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[19087] G線上のアリア aria walks on the glory road【平民オリ主立志モノ?】
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2012/05/27 01:57
祝辞
舞様、ご結婚おめでとうございます!

お知らせ?
ツイッターはじめてみました。ツイッターのアド+kinakokoukoku

※三章の改訂について
少し書き直してみたけどパッとしないので見送り。

○ご挨拶

 はじめまして、キナコ公国と申します。拙作ですが、お楽しみ頂ければ幸いです。

○ご注意

・このSSはヤマグチノボル氏作、ゼロの使い魔の二次創作にあたります。
・二次創作だというのに、原作キャラクターは後半まであまり出ません(出始めました)
・設定については、原作本編、アニメ全話を基準にしています。外伝(烈風の騎士姫など)についてはあまり考慮しません。
・TS(実際はTSではありません)系オリジナル主人公、オリジナルキャラクター多数。独自設定も多数(そうでなければジャンル的に話が成り立たないため)。
基本的には中世~近世ヨーロッパを参考に、ハルケギニアの情勢下ではどうなるかを考慮して捏造中。
・地名・人名で実在の名称が出てくる箇所がありますが、実在のものとは一切関わりがありません。ご了承ください。



※感想、批判、指摘、疑問など何でも歓迎いたします。



※改訂について

・チラシの裏掲示板にて初投稿。(2010/5/24)

・ご指摘にあった引き取り価格について見直しました。金貨30枚→10枚少し。ただし、合計金額は20~30枚程度となります。なお口入屋の奴隷的階級の紹介価格については14世紀のヨーロッパにおける奴隷価格を参照として設定しております。1ドゥカート金貨を5万円価値、1エキュー金貨を1万円価値として換算。(2010/5/27)

・ネタ作品というには長くなりそうなので、題名からネタを削除しました。(2010/6/4)

・ご指摘にあった1話、TNTの話をポリエチレンの話に差し替えました。他、気付いた誤字、不足部分の改訂(2010/6/20)

・チラシの裏掲示板からゼロ魔掲示板に板変更。(2010/6/24)

・19話、読み直して明らかに戦闘描写が不足だったので追記。(2010/8/5)

・中世欧州での商社関係について、より詳しい資料を手に入れたため、ちょこちょこと改訂はじめます(2010/9/20)

・なにやら誤解を招いてしまったようなのでちょっと26話を改訂。ロッテとアリアが言い出した利息は、単なるじゃれ合いのつもりでしたので……(2010/9/23)

・ご指摘よりタイトルを微変更しました(2010/11/2)

・ちょっとだけ会計関係の説明を修正(2011/5/14)





[19087] 1話 貧民から見たセカイ
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2011/07/23 02:05
 『私』は生まれた。 

 平民と言う名の持たざる者に。

 『私』には何の力もない。美しくもない。魔法も使えない。
 ただあるのは、後天的に得た、もう一人の『私』というか、そう、日本という異世界で死した『僕』の知識と記憶だけ。

 『僕』は、理系の大学院生で、有機化学系の研究室の住人だった、らしい。
 簡単にいえば六角形の化学式を大量に扱う分野。

 しかしそれがこのセカイで何の役に立つのだろうか。

 例として、もし『私』が、『僕』の専門知識を活かして、ポリエチレンテレフタラート(ペットボトルや衣服などに使われている高分子重合体)の大量生成によって繊維関係の商売で儲けよう、と思ったとする。

 結論から言おう。無理だ。

 ポリエチレンテレフタラートとは、テレフタル酸とエチレングリコールという化合物を重合させて得られる材料なのだが、この原料は二つとも化石燃料を由来とする化合物である。

 だが、化石燃料がまともに利用されていないこのセカイで、どうやって大量に必要となる原料を手に入れる?
 まさか、化石燃料の採掘、精製を行うところから手掛ける?夢物語だ。
 それ以外にも、工業的生産を行うための施設は?理論を理解できる大量の技術者は?などなど、いくらでも問題点は挙げられる。

 他の科学的知識だって、大多数は“現代”でなければ実現できないものばかりだ。
 そもそも、『僕』からすれば、研究室で使っていたような試薬などの実験材料や実験に使う器具は外部から“購入して当然”のものだったし、電気や化石燃料などのエネルギーだって、“あって当然”のものだった。
 そのような“当然”の物を用意する事から始めて、最終的な目的を果たせる者がいたとしたら、そいつは一体どんな人間なのだろう。少なくとも『僕』の知る限り、そんな超人は現実には存在しない。
 現代社会の文明は、非常に細かく分類された専門知識を沢山の人間で分業することによってなりたっているのだ。

 たった一人が所有している場違いな知識など、セカイから見れば塵に等しい。

 結局、『私』は何もできない。ならば、このセカイのルールに従って生きるのみ。

 だから『私』に『僕』の知識があるのは特に意味はない。

 じゃあ『僕』の記憶は?

 せいぜい見知らぬ世界に思いを馳せて感慨に浸る程度の意味しかない。
 この辛い生活の慰めにはなっているので、知識よりは若干意味があるのかもしれない。

 別にそこへ行きたい、とは思っていない。
 だって『僕』は死んでいるのだし、ハルケギニアの人間である『私』がそこへいっても居場所はないだろう。
 日本という国だって、学生が思っているほど気楽な世界ではないし、一歩レールを踏み外せば緩やかな死が待っている。
 そう考えれば、どちらのセカイが楽だ、なんて事はないのかもしれない。

 ただ、このセカイよりは救いがあった。少なくても、自分の能力と運次第でのし上がれるチャンスは多いのだから──





第一章 貧民少女アリアの決意  chapter1.Determination





 ここが“あの”トリステインである、と理解できたのは、私が6歳頃まで成長してからだった。

「貴族様に逆らってはだめだ、アリア。魔法で殺されてしまうからね」
「偉大なるブリミル様、ささやかな糧に感謝します」
「ねぇアリア、知ってる?アルビオンっていう国はお空に浮いてるんだって!」

 と、このような断片的な情報から、薄々そうではないかと思ってはいたのだが。

 確信したのはこのセカイの“原作”に綴られていた人物である、モット伯爵によって、近所にいた器量良しと評判のお姉さんが連れられて行った出来ごとを見たからだ。自分の目で見ることによって、ここが“ハルケギニア”である、ということを確信とまでは言わないが、認識した。

 まぁ、似て非なる世界なのかもしれないけれど。

 勅士の仕事のついでに寄ったとの噂だが、こんな辺鄙なところまで食指を伸ばし、しかも使者に任せず自分で足を運ぶとは。私はモット伯爵の情報ネットワークの広さとフットワークの軽さに脱帽していた。

「くそ……好き勝手やりやがって!サラ……」

 婚約者だった若い男は、そういってうなだれるだけだった。情けない男だ。
 まあ仕方ないけど。誰だって自分の命が一番惜しい。当然、私も。

 それにしても、どうせならば貴族に生まれたかったものだ。“原作”から考えるに、とりあえず食うには困らないだろう。
 “原作”で起こる主人公達の物語に関わらない貴族ならば、下手したら寝てるだけでも生きて行けそうだ。偏見だろうか。
 きっと貴族から見たこの世界と、平民、それも限りなく農奴に近い私から見たこの世界では全く違う。

 “原作”の中にも平民は存在した。しかし彼らは私と同じではない。
 彼らの多くは平民の中でも、上流、もしくは中流平民といえる部類の平民だ。対して私は下流平民、所謂、貧民層なのだ。なんせ主食が芋なんです。ひもじいんです。
 
 という訳で、私の実家はとても貧乏である。
 私は物心ついた時から、稼業である農業を手伝っていた。そうしなければ生きられないからだ。ただ、それでも私の現在の年齢である10歳まで無事に生きてこられたのは運がよかった。

 どこが?と思うかもしれないが、
 もし運悪く凶作の年が続いていたら、口減らしの対象になっていた可能性が高い。
 もし感染症にかかっていれば、治す手段はなく、そのまま死んだだろう。
 もし村に亜人や賊という脅威が現れていたら、何も出来ずに蹂躙されただろう。
 こう考えると、命の危機なく生きてこられた私は運がいいのだ。

 もちろん私は今でもこちらの文字は読めない。この村から出たこともないので、それが普通なのか、特殊な土地柄なのかもわからない。
 せいぜいわかるのは、この村が王都からは程遠い、トリステインのどこかの片田舎であるオンという地域にあるらしいという事だけだ。
 
 農業やってるなら、『僕』は理系なんだしその知識を活かせるだろう、とか普通思うよね。私も思ったの。
 でもね、現代にある道具も施設もエネルギーも使わずに、簡単にできることなんて既に実践されてましたから!残念!ハルケギニア農業6000年の歴史斬りっ!

 資金があれば、簡単な農薬もどきや肥料くらいは作れるかもしれないけど、そんなものはないし。
 そもそもただの子供、いやむしろアホの子とすら思われている私(口語を覚えるのが遅かった事で、アホだと思われたらしい)が考えを言ったところで、誰も従ってくれないので、もしそんなアイディアが閃いても宝の持ち腐れになるだろう。

 税率は6公4民という事らしいが、この困窮具合からして、確実にもっと取られていると思う。村人の殆どは文字も読めないし計算もできないので、そこにつけこまれているんだろう。
 ま、貴族の比率が全人口の1割というすさまじい歪みがあるので、税金が高いのも当然だろう。
 中世ヨーロッパでは確か、准男爵やら叙勲士などの下級貴族を合わせても、貴族の割合は全人口の2%にすらみたなかったはずだから。
 むしろ社会が成り立っているのが不思議だったりする。

 権力を濫用して女を漁ったり、切り捨て御免的な感じの事をする貴族もいるらしい。まあそういうのはかつての地球でもあったんだろうから不思議でもないが、やられる側になってしまったからには、感情的に簡単に納得できるものでもない。

 それでも私達は従うしかないのだ。魔法はコワイ。まあ、実際に魔法を見たことはないのだけれど。
 本当に救いがない。きっとこのセカイにはブリミルはいても、神も仏もいないのだ。



 私はブリミル教が嫌いである。何故なら貧民の立場にある私からすると、ブリミルはとんでもないエゴイストに思えてしまうからだ。

 その最たる理由として挙げられるのが、自分の子孫のみを繁栄させるために作られたような、圧倒的な暴力である魔法を使えるか使えないかで、2極化したカーストのシステム。

 勿論魔法による恩恵は、古き良き時代には多大にあったのかもしれない。でも今現在、私は何の恩恵も受けていない、と言い切れる。ここら辺に亜人やら賊が出た事ないしね。
 極論だが、魔法の存在が、技術の発展を阻害するという、ありがちな理論が成立するとすれば、損害を被っている、とすら言える。
 この宗教を平民が有難がっているのがこのセカイのスゴイところだ。家畜としての教育が行き届いてるとしかいいようがない。

 これから私は一生をこのまま搾取され続ける側で費やすしかないのだろうか、とそこまで考えたところで、邪魔が入った。
 
「アリアっ!またあんたはボケっとして!さっさと顔洗って外に出な!」

 ふぅ、やれやれ。考えに浸ることすら許されないのか。現実は常に非情である。

 さあ、今日も仕事だ、頑張るぞ。





 ざっく、ざっく。一心不乱に畑を耕す美少女ではない少女、私。今日も元気だ空気がうまい。

「ぐぁ……、もう腕が、あがら、ない」

 手に持っていた鍬を放りだして、私は畑にへたり込んでしまった。
 我ながら情けない。まだ昼過ぎだというのに、限界がきてしまった。しかし、この体、ずっと仕事を手伝っている割に貧弱なのだ。きっと栄養が足りていないせいだろう。
 ここ数年、肉を食った覚えがないのだ。欲しがりません、勝つまではってか。何に勝つのかは知らないが。

 せめてまともな農具があればいいんだが。木製の農具じゃね。少し硬い土でも、掘り返すのに苦労する。地球じゃ12世紀くらいに殆ど鉄製に替わってた気がするけどなあ。もしかすると、この村が辺境すぎるだけで、他の村では鉄製の農具を使っているのかもしれないが。
 まあ、ないものをねだっても仕方ない。出来ることをするだけさ。

「ほんと、役にたたない娘だよあんたは。どうしてあんたみたいなのが生まれてきたんだろうね」

 近くで作業していたこっちの世界のオカアサンが忌々しげにへたり込んだ私を睨む。
 おいおい、実のムスメなんだぜ!もう少しオブラートに包もうよ。役に立たないこちらも悪いのだけれど。

「ごめんなさい、少し休んだらまた頑張りますから」

 少しむかついたが、ペコリと頭を下げておく。私は子供だけどガキではないからね。

「あっそう、ま、別に頑張らなくてもいいんだけどね」
「えっ?」

 オカアサンの謎めいた発言に思わず聞き返す。頑張らなくてもいい、とはもしかして、ゆっくり休みなさい、という事だろうか!?
 やはり母親だな、と少し感動してしまった。すぐに後悔したが。

「あんた、売ることにしたからさ。まあ最後くらい家でゆっくりしてたら?」

 オカアサンの目、冷たい目だ。まるで養豚場の豚を見るような冷たい目だ。「可哀想だけど明日にはお肉になって店先にならぶ運命なのよね」ってかんじの!

 「売る」とはつまり人身売買だろうか。
 冗談でも言っていい冗談と悪い冗談があるだろう、と少し憤った私だが、飽くまで冗談だろう、と思っていた。



 一月後、私はセカイをまだまだ甘く見ていた事を痛感する。





つづけ






[19087] 2話 就職戦線異常アリ
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/10/15 22:25
 今、荷馬車に揺られて運ばれている私は、農村から売られたごく普通の女の子。強いて違うところをあげるとすれば、前世の記憶があるってことかナ──

 どうしてこうなった!





 オカアサンが私を売る、と宣言してからおよそ一月後。

 いつも通りの朝、私は野良仕事に出る準備をして、食卓に向かった。

「今日は仕事をしなくていいんだよ」

 仕事用のボロを着ている私を見て、ニコリと微笑むオカアサン。
 いつもなら「ろくに役に立たない癖に、飯だけはしっかり食べるんだねえ」と心底呆れた顔で嫌味を言われるところである。

 正直、不気味だ。その不自然な態度に不安が募る。



 いつも通りの質素な朝食を食べ終わった後、奇妙な笑顔を張りつかせた両親に手を引かれて、私は村の広場へやってきた。

 行商人か何かだろうか、広場には荷馬車を連れた商人風の大男が待っていた。この小さな村に行商人が来るとは珍しい。

「?」

 もしかして、いつも頑張っているムスメに服か玩具でも買ってくれるのだろうか?
 そうか、オカアサンはツンデレだったのか……
 不気味だなんて思った自分が恥ずかしいです。ごめんなさい、これからはもっと頑張るよ!
 
「その娘か?」

 大男は低い声で両親に尋ねる。

「ああ、そうだ」

 オトウサンが珍しく声を発して大男の問いに答える。
 はて、どういう事?この男は流れの仕立て屋か何かで、私のサイズに合わせた服や靴でも作るのだろうか。

「……ではこれが代金だ」

 大男はそう言って懐から小さな袋を取り出してオトウサンに渡す。それを見てオカアサンは、オトウサンから袋をむしり取って、中身を取り出す。

 中から出てきたのは金貨。パッと見で10枚前後だろうか。

 なぜこちらが金を受け取るのだろうか。謎は深まるばかりだ。

「まあ、こんなに!ありがとうございます!」

 オカアサンが金貨を数えながら大男に礼を言う。その表情はとても人間とは思えない醜い笑顔。いや、きっとオーク鬼だってこんないやらしい顔はしないだろう。

「どういう事なの?」

 流石に耐えきれなくなって口を開いた。
 一体何が起きているのか説明して欲しかった、いや薄々解ってはいたが。

「その、なんだ。……ま、頑張れ」

 いつも無口なオトウサンは、バツが悪そうに、私から目をそらしながら呟いた。
 ちなみに私に兄弟姉妹はいないので、これで家族全部だ。

「なんだ、まだ説明していないのか?」

 大男は呆れたように言う。オトウサンは恥ずかしそうに頭を掻く。オカアサンは私には見向きもせずに、未だに金貨を弄っている。

「俺から説明しようか?」
「……お願いします」

 私は大男の提案を受け入れる。大男はウチの両親の様子を見て、自分が説明しないと話が進まないと感じたらしい。

「簡単にいうとだな……。お前は商品としてウチの商会に引き取られる事になったんだ」

 大男の無機質な声が現実を突き付ける。

 やっぱりそれか。
 その程度の感想しか出てこなかった私は、どこか人として壊れているのかもしれない。

 どうやって人身売買のツテを探してきたのかしらないが、「売る事にした」というオカアサンの言は本気だったらしい。

 ウチの財政が厳しいのは知っていたが、そこまでとは知らなかった。いや、役立たずのタダ飯喰らいを追い出しただけか。
 結構、ムスメとして色々頑張っていたつもりだったんだけどなあ。まあ10年も面倒を見てくれたのだから、感謝すべきなのかもしれないけれど。





「乗れ」

 逃げ出す事もできずに、荷馬車に積みこまれる私。逃げられたとしても飢えて死ぬだけだ。人間諦めが肝心。このセカイでは特にね。
 大男が手際よく私を荷馬車に備え付けられた鎖でつないでいく。

 両親は特に感慨もないようで、金の確認を済ませると、そそくさと家に戻っていった。その姿は荷物の引き渡しを終えた宅配業者に似ていた。

 荷馬車の中には、私の他に、私と同じくらいの年から、10代後半とおぼしき年までの女の子が3人程積まれていた。
 目が死んでいる赤毛の娘。憤っている感じの長身の娘。良く分かっていない金髪の娘。
 三者三様であるが、全員が望まぬ状況であるのは間違いない。

 まあ、他人の事なんて今は心配している場合ではないのだが。

 私はおそらく奴隷的なモノになるんだろう。
 的なモノ、というのはこのセカイに表立っての奴隷階級はないはずなのだ。人を商品として扱うあの大男は口入屋、わかりやすくいえば、人材派遣会社のようなものかな?

 なので私はこれからどこかの商家や、大農家やらに無制限に使える労働力として紹介され、そこに奉公するという形になるのだろう。といっても、彼らの屋敷で働くようなメイドではなく(可能性が無いとは言わないが)、普通の人がやりたがらないような、所謂3Kな仕事に回される可能性が高い。
 両親に金を先払いしたということは、私がそれを働いて返すということで、私に給料がでることはないだろうが。

 元貧農で、見た目も貧しい私が貴族に紹介されることはないと思う。
 年齢的なものから娼婦として売られる事もまだなさそう。客を取れるまで養っていては店側が損をするはずだ。もし10歳の幼女に興奮する人間が多かったらアウトかもしれないが。
 村にはそんな人はいなかったが(少なくとも私の知る限りは)、街ではロリコンが主流かもしれない。それは考えたくないな……。

 ま、正直、今までの生活を考えると大して変わらないかもしれない。いや、もしかしたら今までよりマシな生活が待っているかもしれない。きっとそう。いや、絶対!
 これはある意味チャンスだ。輝かしい未来へのスタートなのだ。私の人生はここから始まるのだ──



 でも幼女趣味の変態主人の玩具にされる事だけは勘弁してほしい。それならば過酷な肉体労働で過労死した方がマシに思える。

 できれば優しく金持ちで紳士な主人、業種は屋敷付きのメイド。というのが私の願望だ。少々大それた願いだろうか。





 どうやら私が最後の積み荷だったらしく、荷馬車はそれ以降人を乗せることなく進んでいった。

 厚手の黒いホロを被せてある幌馬車なので、外の様子を見ることはできない。光が遮られ、昼か夜かの区別もつかない中、私を含む4人の荷物達はどこにつれていかれるのか分からない不安に駆られていた。

 そんな状況が原因なのか、馬車の中の空気は最悪だった。

 金髪がふとした事で「どうして私がこんな目に」と泣きだし、長身がそれを「私も同じだし」と慰める。
 金髪が「あんたと一緒にしないで」と長身の慰めを拒絶する。
 すると金髪の態度に長身が怒り出す。
 赤毛はそんな2人の様子にオロオロとするばかり。

 馬車の中はこんな事の無限ループだった。ろくに会話をしていないので名前は知らないが、この状況で他人に気を向ける事ができるとは随分と余裕のある奴らだ。
 私は喧しい金髪の泣き声と長身の怒鳴り声に辟易としていた。

 そんな中、救いだったのは、意外にも大男の面倒見が良かった事だ。無愛想ではあったが。
 一日二食の食事の用意や、野営の番、馬車の御者などは全て男が一人でやり、私達はただ食っちゃ寝しているだけだった。
 商品は大切に取り扱うように言われているのかもしれない。





「出ろ」

 他の娘と会話することもなく、私自身は殆ど無言で馬車に揺られる事幾日か。どうやら目的地に着いたらしく、私達は馬車から下ろされた。

「連いてこい」

 この男は一語しか喋られないのだろうか。と思うほど大男は無愛想に私達へ指示を出す。
 大男が行く先は、やや無骨な構えだが、結構大きな建物だ。これが口入屋の店舗のようなものだろうか。

 周りにも石造りの建物が多く立ち並んでおり、ここが今までいたような寒村ではなく、それなりの規模をもった都市だ、という事がわかる。

 キョロキョロと辺りを見回しながらも、とりあえず私達は男について建物の中に入っていく。

「ここでしばらく待ってろ。一人ずつ入ってもらうから」

 お、久しぶりに文章を喋った。
 先程の建物の2階にある、立派な扉の前まで連れてこられると、私達はそこで待たされる事になった。扉に文字が書かれた金属製のプレートが貼ってあるが、文字が読めないので何の部屋なのかはわからない。先程まで一緒だった男は、部屋の中に入っていった。
 一人ずつ呼ばれるという事は、おそらく面接部屋みたいなものか。

 ここで、好印象を与えられれば、良い就職先が見つかるかもしれない──

「お前からだ」

 先程の男がドアから顔を出して私を指す。ありゃ、私がトップバッターですか。



「失礼します、オンの農村から来たアリアと申します」

 軽く会釈をしながら入室する。気分は就職活動中のガクセイというやつだ。
 勿論、椅子を勧められるまでは座らない。常識だ。いや、私が座る椅子なんてないんだけどね。

「ふむ」

 入った部屋には、髭を蓄えたやせっぽちの初老のオッサン。ただ、異常にその眼光が鋭いため、ただのオッサンでない事はわかる。この口入屋のボスといったところか。
 
「服を脱げ、全部だ」

 とんでもない事を言い出したよこの人。あの、一応私、子供とはいえ女なのですが。

 私は、『僕』の記憶があるし、現在の性格もそれにある程度基づいたモノになってしまっており、およそ女らしい性格ではないとは思う。
 しかし自分は女である事は自覚しているし、人並みの羞恥心も持っているのだ。

 まあ脱ぐけども。ここで抵抗しても何の意味もないどころか、マイナスになりそうだし。それに、別にイカガワシイ事をされるわけではなく商品の品定めといったところだろう。

「クセのある栗毛に、瞳は薄茶、肌は色白……か。しかし栄養が足りんな。細すぎる。まるで病人だ」

 ボスは私をなめまわすように視姦しながら、羊皮紙になにやら書き込んでいる。
 
「すいません」

 私は何か責められた方な気がして謝る。栄養が足りないのは自分のせいでもないとは思うが。

「別に謝らんでいい。文字はよめるか?」
「読めません」

 即答である。

「そうか」

 文字が読めないなら他もできないだろう、と判断したのか、他の質問はこなかった。

「容姿は、まあもう少し肉がつけばよくなるだろう。性格も従順、一応の礼儀も弁えていると。ま、しかしこれでは星はやれんな」

 ボスはうんうん、と頷きながら、謎の言葉を呟く。

「あの……星とは?」

 疑問に思ったので恐る恐るだが質問してみる。

「知らなくてもいいことだが。まあいい、教えてやろう。お前らの値段のグレードだ。お前は最低のグレードだな」

 そう言ってボスはニヤリと口の端を吊り上げる。
 ボスの説明によると、紹介料のグレードがあるらしく、3つ星から星なしまで4つのグレードがあるそうだ。私のような何の取り柄もない小娘は、星なし評価という事だ。

 いや紹介料高くなった所で私達に関係なくね?むしろ高いんだから、その分働かされる気がするのだが、と思ったが、グレードが高い方がまともな主人に拾われやすいのだそうだ。
 星無し娘の運命は最底辺の過酷な労働くらいしかないらしい。それにすら引っかからなかった場合は……そこから先は聞けなかった。その運命は口にするのも憚られるらしい。

(やっべええ!このままではッ……!考えろ。考えるんだ。思考をkoolに。私にも何かあるはずだ!)

 本当にまずい。このままでは地獄行き確定である。私は背中に嫌な汗を掻きながら必死に思考する。


 
 そして見つけた。私の武器を!

「私、文字は読めませんが計算はできます。自信があります!」
「何……?くくっ、ハッハハそんな事があるわけがなかろう。文字が読めんのにどうやって計算を覚えるんだ。大体貧農出身のお前にそんな技能があるとは思えんわ」

 私の必死のアピールは軽く笑い飛ばれてしまった。
 本当に出来るんですよ?微分積分でも複素数でも3次方程式でも!いや、今ならミレニアム懸賞問題すら解けるッ!

「全く、笑わせてくれる娘だ。とにかくお前は星無し!よし、もう下がっていいぞ」
「あ、あの本当にっ…………はい」

 喰い下がろうとしたが、黙れ、とばかりに鋭く睨まれてしまい、すごすごと引きさがる。

 面接はこれで終了らしい。私は服を着て、失礼します、と失意のうちに部屋を出る。入れ替わりに、一緒に連れてこられた金髪の娘が部屋に入る。
 


(終わった。終了っ……!残念、私の人生はここで終わってしまった…………)

 終了という言葉が脳内にリフレインする。

「ねぇ、あんた何されたの」

 よほど私が酷い顔をしていたのか、外に残っていた娘の内、最年長らしき長身の女が、部屋から出た私にそんな質問をしてきた。会話するのはこれが初めてだ。その表情は険しい。
 もう一人の赤毛の娘も興味があるらしく、神妙な顔で私を覗きこむ。

「特に何も。単なる品定め「イヤっ、イヤよ!何するのよ、やめなさいっ!」……って感じじゃないかな」

 いちいち全部説明する気力もなかったので、適当に返そうと思ったのだが、部屋の中から怒号が飛んできたため、途中で声がかき消された。
 脱げって言われて拒否ったのかな。全く、あの金髪はしょうがない奴だな。

「ちょっと、なによ今の声……」
「……っ」

 長身の娘は自分の体を掻き抱いて身震いし、赤毛の娘は目をギュッとつぶって何かに耐えているようだ。

「大丈夫、ひどい事はされないはずだから」

 私は2人を安心させようと声をかけた。もう私は“終わった”という諦めからか、他人を気遣う余裕が持てていた。
 
「ひぐっ……ひぐっ」

 丁度タイミング悪く、部屋から泣きじゃくる金髪の娘が出てくる。一刻も早く部屋からでたかったのか、ほとんど素っ裸で、服は手に持っていた。
 さぞかしおぞましいことをされたのだろうと思ったのか、赤毛と長身のテンションは恐慌状態に陥った。

 ふぅ、やれやれ。私にできる事はもうないな。

 そう考えて、私は目をつぶり、彼女達の悲鳴やら嗚咽の声を完全にシャットダウンした。





つづく、はず






[19087] 3話 これが私のご主人サマ?
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/10/15 22:27
 帝政ゲルマニア、ザールブリュッケン男爵領フェルクリンゲン街。トリステインの南部とガリア北東部に隣接する交易都市の一つである。

 いや、受け売りだけどね。まあとにかく、これが私の現在地らしい。



 面接の後、私達は主人が決まるまでの宿舎に案内された。宿舎といっても、ボスとの面接を行った建物と同じ建物内の一区画である。

 宿舎に用意された部屋は殺風景でこぢんまりとした2人部屋で、寝る時は床に雑魚寝だ。
 私の同室になった娘は、10代半ばの物知り少女だった。
 彼女は元々ゲルマニアの裕福な商家の娘だったらしく、世間の情勢や地理にも詳しかった。また、口入屋の商売についても知識が豊富だった。

 客に呼ばれない時は、基本的に自分達の事しかしなくてよいので、暇な時間が結構ある。正直、ここの生活は実家より随分楽だ(売れた後は知らないが)。
 そこで、彼女に世間話がてら、色々と情報を聞いてみたのだ。

 ちなみに彼女は、容姿は並みだが、文字も読めて、商売用の計算もでき、教養もあるので3つ星クラスである。実に妬ましい。
 彼女の実家が何の商売をしていたのか少し気になったが、それを聞くのはタブーだと思い、それについて質問するのはやめておいた。



 どうやら私がいたオン、という地域は、トリステインといっても南の端、ゲルマニア、ガリアに隣接する地域だったらしい。
 あの何日かの馬車旅で、いつの間にか国境を渡っていた、というのだから驚きだ。

 しかし仮にも領民を商品として積んだ馬車が国境を渡れるのか?という疑問が浮かんだ。
 いくら非力な娘達とはいえ、貴族にとっては領民は一応財産のはず。勝手に売買されて、国外に流出までしてはそれだけ税収の面で損害を被るのだ。

 と、そんな疑問をぶつけてみたが、普通の人間を攫ってくるような賊の類なら勿論止められるが、売買されて各々のコミュニティから追放された時点で、人ではなくモノ扱いになるらしい(決して安いモノではないが)。
 勿論、無秩序に売買されて領民が減っては領主が困るので、口入屋と領主の間で「今回は○人買います。だからこれだけ払います」と話がついているという。その場合、領主側に支払われる代金は家族に払ったものと同等、つまり私の原価は金貨20~30枚程度(エキュー金貨なのか新金貨なのかは不明)と言う事になる。
 そして、そのモノが国境を越えた所で、単なる交易と見做されるとの事だ。

 この口入屋は、ゲルマニアの商会ギルドに属していながら、トリステインの寒村を中心に人集めをしているらしい。トリステインの農村は、ガリアやゲルマニアよりも、圧倒的に貧しい所が多く、人が安く多く買えるそうだ。
 それを聞いた私は、日本の企業が外国人労働者を違法に安い賃金で働かせていたのを思い出して切なくなった。

 ちなみに上流貴族(男爵以上)あたりになると、奴隷同然の奉公人など取らずに、自分の領地内で募集を掛けるか、ウィンドボナあたりの大きな商会に求人を任せて、普通の平民と正式な雇用関係を結ぶそうだ。

 ここのような口入屋から奉公人を買うというのは、世間体的にあまりよくないのだ。

 その事を考えると、どう頑張ってもマトモな主人に当たりそうもない気がして怖い。
 


 

「出ろ。そろそろ時間だ。風呂に入っておけ」

 ノック無しで部屋に入ってきた大男が、客との面会がある事を告げる。

 客に会うのはここに来てから一週間ほど経つが、これで3回目だ。
 普通はもっと頻繁に呼ばれるらしいのだが、文字が読めない事と、10歳という年齢もあり、私は人気が無いらしい。
 会う、といっても個人的に会う訳ではなく、客の希望に合う娘達を連れて行き、その中から気に入った者がいれば引き取る、というシステムだ。まあ、商品の陳列のようなもの。陳列時の服装は勿論、素っ裸である。



 1回目の客は、どうみても助平心丸だしの成金っぽいハゲデブ。多分ロリコン。何せ背後に回られて、フンフンと匂いを嗅がれましたからね私。ちらっと目に入ったその下半身はこんもりと……。マジで鳥肌モンでした。
 大方、抱き枕代わりのペットを買うつもりで来ていたんだろう。

 不幸にもハゲデブの餌食になった娘は、私と一緒に連れられてきた、あの泣き虫金髪だった。

 私は自分が災難から逃れられた安堵とともに、犠牲となった彼女に同情し、心の中で合掌した。アレに買われていたら自殺モノだったな多分。



 2回目の客は、1回目よりさらに酷かった。見た目は善良そうな中年と育ちの良さそうな少年。
 
「パパ、コレどうかな」
「ソレが気に入ったのか?う~ん俺としてはもう少し活きが良さそうなのがいいんだが。主人、試し打ちしてみてもいいかね?」
「申し訳ありませんが、お代を頂く前の行為は控えて頂いております」

 私を指さして、あからさまなモノ扱いをする親子。まあそれはいいとして。
 “試し打ち”って。その手に持ってる鞭と棒は何なの。親子揃って嗜虐趣味の変態ですか……。

「むぅ、鳴き声を聞けねば決められんではないか」

 ほっ。ボスが止めてくれて助かった。エエ人や……。
 
 結局親子は試し打ち出来なかったのが不満だったのか、誰を引き取ることもなく去っていった。
 この親子に買われていたら、自殺モノというより他殺モノになっていた。

「チッ、何が試し打ちだ。ロクに商品を買った事もないくせに。次からは出入り禁止だな」

 親子が去った後、それまでの笑顔は何処へやら、ボスは不愉快そうに歪めた顔で吐き捨てる。
 それとなしに尋ねてみると、あの親子は“試し打ち”と言って何回か娘に怪我をさせた挙句、引き取りもしなかったらしい。

 なるほど、それで止めたのか。商品を傷モノにした挙句、金を落とさないのは客じゃないっすよね。納得納得。…………はぁ。



 とまあ、2回ともロクでもない客だった。そういう訳で、客と会うのが少し怖いのだが、少なからず楽しみにしている事もある。

 それが風呂だ。

 なんと、蒸し風呂ではなく、きちんとお湯を張った風呂で体を洗えるのだ。
 これは、少しでも客への印象を良くして、早期に買ってもらうためのラッピングのようなものだ。臭い娘なんぞ印象最悪だからね(ここまでの客層を見ると臭いに反応する特殊な人間もいそうだが)。



 さて、楽しく嬉しい風呂にも入った。髪もセット。戦闘準備完了だ。
 少しでもまともそうな人なら、アッピールしまくってやろう。

 あまりに売れ残ると、口にするのも憚られる悲惨な末路が待っているらしいし……





「リーゼロッテ様、お待ちしておりました」

 客用の正面エントランスで、口入屋のボスが、客らしき若く美しい女性を恭しく出迎える。その表情は気持ち悪いほどの営業スマイルだ。



 この口入屋に女性客は珍しい。助平目的にしても、労働目的にしても、圧倒的に男性客が多いからだ。

 このあたりの地域はトリステイン・ガリア・ゲルマニアの3国の国境近くである事が影響して、旅の商人などを相手にした宿場町が多く、飲食店や娼館などの娯楽施設が多く存在する。そんな事情から、この店の最大のお得意様はそんな風俗産業を扱う商人なのである。

 元々、この口入屋では、男の奉公人も扱っていたのだが、その客層のせいで、売れ残りが多数出てしまっていた。なので、今は女、それも20歳未満の若い娘専門の口入屋になっている。

 そんないかがわしい店に客としてくる物好きな女性客は、このリーゼロッテくらいのものであった。



「ああ、今日は事前に言った通り、新しく入った娘を見せてくれ。全員だ」

 リーゼロッテは笑顔を貼りつかせたボスに目も向けずに、端的に用件だけを言う。

「……かしこまりました。ではこちらに」

 ボスは一瞬顔をしかめたが、すぐに笑顔を作りなおしてリーゼロッテを案内する。

(不気味な女だ。ここ数年でかなりの数の娘を買っているが、一体何に使っているんだか。まあ、こちらとしては売れればそれでいいんだがな……)

 ボスは内心そんなことを思いながら、娘達が控えている大広間へと歩を進めた。

 ギィ、と広間の扉が開かれる。集められた娘は新規に連れてこられた3人の娘。

 アリア、赤毛、長身の3人だ。

「む、4人ではなかったかな?」

 リーゼロッテは直立して並んでいる3人を一瞥し、主人に疑問を投げかける。

「はい、1人は5日前に他のお客様に売れてしまいまして」

 主人は申し訳なさそうに頭を下げる。

「そうか。ではこの3人に面接を行う。ミスタ、悪いが外してくれ」

 これがボスがリーゼロッテを不気味に思う理由の一つであった。
 毎回、この奴隷商、ごほん、口入屋の主である自分を退出させて選考を行うのだ。
 もちろん自分がいない間に商品である娘達を傷モノでもされれば、即出入り禁止なのだが、特にそんなことはなく、後で娘達に聞けば、特に何もなかったという。
 ただ、面接の内容は何なのかを何故か覚えていない、というのだ。それがまた気味が悪い。

「……わかりました。終わりましたらお呼び下さい」

 気味が悪いとは思っていても、安定して店に金を落とす上客なので、機嫌を損ねるわけにはいかない。ボスは最敬礼で頭を下げると、静かに広間から退出した。
 




 おお……ないすばでぃー!

 心の中で叫ぶ私。面会場所である広間にやってきたのは、恐ろしく美人な若い女性だった。女性は胸元と背の大きく開いたショートラインの青いドレスに、白い薄出の肩かけを羽織り、手にはサッチェル型の上品なハンドバックを携えている。
 歳の頃は10代後半。腰まで伸ばした美しいブロンドのストレートヘアに、穏やかな雰囲気を演出する若干垂れ気味な大きな青い瞳と、高く通った鼻筋。情に厚そうなプルンとした唇。そのプロポーションは奇跡的なバランスで均整がとれており、露出の多い衣装をつけているのにかかわらず、下品さを微塵も感じさせない。

 女性ならば性的な心配もないし、身につけているものも明らかに高級品だ。マントと杖は見えないので、銀行家や、大商人、もしくは資産家のご令嬢か何かだろうか。その性格までは分からないが、柔らかな外見(顔)から判断すれば、とてもではないが酷い人には見えない。



 これはちゃーんす!滅多にない優良物件!行くぞ私!頑張れ私!勝ち取れ私!

「さて、では自己紹介から始めようか。私はリーゼロッテという。よろしく頼む」

 そう言ってリーゼロッテお嬢様は軽く会釈する。
 結構クールな喋り方だが、私達のような商品風情に頭を下げるなんて、間違いなくイイ人である。これは絶対逃してはならない!

「アリアです!トリステインのオンにある農村から参りました!年齢は10歳、何でもやります!やれます!頑張ります!」
「……フリーデリカ」
「ヤネット、です」

 あれ~?何か温度差がひどいな。
 他の2人は就活を舐めているとしか思えない態度である。
 フフ、素人のお二人さんには悪いがここは私が貰うよ。

「元気がいいな君は」
「ありがとうございます!」

 私に向かってニコリと神々しい笑顔を向けて下さるお嬢様。好感触……!これはもう内定確実か?!

 などと思っていると、お嬢様がいつの間にか急接近して、私の顔を覗きこんでいた。鼻と鼻がぶつかりそうな距離で。

「へぁ?!」

 突然の事に変な声を出してしまう。マズい!落ち着け、私。
 私を覗きこむその綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。あれ?瞳の色が……

「ね………く…よ」

 お嬢様が何かを呟くが、はっきりとは聞こえない。

 ……何か……ね……むい…………

「うまそうだ」

 そんな言葉が聞こえた気がしたところで私の意識は途切れた。

 



「……んむ?」

 どれだけ経ったのか。頭が働かない。焦点が定まらない。自分の状態がわからない。

 周りを見れば、長身と赤毛は放心したような様子で立っている。私もそうか。あのお嬢様は……口入屋のボスを呼んできたようだ。お嬢様の瞳はやはり透き通るような青だ。さっきのは見間違いだったのか。

「フフ、この栗毛の小さい娘……アリアといったか。いくらで引き取れる?」

 お嬢様はそう言って、私を背後から抱き締める。ローズ系のいい匂いがした。
 何も覚えてないけど、いつの間にか私に決まったみたい。

 え、決まった?しかもなにこの親愛表現?嬉しい事は嬉しい。だけど何かが変だ。

「星無しですのでエキュー金貨で150、新金貨で200になります」

 凄い粗利ですねボス。まあ宿舎での生活費の分もあるしね。流石に中流以下の平民だと買うのは厳しい価格。

「ふむ、そんなものか」

 お嬢様改めご主人様は、ハンドバックの中から、金貨の詰まっているであろう袋を取り出し、ポン、と惜しげもなくボスに手渡す。

「その中に代金分入っているはずだ」

 えええ、そんな丼勘定?経済感覚がマヒしてませんか、ご主人様。

「お買い上げ有難うございます。では事務室で手続きを致しますので、こちらへ」
「うむ。娘達は少々疲れているようだ。手続きが終わるまでアリアに飲み物を。それ以外の娘は下がらせてやってくれ」
「かしこまりました」

 買った私だけではなく、他の娘をも気にかけて下さるご主人様。

「ああ、それと適当な服も見繕ってやってくれ。裸のままでは可哀想だろう」
「は、わかりました。おい!」

 ご主人様の要望通りに、ボスは下男に指示を出す。その後、私にここで待つように言ってから、ご主人様とボスは広間のドアから退出していった。
 私如きにここまで気遣いをしてくれるなんて、優しすぎやしないか。
 私は用意されたシンプルなデザインのブラウスとスカートを身に付けながらそんな事を考える。

 美しく、優しく、金もある。こんな人が私のご主人様になるというのか。一体何の目的で?不謹慎極まりないが、目の前のリーゼロッテという女性が不気味に思えてしまう。
 それにこの優しさは私を売った日のオカアサンを思い出させる。

 馬鹿らしい。

 オカアサンとご主人様は全く違うじゃないか。こんなに素晴らしいご主人様への猜疑心が消えない私は、きっと心が汚れているのだ。





「待たせたな、アリア」
「いえとんでもございません、ご主人様」

 半刻ほどで、ご主人様は事務室での書類手続きを終えたらしく、広間へと私を迎えに来てくれた。

「ご主人様はやめてくれないか?リーゼロッテでいい」
「は、はい。ではリーゼロッテ様と」
「よし、では行こう」

 私に微笑みかけるその表情はとても柔らかで、美しい。裏などあろうはずもない。

 先程まで抱いていた疑念は完全に吹き飛ばされ、この主人に選ばれた嬉しさと、他の主人に選ばれなかった安堵感が一斉に込み上げてきた。

 もしこの時の表情を鏡で見ていたら、きっと緩みきっただらしない表情をしていた事だろう。



 ご主人様に手を繋がれて、外に待たせた立派な装丁の施された箱馬車へと連れられて行く。気分はまるでシンデレラだ。
 そこに着くまでにすれ違う娘達に、私は優越感を感じていた。私は幸せを約束されたのよ、貴女達もがんばってね、と。

 高揚した気分のまま、私とご主人様を乗せた馬車は動き始める。

 私は輝かしい未来を夢想しながら、ゆっくりと流れていく景色を眺めていた。





つづくようです






[19087] 4話 EU・TO・PIAにようこそ!
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2011/07/23 02:07
 ここはまるで楽園だ。



 それまで御馳走だと思っていた物とは比較にもならない程、美味しい食べ物。
 朝までぐっすりと安心して眠れる、ふかふかで柔らかい天幕付きのベッド。
 よく手入れされた色とりどりの美しい花々が咲き乱れる庭園。
 ファッハヴェルクという様式で建てられたという、お洒落で立派なお屋敷。
 新参者の私にも親切にしてくれる使用人達と、いつも笑顔の優しい旦那様。

 そして美しく気高いリーゼロッテ様。



 今日も綺麗なおべべを着せられて、私は優雅にティータイム。

「アリア様、紅茶のおかわりはいかがでしょうか?」
「ええ、お願いします、ありがとう」

 お気に入りのテラスで、老執事に傅かれる元貧農娘。私である。

(苦しゅうないわよ、セバスチャン。なんつって。さて、ではお茶請けの方も頂こうかな?パクっとな。んん?)

「今日のお菓子は少し甘みが強すぎますね。料理人さんに精進するよう伝えて下さる?」
「かしこまりました、アリア様」

 セバスチャン改め屋敷の老執事ライヒアルトさんは、私の苦言に嫌な顔一つせず了承の意を示す。



(あぁブルジョワジーって最高!はぁ世の中やっぱ金だよね~。カネ)

 私はすっかり調子に乗っていた。いや、乗りまくっていた。その姿はまるで拾った宝くじで一等前後賞を当てたホームレスである。



 何故こんな事になっているのかというと、話は2週間程前に遡る。





 リーゼロッテ様に引き取られた私は、フェルクリンゲンから北東へ馬車で3日ほどの距離にある、長閑な景色の広がるウィースバーデン男爵領と呼ばれる地域に向かっていた。

 ウィースバーデン男爵領は、ザールブリュッケン男爵領のすぐお隣の領地なのだが、なんとその北には“あの”ツェルプストー辺境伯領が広がっており、その力はやはりというか絶大で、この辺一帯の貴族のボス的な存在であるそうだ。



「リ―ゼロッテ様のご実家は男爵領の内にあるのですか?」
 
 揺れる箱馬車の中、私は向かいの座席に座るリーゼロッテ様に質問する。

 ウィースバーデンは農村地帯、言い方を変えれば田舎らしい。そのような地域に実家があるとするなら、何の稼業を営んでいるんだろうか。

「ああ、言っていなかったか。私はその男爵家の長女でね」
「そっ、あ、きっ、貴族様?!……で、でも杖とマントが」

 さらりと為された爆弾発言に畏れ慄く。

 ちょ、そんな重要な情報は先に仰ってくれないと……。

 貴族ではないと決めつけていた私にとっては寝耳に水だった。
 貴族の証である杖とマントは身に着けていなかったし、私が貴族に買われる訳がないとおもっていたのだ。しかも上級貴族はあんな口入屋には来ないんじゃなかったのか。

 貴族、と聞いて途端に委縮する私。貴族は怖いものである、と10年間教え続けられてきたのだ。実は貴族などと言われればビビってしまう。



 男爵というと、貴族の中では下の階級というイメージがあるが、間違いなく上級貴族である。

 下級貴族とは一般的に準貴族の事を指す。即ち准男爵、叙勲士(騎士)、及び爵位無しの貴族である。
 基本的に領地持ちの上級貴族は非常に裕福であり、一部の上流平民(例えばゲルマニアで爵位を買えるような実力者)を除けば、その財力は平民と比較するのも馬鹿らしい。
 財力と権力と暴力を兼ね備えた者が真の貴族。その3つが揃っていたからこそ、ハルケギニアは6000年の長きに渡る封建社会を維持する事ができているのだろう。



「……今回はお忍びだったのでね。馬車の中に隠してあったんだ。ほら」
「しっ、失礼しましたっ!今までのご無礼、何とぞお許しを……」

 リーゼロッテ様は座席の下に無造作に置かれてあった杖とマントを掴み、こちらに見せる。
 それを見た私は速効で土下座である。その反射速度はリアクションタイム0,06秒の壁を破っていたと思う。

 貴族であったなら今までの態度では不敬に当たるかもしれない。
 
 せ、折檻される!いや、まかり間違えば殺される?!

「アリア、とりあえず座席に戻って」

 美しい顔を顰めて、這いつくばる私に拒絶を示すリーゼロッテ様。

 やや強い口調に押され、私はのろのろと座席に戻って縮こまる。
 卑屈すぎて逆に怒らせてしまったのだろうか、と私の背中を嫌な汗が伝う。

「貴族は嫌い、か」
「い、いえ。そんなことは」

 慌てて否定したが、正直に言うと、あまりいい感情は持っていない。
 私は特に恩恵も受けずに搾取されてきた側なのだから当然と言えば当然である。

「誤魔化さなくてもいいよ。君の立場から見れば貴族が嫌いなのが普通だ。正直に言ってくれ」
「う……!嫌いというかその!怖い、かも、です。その、貴族様は怖いモノだと……」

 だが嫌いなどとは口が裂けても言えまい。ただ、実際に嫌いというよりは怖いと感じているのは事実である。

「なるほど。……では私も怖いかな?」
「い、いえ、リーゼロッテ様はお優しい方だと思います。ただ貴族様だと聞くと、反射的にというか本能的にというか……」

 リーゼロッテ様は自身の胸に手を当てて尋ねる。私はそれを否定する。

 彼女が怖いわけではない。貴族というカテゴリーが怖いのだ。

「少し意地悪な質問だったか。私が言いたいのは、私が貴族だからといって今までの態度を変えないでほしい、いやむしろもっと砕けてくれても良い。貴族だからといってそんなに怯えられては、私は悲しい」

 言い終わって、ふぅ、と悩ましげな溜息をつくリーゼロッテ様。

「わ、わかりました、努力します」
「ふふ、努力するというのもおかしいが。まあそういう事だから必要以上に肩肘を張らないでくれ」

 リーゼロッテ様は、あの柔らかい微笑みを私に向ける。

 その表情はまさに太陽。緊張や警戒という名の防寒着が脱がされていく。

 うん、大丈夫。この人は怖くない。



「しかし何故男爵家のご令嬢が、何故あのような下賤な場所に?」

 正真正銘の上級貴族のお嬢様が、何故あのような口入屋に出向いて私を買ったのか。
 私が口にした疑問に彼女は少し間を置いてからこう答えた。

「あの口入屋に連れてこられた年端もいかない娘達が、買われた先で奉公と称した虐待を受けていると聞いてな」
「それは……恐らく本当です」

 リーゼロッテ様の前に面会した2人のような客が多いのであれば、間違いなくそうだろう。

 ふとあの泣き虫金髪の顔を思い出す。あの娘は今どうしているのだろうか。
 もう流す涙も枯れ果てているかもしれない。

「あの街の領主でもない私の力では全てを救う事は無理だ。しかしせめて気に入った娘だけでも、他に買われる前に私の元で保護したいと思っている。……自分でもただの偽善的な自己満足だとは分かっているのだが」
「…………」
「私は貴族とは名ばかりの小娘だよ。結局何も解決できていないのだからな」

 自嘲的な笑みをこぼすリーゼロッテ様。その表情は自責の念からか苦痛に歪んでいるように見える。

「私如きが偉そうに言う事ではないと思いますが……リーゼロッテ様はご立派だと思います。自己満足だと仰られましたが、それによって救われた私のような人間もいます。どうかご自分を責めないでください。私はリーゼロッテ様のような方こそ真に貴き一族と言うのだと思います」

 こんな考え方をする貴族もいるのだ、と私は感動し自分の思ったままを口にした。
 貴族は平民の事などただの家畜か道具にしか見ていない、と思っていたが、この人は違う。
 
 いや、上級貴族とはもしかするとこういうものなのかもしれない。口入屋に玩具を買いに来るような金を持った大きな子供とは違うのだ。

「ありがとう。そう言ってもらえると救われるよ。君は優しいな。それに年齢に見合わない聡さを持っている。10歳でそのような世辞を言えるとは」
「世辞ではありません。本心です」

 世辞を言っていると言われて、少しムッとした私はその言葉を否定する。生意気に聞こえてしまったかもしれないな、と私は少し後悔した。

「やはり君に決めて良かった。想像以上に……」
「?」

 想像以上に、なんだろう。その微笑の表情から、マイナスのイメージではないことは分かる。生意気な事を言った私への好感度は悪くなさそうで、ほっとする。



 そしてここから話は思わぬ方向に突き進んでいったのである。



「……いや、いつもは連れてきた娘は、屋敷の使用人として働いてもらっているんだが、今回は特別なんだ」
「特別、ですか?」

 リーゼロッテ様は、先程までの緩んだ表情を締め直し、真剣な表情で私を見つめる。

「ああ、実は君には私の妹になってもらいたい」
「成程、そういう事ですか。妹に成る仕事ですね。…………はっ?い、いもうとっ?な、何を仰って……妹とはあの、姉妹の妹ですか?!」
「それ以外に妹という単語の意味があったら教えてほしいが」

 はい?

 何を言ってるんだこの人?私は平民、それも奴隷的な階級の貧民ですよ?
 リーゼロッテ様の妹と言う事は、男爵令嬢になるという事で。

 私がお嬢様?ブルジョワジー?何十階級特進ですか?

 何コレ。何処産のシンデレラストーリー?
 いやいやいや、ないない。夢だ、これは。妄想の類。私の妄想が生み出した白昼夢。

 私はリーゼロッテ様のあまりの突飛な発言についていけず、ポカンと口を開けてアホ面を晒す。
 
「……ア、アリア」
「はっ」

 私を呼ぶ声が思考の海から現実に引き戻される。
 あれ、こっちが現実?思考が追いつかない。

「すまない。突然すぎて驚かせてしまったようだ。信じられないのも無理はない。順を追って説明するから落ち着いてくれないか?」

 リーゼロッテ様の提案に、私はただコクコクと頷く。

「まず、そうだな。今代のウィースバーデン男爵、つまり私の父なんだが。彼は大分前から心を病んでいてな」
「それは…………申し訳ありません、何と言ったらいいのか」

 こういう時になんと言ったらいいのだろうか。ご愁傷様ですとは言えない。適切な言葉が浮かばない自分にやきもきする。

「気にしなくていい。その原因は5年前に事故で私の実妹を亡くした事でね。少し嫉妬になってしまうが、父は私よりも妹を異常なほどに溺愛していた。……妹が死んだ事が認められなかった父は、当時妹と同じくらいの年齢だったカヤという使用人の娘を自分の娘だと主張し始めた」
「まさか」

 なんというか、気の毒に。
 その結末は少し予想はできたものの、私は黙って続きを聞く事にした。

「うん、カヤは妹ではないといっても父は全く聞きいれなかった。結局カヤの母に折れてもらって、カヤを妹に仕立て上げることになったんだ。領主をいつまでも錯乱させておくわけにはいかないからね。5年前から最近まで、カヤを妹に仕立て上げてからは父も落ち着いていたんだが……」
「何か問題が起きたのですね?」
「ああ、1月程前からカヤに対して、『お前のような女はしらん、私の娘は何処に行った!』と怒鳴り散らすようになってな。どうやらカヤが成長しすぎてしまったらしい。父の中では妹は10歳の少女のままらしい。そこで代役を探していたんだ」
「それで、私をカヤさんの替わりの妹役に、という事でしょうか?私にそんな大役が務まるかどうか……」

 リーゼロッテ様、私に貴族のご令嬢を演じられるような素養はありません。なんたって貧農出身ですから!貴族としての礼儀?マナー?何それ、おいしいの?

「アリアなら絶対大丈夫。実は君に初めて会った時に妹にそっくりで驚いたくらいなんだ」
「はあ……」

 力強い断定に、曖昧な返事しか返せない。
 貧農の小娘が貴族令嬢にそっくりとかありえるの?そうすると妹さんはあまり美人ではなかったのか……おっと、これは不敬だ。

「それに妹の名前なんだが」
「はい?」
「ファーストネームが“アリア”だったんだ」
「えぇっ?!」

 な、ナンダッテー?!珍しい偶然もあるものですね。うん。

「これはきっと運命だよ、アリア。妹役を探していた所に、あの口入屋に妹にそっくりな、名前まで同じな君がいたんだ。もしかすると君は始祖が遣わせた天使なのかもしれないな」
「う、運命……」

 熱っぽい目で語りかけるリーゼロッテ様。
 少女と言うのは総じて運命だとか、そういうのに弱いのである。『僕』の記憶を持っている『私』とて同じである。

「あまり難しく考えないでほしい。気楽にやってくれればいいんだ。私や周りの使用人達だってきちんとフォローする」
「でも……」
「大丈夫、きっとできる」

 そういって私の頭を撫でるリーゼロッテ様。

 妹役をやるのは最早決定事項のようだ。だが悪い気は全然しない。

 よし、やってやろうじゃないか。誰もが認めるリーゼロッテ様の妹になってみせよう。

「……わかりました!その大役、見事果たして見せましょう!」
「これは頼もしいな。期待している」





 と、以上のような事から2週間が経ち、冒頭に戻るわけである。
 
 当初、アリアは不安だらけだったのだが、リーゼロッテの父であるウィースバーデン男爵は、拍子抜けするほどあっさりとアリアを娘と受け入れ、屋敷の使用人達は、アリア様の生き写しだと持て囃し可愛がった。



 現在アリアはティータイムを終えて、庭園でメイドさん達とお戯れ中である。

「しかし、ほんとにそっくりだねえ」
「あはは、そう言ってもらえると自信がつきますよ」

 そう言ってアリアの頭をやや乱暴に撫でまわすのは、この屋敷のメイド長である。前妹役であるというカヤの母とはこの人である、との事だ。

「妹歴の長かった私から見ればまだまだね。オーラ的なものが足りていないわ」
「はいはい、カヤは厳しいなあ」

 前妹役のカヤは現在は屋敷のメイドとして働いている。屋敷で最も歳が近いのはこの15歳のカヤであったため、親しい友人のような関係になっている。

 心配していたマナーや礼儀についてもうるさく言われる事はなく、今はただ楽しんでいればいい、とリーゼロッテは言う。
 妹役との事だが、男爵の手の届く所で普通に過ごしてさえいれば、男爵は落ち着いているようで、特別に何かをしているわけでもない。



 男爵やリーゼロッテの膝の上で豪華な食事を頂き、お気に入りのテラスで優雅なティータイムを過ごし、美しい庭園で使用人達と戯れ、眠くなれば柔らかいベッドの上で寝るだけだ。

 怠惰にして華麗、まさに頭カラッポなワガママお嬢様を体現した生活である。



 人は悪い環境に置かれてずっと慣れない事はあっても、良い環境に置かれると、3日で慣れ始め、1週間でこういうものかと納得し、2週間する頃にはそれが当然となってくる。

 最初は恐縮しっぱなしだったアリアもだんだんと気持ちが大きくなり、現在では立派なお嬢様になってしまっていた。
 その容姿も、ここに来た当初は痩せぎすだったのに、今ではふっくらとしてきており、綺麗な衣服を纏ったその姿を見れば少し残念な感じの貴族令嬢に見えないこともない。

(『私』にこんなイイ事があるなんて。神が本当にいるならお礼を言いたいくらいだわ)

 “10歳の”アリアは与えられる幸せに疑念を抱く事もなく、今生で初めて訪れたと言ってもよい我が世の春を満喫していた。

 その無防備な姿はまさにこの世の穢れを知らない暢気な乙女。





「……クひ、本当に楽しみだよ、アリア」

 庭園で無邪気に戯れるアリアを、自室の窓から観ていたリーゼロッテの呟きは、誰にも聞かれることなく消えて行った。





つづく、多分






[19087] 5話 スキマカゼ (前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/01 19:45

 『私』と『僕』は同一の存在である。

 ふたつはセカイに生まれた時から共にあった。
 だが、本来『僕』は目覚めるはずではなかった。

 だって、ここは『僕』のセカイではなく、『私』のセカイなのだから。





 『僕』がこのセカイで初めて覚醒したのは、『私』が4歳になったばかりの頃だった。



「このっ、馬鹿がっ!どうしてこんなこともできないんだっ!」

 気付けば『僕』は、見覚えのない白人の女に罵声を浴びせられながら殴られていた。素手ではなく麺棒のような短い棒で。

(何だよ、何なんだよこれ)

 自分はバイトの帰り道、急いで帰宅していて……それで?

「聞いてるのかいっ!?」

 呆けたような顔を浮かべた僕の態度に腹を立てたのか、白人女の暴力は更にエスカレートする。

 痛い。痛すぎる。

 手を振り上げる白人女の表情は怒りに満ちている。だが、その中に微かに、しかし確かな愉悦の色が混じっている。

 間違いない、この女は異常者だ。止めないと、まずい。

「いい加減にしやがれッ!キ○ガイめッ!」

 『僕』は立ちあがって白人女の暴挙を止めようとする。

「え?」

 だが短い。
 背が。手が。届かない。

「ようやく口を開いたと思ったらなんて口の聞き方だい?!この親不孝者めっ!いつも通りっ!“ごめんなさい”だろうがっ」
「あグっ……かふっ……」

 親不孝?意味不明な言葉と共にめった打ちにされる。
 気が付いたら見知らぬ女からリンチって。あまりにも理不尽過ぎやしないか。

「はぁ、はぁ……はっ、そこで反省してな!」

 何を反省しろと。

 白人女は動けなくなった『僕』を見てようやく満足したのか、捨て台詞とともに立て付けの悪そうな木板のドアをバタンと閉めて出て行った。



「痛え……てか……寒ぃな」

 びゅうびゅうと吹きこんでくる冷たい隙間風が肌を刺す。

「……で、ここは何処だ?」
(うちのなやだよ)

 痛む体を何とか起こして周りを確認すると、成程、そこは納屋というのは相応しい古臭い農具などが並んでいる──『僕』が見知らぬはずの場所。

 なのに、知っている。
 既視感というやつだろうか。いや、そんなものじゃない。

「どうなって……」
(あなたはわたし)

 誰だよ。人の思考を邪魔しやがって。

「なに、いってやがる。『僕』は……あり、ア?さっきのはオカアサン……?」
(うん、そうだよ)

 僕は一体どうしたんだ?さっきから僕は何を喋っている?
 日本語でも英語でもない。そういえば、学部時代に必修単位を埋めるために取った仏語に近い気もするが……。

 いや、そんなことよりもその内容だ。

「……何で『僕』がこんなこと、知って、る?」
(だってわたしだもの)

 意味が分からない。僕は僕だ。

 そう、僕はアリア、せんしゅう4さいに……?現在はM2の院生でのうかのむすめ。単身事故を起こして、オカアサンにせっかんされた……?

「う……、気持ち悪い。それに痛ぇし寒いわ……ハハ、最低の夢だなこりゃ」
(ごめんね、ごめんね)
「なんで謝るんだよ」
(わたしがおこしちゃったの)

 起こした?
 あぁ……そうだった、“奥”で寝ていた『僕』は『私』に起こされたんだった。

「オカアサンが怖いのか」
(おかあさんはこわい。いたい)
「……ほとんど毎日だもんな」
(うん。わたしはここ、きらい。だから)

 そうそう。『私』はこのキタナイセカイが大っきらい。だから『僕』に向かって叫んだんだ。

 タスケテ、と。



 馬鹿な。誰の思考だ、今のは。

 これは夢か妄想に決まっている。早く醒めなければ……明日は論文の中間発表がある。

「ゆめ、ちがうよ」
(はぁ……)

 夢という事を否定してくる夢の住人。ユングの夢分析だとこういう夢はどんな意味があるんだっけ。

「たすけてよ」
(『僕』には無理だ。諦めろよ)

 うるさいガキだ。お前の事など知った事か。

「あきらめる?」
(あぁ、どうにもならんことなら諦めて生きろ。その方が楽だぞ……)





「……夢、か。ふふ、随分久しぶり、あの夢は」

 『私』は与えられた自室のベッドの上で目を覚ます。ふと窓を見ると、外はまだ真っ暗だ。
 あ~変な時間に起きちゃったな。

「うぅ~……さむっ」

 この部屋は立派なのだけど、どこからか隙間風が入ってくるらしく、夜中は結構冷える。あの時の夢を見たのはこの寒さが原因かもしれない。

 寝直してもいいのだが、いかんせん目が冴えてしまって眠れそうにない。
 さて困った。どうすべきか。

(鍵が開く朝まで部屋でじっとしててもいいけど……さすがに退屈かな……)

 

 この屋敷では、私の身の回りに設けられたいくつかのルールが存在する。

 その一つが就寝前に外から自室のドアを施錠される事(内からは開けられない構造)。

 これは、幼い私が夜中に勝手に出歩いて怪我などをしないためと言う事なのだが、不便と言えば不便だ。
 夜中に何か用事がある時は呼び鈴(といってもただのベルだが)を鳴らして、夜番の使用人に来てもらう事になっている。

 それと似たようなものに、自室の窓が開かないようになっているという事もある。

 窓を開けたまま寝てしまうと風邪をひくし、私の部屋は2階に位置しているので、窓から落ちてしまったりしては困るとの事だ。

 少々厳重過ぎるような気もするが、大事に扱われている結果と思えば、多少不便であろうともその気遣いが嬉しいもの。本当にこの屋敷の人達は優しい。

(…………)



「あれ、開いてるや」

 所在無しに部屋の中をうろついていた私がふとドアノブに触れてみると、重厚な木製のドアは、キィ、と特に抵抗なく開いた。

 どうやら今日はカヤが鍵を掛け忘れたらしい。ふふ、朝になったら注意してやろう。

「ちょっと厨房にいくだけだし、いいよね……」

 夜中に出歩く時は、“必ず”呼び鈴を鳴らす事、と言われているのだが。

 少し小腹の空いていた私は、厨房に何か余り物がないか探しに行く事にした。そんな用事ともいえない事で夜中に人を呼び付けるのも悪いだろう。



(そっと、そーっと)

 私は皆を起こさないように、そっとドアを開けて忍び足で部屋を出た。

「ん?」
 
 1階に下りて厨房に向かう途中、どこからかボソボソと話し声のような音が聞こえてきた。

(こんな夜中に何だろう?)

 不思議に思った私が真っ暗な廊下を見渡すと、一階玄関近くの部屋から微かにランプの光が零れていた。

 あの部屋は確か、執事室。老執事ライヒアルトさんの部屋だ。



(うーん、独り言かな?なんか気になるなあ……)

 ちょっと躊躇したが、好奇心に負けた私は執事室のドアに耳を近づける。

 盗み聞きなんてあまり良くない事だとは思うけど、もし私の話題だったりしたら、と気になってしまう。

「──もあと1週間────」

 ん、独り言ではなく、誰かと話し込んでいるようだ。誰だろう。女の声だけど……

「しかし、──イイ趣味を──」
「──しても妾──演──は自分でも────思わんか?」

 話しているのはリーゼロッテ様、なのか?声の質もその口調もいつもと違っている気がするけど……。
 それにしても内容が気になる。何があと一週間なんだろう。

 私は頭が埋まるのではないか、というほどピッタリとドアに耳をくっつけた。

「さあ、それはどうでしょうか。何ともお答え致しかねますな」
「ハッ、芸術がわからぬ失敗作はこれだから駄目なんじゃ」
「くっく、前衛的なモノは理解できぬ年寄りの頑固者でして」
「ち、妾の方が年上だと知っておろうが。嫌味な下僕じゃ。今すぐ物言わぬ肉くれにかえてくれようか」
「おお、怖い怖い」

 やはりリーゼロッテ様の声。ライヒアルトさんより年上?ジョークでも言い合ってるのかな。
 話している内容もよくわからないけど物騒だし……ブラックユーモアという奴だろうか。

「ま、それはもうよいわ。……で、小娘の経過はどうじゃ」
「順調ですよ。来た頃は蒼白だった顔色もここ最近で赤みがさしてきましたし。体も大分肥えてきました」

 小娘っていうのは私の事か?むぅ、陰ではそんな風に言われてるとは。
 確かに小娘ではあるけれど、ちょっと嫌な気分だ。

 でも私の体に気を使ってくれているみたいだし、文句を言う筋合いでもないよね。こんなにいい思いをさせてもらっているのだし。

「たわけ。妾は小娘の体など興味はないぞ。あるのはお前らだけじゃろうが。聞いとるのは妾の“脚本通りに”進んでおるかどうかじゃ」
「あぁ、そちらはもう。アレはこれまでの娘以上に阿呆のようですな。完全にこちらを信じ切っていますよ。あの緩みきった表情でわかるでしょう?」

 え?何の事?

「ふん、まあ妾の書いた脚本なのだから当然じゃな。わかっておると思うがスヴェルの夜までは絶対に気付かせてはいかんぞ?」
「そう何度も念を押さずとも、十分に存じております。主も心配性ですな。寿命が縮みますよ?」
「そう言って前に気付かれた事があったじゃろうが」
「あぁ、あの首を吊った娘ですか。大丈夫ですよ。あの娘は最初からこちらを疑ってましたからね」

 ドクンッ、と心臓が跳ねる。鼓動が速い。息が荒くなる。

 ダメ、これ以上聞いたら……。

「しかし今回は下準備も長かっただけに楽しみですな。天国から地獄、全てが覆った時にどんな反応をするのか」
「妾が手掛ける舞台ぞ?最高の表情をするに決まっておる!絶望、悲哀、逃避、憤怒、混乱。どれじゃろうな……あるいは入り混じるか……その表情に味付けされたスヴェルの夜の乙女の血……あぁ、想像するだけで絶頂に達してしまう!クッひヒヒゃひヒあヒ」

 歪んだ嗤い声と、不気味な言葉。女の声は狂気に満ちている。

 リーゼロッテ様?これが?

 嘘。

「全く……もう少し上品な笑い方はできないのですか……。で、後処理の方は?」
「クひ、使用人ももういらんだろう?血は勿論妾がもらうが、肉の方は貴様らにくれてやる。人間の肉はまずくて喰えんでな」
「それはそれは、主の寛大なお心遣い感謝致します。しかしあの味がわからんとは難儀ですな。私など段々と肥えてきたアレを見て涎を垂らさないようにするのが大変ですよ。あの柔らかそうな尻などオーブンで焼けばトロトロに……」

 何これ。意味が分からない。分かりたくない。

 やめてよ。

 折角キレイナセカイだったのに……壊さないでよ……





 私はふらふらと執事室のドアから後ずさり、無意識のうちにそこから逃げようと静かに歩き出した。



 もし盗み聞きをしていた事がバレたらどうなるのだろう。

 確信があった。気付かれたら“終わる”と。
 絶対に音を立てては、いけない。そう思うと、自分の鼓動や息遣いが地平の果てまで響きそうな騒音に聞こえてくる。

 外に出たい。今すぐここから逃げ出してしまいたい。

 しかしそれは無理だ。この時間は全ての扉の鍵が掛けられている。窓を割れば音で気付かれる。



 とりあえず今は、自室に戻ろう……。
 
 私は今夜、自室から出なかった、ずっとベッドで寝ていた。そういう事でなければならないのだから。



 辺りは静まり返っている。他の部屋に灯りはついていない。どうやら起きているのはあの2人だけのようだ。

(いける)

 階段に向かって1階の廊下をすり足で進む。ギシ、と軋む床板の音が憎い。
 2人のいる執事室を何度も振り返り、後ろを確認する。中ではまだあの話が続いているのだろうか。

 やっと階段まで辿り着く。手すりを掴みながらなるべく体重をかけないように階段を上る。

 大丈夫、誰も後ろからは来ていない。上りきった。
 
 自室まではあともう少し。あそこまでいけば、きっと。





「……何をしているのかな」

 ゴールまであと一歩。





つづきます

※長くなったので前後に分けました。ここからしばらくシリアルかも……。






[19087] 6話 スキマカゼ (後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/03 18:10
「……っ!」

 背後から唐突に掛けられた問い。
 それはとても静かな声だったが、私には怒り狂うドラゴンの咆哮よりも大音量に感じられた。

 私は刑の執行を言い渡された死刑囚のように硬直する自身の体を、無理矢理に捻って背後の人物を確認する。



 カヤだった。

 私は声の主が執事室に居たあの2人でなかった事に安堵し、ほぅ、と息を漏らした。

 カヤならば大丈夫。この娘があんな恐ろしい企みに関わっているわけがない。絶対、私の味方になってくれるはず。
 でも先程盗み聞いた内容を、まだ話すわけにはいかない。もしかしたら私の聞き違いかも……しれないし。

「何でもないよ。ちょっとぶらついていただけ。そうだ!今日鍵かけわすれてたよ?」
「……どうして勝手に部屋から出たの?」
 
 私はおどけた調子でカヤの質問に答え、最後にその話題から逃れるように話を逸らした。
 カヤはそれを無視して質問、いや詰問を続ける。その表情は虚ろで、感情が読めない。

「どうして、ってだからただの散歩……」
「部屋から出る時は“必ず”呼び鈴を鳴らす事、って知ってるよね?」

 カヤは言葉を発しながらじりじりと私に近づく。
 その何とも言えない迫力に、私は後退を余儀なくされ、程なく壁際に追いつめられた。
 私に詰め寄るカヤの瞳はまるで深い洞穴。顔にぽっかりとあいた単色の穴。その声色はいつもの張りのある元気なものではなく、ひたすらに冷淡なものだった。

「え、と……あの」
「…………」

 壁に背がつき逃げ場がなくなった私はしどろもどろになって言い訳を探す。
 カヤは何も喋らず、ただ私を見る。睨むのではく、覗きこんでいる。まるで庭園の草木を這う芋虫を観察をするかのように。

「ご、ごめんなさい。もうしません」
「……そう」

 もう謝るしかなかった。何か寒気がする。もうここにいたくない。早く自室に戻って寝よう。

 そうだよ、寝て起きればこの悪夢も終わっているはず……。

「寒くなってきたから、私部屋に戻るね」
「…………」

 私はそう宣言して、追い詰められていた壁から離れ、回れ右をした。
 カヤは無言で私に付き従う。後ろから刺すような視線を感じる。居心地が悪い。

 まさか、カヤも……?嘘……でしょ?

 結局、そのまま最後までついてきたカヤは、私が自室に入ると手早くガチャリと鍵をしめた。

「じゃあ私は行くから……早く寝ることね」
「うん……」

 ドア越しにかけられる言葉は忠告なのか。



「ルール破っちゃ……ダメダヨ?」

 去り際にカヤが残していった言葉。忠告などではない。……これは警告だ。





 こんな状態でベッドにもぐった所で、眠れるわけがなかった。
 相変わらず部屋には隙間風が吹いている。カチカチと鳴る歯がうるさい。視界が小刻みに震える。

「寒い……」

 頼りない自身の肩を抱きしめながら私は呟く。
 
「私、どうすればいい?」
(…………)

 牢獄の鉄格子のように開くことのない窓から庭園を眺めて考える。いつも美しいと思っていた庭園は、夜の闇に晒されているせいか、酷く寒々しいものに見えた。



「あれは、誰……?」

 何とはなしに、庭園を眺めていた私だったが、不意にそこで佇んでいる人物がいる事に気付いた。

 メイド長、カヤの母だ。その表情までは読み取ることはできないが、どうやらこちらを見上げているようだ。
 
(こんな時間に何を?とてもじゃないけど庭の手入れをするような時間じゃない)

 私はその姿に薄気味の悪さを感じ、視線は向けずにメイド長を視界に入れる。しばらくの間、その動向を探っていたが、彼女は微動だにせずこちらを見上げたまま直立している。

 置物のように静止している彼女からはまるで生気が感じられない。

「これって……」

 監視、サレテイルノカ?

 そういえば昼間には、私が何処に行くにも必ず誰かが付いてきたような気がする。何だかんだと理由をつけて。
 それはこうやって監視するため?

 内から部屋の扉が開かないのも、窓が開かないのも……。
 設けられたルールは私を逃がさないようにするため?

 まさか、この屋敷の全員が……?

 その考えに至った時、何かがガラガラと崩れるのを感じ、奇妙な浮遊感を覚えた。例えれば、天を突く塔が一瞬にして消滅し、その最上階から投げ出されるような。

「……うっ……うぇ、おぇぇえ……」

 私は急激に落下していく気分に耐えられなくなって、その場で嘔吐した。

(やれやれ、だ)





「はぁ、はぁ……よそう。あれは違う。あれは空耳。私は何も聞いていない。カヤやメイド長の様子がおかしかったのも夜中で寝ぼけていただけ。明日になればきっといつも通り」

 床にへたり込んだ『私』は、汚れた口を寝巻の裾で拭いながら、再び芽生えてくる疑念、いや限りなく確信に近い考えを遠ざけようとする。

(……あれだけの事を聞いてまだそんな事を言ってるのか。いい加減に目を覚ませ)

 私の中の『僕』の部分が警鐘を鳴らす。

「うるさい……うるさいうるさいっ!私はそんな事聞きたくない!ここは楽園。私は運良く救われた。リーゼロッテ様だって、旦那様だって、皆が私を歓迎してくれている。誰もが望んだハッピー・エンド。それでいいじゃない」

 『私』は頭を激しく左右に振って、『僕』を拒絶する。
 『私』は受け入れたくない。それを受け入れてしまえばきっと、このキレイナセカイが綻んでしまう。

(目を逸らせばそれで解決するのか?売られた娘が何の苦労もせずに幸せを掴む?ハハ、御伽噺にすらそんな話は存在しない)

 『僕』はそんな甘い夢を信じていない。いや、本当は『私』だって信じていなかった。

「何よ、私が幸せになったっていいじゃない……。ずっと虐げられてきた挙句に売られたんだ!私を買いに来る客も異常者ばかり!もういい、もうキタナイセカイはいらない!」
(思考を放棄するなよ。主観的に感じるな。客観的に考えろ)

 『私』と『僕』がせめぎ合う。夢と現。虚構と真実。感情と理性。

 顔はいつのまにか流れ出した涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。こんな顔は誰にも見せられない。

「いや、いや……」
(現実から逃避してる場合じゃない。このままだと確実に“消える”ぞ?)

 消える──死ぬではない。消える。セカイから存在がナクナル。

「うあ……」

 最期の記憶が蘇る。『僕』がセカイから“消える”記憶。圧倒的で根源的な恐怖。



 いやだ、消えたくない。『私』はまだ……………………生きたい。



 『私』が『僕』に圧されていく。

(さっき盗み聞いた内容だけじゃない。リーゼロッテの言葉は最初から疑問と矛盾だらけだ。ほら、思い出せ!)

 とどめとばかりに、『私』が“奥”に押し込めていた記憶が次々と脳内に再生されていく。



《ね……く…よ》
 
 あの呟きはなんだったんだ。赤い瞳、何かの魔法?私の意識がないうちに何を調べていた?

《うまそうだ》

 あれは現実に聞いた言葉。そう、私を見て美味そうだ、と確かに言っていた。

《この栗毛の小さな子、……アリアと言ったか?》
《ファーストネームがアリアだったんだ》
 
 妹と同じ名前だと言っていたはずなのに、なぜ名前がすぐに出てこない?普通は容姿よりもその名前の方が印象に残るのではないか?

《代役を探していた》
《父の中では妹は10歳の少女のままなのだよ》
《妹にそっくりで驚いた》
《運命だよ、アリア》

 それなのに何故あの時、他の2人も面接していた?妹の代役は10歳くらいでないと駄目なのだ。あの場にいたのは私の他はどうみても10台中盤は超えている娘だけだった。



 それ以外にも出来すぎた偶然、とってつけた言い訳のような物言いが明らかに多すぎる。挙げていけばきりがないほどに。

 どうしてこんな事に気がつかなかったんだ?

 いや、私は本当は知っていた。ただ見ないフリをしていた。

 理想を絵に描いたような完璧過ぎるご主人様。
 私の身分には分不相応な甘美で魅力的な誘い。
 何もせずともただ与えられ続ける至福の時間。

 世の中にウマい話はない。あったとしても私にそんな話はこない。何故なら私にそんな話を持ってきても誰も得をしないからだ。

 にも拘らず、私は全ての不自然さに目を瞑り、臭い物に蓋をしていた。

 彩られたキレイナセカイを壊したくなかった?言い訳にもならない。





「一体、何をやっていたんだ『私』は……」

 私はスッと立ちあがり、顔を拭い、汚れた寝巻を床にかなぐり捨てた。

 あまりに不甲斐ない自分への怒りによって、『私』は『僕』を、理性を取り戻していく。

 思えばあの口入屋で面接のあった広間に現れたリーゼロッテの姿を見た時から、私は理性を失っていた。感情が独り歩きしていたのだ。
 そして先程、決定的な会話を盗み聞くまで、その状態が続いていた。

 魔性。そんな言葉が頭をよぎる。

「あ゛ああああっ!」

 私は悔しさや苛立ちを吐き出すことによって、湯のように沸いていた思考を冷却した。

 

 リーゼロッテ様、いやリーゼロッテは間違いなく真っ黒だ。

 あの紅く変色する瞳、杖無しでの魔法のような力、理性を失わせる程の存在感、そして盗み聞いた会話の内容の異常さ。

 あの女は十中八九、人間ではない。

 リーゼロッテがやたら血に拘っていた所をみると、亜人である吸血鬼なのか?それならばその下僕といわれていたライヒアルトは屍人鬼ということか。
 吸血鬼ならば、最初の面接の時の呟きは何らかの先住魔法という事で説明がつくかもしれない。

 しかし、疑問が残る。記憶では吸血鬼というのは日光に弱いのではなかったのだろうか。

 リーゼロッテは昼間であっても日笠もささずに外出していた。

 それに吸血鬼が屍人鬼を作れるのは確か一体までという制限があったのではないだろうか。これについては少し記憶に自信がないが。
 それを正しい知識と仮定して、リーゼロッテが吸血鬼、ライヒアルトが屍人鬼だとしたら、カヤはメイド長は何者なんだ?人間であるのに従っているのか。それとも吸血鬼の仲間?

 そしてあの会話の中でのこの台詞。

《これまでの娘以上に阿呆のようですな》
《あぁ、あの首を吊った娘ですか》

 これはつまり私が最初の獲物ではない、ということ。

 前の獲物が私と同じような待遇を受けていたとしたら、屋敷の人間は全員その存在を知っているはず。
 その娘がある日突然消えたとしたら?死体が内々に処理されたとしても、疑問を抱くはずだ。噂にくらいはなっていないとおかしい。

 しかし、そんな話は毛先ほども聞いたことがない。

 何故か。全員が事情を知っているからこそ噂にならないのだ。即ち屋敷全体がグルである可能性が非常に高い、ということになる。



「まるでホーンテッド・マンションね……」

 この状況では流石に愚痴も零したくなる。期限は多く見積もってスヴェルの夜が訪れる丁度1週間後まで。屋敷内の人間はおそらくだが、全て敵。対してこちら側の戦力は現状では無力な平民の小娘一人。

 まさに今までのツケがきている。最初から気付いていればまだやりようがあったかもしれないのに。
 
 しかし愚痴を言っている状況ではない。

 今は後悔するな。この状況から脱出することができれば、その後に飽きるほどすればいい。
 どちらにせよ、ここに連れてこられるのは私が拒否しようとなんだろうと、避けようがなかったのだから。

 今はこれから何をするかを考えるしかない。





 戦う。
 これは駄目だ。話にならない。私などあちらが魔法を使うまでもなくジ・エンドだ。不意打ちをできたとしても致命傷を与えるような攻撃が出来るとは思えない。却下。

 交渉する。
 何を交渉のネタにするんだか。材料のない交渉は不可能。そもそも、あの狂人のような女相手に話し合いなど通じるとは思えない。却下。

 誰かが助けに来てくれる、もしくは奇跡が起こる。ピース。
 あほか。まだこんなことを考えているのか私は……。却下却下。大却下。

 逃げる。
 最も現実的な案だ。しかし成功率は非常に低い。監視が常に付いている可能性が高い事と、屋敷の周りには何もない見渡しのいい場所である。しかも私は足が遅い。ただ逃げるだけでは成功率はほぼ0パーセントである。
 だが現状これしか選択の余地はない。よってこれを突き詰めて考えるしかない。

 つまり逃亡の成功率を上げるために、何かしらの仕掛けを打つ、これしかなさそうだ。この屋敷にある材料で。



「あは、随分と絶望的じゃない」

 私はやや自嘲的に苦笑する。だが、決して言葉通りに絶望しているわけではない。

「覚悟。決めるわ。私は絶対に“諦めない”」

 私はいつかの私を救ってくれた“諦める事”を『僕』に向かって否定する。
 諦める事で確かに楽にはなれるけど、それは結局、何の解決にもならない。

「私はこの程度の事、自力で乗り切ってやる。そしてこんな偽物のセカイは抜け出して、本物のキレイナセカイを掴むんだ!」

 誰でもない、私は自分に覚悟を言い聞かせる。それは絶望的な状況におかれた自分を鼓舞するための虚勢かもしれない。しかし、間違いなく私の本心でもある。

 これでやっとスタートラインに立てた気がする。私の人生は絶望から始まる。それでいい。

 絶望の後にはきっと希望があるんだから。





(これで……夢の時間も終わりか)

 胸にポッカリと開いた穴に隙間風が通るような虚しさを感じる。
 私はこのキレイナセカイが好きだった。それが無くなってしまった痛み。



 でもやっぱり私は夢見る少女じゃいられない。

 私は飽くまで現実で幸せを掴むんだから。押し付けられた夢の中の幸せなんて要らない。





 私は現実を向きあうために、まずは先程嘔吐したブツを片づけることにした。





つづくと思われます






[19087] 7話 私の8日間戦争
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2011/07/23 02:08
 タイムリミットまで あと8日。



 朝食の席に向かうため、私はいつも通りの時間帯に自室を後にした。

 輝いているように見えた屋敷の光景は、今は色褪せて、虚飾に満ちたものにしかみえない。
 よくよく見てみれば、ただの古ぼけた木造屋敷である。まあ、それなりに広く、趣味の悪い装飾はなされているが。

 食堂へ向かう途中、1階の廊下で私に気付いたカヤがパタパタと走り寄ってきた。彼女は開口一番、私に謝りを入れる。

「昨日はごめんなさい、言い過ぎた!」
「……大丈夫、こっちが悪かったんだから」

 カヤの様子は普段に戻っていた。一瞬、やはり昨夜の事は間違いだったのでは、などと思ったが、すぐにその考えを打ち消した。

 恐らく、昨晩、私が無断で部屋の外に出ていた事はリーゼロッテに筒抜けだろう。
 ただ、私が拘束されていない事を考えると、執事室での会話を盗み聞いていた事まではバレていないのだと思う。
 よって、私が余計な疑念を抱かぬよう、昨日の態度を取り繕っておけ、とリーゼロッテか老執事ライヒアルト辺りがカヤに命じた、というように考えるのが妥当ではないだろうか。

 謝り続けるカヤをいなし食堂のドアを開けると、穏やかな微笑みをたたえたリーゼロッテが待ち構えていた。
 私はその表情をみて吐き気を催したが、表情には出さないように努めた。
 
「アリア?どうしたんだ。顔色がよくないぞ」
「いえ、問題ありません。昨夜は少し夜更かししてしまって。ご心配おかけして申し訳ありません、リーゼロッテ様」
「それはいかんな。睡眠はしっかりとらなければ」

 少し強い口調で私に言い聞かせるリーゼロッテ。虫酢が走る。睡眠をとらなければ、味が落ちる、か?

 しかし、私があちらの企みに気付いている事を悟らせてはいけない。この場で全てが終わってしまう。
 そう、飽くまで私は何も知らない無邪気で哀れな子羊でなければならないのだ。

「はい、以後気をつけます!」

 ペコリと元気に頭を下げる私を見て満足気なリーゼロッテ。心の中では馬鹿な小娘と嘲っているのだろう。
 確かに昨日まではその通りだったのだけれども。



 あまり味のしない朝食を食べ終わった後、私はいつものように庭園には出ることはしなかった。

「今日は少し寝不足みたいだから部屋で大人しくしてる」
「そっか。何かあったら呼んでね?」
「ええ、ありがとう」

 私は心配そうな表情を貼りつかせたカヤにそう断ってから、今日一日は策を練るために自室に引きこもる事にした。





「ああ、もう。あれもだめ、それもだめ。結局この手しかないか……この部屋の配置を活かして……」

 自室に引きこもって半日、窓から見える空は赤く染まっていた。

 半日かけて私が考え付いた中で最も有力なのが、屋敷に火を放ち、その混乱に乗じて逃げ出す事。
 名付けて火事場泥棒作戦である。我ながら情けないがその程度しか実用できそうな案は考え付かなかった。

 とりあえず、これをメインに策を展開していきたい。それと併用したいのがトンネル掘って大脱走作戦である。

 これ自体は穴を掘って地下通路を作りそこから脱走という、荒唐無稽なものである。
 一体何カ月かかるんだ、しかも一人で……。とすぐにこの案は不採用となったわけだが、この案の地面を掘るという発想自体は使えるのだ。

 常に監視の目がある昼に脱走するのは不可能。
 ならば夜しかないのだが、夜は鍵が閉められるので、ドアから外には出れない。庭園から窓を監視されているので、窓を割っての脱走もダメ。

 ではどうするか。横が駄目なら縦しかない。

 この屋敷の壁面は煉瓦と漆喰で固めており、とてもではないが破壊する事はできない。しかし、上下の天井と床は、基礎の木組みの上に細長い床板を何枚も渡して床面を作り、その上にタイルが張られているだけなのだ。

 これは以前、老執事ライヒアルトに屋敷の建築様式を尋ねた時に得た知識。その時はこんな事になるとは思わず、単なる世間話のネタの一つとして何となく聞いただけだったのだが。
 ライヒアルトは「変わった事に興味がありますな」と怪訝な顔をしていたが、今思うとこれは本当にファインプレイだった。

 まあ、そういう構造なので、タイルを剥がして、その下にある床板を部分的にでも破壊してしまえば、床に穴を開けて逃走経路を作ることができる。
 私の体格ならタイル一枚分でも外すことができれば通る事ができるはず。勿論素手では無理なので道具は必要だろうが。

 床に空ける穴の先にある部屋、つまり自室の真下に位置している部屋は倉庫部屋だ。

 この配置はいい。とてもいい。すごくいい。
 
 倉庫部屋は作戦の鍵となる部屋だ。

 その理由としてまず挙げられるのは、誰も使用していない部屋である事。
 これが、誰かの寝室だったりしたら、穴を開けても即バレして終了だからである。

 二つ目として、物品が多く保管されている事があげられる。
 つまり、脱走のための武器となりえるものが存在している可能性が高い部屋であるという事だ。

 そして三つ目。倉庫部屋には荷物搬入用なのか普段は使われていない勝手口が存在する。
 この勝手口さえ開けば、廊下に出て正面玄関に向かったり、窓をぶち割って大きな音を立てる危険を冒す必要性がなくなる。最短の逃げ道が確保できるのだ。

 火を付けずに、静かに倉庫部屋の勝手口から逃げ出すという事も考えた。しかしこれだけでは弱いと感じた。
 その場合逃げた事に気付かれたら屋敷の人間全員の注意がこちらに向かってしまう。

 つまり誰も私がいなくなった事を気にもかけないような状況、非常事態を作りださねば、逃げられる気がしないのだ。
 150エキューで買った貧民娘と、屋敷の非常事態なら屋敷の方を優先するはず。はず…………。



 そんなわけで、今日から床板を剥がす作業を開始する。
 その位置はもしこの部屋に立ち入られても、気付かれにくいベッドの下の部分にすることにした。

 やはり、自室で隠し事をするならベッドの下と相場が決まっている。





「ふぬぅうううう」

 晩餐をかきこんだ後、床板と格闘する私。その顔はゆでダコのように真っ赤になっていた。

 とりあえず、道具は自室にあった金属製の靴ベラを使用。タイルは簡単に外せたのだが、底にある床板が手強い。
 思ったより薄く、しかも古いために朽ちかけているのは幸運だが、それでもかなり頑丈だ。

「あっ」

 折れた。

 靴ベラの方がな!

「くぅ、まさか屋敷全体に固定化の魔法でもかかってたりして……」

 なんてことを呟いてみたけれど、そんなことはなさそうだ。固定化が掛っているのに床板が朽ちかけているわけもない。

「まずは道具を確保しないとどうしようもない……そう、バールのようなものを……」
 
 そんなことをブツブツと言いながら、ベッドにダイブする私。いや現実逃避してるわけじゃないですよ?
 鍵はもう閉められているのだ。道具の確保は明日にするしかないのである。



 ここですぐに寝てしまう程、私の神経は太くないので、火事場泥棒作戦を突き詰めて考えることにした。

 火種としては、自室に備え付けてあるランプの火を使えばいい。

 ただ単純に火を付けても燃え広がらない恐れが高い。事前に火の勢いを増す事のできる材料を確保しておきたい。
 例えば油。石油由来のガソリンや灯油があればいいのだけど、それは存在しない。
 なので、食用油か、油ではないがランプなどに使われている燃料用のアルコールという事になりそうだ。
 これは倉庫部屋にある事を期待する。明日にでも倉庫部屋を調査せねばなるまい。

 次に火付けの場所だ。これは上の自室から付けた方がいいだろう。火も煙も下から上にのぼるわけだから、上から先に火が出た方が気付かれにくい。
 だがそれだけでは屋敷全体をパニックに陥れることはできないだろう。なので、上の出火が気付かれ次第、下の倉庫部屋に火を付けて脱出。これがベストだ。

 最後に、作戦決行の時期。こればかりは作業の進み具合による。
 企みの首謀者と思われるリーゼロッテがスヴェルの晩までは絶対に気付かれるな、と命令していたのだから、こちらのアクションに気付かれなければ、その時まで行動を起こさないだろう、と思いたい。信じたい。
 勿論、できるだけ早い方がいいが、準備が不完全な状態での作戦決行は避けたい。ただでさえ成功する確率は低いのだから。

 正直かなり不安だらけの作戦だが、仕方あるまい、何せ昨夜までは何もしていなかったのだから。



「はぁ、しかしこれって逃げられたとしても確実に極刑ね……」

 思い出したように独りごちる私。

 貴族の屋敷に火を付けるなど(本当に貴族かどうかは不明だが)、どう考えても斬首かそれ以上の刑だろう。

 しかしやるしかないのだ。

 その後追われる事になろうとも、今を生き抜かねばその後はない。
 そこら辺の認識を誤魔化して、後腐れのないように上手くやろうなどと考えていたら、生涯地を這うどころか、天に召されてしまう。

「ふぁ……」

 いつの間にか窓の外は白んでいる。昨日からほぼ一睡もしていなかった私は、目を閉じるとすぐに眠りに落ちていった。





 翌日。私は床板を破壊する道具を確保するために、屋敷内を探索することにした。また、昨日考えた通り、倉庫部屋に必要な材料があるかどうかの調査もしなければならない。

 問題は監視の目。

 昼間はやはり常に監視されているように感じる。
 現在、私は朝食を終えて屋敷内で考え事をしながらぶらついているわけだが、当然のようにカヤがぴたりと私に付いている他、多数の視線を感じる。

 そもそも普通は使用人というものは朝から晩まで忙しいはずなのだ。手隙の時間などそれほどあるわけがない。にも関わらず、私の相手をさせているのは監視以外の何物でもない。

 昼間の内に下手な動きはできない、という事だ。ならば……。

「かくれんぼでもして遊ぼっか」

 少し考えた後、私は後ろに控えるカヤだけでなく、周囲にいる使用人にも聞こえるように大きな声で、こんな提案をした。
 普通に屋敷をうろつき回って、道具探しなどしていたら疑われる可能性が大なので、戯れに乗じる事にしたのだ。

 これならば、屋敷の中のどこにいても、怪しまれまい。もちろんリーゼロッテの私室を始めとして、立ち入れない場所も多いが。
 ちなみに、かくれんぼはハルケギニアの子供の間でも割とポピュラーな遊びである、と思う。私の居た村での認識ではあるが。

「随分と楽しそうだな。私も混ぜてもらっていいかな?」

 その声を聞きつけたのか、ふらりと現れたリーゼロッテが後ろから私の肩に手を置いた。

「…………っ」
「うん?」
「リーゼロッテ様が私と遊んで下さるなんて嬉しいっ」
「おっと。フフ、甘えん坊だなアリアは」

 私は突然のその行動に心臓が鷲掴みにされたように硬直してしまったが、すぐにリーゼロッテに抱きついて感激の意を示し、不自然な間を空けてしまった事を誤魔化した。

 リーゼロッテの体からはいつか嗅いだ事のある香りに混じって、微かに獣のような臭いがした。体に染み付いた血の臭いだろうか。
 強い薔薇の香りがするフレグランスはこの臭いを誤魔化すためのものか。あぁ、気持ち悪い……。

 それにしてもこんな子供の遊びに参加するだって?ただの気まぐれか?
 いや、一昨日の晩に出歩いた事で、少しこちらを疑っているのかもしれない。疑いを強める事のないように気をつけなければ。

 結局、リーゼロッテや男爵の私室、鍵の置いてある執事室などには近づかない事を条件にかくれんぼをする事、つまりこの屋敷を探索する事は了承され、戯れが開始された。
 ちなみにかくれんぼの鬼役はリーゼロッテがする事になった。適役すぎる……。

 

 遊戯の開始と同時に、まず私が向かったのは件の倉庫部屋。

「こっちは小麦粉、この壺の中は……この臭いはハシバミの実からとった油か。……燃料用のアルコールは、これか。こっちは量が少ないな……」

 部屋に入ってすぐ、倉庫部屋内の物色を始める。厨房の隣に位置しているだけあって、食品関係の物が多く保管されている。

 大量の小麦粉があったので「粉塵爆発だッ!」とか叫んでいる自分の映像が頭をよぎったが、どう考えても実現性は薄いのですぐに没となった。
 確かに小麦粉は粉塵爆発を起こしやすい粒子ではあるのだが、あれは空気中の粒子濃度が重要なのだ。高すぎても低すぎても爆発は起こらない。適当に小麦粉を屋敷内にばら撒いた所で成功する可能性は薄い。
 というか、実際爆発が起こったとしても着火した自分が巻き込まれて死ぬ。

 ともあれ、食用油と空きビンは大量にあるようなので、これに詰めて運べれば作戦に使う分の油は確保できそうだ。



 倉庫部屋で手早く調査を済ませた私は、鬼に見つからない内に移動し、床板を破壊するための道具がありそうな部屋を回る事にした。

 庭園にある物置小屋を覗いてみると、様々な種類の農具が存在していた。その全てが金属製の刃がついているものである。

 ちょ、鉄製農具って。やはり木製農具を使用していた私の生まれた村は特殊、というか貧乏だったのか……。

「まあ、それは置いておいて……これは使えそうね」

 この小屋に収められているのは、庭園の手入れ用の道具らしく、刈込み鋏、鋸、刃鎌、ピッチフォークなどが大型で使えそうだ。

 これならば床板を破壊できそうだ。農具の取り扱いは慣れている。
 私は一番応用が利きそうだな、と思いピッチフォークを手に取ってみる。鋸だとほとんど隙間なく敷かれている床板を破壊するには向いていないだろう。

「問題はこれをどうやって部屋に持ち込むか……」

 そう、それが問題だ。衆人環視の中、無断でこんなものを持ち込むことはできまい。
 誰かに許可を貰わなければならないが、その理由付けをするのは難しい。
 
「見つけたぞ、アリア」
「あら、見つかっちゃいました?」

 私が考えに集中していた所に鬼畜、いやリーゼロッテが物置部屋のドアを開いて入ってきた。またもや不意を突かれたのだが、そう何度も硬直してはいられない。

「フフ、私の勝ちだな。……ん?なんだそれは?そんな物に興味があるのか?」

 リーゼロッテは私が掴んでいたピッチフォークを指さして問う。

 ここだ、ここでリーゼロッテを納得させれば、この道具を部屋に持ちこめる。アイディアを捻りだせ、ひり出せ、私の脳味噌!

「はい。私は農民出身なのでこのようなものが懐かしく感じられるのです。身近にあると何となく“安心”できるというか……」

 眉を下げて悲しげな表情を作る。テーマは故郷に思いを馳せる少女。

「……ふむ、そんなものか。ではそれはアリアにあげよう。どうせあまり使っていないものだからな」
「へっ、いいのですか?」

 肩すかしを喰らった気分だ。リーゼロッテは私が「欲しい」とおねだりする前にあっさり喰いついてきてくれた。
 “安心”という言葉が効いたのか?それともそんなものを持ったところで何ができる、とタカを括っているのだろうか。流石『優しいリーゼロッテ様』は心が広い。

「ありがとうございます、大事にします!」

 私は満面の笑顔を作って礼を言う。油断してくれて本当にありがとう、三流脚本家のリーゼロッテ様。





 そんなこんなでピッチフォークを入手した私はその日の夜から本格的な作業を開始した。

 倉庫部屋の中に必要なものが揃っている事は分かったので、自室と倉庫部屋の間を開通させてから夜間にじっくり運び出せばいい。
 昼間に倉庫部屋から廊下を伝って部屋に運び込むのは無理がありすぎる。

 ということで翌日以降の昼間の時間はなるべく疑いをかけられないように、いつも通りの行動を心がける事にした。
 自室に何日も籠るのもまずいので、やはり作業はほとんど夜にしかできないのだが。

 夜間の作業時は、音を最小限に抑えるように気を使う。大きな音を立てては、たちまち誰かが駆けつけてくるだろう。
 作業の進行は遅れるが、作戦実行前にジ・エンドだけは避けなければならない。あまり力任せの行動が出来ない事にやきもきしながらの作業となった。



 作業開始から3日目にしてようやく床板を取り除くことに成功する。
 朽ちかけた床板を突いたり、揺すったり、削ったりしながら、やっとの事で破壊できた時の達成感はなかなかのものだった。

 さらに、自室と倉庫部屋を行き来するために、自室のタンスに収納されていた丈夫そうな服を縄状に結び、昇降用のロープを作る。
 使用する時はベッドの足にでも括りつければいいだろう。

「はぁ、まずは最初の難関クリア、か」

 しかしここで安心できないのが辛いところ。まだクリアすべき課題は残っている。



 作業開始から4日目。
 この日は、倉庫部屋の大きな壺に入った食用油とアルコールを空きビンに詰めて必要な分だけ上の階に運び、タンスの中に貯蔵していった。

 アルコールは量が少なかったので、屋敷を燃やすための材料としてばら撒くのではなく、燃えやすそうな生地にアルコールを染み込ませたもので瓶に蓋をして、火炎瓶もどきにすることにした。効果の方は使ってみない事にはわからないが。

 爆発物でも作れればいいのだが、日用品からそれを作りだすような知識は『僕』の知識にはない。最低でもニトロ化に必要な濃硫酸と濃硝酸くらいはないと……。
 
 あらかた油の運搬が終わった後は、他に武器になる物がないか、倉庫部屋の中を隅から隅まで漁ることにした。

「やっぱりもう使えそうなものはない、なあ。まあこれでも持っておくか……」

 さして目ぼしいものを見つけられなかった私は、食器棚の中に入っていた小振りのナイフを2本、懐にしまい込んだ。
 こんなものが役に立つとも思えないが、要するにお守り代わりである。刃物は魔を遠ざけるという迷信もあるしね。



 作業開始から5日目、倉庫部屋の勝手口の構造を調べる。
 4日目は油の運搬と武器漁りに夢中になっていて、危うくこの重要な確認を忘れるところだった。

 これで執事室から鍵を持ってくる事が必要になったらかなり厳しい状況になる。

 勝手口は、かなり古びた南京錠で内側から施錠されていた。錠の足(ツル)の一部が錆ついていて、かなり脆くなっていそうに見える。

 屋敷の外部からの侵入者に対する安全意識は予想外に低いようだ。出入口の鍵が老朽化しているのに取り替えていないとは。
 まあ、この屋敷に賊が押し入ったとしても、賊の方が餌食にされそうだけど。食物的な意味で。

 この勝手口は、出入りの商人が搬入に来た時しか開くことはないはず。つまり、毎日点検することはないのではないか?ならば。

「これも壊そう」

 ガツ、とピッチフォークの先を南京錠の錆びている部分にぶち当てると、カン、という高い金属音が鳴り響く。

「……っば」
 
 予想外に響いた音に、思わず口に手を当てる。
 慌ててベッドの足に括りつけたお手製ロープを伝って自室に戻ったが、しばらくしても誰も起き出した様子はなかった。

 その後、もう一度下に降りて、金属音を殺すために毛布で南京錠を包みながら、昨日拾ったナイフを使って作業することにした。

 この作業は夜通し続いた。脆くなっていそうな部分を重点的に攻めて、なんとか夜が明ける前に南京錠のツルの切断に成功する。
 あとは作戦決行の時まで、鍵が壊れている事に誰も気付かない事を願うのみである。






 とりあえずこれで予定していた全ての準備は終了。あとは実行に移すだけだ。

 期日までは、あと2日。いやもう夜明け前なのであと1日か。

「決行は明日の夜中、しかないか。全くギリギリもいいところ」

 期限ギリギリの準備完了になってしまったとはいえ、ここまで気付かれずに、かつ身動きが取れない状態になっていないのは運が大きく味方している。
 まあリーゼロッテに買われること自体が大凶だったので、その反動でも来ているのかもしれない。
 
「あとは決行するだけ、か。まあ、それが一番の問題なのだけれど……」

 そう言って、私は作戦決行前の最後の休息を取ることにした。これが最期の休息にならないように祈りながら。


 


つづくかな






[19087] 8話 dance in the dark
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/20 23:23
 草木がざわめく音と、虫の音が耳に障る。赤と青が混じった色の淡い光だけが、草原の中にポツンと佇む、年老いた屋敷を照らしている。
 屋敷の窓際では、絵に描いたような美女が、ぼんやりと夜空を見上げている。その透き通るような青い瞳に映り込んだ双月はまだ重なりきってはいなかった。

「くふ、狸娘め、いつになったら事を起こすのじゃ?もう時間がないぞ?」

 くっくっ、と前屈みになりながら面白そうに喉を鳴らす窓際の美女、リーゼロッテ。
 
「踊らされている事に気付いておる癖にあの腹芸、中々に見事、じゃが」

 彼女はそこで一旦言葉を切り、ゆったりとした仕草で踊るように窓際から離れた。

「あの戯れの時の態度は不自然すぎたわの。所詮はほんの子供。まだまだ妾の女優ぶりには程遠いわ」

 鏡台の前まで移動した彼女は、鏡の中に映り込んだ自らの美貌を確かめた。



 実はアリアに叛意があるのは疾っくの疾うに露見していたのだった。その事を知っているのはリーゼロッテ本人だけであったが。

 アリアが覚悟を決めた夜、執事室でのライヒアルトとの会話を盗み聞きされていた事まではリーゼロッテは知らない。

 だが、その夜の後のアリアの態度の些細な変化をリーゼロッテは見逃さなかった。
 かくれんぼなどという子供の遊戯に参加したのは、アリアが思った通り、疑いを持っていたからだ。
 ただ、その疑いはアリアが想定していたよりもずっと強い物であったが。

 そして、アリアがピッチフォークを手に入れようとした時の不自然な態度で、その本心が完全に透けてしまったのだった。

 アリアは上手くいったとほくそ笑んでいたが、その生の大半を人間を欺く演技者として過ごしてきたリーゼロッテから見れば、自分に抵抗するための武器を得るための稚拙な演技にしか見えなかった。

 だが、その叛意を知ってなお、リーゼロッテはそしらぬふりをして、武器と成りえる道具をアリアに与えた。
 
 何故か。

 この屋敷で今まで獲物とされてきた娘のうち、企みに途中で気付いた娘はたった2人だけだった。
 
 その内1人は恐怖のあまり錯乱し、気が触れてしまい、もう1人は以前ライヒアルトが言っていた通り、絶望のあまり首を吊って自害したのである。
 それは、年端もいかない無力な娘達としては極めて正常な反応だったのかもしれない。
 何せ、閉じ込められた箱庭の中で、得体の知れない化物達の餌として飼われている事実を知ってしまったのだから。

 しかし強者であるリーゼロッテから見れば、それは酷く“つまらない”ものに思えてしまった。その心境は死んでいる餌に興味を持てない肉食獣のようなものだ。

 一方、事実に気付いてなお、理性を保ったまま抵抗を試みようとしているアリアの姿は、新鮮で興味深いものだった。
 
「しかしあんなもの一本で妾と戦う気か?……くふふ、いい、いいぞ!その無知、無茶、無謀!クひゃハはハは」

 彼女は最早耐えきれない、といった風に天を仰ぎながら大口を開けて嗤いだす。

 興味深い、といってもアリア自身にはさほど興味を覚えたわけではない。
 リーゼロッテは精一杯の抵抗が何の役にも立たないものだと知った時の表情もまた最高のものではないか?と思ったのだった。

 そう、リーゼロッテはアリアを舐めていた。舐め過ぎていた。

 リーゼロッテは、あの晩の会話を盗み聞きされていた事は知らないため、アリアがスヴェルの晩が舞台の刻限であると言う事に気付いている事は当然知らない。
 アリアがすぐに事を起こさないのは内心では怯えており、刻限を知らないため、いつ行動を起こすかの決心がつかないからだと考えていた。

 あの頼りない農具を武器にして自分と真っ向から戦うつもりなのだ、と勘違いしていたのだ。

 まさかアリアが逃亡のための作戦を立てて、時間をかけてその準備をしているとは考えてはいなかった。
 当然と言えば当然だ。長い時を生きてきたリーゼロッテから見れば、アリアなど少々賢しいだけの小娘にすぎないのだから。そんな小娘ができる抵抗といえば、玉砕覚悟の特攻しかあるまい、と高を括っていた。

 そのため、叛意を持ったアリアをすぐに殺したりするような事はせず、今か今かと、その抵抗の時を楽しみにして、泳がせていたのである。
 


「む……?」

 狂笑していたリーゼロッテは突如その眉をへの字に歪めて、スンッ、スンッと鼻をひくつかせる。

「なんじゃ、この臭いは……。気のせい……か?」

 彼女は微かに漂ってくる異臭を感じて、私室のドアを開けて部屋の外を確認する。

 リーゼロッテの私室はアリアと同じく2階部分にあるが、リーゼロッテの私室は西側、アリアの私室は東側に位置している。
 ちなみに2階部分に私室があるのは、この屋敷の主という事になっている男爵(仮)と、リーゼロッテ、アリアの3人だけである。

「何やらハシバミ臭いような気がしたが……。まぁ、晩餐に出されたサラダのせいじゃろうな……。あんなまずい物を出すなといつも言っておるのに……あの失敗作め。あの油もハシバミ臭いから買い換えろと言ったのにずっとそのままじゃし……もしかして妾は下僕に嫌われとるのか?」

 彼女は気の利かない料理人と使用人に悪態を突きながら、乱暴にドアを閉めると、そのままの勢いでベッドに倒れ込んで不貞寝し始めた。
 
 彼女はその臭いだけで吐き気を催すほど、ハシバミ草が大嫌いだった。







 ぴちゃぴちゃ。ぬちゃぬちゃ。ぬるっ。



「あぅ、濡れちゃった」

 油で。服が。

 リーゼロッテが独りごちていた頃、アリアはハシバミの実から抽出された食用油を布団や毛布、シーツ、カーテン、余った衣服などにたっぷりと染み込ませながら、自室の床と倉庫部屋の床に大量にばら撒いていた。

 リーゼロッテが感じた異臭とはこの臭いであったのだ。

 しかし、ハシバミから取れた油はそれほど強い臭いがするわけではなく、鼻先に近づけてその臭いを嗅がなければ、無臭に感じる程である。
 アリアとリーゼロッテの部屋は、同じ2階にあるとはいえ、その距離はゆうに20メイルはある。ドアを隔てていることもあって、普通の人間ではその臭いに気付くはずはないのだが……。

「うげ、ロープまで油でねっとりしてる」

 たっぷり時間を掛けて撒いた油は、自室の床に空けた穴から倉庫部屋にぴちゃぴちゃと滴るほどの量になっていた。

「時は満ちた、ってやつね……」

 アリアは緊張した面持ちでそう呟きながら、花柄の三角巾を頭に巻きつけ、きつく結んだ。
 
 そう、ついに作戦を決行する時が来たのだ。

 全ての準備を終えたアリアの左手には部屋に備え付けてあったランプ、右手には柄の先にアルコールを染み込ませた布を巻き付けたピッチフォークが握られ、腰には1ダース程の火炎瓶もどきが靴ひもで束ねられている。

 ……勿論、本人は大真面目なのだが、何と言うか、その、少々奇抜というか、奇怪な出で立ちだった。

「すぅー、はぁー」

 独特の衣装を身に纏ったアリアは目を閉じながらゆっくりと深呼吸して、緊張に高なる鼓動を落ちつかせる。



 …………。
 
 そこから数分間、深呼吸をした後、屈伸運動したり、背伸びしたりして、ようやく決心がついたのか、アリアはランプの灯を付けた。

「っしゃあ!」

 その掛け声とともに、火事場泥棒作戦の火蓋が切られた。

 アリアは火種である左手に持ったランプから、右手に握った松明代わりのピッチフォークの柄の先端に火を付ける。
 ボゥ、と燃え上がった松明の火を、床にばら撒いた油を染み込ませた毛布に近づけると、程なくそれに引火した。

 アリアは1箇所の出火に満足することなく、次々と別の場所から火を付けていく。

 あらゆる方向から引火した炎は、布地を伝って、床、壁へと連鎖的に燃え上がっていった。

「これで終わりだッ!」

 燃え盛る炎を見て若干ハイになったアリアが目をギラギラさせながらトドメとばかりに、口に火を付けた即席火炎瓶を半ダースほど次々と炎の中にぶち込んだ。

 火炎瓶を投げ込んだ場所からは、大きな火柱があがり、部屋の中は火をつけた本人自身すらドン引きするほどの火力になっていく。

「ふっ!」

 炎が屋敷の床や壁面に燃え広がり始めた事を確認すると、アリアは手早く1階へと飛び降りた。昇降用のロープはすでに2階で燃えている。

「さて、次はあの化物どもが気付くまでは様子見ね……」

 そう、2階の自室から1階の倉庫部屋が繋がっている事はまず気付かれていない。だが、上が消し止められれば、それは露見してしまうだろう。
 なので、誰かが上の惨状に気付いて、屋敷の人間が消火のために集まった所で下から火をかけるつもりなのだ。これならば、下から出た火が気付かれにくくなる。

 アリアは天井に空いた穴からチラチラと覗く、燃え盛る地獄のような光景を見ながら、倉庫部屋の隅で息を殺して作戦が次の段階に移る時期を待つことにした。





「主様っ、大変、大変でございます!」

 バン、ドアが開け放たれる。慌てて不貞寝していたリーゼロッテを叩き起こそうとするのは、庭園からアリアの部屋を監視していたメイド長だった。

 彼女が異変に気付いたのは、すでに炎が燃え広がった後だった。
 外から窓を見上げていた彼女は、部屋から黒い煙がもくもくと立ち上るまで、それに気付けなかった。

 火災が起こっている事に気付いた彼女は、大急ぎで屋敷の中に入ったが、既にかなりの勢いで炎が燃え上がっており、自分一人ではどうしようもないと判断したため、主であるリーゼロッテの所へ駆け込んだのだった。

「……騒々しいぞっ!……ん?なんじゃこの焦げ臭いのは?」

 不機嫌そうに、目覚めたリーゼロッテだったが、強烈な焦げ臭さを感じてその怒りは収まった。
 メイド長はオロオロしながらも、リーゼロッテにその理由を説明する。

「そ、それが。あの小娘の部屋のあたりから火が出たようでして……どうすればいいかと」
「何だと?あの小娘、まさか自棄になって火をつけたのか?ぐうぅ、此処まで来て自害とは…………」

 リーゼロッテは悠長にはぁ、と溜息を漏らし、ひどく落胆したように顔を俯けた。

「こんなことならさっさと食しておけば……。うぐぅ、あれは実に美味そうじゃったのに……あぁあっ、もう!もう!もうっ!」
「……あの、そんなことを言っている場合ではなくてですね。このままでは屋敷全体が燃えてしまうかと」
「そんなもの水でも汲んできて消せばいいじゃろうが。妾は落ち込んでおるのじゃ。そっとしておいてたもれ……」
「ですから!そんな場合ではありません!実際見て頂ければわかります!」
「分かった!分かった!全く煩いのう……はぁ」

 リーゼロッテは面倒くさそうにだらりと立ち上がると、背中を押されながらのそのそと部屋の外に出る。

「う……」

 その光景に、リーゼロッテは目を丸くして絶句した。

 2階の廊下中に黒い煙が蔓延しつつある。
 その炎は大きく燃え上がり、すでにアリアの部屋だけでなく、その周辺を飲み込みつつあった。

 彼女は火事と聞いたが、それは小火程度の規模のものだと思っていた。まさかこれほどの惨事になっているとは思わなかったのだった。

「……おい、何でこんなになるまで気付かんのじゃ?」
「申し訳ありません、私も混乱しておりまして……」
「くそっ、もういい!さっさと動ける者は全員叩き起こして火を消せ!すぐじゃ!すぐ!」
「はっ!」

 惨状を見て焦ったリーゼロッテがメイド長に指示を出す。



 それから程なく、駆け回るメイド長によって、総勢10名の屋敷の住人が集められ、消火活動が始まった。

「ライヒアルト、お前は火に水をぶつけろ!カヤは下から火を消すのに使えそうなものを探して来い!他の者は周りの床や壁を壊して延焼を防げ!」

 リーゼロッテが他の者に指示を出していく。その隣で屋敷の主であるはずの男爵(仮)は借りてきた猫のように大人しくしていた。

 男爵(仮)はリーゼロッテの指示通り、先頭を切って床や壁を素手で破壊し始める。まるで化物のような膂力である。
 他の者は手に持った道具を使って、炎が燃え移りそうな場所を破壊していく。カヤだけは下の階へと走って行ったが。

「凝縮《コンデンセイション》!」

 老執事ライヒアルトは水の系統魔法の初歩である、【凝縮】によって水の塊を発生させると、燃え盛る炎の中心である、アリアの部屋に向けてタクト型の杖を振るった。

 上流貴族の屋敷に仕える執事は、高い教養と貴族の常識を知っている事を必要とされているため、貴族出身でありながら、その地位を継げなかった者が取り立てられる事が多い。
 ライヒアルトは元々、下級貴族の家の次男坊であった。そのため、系統魔法を使う事ができたのだ。
 ランクは最低のドットであるが、水メイジであった彼が全力で作りだした水球は人の背ほどもあるほど大きかった。

 しかし、彼らは知らなかった。

 その火災が油によって引き起こされたものだと言う事を。そして油が原因の火災に水を直接かけてはいけない事も。

「ガッ?!」

 爆発。

 ガンガンに熱された大量の油に大量の水。水蒸気爆発が起こるのは当然の結果である。

 近くにいた何人かは、その衝撃に吹き飛ばされ、また、もう何人かは爆発によって撒きあがった炎と、飛び散った油によって大火傷を負い、廊下をのたうち回って呻き声をあげる。その中に、男爵(仮)や、メイド長の姿も含まれていた。

 無事だったのは、水を放ったライヒアルト、1階に走って行ったカヤ、そして後方で指示を出していたリーゼロッテの3人だけ。

 図らずも、リーゼロッテ達の消火活動はアリアの作戦の効果を助長してしまったのだ。

「ぐぅあああっ」

 先頭に立っていた男爵(仮)は、完全に火達磨となって、苦しそうな叫び声をあげていた。

「こ、これは一体……?ち、治癒を」
「たわけ、死人に治癒魔法など効くか!それよりさっさと水を出して火を消してやれ!とりあえずさっきのよくわからん爆発で火は小さく……」
 
 ライヒアルトが呻き声をあげる男爵(仮)に治癒をかけようとするが、リーゼロッテによって制された。
 しかしそこで、さらにリーゼロッテ達を追い詰める知らせが、階段を慌てて走り上って来たカヤから知らされる。

「リーゼロッテ様、下からも炎が!」
「な、何じゃとっ?!どういう事……」

 そこまで言ったところで、おかしい、とリーゼロッテは感じた。

(今臭いを放っているのは、床でのたうち回っている下僕達が焼ける臭いだ。あの小娘が焼ける臭いはしていたか……?)

 彼女は燃え盛る炎を横目に、顎に手でさすりながら思考する。

(それに、ただ火をつけただけでここまで勢いよく燃え広がる物なのか?まさかあのハシバミの臭いは……)

 そこまで思考した所で、彼女は何かに気付いたのか、ハッとした表情を見せた。

「く、くく。クひ。くヒャハははアッ!やってくれたわ、“狸娘”がッ!」
「ぬ、主様?!」

 非常事態の中、突如大口を開けて愉快そうに笑いはじめたリーゼロッテに、カヤはその正気を疑った。

「小娘と思って舐め過ぎたか……。まさかまさか……こんな素晴らしい反撃をしてくるとは。カヤ、ライヒアルト。貴様らは火をなんとか消し止めろ!妾はあの狸娘を追う!」
「何を……?すでに小娘など中で焼け死んでいるのでは……」
「たわけっ、ではなぜ下から火が出るのじゃ!あの狸娘の仕業に決まっておろうが!アレはもう屋敷から逃げ出しておるに決まっておるわ!」

 リーゼロッテはそう叫ぶと、爆発によってやや下火になっていたアリアの部屋の方へとふらふらと歩き出す。

「主様、何を……」
「……成程。どうやって逃げたかと思えば。狸娘、ではなく土竜娘、であったか。面白い、実に面白いぞッ!」

 リーゼロッテは床に空いた穴を見下ろして、そう吐き捨てると、鼻をひくつかせながら、開かない窓を勢いよくぶち破って外に飛び出していった。







 はぅ、はふ、はぅ、はぁ



 少女の荒い息が夜の草原に響く。

 アリアは草原を風のように、とはいかなかったが、全力で走っていた。
 
 心臓が爆発しそうだ、足の感覚が無くなってきている。

 アリアの体力は限界に近付いていたが、それでもなお走り続けた。止まる事は許されないのだから。
 その右手にはもう火付けに使ったピッチフォークは握られておらず、灯を消したランプだけが握られていた。屋敷を出る際に捨ててきたのだ。灯りをつけていては、すぐに見つかってしまいそうだったから。
 腰に巻きつけた火炎瓶も残りは2つだけ。全て使用してもよかったが、もしもの時のために取っておいていた。

 燃え盛る屋敷は既に遥か後方。

 アリアが勝手口から屋敷を出たのは、屋敷の住人が上に集められた直後だった。
 既に走り出してから半刻近い時間が経ち、貧弱なアリアの足でも、屋敷とは相当な距離が開ける事に成功していた。

「はぁ、ふう。さすがに、もう、大丈夫、か?」

 アリアは屋敷からどれだけ距離が離せたのか確認するため、首だけで後ろを振り返る。

「……んっ?」

 黒い粒。

 最初は黒い粒に見えた。

 それが猛烈な勢いで、屋敷の方向から一直線にこちらに近づいてくる。

 いや、あれは黒い粒ではない。髪をなびかせながら、凄まじい勢いで駆けてくる。
  


 嘘でしょ……。あれは。



 リーゼロッテ。



「はぁ、はぁ……なんでよぉっ……!」

 その理不尽な走行速度と、的確すぎる察知能力に、泣き事をいいながらも、アリアは走った。

 アリアは知らなかった。リーゼロッテが僅かな匂いで人間を追えることを。そして獣のようなスピードで走れることも。

 アリアは、街道の方向とは明後日の方向を向いて逃げており、その距離もかなり開いていたため、内心ではもう追って来れないだろう、と思っていた。
 そもそも、屋敷が今現在燃え盛っているのに、リーゼロッテ本人がこちらを優先してくる事自体が、アリアにとっては誤算だった。

(ダメだ、これじゃ確実に追いつかれる)

 後ろを振り返って、更に縮まっている距離でそう思ったアリアは足を止め、追ってくるリーゼロッテに向き直ってランプの灯を付けた。

「あ゛あぁああっ!」

 アリアは奇声を発しながら、火炎瓶に火を付け、もう間近に迫っている、三日月のような口をしたリーゼロッテ目がけて投げつける。

 これだけの勢いで直線的に向かってくるならば、自分に向かって飛んでくる瓶は不可避のはず、と考えて。

「かっ!」

 しかし、リーゼロッテが右腕を横薙ぎにしてそれを払うと、火炎瓶はあっさりとたたき落とされて、地面を焼くだけとなってしまう。

 いつの間にか進行方向に回り込んだリーゼロッテが、にや、と歪んだ笑みを浮かべてアリアの前に立ち塞がっていた、

「……っ!化物……め」

 アリアは観念したように、懐からナイフを取り出して両手に持ち、正面に構える。

「くっふ、追いついたぞ、アリア?成程成程、今まで行動を起こさなかったのはこんなものを作って脱走の準備をしていたためか?……くくひヒハハっ!」

 割れた瓶の残骸に目をやりながら、怒りとも愉悦ともしれない表情を浮かべるリーゼロッテの瞳は深紅に染まっている。

「…………あら、こちらの本心はばれていたという事?どうやってばれたのかしら。演技には自信があったのだけれど?」

 アリアは開き直ったように、ふてぶてしい態度でリーゼロッテにそう返す。

「くヒ、妾をなめるなよ、小娘。あんな稚拙な演技で妾を欺けると思うか?そういう貴様こそどうやってこちらの思惑に気付いた?」
「それを教えて私に何か得があるの、かしらッ?!」
「くっククク……この狸娘がッ!」

 抉るように突きだされたナイフを、怒号とともに蹴りあげられた足が狩る。
 その衝撃で手から離れたナイフは、高く高く放り出され、その行き先が見えないほど遠くへと飛ばされていった。

「そんなもので妾と戦うつもりじゃったのか?随分と舐められたの……」
「ぐっ……」

 心外だ、という表情をするリーゼロッテに、獲物を失ったアリアはじりじりと後ずさる。

「くく、逃がさんよ。枝よ、伸びし森の枝よ。狸娘を捕らえよ」

 リーゼロッテがそう呟くと周りに生えていた草が、意思を持った蔓のように伸び、逃げようとするアリアの足を拘束してしまった。

「う……先住、魔法、いえ精霊魔法ね。処女の血が好きなんて趣味の変態はやっぱり吸血鬼?」
「ご名答」

 リーゼロッテはその問いに答えると同時に、アリアの鳩尾に拳をぶちこんだ。

「かっ、はっ……!」
「狸め。折角手に入れた妾の塒を台無しにした挙句、その軽口、万死に値するぞ。貴様は血を吸うだけでは飽き足らん……生きたまま腹腸を引きずりだしてやろうか?」

 リーゼロッテはうずくまるアリアの前髪を乱暴に掴みあげて問う。
 憤ったような台詞だが、何が面白いのか、リーゼロッテの表情はむしろ愉悦に満ちていた。

「冗談……そんな悪趣味な舞台はお断りよ。脚本の書き直しを要求しますわ、三流脚本家さん?」
「くく、大根役者は黙って脚本家の言う事を聞いて踊るものじゃ。この、ように、なッ!」

 ぼす、という鈍い音とともに、まるでダンスを踊るかのように、アリアの体は右へ左へ激しく揺すられる。
 足が絡め取られているために、逃げる事も、吹き飛んで威力を殺すことすらできない。

「……っ、ぐっ、かふっ……あぅ……ぅ」
「くヒャヒふふへっへヒ、ケきャぁあああぁあああ!」

 殴る。蹴る。突く。投げる。絞める。また殴る。

 汗が滲む。涙が零れる。唾液が飛び散る。胃液が逆流する。血が滴る。

 奇声を発しながら、狂ったように腕と足を振り回すリーゼロッテ。しかしこれでも十分手加減をしている。勿論嬲るためだけの手加減だが。
 彼女が本気ならば、アリアなど一撃で死んでいる。それ程の力の差があるのだ。

「…………」
「おや、殺してしもうたか?」

 リーゼロッテは動かなくなったアリアの顎先を人さし指でクイと持ちあげて呼吸を確認する。
 喉が潰れかけているのか、ヒュゥ、と空気が漏れだすような弱々しいものだが、確かに呼吸は行われていた。

「ほう、まだ生きておるか。なかなかに命根性が汚いの。……ではそろそろ頂くとするか。まぁ安心せい、お前は中々に面白いからの。死んだ後は妾の正式な下僕にしてやろう」

 リーゼロッテは、動かぬアリアの頸動脈に齧りつこうと大口を開けて、その艶めかしい舌をアリアの首に這わせていく。



 ざしゅっ。



 そして何かを突き立てる音が響いた。

「がフっ?!」

 声をあげたのは、リーゼロッテ。
 
 目を剥くリーゼロッテの喉元には鈍い輝きを放つナイフが無惨に突き刺さっている。
 動けぬはずのアリアはそのナイフを握って、傷口が広がるように掻き回す。

 アリアはリーゼロッテのサンドバッグにされながら、ずっとこの瞬間を狙っていた。相手が吸血鬼ならば、最後には絶対に大口を開けた間抜け面を晒して無防備になると。
 懐の中に忍ばせた最後の武器である“もう一本の”ナイフはその時のために隠していたのだった。

 いくら吸血鬼といえど、首を刺されて、掻き回されては死ぬしかあるまい。






「……綺麗な薔薇には刺がある、ってね?」

 アリアは小さな声でそう呟くと、ふらふらしながらも、全身を使って立ちあがる。

(何とか……生き残ったけれど、かなり、まずい、かも)

 いいように攻撃をうけていたアリアの体は、内臓にまでは損傷がなかったものの、所々骨にヒビが入り、全身が打撲のような状態になっていた。

 正直、動くのも厳しい満身創痍の状態だ。

「痛……くぅ……」

 それでも、アリアは体に鞭打って吸血鬼の骸に背を向けて歩き出す。
 こんなところに留まっては居られない。屋敷から次の追手が来るかもしれないし、血塗れのまま立ち止まっていては、獣の餌になってしまうかもしれない。

(とりあえず、人の居る場所まで……それからの事は、そこに行ってから……)

 

 その時。



「くふ、どこにいく?主を置いていくなど……」

 後ろから掛けられた声。

 アリアは、その声を聞いた途端、糸を切られたマリオネットのように、ぺた、と力なく尻餅をついてしまった。

 尻餅をついたまま後ろを振り返ると、リーゼロッテは何もなかったようにそこに立っていた。首につけたはずの痕はどこにいったのか既に霧散している。

「は、はは……何よ、それ」

 アリアはその理不尽に、乾いた笑いしか出せなかった。

「惜しかったのう……突いたのが心臓ならば妾も死ねたかもしれんぞ?」
「畜生……畜生、畜生!」

 余裕綽々のリーゼロッテに対し、目にうっすらと涙を浮かべ歯噛みするアリア。

「いやはや、ここまでやれる娘だとは。本当に面白いぞ。しかしさすがにもう万策尽きたようじゃの?」
「いや、だ……私は……こんなところで……」

 リーゼロッテの両腕が、アリアの肩を掴む。

「さて、ま、折角だし血は貰って置くかの……」
「うっがぁあああ!」

 アリアは最後の力を込めて体をばたつかせるが、リーゼロッテの圧倒的な膂力で体を抑えつけられ、首筋にその牙を突き立てられる。

 ぷち、と自分の血管が食いちぎられる音。

(こんな……こんな終わりって)

 ちうちうと、血が吸い上げられる音と、それに伴う奇妙な快感。走馬灯のように『私』のつまらない人生がアリアの脳内を巡る。

(……私は……ぜったい……キレイ、な、せか、いを…………)

 自らの願望、いや決意を思い浮かべた所で、アリアの意識はプツリと途切れた。





…………



[19087] 9話 意志ある所に道を開こう
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/23 17:58
 旧ウィースバーデン男爵領、現皇帝直轄領アウカムの農村──

 まだ薄暗い空に昇り始めた白い太陽。
 ウルの月も終わりに差し掛かっているというのに、朝の空気は肌寒い。
 どうやら本格的な夏の到来はまだまだ先のようだ。

 農民達の朝は早い。
 水を汲む音、窓を開ける音、野蔡を刻む音、鍋を火にかける音、子供が走り回る音。
 まだ外は薄暗いというのに、朝の生活音が村中に溢れていた。

 活気に溢れているように見えるこの村も、一時期は領主によってかけられた限度を超えた高すぎる重税によって、多くの領民が逃げ出し、過疎化してしまっていた。

 この国、ゲルマニアに限らず、封建制度に基づく社会制度を形成しているハルケギニアでは、領民、とりわけ農民が、領主に無断でその土地から住所を移動することは重罪とされている。
 にも関わらず、領地からの脱走を企てた者が多いのは、文字通り死ぬほど困窮していたからである。

 基本的に、領主は国に対して税金を納める義務は持たない(王や皇帝は直轄領からの家賃収入のみを得る、ただし有事の際にはその限りではない)。
 なので、自領の領民にかける税金の軽重は、完全に領主の裁量へと委ねられている。
 つまり、領主は領民に対して、生活できない程の重税を課して自身が贅沢しようとも、反対に税をあまり取らずに自身が清貧に甘んじても、全くの自由なのである。勿論、相場というものはあるが。

 なので、ウィースバーデン男爵が領民に対して、重税を掛けた事自体は特に問題はなかった(税を納める領民としては大問題だが)。

 ただ、その重税によって、領内から多数の難民が出た事がまずかった。
 難民が他の領へと逃げ込む事で、他人様の領地の治安を悪化させてしまったのだ。

 その失態が原因となって、5年程前、ついにウィースバーデン男爵は失脚し、領地と爵位を失った。つまりお家取り潰しである。

 この処置は領主である上級貴族の権限が強い、というか強すぎるトリステインあたりではありえない程厳しいものである。
 しかし、他国の王と比べて、皇帝の権威が低いゲルマニアでは、中央集権化を進める手段の一つとして、皇帝直轄領の増強を図っている。
 ただ、当然だが、大した理由もなく貴族達の領地を召しあげてしまう事は、いくら皇帝でも不可能である。
 領主を追い出す理由が必要なのだ。例えば、他の貴族達から見ても、領主として不適格だ、と思わせるようなネタが。
 他の領を巻き込むような派手な失態は、誰の目にも分かりやすいネタになる。なので、それを起こしたウィースバーデン男爵は絶好のカモとして、国から狙われたのであった。

 その後、この村を含むアウカムの農村地帯は皇帝直轄領とされ、村民にかかる負担は大幅に減った(国税は貴族が掛ける税より一般的に安い)。それによって、除々にだが、村に活気が戻っていった。
 現在では、村は元通り、とまではいかないが、まずまずの復興を見せていた。

 さて、領地と爵位を失ってしまったウィースバーデン元男爵だが、領地郊外に建っている本邸や、そこに貯め込んだ財産までは没収される事はなかった。爵位を失ったとはいえ、まだ貴族の地位までは失っていなかったのだ。
 これは、先代のウィースバーデン男爵と懇意であった、ザールブリュッケン男爵の口添えが大きい。それによって、せめてもの温情措置として住み慣れた屋敷で隠居生活をすることが許されたのである。



 良く晴れた日であれば、このアウカムの農村からもその屋敷を見る事が出来る。
 その屋敷は、圧政を敷いたかつての暴君への揶揄と皮肉を込めて、「化物屋敷」と呼ばれていた。

「しっかし化物屋敷が燃えちまうたあ、やっぱり天罰ってのはあるもんだねえ」
「ざまあ見ろってやつだね。領地を取り上げたくらいじゃ、始祖はお許しにならなかったのさ」

 村の女達は朝の井戸端で好き勝手な事を喋っている。始祖による断罪──そのような教えはブリミル教にはないはずだが。
 どこの世界でも井戸端会議の内容などいい加減なものだ。

「だけどあの子、大丈夫かねえ。ずっと眠ったまんまらしいけど」
「あぁ、火事になった屋敷から逃げてきたって使用人の妹の方かい?可哀想にねえ」

 さして心配とも可哀想とも思っていない顔でそんなことを言う女達。

「しっかし、姉の方は相当な美人だね、ありゃ。うちの亭主なんて、にやにやしちまって気持ち悪いったらないよ。本当に使用人なのかい、あの娘」
「ひ、ひ、ひ。大方アッチの方のご奉仕を担当していたんだろうさ。『ご主人様、コチラのお掃除もさせてイタダキマス』なんつってね」

 指をしゃぶるような動作をしながら、気色悪い声色で女の一人がそう言うと、どっ、と下卑た笑いが巻き起こる。

 こうやって根も葉もない憶測があたかも真実のように認識されていくのだ。本当に、女の噂話というのは性質が悪い。





 ちちち、という小鳥達の囀りが耳触りだ。
 窓から差し込む、強烈な日の光が憎らしい。
 冷たい外気が、起きろ起きろと肌を刺激する。

 もぞもぞと全身を芋虫のように動かして、布団の中に潜り込む。

「ぅ~ん、もうちょっと…………」

 ……ん?

「あれ?」

 目をぱちくり。手をにぎにぎ。足をばたばた。

 生きてる?

「知らない天井だ」

 そんな汎用性の高い台詞を口にしながら、私はゆっくりと体を起こした。

「……傷がない?」

 自分の体をきょろきょろと見渡して、首をひねる。

 ほとんど全身バキバキだったはずなのに、その痕すらなく、体のどこも特に痛まない。
 身につけている衣服も、豪奢なフリル付きのお嬢様衣装ではなく、質素で飾り気のない村娘の衣装に変わっていた。

 まさか2度目の生まれ変わりか?と少し頭を過ったが、窓に映ったクセ毛で貧相な顔は見慣れたものだった。



「どこだここ」

 私はのそりと、硬い寝床から這い出ると、寝かされていた部屋の中を見渡した。

 部屋の造りは、何となく、私の実家と似ている。つまり質素、というかまあ、貧乏臭い造りである。
 木板が剥き出しの部屋には特に大きな家具はなく、小さな窓が一つだけ。実に殺風景だ。

 あの化物屋敷にこのような部屋はない。

 窓を開けて顔を覗かせてみると、少し肌寒い風に乗って薫ってくるのは土の匂い。
 うん、どうやらここはどこかの農村らしい。窓の外には私が見慣れている風景が一杯に広がっていた。

「これって……もしかして」
 
 助かったの?と私は声には出さずに自問した。答えは当然返ってこない。

 どう考えても絶望的な状況だったはずだけど……誰かが助けてくれたのだろうか?それとも何か奇跡が?

「どうでもいいわね……」

 助かった理由について考えても無駄なので、私は考えるのをやめた。そんな事は些事だ。今確かに生きている、という事実に比べれば。

 そう、私は生き延びたのだ。

 根源的な恐怖から脱却した事を実感し始めると、私の中にじわりと、しかし圧倒的な安堵感が込み上げてくる。

「はぁ」

 普通はここで、喜色満面で飛び跳ねるのかもしれないが、私は深い息をついて、ぺたん、と硬いベッドの隅に腰掛けた。
 別に嬉しくないわけではない。ただ、あまりの安堵に、緊張の糸が切れ、全身が弛緩してしまったのだ。



 しばらくそのままぼぅっとしていると、ガタ、と部屋のドアが開き、私よりも少し年上であろう少年が部屋に入ってきた。

「……あ、どうも。おはようございます」
「お、やっと起きたの?3日も寝てたんだよ、おまえ」

 私が頭を下げると、少年はちょっとキツイ調子で返してきた。
 多分この少年はこの家の住人だろう。見知らぬ余所者など歓迎されないのが当然だ。ましてや、私はここに来てから3日もベッドを占領していたらしい。
 あまりいい感情は持たれてはいないだろう。家に置いてくれていただけでも、感謝せねばなるまい。

「そうなんですか。ご迷惑をおかけしました」
「ま、いいさ。それに礼ならおまえの姉さんに言えよ」
「……姉?」
「そうそう。気絶したおまえをここまで背負ってきたって……」

 姉?私を助けてくれたのはその人という事か。私との関係を聞かれて、説明が面倒だから姉妹という事にしたんだろうか。

 なら、ここは話を合わせておいたほうがいいかな……。

「では後で礼を言っておかなければなりませんね。それで、姉はどこに?」
「他の家に泊まってる。畑に出るついでに連れて行ってやろうか?」
「じゃあお願いします」

 言葉はぶっきらぼうだが、この少年はなかなかに面倒見がいいらしい。

 私の姉を名乗っている恩人には、ここを離れる前に礼を言っておかなければなるまい。信用できそうな人間ならば、街まで連れて行ってもらえるようにお願いするのもいいかもしれない。
 流石に私一人で街道を行くのは厳しい。

 とりあえずこの村に置いてもらえるような事はあるまい。いつまでも余所者を置いておくような余裕はないはずだ。
 まあ、街にいってもコネもスキルもない小娘に就ける仕事などないかもしれないが……。コネ……か、ふむ。
 
 私はさきほどの少年に手を引かれて、村の中を進む。
 東の空に昇る太陽が眩しい。足の裏に感じる土の感触が気持ちいい。朝の清浄な空気が肺を満たす。懐かしい芋の朝食の匂いが漂ってくる。村人達の談笑が聞こえる。

 五感を心地よく刺激され、生き延びられて良かった、という実感が湧いてくる。
 これからの事は少し心配だが、今しばらくはこの喜びを噛みしめていてもいいかもしれない。





「おーい!妹さんおきたよ!」

 少年は、村で最も大きい家までくると、入り口の戸をドンドンと叩く。

「はい、今行きますね」

 とても綺麗なソプラノが、家の中から返された。

 そうとても綺麗なのに、私はその声を聞いて全身が逆立った。
 私の視線はゆっくりと開いていく戸に釘づけになる。体が縫いつけられたように動かない。



 そして家の中から出てきたのは。



 見事に腰まで伸びた美しい金髪。
 空のように澄みきった青い瞳。
 決して下品にならない抜群のプロポーション。

「起きたのねアリア、姉さん嬉しいわ」

 とぼけた口調でそんな事を言う吸血鬼、リーゼロッテが立っていた。

「なっ、んっ、……はっ……はっ……」

 呼吸が上手く出来ず、「なんでここにいるんだ」と、口を開くも言葉にならない。

「あれ、どうしたんだ。はっはっは、無事に再開できた感激のあまり声がでないか」
「どうにも妹は昔から感情の波が激しいみたいで。お恥ずかしいですわ」
「それじゃあ水を差しちゃ悪いね。お邪魔虫はこの辺で消えるとするかい」

 直立したまま固まっている私の背中を、パンと一回叩いて少年が遠ざかっていく。
 ま、待ってくれ……行かないでくれ……ちょおおぉ!

 私が遠ざかる背に向けて突き出した手も虚しく、少年の後ろ姿はあっという間に見えなくなってしまった。
 もう村人のほとんどは畑に出ているらしく、周りに人の気配はない。

「さてと……」
「く、来るなっ?」

 リーゼロッテは周りに私以外がいなくなると、素早く私の首根っこを捕まえて、無人の家の中に連れ込んだ。丸腰の私に為す術はない。

 リーゼロッテはそのまま、私を奥の部屋に連れ込み、無理矢理椅子に座らせた。

「く……」

 私は何とか逃げ出そうと、椅子から立とうとするが、リーゼロッテに肩を押さえられてしまう。

「そう身構えるな。お前をここまで運んでやったのは妾なのじゃぞ?ついでに傷を直したのも妾じゃ。感謝すれども恐れることはあるまいて」

 誇らしげに胸を張って言うリーゼロッテ。 先程の丁寧な口調とは打って変わって、素の口調だ。

 いや私を殺しかけたのはお前だろ……。
 しかし何故そんな事を?というか、傷を治す?そんなこと吸血鬼に出来るのか?
 
 一瞬の内にぐるぐると回る思考。体は上手く動かないが、頭だけは働いていた。
 そしてフラッシュバックするあの言葉。

《死んだ後は妾の正式な下僕にしてやろう》

 と言う事は…………。

「……ったしは、死んで、るの?」

 何とか口をついて出てきたのは、そんな疑問だった。
 生きている、と自分では思っていたが、もしかすると、リーゼロッテの屍人鬼として使役されているだけなのかもしれない。

「どう考えても生きとるじゃろ。何をいっておる?」

 心底不思議そうな顔で私を見下ろすリーゼロッテ。

 本当なのか?いや、ここでこの吸血鬼が嘘をつく理由がないか。
 と言う事は私は死んでいない。ならばますます分からない。

「何故殺さない?私を下僕にするつもりなら、殺して屍人鬼にすることもできるはずっ……!」
「ほう、屍人鬼とな。そんなことまで知っておるのか」

 私の質問には答えず、リーゼロッテは感心したように自分の顎を撫でる。

 口惜しいが、私にはこの吸血鬼に武力で対抗する術はない。逃げる術もない。
 ならば、私にできるのは……精神的に屈しないことくらいだ。

 そうやって腹を括ると、ふっ、と体が軽くなり、呼吸もほぼ正常に戻っていった。



「答えなさい」
「くふ、殺されかけた相手に対して随分と強気じゃな。……ま、良い。狸娘よ、お前は妾の食糧兼奴隷として仕えてもらう。お主の血は最高に美味じゃったからな。生きたままでなければ血は吸えんから殺すのが惜しくなったんじゃ」
「……あら、それは光栄。でもその理由は嘘臭いわね」

 私はピシ、とリーゼロッテに指を突き付ける。

「な、何が嘘なんじゃ!根も葉もない事を言うでない!」

 リーゼロッテはその指摘に狼狽する。それこそ嘘だという理由ではないかと思うのだけれど。
 どうやらこの自称女優はアドリブが苦手らしい。

「ま、私は血の味なんてわからないけどね。でも貴女言ってたでしょ。スヴェルの夜に、全てが覆された時の最高の表情をした処女の血がイイって。なのに、あの晩の、しかも企みに気付いていた私の血が“最高”に美味、なんていうのはおかしいんじゃない?」
「う……そんな事を聞いておったのか」
「……不思議ね。どうして私如きに嘘をつくのかしら?」

 苦虫を噛み潰したような顔をするリーゼロッテ。図星か。

 何故嘘をついたのか。それは知られてはマズイ弱みがあるという事だ。

 リーゼロッテが私を殺す気ならば、既に殺されているはず。つまり、私を生かす事であちらに何か得があると言う事、もしくは私が死んではあちらに都合が悪い事があるのだ。
 その理由がそっくりそのまま、あちらの弱みになっているのかもしれない。

 ならば、あちらの言う事を何でも聞くのは得策ではないだろう。やりようによってはこちらが優位に立てる、という事までは無くても、同等の条件に立つ事はできるかもしれない。

「へっ、屁理屈じゃ。血の味は妾が一番知っておる!……それにの、お主には犯した罪の責任をとってもらわねばならん。贖罪は生きたままするべきであろう」
「は?責任ですって?」

 嘘を言った事を誤魔化すかのように、リーゼロッテが新しい切り口で攻めてきた。

 随分とふざけた発言に、私は憤慨して睨みつけながら聞き返す。
 責任を取ってほしいのは私の方だ。私が『僕』の理性を持たない普通の娘だったら、疾っくの疾うに発狂している。
 正直、私だって全ての善意が悪意に見えてしまうトラウマになりそうなくらいだ。

「おいおい、狸娘よ。あれだけの事をしておいて惚けてはいかんぞ」
「へえ、何があるのか教えてもらえないかしら、吸血鬼さん」

 眉をあげて、脅すような態度で迫るリーゼロッテに、私は飽くまで強気の態度に出る。ここで引いては駄目だ。

「あくまで白を切るか。では教えてやろうではないか。妾の快適な寝床を炭クズにした罪の責任じゃ。本来なら貴族の屋敷に火をかけるなど斬首モノじゃぞ?それを妾に仕える事で許してやろう、というのじゃ。妾の寛大な心に感謝するがよい」

 私を見下ろし尊大な態度でそう言い放つリーゼロッテ。
 うん、確かに火を付けたのは犯罪だよね。

「それは自業自得ってやつじゃない?私をそこまで追い詰めたのは貴女よ?というかその言い草だと、やっぱり貴女が男爵令嬢だなんて話は真っ赤なウソね。……まあ、いくらゲルマニアとはいえ、吸血鬼が爵位を取れるはずもないのだけれど。大方、貴女があの屋敷を乗っ取っていたってところかしら。そんな貴女に許してもらう道理はないわ」
「……ぬ」

 私の推測が当たっているのか、押し黙るリーゼロッテ。何これ。ちょっと快感かも。

「それにあのダンシャクとやらがここらの領主っていうのも嘘でしょ。さすがに領主の屋敷が吸血鬼に乗っ取られているなんて、すぐにばれるはずだもの。上級貴族ならば貴族同士の交流もあるだろうし。でも3週間、私は外からの来客も見なかったし、ダンシャクや貴女が外出したのを一度も見なかった。つまり、その正体は世間と隔絶された、若しくは引き籠りになったお金持ちのご隠居、といった所ね。……さて、貴女の嘘はどこまで続くのかしら」

 私は座らされていた椅子から立ち上がり、一気に虚言を暴いて畳みかける。
 
 リーゼロッテはそれに対して、論点をずらして反撃してきた。

「お主の付けた火で、焼けたのは屋敷だけではない。屋敷の使用人達も黒焦げになったんじゃぞ?これは絶対、確実じゃ。心が痛まんのか?」
「ふうん」
「ふうん……って、それだけかの?」

 お前に良心はないの?と言いたげな表情で、私に事の顛末を詳しく語るリーゼロッテ。

 あの使用人達はこの世の人じゃないだろうから心は痛まない。

 屋敷から脱出する前に、私は倉庫部屋で、リーゼロッテが命令する声を聞いていた。
 あの時、ダンシャクまで完全にリーゼロッテの言いなりだったからね……非常事態だというのに吸血鬼の命令にあそこまで従うという事は、どう考えても屍人鬼か何かだろう。リーゼロッテがどうやって複数の下僕を使役しているのかは不明だが。

 私が彼らに出来ることは、吸血鬼に殺されてしまったのであろう屋敷のみんなの冥福を祈るだけだ。

 リーゼロッテの身振り手振りを交えた語りによると、屋敷の火を消そうとしたであろうカヤ達だったが、リーゼロッテが屋敷に戻ったころには、力及ばず屋敷とともに燃え尽きていたらしい。
 
 私はその思わぬ大きな戦果に驚きを覚えた。まさかリーゼロッテの下僕が全滅していたとは。
 よくそこまで燃えてくれた物だ。正直半焼が関の山かと思ったんだけど……。何かあちらが余計な事をして火の回りをよくしたのではないだろうか。

「私を殺そうと画策していた化物共が死んで、何故私が心を痛めなきゃならないの?……それにさっきから論点がずれているわ。何故私が生きたまま、貴女に仕えなければいけないのかって事を聞いているのだけれど?」
「う……」

 私は顔の前に人指し指をピンと立てて、話が脱線していたのを立て直す。
 リーゼロッテは言葉につまり、俯いて困ったような表情を浮かべる。

「貴女が私を生かさなければならない理由。当ててみましょうか?」
「ほう……」

 私の提案に対して、俯いていたリーゼロッテは顔を上げた。

 ここから先に私が喋ろうとしているは完全な憶測に過ぎない。
 これは賭け。半分でも当たっていればリーゼロッテに対して優位に立てるはずだ。

「何故貴女が、わざわざ口入屋に出向いて娘を調達していたか、を考えればおのずと答えは出る」
「何故じゃ?」
「ただ娘を調達するだけなら、攫ってくればいいだけ。まあ、脚本がどうとかそういうのは抜いてね。なのに、貴女は金を払ってまで、賎民の、つまりコミュニティから放逐されて、まだどこにも属していない娘達を買い漁っていた。つまり、貴女は目立ちたくなかった。平民でもいなくなってしまえば噂になるもの」
「…………」

 部屋の中を徘徊しながら憶測を、さも自信ありげに披露する私。無言になるリーゼロッテ。
 よし、ここまでは当たっているのかもしれない。

「まあ、吸血鬼っていうのは、目立ちたくないものだろうけど、そこまでやるのはちょっと過剰じゃないかしら。……単純に神経質だからなのか。それとも誰かに追われている、とか」

 リーゼロッテは目を閉じて私の憶測を静かに聞き入っている。あとひと押しか?

