたからだ。

 まるで知人のような考えだが、これはアインズがゴーレムを連れてきたときのように、村に来るときは大抵ルプスレギナを側に控えさせていた。その結果、エンリともある程度の面識が出来たからだ。もはや知人といっても過言では無いだろ程度の付き合いはあるとエンリは自負している。

「じゃぁ、これから村にいかれるんですね」
「そうっすよ」
「じゃぁ、あの方達も一緒ですか?」

 エンリの視線の先、それは少しばかり離れたところで追走するように走ってくる4色の馬に乗った4体の騎兵のことだ。
 
「ああ、彼らはこの辺で待機させるつもりっすよ」
「え? ルプスレギナさんの知り合いの方では無いんですか? 村まで一緒にこられても構いませんけど?」
「いや、まぁ知り合いというか……あれは護衛っすよ、護衛。アインズ様の生み出した直轄の護衛。私よりも強い奴らっす」

 エンリはルプスレギナという人物がどれだけ強いのか知らないが、ゴブリンたちが全員でかかっても相手にならないと話しているのは知っている。それから考えると丘にいる4体の騎兵はどれほどの強さを持つのか。そしてそれを生み出す大魔法使いであるアインズはどれだけ強いというのか。

「あのデス・ナイトさんというのと同じぐらい強いんですか?」

 一瞬だけ、ルプスレギナはきょとんとした顔をしてから、破顔する。

「そうっすね。それぐらいっすよ、きっと」
「ふーん、そうなんですか」

 エンリからするとアインズという存在を除き、最も強く感じるデス・ナイトを比較対象として持ち出したのは当たり前のことだ。ルプスレギナがどの程度強いのかというのは全然エンリからすると想像もつかないことだし。

「で、さっきのあれですけど、冗談きついっすね。さすがにあんなの村まで連れて行ったら皆さんが怯えちゃうじゃないっすか」
「確かにそうかもしれないですね」

 どうなんだろうと思いながらも、エンリは同意する。
 村の人間はゴブリン、オーガとモンスターに見慣れた所為か、平然としてそうな気がしないでもない。しかし混乱する可能性の方が高いのは事実。無駄に混乱を生み出すことも無いだろう。わざわざ向こうから遠慮してくれているのだから。

「うんじゃ、まずは色々とお渡ししたいですし、村の中で目が付かなくどこか広い場所があったら教えて欲しいんですが?」
「家の中の方が良いんですか?」
「あー」ルプスレギナが立てた親指で幌馬車を示す。「魔法の武器とか鎧なら使用する人間にフィットする感じで形を変えるんですが、普通の鎧とかになると多少形を整える必要があるんっすよ。その鍛冶仕事をする奴が中にいましてね。あんまり村の人には見られたくは無いかなっと」
「そうなんですか……」

 幌馬車の中は隠れて見えないが、どんな人物がいるのか、とエンリはごくりと唾を飲む。

「なら、おれたちの住居に来るといいと思いますぜ」
「ああ、そうですね。ゴブリンさんの住居なら充分広いですし」
「そうっすか? ならそこまで案内してくれるっすかね?」
「構いませんぜ。なら俺だけそっちに移りましょうか?」
「あー、飛びのるっすか?」
「……そいつは勘弁してください。そんな速度は出てませんが、落ちたら怪我は確実ですからね」
「まぁ、そうっすね。なら一端止めてもらってもいいっすかね、エンリさん」
「はい。分かりました」



 村の人間に頼まれていたものを渡し、エンリがゴブリンたちの住居となっている家屋に到着したのが、ルプスレギナにおおよそ30分遅れてぐらいだった。
 ゴブリンたちの住居はオーガたちを部下にしたことによってより大きく改築されており、この村でも最も大きな建物へと変わっていた。しかもオーガが暴れても良いようにと屈強に改築したために、家屋というより四角い箱を思わせた。

 エンリは近づくと、オーガですら通れるように大きく作られたドアの左右で座っていたゴブリンが慌てて立ち上がる。

「エンリの姐さん! お帰りなさいませ!」
「お帰りなさいませ!」

 かなり大きな声での挨拶に、エンリは言葉を返さずに頭を軽く下げる。
 エンリは自らの顔が真っ赤に熱せられているが感じ取れていた。正直恥ずかしいからその挨拶はどうにかして欲しいのだが、ゴブリンもオーガも決して止めようとはしない。ゴブリン・リーダーに士気を保つために必要ですとか言われてしまえば、エンリとしても断る力が抜けてしまうというものだ。

「えっと、入れてもらえますか?」
「勿論です、姐さん!」

 ゴブリンが力を入れて扉を開く。オーガが通れるサイズの扉であるために、そこそこの重量がある。エンリでも開けられるが、それは結構力を入れる仕事だ。
 開いた扉から中に入る。
 中は薄暗い。窓に当たる部分が完全に下ろされているために、明かりがまるで入ってこないためだ。ゴブリンやオーガは闇視を持っているためこの暗さでもまるで苦にはならないが、エンリからすると少々歩きづらい暗さだ。

「えっと……」

 入った直ぐ横手を探ったエンリの手に小さな棒のようなものが当たる。目的の物を見つけたエンリはキーワードを唱えた。

「光れ」

 闇を切り裂くような白い光が周囲に広がる。《コンティニュアル・ライト/永続光》が付与されたマジックアイテムである。
 その光を捉え、走ってきた者たちがエンリの顔を見て、深々とお辞儀をした。

「お帰りなさいませ! 姐さん」
「お帰りなさいませ!」
「オカエリナサイマゼ、アネザン」

 ゴブリン、オーガの声を受けつつ、軽く頭を下げるとエンリは問いかける。

「ルプスレギナさんはどっちに?」
「はい、案内します」

 ゴブリンに案内されるように、広い室内歩く。
 ゴブリンの家屋は大きく分けると3つ――中央部分と左右に別れている。片方がゴブリンの住居で、片方がオーガの住居だ。案内されたのは中央部分だ。そのある場所。最も大きいはずの場所に近づくに連れ、むっとした熱気が伝わってきた。本来であればそんなものが伝わってくるはずが無い。

「これは?」
「はい。ルプスレギナさんが連れてきた鍛冶師が鍛えなおしている熱気ですね」
 
 耳をすませば確かに金属を叩く軽快な音が聞こえてくる。エンリがマジックアイテムの起動を解除している間に、ゴブリンが扉を開ける。そこからはさきほどを倍する熱気が流れ出し、エンリの顔を叩いた。

 光が差し込む。
 そこは言うなら中庭に当たる部分であり、ゴブリンやオーガが剣を振るったりするために使われる場所だ。村の中で剣を振るっても問題は無いのだが、余り喜ばれるものではないし、子供が寄ってくれば危険だ。そのためこういった場所で剣を振るっている。
 そんな目的に使われるために、この家屋でも最も広い場所には、殆どのゴブリン、オーガたちが集まっていた。

「お前ら! 姐さんのお帰りだぞ! 声を合わせろ!」

 ゴブリンリーダーの声にあわせ――

『お帰りなさいませ!』

 無数のだみ声が調和され、騒音となってエンリの耳に届く。

「はい、ただいま」

 ぺこりと頭を下げたエンリに、今度は綺麗な声が届いた。

「お待ちしてたっすよー、エンリの姐さん」
「止めてください、ルプスレギナさん……」
「アハハハ。いやー、似合うっすよ、エンリの姐さん」

 似合うといわれ、一瞬だけ複雑な表情をエンリは浮かべるが、直ぐにルプスレギナの冗談だと判断し、すこしばかり不満げに頬を膨らませる。
 そんなエンリの不満を金属が叩かれる音が吹き飛ばす。熱を放つそちらに視線をやったエンリは驚く。

 そこにいたのは2体の金槌を持った燃え上がる生き物だ。全身は真紅の鱗に包まれており、炎が鱗の隙間から漏れ上がり、全身を完全に覆いつくしている。下半身は蛇であり、上半身はトカゲにも似た爬虫類だ。
 そんな2体のモンスターが交互に胸当てを叩いている。時折、2体のモンスターが触ると徐々に胸当ては赤く染まりだし、その状態になると再び叩くという作業を繰り返している。
 心奪われたように眺めるエンリに、説明するようにルプスレギナが声を発する。

「サラマンダーの鍛冶師っすよ」

 ルプスレギナの話にあった鍛冶仕事を行うものというのが、あのモンスターかとエンリは感心半分で眺めていた。

「……とりあえずは約束のオーガ用鋼鉄製ブレストプレート5着と同じく鋼鉄製グレードソード5本。ゴブリン用の鋼鉄製高品質マチェット6本、鋼鉄製高品質チャインシャツ13着。用意したっすよ」
「ありがとうございます」

 エンリは頭を下げると、持ってきた金貨を大量に詰め込んだ袋――5キロ以上はあるそれをルプスレギナに差し出す。

「アインズ様から貰った金貨に、私が稼いだ金貨を足してあります。お約束の金額は揃っていると思いますが、一応お確かめください」
「ほい、確かに」中身を一切確かめずに、ルプスレギナは肩から担ぐように背負う。そしてエンリの視線に含まれた感情に対し、笑みを見せる「中身の金額とか……ぶっちゃけ気にしなくても良いっすよ。アインズ様が渡した金貨さえ返してもらえればこっちは問題無しなんすから」

 実際、ルプスレギナが持ってきた装備品を普通に買ったら、エンリの提示した金額では心許ない。かなり疲労した使い古しでも買えるかどうか微妙なラインだ。つまりこれだけの武装をエンリが受け取れるのは、ほぼアインズの好意だと言うことだ。
 それであればエンリが仕事をする際に、アインズが渡した金貨200枚だけで全て終わらせてしまえばよいという考えも浮かぶかもしれない。しかしながらアインズはそこまで寛大ではない。自ら金貨を集めようとする気があるのか、それともこちらに寄りかかってくるだけの存在か。それが知りたかったという試しの部分もあったということだ。

「アインズ様はちゃんと金貨100枚を稼いでくるなら、武装を渡す価値はあるとおっしゃっていました。エンリさん。あなたはアインズ様の試しをクリアされたんですよ」

 突如、口調の変わったルプスレギナに飲まれるようになりながらも、エンリはなんとか意思表示として頭を下げる。そんなおどおどとした小動物を思わせるエンリに優しく微笑み、ルプスレギナの雰囲気が再びいつものものへと戻る。

「うんじゃ、とりあえずわたしはこいつを馬車の方に置いてくるんで」

 ルプスレギナが中庭を出て行くと――

「――エンリの姐さん」

 神妙な顔でゴブリン・リーダーがエンリの前に立つ。その後ろにはゴブリン、そしてオーガたちが並んでいた。

「今回は俺達のために金を出してくれてありがとうございます!」
『ありがとうございます!』

 一斉に調和の取れた声で感謝の言葉がエンリに投げかけられる。そして乱れぬ動きで頭を下げる。

「そんな気にしないでください」

 慌てて、顔の前でパタパタと手を振るエンリに、ゴブリン・リーダーは深い感謝を込めて語る。

「何をおっしゃいますか。危険を承知で行った仕事で貰った金銭を全て支払ってまで、俺達に武装を整えさせてくれるとは……どれだけ感謝しても足りません」
「ほんと、気にしないでください。戦う皆さんの武装を整えるのは当たり前なんですから」

 くぅっとゴブリンの幾人かが泣きそうな顔する。
 そこまで感動しなくても、とエンリは思う。命を懸けて戦う人に最大限のバックアップをするのは当然だろう。逆にそうすることで最大の戦力を発揮してもらえば、村だって守られるということなのだから。
 逆にそんなに感動されるとそちらの方が申し訳なくなる。

「姐さんの心は、しっかりと伝わりました。俺達全員、新たな武装でより優れた結果をお見せします!」
『お見せします!』
「あ……ははは、えっと……はい、期待してます……」
「そんな皆さんに、こんなおまけを持って来たっすよー」
「ル、ルプスレギナさん?!」