「追われているとしたら、世間から隔絶された金持ちの屋敷なんて吸血鬼の隠れ家には最適だものね。……しかし、その隠れ家が無くなってしまった。そして金も隠れ家と一緒になくなってしまったから口入屋から新しい娘は買えない。ならば、次の隠れ家が見つかるまでは私を生かして食糧にしようっていうわけよ。どう?」
 
 私は真っ直ぐにリーゼロッテの眼を見ながら、そうやって締めた。

 気分は名探偵だ。といっても、推理に確信も証拠もないので、全てが的外れであるかもしれないが。



「ま、話半分と言ったところじゃが……」
「あら、半分も当たっていた?」

 舌を出して言う私に、リーゼロッテが口に手を当てて、しまったという顔をする。
 この反応だと全部ということはあり得なくても、私の憶測は半分以上当たっていそうだ。

「……やはりお前は、ただの餓鬼ではないわの。あの脱出の手際といい、腹芸といい、そしてその思考。どうみても齢10の小娘には見えんぞ?一体何者じゃ?」
「……もう少し仲良くなったら教えてあげる」

 私はリーゼロッテの質問を軽くいなす。言う必要がないし、言ったところで信用しないだろう。「前世の記憶がある」と言ったって誰が信用すると言うのか。
 
「ほう、仲良くなったら、か。では妾に仕える気はあるのかの?」
「そうね。私の出す条件を飲んでくれるなら、いいわ」
「条件、だと?そのような事が言える立場か?」
「飲んでいただけないなら、私は首でも吊って死ぬわ。それじゃ貴女も困るんじゃない?」
「……く、ク、自分の命を盾にするか」

 嘲るように喉を鳴らすリーゼロッテ。何とでも思えばいい。私の唯一の交渉材料は私の命しかないのだから。

「ま、聞くだけ聞いてやろうではないか。お前は何を望む?」
「私が望むのは、一方的な主従の形ではなく、飽くまで協力者、パートナーという形を要求する、という事よ」
「パートナー、じゃと?」
「ええ、不満?私に協力してくれれば、死なない程度なら血も提供するし、私の目的が達成できれば、貴女の安全も保障できるようになると思うのだけれど」

 怪訝な顔で聞き返すリーゼロッテ。
 それはそうだ。どう考えても調子をぶっこいた要求だが、通す。道理が通らなくても通す。

「……目的とは何じゃ」
「成り上がりよ」

 私は真っ直ぐと前を向いて、力強く宣言した。
 リーゼロッテは興味深そうに目を細める。

「ほう……何故そんな事を?」
「今回の事で嫌と言うほど身にしみたのよ。結局、力がなければ、あるものに踏みつけにされるだけっていうことがね。それはどこのセカイでも同じ。だったら、私は上に行く。使えるものは何でも使う、それこそ吸血鬼でもね」

 そして上から見るセカイはきっとキレイだ。それこそ、“原作”で綴られている遥か上のセカイのように。

 だから私は這い上がる。そこに行くまでに泥に、血に塗れる事になろうとも。

 それはまだ脆弱な意志かもしれない。しかし、それを紡いでいけば、やがては鉄の意志となるだろう。

「魔法も使えない、金もない、人脈もないお前がどうやって力をつけるのだ?」
「そこで貴女に協力してもらう、ってわけなのだけれど。協力してくれるなら、15年、いえ10年以内に貴女に安住の地を提供すると約束する。吸血鬼にとっては短いものでしょう?」

 しれっと私がそう言うと、リーゼロッテは大口を開けて笑い始めた。

「くク、クひゃははッ……やはりお前は面白いの。妾に向かってこんな無謀な啖呵を切った人間は今まで見た事がないぞ?」
「お褒め頂き至極恐悦。それで返答は?」

 結論を急ぐ私の問いに、リーゼロッテは黙って右手を差し出した。
 私もそれに倣って右手を差し出す。

 白魚のような右手と、ささくれ立った小さな右手はがっちりと組まれた。

「契約成立、ね」
「くふ、せいぜい妾が心変わりせんように気を付けるんじゃな」

 ニヤリ、と含んだ笑みを見せ合う二人。



 この時から、リーゼロッテと、私の奇妙な協力関係が始まったのだった。





 善とは何か──人間において力の感情と力を欲する意志を高揚する全てのもの
 悪とは何か──弱さから生じる全てのもの
                          フリードリヒ=ウィルヘルム・ニーチェ





第一章「貧民少女アリアの決意」終
幕間へ続くのです




[19087] 1~2章幕間 インベーダー・ゲーム
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/21 00:09
 ガリア王国首都リュティス。30万の人口を誇る、ガリア最大の都市である。
 その東の端に存在するヴェルサルティル宮殿の荘厳さは、見る者を圧倒し、魅了する。

 さて、そんな華麗なる一族が住まうに相応しい絢爛な宮殿だが、その中には、日の当たらない場所も存在する。
 
 そんな陰気さが漂う場所の一つである、北側の離宮の一室では、青い髪の美青年が長椅子の上で仰向けになって、羊皮紙の束を眺めていた。
 美青年はいかにも「退屈だ」と言わんばかりの気だるさを醸し出している。

 彼の前には俯いたまま、跪く騎士風の細身の男が一人。
 細身の男はそのままの姿勢で微動だにせず、美青年が口を開くのを待っていた。

「ふむ、取り逃がしたか」

 美青年は興味なさ気に、読み終わった羊皮紙の束をぞんざいに床へ放った。
 羊皮紙の表題には、“リュティス貧民街におけるモンベリエ侯爵家令嬢変死事件について”と書かれている。

「は、申し訳ありません。令嬢殺しの下手人、いえ標的はゲルマニア国境付近で見失った模様です」
「無様だな」
「しかしながら標的を追う際に、元メイジを含むあちらの戦力6体を無力化。残りは重傷を負わせた標的1体です。対してこちらの損害は3名。今現在も四号と五号が標的を捜索、追跡中であります」

 細身の男は、美青年の短くも辛辣な言葉に、ピクリとも表情を変えずに淡々と現状報告を行う。

「良い。もう捨て置け。下らん理由でこれ以上の人員を使ってもな」
「は?しかし、被害者は南部の有力貴族、モンベリエ侯爵家の長女ですし、彼女は魔法学院で預かっていた生徒でもあります。下らんというのはいくらなんでも……」

 美青年の突飛な発言に、ここに来て初めて細身の男は表情を変えた。それは困惑の表情。

「世間知らずの小娘一人が貧民街に迷い込んで野垂れ死んだだけだろう?」
「しかし、モンベリエ侯は令嬢殺しの下手人が上がってこない事で、日に日に王家への不信感を強めていると聞きますが……」

 リュティスは王家が直轄する国の首都だ。ましてや、死亡した侯爵令嬢は国が管理している魔法学院の生徒であったのだ。

 そこで、令嬢が他殺と思われる変死をしたとなれば、当然、王家側の責任を追及される事となる。
 モンベリエ侯爵家側は、王家側に対して、事件の早期解決と娘を殺した下手人の引き渡しを要求していた。その程度の要求が通らない、となれば王家に対する不信感が強まるのも無理はない。

 ただ、この事件は令嬢の自業自得とも言える面もある。

 リュティス魔法学院は他の国の魔法学院と比べて、規則が厳しい事で有名だ。
 それは意味もなく厳しい訳ではなく、様々な謀略が渦巻くガリアの中心において、学院で預かっている上級貴族達の子女を誘拐や謀殺から防ぐために設けられている。
 学生にとっては、自分達を不必要に縛る枷にしか見えないかもしれないが。

 その規則の中に“学院の敷地外へ出る事を禁ずる”というものがある(例外として、長期休暇の際の帰省だけは認められている)。
 しかし、年頃の学生達、特に辺境の領から出てきた者にとっては、華やかな王都に好奇心を抱くのは当然だ。

 そんな学生の中には、規則を破っても街に出たい、と思う愚か者もいるのだ。

 令嬢は愚か者の一人だった。

 好奇心旺盛な令嬢は、夜の街に遊びに出るために、学院に出入りしている平民に扮装して学院を抜け出したらしい。変死体として発見された令嬢の服装は、何処から見ても平民にしか見えないものだった。
 街へと出た令嬢はフラフラと遊び回っているうちに、貧民街に迷い込んでしまい、そこで襲われたとみられている。

 つまり、彼女が規則を破りさえしなければ、事件は起こらなかったのだ。

 令嬢が学院の規則を破った上、薄汚い貧民街でメイジでもないものに殺されたとなればモンベリエ侯爵家、引いてはそこを管理していた王家の面子は丸潰れになる。そのため、令嬢の死は公式には突発的な病死と発表された。

 そうなれば、表立った機関が動くわけにはいかないため、本来は存在しないはずの組織である、北花壇騎士団にお鉢が回ってきていたのだった。

「どちらにせよ標的はもうゲルマニアに逃げ込んでいるだろう。そうなれば手は出せん。それに仮にもガリアの侯爵を任せられている家が、娘一人死んだ程度で、国に反旗を翻すような馬鹿な事はするまいよ。……もし反旗を翻すならそれはそれで面白いかもしれんが」

 美青年は本当に愉快そうな表情で、物騒な事を言い放つ。
 細身の男はその言葉に眉を顰める。

「ジョゼフ様、さすがにそれは……」
「ここでは団長だ。これまでの調査結果はモンベリエに丸投げしておけ。後はそちらで勝手にやるだろう。先にも言った通り、余はこの件にこれ以上の人員を割くつもりはない。これでこの話は終わりとする」
「……御意」

 北花壇騎士団長ジョゼフが憮然とした口調で言い放つと、細身の男はそれ以上何も言わずに退出した。



 部屋に一人残されたジョゼフは、横になっていた長椅子から立ち上がると、先程放った羊皮紙の束を拾い上げ、再び目を通しだした。

「侯爵令嬢の殺害方法、様々な先住魔法を駆使する事から、標的は極めて異質かつ強力な吸血鬼と思われる。日の光に強く、一体で何体もの下僕を操る、か」

 その報告内容に、ジョゼフは、ふ、と自嘲的な笑みを漏らす。

「亜人の世界にも才能というものがあるのだな……」

 独り言を呟くジョゼフの背中には、どことなく寂寥の色が漂っていた。





 ガリアの第一王子、ジョゼフが独りごちていた頃。

 重傷を負っているはずの標的は、帝政ゲルマニアの南西端に位置する交易都市フェルクリンゲン街の安酒場で杯を呷っていた。

「全く、あやつらときたら娘一人喰った程度で大騒ぎしおって。大体貴族の娘が貧民街におるなどおかしいじゃろうが……」

 酒場の隅の席で、ぶつぶつと愚痴を漏らしながら、安いワインを水のように腹に流し込む逃亡者、リーゼロッテ。
 彼女は、完全に酔っ払っているのか、珍しく素の状態であった。テーブルと床に散らばった空き瓶の数を数えれば、そうなってしまうのも無理はないが。

「しかし貧民街で娘を漁るのも駄目ならどうしろと……おまけに下僕も全て失くしてしもうたし……はぁ、もう泣きそうじゃ」

 がっくりと項垂れるリーゼロッテは、割と本気で泣きそうだった。



 2週間程前、リュティスを根城にしていたリーゼロッテはいつものように、“食糧”を調達するため、貧民街を徘徊していた。

 彼女が貧民街に狙いを絞っていたのは、いつ野垂れ死んでもおかしくない貧民ならば、ある日突然消えてもあまり騒ぎにはならないと考えていたからだ。
 貴族は勿論のこと、普通の平民を“食糧”にしてしまえば、追われる身になるかもしれない。

 それなりの年を重ねた吸血鬼だけあって、彼女は用心深かった。

 彼女は人間、特にメイジを敵に回した時の厄介さを知っている。
 高位のメイジであっても、一対一の勝負ならばリーゼロッテに分があるのだが、人間の厄介さとは数を恃みにすることである、と彼女は考えていた。

 しかし、彼女は失敗した。

 その日獲物にした貧民街をうろついていた薄汚い格好をした娘は、貧民どころか貴族令嬢、それもガリア国内でかなりの実力を持つモンベリエ侯爵家の長女であったのだ。

 餌食にされてしまった令嬢も不運であったが、リーゼロッテからしても酷いハズレを引いてしまったと言える。
 敵を作らないように貧民に狙いを絞っていたはずが、国という大勢力によって追われるハメになってしまったのだから。


 
「とりあえずガリアに戻るわけにもいかんし、新しいネグラを探さねばな……」

 愚痴を言うのにも飽きたリーゼロッテは席から立ち上がり、カウンターへと向かう。
 別にカウンター席に場所を移して飲み直すわけではない。
 
「店主、話が聞きたいのじゃが」
「ぁあ……じゃ、その前にお代を払ってくれねえか?しめて3エキュー23スゥ8ドニエだ」
「む、計算を間違えているのではないか?高すぎるぞ」
「あれだけ飲んでこれなら安いだろうが!」

 髭モジャの店主の言葉に、「本当かのう……」と小声で呟きながら、渋々金袋から金貨を取りだすリーゼロッテ。

 吸血鬼といえど、“食糧”や“生存”以外の目的で人間を脅かすようなことはあまりなく、普段は人間社会のルールに従うのが一般的だ。
 吸血鬼の中には、ブリミル教徒として名を連ねている者までいる。本当に信仰しているわけではないだろうが。

 吸血鬼は個としては強者かもしれないが、種族全体で見ると、数が非常に少ない上に、群れで行動しないため、社会的には弱者とすら言える。
 むしろ、その目的以外の事については、吸血鬼である事を気付かせないために、人間として模範的な生活をしている者が多く、考えようによっては人間の賊よりマシかもしれない。

 ただ、リーゼロッテに関しては、それが当てはまるかどうかは疑問符がつくのだが。

「へへ、毎度。で、何が聞きたいんだ?」

 金貨をひったくるようにして受け取った店主は、ほくほく顔でそう尋ねる。やはりボッタクリなのかもしれない。

「そうじゃな……この近くで住み込みの仕事があれば教えてほしいのじゃが」
「仕事、ねぇ」

 店主はイヤラシイ目でリーゼロッテの身体をじろじろと見回しながら、含みを持った言葉を吐く。
 何が言いたいのか分かったリーゼロッテは、ぴしゃりとそれをはねつける。

「いや、妾はそういう仕事はせんぞ?こう見えても身持ちは堅くての」
「へ、そうかい。だが、ここは職を斡旋する場所じゃねえからなぁ……」

 このセカイでは、“普通の仕事”においては、知り合いのツテで職につくのが一般的だ。
 ふらりと現れた余所者が職にありつけるほど、優しいセカイではない。ましてや仕事を選ぶのならばなおさらだ。
 
「そう言わずに、の?」

 リーゼロッテは、店主の手に自分の手を重ねて、耳元でおねだりするように囁く。

「そんな事されてもな……酔っ払いだし」
「……ちっ、本当に男かお主は。ホレ、これなら喋りたくなるじゃろ」

 男の興味がなさそうな反応に、リーゼロッテは先程までのしなはどこへやら、不機嫌そうにエキュー金貨を1枚テーブルに放った。

「……あぁ、思いだした。そういやウィースバーデン家の屋敷で使用人を募集してるって噂だな」
「ウィースバーデン家?」
「お隣の領の“元”領主だった貴族さ。ここからだと馬で北東に2,3日ってところか。そこの屋敷に仕えてた使用人が軒並み辞めちまったらしくてね。ただし、それでわかるとおもうが、あまりいい待遇や給料じゃあないぞ。集落からも大分離れているしな」
「貴族でも金がない貴族なのかえ?」
「いや、財産は没収されなかったって話だからな。金はたんまり持ってるはずだが、そういう奴程ケチ臭ぇもんさ」
「ふむ……金持ちの隠居屋敷、か」

 リーゼロッテは、その変化に気付かないくらい僅かに、口角を吊りあげた。

「ま、俺が知ってるのはそれくらいだな。他に知りたきゃ口入屋でも当たってみろよ」
「ほう、この街には奴隷屋もあるのか……ん?奴隷……金持ちの屋敷……?」

 何かを思いついたのか、顎を手でさすりながら考え込むリーゼロッテ。
 
 店主は、“奴隷”という言葉に、声のトーンを若干落として注意する。
 一応、このセカイでも奴隷は違法となっているので、あまり声を大にして連呼することはよろしくない。

「奴隷じゃねえって、奉公人。人聞きが悪いよお嬢さん。まぁ、ウチらには買えるようなもんじゃないけどな」
「そうじゃの……。それにしても奉公人、か。その手があったか……」
「ぁん?どうかしたのか?」
「あ、いや、助かったぞ。とりあえずその屋敷を訪ねてみる事にしよう」
 
 既に心ここに在らず、と言った感じのリーゼロッテは、足早に酒場を後にした。



 彼女は、馬を借りるでもなく、てくてくと徒歩で北東に向かって歩き始める。
 大分飲んでいたはずなのに、その足取りは確かだった。

 しかし、ここからウィースバーデン家の屋敷まで徒歩で行くとなると1週間以上はかかってしまうだろう。備えも無しにその距離を行くのは、“人間”ならば無謀である。

「誰もおらんか……?」

 リーゼロッテは人気がない街の外れまで来ると、辺りをきょろきょろと確認する。

 誰もいない事を確認した彼女は、名馬も青ざめる猛スピードで、北東に向かって駆け始めた。





 それからおよそ1週間後。

 帝政ゲルマニア南西部の皇帝直轄領、アウカム農村地帯の郊外に佇むウィースバーデン元男爵家の屋敷。
 その屋敷は、爵位のない貴族のものとは思えないほど豪奢なものであった。勿論、豪奢といっても、先のヴェルサルテイル宮殿とは比べるべくもないが。

 一日の仕事が終わった夜の食堂では、テーブルに置かれたランプを囲んで、屋敷の使用人達が総出で話し合いをしていた。
 総出、といってもたったの3人しかいないのだが。

「やはり来ませんか、この屋敷に仕えたいという者は……」

 そう言って、使用人達の年長者である老執事ライヒアルトは溜息をつく。
 
 2年前、この屋敷の主であるウィースバーデン男爵は、領内の失策により他領をも混乱させたとして、領主不適格の烙印を押され、領地だけでなく爵位も取り上げられてしまった。
 残ったのはこの本邸であるこの屋敷と、ここに貯め込んでいた財産だけ。

 先代のウィースバーデン男爵の時代からこの家の執事として仕えてきたライヒアルトにとって、ウィースバーデン家の没落は我が事のように堪えた。

 先代の男爵は賢君といわれる程の人格者だったのだが、その一人息子である今代の男爵、いや元男爵は、どこでひねくれてしまったのか、異常なまでに強欲で傲慢な上、猜疑心が非常に強かった。

 その妻と娘すら自分の財産を狙っていると疑い、くびり殺してしまう程に。



 そんな元男爵は爵位と領地の取り上げのショックから、ますます偏屈になり、自室に引き籠るようになってしまった。もはや家の存続は絶望的といっていいだろう。

 当然、強欲な元男爵が使用人達に払う給金など雀の涙であり、そんな彼の人望は紙よりも薄かった。
 それでも領主のうちは、その権限によって使用人達を屋敷に留めていたのだが、それを失くしてしまってからは、30人近くいた屋敷の使用人も、1人、2人と辞めて行き、現在ではたった3人だけとなってしまっていた。
 
 残っているのは、この家に最期まで付き従う覚悟を持っている老執事ライヒアルトと、コブ付きの上にすでに中年を迎えつつあり、新たな職場が見つからなかったメイド長、そしてその娘のカヤだけであった。

「困ったわねぇ。さすがにたった3人じゃ屋敷を維持することもできやしませんよ。今までの評判は仕方ないけど、せめて今からでも給金を上げる事はできません?」
「旦那様が健在ならば進言するところなのですが、今の状態では……」

 メイド長の問いを、ライヒアルトは否定する。
 現在の元男爵は、まともに話をできるような状態ではないのだ。
 今現在も屋敷の財布を握っている元男爵は、人が足りなければ無理矢理にでも連れてこい、と癇癪を起こすばかりだ。

「この際、口入屋で奉公人を買ってしまうというのはどう?いい考えじゃない?」

 カヤが名案だとばかりに、指をパチ、と鳴らして提案する。

「いけません、カヤさん。貴族たる家の者があのようないかがわしい物に関わるなど。」
「えー、いいじゃない!もう男爵家じゃないんだし~」
「カヤ!」

 頬を膨らませるカヤの頭に、メイド長のチョップが振り下ろされた。ライヒアルトはそれを見て苦笑する。

「しかし、これだけ広い屋敷に4人だけとは寂しくなったものですなぁ」

 ライヒアルトは、無駄に広い食堂を見回しながら呟いた。
 
 実際、この屋敷は使用人3人程度で管理できるような広さの屋敷ではない。
 それを示すように、屋敷のあちらこちらが痛んできていた。その痛んだ部分が視界に入るたびに、ライヒアルトの心もチクリと痛む。



「あれぇ?」

 若干重い沈黙が続いていた食堂で、不意に不貞腐れていたカヤが素っ頓狂な声をあげた。

「どうしました?」
「誰か来たみたい」

 そう言われて耳を澄ますと、玄関の方から、こんこん、とノッカーが叩かれる音が聞こえてくる。
 しかし、今は夜、それもかなりの夜更けだ。使用人の希望者にしても、こんな時間に訪れるわけがないだろう。

「おかしいですね、こんな時間に……」

 不審に思ったライヒアルトは、腰につけてあるタクト型の杖を握りしめながら立ち上がった。
 スザンナとカヤは、ライヒアルトの目配せで、自室へと足早に引き上げていく。



「どなたでしょう?」

 玄関まで来たライヒアルトは、扉の外にいるであろう人物に向かって問いかける。

「私、リーゼロッテと申します。この屋敷で使用人を募集していると聞きまして……」
「成程、そうですか。しかし今は夜更けですし、些か非常識ではありませんかな?」

 使用人の希望者と聞いて、一瞬ライヒアルトは心躍ったが、いくらなんでもこの時間に貴族の屋敷を訪れるなど、あまりにも常識が無さ過ぎる。
 そう思って、ライヒアルトは若干きつい調子で問い詰めた。

「……申し訳ありません。馬が途中で逃げてしまってこの時間になってしまったのです。どうか面接だけでもしていただけませんか?」
「私としても、そうして差し上げたいのは山々なのですが、主から夜更けに扉を開けるのは禁じられていまして」

 特にそんな禁止事項はなかったが、単なる門前払いの言い訳である。
 いくら人に困ってるとは言っても、こんな非常識な者を、屋敷の使用人にするわけにはいかないのだ。

「……そう、ですか。でも私、この屋敷が気に入ってしまいましたの」
「は?」

 何を言っているんだ、とライヒアルトは思い、聞き返した。
 まるで屋敷の主のような言い草だ。使用人の希望者だという癖になんというふざけた態度か。

「一番近くの村でも馬で1日はかかる辺境。屋敷の住人はたった4人。人付き合いもなく世間から隔絶している。おまけにお金持ち、なんですってね?」
「な、何を?」

 瞬間。

 玄関の分厚い木扉の隙間を縫うように、蔓のように伸びた草がにゅるにゅると屋敷内に侵入し、意思を持つかのように動いて扉の鍵を開けて見せた。

 リーゼロッテの【生長】、枝操作とも言われる精霊魔法(先住魔法)である。

「お、のれっ!亜人かっ……!」

 ライヒアルトは怒号とともに、後ろに跳んで杖を構えて詠唱を始める。

 バン、と扉が開かれると同時に、スペルを発動した。

「水鞭《ウォーター・ウィップ》!」

 ライヒアルトは水の系統魔法では数少ない攻撃手段の一つ、ドットスペル【水鞭】を侵入者目がけて振り下ろす。



 が。



「ぐ、ふっ」

 鞭を放った時、既にリーゼロッテの右腕はライヒアルトの心臓に刺さっていた。

「遅すぎるぞ?」
「…………」

 リーゼロッテが言葉を投げかけるが、ライヒアルトは既に事切れていた。

「……ふむ、弱い。やはり妾を追ってきたのはメイジの中でも特に厄介な連中だったらしいの……。ま、これでも使い道はあるじゃろ」

 そう呟くと、リーゼロッテはライヒアルトの遺体に向かって手をかざす。

「血よ、躯を流れる血よ、我の意のままに動け……」

 リーゼロッテがそうやって呟くと、ライヒアルトの遺体は紫色の光に包まれる。

 そして。
 
「目覚めはどうじゃ?新たな下僕よ」
「おはようございます、主よ。調子はまずまず、といった所ですかな。私の事は以後はライヒアルトと」

 何事もなかったかのように、むくりと起き上がったライヒアルトが、リーゼロッテに敬礼する。

 【傀儡】。死者に偽りの生命を与えて操る、高位の精霊魔法である。

 一説によると、この力を封じた指輪があるということだが、その力は考えられない程大量の死者を操れる上に、生者すらも操る力があるという。
 個人単位で使える傀儡は、それほど強力なものではなく、操れるのは、身体が朽ちていない死者に限られ、その数もせいぜい10体程度が限界だ。
 
「さて、ライヒアルトとやら、お前は他の使用人を拘束しておけ。妾はこの屋敷の主に会ってくる。ま、一刻後には妾がこの屋敷の主だがな」
「諒解致しました。彼奴の部屋は2階の西奥でございます。では、せいぜいお気を付けて」
「何かカンに触る言い方じゃの……失敗してしもうたか?」

 リーゼロッテはそう言って首を傾げながらも、元男爵の私室へと向かう。
 


 彼女はこの1週間、じっくりと時間をかけて、この屋敷の周りを調査し、近くの村で情報を集めていた。近くといってもかなり離れてはいるのだが。
 その結果、この屋敷を乗っ取ってしまうのが最良という考えに至ったのだった。

 今までも、乗っ取りを敢行したことはあった。あったのだが、長続きしなかった。
 いくら【傀儡】を使って操れるとはいえ、その家の主、もしくは使用人達が何らかのコミュニティに属していた場合、不自然さを嗅ぎつけられて、いずれはばれてしまうのだ。

 その点この屋敷は、世間と隔絶されている上に、金もある。
 まさかリーゼロッテもこれほどまでに乗っ取りに適した場所があるとは思わなかった。



「ほう、そなたがこの屋敷の主か」

 元男爵の私室のドアを乱暴に開けたリーゼロッテは、まるで自分の部屋であるかのように堂々と立ち入りながら、本来の部屋の主に問うた。

「だ、誰だキサマはっ!誰の許可を得てこの部屋に入っているのだッ!」

 元男爵は、額に青筋を浮かべて怒鳴るが、リーゼロッテは全く動じなかった。

「許可なら妾がしたぞ?この屋敷の新たな主がな」
「ふざけおって……ふざけおってぇ!俺を馬鹿にするなぁああ!」

 唾を撒き散らしながら喚く元男爵。もはや、その精神はとうの昔に異常をきたしていた。

「はぁ、くだらん奴じゃの。さっさと終わらせるとするか。ま、この屋敷の主じゃったことに敬意を表してキサマは屍人鬼にしてやろう」

 リーゼロッテはつまらないモノを見る目で、元男爵を見下しながらじりじりと近づく。

 屍人鬼《グール》とは、精霊魔法とは違った、吸血鬼の特殊能力である。

 吸血鬼一人につき一体しか造れないが、能力的には生前と変化がない【傀儡】と違って、身体能力が獣並みに強化された下僕を造ることが出来る。

「死ねっ!死ねえぁっ!」

 呪詛の言葉を振りまく元男爵だが、精神を病んでいる彼は、杖を取るわけでもなく、ただ子供のように手足をジタバタさせているだけだ。その姿は哀れとしかいいようがない。

「黙れ、下郎」
「ぐ、ぇ……」

 リーゼロッテは煩く喚く元男爵の首を、握りつぶすかのようにミチミチと締めながら、その首筋に牙をたてた。
 屍人鬼を作る場合は“吸血”によって殺さなければならないのだ。

 苦い顔で血を吸い上げるリーゼロッテと、目を見開きながら蒼白になっていく元男爵。
 
 抵抗は、できなかった。
 


「うっぷ、まず……吐き気がするわ……。やはり血は処女に限るのう」
「…………」

 好き勝手な評価を吐きながら口を拭う吸血鬼を尻目に、かつて暴君として君臨していた元男爵は静かにその生涯を閉じた。

 彼のデスマスクは驚きと恐怖で醜く歪み、遺体の股からは糞尿が流れ出していた。

 その死には名誉も誇りもまるでなく、それでいて理不尽だった。
 因果応報。それが彼の死には最も似合う言葉かもしれない。





 ともあれ、この時からリーゼロッテはこの屋敷の主として君臨する事になり、屋敷に残された財産を使って、奉公人の娘を買い漁る日々が始まった。
 
 それは、彼女の今までの生の中で、最も安全な生活だった。

 初めは、ただ娘を買ってきては喰うだけであったが、暇を持て余したリーゼロッテは段々とそれにスパイスを加えるようになっていく。
 即ち、娘を食する過程として、脚本をつくり、舞台を演出し、予定した日程通りにそれを遂行していく、というある種のゲームだ。
 喰い終わった娘たちの中で使えそうな者は、リーゼロッテの【傀儡】によって、人手不足の屋敷の使用人として再利用される事になる。

 実に悪趣味ではあるが、享楽的な彼女の性格では、辺境の屋敷における安全な生活は退屈すぎた。
 退屈を持て余した彼女の唯一といってもいい娯楽がこのゲームだったのだ。

 だが、娘たちにとっては、命賭けのゲームであるものの、主催者にとっては所詮はただの遊興である。やはりリーゼロッテは満たされない。
 時が経つにつれ、彼女の口癖は、いつしか「つまらんのう……」になっていった。



 だが、これより3年後、リーゼロッテは退屈な生活を一変させ、その生き方すら変えてしまう不思議な少女に出会う事となる。





2章へ続きますです





[19087] 10話 万里の道も基礎工事から
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2011/07/23 02:09
 登り詰める意志を持ったからと言って、山頂に到達できるとは限らない。
 
 成功した者はすべからく意志を持って努力しているが、その逆は成り立たない。
 努力する者は無数に存在し、その全てが成功するほど世の中というものは優しく出来てはいない。

 意志を持つことは、成功への必要条件ではあるが、十分条件ではないのだ。

 “信じていれば夢はかなう”、“努力は必ず報われる”なんていうのはただの美辞麗句、嘘っぱちだ。
 セカイは、ほんの一握りの勝者と、それを支える大多数の敗者で構成されているのだから。
 
 努力、才覚、人脈、運などといった、様々な形の積み木達を積み上げ、組み上げて、仕上がりきった所でやっと、その頂きに届くかどうかといった所なのだ。

 そして、それを積み上げる際の一番下の部分、つまり土台がしっかりしていなければ、いくら積み木があったとしても、絶対にそこまで積み上げることはできない。

 要するに、何事も基礎が大事、という事だ。






第二章 商店見習アリアの修行  chapter2.Learning





 立志伝中の人物になる事を決意をした少女アリアは、その身に持って生まれた知識と、天性の才覚を駆使して、破竹の勢いでハルケギニアの頂上へとのし上がっていくのであった──



「なんて、ね」

 ごとん、ごとんと揺れる荷馬車の中、私は頭に湧いた下らない妄想を打ち切った。

 あの化物の手前、10年以内に確かな成功を掴んでやる、などと大見栄を切ってしまったが、落ちついて考えてみるとかなり厳しい。いや、すっごく厳しい。

 今の私の状態を喩えれば、生まれたままの姿で険しい雪山に登ろうとしているようなものである。
 このままでは、登頂に成功するどころか、1合目前で力尽きてしまうだろう。

 本来持ちえないはずの、『僕』の知識はいずれ大きな武器となるかもしれないが、それを使う以前の問題として、『私』にはこのセカイでの“土台”がないのだ。

「何を一人でぶつぶつと言うておるのじゃ。気持ち悪い」

 荷台の片隅で行儀悪くダラリと足を伸ばして座る化物、リーゼロッテがじとり、とこちらを横目で睨んだ。

「色々と考えていたら、ついつい口に出ちゃってね。悩みがなさそうな貴女が羨ましいわ」

 私はリーゼロッテの言い草に少しカチンと来たので、ささやかな皮肉を返した。
 対等な関係を約束したのに、こちらだけ頭を悩ませているなどずるいではないか。

「くふふ、そりゃ妾は完璧な存在じゃからの。悩みなど欠点がある者が持つ物よ。……ま、強いて言えば悩みがない事が悩みかのぅ」
「あ、そう……」

 私の毒が通用しないとは。この吸血鬼、やはり中々に強敵のようだ。



 さて、協力関係となった私と吸血鬼は、お世話になったアウカムの村人達に礼を言ってから別れを告げ、街に向かう事になった。
 いつまでも村に置いてもらう訳にもいかないし、薄情なようだが、身を立てる事を決意した以上、田舎に用はないだろう。

 リーゼロッテも二つ返事でその考えに同意した。
 というか、彼女は本来、田舎よりも都会の方が好きな性質らしい。「妾はリュティス育ちじゃからなぁ」とか言って自慢していた。はっ、どうせ私は田舎者ですよ。

 村を出る際、借り物の服をそのまま着て行くわけにはいかないので(というか返してくれと言われたので)、私が身につけている村娘の服は、リーゼロッテの喉を突き刺した銀製のナイフと引き換えにして譲ってもらった。勿論、血は拭き取っておきましたよ?
 ちなみにリーゼロッテの方は村長のおっさんにプレゼントされたという清楚なイメージのする純白のワンピースを着こんでいる。材質はシルク。失礼だが、この田舎の村には場違いな高級品だと思う。
 私と随分待遇が違う……。世の中やっぱり見た目が大事という事か。
 
 畜生、私だって磨きを掛ければ……!そう、本気を出せば!

 ……少々脱線してしまったようだ。話を戻そう。

 アウカムの農村地帯には、大きな街はなく、一番近い街と呼べる規模の街は、あの口入屋のあったフェルクリンゲンであるらしい。
 そんな辺境といってもいいこの辺りでは、乗合馬車の駅もないのだが、私達は運良く、丁度村の近くを通りかかった、フェルクリンゲンに向かう商隊の馬車に乗せてもらう事ができた。

 私が「街まで乗せてくれませんか」とお願いしても、「駄目だ」の一点張りだったのだが、リーゼロッテに交渉役が変わった途端に、頭の薄い商人がとろんとした目をして「どうぞどうぞ」などとぬかし始めた。

 その何とも腹が立つ結果に、リーゼロッテはどや顔で「使えないパートナーじゃのう」などと、私を見下し、くつくつと嘲笑っていた。
 鼻の下を伸ばしたエロ商人の残り少ない毛髪を一本残らず毟ってやりたくなったのは言うまでもない。

 そして今現在は、その商隊の荷馬車に乗り込んだばかり、と言ったところだ。

 幌馬車に乗っていると、オンの農村から口入屋に連れて行かれた時の事を思い出すので、正直あまり気分はよくない。

 しかし徒歩で行くとなれば、1週間はかかってしまう上に、娘2人だけの旅など「どうぞ襲って下さい」というプラカードを下げているようなものだ。
 ま、並みの賊程度ならリーゼロッテは歯牙にもかけないかもしれないが。



「で、街に向かうのは良いとして、これからどうするんじゃ?妾としては取りあえず寝床を確保すべきじゃと思うが」

 リーゼロッテは一通りの自画自賛を終えた後、急に真顔になって、これからの事について切り出してきた。
 こちらから切り出すつもりだったのだが、あちらから話を振ってくるとは話が早くて助かる。

「それについては同感。でもそれには先立つモノがないとね。まず仕事を探すわ。貴女、貴族の真似事なんてやっていたんだから、街の商人とかにコネはあるでしょ?」
「ぬ……妾にそんなものはないぞ?」
「はぁ?屋敷に出入りしていた商人もいたはずじゃ」
「そういう面倒な事はライヒアルトに全て任せていたからのぅ……ま、今となっては消し炭となっているわけじゃが」

 遠い目をして語るリーゼロッテ。
 言外に屋敷を燃やした私を責めているらしい。意外とねちっこいな、この吸血鬼。

 しかし、リーゼロッテがコネを全く持っていないとすると、大幅に予定が狂ってしまう。
 このセカイでまともな仕事にありつくには、コネで就職するのが一番いいのだ。
 
 街の衛兵や魔法学院の使用人のように、一般から大々的に募集するような職もあるけれど、倍率が半端なく高いので、私では確実に不合格だし、成り上がるためにはあまり適している職業であるとは言えない。

「ぅ~ん…………」

 どうしたものか、と頭を抱えて悩む私だが、馬車のゴトゴトという喧しい走行音によって、思考が纏まらない。

 しっかし凄い騒音だな、この馬車。そういえば前にもこんなことがあったような?……あぁ、口入屋に連れて行かれる時の馬車の中か。あれはあれで煩かったな。あの赤毛達は売れたんだろうか?……ん、口入屋?
 
「あっ!」

 唐突に俯いていた顔を上げて叫ぶ私。

「なんじゃ突然。どうかしたかの?」
「思い出したのよ……貴女、ちゃんとコネ持ってるじゃないの」
「む?」
「口入屋よ、貴女が私を買った口入屋。あそこから沢山奉公人を買っていたんでしょう?」
「……確かにそうじゃが、あんな所に今更なんの用があるのじゃ?奴隷にでも戻る気か。それでは身を立てる事など不可能ではないか」

 リーゼロッテは、低く、それでいて響く、殺気の籠った声で私を問い詰める。
 「それは契約違反じゃろう?」とでも言いたげな問いだ。

 どうやらリーゼロッテはあの口入屋にいる娘達(特に星無し)の末路をあまり知らないのか、私がもう一度奉公先を探そうとしていると思ったらしい。

 確かにここで奉公人などに逆戻りしては、生涯身を立てる事などできず、リーゼロッテに終の棲家を提供するという約束も果たせないだろう。
 そしてこの吸血鬼は、私が口だけの利用価値がない娘であると判断すれば、間違いなく、容赦なく、躊躇いなく私を殺す。

 私はその事を再確認させられて、ゴクリと唾を飲みこんだ。
 
 協力関係を結んだ時、私がリーゼロッテに対して切った啖呵は本心であり、あの場を乗り切るために口から出まかせを言った訳ではない。
 しかし、行動でそれを示し、結果を出さなければ、この吸血鬼が満足するわけがないのだ。
 
「安心して。口入屋に行くといっても、商品に戻る気は更々ないから」

 詰問に対する私の答えに、彼女は黙って立ち上がると、ゆらりとこちらに近づいてきた。

 なんだ?まさか、答え方がまずかったのか?それとも誠意が感じられなかったとか?

 ちょ、待てよ!短気過ぎるって……!

「はっ、話せばわかる!」

 私は銃口を向けられたかのように、座ったまま手を突き出して、じりじりと迫るリーゼロッテを遮ろうとする。

 当然そんな事でリーゼロッテが止まる事などなく、彼女の細い腕が、物凄い力で私の両肩を固定する。動けない。



 そして、彼女は汗ばんだ私の首筋を……。



 舐めまわした。



「ひゃあっ?!」
「ふむ、この味は嘘を吐いている味ではないのぅ」

 突然の奇怪な行動に、私は腰を浮かせて悲鳴を上げた。
 リーゼロッテは訳のわからない事をのたまっている。どこかで聞いたことのある台詞だ……。

「な、なにすんのよ」
「妾達にとっては、お主らの汗も大事な糧の一つじゃからの。その味で大体の事はわかるぞ?」

 ドサ、と私の隣に腰を下ろしながら、自身満々にそんな事を言うリーゼロッテ。
 後半の部分の真偽は不明だが、このセカイの吸血鬼は人間の血だけではなく、汗も食糧としているらしい。

 ますます吸血鬼という種族が変態に思えてきたのだが、気のせいだろうか。



「はぁ、脅かさないでよ、全く……」
「くく、意外とビビリじゃの、お主?……しかし奴隷屋に行った所で、どうするつもりじゃ?まさか奴隷屋の使い走りでもする気か?」
「そうね、それもありかも」

 しれっと、そう答えた私に、リーゼロッテは馬鹿にしたような口調で言葉を返す。

「くっく、お主、正気か?自分を売り飛ばしたような所で働くなど」
「ま、できればあそこよりも、もっと大きな商家でも紹介してもらって、商売の勉強をしながら働くっていうのがベストね。人を扱う商売をしているんだから人脈は結構あるでしょ、あの口入屋も」
「ぬ、商売の勉強じゃと?」
「そ。正直なところ、今の私じゃ成り上がるなんて夢のまた夢。だからまず力をつけるの」
「商人になるのかえ?」
「私が成り上がるには、財力をつけるしかないから。大金を稼ぐには職人や労働者じゃ駄目。飽くまで経営者として上に立たなきゃ。そのために必要な修行ってところかな」

 暴力、財力、権力の3つの力のうち、平民(というか賎民?)である私が今から身につけられるものとして、最も現実的なのは財力なのだ。

 そして圧倒的な財力を持つことができれば、他の2つの力も手に入れる事が出来るかもしれない。
 何せこのゲルマニアという国では爵位すら金で買えるという拝金主義が罷り通っているのだから。

 とはいっても、平民から領地持ちの上級貴族にまでなれるのかどうかは知らない。
 国が富裕層から金を巻き上げる為に爵位という名誉を売りつけているだけかもしれないしね。ま、そこまで高望みする必要もないかもしれないが。



 仮にそうだとしても、血統主義で凝り固まっているトリステインよりは、実力主義の気風が色濃いゲルマニアの方が、平民が成り上がるには適しているだろう(ただし実力がなければ、ゲルマニアに居る方が悲惨かもしれないが……)。

 そう考えると、連れてこられた理由は最低だとしても、トリステインの片田舎からゲルマニアの交易都市に来られたのは、幸運だったとも言える。
 ただの農民であったのなら、国境を渡る事は出来なかっただろうしね。

「しかしお主、文字が読めないのではなかったか?商家の小僧のような事をするとなれば、算術も出来なければなるまい。どうする気じゃ?」
「計算については問題ないわ。文字については……貴女、読み書きは出来る?」
「出来るに決まっておろうが。しかし、文字が読めん癖に自信満々に計算が出来るじゃと?クひヒ、やっぱりお主はおかしなやつじゃの」

 口入屋のボスと同じような事を言うリーゼロッテ。くぐもった嗤いと相まって非常に不愉快である。
 いくら美人だといっても、この嗤い声を聞いたら一万と二千年の恋も醒めてしまうだろう。正直キモい。

「その笑い方はやめた方がいいと思うわ……。で、読み書き出来るのなら、私に教えてくれない?」
「ふむ……。教えてやっても良いが、こちらも一つ条件を出そう」
「あら、何かしら」

 表面では余裕ぶっている私だが、とてつもなく厄介な条件だったらどうしよう、などと内心ビクついていた。

「妾がお主に協力する代わりに、お主は妾に血を提供して、終の棲家を与えるという約束じゃったな」
「ええ、そうだけど」
「まあ、条件というより言い忘れなんじゃが。妾の好みは処女の血じゃ」
「はぁ、そう言ってたわね。それで?」
「じゃから、お主が誰かと乳繰り合ったりすると、血の価値はなくなる」

 随分も回りくどい言い方をする。要は男と付き合うな、という事か?

「あ~、はいはい。そう言う事ね。色恋沙汰に興味はないから心配する必要はないよ」
「ほう。じゃが、今は良くても、後々問題になるかもしれんぞ?」
「そうはならないから大丈夫。何なら始祖に誓いましょうか?」

 何が面白いのか、にやにやとした表情のリーゼロッテに、私はそれはないと断言する。

 『僕』の影響なのか、『私』も全く男に興味はないのだ。むしろ“そういう事”に関しては、嫌悪感の方が強い。
 誤解を招きそうなので断っておくが、だからといって女が好きという訳ではない。

「ふむ……どうやら本気で言っているようじゃの……」

 リーゼロッテは可哀想なモノを見る目で私を見つめる。

「何か勘違いしてるみたいだけど……。別に私がモテないから、興味がないなんて言っている訳じゃないから」
「……みなまで言うな。分かっておる」

 ぱん、と私の肩を叩いて励ますように言うリーゼロッテ。
 
 くそ、何かすごいムカツクな……。こんな下らない話はとっとと打ち切らなければ! 

「もうその話はいいわ。それより街についてからの打ち合」
「待った。本題に入る前に“食事”にしよう。腹が減ってはなんとやら、とな」

 リーゼロッテは私の提案を遮って、イイ笑顔をしながら私の腰に手を回す。

「ちょ、こ、心の準備が」
「問答無用、じゃ」

 この後、有無を言わせず美味しく頂かれました。





 商人共の馬車に乗り込んで2日半。

 ようやくフェルクリンゲンに着いた妾達は、休みも取らずに奴隷屋に直行することになった。
 妾は一晩ゆっくりと休んでからが良かったのじゃが、狸娘が譲らんかった。中々に強情な奴よ。


 
 狸娘の大言壮語に乗ってやったのは、何もその約束とやらを信用した訳ではない。
 妾とて、何の力も持たぬ小娘が成り上がれる程、人間の世界は甘くない事は知っておる。
 
 ただ、妾が今まで見てきた人間と比べて、こやつは“面白い”。

 何が面白いかと言えば、餓鬼とは思えぬ胆力や行動力もあるが、何より、その言動の端々に、どこか浮世離れしたというか、まるで遠い世界からやってきたかのような、ちぐはぐな感じを受ける事がある。

 一体こやつは何者か。その化けの皮が剥がれるまでは、玩具にしてやっても良いと思ったまでの事。
 どうせあの屋敷の退屈な生活にも飽きていた事だし。しかし下僕はともかく、金が無くなったのは痛いのう……。

 ま、妾に頼り切りになるようなつまらん玩具なら、さっさと殺して新たなネグラを探すところじゃが、とりあえずは様子見か。

「……っと、ちょっと!」

 おっと、何時の間にやら奴隷屋に着いておったらしい。見慣れた無骨な建物がもう目の前じゃ。

「ぼぅっとしてるけど大丈夫でしょうね。ちゃんと打ち合わせ通りにしてよ?」
 
 狸娘が疑いの目で妾を睨みつける。こやつ、妾に殺されかけた事をもう忘れておるのじゃろうか……。
 
「わかっておる。ま、見ておれ。お主に演技の手本というものを見せてやろう」
「あ、そ」

 しらけた態度で、妾の言を流す狸娘。くっくく……、段々と腹が立ってきたわ。





「私がこっちから入るのは何か場違いな気がするわね」

 正面入り口から奴隷屋へ入ると、狸娘は落ちつかない様子できょろきょろと辺りを見回す。そう言えばこちらは客用の入り口だったか。

「主人を呼べ」
 
 妾は高圧的な態度で、走り寄ってきた若い下男にそう命じた。
 いつもはこんな態度はせんのじゃが……。

「さて、果たしてそう上手くいくかの?」
「いくかの?じゃなくて、いかせるのよ」

 狸娘とそんな事を喋っているうちに、いそいそと奴隷屋の主人が駆け足で参上してきおった。

 うむ、なかなか殊勝な心掛けじゃ。

「これはこれは、リーゼロッテ様ではありませんか。本日はご来店の予定は聞いておりませんでしたが、どうかなさいました、か?……む、その娘は」
「どうも……」

 狸娘が軽く会釈するが、主人はそれを無視して話を続ける。

 妾は偉そうに腕を組みながら、いかにも不機嫌という顔を作り、狸娘も不貞腐れたような表情をして妾の後ろに控える。

「この娘に何か不具合でもありましたでしょうか?」
「ああ、酷過ぎるな。こんな礼儀知らずの娘を売り物にするなど、どうなっているんだ?」

 妾が眉を吊りあげて憤慨してみせると、主人の顔に困惑の色が浮かぶ。
 ま、憤慨しているフリなのじゃが。

 狸娘が書いた脚本によると、まずは妾が店側の不手際によって怒っている事を示して、主人の思考力を鈍らせろ、という事じゃ。
 いきなり働き口を紹介しろ、などというのは不自然すぎるし、怪しまれるから、という事らしい。

「……この度は不愉快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございません。しかし、その娘、いえ星無しの奉公人の教育に関しては、引き取ったお客様方がなさっていただくようにお願いしているのです。それはリーゼロッテ様にも契約の際に同意して頂いているはずなのですが」

 主人は深々と頭を下げながらも、店側に非はないと言い張りおる。ま、確かにそんなことが紙切れに書かれておった気もするな。
 しかし、妾の恫喝に委縮せんとは、さすがに商人の端くれと言ったところか。
 
「確かにそうだが、限度というものがあるのではないか?」
「そうすると契約を解消したい、という事でしょうか?しかし、引き取られてから一月近く経っておりますし……」

 さらに詰め寄るに妾に対して、のらりくらりとかわす主人。
 
 次に、少し態度を軟化させて歩み寄る、と。

「いや、私の方もそれは望んでいない。引き取った以上は責任を持たねばな」
「はぁ……」

 合点がいかぬ、というように間の抜けた顔をする主人。
 
「ただ、さすがに酷過ぎる。礼儀以前に、乱暴がすぎる。屋敷は壊すわ、使用人に怪我はさせるわ。それについて注意しても不貞腐れるばかりで……これではどちらが主かわからん」
「何よ、さっきから黙って聞いていれば好き勝手な事言っちゃってさ。ちょっと金持ちだからっていい気にならないでよね!」

 狸娘が空気を読まず、頭の足りない餓鬼のように大噴火して見せた。
 ま、実際は妾が言った以上の事をしているが。屋敷も使用人も灰にしおったからな……。

 妾は暴れる狸娘をあやしながら、肩を竦めて主人の方に視線だけ向けて問いかける。

「この通りだよ。そちらにも非はあると思わないか?」
「それは……。仰るとおりです。まさかそこまで問題のある娘だとは思っておりませんでした。私共の不徳の致すところです」

 主人は妾の後ろで不貞腐れた表情をしている狸娘を睨みつける。

 さて、あと一息か。

「そう思うのなら、この娘を教育する場を紹介してほしい。うちの屋敷では手に余るのだ。できれば礼儀だけではなく、知恵もつく商家の下働きが良い」
「むぅ……それならば、うちで躾させましょうか?」
「いや、どうしようもない娘だが、この娘はすでに我が家の一員だからな……。ここの奉公人候補としてではなく、普通の下働きとして使ってくれないか」
「しかし商家の下働きとなれば、それなりの知識が要ります。その娘は確か文字すら読めなかったのでは……」
「何?この娘は乱暴者だが、文字も読めるし算術もできるぞ?主人の確認が間違っていたのではないか?本当にきちんと審査しているのか?」

 狸娘によると、ここの審査は適当もいい所で、書面と齟齬があっても何らおかしくはないらしい。
 文字が読めんとなると、それを理由に断られる可能性が高いからの。

 狸娘によると、“嘘も方便”という言葉があるらしい。良い言葉を知っておる。

 ま、言葉は喋れるのじゃし、働くまでにある程度覚えさせれば問題なかろう。

「そ、そんな馬鹿な」
「……私もこの店とは長いからね。快く引き受けてくれればこの事は水に流そうじゃないか」

 主人がうろたえだした所で一気に畳みかける。

 妾がこの店に落とした金はこの3年で3000エキューを下らない。
 そんな妾が、このタイミングで将来的な損得をチラつかせれば……。

「…………わかりました。それならば、うちよりも私の従兄弟がやっている商店の方がいいでしょう。うちで働いているのは男しかおりませんからな。紹介状を書いて来ますので、少々お待ちいただけますか」
「そうか、引き受けてくれるか!いや、流石。私が見込んだ店の主人だけはあるな。話がわかる」
「いえいえ、こちらの不手際でご迷惑をおかけしてしまいました。この程度なんでもありませんよ」

 主人は何度もこちらに頭を下げながら、奥に引っ込んでいった。
 事務室で紹介状とやらを書いてくるのであろう。





 どうやら狸娘の書いた脚本は上手くいったようじゃ。

 ……妾の脚本は狸娘に台無しにされたのに、狸娘の脚本が成功するとは何か癪じゃが。
 やはりただの餓鬼ではない、という事か?

 そんな事を考えて、ふと後ろに目をやると、狸娘は無邪気な笑みを浮かべてこちらを見上げていた。

「さすが、自分で女優というだけはあるわね。よくやってくれたわ。でも、従兄弟の商店といっていたけれど、どこにあるのかしら?案外ウィンドボナの大商会とかだったりして!」

 うーむ、目を輝かせてはしゃぐ姿は丸っきりただの子供にしか見えぬが……。

「ま、あと10年もあるのじゃ。ゆっくりと見定めるとするか」

 口の中でそんな事を呟きながら、妾は落ちつかない“アリア”を眺めた。





続く!






[19087] 11話 牛は嘶き、馬は吼え
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/10/02 17:32
 商家への紹介状を受け取った私達は、リーゼロッテが持っていたなけなしの金を叩いて、北部行きの駅馬車に乗り込んだ。
 あまりこの吸血鬼に借りは作りたくなかったのだが、文無しの現状では甘んじるしかあるまい。

 駅馬車とは、客から運賃を取って、街から街へと運ぶ乗合馬車、つまりバスのようなものだ。

 ヨーロッパにおいて、公共交通機関の走りとして乗合馬車が走り始めたのは17世紀のフランスでの事。
 それまでは、管理費のかさむ馬車は裕福な上流階級の人間しか利用できなかったという。

 大きな街では下水道も発達しているというし、インフラの面ではルネサンス期のヨーロッパよりも、ハルケギニアの方が大分進んでいるのではないだろうか。

 ま、農村に居た頃は、そんな風には全く思っていなかったが。
 都市と辺境ではかなりの格差があるのだろう。

 この駅馬車は、通常の馬車よりも速く、1日に150リーグ近い距離を走破する。

 それでもフェルクリンゲンから目的地までは、道が曲がりくねっている事もあり、4日の時間を要した。



 その間、私はリーゼロッテから読み書きを教わっていたのだが、複雑怪奇なガリア文字を覚えるだけで精一杯だった。
 もうほとんど暗号にしかみえない……。

 結局、私が4日使って覚えられた単語は、数と挨拶程度の単語だけ。文章を読み書きするどころではなかった。
 あまりの覚えの悪さに、リーゼロッテには阿呆を見る目で「頭悪いのう」などと蔑まれるし。

 あぁ、思いだしたら悲しくなってきた。

 どうしても文字に抵抗感があるんだよね。まぁ、平仮名、片仮名、漢字を併用している日本語よりは簡単なのかもしれないけど。

 ただ、口語自体は話せるので、文字と単語の綴りさえ覚えてしまえば、そこからは苦労することはないだろう。いや、多分。




 
 さて、そんなこんなで、私達が現在やって来ているのはツェルプストー辺境伯領ケルンの街。
 ゲルマニア西部において、最大の規模を誇る商業都市である。

 この街に、ボスの従兄弟が経営するという“カシミール商店”は存在する。
 ウィンドボナではなかったが、これだけの都市にある商店だ。かなり期待しても良いかもしれない。



 ここで私が疑問に感じたのは、広いゲルマニア国内でも有数の規模を誇る大都市であるのに自治都市ではない事。

 その政治形態や、文明の進み具合からして、大都市においては商工業者を中心とした平民達が封建領主から脱却し、王や皇帝の庇護下で、自治都市を形成しているのではないか、と思ったのだが……。

 ちなみに、神聖ローマ帝国の皇帝などは、都市の自治権を庇護する代わりに徴収される商業税によって、収入の8割を賄っていたといわれている。
 それだけ都市部の収入はオイシイのだ。ゲルマニアも皇帝の権力を増したいのなら、これを逃す手はない気がするんだけどなあ。

 自治都市が繁栄していない理由は、やはり“系統魔法”が一因にあると思う。

 単なる暴力装置でなく、ハルケギニア社会の形成自体に寄与している系統魔法の存在によって(実際に見た事は未だに無いけれど)、それが使えない平民の発言力が、昔のヨーロッパに比べて圧倒的に低い事が一つの要因になっているのかもしれない。

 自治都市とは元々、都市の支配に不満を持った平民達が経済力と武力を持って、封建領主に対抗して生まれたものであるのだから。
 
 故に、ハルケギニアにおいて、その街が繁栄しているかどうかは、その領主の器量によってかなり左右されると思われる。
 ここまで発展した都市であるケルンを領地に内包していると言う事は、ツェルプストー辺境伯の経営手腕が優秀である事を示しているのではないだろうか。



 その人、つまり今代のツェルプストー家当主であるクリスティアン・アウグストは、このケルンではなく、もっとトリステイン国境寄りのアーヘンという地域に城のような邸宅を構えているらしい。
 有事の際は、国境近くで外敵を撃退して都市部への被害を防ぐという狙いなのだろう。中々に頼もしい。

 この人物が、“原作”の主要人物の一人、キュルケ嬢の血縁者なのかどうかは断言できない。
 もしかすると、ここは“原作”に似て非なるハルケギニアなのかもしれないし、“原作”と同じハルケギニアであったとしても、年代的に全くずれているかもしれないからだ。

 一度だけ見たことのある物語の登場人物であるモット伯爵も、実は別人なのかもしれないし、子孫や祖先なのかもしれない。
 しかし私が見たモット伯は引き締まった30代前半くらいの美丈夫だったのだが、物語の中に出て来るモット伯ってそんな容姿だったっけ?

 何か違うような……。



「しっかし、虚無の曜日でもないのに、昼間から凄い人混みね」

 私はケルンのメインストリートに溢れる人々を眺めて感想を漏らした。

 人、人、人。

 この辺り一帯の商業の中心地だけあって、狭い道は商人風の男達でごった返していた。

 ハルケギニアでこれほどの人の群れを見たのは初めてだ。まるでお祭りでもやっているかのような喧騒である。

 肉の焼ける香ばしい匂いや、蜂蜜や果物の甘い香りが、空き腹の私の鼻腔を刺激する。

 その匂いの源となっている道の両脇に所せましと立ち並んだ露店には、様々な食料品を始めとして、細工品、毛皮、毛織物などの衣類、果ては怪しげな秘薬のようなものまで、様々な品が並べられている。

 ここまで多くの露店が出ているなんて、いくら都市でも、平時ではあり得ないのではないだろうか。

「この程度で、人が、多いなどと、リュティスに比べれば、全然っ」

 人の波に流されながら、苦しそうにほざくリーゼロッテ。
 いや、全然説得力ないから。

「ま、それは置いておいて、カシミール商店を探しましょう“ロッテ姉様”」
「やはり気持ち悪いのぅ、それ」

 リーゼロッテの苦情は無視して、紹介状と一緒に渡された地図を見ながら、カシミール商店を目指して歩き出す。



 ケルンに着く前に、私とリーゼロッテの関係は姉妹という事で通すように決めたのだ。
 見た目は全然、これっぽっちも似ていないので、腹違いの姉妹。そういう設定だ。

 その際、リーゼロッテの呼び名は“ロッテ姉様”もしくは“ロッテ”。
 私の呼び名は名前自体が短いので、普通に“アリア”だ。
 
 姉妹なのだから、愛称で呼ぶのが妥当だろう……。



 何故、そんな設定をしたのかというと、誰かに関係を聞かれた時に、姉妹と言っておくのが最も角が立たないから。
 まさか吸血鬼とその食糧でござい、なんて言う訳にはいかない。

 それに、口入屋のボスから聞いた話によると、商店の下働きといっても、住み込みではなく、間借りしなければならないらしい。

 都市によっては低所得者向けの集合住宅がある街もあるらしいが、ケルンにはそれはない。
 なので、複数の商店が共同で出資している寮に住み込みではなく、“間借り”しなければならない。家賃は給料から差っ引かれるとのことだ。
 これは通いの従業員への配慮と言う事だが、要は「従業員だからってタダで住ませる場所ねぇから!」って感じかな。

 その際、一応家賃を納める形となるのだし、家族という事ならば、その間借りした部屋に住めるのではないかという浅い考えだ。
 今後もロッテから読み書きを教わらなければならないし、下手に離れて住んで、この吸血鬼が血に飢えでもしたら、街中に犠牲が出てしまいかねないので、できるだけ一緒にいた方がいいだろう。



「はぁ、参ったわ。人多すぎ、街広すぎ、道複雑すぎ……」

 地図上ではそう距離はないはずなのだが、多すぎる人と複雑な街並みによって、なかなか目的地まで辿りつけない。
 もし辺境伯に会う機会があれば、是非とも街の区画整理を提案したい。道が複雑なのも有事の際の備えなのかもしれないが。

「のぅ、少し休まんか?……丁度、そこの店にベリーのタルトがあるようじゃし。甘い物好きなんじゃろ?」

 疲れた顔のロッテは道端の露店を指さす。その露店には、簡易な造りのカウンターと椅子があり、そこで休む事ができるようだ。

「いや、それは私じゃなくて貴女が食べたいんじゃ……って。そういえば、貴女って食べ物の味分かるわけ?」

 声をひそめて疑問を口に出す。ロッテもその問いに対して、囁くような声で返答する。

「わかるに決まっておろう、そのくらい。中には血や汗しか食べられんようなヤツもおるようじゃが……。それではとても街や村では暮らせんじゃろ。人間社会におるのに、食を摂らない者など目立ってしょうがないからの」
「あれ?それなら血とか吸わなくてもよくない?」
「それとこれとは全く話は別じゃ。妾は確かに人間の食物もいけるが、それだけでは腹は満たされん。酒にもあまり酔わんしな。酔った気分にはなれるが」
「ふーん。良く分からないけど、消化器官が人間とは別物なのかしら……。でもお金あるの?」
「金貨はもうないが、銀貨ならまだ沢山あるぞ?」

 ロッテは腰元に下げた袋をじゃらじゃらと鳴らす。
 まあ、それなら大丈夫だろう。お言葉に甘えて、目的地に着く前に腹ごしらえでもしておくか。



「はいよ、ベリータルト2人前ね」
「おぉ、来た、来た」

 舌舐めずりしながら、待ってましたとばかりに皿にがっつくロッテ。
 そんなにコレが食べたかったのか。確かに美味そうではあるけども。

 それにしても、随分と人間臭い吸血鬼だ。ロッテが変わり者なのか、それとも吸血鬼っていうのはみんなこんな感じなのだろうか。

 私はタルトを貪るロッテを横目に、露店を切り盛りしているオバちゃんに話しかける。

「この街っていつもこんなに賑やかなんですか?」
「おや、アンタ達も余所から来たのかい。いや、今は特別さ」
「特別?」
「ああ。つい最近に領主のツェルプストー家に第一子が生まれたばかりだからね」
「へぇ、そうなんですか。でもそれって人が多い事と関係あるんですか?」
「ツェルプストー家はここらの商人の元締めみたいな存在でもあるからね。祝いの挨拶がてら商売しに来てる連中が多いのさ」

 そういえば、ツェルプストー家というのは、商会もやっていたんだっけ。

 なるほど、それで各地の商人達が祝辞を述べにやってきているという訳か。まあ商売の方がメインなんだろうけど。
 しかし全員がそうではないとしても、この人数は凄い。よほど影響力のある商会なのかな。

 しかし、第一子ねえ……。もしかするともしかして。

「その第一子って女の子ですか?」
「ああ、そうだけど」
「その子の名前は……“キュルケ”だったり?」
「確かそんな名前だったかねえ、って。様をつけなさい、様を」

 眉間に皺を寄せて、小声で注意するオバちゃんだが、私の耳にはその声は届いていなかった。



 これは。



 思わぬ収穫だ。



 ツェルプストー家の第一子であるキュルケ嬢が、“あの”キュルケであれば……。
 今は“原作”の物語よりも前の時代と言う事になる。
 
 年数でいえば、え、と。魔法学院が確か、日本の高等学校くらいの年齢からだったはずだから、15年以上は前と言う事か。
 “原作”のキュルケの年齢っていくつだったっけ……。段々と“原作”についての知識が薄れているなぁ。

 とはいっても。

 将来、物語が“原作”通り始まったとしても、私が何をしようと、それに関わる事はないだろうからあまり気にしなくてもいいかもしれない。
 もしかすると、物語自体が始まらない可能性もあるわけだし。

 一応物語全体の流れだけは忘れないようにしておくか。いつか何かの役に立つかもしれないしね。

「……え」

 私がそんな事を考えているうちに消えていた。

 私の皿にあった美味そうなタルトが……。
 犯人と思しき、隣の席に座る吸血鬼は素知らぬ顔で欠伸をしていた。

「アンタ、ねえ……」
「ん?“姉様”に向かってそんな口の聞き方はいかんぞ?」

 “姉”の余りの意地汚さに呆れた顔で注意しようとする私だったが、その“姉”は私が言葉を出す前に、自分の人指し指を私の唇において黙らせる。

「結局自分が食べたかっただけなのね……。ま、貴女の金だし、私が文句を言う筋合いもないけれど……」
「くふ、そういう事じゃ」

 悪びれもせず、口の周りにべっとりとついた蜂蜜を、舌で器用に舐め取るロッテ。

「……食べ終わったなら行くわよ」

 結局少しも腹を満たせなかった私は、苛立ちながら席を立った。





 あの人混みで一杯のメインストリートに戻るのは嫌だったので、地元民だという露店のオバちゃんから教えてもらった別ルートを通ってカシミール商会へと向かう私達。
 
 メインストリートから少し裏に入った所にある道は、道幅は狭いものの、驚くほどに空いていた。
 
「さすがに地元の人ね。これならそう時間はかからないかも」
「もう少し食べたかったのう……」

 名残惜しそうに、露店のあった方向を振り返るロッテ。

「そんな余裕ないでしょ、全く……。一皿6スゥもするのよ、あれ」
「ケチくさいのぅ。若いころから銭勘定ばかりしておってはロクな大人になれんぞ?」
「商人になろうって言う若人に言う台詞じゃない事は確かね」

 てくてくと歩きながらそんなことを話す偽姉妹。
 
 しばらくして、姉の方が思い出したように切り出す。

「そういえば、お主が仕事に出ている間、妾は寝ていればいいのか?」
「いや、少しは働く意志を持とうよ。自分の喰い扶持くらいはなんとか稼いでくれないと」

 惚けた顔でニート宣言をするロッテ。私は即座に突っ込みを入れた。
 どうやらあの屋敷の生活で怠惰な思考が身についているらしい。

「でも妾は血だけあれば大丈夫じゃぞ」
「あんたは血と寝床だけあれば生きられるんか……それならそれでもいいけども。さっきみたいな散財はできなくなるわよ」
「む……確かにあれは捨てがたいのぅ……。それに街に住む以上は、舞台も見たいし、服も買いたい」
「ならそれは自分で何とかして。そこまでの余裕はないと思うから」
「やっぱケチ……」
「いや、ケチとかそういう問題じゃなくてね」

 おそらく、大きな商店であったとしても、初任給はそれほど期待できまい。下働きなので当然だ。
 勿論、無駄遣いするような金はあるわけがない。そんな金があったら貯蓄に回す。

「甲斐性のない旦那じゃのう」

 悪戯っぽく肩を竦めて言うロッテ。

 誰が旦那か。

「経済観念のない嫁はお断りよ。……ま、貴女の仕事については寝床が決まってからじっくり話合いましょう」
「はぁ、面ど…………。ぬ、あれがその商店ではないのか?」
 
 急に言葉を切ったロッテは、前方に見えてきた一際大きな石造りの建物を指さす。



 その堅固な造りをした建物の1階部分は馬車ごと入れるようになっており、大きな倉庫になっているようだ。
 しかも周りの建物が大体2階建なのに対して、一際目立つ3階建である。
 そして、小売するための店舗部分になっているはずの場所は見当たらない。

 これでは商店というより、商館《フォンダコ》と言った方がよい。
 しかし、確かに地図が示す位置と一致しているように見える。

 まさか本当に大商会だったのか?



 とりあえず、私は事の真偽を確かめるために、商館の門前で箒を掛けている坊主頭と言ってもいいくらいに、髪を短く刈り込んだ少年に声を掛けた。
 おそらく彼はこの商館の下働きの一人なのであろう。

「あの、すいません。ここがカシミール商店でしょうか?」
「あ?確かにここはカシミール商店だけど……。ここはお前みてーな餓鬼がくるとこじゃねーぞ?ほれ、どいたどいた」

 坊主頭は、私にかまっている暇はないとばかりに、しっしっと手を振る。人を餓鬼呼ばわりする割には、こいつも見た感じ10代前半だろうに。

 しかし、どうやら本当にここがカシミール商店らしい。
 あの口入屋のボスから辿ったツテとしては最上級ではないだろうか。



 あの屋敷の事件以来、私はツイているのかもしれない。そう、私は今ノッている!ついに私の時代が来たのだ──



 私が自分の世界に片足を突っ込みかけた時。

「キサマも餓鬼じゃろうが……。それより妾達はここの主人に用があるのじゃ。さっさと呼んでまいれ」

 ロッテが坊主頭に高圧的な態度で指示を出した。
 おいおい、まんま“お客様”の態度じゃないかそれじゃ……。

「え……、どこかのご令嬢でしたか……?す、すいません!今すぐ呼んできますので少しお待ちをっ!」

 ロッテを見て即座に坊主頭は態度を変え、慌てて回れ右をして、全速力で建物の中に消えて行った。

 ふぅ、やれやれ。どいつもこいつも……。
 
「お主、妾がおらんとどうしようもないのぅ?」

 ロッテは意地悪そうに、そんな言葉を投げかけてくる。……いまに見てなさいよ。





 程なくして、先程の坊主頭が、ずんぐりむっくりな中年男を連れて戻ってきた。
 おそらく彼が、この商店の代表であるカシミール氏であろう。

 彼は人好きがしそうな笑みを浮かべながら、こちらに向かって会釈する。

「どうもお待たせして申し訳ありません。それで、本日はどのようなご用件でしたか?」
「はい、私を従業員として雇って頂きたいのです。それで、フェルクリンゲンの商店からの紹介状を持って来まし、た?」

 私がそこまで言うと、カシミールの笑みは見る見る内に消え、眉間にしわをよせて、物酷く険しそうな顔になった。

「フェルクリンゲンの商店ってのは、奴隷屋をやッてる奴の事か?」

 客ではないとわかった途端に、急に態度も口調も変わるカシミール。
 こっちが素の顔か……。これは厳しそうだ。

「あっ、はい、そうです」
「ちィ、あの野郎。まぁた面倒臭ェ事を押し付けやがって…………」

 カシミールは頭痛がするように手で額を押さえて、ぶつぶつと独りごちる。
 ええぇ、何コレ?最初からあまり歓迎されていない雰囲気が……。

「あの……?」
「あぁ、悪ィが仕事なら他を当たってくれねェか?ウチも子供を雇っている暇はねェからな」

 カシミールは不愉快そうに吐き捨てると、そのまま建物の中に戻ろうとする。



 え、何を言って……。

 話が違うじゃないか。



 私は慌ててカシミールを引きとめようとする。

「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「客でもねェ奴にかまってる暇はなくてな」

 にべもない。

 だが、「はい、そうですか」などと引き下がるわけにはいかない。
 ここで職に就けないような事になれば、破滅の道が待っているのだから。

「これ、待たんか。妾達とて遊びで来ているわけではないのじゃ」

 そこでロッテが助け舟を出す。私が就職できなければ、彼女にも打撃になってしまうのだ。

「なんだ?あんたは」
「その娘の姉じゃ」
「あんたも雇ってくれ、なんて言うんじゃねェだろうな?」
「いや、働くのは妹だけじゃ。しかし、妾達はお主の従兄弟の紹介状で、わざわざフェルクリンゲンからここまでやって来たのじゃぞ?それを無碍にするなどおかしいであろう」
「……ふん、そうかい。だが関係ねェ人間は黙っていて貰おうか。ここで働きたいってのはこの娘だけだろうが」
「ぬ……」

 カシミールは、そう言い切ってロッテを黙らせると、不意に私に向き直る。
 この人はロッテの色香や、高圧的な雰囲気にも動じない器量を持っているようだ。

「お前、生まれは?それに今いくつだ?」
「え、と。トリステインの農村の出身です。年は数えで10になります」

 その答えを聞いてカシミールは、はぁと嘆息を漏らす。

「俺だって意地悪でこんな事をいっているんじゃあない。……いいか、商家の下働きってのは商人の家系の、それも男がやるもんだ」
「でも!私は女だからといって甘い考えは持っていません!」

 必死にアピールする私だが、カシミールは更に続ける。

「それに年だって低すぎる。普通は6歳くらいから読み書き算術を習って、早い奴でも12歳から、普通は14歳くらいからってのが相場だ。そういう下地がない農民のお前じゃ話にならねェんだ。それに10歳の娘じゃ体力だってもたねェよ」
「農民の体力を舐めないでもらいたいですね。それに算術には自信がありますが」

 カシミールの言に、私は薄い胸を突き出して、強気に反論する。
 読み書きの事については敢えて口にしなかった。マイナス要素になる情報をわざわざ言う必要はない。

「……それじゃ、試してみるか?」

 カシミールは、腕を組みながら、口の端をニヤリと吊り上げたサディスティックな笑みを浮かべる。

「試す、とは?」
「要は試験ってやつだ。それに合格すれば下働きとして雇う事を考えてやってもいい」

 “考えてやってもいい”か……。
 くそ……。完全に足元を見られてるな……。



 しかし、引けない。やるしかない。



「わかりました。その試験を受けます」
「ほぅ……」

 考えるまでもなく即答した私に、カシミールは細い目をさらに細めて感嘆の声を漏らした。

「おい、いいのか?こやつ、試験などと言っているが、雇う気などさらさらないのかもしれんぞ……」

 リーゼロッテが不安そうな顔で私に耳打ちした。

「いいのよ。どうせ他にアテはないんだから。それにここで引いたら女がすたるってね」
「はっはは、威勢だけは中々のもんだ。……だが、今は仕事中だからな。その気があるなら夜にもう一回出直してこい」

 そう言い残すと、カシミールはくるりと踵を返し、こちらを一度も振り返ることなく、巨象のような建物の中へと戻っていった。



 まるで私の行く手を阻むかのように見下ろすその建物を、私は負けじと睨みつけたのだった。





続きます






[19087] 12話 チビとテストと商売人
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/10/02 17:33
 私とロッテは、夜になるまでの時間を潰すため、ベリータルトを売っていた露店に戻っていた。

 前回と違って、私達の前にあるのは一杯8ドニエの安紅茶だけであったが。
 流石に一皿6スゥもするベリータルトなど食べていられる身分ではない。



「まったく、あやつは何様のつもりなんじゃ!あぁ、思いだすだけで腹が立つ!」

 ロッテはそうやって悪態をつくと、手に持ったティーカップを乱暴にテーブルへと叩きつけた。
 先程からこれで何度目だろう。数えておけば良かったかな。

 ロッテはカシミールの態度がよほど気に喰わなかったらしく、あれからずっと腹を立てているようだ。

「ちょっとあんた!ソレ割ったら弁償してもらうからね」
「う、すまん……」

 露店の主人であり、放っておけば割られてしまいそうなカップの持ち主でもあるオバちゃんは、声を荒げてロッテを注意する。

「大体、お主も悪い!なぜもっと怒らんのじゃ!さっきからだんまりを決めおって。妾だけ怒っていたら馬鹿みたいではないか」

 ロッテは収まりきらない怒りの矛先を私に向けたようだ。

 はぁ、やれやれ……。

 私だって怒りを感じていないわけではないんだけどね。わざわざフェルクリンゲンから紹介状を貰ってやってきたのに門前払いされそうになったし……。
 ただ、私とロッテでは怒り方が違うのだ。私は苛々すると無口になるタイプなのである。

「しかし、なんだってそんなに荒れているんだい」
「む、聞いてくれるか?実はのぅ……」

 ロッテはよくぞ聞いてくれましたとばかりに、オバちゃんに事のあらましを大まかに説明した。
 幾分、脚色はしてあったが。「妾を無視するなんて、不能に違いない」とか……。



「なるほどねぇ。でも試験をしてくれるってだけでも、カシミールさんはかなり譲歩したんじゃないかと思うけどね」
「どこが譲歩しとるんじゃ!」「どこらへんが譲歩してるんですか?」

 カブった。

 普通なら身内からの紹介状があれば、それだけで採用決定のはずなのだ。
 むしろこちらが譲歩しているではないか。

「確かに商人ってものは、平民の中では一番夢が見られる職業かもしれない。でもその数は少ない。何故だか分かるかい?」

 私は唐突に振られたその問いに答えられなかった。ロッテも首を傾げている。

 そういえば、農民から商人になったなんてあまり聞いたことがない……。
 血気盛んな若者であれば、出世を夢見て農村を飛び出す事だって多いだろうに。
 
「分からないようだね。答えは簡単さ。一人前の商人を育てるには金がかかるからだよ」
「どういう事ですか?」
「商人っていうのは、一部では貴族様並みに教育熱心なんだよ。子供には無理をしてでも私塾に何年も通わせて、それを学び終えた時に初めて見習いとして使われるのさ。だからその教育ができていない人間は商人にはなれないんだよ」
「でも、それは働きながらでも……」
「見習いといっても、一人の商人。確かに下働きで学ぶことは多いよ?でも最低限の事ができていないのに、働かせてもらおうなんて甘すぎるんじゃないのかい?」
「う……」

 あまりの正論に言葉に詰まる。

 今の私の状況は、喩えるなら大卒以上を要求している求人に中学生が応募しているようなものなのかもしれない。

「確かに、普通なら門前払いされて当然なのかもしれないわね……」

 私はそう言って、はぁ、と溜息をついて項垂れる。
 怒りで上がっていた熱は冷め、私の気分は一気に氷点下まで下降してしまった。



「たわけ、落ち込んでいる場合か」
「いだっ」

 ロッテはお葬式のように沈んでいた私の頭をポカリと拳骨で叩く。

「何すんのよ!」
「商人共の事情はどうあれ、お主が成り上がるには商人になるしかないんじゃろう?」

 ロッテはやや厳しい口調で私に問う。
 
「……そうね。落ち込んでいる場合じゃなかったわね。今は試験の事に集中しなきゃ」
「わかれば良いのじゃ」

 少し気恥ずかしそうにそっぽを向いていうロッテ。他人を励ますのにはなれていないらしい。

「あんた達、何やら訳ありみたいだねぇ。そろそろ店じまいだし、私で良ければ相談に乗るよ?ま、あたしはただの売り子だし、ウチはカシミールさんの所みたいな大きな商店じゃないけどさ」

 私達の会話を聞いていたオバちゃんは心配顔でそんな提案をする。
 建前かもしれないけれど、かなり、いや凄くイイ人かも。

「心配してくれてありがとう。でも大丈夫です。試験なんて軽くパスしてみせますよ」

 私は右腕に力こぶをつくってオバちゃんの提案を辞退した。

「くふふ、言い切りおったな?これは落ちた時が見物じゃなぁ」

 ロッテは意地悪くそんな事を言う。全く、受験生に「落ちる、滑る」は禁句だっての。

「相談に乗ってもらえるなら、私よりも姉の仕事を紹介してもらえると助かります。手がかかる姉なので」
「何じゃと?」

 私がそう言ってやり返すと、ロッテは心外だ、というように頬を膨らませる。

「ははは、そうかい。まぁ、農民から商人になった人間がいない訳じゃないさ。あんたに才覚があれば、カシミールさんだって認めてくれるはずだ」
「ありがとう。では私はそろそろ行きますね」

 辺りはもうすっかり暗くなり、道端の露店もすでに後片付けに入っている店が多くなってきている。

 カシミール商店も店じまいの時間だろう。

「おい、妾はどうすれば……」

 席から立ち上がろうとした私に、ロッテは不安げな顔でそう尋ねる。

「私の方は、どれくらい時間が掛かるのか分からないし、明日までは別行動ね」
「ふむ、そうか。では折角だし、街の見物でもしようかの」

 ロッテは遊ぶ気満々らしい。いや、仕事を探してくれ、ほんとに。

「姉さんの方は私に任しときな。何、これだけ器量良しなら仕事はすぐに見つかるさ」

 オバちゃんはそう言って、早速遊びに出ようとしたロッテの肩をがっちりと抑える。
 いや、ほんと助かります。

「それでは姉の事はおまかせしますね」
 
 嫌じゃ嫌じゃと喚くロッテを無視してオバちゃんに礼を言うと、私は一路、試験会場へ向かうのだった。
 




 商店に着くと、丁度カシミールが自ら正門を閉めている所だった。

「こんばんは。試験を受けさせてもらいに来ました。もう店じまいですよね?」
「来たのか……」

 カシミールは面倒臭そうな顔をして言う。
 やはりあまり歓迎はされていないようだ。

「ま、とりあえず入れや」

 私はその言葉に従って、正面から商店の中へと足を踏み入れた。



「おぉ……」

 壮観。

 思わず私は立ち止まって辺りを見回す。

 入ってすぐの1階の倉庫には、毛皮、リネン、家具、家庭用品、穀物袋、塩、食料品、羊毛、中身が分からない壺や瓶、謎の石ころなどが、大量に、だが整然と並べられていた。

 入荷したばかりなのか、毛皮だけは整頓されておらず、乱雑な山積みになっていたが。

 その外観から予想はできたものの、これだけ大量の商品を扱っているとは……。
 商品の種類も実に多種多様だ。それに比例して人脈も広いに違いない。

 やはりこの商店で働きたい、いや働かなければならない。ここでの経験は絶対に私の糧となるだろう。

「ほれ、物珍しいのはわかるが、さっさとしな」

 立ち止まっていた私を、軽く小突いたカシミールは、正面にある石の階段を昇っていく。試験は上の階で行うらしい。



「おい、チビっ娘。俺はお前の名前も聞いていないんだが」

 コツコツと階段を昇っている途中、カシミールが思いだしたようにそう切り出した。
 そういえば、マトモに自己紹介すらしていなかった……。

「すいません、申し遅れました。アリアと言います。よろしくお願いします」
「ふむ……。しかし女のくせに商人に成りたいなんざ、変わったヤツだな」

 女のくせに、ときたか。

 ま、男は外で仕事、女は家で家事というのが一般的な考えなので仕方ないのかもしれないが。
 
 魔法によって男と女の力関係がほぼ対等な貴族ならともかく(それでも家を継ぐのは男)、魔法の使えない平民の場合、性によって体力の差がはっきりしているため、どうしてもそのような考えになってしまうのだ。
 このセカイには男女雇用機会均等法も育児休暇もないし。

 しかし、そういう風に言われるのはあまり気分のいいものではない。

 身綺麗にして花嫁修業をしていれば良いお嬢様達と違って、私は泥水を啜っても自分で身を立てるしかないのだから。

「商人として大成するのに重要なのは己の才覚と志では?そこに男も女もない、と思いますが」
「ほぅ、チビっ娘のくせに大した見栄を張るじゃねエか。だが、商人は男の世界だ。女と言うだけで相当なハンデになるぜ?舐められる、つまはじきにされる、何か失敗すれば、“やっぱり女だから”と馬鹿にされるってなもんだ」
「その程度の事は覚悟の上です。私は(生命の危機的な意味で)命懸けなんですから」

 その答えを聞いて、カシミールはふん、と鼻を鳴らす。

「ま、最初の問題は正解ってところか」
「へ?」
「今の受け答えだ。落ちついたいい反論じゃねェか。弱気になったり、冷静さを欠いたりしやがったら、そこでつまみ出す気だったんだがな」
「も、もう試験って始まってたんですか?」

 カシミールはその問いには答えず、ただくつくつと笑うだけだった。
 遊ばれてるんじゃないでしょうね……。





 さて、カシミールの後についてやって来たのは、3階の一番奥にある部屋。

 西側にドア、東側に大きめの窓が一つ、それを覆うのは白い無地のカーテン。
 家具の材質はほとんどがウォールナット材で統一されており、赤黒い木肌が高級感を漂わせている。

 ただ、どれもかなり年季が入っているが。

 どっしりとした事務机の上には何も書かれていない羊皮紙が数枚と、羽根ペン、インク壺などが置かれている。

 机の周りには、椅子が二脚。そのうち一脚は、部屋の調度には似つかわしくないオーク材を用いた小さく低い椅子だった。
 もしかすると、私の試験のために他の部屋から持ってきてくれたのだろうか?いや、それはないか……。

 そして圧巻なのは、部屋の壁にびっしりと並んだ本棚。

 その中には、羊皮紙の束が纏められたものや、書簡のようなものが大量に保管されているほか、結構な数の本が収められていた。



 本というのは高価なものである。これは作家の取り分が多いわけではなく、本に使われている紙、つまり羊皮紙が高いのだ。
 
 羊皮紙とはその名の通り、羊の皮で作った紙。
 その長所としては、耐久性が高い事、防水性が高い事など。羊皮紙は1000年の寿命があると言われているほどだ。
 ただ、動物の皮革が原料なので、植物性の紙ほど大量生産ができないため、どうしても高価になってしまう。

 結果的に、本という物は私のような貧民には、縁のない高級品となってしまっている。

 ま、下層階級の人間は読み書きができない者がほとんどなので、仮に本が安かったとしても縁のない物になってしまうだろうが。

 それにしても、その高級品を個人でこれだけ蔵書しているとは……。
 上級貴族でもここまでの蔵書をしている者はほとんどいないのではないだろうか。貴族の読書事情なんて知るはずもないから、断言はできないけれど。

 この部屋の持ち主は金を持っているだけではなく、かなりの勉強家である事がわかる。



「ここは?」
「事務室、ってところだな。ま、半分は俺の書斎みたいなもんだ」

 やっぱりそうなのか。これだけの大商店を築くには、相当な努力をしたのだろう。

「……随分と勉強熱心なんですね」
「物持ちがいいだけだ。物が捨てられねエ性質でな」
 
 カシミールは少し照れくさそうに鼻の頭を掻く。

「さ、無駄話はここまでだ。とりあえずそこに座れ」
「……はい」

 席を勧められた事から、おそらく筆記の試験なのだろうか。
 私はそわそわと落ちつかない様子で、ちょこんと小さい方の椅子に腰かけた。

 カシミールは私を椅子に座らせると、本棚の中から、表紙の擦り切れた本を一冊選び出し、ぱらぱらと頁をめくる。



「こいつをやってもらおうか。机の上にある紙とペンは自由に使っていい。ただし紙は一枚10スゥだからな。後で払ってもらうぞ」

 カシミールはそう言って、大きい方の椅子にどかりと腰かけ、机の上に本を広げた。
 広げた本の頁には数字が羅列されている事から、おそらく算術の問題だろう。

 さりげなく紙の代金を要求するあたり、さすが商人といったところか。抜け目ない……。

 しかし、ここでいいところを見せれば、グッと雇用に近づくはず。

 ただ、一つ問題がある。

「言いにくいんですが」
「何だ?」
「問題が読めません」

 本に乗っているのは全て文章問題だったのだ。

「お前……もしかして読み書きできねェのか?」
「読み書きは鋭意勉強中です。その代わりと言っては何ですが、昼間に言った通り、算術はかなり得意です」

 ここで文盲な事を誤魔化しても仕方あるまい。だって問題が読めないんだから……。

「あれだけの威勢を張るんだから、読み書きくらいは当然出来る物だと思っていたんだが……」
「でもこの試験は算術の力を見る物ですよね?」
「け、しれっと言いやがって。……ま、確かに読み書きの試験をする予定はなかったが」

 カシミールは困ったような顔で、頭をかりかりと掻いた。

「では読み上げをお願いします」
「はぁ、全く面の皮の厚い娘だ」

 「読み書きできないのは論外だな」なんていわれないかと、内心はびびりまくっていたんだけどね……。





「ふむ……こいつは……うぅむ」

 カシミールは唇を撫でながら唸った。その視線の先には私が算術問題の解答を書いた羊皮紙。



 出された算術問題は、『僕』の知識を持つ私にとっては、どれも鼻をほじりながらでも解けるようなシロモノだった。

 その内容は、比率から始まり、比例、幾何、簿記論など。簿記論といっても帳簿のプラスマイナスを合わせるだけのものだったので、そう難しい物ではなかった。

 ま、商売で使う実践数学というのはこのくらいで十分なのだろう(経済学とは勿論違う)。
 なんちゃらの最終定理だとか、なんとかロイド曲線だとか、そんな小難しいものは必要ないのだ。



「どうでしょう?」

 私は自信満々に解答用紙と睨めっこしているカシミールに問いかけた。

「いや……全問正解、だ。全問正解なんだが……」
「はい?」
「この文字はなんだ?それにこの記号みたいなのは……」

 カシミールは私の書いた数式を指さして問う。
 
 あ゛。

 そういえば計算の時、もろにアラビア数字とか、数式記号を使っていたのだ。
 答えだけは下手くそなガリア文字で書いているのだが……。



 これってもしかして、マズイのか?
 ま、まさかとは思うけど、い、異端とか?密告されちゃう?



 そうだ!こういう時、このセカイにはとても便利な言い訳があるじゃないか!



「え、とですね。私の算術の先生は“東方”出身でして。東方の文字と数式を使ったやり方なんですよ、それ」
「東方、ねえ」

 じろりとこちらを睨むカシミール。

 思いっきり疑われているんですが……。

「ええ、東方なんです。オリエントなんです。これホント」
「詳しく教えろ」

 カシミールは挙動不審になった私に構わず、解答用紙に書かれた方程式を指し示す。

「え、やり方は一緒だと思いますよ?」
「いや、違うだろ。普通のやり方だと……」

 カシミールは数字の後に“足す”、“引く”、“掛ける”といった単語を書く。
 その数式はまるで一つの文章だ。わかりにくいことこの上ない。

 なるほど、数式は同じでも、それに使う簡素な記号がないのか。

 『僕』の世界でも数式記号がつかわれ出したのは14~17世紀の事だし、このセカイにそういう記号が存在しなくてもおかしくはない。
 数学というか算術を専門にやっている人の間では使われているのかも知れないが、それが一般に普及していないという可能性も考えられる。

「雇っていただけるなら、喜んでご教授致します」
「ぐ、汚いぞ……」
「私は見合った対価を要求しているだけです」
「むぅ……」

 カシミールは頭を抱えて、悩んだような表情をする。
 どうやら彼は非常に知的好奇心が強いようだ。さすが商人である。

 異世界の偉大な数学者達が発明した数々の数式記号を知る事ができるなら、私を雇い入れる程度むしろ安い買い物だと思うけど……。

「次で最後にしてやる。それで手を打て」
「……内容は?」
「倉庫に毛皮が山積みになってたろ」
「なってましたね」
「朝までにあれを全部日陰干し」

 カシミールは真顔でそう言い放つ。

「あれって……どのくらいあるんでしょうか」
「900リーブルだな」
「きゅ、きゅうひゃく?!」
「まぁ、商人用の目方(※トロイ衡)だから普通の単位に直すと、700弱ってとこか」

 いやそれでも十分やばい量なんですが……。

「それが出来たら文句無しで雇ってやる」
「……絶対、ですよ?」
「皺が出来ないようにきちんと伸ばしてから干せよ?」
「わかりました、やります」

 そうと決まったらこうしては居られない。
 朝までのタイムリミットに間に合うようにしなければ。

「いい加減にやっていたら終わらねェからな。死ぬ気でやれ。俺はそろそろ寝る」

 欠伸をしながら言うカシミールを尻目に、私は1階に向かって駆けだした。





「しかし東方の数字ってのは簡単に書き過ぎじゃねェか?」

 俺はチビっ娘を下に追いやった後、“東方”の算術について、あれやこれやと考えていた。

 この東方の数字ってやつは簡素化されていて分かりやすいが、帳簿なんかには使えねえ。後から簡単に捏造されてしまいかねないからな。
 おそらくは計算のスピードをあげるために作られたものなんだろう。正式な数字は他にあるに違いない。

 しかし、この数式記号ってやつは便利だ。東方では常識なのだろうか。
 だとしたら、算術の教育がかなり発達しているってことだ。大多数の人間が知らねェと、こんな記号は使えやしない。

 算術が発達しているってことは商売も発達しているんだろう。

「東方か……」

 多くの商人が一度は夢見る一攫千金。それが東方との貿易。
 どこから仕入れているのか知らないが、たまに入ってくる東方産の品は、目ん玉が飛び出そうなくらいの値段が付く事が多いのだ。

 若い頃はハルケギニア中を行商して回ったもんだが、さすがに東方には言った事がねェ。
 死ぬまでに一度は行ってみたいもんだ。



 そしてあのちびっ娘。あの歳でここまで自在に算術を使いこなしてるとは、正直驚いた。計算だけなら俺より速いし正確だろう。

 しかし、いくら東方の算術つったって、読み書きを教えずに教えられるのか?
 それに餓鬼とは思えないような言動をしやがるし……。

 ま、商人としてはまだまだ話にならねエが……。



「おっと、もうこんな時間か」

 考えに没頭しているうちに、お天道様が顔を出していやがった。

 徹夜のまなこに朝日が沁みる。

「半分くらいはできてるかね」

 俺はそう独りごちながら、夜通し座っていた椅子から立ち上がって伸びをすると、体の節々がぱきぱきと音を立てた。

 ちびっ娘の体格では900リーブルの毛皮を全部、なんてのは無理だろう。ウチの若い奴にやらせてもかなりキツイ量なのだから。
 ま、しっかりやってりゃ雇い入れてやるか。随分と必死みたいだしな……。



 俺が人を雇う上で一番重視してるのは、読み書きでも算術でも、ましてや体力でもねェ。
 商売で一番大切なのは溢れんばかりの情熱だ。ま、これはどの仕事でも言えることかもしれんがな……。



「さて、様子を見に行くか」

 俺はもう一度伸びをしてから、あいつが作業しているであろう倉庫へと向かった。





「うぉ?!」

 倉庫に広がった予想外の光景に、俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。

 乱雑に山積みしてあった毛皮はそのほとんどが、綺麗に整頓されて干されていたのだ。
 元の場所に残っている毛皮は、あとほんの数枚しかなくなっていた。

「これ全部あいつ一人でやったのか?」

 干してある毛皮を確認するが、きちんと伸ばされており、雑に扱った痕跡はない。

 まさかここまでやるとは思わなかった。どうやら口だけじゃあなかったようだな……。
 中々に根性がありやがる……。

「それにしてもあいつは何処にいった?」

 労いの言葉くらいはかけてやるか、と思って辺りを見回すが、倉庫内に人影は見当たらない。

 どうしたものかと考えていると、残っていた毛皮がもぞもぞと動いた。

「うげっ、何だ?」

 おそるおそる、気色悪く動く毛皮は剥ぐと、汗と毛皮の油だらけになったチビっ娘がいた。

「ぐぅ……」
「寝てやがるよ……」

 恐らく毛皮を持ちあげた時に、力尽きてその場でぶっ倒れたんだろう。

「くっくく、大したチビっ娘だな」

 大口を開けて寝ているチビっ娘の能天気な寝顔を見ていると、自然と笑いがこぼれた。
 
 しかしここに寝かしとくのはまずいな……。仕方ねェ、運ぶか。

「どっこいせっ、と」

 その体を持ち上げると驚くほど軽い。ロクに食ってねェなぁ、こいつ。

 なるほど、そういう意味で、命懸け、か。
 その理由は悪くはねェ。飢えた精神ってのは、這い上がる人間には必要不可欠なものだからだ。



 しかし、こいつは案外、イイ拾い物をしたのかもしれねェな……。



「くく、これからガッツリ扱いてやるから覚悟しとけよ」

 俺は腕の中で寝息を立てているチビっ娘にそう言い聞かせると、従業員寮へと歩き出した。

 

 

続く

※あまり設定とかは載せたくないんですが、単位関係についてだけは、後々設定を纏めた物を載せるかもしれません。劇中で○g相当とか説明すると明らかにおかしいので……。





[19087] 13話 first impressionから始まる私の見習いヒストリー
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/07/09 18:34

 一代で莫大な財産を築きあげ、国家にも多大な利益をもたらした私は、ゲルマニア、いやハルケギニアの商人でその名を知らぬ者はモグリと言われるほどの大商人となっていた。

 そんなある日、私は皇帝アルブレヒト3世からの呼び出しを受け、首都ウィンドボナの皇宮へと参上したのだ──
 


 そして私が今立っているのは、皇帝や宰相、ゲルマニアの中枢を担う高級官僚達が勢揃いした謁見室。
 その内装は御伽噺に出てくる王子様のお城のように煌びやかだ。



 なんてキレイなセカイなのだろう。



「この度、皇帝閣下から直々の召喚を承りまして、馳せ参じましたアリアと申します。閣下におかれましては、ますます……」

 私は皇帝の前で膝をつき、恭しく頭を下げて口上を述べる。

「あれが大商人のアリア女史か」
「さすがというか、貫録が違いますな」
「いや、それよりも美しい。商いの女神とはよく言ったものだ」

 宮廷雀達は、私が口上を述べているのにも関わらず、声をひそめてそんな話をしている。
 
 鬱陶しいわね……。聞こえてるっての。
 ま、いつも言われる事だからもう慣れたけどね。



 口上を述べ終えると、金ぴかに飾り立てた大躯の皇帝は玉座から立ちあがってこちらへ向かってきた。

「大商人アリアよ。よくぞ来てくれたな」

 皇帝は私の肩に、ぽん、と手を置いて、親しげに笑いかける。

 私もついにここまで来たのね……。

「いえ、とんでもございません。私のような者を、このような絢爛な宮殿にご招待して頂けるとは光栄の極みでございます」
「謙遜するな。そなたの数々の功績、まさしく貴き者に相応しい」

 ふ、ふふ。もっとよ、もっと褒め讃えてもいいのよ?

 私はにやけたくなる衝動を必死で抑えて、さも意外であるという態度を取り繕う。

「それはもしや」
「うむ、そなたをゲルマニアの貴族として任命する。これからは国のため、民のためにその手腕を振るってくれ。期待している」

 皇帝は深く頷きながら、力強い口調でそう言った。
 
 駄目だ、もう表情が保てない。にやけた顔を誤魔化すために頭を下げて謝辞を述べる。

「はっ、ありがたき幸せ。私でお役に立てる事があれば、いつでもお申しつけくださるよう」
「ほぅ、良い心掛けだ。では早速やってもらいたい事があるのだが」
「は、何でございましょう?」

 コホン、と咳払いする皇帝。
 “いつでも”というのは建前のつもりだったのだが、すぐに頼みたい事があるらしい。

 ふぅ、やれやれ。貴族というのも楽じゃないわね。



「倉庫に毛皮が山積みになってたろ」
「はぃ?」

 その聞き覚えがある言葉に、私は驚いて顔を上げた。

「朝までにあれを全部日陰干し」
「えぇ?!」

 皇帝はいつの間にかカシミールにすり替わっていた。

「な、なんで?」

 私は訳がわからず混乱し、後ずさる。



 皇宮の謁見室に居たはずの私は、いつの間にか商店の倉庫に立っていた。
 宰相や、高官達が居たはずの場所には積み上げられた大量の毛皮達が……。



「うわわぁ?」
 
 驚愕の声を上げる私。

 それもそのはず。なんと、毛皮達はわらわらと自分で動きだしたのだ!

「ひぃっ」

 まるでよく訓練された兵隊のような動きで、毛皮達は私を取り囲むように陣形を組んでいく。

 私が逃げる事もできずに、口をポカンと開けて腰を抜かしていると、毛皮達が次々と言葉を発し始める。

「商品なんだから乱暴に扱うなよ」
「皺ができないようにきちんと伸ばせよ」
「ほらほら、朝まで時間がないぞ?」
「できなかったらあの吸血鬼に殺されるんじゃない?」
「賤民から商人になろうなんて無理に決まってるし」

 粘ちっこく、厭らしく、腹立たしく私を攻め立てながら、毛皮達は除々に近づく。

 そして獣臭い毛皮達は私に覆いかぶさろうと……。






「来るなぁっ!」
「うがっ?」
 
 ゴチ、と鈍い音がして、頭に強烈な痛みが走る。

「いっつぅ……あれ」

 ふと見ると、ロッテがしかめっ面で額をさすっていた。どうやら頭と頭がぶつかったらしい。

 それよりもここは何処だ、と辺りを見回すが、薄暗くてよく分からない。
 あまり質の良くない、硬いベッドの上にいる事は確かなのだが。
 
「……どうなってるの?」
「うなされていると思ったら、突然跳ね起きをおってからに……」

 うなされていた?
 あぁ、なんだあれは夢だったのか。それにしても欲望丸出しな夢だったな……。

「あと、言いにくいんじゃがの」
「何よ?」
「お主、クサイぞ」
「ちょっと。さすがに言っていい事と悪い事が、って、う、ホントだ……」

 “仮にも”乙女にクサイとは何事か、とカチンと来たのだが、ふと自分の身体から獣の臭いがする事に気付く。
 毛皮の臭いが体に移ってしまったのか。

 臭いだけでなく、感触の方も汗でべとべとしていて、これはさすがに気持ち悪い。
 水浴びするか風呂に入りたい……。

「あ!」

 そこで私はハッとして、思わず声を上げた。

「そうだ、試験!」

 私は試験中だった事を思い出し、がば、と慌ててベッドから飛び出す。

 ヤバイ、非常にヤバイ。
 寝ている場合じゃなかった。まだ課題は終わっていなかったはずなのだ。

「ま、落ち着け。試験は合格だそうじゃ。あの店主、明日の朝から店に来るように、と言っておったぞ」

 狼狽していた私に、予想外の言葉が掛けられる。

「合格?」
「うむ。大体、ここはあの商店の従業員寮じゃし」

 ロッテは親指で部屋の壁を指して言う。

「本当に?」
「本当じゃ」
「というか、それなら何故貴女がここにいるの?」
「……お主、集合場所も決めずにさっさと行ってしまったじゃろう」

 そう言えば。別行動なのに集合場所も決めてなかったし、時間も曖昧だったか。

 本当に就職先が決まったのなら、私としてはロッテとお別れでも良いんだけど。
 ま、そういうわけにもいかないか。

「それで今日になって、あの店主を訪ねたらお主がここに居ると聞いてな」
「今日になって、ってもしかしてずっと寝てたわけ?私は」

 窓から見える外の景色は真っ暗。
 作業中に意識が飛んでから、私は丸一日眠りこけていたらしい。

 しかし寝ている間に合格していたとは、何とも間抜けな話だ。それもロッテから結果を聞かされる事になるとは。

「はぁ、そっか。ま、何とか雇ってもらえることにはなったわけね」

 私は安堵の溜息を漏らして言う。
 課された作業はまだ終わっていなかったはずだが、“東方”の算術が効いたのかもね。



 これで晴れて賤民から平民に戻る事ができたということだ。
 平民といっても所詮は商店の見習いだから、貧民には変わりないかもしれないが。

 何にせよ、これで成り上がりの階段一段目には足を掛けられたのかな?

 こうして寝床もゲットできたわけだし。
 ……ん?寝床と言えば。



「そう言えば貴女は此処に住めるのかしら。カシミールさんに聞いていなかったわ」
「姉という事なら、家賃さえ払えば住んでもいいと言っておったぞ」
「家賃、か。いくらか聞いてる?」
「一人につき月2エキューだそうじゃ。ま、造りはボロいが家賃は安いからの、上等じゃろう。丁度二人部屋なのも都合が良い」

 ロッテは部屋をぐるっと見回して言う。

 月2エキュー……。それって安い、のか?

 私の給金はいくらなのだろう。

 明日、商店に行けば詳しい説明があるのだろうか。というか、何を生業にしている店なのかも聞いていないんだよね。大方交易関係だとは思うけど……。



「ところで貴女の仕事はどうなったの?」
「う」

 思い出したように切り出した私の問いに、ロッテの身体がびくり、と跳ねた。
 
 あ~。やっぱりか。しかし素の状態だと、本当、分かりやすい吸血鬼だわ。

「駄目だったのね……」
「仕方なかろう。碌な仕事がないんじゃもの」

 ロッテはそっぽを向いて気まずそうに言う。一応、仕事は探していたらしい。
 ま、露店のオバちゃんも一緒だったし、怠けられなかったのだろう。

「仕事自体はあるの?」
「あるにはあったが、どれもキツそうじゃし。ほら、妾はデリケートじゃから……」

 もじもじと指いじりをしながら言うロッテ。どこらへんが繊細なのか聞きたい。

 そもそも、仕事なんてどれもキツイと思うんだけど。楽な仕事があったら教えてほしいっての。

「……家賃分くらいは働いて欲しいなぁ」
「えぇい、分かっておる!うるさいぞ!元はと言えば……」

 私がじとりと半眼で睨んで言うと、ロッテは声を荒げて文句を言う。

 逆切れって。あんたは子供かい。
 
「怒らない、怒らない。今度一緒に仕事探しにいきましょう。私からもカシミールさんあたりに聞いてみるから」
「ふん……」

 私の提案にも、不貞腐れた態度で返すロッテ。

 本当、面度臭いな、この姉は……。

「ま、私は水浴びしてくるから。その間に機嫌を直しといてよ」
「おぉ、そうしろ。上から下まできちんと洗う事じゃな。部屋が臭くてたまらんからの」
「はいはい、ご迷惑おかけして申し訳ありませんね」

 とまあこんな言い合いをしながら、私とロッテの新生活のスタートとなった夜は更けて行った。





 そして翌朝。

 私は東から顔を出したばかりの太陽の光を背に受け、欠伸を噛み殺しながら、カシミール商店へ向かって出発した。

 朝に来いと言われても、いつ頃かわからないので、とりあえず私は日の出と同時に寮を後にしたのだ。

 初日から遅刻してはまずいしね。
 多分早すぎるだろうけど、開いていなければ門の外で待っていればいいだろう。



 新しいコミュニティに入る時は、第一印象が大事。
 そこで印象が悪いとなると、後々までそのイメージが響いてしまう。

 やる気がある新人、というところを見せなくてはね。



 ロッテの方は今日も仕事探し(の予定)だ。

 彼女の容姿は確かに優れているが、それを武器にして職探しをすると、どうしても性風俗というか、ソッチ関係の仕事になってしまうようだ。
 確かに、私もそっち系の肉体労働はご遠慮願いたいものである。まぁ、酒場で働くとかはいいけど、売春系はちょっとね。

 そして容姿に関係ない仕事といえば、あまり人がやりたくないような仕事、つまり貧民や賤民が生業としているような、掃除人(拾い屋)、ポーター(荷物持ち)、その他、単純肉体労働の作業員くらいしかないという。

 これらの仕事は、他の職業と比べても、3K(危険かどうかはわからないが)な仕事である上に、身入りも非常に少ない。
 年収にして60エキュー程度(つまり月給は5エキュー前後という事になる)しか稼げないそうだ。
 
 誰でもできるような仕事は安いという事だろう。

 ま、確かにロッテにも沢山稼いで貰った方がいいだろうし、昨日言った通り、カシミールにいい仕事がないか聞いてみるか。

 ロッテは読み書きが出来るんだし、顔の広そうなカシミールならば何かいい仕事を知っているかもしれないからね。





 さて、私が商店に着くと、すでに坊主頭の少年が店の前で箒をかけていた。
 
 あちゃ、私が一番乗りじゃなかったのか。

「おはようございます!今日からこちらでお世話になる事になったアリアといいます」

 元気に声を張り上げて頭を下げる。
 新人は元気が一番、ってよく言うしね。

「あれ?お前、昨日の」
「はい」

 坊主頭は怪訝な顔で、じろじろと私を観察する。
 こいつ、やっぱり失礼な奴……。

「世話になる、ってもしかしてここの見習いって事?」
「はい、そうです」

 嫌なヤツだが、ここで怒ってはいけない。笑顔、笑顔。

「おいおい、まじかよ。親方もこんなのを雇うなんて、目が曇ったんじゃ……」

 坊主頭は、私が雇われたのがよほど信じられないのか、頭を抱えて嘆きの言葉を口にする。
 


 さすがにちょぉっと、ムカついてきちゃったかな……。



「誰の目が曇ってるって?」

 私がぷるぷると震えだした握りこぶしを必死に抑えていると、坊主頭の後ろから重低音の声がした。

「あっ、親方……。いや、その、それは言葉のアヤというか」
「この馬鹿たれ。お前もまだ見習いをはじめてから1年も経ってねェだろ。仲良くしやがれ」

 しまった、という顔をしながら言い訳する坊主頭に、カシミールの拳骨が落ちた。

「あだっ、すいませぇん」

 もんどり打って情けない声を出して謝る坊主頭。
 ふっふ、いい気味。

「それじゃ、お前らも中に入れ。皆にコイツの紹介をしなきゃいけねェからな」

 カシミールは私の頭に、ゴツい手を置いて指示を出した。
 
 って、聞き逃せない事が。

「え、皆って。もう皆さん出勤しているんですか?私が一番乗りかと思っていたんですが……」
「あぁ、店の掃除やら何やらの作業があるからな。正規の駐在員はもう少し遅いが……。見習いは日の出前に仕事を始めてるぞ。ま、初日だから大目に見るが、明日からは遅刻しないようにな」

 そう言ってカシミールは店の中に入っていく。

「け、いきなり遅刻とはね」

 坊主頭は殴られた腹いせのように捨てゼリフを残してカシミールの後に続いた。
 まぁ、それを言った後、また拳骨を貰っていたけど……。

 しかし、日の出前だって?
 そんなアホな。農民時代ですらそこまで早い事はなかったのに……。
 


 がっくりと肩を落としながら店の中に入ると、1階の倉庫内では、3人程の若い男が、なにやら羊皮紙とペンを持って作業している。
 どうやら品数を数えたり、秤を使って計量をしているようだ。帳簿との合わせか何かだろうか。

「よし、一旦作業ヤメ!」

 カシミールがぱんぱん、と手を叩いてそう言うと、3人はすぐに手を止めてこちらを振り向いた。

「今日は新入りを紹介する。お前らも自己紹介してやれ」

 カシミールは私の背中を押して、前へと突き出す。

 遅刻はしてしまったが、ここできちんと挨拶だけはしておかないと。

「はじめまして、トリステイン出身のアリアと申します。若輩者ですが、よろしくお願いします!」

 お願いします、と同時に最敬礼すると、一番年長っぽい優しげな顔の青年がぱちぱちと拍手をしてくれた。
 おぉ、この人はいい人っぽい。



 私の挨拶が終わると、年長の青年は他の見習い達に目配せするが、隣の二人組は無表情に佇み、坊主頭は腕を組んで不機嫌そうにして口を噤んでいる。

 青年はふぅ、と諦めたように息を吐くと、その雰囲気を打破するかのように明るい調子で喋り始めた。

「えぇと、じゃあ僕から。見習いのリーダーをさせてもらっているエンリコといいます。歳は17歳で、ここに務めて4年ってところかな。わからない事があったら何でも聞いてくれて構わないから。よろしくね」

 そう言って爽やかな笑みをこちらに向けるエンリコ青年。

 その容姿はなかなかの色男だ。
 錆色の髪を後ろで纏めており、一歩間違えれば女と見間違えてしまいそうな顔立ちをしている。

 この人がリーダーなら安心か、な。

「ほら、次は君達でしょ」
「……ギーナ」
「……ゴーロ」

 エンリコが隣でぼぅっと佇んでいたノッポの二人組を小突いて発言を促すと、ぼそぼそと名前だけを呟いた。

 なんか暗そうな人達だなぁ……。
 
 カシミールもその無愛想な様子を見て、頭痛がするように額を抑える。
 注意しないところを見ると、そういう性格だと思って諦めているのか?

 というか、この二人。顔も体型もそっくりだ。
 揃ってひょろりとした長身に浅黒い肌、切れ長の目。

「ごめんね、この二人はあまり喋るのが得意じゃないんだ。見ての通り双子の兄弟、歳は14歳。見習い歴2年ってところかな。無口だけど悪い人達じゃないから安心してね」

 エンリコが喋るのが苦手らしい二人に代わって紹介すると、双子は揃って小さく頷く。
 よろしく、という意味の頷きなのだろうか。
 
 でも口下手って商人としてまずいんじゃ……。沈黙は金なりとは言うけれども。



 貴族の間では忌み嫌われるという双子だが、平民の間では、双子だからといってどちらかを殺したり、幽閉したりすることはない。

 オンの農村にも双子の兄弟、姉妹は普通に存在していた。

 貴族の双子嫌いは、その社会的地位や財産の相続問題から発生したものであると思われる。
 つまり後継ぎ候補が双子だった場合、将来相続を行う時、争いの火種となる可能性が高いのではないか。

 見た目も能力も似通っている者が多い上、先に堕ちたのが兄なのか、それとも後に堕ちた方か、それすらも人によって解釈が異なるのだから、争いが起きるのは必然といっても過言ではないだろう。

 爵位持ちの貴族だった場合は特に、家を継げるか継げないかで、その貴族の人生は大きく変わってしまうのだから。
 
 家を継げなかった者は、自分自身で叙勲でもされない限り、爵位も領地も無い下級貴族となってしまうのだ(それでも平民の平均年収の5倍近い年収を得る職には就けるのだけれど)。

 だからといって土地を割って兄弟に分け与える事は、常識のある貴族ならば絶対にしないだろう。

 公爵とかそういう上の上である貴族家の子息であれば、家を継げなくても、子爵という地位があるトリステインのような国もあるが、“たわけ者”という言葉がある通り、通常の貴族にとって、領地を割って兄弟姉妹に分け与える事は愚か者のする事なのだ。



 だが、このような相続問題は平民に関してはあまり当てはまらない。
 平民は土地を持たないし、爵位という公的な地位もないからだ。

 平民の相続といえば、せいぜい貯めた財産や、商人ならば自分の店に関しての事程度で、何もそこまでして双子の片方を抹消する必要はないのだ。



「最後はお前だ。さっさとやって仕事に掛かるぞ」

 私が双子についてあれこれ考えを巡らせていると、今度はカシミールが口を噤んでいた坊主頭を促した。
 
 何故か理由はわからないが、私はこの坊主頭に嫌われているっぽい。

「……俺はフーゴ。へ、せいぜい迷惑を掛けないようにしろよな、ちんちくりん」

 偉そうに腕を組みながら、すごい上から目線で言う坊主頭ことフーゴ。
 
 それを見たカシミールはつかつかとフーゴへと歩み寄り、ごつ、と拳骨が落とされた。

「まったく、お前は何回言ったらわかるんだ」
「うぐ、すいませぇん!」

 三度、同じ事をして殴られるとは。
 学習能力のないヤツね……。

 カシミールがフーゴに説教をし始めると、エンリコがこちらにやってきて、私に耳打ちした。

「見苦しい所を見せちゃったね。ただ、彼はプライドが凄く高いだけなんだ。あまり嫌わないであげてね」

 エンリコはウィンクしながら、「頼むよ」と念を押す。
 見習い同士の人間関係にも気を使うとは、リーダーというのも大変だ。

 それにしてもプライド、ね。

 まるで貴族みたい。エンリコには悪いけれど、正直、フーゴに関しては好きになれそうにはない。

 ま、仕事に支障が出ない程度の付き合いにしておけばいいか。



「よし、見習いに関しては、全員覚えたな?」
「はい、何とか」

 説教を終えたカシミールは、私に向き直って確認を取った。
 この商店の見習いはこれで全部らしい。思ったよりは少ないかな?

「あとは経理と買付担当の正規駐在員が一人ずつと、連絡員が数人いるんだが……。ま、今はいねェし、後でもいいだろう。一緒に仕事するのはこの4人だからな。仲良くやれや」
「わかりました」

 カシミールの言葉に私はコクコクと頷いて了解の意を示した。
 
 他にもここで働いている人はいるらしいが、今は不在らしい。
 駐在員ってさっきも言ってたけれど、従業員の事だろうか。それと連絡員っていうのも謎だ。あとでエンリコにでも聞いておこう。



「じゃ、エンリコ。早速コイツに仕事を教えてやってくれ。男だと思ってビシバシしごけよ」
「はは、わかりました」

 カシミールはエンリコにそんな事を言いつける。

 なんて余計な事を言うんだ、この人は。
 
「お、お手柔らかに」
「緊張しなくても大丈夫。とりあえず、帳簿と現物の合わせからやろうか」
「あ、はい。あの……その前にお聞きしたい事が」

 私を引っ張っていこうとしたエンリコは、早速の質問に足を止めて、笑顔でこちらに振り返る。

「何だい?」
「この商店って一体何をしている所なんですか?」

 私としては当然の質問だった。

 のだが。

「…………は?」

 振り向いたエンリコの表情は笑顔から引き攣った表情に変わっていた。

「えぇと、それってどういう……」
「あ、と。ご、ごめんなさい」

 何かまずい事を言ったのだろうか。慌てて謝るが、場に何とも言えない空気が流れている。
 あぁ、背中に嫌な汗が……。

「おい、本気かよ。ばっかじゃねぇ?」

 フーゴがあきれ顔で私を見る。
 
「……すごいね」「……大物かも」

 双子はぼそぼそと二人で喋りながら、不思議そうな顔で私を眺める。

「……」

 そしてカシミールはあんぐりと口を開けて固まっていた。



 私の第一印象によるイメージアップ作戦は、初日からの遅刻、そして後から冷静に考えれば、あり得ないこの発言によって、あえなく潰えてしまったのだった。





つづく






[19087] 14話 交易のススメ
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/10/23 01:57
あ 長い初日の仕事が、終わった。

「うぅ……ずびばぜん……」
「気にしなくても大丈夫。初日はみんなそんなもんだよ。かく言う僕も最初はしょっちゅう裏で吐いていたからね、はは」

 膝に手を付いて謝る私。本当、もう吐きそうです……。
 エンリコは私の肩をぽん、と叩きながら気を遣ってくれる。

 やっぱりいい人だなぁ。そこに痺れる、憧れるゥ!ってやつだね。
 美形だし、さぞかし女にモテる事だろう。

 でもその気遣いで余計に情けなくなってしまったり。実際、私は役立たずだったのだ。



 さて、私の仕事はやはり単純作業がほとんどだった。

 当然だが、私自らが取引を行ったり、契約書を作成したり、お金の管理をしたりするような事はない。

 ちなみにそれを行っている駐在員と呼ばれる正規の従業員には、今日は会えなかった。
 買付担当の人はずっと外回りをしているというし、経理兼公証担当の人は部屋に籠りきりで、一度も出てこなかったのだ。



 見習い《ガルツォーネ》の一日は、まず早朝の在庫確認から始まる。

 計量に関しては、数で数えるもの、天秤に乗せて重さを量るもの、物差しのような棒で長さを測るものなど様々だ。

 これについては、単位についてエンリコに説明してもらいながらの作業となった。



 一般的なハルケギニアの単位が統一されているかどうかはわからないのだが、商業的な単位としては、基本的にどの国でも、ガリアのシャンパーニュ地方を発祥とする、トロイ衡とよばれる度量衡を用いているそうだ。
 一部アルビオンの年寄り達は独特の単位を使うらしいが、詳しい事はエンリコも知らないという。

 まぁ、単位がはっきりしていないと商業取引なんてまともにできないものね。



 長さの単位はリーグ、メイル、サント。

 これは一般に使っている単位と変わりない(リーグは商業取引ではまず使わないけれど)。
 サント以下に関しては1/10サントなどと分数で表わし、サント以下の単位は存在していない。

 小数については概念自体がないようで、私が布地を計量している時に、うっかり「10.4メイルです」と口にしたところ、皆一様に、「何それ?」という顔をしていた。
 とりあえず「“東方”の数字の数え方です、てへ」とか言っておいた。

 いやぁ、東方って、ほんっとうに、いいものですね。



 重さについてはトロイリーブル、トロイオンス、グレイン、それにサン・ポワという単位が用いられる。

 リーブルは“天秤”という意味があり、一般的にもこの単位が使われているが、トロイ衡では通常のリーブル単位のおよそ5分の4程度の重さとなっている。
 きっとシャンパーニュの商人が物の量を誤魔化した事が発端なんじゃないの?と勘ぐってみたり。

 オンスは“1/12”という意味。その名の通り、リーブルのおよそ1/12に当たる。

 グレインは“大麦の一粒”が語源で、非常に小さな単位であり、金などの少量で価値が高いものを計量する時に用いられる。

 サン・ポワは“100倍の重さ”という事で、リーブルの100倍の重さを示し、大口の取引の時に使われるそうだ。

 いつか私もサン・ポワ単位で金銀財宝を取引するような大商人になるのだ。ふふふ。

 そしてそれらの合計などを計算する時は、頭で計算するだけではなく、倉庫の隅に仕切られたスペースに備え付けられている算盤《アッパゴ》というものを使用する決まりとなっている。
 これは様々な色のついた球を盤に並べていくことで、誰の目にも間違いがないか確認できるようにするものであり、金銭の取引の際にも使用される。
 私塾で算術を教えるときにもこういったものを使うらしい。まさにソロバン教室、と言った所か。



 さて、在庫確認の時は「これくらいなら私でも十分やれる」と思っていたのだけれど、甘かった。ベリータルトの100倍くらい甘かった。

 少し日が高くなって来た頃から、連絡員と呼ばれる人達や、個人の行商人(遍歴商人というらしい)がひっきりなしにやってくるようになり、それとともに殺人的な忙しさが襲ってきた。

 彼らの応対は、カシミール、いや“親方”か、エンリコあたりがやっており、私の出る幕はなかったのだが、彼らは一様に大きな荷物を抱えてやって来る。
 さらにその中には、商店の中から別の荷物を持っていく者もいる。

 その荷物を移動させたり、整理したりするのは私達見習いの仕事なのだ。
 
 そして、これが本当、半端なく重いものが多い。

 羊毛や銀鉱石がみっちりと詰まった箱、どでかい穀物袋や塩の袋、香料や酒の詰まった瓶のケース、家具なんかは言わずもがなである。

 どう考えても一人で持てるようなモノではないのだが、エンリコや双子くらいになると、ひょい、という感じで、軽々と持ち上げてしまう。
 坊主頭ことフーゴは小柄なのもあって、私と一緒で苦戦しており、「人に言う割には大した事ないじゃん」と心の中で舌を出したものである。

 また、行商人や連絡員が連れてきた馬の世話などもあり、休んでいる暇は全くなかった。



 そしてそのラッシュが終わると、もう夕刻。

 当然昼ごはんを食べる余裕はないのだが、ラッシュが終わってから、見習いの者が全員で賄いを作る。

 これは結構楽しい作業だ。自分達が食べる物なので、それほど気を使わなくてもいいしね。
 まぁ、荷物運びと整理のせいでグロッキーだった私はあまり喉を通らなかったんだけど……。

 賄いを食べ終わると、最後にお掃除タイムが待っている。

 これが終われば、一日の仕事は終わりという事になるのだが、商店はとにかく広いので、かなりの時間がかかるし、重労働となってしまう。





 全てが終わった今の私は、溶けたバターのようになっており、外はすっかり暗くなっていた。

 明日筋肉痛になっていなければいいのだけれど……。間違いなくびっきびきになっているだろうなぁ。

「アリアちゃん、これから時間あるよね?」
「え、はい。大丈夫ですけど」

 エンリコがへたって座り込んでいた私に話しかける。
 おや、まさか歓迎会とかしてくれるのかな?と私はボケた事を考えていた。

「いや、朝の質問にも答えていなかったし、折角だから見習いのみんなで勉強会でも開こうかと思ってるんだけど、どうかな?」
「あ!そ、そうでした。お願いします!」

 私は馬鹿です。本当にすいません。

 そういえば、“あの”朝一で空気を凍らせた質問にはまだ答えてもらっていなかったのだ。
 まぁ、今日一日の仕事で交易を生業にしている商社だろうという当たりはついているけど、詳しい事は全くわかっていない。

「よし、それじゃ黒板のある部屋……うん、いつも通り経理部屋がいいな」
「でも経理に使う部屋って大事な書類とかあるんじゃ」

 経理ということは帳簿やら何やらもあるはずで、見習いの私達が入るのはまずい気がする。

 それにしても黒板があるのか。あれって魔法学院とかにしかないものだと思っていたけど違ったのね。

「いや、ヤスミンさんが帰る時に、帳簿や大事な物は親方の部屋に全部持って行っちゃうから大丈夫だよ」
「ヤスミンさん?」
「あぁ、経理担当の駐在員をやっている人だよ。アリアちゃんが来る前は、この商店で唯一の女性だったんだけど」
「女性なんですか?でも商人って男の世界とか聞いたんですが」

 親方、女の人もしっかりといるじゃないですか。

「あの人は元々商人じゃなくて算術の私塾をやっていた人だからね。かなりの変わり種だよ。性格の方も少し変わっているけど、ね」
「あ、そうなんですか……」

 女商人なら話を聞いてみたいと思ったんだけどなあ。
 しかし人当たりのいいエンリコが顔を顰めるとはどんな人なんだか。

「じゃあみんな経理部屋に集合ね」

 エンリコはギーナ・ゴーロ兄弟とフーゴに向かって言う。

「……了解」「……先に行ってる」

 双子はコクリと小さく頷いて、二人でさっさと行ってしまった。
 うーん、二人の世界という感じだろうか。仲のいい兄弟だ。

「エンリコさん、俺もっすか?」
「ん、フーゴ君は何か用事があるの?」
「いや、特にはないっすけど……でも今日の勉強会はコイツのためなんっすよね?」

 私を指さして嫌そうな顔で言うフーゴ。そんなに私が嫌いか。

「うん、そうだけど。君のためにもなると思うよ?人に教えると言う事はその人の三倍は知識がなくちゃいけないからね」
「でも」
「まさか来ないなんて言わないよね?」

 エンリコは笑顔でフーゴの肩を掴む。その腕には太い血管が浮き出ており、ぎちぎちという音が聞こえてきそうだ。

 いいぞ、もっとやっちゃえ!

「わ、わかりましたよ。行くっす、行きますから!」
「よしよし。同僚の輪を乱しちゃいけないからね」

 涙目で肯定の意を示すフーゴに、エンリコが満足そうに頷く。

 普段温厚な人ほど怒らせると怖いというのは本当だ。私は怒らせないようにしないと……。

 若干エンリコへの恐怖を覚えた私だったが、初めての“勉強会”は、見習い全員参加で行われる事になった。





 さて、カシミール商店の“勉強会”。今日は臨時ということだが、普段は週末に親方や正規の従業員が講師となって行われているらしい。

 商店の見習いをしている者は、独立を目指す者、実家の商売を継ぐための修行に来ている者、そのまま正規の従業員として雇われる者、の三者に分けられるだろう。

 私は当然、独立を目指す者だ。
 他の見習い達はどうなのか、今のところはわからないが、どの道に進むにせよ、商人としての知識は非常に重要。

 そこで、カシミール商店では私塾では教えられないような商売のテクニックや、国際情勢、金融取引などの議題を取り上げて、議論形式で勉強していくそうだ。



 きちんと若手を育てる意志が見える辺り、この商店は“当たり”なのだろう。



 今回の勉強会に関しては他の見習い達による私への講義、という感じみたいだけどね。

 いや、本当貴重な時間を割いてしまって申し訳ないです……。
 

 
 私達が集まった経理部屋と呼ばれる2階の部屋には、エンリコの言うとおり、帳簿と思われるような書類は一切なかった。
 そのかわり、筆記具や紙が乱雑に散らかっており、インクで汚れ放題になっている事務机が痛々しい。

「また散らかしてるなぁ。この前の週末に掃除したんだけど……」

 エンリコが部屋の惨状を見て端正な顔を歪める。
 双子はやれやれ、と言った感じで肩を竦めて首を振る。
 フーゴは深く溜息をつく。

 この部屋の主のヤスミンさんは結構ずぼらな性格のようだ……。
 算術の先生をしていたというし、学者肌の人(悪く言えばやもめのような生活をする人)なのかもしれない。


 
「では今日の勉強会を始めます」

 私を含む他の見習い達を席につかせて、黒板の前で開会宣言をするエンリコ。いや、先生。

 双子は無表情に拍手をし、フーゴはふくれっ面で面白くなさそうにしている。

「さて、では最初にアリアちゃんに問題です」
「えっ」
「商売の基本とは何でしょう?」

 開幕早々、漠然とした質問を投げかける先生、エンリコ。

「う~、モノを作って売る事です?」

 自信無さげに答える生徒の私。でも間違ってはいないはず……。



「ぷっくくく、さすがちんちくりんの百姓は言う事が違うな!」

 フーゴは私の答えを聞いて腹を抱えて笑いだした。

「……職人向き」「……確かに」

 双子にまでそんなことを言われる始末だ。

 えぇ、違うの?『僕』の知識によると、モノ造りが全ての基本だって……

「はい、みんな茶化さないように。ただ、確かにアリアちゃんの答えはちょっと違うかな」
「うぅ」
「ただ、北部の人だとそういう考え方をする商人もいるからね。完全に間違いって訳ではないよ」

 エンリコはソフトに言ってくれているが、やっぱり間違いは間違いらしい。

「エンリコさん、甘いっすよ……」
「それじゃ、フーゴ君。答えを言ってみて」
「ういっす。商売の基本は“取引する双方が等価の物を交換し、双方が利益を出す”です。わかったか、ちんちくりん」

 得意げにふんぞり返って言うフーゴ。でもそれってどういう事?

「はい、フーゴ君正解。でも一言多いから気を付けるように。どう、アリアちゃん、わかった?」
「えぇと、つまりどういう事でしょう?」
「分かりやすく言うと、“その時、その場所で等価のもの”を交換し、その差益によって両方が得をしようという考え方の事。……そうだなぁ」

 未だ理解していない私の表情をみて、エンリコは少し首を捻って考えた後、黒板に図を描いて説明をする。

「例えば、アリアちゃんが湖のほとりに居たとします。その時に水を買いませんか?と言われたらどう?」
「無視、しますね」
「だよね。いくら安くても水がいくらでもあるような所では絶対に水は売れない。じゃあ砂漠で何日も彷徨っているところで同じ事を言われたらどうかな?」
「あっ、なるほど……そういう事ですか」

 私はポンと、手を叩いて納得する。さすがエンリコの説明は分かりやすい。

 つまり、需要と供給の関係を上手く活かして儲けようという事か。

「でも双方が得をする、というのは?自分が儲ければいいんじゃ……」
「……相手の利益を考えないと」「……商売は長続きしない」

 今度は双子が私の質問に答える。静かだが、諭すような口調だ。
 自分の事だけってのはダメってことか。なかなか難しいものだなぁ。



「はい、と言う事で、その考えを基本としているこの商店は遠隔地商業、つまり交易を生業としている商社です。これが朝の質問の答えだね」
「あ、やっぱりそうなんですか」
「ただ、この店は商社といっても、本店というより支店的なものに近いけどね」
「支店、ですか?」

 本店?支店?え、ここって親方の店じゃないの……?

「そう。商社というのは、個人の遍歴商人、つまり行商人だね。彼らとは違って、定住したまま遠隔地取引をするんだけど、その時に一番重要なのは、はい、フーゴ君どうぞ」
「えと、“正確かつ迅速な情報”っすね」

 うーん、即答できるとは、さすがにフーゴも威張るだけあって知識はあるんだなぁ。

「その通り。そういう訳で、大商会になればなるほど、国内外にたくさんの支店や代理店を置いて、その情報を集めようと躍起になっているんだよ。その情報を伝えるのが連絡員の役目ってわけ。単に荷物を運んでいるわけじゃないってことだね」
「情報っていうのはどういうものなんですか?」
「物価相場の変動もあるし、社会情勢の変化、地域で起こった出来事とか色々だね。例えば、ロマリアで新教皇の選挙があるだとか、ゲルマニアの東で飢饉が起こったとか、アルビオンで反乱の兆しアリ、とかね。そういう情報は商人にとっては全て儲け口になるんだ」

 アルビオンで、のあたりでビクリ、としてしまう私。
 それって“原作”の、アレだよね……。まさかそんな情報まで既に掴んでいると言うのか?!



「……飽くまで例え」「……反乱なんて起こらない、大丈夫」

 双子が青い顔をした私を慰めるように言う。
 いや、そういう意味で青くなったわけではなくて、商人達の情報収集力に驚いたと言うか。

 でもこの二人、実は中々イイ奴なのかもしれない。ちょっとイメージアップかな。

「はは、例えがちょっと物騒だったね。ごめんごめん。……まあ、この商店はそういう大商会の支店みたいなものって事だよ。完全に傘下というわけではないんだけどね」

 ふむ、支店のようなものだからこそ、“駐在員”と“連絡員”というわけか。
 
「その大商会っていうのは、もしかしてツェルプストー商会とか?」
「おいおい、ケルンにツェルプストー商会の本店があるのに支店があるわけねーだろ。少しは頭使えよ」

 フーゴが横から馬鹿にしたように口を出す。
 く、いちいち突っかかって来るなぁ。だって私はそれしか大商会なんてしらないんだもん。

「フーゴ君、駄目でしょ。ツェルプストー商会は、商社としてはウチの最大の取引先だね。ケルンのあるゲルマニア西部は彼らのテリトリーだから、西部の特産である穀物や食料品、それと諸外国からの輸入品は、ツェルプストー商会から買付しているよ。逆にウチで扱っている銀鉱石や、羊毛、羊皮紙、絹、毛皮、馬なんかはそっちに卸しているから、持ちつ持たれつといった感じかな。南部と西部は同盟を結んでいるしね」

 何と、ツェルプストー商会は取引先なのか。しかし同盟とは何だろう。

「南部と西部、と言う事は、この店は南部の大商会の支店?」
「そうそう。南部のアウグスブルグを本拠地としているフッガー商会。カシミール商会の正社員《ファットーレ》名簿にもフッガー伯の名前があるし」

 は、伯爵、ですと?!

「せ、正社員ということはその方もこの商店に、き、きちゃったり?」
「そんなわけ無いだろ。正社員ってのは従業員じゃなくて出資者って意味だし。つーか貴族くらいでいちいちビビってんじゃねーよ、みっともねぇ」

 フーゴは嫌悪感を隠そうともせず、吐き捨てるように言う。
 ありゃ、こいつは貴族嫌いなのかな?

「うん、言い方は良くないけどそう言う事。ゲルマニアじゃ貴族が商売に出資するのは普通だしね。ゲルマニアの四大、いや五大商会組合《アルテ》の代表者も、全て商会を経営してる貴族だし。それで他国から“商人の国”とか“野蛮”なんて言われているみたいだけど。まぁ金回りのいいゲルマニアに対するやっかみが半分だろうね」

 へぇ、貴族が先導して商売をしているのか……。むぅ、これは成り上がるのも大変そうだなぁ。
 しかし、色々とよく分からない単語が出てきたなぁ。



「ゲルマニアの五大商会ってなんですか?というかアルテって……」
「そうだね。そこから説明しなきゃいけなかったか。商会組合(アルテ)っていうのは、元々は同業者組合、という意味だったんだけれど、それが合併、吸収を繰り返してどんどんと大きくなったものだよ。諸外国じゃ、まだ職業別なのが普通な国が多いね。その中で、ロマリアはちょっと特殊で、自治都市政府《コムーネ》が前身となった、都市内商業組合というものが発展しているけど」

 そういえば、ロマリアは今も都市国家の連合国だったわね。貧富の差が激しいはずだけど、商売は栄えているのかな?
 海上貿易が存在するのなら、地理的には商売が最も栄える土地のはずだけれど……。

「つまり都市毎にある商人の集まりのようなもの?」
「さすが、アリアちゃん。飲み込みが早いね。ただ今は都市毎というよりは、地方毎、つまりゲルマニアの東西南北、それと中央のアルテの5つに統一されている。だからこれを五大商会アルテと呼んでいるんだ。ちなみに、ゲルマニアでは、アルテに属していない商人は商人として認めれられない。昔は組合の規則が嫌で、あえて所属しないという人もいたみたいだけど、今じゃありえないね」
「えっと、認められないとどうなるんです?」
「モグリの商人じゃ、仕事を回してもらえないだろうね。他にも、都市部で商売をする許可が下りないし、他の商人と取引もできない。アルテに所属するのに大金がかかるわけじゃない。遍歴商人だって所属してるし。それに属していないということは信用されないのは当然さ」

 つまり、商業組合《アルテ》に属していないような商人は怪しい奴しかいない、という事か。
 アルテは商人の身元保証をしてくれるらしい。

「この商店はどこのアルテに属しているんですか?」
「良い質問だね。カシミール商店は西部にあるけれど、フッガー家の資本が入っているし、親方は元々、南部の人だからアウグスブルグ商会アルテに属しています。ちなみにフーゴ君も南部出身だね。ギーナ君とゴーロ君は北部、僕はここ、西部が生まれ」

 ふむ、所属するアルテがどこかっていうのは、その店が建っている場所よりは出資者の出自によるところが大きいという事か。

 それにしてもみんな色々な所から来ているのね。私に至ってはトリステインだし……。
 


「ところでアリアちゃんは将来的にはどうするつもり?トリステインからわざわざここに来たってことは独立を目指しているのかな?」
「あ、はい、そのつもりです」

 ま、ゲルマニアに来た理由は、能動的なものではないのだけれど……。
 これは秘密にしておこう。さすがに口入屋に売り飛ばされたとは言いたくない。というか、言ったらフーゴあたりは奴隷女とか言いそうだし……。

「け、お前みたいなちんちくりんが独立できるんだったら俺はとっくに独立してらっ?!ちょ、ギーナさん、ゴーロさん!や、やめっ」
「……人の目標を笑うのは」「……よくない」

 茶々を入れたフーゴを、双子がタッグ技で締め上げる。
 “目標”というところに若干力が籠っていたので、もしかすると何か思うところがあるのかな。

「だったらなおさらゲルマニア国内の商業地図を覚えておいた方がいいね。モノの流れを、五大アルテの関係と照らし合わせてみようか。それで今日はお開きにしよう。国際取引に関しては少し難しいからまた今度ってことで」
「あ、はい」
 
 エンリコは未だに締められるフーゴを無視して、そう提案すると、黒板に何やら図を書き始める。



「大体こんな感じの関係かな」

 エンリコがチョークを置いて手をぱんぱん、と叩く。



                                   北部 ハノーファー工業商会組合 リューネベルグ公爵
              {火薬、砲弾、造船、紡績、楽器、毛織物、絹織物、織機、生活用品、製鉄、合金、武器、防具、刃物、鉄製農具、馬具、馬車、装身具、細工品、ニシンなどの魚介類} 

                                                     ↓                             ↑↓
西部 ケルン交易商会組合 ツェルプストー辺境伯  → 中央 ウィンドボナ中央金融・商取引組合 皇帝アルブレヒト3世 ← 東部 ドレスデン資材商会組合 ザクセン=ヴァイマル辺境伯
{穀類、果実、野菜類、根菜類、麦酒、果実酒、塩、香水、製本}                             {コークス、木炭、木材、鉄鉱石、黄鉄鋼、銅鉱石、石英、各種宝石、顔料(ミョウバン、鶏冠石、石黄、酒石英)、綿花}
                      ↑↓                            ↑       
            
                                   南部 アウグスブルグ自由商業組合 フッガー伯爵
                    {銀鉱石、羊毛、羊皮紙、毛皮、皮革、蜂蜜、染料(細葉大青、虫瘤)、香料(乳香、カルダモン、甘松油、没薬)、家畜、乳製品、養蚕}



 黒板に書かれたのはこんな図だった。さすがに覚えきれそうにないので、羊皮紙を一枚貰って板書する。

 まぁ、私はまだ字が読めないので結局エンリコに読ませてしまったが……。



 当然だが、地方によって特産品が異なっているようだ。

 まず、ガリア、トリステインに隣接する、ここケルンを中心とした西部は、国際交易による輸入品全般が目玉。
 それと肥沃な穀物地帯を持っているため、ゲルマニアの食糧庫にもなっている重要地域だ。酒造りも盛んで、果実系の香りのする香水なんかも名産。
 国際交易をするつもりならば、西部と相場は決まっているらしい。う~ん、やっぱり私が独立する時に所属するのはここがいいかしらね。

 そしてこの商会が属しているアウグスブルグを中心とするらしい南部は、ハルケギニアでも有数の銀鉱脈を持ち、それが目玉となっている。
 他に、新興産業として、羊、馬などの牧畜や、養蚕、養蜂を行っているという。
 東方じゃなくても絹はあるんだね。というか当たり前か。貴族の着る服って大体シルクだし。

 次に工業都市が多く存在する北部。ここはゲルマニアの目玉である工業製品を売り物にしている。
 工業製品ならなんでもござれで、商人と職人の結びつきが強く、メーカー的な要素が強いという。
 『僕』の知識を活かすなら北側の方がよくない?なんて思ってしまう。

 最後に鉱山、炭鉱、林業地帯となっている東部。悪く言うと田舎なのだが、ここがゲルマニアの縁の下の力持ちといったところではないだろうか。
 何せ、鉄、銅、硫黄、木材など工業的に重要なものが大量に採掘されているらしいのだ。さらに、大規模な綿花の生産地でもある。
 最近では炭鉱も開発されているらしく、非常に安定した実績を挙げている地域でもある。
 ま、お堅い分、新参者には少し厳しい組合みたい。



「これって、北と南とか、東と西の交易はウィンドボナを通るという事ですか?」
「うん、アルテ同士で同盟を結んでいる南と西、それと北と東は直接取引をするんだけどね。それ以外は一度ウィンドボナを経由する事になっている。だからウィンドボナには各地の物産が全て集まっている、というわけ」

 私の質問にエンリコはすらすらと答える。さすがとしか言いようがない。

 それにしてもなるほどなぁ。これも中央集権化政策の一環なのかもしれない。
 モノが皇帝直轄の都市であるウィンドボナに溢れているということは、それだけ皇帝の力を示す事にもなるしね。

「それと、中央の金融取引組合っていうのは一体?皇帝が出資者なんですか?」
「あぁ、大分昔に高利貸しが問題になったことがあってね。その時は貴族が随分破産して没落したらしい。その対策として、金貸しの規制をするために、皇帝の許しを得た商人以外は金融業ができない事にしちゃったんだ」

 逆に言うと、一番美味しいところは皇帝が握っているという事になる。

 ゲルマニアの皇帝は他国の王より格下といわれているけど、こういうところはしっかりしているよなぁ。

 他国の王室はどうなっているんだろう。

「それにしても完全に組織化されているんですね、正直ちょっと意外でした」
「ま、ゲルマニアは新興国と言われてはいるけれど、それなりに歴史はあるしね」

 まぁそうだよね。実際他の国が長すぎなだけだよねぇ。
 6000年って……。10倍くらいサバを読んでいそうな気がする。

「さすが“商人の国”ですね。すごいです」
「へ、弱小国のトリステインなんかとは格が違うからな。格が」

 フーゴが私の褒め言葉に気を良くしたのか、胸を張って自慢する。
 トリステイン人がゲルマニアを田舎、といって馬鹿にするのと同様に(ゲルマニアの方がよほど都会な気がするんだけど)、ゲルマニア人もトリステインが好きではないらしい。
 君を褒めた訳じゃないから勘違いしないようにね。
 


「じゃ、今日はここまでにしとこうか。少しはためになったかな?」
「えぇ、凄くためになりました!ありがとうございます」

 講義が終わった後、窓から外を見ると完全に真っ暗で、道を歩いている人はほとんどいなかった。

 私はエンリコだけでなく、双子にも頭を下げる。無知な私のためにわざわざ時間を割いてくれたのだ。感謝せざるを得ないだろう。

 フーゴ?知らないよ、そんな人。



「よし、じゃ忘れ物をしないようにね」
「はい。ん……?忘れ、もの?」

 そこで私は思い出した。用事を忘れていた。

 一つは給金の事。

 いくら貰えるのかはわからないが、前借でもしないと生活できないまでに金がないのだ。
 昨日の夜ロッテと数えたのだが、手持ちの有り金の残りは86スゥ、8ドニエ。これではとてもではないが一カ月生活するのは無理だ。

 もう一つはロッテの事だ。

 あの吸血鬼を無理にでも職に就かせないと、このまま引き籠り化してしまいそうなのだ。
 それは非常に困る。

 早いうち、いや今日のうちに親方に相談をしておきたい。

「あの、まだ親方っていますかね」
「3階の事務室にいると思うけど……何で?」
「ちょっと私行ってきます、今日は本当にありがとうございましたっ」

 そう言ってもう一度深々と頭を下げると私は3階に向けて走り出した。





 その私の後ろ姿を見ながら、見習いのメンバーが口々に感想を述べていた。

「はは、面白い子だなあ。仕事で大分参っていたと思ったらもう元気になってる」

 エンリコは苦笑しながら言う。

「……それに頭も良い」「……うん」

 双子がそれに同意しながら、褒め言葉を口にする。

「褒めすぎっすよギーナさん、ゴーロさん。知ってて当たり前の事じゃないっすか」

 フーゴはそれに反発して文句をつける。

「でも実際あの子は頑張っていたしね。今日のところは。フーゴ君は、意味も無くあの子を虐めないように」
「……虐めてたら」「……お仕置きする」

 エンリコが「めっ」と釘を刺し、双子がさらに脅しをかける。



「みんな甘過ぎるぅー!」

 私が去った後の経理部屋では、そんなフーゴの叫びが響いていたと言う。





つづくでござる






[19087] 15話 カクシゴト(前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2011/07/23 02:10
「おとこは、きたなくののしるおんなのくちびるをふさぎ、おしてたおしました。しゅうどうふくをちからまかせにやぶりすてたおとこは、けだもののように……?」
「どうした?続けるがよい」
「……って、何を読ませてんのよ、この変態吸血鬼!」
「っくく、中々、読めるようになって来たではないか」
「はぁ。まぁ、ね。内容に気付かずに読んでしまうあたり、まだまだな気もするけど」

 悪びれる様子もなく、平然としているロッテに怒るのも馬鹿馬鹿しい。
 軽く溜息をついた後、私は硬いベッドの上にぼふ、とダイブした。
 


 現在は仕事が終わって、従業員寮の自室で読み書きの勉強をしていたところだ。

 これは毎日の日課。できるだけ早く覚えなきゃね。
 紙は高いので、エンリコが私塾時代に使っていたという石板とチョークを借りてきて使っている。

 口語が話せるだけあって、一度文字と単語さえ覚えてしまえば、それほど苦労はしない。
 ただ、書く方はまだまだだし、ロッテが教えてくれる単語は何と言うか、偏っている。

 エロ系とか。

「それはそうと、明日、一緒に行くわよ」
「前に言っておった仕事か?面倒じゃの……」

 ベッドの上からロッテに声をかけると、気が進まなそうな声でロッテが答える。
 明日は虚無の曜日。カシミール商店の定休日である。



 私達がケルンに来てから、二週間あまりが過ぎていた。

 私はこの期間で、全身筋肉痛になりながらも、少しずつ仕事にも慣れ、何とかやっていく目途が立っていたのだが、ロッテは未だに無職という体たらくだ。

 読み書きを教えてもらっていなければ、もはやただのごく潰し。

「面倒、じゃないわよ。全く。働かざる者食うべからず、っていうのよ」
「それは東方のコトワザというやつか?」
「いい言葉でしょう。貴女にぴったり」
「……ち、イヤミなヤツじゃ」

 ロッテはうんざりとした顔をして、プイ、と横を向く。

 現在の生活は私の給金を前借りしてなんとかやりくりしている。



 私の初任給は月に6エキュー。年収にすると、72エキュー。

 一般的に貧民とは、平民の平均年収、120~130エキューの半分以下の収入の者を指すから、私は晴れて貧民から脱却したことになる。ギリギリだけど。

 それと仕事用の丈夫な服と靴が支給された。男物なので、少しサイズは大きいが、これは嬉しいオプションだった。何せ服は一着しかもっていなかったからね。

 昇給は能力と年数によって変化するらしい。

 エンリコなどは、見習いでありながら、私の倍近い給金を得ている。ま、あの人はそれだけ仕事ができるし、当然なのかも。

 そして私が前借したのは、二人分の家賃を引いた今月分の給金、2エキュー。とてもではないが、二人分の生活費を賄える額ではない。

「今度は逃がさないから」
「ふん、お主ごときに捕まる妾ではないわ」

 初日の勉強会の後、その事を相談すると、「あれくらいの器量良しならば」とこの街の旦那達が贔屓にしているというキレイ所が集まっている酒場を勧められた。

 宿が一体になっているタイプではなく、極めて健全なタイプの酒場だという。

 健全な酒場ってなんだよ。
 ま、売春宿や娼館に比べたら、確かにマトモなのかも。

 ちなみに、酒場などの接客業や、武器屋のような小売業の定住商人の場合は、当然、その地域の商会組合(アルテ)に属している。
 商社や遍歴商人と違って、その方が地元に根付いた仕事がやりやすくなるからだ。



 虚無の曜日でも酒場はやっているということで、先週の休みにも、ロッテとともに酒場へと行く予定だったのだが、何時の間にか逃げられてしまっていた。

 ちなみに商人が多く集まるこのケルンでは、文字の読み書きができるのは特別なスキルではないらしく、それによって職が決まるような事はないそうだ。世知辛い。

 最近では、この吸血鬼、自分で仕事探しもしていないようで、昼間は街をぶらぶらとしているらしい、とは露店のオバちゃんからの情報だ。
 その割に、部屋に保管してあったなけなしの生活費を露店などで使い込んでいた事もあり(今は私が肌身離さず持っている)、私のイライラは頂点に達しつつあった。

「妾、最近気付いたんじゃ」
「何?」
「働いたら負けかな、と」
「……ぶち殺すぞ、ヒューマン」
「それは妾が言った方が適切な台詞……ぬぉ、やめんか、これっ!は、鼻が曲がる……っ」
 
 イライラをさらに煽るような発言にプチ、ときた私は腰にぶら下げた袋からハシバミ草の粉末を投げつけると、ロッテは両手で顔を覆って逃げ惑う。

 ロッテの苦手なモノその一。ハシバミ草。
 ま、その二はまだ発見できていないのだけれど。

 以前から食事の時に、全く皿に手を付けない事が何度かあったので、不思議に思った私が調べると、全てハシバミ草の入った料理だった事に気付いた。
 以来、私はハシバミ草を乾燥させて砕いた粉を入れた袋を常時持っている。私がロッテにできる唯一のささやかな抵抗だ。あまりやりすぎると後が怖いが……。

「げほっ、ぐほっ……。わ、妾が悪かった。行く、行くから」
「約束よ。破ったら部屋中にハシバミ草の粉を撒いて締めだすから」
「分かった、約束、する。分かったからもうやめて」
「よし、それじゃおやすみ」

 苦しそうに喉を抑えるロッテの言質を取ると、週末の疲労感に耐えきれず、私はそそくさとベッドに潜るのであった。





 翌日の虚無の曜日の夕刻。
 
 私達は酒場の開店前を見計らって、親方から勧められた酒場“蟲惑の妖精亭”へとやって来た。どこかで聞いたことのある名前の響きだ……。

 ロッテも観念したのか、今回は逃げずに足を運んでいた。よしよし、偉いぞ。

「ここね、蟲惑の妖精亭というのは」
「ふむ……普通、じゃな」

 外観は至って普通の大衆酒場。大きくもないし、派手でもない。これといった個性のない建物だ。

 私達は“じゅんびちゅう”と書かれた立て札が掛けてあるスイング・ドアを潜ろうとすると。

「はい、アン、ドゥ、トロワ!ミ・マドモワゼル!」
「ミ・マドモワゼル!」

 中から先導する甲高い中年とおぼしき女性の裏声と、可憐な女性の声の合唱が聞こえてきた。

 あれ、これどこかで覚えが……。

「こらこら、スカロンちゃん。声が出てないわよ。恥ずかしがってちゃ駄目でしょう」
「は、はい。すいません」

 どうやら合唱に参加していなかった男が、その事を責められているようだ。

 スカロン……?はて、誰だっけ。どこかで聞き覚えが。



 私とロッテが怪訝な表情で顔を見合わせた後、背伸びして中を覗くと、叱っているのは小柄な中年女性で、叱られているのは黒髪のがっしりとした巨躯の男だった。

 その後ろには厚く化粧を塗ったおねぃさん達が、やや困り顔で控えている。

「はて、黒い髪とは珍しいのぅ。初めてみたぞ」
「あの人どこかで会ったっけ……?」

 首を傾げる私だが、頭に靄がかかったように思いだせない。

「それにしても貴女がいなくなると、男手がなくなって困るわねぇ。独立の話、もう少し先延ばしにならないかしらん?」
「すいません、こればかりは……ん、どなたですか?」

 黒髪の男、スカロンが、ドアの前に立ち止まって様子を伺っていた私とロッテに気付いて小走りでやってくる。

 どうやら、スカロンはこの酒場の従業員のようだ。

「どうしたの、お嬢ちゃん?」
「すいません、この酒場で従業員を募集していると聞いて来たんですが」
「え?でもここは、お嬢ちゃんみたいな小さな子が働くようなところじゃ」
「あ、働くのはこの人です。私の姉なんですが……」

 我関せずとばかりにぼうっと突っ立っていたロッテをスカロンの前に押し出す。



「あらっ」

 ロッテの姿を確認するや否や、後ろに控えていた中年女性は、座っていた椅子をガタ、と蹴倒し、獲物を捉えた猛禽類のように、猛然と駆けてくる。

「あらあらあら、これはまぁ」
「な、何じゃ」

 中年女は目を輝かせながら、ちょこまかとロッテを四方から観察する。

「貴女、ここで働きたいって本当かしらん?」
「う、うむ。そういう事になっておるが……」

 その勢いに圧倒されたのか、中年女の質問にどもるロッテ。

 先程のスカロンとの会話から、この中年女がこの店の主人なのであろう。
 というか、それならこれって面接はじまってんじゃん?!

「トレビア~ン」
「はっ?」
「はい、みんなも一緒に、ト・レ・ビ・ア・ン」

 女主人は、他のおねぃさん達の方に向き直り、両手を開いて復唱を要求する。
 うぅん、何と言うか……すげぇテンションだ。

「ト・レ・ビ・ア・ン!」

 おねぃさん達は楽しげに、スカロンはヤケクソ気味に声を張り上げる。

「何なんじゃ……。というかお主はこの店の主人なのかえ?」
「ふふ、主人というのは、少し違うわねん」

 あれ、主人じゃないのか?

「では一体?」
「私の事はミ・マドモワゼルと呼んで頂戴」

 ロッテがその返答に訳が判らんといいたそうな、困惑の表情を浮かべるが、女主人は構わず続けた。
 
 ダメだろ、その態度は……。それじゃ面接落としてくれといっているようなものだって……。

「それにしても貴女、素晴らしいわ。奇跡のようなプロポーションじゃないの」
「む……まぁ、な」
「お顔もチャーミングで素敵よぉ。それにこんなに伸ばしているのに髪は艶々でサラサラ。どんなお手入れをしているのかしら?」
「そ、そうかの?いや、特には手入れはしておらんが……」
「ナチュラルビューティー?あぁん、ちょっと嫉妬しちゃうわ。私なんてお手入れしててもこのザマよ」

 体をくねくねとさせながら、ロッテの容姿をベタ褒めする女主人。
 最初は訝しげな表情をしていたロッテもまんざらでもないようで、顔がにやけてきていた。

 ロッテも女だと言う事だろう。自信のある容姿を褒められて嫌な気分になる女はいないのだ。

「じゃ、奥で冷たいものでも飲みながら、お話しましょうか」
「うむ、わかった」

 そう言うと、女主人はロッテを引き連れて、奥の部屋に消えて行った。この分なら無事に決まるかもしれないわね。さすが親方情報、頼りになるなぁ。


 
 完全に蚊帳の外となった私は、同じく置いてけぼりになっているスカロンの顔を覗き見る。
 やっぱり会ったことはないよなぁ。とすると、まさか“原作”の登場人物、か?

 こんな地味な人いたっけなぁ。



 スカロン、“蟲惑の”妖精亭、女装、筋肉、トレビアン………………はっ!



「あの、つかぬことをお聞きしますが」
「何だい、お嬢ちゃん」
「スカロンさん、でいいんですよね」
「ああ」
「もしかして、トリステイン出身です?」
「そうだけど、それが何か?」
「娘さんの名前はジェシカ?」
「ははは、子供はいるけどまだ嫁さんの腹の中。男か女かもわからないのに、名前なんてまだないよ」

 ふぅむ。結婚はしているみたいだけど、まだ子供は生まれていないのか。奥さんはゲルマニアの人なのか?

 目の前にいるスカロンは、黒髪が珍しいものの、大柄でがっしりとした、至ってノーマルな青年だ。

 これが、“あの”スカロンになるのだろうか。やはり人違いかもしれない。

 ま、本人だとしてもだから何だ、という感じもあるけども。なんというか、有名人に会う気分というかね。

「そうなんですか。ところで先程の独立がどうとかいう話は……?」
「あぁ、子供も産まれる事だし、そろそろ故郷で独立しようと思ってね。トリスタニアでここと同じような酒場をやるつもりだよ。もっとも、年内はこの店の従業員だけどね」

 その店が“魅惑の妖精亭”なのかな。

 スカロンの奥さんって“原作”では死んでしまっていたっけ……。
 それがアレになる原因なのかも。

「しかし、何でそんな事に興味があるんだい?」

 はた、と考え込んだ私に、訝しげな顔で私に質問を返すスカロン。

「あ、えぇと、そう、実は私も商店で独立を目指して見習いをやっているんです。それでお話を聞きたいな、と思って」
「女の子で商売の道を目指すなんて珍しいね。何をやっているお店?」
「交易です」
「えっ、商社なのかい?」
「はい」

 スカロンは商社と聞いて驚いた顔をして聞き返す。



 交易商人は、商人の中でも花形と呼ばれる存在ではあるが、実際は非常に厳しい世界でもある。

 失敗すれば大損、体力のない商社などでは、一瞬で破産する事もあり得る、リスキーな商売なのだ。
 ゲルマニアでは貴族が商社に投資する事はままあるが、商才、知識のない貴族が中途半端に手を出して破産、没落していった例も珍しくないという。

 それでも交易に手を出す者が多いのは、成功した場合の利益が莫大な額に膨れ上がる可能性を秘めているからである。

 そんな危険な商売を娘にやらせようとする親は、商家でも少なく、他の商売ではちらほら見られる女性商人も、交易商人に至っては皆無と言っていいほど少ないらしいのだ。

「そりゃすごい。やっぱり実家が交易をやっている商家なのかな?」
「いえ、実は私もトリステイン出身でして。こちらに商売の修行をしに来た、といった感じです」
「その歳で……?しっかりしてるというか、何と言うか……。親御さんが心配しているんじゃないかい?」
「……大丈夫です」

 そこはあまり触れないでほしいところだ。
 ま、普通はそう思うか。

「ところで、あの人本当に君のお姉さん?……その、あまり似ていないものだから」
「えっと、それはいろいろ訳ありでして。腹違いの姉妹というか……」
「あ、ごめん、言いづらいことだったかな」
「いえ、大丈夫です。全然気にしていませんよ」

 むぅ、似ていない、か。私だってもう何年か成長すればあれくらいには……。




「おぉい、決まったぞ!」

 しばらくの間、スカロンとそんな話をしていると、ロッテが奥の部屋から出てくるやいなや、そんな声を上げた。

 え、決まったって?
 何このスピード採用?……ずるい。

 もっと、試験とかさ、そういうので苦しむ所が見たかったのに……。

「あの、本当に採用なんです?」
「もっちろんよ。ロッテちゃんならすぐに売れっ子になれるわ」

 私がロッテと一緒に出てきた女主人に確認すると、彼女は上機嫌にそう答えた。

 あはは、やっぱり女は見た目なんだね。

 世の中の理不尽に憤りを感じるが、ま、とにかくロッテの仕事が決まって良かったか。
 これで生活苦ともお別れできればいいな。

「それで、仕事はいつから?」
「今日から、じゃ。くふふ、お主のしょっぼい給金より稼いでみせるぞ」
「そのショボい給金にタカる気満々だったのはどこのどなただったかしら……。ま、そういう事なら頑張って」

 しかし、気が早いことだなぁ。というか、何でこの人俄然やる気になっている訳?

 この怠惰な吸血鬼をやる気にさせるとは、この女主人、やり手だ。

「ミ・マドモワゼル」
「あら、何かしら。妹さん?」
「姉をよろしくお願いしますね。ビシビシ扱いてやってください」
「ほほほ、任せなさい。お姉さんはワタシが責任を持ってスターにしてみせるわ」

 私が女主人に頭を下げると、彼女はどん、と胸を叩いて言う。

 さて、無事にロッテの就職も決まったわけだし、私はそろそろ退散しますかね。
 帰りにちょっと買いたい物もあるしね。

「何じゃ、お主もう帰るのか?妾の仕事ぶりを見て行けばよいのに」
「悪いけど、明日からの仕事もあるし、今日は寝溜めしておきたいのよ」
「折角の休日を睡眠にあてるとは、虚しい青春じゃのう」

 放っとけ。
  
 ロッテの物言いにカチンときた私は、そこで彼女との会話を切り上げて、カウンターの中で作業していたスカロンに声を掛ける。

「それじゃスカロンさん、私は帰りますので」
「おや、もう帰るのかい」
「えぇ、明日も朝が早いので」
「頑張りなよ」
「はい、そちらも奥さんを大事にしてあげて下さいね。産後、産前は特に体調を崩しやすいですから」
「ははは、言われなくても」

 私は真剣な表情でスカロンに忠告するが、スカロンは軽く流してしまう。

 “原作”通りに奥さんは死んでしまうのだろうか……。
 かといって、何が原因で死ぬ事になるのかもわからないのに、私にできる事は何もない。

 知っていて何もできない、というのも、もどかしいものね……。



 そんな事を悶々と考えながら私はロッテを残して酒場を後にしたのだった。





後編に続く
例の如く、半端なく長くなってしまったので二つにぶった切ります。話が進まねぇ……。






[19087] 16話 カクシゴト(後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2011/07/23 02:11
 アリアが“蟲惑の妖精亭”を後にしてから、数時間後。

 今日も今日とて、“蟲惑の妖精亭”はこの街の富裕層を中心とした客でごった返していた。



「ロッテちゃん、3番テーブルのお客様から、ご指名よ!」

 女主人の威勢のいい声が店内に響く。

「ま、またか……少し休ませてくれんか、の」
「はは、初日からこんなに指名をとるなんて凄いじゃないか」

 膝に手をついて弱音を吐くロッテに、厨房で料理を作っているスカロンから声が掛る。

「そう、かのう。これだけ忙しい割にはあまり儲けが無いような……」
「どこが?!さっきからかなりチップを貰ってなかった?」

 ロッテの懐には、客の中年男達が撒いた大量のチップによって、どっしりと重くなった財布袋が入っていた。

 ただ、彼女の金銭感覚は、3年間の屋敷生活によってかなり狂っていたのだった。
 何せ、一人につき最低でも150エキューはする奉公人をほいほいと買っていたのだから。

「ロッテちゃーん、早く、早く!」
「ぐ、行ってくる」
「あ、これ持っていってね、リーゼロッテさん」

 そう言ってワインと鶏料理の盛られた皿をずい、と突き出すスカロン。
 ロッテは渋々、といった感じでそれを受け取って、指名のあったテーブルへと向かう。



「ご指名ありがとう~、新しく入ったリーゼロッテで~す。よろしくお願いしますぅ」

 もしアリアが聞いていたら爆笑したであろう、少し頭の足りないような猫なで声を出すロッテ。

「おぉ~、こりゃ別嬪さんだなぁ!ささ、こっちへ」
「失礼しま~す」

 指名した髭の中年男は満足げに頷き、自分の隣の席を勧めると、ロッテはにこり、と笑いかけながら、しゃなりと座る。

 もはや別人である。さすが女優を自称するだけの事はあるようだ。
 
「今日はお仕事お休みなんですか?」
「あぁ、店の方は若い奴に任せてあるからな」
「えぇ~、お店をやってらっしゃるんですか?すごぉ~い」

 世辞を言いながらロッテは、両手を祈るように組んで目を輝かせながら上目遣い。
 
「え、へへ。まぁ、ちっちゃこい店だけどよ」
「またまた、謙遜しちゃって。でも、そういう控えめなところも素敵だわ。お髭もとっても似合っているし。お客さん、モテるでしょう?」

 当然ながら、そんな事を本心で思っているロッテではない。

 はっきり言って、この髭男、どうみても女にモテそうにはない顔なのだが、髭は手入れしているし、服もパリッと決めている。
 こういう男は、心のどこかで自分はイケてるはず、と思っているのだ。

 それを一目で見抜いたロッテはその自尊心を擽ってやっているに過ぎない。

「い、いやぁ。俺はもう結婚してるしな」
「そうなのぉ?勿体ないなぁ」
「勿体ない?」
「結婚は結婚。恋愛は恋愛だと思いません?」
「それは……どういう?」
「あぁん、言わなきゃだめ?」

 自分の頬に両手を当て、体をくねくねとさせるロッテ。
 実に思わせぶりな態度である。

「まさか、そんな事……ほ、本当かい?!」
「だけど私こういう仕事をしているから……相手にしてくれませんよね?」
「そんなわけないじゃないか、大歓迎だよ!はは、ははは」

 ロッテがやっているのは、いわゆる色恋営業というやつだ。

 何だかんだ理由をつけて、「私に会いに来る時はお店に来てね」というアレ。
 これに引っかかると、まず理性をやられ、次に金を毟られる。そして金がなくなると音信不通になってしまうという恐るべき営業方法である。
 短所はあまりやりすぎると、恨みを買って後ろから刺される事であるが、ロッテに至ってはその心配はない。

 こんなえげつないテクニックを駆使するという事は、彼女とて、屋敷に来る前は人間に紛れてそれなりの人生経験を積んでいる、という事だろう。




(人間の雄など単純なものじゃな。ちょっと気があるフリをしてやればイチコロよ。くふふ、クひ、くひゃ)

 ロッテは堕ちていくおっさん達を見て心の中でほくそ笑む。

 そして、おっさん達は、自分達にこんなに若く美しい娘が靡くわけがない、と思いながらも積むのだ。チップを。山のように。

 まるでその数を競い、その勝者こそが、その花を手に入れる事ができるかのように錯覚して。



 男とは、げに悲しい生き物である……。



 この日、ロッテは勤務初日にも関わらず、ダントツでトップの売上(チップ)を獲得。

「しかしケチくさいやつらばかりじゃの……。100(エキュー)や200くらいポン、と出せる男はおらんのか」

 しかしロッテは不満顔で、そんな愚痴を漏らしていた。

「恐ろしい子……」

 それを耳にした蟲惑の妖精亭の先輩である女の子達は、突如現れた強欲な新星に、思わずそんな事を口走ったと言う。





「くぁ、流石に客も少なくなって来たのぅ」
「そろそろ店じまいも近いからね。明日から仕事の人も多いし」

 両手を上に突き出し、伸びをしながら言うロッテ。スカロンは食器を片づけながら答える。

 そろそろ夜も更けに更け、蟲惑の妖精亭の閉店時間も近づいて来ていた。
 酒や料理を楽しんでいる客の数もまばらになり、店の女の子達の中には、既に帰り支度を始めている者もいた。



 そんな閉店準備が始まったころ。



「キャー!」

 突然、耳をつんざくような黄色い歓声が上がった。

 ロッテが何事か、とそちらを見ると、入店してきた一人の青年に店の女の子達が群がっているようだ。

「何なんじゃ、一体」
「あぁ、あれは劇作家のジルヴェスター様だよ。“天才”なんて呼ばれてるすごい先生さ。店の常連でね。若い上に男前だし、気前もいいから店の女の子達に人気があるんだ」
「ほう、それは中々期待できそうな男じゃの。どれどれ…………っ?!」

 背伸びして劇作家ジルヴェスターを見た途端、ロッテは固まった。
 
 彼はすらっとした長身で、男性にしてはよく手入れされているプラチナブロンドに碧い瞳。確かに男前なのだが、ロッテはそれに見惚れたわけではない。

 もっと、別の理由があった。

「ち、面倒な……」
「どうしたんだ?」
「い、いや何でもない。……ちょっと妾、気分が悪くなってしまったのでな。裏に行って来るぞ」
「おい、大丈夫か。顔が青いぞ」

 何やら焦ったようにその場を離れようとしたロッテだが。

「おや、新人の方がいるのですね。では、今日はその方を」
「ええ~、今日はあの娘ばっかり指名されてるんですよ~、ずるい~」

 わざとらしく、大きな声でロッテを指名する声が聞こえてきた。

「すまん、主人。妾体調が悪くて……」
「何言ってるの、さっきまであんなに元気だったじゃないの。ほらほら、疲れた時も笑顔、笑顔」
「これ、本当に……っ」

 ロッテの意向を無視してぐいぐいとロッテを押していく女主人。
 仕事なので当然といえば当然だが……。



「ほう、これは美しい。まるで、御伽の国から抜け出してきた姫君のようですね」

 ロッテを見ると、芝居がかった仕草でジルヴェスターがその容姿を褒めたたえる。

「…………」

 しかし、ロッテは目を逸らしたまま、それに答えない。見かねた女主人がフォローを入れる。

「申し訳ありません。この娘ったら、緊張しちゃってるみたいで。ほら、ジルヴェスター様は男前ですから、うふふ」
「ふふ、構いませんよ。女性が初対面の男の前で固くなるのは自然な事ですから」

 気にした様子もなく、柔和な笑みを浮かべるジルヴェスター。

「では、お邪魔虫は退散致しますわねん、ロッテちゃん、しっかりね!」
「お、おい」

 ロッテは引きとめようとするが、女主人は二人から離れていってしまった。

 残されたのはロッテとジルヴェスターの二人だけ。他の女の子達やスカロンは、遠巻きにこちらの様子を見ているだけだ。

 声までは届くことはあるまい。
 


「どうぞ、お席に」
「……失礼」

 仄かにムスクの香りを漂わせるジルヴェスターは、自分の隣の席にハンカチーフを敷いて、席を勧める。

「はじめまして、ですね」
「えぇ、ハジメマシテ」

 笑みを崩すことのないジルヴェスターとは対称的に、ロッテの表情は暗い。

「まぁ、そう警戒しないで下さい。折角のワインの味が悪くなってしまいますよ」
「……余計なお世話、じゃな」

 気遣いに対して刺のある言葉で返すロッテ。

 ロッテが素の状態であればそれほどおかしな発言でもないが、先程まできちんと客に対応していた事を考えれば、明らかに不自然な対応である。

「おや、どうやら嫌われてしまったみたいですね。これは残念」
「貴様のような気障な男を好くほど落ちぶれておらんわ」
「はは、手厳しい。この性格は仕事柄といったところでね。直しようがありません」

 両手を開いて肩を竦めるジルヴェスター。

「……さっさと用件を言え。先住者」

 ロッテはジルヴェスターを睨みつけながら、命令を下す。


 
 そう、彼もまた吸血鬼。それもロッテよりも以前からこの街をネグラとしている者であった。



「無粋ですねぇ。出会いは一期一会、と言います。もう少しこの時間を楽しみませんか?」
「下らん」

 指をぱちん、と鳴らしておどけてみせるジルヴェスターに、苦虫を噛み潰したような顔をするロッテ。

「ふむ、あまりそういった気分にはなれないといったとご様子。……わかりました、手短に用件を伝えましょう。今日はですね、この街から退去しては頂けないか、というお願いに参ったという次第でして」

 要は俺の縄張りだから出て行け、という事だろう。
 
 吸血鬼同士の縄張り争いは熾烈を極め、新参者が縄張りを荒らした場合、問答無用で殺し合いに発展する事もありうるのだ。
 そういう意味では、わざわざ退去勧告を申し渡しに来たジルヴェスターは紳士的、とも言えた。

「……嫌だ、と言ったら?」
「ふふ、困ってしまいます」
「そうか、では頭を抱えていれば良い。どこへ行こうと妾の勝手じゃ」
「にべもありませんね。……そうそう、ウィースバーデンの屋敷の住み心地はいかがでした?」

 ぴくり、とロッテの体が跳ねる。その様子を見てくつくつと面白そうに笑うジルヴェスター。

「……成程、こちらの事情は既に把握済み、という事か」
「えぇ、もっとも、完璧にと言う訳にはいきませんでしたが。貴女の素性程度は、ね。最初は目を疑いましたよ。同族が堂々と憎たらしい太陽の下で歩いているんですから。あれは【変化】で人間に化けているといったところでしょうか?」
「わかっておるなら聞くな、鬱陶しい」
「ふふ、正解だったようですね。しかし、そんな芸当ができる同族は普通いませんよ?素晴らしい才能です。さすがは」
「……余計な事をベラベラと……反吐が出る」

 何かを言いかけたジルヴェスターの口に皿の料理を突っ込み黙らせるロッテ。
 その先は彼女の触れられたくない事であったのかもしれない。

「おしゃべりな男はお嫌いですか?」
「嫌いじゃな。捻り殺してやりたいくらいに」
「ふふ、それは怖い」

 吸血鬼は一般的に日光が弱点である。それは実はロッテも変わらない。
 普通に日光の下に晒されれば、その皮膚は焼け爛れてしまうだろう。

 しかし、彼女は昼間には、精霊魔法の【変化】を使って、その身を人間へと変える(最も外見が変化しているわけではないが)事によって、日光を克服していたのだった。

 ジルヴェスターが言うように、そのような事が出来る吸血鬼はまずいない、と言っていい。
 【変化】は元々、韻竜など、知能を持った幻獣種が人型を取るための魔法であるのだ。
 吸血鬼などの亜人がそれを駆使する事は極めて難しいとされている。
 
 スカロンはジルヴェスターの事を“天才”と言ったが、吸血鬼として“天才”であるのは、実はロッテの方だった。

「……しかし、それだけ調べ上げたならば尚更、貴様では妾には勝てん、と分かるじゃろうが。何を考えておる?」
「ふふ、果たしてそうでしょうかね?こう見えても腕には少々自信がありまして。ここ100年ほど、この街を動いておりませんのでね」

 それは100年もの間、縄張り争いで負けた事が無い、と言っているのだ。

「どうせ“森の敗者”共程度の相手しかおらんかったのじゃろう?」
「まぁ、そうでしょうね。どれも手応えがなくて退屈でした」
「くふ、それで妾にも勝てると?」
「えぇ。おそらくは、ね」
「……貴様、妾を奴らのような脆弱な存在と一緒にするか!」

 ジルヴェスターの言葉に、ロッテは今にも立ち上がりそうな姿勢になり、怒気に満ちた声で言い放つ。



 “森の敗者”とは、同族との勢力争いに負けたり、人間によって追われ、野に下った吸血鬼達、そしてその子孫の事を指す。
 吸血鬼の世界では、その名の通り、敗者として蔑視の対象となっている。人間で言う、賤民のようなものだ。

 当然ながら、吸血鬼の世界にも、厳格なヒエラルキーが存在するのであった。



「ふふ、これは失礼。しかしながら、貴女の今の立場は彼らとあまり変わりありませんよ」
「何じゃと?」
「ガリアでは貴女のやったことの後始末で大変だそうです。モンベリエ侯爵家、でしたか。家の威信にかけて“報復”する、などと言って、私兵やら傭兵を動かして国内の吸血鬼狩りをしているそうですよ。勿論貴女の事を最優先でね。……全く、困った物です」

 ふぅ、と溜息をついて額に手をやるジルヴェスター。

 モンベリエ、と言えば、ロッテの“食糧”として命を落とした令嬢の家である。
 
 ガリアでも有数の力を持つ大貴族、モンベリエ侯爵家は、一人娘を手にかけたロッテを未だに追っていたのだ。それも総力を挙げてだ。

 つまりロッテは追われる者。それは森の敗者達が辿る道と同じではないか、と言っているのだ。

「ち、もう3年も経つのにしつこい奴らじゃの」
「人間というのは不思議な物です。生ある仔を捨てる親もいれば、死した仔のために狂ったような愛情を見せる事もある」
「く、くく、吸血鬼が人間の愛を語るとはな、お笑いじゃ」
「ふふ、そうですかね?」
「ふん……。しかしそれではますます出て行けんな。ガリアにも帰れんではないか」
「まことに申し訳ありませんが、そちらの事情は我々には関係ないのです。どうしても、というのであれば実力行使、という事になりますが、よろしいでしょうか?」

 若干強い口調で、毅然として言うジルヴェスター。

 その言葉でロッテの纏う空気が変わった。



 即ち、戦闘態勢。



 今にも飛び掛りそうなほど獰猛に牙を剥き出しにしたロッテの青い瞳は、徐々に深紅に染まっていく。

「この身の程知らずが……あの世で自分の浅はかさを悔やむが良い……」

 殺気を込めた声で威嚇するロッテ。

「まぁ、落ち着いて下さいよ。さすがにこんなところで騒ぎを起こす訳にはいかないでしょう。それは貴女も同じ事では?」
「妾は一向に構わんが?」
「やれやれ、貴女は些か好戦的過ぎます。そんな事をしては、あの娘、アリアちゃんでしたっけ?彼女にも迷惑がかかりますよ?」

 ニタリ、と厭らしい笑みを浮かべるジルヴェスター。
 
「貴様……」
「えぇ、彼女には私の屍人鬼を監視に付けてあります。何せ貴女と深い関係にあるようですからね。……しかし何故あんな人間の小娘に肩入れしているのです?それも生かしたまま。貴女ともあろう方が」
「べ、別に……肩入れなどしておらん。あやつは、妾の……、そうじゃ食糧兼奴隷といった所でしかない」
「ほぅ……私には貴女があの娘に従っているように見えましたが」
「愚弄するか、貴様……」

 米神に青筋を立てるロッテ。もはや暴発寸前だ。

「いえ、そんなつもりは。ついつい余計な事を喋ってしまう、私の悪い癖です。申し訳ない」
「………………」
「こちらとしても、すぐに出て行け、とは言いません。新しいネグラを見つけるにしてもそれなりの時間はかかるでしょうし」
「…………それは、譲歩してやる、という意味か?」
「えぇ、そう取って頂いて構いません。こちらとしても無益な争いはしたくありませんのでね。具体的には、年内に引き揚げて頂く、という事で。どうでしょう、これだけ時間を取れば問題ないのでは?」
「……わかった、考えておく」
「ふふ、良い結論を導き出す事を願っていますよ。私としては、貴女のような美しい方の死に顔はみたくないのでね」

 ジルヴェスターはそう言って、ロッテの顎を指先で持ち上げるように触れる。

「こ、この無礼者っ!」

 激昂したロッテは、椅子を派手に吹き飛ばしながら立ち上がり、店中に響くような怒号を上げた。

 彼女にとって、吸血鬼の男に触られるのは、人間の雄に触れられるのとは訳が違うのだ。
 それは人間の女が、家畜やペットに触られるのは気にしないが、恋人でもない男に触られるのを嫌うのと同じ事。
 


「ど、どうしたの?」「何かあったの?」「トラブル、かしら?」

 遠巻きに見ていた店の女の子達が騒ぎだす。

「どうかなさいましたか、ジルヴェスター様?」

 トラブルとみるや、スカロンが厨房から飛び出して、急いで駆け付けて来る。
 どうやら彼は、蟲惑の妖精亭のバウンサー的な役割も果たしているらしい。

「申し訳ありません。私の言動で、彼女に不快な思いをさせてしまったようです」

 そう言って、自分の財布袋を丸ごとロッテに差し出すジルヴェスター。
 どうやら吸血鬼達の金銭感覚がおかしいのはロッテに限ったことではないらしい。

「……ふざけるなっ!下衆がっ」

 ロッテは敵意を剥き出しにして、その手を撥ねつける。

「リーゼロッテさん、どうしたの?!落ち着いて……」
「えぇい、離せっ!」
「な……す、すごい力……っ」

 スカロンは激昂したロッテを後ろから羽交い締めにして抑えつけるが、本気になったロッテの力は、如何に大男のスカロンといえど、到底抑えきれるものではない。

「ジルヴェスター様、今日のところは……」

 いつの間にか出張って来ていた女主人がジルヴェスターに、やんわりと退店を促す。

「えぇ、すいません。なんだかトラブルを起こしてしまったみたいで」
「ほほ、お気になさらず。私の方からよぉく言い聞かせておきますから、ご安心を……」

 ジルヴェスターに付き添い、出入り口へと消えて行く女主人。

 ロッテはその様子を、憎々しげに歯噛みしながら眺めていた。





「帰ったぞ……」

 ぼそぼそ、と元気のない声を出しながら、自室のドアを開けるロッテ。

 ロッテが部屋に帰ったのは、丁度アリアが出勤する頃になってからだった。
 客に、それも常連に対して暴言を吐いたロッテは、あれからこってりと女主人に絞られたのであった。

 売上はトップでも、初日からあんな騒動を起こせば当然である。
 クビにならなかっただけマシ、といったところだろう。

「ほふ、ほはへひなはい(おう、おかえりなさい)」

 アリアは朝食の黒パンを咥えながら、肩を落としたロッテを出迎える。

「何じゃ、一人で食っておったのか。なんて薄情な奴なんじゃ」
「ほんはほほ、いっはってぇ(そんな事いったって)」
「食ってから話せ……まったく、汚ないのう」

 嫌そうに顔を顰めるロッテの言葉に、珍しく素直に従い口の中の物を急いで腹に押し込むアリア。

「一応、帰ってくるまで待とうと思ったんだけどさ。あんまり遅いからね。もう出勤しなきゃいけないし」
「む、もうそんな時間だったのか」
「どうせ何か失敗して絞られていたんでしょう?」
「さあ、の……」

 いつもなら言い返してくるロッテがしおらしく、しゅんとしているのを見て、アリアは訝しげな顔をする。

「何か、貴女、変じゃない?本当に何かあったの?」
「な、何でもない、何でもないぞ。ただ、ちょっと叱られてしもうただけじゃ」

 ロッテはジルヴェスターの事はアリアには話さないつもりだった。



「はぁ、初日から雷貰ったのかぁ。その分だと給金も期待できなさそうね……。折角買ったのに無駄になりそう、アレ」
「アレ?」

 アリアが顎でしゃくる方をロッテが見ると、なにやらコルクの栓をした大き目の瓶が、二つ、置いてあった。

「なんじゃ、ただの瓶詰め用のガラス瓶ではないか。それも空っぽの」
「空じゃないわ、良く見なさい」

 その言葉に、ロッテが瓶に近づいて良く見ると、片方の瓶には20(ヴァン)スゥ銀貨が1枚と、ドニエ銅貨が3枚ほど入っていた。

 瓶のコルクには下手くそな字で「アリア」と書かれている。

「何じゃこれは」
「貯金箱、よ。独立するにはお金がかかるからね。そこに少しずつお金を貯めようと思って」
「ふむ……。もう一つの瓶は何じゃ?」
「貴女用の、よ」

 その言葉に、ロッテがもう片方の瓶のコルクを見ると、こちらには「リーゼロッテ」という、これまた下手くそな字が書かれていた。

「妾にも貯金せよ、というのか?」
「別に強制はしないけど、さ。勿論、自分の給金は好きに使えばいいわ。けど、放っておいたら貴女の場合、めちゃくちゃな金遣いですぐに素寒貧になりそうだしね。せめてもの親心ってやつよ」
「……なぁにが、親心じゃ、このっ」
「うげ、怒った」

 怒ったようにアリアを追い回すロッテだが、その表情は柔らかかった。



(……下手くそじゃが、もう名前は書けるようになったのじゃな。それに貯金、とはな。どうやら本当に妾との約束を守る気らしい。くふふ、律儀というか、阿呆というか)

 自分では否定するだろうが、ロッテは確かに愛着を感じ始めていたのだ。この生活に。

 だからこそ、それを壊しかねない事はアリアには隠して、密やかに決着をつけるべきだ、と考えていたのだった。

「しかし貯金か。そうじゃ、どうせなら競争でもせんか?」
「競争?」
「どちらが多く溜められるか、という競争じゃ。負けた方は勝った方の言う事を一つ、なんでも聞くというのはどうじゃ?」
「貴女、結構無謀ね。こういうのは、コツコツと地道な努力を続けられる者が勝つのよ?浪費家の貴女じゃ相手にならないわ」
「それは、どうかの?」

 ニヤリと、笑って懐からじゃらじゃらとイイ音のする袋を取り出すロッテ。

「ちょ!何それ?!」
「妾にかかればこんなものよ。天才とは、何をやらせても一流、という事じゃな」

 言いながら、ロッテは自分の貯金箱の中にエキュー金貨を1枚放った。

「き、金貨ですってぇ?」
「くふ、お主の方がこれに追いつくのは何時になるのかのう?」
「ぐぐ……見てなさいよ。レースはゆっくり、じっくりの亀が最後は勝つんだから」

 悔しそうな表情を見せるアリアをニヤニヤと見下すロッテ。



「あ、やばっ、もうこんな時間じゃない!」

 しばらくの間そうしていた二人だが、不意に窓から入って来る光に気付いたアリアが悲鳴に似た声を上げる。

 空はもう白んできていた。

「また遅刻か?駄目な奴じゃのう」
「うっさい。それじゃ行ってくるから」

 バタバタと慌ただしく駆けて行くアリア。





 その後ろ姿を眺めながら、ロッテは思い出したように呟いた。

「何が、譲歩じゃ。年内には出て行け?上等じゃ、あの気障男め……。次に会った時は八つ裂きにしてくれる……」

 そう呟くロッテの表情は、物語の中で語られる、恐ろしい化物である吸血鬼そのものであった。



 この隠し事が、後々、どんな事件を引き起こすのかは、この時はまだロッテも、そしてアリアも知る由も無かったのである。





つづけ





[19087] 17話 晴れ、時々大雪
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2011/07/23 02:12
 ケルンの冬、特にこのヤラの月の肌寒さは中々に厳しいものがある。

「よく降るわね……」

 ほわほわと降りしきる雪を、窓から眺めてぼんやりとぼやく私。

 外は一面さらりと降り積もった白銀世界。
 私と同じくらいであろう歳の子供達が、白い息を弾ませて、雪だるまを作ったり、雪合戦をして遊んでいる。

(はぁ、私も普通の家に生まれていたら、ああやって遊んでいる歳なのよね……)

 なんて、自分の境遇を悔やんでも仕方ないのだけれど。

 ゲルマニアに来て初めての始祖の降臨祭の期間も終わりを迎え、また忙しい毎日が始まっていた。

「ぼうっとしてんじゃ……」
「おわっ!」

 余所見をしていた私は、フーゴの注意も虚しく、ずる、と脚立の上から滑り落ちてしまう。

「つつ、気をつけやがれ、馬鹿!」
「ごめん、ごめん」

 フーゴが下敷きになってくれたおかげで、怪我はしなかったようだ。

 彼とは、年が近い事もあり、何かとセットとして扱われる事が多い。
 彼としてはそれが気に喰わないらしいが……。



 現在は年始の大掃除の真っ最中。

 カシミール商店では、というか、多くの商店では年末の商戦で大忙しである年末ではなく、年始めに掃除をするのだ。
 まぁ、年始めは年始めで忙しいのだけれど、貫徹当たり前の、地獄の年末に比べればマシだろう。

 う、今思い出しても吐きそうになってきた……。
 あの年末の恐怖が今年も来るのかと思うと、今からゾっとするくらいだ。

「って、いつまで触ってんのよ」
「え?あ……。わ、わりぃ」

 私が冷めた目で睨むと、フーゴは慌てて、私の尻を鷲掴みにしていた手を引っ込める。
 低かった背も少し伸び、体も若干丸みを帯びてきた今日この頃。

 年が明けて、私は11歳になっていた。

「へ、元はと言えばお前の不注意じゃねぇか。それにちんちくりんの尻触ったって嬉しかねーよ」
「だらしなく鼻の下伸ばしてたくせに。このエロ河童」
「この……っ!てめぇのケツなんて頼まれたって触らねえよ、ドブス!」

 パチパチと火花を散らしながら睨みあう二人。

「はい、はい、そこまで。喧嘩した罰として倉庫の掃除は全部二人でやること」
「えぇ……」「そりゃないっすよ……」

 エンリコが、ぱんぱん、と手を叩いて仲裁に入る。
 
 くそぅ、フーゴのせいで私までペナルティを喰らったじゃないか……。

「アンタのせいだからね」
「お前のせいだろ」

 またもや睨みあいを始めた私達を見て、はぁ、と溜息を漏らすエンリコ。

「ほらほら、早くしないと帰れなくなるよ」
「くぅ……」
 
 すごすごと作業に戻る私とフーゴ。年始めから残業確定である。
 もう、泣きたい。

「全く、この2人はいつになったら仲良くなれるんだか……」
「……違う」「……逆」

 エンリコの独り言にギーナとゴーロが意見する。

「逆?」
「……ケンカするほど」「……仲が良い」
「そんなものかなぁ?」

 腑に落ちない顔のエンリコに、うんうんと頷く双子。
 断じて違うからね。勘違いしないように。



 ま、こんな感じで今日もカシミール商店は概ね平和である。


 
「アリア、いるか?」

 ぶつくさ言いながら、たまにフーゴと言い合いをしながら、しばらく作業を続けていると、親方の呼び声が聞こえた。

「どうしましたー?!」
「ここの、面積の求め方がわっかんねェんだが」

 窓を拭きながら、背を向けて親方に答える私。、
 親方は、ボリボリと頭を書きながら、私が年末に出した宿題の書かれた紙をぺらぺらと揺らす。

 読み書きの方は、毎日欠かさず勉強していた事もあって、既に問題はなくなっていた。
 ロッテに習ったせいか、スラングがやたら多い気がするけどね。

「あ~、わかりました。えっと、どうしよっかな」
「行ってこいよ」

 フーゴは顎でしゃくって早く行け、と促す。
 ほぅ……珍しい事もあるもんだ。

「ごめん、じゃ行ってくる。あとよろしくっ」
「お前の分は残しといてやるよ。俺は優しいからな」

 ニヤリ、と笑って返すフーゴ。本当、イヤな奴だ。



 これがこの半年で変わった事の一つ。

 親方が“東方”の算術(というか現代数学)を教えてくれ、と言う事で、正規の終業時間が終わった後、私が数学を教える事になっていた。

 彼に数学を伝授する授業料として、月に2エキューを給金に上乗せしてもらっている。

 教えているのは、商売に使えそうな統計、幾何、行列の知識。

 商売には全く関わりのない分野はスルーしておいた。
 ちなみに先程、親方が分からないといっているのは楕円の面積の求め方である。

 親方は中々勉強熱心で、既に基礎的な数学の考え方はモノにしているから驚きだ。
 私としては、ハルケギニアの人には中々理解できる物じゃないだろうな、とタカを括っていたのだが。

 ともかく、これで月の収入は8エキュー。月に貯金できる額もかなり増えた。
 
 独立の日も近い、と言いたいところだが、お金は勿論、まだまだ色々な物が不足している事を痛感する毎日だ。





 そしていつも授業に使っている、例の3階の事務室(親方の書斎)。

「そういやぁ、お前が来てからもう半年になるな」
 
 カシミールは問題用紙と睨めっこしながら、そんな事を呟く。

「えぇ、おかげさまで」
「で、金は少しは貯まったか。独立を目指してるんだろう?」
「まぁ、少しずつですが。姉には負けますけどね」
「はっはは、そりゃ蟲惑の妖精亭のナンバー1には勝てねえだろ」
「むぅ……」

 悔しそうに言う私を笑い飛ばす親方。

 ロッテは入店以来、蟲惑の妖精亭のナンバー1の座をずっと維持しているのだ。

 その収入は相当なもので、月に30エキュー近くを稼ぎ出している。
 私の3倍以上の収入だ。

 意外にもあまり散財はしていないようで、貯金箱の中身も私のものとは歴然とした差になってしまっている。

 正直悔しいが、ロッテが真人間(?)になったと思えば、私も少しは安心だ。

「独立、か。懐かしいな。俺も駆けだしの頃は苦労したもんだが……」
「親方は行商人をしていたんでしたっけ?」
「あぁ、10年くらいな。それで金を稼いで、コネを作って、定住商人としてデビューしたってわけよ」
「やっぱり最初は行商人としてスタートするのが普通なんですか?」
「駐在員で金を貯めて、正社員(出資者)側に回るっていうやり方もある。その方が危険は少ないが、確実に遠回りだろうな」
「早く身を立てたいなら行商人、じっくりと安定を目指すなら駐在員、ですか」
「まあ、腕に自信があるなら行商人、ないなら駐在員だな。まぁ、自信がないやつが商売するな、って話もあるが」

 とすると、私はまず行商人、つまり遍歴商人を目指すべきだろう。
 ロッテとの約束もあるが、私自身が早く上のセカイを見てみたい、というのが大きい。

「行商人を選んだとして、初期投資ってどれくらいかかりますか?」
「……そうだな。まずは行商に絶対必要な馬車。2頭立ての馬車として、普通の馬が一頭大体80~120エキュー。馬車はピンキリだが、商売道具だからな。それなりに丈夫なのを買うとして、平馬車のいいヤツで150~200エキューってところか。次に組合(アルテ)への加入費と年会費が50~100エキュー。ケルンなら安いから50だな。それと最初の仕入れ、雑費、その他もろもろを考えると……まぁ、500エキュー程度を見積もっとけば問題ないだろう」
「ふむ、500かぁ。ロッテ……姉さんのお金が使えればなぁ……」
「……馬鹿野郎、商売の最初から人の金をアテにしてんじゃねェ!」
「あだぁっ……ぅう、すいません」

 親方の鉄拳が飛ぶ。
 カシミール商店の教育方法はスパルタ方式なのだ。

 しかし、500エキューならば、そう非現実的な数値ではない。
 おし、やる気出てきた。

「まぁ、良く考えて決めるこったな。行商人を選んだ場合、商会の後ろ盾はねェから、一つの失敗で破産する危険が高い。それに旅を続けるっていうのはキツイし、賊やら亜人やらに襲われる可能性もある。いい事ばかりじゃねェんだ」
「でも保険がありますよね?」
「行商人が保険に金を回せるほど余裕があるか、馬鹿」
「う……」

 保険、というのは、荷にかける積荷保険だ。

 その内容は、荷を不慮の事故で破損したり、紛失した場合に、それと同額の金銭を保証してもらえるというシステムだ。

 昔は、空輸保険といって、フネでの輸送にのみ掛けられる保険であったが、近年では、商人の絶対数の増加により、陸路での輸送にも適用されるようになっていた。

 これは銀行家、両替商の業務の一つなのだが、保険金はかなり割高で、大商社ですら、その保険金をケチる事もあるらしい。

「ま、独立以前に、仕事中にぼけっとしているようじゃ全然駄目だがな」
「げ」

 そう言って親方がニヤ、と口を歪めると、もう一つ拳骨が飛んで来た。

 うぇ、見られていたのか……。
 親方は見ていないようで結構見ているから恐ろしい。

「あぁ、そうだ。仕事と言えば。お前、明日一日は外な」
「へ?」

 思い出したように言う親方に、間の抜けた返事を返す私。
 外、ってこの寒空の下、ですか?

「明らかに嫌そうな顔をするんじゃねェよ……。勘違いしてるみたいだが、別に外で作業しろ、とは言ってねェ」
「え、じゃあ、どういう事です?」
「ツェルプストー(商会)に、買付の勉強に行ってもらう。新年の買付はモノが多くなりがちだからな。その作業のついでってところだ」
「か、買付っ?!わ、本当ですか?!」

 買付、という言葉に途端に目を輝かせる私。
 それもそのはず、外回りである買付に付いて行く、正式な商店の一員として認められた、という事なのだ。

 ちなみに、エンリコが初めて買付に付いて行ったのは、3年目の冬だったと聞いたことがある。

 私って実はかなり評価されているのかも……!

「ま、そういう事だ。明日に備えて今日はもう帰」
「わっかりました!お先に失礼しまっす!」
「あ、あぁ」

 テンションの上がった私は皆まで聞く前に、全速力で事務室を飛び出した。

 何か忘れているような気もするけど、気のせいだろう。



「くっくく、あの変わり身の早さ。おまけに強欲で自分勝手。なかなかに商人向きな性格をしていやがる」

 一人事務室に残されたカシミールは、誰ともなくそんな事を呟いていた。

 



 帰り道、私はいつものルートで蟲惑の妖精亭に寄り道する。
 ロッテがここに就職してからというもの、夕飯はここで食べさせてもらっているのだ。


 
「こんばんは、スカロンさん」
「お、いらっしゃい。お姉さんはまだ勤務中だけど、先に食べておくかい?」
「はい、お願いします。いつもすいません」

 年内に独立するはずだったスカロンはまだこの店で働いている。
 独立といっても、出来あいの店をオーナーから買い取る、という形を取るらしい。

 それがこの店の姉妹店である、“魅惑の妖精亭”なのだそうだ。
 
「奥さんと娘さんはお元気ですか?」
「もう、ばりばり元気さ。嫁さんの方なんて、お姉さんの噂を聞いて、また蟲惑の妖精亭で働く、なんてライバル心を剥き出しにしてるよ」

 はは、と愉快そうに笑いながら、料理を盛った皿を出してくれるスカロン。幸せの絶頂と言った感じかな?

 スカロンの奥さんは蟲惑の妖精亭で結婚前はナンバー1を張っていた女性らしい。
 娘の“ジェシカ”も将来は美人になるのだろう。

「しかし、こうして笑っていられるのもアリアちゃんのお陰だけどね」
「大した事はしてませんよ。私は親方に秘薬の手配を頼んだだけですし」
「駄目駄目。商人なら謙遜なんてしないで恩を着せておかなきゃ」
「……そうですね。じゃあ、もっと感謝しなさい」
「はは、その調子だ」

 偉そうに胸を張る私に、手を叩いて言うスカロン。
 


 実は、スカロンの奥さんが出産後、著しく体調を崩したのだ。
 
 すぐにでも治療が必要な状態で、水メイジはスカロンの方で早急に手配できたものの、その症状に合う秘薬が見つからなかったらしい。

 スカロンの奥さんがピンチ、という事をロッテから聞いた私が、その水メイジから必要な秘薬の情報を聞き出して、親方に手配を頼んだのだ。
 目的の秘薬は、カシミール商店から緊急の連絡を受けた国際交易に強いツェルプストー商会によって、秘薬などのマジックアイテムの本場であるガリアから早急に取り寄せられ、事なきを得たのだった。

 もしかしたら、これで“スカロンの奥さんが死ぬ”という運命は変えられたのかもしれない。

 その時の秘薬はかなり高価なもの(云百エキュー)だったので、そのせいでスカロンの独立が遅れたんだけどね。

 まぁ、奥さんの命に比べれば些事だろう。


 
「交易商として独立したらトリスタニアにも遊びにおいで。サービスするよ」
「ふふ、何年掛かるかわかりませんが、その時はよろしくお願いします」

 そう言って私は頭を下げる。



 よし、行商人として独立したらまずトリステインに行ってみようかな?

 売る物は……。とりあえず最初は無難に、北部製の質のいい金属農具あたりか。

 ゲルマニアの農村では当然のように使用されているものだけれど、トリステインではまだまだ出回っていないはず。
 私の故郷のように、木製農具を使っている時代遅れな辺境の農村すらあるのだ。

 トリステインはどちらかと言えば農業国だし(というか他に産業が……)、そういう実用的な物の方が売れるだろう。
 あぁ、でも農民は金がないから……。利益が取れるかどうか微妙な所、かも。

 うん、商売に行くならタルブ地方あたりの、農村でも比較的裕福な地域が良いだろう。私の故郷のような貧しい農村では商売にならない。
 農民相手ではなくて、領主に直接交渉にいくのも手か。農具を取りかえる事による、税収増加の期待値をチラつかせれば飛びついてくるやもしれない。

 仕入れはウィンドボナ経由じゃなくて、ハノーファーかハンブルグの工房から直接仕入れたい。
 いや、入市税まで考えるとカシミール商店に仕入れを頼んだ方が安くつくかも……。直接仕入れるなら、北部とのコネが必要、かなぁ。



「……えんのか、馬鹿妹」
「いったたったた」

 私が気持ちよく妄想にふけっていると、後ろから突然頬を抓られた。

「おや、ロッテさん。今日はもうアガリですか」
「んむ。今日は早番じゃからな」

 ロッテはそう言って私の隣の席に着くと、私に出された皿に盛ってあった一口サイズのチェリーパイをパクリと頬張る。

「あっ、コラ!それ楽しみにしてたのに!」
「くひヒ、妾を無視した罰じゃ」

 悪戯っ子のように笑うロッテに私の毒気は抜かれてしまう。

「はぁ、もういいわよ」
「そうか。では、これで食事は済んだな。そろそろ帰ろうぞ」
「え、もう帰るの?」
「暗い夜道は危険じゃからの。人通りが少なくなる前に、な」
「……そう?」

 らしくない事をいうロッテに、少し訝しげな表情を見せながらも、黙ってそれに従い帰り支度を始める私。

 最近、ロッテの様子が少しおかしい気がするんだよね……。
 まぁ、元々変なヤツだけど、そういうのとは違うというか……。

「どうした。妾の顔に何かついておるか?」
「ん、別に?変なヤツ、って思っただけ」
「……ほぅ。また、意識を失うまで吸われたいらしいのう?」

 意識がなくなるまで血を吸うのはロッテが得意としている報復方法の一つである。

 これをやられると、すごく気持ちイイ……じゃなくて、翌日までグッタリしてしまうからシャレにならない。

「あ、今日は駄目。明日は大事な日なの」
「大事な日?」
「そそ、買付に連れて行って貰える事になってさ。ついに一人前と認められたっぽいよ?」
「ふむ、買付……か。外に出るのか?」
「そりゃそうでしょうが」
「……気をつけるんじゃぞ」
「え?あ、うん」

 やっぱり変なロッテ。

 最近は行き帰りの時もやたらとこういう注意を促してくる。
 何かあったのか、と聞いても何もないの一点張りだし。

 不気味だ。

 私は何とも気味の悪い違和感に、首を傾げながら帰路についたのだった。





 翌日。

 朝一から、“私達”はケルンの中心部にそびえ立つ、ツェルプストー商会本社へとやって来ていた。

「ウチの商店より、更にデカイわね」
「当たり前だろ。ウチは飽くまで支社。こっちはゲルマニア四大商会の本社だぜ」

 いつものように「そんなことも知らないのか」と、偉そうに言うフーゴ。

「何でアンタまでいるのよ」
「そりゃこっちの台詞だろ、使えない癖に出しゃばってんじゃねーよ」
「ふん……大体なんでアンタ、ここにまで“ハタキ”なんて持ってきているのよ」
「いや、これは……」

 フーゴは何故かいつも掃除に使う“ハタキ”を腰にぶら下げて持ち歩いている。
 本人に言わせると、気付いた時にいつでも仕事ができるスタイルなのだとか。

 仕事=掃除かい。見習い根性の染みついている事で。

「それ、カッコイイとでも思ってるわけ?まじダサイんだけど」
「言わせておけば、このっ……」
「何よ、このくらいで怒るなんて度量の小さい男ね」

 あわや掴み合いの喧嘩になりそうな雰囲気を出す私とフーゴ。

「はぁ、またか……」

 頭痛がするように頭を抑えるエンリコ。

 見習い組からは、この3人が買付の手伝いに駆り出された。
 双子は留守番組である。

「2人とも、いい加減にしときなさい。今日は外の人の目に触れるんだから、商店の恥を晒さないように」
「……はぁい」「……ち、わかりました」

 珍しく、厳しい態度で言うエンリコに、一時休戦、と言った感じで渋々離れる私とフーゴ。



「で、エンリコさん。今日は何をするんですか?」
「うーん、まぁ、僕達のする事はいつもとあまり変わらないよ。親方が競り落とした商品を次々と馬車に積み込む、ってだけかな。重い物も多くなるから気を付けてね」
「競り?」
「そう、初物競り、ってやつだね。普通は商社の場合は競りに参加せずに、事前に契約している値で取引するんだけど、今回みたいに、特別な時期や行事がある時はウチや他の商社も競りに参加するんだ」
「へぇ、何か面白そうですね」

 ちょっとワクワクしてきた。オークションみたいなものだろう。
 私も参加してみたいなぁ。

「さ、そろそろ始まるからね。僕達も行こう」
「はいっ」「ういッス」
 
 



 競りの会場はツェルプストー商会本社の中庭。
 
 競りにかけられる現品の一部(と言ってもかなり大量)が中庭に所狭しと並べられ、買付に訪れているのであろう、入札者席に陣取った商人達は、今か今かと、競りの開始を待っているようだ。

「ほへ~、なんかエラく殺気だってますね、ココ」
「まぁ、誰だって新年一発目にコケたくないしね。初物競りの成功はゲン担ぎの意味もあるんだ。それもあって入札者のメンバーも結構凄いよ。ゲルマニア中のやり手の買付担当者が来ているからね」
「親方、大丈夫ですかね」
「はは、親方はやり手中のやり手。心配ないさ」

 親方は私達より先に会場入りしており、入札者席の最前列に陣取っていた。
 その表情は真剣そのものである。まぁ、あれなら心配するまでもないか。

「ところで、あれって何ですか?」

 私は入札者席の前に設置されている、黒板を細切れにしたような札を沢山差した大きな看板のような物を指差す。

「あれは入札表だね。入札した値段をあの札に書いてどんどん表に差していくんだ。新しい入札は上に、古い入札は下に、って感じで移動させていく。いちいち消したりしていたら間違いが起こるかもしれないからね。“入札”っていう語源はあの札の事なんだ」
「あ、なるほど、納得」「へえ、そうなんっスか」

 む、フーゴと被ってしまった。コレについては知らなかったみたいね。通りで大人しいはずだ。

 エンリコの話から、どうやら、この競売は、入札者側(買い手)のみが値段を提示する、シングルオークションで、かつ値段が公開される、公開入札方式、という方式が取られているようだ。

 所謂、最も一般的に知られている競売の形である。



 

「お集まりの皆様、大変お待たせ致しました!毎年恒例、ツェルプストー商会の初競りを開始致します!」

 私達がエンリコの説明に聞き入っていたところ、いつの間にか入札表の前に登場していた、競りの司会、といった服装をした男が良く通る声でそう宣言する。

「おぉ~」「早く始めろーっ!」「待ちくたびれたぞ!」

 その宣言がなされた途端、会場に蔓延していたどよめきは、皆の様々な歓声にかき消された。

 その大音量に、私は会場全体が揺れているような錯覚を覚え、思わず耳を塞いだ。

 すごい、まるでお祭りのようだ。いえ、お祭りなのかもね。

「皆様、ご静粛に、ご静粛に。開会の前に、本商会代表、クリスティアン・アウグストより皆さまに」
「ハァ~イ、元気してるぅ?」

 司会の男の後ろ側からひょっこりと現れ、その声をかき消す形でお茶目な言葉を吐いたのは、褐色肌に赤毛の、スマートな青年だった。
 
 あれが、ツェルプストー辺境伯、なのか?

「今日は俺の商会の競りに参加してくれてありがとう!愛してるぜ、お前らっ」

 パチ、とウィンクを飛ばして言うツェルプストー辺境伯(?)。

 ゲルマニアでも屈指の貴族であるだけに、会場を埋め尽くしている商人達もどう反応していいのか分からず、何とも言い難い気まずい雰囲気が会場に漂っていた。

 何か、凄く軽薄な感じがするんですが……。
 私としてはもっと、重厚なとっつきにくそうなオッサンを想像していただけに、びっくりだ。

「よぉし、お前らっ!商売に一番大切なのは何だっー?」

 しかし、その雰囲気に構わずツェルプストー辺境伯はなおも続ける。

 資金?人脈?いやいや、先見の才だ。などと商人達が口々にその疑問に対する答えを述べる。



「ち、が、あ、う!何事も一番大切なのは“情熱”だっ!」

 静まり返っていた会場は、その言葉によって拍手と歓声の音に再び包まれた。

「はっはは、それじゃ、その情熱を忘れずに今日は楽しんで言ってくれよな!よし、挨拶終わり!」

 何ともすげぇ、挨拶ですね。ツェルプストー辺境伯。
 これが“あの”キュルケの父親なのか?娘以上にぶっ飛んでるんじゃないの……?


 
「フーゴ君、アリアちゃん。僕はちょっと倉庫の方で手伝ってくるけど、どうする?しばらくここで競りを観ていてもいいよ?」
「あ、観たいです!」「お、俺も」
「じゃ、用ができたら呼ぶから、勉強しておくこと」
「はい」「ういッス」

 ツェルプストー辺境伯の挨拶が終わった後、エンリコがそんな提案をしてきた。
 これを観ずに、倉庫で作業しているのは勿体ないというものだ。



「では栄えある一番目の商品はっ、アルビオンからっ!グラーナを大量に使用した高級毛織物だぁーっ」

 入札表の前に、見本であろうキレイな染色をされた毛織物が掲示された。

 グラーナ、というのはアルビオンで生産される最高品質の羊毛の事である。
 または、それを染め上げる赤色染料の事を指すこともあるが、この場合は羊毛の方で間違いない。

 現在では各国で牧畜されている羊だが、未だにアルビオンの羊毛の質には勝てないと言われているのだ。

「毛織物か。こりゃウチの親方は手は出さねえな」
「なんで?」

 顎に手をやったフーゴの訳知り顔の発言に、疑問を投げかける私。

「ウチの本社のある南部は羊毛の生産地だろ?いくら質がいいつったって羊毛製品じゃ需要がねーからな。買うのは金の余ってる貴族くらいってなもんだ。北部は毛織物自体を生産してるから同じく需要がない。あれを買うとしたら、西部の連中か東部の連中だろうな」
「なるほどねぇ」

 フーゴも興奮しているのか、珍しく私の疑問に素直に答える。



 事件はそんな時に起こった。



「もし、君がアリアちゃんかな?」
「はい?」

 私達が競売の行方に熱中していると、ふと後ろから声を掛けられた。
 声を掛けてきたのは、大柄で屈強そうな、しかしどこか暗い感じの男。

「はい、そうですけど。何か?」
「ちょっと一緒に来てもらえないかな」
「え、困ります」

 意味の分からない突然の勧誘に、私は当然拒絶の意を示す。

「本当にちょっとでいいんだけどなぁ」
「おい、何なんだよ、てめぇ」

 なおもしつこく誘ってくる大男に、明らかに不機嫌な様子になったフーゴが私の前に立ちふさがり、喧嘩腰に男に詰め寄る。
 あれ、何か男らしいぞ、今日のフーゴは。

「邪魔だよ」

 そう言って詰め寄るフーゴを突き飛ばす大男。

「な、何するんですか?!」
「……っ、てめぇっ!」

 倒れたフーゴに駆け寄ると、フーゴは当然激昂していた。
 しかし、この騒ぎにも関わらず、競売に熱中して大声を張り上げている周りの人間は気付かない。

 仮に気付いても、下らない小競合いだと思って捨て置かれているのかもしれない。

「嫌でも来てもらうよ、主からの命令は絶対だからね」

 そう言って厭らしく微笑む大男。



 身の危険を感じ、逃げようとした瞬間。




「む、ぐぅ……っ」

 私の口は塞がれ、大男に軽々と抱え上げられてしまっていた。

 そして大男は外に向かって尋常ではないスピードで走り出す。

(だ、誰か、助けてっ!)

 しかし、この非常事態にも、周りの人間は気付いていないのか、関わりたくないのか、一様に無関心。

 競売の値を吊り上げる声だけが、私の耳に虚しく響く。



 しかし、一人だけ、追いかけて来てくれる人物がいた。



「待ちやがれ、てめぇっ!アリアを離せ、クソ野郎がっ」

 フーゴだった。

 彼だけは顔を真っ赤にして、必死の形相で追いかけて来てくれる。
 腰から抜いた“ハタキ”を手に持って。

 あれ、あんなに仲が悪いはずなのに、何でだろう?やっぱり、商店の仲間、だからかな……?
 というか、ハタキなんて持っても役に立たないよ、馬鹿。

 私は異常事態についていかない頭の片隅で、ぼんやりとそんなことを考える。





「おかしいな……何処行っちゃったんだ?全く、あの二人は……」

 二人を呼びに来たエンリコは、その二人が直面している危機をよそに、暢気にぽつりと呟いていた。






つづけ





[19087] 18話 踊る捜査線
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/07/29 21:09

 フーゴは激怒した。
 必ず、あの大男に追いつかねばならぬ、と決意した。

(くそっ……馬鹿みてぇに速ぇ)

 フーゴは、はっ、はっ、と息を切らしながらも、まるで黒い風のように走り去る、アリアを抱えた大男に食い下がっていた。
 人気の無い方へ、無い方へと、ケルンの街を走り抜けて行く二人を見咎める者はいない。



 足は鉛を巻きつけたかのように重い。

 心の臓がばっく、ばっく、と限界を告げる。

 頭がクラクラして、どこかに吹っ飛んでしまいそうだ。

 それでもなお、フーゴは走り続けた。
 


 そこまでして、何故。

 その理由は彼自身もあまりよく分かってはいない。
 ただ、彼の深い所で、彼女を助けねば、という衝動が湧き起こっていた。

(全く、世話の焼ける子分だぜ……)

 彼はその理由を職場の先輩、兄貴分として、彼女を助けねばならないのだ、と自分の中で納得させた。



(ぐ、こんな事ならもう少し真面目に“練習”しておくんだった……)

 ぼぅっとしてきた頭でそんな後悔をするが、すぐに頭を切り替える。

(この先は袋小路じゃねーか。あの野郎、どういうつもりだ……?ま、いい。それなら)

 ラストスパートとばかりに、軋む体に鞭打って大男を追い詰めるフーゴ。
 手にはアリアが馬鹿にした“ハタキ”がしっかりと握られていた。



「…………」
「……はぁっ、はぁっ追い詰めた、ぞ。変態野郎」

 袋小路の石壁を前に、はた、と立ち止まった大男に、ハタキを突き付けてそう宣言するフーゴ。
 あたりには大小様々なゴミが散乱している。どうやらここは、ゴミ捨て場にもなっているようだ。

「追い詰めた……?ぷ、くく、俺は煩い小虫をここで始末しようと思っただけさぁ」

 大男は両手を広げて余裕の表情を見せる。

 それはそうだ。フーゴと大男では体格が違いすぎる。取っ組み合いになればやられるのはどちらか明白だ。

「むぅぐ、むっ、むぅき(フーゴ、一人じゃ無理だって!)」

 アリアは塞がれたままの口でそう叫ぶ。

「はっ、何言ってるかわかんねぇよ、馬鹿」

 馬鹿、と言いながらも、アリアを安心させようと、歯を見せて笑うフーゴ。

「むげふ、むぐ!(逃げろ、馬鹿!)」

 それを見てときめく訳も無いアリアは、さっさと逃げろと、言葉にならない言葉で返す。

「ぷ、くく、そんな“ハタキ”を構えて正義の味方ごっこかよ、小僧。餓鬼はさっさとお家に帰らねえと怪我するぜ?」
「やれるもんならやってみろよ、木偶の棒」
「は、それじゃお言葉に甘え、てっ!」

 ひゅん、と一閃。

 言い切るや否や、一瞬でフーゴとの間合いを詰めた大男は、鋭い風切り音を立てる廻し蹴りを放った。

 アリアをその腕に抱えたまま。

 凄まじい、身体能力。
 
「がッ……?」

 繰り出された蹴りの初速は異常。非情。過剰。

 到底、人間の反応速度ではかわせるものではない。

 案の定、フーゴはそれに反応できず、後ろに大きく吹き飛ばされた。

「おいおい、もうオネムかよ」
「む、むぅぐ……」
 
 あまりの呆気なさに拍子抜けしたかのように呟く大男。

 倒れ込んだフーゴにもう興味はないのか、大男は袋小路から立ち去ろうとする。



「……す……る……でる」
「あぁ?まだ起きてたのか……」
 
 フーゴはまだ意識を失ったわけではなかった。
 大男は、何事かを呟くフーゴにぴくりと反応する。

「面倒臭ぇ……余計な騒ぎは起こすな、つってたが餓鬼の一匹くらい、いいやな」

 厄介そうに首をコキコキと鳴らしながら、大男は未だに倒れているフーゴにトドメを刺そうと、獲物を付け狙う獣のように、じっくりとその間合いを詰めて行く。

 アリアが必死に身動ぎするが、がっちりと彼女の身体を締めつける太い腕の拘束を解くことは出来ない。

「……仕事はきちんとこなす。子分も守る。“両方”やんなくちゃあならないってのが“兄貴分”のツライところだよな……」

 惨めに倒れたまま、大男にハタキを向け、どこかで聞いたような台詞を吐き出すフーゴ。
 台詞は格好いいが、地に這いつくばった態勢ではあまり格好がついていない。

「なぁに、言ってやがる。ビビりすぎて頭がイカれちまったのかぁ?……ぅん?…………
な、何っ?」

 馬鹿にしたような態度でニヤけていた大男の表情が凍りついた。

 突如起こった、予期せぬ現象によって。

「むぅ?!」

 大男に掴まっているアリアすら、その事を忘れ、ただ目の前で起こった信じられない事に目を剥いていた。



 一体何が?



「……人型創造《クリエイト・ゴーレム》」

 フーゴがのろのろと立ち上がりながらそう呟くと、目の前の石畳がぼこぼことせり上がり、人の形を成していく。



 造りは粗く、材料も所詮は石。大きさも精々大男と同じ程度で、数もたった一体。
 しかし、それは紛れも無く土の系統魔法、《クリエイト・ゴーレム》であった。



「め、メイジだとぉ?」
「ゴーレム、ちんちくりんを助け出せ!」

 フーゴが“ハタキ”を振ってゴーレムにそう命じると、無骨な造りのゴーレムは、それに見合わないスピードで大男へと向かって行く。

「ぐっ」 

 ゴーレムは単純だが、重い打撃を両の腕から、次々と繰り出す。

 それに対して、大男は防戦一方。
 時たま、蹴りなどで応戦するも、硬いゴーレムの身体に傷を付けることすら出来ない。

 大男は、徐々に壁際に押し込まれ、苦悶の表情を見せ出した。

「ちっ、面倒臭ぇ!面倒臭ぇえっ!」
「ひゃっ」
 
 異常な身体能力を誇る大男とて、さすがにゴーレム相手では荷物を両腕に抱えたままの戦闘はまずい、と判断したのか、大男はアリアを宙に放り出した。

「危ねっ!」
「おわっ」

 フーゴはそれを見てすかさず、宙に舞うアリアを目がけてダイビングキャッチ。

「……っと、無事か?!」
「お、おお。大丈夫。ありがとう」

 所謂、お姫様抱っこという、何とも気恥ずかしい格好に、やや顔を赤らめるアリアの無事を確認すると、ほっ、と溜息を漏らすフーゴだが、すぐに表情を引き締めた。
 
「おし、走るぞ!」
「わ、わかった!」

 大男の相手をゴーレムに任せたまま、フーゴはアリアの手を引いて、再び走り出す。

「く!待て!待ちやがれぇ!」

 未だにゴーレムと戦闘を続けている大男の罵声が後ろから聞こえるが、二人がそれに振り向くことはなかった。

「あ、アンタ、メイジだったの?!」
「ンな事は後でいい!喋ってる暇があったら走れ!」
「だって、メイジ、なら、飛行《フライ》?で逃げるとか……」
「……俺は《練金》と、《クリエイト・ゴーレム》しか、使え、ねーんだよ!」
「えぇ?!」
 
 息を切らしながらも、疑問をぶつけるアリアとそれに答えるフーゴ。

 フーゴが告白した通り、彼が使えるのはその二つのスペルのみであった。
 コモン・マジックを飛ばして《クリエイト・ゴーレム》とは、何ともバランスの悪いメイジだ。

 しかしその未熟なメイジの勇気が、少女の危機を救ったのだ、と、締め括りたい所なのだが……。





 いつの間にか現れた、黒いローブですっぽりと全身を覆った男が、袋小路の出口に陣取り、逃げ道を塞いでいた。

「ちィ、新手かよ」

 舌うちをしつつ、男に正対して杖を構えるフーゴ。

「……全く、こんな小娘一人攫ってくる事も満足に出来ないとは。情けないですねぇ」

 やれやれ、といった調子で首を横に振るローブの男。

「おい、ちんちくりん。お前何か恨みでも買ってんのか」
「……残念ながら心当たりは、無いわ」

 フーゴは訝しげにそう問うが、少し逡巡するも何も思い当たらないアリア。

「くく、これは勇ましい。まるでお姫様を守る騎士殿ですね」

 ローブの男は、アリアを庇うように構えるフーゴを嘲るように言う。

「けっ、こんなちんちくりんを捕まえて、何が“お姫様”だ。カンに触るクソ野郎だぜ」
「……同感。“騎士殿”なんて、ジョークにしてもタチが悪すぎるわ」

 ローブの男に対して、若干の余裕を見せてダメ出しをするフーゴとアリア。

 と言うのも、この男は、先程の大男よりも大分線が細く、組みしやすそうに見えたからだ。
 
「これは失礼、お気に召しませんでしたか」
「えぇ、全然っ!」

 アリアはいつの間にか手にしていた、道端にゴミとして捨てられていた棒切れを持って男に突進する。

「おらぁあっ!」

 フーゴもそれに合わせて、全力の体当たりを試みる。

 系統魔法の同時行使は不可能。
 ならば、大男の方に回しているゴーレムを解除するよりも、こちらの男は二人掛かりの肉弾戦で倒してしまった方が得策だ、と二人の考えは一致していた。

「やれやれ、これは勇ましいというより、無謀と言うべきか……」

 しかし、柳に風、といった風にふわりふわりと、その波状攻撃を悉く躱す男。

 まるで宙を舞う紙のような、重さを感じさせない流麗さ。

「くそっ、当たらね、えっ」
「こいつっ!」

 ぶんぶんと必死に攻撃を振り回し続ける二人だが、ずっと走り続けていた疲労からか、目に見えてその動きが鈍ってきていた。

「お二方とも大分お疲れのご様子。そろそろお開きにしましょうか」

 男はローブからチラリと覗く口元を三日月のように歪めると、ぶつり、と何かを呟いた。
 
「何をぶつぶつ、と……?」

 男が呟きを終えると、ふわり、とどこからともなく、抗う事のできない眠気を誘う風がフーゴとアリアを包んでいく。

 その風に当てられた二人の動きは、さらに緩慢になり、やがてその動きは停止してしまう。

「な……杖なしで……ま、ほう……?」
「なるほど……そ、ういう事、ね……」

 あり得ない、という表情のフーゴと、妙に納得したような表情を見せるアリアは、眠気に耐えきれずその場にへたり込む。

「それでは、良い夢を」

 男はよく訓練された執事のように、こなれた様子で胸に手を当てて、深々と頭を下げる。



 その芝居がかった気障な仕草を確認したところで、二人の意識は夢の中に飛んだ。





 夕刻。

 辺りの景色が朱から、黒に変わる頃。
 ツェルプストー商会、新年恒例の初競りも大詰めを迎えていた。

 この日のために各国から取り寄せられた、選りすぐりの商品達が次々と高値で落札されていく。

 司会者は、出だしと変わらぬハイテンションで、買い手を煽る。
 入札者席では、狙い通りの落札が出来て雄叫びをあげる者、胸を撫でおろす者、価格が高騰しすぎて頭を抱えて悩む者、全く落札が出来ずに落ち込む者など、十人十色の様相を見せていた。 
 目の玉の飛び出るような額の取引に、アリア達と同じく、荷物運びのために駆り出された見習い達からは溜息が漏れる。



 しかしここに別の理由で溜息を漏らす見習いが一人。

「馬鹿タレ!お前が付いていながら何をやってんだ!」
「す、すいません!」

 怒り心頭の親方、カシミールと、肩をがっくりと落とした見習い頭、エンリコ。

 カシミールは、つい先程、本日の競りで予定していた分の予算を使い切り、入札を終わらせていた。
 そこで、さぁ、帰ろうという段になってから、アリアとフーゴがおらず、そのせいで、荷が半分も纏まっていないという事に気付かされたのだ。

 彼が怒るのも当然である。

「まぁ、お前に言ってもしょうがねェんだけどよ……。そう言う事はもっと早く言え。帰る時になってが人手がいません、荷が纏まっていません、じゃどうしようもねェだろうが」
「以後は気を付けます……」

 カシミールは頭痛がするように額を抑えながら、買付られた大量の荷を親指で指し示す。

「しっかし、あいつら、何を考えてやがるんだ?」
「でも、あの2人が仕事を放ってどこかに行っちゃうなんておかしいですよ。2人とも仕事に関しては真面目ですし」
「会場の中は全部探したのか?」
「はい、くまなく。他の商店の見習い達にも聞いてみたんですが、それらしい子供は見ていないと」
「つぅ事は外か。仕事中に仲良く連れ合いかよ。餓鬼のくせしてマセてやがるな、あいつら……」

 苛々とした様子で吐き捨てるカシミール。
 エンリコはそれに異議を唱える。

「いやいやいや、そりゃないでしょう。あの2人、相当仲悪いですからね」
「お前って、顔に似合わず鈍いなぁ。そういうの……」
「え、そういうのって、どういう事です?」
「……いや、何でもねェよ。単なる年寄りの邪推、いや愚痴だ」

 とぼけた表情をするエンリコに、カシミールは、はぁ、と溜息を漏らして、その話題を打ち切った。

 人当たりも良く、容姿も端麗なエンリコに女の影が無いのは、この鈍重さのせいやも知れぬ。

「それにしても、この荷物、どうしましょう……」
「……ひとっ走り商店に行ってギーナとゴーロを呼んで来な。さすがにお前一人じゃキツイだろ。どうせ今日は誰も来る予定はねェし、店じまいにしとけ」
「それしかないですかね。ふぅ、じゃ行ってきますよ……んっ?」

 エンリコがふと、会場の出入り口の方を見ると、商店で留守番をしているはずの双子のうち、一人だけがこちらに向かって来るのが見えた。

「ありゃ、あっちから来たか。帰りが遅いから様子を見に来たのか?何にせよ、呼ぶ手間が省けたじゃねェか」
「いえ、何か様子が変ですよ。すごく慌てているみたいですし」
「そういうのは敏感だな、お前……。俺にはあいつらの表情の動きがわからんぞ」
「それだけじゃないですよ。彼らが“単独”で行動するなんておかしくないですか?」
「む……確かにそうだな。店の方で何かあったのか?」

 双子が別々に行動することはまずないのだ。
 
 と言う事は、何か変事があったのだろうか、と勘ぐるのが普通である。



「……親方、大変」

 駆けつけた双子の片割れが、カシミールの下にやってくるや否や、開口一番、そう報告した。

「えぇと、お前は…………ふむ、ギーナの方か。ゴーロはどうした?」
「……兄貴は、アリアの姉貴の所」
「あ?どういう事だ」
「……これが店の正門に挟んであった。とにかく読んで」

 カシミールはギーナが差しだした紙をひったくるようにして受け取り、目を通す。

 途端にだらけ気味だったカシミールの顔の筋肉が引き締まり、眉間に深い皺が刻まれた。

「……これは、まずいな」
「……すごく」

 カシミールの焦ったような呟きに、ギーナはコクリと頷く。

「何が、あったんです?」

 エンリコは、事情はわからないが、ぴりぴりとした空気を感じ取り、若干緊張した面持ちでそう尋ねた。

「アリアが、誘拐されたらしい。多分フーゴの奴も一緒だ」
「誘拐って、あの、人を攫う……?」
「それしかねェだろうが!」
「ですよね……って!シャレになりませんよ、それ!」
「だから、マズイ、っていってんだよ!くそっ、何てこった!折角モノに成って来た所だってのに……。おい、ギーナっ!文面はこれだけか?」

 カシミールは誘拐犯からの書状をぺらぺらと揺らして催促するようにギーナに問う。

 それはアリアを預かっているという旨と、ロッテに知らせろ、とだけ書いた書状だったのだ。
 さしたる要求もなく、脅迫もない。何処に来い、とも書いていない。
 ロッテを名指ししている事から、彼女に関係のある人間の仕業という事はわかるが、これだけでは、事件を解決する糸口にすらならない。

「……それだけ。他には何も」
「まさか悪戯じゃねェだろうな。この文面じゃ、何をすればいいのかわからねェし、役人に持って行っても追い返されるのがオチだぞ」

 頭をがりがりと掻いて、悪戯であってくれ、と願うように言うカシミール。

 そもそも、平民の子供がいなくなった所で役人が動くとも思えないのに、悪戯とも取れるようなこの文面では、更に望みが薄い。

 役人達が本腰を入れる貴族の子女の誘拐事件では、被害者の命が助かることもしばしばあるが、平民が誘拐された場合は、その限りではなく、ほぼ死体になって発見される、もしくはそのまま行方不明になるのが常なのだ。

「……2人とも店には帰っていない。寮にもいなかった」
「あいつらがいなくなったのは、朝、か。流石にこの時間まで街で遊び回っているって可能性は低いか」
「でしょうね。特にアリアちゃんは倹約家ですし。街で遊んでいるってことはないと思います」

 エンリコはアリアの倹約家(ケチ)ぶりを指摘して、事の信憑性を高める。

「とすると、真面目に誘拐のセンが強いな……。しかし、そうなると、フーゴが一緒っていうのはある意味運が良かったかもしれねェ。あいつの素性を明かせば役人も……?」
「お、親方、後ろ」
「あ?」

 ぶつぶつと呟くカシミールに、エンリコが強張った表情で後ろを指さす。



「よっ、カシミール。役人が何だ、とか言ってたが、どうかしたのか?」
「おっと……これは、ツェルプストー辺境伯。実は少し困った事になっておりまして……」

 声を掛けてきたのは、ツェルプストー商会代表、クリスティアン・アウグストその人であった。
 後ろには護衛なのか、下級貴族風の男を従えている。

 南の大商会、フッガー商会のケルン支部の代表であるカシミールとは、大きな身分の差こそあれど顔見知りであったのだ。

 カシミールが最敬礼で頭を下げると、エンリコとギーナもそれに倣った。
 
「はっはは、まさか競り落とした品をもう盗まれたのか?しょうがない奴だな」

 おどけて言うクリスティアンはおよそ厳格などという言葉とは程遠い、人好きのしそうな青年だ。

「親方、辺境伯に相談して頂いた方が役人に掛け合うより確実かもしれません」
「……自分も、そう思う」

 エンリコとギーナが、カシミールにそう勧めると、カシミールも黙って頷く。

 確かに、木端役人の所へ行くよりも、この地の領主でもある彼に直談判した方が話は早いだろう。
 もしかすると、取引先のよしみで、便宜を図ってくれるやもしれぬ。

「おいおい、何だ、お前ら。何週間も糞が出ねーような深刻なツラして。そんなにやばい事情なのか?」
「実は、ウチの見習い共がですね……」

 カシミールが身ぶり手ぶりを交えて、事の次第を説明する。

 最初は、競売の成功によって上機嫌だったクリスティアンの表情は、説明が続くにつれて、どんどんと不機嫌な表情へと恐慌していった。

(うわ、やっぱり平民の誘拐なんて、貴族にとってはどうでもいい事を聞かされて怒っているのかな……)

 エンリコは腕組をしつつ、口をへの字に曲げて、しかめっ面をしたクリスティアンを見てそう推測した。

 しかし、彼は全く違う事で腹を立てていた。



「……俺の、商会の競売会場で誘拐事件、だと?」

 ぴくぴくと、口角を震えさせて怒りを露わにするクリスティアン。

「しかも、挙句、それを餌にしてその姉までも手篭めにしようとしている、だとォ……」

 クリスティアンの口元の震えは、段々と全身に伝わり、額には青筋がしっかりと浮き出ていた。

「ええ。それと、男の見習いも多分一緒でして。その見習いというのが、実は」
「男なんぞどうでもいい……」
「は?」
「その姉妹は美人姉妹なんだろう?」
「まぁ、姉の方は蟲惑の妖精亭という酒場のナンバー1を張っているくらいですから、かなりの器量良しかと思いますが……」
「何っ?!あの高レベルな女の子ばかり集めている店のか?」
「え、あ、はい」

 何故クリスティアンが蟲惑の妖精亭の従業員事情を知っているのだろう、と思いつつ、カシミールは首を縦に振った。

「と、言うことは……妹の方も数年後には……。なるほど、ね。俺の庭で、俺のモノを盗んでいくとはな。くっくく、ふざけた野郎だ」
「あの、辺境伯?誘拐されたのはウチの見習い……」
「あれ、でも待てよ?その野郎を俺がカッコ良く倒したら、姉妹揃って、俺にベタ惚れじゃね?これってむしろチャンスじゃ……」

 百面相をしているクリスティアンは自分の世界に入り込んでしまっているようで、既にカシミールの声は届いていないようだ。

 見かねた護衛の下級貴族がカシミールに耳打ちする。

「つまり、辺境伯はですね。『領内の美人は全て俺のモノ』と言っているんですよ」
「…………はぁ?」
「馬鹿みたいですが、あの人は本気なんです。貴賎問わず、女を口説くのがライフワークみたいな人ですからね……。とにかく、誘拐された子についてはひとまずはご安心を。恐らく辺境伯自ら、全力で動くでしょうから。動機はきわめて不純ですけど……」

 呆れるカシミール他、商店のメンバー達。

 クリスティアンは病的な女好きであった。
 と言っても、どこぞの色狂いの貴族のように、権力を嵩に来て女を侍らす訳ではない。

 彼は狩人なのだ。

 その狩人ぶりときたら、正妻との結婚式の最中に、別の女性を口説いていた、という逸話すらある程。
 彼の迸る“情熱”には、奥方ですら、とっくの昔に匙を投げているらしい。

 それでも、歴代のツェルプストー家の面々から比べるとまだマシな方、というから、げに恐ろしきはツェルプストーの血という所か。

「しかし、辺境伯自らってのは……有難いんですが、大丈夫なんですかね?」
「まぁ、この事件に関しては大丈夫でしょう。もっとも、後始末が大変そうですけど……。あの人、やりすぎる所がありますからね。この間の盗賊団の討伐だって……」

 下級貴族は聞いてもいないのに、つらつらと愚痴を吐き出す。

 どうやら、彼は護衛というより、奔放すぎるクリスティアンに対するお目付け役のようだ。



「ありゃ、辺境伯は何処行った?」

 下級貴族の男の愚痴を聞いているうちに、いつの間にか、クリスティアンの姿が忽然と消えていた。

「……あそこ」

 ギーナが指し示した方向は、入札表前のステージ。

 そこに、クリスティアンは渋い顔をして仁王立ちしていた。
 突然の彼の乱入によって、競りは一時中断してしまっているようだ。

「何をする気なんでしょう……?」
「私もわかりません。やれやれ、全く派手な事が好きなんだから……」

 首を傾げたエンリコに、下級貴族は疲れたような顔でそれに同調した。



「競りも大詰めだが、ここでお前らに頼みがあるっ!」

 しばらく、仏頂面で佇んでいたクリスティアンだが、会場中の視線が自分に集まるのを確認すると、山の向こうまで届きそうな大声を張り上げた。

「なんだ?」「俺たちに頼みだって?」「商品を返せとか言わないよな……」

 ざわ、ざわ、とどよめく会場。

「今日、この会場で非道の輩によって、商人見習いの女児が攫われたっ!これがどういう事か解るかっ?!見習いってのは、ゲルマニアの商業の未来を担う、言うなれば金の卵だ!それを商人がこれだけ集まった会場で堂々と攫って行きやがった!……つまり、俺達はそのクソ野郎に舐められているんだっ!」

 舐められているという言葉に、更に会場のどよめきが大きくなっていく。

「さて、こんなクソ野郎を許していいのか?舐められっぱなしでいいのか?」
「良くねぇっ!」「ぶっちめろ!」「ぶッ殺せぇ!」

 会場中の犯人許すまじ、という雰囲気に、うんうん、と頷くクリスティアン。

「よっしゃ、流石はゲルマニアの商人だっ!……だが、悲しいかな、野郎をブッ殺そうにも何処に居るかわからねえ!そこで、お前らには情報を集めてほしいっ!商売の情報網を使って野郎がどこにいるか割り出せ!有力な情報をくれた奴には、今日の競りのトリを務める予定だった、ガリア産の宝飾細工一式をくれてやるっ!」

 気前のいい発言に、おおっ、と沸く商人達。

 クリスティアンは、今から役人を使って、ちまちまと捜査するよりも、今日、ここに集まっている商人達の情報網を使って、犯人の足取りを追った方が早く確実だと判断したのだ。
 それにしても、ガリア産の宝飾細工一式を進呈とは、大盤振る舞いにも程があるのではないだろうか。

「それじゃ、とりあえず解散だっ!集めた情報はツェルプストー商会に持ってきてくれ!」

 解散の一声とともに、会場の商人達は、我先に有力な情報を手に入れようと会場を後にしていった。


 
 こうして、カシミール商店見習い誘拐事件は、ツェルプストー辺境伯の音頭によって、ケルンの街全体を巻き込んだ、大騒動へと発展したのである。



「ふぅ、とりあえずこんなもんだな。後は情報が入ってくるまでは待機ってところか」

 演説を終え、ステージから降りたクリスティアンがカシミール達に向かって言う。

「辺境伯。ありがとうございます!」

 カシミールは、感謝の念を込めて深々と頭を下げる。
 エンリコとギーナも、その後ろで頭を垂れる。

「……礼を言うのはまだ早いぜ。野郎の居場所すらまだ分かっていないんだからよ。ま、居場所さえ分かれば、俺がちょちょ、っといって、解決して来てやるから安心しとけ」
「はっ。しかしそれにしても……」
「何だ?」
「いえ、情報の見返りに宝飾細工一式というのは流石にやりすぎかと……よろしかったのですか?」

 クリスティアンが情報の見返りとして提示した宝飾細工一式は、競りのトリを飾る商品だけあって、今日一番の高額品のはずなのだ。
 カシミールとしてはありがたい事ではあるが、同時に心苦しい事でもあった。

「えっ?代金はお前んとこの商店に請求するに決まってんじゃん」

 当たり前のように言うクリスティアン。

 そう、彼もまた一級の商人なのである。自分の損益になるような事をするはずがないのだ。

「はは……そう、ですよね……」

 カシミールは乾いた笑いを吐き出しながら、もし会う事があれば、犯人のクソ野郎を1発と言わず、100発は殴ってやろう、と心に誓った。





つづけ



[19087] 19話 紅白吸血鬼合戦
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2011/07/23 02:13
 時間は、少し遡る。
 具体的には、黄色い太陽が、真上からケルンの白い景色をプリズムに反射させている頃。

「ふぅ……」

 自室でだらだらと過ごしていたロッテは、外の景色に目をやりながら、悩ましげに白い息を吐きだした。

 ちなみに、今日は遅番であるので、ご出勤は夕刻を過ぎてからである。
 断じて仕事をさぼっているわけではない、という事は彼女の名誉のために付け加えておこう。



 最近溜息の数が増える一方の彼女。

 その原因は、お水としての人生に疲れた、などという事ではない。
 言うまでもなく、同族でありながら敵対しているあの男、ジルヴェスターの事であった。

 最初の邂逅以来、彼が蟲惑の妖精亭に現れる事はなく、劇作家としての噂も、とんと聞かなくなってしまった。

 要するに雲隠れしてしまった、という訳である。

 何とか先手を取りたい彼女は、彼が活躍していたという、ケルンの中央劇場を訪ねても見たが、劇作家であるという触れ込みが本当だと分かった事以外に収穫はなかった。
 何処に住んでいたのか?普段は何をしていたのか?親しい友人は?などという情報は皆無。

 捜索は完全に行き詰ってしまい、そこからは何の進展もみられず、気付けば約束の期限を過ぎてしまっていたのだ。



(むぅ。未だに何の動きも見せんとは……もしや妾には勝てんと悟って尻尾を巻いたか?)

 ロッテは顎に手をやって思考する。

 戦えば必ず自分が勝つ、と彼女は確信している。
 それは驕りでも何でもなく、実力と経験に基づく圧倒的な自信。

(……だったら良いのじゃが。奴の自信はあれで本物のように見えたし、荒事になるのは避けられまい。……じゃが姿を隠したという事は正面切ってやり合う気はないという事。となると、何らかの搦め手で来るはず……)

 そもそも、単純に自分の力量に自信があるのなら、無駄な時間など設けず、その場で戦闘になっていたはずだ。
 それをしなかったという事は、ジルヴェスターは自分の実力がロッテに劣る事は把握している、という事。
 向こうとしては、できれば穏便に済ませたかったはずなのだ。

 その上で勝利を得ようとするならば、何らかの策を投じて来る事は明白だった。

(そうなるとアリアの方を狙って、それを交渉材料にする、という可能性も無きにしも在らず。アレは弱っちいからのう……。うぅむ、やはり妾がついておるべきか?いや、あれだけの自信を見せておきながら、そこまで情けない手を使ってくるか?飽くまで可能性の一つじゃし、四六時中妾がついておるわけにもいかんし……)

 ロッテは神経質そうに部屋の中をせわしなく歩きまわる。

(結局、あちらが動きが分からない以上、具体的な手は何も打てんのか。あぁ、もう苛々する……)

 最終的に諦めたロッテはアリアがよくするように、ベッドにダイブして、腹立ち紛れに枕をぼす、と壁に投げつけた。
 
 こんな答えの出ない無限ループな思考が、ここ最近、彼女の脳内で繰り返されていた。



 彼女は自分自身では、知謀に長けた脚本家である、と考えているが、客観的に見れば、それは全くの見当外れである。
 それよりも、演技者の適正の方が遥かに高い。

 考えるよりも、感覚を頼りに、実際にやってみた方が早いという天才型。人にモノを教えるのは大の苦手と言える。
 よくもまあ、アリアに読み書きを教えられたものだ、と思うが、生徒の方が優秀だった、という事にしておこう。

 この手のタイプは考えれば考える程、ドツボに嵌って失敗する。
 策士としての資質は、どちらかと言えば、アリアの方に分があるだろう。



 実は、彼女もその事には薄々気付いてはいる。
 いるのだが、この件についてアリアに相談する事はおろか、知らせる事もしなかった。

 それは、一種の見栄とプライド。

 本人は否定するだろうが、妹に自分の弱みを見せたくない、という姉の心境に近いものから生まれた見栄。
 吸血鬼同士の争いに人間の手を借りてどうする、というプライド。

 この二つがあったために、彼女は飽くまで、今回の出来事に関しては、独力で片づけるつもりであったのだ。





 とん、とん、とん。

「む……。何じゃ、まさか時間を過ぎておったか?」

 暫くの間、ロッテが不貞寝していると、不意に自室のドアがノックされる。

 時間が過ぎた、というのは蟲惑の妖精亭への出勤時間の事。
 以前にも、こうやって寝過した事は何度かあり、その度に若干眉を吊り上げたスカロンがわざわざここまで迎えに来るのだった。



 しかし、窓の外の太陽の傾きを見てみると、まだ若干余裕がありそうな時間帯である事がわかる。

 彼女は訝しげに思いながらも、立て付けのあまりよくないドアをギィと開いた。

「誰ぞ?……ぬ、お主は確か、アリアの勤め先の」
「……ど、同僚デス。こ、こ、こんちは」

 扉を開いた先には、カシミール商店の双子見習いの片割れ、ゴーロが緊張のためか、蒼白な面持ちで立っていた。
 
「(なぁんか、変な奴じゃのう……)見ての通り、妾しかおらんのじゃが。何か用かえ?」
「……お、おお、落ちついて聞いてクダサイ」
「妾は十分落ちついておるが。主こそ落ち着いた方が良いぞ」
「……アリアが、ですね」
「アレがどうかしたか?」
「……これが、その、門に。商店の」
「読めばいいのか?」
「……はい」
 
 訳が分からない、という顔をするロッテに、自分の口から事実を告げる事を迷ったゴーロが例の書状の写しを渡す。

「…………」
「……もしかすると、悪戯の可能性も。何の要求も書いてませんし」

 ゴーロは、目を剥いて書状を持った手をわなわなと震えさせるロッテを励ますように声をかける。

 商店のメンバーには、一応本当の姉、という事で通っている。肉親が誘拐されたなど、どんな無愛想な人間でも気を使うのが普通だろう。



 しかし、彼女は。



「……臆病者めがッ!」
「ふわっ?!」

 落ち込むどころか、罵声を口にしながら、ごぉん、と壁を一発。
 腰の入った拳で抉るように叩くと、寮全体がぎし、と軋んだ。

 ゴーロはその凄まじい威力への驚愕のあまり、思わず素っ頓狂な声を上げた。

「想定していた、想定はしていたが。その中で最も恥ずべき物を選びよるとはな……。奴にはプライドと言う物がないのか?!」
「……あの、犯人に心当たりが?」

 怒りを隠そうともせずに吐き捨てるロッテ。
 その様子に恐々としながらも、ゴーロは疑問を口にする。

「……まぁ、の。それよりもお主」
「……はい?」
「妾は少し用が出来た。蟲惑の妖精亭に行って今日は休むと伝えておけ」
「……え」
「では頼んだぞ。また小言を貰うのは勘弁じゃし、無断欠勤は3日分の減棒なのでな」
「……あ、何処に行くんですか?!」
「ちょっとワルモノ退治に、の」

 ロッテはそう言ってちらり、と獰猛な笑みでゴーロを一瞥すると、すんすん、と鼻を鳴らしながら、カツカツと靴を踏み鳴らして外に向かっていった。



「……ところで、蟲惑の妖精亭って、どこ?」

 ロッテの後ろ姿を呆然と見送りながら、ゴーロは絶望したような顔で呟く。

 蟲惑の妖精亭。健全な青少年には関わりのない場所である。





 所は変わって、ケルンの北に広がる森の奥深く、とある資産家の別荘。

 別荘、といっても、あまりにも不便な場所であったため、大分昔に打ち捨てられており、既に人が寄りつくような場所ではなくなっていた。
 捨てるなら最初からそんなところに建てるな、と思うのだが、金の余った人間のすることは、いつの世も凡人には理解できぬものだ。
 
 手入れを全くしていない別荘の天井の板は剥がれ、木組みが剥き出しになり、窓は割れ、床や壁に亀裂が入っている。
 元はさぞかし立派だったであろう、ガリア産の高級家具も使い物にならないほど劣化していた。
 人が住まない建物というのは、あっという間にぼろぼろになってしまうのだ。



 さて、その中でも、何とか部屋の体裁を保っていた窓のない小部屋に、少年と少女が仲良くロープでぐるぐる巻きにされたまま寝かされていた。
 


「ん、ん…………寒っ」

 壁に僅かに空いた隙間から吹き込む、肌を切り裂くような冷気に当てられ、少女の方、アリアは目を覚ました。
 その刺激のせいか、起きたばかりだというのに、妙に頭は冴えていた。

「ここは……?んげっ。……やれやれ、こんなところでもセット扱いとはねぇ……」

 アリアの後ろ、というかぴったりと背中合わせとなっているのは、寝息を立てて暢気に眠っているフーゴ。

「ま、死んではいないだけ、マシ、ね……」
「お目覚めになられましたか、眠り姫。スイートルームの寝心地は如何でしたでしょうか?」
「……?」

 突然掛けられた声に、アリアが身をよじってそちらに目をやると、椅子に腰かけてにやにやと厭らしい笑みを向けるジルヴェスターと、その隣には、例の大男が無表情に佇んでいた。

「……これでスイートとは、随分と質の悪いホテルね。せめて暖房くらいは入れた方がいいんじゃないかしら?」

 アリアは、それを睨みつけるでもなく、飄々としながら皮肉を述べた。

「これは大変失礼。しかし、随分と肝が据わっているのですね」
「吸血鬼と“お話”するのはいつもの事よ」
「私は彼女ほど甘くありませんよ?」

 心外だ、という風に若干目を剥いて言うジルヴェスター。

「同じ、とは言ってないわ。ロッテの方が貴方なんかよりも数倍怖いもの。……しかし、やっぱりアイツ絡みなのね。最近あいつの様子が変だったのははそういう事、か」
「くく、言いますね。成程。彼女が助けてくれる、という信頼というわけですか?」
「信頼、ね。そんな大層なものじゃないけど。ま、来るでしょうね。自分の所有物《おもちゃ》を盗られて黙っているようなタマじゃないし」

 アリアは勝ち誇ったような笑みを見せる。

 アリアがロッテを“信頼”しているかまではわからないが、“信用”はしているようだ。

「ふふ、それが聞きたかった。彼女に招待を断られてしまってはどうしようと不安になっていた所でして」
「あら、招待状でも送ったの?」
「商店の方に届けさせて頂きました。貴女方の住んでいる寮に部外者が近づくのは人目に付きますし、何より、彼女と鉢合わせてしまっては怖いので」
「ふぅん……随分と慎重、というか臆病ね。でもそんな事をしたら貴方の呼んでいない、招かれざる客まで来るかもしれないわよ。例えば、役人とか」
「平民の子供が1人2人誘拐された所で官憲は動きませんよ。万一動いたとしても、貴方のニオイを追跡できる彼女しかこの場所は割り出せません」
「……一応は考えているって訳か。でもアイツを呼びだしてどうするつもり?戦うだけなら別にこんな回りくどい事をする必要はないわよね」
「戦いにも色々とやり方というものがありまして」

 意味深げに笑みを浮かべるが、多くを語る気はないジルヴェスターは、そこで話を区切ろうとする。

「なるほどね。どうして争っているのかは分からないけど、要するに、正面からロッテとやり合うのは分が悪い。だから、斜めから攻めようって訳か」
「……まぁ、そんなところです。もっとも、彼女と真正面からやり合える同族など、ハルケギニア中を探してもそうはいないでしょうが。何せ、彼女は我々のような上位の吸血鬼の中でも、名門中の名門の血統、あなた達人間で言うところの、いわゆる“王族”のような物ですから」
「……は、王族?アレが?」
「ええ、ご存じありませんでしたか?」

 アリアは突然もたらされた情報に、思わず目を剥く。

 まあ、飽くまで人間世界に例えればの話で、実際は吸血鬼の世界に王族などはいないのだが。 

「初耳ね。アイツ、どんだけ私に隠し事してんのよ。まぁ、それならあの妙な言葉遣いも納得いくけど……」
「ふ、所詮、吸血鬼が人間に心を許すことなど無い、という事ですね。……さて、そろそろ彼女もやってくるでしょう。私は歓迎のご挨拶に行って参りますので、これにて失礼させて頂きます」
「あら、つれないわね。もっと色々教えてほしいわ」
「続きは彼女の血で祝杯をあげながらでも」

 そう言って乾杯する真似をすると、ジルヴェスターは椅子からスッと立ちあがり、大男に向かって小声で何やら指示を出す。



「ちぇ、俺は餓鬼のお守りかよぉ。主も人使い、いや屍人鬼使いが荒いぜ……」

 指示が終わると、大男は面倒臭そうに、頭をぼりぼりと掻いてぼやく。

「文句がお有りでしたら、“交換”してもいいのですよ?先程も子供相手に醜態を見せてくれましたしね」
「あ、いや、それは勘弁して下さいよ。俺だってまだ死にたくはねえ」
「実際、既に死んでいるんですけどね……」
「へへ、違えねえ」

 奇妙な掛け合いをしながら、ジルヴェスターと屍人鬼の二人組は、重そうな音のする扉を開けて部屋を出る。
 程なく、がちゃり、と錠前の下りる無機質な金属音が部屋の中にも響いた。

 どうやら、これで完全な密室となってしまったようだ。

 恐らく、大男が部屋の外で扉の番をするのだろう。この部屋は、ただ一つの扉以外に脱出路はないので、そこを押さえておけば逃げ場はないのだ。



「はぁ、緊張したぁ……。でも結局、大した情報は聞き出せなかったわね……」

 二人が出て行ったのを確認すると、アリアは大きく安堵の息を吐いた。

 屋敷での経験上、恐怖に対する耐性はかなりついているものの、やはりコワイ物はコワイのだ。

「……おい」
「ぶるわぁ!」

 とりあえずの危機が去って安堵したところに、突然後ろから掛けられ、アリアは不細工な悲鳴を上げて、腰を浮かせた。

「あいつらより俺にびびってどうすんだよ……」

 声の主はフーゴ。いつの間にか彼も起きていたらしい。

「……あんた、何時の間に起きてたのよ?」
「ついさっき、な。それより、お前どういう事だよ?何で吸血鬼なんてヤバイものに関わってんだ?もしかして、お前も吸血鬼、なのか……?」
「違うわよ!私は正真正銘、れっきとした人間!」
「……そーか。ま、お前が吸血鬼なわけないよな……。けど、今の奴の他にもう一匹いるんだろ、吸血鬼。お前の知り合いみたいな事言ってたけど……」
「き、聞き間違えよ!実は、私が姉が、えぇと、……そう!吸血鬼退治、というか亜人退治専門の……アレよ、傭兵なのよ。凄腕の。伝説級の。何て言ったっけ、アレ?」

 ロッテが吸血鬼だと知られるのはまずいアリアは、完全にテンパりながらも苦しい言い訳を考える。

 もし、無事に帰れたとしても、ロッテが吸血鬼だという事がバレれば、当然一緒にいるアリアもやばい。
 吸血鬼に与しているなど、昨今、ロマリアから目の敵にされている新教徒などよりよほど論外だ。
 異端審問にかけられる事すらなく死刑台に直行だろう。

「は?あの美人の姉ちゃんがメイジ殺し?」
「そう、それ!あの吸血鬼は、実はその昔、私の姉が退治した吸血鬼の子供……じゃなくて、仲間だったの。その仇打ちに来たって事らしいわ」
「……なんか、すげえ嘘くせえ」
「そ、そう言えば、メイジと言えば。系統魔法を使えるあんたこそ何者?」

 胡散臭そうに言うフーゴに、必死で話題を逸らそうとするアリア。

「あー……あれな、みんなには内緒にしろよ」
「何で?別にいいじゃん」
「馬鹿、俺が貴族だと判ったら、みんなが変に気を使うだろうが。それじゃ修行になんねーよ」
「は、貴族?没落した家とか、メイジの血を引いた平民、とかじゃないの?!」
「……あ」

 つい口を滑らせてしまったフーゴは、思わず声をあげた。

「き、貴族といっても、どうせ下っ端の、しょっぼい役人とかでしょ?!」
「……まぁ、どうでもいいけど。フッガー伯爵家の一員だよ、一応な」
「フ、フッガー家……」

 フッガー家と聞いて、アリアは、ちょっと泣きそうな顔になった。



 それもそのはず、フッガー家といえば、ゲルマニア南部の商会組合を率いる、ゲルマニアでも有数の上級貴族である。
 というか、カシミール商店の共同出資者でもあり、本社の代表でもある。

 つまり、現在のアリアの立場から見れば、完全に天上人。

 そのご子息に今まで散々罵声を浴びせた挙句、自分のせいで誘拐事件にまで巻きこんでしまったのだ。
 これはロッテが吸血鬼だとバレなくても無礼打ち、よくても商店をクビにされ、国外追放されるかもしれない。



「……あの。これまでのご無礼、何卒」
「あぁ、もう!だから言いたくねーんだよ。貴族だとわかった途端手の平を返しやがって……」

 フーゴはがっかりしたように吐き捨てると、アリアはやれやれ、という風に溜息をついて、先程の発言を訂正する。

「あー、やめたやめた。あほらし。あんたが貴族だろうが裸族だろうが、どうでもいいわ。だって吸血鬼の方が怖いし、強いし。実際あんたもあの吸血鬼に手も足もでなかったしね」
「へ、いつも通りのムカツク口が戻ってきたな。それでいいんだよ、馬鹿」

 いつもの口調でアリアがそう言うと、満足気にフーゴは笑う。

「……で、何でそのお貴族様が見習いなんてやってるわけ?お家でマナーのお勉強でもしていた方がいいんじゃないの?特にあんたの場合は」
「なぁにが、マナーのお勉強だ。お前こそ少しは女らしくしやがれってんだ。……ま、俺は、伯爵家つっても、所詮は三男だからな。そのままいけば、爵位は当然ないし、せいぜいお前の言うようなしょっぼい役人か下っ端の軍人、それかどっかの屋敷の執事とか。そういう立場にしかなれねー。つまんねーだろ、そんなもん」
「つまる、つまんないの問題?安定した生活はできるでしょうに」

 フーゴは同意を求めるように言うが、アリアは馬鹿にしたような口調で返す。
 
 それはそうだ。並みの平民から見れば、下級貴族と言えども平民の平均所得の4倍以上の収入を得られるのだから。
 まぁ、確かに大商人にまでなれば、そんな額は鼻で笑ってしまうレベルではあるが。

「お前だって農民が嫌でゲルマニアまで出てきたんだろうが」
「まぁ、私の場合は特殊よ、特殊」
「特殊ねぇ。ま、いいや。俺の“ご先祖様のように”、商人として成り上がろうと思ってな。敢えて安定した身分を捨てて、ゼロからのスタート。どうだ、格好いいだろう」

 ふんぞり返って言うフーゴ。縛られているというのに、器用な奴である。



 フッガー家と言えば、商人から成り上がった家系としても有名だ。

 初代フッガー家の当主ヤコブは、平凡な地方の小売商の家に産まれたものの、それを良しとせず、アウグスブルグの商家見習いとして交易の道へと入る。

 そこから遍歴商人、高利貸しなどを経て、当時南部を支配していたさる大貴族に、大量に貸し付けていた借金のカタとして、当時は小規模だった銀鉱の採掘権を獲得。
 その銀鉱をゲルマニア、というかハルケギニア一の銀鉱に発展させ、銀の交易によって膨大な利益を得て、一気に成りあがった、というまさにゲルマニア・ドリームのお手本のような存在であった。
 また、貧しい労働者用の集合住宅を、ほとんど無償でアウグスブルグに提供するなど、慈善家としても名が高い。

 最も、それはかなり昔の事で、今はフーゴのように、メイジの血が脈々と流れる正真正銘の貴族となっているが。



「どうかしら。私から見ると、底抜けの阿呆にしか見えないんだけど。下級貴族からのスタートの方がいいんじゃないの?」
「無理。下級貴族がそれ以上を望むなら、軍人として戦功を挙げるとか、そのくらいしかない。軍人とかなりたくねーし。それに比べて、商人は無限の可能性があるからな」
「ふーん、無限の可能性、ねぇ。ま、阿呆には変わりないけど、上を目指す姿勢だけは、中々の物ね。少しは見直したかも」
「ほ、ほんとか?!」
 
 アリアの何気ない褒め言葉に、少し、というかかなり嬉しそうに言うフーゴ。

「まあ……それもここを抜け出して生き延びないと、意味はないけどね」
「言うなよ……折角考えないようにしてたのによ」
「はぁ」「ふぅ」

 しかし、その気分に水を差すかのように、アリアが現実を突きつけると、二人して大きな溜息を吐いた。



「……とりあえずこのロープをなんとかしましょう。これさえ外せれば、なんとかなるわ」
「なんとか、って……外しても、あの大男が外で見張ってんだろ。しかも唯一の出入り口には鍵が掛かってるし」
「大丈夫、私に考えがあるのよ。あんた、何か、尖ったものとか持ってない?」
「さすがにそういうもんは縛る前に取り上げられて……」

 そう言いながらも、ポケットをまさぐるフーゴ。

「ま、そうよね。さすがにあるわけ……」
「いや、待て。あったぞ。俺のポケットに布切り用の小刀が入ってる」
「嘘?!……随分と舐められたものね……。所詮人間の子供に何が出来る、とでも思っているのかしら。まぁ、それならそれで好都合だわ」
「だな」
「さあ、ロープを切りなさい、フーゴ」
「あいよ、りょーかい。でも考えってなんだよ。俺の杖も取られちまったし、鍵が開けられたとしても、あの化物には勝てねーぞ?」
「化物退治には、ちょっと自信があってね」
「ふ~ん……」

 アリアの確信に満ちた回答に、様々な疑問を抱きながらも、フーゴは小刀を動かす手を休める事なく作業を続けた。





 すんっ、すんっ。

 高く整った形の鼻をひくつかせて、雪深い森の中を、飢えた狼のように疾走する、メイジ殺し、もとい吸血鬼リーゼロッテ。

(んむ、要所要所にわざとニオイを残しておるな……。待ち伏せか?つまらん罠じゃの)


 分岐点のある場所には、必ずと言っていいほど、“ニオイ”をこすりつけたような痕があり、そのおかげで、ロッテは驚く程簡単に北の森を突きとめた。
 もっとも、そのニオイが分かるのは彼女をおいておらず、現在、同じ敵を捜索中であるクリスティアン達がこの方法で目的の場所へと辿りつくのは不可能であろうが。

 罠、とわかりながらも突き進むロッテ。それくらい今の彼女は“キレて”いた。

(しかし北の森、か。……くっく、森を戦場に選ぶとは、奴こそ森の敗者そのものではないか)

 街と違って、この時期の森に立ち入る人間はまず居ない。

 なので、ここからは、ニオイがなくとも森に降り積もった雪についた、足跡を辿れば良いはずだったのだが。



(おかしい、足跡が消えた……。それに、ニオイも?)

 しかし、森の途中、丁度木々が密生しているあたりで、はた、とその痕跡が消えていた。
 どうしたものか、とロッテはそこで立ち止まってしまう。

(ここからは上の枝を伝っていったのか……。それにしてもニオイもないのは何じゃ?何らかの精霊魔法……何っ?!)



 びゅん。



 ロッテが立ち止まった瞬間、鋭く尖った枝の槍が、頭上からロッテに襲いかかった。

 それは捕縛などという、ヌルい目的ではなく、必殺の一撃。

「ぬぅっ」

 しかしロッテは、驚異的な反射神経で、木の葉のように宙を舞い、それを回避してみせた。

 まるで猫のような機敏さ。

「む……何じゃ、ここで決着をつける、という事か」

 ぐるりと辺りを確認すれば、森に生える無数の枝が、うねうねと触手のように動きながら、四方八方からロッテを狙っている。



「よかろう、やってみろっ!この、リーゼロッテに対してっ!」

 彼女は紅い瞳を獰猛に光らせ、腰を落として体勢を整えると、戦闘の開始を高らかに宣言した。



(枝よ、伸びし枝よ……愚かな侵入者を穿て)

 それに呼応するかのように、ひゅひゅん、っと襲いかかる伸びし枝達。
 スコールのように降り注ぐ枝は、いかなる達人でも躱す事は不可能。

「ち、姿を見せずに終わらせる気か?甘いわっ!」

 気合一閃。

 それを全て、片手で薙ぎ払うロッテ。
 襲いかかった枝達は、あまりの威力に、クッキーを砕いたかのように粉々に粉砕される。

「ふっ」

 息を着く事無く、雪を蹴りあげ、地を駆ける。

(これだけ、こちらの急所を的確に攻撃してくるという事は、敵はそう遠くには居ないはず……)

 そう判断したロッテは、鬱陶しい木々の相手をするのを二の次にし、まずはジルヴェスターの索敵に力を傾ける事にした。

 系統魔法と違って、精霊魔法には精神力による限度はない。
 よって、こういう場合、相手が疲れるまで躱し続ける、というのは得策ではなく、術者の本体を探すことが先決なのだ。



「くそ、何処じゃ、何処におる?」

 しかし、何時まで地上を捜し回っても、その姿は掴めない。

 かなりの距離を駆けまわり、その間も無遠慮な木々の攻撃にさらされ続けたロッテの体には、無数の擦禍傷が刻まれていた。

 深い傷は一つもなかったが、息もつかせぬ攻防により、その動きには目に見えて疲れが見え始めていた。
 【再生】という能力はあっても、肉体の疲労はどうにもならないのだ。

「下にいないとすれば、上か!」
(ふふ、それはどうでしょう)

 地には敵がいない、と判断したロッテは天を仰ぎみる。
 高く生い茂った木々の上ならば、こちらの状況も掴みやすいであろう。

「うおぉっ」

 そう考えた時には、彼女は、手近な樹の太い幹を、“垂直に”駆け登っていた。
 猫のように、と言ったが、訂正しよう。既に、彼女の動きは野生の獣を超えている。
 




「ぐっ……。最悪、じゃなこれは……」

 しかし、樹上はロッテにとっては更なる地獄だった。

 待ち受けていたのは、地上とは比べ物にならぬほど、密生した枝の大軍。
 しかも、それを不安定な足場で、相手にせねばならない。

(さあ、行きなさい!)

 上下左右、あらゆる方向から一斉に飛びかかる枝の兵隊達。
 向かってくる数を数えるのが馬鹿馬鹿しくなるほどの枝の突進。

 多数に無勢も甚だしい。

 これだけの数を全ていなすのは不可能と判断したロッテは、自らも同じ精霊魔法【生長】で応戦しようとする。

「えぇい、小賢しいっ!……枝よ、伸びし枝よっ!妾に仇なす事を許さん!」

 突進する枝は、ロッテの命令に対して、ピクリ、と一瞬、止まった。 

 が。

「何っ?!」
(無駄ですよ)

 しかし、それは長くは続かず、その突進は止まらなかった。

 万全の状態であれば、おそらくロッテの命令の方を優先したであろうが、態勢を崩しながらの精霊への呼びかけが不完全な詠唱では、いかに術者が優秀であっても、威力は半減してしまうのだ。

「くっ」

 虚を突かれた彼女は、やむなく、亀のような防御態勢を取る。
 如何に彼女が頑丈といえど、急所をぶち抜かれればタダでは済まない。

「ぐっ……くそっ、姿さえ見えればっ!姿を見せろ、卑怯者めっ!」
(ふふ、卑怯で結構。これが、私の“やり方”ですので)

 ロッテは、突き刺さった枝を勢いよく引きぬいて投げ捨てると、怒りに髪を逆立てて罵声を浴びせるが、当然それにジルヴェスターが応えるはずもない。

 これが彼の必勝を支えてきた戦法なのだから。
 無策で挑んだロッテの方が甘いのだ。

「しつこい……っ?」
(足元がお留守ですよ)

 執拗に襲いかかる枝達の攻撃。

 上半身の急所への攻撃に気を取られたロッテは、同時に足元に伸びていた枝に気付けなかった。

「……っ!」

 ぎゅるっ、と巻き付いた枝が、勢いよく彼女を天から地へと叩きつける。

 そこに待っていました、とばかりに矢のような追撃が襲いかかる。

 ざしゅっ、ざしゅっ、と巨大な獲物に群がるピラニアのように、枝達は何度も何度も地を突き刺す。

 大量の雪が粉塵のようにキラキラと宙に舞い上がる。
 地震のような衝撃に、木々に降り積もった雪が大きな音をたてて滑り落ちる。
 枝が密集しすぎて、一つの大きな繭のようなものを作り上げていた。
 
(ここまで、ですかね?)

 しかし、終わりではなかった。

 ぱぁん、とその繭が強い力によって破裂する。

「があぁああっ!」

 ぶちぶち、と枝を引き裂く音とともに、ロッテの咆哮が森に響く。

「く、くヒ、けひゃぁああっ、もう、殺すっ、お前は1000回殺すッ!」

 四肢のあちこちの肉が裂けているが、長い髪を山姥のように振り乱して、怒り狂う彼女は未だに健在だった。



(やれやれ、これでも倒せませんか。頑丈ですねぇ。ま、気長に行きましょうか、気長に、ね)

 ジルヴェスターは、その怒りの雄たけびを、まるで心地良いクラシック音楽を観賞するかのように聴きながら、不敵ににやりと微笑んだ。





つづけ






[19087] 20話 true tears (前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/08/11 00:37
 ロッテの怒りが頂点に達した頃。



 屍人鬼の大男は、少年少女を監禁した部屋の前で、だらしなく足を崩して座り込み、ぷかぷかとパイプの煙を燻らせていた。

「暇すぎる……。“釣り餌は生きていなければ”なんて、どうせ後でブッ殺すんだから、先にヤッちまえばいいのによぉ~。あ~、すげぇイライラするぜぇ」

 大男はそう吐き捨てると、不愉快そうに泥のついた足でパイプの火を揉み消した。

「大体、何で俺が、こんな所で見張りをしなきゃいけね~んだよ。全く、少しは使われる立場になってみろってんだ」

 ついには本人が居ない事をいい事に、主であるジルヴェスターにまで悪態を突く始末。

 大男は完全に弛んでいた。

 まあ、それも仕方のない事だ。
 小さな子供二人を閉じ込めた部屋を見張るだけの、欠伸がでるほど退屈な仕事。片方はメイジとはいえ、杖を取り上げられた状態であるし、何が出来る訳でもあるまい、と考えるのが普通だろう。

「ん?」

 だが、ここで散漫になっていた大男の注意を引きつける出来事が起こった。



『フーゴ、ここからなら逃げられそう』
『しっ!大きな声を出すなよ、気付かれちまう』

 それは、部屋の中から聞こえて来る少年少女、二人の会話だった。
 
(何だ……?何を言ってやがる。この部屋には、この扉以外に出口なんぞないはず)

 そう思いながらも、大男は扉に耳をピタリとつけて中の様子を窺う事にした。

『じゃ、レディーファーストね』
『どうでもいいから、さっさと行けよ』
『それじゃお言葉に甘えて。よい、っしょっと。……この穴きっつ』
『け、太り過ぎじゃねーの』

 二人の会話の他に、ぎしぎし、と何かが軋む音が部屋の中から聞こえてくる。

(抜け穴、だと?馬鹿な。そんなものがあるわけがねえ。何回も入念に調べたはず…………ん、待てよ?はぁん、こいつは)

 二人の会話の内容に、ピン、ときた大男は、中の二人に聞こえるように大声で呼びかける。

「逃げる振りをして、俺に扉を開けさせようって魂胆か?くっくく、所詮は餓鬼の浅知恵ってもんだぜ。そりゃあよ、使い古されてカビが生えているような手だ!」

 その呼び掛けに、一瞬二人の会話は途切れたが、応答はなかった。

(ちっ、だんまりかよ……。聞こえてんのは間違いね~はずだが。ま、一応注意だけはしておくか、注意だけはな)

 大男は、先の会話は二人の演技だという自分の考えを正しいと判断はしていたが、大事を取って、聞き耳だけは立てておくことにした。
 万一、自分の判断が外れていて、本当に逃げられてしまったら、彼の主からどのような仕打ちを受けるかわからないからだ。
 
『……よっし、二人とも何とか通れたわね。あのウスラ馬鹿が勘違いしてるうちに、急ぎましょう』
『おう、さっさと帰ろう』

 その会話を最後に、二人の会話は終わり、部屋の中から聞こえてくる音が消えた。

(くかか、ウスラ馬鹿だとよ。一丁前に挑発かよ。……まあ、縄くらいは解いたのかもしれんが。しかし、そこまでよ。それでお前らの冒険は終わりだ。せいぜい中で気張ってろや。っくく)

 結局、大男は無視を決め込むことにした。
 少しすれば、ボロを出して音を立てるさ、と考えたのだ。





 それからおよそ半刻後。

 大男の予想は見事に裏切られていた。

「…………おかしい。さすがに長すぎる」

 半刻近い時間が経っても、部屋の中からは、虫の這いずる音すら聞こえてこなかった。

(……まさか、本当に抜け道があったのか?そういや、猫が何とか通れるくらいの穴があったような気も……あいつらは小柄だし、それを広げればひょっとして……。いや、そんなはずは)

 長い沈黙の時間が、ついに大男の心に焦りと迷いを生じさせた。

“交換しますよ?”

 額にうっすらと汗を浮かべた大男の脳裏に蘇るのは、主のあの一言。

 交換、つまり下僕を取り換えるという事。
 ジルヴェスターのような、通常の吸血鬼は一人一体までしか下僕を作れない。

 それは即ち、大男の消滅を意味していた。

(くそ、まずい。とりあえず中を確認だけはしておくか。……何、もし誘いだったとしても、ねじ伏せてやりゃあいい、所詮は餓鬼2匹よ)

 大男はそんな打算をしながら、がちゃがちゃ、と焦りながら鍵を回し、開かずの扉を解き放った。



「ぐ……馬鹿な!」

 転がるように部屋の中へ飛び込んだ大男は辺りを見回しながら叫ぶ。

 部屋の中はもぬけの殻。
 拘束されていた二人の姿は忽然と消えていた。

「くそっ!一体何処から逃げた?……ここかっ?ここか?それともここかぁっあっ!」

 焦燥感から来る苛立ちを感じ、部屋に備え付けられていた家具を、次々と蹴り飛ばす大男。

 板の割れる音、ガラスの飛び散る音、大男の怒声が奏でるアンサンブルが部屋中に響き渡る。
 しかし大男がいくら部屋中をひっくり返しても、二人が見つかる事はなかった。



「はぁ、はぁ、畜生…………ん?」

 一通り暴れて、少し落ち着きを取り戻した大男は、ようやくそこで違和感に気付く。

「……そういや、あいつらを縛ってた縄は……持って行ったのか?」

 確かに、何かに使えると思って持って行った可能性はあるが、子供には結構な重さのはず。
 ただ逃げるだけならば、無用の長物のはずだ。

「それに……ここにデカイ本棚があったような……?」

 部屋の中で一際大きく目を引いていた家具だ。見間違いではなく、確かにあったはず。
 その証拠に、本棚があったはずの場所の床板には、日焼けを免れた痕があった。



 疑念を抱いた大男が、詳しく調べようと、のろのろと本棚があったはずの場所に向かった、その時。



「今っ!」

 頭上から鋭い声が飛ぶ。

「何っ!?」

 大男が反射的に上を見上げると、何か黒いモノが視界を塞いでいた。



「──っ!」

 ぐしゃ、という頭蓋が粉砕される音。
 ぐちゅ、という蛙が潰されたような嫌な音。
 最後にどすん、と重い衝撃音が部屋に響き渡り、部屋全体に振動が伝わる。

 大男の視界を遮ったのは、縄を括りつけられた、消えたはずの本棚。

 成人男子3人分はあるであろう、重量級の凶器が突如、天井から落下してきたのだ。
 大男は予期せぬ攻撃を躱す事はおろか、声を上げることすら出来ず、その場に崩れ落ちた。
 
「や、やったか?!」

 小刀を手にして、剥き出しになった天井の木組みの上からフーゴが叫ぶ。

「ちょっと待ってて、確認してくるわ」
「お、俺も行くって……」

 同じく天井の木組みに腰掛けたアリアがそれに応えると、二人は猿のように、するするとロープを伝って下に降りて行く。



 実は、大男の推理は当たっていた。
 あたかも部屋の中に抜け道があるように振舞っていた二人の掛け合いは全て演技で、大男を部屋の中に招き入れるための誘いだった。
 大男の調べ通り、部屋の中には二人が抜け出せるような穴など存在していなかったのだ。

 とはいえ、部屋に誘い込んだとしても、大男の計算通り、二人の負けはほぼ確定している。

 大男にとって誤算だったのは、二人が凶悪な武器を用意していた事だ。

 掛け合いの前、アリアの“考え”によって、二人は、この部屋で最も重量がありそうなモノである本棚に、自分達を拘束していた太い縄を入念に括りつけ、その縄を肩に担いで壁を昇り、剥き出しになった天井の木組みの丸太を滑車代わりにして、それを天井高くまで吊り上げていたのだ。

 二人にとって幸運だったのは、その時の作業音に大男が気付かなかった事。
 注意力が散漫になっていた大男はそれに気付けなかったのだ。

 その後、自分達も天井裏に移動し、部屋の外にも聞こえるように、声を大にして台詞を読み上げ、その後はひたすら息を殺して待機していた。
 「やはり引っかからないのでは」という不安と「早く来てくれ」という焦燥を感じながらも、勝利の引き金である、食器棚を支えている縄に小刀を這わせて。

 故に、大男が初志を貫徹して、無視を決め込んでいれば彼の勝ちは揺るがなかった。
 二人が逃げ出しさえしなければ、大男の勝ちなのだから。

 しかし、彼は、二人と同じように不安と焦燥を感じ、そこから出た迷いに負けた。

 つまり、彼は我慢比べに負けたのだ。
 

「私の勝ちね」

 アリアは屍人鬼の遺骸を足蹴にしながら誇らしげに勝利を宣言した。

 着地の衝撃に変形した本棚の下からは、どす黒いオイルのような体液が流れ出ている。
 アリアが先程から、大男だったモノをげしげしと蹴り込んでいるが、何の反応も見られない。
 どうやら、完全にその機能は停止しているようだ。

「う、うぇ……エグぃ……」

 フーゴはぐしゃぐしゃになった黒い塊に、思わず吐き気を覚え、口を押さえる。

「しっかりしなさい、男の子でしょうが」
「んなこと言ったって……普通は吐くぜ?何だよ、このぬめっとしたの……おぇ」

 たまらず後ろを向いて嘔吐するフーゴに、アリアはふぅ、と溜息を吐く。
 
「貴族がこの程度で吐いていたら話にならないでしょうに」
「……お前、なんでそんな平気なんだ?今は化物とは言え、元は人間なんだろ、コイツ」

 フーゴは服の袖で汚れた口を拭って言う。

「飽くまで、元人間よ。最初から死んでいたんだから、成仏させてあげただけじゃない。むしろ感謝して欲しいわ」
「……はっ、大したヤツだよ、お前は」
「ふふ、言ったでしょ。化物退治には自信があるって」

 フーゴの呆れたような褒め言葉に、アリアはふわりと歳相応ではない魅惑的な笑みを浮かべた。

「お、おぉ」
「ん?」
「……いや、何でもねぇ。それより早くこんな辛気臭い場所はずらかろうぜ」
「……そうね。ただ、ちょっと気になる事があるのよ」
 
 アリアは小首を傾げながら、大男だったモノの前に座り込む。

「気になるって……その肉塊がか?」
「実は、ここで目が覚めた時から気になってたんだけどさ。泥が、ね。付いてるのよ」
「泥?」
「ええ。私の服にも。そしてこいつの足にも。あら、あんたの服にも付いてるわね……」

 アリアはフーゴのズボンの汚れた部分を指して言う。

「泥くらいついてもおかしくないだろ。あいつら森を進んで来たんだろうし」
「だからおかしいのよ。今の時期、森には雪が降り積もってんのよ?泥なんてつくわけないじゃない」
「……む、確かにそうか」
「うぅ~ん」

 アリアはそのまま考えに没頭しようとするが、フーゴがそれを制する。

「馬鹿、そんな事やってる場合か。さっさと逃げんぞ!」

 その意見は非常に正しい。考えに耽っていられるほど、悠長に構えている場合ではない。
 もし吸血鬼が戻ってくれば、今度こそ勝ち目はないのだから。

「……分かったわ。とりあえず、ここは出ましょう」

 アリアは未だ納得がいかない顔をしながらも、フーゴの意見に従い、廃屋を後にした。





 はぁ、はぁ、と少年少女の荒い息使いが、暗い森の中に響く。
 外気は寒いとは言え、激しく運動する2人の身体は汗でほんのりと湿り、月明かりがそれをキラリと反射させた。

「あぁ、もう、歩きにくいったら……」
「ほれ、手、出せ」

 深い雪にずぶずぶと足を取られて思うように進めないアリアに、フーゴが手を差し伸べる。

「それにしても、変ね」

 素直に差し伸べられた手を取ったアリアが眉間に皺を寄せて言う。

「何が?」
「足跡が無いの、あの廃屋に運ばれてきた時の」
「南に向かってんだから方向は問題ないぜ、多分。足跡なんて、風に晒されて消えちまったんだろ」
「……そう、かな」

 その答えにまたもや納得がいかないアリアは、とある推測を頭の中で構築しながら、道無き道を進むのであった。





 どれだけ森の中を歩き回っただろうか。

「きヒャアああぁっ!」

 不意に、ずしん、と何かが倒れる音と揺れとともに、耳をつんざく、気が違ったような絶叫が森に木霊した。

 ただならぬ奇声に、何事かと二人はびくり、と警戒を強め、その場に伏せる。

「何なのよ、この声は?」
「あっちだ」

 フーゴが顎でしゃくった方向を見れば、暗闇の中で激しく舞うように動く影が一つ。

「くはっ、くヒゃっ!出てこぬなら、全て薙ぎ払った後で、撃ち落としてくれるわっ!」

 狂笑しながら暴れ回る影は、その宣言通りに“素手で”大樹を殴り倒し、蹴り倒し、放り投げていく。

「あ、あれ、もしかして。お前の姉ちゃんじゃ」
「ぁんの、単細胞。完全にブチ切れてんじゃない……」

 その光景を見て、アリアは頭痛がするように米神を押さえた。

「いや、ブチ切れるとか、そういう話じゃねえって!何なんだよ、あれは……?今ぶん投げた丸太の上に乗って飛んでたぞ?!」
「だ、だから、伝説級のメイジ殺し、なのよ。うん。生きるイーヴァルディって感じ?その気になれば、ドラゴンだろうが、スクウェアメイジだろうが、エルフだろうが、軽く捻り殺せると言っていたわ、確か」

 そんな事は誰も言っていない。
 ドラゴンやスクウェアメイジは知らないが、【反射】持ちのエルフは多分無理だ。

「すげえ……」
「そうでしょう、凄いのよ。超凄いのよ。さすが、私の姉よね」

 華奢に見えるうら若き美女が、ミノタウロスも泣いて逃げ出す膂力を披露し、暴虐無尽に森の中を暴れ回る。それも、不気味に嗤いながら。

 俄かには信じられない光景に開いた口が塞がらないフーゴと、背中に嫌な汗を掻いて訳のわからない事を口走るアリア。



(もう、あの馬鹿!一体何考えてんのよ!……そりゃ、助けに来てくれたのは、ちょっと、嬉しいけどさ……。いやいやいや、そんなことを考えてる場合じゃない!)

 目まぐるしく変化する思考によって、アリアの表情はしかめっ面から、急ににへらと笑ったと思えば、今度は凛々しい顔つきになったりと忙しい。

「ちょっと私、行ってくる。あの馬鹿を落ちつかせないと……」
「へっ、ここまで来て一人で行く気かよ。俺も行くからな」

 アリアがコクリと頷くと、二つの小さな影は、暴れ狂う影に向かって走り出す。



「ロッテっ!」

 ロッテの顔が見えるほどの位置まで来ると、アリアがロッテに呼び掛けた。

「け、クヒ、きゃあぁああっ」

 しかし、極度の興奮状態にあるロッテは、それに気付かず、突進をやめようとしない。
 嬉々として木々を倒して回るその姿は、まるで泥酔運転のブルトーザー。

「ありゃ、聞こえてねーのか?」
「全く、世話のやける……」

 アリアは眉を顰めて、いつも腰に巻き付けている袋を手にした。

「喰らえっ、れーざーびーむ!」

 謎の言葉を吐きながら、腕を大きく振りかぶって、それを全力で放り投げるアリア。

「ひゃ、ぶっ?」

 鋭い縦回転の掛かった袋は、見事狙い通りにロッテの顔面に命中し、ぼふん、と音を立てて、緑色の粉末を撒き散らした。

「け、がふっ、ごほっ、うえぇええっ……!何じゃ、これはっ?!臭いっ……!ハシバミ臭いいぃっ!」

 顔を両手で覆って、その臭いにのたうち回るロッテ。
 そう、アリアが投げつけたのはハシバミ草の粉末がたっぷり詰まった袋だったのだ。



「どう、少しは正気に戻った?」

 アリアは蹲るロッテを見下ろして、ニヤリと口の端を吊り上げた。

「え、うあ、あ、お主?ぶ、無事じゃったのか?」

 未だにツーンとする鼻頭を押さえて、狐につままれたような顔でアリアを眺めるロッテ。

「えぇ、おかげさまで」
「……ほ、そうか。全く、この弱者めが。簡単に捕まりおってからに……」

 ロッテは悪態を突きながらも、安堵の表情を見せる。

「それは申し訳ありませんでした。でも、隠し事をしていたアンタが一番悪い」
「……う」

 アリアにびし、と指を突きつけられて、言葉に詰まるロッテ。
 
「大体ね──」
「アリアっ、後ろだっ!」



 そのままアリアの言葉責めに突入かと思われたが、そこでフーゴの切羽詰まった檄が飛んだ。



「へ?」

 惚けた顔で言われるがままに後ろを振りかえるアリア。
 
 振り向いた先には、鋭く尖った枝の槍。

「な……」
「チっ!」

 思わず目を閉じて尻餅を着くアリアを尻目に、ロッテは舌うちを一回。
 
「せいっ!」

 再びアリアが瞼を開けた時、枝は残らず地に叩き伏せられていた。

「おわっ」「ひゃっ」

 ロッテは間髪いれずに、アリアとフーゴを両脇に抱えて、地を這うような姿勢で駆けだす。

「だ、大丈夫っすか?俺、結構重いっすよ?」
「そんな事を言っておる場合では……というか、主、誰じゃっけ?」
「あ、俺は妹さんの、えと、同僚で」

 フーゴはロッテに抱えられたままの態勢で悠長に自己紹介を始めた。

「そんなのは後っ!とりあえず黙って逃げる!ロッテ、全速前進!」
「お、おう」

 街の方向に向かって指示を出すアリアの気迫に、フーゴは黙って首を縦に振る。

「それは、駄目じゃ」

 しかし、ロッテはその勧告に、頑として首を横に振った。

「何を──」
「ここであやつを倒さねば、また同じことの繰り返しじゃ」

 アリアの言を遮って、強い口調でロッテが言う。

「……確かに。一理は、あるわね。でも、あんたさ」
「ぬ……?」
「相手が何処にいるか把握してないでしょ?」
「じゃからヤツを引き摺り出そうと、片っ端から木を倒していたんじゃ」

 当然のように言うロッテに、右脇に抱えられたアリアは小さく溜息を着いた。

「これだけ暴れ回って出て来ないなら、多分、上にはいないわ」
「何?!ならばどこにいるというのじゃ」
「ヒントは泥と消えた足跡、よ」
「さっきもいってたな、それ」

 反対の脇に抱えられたフーゴが思い出したように、合いの手を入れる。

「勿体ぶらんでさっさと教えんか」
「つまり、多分ここらへんのどこかに、あの廃屋と繋がっている地下道みたいなものがあると思うのよ」
「地下、じゃと?」

 予想していなかったアリアの推論に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で聞き返すロッテ。

「そう。あのスカした吸血鬼はそこにいると思う。多分、私達を廃屋に連れて行く時もその地下道を使ったのよ。だから、私達の服や、屍人鬼の靴に泥がついていたし、廃屋からここに来るまで、あいつらの足跡は見つけられなかった」
「なるほど……」

 フーゴはその推論に感心したように唸る。

「そういえばニオイも消えておったの。確かに、地下を通ったとすれば、説明はつくかもしれんが……」
「だからね、地面を掘り返したような痕がある場所を探せば」
「……無理じゃ」

 アリアの推理には納得したものの、その勧告にはまたもや首を振った。

「は、何で?」
「この有様でどうやってそれを探すと言うのじゃ?」

 ロッテは走りは止めずに、視線をぐるりと回す。

 それに倣って辺りを見渡せば、枝の攻撃によって掘り返された痕やら、ロッテが縦横無尽に暴れまくった痕で、地面はすでにぐちゃぐちゃだった。
 
「これじゃ、確かに無理ね。かと言って、あの廃屋に戻るのは論外。危険すぎる」
「……やっぱり、街に戻ろうぜ。相手がどこにいるかわかんねーんじゃどうしようもねーよ」
「そうね。私もここは一旦、退いた方がいいと思う」

 両脇に抱えた荷物は口をそろえて撤退を促す。

「ぐ、しかし……」

 それでもなお、後退を渋るロッテ。

「ロッテ、気持ちは分かるけど…」
「待て、何か来る」

 突然鼻をぴくぴくとさせ、こちらに迫ってくる何かに気付いたロッテは、ピタ、と立ち止まってそちらの方向を睨みつける。

「まさか、他の敵?」
「街の方からかよ……やべえぞ」

 だとしたら、最悪だ。
 街の方向からやって来ているという事は、退路が塞がれてしまうという事だ。

「いや……どうにも人間のようなんじゃが」
「へ?」

 3人は呆けた表情でそちらに視線を向けた。



「なぁ、姉と妹、どっちの方が美人だと思う?」
「さあ……?」
「何だ、つまんない奴だなぁ。そんなんだから未だに独身なんだよ、お前」
「放っておいて下さい。貴方と違って一途なタイプなんですよ、僕は」
「ぷっ、一途とか言っちゃって。ついこの間、本命に振られたばっかりなんだろ?ん?」
「三度は言いません。放っておいて下さい」
「……正直、すまんかった。分かったから、雇い主に向かって杖を構えるのはやめような」

 前方から何とも緊張感のない会話をしながら近づいてくる男が二人。



「お、あれじゃね?噂の姉妹ちゃん達は」

 こちらに気付いたらしい燃え盛る炎のような髪をした男がこちらを指さして言う。

「……みたいですね。捕まっていたはずですが、自力で脱出したんでしょうか?」
「はっはは、そりゃ頼もしいコ達だな。お~い、無事か~?!」

 暗闇に映える白い歯を見せて、暢気な口調で手を振るのは、ツェルプストー辺境伯、クリスティアン・アウグスト、その人であった。

 



まとめられねぇ……という事で後半に続く





[19087] 21話 true tears (後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/08/13 13:41

「吸血鬼の仇打ち……?」
「はい。姉を狙っての犯行だと思われます」

 これまでのおおまかな事の経緯をアリアに説明され、難しい表情で腕組みをするクリスティアン。

「それにしても、どうやってここを探し当てたんです?」
「ふ、この程度、ゲルマニア商人の情報網を使えば造作もない事よ。二人の子供を抱えた大男がこの森に入って行くのを見た、つう情報が入って来てな」

 クリスティアンは長い赤髪を掻き上げながら、誇らしげに胸を張って言う。
 
 ジルヴェスター達が人気の無い場所を選んで移動していたとはいえ、完全に人の目を避ける事など出来ようもなかったのだ。



(ひゃ~、辺境伯と直で喋っちゃったよ。これは貴重な体験ね)

 いきなりの辺境伯の登場に、最初こそ面食らったアリアだったが、その後はある程度、落ち着いて話をすることが出来ていた。
 
 以前のアリアであれば、恐縮のあまり心臓麻痺を起こしかねない場面であったが、様々な困難を自力で乗り切ってきた彼女の心臓は、毛が生えているどころか、毛むくじゃらのもっさもさになっていた。
 吸血鬼に拉致されるという死に直結する異常事態にも、ウィースバーデンの化物屋敷の時のように、『私』と『僕』の精神が乖離する事なく、冷静な対処が出来ていた事も、彼女が成長している事の証と言えるだろう。

「で、ホシは土の中。こちらから手出しはできない、と」
「おそらくは、ですが」

 アリアがクリスティアンに説明した事の次第(改竄済み)は以下の通り。

──姉(ロッテ)はかつて、ガリアにおいて数多くの武勲を立てた有名な傭兵であった。
 現在は傭兵稼業からは引退し、妹(アリア)とともに新天地を求めてゲルマニアに渡って来たのだが、昔のしがらみからはそう簡単に抜け出せるものではなかった。
 何年か前、姉が討ち取った吸血鬼の仲間が、その仇打ちに来たのだ。
 正面からの戦いでは姉に敵わない事を知っていた吸血鬼は、卑劣にもその妹を人質に取ったのである──
 
 とまあ、嘘八百の出鱈目である。少しは真実も混じってはいるが。

 ロッテが吸血鬼であるとばれるわけにはいかない、というアリアの意図を汲んだのか、彼女はその説明に突っ込みを入れることはなく、ただ目を閉じて黙していた。

「それにしても……この娘が、有名なメイジ殺し、ねぇ?」
「……な、何じゃ。本当じゃぞ、妹の言っている事は嘘偽りない真実じゃからな?」

 クリスティアンに疑惑の目を向けられ、悪戯がばれた子供のように、あたふたと狼狽するロッテ。

(馬鹿、それじゃ疑って下さいといっているようなもんじゃないの!)

 アリアは背中にどばどばと嫌な汗を掻きながら、肝心な所で演技力のないロッテを心中で罵った。
 ここで彼女が吸血鬼だとばれようものなら、たとえ敵の吸血鬼を退けたとしても、その後に待っているのは身の破滅である。

 しかし、クリスティアンは、その危惧とは全く別方向の行動を見せ始める。



「君は“情熱”という物をご存知かな?」
「は?」
「香水はローズ系、か。とても良く似合っている。君は薔薇のような美しさと、危険な刺を持っているのだから」
「一体、何を、言って、おる?」

 様子のおかしいクリスティアンを警戒するように、じり、と後ずさるロッテ。

「凡百の男では、その刺の鋭さに近づくことも出来ないだろう」
「…………」
「しかぁし!俺ならばその鋭い刺で幾千の傷をつけられようとも、受け止めてやる事ができるっ!」
「主が何を言いたいのか、妾にはさっぱりわからん」

 どこまでも偉そうな平民娘(実際は吸血鬼だが)のロッテ。
 その様子を見ていたアリアとフーゴが小声で会話を交わす。

(お前の姉ちゃん、色々とすげえな……)
(もう、やだ、あの馬鹿……)

 ちょっと泣きそうな顔で頭を抱えたアリアの脳裏には、不敬によって無礼打ちにされる姉妹の未来がぼんやりと映し出されていた。

「……よし、じゃあ単刀直入に言おう」
「うむ、そうしろ」
「俺と、突き合わ……もとい、付き合わない?」

 斜め45度からキメた表情で単刀直入すぎる言葉を吐くクリスティアン。



(駄目だこの領主、早く何とかしないと)

 この時、仲良く肩を落としたアリアとフーゴの思考は珍しく一致していたという。



「クリスティアン様っ!今、そんなことを、している、場合じゃないでしょうっ!あぁ、もうっ、キリが無いっ!イル・ウォータル……」

 そのクリスティアンに命じられ、到着直後から、鬱陶しく襲いかかる枝の相手をさせられていた下級貴族風の従者が突っ込みを入れる。

「馬鹿野郎、話しかけるなっ!今いいところなんだっ!ツェルプストー家の執事たるもの、そのくらいできなくてどうするっ?」
「酷過ぎる……っ?!うわっ、やばっ……水盾《ウォーター・シールド》!」

 クリスティアンの理不尽な叱責に、泣きそうな顔をしながらも孤軍奮闘する執事の男。
 
(頑張って、執事さんっ……!)

 アリアは自分と同類の臭いがする不遇な執事に、心中で声援を送った。



「ふむ……そういう事か。考えてもよいぞ?」
「ちょ、あんたまで、何を言って……」

 しばらく押し黙っていたロッテだが、不意に何かを決断したかのように口を開き、今度はアリアがそれに突っ込みを入れた。

「おぉっ、本当か!?」
「んむ。嘘は言わん」
「よっしゃ!それじゃ、ここは寒いからな。早速、街に戻って暖かいベッドで」
「ただし、妾に協力をしてくれたらじゃが。見たところ、主はかなりの使い手じゃろ?主ならば、地下の不届者を炙り出せる手段もあるのではないか?」

 先にフーゴに見せた妹のものよりも、数段洗練された破壊力を持つ妖艶な笑みを浮かべて言うロッテ。
 さすがは姉、といった所だろうか。

「ふっふふふ……何だ、そんなことでいいのか。お安い御用だ。元々、俺の商会の競売で舐めた真似をした野郎を許す気もなかったしな。……おい、お前は下がって防壁を張っておけ!俺の女に怪我をさせたらタダじゃおかないからな!」

 先程まで、戦闘を執事に丸投げしていたクリスティアンは、それに応え、人が変わったようなやる気を見せる。
 執事の男に向けて鋭く指示を飛ばすと、実戦向けに設えられた、無骨で飾り気のない杖を手にとって前線に駆けだしていく。

 ロッテは、人間の力は借りない、という吸血鬼のプライドよりも、自分やアリアに害を為す不届者を確実に始末する事を決断したのだ。

「下がって、防壁って、まさかアレ、ですか?……少しは自重してくださいっ!」
「ええいっ、黙れ、黙れっ!俺はリーゼロッテちゃんに、いい所をみせるんだっ」
 
 青い顔をした執事がクリスティアンに嘆願するが、駄々っ子のような主人によって、にべもなくそれは却下された。
 それなりの水の使い手である従者ですら畏怖するようなアレ、とはそれほどに危険なのだろうか。

「はぁ……皆さん、私の後ろへ隠れていて下さいね。巻きこまれたら確実に死にますから」
「は、はいっ」

 何かを諦めた表情の執事はアリア達に向かってそう言うと、胸まである大きなスタッフを突き出して、先程使った【水盾】《ウォーター・シールド》よりも長い詠唱を始めた。
 おそらく、もっと強力な防御壁を張るつもりなのだろう。



「“情熱”の焔を見せてやる……」

 クリスティアンは真っ赤に燃え盛る炎のような髪を逆立て、獰猛な笑みを浮かべて呟いた。





 一方、アリアの推測通り、地中に潜っていたジルヴェスター。

「馬鹿な……。この程度の事件の解決に領主が出てくる、だと? 」

 彼は全く予期していなかった事態に焦っていた。
 その焦りを象徴するかのように、いつもの鼻に付く丁寧な言葉遣いは消え去っている。

 クリスティアン・アウグスト・フォン・アンハルト・ツェルプストー。
 若干19歳にして、名門ツェルプストー家の全てを受け継いだ天才(災)的メイジ。
 敵からは“赤き破壊の悪魔”と恐れられ、味方からは“赤き情熱の英傑”と囃される彼の武勇は、吸血鬼であるジルヴェスターですら知っているほどに有名なものだったのだ。

 通常、大貴族になれば、領内の事件といえども、相当な重大事件でない限り、その解決に自ら乗り出すような真似はしない。
 このような事件は、小飼いの地方役人(下級貴族)か、もしくは都市で雇った衛兵や、自警団の仕事である。

 というか、身代金などの要求すらない誘拐事件など、役人すら出張ってくることはないだろう、と踏んでいた。

「それに、あの小娘。何故、あそこにいるのだ?何故、私が地下に隠れている事を知っている?何故、何故……っ!あの役立たずは何をやっている!」

 ジルヴェスターは、怒りに任せて地を殴りつけ、己の命令をこなせなかった下僕の無能さを罵った。



 彼の潜伏している地下空間は、元からここに存在していたものではなく、彼がロッテに宣戦布告をしてから、長い時間を掛けて下僕に作らせたものだ。

 自らの姿は晒さず、地上から響く“音”を頼りに、一方的に攻撃を繰り出す。

 それが圧倒的上位者であるロッテに対抗するために、彼が考えだした作戦。
 火竜山脈よりも高いプライドを持つロッテであれば、一旦戦いの火蓋が切られれば、たとえ、肉を引きちぎられ、骨を砕かれ、敵の姿が見えなくとも、退却をすることはない、という打算もあった。

(あの女を斃す事が出来ていれば、今後は厄介な争いなどしなくてもケルンの街は永劫に私のものだったというのに……。くそぉ、人間共めぇ……)

 ロッテとの実力差が明白である事は、ジルヴェスタ-自身が良く分かっていた。
 そんな彼が何故、わざわざ彼女に喧嘩を吹っ掛けたのか、といえば、それは功名心と野心からであった。

 確かに、吸血鬼の世界のヒエラルキーの中で最上位に位置している一族の一員であるロッテを打ち倒した、となれば、他の吸血鬼達はジルヴェスターの力を恐れ、もう面倒な縄張り争いなどしなくても済むようになるだろう。

 しかし、彼はあと一歩の所で、勝利を掴むことが出来なかった。
 彼が相手にもしていなかった、メイジでもない、ただの少女によって。

 彼がアリアを誘拐したのは、ロッテをこの場所に導くための餌にするために過ぎなかった。
 しかし、その餌によって、策を暴かれ、下僕を失い、その上、非常に厄介な相手まで呼びよせられてしまったのだった。
 
 

(いや、落ち着け。地下に潜っている事がばれたとはいえ、まだ私の居場所が完全に特定されたわけではない。……とはいえ、ここは一旦引いた方が良いか?今からでも逃げることは十分に可能なはず……)

 茹った頭を必死に落ち着かせて、善後策を練り始めるジルヴェスター。
 
 その結果として浮かぶのは、退却の二文字。
 この状況下では、どう考えても、もはや彼に勝ち目はなかった。

「ちっ、覚えていろ、この借りは必ず……っ?!」

 ジルヴェスターは、誰にも聞かれる事のない捨て台詞を吐き、その場から逃げ失せようとした、その時。

 

 異変が起きた。



「な──」

 巨人がハンマーで地面をぶっ叩いたかのような激震が走る。

 酒に酔った時のようにぐにゃぐにゃと揺れる視界。
 天井から石礫が崩れ落ち、からからと不安を誘う音を立てる。
 常人ならば立っていられないような、平衡感覚を狂わせる大揺れ。

 ジルヴェスターはそれに耐えきれず、体勢を崩して、その場にへたり込んだ。

「ぬぅっ……」

 何とか体勢を立て直そうとするジルヴェスターだが、そこで彼は、更なる異変に気付き、顔を歪めた。

(馬鹿な、地下とはいえ、今は冬だぞ?)

 暑い。暑いのだ。
 立って居るだけで汗が噴き出してくる程に、暑い。
 
 確かに、土の中には保温効果があり、冬でも外よりは格段に暖かいが、この温度は異常だった。
 それに、この揺れが始まる前はそんな事は感じなかったのだ。
 
「一体、どうなって──」

 彼は最後までその言葉を紡げなかった。

 天から地を切り裂いて、災厄が降ってきたから。





「ふっははははっ!どうだぁ?情熱の味はっ?」

 高笑いをするクリスティアンの頭上から凄まじい勢いで降り注ぐのは、真っ赤に燃え盛る流星の群れ。

 彼がぶんぶんと杖を振り回す度に、流星は一つ二つと地上へと降り注ぐ。

 そのたびに起こる大震災のような揺れと、耳をつんざく轟音に、 特大の【氷壁】《アイス・ウォール》の中に控える観客達は、耳を塞ぎながら膝を着いていた。

「みなさんっ、絶対に、ここから出ないでくださいっ」

 【氷壁】《アイス・ウォール》を指して大声で叫ぶ執事の男。

「出るなっ、ていうか、動けるわけないっ、でせ、う」

 頭を抱えて亀のように丸まったアリアが、揺れに舌を噛みそうになりながらそれに応える。

「ありえねぇ……」

 自身もメイジであるフーゴは、余りにも常識外れな魔法の威力に呆れ、ぼそ、と呟いた。

 地表を覆っていた大量の雪は、融解を通り越して一瞬で昇華。
 水分をたっぷり含んでいるはずの生木が発火し、見る見る内に燃え尽きる。
 陥没と隆起を繰り返す地面は、三十路を越えたお肌のように荒れている。


(本当に、あり得ないわね)

 アリアも内心でその呟きに同意した。

 もはや、これは『僕』の知識の中にある、科学的常識の範疇を超えた、非科学的な幻想《ファンタジー》そのもの。
 鬱蒼とした天然の要塞であった雪の森は、ちっぽけな存在であるはずの、人間一人の力によって、荒廃した灼熱の地獄と化していた。

「ほほ、中々に使える人間じゃの。これは、真面目に考えてやってもよいかのう?」

 ロッテだけは、その光景に大層ご満悦なようで、手を叩きながら満足げに目を細めていた。



 クリスティアンが放った魔法は、火と土の混合スクウェアスペル【流星】。
 火球《ファイア・ボール》系のトライアングルスペルに、土の質量をプラスしたものを連発するという彼が最も得意とする破壊の魔法である。
 
 単純な火力としては、他の系統のスクウェアスペルとは比較にならない程、圧倒的な威力を誇る。
 破壊を司る“火”。その本分を存分に発揮した魔法と言えるだろう。

 欠点と言えば、その範囲があまりにも大き過ぎるため、味方をも巻きこむ危険性がある事と、戦後の後始末が大変になる事か。


「おらぁっ、さっさと出てこねえと、土の中で蒸し焼きになるぜ?」

 降伏勧告をしながらも、なおも流星を雨あられのように降らせるクリスティアン。
 美女を前にした彼の精神力に限界という文字はない。



 ぼこっ。



「え……?」

 未だ氷壁の中で丸まっていたアリアは足元で起こる今までとは違う揺れに気付き、小さく声を漏らした。



 ぼこぼこっ。



「がぁああっ!」

 咆哮と共に、突如地中から、アリアの目の前に飛び出してきた黒い塊。

 その一部が、アリアの足首にぎゅるん、と巻きつく。

「うわ、わわわっ」

 足首を掴まれたまま逆さ吊りにされるアリア。
 そのアリアの鼻先を、つん、と噎せるような肉の焼ける臭いが刺激した。

 黒い塊の正体は、焼夷弾の直撃を受けたかのように焼け焦げた衣服と、爛れた皮膚が一体化し、無惨な姿になったジルヴェスターだった。

「動くなっ!この糞餓鬼の脳味噌をぶち撒けるぞっ!?」
「ぐっ」「…………」

 そこに飛びかかろうと、一斉に動きだしたロッテとフーゴを一喝し、その動きを制するジルヴェスター。
 
「しまった……っ!」
「あの野郎……どこまでもふざけた真似を……」

 遅れて異変に気付いたクリスティアンと執事の男は歯噛みをするが、人質を盾にされては魔法で攻撃する事もできない。
 吸血鬼が相手とはいえ、これは飽くまで誘拐事件。
 犯人を斃しても、人質が無事でなければ意味が無いのだから。

「き、きき、大逆転、と言った所だな。この糞餓鬼共も随分と味な真似をしてくれた……」
「離せっ、このっ……!」
 
 嗤っているのか泣いているのかわからない程爛れた顔で、不気味な嗤い声を鳴らすジルヴェスター。
 アリアも必死に足をバタつかせるが、足首をぎりぎりと万力のような力で締め付ける手から逃れる事はやはりできない。
 いかに満身創痍と言えど、女児程度の力で対抗出来る程は弱っている訳ではないらしい。

「もう、やめておけ。どう足掻いても貴様に勝ち目はない」

 ロッテは諭すような口調で言うと、制止を振り切ってずい、とジルヴェスターの前に出る。

「動くな、と言っているだろうがっ!」

 それに激昂したジルヴェスターがアリアの首に手を掛ける。

 当事者以外の全員が、緊張にごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。

「“そんなモノ”を盾にして、妾が引くと思うか?」

 ちらり、とアリアの顔を一瞥して言うロッテ。

「き、ききっ、今さらそんな事を言って、通用するかよっ!人間に飼われた豚めっ」
「……何じゃと?」
「まさか鼠臭いメイジの力を借りるとは。貴様は誇りを捨てた豚だっ!」

 ジルヴェスターは、自分の卑劣を棚に上げ、声を大にしてロッテを罵る。

「くヒ、くひゃ、はははっ」
「何が、可笑しい……?」

 ロッテは、その酸っぱい葡萄を嘲るように嗤う。

「妾が豚なら、お前は地を這いずる蛆虫、いや、クソ虫じゃな」
「誇りを捨てた貴様が何を言うっ!」
「おっと、これはクソ虫に失礼か。クソ虫でもお前よりはマシな品性をしておるわ」
「き、ヒ、あまり私を怒らせない方がいいぞ……?」
「丸っきり三下の台詞じゃな。まぁ、お前にはそのくらいが丁度いいか」
「き、きキっ、キキキっ!」
「くふ、くヒ、ひゃはは!」

 罵り合い、さも愉快そうに嗤い合う二人の吸血鬼。

 他の“三人”は、その二人の異常な掛け合いに圧倒され、クリスティアンさえもただ、凍りついたようにそれを見守るだけであった。

「殺すっ!」

 狂笑から一転、オーク鬼のように醜く顔を歪めるジルヴェスター。

「アリアっ、放てっ!」
 
 ロッテが声高に叫ぶ。

 アリアはにや、と口だけを歪めてそれに応えると、手に持った武器を素早くジルヴェスターに向かって投げつけた。



 ぼふんっ。



「ぶっ……は?!」

 ジルヴェスターの顔面に炸裂したのは緑色の粉末を撒き散らす“例の”爆弾。
 
 ロッテが先程の罵り合いに乗った理由は、アリアから注意を逸らさせるため。
 絶妙のアイコンタクトを受け取ったアリアは、その隙を狙って腰に下げていた袋を手にしたのだ。

「うが、鼻がっ……」
 
 予期せぬ人質の反撃に、後ろへたじろぐジルヴェスター。

「シッ」

 その瞬間、ひゅおん、とブロンドの稲妻が地を走った。

「──っ?」

 ジルヴェスターが瞬きをした刹那。



 こっ、こっ。



 ジルヴェスターの遥か後方から、ロッテが靴を踏み鳴らす音が響いた。



「な、なんだ?こけおど、しかっ……?あ、あれ?息が……くる、し」

 交錯した刹那、何をされたかわからなかったジルヴェスターは、訳も分からず狼狽する。

「…………」

 ちらり、と感情を感じさせない無機質な表情で後ろを振り返ったロッテは、右手に持った赤黒い何かの塊をジルヴェスターに見せつけた。

「それ、お、俺……のっ?しんぞ……」

 ジルヴェスターは思うように動かない腕を必死に伸ばすが、それはもう、どこにも届くことはない。

「Allez a enfer.(堕ちろ)」

 驚く程冷たい声で放たれた声とともに、彼女の手の中で命の灯が一つ、ぐしゃり、という音とともに、吹き消された。





 周りの景色が漆黒から、爽やかなブルーに変わっていく。
 長い夜がようやく明けようとしていた。

「いや~、さすがにメイジ殺しっていうだけはあるな。あれだけ速くちゃ、俺でも危ないかもしれんね」
「ふ、主の焔も中々に圧巻じゃったぞ?あれほどの使い手はなかなかおるまいて」

 強者の二人、クリスティアンとロッテは、まるで遠足の帰りのように清々しい顔でお互いの健闘を讃えあう。

「……何か通じる物があるみたいですねぇ、あの2人」
「……あの人は、気楽でいいですけどね。見てくださいよ、この有様……。この後始末、一体どれだけの時間がかかるのか……。ま、場所が人気のない森で良かった、といえば良かったんですが。はぁ……」

 執事の男は丸坊主になった森を振り返って溜息を漏らした。

「で、どうする?今すぐ俺の部屋に来る?いっちゃう?」
「うむ、それはいずれ、考えておこう」
「え?」
「誰も付き合う、などとは断言はしておらんが」
「ちょ、そんな殺生な」
「何、妾に会いとうなったら、蟲惑の妖精亭に来るが良い。今日の礼分くらいは奢ってやろう」
「あれだけ頑張ったのに……」
「馬鹿たれ、領主が領民を助けるのは義務じゃろうが」
「くっ、こうなったら、妹ちゃんの方でも……将来性に期待して」
「あんな子供にまで欲情するとは、お主、見境というものがないのか?!」

 ロッテに窘められ、がっくりと肩を落とすクリスティアン。
 普通なら無礼打ちにされてもおかしくないような会話であるが、美女にとことん甘く、弱い彼にはそんな考えは微塵もない。むしろ、そんな会話すら楽しんでいるフシがあった。

 彼がこの後、度々職務を抜け出して、蟲惑の妖精亭に顔を出すようになるのは言うまでもない事だ。



「はぁ、散々な目にあったぜ」
「全くね。これも誰かさんが隠し事をしていたせいよ」

 フーゴのぼやきに同意し、ロッテの方をじとり、と睨みつけるアリア。

「あぁ、わかった、わかった!もう隠し事はせん。そのかわり、お主の正体も教えるんじゃぞ?」
「アリ……いや、ちんちくりんの、正体?」

 ロッテの意味深な発言に、フーゴが訝しげな顔で聞き返す。

「あはっ、あははっ、何でもないわ、こいつ、さっきの戦いで使った頭が沸いてるのよ。本当、単細胞なんだから」
「何じゃとっ?このっ」
「ちょ、いだっ、やめなさいよ、この馬鹿力!」
 
 生意気な妹を捕まえて、びしびしと頭を小突く姉。
 その平穏な光景に、ケルンの青空には、晴れ晴れとした笑い声が響き渡った。
 




 そして、森を抜けてみれば。

「ケルン商会組合ばんざぁ~い!ゲルマニアばんざぁ~い!」
「クリスティアン様っ~、こっち向いてぇ」
「ロッテちゃん、無事っ?!」
「良かったなぁ、うん、良かった……っ!」
「ブラボー、おぉ、ブラボー!」
 
 巻き起こる大歓声と拍手喝采。

 久々に帰って来た家族を出迎えるかのように、たくさんの人々が街の入口に待ち構えていた。
 その中には、安堵の息を漏らすカシミール商会の面々、泣いて喜んでいる蟲惑の妖精亭のメンバーも顔をそろえていた。

「ひゅぅ、こりゃ、大層なお出迎えだ。さっすが俺だな」

 クリスティアンはその大観衆を眺めながら、軽口を叩く。

「これは……?」
「事件の解決に関わった商人共と、噂を聞きつけた野次馬ってとこだな。はっは、暇人共が雁首を揃えやがって」

 アリアの問いにクリスティアンが答える。

 彼は、暇人、といったが、彼らにもそれぞれ仕事があり、生活がある。
 わざわざここに出張ってくれたのは、多少なりとも街の仲間が危険に晒されている事を心配してくれてのものだろう。



「お前、泣いてんのか?」
「へっ……?」

 フーゴに指摘されて、自分の顔をぺたぺたと触るアリア。

 その頬にはうっすらと一筋の滝が流れていた。

「やだ、何これ……止まんない」

 止めどなく流れる泪を拭うアリアだが、流そうと思って流しているものでないそれは、拭う先からどんどんと溢れて来る。

「け、泣き虫め」
「くふふ、まだまだ餓鬼じゃの」
「うっさい!もう、何で止まらないのよっ!」

 フーゴとロッテのからかいに反発するアリアだが、その表情に浮かぶ喜びの色は隠せなかった。

 それは、人々の温かさに、自然と心が弛んでしまったために噴き出した涙。
 故郷に捨てられた彼女に、新たな故郷が出来たという、歓喜の涙だった。



 雨降って地、固まる。

 この日、アリアは本当の意味で、この国の一員となったのだった。





つづけ






[19087] 22話 幼女、襲来
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/10/02 17:36
 まだまだ厳しい寒さの続くハガルの月。
 あらかた誘拐事件のゴタゴタも片付いてきた、ヘイムダルの週の虚無の曜日。

 私とロッテは、珍しく二人揃って、ケルンの市街へ買い出しに出かけていた。

「あ~、すっげぇ寒いわぁ。……さっさと済ませて帰りましょうか」

 本日は晴天、とは言え、風が異常に冷たいせいか、休みの日だというのにメインストリートはそれほど混んでいなかった。
 これならば、すぐに用事を終わらせてしまうことも可能だろう。

「いや、それは駄目じゃ」
「はぁ?」
「劇場で新演目が公演されておってな。ほれ、劇の作家が交代したじゃろ?これが中々に評判がいいようでの。これを見ずに帰るなどあり得んわ」
「私はパス。お金と時間の浪費よ、そんなもの」
「はぁ、主は芸術を愛でる美しい心を失ってしまったのじゃなぁ……。その年で金の亡者とは哀れなヤツよ」

 道端で干からびた蛙の死骸を見るような目で私を見るロッテ。
 ふ、私がそんな安い挑発に乗るとでも思っているのかい?

「別にあんたが行くのは止めないわよ?一人で行ってきたらいいじゃない」
「……それが、一人はちょっと、のう」
「何でよ」
「いや……その演目が、“イーヴァルディの勇者”での」
「丸っきり子供向けの演目じゃないの」
「んむ。だからの、主もきっと楽しめると思うのじゃ」
「なるほどぉ?お子様向けの劇を一人で見に行くのは気恥ずかしいから、私の付き添いという形にしたいわけだ」
「うぐ」

 図星を突かれて悔しげな表情を見せるロッテ。


 “イーヴァルディの勇者”は、ハルケギニアの桃太郎のようなもの。
 幼子の寝物語に聞かせるような御伽話なのだ。いい年してその劇を見に行くのは確かに恥ずかしいだろう。

 それにしてもどこまで人間臭いんだ、こいつは。



「のぅ、一回だけ、一回だけ付き合ってくれればいいのじゃ」
「だから一人で行きなさいって」
「おっ、“5000エキューの美貌姉妹”じゃないか」

 意図を見抜かれても、なお食い下がるロッテをいなしながら歩いていると、店先でフリカデルを焼いていた肉屋の店主が、ちょっと黄ばんだ歯を見せて声を掛けてきた。



 “5000エキューの美貌姉妹”と言うのは、誘拐事件以来の、私達の通り名のようなもの(ケルン限定だけど)。
 ロッテの美貌にちなんでつけられたものだろうが、私まで美人なような気分になれるので、ちょっと気に入っていたりする。

 あの事件の後、1週間くらいは仕事そっちのけで、ケルン中の小さな個人商店から大きな商会までをくまなく訪ね、迷惑を掛けたお詫びをして回ったこともあり、私達はケルンではちょっとした有名人になっているのだ。
 あまり有名になるのも考えものなのだけれど(吸血鬼的な意味で)、商人としては、顔が売れるのは悪い事ではないだろう。

 ま、怪我の功名ってヤツだね。

 ただ、ロッテが凄腕のメイジ殺しであるという情報(嘘)はあの場に居た5人以外には秘密という事にし、ツェルプストー伯が単独で事件を解決した、という事になった。

 これは私の提案。下手にロッテの強さが知れ渡ると厄介な事になる。
 吸血鬼だという事がバレなかったとしても、荒事に巻き込まれる事は避けられまいという事で、そのように取り計らってくれるように辺境伯にお願いしたのだった。



「こんにちは」
「どうだい、寄って行かないかい?安くしとくよ」
「うぅ~ん」

 フリカデルの焼ける香ばしい匂いが私を誘惑する。

 あ、フリカデルと言うのは、馬肉をミンチにしたものに小麦粉のツナギを合わせて、それを丸めて焼くという、ゲルマニアの名物料理。
 美味いんだよ、これ。

「おぉ、焼き立てか。暖まれそうじゃの。買おう、すぐ買おうぞ」

 ロッテは涎を垂らさんばかりの物欲しげな表情で催促する。
 姉妹共有の財布の紐を握っているのは私の方なのだ。

「……いくらですか?」
「おうっ、1個6スゥだぜ」
「ちょっと、キツイわね。2つ買うから、もう少しオマケしてくれません?」
「そう言うと思ったよ……2つで11でどうだ?」
「もう一声下げて10で」
「しゃあねえ、色々と大変なんだろうし、これくらいは協力してやらねえとな」
「ありがとうございます」

 ぺこり、と頭を下げてヴァン・スウ銀貨(20スゥ銀貨)を手渡し、アツアツの包みを2つ受け取る。



 色々と大変、とは、私に借金ができてしまった、という事を指している。
 まぁ、実はそれほど大変な額ではないのだけれども。

 何故、私が若い美空で借金を背負ってしまったのかと言うと、その原因は、辺境伯が商人の情報網を活用するためのカンフル剤として使った、ガリア産の高級宝飾細工一式である。

 その代金、5000エキューがカシミール商会に請求された時は、私の目の前は真っ暗になり、その場でぱたん、と気を失った。

 ちと恥ずかしいが、それも仕方のない事だと思う。5000エキューとか、私が何年働けば返せるんだ。というか、下働きじゃ一生返せないっての。
 そうなったら独立どころではなく、賤民に逆戻りではないか。
 実は5000エキューでもかなり割り引いてくれた方らしいけども。何せ、競売にかければ、トリを飾る事もあって、その2割、3割増しに釣り上がってもおかしくはなかったらしいから。



 さて、それで結局どうやって底辺に逆戻りする事を免れたのかと言うと。
 
 商会に属する支店同士には、“損害分散”という制度が存在する。

 これは一体どういう制度かというと、ある一つの店が“どうにもならない理由で”大きな損害をカブった場合、商会に属する他の店にも損害をノんでもらい、大きなリスクを回避する、というもの。
 天災や事故の度に、支店が一つ減ったりしてしまっては、商会全体の利益を保っていくことは難しい。
 そんなリスクを避けるために考え出された制度が“損害分散”なのだ。

 ただ、それは飽くまで“どうにもならない理由”に限られ、買付の失敗などの経営上のミスや、不注意による物品の破損などの人的ミスには用いられることはない。

 今回はそれが即時に適用された最も大きな理由は、カシミール商店の親分である、フッガー家の三男、フーゴが一緒に誘拐されていた事が大きい。
 フッガー家の一員を助けるために仕方なく被った損害、として、商会全体で損害をノむ事が承諾されたのだ。

 それを親方から聞いた時、貴族の坊ちゃんに下働きをさせている事を実家にばらしてしまって大丈夫なの?という疑問が湧いた。
 当然の疑問だろう。平民が貴族の息子を扱き使っている、などと知られれば、フツーはかなりヤバイ。

 その疑問を親方にそれとなくぶつけてみると、フーゴがカシミール商店で下働きしている事はフッガー家の方では最初から把握済み、とこっそり教えてくれた。
 何でも、将来のための勉強になるから、なるべく厳しく躾けてやってくれ、と頼まれているらしい。

 ただ、夫人、つまりフーゴの実母だけは、その事に納得していないらしいのだが……。
 きっと私のアレとは違って、子煩悩な母親なんだろうなあ。

 フーゴとしては家を飛び出して、好き勝手にやっているつもりらしいが、実はお釈迦様の掌の上のお猿さんって所ね。



 ま、とにかく、その制度によって、ゲルマニア国内外に存在する、フッガー商会の資本の入った10の店舗に損害をノんでもらって、実際にカシミール商店で払うのは500エキューとなった。
 そのうち、「半分は俺の監督責任だ」と親方が半分を負担し、残り250エキューをフーゴと私で2等分し、私の借金は125エキューとなったわけだ。
 これくらいならば、独立資金が少し増えてしまったと考えれば問題ない。

 色々と手を回してくれた親方にマジ感謝です。



 ちなみに、5000エキュー相当のお宝を手に入れたのは、血眼になって情報をかき集めていた一線級の商人達ではなく、ケルンの北のはずれで生活雑貨の小売店を細々と営んでいた老夫婦だった。

 何でも、老夫婦が日課の散歩をしていた所、偶然にも人相の悪い大男がぐったりとした子供二人を抱えて北の森へ入って行くのを目撃し、これは大変だ、と役人に報告しに来たらしい。
 目撃情報に与えられる報償など一切知らなかったそうで、訳も分からず手渡されたその報償の価値を聞くや否や、二人揃って泡を噴いて卒倒したそうだ。

 まさに無欲の勝利、と言ったところだろうか。う~ん、無欲、なんてのは私には到底無理な境地だなぁ。



「んむ、美味いの」
「はぁ、結局誘惑に抗えなかったわ……」

 ケルンのメインストリートを二人並んで歩きながら、フリカデルをはぐはぐ、と行儀悪く貪る私達。
 心なしか道行く人達の好奇の視線を感じるが、まぁ、こういうのもたまにはいいだろう。

「これ、食べ終わったら劇場じゃぞ」
「まだ、言ってるわけ?ま、私ももう少し大人向けの演目なら付き合ってあげてもいいんだけどさ。どうせあんたが稼いだお金だしねぇ」
「なんと、濡れ場がなければ駄目と申すか、このマセ餓鬼め」
「誰もそこに限定はしていないんだけど……」

 大人向け=エロという思考が、もう、人として(吸血鬼だとしても)駄目だと思うよ?

「そうじゃ、濡れ場で思い出した」
「何よ?」
「主、まさかとは思うが、あの小坊主とイイ仲になっていたりはせんじゃろうな?」

 ぶっ。いきなり何を言うかと思えば。鼻から咀嚼中のモノが少し出てきたじゃないか……。

「念のため確認しておくが、男と付き合うのは契約違反じゃからの?」

 ムカツクにやけ面をしながら私を覗きこむロッテ。
 なるほど、私をからかって遊ぼうという算段か。そうはいくか。

「ご心配頂いてありがとう、姉様。でも私、そのような浮いた話には一切興味がございませんの。ごめんあそばせ」
「ち、何じゃつまらん」
「あんたこそ、辺境伯に迫られているって噂じゃない。この前スカロンさんに聞いたわよ?」
「たわけ。妾が人間と付き合う訳がなかろうが。阿呆か」
「ですよね……」
「そもそも、妾のタイプから大きく外れておるしな、あやつは。妾は無口でニヒルな男が好きなんじゃ」
「え、それ初耳」

 意外だ。

 あれだけ男に追わせといて、実は男を追うタイプとは。これは追っている男達、涙目の事実だわ。

「まぁ、あやつは話も上手いし、金払いもいいから、店では中々の人気者になっておるがな。……しかし、あれだけの頻繁に店に顔を出すとは、よほど暇なんじゃろうなぁ」
「いや、どう考えても暇なんてないはずだけれど……」

 私の脳裏にあの執事さんが枕を濡らしている図が浮かんだ。
 ツェルプストー家に仕えるのは凄まじく大変そうだなあ。

「しかし、やはり貴族という身分はお得じゃの。お主も早く貴族になって妾に楽をさせてくれ」
「いや、別に私は貴族にまでなる気はないんだけど」
「何を言っておる。成り上がると言ったからには、一国の主くらいにはなってみせい」
「そんな無茶な……」

 簡単に言ってくれるわね……。
 
 確かに、ここゲルマニアでは他国と違い、平民が貴族になる事は少なからずあるし、私にも将来的にその可能性がないわけではない。はず。

 ただ、フッガー家のように、爵位と領地を得た平民はゲルマニアの歴史を紐解いても、片手で数えられるほどしかいないと聞いている。
 ロッテが言う「貴族」とは、こういう上級貴族の事を指しているんだろうね。

 それは無理、とは言わないけれど、かなり厳しいと思います、お姉様。
 
 平民が貴族になるパターンで、最も多いケースは、貴族という肩書だけを国から買い受けるというもの。
 その場合、爵位無しの平貴族という扱いになる。
 戦功によって得られるシュバリエ(叙勲士)などとは違い、貴族年金などは一切出ない。

 貴族の位を得たからと言って、ぽっと出の平貴族では社交界にデビューも出来ないし、お金が入るわけでもない。ましてや魔法が使えるようになるわけはない。
 こんな阿呆臭いものを、大金を叩いてまで買う価値があるのか、と思うのだが、富豪として有名になると、国の方から貴族になれ、と打診してくるらしい。

 つまり、国としては、「あなたは貴族です」と言ってやるだけで、平民の富豪達から大量の収入をせしめることができるボロい商売なのだ。
 さすがにお上に貴族に成れ、と言われて断る訳にもいかない。中々にエゲつない制度である。

 これって、何て“サムライ商法”?という感じだが、ま、名前だけでも貴族になれる事を有難がる人もいるので、一慨に悪徳だ、とも言えないだろう。



「貴族と言えばさ、あんたってお仲間の内ではやんごとなきお方なんだっけ?」
「その事には触れるな、と言ったはずじゃが?」

 うぅん、この話の流れならポロっとこぼすかと思ったけど駄目か。

 お互いに隠し事はしないという約束はしたが、ロッテにはあまり触れられたくない所があるらしく、昔の事に関してはあまり聞くな、と釘を刺されていた。

 でもちょっとくらいいと思うのよ。ね、ちょっとくらい。
 だって吸血鬼の世界とか、どうなっているのか興味が湧くでしょ、普通。

「だって、気になるし……」
「そう言う主だって、正体を明かしておらんではないか。主は何かと言えば“東方”と言っておるが、それ、嘘臭いぞ?妾の目は誤魔化せんからの」
「……う」

 そう、私もまだそれについては話してはいなかった。
 
 実はロッテには『僕』の事を話してもしまってもそれほど問題はないと踏んでいるんだけどね。何て言っても吸血鬼ですから。
 私が『僕』の事を隠している理由は、“異端”とされる事が怖いからであって、そうなる危険がない相手なら、別に隠すような事でもない。

 ただ……。変人認定をされる覚悟がいるのよね……。

 もし誰かに「前世の記憶があるの」と打ち明けられたとしたら、普通の人はどういう対応をするのだろう。

「君、頭大丈夫?」「いい医者を紹介するよ?」「天然とか流行んねぇから」「私、そういうのはちょっと……」「実は私も。前世では王子様に守られるお姫様だったの」

 うわあ……。言いたくねえ。

 いや、もしかした下らん嘘を吐くな、とブチ切れられて散々な目に合わされるかも……。

「こ、この話はお終いっ!気分直しに“イーヴァルディの勇者”でも見に行きましょ?」
「む、逃げたか」
「ほ、ほら、早くしないと私の気が変わっちゃうわよ?」
「よし、すぐ行くぞ」
「あででっ、ちょっと、耳引っ張らないでっ!痛いっ、痛いってばぁ」
 
 ずるずるとロッテに引き摺られて劇場に向かう私。
 あぁ、耳も痛いけれど、街の人達の視線が一番痛いよ……。
 
 その時、私は、その視線の中に、好奇のものではない、敵意のものが混じっている事に気付けなかった。





「あれが、今回の事件の原因になった、という平民、かしら……?」

 物陰からじゃれ合う姉妹の様子を見ていた、小さな女の子が、小鳥のさえずるような声で呟く。

「はい。連絡員の報告によると、あの娘に間違いありません」

 その連れ合いらしき、メイドの姿をしたゴリラ、失敬、たくましい女性が憎々しげに眉間に皺を作ってそれに答える。

「そう。ふふ、見てなさい。笑っていられるのも今のうち。きちんと責任は取って貰いますわよ……」

 幼女は姉妹を見つめる目に炎を宿しながら、固く握った拳をぷるぷると震わせた。



 事件の火消しはもう済んだ、と思っていた。
 しかし、それは、私が関知しない所にまで飛び火し、ぼうぼうと燃え盛っていたのだった。





 そして翌日。
 カシミール商店はいつもどおりの営業だ。

「それでは、良い旅を」
「あいよ、行ってくらぁ」

 行商人や連絡員達の荷を造って笑顔で送り出す。これもまた、見習い業務の一つである。

「くぁ」

 そうして午前中の作業が全て終わった所で、昨日の疲れを残した私は大口を開けて欠伸をする。

「アリアちゃん、この間まで大変だったんだから、あまり無理はしないでいいよ。ツラいんだったら午後は早退してもいいからね?」

 そんな私を見てエンリコが声を掛けてきた。
 さすがエンリコ。気遣いができる大人の男だ。

 言い寄る娘は相当な数がいるらしいが、修行中だから、と全てお断りしているらしい。
 そういう真面目な所もモテる一つの要因なんだろうけどね。
 いや、ただ鈍いだけ、という噂もあるんだけど。

「ありがとうございます。でも、ただの遊び疲れですから。大丈夫ですよ」
「へぇ、アリアちゃんが遊び疲れなんて珍しいね」
「実は昨日、姉に散々連れ回されまして……」

 劇場で芝居を見終わってからも、あれやこれやとロッテに付き合わされたのだ。
 結局、昨日、部屋に帰ったのは完全に暗くなってからだった。

 自分は夕方からの仕事だと思って、いい気なものである。

「あぁ、あの美人のお姉さん。噂によると辺境伯と熱愛中って話だけど、それって本当なの?」
「話が飛躍しまくってますよ、それ。実際は酒場の客として顔を出しているってだけみたいです」
「なんだ、やっぱり噂は所詮噂かぁ。さすがに辺境伯ともあろうお方が、平民とそういう関係にはならないよね。“5000エキューの美貌姉妹”ならもしかして、と思ったんだけど」

 いや、多分なりますよ、あの人は。クリスティアン・アウグストはヤりますよ。
 身分制度に比較的ルーズなゲルマニア貴族の中でも特異中の特異点でしょ、あの人。

 しかし、この街は噂が巡るのが早いわ。尾ひれがつくのもまた早い。
 商人の街だから情報の流通がいいのかもね。
 


「おい、ちんちくりん。作業台の鋏、きちんと片づけとけよ。出しっぱなしだったぞ」

 そうしてエンリコと楽しく談笑していると、仏頂面のフーゴがそこに割り込んできた。

 何でこいつ、こんなに不機嫌なのよ……。

 何か、あの事件の後、フーゴは今までにも増して、私を目の敵にしているような気がする。
 う~ん、あの事件で、少しは仲良くなったかと思ったんだけど。やっぱり、巻きこんじゃったのを怒っているのかねえ。あの後、フーゴも一緒に挨拶回りさせられてたし。

「今日、私、検反なんてしてないわよ。変な言いがかりは止めてよね」
「あ、それ、僕だ。ごめん、片づけてくるよ」

 検反作業とは、入ってきた布地や絹地、皮革などに、売り物に成らないような不良部分がないかどうかを調べ、あった場合はその部分を切り落としてしまうという作業だ。

 非常にちまちまとした作業で、精神的苦痛が伴うため、私はあまり好きではない。
 そういう作業はギーナとゴーロの領分だ。あの双子って不器用そうに見えて、手先がめっちゃ器用なのよね。

 と言う事で、多分、犯人はエンリコじゃなくて双子のどっちかだと思うけど、喧嘩にならないように自分のせいにしてくれたんだろう。

 まったく、いい人過ぎるぜ、エンリコさん。



「あぁ、行っちゃった。あんたが変な事言うから……」
「……何だよ、そんな残念そうな顔しやがって。お前ってさ、も、もしかして、エンリコさんみたいな人が好きなのか?」

 ちらりと気まずそうに横目でこちらを窺うフーゴ。

「はぁ、何言ってんの?まぁ、あんたみたいな捻くれ者よりはエンリコさんの方が女にはモテるでしょうよ。気が利く上に美形だしねぇ」
「お、俺だって結構」

 フーゴは自分の顔を指して言う。何だ、俺だってイケてるじゃねーか、とでも言いたいのか。
 そういう事を自分で言うから駄目なんだよ、あんたは……。

「あんたの場合、顔は良くても性格が駄目だって言ってんの。ま、女にモテたかったら、まずは優しくすることを心掛けなさいな」
「うぐ、ぐ……。このちんちくりんめ、偉そうに」
「お、久々にやるかい?」
「へっ、望む所よ」
 
 いつものように龍虎、いや言いすぎた。犬猿の如くフーゴと対峙する。



 ごんごん。



 さあ、第一ラウンド開始か、という所で、正門のノッカーを激しく叩く音が聞こえた。



「ありゃ、おかしいわね。午前中はもう終わり、って札出してるのに」

 カシミール商店では、昼の休憩時には、正門は締めてしまう事になっている。

 そうしないと、こちらの休憩時間などお構いなしに客がやって来てしまうので、休憩にならないのだ。
 さすがに門を締めておくと、時間を改めてくれることがほとんどだ。
 たまに、こういうせっかちな人もいるんだけどね。

「まったく……空気読めよ……。はいはい、今開けますよ、っと」

 いそいそと不満そうにフーゴが正門に走る。



「げ……っ」

 しかし、格子状になっている門の手前まで行ったところでフーゴは蛇に睨まれた蛙のように立ち竦んだ。

「こっ、ここここ」

 目を剥いて固まったフーゴは、締めた鶏のような声で鳴く。

「…………?」

 不審に思い、門の外を見ると。

 私と同じか、少し低いくらいの背丈の幼女と、メイドの格好をした、やたらとごつい体つきの若い女が立っていた。
 女の子の方はマントを羽織り、背丈に不似合いな長いステッキを持っている事から、どうやら貴族のようだが……。

「何よ、あの人達ってあんたの知り合い?」
「いや……知らない。見たこともない人達だ。……う、俺、頭痛いから……今日、早退するわ」

 そう言って、そそくさと帰り支度を始めるフーゴ。
 
「変ねえ……今日って、商人以外の来客予定なんてあったっけ?」
「ないっ。だからあれは無視しようぜ。どうせタカリに来た役人かなんかだよ」
「それはないでしょうよ、このケルンで……」
 
 ケルン、というかゲルマニアの殆どで、商人に対する不当な税の取り立てが行われる事はまずない。

 ゲルマニアで商人を敵に回しては生きていけない、と言われている程、商人の力が強いのだ。
 上級貴族と繋がりのある商人も多いし、中には多数のメイジを用心棒にしている大商人まで存在する。

 そして何よりも組合(アルテ)の横の繋がりが強い。アルテは大きな家《ファミリー》である、と定義されているのだ。
 例え小さな商店が相手であろうと、木端役人なんぞが舐めた真似をしたら、次の日には、ライン川に物言わぬ躯として浮かぶハメになるだろう。
 
 まぁ、組合組織が脆弱なトリステインあたりでは割とよくある話らしいけど……。


 
「あぁ、もうじれったい!ヘンネ!」

 いつまでも開かない扉に業を煮やしたのか、外の幼女は従者に命令を下す。
 え、何をする気だ?