 いつの間に戻ってきたのか。エンリの後ろにニンマリと笑ったルプスレギナが立っていた。
 そしてどんと抜き身のグレートソードがつき立てられた。刀身には微かな白光が宿っていた。それは何かの光の反射しているのではなく、内部から輝いているようだった。
 そしてエンリはそんな剣のことを物語で聞いて知っていた。

「……これはもしかして魔法の剣ですか?」
「そうみたいっすね。特別強いものではないっすけど、一応は魔法の剣っすね」

 エンリの恐る恐るという質問に対し、ルプスレギナの返答は明瞭かつはっきりとしたもの。二者の価値観の基準がまるで違うことを明白にしている会話でもある。
 そしてエンリはその答えを聞き、おどおどした。

「こんなのお支払いをするお金がないです……」

 魔法の武器は最低レベルでも、通常の武器の数倍は値が張るもの。そんな容易く買えるものではない。

「ああ、気にする必要は無いっすから。この前……そこそこ前ですけど、色々とマジックアイテムを得る機会がありまして。……まぁ、外見はいじってますから安全っすよ」

 最後のルプスレギナの言葉の意味が少々分からないのだが、つまりは只でくれると言う。
 エンリは戸惑う。ここまでのものを只で貰う理由はないし、目的が理解できないからだ。只よりも高いものは無いということだ。
 しかし……。

「ありがとうございます。アインズ様に宜しくお伝えください」
「はい。了解したっすよ。……しかし悪い意味じゃないっすけど、断るかと思っていたっすよ?」

 確かにエンリとしても最初は断ろうかと考えた。しかし――

「魔法の武器じゃないと倒せないモンスターもいるって聞きますから。この恩はしっかりと覚えておいて、どこかで返せばいいかなと」
「ふむー。状況判断も的確……。どこで遠慮すべき場所かも理解できているか……」
「そ、そんなことは無いですよ。ほんと、たまたまですから!」

 照れるエンリをルプスレギナは真剣な顔で眺め、それから誰にも聞こえないようなほど小さな声で呟いた。

「流石はアインズ様。人の評価も適切とは……。単なる小娘ではないと、こちらも多少評価を上げておく必要ありか」



 ■



 草原に隠されるようになってしまった街道を、エ・ランテルの冒険者『旋風の斧』の一行は黙々と歩いていた。
 見通しの良い場所にあっても、隊列をしっかりと組んで歩いているのはある意味、職業病にも似たところがあるのだろうか。冒険者の職業病としては、他には街中でもフル武装で歩いたり、宿屋でも装備を外さないという事が上げられる。
 別段弁護するわけではないが、見通しが良い場所にあっても警戒を怠らないというのは正しい冒険者のあり方でもある。しかしながら遮蔽物の無い安全に思われる街道を、黙々と歩くのは常識的に考えると精神的に辛い。別におしゃべりをしろというのではない。でも警戒しながら進むのは何か間違っているだろうというのだ。
 そして旋風の斧の一行の中でも先頭を進むレンジャーでもある、ルクルットも同じ考えを抱いていた。ルクルットは振り返り、後ろ向きに進みつつ仲間たちに話しかける。

「なぁ、何で一列で歩いているわけ?」
「……何でだろう?」
「……不思議だよね」
「……襲われるかもしれないからな」

 ぴくりとルクルットの眉が動く。だが、冷静を保ちつつ――

「いや、ありえないって」

 ――軽く言うと、ルクルットは周囲を見渡す。広がるのは一面の草原だ。どこにもモンスターの影は無い。

「毎回思うんだけど街中でも隊列を組んで歩くのはおかしくね?」
「……襲われるかもしれないからな」
「わけねーだろ! どんだけ狙われてるんだよ! そりゃ上位になればそうかもしれないぜ? でも俺達大したことねーじゃんかよ!」
「警戒はいついかなるときでも……」

 ドルイドであるダインがそう返答をしつつも、その顔には『なわけないよな』という表情が浮かんでいた。

「するべき時と、しない時ってあるだろうよ! いまどー考えてもしない時だろう?」
「いや、超遠方から飛来したドラゴンが、突如襲撃を仕掛けてくるかもしれませんよ?」

 ルクルットに返事をしつつも、スペルキャスターであるニニャは肉体派ではない。そのためこんなところで余分な力を使いたくないという雰囲気が見え見えだった。

「そりゃどこの糞みたいな物語だ。常識で考えてそんなことがあるのかニニャ!」
「ありえませんね。エ・ランテル近郊にドラゴンがいたとされた話は聞きません」
「だろう?」
「だが……何をしながら歩く?」

 チームリーダーであるファイター、ペテルの言葉にルクルットは僅かに黙り込む。単純に黙々と歩くのに疲れたから不満を言っただけで、その先までは特別考えてなかったからだ。

「そいつは……」
「そいつは?」
「そいつは?」
「そいつは?」

 タイミングをずらしつつ、一斉に問いかける。

「世間話とかでいいじゃないか……」
「今日の天気は晴天ですね、とかですか?」
「暖かい日差しの中、歩いていると眠くなってしまいます。というのも良いかも知れんな」
「……お前達、俺を苛めてるのか?」
「そんなわけないさ、ルクルット。君は良い仲間だったよ」
「過去形かよ! つーか、俺が何をした!」

 ふと静まり返る。その静寂に押されるようにルクルットは呻く。

「こいつ……」
「……個人的には悪い仕事とは思っていませんがね」
「報酬は低いがな」

 その言葉にルクルットは今だ他の仲間たちが不満を抱いているということを知り、顔を引きつらせる。

「お前がこんな仕事を請けたんだろ?」
「いや、悪い仕事じゃないだろ? ちょっとカルネ村とか言うところの様子を見てきて欲しいって……」

 尻つぼみに小さくなっていくルクルットの声に、他の仲間達は冷たい視線を送る。

「報酬は無いにも等しいけどな」
「なんでそんな仕事を引き受けたんだ?」
「水の神殿の司祭の1人に肉感的な美女がいるらしいですよ」

 再び静まり返り、ルクルットを見つめる視線が冷たいという領域を通り越し、極寒というレベルにまで到達する。

「でもよぉ! 報酬は少ないが、恩を売ってると思えば悪くないだろ!」
「そいつは確かに」
「ですね。といっても恩を売るならもっと上位の神官の方が良いと思いますけど」
「……まぁ、しかしカルネ村の話を聞くのも悪くは無いとも思うけどな」
「流石はリーダー!」

 ルクルットの歓声を無視し、ニニャとダインはペテルの話に頷く。
 帝国の騎士がエ・ランテル近郊の村々を襲った。これはエ・ランテルに住むある程度鋭敏な人間であれば、誰でも知っている情報である。
 しかし冒険者にもなればもう一歩踏み込んだ情報を手にするよう行動をする。帝国の騎士ではないのではという噂や、何者かがその襲っていた騎士たちを皆殺しにしたという噂を。
 そしてその仮称帝国の騎士たちはカルネ村で壊滅したという情報だって入手している。その真実や、詳しい内容というのは値を付けることの出来る情報でもあるのだから。

「ついでの仕事だと思えば、大したあれでもないか」
「ですかね?」
「おっと、忘れるなよ? 一応はカルネ村の村長が出している人を募集しているという話の裏づけを取るんだからな」

 ルクルットに冷たい視線を向け、ニニャとダインは重々しく頷く。
 今回の神殿からルクルットが受けた依頼はカルネ村の新しい村人募集が正当なものか、どうかを見てきて欲しいということだ。


 仮称帝国の騎士に襲われながらも、命がなんとか助かった近隣の村人。そんな幸運な者達がどうしたかというと、大半がエ・ランテルに逃げ込んできたのだ。
 村というのは人間と似通ったところがある。そこに暮らす住人を人間で例えるところの、人体を構成する器官だといえば分かりやすいか。もし仮に重要器官を幾つも喪失したら、人間であれば死、村の場合は離散という結果だ。
 そして村を捨てた人間は周辺の村に血族がいるならそちらに。いない場合は都市を頼ってくるのは当然の流れだ。
 
 それで使われたのが神殿である。身寄りの無い子供や、生きていくすべを奪われた村人。本来であれば行政機関が受け入れるべき者たちを、神殿が代わりに受け入れているのだ。勿論、神殿で住居や新しい仕事を用意できるわけではない。一時的に受け入れて、神殿の仕事を手伝ってもらい、その間行政機関と協力して新しい仕事を見つけ出すという行動を取るのだ。

 ちなみにこれはエ・ランテルのようなしっかりとした都市長がいる都市だから、そうやって動いてもらえるのだ。その都市を管理している貴族によっては、行政機関が全く動かないという事だってあるのだから。
 

 ではカルネ村のような失ったことは失ったが、まだ村としての形を保てる村は、損なわれた部分をどうするのかというと、募集をかけることで村を再興させようとするのが一般的だ。
 これは当然だ。
 人が減った分、いろいろな面で問題が起こる。村というのは役割分担と助け合いの世界だ。人の数が減ったというのは全体的に層が薄くなったことであり、そこらかしこに穴が開いているのと同じ意味だ。
 そのために早急に人を増やす必要がある。結婚し、出産しでは時間が掛かりすぎる。
 確かに一番早いのは村の合併だろう。だが、これは非常に難しい問題を多く含む手段だ。
 というのも起こりえる問題で最も大きいのは、派閥の争いである。村というのは1つの世界だ。それが合併したからといって直ぐに交じり合う可能性は低い。通常であればいろいろな面で互いを信頼するまでに、軋轢というものが生まれる。下手をすると合併したところで2つの力が村の中で生まれてしまうだけの結果に終わる可能性だってある。
 しかも人数の減ったこの村では逆に吸収される可能性だってある。

 だからこそ、募集。それも1家族、1家族を個別で募集するという方法を取るのだ。


 旋風の斧のメンバーの仕事こそ、この募集が犯罪に触れたり非道な行いに繋がるものではないという確認だ。幾人もの人の人生を左右しかねない重要な仕事に関わらず、報酬の額が少ないのは確認といっても隠密裏に情報を収集するということではないからだ。
 あくまでも村の様子を見、村長の話を聞く程度だ。一言で言ってしまえばお使いでしかない。最下位のFクラス冒険者程度の報酬の仕事を請け負うと聞けば、他の仲間たちが膨れるのも当然だろう。
 しかし、そんな不満をいつまでも抱いているほど冒険者も暇ではない。
 互いに不満を口に出し、ルクルットを苛めたことによって多少の不満が解消されたのだろう。先ほどよりはある程度雰囲気が良くなった状態で、一行はカルネ村を目指し歩く。

「はぁ……」

 そんな中、ニニャが疲れたようなため息を漏らす。直ぐ後ろを歩いていたダインが、心配そうに声をかけた。

「休むか?」
「いえ、まだ大丈夫です」
「警戒をしてない分、移動速度が上がっているからな。ルクルット。カルネ村まではあとどれぐらいなんだ?」
「距離的にはもう少しだと思うぜ? あの先の丘を越えれば見えてきてもおかしくは無いな」

 ルクルットの指差す先、ほんの100メートル先まで上る小高くなだらかな丘。ゴールが見えつつあるというのは信じられないほどの力を引き出す。
 ニニャの足取りがしっかりとしたものなり、背筋に力が入る。

 一行はその丘を登りきった。そしてそこで動きが止まる。

「何あれ?」

 ニニャの呆然とした声が漏れた。いや、他の3人も呆気に取られたように、遠方に映る光景を眺めていた。

「あれは……」
「砦かよ……」

 草原にこれ見よがしに存在感をアピールする壁。それはあまりにも見慣れない光景だ。
 確かに村を取り囲む壁というのはいくらでも見てきた。だが、あれほど立派かつ頑丈なものは見たことが無い。砦にでも使われそうなしっかりとしたものだ。