「はい。お任せ下さい」

 ヘンネと呼ばれたガテン系メイドはその命令に太い首を縦に振ると、おもむろにゴツイ南京錠に手を掛ける。
 
「むんっ」

 ヘンネが気合を入れると、替えたばかりの頑丈な南京錠がべきっ、と音を立ててひん曲がった。

 ちょ、握力だけで……。この従者、本当に人間か?

 というか、あの幼女、メイジなら壊さずに【解錠】《アン・ロック》使いなさいよ……。
 あ、幼女だから格好だけで、まだ魔法は使えないのか。

「さぁ、前進よっ、障害は全てたたき壊しなさいっ!」
「はっ、了解しました!」

 幼女の命令通り、ヘンネは門を力づくでこじ開けようとする。
 正門は内から掛けた鍵も開けなくては開かない、という二重のロックになっているのだ。
 
「いっ、今!今、開けますからちょっと待って……」

 それをも無視して逃げようとするフーゴを尻目に、私は慌てて正門に駆けより、鍵を開けた。
 このまま正門まで破壊されては、親方から大目玉をくらってしまう。

「開きました」
「御苦労様」

 鍵を開けると同時になだれ込むようにヘンネが店に入り、その後に我が物顔で、悠々と店に侵入する幼女。

「ふん、まったく。さっさと開けなさいよ、鈍間な娘だこと」

 汚いモノを見るような目で私を見下ろす幼女。
 いや、背伸びしても見下ろせていないけどね。

「あ、えっと……あの、誠に申し訳ありません」
「そんなにことだから吸血鬼などにかどわかされるのですわ」
「へぇぁ?」

 私の事を知っている?
 一体、誰なんだ、この偉そうな幼女は。

「ま、貴女の事は後回しでいいとして……。フーゴちゃ、いえ、フーゴはどこかしら?」
「フーゴ、ですか?はぁ、それならそこに……アレ?」

 フーゴの姿は忽然と消えていた。何と逃げ足の速い奴だ。

 それにしても、やはりこの幼女とフーゴは知り合いのようだ。幼馴染とか?
 
「どこにもいないじゃないの」
「いえ、さっきまではそこに……居たんですけど」
「はぁ、もういいわ。本当、使えない娘ね。とうとうカシミールも耄碌したのかしらね。こんな出来損ないを雇っているだなんて」
「…………ぅ」

 幼女はこちらを見ることもなく、ぽこぽこと、馬鹿にしたように、手に持ったステッキで私の頭を叩く。

 私は「このくそがきっ!」と、思わず出そうになる手を理性で必死に押さえていた。

 ぐっ、私の右手よっ、鎮まれ……っ!



「店の者、全員集まれぇっ!」

 私が必死に右手と戦っていると、ヘンネが大声を出して勝手に召集を掛け始めた。

 いや、何やってんだよ、部外者だろ、あんたら……。
 あれ?でもさっき親方の事を知っているようだったし、丸っきりの部外者ではないのか?



 何事か、とすでに食堂の方に行っていたエンリコや双子が顔を出し、駆け足でこちらに向かって来る。

「……何事?」「……食事中、迷惑」
「それが、この方達がいきなり……」

 ギーナとゴーロは食事を邪魔されたのがよほど不満なのか、珍しく不機嫌とはっきりと分かる顔で文句を言う。

「店の者はこれだけ?」
「主人や、正規の従業員はここにはおりません。しかし、失礼ですが貴女方はどちら様でしょう?もし、部外者であれば即刻立ち去っていただきたい」

 エンリコは幼女の高飛車な態度にも、物怖じした様子もなく、毅然とした態度で言う。
 いいぞエンリコ、かっこいい!どこかの逃げた男に見せてやりたいものだ。

「貴様、ヴェルヘルミーナ様に向かってなんたる無礼──」

 その態度がカンに障ったのか、ヘンネが身を乗り出して声を荒げる。

 ヴェルヘルミーナって、また、長ったらしい名前ねえ。

「よしなさい。久しぶりにフーゴの顔が見れると思って、私も少々、舞い上がっていたようです。名乗りもしなければわからなくて当然よ。ここはアウグスブルグではないのだから」
「は、出過ぎた真似を致しました……」

 幼女が窘めると、ヘンネは肩を落としてすごすごと引き下がる。

 それにしても、アウグスブルグ……?まさか。

「カシミール商店の皆さん、失礼を致しましたわ。私は、ヴェルヘルミーナ・アルマ・フォン・プットシュテット・フッガーと申します」
「ふ、フッガー?……と言う事は、もしかして……フーゴの妹さんっ?!」

 言った後で、私はしまった、と口を押さえた。

 フーゴが貴族な事は内緒だったのだ。
 ごめん……フーゴ。……やっちゃった。やっちまったよぉっ!

「え、どういう事?アリアちゃん」
「……フーゴが」「……フッガー家?」

 エンリコと双子は怪訝な顔で私に問う。

「えぇっと、それは──」
「本当に、失礼な小娘だ事っ!どうやったら私がそんなに幼く見えるのかしら?!」

 私がしどろもどろになっていたところで、突然ヴェルヘルミーナがヒステリーを起こし始めた。
 どうやら年を若く見られた事を怒っているらしい。ふむ、子供の時にはよくありがちな大人になりたい願望というやつかな。

「あの……すいません、もしかしてお姉様でしたか?」
「きぃいっ!この小娘っ!もう許さないわっ!私は今年で33歳!フッガー家正室にして、フーゴの“母”よっ!」

 顔を茹でダコのように真っ赤にしてステッキを振り回すヴェルヘルミーナ。

「おっ、奥様!お気を確かにっ」

 ヘンネはそんなヴェルヘルミーナをひょい、と持ちあげて制止する。
 その姿はどう見ても駄々っ子をあやしているようにしか見えない。



(ひょっとして、これはギャグで言っているのか?)

 反応に困った見習い達は、只々、遠い目をして立ちつくすのであった。





つづけ






[19087] 23話 明日のために
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/09/20 20:24
「カシミールも不在ですって?」

 ただっ広い倉庫内に、ヴェルヘルミーナの耳に障る甲高い声が響き渡る。

「申し訳ありません。主人は本日、明日と、トリールで行われている、輸入品目の価格協定会議に出席しておりまして」
「もうっ、どうなってるの、この店は?わざわざこの私が出向いて来てあげたというのに!」

 突然来訪しておいて、理不尽にキィキィと喚く幼女、もとい伯爵夫人に、私を含めた見習いメンバー達は引き攣った笑顔を浮かべる。



 エンリコが彼女に説明した通り、今日、明日と親方、そして駐在員の二人はお休み。
 こんな時に限って親方がいないとは、間が悪いとしか言いようがない。

 現在商店の陣頭指揮を取っているのはエンリコだ。

 エンリコは勤続歴5年のベテラン。
 独立を目指しているために未だに見習いなだけで、その実力は既に正規の駐在員と同等と言えるだろう。

 そんなエンリコのおかげもあり、いつもの通常業務だけなら見習いだけでも店は回る。
 エンリコはお金の扱いもある程度任されているし、商品知識、鑑定眼、物価相場などは私を含めた全員が実戦、及び勉強会でかなり鍛えられているから、よほど特殊な商品(マジックアイテム、骨董品、東方の品など。または契約書や証書が必要になる大口の新規、もしくは特殊な取引)でない限り、取引する事にさほど問題はないのだ。

 ちなみに、トリールとは、ケルンから馬車で1日ほど南に下ったところにある小さな宿場町である。

 そこで現在行われているはずの価格協定会議とは、平たく言えば談合の事。
 ある商品に対して、今年度はいくらで、どれくらい、どの時期に購入するか、という事をあらかじめ決めておき、入札を通すことなく安定して商品を手に入れるためのものだ。
 このセカイにおいては、それは別に違法な行為ではなく、商会同士が取引する上では、極めて当然の行為である、と言えるだろう。
 ただ、談合に参加できない、規模の小さな商家の商人達からはあまりいい目では見られないために、トリールのような少し外れた土地での会合になるのであった。



「奥様、主人の不在は仕方のない事です。……とりあえず、ここは坊ちゃんを」
「ふぅ、そうね。私とした事が、また頭に血が昇ってしまったわ……」

 ヘンネが宥めると、意外にも素直に従うヴェルヘルミーナ。
 どうやら自分がカッとなりやすい性格だという自覚はあるようだ。

 それで自重出来ないのだから、余計に性質が悪いと思うのは私だけだろうか。

「では、そこの同じ顔をした二人、フーゴを探してきなさい。すぐによ」
「……どうして?」「……俺達が?」
「つべこべ言わずさっさと行くっ!クビにされたいのっ?」
「……横暴」「……理不尽」
「きぃっ、何て生意気なの、ここの見習い達はっ!」

 やるなあ。伯爵夫人相手に普通に口答えしてるよ……。
 喋らせると結構凄い事いうのよね、この双子。
 
「ギーナ君、ゴーロ君、ここは」
「……わかった」「……仕方ない」
「昼休みが終わるまでには戻って来てね」

 エンリコがそう言って目配せすると、双子は揃って肩を竦めながら、店の外へと出て行く。

「どうして私の言う事は聞かない、の、よっ!」

 双子の後ろ姿を憎々しげに睨みつけながら、ヴェルヘルミーナは手近にあった穀物袋を蹴りあげる。
 うわぁ……。絶対に関わりたくないタイプの人だわ、これ。

「ミセス・フッガー。申し訳ありません、弊店の従業員が大変失礼を致しました」
「ふん、まったくよ。この私を誰だと思っているのかしら?」

 なんて暴君ぶり……。
 成程、フーゴが逃げ出した理由もわかる。さぞかし厳しい母親なんだろうなぁ。

「それにしても、ここは寒いわねぇ……」
「おい。いつまで奥様をこのような薄汚い場所に閉じ込めておく気だ。さっさとまともな部屋に案内せよ」

 ヴェルヘルミーナの言を受けて、ヘンネは脅すようにエンリコに命ずる。 
 暖房設備のない倉庫内は、この時期だと確かにかなり冷える。慣れない人にはキツイだろう。

 しかし主人も主人なら、従者も従者ね……。あんたの檻には上等すぎる程だっての。

「はい、これは気付きませんで、重ね重ね申しわけありません。では応接室に……」
「いえ。貴方はいいわ。……そこの小娘、案内しなさい」
「へっ、わ、私、ですか?」

 唐突に矛先を向けられた私は、挙動不審に辺りを見回しながら自分を指さす。

「……貴女以外に小娘が何処に居るの?育ちだけでなく、頭も悪いのね、貴女」
「え、あぅ、すいません」

 何でここまでボロクソに言われなければいけないのだ、と思いつつも、とりあえず謝っておく。
 こういう高飛車な人間に反発してはかえって面倒な事になる。適当に頭を下げておくのが吉だ。

 それにしても、どうして私を指名したのだろうか。ただの気まぐれだといいんだけど。





「ふぅん、まぁまぁの部屋ね」

 仕方なしにヴェルヘルミーナを2階の応接室に通すと、彼女は当然のように上座に置かれた豪奢なソファにちょこんと腰掛ける。
 その姿は、綺麗に着飾らせたガリア人形のように可愛らしい。うん、外見だけは。

「…………」

 ヴェルヘルミーナの後ろには、ずぅん、と置物のように佇むメスゴリ……、もとい、ヘンネ。
 その佇まいからは、ただならぬ圧迫感を感じる。彼女は単なる従者ではなく、屈強な護衛役でもあるのだろう。
 あの太い腕で殴られたら、サハラを飛び越えて東方まで吹っ飛んで行けそうな気がする。

 というか、すげぇ気まずいよ、これ。
 何で私一人で、こんな高慢ちき共を接待せにゃならんのだ?これじゃまるで生贄ではないか。

「今、紅茶を淹れて来ますので、少々お待ちを」

 と、泣きごとを言ってばかりもいられないのが、雇われの身のつらい所でして。
 まぁ、お茶とお菓子でも与えておけば少しは大人しくなるだろう。

「結構。私はヘンネの淹れた紅茶以外は飲めませんの。……ヘンネ、淹れて来て」
「かしこまりました、奥様」

 ヴェルヘルミーナが厭味ったらしくそう言うと、ヘンネはニヤリ、とこちらに向けて勝ち誇った笑みを見せて、応接室を後にした。

 うん。人をムカつかせる事の天才ですか、貴女達は。



 そうして私とヴェルヘルミーナが二人きりになると、更に険悪な雰囲気が漂い始めた。
 なんというか、座っている彼女からはドス黒い怨念、敵意のようなものを感じる。



「…………」
「あ、あのぉ……ミセス・フッガー」
「何?」
「本日は、一体何の御用でいらっしゃったのでしょう、か?」
「放蕩息子を連れ戻しに来たに決まっているでしょう?そんなことくらいもわからないの、貴女は」
「そっ、そうですよね。失礼しましたぁ……あは、あはは」

 沈黙に耐えきれなくなった私が話題を振ってみても、返ってくるのはこの通り、絶対零度の返答である。
 この人、絶対水メイジよね。それも氷雪系が得意な感じの。

 それにしても、フーゴ、連れ戻されちゃうのか。あんな事件があった後だし、当然と言えば当然ではあるが。
 でも、あいつが納得するとは、到底思えないわね。商売に関しては割と本気で取り組んでいるみたいだし。
 
「まったく、程度の低い……。どうして、フーゴがこんな娘を……」
「え?」
「何でもないわ……。貴女、ちょっと“そこ”に座りなさい」
「は、はい。失礼します」

 “そこ”というのは当然の如く、椅子ではなく床である。どんだけ人を馬鹿にしてんだ、このロリ婆め……。
 と、思いつつも座ってしまう所が、これまた雇われの身のつらい所よねぇ。

 などと思っていると、ヴェルヘルミーナは突然私の顎をステッキでぐい、と持ちあげる。

「い、痛いっ、です」
「大人しくしてなさい。別に取って喰おうと言う訳ではないわ」

 私の抗議を気に留めた様子もなく、ステッキの先からじろりと私を覗きこむヴェルヘルミーナ。

「ふぅん……。思った以上に、いやらしい顔。殿方に媚びる事だけは得意そうね。貴女、商人より娼婦の方が向いているんじゃなくって?」
「は、はぁ」
「何なら、私の知っている娼館を紹介してあげるわよ?いくらなんでも、次の就職先くらい用意してあげなくては可哀想だものね」
「……どういう事です?」
「本当、頭の回転の鈍い娘ね。つまり貴女はクビって事よ、ク・ビ」
「な……っ!ちょっと──う、ぐ」

 横暴もここまで来るとさすがに許し難い。
 私がこの人に何をしたというのか。

 頭に血が昇った私は、ヴェルヘルミーナに詰め寄ろうとするが、ステッキで喉元を押さえられ、動きを封じられてしまった。

「まあ、凶暴な娘。正当な解雇通告に逆上して襲いかかろうとしてくるなんて……」
「げほ、正当、ですって……?」
「当たり前でしょう。大体ね、貴女のせいで商会全体に迷惑が掛かったのよ?そのくらいの処分は然るべきでしょう」
「……その事については、謝ります。多大な迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。しかし、あの事件での私の処分については、もう決着済みのはず。フッガー商会から、不問に処すという回答を頂いております」
「商会としては、ね。でも、“私は”納得していないのよ」
「それは夫人の我儘では?いくら伯爵家の正妻と言えど、独断で従業員を解雇するような権限はないはずです」
「意外と度胸はあるのね……貴族に向かって口答えするなんて」
「口答えではありません、これこそ正当な反論だと思いますが」

 いくらフッガー家と言えど、夫人を商会の正社員(出資者)としているとは考えにくい。
 女性が商売などに手を出すべきではない、という常識は、例え貴族の家でも変わらないからだ。
 ならば、彼女には従業員に対しての人事権は存在しないはず。

 しかも、この商店は親方の出資率が5割を超えるという、経営権の独立した店舗(代理店)なのだ。
 仮に彼女がフッガー商会の正社員だとしても、この店では、我が物顔で振舞えるような立場ではない。

 そう考えると、段々とムカっ腹が立ってきた。
 どうして、こんなロリ婆にここまで謙らなければいけないんだ。

「本当に腹が立つ娘っ!今すぐ出て行きなさいっ!荷物を纏めて今すぐっ!」
「貴女に命じられる筋合いはありません」
「何ですってぇ?!」
「私はカシミール商店に雇用されています。フッガー家によって雇われているわけではありませんので」
「ぐ、むぅ。なっ、何よ、いきなり強気になって……っ!私が命じれば、貴女なんてねぇ!」
「そうやって脅せば誰もが下手に出ると思ったら大間違いですよ?私はここをクビになったら終わりですから。後の無い鼠は猫をも噛み殺す、と言います。……私は精一杯噛みつかせて頂きますわ、ミス・ヴェルヘルミーナ(※)。……あら、ごめんなさい、ミセスだったかしら?」 
「……ふ、ふふ。だっ、誰がお嬢ちゃんですって?……クビにする前に、貴女には少し教育的指導というものが必要なようね」

 爆発寸前の活火山のように、ぷるぷると震えるヴェルヘルミーナ。
 何よ、これくらいでキレるなんて、大した事ないわね、伯爵夫人ってのも。

「まぁ、伯爵夫人から直々にご指導をして頂けるとは、身に余る光栄でございますわ。でも結構。こう見えても、私、本当に高貴な方への礼儀は、十分に心得ておりますので」
「どっ、どういう意味かしら?」

 そのくらい解りなさいよ。
 あれだけ人を馬鹿にするんだから、さぞかし聡明なんでしょうが。

「お気になさらず。……それよりも、私などにご指導をして下さる暇があるなら、ご子息の教育をきちんとなさった方がよろしいんじゃなくって?」
「あの子まで侮辱する気?!フーゴはとても素直でいい子よっ!」

 まさに親の欲目ってやつね。あいつは捻くれ者の意地悪坊主でしょうが。
 まぁ、少しは頼りになる所もあるけども。

「ふふ、子の心親知らず、とはこの事ですね。彼、貴女の顔を見た途端に逃げ出したんですよ。それこそ脱兎の如く、ね。よほど会いたくなかったのでしょうねぇ……。遠路はるばる会いに来た母から逃げ回る、なんて普通はあり得ませんわよね。とっても個性的だわ。どういう教育をなさったのかしら。後学のために教えて頂きたいのですけれど?」
「う、ううう、嘘よっ!そんなはず、そんなはずないわ!嘘を吐いてるのねっ、このフーゴちゃんにタカる害虫めっ!」

 ヴェルヘルミーナは団栗眼に涙を浮かべて叫ぶ。
 なんか、傍から見ると、私が小さな子を虐めているみたいな構図に見えるわよねぇ、これ。まぁいいか、誰も見ていないし。

 というか、フーゴ、ちゃん、って……。それに、害虫って私?

「それって、どういう事ですかね……?」
「あ、あの、えぇと、これは、その。違うの」

 発言の意図を指摘され、わたわた、と慌てふためくヴェルヘルミーナ。
 なるほど……。どうしてこのロリ婆が私を目の仇にしているのか、その本当の理由が何となく見えてきた。

「もしかして、商会に迷惑を掛けたから、などと言う解雇理由は真っ赤な嘘なのでは?」
「うっ……」
「いくら伯爵夫人といえど、勝手な逆恨みで権力を濫用してはマズイと思いますよ」
「何を根拠に──」
「あっ、フーゴだ」
「えっ。ど、どこっ?!私のフーゴちゃんはっ」

 私が窓の外に視線をやって言うと、ヴェルヘルミーナは光の速さで窓の方へ移動し、フーゴの姿を探す。

 やっぱり、そう言う事か……。

 何が厳格な母親だ。完全に的が外れていたわ。
 このロリ婆は間違いなくモンスターペアレントです。本当にありがとうございました。

「ごめんなさい、見間違えでしたわ」
「う、ぐ……」
「随分とご子息を大事にしていらっしゃるんですね。少し彼が羨ましいですわ」
「……母親が我が子を大切に思うのは当然の事でしょう?」

 うん、普通はそうだよね。でも世の中にはそうじゃない親もいるんです。例えば私のアレとかね。
 貴女はその真逆の、やり過ぎ、過保護ってやつだけどね。

「どんな勘違いをしているのか知りませんが、私と彼は何も特別な関係はありませんよ?ただの一同僚です」
「……私を騙そうったって、そうはいかないわ。貴女とフーゴちゃんが、その、イカガワシイ関係になっているというネタは挙がってるのよ!」
「…………はぁ?」

 ちょっと待て。
 誰だよ、そんな訳のわからない出鱈目をこのロリ婆に吹き込んだのは。

「何ですか、そのいい加減なネタは……」
「いい加減ではないわ。我がフッガー家の誇る連絡員による確かな情報よ」
「その連絡員こそクビにしなさいよ……少しは情報を吟味するとかしたらどうなんです?」
「とぼけるのもいい加減になさい!どうせ貴女の方から誘ったんでしょう!この薄汚い女狐めっ!」
「そんなことするかっ!あんな捻くれ者、こっちから願い下げよっ!」

 売り言葉に買い言葉。
 この時の私は、相手がどこのどなた様か、という事など、既にどうでもよくなるほどにヒートアップしてきてしまっていた。

「こっ、このどこの馬の骨ともしれない平民のくせにっ」
「ちょっといい家に生まれただけのくせに調子に乗ってんじゃないわよ!お子様貴族っ!」
「こっ、このっ!」

 ついにヴェルヘルミーナの右手が火を噴いた。
 平手が私の頬に炸裂し、ぱぁん、といい音が響く。

「やったわね……」
「なっ、何よ、その目はっ!私を誰だと」
「ただの過保護な馬鹿親でしょ?」
「きぃっ、もう許さないっ!その無礼、死を持って償いなさいっ!」

 逆上したヴェルヘルミーナは、手元にあったステッキを構えて金切り声を上げる。

 しかし、近過ぎる。この距離なら詠唱を完成させる前に潰してしまえばいい。
 
「イル・アース──」
「スっとろい事やってんじゃないわよっ!」
「あう……っ!」

 ヴェルヘルミーナが詠唱を始めると同時に、ステッキを持った手を、思い切り蹴り上げる。
 手離されたステッキは、きれいな放物線を描き、がしゃん、と窓を割りながら、外に飛び出していった。

「つ、杖を狙うなんて、ひっ、卑怯よ?」
「ケンカに卑怯もへったくれもあるかぁっ!」

 杖を失くして、よろめいたヴェルヘルミーナに肉食獣のように飛びかかる。
 こんな場所で、杖まで抜くとは、もう、頭にキた。

「やめなさい……っ!こっ、こんなことをして、後でどうなるかわかっているの?!」
「ぶん殴られる覚悟もないくせに、杖なんて向けてんじゃないわよっ!」

 馬乗りになってヴェルヘルミーナの顔面を殴りつける。
 もちろん平手などではなく、グーだ。

「あぐっ……なっ、なんてっ、恐ろ、ぶべっ、娘っ、なのっ……」
「今更気付いてももう遅いっ!ほらほら、早く泣きを入れないと、二度と鏡の見れない面になるわよっ」
「小娘がっ、調子に乗り腐って……っ」
「え、えぇ、うそっ?」
 
 ヴェルヘルミーナは蛇のようににゅるん、と身体を捻って馬乗りの状態から離脱する。
 完全に捕まえていたはずなのに……。まさか、この人、見た目に反して、意外と肉弾戦もやれるのか?

「ボディがガラ空きよっ!」
「ご、ふっ」

 ヴェルヘルミーナの下から抉るような拳打が、肝臓に突き刺さる。

「ほら、ほら、ほらぁっ!」
「ぐ、ぐぇっ」

 執拗に急所を捉え続けるヴェルヘルミーナの拳に、私はたまらず後ろに退がって距離を取る。

「く……。ここまで急所を的確に知っているなんて、ただのお嬢様だった訳じゃなさそうね」
「ふふ、甘く見ないで下さる?これでも若い時はバリバリの軍属だったのよ?(前線に出たことは一度もないけれど)」
「まっ、マジで……?」
 
 無い胸を張って誇るヴェルヘルミーナ。呆然とする私。
 この身体で、軍人だって?どうなってんのよ、この国の軍隊は。



「あっははは!いい顔ねっ!さあ、私に盾付いたことを後悔なさいっ!」

 調子付いたヴェルヘルミーナが嬉々とした形相でこちらに駆けて来る。

「お断り、しますわっ!」

 その顔を目がけて、私は改良型ハシバミ袋(試作型)を全力で投擲。

 これは、誘拐事件の後、更に殺傷(?)力を高めるために、刺激臭のあるハシバミの他に、毒茸と毒虫の粉末などを混ぜたものだ。
 試しにロッテに浴びせてみた所、割と本気でキレられた(一日耐久吸血の刑に処された)ので、その威力は以前の比ではないと期待できる。多分。

「何コレっ?目、目が、喉が……っ!ど、毒ぅっ?!」
「綺麗な茸には、毒があるのよっ」

 秋の収穫祭における注意事項のような事を叫びながら、ヴェルヘルミーナの喉を目がけて貫手を放る。
 それを言うなら、綺麗な花には刺があるのよ、なのだが、言ってしまったものは仕方ない。

「あぐぅっ」

 呼吸が苦しくなっている所に、喉を潰す一撃を受け、ヴェルヘルミーナは苦しそうに膝を着いて、こちらを睨みつける。

「く、勝つためには手段を選ばない、この非道さ……貴女、ただの小娘じゃないわね……」
「ふふ、私こそ、舐めて頂いては困りますわ。私は化物退治のスペシャリストでしてよ?(面と向かって戦った事はないけれど)」

 今度はこちらが、最近ちょっと出っ張って来た胸を張って言う。

「戯言をっ!」
「それはどうかしらっ!」

 掴み合った二人は、それから暫くの間、応接室の床をごろごろと転がりながら、上に下にの攻防を展開する。
 髪を引っ張る、噛み付く、頭突き、首絞め、手当たり次第に物を投げつける。

 見る見る内に、二人の顔は、青くはれ上がって行き、見るに堪えないひどいものに変わる。
 綺麗に整理されていた応接室の調度品は、見る影もなくぐちゃぐちゃのぼこぼこ。

 どうみても伯爵夫人と美貌姉妹の戦いには見えない泥仕合。

 彼女達は、世紀の大決戦をしているかのように錯覚しているが、傍から見るとちょっと過激な子供同士の喧嘩にしか見えないのは、言わぬが花であろう。



「……はぁ、はぁ、私を相手にここまで戦えるなんて、小娘にしては上出来よ?」
「……ふぅ、ふぅ、貴女こそ……ただの高慢ちきかと思えば、中々に根性があるじゃないの」

 満身創痍でニヤリ、と微笑み合う両者だが、二人とも膝が笑ってガクガクしていた。

「ふ、ふふ、フーゴちゃんの事さえなければ、もう少し違う形で知り合えたかもしれないわね」
「だから、出鱈目だって言っているでしょうが……。それに、あいつの事を思うなら、私の事なんて関係無しに、家に連れ戻すなんて馬鹿な事は辞めなさいな」
「何故、そう思うのかしら……?」
「親はなくとも子は育つ、可愛い子には旅をさせよ、ってね。あいつは確固たる自分の意志でここに居る。余計な茶々はあいつの成長を阻害するだけよ」
「……小娘の癖に、随分と由緒のありそうな金言を知っているのね?」
「“東方”の先人が残した言葉ですわ。コトワザ、というのよ」
「ふん……。“東方”ねぇ。ま、その先人に免じて、少しは考慮に入れておいてあげる」
「それは光栄です。……でも、決着は付けなくてはいけませんね」
「勿論よ」

 その応答を合図にして、私は最後の力を振り絞り、ヴェルヘルミーナに向かって突進する。

「らあぁっ!」
「せぇいっ!」

 私が繰り出すは、顔面を狙った、右のストレート・パンチ。
 偶然か必然か。ヴェルヘルミーナも同じ攻撃を繰り出していた。

 空気を切り裂く二つの拳が交錯した瞬間、私が目にしたのは、崩れ落ちるヴェルヘルミーナの姿。
 しかし、安堵も束の間、顎に軽い衝撃が走り、直後、星が見えた。

 クロス・カウンター。

 それは全くの偶然だったが、満身創痍であった私の意識を刈りとるには十分すぎる一撃だった。

 こうして、二人の小さな子供達の戦いは、両者ノックダウンで幕を閉じたのだ。





 その夜。

 『覗くな危険』の札が掛けられた従業員寮の一室で、幻想的な淡いグリーンの光が傷ついた私の体を包んでいた。

「痛っ、いだだだだっ、も、もっと優しくしてよ……」

 全身青あざだらけの私は、ロッテの荒々しい治療に口を尖らせる。

「たわけ。治してやっとるだけ有難く思え。大体、貴族と殴り合いなど、向こう見ずにも程があるわ」
「う……ぐぅの音も出ないほどの正論でございます……」
 
 呆れ顔のロッテに諭されて、がっくりと肩を落とす私。
 いつもとは逆の立場である。本当、馬鹿な事をしてしまったよ……。

 私の治療に使われている精霊魔法は【再生】というものらしい。
 ウィースバーデンの屋敷から生還した時もこれを使って私の怪我を治したという。

 【再生】は、ロッテの説明から推測するに、系統魔法の【治癒】とは異なり、生物本来の自然治癒力を高める、という魔法のようで、自然には治らないような身体の欠損や、重大な病などは治せないそうだ。
 というか、痛い。すごく痛い。傷が塞がる時間だけでなく、傷が治る時に発生する痛みまでが凝縮されて襲ってくるために、全身にかなりの激痛が走る。
 便利と言えば便利だが、あまり多用できるようなものでもなさそうだ。あまり大きな怪我に使用すれば、痛みでショック死してしまうだろう。

「しかし、その伯爵夫人とやら、よく大人しく引き退がったのぅ。その場で殺されてもおかしくはないぞ、普通」
「……私もそれはよくわからないのよ。正直、あの時は、あまりにも頭が茹っちゃってて、その後の事なんて考えていなかったんだけど。今考えると身震いがするわ。本当に、良く生きてたわ、私」

 あの後、私の意識が途絶えているうちに、どんな心境の変化かは知らないが、ヴェルヘルミーナ達はフーゴに会う事もなく、足早にアウグスブルグへと帰ったらしいのだ。

 傷だらけになった彼女に、紅茶を運んできた従者のヘンネや、異常を聞いて駆けつけたエンリコ達が「何があったんですか」と、尋ねてみても、「何もなかった」の一点張りで、取りつく島もなかったという。
 ま、貴族が杖を抜いたというのに、平民の小娘にあれだけ酷い目に合わされたなど、口が裂けても言えないだろうが。

 それにしても、ありえない程の無礼を働いた私に対するお咎めが無かったのは不気味だった。それどころか、私の解雇すらなかったことになっていたのだ。

 別に喧嘩の事を隠したとしても、私を罰する理由など「無礼だから」だけでも許されるのだから。
 殴り合いでヴェルヘルミーナの欲求不満でも解消されたのだろうか、それとも被虐趣味でもあるのだろうか。うぅん、わからない……。

「何じゃ、妾はてっきり、咎められない事を計算ずくでの行動かと思っていたのじゃが」
「買い被ってくれてありがとう。でも、今回ばかりは何もないわ。怒りに任せて暴れただけよ」
「くふふ、主もまだまだ餓鬼と言う事じゃの」
「認めたくないものね……」

 私自身、あそこまで怒りの感情が爆発するとは、思いもよらなかった。
 以前の私であれば、何を言われようがはいはい、と従っていたはずなのだが。

 まぁ、それが一慨にいい事とは言えないわね、特に今回は。
 無事で済んだからよかったものの、一歩間違えれば、私の首は胴体に乗っかっていなかったのだから。
 反骨心はあってもいい、というかあった方がいいけれど、身の程は弁えなければね。うん。

「しかしまぁ、どうやったら杖をなくしたメイジ如きに、ここまで痛めつけられるんじゃ?」
「あだぁっ」

 ロッテは意味も無く、ぱこん、と私の頭にできた大きな瘤をたたく。

「やれやれ、まったくもって主は弱いのぅ。うん、弱過ぎる。死に掛けのカメムシくらいに弱いな」
「そ、そこまで言う?凄い根性を持った強敵だったのよ?」

 ロッテは三段活用を駆使してまで私を罵る。
 ちょっと言い過ぎじゃないか、あのヴェルヘルミーナ相手に善戦したよ、私は。
 見かけは幼女だったけど、戦闘力はあのゴリメイドのヘンネ以上よ、きっと。

「最初に杖を狙ったのは、弱者としては正解としても、その後が全っ然、駄目じゃ。杖のないメイジなど、金の無い商人みたいなもんじゃぞ?せめて肉弾戦くらいは勝たんか」
「元軍人だったのよ、あの人。負けて当然でしょ。私はただの素人で、しかも平民なんだから」
「それじゃ、その考えがいかんのじゃ!」

 びしっ、と私の鼻先に指を突きつけるロッテ。
 私としては、当然の主張なのだが、何だかロッテを調子づかせてしまったらしい。

「昨日の“イーヴァルディの勇者”を見て思ったんじゃ。人間、不可能な事など無い、と。平民だろうと何だろうと、その気になれば、ドラゴンにでも勝てるのじゃ」
「いや、あれは御伽噺だし……」
「諦めたら、その時点で人生終了じゃぞ?」
「いや、そういうのは諦めてもいいんじゃないかな、うん。じゃあ、この話はこれまで、という事で一つ」

 この流れはまずい。絶対、何か良からぬ事を言い出すに違いない。
 そう判断した私は、強引に話を打ち切りに持っていくことにした。

「そこでじゃ」
「いや、聞けよ」
「お主は、明日のイーヴァルディを目指せ。妾がマンツーマンで主を鍛えてやろう」
「始まった……」

 出たよ、無茶振りが。何が悲しくてそんな一銭にもならない事をしなくてはならないんだ。

「第一、 主は行商人になるのであろう。それならば、多少の腕はつけておかねばな。たちまちのうちに、賊共にやられてしまっては仕方がないじゃろう?男なら殺されるだけで済むやもしれんが、女じゃったら余計に悲惨な目に遭うじゃろうなぁ……」
「……本音は?」
「うむ。最近暇での。主の読み書きはもう完璧じゃし、先住者も倒した。はっきり言って、死ぬほど暇じゃ」

 悪びれる様子もなく答えるロッテ。
 つまり、大義名分の下、思う存分に私を虐めて暇つぶししよう、という訳か。
 死ねばいいのに……。

「ちなみにお主に拒否権はない」
「うぐ……」

 こちらが言う前に、先手を打たれてしまった。

「くふふ、悔しかったら妾を倒してみるがよい。ほれほれ、来てみい?」
「ぐ、ヴェルヘルミーナ以上にムカツクわね……」
「くヒ、期限は妾が飽きるまで、じゃからな」

 いつだよ、それは。1時間後か、明日か?それとも10年後か?
 くそ……あの芝居を見に行った時点で、全ては終わっていたんだ……。



 こうして、私は次の日から(吸血)鬼コーチ、ロッテからの容赦ない扱きを受ける事になるのである。

 私がイーヴァルディになれるのかどうかは、ブリミルすら知らないだろう。





 一方、ケルンから南に10数リーグ離れた街道では、夜中にも拘らず、かなりのスピードで走行する箱馬車があった。
 箱馬車の扉の上には、1対の黄色いオニユリを象った紋章が彫られている。
 黄色は知性を表し、オニユリは富と誇りを表す。かつて、知を持って財を為し、誇りを得たというフッガー家の家紋である。

「痛いっ、いたたたっ!もっと丁寧に、痛まないようになさい!」
「はっ、申し訳ありません、奥様」

 その箱馬車の中、ヴェルヘルミーナもまた、秘薬を塗り込むヘンネに対して、口を尖らせて文句を言っていた。

「しかし、奥様。坊ちゃんを連れ戻さなくても良かったのですか?まさか、会いもせずに帰るとは……。来る時は絶対、何があっても連れて帰る、と意気込んでいらっしゃったのに」
「いいの。可愛い子には旅をさせよ、というのよ」
「は、はぁ、それはまた変わった金言ですね」
「ふふ、中々に面白い言葉でしょう」

 ヴェルヘルミーナは、アリアが口にした“コトワザ”を、偉く気にいってしまっていた。
 彼女はかなりの金言マニアだったのである。

 これは、性別に関わらず、商家、もしくは商売に手を出している貴族には多く見られる傾向だ。
 そしてそれは、彼らの知的好奇心の強さを物語っている、と言えるだろう。

「ふむ……。私にはよくわかりませんが、奥様がそういうのならそれで良いのでしょう」
「さすがヘンネねぇ。良く分かっているじゃない。まっ、それにこんな顔じゃ、フーゴちゃんに合わす顔がないしね」

 ヴェルヘルミーナは腫れあがった瞼を指して言う。

「ただ、一つだけ解せぬことがあります。何故あの娘の暴挙を不問にしたのか、という事です。私に一言仰ってくれれば、その場で縊り殺してやりましたのに」

 ヘンネは憎々しげに吐き捨てる。
 彼女は主であるヴェルヘルミーナを傷つけられ、内心、腹腸が煮えくりかえっていたのだ。
 従者が主に対して、それほどの感情を持てると言う事は、案外ヴェルヘルミーナには人望があるのやもしれぬ。

「やぁねえ。貴女は物騒でいけないわ。こんなもの、子供の遊びに付き合ってあげただけよ」
「は……しかしですね。あの小娘は坊ちゃんをも」
「その情報が間違っていたのよ。全くの見当外れ。あの小娘、憎たらしい事にあの子には全く興味がないらしいわ……。いや、むしろあの子の方が……。ふふ。さすが私のフーゴちゃん。女を見る目はきちんとしているわね」
「え?」

 ぼそぼそ、と呟いた後半の言葉を聞き取れなかったヘンネが思わず聞き返す。

「いえ、気にしないで。ともかく、あの早とちりな連絡員にはクビを覚悟してもらわないと駄目ね。こんな悪質な偽情報を掴ませるなんて、話にならないわ」
「その連絡員、私がきちんとシメておきましょう」
「よろしくお願いね。いつもの3倍絞っておいて」
「了解致しました」

 ヘンネはやる気十分、と言った風に太い腕をぶんぶんと振り回して了解の意志を示す。
 あぁ、連絡員の運命やいかに。
 
「それはそうと、明日から鍛えるわよ。ヘンネ、付き合いなさいね」
「は、はぁ。何故急にそんなことを?」
「再戦の準備よ。飽くまで遊びとは言え、あんな決着は納得がいかないもの」

 しゅっ、しゅっ、と狭い箱馬車の中で拳を突き出す真似をするヴェルヘルミーナ。

「申し上げにくいのですが……奥様には、その、あまりそういうのは向いていないかと」
「何を言っているの!私にこなせない事などないわ!」
「はぁ、でも、たしか、体術の成績、軍学校ではダントツでビリでしたよね」
「そっ、そそそんな昔の事っ!何よっ、自分がトップだったからって自慢をしているのかしら?!」
「いえ、そんな訳では……」

 この二人、軍学校時代は、身分の差こそあれど、同輩だったらしい。
 通りで息が合っているはずだ。

「昨日の“イーヴァルディの勇者”見たでしょう?魔法が使えなくても、あれだけ強くなれるのよ?貴族である私が強くなれない道理はないわ」
「いや、あれはお話ですからね」
「う、うるさいっ!とにかく、私は、明日のイーヴァルディを目指します!」
「はぁ、やれやれ、本当に困った方です」

 奇しくも、ロッテと同じ思考に行きあたったヴェルヘルミーナ。



 この日から、フッガー家では無駄に身体を鍛える伯爵夫人の姿がたびたび目撃されるようになったという。





つづけ
(※……ミスやミスタの後に、家名ではなく個人名をいれると、お嬢様、坊ちゃま、というニュアンスになります) 



[19087] 24話 私と父子の事情 (前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2011/05/14 18:18
 季節は巡り、茹だるような酷暑が続くニイドの月。

 午前の来客がほぼ終了し、手持無沙汰になった私は、箒をもって商店の外に出る。

 ふと外に目をやれば、街頭で半裸の男が、じゃきじゃきと涼しげな音をさせながら、大きな鋸で氷を挽いている。
 子供達は蜜に群がる虫のように、その周りに集って、シャーベット状になった氷を頬張っていく。
 
 ごくりと喉を鳴らして、遠目でその景色を眺めていると、昔よりもちょっぴり長くなった前髪から滴り落ちた汗が目に入り、ぐにゃりと視界が歪んだ。

 ふぅ、と大仰に溜息をついて、作業服の裾で顔を拭う。
 憎らしい太陽を睨みつけながら、大きく息を吸い込むと、胸一杯に、夏の匂いがした。

 当然ながら、私達に夏のバカンスなど存在しない。

 11歳の夏。
 私は思春期の淡い思い出作りなどする暇も無く、相も変わらず仕事に明け暮れていたのであった。 





「あづぃ……」

 昼。
 私は好物の馬肉が入った賄いには目もくれず、休憩室に入って来るなり、べちゃぁ、と融けたチーズの如く、机に突っ伏した。

「お前、食わねーの?」
「いらない……。食べていいよ」

 融けかけている私に、いつの間にか隣の席に移動していたフーゴが話しかける。
 ただでさえ暑いので、もうちょっと離れてほしいのだが、それを口にだして無益な争いになるのも面倒くさい。

 ヴェルヘルミーナの一件で、他の見習い達にも、彼が貴族という事がバレてしまった訳だが、見習い同士の関係はあまり変わっていない。
 これは、エンリコや双子達の性格的なものが幸いしている事もあるが、何より、バレてしまった事を知っても、フーゴ自身がその態度を崩さなかった事にあるだろう。

 目上、というか、年上に対しては、それなりに礼義正しいのよね、こいつは。
 相当な親馬鹿であるはずのヴェルヘルミーナだが、決して甘やかしているだけではなかった、という事かな。

「そんだけダレてるって事は、またとんでもない鍛錬でもやらされたのか」
「まぁね……」

 私がダレているのは、何も暑さのせいだけではない。
 前日の、というか連日の無茶な運動によって、全身を酷い疲労感が支配しているからなのだ。

 そう、ロッテの思いつきで始まった、私の改造計画は依然として続いていたのである。

 当初はすぐに飽きるだろう、とタカを括っていたのだが、その見積もりは全く持って甘く、時が経つほどに、その鍛錬の内容はエスカレートしていた。
 蟲惑の妖精亭の仕事も続いているし、貯金レースも未だに続いている事から省みるに、彼女は根っからの飽き性という訳でもないらしい。

「ちなみに、どんな事をしたんだよ、昨日は」
「生肉を体中に括りつけられた状態で、飢えた野犬の群れの中に放り込まれて、レース・スタート。まさに生存競争よ」
「悪魔の所業だな……。つーか、無事だったのか、それで?どっか怪我とかしてるんじゃねーだろうな?!」
「……近い、顔が近いから」
「うっ、わ、悪ィ」
 
 ぐい、と私の肩を掴んで真剣な顔を近づけるフーゴ。私は眉を顰めてそれを拒絶する。
 心配してくれるのは有難いが、さすがにそんな顔でまじまじと見詰められると対応に困ってしまう。それに暑苦しいし。

「……何とか逃げ切ったわよ」
「は……はは、そうだよな。出来ないと分かっていたら、あの人もそんなことさせねーよな。鬼じゃあるまいし」

 いや、させるんだけどね。実際に、(吸血)鬼な訳で。
 課される鍛錬内容の過酷さに、私が涙ながらに、無理だ、無茶だ、無謀だ、だと訴えても、ロッテは、頑張れ、出来る、気持ちの問題じゃ、の一点張り。
 彼女の考えた鍛錬が中止された試しは一度もない。

 まさに頑固一徹、聞く耳を持たないとはこの事である。

 で、結局昨日は、野犬達から逃げ切れずに、計4箇所をこっ酷く噛まれた。
 その傷は【再生】によって、既に塞がっているわけだが、まさか、精霊魔法で治してもらったから大丈夫なのよ、などとはフーゴには言えない。



 鍛錬を行う時間には、以前は読み書きの勉強に使っていた時間を充てている。
 即ち、仕事が終わってから、私が寝るまでの時間である。
 まぁ、この時間帯くらいしか、仕事の関係上都合がつかない、という理由もあるのだが、人通りが滅多にない時間帯である、というのも一つの理由だ。

 鍛錬の内容は、今のところ、主にというかほとんどが、走る事を基本にしたものだ。
 彼女が言うには、まず何をやるにしても、走は全ての基本という事らしい。

 その理論は強ち間違いとは言えないのかもしれない。
 彼女の言うとおり、賊やら亜人やらに襲われた時の事を考えると、これまでの経験からして、戦えないにしても、最低限逃げ足くらいはつけておいた方が良さそうだし。
 それに、いつまた変な事件に巻き込まれるか分かった物じゃないからね。備えあれば憂いなし、と言うやつだ。

 ま、そういう考えもあり、私は渋々ながら、彼女の暇つぶしに付き合っているわけだ。



「にしても、少しは腹に何か入れといた方がいいんじゃね?お前、今日の午後からは経理の研修だろう」
「経理は事務仕事でしょ?大丈夫、大丈夫。楽勝だって」

 フーゴの弱気な忠告に、私は肩を竦めて軽口を叩く。

 そう、今日から私は研修という事で、経理の仕事を勉強をさせて貰う事になっていた。
 ただ、勉強するだけではなく、実践的に仕事をしながら覚えていく、俗に言う、オン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)というやつだね。



 経理、と聞いて多くの人がイメージするのは、帳簿付け、というか簿記論だろう。
 それはまぁ、正解ではあるのだが、何も経理の仕事というのは、簿記論だけ知っていれば出来るような代物ではない。

 ならば、どんな仕事なのかというと、商店における経理の仕事は、大まかに分けて三つに大別できる。

 一つ目が出納業務。これは、商店全体の資産管理、必要な予算や経費の調達、取引方への支払い業務など、いわゆる、店の金庫番のような仕事がこれだ。

 二つ目に会計業務。これがすなわち、帳簿付けであったり、決算書の作成などの簿記論が必要な業務に当たる。

 最後に、付随業務。経営状態の分析、税金の申告とその対策、取引の違法性・リスクに関する監査と報告、従業員の給与計算などである。

 この多岐に渡る仕事をこなすにあたり、身につけられる知識や技術は非常に多い。
 資産の運用技術、経営学、経済学、簿記論(財務会計・管理会計)、計算能力、国際的な税制の仕組みや法(租税法)に関する理解、などなど。
 当然だが、これらは、経営者(私が目指す所の遍歴商人もまた経営者である)としても、必要な知識や技術になってくる。

 なので、この研修は独立を目指している見習いには必修とされている。

 ただ、本来であれば、3年程度は勤めた後に実施されるようなレベルのものらしい。
 私はまだここに来て1年半。経理に適正アリ、とでも親方に判断されたのかもしれない。
 ま、計算だけは得意だしなぁ。



「あ~、お前知らないのか……。いや、俺も実際に受けた事はないんだけど、経理の研修ってすげぇキツイらしいぞ」
「え、ヤスミンさんって厳しいの?ほとんど話した事はないけど、優しそうじゃない?」

 研修を担当するのは、親方、ではなく、カシミール商店の経理を一人で切り盛りしている正規の駐在員、ヤスミンである。
 彼女は、鉛色にくすんだブロンドをポニーテールにしている、おっとりとした喋り方をする妙齢の女性で、近所によくいる感じのお姉さんといった感じの人だ。

「いや、それがだな、エンリコさん達の話によると……」
「あれ?そう言えば、そのエンリコさんは?」

 私は長くなりそうなフーゴの話を途中で切って、辺りをきょろきょろと見回す。
 同じくここに居ない双子達に関しては、一足先に休憩室から出て行ったのを見かけていたが、エンリコは昼休憩に入ってからその姿を見ていなかった。

「……あれだよ、ほら、例の独立の件。多分、親方の部屋に居ると思う」
「あぁ……それかぁ。ま、エンリコさんもそろそろ独立してもいい歳だもんねぇ。お金はとっくに貯まっているだろうし」
「だよなぁ」

 声のトーンを一段落としてそんな会話をする私とフーゴ。

 近頃、エンリコと親方の間に、ちょっとした溝が出来てしまっているらしいのだ。
 なんでも、エンリコは、来春あたりには遍歴商人として、独立をするというプランを立てているらしいのだが、親方はそれに反対して、この店の正規駐在員になる事を勧めているらしい。
 
 何故親方がエンリコの独立に反対しているのかは分からない。
 単純に、彼が有能だから手離したくないだけなのか、それとももっと別の理由があるのか。
 
 しかし、エンリコの気持ちは分かる。
 彼はもうこの店に勤めて5年半。年齢もすでに18歳と、遍歴商人として独立するには丁度いい年頃である。
 商人を目指す者であれば、誰だって早く独立したい、と考えるのは至極当然の事。

 と、言う事で、もし何かあれば、私はエンリコに味方する事に決めていた。
 親方に大変な恩義は感じているが、今回ばかりは、その意図がわからないし、エンリコにだって、相当お世話にはなっているからね。



「そろそろ時間か。しかし、お前、結局何も食わね-のな」
「ま、大丈夫でしょ。水分だけは摂ったし」
「……ほれ、これやるよ。舐めとけ」

 フーゴはズボンのポケットから茶色いガラス玉のようなものを何個か取り出す。

「何これ?」
「果物を絞った汁をアメに混ぜて固めたやつ。甘いぞ?」
「へぇ、アメか。一つ貰おうかな」
「全部やるよ、俺、甘いモノ嫌いだし」
「へ?じゃあ、何でこんなの持ってるワケ?」
「……お袋が実家から大量に送って来やがった。餓鬼じゃねーんだっての」

 フーゴはうんざりした顔で言う。
 どうやら、息子を連れ戻す事はやめたものの、完全には放っておけないらしい。

「ふぅん、あの人らしいねぇ。フーゴちゃん?」
「あっ、てめ……!その呼び名はやめろって言ってんだろ!」
「はい、休憩終わりー。これは有難く貰っとくね」
「げっ、何時の間に……」

 掴みかかろうとするフーゴを軽くいなして、くすねとった飴玉を見せると、さっ、と踵を返して、休憩室を後にする。

「ぐむぅ……」

 背から聞こえる、不完全燃焼と言った感じの唸り声に、私はクスリ、と笑いを漏らして、甘酸っぱい匂いのする飴玉を口の中に、ぽい、と放り入れた。





『経理は事務仕事でしょ?大丈夫、大丈夫。楽勝だって』

 そんな風に考えていた時期が、私にもありました……。



「ほら、また手が止まってるっ!」
「すっ、すいません」

 目を吊り上げて、ぴしぃっ、と手にした教鞭で机を引っぱたくヤスミン。
 仕事中の彼女からは、いつものおっとりとした感じは消え失せていた。

 成程、元算術教師という触れ込みは伊達ではない。
 インテリ眼鏡をかけたその姿は、まさにイメージ通りのスパルタ女教師である。

「遅いっ、遅すぎるわっ!それじゃ時間内になんて終わらないよっ!さぁ、さぁ急いで急いで、ハリー、ハリー、ハリィっ!」

 ヤスミンは、教鞭をしならせて、激しい口調で煽りたてる。

 全然優しくない……。この人は、オフの時と仕事の時の性格が別物らしい。

 それにしても……これは、キツイ。

 もう既に陽も傾きかけているというのに、正午からずっとぶっ通しで机に齧りついている。
 だというのに、目の前に積まれた、大量の伝票や、請求書、納付書、報告書などが一向に減っている気がしない。勘定に移すところか、未だ仕訳すら切れていない(複式簿記において取引の内容を借方貸方に分ける作業……、つまるところ簿記の基本)状態である。
 その事実がまた精神的苦痛となり、疲労感をさらに倍増させている。

「あの、少し休憩とか」
「駄目よ、駄目。そんなことしたら、アタシが定時で帰れないじゃない」

 なんという……。そういえば、この人は年末のくそ忙しい時期でも定時アガリしていた気がする。
 いや、これこそ正しいOLの姿ですよね。

 とはいえ、彼女の処理能力は凄まじい。
 私が10を処理する間に、彼女は30を終わらせている。
 まさにプロフィッショナルだ。

 まぁ、この規模の商店の経理を一人でこなしている、という時点で、相当有能なのはわかっていた事なのだけれど。
 それに、彼女は会計《コンターピレ》だけではなく、商社公証人(証書や契約書を作成したり、時には裁判で商社を弁護したりする役割)も兼ねており、机上での商業知識は半端ではない。



「ほら、そこ! 摘要を間違ってるわ。商業税の方はケルン側でいいけれど、法人税はアスグスブルグ側に支払うの」

 自分の作業をしながらも、目ざとく私の間違いを発見し、指摘するヤスミン。

「え、それって一緒じゃないんですか?」
「商業税はその土地で商売を行うための許可税、つまりショバ代ね。これは業種とその規模によって額が変わるわ。法人税の方は具体的な収入に掛かる税で、その法人が設立された場所に支払うのよ。教えていなかったっけ?」
「いえ」
「そう。じゃあ、今覚えて。……ここの仕事はね、速くて雑は論外だし、遅くて綺麗というのも、てんで話にならないの。速くて綺麗でないと駄目なのよ」
「は、はい。わかりました」

 単純な計算能力だけなら、私も負けない自信はあるのだけれど、専門的な知識を要求するもの(保険・金融関係、税金関係、資産管理・運用など)は、どうしても調べたり、聞いたりしながらの作業になってしまい、とてもじゃないがついていけるスピードではない。

 でも、何となく、彼女の有無を言わせぬ雰囲気に引っ張られて、ついついこちらも無理をしてしまう。

 これをあと何カ月間か続けるのかと思うと、ちょっと気が滅入ってきてしまうけれど、研修が終わる頃には、私の血肉となっているに違いないと思えば……。
 


「ぐぇ……」

 しかし、そう思ってもキツイものはキツイ。

 陽が完全に落ちた頃、ついに限界に達した私は、ぐちゃ、と潰れた蛙のように、ごちゃごちゃに物が散乱した机に倒れこんだ。
 そりゃ、こんなにキツくちゃ、仕事が終わった後に、部屋を整理する気にはとてもじゃないけど、なれないわね……。

「ありゃ、ついにダウンかな」
「……すいません」

 未だ高速で動かしている手を休めずに言うヤスミンに。突っ伏したままで謝る。

「いや、初日にしては頑張った方だよ、君は」
「……他の人はどうだったんですか?」
「エンリコは君の半分くらい、双子君達も陽が落ちる前にはダウンしていたよ」
「は、はは……」

 最初から潰れる事前提のペースでやっていたのか……。
 まぁ、これが普段の彼女のペースなんだろうけども。

 あれ……?そう言えば、何でエンリコだけ、呼び捨てなんだろう。

「そういえば、エンリコ、今度、独立するんだって?」
「あ、はい。そうらしいです」
「ふーん。そうなんだ。あのお人好しが、ねぇ」

 そう言って考え込むように顎を撫でるヤスミン。

「あの、ヤスミンさんって、エンリコさんと何か関係が?」
「ん、知らなかったの?エンリコとアタシは幼馴染だよ。ま、アタシの方がお姉さんだけどね」
「あ~、そうなんですか」
「小さい頃はよく、からかって遊んだなぁ。ほら、あの子って女みたいな顔してるでしょう。だからアタシの服を着せてみたり、化粧させてみたりして。それでも、あの子ってほとんど怒った事がなかったなぁ。で、ついた仇名が“お人好しのエンリコ”。ぴったりでしょ?」
「は、はぁ」

 なるほど、以前に、ヤスミンさんの事を聞いて、エンリコが顔を顰めたのはそういう事か……。

「でも、親方は独立に反対しているらしいです。ちょっと理由はわからないんですけど」
「理由、ねぇ……」
「エンリコさんって仕事ができるから、手元においておきたいのかもしれないですね」
「ウチは買付担当の駐在員はころころ変わるからね。そこにエンリコをどっしりと挿げたいってのはあるんだろうけど……」
「ヤスミンさんは、他の理由がある、と?」
「ま、アタシの主観でしかないから、明言は避けとく」
「えぇ~」

 そこまで思わせぶりにしておいて、生殺しですか。
 何か、幼馴染にしか分からないような理由があるのだろうか。

「しかし、そうなると、一番先にこの商店を卒業する見習いは、エンリコではないかもね」
「他に、近々独立するような人がいるんですか?」
「さぁ、ね?君はどうなの?」
「私はまだまだですよ。金銭的な問題もあるし、実力も不足していますし……」
「おや?意外と謙虚だね。親方さんからは、強欲で自分勝手な女の子って聞いたけど」
「な、なんです、それ?!」
「あっ、これ、秘密だっけ。ごめんごめん、聞かなかった事にして」

 むぅ……。結構私の評価は高いと思っていたのに、これはちょっとショックだ。
 そんな風に思われていたのか。

 でも、それを他の人に言いふらさなくてもいいじゃないか。おのれ、親方めぇ……。

「ちょっと、文句言ってきます!」
「あ、待って──」

 ムカっ腹を立てた私には、がたん、と席を立つと、そのままドアを勢いよく開けて、3階の事務室に向かう。
 ヤスミンが何か言っていたが、それは耳に入っていなかった。



「全く、まだアガリには少し早いのに。やっぱり自分勝手ね……。それに、親方さんは、十年に一人の期待株だ。とも言っていたんだけど、ねぇ」

 ヤスミンは、閉め忘れられて宙ぶらりんになったドアを見ながら、溜息を漏らして苦笑した。





「失礼しますっ!…………あ」

 肩を怒らせて、事務室のドアを叩きつけるように開けた私は、次の瞬間に、間の抜けたような表情で声を漏らした。

「あ~、と、お客様が来ているとは……。失礼しましたぁ……」

 部屋の中には、頑固な皺を額に浮かべて、腕を組む、褐色肌の中年男がいたからだ。
 何故かギーナとゴーロも、何やら不貞腐れた表情で男に向かい合って座っている。

 親方は、私の姿を認めるやいなや、眉を吊り上げ罵声を飛ばす。

「馬鹿たれ、ノックぐらいしねェか!」
「カシミール……この子は?お前の娘か?」
「そんな訳ねェだろう……俺に家族はいねェよ。ただの出来の悪い見習いだ。すまんな、話の途中で」

 中年男から問われると、親方は親しげな態度で言う。
 む……。敬語を使わない所をみると、商売関係の人ではなく、個人的な知り合いだろうか。

 しかしひどい言われようだ。まぁ、私が全面的に悪いのは確かだけど。

「こんな小さな女の子がか?」
「あぁ、こいつはちょっと雇った経緯が特殊でな」
「ふむ……」
「おい、いつまでボサっと突っ立ってんだ。もう行っていいぞ」
「あ、はい」

 親方はこちらを見ることなく、しっしっ、と手を外側に振る。

「別にかまわんぞ、聞かれて困るような話でもないし。それに、こいつらの同僚であれば、是非とも話を聞きたいもんだ」
「そうか?よし、アリア、来い」

 ギーナとゴーロを横柄に見渡して言う中年男に、今度は一転して、ちょいちょい、と手を内側に振る親方。

 私は犬か!
 全く、人を何だと思っているんだ。

「忙しい所、悪いな、お嬢ちゃん」
「いえ、こちらこそお騒がせして申し訳ありません」
「さすが、カシミールの所は、中々に教育が行き届いているな」

 私がこれ以上失礼のないように頭をさげると、中年男は感心したように言う。

「……アリア」「……こんな分からず屋に頭を下げなくても良い」
「あぁ、何だと?」
「……さっさと帰れ」「……クソ親父」
「こんの、馬鹿息子どもっ!」

 双子の敵意剥き出しの言葉に、中年男は、だんっ、と机を叩いて激昂する。

 あれ?

 というか、親父?息子?
 この中年男が、双子の父親……?

 でも、この人、どうみても商人という感じではない。どちらかと言えば、職人気質の頑固親父、といった風情がある。

「とにかく、お前らのどっちが継ぐのか、さっさと決めやがれ!」
「……だからどっちか一人じゃ」「……継ぐ気はないっていってるだろ」
 
 声を荒げる中年男と、それを冷めた目で見る双子。

 うーん、全く話が見えない。



「あの、親方、どういう事なんですか。というか、誰なんです?」

 完全に蚊帳の外である私は、声を顰めて困り顔の親方に耳打ちする。

「北部の、ハノーファーのベネディクト工房は知っているか?」
「えぇと、確か……。そうそう、あのシュペー卿が在籍しているっていう、北部でも有数の金物工房でしたっけ。あ、武器も作ってたかな」
「そうだ。で、あの頑固そうな岩親父が、そこの代表のベネディクトだな」

 ハノーファーのベネディクト工房、といえば、ゲルマニア国内ではそこそこ有名な鍛冶屋集団、つまり金属製品メーカーである。
 その工房が抱える、数多く職人《マイスター》の中でも、有名なのが、高名な錬金術師と言われているシュペー卿だ。

 そこの代表の息子、と言う事は。
 貴族ではないにしても、フーゴと同じで、この双子もいいとこのボンボンなのか……。

 それにしても、また親と子の関係かぁ。
 私にはあまり縁のない事なはずなのに……。

「職人家系だったんですね、あの二人。どおりで手先が器用で、口が不器用な訳だ。でも、それならどうして交易商の修行に来ているんです?」
「あぁ、話せば長くなるんだが──」
「てめぇらっ、いい加減にしやがれっ!」

 ベネディクトの怒声が私達のひそひそ声を掻き消す。
 何事か、と視線を戻すと、一触即発、といった感じでピリピリとした空気を放つ、3人の父子。

「いい加減にするのは」「“アンタ”の方だろうが」
「親父に向かって、アンタ、だとっ?!」
「アンタでも上等なくらいさ」「てめぇ、で十分か」

 ベネディクトは、そこまで聞くと、す、と立ち上がって双子の方につかつかと近づいて行く。
 双子もそれに呼応するように立ちあがり、ギン、とベネディクトを睨みつける。

 両者、目が据わっている。こりゃまずい。親子喧嘩は余所でやっておくれ。



「おい、アリア」
「わかってます、商店内で喧嘩はご法度、ですよね(まぁ、人の事は言えないけどね、私は)」

 商店内で血の雨を降らす訳にはいかない。
 親方と私は、父子の間に分け入って、仲裁を買って出た。

「親子喧嘩もいいがな、そういうのは、余所でやりな」
「どけ、カシミール!あの親不幸者共を成敗しなけりゃいかんのだ!」
「落ち着け、いい歳してみっともねェ!」
「ぐ、離せっ」
「アリア、さっさとそいつら摘まみだせっ!話はまた明日だ!」

 親方がいきり立つベネディクトを羽咬い締めにして叫ぶ。

「ギーナさんと、ゴーロさんも落ちつきましょう、ね?暴力はいけません」
「アリアに言われても……なぁ?」「あのムカツク伯爵夫人をぶん殴った強者だからな」

 いや、そんな、強者認定されても。照れるなぁ、はは。

「って、私の事はいいんです!さ、行きましょう」
「……まぁいいか」「……相手にするのも馬鹿らしいしね」

 そう言って肩を竦める双子達の背中を押しながら、私は、また厄介な事に巻き込まれてしまった気がするなぁ、と心の中で溜息をつくのであった。





後半につづく



[19087] 25話 私と父子の事情 (後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2010/09/15 10:56

 帝政ゲルマニアの主産業とも言える、魔法を介さない、純粋な工業製品を生産する手工業。

 この分野において、我がゲルマニアの技術力と生産力は、ハルケギニアに存在する他の4国の追随を許さない。

 その原因としては、始祖の系譜を継ぐ他国と比較して、がちがちの魔法至上主義ではなかった事が幸いしている。
 勿論、ゲルマニアにもブリミル教は浸透しているし、上級貴族の殆どはメイジである。
 だが、『平民だろうが、力(金)さえあれば、貴族になる事が出来る』という制度に見られる通り、何も魔法だけが力ではないという事を、この国の中枢、つまり皇帝からして認めているのだ。



 そんなゲルマニアの誇る工業製品の大部分を生産しているのは、ゲルマニア北部の地域、特に、ハノーファー(金属・機械)、ハンブルグ(繊維・木材)、ブレーメン(化学・軍需)などの工業都市が有名である。
 
 この地域の商工業的な特色として、最も他と違う所を挙げるとすれば、“商業組合《アルテ》と職工組合《ツンフト》の併合”である。

 他地域においては、職工組合という組織に認められた(一定の技術力水準を満たす事と、親方加入金を組合側に支払う事によって認められる)、“親方”という資格を持つ職工でなければ、工房や工場を持つ事は許されないのが一般的である。
 この制度は、技術の独占、細かい物流の制御、徒弟の育成、職業倫理の徹底、既得権益の保持、という面では優れているのだが、いかんせん、生産量、生産効率という面では上手くなかった。

 何故なら、“親方”達の経営する工場(工房)は、非常に細かく分業された小さなもので、その各々が独立した仕事を行っているからである。
 
 例として、羊毛を原料とする、毛織物を製品として出荷する場合、選毛、洗毛、整毛、梳毛、刷毛、紡糸、整経(織機に経糸を掛ける事)、織布を経て、ようやく毛織物として出荷できる状態になる。
 そして、この各々の工程“全て”に対して専門の職人が存在しているのである。

 これを家内制手工業と呼ぶ。
 
 組合が統率を取っているとはいえ、これだけの職人と設備が別々の工房で、各工程毎に仕事をこなしていたのでは、全体的な進捗の管理は難しく、高い生産性を求めるには無理があった。

 では何故、これだけ細かく分業しなければならないのか。
 その理由は色々とあるのだけれど、最も大きな理由として挙げられるのは、“親方”という人達は、技術者であり、教育者でもあるが、経営者ではないからだ。

 つまり、彼らには分業された工場の壁を取り払い、規模を大きくした場合に、そこに集まる全ての工程に存在する多様な職人を統率し、管理し、折衝する能力に欠けていた。
 実際、“親方”達は、自社製品の営業活動を含む経営努力の殆どを、職工組合に頼り切っていたのである。



 北部には、今も昔も、手工業以外には、特に目ぼしい産業はない。
 厳しい寒さ故に作物の実りは悪く、東部程の天然資源も存在しない。他地域に対抗出来る産業としては、北方の海でのニシン漁程度だろうか。
 もし、北側の海を渡って東方とでも交易する事が出来るのならば、また違っていたのかもしれないが……。

 そこで、北部の大領主であった先々代のリューネブルグ公爵は、地域の短所を補うのではなく、長所をさらに伸ばす事を目指した。
 具体的な方策としては、いくつかの工場の経営権を纏めて経営力を持った富裕商人達に売り、その下で職人達を統率し、生産性の高い大規模工場の実現を果たすことは出来ないだろうか、と考えたのだ。

 それは、変則的ではあるが、工場制手工業《マニュファクチュア》と呼ばれるものであった。

 ただ、それを推進するためにはまず、手工業において絶対的な権限を持った職工組合を何とか丸め込む必要があった。
 商業組合の運営委員《カンスル》でもあった公爵は、改革の前段階として、商業組合と職工組合の業務提携を申し出た。



 しかし、この申し出は、職人側の猛反発に遭い、あっさりと撥ねつけられたのである。
 
 当然だ。
 この事を認めれば、職人達の権益が害される可能性が高いだけでなく、職人が商人よりも下の立場である、と認めるに等しいからだ。
 それは“モノを作るヤツが一番偉い”というプライドを持った職人達にとって、断じて許されない事であった。
 彼らは、貴族にすら頭を下げる事を嫌がる程、自分の腕に誇りを持っていたのである。
 
 だが、公爵は自らの考えを正しいと信じ、曲げず、あらゆる権力を駆使して反発を押さえ込み、長い年月をかけて、強硬にこの改革を断行していった。

 そして、様々な問題が起きた。起きないはずがなかった。

 職人達のボイコット、ストライキ、デモによる生産性の悪化。それに伴う技術者の流出。
 商人と職人の対立による物流と経済の停滞、闘争時代の幕開け。
 失敗に次ぐ失敗による、公爵家自体の権威の失墜。

 市井の人々は、公爵の無能を嘲笑い、皮肉をこめた小唄を唄い、後ろ指を差した。

 結局、先々代の公爵は改革の成功を見る事なく、「それでも私は間違っていない」と言い残し、無念のうちにその生涯を閉じた。
 得てして既存のルールを曲げようとする行為は、人々の理解が得られず、そう簡単には望んだ結果はついてこないものである。
 先見の明があり過ぎた人間というのは、概して不幸なものだ。幸せな人間というのは、愚かな人間なのやもしれぬ。



 翻って現在。

 北部の工業地域は、未だかつてない隆盛を迎えていた。
 そして、その繁栄をリードしているのは、“親方”達が運営する、一つの工程をこなすだけの小規模工場ではなく、領主や富裕商人が出資し経営する、様々な工程と職人を一箇所に詰め込んだ大規模工場だった。

 そう、公爵は決して間違ってはいなかったのだ。
 長きに渡った暗黒の時代を経て、何とか正常に動きだした商人経営による大規模工場は、これまでにない生産性の高さを見せた。
 そして、そこで大量生産された安価な工業製品は、あっという間に、市場を席巻してしまったのである。
 勿論、一時期は失墜しかけていた公爵家の権威も、回復したどころか、以前よりも強固なものとなっていた。



 では、昔ながらの工場の灯は消えてしまったのだろうか。

 そうではない。

 近世ヨーロッパでも、イギリスから始まった工場制手工業の台頭によって、職工組合の制度自体は崩壊してしまったが、それまでの家内制手工業の灯が消える事はなかった(産業革命、及び工場制機械工業の台頭までだが)事を考えれば、それは決して不思議ではない。

 さらに、このセカイ、というかゲルマニア北部では、より穏便な変化を辿っていると言える。
 別に、この改革は商人の利益だけを考えたモノではなく、地域全体の利益を考えた物であったから。

 むしろ、“親方”になれない、一般の職人にとっては、働き口の大幅な増加によって、職を求める遍歴の旅に出る必要もなくなり、安心して修行にはげむことが出来るようになっていた(見習い期間を終え、一端になった職人達は、自分で親方になるか、そうでなければ自分の工房を持つために別の都市に移らねばならなかった。小さな工場では、従業員は殆どが見習いで、あとは親方しか存在しないのが普通であったのだ)。

 そして、“親方”もまた、若い職人の育成には必要不可欠な存在であったので、その制度自体が廃止になる事はなかった。
 その多くは、昔ながらの小さな工場で未だ脈々と、若い世代にその技術を伝え続けているのである。
 


 しかし、その“親方”達の中には、大工場の隆盛を見て、商人の経営者に負けてなる物か、という気概を持つ者も居た。

 彼らは大工場の生産力に対抗するために、他の小工場と提携を結び、ともすれば合併した。
 勿論、彼らの大部分は、経営については素人であり、失敗し破産するものも珍しくなかったが、成功を収めた者も少なからず現れた。



 ベネディクトはそんな成功を収めた“親方”の中の一人であった。

 彼は若くして腕のいい職人であったが、経営に必要なのは、職工としての腕ではない事をよく知っていた。
 そこで、彼は一度自らの工房を休業し(親方の権利はそう簡単には消えないらしい)、商工組合からの紹介で商家に弟子入りし、経営知識を学ぶ事にした。
 
 既に遍歴商人として活躍していたカシミールと知り合ったのも、この下働き《ガルツォーネ》時代であったという。

 しかし、既に20歳を超えていたベネディクトは、商家の見習いとしてはかなりの高年齢で、一つの仕事を覚えるにも大変な苦労をした。
 彼は実に8年もの間(普通は5年程度で見習い期間は終了する)、商家の見習いを続け、実際に工房の経営に着手し始めたのは、30歳を目前にした時であった。
 


 それから、およそ15年。
 紆余曲折ありながらも、彼の工房はそれなりの成功を収め、ハノーファーでも有数の金属製品メーカーとなっていた。
 しかし、今度は別の問題が湧きあがった。

 所謂、後継問題である。

 彼には13歳になる双子の息子が居た。
 当然、“親方”である、自分の後を継ぐ以上、職工としての腕も受け継がせたいのはやまやまではあったが、彼は息子達に自分のような苦労はさせたくなかった。
 なので、その息子達には、幼い内から読書き算術を教え、職工として本格的に修行させるよりも先に、商家への弟子入りをさせ、将来的にどちらの方が経営に向いているのか、その適正を見極める事にした。

 その弟子入り先として、白羽の矢がたったのが、旧知の仲であるカシミールが経営するこのカシミール商店であったのだ──





「と、これが、あいつらがウチに修行へ来た建前上の理由だな」
「……こんだけ長くて建前かい」

 しれっとした顔でいう親方に、私は思わず突っ込みを入れた。



 険悪な親子喧嘩の現場に出くわした後。
 そのまま居残りを命じられた私は、彼らの詳しい経緯を聞かされていた。

 この分だと、今日はロッテとの鍛錬は休みにするしかあるまい。これは僥倖……じゃなくて、残念だなぁ。
 まぁ、業務命令と言われては仕方あるまいよ。

「いや、しかしだな。物事はきちんと説明せにゃいかんだろう」
「後半部分はともかく、前半の北部工業史は要らないですね。その程度の知識なら私でも知っています」
「はっ、半人前が偉そうな口を聞くじゃねェか」
「……全く、年寄りは話が長くて困ります……っ?!」

 有無を言わせず拳骨が飛んできた。
 私は反射的に体を捻って、その拳をするりと躱した。鍛錬の成果ってやつだね。

「避けるんじゃねェ!」
「いや、痛いですしね。……で、本当はどんな理由なんです?」
「……まぁ、平たく言えば、親の手に余る問題児だったって事だわな」
「へ、あの二人がですか?」

 問題児、と言う事はアレか。
 盗んだ馬車で走り出したり、イケナイ粉末に手を出したり、窓ガラスを割って歩いたりしていたのか?
 う~む、とてもそうは見えないんだけど……。

「そうなった理由は分からんが、あいつらはハノーファーじゃ有名な悪たれ坊主だったらしい」
「13歳で?」

 うわぁ……。親の顔が見てみたい、って見たわね、そう言えば。

「で、自分じゃどうしようもなくなったベネディクトの奴は、どこかの商家へ放り込んで、性根を叩き直して貰おうとしたんだが、北部の知り合いの商家じゃ軒並み受け入れを拒否。まぁ、どこもそんな問題児を受け入れたくはないだろう。……それで、俺に泣きついてきてな。仕方なしにウチで預かる事にしたんだ。そうでもなきゃ、工場経営者の息子が、交易商になんざ修行にこねェだろう?」
「……まぁ、実際、畑違いですもんね」

 北部の工場経営者と西部(南部)の商館経営者では同じ商家と言えど大分違う。

 とはいえ、大商会ともなれば、交易以外の業界に手を出している場合も多いが。
 例えば、フッガー商会は、アウグスブルグ交易商会組合に属してはいるが、ウィンドボナ中央金融・商取引組合から許しを得て、金貸し業務も行っている。
 元々フッガー家は、高利貸しで成り上がった家、という理由もあるが、交易商兼金融商というのは、割とポピュラーなのだ。

 ただ、この商店において交易以外はやっていないので、工場経営者の育成にはあまり向いていないと思う。
 もしかすると、私がそう考えているだけで、基本は同じなのかもしれないけどね。

「でも今のギーナさんとゴーロさんは全然そんな感じしませんけど」
「それが、大層な悪たれだと聞いていたから、俺も覚悟していたんだが。いざ働かせてみると、言われた通りに仕事はこなすし、大して問題も起こさない。まぁ、無愛想なのは問題っちゃ問題だがな」
「……つまり実家が嫌だった。というか、ベネディクトさんに反抗していただけだと?」
「ま、そんな所かね」

 なるほど、父親に反抗してグレてしまったというパターンか。
 それで、家を継げ、とか、継がない、の言い合いになっていた訳だね。
 二人じゃないと継がない、なんて言っていた気がするけれど、あれは単なる継がないという意志表示なのか、それとも別の意味があるのか……?

「それで、私にどうしろと?こんな話を聞かせた以上、何かやらせる気ですよね?」
「察しがいいな。お前、あの父子をどう思う?」
「どう思うって……。まぁ、無事に仲直りできればいいですね、としか」
「よし。それじゃ、お前、あの父子の関係を取りなしてみろ」

 いや、そこでその接続詞はおかしいだろう。話、繋がってないですよ?

「何で私が……」
「暇そうなのはお前しかいねェじゃねェか。ちなみに俺は忙しい。死ぬほど忙しい」
「いや、全然暇じゃないですよ。経理の研修もありますしね」
「じゃ、明日一日は仕事を休みにしてやるから、今日と明日でそっちの方を何とかして来い」
「はぁ?!」
「何だ、文句あるのか」
「いきなり休みにされても困りますよ。それに正直言って、今回の件は私とあんまり関係がないじゃないですか」
「馬鹿たれ!そんな事じゃ商人としてはやっていけんぞ」
「いやいやいや、何でそういう理屈になるんです?」
「これだから半人前は……。いいか、商売ってのはな、利益だのなんだのと言う前に、人と人との関係が重要なんだ。見習い仲間の事を関係ないです、何て言うようなヤツにゃあ、独立は到底無理だろうな。“商売をするには、まず人に与えよ”だ」

 親方はそう言って、私の反応を伺うように、じとり、と横目でこちらを睨む。

「うぐ……」
「お前は物覚えはいいが、そう言う所が駄目だ。てんでなっちゃいねェ。“物知りだけでは商売は成功しない”んだよ」

 あうぁ、耳が痛い……。

「でっ、でもですね、これは父子の問題でしょうし、赤の他人が首を突っ込むのは筋違いかと」
「さっきのアレを見たろ?このままじゃ何処まで行ってもあのまんまだ。誰かがテコ入れしてやる必要があるんだよ」
「無理ですって。子供なんですよ、私は」
「都合の悪い時だけ子供ぶりやがって」
「大人ぶった事なんてありませんけど」
「ぐ……。とにかく、これはお前の貧弱な人間力を養う研修の一環だ。ほれ、わかったら減らず口を叩いてないで、さっさと行きやがれ。さっきも言った通り、俺は忙しいんだ」

 椅子の背もたれにだらりと身を預け、しっしっ、と手を振って面倒臭そうに言う親方。

「むぅ……。本当は、自分が面倒臭いだけの癖に……」
「……何か言ったか?」
「いえ、この件が上手くいったら、私に何かご褒美は出るのかなぁって」
「出るわけねェだろう、何だそりゃ?」
「私は“強欲で自分勝手な女”ですから、ねぇ?」
「……ちっ、ヤスミンの奴か。相変わらず口の軽い……」

 私が厭味っぽく言うと、親方は気まずそうに顔を顰める。

「……よし。それじゃ、この件が上手く行ったら、基本の給金を9エキューに昇給してやろう」
「えっ…………。まっ、真剣っすか?」

 真剣と書いてマジと読む。
 あまりにもあっさりと昇給を口にする親方に、私はやや唖然としながらも聞き返した。

「男に二言はねェ、だったか?」
「9エキューって事は、月に3エキュー増えて……。と言う事は年間で36エキュー増える?!……うほほっ」

 親方の言質を取るや否や、夢見心地で金勘定の世界へトリップする私。

「少し落ち着け……」
「……ふひ、ひ、すいません」
「で、やるのか?」
「勿論です!見習い仲間のためですから!人として、当然のことであります!」
「……そうか、頑張れ」
「はいっ!」

 呆れたように言う親方に、満面の笑みで答えて、さっ、と踵を返す。

 目の前に差しだされた極上の餌に、私は小躍りしながら意気揚々と商店を後にした。



「元々、そろそろ昇給はさせる気だったんだが……な。あいつの場合は早い内に外に出してやった方が成長するだろうし……。ま、これであいつも北とのコネができるだろ。遍歴の旅、最初の足がかりには丁度いいさな」

 静寂に包まれた薄暗い商店の中、カシミールはぼんやりとそんなことを呟いた。





 まずは親から話を聞くべきだろうと考えた私は、ベネディクトが逗留しているという宿に向かった。

 ちなみに宿の名前は“美味しいムラサキヨモギ亭”。
 名前はアレだが、平民向けとしてはかなり上等な宿だ。さすが経営者だけあって、結構お金持ちらしい。

 通常これくらいの高級宿になると、宿側のセキュリティも厳しいのだが、受付でカシミール商店からのお使いです、と告げると、すんなりとベネディクトの部屋に通してくれた。
 
「やっとこさ来やがって!この腐れ坊主ど……っ、あ、あれぇ、嬢ちゃん?」
「あ、あはは。こんばんは」

 どうやら双子が訪ねて来たと勘違いしたらしく、鬼の形相で部屋から飛び出してきたベネディクトに、引き攣った笑顔で挨拶する。
 やけにあっさりと通されたのは、双子が来る事を前提に、宿側に話を通しておいたのかもね。

「どうしたい?何か用でもあるのかぃ?」
「えぇと、ちょっと親方に、その、頼まれまして」
「……はぁ、そうかい。カシミールも相変わらずお節介な奴だな」

 溜息を付くベネディクトからは、つん、と濃いアルコールの臭いがした。
 部屋でヤケ酒でもしていたのかねぇ。

「ま、入りな。何もねえけどさ」
「はい、お邪魔します……おわっ?」

 部屋の中へと案内するベネディクト。
 私が会釈しながら入ろうとすると、早速何かに躓いてこけた。
 
 躓いたのはワインの空瓶。

 うん、これはガリア南西部アキテーヌの酒だ。
 ワイン産地としては有名なガリアの品だが、残念ながらこれは2級品。
 ボルドー産の最高級品によく混入されるという曰くつきの酒でもある。
 価格は一本600~800スゥ程度か……。

「じゃなくて。ちょっと呑み過ぎじゃないですか、ベネディクトさん」

 思わず鑑定してしまったが、辺りを見渡せば、部屋の中には10本以上の酒瓶が散乱していた。
 ベネディクト達が商店を出てから、まだそれほど時間は経っていないはずなのだけれど、物凄いハイペースで呑んでいたらしい。

「うるせい、放っといてくれぃ」
「……やっぱり、息子さん達の事ですか」
「はっ、あんな馬鹿共知った事かぃ、今日という今日はもう頭に来た!」

 ベネディクトは声を張り上げて、呑みかけの酒瓶を手に取ると、ぐいっと一気にそれを呑み干した。

「まぁまぁ、落ちついて」
「はっ、これが落ちついていられるかぃっ」
「えぇ、えぇ。そうですよね。……でも、どうして息子さん達、工房を継ぐことを拒んでいるんでしょうかね?」
「知るかい、べらぼうめ。どうせ工房で汗水垂らすなんざやってられねぇって所だろうよ。こっちに来てからは随分と大人しいそうじゃねえかい」
「はぁ、確かに、暴れん坊には見えませんけど」
「どうせあいつらも、交易商の方が楽に儲けれるし、格好いいなんて思ってんだろうさ。最近の若い奴は皆そうなんだ、嬢ちゃんもその口だろ?」

 だらしなくベッドに横になりながら、ひっく、と酒臭い息を吐いて言うベネディクト。
 むぅ、ちょいとカチンと来た。

「……ちょっと待って下さい。それは聞き捨てなりません」
「なんでい、違うってのかい」
「交易商は決して楽ではありませんし、格好良くもありませんよ。はっきり言って、泥臭くてリスクばっかり高い仕事です。ま、確かに成功すれば、見返りは大きいかもしれませんが」
「へぇ、じゃあどうしてそんな所で修行をしているんだい?見た所、嬢ちゃんはイイ所の出だろうに」
「……いえ。全く持って違いますけど」

 ベネディクトは酔ってどろんと濁った眼でじろじろと私を見る。

 どこをどう見たらそう見えるんだ……。
 いかんね、この人完全に酔っ払ってるよ。

「まぁ、それはこの際、横に置いておきましょうか……。それよりも息子さん達と仲直りしてみませんか?ぜったいその方がいいですって(主に私の昇給のために)」
「ふん、あいつらは俺をおちょくってやがるのさ。『二人とも経営者にしてくれるなら後を継いでやってもいい』だとよ。そんなもん無理に決まってんだろ?ふざけた馬鹿共に歩み寄るなんざ御免だね」
「……はぁ」

 うーん、何か聞く耳持たずって感じだなぁ。この分だとまともに話し合いとかしてないんだろうね。

「かぁっ、クソっ、イラつく!」

 ベネディクトは片手で頭を掻きむしりながら、新しいワインのコルクを指の力で抜く。握力半端じゃねぇ。

「……ほれ、嬢ちゃんも呑めや」
「いっ、いえいえ、私はまだ11歳ですので……」
「バーロぉ、オレなんかぁ産湯が酒だったんだぜぇ?」

 ロレツの回らない口調で言いながら、とくとく、と汚れたグラスに安いワインを注ぐベネディクト。
 もうかなり回ってしまっているらしい。

 確かに飲酒の年齢制限はないけれど、流石に11歳の女児に酒を勧めるのはどうだろうか。

「それとも、俺の酒が呑めねえっていうのかぃ?」
「わ、わかりましたよ、呑みますよ。一口だけですよ?」

 泥のように濁った目で睨まれ、思わず呑むと言ってしまった。
 くそ、絡み酒ってのは、ほんとに性質が悪い……。

 『私』は一度もアルコール類は口にした事ないのよね……。『僕』は毎日毎晩呑んでたみたいだけど。
 まぁ、一口くらいなら大丈夫よね?

「では、頂きます」
「いよっ、嬢ちゃんのちょっといいとこ見てみたいっ」
「ごふ……っ!」

 悪乗りしたベネディクトに、ばんっ、と背中を勢いよく叩かれ、私は思わずグラスに入っていたモノを全て呑みこんでしまった。

 や、やばい、まずいとか、そういう事じゃなくて。

 頭が、くらくらしてきた。

 あれ?

 声が。

 おくれてくりゅよ?





「ありゃ、一杯で寝ちまったぃ……こりゃ、参ったな。悪ふざけが過ぎたかぁ」
「…………」

 ぐでん、とした私を見て、ベネディクトはしまったなぁ、という風に鼻の頭を掻く。

「仕方ねえ、カシミールのとこまで連れてっか」
「……おぅふ」
「うおっ?」

 ベネディクトが私を抱えようと近づくが、私はびくん、と電気ショックを与えられたかの如く起き上がる。
 うーん?妙に頭がすっきりしてるなぁ……?

「酒、もうねぇんですか?」
「いや、あるけどよ。ほれ」
「…………くはぁ、効っくぅ」
「おい、そんなに一気に……。大丈夫かよ?」

 私はベネディクトから、ひったくるようにして開けたばかりのワイン瓶を受け取ると、ぐい、とラッパ呑みを始め、ものの数秒で瓶を空にする。

 安ワイン 五臓六腑に 染み渡る 

 うむ、五七五。

「……さて、じゃ、いきまうか?」
「そんなふらふらで、どこに行くってんだい」
「酒のお礼に一丁、頑固者の父子を仲直りさせてやろうかなって。双子君達の部屋にね」
「あ?何を言ってんだ?」
「いいから、いいから、黙ってついて来なさいな。あ、お酒は1本貰ってく」
「お、おいっ、何で俺からあいつらの所に行かなくちゃならねーんだ?!」

 私がに袖を引っ張ると、ベネディクトは必死に拒絶の意思を示す。
 照れてるんですね、わかります。

「大丈夫、何とかなるって……。どぉんと、うぉーりぃ。びぃ、はっぴぃ」
「…………どっちにせよ、送って行かなきゃならんな、こりゃあ」

 何やら肩を落としたベネディクトと、頭がべりーないすな感じな私は、美味しいムラサキヨモギ亭を後にして一路従業員寮を目指すのであった。





「何やっとるんじゃ!遅いぞ、たわけっ!」

 従業員寮へ着くと、入り口で貧乏ゆすりしながら待っていたらしいロッテが怒鳴り声をあげる。
 あー、そういえば、鍛錬すっぽかしたまんまだったっけ。

「へへ、固い事言いなさんな。ヨテイはミテイ~ってね」
「臭っ!酒臭ぁっ!?……主、餓鬼んちょの分際で酒を呑んだのか?!」

 酒瓶片手に言う私に、鼻を摘まんで言うロッテ。

「悪ぃ、俺が悪乗りして呑ませちまったんだよ」
「あ、何じゃ、主は」

 すまなそうに肩を落とすベネディクトに、ロッテは怪かしげな顔で問う。

「ベネディクト、つうケチな職人よ。ここで世話になってるギーナとゴーロの親父だ」
「あぁ、あの黒い双子か……」
「おまえさんは?」
「この飲兵衛の姉じゃ」
「ありゃ、そらすまねぇ……」

 ロッテを肉親、と勘違いしたのか、一層申し訳なさそうにするベネディクト。

「まぁ、まぁ、ここは痛み分けっつぅことでね」
「いや、意味がわからんのじゃが」
 
 ロッテは怪訝な顔をさらに顰める。

「おい、何なんじゃこいつ。酔っ払ったにしても些か様子が変ではないか?」
「いや、やっぱそうなのか。俺もおかしいとはおもったんだけどよ」

 気味悪そうな顔で私をちらと見ながら、ロッテとベネディクトがひそひそと話す。

「なぁにを、こそこそやってんの。ほら、ほら、さっさと行こう。あ、吸血姫も来る?」
「ばっ……。何を言っておる!」

 あっはは、焦ってる、怒ってる。

「吸血……?」
「……どうでもいい事は忘れた方が良いぞ?」
「あ、あァ……」
「ま、これでは今日の鍛錬は休みにするしかないのぅ。……じゃ、妾は部屋に戻っておるからの」

 何か裏があるのではないか、と思わせるほど物分かりのいいロッテ。
 まぁ、私の気のせいだぁね。



「頼もーぉっ!」

 ベネディクトを引き連れた私は、どん、と寮の2階東奥の部屋、つまり双子の部屋を蹴り開ける。

「……アリア?!」「……と、親父かよ。何しに来た」
「ふん……」
 
 一瞬ぎょっとした表情になったギーナとゴーロだが、ベネディクトが居る事に気付くと、たちまち不機嫌な顔で吐き捨てる。
 ベネディクトもまた、仏張面でそれに答える。

「えぇいっ、やめやめっ!」

 険悪な雰囲気を漂わせ始めた場を打破しようと、私は父子の間に割って入る。

「……な、なんだよ」「……おかしいぞ、アリア」
「私が不器用極まりない父子のために一肌脱いであげるつってんの。……そうだ。お酒が入れば少しは本音も喋れるんじゃないの?」

 私はそう言うと、一本と言いながら、三本ほど脇に抱えてきたワイン瓶をどすんと双子の前に置くと、部屋の戸棚にあった不揃いなグラスを四つ持ってくる。

「……やっぱりおかしい」「……酔ってるだけ?」
「呑みなさい。いや、呑め。それとも私のお酌じゃぁ不満?!」
「……いえ」「……頂きます」

 私が瓶をぞんざいに傾けると、双子は恐縮しながらグラスを手に持つ。
 うんうん、人間素直が一番だね。

「ほぅら、おっちゃんも。酒は“心の特効薬”ってねぇ」
「あ、あぁ……(おっちゃん?)」

 釈然としない顔をしながらも、杯を飲み干すベネディクト。
 ついでに私も貰っておこう。



「……ぷはぁ。美味ぇ。よぉし、じゃ、いい雰囲気になった所でね」

 紫色になった口を拭いながら言うと、なってない、と言いたげな顔で私を見る父子。
 
「仲立人として、不肖、この私が双方の言い分を聞かせて貰いましょうか」
「なんでアリアが?」「関係ないじゃん」
「親方の指示」
「……うえ」「……参ったな」
「そしてその上で……っ。どっちの言い分が正しいか、私が判定するッ!」

 そう言って天に拳を突き上げると、三者三様の呆れ顔を浮かべるが、私は構わず続ける。

「はい、では早速、ギーナとゴーロ。……君らは結局、将来的にどうしたいわけ?」
「……それ答えないと」「……駄目か?」
「さっさと言うっ!ウジウジした男は嫌いよっ!」
「……やれやれ」「……はぁ、仕方ないな」

 私が声を荒げると、それに押されるように、ぼそりぼそりと喋り始める双子。

「……俺達は、兄弟二人で何かをやりたい」「それは交易でもいいし、工房でも構わない、と思っている」
「なんだとぉ?どっちでも構わないなんててめぇ、一体何様のつもりだ、ぃっ!?」
「ここは黙って聞きましょう、ね?」
「つつ、はいはい、わぁったよ」

 掴みかかろうとするベネディクトの首筋に、軽く水平チョップを入れて黙らせる。

「つまり二人一緒にやれるなら何でもいい?」
「何でもいい、とは言わない」「けど、そんな所かもな」

 ふぅん、“二人なら継ぐ”というのは本心と言う事か。

「なるほど。それに対しておっちゃんは?」
「いつまでも仲良くおままごとしてられる訳じゃねーんだ。おめえらももう素人じゃねえんだから、二人で仲良く経営なんざ、無理だってわかるだろうよ。一人が家を継いで、他は家を出る。これが常識だろうが」

 ふむ、それはまた極めて正しい意見ではあるね。

「親父はいつもそうだな」「あぁ、まともに俺らの話を聞いた事がない」
「てめぇらこそ勝手ばっかりしてるだろうが!てめぇらのやんちゃで、オレがどれだけ近所に謝りにいったかわかってんのか?」
「職人出の癖に世間体ばっかり気にしやがって」「そんな事だから母ちゃんにも逃げられるんだよ」
「ぐ、ぐぐ……」

 舌戦が終わると、再び睨み合う三人の父子。

 ううむ。一番の原因は、双子とベネディクトがどちらも頑固者ということだぁね。
 双子がグレたのも、それが原因なんだろう。

 この感じだと、他にも色々と複雑な事情はありそうだけど。
 ま、でも今回は後継ぎの問題だけに絞った方が良さそうかねぇ。



「アリア」「お前は俺達の味方だよな?」
「何言ってやがる、オレの言う事の方が正しいに決まってる」

 暫く睨み合いを続けた父子は、今度は睨む標的をこちらに変えて言う。

「ま、結論から言うと、どっちが正しいとかはないわねぇ、実際。だから妥協点を見つけよう、って感じかな」
「妥協点?」
「客観的に見て、明らかに理不尽な言い分なら口を出したかもしれないけど、このくらいの食い違いならどうしろとは言えない。私も親方もさ、結局は赤の他人でしかないから。だったら、後は父子で話し合うなりして、お互い納得のいくようにした方がいいんじゃないかなぁ、と、思う次第で。月並みで悪いけどもね」
「むぅ……。しかしだな、オレが言ってるのは職人の世界じゃ常識なんだぜぃ?」

 自信満々に言うベネディクト。
 だから、そういう問題じゃないっつうの……。頭固いなぁ。

「はぁ。じゃ、双方の言い分だけどさ」
「あぁ」
「“船頭多くして、船、山に登る”という言葉がある通り、確かに二人で経営しよう、なんてのはちょっと無理じゃね、とは思うよ?いくら今は仲が良くても将来が不安だものね。特に結婚なんてした後は、今度は後継ぎの問題で工房が分裂してしまうかもしれないわよね」
「はは、そうだろ、そうだろ。俺はそれを言いたいんだよ」

 とりあえずベネディクトの意見を肯定してやると、彼は上機嫌でそれに賛同する。

「フネが山を越えるのは普通だろ?」「そうだ」
「はいはい、そうね。だけども。それは、おっちゃんの問題じゃなくて、継いだ二人の問題じゃないのかな、とも思うのよね」
「……む」「……ぬ」
「それに、三矢の訓、という言葉もあるし」
「なんだそれ?」「聞いたことない」
「1本の矢なら簡単に折れるけど、3本纏めれば簡単には折れない、と言う事。これは、かのモーリ家の三人兄弟が」
「モーリ家?」「どっかの貴族?」
「……と、まぁ、それは置いといて、つまり力を合わせて結束すれば、怖いものはないという事よ」
「成程、いい事を言う」「あぁ、きっと凄い貴族だ」

 うん、確かに凄い貴族ね。武家だけども。
 
「だから、どっちの言い分にも正しさはある訳。だったら、双方の意見の、真ん中を取りなさいって事。今こうなってるのは、両方ともまともに意見を聞かなかった結果なんだろうし」
「ぐ、むぅ」

 私の推察に、バツが悪そうに唸るベネディクト。

「だから、きちんと真正面から話し合え!思っている事をお互い全部曝け出せ!そして殴り合え!」

 私は酒を呷りながら、父子を煽る。

「へ、成程……。そいつはいいかもしれんな。思えばこいつらを甘やかしたのがまずかったのかもしれねえし」
「老いぼれが俺らに勝つ気かよ」「なめてんのか?」
「おぉ、やってやろうじゃねえかい。表出やがれっ!」

 ぎろり、と睨み合いながら、父子は元気に部屋を飛び出していく。


 
 我ながら滅茶苦茶な裁きだが、この父子には荒療治の方がいいだろうからね。

 余った血を全部抜いてしまえばいい。
 終わった頃には、少しは歩み寄っている、かもしれない。

 後は運を天に任せて。



「これにて一件落着、になればいいんだけど」
「……そう上手くいくかの?」

 表から聞こえてくる父子の罵声を聞きながら呟くと、開きっぱなしのドアからロッテが顔を出した。
 どうやら、自室になんか戻ってなかったみたいねぇ。

「さぁ、ね」
「……いつもなら“上手く行かせるのよ”と言うわの」
「そうかもねぇ」
「言葉選びも、間の取り方も、いつもより年寄り染みていたのぅ?」
「そりゃ、酔ってるからじゃない?」
「……ふん、まだ惚けるか」

 なぁるほど、私の正体を探っているって訳か。
 別に話してもいいんだろうけど。でも、今は駄目だね。

「ま、貴女の知っている『私』ではないかもね」
「……どういう事じゃ?」
「ま、いずれ分かるよ。『私』が話す時が来れば」
「……むぅ、ますます訳が判らん奴……?」

 途中まで言って、突然に手の甲で目を擦り出すロッテ。

「目の錯覚か……?」
「どうしたの?」
「……いや、何でもない。さて、そろそろ部屋に戻ろうぞ」
「そうねぇ。さすがに眠くなってきたし……」

 未だに聞こえてくる父子の激しい対話をバックミュージックにして、5000エキューの美貌姉妹達は寝床に付くのであった。





 そして翌日。

「おうぇぇぇええ」

 私は朝から便器とお友達になっていた。

 とにかく気持ち悪い。これは完全に二日酔いと言うヤツだろう。
 親方から休みを貰っていて良かった……。これでは仕事など出来るわけがない。
 ハルケギニアの商人達は、何としても漢方薬を東方から輸入すべきだ。
 
 さて、昨日の記憶は、ベネディクトの部屋に入った辺りからすっぽりと抜け落ちていた。
 ロッテから聞く所によれば、父子の方は酔った私が何やら上手くやったみたいだけど。

 ふぅむ。さすが私ね。なんつって。

「おい、反吐娘。客が来とるぞ」
「はぁ、ふぅ。え、何?」
「客じゃ!昨日の岩親父が来ておる」
「……今、行くっ」

 吐き気を何とか押さえて、ドアの方向へ向かう。
 
 ふむ、ベネディクトが訪ねてきたという事は、昨日の件か。
 実のところはどうだったんだろうか……。



「おぅ。嬢ちゃん」
「お、おはようござい、うぷっ、ます」

 顔面を紫芋のように腫らしたベネディクト。
 しかしその表情は明るい。どうやらロッテ情報は間違っていなかったらしい。

「その様子だと、何とか仲直りは出来たみたいですね」
「ま、少しマシになった程度だがよ。今度の収穫祭の時期には、とりあえず二人とも家に帰って来るつっててな。そこで改めて話し合いだ」
「そうですか。良かったです。あ、あの二人は……」
「商店に行ってるぜ。オレよりひでえ面にしてやったがな、はっはは」

 ベネディクトは自分の顔を指して言う。
 その場で解決、と言う風には行かなかったようだが、この様子だと、そのとっかかり程度は出来たんだろう。

「ま、礼と言っちゃなんだがよ……。これを受け取ってくれい」
「これ……?」

 どさ、と背中に背負った大きく重そうな麻袋を下ろすベネディクト。
 その中からはかちゃかちゃ、と金属器具の擦れる音が聞こえてくる。

「いや、嬢ちゃんは結構危ない目に遭いやすい体質だって聞いてな」
「はぁ」

 私はトラブルメーカーか。あの双子め、余計な事はよく喋るのね……。

「そこで、ウチで開発した製品よ。嬢ちゃんにも使えそうなものを選んでみたんだが」
「製品?」
「あぁ、ほら」
 
 ベネディクトが麻袋を開けると、中から出てきたのは、様々な武器だった。

 スティレット。フリントロック・マスケット・ピストル。連装式クロスボウ。シュバイツァーサーベル。ハチェット。その他色々。

 成程、私にも使えそうというのは、扱いの難しさは別として、どれも比較的軽量な武器だ、という意味だろう。
 それにしても、どれも一流品である事が見ただけでわかる程見事なものだ。

「これ、本当に貰ってもいいんですか?これだけイイ物なら、売っちゃうかもしれませんよ?」
「好きにすりゃいいさ。これは、他の地域で売れるかどうか、試しに持ってきたサンプルの一部だからな。北部の連中だけで評価し合ってても、同じような意見しか出ないから、カシミールに評価してもらいに来たんだよ。あいつらの事はこれのついでだな」
「えぇと、つまりこれって試作品みたいなものですか?」
「試作品、というかまだまだガラクタレベルだな。どんな欠陥があるかわかったもんじゃねえから、下手に売り捌いたらヤバイ事になるかもしれんぜ」

 額に皺を作って笑うベネディクト。

「ふふ、わかりました。肝に銘じておきます」
「それと、もし嬢ちゃんが独立して、北部の品が欲しくなったらよ。うちに手紙を書くといいさ」
「え、それって……」
「あぁ、言ってもらえれば、オレから組合に話を付けておくからよ」

 余所の組合の人間が、他のシマで商売をするには、かなりの制限がかかるのだ。
 しかし、組合員に個人的な繋がりがあれば、その制限も若干緩くなる。
 武器の贈り物も嬉しいが、これはもっと嬉しい申し出だ。

「あ、是非、よろしくお願いします!……といっても、もうちょっと先にはなると思いますけど……」
「構わんぜ。何年後でも。大した手間じゃあないしな」
「ありがとうございます。でも、できるだけ早いうちに連絡が出来るように頑張りますよ。忘れられたら困りますしね」
「かっ、恩義を忘れるような不義理な男に見えるかい?」

 軽口を叩きながらも、がっちりと握手を交わす、私とベネディクト。
 うーん、瓢箪から駒と言うやつか。思わぬところでこんなコネが手に入ってしまった。

 それとも、親方はこれを見越していたとか?
 いやいや、考え過ぎだろう。



「ほほぅ、これは中々……」

 いつの間にか麻袋の近くに腰掛けたロッテは、スティレットを手に取って、興味深げにまじまじと眺める。

「しかし、これだけあると、どれを使えばいいのか、迷ってしまうのぅ」
「何、一通り使ってみて、しっくりくるのを一つだけを選べばいいのさ。一つの武器を極めるには、膨大な時間が掛かるからな」

 私の方を見て問うロッテに、ベネディクトが横から答える。

「ふむ、なるほど。では、早速試してみんといかんわな。非力なこやつには、こういった武器が丁度いいじゃろうし」
「え?」

 ロッテは言いながら、がしっ、と私の首根っこを掴む。

「ちょ、ちょっと、私、具合が……」
「心配するでない。二日酔いは汗をかけば治るんじゃ。それに、主は昨日の鍛錬をサボったからの。今日は白目を剥いても扱くのをやめんからな」

 やる。ロッテならやるよ、絶対。

「やーめーろぉっ!た、助けて下さいっ!」
「はっは、やっぱり父子も姉妹も仲良くなくちゃあ、いけねえなあ」

 連行されていく私を見て、面白そうに快活な笑い声を飛ばすベネディクトに、心の中で裏切り者、と叫びながら、私は今日も地獄へと引き摺られていくのであった。




つづけ






[19087] 26話 人の心と秋の空
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2010/09/23 19:14
 蕩けるような夏が過ぎ、街中が大わらわだった収穫祭の繁忙期ももそろそろ終わりを迎えようとしていたギューフの月。



「くっそ、また俺が見回りかよぉ」

 仲間内で貧乏くじを引いた自警団の若い男は、文句を垂れながらも夜の街を見回っていた。

 此処ケルンは、ロマリア連合皇国に存在するような自治都市ではなく、領主の管轄下にある地方都市である。
 とはいえ、ケルン交易商業組合の運営委員《カンスル》であり、ツェルプストー商会の代表でもあるツェルプストー辺境伯は、都市の中核とも言える商人層の意向を無視する事は出来ない。
 よって、街で選ばれた代表者《プリオーリ》達との議会を定例的に開き、その意見を取り入れながらの統治となっている。
 まぁ、辺境伯は権限が少しばかり強い、自治会の固定議長のようなものだと思えば良いだろう。

 完全な自治都市下での治安維持は、自警団や雇われた傭兵などが行うのが一般的であろうが、ケルンでは、領主が雇った下級貴族《メイジ》の地方役人の下に、街で組織した自警団を部下兼お目付け役として配する事で守られているのであった。
 このような治安維持の構造は貴族が所有する商会が存在するゲルマニアではごく一般的なものであり、特に珍しいものではない。



「ふんふーん、ん……?」

 鼻歌交じりに街を順路通りに回っていた自警団の男は、路地の向こう側から聞こえてくる異音に気付き立ち止まった。



 ぱすん。ぱすん。ぱすん。



 何かが一定の周期で土に突き刺さるような音と人の気配。

 この路地の先は袋小路となっていて、昼間でも人通りは殆ど無いと言っていい。
 ましてや、このような夜更けに人が居る事自体が不自然であった。

「全く……。一体何なんだ?」

 面倒そうに愚痴をこぼしながらも路地を進む男。



 その時。



「危なぁーいっ!」

 前方から危険を警告する少女の声。
 鬼気迫るその叫びに、反射的に男はその場で身を屈めた。

「……ん?」

 ひゅっ、と棒状の何かが頭上を通過した音に、男は首を捻る。

「すいませーん、まさか人が来るとは思わなくって」
「あ、あぁ……」

 頭をちょこんと下げながら前から歩いてくるのは、年端もいかない栗毛の少女。
 しかし男の視線は少女の顔ではなく、手に握られた物騒なモノに向けられていた。

「くっ、クロスボウ、か?まさかさっき上を飛んでいったのは……」
「えーっと、矢《ボルト》ですね。手元が狂っちゃいまして……へへ」

 そう、彼女の手に握られていたのは、奇妙な形のボックスやハンドルのついた小型のクロスボウだった。

「て、手元が狂ったって。一歩間違えば、俺の頭に突き刺さってたんじゃ……?」
「本当、危ない所でしたねぇ」

 とぼけた顔で、まるで他人事のように言う少女に、男の神経は大いに逆撫でされた。

「……ちょっと詰所まで来てもらおうか」
「いや、待って下さい、怪しい者じゃないんですよ」
「どうみても、不審、どころか危険人物じゃねーかよ!」

 眉を吊り上げて、顔を紅潮させた男は、少女の腕を掴んで詰所に連行しようとする。

 彼の言い分は全く正しい。
 夜中に、人気のない場所とはいえ、街中でクロスボウを乱射している少女。
 誰がどう見ても不審人物である。



「これこれ、待たんか」
「むっ……。誰だ?」

 突然、少女の後ろからぬぅっと現れた影に、男は腰にぶら下げた安物のショートソードに手をかけて身構える。

「む、妾の顔を忘れたと申すか」
「あれ、ロッテちゃん?……という事は、こっちが妹のアリアちゃん?」

 ロッテの顔を確認すると、男は構えを解き、アリアを掴んだ手を離す。

 彼は蟲惑の妖精亭の客であったのだ。
 尤も彼の安月給では、街の旦那達が通う高級酒場の常連にはなれてはいなかったが。

「うむ」
「でもどうしてこんな物騒なモノを……」
「護身術を身に着けさせようと思っての。ほれ、こやつは以前に誘拐されたであろう?」
「あぁ、なるほど……。って、さすがにこれは危ないだろう」

 困った顔をするアリアが持つ凶器を指して言う男。

「非力な女が屈強な男に対抗するにはこれくらいは必要ではないか、と思うのじゃがな」
「それはそうかも知れんが……。街中でこれを撃つのは、なぁ」
「むぅ……。では、今度からは場所を変えよう。じゃから、今日の所は見逃してくれんかの?」
「しかし」
「ほれ、次に店に来た時はサービスしてやるから、の?」
「じ、じゃあ、一晩無料で付きっきりとかでも?」
「ま、店の営業中なら構わんが……」
「わ、わかった。今回だけは見逃す事にしよう。飽くまで、今回だけね」

 誤魔化すように念を押す男。
 簡単に買収に応じてしまうあたり、まだまだ自警団の訓練も足りぬようだ。

「すまんの。じゃ、引き揚げるとするか。行くぞ」
「はぁい」

 男の言質を取ると、アリアの腕を取ってそそくさと退散するロッテ。
 後には、何を妄想しているのか、だらしない表情で立ちつくす男だけが残されたのであった。





「はぁ……。お主の弩が何時まで経っても上達せんから、あんな駄目男に無駄な時間を費やさなくてはならなくなったではないか」
「何言ってんのよ。元はと言えば、あんたがあんな所で鍛錬をしようって言い出したからじゃないの。大体、私は馬鹿みたいに走らされた後で疲れてんのよ。手元が狂っても仕方がないでしょう?」

 足早に従業員寮へ引き揚げる、というか逃げ去る途中。
 迷惑そうに溜息をついて言うロッテに、私はやや憤慨して言う。

 双子と父の一件以来、毎日の「走る」鍛錬の後に、武器の扱いを習得するための訓練が追加されていた。
 ま、ロッテには武器を扱う知識も経験もない(素手で大木を薙ぎ倒すような人だからねぇ……)ので、私の自主練習みたいなものだけれど。
 ちなみにギーナとゴーロ達は、収穫祭の時期にちょっと実家に戻っていたが、もう帰って来ている。なにやら、あと何年かは分からないが、もう少しこっちで商売の修行を続ける事になったらしい。
 まぁ、今彼らに抜けられてしまうと、商店の方が回らなくなってしまうから、そういう意味では良かったのか。少しは父子仲も回復しているようだし。



 さて、ベネディクトから贈られた多種多様な武器群の中から、私が一つ選び出したのは、クロスボウだった。
 先程は、矢が潰れてしまわないように先端に分厚い布を被せ、柔らかい土の壁に書いた複数の的に向けて射撃の練習をしていたのだ。

 勿論、試作品と呼ばれているだけあって、これは普通のクロスボウではない。

 クロスボウの利点は、同じ遠距離武器のロングボウに比べて、強力な貫通力と射程を持つ上に、熟達にそれほど長期の期間を要さない事が挙げられる。
 逆に欠点は、装填する速度が非常に遅く、連射が効かない事(ロングボウは熟達者であれば1分間に10発~12発は撃てるとされているが、クロスボウは1発ないし2発しか撃てない)である。

 しかし、“リピーティング・クロスボウ”と呼ばれる種である、このクロスボウにはその欠点は当てはまらない。
 台座の上に備え付けられたボックスに、《ボルト》と呼ばれる小型の矢を10発まで装填出来、ハンドル操作(コッキング)一つで、弓を引く動作と矢をつがえる動作が同時に行われるため、非常に素早い連射が可能となっているのである(ただ、通常のクロスボウと比較して、貫通力と射程、命中精度がかなり落ちてしまっているため、一般にはあまり好まれていないらしく、これはその弱点を改良しようと試行錯誤している途中の試作品らしい)。

 スティレット、ハチェット、シュバイツァーサーベルなどの、近接しなければ当たらないような刃物は、熟達するのに時間が要るだろうし、何より、出来れば接近戦なんぞしたくない。臆病さは大事ですよね、うん。
 遠距離武器であれば、フリントロック・マスケット・ピストルなどもあったのだけれど高価な火薬が必要な上に、前込め式の単発銃なので連射も無理と言う事で、これもパス。

 ハルケギニアで後装式の連射が効くような銃が開発されるのは、もう少し先の事だろうなぁ。
 これは理論がどうとかいう問題もあるけれど、工作技術の精密性が問題なのだ。ゲルマニア職人達の腕を疑う訳ではないが、機械工業の発展していないこのセカイでは、仮に知識があってもそれを造る事は不可能だろうね。

 以上の理由から選んだリピーティング・クロスボウだが、まだまだ改良の余地はありそう。
 例えば威力の低さを補うために、矢に毒を塗ったりね……。



「あれしきの距離を走った程度でバテたと申すか?」
「あれしき……って、軽く20リーグ以上全力で走ったでしょうが!?」
「はぁ……その程度で胸を張るか。これだから才能の無い奴は困る。……大体、何じゃその乳は?」
「し、知らないわよ。勝手に大きくなるんだから」

 半眼で私の胸部を睨みつけるロッテに、私は顔を顰める。

 前からちょっとずつぷっくりはしてきていたのだけれど、最近はその成長に拍車が掛って来ており、今では胸部にサラシ布を巻くようになっていた。
 別にあまり大層なモノは要らないんだけどねぇ……。邪魔だし。

「はっ、乳ばかりでかくして、肝心な事はからっきしとはな。エロい事ばかり考えておるからそうなるんじゃぞ?」
「考えるかっ!大体、コレはあんたのせいでもあるのよ?」
「何?どうして妾のせいなんじゃ?」
「それは……。えぇっと、まぁ、とにかくあんたのせいなの!」

 私は喉まで出かかった言葉を飲み込んで、誤魔化した。
 それを言ったら、どうせ「変態じゃの」とか「さすがの妾もそれは引かざるを得ない」などとからかわれるに決まっているのだ。

 私がロッテのせい、といった理由は、夜な夜な繰り返される、彼女の“食事”にあった。

 “食事”というのは、勿論、私の血を吸うことなのだが、これが言いにくいんだけど、気持ちいいのだ。恥ずかしながら。

 多分、その快感は、その、エロいモノに近いのではないかと思う。いや、実際に経験をした事はないから、知らないけど。
 単なる推論でしかないが、それが私の体を、より女らしくさせようとしているのではないだろうか。
 『僕』の言葉を借りれば、女性ホルモンの分泌が異常に促進されている、的な。



「何じゃその言い草は?ま、良いわ……。それよりも、鍛錬の続きじゃが」
「あ、キリもいいし、今日はもう終わりで」

 まだまだやる気満々のロッテに対して、私はさらりと鍛錬の終了を申し出る。

「まだ寝るまでには時間があるぞ?そんな心構えではいつまでたっても──」
「違う、違う。明日はオルベの農村まで行かなきゃいけないから、早く寝たいのよ」

 長くなりそうなロッテの説教を遮って言う。
 ちなみにオルベというのはケルンから東にある、中規模程度の農村である。
 ま、サボりたいのもあるのだけれど。

「ぬ、また買付契約と言うヤツか?」
「ま、私はただの見学みたいなものだけどね。今回はちょっと遠くだから、帰って来るのは3日後くらいになると思う」

 そう、収穫祭の時期辺りから、私は近場の商社、もしくは農村への買付に連れて行って貰っていた。

 農作物や、食料品が主要な産業の一つである、此処ゲルマニア西部において、夏作の収穫の終わったこの時期は、最も仕入れが忙しい時期の一つ。
 ハルケギニアでは三圃式農業が一般的なようで、冬作の実る春もまた忙しいのだけれど。

 既に三圃式農業が発展しているために、よほど高い税を課せられていたり、不毛の地に存在する農村でなければ、税を収めた後も余剰の生産物が出るため、農民達はそれを売って蓄えを作るのである。
 やはり私の生まれ故郷は、かなり貧困な農村だったらしい。税率が高いくせに、家畜や農具の質は最低レベルだったのである。こういうのは外から見なければ分からないのよね。


 親方は本格的にエンリコを買付担当の駐在員に据えるつもりらしく、彼の指示により、現在はエンリコと正規の駐在員が分担して買付の仕事に当たっている。
 エンリコの身分は形式的には未だ見習いではあるが、実質的に現場の手が足りなくなってきているので、来年度からは見習い要員を1人か2人補充するつもりらしい。

 そして、買付担当員としては新米のエンリコの補助と言う事で、毎日ではないが、フーゴと入れ替わりで週1回程度、その買付に同行する事になっていた。
 経理の研修も依然として続いてはいたが、これもまた、研修の一つなのである。



 さて、買付と言っても、予告なしでその場へ赴いて、小麦を××リーブルだけ欲しい、△△エキュー払うので売ってくれ、もしくは□□という商品と交換して欲しい、などという事をするわけではない。

 取引量の高が知れている遍歴商人であれば、農村地域においてはそのような仕入れをするのが一般的かもしれない(余所の都市部では様々な制限を受ける彼等は、都市から都市へ行き来するよりも、都市から農村、もしくは辺境へ行き来する場合が多いのだ)。

 しかし、定住商人、それも大商社となると、仕入れる量が個人で経営しているような行商の規模とは比較にならない程多くの量を仕入れる事になる。
 そういった大きな商社の各々が勝手に仕入れを行い始めると、市場が混乱してしまう恐れがあり(特定生産物の買占めによる物量の不足や、不当な値の釣り上げなど)、それは必ず摩擦を生み、ともすれば同じ組合、または同じ地域にある商社同士の抗争に繋がる(競争という意味ではなく、血生臭いモノ)事すらある。

 そこで、このような事が起こらないように、、予め取引に参加する、西部地域に存在する商社同士が集まって、他との兼ね合いを取るための談合を開く。
 そこで、『貴社が生産現場から直接的に買付ができるのは、○○村と△△村です。もし不足なのであれば、その他の一次卸商社と相談して取引して下さい』という事を決めてしまう。
 ちなみに、余所の商社が買付を行う場合は、必ずその土地の組合を通さねばならず、その場合は、一次卸である商社を紹介され、生産現場に直接行く事は許されない。
 先にも言った通り、遍歴商人のように、額の小さな取引については、都市部以外ではお目こぼしされるのが通例となっているんだけどね。

 その後、収穫量の予想がついた段階で、指定された農村との価格と物量の交渉、及び、不足分について、他の商社から仕入れるための交渉を行うのである(カシミール商店が西部の農産物を出荷する主な地域は、ホームである南部であり、西部とは主要な作物が異なるため、その需要は高い。よって不足分はかなり多い、と思う。その不足分の取引で最も大きい取引相手がツェルプストー商会なのである)。

 この時に気を付けなければいけない事は、相場に反した値切りや釣り上げを行わない事。
 価格の交渉をするのは当然なのだが、取引相手をコロしてしまっては(相手が本来得られるはずの利益分を過剰に取り上げ、取引する気を失くさせる程に相手側の不況を買ってしまう事)は駄目だ、という事だ。
 逆に、もし相手が吹っ掛けてきたとしたら、交渉する以前に取引を中止して、別の取引相手を探した方が良い。

 そういった要求は、その場での取引が成立したとしても、商社としての信用を失わせてしまう。
 「あの商社の連中はモノの価値が分からん奴ばかりだ」「不当な要求を突きつけるとんでもない輩だ」「あの商社とはもう取引したくない」などという噂が立ってしまえば、そこでジ・エンド。信用を取り戻すには並々ならぬ労力と時間を費やさなければらないだろう。
 全ての商人にとって、信用というものは命綱なのだ。
 
 まぁ、とはいえ、収穫の終わったこの時期だと、既に大体の話はついているため、その内容を確認して契約を完全に済ませて来るだけなんだけれども。
 あまり交渉の難しくないこの時期を選んだのは、エンリコの研修のためでもあるわけだね。



「ふぅむ。主の独立に向けての準備も整ってきているという事か」
「まぁ、そうとも言えるかもしれないけれど……。も~う少し掛かるかなぁ、時間的にも、金銭的にも」
「使えんヤツじゃのぅ……。いつになったら独立できるんじゃ?」

 ロッテは呆れたように私を見下して言う。
 いや、どう考えても1年ちょっとの修行で独立するとか無謀すぎますって。そもそも金銭的に無理だから。

「そんな事言われてもなぁ」
「ふん、主がトロトロとやっている間に、スカロンの奴はもう店舗を押さえたらしいぞ。何やらトリステインにある蟲惑の妖精亭の姉妹店らしいがの」
「らしいわねぇ。来春には独立するって言ってた」
 
 予定よりは独立の時期が遅れてしまっていたスカロンだが、現場復帰した奥さんと力を合わせたお陰か、秘薬の代金分の穴埋めは既に終わったらしい。
 奥さんはロッテからNO.1の地位を取り戻そうと必死だったらしいので、稼ぎもかなりのモノだったに違いない。

 結局一度も返り咲く事はなかったらしいけどね。ロッテの自慢によると。

 春からは彼の作る旨い料理が食べられなくなるかと思うと、少し名残惜しいが、トリステイン方面にも商人関係の知り合いが出来ると思えば心強い。遍歴商人と定住の接客業という畑の違いはあるけれども。

「で、主は?」
「うーん。あんたの協力さえあれば、あと1年ちょっと、かな?」
「協力とは?」
「お・か・ね」

 やや厭らしい笑みを浮かべながら、指で丸を作り、上目遣いでロッテを見る。

「……他人の金を頼りにするでない、とカシミールに言われたのではなかったか?」
「ま、そうなんだけどね。でも、実際は共同経営というのは普通なのよ?一人で経営している商社なんてまずないんだから」

 これは本当だ。

 ゲルマニアにある商社の殆どは、《コンパニーア》と呼ばれる形式で運営されている。
 その意味は、“同じパンを分けあう者”。
 つまり、共同経営者の双方が資本と経営を受け持ち、相互の行動(例えば第三者に対する借金など)に無制限の責任持つのが一般的である。
 だからこそ、損害互助制度などという物も存在したのだ。
 
 これに対して、資本だけを供給して利益を得る形式、《コンメンダ》という運営方法もあるが、そのどちらも共同経営である事は変わりない。

「じゃが、行商人の場合は一人で経営するのが普通なのではないか?」
「……うっ」
「何じゃ、うっ、て?!主、妾を謀ろうとしているのではなかろうな?」

 ちっ。今日は珍しく鋭いじゃないか……。

「ち、違うわよ。そっ、そんなことするわけないじゃない。詐欺じゃあるまいし」
「ふぅ~ん?」

 どもる私に、ロッテは胡散臭そうに目を細める。

「と、とにかく──」
「良いぞ?」
「え?」
「協力、とやらをしてやってもいい、と言っておる」

 薄い笑いを浮かべてロッテが言う。
 こういう時は何か碌でもない事を言うのが相場なのだが。

「本当に?」
「うむ。妾が貯めた金を“貸して”やってもいい」

 ロッテはそこで、ぐい、と口の端を釣り上げた。

「……利率は?」
「ま、大まけにまけて、10倍にして返してくればよいぞ?」
「いいわよ?私が独立する時、その条件で貸して頂戴」
「本気でいっておるのか?」
「えぇ」

 私はにこりと爽やかに微笑む。

「ほぅ?随分と強気じゃな?」
「だって、あんた、返済する時期までは明言していないじゃない。つまり、私がその気になれば、10年後、20年後の返済も可能、と言う事……っ!?」

 私が力強く言い切った所で、高速の拳骨が私の後頭部に突き刺さる。
 さすがの私もこんな不意打ちは躱せない……っ。

「1年で10倍じゃ」
「いだだ……。って、さすがにそれは暴利だって」
「ふん、文句があるなら貸さぬまで」
「……せめて、5倍でお願いします」

 相場を遥かに上回る額を提示して頑として動かないロッテに、私は粘り腰の交渉を試みる。

 高利貸しですら金利は大体年利にして2割程度。これでは高利貸しから金を借りた方がましだ。
 といっても担保も連帯人も存在しない私には借りる術はないが……。

 最終的にはそれより低利息か、もしくは無期限の返済へと話を持っていかなければなるまい。
 猶予期間は一年もあるが、どんな商人と話をつけるよりも、彼女を宥めすかす方が難しいかもしれない、と思った秋の夜であった。





 本日は晴天なり──

 翌日の朝。
 少々肌寒い風は吹いているものの、絶好の旅行日和ともいえる、清々しい見事な秋晴れ。

「よいしょ、っと」

 私は必要最低限の物だけを詰め込んだ粗末な旅行鞄を、カシミール商店の正門前に停められた、一頭立ての軽装馬車に放り込んだ。
 必要最低限のものの中にクロスボウが入っているんだけどね。旅先でも鍛錬を怠るな、とロッテに釘を刺されたのだ。
 
「荷物はそれで全部?」
「はい」
「よし、それじゃ、乗って」

 小さな御者席に座ったエンリコが私に確認する。
 買い付けた荷の運送は、契約終了後、いつも忙しく走り回っているフッガー商会系列の連絡員達に任せるため、私達が馬車で荷を運ぶような事はない。
 よって、オルベの村まではこの小さな軽装馬車で行く事になる。
 御者については、私の馬車扱いの練習にもなるので、途中で何回か交代する予定だ。



「やっぱり、こいつの代わりに俺が行きますって」
「何よ、あんたはこの前、連れて行って貰ったばっかりじゃないの」

 私が馬車に乗り込もうとすると、見送りに来ていたフーゴがしゃしゃり出る。

「いや、二人旅とか、やっぱり危険だろ?」
「何が危険なのよ?」
「そりゃ、お前。男と女が泊……」
「は、何?」

 下を向いて、はっきりとしない事を言うフーゴに、私は苛々したように聞き返す。

「いや、ぞっ、賊とか?そう、賊とかでるかもしれねーだろ。ほら、俺なら魔法で楽勝だし」

 ハタキ杖二代目を掲げて言うフーゴ。
 
 彼は誘拐事件以来、魔法の練習をしているらしい。
 先生がいないので、ほとんど我流みたいだけれど、一応の上達はしているようだ。
 ま、折角魔法が使えるのに、それを磨かないなんてのは、勿体ないものね。
 
「東の街道って見晴らしもいいし、大分安全なはずだけど。しかもオルベの村は辺境伯領内だし」

 目的地までは、馬車で東に半日ほどの距離。
 そして、ツェルプストー辺境伯領は、他の地域と比較してかなり安全とされているのだ。
 賊狩りが厳しいからね、この領内は。

「むぐ……」
「ほらほら、どいたどいた。あんまり馬車に近づいちゃ危ないよ?」
「わかったよ……」

 私がしっしっ、と手を振ると、フーゴは渋々、と言った感じで引き退がる。
 何やら御者席の方へ向かって、敵意の眼差しを向けているような気もするが……。



「くれぐれも、先方に失礼のねェようにな」

 同じく見送りに来ていた親方がエンリコに声を掛ける。

「分かっていますよ……」
「ふん……。ならいいが、な」

 エンリコはやや不貞腐れたようにそれに答え、親方もまた不機嫌に言う。

 そう、未だ、駐在員へと昇格させたい親方と、一個の商人として独立したいエンリコの関係はぎくしゃくとしてしまっているのだ。
 いや、というより、時間が経つにつれ、その溝はさらに深まっていると言えるだろう。

 何とか関係を修復できないものか……。
 エンリコの方に味方をしたい、という気持ちは変わってはいないが、このままの関係を続けられては、こちらが参ってしまう。
 何しろ、この二人は間違いなく、この商店の中心なのだから。

「さ、アリアちゃん、行こう」

 親方とのやり取りをぞんざいに切り上げ、急かすように言って手綱を握るエンリコ。

「……はい。じゃ、行ってきまっす」

 私はエンリコの隣へと腰掛けると、馬車の上から親方に向けて軽く手を上げて見せた。
 ちなみに双子とヤスミンは商店内で作業中だ。

「道中気を付けろよ」
「せいぜいヘマはしねーようにしろよー、偽乳」

 一言余計な見送りの言葉に言い返そうとした所で、馬車の車輪がぎぃ、と音を立てて、ゆっくりと走り出した。
 フーゴ君には、帰ってきた後にクロスボウの的でもやって貰いましょうかねぇ……。





「はい、これ被っておいた方がいいよ。秋とはいえ、日差しが結構強いからね」

 馬車の走行が安定してくると、エンリコは脇から麦わら帽子を取り出して、私へと渡す。
 うーむ。相変わらず、優しいねぇ。

「あ、すいません。気を遣わせてしまって」
「はは、女の子に日焼けは禁物だから。特に可愛い子には、ってね」

 麦わら帽子を頭に載せながら言うと、エンリコは天然の女殺しぶりを発揮する。

 これで狙ってないのだから性質が悪い。この甘~い言葉と笑顔にやられて勘違いした娘が盛大に自爆する事も多いと聞く。
 まさに悲惨の一語。ご愁傷様です、はい。

「……と、それは置いといて」
「ん?」
「エンリコさんは、その、やっぱり独立するんですよね?」
「うん、まあ……。親方には反対されているんだけどね。知っていると思うけど」

 むぅ。いきなり空気が悪くなってしまった。

 とはいえ、折角エンリコと二人きりなのだし、この機会にこういう話をしておくのは悪くないはず。
 できれば、親方との仲を修復するような流れに持っていければ……。

「親方も変ですよねぇ。何でエンリコさんの独立に反対しているんだろ」
「……僕は独立には向いていない、らしいよ」

 自嘲するように、薄い笑みを零すエンリコ。

 同調する事によって、空気を和らげるつもりが、さらにどんよりとした雰囲気を作ってしまった。

「向いてないって……。エンリコさんは凄く仕事が出来るのに、どういう事なんでしょうね」
「はは、ありがとう。ま、親方にしかわからない理由があるのかもしれないね」

 エンリコは口だけで笑って、さばさばとした口調で切りかえす。

 そう言えば、幼馴染であるヤスミンは、親方がエンリコの独立に反対している理由がわかっていたようだけど……。
 私から見ると、エンリコは人当たりもいいし、商売の知識も豊富で、性格も真面目で堅実。全く問題がないように見えるんだけれどねぇ。

「それなら、その理由を親方に問いただせば……」
「アリアちゃん、その話はもういいよ」

 私がさらに続けようとすると、エンリコはややうんざりしたような顔で、話を切る。

 普段は滅多に怒らない彼が、こんな不機嫌な態度を取るなんて、この話題、今はタブーみたいね。

「すいません、無神経でした」
「……さ、この話題はお終い。もっと面白い話をしよう」

 五年以上も独立を目指して、商店で修行を積んで来たエンリコ。
 その彼が親方から「お前は独立に向いていない」と言われた時のショックは相当なものだっただろう。



 彼と比べれば、ほんの僅かな期間の修行しかしていない私には、それ以上彼に何の言葉も掛ける事はできなかった。
 




つづけ



[19087] 27話 金色の罠
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2010/10/22 23:52
 地平に沈むオレンジの夕日が、収穫が終わった後の、丸裸になった広大な畑を照らしている。
 カァと一つ、寂しげに鳴くカラスの声が、ぴゅうと吹く木枯らしに乗って聴こえてきた。



「はぁ、ぎりぎり……」
「陽が落ちる前には着けたね」

 私が安堵の溜息を漏らすと、隣の御者席に座るエンリコが合いの手を入れる。

 私達が目的地であるオルベに着いたのは、出立した日の夕刻もぎりぎりと言った所だった。
 本来ならば、もう少し早く着く予定だったのだが……。

「こんの阿呆馬……。何で言う事聞かないのっ!」

 村の中程、道が狭くなって来た所で馬車から降り、私は正面から鹿毛の巨体に向かって怒鳴りつけた。

「……ぶるるっ」
「あっ、こ、コイツ……」
 
 阿呆馬は私の叱責を馬鹿にしたようにぷい、と横を向いて、糞(ボロ)をぼとりと尻からひり出す。

 そう、道中で私が馬車の運転を替わった時、この馬が言う事を全く聞かないせいで、到着が遅れてしまったのだ。
 結局、ここまで馬車を運転してきたのは、殆どがエンリコだったのである。

「まぁまぁ、アリアちゃん。馬にそんな事を言っても仕方ないよ」
「ぐむ……」

 同じく馬車から下り、手綱を引くエンリコが怒り心頭の私を宥める。

 馬は人を見るというが、まさかここまで馬鹿にされるとはね……。
 ふ、ふふ……後でシメてやる。

「ま、何にしても今日中に到着出来て良かったよ。完全に暗くなったら馬車を走らせるのは厳しいからね」
「そうですねぇ。さすがに野宿は、ね」

 いくら安全と言われている辺境伯領内とは言え、護衛も無しに野宿するのはあまり良い事とは言えない。
 一応、簡易の寝具は馬車に積んではいるけれども、野生の獣なんかが出る可能性もあるし……。

「はは、女の子に野宿はきついか。……でも行商人になれば、野宿なんていうのは日常茶飯事だからなぁ」

 私が野宿を嫌がっているのは、環境的な問題であると勘違いしたのか、エンリコは小さな子に言い聞かせるように呟いた。

「あ~、そうですね。その時までには慣れるようにします」

 私はそれに対して、苦笑いしながら曖昧な返事を返した。

 野宿自体は構わないんだけど、戦力的な問題が……。
 別にエンリコが頼りない、と言いたい訳ではないが、ロッテとかと比べると、ね?

「うん、いい心掛けだね。……じゃ、とりあえず村長さんの所に向かおうか」
「はい」

 白い歯を見せて笑うエンリコの提案に、私は無表情に頷く。

 村長宅を訪ねるのは、まず村に入った事を報告せねばならないのと、この村に宿があるわけではないので、適当な寝床を見繕ってもらうためだ。
 具体的な契約については明日から、という事になるだろう。上手くいけば明日中には帰れるんだけど、ねぇ。



 ちなみに今回この村で買い付けるのは、小麦、テンサイ、それとザワークラフト(キャベツの漬物)の三種。

 小麦は言わずもがなであろう。
 パンの材料、その他いろいろな料理に使われる、ハルケギニアにおいて、最も重要な穀物だ。

 テンサイに関しては、葉の部分が人間の食用であり、根の部分は家畜の飼料用となる。
 テンサイを元にした砂糖というのは、このセカイではまだ(?)生産されていない。
 その理由は、テンサイから砂糖を作るには、製造初期の段階から高度な化学的処理が必要とされるからであろうと推測される。

 よって、このセカイで砂糖といえば、イベリア半島を始めとした地中海沿岸の気候でしか栽培が不可能なサトウキビを原料としたものであり、それは同じく地中海沿岸でしか生産できないコショウ・ナグメグ・クローブなどを始めとした種々の香辛料(中には他の地域で栽培できるモノもあるため、全てではない)と並んで、ロマリア連合皇国一の特産品である。

 海域に存在する水竜を始めとした幻獣種のせいで、東方との海上貿易がほぼ不可能なセカイにおいて、これは圧倒的なアドバンテージであり、これこそが国土的にはそれほど広くも無いロマリアが、ガリア・ゲルマニアの二大国に劣らない程の商業力を持っている大きな理由の一つなのだ。
 勿論、ロマリアには、その他にも、塩、硝石、石英、乾燥麺類、魚介類の瓶詰、油類(オリーブ、ハシバミ)、ハーブ、ガラス細工、染料・顔料(サフラン、インディゴ、オルテル石、ミョウバン、虫瘤、鶏冠石、石黄)、嗜好品、宗教関係用品(ロマリア)、柑橘系果実、果実酒、楽器、服飾(ジェノヴァ、ミラノ、フィレンツェ、カンヌ)、美術品、ロマリア・チーズ、陶磁器(マヨルカ)などなど、様々な特産が存在しているし、ブリミル教の総本山である、という政治的な強さも絡んではいるのだが。

 ザワークラフトに関しては、キャベツをすっぱくなるまで漬けこんだもので、肉料理などの付け合わせに使用される事の多い、ゲルマニアでは最も愛されている漬物である。
 食品の加工に関しては、都市部の工場ではなく、農村の家内制手工業として行うのが一般的なのだ(小売店で作る、もしくは消費者が自分の家で作るという事も多いが)。



「契約、上手くいきますかね」
「ま、今回は殆ど決まっている取引だから、大して心配はいらないさ」

 村長の家までへの道すがら、私が何となく言った一言に、エンリコが自信ありげに答える。
 いつもの優しい顔とはまた違った、精悍なその横顔に、少しの間見惚れてしまう私なのであった。





 しかし、何故こうも私はトラブルに見舞われるのか。
 どうにも私はブリミルの野郎に嫌われているらしい。



 無駄に眩しい朝日が、東側の窓から差し込む村長宅の食卓。
 
 組合員証書と契約書が置かれた食卓机兼会議机になっているテーブル。
 私とエンリコは、その内容を読む事が出来る村長を含めた、村の主要な人物数名と、そのテーブル越しに睨み合っていた。

「だから、足りないって一体どういう事っ……むぐ?」
「こら、アリアちゃん、落ちついて」

 どん、とテーブルを叩きながらの剣幕に、エンリコが慌てて私の口を塞ぐ。
 
 はっ。いかんいかん、冷静にならなければ……。
 しかし、これは怒っていいレベルの事だとも思うんだけれども。

「本当にすまんなぁ、とは思っとるんだわぁ、こっちも」

 村長がのらりくらりと謝罪の言葉を述べるが、その言葉にあまり誠意は感じられない。



 私達が村に到着した晩は、それなりの歓待を受けながら迎えられ、これならば問題ないだろうなぁ、と勝手に思っていたのだが。
 夜が明けて、質素ながらも温かい朝食を恐縮しながらも頂き、さぁいよいよ契約だ、という時になって、風向きが変わってしまった。

 何でも、今になって取引する産物の量が足りない、というのだ。それも大量に。



「しかしですね、今になって足りないと言われましても。こちらにも購入と販売の計画というものがありますし……。一月前に、弊社から確認を入れた時は問題ない、という回答を頂いたはずなのですが?」

 私の剣幕を止めたとはいえ、流石に人のいいエンリコでも黙ってはいない。
 言葉は丁寧ではあるが、明らかに相手側の失態を責めている口調だ。

「いや、それがだなぁ……」
「村長、はっきり言ったれ」

 額の汗を拭いながら、しどろもどろに言う村長に、一人の村人が野次を飛ばすと、周りの村人からも、「そうだ、そうだ」と続けて野次が飛ぶ。

「確かに、隠しても仕方ないかぁ。……実は、ウチの作物をお宅よりも高値で買ってくれる、という御仁が居ってなぁ」
「そんな馬鹿な……? この村での取引は、私共、カシミール商店という事に決まっていたはず。一体どこの商社です、そんな無法を行っているのは? まさか、また東部の嫌がらせじゃあ……」

 村長の告白に、エンリコは信じられない、といった表情と声色で言う。

 ゲルマニア西部と東部の組合、というか商人同士はあまり仲がよろしくない。
 一見すると派手で華やかな交易業を中心とする(農業も盛んではあるけれど)西部と、地味で堅実な鉱業(金銀でも出れば大きいのだろうけれども、東の鉱山は銅、鉄、黄鉄鋼、その他貴金属以外の金属が中心)や林業などを中心とする東部の商人では、その性格が合わないのだろう。

 風の噂によると、クリスティアン、つまりツェルプストー辺境伯と、東部の大貴族であるザクセン=ヴァイマル辺境伯も犬猿の仲らしい。

「商社? いや、行商の人達なんだぁ、二人組の」
「えぇ?!」「はぁ?!」

 やや困った顔をした村長の返答に、口を閉じていた私も思わず間抜けな声を上げた。

「ぎょ、行商人が、たった二人でこの量の商品を買い付けた、ですって?!」
「しかも、ウチよりいい値で、なんて……」
「有り得ない……っ」

 あまりの驚きに口を揃えて言うエンリコと私。

 纏まりかけていた契約を反故にした相手方への憤りよりも、横槍を入れた相手が遍歴商人である事に対しての驚きが上回ったのだ。

 基本的に遍歴商人が行う取引というのは、商社の取引に支障を来たすような心配がないからこそ、農村部での取引についてはお目こぼしされている。

 何故なら、彼らは取引量が少ないだけではなく、商社よりも良い値段でモノを仕入れるような事はしないからだ。
 当然、商社の買付が決まっているような中大規模の農村では、もし彼らが取引したいと訪ねてきたとしても、彼らにモノを卸す量は必然的に少なくなる。
 
 遍歴商人が農村や辺境で仕入れたモノを、何処に売り捌くのかを考えれば分かる事だ。

 そう、それは大抵の場合、都市部の商社なのである。

 遍歴商人、というか余所の商人が都市部で小売を行う事は、特定の歳市(その時期は各々の都市による)期間以外は許されていない。
 それ以外の時期には、必ず地元商社に卸さねばならない決まりとなっているのだ。

 例を挙げると、丁度、私がケルンに来たばかりの時期も歳市であった。
 なので普段は存在しない露店が道端に沢山並んでいたのだ。
 あれは定期的なものではなく、ツェルプストー家の第一子であるキュルケの誕生を祝って、臨時で開かれていたものだが。

 と、まぁ、そういう事で、遍歴商人が、商社が提示する値段以上でモノを仕入れていては、ほぼ確実に赤字になってしまう。
 単純な競争力では、資本と組織力の差で商社に及ばない彼らは、小回りが効くからこそのニッチな商売を行うべきであり、商社と直に競争するなど自殺行為なのである。

 例えば、商社の買付が殺到する、この時期に農産物を手に入れたいのであれば、商社の積極的な買付の対象となる中大規模の農村を避け、比較的小規模な農村で取引を行う事を選択するとかね。



「参考までに、弊社よりも高値を付けた、とは具体的にどの程度の?」
「ふむ、大体だけんども、3割増しくらいかね」
「3割?!」

 村長の発言に、エンリコが再度目を丸くして驚く。

 そりゃそうだ。
 カシミール商店の仕入れ価格は、買付担当員の収穫前の交渉によって、多少値引かれてはいたが、今年度の仕入れ相場から大きく外れてはおらず、極めて真っ当な価格なのである。
 そこから3割増し、という事は……。

「そんな値段で買いつけて、儲けが出るわけが……。というか、何処に持って言っても赤字になるはず……」
「そんな事、ワシ等に言われても、なぁ?」

 そう、常識外れに高すぎるのだ。
 穀物や野菜類というのは種類や質、そして量は違えど、どの地域でも生産されているものであり、どこに持って行っても2割以上の利益など普通は望めない代物である。
 飢饉や戦争などの理由があれば出るのかもしれないが、少なくともケルンにそんな情報は入って来ていない。

 にも拘らず、ウチが提示した価格よりも3割以上も高い価格を提示するなんて、頭が狂っているとしか思えない所業である。

「……取引対価は何で支払われたのですか?貨幣ですか、それとも物々交換?」
「はぁ、金塊、だけんども?」
「金、塊……?それはリーブル金板ですか?」

 エンリコは疑わしげな表情のまま、村長へと疑問をぶつける。

 リーブル金板、というのは、1リーブル(トロイリーブルではなく、通常のリーブル単位)の重さのゴールドバーである。
 極めて純度の高い黄金の塊であり、その価値はエキュー金貨にしておよそ120枚分。
 
 これは通常、極めて大きな取引にしか使用されないものだし、勿論、一介の遍歴商人が持ち歩くようなものではない。

「いんや、重さは不揃いだったがなぁ。ただ、きちんと村の量りで全体の重さは量ったから、間違いはないはずだぁ」
「重さが不揃い? ……となると、少なくとも、正規に認められたモノではないですね。実際に見てみない事には何とも言えませんが」

 ますます怪しいなぁ。
 金が正規のルートを通じて市場に流れる時は、リーブル金板として、重さと形が統一され、その上で王家や教会の刻印が打たれているのが普通だ。
 それが不揃いとなると、本物の金であったとしても、まともなルートで手に入れたものではないだろう。

「村長、実際みてもらうのが良いんでねえ?このままじゃ、こん人達も納得いかんだろう」
「そうだなぁ。それならこの人達も納得するかねぇ。……おい、誰かいくつかちょっと持ってきてくれんか」

 そう言って村長は村人に目配せをする。
 村人の一人は、無言でそれに頷くと、がちゃ、と玄関の扉を開けて外へ出て行った。

 何しろ金塊というのだから、それをまだ村人に分配はできないはず。
 なので、換金するまでは、村の公共の場所で厳重に保管されているのだろう。



「まぁ……実はまだモノ自体はぁ、あるはずなんだがね」

 村人が出て行った後、思いだしたようにぽつりと村長が独り言のように呟き、僅かに口角を上げる。

「む……」
「行商人さん達は二人組だから、少しずつしか荷を運べん。だから、ちょこちょこと往復でどこかの倉庫に運んどる。後で纏めて売り捌くつもりとも言っておったなぁ」
「つまり?」
「不満があるなら行商人さん達と話合ってくれんかねっちゅうこっちゃ。丁度今日、あの人らが最後の荷を取りに来る予定だから、都合は合うはず。こっちとしては高い方に売りたいんでなぁ」

 村長の身勝手な言い草に、流石のエンリコも呆れたような表情を浮かべる。

 はぁ、つまり両者を競わせて値を釣り上げようと言う魂胆か。
 これだからその場だけの短絡的な利益しか考えられない農民は……。まぁ、私もその一員だったわけだけどもね、昔は。いや、大昔だな、うん。

 既に決まりかけた契約を反故にして、こんな事をしたら、たちまち組合中に話が広まって、翌年からこの村の扱いが悪くなるっつうの。
 どちらにせよ、そんな値段では引き取れないから、もしその行商人達というのが本気で、その狂気とも言える値段を提示しているのであれば、取引は中止せざるを得ないわね……。



 なるべく先方の機嫌を損ねないための配慮か、歯に衣を着せて村長とのやり取りを続けているエンリコ。
 それを横目で見て若干のイラつきを覚えながらも、私は黙ってふぅ、と一つ悩ましげな溜息を吐いた。





「持ってきたで」

 暫くして、先程の村人が小脇に金塊(?)を抱えて戻ってきた。

「戻ったか。じゃ、見せてやりなぁ」
「ほらよ」

 村長が村人へと命じると、ごとり、と板状にカッティングされた金塊(?)がいくつか、テーブルへと置かれた。

「どうだ、見事なもんだろう」

 村長が自信ありげな顔で、ふふん、と鼻を鳴らす。
 うん、確かにぱっと見は見事としか言いようがないほどの黄金である。

「エンリコさん、これは……」
「うん……」

 しかし私は、その金塊(?)を見た瞬間に、眉を顰めてエンリコに呼び掛ける。
 エンリコの何とも微妙な反応を確認すると、私は可哀想なものをみるような目で村長と村人達を眺める。

「……あ?どうしたんだぁ?」

 その視線にむず痒さを感じたのか、村長は不可解な顔で私に尋ねる。



「えぇとですね……。非常に言いにくいんですけども」
「なんだ、はっきり言ってくれんか」
「これ、金じゃありませんよ」
「はっ……?」

 お望み通りにはっきりと事実を告げてやると、村長は何を言っているのかわからない、といった顔で返す。



「な、何を証拠にそんな事をっ……?大体金じゃないなら、一体何だって言うんだ?」

 目が点になった村長に代わって、村人の一人が喧嘩腰に言う。

「えぇと、じゃあまずコレの正体ですけど。黄鉄鋼、といわれる硫黄や硫酸の元になる鉱物ですね。勿論、金とは比べ物にならない価値しかありませんが」
「お、黄鉄鋼?」
「そうです、別名“愚者の黄金”。見た目が金とよく間違えられる事から名づけられた名前です」
「お、俺達が愚かだったと言いたいんか?」

 村人はもう、私に掴みかかりそうな勢いで詰め寄って来る。
 うーむ、混じりモノが結構してある金貨の金と純金はかなり違うから、これが純金と言われてしまえば信じてしまうのかな……。

「いえ、そうは言いませんが。ただ、これはかなり古典的な手口ではありますけどね。……実際に金と並べれば光沢は違いますし、単体での見分け方も色々とあります。この場合、一目で分かりやすいのは、ここです、この部分」

 私は黄鉄鋼の塊に浮かび出た、やや褐色がかった部分を指して言う。
 
「む……。その染みみたいのがどうかしたんか?」
「黄鉄鋼はとても劣化しやすい金属で、劣化が始まると褐鉄鋼と呼ばれるものに変化します。つまり、表面から赤みが掛かって来るんです。……丁度こんな風に。逆に金は凄く劣化しにくい金属ですから、そんな変化は起こしません。以上の理由でこの金塊はニセモノです」
「そ、そんな……」

 私のわかりやすい(?)講義に、村長達はがっくりと肩を落とす。

 そう、これは昔から詐欺に使われる手法で、カシミール商店の勉強会でも取りあげられた事があったのだ。
 商人相手では通用すべくはずもないが、あまりモノを知らぬ農民であれば騙くらかせる、という事だろうか。

 しかしそれにしても、こんな金塊もどきを農村の仕入れに使うなど、不自然すぎる、と疑うと思うんだけど、普通は。
 最低でも、モノを売る前に、これを街の商人の所へ持って行って調べて貰おうとか考えなかったのか?

 この世に、受け身で掴める美味い話などないんですぜ……。



「で、でもよ、これは旅の貴族様が太鼓判を押してくれたんだで?!」
「旅の、貴族、ですか?」
「おぅ、“丁度”その行商人さん達が来た時に、“たまたま”この村に立ち寄っていた貴族様が居ったんだ。そん人が『これは見事な黄金だ』って目を丸くしていたんだから間違いねえだろうがや!」
「うぅん……」

 先程とは別の村人が思いだしたように叫ぶと、エンリコは考え込むように顎に手をやる。

 成程、それで碌に確認もしないままに金だと信じ込んでしまったのか。
 それにしても、旅の貴族、ねぇ?

「おぉ、そうだった、そうだったなや!」
「おめぇらが嘘ついてんじゃねぇのかい?貴族様が嘘吐くわけねーべ!」
「いくら金が惜しいからって言っていい事と悪いことがあんぞ!」

 一人の雄叫びを皮切りに、不安を打ち消すかのように、やんややんやと村人達が騒ぎだす。

 まぁ、その気持ちは分かる。誰だって騙されたとは認めたくない物なのだ。
 ただ、それが詐欺師を蔓延らせる原因の一つだと思うんだけれども。



「ちょ、ちょっと皆さん、落ちついて……」
「これが落ちついてられるかいっ!」

 エンリコが宥めようとするが、村人達はさらにヒートアップして騒ぎたて始める。



「うっるさーいっ!」



 このままでは埒があかないと判断した私は、腹の底から出来る限りの大きな声を絞り出す。
 その耳をつんざく大音量に、村人一同だけでなく、エンリコまでもきょとんとした顔でこちらを見る。



「……はぁ。少し落ち着いて下さい。皆さんの言いたい事は分かります。しかし、私共カシミール商店はそのような嘘は決して吐きません。……商人の誇りに賭けて、誓いましょう」
「ぬ、じゃあ、無関係の貴族様が嘘を吐いているとでも言うんかい?それこそ何の得もないんじゃないんか?」
 
 私の断言に対し、村人はもっともな疑問を吐きだす。

 確かにそう。
 本当に“無関係”であればの話だが。

「その旅の貴族、とやらは一人でこの村を訪ねていたんですよね?」
「あっ、あぁ……そうだなぁ。何でも、魔法修行中の身だとか。中々の別嬪さんでな、マントも着けていたし、杖も持っていたから、間違いなく貴族だと思うけどもね、おそらく」

 私が村長に向き直って訪ねると、何とも頼りない答えが返ってきた。

 あ、怪しい……。限りなく怪しい。
 そんなに放蕩する貴族がいるんだろうか。フーゴじゃあるまいし。

 しかも女と来た。
 下級貴族、だとしてもなぁ。平民の平均賃金の5倍はあるであろう家のお嬢様がそんな事するか、普通?

「……落ちついてよく考えてみて下さい。旅の女貴族、なんてそうそう居るものじゃありません。それに、この村へのルートは、主要な街道からは外れている脇道ですから、普通、旅する人は通りませんよ」
「しかし、実際に来たんだから、そんな事いっても始まらんのじゃあ……?」
「……私が言いたいのはですね。その貴族も、行商人、いえ詐欺師達とグルなんじゃないかと。つまり元より三人組なんじゃないですかね」
「な、なぬ?!」

 そんな事は考えてもいなかったのか、ひっくり返るようにのけ反る村長。
 いや、ちょっとは人を疑おうよ……。善良すぎるのも考えものだなぁ。

 やるなら旅のメイジくらいにしとけばいいのにねぇ。でもそれじゃ、金と断じる説得力が少ないか?

「仮に、その貴族が本物だとしても、見間違えというものはありますし。とにかく、これはニセモノ、120%の確率でニセモノです!」
「む、ぐぅ。しかし……」

 事実を突きつけられると、悔しそうに顔を歪め、未だに何か言いたそうな村人達。

「落ち込まなくても大丈夫です。……その行商人達、いえ、詐欺師達は、今日もこの村に来るんでしょう?それに今まで彼らが持って行った産物も、まだ売り捌いてはいないはず、と仰っていませんでしたか?」
「おっ、おお、そうだった……!」

 ついさっき村長から聞いたばかりの事なのだが、気が動転した彼らはすっかり忘れていたらしい。
 どよどよ、と再び村人達が騒がしくなる。



「じゃあ、その時に私達と皆さんで、彼らをとっ捕まえて、荷のありかを吐かせれば……」
「ちょっと待って、アリアちゃん」
「はい?」

 私が声高に、村人達を扇動しようとした所で、エンリコから待ったがかかる。

「こういう場合は、まず組合の方に相談しないと。それに親方にも報告してからの方が……」

 エンリコの意見は至極正しい。
 それは普通であれば、当然、真っ先にするべきことである。

 しかし……。

「何を悠長な事を言ってるんです?そんな事してるうちに逃げられてしまいますよ?」

 今は非常時、緊急時なのだ。
 残念ながら今からケルンに戻っている暇はない。ここは、私達と村の人達だけで何とかするしかない。

「でも、なぁ。その行商人の人達だって、もしかしたら本当に金だと思っていたのかもしれないし……。ここはやっぱり、組合に判断を仰いだ方が」

 忘れていた。
 エンリコもまた、“善良”過ぎるんだった……。

「エンリコさん、相手に悪意があろうがなかろうが、これはれっきとした詐欺行為です。それに、相手はたった二人、多くても三人なんですから、ここで捕まえておいて、改めて組合に判断を仰げばいいのでは?」
「そ、そうかな?」
「そうですよ、多分ですけど」
「多分って。僕らは役人でも自警団でもないし、なぁ。やっぱり勝手にそういう事をするのは……」

 確かに、私達が詐欺師を捕まえる、なんていうのは、はっきりいって専門外だし、今回の業務にそんなものは含まれてはいないけれど。

 ただ、ケルンに報告に戻るとすると、一日この事態を放置してしまう事になる。

 そうなれば今回の買付は失敗、モノをまともに仕入れられなかったという結果がだけが残る。
 村人達が今回の分は産物を渡さないにしても、詐欺師達は既に大部分の産物を騙し取ってしまっているのだから。



「ですから、その余裕が無いんです!私も時間さえあるなら、組合なり、商店の主である親方に報告なり相談しますが……。詐欺師達は今日が最後なんでしたよね、この村に来るのは?」

 私が話を村長に振ると、黙って村長が頷く。村人達もそれにつられて頷いた。

「ね、今は時間が無いんですよ。ここは私達で判断するしかありません。他に手は……」
「うぅん……」

 私が捲し立てるように言うが、それでもなおエンリコは判断がつかないらしく、頭を抱えて悩み出す。

 もう!堅実なのはいいけど、慎重すぎるのが玉に瑕という奴だなぁ、エンリコは……。



「とにかく、今は身内で言い争っている場合じゃなくて、詐欺師共を……」
「……詐欺師っていうのは、おいら達のことかい、クソチビィ?」

 ドスの聞いた低い声が突然、私達の会話に割り込んで来た。

「……っ?!」

 私は声の主を探して、玄関の方に向き直る。

 何時の間にか村長宅の玄関扉が開きっぱなしになっている。
 開いた扉の向こうには、商人風の格好をした目つきの悪い二人組が、腕を組んで、不愉快そうな表情で立っていた。
 
 格好だけはそれっぽくしてあるが、私の目には彼らがまともな商人には映らなかった。
 なんというか、ヤクザな商売をする方特有の、殺気、というか瘴気というか、そういうものがピリピリと感じ取れたのだ。



「……えぇ、そうよ。ペテン師の方がよかったかしら?」

 私は大きく息を吸い込んだ後、そんな彼らの威嚇するような睨みに臆する事もなく、きっぱりとそう言い放った。





つづけ




[19087] 28話 only my bow-gun
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2010/10/07 07:44
 まだ朝も早いというのに、オルベの村人達の大半は、既に畑へと出ていた。
 夏穀の収穫が終わってからまだそんなには経っていないが、この時期の農民達は、もう冬穀を作る準備をしなければならないのだ。

「ふわ~ぁ」

 そんな中、一人の村娘が眠気を隠そうともせずに、大口を開けてだらしない欠伸を一つした。

「こらぁ、まぁた、おめぇはさぼってやがるな!」

 だらけた様子で手を休めている村娘に向かって、同じくらいの年頃であろう少年が声を荒げて怒りつける。
 しかし、彼女はその怒鳴り声にびくつく様子もなく、ただ彼の顔を見て「はぁ」と残念そうに溜息を吐いた。

「なっ、なんだい、その溜息はっ?」
「どうしてこの村には、こんな不細工しかおらんね……。やっぱおらみてぇな美人は都会に住む方が似合っとるわなぁ」

 村娘は熱っぽい瞳で、ケルンの方角を見ながら言う。

 彼女は村から外へは出たことはあまりなかったが、この村にやって来る都市民の多くは、いつもそちらの方向からやって来ることを知っているのだった。
 
「……もしかして、昨日、ケルンから来たってぇ、商社の使いっぱしりか?」
「使いっぱしり、だなんて失礼な奴だね。ま、やっぱおらみてぇな美人には、あの位の男でねぇといかんだろ?」
「けけ、おめぇみたいなブス相手にされるかい。鏡くらい見ろってぇ……。や、やめっ」

 少年は軽口を中断して身構えた。
 なぜなら、村娘が無言のまま、彼の顔面に向かって無慈悲に腕を振り下ろしたから。

「ひぶっ」

 ごきゃ、と潰れた鼻をさらに潰されながら、少年は空中を泳ぐように3メイルくらい後ろに吹き飛んだ。
 腰の入った良いパンチだ。鍛えれば世界を狙う事も可能かもしれない。

「わ、悪かったっ!もう言わんで、許してくれぇっ!」
「かぁっ、情けない男だて。こういう男は性根を叩き直してやらないかんね……ん?」

 地に頭を着けて許しを乞う少年を押さえつけ、さらに追い込もうとした所で、村娘はいつも静かな村に似つかわしくない、お祭りのような喧騒が聴こえる事に気付いた。

 尻もちをついた少年もそれに気付いたらしく、その騒ぎの出所となっている方向に目を向ける。

「ありゃあ、村長さんの家の方かや?」
「ようけ人が集まってんなぁ。何かあったんだろか?」

 彼らが視線を向けたのは、村で一番大きな家である村長宅の方向だった。

 その方向にわらわらと、子供から大人まで、かなりな数の村人達が集まっている。
 大人達ですら仕事を放棄してまで集まっているとは、よほど珍しい事があったのだろう。

「行ってみっか?」
「……だな」

 少年の問いに、村娘は少し考えてから、こくりと頷く。

 将来の夫婦は、灯りに釣られた羽虫のように、村長宅の方へ走り出した。





 村長宅前の広場。

 突如現れた詐欺師達と、私達、カシミール商会の面子は睨み合っていた。
 とはいっても、エンリコについてはそれほどの敵意を持ってはいないようだが……。

 私は刃傷沙汰になる可能性まで考慮して、クロスボウの入った旅行鞄を大急ぎで村長宅の寝室から持ってきたというのに。
 まぁ、これは私の考え過ぎかな……。

 村長達はどうしていいのかわからず、おろおろとしながらそれを見守る。
 長閑な村では、外部の者同士の諍いなど珍しいのだろう、作業に出ていた他の村人達までもが、何事かと、野次馬をしに集まって来ていた。



「酷いと思いませんか、みなさん。人様を捕まえて詐欺師、ペテン師だなんて」

 詐欺師二人組の片割れ、額を横一文字に走る深い古傷を残した疵面の男が集まった野次馬に向き、両手を広げてアピールする。

「そうね、詐欺師に失礼だったわ。今時“愚者の黄金”なんて、時代遅れな手口を使う馬鹿な詐欺師はいないもの」

 私はふ、と勝ち気に微笑み、皮肉で返した。

「けぇっ、あの黄金がニセモノだっていう証拠はあるのかよ?」
「商人であれば、すぐに見分けはつくわよ、あんなもの」
「……つまり、ここにいるみなさんには証明できない訳だ! お前みたいな子供の出まかせを誰が信じるか! ねぇ、みなさん、そうでしょう?」

 さらに疵面の男が聴衆へと問いかけると、ざわ、と村人達が騒がしくなる。

 どうやらあちらは、金塊と称して自分たちが村人に掴ませた物がニセモノである事を、この場ではっきりとは証明できないと踏んで、こちらが若年である事による信用の出来無さを突いてくるつもりらしい。

 確かに、私達が単なる見た目で金ではないと理論を並べ立てても、村人にはそれが本当かどうかは実際の所わからないだろう。
 詐欺師達は、コレは黄金だと主張している訳で、誰にでも一目でわかるような方法で証明をしない限り、私達と彼等、どちらが村人に信用されるか、という勝負になってしまうのだ。



「ふん、貴方達みたいなどこの野盗ともしれない人間の考える事なんて、すぐに──!」
「ストップ、アリアちゃん」

 言い返しかけた所で、私のすぐ後ろで様子を見ていたエンリコが待ったをかけて、詐欺師達に向かって頭を垂れた。

「申し訳ありません。弊社の従業員が大変失礼な事を」

 ちょっと、何を考えてるの! こんな奴らに頭を下げるだなんて!

「エンリコさん!」
「大丈夫、任せておいて」

 私が怒ったように言うと、エンリコはぱちり、と片目を瞑って、私にしか聞こえないようにそう呟く。
 
 どうやら彼も、この詐欺師達が真っ当な商人であるとは思っていないらしく、何か考えがあるようだ。
 となれば、“とりあえずは”エンリコに任せておくべきだろう。これは私に任された取引ではなく、彼に任された取引であるのだから。

「今更謝られてもなぁ」
「しかし、貴方にもこれ以上当方を侮辱する事は控えて頂きたいのですよ。私達は確かに若いですが、ゲルマニアに名高いフッガー商会の代理店である、カシミール商店の代表としてここにやってきているのでね」
「む……」
「信用を得たいというのなら、醜い罵り合いを始める前に、商人としてまずやるべきことがあるのでは?」

 疵面の男は謝罪から一転、突如強気に出たエンリコにたじろいだ。
 そこに、エンリコは含みを持たせた問いを投げかける。

「……何だ、そりゃぁ?」
「組合員証の提示ですよ。……商人同士の取引や話し合いでは当然、最初に行われるべきことなのですがね」
「ぐ……」

 痛い所を突かれたのか、疵面の男は若干顔を歪めて息を漏らした。
 そして私もまたエンリコの後ろで、「う……」と小さく唸った。

 そうだった……。
 私は頭から相手が詐欺師であり、まともな商人ではない、と考えていたので、そんな当たり前の事も忘れていたのだ。
 確かに、彼の言うとおり、それは一番先に確認する事だったわね。反省、反省。

「……私達は見習い《ガルツォーネ》の身ですので、この証書が身分証となります。そちらの組合員証も拝見したいのですが」
 
 エンリコはいつの間にかテーブルの上から持って来ていた、商店の主人代理である事を証明する証書を、右手で前に突き出して提示する。

 ……成程、エンリコの手というのはこれか。
 商人としての流儀を知らないだけでなく、組合員証を持っていないとすれば、奴らの信用など吹き飛ぶだろう。

 モグリで商売をやっている人間に、まともな人間なんていないからね。それくらいは村人だって分かっているはず。
 そんなのは、背景を持たないド素人か、組合を追放された元商人、それか法外の商人(闇屋、暴利金融、詐欺師とかね)くらいなものなのだ。



「そ、それはだな──」
「……お前はもう喋るな」

 エンリコの指摘を受けて、疵面の男が目を泳がせて言い訳をしようとする。
 それを受けて、今まで黙していた、二人組の片割れ、眼のくぼんだ小男が呆れたような物言いで疵面の男を押しのけた。

「いや、こちらこそ連れが失礼をしたね。組合員証の提示も忘れているとは、全く、どうかしているよ。……っと、これでいいかな?」

 小男はこちらに向けて軽く会釈をすると、懐からそれなりの年季が入って、いい感じにくたびれているベラム皮製の組合員証を取り出した。
 
 ……持っていたのか。

 商業組合員証の構造は、どこの国、どの地域でも似たようなものであり、ぱっと見は皮製の折りたたみ財布のような構造をしている。
 その内側に、その商人が所属するアルテの印章細工と、商人個人の履歴(どこで何年見習いをやった、とか)が書かれている小型の羊皮紙が縫いつけられているわけだ。

 組合印章の形は千差万別であり、覚えきれない程のパターンがある。
 ゲルマニアにおいての商業組合は、東西南北中央、と巨大な5つの組合しかないために覚えやすいが、国外に出れば、都市毎、または扱う商品毎の組合が存在しているからである。

 例えば、ケルン交易商会アルテの印章は、交易商を中心とする組合だけあって、馬と車輪をモチーフにした(といっても、大口の輸送においてはフネを使うことの方が多いが)銀細工の中央に、オニキスをはめ込んだ印章となっている。

 土台の細工は銀であったり、銅であったり、はたまた他の金属であったりするが、印章の中央にはめ込まれる石の種類は国によって決まっており、水の国トリステインは青のラピスラズリ、風の国アルビオンは白のクォーツ、火の国ロマリアは赤のガーネット、土の国ガリアは黄のアンバー、そして新興国とされるゲルマニアでは黒のオニキスが使用されている。
 金やあまり高い石を使わないのは、悪戯に組合員証の商品価値を上げてしまうと、それを狙った盗難が起こりやすくなってしまうため、と言われているが、その真偽は定かではない。
 
「……拝見しても?」
「構わんよ」

 エンリコがそう言うと、小男は組合員証をこちらに放って寄越した。

 私は緩やかな放物線を描く組合員証を見て、ますますこいつらが商人などではない、という事を確信した。

 遍歴商人にとって、組合員証は自分の身分を保障する唯一と言っていいほどの大事な品。
 それを人に簡単に渡すだろうか? しかも扱いがぞんざい過ぎるだろう。

「……なるほど、東部の方ですか。お二人とも?」
「あぁ」

 エンリコはそれをぱし、と掴み、中身を確認しながら言うと、小男がそれに答える。
 疵面の男の方はばつが悪そうにそっぽを向いていた。

「東部ドレスデンの交易商で見習いを5年の後、遍歴商人となり、今に至る……か」
「どうやら組合員証は本物、みたいですね……」

 エンリコと私は、その組合員証を覗き込みながら唸る。

 東部の、ドレスデン資材商会アルテの鉄を基調とした、ツルハシと犬を模した印章細工にも特に怪しい点がなく、経歴も全く普通のものだった。
 偽造品、というセンは薄いだろう。

「うぅん、参ったな……。あの人達の雰囲気や物腰から見て、まともな商人じゃないと踏んで、カマをかけてみたんだけど……」
「まだ商人だと決まったわけじゃないですよ。もしかしたら盗んだものかもしれないし。それに、商人だとしても、詐欺を働いている事がバレていないだけで、追放を免れているだけかも」

 こそこそと二人でそんな話し合いをする私達。
 その様子を、村人達と詐欺師達は胡散臭げに眺めている。

「まぁ、確かにそういう可能性はあるけど。それを立証するのは難しいね……。こうなると、結局、あの黄鉄鋼が金ではない、という事を証明するしかないかもしれないな。誰にでもわかる方法でね」
「うん、やっぱり、それですよね」
「全く知識の無い人に、それを分からせるというのも難しいけど……」
「いえ、少し乱暴な方法ですけど、やり方はあるにはあります」
「えっ?」

 私がさも簡単だ、というように言うと、エンリコは驚いた顔で聞き返す。

「すいませんが、ここからは私に任せてもらってもいいですか?」
「う、うん。でも、本当に大丈夫かい?」
「えぇ。あ、金貨を持っているなら、1枚貸してくれませんか? ドール金貨(新金貨)でもエキュー金貨でもいいですから」
「金貨? えぇっと……はい」

 エンリコは言われるがままに財布からエキュー金貨を1枚取り出す。

「お~い、待ちくたびれたんだけどよぉ」
「……お前は黙れと言っているだろう」

 疵面の男が厭味ったらしくいい、小男がそれを窘める。

 どうやら、一時はうろたえていた疵面の男も、私達が相談している間にすっかり回復してしまったらしい。
 にやりと、歪んだ笑みを顔に張り付け、こちらを見下している。

 見てなさい。その余裕の表情、凍りつかせてやるわ。





「では、挨拶も済んだ所で本題に移りましょうか」

 エンリコから金貨を受け取ると、私は一歩前に出て、そう宣言した。

「挨拶に、本題、だと?」
「えぇ、さっきまでのは単なる商人としての挨拶だもの。まさかあれだけのやり取りで私達が参るとでも?」
「おいら達が本物の商人である、という事は証明されたはずだろ?」
「何を言っているのかしら。本題は、あの金塊とやらが本物かどうかという事じゃなくて? 本物の商人だって、詐欺を始めとした違法行為を行う者はいるのよ?」
「てめぇ、まだ言うか……」

 私がさらりと毒を吐くと、疵面の男は顔を真っ赤にして、腰に下げた短刀に手を伸ばすが、小男はそれを無言で制する。

 短刀を持っていること自体は別におかしくはない。
 賊だけでなく亜人が跋扈するハルケギニアでは特に、遍歴商人の旅路は危険に満ちており、彼らが身を守るために、何らかの武器を携帯している事は普通だからだ。
 もっとも、それに出くわしたならば、無謀に戦いを挑むよりも、火急的速やかに逃げることが優先されるが。

「やめておけ。ここで抜くのはまずい。というか、お前は黙っていろ、と何度言ったら分かるんだ」
「けっ……。証明できるものならしてみるんだな」

 再び窘められ、不愉快な顔で吐き捨てる疵面の男。
 窘めた小男も、アレが黄鉄鋼だと、全くの素人である村人達に証明できるとは思っていないのだろう。

「ではお言葉に甘えて。……村長さん、ハンマーか、無ければチャート(火打石)でも良いですが。それと先程の黄鉄鋼を一つ、使わせて下さい」
「ハンマー……? あ、そうか!」

 どうやらエンリコも気付いたらしく、素っ頓狂な声をあげた。

 乱暴な見分け方(調査対象に傷が付く)なので、あまりこういうやり方はしないはずなんだけど、さすがに知識豊富なエンリコは知っていたか。
 私も、武器選びの時に色々と調べて知ったんだよね、この事は。

「あ、あぁ。んでも、金槌って、一体何する気なんだ?」
「すぐにわかります」
「……それではっきりするのかや?」
「えぇ、間違いなく、みなさんにもあの金塊がニセモノだと分かるはずですよ」
「ふむ……。じゃあ、誰か用意してやってくれんか」

 村長は私の自信ありげな言葉に頷き、近くに居た村人の一人に指示を出す。
 村人達からは一層大きなどよめきが起こる。

「かっ、何を言い出すかと思えばハンマーだと? 金塊を叩き割りでもする気かよ?」
「あら、一端の遍歴商人にしては、随分と無知だ事。黄鉄鋼、と言えば古くは何の部品に使われていたかも知らないのかしら?」

 疵面の男は馬鹿にしたように言い、私はそれをさらに馬鹿にしたように返した。

「何?」
「銃がまだホイールロック式だった頃、火薬に点火する火種を起こすのに使われていたのよね、黄鉄鋼って。今はその代わりにチャートと、鋼を使っているんだけれども」
「そ、それがどうしたってんだ?」
「その火花が散る時、臭うのよね」

 そこで私は村人が持ってきたハンマーと黄鉄鋼を無言で受け取り、黄鉄鋼を地面へと転がした。



「丁度こんな風に、ねっ!」
 
 叫びながら、地面に向けて思い切りハンマーを振り下ろす。

 ばちっ。

 ハンマーと黄鉄鋼の接触面から派手に火花が飛び散った。
 金ではありえないのだが、黄鉄鋼は硫黄分を多量に含むために、ハンマーで叩いただけでも火花が飛び散るのだ。
 先に私が言及したホイールロック式の銃では、回転するドラムに黄鉄鋼を噛ませることで火花を散らしていたらしい。



「な、なんか……臭う?卵が腐ったみたいな……」
「やだぁ、誰かおならしたんでねえの?」
「お、俺じゃないでよ?」

 ややあって、村人達が、辺りにほんのりと立ち込め出した異臭に騒ぎ出す。

 彼らが火山地帯まで旅をするような事はないだろうから、これが何の臭いかの判断はつかないだろう。
 しかし、その臭いが異常だという事、それだけは気付くはず。

「みなさん、それが硫黄の、この黄鉄鋼の臭いです! これこそが、この金塊がニセモノだという証拠なのです!」
「うっ、嘘だ! そんな出鱈目を──」
「村長、試しに、この金貨を思い切り叩いてみてください。臭いどころか火花すら出ませんから。……ちなみに、エキュー金貨は純金とは言えませんが、金含有率はほぼ9割ありますので、十分比較対象としては成り立つを思います」

 疵面の男の見苦しい言葉を遮って、私は村長にエキュー金貨とハンマーを渡す。

「……いや、叩くまでも無い。あんたらは色々と理論付けて説明をしてくれているが、こん人達は感情論を説いとるだけだもの。なぁ、行商人さん達よぉ、こりゃどういう事だがね?」

 村長は鋭い視線で詐欺師達を睨みつける。

 さすがに金からあんな臭いがするわけがない、と納得してくれたのだろう、集まった村人達も、殺気を帯びた視線を送っている。



「い、いや、これは……」
「……ちっ、ここまでだな」
「え、おいっ」
 
 小男の方が、未だに言い訳をしようとする疵面の男を引っ張って逃げようとする。
 どうやら小男の方が少しは頭が回るらしい。

 しかし、その判断は遅すぎた。

「逃がす訳ねーだろがやっ!」
「そうだっ、おら達が一生懸命作ったモノをだまし取ろうとしやがって!」
「ブッ殺しちゃる!」

 村人達は、怒りの形相で、手に持った様々な農具を構えて、すでに二人の詐欺師をまるっと囲んでいた。

 怖……。
 もし金塊をニセモノだという事を証明できなかえれば、今頃あの輪の中に居たのは私達かもしれない。

 そう思うと、私は背筋が少しぞっとした。怒りにまみれた群衆ほど恐ろしいモノはないのだ。

「な、や、やめろって……」
「ぐむ……。クソ、だから俺はこんなのは反対だって言ったんだ!」
「そんな事おいらに言うなよっ!」

 詐欺師達は、身を寄せ合いながら、仕方なし、と言った風に短剣を抜いた。
 しかし怒れる村人達は、その刃に怯える事もなく、じりじりと詐欺師達に近づいて行く。



 その時、ぶわ、と突風が吹いた。



「うわぁっ……」「きゃぁっ!」「ぐえっ!」

 村人達の何人かが、横殴りの突風に吹き飛ばされる。

 不意に突風が吹いてきた方向、つまり、詐欺師達の乗って来た、黒い幌のついた頑丈そうな馬車を停めてある方向を見ると。



「全く、ほんっとうに、使えないクソ部下共だっ! あたいの出番を増やしてるんじゃないよっ!」

 烈火の如く怒りを露わにした形相の女が。御者台の上で手綱を握っていた。

 口にはキセルを咥え、長めのアッシュヘアをざっくばらんに髪留めで止めており、露出の高いチューブトップの上にダマスク織りの外衣《ジョルネア》を合わせ、下はぴちっとしたパンツスタイル。
 左手には遠目だと本物かどうかはわからないが、大量の宝石のようなもので、ゴテゴテに装飾された杖を携えている。

 何と言うか、ワイルド(?)な風貌をした女である。年齢の方はちょっと行き遅れている感じもしないでもないが。

「あ、あんたは、あの時の貴族様っ!やっぱり、こん人達の言うとおり、詐欺師共とグルだったんだな?」

 村長が女を指さして唾を飛ばす。

 成程、これが村長の言っていた女貴族とやらか。まぁ、貴族ではなく、平民メイジだろうけれど。

 貴族の割合が多過ぎるハルケギニアでは、官吏の職に炙れた元下級貴族の平民メイジというのがそれなりに、いや、結構な数で存在する。
 その中で、いつまでもプライドを捨て切れず、市井に馴染めない者は傭兵や賊などの無法者(傭兵と言っても色々だが、傭兵と名乗る者の半数は賊に近いチンピラなのだ)に成り下がる事も多いのだ。

 にしても、やはりグルだったのね。

 おそらく馬車の中にでも潜んで様子を伺っていたのだろう。
 緊急時の秘密兵器といったところか。

「あっ、姐御!」
「見ていたんなら早く助けて下さいよ」
「ごちゃごちゃ言ってるような暇があるなら、さっさと走れっ! クソ共っ!」
「へいっ」
 
 鋭く指示を飛ばす女メイジの言うとおりに、二人の詐欺師が馬車の方へと走り出す。
 どうやら女メイジはこの3人の中ではボス格であるらしい。ただ一人のメイジっぽいし、当然といえば当然か。

「待てぇっ、この詐欺師共っ」

 そう簡単に逃がすかと、大柄な村人の男が鍬を持って、詐欺師達の前へと立ちふさがろうとする。

「【風鎚】《エアハンマー》」

 女はそれを見て、すかさず風の魔法を詠唱すると、村人の男は見えない何かに派手に吹き飛ばされ、積んであった薪に、派手な音をさせながら激突した。
 気は失ったようだが、ぴくぴくと体は動いているので、死んではいないらしい。
 
 見えない攻撃、系統魔法にそれほど詳しい訳ではないが、おそらく風の系統だろう。

「次にふざけたことをしたクソは三枚にオロしてやるからねっ!」

 女はそう叫ぶと、いつでも魔法が放てる、という事を誇示するように、杖をこちらに向けながら睨みを効かせる。
 すると、村人達の怒りは怯えに変わり始め、詐欺師達を取り囲んでいた隊列が乱れ始めた。

 多くの平民達は、杖を向けられる、というそれだけの行為で恐怖を掻きたてられるのだ。
 無理もない。
 確かに魔法は脅威だものね。

 しかし、私はもっと恐ろしいモノを知っている、というか一緒に暮らしている。
 この程度の恐怖など、何の問題もない。

「へへっ、じゃ、あばよっ」
「はぁ、また姐御にどやされるな」

 疵面の男は頬を緩ませながら、小男は溜息を吐きながら。
 彼等は既に勝ち誇っていた。

 ここには役人も自警団もおらず、メイジに対抗できるような者はいないと思っているのだろう。

「勝ち誇った瞬間、そいつは既に負けている、ってね」

 そう呟いて私は素早く鞄からクロスボウを取り出した。
 ボックスに矢《ボルト》は装填済み、勿論布を被せていない実戦用の矢束だ。

「ちょ、ちょっと、アリアちゃん、何を……」

 村人と同じく、杖を向けられて固まっていたエンリコは、私の様子を見て声を掛ける。
 私はそれに答えず、足早に去ろうとする詐欺師達を片目で睨みつけ、照準を定めた。

 この程度で怖気づいてちゃ、商人なんてやってられないのよ!



「危ない所だったぜ」
「全く、だから俺は反対だと……」

 詐欺師達が、好き勝手な軽口を叩きながら馬車のへりへと足を掛ける。

「煩い、お前らがクソなせいでこのあたいの完璧な作戦が失敗し……っ?!」

 リーダー格の女メイジは、最後まで言葉を紡げなかった。

「ぐわあぁっ」
「うぎゃ」
 
 部下の詐欺師達が私のクロスボウの的となり倒れたからだ。
 いくら威力に問題があるとはいえ、30メイル程度の距離で、武装もしていない相手ならば簡単に矢は突き刺さる。

 疵面の男は尻に、小男は肩に矢が深く埋まり、悲鳴を上げながら地面を転げ回る。
 ま、一応急所は外したと思うけれど、もし死んじゃったらゴメンネ、という事で。

「な、何だい、こりゃあ?! クソッ、誰だっ、こんな事をしやがった奴はっ! クソっ、クソォっ!」

 倒れた詐欺師達に駆け寄り、狂乱したように言う女メイジ。
 姐御などと呼ばれているだけあって、それなりに仁義はあるらしい。

 今は杖を向けられた状態ではないが、メイジへの畏怖は消えないのか、村人達は「俺じゃない」「私じゃない」と口にしながら、犯人を突きだすように、すぅ、と道を開ける。

 クロスボウを構えたままの私と女メイジの間から遮蔽物が消え、二人の視線は直線で交わった。



「クソ娘、お前かい……? あたいの部下にふざけた真似をしたのはっ!?」
「ふふ、ご名答。どう? 貴方も的になってみる?」

 ゆらり、と立ち上がって言う女メイジに、私は不敵に微笑みながら言う。

「そういえば、お前だったねぇ、このマルグリッド様のかんっぺきな作戦を叩き潰してくれたのは。幌の隙間からだが、ちらりと見させてもらったよ。クソ娘の分際で『時代遅れ』だの、『馬鹿な詐欺師』だの、随分と馬鹿にしてくれたじゃないか。えぇ?」
「ぷっ、ぷくく」
「何がおかしいっ!」
「いえね、あれが『完璧な作戦』って、脳味噌を医者に診てもらった方がいいんじゃないかしら、年増さん」
「……なるほど。口の減らないクソ娘って訳だ。こりゃ是非とも年長者であるあたいが躾してやらなきゃいけないね」

 額に青筋を浮かべながら、凄惨な笑みを浮かべた女メイジ改め、マルグリッドが、趣味の悪い杖を私へと向ける。
 
 うーむ、ヴェルヘルミーナもそうだったけど、年増の女メイジというのは、どうにも教育したがりが多いみたいね。
 まずは己を省みるべきだと思うのだけれども。

「へぇ、やる気? 照準はもう、あんたの眉間に付けてあるんだけど」
「はっ、トロいクソ弓なんざ当たる前に、あたいの魔法でお前を刺身にしてやるよ」
「あんたの蠅が止まりそうな詠唱と、私のクロスボウ、どちらが速いかは明白だと思うけど? 大人しくお縄に付きなさい」
「舐めるんじゃないよっ! このクソがっ」

 マルグリッドが叫ぶのと同時に、私は宣言通り、彼女の頭部目掛けて矢を一つ射出した。
 メイジ相手に余計な遠慮などいらないだろう。



「【魔法剣】《ブレイド》!」

 マルグリッドは、真横に素早く跳んで、短い詠唱によって薄い白色の刃を創り出し、矢を躱しつつ、横あいから叩き斬った。

 中々に軽やかな動きだ。
 なるほど、少し魔法が使えるだけの愚図ではないらしい。

「ふん、こんなもので……っ!?」

 私は矢をいなして安心したように言うマルグリッドへ向けて、ひゅん、ともう一発矢を放つ。
 通常のクロスボウは、一発防げば暫くは飛んでこないのだから、彼女がそういった反応をしたのも無理はない。

「……っく!」

 それはマルグリッドの頬を掠め、薄く化粧の乗った日焼けした肌に、真っ赤な筋を滴らせただけに終わった。
 私の狙いが外れたわけではない、彼女は咄嗟に首を捻って矢が顔面に直撃する事を回避したのだ。

「ち、そういえば連射式だったか……」
「やれやれ、今ので当たらないかぁ」

 私は言いながら、たん、と軽くステップを踏んで左右へ激しく動き始めた。
 なぜなら、マルグリッドは既に新たな魔法の詠唱を始めていたからだ。
 
 本格的な戦いの火蓋が、切って落とされた。





 マルグリッドは素早さと燃費を重視して、風の基本魔法である【突風】を連発していた。

 というのも、見えない風の攻撃にも関わらず、アリアが右へ左へと激しく、猫のように飛び回って撹乱を行ってくるために、何とも狙いがつけにくいのだ。
 ドットの上位程度である彼女の精神力では、大技(と言ってもドットスペルだが)を連発することなど不可能なのであった。

(ちっ、このクソ娘……。どこかのサーカスから来たのかい?!)

 マルグリッドは内心舌うちをするが、暇なく詠唱を行っているため、それを口に出すことはなかった。
 それなりに戦い慣れたメイジであるマルグリッドすら舌を巻くほどにアリアの動きは鋭かったのだ。

「【突風】《ウィンド》」

 低姿勢をさらに低くして、右前方へと大きく跳びはね、それを躱すアリア。
 
 迅い。

 まるで俊敏な野生の獣のような動き。
 見てから、というより、殺気を感知して体を先に動かしているような。

 アリアは、有難い、実に有難い師(ロッテ)の扱きにより、強い足腰と、戦闘における直感を手に入れつつあったのだ。
 師曰く、才能のかけらもない、という事らしいが、普通の人間にしては相当なスピードで上達、いや、進化していると言えるだろう。

 【再生】による超回復の連続が、その最も大きな要因の一つなのだが、アリアも、それを使っているロッテですらもそんな嬉しい副作用はあまり考えていなかった。
 まさに偶然の産物、と言ったところか。

「ぐぅっ……!」

 魔法の相間を縫って、無言で連発される矢、矢、矢。

 素早く連射しているために、狙いはそれほど正確ではないが、それほどの距離であるわけではないので、殆どの矢はマルグリッドの体のどこかには突き刺さるような軌道で放たれていた。
 その一つを風で逸らしきれずに、マルグリッドは体を回してなんとか回避する。

(あたいらメイジにとって、クソ厄介なスピードタイプ、それも連射できる遠距離武器持ちかいっ! なんでこんなクソ娘に、ここまでのクソ恐ろしい技能があるんだい?! 子供にこんな物騒な事を仕込むなんて、頭がおかしいよ! どこのクソ野郎だ!)

 マルグリッドはまだ見ぬロッテを呪う。
 まぁ、ある意味彼女の指摘は当たっている。

 メイジがメイジでないものに対する、戦闘においてのアドバンテージで最も大きいのは、先ずは距離だろう。
 剣や槍が届かない距離で、強力な一撃を叩き込めるからこそメイジは恐れられているのだ。
 故に、メイジ殺しと呼ばれる者の大半は、暗器使いなどの暗殺者タイプか、または弓の名手などの狙撃手タイプが多いのだ。
 ごくまれに、素手やら剣で、真っ向から魔法に対抗できるような特異的な存在もいるらしいが。



(さすがに風メイジ……。まともに射撃しても殆ど風で流されてしまうわね)

 アリアはそう考えつつ、足を動かしながら、がしゃん、とボックスを開いて、白い紐で縛った矢束を素早く装填する。
 これで2回目の入れ替えだ。つまり、アリアはすでに20発の矢を放った事になる。
 
(いえ、これ以上続けても千日手。あちらの精神力が尽きる前に、こっちが参ってしまうわ。というか、もう限界……。よし、ここで、勝負をかけましょうか)

 ロッテの扱きの内容はこんなものではないが、実戦というのは、訓練の何倍も疲れるものなのだ。
 アリアは決心を固めると、先程の矢束をボックスから投げ捨てて、黒い紐で縛ってある矢束と入れ替えた。

「隙ありぃっ、【風刃】《エア・カッター》!」

 その一瞬の隙をついて、マルグリッドは、彼女が使える中では最強のスペル、《エア・カッター》を放つ。
 真空の刃を飛ばすこの魔法は、彼女が先程村人に使用した《エア・ハンマー》よりも遥かに殺傷力に優れている。

「はぁっ!」

 風の刃は不可視だが、アリアはそれを的確に避けて、全速力でマルグリッドへと駆ける。

「焦ったね! クソ娘っ! スライストマトみたいになっちまいな! 【風刃】《エア・カッター》!」

 アリアがここにきてやっと単純な直線の動きを見せた事を受け、獰猛な笑みを浮かべて、必殺の攻撃をもう一つ繰り出すマルグリッド。

 彼女の精神力もそろそろ限界か、と言ったところだったのだ。
 向こうから勝負を賭けに来てくれたのは願っても無い好機だった。

 これだけのスピードで駆けてくれば、急な方向転換など出来るはずもない。
 馬車が急に止まれないのと同様に、全速力で駆ける人間の体もそうは急に止まらないのだ。

 しかし、アリアはマルグリッドの想像を超えるやり方でそれを回避して見せる。



「せっ!」



 飛んだ。



 いや、跳んだ。

 アリアは空中を歩くように大きく飛翔し、宙返りをしながら、マルグリッドの上空をも飛び超える。
 着地の直前、慌てて振り返るマルグリッドの足元を背後からの射撃が襲った。

「うあっ」

 マルグリッドは尻餅を突いて、間一髪で難を逃れた。

 アリアも着地の時に尻餅を着いたらしく、肩で息をしながらのろのろと立ち上がる所だった。

「くっ……」

 どうやらアリアの体力はもう限界らしい。立ち上がりはしたものの、足がガクガクと震えている。

「はっはぁ、このクソサーカス娘が、手間を取らせてくれたじゃないか。だが、もう動けないようだね?」

 マルグリッドは座ったままの姿勢で、アリアに杖を向けて言う。



「本日の天気は、晴れ」

 アリアはマルグリッドの問いには答えず、ぼそり、と下を向いたまま、意味不明な言葉を呟いた。

「何言ってるんだい、恐怖のあまりおかしくなったか。すぐトドメを指してやるよ、このクソ娘め。イル──」
「……時々、矢の雨。お出掛けの際は、重装鎧の装備をお忘れなく」

 アリアが詠唱を遮って、さらに呟く。

 ただならぬ空気に気付いたマルグリッドが上を見上げると。



 アリアの予報通りに、ひゅひゅひゅん、と頭上から矢が降り注ごうとしている。



 矢の数は9本。矢束は一つで10本の矢がまとめられたもの。
 つまりアリアが先程、マルグリッドの足元に放った矢以外の、全ての矢だった。

 アリアが着地の際に放ったのは、足元に注意を向けさせるためのオトリ。
 本命は、アリアが跳んだ直後、マルグリッドの視界から消えた時、天に向けて放たれた、この矢の群れだったのである。
 
「なぁっ……、クソおぉっ!」

 逃げ場はない、かと言って、咄嗟すぎて、魔法での迎撃はできない。
 結果、マルグリッドは亀のように頭を隠して縮こまった。

 この判断は正しい。
 矢、といっても、強力なクロスボウではなく、比較的威力の低いリピーティングクロスボウの、しかも打ちあげたひょろひょろの矢なのだから、急所を守りさえしていれば、致命的な傷を負う可能性は低いからだ。

「ぐぅ……っ」

 マルグリッドの背にちくちくと矢が刺さっていく。
 彼女は呻きを上げながらその激痛に耐える。

 アリアはその様子を、新たにクロスボウへと矢を装填する事もなく見守っていた。



「……はっは、耐えた、耐えたよっ! あたいは耐えた! あははっ、何だい、もう、打ち止めかい?!」

 マルグリッドは立ちつくしているアリアに向けて叫ぶ。

「えぇ、そうね。矢束はさっき捨てたのが最後だったから」
「そうかい、そうかい。じゃぁ、終わりにす……う……?」

 上機嫌に最後の魔法を唱えようとしたマルグリッドは突如、息苦しさと吐き気に襲われ、口が回らなくなった。

「えぇ、もう終わっているのよ。矢がカスった時点で私の勝ちだもの」
「はぁ、はぁ……。ど、毒か……?」
「ご明察。ま、人間相手に使うのは初めてね。あんたが被害者第一号。誇っていいわよ?」

 そう、白い紐で括られた矢束は、普通の矢。
 黒い紐で括られた矢束は、アリアが実験的に作成した毒矢だったのだ。

 吸血鬼であるロッテ相手には気分を悪くさせる程度の効果しかないが、人間相手であれば、殺傷力はないにしても、中々すさまじい効果があるようだ。

「く、そ、ひ、きょうな……」
「卑怯? 負けた者が何を言うんだか。勝利の何処が悪いのよ?」

 マルグリッドが気をやる直前、最後に見たアリアの表情は、まるで天使のように無垢で、そして悪魔のように厳しかった。

(次は、絶対、潰れたトマトみたいにして、や、る……)

 マルグリッドはアリアを最後まで睨みつけながら、意識を手離す。





 マルグリットが地に伏した瞬間、おぉっ、と片唾を飲んで見守っていた村人から歓声があがる。

「え……」

 それと同時に、どどっ、とアリアの方へと村人達が一斉に駆け寄ってきた。
 エンリコはほっ、としたような、それでいて気まずそうな、何とも言えない表情で、その様子を見守っている。

「あ、あの、落ちついて……っ」

 制止の声もむなしく、アリアは歓喜の村人達によって、手荒い祝福を受けて、もみくちゃにされてしまう。

「さぁっ、村の英雄を讃えるんだっ!」
「や、やめろぉおおっ!」

 何人かの村人によって担ぎあげられたアリアの体が天高く舞う。
 そのたびに村人の笑い声と、アリアの悲鳴が村に木霊する。
 
 村人達の胴上げリレーは、それから1時間程、一度も中断される事なく続いたのだった。

 

 この出来事が発端で、後にアリアは妙な二つ名を付けられる事になるのだが、それはまた別の話。





つづけ




[19087] 29話 双月に願いを
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2010/10/18 23:33
 その騒動から数日後。
 正午を回ったころ、私達は村人総出の見送りを受けながら、オルベの農村を後にした。

「やっと終わった~」

 軽装馬車の小さな荷台に、進行方向とは逆に腰かけた私は、足を投げ出して呟いた。
 すぐに終わるはずの仕事だったはずが、なんとも面倒くさい事になってしまったものだ。

「彼女、無事かなぁ」
「もう、犯罪者を心配してどうするんですか」
 
 御者台で手綱を握るエンリコが不安そうな声で呟く。
 まともに突っ込むのも面倒臭いほどに疲れていた私は、背を向けたままおざなりに答えた。
 
 エンリコが心配している“彼女”というのは、詐欺師達のリーダー格と見られるマルグリッドの事だろう。
 彼女は毒(ちなみに矢に塗っていたのは、沼地に生息する赤蛙を潰して得たモノ。原料と症状から見るに、軽度のアルカロイド系神経毒?)を受けたせいか、それとも精神力を使い果たした影響かはしらないが、意識は取り戻したものの、この数日間、ずぅっと熱にうなされていたようだ。
 
「でも賊とはいえ、やっぱり人死には、なぁ」
「どちらにしても、裁判にもならずに鞭打ち刑、余罪が出ればそれ以上ですし」

 詐欺師と売春婦は裸に剥かれて鞭打ち刑と相場が決まっているのだ。
 鞭打ち、というと軽い罰に聞こえるが、あまりの痛みに耐えられずにショック死する者が大半という過酷な刑である。

 しかしまぁ、どうにも人が好すぎるなぁ、エンリコは。
 魑魅魍魎が跋扈している商人世界で独立してやっていくには、あまりにも優し過ぎる気がする。
 もしかしたら、親方が独立に反対していたのはこのためなのかもしれない。



 賊、というのは詐欺師達の事だ。
 
 捕縛された後、殺気だった村人達に囲まれて尋問された詐欺師の男達は、すっかり委縮してしまい、必死に命乞いをしながら、聞いてもいない事まで洗いざらい白状した。

 その自白により、彼等は、何カ月か前に東部で壊滅させられたマルグリッド盗賊団という賊の生き残り、という事がわかった(名前から分かる通り、あのマルグリッドが頭だったらしいが)。

 もしかしたら、どこかから報奨金がもらえたりして。
 って、勝手に退治してしまったわけだしそれはないか……。

 所持品であった、組合員証や幌馬車一式、そして黄鉄鋼は、彼等が落ちのびて来る際に、立つ鳥後を濁す、とばかりに襲った東部に属する遍歴商人達の持ち物。

 メイジを含むとは言え、たった3人の賊にやられるとは。大方、金をケチって、護衛を付けていなかったのだろう。
 それなりに旅慣れた遍歴商人にはありがちなミスである。



 そんな盗賊団であった彼等が詐欺行為をはたらこうとしたきっかけは、彼等が黄鉄鋼を黄金だと勘違いしていた事からはじまる。
 一応は元貴族の家系であるマルグリッドは、すぐにそれが金ではない事に気付いたが、「金、金、ゴールド!」などといって騒いでいる部下達を見て、これは使えるのではないか、と思いついたという事だ。
 「これからの盗賊は頭を使わなきゃね!」とかマルグリッドが言っていたらしいが、本音は頭数不足で強奪行為が厳しいが故の苦肉の策だろう。
 瓦解した賊のカモになるような旅人や商人など、そうそういるものではない。

 で、知識のある都市民には通用しないと分かっていたマルグリッドは、収穫期である事に目をつけ、特に大量の作物を生産している、西部地域の農村に目を付けた。
 あとは、私が推理した通りの手口で産物を詐取しようとした、というわけだ。

 まぁ、本業盗賊の割には中々に凝った手口かもしれない。実際、村人は騙されていたわけだし。

「それはまぁ、そうなんだけどね」
「それよりも、肝心の荷が無事でよかったですよ。お釈迦になっていたら1000エキュー、とまではいいませんが、それに近い損害になりましたからね」

 マルグリッド達が詐取した産物は、北部へと抜ける脇海道の途中にある廃教会へと運びこまれていた。
 騙し取ったモノは北部に持っていくつもりだったという。
 盗品を同じ西部で捌こうとするほど、図々しいわけではなかったらしい。

 倉庫でもない場所で無造作に保管されていた村の産物だが、幸運にも損害はあまりなく、若干取引量を減らすだけの契約内容変更で済んだ。
 
 詐取されていたブツの総額は7500エキュー分にものぼり、それは取引を予定していた額のおよそ4分の3にあたるほどの量だった(つまり10000エキュー程度が当初の取引予定額)。
 ま、見習いの私達に契約を任せるだけあって、実は全体からみると、取引額はそれほど大きい方ではないのだけれど。



 ちなみに、10000エキュー、といっても実際に連絡員達がエキュー金貨を10000枚持ってくるわけではなく、多くは生活必需品などとの物々交換となり、現金で取引する量はそれほど多くは無い(勿論、農村での取引に為替手形や小切手などが使われる事は皆無である)。
 様々なモノを扱っている交易商としてはその方が利益は出るし、先方としても、それを街の小売商などで買うよりも安値で手に入るため、そのような取引が好まれるのだ、

 この時期に最も人気があるのは豚などの家畜だろう。
 農村では冬には一家に一頭豚を買い、それを塩漬けなどにして、一冬のタンパク源にするというのが常識なのである。
 勿論、家畜は商店を通過する事なく、輸出先からそのまま農村へと運び込まれる。商店でぶひぶひされても困るし、家畜の世話なんて出来るわけがないからね。



 さて、そうして連絡員によって、一旦都市部に集められた大量の産物は、大体はフネで輸送される事になる(ケルンならば、街の真ん中を流れる、長大なライン川を利用した南はずれの船着き場から)。
 農産物が大量に出回るこの時期と春の商品輸送は、各地区で大量になりがちなため、陸路での輸送よりも、フネを使っての輸送の方が一般的なのだ(品目によっては、通常の時期でもフネでの輸送が当たり前のものもあるが)。

 フッガー商会くらいの大商会になれば、自前でフネを持っていることは持っているが、各地においてフネでの輸送が激増するこの時期は、その数は全く足りなくなる。
 なので、各々の支店が船主から一定期間チャーターしたフネを使うか、または、比較的少量の輸送で済む地域では、他の荷と一緒に運送業者のフネへと乗せてもらい、運送料を支払う事になっていた。
 
 その場合、商人、またはその部下が荷に携行するという商会もあるが、フッガー商会では、慣例通りに商品だけを送り、それに用船契約書と、商品の売却法を書いた手紙を付ける決まりとなっており、ウチの商店から誰かが乗船する事はなく、全て船主にお任せという事になる。
 勿論、船主が荷について全ての責任を負う、という保険を掛けた(保険料は大体荷の3.5%~8%が相場。利益率の低い農産物の輸送なら3.5%~5%といったところだろう)上での話だが。

 一昔前は、空賊を避けるために、何隻かの船に分けて荷を積み込む、というのが一般的であったが、この保険のおかげもあり、一隻に積めるだけ積むのが昨今のやり方であった。
 ま、商業を重視しているゲルマニア国内においては、定期的に貴族所有の軍隊が出張って空賊退治するために、その数が圧倒的に少ないから、余り心配はないのだけれどね。

 あぁ、帝政ゲルマニア万歳。ゲルマニアの軍事力は世界一ぃ~っ!ってね。



「はは、まったく、アリアちゃんのお金に対する厳しさは見習わないといけないな。ま、何にせよ、無事でよかったよ」
「ん?……あぁ、そうですね。契約が無事に成功して」
「いや、アリアちゃんがさ。まさか、あそこでメイジ相手に突っ込んでいくなんて、ね」

 エンリコの声色には、少し叱責に近いモノが混じっていた。
 
 兄というものがいたらこんな感じなのだろうか。まぁ、こんな出来た兄はおるまいが。
 
「すいません。心配をかけさせてしまって。後から思えば、かなり無謀だった事はわかるんですけど」
「けど?」
「でも、反省はしていません。今回は私の判断が間違っていたとは思わないので。結果論ですが、当初の目的である契約も果たせましたし」

 こちらをちらりと振り返ったエンリコに、私はぺろりと舌を出して言う。

「そっか。いや、責める気はなかったんだけどね。ただ、親方に叱られる事は覚悟しておいた方がいいかもしれないよ?」
「親方は規則に厳しいですしねぇ」

 脅すように言うエンリコに、私は同調した。
 結果的に損失を避ける事は出来たけれど、私の規則破りに近い判断については怒られるかもしれない。

「いや、そういう意味じゃないんだけどね」
「?」
「可愛がっているアリアちゃんが、自分から危険な事をしでかした、と知れたらそりゃ親方は怒るよ」
「そ、そうなんですか? いっつもぽこぽこ殴られていますけどね、私」
「期待しているからだよ。だからこそ、こんなに早い段階で経理や買付の研修もやらせているのさ」
「うーん」

 エンリコの断言に、私は首をひねって唸る。
 確かに、言われてみればそういう事なのか?

「……ま、僕よりアリアちゃんみたいな子の方が、経営者には向いているんだろうなぁ」
「え~と、あ、いえ、そんな事は」

 エンリコの突拍子もない発言にどぎまぎとする私。
 こういう場合、何と返せばいいのだろうか。

「あはは、いいんだよ、自分が一番よく分かっているんだ」
「何を、ですか?」
「僕のような男が独立してやっていく事が、無謀に近い賭けだっていう事がさ」

 自嘲するような口調でいうエンリコ。

 でもちょっと待って。それならば、なぜ親方の反対を押し切ってまで独立する事に拘っているのだろうか。

 ただの謙遜ならば良いが、本当に自信がないならば独立なんてするべきではないと思う。
 たしかに、早く独立して一人前の商人になりたい、という気持ちはわかるけれど……。

「じゃあなんで独立するんだ、っていう顔をしているね」
「正直、成功する自信がないのに独立というのは……」

 有り得ない。とは言葉をつかず、私はそこで言葉を切った。
 何か理由があるのだろう。
 
 野次馬根性を発揮した私は荷台から御者台の方へと身を乗り出した。

「どうして、と聞いてもいいですか?」
「つまらない話だよ?」
「ここまで言っておいて話さない、はないですよ?」

 話す事を渋るエンリコに、私は脅迫的な笑みを浮かべてにじり寄る。
 こうなった私はしつこいぜ?





「ね、減る物じゃないですし」
「やれやれ、参ったなぁ。アリアちゃんには勝てないね」

 粘る事半刻、ようやく観念したエンリコが苦笑して言う。

「何から話せばいいのか……。そうだなぁ、アリアちゃんって親御さんはトリステインだったっけ?」
「えぇ、まぁ、そうですね」

 今となってはどうでもいい事だけれど。
 彼等と私の人生が交わる事は二度とないだろう。

「そっか。僕の実家はさ、デュッセルドルフで生地や生活雑貨の小売店をやっていた商家だったんだけど」

 エンリコは目を細めて、懐かしむように語りだした。

 デュッセルドルフというのは、ケルンから荷馬車街道を少し北に進んだ所にある中規模の都市である(ツェルプストー辺境伯領内ではない)。
 ちなみに名産はアルトエールと呼ばれる麦酒だ。

「やっていた? 現在は」
「そう、破産したのさ。今は両親とも借金を返すのに必死で出稼ぎ中、って感じかな」
「え? あ、ご、ごめんなさい……」

 当然のように言うエンリコに、私はただ謝るしかなかった。

 まずいことを聞いちゃったなぁ……。そんな重たい話になるとは。
 そういえば、ヤスミンもエンリコの実家の事に対してはあまり詳しくは言及していなかったな……。

 もっとこう、浪漫に溢れる話かと思っていたのだけれど。

「気にしないでいいよ。昔の話だし、お世辞にも上手い経営をしていたとは言い難いしね」
「はあ」
「でも、良い店だったんだ。利益は大して上がらなかったけれど、両親は勤勉で善人だった、と思う。常連もそれなりにいたし、ね」
「ならば、どうして?」

 破産してしまったのだろう。
 堅実な商売をしていれば、多少経営はまずくても、小売店ならばそうそう潰れる事はないはずだ。

「ああいうのを、魔が差した、というんだろうなぁ。いや、野心は元々あったのかもしれないね。父も商人なわけだし」
「野心、と言う事は、事業の拡大か何かです?」
「うん。さすがアリアちゃんは察しがいい。父が店の常連の一人だった高利貸し《ロンバルディ》の儲け話と口車に乗せられてね。新しく都市が開発される、という情報を鵜呑みにして、そこに支店を作るために借金をしてしまったんだ」
「なるほど。その儲け話がスカで、借金を作っただけになってしまった」

 私が後に続く言葉の推論を述べると、エンリコは頷きをもってそれを肯定した。

 あまり世間を知らない地方の小売商が、突飛な儲け話に踊らされるというのはよくある話だ。
 高利貸し《ロンバルディ》と一口でも言っても色々だが、自分から相手に対して借金する事をもちかけるという行為からみて、碌なモノではなかったのだろう。

 エンリコの父は最初から罠に嵌っていたのかもしれない。
 
 こういう過去があったからこそ、彼は交易商での修行という道を選んだのだろうし、必要以上に堅実であり、慎重なのだろう。
 なんとなく納得できた気がした。それにしても、人が好いのは親譲りみたいね。



「つまり、エンリコさんは、実家の借金を早く返すために独立という賭けに出る、という事ですか?」

 額にもよるけれど、それだけの理由なら、安定した収入が得られる駐在員でも問題ないんじゃないかなぁ。
 給金は悪くないはずだし。それとも利率が馬鹿みたいに高かったりするのか?

「はは、ま、そういう現実的な理由もあるんだけど。本当の理由は、夢のため、かな」
「夢、ですか?」

 なんだ、やっぱりそういう理由があるのか。ちょっと安心した。

「うん。両親が生きている間に、実家の店を僕の手で再建したい、と思ってね。もう一度あの店をお客さんで一杯にするのが、僕の夢ってところかな」

 エンリコはすこし気恥かしそうに頬をぽりぽりと掻いて言う。
 
 む~、孝行息子だなぁ。それが自分の夢だとは。

「それって、やっぱり駐在員の給金じゃ難しいんですか?」 
「そうだね。まず、現実的な理由である借金を片づけてから、店を買い戻して、それをまた軌道に乗せて……。って考えると、とても駐在員の給金では実現が厳しいんだ。期限的な問題でね」

 なるほど、エンリコの夢も、私のように期限付きだったというわけか。

「ちなみに親方は知っているんでしょうか、この事」
「知っているよ。それでも親方は“親は親、お前はお前だろう。親の生き方に振り回されるな”ってね。親方だって僕の事を考えてくれているのは分かっているんだけど……。こればっかりは譲れないな」
「やっぱり、来春には旅立ってしまうんですか?」
「だね。それまでには親方を説得して見せるさ」

 エンリコは強い口調でそう断言すると、ぴしっ、と馬に一つ鞭を入れ、手綱を締める。
 馬車の走行速度が上がり、騒音と振動が激しくなり、会話はそこで途切れた。

 理由は分からない。

 しかし、その時、私の胸はきゅぅ、と締めつけられるような痛みに支配されていた。





 その夜、ケルンへと到着した私達が、一番先に向かったのは、役人の詰所でも、組合の事務所でもなく、カシミール商店だった。
 今回の件を一番初めに報告すべきなのは、何を置いても雇い主である親方であるからして。

 あまりにも帰りが遅い私達を待っていてくれたのか、夜も遅いというのに、商店で待ち構えていた居残り組のメンバーが温かく迎えてくれたのが嬉しかった(フーゴにいたってはちょっと鬱陶しいくらいだったけれど)。



 そして現在は、エンリコと二人、報告のために、例によって3階の事務室で親方と向かい合っている、という訳である。



「と、以上です」
「……そうか。それじゃエンリコ。お前は賊の件、役人に報告へ行ってくれ。相手が商人でないなら、組合には行かなくてもいい」

 エンリコのよく纏められた報告が終わった後、親方はエンリコに向かって指示を出す。
 報告が進むにつれて、親方の表情が段々と不機嫌な顔になっていったのが怖い。

 特に、私の判断で詐欺師達と対決したあたりで怒りのピークに達したらしく、貧乏ゆすりが始まったのが特に印象的だ。

「わかりました。では、失礼します」

 エンリコがそう言って、部屋を退出しようとすると、私もそろり、とそれに便乗して部屋を辞そうとする。

「待て」
「ひぁ」
「お前は残る、いいな?」
「はぃ」

 親方はギロリ、とこちらを睨んで言う。
 私は蛇に睨まれた蛙のように、抜き足の姿勢のまま立ち竦んだ。



「さて、まず言う事は?」

 エンリコがいなくなり、部屋に二人きりとなると、親方は半眼で私を見て発言を促す。

「す、すいませんでした。勝手な判断をしてしまって」
「まったく、お前と言うヤツは……」

 親方は、はぁ、と溜息をついて首を振る。

「で、でも、契約自体は無事に結べたわけですし、結果オーライ、という感じで」
「ふむ、そうだな。よくやった、偉いぞ」

 私の言い分に、親方は不自然ににっこりと笑う。ひきつり気味に笑い返す私。

「何て言うと思うか?」
「ですよ、ねぇ」
「こんの、大馬鹿たれがぁっ!」

 四里四方に響き渡りそうな親方の怒号が飛ぶ。

「賊共と舌戦を交えたまでは、まぁいい。だが、メイジが出てきた時点で、どうしてすぐに戻ってこなかった?」
「で、でも、あの状況では、私達が判断を下して、カタを付けるしかないと思ったんです。そうしないと、取引が潰れてしまうと思って」
「誰もお前の判断なんざ求めていねェんだ! 一体、何様のつもりだ? お前はこの店の経営者だったか?」
「いえ、違います……」
「だったらまず、俺に判断を仰ぐのがスジであり、ルールだろうが!」

 親方の本格的な大怒りが炸裂した。
 私はこれ以上反論する事はせず、ただ黙って項垂れた。今反対意見を述べれば、火に油だろう。

「何時も言っている事だが、組織に属している以上は、そこの規則は守れ。“あからさまに”ルールを破っちまうようなヤツは大勢の支持は得られねェし、不必要に敵を作っちまう」
「はい、それは重々」
「本当に分かってんのか? 一歩間違えればお前は死んでいたんだぞ? お前にとって今回の取引は、命を賭けるほど重要なものだったのか?」
「……違う、と思います」
「だろう? 取引額こそ10000エキューを超える取引だが、これが失敗してもお前が破産するわけでもなんでもねェし、ウチとしても仮にポシャっても痛くも痒くもねェような取引なんだよ、お前らに任せたくらいなんだからな」
「う……」

 親方はそこまで言うと、うなだれる私を見て、こほん、と一つ咳払いをした。



「が、商売に命を賭けるっつう気概と、即時に自分の判断を下せるという大胆さは、“経営者としては”悪くない美点ではあるがな」
「へ?」

 コロリと鞭から飴に変わる親方の言葉に、私は思わず顔を上げて聞き返す。

「ま、ここから先はお前が独立した後の話だがな。教会や組合のくだらん規則よりも、自分の判断を優先できねェような商人に大きな成功などあり得ねェ。規則を真正面から破るのは駄目だが、それに疑問を持ち、逆手にとって利用してやるくらいの強かさと懐疑心、そして反骨心が商売人には必要だって事よ。そういう意味じゃ、お前には期待しているっつぅことだ。……飽くまで独立した後の話だぞ? ここにいる間は組織人として、規則は絶対遵守だからな?」
「はっ、はい!」

 親方は片目だけでこちらを覗きこみながら、念を押すように言う。
 どうやら多少婉曲的ではあるが、私を褒めてくれているようだ。

 ん? でも、これって。



「エンリコさんの独立に反対しているのは、それが理由ですか?」

 そう、親方が言うそれらの要素は、おそらくエンリコには無いものだ。

「ん……。まぁ、な」
「つまりエンリコさんは……、その、商人にはあまり向いていない、という事です?」
「いや、そうは言わねェさ。あいつの生真面目さと慎重さは組織人としては優秀だ」
「しかし、経営者としては、という事ですか」

 親方は私の言葉に、苦々しげな表情でに頷く。

「ま、反対はしているものの、あいつがどうしても独立するってなら、俺に止める権利はねェんだがな」
「でもっ、そこまでわかっているのなら、無理をしてでも止めるべきでは」

 成功の方に天秤が傾いているのなら、私はエンリコの方に味方するつもりだった。
 しかし、失敗すると分かっていて、商店の仲間を送り出せる程、私は薄情ではない。

「じゃあ、お前はどうなんだ?」
「え」
「俺が止めたからって、独立を諦めるのか?」
「そ、それは……」

 親方の問いに、私は言葉を詰まらせた。

 そうだ。誰にどうこう言われようが、諦める訳が無い。それはきっとエンリコも同じ事。

 人其々に理由があって、それを止める権利は誰にもない、何て事は分かっていた事なのだけれど。
 しかし、そんなクールな理屈とは裏腹に、納得できない私がいる。

「逆に言やあ、その程度で諦めるようなヤツこそが、本当の意味で独立しちゃあ行けねェヤツなんだよ。……それに、成功するか失敗するかなんつぅのは、俺にも本人にすらわからねェ、人の手には届かない所での出来事が左右する事だ」
「そういう理屈は、分かっているつもりだったんですけど」
「心配、か」
「……そんな感じ、かもしれないですね」
「くっくく、お前みたいな未熟者如きがエンリコを心配してどうするってんだ」

 神妙な顔をした私の答えを笑い飛ばす親方。
 
 むぅ。確かに分を弁えない発言に聞こえない事もないわね……。

「ま、わからんでもないが。商店っつうのは一つの“家”みたいなもんで、そこで働く奴らは家族といっても過言じゃあないからな」
「あ、それですよ、私が言いたかったのは! 兄を心配する妹、というか」
「俺にとってもここの見習いは息子であり、娘みたいなもんだ。そのうち誰が旅立つにしても、大なり小なり不安や心配はあるもんさ。いつかお前が旅立つ時もそうだろうよ。……いや、お前みたいに無茶で無謀で無鉄砲なヤツの場合は、縛り付けてでも止めるべきか」

 親方が口にした冗談交じりの言葉。
 それは私にとって、嬉しくもあり、こそばゆくもあり、同時に、悲しくもあった。

「娘、か……」

 私は反芻するように口の中でもごもごと呟く。
 
 いつか私もここを旅立たねばならない時が来る。
 そう考えると、また私の胸に締め付けられるような痛みが再来する。

 私は、その痛みの正体がようやく理解できた。

 これはきっと、別離の痛み。





 肌寒い夜風に吹かれながら、私はウェーブがかった栗色の髪を掻きあげる。
 頬にはうっすらと涙の痕。

 親方とのやり取りが終わった後、何かたまらなく悲しくなってしまった私は、誰にもその顔を見せないために、商店の屋上に独り腰掛け、綺麗な双月を見上げていた。

「ふぅ……。いつまでもこうしていても仕方がないわね」

 ひとしきり物思いに耽った後、私はぱん、とズボンについた埃を払いながら立ちあがり、そして後ろを振り返ると。



「よ、よう」

 気まずそうな表情で固まりながら手を挙げるフーゴが隠れるような体勢で立っていた。
 
 どうやらこの様子だと一部始終を見られていたらしい。

「あんた、ずっと覗いてたわけ? イイ趣味してるわね」
「悪い。そんなつもりは」
「じゃあどんなつもりよ……」

 怒る気力も余り残っていなかった私は、ただ深く溜息を吐いた。

「そうツンケンすんなよ。俺はお前が、親方に叱られて凹んでるんじゃねーかと、先輩として心配をだな」
「それはそれは。お優しいフーゴ先輩に感謝いたしますわ。嬉しくて涙が出ちゃいそう。……というか、何で私が怒られた事なんて知っているの?」
「あ~っと、それは」
「どうせ事務室の盗み聴きとかそんなとこでしょ?」

 図星だったのか、フーゴはしかめっ面で後ろに仰け反った。。

 本当にデリカシーの無いというか……。
 私だって少しは放っておいて欲しい時があるのだよ。

「けっ、可愛くねー女。折角人が慰めてやろうと思ったのによ」
「余計なお世話。それに、凹んでたわけじゃなくて、感傷に浸っていただけよ」
「……エンリコさんの事か?」
「それもあるわね」

 開き直ったフーゴの問いに、頷く私。



「やっぱりお前、エンリコさんの事──」
「えぇ、好きよ」

 私がはっきりとそう明言すると、フーゴは驚いたように目を見開き、次にがっくりと肩を落とした。
 その表情は虚ろで、何やら放心したようにぶつぶつと呟いている。うん、相変わらず訳のわからない奴だ。

「それに、親方も好きだし、ギーナさんやゴーロさんも好き。……あんたは、微妙だけど」
「は、はぁ?」
「もっと言うと、この街で出会った人はみんな好きって感じね」
「あ、あぁ、好きってそういう」

 ほぅ、と胸を撫で下ろすように言うフーゴ。

 うぅむ、もしかしてこいつ。
 いや、まさかそんなわけないわね。一応上級貴族のお坊ちゃんなわけだし。

「でも、いつかは別れなきゃいけない、って現実的な事を考えていたら、柄にもなく泣けてきちゃったってとこ」
「……別に、今生の別れってわけじゃないだろう?」
「そうね、それは分かっているんだけど……ひゃ?」

 そこまで言った所で、にゅぅ、と無言でフーゴの手が伸びて来て、私の頬を拭う。

 どうやら無意識のうちに、また涙が零れていたらしい。

「まーた、ぴーぴー泣きやがって。何が『柄にもなく』だよ。いっつも泣いてばっかりじゃねーか。これだから餓鬼は」
「ぴーぴーなんて言ってないっての!」
「泣いてんのは事実じゃねーか!」

 そこからは結局いつもの取っ組み合いになった。
 やれやれ、こいつとの関係だけは一生変わらなさそうな気がするわね。



「おー、痛ってぇ、この馬鹿力……」

 無益な戦いが終わった後、フーゴは捻られた腕をさすりながら文句を言う。

「餓鬼の私にいいようにされるなんて、情けないわねぇ」
「ぐ」
「……ま、あんたの言うとおり、ではあるけどさ。もっと強くならなくちゃ、ね」
「どこが? もういいだろうが。これ以上強くなられたら、俺の立場が」
「あんたの立場? よくわからないけど、私が言っているのは精神的な強さの事よ。いつまでも子供みたいに泣いていちゃ駄目だって事」

 私はそう言って、もう一度天を見上げた。フーゴもそれに釣られるように上を向く。

「“東方”ではね。流れ星が落ちる前に三回願いを念じると、その願いが叶うっていう迷信があるのよ。どう、やってみない?」
「なんだそりゃ、随分と便利な迷信だな」
「あはは、そうね。でも、絶対に叶えるっていう、誓いを立てるという意味では悪くはないかもよ?」
「……どうだかな。ま、別にいいぜ。お子様のお遊びに付き合ってやるよ。いつ落ちて来るのかもわからねーけど」
「う~ん、面倒だからあの双月に願う事にしましょうか」
「適当だな、おい」
「いいのよ、願う対象なんて何でも」

 そうして、私とフーゴは赤と青の双月に向かい、瞳を閉じる。
 欲張りな私は、いくつもの誓いを心に立てていく。

 私にとっては、これが子供時代の終わりなのかもしれない。



 などとしんみり考えていた私が目を開けると。

「いっ……」
「くふふ、強くなりたいとは良い心掛けじゃのぅ?」

 にやついた表情のロッテが仁王立ちで私を見下ろしていた。

「なっ、何でっ?!」
「何でも糞もあるか! 主、2、3日で戻って来るといっておったろうが? さっき妖精亭の営業が終わって外に出てみれば、主の匂いがしたからの。慌てて飛んできたというところじゃ」
「あ」
 
 そうだった。ロッテには、まだ何の説明もしていなかったっけ。

「おかげで洗濯物はたまりっぱなし! 部屋は散らかり放題! どうしてくれるんじゃ?」
「いや、それは自分でやれば……」
「ほぅ? なるほど、そんな事をやっている暇があったら、鍛錬をして強くなりたいと申すか」

 ロッテの瞳が妖しく光り、額にははっきりと青筋が刻まれた。
 やばい、帰って来てそうそう、大変な目に遭いそうな悪寒がするわ……。

「あ、あの、お姉さん。アリアのヤツは長旅で疲れていて、ですね。今日くらいはゆっくりさせてやったほうが」
「ん? 主は……。ふむふむ、迷惑をかけた姉に頭を下げるのを差し置いて、男といちゃいちゃしておったわけじゃな?」

 フーゴの庇い立ては、ロッテの怒りに油を注いだだけになってしまったようだ。

「ちっ、違うのよ、これは──」
「そうかそうか。うむ、今日は天気も良いし、12時間耐久寒中水泳といくか。勿論、ライン河を逆行してな」

 ぱきぽき、と指の骨を鳴らして恐ろしい事を口走るロッテ。
 いや、この寒さの中、そんな事をしたら死んでしまいます、お姉様。

「ちぃっ」

 マルグリッドなど比にもならない危険度を感じ取った私は、弾かれるように3階へと降りる梯子へ駆け出す。

「鈍いっ!」

 一瞬で前に回り込み、私の行く手を塞いだロッテ。

  
「妾が狙った獲物を逃がすと思うか?」
「ひ、う、たっ、助けなさいっ、こら、フーゴ!」

 ロッテは、私の服襟をむんずと掴んで、猫のように持ちあげて嗤う。
 フーゴに助けを求めるが、無理だ、とばかりに腕をばってんに交差している。

 この薄情者め……。

「遠慮するな、妾が責任を持って、主を強くしてやるからの。安心せい」
「いやっだぁあぁっ」

 ケルンの夜空に鶏を絞殺したような絶叫が響く。



 願いを聞き届けた双月は、どうしたものか、と困ったようにその様子を眺めながら、私達を優しく照らしていた。





 軽い荷物にしてほしいと願ってはいけない──もっと強い背中にしてほしいと願うべき。

                                        セオドア・ルーズベルト





第二章「商店見習アリアの修行」終
幕間につづけ



[19087] 2~3章幕間 みんなのアリア (前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2010/10/31 15:52
<ep1.姐御と愉快な仲間達 オルベの事件からおよそ一月後のウィンの月>



「はぁ」

 小汚い木賃宿の窓べりに肘を掛けて溜息を突く美女。

 そう、あたいの名はマルグリッド。
 ゲルマニア東部では、ちっとは名の知れていた盗賊団の頭である。いや、だった。

 しかし、現在あたいがネグラにしているのは、ゲルマニアではなく、お隣の弱小国、トリステインに存在する、サン=シュルピス伯爵が治める交易都市、ここ、シュルピスの街だった。

 商業の発達が遅れているカビ臭いトリステインの中で、最も他国の商社支店が存在するのがこの街だと言われている。
 アルビオン、ガリア、ゲルマニアの三方向に伸びる街道の合流地点である、という地理的な要因が、この街をそのような交易都市にたらしめているのであろう。



「はぁ、どうしてあたいがこんな野暮ったい街に……」

 油布を張っただけの粗末な窓から、メランコリーな表情で街並みを見渡して、あたいはもう一つ溜息を付いた。

 この程度のシケた規模の街でトリステイン一の交易都市だ、というんだから、しみったれた国だよ、この国は。

 中心部のメインストリートの方に目を向けると、ゲルマニア国籍の店看板が目に付き、それが何とも郷愁を誘う。
 といっても、ゲルマニアの商業都市と比較すると、その数はあまり多くはない。

 商人でもないあたいには、その詳しい理由はわからないが、もしあたいが商人ならこんなしみったれた国には来ないだろうさ。
 ちっとも儲かりそうに見えないもの。

「くそっ、あのアリアとかいうクソ娘、いや、ビチグソ娘のせいでっ!」

 都落ち(?)した悔しさに地団太を踏む。

 ……っはぁ、情けなくなってきた。
 あたいともあろうものが、あんな毛も生えていないような餓鬼んちょに負けた上に、故郷を追われるハメになるなんて。

 っち、こういう時は、紫煙を燻らすに限るね。

「よっこらせっ、と。ふ~……。ウル・カーノ」

 座ったまま、乱れたベッドの枕元に置いてあったキセルに手を伸ばし、口に咥え、【発火】を唱えて火を入れる。

「ぷはぁ」

 元気はないけど、煙草が美味い。

 ん? 杖はどうしたって?
 これだから素人さんは……。このキセルが隠し杖なんだよ。

 何を隠そう、コイツのおかげで忌々しいクソ役人共から逃げることが出来たのさ。
 どうやってって?それは──



「姐御、ただいま帰りやした」

 おっと、使えない部下共が戻ってきやがったかい。

「開いてるよ、入りな」
「へいっ」

 入室の許可を出すと、満面の笑みを見せる疵面のジローと、気取った様子で澄ましている小男のオノレが順に顔を見せる。
 馬鹿で阿呆でクソ世話のかかる部下共だが、一家が瓦解した後も残ったのはこいつらだけなので、暫くはこの面子でやっていくしかないだろうね。

「で、成果は?」
「へい、なんとか仕事がみつかりやした。街の清掃業っす。日給は15スゥですね」
「ふん、お前にはそのくらいがお似合いだ。俺くらいになると、日給20スゥの布告人(その日の出来事を叫びながら街中を練り歩き、都市民にニュースを伝える職業)の仕事を……」

 ジローの奴が得意げに言い放ち、オノレがそれに被せるように自慢を始めた。

 いや、お前ら、ちょっと待て。

「おい、クソ共。あたいは部下を集めてこい、といったろ?何でカタギの仕事なんて探してるんだい?」
「いや、背に腹はかえられないつーかですね。おいら達、殆ど無一文じゃないっすか」
「それが? だからこそさっさと部下を集めて盗賊稼業を再開しなくちゃ駄目じゃあないか。もう、ペテンは懲りたんだよ、あたいは」
「はぁ。しかしですね、もう此処に来て1週間だし、そろそろ、この宿も追い出されちまいますよ? 野宿でもいいんですか? おいらは構いやしませんが」
「う……。それはイヤ」
「でしょう? おいら達だって不本意ですが、カタギの仕事をしてでも金を稼がなきゃ生きていけませんからね」
「ぐ……」

 ジローの奴が珍しく正論を振りかざして痛い所をついてくる。

「ち、こんな事なら、逃げて来る時に金目のモノでもかっぱらってくればよかったね」
「そんな余裕があれば、ね……。実際の所、こうして3人が無事に合流できた事自体が奇跡に近いんじゃ?」

 あたいの呟きに、オノレが突っ込みを入れて来る。
 そんな事はあたいだってわかってる。ただ言ってみただけさね。



 ……さて、どうやって役人共から逃げ出したか、って話だったね?

 あのクソ娘にこっぴどくやられた後、村人達に捕らえられたあたい達は、厳重に縛られた上に、座敷牢のような構造の納屋にぶち込まれた。
 
 本当なら、役人が来る前に逃げ出したかったんだがね……。村人共はそうとう頭にキてたんだろう。あたい達が何を言っても聞きもしやがらない。
 あたいなんて何日も高熱でうなされていたってのに。薄情な奴らさ。



 で、それから数日後、あたい達を捕縛するために、西から、多分ケルンの役人かね?
 とにかく役人が派遣されてきた。
 メイジっぽいのが一人、他は帯剣した平民らしいのが何人かってとこだ。

 実際のところ、あたい達はかなり追いつめられていた。
 都市部に連行された後、本格的な牢獄に入れられたらもう脱出は不可能だからね。

 そこであたいは、護送の馬車が都市部へと着く前に、一か八かの賭けに出ることにした。

 押収物であるキセルに【魔法探知】《ディテクト・マジック》が掛けられる事は無かったのが不幸中の幸いってやつだ。
 『最期の一服をさせてくれ』と見張りの役人に懇願し、キセルを受け取った瞬間に【風刃】《エア・カッター》を飛ばして、あたいと部下共の拘束具をまとめて断ち切った。
 呆気に取られたクソ役人共に、続けざまに【風鎚】《エア・ハンマー》をぶちこむ。
 その隙に馬車を引いていた馬を盗んで、ガリア方面に比べて警備の薄いトリステイン方面に、着の身着のまま逃げ出したのさ。
 国境さえ越えてしまえば、役人が追ってくることはないからね。もっとも、関所を通るわけにはいかないから、道無き道を進まなくちゃならなかったんだけどね。

 ま、その時の詳しい事はいいだろう。
 狼の群れ、腐った臭いのするゴブリン共、それよりも厄介だったのは……やめておこう。          
 正直、あまり思い出したくもない。

 ったく、お肌と髪が荒れちまうっての。
 念のために言っておくけど、あたいはまだピチピチの19歳だからね? そ、それをあのビチグソ娘は、と、と、年増とかっ!
 
 ……こほん。

 ま、という事で、さすがに今はゲルマニアに戻る事は出来ないだろう。
 玄関口である西部には、脱走犯として人相書きが出回っちまっているかもしれないしね。

 はぁ……。あたいもここらが潮時なのかねぇ。
 


「それでですね、姐御」
「ん? 何だい」

 物思いに耽っていると、気まずそうな顔でジローが何事かを切り出す。

「実は、姐御にも仕事を見つけてきまして……」
「はぁ?! 何を勝手なことをっ! あたいに働けっていうのかい?」

 自慢じゃないが、あたいは生まれてこの方、カタギの仕事なんて殆どしたことがないってぇの。

「いや、そりゃ、おいら達の稼ぎだけで姐御を養えるならいいんですがね。正直なところ、月に5エキューか6エキュー程度の収入じゃ、ちょいときついんすよ」
「……使えないねぇ」

 確かにその程度の収入じゃ、ね。
 は~、ほんっとに情けないったら……。マルグリッド盗賊団も落ちたもんだよ。

「クソ、仕方ないね。で、何の仕事なんだい?」
「へへ、すいません。えぇと、給仕の仕事なんですがね、これが一日50スゥは稼げるっていう割の良さで」
「へぇ、余所者が就ける職にしては随分と割がいいじゃない。ちなみに何て言う店なんだい?」

 一日50スゥと言う事は、1週間に1回休みがあるとしても、月に14エキューは稼げる。
 しかも給仕程度なら、あまり働いたことのないあたいでも出来そうな気もする。

 これを機にカタギとしてやり直してもいいかもしれない、なんてね。

「“疑惑の妖精亭”っていう酒場なんですがね。これが下着一枚の女の子が濃厚なサービスをしてくれるっていうホットな──」
「【風鎚】《エア・ハンマー》」
「うぐはぁっ?!」

 流れるように光速の詠唱を済ませ、問答無用でジローを吹き飛ばす。

 なんて、は、破廉恥な……っ! あたいがそんな仕事をするわけがないだろうがっ!

「こっ、こここ、このクソがっ! 馬鹿がっ! 豚野郎がぁっ!」
「あっ、あがっ、あ゛ぶっ」

 怒りの収まらないあたいは、倒れ込んだ馬鹿をげしげしと蹴り込んだ。

「ふん、馬鹿な奴だ。姐御、ご安心を。俺がちゃんとした仕事を見つけていますから」

 オノレは蹲るジローを横目に吐き捨てると、胸を張ってあたいの方に向き直る。
 さすがオノレの奴はジローとは一味違うみたいだね。

「ほぅ、大した自信だね? だが、変な仕事だったらぶっとばすよ?」
「ははは、大丈夫です。きちんと大人の仕事ですから。姐御が下着でサービスなんて子供騙しみたいな仕事するわけないですよね」
「え?」
「はい、俺のほうは素っ裸ですんごいサービスをするっていう……。あれ? 姐御? どうしました?」
「ふ、ふふ。お前らがあたいをどんな眼で見ているのか、少し分かった気がするよ……」
 
 怒りにぷるぷると震える手にキセルを握りしめ。
 漲る負の力をルーンに変える。

 嫌なことはみんな、全部吹き飛んでしまえ。

 あぁ、かつてこれほどまでに力が湧き上がることがあったろうか?

「イル・ウィンデ・フラ・ソル……」
「こ、この長い詠唱って……?! おっ、落ちつきましょう、姐御! 軽いジョークです、冗談!」
「どいつもこいつもっ……! あたいを馬鹿にするなぁっ! 【爆風】《ウィンド・ブレイク》!」
「ぎにゃあぁあっ……っ!」

 生まれて初めてのライン・スペルによる、膨大な風の奔流は、ジローも、オノレも、粗末な家具も、そして薄汚い木賃宿も──願い通りに、目の前の全てを吹き飛ばした。

 そう、この日、あたいは蛹が蝶になるように。
 晴れてライン・メイジへと昇格した。

 




 が、それでめでたしめでたしとはいかないってのが世の中ってものさ。
 あたいは結局、壊した部屋の修理代を支払うために、“疑惑の妖精亭”で暫く働かざるを得なくなってしまったのだ。

 なんという事だろう。
 こ、この誇り高きマルグリッド様が、し、し、下着姿で男にご奉仕……、いや給仕なんて!

 ふ、ふふ。あはははっ!
 ビチグソ娘め、首を洗って待っているんだよ。あたいをこんな目に遭わせた借りは返させてもらうからねっ!

「あれ? 何やってるんすか、姐御。早く出勤しないと、給金貰えませんぜ」
「しっかりして下さいよ、働かざる者食うべからず、ってね」

 そうやってあたいが修理中の木賃宿で、胸に復讐を誓っていると、仕事から帰って来たジローとオノレが言い汗掻いた、という感じのやり遂げた顔をして言う。

 何? 何でこんなに偉そうなの、こいつら? 仕事してるから? 仕事してるからこんなに偉そうな訳?

「このクソ馬鹿共っ! 何順応してんだ、お前らはっ!」
「誰のせいで、無駄に働かなけりゃならなくなっちまったと思ってるんですか……」
「ぎ、ぎぎ……」

 二人は部屋の大穴に目をやった後、じと、と責めるようにこちらを見る。
 畜生、正論だよ、クソッタレ!

「あぁ、もう! 行くよ、行けばいいんだろ!」
「いってらっしゃいませ、姐御」

 悔しさに身悶えながらも、仕事にはいかねばならぬ。生きることってのはげに厳しい。
 今日も今日とて、あたいはマルグリッド盗賊団の再興を夢見て、今ある現実と戦うのだった。





<ep2.伯爵夫人の暗躍 年が開けたヤラの月>



 帝政ゲルマニア南部・フッガー伯爵領内の自由商業都市、アウグスブルグ──

 ロマネスクとゴシックそしてルネサンスの様式が複雑に混在した建物が、所狭しと建ち並ぶこの街には、入市税(余所の商人が都市に入る際、発生する関税。その税率は都市による)が存在せず、歳市は月一度という超短期の間隔で開かれる。
 その他にも、商人層に対してかなり優遇的な措置を取っており、商業の国・帝政ゲルマニアでもかなり特殊な街といえる。

 この街に本部を置く、南部のアルテの印章《シンボル》は、“自由”の象徴とされる双頭の鷲と、この都市のシンボルである松ぼっくりをモチーフにしたものだ。
 アルテの名に、“自由”と銘打つだけあって、そこに住まう商人の種類もまた様々。
 交易・卸売業や小売業、運送業、接客業、金貸し《ロンバルド》など、どの都市にでもいる商人達は勿論、養蜂・養蚕・酪農・牧畜・農場経営者、鉱山経営者、それらの素材を一次加工する工場への出資者(南部では北部と違って職工組合《ツンフト》の力が強いため、商人達はあまり経営には口を出せず、分け前に預かる出資者という立場でしかない)、またその他、それらの商人達に付随するあらゆる種類の商人達が、この街でひしめきあっているのだ。

 今では、ゲルマニアに存在する多くの都市で採用されている都市の代表者《プリオーリ》による領主との協議制という街の運営方法はこのアウグスブルグが起源とされている。
 知的階級(富裕商人層)の多い都市部については、領主が下手に締めつけるよりも、街の意見をまとめた方が、ずっと管理がやりやすくなる、という初代フッカー家当主の考えから生まれたやり方だ。
 この辺りの半ば自治を認めるような政策も、“自由”の名に相応しいと言えた。



 尤も、この都市統治の方法は、ロマリアの一部都市国家では遥か昔より存在する、しかし今現在も脈々と受け継がれているシステムを手本にして改変されたものであるのだが。
 お堅く、魔法絶対主義で、平民には厳しいようなイメージのあるロマリアだが、実はそれは的外れな憶測だ。

 都市国家によっては平民達の自由度は高いし、また教会の権威に保護される事によって、必要以上に潤っている商家・大農家・工房なども多い(かつては、僭主、といって富豪の商家が、裏で教皇を操るという事もあった、という。もっともそれは、ブリミル教の歴史の闇として葬り去られている事実ではあるが)。
 また当然ながら、平民出身であっても、司教となれは他国の凡百の貴族以上には力を持つ事が出来る。
 そもそも、ロマリアはハルケギニア商業の始祖であり礎であると言われているほど、昔から平民の力が強いのだ。だからこそ、商業用語にはロマリア語が多用されている。
 まさに、“自国の”平民達にとっては“光の国”といってもそうおかしくはないのだ。

 “自国”の、と断りを入れたのは、ロマリアに溢れていると言われている貧民の多く、いや殆どが他国から流れてきた難民や移民、もしくはその先祖が辺境や外国出身の都市民《コンタード(田舎者の意。彼らは他国や辺境の民を貴賎関係なく全て田舎者である、と考えている)》で占められているためだ。
 つまり、これは、ロマリアという国全体が元々土着の自国民は過保護なほどに優遇するが、余所者に対して非常に厳しい地域であるという事を示している。
 それでも余所の交易商人達がロマリアとの取引を縮小するどころか拡大したがる傾向が強いのは、彼等の持つ武器(商品)が非常に魅力的だからだろう。
 ともすれば、ゲルマニアとロマリアの違いは、余所者に寛容かどうか、という事だけなのかもしれない。

 

 さて、少し話が逸れた。
 ゲルマニアでいち早くそのような制度を取り入れたという経緯もあって、アウグスブルグの民は、政治的関心が強く、自立心旺盛である、と言われている。
 そんな自立心旺盛な商人や職人の卵や、その他低所得の労働者達にとって、この街は優しい。
 そのシンボルとして挙げられるのは、何と言ってもフッガー・ライと呼ばれる低所得者向けの、大規模住宅群だろう。

 初代フッガー家当主が街に寄贈した、という歴史を持つ、絡みついた緑の蔦が美しいこの住宅群には、商家の徒弟や街の労働者階級が、フッガー家及び市の援助により、ほぼ無料、といってもいい程の家賃で暮らしているのである。
 領民からの税よりも、商会からの収入の方が大きいというフッガー家は慈善家としても有名で、これ以外にも領民に対して、様々な慈善活動を現在進行形で行っている。

 と、このような領民に有益な統治を、何代にも渡って行い続けてきたフッガー家は、他国の貴族は勿論、ゲルマニアの他貴族と比べても、領民から圧倒的な支持を受け続けていた。



 さて、その信頼あるフッガー家の面々が在住している屋敷、というか、城のような建物は、アウグスブルグのメインストリート、マキシミリアン通り沿いに存在する。

 黄と青の一対になった百合の紋章が彫刻された白亜の正門をくぐり、よく手入れされた色とりどりの花と実が成る菜園のような庭を抜け、屋敷の重厚なウォールナットの玄関扉を開けると、フッガー家の富を象徴するかのような黄金色のホールが目に飛び込んでくる。
 大概の来客はここで圧倒され、縮こまってしまうほどの迫力を持っているエントランス・ホールである。その他、一階には食堂、大浴場、厨房、倉庫、執事室などが存在する。

 その絢爛なホールを眺めながら、藍の絨毯(藍・紅・紫は染料や顔料の希少性からして、高級な色であるとされている)の敷き詰められた大理石造りの大階段を昇ってみると、二階には整然と無数に並ぶ来客用の応接室や寝室、蔵書や事務仕事をするためのいくつかの書斎、三階には昔、側妾達が使っていた空き部屋や娯楽室がある。
 上級貴族が正妻以外の女を囲うのは、家の存続の面でごく当たり前の事であるが、現在のフッガー家では当主が正妻との間に三人の男児を設け、それが全員(およそ一名、放蕩はしているが)順調に育っているため、側妾は必要無くなってしまったのだ。
 なので、昔は数人居た、平民や平貴族出身の側妾達は、補償金を受け取って故郷に帰ったり、フッガー家の持つ他の住居で気ままに暮らしていたり、人によってはフッガー家の使用人をしながら離れに住んでいたりで、現在三階の部屋に暮らしている者はいない。庶子がいればまた別だったのだろうが、現当主の子は正室の産んだ三人の男児だけであった。

 そしてやっと最上階である四階に辿りつく。この階には各家人の私室や寝室、そして金庫室が存在する。
 迷路のよう、にはなっていないが、部屋の外装はほぼどれも同じようなものなので、部屋の位置をしっかり確認しておかなければ、目的の部屋がどこであるのかがわからなくなってしまうだろう。
 
 しかし、四階の、丁度西側の端に位置する部屋だけは、薄い桃色の扉と、ノッカーに付けられた花飾りによって、非常に目立っており、そこが誰の部屋なのか、一目瞭然でわかるようになっている。

 そう、その少女趣味な外装の部屋こそ、フッガー家の正妻、三兄弟の母、ヴェルヘルミーナ・アルマ・フォン・プッドシュテッド・フッガーの自室であった。

 



「ふぅん、あの娘、メイジを含む賊3人をたった1人で殲滅したんですって! もっとも、その賊は役人達が取り逃がしてしまったらしいけれど……」

 ぬいぐるみや人形が頓挫する毛皮張りのソファーにちょこんと同席しながら、熱心にケルン担当の新しい連絡員からの手紙を読む我が主ヴェルヘルミーナ様、いや、奥様ははしゃぐようにその内容を自分へと伝えた。

 ちなみにいい加減な情報を流した前任の連絡員については、たっぷりと絞った後に使い走り《ハットリーニ》に降格させられた。
 クビにされなかっただけマシだろう。奥様の寛大な措置に感謝するべきだな。

 ……おっと、申し遅れた。
 自分はヘンネという。
 奥様の専属護衛を務めてさせて頂いている、この屋敷のメイドだ。

「あの娘、というのは、やはり、あぁ、今思い出しても腹が立ちますが……。ケルンで奥様に狼藉を働いた平民娘の事ですか?」
「そうよ。まぁ、仮にも私(ワタクシ)の宿敵たる者が、賊に身をおとしたような半端者程度に負けられては困るのだけれど」

 紅茶のお代わりを淹れながら自分が質問すると、まるで我がことのように胸を張って言う奥様。

 あの小娘、確かアリアと言ったか、とのケンカが痛み分けに終わって以来(本人曰く決闘らしいが)、奥様は毎日のように肉体の鍛錬をしている。
 最近ではその身体は引き締まり、「私より強い奴に会いに行く」などと言っている始末だ。
 自分としては、奥様にはもっと淑女らしく構えていて頂きたいのだが……。

 にしても、魔法の使えぬただの平民娘が賊退治だと? また誤報なのではあるまいな。

「しかし、宿敵、と言う割には、随分と嬉しそうに話しますね?」
「かっ、勘違いしないでよね? べっ、別に私があの娘が気にいっているとか、そういう話じゃないわ」

 耳を赤くして、慌てたように目線を逸らしながら弁明する奥様。
 な、何と言うテンプレか……。
 
「そ、それにしても……。フーゴちゃんが全く相手にされていない、というこの情報は情報で頭に来るわね。あの娘、根性があるのは認めてあげるけれど、男を見る目がなさすぎるんじゃないかしら?」

 奥様は話題をずらすように、報告書をぱんぱん、と叩いて言う。

「ほぅ、まるで、あの娘と坊ちゃんの交際を歓迎するかのような口ぶりですね?」
「あー、もう、しつこいわよヘンネ! ……まぁ、フーゴちゃんがどうしても、っていうなら、不本意ながら、ほんっとうに不本意だけれど、それも認めてやらないでもないけれどね」

 むぅ、意地っ張りな奥様に此処まで言わせるとは。
 この様子だと、奥様は相当にあの娘を買っているようだ。

「しかし平民と交際というのはさすがにまずいのでは」
「……それは別にいいでしょう。勿論、長男で家を継ぐ立場なら絶対に許さないけれど、三男でしかないあの子の行く末は、普通に歩めば平貴族。それならば平民を妻にすることすら不思議ではないもの。あの娘とやりあった時は、ただフーゴちゃんが碌でもない女に騙されていないかが心配で、そんな考えも浮かばなかったけれど」

 ふむ、それは一理あるか。

 奥様はご子息に甘い事は甘いが、公私の区別はきちんとしているし、こと金に関する躾に関しては厳しい。
 だから奥様は、書生の身であるご子息に過剰な金銭を与えることはしなかったし(家にいた頃のフーゴ坊ちゃんに与えられていた月の小遣いはたったの1エキューであったし、今に至っては金銭の仕送り自体がない)、各々の子供達に与えられている立場もわかっていて、家督を継ぐ者以外が一切の財や権利を継がない事にも当然納得していた。

「そこいらの下級貴族ならばそうでしょうが。由緒あるフッガー家の一員ともなれば、相手もそれ相応の者でなければ」
「あら、元々、フッガー家は平民の出じゃないの」
「それは昔の話です! 大体、フーゴ坊ちゃんには許嫁がいますし……」
「あぁ、あの貧乏男爵家のツマラナイご令嬢ね。まるで判で押したような。あんなのを嫁にもらっては、さぞかし平和で、退屈で、つまらない人生を送る事になるでしょう。名前は何て言ったかしら……。ま、今となってはどうでもいいわね。あんなものは、とっくのとうに私が破棄しておきました。所詮は口約束でしたしね」
「えぇ?」

 澄ました顔で言い放つ奥様に、自分は思わず間の抜けた声で聞き直した。

 貧乏男爵家、などと奥様は言っているが、お相手はそれなりに歴史ある、裕福な家のお嬢様だったはずだ。
 まぁ、大商会を経営するフッガー家や、奥様のご実家である銀行家のプットシュテッド伯爵家に比べれば貧乏なのかもしれないが……。
 とにかく、出自もわからない平民娘などとは比較にもならないはずなのだ、が。

「まぁ、奥様があの娘を気に入る理由はわかりますがね。あの娘からは奥様に似て、我が強くて、破天荒で、手に負えないような所はありますが、一本強い芯が通っているような印章を受けましたから」
「ちょっとヘンネ。それでは私がとんでもないじゃじゃ馬みたいじゃないの」
「おや、ご実家の反対を押し切って、魔法学院ではなく、男の世界である軍学校に進んだ挙句、本来の婚約相手を散々な態度で袖にして、当主様と熱愛の末結ばれたご令嬢がじゃじゃ馬ではないと?」
「ぐ、ぐむ……!」

 少し意地悪く指摘すると、困ったような顔をして唸る奥様。

 ちなみに奥様が軍学校に入ったのは、貴族として受けた恩恵を、民のために役立てるため、という自分で考えた末の真面目な決断と意志によるものだ。
 夫人となった今も、奥様は当主様の商売にこそ口を出さない(出せない)が、領地の事に関しては、積極的に首を突っ込んで、様々な内政上の問題を解決してきている。

 奥様は平民に対してかなり高圧的だが、それは自分が貴族としての責務を果たしているという自覚があるからに他ならない。
 これを責務も果たしていないような小童や無能がやっていたらそいつはただの厚顔無恥な阿呆だが、奥様にそれは当てはまらないのだ。

 鉄の意志力と絶対の自信。
 自分はこの人のそういった所に惹かれて、今の今までずぅっとお仕えしてきたのだ。
 感情の起伏が激しく、子供っぽいところがあるのは事実だが、それはご愛敬というものだろう。

「あ~、まったく、嫌な従者だ事」
「これは失礼をば致しました」
「……百歩譲って貴女の言うとおりだとすると、やはり“男は母に似た娘を選ぶ”という事なのかしらねぇ」
 
 奥様は感慨深げに遠い目をして呟く。

「ですが、まだ坊ちゃんがあの娘をオトしたという訳ではありますまい」
「それに関しては我が息子ながら少し情けないわね。いくら見る目がない女相手とはいえ、初心な田舎娘すら口説けないなんて」
「そういった変に大人びていない所こそが坊ちゃんの良い所では?」
「それは分かっているのだけれどね。あの子も今年で14歳でしょう。いい加減その辺りの機微を覚えてもいい頃よ。…………そうだわ! ここは人生の先輩であり母である私がアドバイスをしてあげればいいのよ!」

 奥様は、さもいい事を思いついた、というように勢いよく立ちあがって叫ぶ。

 どうやら奥様は“不本意ながら”などと言いながら、フーゴ坊ちゃんとあの娘をくっつける気満々のようだ。

「子供からすると、親がそういった事に口を出すのは面白くないと思いますが、ね」
「何を言っているの! 余所の子なら兎も角、フーゴちゃんがそんな事思う訳ないでしょう?!」
「はぁ」

 奥様は、自分でこうと思ったら、それを信じて一直線に進む人だからな……。
 これはもう自分には止められないだろう。

「よし、“思い立ったら吉日”! 早速フーゴちゃんに手紙を書きましょう。そうそう、そろそろ飴も無くなっている頃だろうし、それも送ってあげなきゃいけないわね」

 奥様は張り切った様子でそう言うと、ばたばたと慌ただしく動き始めた。



 ふむ……。やはり親馬鹿なのは隠しようのない、間違いのない、そしてゆるぎない事実ではある、な。

 




<ep3.親方の後継探し エンリコが遍歴の旅に出たティールの月>



 こんばんは、カシミール商店で事務の仕事をしているヤスミンです。
 今日は久々に、商店の主である親方さんに誘われて、ケルン中心市街の高級バーに連れて行ってもらっています(勿論オゴリで)。

 お酒に付き合えるような古参の従業員ってのはアタシしかいないのよねー。
 取引担当の駐在員ってのいうのは、他社との癒着を防ぐために、よほど信用が無い限り、ちょくちょく入れ替わるのは当然だし。
 連絡員の人達ってのは、どっちかっていうと所属があるだけの遍歴商人に近いモノだから、従業員、って感じじゃないし。
 ま、朴念仁な人だし、変な目的ではないでしょう。っていうか、タダ酒を逃す手はないし?

「かぁ、畜生! あの馬鹿たれめぇ……。成功しやがらなかったらタダじゃおかねェぞっ!」

 一番目立つカウンターの一等席に陣取ったアタシ達。
 親方さんの前にはジュニエープルベースのダグラス、アタシの前はカシスベースのライト・オン・ディタ。

 もう既に出来あがっている親方さんは、人の目も気にせず、大声で愚痴っています。
 バーのマスターもちょっと顔を引き攣らせてる感じ。

「まぁまぁ、親方さん。エンリコなら大丈夫ですって。信じてあげましょう」
 
 背中をさすりながら親方さんを慰めるアタシ。
 まったく、見習いのコが出て行った時にはいつもこれなんだから。だったら首輪をつけてでも引き止めればいいのにねー。

 ……それとも、引き止めるのはアタシの役目だったのかしら。今回に限っては。



 そう、先日、ついにあの“お人好しのエンリコ”がカシミール商店から独立して、遍歴の旅に出たの。

 それほど深くは聞かなかったけれど、国内だけではなくガリア・ロマリア方面にも足を伸ばすみたいなので、暫くこっちに帰って来る事はないかな。

 ヘタレなあいつにしては思い切ったものだわ。
 てっきりジグマ(都市部を本拠地にして、その周辺の村々だけを取引相手にするという規模の小さな、しかし安定した収入を得やすいといわれている行商法。どちらかというと、交易商というよりは、運送業者のような性格が強い)でもやると思っていたのにね。

 遠くへと遍歴の旅に出ると言う事はそれだけ大きな利益を手にするチャンスはあるけれども、リスキーな賭けでもあるの。
 まぁ、ゲルマニア商人は、大胆かつ冒険心に溢れた野心家、なんて評されるだけあって、積極的に国際的な取引を行う商人は、結構多いっちゃ多いんだけども。

 対して、国内での商売は、商人や商社の数が他国と比較して段違いに多いだけに、そこに入り込んで利益を出すのは、ご新規さんにはちょっと厳しいという面が確かにある。
 ただ、あの“お人好し”が、組合の庇護が存在しない国外で海千山千の商人達と張り合っていけるのか、というのは、ねー。
 残念だけど、ちょっとイメージが湧かないというか……。幼馴染のお姉さんとしては気がかりでありまして。



「実際の所、親方さんは、エンリコが成功する可能性、どの程度あると見てます?」
「そんな事は神サンでもわからねェよ。ただ……」
「ただ?」
「ウチで鍛えあげたんだからな。そう簡単にへたばっちまいやがるわけがねェ」

 親方さんはそう言ってグビ、とダグラスの杯を飲み干した。

「ふふ、そうですね。あの子は人から好かれる要素は持っていますし……。取引する相手さえ間違えなければ、大丈夫でしょうが」
「それが問題、だな。陰険なガリア人と、業突く張りなロマリア人共にやり込められなけりゃいいんだが」
「随分なモノ言いで。ガリアやロマリアの人が聞いていたら怒りますよ?」
「ふん、一般論さ」

 確かに。

 昔からの経済大国であるガリアの商人達は、その膨大な知識と経験に裏打ちされた駆け引きに優れた知的階級、と言われている。
 一方、これもまた古い歴史持ち、教会の庇護を受けているロマリアの商人達は、口も八丁手も八丁なクレバーさで世の中を立ち回る傲慢な自信家、という寸評だ。
 
 この二国は、商業の大家である我がゲルマニアと比較しても、一歩もヒケを取らない商業力を持っていて、当然そこにいる商人達も一筋縄ではいかない気質を持っているのよね。

「それにしても、お前、随分とさっぱりしてんだな。てっきり、俺はお前がエンリコの事を──」
「セクハラです」
「いや、みなまでいってないだろ」
「ま、親方さんの想像とは少し違いますよ、アタシ達の関係はね。どっちかというと、そういう気持ちを持っていたのはアリアちゃんかもしれませんよ? 歳の差、いいじゃないですか」
「いや、アイツはなぁ……。どっちかというと金と結婚するタイプだろう」
「ですか」
「くっくく、フーゴも浮かばれねェなぁ」

 そう言ってくつくつと含み笑いをする親方さん。

 でも、エンリコが旅立つ時、終始笑顔だったかに見えたアリアちゃんだったけど、時折、ものすごーく悲しそうな顔をしていたんだよねー。
 ふっふふ、アタシの目は誤魔化せないんですよ。

 フーゴ君の方は……。
 傍から見てるとこれでもかってくらいアピールしてるのはわかるんだけど(特に最近はすごいわね)、全部空回っている感じ。
 全く女心を分かっていないというか……。あれじゃあ、今勝負賭けても玉砕してしまうでしょう。
 でも、ま、そのまま精進を続けていけばいつかは報われるかもねー。きっと。

 それにしても、親方、アリアちゃんの話になると、いつも楽しそうに語るわねぇ。
 さっきまでのしんみりとした雰囲気が消し飛んでしまったみたい。

「随分とアリアちゃんに期待を掛けているみたいですね? 研修関係の進みも異常に早いですし」
「ん、まぁ、な」
「いけませんよ、依怙贔屓は」
「馬鹿たれ、俺は教育者じゃねェんだ。贔屓してなぁにが悪い」

 あまりの即答に目を丸くするアタシ。
 あっさり認めちゃいましたよ、この人。

「ま、それはそうですけど。あの子に特別な才能でも?」
「才能、なんて大層なもんはねェが、性格、というか気質的には、経営者としての適正はピカ一だ。自分の判断に全てを委ねられるっていう性質に、いつの間にか見習いの輪の中心にいるっていう求心力、とかな」
「あれ? でも、見習い頭にはギーナ君を抜擢しましたよね?」
「そりゃ、そこは年功序列だよ。組織にいる間はルールに従ってもらわねェとな。ま、ギーナの奴も、頭になって少しは愛想ってもんがでてきたろ?」
「そうですかねー?」

 同意を求めて来る親方さんに、疑問で返すアタシ。
 正直な所、アタシには今までとの違いがよく分からないんだけど、彼に関してはねー。

「ま、アリアちゃんに関しては、根性もありそうですしね。アタシの扱きにも最近は平気で付いてきますし」
「根性、というか意志の強さってとこかね。何故だかまではしらねェが、アレには商売に命を掛ける気概がある。あの歳でそれは中々出来ることじゃねェ。それに、ここへ来た当初は、人付き合いの下手な、というか、慣れていない奴だったが、最近はまぁマシになってきたしな。……唯一不安なのは、女だって事だな。はぁ、あれで男ならなぁ」

 聞き逃せない一言に、アタシはぴくりと反応し、眉を顰めた。

「あら、アタシも女ですけど?」
「うん、まぁ、すまん」

 あまり反省もしてないような表情で適当に謝る親方さん。

 まったく、女を馬鹿にしちゃいけませんよ?
 まぁ……、確かに、女が商売の世界において一本でやっていくには中々厳しい物があるだろうけど。



「それにしても、いいんですか?」
「何がだ?」
「あの娘も独立希望でしょう? 折角の有望株を手離していいんです?」
「東方にはこういう言葉があるそうだ」
「はい?」
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」
「それはどういう?」
「自力で這い上がって来た者こそ、ウチの後継に相応しい、っつう意味だな」
「えっ」

 親方さんはケロリとした顔で凄い事を、とんでもないことを口にした。
 後継って、アリアちゃんを?

 親方さんには家族が居ない。当然後を継がせる子供はいないけど……。

「っち、喋りすぎたな。今のは誰にも、絶対言うなよ? ま、はっきりと決まったことじゃねェが」
「……酔っ払いすぎじゃないです?」

 普段はかなり口が固い人なんだけどねー。
 あんまりお酒には強くないのよ、この人は。

「は、たまにはいいだろう」
「ま、わかりました、秘密にしてあげます。た・だ・し。前からお願いしてあるとおり、経理の助手を雇って下さいね?」
「う……。もう少し待ってくれ。中々イイ人材が……」
「まーた、それですか。とりあえず、算術全般が出来て、税法と国際法に詳しくて、商業知識が豊富で、仕事が早くてそれでいて丁寧であれば誰でもいいです。あ、男はヤなんで女の子で」
「いや、だからお前以外いねェだろそんなヤツ」
「いますよ、宇宙のどこかには」
「わぁーった、わぁーった探しとくよ」

 親方は面倒くさそうに手を振って了承の意を示す。

 あー、今回も望み薄だなぁ。
 いい加減過労死しますって、本当に。
 公証人と会計《コンターピレ》それに税理までやらせるとかどんだけブラックなんですか。
 ……お給料はいいですけどね。はっきりいってそこらの木端役人なんぞより稼いでますし。

「しかし、アリアちゃんを後継に、ねー? 養女にでもするおつもりですか? あの娘にもご両親はいるでしょうに」
「いや、アイツはちょっと訳ありでな。その辺は聞かないでやってくれ」
「は? ……はぁ」

 訳あり、ね。どうにも、死別したとかそういう感じじゃなさそうねー。

 あれ? でも姉がいたわよね、あの娘。
 それに、怪しげな“東方”の算術、だとか、コトワザだとかもよく使っているわね。ちょっと前には、実力で賊を倒したとか噂になっていたし。

 ……謎の多い娘だなぁ。

「ふぅん。ま、確かに、親方さんももう歳だし、誰か後継でも居ない事にはオチオチ隠居もできませんもんね」
「年寄り扱いするんじゃねェよ……。どちらにせよ、最後の試験に受からなけりゃ、それまでだがな。別に俺は慈善事業でアレに目を掛けている訳じゃねェんだ。商人として、俺と同じ、いや俺以上の器量を見せなけりゃ、後継はまた他のヤツを当たらなきゃな」
「なるほど? 最後の試験が遍歴商人としての成功、それも貴方を超えるほどの、という事ですか」
「そういう事だ。マスター、もう一杯くれ。連れにもな」
「あ、私のはルジェ・ラグードのカシスを使ってね。さっきみたいな安物は論外ですよ?」

 そこまで言って親方さんが、空のグラスを前に出してお酒を追加したので、アタシも便乗して注文をつけると、マスターは「参ったな」というように鼻の頭を掻いた。

 しっかし、親方さんも厳しい事言うわねー。彼の遍歴時代は、それはまぁもの凄いやり手だったと聞くし。
 ま、でも半端な人間に後は任せられないわよね。経営者にとって、会社は自分の子供のようなものだもの。

「しっかし、お前、ルジェ・ラグードって……。少しは遠慮ってもんを知らねェのか」
「田舎街の小売商でもあるまいし、あんまりケチケチしなさんな。たかがお酒じゃないですか」
「……やれやれ」

 しかめっ面をして首を振る親方さん。

 まったく、たんまり持ってるでしょうに。
 ……こういう所は、確かにアリアちゃんと似ているのかもしれないわ。
 
 そうやって、親子になるかもしれない二人の類似性に考えを巡らせていると、からん、とガラスと氷の擦れる音が聴こえて来る。
 視線をそちらにやると、マスターは会話の妨げにならないように、二つの新しいグラスをさりげなくアタシ達の前へ置いていた。

 既に彼は何事もなかったかのようにシェイカーを振っている。
 ふむー、さすがにこの辺りの気遣いは高級店って所ねぇ。

「それじゃ、エンリコと、アリアちゃんの……、っていうか、商店全員の成功を祈って」

 アタシがそう言ってグラスを突きだすと、親方はそれに頷き、グラスを合わせる。
 キン、とガラスのぶつかる高い音が、もう明け方の薄い光が差し込んでいる店内に響く。

 ちなみに明日も平常通り仕事なのだけれど……。
 今はそんな現実を忘れて、ただ、若人達の輝かしいはずの未来に乾杯する事にしましょうかね。





つづけ



[19087] 2~3章幕間 みんなのアリア (後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2010/11/13 22:54
<ep.4 とある見習いの恋愛修行  年度が変わり、そろそろ五月病が発生するであろうウルの月>

「……フーゴ! 何ぼーっとしてやがる!」

 朝一の在庫確認作業の前、俺が眠い目を擦りながらぽけっとしていると、この春から見習い頭に就任したギーナさんから怒号が飛んだ。

 どうやらもう始業時間のようだ。

 無害だったはずのギーナさんが見習い頭になってからというもの、油断しているとガンガン雷が落ちるし、ゲンコツが飛んで来るようになった。もっとも、口調はあまり変わらないが。
 喩えるなら“少し口下手な親方”ってとこか。というか、この人こんなにガラが悪いとは思わなかった……。


 
 年長者であるエンリコさんが巣立ち、人手が足りなくなったカシミール商店では、その穴を埋めるかのように、二人の新入り見習い達を雇い入れた。

 当初、頼りになるリーダーが居なくなった事で少々の不安はあったが、エンリコさんの後釜として見習い頭に納まったギーナさんが予想外のリーダーシップをみせ、商店は何事もなかったかのように、いつもどおりに回っている。

 弟であるゴーロさんの方は、兄貴の変貌ぶりを見て色々と焦っているみたいだ。
 俺としては、自分が見習い頭になれるんじゃないか、なーんて思っていたんだけどな。ちっ。

 ま、それはカシミール商店の、というか、大体の商家の決まりごととして、見習い同士の序列は実力主義ではなく、勤続年数順の年功序列になっているから仕方ないっちゃ仕方ないんだが。
 実力主義、なんて事にしても、半人前に過ぎない見習いの実力を目に見える形で評価するなんて難しいし、見習い同士のイザコザに繋がりかねないからな。



「……ちっ、このウスラ馬鹿。お前がすっとろいから俺の方が怒られたじゃねーか」

 俺はギーナさんに向けて軽く頭を下げながら、隣にぬぼーっとして佇んでいたうすらでっかちの新入りを小突いた。
 ぶっちゃけ、ただの八つ当たりであるが。

「ウス……。ごめんなさい。フーゴ先輩」

 うすらでっかちは人の良さそうな丸っこい顔をすまなそうに歪めて素直に謝った。見事な太鼓腹が頭を下げるのと同時にボヨンと揺れる。

 フーゴ“先輩”か。うーむ、何回聞いてもいい響きだな……。
 これでドンくさいのとうっかりしているのさえ直れば、悪い奴ではないんだが。

 コイツは今年入った見習いの内の一人で、名前はディーター。
 現在は俺の下で色々と仕事を覚えている最中だ。

 やっと俺にも子分、もとい後輩が出来たのは嬉しいのだが、その事で一つ問題が浮かび上がっていた。
 別にディーターに問題はない。
 いや、まぁ、仕事の覚えが遅いとか、動きが鈍いとか、新入りの癖に俺より背がデカイとか(誤解のないように言っておくが、俺だってかなり背は伸びている!)はあるが、基本的には俺の言う事を良く聞く、可愛いヤツである。

 問題はもう一人の新入り、もといあの腐った根性のマセ餓鬼なのだ。
 

 
「……と、言う訳だから、お金の計算はまだ任せられないと思うけど、重量計算の時も絶対にこの算盤《アッパゴ》を使わないといけないの」
「なるほど~。……いやぁ、アリア先輩の教え方はイイッスね。何て言うか、賢いだけでなく、相手を思いやる事のできる清らかな心が滲み出ていると言うか」

 チラリと、そのマセ餓鬼、エーベルの方に視線を向けると、丁度アリアのご機嫌を取っている所だった。
 ぶりっこ野郎め……。男の癖に気持ち悪いんだよ、この野郎!

 コイツの見た目はエンリコさんを縮めて幼くしたような感じだが、性格はまるで正反対。
 軽薄、不真面目、狡賢い、と三拍子揃った腹の立つ餓鬼なのだ。

 そして、最悪な事に、俺の下にディーターが付いているように、アリアの下に付いているのはこのエーベルなのだ。
 この人事については、今まで疑う事のなかった親方の判断に疑問を覚えたくらいだ。
 あんないい加減なマセガキを雇い入れた挙句、あまつさえ、女であるアリアの下に付かせるとは……。

「いつも社交辞令有難う、エーベル君」
「社交辞令じゃなくて本心ですって~。と、言う事で、今日の夜、個人的に授業とかしていただけないッスか? もちろん、二人っきりで」
「はぁ、そういうのは街を歩いている美人の女の子にでもやってちょうだいね」
「何言ってるんスか! アリア先輩以上の美人なんて、ゲルマニアには、いえ、ハルゲキニアには存在しないッスよ?」
「はいはい、どうもね」

 エーベルのフザけた誘いの言葉を、軽く躱すアリアだが、その様子からは別段嫌がっているような様子は見えない。
 むしろ、“美人”と呼ばれた時、微妙にその顔が綻んでいた。

 あの、クソガキめ……。またか……!

 アリアもアリアだ。
 そこは躱すのではなく、怒鳴りつけるべきじゃないか?

 ……まぁ、この前、その事を俺が追及したら、「後輩がミスや間違いをしようとも、考えなしの頭ごなしに叱るのはよくない。それは自分の評価をも下げる」なんて大層な持論を説かれ、成程、と少し納得してしまったのだが。
 それだからか、アリアは後輩達に対して、褒めたり注意したりする事はあっても、あまり怒りつけることはしないようだ。

 だから余計にあのマセ餓鬼が増長している気がする。
 クソ、もし俺の下についていたら死ぬほど扱いてやったってのに……。



「フーゴ先輩……」
「あぁ?!」

 ぎり、と俺がアリア達の様子を見て歯ぎしりしていると、ディーターが不安そうな声で話しかけてくる。

「ごっ、ごめんなさい……。あ、あの、フーゴ先輩の顔が」
「は?」
「その、怖いです。人食いエルフみたいな顔になってます……」

 遠慮気味に言うディーター。
 
 む……。そんなにキレてたか、俺は。
 まぁ、エーベルの不真面目さには、相当頭にきているのは事実だが。
 断じて、葉の浮くような台詞をぺらぺらと口にできるマセ餓鬼に対する嫉妬や羨望などではない。ないったらない。

「あのぉ、もしかして、フーゴ先輩って……」
「んだよ、仕事中に無駄話すんな、ウスラ馬鹿。アッチの腐ったマセ餓鬼みてーになるぞ」

 俺は顔を顰めて、背を向けたまま、親指でエーベルの方を指す。

「う……ごめんなさい」
「はぁ、まあいい。言ってみろ」

 ディーターから話しかけて来るのは珍しかったので、俺は注意するのもそこそこに、コイツの発言を許すことにした。

「そのですね、フーゴ先輩とアリア先輩って、あの、つっ、付き合っているんですか?」
「ぶ……っ!」

 予期せぬディーターの爆弾発言に、俺は盛大に噴き出した。

「そっ、そんなわけねーだろうが?!」
「えっ。そうなんですか? じゃあ、フーゴ先輩の一方的な片思い……」
「ち、ちがぁーうっ!」

 いや、本当は違わないんだが……。
 そうだとしても、後輩の前で、いや人前で言えるか、そんな事!

「……って、何でお前がそんな事気にしてんだよ。ドンくさい癖に」
「うぅ、そ、それはぁ」

 顔を赤くしてその巨体をくねらせるディーター。

 頼む、やめてくれ。目に毒だ。
 というか、コイツ。

「お前、まさかアリアに」
「ちょ、ちょっとイイなって、思った、だけです」
「あ゛……? ちょっと、だと?」

 ディーターが何気なく発した一言に、俺の中の何かがカチン、と来た。

「ひっ……。その顔止めてください!」
「どこがイイのか言ってみろ」
「はい?」
「いいから言えつってんだ!」
「え、えぇと、顔とか、その、おっぱいとか……」
「それだけか?」
「え? あ、あとイイ匂いがします」
「……何だその理由? フザけてんのか、お前、あぁん?」
「ぐぇ?!」

 ぐぃ、とディーターの胸倉を掴みあげて詰め寄る。

 馬鹿かコイツは。何も分かってねー癖に、何が“ちょっとイイな”だ。
 まぁ、確かにアリアの容姿は飾り気こそないものの、決して悪くモノではない。いや、むしろイイ。
 ……ごめん、ぶっちゃけ、ド真ん中だ。

 意志の強さを感じさせる大きな目と細い眉。
 思わずむしゃぶりつきたくなる小さな唇。
 控えめな感じに配置された低めの鼻。
 なんとなく妖しさを付加している泣き黒子。
 ふわりとした少女特有の甘い匂いを放つ栗色の髪。
 軽く抱いただけでで折れてしまいそうな首と腰。
 今も成長し続ける二つのモンスター、もとい柔らかそうな双丘。
 それでいて俺よりも小さな身長。
 えーと、それから……。

「……フーゴ先輩、涎が」
「はっ」

 不可解そうに目を細めたディーターに指摘され我に返る。
 いかんいかん、つい遠いセカイにトリップしてしまっていたようだ。

「とっ、とにかく! お前如きが相手になるような女じゃないんだよ、アイツは」
「そ、そんなぁ」

 そう言って胸倉を掴んでいた手を乱暴に放すと、ディーターはがっかりしたように言う。
 
 はっ、他人に言われたくらいで諦めるなら最初からそういう事は言うんじゃねーってんだ。
 大体、一番見るべき所ってのは、単純な外面の話じゃなくて、もっと内面的な部分だろうが! このド素人が!

「ま、そんな無謀な事はさっさと諦めて、せいぜい仕事に精を出せや、な?」
「……お前もな、フーゴ」
「うっ」

 ディーターを見下ろすように(見下ろせていないが)言うと、いつの間に背後に回り込んでいたのか、ギーナさんの冷たい声が。

「……罰としてフーゴ、ディーター組は、本日、連絡員と行商人が持ってきた荷の積み降ろしを全て二人でやること」
「お、横暴だっ!」「そ、そんなぁ、酷い……」
「……何か?」
「あ、いえ、なんでもありません」

 俺とディーターは罰の厳しさ(見習いの仕事では、積み降ろしが一番肉体的にキツイ作業なのだ)に異議を申し立てようとしたが、結局、無表情にぱきぱきと指を鳴らすギーナさんの迫力に押しきられてしまった。

「何やってるのかしら、アイツは……」
「見てて飽きないッスね、フーゴ先輩は。それよりさっきの件──」
「はいはい、君も仕事の時はしゃんとしないと、あっちの馬鹿みたいになるわよ」
「それはイヤッスね……」

 俺達が項垂れる中、アリア、エーベル組は俺達を冷めた目で見ながら、そんなやり取りをしていた、らしい。





「くそ、まずい、非常にまずい」

 散々だった一日の仕事を終えた後、そそくさと寮の自室へと帰った俺は、部屋の中をウロウロとしながら呟いた。

 最大の危険人物であったエンリコさんが居なくなったと思ったのも束の間、まさか、あの腐ったマセ餓鬼に続いて、信じていたウスラ馬鹿までアリアに好意を抱いているとは。
 憎らしい程完璧だったエンリコさんならともかく、さすがにあの新入り共如きに負ける気はないが……。

 しかし万が一、まかり間違ってあの馬鹿共のどちらかに靡く事もなきにしもあらず。
 何しろ、この俺がこれまでどれだけちょっかいを出しても靡かないほど鈍感極まりない女なのだ。
 きっと男を見る目も無いに違いない。

 となると、やはりここは俺がアイツを碌でもないヤツらの魔手から守らなければなるまい。
 吸血鬼に誘拐されて以来、俺がさして興味もなかった魔法を鍛えているのも、もし次があればアイツを守りきる(そして見返す)ためなのだから。

 しかし、どうやって?

 答えは至ってシンプルに。

 そう、俺に惚れさせればいい。
 そうすれば、他のつまらない奴らになんて目もくれないようになるはず。ふむ、我ながら完璧な理論だ。
 しかし、今までのアイツの反応から、俺が思いつくような方法ではそれが厳しい事は立証されている。

 ……何? 直球勝負で愛を告白しろ?
 他人事だと思って無茶言うな! 失敗したら取り返しがつかないだろうが!

「……く、出来ればアレには頼りたくないんだが、な」

 そう言いながらも、俺はベッドの下をまさぐり始めた。
 
 そして手にしたのは、数か月前にゴミ箱へと放ったはずの、くしゃくしゃになった我がお袋、ヴェルヘルミーナからの手紙。

 当初、その何ともお花畑な内容、『意中の彼女をオとす100の方法~基本編』という表題をちらりと見て投げ捨てたのだが、もしかすると何かに使えるかも、と思ってベッドの下に放り込んでおいたのだ。
 どうしてお袋がこんな訳のわからない手紙を送って来たのかは不明だ。
 相変わらず意図の読めない母親である。

 まぁ、実家を飛び出した俺が、今更お袋に頼るなんて(特に“こういう類の事”では)、甚だ不本意であり、癪であり、出来れば御免こうむりたいのだが、今回に限ってはそれも致し方ない。

 何故なら、これは全てアリアのため。
 断じて俺の欲望のためではない。うん。
 だから、手段を選んでいる場合ではないのだ──

 そうやって俺は自分を納得させ、恐る恐るその文面に目を走らせた。

「えぇと……。“ステップ1。とにかく彼女を褒めちぎれ。ただし、彼女のコンプレックスを無理矢理褒めてはならない。自信を持っている箇所を褒めるべし”、か」

 褒める……。
 俺からすると、わざとらしい褒め殺しってのは逆に気分を害すると思うんだが。
 女からすると違うのだろうか?

 あー、でも、そういえば、エーベルの見え見えな煽てにすら少し気を良くしていたようだし……。

 あぁ!ぐだぐだ考えても仕方ないな。とりあえず実践してみない事には。
 
「よし、やってみるか」

そう言って俺は一息つき、早速、同じ寮内に存在するアリア達姉妹の部屋に向かう事にした。

 アイツの受け売りだが、“善は急げ”というらしいし。
 ……あ、でも“急いては事を仕損じる”ってのもあったか。まぁいい。



「よし……、1、2、3でノックだ……」

 『覗きは極刑に処す』という物騒な札を吊り下げた部屋の前。
 ドアの隙間から仄かに漂ってくる甘い香りに、俺はごくり、と唾を飲み込んだ。

「1、2、3……4、5……。じゃねーだろ!」

 不甲斐ない自分に突っ込みを入れる。
 くそ、何を緊張しているんだ、俺は。

「おろ、あの小僧は」
「アンタ、他人の部屋の前で、何をぶつぶつ独りで喋ってんの?」
「うわっ!?」

 俺がノックしようかどうか、少し、ほんの少ーしだけ逡巡していると、不意に横から声を掛けられた。

 声の主はアリアとその姉、ロッテさん。
 二人とも髪がまだ濡れているあたり、どうやら水浴びをして来た所らしい。
 見ようとせずとも、薄いリネン生地の肌着《カミーチャ》にピタリと吸いついた身体のラインが透けて見えてしまう。

 や、やばい……。

「む、いくらなんでも驚きすぎではないかのう? まさか主、夜這いでも掛ける気だったのかえ?」
「ちっ、違うっ! 俺はアリアに用事が」
「ほほぅ、男が前屈みになりながら、女への用事とな?」
「い、いや、これは!」

 楽しげな声とは裏腹に、蔑んだ目で問うロッテさん。
 落ちつけ、落ちつくんだ、俺!

「ほれ、お前に用事らしいぞ?」
「あ~、急ぎじゃないなら明日にしてくれない? なんか、その、ほら色々と大変みたいだしさ……」

 口ごもりながら生温かい目で俺を見るアリア。
 気持ちその視線はやや下を向いている。

「いや、あのな。これはその、生理的な現象というやつで、俺の意思とは」
「うん、そうかもしれないわね……。で、用事って? 手短に頼むわね」
「あぁ、お前の乳って牛並みにデカ──おうふっ!?」

 俺がこの失態を挽回するために起死回生の褒め言葉を途中まで言ったところで、下半身に激震が走った。

 アリアは暗い穴のような目で蹲った俺を冷たく見下している。
 どうやら前屈みになっていた原因の箇所がアリアによって蹴られたらしい。

 ど、どうしてだ。これ以上ない褒め言葉のはずなのにっ!
 胸がデカイっていうのは女にしたらステータスなんじゃないのか?!

「最低ね。……またつまらぬものを蹴ってしまったわ」
「くっくくく、それほど溜まっておるなら蟲惑の妖精亭に遊びに来るがよいぞ?」

 憤慨したようなアリアと、哀れなモノをみるようなロッテさん。

 で、出鱈目な事を書きやがって! 恨むぜ、お袋おぉ! もう二度と信用、しねえ……。

 ばたん、とドアが無情に閉められる音を聞きながら、俺の意識は薄れていった。





 この後も彼はとんちんかんな行動を繰り返しながら、少しずつ男女の機微というものを学んでいくことになるのだが……。
 果たして不器用過ぎる彼の努力が実を結ぶ時が来るのかは、誰にも分からないのであった。





<ep.5 其は主従か師弟かそれとも姉妹か アンスールの月>



 ケルン名所の一つとされる、南の外れに存在する巨大な船着場。

 昼間には船乗りや港で働く労働者、そして商人達でごった返しているケルンの商業における玄関口である。
 しかし、基本的に夜はフネが航行しないために、夕刻を過ぎると途端に人気がなくなってしまう。
 夜になっても船着場に残っているのは、停泊したフネに居残っている船員と、倉庫に泊りこんで番をしている雇われの警備員くらいであった。
 そういう面から、夜の船着場というのは、ある意味では無法地帯、人目を憚るには絶好の場所であるのだ。

 そして今、その無法地帯では、二人のうら若き娘が剣呑な様子で向かい合っていた。
 少しでも“殺し合い”というものを齧った人間であれば、彼女らが周囲に撒き散らしているぴりぴりとした一触即発の空気を感じ取る事が出来るだろう。



「今日こそ、アンタに引導を渡させて貰う」
 
 腕と一体化するように装着されたクロスボウをゆったりと構えたアリアは、下から相手を睨みつけながら刺々しい声色で言う。

「くは、その大言、すぐに後悔させてやろう」

 ロッテは、それを嘲笑うかのように、おどけた様子で答える。



 さて、アリアが持つ新型のリピーティング・クロスボウ、手弓型と命名された弩の最大の利点は、使用者の両腕が自由になるため、あまり動きが阻害されないという事だろう。
 その利点は、動きの迅さと小回りが命綱である彼女の戦闘スタイルに実にフィットしていた。まさに彼女のために作られたオーダーメイドの逸品、と言っても過言ではない。

 勿論、これほど武器を大幅に改造する事など、その道の素人であるアリアには不可能だ。
 では誰がこの改造を? 言うまでなく、原型の提供者であるベネディクトである。

 アリアはベネディクトと知り合って以来、定期的に手紙のやり取りをしていた。
 その中で、彼女が実際に武器を使用しての問題点の指摘と、改良案の草案を記していたことが発端だった。

 次の月には、ハノーファーから見事に改良されたリピーティング・クロスボウが送られてきた。
 同梱されたベネディクトの手紙には、『恐れ入ったか』と書かれていた。どうやら、素人に作品の欠点を指摘された事で職人魂に火が点いたらしい。
 それからというもの、まるで日記を交換するかのごとく、アリアの要望を含んだ意見書とベネディクトの試作品がケルンとハノーファーを行ったり来たりするようになった。
 そして無骨な試作品でしかなかったリピーティング・クロスボウのフォルムと性能はどんどんと進化を辿っていき、現在の手弓型へと昇華されたのであった。

 ちなみに彼女が手紙をやり取りしているのは何もベネディクトだけではない。
 スカロンやクリスティアン(この場合は、相手が領主なので届かない場合も多いが)など、この街で知り合い世話になった人物にはこまめに手紙を出しているのだ。
 これは手に入れたコネを失わないため、“商人は常にインクで袖を汚しているべきである”というカシミールから教えられた格言を踏まえたアリアなりの努力である。
 紙代や郵便代も馬鹿にしたものではないが、こういった事にかかる金銭は惜しまない所が、彼女が経営者に向いているという一つの理由かもしれない。



「いざっ!」

 どちらが放った声か、その声を皮切りに二つの影は弾けるように動いた。
 
「っと」

 開幕と同時に、素早く後ろに跳んだアリア。
 先手を取るべく、大まかな狙いをつけながら手弓型の引き金を連続して引く。

「ふん」

 高速で飛来してくる毒矢の群れに対して、ロッテは鬱陶しい羽虫を落とすかのように振り払う。

「ちぃっ! 化物めっ!」

 アリアは悪態を吐きながらも、ロッテから目を離さずに、流れるような動作でボックスに新たな矢束をリロードし、レバー式のハンドルをがちゃん、と素早く引いて装填を完了させる。
 この辺りの動きは、一年前と比較するとかなり鍛えられているようだ、が。

「鈍い」
 
 その隙を逃さず、勢いよく地を蹴り、一瞬にして間合いを詰めるロッテ。
 アリアが手弓型を構えなおした時、既に獲物が使えるような間合いではなかった。

 以前の彼女ならここでお手上げの所だが……。

「やあぁっ!」
「……っ!?」

 咄嗟にアリアが繰り出したのは、鍛え抜かれた足腰を使った上段回し蹴り。
 それが、ひゅん、と鋭い風切り音を立て、虚をつかれたロッテの頬を掠める。

「ほぅ……」

 予想以上の迅さに感嘆の声を上げるロッテの頬からの皮膚は破け、血がにじんでいた。
まるで本当の刃物に当てられたかのよう。
 もっとも、吸血鬼が持つ脅威的な再生能力によって、その傷はみるみるうちに塞がってしまったが。

「まだまだっ」
「調子に乗るなよ?」

 アリアは勢いに任せて続けざまに、軸足を入れ替えた後ろ蹴りを放つ。
 しかし雑になったその追撃を、ロッテは軽く利き手でいなすと、反対の腕を振り上げた。

「そぉらっ! 右から行くぞ!」
 
 助言めいた言葉を吐きながら右拳を振り下ろすロッテ。
 顔面にぶち当たるギリギリで、畳んだ腕をクロスさせ、それを受け止めるアリア。

 しかし、その勢いは殺しきれず、アリアは大きく後ろに仰け反った。

「ぐっ……、それは、私から見たら左だって、の!」
 
 アリアは助言にクレームを付けながらも、仰け反る反動を利用し、オーバーヘッドキックの要領で前蹴りを繰り出した。

「ふむ、喋る余裕がまだあるか」

 しかしその足はガッチリと捕まえられてしまう。
 そのまま逆さ吊りにされるアリアににこりと微笑みかけたロッテは、ぎゅっ、と拳を握り込んだ。

「ちょ、まっ」

 制止も虚しく、ロッテの拳は深々とアリアの腹へと、どす、と鈍い音とともに突き刺さる。
 逃れようとじたばたとしていたアリアの腕がだらりと下がる。

 時間にして、開始から僅か18秒。
 どうやらこれで本日の勝負は決したらしい。



「この雑魚が」
「…………う」

 ロッテは宙づりのアリアをどさ、と地に降ろして吐き捨てるように酷評を下した。
 しかし、完全にグロッキーになっているアリアの耳にはあまり届いていないようだ。

「む、些か強く叩きすぎたか?」
「手加減、しなさいよ、死ぬ、でしょうが」
「人はそう簡単には死なぬモノよ」
「…………」

 無責任に言うロッテを、伏したまま無言で睨みつけるアリア。

「で、立てるか?」
「無理。おぶって、いや、おぶれ」
「やれやれ」

 口を尖らせて言うアリアを仕方なしに抱えるロッテ。

 それは、一場面だけを抜き取れば、本当の姉妹と勘違いしてもおかしくはないような光景だった。





 赤子を抱ぶるかのように下僕を背中に乗せて、ゆっくりと歩く。

 真っ暗で静かな街路に吹く夜風が涼しく心地よい。
 背に押しつけられる、いつの間にか妾よりも大きくなってしまった二つの塊には少しいらつきを覚えたが。

「姉様、神様、リーゼロッテ様、ご提案があります」

 そうやって、暫し無言でネグラに向かって歩いていると、背中の荷物が柄にもない言葉を紡いだ。

「何じゃいきなり。あまりの気持ち悪さに、思わず背の荷を河に投げ込みたくなってしまったぞ」
「あのさ、そろそろ鍛錬、ヤメにしてもいいんじゃない?」
「何を寝言を言っておる」

 妾は甘えたような声で言うアリアの提案とやらを一蹴する。

「取りつくシマも無いってヤツ? 考え直そうよ~。もう鍛錬に関しては十分だって。別に私は傭兵になるわけじゃないし……。それに商売の事も、まだまだ勉強する事も多いしさ」

 まるで妾の善意による指導を迷惑かのように言うアリア。

 まったく、“師の心弟子知らず”とは良く言ったものじゃ。
 誰のために、夜な夜なこんな事をやっておると思っておるのか……。

 獣にせよ、人にせよ、我ら吸血鬼にせよ、“力”は絶対に必要なもの。無くて困ることはあっても、ありすぎて困る事はない。
 なまじっか、偶然や奇策によって勝利を収めてきたこやつは、まだそこらへんの認識が甘いのじゃ。

 ま、この鍛錬。妾の娯楽、道楽という面もあるのは事実じゃが。
 日一日と成長が見て取れる、下僕の育成というのも、これはこれで面白いものじゃ。

「何故十分じゃと思うのか、説明してみよ」
「だって、この鍛錬って元々、私が自分で身を守れるようにするためのものじゃなかったっけ? もし、今、あの時と同じような危険に晒されたとして、もう十分に逃げたり、身を守ったりする程度はできる力がついたと思うんだけど?」

 妾の問いに、アリアは自信ありげに即答する。

 確かに、僅か1年半という期間、素材がただの人間という事を考えれば上出来過ぎるほどの上達具合ではある。
 力は相変わらず貧弱じゃが、その素早さと持久力はかなりのレベルに達しておる(飽くまで人間に限定しての話じゃが)。
 武器や毒の進化まで考慮すれば、既にそこらのボンクラメイジや野盗風情に遅れを取ることはないかもしれん。
 
 身体能力に関してはノーセンスだと思われたこやつがここまで急激な成長を見せたのは、妾のパーフェクトな指導のおかげというのが、最も大きな要素ではある。
 が、もしかすると【再生】を毎日のように重ね掛けすることによって、筋肉や骨格に精霊の力が定着した事もまた、一つの要因やもしれぬ。
 果たして精霊と親和性の低い人間に、そのような効果があるのかはよくわからんが。

 ま、しかしここで褒めの言葉を発するのは、こやつをツケあがらせるだけじゃな。
 
「逃げる? 笑わせるな。そんな低い志で妾の下僕が務まるか」
「おいおい、いつから私がアンタの下僕になった」

 妾の極めて真面目な指摘を失笑混じりに返す下僕ことアリア。
 まぁ、妾とて、今更こやつをただの下僕としか思っておらん、とは言わぬが。

「ふふん、まさか妾達が対等な関係だとでもいうつもりか?」
「いえ? どちらかというと、私の方が保護者、という感じかしら。だらしない姉の面倒を見る妹って感じ?」
「なんじゃとっ! こらっ!」
「そういう怒りっぽいところが子供なのよ~」

 小馬鹿にしたように言うアリア。

 くくく、今宵は、ねっぷりと舐めまわすように、限界までその血を啜ってやることにしよう。



「で、話は変わるけど、出資の件さ、考えてくれた?」
「まぁたそれか。主もしつこいのぅ」
「しつこさだけが取り柄ですから」

 若干辟易とする妾に、アリアは悪びれもせず答えた。

 アリアのいう出資とは、こやつの独立に、妾が共同経営者(コンパニーア、というらしい)という形で金を出せ、という事じゃ。
 要するに、妾に自分と一蓮托生をせよ、と言っておるわけじゃ。

「何回言わせたら分かるんじゃ。利息は無しで金を出せ、など、そんな都合のいい話があるか」
「はぁ……。アンタこそ何回言わせればわかるのよ。ただ金を出せ、と言っている訳じゃないわ。共同経営っていうのはね、儲けが出れば出るほど、出資額と会社に対する貢献度に応じて配当が出るのよ? ケチな利息なんて目じゃないんだから」
「妾を騙そうとしたってそうはいかんぞ? それは儲けが出ればの話じゃろう。もし主が損をすれば、妾も損をするという事ではないか」
「あのさ、10年っていう短い期間でアンタとの契約、つまり『アンタに安住の地を』っていう約束を達成するには、アンタの協力が必要不可欠なの。ね、騙されたと思って、私に全てを任せなさい! 絶対儲けさせてあげるからさ。絶対、確実、安心よ! 損なんてさせないんだから」
「“絶対”を使う商人は“絶対”に信じるな、と聞いたことがあるな」
「ぬ、ぅ……」
 
 正論を返され、言葉に詰まるアリア。
 にしても、まるでペテン師のような口じゃなぁ。

 ま、しかし、こやつの言うとおり、約束の事もあるし、妾の協力さえあれば、来春にも一端の商人として独立が可能という事を聞けば、出資をする事も吝かではないのじゃが。
 普通は独立までいくのに、たっぷり5年はかかるというから、アリアの成り上がりにかける気概と、商人としての資質は本物なのじゃろう。
 ただ、最近調子に乗り気味なこやつに、人生そう簡単に事は進まないという事を教え込むためにも、どちらの立場が上なのかを教え込むためにも、妾の威厳を維持するためにも、敢えてここはギリギリまで引っ張らなければなるまい。

「仕方ないわね」
「ふむ、やっと諦めたか」
「いえ? 今日はとことんまでアンタに、私と共同経営をする事によって見込める利益と将来性について講義をしないと駄目ね、と思っただけよ。大丈夫、今度は絶対とは言わないわ。リスクに対してもきちんと説明するから。たっぷり時間を掛けて、ね」
「う、いや、それは前にも聞いたじゃろ?」
「前は途中で寝ちゃったでしょ、アンタ。明日は虚無の曜日だし、今夜は寝かせないからね? 覚悟しておきなさいな」

 顔を顰める妾に、楽しそうに言うアリア。
 こやつは妾の事をサディスト、というが、こやつの方がよほどサディストじゃろ。

「何とも諦めの悪いヤツじゃこと」
「私が諦める事を諦めた方がいいわよ?」
「くふふ、まったくじゃな」

 耳元で囁くアリアに、妾は観念したように吐きだし、再び前を見て歩きだした。

 ふと、このままずっと歩いていてもいいような妙な気分になり、慌てて首を振ってそれを打ち消す。
 妾も甘くなったものじゃなぁ、と心の中で自嘲してみるが、不思議と気分は沈まなかった。





つづけ

次回、新章突入!






[19087] 30話 目指すべきモノ
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2011/07/09 20:05
 遍歴の旅──

 一旗上げようという野心を持った、若い商人達(もしくは職人達)の修行の旅路の事である。
 
 彼等の大多数は商家を経営する親方の下、見習いとしての修行を終えて独立した一個の商人であり、ある程度の商売知識は心得ているのだろう。
 しかし、知識があるだけでは、それはまだ一人前の商売人とは言えないのだ(勿論、商売に知識は絶対に必要だが)。

 では一端の商売人を気取るには何が必要なのか。

 目の玉が飛び出るような額の金銭を持つことか?
 大都市の一等地に豪奢な外装の店を構えることか?
 人々に畏怖される程に、眩く彩られた名声を得る事か?
 それとも国や教会の実力者との確固たるコネクションか?

 成程、確かにそのようなモノを持つことが出来た者は、もう一人前なのだろう。
 だが、それらは全てが結果であり、どんな“知識”を持っていようと、ある日突然そのような結果を出せる者はいない。
 
 つまり誰もが羨む輝かしい結果を出すには、汗と涙を流し、血を滲ませるような、泥臭い過程が必要なのだ。
 その過程の中、他人から聞きかじったものだけでなく、そこに経験をミックスし、自らの奥底から捻りだされるモノこそが、一人前の商人に必要なもの──即ち、“知恵”である。

 この“知恵”は、“人間力”と言いかえる事も出来るだろう。

 つまり遍歴の旅とは、その過程で金を稼ぎつつ、余所の文化に触れ合い、様々な人々に出会い、毎日のように発生するであろう、予期せぬ苦難を自分の知恵を絞り出して乗り越えて行く事で、商人として、そして人間として成長するための旅なのである。



 さて、とはいえ、何もその旅路は夢と希望だけに満ち溢れているだけではない。
 それと同じくらいに、危険と堕落が付きまとう旅でもある。

 毎年のように春になれば、方々の都市から、胸に志を抱いた新米の遍歴商人達が旅立っていくが、そのうち、実際に成功を収められる者の割合は少ない。

 細々と行商を続ける者、旅をやめる者、破産する者、身を落とす者、命を散らす者。
 くどいようだが、誰しもが成功を掴めるわけではないのだ。

 それでも彼らは旅に出る。

 旅に出ずとも何処ぞの商会の正規従業員として雇って貰い、そこで金を稼ぎ、経験を積む、という手法もあるだろう。

 しかしそれはローリスク・ローリターン。
 商会の後ろ盾でもって保障された身分で得られる金と経験は、成功した遍歴商人達にはとても及ばない。
 事実、一代という短期間で成り上がったやり手の大商人達を見れば、そのほとんどが遍歴の旅を経験しているのである。

 だからこそ、自分に自信のある冒険心に溢れた若者──悪く言えば、傲慢で向こう見ずな青二才はこぞって遍歴の旅に出るのだった。



 そしてこの春もまた、欲深い雛鳥が一羽、新たに翼を広げて飛び立とうとしている。
 彼女はその旅でどのような道を選び、進み、そして何処へ至るのだろうか。

 今はただ祈ろう。
 羽ばたく翼が、何事にも決してへし折られないよう。
 たとえ一時は道に迷おうとも、最後に目指すべき光だけは見失わないよう。
 そして、紡がれる物語に幸多からん事を。





第三章 遍歴商人アリアの旅路  chapter3. Journey





 街を覆う雪が融け、流れ出した水がちょろちょろと音を立てて小さな川を作っている。
 石畳の隙間から、小さな白い花を咲かせるミナクサが僅かに顔を覗かせている。
 空はどこまでも透き通るような青と白のコントラストを映し出し、頬にあたる外気はまだ少し冷たい。

 窓の外に広がる景色を眺めつつ、私はちょっと固めのライ麦パンに、香ばしく滑らかな口当たりのボニファッツ・チーズを合わせて口に放り込む。

 もしゃもしゃとそれを咀嚼しながら、寝ぼけ眼を擦った所で、大聖堂から聴こえる喧しい鐘の音が、安らかな朝の静寂を破った。
 私の住むこの街、ケルンに住む全ての人々に、朝の到来を告げる鐘楼の声だ。

 その声に誘われるかのように、私は窓から顔を出す。
 
 寮の南側に広がる街のメインストリートである、ホーエ通りの奥に佇む大聖堂の方へと目を向ければ、まだ弱々しい陽の光を浴びながら、もう何人かの修道女達が朝のお勤めを始めていた。
 ガリアのゴシック様式をゲルマニア調にアレンジして建築された豪奢な大聖堂と、修道女の黒を基調とした、麻で編まれた質素なお仕着せがあまりにも不似合いで、私は思わず笑いを漏らす。

「さて、私も着替えるか」

 ひとしきり外の景色を堪能した後、そう独りごちると、薄い無地のカーテンを閉め、粗末な寝巻《ズロース》を脱ぎ棄てた。

 行儀悪く素っ裸のまま、クローゼットの中からまっさらな下着《カミーチェ》を選び、取り出し、身につける。
 その上から男物の無地の胴衣《ファルセット》と、丈夫な七分丈のズボン《ブラケ》を着こむ。
 安価な染料で薄青に染められた長い靴下《カルツェ》を履き、肩まで伸びた栗色の髪を同じく薄青の紐で後ろに纏める。

 服装を整えると、私は古ぼけた鏡台へと向かう。
 頂きモノであるマルセイユ産のオリーブ石鹸を泡立て、水桶の中でばしゃばしゃと顔を洗う。
 ヒビの入った鏡を見ながら寝癖を直しつつ、塩をまぶした硬い馬の毛で作られたブラシで歯を磨く。

「あ」

 そこまで朝の支度を終えた所で、私はようやく気付いた。

「今日は休みの日だったわ……」

 左拳で頭をこちんとやって舌を出す。
 最近は色々とあって暇がなく休みも無い毎日が続いていたために、曜日の感覚が曖昧になっていたらしい。
 しかし、今日一日はゆっくりといっても、何もしないなんてのは苦痛だなぁ、あぁ、でも三年前の虚無の曜日なんて部屋でぐったりしていたっけ、などとぼんやりと考える。
 
 どうしたものか、と部屋をぐるっと見回してみると、“目標達成!”と大きく書かれた貯金箱が二つ並んでいるのが目に付く。
 その中からおもむろに一枚のエキュー金貨を手に取り、弄びながら、私はにやりと笑みを浮かべた。

「ふ、うふ、ふふふふ」

 エキュー金貨、ドール金貨、ヴァン・スゥ銀貨、アン・スゥ銀貨、ドニエ銅貨。
 ずっしりと積み上がった金のプールに、だらしなく顔を弛緩させる。

「ぐぅ、むぅ……」
「はっ」

 刹那か悠久か、どのくらいそうしていただろうか。

 私の幸福な一時は、空気を読まない同居人兼共同経営者の鼾によってあっけなく破壊された。
 視線をそちらへ移すと、毛布を蹴飛ばし、枕を抱いたロッテが、幸せそうな顔でぐーすかと惰眠を貪っていた。

「春眠暁を覚えず」

 私は軽く溜息を吐き、彼女に毛布をかけてやる。

「ここでこうして過ごす時間も後僅か、ね」
 
 ポツリとそう呟いてみると、少し、ほんの少しだけ、憂いが胸にこみ上げた。



 13歳の初春。
 
 カシミール商店に勤めてから丸三年。
 ついに、この居心地の良い巣箱から卒業しなければならない時がやってきたのだった。





 表通りが騒がしくなって来た頃。

 ようやく起きだしてきたロッテが、もそもそとベッドの上でだらしなく朝食を頬張っている。
 私はそれを咎めるでもなく、眉間に皺を作りつつ、机の上にある羊皮紙と睨めっこしていた。

 暫くの間、くちゃくちゃとパンを噛み砕く音だけが部屋に響く。

「……のう」
「何」

 その沈黙に耐えきれなかったのか、ロッテの方から口を開く。

「便秘か?」
「は?」
「いや、さっきから強張った顔で、うんうんと唸っておるでな」
 
 訂正。
 どうやら、気付かぬうちに私の唸り声も部屋に響いていたらしい。

「お通じはすこぶる快調よ。ただ、色々と考えなきゃいけない事が多いの」
「商売の事か?」
「それだけではないけれど、一番大きいのはそれね」
「む、しかし、もう、大体の構想は考えておるのじゃろ?」
「……まぁね。“見通しは大まかに、取引は細やかに”っていうし、そこまではっきりとした計画を立てる必要もないんだけど。やっぱり、どうしても不安が残ってねぇ」
「相変わらず小心者じゃの。ま、せいぜい頑張れ」

 私は頭痛がするように額へ手をやって言うと、ロッテは他人事のように言う。



 この春で私はカシミール商店から独立する事を決めていた。

 その旨は商店の皆も既に知っているし、当然親方にも伝えてある。
 とはいえ、まだ親方からはっきりとゴーサインを頂いている訳ではないが。

 彼は私が遍歴の旅に出ること自体に反対しているわけではなく、その時期がまだ早過ぎるのではないか、という事を言及していた。
 せめてあと2年くらいは(ゲルマニアでは15歳で成人と見做されるので、それまで、という事だろう)ここにいたらどうだ、とも提案された。

 実に有難い言葉ではあったのだけれど。
 しかし、私としては今すぐにでも独立したいと思っていた。

 お金の準備が整った事、商売知識の充実、ロッテとの約束の期間、私自身の“新しい目標”のため、など様々な理由はある。
 けれど、その最大の理由は、“これ以上此処に留まってしまえば、私は旅立てなくなってしまうかもしれない”という懸念だった。
 
 私はケルンの街やカシミール商店、そしてそこに居る人達が好きだし、此処に来てからの三年間は、決して楽ではなかったけれど、とても優しい時間であった。
 それは何物にも代えがたい大切なものだけれど、いつまでもそれに甘えていては駄目になってしまう。

 あまりに気持ちの良い湯だからといってつかり過ぎていればのぼせてしまうように。

 正直、「此処に居たい」という気持ちが完全に吹っ切れた訳ではないけれど。
 私は行かねばならないのだ。何よりも自分自身のために。



 ……ま、近いうち、というか来週にでも親方を説得せねばなるまい。
 色々と入用のモノの手配も頼まなければならないし。
 
 もしかすると、あの頑固親父を説き伏せるのが一番骨だったりして。



「はぁ、頭痛い。……アンタも少しは悩んだらどう?」
「何を言う。妾が金を出した分、主は汗と知恵を出さねばならん。というか、はっきり言って、妾は商売のしの字も知らんし」

 肩を竦め、首を傾げて言うロッテ。

「……それはそうだけど。アンタは共同経営者というよりはパトロンみたいなもんだしね」

 そう言って、私はふぅ、と溜息を吐く。

 約一年に渡る粘り強い交渉のおかげか、それともロッテの気まぐれのおかげか、結局、私の商売は彼女との共同経営、という形でスタートする事に決まっていた。
 私が彼女をパトロンと表現したように、その出資額は歴然の差(当然私が少ない)なのだが。

 ここで、少し具体的な数値を挙げてみよう。

 遍歴商人として独立するために、私が目標に設定した額、というか、この三年間で私達が貯めた金額は、(およそ)1000エキュー。

 当初、いつか親方に言われた通り、500エキューを目標としようとも思ったのだけれど、それは独立するにあたって、かなりギリギリの線であったし(フッガー商会からの借金もあったしね)、毎月貯金箱に蓄積される金額が思った以上に高額であった事を考えて、キリのいいところ、その倍の1000エキューを目標としたのだった。
 正直、最初からロッテの財布をアテにしていました。はい、ごめんなさい。

 その細かい内訳を挙げると、

 私   月平均貯蓄 約 5エキュー49スゥ  計 197エキュー95スゥ2ドニエ
 ロッテ 月平均貯蓄 約 25エキュー78スゥ  計 928エキュー16スゥ7ドニエ
 合計  月平均貯蓄 約 31エキュー50スゥ  計 1,134エキュー11スゥ9ドニエ

 と言った感じだ。
 
 ここから借金、125エキューを返済した額、1,009エキュー11スゥ9ドニエ、が私達の商売の元手という事になる。
 ただ、行商に必要なモノへの初期投資があるため、実際に最初の取引へとつぎ込める額はその半額程度にはなってしまうだろうが。

 しかしまぁ、これほど投入する資本に差があっては、彼女の言うとおり、私は馬車馬のように働かねば釣り合いが取れまい。
 建前上、共同経営《コンパニーア》というものは、必ずしも出資額の多寡で発言権が強まったり弱まったりすることはないのだが、実際は資本を多く握っている方が強いのは当たり前で、それはどのセカイでも同じなのである。

 まぁ、彼女が首を縦に振らず、アテが外れてしまっていれば、独立まであと二年、いやもしかしたら三年は掛かっていただろうし、一人旅というのは安全の面でも、精神的な面でもきつかったから、かなり感謝はしているのだけれど。

 私はきっと彼女に依存しているのだろうね。
 最初はどうやって逃げ出そうか考えていたのだけど。いやはや、月日というのは凄いモノだなぁ。



「しかし、物臭なアンタが、よく行商なんかに付いてくる気になってくれたわ」
「そりゃ、妾が目を離したら、主が約束を違えて逃げ出すやもしれんからな」
「げ、何よそれ。そんなに信用ないか、私?」
「人間とは総じてそういうものじゃろ。……ま、それは半分、じゃが」
「半分?」
「主の予定では、国外を回って商売するのじゃろう?」
「あ、うん。とりあえずアルビオン以外の国は全て回って見るつもり。何処にチャンスがあるかわからないからね。そこではっきりとした交易ルートを確立出来れば、次からはまた違うかもしれないけど……」

 ロッテの問いに、私は自分の構想を素直に吐きだした。

 アルビオン以外、というのは、きちんとした理由がある。
 空に浮かぶ孤島である彼国は、立地の面からして余所の商人が遍歴する舞台には絶対的に向いていないのだ。

 馬車を連れた遍歴商人がフネに乗るとすれば、大量の運賃が必要となる(風石で浮くフネに積載できるモノの重量はそれほど大きくはないのだ)。
 そうなれば必然的に商品の値を釣り上げねばならなくなるが、それではいくら小回りが利くとはいっても、商社との価格競争の関係で、モノを捌くのは厳しいだろう。
 何せ、商社の場合、一度で運ぶ品物の量が圧倒的に多いし、船主や運送屋との結び付きも強いのだ。
 同じモノを扱うのでも、馬車一台分しか荷を運べない、一見客である遍歴商人とはモノ一個に対しての運賃効率が全く違うのである。

 それでも、もしアルビオンに大きなチャンスがありそうならば、無理をしてでも訪れようとする者もいるだろうが、好況な我が国とは裏腹に、近年のアルビオン経済には全く活気が無い。
 トリステインと同じく、魔法(貴族)絶対主義な所も、上昇志向の商人にとってはマイナスだ。
 
 一昔前までは、アルビオンと言えば、造船を始めとした重工業、また、畜羊に伴う毛織物工業や製紙工業など、多くの工業分野において並ぶもののいないという技術国であったのだが、近年になって、その地位がゲルマニアを始めとした他国に脅かされ始めた事により、慢性的な不況に陥っているのである。
 元々、孤立した立地、塩を始めとした生活必需品を自国で生産できない、賄いきれないという悪条件、そして資源の絶対的な不足という点から、交易では常に不利を強いられてきた国なのだ。
 “他国より優れた技術力”という、ただ一つの長所をもぎ取られてしまえば、モロにその煽りを受けるのも至極当然と言えた。

 ここ最近に至っては、商人達の間では、まことしやかに不穏な噂、つまり内乱の可能性を示唆する噂が飛び交っているほど。
 ま、とはいっても、今日明日にドンパチが始まるわけではないだろうけどね。
 武器や火薬、秘薬、食糧他、戦争必需品の需要が極端に上がっている訳ではないし。

 しかし金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったものだ。。
 金を産めない、持って来れない王家が、内憂に悩まされるのはごく当然の事。
 かつては現在のガリア・フランドル地方までを領土に加えていた程の隆盛を誇った国とは思えないほどの凋落ぶりである。

 三年前、最初の勉強会を思い出す。
 あの時、エンリコさんや、双子達は「内乱なんて起こらない、冗談だ」と言っていたが、それはまだ幼かった私を安心させるための嘘だったのかもしれない。
 何年か前から、アルビオンの噂は一部商人達の間では有名だったらしいのだ。

 まぁ、そんな理由もあり、国外の遍歴商人達は、まずアルビオンを訪れるのは避けるし、私もまた、同じような理由でスルーする事にしたのだった。



 確か、“原作”によれば、アルビオンの内戦が起こるのはもっと先だったとかもしれないけれど。
 しかし、現在の私はもう、あまり“原作”などアテにはしていなかった。

 何故か?

 私にとって、このセカイは決して架空のものではないからだ。
 ロッテも、フーゴも、親方も、そして他のみんなも、決して、虚構の物語に登場するキャラクターなどではないからだ。
 このセカイに存在する全ての人間が、現実に存在する一個の人間なのであり、そこで起こる事象も全てが本物なのである。
 
 事実は小説よりも奇なり。そこに予測しうる未来など存在し得るはずもない。
 “原作”は飽くまで本の中のセカイである。
 類似した点があるとはいえ、現実に存在するこのセカイはそれとは全く別物のはずだ。

 私の“原作”に対する認識を喩えるなら、それは飽くまで“予言書”であり、外れるも八卦、当たるも八卦という、何とも怪しげであまり役に立たないモノ、という認識だ。
 第一、 今となっては“原作”で起こる事件の内容を信じるのはちょいと無理があるし。多分、ハルケギニアに民ならば誰もが信じることはできないだろう。
 “伝説”や“奇跡”なんてものはまず起こらない事象だからそう言われているのだから。

 農村で意志の無い人形のような人々に囲まれ、自分自身もそれに流されるままの暮らしをしている頃には、そんな考えは浮かびもしなかったけれど、自分の足で立ち、世の中の事を少しずつ理解していくにつれて私はそう思うようになった。

 スカロンの例を見ても、“原作”によって予定された歴史というのが如何にアテにならないかが分かるというものだ。

 決まりきった運命など存在しない。して良いわけがないのだ。



「この機会に他の国を見て回るのも良い経験じゃ、と思ってな。何せ、妾はこの国に来るまで、ガリアから一歩も出たことが無かったし」
「え、そうだったっけ。一世紀以上も生きている癖に?」
「言っておくが、吸血鬼の世界で100歳とは、人間で言うと16、7歳じゃからな……?」
「え、えぇ、そうね。とってもお年頃だもんね」

 心肝を寒からしむるような顔で念を押すロッテに、私は喉をひきつらせながらも、一も二もなく同意した。

 いけないいけない、つい口が滑ってしまった。種族に関係なく、女の年齢に触るのは良くない事ね。
 商売の時にはうっかりといらない事を口から漏らさないように気をつけなければ。

「ふん、しかしそれは別に変ではなかろう。人間にしたって、一生同じ所に引き籠っておるのが普通ではないか?」
「ん、引き籠るっていうのはやや語弊があるけれど……。確かにそうかもね。農民や職人は言わずもがな、商人や貴族や坊主連中にしたって、一部しか国外には出ないか」
「うむ。……それに、一度はガリアに戻らなければ、な」
「ん?」
「いや、何でもない」

 ぽつりと呟いた言葉の意味を聞き返すが、ロッテは首を横に振ってそう答える。

 ふむ。大した事ではないかな。久々に里帰りでもしたいのだろう。
 何か重要な事を忘れているような気がするけど……。多分気のせいだね。
.
「ま、商売に関しては私に任せて、ってことで旅行気分なのはいいけどさ。売り子と護衛くらいは頼むわね」
「売り子はともかく、護衛? もう主にお守りなどいらんじゃろ。何のために鍛えてやったと思っておる」
「うん、まぁ、そこらのゴロツキくらいなら大丈夫そうだけど。万一、メイジの賊とか、人外とか、幻獣とかに遭遇したらさ」
「そんなものに早々出食わす訳がなかろう、たわけめ」

 私が口にした懸念を、ロッテは鼻で笑い飛ばして、ベッドに再び寝転んだ。

 いや、現に私の目の前にいるじゃないですか。
 それも“最悪の妖魔”と呼ばれている人外さんの中でも特に凶悪なのが。

 あ、人外、というのは、“亜人”というとロッテが怒るからだ。
 亜人ってのは人間より劣っている人の形をした種族、という意味だからね。
 彼女からすれば、劣っているのはどう考えても人間の方じゃろ、ということだ。

 ……ま、普通に考えれば、主街道を通っている限りは、彼女の言うとおりそんなものに出食わす事はないはず、なんだけど。
 しかし、どうにも私はブリミルに嫌われているみたいだからね……。



「……しかしまぁ、話は変わるが、いつみても色気のない格好じゃなぁ。もう13になるというのに、もう少し化粧をするとか、ヒラヒラしたのを着るとかせんくていいのか?」
「あほらし。商人世界ってのは男の世界なんだから、そんなふざけた格好で出来るわけないでしょ。第一お金がもったいないし」
「やれやれ、仮にも妾の妹と名乗る者がこの無頓着さとは。よくこんなズボラに惹かれた男がいたものじゃ」
「は? 誰の事?」
「……本気でいっとるのか、それ?」

 信じられない、という表情でベッドから跳ね起きて訝しげに言うロッテ。

 後輩のエーベル君あたりの事だろうか。
 確かに彼はリップサービスだけは上手いが……。まさか本気ではあるまい。

 はっ。それとももう一人の後輩のディーター君か?
 何と言うか、彼からちょっと粘っこい、血走った視線を感じる事がよくあるのよね。主に胸のあたりに。
 気持ちはわからんでもないが。でかくなり過ぎだろう、コレは……。
 まさに桃リンゴも真っ青の大きさである。動きにくくて仕方がない。ダイエットでもしようかしら。

「はぁ、ヤツも浮かばれんなぁ。こんな朴念仁が相手ではご愁傷としか……。まぁ、妾としてはその方が都合は良いが」
「だからヤツって誰よ?」
「だからあの必死な小僧じゃって」
「フーゴの事? それこそまさかよ。それはないそれはない。あははは」

 顔の前で両手を振って否定する私。

 このところ、フーゴの様子がおかしいのは、私も気付いてはいるのだけれども。

 喋り方が何か気障っぽくなっていたり、振って来る話題の内容がやけに恋愛方面に偏っていたり。
 突拍子もなく「俺の上達した魔法の威力を見ろ!」などと言って、魔法の練習に付き合わせようとしたり(勿論全て断ったが)。
 「実家から贈って来た」と言って、色々なものを押しつけて行ったり。まぁ、それはありがたく頂戴しているけど。ちなみに先の石鹸も彼のプレゼント? である。
 あとはこちらをチラチラと見ながら、「旅に出たいなぁ」とか言って溜息を吐いたりとか。

 こうやって列挙してみると、怪しい事は怪しいのだが。どうなんだろう……。
 
 フーゴ、ねぇ。
 子供っぽい所がダメね。あ、でも無駄にプライドが高かったのは少し改善されてきたか。まぁ、私から見ればまだまだだけど。
 いや、でも意地が悪いからなぁ。あれ? でも最近は妙に気が利くようになったかも。いざという時には意外と頼りになるような気も。
 いやいや、でもでも私並みに背が小さ……くもないか、もう。

 …………。

 いやいやいや!
 大体、アイツはばりばりの上級貴族のご子息なわけだし、そんな訳がない!