「おいおい、どうするよ?」

 ルクルットはあまりの異常事態に他のメンバーに尋ねる。

「単なる村だよなぁ……カルネ村って」
「薬草でそこそこ名が知れているそうだが……あれほどの壁を作れる村とは聞いたことが無い」

 どういうことだよ。
 全員の顔にそんな言葉がはっきりと浮かんでいた。
 単なる村にあれほどの壁は作ることは絶対に不可能である。しかしながら目の前にはしっかりとした壁。そのあまりの異常事態に互いの顔をうかがい、納得の行く答えを誰かが口にしてくれることを祈る。しかし、そのまま数十秒という時間が流れても、誰も言葉を口にはしなかった。
 そのためペテルは決定する。

「ちょっと隠れて考えてみよう。何か思うところを言ってみてくれ」

 ペテルの指示に従い、旋風の斧のメンバーは丘の中腹までいったん戻って、姿を隠す。流石に草原というだだっ広い場所で堂々と相談するほど愚かではないからだ。
 それから互いの顔を見合わせ、意見を言い合った。

「1! カルネ村はしっかりとした壁に守られた村だった!」
「……2。どこかの軍隊とかが進軍して壁を作った」
「3……。3…………無いな」
「……4。村人達が頑張って作った……実はこちら側だけしか壁が出来てない」

 ぴたりと皆の動きが止まり、最後に発言したペテルに視線が集まる。

「それだ!」
「最も可能性が高いですね。もし全部壁で覆われていたら村人を募集するという話がうそ臭くなりますから」
「だな。張りぼてという線もあるか」
「じゃぁ、どうする?」

 そこで一同は考え込む。
 周囲は完全な草原。隠れる場所も無い。それは発見されるということでもあるが、こちらも様子を伺いやすいということでもある。ならば周囲をぐるっと回り込めば、壁が本当に張りぼてかどうか多少は判断が付く可能性だってあるということ。
 全員の期待を込めた視線を受け、ニニャは答える。

「……建築学には自信がありませんよ?」
「不可視化に飛行といった魔法があればなぁ……」
「巻物で買っても良かったんですよ? かなりお金が飛びますが」
「俺達には遠いな……」
「無いものねだりをしても仕方が無いだろう。ルクルット。隠密裏に周辺を見て回ることは?」
「ほぼ不可能だな。大体俺じゃ、壁が張りぼてか、までは見抜くことは出来ないぜ?」
「全員で回るか?」
「……それはどうでしょう。先ほどの考えで2であればこの場は危険かもしれませんしね」

 一同は考え込み、そして視線をリーダーのペテルの向ける。その視線の中に宿っているのは、結論を出して欲しいという懇願にも似たものだ。
 ペテルは真剣に考え、1分ほどの時間を置いてからアイデアを口に出す。

「……村人がいないかちょっと周りを回って調べてみよう」

 ペテルを除く3人は口々に同意の言葉を上げる。消極的だが、最も安全面を考慮した考えだと納得がいったからだ。

「ではぐるっと回るぞ?」
「ああ、ルクルット、警戒も頼む。一体どんな状況だか不明だからな」
「了解だ」


 旋風の斧、4人からなる冒険者たちはカルネ村の周辺を大きく回るように、村の様子を伺う。
 草原に聳え立つような村であるため周辺に身を隠せる場所が少なく、完全に姿を隠せてるとは言いがたいが、それでも出来る限り注意深く目立たないように移動を繰り返す。
 非常に神経をすり減らす作業だが、こればかりは仕方が無いことだろう。もし村の中にいるのが敵対的な武装集団であった場合のことを考えて行動すべきなのだから。
 やがてちょうど反対側に周り、大きな畑が幾つもあるのを確認する。
 そしてその中に幾人かの働いている村人の影を発見した。

 旋風の斧の一行は安堵のため息をついた。
 とりあえずは村人がいるということは確認が取れたということだ。
 そして村の様子を真剣に眺める。目的は帝国の兵士とかによって、村が占領されていないかという確認を取るためだ。
 一行はしばらくの間真剣に観察を続けるが、村人が酷使されている者特有の、草臥れた雰囲気を感じ取ることは出来なかった。のんびりと畑仕事を行う姿は、牧歌的な農民の暮らしそのままだ。

「問題なしだな……」
「そうですね。別に何かされている気配も無いですし……。ただ、あの壁は恐らくですがしっかりとしたものです。決して張りぼてではないでしょう」
「ならよう、大森林が近いんだし、昔から警戒の意味であったんじゃないか?」
「そう考えるのが妥当か、ニニャ?」
「うーん、ちょっと新しいような気もするのですが……これだけ距離があっての観察ではこの辺が限界ですね」
「どうするよ、ペテル」
「……虎穴に入らずんば、虎子を得ず。行こう」
「了解した。どの程度警戒していく?」

 ダインの発言にペテルは少し考え込むと、苦笑いを浮かべた。

「向こうに警戒されては厄介だ。のんびり気楽に行こう」
「そうですね。それが良いでしょう」

 ニニャの同意を受け、ルクルットとダインも頷く。多少不安はあるが、変に警戒していって、向こうに敵意を抱かれる方が当然不味い。
 旋風の斧のメンバーはここに喧嘩を売りに来たわけではなく、ちゃんとした仕事の一環で赴いたのだから。

 ペテルを先頭に、一応は隊列を組んで村に向かって、殆ど使われてないのだろうなと思えるような細い道を歩き出す。
 道の左右に広がる畑は麦によって青々と染め上げられ、時折流れる風が、優しく揺らす。そんな中を一行は歩く。まるで傍目から見れば水中に飛び込んだような、そんな世界だった。

「ん?」

 2番目を歩くルクルットが奇妙な声を小さくあげ、畑の中をのぞく。収穫の時期が来て無くても、稈長70センチ以上の高さまで既に伸びている麦だ。当然、海のごとく中を見通すことは不可能だ。

「どうしました?」

 直ぐ後ろを歩くニニャが怪訝そうに声をかける。

「ん? いや、気のせいかな?」

 ルクルットは一度だけ首を傾げると、少しばかり開いたペテルとの間をつめようと、少しばかり歩く速度を速める。ニニャは一度だけ、ルクルットが見ていた方角を眺め、動くものがいないことを確認すると追いかけるように歩き出した。

 ペテルは黙々と、だが、その顔には友好的に見えるような笑顔を浮かべつつ、村に近づく。
 そんな中、ペテルを不思議そうに眺めている1人の少女と目が合う。畑の中、ペテルに最も近い――村から最も離れた畑で1人で立っている。
 確かに可愛いが、凄く美人というほどではないという微妙な線の少女だ。どちらかといえば明るい――村では評判の、というような顔立ちといえばよいのだろうか、そんな少女だ。
 質素な前掛けを土で汚したその姿は、今、畑仕事をしていた最中だというのを如実に語っていた。

「こんにちは」

 ペテルは手を軽く上げ、友好的に声をかける。その際、ちょっとあれだが、左右の手を上げて振ることで、武器からは完全に手を離すという行為もとる。こちらには敵意はありませんよ、というアピールだ。
 それに対し、少女は不思議そうに顔を傾け、耳に手を当てる。
 ペテルは少しばかり眉を寄せてから、再び――先程よりも多少大きな声を上げた。

「こんにちは!」

 やはり少女から返答は帰ってこない。その化粧けのまるで無い顔を多少強張らせながら、耳に手を当てるばかりだ。

「聞こえてないっぽいな」
「……耳が聞こえないのかもしれませんよ?」
「村から一番遠いという面倒な場所で畑仕事をしてるようだからな。そういうアレがあるかもしれん」
「村社会の厳しいところか……。劣るものは虐げられるという……」
「勘弁して欲しい話です」

 ペテルの後ろから口々に仲間達が多少落とした声をかけてくる。

「なら通り過ぎるのが一番か?」
「かもしれませんね」

 そう言い合っていると、少女はペテルにこっちに来るようにと手招きをする。ぶんぶんと犬が尻尾を振るような速度での手招きだ。

「どうする?」
「断るのも不味いだろうな。ほれ、見ろ」

 ダインに指され、ペテルが注意深く周囲を見渡すと、村人達が作業の手を止め、ペテルたちを真剣に監視しているのがわかった。辺境の地では排他的な空気はさほど珍しいものではないと、ペテルたちも聞いたことぐらいはある。
 つまりはそういうことなんだろうと、判断したのもそのためだ。

「今、彼女に冷たい行動を取ることはあんまりよろしいとは思えんぞ」
「全く。こっちの方が立場が強いはずなのに、なんでこんなことまで気をつかわんといけねぇのかね」
「仕方ないですよ。それに旋風の斧の名前を知ってもらうチャンスです。今後のことも考えるなら、友好的に話は進めるべきでしょうね」
「だな。仕方ない。ちょっと畑まで行ってくる」

 3人にそういうと、ペテルは畑の中に足を踏み込む。
 掻き分けるような感じで麦畑を進み、少女の近くまで寄ったところで、足に奇妙な負担が掛かる。そして小さく声が掛かった。

「おっと、そこまでですね、兄さん」

 驚愕に身を浸し、慌ててペテルが声のしたところを見れば、そこには麦畑に身を隠すようにして、麦を全身に巻きつけた小さな生き物の姿があった。ほとんど麦で隠れて顔は見えないが、人間のものではない。
 その生き物が持った刃物が、足を覆う鎧の稼動部分、そこに突きつけられている。それが原因でつっかえ棒のようになって足が止まったのだ。

「な!」

 驚き、後ろの仲間達に警告の声を発するか。そうペテルは思案し――

「悪いんですがね、武装を解除してもらいましょうかね?」

 別の場所から小さな声が上がった。そちらを視線だけ動かしてみると、顔を引きつらしている少女の足元にももう一体。いや、それだけではない。ペテルの背後にも身を潜めるように何かがいるのが気配で感じ取れた。

「少女を囮にするとは……な」
「……違いますぜ? 姐さん、自ら囮になってくれたんです」

 言われている意味が分からなく、そのまま話を続けようとしたペテルに、生き物が声をかける。

「おっと、武器を捨ててくだせぇ。それを後ろの方々にも言ってもらえませんかね? 弓で射殺したりはしたくは無いんです。あんたがたが何者なのか不明なんでね」

 ペテルは逡巡し、その生き物の言葉にまだ交渉の余地があることを感じ取る。
 亜種族だろう存在に抵抗無く降伏するのは悔しいが、まるで状況の分からない中、敵対するのは危険だし愚かな行為だ。

「命の保障はあるのか?」
「勿論ですとも。降参してくれるなら、ですがね」

 少しばかり迷い、だが、時間が無いことが分かっているペテルは即座に決定する。このままなし崩しで戦闘になった場合、非常に不利なのはペテルたち旋風の斧である。ならばすぐにでも他のメンバーに意志を伝える必要がある。

「皆! すまない。武装を解除して投降してくれ!」

 ペテルはそれだけ言うと頭の上で両手を組む。その姿を見た旋風の斧のメンバーは一瞬迷う。何が起こったのか理解できず、そしてその理由を即座に理解して。ただ、仲間を見捨てる気はこれっぽちもないが、流石に即座に武装を解除しろといわれて頷けるわけが無い。
 困惑を見て取れたのだろう。ガサリと音を立て、畑に2人の亜種族が立ち上がった。

「――ゴブリン」

 ニニャの呟き。
 立ち上がった亜種族。それはゴブリンといわれる良く知られているものである。それが矢を番え、鋭い眼光で狙いをつけている。
 やるか。
 そういう目でニニャ、ルクルット、ダインは互いの顔を伺う。ゴブリンは身長、体重、そして筋肉の付く量と人間よりも劣った肉体能力を持つ種族である。確かに闇視等を持ってるため、暗がりで襲われれば少しばかり厄介ではあるが、この日差しの下であれば、多少は冒険を繰り返した旋風の斧のメンバーからすればさほど恐ろしい相手ではない。
 その程度の相手であれば、ペテルが人質に取られてはいるが、何とか助ける自信はある。