 それに、私は前からロッテに公言しているように、色恋沙汰になど興味はないのだ。
 ないったらないのだ。うむ。

「笑い声が乾いておらんか?」
「と、とにかく! 私にはそんな事にかまけているような暇はないの。お金の神様はやきもち焼きでね。全ての時間と労力を捧げなければ振り向いてくれないのよ」
「ふぅん。ま、ひとまずはそういう事にしておくか」
「……ぬぅ」

 無駄に声を張り上げて言う私に、ロッテは訝しげに目を細める。
 そういう事にしておく、というのが少し腑に落ちなかったけれど、ここでこの話題は打ち切りなのだろうし、と、私は否定しようとする言葉を喉奥に抑えた。



「……しかし、前から思っておったのじゃが、そんなに金ばかり集めて、結局、何をするつもりなのじゃ?」
「ん? うん。とりあえず今までは独立する事が目標だったけど」
「ほう。で、今は? 聞かせてみよ」
「えぇ、言うの?」
「むっ、共同経営者に具体的目標を示さんとは、そういうのは重大な裏切りではないのか?」
「……そう言われると弱いなぁ。そうね、私の、“新しい目標”は自分の店を持つこと。目指すはカシミール商店って感じね」

 そう、それが私の“新しい目標”であった。
 
 商人としては月並みかもしれないが、それだけ多くの人間が目指す目標地点という事は、“自分の店を持つ”事が、一つの完成された成功の形、ゴールである事を示している。
 無論、それを為した後の方が大変であり、大切である事はいわずもがななのだろうけど、今の私はそれ以上の事など考える気はなかった(そもそも“自分の店を持つ”という目標だって相当に困難な道なのだし)。

 それはまさに取らぬ狸のなんとやら、というやつであるからだ。
 今までの目標は“見習い”という立場から“独立する事”であったけれど、その時だって、独立した先の事をはっきりと計画していた訳ではない。
 今回は、“遍歴商人(仮)”という立場から、“自分の店を持つ事”に目標を設定したのであり、その先の事はやはり、実際にその時になってみなければわからないだろう。

 私は思うのだ。
 “目標”というのは高すぎても遠過ぎても駄目だと。
 今ある状況から立てられる“小目標”、例えば、「今回は林檎1個しか売れなかったけれど、次は2個売れるようにしよう」
 きっとこんな簡単な事でも、一つ一つ達成していけばいいのではないだろうか、と思う。

 その目標設定と達成を日々着々と積み重ねて行く。
 これこそが重要である、と私は考えていた。
 
 勿論、最終的にどんな人間になって、どういう事がしたいのか、という漠然としたビジョン──“人生の目標”はあるけれど、ね。
 でも、それは人に語るような物でもないし、そんな遠くだけを目指して飛んでいては、やがて疲れ、萎え、堕ちてしまうだろう。

「ふぅん」
「ふぅん、って……。もう少し何かあるでしょ、リアクション」
「いや、何か思ったより普通でつまらん。せめて、『この国の秘所に巣食う闇の王』とか、『私が新世界の始祖になる』とか言うのかと」
「……アンタ、私が阿呆だと思っているでしょ?」
「何と、違うのか?!」

 馬鹿にしたような顔から一転、心底驚いた、というように言うロッテ。

「はいはい。そうですね、違いませんよ~」
「くふふ、拗ねるな拗ねるな。しかし、それっていくらくらいかかるのじゃ? 金額的に」
「そうね……。商社ってのは小売店とか飲食店とか、そういう普通の店より遥かに初期投資が嵩むからねぇ。大体一店舗で最低で10,000、いえ12,000、13,000エキュー、くらいはかかるかしらね」
「うぇ?! そんなにかかるのか?」
「そ。カシミール商店なんて本店一店舗で初期投資がその三倍近くだったらしいわよ」
「はぁ」
「ま、私の場合はあれほど立派なモノまでは建てる気はないから。でも、他の商社の代理店でもない限りは、一店舗だけじゃしょうがないから二店舗にしたかったり、取引請負人を頼むにしたってお金がかかるし、他の経費なんかも考えると……」
「……考えると?」

 頬に指をやって、疑問符を浮かべた顔をするロッテ。
 どうやら額の大きさに頭がこんがらがっているらしい。

「ずばり、遍歴の旅で得る目標額は30000エキューって所ね」
「さんまん……本気でか?」

 ロッテは目を点にして呟く。

 うん、私も大した金額だとは思うよ?
 元手1000エキュー未満(借金を棒引きするとね)から30倍以上にするっていうんだから。
 いや、まじ半端ねぇわ。

「本気も本気、大マジよ」
「ふふふ、じゃあその8割は妾のモノ、という事じゃな」
「ぶぶー! 《コンパニーア》で得る配当額の大小は、最初の出資額の多寡よりも会社に対する貢献度が重要なのでっす。これ常識ね。よって、護衛もしたがらないアンタには2割程度が妥当です」
「ほぅ……。言いたいことはそれだけか?」
「何よ、やる気?!」
「いや、権利を使おうと思ってな」
「は?」
「貯金レース」
「うっ……」

 やばい、そんな事すっかりと忘れていた、というか、忘れていると思っていたのに……!
 
 一瞬で不利を悟った私は、滑るように土下座の姿勢を取り、言った。

「ごめんなさい、私の分際で調子のりました。すいません、協力して下さい、リーゼロッテ様」
「くっひゃはは、最初からそう言えば良いのじゃ。主にはそういう態度が似合っておるぞ」

 そう言って、私の垂れた頭をぺしぺし、と叩くロッテ。

 ──畜生、いつかこの関係を逆転してやる……!

 いつまでたっても彼女に頭があがらない現状に、私は心中で密かに、もう一つの“新しい目標”を設定したのだった。





つづけ



[19087] 31話 彼氏(予定)と彼女(未定)の事情
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:570babac
Date: 2011/03/26 09:25
 そんなこんなで久しぶりの休日も明け。

「……でぇ、これがまた笑える話なんっスけど~」
「口を動かしてる場合があったら手と足を動かしなさいね」

 お客さんの荷作りをしている最中、いつものように無駄話をする後輩のエーベルをじろりと睨みつけながら、手をぱんぱんと叩いて話を遮る。
 この子はケルンの商家出身(よって寮には入っておらず、通いである)の都会っ子だけあって、社交性はありすぎるほどにあるものの、おしゃべりすぎるきらいがあるのだ。

「あらら、冷たいなぁ。でもそんな先輩もイイっスね!」
「……いい加減黙らないとシメるよ?」

 それでも止まらないエーベルの口に、眉をぴくりとさせながら言う私。

「は、そ、それは勘弁を……」

 エーベルは気持ち青い顔になってごくりと唾をのむと、慌てて手を動かしはじめる。

 実際、彼を過去に何回かシメた事もある。いや、本気じゃあないけどね?
 別に好きでやっているわけではない、飽くまで後輩の教育のためである。
 恐怖政治は、あまり好きではないが、それが最も効果的であるならば採用しない手はないのだ。

 尤も、最近は私もエーベルの事はあまり言えないかもしれないが……。
 というのも、私もまた仕事中、別の事へと気をやっている事が多くなってしまっているからだ。

 おかげで先週は散々だった。

 商品を取り違えて引き渡しをしてしまい、気付かずに出発してしまったお客さんを全力で追いかけたり。
 商品を何個も壊してしまい、その分を給金から引かれてしまったり。
 極めつけに馬の世話している時、尻を馬に蹴られて派手に吹っ飛んだり。これで私が普通の娘であれば大怪我をしていたところだ。普通じゃない、と自分で言えてしまう所が少し悲しい……。

 その度に親方や見習い頭のギーナさんから雷が飛んだのは言うまでも無いだろう。


 
 私が何に気を取られているのかと言えば、言うまでもなく間近に迫っている(はずの)独立に関する事。

 まあやることは色々とあるのだが、最優先に手を着けなければいけないのは、私の独立にあまり乗り気ではない親方の説得だろう。
 親方が快く首を縦に振らない理由は、私の年齢の事も勿論あるだろうが、その歯切れの悪さから、もしかすると他にワケがあるのかもしれない……。

 さて、何故それが最優先なのかと言えば、師弟の義理、という理由は勿論あるけれど、商家の出ではない私の場合、親方の許可が貰えないと独立が難しくなってしまうからである。

 と、いうのも正式な商人になるためには、どこかの商業組合《アルテ》に加入しなければならないのだが、親方の許しが無ければ、この時に問題が発生してしまうのだ。

 商家の出である者(つまり商人になる者のほとんど)が、組合に属するためには、加入費と年会費を納め、運営委員《カンスル》との面接試験をクリアすることが出来れば、晴れて組合に属する事が出来る。
 ちなみにこの試験とは、まがりなりにも商人としての修行を詰んでいれば、ほぼ間違いなくパスできるものだ。
 所謂、明らかに組合に属するのに不適格な人間(商才がない、という意味ではなく、人間的に問題がないかどうか)を振るい落とすためだけの形式的なものである。

 しかし、私のような商家の出ではない者が商業組合《アルテ》に属するためには、もう一つ必要なものがある。
 
 それが、各商家の親方の出す、“この者は商人としてすでに十分修行を積んでいる”という事を示す推薦状である。
 この推薦状は、出自、年齢などの基本情報から、いつからいつまで、何年の修行を積んだか、という見習い期間の証明や、勤怠の評価に至るまで、事こまかに書かれている、所謂身分証明のようなものである。

 ちょっとした差別のようにも思えるが、貴族に限らず、どちらかといえば本人の為し得たものに重木を置く実力主義(ルネサンス的な)であるこのゲルマニアに置いてすら、血筋というのはやはりそれなりに重要視されているということだろう。
 組合としても、どこの馬の骨とも分からない人間に『私は○○組合の者でござい』と名乗らせる訳には行かない訳だ。

 そんなわけで、正攻法でいくならば、まずは親方の首を意地でも縦に振らせなければ、私(とロッテ)は一歩も前には進めないのであった。



「あぁ、もう~何で気持ちよくウン、といわないかなぁ、あの頑固オヤジ……」

 何時の間にやら思考の海に入り込んでしまった私は、頭を抱えて一人で叫んだ。

「ほぅ、頑固おやじとは俺の事か?」
「えぇ、当たり前でしょ。他にオヤジなんて誰がいるっていうのよ。ったく! いい加減にしなさいっつー、の……ぁ」

 勢いに任せて叫ぶ私の前には、不自然ににっこりとした親方が。

「あ、と、これはですね、違うんで──」
「馬鹿者」

 有無を言わさず、ごすん、とゲンコツ一閃。
 今見ればスローに見えるこのゲンコツを躱す事も出来ただろうが、ここは明らかに私が悪いので素直に殴られておいた。

 ま、慣れてくればこの衝撃も心地よい……訳はなく、痛い物は痛い。私はちょっと涙目になりながら頭をさする。

 近くに居たエーベルは我関せずとばかりに、いつの間にか少し離れた所に移動して、人が変わったように仕事に打ち込んでいた。
 相変わらずこういうところは要領がいい奴だ。

「はぁ、仕方ねェ奴だ。そんなに生き急ぐ必要はねェだろうに」
「光陰矢のごとし! 善は急げ! っていうんですよ。折角お金が貯まったんだから、独立したいと思うのは商人として当たり前なんじゃ?」
「お前が独立に向けて努力しているのは、ま、認めてもいいが。それにしたって、修業期間がたった3年程度、しかも13歳じゃ、信用も何もあったもんじゃねェ。……何をそんなに焦る? しつこいようだが、独立するにしても成人してからの方が何かと問題が少ないと言ったろう」

 がりがりと頭を掻きながら、辟易としたように親方はもう一つ深い溜息を吐く。
 私もそれに続くように「はぁ、またか」と、下を向いて小さく息を吐いた。

 このやり取りがイヤになってきているのは親方も私も同じ。
 この議論はずぅっと平行線を辿っているのだから。

「問題なんてありませんよ、未成年一人の旅が危険だというのなら、ロッテ……、いえ、姉だってついてきますし」
「ほぅ、そりゃ余計に心配だな」
「それは確かに……。って論点をずらさないで下さい」
「ぅん? あぁ、そうだ! そういや、昼からちょっと用があってな。ま、その話はまた今度」
「あ、ちょっと!」

 私が更に続けようとすると、親方は逃げるようにして奥へと引っ込んでいく。
 いや、アンタ、今は割と暇だから倉庫内をうろうろしてたんちゃうんか?

 親方はいつもこの話になると、はっきりと反対の意志を示すわけではなく、何となくはぐらかしてしまうのである。
 私が色々と論じても、するりと躱して、今のように「その話はまた今度」と言われてしまう。

 一体何なんだか……。
 反対なら反対とはっきり言ってくれた方が余程すっきりするのだが。



「く、また逃げられた……」
「あらあら、今日もダメだったの?」
「あ、ヤスミンさん。と、フーゴか……」

 私がややがっくりと肩を落としていると、後ろからヤスミンさんに声を掛けられる。
 振りかえると、げっそりとしたフーゴもそこに控えていた。
 私から遅れる事およそ1年(といっても、このくらいの時期に研修に入るのが普通だそうだ)、今は彼が事務関係の研修中なのである。
 おそらくあの修羅場のような仕事場に参っているのであろう。

「おいおい、何だよ、その嫌そうな顔は」
「あれ、そんな顔してたかしら? ま、だってアンタ今回は親方の味方だしね。仕方ないっちゃ仕方ないよ、この裏切り者め」
「う」

 特に意識していた訳ではないが、どうやらフーゴの方を見て私は顔をしかめていたらしい。
 その原因であろう事実に言及してやると彼は一瞬言葉に詰まった。

 今回の独立の件、彼はどちらかと言えば親方の意見に賛同、つまり私が独立する事に反対しているのである。
 しかも親方とは違って、かなりはっきりと反対の意志を示していたりする。

 一応、私の方が後輩なわけだし、そんな後輩が自分より先に独立するのが気に食わないとか?
 うーむ。確かにプライドは結構高いヤツではあるが、そういう意地の悪い事はしない気がするんだけど……。
 割と頼りになる時もあるし。最近はちょっと優しげなトコもあったし?

「まったく、何で同じ見習いのアンタが私の独立に反対するのか、訳がわからないっての。エンリコさんの時とは正反対じゃない」
「それは、お前みたいな未熟者が世間に出たら食い物にされるのが目に見えているからって──」
「うそくさーい。どうせ、後から入った私がアンタより先に独立するのがイヤだ、とかそういうガキ臭い見栄とかプライドが理由でしょ?」
「違うっ! そ、そうじゃなくてっ──」
「はいはい」

 私がもういい、とばかりに片手をひらひらさせて冷たくあしらうと、落ち込んだように顔を俯かせるフーゴ。
 む、ちょっとキツイ態度だったか?ま、裏切り者にはこれくらい言ってもバチはあたるまい。

「で、結局どうするの? このままじゃ親方さんを説得するのは1年掛かっても無理そうにみえるけど」

 ヤスミンはそんなフーゴを憐れむように一瞥してから、私に向かって話を切り出す。

「……やっぱりそう見えます? 頑として反対されない分、余計にやりにくいんですよね。何と言うか、許可を出さない理由も何となく曖昧でよくわからないし」
「まー、娘がこんなに早く巣立つとは思っていなかったんでしょうよ」
「……?」
「あ、あーと、いや何でもないわ。ほほ、そう、親心よ、親心。見習い達はみんな親方さんの娘であり息子であるという意味ね? そりゃ、まだ子供の君が独立するなんて、親方としては心配して当然って事」
「はぁ」

 失言を誤魔化すように、顔の前でせわしなく手を振って言うヤスミン。
 んー、この人も何か隠しているのだろうか?
 むう、随分と隠し事の多い商店だこと。

「そうだぜ、親方だってお前の事を考えた上で反対してるんだからな。何も慌てて出ていかなくたっていいだろ? 俺が言いたいのはそう言う事! ていうか、旅に出るなら男手も絶対に必要だろう。男手が、な」

 ヤスミンを援護するように、こちらをちらちらと伺いながら言うフーゴ。

「男手? そんなものいらないって。ロ……姉さんがいるし? アレに腕っぷしで勝てる男が、いえ人間がいるかしら?」
「それはいないだろーけどな……。いや、そういう問題じゃなくて! 女だけの旅ってのは何かと問題があってだな」
「いや、女二人の中に男が一人混じっているほうが問題でしょ……」
「確かに……」
 
 ぐぅ、と唸るフーゴを尻目に、私は話を戻す。

「ま、いざとなればツェルプストー辺境伯に組合へ入れてくれるように直接頼むっていうのも手ね。組合の主席運営委員である辺境伯に頼めば、親方の推薦を取らなくてもとりあえず組合には属すことは出来るはず」

 あれ以来、ツェルプストー辺境伯とは立場は圧倒的に違えど、それなりの関係は保っているはずだ(まあ、主にロッテがだが)。
 ならば、そのくらいは彼に頼めば何とかなるのではないだろうか。

「随分と不義理ね、それは。領主様とは言え、親方を差し置いて他の商会の主にお願いなんて、さすがにまずいんじゃないかしら?」

 私の考えを聞き、眉をひそめて、若干不愉快そうに言うヤスミン。
 確かに、確かにそれはあまりに薄情である。本当は親方を説き伏せて推薦を貰うのが一番いい。
 私もそれはわかっている、わかっているのだが。

「しかし、このままでは、いつまでたっても」
「うーん、どうしても、というなら、辺境伯に頼らず、貴女が独力で組合に行って交渉してきたほうがいいわね。そのあとに親方に事後承諾を取る、という形で。さすがに、親方もそこまですればわかってくれるかもしれないし。それなら他の商会主に頼むよりは角が立たないしね。まー、それでもあまり良くない事ではあるけど。……とにかく、最初からあまり波風を立てるような真似をしては駄目よ」
「はい」

 口調は優しげだが、キッと鋭い視線を投げかけながらいうヤスミンの迫力に押され、私は頷く。
 確かに彼女の言うとおり、商売の最初からケチがつくのはよくないだろう。
 それに私も出来れば親方を困らせるような事はしたくないのだ。
何だかんだ言って親方には感謝してもしきれないほどの恩があるのだから。

「じゃ、今日の仕事が終わった後にでも、(ケルン交易商会組合の)本部に行ってきますよ。あそこは夜でも開いてましたよね?」
「えぇ」

 私が一応そう確認すると、ヤスミンが軽く頷く。
 正直、私が単身で組合に掛け合った所で望み薄ではあるが、何もしないよりはマシだろう。
 いや、でも数少ない女商人の卵として、何より“美貌姉妹”の妹として、私もケルンではそれなりに有名……なはず。
 最近では通常見習いに任せるとは思えないような仕事もしているのだ。もしかしたら意外と簡単にいけるかもしれない。



 そうそう。結局のところ、私はゲルマニア西部の、つまりケルンの組合に属する事に決めていた。
 他の組合に属する繋がりもないし、交易で身を立てようとする私には、ゲルマニア東西南北中央の5つの組合の中では、この組合が最も適しているからだ。

 それに、ここは私の第二の、いや、ただ一つの故郷であるため、ここ以外の組合に所属する事は今では考えられない、というセンチメンタルな理由もあった。
 尤も、加入費や年会費が他の組合と比べても、割と安いのも、なるべく初期にかかる費用を削減したい私にとっては、一つの魅力的な理由なのであるが。



「……おい、少しは俺の話も──」
「アリアせんぱーい! ヘルプ、ヘルプ!」

 それまで押し黙っていたフーゴが口を開きかけた時、エーベルのけたたましいSOSの声が発された。

 そちらの方に目をやると、元から居た常連の小売店主と、新たに店を訪れていた二人組のお客に挟まれる格好で困り顔のエーベルが必死に手を振っていた。
 新規の二人は、互いにちぐはぐな恰好をしている事からして、おそらく飛びこみの遍歴商人と、組合から派遣された計量人(余所の商人が勝手に商売しないように監視しつつ、取引の計量を見届ける人)だろう。

 このように、遍歴商人達が都市部で商売する場合には、通常、まずはその都市の商業組合に話を通してから取引できる商店を紹介してもらい、そこで売ったり買ったりする。
 もしそこで話がまとまらなければ、また新たに違う店を紹介してもらう、という寸法である。

 何度も言うが、どこの国や地域でも、余所者が好き勝手をすることはできないようになっているのである。
 私も、旅に出た後はこの事を念頭に置いて行動しなければならない。
 時には、ルールの網の目をくぐる事は必要かもしれないが、ルールを曲げたり破ったりする事は極力避けなければなぁ。

 って、今私がやろうとしている事(親方の許可なしで組合加入の件)も地味にルール違反か?
 いやいや、多分これは大丈夫。許容範囲内だ。

「仕方ないわねえ」
「ちょ、まだ話が」
「じゃっ、行ってくるから」
「……ったく、人の気もしらねーで」
「ん? 何よ」
「ちっ、もういいよ、行け行け、早く行けよ、バーカ」

 彼女の後ろで、すっかり蚊帳の外のフーゴが何事かぶつぶつと呟いていたが、私の耳にははっきりとは届かなかった。





 こぉん、こぉん。

 教会の甲高い鐘の音が終業の時間を知らせる。
 
「お疲れ様でしたっ」

 それが鳴りやむと同時に、ぺこりと頭を下げて、踵を返し、そそくさと外へと飛び出していくアリア。
 相変わらず行動が早い。やるべき仕事もとっくに終わっているのだろう。



「はぁ」

 その背中を西日がオレンジに染め上げて行くのを、ぼけっと見送りながら俺は一つ溜息を吐いた。

「なんで俺は……」

 頭を抱えて悔恨の言葉を吐く。
 正直な気持ちを言えばいいのに、俺はまた強がってしまった。
 何が『お前みたいな未熟者が世間に出たら食い物にされるのが目に見えている』だよ。
 そんなことを言ったら俺の方がよほど未熟者だ。

 アリアは親方や駐在員の付き添いという形ではあるが、既に外回りまでしている。
 年齢はともかく、実力的にはいつ独立してもおかしくないのだ。

「でも、なぁ。もし、答えが“ノン”だったら?」

 アリアは“その手”の事に鈍い。時々、ひっぱたきたくなるくらいに鈍い。
 多分、完璧に練られた俺のアプローチにも全く動じない、というかおそらく気付いてすらいない。
 
 いや、もしかすると気付いているのに無視しているのかもしれない。
 そうだとすれば、今特攻する事は無謀。手痛く撃墜される事は目に見えている。

 そうなれば、俺とアイツの関係が今よりギクシャクしてしまうだろう。

 それが、怖い。
 
「クソッ、これじゃヘタレじゃねーか……」

 俺は失敗を恐れて前に踏み出せない。

 アリアは失敗する事も沢山あったが、それでも前に進んでいこうとしていたし、実際今もそうだ。

 きっと今回だって、どんなことがあっても、どんな手を使っても、あいつは自分の意志を通すに決まっているのだ。
 それはきっと親方だって、ギーナさんだって、俺だって誰にも止めることはできない。

 悪く言えば自分勝手。
 でも、俺はアリアのそういうところが好きなんだ、と思う。

 アリアは過去を語りたがらないから、アイツがどういう境遇にいたのかは詳しく知らない。
 でも、農民出身でここに来た時は着の身着のままだったはずのアイツが、僅か3年でもう独立間際まで来ているというのは並みじゃない。
 本来ならそんな出自で親方に弟子入りする事すら難しいのだから。それは物凄いエネルギーの要る事だと思う。

 自分で決めた事に対して、障害をぶち壊しながら真っ直ぐ進んでいく。
 そうして周りの人間に自分を認めさせ、周りをも変えてしまう。
 
 その姿は中途半端な俺には眩し過ぎるくらいだった。

「ふぅ、あの頃よりは、少しは俺も成長したと思ったのに、な」

 俺はもう一つ溜息を吐き、ぼんやりと昔を思い出しはじめた。





 “好奇心に溢れ、自由気ままにのびのびと育たれた坊ちゃま”

 フーゴ・ヤーコブ・フォン・フッガーこと俺は、フッガー家屋敷に仕える使用人達から、表立ってはそのような評を受けていた。
 もっとも、奴等の本音を代弁すれば、“のびのび”とか、“自由気まま”で片づけられるレベルではなかっただろう。

 貴族として最も重要な魔法に、《練金》などのごく一部の魔法を除いて殆ど関心を示さず、少し目を離せば屋敷から抜け出し、遊び呆けた。

 礼儀や伝統、といった決まり事を極端に嫌い、幼子ですら学んでいるであろう、基本のテーブルマナーすら出来ていなかった。

 好き嫌いが激しく、歯の浮くような美辞麗句やおべんちゃらを言ってくる奴、子供の自分に対してゴマスリをするような気に入らない奴には容赦なく辛辣な言葉を浴びせ、無視した。相手は立場が上の者でも悉く無視した。
 逆に気に入った相手に対しても、“子供の悪戯”というにはえげつない悪戯を仕掛けたりするので、誰を好いていたのかはよくわからない、天の邪鬼な子供だった。多分構ってほしかったんだろう。

 今思えば何て糞餓鬼だったんだろう、と思う。
 
 決して実家の教育が間違っていたせいではないだろう。
 上の兄貴達は至って真面目な優等生であったのだから。



 さて、そんな俺を特に厳重注意する事も無く、見守り続けていた親父であったが、俺が10歳を過ぎた頃、流石に堪忍袋の緒が切れたらしい。

「結婚相手を決めておいた」
「はぁ?!」

 突然言い渡された意味不明の言葉に俺は間抜け面で聞き返した。

「婚約しろ。そうすればお前も少しは貴族というものを自覚するだろう」
「ふざっ……」
「これは家長であるフッガー伯爵としての命令だ。どうしても嫌だというならこの家を出て行け」
「……」

 一瞬親父に掴みかかりそうになった俺だが、いつもの温厚な感じがない、ただただ厳しい親父の姿勢に気押され、俺は押し黙った。

 親父の考えを推測すれば、家柄だけで決められた、親同士が勝手に決めた政略結婚──を突きつけることで、貴族としての自覚が薄い俺に、自分は責任ある者であり、貴族であるという事実から逃れることはできない、と言う現実を知れ、という事だったんだろう。
 
 貴族の結婚というものはそういうものだ、とは知っていた。
だが、そういう伝統とか、決まり事が俺は嫌いだった。
 だからこそ、魔法の勉強も真面目にやらなかったし、それを押しつける貴族の大人たちも、謙る平民達も嫌いだったのだ。

 三男とはいえ、ゲルマニアでも指折りの豪商であり、大富豪であるフッガー伯爵家と血の繋がりを持ちたい貴族家は多く、その相手はすぐに見つかった。
 お袋は無理矢理な婚約に異議を唱えていたようだが、貴族として、当主の厳格な決定に逆らうわけにもいかず、結局その婚約はゴリ押しされることになった。





 その決定から僅か数日後、俺は憮然とした表情で会食の席についていた。
 場所はアウグスブルグ、フッガー家屋敷の煌びやかな大広間。要する俺の家だ。

 お相手はフッガー家に支援を受けて商売を行っている南部の上級貴族家の一つヒルケンシュタット男爵家の一人娘。
 要するに、領地持ちではあるが、フッガー家に頭があがらない貴族家のご令嬢だ。
 当時の俺の性格上(今の俺は礼儀をちゃんと弁えているからな!)、何か失礼があっても大丈夫なように、と考えたのだろう。

「意味がわかんねーよ、クソッ……」

 俺はそっぽを向きながら、貴族の子息がこのような場で発するとは思えない粗野な言葉遣いでそう言った。

「フ―ゴ様、どうかなされましたか?」

 そう言って、可愛らしく首を傾げるのは、金装飾の施された、大きなマホガニーの食卓机の向かいにちょこんと座った見目麗しい、というにはまだ幼いが、将来的には間違いなく美人になるであろう容貌をしたご令嬢。名前は忘れた。
 ま、もちろんアリアと比べられる程じゃないけどな。

 彼女の周りの席にはその両親、そしてその後ろに控えるのは彼らの家から連れて来たのであろう、沢山の従者達がいた。
 自分の両隣には同じく両親である、フッガー伯爵とヴェルヘルミーナが鎮座していた。
 
 見慣れているはずである大広間の内装がいつもよりけばけばしく感じた。
 食事を邪魔しない程度になり響く楽団による上品な音楽の演奏が耳触りだった。
 値踏みをするかのように、対面から無遠慮に注がれる無数の視線に腹が立った。
 
「別に」

 令嬢の質問に俺はぶっきらぼうにそう答えると、無駄に彩られた宮廷料理のような晩餐に乱暴にフォークを突き立てた。
 そんな様子を見てお袋は彼の尻を抓る。

「いっ」

 その痛みに思わず俺は跳びはねる。
 そんな俺を横目で睨みつつ、お袋が言葉を発する。

「大変なご無礼を。もう、この子ったらミス・ヒルケンシュタットの美しさに当てられて緊張しているみたいで……」
「はは……それは光栄。何、これくらいの男子はそのくらい腕白でないと、いけませんからな」
「えぇ、その通りですわね、ふふふ」

 申し訳なさそうに言うお袋に、ヒルケンシュタット夫妻はやや頬を引き攣らせながらも笑顔で返す。
 ご令嬢も「気にしていない」というように口に手を添えて上品に微笑んでいた。

 歴史の古さはともかく、現在の力関係ではヒルケンシュタットよりもフッガー家の方が上なのだ。多少の無礼には目をつぶるべき、と判断していたのだろう。
 おそらく内心は「何だこの躾のなっていない餓鬼は」と憤っていたはずだ。

 腹が立っているなら立っていると態度に示せばいいじゃないか、と俺は思った。自分が無礼なのは百も承知だったのだから。
 彼等の態度は実に貴族らしい。貴族の見本市があれば高値がつくことだろう。

 だからこそ俺は“気に入らなかった”。

「ほら、フーゴ、改めてきちんとミスとお話して」

 お袋はそんな俺の気分など知らずにそう促した。
 お袋に急かされた彼は渋々話を切り出す。別に俺が女と話すのは苦手だったわけではない。ないったらない。

「あー、お前……じゃなかった、ミスはどのようなご趣味をお持ちで?」
「あ、はい。今現在は魔法の勉強が一番の趣味のようなものですわ。次にダンスや楽器なども嗜んでおります」

 にこりと微笑み、小鳥のさえずるようなか細い声で言うご令嬢。
 あぁ、なんて典型的な“お嬢様”なんだろう。俺は彼女の評価をさらに下げた。

「ふーん、好きなモノは?」
「モノではないけれど、尊敬する両親ですわ」

 その答えにヒルケンシュタット夫妻は若干嬉しそうに表情を綻ばせた。
 それにしても即答とは、そりゃあさぞかし立派な両親なんだろう。
 ちなみに尊敬できる人、という質問で親と答える奴は虚言癖があるそうだ。

「はぁ、じゃ、将来の夢とかそういうのは?」
「それは勿論、貴族として、妻として旦那様、いえ、フーゴ様をしっかりと支えて行くことですわ」

 お前に支えられる気はねーよ、と喉まで出かかったが、顔を顰めるだけでやめておいた。
 ここでそんな事をいったらまた面倒になる。
 ご令嬢と違って両親を尊敬しているわけでもないが、いちいち親に迷惑をかける気はない。

 そんな質問を何個か繰り返すうちに、令嬢の笑顔が強張っていくのがわかった。あまりにも一方的な質問責め。これではお見合いというより面接試験だろう。
 貴族の娘としては、彼女の質問に対する答えはいずれも無難であり、また素晴らしい。
 俺と違ってよく躾けられている。

 もっとも、俺が面接官で、これが試験であれば、彼女はとうに落第していたが。

 質問が終わった後、俺は会食が終わるまで口を噤むことにした。
 こんなつまらないヤツらと話す事はもう何もなかったからである。
 ま、今考えればお前、何様だよ、と自分に言いたいが。

 そして俺は、会食の後、快くその令嬢との婚約を承諾した。
 貴族の女というのはみんな大体あんなものだと考えていたから。
 そしてその日から俺は家を出る準備を始めたのである。





「父上、私は暫し家を出ます」
「何?」
「私は将来的に自分で身を立てねばなりません。なので本格的に商売の修行がしたいのです」

 それから1月後、俺はガラにもない口調で親父にそんな事をいった。
 
 その言葉に親父は「ついにお前もフッガー家の一員である事を自覚したのだな」と満足気に頷いた。
 お袋は最後まで反対していたが、俺の申し出は割とあっさりと受け入れられた。
 俺が魔法学院に通うまで、つまり15歳までの“期限付き”ではあったが、その時になれば修行を終わらせて、国外にでも出て商人としてやって行けばいいと思っていた。
 


 そう、俺は単に逃げたのだ。
 貴族社会、諂う平民、そして婚約……。嫌なモノからの逃避。
“ここではない何処かへ”行こうとしただけ。

 アリアのように商売で成り上がってやる、とか、エンリコさんのように実家の店を立てなおしたい、とか、そんな立派な理由じゃない。

 故に俺は、中途半端。
 何のことはない、俺は昔からヘタレだったのだ。



 ……さて、最初親父が俺に提供したのは、アウグスブルグからほど近い、ニュルンベルグに存在するカシミール商店よりも規模の大きいフッガー系列の大商店だった。
 親父のコネに頼るのは嫌だったが、最初くらいは甘えておいてもいいだろう、と妥協した。通常、コネでもなければ、見習いとして商店に勤めるというのは難しいというか、ほぼ有り得ない事なのだ。

 しかし、この商店では俺は飽くまで“お客様”だった。
 フッガー家の、そして経営者の坊ちゃんと言う事で、誰も見習いとしては扱ってくれず、親方であるはずの店主はただただゴマをするばかり。
 同じ立場であるはずの見習い達は一様におどおどし、俺を腫れ者のように扱っていた。

 結局、どこに行っても俺が“気に入らない”奴らばかりだ、とある意味諦めの感が漂ってくる。
 まぁ、平民達の貴族に対する態度は仕方ないかもしれない。他の国よりはマシ出と聞いているが、このゲルマニアにおいても碌でもない貴族はいるし、何より絶対的な力である魔法がある。
 しかし、俺は他の見習いにするように普通に接して欲しかった。これでは独立するどころではないし、何より俺が不愉快だった。

 一月も経てば、この商店にいる限り、俺はいつまでも“貴族の坊ちゃん”である事を悟った。



 そんな時、俺はたまたまニュルンベルグを訪れたカシミールに、いや親方に初めて出会った。
 時期的に、西の穀物を南に卸すための商談で南部の商会を回っていたのだろう。

「おい、お前ら、一番下っ端のヤツになんで敬語を使ってるんだ?」

 いつもの如く、本来目上の立場であるはずの駐在員が俺にゴマをすっているのを見て、俺の方を面白くなさそうに見た親方がそんな事を言った。

「え、いや、そりゃあ、坊ちゃんに粗相があっちゃまずいでしょう」
「……馬鹿か、お前は。下らない事に気使ってんじゃねェよ」
「いでっ!」

 そして、親方はその質問に対する答えが気に喰わなかったのか、駐在をゲンコツで殴りつけた。
 ありえない。
 ただのゲンコツとはいえ他の商店の従業員をぶん殴るとは。

「なるほど、お前がフーゴか」
「あ、えと、そうだけど?」
「そうだけど? じゃねェだろ!」
「ぐぁっ!?」
「やれやれ、口の利き方も出来ていない糞餓鬼が商売とはな」

 そして俺も殴られた。
 殴られた挙句悪態を吐かれる始末。

「何、すんだよ!」
「お前よ、こんな環境で修行したって商人にゃなれねェってわかってるか?」

 勢いで凄んだ俺に少しも動じることなく話を続ける親方。

「わかってるよ、いや、わかってますよ……」

 毒気を抜かれた俺は、その言葉にただ頷いていた。
 殴られたくはないので、慣れない敬語に言い換えた。

「よし、じゃあ俺のとこに来い。丁度人不足だったとこだ。話は俺の方でつけておく」
「へ?」
「覚悟しておけよ。俺は容赦ねェからな? それと、その仰々しい杖は捨てろ。商売に杖はいらん。もし持っていなけりゃ不安でしょうがないっつうならもっと目立たないもんにしな」

 滅茶苦茶だ、と思った。
 勝手に話を飛躍させた上に、貴族の象徴である杖を捨てろ、と言いだした。
 
 しかし、俺にはそれが小気味よかった。

 こんな大人に会った事がない。
 この人についていけば、今までとは違うかもしれない。

 俺はそれだけでカシミール商店へ移籍する事に決めた。
 自分で周りを変えるほどの行動を起こせなかった俺は、結局、また逃げたのだ。

 “気に入らない”なら、その現状を変えるために、努力をすれば良かったのに。





「くく、情けない事思い出しちまったな……」

 あまりにも不甲斐ない過去を思い出し、俺は自嘲の笑みを零す。

 あれからもう3年以上の月日が流れ、楽しい事、恐ろしい事、つらい事、難しい事、腹が立つ事、嬉しい事、色々な事があった。
 甘ったれた所も、余計なプライドも、我がままさも捨てられたと思っていた。
 しかし、未だにヘタレた所と天の邪鬼は治っていなかったらしい。

 「アンタの意地悪って昔からでしょ? 三つ子の魂百までっていうもんね」なんて、アリアに厭味を言われた事があったが、なかなかどうして生来の性格を矯正するのは難しいようだ。

「が、いつまでもウジウジしてるわけにもいかねーんだよな」

 そう、もう残された時間は少ない。
 このまま指をくわえていたら、アリアは手の届かない場所に行ってしまうだろう。
 
 それだけは御免だ。
 
 だから、絶対にアイツが旅立つ前に伝えよう。

 自分の正直な気持ちを。



「よおおし、やるぞっ、俺は、やるっ! やってやるっ! うおおおぉ!」

 回想に沈んでいるうちに、誰もいなくなった商店の倉庫で俺は一人吼えた。



 こうして、俺は、人生最大の決意を固めたのだった──





 続く



[19087] 32話 レディの条件
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:570babac
Date: 2011/04/01 22:18
 ケルン交易商会組合本部。

 ケルンの中央部、ツェルプストー商会本社建物のすぐ隣に位置する、この歴史ある煉瓦造りの建物からは、他の商店が終業し、日が沈んでからも、煌々とした灯りが漏れ出している。

 これは、街の商店に勤める者達に配慮しての時間調整。
 繁忙期でもなければ、終業に関してはどの商会の営業も一律で(始業時間は割とばらばらだが)、教会が鳴らす終業の鐘によって終わるというのが慣例になっている。
 そして就業時間中に私用でここを訪れる事は難しい。
 その時間にここを訪れるとすれば、遍歴商人、連絡員のいずれかが殆どだろう。

 なので、組合の営業時間は普通の商会とは少しずれており、日が高くなる頃に始業し、他の商店が終業してもしばらく営業しているのである。



 そしてその立派な建物の中、役人然とした組合の従業員と何やら騒がしく揉めている商人の卵がいた。

 言うまでもなく私だ。



「できません」
「そこをなんとかっ!」
「規則ですので」
「ぬぬ……」

 無機質な石造りのカウンターごしに、感情を見せない表情で私を冷たくあしらう組合の受付嬢。
 規則、規則と、これだから組合の人間は柔軟性がない。
 半分公務員みたいなもんだからなあ……。

「必要書類を揃えた上で、もう一度お越しください」
「ですから、少々のっぴきならない事情がありまして。推薦状は後日で、という形にしてもらいたい、と何度も申し上げている訳ですが」

 ぴくり、と受付嬢の米神がひくつく。

「だから無理だって! こっちこそ何回も言っているでしょう?!」
「えぇ、しかし私も子供のお使いではないので、もう少し融通を利かせてもらいかなーっと。ほら、別に私が犯罪を起こしかねないアブナイ人間じゃないっていうのは、この街の人達もそれなりに認知してくれていると思いますし」
「ま、確かにアンタ達はこの街じゃ割と名が売れてはいるのは認めるけど? でも、それと身元確認は全っ然、別の問題なんだから。あまり調子に乗らない事ね! はい、無理、無理、絶対無理! さあ、いい加減諦めて、くるりと右に回ってお帰りなさい」

 ドン、とカウンターを握りこぶしで叩いてヒステリックに叫ぶ受付嬢。
 別に調子には乗っていないんだけどなぁ。

「あの、出来れば上役の方ともお話させてもらいたいんですが……」
「ふん、残念でした。誰と話しても同じ事よ? ここじゃ規則は絶対なんだから。それに、私アンタが嫌いだし、そんなアンタのお願いを聞いてあげる理由もないわ」
「はい?」

 こちらを憎々しげに睨みつける受付嬢。
 あの、私とあなたは初対面のはずなんですが。

「うぅ……あの女のせいよ! あの女のせいで、あの売女のせいで私のブルーノがあっ!」
「はぁ、あの女って?」
「アンタの姉に決まっているでしょう!」
「ちょ、それ私関係ないでしょ」
「うっさい! 失せろ! 消えて失せろ! この魔性の血族め!」

 私怨かい。
 “魔性”ってまぁ、ロッテに関しては2重の意味で当たってはいるけど、それにしても酷い言われようだ。
 しかしロッテ……稼いでくれるのは有難いのだが、この分だと街中の娘を敵に回しているんじゃないだろうか。

「むぅ」

 壊れた蓄音器のように喚き散らす受付嬢にどうしたものかと首を捻る私。

 あまりの騒ぎに、建物中の好奇と非難の入り混じった視線がこちらに集まっている。
 その中には顔見知りの商人達もいて、かなり気まずい。



 ぎぃ。



「なんだなんだ騒がしいなァ。組合での諍いはご法度だぜ?」

 カウンターの裏までこの騒ぎが響いていたのか、いかにも不愉快そうな声とともに、奥にある『組合関係者以外立ち入り禁止!』と書かれた札の掛けられた扉が開かれた。

 中から出てきたのは、長身でイイ体格の、赤毛褐肌で少し顔を顰めた貴族風の青年。

「っ! お久しぶりです! いつもお世話になっておりますっ!」

 その姿を見た瞬間、私は火が出るようなスピードで最敬礼。
 青年の正体は、この組合の主席運営委員、つまり……。

 クリスティアン・アウグスト。
 ツェルプストー辺境伯、その人だったからである。

「ん? おぉ、妹ちゃんじゃねーかぁ。久しぶりだな、元気にしてたか?」
「はい! おかげさまで、姉ともども健やかに過ごさせて頂いております! 辺境伯はおかわりありませんか?」
「はっはは、聞くまでも無いだろ? ……ん、しばらくみないうちにまた可愛くなったなぁ、妹ちゃんも」
「えっ? あ、そ、そんな、ことありませんよ?」

 気さくに話すクリスティアンの不意打ちの言葉にしどろもどろとしてしまう私。
 まったく、このプレイボーイめ。

「あの、辺境伯。この娘、いえ、この方とお知り合いで?」
「あぁ。昔、ひょんなことで知りあってな」

 さっきまで騒いでいた受付嬢は、怪訝な顔でクリスティアンへと尋ねる。
 うむ、俺がこの娘の命を助けたんだぜっ! とかは言わずにさらりと流すあたり、やはりプレイボーイだ。

「う、そうとは知らず大変なご無礼を……」
「ま、それはいいとしても。仕事中に私情で騒ぎを起こすのはあまり関心できんな」

 クリスティアンの諌めに、借りて来た猫のように大人しくなる受付嬢。

「はぅ。申し訳ありませんでした。以後、気を付けます」
「うむ。わかればいいさ。……ふぅん、推薦状無し、か」

 気さくな感じとは一転して、厳しい態度で受付嬢を注意するクリスティアン。
 なるほど、こちらが彼の仕事用の顔と言う事か。



「んで、妹ちゃん。俺でよけりゃ、話を聞くけど? 丁度、暇を持て余していた所だからなー」

 一通り受付嬢を注意すると、クリスティアンはこちらに向き直って言う。
 その表情はまた通常の軽薄なものへと戻っていた。切り替えが早いなあ。

「あ、しかし、こんな事で辺境伯にお手間を取らせるわけには(まぁ、利用させてもらおうなんて事を考えていたのは事実だけど、やっぱりねぇ)」
「いーんだって。若い奴らの頼みや悩みを聞くのも、上の者の勤めだからな。ほら、子供が遠慮すんな」
「うー、子供じゃありませんっ」
「んー、確かにここら辺はもう立派な大人だな」
「あ、やっ、ど、どこを見ているんですか?!」

 無駄に高い双丘をめがけてぶしつけな視線を送るクリスティアン。
 それから身を守るように、私は両の腕で体を掻き抱く。
 セクハラ反対。

「はっは、冗談、冗談。いくら俺でも、妹ちゃんの年じゃまだストライクゾーンには入ってねえ」
「もう、乙女の純情をからかっちゃいけませんよ?」

 悪びれる様子もないクリスティアンに、私はわざとらしくぷくっと頬を膨らませて言う。

「んー、さすがロッテちゃんの妹。ガードが硬いなー。……で、今日来たのは結局、独立の事かい? 手紙にも書いてあったな、そろそろ独立できそうだ、って」
「え、まさか読んでくれているなんて、意外ですね」
「おいおい、心外だな。女の子からのラブレターを読まないわけがないだろう? ……ま、返事はなかなか出せてねーのが悔やまれるが」
「ふふ、読んで頂いているだけで感激ですよ。ありがとうございます」
「どういたしまして。推薦状が無いってことは、まだカシミールが独立を認めていないってことかい?」
「そうなんですよ! 聞いてくれます? あの親父ときたら…………」

 何か辺境伯という遥か上の身分の人と話しているというより、近所のお兄さんと話しているような錯覚を起こしはじめた私は、気付けばクリスティアンに愚痴を零しはじめていた。
 クリスティアンはそれに時々合いの手を入れながら上手く話を引きだしていく。



 かくかくしかじか。



「はぁ、はぁ、と、言う訳です!」

 気付けば私は、全てまるっと事情を喋っていたのだった。
 うーむ。流石、こういう話術は見習うべきだなぁ、とぼんやり考える。

「ん。なるほど。事情はわかった。だが」
「だが?」
「やはり、カシミールの推薦状無しでは組合員の資格は与えられない。組合のトップ自らルールを破っちゃ示しがつかないし、な」
「あぅ……」

 腕を組んで難しい顔で言うクリスティアンに、私は肩を落として俯いた。
 まぁ、これは仕方ないっちゃ仕方ないなぁ。

 さて、また一から作戦でも練るか……。
 
「おっと、落ち込むのはまだ早いぜ?」
「え?」
「妹ちゃん。何でカシミールが独立の許可を出さないかわかってないだろ?」
「えぇと……多分、私の商人としてはまだ未熟だと考えている、とかですかね?」
「んー、多分違うな」
「?」
「よぉし、ちょっとついてきな。俺が直々にその問題を解決してやろう」

 そう言って親指で出口の方を指し、白い歯を見せるクリスティアン。

「え? 外ですか?」
「そそ、ほらほら、行こ──」

 

 ばたんっ!



 先程クリスティアンが出てきた扉を乱暴な音を立てて蹴り開けられた。

「辺境伯っ! また仕事をほったらかしでこんなところにっ! 今日と言う今日は逃がしませんよっ!」

 会話を中断したのは、いつか見た薄幸そうな青年。
 確か、ツェルプストー家の執事さん。

 はて、こんなにやつれていたっけ、この人。

 というか、やっぱりサボりだったのね、クリスティアン様……。

 まあ、この時期、クリスティアンのような上役がしなければいけない組合の仕事っていったら組合の予算案、新規商人登録の認可、組合費徴収率の確認などの雑多な書類に目を通してサインとかそんな感じだろうから、彼の性格上サボりたくのは当然の結果かもしれない。
 だって、書類仕事ばかりって退屈だもんなぁ。
 それが向いている人は好きなんだろうが、彼は絶対に向いていないし、私も多分向いていない。手紙を書くのは割と好きなんだけど。

「やべっ!」
「わ」

 執事さんの姿を確認するやいなや、私の腕を引っ張って、出口へと遁走するクリスティアン。

「お待ちくださいッ! いや、待て、このやろおおおお!」

 手負いの獣のような獰猛な表情で疾走する執事さん。
 うわ、めっちゃキレてるよ……。

「ちっ、面倒くせえっ! 《念動魔法》【レビテーション】!」
「なっ!?」

 クリスティアンは向かってくる執事さんを相手に、杖を構え超高速で詠唱を完成させる。
 怒りで我を忘れていたのか、あっさりと【レビテーション】の魔力? に絡めとられた執事さんは、痛恨の表情とともに後ろへ吹き飛ばされた。

 あの、こういう場(商取引及びその他接客業を行う店舗、またそれに関する建物)での威力的な魔法は、組合規則によって禁止されているはずですよね? よね?
 さっき「ルールを破るわけにはいかない」とか真顔で言っていたのに! 納得してしまったのに!

「ふははは、さらばだ! 執事君!」

 クリスティアンはまるでどこかの怪盗のように声高に叫びながら、私を連れて夜の街へと逃走する。
 ずばり、駄目な大人ですね、この人。
 やる時はやる人なんだけどなぁ。

(私、本当にこの組合に所属して大丈夫かしら……)

 目まぐるしく移り変わる景色の中、一抹の不安を抱いた私を誰が責められるだろうか。





「辺境伯。念のために聞きます。一連の行動は、私の問題を解決してくれるためのものなんですね?」
「そうだよ?」
「では、何故現在、私達は“蟲惑の妖精亭”前に立っているんでしょう」

 侵略する火の如く、大通りを駆け抜けた辺境伯に連れてこられたのは、どんちゃんと喧騒鳴り響く噂のセクシー酒場、“蟲惑の妖精亭”。
 はい、いつも私が夕飯を御馳走になっているあの店です。

 不安的中。どう考えてもここに問題解決の糸口があるとはおもえません。
 彼の夜遊びのためとしか思えないのですが。私はサボる口実か!

「ん? 何だその疑わしげな顔は」
「まぁ、いいですけど……。どうせロッテ、迎えに来なくちゃいけなかったし」
「はっは、しょうがないだろ、この時間じゃ仕立屋も散髪屋もあいてないしな」
「?」

 クリスティアンの言葉に首を傾げる。
 仕立屋と散髪屋? 服でも買って床屋でさっぱりするつもりだったのだろうか。

「ほれ、入るぞ?」
「あ、はい」

 クリスティアンに促されるがままに、彼の後にぴょこぴょことついて入店する私。

「いらっしゃいませ~! 一名様、いえ、二名様ご案なーい!」

 満面の笑みと元気のいい掛け声で出迎えたのは蟲惑の妖精亭の女主人、もといマドモワゼル。
 まるで性質の悪い仮装のような厚化粧で微笑まれるのは、見慣れた今もまだちょっとコワイ。
 
「って、あらあら、辺境伯様。これは大変失礼しましたわ。御指名はいつもの通りロッテちゃんでよろしいですか? ん、お連れの方は女性……ってアリアちゃんじゃないの」
「こんばんは」

 辺境伯だと気付いたマドモワゼルは砕けた接客を少し改め、私の方を見て再び砕けた。

「あぁ、今日は酒場の客としてというかな。商人の先達として、妹ちゃんにアドバイスをしてやろうと思ってさァ。あ、でも折角だからロッテちゃんも呼んでもらおうか」
「? はい、わかりました。ロッテちゃーん! 御指名よ!」

 おどけた調子でいうクリスティアンに疑問符を浮かべながらもマドモワゼルがロッテを呼ぶ。
 むぅ、彼の意図がわからん。呑みながらの方が話が進むとかそういう事か?

 まぁ、クリスティアンに構ってもらっているだけですごいことではあるけども。
 はっ! ま、まさか姉妹丼とか考えてないでしょうね!?

「は~い! ……って、何じゃこの組み合わせは?」
「私もよくわかりませんわ、お姉様」

 私が身の程知らずの妄想して身悶えていると、近づいて来たロッテがあっさりと猫かぶりを止めて、怪訝な顔でクリスティアンと私を見比べる。
 その代わりに私が猫の皮を被っておいた。
 
「いや何、たまたま組合で独立する、させないの揉めてる所を見てな。聞けばカシミールにまだ許可を貰えていないらしい。で、妹ちゃんに何が足りないか、っていう話になってなァ。自分でそれが分かってないみたいだから、実地で教えてやろうかと」
「はぁ? お主、今日もカシミールを説得できなかったのか? この能無しめが」

 クリスティアンが事情を説明すると、ロッテは心底呆れたように冷たい目で私を見下ろす。

「面目ない。としか言いようがないわ。ごめん」
「うっ、素直に謝るとは……。やめてくれ、さぶいぼが立ちそうじゃって」

 私が悔しさよりも情けなさに下唇を噛みながら言うと、ロッテはそう言ってお茶らけてみせる。
 う~、馬鹿にされているような、気を遣ってもらっているような。

「ま、とりあえず奥に入れ。お主らがそこにいては他の客の邪魔じゃ」
「おう、入らせてもらうぜ」

 そう言ってロッテが奥の座席に案内すると、クリスティアンはずかずかと女の子達の控室の方へと歩き出す。

「こら、どこへ行く。そっちは関係者以外立ち入り禁止じゃ。まさか天下に名だたる辺境伯様の趣味が覗きだとでもいうのか? 街中に言いふらすぞ?」
「はっはは、そりゃ勘弁。…………なぁ、ところでロッテちゃんよ。ざっと見て妹ちゃんに足りないモノは何だと思うね?」
「ん? それはまぁ……、体力、腕力、感性、才能、従順さ、気高さ、優雅さ……そして何より、色気が足りん! 胸だけは、あるが。ま、資源の無駄というやつじゃな」

 クリスティアンの突発的な問いに、まったく無遠慮に即答するロッテ。

「言わせておけばこのっ!」
「うん。妹にかけるには少々辛辣な言葉だが答えは入ってるな、その中に」
「え、えぇ~……」

 クリスティアンの肯定に、茹であがりかけた私は意気消沈した。
 ロッテはほら見た事か、と鼻で笑っている。

「そう! 妹ちゃんに足りない物! それは」
「そ、それは?」
「ずばり、そう、色気だ!」

 声高にそう叫ぶと、びしっ、とこちらに人差し指指を突きつけるクリスティアン。

 どよどよと店内がどよめく。
 ただでさえ辺境伯が来た、と言う事で、店中の人達がこちらに注目しているのに……。

「……さっき俺が『可愛くなった』といったろ? だが、大人のレディに言うならば、『綺麗になった』が正しい。つまり、妹ちゃんは、うーん、立派なモノはもっているんだが、やっぱりまだ子供にしか見えないんだな。いくらなんでも年端もいかない子供と商売してくれる商人はいないだろ、常識的に考えて。多分カシミールもその辺りが心配なんじゃねーかなァっと」
「そんな! 私、ロッテよりはずっと大人だと思います!」
「あー、精神的な問題、というか、外見がな。大人というならもう少し、レディーらしい格好をしないと。服だけじゃなくて、化粧とかもな。よく『人間は中身が重要』っつーやつがいるが、ありゃ半分嘘だ。商売の世界では特に、人間、見た目が重要だ。ま、まっとうな恋愛事となると話はがらりと変わるがな」

 クリスティアンの言う見た目が重要、というのは、親方にも随分と言われた事だ。
 勿論、私もそれは既に重々承知だ。
 でも、それは商人として恥ずかしくない格好をする、という意味だと思っていたんだけど……。
 断じてレディーらしくなどという意味ではなかったはずだ。

「んむ、確かにそうかもしれんの。実際、ここの商売でもそうじゃし」
「いいえ、酒場の接客業と交易商人じゃ求められているモノが違うはず! TPO(time place occationの略。時、場所、機会を心得た服装をせよ、という意味)よ、TPO!」

 訳知り顔でクリスティアンに賛同するロッテに食ってかかる私。

「いーや、商売っつーのはつきつめれば基本は一緒だよ」
「う……。でもでも、商人の世界は男の世界ですし」
「うーん、妹ちゃんって結構頭が固いな」
「へ?」
「だからと言って、どうして女の妹ちゃんが男と同じ格好をせねばならない?」
「えぇと……だって、浮ついた格好などしていては舐められてしまうのでは」
「じゃあ、浮ついていないレディーの格好をすればいいだろう?」

 クリスティアンの言葉に、私はわからない、というように首を傾げる。

「いいか? 確かに商人、特に交易業は男の世界だ。女はどうしても舐められるかもしれん」
「はい」
「しかし、女である、と言う事を自分で卑下するな。否定もするな。むしろそれが自分の強みだと思えばいいんだ」

 その言葉に、ロッテはうんうん、と頷く。
 店の女の子達も、マドモワゼルまで頷いている。さらに客として来ていた商家の旦那達も何割かは頷いていた。

「強み、ですか?」
「おう。女商人は稀少。ならば! その稀少価値を前面に打ち出せばいいだろ? わざわざそれを殺すような真似をするのは勿体ない」

 クリスティアンは大げさなジェスチャーを交えて、真剣な表情で言う。
 成程、そういう考え方も……ある、のかな?

「う、う~ん」
「まだ納得できないみたいだな。ま、とりあえず騙されたと思ってやってみるといい」
「は、はぁ。何を?」
「うむ、この店にはいろいろと美容に関するモノが揃っているからな。もちろん衣装としてドレスなんかもあるし」
「あぁ、なるほど。それで……」

 つまり、クリスティアンは私をメーキャップさせるつもりで蟲惑の妖精亭に連れて来たのか。



「……というわけで、マドモワゼル。この娘を立派な淑女に変身させてやってほしいんだが」

 私がはっきりとした返事を返さないうちに、クリスティアンは興味深そうに事の成り行きを見守っていたマドモワゼルへと話かける。
 どうやら私の態度は肯定と取られたらしい。

「ふぅ。私としては、アリアちゃんが独立してしまうと、ウチの看板娘であるロッテちゃんもいなくなってしまうから、本当は微妙な立場なんですけれどね」
「らしくないな、マドモワゼル・レィディン・マドモワゼル(淑女を導く淑女)ともあろうものが……」

 え? 何それ? なにそのちょっと曰くありげな仇名は?!
 いや、まぁ、こういう飲食店の経営者としてはケルンでもそれなりの位置に居る人だから、そういう仇名もあるのか。

「ほほ、その名で呼ばれるのは久しぶりですわねぇ」
「ふ、これだけの素材を目にして、素通りできる人間ではないだろう、貴女は」
「えぇ、いつも『アリアちゃんはまだ子供だから』と我慢していたのだけれど。でも、そういう事情なら、喜んでこの娘の全てを“引きだしてあげるわ”!」

 女主人はそう叫ぶと、獲物を発見した猛禽類のように、ぐりんっ! と顔をこちらへ向け、手をわきわきとさせはじめた。。
 何か当事者をおいてけぼりで話が進んでいるような。

「あ、あの~。お手柔らかに……」
「ほほ、任せておきなさい、私が貴女をトレビアン、な淑女へと変身させてあげる!」

 何か商売からどんどんとかけ離れて行っているのは気のせいだろうか。

「何、お主は心配せずにマドモワゼルに任せておけば良い。壁の染みを数えているうちに終わるからの」

 そう不吉な台詞を吐いて、くつくつと笑うロッテ。

 ふぅ、やれやれだわ……。
 私は心の中で盛大に溜息を吐いた。





 そして半刻後。

「あら」「へぇ」「ほぅ」「これは……」「おぉう」

 マドモワゼルによって、散々にこねくり回された私は、蟲惑の妖精亭中央にあるお立ち台で晒しモノ状態になっていた。

 クリスティアン、女主人、ロッテ、店の女の子達、客の旦那達。
今、店中の視線が私に集中している。

 若さに任せて放置された肌に薄く化粧を施され、乾いた唇には桜色のルージュを引かれ、纏めた髪はほどかれ、肩の長さで切り揃えられた。
 作業服と作業靴は、肩と胸半分を露出させたエロティックな純白のショートドレスと、エナメルの赤いヒールへと替わっていた。
 下着まで替えられそうになったのでそれだけは断固として、なんとか拒否した。

 私はまだ自分の姿を鏡で確認させてもらってはいないのだが、多分、いや、絶対似合っていないだろう。
 馬子にも衣装とは言うが、やはり人には身の丈にあった格好というものがあるのだ。

 まったく、こういうのはもっとキレイな人にやらせるべきではないのか。
 見目麗しくもない私のような娘をステージにあげたところで、失笑されるだけだろうに。
 いや、というか、本当に何でこんなことになっているんだろう……。

「やるわね……」「さすがロッテの妹……」「トレビアン!」「指名しても、よろしいか?」「はぁ、はぁ、辛抱たまらん」

 あれ? 何か予想外の反応が。
 ……そうか、みんなが気を遣ってくれているのか。心が痛い。

「ふっ、いいんですよ皆様。どうぞ嗤って下さいませ。さぁ、嗤え!」

 自重気味に吐いた言葉に「何言っているんだこいつ」と、困惑の表情を浮かべる店の面々。
 あれ? 何かおかしい。

「ま、一応妾の妹じゃし、これくらいは当たり前といったところか」
「ふむ。可愛いから綺麗への過渡期ってとこだな。さすがマドモワゼル。男心を心得ているな」
「ほほ、久々にやりがいのある仕事だったわ」

 そして、なぜかロッテが我が事のように自慢を始め、クリスティアンがうんうん、と頷き、マドモワゼルは「いい仕事をした」とばかりに額を拭う。

 ……どうも様子がおかしい。お世辞を言っているようにはみえないのだ。

「もしかして、いえ、ほんっとうにもしかして、本気で言ってます?」
「……あぁ、そういえばこやつ、まだ鏡を見ておらんのか?」

 呆れたように言うロッテが店の端に備え付けられた姿見を指す。
 恐る恐るそれを覗き込む。 

 そこには、ちょっと大人びた私のぎこちない笑顔が映っていた。
 少しポーズを取ってみる。

 ちょっとしたコンプレックスである天然の巻き毛がうまく調整されて大人っぽさを演出する。
 あどけなさを残すための薄い化粧と紅が、なにかイケナイ雰囲気を醸し出している。
 無駄に膨張した胸を強調する、体にフィットする露出度の高いドレスは少し恥ずかしい。
 足元の鮮やかな赤がさらに大人を演出する。

「お、おぉ……」
「どう? このマドモワゼル、いえ、レアディアン・マドモアゼル、会心の出来よ」
「い、イケてるかも……!」

 マドモワゼルの言葉に、私は思わずコクコクと頷き自画自賛してしまう。
 自意識過剰、勘違い女(笑)とか言わないでほしい。
 私は自分を客観的に見ることが出来るんです! スイーツとは違うんです! 断じて違うんだから!

「こっちのシックな黒いドレスもいいんじゃない?」
「さすがに黒はまだ早いわ。青の方が合うわよ。あぁ、でもそうすると靴が」
「いやいや、君達何も分かっておらんな。ここはやはりピンクでしょう!」

 店の女の子達はきゃーきゃー言いながら、旦那さんたちは若干鼻息を荒げて、そんな討論をしている。
 私は玩具じゃないっ……。悔しい、でもちょっと快感!

「待っていてください! 全部着こなしてみます!」

 私が胸を張ってそう宣言すると、おぉ、という大きな歓声があがる。



 ──そう! 今の私はスーパー・スター! 応援するみんなの声援に応えねばならない!

 ふっ、人気者はつらいわね……。
 でも、これで求愛者が続出なんてことになったらどうしましょう。

 あぁ、罪な私……。



 こんな風にちやほやとされた経験が乏しい私(フーゴやエーベルは除く。でも、フーゴは褒めているのか貶しているのかさっぱりわからないし、エーベルの言葉は何とも信用ならない軽さがあるのだ)は、この場の雰囲気に完全に舞い上がっていた。
 
 アルコール・パワーもあって、突発イベントである私のファッションショーで異常な盛り上がりを見せる蟲惑の妖精亭。
 客も従業員も関係なく酒をぐびぐびやっては、泣いて笑って、私をその場で着替えさせて品評する。その時、私もほんのちょびっとだけ、ワインを口にしてみたり。
 果ては男を虜にする仕草や話し方の講釈やら、パーティーでの礼儀作法の練習やら、歌や踊りの指導まで始められていた。
 
 気が付けば私はここに来た目的を忘れ去っていたのである。

 そして夜が明けた……。





 ざわ、ざわ。

「う~ん、うるちゃ~い……」

 街を行く人々のノイズが安眠の邪魔をする。
 ん? 今日は平日だ。 街を行く? 今、一体、何時?

「はっ!」
 
 私は少々カビ臭く硬いベッドから、がばっ、と跳ね起きる。

「どこだここ」

 まず目に入ったのは梁が剥き出しになった天井。屋根裏部屋のようだが、面積は割と広い。
 視線を下げて辺りを見回すと、フロアに何台か並べられていたベッドにぐーすか寝ているロッテの姿も見える。その隣には店の女の子達も何人か寝ているようだ。
 ま、彼女達の仕事は夕方からだし、このまま寝させといてあげたほうがいいだろう。
 
 あぁ、蟲惑の妖精亭の2階にある仮眠室か。
 ほんの少し口をつけた酒のせいか、あまり記憶が定かではないが、確かクリスティアンに運ばれて寝かされたんだった。
 旦那達は朝方帰ったんだっけ。

 服装は昨日最初に身につけたものに戻っている。
 結局、最初の衣装が一番似合う、という形でおさまったような。

「って、それはいいとして」

 薄暗い室内の小さな天窓に目をやると、お天道様はとっくのとうに真上へと昇っていた。

「やっぱり、ね……」

 今日は平日。それは不慮の事故以外では無遅刻無欠勤だった私の輝かしい(?)経歴に泥を塗ってしまったことという事だ。
 しかも無断で。これでは親方を説得するどころじゃないだろう……。

「あががが」
「おはようさん」

 私がやってしまった感で頭を書きむしっていると、不意に下から声を掛けられる。

 梯子を昇って来たクリスティアンだ。片手にトレーを持っている。
 ぷん、と鼻を刺激する焦げたチーズ特有の酸っぱい匂いと、バジルの爽やかな香り。そしてホワイトソースの柔らかな甘い匂い。
 この匂いは、グラタンだろうか。

「あ、お、おはようございます」
「腹減ったろう」

 そう言ってトレーを差し出すクリスティアン。
 言われると、思いだしたようにぐぅ、と腹がなる。
 そういえば、昨日の昼から何も食べていない事に気付く。

「辺境伯?!」
「おぅ」
「まだ居たんですか?!」

 ずる、とクリスティアンがこける。
 馬鹿! 私の馬鹿! 恐れ多くも辺境伯が私のために食事を運んでくれているってのに!
 そこはもう、彼の寛大さに膝をつかなきゃいけない場面だろう! いや、まぁ確かにまだクリスティアンがここに居たのは驚いたが。

 ……というか、何だこの状況。
 私の知りあう貴族って、全然、全く持って貴族らしくない人ばかりよね……。

「おほん、ま、俺のせいで遅刻させちまったみたいだし。昨日は少し悪乗りしすぎたみたいだな。かくいう俺もさっきまで下で寝ていたんだが」
「大丈夫なんですか? 辺境伯が行方不明なんて洒落になりませんよ」
「それについては全く問題ない。俺が朝帰りなんてのはよくある事だし。今回はちょっと時間が遅いだけだ。ま、とりあえず食いな。俺はもう食った」
「あ、恐縮です。いただきます」

 いや、よくある事自体が大問題ですよね。
 と思いつつ、クリスティアンの言うとおり、素直にスプーンを取り食事を始める私。

 何を暢気な、と思うかもしれないが、もう寝過してしまったことはしょうがない。
 今から急いでいっても昼休みである。

「ま、折角だから、最後まで手伝ってやろうと思ってな。食い終わったら一緒にカシミール商店まで行くぞ?」
「ふぉい?」
「こらこら、レディーは口にモノを入れたまま喋っちゃいけんよ」
「すいません。でも、そこまでしてもらえるなんて、ちょっと怖いですね?」
「何、将来有望な若者には今から唾を付けておかないとな」
「あら、それは嬉しい。でも、商人としてか、女としてかどっちの意味でしょう?」
「はっ、そんなの両方に決まっているだろう?」
「ふふ、些か大き過ぎる期待を掛けて頂き、身に余る光栄でございますわ」

 そう言って私とクリスティアンはしばらく笑い合った。
 やれやれ、これは期待にこたえなきゃバチがあたってしまうわね。

 さて、ご飯も食べたしそろそろ着替えよう。

「っと待った。服はそのままで行こう」
「え? でも、仕事に行くわけですし、それにこれ妖精亭の衣装ですよね?」
「カシミールを説得するのに必要だろ? 普段の格好じゃ昨日馬鹿騒ぎした意味が無い。あと、その服は買い取りにした。ドレスと靴、それに下着含めて占めて28エキュー丁度」
「プレゼントですか?」
「まさか。後でマドモワゼルにきちんと代金を払っておきな。悪乗りしたのは事実だが、昨日言ったことに嘘はない。取引の時に着る勝負服ってのは絶対に必要になるからな」
「まぁ、必要だ、というならその程度のお金は惜しみませんが。……信じますよ?」

 そう言って私は立ちあがる。
 クリスティアンが手を差し伸べる。

「お手を取っていただければ、望外の幸せでございます、レディ」
「私でよければ喜んで。エスコートをお願いいたしますわ、ジェントルマン」
 
 ドレスの端を持ちあげて一礼する私に、大真面目で恭しく胸に手を添えて頭を下げるクリスティアン。
 あまりに年齢も身分もかけ離れた二人は、それを気にする事もなく、優雅な足取りで、街の雑踏へと消えて行くのだった。





 そして私達がカシミール商店に辿りついたのは、昼休みの時間も終わろうかという頃。

 ひょい、と窓から中を覗くと、どうやら、現在のカシミール商店、私を覗くフルメンバー揃って食堂にいるようだ。
 何となくピリピリした雰囲気が漂っている。多分、私が大遅刻をかましたせいだろう。

 まぁ、がっつり怒られるのはもう仕方がない。

 それよりも親方の説得だ。
 クリスティアンも口を出してくれるっぽいが、結局は私の問題。
 最後は私がケリをつけなければならないだろう。

 そんな事を考えながらクリスティアンとともに商店の門をくぐり、みんながいる食堂へと向かった。

「おはようございます!」
「なっ、お前! 今何時だと思っていやがる!」
「申し訳ありません、私の不注意で遅れてしまいました」
「このっ、不注意だとっ?! このクソば、かタレ? 何だその格好は……。というか、辺境伯?!」

 大遅刻をかました私に眉を吊り上げた親方は、異常に気付き声のトーンを落とした。

「あれ……まさか」
「アリアと辺境伯がそういう関係?」

 ギーナとゴーロはこちらに疑いの視線を向けている。

「……アリア先輩、お美しいっす」
「え、え? これって? ど、どういうこと?」

 エーベル君ありがとう。ディーター君はパニくっているようだ。

「あらあら。これは大変」
「あ、あ、あ」

 ヤスミンはフーゴの方を見て言う。
 フーゴは青い顔をして目を見開き、口をあんぐり開けたまま固まっていた。

「えぇと、みんなが何を想像しているかは知りませんが……。昨晩、辺境伯に商売についての相談毎をしていただけですよ」
「そう言う事。妹ちゃんの名誉のために言うが、俺と彼女は何もないぞ? いくら俺でも商人の卵に手を出すほど節操なしじゃない。一緒に来たのは、俺のせいで余所の従業員を遅刻させてしまったから、その謝罪だ」

 私が事情をかいつまんで言うと、それを補強するようにクリスティアンが続ける。

「はぁ、そうですか。しかし辺境伯自らウチの見習い如きの相談に乗って下さるとは。何とも恐れ多いことでございますな」

 親方は丁寧な言葉だが、若干皮肉を込めているようだ。
 まだ少し疑っているのかもしれない。

「彼女、本気で悩んでいるようだったんで。金は貯まったのに親方の許可が取れないってな。ま、他人様の店の人事に異を唱えるのもアレなんだけどな。だが、反対するのはいいが、実力的には問題ないんだろう? 許可してやればいいじゃないか」
「まだまだこいつに大した実力はありません。それに、こいつはまだ子供。世に出すのは早すぎる」
「これを見てもそう思うのか?」
「むぅ……」

 クリスティアンが私の方を親指で指して言うと、親方が唸る。
 どうやら親方の目から見ても、今の私は普段とはかなり違って見えるらしい。

「大人か子供かっていうのは年の問題じゃないのさ。彼女は見た目も、内面ももう立派な大人だよ」
「辺境伯が仰りたい事はわかりました。しかし、先程卿が仰ったように、これは弊店の、カシミール商会の問題です。申し訳ありませんが、口出しは無用でお願いいたしたい」

 頑なにクリスティアンの意見を遮る親方。

「おいおい、仮にも俺、組合の主席運営委員の提案だぜ? 考えもなしに無碍にするのはどうかと思うがなァ」
「はは、ウチはアウグスブルグに属していますからな」
「やれやれ、そうだったな。さて、どうする。妹ちゃん? こりゃテコでも動かなそうだ」

 ケルンの領主である辺境伯の圧力にも臆する事なく言い切る親方に、クリスティアンは若干呆れたように私へと問う。
 
 どうする? か。

 決まっている。



「まずは親方、ごめんなさい。実は昨日、勝手に組合に登録しようとしたんです」
「……何だと? 昨夜は相談に乗ってもらっていたんじゃねェのか?」
「はい、辺境伯に相談を受けて頂いたのはその後の事です。まぁ、勿論、推薦状無しって事で登録は断られましたけど、ね」
「……」
「恩知らずなのは分かっていました。でも、この私には目標がある! そして私はどうしても早く、一刻も早くそれを達成したいんです!」
「……」

 何も言ってくれない親方にかまわず、私は必死で思いの丈を口に出していく。
 みんなはそれを、真剣な顔で、黙って聞いてくれている。
 
「心配してくれるのはとても嬉しいんです。私にとって、親方はお父さんのようなものだし、商店のみんなは家族みたいなもの。でも! それでも私は」
「……目標ってのはなんだ?」

 親方は不機嫌そうに問う。

「この商店、カシミール商店のような店を自分で持つことです」
「なんだ、随分とちっぽけな夢だな?」
「そうですか? 私は決してちっぽけだとは思いません。それに、夢ではなく現在の目標です」
「……そうか」

 私が問いに張り切って答えると、若干親方の声の表情が緩んだ気がした。

「お願いします! 絶対に、絶対に、親方の顔に泥を塗るような真似はしません! どうか私に旅の許可を!」
「ふん、俺の顔なんぞ、そんな事はどうでもいい」
「……はい」
「ただ、一つだけ約束しろ」
「な、なんでしょう?」

 約束……。それを守れば、独立してもいいということだろうか。
 私はごくりと唾を飲んだ。

「生き残れ。何があってもな」
「はい。元より、そのつもりです」

 ふい、と後ろを向いてそんな事を言う親方に、涙がこぼれそうになる。
 私はそれをぐっとこらえて、顔を隠すように最敬礼で応えた。

 この瞬間、私が商人として一人立ちする事が正式に決まったのである。





つづけ

※プレビューが使えないため、推敲がやや不十分かもしれません。
 誤字脱字などありましたらご指摘お願い致します。



[19087] 33話 raspberry heart (前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:570babac
Date: 2011/04/27 13:21
 フィオの月、フレイヤの週、虚無の曜日。

 この街で過ごす最後の休日にも拘らず、私とロッテは、ロマリアの修道女よりも早起きしてカシミール商店にやってきていた。

 その目的は、旅に出るための荷づくり。
 カシミール商店のみんなや(特にフーゴが熱心に)、蟲惑の妖精亭の女の子達も手伝う事を申し出てくれたが、最後の荷づくりだけは、ロッテと二人だけでやることにした。
 好意はありがたいが、私の都合で彼らの貴重な休日を浪費させてしまうのは気が重いしね。

 馬車、馬、食糧や寝具などの旅の荷物などは全て親方にお願いして、カシミール商店で(格安で!)発注してもらっていたので、私が実際自らの足で購入したのは、旅先で扱う商品と、細々とした雑貨程度だった。
 本来なら、全てを自分の目で見て、交渉して、購入しなければならなかったのだが、今回は独立が決まってから出立までが急なスケジュールであったので親方が一肌脱いでくれたのである。

 意外なのは、こんな雑用に関わらず、ロッテが珍しく文句もいわずに手伝って(?)いる事。
 彼女は普段はめんどくさがりではあるけれど、仕事に対しては大真面目な所がある。
 蟲惑の妖精亭での勤務態度は至って真面目であったし、業績も3年近くトップクラス。つまり彼女は遍歴の旅を物見遊山ではなく、きちんと仕事として考えてくれている事がわかる。
 それがちょっと嬉しくて、私は終始にこにことしながら荷づくりをするのだった。傍目にはさぞかし不気味な事だろう。

「えぇと、オーデ・ケルン3ケース、デュッセルドルフの麦酒が2樽。アキテーヌのワインが……」
「おい、荷物はあらかた積み終わったし、少し休憩しようぞ。確認はそのあとでいいじゃろ?」
「うん、そうしましょうか」

 燦々と降り注ぐ春の暖かな日差しの中、私とロッテは、財産の殆どを詰み込んだ馬車の荷台に腰掛け、玉のような汗を拭う。

 そう、これが私達の馬車。
 少し日に焼けて黄色くなってしまっているけれども立派な幌付きで、大きさはそれなり、ハンブルグ製ということで作りもしっかりとしている。
 親方が他の商会から引っ張ってきたお古だが、馬具や修理具付きで120エキューという事を考えるとかなりのお買い得品といえるだろう。

 もっとも、修理具を使う事はあまりないかもしれないけれど。
 なぜなら、馬車や馬具には、ロッテのファンである土のラインメイジに《固定化》を掛けてもらったから(勿論無料)。つまり、ラインクラス以上の魔法を受ける以外、損傷する事はあまり考えられない。

「どうせなら、ちょっと試運転してみよっか? この子達がどのくらい走れるかもよくわからないし」

 商店の庭先にある馬屋につながれた、葦毛と青鹿毛のごっつい馬達に目を向けて言う。
 彼等は重種、ベルシュロン種といわれる大型の馬だ。見た目は寸胴だし、速度も遅いが、力だけは半端じゃない。
 こちらはフッガー商会系列のツテで、南部の畜産牧場から直に取り寄せてもらった。

 ちなみに馬の操作はもう完璧である。エンリコとオルベの村に出向いた時のような失態はない、と思って頂こう。ふふふ。

「ま、しなくても大丈夫じゃろ。力だけはありそうな馬どもじゃし。にしても、もう格好の良い馬はおらんかったのか? 不細工すぎるぞ、こやつら」
「格好のいい馬って、メクレンブルグ種とか、アルヴァン種とかそういう種類の馬?」
「そうそう、それじゃ。物語の王子役がのるような白い馬!」
「そんなひょろい馬じゃ荷馬車なんて引けないのよ。それに軽種は貴族も乗るから値段が高いしね。この仔達は一頭100エキュー。軽種なら安くても300はしちゃうのよね」
「夢が無いのう……」
「いずれはユニコーンでもペガサスでも買ってあげるから文句言わないの」
「むぅ、本当じゃな? 期待しておるぞ」
 
 無邪気な少女のように目を輝かせるロッテ。こういうところが憎めないのよね、と私は苦笑する。
 ちなみにユニコーンとかペガサスなんて高級な幻獣は、基本的に平民階級では買えませんし、売ってません。

「しかし随分と買い込んだものじゃ。まさか全財産をつぎ込んだんじゃあるまいな?」
「まさか。きちんと小口の現金として50エキューは手元に残してあるわよ。それだけあれば何かあってもとりあえずは大丈夫でしょう」
「50?! 1000はあったんじゃぞ? もう、それしかないのか?」
「馬車で120、馬2頭で200、組合への初年度登録で50、食糧寝具生活用品で約50、衣料費で約50、その他もろもろの雑貨で約30。ほら、これでもう500エキューよ?」
「ふむ。残り450は売りモノに換えたのか……」
「あと、親方へ口利きしてもらった辺境伯へのお礼ね。ま、彼から見ればゴミみたいなものだろうけれど、ああいうのは気持だからね」
「む、そんな事もしておったのか? アイツへの礼など妾の笑顔だけで十分だというのに……」
「そんなわけにはいかないでしょうが」
「普段はけっちい癖にこういうときは大胆じゃな、お主」
「そんな顔しないの。大丈夫、仕入は安定して売れるモノしか今回は仕入れてないし、辺境伯へのお礼だって大した額じゃないから。その代わり、今回分の仕入れでは、あまり利益はでないと思うけどね」

 いかにも不安です、という表情のロッテを安心させるように言う。

 私達がまず向かうのはゲルマニア北部、鉄の街、ハノーファー。
 リピーティングクロスボウの提供者であり、ギーナ・ゴーロ兄弟の父であるベネディクトのツテを辿って、外国での競争力が高いゲルマニア自慢の金属製品を直接仕入れするつもりだ。
 ベネディクトとは2、3カ月に一度くらいの頻度で手紙のやり取りを続けていたので、わざわざハノーファーに足を運ばずとも、彼の工房の品をこちらに送ってもらう事も可能だったが、やはり商品は自分の目で見るべきだし、その商品がどのような環境と過程で作られているのかも見たかった、というのがハノーファーへと出向く一つの理由だ。
 もう一つの理由としては、いきなり国外で商売、というのはいくら無鉄砲な私でも無茶だと思ったからだ。まずはゲルマニア国内で確実に捌けそうな商品だけを扱ってみようと思ったのである。ちょっとした予行練習にも近い。
 
 なので、今回私が購入した売り物となる商品は、北部の商館《フォンダコ》に持っていけば確実に売れるような、中流階層向けの西部産の香水や安酒、そして行く先々の村で確実に捌けるであろう、南部産の布や糸などのどこの農村でも必要なモノをカシミール商店ないし、フッガー商会、もしくはツェルプストー商会から購入した。
 あまり利益は出ないだろうが、3年間の修行の末に貯めた金でいきなりギャンブルをする気にはならない。
 チキンではなく、用心深いととってほしい。叩いて渡ろう鋼の大橋。

「そうか。ま、妾は交易についてはさっぱりじゃからな。その辺はお主に任せる」
「はっ! お任せ下さい、お姉様!」
「が、妾の金もた~っぷりつぎ込んでおるのじゃからな? それだけは忘れんように」
「だ~いじょうぶよ、もしちょっと失敗したってすぐに取りかえしてやるんだから。それより、アンタもちゃんと協力してよ? 特に荒事関係はさ」
「くふ、気が向けばな」

 そう言って、にや、と形のいい唇を歪ませるロッテ。

「はぁ、期待してますよっと」
「うむ。しかし、とうとうこの街ともお別れじゃな」
「……うん」
「たわけ。めでたい事だというにそんな顔をするな。今日はパーティーに行くんじゃろ? そんな辛気臭い顔で参加されては場が湿ってしまうわ」
「パーティーね……、あ!」

 はっ、と私は目を見開く。

「何じゃ、忘れておったのか? 仕方のない奴じゃの」
「あはは……まさか……」

 すいません、本当は忘れていましたよ。
 パーティーというのは、ツェルプストー商会を会場にして行われる門出の宴である。
 これは毎年春に開かれている組合の定例行事。ケルン、もしくはその周辺都市において、この春見習いを卒業する者達が主役の激励会、そして祝賀パーティーだ。
 私もエンリコが独立する時、一度出席させてもらったことがあるけれど、西部組合の資金が潤沢なためか、貴族達が行うパーティー並みではないかというほど絢爛なものだった。
 今年はその主役の一人になれるのかと思うと、胸がちょっと高鳴る。ふ、私も乙女の端くれなのですよ。
 また、このパーティーには、ケルン内の商会や商店に属している人ならば誰でも参加できるので、カシミール商店のみんなはもちろん、蟲惑の妖精亭のメンバーたちも祝う側として参加するそうだ。

 それとは別にちょっと楽しみであるのが、クリスティアンの娘、つまりキュルケ嬢もこのパーティーに出席するということだ。彼女が公の場に出るのはこれが初めてだろう(といっても、貴族間の事はしらないが。とにかく私達の前に出てくるのは初めてなのである)。
 彼女に弟でも生まれない限りは彼女自身、もしくはその夫がツェルプストー商会へと密接に関わってくるのだろうし、ケルンの商人達への顔見せの意味があるのだろう。

「んーっ! しかし、いい陽気ね」
「パーティーまでは時間もあるし、久しぶりに街でもぶらつくか?」

 天高く昇った日に向かって伸びをしながら立ちあがる私にロッテが提案する。

「そうね。ケルンにはしばらく帰っては来れないかもしれないしなぁ」
「よし、では橋の向こうにある古着屋にでもいこう。あそこは、たまに掘り出し物があるからの」
「また~? 私は着せ替え人形じゃないのよ……」
「たわけ。一着しかまともな服を持っていないなんぞ、女ではないわ。妾なぞ20着はドレスを持っておるぞ?」
「アンタのは全部貢物でしょうが……。ま、いいか。行きましょ。丁度、旅着がもう一着ほしいと思っていたし」

 この間の蟲惑の妖精亭の一件以来、私の着せ替えにはまっているロッテに、いやいやといった態度で言う私だが、内心実はまんざらでもなかったり。
 
 私はそそくさと馬車を馬屋の中へと片づけ、パーティーまでの時間、故郷の空気を満喫することにした。





 そして、夕刻。
 たっぷりと街を堪能した私とロッテは、パーティー会場であるツェルプストー商会前へと来ていた。
 礼装姿の(その殆どは借り物であろうが)商人達でごった返す大通り。パーティーの開始時刻はまだだが、既に会場への入場は始まっているようだ。
 その比率はやはり男がほとんどで、たまに男装をした女性、ドレスを着た女性は私達以外はほとんどいない。飲食店関係のお姉さんくらいか。
 かなり浮いている気がするが、気にしない。クリスティアンの言うとおりであるのなら、こういう場で下手に謙った恰好をした方が負けなのだ。
 
 さて、カシミール商店のみんなは何所かな、と。

「おいおい、お前ら、場所間違えてんじゃねえの? ここはお嬢様の舞踏会場じゃねーんだぜ?」

 私とロッテがきょろきょろと辺りを見回していると、ヘラヘラとした感じの若い男が、私達の行く手を遮るようにしてちょっかいをかけてきた。
 その後ろにはその仲間のようなのが2人、いけすかない笑みを浮かべて立っている。
 どれもこの辺りでは見かけない顔だ。おそらく、北のデュッセルドルフか、南のボンあたりから来た新人商人達だろう。

「お言葉ですが、私達も商人ですわ。すいませんが、人を探していますので失礼致します」
「は、商人? おいおい、ケルンじゃこんな嬢ちゃん達が商人になれるのかよ。あ、もしかして、『私の体が商品です』とかそういう感じ? で、君いくら?」

 知性もユーモアも無い挑発に、後ろの連中がぎゃははは、と下品に笑う。
 女の敵め。死ねばいいのに。

「下らん。行くぞアリア」
「うん」

 余りの下品さにロッテが不愉快そうに踵を返し、私もまたそれに倣う。
 ムカッ、とは来たが、こんな奴らに構うだけあほらしい。

「ちょ、待てよ。君達、ケルンの人でしょ? 街でも案内してくれよ?」
「お断りします。パーティーが始まってしまいますので」
「へへ、パーティーよりもっと楽しい事教えてあげるからさぁ」

 と、今度は後ろにいた男が回り込んで立ち塞がる。
 しつけえ。

「くどいぞ。貴様ら。どこの田舎者じゃ? よくもそんな腐った泥芋のような顔で女に声を掛けられるものじゃな? あぁ、芋では芽はあっても目がないか。それでは鏡も見れぬわなぁ」
「あらあら、それは些か酷過ぎる物言いではなくて、姉様? まあ、本当の事だから仕方ないですけれど」

 ロッテは上から目線で心底馬鹿にしたように言う。私はそれに乗じて追い打ちをかけてやった。
 ケルンはゲルマニア西部では最大の都市。当然、ケルンの人間からすれば、西部の他地区の者は田舎者というわけだ。
 そういえば、私もここに来た当初は随分フーゴに田舎者ってからかわれたなぁ。

「何だと? この女!」
「もういいからさっさと消えなさいよ。相手にされてないのもわからないワケ? ほらほら、みんなが冷たい目でアンタ達を見てるわよ。恥ずかしくないの?」

 激昂しかけた猿……いや、男共にそう言って冷や水を浴びせる私。
 当然、この騒ぎだ。集まった人達の多くが怪訝な顔でこちらを見ているのである。いい意味で注目されるのはいいが、こういう形で注目されるのは御免である。
 やれやれ、こんなクソガキ共(年は私より上だろうけど)が独立とは、まったく、どんな商店で修行していたんだか。

「てめえら、ちょっと顔がいいからって調子に──うっ」

 羞恥か、怒気か、顔を真っ赤にして、私に掴みかかろうとした男は、最後までセリフを言えなかった。
 私が大きく振り上げた脚が金的に炸裂する前に、横から伸びてきた手が、男の襟首を持ち上げたから。

「そこまでだ、クソ野郎。汚ねえ手で女に触んなよ」
「あ、フーゴ」

 男を持ち上げたのはフーゴだった。

「『あ、フーゴ』じゃねえだろ、お前は。何やってんだよ、こんなアホ共相手に」

 そう言ってフーゴは乱暴に男を突き飛ばす。

 どうやら騒ぎを聞いて駆けつけてきたらしい。やや息があがって肩で息をしている。

「その、ごめん。ありがとう」
「あ、いや、うん。どういたしまして?」

 礼装姿がよく似合うフーゴが、不覚にもちょっと、ほんのちょっと格好よくみえた。
 そういえば、昔、誘拐されたときもこいつが一番先に助けに来たんだっけ。まぁ、あの時は結局二人ともさらわれてしまったのだけれど。

 私がそんな事を思い出しながら、上の空で謝辞を述べると、フーゴは照れたように頬を掻いた。

「くっく」
「な、何よ?」
「いや、青臭いのう、とな」

 私達の様子を見て、ロッテは何が嬉しいのか、にやにやと茶化すような笑顔を浮かべる。なんかムカつくなぁ。



「おい、あいつ『アリア』って……」
「ま、まさか“あの”?」
「ケルン、女で商人、アリアっていったら、アレ、だろ?」

 その横でひそひそと話す声に気付き、ふと声の方を見ると、こちらを警戒するようにして後ずさる先ほどの男3人組。こいつら、まだ立ち去っていなかったらしい。

 そして、なぜか私を知っているらしい。何か、悪い予感が。

「ちょっと、アレって──」

 何よ! と聞こうとすると。

「すいませんでしたぁっ!」
「ひぃっ! 動いたあっ!」
「こっ、殺さないでえぇ!」

 3人はほうほうの体で、一目散に逃げ出して行った。
 一体、何なんだ? 私に怯えているように見えたんだけど……。ロッテに怯えるならわかるけどさ。最後まで失礼な奴らだ。

「なんかしらねーけど、ま、いいか。行こうぜ、アリア、ロッテさん」
「親方達は?」
「もう会場に入ってる。蟲惑のお姉さん達も一緒だ」
「そっか」

 話しながら会場へと早足で向かう私達。無駄に目立ってしまったので少し気まずいのである。

「あ~、この前は言えなかったけど、そのドレス、似合ってるな」
「そ、そう?」
「あぁ、その、綺麗だ」
「……あ、うん、ど、どうも」

 その途中、フーゴは前を向いたままでそんな事を言う。
 
 珍しく素直なほめ言葉を口にするフーゴに、私は紅潮してしまった顔を隠すように俯いた。
 おかしい。同じようにエーベルにほめられたときは、全く何も感じなかった、むしろ不快なくらいだったのに……。

 な、なんなのこのフーゴ? からかってるの? 馬鹿なの? 死ぬの?

 私は自分を支配していく謎の感情に抗うように、心の中で予期せぬ行動を取るフーゴへと罵声を浴びせた。

「それと」
「?」
「あとで話がある。パーティーが一段落してからでいいけど、時間、いいか?」
「は、はい」

 いつになく力を込められたフーゴの言葉に、私は思わず「うん」ではなく「はい」で肯定の意を返した。





 パーティーは、ツェルプストー商会の2階にある、巨大なホールにて行われた。
 そこに集まっている人の数は、ざっと見て300人は超えていた。それを軽々と収容するのだから、このホールがとてつもない大バコである事がわかると思う。
 具体的にいうと、商館≪フォンダコ≫の中でも大きい部類に入る、カシミール商店の倉庫と比べて3倍ぐらいの広さかな。

 大貴族の運営する、これまた大商会の本部であるここでは、商人だけでなく、商売をたしなむ貴族達を招いたダンスパーティーなども行われる。そのためか、その内装は非常に豪奢で、優雅だ。
 純白の壁には見るからに高価な彫刻や絵画が飾られ、床には見事な大理石が敷き詰められている。
 天井からは豪奢で美しいシャンデリアがつり下がり、備え付けられた長い長いテーブルには、レース地で編まれた純白のテーブルクロスがかけられていた。
 ただ、今日のパーティーは商人、つまり平民向けのものであるので、そこに並べられた料理は庶民的なモノに近く、ワインもどちらかといえば大衆向けのもの、もちろん、食卓に花束などは飾りつけられてはいなかった。
 まぁ、ここで貴族用の料理を出したとしても、普段質素な生活をしているだろう、今日の主役達の口には合わないと思う。そういう意味ではこのくらいでちょうどいいのかも。



「お集まりの新人諸君! このたびは見習い卒業おめでとう!」

 会場に、クリスティアンの声が響く。
 その声に呼応するかのように、わっ、と拍手が巻き起こる。

 パーティーの始まりは、まずクリスティアンの激励から始まるみたいだ。
 彼の快活な声が響き渡るなか、私は少し離れた所で壁に寄り掛かるように立っていたフーゴの横顔をぼんやりと見ていた。

 コイツが私に話って何だろう。
 もう、私がケルンにいる時間は少ない。そこで何かを決意したように掛けられた言葉。
 また、『先輩』としてのアドバイスとやらだろうか。
 それとも、『好敵手』として、激励でもしてくれるのだろうか。
 いや、でも、もしかして。いや、そんなわけない。だってコイツは曲りなりにも貴族なのだ。
 貴族にも色んな人がいることは知っている。クリスティアンのように平民に対してでも親身になってくれる(女限定)貴族。ヴェルヘルミーナのように高慢ちきだけれど、何処か憎めない貴族。ロッテのように吸血鬼な貴族……? いや、これは違うな。
 ……とにかく、ステレオタイプでない変わった貴族もゲルマニアには多いけれど、いくらなんでも平民相手、それも歯牙ない農民出身の娘に対して、仮にも貴族家の子息が……。
 って、そんなわけがないのだ!
 
 クリスティアンの素晴らしいであろう激励もほとんど頭に入らず、私はそんなことばかりを、繰り返し繰り返し考えていた。
 あぁ、もう! 本当なら、このパーティーを利用して、同志であり競争相手である新人商人達と親交を築いたり、カシミール商店のみんなや、蟲惑の妖精亭のお姉さん達と別れを惜しんだり、取引のあった商家の旦那達へと挨拶周りをしなければならない(前日までに一通り挨拶周りは済ましているけれど)というのに。

 あの馬鹿! 馬鹿フーゴ!

 どうしてこんなにもフーゴの事が気にかかるのか、この時点の私にはまだ理解できなかったのだ。

「では、これより、今年度の門出の宴を始める! 帝政ゲルマニアに! ケルン交易商会組合に! そして君達の輝かしい未来に! 乾杯!」

 そうやって私がループ思考に陥っていると、いつの間にか演説が終了していたらしく、乾杯! というたくさんの声が会場に響きわたった。
 私はあわてて手に持っていたワイングラス(中身はジュース)を天高くかざして「乾杯」と呟き、近くにいたカシミール商店の面々と杯を合わせた。
 ヤスミンも、ギーナとゴーロも、後輩達もいい笑顔で私を祝ってくれている。それが素直に嬉しい私も、また笑顔になる。

 ロッテはどうやら蟲惑の妖精亭のみんなが集まっている方へと行ったらしい。積もる話もあるのだろう、3年間もお世話になったんだしね。

「あー、あと、これがウチの長女、キュルケだ。まだ3歳になったばかりだが、将来的にツェルプストー商会に関わるだろう。みんな、覚えておいてくれ!」

 私がふっ、と顔をあげると、いつの間にか、クリスティアンの前に、赤を基調としたロリータ系のお嬢様ファッションをした赤毛の幼子が立って、いや、立たされていた。
 愛らしいご令嬢の登場に、がやがやと会場中がどよめく。私も唸った。
 ヤスミンなどは顔を上気させて「かわいい」を連呼していた。仕事中に見せる鬼のようなイメージとはかけ離れているが、彼女はカワイイ物が大好きなのだ。

 ふ~む、あれがツェルプストー家の長女、キュルケ嬢か。

 この場が退屈なのか、ただ単に眠いのか、それとも緊張しているのか彼女はしきりに欠伸を噛み殺すような仕草をしている。
 大口をあけて欠伸をしないのは、躾の賜物だろうか。
 あ、今度は体がゆらゆら揺れている。やっぱり退屈なのか。そりゃそうよね、まだ3歳だし。

「きゅるけ・あうぐすた・ふれでりか・ふぉん・あんはるつ・つぇるぷすとー。けるんのしょうにんのみなさま、いご、おみしりおきを」

 会場のどよめきが収まるのを見計ったかのようなタイミングで、キュルケ嬢はスカートの裾を持ち上げながら、舌っ足らずながらも上品な挨拶をした。
 そのあまりの破壊力に、再び会場は賛辞と溜息によるどよめきに包まれる。萌えた。
 ヤスミンは鼻を押さえて蹲っていた。他人のふり、他人のふり。

 ん~、それにしても、やっぱ小さい子の仕草って癒されるなあ。
 どうみても彼女が将来的に好色な問題児になるようには見えない。やはり“原作”はアテにならないな、うん。
 クリスティアンの影響を受けなければ、だけど。無理かなぁ。

 はぁ、私もいつか、子供を産む時がくるのだろうか。
 誰の?
 って、また変な方向に! 第一、それは駄目だろう、年齢的にも、鬼姉との約束的にも!

「よし、これにてウチの娘自慢は終了!じゃ、あとは新人同士新興を深めるもよし! 同じ商家の奴らと別れを惜しむもよし! 女の子を口説くのもよしっ!」

 そんな演説の締めにどっ、と会場が笑いに包まれると、クリスティアンは眠たそうに目をこするキュルケ嬢を抱きかかえて、壇上を降りる。

 それにつられるかのように、会場の人々はぞろぞろと動きだす。

 ここぞとばかりにタダ飯を食らって酒を呷る者。
 仲間達と泣き、笑い、騒ぎ、別れの晩餐を大いに盛り上げる者。
 抜け目なく組合や大商家のお偉方に近づき、ご機嫌を取ろうとする者。

 十人十色の行動を取る新人商人達の中、私はカシミール商店のみんなをはじめとした、顔見しりの人達だけに軽い挨拶を済ませ、すぐにフーゴの元へと向かった。

 何をおいても、今は彼の真意が一刻も早く知りたかったから。





「フ―ゴ」
「おう」
「あのさ、今更改まって私に話って何? 用件があるなら、手短に頼むわ」
「ここじゃ、言えない」

 私は苛ついたような口調でフーゴを問い詰めるが、彼はその態度を気にした様子もなく淡々と答える。

「じゃあ、どこなら言えるのよ」
「そうだな。ちょっと外に出ようぜ」

 フーゴはホールの大きなゴシック調のガラス窓を親指で差して言う。
 何というか、変だ。いつもなら私が突っかかるような物言いをすれば、絶対に言い返してくるのがフーゴなのに。

「う~、わかった」
「んじゃ、行こうぜ」

 そんなフーゴの様子に毒気を抜かれた私は彼の提案に頷き、差しだされた彼の手を握る。
 強く握られた手は少し痛かったけれど、彼の手が昔よりもたくましく感じられた事に気を取られ、私は何も言わずに彼に付いて行った。

「飛ぶぞ」
「は?」

 会場から出て、壁のない、剥き出しの渡り廊下に出た所で、フーゴがそんな事を言い出した。

「【飛行魔法】≪フライ≫」
「ちょ、ま」

 フーゴがそう叫ぶと、彼によってすばやく脇に抱きかかえられた私の体が、ふわりと宙に浮かぶ。
 全身が羽になったかのような不思議な感覚。
 慣れない感覚に慌てる荷物である私を余所に、フネであるフーゴはどんどんと高く高く上昇していく。
 きゅう、と彼の腕が私を離すまいとするかのように腰を締めつける。私も振り落とされまいと彼の首っ玉にかじりつく。

「手、離すなよ?」
「な、何やってんのよ、いきなり! この馬鹿!」
「歩きだと遠いからな」
「何処行く気よ?」
「そりゃ、ま、お楽しみだ」

 いきなりの凶行に驚く私に、フーゴはいつもの口調で答え、さらに飛行速度を上げた。
 春の冷たい夜風が頬に強く当たり、多少ぐらぐらと揺れる飛行だったが、私を支えるフーゴの体温が暖かく、私はあまり不安を感じなかった。

 とくん、と胸が跳ねる。

「いい眺めね」

 気恥ずかしくなった私は、顔を逸らすように空からの景色を見て呟く。
 眼下に映し出されるのは、月明かりとランプの灯で、仄かに照らし出される夜の街。
 『僕』の記憶にあるような、ぎらついたネオンの光や、眩しい程のライトアップはないけれど、それはとてもとても綺麗な光景だった。
 その上空を鳥のように生身で飛び回るという平民ではあり得ない経験に、私の鼓動は早くなるばかり。

「お前、この街大好きだしな。こうすりゃ、ケルンを一望できるだろ? 今日用意したプレゼント第一弾だ」
「へえ、第一弾って事は、他にもあるのかしら、素敵なプレゼントが」
「まあな。それは後のお楽しみってやつだ」

 気の利いた贈り物に、先ほどまでの苛立ちはどこへやら、私が嬉しそうに言うと、フーゴは悪戯っぽい笑みを浮かべてそう答えた。

「それにしても、あんた、いつの間にこんな魔法が使えるようになったの? 昔は不細工な石人形を作るくらいしかできなかったじゃない?」
「不細工は余計だろ。ま、今なら鉄の騎士くらいは出せるぜ。あの時の吸血鬼野郎くらい余裕でブッ倒せるかもな」
「それはどうかしらねえ」
「信用ねえなぁ……」
「現実的な判断を下したまでよ?」
「はいはい」

 調子に乗るフーゴに水を差すように言うと、苦笑で返される。
 く、フーゴの癖に! これではこっちの方が子供みたいではないか。

「でも、お前を守る事くらいは出来ると思うけどな」
「え? どういう事?」
「そろそろ着くぞ」
 
 意味深な言葉を呟いたフーゴは、私の疑問には答えず、ゆっくりと地上に向かって下降し始めた。

 着地点はケルン北の森。
 クリスティアンの撃ちだした業火により、丸坊主になってしまった森だ。跡地と言った方が適切かもしれない。
 昼間は老人達の散歩コースになったりしているらしいが、さすがにこの時間においては人っ子一人いないようだ。

「懐かしいだろ?」

 抱えた私をゆっくりと地上に降ろしながら、フーゴが言う。

「すっごい厭な思い出しかないんだけど、私は」

 そう、ここは私があの間抜けな吸血鬼によって攫われ、連れて来られた場所。
 いいイメージなどあるわけもない。どうしてこんなとこに連れてきたんだろう。

「でも、終わってみりゃ、いい思い出じゃねぇ?」
「まぁ、普通は体験できないわよね。それに、あれのお陰で辺境伯とも知り合えたし、確かに悪いことばかりではなかったかも」
「……俺はさ、あれがきっかけで魔法も、商売も真面目にやろうと思ったんだ。いわば、ここが今の俺の原点ってワケ」
「ほほう、それまでは不真面目だったと?」
「まぁな」
「ふーん? 私はてっきりヴェルヘルミーナ様に発破でも掛けられたのかと」
「それは言うなよ……」
「あはは……ごめん。苦手なんだっけ、あの人」
 
 話の腰を折られて、恨みがましい視線を向けるフーゴ。
 どうやら未だに母親に対する苦手意識は消えていないらしい。

 ちょっとした沈黙の後、少し鼓動が落ち着いてきた私は最初の疑問に立ち戻る。

「で、結局、何の話? こんな所まで来て」
「さっきの話、まだ理由を言っていなかったよな。何で俺が変わろうと思ったかっていう」
「ん? 聞いてほしいの?」
「その理由が、今日お前に話したい事だ」
「じゃ、聞くね。どんな理由?」

 中々核心に至らないフーゴに、業を煮やしたように催促する私。

「お前に色々と負けてる事に気がしたから。俺なんて何もできない奴だな、ってわかっちまった。男としては、女に負けっぱなしじゃ格好がつかねえだろ?」
「何よそれ。もしかして、今更ライバル宣言?」

 真面目な顔で言うフーゴに、私はがっかりとしたように言う。

 なんというか、拍子抜けだ。
 ここまで来て私への対抗心を明確にされても、なぁ。
 いや、何か別な事を期待していた訳じゃないけど……。うん……。

「そうじゃない」
「違うの?──」

 じゃあ何? と続けようとした所で、フーゴは私の肩を掴んで、正面を向かせた。
 緑がかったブラウンの目が真っすぐに私を射抜く。
 一度落ち着いた鼓動が、さっきよりももっともっと激しく脈打つ。ばくばくと無遠慮に鳴る心臓の音が耳触りだ。

「あのままじゃ、お前の隣に居るには、ふさわしくねえと思った」
「え?」
「実は今もまだ、お前には負けてる気はするけどさ」
 
 そこで、ぐい、と掴んだ肩を引き寄せられる。

「……ん」

 私の体はフーゴの腕の中にすっぽりと収まった。

 正面からの情熱的な抱擁。それは壊れるほどに強く、熱く、優しかった。
 
 通常であれば、怒り狂って彼を跳ね飛ばし、罵声を浴びせて軽蔑する程の行為。
 しかし、私は甘く吐息をもらしただけで、不思議と抵抗する気は起きなかった。むしろ心地よいくらい。
 私は期待していたのだ、次に彼の口から吐き出されるであろう言葉を。

 顔が、硬い。胸が、苦しい。息が、荒い。頭が、熱い。

 そして。

「好きだ」

 期待していた通りの、簡単で、短く、しかし私の全てを打ち抜く言葉が、私の耳元で囁かれた。

 それは荒れ狂う春の暴風雨のように、どうしようもなく私の心をかき乱す。
 私は嬉しいのか、苦しいのか、それとも切ないのか、自分の感情が整理できずに、何も答えられず、ただ立ち尽くすだけ。
 
 でも、今ひとつだけ、わかった事がある。



 そっか。



 私も、こいつの事が。





 好きなんだ。





つづけ~



[19087] 34話 raspberry heart (後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:570babac
Date: 2011/05/10 17:37
 パーティーを抜け出した二人が胸をぽっぽと高鳴らせている頃。

 門出の宴は、宴もたけなわ、といった感じで盛り上がりを見せていた。
 まだ年若い新米や見習い達などは、度を弁えない乱痴気騒ぎを始め、親方衆はそれを遠目で眺めて、「まったく、最近の若い者は」と苦笑する。
 普段は厳しいであろう親方衆とて、晴れ舞台の席でまで、主役達の行動を戒める気はないようだ。

 そんな中、祝いムードの中、ぽつんと一人で酒を呷っている人物がいた。

 カシミールである。
 他の親方衆が弟子の門出を喜んでいるのをよそに、彼はホールの端でしょぼくれたように一人グラスに安酒を注いでいた。

「はぁ……」

 豪放磊落、面倒見の良さが売りであるカシミールには珍しい、深い溜息。
 場違いすぎるどんよりとした空気を撒き散らす彼に近寄る者はない。

「おいおい……元気ねーな。気分でも悪いのか?」

 訂正。空気を読まない者が若干一名いたようだ。
 声の主は、やはり赤毛に褐色肌のあの人である。

「あぁ、これは辺境伯。本日はお日柄もよく」
「今は夜だぞ、この野郎」

 とぼけた事を言うカシミール。クリスティアンは眉を寄せて溜息を吐く。

「申し訳ない、はは、少し飲み過ぎたようです。キュルケ様は?」
「応接間で置いてきた。アリア嬢に貰った玩具で遊んでるわ。相当気に行ったらしいな、アレ」
「む、アリアはキュルケ様と面識が?」
「いや、この前、俺が口利きしたお礼だって、キュルケにと玩具、パズルっていうのか?それを贈ってきた。知的教育に良いという事らしいが……。ま、ああいう玩具は貴族用も平民用もさして変わらんからな。しかしすかさずモノを贈ってくるとは、さすがに抜け目ないね、あの娘は」
「そういっていただけると、“一応は”親方である私も浮かばれますな」

 カシミールは表情を若干緩めつつも皮肉めいた事を口にする。
 拗ねているのである。

「やれやれ、根に持つなよな。ちょっと口添えしてやっただけだろう? 別にアリア嬢がお前への敬意を忘れたわけじゃねえよ」
「何のことでしょう? 私が辺境伯を根に持つなど、実に恐れ多い。あり得ない事です」
「はぁ、まぁいい。で、噂のプリンセスはどこ行ったんだ? 姿が見えないようだが?」
「おや? そうですか。ならば、多分、ウチの若いのが連れ出したんでしょうな」
「ほう? お相手はフッガーのところの小せがれか?」

 クリスティアンの言葉に、何故知っているのか、と目を丸くするカシミール。

「良くご存じで」
「あそこはウチの国内最大のライバルだからな。そのくらいの情報は……おっと、お前のとこはフッガー系列だったな。今のは忘れろ」
「かしこまりました」

 同盟を結ぶ西部と南部とはいえ、ライバル社を経営する貴族家の事情を探るのは当然という事か。
 いつの世も、情報というのは重要なようだ。

「しかし、いいねえ、若い者同士の青い恋ってのは」
「もっともフーゴの方がお熱なだけで、アリアの方はよくわかりませんがね。男と違って、女というのは見極めるのが難しいものです」
「中々見どころのあるヤツのようだな、フーゴってのは。女に平民も貴族もないっていうのをよくわかっている」
「多少は気にした方が良いかと思いますがね……」

 うんうん、と頷く大貴族家の当主を見て、平民を代表してカシミールは苦言を呈した。

「だが、アリア嬢はちょっとオクテっぽいしなぁ。今頃、強引に迫られて慌てふためいているかもしれん。良かったのか? 放っておいて」
「なるほど、そういう事になるとフーゴの命の方が心配ですな」

 くつくつとカシミールが笑う。

「やれやれ、やっと少しは笑いが出たか。折角の宴を湿らすなっての」
「重ねがさね申し訳ありません」
「で、話かけたのはちょっとお前に聞きたいことがあってな」
「はぁ、なんでしょう?」
「いやなに、どうしてアリア嬢の独立をしぶったのかなぁと」

 クリスティアンの問いに、言葉に詰まるカシミール。

「年や性別は別として、度量も経験も問題なかったろう、あの娘は」
「買いかぶりですよ。アレはまだまだ未熟者。危なっかしくて見ちゃおれん」
「嘘だな。そんな未熟者を大事な取引の場に何度も連れまわすもんかい。ウチの商会との取引にも連れてきてたろ、ここ最近は」

 クリスティアンの素早く鋭い返しに、カシミールはうぅん、と唸る。

「やれやれ、出来ればあまり喋りたくはないのですがね。非常に個人的な、そして恥ずかしい理由ですので」
「ほらほら、きりきり白状しな。大丈夫、俺も飲んでいるからな。明日には忘れているって」
「まったく、強引なお人だ」
「商売には時に力業も必要だろう? 俺は疑問をすぐに解決しておかないと夜も眠れない性質でな」

 クリスティアンの浮かべる意地の悪い頬笑みに、完全に野次馬根性だな、とカシミールは思った。
 ふぅ、と一息ついて、観念したようにカシミールは質問、いや尋問に答え始める。

「ま、大した理由ではありませんがね。私も人の子だという事ですな」
「ほう?」
「少し前までは、あいつは早く旅に出した方が伸びるから、と私も考えてはいたのですよ。ただ、いざ『旅に出ます!』と言われた途端に頭が真っ白になりましてな。気付けば、ただ反対しておりました」

 恥ずかしげにがりがりと頭を掻くカシミール。

 そう、彼がアリアの独立に反対していた事に、商売上の理由は特になかったのだ。
 確かに、彼女が自分の容姿に無頓着な事は問題だったが、それはいずれ自力で気付くと彼は思っていたのだ。

 許可を出さなかったのは、単純に彼女を自分の手元から放したくないだけだったのである。
 ただ、彼女が本気であるという事を行動で示してみせる事によって、それが彼女の成長を阻害するだけの間違いだと改めて気付かされた、というのが彼が手のひらを返した理由だったのだろう。

「ふぅん? いつの間にか実娘のような存在になっていたってことか? ま、その気持ちはわかるぜ? 一応、俺も人の親だからな」
「まぁ、そういった感情もある事は否定しませんが。私としては後継をですな……」
「ん? そりゃ、アリア嬢にお前の店を継がせるってことでいいのか?」
「おっと、これは失言でした。このことはくれぐれもアリアにはご内密に」

 カシミールは口の前を人差し指で塞いで、軽く頭を下げる。

「了解だ。にしても、お前がそこまで一人の見習いにかまけるとはな。やっぱ女の子はいいもんだろう?」
「さぁ、それはどうでしょう? 私としてはアレが男だったら、と常々思っておりますがね。何せ私は年が年ですから、辺境伯と違って、あまり女性に興味もありませんので」
 
 カシミールの捻ねた答えに、やり返されたか、とクリスティアンは鼻の頭を掻いた。

 ふっ、とカシミールは相も変わらず馬鹿騒ぎをしている若人達に目を向けた。
 
「しかし、子供というのは、親などなくても大きくなるものですね」

少し誇らしげに、それでいて寂しげにカシミールは言い、手に持ったグラスを口に傾けた。

「そうだな。親が子供に出来る事なんて、軽く手を添えてやる事くらいしかないのかもしれん」
「いやはや、まったくその通り」
「だがな、子供ってのは、きちんと大人の背中を見ているもんだ」
「そうですかね?」
「ほれ、アリア嬢の夢は“カシミール商店のような店を持つこと”、だろ? ツェルプストーやフッガーは勿論、アルビオンのハーディングも、ロマリアのメディチも、ガリアのボスカリすら差し置いて、お前の店があの娘の目標なんだ。きっと、お前考えている以上に、あの娘は親方であるお前を尊敬しているんだろう。そういう意味で、お前はきちんと役割を果たせているさ」

 クリスティアンの言葉を噛みしめるようにして聞いていたカシミールは、顔をくしゃり、と歪めて下を向いた。

「おい、泣いてんのか?」
「いえいえ、まさか。やれやれ、らしくない所をお見せしてしまった。はっはは、私も随分とヤキが回ってしまっていたらしい」

 しかし、顔を上げたカシミールはいつもの営業スマイルを浮かべて、快活に笑っていた。

「よっしゃ、今日は思い切り呑むか! 付き合え、カシミール」
「それは光栄でございますが、“今日は”とはまた異な事を。“今日も”の間違いでは?」
「お前、時々、相当に不敬だよな……」

 すっかり調子を取り戻したカシミールを、クリスティアンはじと、と睨み、こういう所も親譲りなのだろうか、とその弟子の姿を思い浮かべた。

「何、辺境伯ともなれば、この時期は毎晩宴の席に呼び出される事かと思いましてな。他意はございませんよ、どうぞ」
「どうだかな……」

 カシミールが礼を取ってワインボトルをクリスティアンの杯に傾ける。

「では、未来の大商人達の門出を祝って」
「ふ、俺達も新米共に追い抜かれないように、精進しなけりゃな」

 未だ騒がしいホールの隅で、密やかにキィン、と小さくグラスの合わさる音が響いた。







 先程まで晴れていたはずの空からぽつ、ぽつと涙が零れ、栗色の髪を濡らし、その滴は頬を伝う。

 心の何処かで期待していた通りの事が起こった。

 愛の告白をされた事で、唐突に彼に好意を抱いたわけではない。
 おそらく、それはずっと前から胸の奥底に押し込めていた感情で。
私は「仕事の邪魔」とか、「身分が違う」とか、何かと理由を付けてそれを見ないようにしていたのだ。
 
 恋は麻薬、とは誰の言葉なのだろう?
 それはまさしく真理である、と私は実感した、いや、している最中だ。

 私を支配するのは狂おしいほどの幸福感と、これ以上を望む強い欲望、そしてきゅうきゅうと締めつけるような切ない胸の高鳴り。
 ありえないくらいに心の器は満たされているというのに、まだ、もっと、と水を欲しがる。

 もっと強く抱いてほしい。髪を撫でてほしい。頬に触れてほしい。

 あぁ、なんて甘くて、柔らかくて、瑞々しいのだろう。

 こんな至福は、一度味わってしまえば、二度と手放せるものではない。そう言った意味で、まさしく恋は麻薬で、劇薬で、爆薬だった。



 しかし。
 私の心は突然崩れ始めてしまった天気のように、濁り、湿り、曇っていた。
 
 その理由は葛藤。
 この甘美な感情に流されてしまいたいという情欲と、それでは駄目だと考えている理性のせめぎ合い。

 商売の道を志して早三年。
自分で言うのもなんだが、私は異例のスピードで独立まで漕ぎつける事が出来た。
 それは勿論、周りの人達の助力が大きいのだけれど、私自身が脇見をせずに、一つの事柄に対して全力で取り組んできたからこその成果でもある。
 商売の神様というのはいつだってケチンボであり、半端者には何も与えないのである。

 それに、ロッテとの約束だってある。

『私、色恋沙汰に興味はないから』
『今は良くても後々問題になるかも知れんぞ?』

 彼女との懐かしいやり取りを思い出す。まさか本当にそうなってしまうとは……。
 少なくとも、他に目をやっていいのは、やることをやって、為すことを為し得て、一級の商人になってからの話だろう……。
 
 今すべきことは、いますぐ私を惑わすメフィストの腕を振り払い、「ごめんなさい」とだけ言えばいい。それできっと、いつも通り。

 何、男なんていくらでもいる。何せ、世界の半分は男で出来ているのだ。恋をしたいのならば、もっと他の機会があるじゃないか。
 それに、本来貴族である彼には、卑しい身分である私と付き合うなどという事実はマイナスにしかならないんじゃあないか?
 それ、言ってしまえ! 手痛く振ってやるのがフーゴのためでもあるんだ!



「えぇとね? 私も、その、あんたが、好き、なんだけど──」
「ほ、ホントか!」

 なんだけど──の後が重要だったのだが。しかしそれは、フーゴの歓喜の声にかき消された。

 喜びに打ち震えるかのように、震える彼の手が私の髪を撫でる。
 思わず「はぁ」と悩ましげな吐息が漏れてしまう。なんて気持ちいいんだろう。

 馬鹿な。

 私は何をやっている? 今すぐ訂正しないと!

「う、うん、だけどね──」
「うおぉ……おっしゃあぁ!」

 頬を赤らめて、恥じらうように頷き、またかき消される。

 だ、駄目だ……。この喜びようをみたらとても切り出せないって……。
 私が彼を好きであるのは事実で、そして想い人が自分の事で喜ぶ姿というのは何者にも代えがたいものがあるわけで。

 うぅ、それでも、商売を優先するんだ、という意思だけは伝えなければ。

「あ、その、でも、今すぐにどうこうってワケには、いかないわ。商売の事もあるし、さ」
「……行くな、って言うのは無しなのか? それか一緒に──」
「それだけは、無理。無理よ」
「…………はぁ。……だよな。とりあえず言ってみただけだ。いつでも自分を優先するのがお前だし、ここで引きとめられたらそれはお前じゃないよな」
「ごめん、勝手な事言って。でも、好きだって言ったのは嘘じゃないから、ね?」

 私が何とか言えたのは保留の意思。
 すっぱりと諦める事も出来ず、かといって自分の目指す道を曲げる事もしたくないという、中途半端な答え。
 突き離されたくないから、言い訳じみた事まで口にした。

 はぁ……嫌な女だ。自己嫌悪。

 一緒に行こうなんてという、馬鹿な考えを何とか否定した事だけは自分を評価してもいいかもしれない。
 お手々をつないで遍歴の旅など出来る訳がないのだから。
 出資者、護衛戦力、客引きとしての人材はロッテだけで事足りているし、これ以上連れ合いを増やすメリットなんて何もないのだ。

 もし、そのような脳味噌がお花畑のような考えで遍歴の旅に出るなら、いっそ商売をやめてしまった方がいいだろう。
 そこに待っているのは堕落という名の地獄しか見えないのだから。

「へ、そんな顔すんなよ。大体、俺なんてまだまだ甲斐性無しだし。せめてお前と対等の立場になってからじゃねーと恥ずかしいからな」

 それでもフーゴは手をひらひらと振りながら、満足気にそう言いきった。
 本当は引きとめたい癖に。だからこそ、親方に乗っかって私の独立に反対していたんでしょう?
 全く、いつもは堪え性がないくせに、こういう時はやせ我慢するんだから……。

「待っててくれる、ってこと?」
「……あぁ、お前の“目標”ってのが一段落するまでな」
「あんた、本気で言ってる? 1年や2年じゃないかもしれないのよ?」
「今、お前の一番は商売なんだろ? じゃあ、仕方ねえよ。商売の神様と比べられちゃさすがに勝ち目がないって」

 恐る恐る聞き返すと、フーゴは軽い口調でそう答えた。

「あはは……何よ、それ。どこまで人がいいのよ、あんたは」

 私は泣きそうな顔と声で言う。
 あぁ、もうどこまでも自分が嫌いになってしまいそう。

「勘違いすんなよ? 別に、お前の都合に合わせてるわけじゃねえからな。さっきも言ったけど、俺だって、お前が旅している間に、きちんと一人前になる予定だし? それにケジメも付けてこなきゃいけない」
「ケジメ……?」
「あぁ、来年から行かされる予定だったウィンドボナの魔法学院には行かない。俺もお前と同じく商売の道に専念する。そこらへんをきっちりと家に伝えて来ないとな。……それに、親が決めた婚約も破棄してこなきゃいけないし」
「こ、婚約?! あんた、婚約者がいるの?」

 いや、他の事も気になる、凄~く気になるが、これが一番聞き捨てならないだろう!

「わ、わりぃ。言ってなかったな。でもさ、一度しか会ってない相手だし、好きでもなんでもないし! ていうか、むしろ、嫌いな部類だし!」
「婚約者がいることを責めているわけじゃないよ?」
「だから好きなのはお前だけで! ……って、え、違うの?」
「ま、あんたの素性的にはそういう女性がいても何らおかしくはないし。ただ、婚約を破棄するってことはだね。まさか、私がその代わりの立場に……って事かなぁ? と」
「え? そりゃそうだろ? 男と女が好き合っているのなら、他に“ネトラレ”ないように、一刻も早く“キセイジジツ”を作って、婚約、または結婚に持ち込むっていうのが常識なんじゃないの? 聖書(意中の彼女をオとす100の方法)にもそう書いてあったし……」

 ぶっ、と私は噴きだした。なにそれこわい。

 根取られる? 既成事実? なんだ、聖書って? 何処の星のバイブル? どこの腐った脳味噌が執筆したのよ、それは。

 13段くらい段階を飛ばした、あり得ない恋愛観に、私の頭をぐるぐると回っていたうじうじしたシリアスが吹き飛び、代わりにとめどないカオスが脳内を支配した。
 
「あのさぁ、私、まだ13歳なんですが?」
「別にいいじゃん、ウィンドボナの皇族なんて、9歳で結婚した人もいるんだし。それに今すぐ結婚するわけじゃないだろ」

 そんな高貴な身分の方々が行う政略結婚と一緒にしないでください。

「それに、私、平民。あんた、一応上級貴族でしょ?」
「そんなの関係ないって、前からいってるだろ。怒るぞ」

 そうね、フーゴはそういう奴だったわね……。うぅむ。

「あのね、フーゴ。貴族の恋愛はどうかしらないけれど、平民の恋愛では好きだ、と言ってもいきなり婚約したり、ましてや結婚なんて普通はしないのよ、普通は」
「え? そうなのか?」
「それに、あんた、“寝取られ”とか、“既成事実”とかいう意味知ってるわけ?」
「ば、馬鹿にすんなよ! そんくらい知ってる! “ネトラレ”ってのは、えぇと、モノにしたと思って呑気に寝ている間に、他の男に女を取られるかもしれないから、きちんと見張っておきなさいってことだろ? あと“キセイジジツ”は、二人で結婚の約束を始祖に誓い合うこと! どうだ?!」
「うん。全然違うね」
「な、なんだ……と?」
「いいのよ? あんたにそういう系統の知識がないことは逆に喜ばしいことだから……。いい? “キセイジジツ”ってのはね……」

 はぁ、やっぱりそうか。
 私は可愛らしい幼子を愛でるような目でフーゴを見つめつつ、“ネトラレ”と“キセイジジツ”の正しい語用を耳元でごにょごにょと囁く。
 あぁ、なんでこんないかがわしい知識を、花も恥じらう年頃の少女が、猿もびっくりな精力を持つ思春期の男に教えこまなければならないのだろうか!

「なっ、なななっ! そんな事、俺達にはまだ早いに決まってんだろ! そりゃ、勿論興味あるけど……。って、違う! で、ま、マジなのか、それ? か、からかってんじゃねえだろうな?!」
「マジよ、マジ。大マジ。誰なのよ、そんなとち狂った常識をあんたに吹聴したのは」
「お袋のやつ……帰ったらぜってぇ、ぶっ飛ばす……」

 予想通りの反応で、フーゴは首まで真っ赤にして慌てていた。

 なるほど、元凶はあの馬鹿親、ヴェルヘルミーナね……。
 息子になんてことを吹き込むのかしら。
 うふふ、やっぱり、次に会った時は、きちんと死合って、決着つけなきゃ、だめみたいね?
 
 それにしても。

「あんたって、変な奴。ちょっと大人びて格好いいところを見せたと思ったら、まるっきり餓鬼な所は餓鬼のまんまなのね」
「う、うう、うるせっ! 少し勘違いをしていただけだっ!」
「そんなお子ちゃまなフーゴ君に、私から提案があります」
「あ?」

 ぱぁっと、と笑って、弟をあやすように言う。いや、弟なんていないけれどもね。

「まぁ、そんなお子ちゃまなアンタだけど、残念ながら、好きだというのは事実なのよね」
「ぐ……餓鬼扱いすんな!」
「まぁ、かくいう私も、知識はあっても実体験はまるでないわ。だからね」
「?」
「文通あたりから始めない? そのくらいが丁度いいでしょ、私達にはさ。それに、どっちにせよ遠距離になっちゃうんだから」

 そうなのだ、まずはそういう軽い付き合いでいいじゃないか。
 折角芽生えたキレイな感情を育てつつ、しかし商売の道を半端にすることなどなく。
 その程度の両立が出来なくて何が一端の商人か!

 男女の付き合いなど千差万別。何もいつも一緒にいる必要などないじゃないか。

 心をもやもやと覆っていた、霧が、晴れた気がした。

「ん~、でも、俺もそのうち旅に出るだろうし、お前も移動ばっかじゃん? どうすりゃいいんだ?」
「馬鹿ね。ハルゲキニアに跨るペリカン便を手掛けている商会、たとえば、ゲルマニアならツェルプストー商会の郵便網を使えばいいでしょう? 手紙を送る方は文末にでも次に行く予定の街を記して、受け取った方はその都市に返事を送ればいいのよ。郵便物は一定期間なら商会の方で預かってくれるし」
「あ、成程。やるな。さすが、俺の惚れた女」
「褒めても何にもでませんよっと」
「よし、じゃ、そうすっか?」
「えぇ、そうしましょう?」
 
 そう言って頷きあう奇妙な新カップル。
 私の提案通り、あっさりと私とフーゴのお付き合いの方法が決まった。

 うん、なんて健全なんだろう。実に模範的な男女交際。これならロッテも大満足のはず。

「あ、でも! 結婚したいっていったのは、本当にマジだからな!」
「それは付き合っていく中で見極めていくってことで」
「はぁ……、ったく、まだまだって事かよ。こっちは指輪まで買ったっていうのにさ」
「ちょ、そんなものまで用意していたワケ?」
「さっきプレゼント第一弾つったじゃん。第二弾がコレだったんだよ。給金の3か月分使ったんだぞ……」

 そう言って、懐から綺麗な装飾が施された小箱を取りだすフーゴ。
 そこまで真面目に考えていたのね。落ち込んでいるようだが、その本気さは嬉しいよ? すごく。
 とはいえ、いくらなんでもここで結婚の約束なんてものは出来ないのだが。

「あれ、指輪、ペアなんだ?」

 どんな指輪なのかな? と興味が湧いた私は、小箱の中の指輪を覗きこんだ。
 箱の中には、シルバーの土台に、綺麗な薄紫色の水晶がはまった、シンプルなデザインのリングが二つ入っている。
 なかなかいい造形の指輪である、給金の3か月分といっていたが、恐らくそれ以上の価値がありそうに見える。鑑定眼がいいなぁ、こいつ。

「一応、エンゲージリングのつもりで買ったからな。折角だからお前に1個やるよ」
「えぇ、悪いよ、さすがに」
「遠慮すんなって、元々お前のために買ったんだしさ。それに、それを付けときゃ、お互いの無事が分かるし」
「へ? マジックアイテムなのこれ?」

 びっくりだ。
 そんな便利なマジックアイテムがあるとは。

「そこまで大それたもんじゃないけど。エクレール・ダ・ムールの花って知ってるだろ?」
「あ、そっか。それで薄紫色なのね」
「そそ、花の成分を水晶に閉じ込めたっていうだけのもんだから。マジックアイテムってレベルじゃない。ちなみに今は二人とも指輪嵌めてないから光っちゃいないけど、嵌めればぼんやりと光るらしい」

 なるほど。
 エクレール・ダ・ムールの花というのは、結婚式に使われる花で、永遠の絆を意味する花だ。
 その花の特性は、放つ光によって、二人が離れていても、無事であるならば安否を確認することができるというもの。
 ちなみにそれは、花のお値段としては高いが、魔法のアイテムとして考えると相当安い。なぜなら花畑で普通に栽培できるから。
 せいぜいペアで20スゥくらいで買える代物だ。指輪の値段は、ほぼ台座の銀とデザイン料、それと切削の技術料で占められているのだろう。

「じゃ、遠慮なく貰うよ?」
「待て」

 私がひょい、と指輪を摘もうとすると、フーゴはそれを手で制した。

「な~によ? 惜しくなった?」
「いや、俺が嵌めるから」
「……あんたって割とロマンチストよねぇ。じゃ、はい、どうぞ?」

 そう言って左手を差し出すと、彼はおもむろに指輪の片方を手に取り、それを私の薬指に嵌める。
 そして、もう片方を同じく彼の左手の薬指へと嵌めた。

 薄闇の中、ぼんやりと、淡く白く光り始める二つの指輪。
 彼はその幻想的な光景を満足気に眺めると、うん、と呟き、頷いた。

「綺麗なものね。……ちょっと、こっ恥ずかしいけど」

 指輪の嵌った手をかざして言う。

「で、プレゼント第3弾ってのはあるのかしら?」
「がめついなあ、お前」
「あら、いい男は女のわがままに付きあってくれるものよ?」
「へいへい」

 フーゴは「やれやれ」と呆れたように額に手をやる。どうやらこれでプレゼントは打ち止めらしい。
 むぅ、第2弾で終わりとはキリが悪いんじゃないか?
 
 それなら。

「じゃ、貰ってばっかりじゃアレだし」
「え?」
「私から第3弾のプレゼントをあげるわ」
「マジ?」
「えぇ、商売に限らず、等価交換は基本だもの。まぁ、等価かどうかはわからないけど、ね?」

 意表を突かれたのか、間の抜けたような顔をするフーゴ。
 一方の私は決意めいた表情で、彼の目をじっと見つめた。

「え、ちょ」
「黙って」



 二つの顔が近付いていく。

 鼻と鼻がぶつからないように、私は少し顔を傾ける。
 
 ふるふると震える瞼を閉める。

 熱い吐息が触れ合う。

 少しかさかさとした感触が唇に伝わる。

 歯と歯がぶつかり、かちり、と音を立てる。

 離れ際、つぅ、と唾液の橋が口に掛かる。



 初めてのキスは、やっぱりちょっと、上手くいかなかった。



「……あ、えっと……その」

 フーゴは首まで真っ赤にして、焦点の定まらない目で、しどろもどろ。

「馬鹿、こういう時は、男の方からもう一度やり直すの」

 純情過ぎる彼の反応を見て、自分の行為に恥ずかしさがこみあげてきた私は、そっぽを向いてそう言った。

「……絶対、無事で戻ってこいよな」

 優しい言葉とともに、ぐい、と体を引き寄せられる。

 いつの間にか通り雨が止んでいる事にも気付かない。

 重なった二つの影は、出来たての絆を確かめるように、何度も何度も互いの唇を啄ばんだのだった。







 賑やかな夜が過ぎ去り、陽はまた昇り、ついに故郷の街を巣立つ日がやってきた。

 新米には少し立派すぎるほどの馬車の上、閉じた瞼の裏に浮かぶのは、振り返ればあっという間の、愛おしき思い出達。
 目を開ければ、穏やかな光を放つお天道様が、門出の日を祝うかのように、その顔を曇らせる事なく私達を照らしていた。

 ふわり、と柔らかな春風の薫りが鼻を擽り、ぱたぱたと旅着である白いワンピースの裾が揺れる。
 少し大人びた私は、新調したばかりの麦わら帽子が風に飛ばされてしまわぬように、薄紫色の指輪を嵌めた手でそれを押さえつけた。



「いいか? ゲルマニアに戻ってきたら、絶対に俺の所へ顔を出すこと。馬の手入れは怠らねェように。賊に出くわしちまったら無理をせずに逃げること。忙しくても飯はきちんと三食摂ること。あとは……」

 カシミール商店の前、見送りに出た親方は、くどくどと注意事項を並べ立てる。
 あの時は『一つだけ約束しろ』って言ったのに、ねぇ?

「ストップ、そこまで! もう。何個あるんですか、約束事が」
「まったく、過保護な奴じゃ」

 うんざりとしたように私が親方を遮ると、既に御者台の上へと乗り込んだロッテもまた呆れたように言う。

「ぬぅ……」
「大丈夫、必ず、帰ってきますって。ま、その時には、親方が及びもつかないような大商人になっていますけどね?」
「10年早いわ!」

 私がにしし、と笑って言うと、やっぱりごすんと頭に拳骨が落ちてきた。
 つぅ~、やっぱこれは最後に貰っておかなきゃねえ。



「途中で根上げて帰ってきたら一番下っ端からだからな?」
「あら優しい。その時が来ないように頑張らないといけませんね」
「はは、負けんなよ」「親父に、よろしくな」

 と、手を振るのはギーナとゴーロ。
 どうやら、この双子達も、もう道は決まっているらしい。

 兄のギーナはこのままカシミール商店に残り、駐在員の道へ。最終的にはベネディクト工房の経営を担当するのだろう。
 弟のゴーロは、来年にはハノーファーへと戻り、職人としての技を身につけるための修業に入るのだそうだ。



「無理だけはしないようにね?」
「あはは、できるだけ、そうします」
「……全くもう。ウチの子はみんなそうなんだから。あ、それでね……?」
「はい?」
「もし旅の途中でエンリコに会ったら、たまには戻るように伝えてくれる? ここ最近、全然消息がつかめなくて……」
「……わかりました! 大丈夫ですよ、便りがないのは元気な証拠っていいますし!」
「そうね……」

 私は少し落ち込んだ様子のヤスミンを元気付けるように快活な声で言うが、あまり効果はなかったようだ。
 エンリコさんかぁ。ヤスミンさんは幼馴染だから特に心配なんだろうな。
 確か、彼はガリア、ロマリア方面に向かったはずなんだけど。一体どうしたんだろう。無事だといいけど……。
 


「短い間でしたけど、お世話になりました、アリア先輩。また、会いましょうね」
「あ、あの、が、頑張ってください! 応援してます!」

 エーベルは恭しく頭を下げ、ディーターは口から泡を飛ばして必死な様子。

「えぇ、ありがと。私がいなくなっても、真面目にやりなさいよ?」
「こんな時にお説教しなくても……」
「ちゃんと修行をしていれば、私が店を持った暁には正社員に加えてあげてもいいわよ?」
「ま、マジッすか?」
「嘘は言わないわ。じゃ、そっちこそ頑張りなさいよ、エーベル君、ディーター君」
「はいッ!」「よ、よろしくお願いしますっ!」

 うんうん、いい返事だ。
 この子達も1年前よりは大分仕事が出来るようになってきた。まだ欠点も多いけど。
 彼らが見習いにいれば、カシミール商店も安泰だろう。



「暫しの別れってとこね」
「おう」

 最後にフーゴに顔を向けていうと、何とも素っ気ない返事が返ってくる。
 やれやれ、それが恋人を送りだす態度かい?

「ちょっと来なさいよ、ほら」

 私はちょいちょい、と犬を呼ぶかのようにフーゴを手で招く。

 彼が「なんだよ?」と言いながら近づいてきたところに。
 
 ちゅぅ、と頬に不意打ちをかましてやった。

「ば、馬鹿! ひ、人前で……」
「何よ、そのくらいで取り乱さないでよ、情けない」

 はぁ、と息を漏らして周りを見ると、みんなは茶化すような顔でにやにやとしていた。ディーターだけはなぜか下唇を噛みしめて天を見上げていたが。
 あちゃぁ、サービスしすぎたかな? あとでフーゴが小突かれるのが目に見えるようだ。

 ちなみに、宴の夜から3日も経っていないのだが、もう私達の関係は完全にみんなへとばれている。

 勿論、ロッテにもまだまだ清い関係であることは説明済み。
「雌の臭いがする……」と凄まれた時は、久しぶりに命の危機を感じたのだが。
……うん、その話はいいだろう。

「手紙、出すからな、金をケチって返事サボんなよ?」
「えぇ、うざいと思うくらいに送ってあげるから覚悟しておいて」

 そう言って、ちょん、と彼を小突くと、私はくるりと右回りをして、颯爽とジャンプ。
 御者台の上へすたん、と飛び乗った。

「それじゃ、行ってきます!」
「主らも元気でな」

 手綱を握りながら、ぴっ、と敬礼のポーズを取って言う。
 隣に腰掛けるロッテが、軽く会釈をしながらそれに続いた。

 うん、と力強く頷く親方。
 私を真似て敬礼をするギーナとゴーロ。
 心配そうに手を振るヤスミン。
 全力で声援を送る後輩達。
 少し寂しそうに微笑むフーゴ。

 ぱから、ぱから、と二頭の駒がゆっくりと歩みだす。
 
 ごとん、ごとん、と白い幌馬車の振動が尻に響く。

 みんなの姿が小さくなっていく。



 私は、彼らが見えるか見えないかギリギリになった所で、一度だけ振りかえり、立ち上がった。



「ありがとう、ございましたっ!」



 力の限り、あらん限りの声で叫ぶ。
 それはこの街の全ての人々に届くように、と祈った感謝の気持ち。

(必ず、成功して、ここに帰ってきます)

 私は誓いを心に刻む。

 それからは、ただの一度も振り向く事なく、私は馬車に揺られていく。
 もう、後ろを向く必要など、どこにもありはしないのだから。





つづくかな……



[19087] 35話 彼女の二つ名は
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:56d7cea6
Date: 2011/05/04 14:13
 遍歴の旅、初日。

 もぉ~。

 昼下がり、土に染みいる、牛の声。

「ん~、いい天気」

 御者台の上、胸一杯に濃厚な土の匂いを吸い込む。
 一面に広がるのどかな農村風景の中、ごとんごとんと荷馬車が揺れる。可哀想な子牛は載せていない。

「そろそろ着くよ」

 後ろの荷台でお休み中の姉に声をかける。
 がさ、と幌布を乱雑に引っ張る音がした。了解した、という合図だろう。

 そのまましばらく馬を走らせると、いつか見た事のある村の入り口が見えてきた。
 丁度昼時なのか、民家の煙突からは白い煙が上がっていて、小さな子供達が元気に遊んでいる様子が見えた。

 本当、元気だなぁ、と安心する。
 子供が元気な農村は、それなりに潤っていると判断できる。村に経済的な余裕がなければ、弱者の立場である彼らが真っ先に被害を受けるのだ。



 近づくにつれ、子供達の姿がだんだんとはっきりと見えてくる。どうやら男女入り混じっての遊びらしい。
 各々が自らの手で作ったのだろう、不格好な木の杖や木の剣、そして木の弓などを携えていた。戦争ごっこ、というやつだろうか?

 ん? ちょっと待った。杖や剣はいい。粗悪な造りのソレは殴っても青痣がつくくらいで済むだろうから。
 しかし、弓はないだろう、弓は。刺さったらどうするのよ! あぁ、もう。
 
 私は慌てて馬に鞭を入れ、馬車の速度をあげた。怪我をしてしまってからでは遅い。
 村の人間ではなくとも、“大人”として、このような危険な遊びは止めなければ!

 しかし、そんな私の義務感は、弓を掲げた女の子達の言葉によってあっさりと霧散した。

「私が、“毒殺姫”の役をやるの!」
「エルちゃん、ずるい! 昨日もやったのに! そんなにずるい事ばっかりいうエルちゃんは、正義の味方より卑怯な女メイジ役の方がぴったり!」
「何よ、メイちゃんだって一昨日“毒殺のアリア”をやったくせに~!」

 子供達の顔が見えるくらいまで近づいた時、聞こえてきたのは少女達の口論。

 うん。

 これはどうやらこれは戦争ごっこではなく、何かの、そうナニかの役柄を決めてそれを演じる遊びらしい。
 そして女の子達はどちらが“毒殺姫”もしくは“毒殺のアリア”という役をやるかで揉めているという。

 握っていた手綱が思わず手から落ちる。

「なんでさ……」

 停止した馬車の上、思考も停止させた毒殺姫は口の橋をひくつかせながら呟いた。







 始め良ければ終わり良し、という金言がある。

 物事の始めが上手くいけば、最後に良い結果を得る事が出来る。
 つまり、何事も最初のとっかかりは大事なのだ、という意味だ。
 実際には、商売の最初だけ上手くいって、その後ポシャる、なんてことはままあるのだけれど……。

 とはいっても、やはり最初から躓きたくないのは事実なワケで。

 そこで、私なりに考えた結果、第一の目的地であるハノーファーには少し遠回りではあるが、最初の逗留地には此処、オルベの村を選ぶ事にした。

 オルベの村と言えば、一年半程前、私が村全体をペテンにかけようとしていたマルグリッド詐欺師団(だっけ?)をけちょんけちょんにした場所である。
 その働きはこの村にとってかなりのものだったはず。何せ、もう少しで一年分の稼ぎがパーになってしまう所だったのだから。

 ならば、その恩義をすぐに忘れてしまうような薄情者でない限り、私が遍歴商人として顔を出せば、その商品をたくさん買ってくれるはず!

 そう思ってここを初めての行商場所に選んだのだった。
 下心丸出し? 褒め言葉ね。立っている物は親でも使うっていうのが商人なのよ?



 しかし!



「何ですか、この仕打ちは」

 オルベ村の村長宅。
 1年半前と同じ席に座った私は、対面に座る村長に肩をすくめてみせた。

 辺境で商いをする場合、都市部とは違って特に難しい決まりごとはないので、誰かに断りを入れる必要はあまりない。
 しかし、それは飽くまで規則上の事であって、商いを“させてもらう”集落の長に挨拶がてら話を通す、というのはごく当然の感性ではないだろうか。

「ははは、すまんなぁ。だが、村のみんなも決して悪気があるわけじゃないからよ。ちゃ~んと、あんたに感謝はしとるんだて」
「むぅ。しかし“毒殺姫” というのはあまりにも……その、ひどいです」

 悪びれる様子もないオルベ村の村長に、私は頬を膨らませて抗議する。
 “姫”という単語も、前に物騒な単語がついては台無しだ。
 これではまるで私がルール無用の残虐ファイターのようではないか。
 
 もっと色々あるでしょ? ほら……華麗なる妖精とか! 赫々たる天使とか! 燦爛たる戦女神とかさ!

 …………。

 ま、まぁ、商いをすることは二つ返事でOKしてくれたし、「この村、宿ってありませんでしたっけ?」と聞けば、村長の家にタダで泊めてくれる事になったし、感謝している、というのは本当なのだろうけれど……。

「ぷっ……、くふっ。何度聞いても似合いすぎておる……っ! 極悪非道の毒殺姫! ぶはっ」

 隣に座るこいつはうるせーし……。
 腹を抱えて笑い転げるロッテ。

 先程子供達の会話を聞いた時からずっとこの調子だ。
 他人事だと思っていい気なものである。

「何がそんなにおかしいんだか。私はまったくもって面白くないっての」
「まぁまぁ、いいじゃないかい。メイジ殺し、毒殺のアリアといえば、ここらの村じゃ有名なんだで? 商人さんにとっちゃ、有名になることは悪いことじゃあるめぇよ」

 横目で、じと、ロッテを睨みつける私に、村長はおどけた調子でそんな事を言った。
 私はそれには答えず、呆れたように大きく息を吐き、額を押さえて俯いた。



 だからまだ誰も殺してねえし。
 ……人っぽいモノは殺したというか、ボウボウと燃やしたり、プチッと潰したりしたことはあるけど。

 まったく何つうハタ迷惑。

 まぁ、これで一つの謎は氷解した。
 私の名前を聞いただけで震えあがって逃げ出した、あの無礼な三人組。
 
 噂というのは、えてして尾ひれをつけて広まるものだ。
 三人組の反応から見るに、既に“毒殺姫”の都市伝説は面白おかしく誇張され、ゴテゴテに装飾され、聞くに堪えないモノになって広まってしまっているのだろう。

 解きたくもない謎が解けてしまったところで、私はもう一つ「はぁ」と溜息を吐いた。



「あのぅ、どうかしたんかね?」

 とぼけた顔で覗き込むようにして問う村長。
 どうかした、って、そりゃフツー、イヤでしょ? 自分の預かり知らぬ所で益体もない噂が一人歩きしているなんて。

「くはは、思ったより噂が広まっていなかったので落ち込んでおるのじゃろう? ケルンにはそのような愉快な噂は届いておらんかったものな。この目立ちがり屋め!」
「おぉ、なるほど! そういうことかぁ。いやぁ、さすが姉妹だねぇ」

 私の背中を、ばんばん、と叩く上機嫌なロッテ。
 村長は得心がいったように、ぽん、と手を叩く。

「何、心配せずとも栄誉ある“毒殺”の名は妾が責任を持って、各国各地の旅先で広めてやる。くはは、安心せい!」
「出来るかっ! この馬鹿っ!」
 
 渾身の右ストレートが、とてもいい表情をしたバカの顔面にめり込んだ。





 

「さあさあ、お立合い! 老いも若きも、男子も女子も、ご用とお急ぎのない方はゆっくりと聞いて行ってくださいな!」

 長袖のワンピースを豪快に肩までたくしあげ、腹の底から威勢のいい声を絞り出す。

 村の中心に位置する広場には、野良仕事を早めに切り上げた村人達がぽつりぽつりと集まり始めていた。

 傾いた陽の光が、立派な店に化けた馬車の荷台をスポットライトのように照らす。
 判りやすく、見やすく、手に取りやすく、選びやすくの精神で古今東西の品々が陳列されたそこは、ヴァルハラの宝具殿すら凌ぐ私達の宝箱。

「生まれも知らずに、こちらの姉と流されたるはライン川! そうして辿り着いたは商い道ってぇ修羅の道! 石の上にも三年、親父の浮気、許されるのも三年目! ようやく皆々様の前に不細工な面を晒すことができるようになったのでございます。……おっと、たった三年と馬鹿にしたもんじゃあありません。三年もありゃ、隣の婆さん墓の中! 乳飲み童女も乳出す母親になるってなもんでさぁ!」

 まだまだ人が少ない広場だけでなく、村の隅から隅まで響かせるくらいのつもりで啖呵を切る。
 これが行商人としての初商い。もっともっと、村中の人達をここに掻き集めなければ!

 商売人や貴族でもない市井の人々を相手にする時は、しゃちほこばった態度や気取った態度よりも、客を楽しませるくらいの気持ちで商いをするのが吉、と私は考えている。

 だから、服装も旅着である無地のワンピースのままドレスアップはしていない。
 そういうのは都市部の商人や貴族が相手の時だけで十分。こういう所では、ケバケバするよりもチャキチャキした方がウケがいいはず。

 商売人にも様々な人がいて、考え方も色々だから、これが正しいとは言い切れない。
 しかし、今までの経験上、出来る商人ほど人懐こく、他人を楽しませる術に長けているように思えるのだ。特に、一般の消費者を相手にする小売商にはそういうタイプの人が多かった。

 そして行商というのは二面性を持つ商売である。
 都市の商社にモノを売る卸売商であり、また、農村の消費者にモノを売る小売商でもあるという二面性だ。
 だからそれを行う遍歴商人にもまた、そういう二面性、言いかえれば様々な状況に対応する能力が必要なのではないだろうか、と思うワケで。

「おいおい、いくらなんでもそれは、言い過ぎってものじゃろう? ほらみい、お集まりの皆様も、とんだホラ吹きだ、と呆れてしまっておる」

 控えていたロッテが、私の啖呵に大げさなリアクションを取りながら合いの手を入れた。
 よしよし、打ち合わせ通り。後で飴ちゃんでもあげようか。
 
「いえいえ、そんなこたぁございません! 忘れちゃいけねぇ、あんな色っぽい後ろ姿の別嬪さんを」

 そう言うと、私は手近にあった民家の畜舎を指差した。広場に集まった聴衆は、その動きにつられて首を振る。

 そこには飼葉を食むのに夢中になっている雌牛の大きな尻。
 くすり、と広場に微かな笑い声が響く。

「なるほど、アレは確かに主と同類じゃな」
「な、ばっ」

 ロッテはそう言うと、突如私の胸をばいん、と乱暴に叩いて揺らした。
 そこで、どっ、と大きな笑いが巻き起こった。

 変なアドリブ入れるな! 痛いっての! しかも完全な下ネタだしさぁ。
 ほら、あそこの娘なんて、親の仇を見るようにめっさ睨んでるし。

 まぁ、掴みとしては上等だからいいかな?

「さて、雌牛と見まがわれる私でございますが、一応、人としての名があるのでございます。もちろん、姓などありゃしませんが、名をアリア、人呼んで“毒殺姫”と発します」

 深々と頭を下げて名乗りをあげ、久々に装着したリピーティング・クロスボウを聴衆に見せつけるように腕をかざした。

 どよどよ、とお客達がざわめく。

「あれ? 毒殺姫ってあんな顔してたっけぇ? 何かもうちょっと田舎臭かったようなイメージがあるんだけんどなぁ」
「いんや、それよりもあの娘って12,3だろ? その年であれは……巨乳ならぬ、嘘乳ってやつかいな」

 ひそひそと訝しげに囁き合うのは若いカップル。
 
 ……ちょっと、聞こえてるんだけど。
 ふふ、四六時中いつも一緒なんて、なんか腹が立つわねぇ。何なら貴方達の身体で実演してあげましょうか、毒殺姫の実力を。

「あんなほっそい腕で、1秒に16発射撃できるって、ほんとかなぁ?」
「あの変な形した黒い弓がすごいんじゃない? それより、口から毒の霧を吐くって方が嘘臭いなぁ」

 訳のわからない事を口走っているのは村の子供達である。
 ……やっぱり、悪気があるわけじゃないってのはウソかもしれない。

 ま、それは置いといて。

 敢えて“毒殺姫”を名乗ったのは、私の顔は忘れていても“毒殺姫”の名はここにいる全員が知っているだろうから。
 もちろん、気に食わない、というか出来れば記憶からも、世の中からも抹消してしまいたいほどの二つ名ではある。
 しかし、この村でその名を使うのは、どう考えても効果的なのだから使わない手はないでしょう。
 
「そしてこちらは私はおろか、エルフよりも恐ろしいと噂の姉リーゼロッテ。何が恐ろしいって、一度唾をつけた男は骨まで噛み砕くってなもんで。二人でやっと一人前な私共の貧乏露店、一世一代の大勝負! 皆様、どうかご贔屓のほどを」

 私が意趣返しを含めた他己紹介をすると、ロッテは引き攣りながらも聴衆の声援に手を振ってこたえる。
 ちなみに黄色とは程遠い声援を送っているのはやはり鼻の下を伸ばした男共である。

 あ~あ、私もそこそこイケてる女になったかな~、なんて勝手に思っていたんだけど。
 フーゴのような特殊な趣味の人だけか、私の方に好意を持つのは。まぁ、それでいいけどさ。

 にしても、かなり人が増えて来たわね。
 こういう主街道から外れた農村では、狭い範囲で決まったルートを営業しているような行商人(ジグマ)しか来ないだろうし、ちょっとしたイベントみたいな感じなのかも。



「ではそろそろ商いのお話などもさせていただきたく」

 名乗りを終え、かなりの人数が集まった事を確認した所で、私は懐から真新しい商業組合≪アルテ≫の組合員証を引っ張り出し、お客へと提示し、そう切り出した。

 組合員証の提示には商いを始めます、という合図の意味がある。
 商談の時、取引の時、何かしらの許可を得たい時などは、組合員証を提示して名乗る、というのが商人の作法なのだ。

 ちなみに私達が所有している組合員証はこれ一つだけ。
 私の分だけ、という訳ではなく、それには私とロッテ二人分の名前と経歴が載っている。

 私とロッテの商売は、お金を出し合って一つの事業を共同経営する商社のような形態の事業。
 なので、二人の個人でなく、一つの共同体(『僕』のセカイで言う“法人”みたいなもの?)として組合に登録する事も出来たのだ。
 こうすれば、組合に納める加入費や年会費は一人分で済むし、商売をする上で必要な諸手続も一括して行えたりと、個別登録するよりも利点が多いのである。



「さて、まず取りだしましたるは、遥かガリアの彼方からやって参りました乙女にございます。さあさ、皆様買ってやって下さいませ」
 
 ざわめく聴衆に差しだすように荷台から取りだすのは、アキテーヌ産のノンヴィンテージワイン。さほど高級なものではない。仕入価格は一本あたり38スゥ。
 同じガリアのワインでも、ボルドー1級などは6エキュー近い仕入値になってしまうから、ワインというのは偽物に対してかなり注意が必要な商品である。

「おや、この儚げな姿を見てもまだ財布の紐が緩んでこない? こうなりゃ仕方ない、聞くも涙、語るも涙、お嬢様の因縁聞かせましょうか」

 広場全体を見回すように問いかけると、ぽかん、と口を開ける聴衆達。まだまだ購買意欲は湧いていないようだ。
 そりゃ、いくらで売るかも言ってないのに買う人はいないわよね。

「彼女の生まれはアキテーヌ、いいとこ育ちのお嬢様。しかぁししかし、幸せは長くは続かないのが世の無情ってわけでございまして。甘く熟したイイ女を放っておくようなブドウ農家はおりやせん。そうして彼女は無残にも彼らの手によって、家(樹)から攫われ、足で嬲られ、裸に剥かれ、木の樽ってぇオリに繋がれてしまったのでございます。それから暗く湿った牢獄で過ごす事幾数年、幾数十年、やぁっとお天道様の元に出てみりゃ、そこは見ず知らずのゲルマニアでしたって、これで買い手がつかなくちゃ、そりゃああんまりってもんだ!」

 そこまで言い切って、私はおよよ、と泣き真似をする。

「はは、値段によっちゃあ買ってやるで、お嬢様!」
「エールはよく飲むけど、ワインってあんまり飲んだことねぇなぁ。どんな味がするんかね?」
「あはは、いつも来る商人さんより面白いわ、この娘。よぅ口が回るねぇ」

 反応は上々。
 結構な割合で興味を持ってくれた人がいるようだ。

「さあ、気になるお嬢様のお値段は、いつもニコニコ現金払いは52スゥ! もちろん、現金以外も歓迎! 小麦であれば、14リーブルと4オンス、乾燥豆なら47リーブルと6オンス! その他の物と交換したい方はどんなものでも応相談、安心な相場価格で対応します!」

 私が売値を発表していると、ロッテが村の倉庫から借りてきた大きな秤をどん、と私の前に置く。

「この秤は村のモノじゃ! 何が言いたいかといえば、量のごまかし、計算のごまかしは一切せんという事じゃ! その辺の心配はせんように!」

 ロッテは聴衆のざわつきに負けないよう、手でメガホンを作り、声を張り上げて言う。

 これは、私達が持っている秤を使うよりも、村の秤の方が彼らの信用が得られるだろうという配慮。一応、目盛が狂ってないかはチェック済み。
 勿論、現金で買った方がお得ではあるのだが、こういう農村ではまず物々交換が普通で、通貨による取引は殆どないと思っていい。



 ……え? 仕入値の3割増しで客に売りつけるなんて暴利だ、詐欺だって?



 それは大きなミステイクというやつだ。イヤっていうほど信用の大切さを叩きこまれた私が、そんな商売するわけないでしょ? 
 これでも普通の小売相場価格と大きくは外れていない。むしろ行商人が扱う価格としては少し安いくらい。

 確かに、粗利(売値-仕入値)だけを見れば暴利かもしれない。

 しかし、これらの品を売りさばくために私達は、長い旅をしてお金を使う。
 ワインは割物だから、運んでいるうちに必ず売り物にならなくなるモノも多く出てくる。
 都市部に入る時には最低3パーセントから最高1割近くの税金(ゲルマニア内)も取られてしまうし、国境を渡る際には関税がとられる。
 何者かに盗まれてしまう危険性だってあるし、売れなかった分は丸損になってしまう。

 そういうリスクを考慮した上での利益(純利益)で考えると、最終的には一割強程度の儲けにしかならないのだ。
 ちなみに、商人が“利益”といった場合は、粗利ではなくこの純利益の事を指す。

 そういうわけで、決して私はアコギな商売をしているわけではないのだ。



「はは、仕方ねぇ、村の恩人の頼みだからな。そのくらいなら一本買ってやるよ」
「ちょっと待っててくれや、ひとっ走り納屋に行って麦を取ってくるからよ」
「ねぇ、蜂蜜漬けのリンゴでも交換できる? ウチでつくったものなんだけどさ」
「か、買ったら、その、握手してもらっていいですか?」
「そんなことより弓教えてくれよ! 弓! 僕もメイジ殺しになりたい!」

 おぅ……これは予想以上の反響!
 やはり毒殺のネームバリューが効いたのか、それともこれが私の実力か!?
 どどっ、と一斉に押し寄せてくる聴衆からお客様にグレードアップした村人達が、口々に購買の意思を示す。

 あぁ、これは嬉しい。
 もしかするとあの大告白よりも嬉しいかも(……ってこれはフーゴが可哀想か)。

 『僕』風にいうと、βエンドルフィンが大量分泌、脳汁の大バーゲンって感じ!
 これよ、この臨場感よ、これこそ行商の醍醐味だわ!