 しかし即座に決断できない理由も同時にあった。
 旋風の斧がよく相手にする、ゴブリンとは違う何かを感じるのも事実だったのだ。一言で言えば目の前のゴブリンたちからは、訓練されている者に特有の気配があるのだ。
 茂みに身を潜めてのアンブッシュはゴブリンであれば珍しくは無い。しかしながら弓を構えたゴブリンの姿勢は、非常に堂の入ったもの。この前、モモンという都市で噂になりつつある人物と冒険したときのゴブリンのものとはまるで違う。
 あれが棒を振り回す子供であれば、これは弓の扱いになれた戦士のものだ。

 人間が訓練することで強くなるように、モンスターだって強くなる。亜種族であるゴブリンだって、それは当然の理だ。
 つまりは目の前にいるゴブリンが、旋風の斧のメンバーが今まで戦ってきたゴブリンよりも遥かに強いということは充分考えられる。
 そんな迷いが幸運を呼んだのか。畑を走る風が起こすものとは、異なった要因によって生まれた音を聞きつけ、ルクルットは慌てて視線を後ろに向ける。

「……へへ、ばれましたかね?」

 そこには、畑から顔を出し、おどける様に舌を出すゴブリンがいた。こっそりを後ろに詰め寄ろうとしていたのだろうが、レンジャーであるルクルットを騙すほどの隠密能力は無かったようだ。
 周囲を見渡せば麦畑のあちこちに何者かが潜んでいる動き。

「……囲まれてるか」
「降参ですね。どれだけいるか不明な状態ではいかんともしがたいです」
「……血路を開くとかどうよ」

 仲間を信頼できるがゆえ――3人揃っているために決断しきることができない。本来であればリーダーの判断に即座に従う彼らが迷っていたのもそんな理由のためだ。
 しかし彼ら3人の迷いを最後に打ち消したのは、村の門を開き、姿を見せた者たちによってだった。

「あれは……なんだと……?」
「オーガ!」
「いや、あれは一体……!」

 姿を見せたのは旋風の斧のメンバーも良く知っているオーガである。だが、その身を包むのは金属鎧。そしてその手に収まった巨大なグレートソード。金属の光沢眩しいそれは、しっかりと磨き上げられたものだ。
 恐らくは一級品のそれを纏ったオーガが5体。門から姿を見せ、そこそこの速さで3人に向かって進んでくる。一歩一歩の歩幅が広いため、異常な速度にも感じられた。

 3人ではゴブリンも含めると、勝算はかなり低い。いやそれどころか無いかもしれないほどだ。焦りが動揺を生み、動揺が混乱へと変わる。しかしながら、いつまでの混乱しているわけにはいかない。
 そう完全に理解できた3人は決断し、自らの頭の上で手を組んだ。

「――降参」





「申し訳ありませんでした!」
『――した!』

 それがエンリと名乗った少女の第一声である。そして付き従うゴブリンたちの詫びの言葉だ。
 一斉に頭を下げるその姿は、そのしっかりとした規律を感じさせた。

 ゴブリンやオーガといった亜種族は基本的に人間に敵対する場合が多いために、冒険者がよく狩る相手だ。不意を打って殺すことも多いため、このような態度を取られるとどうも気まずい思いが湧き上がる。
 それにペテルもあまり強く出れない事実がある。

 ペテルは目の前で頭を下げるゴブリンを見渡す。
 スペルキャスターっぽいゴブリン、魔法の大剣を所持した屈強な戦士を感じさせるゴブリン。高品質の武装を整えたゴブリンたち。
 自らが今まで考えていたゴブリンという存在が、どれだけ侮った考えの元に作られたイメージか。無知さを突きつけられたような、世界の広さを思い知らせるような、精鋭ゴブリンとも言うべき存在たちである。

 ペテルたちは口に出さずに、全員が思っていた。
 戦えば死んでいただろう。これほど強いゴブリンたちがいたとは、と。

「……ああ、まぁ、気にしないから頭を上げてください」
「まさか、私が村長に言われて出した募集の要項の調査にこられた方だったなんて」
「いや、仕方ないですよ。うん、色々とあったわけですし、警戒するのも当然ですしね」

 ペテルは笑う。しかし見るものが見れば、その顔に微妙な暗さがあるのが分かっただろう。それは自分達が敗北をしたことに起因するものだ。それも手も足も出ずに言い様にあしらわれたというのがある。
 冒険者は命を賭けて、夢を追い求めるもの。つまり、彼らの旅はいついかなるときでも命の危険があるものだ。
 そのため敗北は死に繋がりかねない。今回のゴブリンとの遭遇は、命が救われる可能性が多少なりとも感じられるから降伏を選んだのだが、戦いを挑めば夢半ばに躯を晒したはずだ。

 そう。ペテルは自らの力量に対する自信が揺らいでいた。
 冒険者にとって、引退する理由の1つになる『死への恐怖』。話には聞いていても自分に降りかかってみないと分からないそれを、この瞬間、実感していたのだ。

 しかしながら、それでも仕事をこなそうという意欲まで完全に失われたわけではない。ペテルは顔に笑みを無理に作ると、エンリに尋ねる。

「取り合えずはどうしましょうかね?」

 場所は先ほどの麦畑。疑問や不審感が解けたというのなら、このままここにいるのもどうかと思われる。

「そうですね。とりあえず、村長に知らせてきます」
「はい、よろしくお願いします」

 後ろを見せ走っていくエンリの後姿を見送りながら、先ほどとは少しばかり口調を変え、ゴブリンのボスのような魔法の剣を持った者にペテルは尋ねる。

「まさか常時こんな警戒を引いているのか?」

 畑の中に隠れていたゴブリンのことを指した言葉に、ゴブリンは薄い笑いを浮かべた。

「まさか。あんたらが周囲を迂回しつつ動いているのが確認できましたので、こっちに村人の方々を集めて待っていたわけですよ。あんたらが何らかの行動にでようとした場合、村人がいればそちらに近づくでしょ? そんなわけで罠を張って待っていたというわけです」
「村人を餌に罠を仕掛けたということか」

 確かに人質を取るにせよ、村人に近寄るのは当然だろう。もしそんなことをしないタイプの者であれば、周囲を迂回してどうのなんていう面倒な手はとらないだろうから。
 ペテルの言葉に、ゴブリンが僅かに嫌な顔をする。

「それであの少女を餌にしようって考えたわけだ。上手い手だな。耳が遠い振りをして誰かを畑に招く。そりゃ畑だ。全員で踏み込むわけには行かないと判断するだろうからな」

 舌打ちを付くような態度でルクルットがぼやく。それを聞き、ゴブリンのリーダーらしき大柄のものが牙をむき出しに、不満顔を作ると言った。

「おうおう、何か勘違いしてるみたいだな。俺達がエンリの姐さんを危ない目にあわせたいと思ってるとか考えてるのか?」

 姐さん。
 その言葉に旋風の斧のメンバーに違和感を感じさせながら、ゴブリン・リーダーは続ける。

「勘違いしないでほしんだがね。姐さんが自分が囮になった方がより上手くいくと言われて、どうしてもということで仕方なしにしたことなんだよ」
「確かに、あの少女であれば警戒も薄れたのも道理だが……」
「おいおい、信じてねぇな? ちと考えれば当たり前だろ。俺達が仕える人を餌にするもんかよ」
「は?」
「……何ですって? 今……」
「仕える?」
「何を驚いていやがるんだ? あの方、エンリさまこそ、俺達ゴブリンとオーガが仕える主人だぞ?」

 旋風の斧のメンバーから決して小さくは無い驚きの声があがる。

「馬鹿な! あの娘は単なる村人だろ?」

 歩運び、体のつくり。どれを見ても一般人だとしか思えなかった。そんな女性が旋風の斧では勝てないだろうと判断するゴブリン集団を支配しているというのか。
 ありえないという思いが支配するのも当然だろう。いや、認めるわけにはいかない。

「分かりました! 交渉担当とかの顔ということですね?」

 ニニャの言葉に、ゴブリンリーダーは牙をむき出しに笑う。

「そんなわけねぇだろ。俺達はあの姐さんが心の底から本気で死ねといわれたら、死ぬのが当然だ。そう考えてるんだぜ?」

 そのゴブリン・リーダーの言葉に嘘はこれっぽちも感じ取れなかった。上辺だけの薄っぺらい言葉とは違う、重みを感じさせたのだ。
 絶句し、言葉を続けられない旋風の斧のメンバーに。ゴブリン・リーダーはさらに続ける。

「大体、姐さんが俺達の武装を強化したんだぞ? ほれオーガの鎧や武器。ゴブリンの武器などもな。そんな人が顔ですむ訳無いだろうが」

 オーガやゴブリンのしっかりとした鎧は下手すると、旋風の斧のメンバーが持つものよりも優れたもののようにも見えた。ならば、それはエンリという少女がそれだけの物を集めるだけの何かを持つということに他ならない。
 そして駄目押しがゴブリン・リーダーの口から投じられる。

「ちなみにこの魔法のグレートソードはエンリの姐さんを重要視している方からのプレゼントみたいなもんだぞ?」
「馬鹿な……」
「凄い魔力ではないでしょうけど……プレゼントって……」

 オカシイだろ。
 旋風の斧の誰もがそう思い、言葉にすることは出来ない。
 魔法の剣は高額である。最も弱いものでも、彼らのようなまだまだランクの低い冒険者であれば、今までの冒険で得た全部の報酬を全員分纏めれば買えるだろうという手の届かないレベルのものだ。
 つまりはそれほどの物を容易く貰うだけの価値、もしくはコネクションを持つ。あのエンリという少女は何者なのか。そんな思いが彼らの頭を支配する中――

「お待たせしました!」
「ひぃ!」
「うぉ!」
「うわ!」
「おぉ!」
「……どうかしましたか?」

 心臓が口から飛び出したような、そんな驚きの表情を浮かべたペテルたちに、戻ってきたエンリが尋ねる。すこしばかり息の切れたエンリをしげしげと眺める一同。

「……どうかしましたか?」
「いえ、そんなこと無いです!」
「全くです。さぁ行きましょう」
「そうですね。ここでこれ以上話す理由も無いでしょうし」
「その通りですな」

 全員の口調が変化していた。最も変わっているのはルクルットか。
 そんな4人を不思議そうにエンリは眺め、自分では良く分からないと判断したのか、それとももっと先にやらなくてはならないことを思い出したのか。4人を村へと案内する。



 ■



 検問所で兵士はぼんやりと外を眺めていた。
 今日もこの時間にもなるとやはり人の出入りが少なくなる。そうなるとやはり暇を持て余してしまうのだ。
 幾つかのくだらない話を他の兵士としていると、1人の兵士が思い出したように口を開いた。

「そうそう、つい最近の話なんだが……聞いたか? カルネ村には傭兵団が在中しているらしい」
「カルネ村?」

 兵士は聞いた名だと思い出し、直ぐに思い出す。
 数日前にあれほど印象付けられた少女が来た村の名前を忘れるはずが無い。そんな物思いにふけっていた兵士を見て、興味が無いために上の空だとと勘違いしたのか、仲間はさらに話を続ける。

「なんでも冒険者がカルネ村に行ったら、亜種族によって構成された傭兵団がいて、それを指揮しているのがその少女だという話だ」
「亜種族?」
「ああ、なんでもオーガやゴブリンによる傭兵を指揮しているらしい」
「オーガやゴブリン?」