「あハ、慌てなくても大丈夫ですよぉ、順番に計量するので、列に並んでくださいねぇ」

 怒涛の勢いで迫るお客達に緩んだ声で言うが、あまり効果はなかったようだ。
 私とロッテはお客の中心でもみくちゃになってしまった。

 だが、それもいい。

「お、おい……っ! これではモノ売るってレベルではないぞ! いたっ、こら、落ち着け!」
「あらあら、困ったわねぇ。嬉しい悲鳴とはこのことかしら」
「何を悠長な事を……ひっ?!」

 文句を言いかけたロッテは、突如びくん、と体を震わせたかと思うと、顔を紅潮させた。

「だっ、誰じゃ! し、尻を触られたぞ、今っ!」
「ふふ、いいじゃない、減るもんじゃないんだし。……あ、お買い上げですね、ありがとうございます! はい、対価は小麦ですね? では計量しますのでこちらへどうぞ!」

 どうでもいい事を気にしているロッテを尻目に、雪崩のようなお客の波を捌いていく私。

「無視するな、このたわけ!」
「何よ、くだらない事気にしている暇があったら仕事しなさいって! ほら、私は計量をするから、あんたは品出しやって! それと、ニーズの調査も! 次来る時に欲しい物をお客様に聞いてリストに纏めておく事!」
「ぐ……」
「ほらほら、スマイルを忘れているわよ、スマイル!」

 私はぱんぱん、と手を叩いて矢次早に指示を出す。
 ロッテは不貞腐れたようにしながらも、渋々、持ち場につこうとする。

「あ、いいこと考えちゃった」
「ぬ……?」

 それを引きとめるように、アハ、と指を鳴らす私。

「商品を買うと、もれなくお触りできる権利をお付けします! って、よくない? これなら売り上げ倍増も夢じゃ──」
「させるかっ! この阿呆っ!」

 光の速度で放たれた手刀が、私の脳天を直撃した。







 ホゥ、窓の外でフクロウが鳴く声がした。
 
「つ、疲れた……」

 ぼふっ、と力なくベッドに倒れこむロッテ。

「うふ、うふふふふ! 天才よ、やっぱり私、商売の才能があったんだわ!」

 それとは対照的に、同じベッドで足をばたばたとさせながら一人で盛り上がる私。
 
 夜も更け、店じまいした私達は、村長宅の客間でくつろいでいた。

「まったく、いい気なもんじゃ。なぁにがお触りオッケーじゃ。この淫売め」
「ま~だ言ってるの? というか、触らせるのはあんただけのつもりだったし、淫売でもなんでもないわ。まだ、フーゴにだって触らせてないんだからね!」
「余計に性質が悪いわっ!」
「いっ、いだだあっ! ご、ごめん! すいません! 私が悪かったです!」

 まだ痛みの残る脳天をグーでぐりぐりとされ、私は涙目になって謝罪の言葉を述べた。

 うん、あの時は私もちょっとおかしかった。今考えればあり得ない発想でした。
 でも、仕方ないでしょ、初の行商であれだけお客がついたら、遍歴商人なら誰だって興奮してしまうだろう。



 実際、あの後、他の商品も飛ぶように売れたのだ。
 いやぁ、実にありがたい事です。やっぱり商売にコネというのは重要だな、と再確認。

 売った商品は、ワイン、麻布、麻糸、安価な染料、あと意外だったのは香水を欲しがる人が多かったことかな。
 ハノーファーというか、都市の商社向けに買いこんだ商品はあまり売りには出さなかったし、実際売れなかった。麦酒なんかはここで作っているくらいだしねぇ。

「はぁ、まぁ良い。暴走しがちなお主を止めるのも妾の仕事であるしな」
「え? 逆じゃない?」
「ほぅ、まだやられたりんか?」
「いえ、もう十分です……」

 はぁ、と拳に息を吹きかけて私の首根っこを掴むロッテ。



「……で、結局、今日はどのくらい儲かったんじゃ? あれだけ客がいたんじゃし、かなりのものになったと思うが」
「まぁ、全部足すと、全部で150エキューは売れたと思う。新米の遍歴商人が一度に稼ぎ出す額としては相当ね」
「なんと! 一日でそんなに儲かったのか! すごいな、行商というのは!」

 ロッテは目を輝かせて、花咲く笑みを見せた。
 おいおい、ちょこっと移動するだけでそんなに儲かったら、今頃みんな大商家になってるっての。

「待った、勘違いしないで。売上、つまり“収益”が150エキューなのよ。“粗利”としては、仕入と諸掛(仕入時にかかる諸費用)、つまり“売上原価”を差し引いて、大体30エキューちょっとってところかしら」
「専門用語ばかりでよくわからんのじゃが? えぇと、つまり、実際に儲かったのは30エキューということか? まぁ、それでも上々ではないか。妾の給金1か月分くらいが一日で儲かったのじゃし」

 ロッテはくるくると円らな瞳を動かしながら言う。

「えぇとね、まず、“粗利”というのは純粋な利益じゃなくてね。今回、旅に出る時に色々お金つかったでしょう?」
「あぁ、そうじゃな。服とか、寝具とかな」
「……で、喜んでくれているところ、非常に言いにくいんだけどね? そういうのを考えると、実はまだ儲かっちゃいないのよね。むしろ今持っている資産は初期の1009エキューよりマイナスなわけよ(※1)」
「何っ?! あれだけ頑張ったのに?! ふ、ふざけるなっ!」

 怒髪天を突くと言った感じで怒りをあらわにして立ち上がるロッテ。
 
 ですよね~。
 そりゃ、めちゃくちゃ売れた~って喜んでいた所に、実は損してますよ、なんて言われたらね。

「もちろん、今日の商売ではちゃんと儲けは出ているわよ? ただ、まだまだ初期投資を埋めるだけの儲けはでていないってこと。でも、大丈夫よ、この調子ならすぐ取り返せるわ」
「ぬぅ……、そう、か。はぁ」

 私は努めて明るい調子で言うが、ロッテはがっくりと肩を落とす。

「ん? ……しかし、売り上げ自体は相当に良かったのじゃろう? では、ケルンとこの村を往復するのはどうじゃ? それならばすぐに初期投資分など取り返せるのでは?」

 思い出したようにロッテが意見を言う。

 うん、意見を出すのはいいことよ、お姉様。
 でも、もう少し考えて発言しましょう、50点。

「ダメダメ、今回は“毒殺姫が初めて行商に訪れた”、っていう物珍しさで売れたってのもあるから、次からはそれほどの売り上げは期待できないし。それに、短期間で何度も同じ村を訪れたって、ニーズがどんどん減少していって何も売れなくなるだけよ。まぁ、そういう商売をしてる行商人もいるけど、あんまり儲かりはしないわね」
「ふぅむ。なるほどのぅ……。あぁ、ニーズといえば、村娘共が、流行りの服や化粧品はないのか、と言っておったぞ」
「え? 農村の娘達がそんなオシャレっ気あるの? 私とか妖精亭で買ったドレス以外、ほとんどお古で買ったやつなんだけど」
「そりゃ、女なら誰でも綺麗になる努力をするじゃろ。ま、妾くらいになると放っておいてもこの通りじゃがなっ、くはははっ」
「服と化粧品ねぇ。正直、行商では扱いが難しいのよね、個人の趣向に左右される商品ってのは」

 もうちょっとニーズの傾向がわかったら、商品のラインナップも再考してみようか。
 オルベの村は割と裕福な方だし、余裕があまりない村や、他の地方ではそういった嗜好品はあまりニーズがないかもしれない。

「ナチュラルに無視か」
「ん? 何が?」
「いや、何でもない。やれやれ、人間というのは成長が早いものじゃな」

 ロッテは感慨深げによくわからない事を言う。
 まぁ、吸血鬼に比べれば年を取るのは早いわよね。



「……ま、気を抜けるような段階じゃないけど、最初の商いとしては、上々って事で!」
「ふむ、お主がそういうならそうなんじゃろうな。……ふぁ、頭を使ったら余計に疲れたわ」
「そ、じゃ、そろそろ寝ましょうか。明日も早いし」
「むぅ。早起きは苦手じゃ」

 枕元のランプを消し、二人でもそもそと布団に潜る。



「これからよろしくね、パートナーさん」

 呟きながら、こつん、とおでこを寝ころぶロッテの背中にぶつけてみるけれど、既に寝入っているのか反応はなかった。

 やれやれ、何とも寝付きのいいヤツだなぁ、などと思いつつ、私もまた、胸に抱いた確かな手応えと自信と共に、幸せな眠りに着くのだった。
 




 あ゛、でも“毒殺姫”っていう二つ名だけはなんとかしないと、なぁ……。





アリアのメモ書き

毒殺姫の商店(?)、初日
(スゥ以下切り捨て。1エキュー未満は切り上げ)


評価           まだまだ駆け出しってところね
道程           ケルン→オルベ


今回の費用  売上原価(売れた分の仕入額、諸掛を含む) 119エキュー
(※1)   租税公課、組合費(入市税、関税、組合費とか)50エキュー
       通信費(郵便代とか) 1エキュー
       旅費交通費(運賃、宿泊費とか)0エキュー タダで泊まれた、ラッキー♪
       消耗品費・雑費(紙代、文具代、衣料費、食費など)133エキュー
       給料(お小遣い)10エキュー(私3エキュー、ロッテ7エキュー)

       計 313エキュー

今回の収益  売上 152エキュー


★今回の利益(=収益-費用) ▲161エキュー


資産    固定資産 乗物      ペルシュロン種馬×2(耐用10年、定額法による年単位の減価償却)
                    中古大型幌馬車、固定化済み
                    (付加価値 ラインメイジによる固定化 △5エキュー)
                    (固定化されているため減価償却しない)
                    (その他、消耗品や生活雑貨などは消耗してしまったものとして費用に計上するものとする)
           土地建物     なし(……まだまだ先の話ね)


       商品   (ガ)アキテーヌ産赤ワイン     ▲
            (ロ)染料(サフラン、インディゴ)
            (ロ)香料(シナモン、ショウガ)
            (ゲ)デュッセルドルフ産エール   
            (ゲ)ケルン産香水オーデ・ケルン  ▲
            (ゲ)南部産牛皮革(油なめし済)   
            (ゲ)南部産麻布          ▲
            (ゲ)南部産麻糸          ▲
            (ゲ)南部産細葉大青(染料)    ▲
            (ゲ)西部産小麦          △    
            (ゲ)西部産乾燥豆類        △
            (ゲ)西部産瓶詰め果実類      △

             計・843エキュー(商品単価は最も新しく取得された時の評価基準、先入先出の原則にのっとる)

        現金    50エキュー(小切手、期限到来後債利札など通貨代用証券を含む)
        預金   なし(どこの商会に預けようか?)
        債権   なし(前渡金、貸付金、未収金、売掛金、受取手形とか)
        有価証券 なし(公債など、まだまだ縁がないね)

             計・893エキュー

負債          なし

★資本(=資産-負債)   893エキュー
       
★目標達成率       893エキュー/30,000エキュー(2,9%)






つづけ

○文末のメモ書きについて

ストーリーには関係ないので読み飛ばしても問題なし。
★のついている項目だけ拾えば、今回どれだけ儲かって、今までの蓄積がいくらあるのか、がわかるかも。
※1 今回は独立の準備に掛かった費用を計上。
※2 △=プラス ▲=マイナス 設定的には2章に書き記した通り、複式簿記が完成していることになっているが、ここでは、家計簿式、つまり単式に近い書き方で。



[19087] 36話 鋼の錬金魔術師
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:56d7cea6
Date: 2011/05/13 20:27

「よし、全て引き取ろう。買い値は…………このくらいでどうかね?」

 髭を蓄えた初老の旦那が、さも難しそうな顔をして算盤≪アッパゴ≫をぱちりと弾いてみせた。

 それを提示された栗毛の少女は、ふ、と柔らかな笑みを浮かべる。その隣で腕を組むブロンドの少女は小首を傾げた。
 あまり似てはいないが、二人で遍歴の旅をしている事から省みて、おそらくは姉妹か何かなのだろう。

「おぉ、そうかそうか! それはよかった! では支払いは現金がいいかね? 便利な小切手? それとも何かの品と交換するかい?」

 少女の表情を肯定の意にとった旦那は内心ほくそ笑みながら、手をすり、矢継ぎ早に問うた。

「いえ、今回はご縁がなかったようです。またの機会があれば、その時はよろしくお願いいたしますわ。では、ごきげんよう」

 栗毛の少女は素敵な笑顔のままでぴしゃりと言い切る。そのままくるりと踵を返す。ふわりと舞ったドレス。ほのかなフレグランスの香りが鼻腔をくすぐる。
 ブロンドの少女は慌てたようにそれに倣う。大きな馬車がゆらりと動き出した。

「……え? あ、ちょ」

 予想外の出来事に、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして間抜けな声をあげる旦那。

 しかし少女達はそれを意に介すことなく、小さく寂れた商社を後にするのだった。







 びゅぅ、と吹いた不躾な風によって、小一時間かけて整えた栗色の髪が乱される。
 私はくりくりと乱れ髪の毛先をいじると、宙空に向かって小さく「ばかやろぅ」と悪態をついた。

 そんな憎らしい風によって運ばれてくるのは、街に染みついた独特の臭い。
 街に面した海から漂う潮の香り。溶鉱炉と火床からもくもくと吐き出される煙の臭い。鉄独特の血錆の臭い。そして男達の汗の臭い。

 耳に響くのはとんてんかん、と鉄を打つ音。
 職人≪マイスター≫通りの四方八方から聞こえてくるその音は、やかましくもどこか人の心をも打つ頼もしさがある。
 
 高台からみても視界に収まりきらないほど広大な街並みは、同じ大都市でも瀟洒なケルンの街並みとは違い、雑多で飾り気など全くない。
 この商人≪ヘンドラー≫通りに立ち並ぶいくつかの商社の建物すら、実用と耐久だけを考えて建てられたのであろう、なんとも無粋な見た目をしていた。
 また、富裕層が管理する大きな工場と、親方衆が管理する小さな工場は、その区画を分けることなく乱雑に並んでいるために、まるで子供が作ったつぎはぎの工作をみているような気分にもなってしまう。



 それらの要素が混じり合い、玩具箱をひっくり返したような特有の雰囲気を持ったこの街こそ、ゲルマニア北部三大都市の一つ、大工業都市ハノーファーである。
 
 

「なあ」

 この街のメインストリートである職人通りと比べれば、随分と手狭な商人通り。
ゆっくりと走る馬車を案内するように先を歩く小男が、不意にこちらを振り返って声を掛けてきた。
 
「何でしょう?」

 純白のペンシルライン(ドレスの種類)を身に纏った私は、生意気な笑みで小男に問う。

 その隣で濃青のロングトルソーを見事に着こなすロッテは、ハノーファーの街並みが珍しいのか、きょろきょろと辺りを見回し、時折子供のような歓声をあげていた。田舎者に見られるので、少しは自重してほしい。

「今ので4件目なんだけどよ、あんたら、本当に取引する気があるのかい?」
「もちろん。この街で一旦、全ての商品を入れ替える予定ですから。ただし、納得のいく取引が成立すればの話ですけどね」
「やれやれ、あんたらに振り回されるこっちの身にもなってくれよ。買値が提示されたや否や、有無を言わせず踵を返しやがって」
「あら、でしたらさっさとまともな商社に案内して下さることね。荷の6%も入市税を納めさせて頂いたのですから、それに見合った働きをお願いしますわ」
「あぁ? 俺が真面目にやってないってのか?」

 明らかな非難の声に、目を剥いて反論にもならない反論をする小男。

 彼の正体はゲルマニア北部全土に広がる商業組合≪アルテ≫、ハノーファー工業商会組合の計量人である。
 計量人とは、余所から来た商人達に対して取引する商社を紹介し、そこで適正な取引が行われるようにと、モノとカネの計量を任された組合の職員の事。
 もっとも、そのお題目は建前であり、実際には余所者が“勝手に”生産者から直にモノを仕入れたり、卸売商である商社を飛び越して小売店にモノを売り込んだりしないようにするための監視役としての意味合いが強い。

 そして、どの商社を紹介するのかは、特別なコネクションがない限りは計量人の裁量に委ねられるのである。
 もっとも、彼らとて紹介された商社で絶対に取引しろ、なんて強権を持っているわけではない。
 さきほど私がやったように「この商社はパス」とダメ出しをすれば、また他の商社を紹介するという寸法だ。

「さぁ、どうでしょうか。ただ、新米相手だからといって、人の足元を見るような商売をする相手とは取引する気は鼠の毛先ほどもございませんの。取引はいつでも公正な等価交換、これが基本だと思いません?」
「けぇ、可愛くない娘だ」
「それで結構。商人は金に魂を売り渡した悪魔ですから。可愛らしくても仕方がありません」
 
 笑顔を崩さずにそう言ってやると、小男は面白くなさそうに鼻を鳴らす。
 その様子を見ていたロッテが愉快そうにコロコロと笑った。



 とはいえ、旅を始めたばかりの新米商人が軽くみられるのは仕方ないと言えば仕方ない。
 売り手と買い手、両者の力関係により取引の公正さが歪められるのはよくある事だから。

 しかし、工業が中心の街とはいえ、ゲルマニア北部最大の都市であるこのハノーファーにはかなりの数の商社があるわけで、わざわざ人を軽く見るような相手と取引する必要は全くない。
 それに、今まで紹介された商社は、どれもいまいちな、はっきり言うと名前を聞いた事もないような、吹けば飛ぶほど小さな商社であった。
 こういった商社が悪いというわけではないけれど……。正直なところ、大きく有名な商社ほど、行商人の足元を見るような真似はしない事も確か。
 巨大な商社ほど、少額の取引で不誠実な事をして社全体の信用に傷を付けるような真似はしないからだ。
 行商人を敵に回すと後が怖いからね。噂を各地にばらまく的な意味で。

 ちなみにさっきのように商社がこちらの足元を見てきたり、買い取りを渋った場合、とっとと諦めて、違う商社に当たる方が吉。下手な交渉をしても、あまり事態は好転しない事が多い。
 なぜかというと、商社がそういった行動を取るという事は、既にこちらがナメられているという事を示しているからである。その状態で必死な交渉をしたところで、さらにナメられてしまう公算が高い。
 「頼む、買ってくれ!」という態度を相手に見せてしまったらアウト。相手が弱みを見せたら、手を差し伸べるのではなく、傷口をぐりぐりと抉るのが商売人なのだ。

 ナメられたらオシマイというのは、何もマフィアの世界に限った事ではないという事ね。



「しかし独立したての新米のクセに、よくそれだけの荷を運んで来たよな」

 これ以上愚痴を零しても無駄だと悟ったのか、小男が話題を変える。
ちょっと言い過ぎたか、と反省していたのだけれど、この男、割と図太いらしい。

「実力、ってやつですかね」

 私は自慢気にふっ、と髪を掻きあげる。無駄な謙遜なんてしませんよ。

 ケルンを出立して一週間とちょっと。

 馬車の荷台は、オルベの他、ハノーファーへの道すがら立ち寄った4つの農村で仕入れた農産物やその加工品で一杯になっていた。
 立ち寄った全ての村で、オルベのような大成功! というワケにはいかなかったけれど、農村向けに仕入れていた商品のほとんどが作物やその加工品に化けている事を考えれば、かなりの成功といえるだろう。滑り出しとしてはかなり上等なスタートだ。

「おいおい、妾のフォローのおかげじゃろ? 最後に立ち寄った村ではお主のせいで偉い目にあったではないか」

 聞き捨てならぬ、とばかりにロッテはこちらを責めるようにじとり、と睨む。

「うっ、それは……」

 私はばつが悪そうに縮こまった。

 彼女の言うとおり、2日前に逗留した農村であまり商品の売れ行きが良くなかったのは私が原因だったのだ。

 いや、正確に言うと、“毒殺姫”が。

 名乗りを終えるまでの食いつきはむしろ良かった。すでに品薄になってしまっていた荷台を眺め、「もう少し農村向けの品を仕入れとけばよかった」と思ったほど。

 しかし、私が“アリア”と名乗った途端。
 
 大人達は十字を切り、子供達は泣き喚いた。私も泣いた。ロッテは咳き込むほどに笑っていた。

 ハノーファーやケルンにまでは、その噂は届いていないけれど、ゲルマニア北西部の広い地域で“毒殺姫”の名が広まっているらしい。

 本当に、何とかしなくちゃなぁ。
 一応は行く先々の村で誤解を解こうと、ロッテと共に弁明はしておいたし、「これ以上噂を広めないように」とお願いはしておいたけれど……。人の口に戸は立てられないというからねぇ。どうしたものか。

「……ま、とにかく早めに取引を決めてくれよな。次からはお望み通り、“まともな”トコにつれていくからさ」
「ほぅ、今まではわざと“まともではない”所へ案内しておったというわけか?」
「新米の扱いなんて大概そんなもんだぜ」
「こやつ……! 開き直りおってからに」

 意地の悪い笑みを浮かべる小男。ロッテの口の橋がヒクついた。

「やれやれ、そんなコトだろうとは思いましたけど……。それにしても、どうして急に心を入れ替えたんですか?」
「これ以上連れまわしても時間の無駄だろ? 残業はしない主義なんでね」
「なるほど。てっきり私に惚れでもしたのかと」
「は、あいにくと餓鬼は趣味じゃなくてな」
「ふ、私も中年のオジサマは趣味ではないので安心しました」

 私は小男に内心で軽い怒りを感じつつも、おどけた様子で冗句を返す。
 でも、自分で撒いた種なんだから、残業くらいは覚悟してもらわないといけないわねぇ。うふふ……。



 結局、私達が全ての荷を捌ききったのは、実に12もの商社を回ってからだった。







「と、不届きな計量人に、ちょっとした意趣返しをさせてもらったというワケです」
「くく、最後には涙目で『もう勘弁してくれぇ』などと懇願しておったのぅ、あの小男」

 カンカン、と鉄の合わさる音が鳴り響く赤レンガの工房。
 その工房内部を歩きながら、私とロッテは面白おかしく昼間の顛末を語る。

 時は既に宵の口。

 この街の組合を訪れた時には、ちゅちゅんとスズメが鳴いていたのに、今ではかぁ、とカラスが鳴いている。

「はっは。そりゃ、自業自得ってぇやつだな」

 私達の前を行く、岩のような顔と体をした壮年の男が豪快に笑う。

 彼こそがベネディクト。私がハノーファーを訪れる目的となった工房の経営者である。



 さて、商社での取引を済ませた私達は、お役御免となった小男と別れ、当初の予定通り、ハノーファーでも有数の金物工場であるベネディクト工房へとやってきていた。
 何度も言うが、私とベネディクトのように、取引する双方が個人的なつながりを持っている場合、組合に許可さえ取れば、例外的に生産現場からでも仕入を行う事が出来る。
 
 そして現在は工房の見学をさせてもらっているところ。
 折角の機会なので、これから扱う商品を生産している現場を見させてもらう事にしたの。

 農具や包丁などの刃物を鍛造で生産しているこの工場(こうば)では、何人かの職人達が汗だくになりながら、各々が、火造り、成形、焼き入れ、焼き戻し、仕上げ、という工程を黙々とこなしていた。たまに怒鳴り声があがるのは商店と変わらないな、うん。

 また、その中には、普通の職人達に混じって、杖を持って作業に従事する職工≪マイスター≫メイジと呼ばれる者も少なからず居た。

 職工メイジとは、魔法をもって工業に従事するメイジの総称。
 貴族だからといって、その全てが親の跡目を継ぐわけでないし、官吏の職だってその席は限られている。
 では、そこから溢れたメイジ達やその子孫はどこへいくのか? その答えの一つがこの職工メイジ。

 国によっては貴族の割合が1割近いハルケギニアにおいて、こういった市井の仕事につくメイジは割と多い。
 こと職工メイジにおいては、平民職人とほとんど変わらない扱い(腕にもよるが、給金は平民職人にちょっとした手当が付く程度だし、平民職人によって顎で使われる事もある)、となっているにも関わらずだ。

 一部の上流貴族は別として、もはや貴族という称号だけでは食っていけないのが現実なのかもしれない。



「しっかし随分と古臭い建物よの。まさか崩れてきやせんじゃろうな」

 ロッテはうず高く積まれたレンガの壁を見上げ、なんとも無礼な事を言う。

 ベネディクト工房はいくつかの小工場を後から連結させたような造りになっていて、それらを全て合わせれば富裕商人層が経営する大工場にもヒケを取らない規模を誇っていた。
 そしてその小工場ごとに生産しているモノが違うらしく、縫針や針金のような細かな物から、鍋、包丁、錠前、拍車、蹄鉄、農具、刀剣、はては銃器までをも生産しているとか。

 しかし、彼女の言うとおり、増築と改築を繰り返したその姿はイビツであり、内壁や天井にはヤニのような、煤のような汚れがいたるところにこびりついていて、あまり綺麗な建物とは言えなかった。

「こら、失礼でしょうが」

 とはいえ、その感想を正直に口に出すのはいかがなものかと思うのですよ。

「はっはは! その通りだから仕方ねぇ! ま、ギーナとゴーロのヤツが返ってきたら、最初の仕事として天井の張り替えでもやらせるさ」
「そういえば、無事に二人とも、工房の後を継ぐことが決まったんですよね~。おめでとうございます」
「おう。これも嬢ちゃんのおかげだな」
「いえ、私よりも親方のおかげかな? ギーナさんを見習い頭に抜擢した事で、大分あの二人も変わりましたから。前ほど兄弟ベッタリじゃなくなったというか……」
 
 あの二人ももう16歳だし、そろそろ兄離れ、弟離れをする時なんだろう。

「あぁ、そうそう。嬢ちゃんのおかげでいえば、そろそろあのクロスボウ、実用化できねえかと思っているんだが……」
「う~ん、実用化にはもう少しってトコロじゃないですか? 確かに威力はあがりましたけど、連射した時の反動が強くなりすぎていますし。あれでは照準を定めるのはおろか、まともに前に飛ばすのが難しいかと」
「むぅ。しかし嬢ちゃんは使いこなしているんだろう?」
「私は、まぁ……ベテランですから?」

 首を傾げて言う私に、ベネディクトは懐疑的な視線を向ける。
 確かに私用の武器としてはほぼ完成しているといってもいいのだが、実際アレ、常人が使ったら肩がぶっ壊れますよ? 割とマジで。

「おい、お主ら。世間話もいいが本分を忘れるなよ? というか、妾を退け者にするな!」

 置いてけぼりになっていたロッテが口を尖らして、無駄話を中断させる。
 本音が出てるぞ、このさびしんがりめ。

「おっとと、こりゃ悪かった」
「では、姉さんもこう言ってますし、そろそろ本分の商談に移りましょうか?」
「ふむ。確か、欲しいのは農具類だったよな?」
「えぇ、それと、鍋、包丁、裁縫用の針なんかも欲しいですね。辺境の農村だと質のいいものは中々手に入りませんし……。絶対売れると思うんですよ、金属加工がお粗末なトリステインでは特に」

 そう言って、私はにぃ、と打算的な笑みを漏らす。

 そう、ハノーファーでの取引を終わらせれば、いよいよゲルマニアを抜けて国外、トリステインに入るつもりなのだ。
 ルートとしては、ゲルマニアの北西側からトリステインの北東部へと抜けるメルヘン街道を通って、スカロンのいる首都トリスタニアに向かいつつ、街道沿いの辺境農村を渡り歩く。
 その後は、スカロンのコネを頼ってアストン伯領を回って、ガリア側の交易都市シュルピスへ──な~んて考えてはいるけど、とりあえず今はトリスタニアに向かう事くらいまでしか確定はしていない。
 見通しはおおまかに、というやつだ。旅路というのは、モノの売れ具合やら、現地の情勢なんかによって変化してくるので、行商人があまり細かい予定を立てても仕方ない。
 もちろん、何を商いたいのか、誰をターゲットにしたいのか、くらいは考えているけどね。

 南側の主街道を使わずに、わざわざ寂れ気味のメルヘン街道を使うのは、距離的に近いという理由もあるが……。
 一番の理由としては、反ゲルマニア感情の強いであろう地域──つまり、トリステインの公爵家にして、ツェルプストー家の仇敵であるヴァリエール家──その領地を避けるためである。

 そういう地域で商いをしても、あまりモノが売れるとは思えないし、何よりとっても危険なかほりがします。

1.ケルンから来ました~、みなさんよろしくね!
2.領主様、ゲルマニアの狗めが領内に紛れこんだようですぞ?
3.ほう貴様がツェルプストーの手先か。死ねィッ!
4.きゃ~、やめて~! がし、ぼか! 私は死んだ。

 なんて事になったら目も当てられないからね。

 私もヴァリエールに対してあまりいい感情は持っていないし。

 何故って? そりゃあ私がケルンの民だからである。

 ツェルプストーとヴァリエールは何度も小競り合いをしているが、戦争をする以上どちらにも多少の被害は出ているわけで。
 遠い過去にはケルンまでヴァリエールの軍隊が攻めてきた事もあったらしいのだ。勿論、逆にツェルプストーがヴァリエール領を蹂躙したこともあるらしいが……。
 まったく、女を取られたくらいで戦争とかどんだけよ。そんな狭量だから女に愛想を尽かされるんだってぇの。悔しかったら自分の魅力で取り返してみなさいな、ってね。

「トリステインねぇ……。あそこはあんまり景気がよくねぇと聞くけどな。その証拠にゲルマニアの商社もあんまり進出してないだろう、あの国は」
「だからこそ、じゃろ? ライバルがいないということはチャンスなのじゃ」
「そういうもんかねぇ? 情報に敏感な商社が見切りをつけるってことは、ビジネスチャンスがねぇってことじゃないのかい?」
「む、むぅ……。そっ、そういう考えもあるのか?」

 自信満々に答えておいて、ベネディクトに突っ込まれると、困った顔で私に振るロッテ。

「う~ん、私はチャンスがある方に賭けたいですね。商社と遍歴商人では提供できるモノもサービスも違いますし。何より、あの国に商社が進出しにくいのは、国策のせいもありますからね。めちゃくちゃ商業に関する税が高いんですよ、あそこ。その点、遍歴商人には入市税くらいしか関係ありませんし」
「うむ、妾もそれが言いたかった。代弁、大義であったぞ」

 ま、ロッテの単純理論もあながち間違いではないんだけどね。
 ニッチをターゲットにするのは行商人の行動としてはなかなかに正しい。彼女なりにきちんと商売について考えているのだろう。
 
「ふむ、なるほどな。若造の浅い考えかと思ったが、中々どうして、それなりに考えているみたいだな」
「へへ、伊達に親方に鍛えられていませんよ~っと」

 ベネディクトの不器用な褒め言葉に、私は得意気にそう返した。



「で、一端の行商人さん達は、今回の取引について特別な希望はあるか? なければ予算に合わせてこちらで適当に見繕うが?」
「そうですねぇ。針や鍋なんかはお任せしてもいいですか?」
「わかった。包丁や農具については?」
「えぇと、シュペー卿は刀剣だけじゃなくて、その手も造っているんでしたよね?」

 確認の意味を込めて問う。

「誰じゃ、そのシュポーというのは?」
「……シュペーね。この工房に所属する有名な職工メイジよ」

 答えが返ってくる前に、ロッテが割り込む。
 彼がどれくらい有名かといえば、ゲルマニアだけでなく、隣国にもその名が通っているほどの職工メイジである。

「確かに、あのクソじ……シュペーは刃物ならば何でもござれだが……。誤解がないように言っておくぞ。ウチでは≪錬金≫で造ったようなガラクタは一切扱っていないからな」
「知ってますよ、そんなこと。シュペー卿も、変てこな異名を付けられたもんですねぇ」

 ベネディクトが何故そんな事を言いだしたのか、といえば、彼の異名のせいだろう。

 国外において彼は、“ゲルマニアの錬金魔術師”、もしくは“鋼の錬金術師”と呼ばれている、らしい。
 なんだか国から特権を与えられていそうな響きだが、別段そんなことはないし、≪錬金≫によってモノを生産しているわけではない。



 そもそも、職工メイジというのは、平民職工と同様の鍛冶作業をこなす傍らで、風、もしくは火の魔法で火床の火力を一定に調整したり、重い材料を≪レビテーション≫で運んだり……、そういった補助作業を行うだけの存在なのだ。効率的には劣るが、その程度の事は魔法を使えない者でも出来る。だからこそ給金が平民とあまりかわらない。

 一見すると有用そうな≪錬金≫と、≪固定化≫という土の魔法は、工業においては、実はあまりつかえない魔法なのだ。

 まずは、≪錬金≫。
 ≪錬金≫で造られた工業製品(実際、製品というのもおこがましいのだが)はすべからく“紛い物”の烙印をおされ、商品価値など一切ない。
 ≪錬金≫という魔法が活躍する場といえば、農地の土壌改良とか、防波堤をつくるだとか、そういう建設土木や農林業の場であって、工業生産を目的としては使われないのだ。

 ≪錬金≫で生みだされた材料というのは、“術者のイメージ”という実に曖昧なモノによるせいなのか、多種多様な混合物が任意に混ざってしまう、という。
 なので、実用品としては、均一性がなさすぎるし、何より脆弱な事が多い。装飾品としては見苦しく、また一目でニセモノと判るほどにわざとらしい(メイジなんかだと素人でも一発で分かってしまう)。
 『僕』のセカイでも人工ダイヤモンドは天然ダイヤモンドと比べればゴミのような価格であるはずで、つまりはそれと同じ事なのだろう。まぁ、実用性がない分、≪錬金≫で造られたモノは、人工ダイヤモンドよりはるかに劣るんだけどね……。

 逆に言うと、≪錬金≫が得意な土メイジは土建業などでは相当な優遇を受ける。 それこそ平民の給金の4倍、5倍以上は当たり前の世界だ。
 そういう理由で、色々と引く手数多である土メイジは、よほどの変わり者しか職工にならない。また、水メイジも医療関係をはじめとして、職工よりもはるかに儲かる職種が多く存在するために、結局、職工になるのは、あまり他に需要がない火や風のメイジが多いらしい。
 
 次に≪固定化≫。
 この魔法は確かにとてもとても有用である、ただし使う側(消費者)にとっては。
 しかし生産者側からみると、実に厄介極まりない存在だ。モノが売れる構造を考えればわかる事。
 ≪固定化≫がかかる、という事は、本来なら何年か経てば交換しなければならないモノでも、“半永久的に壊れない”という事になってしまう。

 そうするとどうだろう?

 そう、一度購入されたモノは“半永久的に需要が発生しない”事になってしまう。
 これでは経済が停滞してしまう。モノはいつか壊れてくれなければ困るのだ。
 なので、市場に売り出される際に≪固定化≫をかける事は、一部のモノを除いて、ほとんどの職工組合によって禁止されている。

 つまり、≪固定化≫をかけたきゃ、購入後に消費者の方でどうぞご勝手に、という事だ。結果、固定化の依頼料との兼ね合いによって(あまりお安くはない)、よほど大切なモノでないならば≪固定化≫はかけない、というのが普通の感性になっている。



 と、いうことでベネディクトが言いたいのは、シュペー卿とは極めて腕のいい、ネームバリューのある、“ただの職人”という事なんじゃないだろうか。
 “卿”なんてつくから偉そうに聞こえるのけれど、実際は流れ者の職工メイジであり、貴族かどうかすら怪しいと聞いているし。
 
 以上の点から、彼の異名としては、“錬金魔術師≪アルケミスト≫”よりも、“鍛冶師≪ブラックスミス≫”、の方が合っているのではないか、と思うのだがどうだろう。
 
 閑話休題。

 まぁ、とにかくその高名なシュペー卿が、何年か前からこの工房に籍を置いているというのだ。
 折角、ある種のブランドを抱えている工房と取引をするのだから、これは是非ともソレを仕入なければ嘘だろう。

「そういえば、そのシュペー卿は何処に? 出来れば一度お会いしてみたいのですが」
「……今日は、休みだな」
「あらら、それは残念」
「いや、丁度よかったぜ」
「は?」
「いや……何でもない、気にすんな」
「はぁ」

 気にするな、といわれると、余計気になるのは人間のサガだろうか。
 シュペー卿の名が出てから、若干ベネディクトのテンションが下降したように感じるのも気になる。

「それより、シュペーが打ったモンは、他より大分高いんだがいいのか?」
「高いというのはどれくらいですか?」
「そうだな……。シュペーの代名詞でもある刀剣を例をあげるなら、通常、鍛造式の大剣は卸値で、一本20エキュー前後だが……」
「まあ、そのくらいですよね」

 小売価格にして、鋳造式で15~30エキュー、鍛造式で30~60エキュー。これが大剣の相場だ。
 そもそも剣というものは平民の衛兵や傭兵が使うモノなので、これ以上の値段になったって余程のモノでなければ売れはしない。だって、平民の平均年収は120エキュー程度なのだから。
 
「で、シュペーの打ったモノになると、出来にもよるが、大体卸値で60エキュー前後になっている」
「3倍じゃと?! いくらなんでもそれはボッタクリじゃろ?」
「まぁ、それは一から十までが完全にシュペーのハンドメイドの場合な。ネームバリューの上にそれだけ時間も掛かっているから仕方がねえよ」
「むぅ……。何か騙されている気がするぞ……」

 疑わしげな表情でベネディクトを睨むロッテ。
 正直、私も驚いた。まさか卸値からして3倍もするとは……。せいぜい5割増しとかその程度かと思っていたんだけどなあ。

「あの、包丁や農具でも3倍するんですか?」
「まあ、3倍とは言わんが、倍はするわな」
「う~ん……」
「ウチには他にも腕のいい職人はいるし、余程の拘りでもないなら他のモノで十分だとおもうぞ」

 確かになぁ。どうせターゲットは主に農民なワケだし……。ある程度の質は妥協して量で勝負した方がいいのかも……。
 あぁ、でも、提供できる中で最高のモノを「これこそが私共の商品でございます!」って高らかに宣言してみたい。

「そうですね。とりあえず現物を見せて貰えますか? 決めるのは、それからにします」
「はは、そりゃそうだ。モノを見ずに判断はつかねぇわな。……うし、じゃあこっちだ」

 そう言って案内されたのは、工場脇に設えられた製品の保管場所。

 麻布のシートの下に、鍬、鋤、ピッチフォーク、鎌などの金属製の農具が大量に山積みにされている。
 この工房は金属加工が専門なので、農具といっても、脱穀器や揚水器などの大型のモノは扱っていないようだ(部品は造っているのかもしれないが、完成するのはここではないのだろう)。



「それで、一体、どれがシュペーとやらの作なんじゃ? 妾にはどれも同じモノに見えるのじゃが」
「あぁ、そ──」
「ここに纏められているのがそうですね?」

 ロッテの問いにベネディクトが答えかけたのを遮って、私はその一点を指し示す。

「あ、あぁ、よく一瞬でわかったな?」

 まあ、このくらいはね。ただ、問題は見た目ではなくてその中身だ。

「触ってみても? いや、ちょっと他と比べてみてもいいですか?」
「構わんが」
 
 ひょい、とシュペー作の鍬を一本、持ちあげる。
 “遥か昔に”農民をやっていた事もあって、農具に関する目利きには自信がある。

 刃を撫でる、コン、と叩く。柄と刃の接合部を確認する。目を離して全体のフォルムを観察する。ひゅん、と一振り、二振り、土を耕すかのように振りまわしてみる。

 次にシュペー以外の職人達が造った鍬を取って同じ動作を繰り返す。

 全ての動作を終えると、私は晴れ晴れとした顔で言ったのだ。



「……惚れました!」



 そう、惚れた。たったあれだけの動作で私にはわかってしまったのだ。

「うふふ……。くるい(ヒズミ)のなさ、刃の角度に厚みの絶妙な調整、柄の取り付け角度、重量のバランス、全てが一級! 完璧! エクセレント!」
「そ、そうかい」
「たかが鍬、されど鍬! 農作業を知りつくさなけばこの鍬は造れない! あぁ……何て素晴らしいモノに出会ってしまったのかしら! これなら通常の倍以上の値を付けたとしても、お釣りが来ちゃうわ! 決めました! これ買います!」

 恍惚の表情で鍬に頬擦りして言う私。

「…………大丈夫か?」
「気にするな。いつもの病気じゃ」

 ベネディクトの心配に、ロッテは死んだ魚のような目で答えた。

「コホン。その、あまりにシュペー卿の造ったモノの出来が良くてですね……。もちろん、他の方が造ったものも出来は良いのですが……。コレと比べては、ね」
「わかった。あ~、細かい取引の内訳については後回しにするとして……。他の現物も見てみるか?」
「えぇ、ぜひ──」

 ベネディクトの気遣いに、にこやかに同意を示そうとした時。

 私の体がぶわっ、と浮いた。

「え? えっ?」

 思わず足をばたつかせて間抜けな声をあげる。

 ≪浮遊魔法≫【レビテーション】? 職工メイジの悪戯か? いや、これは……。

 襟首を持たれて吊りあげられている?!

「誰に断って」
「え?」
「工場に入ってんだッ! このジャリ娘ッ!」

 背後から聞こえる渋い声。
 その主を確認しようとして、首を回そうとする。

 ブンっ! と体が宙を舞った。高速で流れていく景色。

 投げられたのだ。と理解した頃には、時、既に遅し。

 激突。

 がしゃんっ! と派手な音をさせて工場の隅に置かれたクズ鉄の山が崩れる。丸めた背中に衝撃が伝わる。

「かはっ」

 呼吸が一瞬の間止められた。わけがわからない。

 ぱらぱらと埃とゴミが舞い落ちる。かん、と頭に何かの破片が落ちてきた。痛い。

 騒然となる工場。痛む頭をさすりながら身を起こす。

「いっつ~……。一体何だって言うのよ……?」

 私が顔をあげると、そこには不機嫌そうに口をへの字に結んだ──白髪の巨人が仁王立ちしていた。







 デカい。

 ゆうに2メイルはある巨体。オールバックにした白髪。眉間に刻まれた深い皺。1サント程度に伸びた白い泥棒髭。
 顔に刻まれた無数の皺からすると、どう見ても老人なのだが、肉体は青年のようにがっちりと引き締まっている。
 その片手に収まっているドでかいスミスハンマーが、彼が職人であるという事を強く主張していた。

 というか、誰よこのジジイ?
 「誰に断って」ですって? そりゃあ、経営者のベネディクトに断ってですけど?
 どうして私がいきなり見ず知らずのジジイに投げ飛ばされなくてはいけないんだ?

 突然の出来事にどう対応したものか判断が付きかねていた私は、そんな事を考えながら、暫しの間ぼぅ、っと呆けていた。
 工場にいる職人達は唖然としてこちらの様子をを窺っているようだ。手も止まっているのか、さきほどまでうるさいくらいに響いていた鉄を打つ音すらも聞こえて来ない。

 重々しい沈黙が場を支配する。

「貴様、一体何のつもりじゃ」

 その沈黙を破ったのは、不快気に眉を寄せて腕を組むロッテだった。

 というか、少しはこっちを心配しろよ……。「その程度でくたばるような鍛え方はしておらん」ってこと?

「だからよ……」
「ぬ?」
「なんで女が工場に入ってやがるッ!」

 短く刈り込んだ白髪を逆立てて激昂してみせる2メイルの巨人。

「気でも触れておるのか、この──」

 ボッ!

 そんな風切り音とともに、何かを言いかけたロッテの体がゴミ人形のように吹き飛んだ。

 ノーモーションからの首を刈り取るラリアット。

「っ?!」

 あまりの不意打ちに、さしものロッテも声を出すことも出来なかったようだ。

 どんっ、という鈍い衝撃音。レンガの壁をぶち抜く姉。建物全体がぎしりと揺れた。この位置からは投げ出された彼女の足しか見えない。

 な、なな、何てことすんのよっ! アイツ相手に戦争でもやる気なのっ?!



「このクソジジイっ! この娘達はお客さんだぞっ?! 何してやがるっ!」

 姉妹共々が吹き飛ばされた所で、ようやく休止状態になっていたベネディクトが再起動した。
 
「客…………だと? おい、ベネディクト。まさかあのアバズレとそこのジャリを工場にあげたのはお前さんか?」

 眉間に一層の皺を作って言う、白髪の巨人。
 アバズレ=ロッテ、ジャリ=私という事かい? 

「あぁ? それがどうしたよ」
「お前さんは経営者ではあるが……。同時に立派な職人だと思っていたんだがな。今の今までは」
「何が言いてえんだ」
「神聖な工場に女をあげるなんざ、職人のすることじゃねぇつってんだよ。女ってえのは堕落しかもたらさねえ。特に若い衆とっちゃ目に毒、魂にも毒だろうが」
「はっ、ジジイだけあって古臭い考えだな。今は女の職人だっている時代だ。てめぇの女嫌いを人様に押し付けてんじゃねえよ」
「随分と好き勝手言ってくれるじゃねえか、ベネディクト」
「好き勝手やってんのはてめぇだろうが! 材料は使い放題! 休みは不定期! 納期は守らん! 挙げ句今度は客に向かって暴力だと? 文句があるならいつでも辞めやがれってんだ! 辞めた所でてめぇみたいな偏屈ジジイを引き取ってくれるような工房は他にないだろうがな。……というか、今日は休みのはずだったろう、シュペーさんよ」

 剣呑な雰囲気で胸倉をつかみ合う壮年の経営者と老年の職工メイジ。

 って、シュペー……? この傍若無人なジジイがシュペー卿?

 そんな馬鹿な。あんなに素晴らしいモノを創り出す職人がコレ? モノは創った人間の人となり映し出す鏡とは嘘だったのか……?

「何、仕事が中途だったんで、空いた時間で顔を出しただけだ。それより、あいつらが客ってことは……まさかアレで商人だとでも言う気か?」

 私とロッテの吹き飛んだ方を見まわしながら問うシュペー(?)。

「そうだ。西のケルンからわざわざこの工房を目当てに訪れたってえ、上客だぞ。それをてめえは……」
「カッカカカ」

 ベネディクトの返答に、何がおかしいのか、シュペーは突然に高笑いを始める。

「あんな童同然の小娘共を商人として認めるとは、ツェルプストーの小僧も落ちたもんだぜ」
「……余所の貴族の悪口はそこまでにしておけ。ったく、折角てめぇの造ったモノを気に行ってくれていたのによ。造り手がこれじゃあ、幻滅だわな」

 ベネディクトは頭痛がするように額に手をやって、首を横に振った。

「何? ワシが魂込めて造ったモンをこんな小娘共に売れるかッ! ふざけるんじゃねえ!」

 はぁ? アンタにそんな権限ないだろう! 何を言い出すのよこのジジイは!
 あ~、だんだんと腹が立ってきたわ……。

「誰に何を売るのかは俺が決めるんだよ、この唐変木!」
「落ち着いて考えろ、ベネディクト。こんなジャリとアバズレにモノの良し悪しなんてわかるわけがねえだろう?」
「あん?」
「つまりは、だ。頭からっぽのお嬢様が吟味もしねえでヴェネツィアブランドの服飾を褒めちぎるのと一緒だ。こいつらは“錬金魔術師”ってブランドに騒ぎたててるだけなんだよ。そんなモノの価値もわからないヤツらに、ワシの、いやウチの職人達が丹精こめて造り上げた製品を売らせるわけにはいかねぇだろうが。下手したらウチの信用にまで傷がつくぜ」

 へぇ……。
 シュペーって、鍛冶の他にも、人をムカつかせる事に関しても才能があるのね……。

「……この嬢ちゃん達は信用出来る筋の知り合いだ。昔から付き合いのある商人の弟子なんでな」
「ふん、そういう関係か。しかしお前、実際にこいつらの商いを見たことがあるのか?」
「それは…………ないが、な」
「ほれ、みろ! 大体、女なんぞを雇い入れるなんて、その知り合いの商人っつぅのも怪しいもんさ」

 私やロッテだけでなく、親方までも侮辱するとは……っ!

「このぉっ! もう、許さないッ……?!」

 文句を言ってやろうと立ち上がりかけた時。



 ブロンドの矢が工場を一閃した。



「Va te faire foutre!」
(くたばれッ!)



 見事なブロンドを山姥のように振り乱して疾走するのはロッテ。その表情は憤怒。瞳が紅く染まっている。
 公用語以前の古臭いガリア語を使うのは“とびっきりに”ブチギレている証拠だ。

「ふぐぉっ?!」

 敬老の精神など微塵もない強烈な足刀がシュペーをぐらつかせる。ばきり、と嫌な音が響いた。あ~、あれはアバラがイったね。

「Ne pas se laisser emporter,vieil homme.」
(調子に乗るなよ、このジジイめが)

 苦悶の表情を浮かべる巨体のシュペーを、動脈から噴き出す血のような紅い瞳で見据え、ぺっ、痰と吐き捨てるロッテ。

 ……というか、あんた、いくらなんでもブチギレすぎでしょう?

 いや、喧嘩を売ったのはシュペーの方だし、確かにムカつくけど!
見ず知らずの人物に有無を言わさずの敵対行動を取られたとはいえ、普段ならここまで怒り狂う事はないはず。だって、相手はメイジとはいえ“ただの人間”なのだから。
 猫にじゃれつかれて少し引っ掻かれたからといって、大人げなく怒り狂う人はあまりいないだろう。それと同じ事なのだ。
 そんな彼女がこれだけの敵愾心をむき出しにするということは……シュペーは敵対するに値する力量の持ち主という事なのか?

 そ、それより……。き、気付かれないでしょうね? ここには職工メイジとはいえ、メイジもいるのよ?

 とっ、とりあえずはこの悪鬼羅刹を鎮めなければ……。

「……なんだぁ? やる気か、このアバズレが。くっく、どれ、生意気な小娘をしつけ直してやるとするか」
「……Pourtant, êtes-tu jouer avec moi? tu veux mourir? Ce serviteur est!」
(この期に及んでまだ妾を舐めておるのか? 死んだな、下郎!)

 って、おいジジイ! 何でアンタまでやる気満々なのよ! いや、最初からこんなんだったわよね……。

 無謀にも手に持ったスミスハンマーを構えて挑発するシュペー。
 口を三日月の形にして、ニタァ、と牙をむき出しにするロッテ。

 一触即発。ぴくり、とでもどちらかが動けば、導火線を通り越して起爆する。

 そんな状態に工場にいる誰もが、ベネディクトすらも息を飲み、動けなくなっていた。



 ああ、もう!

 ロッテが本気になって暴れたら、この工場は半壊、いえ、全壊してしまうわっ! シュペーや巻き添えを受けるであろう職人の命も危ない! そして何より賠償金と弁済金で私のサイフが危ない!



 そう、私のお金が危ない……っ! お金……っ! 金……っ! 金が……っ!



 …………やはり、ここは、私が止めるしかないようね! えぇい、とりあえずジジイ、あんたからよっ!



「そぉいっ!」

 背後からのジャンプ一番。掛け声とともに放つは、延髄を狙った回し蹴り。

「なっ……? ぐふぉっ!」

 のはずだったのだが、予想以上にシュペーの背が高い。狙いがそれた蹴りはターゲットの腰部を直撃する。
 老人にはたまらない箇所に危険な角度で決まったソレは、ぐきっ、という致命的な音とともにシュペーの巨体を陥落させた。

……ん? 間違えたかな?
 
「……っ! ようやった、アリア! 後は任せ──」
「あんたは、これでも喰って落ち着きなっ!」

 そこに喜色満面、チャンスとばかりに突っ込んできたロッテにはハシバミ爆弾改を。久しぶりの全力投擲だ。

「むぶっ?! ごふっ、かはっ」

 ぼふん、と刺激臭のする飛沫が飛び散る。ロッテはたまらず膝を折って悶絶した。
 ククク、起き上がれまい。私の毒は日々進化しているのだよ。



「落ち着きなさい、二人共っ! そこまでよっ!」

 そうやって二人の無法者をうずくまらせたところで調停に入る。

 茹った脳味噌を説得するのは無理なのだ。こういう時は、まず双方に頭を冷やしてもらわなきゃね。

「ぐっ……このジャリッ! 年寄りに向かってなんてことをしやがる!」
「くぅ……このたわけっ! 思いきり相手を間違えておるじゃろうが!」

 しかし、無様に地を這う彼らはいまだに怒気が消えないらしい。

 まったく、仕方ない人達だわ。

「ふぅ」

私は溜息を吐いて、シュペーの鍬を手に取った。ギラリと鋭い刃が光る。
ふふ、本当にいいモノね、これ。とても深くまで耕せそう。そう、とてもとても深く……。

「耕すわよ?」
 
 畑を慣らす要領で鍬を真上に構えた私は、出来の悪い子供に言い聞かせるように言う。
 逆光を受けた背中が暖かい。

「な、何をじゃ?」

 ロッテは何故かどもりながら問う。

「なに、貴方達の残念な頭の中身を、ちょっと、ね? ふふふ、一体、何が詰まっているのかしらねぇ、金勘定も出来ないこのクサレバカ共の頭の中には。…………あら、どうしたの、青い顔して? 大丈夫? あはは、安心してよ。ちょおっと、頭蓋を開いて、脳味噌をかき混ぜてみるだけだからぁ。ほら、耕してやれば、痩せた脳味噌も実りあるものになるかもしれないわよ? そうそう、よく人間を畑に喩えるじゃない? それって言い得て妙よね…………って聞いてる?」

 むぅ……人が質問に答えてやっているのに、なんなんだい、その態度は?
 ん? どうして二人とも奥歯をガタガタ言わせているのかな?

「わ、わかった。妾はもう十分に落ち着いておる。本当じゃぞ?」
「……うっ、うむ、思い返せばワシも少しやりすぎたかもしれんな。だから、とりあえず、その鍬は下ろそう、なっ?」
「そうじゃ、いい子じゃから、のぅ?」

 急に仲良しになったロッテとシュペーは、懺悔室の神父に許しを乞うかのように懇願した。

 …………まぁ、とにかく、やっと落ち着いてはくれたみたいね。
 私はやれやれ、と肩をすくめて、手に持った鍬を元の位置へと戻した。

 何故か工場中からほぅっ、という安堵の音が聞こえた気がする。
 

 
「ふぅ、危うく大惨事になるところだったわ……」

 一仕事終えた私は、火竜山脈の登頂に成功したかのように清々しい表情で汗を拭った。

「嬢ちゃんってよ……もしかして二重じ……いや、すまん」
 
 ベネディクトが何かを言いたそうにして、しかし途中で目を逸らす。

「え、何? なんですか? 途中でやめるとか気になるじゃないですか?」
「いや、いいんだ、本当に」
「ちょっと、ねぇ?!」
 
 すたすたと逃げるようにして私から遠ざかっていくベネディクト。
 心なしか、周りからぴりぴりと刺さるような視線が痛いんだけど……。



 あれ? なにこれ? なんで私が悪者みたいになってんの?



 な、納得いかない! ぜ~ったい納得いかない!





アリアのメモ書き その2

毒殺姫の商店(?)、ハノーファーにて。
(スゥ以下切り捨て。1エキュー未満は切り上げ)


評価       少し旅慣れた感じ
道程       ケルン→オルベ→ゲルマニア北西部→ハノーファー


今回の費用  売上原価(売れた分の仕入額、諸掛を含む) 568エキュー
(※1)   租税公課、組合費(入市税、関税、組合費とか) 入市税 40エキュー(手持ち商品相場の6%、小麦で納入) 西部→北部だと入市税が高い!
       通信費(郵便代とか) 手紙代(to フーゴ、スカロン)1エキュー
       旅費交通費 民家宿泊費×4 2エキュー 野宿はなるべくしたくない……。
       消耗品費・雑費 保存食補充 3エキュー

       計 612エキュー

今回の収益  売上 671エキュー


★今回の利益(=収益-費用) 59エキュー


資産    固定資産  乗物  ペルシュロン種馬×2
                中古大型幌馬車(固定化済み)
(その他、消耗品や生活雑貨などは再販が不可として費用に計上するものとする)
       商品   (ゲ)ハンブルグ産 毛織物(無地) △
            (ゲ)ハンブルグ産 木綿糸     △
            (ゲ)ハンブルグ産 木綿布     △ 全てを金属製品に、というのも危険かな~、とね。
            
             計・402エキュー(商品単価は最も新しく取得された時の評価基準、先入先出の原則にのっとる)

現金   550エキュー(小切手、期限到来後債利札など通貨代用証券を含む)
預金   なし
土地建物 なし
債権   なし
       

負債          なし

★資本(=資産-負債)   952エキュー
       
★目標達成率       952エキュー/30000エキュー(3,0%)





ハノーファー編後半へつづけ







[19087] 37話 正しい魔法具の見分け方
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:56d7cea6
Date: 2011/05/24 00:13
 職人通りと商人通りの交差点に位置する緑豊かな広場。
 その中央に位置する噴水池には、ゲルマニアの伝説的な名職人ヘンケスを象った彫刻が設えられている。

 この“ヘンケスの噴水広場”は、街の観光名所、待ち合わせ場所としても有名だ。

 わざとらしい大声でとりとめもない会話をする少年達。緊張した面持ちで恋人を待つ男女。元気に走り回る子供達。華麗なジャグリングを魅せる大道芸人。噴水に銅貨を投げ込み祈りを捧げる職人。

 そんな様々な人間模様が周囲で展開されている中、私は噴水のヘリに腰掛けて、手の中にギラリと光るナイフを「むむむ」と穴が空くほどに睨みつけていた。
 私自身の名誉のために断っておくが、お年頃の少年少女にありがちな、一種の精神病を患っているわけではない。

「あぁ~」

 しばらくその奇怪な行動を続けた後、疲れたように息を吐いて物騒なモノを懐にしまった。

「どうすんべ……」

 水面の底で揺らぐコインを恨めしく眺めながら、私は頭を抱えた。

 ハノーファーへ入ってから、つまりベネディクト工房を訪ねてから早7日が過ぎようとしていた。
 というのに、私達は未だこのハノーファーに逗留しているのである。

 当初の予定では、とっくにこの街を出立にして、今頃は一路メルヘン街道を西に突き進んでいるはず。
 しかしながら、その予定はある理由によって、大幅にずれこんでしまっていた。
 
 街に留まるという事はそれだけ無駄なお金がかかる。
 木賃宿での宿泊費、食費、馬の世話代、馬車と荷物の預かり料金……。
 大した額ではないかもしれないけれど、まだまだ駆け出しの遍歴商人にすぎない私達にとっては、非常に手痛い出費である。
 ついここが公衆の面前であるという事を忘れてしまっていたとしても、それは仕方のない事だろう。

「それというのも、あのジジイが悪いのよ! 無駄にデカイ図体しちゃってさぁ!」

 突然の咆哮に、ざわ、と周囲の人達がざわめく。
 先程の行動と合わせてだろうか、頭が残念な子を見るような、憐憫の視線が私に突き刺さる。

 うぐっ……私としてことが、思わず声に出してしまったわ。
 落ち着け、私。ゲルマニア商人は、ケルンの商人は狼狽えない!



「何を一人芝居をしておるんじゃ? こっ恥ずかしい奴じゃのぅ……」

 恥ずかしさに身悶えている所に、不意に呆れたような声が掛かる。
 待ち人きたる、というやつだ。

「あら、お早いご到着。……で、これだけ待ち合わせの時間に遅れるって事は期待してもいいんでしょうね?」
「うむ」
「えっ、まっ、マジで?」

 ロッテは不敵に笑む。私はパァっと顔を明るくさせて、ガバっと立ち上がる。

「くっふふ、それがな、中々に旨い菓子を食わせる店を見つけてのぅ。特にバウムクーヘンというのが絶品じゃったぞ。どうじゃ、気分晴らしにちょっと行ってみんか?」
「勘弁してよ……」

 しれっとした顔で言うロッテを半眼で睨みつける。ちょこっとだけ、甘い誘いに心の天秤が傾いたけれど、今はそんなことをしている場合ではないのだ。
 しかし彼女はどこ吹く風。よく見ればその唇の橋には食べかすであろうスポンジが付いていた。

「言っておくが、妾はお主の尻拭いをしておるのじゃからな? 文句を言ったとしても、
言われる筋合いはないんじゃぞ?」
「うっ……」

 的確にこちらの弱みを突いてくるロッテ。私は言い返せない。だってその通りなのだ。

「ふん、人に偉そうに言うお主はどうなのじゃ?」
「そ、それは、そのぉ~、え、えへへ」
「なぁにぃ? 聞こえんなぁ?」

 笑って誤魔化そうとするが、ロッテは厭味ったらしく耳をそばだててみせる。

「うっさいなぁ、顔を見りゃわかるでしょ? 収穫なし、進展なし、打つ手なしって感じよ! どう? これでいい?」
「いや、良くないじゃろ」
「ぐぅ……」

 あまりにも冷静に切り返され言葉に詰まる。
 くそぅ。彼女の言うとおりだ。全く、全然、ちっともよろしくないのである。

「そもそも、“魔剣”なんぞそう簡単に見つかるものか。吸血鬼や、忌々しいクサレエルフ共ですらそういったものを創りだせる使い手はごくわずかなのじゃぞ?」
「こ、こっちだってねぇ、まさかそんな大それたモノを探す事になるなんて思いもしなかったわよ!」
「やれやれ、逆ギレというやつか。……しかし、今日でこの街の店という店はほとんど回り終わったわけじゃが。で、どうする? 諦めるか?」
「冗談……っ! 店屋が駄目ならゴミ箱を漁ってでも探すわよっ! まだ期限までは一日あるんだからっ!」



 そう、私達が七日もこの街に滞在を余儀なくされた理由とは、“魔剣”などという眉つばなモノを血眼になって探し回っていたからである。

 何故そんなモノを探すハメになってしまったのか、といえば、話は7日前、つまり、私達がベネディクト工房を訪れた日に遡る──







 ベネディクト工房、医務室。

 鍛冶作業が中心となるこの工房では、燃え盛る金属による火傷、やすりやノミによる切擦傷、ハンマーによる打ち身……などなど、怪我人が出る事など日常茶飯事であるため、商家にはないこのような施設が存在する。

「ったく、なんてぇじゃじゃ馬共だ……。あぁ、畜生、いてえな、この馬鹿! もっと丁寧にやりやがれ!」

 簡素なベッドに横たわるシュペーが、皺くちゃの顔を顰めて若い医療メイジ兼職工見習いを叱り飛ばす。
 
「す、すみませんっ」

 シュペーの治療に当たっていた若者は、わたわたとしながら頭を下げた。
 どうやら、シュペーの傍若無人ぶりは、工房の若い衆にも恐れられているらしい。
 
 怪我をさせてしまった事に関しては一応の謝罪はしたが、先に手を出したのはシュペーの方なので、それほど問題にはならなかった。
 まぁ、相手が生粋の貴族ならば、ヤバかった、というか、すんげぇヤバいだろうけど、シュペーは何の背景を持たない流れ者。その立場は平民と変わらない。

「くはは、いい歳をして、『いたいいた~い』じゃと! なっさけないジジイじゃのう」

 その様子を遠巻きに見ていたロッテがシュペーを嘲笑う。

「あぁ?! 誰がそんな事を言った? こんなモンなんて屁でも」
「むっ、無理はしないでください、シュペー卿!」

 激昂したシュペーが起き上がろうとするが、慌てて医者がそれを止める。

 どうにもロッテはこの手の、自分の色香が通用しない男とは相性が悪い。自分は愛されて当然の存在、という自信が原因なのかもしれない。
 私としては、自信に満ち溢れた彼女の性格は嫌いではないけれどね。むしろ私もそうありたい、と思っているくらい。

「んで、嬢ちゃんよ。取引の方はどうする? 本当にこんなジジイのつくったモンがいいのか?」

 うるさい二人が横目に見つつ、ベネディクトがそう切り出す。

「えぇ、モノ自体は一級ですし。何の問題もありません」
「おい、ふざけた事言ってんじゃねえ! あるに決まってんだろうが!」

 私がベネディクトに頷くと、またもやシュペーが怒鳴り声をあげる。
 やれやれ、まったく元気な爺さんだ。

「モノをつくるのは貴方、いえ、職人さんの仕事かもしれませんが、モノを商うのは経営者であるベネディクトさんですよ? そもそも従業員にすぎない貴方が、経営者の決定に異を唱えるのは、はっきり言ってお角違いも甚だしいと思いますが?」
「はっ、モノを造るヤツが一番偉いんだよ」
「あら、それは職人の驕りというやつですわ。モノを売るのが一番難しいんですよ?」
「けえっ! これだから西部のヤツらは! まるでわかってねえぜ」

 面白くなさそうにふん、と鼻を鳴らすシュペー。
 うむぅ。こういう考え方の違いが、西部と北部の仲を悪くしているのかねえ。

「ま! とにかく、お前らにくれてやるくらいなら、ワシが自ら全てを叩き壊してやるわ! 文句は言わせねえぞ!」
「おい、主人。なにやら死に損ないがふざけた事をほざいておるようじゃが、言わせておいてもよいのか?」
「口汚いアバズレめ。簀巻きにして叩きだしてやろうか?」
「くっく、出来るものならやってみよ。残り少ない寿命がさらに短くなるだけじゃがのぅ?」

 シュペーの言い草を皮切りに、燻っていた火種が再び燃えあがろうとする。

「もう、いい加減にしなさいよ、子供じゃないんだから」
「そうだ、特にシュペーよ、いい歳して大人気ねえぞ?」

 そこで釘を刺すのは私とベネディクト。シュペーとロッテは、教師に叱られた子供のように不貞腐れた表情で顔を背けた。
 まぁ、実際はロッテの方がシュペーより年齢的には上なんだけども……。

「……さて、邪魔が入ったな。さっきの話の続きをしていいか、嬢ちゃん?」
「はい」
「ま、見ての通り、こいつ、シュペーはこうなったらテコでもキかないジジイでなぁ。その、こっちの都合で言いにくいんだがよ……今回は他の職人がつくったモノで妥協しちゃあくれ──」
「申し訳ありませんが、その申し出はお断りいたしますわ。私は欲しいモノはアレなので。もう決めてしまったんですよ」
「……むう。嬢ちゃんも相当な頑固者だな」
「カシミールの弟子ですので」
「違えねえ……」

 ベネディクトの提案を丁重にお断りすると、彼は参ったとばかりに頭をがしがしと掻いた。

 正直なところ、シュペー以外の職人が打ったモノでも、辺境農村で売りさばくには十分すぎるほどの質ではあるのだけれど。
 アレを見せられてしまっては、他のモノに目移りなど出来るわけがないのである。シュペーの打ったモノは、それだけの価値があった。

 例えば鍬なんていうものは、普通の職人が打ったものであれば、一本2エキュー程の仕入値になるそうだが、仮にゲルマニアの辺境農村でそれを商うとしたら、まあ、4~6エキューくらいの値は付くだろう。
 しかしシュペーが打ったものであれば、倍の一本4エキュー程度で仕入れたとしても、12~18エキューはとれるんじゃないか、と思う。それなりには裕福な農村でないとちょっと厳しいお値段ではあるけれども(オルベくらいに富んだ農村であれば、さほど問題ない額のはずだ)、それくらいに質が飛びぬけているのだ。

 実際に田を耕す農民ならば分かると思うが、鍬などの耕作用農具というものは、壊れにくく(耐久性)、作業がしやすく(効率性)、それと同時に、使っていて疲れない(使用性)モノが良い。
 シュペーの農具は刃物としての頑丈さや、農具としての耕作性能は勿論、それを使う人間の体の負担が少ないように設計されつくしているように思えたし、それに付加して“ゲルマニアの錬金魔術師”という“ブランド”(魅力性)までも兼ね備えているのだ。

 また、私がシュペーの打ったモノに拘るのは何もお金のためだけではない。
その目的とは、客に最高水準のモノを提供し、喜んでもらう事(顧客満足度の充足)。

 まぁ、私が商いの道を突き進んでいるのは飽くまで自分のためであり、「商人は社会のために役立つべきです!」なんていい子ちゃんみたいな事を言う気はないけれど、それもまた商いの醍醐味の一つではないだろうか、と思うのである。
 それに、良いモノを商い続けていけば、それだけ信用もついてくるだろうしね。



「それで、シュペー卿。少々お聞きしたい事があるのですが?」
「あん? 何だジャリ」

 くるりとシュペーに向き直って言うと、相変わらずの憎まれ口を叩かれる。

 相変わらずムカつく……けど、このくらいはサラっと受け流せるようにならないと駄目ね。 

 そう、私は“大人”で“商人”なんだから!

「貴方が私達にモノを譲りたくないというのは、ご自分のつくったモノを預けるには、私達では“商人として”の信用、というか力量が足らない、という理由ですか?」
「……ま、そうだな」
「成程、それはもっともかもしれませんね。私達はまだ独立して間がないですし」
「カッカカ、何だ、自分でもわかってんじゃねえかよ。くく、ワシに理由を問う必要もなかったなあ?」

 困ったような表情をして殊勝な態度を見せてやると、調子づいたシュペーは愉快そうに笑った。

「いえね、もしかすると、“女嫌い”というご自分の性癖でワガママを言っているのかと邪推してしましまして」
「あ? 女が信用できないというのは客観的な事実だろうが? 商人の世界だって男の世界であることには間違いはあるまいよ」

 ほほぅ、なるほど。そうきますか。

「あら、意外と無知なんですね?」
「なに?」
「女であっても大商人と呼ばれる者はおりますわよ? 例えばランスの大女郎屋ベルナデッド。リーズの口入屋エヴァンジェリナ。カンヌの服飾ブランド経営者ジュゼピーナ・ファントーニ……」
「けっ……。なんでぇ、そりゃあ、交易商じゃあねえだろうが」
「えぇ。ですから、交易の世界では、私共が第一人者になろうかと考えておりますの」
「……はっ?」

 あまりの大言壮語に、ぽかんと口を開けるシュペー。それを聞いていたロッテが「ほぅ」と感心したように息を吐く。
 ふふん、それくらいの気概がなきゃあ、商人なんて務まらないのよ? ま、当面の目標は自分の店を持つ事だけれど。

「ま、そういうわけでして。女であるという理由だけで商人としての力量がない、と言い切ってしまうのはあまりにも早計だと思うのですが、どうでしょうか?」
「くかか、ま、お前のおよそ女らしくない志に免じて、それは言わない事にしてやるか。職人の世界ならともかく、ワシが商人の世界について口を出すのもおかしな話ではあるしな……。しかし、さっきお前さんが言った通り、お前達が経験の浅い小童だという事には変わりあるまい?」
「えぇ、ですから経験不足の分は、私共に商人としての力量があるかどうかを、一つ試してみてはどうでしょうか? 知識、倫理、口上、鑑定、即応、体力、根性……何でも構いませんが」

 ぴん、と人差し指を上に立ててそんな提案をする私。

 まぁ、こんな事をしなくても、ベネディクトに頼み込めば、目的の品を仕入れる事自体は出来るだろうが……。
 しかし、それは今後、ベネディクト工房と付き合う上で、余計な摩擦を呼んでしまうかもしれない。今回限りの付き合いで終わる気もないしね。

 たとえば、シュペーが今回の事で、実際に暴れる……事はないと思うが(多分)、彼とベネディクトの関係が悪化するかもしれないし、最悪、腹を立てて工房を辞めてしまう、なんて事もあり得るのではないだろうか。
 ベネディクトは「いつでも辞めやがれ!」などと言っていたが、あまり彼とソリの合っていなさそうなシュペーを雇っているのは、彼の類まれなる鍛冶の腕と、その知名度が工房に少なからず利益をもたらすと判断しているからだろう。
 そうなると、やはり彼がいなくなってしまうような事はベネディクトにとっても痛手だと思うし、その原因となった私達はやはり恨まれてしまうと思うのだ。

 となれば、もっとも平和的にこの状況を解決するためには、シュペーに私達を認めてもらう他ない。
 それに、上手くいけば彼との新たなコネクションを形成することもできる。
 どんな分野でも、一流と呼ばれる人間との関わりを持つ事は、将来にとって確かなプラスになるはずだからね。



「カッカカ、まさか、文句があるなら試してみやがれ、とは! なるほど、大言を吐くだけはあるらしい。女にしては中々の漢気を持っているじゃねえか」
「……お、お褒めにあずかり光栄ですわ。して、呑んで頂けますか?」

 しばらくきょとんとしていたシュペーは、思い出したように豪快に笑いを飛ばす。
 何とも矛盾した賞賛(?)に若干の顔をひくつかせつつも、礼を返して是非を問う。

「ふむ……。お前、ワシのつくったモノに“惚れた”と抜かしていたな?」
「ええ、抜かしました」
「ほう、ならば当然目利きには自信があるってえ事だ」
「ないと言えば嘘になります」

 私は胸を張って言う。
 三年間の間、カシミール商店で鍛えられた鑑定眼には自信がある。一部の特殊なモノを除いては、だが。

「ふぅん、そうかい。そりゃあ良かった。しかし“視覚”と“触覚”だけじゃあ、商人としての力量をみるには足りねえな」
「と、いうと?」
「まぁ、残るは“聴覚”と“嗅覚”だろうよ。何、“味覚”までは要求しねえさ」

 そう言ってシュペーはにやりと笑う。

 なるほど、目利きに必要なのはモノを見て確かめる事と、触って確かめる事だわね。
 聴覚と嗅覚、というのは商売のネタをつかみ取る情報収集能力、物事の真偽や損得を嗅ぎわける知識と経験、瞬時に世の動きに対応しチャンスを逃さぬ俊敏性、目的のモノを探し当てる探索能力……とか、色々と考えられる、が。

「具体的には何をしろと?」
「実はワシの趣味は刃物、とりわけ刀剣類の収集でな」
「は、はぁ。変わったご趣味……ですね」

 誰も爺さんの趣味なんて聞いていないわよ?

「ま、そういった趣味が高じて職人の道を志したワケだ、が。いざ自分が一端の職人になっちまうと、今まで必死で集めていたお宝がつまらないモノに思えてくる。結局、今のコレクションの半分以上が自身が打った剣ってな状態でな。やれやれ、収集家としては実に嘆かわしい事だとは思わんか?」

 いかにも残念だ、という風に肩を落としてみせるシュペー。
 うっは、この爺さんもまたかなりの自信家だな……。だって、それって自分の打った剣こそが名剣だ、って事でしょ?

「えぇと、つまりは私達にシュペー卿のお眼鏡に適う刀剣を探して来いと? もちろん、卿が打ったモノは除いて」
「おぉ、さすが未来の大商人様は分かりがいいな?」

 明らかに皮肉だよ。あ~、くそ、やっぱムカつく……。

「……どうも。それで期間は?」
「そうさな、キリのいいところで一週間。それまでに目的のモノを持ってこれたら、お前らを一端の商人として認めてやろうじゃねえか」
「その前に、参考として合格ライン、つまり卿のコレクションというのを一つ拝見させて頂いても? もしそれが世界一の名剣だとしたら、さすがの私共でもお手上げですから」
「ふむ。それはむしろワシの方から言いだそうと思っていた所だ。……ほれ、持っていけ」

 シュペーは頷くと、腰につけた革袋を、ぽい、と投げてよこした。

「あの、これ刀剣というよりも作業用のナイフですよね?」

 本当にこんなものでいいんですか? とまでは言わなかった。

 革袋から出てきたのは短剣、というのもおこがましい申し訳程度の刃がついた作業用ナイフ。
 その鈍色に輝く刀身は、たしかにそれなりの良品である事を示していたが、飽くまでそれは“工具”の枠を出ておらず、とてもではないが“名剣”とは言いが難かった。

「おう。それよりも優れているモノならばコレクションとして言い値で買い取ってやろう。つまり、そのナイフが最低基準、合格ラインってとこだな。……あぁ、無理矢理に名品を貶すようなセコイ真似はしないから安心しろ。そこのところは職人としての誇りに賭けて誓おう」

 シュペーはそこまで言って、しかし、と眉に力を入れて厳しい顔をする。

「これはお前が自信満々に吹っかけてきた勝負だ。当然だが、失敗した時はそれ相応の代償を払ってもらうぞ?」
「む……代償、ですか?」
「あぁ、もしお前らが目的を達成できなかった場合は、今後一切、この工房の敷居を跨ぐ事はやめてもらおうか。それでいいよな、ベネディクト?」

 ベネディクトに問いかけながらも、私の反応を楽しむかのような目線を送ってくるシュペー。
 折角築いてきたコネクションがなくなってしまうのだ。確かにその代償は痛い、痛すぎる。

 しかし、ここは……。

「良くねえだろ、何を勝手な──」
「わかりました、その条件でお願いします」
「じょ、嬢ちゃん」
「大丈夫ですよ。ケルンの商人たるもの、この程度が出来なくてどうします、ってね」
「むぅ、そこまで言うなら止めはせんが……」

 妙に心配するベネディクトを余所に、もはや私は時間が惜しい、とばかりに颯爽と踵を返した。

 その際に私が浮かべていたのは薄ら笑い。

 それもそうだろう、ここは全ハルケギニアにおける冶金技術の最高峰、ゲルマニア北部最大の都市ハノーファー。シュペー以外にも名匠と呼ばれる職人達は多数存在しているし、つくられている刀剣の種類だってとても多い。
 確かにシュペーのナイフは良品かもしれないが、これ以上の刀剣などたくさんあるはずだ。ケルンですらこれ以上のモノなど何度も見た事があったのだから。
 その代償はキツイものとはいえ、ここはそれを無視しても全く問題はないはずだ。

 シュペーはきっと私達を舐め過ぎているのだろう。それとも、思ったより悪い人ではないのかな?

 どちらにせよ、こんな条件ならばラクショーもいいところよ! 一週間といわず、一日で終わらせてやろうじゃないの!







 ──そんな風に思っていた時期が、私にもありました。



 再び現在。

 期日まであと一日。

 私達は、最後の悪あがき、とばかりに、ヘンケスの噴水広場を後にして、海沿いの街はずれに存在する巨大なゴミ箱、もとい、ジャンク屋へと足を運んでいた。
 ジャンク屋とは、所謂、壊れたり古くなったりして廃棄された金属製品を扱う廃品屋である。

 ここでも売れなかったモノは、すぐ隣にある製鉄所にクズ鉄として引き取られ、溶鉱炉で溶かされ再利用される。
 いわば、剣の墓場とも言える場所。その内部は、墓地というに相応しくひっそりとしており、同時に、残骸のような商品(?)が無造作に、無秩序に、ゴミの山のようにして積まれていた。
 はて、小売業において商品の陳列と言うのは、かなり重要なポジションを占めるはずなのだけれど。きっと売れても売れなくてもいいんだろうね。

 そのやる気のなさを象徴するように、店の者は入口に立っているしょぼくれた中年の男(経営者?)だけで、無駄に天井が高く無機質な店の中まで入るともう誰もいないのだ。    
 一個や二個、商品をくすねられてもさして問題ない、とでも言いたげな雰囲気である。

 

 そう、こんな場末のジャンク屋に一縷の望みを託さねばならぬほどに、私達は追い詰められていたのだ。
 ラクショーだったはずの条件は、七日が経過してもクリア出来ていなかったのである。

 勿論、“鉄の街”とまで言われるこの街に素晴らしい刀剣が存在しなかったワケではない。
 思わず溜息が出るような麗剣もあったし、実用性に優れているであろう丈夫そうな剛剣も、見たこともないような形状をした奇剣もあった。

 しかし、この薄汚れた、何の変哲もないはずのナイフには、それを上回るような、とんでもない価値が隠されていたのである。



「くぅ……どうしてこんなことに……っ! どうして……っ、どうして……っ!」

 汗にまみれながら、がちゃがちゃと、ひとやまいくらの鉄くずを掘り返して愚痴を吐く。

 底の抜けた鍋、ひしゃげた伯車、ひび割れた兜、根元から折れた包丁、擦り切れた馬具。
 魔剣どころか、駄剣すら出て来やしない。ぐにゃあ、と思考が歪み、視界が霞む。
 
「どうしてって、お主が大した確認もせずに、軽率な行動を取ったのがそもそもの原因じゃろ?」

 壁にもたれかかってその様子を見ていたロッテが面倒そうに口を開く。

「だ、だって! 魔法具、特にこういう見た目が普通なマジックアイテムを見分けるのは、至難の業なのよ?」

 そうなのだ。
 このナイフ、ただの作業用ナイフではなく、所謂、“マジックアイテム”というヤツだったのである。

 見た目はただの小ぶりなナイフ。でも実態は、メイジでもない平民には見分ける事が難しい魔法具。
 一般的な魔法具(マジックランプ、魔法の羽ペンとか)は別として、こういったオンリーワンの品は、商人の間では鬼門とされていた。
 魔法具専門の担当鑑定家を置いている大商社は別として、普通の商人にはその価値を見極める事は難しいからだ。

 一見簡単にみえたシュペーの提示した条件は、実はとてつもない難題だったのである。

 こんな発想──まるで人を嵌める事が本業である人間の発想──を即興で思いつくような意地の悪いジジイをいい人かも、などと思った自分が恨めしい……。

「だってもヘチマもあるか。あの性悪ジジイがそんな簡単な試験を課すワケがあるまいて」

 正論である。ここまでの商売が割と順調だったために、私はつい油断してしまっていたのだ。
 確かに魔法具である事も見分けるのは難しかったろうが、課されたお題の不自然さには気づけたはずじゃないか。
 片手で数えられる程度の村を回った程度で、順風満帆気分など何事か、と冷や水を浴びせられた気分だった。

「うぐぅ」
「ほれ。口は止めて、手を動かさんか。ま、途中で魔法具と気付けたから、最悪の事態は避けられたがの。あのままじゃと、得意満面で見当違いのモノを持っていってジジイに笑われるところじゃったし」

 と言っても、私がそれに気付いたワケではない。
 シュペーのナイフが魔法具である、と見抜いたのは、何を隠そうこのロッテなのだ。

 どうやら彼女は、精霊の乱れ? とかいう、私には理解不能なもので魔法具、というかその道具に魔法的な素養があるかどうか? を見極める事が出来る、らしい。
 さすが自称天才の吸血鬼、こんな時でもなければ、諸手を挙げて喜ぶべき発見であるのだが(今後は魔法具が出てきたとしても安心、という事)、とてもじゃあないが、今はそんな気分にはなれない。

 彼女によれば、その加護の種類と強度から、そこそこ優秀なエルフの技術者あたりが制作した、擬似的な生命の力を与えられたナイフであり、自らの刀身が傷付いたり、変質したりすれば、それを自動修復するというバカげた特性を持っているという。
 敢えて名を付けるなら“不磨の短剣”といったところか。

 ……はっきりいって、相当な珍品である。

 こういった一品モノの魔法具が一般市場に出回る事はほとんどないので、その価値を算定するのは難しいけれども、ごく稀に闇屋やオークションに流れるエルフの制作した魔道具という点からその価値を算定するのなら、まぁ、200エキュー、下手をすれば300エキューはするだろう。         
 それに対して、マジックアイテムでない、まっとうな名剣、たとえばシュペーが打った剣ですら、どんなに高く見積もっても、市価の3倍、つまり90~180エキューくらいの価値しかない、と思う。

 結局、このナイフに対抗出来るようなものといえば、同じ魔道具、つまりは“魔剣”しかない。

 私達が魔剣に拘っていた理由はそれだった。

 これが、『最低の合格ライン』って……。どうやらシュペーは思った以上に鼻っ柱が高いらしい。
 というか、それを作業用の工具として使っている彼は、一体……?



「ぐうぅ……掘れども掘れどもゴミばかり……」
「くあぁ」

 もはや藁にもすがるような気持ちでクズ鉄の山を掘り進めるけれども、やはりロクな物は出て来ない。それを退屈そうに眺めながら欠伸をするロッテ。

……さすがにその態度はないでしょう?

「ねぇ、そんなに暇なら少しは手伝ってくれても」
「嫌じゃ」
「何よ、さっきから、そうやってぼけっとしてるだけじゃない」
「付き合ってやっているだけ有難く思え、たわけ。全く、不出来な義妹のおかげでとんだ災難じゃて」

 ロッテは、自分は関係ありません、とばかりにあっちを向いて言う。
 ムカっときた。

「そ、そりゃあ、こうなってしまったのは私のミスだけどさ。うん、それは謝る。でも、これは私達二人のピンチなんだから、ね?」

 内心イラつきながらも手をすり合わせてお願いしてみる。

「うるさいのう。もう、いいじゃろ。あのジジイに負けたようで癪ではあるが、今回は失敗をしてしまった、という事で良いのではないか?」
「はぁ? 何言ってんのよ」
「あの工房で仕入れをする事は出来んとはいえ、旅が続けられなくなるほどの大打撃にはならんのじゃろう? だったら早々に見切りをつけてじゃな……」

 彼女の言うとおり、シュペーの品が仕入れられないからといって、ただちに破産するような大打撃を受けるわけではない。
 もし駄目であれば、もう一度この街の商社でも回って他のモノを仕入れればいいのだから。直接生産現場、ベネディクト工房から仕入れるよりは利益はあがらないだろうが、それでも、順調にいけば並みの利益はあげる事ができるだろう。

「駄目よ、そんなの。このままじゃ、破産はしなくても、コネと信用は確実に失うわ」
「あのな、人間、というか吸血鬼でも、時には失敗するのが当たり前じゃ。その程度の損害で済むのなら、さっさと方向転換する事もありじゃろう? 大体、こんなゴミ溜めに魔剣なんて大層なモノがあるわけがないんじゃから」
「そんな夢も希望もない事言わないでよ、私までやる気がなくなるじゃない!」
「時には妥協をするというのも大人の嗜みじゃぞ? ま、所詮、まだガキんちょのお主にはわからんか」

 ギブアップを薦めるロッテに、私は真っ向から反発する。
 ロッテは掌を肩の高さで天に向けて、はぁ、と見下したような溜息を吐く。

「私は十分、“大人”よっ」
「くっはは、自分の事を大人、というのは子供の証拠じゃ」

 顔を真っ赤にする私を、ロッテはさも愉快そうに嗤う。

「あんただって無駄に年食ってるだけで、中身は全然ガキのくせにっ」
「……何じゃと? もう一回言ってみよ、このジャリ娘」
「何回でもいってやるわよ、ガキっ、ガキっ、ガキっ! アバズレっ!」

 ヒートアップしてきた私の口は止まらない。そして、やつ当たりにも似たそれは、ロッテの不興を買ってしまったらしい。

「ふんっ!」
「……っ!」

 ロッテの掛け声とともに、腹部に鋭い衝撃が走る。
強烈なソーラープレキサスブロー、つまり鳩尾への腹パンである。

「ぐっ、やったわねぇ……」
「ほう、やる気か?」
「たまには姉妹喧嘩もいいかもねっ!」
「くはっ、妾にとっては、いつも通りの教育に過ぎんわっ!」

 喧嘩が、始ま──

『あの、もし』

 ──らなかった。





つづけ

※今回はあまりモノが動いていないので、メモは次回分にまとめます





[19087] 38話 blessing in disguise
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:56d7cea6
Date: 2011/06/07 18:14
 唐突に発っせられた、ささめくようなか細い呼びかけに、私とロッテは怪訝な顔を見合わせた。
 どうしてって、このゴミ捨て場、もといジャンク屋の中には、私達以外には誰もいなかったはずなわけで。

「……今、何か聞こえなかった?」

 同意を求めるようにロッテの袖を引く。彼女は神妙な顔で頷いた。
 しかし、辺りをきょろきょろと見回してもみても、人の姿など見えないし、生き物の気配すらしない。

「姿を現せ、不埒者めっ」

 正体を見せぬ輩に業を煮やしたのか、ロッテは威嚇するように、周りをぐるりと睥睨して命じた。
 それに応じて、かたん、と鉄くずの山腹が動いたような気がする。私とロッテは、びくん、と心臓を掴まれたかのように跳ね上がった。

『わたくしはここです……その、体の一部が埋まってしまって……』

 今度ははっきりと聞こえた。性別は不明だが、か細く、縋るような声に聞こえる。
 私はごくり、と息を飲み、両手をハの字に突き出して身構えた。

 だって、その声はうずとつまれた鉄くず山の中から聞こえてきたのである。
 生きた人間があんな所に埋まっている事などあるのだろうか? いや、ない。

「あんたさ……ちょっと見てきてくれない?」
「ど、どうして、妾が!」
「いや、だって、その、おっ、怨霊とかってあんたのお仲間みたいなもんじゃん?」
「そっ、そのような汚らわしいモノと一緒にするな!」

 唾を飛ばして、侮辱にも似た発言を否定するロッテ。その顔は明らかに蒼白だ。なんだよ、吸血鬼もその手は苦手なのか……。
 死体を操るくらいなんだから、てっきり仲良しなものかと思ったのに。

『おっ、怨霊?! 違います! わたくしは、そう、“魔剣”というやつです! お探しになっていたのでしょう?』

 蚊帳の外に弾かれつつあったかすれ声は、若干怒りを含んだように叫んだ。

 ……はい?

 必死で探し回っていたモノが自ら、「見つけてくださいまし」と呼びかけてきたって?

「うぅっ、幻聴が酷いわ」
「アリア、お主、疲れているのじゃよ……」

 気が狂ったかのように頭を掻きむしる私。その肩を諭すように叩くロッテ。
 たしかに、ここまで危険な兆候が出たなら、少し休んだ方がいいのかも。
 
『ちょ、ちょっと待てよっ……いえ、お待ちください。わたくしは知性を持つ短剣、インテリジェンスナイフ。怨霊でも幻聴でもありません』

 ロッテに付き添われるようにして帰路へつこうとした所、自称インテリジェンスナイフ? が必死な声でそれを引きとめた。何か口調が変わってないか?
 ふぅん? インテリジェンス──つまり知性持ちの道具、ねぇ……。

「やれやれ、なぁにが“魔剣”よ。ただ喋るだけのガラクタじゃないの」
「まったくじゃ。モノが喋って何の得があるのか。これだから人間のつくった魔道具というのは……」
「へえ、知性持ちの道具ってメイジがつくったモノなんだ?」
「ま、中にはそれこそ憑き物がついているような忌まわしいモノもあるらしいがの」
「げっ、それは勘弁」
「ま、それはさておき、一つの魔道具をつくりだすには膨大な時間がかかるし、触媒に使う材料も貴重なモノが多いのじゃ。それを喋らせるためだけに使うなど、酔狂もいいところじゃろ? くふふ、そんな無駄な事をする種族は人間以外にはおるまい?」

 ロッテはそう言って小馬鹿にしたように嗤った。私は、ふむ、と納得して頷いた。
 この世で最も無駄な事を好むのはやはり人間ということね。
 とはいえ、私なんぞに付き合って、遍歴の旅をしている吸血鬼さんの酔狂さも相当だと思うのだけれど。

 知性持ちの道具、というのは歩けば当たる、というほどではないけれど、とりたてるほどに珍しくもないし、喋るという能力に価値はない。ロッテの言うとおり、モノが喋っても鬱陶しいだけだから。
 他に何かの特性──例えば魔法を吸収してしまうとか──があれば話は別なんだろうけど、どうせこのインテリジェンスナイフとやらは喋るだけだろう、と思う。
 何故なら、価値あるモノであれば、自分の意志が伝えられる事が出来るのだから、こんな所に打ち捨てられるわけがないものね。
 魔道具だと気付かれずに打ち捨てられたモノなら、万に一つはシュペーのナイフを超えるようなお宝があるかも? なんて、溺れる猫の思考で考えていたのだけど。

『勘違いされておられるようですが。わたくしは喋るだけではないですよ?』
「……マジですか?」
『えぇ、系統魔法を自在に操るという能力があります。わたくしを持てば、あら不思議! たとえ持ち主が平民であっても魔法が使えてしまうのですよ。どうです、興味が湧いて来たでしょう?』
「うわあ、すっごぉ~い。わたしでもまほうがつかえるなんてゆめみたいだね」

 冬の沼地のように無表情に、平坦な口調で驚いてみせる。ただの皮肉だ。
 平民でも魔法が使えてしまうだと? 人をおちょくるのも大概にしときなさいな。

『全然、これっぽっちも信じていませんね?』
「ん~。どうしてそんな高性能、もとい超性能なインテリジェンスナイフ様が、こんな場末のジャンク屋で燻っているのでしょう? という質問に対する言い訳は考えてあるのかな?」

 本当ならば凄いモノだ。下手をすれば国宝級の宝だぞ?
 どうせ溶鉱炉行きになりたくないから、出鱈目を並べ立てているだけなんだろうな。
 
『……嘘かどうかはわたくしを握ってみればわかる事でしょうに。どうでしょう、掘り返すだけ、掘り返してみてはくれませんかね?』
「うん、ま、それもそうね。他にアテがあるワケでもなし」
『そうですよ、大した労力じゃありませんて』
「あ、でも嘘だったら強酸のフラスコに漬けるから♪ そうね、ヨウ化水素酸あたりが適薬かしらねぇ」
『な、何ですかそれは? とても嫌な響きがするのですが……?』
「鉄とかをじゅわ~って溶かしちゃう薬品よ。そりゃあもう、影も形も残さずに、きれいさっぱりとね。うふふふふ」
『……それで、構いません』
 
 脅してみせても、インテリジェンスナイフの声色にはそれほど動揺が見られない。
 これはちょっとだけ期待してもいいかな? ほんのちょびっとだけね?

「仕方ないわね」

 私はふぅ、と大きく息を吐いてから、声の出所であるクズ鉄の山を崩していく。

 擦り切れた蹄鉄を放り投げる。穴のあいた兜を蹴っ飛ばす。『おいでませ、フェルクリンゲン、若妻の桃尻亭へ!』と書かれた鉄看板を殴りつけた。
 相も変わらず碌なモノが出て来ない事に、自然に表情が険しくなる。ほんっと、これでインテリジェンスナイフがゴミだったらどうしてくれようかしら?

「やれやれ、お主も酔狂というか、人がいいというか」

 その様子を見ていたロッテが呆れたように呟いた。

「くっくく、私がイイ人なはずないでしょうが。笑わせないでよ、もう」

 私はあまりに的外れな言葉に苦笑した。商人がいい人でどうするよ?
 いい人に魅せるという努力は必要かもしれないけれども、本質的なところで、商人というのはエゴイストでなければいけない。
 ま、それは商人に限った話だけではなく、どんな分野でも一流と呼ばれる人間の大半はそうだと思うが。

「くはは、それもそうか」
「ま、藁にもすがりたいって気持ちの表れよ、この奉仕活動は」

 いつの間にか私は喧嘩しかけていた事も忘れていた。



『ありがとうございます』

 それほどの時間はかからずに、インテリジェンスナイフを掘りだすと、彼(?)はそっけない感謝の言葉を吐きだした。

「期待外れだったの」

 ロッテは空くじをみるような視線をインテリジェンスナイフへと向けながら、つまらなそうに吐き捨てた。

 その正体は、抜き身のままにされた薄汚れたナイフ、というか短剣。
 元々は良いモノだったのだろうが、歪んでしまった刀身は欠け、留め金は外れかけている。柄には垢か血痕かしらないが、それがべっとりと付着して黒ずんでいた。

 私は盛大に溜息を吐いた。予想通り、全く期待できなそうだったからだ。
 ぱっと見の鑑定結果を述べると、『うへぇ、触りたくもないような品ですな。これを店屋でうると0ドニエになるでしょう』といったところである。

「こちらこそ、とんだ時間の無駄をありがとう」

 私は極上の笑みを浮かべて、こきこきっと指を鳴らしてみせた。
 ま、ちょっとでも期待した私が馬鹿だったという事か。でも、人間様を謀ったという大罪は許さない!

『魔法具というのは見た目ではありませんよ? さぁさ、どうぞ私をお持ちください。必ず貴女達のお役に立ちましょう』

 しかし、インなんとかさんはいまだ自信たっぷりにそんな事を言う。
 私は少し呆れつつも、そんなに言うなら、とおんぼろナイフの柄に手を伸ばした。

「まったく、な~にが、持つだけで魔法が使え──?」

 腹立ち紛れに軽口を叩いて、ひょい、とおんぼろナイフをつまみあげる。
 実際に持って見ても、なんら特別な力があるようには見えない。これはもう、ばっきばきやな、などと思っていると。

『悪いな、少しの間、お前さんを使わせても貰うぜ』
「えっ?」

 突然、口調を崩して言うおんぼろナイフ。その声は心なしか陰気な感じがした。
 意味不明な謝罪の言葉に、私はくりん、と首を傾げた。

(どいてろ)

 瞬間、そんな声が聞こえたような気がして、私の心は追い出された。







 おんぼろナイフへと触れた途端、アリアをどす黒い魔力が包んだのをロッテは見逃さなかった。

「早くそのボロを手放せっ!」
「おっと」

 予測していなかった異変に気付いたロッテは、アリアを制止しようと、体ごと突っ込んだ。
 しかし、アリアは手にしたおんぼろナイフを庇うように、ひょい、とその突進を躱す。まるで歴戦の兵の如き洗練された、蝶のように華麗な動きだ。

「へへ、一足遅かったな、お嬢さん」

 勝ち誇ったようにアリアは口の端を醜く歪めた。ロッテは悔しさを露わにして歯噛みする。おんぼろナイフの声はもう、聞こえない。

「それにしても、何だ、何だよ、この気持ち悪いほどに性能のいい体は?」

 アリアは上気した様子で、カンテラの灯りに掌をかざして透かし見た。もう片方の掌では、おんぼろナイフが妖しい光を放っている。

「くっそ……」
「おっと、あまり怖い顔で睨まないでくれよ。一寸リュティスあたりまで体を拝借させてもらうだけさね」

 殺気を放つロッテにも全く動じずに、アリアは飄々として答える。

「リュティス? 貴様は一体何者じゃ?!」

 ロッテは眉間に皺を寄せ、鋭い声でアリアを問い詰める。
 リュティスといえば、ゲルマニアに来る前にロッテが住んでいたガリア最大の都市、王の都だ。

「俺は、いや、この姿だと私の方が正しいか? ま、とにかく、通り名は“地下水”。密やかに、どこにでも存在するって事の喩えらしいが、どうでもいいやな。身分は……そう、傭兵だな、うん」

 アリア、改め、地下水は可愛らしく小首を傾げて名乗る。

「ナイフ風情がよくしゃべりよる」

 流れるように口を回す地下水にロッテは舌打ちした。

 人の心を操る、乗っ取る、もしくは壊してしまう類の忌まわしき魔道具。それがこのインテリジェンスナイフ、“地下水”。
 乗っ取りの一瞬だけ、死人を生きているかのように動かす高等な精霊魔法、【傀儡】や、水の系統魔法、スクウェアスペル・禁呪【誓約】≪ギアス≫にみられるような、精神操作系の魔法に特有の歪な力を感じたロッテは、その事実にいち早く気付く事が出来たのだった。

「久方ぶりに娑婆に出られたんでね。ついつい舌がよく動いちまうのさ」

 地下水はアリアの体で、おどけたように肩をすくめて見せる。
 他人様の心を乗っといておいて、ふてぶてしいこの態度。当然、ロッテは腹を立てたが、湧き上がった疑問を先に解決することにした。

「随分と呑気なやつじゃの。戦うでもなければ逃げるでもない。目的が見えんのじゃが?」
「俺は別にお前さん達の邪魔する気はないんだ。飽くまで、ちょいと進路を変えてガリアに向かってもらうってだけさ。だったら、暫くはあんたとも旅の道連れってことになるだろうし、名くらいは教えても罰はあたらないだろ? 何なら俺の身の上でも聞かせてみせようか?」

 彼は饒舌だった。彼の言うとおり、それが解放感からくるものなのか、生来の性格であるのかは定かではないが。
 どうやら彼に乗っ取ったアリアを害する気はなく、この身が遍歴商人なのを利用して国境を渡りたいだけのようだ、少なくとも表面上は。

「ほう。では聞かせてもらおうか。どうして傭兵の貴様がこんなところに?」
「何つうか、妙に落ち着き払っているな、お前さん。本当にただの商人かい?」

 地下水は眉をハの字にして、質問に質問で返すが、ロッテは答えず、いいから話せ、というふうに顎をしゃくった。
 地下水はその態度を不審には思ったが、彼女の剣呑な物腰と、軽やかな身のこなしから、商人の護衛を務める傭兵、つまり俺とご同業だろう、と自分の中で結論を付けた。

「って、本当に聞くのかよ。ま、情けない話さ。ちょいと昔に、任務、いや仕事に失敗しちまってね」
「仕事? 傭兵のか?」
「ぶっちゃて言うと、“吸血鬼退治”ってやつだな。……おっ? やっと驚いた顔が見られたな」

 ロッテは口をぽかん、と開けて目を剥いた。ここにきてようやく年相応の(見た目)反応を見せた彼女に、地下水は満足気に嗤って見せた。

「ふむ。では貴様はガリア、いやリュティスから吸血鬼を追って来たというのか?」
「ん、ま、そうだな。標的がゲルマニアに逃げ込んじまってね。いや、ほんと参った」
「負けたのか?」
「ちっ、嫌味だな。負けたからこそ、こんな場末の鉄くず屋にまで流されてきたに決まってるだろうに」
「しかし、貴様の能力があれば、宿主が殺されても何とかなるのでは?」
「事もあろうに、掃除夫のヤロウが、道端に投げ出された俺を鉄くずに分別しやがってね。気付けばどんどんと北に北にと運ばれ、今はこのザマってわけさ」

 憎々しげに地下水が吐き捨てる。ロッテは何かを思案するように額に手をやって俯いた。

「どうかしたのか?」
「その吸血鬼というの。もしや、女か?」
「あぁ、そうだが……」
「顔は覚えておらんのかや?」
「闇夜だったし、ぼんやりとしか。ただ、腰まであるブロンドの髪が印象的だったな。お、そうそう、丁度お前さんみたいな感じだ」
「くヒひ、なるほど、なるほど。これはまた数奇な運命もあったものよ」

 答えを得たり、とばかりに不気味に嗤い、呟くロッテ。その姿に、地下水は背中(?)にうすら寒い物を感じた。
 それは、油断ならない戦場を何度も経験した者の、危険に対する直感というやつだったのかもしれない。

「何を、言っているんでさ?」
「まさかとは思うが、その吸血鬼とやら」
「むっ?」
「こぉんな顔ではなかったか?」

 ロッテは飛び起きるように顔をあげる。
 途端、地下水が発したそれよりも、数段に禍々しく、闇よりも暗いような──魔力があたりに渦巻いた。

「──っ!」

 地下水は弾かれるようにして後ろに飛びすさった。
 そこにいたのは、疫病患者の血のように濁った瞳と、飢えた狼よりも鋭い牙が印象深い、魔性の美女。
 自分以外の全てを見下しているかのような傲慢な嘲笑を張り付けた彼女の貌は、見る者全てを凍りつかせてしまうほどに妖しい魅力にあふれていた。



「くははっ、ようやく気付いたのか、間抜けめ」
「なぜ吸血鬼が平民の娘とこんなところに居る?! ……そうか! この体! おかしいと思ったら“先住”の力かっ! ということは……この娘、死人っ?」

 そう、地下水の身分はただの傭兵などではなく、ガリアの暗部、北花壇騎士団に所属する騎士、いや、暗殺者だったのだ。
 そして、5年ほど前に、地下水の雇い主であるガリアの第一王太子、北花壇騎士団団長ジョゼフによって下された任務は、モンペリエ侯爵家の長女を殺害した吸血鬼の討伐。

 その吸血鬼とは、つまり、地下水の目の前にいるロッテの事だった。

「ふん、しっかりと生きておるわ。そのくらいはわかるじゃろう?」
「……いや、この精神は間違いなく死人のモノだね。まさか屍人鬼にも心があるとは驚きだ」
「はぁ? 恐怖のあまり、その程度の判断もつかなくなったか? くはっ、ナイフの気がふれるなど面白い事もあるものじゃ」

 そういいつつ、じり、と歩を進めていくロッテ。地下水もそれに合わせて後ずさるが、背後には壁がある。
 十分な広さがあるとはいえ、ここは密室。追う者の方が、追われる者よりも圧倒的に有利な環境だった。

「来るなっ!」

 地下水は杖のように刀身を構えて叫んだ。彼の言葉に偽りがなかったのなら、それ以上近づけば、何らかの系統魔法を撃つぞ、という意味だろうか。

 宿主であるアリアに人質としての価値があれば、それを盾にすることもできた。それは卑怯でもなんでもなく、勝利するための選択肢の一つにすぎないのだ。
 現実の命のやり取りにおいて、騙し合い、化かし合いなど当たり前。正々堂々などとほざく奴がいればそれは救いようのない馬鹿で、どうしようもない間抜けであり、糞以下の存在でしかない。

 しかし、どうしてかアリアが死人だと勘違いしている地下水にとって、もはやアリアには人質としての価値はないとしか思えなかった。
 何故なら、吸血鬼にとって屍人鬼というのは、いくらでも取り換えの利く消耗品でしかないという事を知っていたからだ。
 まあ、そもそも、生きていたからといって、冷酷で残虐な吸血鬼相手に人質など通用するはずもない、と地下水は思った。

「おいおい、貴様なら理解できるじゃろ? 妾に勝てるわけなどあるまいよ」
「へっ、この娘の身体なら案外いけるかもしれないぜ?」
「くく、作品を乗っ取ってその創造主に勝とうとでもいうのか。滑稽じゃな。ほれ、悪い事はいわん、さっさとソレから離れろ。さすれば悪いようにはせんぞ?」

 といいつつも彼女の獰猛な表情には、どうあっても「ぶち殺す」と書いてあった。
 
「そっ、そうカリカリしなさんな……。今更お前さんと敵対したっていい事なんざ一つもありゃしねえやな」

 一触即発の空気の中、地下水はそう言って諸手を挙げて見せた。

 乗っ取ったのがスクウェアクラスのメイジならば勝負はわからなかっただろう。
 しかし、いくら身体能力が高いとはいえ、所詮アリアは魔法の使えぬ平民だ。吸血鬼に、それもとびきり凶悪な目の前のロッテに歯が立つとは、地下水にも思えなかった。
 戦ったら死ぬ。逃げても追いつかれるだろう。では、説得でもしてみるか? それが地下水の思考経路だった。

「さっきも言った通り、俺はこの辛気臭い場所からおさらばして、花の都リュティスに戻りたいだけなのさ。余計な争いは本意じゃない。だから、望みがかなうってなら、この娘、というか屍人鬼か。ま、それもすぐに解放するし、お前さんともそこでさいならだ。“旅は道連れ、世は情け”っていうだろ? な、ここは人助けと思ってどうか一つ』
「……却下じゃな。妾は、まだ、そう、まだガリアには戻りとうない」
『あれから5年も経っているんだぜ? もうとっくに吸血鬼探しも終わってるって』
「そういう問題ではない。そもそも、端から人間など相手にしておらんわ。妾がその気になれば、たかが地方貴族の一族郎党なぞ皆殺しに出来る」

 そんな大それた事が出来るのかどうかは別にして、彼女は本気でそう言っている、と地下水は感じた。
 こりゃ、説得するのは無理かねえ、とも地下水は思ったが、しかし、ここで交渉を辞めるわけにもいかない。
 何せ、全面降伏したとして、運よく折られずに、捨て置かれたままになったとしても、結局は溶鉱炉行きになってしまう。それに、国境を簡単に渡れる身分を持った人間と接触できた事自体は幸運なのだ。
 誰でもいいから、ガリア行きの荷馬車やフネに本体だけを突っ込んでもらう、というのもありといえばありだ。だが、それだと運が悪ければ、また鉄くずの山に逆戻りしてしまう恐れがある。
 結局は、誰かを乗っ取ったままで国境を渡るのが最良の選択である、と地下水は考えていた。

『人間じゃなきゃ、誰を相手に──って、あれ?』

 そこで地下水ははじめて自分の身に起こっている変化に気づき、困惑の声を挙げた。
 それもそのはず、いつの間にか、地下水の言葉はアリアの口からではなく、本体から発されていたのだから。

 そして乗っ取られていたはずのアリアはと言うと。



「今度からは、魔道具を触る時には気を付けないといけないわね。メモメモっと」

 渋い顔でそう呟き、ベルトに付けたシザーバックから羽ペンと自作のメモ帳を取りだして、何やら書きつけを始めていた。
 一方で、地下水の柄を握り締める力がぎちぎちと込められていた。まるで万力のような締めつけに、地下水はげぇっと悲鳴をあげる。

「お、おぉ? おっ、お主、まさか自力でこやつの支配を打ち破ったのか?」
「ん~、そんなところ、かしらね。うん」
「くっははは! さすがは妾の下僕、下賤なナイフ風情に負けるはずがなかったか!」
「下僕じゃないでしょう、パートナーよ?」

 我が事のように喜声をあげるロッテに、アリアは何でもないように、いつもの口調で答えた。

『馬鹿な! メイジですら俺の支配は破れないはずだぞ? それなのに! ……ん? 何だこりゃ?! 一人の人間に、男と女、死人と生者、が二つ、ある? くそ! 死人の方が邪魔して乗っ取れない?!』

 長く生き、様々な人間を“使った”事のある地下水も、ついぞこんな人間は見たことがなかった。長命である、という事は豊かな経験をもたらすが、逆に経験にない事に対しては極端に臆病となる傾向がある。
 そんな理由もあってか、地下水は未知との遭遇に必要以上に取り乱し、喚き立てていた。

 一方、アリアは感慨深げに瞳を閉じて、誰にも聞こえないほど小さな声で「ありがとう」と呟いた。
 それは『僕』への感謝の念。
 地下水を握った時、『私』に向かって「どいてろ」といったのは『僕』で、地下水の支配から『私』を庇ってくれたのだろう、と彼女は判断した。
 ここ最近はその声すらも聞いていないけれど、彼は消え去ってしまったわけではなく、まだ『私』を守ってくれているのだ、と思うと、彼女の胸に何か暖かい物が込み上げてきた。
 喩えるなら、『私』にとっての『僕』は、ハルゲキニアではあり得ない知識をもたらしてくれた先生であり、また困った時は助けてくれる、兄のような存在でもあるのだろう。

「……さて、ドブ水、だっけ?」

 しかし、一転、アリアが次に発した声色は、ロッテすらも一瞬たじろがせるような冷たい響きを持つものだった。

『地下水だ! お前、ただの平民じゃないな? 亜人か、それとも』
「黙れ」
『う?』
「あんたは私の質問に答えるだけ。無駄口を聞いたらぶっちぎる。反抗的な態度をとってもをへし折る。はっ? と聞き返したらそれもまた引き裂く。くしゃみをしてもやっぱり真っ二つ。どう、自分の立場は理解した? オーケイ?」
『らっ、ラジャー!』

 オーケー! と答えなかったのはせめてもの反抗か。地下水は得体の知れない中身を持ったアリアと、睨まれただけで心臓を鷲掴みにされるような──深い深い色合いのブラウンの双眸に臆した。
 「自分に、いや、彼女に死を運ぶモノは容赦しない」と、その瞳の奥でこの世のモノではない何かが、地下水へと語りかけているような気がしたのだ。
 その圧力は、先のロッテと比べても決して見劣りしない、そら恐ろしいものがあった。

「質問その一。あんたの能力は他人の意識を乗っとるってだけで、系統魔法が使えるっていうのは嘘?」
「へえ、いえ、そりゃあ、本当でさあ」

 地下水は素直に答えた。アリアは一瞬だけ顔を綻ばせたが、気を取り直したようにきつい口調で質問を続けた。

「ふぅん。じゃ、質問その二。私が使え、っていったら魔法を使えるの?」
「……このままじゃ、駄目ですね。心を乗っ取らせてくれるってえなら別ですが、へへ」
「無駄口叩くなつったでしょうが。死にたいの?」
「いえいえ! 滅相もない!」
「ま、いいわ。つまり、人間の精神に寄生した状態じゃないと、魔法は使えないってこと?」
「俺の魔法は、宿主の精神力と思考力を頂戴して使うってなもんで。メイジなら俺の力を強制的に引き出す、ってのも万に一つは可能かもしれませんが、平民? のお嬢さんじゃ無理でしょう」
「はぁ~、やっぱりそういうオチなのね……」

 アリアは肩を落としてがっかりしたように溜息を吐いた。
 そりゃあ、アリアだってハルケギニアの平民で、一度は魔法が使ってみたいという気持ちはあるのである。
 重いモノを自在に動かせる(実際はあまりにも重い物は無理だが)≪レビテーション≫、手紙を書く時に便利な≪操り≫、密談する時に使える≪サイレント≫、もう一人の自分がいれば能率2倍の≪ユビキタス≫……。商売に使えれば便利な魔法がいくつでもあるのだ。

「しかし、ま、これは掘りだし物ではないかの? 出す所に出せば、シュペーのナイフよりも高値がつくのではないか?」
「そうね。他人様の精神を乗っ取らなきゃっていうのがちょっとアレだけど。でも、人を使う立場にあるお偉方なら欲しがりそうね」
『あのぉ、俺はガリアに行きたいんだけど……。あ、いや、いいです……』

 恐るべき吸血鬼と得体のしれない平民娘の会話に割り込もうとした地下水は、ぎろりと四つの濁りきった瞳に睨まれ、へなへなと言葉を引っ込めた。

「いや、いいわよ? ガリアに連れて行ってあげても」
『ほ、本当ですか?』
「おい、アリア。何を馬鹿な事を」
「いや、職人のシュペーに売るよりは、ガリアのシャンパーニュでオークションに出した方が高く売れるでしょう? 勿論、予定を変更する気はないから、トリステインの後になるだろうけど」
「あ、なるほどのう。あそこは確か、年中、各都市持ち回りで市を開いているのであったな?」
「そうそう!」
『…………』

 嬉しそうに、楽しそうに自分を売り飛ばす算段を話す義姉妹に、地下水は、もう何を言っても無駄だろうな、と諦めた。



「そうだわ、ガリアといえば。随分と刺激的な経験がおありなようですねえ?」
「お主こそ、死人の魂とやらを、その身の内に飼っているというではないか?」

 アリアは底意地の悪い口調で言うが、ロッテも負けじとやり返した。

 くふふ、あはは、うふふふ、とさもおかしそうに嗤い合う恐るべき小娘達。
 地下水はますますこの場から逃げ出したくなったが、むんずと体を掴まれていてはどうする事もできない。

「しかし、ま、今はとりあえず」
「宿に戻って、飯でも食いましょう」
「それとふっかふかのベッドじゃな」

 ブロンドと栗毛の義姉妹達は、目的のモノが見つかった安堵からか、今になって襲ってきた眠気に耐え切れず、揃って大口を開けて欠伸をした。

『不幸だ……』

 不憫なインテリジェンスナイフの呟くような嘆きに答える者は誰もいない。
 古ぼけた鳩時計が、ぽっぽ、と間抜けな音をさせて、日付が変わった事を伝えていた。







「むぅ……」

 そして、約束の期限であるラーグの曜日。

 ベネディクト工房の役員室へと呼び出されたシュペーは、山羊のように伸ばした白髭を撫ぜながら、難しい顔で唸っていた。

 目の前のウッドテーブルには、シュペーのナイフと“地下水”、二つの短剣が投げ出されている。
 シュペーの横には、おっかなびっくり地下水を覗き込むベネディクトが。そして対面にはふふん、と得意顔のアリアとロッテが、腰掛けに鎮座していた。

「なあ、魔法が使えるってえ話だけど、その、俺にも使えるのかい?」

 ベネディクトは興味津々と言った感じで、興奮気味にアリアに問うた。
 多かれ少なかれ、大半の平民は魔法を使ってみたいという願望があるものだ。

「そうですね、それは私から説明するよりも、本人に言わせましょう。……ほら、ぐずぐずしないで」
『……使える事は使えまさ。ただ、メイジでなければライン・クラスの魔法が精いっぱいですし、それに、心を乗っ取らなきゃあ使えない。したがって魔法を使った記憶は残らないかと』

 アリアにつつかれた地下水は、仕方なしに自分の能力を解説する。
 ベネディクトは消沈したように「そうなのか……」と力なく頷いた。

「しかし、思い通りにはならんとはいえ、稀少価値は中々のものと思うぞ? 平民が魔法を使えるなど、広義に解釈すれば、ブリミル教の根幹を覆すようなモノともいえるのじゃから」

 ロッテの指摘に、一同は「うぅむ」と唸った。たしかに、こんなものが市場に出回ればロマリアの坊主連中が黙ってはいなそうだ。
 見た目はゴミにしか見えないが、地下水の価値をはかる事はアリアにも難しいだろう。

「ただ、実際に魔法を使えるところを見なければ、なんとも言えんのは確かだなぁ」
「それはそうです。ただ、地下水は私やロッテを操る事が出来ないみたいなんですよね」
「ほう? それはどうして?」
「それが、相性のようなモノがあるらしくて。もちろん、危険はないようにしますので、出来ればどなたかに実践してもらいたい、と思っています」
「むぅ、しかし心を乗っ取らなければ使えないというのは……」

 アリアの提案に、ベネディクトは二の足を踏んだ。それはそうだ、精神を乗っ取らせる、などという行為を好きこのんでする者はおるまい。

 “相性”という理由はアリアの嘘だが、地下水が二人を乗っ取って操る事が不可能なのは事実だ。
 別人格である『僕』が、主人格である『私』をブロックしているアリアは勿論のこと、吸血鬼であるロッテもまた乗っ取ることはできない。
 つまり、この義姉妹にとって、地下水は手元にある限り、何の脅威にもなり得ないという事だ。地下水自身もそれが分かっているから、彼女らに大人しく従っているのである。

「いや、それには及ばねえ」
「え? お前、それでいいのか?」

 一番難癖を付けるだろう、と思っていたシュペーがそんなことを言うので、ベネディクトは思わず聞き返した。

「少し小耳にはさんだ事があってな。神出鬼没の傭兵“地下水”。なるほど、その正体がインテリジェンスナイフだったってえなら、逸話も逸話じゃなくならあな」

 地下水は不思議に思った。どうして職人の爺さんが裏社会の人間や、一部の貴族しか知らないような地下水の名を知っているのだろうか、と。

「ま、それに、さっき【解析魔法】≪ディテクト・マジック≫でコイツを調べたからな。込められた力の多寡くらいはわかった。連綿と練り込まれた、膨大な魔法の痕。相当な使い手が、半生を掛けてつくり上げた品だろうな。それが系統魔法を使えるくらいに規格外ってのは納得できるのさ」

 え? いつの間に≪ディテクト・マジック≫なんて掛けたの? と、アリアは驚いた。

 一流のメイジは詠唱を人に悟らせないというが、しかし、職人がそんな事に長けているというのもおかしな話だ。それは非常時、戦いでのアドバンテージであり、平時、鍛冶においては特に意味をなさないのだから。

「しかしジャリ、いや、アリアといったか? コイツをどこで手に入れた? この街の店という店は全てワシが調べっ……。あ、いや、カカカ、何でもねえ!」

 この爺、まさか事前にあのナイフを超えるモノがない事を確認していたのか? とアリアは文句の一つでも言いたくなった。
 あれだけ街中を駆けずりまわらされたのだ。それが意図的な物だとしたら、そりゃあ誰だって頭にくる。

「海沿いのジャンク屋ですわ、パチロウ溶鉱の隣の」

 しかし、ここでシュペーを罵ってもなんのメリットもないどころか、かえってマイナスだなあ、とアリアは思い直して、何でもないように質問に答えてみせた。

「何と、あの、やる気のカケラもない鉄くず屋か!?」
「店主様がどういう考えかは私には存じかねますが、おそらく、その鉄くず屋で合っています」

 目を剥いて身を乗り出したシュペーが「しまったぁ」と小さく呟いたのは、地下水にしか聞こえなかった。

「いくらだ、いくらで買った?」
「企業秘密♪」
「ぐぬぅ……。くそ、ワシからいくらまきあげるつもりだっ?」
「くく、その商談の前に、お主の『参った』をまだ聞いておらんなあ?」

 にんまりとイヤらし~い笑みを浮かべてシュペーを眺める義姉妹。
シュペーはやれやれ、と苦笑いしながら、降参だ、というように両手を挙げた。

「わかった、わかった。ワシの負けだ。お前らを一端の商人として認めようじゃねえか」
「つまり?」
「好きなモンを持ってけってことだよ」
「っしゃあ!」
 
 シュペーの明確な宣言を聞き、ガッツポーズを取ったアリアは、ロッテとハイタッチを交わす。

「しっかしまあ、とんでもねえグリュック(幸運)の担い手だな……。せいぜい反動には気を付けろよ?」
「おおう、ここまできて“キツネの葡萄”かや? 男らしくないぞ、ジジイ」
「けっ、なんとでも言えよ」

 弄ぶようにからかうロッテに、シュペーは頬杖を付きながら吐き捨てた。



 今回の結果は、諦めの悪いアリアの粘り勝ち、彼女らの持つ力によるものだろうか?
 それともシュペーが言うように、偶然地下水を拾えたという運のみのものだろうか?

(まあ、前者だろうな)

 先達の経営者であるベネディクトはそう解釈した。

 “成功者の豪運”という言葉がある。成功者には何をやらせても凄まじいまでの運が宿る、という有名な逸話だ。

 しかし、それは生まれながらに持ち合わせた運勢なのだろうか? いや、違う。
 成功者とは、ほとんどの場合成り上がり者の事を指す。もし生まれながらに運勢を持っているのならば、成り上がり者などとは呼ばれない、王族や大貴族に生まれたはずである。

 つまり、成功者に最初から神など憑いていないのだ。世に産み落とされた時は、両手に何も持たされていなかった。
 しかし、彼らは人生の何処かで自分の意志と力によって、運命を引き寄せたのだ。彼らの高邁な精神は、神をも従わせる力を持つ。
 
 ベネディクト、いや、神や始祖などには頼らず、自分の才覚に依る事でしか、己の身を立てられない人種──即ち、『商人』という人種は、多かれ少なかれ、そのような傲慢な考えを持っていた。

 だからこそ彼は、アリアに嫉妬と期待を同時に感じていた。感じざるを得なかった。
 この若さにして、並々ならぬ上昇志向と、鳥肌が立つほどの気迫を持ち、なおかつ神を従えてしまうほどの器。
 一体彼女は十年、二十年あとには、どれほどの商人となっているのか? いかほどの財を築き上げているのか? そして彼女はこの世で何を為しているのか?
 子供の成長を見守るという大人の立場からはそれが楽しみであり、また、対等な経営者としての立場からは、その可能性が少し妬ましい。

 それは奇遇にも、彼の旧い友人である、カシミールと全く同じ気持ちであった。
 もっとも、カシミールの場合は少し大人としての立場が勝ちすぎる、という面があるが。



「よぉしよし、さてさて、それじゃあ、さっそく仕入の商談に移りましょうか」
「……そおだな。大分この街に引き留めちまったし、さっさと終わらせるとするか」

 そんな事をベネディクトが考えているとは知らず、アリアは揉み手で話を切り替えた。

「ちょっと待て、まずはコイツをいくらで売るのかが先だろう?」

 話が違う、とシュペーが二人の商人の間に割って入る。

「えっ、ドブ、いえ地下水は売りませんよ?」
「何っ?」
「だって言ったじゃないですか、シュペー卿。『目的のモノを持ってこれたら、お前らを一端の商人として認めてやろうじゃねえか』って。私は“持ってくる”事は約束しましたが、“売る”事については約束していませんわ」
「なぁっ、そんな殺生な!」

 アリアが手をひらひらとさせながら言うと、シュペーは愕然としたように叫んだ。

 彼が重度の刀剣コレクターであるという事は本当だ。
 その彼に、これほどの品をちらつかせておいて、これは売り物じゃありません、というのは確かに残酷。
 しかも先程までは手に入ると思っていたモノなのだ。ショックの度合いも一入大きい。

「ぷっ」

 ロッテがたまらないとばかりに噴き出した。ベネディクトもくくく、と下を向いて嗤っている。

「だって、ねえ? 失礼ですが、ここでシュペー卿に地下水をお譲りするよりは、競売にでも掛けた方が高く売れそうなんですもの」
「見くびるなよ、金はいくらでも──」
「え? 職人のお給料って、そんなにお高いんですか……?」
「あっ……いや、それは……その」

 シュペーの強気な発言は、アリアの先回りによって潰された。
 だって、いくらシュペーが金を溜めこんでいたからといって、一職人にひょっとすると国宝級かもしれないお宝が買えるほどの金があるわけがないのだから。

「とにかく、コレが買いたければ、是非とも競売会場までお越しくださいな。ベネディクトさんに手紙は出しますから」
「ああ、畜生っ! やっぱり女ってぇのは悪魔みてえな存在だっ!」

 もはや話は終わった、とばかりにベネディクトの方へと向きなおすアリアに、シュペーは悲痛な声で嘆いた。

『まったく、その通りですぜ、旦那。この娘共は、マジモンの悪魔でさ』
「おや、卿に同意してくれるのは、このおんぼろナイフだけみたいですね」

 余計な事を言うな、とアリアは、地下水の横腹をごちんと殴った。「覚えてろよ」と地下水がぼそりと呟いたので、もう一発おまけが入った。

 その様子がおかしかったのか、一同の、シュペーまでをも巻き込んだ品のない大笑いが、工房の天を突き抜け、ハノーファーの青空へと吸い込まれていった。







 さて、ハノーファーから南東へ60リーグほど行ったところに、ブラウンシュワイグと呼ばれる街がある。
 この街は、同じ北部のハノーファー、ハンブルグ、ブレーメン、といった大都市に規模は及ばないものの、帝国が統一される以前から主要な都市であり続けた──ゲルマニアの政治的な重要拠点の一つである。

 街の中心であるブルケ広場には、ブロンズの獅子像が飾られている。獅子というのはこのブラウンシュワイグのシンボルであり、魂であるのだ。
 そして、魂の紋章は、広場に沿って佇む、センスのいいデザインの、まるで美術館のような城の正門にも刻まれていた。

 その城の名をダンクヴァルデロッデ城。数あるハルゲキニアの城塞建築の中でも、最も美しい城の一つと言われる麗城だ。

 “獅子公”と呼ばれたかつての名君の子孫、リューネベルグ=ブラウンシュワイグ公爵の居城である。



「カッカカ、こりゃあ、一本取られたわ」

 その瀟洒な城の一室で、天幕付きのベッドに寝ころんだまま。白髪頭をぽんぽん、と叩いて、苦い顔で笑う老人が居た。
 
 部屋の調度品は、ハンブルグの名工によってつくられた高級品で統一されており、常に清潔に保たれているのであろう、白一色のカーテンとベッドシーツが目に眩しい。庭園のプラタナスが薫風に揺らされ、ベランダに開け放たれた大きな窓からは、さらさらと清涼な音色が響いている。

 そこだけ見れば、貴人の寝室としては十分及第点なのだが。
 しかし、この部屋には、その清楚な雰囲気を完膚無きまでに破壊する異物が存在していた。

 それはポルカ調の壁に、数えきれないほどに飾られた、古今東西の刀剣類。
 はて、貴族が、それも公爵家の大貴族が、剣などという平民の牙に興味を示すとは、変わった事もあるものだ。
 
「あら、あなた。いきなり何の話ですの?」

 何の脈絡もなく、突然に奇声をあげた老人に、その腰を素手で揉みほぐしていた老女が、僅かに微笑みながら問うた。
 年老いてはいるが、何処となく気品が溢れる女性だ。おそらくは、公爵家の家人なのだろう。夫回りの雑用を、使用人にやらせずに、自らやっているあたりが少し疑問だが。

「ん。ハノーファーで少し面白い事があって、な」
「なるほど、彼の街へは≪ユビキタス≫で行かれているのでしたね」

 おや、≪ユビキタス≫──【偏在】とは。それは実体を持つ自らの移し身を作る超高等な風のスクウェア・スペルである。どうやら老人は高名なメイジであるらしい。

「情けねえが、立つのもキツいってザマだからよ。カッ、まったく、やってくれるぜ、あいつらめ」
「あっ、この間話していた娘達の事でしょう!」

 腰をさすりながらも楽しそうに言う老人に、婦人は少し腹を立てたように腰を押していた指に力を込めた。

「いてっててて、力を入れ過ぎだ! おい、こら! やめろ!」
「年甲斐もなく若い娘御の尻など追いかけるのが悪いのですわ」
「だから違うと言っているだろうに」

 悪戯っぽく言う婦人は実年齢よりもずっと若く見えた。

「それは冗談にしても、少しはお年を考えてくださいませ。商工組合の運営委員≪カンスル≫の座や、領地の政り事はオットーに譲ったとはいえ。まだまだこのリューネベルグの長はあなたなのですから」

 そう言って、慈しむような手つきで、夫の背を撫でる婦人。

「女が男のすることに口を出すんじゃねえよ……。ったく、ジジイの数少ない楽しみくらい勝手にさせろってんだ」
「あらあら、でも今回はその女にしてやられたのでしょう?」
「ふん、こっちは理不尽で破る事すら簡単な約束を、最後まで貫徹しようとする意気地を見たかっただけなんだがな。有りもしない物を探し続けるってのは堪えるもんさ。しかしあの娘共、ワシの答えの上を行きやがった! これだから女ってやつぁ、嫌いなんだ。予測がつかねえ行動をする生き物なんて薄気味悪いったらねえ」

 飽くまで女嫌いというポーズは崩さない老人の頑固さに、婦人はコロコロと楽しそうに笑った。



「……なぁ」
「どうなさいましたか?」
「女の幸せってのは、男がつくり与えるもの、だよな?」
「ええ、“わたくしは”そう思いますわ。男性と結ばれ、その子を産み、共に年を取る。それが女の幸せかと」
「そうか」

 老人はその答えに、どこか納得いかないような顔で、白い髭をもしゃっ、と撫ぜた。
 その様子を見て、言葉足らずだったか、と婦人は咳払いして「でも」と繋げる。

「彼女らにとっては、それは間違いなのでしょうね」
「与えられる幸福なんてものを信じちゃいない、ってことか」
「でしょう。でも、その方が、我が国、ゲルマニアの女らしいかもしれませんわね? あら? そうすると、わたくしの方が異端なのかしら?」
「カカカ、そうか、お前がおかしいのか。この国はねだる者には地獄だが、掴み取る者にとっては楽園≪ヴァルハラ≫だものな」
 
 答えに導いてあげたと言うのに、馬鹿にしたように言う老人に、婦人は少しだけかちっ、と来た。

「ふっふ、何も器量良しの女が自分で身を立てる必要などないだろう、なんてお優しいあなたらしくはあるけれど、この発言も十分におかしいのでは?」
「わっ、ワシは工場に女が入っていたから腹が立っただけだ! くだらん想像をするな!」
 
 照れ隠しのつもりなのか、老人は声を張り上げて言うけれど、婦人はくすくすと口に手を添えて含み笑いをしたままだ。

「しかし、男でも女でも、そういった若者が出てくる限り、我が国の未来は明るいですわね」
「それは言えてらあな。いつだって時代を作るのは、未来(さき)のある若造なんだからよ!」



 そう叫んで、気持ちのいい豪放な笑い声をあげた老人の名を、ヴィルヘルム・ユーリウス・フォン・ブラウンシュワイグ=リューネベルグという。

 東のザクセン、西のツェルプストーを超える、ゲルマニア貴族としては最大の領地を持つ大領主であり、代々ハノーファー工業商会組合の主席運営委員を務める、ゲルマニア公爵家の当主である。
 若き頃は血気盛んで、力に憧れる典型的ゲルマニア貴族であり、魔法だけでは飽き足らず、剣の腕も磨いたという豪傑だ。しかし、領主として成熟してからは、壊す事ではなく創る事に目覚め、先代から続く都市部改革の成功に貢献した。



 そんな彼の世を偲ぶ仮の名を──ゲルマニアの錬金術師、シュペー卿という。



 アリア達は思っている以上に、神を魅了していたのかもしれなかった。





アリアのメモ書き その3

毒殺姫の商店(?)、ハノーファーにてパートⅡ。
(スゥ以下切り捨て。1エキュー未満は切り上げ)


評価       棚からクックベリーパイな行商人
道程       ケルン→オルベ→ゲルマニア北西部→ハノーファー
         さあ、いよいよ国外へ進出よ!


今回の費用  通信費(郵便代とか) 手紙代(to フーゴ)1エキュー
       旅費交通費 民家宿泊費×7  6エキュー すごく、痛いです……
       消耗品費・雑費  食事代  1エキュー
       備品代 馬車預かり、馬の世話代(ヘンデル・アントニウス商社)  8エキュー 人間様より高えよ!
           リピーティングクロスボウ整備用品、矢を補充  5エキュー トリステインには賊が多いらしいという情報。備えあればなんとやら。

       計 20エキュー

今回の収益  売上 0エキュー(地下水、価値不明のため計上しない)


★今回の利益(=収益-費用) ▲20エキュー


資産    固定資産  乗物  ペルシュロン種馬×2
                中古大型幌馬車(固定化済み)
(その他、消耗品や生活雑貨などは再販が不可として費用に計上するものとする)
       商品   (ゲ)ハンブルグ産 毛織物(無地) △
            (ゲ)ハンブルグ産 木綿糸     △
            (ゲ)ハンブルグ産 木綿布     △ 全てを金属製品に、というのも危険かな~、とね。
            (ゲ)シュペー作 農具一式 △
            (ゲ)シュペー作 調理包丁 △
            (ゲ)ベネディクト工房 縫い針他裁縫用具 △
            (ゲ)ベネディクト工房 はりがね△
            (ゲ)ベネディクト工房 厨房用品類△
            (ゲ)ベネディクト工房 農耕馬用蹄鉄△
            
             計・898エキュー(商品単価は最も新しく取得された時の評価基準、先入先出の原則にのっとる)

現金   34エキュー(小切手、期限到来後債利札など通貨代用証券を含む)
預金   なし
土地建物 なし
債権   なし
       

負債          なし

★資本(=資産-負債)   932エキュー
       
★目標達成率       932エキュー/30000エキュー(3,0%)

★ユニーク品(用途不明、価値不明のお宝。いずれ競売に掛けよう)
①地下水 短剣
 人の心を乗っ取るニクいヤツ。系統魔法が使える。元傭兵らしい。どこかで聞いたような名前の気もするけれど、きっと気のせいだろう。





つづけ





ひそかに一周年!



[19087] 38.5話 ゲルマニアの休日
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:56d7cea6
Date: 2011/07/20 00:33
≪ep1. 想い人は今≫

 もはや懐かしさすらも感じてしまう、一面が大理石の床と、所せましと彫刻の施された薄いクリーム色の大広間。
 壁際には、一糸乱れぬ直立不動で屋敷のメイド達が控えている。その中には、見覚えのない者も何人か存在する。おそらくは新しく入った使用人なのだろう。
 一見、壮麗な屋敷は何も変わらないように見えるけれども、ここでも四年という時の流れは確かにあったのだ、と実感する。

 まっさらなレース織のテーブルクロスを掛けられたマホガニーの長机。その上にちょこんと添えられたウェッヂウッドのティーカップを粗野な仕草で掴む。
 匂い立つ芳しい香り。僅かにゴールデンディップを混合されたリゼの高級茶葉と言ったところだろうか。

 俺はヒルスタのダイニングチェアをぐらりと傾けて、丁度良い温度に調整されたソレをゆっくりと胃に流し込んだ。
 さっぱりとした風味が体の中に染み込んでいく。それは俺の芯にまで届き、憂鬱な気分を少しだけ吹き飛ばしてくれるような気がした。
 
「ふぅ」

 一息吐きながら、ヴェネツィア産のステンドグラス越しに彩り豊かな庭園を見る。
 既にチューリップの赤はなりを顰め、今はパンジーの紫が主流となりつつあるようだ。

 そういえばもうウルの月か。

 アリアが旅立ってもう一月が経つ。
 トリスタニアに送った手紙は、無事に読まれているだろうか。

 今更ながら、手紙しか繋がりがない、というのは存外に心細いものだ。
 指輪も贈ったし、それに……キスまでしたのだから! 二人の間には確かな絆が出来たはずだ。
 なので、旅先での色恋沙汰についてはそれほど心配していない。そもそも彼女はそういった事にあまり興味はないだろう。……俺だけは特別として。

 しかし、見知らぬ土地で、たった二人の女連れだ。ロッテ義姉さんがいるとはいえ、もし何か事故にあったら、事件に巻き込まれたら、と否が応でも心配になってしまう。

 お互い商人を目指しているのだから仕方のない事とはいえ、やはり時が経てば経つほどに感情的に納得できない部分も露呈してくる。
 毎日のように、彼女と顔を合わせ、何気ない会話を交わし、共に仕事をし、時には喧嘩していた3年の日々。
 彼女がいなくなる事によって、それがとてつもなく貴重なものだったのだと、改めて思い知らされた。
 願ってはいけない事なのに、時折ふと、彼女が挫折してカシミール商店へと戻ってこないだろうか、などと考えてしまう。

 まったく、どうかしている。

 ようするに俺は寂しいのだろう。女々しいと自分でも思うが、実際にそうなのだから仕方がない。あぁ、俺もアイツの旅に付いていければ。

 まあ、もし俺が「連れて行け」と言っても、アイツは十中八九その申し出を断るだろうけれども。
 ペンフレンドという形での交際はしているものの、彼女の一番は“まだ”俺ではなく、商売なのだから。

「ふっ、まったく、男は辛いぜ」

 少し板についてきた気障な仕草で、自嘲気味な笑みを零してみる。
 結局のところ、今はただ、俺自身が商人として一端となる事を考えるのが最良なのだろう。
 きっとそれが一番、“二人の”将来にとっての確かな糧になるだろうから──



 バンッ!



「『ふっ』じゃありませんわ……。フーゴ様?」

 長机を激しく叩く音とともに、おどろおどろしい女の声がして、俺の妄想的思考は中断された。
 
 思い出したように机の対面を見やると、ぷるぷると薄い紅を塗った唇を震わせる──よく手入れされたプラチナブロンドの巻き髪娘がいた。

「……えぇと、何だっけ?」
「『何だっけ』……? どっ、どど、どっ」
「ああ、ドーナッツならそっちに山積みに──」
「どこまでっ! わたくしを辱めれば気が済むのですかっ! 貴方はっ!」
 
 俺が少し惚けてみると、掴みかからん程の剣幕でまくしたてる縦ロール。
 参ったな、こりゃ……。ヒステリックな女は手がつけられん。

「まあなんだ、その、すまないな」
「謝って済むのなら、この世に官憲なんて要りませんわ」
「仕方ないだろう、えっと……?」
「ヒルダですわ。ヒルダ・ヒルデガルド・ツー・ヒルケンシュタット。まったく、婚約者の名前くらい覚えておくのがマナーではなくて?」

 本来は垂れたどんぐりのようなまなこを吊り上げて、りんごのほっぺをを膨らませる令嬢、ヒルダ。
 そう、彼女は四年前にこのホールで行われた見合いによって、俺の婚約者ということになっていた、ヒルケンシュタット男爵家の一人娘である。

「たしかにミス・ヒルケンシュタットの仰る通り。しかし、一つ語弊がある」
「はい?」
「“元”婚約者、だよな?」
「あんな一方的な婚約の破棄だなんて! 両親は認めても、わたくしは認めません!」
 
 整った顔を憤怒の表情に染めてそう言い切るヒルダ。

 あぁ、クソ、耳に響くな、この金切り声。まさかあの大人しそうな令嬢が、こんなヒス持ち女だったとは……。
 どうやら彼女は、4年前の見合いの時は、南部の元締めであるフッガー家に気に入られるようにと猫を被っていたらしい。

「ふふふ、これは困りましたわね。どうしましょう、フーゴ?」

 全く困っていない、むしろ修羅場を楽しんでいるような表情で言うのはお袋、ヴェルヘルミーナ。
 
 位置関係は俺を基準として、対面の席にヒルダ、少し離れた席で呑気にティータイムと洒落こんでいるお袋、といった感じである。



 さて、何故俺がアウグスブルグに居て、このような修羅場に遭遇しているのかと言うと。

 まず、俺が四年ぶりに帰郷している理由は、アリアに宣言した通り、“魔法学院には行かない”、“商売道で食っていく”、それと“男爵家令嬢との婚約を破棄する”という意向を実家に伝えるため。
 すでに連絡員を通じて実家に色々と話は伝わっているのかもしれないが……。やはりこれは俺の口から直接言わねばならないだろう。それが“けじめ”というものだ。

 商店の方は親方に無理を言って、一週間程の休暇(無給)としてもらっている。
 実家に顔を見せに行きます、とだけ言うと、親方は意外にもあっさり了承してくれた。帰ってきたら三倍働いてもらうぞ、と冗談交じりに言われたのが、本気っぽくて恐ろしいのだが。

 とはいえ、俺は別に実家と縁を切る気はないから、出来るだけ円満にと考えていた。
 少し前までは、貴族の名を捨てるのもやむなし、なんて思ってもいたが、折角大商家であるフッガー家へのコネクションをむざむざ手放すのは馬鹿のする事だろう。
 どうせなら最大限利用するべきだ。アリアが俺の立場ならばきっとそうするだろうし。



 とまあ、そんな感じで実家に戻ってきたのはいいのだが、きちんとアポイントをとっておけばよかった、と後悔するハメになってしまった。
 何せ、親父はアウグスブルグの組合代表として、ウィンドボナ・帝国統治院での前期(前年度)組合決算報告会へと出向いていて、留守だったのだ。
 普段からあちこちに飛びまわっている親父ではあるが、さすがにウィンドボナでは1日、2日では帰ってこれまい。

 仕方がないので、何日かはこちらに留まる事にし、とりあえず先にお袋にだけ諸処の報告を済ませておいた。
 それに対するお袋の反応は、貴方の人生なのだから、好きにするといい、という淡白なものだった。
てっきり、親父よりもお袋の方が猛反対するかと思っていたのだが……。あまりにも拍子抜けだったので、少し寂しい気もする。

 ただ、アリアとの関係については、異常なほどしつこく聞いてきて、俺を辟易とさせた。これだから、弁えないおばさんという人種は困る(見た目は俺より幼いが)。

 普通、親に洗いざらい“そういう事”を話すなんてのは嫌だろう?

 なので、そこは適当に流し、すかし、誤魔化してしまおうと考えていたのだが。



 そこに単身(数人の従者は連れていたが)でフッガー家の屋敷を訪ねて来たのが、このヒルダ。

 どうやらお袋は、俺が婚約破棄の意志を伝える以前、それも一年以上も前に俺とヒルダとの婚約を破棄したい、とヒルケンシュタット男爵家に伝えていたらしい。
 普通ならば、本人すら出向かない、一方的な婚約破棄など無礼極まりない行為なのだが、ヒルケンシュタット男爵家は、その申し出を苦い顔ながら了承したという。
 俺が放蕩していたという外聞的な理由もあったし、貴族としての力関係、それと破棄を飲んでくれるのならば、代わりに彼の家が自領で行っている牧羊事業への出資を幾許か上乗せする──なんて、取引もあったとお袋はちらりと零していた。何か多大な迷惑を掛けてしまったようでむず痒い。

 ただ、このヒルダ本人は、自分の預かり知らない所のやりとりにまったく納得していないようで、「何故約束を反故にするのでしょう」とか、「まさか、他に女が?」とか、「フーゴ様を支えられるのはわたくししかいません」とか、度々、やってきてはお袋に質問と抗議を繰り返していたらしい。
 それに対してお袋は、「本人が帰ってきたら聞くといいわ」と半ば無視の姿勢を貫いているというが、それでも二月に一度はこうして屋敷を訪ねてくるのだとか。

 本来、親同士としてはすでに決まった事なのだから、貴族としての婚約はもはや無効なはずで、彼女の行為には正当性はまるでないし、突然訪ねてきたからといって屋敷でもてなす理由もない。何せ、彼女は男爵家の一人娘とはいえ、まだ一介の書生にすぎないのだから。
 しかし、お袋もまさかそこまでヒルダが乗り気だったとは知らず、「少し悪い事をしたかしら?」と、若干の後ろめたさもあって、強く追い返す事が出来ていないという。

 なんというか、俺の見立てとは裏腹に、彼女は凄まじい行動派だったらしい。まったく、どこが“典型的な貴族令嬢”なんだか。

 ホント、女ってやつはわからねえな……。



 そして本日。運命の悪戯か、ただの偶然か、ついに俺とヒルダは鉢合わせしてしまった、という訳だ。
 俺自身もお袋と同じで、まさかヒルダが自分の意志でこの婚約に賛同していたとは思わなかったので、引け目、というか罪悪感を感じていた。何せ、婚約を了承したのは、他でもない俺なのだから。

 なので、せめてもの誠意として、包み隠さず「想い人がいるので、申し訳ないが貴女との結婚はできない。ちなみにその相手はケルンで知り合った……」という事実を伝えたのだが。

 どうやらそれがいけなかった。
 アリアが平民である、という事も彼女のプライドに大きく障ってしまったようだ。

「わたくしというものがありながら、貴方という人はっ! しかも、行商人ですって?そんな馬の骨のほうが、由緒あるヒルケンシュタットの長女であるこの私よりも優れているというのですかっ!?」と、キレられてしまった。
 泣かれなかったのは、せめてもの救いというやつだろう。どうやらこのご令嬢もかなりの気丈者らしい。

 まあ、その後は泣きごとやら文句やらを散々聞かされて現在に至るというわけだ。

 やれやれ、どうやったらこのヒルダを納得させられるんだろうか……。
 自分で撒いた種とはいえ、俺はほとほと困り果てていたのである。





 

「あ~、その、少しは、落ち着いたか?」

 ヒステリー気味な愚痴やら文句やら泣きごとやらを一通り聞かされた後、嵐が小康状態になったタイミングを見計らって声をかける。

「失礼な。わたくしはずっと落ち着いておりますわ」

 といいつつも、ふぅふぅ、と荒げた息を落ち着かせているヒルダ。

 ま、さっきよりは幾分話が通じそうだ。
 ここでもう一度謝っておこう。この件に関しては、こちらが全面的に悪いからな。

「そうか? とにかく、悪かったよ。いい加減な考えで婚約なんて受けちまってさ」
「まるで終わった事かのように言うのですね」
「いや、だってな……。実際に話した事も、これがようやく二度目だろう? 始まってすらいなかったような気が」
「ひっ、ひどい! それはいくらなんでもひどすぎますわっ!」

 あ~、藪蛇だったか。
 いかんいかん、どうにも余計な事を口走ってしまうのが俺の悪い癖だ。よし、ここは少し話題を変えてみよう。

「ところで、本気で分からない事が一つあるんだけど」
「……なんですの?」
「どうして俺との婚約にそこまで拘るんだ?」

 そう、それが一番の謎なのだ。

 普通、一度逢っただけ、それも最悪の態度で臨んだ──俺に対して良い感情を持つわけがない。
 となれば、家柄としての魅力となるが、フッガー家以外にも富裕な貴族はいるだろうし、三男の俺と結婚したからといって、それほど大きな繋がりが出来るかどうかは不明だ。何せ、俺は上の兄貴達とはあまり仲がよろしくないからだ。

 彼らは現在ウィンドボナ魔法学院の3年生と2年生。
 ゲルマニア中の上流貴族が集まる学院の中でも、彼らはかなり優秀な成績を収めているとか。
 当然、着実に、しっかりと敷かれたレールの上を歩んでいる彼らの方が貴族としては立派なのだが、どういうわけか親父もお袋は俺の方を贔屓していた。それが彼らは気に食わなかったのだろう。
 だから、親父から長兄へと爵位が継承されれば、その繋がりはそれほど意味をなさないものとなるかもしれないのだ。

「アンタなりに実家の今後を考えての行動なんだろうが……。だったら──」
「それは、違います」

 放蕩息子の俺と婚約してあまり意味はないぞ、と言おうとしたのだが。
 ヒルダはこちらの目を見据えてはっきりとした否定の意志を述べた。
 
「だったら何でだ? まさか出会った瞬間ビビッときました! とか言うんじゃないだろうな? って、ははっ、そんなわけないよな。……悪い、また余計な事を」
「んん、そういうのとはちょっとばかり違いますわね」
「あ? ちょっと?」
「えぇと……少々失礼な発言になってしまうのですが、フーゴ様はお気を悪くしないでしょうか?」
「気にすんな。失礼、無礼は俺の専門だ。ま、話したくないのなら別にいいんだけど」

 少し困ったような顔をして確認を取るヒルダに、俺は肩を竦めてみせた。
 しかし、なんで婚約に拘る理由を述べる事が失礼な発言になるんだ? 

「ヴェルヘルミーナ様も、よろしくて?」
「構わないわよ。私は貴女の言いたい事に、大体の予想がついていますしね」
「さすがお義母様ですわね」

 お義母様?! なんつう図々しい……。

「ふふふ、そう呼ぶのはフーゴをその気にさせてからにして頂戴?」

 しかし、お袋は動揺したようすもなく茶を啜りながら、まんざらでもなさそうに答えた。

 おい、お袋。あんた、アリアの事を買っているんじゃなかったのか?

「とはいえ、面と向かって、“このような事”をお話するのは、ちょっと気恥ずかしいですわ」
「いや、だから無理に話さなくてもいいんだけど」
「そう言われると、逆に話したい気になりますわね……」

 なんつー天の邪鬼だよ。

「えぇと、まず、わたくしが初めてフーゴ様にお会いした時の第一印象は、最悪でしたわ」
「……だろうな」
「言動も仕草も野蛮そのもので、まるで食い詰め者のよう。『この方、本当に礼儀正しい事で知られるフッガー伯のご子息なのかしら?』と疑ったものです」
「あー、そこまで酷かったっけ?」
「ええ。本当、どこの山猿かと思いましたわ。いくらフッガー伯の申し出とはいえ、こんな厄介者を押しつけられるなんてと絶望し、あの場から逃げ出したい気分で一杯でしたわ」
 
 山猿? 厄介者? 絶望? いや、さすがにひどいなそれは?!
 罵声には慣れているとはいえ、そこまでボロクソに言われたら少しは凹むぞ、俺だって。

「ミス・ヒルケンシュタット? さすがに口が過ぎるのではなくて?」
 
 視界の外から、カチャン! とティーカップをソーサーに叩きつける音がした。お袋である。

「申し訳ありません。でも、こうなったらわたくしも包み隠さず本心を語ろうと思いまして。そうでなくては、卑しい泥棒猫に心を奪われてしまったフーゴ様をお救いできませんわ」
「ふん、あまりあの娘を侮らない方がいいわよ」
「お義……ヴェルヘルミーナ様はその娘をご存じですのね?」
「……ええ、まあ、ね。そこいらの貴族よりもよほど気概のある娘よ」 
「ご忠告、痛み入ります」

 やはりお袋はアリアの方に目を掛けているようだ。
 ヒルダが丁寧にお辞儀をしながらも、ぎり、と歯を噛んでいるのが見えた。

 あれ、でも、お袋ってそんなにもアリアの事を知っていたっけ?
 いつだかお袋がカシミール商店に乗り込んで来た時に、“お話”する機会があったとは聞いていたが。

「ふぅ、しかし、そう言えば発言を許したのは私でしたか。話の腰を折って悪かったわ。でもね、子を悪く言われると、自分を卑下されるよりも腹が立つものなのよ」
「わかりますわ、ヴェルヘルミーナ様」
「あら、果たして貴女くらいのご令嬢に母の気持ちが理解出来るのかしら」

 ……恥ずかしい事サラっと言うんじゃねえ。
 お袋も子離れしたんだな、と思っていたが、親馬鹿なのは治っていないらしい。

「ええ、きっとソレに近いものが、わたくしがフーゴ様をお慕いする理由なのでしょうから」
「へっ?」
「確かに第一印象は良くないものでしたが……。フーゴ様とお話をしているうちに、その印象が少し変わってきましたの」

 俺が間抜けな声を挙げると、ヒルダはこちらに向き直って言う。
 いや、お慕いされても困るんだが、ほんと。

「もしかして、俺の話術に惚れたとか?」
「いえ、まったく。というか、あのぶっきらぼうな質問で話術って(笑)」
「うぐっ!」
「貴族にあるまじき言動。他人を寄せ付けないような空気。それでいてどこか寂しそうな……。そう、わたくしは思ったのですよ。このままではきっとこの方は、フーゴ様は駄目な人間になってしまう、と」

 なんじゃそりゃ。評価最悪なままじゃねえか?!

「はじまりは親同士が勝手に決めた望まぬ婚約かもしれません。しかし、これもまた始祖の巡り合わせ。わたくしこそがこの方のお傍に居なければ、支えていかなければならないのではないか、と思えるようになってきたのです」
「……はあ?」
「そう、フーゴ様はきっとやれば出来る子なんです。でも、わたくしのようなしっかり者がついていなければ、たちどころに駄目になってしまう。貴方にはわたくしが必要なのです!」

 垂れた目尻を潤ませながら力説するヒルダ。こいつ……、自分に酔ってやがる……。

 そういえば聞いた事がある。どうしようもない男に尽くす事に使命と幸福を感じるタイプの女がいると。
 得てしてそういう女は非常にしつこく、自分が正しいと信じて疑わない。そして、離別に凄まじい拒絶感を抱くと。

 ……ヒルダには、このすべてが当てはまるな。
 つうか、一回逢っただけで、人を勝手にどうしようもない奴認定するなよ!?

「ふぅん。貴女、ちょっと前の私に似ているかもしれないわね」
「ありがとうございます! やはり男性というのは母に似た女性に惹かれるものですわよね!」

 お袋が目を細めて言うと、ヒルダは好き勝手な事を言う。
 いや、それはねーから。アリアとお袋なんて全然似てねえじゃねえか。

「あのな、何か勝手な想像をしているみたいだけど」
「あっ、そういえば、わたくしからもお聞きしたい事がありますの」
「……あ?」
「泥棒猫……いえ、その行商人の娘とはどの程度のお付き合いをなされているのかしら?」
 
 ヒルダは俺の言葉を遮って問いを返した。
 なるほど、人の話を聞かないという特性も追加だな。

「あ~、ミス・ヒルケンシュタット」
「ヒルダ、とお呼びくださって結構ですわよ?」
「いや、それは遠慮しておく。悪いが、その事を軽々しく話す気はないんだ」
「正妻たるわたくしには、妾の事も聞く権利があると思うのですが」
「誰が正妻?! 勝手に話を進めるな!?」

 滅茶苦茶だな、この女。どうあっても自分の意志を押し通すつもりか。
 そういう所はアリアにある意味似ているかもしれないが、根本的に方向性が違う。

「あら、それは私も興味があるわね」
「お袋まで! あんた一体どっちの味方なんだよ?」

 この噂好き、便乗しやがった……。

「私は飽くまで中立、どちらの味方でもないわよ? しかし、ミス・ヒルケンシュタット。それを聞いてどうするつもり? 仲が進んでいたとしたら、諦めるのかしら」
「ほほほ、ご冗談を。ただ、夫のオイタを真っ向から受け止めるのも妻の勤めかと思いまして。それに、敵を知り、己を知れば百戦危うからずという金言もありますし」
「中々博識ね。少しは貴女の事を好きになれそうよ」
「お褒めにあずかり、光栄にございますわ」

 なんてこった! お袋が頼りにならないどころか、あちら側に回るとは!

 にこにことしながら、期待したような目でこちらを窺う二人……いや、壁際にいるメイド達まで興味津々といった感じで身を乗り出している。
 
 多勢に無勢。四面楚歌。まわりかこまれてしまった!
 
 う~む。こうなったら、アリアとの事を洗いざらい喋ってしまおうか?

 “真っ向から受け止める”なんて言っているが、二人の仲の親密さを知れば、いくらヒルダでも諦めるかもしれない。

「……指輪を、贈ったな。このエクレール・ダ・ムールの魔力を込めたクリスタルのペアリングを」
「おや、贈り物をしただけですの?」
「まさか。今は濃密な手紙のやり取りをしている仲だぞ?」
「文通……ね。いきなり遠距離恋愛という事かしら?」
「そうだけど」

 俺は自信満々に胸を張って言うが、ヒルダは馬鹿にしたようにふふっ、と鼻で嗤う。

「ばっ、馬鹿にするなよ? き、きっ、キスだってしたんだからな。それも唇にだ!」

 その態度にムカついた俺は、とうとう言ってしまった。アリアとの秘密を。

「……えっ」

 一転、ヒルダは驚いたように目を見開く。
 気恥ずかしいが、これでこの女もすっぱりと諦めるはず。
 何せ、他の女と接吻をしたのだ。一発くらい殴られる覚悟はしなくてはならないかもしれないな。

「あの……、まさかとは思いますが、それだけ、ですの?」
「……はっ?」

 とても意外そうに、拍子抜けしたかのように言うヒルダ。
 え? “それだけ”って、どういうことだ? それ以上はないだろ?

「フーゴ、貴方。もしかして、あの娘を一度も抱いていないのかしら?」
「そりゃ、ハグはしたけど?」
「そういう意味ではなくて……。その、もしかして、キスをして、指輪を贈っただけで、そのまま旅に出してしまったと?」
「十分じゃねーか。何を言いたいんだよ、お袋」
「…………ああ、やっぱり、私の教育って甘かったのかしら」

 駄目だこりゃ、と言いたげにふるふると首を横に振るお袋。

「ふふふ……。フーゴ様って乙女のように暢気でございますのね。あぁ、可愛らしい!」
「う、うるせえよっ! くそ、二人とも、何が言いたいんだよ?!」

 ヒルダは愉快そうに歪めた口元を、上品に手で覆って笑って見せる。
 
「ま、これで勝負の行方はわからなくなったという事かしらね」
「いえ、お義母様、わたくしの圧倒的な有利となったのでは?」
「居丈高になるのは全てが確定してからの方がいいわよ? あの娘も、こと恋愛に関してはなかなかずれた所があるようだから、もしかしたら手紙だけでも繋ぎとめておけるかも……」
「無理でしょう、常識的に考えて」
「普通に考えればそうよねえ」

 ひそひそと話す女の連合軍。
 お袋はこちらをチラリと見て、がっかりとしたように嘆息する。
 ヒルダはもう有頂天といった感じで、満面の笑みを見せている。

 ふと壁際に視線を移すと、メイド達までもが、憐れんだような視線を俺に向けていた。

 ここに俺の味方はいないのか?!

「だから、どういう事なんだよおぉっ!?」

 何とも不安を掻き立てる彼女達に向けて叫んでみるが、誰もその問いには答えてはくれない。
 皆は一様に呆れと憐れみの色を返すだけである。
 


 結局、俺はその答えが分からぬまま、悶々とした休日を過ごすハメになってしまったのだった……。





≪ep2. 不揃いなオジサマ達≫

 帝都ウィンドボナ。

 皇帝アルブレヒド3世のお膝元であるこの都は、国中、いや、世界中の品物が一手に集まる大中継地点であり、平民階級のブルジョア、即ち、銀行家や資本家達が集まる、ゲルマニア経済の中心都市である。
 また、皇帝閣下のおわす質実剛健な皇宮は勿論、最高法機関である帝国最高法院、財務外交を担当する帝国統治院などが存在する、国内政治の中心でもある。

 そのウィンドボナにおいて、不肖このルートヴィヒは、二期連続で帝国統治院の議長を務めている。

 帝国統治院とは、12の地方都市代表、2の聖俗諸侯、1の高位聖職者と方伯の代表者、4の宮廷貴族代表の、計20の議員によって構成される中央議会、及びその下で働く官吏達を指す。

 官吏を目指す者にとって、国の心臓部とも言える統治院で働くという事はこの上ない栄誉である。
 所謂、そこは幾多の厳しい競争に勝ち残り、選ばれてきたエリート達の巣窟。
 ましてや、私達のような宮廷貴族には4つしか用意されていない議席に座るという事は、エリート中のエリート、秀才中の秀才であるという事の証明である。

 そう、つまり、私はエラいのだ!

 皇帝閣下には及ばなくても、二番目にはエラいはずなのだ。少なくともこの院の中では。

 そして今、議会の円卓に着く誰よりも──



「うおっほん、リューネブルグ卿。ツェルプストー辺境伯はまだお見えになりませんかな? 大分時間が押してしまっておるのですが」
 
 そんな風に自分を奮い立たせて、大仰に咳払いをしてみせる。

「小僧の動向などワシが知るわけなかろう。少しは考えて口を開こうや、ブフォルテンの三男坊よう」
「あ、そっ、その。も、申し訳ない」

 しかし、いかにも「不機嫌です」と言いたげな老公爵に凄まれてしまい、私の威厳はあっさりと消し飛んだ。
 ぐぅ、ちょっと聞いてみただけなのに、何という理不尽だろう。どう考えても悪いのは時間に遅れているツェルプストー卿であり、私に非はないじゃないか……。

 幅広の椅子にどっかりと腰かけ、丸太のような腕を組む、身の丈2メイルを超える巨老──北部の重鎮、ブラウンシュワイグ領主、白髭公ヴィルヘルム・ユーリウス・フォン・ブラウンシュワイグ=リューネベルグ──を横目で見ながら、私は内心毒づいた。

「ちっ、ツェルプストーめ。大物ぶりやがって……。相変わらず頭にクるヤロオだぜ」

 イラついたような言葉と一緒に、ペッ、と唾を吐き捨てたのは、円卓に頬杖をついている小男だ。
 その異様にぎらついた双眸と、怒髪天といったかんじに逆立つブルネットの髪、人を日常的に恫喝しているのであろう掠れ声は、議会の席で唾を吐くという、貴族としてあるまじき行為を私に注意させることを躊躇させる。

 杖とマントがなければ、どうみても貧民街のチンピラにしか見えないこの男は、東のザクセン州を束ねる辺境伯、テオドール・ハンス=ゲオルグ・アウグスト・フォン・ザクセン・ヴァイマル。
 また、ドレスデン資材商会組合の主席運営委員≪カンスル≫も務める東の雄でもある。

 ツェルプストー辺境伯とは、ウィンドボナ魔法学院の同期らしく、犬猿の仲だという噂だ。
 ツェルプストーとザクセンは、古くはアウグスト公国の重鎮であり、その頃から対立していたというから、あるいは血筋のせいかもしれない。

「ほっほ、まあま、領地経営に商会経営と彼も忙しいのですよ。ザクセン卿も落ち着いて」

 そんなザクセン卿に物怖じもせず、人好きのしそうな丸っこい顔を綻ばせる恰幅の良い男が、南部アウグスブルグ、ニュルンベルグの二大都市を領地に治める大伯爵ヨハン・カスパル・フォン・フッガー。言うまでもなく、アウグスブルグ自由商業組合の代表である。

 見た目は与し易そうな好人物に見える。しかし、この男が一番何を考えているかわからない。それが私は恐ろしい。

 何せ、元は商家から成り上がった一方伯でありながら、辺境伯を含む南部諸侯が誰も後ろ指を差せない、と口を揃えて怯えるほどの存在なのである。
 その柔和な顔の皮の下には、一体どんな化け物を飼っている事やら……。

 うん、何というか。ここにいる全員、苦手な部類……いや、はっきり言うと嫌いかもしれない。
 くっ、せめてリューネベルグ公の代わりに、ご子息のオットー殿が来ていれば!
 いつもは彼が地方諸侯を纏めてくれるのに! どうして今回は公爵が出向いているんだよ?