 兵士は驚き、仲間の顔を見る。

「な、驚きだろ? あんな知性の低い奴らを部下にするなんて」

 正気でも無いと言わんばかりの仲間に、傍で話を聞いていたのだろう部屋にいた別の兵士が口を挟んだ。

「甘いって」
「何がだよ?」
「ゴブリンやオーガは確かに頭は悪いぜ? 奴らにとっての判断基準は自分達より強いか弱いかだ。でもあいつらは強いぜ?」
「そりゃそうだろ?」

 オーガは人間を超えた体躯の存在だ。人間とでは基本的な能力が違いすぎる。よほど剣の訓練をしたものでなければ、一対一での勝利はおぼつかないだろう。

「おいおい」仲間の簡単な答えに兵士は苦笑いを浮かべ、より細かい説明を行うこととする。「なら、逆に自分が圧倒的に強かったら、優秀な兵にもなりかねないって事だぜ? オーガ1匹でも俺達何人分の強さだよ」

 最初に話しかけてきた兵士が驚きの表情を浮かべる。

「そうか。そりゃそうだよな。オーガとか普通の人間よりも強いものなぁ。ゴブリンは微妙だが……」
「甘めぇなぁ……」もう1人の兵士が指を左右に振る。「ゴブリンだってピンキリらしいぜ? ものによっちゃ魔法を使える者だっているし……ほれ、聞いたことあるだろ? ゴブリン王の伝説とか」
「ああ!」

 兵士は素っ頓狂かつ荒唐無稽であるがゆえに人気のある物語を思い出し、納得の声を上げた。
 物語に出てくるゴブリン王はドラゴンと一騎打ちを行い、容易く勝利を収めたとか、そのドラゴンに乗ってより強大な存在に戦いを挑んだとか、人間の姫との間に子供をもうけたとかという無茶苦茶な存在だ。
 まさに物語であり、その持つ武器もまた物語に相応しいもの。巨大なトネリコより削りだしたという一本の枝である。

「……でもあれって物語だろ?」
「いや、まぁそうだけど。昔聞いたことがあるんだよ。強いゴブリンだっているってな。そりゃあのゴブリンの王様のような強さはねぇだろうけどな。あんまり下に見ると痛い目を見るぜ。だいたいホブゴブリンという存在だっているじゃねぇか」
「そっか。そうだな。外見で判断すると痛い目をみせられるのが、おれたちの職場だしな」兵士は頷き、眉を顰める。「じゃぁその女は馬鹿と判断するんじゃなく、どれぐらいかは不明だがゴブリンとオーガを支配できるほどの……力を持っていると判断すべきということか」
「そうだぜ。しかも単純に考えて、オーガ数匹を支配できるんだろ? よほどの力があると思った方が良いだろうな」

 初めて単なる愚かな女から、オーガやゴブリンを支配するだけの力を持った存在と認識、兵士は恐れを込めた声で尋ねる。

「何もんだよ、その女。どんだけ強いんだよ」
「オーガやゴブリンを支配するとなると、冒険者で現すと……Aとかか? Bでも出来るのかねぇ? その辺は良くわからんな」

 色々と考えを言い合う仲間達から思いをそらし、兵士は自らの考えに没頭する。浮かんでいる人物は、あの時出合った少女だ。
 エンリ。
 恐らくはあの少女こそオーガやゴブリンを支配している女性だろう。いや、他にもいるという可能性はあるが、非常に低いと断言しても間違いではないと思われた。
 力は単純に支配力を発揮するものだ。特に頭の悪い、力を主と考えるもの達には。
 つまりはオーガやゴブリンを支配するということは、エンリがそれだけの力を持っているということの証明でもあるということだ。

「血塗れのエンリか……」

 無論、これは彼の頭の中の妄想にしか過ぎない。
 初めて会ったときに血にまみれたような生き方をしてきたかもしれない、そんな妄想を抱いたのを思い出しただけだ。
 そう、そんな妄想を小さな言葉で漏らしただけのことにしか過ぎなかったのだ。

 ――この瞬間までは。

 そんな彼の言葉をさりげなく聞く者がいなければ。
 非常に心が篭ったような呟きに、真実味を感じ取る者がいなければ。

 そんなことにはならなかっただろう。



 ――カルネ村には傭兵団がいる。
 ――その団長は血塗れのエンリというらしい。
 ――オーガやゴブリンを使役している。



 エ・ランテルはある意味前線基地にもなりかねない都市である。そのため、普通の都市とは話題の興味対象が違う毛色が強い。特に傭兵団とか強者の情報は権力者が故意的に止めようとしなかった場合、非常に流れやすい面を持つ。
 
 カルネ村に突如現れた謎の傭兵団の団長の話題は、一気に燃え上がるように知られ始めた。
 そしてこの者の元に情報が届く頃には――


「……知っているか? カルネ村には『血塗れ』エンリという傭兵団長がいるらしい」

 プヒーという感じで鼻から激しく息を吐き出し、エ・ランテル都市長であるパナソレイ・グルーゼ・ヴァウナー・レッテンマイアは前に座ったギルド長であるプルトンに尋ねる。

「ええ、知っております」

 『血塗れ』のエンリ。
 伝え聞く話ではゴブリンやオーガからなる傭兵団を指揮し、現在カルネ村に滞在している人物だ。出身がカルネ村であるという記録自体はあるものの、本当に同一人物かは確証は取れていない。
 いや、エンリという人物の記録はあるが、『血塗れ』のエンリという人物の記録は無いというのが正解か。

「それで? 裏は取れたのか?」
「いえ」

 プルトンは顔を左右に振った。パナソレイより命じられ、秘密裏に裏を取ったがまるで情報が入らなかったのだ。

「そんなことがあるのか? 傭兵団を指揮しながら、他の傭兵達に知られないということなぞ?」

 パナソレイがプヒーと激しく鼻息を噴く。

 そう。プルトンに命じたのは、傭兵としての『血塗れ』のエンリという人物の記録を探させたのだ。人間では無くオーガやゴブリンという亜種族を団員にする傭兵団であれば、人間が主となっている王国や帝国では非常に目立つ。そのため簡単に情報は集まるだろうと思われたのだが、実際はまるで正反対という結果に終わった。
 まるで空気から生まれたかのように、突如として『血塗れ』のエンリと指揮する傭兵団が浮かび上がってきたのだ。それほど構成が目立つ傭兵団でありながら、過去を残さないなんて行いが可能だというのか。

「分かりませんが……もし隠していたとするなら、かなり強大な権力の持ち主が裏にいる場合かと」
「……帝国と『血塗れ』に繋がりがあるという線が浮かぶということか? いや、帝国よりはアーグランド評議国か。法国は絶対に無いだろうし、ローブル王国も考えられないか」

 亜種族の国である評議国であれば、ゴブリンやオーガの傭兵はパナソレイも伝え聞いたことがある。

「……あとは最近結成したという可能性もあります。この頃、理由は不明ですが、大森林からモンスターが外に出てくるという事件が起こってるようです。その関係でゴブリンやオーガが部下になったという可能性も無いわけでないかと」

 パナソレイは黙ってプルトンの説明を聞いてから、重々しく1つの質問を口にした。

「プルトン……魔法使いが亜種族を支配するのは珍しいことか?」
「おっしゃられている意味が分かりかねるので、ちゃんとしたお答えになるかは自信がありませんが……邪悪な魔法使いが自らの周囲を守らせるために、部下にする場合があります。ご存知のようにゴブリンやオーガといった亜種族は強いものに従う傾向がありますから」

 プヒーっとパナソレイは荒く鼻息を吹くと、我が意を得たりと大きく頷く。

「ならば話は早い。思い出して欲しいのは帝国……いや法国だろうが、その工作員が村を荒らしまわっていた件だ」

 その短い話からパナソレイが言いたいことを読み取ろうとし、やがてプルトンの顔に理解の色が浮かぶ。
 強大な魔法使い、アインズ・ウール・ゴウン。恐らくは帝国主席魔法使いに匹敵するのでは、そう考えられる存在。それほどの大魔法使いが、何故、カルネ村を救いに行ったのか正直不明だった。
 パナソレイもプルトンも、アインズという大魔法使いが善意で行動する心優しき者と考えるほど、純粋無垢な人間ではない。そのため何故なのかということは色々と調査していた件でもある。だが、ここで繋がる糸が出てきたのではないかとパナソレイは言っているのだ。

「……かの大魔法使いが『血塗れ』にオーガやゴブリンの部下を与えた?」
「可能性は高かろう。騎士のようなモンスターを使役していたという情報があったのだからな」
「ガゼフ様の話ですね……」

 プルトンは大きく頷く。最もありえそうだと考えて。

「つまりはかの強大な魔法使いがカルネ村を救いにいったのは『血塗れ』を助けに行った……。いや、『血塗れ』に直接力を行使させるのを避けるため?」
「もし直接力を行使したのなら、なんのかんの理由をつけてエ・ランテルまでつれて来れたからな。そしてアインズは『血塗れ』にオーガやゴブリンの部下を渡した」
「……矛盾がありませんね。ただそうなると『血塗れ』が単なるアインズの関係者で終わるのか、それとももっと別の意味を持っている人物なのか……。結局、何者かという問題がでてきますが……」
「……カーミラの件といい、『血塗れ』といい頭の痛いことばかりだ」

 パナソレイの搾り出すような声に、プルトンはしみじみと同感する。

「全くです。あまりにも情報が足りていません」
「ほんと……厄介だな」

 プヒーとパナソレイの鼻から、草臥れた息が漏れる。

「冒険者を動かして情報を集めますか?」

 パナソレイの瞳がプルトンを映し出し、そして左右に揺れる。しばらくの時間が経過し、パナソレイが口を開いた。

「……いや止めておこう。どうにせよ、後ろに化け物ごとき魔法使いであるアインズ・ウール・ゴウンがいる可能性は非常に高い。藪を突いてドラゴンを出す必要もなかろう」
「では、放置しますか」
「それもなぁ……」

 パナソレイが頭を抱え込んだ。
 当たり前だ。名前を偽っていた場合の本当の目的や、アインズ・ウール・ゴウンとの関係。あまりにも情報が足りていないのだから。
 このエ・ランテルのように戦場になりかねない都市を預かる者として、ある程度の戦力となるものの情報はしっかりと入手しておかなくてはならない。最低でもアインズという人物となんらかの関係があるほどなのだから、それなりの腕は立つのだろうと思われる程度だ。

「しかし……『血塗れ』のエンリの話……突如沸きすぎだな」
「はい」プルトンは頷く。「……情報の出所を追いかけるとすると、結構大きく動くことになってしまいますので、止めておきましたが、他の都市ではその名前を聞いたことはないようです」
「調査を打ち切ったのは、正解だ。しかし……何故、エ・ランテルでのみ聞かれているんだ? ……どう考えても理解できん。何が目的なんだ? 『血塗れ』なんていう人物の名を広めることになんの理由がある? 我々と敵対する意志はないと思っていたのだが……まるで予想も付かん」

 パナソレイは大きくため息をつく。
 これほど情報を不足しているということが、全然相手の行動を読めなくするとは思ってもいなかったと。

「モモンを使ってみますか?」
「……そりゃ……いいかもしれん」

 2人の脳裏に浮かんだのは、『血塗れ』に匹敵するほどの未知の力を持った冒険者だ。いや完全に未知の『血塗れ』と比べるなら、ある程度はその力は分かっている。その信じられないような力は。
 魔法を完全に無効化するスケリトル・ドラゴンを剣の腕だけで退治し、第3位階魔法を使いこなす、まさに魔法剣士。恐らくはエ・ランテルにいるどんな者よりも単騎では強いと断言できる冒険者だ。
 さらにはアーティファクト級のアイテムを持ち、桁外れの吸血鬼――カーミラと戦うことが出来ると豪語する人物。下手すると13英雄に並ぶかもしれないだけの、量外の力を持つだろうと推測が立つ人物。
 内に取り込もうとしているが、上手く行かない相手でもある。

 後ろにはアインズ・ウール・ゴウンという想像を絶する魔法使いがいることも考えれば、下手な行動を取るよりは正解かもしれない。特にモモンに依頼することで、間接的にその後ろの存在の動きを確かめるというのは悪い考えではないだろう。

「しかしどうやって動かすか」
「普通に仕事を依頼してみては?」
「そうだな……」

 腫れ物に触るようなパナソレイの逡巡を見、仕方が無いとプルトンは頷く。
 金に興味は無く、女にも興味の無かった男だ。どうやれば上手く、相手に不快感を抱かせないように動かすことができるかと考えているのだろう。『血塗れ』とモモンがアインズという糸でしっかりと繋がっていた場合――ほぼ確定だろうが――裏を取ろうという嗅ぎまわる行為がどのような結果になるか。

 モモン、そしてその背後のアインズ。
 たった2人の人間を、権力者であり、充分な力を持つ都市長パナソレイが警戒するというのも可笑しな話だが、警戒するだけの価値はある人物達だ。
 今回はそれに加えて『血塗れ』という人物が現れることとなったのだが。

「もう、勘弁してほしいものだ……」

 パナソレイの呟いたその言葉。
 もし今の自分の現状を知っていたら、カルネ村の少女も同じ叫びを上げていただろう。






――――――――
※ おかしい……外伝は短くとか思っていたのに、84.5k。……もう短い話がかけないよ……なんでだろう?
 えっと、あるキャラの立場が微妙に変化していたり、謎の新キャラが出てますが、そのうちこうなった理由とか分かると思います。時間軸的には王都の後になりますので。
 うーん、推敲が練れてないなぁ。まぁ、うん。




[18721] 設定
Name: むちむちぷりりん◆bee594eb ID:c00f733c
Date: 2011/10/02 06:44
ナザリック大地下墳墓:ユグドラシルのギルドとしては悪名高いアインズ・ウール・ゴウンの本拠地。その難攻不落度は1500人からなる討伐隊をたった41人で跳ね返したほど。10階層構成だが、最大で8階層までしか攻め込まれたことがない。

 アインズ・ウール・ゴウン(モモンガ) :主人公のはず
(ペロロンチーノ、ぶくぶく茶釜、るし★ふぁー、ヘロヘロ、ブルー・プラネス、弐式炎雷、たっち・みー、ウルベルト・アレイン・オードル、やまいこ、タブラ・スマラグディナ、餡ころもっちもち):かつてのアインズ・ウール・ゴウンの仲間。

 セバス・チャン :ナザリックのランドステュワード
 シャルティア・ブラッドフォールン :トゥルーヴァンパイア、1階~3階の守護者
 ガルガンチュア:戦略級攻城ゴーレム。4階の守護者。守護者ではないけどそうなっている。
 コキュートス :昆虫系(外見上は)モンスター、5階の守護者
 アウラ・ディベイ・フィオーラ :ダークエルフ、6階の守護者
 デミウルゴス :悪魔系モンスター、7階の守護者
 パンドラズ・アクター :宝物殿の守護者。厳密には守護者ではない。
 
 恐怖公 :謎の存在。守護者ではないけどある一区画の守り手。同族の無限召喚を行う能力を持ち、戦闘方法は凶悪そのもの。ただ、レベル的には大したことは無く、実のところ30レベル。
 ニューロニスト・ペインキル :ナザリック大地下墳墓特別情報収集官(拷問官)。好きな食べ物は脳みそ。ふくよかな肉体の持ち主で、アインズに呼ばれれば直ぐにベットにも行くと言うほど。アインズハーレム計画第一号。
 楽師? :SECRET

 ペストーニャ・ワンコ :メイド長。犬。守護者に続くレベルの神官。ナザリックの優しさ2巨頭の1人。
 ティトゥス・アンナエウス・セクンドゥス :司書長。スケルトン・メイジ。

 ユリ・アルファ :デュラハン、格闘家、戦闘メイド(夜会巻き)1。お姉さんキャラな、ボク娘。
 ルプスレギナ・ベータ :SECRET、神官、戦闘メイド(三つ編み)2。褐色の肌の、食欲旺盛キャラ。
 ナーベラル・ガンマ :ドッペルゲンガー、魔法使い、モモンという名前で冒険者やっている。戦闘メイド(サイドテール)3。
 シーゼットニイイチニイハチ(シズ)・デルタ :オートマトン、ガンナー、戦闘メイド(ポニーテール)4。
 ソリュシャン・イプシロン :捕食型スライム、アサシン。戦闘メイド(シニョン)5。
 エントマ・ヴァシリッサ・ゼータ:SECRET、魔法戦士、戦闘メイド(サイドアップ)6。

 一般メイド :ホムンクルス。戦闘能力は無いです。


 ピニスン・ポール・ペルリア :ドライアド(木の妖精)。トブの大森林よりアウラにスカウトされて第6階層へ。他にも何人か仲間と一緒。



バハルス帝国(帝都アーウィンタール):かつては封権国家だったが、鮮血帝が一気に有力貴族を根絶やしにするなど、貴族の力を奪ったことによって絶対王政を敷きつつある。これらの行為が行えた背後には、鮮血帝の祖父に当たる人物の代からの、皇帝直轄の軍隊(現在の騎士)を保有するという軍備面での強化があったためである
 ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス :鮮血帝。この世界における最高峰スペック保有者。カリスマMAX。
 フールーダ・パラダイン :帝国最高の主席魔法使い。年齢は268歳。かなり高位の魔法まで使いこなし、13英雄クラスの力を持つとされる。

『雷光』バジウッド・ペシュメル :帝国最強の4騎士(『重爆』『不動』『雷光』『激風』)筆頭。ちなみに雷光というのは武器から来ている2つ名である。ミスリルの軽量化された全身鎧、アダマンティン製の武器所持。

 それと4騎士は全員以下の装備を基本で持つ。ガントレット・オブ・ストレングス(筋力向上)、アミュレット・オブ・ヘルス(毒、病気に対する抵抗にボーナス)、ベルト・オブ・コンスティチューション(耐久力向上)、リング・オブ・レジスタンス(魔法抵抗力ボーナス)、リング・オブ・プロテクション(防御力向上)、グリーブ・オブ・クイックマーチ(移動速度向上)、マント・オブ・エレメンタルプロテクション(属性ダメージ緩和)、シャツ・オブ・キュアウーンズ(低位治癒魔法を1日1回だけ使用できる)、ヘルム・オブ・マインドガード(精神攻撃抵抗ボーナス)等の魔法のアイテムで身を固めている。さらにポーションを最低1,000金貨分所持している。


 ワーカーと呼ばれる薄汚れた仕事もこなす、冒険者のドロップアウト組
『フォーサイト』
 ヘッケラン・ターマイト :二刀流の戦士でありチームリーダー
 ロバーデイク・ゴルトロン :神官
 アルシェ・イーブ・リリッツ・フルト :若き魔法使い。特殊な才能持ち。
 イミーナ :ハーフエルフの盗賊

 グリンガム :『ヘビーマッシャー』というワーカーチームのチームリ-ダー
 パルパトラ :『鉄壁』といわれる戦士。
 エルヤー・ウズルス :『天武』というワーカーチームのチームリーダー。剣の天才。


リ・エスティーゼ王国:王が全領土の3割を、大貴族が3割を、そして様々な貴族が4割を握る封建国家。現在は王派閥と対立派閥の2つに分かれて権力闘争を行っている。それがかなり致命的なために、帝国の侵攻が無ければ国が割れたと思っている者も多い。現在の王が隠居しないのはその所為でもある。
 ランポッサⅢ世 :リ・エスティーゼ王国国王
 『黄金の』ラナー・ティエール・シャルドロン・ランツ・ヴァイセルフ :NAISEIチート。超美人
 クライム :ラナー付きの兵士。超絶努力家。童貞。
 ガゼフ・ストロノーフ :王国最強の兵士。もともと地位の低いけど、剣の腕のみでののし上がった人。

 ツアレ :よくいる系の設定(むちむちぷりりん風味)をした女性。年齢は20歳ぐらい以上の設定は……本名はツァーレ。ニニャの姉であり、13歳の時貴族に連れて行かれ6年妾を、そして飽きた貴族に売り飛ばされ地獄を4ヶ月経験した。だった筈。

『蒼の薔薇』 王国最強の女冒険者集団 王国に存在するA+冒険者パーティーの片割れ
 ラキュース・アルベイン・フィア・アインドラ :金髪ドリルの美しき神官戦士。13英雄が持っていた武器の1つを所持していてヤバイ。
 イビルアイ :仮面で顔を隠した謎の魔法使い。いろんな意味でヤバイ。※作者注:本来であればこの世界の設定上、イビルアイという名前はおかしいのですが、これ以上に良い名前が浮かばなかったので、故意的に無視しました。深い意味はあんまり無いので気にしないでください。
 ガガーラン :色んな意味で名高い戦士。出落ち的な意味でヤバイ。
 ティナ :元イジャニーヤ。3つ子の1人。レズでヤバイ。
 ティア :元イジャニーヤ。3つ子の1人。ショタでヤバイ。


 8本指 アンダーグラウンドの集団
 ゼロ :8本指の序列第2位。第2位ではあるが、戦闘能力では追従を許さないほど高く、8本指最強の男。外見は全身に刺青を彫った禿の巨漢である。
 ゼロというのは己を超えるものはいないという自負でつけた名前ではあり、事実、拳の戦闘ということに限定して考えるなら恐らくは王都最高クラス。ガゼフとも互角に戦えるだけのものがある。同じモンクでも既に作中に出たリザードマン、ゼンベル程度であればほぼ完勝できる。
 モンク系列のシャーマニック・アデプトというクラスを保有しており、全身の刺青はそのクラス能力とスペルタトゥー(呪文印)という特殊なマジックアイテムから来るものである。
 彼の刺青は動物の霊魂を宿したもので、シャーマニック・アデプトはその動物の肉体的能力を自らに憑依させ使うことが出来るのだ。
 そんな彼の3つの刺青、足のパンサー、背中のファルコン、腕のライナサラスを同時に発動して突撃する『猛撃一襲打』は桁外れの破壊力を保有している。
 彼の勇姿は王都4で公開される予定である。刮目して待て!

 ルベリナ :8本指の序列第3位。ゼロに続く戦闘能力を保有する人物である。
 中性的な美貌を持つ人物。ただし着ている服装は男のものである。いつでも優しげな微笑を浮かべているのだが、内面は非常に歪んでおり、人が苦しむ顔を見るのが好きだという性癖を持つ。そのため娼館内で処分を担当する場合も多く、ルベリナが殺した人数は8本指最多であろう。ちなみに性別は女であるが、8本指でもそれに関して話題にするものはいない。昔はいたのだが、満面の笑みを浮かべたルベリナに酷い殺され方をして以来、話す者はいなくなった。
 ルベリナは『心臓貫き<ハート・ペネトレート>』といわれる魔法のレイピアを所持している。そしてデュエリストというクラスについており、相手が1人の時にその戦闘能力の真価が発揮されるだろう。ちなみに回避能力と命中能力を高めた訓練を受けてきているため、確実にダメージを与えることに長けている。
 それと実のところ切り札として、第一位階までだが魔法を使用することができる。
 かなり強い魔法の剣であるハート・ペネトレートは、刺突ダメージの上昇と急所命中時のダメージ量を大幅増大させる武器だ。生半可な鎧であれば紙のように貫いてしまうだろう。
 彼女の勇姿は王都4で公開される予定である。刮目して待て!



城塞都市エ・ランテル:リ・エスティーゼ王国の王直轄の都市。帝国、法国との国境付近に位置するため三重の城壁によって守られた城塞都市。この都市まで攻められたことは無く、帝国との戦争はこの付近で行われるため、もっぱら食糧倉庫として使われることが非常に多い。
 そんな場所のため傭兵等が多く、普通の都市より戦争方面に傾いた雰囲気が強い。
 パナソレイ・グルーゼ・ヴァウナー・レッテンマイア:エ・ランテルの都市長
 プルトン・アインザック :冒険者ギルド長。40前半
 テオ・ラケシル :魔術師ギルド長。30後半
 
 ギグナル・エルシャイ :地神に仕える高位神官。冒険者で評価するならAクラス。30後半

 リィジー・バレアレ :エ・ランテル在住の薬師にして魔法使い。老婆。
 フェイ・バレアレ :リィジーの孫娘。自身も薬師である。
 バルド・ロフーレ :食料品関係の取り扱っている大商人。エ・ランテルでは結構な権力者。

 バニアラ :ランクの低い冒険者。ファイター。

 イシュペン・ロンブル :ギルドの受付嬢。モモンを宿命のライバルと見ている。
 ウィナ・ハルシア :ギルドの受付嬢。普通の感性を持った人。(お)尻が多少でかい(大きい)。

『旋風の斧』 Eクラス冒険者
  ペテル・モーク :ファイター
  ルクルット・ボルブ :レンジャー
  ニニャ『ザ・スペルキャスター』 :ウィザード
  ダイン・ウッドワンダー :ドルイド


野盗
 ザック :単なる野盗。ソリュシャンに美味しく(?)食べられました。言葉どおりの意味で。
 ブレイン・アングラウス :ガゼフとかつて御前試合で決勝戦を争った男。天賦の才を持った刀使い。


カルネ村
 エンリ・エモット :単なる村娘。16歳。姉
 ネム・エモット :単なる村娘。妹
 ゴブリン・トループ :エンリの忠実な部下19名。内訳はレベル8ゴブリンが12体、レベル10ゴブリン・アーチャーが2体、レベル10ゴブリン・メイジが1体、レベル10ゴブリン・クレリックが1体、レベル10ゴブリン・ライダー&ウルフが2体、レベル12のゴブリンリーダーが1体。


リザードマンの部族
 ザリュース・シャシャ :旅人のリザードマン。4至宝の1つ、凍牙の苦痛<フロスト・ペイン>を持つ。
 クルシュ・ルールー :朱の瞳<レッド・アイ>族長代理、祭司の力に長けたアルビノのリザードマン。
 ゼンベル・ググー :竜牙<ドラゴン・タスク>族長、モンク。片腕がぶっとい。
 シャースーリュー・シャシャ :緑爪<グリーン・クロー>族長。ザリュースの兄。
 ロロロ :4本頭のヒドラ。


アーグランド評議国:リ・エスティーゼ王国の北西に存在する山に囲まれた都市国家。複数の種族の亜人によって作られた都市であり、現在かなり種類の亜人が共存している。都市の管理運営は各亜人種族から選出された評議員による議会制であり、特に目を引くのが永久議員である5匹のドラゴンの存在である。評議国の冒険者は亜人が基本である。スレイン法国との仲は非常に悪く、互いに嫌悪しあっている。人間も少しはいる。
 周辺のシー・リザードマンやマーマンといった海の種族もアーグランド評議国に属している。
 ツァインドルクス=ヴァイシオン(ツアー) :『プラチナム・ドラゴンロード』。永久評議員の5匹のドラゴンの内、最強のドラゴン。『始原の魔法(ワイルド・マジック)』を使える。
 スヴェリアー=マイロンシルク :『ブルースカイ・ドラゴンロード』、出番は当分無い。
 オムナードセンス=イクルブルス :『ダイヤモンド・ドラゴンロード』、出番は当分無い。
 ケッセンブルト=ユークリーリリス :『オブシディアン・ドラゴン』、出番は当分無い。
 ザラジルカリア=ナーヘイウント :『ワーム・ドラゴン』、出番は当分無い。


ローブル王国:リ・エスティーゼ王国の南西、スレイン法国の西方にある国家。数年間の徴兵制を取っているために、ある程度の年齢に達した男性はほとんどが多少は武器を使いこなせる。王国を取り囲むように要塞線がある。

 アベリオン丘陵:ローブル王国、スレイン法国の間にある広大な丘陵地帯。かつては丘小人の王国があったが、ゴブリン、オーガ、オークなどの亜人種に滅ぼされた。現在は亜人種が無数の部族を作り、日夜争う無法地帯である。他にもダークドワーフが住んでおり、ゴブリンやオーガ、オーク等の奴隷と交換に、金属製装備品を提供しているのもまた紛争に拍手をかけている。スレイン法国が数度の大規模討伐を行ったが、一時的な間引きになった程度である。

 エイヴァーシャー大森林:アベリオン丘陵南方の森林。SECRET


スレイン法国:6大神を信仰する宗教国家。基本的に周辺国家は4大神を信仰するために、仲が良いとは言えない。国力は周辺国家最大であり、軍事力も長ける。しかし人間こそ選ばれた民であるという宗教的概念より、亜人等の討伐に全力を尽くしているために周辺国家に対しての軍事行動を起こしたことは無い。ただし、ちょっとした謀略は行っているようである。
 6大神官長 :SECRET
 最高神官長 :SECRET
 3局院長 :SECRET
 6の巫女姫 :水の巫女姫、火の巫女姫、風の巫女姫、土の巫女姫、光の巫女姫、闇の巫女姫の6人。全員、神官系の5位階魔法の使い手だが秘密あり。


その他
 13英雄 :御伽噺で語られる英雄。200年前の人? 構成メンバーは死者使いのリグリット・ベルスー・カウラウ、暗黒邪道師、魔法剣士、大神官、聖魔術師、魔法工(ドワーフ)、祖たるエルフの王族?、エアジャイアントの戦士長、暗黒騎士、白銀……etcetc。
 魔神 :13英雄が封じた存在。悪魔の王的存在? 6大神の従属神が堕落して悪魔となった存在?
 国堕とし :13英雄が滅ぼしたとされるヴァンパイアロード(?)。1つの国を死都とし、死者の国を作り上げたことからその名で呼ばれるようになった。第5位階の魔法まで使用した。
 8欲王 :TOP SECRET
 神竜 :13英雄が最後に戦った存在。この存在との戦いで13英雄の冒険は終わる。一説では相打ちとも敗北ともされる。戻ってきた13英雄は黙して語らず、真相は闇の中である。


日程表
1日 :アインズ、カルネ村で暴れる 07~13話
  :ナザリック大地下墳墓の部下に命令を下す 18話
3日 :モモン(ナーベラル・ガンマ)、城塞都市エ・ランテルの冒険者のギルドへ 16~17話
4日 :ナーベラル、初冒険開始 19話~
10日:ナーベラル、初冒険終了 ~23話
  :セバス、メイド(ソリュシャン・イプシロン)と共に王国へ 24話~
  :シャルティア、盗賊退治 26~30話
  :リザードマンの部族にメッセンジャー登場 39話
11日:アインズ、ぐったり。31~33話
12日:エンリ、ナザリックへ。34話
14日:モモン、都市長等と会議室で 35話~36話
15日:セバス、王都到着
16日:モモン昇格試験開始 37話
17日:モモン昇格試験終了 38話
  :リザードマンとの戦 40話
  :モモン、ナザリック帰還 38話
  :コキュートス、ナザリック帰還 40話
18日:帝国にて 15話
20日:帝国でワーカー出立 42話
  :王都で評議会 14話
22日:王都でセバス、ツアレを拾う 44話
25日:ワーカー、ナザリック侵入 42話
28日:アウラの1日 外伝・色々
  :クライム、ガゼフに剣の稽古をつけてもらう 45話
  :アインズ、王国でセバス審問 47話
29日:王都での一連の事件終了 47話
  :血塗れのエンリ爆誕 外伝・頑張れ、エンリさん2










 ここから以下は読んでも微妙な裏設定だけです。あんまり読まない方がオーバーロードを楽しめるかな? むちむちぷりりんが満足するために作ったものです。冒険者が持っているマジックアイテムの数や、一個辺りの金額表とか、どうしろと……。





 ワールドアイテム:
 オンリーワンの特殊能力を保有する、ユグドラシル最高のアイテム。
 総数は200(製作会社発表)。wikiに記載されている数は50。これは知られると争奪戦が行われるために、もっているプレイヤーが必死に隠すためである。この50個の情報もまっとうな手段で得たものではなく、スパイ、情報収集系魔法、ギルドを脱退したプレイヤーのリークで集まったものである。これら様々な手段によって情報を集め、wikiを作成したギルド「燃え上がる三眼」は上位ギルド連合によって滅ぼされる。

 有名なワールドアイテムとしてはウロボロス・リングが知られている。これは超位魔法『ウィッシュ・アポン・ア・スター(wish upon a star)/星に願いを』の強化版である。効果はユグドラシルの製作会社&運営に依頼してお願いを聞いてもらうである。
 初めて使われた際は9つある世界の1つ、ここを一ヶ月間封鎖し、その使用したギルド以外の立ち入りを完全に禁止した。これはとあるDQNギルドがレアメタル鉱脈を完全に支配していたため、それを奪うことを目的とした行いである。
 一ヶ月間をかけて調査し、レアメタル鉱脈を発見。採掘を行ったため、初めて市場にこのレアメタルが流れることとなった。
 一ヵ月後、鉱脈の奪還を狙ったDQNギルドと使用したギルドとの間に抗争が勃発。既に他のギルドの支援を得ていた使用した側のギルドがDQNギルドの大半の構成員を撃退(殺害)し、勝利を収めた。これによりこのとき以降市場に少しづつではあるが、レアメタルは供給されることとなった。
 2chで悔し紛れの言葉として晒された、ホームページ上に乗ったDQNギルド長の言葉「奪われて悔しいですけど、もう余りまくっていた金属ですからさほど惜しいとは思ってません。余った金属はゴーレムを作るのに使用しています。でも72体は……完成するのかな?」この言葉の真実は未だ不明である。

 他にもこのようなものもある。
『聖者殺しの槍』:災厄のワールドアイテム。使用者のキャラクターデータの抹消と引き換えに、力を発動させる。制作会社狂ってる。
『ホーリーグレイル』:回復?系
『グライアイ』:ワールド・サーチャーズ所持。
『ユグドラシル・リーフ』:防御系
『ギャラルホルン』:超位魔法《コール・アヴァター/神の化身召喚》の上位?バージョン
『ファウンダー』:運営狂ってる。
『ダヴはオリーブの葉を運ぶ』:なにこれ
『強欲と無欲』:アインズ・ウール・ゴウン所持。前半最終話でアインズが使用予定。



 ワールドチャンピオン :
 特殊な条件をクリアしないとなれないクラス。ユグドラシルの戦士系職業最強のクラスであり、公式チート。ワールドチャンピオン・(アースガルズ、アルフヘイム、ヴァナヘイム、ニダヴェリール、ミズガルズ、ヨトゥンヘイム、ニヴルヘイム、ヘルヘイム、ムスペルヘイム)の9名が存在する。
 次元断層とかいう絶対防御や、次元断切とかいうむちゃくちゃ攻撃を行ったり出来る。さらに自らの名と同じワールドだともう少し強くなるというとんでもクラス。
 そんなクラスであるため戦闘力高く、上の上プレイヤーなら3名と互角、上の中なら4名と互角、上の下なら5名と互角……という感じ。ただし切り札持ちとか、ワールドアイテム持ちとかを相手にした場合は不明。
 ちなみに特殊な条件とは公式の大会に優勝することである。
 ワールドチャンピオン同士の戦闘では、総合格闘技の現役チャンピオンであるヨトゥンヘイムが優勝、2位がアルフヘイム、3位がヘルヘイムの順番であるが、2位と3位の試合では3位のほうが勝利した。
 ワールドチャンピオンだけでギルドを作らないかという意見が出たが、3人の反対があったため途中で頓挫したという。

 余談だが、上の上プレイヤーはどの程度いるのかという問題は作者も全然考えてはいないが、最低でも500人以上はいるんじゃね? とか思っている。
 かなり難易度は高いが、ごく一部しか到達できない壁ではない。可能性だけなら誰にでもある。
 フル重度課金、計算されつくした(膨大なデーターの中から自分にあった)キャラクター成長、リアルラック、新しいものを発見しようとする探究心、仲の良いギルドメンバー等があれば昇れる壁ではある。
 あと戦士系はリアル世界での肉体能力が必要ではある。
 廃人プレイはそれらのどれかを補う程度の存在でしかない。あとはあんまり駄目だけどRMT。

 大規模な人数が参加して遊ぶゲームである以上、無双(絶対最強)は流石に出来ないようになっている。ただ、ワールドアイテムを保有したワールドチャンピオンでなおかつ呪いによるボス化を行えば無双状態になるだろう。事実、7大罪の1つとなったワールドチャンピオン・ムスペルヘイムは30人と互角に戦い、壊滅まで追い込み、そして敗北した。
 この後ムスペルヘイム祭りが勃発し、運営によってキャラクター抹消。新たに大会が開かれ、2代目ムスペルヘイムとして初の女性(外装は)がワールドチャンピオンになるのだが。


 ドラゴンロード :
 ドラゴンロードは強いドラゴンが、他のドラゴンから敬意を込めて呼ばれるようになる(もしくは勝手に名乗ったり)名であり、成長における呼び名の変化とは異なる。
 成長による呼び名だとエンシエントドラゴンとか、オールドドラゴン、ヤングドラゴンなどがある。
 永久評議員の5匹のドラゴンの呼び名は2つ名だと思ってもらえると分かりやすいかな?
 ちなみにドラゴンの成長段階での最後の方は、人間という種では絶対に勝てないだけの強さの領域にいる。流石はかつては世界を支配(?)した種族である。




 レベル :
 ユグドラシルというゲームでは2種類のレベルがあり、その合計は100。
 2種類とは種族レベルとクラスレベルである。

 アインズはスケルトン・メイジ(種族)15lv、リッチ(種族)10lv、デミリッチ(種族)5lv、オーバーロード(種族)10lv、トゥルーネクロマンサー(クラス)10lv、チョーセン・オブ・アンデッド(クラス)10lv、etc。
 シャルティアはヴァンパイア(種族)10lv、トゥルーヴァンパイア(種族)10lv、プリーステス(クラス)10lv、カースドキャスター(クラス)10lv、etc。
 国堕としはヴァンパイア(種族)10レベル、トゥルーヴァンパイア……正確にはユグドラシルには無いクラスのヴァンパイアプリンセス(種族)?レベル、魔法職?レベルを有している。そのためトータルとしてレベルが高くなる。

 モンスターはちょっと異色である。
 モンスターは種族レベルやクラスレベルとして計算するのではなく、モンスターレベルとして計算されている。それにクラスレベル(持っているなら)を加算する。
 ではブレイン・アングラウスの場合。
 彼はシャルティアにヴァンパイアにされた。しかしヴァンパイアのレベル(シャルティアと同じように)を得てそれに戦士のレベルを足しているのかというと、そうではない。彼はモンスターとしてのヴァンパイア(モンスター?レベル)に戦士?レベルを加算している。これはシャルティアに血を吸われた事を、モンスター化と考えたためだ。
 このような感じで仮にドラゴンロードが英雄クラスに到達している場合と、人間が英雄クラスに到達している場合では、モンスターレベル分だけの開きがあるということになる(通常人間種は種族レベルが無いので、1レベル目からクラスレベルになる)。

 ただ、ドラゴンが戦士クラスを1レベル取るのと、人間が初めて戦士クラスを1レベル取るのではゲーム的に言うなら、必要経験値の量が圧倒的に違う。この辺はなんとなく理解してもらえると思う。
 



 能力値 :
 能力値は種族とクラスの合算によって成長していく。基本的に異形種>亜人種>人間種の順番で能力値の上昇値は高い。
 適当な能力値があるとして、人間(人間種)が1、ゴブリン(亜人種)が2、スケルトンメイジ(異形種)が3上昇すると仮定する。これは最も得意な能力値のみを比べた場合、これぐらいの差があると思ってもらってかまわない。
 1レベル目、人間に種族レベルは無いのでクラスを即座に取れる。ファイターがその能力値が2上がるとする。結果、1レベル目の能力値は人間3(2+1:クラスレベルと種族)、ゴブリン4(2+2:種族レベルと種族)、スケルトンメイジ6(3+3:種族レベルと種族)となる。
 この種族能力値の上昇に関しては、人間はずっと1に対してスケルトンメイジは3。100レベルでは100対300になる(これはかなり大雑把な考え方である)。つまりそうやって見ると異形種は強い。しかも新たな種族クラスを取ると、能力値の上がり幅が優秀な方に変化するため、能力値の上がり幅はより大きくなる。
 ただし異形種にもペナルティはある。
 一部のクラスにつけない、特定の都市等に入れない、殺されてもPKとは見なされない、種族に応じたペナルティ、特定アイテムの装備不可などなど。1レベルでも取ってると、そのペナルティは当然発動する。それに転職条件が難しい職業は、能力値の上昇値が高い。そういうクラスは人間種しかつけない場合がある。

 あと種族クラスを上げるより、様々なクラスを取る方が強いキャラが出来る。能力値よりスキルの方が使い勝手が良いためだ。ぶっちゃけ、強いキャラを作りたいなら、種族クラスは上げるなというのが定説である。そのためユグドラシルでは異形種ではなく人間種が最も人気が高い。
 ただし、異形種の最終種族クラスの能力値はかなり高く設定されている。素の能力値が高いため、強力なスキルがより強大になる。はまると強い。


 ……クラスの数をこっそり増やそうかな。なんか思っていたより足りない予感。




 魔法の位階 :
 第1位階魔法(冒険者で言えばF~Eクラス):魔法使いとしての基本であり、初歩。ただこの位階で人生を終えるものも多い。農村では家畜の乳が良く出る魔法、美味しい闇鍋が作れる魔法、塩など香辛料を生み出す魔法、などが人気。

 第2位階魔法(冒険者で言えばD~Cクラス):努力した魔法使いがようやく昇れる領域。才能が無い人間では努力したとしてもここが限界。

 第3位階魔法(冒険者で言えばB~Aクラス):ここまで昇れれば、魔法使いとして大成したようなもの。一般的な才能を持つ者が果て無き努力の末に到達できる領域。

 第4位階魔法(冒険者で言えばA+~):才能を持った人間が桁外れの努力することで、ようやく到達できる領域。基本的には冒険者のような危険と隣り合わせの職業の者がほとんど。一国でもトップレベルであり、数は5本の指で事足りる。

 第5位階魔法(冒険者で言えば英雄クラス):この領域から英雄クラス。才能を持ってるぐらいでは到達できない人外の領域でもある。国で1人ぐらいのレベル。吟遊詩人が歌ってもおかしくない。『ブルースカイ・ドラゴンロード』、『スレイン法国最高神官長』、滅んだとされるが『国堕とし』などが有名。

 第6位階魔法(冒険者で言えば……いない):周辺諸国で1人いるかいないかのレベル。歴史に確実に名を残し、同業者でなくとも知らないほうが変というレベル。表舞台では『フールーダ・パラダイン』『13英雄』。裏には幾人かいる。

 第7位階魔法はあの魔神が使ったらしいな。
 第10位階魔法? あるって噂だが……そんなの使える奴が現実にいるわけないだろ? いや、伝説の8欲王は使ったらしいが……。それはあくまでも噂でしかないぞ。子供が聞く物語レベルの信憑性しかないぞ。その上? あほか。そんなものあるわけが無いだろ?


 ※大儀式を行うことで、第8位階魔法の行使を可能とする方法があるが、まず中心に第5位階魔法とその魔法の強化手段を使える人間。さらには第3位階魔法を可能とする参加者をかなりの数を必要とする。本当はこれでは発動させる者の2つ上までの位階しか使えないのだが、なんらかの仕掛けがあると思われる。通常は国家レベルで魔法使いを支援している国でなければできない。
 フールーダは魔法上昇というスキルを持ってないために、大儀式を行うことは出来ません。


 ギルド:
 ユグドラシルにおけるギルドの構成員は最大で100人。
 その中における上位ギルドとは公式の発表におけるポイント上位10ギルドのことである。このポイントは構成員におけるレベル平均、世界発見ポイント、ワールドアイテム保有数、資産ポイント、本拠地ポイント、PKの際のポイント移動、ギルド戦時のポイントなど無数の値の集計によって出されている。噂によると課金している金額もとかいう説もあったり。

 第1位『トリニティ』:上位ギルド3つが対2ch連合を目的に、連合して出来たギルド。トリニティ第1『the Father』、第2『the Son』、第3『the Holy Spirit』というギルドの連合である。対2ch連合との戦いでの旗頭になったギルド。

 第2位『ワールド・サーチャーズ』:新たな発見をすることだけを追求した冒険者ギルド。本拠地は貧しく、ワールドアイテムも殆ど持っていないが、このギルドほど世界を発見したギルドは無い。公式が望んだ楽しみ方を最も具現したギルドといえる。

 第3位『2ch連合(実際のギルド名はもっと違うものである)』:関連ギルドを全て含めると総数1000人を超える超巨大ギルド。全盛期は3000人もの人数を有していた。巨大であり問題を起こすことが多く、そのため上位ギルドの大半が敵対的である。かつての戦いで本拠地を破壊(人数がいるために方針が決まらず、初期状態であったため脆かった)され、全てのワールドアイテムを奪われるという経験を持つ。この時から歯が抜けるように人数が減っていった。しかし、それでも最大の構成員数を維持できるのは流石である。

 第9位『アインズ・ウール・ゴウン』:難攻不落として知られるナザリック大地下墳墓を本拠地とするギルド。たった41人の構成メンバーで1500人(実際のプレイヤーはもっと少ない)からなる討伐隊(上位ギルドは一切参加していない)を殲滅したのは伝説として残る。ちなみに第8階層での戦いをムービーとして見た全ての人間がありえないと絶叫し、公式のメールがパンクするほどの違法改造だという問い合わせが起こったことで知られる。

 その他
 海外ギルド:日本語の会話や読み書きが出来る人間のみで構成された親日ギルド。ほのぼのとゲームを楽しんでいたが、2ch連合に初めて手に入れたワールドアイテムを奪われたことで方針を変換する。※むちむちぷりりん的には韓国、中国、台湾のどこかだろうとは考えているが、何処とは決めていない。

 声優ギルド:声優のみで構成されているギルド。人数は少なく、アビリティも低いが、無数の親衛隊ギルド(認めてはいないが)を持ち、その動員力は下手するとユグドラシル第一とも言われる。

 傭兵魔法職ギルド:100人の構成員が全員100レベルの魔法使いであり、ワールドディザスターを50人近く抱え込むギルド。その圧倒的な殲滅力は笑ってしまうほどであり、ギルド戦争でこのギルドが付いた場合、そちらの勝利は確定するという。
 ただ、このギルドをそのぶん近接戦に弱く、警護していたギルドを分断し、ワールドチャンピオン6人というドリームチームが壊滅させた時のムービーは今でも伝説として閲覧されている。

 などが存在する

 ちなみにギルド武器とはギルドを作る際に必要となる象徴で、かなり巨大なデータまで搭載することができる。そのため下手すると比類ない武器にもなるが、これを破壊された場合はギルド崩壊ということになる。崩壊した場合、そのギルドに所属していたメンバーは『敗者の烙印』というものを常時、頭上に浮かべることとなる。別に特別な効果は無いが、屈辱の証である。
 この敗者の烙印をなくすには、再び同じメンバーでギルドを立ち上げるしかないという。
 敗者の烙印が無ければなれないクラス、ギルド武器を破壊したことのある者しかなれないクラスなども当然ある。


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