 あ、いかん、胃がキリキリとしてきた……。

 誰でもいい、この濁りきった、荒んだ空気から解放してくれ……っ!



 ばたんっ!



 私の願いを聞き届けたかのようなタイミング。
 締め切られた議会の金縁扉が開かれて、外の清浄の空気が流れ込んで来る。

「ツェルプストー卿、お見えになりまし──」
「よお、浮かねえ顔してどうしたんだい皆々様。何か揉め事かい?」

 付き添いの官吏を遮って、悪びれる様子もなく、のほほんとした調子で片手を挙げてみせるのは赤毛に褐色肌の青年。
 そう、彼こそが、集合に遅れていた“赤き情熱の英傑”クリスティアン・アウグスト。つまり、ツェルプストー辺境伯である。

「ツェルプストー卿、少々お時間を──」
「あぁ、だがそれはたった今解決したよ。遅刻者のテメェが来る事でな」

 私は彼の遅刻について諫言をしようとしたが、それはザクセン卿の挑発によってかき消されてしまった。
 うぅ……、いかん。このままではもっとまずい雰囲気になってしまうのでは?

「連絡はしたつもりだが? どうやら手違いで伝わっていなかったようだな」
「ぬけぬけと!」
「おいおい、俺がいなくて不安だったのか? 友達少ないもんな、お前」
「はっ、ツェルプストー……。学生の頃からテメェが気に食わなかったんだよぉ」
「ほう? そうなのか?」

 下から射殺すような視線を送るザクセン卿に対して、余裕綽々といった笑みを浮かべるツェルプストー卿。

「いい加減なヤロオの癖に、何をするにもテメェがリーダーに推されやがる……。どこにでも出てきてボス面しやがるっ!」
「はん、お前もボスになったんだろ? 男臭いド田舎の猿山でよ」
「ツェルプストォッ!」
「“サー”を付けろよ、デ──」

 ズンッ!

 一触即発の二人の手前に巨大な大剣が突き刺さる。しん、と何とも言えない気まずい静寂が辺りを包んだ。

「小僧共がピーチクパーチクうるせぇんだよ。てめえらそれでも金玉付いてんのか、オイ」

 ツェルプストー候がそこまで言ったらやばいだろう、という言葉を叫びかけた所で、罵り合いを中断したのはリューネベルグ公。
 ……もうっ! もうっ! どうしてただの定例会議がこんな物騒なものになるかなあ!

「すっ、すまん、リューネベルグ公」
「おっ、爺さん、久しぶりだな。オットーのヤツはどうしたんだ?」

 しかし、意外にもザクセン卿はそそくさと謝罪を述べて着席する。ツェルプストー卿もコロリと雰囲気を変えて陽気に言う。
 その様子に毒気を抜かれたのか、リューネベルグ公は「はぁ」と一つ息をついて首を横に振った。

 うぅむ。この場を収めるにはこのくらいの荒療治が普通なのか? フッガー伯は相変わらず恵比寿顔のままで着席しているし……。

 しかし、生まれてこの方、事務仕事しかしたことのない私にそんな芸当は無理が過ぎるというものだ。

「アレは領地の政務で忙しくてな。仕方ねえから俺が代理で来たんだよ。まさかこの場に平民の運営委員を出すわけにもいくまい」
「ま、本来は組合代表は身分には関係ないはずなんだがな。とはいえ、さすがにこの面子に囲まれちゃあ、気遅れしちまうか」
 
 むすっ、としたままのリューネベルク公と平気な表情で談笑しながら着席するツェルプストー卿。
 それを睨みつけて牽制しているザクセン卿。やはりにこにこと朗らかな笑みを浮かべているフッガー卿。

 この4人が我がゲルマニアの四大商業組合≪アルテ≫の長(一人は“元”だが)だと言うのだから……。

 あ~、もう、頭まで痛くなってきたよ、本当……。







「え~、何やら少々手違いがあったようでありますが。本日の会議に出席するメンバーが全員お揃いになりましたので、現時刻から各組合の前期(前年度)決算を総括した報告、並びに今期(今年度)の各組合の指針についての報告会を行わせて頂きます」

 痛む胃と頭を押さえつつ、会議の開会を宣言する。

 本来、統治院の議会とは20人のフルメンバーで行われるが、年に一度、ウルの月の頭に行われる前期決算報告会については、各地方の組合代表と、ウィンドボナ中央金融・商取引組合の長、皇帝閣下の代理である私で行われる(他にもいくつかこういった例外はある)。
 何故かと言えば、報告会とはその名の通りで、この場での統治院の立場は、飽くまで各組合の代表者達の報告を“拝聴させてもらう”という立場にすぎないためだ。

 ウィンドボナ中央金融・商取引組合以外の組合は、皇帝に属しているわけではないので、法(帝国法、教会法)を犯してでもいない限りは、その在り方に文句をつける事はできない。
 どうせ口を出せないのだから、聖職者出身の議員などの畑違いの者がいても仕方なかろう、という理由である。
 勿論、この報告会の内容自体は皇帝閣下並びに、統治院の議員達にも公表されるし、法的もしくは著しく政治的に問題があれば、その代表は統治院に再召喚される。

「では早速……。東部、ザクセン卿からお願いいたします」

 とりあえず、一番喧嘩早そうなザクセン卿を指名する。だってこういう気の短そうな人は一番にしないと文句を言いそうじゃないか。

「俺が先鞭をつけるか。ふん、いいだろう……。では、まずは手元にある幣組合の資料を開いてくれ」

 ザクセン卿はまんざらでもなさそうに、綺麗に背表紙を揃えられた資料を指して言う。彼は見た目に合わず割と几帳面なところがあるらしい。

「細かい数字は巻末の財務諸表と試算表を参考にしてほしい。さて、まず一頁目だが、これは弊組合に属する主だった商家を主たる生業別に分類したものだ。各々、三期前から前前期の決算額、及び今期目標額を記載してある。見てもらえば分かる通り、前期において弊組合が最も力を入れた事業としては、東部諸侯と富裕商人の支援を受けて炭鉱の大規模拡張を開始したという事だ。それに伴って、炭鉱経営者、及び石炭を扱う商社の収入と発言権がさらに大きくなっている。まさか開発してすぐに石炭の採掘量が突然あがったというわけではないが、将来性を期待した出資が増えたと言う事だ。この開発周りにおける今期の事業費と、今後予想される利益については、やはり手元の予定試算を見てほしい。とはいっても、まだ取らぬ狸の何とやらというやつではあるから、あまりアテにされても困るがな。次に二頁目を……」

 板に水を流すかのように、すらすらと報告を行っていくザクセン卿。弁舌は貴族にも商人にも必須な要素であるからして、ここらへんはさすがと言ったところか。

 ツェルプストー卿も、この時ばかりは真剣な顔でメモなど取っているようだ。
 ふぅ、一安心だ……などと言っている場合ではない。私もきちんと聞いておかねば、皇帝閣下から大目玉を喰らってしまう。



「──と、以上だ、質問は?」
「前期の問題点と、今期での修正案を聞いていないんだが」

 ザクセン卿が一通り報告を終えると、ツェルプストー候が即座に挙手をして発言する。
 それは先程の喧嘩腰のものとはうって変わって、非常に怜悧な響きを持つ声だった。

「特に問題はない」
「嘘吐け。硫化鉄、鉄鉱石、銅、亜鉛、硝石、木材、それに石炭の出荷量が特定商社に対してのみ、右肩上がりになっているだろう。モノが売れているのは結構な事だが、この偏り方はどう考えても問題としか思えない」
「ああ、それは……。組合の経済的な問題というよりは、どちらかと言えば」
「国の政治的問題か」
「ふん、そういう事だ」

 ザクセン卿の言葉を先回りしてツェルプストー卿がその答えを言い当てる。
 この二人、実は気が合うんじゃないのか……?

 言われてみれば、アルビオンに支社、もしくはツテを持つ商社に向けてだけ、年を重ねる毎に、ツェルプストー卿の指摘した物品の出荷割合が増しているようだ。

「ウチもそうだぜ? 火薬、弾薬、砲、刀剣なんかの物騒なもんが、例年よりも相当量アルビオンに流れてやがるみたいだな。ま、交易関係はツェルプストーの小僧やフッガー卿の方が詳しいだろうが」
「ふむ……。では、いよいよ、白の王国に嵐が吹き荒れますかな?」
「いや、多いつっても今すぐにドンパチを始められるような量じゃねえ。逼迫した一部のアルビオン貴族が王家に叛意を持っているのは間違いない情報だが……。反乱を起こそうにも、大義名分がない状態では、王家側に付く貴族の方が多かろう。何かきっかけを掴むその時まで、力を蓄えるつもりじゃねえか?」
「ほほ、随分と優雅にのんびりと構えておりますなぁ、アルビオンの諸侯方は。羊の手を扱っている私としましては、彼の王家には早々にご退場頂きたいのですが、ねぇ」
「あの王家が牧羊技術の漏洩・流出に厳しいからか? 国家事業だけあって、未だにアルビオンは羊、とりわけ羊毛についてだけは他の追随を許さねえもんな。……しかし、そりゃあ少し短絡的ってもんだ」
「ほう、というと?」
「ワシとしては、内戦になるなら出来るだけ長期化してほしいところだな。軍需品を捌くなら対岸の火事ほどおいしい事はねえ」
「おっと、それはまた物騒な物言いですな? リューネベルグ公」
「カッ、お前さん程じゃねえよ、フッガー卿」

 黒い笑みを浮かべて牽制し合うリューネベルグ公とフッガー卿。

 西と東の仲が悪いのと同様に、北と南の仲も微妙なのである。

 初代のフッガー伯が平民時代に絡め取った南部の辺境伯(フッガー家が多額の借金のカタとして、当時はまだ小規模だったニュルンベルグの銀鉱の採掘権を当時のアウグスブルグ領主であった辺境伯から譲り受け、規模を拡大。実は大鉱脈だったニュルンベルグ銀山を手放した辺境伯家は大損。以後、彼の家は没落した)が、リューネべルグ公爵家の流れを汲む家だったから、という噂もあるが、本当の理由は定かではない。
 
 アルビオンの不穏な噂はもはや商人の間でも有名になってしまっている程だから、何かきっかけさえあればいつ内戦が勃発してもおかしくない状態なのは確かだ。
 しかし現状、王家が打倒されるのは考えにくいだろう。何せ6000年続いている(と言われている)国なのだ。一部貴族と袂を分かち、領土を分け合うことになったとしても、アルビオン王家自体は存続するのではなかろうか。

 我が国の施策としては、傍観か、干渉か。うぅむ、まあ、ロマリアとガリアの出方次第と言ったところか……。

「さて、国外の話が出たって事は、次は俺だな!」

 勇んで立ちあがるのはツェルプストー卿だ。
 議長である私を差し置いて勝手に話を進めないで欲しいのだが。

 あれ、ひょっとしてこの場に私って要らない?
 いや、しかし皇帝閣下と統治院議会に報告するのは私の役目だし……。
 
 もう、ここは開き直って聞き手に徹する事にしよう。あまり思い悩むと胃に穴が空いてしまいそうだ。

「え~、ウチの主だった組合員と言えば、言うまでもなく交易を生業にする商家だが。全体的に見れば、前期は好況だった、といったところだな」
「ほほ、何か含みを持った言い方ですな」
「はっは、交易を営むフッガー卿はご存知でしょう。つまり、部分的に見ればあまりよろしくない事もあると言う事です」

 ツェルプストー卿の勿体ぶった物言いに、フッガー卿はやはり、と頷く。他の二人は何の事だか、と首をひねる。
 リューネベルグ公とザクセン卿は、組合の代表とはいえ、彼らは基本的に工場や鉱山の経営者であり、商社に直接タッチしている訳ではない。なので、基本的に交易事情に関してはそこまで詳しくはないのだろう。

「まずは明るい報告から行こうか。前期は新たに開拓した販路は少なかったが、ロマリアの自治都市≪コムーネ≫との繋がりがより強固なものになったと確信している。これはロマリアの主流である“穏健派”が我が国に対して、というか金払いの良い外国商社に対しては好意的である事に起因する。ただ、最近、“厳格派”の連中に怪しい動きがあるという情報もある」
「怪しい動き? 清く正しい“厳格派”なんてのは、今やカビの生えた化石だろう?」
「5年前に連中が隣国で起こした事件もある。完全に死んでいるというわけでもないんだろう」
「あぁ、新教徒狩りか。金にもならねぇのに御苦労なこった。ま、新教徒が増えすぎちまったら、連中はおまんまの喰い上げになっちまうもんなあ」

 皮肉っぽく肩をすくめて見せるリューネベルグ公。「まったくだ」というように頷いてみせる他の3人。ロマリアの坊主共が見たら卒倒するだろう、罰当たり振りである。
 始祖信仰の恩恵を最大限に受けている他国の王侯貴族とは違い、ゲルマニアの力ある貴族は(少なくともここにいる4人は)たとえブリミル教がなくとも、地位や権威の存続が可能だという自負があるため、信仰心が薄いのだろう。それはペン一本、口先一つでここまで登りつめた、元は男爵家の末弟にすぎない私も同じだ。

 “穏健派”というのは、始祖の教えを広義的に解釈し……、つまりは金に汚い生臭坊主の事だ。この派閥に属する歴代教皇達のマニフェストを示すのなら、教会法の緩和、商工業の重視、都市自治権の保障、能力主義による官の選抜、などがあげられる。
 “厳格派”というのは、その反対だ。“金こそが諸悪の根源なり”という教えに代表されるような禁欲の狂信者達。聖地奪還、異教徒の排除、貧民の救済、身分の厳格化、などを掲げているのがこの派閥である。

 たとえば、厳密に言うと教会法では、金貸しで利息を取る事は禁止されているが──

 “穏健派”の解釈によれば、布施という形でなら利息を取っても良い、としている。
 利益の一部を教会に寄付するならば、どんどんやってもいいよ、という事だ。故に大銀行家になると慈善家としても有名なものが多くなってくる。

 “厳格派”の解釈によれば、どんな理由があろうとも、利息を取るのは悪である。
 もし厳格派がロマリアの中核になってしまうと、金貸しの商売はあがったりになってしまう。まあ……、狡猾な彼らの事だから、教会法の網の目を潜るなり、地下に潜るなりして完全にその灯が消える事はないとは思うが。

 坊主としてどちらが正しいかといえば後者だが、人間として正しいのは前者だろう。

 歴史的にみても“厳格派”がアウソーニャ半島の主導を握った事は少ない。
 あまりにも教会が堕落し、民衆の信仰心も失せ、その権威が失墜しかけた時にのみ台頭する程度の勢力である。

 ちなみに、ガリアとゲルマニアは“穏健派”を支持し、アルビオンとトリステインは“厳格派”を支持している。

「続いてガリアは例年通りといったところで、特に変わりはない。基本的にガリアの小売業の連中は、確実に利益の出る物しか買わないし、古くからの取引関係を大事にする事が多い。現時点ではこれ以上の新規参入は難しいと思われる」
「ふん、いつも通りか。何か情勢の変化はないのか?」

 ザクセン卿がやや不満そうな声で問う。
 “土の国”といわれるだけあって、ガリアは鉱物資源や森林資源が豊富な土地だ。ザクセン卿が治める東部地域にとって、商売上のライバルとなり得る地域であるから、その動向も気になるのだろう。

「これといって、我が国に関係するような出来事はないな。敢えて挙げるならば、ロマリアとの国境沿いの領主、モンペリエ候が、消えたらしい」
「モンペリエ……ルション地方の有力貴族だったか。しかし、消えたってのは?」
「言葉通りの意味だな。二月程前、出入りの商人が候の城であるラ・モジュール城を訪れた所、モンペリエ家の家人はおろか、使用人も含めて、煙のように跡形もなく消え去っていたという話だ。ただ、王家から緘口令が敷かれているらしく、詳しい事は俺にもわからない」
「なんだそりゃ? まるで御伽噺じゃねーか。まさか、笛吹きにでも連れ去られたっつぅのか?」
「さぁな。大方、ガリア王家の粛清ってところだろうさ。モンペリエには叛意があったという噂もあるし」

 とんでもな話にザクセン卿が眉を顰めるが、ツェルプストー卿は「どうでもいいか」とばかりに、話題を切り替える。

「とはいえ、ウチと最も取引額が多いのはガリアだからな。今期も新規若手事業者、つまり行商人の遍歴先としては一番人気となっている」
「アルビオンは地理的にも、政情的にも遍歴商人には無理がありますしねえ。しかし、トリステインはどうでしょう? 私としては行商人ならばチャンスもあるかと思うのですが、ツェルプストー卿の見解はどうですかな?」

 新人について言及したツェルプストー卿に、フッガー卿は何か含みがあるかのようにそう尋ねる。
 
 行商人ならば、と断りをいれたのは、店を構える商社では厳しいという事を暗に示している。
 その理由は、昔ながらの同業組合(扱うモノによって組合が異なる、当然都市によっても異なる)の利害関係が煩雑で、立ち回りがしにくいという事もあるだろうし、小国や辺境の商人にありがちな臆病心が、我が国の商人の在り方とは合わないという理由もあるだろう。

 しかし、一番の理由はかの国の在り方、国策、つまりは商法や税法にある、と私は考える。

 トリステイン国王、フィリップ3世は“名君”と謳われているそうだが、彼の国での良き君主とは、“貴族階級に優しい政り事”をしている者を指す。
 権力者に都合のいい政治というのは、ハルゲキニアの、いやどんな世界にある国家でも一緒だと思うが、その度合いが問題なのである。
 
 自分達の権威を脅かす者、つまり貴族並みに裕福な平民の台頭を許さない──彼の国では、そんな斜陽(全盛期に比べれば半分以下の領土しかない)国家の権力者にありがちな思想が渦巻いている。
 そんな彼らが頼りにするのはブリミル教だ。先にも言った通り、トリステインは、全ての事柄が教義に優先するという“厳格派”寄り。“身分の厳格化”を推進するこの派閥に依るのは、力のない貴族にとっては都合がいいのである。
 また、“厳格派”は、金儲けというものを邪悪なもの、としているから、貴族が商売に参加するという事もほとんどない。よって、商家への締め付けが異常なまでに厳しい。

 そして締め付けは、トリステイン国内の外国籍商家にも適用されるため、それこそがゲルマニア国籍の商社が少ない、最も大きい原因となっているのだろう。

「私見では、まず、その取っ掛かりを得るのが厳しいかと。一部の農村地帯は裕福な所があります。たとえば、モット伯領、アストン伯領、サン=シュルピス伯領、グランドプレ男領、言いたくはありませんが、ヴァリエール公領もね。しかし、極端に領主側へと利益が偏り過ぎて疲弊した農村が多い事も事実。それに、トリステインの商人もまたガリアのそれに似て、古い付き合いを大切にしますからな。外国の行商人が参入するのは中々に厳しいものがあるでしょう。しかし、どうしてまたそんなことを?」
「ほほ、いえね、恥ずかしながら、末の愚息の嫁候補というのが、この春に行商人となったらしくて。その娘がトリステインに向かったという話を聞いて少々、気になりましてねえ」

 ツェルプストー卿が怪訝な顔をして問うと、フッガー卿は丸い顎を撫ぜながら、目を細めて答えた。
 
 女で行商人とは珍しい……。というか、末弟とはいえ、伯爵家の子息が平民と?
 いや、長男でないならば、ブルジョアの商家の娘が相手でもそれほどおかしくはないのだが。
 ただ、普通は商家が娘を行商に出すなどあり得なくないだろうか。その商家に後継ぎがいないにしろ、普通は娘の夫に後を託すはずだし。う~む、“獅子は仔を千尋の谷に突き落とす”という家なのか?

「む。それは、ケルンの出身者ですかな?」
「ええ」
「もしかして、姉妹で行商している者達では?」
「ほっほ、さすがツェルプストー卿。お耳が早い」

 どうやらツェルプストー卿はその娘に心当たりがあったらしく、正解と告げられて目を丸くした。
 ふむ、やはり西部では有名な大商家の娘達なのだな。

「んっ? 姉妹で行商をしている西部出身の娘達ならワシも知っているぞ。馬鹿ほど長いブロンドの娘と、栗色の巻き毛の娘じゃないか?」
「……へ? なんで爺さんが知っているんだ? 城に籠りきりじゃないのか、最近は」
「いや、少し街に出る機会もあってな。そうか、やはりあいつらか。しかしまあ、フッガー卿の息が掛かった娘だとは思いもよらなんだな……」

 なぜか腰をさすりながら、苦笑いをするリューネべルグ公。心なしか、若干不機嫌になったような気が。

 何と、偶然とはいえ、公にまで知られているとは。一体どこの娘なのだろう。さすがに私も少し興味が湧いてきたぞ。

「いえいえ、今のところ、私はノータッチですよ。愚息が勝手に言っている事ですので」
「なんだ、フッガー卿は支援はしないのかい?」
「実績もない新米商人を特別扱いしてはいけませんからな。それでは彼女のためにもなりません」
「なるほど。モノにならなければ用無し。モノになれば使ってみてもいいかって算段か。ふむ、うむ、実に商人らしい冷徹さだな」

 リューネベルグ公はにやりと笑って、フッガー卿を挑発するような事を言う。

「ほほ……。いやいや、それほどでもありませんよ……」

 うっ……。フッガー伯の周りにドス黒い空気がっ!
 
「お二方。些か、議題から逸脱しすぎているぞ。その辺にしておいてくれないか」

 ザクセン卿はつまらなさそうに、竜虎の睨み合いに注意を促す。
 まさかこの人がこの場を収めるとは! ほっ、と私は安堵の息を吐く。
 しかし、こういう所は、私が諌めなくてはいけないんだよなあ……。

「時間はたっぷりとあるんだから、これくらいの戯れはいいだろうよ? 行商人と伯爵家子息の恋、なんて面白そうな話だしよ」

 おおい! ツェルプストー卿! 話を蒸し返さないでくれ!

「俺は全て人任せのお前と違って忙しいんだよ……」
「ははん。さては、お前、話に入れなくて拗ねていんだろう?」

 そっぽを向くザクセン卿に、クスクスと笑うツェルプストー卿。
 うあ……最悪だっ! 睨み合う竜虎が二組になってしまった……っ!

「誰がそんなことをっ!」
「なんだ、違うのか? それならいいんだがな。俺はまた心配しちまったぜ? お前がまた仲間外れにされてベソかいてるんじゃねえかってよ」
「ツェルプストー……てめぇ……昔の事をねちねちと……」

 ぷちぷちと、米神の血管と千切れる音が聞こえてきそうな形相でゆらりと立ち上がるザクセン卿。ツェルプストーはそれを馬鹿にするかのように、「ふっ」と鼻で笑う。

「ほほ……それはちと暴言というものでは?」
「カカカ……これくらいなんてことねえだろ? オンコウなフッガー卿にはなあ」

 こっちはこっちでまだ何か言い合いをしてるし……。
 しかしもはや腹芸にすらなっていない。すでにその表情は口元しか笑っていないからだ。

 ええい!

「うおほん! 諸君、統治院議会の最中である事を忘れていないかね!? 議長である私の名によって──」

 意を決して、バン、と円卓を叩いて立ち上がる。

 しかし。

 轟っ!

「──ひぃっ?!」

 咄嗟に伏せた私の頭上を飛び交う、【火球】≪ファイア・ボール≫と【水鞭】≪ウォーター・ウィップ≫!

 ちょ、ちょっと、議会で何してくれてるの! あんたら!
 一応、統治院の建物には頑強な≪固定化≫が掛けられているし、スクウェアメイジが、ドットスペルを選択しているのだから手加減はしているのだろうが……。

「今日と言う今日は、てめぇをぶっ潰してやらぁ!」
「あぁん? やんのかこの便所飯!」

 そして、胸倉を掴み合う魔法狙撃の犯人達、ザクセン卿とツェルプストー卿。
 リューネベルグ公とフッガー卿は、互いの事しか頭にないらしく、まったくそちらに目をやらない。



 はあぁあ。

 私は顔を伏せたまま、大きく嘆息をした。

 実に嘆かわしい事だ。ゲルマニアの代表的貴族がこの有様とは。
 どこの国でも貴族同士でいがみ合う事はよくあるとは思うが、いくらなんでもこれは酷い。
 団結力がないどころか、議会で魔法を撃ち合うほどの仲の悪さと来たものだ。



 あ~、もう、今期一杯で、この仕事やめようかな。もう私の鉄の胃袋もそろそろ限界だ。このままだと近い将来穴が開く。

 うん、引退したら、どこか、静かな街の郊外にこじんまりとした屋敷を建てよう。湖か海の近くがいい。
 毎日昼下がりに起き抜け、ブランチを掻きこんだ後は、のんびりと釣りと読書を楽しむ。
 週末にはたくさんの孫達に囲まれながら、屋外でバーベキューパーティーをやるのである。
 時間に追われず、仕事にも、彼らにも悩まされないロハスな生活。これこそが真の人間というものではないだろうか?



「無理か。皇帝閣下の任命だし……」

 いつだって妄想は優しくて、現実は厳しいものだ。

 私は過激化していく口論をぼんやりと眺めながら、もうひとつ大きな息を吐くのだった。





 つづけ








[19087] 39話 隣国の中心で哀を叫ぶ 
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:56d7cea6
Date: 2011/07/01 18:59
 ゲルマニアの南西部からヴァリエール領へと延びる主要な街道、ロラン街道──
──からは北に大きく外れた、ハノーファーから旧エスターシュ大公領を繋ぐメルヘン街道。

 この街道を通る旅人や商人はあまり多くはなく、人通りはまばらである。
 ロラン街道沿いの方が、旅人向けの宿場町や、魅力的な観光資源、もしくは取引先のある都市部が多いからだろう。
 そのためか、メルヘン街道は整備もあまりされておらず、見通しの悪い雑木林が鬱そうと茂っている所も多い。

「ホント~っに、女の二人連れなんだべな? 実は護衛の傭兵がいました、なんて事はないんか?」
「オラの従弟からの報告だかんな、間違いねぇって! 隣の村さ泊まったのは行商人は二人連れ、それも別嬪の姉妹だったそうだべ!」

 その茂みの中、こそこそと、息をひそめて話す男達の声があった。

「うはっ、そりゃ、積荷以外にもお楽しみがありそうだにぃ」
「ひひ、これも、オラ達の日頃の行いがいいからだのぉ」

 良く言うぜ、こいつぅ、などと返しつつ、馬鹿笑いが起こる。その数は合計して五つ。
 
「おっ、来たぞ、来たっ! あれだっぺ? 二頭立てのでかい幌馬車って!」

 助平な妄想で男達が鼻の下を伸ばしているうちに、お目当てが現れたらしい。
 男の一人が指さした方には、男達の方へと近づく、葦毛と青鹿毛の若駒が牽く幌馬車の姿があった。

「おほっ、ほんとにすっげえ上玉じゃねっか!」
「オラは右のブロンドちゃんも~らいっ!」
「おい、ずりぃぞ、あっちの娘はオラが、いや両方オラが!」

 気の早い男達は涎を垂らして、御者台に座った獲物の奪い合いを始める。

「シッ、少しだまってろい。ここで気付かれでもしたら元も子もねえべよ?」

 リーダー格らしき男が口に人差し指を当てて、仲間の無駄口を制止する。

 ごっとん、ごっとんと呑気な音が鳴るのに合わせて、馬車との距離は100、90、80メイル……、と順調に詰まっていく。
 特に急いでいる様子もなく、その速度はごく緩やか。男達の息遣いが荒くなる。

 しかし、彼らはまだ動かない。ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がした。仕事前の緊張感というやつか。

 そして馬車との距離が30メイルを切ろうか、といった時──



「よっしゃ、出るべよっ!」
「応っ!」

 リーダー格らしき男が号令を発すると、木立の中に身を潜めていた一団が勢いよく街道へと飛び出した。

 その手には各々、使いこまれた弓や斧などが握られており、彼らがおおよそ平和の使者ではない事を物語っていた。

「止まれっ! 止まらなければ射掛けるどぉっ!」

 男の一人がギチギチと弓を構えながら、もう眼前に迫りそうな馬車に向けて叫んだ。

 武器を携え、闇に紛れて、旅人をつけ狙う。所謂、彼らは野盗、と言われる人種だった。

 我慢強く距離を潰したのは、馬車の方向転換を防ぎ、加えて正面突破しようと速度を上げる事もできないようにするためだろう。
 慌てる乞食は何とやらというやつで、100メイルも手前で「止まれ!」などと言っても、急いでUターンされれば逃げられてしまう。
 どうにも田舎臭い彼らだが、略奪行為はこれがはじめてではないらしく、それなりの経験を積んでいるとみえる。

「へへ、止まったべ」

 恫喝に対する返答はなかったものの、馬車はぴたりと静止した。

 車上の娘達はおそらく恐ろしくて声も出ないのだろう、と男達は一様にかさついた唇の端を吊り上げた。
 盛りのついた豚にも劣る下卑た笑みだ。ああ、けだもののターゲットとなってしまった可哀想な娘達は一体どうなってしまうのだろうか?



「両手を挙げて車を降りろぉっ! 抵抗しなければ命までは取らねえ──っ!?」

 ヒュヒュンッ、と一閃。

 まさかりを振り上げ、声高に強請るリーダー格は、風切り音をさせて通り過ぎる何かに気付き、んっ? と眉を顰めた。

「ぐおっ」「あがっ」「ひぎぃ」「らめぇ」

 直後、ほとんど同時に四つの短い悲鳴があがる。鶏を締め落としたような不吉な声だ。

「どうしたっ?!」

 リーダー格は、前を向いたままで仲間達に問うが、それに答える者はいない。
 仕事の最中だってのに何を遊んでいやがる、と内心で悪態を吐きながら、彼は仕方なしに仲間達の方へと向き直る。

「えっ? アッ? あっ、あれぇええ?!」

 次の瞬間、彼は素っ頓狂な声を挙げた。

 それもそのはず。

 だって、先程までピンピンとしていた四人の仲間達は、死に損ないのような蒼白な顔で地に伏していたのだから。



「ねえ?」

 そして彼の背後から掛けられるのは、感情の見えない女の声。

「はうぁ!」

 冷たい金属棒を背筋に差しこまれたような感覚に、リーダー格は腰を抜かしそうになった。
 何とか耐え凌いだ彼が素早く身体を反転させると、腕に巻きつけた黒光りする不気味な器械をこちらへと向ける娘がいた。

 真白いワンピースに真新しい麦わら帽子、いい感じに使いこんだラム革のブーツ。
 栗毛のパーマネントヘア。まだ幼い顔立ちに泣き黒子。それでいて胸はデカい。

 なるほど、こりゃあたしかに別嬪だぁね。しかし、こいつは何かヤベェ! と男は獣の本能でそう感じた。
 
「ま、まさか、こいつらをやったんは、おっ、おめぇさか?!」
「……夏になるとさ、子供が虫捕りするじゃない? ほら、クワガタムシとかカブトムシとか」

 男は内に芽生えた恐怖を取りつくろうように、大仰にまさかりを構え直して、呂律の回らない口で問う。
 一方、泣き黒子の少女は気怠そうに片目を瞑り、がしがしと頭を掻きながら、まるで関係のない話を切り出してきた。彼女に会話をする気はないらしい。

「ふざけんなっ、まともに答えろぉっ!」
「その手段の一つに、灯を使って虫をおびき寄せる、ってのがあるけどさ。アレって蛾だの羽虫だの、余計な虫ばっかり集ってムカつくわよね? ほんと、思わずブッ(※一部音声を自粛させて頂いております)したくなっちゃうくらいに」
「ワケのわかっ──」

 男の罵りはそこで途切れた。いや、途切れさせられてしまった。
 剥き出しのどてっ腹に、弾丸のような速度で繰り出された前蹴り。本人は何をされたのかわからないほどの早業だ。

「おっ、おぅぇえええ」

 肝臓に突き刺さった訳の分からない、しかし強烈な衝撃。男は握っていたまさかりを地面へ放り出し、昼に掻きこんだ芋の粥を胃から逆流させた。

「うえ、きったな……クソ虫の体液なんて見たくもないんだけど?」

 俯いたままで娘の方を見やると、彼女はまるで肥え溜めに住むゴミ虫を蔑むような目で男を見下ろしていた。

──やられる。

 何をされたのかは良く分からないが、とにかくやっぱり、こいつはヤベェ、マジでヤベェ!

「てめえらぁっ、何してやがるっ! さっさと起きて、こいつをヤれっ!」

 目の前にいる少女の危険性を敏感に感じ取った男は、無理矢理に吐瀉物を飲みこんで、仲間達に助けを求めた。

「ああ、駄目、駄目。そいつらに撃ち込んだのは即効性の毒だから。まず、起きあがれやしないわよ」

 しかし栗毛の娘は、男の希望を握りつぶすかのように冷たい声でそう宣告した。

 あぁ、毒か。毒を喰らっちゃ立ち上がれないわな。いや、毒だって?!

 よくよく見れば、倒れ伏して呻く男達には、クロスボウ用の短い矢≪ボルト≫が深々と突き刺さっていた。
 そこでようやく彼は、彼女が自分に向けていた妙な器械が弩であると気付いた。そして現在、自分達の命運が彼女の掌に握られている事にも。

 どうして? 立場が逆だろ? 俺達が狩る側で、こいつは狩られる側のはずだろうが!
 
 混乱の極地に達した彼の頭に浮かんだのは、そんな身勝手な言い分。
 本来、奪う者とて命がけであるはずべきなのに、彼等はそんな当然の事を忘れてしまっていたのだ。

 そ、そうだ、もう一人の娘は?

 ふとそんな事が気になった男は、馬車の方へと視線をやった。
 それは圧倒的な恐怖から目を逸らすための逃避だったのかもしれないし、連れがいるならば、何も命を取るまでは、と止めに入ってくれるかも、と期待したのかもしれない。

「ふぁあ……」

 しかし。
 御者台にゆったりと腰掛けた長い長いブロンドの女は──美しい唇をこれでもかと開き、大欠伸をしていた。

 これから彼の指が切り落とされようと、四肢がもがれようと、たとえ頭を撃ち抜かれようとも、まるで興味がない、というように。

──殺られる。

 今度は一片のぼかしもなく、彼の芯に響く死神の声。
 
 そして、それが聞こえるや否や、彼は地に頭をこすりつけて懇願するのだ。

「たっ、助けて……」

 と。

「はあ? 何をムシがいい事を言っているの?」

 しかし泣き黒子で栗毛の少女は許さない。男の哀願に対して、心底意味がわからないというように首を傾げる。

「おっ、おら達はあんたらを殺そうとしたわけじゃねえって! ただ、その、ちょおっと、ほんのちょびっと荷を頂こうと思っていただけでよ!」

 身ぶり手ぶりを交えて、必死に言い訳をする男。ヤニの溜まった彼の目からは、悔恨か、それとも恐怖によるものか、大粒の涙がぼろぼろと零れていた。

「同じ事じゃないの?」
「……ち、ぢがうだろぉっ!」
「何が違う? 荷を盗むという事は金を盗むという事。そりゃあ、命を盗るのと同意義よ。“金は命よりも重い”。盗賊稼業をやっている癖にそんな事も分からないの?」

 彼女の理論は略奪などという行為をしている彼らにとっては、まさに常識であった。
 いや、それはもしかすると、世界共通の常識なのかもしれない。

「い、いやだっ! もうしませんからっ! う、生まれ変わりますからっ!」

 ぴたりと正論を突きつけられた男は、もはや言い逃れも出来ず、只々命を乞う。
 しかし、彼女は歪な弩をゆっくりと構え──零距離で彼の眉間へと突きつけた。

「そ。じゃあ、来世ではもう少しまともな存在に生まれる事を祈りなさい」
「へ、あ、ひ、ひあぁぅうっ!」
「──バイバイ♪」

 にっこりと微笑んだ天使のような死神が、愉快そうに声を弾ませて別れを告げる。
 かちり、とトリガーを弾く音がして、男の意識はそこで絶望に塗りつぶされた。







「えぇ? そ、それで、こっ、殺しちゃったのかい?!」

 古びた木造の建屋の中、料理の仕込みをしていた男は、ごつい顔を盛大に顰めて、大きな身体を仰け反らせた。

「まさか。弾倉は空っぽでしたって。恐怖のあまり気を失ったみたいですけどね」

 貸切のカウンター席に陣取り、ずず、と茶をすすりながら他人事のように言う件の少女。
 
 というか、私である。

「で、でも、毒を撃ち込んだって!」
「シマヒドクヘビの歯毒を少々、ね。半日くらいは死ぬほど苦しいでしょうが、まあ、死にはしませんよ(多分)」
「そ、そうか……」

 殺しちゃいないという申告に、大男──此処、“魅惑の妖精亭”の主人であるスカロン──はほっと胸を撫で下ろした。

「殺すと後が面倒だもんねぇ。野盗っていってもぉ、たぶん貧農の副業ってところだろうし? ほら、トリステインの北側って貧しいっていうからぁ」

 背に赤ん坊を背負って、棚の整理をしていた年上の女性が、緩~い口調で話に加わる。

 彼女はスカロンの妻であるドリス。背負われているのは二人の愛娘、ジェシカ。母娘ともにゲルマニアの出身である。
 店を切り盛りしながら子育てというのは中々に大変そうで、私には到底無理そうだな、などと大人びた事をぼんやりと考えた。

「妾としては殺してしまった方が後腐れがない気もするがな」
「もぅ、ロッテちゃんってば、物騒ねぇ。賊とはいえ、外国人が領民を殺すと領主がうるさいのよぉ?」

 奥の席でくつろいでいたロッテがそれに突っかかるが、ドリスはすぐさま反論を繰り出した。ちなみにこの二人は“蟲惑の妖精亭”では同僚だった仲だ。
 私としては、概ねドリスの意見に賛成である。余所の土地で切った張ったの騒ぎを起こしてしまうと、大体はこちらが悪い事になってしまうだろうから。

「むぅ、しかし、ああいう輩は役人に捕まってしまえば、まずコレものじゃろう?」

 ロッテは首を親指でギィ~っ、と搔っ切る仕草をする。
 彼女のいうとおり、少なくともゲルマニアでは、徒党を組んだ強盗行為というのは、盗んだ金銭の多寡に限らず極刑である。

 それだけ厳しい法があっても、略奪行為に手を染める者は後を絶たない。まったく、度し難い阿呆共だ。
 そこまでのリスクを取るのなら命を晒してでも上を目指してみろっての。自分から最下層に落ちてどうするんだか。

「襲ったのが貴族ならねぇ。平民、それも外国人相手なら、せいぜい何年か強制労働ってところかしらぁ?」
「かっ、人の財に集るクソ虫共など全て打ち殺せば良いじゃろうに」

 やや過激だが、こちらはロッテのに賛成である。
 変な所で人道的というか、ユルいのよね、トリステインって。

「そうねぇ、一見優しそうにみえるけどぉ、それだけこの国は平民を軽く見ているって事かも?」
「ふん、妾から見ればメイジも平民も、生物としての格はさして変わらんがな」
「……あは、ロッテちゃんてさぁ、やっぱりそっちの高ビーな貌が本性なんだぁ? お店ではいつも猫っかぶりをしていたみたいだけどぉ、それって女の子達には不評だったわよぉ?」
「くく、どの口でほざくか。あの店で一番の嫌われ者はお主だったじゃろうが。えげつないやり方で他の娘の客を奪いよって」
「さぁて、何の事かしらぁ……?」

 ロッテとドリスの視線が交錯し、見えない火花をバチバチと散らす。

 元“蟲惑の妖精亭”のフロアレディとしてトップの地位を争っていた彼女達(尤も、ロッテは入店以来No.1の地位を手放した事はないが)。
 清純派の私には何の事やらさっぱり分からないが、二人の間にはドロドロとした女の因縁があるらしい。

「こらこら、二人共、喧嘩はよさないか。特にドリス、いい歳して大人げないぞ」
「冗談よぉ、うるさいパパですね~。女に『いい歳して』だなんてデリカシーもないですね~」
「むっ……、うっ、うるさいとは何だ、うるさいとは!」
「大きな声を出さないでくれるぅ? ジェシカが怖がっちゃうでしょう」
「ぐ、ぐむっ……」

 スカロンが女の争いに苦言を呈すが、ドリスはどこ吹く風で、これ見よがしにジェシカをあやしてみせる。
 ジェシカは両親の不穏な空気など一切読まず、きゃっきゃと上機嫌に笑っていた。ふぅむ、こりゃ、将来は肝っ玉母さんになるね。

「しっ、しかしだね、アリアちゃん、そんな危険な真似はこれっきりにしなさい。賊に出会ってしまったら逃げるのが一番だよ。カシミールさんにも言われなかった?」

 劣勢に立たされたスカロンは、行き場を失ったお説教のはけ口をこちらに向けてきた。
 いつの世も夫婦喧嘩で男が勝てるためしは無いらしい。

「ええ、言われました。でも、昨日は逃げる暇がなかったというか、ね?」
「本音は?」
「むしゃくしゃしてやった。相手は誰でも良かった。でもあまり反省はしていない」
「いや、反省しようよ?!」

 一瞬でスカロンに建前を見抜かれ、私はあっさりと自白した。
 うん、いいノリですね、スカロンさん。

「……まあ、それは冗談として。なんというか、昨日は……野営続きで溜まった疲労と、もう少しでトリスタニアという油断もあって、相手に気付くのがちょいと遅れたんですよ。それに加えてあちらさんは弓を持っていましたし。馬にでも撃ち込まれたら、もう目も当てられませんからね。仕方なく、飽くまでも仕方なく実力行使をさせてもらった、というワケです」
「ほほう、やつ当たりの意志はなかったというのか?」
「黙秘権を行使します」

 話に割り込んで来たロッテの言論を封殺。

『っくく、しかし見事な手並みだったぜ。お前さん、商人よりも傭兵に向いているよ』
「余計なお世話よ、クソッタレ」
『ま、客はぜんっぜん閑古鳥だってのに、賊だけは毎日のように満員御礼じゃな。苛立つ気持ちもわかる』

 厳重にベルトへと括りつけてある地下水が知った顔(?)でほざく。

「くは、ナイフにまで同情されておるわ」
「いや、笑いごっちゃないわよ。はぁ、ああいう奴らにこそ“毒殺姫”の名が広まればいいのになあ」

 未だ危機感のかけらもない共同経営者の姿に、私はワリとマジで泣きそうになった。
 


 さて、そんなワケで、私達は現在、トリステイン王国・王都トリスタニアへとやってきていた。



 此処に辿り着くまでの行商は────地下水の言うとおり、大・惨・敗☆

 いや、冗談めかしている場合ではないのだけれど。
 しかし、ぐうの音も出ないほどに、むしろ笑っちゃうくらいに散々だったのさ。

 通る地域が悪かったのか、私の商売が下手なのか、それとも商品が客のニーズに合っていないのか、はたまたトリステインという国自体が商売に向いていないのか?

 とにかくモノが売れない!

 ただ、完全に脈がないの? というとそういう訳でもない。

 道すがらの村で店を開けば、人の集まり自体は良いし、私の下手な啖呵にも笑ってくれるし、お客から商品について色々と質問される事もある。
 なので、私の商いの仕方がそれほど間違っているとは思えないんだよね。

 が、いかんせん、財布の紐が固いというか…………要するに蓄えがないっぽい(もっと言うと貧乏!)のである。
 事実、それまでは興味津々という感じだったのに、値段を聞いた途端に愕然とした顔をして去っていく人が多かった気がする。

 トリステインは農業国なのだから、農村部はそれなりに富んでいる所も多いんじゃねえ? と思っていたのだけれど。
 フタを開ければ、私の生まれた貧乏村とそう変わらない生活レベルの農村も珍しくはなかったのだ(さすがに木製の農具を使っているほど悲惨な村はなかったが)。

 当然、目玉商品であるシュペー作の農具など売れるはずもなく、綿布や綿糸、針などの生活雑貨が細々と売れるくらい。

「農村に直売りが駄目なら、領主に交渉や!」

 などと、ダメモトで領主の屋敷(ド・ロレーヌ伯、ラ・エンスヘッティ候)を訪ねてみたりもしたが、やはりというか、順当に門前払い。

 そりゃ、いきなり訪ねてきた押し売りを相手にする方がどうかしているわよね……。
 むしろ丁重にお断りされただけ紳士的な対応だったといえるだろう。

 まあ、そんなこんなで、トリステインに入ってから二週間。
 私達の旅は早くも暗礁に乗り上げていたのである。



 一方で、野盗・強盗の類だけは、頼みもしないのに毎日のように現れ、私達を辟易とさせた。

 私も最初のうちは狼に追われる羊のように逃げ回っていたんだよ?
 君子危うきに近寄らず、という事で、面倒には関わらないのが一番に決まっているしね。

 ドリスの言った通り、そのほとんどは、近隣の農民が小遣い欲しさにやっているアマチュア(?)だったのだろう。
 その戦力は見た目からしてショボく、動きも緩慢、統率も取れていないという集団ばかりだったので、簡単に逃げ切る事が出来た(ロッテのよく利く鼻のおかげもあった)。

 しかし、あまりにも襲われる回数が多すぎたのだ。酷い時は一日に二度も現れた。せめて一日一悪にしてほしい。
 ここまでくると、「カモが来た!」と近隣の村に報告する情報ネットワーク、もしくは盗賊組合でもあるんだろうか、と疑うレベルである。
 これだから親方も「生きて戻れ」などという事を口にしたのかもしれない。…… ま、多分あれは比喩的な意味(商人として殺されるな、競争に負けるな)で、物理的な意味とは違うと思うけど。

──日に日に赤字が多くなっていく帳簿、苦労して仕入れたのに売れ残る商品、二週間もの野営による心的ストレスと肉体的疲労、雨後のボウフラの如くワラワラと湧いてくる人非人達。

 踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂。正直、先の実力行使は、やつ当たり的な面もあったのは事実である。
 あぁ、思い返すとまた腹が立ってきた。思い出し笑いならぬ思い出し怒りだ。

 とはいえ、あれは怒り任せで考えなしの突発的行動というわけではないけれどね。
 次回もあの街道を使うかどうかはわからないけれど、もし使うとして、同じ相手に何度も襲われるのは御免だし。
 あれだけ脅しつけておけば、二度とふざけた真似をする気も起らないでしょう? 少なくとも私達に対しては。
上手くいけば周辺の野盗達の間で「女の二人連れはヤバイ、手を出すな」という噂が広まって襲われなくなるかもしれないし。

 デメリットとしては普通の村民にまでアブナイ奴らだ、という認識が広がりかねないという事かな?

 あ、なんか失敗したような気がしてきた……。やっぱり短気は損気なのかもしれない。



「はぁ、頭痛くなってきた。しかし、こうまでゲルマニアと勝手が違うとはなぁ」

 悩ましげな息を吐いて愚痴も吐く。
 今までとは違い、商い自体が上手くいっていないという事で、私の自信は揺らいでいた。

「う~ん、トリステインは今、あんまりいい状況じゃないからなぁ。国内外の政情不安から、大量の資産を保有しているはずの貴族層がお金を使うよりも、溜めこむ事に躍起になっている事が多いのよねぇ。この国じゃ平民のブルジョワなんてのもいないからぁ、みんな無い袖は振れないのよねぇ」

 さすが王都に店を構える酒場のおかみさん、ドリス。社会情勢に関しても詳しいらしい。

 やはり今のトリステイン自体、金の回りがよくないんだね。
 ま、それはゲルマニアで得られる情報で大体把握していたので、分かった上で敢えてやってきたのだけれども。

「たしかに不景気かもなあ。恥ずかしながら、ウチもいっぱいいっぱいな状況でね……」

 聞いてもいないのにスカロンが思わぬ告白をして肩を落とす。
 ありゃ、私はてっきり順風満帆なのかと思っていたんだけどなあ。

「またまた、本当は儲かっているんじゃないんですか? このお店って何百年も続く老舗なんでしょう?」
「前のオーナーの経営がいまいちだったらしくて。今は軌道に乗せようと色々試している所なんだけど、中々ね」

 う~ん、歴史ある老舗といえど、その看板に胡坐をかいた商売は出来ないということだね。

「……ふぅむ、主の料理の腕は悪くないしのう。と、すると単純にホステスの質が悪いのではないのか?」
「そんな事はないと思うよ? ただ、すぐ辞めちゃう娘が多いのは問題だけど……」
「根性が無いのう。石の上にも三年という言葉を知らんのか。妾とて三年は“蟲惑”で勤めあげたというに」
「トリステインの娘は慎み深いからね。きっと、夜の仕事が合わないんだよ」
「くはっ、笑わせるな。ここに慎ましさのカケラもない助平がおるぞ」

 スカロンが故郷贔屓な発言をしてみせるが、ロッテはそれを鼻で笑って、私を顎で指し示した。

「誰が助平よ!?」
「わずか13歳にして男をこさえた娘が何を言う」
「いかがわしい事はしてないもんね! 大体、私はゲルマニアの女で、トリステインの女じゃありんせん」

 男をこさえる、ってなんか響きがイヤラシイ。

「あれぇ? 妹ちゃんって彼氏がいるのぉ?」
「え、えぇ、まぁ。といっても手紙のやり取りをしているだけですけどね」

 浮いた話の匂いに、ドリスがずずい、と身を乗り出してくる。
 まったく、女というものはいくつになってもこの手の話が好きらしい。

「そういえば、次の返事はこの街に送ってくれ、と小僧に宛てたのではなかったか?」
「ええ、後で受け取りに行くわ…………って。どうしてアンタが手紙の内容を知っているの?」
「くふ、妹が男に宛てた手紙を検閲するのも姉の役目というもの」
「そ、そっ、そんな役目あるかっ?!」

 フーゴへの手紙はこっ恥ずかしいので誰にも見られないようにしていたのに!

「へぇ、お姉さん興味があるなあ、どんな過激な内容なのかしら?」
「『春の暖かな陽射しとやわらな風は、貴方を思い出す時のように私の』」
「うあわああっ! やめてぇえっ!」

 手の平を返したように結託するドリスとロッテ。たまらず私が立ちあがってそれを遮る。

「信じらんない! 信じらんないっ! 何なのよ、この馬鹿姉っ! プライバシーの侵害もいいところよっ!」
「くっはは、ま、いいではないか、減る物ではないし。いや、しかしよくもあんな淫靡で破廉恥な文章を書けるものじゃのう。妾ともあろうものが、主の才能の嫉妬してしまったわ」
「うるさい、うるさい、うるさい!」

 手紙を盗み見られただけでも厭だというのに、それを他人に言いふらそうとするなんて!

「もう、恥ずかしがらなくてもいいのにぃ。ジェシカも聞きたいわよねぇ?」
「そっ、そんな事はどうでもいいじゃないですか!」
「やぁん、『どうでもいい』だなんて、その彼氏が可哀想だわぁ。ただでさえ遠距離なのにぃ」
「あぐっ……。そっ、そうだ! 儲からないというなら、昼にもお店を開いてみてはどうでしょう?」

 えぇい、このまま弄られてたまるかい。私は強引に話の流れを元へと戻す。
 しかし、ロッテもドリスもにやにや空間を形成したまま動かない。こ、このっ、年増女共めぇ……。

「すっ、スカロンさん、どうですかね?」

 私は助けを求めるようにスカロンへと熱い視線を送った。

「うん、でも、それは無理かな。組合法上、酒場の開けられるのは夕方からだからね。それはゲルマニアでも同じじゃないかい?」

 スカロンは否定をしつつも、話には乗ってくれた。
 どうやら酒場の開業は夕方からという決まりは国を跨いでも変わらないらしい。昼間から酒を飲んで酔っ払う者が増えては、治安や風紀が乱れるという理由だろう。

「いえ、お酒は出さなくていいんです」
「いやいや、酒場でお酒を出さないってどういう」
「夜と昼はまるっきり別のお店にしちゃうんですよ。昼は料理だけの食堂……は表通りに沢山あったんで、オールタイムで軽食と紅茶なんかを出す喫茶店≪カッフェ≫にしちゃうとか」
「カッフェ? それはサロンとは違うのかい?」

 サロン、というのは金持ちが集まって会話を楽しんだり(情報を仕入れたり)、ボードゲームに興じたり、お茶を楽しんだり、本や新聞を読んだりして時間を潰す会員制の娯楽所だ。一般庶民には一生関わりのない場所といえる。

「カッフェは、サロンのように会員制ではなくて、いうなら庶民向けの休憩所、かなぁ。友達同士で、恋人同士で、はたまた一人でも気軽に入れるような店が理想ですね」
「う~ん……。お金持ちと違って、庶民には潰すような暇もお金もないと思うけどなあ」
「あは、素人考えで一度やってみる価値はあるかな、って思っただけなんで。聞き流してくれても結構です。ただ、他国での成功例もありますし、近々トリステインにも波が来るかもしれませんよ?」

 私が今この街で飲食店をやるとしたら、カッフェ形式しかない、と思う。
流行の先端である、ガリアではすでに成功例もあるし、ゲルマニアにもポツポツと類似した店舗が出てきている。
 まさにカッフェは今、流行の胎動を始めているところなのだ。まあ、飲食業や接客業を営む予定はまったくないんだけども。

「へぇ、なかなか面白そうなコンセプトじゃない? 女の子同士で入れる飲食店ってなかなかないのよねぇ。カッフェだっけ? それ、詳しく聞かせてくれないかしら? 昼の仕事もあるっていうなら女の子達も長持ちするかもしれないしぃ」

 あまり乗り気でないスカロンに対して、ドリスは大いに興味を惹かれたらしい。
 はぁ、これでなんとか恋愛の話題からは離れられたか……。

「いいですよ、でも……その前に、ちょっとしたお願いがあるんですけど」

 私は上目遣いでスカロンを見つめて猫なで声を出した。
 交換条件、なんて訳ではないけれど、まずはここに来た本題を話しておかなきゃね。



「おっ、その“お願い”というのが此処を訪れた目的かな? でも、お金を貸して、とかは駄目だよ?」
「あは、まだ知り合いから借金するほど落ちぶれちゃいませんよ。えぇと、スカロンさんの生まれ故郷って農村としてはかなり裕福な地域でしたよね?」
「あぁ、なるほど、タルブ村と渡りを付けて欲しいってことかい?」

 一を聞いて十を知る、と言うほど大げさはないが、さすが商売人。察しがよくて助かる。

「ええ、ご明察です。無手で売りにいくよりも、スカロンさんの紹介があった方が良い結果が得られると思うんで。面倒だとは思いますが、村長か有力者の方へ一筆お願いできませんか? 勿論、“組合の名にかけて”商品の質は保証します」

 世間話からモードを切り替え、懐から組合員証を提示しつつ頭を下げる。

「うん、ま、そのくらいなら構わないよ。何せドリスの恩人の頼みだし」
「その節はお世話になったわぁ。ほぉら、ジェシカもお礼しなさい」

 スカロンに促されるようにしてドリスがジェシカの頭をちょこんと押してみせる。
 
 ふふふ、やはり恩は売っておくべきですなぁ。

 よぉし、これで少しは光明が見えてきたぁ!

「あ、でも僕の紹介だからといって、売れるかどうかは保証できないからね」
「えぇ、それは分かっています。あとは私の腕次第という事ですよねっ」

 私は声を弾ませていうが、スカロンの表情は渋い。

 ん、何か問題があるんだろうか?

「いや、そういう意味ではなくて……」
「は、はあ」
「実は去年、タルブ村はひどい悪天候に見舞われてしまったんだよ。主産業たる葡萄や小麦の収穫量は例年の半分程度しかなかったらしい。もっとも、飢饉というほどではないんだけど……」
「えっ、じゃ、じゃあ」
「うん、あまり高級品の売れ行きは期待しない方がいいかもしれないな」
「そ、そんなぁ……」

 スカロンの残酷な宣告にがっくりと肩を落とす。
 
 トリステインでは、というかゲルマニア外では唯一といえる知己と言えるスカロン。私はそのコネクションをアテにして、トリスタニアにまでやってきたのだ。
 以前、スカロンの祖父は富裕な農村地帯であるタルブの有力者であり、かつ領主のアストン伯にも一目置かれている存在だ、と聞き及んでいたから、もしかすると賢君と名高いアストン伯とも渡りがつけられるかも? なんて淡い期待をしていたのだ。

 アストン領は伯爵の領地としてはかなり広く、豊穣な土地であると聞く。
その領主の信頼を勝ち取る事が出来れば、確かな商売のルートを築く事ができるだろう。

 しかし去年がそのような状態であるのなら、領主も村民も買いを控えるに違いない。

「……でも、とりあえず、私、行ってみます。本来は裕福な土地ならば、モノは売れなくとも、顔を売っておくだけでも損はないと思うので」

 そう、商売は何も今回だけではない。今は買わなくても、将来的に買ってくれる可能性が高いお客は確保しておくべきだ。

「ふぅん、後の事を考えるとは、随分と余裕じゃのう?」
「そんな事はないわ……。ただ、他にアテがないだけよ。情けないけどさ」

 ロッテが中々に厳しい皮肉を言う。私はさしたる反論も出来なくて、その悔しさに歯噛みした。
 
 そう、全ては私の見通しが甘かったせいなのだ。

「でっ、でも、このままじゃ終わらないから、絶対に! たっかい関税を払ってまで、この国に来たんだもの。タダで通り過ぎるワケにはいかないわ」
「よしよし、その意気だよ。最初から上手くいく商売なんて、この世に存在しないんだからね。何、トリステインにだってチャンスは沢山あるはず。まだアリアちゃん達にはそれが見えていないだけさ」

 そう力説するスカロンには後光が差していた。
 後で冷静に考えてみると、その言葉は自分にも言い聞かせていたのかもしれない。

「スカロンさん……」

 えぇ人やで……。
 不覚にも少しうるっ、ときちゃったぜ。

「はっ、意気ごみだけでモノが売れれば苦労はせんわなあ」
「ぐっ……」
「ほれほれ、もうそろモノを捌きにいかんと、店が閉まってしまうぞ?」

 ロッテは置時計の針を差して、感動に水を差す。
 むぅ、たしかに、もう昼時を過ぎている。トリスタニアに着いてからは、まっすぐに魅惑の妖精亭へと向かったので、まだ商社へ売り込みには行っていないのだ。

「はぁ、この街、入市税が高いから、あんまりモノ売りたくないのよねぇ。とはいっても、ナマモノもあるし、現金の持ち合わせもヤバイし……仕方ないか」
「くふふ、この街の劇場はレベルが高いというし、楽しみじゃのぅ」
「娯楽が目的かよ! もう少し危機感を持とうよ、切実に」
「悩んでおってもモノが売れるワケでもあるまいて。折角トリテインくんだりまでやってきたんじゃ。旅を楽しまねば損じゃぞ?」
「へいへい、そうですか。ま、手紙も受け取りにいかなきゃいけないし、行きますか」
 
 よっこらせっ、と重い腰をあげて席を立つ。
 楽しまねば、だと? 商いが順調であれば、さぞかし楽しいんだろうけどねえ。

「はは、行っておいで。ロッテちゃんのいうとおり、息抜きも必要だからね。トリスタニアの街は見どころが沢山あるからね。存分に観光してくるといい」
「楽しめればいいんですけどね……。はぁ、独立してからの方が溜息が多くなった気がするなぁ……」

 にこやかに手を振るスカロンに対して、力なく手をあげて消え入るように踵を返す。

「さぁて、まずは無難に王宮にでも見に行ってみようかのっ!」
「……では、スカロンさん。また後ほどお邪魔します」

 玩具を買いに行く子供のようにはしゃぐロッテに突っ込む元気もなく、私はふらふらと脱力した足取りでスイングドアを潜り、魅惑の妖精亭を後にした。

 





アリアのメモ書き トリステイン編 その1

毒殺姫の商店(?)、トリスタニアにて。
(スゥ以下切り捨て。1エキュー未満は切り上げ)


評価       危険な行商人
道程       ケルン→オルベ→ゲルマニア北西部→ハノーファー→トリステイン北東部→トリスタニア
         


今回の費用  売上原価 14エキュー
通信費(郵便代とか) 手紙代 1エキュー
       旅費交通費 民家宿泊費×6(6の農村へ立ち寄った) 2エキュー
       消耗品費・雑費  食事は買い置きの保存食で賄ったため0
       租税公課 トリステインーゲルマニア間国境関税 ケルン交易商会組合員のため割引(本来は全商品の一割) 50エキュー分の現物、18エキューの現金で納入
       
       計 85エキュー

今回の収益  売上 24エキュー


★今回の利益(=収益-費用) ▲61エキュー これはひどい


資産    固定資産  乗物  ペルシュロン種馬×2
                中古大型幌馬車(固定化済み)
(その他、消耗品や生活雑貨などは再販が不可として費用に計上するものとする)
       商品   (ゲ)ハンブルグ産 毛織物(無地) 
            (ゲ)ハンブルグ産 木綿糸     ▲
            (ゲ)ハンブルグ産 木綿布     ▲ 
            (ゲ)シュペー作 農具一式 
            (ゲ)シュペー作 調理包丁 
            (ゲ)ベネディクト工房 縫い針他裁縫用具 ▲
            (ゲ)ベネディクト工房 はりがね ▲
            (ゲ)ベネディクト工房 厨房用品類 ▲
            (ゲ)ベネディクト工房 農耕馬用蹄鉄 ▲
            (ト)トリステイン北部産 ピクルス(ニンジン・芽キャベツ・チコリの酢漬け) △ 所持金不足のため全て現金に換える。以下トリステイン産品も同様
            (ト)トリステイン北部産 フルーツビール △ 
            (ト)トリステイン北部産 燕麦  △
            
             計・858エキュー(商品単価は最も新しく取得された時の評価基準、先入先出の原則にのっとる)

現金   13エキュー(小切手、期限到来後債利札など通貨代用証券を含む)
預金   なし
土地建物 なし
債権   なし
       

負債          なし

★資本(=資産-負債)  871エキュー
       
★目標達成率       871エキュー/30,000エキュー(2.90%)

★ユニーク品(用途不明、価値不明のお宝。いずれ競売に掛けよう)
①地下水 短剣





つづけ

キリが悪い……。




[19087] 40話 ヒネクレモノとキライナモノ
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:56d7cea6
Date: 2011/07/09 18:03
「オリーブと芽キャベツの酢漬けが二樽分。果実酒8オンスが3ダースと4分の1 。それに、飼料用の燕麦、ねぇ」 

 小指で耳をほじりながらおざなりな態度で商品の確認を行う穀物商の旦那。
 一応身なりはきちんとしているけれど、こちらを軽く見ているのか、どうにも横柄な態度が鼻につく。

 内心ムカっとしながら店内を見渡すと、見習い達は仕事もせずに好奇の目でこちらを窺っているのに気付く。
 カシミール商店であれば、ゲンコツでは済まないレベルの失態だ。もう、どうなってんのよ、ここの見習いの教育は!

「ま……全部で19エキューと80スゥってところだな」

 程なく、つまらない取引だ、とばかりの態度で相場より遥かに下の額を提示する旦那。

 私はふざけるな! と喉まで出掛かった罵声を何とか飲み込み、力なく首を横に振った。

 私の計算では、少なくとも30エキューはくだらないはずなのに。
 そもそも、買い値が23エキューと60スゥよ? 馬鹿にするにも程があるっての。

「お手数お掛けしました。他を当たらせて頂きます」
「おいおい、何が不満なのか知らんが、どこに行ったってこんなもんだぞ?」
「……そうですか。では、これで失礼しますね」

 だからここで売っていけ、と言外に含みを持たせる旦那の言を軽く流して別れを告げる。

 そんなわけあるか! と思うが、他の地元商社でも似たような値を付けてきたので、それは強ち間違いとも言えない、のか?

「人が親切で言ってやっているのに、なんだその態度は? 小娘の分際で随分と生意気だな」
「それは大変失礼をば」

 うるさいなあ、と思いつつ、仕方なしに旦那の方へ向き直り、胸に手を添え頭を下げる。

「だから、そういう気取った所が気に食わねえってんだよ。新米なら新米らしく初々しい態度でだな……」
「他人にとやかく言う前に、まず我が振りを顧みられては?」

 こっちは謝ってんのに増長しやがって。しつこいのよ、このハゲ! 

 ……あぁ、何か凄く苛々する。
 どうしてだろうか、いつも以上に感情がコントロール出来ない。

「やめいっ! 店主と喧嘩してどうするっ!」
「旦那さんも、その辺で勘弁してやってください。女子供の言う事ですから……ねっ?」

 今にも手が出そうな罵り合いを見かねたのか、ロッテと、トリスタニアのとある組合から派遣された計量人が仲裁に入る。

「……申し訳ありません。少し頭に血が昇ってしまったみたいで。しかし、とにかく、ここでの取引は致しませんので」

 謝罪をしつつも、計量人へと明確な取引不成立の意思を伝える。

「君ねぇ、いい加減にしてくれないか。これで三件目だよ?」
「あら、ハノーファーの計量人さんは十二件も付き合ってくれましたけどね? 取引額の一割六分なんて法外な入市税を取っている割に、少し怠慢なんじゃないですか?」
「っ……! こっ、ここはゲルマニアじゃないんだ、そのへんを弁えなさい。まったく、本当に生意気だな……」

 苛々が止まらない私は、ついつい計量人にも噛みついてしまう。
 
 物理的な意味でも傾きそうな商社ばかり紹介しておいて、いちいち人を子供扱いして。

 そもそも、最初に組合を訪れた時から信用できない事ばかりじゃないか。

 このトリスタニアには星の数ほど、とはいわないが、かなりの数の組合が存在し、その力関係も扱う商品も千差万別。
 当然、外国人たる私には、どの組合に話を通せば良いかわからなかったが、とりあえずは今回トリスタニアで捌くのは農産物だけの予定だから、とグラーニィ・ウォロ・アルテ(穀物商組合)の門を叩いたのだが。

 そこからはまるでお役所のようなたらい回し。

 「やれ、これならあっちの組合へ」、「いや、これはこっちの組合が専門だろ」とトリスタニアの街を東奔西走させらされたのだった。
 一番頭に来るのは、結局、最初に訪れた穀物商組合こそが、やはり農産物の担当だったという事だ。つまり、私達は全く意味のない往復運動をさせられたという事になる。

「わかりました。では次で終わりにします。その代わり……」
「その代わり?」
「貴組合はフッガー商会の代理店と繋がりはありますか?」
「……あの商社はたしか、ラナ・ウォロ・アルテ(毛織物組合)の所属だが?」
「ではそちらの組合へ紹介を」

 出来れば地元商社との繋がりを作りたかったが……。この調子ではまともな商社に辿りつく事はなさそうだ。
 ならば私が最も信用している、ゲルマニア国籍の大商社に売るのが一番だろう。

「取引相手の指定は、経営者、もしくはその家人と個人的な繋がりがないと──」
「そんな常識は百も承知ですよ。丁度、その店に、私宛てにフッガー伯の家人からの手紙が届いているはず。それで証拠になりませんか?」
「……ちっ、いちいち燗に障る小娘だな」

 あからさまに舌打ちをする計量人。ほんっとに、なんなのよっ!

「お言葉ですが──むぐっ」
「いい加減にせんか。日が暮れてしまうわ」

 ムキになって言い返そうとしたところで、ロッテの掌が私の口を塞ぐ。

「君がこの娘の保護者か?」
「……そのようなものじゃな」

 計量人が呆れたような顔でロッテに話しかける。
 違うっつうの! と言いたい所だが、口を塞がれたままでは言葉が出ない。

「では、もう少し礼儀というものを教えておきなさい。まったく、これだからゲルマニア人は……」
「ふむ……肝に銘じておこう」

 ロッテはにこりともせずに言うと、私の首根っこを捕まえたまま、ずるずると外へ引っ張っていく。

 私は恨みがましい視線を、前行く計量人の背へと送る事しか出来なかった。
 






 トリステイン王国、王都トリスタニア──

 由緒あるトリステイン王家が坐す、この“水の都”は、広いハルケギニアの中でも、最も美しい都市の一つに数えられるという。

 古典的な芸術性を持つ王宮もさることながら、その周りの貴族街や、ブルドンネ街と呼ばれるメインストリートでは、全て伝統的な建築に基づく建物に統一され、調和を乱すような要素の一切が排除されている。
 それはまるで、一片の狂いもないマスゲームを見せられているかのような威圧感を見る者に与えることだろう。

 また、トリスタニアの美しさには、芸術の意味だけでなく、衛生の意味も含まれているらしい。
 どんな安宿にも浴場(蒸し風呂だが)の備えが義務付けられており、厠も店舗の内外には必ず存在する。
 さらに、ゲルマニアの都市であれば、掃除夫の仕事というのは他に食い手が無い者が就く最低賃金の職であるが、このトリスタニアでは王宮の管理下、水メイジの就職先としてそれなりの人気を博しているというのだから驚きだ。

 これはかつて、不浄を元にした疫病がトリステインに蔓延した事が原因だという。そのため、トリステイン人は疫病や不浄に対して非常に神経質だと聞き及んでいる。

 とまあ、表は王宮の力を見せつけるかのように、非常に秩序だった造りとなっているのだけれど、一歩裏通りへと足を踏み入れればそういった堅苦しさも霧散する。
 


「いやあ、堪能した、堪能した。ふふっ、多少田舎臭いが、さすがは王都、中々に洒落た街ではないか」

 そんな雑多で猥雑な街並みの裏通り、チクトンネ街を歩きつつ、楊枝を咥えたロッテが満足気に腹をさする。
 この下町の方が綺麗な表通りよりも落ち着いてしまう私は、やはり庶民の中の庶民である。

「まあ、街の雰囲気自体は悪くないわよね。問題はそこに住む人間の方なんだけど」

 伏し目がちに含みを持たせた言葉を返す私。

 街とは結局は人の集まりであり、いくら容れ物がよくとも中身が伴わなければ意味はない。

 そういった意味で、私はあまりこの街を好きになれそうにもなかった。

 結局、今日の取引は全てフッガー商会頼りだったしね……。

 しかし、いつもいつもゲルマニア国籍の商社ばかりをアテにするわけにもいかない。
 トリステインでゲルマニア国籍の商社がある都市といえば、トリスタニア、シュルピス、ラ・ロシェールの三都市くらい。
 これから訪れる他の都市でもこの調子だったらどうしよう、と不安にならずにはいられない。

 まったく、こんな最悪な気分じゃフーゴの手紙を開く気もしやしない。
 今返事を書けば、恨みつらみばかりの文章になってしまいそうだし、もう少し気持ちが落ち着いてからにしようっと。

「いつまで不貞腐れておるつもりじゃ。お主、この国に入ってから、少しおかしいぞ」
「だって、商いが上手くいっていないんだから、苛立つのも仕方ないでしょ」
「はあ……。たまには商いの事は忘れんか。たしかに組合や商社の連中には腹が立ったが、それ以外は楽しかったじゃろ?」
「ん……まあ、ね」

 商いを済ませた後は、遊びの鉄人・ロッテに連れられ、遊びまわっていたのである。といっても、あまりお金を遣うような遊びは控えたけれど。



 都市の比較検証と称して、王宮(といっても外から眺めただけ)と貴族街、トリスタニア大聖堂といった名所の観光。

 国民嗜好の調査といいつつ、ブルドンネ街と呼ばれる表通りの大劇場で「バタフライ伯爵夫人の憂鬱」を鑑賞。

 トリステイン相場の再確認と銘打って、服飾店や装飾店関連の小売店ひやかし巡りをし、トリスタニア激安グルメ食い倒れツアーを堪能。

 今後の旅の行く末を占うため、地下のカジノで散財……はさすがに止めた。

 楽しくなかった、といえば嘘だけれど、もやもやとしたモノを心の中に抱えていた私は、それらを心の底から楽しむ事など出来なかった。



「……それで、どうじゃ、少しは息抜きになったか?」
「うん、まあ、ね……」

 無邪気な子供のように張り切っていたロッテは、急に真面目な口調で言う。
 風が吹いた。沈み落ちそうな金色の夕陽を受けたその髪が艶やかに揺れる。私は眩い黄金のようなその光景に見惚れ、曖昧な返事だけを返した。

「ふむ、ならば良かった。どうにも最近のお主には余裕がなさすぎじゃったからな」
「だからさ、こんな状況で余裕なんて持てるわけないじゃない。見習いとは違って、私達はもう経営者なのよ?」
「それじゃ、その顔がいかんのじゃ、ほれ、こうやってじゃな……」
「ちょっ?」

 どうにも無責任に聞こえてしまうロッテに思わず反抗すると、彼女は両の手で私の唇をぐいっ、と持ちあげて、無理矢理に口角を吊り上げさせる。

「そんな仏頂面で客の前に出てみい。いくら良いモノを商っていても、鉄面皮の店主からモノを買いたくなるか?」
「あっ……。でっ、でも、お客さんの前ではちゃんとしているはず……」

 そう返しつつも、あれ? していたっけ? と自問自答する。

「表面上はそうしているつもりでも、内面というものは伝わるモノ。心の粗が、言動の粗に繋がるのじゃ。そして、負の感情は相手にも連鎖する。自分を嫌っている相手は、いつの間にか自分も嫌いになるものじゃろ?」
「まあ、そうね」
「先の組合や商社の連中だって、お主の方が常に朗らかであれば、ああいう対応にはならなかったと思うぞ」

 思い当たるフシはあった。
 私は初っ端から、彼らの事をあまりよく思っていなかった、気がする。

「気負いならば良い。どうしたらいいかと悩むのも良い。ただ、お主の苛つきの本質はそこではないようじゃな」
「……何のこと?」
「ま、賊は採って売るほどに現れたし、そのくせモノはまったく売れんし、組合や商社の連中にも腹が立つ。しかし、この街にも長所はあるはず。演劇や美術などの芸術は優れておるし、飯も中々に美味じゃったろう?」
「だから、一体、何が言いたいっての? はっきり言ってくれないかしら」

 ロッテの遠まわしな発言に、またワケのわからぬ苛立ちを覚えた私は、刺のある口調で問い質す。
 あぁ、もう、なんでこんなにイラつくんだろ。



「つまりのぅ、お主はこの街が……いや、この国が最初っから、嫌いなんじゃな。お主を救わなかった、あまつさえ売り飛ばしさえしたトリステインという存在が」



 がつん、と脳が直に揺らされた。そんな感じがした。
 なのに、その言葉は胸にすとん、とすんなりと落ちていく。



「ちっ、違うわ! 私ってそんなに恨み深い女じゃないわよ。大体ね、トリステインって国自体が嫌いなら、一番先の旅先に選ぶわけがないじゃない? 捻くれた邪推をしすぎよ」

 気付けば、私は無意識のうちにそれを否定していた。

「……お主って、好きなモノを最後まで取っておく性質じゃろう?」
「あ……っ」
「ま、この国を最初に訪れたのは、なるべく早く安心したかったから、といったところかのぅ」
「安心?」
「お主を捨てたトリステインは拾ったゲルマニアよりも無価値だと断じたかったのじゃ。それこそ、そんな下らないモノから見放されたとて痛くはないわ、という捻くれた根性でな」
「わっ、私は、行商人なら、この国にもビジネスチャンスがあると?」

 回らない口で必死に言いわけを捻り出してみるが、それは自分自身で首を傾げる理由でしかない。

「ほう? では、ガリアにはチャンスがないのか? ロマリアには? わざわざ人気のないトリステインを最初に選んだのは、この国が最もチャンスがあると踏んだからか?」
「……からない」
「む?」
「わからないわ。そうかもしれないけど……」

 私はぶつぶつ、と頭を抱えて独り語ちる。

 自分の事が分からなくなってしまった。

 私ってそんな人間だったっけ。
 でも、たしかにロッテの言うとおり、私はトリステインに関して、悪感情しか持っていないかもしれない。
 
 ゲルマニアよりも劣っている国。
 古臭い伝統にしがみつくつまらない国。
 領地に蔓延る賊の退治すら出来ない国。
 民を平然と他国に売り飛ばす国。
 私の遺伝子提供者のように、碌でもない人間ばかりが多い国……。

 そういえば、今日だって、王都の粗探しばかりしていなかったか?

「しかし、だからといって、妾はお主を非難する気はない」
「えっ?」
「お主の経歴からして、この国に嫌悪感を抱くのは至極当然。領主が本来は守るべき領民を食い物にし、それを王宮は知ってか知らずか放置しておる。こんなものは許されざる裏切りじゃ。むしろそれを表に出すまいとしているだけでも立派なモノ。妾がその立場であったら、今すぐ王宮へ殴りこむじゃろうな」

 平然と物騒な事を言ってのけるロッテ。

 私は思わず辺りを見渡し、人がいないかどうかを確認した。しかし、ロッテはそんな事はおかまいなし、とばかりに言葉を続ける。

「じゃがな、そこをグッと押さえて、好きになる努力をしてみるのが大人というものよ」
「好きになる、努力……?」
「これはマドモワゼルからの受け売りじゃが。“嫌いな相手がいたら、悪い所よりもいい所を探せ”。どうやらそれが客商売にせよ、友人関係にせよ、上手くいく秘訣らしい。……ま、といっても、やはり嫌いなものはそう簡単に好きにはなれんし、明確な敵対者まで愛せ、などと拝み屋のような説法をするつもりはないが、な」

 それは商いの基本。相手を愛さなければ自分が愛されるわけもない。

 “モノを売り込む前に自分を売り込め”。
 商品よりも、まず自分を好きにさせる事。人は好きな相手のためになら、多少の無理くらいは効かせてくれるものなのだから。

 確かに、今まで訪れたトリステイン北東部の村は貧しかっただろう。とてもじゃないが、シュペーの農具や包丁など買える余裕などなかったかもしれない。
 しかし、誠心誠意を持って尽くしていたら、もしかしたら一つ、二つは売れていたんじゃないだろうか……。

「はっ……はははっ」
「むっ、いきなりなんじゃ、藪から棒に」
「いえ、すっごい気分が良くなっちゃったからさ、いや、ありがとね」

 もう、私は否定できない。

 私は、このトリステインが“嫌い”である。
 ふふふ、考えてみれば当たり前の事じゃないか。

 自然と笑みがこぼれる。

 何とまあ、まだ私はあの取るに足らない過去の出来事を引きずっているらしい。
 余り認めたくないが“恨み深い”、“しつこい”という醜さもまた、『私』の本質の一部なのだろう。

「うわ、何じゃ気持ち悪い。お主、説教されて悦ぶ性癖持ちだったのか」
「だっ、誰がマゾヒストか!」

 もう、人が折角感謝しているっていうのに……。
 しかしまあ、ロッテに商売上の事を諭される事になるとは。私もまだまだひよっ子ね。



『あ~……その、すまん。いい所を邪魔をして悪いんだが』
「ん?」
『何か騒ぎがあったみたいだぞ、朝に立ち寄った酒場の方で』
 
 遠慮がちな腰の地下水に言われ、前方を見渡すと、“魅惑の妖精亭”に人集りが出来ている事に気付く。
 なんだやっぱり繁盛しているんじゃないか、などと一瞬思ったが、どうにも様子がおかしい。

「なんだろ……?」
『あまりいい雰囲気じゃねえな。争い事のニオイがするぜ』

 ナイフに鼻はついてないだろう、と突っ込みたくなるが、地下水の言うとおりに物々しい雰囲気なのはたしかだった。
 店の前には何かを囲むような人の輪が出来ており、その中には武装した衛士の姿も見える。何より、怒声や罵声のような声がここまで聞こえてくるのだ。
 店で何かトラブルが発生してしまったのかもしれない。というか、多分したのだろう。

「どうする? 何やら面倒事のようにみえるが。やはり君子危うきには、とやらか?」
「……厄介事がごめんなのは確かだけど。スカロンさん達も心配だわ。こういう場合は義見てせざるは勇なきなり、とも言うわね」
「くふ、ようやっとお主らしくなってきたの」
 
 ロッテは今日で一番声を弾ませて、ばんっ、と私の背中を叩く。
 私は心のもやもやを道端に置き去りにして、“魅惑の妖精亭”へと全力で駆け抜ける。

 高速で流れていく夕陽に紅く染まるトリスタニアの街。

 すぐには気持ちは変わらないと思う。また、この国の全てを認める事は一生ないだろう。

 しかし、まず、その景色を素直に美しいと認める事から始めてみよう、と私は心に誓った。







 さて、時間は少し遡る。

 魅惑の妖精亭の経営者であるスカロンは、ブルドンネ街を汗だくになりながら走っていた。
 終業時間も近いこの時間帯には、いくら王都のメインストリートといえども、それほどの混雑はしていない。

「くぅっ、開店の直前まで調味料を切らしている事に気付かないなんて。急いで帰らないと……」

 妻であるドリス作の、可愛らしいパッチワークをあしらった手提げ袋をぶんぶんと振り回し、どすどすと揺れる漢らしい筋肉のカタマリ。
 それが独り語散るその姿は少々、いや、かなり不気味で、道行く人々は「どいて」といわずとも道を開けていく。

「ん?」

 そして、ブルドンネの噴水広場に差しかかった時。
 スカロンはとある光景を目の当たりにして疑問の声をあげた。



 噴水のヘリに腰掛けた女の子が力なくうなだれている。



 薄汚れたブロンドに赤縁の眼鏡、ぶかぶかの商人服を身につけているという何ともちぐはぐな格好が印象的だ。
 年の頃はアリアと同じくらいだろう。……胸のボリュームは全く違うようだが。

 とはいえ、珍妙な格好をしているだけの女の子なら、スカロンもさして気にも留めなかったろう。
 彼が気を惹かれたのは、おおよそ半刻前、つまり、香辛料屋へと向かう途中にも、同じポーズの、同じ女の子を、これまた同じ場所で見かけたからだ。

 はて、旅商人の娘が親とはぐれてしまったのだろうか、とスカロンは推した。

 王都だけあって、トリスタニアの街は広い上に入り組んでおり、地元民でもなければ大人でも迷う事もしばしば。子供であれば尚更だろう。
 目立つ噴水広場でじっとしている事からも、迷子である可能性は高い。

「ねえ、君、どうしたんだい? 迷子かね?」

 ここで普通の都市民なら、「ふ~ん、大変だね」で通り過ぎてしまうだろうが、そこは人の好さには定評のあるスカロン。
 あまり時間がないのにも関わらず、つかつかと少女へと近づいて行って、ごくごく優しげな口調で語りかけた。

「あによ、うるさいわね」

 しかし女の子は虫を払うような動作で冷たくスカロンをあしらう。

「いっ、いや、僕は怪しい者じゃないよ?」

 いたいけな少女に近寄る巨漢の男。たしかに不審か? と思ったスカロンが焦ったように言葉を補足する。
 怪しい者ではないと名乗ると余計に怪しく見えるのはご愛敬だろう。
 
「アンタが怪しいか怪しくないかはどうでもいいの。私に構わないで頂戴」
「しかし……。そろそろ日が暮れてしまうし、いつまでもこんな所に一人でいると危ないよ? それに君、地元の子じゃないだろう? 親御さんはどうしたの?」
「……知らない」
「え?」
「あ、ん、た、に関係ないでしょっ! 何なのよ、このへい──」

 何が気に入らないのか、突然に癇癪を起こす女の子。
 しかし、そのヒステリーは突然のアクシデントにより中断された。

 ぐぅうぅぅ。

 乙女にはあるまじき、あの音である。

「……うぅっ!」

 女の子は恥ずかしそうに顔を紅潮させて下腹を抑える。
 そう、腹の虫が鳴ってしまったのである。

「はは、お腹が空いていたのかい?」
「ふんっ!」

 女の子は顔を紅くしたまま、誤魔化すようにそっぽを向いて鼻を鳴らす。

(どうにも気位の高い子だな。親の事を持ちだしたら怒ったって事は……これは迷子じゃないか。これだけ他人を突っぱねるという事は、物乞いというわけでもないし。そもそも、乞食にしては身が綺麗すぎる……)
 
 迷子ならば衛士の詰め所へ連れて行く。乞食ならば1スゥ銀貨の一枚でも恵んでやるか。
 しかし少女はそのどちらでもなさそうだな、とスカロンは思った。

「そうか、お腹が減っているなら、どう? ウチの店に来てみない? サービスするよ」
「……お店?」
「おっと、これは失礼。僕はチクトンネ街で酒場をやっているスカロン。あっ、酒場といっても、料理の腕には自信があるんだよ」

 何か事情がありそうな女の子を、このまま放っておくのも後味が良くない。
 かといって通り一辺倒に官憲に引き渡すというのも忍びない気がした。

「……お金」
「ん?」
「お金がないわ」

 ぐっ、と歯を噛んで屈辱の表情で呟く女の子。

「大丈夫、お金はとらないよ!」
「なっ、この私に施しをしようとでもいうの?!」
「えっ」
「馬鹿にしないでっ! こう見えても私はこぅ……っ」

 女の子は、はっ、としたように口に手を当てて言葉を止める。

「こぅ……?」
「こ、こっ、香辛料がたっぷりと使われた料理が好きなのよ……」
「はっはは、それなら丁度良かった。今、胡椒とシナモンを仕入れてきた所だからね。ご期待に沿えるんじゃないかな」

 スカロンは似合わない手提げ袋をひらひらとさせて、にこりと笑いかける。

「う、うぅ~」

 気難しそうな彼女も、やはり空腹には勝てぬのか、それともスカロンの根気に負けたのか、恨めしそうな唸り声をあげながらも立ち上がる。

「よし、じゃあ行こうか──っ? うっ、まずい、もうこんな時間か」

 ブルドンネの広場に面した、トリスタニア大聖堂の鐘の音。
 それは多くの人々にとっては終業を報せる音であるが、酒場を営む者にとっては始業の合図である。

「ごめん、少し急ぐよ! 付いてきて!」
「え、ちょっと……! もう、仕方ないわね!」

 仕事終わりの人々でがやがやと混雑し始めたブルドンネ街。
 大きな男と小さな女の子は、少し距離を空けたまま、その人混みを掻きわけるようにして、裏通りへと消えていった。







「……ごちそうさま。おっ、思ったよりは、美味しかったわよ。褒めてあげるわっ!」

 終業後のゴールデンタイムだというのに、客もまばらな妖精亭の店内。
 何だかんだとといいつつも、結局出された料理をペロリと平らげた女の子は、ぷい、と顔を背けて捻ねた礼を言う。

「それはどうもありがとうねぇ。……あなた。ちょっといい?」

 ドリスはにこやかにそれに応じつつ、スカロンの脇腹を肘で突つき、女の子から見えない位置へと誘導する。

「なんだい、ドリス」
「『なんだい』じゃないでしょ。お金も持ってない子供なんて連れてきてどうするの!」

 暢気な様子のスカロンに、ドリスは顔を顰めて耳打ちする。
 その口調にはいつもの緩さは全くなく、遠慮もなかった。どうやらこちらが彼女の本性らしい。

「いいじゃないか、これも何かの縁だよ」
「もう、ほんとに人が好いというか、馬鹿というか。そんな余裕がどこにあるっていうの?」

 ドリスは空席の目立つ店内を顎で示して憤って見せるが、スカロンは困った顔をするばかりだ。
 妖精さん(以下、ホステス)の数もドリスを入れてたったの3人。店舗は立派なのに、人の数がそれに見合っていないために余計寂しく感じる。
 客が少ないという事は儲けが少ないという事で。見ず知らずの人間にタダ飯を食わせている場合ではないのだ。

「はぁ……そういう所を好いて一緒になったのだから、文句はこれくらいにしておくけど」
「はは、そうしてくれると助かるよ」
「真面目に経営を考え直さなきゃ駄目ね、これは」

 ドリスはなんとも頼りない夫を冷ややかな目で見つつ、実は冗談半分でしかなかったカッフェの経営について、少し本気で考えてみようか、と思った。



「ぅん? どうかしたの?」

 やや険悪な雰囲気を漂わせる夫婦に気付き、食後の紅茶を流麗かつ上品な手付きで口へと運んでいた女の子が首を傾げる。
 まるで上流階級の教育を受けたかのような茶の作法。そういえば、食事の仕方も実にサマになっていたなぁ、とスカロンは思い出した。

「いや、料理の味の事でね。お客さんからクレームが」
「ウソ? ウチのシェフよりも美味しかったのに?!」
「シェフ……?」
「あっ」

 女の子はまたもはっ、としたように口を押さえる。どうにも彼女は、利発そうな見かけに反してうっかり者らしい。



「まさか君──」
「おい、店主! 来てやったぞ!」

 スカロンがとある確信を持って核心を突こうとした時、入り口の方から何とも高圧的な声が響いた。
 数少ない店の常連達は、嫌悪感を露わにした顔をそちらに向けて、「またか」と嘆息を漏らす。

「これはこれは、徴税官殿。お待ちしておりました」

 しかしスカロンは嫌な顔一つせずに、揉み手でマントを羽織った小太りの中年男に走り寄る。
 中年男の後ろには、物々しい武装に身を包んだ衛士が二人、ぐずぐずと厭らしい笑みを讃えている。

「オラ、貴様ら! この店は今から徴税官殿の貸切だぞ。さっさと出て行かんか!」

 衛士の一人が店内の客を恫喝すると、客達は不満気な顔を見せつつも、仕方なしに立ち上がる。
 スカロンとドリスは、蜘蛛の子のように退散する客達に向けて、申し訳なさそうに、深々と頭を下げた。
 しかし、客達は哀れなモノを見るような視線を送るばかりで、誰も彼らに声を掛けたりはしない。誰だって、面倒事に巻き込まれるのは御免なのである。

「ん~、それで、どうだ、店主。少しは儲かるようになったかね?」

 いつの間にか、店で最も良い席である一番テーブルにどっか、と腰掛けた徴税官がパイプを吹かしながら居丈高に尋ねる。

 店内にはもう、他の客の姿はない。

「いえ、その、恥ずかしながら、ご覧のありさまでして……」
「ふん、そうか。それではもっと精進せねばな。……ほれ、ドリス、ほさっとしておらんで、さっさとこちらへ来んか」
「は、はぁい! 只今!」

 スカロンの名は覚えておらずとも、ドリスの名は覚えているらしい。
 指名されたドリスは、素早く最高級のタルブ・ワインを棚から選び出し、冷えたグラスを3客、指の間にするりと入れて、徴税官の下へと駆け付ける。
 
「まったく……客を待たせるとはどういう了見だね? こういう所を改善しなければいけないのだよ、店主君」
「なるほど、参考にさせていただきます。いやはや、徴税官殿のご慧眼にはかないませぬな」

 徴税官はまるで自分がオーナーかのように尊大に振舞い、あまつさえ隣に座ったドリスの肩をこれみよがしに抱いてみせる。
 それでも、スカロンは依然、朗らかな態度でそれに応える。しかし、傍から見ている者にとってはそれが歯がゆい。



「何よあのデブ、ほんっと、サイテー……」
「マジ、オーナーも、ドリスさんもよく耐えてるよね~。でも、私はもう限界かも。夜のお仕事の割にぜんっぜんお金稼げないもん」

 そんな様子を遠巻きに眺めて愚痴をいい合う、ドリス以外ではたった二人だけのホステス達。
 彼女達は徴税官達がやってくると同時に、隠れるようにして厨房の影へと逃げ込んでいたのだ。

「ねぇ、貴方達」
「ヒッ?! も、申し訳ありません?!」

 予期せぬ第三者から声を掛けられ、冷や水を浴びせられたかのように飛び跳ねるホステス達。
 マントを羽織った徴税官は当然に貴族。ソレを侮辱するような発言をしていたのだから、聞かれていたらまずいに決まっている。

「なっ、何っ?!」

 しかし、もっと驚いたのは声を掛けた方だったらしい。ホステス達のリアクションの大きさに、声の主はもんどりうって後ろにすっ転んでいた。

「なんだ……オーナーが連れてきた子かぁ。びっくりさせないでよ、もう」

 小さな来訪者の姿を確認し、ホステス達はほっ、と胸を撫で下ろす。

「びっくりしたのはこっちよ!」
「そりゃ、冷や汗も掻くわよ。あんな言葉を聞かれてたら、私達タダじゃ済まないもん」
「陰口を叩く方が悪いんじゃない。お説教くらいされて当然でしょ?」

 女の子は冷ややかに言うが、ホステス達はそれを鼻で笑う。

「はい? 貴族を侮辱してそんなもので済むわけないでしょう。下手したらその場で殺されるわよ」
「えっ、でも公の場で侮辱したワケじゃないでしょ? 貴族たる者がその程度で、そんなムゴいことをするわけ」
「ふふん、お嬢ちゃんって世間知らずなのねぇ」
「な、なんですって、う」

 ホステスの一人が、癇癪玉が爆発する前に、「シッ」と人差し指で女の子の唇に蓋をする。

「あんまり大きな声は出さないでね。アイツらがこっちに来たら面倒でしょ? ……ま、殺されるってのは最悪の場合、だけどね。でも、そう低い可能性じゃないわよ? ちょっと前にも、とある貴族の悪口をあちこちで吹聴していたオジサンが無礼打ちにされたもの。ま、あそこまで大々的にやっちゃったら、自業自得ってやつだけど」
「そ、そうなんだ……」

 何故か意気を消沈させる女の子に、ホステス達は首を捻る。

「で、何? 声を掛けてきたってことは、私達に聞きたい事があったんでしょ?」
「そっ、そうだったわ! あの、徴税官って何なのよ? いきなりずかずかと踏み込んできて、我が物顔で振舞って!」
「徴税官は徴税官よ。税金を徴収しに来る役人の事」
「そんなことくらい知っているわよ……。私が言っているのはそういう事じゃなくて、どうして、あの徴税官があんな態度をとるのって事。スカロン達が何かまずい事をしたの?」
「していないわよ。ただ、どうにも目を付けられちゃったみたいね。ほら、オーナーってゲルマニアで修行していたから」
「え、そうなの? あ、いや、私もゲルマニアは好きじゃないけど。でも、そんな私情は理由にならないでしょう。他に何か理由はないの?」

 やはり納得いかないのか、女の子は顎を撫ぜて難しい顔をする。

「ま、あの徴税官個人ってより、アイツの金蔓であるロッカンダ・リストランテ組合の差し金ってセンもあるけどね。同業者として、ゲルマニア帰りの新鋭を叩いておきたい、ってのはあると思うし……」
「う……え~と……それって、ロマリア語?」

 ホステスをやっているだけに、都市内の権力図には詳しいのだろう。
 しかし、それを子供に理解せよ、というのは酷な話。事実、女の子はもはや訳が分からない、という顔をしてだまりこんでしまう。

「あ、ごめんごめん。……とにかく、オーナー達に落ち度はないわよ。それなのに、今じゃ毎週のように現れてああいう嫌がらせをしていくのよ、アイツ」
「な、何よそれ?! そんな弱い者虐めをする貴族なんておかしいわ! どうしてスカロン達は黙っているのよ?」
「ま、一通りイヤミを言わせて、ドリスさんをからかわせたら、最後はオーナーがお金を握らせて帰って頂くのが通例だから。放っておけばこちらに害はないし」
「自分だけよければいいって言うの!」
「あなた、見た目以上にガキんちょねぇ。いくら理不尽でも、貴族には逆らえないでしょ? オーナー達だって、無駄に波風を大きくしないためにああして耐えているんだから」

 ホステス達は口を揃えて呆れたように言う。しかし女の子は引かなかった。

「じゃ、じゃあ、役人が不正をしているのだから、王宮に報告すれば──」
「王宮が一平民の声なんて聞くわけがないでしょう? いくらヘンリー殿下が立派な方だと言われていても、何万もの声は聞けないもの。それに、あの徴税官はただ傲慢がすぎるだけで、完全な不正だと言い切るのは難しいわ」
「え、不当にお金をせしめているんでしょ? それに、お店の客を勝手に追い出したりして、明らさまにひどい事をしているじゃない」
「あちらからお金を出せ、とは一言もいってないのよ。とはいえ、お金を出さなきゃいつまでも居座るつもりでしょうけど。お客を追い出すのも、ほとほと営業の邪魔ではあるけれど、それを取り締まるようなはっきりとした法律はないっていうし……お手上げよ」
「……それじゃ、スカロン達はどうするの? このままあの徴税官にいいようにされたままってこと? そんなのって!」
「嵐が通り過ぎるのを待つだけ、ね。ま、アイツのせいでかなり客足が少なくなっているから……下手したらその前に廃業かもしれないけど」

 ホステスはそこで、ふぅ、と疲れたように息を漏らす。彼女達とて、この店が潰れてもいいなどと思っているわけではない。
 しかし、ただの町娘にすぎない彼女達に為す術はなく、それはスカロン達も一緒であった。

 昼間、スカロンが、前オーナーの経営がいまいちだったのが売上低迷の原因かも、と言っていたが、それは要因としてそれほど大きくはなく、実はこちらの問題の方が深刻だった。
 しかし、貴族に、しかも徴税官に目を付けられている、なんてことをアリア達に知らせてしまえば、彼女達にも迷惑がかかるかもしれない、とスカロンは思った。

何せ、ゲルマニアとトリステインでは貴族観が全く違う。
彼女達がゲルマニアと同じ感覚でこういった汚職貴族と接する事は非常に危険なのである。下手な正義感でも持たれて、貴族と敵対させてしまっては洒落にならない。

「……許せない」
「はっ?」
「誇り高きトリステイン貴族の名を与えられた者が、あまつさえ王陛下から官職を頂いた者が──絶対に許せないっ!」

 女の子は先とは違い、羞恥ではなく、憤怒により顔を真っ赤にし、肩を怒らせてずんずん、とフロアの方へと戻っていく。
 あぁ、なんという正義感の強い子なのだろう。しかし、それは無謀であり蛮勇という他ない。

「ちょ、ちょっと待ちなさい、何処に行く気……えっ、あっ、あっ……?」

 ホステス達はすぐさま女の子を止めようとしたが、いつの間にか彼女が手にしていたあるモノに気押されて、踏みとどまってしまう。



「徴税官殿、今日はそろそろ……」
「ん~、まだよいではないか。飲み足りぬぞ、私は。ふわっはっはっは」

 女の子がフロアへ戻ると、丁度スカロンが現金の入っているのであろう、小さなずた袋を徴税官に渡しているところだった。

「そこまでよっ! この悪徳徴税官っ! 同じ貴族として、あんたの不正は許さないっ!」

 自称貴族と名乗った女の子は、徴税官に向けて、手にしたあるモノを突きつけながら声高に叫んだ。
 気分は幼いころに寝物語で聞いた、只々信ずる正義を執行する女騎士。

「同じ貴族として、だって……何だこのガキ、ふざけた事をっ……うっ?!」

 徴税官にコバンザメのように付き従っていた衛士の一人が凄んで見せるが、女の子の構える──まるで指揮棒のような、ひ弱な棒きれを見た途端に尻込む。



 そう、彼女が手にしていたのは、タクト型の杖。メイジである事を示す証。



 彼女はまだ子供でしかない。しかし、メイジというだけで、ただの衛士風情には、永劫敵わぬ相手なのである。

「何やってるの! 早く謝りなさい! 貴女!」
「え? どうして私が謝らなくちゃいけないのよ? 悪いのはコイツじゃない」

 顔を真っ青にしたドリスが半ば命令のような口調で言うが、女の子はきょとん、とした顔で、徴税官を杖で指す。

「やれやれ、困ったお嬢さんだ。人聞きの悪い事を言わないでくれたまえ」
「惚けても無駄よ! 事情は全て、あそこにいる平民から……って、あれ?」

 振り返るとホステス達の姿は既に厨房にはなかった。
 メイジ同士の諍いは周りにも危険が及ぶ。恐れをなした彼女達は、とっくに、裏口から逃げだしていた。

「と、とにかく。真面目に働いている平民の生活を踏みにじろうなんて、恥を知りなさいっ、恥をっ!」
「まったく、口の悪い。一体、どこの家の者だ、お前は? まったく躾が出来ておらんな……」
「家は……関係ないでしょ。家は」
「家が関係ない……? お前、本当に貴族か? 騙りではないのか?」
「失礼な! 私を見てわからないの? だとしたら貴方の目は節穴ね」

 自信満々に無い胸を張る女の子だが、沢山の人間を観察する商売を営むスカロンですら、彼女が貴族であるという確信はなかったのだから、見た目でそれを判断せよというのは些か無理がある。

「違うというなら名乗られよ。家名を名乗れぬニセモノでないのなら」
「上等よ! 私は、エレっ…………じゃないわ。そうね……マイヤール、うん。私の名はエレノア・ド・マイヤール?」

 徴税官のあからさまな挑発に、威勢よく応えようとした女の子だが、どうしてかどんどんと口調が疑問形へと変わっていく。

「どうしてそこで首を傾げる……? そもそもマイヤール家、など聞いた事もないな」
「そっ、そんなのはあんたの不勉強よ!」
「ふん、その家名が本当だとしても、どうせ名もなき平貴族だろう? そんな弱小家の書生“ごとき”が、王都徴税官である私を侮辱するのか?」
「木っ端役人“ごとき”がご大層な口を利くわね。それに、私はあんたを侮辱したつもりはないわ。事実を述べたまでよ」

 家の力を持ちだして脅迫まがいの恫喝をする徴税官。
 しかし、エレノアと名乗る女の子は、全く動じず、自分の意見を曲げる事はしない。
 どうしようもない頑固者で、捻くれ者。はて、誰かに似ているような。

「本当に……教育がなっていないな。親の顔がみてみたいものよ」
「腐った性根を叩き直されるべきなのはあんた、よっ!」

 のろのろと杖を抜く徴税官に、エレノアは安物の手袋を投げつけた。

 それは“決闘”の合図。“決闘”を申し込まれてしまえば、相手の爵位も、役職も、性別も、年齢にも関係なく、それに応じなければ、貴族にとっては最大級の恥となる。

「この意味がわかっているのか? 子供とはいえ、もう冗談ではすまないぞ」
「私は最初から最後まで本気よ。あんたみたいな貴族を私は認めない」
「子供にここまでコケにされるとは。いいだろう、表に出たまえ。私が教育をしなおしてやろう」
 
 徴税官は憮然としたような口調で席を立つ。
 そして、くるりとエレノアに背を向けた時、彼の顔には愉悦の色が浮かんでいた。

 彼とて、もとより冗談で済ます気などなかったのである。
 だから貴族が最も屈辱に思うであろう、家や親を持ちだしてまで、彼女を馬鹿にしてみせたのだ。

「上等……!」
「逃げるなら今のうちだぞ? 去る者は追わんよ、私は」
「ふざけないでっ! 敵に後ろを見せない者を貴族と言うのよっ!」

 思考を誘導された事に気付かぬのか、それとも敢えて挑発に乗っているのか、エレノアはただ吠えていた。

 何とも愚かで、不器用で、穴だらけで、真っ直ぐな意気地を。しかし、それが必ずしも人のためになるとは限らない。



「どっ、どうしようか。なんとか止めないと」
「貴族同士の決闘、という事になると、私達じゃ止めるのは無理ね。ここは官憲を呼ぶしか」
「衛士なら徴税官殿の後ろに隠れているけど」
「ほんと、どうしましょうね……」

 あまりの急展開に、すっかり置いてけぼりを喰らってしまったスカロン夫妻。
 そんな二人に、「一食の恩は返すわ」と不敵に笑ってみせるエレノア。

 夫妻は揃って、これ以上のトラブルは勘弁してくれ、と頭を抱えるのだった。




つづけ




[19087] 41話 ドキッ! 嘘吐きだらけの決闘大会! ~ペロリもあるよ!
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:56d7cea6
Date: 2011/07/20 22:09
 まるで大商会が主催するオークション会場のような熱気に包まれた裏通りの一角。
 もう藍色の空に二色の月が昇る頃だというのに、この一帯だけは、人々の喧騒が激しさを増すばかりである。
 
「さあさあ、始まるよ、世紀の大決闘! 我らが王都の徴税官、ウィユヒン准男爵に対するは、どこから来たのか、謎の貴族令嬢エレノア・ド・マイヤール! どちらが勝つかは始祖にもわからねえって熱い勝負だ! 一口は1スゥから、アン・スゥ銀貨がたったの一枚からの勝負だよ!」

 往来に集まった観衆の中、ここぞとばかりに屋台を牽いた的屋が啖呵を切り、賭けの相手を募っている。

 屋台の店先に置かれたチョークボードには

 Sir Villepinte      1et1/5  (ウィユヒン卿 1.2倍)
 Madmoiselle Maillard 8et1/2  (マイヤール嬢 8.5倍)

 と汚い字で記されていた。
 他人様の喧嘩で一儲けしようとは、中々に商魂逞しい事で。

「いやっほぉ、喧嘩だ、喧嘩ぁ!」
「きゃあ、あの子カワイイ~! がんばってねぇ~!」
「はんっ、毛も生えていないような田舎モンが王都のお役人に勝てるわけねえぜ!」

 好き勝手にほざく暇人達の垣根に囲まれるのは──相対するように睨み合う、正確に言うと睨んでいるのは片方だけなのだが──エレノアと徴税官だ。

「もう、いつになったら始めるのよ? これじゃいい見世物じゃないの!」

 きゃきゃん、と子犬が吠えるような少女の声が、狭い裏通りに響き渡る。

「まあ、待ちたまえ。“火事と喧嘩は都の花”といってな。特にこういった貴族同士のイザコザは、庶民にとっては最高の娯楽なのだよ」

 徴税官はわざとらしく声を張り上げ、大仰な手振りを交えて演説を始めた。
 自分の優位性というか、貴族としての力を市井に示しておきたいという事なのか。それともただの目立ちたがりのサディストか。

「娯楽? サーカスじゃあるまいし。あんたには貴族の誇りがないの?」
「ふ、民に娯楽を与えるのも上に立つ者の義務の一つさ」
「むっ……」
「ま、これは決闘というよりは教育。一方的過ぎてお集まりの諸君はそれほど楽しめないかもしれんがね」

 余裕の表情で似合わぬカイゼル髭を撫ぜる徴税官に、エレノアはきぃっ、とヒステリックに地団太を踏む。
 互いに挑発をし合う二人の貴族に、おしくら饅頭のように密集した人の壁からワッ、と歓声が挙がった。





「役人の職権乱用? 決闘の申し込み? な、なんって、野蛮な国なのよ!?」

 その騒ぎの片隅、王都の人々が聞いていたら激怒しそうな事を口走っているのは私である。
 幸い、お集まりの皆々様は、決闘の動向に夢中でこちらに気を留めてはいないようだが。

「こりゃ、好きになる努力をせい、といったばかりじゃろが」

 そんな私の後頭部をぱこっ、と平手で打つのはロッテ。

 うぐ……そうだったわね。

「あっ、そういえばスカロンさんは……?」
「あの人なら衛士の詰め所に走って行ったわ。何もしないよりはマシだろう、って」
「良かったぁ、無事だったんですね」

 目の前で巻き起こるお祭り騒ぎを冷めた目で横に見つつ、私は安堵の息を漏らす。 

 騒ぎに気付き、急いで魅惑の妖精亭へと駆け付けた私とロッテは、店先で一人、おろおろと彷徨っていたドリスを見つけ、掻い摘んだ事の経緯を聞きだしていたのだった。
 
「でも、困った事になっちゃったわぁ……」

 事情の説明を終えたドリスは、頭痛がするように米神を抑えた。

「えぇ、店に直接関わりのない令嬢が発端とはいえ、暴力沙汰になってしまったのはいただけません」
「む? しかし、ここでもし小娘が徴税官に勝てば、店への嫌がらせも止むのではないかの?」
「そんな単純な話じゃないと思うわ。あの子が勝とうが負けようが、どちらにせよ、この店にとっては迷惑な話なのよ」
 
 楽観的なロッテの意見を、私は首を振って否定する。

 そもそも、商いの世界では、いや、どの業界でもそうかもしれないが、新参者がいびられるというのは、割と当たり前の事。
 それはトリステインだろうとゲルマニアであろうと、おそらく他の国であろうと変わる事はない普遍の原理。
 
 カシミール商店とて、開業したての頃は、チンピラにカチコミを掛けられたり、あらぬ噂を流されたり、小売店から総スカンを喰らったりとそりゃあ色々大変だったらしい。

 ましてや、スカロンはトリステイン出身ではあるものの、この街で生まれ育った人間ではない。
 トリステインのように伝統を重んじる国であれば尚のこと、余所者には厳しい“洗礼”が待っているのは当然(なので、生まれ育った街で開業する商人の割合は多い)で、それはスカロンも覚悟の上だろう。
 だからこそスカロンやドリスは、度重なる嫌がらせや営業妨害にも黙して耐えてきたのだと思う。
 
 耐えるだけ、というのはいかにも消極的で、他人から見ればやきもきするかもしれないが、私はそれもまた正解の一つと考える。

 結局のところ、こういった“洗礼”に対する明確な対処法というのはない。
 しかし、抗せず、腐らず、屈せずに、誠実な商いを心がけ、街の人々の信用を得ていけば、それは自然と止んでいく。その相手がいくら役人といえども、街の世論を無視する事は出来ないだろう。
 要は、周囲から認められるまでの通過儀礼のようなもの、と捉えればしっくりくるかもしれない。
 
 そんな“洗礼”期間の最中、エレノア嬢が善意から起こしたのであろうこの騒ぎは、まったくもって余計なお世話、いや、むしろ徴税官の営業妨害以上に迷惑な行為であるともいえるのだ。

 “洗礼”に暴力で応えるという子供じみた行為は、最悪の対処法なのだから。
 決してスカロン達が徴税官にエレノアをけしかけたわけではないけれど、穿った見方をすれば、どうとでも取れる。取れてしまうのだ。
 それは決して堅気の商人が取る行動ではないし、スカロン達が積み上げてきた信用を一気にぶち壊す危険性をも孕んでいる。

 なので、もしエレノアがこの決闘に勝利したとしても、余計に客足が遠のくのではないか、また、下手をすれば“洗礼”が本格的な“潰し”に発展してしまうのでは、という懸念につながるわけである。

「そうねぇ。あのお役人も個人的な趣味だけでウチに嫌がらせしているワケじゃないと思うし。おそらくだけど、昔から役人と繋がりのある、古参同業者が所属する組合の差し金って感じ? だから彼を凹ませても、ね?」
「ふぅむ。店を持つにも苦労するが、持ってからもまた厄介な事が多いのじゃなあ」

 ロッテは面倒臭そうに頭をぽりぽりと掻く。そう、店を持つというのは大変な事なのだ。
 
 とはいえ、私の常識からすると、中立の立場であるはずの役人が、商人同士のイザコザに加担するというのはちょっとあり得ない話なのだけれども。
 これもお国柄というやつか。一つの都市に組合組織がいくつもあるこの国では、賄賂か何か知らないが、特定の組合に便宜を図る役人がいてもおかしくはないのかもしれない。

 ……いや、やっぱりおかしいわ。どう考えても汚職じゃん。

「ただ、それよりもね」
「え?」
「子供に危ない真似をさせたくないのよ。エレノアちゃんなりに私達の事を考えての行動なのだろうし……」

 心配そうに眉を寄せて、窓の外、エレノアの方へ視線をやるドリス。

 すごいな、と私は感心する。

 もし私がドリスの立場であれば、自分の事で手いっぱいで、とてもじゃないが見ず知らずのエレノアの心配などしていられない気がするから。
 慈愛に満ちた母の姿に、この女性の娘であるジェシカは幸せ者だな、と私は少し羨望の念を覚えた。

「ま、こうなってしまったら、無事にしつけとやらが終わるのを祈るのみですね。貴族同士のコトとなれば、私達じゃあ、どうにもできません」
「もう! あの人が知らない子に声を掛けたりするから……っ! 何かあったらあの子の親御さんに顔向けできないわ!」
「だっ、大丈夫ですって。あのお役人もこれだけの観客の中で、子供相手に怪我をさせるような危険な魔法は使わないでしょう」

 頭を抱えるドリスの背をぽん、と叩く私。
 世間知らずの子供が、半端な義憤に駆られただけの事。徴税官とて、まさか殺るか殺られるかの死合いなど考えてはおるまい。

「果たして、そうかのう……?」
「は?」
「くく、あの役人、へらへらとしておるが、中々の殺気を放っておるのでなあ」
「いやいや、まさかちょっと罵られたくらいでそれは──」

 物騒な推測への反論は、一際大きな歓声によって飲み込まれる。

 釣られて目をやると、先程よりもさらに人垣の厚さは増し、逢魔が刻の裏通りは文字通りに通行止めとなっていた。
 どうやらついに決闘が開始されるらしい。殺気だった観衆の狂乱とも言える合唱が辺りにこだまする。

 殺伐とした空気の中、杖を構える二人──口を真一文字に結んだエレノアと、不敵な笑みを讃えた徴税官──その間に入ったジャッジ役なのだろう衛士が、真面目腐った顔でコインを天へと弾いた。

 くるくると回る銅貨が描く綺麗な放物線が、紫色の月光に反射されて妖しく煌めく。

「……ま、やばくなったら誰か止めるんじゃない?」

 私がぼんやりと無責任な言葉を呟くと同時に、チャリン、と素敵な音色がチクトンネ街に響いた。







「イル・アースぅっ?!」

 コインの着地と同時に詠唱を開始したエレノアは、慌ててそれを中断し、後方へと跳びすさった。

「くっ」

 濃いブロンドの髪が一房、はらりと宙を舞う。先程までエレノアが立っていた石畳には、白い蒸気を纏う大氷柱が深々と突き刺さっていた。

 いきなりの大技に、観衆が色めき立つ。
 当たっていれば、大怪我では済まなかったかもしれない、わね……。

「ふっ、不意打ちなんて、き、汚いわよっ!」
「決闘の最中に“待った”とは感心せんな。氷槍≪ジャベリン≫」

 エレノアのクレームはあっさりと無視され、徴税官は第二撃の詠唱を完成させる。

 凄まじいスピードで空中の水分が凝固していく。またたきする暇もなく、純白の大槍がひゅごっ、という鋭い音とともに撃ち出された。

 迅い。

 詠唱完成から射出まで、1秒にも満たない早業。
 鈍重そうな外見に反して、徴税官の魔法運用は優れているようだ。

「く……うっ!」

 対するエレノアは、迫りくる≪ジャベリン≫の威圧感に、尻持ちを突いていた。

 危ない──誰もが目を瞑りたくなった瞬間、氷の槍が音もなく砕け散る。
 粉微塵となった氷塊は、まるで綿埃のように風に舞い、何処へともなく消えていく。
 
「ほうっ……。そこで氷を砂に変えてしまうとは。思ったよりはやるようだな」
 
 徴税官は感嘆の声をあげ、やや表情を引き締める。
 言葉通り、エレノアを警戒に値する相手、と判断したのだろうか。

「大地の腕≪アースハンド≫!」

 そんな賛辞を余所に、立ちあがりざまに杖を振るエレノア。
 それと同時に、目の前の石畳からにょきっ、と背丈程もある腕が生え、徴税官の持つ杖に襲いかかる。

「遅い」

 しかし徴税官は、体型に見合わない華麗なステップでそれを躱し、あまつさえごつい軍杖でその手を叩き落とした。

 ……これは、強い。
 おそらく、私が今まで目にしたメイジの中でも、かなりの上位に入る戦闘能力だろう。

「嘘っ?!」
「ふん、杖を狙うなど……格上に対して随分とぬるいな。こういう場合は、絶対に躱せない魔法を繰り出すべきなのだよ、このようにっ──氷雹の竜巻≪アイス・ストーム≫!」

 信じられない、とばかりに目を剥くエレノアに対し、徴税官は凄惨な笑みを浮かべて、無情の杖を振った。

 ごぉっ!

 轟音とともに荒れ狂うは、凍てつく吹雪の奔流。
 氷礫を含んだ竜巻は一切の加減もなく、地を駆ける狼の如き迅さで、エレノアに獰猛な牙を剥く。

 ちょっ、あれじゃ、観客まで巻き込むじゃないのっ!?

「ま、ず……っ!」

 為す術なく激流に飲み込まれるエレノア。

「うわあぁっ」「きゃあっ」「やっべえぇ」

 その後方で観衆は一様に身を伏せ、来たる嵐をやり過ごそうとする。

 しかし、きちんと計算はされていたのか、それとも、別の理由があるのか──氷雹の竜巻≪アイス・ストーム≫は人垣までは届く事なく霧散した。

 結局、それを身に受けたのはエレノアのみ。
 素人目にも、あの嵐に巻き込まれれば、タダでは済まないという事くらいは判る。

 終わった──そんな緩慢で退廃的な空気すら流れだし、急速に熱を下げていくインスタント・コロッセウム。

 しかし、当の徴税官は憮然とした表情で、構えを解いてはいなかった。

「ふん、大地の壁≪アース・ウォール≫、か」

 徴税官が目を細める。
 キラキラと煌めく雪の粉塵が晴れると、そこには急造の土壁が出来あがっていた。
 
「はぁっ、はぁっ……。こ、こんな街中で、そんな大きい魔法を撃つなんて……。あ、あんた、おかしいんじゃないの?」

 その岩陰からよろめきながらも立ちあがるエレノア。

 おおっ、と周囲から驚きの声があがる。

 咄嗟に防御の魔法を行使していたのか? しかし、完全には防げていなかったらしい。
 サイズの合わない商人服はずたずたに破れ、その至る所から白い肌が露出し、うっすらと血が滲んでいた。
 口にする言葉は未だに強気であるものの、息は荒く、表情もおぼろで、旗色が悪いのは明白だ。

「ふ、魔法のコントロールには自信があってな」

 それとは対照的に、あれだけ強い魔法を放っておきながら、汗一つ掻いていない徴税官。

「ぐっ……! よ、よく言うわっ! 私が壁を出さなきゃ、後ろの平民は氷漬けだったわよ!?」

 エレノアの言葉を受け、観衆の間に不穏などよめきが広がる。

「なるほど、やはりセンスがない」
「はっ?!」
「私はきちんと、観衆には被害が及ばぬように精神力を調節していたぞ? そんな事すら見極められないとは……。やはり三流どころの娘は三流という事だなっ!」

 それを真っ向から否定し、ついでに罵りの言葉も忘れない徴税官。
 
「准男爵風情が……っ! 訂正はしなくていいわ、這いつくばらせてあげるっ! 土礫≪ブレッド≫!」

 体中に付けられた傷を意にも介さず、憤怒の面を顔に貼り付け、再び攻撃を仕掛けるエレノア。
 先程落成したばかりの土壁から、無数の石つぶてが弾丸のように撃ち出される。

「ふむ……。精神力だけは中々のものだな。水盾≪ウォーター・シールド≫」

 徴税官は向かってくる石の砲弾をせせら笑うかのように、手早く分厚い水の盾を張ってみせた。
 どぷん、とつぶては水に飲まれて勢いを失くし、からん、と地に転がる。まさに糠に釘、暖簾に腕押し。

「まだ、まだぁっ!」

 だが、エレノアは愚直に同じ攻撃を繰り返していく。
 それを受けとめる徴税官は厭らしい笑みを浮かべていた。即ち、どうやって獲物を仕留めようかと舌舐めずりしている嗤いを。

「貧弱、駄弱、脆弱っ! それでも本当に貴族かね? 貴族とは力を持つ者の事を指すのだよ?」
「違うっ! 国を、民を守り栄えさせるため、決して逃げないという誇りと志を持つのが貴族! あんたみたいに弱い者虐めしか出来ないヤツの力なんて、そこらの賊や亜人と何ら変わりないのよっ」

 ふ~ん……。
 随分と熱の籠った綺麗事を語るわね、あの子。





「ねぇ、ロッテ」
「む?」

 いつ崩れるかわからない千日手となりつつある攻防をぼんやりと眺めつつ、ロッテの小脇を肘でつつく。

「さっきの氷雹の竜巻≪アイス・ストーム≫だっけ? あれ、どっちが嘘を言っていると思う?」
「……さぁの。ま、妾の直感からすると、役人の方がワルモノじゃな」
「へえ、そりゃまた何で?」
「見た目」
「あ、そう……」

 いや、たしかに人は外見かもしれませんけども。さすがにそれは信憑性がないわよ。

『いや、俺も嘘を吐いているのは役人の方だと思うぜ?』
「ん、ドブ水、あんたって事の真偽が判るの? ま、まさか、ポリグラフの能力もあるとか?!」
『地・下・水・だっ! それに何だ、そのポリなんとかってのは?』

 細かい事は流しなさいって。無機物の癖に神経質なヤツ。

「で、どんな理由でそう思う訳?」
『無視かよ……。ま、どう見ても思い切り撃っていやがったからな、さっきのトライアングル・スペルは。それに、あの役人、“絶対に躱せない攻撃”とか言ってたろ?』
「はぁ、それが?」
『あれな、本当はもっと上手く躱せたはずなんだよ。飛行≪フライ≫で逃げる、大地の壁≪アースウォール≫をもっとコンパクトに、とかな』

 ふむ、扱う物質の質量が増す程に、時間が掛かるという事だろうか? 相変わらず魔法ってのはよく分からんね。

「……っていうことはなにか? あの子が野次馬を庇って避けないだろうってのを見越して、それを人質として利用したってワケ?」
『さすがに察しが良い。一飯の恩くらいで、平民のために決闘を申し込む嬢ちゃんだからな。きっとそうするだろう、って予測くらいは出来るだろうさ』
「ふぅん、イイ感じに狡いわねぇ……。嫌いじゃないわよ、そういう手段の選ばなさは」
『外道』
「何か言ったかしら?」
『いえ、何も……あっ、やめてっ、ギチギチはやめてぇっ!』

 何をしても勝てばいいのよ、殺し合いなんて。負けたらゴミなんだから。

 もっとも、貴族としては、あの徴税官は私の最も嫌いなタイプ。ゲルマニアではあまり長生き出来ないタイプね。

 たかが子供に罵倒されたくらいで、ここまでやる時点で人格が破綻している。
 そんな人格破綻者を王都の役人に任命しているってのも、ねぇ? 確かに魔法の腕は一級なんだろうが……。

 これが魔法至上主義の弊害というやつか。あ~、ますますこの国が嫌いになりそう。

 逆にエレノアは貴族として、というか、人間としては、結構好きかもしれない(間違っても商売上のパートナーにはなりえないだろうけど)。

 見返りもなしで他人のために行動を起こすというのは、私には存在しえない美点であるし、さっきの綺麗事もどうやら本気のように思える。まぁ、いつまでもそんな絵空事を貫けるとは思えないけど……。
 しかし、少なくとも彼女は確たる理想と志を抱いてはいるという事だろう。口だけじゃなければね。

 ただ、まぁ、ちょっと認識が甘いというか、世間知らずというか。
 
 平の貴族なら、そういう所はシビアに育てられると思うし、身を窶した貴族ってならもっとスレてるだろうし、在野のメイジならそもそも貴族に決闘など挑まない。
 
 なんというか、名家の箱入りお嬢様って感じがするのよね、あの子。
 さっきは『准男爵風情』とか息まいていたし……。

 マイヤールという家名は聞いた事がないが、そもそもエレノア・ド・マイヤールというのも何かちぐはぐでおかしな名前。エレノアはアルビオン風だし、マイヤールはトリステイン風。
 平民ならともかく、貴族というのは名には拘るはずで、トリステインの貴族ならば、子女にはトリステインらしい名前を付けるはず。
 名乗りも妙にたどたどしかったと聞くし、おそらくは、いや、かなりの確率で偽名じゃなかろうか。



「で、このままいくと、エレノア嬢に勝算はあるのかしら?」
『魔法の争いに絶対はないぜ』
「一般論はノーセンキューよ」
『……十中八九、嬢ちゃんの負けだな。純粋な魔法の腕だけ見ても、役人は熟練した水のトライアングル。翻って嬢ちゃんはペーペーの土のライン。それに、ヤツの言うとおり、嬢ちゃんには、あんまりセンスを感じねえしなあ』
「ふぅん……。あの幼さであれだけの事をやれるんだから、かなり才能がありそうな気がするけど。フーゴとか、あのくらいの頃には不細工な石人形しか作れなかっただろうし」

 体型から見て、多分、あの子10歳、くらいかな? 胸……絶壁だし。

『フーゴ? あぁ、ヒヒ、姐さんの男ね。いや、しかしその若さでゴーレムを使えるなら、そいつの方がセンスは上さ』
「まさか」
『たしかにあの嬢ちゃん、魔法の才能はあるよ。磨けばスクウェアに至るかもしれねえ。でも、俺が言っているのは戦闘者としてのセンスだ。土メイジの戦いにおいて、ゴーレムってのはクラスに関係なく、最強の武器なんだが……。嬢ちゃんがそれを出さないのは何故だと思う?』
「……さあ。ゴーレムを出すには時間的に余裕がないとか?」
『はい、大外れ』

 ぶっぶ~、とでも言いだしそうな地下水にちょっとムカッときたところで、ロッテが代わりにその問いに答える。

「作る事は出来ても操れんからじゃ」
『さっすが姐さん! その通り!』

 ぐお、知恵比べでロッテに負けた? いえいえ、これは魔法に関してだからよ。ノーカンノーカン。

『俺の見立てじゃ、あの嬢ちゃんは感情的にみえて、魔法に関しては勘よりも理を優先するメイジ。言うなれば、研究者向き、ってやつか? 理に依った土のメイジは、モノの変質は得意だが、それを動かしたりするのは苦手なんだ。だからゴーレムの簡易版ともいえる、大地の腕≪アースハンド≫の動きが緩慢で、魔法を使うまでもなく叩き落とされたろう?』
「うむ、要は【傀儡】と同じじゃな。たとえば、息を吸うときに、どの肉、どのハラワタを、どのくらいの強さで動かせばいいのか、なんて考えないじゃろ? それと同じ事よ。人型の操作は飽くまで感覚に依らなければいかんのじゃ」

 二人(?)の戦闘エリートの説明に、私は、得心が行った、と手を叩く。

 つまりヒトの動作というのを、理論のカタマリ──機械で再現するのは、不可能といえるほどに難しいっていうのと同じか。
 つまり、馬鹿の方が魔法戦闘では強い! ってことになるのかな? うん、なんかちょっと違うかも。



「そっか。じゃ、このままいくとまず負ける……無事では済まないってことね、エレノア嬢は」
『だなあ。ま、どっちが勝とうがいいじゃねえか。お前さん達には関係ないだろう?』
「あるわ。私もちょっと人助けしてみようかな、ってね」

 博愛主義に目覚めたかのような笑みを意識して、そんな宣言をしてみる。
 
「何かウラがあるんじゃろうが……貴族の決闘なんぞに首を突っ込めば、厄介事では済まんぞ?」
『そりゃそうだろ、この悪魔がタダで人助けなんてするワケねえよ』

 おい、君達は私を何だと思っているんだ? いや、まあその通りなんですけどね。

「たぶんだけど……あの子ね、いい所のお嬢様だと思うのよ。少なくとも、あの徴税官よりは上流、ともすれば、爵位持ちの家の出かもしれないわ。結構あるのよ、田舎の名士の娘が都会見たさにお忍びの小旅行をするのは」

 これが偽名を名乗る理由ではないだろうか、と思う。

 もっとも、一度偽名を名乗った相手から本名を聞きだすのは難しい。
 この仮定が当たっていたとしても、今ここで彼女の実家の力を持ちだすわけにはいかないだろう。そう、“本当の実家”はね。

「ほう?」
「だから、ここでエレノア嬢を助けておけば、その家と繋がりが持てるでしょ? トリステインで成功するには、貴族と繋がりを持つのが近道だ、って聞くし。あの子の性格からみるに、親も娘の恩人を邪剣にするとは思えないからね。それに、謝礼として金一封くらいは出るかもしれないわ」
「ふむ。じゃが、どちらにせよあまり賛成はできんな。下手に割って入って官憲に追われるのは御免じゃ」
「大丈夫、別に力でどうこうしようって訳じゃないから。必要なのは、ちょっとした演技力と交渉術よ」

 そう、別に殴り込みを掛けようってワケじゃない。
 大体、私じゃあ、あの徴税官には逆立ちしても勝てないっての。
 


「ちょ、ちょっと、アリアちゃん! 貴女まで何を言っているの!」

 魔法論には入ってこれなかったのか、それまで黙していたドリス。
 しかし、この暴挙とも言える行動は放っておけないと思ったのか、スイッチが入ったかのように声を荒げて、私の肩を激しく揺する。

「私はエレノア嬢とは違いますよ。飽くまでも打算、平和的な話し合いってやつです。こう見えても貴族との交渉は慣れっこなんですから。ほら、辺境伯とか、フーゴとか、シュペー卿とか、ね?」
「ね、じゃないでしょう。この国の貴族はゲルマニアの貴族とは違うのよ?」
「確かにそうです。しかし、ここで助けなければ、あの子、きっと嬲り殺されますよ?」
「そっ、それは……。でも、何も貴女がやらなくてもいいじゃない」
「他に誰もやりませんし、やれません」

 きっぱりと言い切ると、ドリスはますます困ったように細い眉を垂れさせた。

「くはは、大した自信じゃな。よかろ、やってみせるがよい。お主がどうやってこの場を収めるのか、妾は高みの見物といこうではないか」
「もう、ロッテちゃんまで! 貴女の妹でしょ?」
「くふ、もしも掴み合いになったとて、あの程度の輩に負けるようなヤワな鍛え方はしておらんつもりじゃからな」

 ごめん、それ、かんっぺきに過大評価ってやつよ。
 私の腕じゃ、荒事に慣れていないドット、もしくはラインメイジが限界だろう。プロフェッショナルが相手ならドットにでも負ける自信がある。

「あ、でも、ちょっと手伝ってくれる? 一人じゃ、あのお嬢様を抑えるのが難しいわ」
「ふむ、いいじゃろう」
「駄目よ、待ちなさい!」
「大丈夫、任せておいて下さい。我に策あり、ですよ。勿論、この騒ぎによる妖精亭への悪影響も止めてみせますから」

 口先は私の商売道具。その武器で役人ごときを言いくるめられずにどうしますかって。
 追いすがるドリスに悪戯っぽく笑いかけて、私はいざ戦場へと足を向けたのだった。







「かはっ、はぁ、はぁっ……うぐ、魔法が……」

 息も絶え絶えなエレノアが杖を振るけれど、まるでファンタジックな光景は生み出されない。

「流石に打ち止めか。しぶとさだけは賞賛に値するな」
「う、うぅっ」

 ふぅ、と呆れたように息を吐く徴税官に、じり、とエレノアは後にすさる。

「おや、まさかとは思うが……降参かね? くくく、貴族とは、“敵に後ろを見せない”者の事をいうのではなかったのかな?」
「ぐ、す、するわけ、ないっ、でしょ……」

 挙げ足取りで、降参という道を塞ぐ徴税官。
 エレノアは強がってみせるが、どうみても満身創痍の姿では説得力がまるでない。



「そうか、安心した、では決着といこう! ラグース・ウォータル・デ──」
「──その決闘、そこまでですっ!」

 徴税官がラスト・スペルを詠みあげようとしたところで、私はエレノアの前へと割り込み、決闘の終結を宣言した。
 どよめく観衆からは、余計な事をするな、という敵意より、止めてくれて良かった、という安堵の方が多く感じられる。

 ふん、この街も捨てたもんじゃないわね。見物人には貴族もいるはずなのに、誰一人助けに入らないというのは気に食わないけど。

「え……? あ、う?」

 狐につままれたような顔のエレノアの唇に、無言で人差し指を当てる。黙ってろ、という意思表示である。

「何者だ、貴様……?」

 お楽しみを中断された事で、相当にお怒りなのだろう。怒気を孕んだ殺気を込めて杖をこちらへと向ける徴税官。

「神聖な決闘の最中、大変失礼を致しました。私、マイヤール家の侍女長を務めます、ボニー、と申します」

 適当に思いついた偽名を名乗り、胸に手を当て、左足を後ろで交差。45度の角度で頭を下げる。
 見習い時代、貴族への対応はイヤというほど叩きこまれている。トリステイン流の礼節もお手の物。

 そう、私は今からマイヤール家(仮)お付きの忠臣を演じてみせるのだ。

「むぅ、これは中々にけしからんモノを……おほん! 要するに、その娘の従者、ということか? 端女風情が貴族の決闘に乱入するとは、万死に値するぞ!」

 乳をガン見しながら凄まれても……。

「重ねがさね申し訳ありません。しかし、“さる侯爵家”とも所縁深い、マイヤール家に仕える者として、お嬢様の危機は放ってはおけませぬ」

 えぇ、ハッタリです。虎の威を狩るなんとやらってやつである。

 筋者のやり方と同じだが、実際、貴族のやり方もそれと大して変わらない。
 特に、始祖の四大国では、自身で積み上げたモノよりも、所属する門閥や組合などによって、個人の価値が決まる傾向があるので、こういった牽制は有効なはず。

 侯爵とうそぶいたのは、爵位持ちの貴族としては公爵の次に強い権限を持ち、なおかつ、国境沿いに配置されている、即ち王都から遠い位置に領地を持つから(ゲルマニアでいう辺境伯と同じようなもの)。
 王都の役人からすれば、侯爵家の名前は当然に知っていても、それに仕える貴族までは知らないだろうし、調べようとしてもすぐに特定されることもないだろう、という打算である。
 まあ、後で騙りが発覚したとしても、それこそ後の祭りというやつで。この場さえ切り抜ければエレノアとボニー、という偽りの名のみが残るだけだ。

「こっ、侯爵家だと? それは一体どこ──」
「えぇ、実は、お嬢様たっての願いで、旦那様には内密の王都旅行だったのですが……」

 その質問はタブーよ、お役人さん?

「はっ?」
「まさかまさか、私共が目を離した隙に、偶々ふらりと立ち寄った酒場で徴税官殿を侮辱されてしまうとは……。いや、お嬢様のお転婆ぶりには参りました。これは徴税官殿だけでなく、後々店主にも詫びを入れなければなりますまいな」

 ここで、エレノアと魅惑の妖精亭は全くの無関係であるという事を、大勢の証人に示しておいて、と。



「あ、あんた、一体、何をっ?」
「クライド! お嬢様は決闘のショックで錯乱しておられるようです! 急いで介抱を!」

 これ以上エレノアを止めおくのは無理か、と判断した私は天に掲げた指をパチン、と鳴らす。

「はっ!」

 凛々しい返事とともに、如何にも真面目ぶった顔で野次馬の中から出てくるのは、もちろんロッテである。
 少々偽名が男性っぽいが、まあ、ボニーときたらクライドでいいだろう。

「ちょ、何す、む、ぎっ……」
「くふ、お嬢様、体に障りますわ。お静かになさいませ?」

 ロッテは抱きよせるようにしてエレノアの口を塞ぎ、無理矢理に人垣の方へと引きずっていく。
 精神力の切れた、いや、万全の状態でも、エレノアに抵抗する力はないだろう。最凶の吸血鬼にたかがライン・メイジが敵うものか。

「待て! 勝手に何をしている! まだ決闘は終わってはいないぞ?」

 ほんっと、真性のサドね、このオッサンは……。

「徴税官殿、もはやお嬢様に戦う力は残っておりませぬ。この勝負、徴税官殿の勝ちですわ。また、此度の事はこちらに非がある事も認めます」
「当たり前だ!」
「それで、どうでしょう。謝罪に関しては、後日、正式な形でさせて頂くように手配致します。なので、本日はこの辺りで手打ちにしてはいただけないでしょうか?」

 烈火の如き猛りをぶつける徴税官を、半ば無視して話を進める私。

 最初に脅しつけておいて、後で妥協案を提示する。
 普段はあまり使わない(使えない)、ちょっと強引な交渉術の一つ。

「御家のご令嬢は私を侮辱したのだぞ? まして、この決闘はそちらから申し込まれたモノ。謝って済むような問題ではない!」
「そこは徴税官殿の海のように深いご慈悲を持って、所詮は子供の戯言、という訳には参りませんか?」
「ならんな。コトが決闘と成った時点で、歳など関係はないのだよ、侍女君」

 なれよ。ったく、これだけ野次馬を集めたのは、自分の力を示すためでしょうが。
 その力を見せつけるのはもう十分、あとは度量を見せておけば自分の株があがるってことがわからないのかしら。

「勿論、お嬢様の無礼を購うだけのモノは形にさせていただきますが……?」

 そうくるならこうだ、と上目遣いで遠慮がちに申し出る。
 金を払うとははっきり言わないのがミソかな。

「……ほぅ。如才のない事だな。しかし、ただの端女にそんな権限があるのかね?」

 賠償の話になった途端に、徴税官の目の色が変わる。やはり喰いついてきたわね……。

 高潔な貴族だと、この申し出ほど危険なモノはない。さらなる侮辱として火に油になってしまうはずだ。
 が、どう考えてもこの徴税官は俗物。地位を利用して小遣い稼ぎに精を出している時点でそれはお察しである。

「はい。こうみえても旦那様からの信頼は得ていると自負しておりますので。その証としてこのような贈り物を頂く事もございます」

 澄ました顔で、薄紫色のクリスタルリングを嵌めた左手の甲を徴税官に差し出す。彼はじろりとそれを覗き込むようにして観察する。

 フーゴに貰ったこのエクレール・ダ・ムールの指輪は、材質こそ大して高価ではない水晶だし、名工が創ったものでもないだろう。
 しかし、プロポーション(全体評価)、ポリッシュ(研磨)、シンメトリー(対称性)というジュエリーを評価する上で重要なファクターがいずれも最高品質、とまではいかなくてもバランス良く優れており、さらに簡単な魔法も込められている。
 それらの点を踏まえて、総合的に評価すると、60エキュー以上の価値はある代物。そこいらの露店に売っている安物とは違う。
 これを半値ほどで手に入れたというフーゴは、余程イイモノを手に入れようと探し回ったんだろう。ふふ、可愛いヤツね。

 ……まあ、惚気はその辺にして。
 平均年収500エキューの平貴族がそんなものをただの使用人に与えるなどという事は、普通では考えられない。
 つまり、ボニーとマイヤール家の当主が“普通ではない関係”なのだ、という事を示す事になる、はず。
 
「これは見事なマーキーズカットだな。紫水晶かね?」
「いえ、普通の水晶にエクレール・ダ・ムールの魔力を込めたモノらしいですわ」

 これで駄目押し。エクレール・ダ・ムールというのは、恋人や家族などの大切な人に贈る花なのだから、それを贈られるということは……。

「その若さで侍女長というのはそういう訳か」
「えぇ。ですので、私が旦那様に進言を差しあげれば、問題なくコトは進むかと」

 愛妾の発言権は時に本妻を超える。妾に家ごと財産を乗っ取られた貴族もいるくらいだ。

 しかし、この徴税官には、私がいくつに見えてるんだろうなあ。
 普段は邪魔くさい胸の脂肪も、こういうところでは大いに役に立つものね。

「くくく、御家のご当主も好きモノだな」
「やや、それ以上申されますと、当家への侮辱となりますよ?」 
「ふ、これは失礼。……まあ、そういう事なら、ここで手を引いてもよい。勿論、王都の徴税官を務める私を納得させるだけのモノを用意できるのだろうね?」

 おいおい、折角こちらは金銭の授受というのをぼかしていたのに。これじゃあ、お集まりの皆様にも丸わかりじゃないか……。

「それは勿論。ただ、今は“これほどしか”……。なので、やはりそれも後ほど、という事になってしまいますわ」

 予想以上の俗物ぶりに呆れつつ、ざくざくといい音のする財布袋を懐から取り出す。
 中身をチラリとだけ見せ、申し訳なさそうに頭を下げる。

 トリステインで仕入れたモノは全て現金化したばかりなので、今現在、財布にはかなりの数の金貨が入っている。
 ここでちょいと器量を見せるだけで、これとは比較にならない額が支払われる、となれば万々歳でしょ、汚職役人様?
 徴税官の年給は、多く見積もっても1000エキューってところだろうし、准男爵以下はまともな領地を持ってはいないだろうからね。

「ふむ……」

 未だに周りを囲む観衆からは溜息が漏れ、徴税官は暫し、油を塗りたくったような髭を撫ぜながら思案する。

 えぇい、いいから首を縦に振りなさい!

「徴税官殿?」
「あいや、御家の誠意はわかった。ここで手打ちとしようじゃないか」
「まぁ! さすが重大な官職を任されるほどのお方は懐が深いですわ!」
「ふはは、いや、今考えれば私も少々大人げなかったな。ご令嬢には今後は気を付けるように、と伝えたまえ」

 徴税官が醜い笑みで肯定の意を示し、私は内心、ほっ、と胸を撫で下ろした。
 しっかし、今になって「大人げなかった」ですって? 白々しい。

「しかと承りました。では、また後日に。本日はこの辺りで失礼をさせていただきます」

 ペロリと舌を出しつつ最敬礼。

 ま、とにかくこれで終わり。後はエレノアを連れて、さっさとこの街を出てしまえばよい。

 ふぅ……。思ったよりも楽勝だったわ!



「皆の者、決闘はこれで終わりだっ! 通行の邪魔となってはいかん、直ちに解散せいっ!」

 ようやく決闘の終結を宣言する徴税官。未だどよめく観衆も祭りの終わりを知り、ぽつりぽつりと帰途へとついていく。その動きに合わせて私もまた踵を返す。

 さて、と。とりあえず今夜はここに泊まって、朝一番でお暇させてもらいますかね。

 エレノアに関しては、今夜中に話をつけておけばいいだろう。
 彼女とて王都には居られないだろうし、殺されかけていたのを助けられておいて不義理な事はするまい。

 ふふ……この街での収穫はデカイかも。ようやく明るい未来が見えてきたって感じだわ!

「あれ……? やっぱりあんた、どこかで見たような?」

 希望に胸を膨らませての凱旋。しかし、そこで掛けられたのは冷や水を浴びせるような声。

「げっ……」
「あっ、思い出した! お前、昼間の生意気な女商人じゃねえか!」

 禿げた中年が、大口を開けてこちらを指さしている。

 う……っ! このオッサンは、昼間、喧嘩になりかかった商社の主人じゃないか!

「ひっ、人違いですわ! な、何を仰っているのです?」
「おいおい、惚けるなって。オレとて商売人、一度見た顔はそうそう忘れねえよ」

 いや、今の今まで忘れていたでしょうが?! 近寄ってくるんじゃないわよ!

 あの徴税官は……、もう、帰ったよね? いないよね?
 淡い願望を胸に抱き、恐る恐る、コロッセウムの跡地を振り返る。
 
「……女商人、だって? 侍女ではないのか?」

 はい、いましたね。しかも、こっちをめっちゃお睨みあそばされております。今にもスクウェア・スペルを撃ちそうな勢いで。

 も、もしかして、お、怒っていらっしゃるのかな?

「え、えへへ……」

 悪戯バレした子供のように、参ったなあ、と頭を掻いて笑いかけるが、それで誤魔化せるなら苦労はしない。
 
 こ、この状況って、もしかしなくても……、すっごく、まずいわよね?





 つづけ








[19087] 42話 羽ばたきの始まり
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:9840b7a6
Date: 2012/02/10 19:00

「このっ、離しなさい! どこに連れていくつもりっ?!」

 長いブロンドの女の小脇に抱えられたまま、私はじたばたともんどりをうつ。
 
 神聖な決闘の最中に割り込むなんて、一体、何を考えているのよっ……!

「やれやれ、なぁにやっとるんじゃアイツは」

 しかし女は華奢な外見に(一部を除く)よらずとても力が強いようで。私の抵抗をまるで意に介さない。

 く、精神力さえ尽きていなければこんな平民……マントもつけていないし、杖も持っている様子もないから──平民、よね? なぜか貴族らしきオーラが漂っているのは気のせいだろう……。

「こっ、この私を無視するとは、いい度胸ね、平みぃい゛っ?!」
「うるさい」

 ちょっ?!
 風船が割れるような破裂音。お尻から全身に走る激しい痛み。

 ま、まま、まさか、そんなことがあっていいわけが……!

「……こ、こ、こここ、このっ……! し、ししし、尻叩きですって?! 貴族にこんな辱めをしてっ……って、あぁっ、またっ?!」
「ふん、小うるさい餓鬼じゃ」
「絶対、絶対に許さないんだからっ! 覚えてなさい、後で酷い目にあわせてやるんだから!」
「ほう? その〝後〟は永遠にやってこないかもしれんがな?」
「……うっ!」

 不覚にも、ぎくり、とした。
 にやりと妖しく笑む女からは、まるで母様がお怒りになられた時のような……。

 あぁあ! どうして私がこんな平民にこんな感情を!
 
「ふざけないで! 平民が凄んだところで……ぜんっぜん、怖くなんかないんだから! 何が目的なのよ?! 誘拐? 強盗? 自慢じゃないけど、お金なんて持っていないわよ!?」
「あ~、鬱陶しい! ぴーぴーとキンキン声で怒鳴り散らしおって! これだから餓鬼は嫌いなんじゃ!」

 いかにも迷惑そうに顔をしかめる女。

 はぁ?! なんでそっちがヒステリー起こすのよ! 怒りたいのはこっちよ! 大体、餓鬼、餓鬼って、私はもう子供じゃないわよ!

「とにかく離しなさいっ! 今ならまだ無礼を許さないこともないわよ?!」
「かっ、絶対許さんのではなかったのか? まったく、助けてやったというに何という言い草か」
「なっ……! へっ、平民が〝助けたやった〟ですって?! 馬鹿にするんじゃないわよ! あんたたちの手なんて借りなくてもっ!」
「はぁ……。ま、よいわ。とりあえず、あまり時間がなさそうなんでな」
「はっ、ぁっ?!」

 また無視を決め込もうとする女に文句を付けようとしたところで、全身に浮遊感。

「い゛っ!?」
 
 そのあとにどすん、という大きな音と衝撃。咄嗟に突いた手に伝わるのは、ざらりとした木目の感触。
 一山いくらの荷物のように、ぞんざいに子汚い馬車の荷台に放り込まれたのだ、と理解した時には、すでに女は御者台に座り、手綱を取っていた。
 
 ぐ……二度ならず三度までも……。

 しかし、これは、やはり誘拐ね。こんな格好をしているというのに、私に目を付けるなんて、無駄に勘のいい賊だこと。
 
 でも、馬鹿だわ! 縛りもしない、杖も取り上げないで、貴族≪メイジ≫を捕まえたつもりだなんて!

(イル・アース……)

 私は暢気に御者台に座って背を向ける女にバレないよう、小さな小さな声でスペルを詠む。
 精神力がほとんど底を突きかけているけれど、≪錬金≫一回程度ならば、唱えられるはず……。

「妙な考えは起こさぬ事じゃの」

 杖を振りあげようとした時、背中越しに女が静かに、しかしやけに頭に響く声で呟いた。
 
「ぅ……?」

 たったそれだけ。それだけなのに──私は杖を振るどころか、声を発することも出来なくなり──その場にへたり込んでしまう。
 
 うぅ、また……。何なのよ、これは……。

「……ま、お前も貴族とはいえ、地元の役人と面倒を起こしてはこの街にはおれまい?」
「あんな木っ端役人……っ」
「よしんば実家の力が強いとしてもじゃ。王都の役人と悶着を起こしては、確実に実家に面倒はかかるじゃろうなあ」
「う」
「そういうわけでな。とりあえず、この街を出るまでの間でも、妾達と共に行動して損はないのではないか。それとも一人で走ってでも逃げるかの? それならそれで妾は止めんが?」
「うぅ」
 
 肩を竦め、今度は優しく諭すような声で言うブロンドの女。

 ぐ、確かに言われてみればその通りなような気も……。それに、今、家に戻るわけにはいかないし……。

 でも、誇り高きトリステインの王都にあんな貴族がいるなんて、許せなかったのよ。

「答えは決まったようじゃの」

 返答に詰まってしまった私を尻目に、女が溜息混じりにそう言うと、がらり、と古臭い荷馬車が動き出す。

 先程よりは、少し頭の冷えた私は、ぐるりと辺りを見渡してみる。

 荷台には用途のよくわからない金物や、甘い匂いをさせる瓶詰め、筒状に巻かれた安物の布きれなどが整然と並べられている。

 備え付けの棚には、〝仕訳帳〟〝総勘定元帳〟〝試算表〟などと書かれた、羊皮紙の束。
 〝国際法と慣例〟〝同業組合の意味と意義〟〝魔法具鑑定〟〝ハルゲキニア経済史〟〝メディチ家の勃興〟など、法律書、歴史書や経済書。
 その他、〝知恵と欲求の段階論〟〝エゴイスト〟〝勝利に至る99の方程式〟など、哲学系の書物も所せましとおかれていた。中には〝天然毒が人体に及ぼす効果〟なんていう危なそうなものや〝白雪姫〟なんて手書きっぽい絵本のようなものもあるが……。
 
賊? の割には随分と勉強家のようだ。というか、平民がこんな難しそうな書を読めるのかしら……?

「さて、ケガをしたくなければ、どこかに捕まっておけ」
「は、はぁ?!」

 聞き返す間もなく、女は御者台で立ち上がり、思い切り手綱を振りおろす。
 馬車は加速し、猛突進を始める。未だ引かぬ人混みに向かって。

 ちょっと!? 何やってんのよ、こいつ! 人死にが出るわよ?!

「どけぃっ! 退かぬものは、牽き殺して豚のエサにするぞっ!」

 …………やっぱり、賊だわ。







「ちょ、ちょっと!? どうしてこの男の言う事を全面的に信じるんですか!」

 やばい、圧倒的にやばい!

 問答無用でこちらへ向かって杖を突きつける徴税官に、私はあたふたと、口を滑らせた卸問屋の旦那を前に突き出して、待ったを掛けた。
 
「おい、ふざけんな! 俺が嘘を吐いたって一文の得にもなりゃしねえだろうが!」
「知らないわよ! どうせ昼間の取引で袖にされたのを根に持っているんでしょうが!」

 ぎゃあぎゃあ、と必死に罪をなすりつけ合う私と告げ口親父。
 まあ、嘘を吐いているのは私なのだけれども。でも、そんなの今は関係ねぇ、関係ないのだよ!
 
「取引……?」
「あ」

 しばらくその様子を窺っていた徴税官が、怪訝な顔をして首を傾ぐ。
 思わず私は口に手をやってしまった。傍から見れば、さぞや間抜けな表情をしていたことだろう。

「お前、結構馬鹿だろう?」
「う、うっさい! その、今のは言葉のアヤと言いますか……へ、へへ」

 卸問屋の旦那が若干哀れむように、私を横目でチラ見する。

 商社は消費者とは絶対に取引しない。商社が取引するのは、どこかの組合に属した商人か、そうでなければ、商品の生産者とだけである。
 つまりそれは、私が遍歴の商人である、ということを自白したに等しい。同時に、それは貴族令嬢であるエレノアの従者などでは当然ないわけで……。

 う、あ、あぁああっ?! 何やってんのよ、私?!

「はっ、もう疑う余地もないな。辞世の句でも詠むかね?」

 徴税官が大仰に肩を竦めて死刑を宣告する。
 首だけ回して、後方を窺ってみるが、いつの間にか私の退路を塞ぐように取り巻きの衛士達が詰めていた。

 ……さて、この状況を私はどう突破すれば良いだろうか。
 
 1. スマート&ビューティフルなアリアは突如、この状況を打破する冴えた言い訳を思いつく。
 2. ストロング&スタイリッシュなアリアは、悪徳徴税官一味を華麗な技でぶちのめす。
 3.クレイジー&フーリッシュなロッテが颯爽と助けに来てくれる。
 
 打ち首エンド、という選択肢はない。ないったら、ない。

 最初の選択肢を選びたいところだが、この湯だった頭では、まったく適当な言葉が思い浮かぶ気がしない!
 自分で言っておいて、2番目は論外だ。なぜなら、ここは外国の王都であり、それも衆人環視の真っ只中。万一、ここで私が彼らをまとめてぶちのめす事が出来たとしても、それはそれでかなりヤバい!

 この際、後で何を請求てもいいから最後の選択肢に期待したい……。
 っていうか、早く来なさいよ!

「ラグース・ウォータル……」

 って?!

 このオッサン、ちょっと考え込んだ隙に! どんだけ短気なのよ?!


 
 えぇい!



「南無三……っ」
 
 ターン&ダッシュ!

 今にも魔法を放ってきそうな徴税官に、素早く背を向け、地を這う燕のごとく逃げる!
 頼むからまだ撃たないで!
 
「止まれっ!」

 当然、行く先には衛兵が諸手を広げて待ち構えている。
 でもそんなの……。

「キャオラっ!」
「くぉっ?!」

 ジャンプ一番、衛兵のドタマにローリング・ソバットをぶちかます!
 その反動を生かして、さらに徴税官から離れるように前方へ跳び、着地するや否や、人混みをすり抜けるように駆ける。

 衛兵が奇妙な声をあげるけれど、そんなのに構っている暇はない。とにかく、前だけを見て走るしかないのだ!

 ロッテは馬の方へ向かっているはず。こうなったらこの街から可及的速やかにぬけ出すべきだろう。

 スカロン達の事は多少心配だが……。正直、人の心配をしている場合ではない。
 何、衛兵のほうは貴族ではないし、スカロンと私達が知り合いである、ということも彼が喋らなければいいだけなのだ。彼らにまでお咎めが下ることはあるまい。

 私はかなりまずいけど……。下手したらお尋ね者になりかねない。
 
 あ~、畜生!
 やっぱり柄にもない事はすべきじゃなかったぁ! くぅ、無事にすんだら、あの娘の親から礼金をふんだくってやる!

「何をしとるかっ! 使えんやつらだっ! 追え、逃がすな!」
「はっ!」

 若気の至りを悔いたところで、しばらく呆けていたのであろう徴税官が再起動した。
 さすがに人混みに向かって広域魔法を撃つほどキレたヤツではないらしい。ま、そんなことしたら、貴族とはいえ、さすがにまずい立場になるわよね。
 
 とはいえ、魔法をまったく使えないわけではないだろう。足の速さには自信があるが……。魔法を使われればそんなアドバンテージは吹き飛んでしまう。



「のわあぁっ?!」



 どうしたものか、とテンパイ気味の頭で考えていたところで、前方の人垣がどどっ、と崩れる。



「口だけ娘、とっとと走らんか!」



 喧しい車輪の音と人々の悲鳴とともに、聞き覚えのある傲岸不遜な声が聞こえる。

 にぃ、と口の端が吊りあがる。どうやら、最後の選択肢は生きていたらしいわね。

「随分とごゆっくりなご到着ね!? わざと遅れたんじゃないでしょうね?!」
「阿呆! いいから、さっさと乗れっ! 街から出るぞっ!」
「言われなくてもっ!」

 人をなぎ倒すようにして進む馬車。私は転がるようにして、前方から馬車の荷台へと滑りこむ。

「きゃぁっ?!」

 ん? 転がりこんだ先で黄色い声があがった。
 


「あぁ、貴女。無事だったかしら?」
「無事じゃないわよ! あんた達が無理矢理連れてきてっ! それに何なのよ、この無茶な運転は! めちゃくちゃよ、めちゃくちゃ!」
 
 荷台の中、丁度真正面に金髪の少女──エレノアが涙目で馬車の骨にしがみついていた。

 ふむ、何故か怒っているようだが。

「まあ、落ち着きなさいな。何も私達は貴女を取って食おうというわけではないわ」
「しっ、信用できるわけないでしょ?」

 そりゃそうだ。

 それにしても気丈な娘だこと。普通であれば、このくらいの年齢の娘がこの状況に陥れば、声も出せないのではないか。
 体型から見て、私より大分年下だろうに。大したものね。

「ま、今は大人しくしていて頂戴。詳しい話は後でしましょう?」
「……ふん、覚えておきなさいよぉ……」

 エレノアは不貞腐れたように顔を背ける。
 今ここで、これ以上、問答しても無駄だと考えたのかもしれない。もしくは、そんな余裕がないか。ま、大人しくしていてくれるならばそれでいい。

「おい、アリアよ。予定通り、西に向かうのか?!」
「いえ……そうね。南にいきましょう。ヴェル=エル街道沿い、で」

 激しく手綱を振りまわすロッテの問いに答えると、彼女は渋い顔をした。

「南……? 西のアストン伯領とやらには?」
「ほとぼりが冷めてからの話よ、それは。南に向かえば、最悪、追われても、そのままガリアにぬける事もできるわ。問題は、このお嬢さんの実家がどこか、だけど。それはおいおい考えればいいしね」
「むぅ、ガリアか…………うぅむ」
「ほらほら、早く! 追いつかれるわよ!」

 ロッテは未だに理由は不明であるが、ガリアにはあまり行きたくないようである。しかし今は四の後を言っている場合ではない。

 幌の隙間から後ろを確認すると、衛兵達もまた馬に跨って追いかけてくるのが見えた。そこらの馬宿や商家の馬主から借り上げたのだろう。
 中々手際が早い。さすがに王都というだけあって、その気になれば、治安維持能力はかなり高いのだろう。
 下手をすれば、マンティコアやらグリフォンやらが出てきそうなので、とにかく迅速にこの街を後にせねば……!

「ロッテ、馬達に【賦活】を!」
「わかっておるわい! 〝彼の体を流れる鉄の血よ、滾れ、弾け、力の赴くままに!〟」

 ロッテが声を張り上げると、二頭の若駒達を赤い光が包み込む。

 【賦活】の精霊魔法。身体能力を強化し、疲れ知らずになる魔法だ。その加護は人型のモノに限定はされず、馬だろうが、竜だろうが、効果があるらしい。

 これも【再生】と同じように、反動は酷い……。

 効果が切れれば、どこかに潜んで馬達を休めなければならないだろうが、とりあえず、普通の馬程度では、追いつく事はできないだろう。
 口をあけてあんぐり、としているエレノアには、あとで誤魔化しておこう。水のメイジということにでもしておけばいいだろう。どうせ子供だし、楽にだまされるでしょ?

「なっ?! 幻獣の類か?!」
「ふはははっ、そこらの駄馬とは違うのよっ! 追いつけるものなら追いついてみい!」

 ロッテが、必死の形相で馬を扱く衛兵達に捨て台詞を吐くと、【賦活】を掛けられた愛馬達は、それに応えるかのように、ぐんぐんと加速。
 ハルゲキニアの地上生物としては、相当の上位に入るであろう、推定時速100リーグ超の脚力でハルゲキニアの街を蹂躙していく。

「ひゃああぁっぁぁっ?!」

 暴走馬車は、ドップラー効果の掛った貴族令嬢の悲鳴を残して、夜の街道へと消えていくのだった。

 さようなら、トリスタニア。願わくば、追手など出される事のありませんよう。

 いや、ほんと切実に。







 アリア達が嵐のごとく逃げ去った後の裏通り。

 先ほどまで場に渦巻いていた熱気は急速に冷め、人通りもまばらになってきていた。
 民衆は、派手な魔法の打ち合いと、嵐のような逃走劇、鼻持ちならない役人の失態の三点セットを見られて満足した、というところだろう。

「『逃げられてしまいました』?! 阿呆か、貴様は! さっさと追え、このウスノロが!」

 一方、徴税官だけは熱がひくどころか、活火山のごとく、大層にご立腹であった。
 貴族とはいえ、年端もいかぬ子供に舐められた挙句、平民に謀られたのだから無理もなかろう。

「はっ、しかし、彼の者の馬は尋常ではないほどに速く──」
「えぇい、黙れ黙れ! 貴様らまで私を馬鹿にするのかっ!」

 額にくっきりと青筋を立てて怒鳴り散らす徴税官。
 誰かれ構わず、八つ当たりでもしそうな勢いである。

「くそぉ、許せん。目に物を見せてくれるわ、あの女狐め……。おい、お前! ひとっ走り城へ行って、魔法衛士隊に応援を要請して来い!」

 怒りの収まらぬ徴税官は、狂ったような癇癪をおこす。

 取り巻きの衛兵達も、この命令にはさすがに困惑。

 今回、彼に実害はほとんどないし、もしあったとしても、一役人の都合で王宮の守護者たる魔法衛士隊が動く訳もない。
 しかも、彼は一代限りの準男爵──貴族の位で言うと、シュバリエに毛が生えた程度の階級しか持ち合わせていないのだ。

「で、ですが、これしきの事で魔法衛士隊を動かすのは……」

 基本、言いなりである彼らも、珍しくも反論を試みる、が。

「『これしき』だとぉ~? 貴様ぁ、やはり王都徴税官たる私を舐めておるのか? トライアングル・メイジのこの私をぉ?!」
 
 凄惨な表情で意見を上申した衛兵の鼻先に杖を突き付ける徴税官。衛兵達は震えあがって言葉に詰まる。

 

 そんな時、僅かに残った市民から、くすり、と小さな失笑が漏れた。



「むぅ! 今、笑った者! 誰だ?! 出てこい! 侮辱罪だぞっ!」

 普通は耳に届かないほどに小さな音に敏感に反応し、鬼の形相で声の方を睨みつける徴税官。どうやら相当にアンテナが敏感になっているようだ。

「ひぃっ」

 市民達はとばっちりを恐れて、短い悲鳴を上げながら、蜘蛛の子のように散る。

 その中でただ一人、逃げないどころか、さも傑作だ、と言わんばかりに拍手をしながら前に歩み出てくる男が居た。
 
「ほう、侮辱と申すか。ふむ、さぞかし高名であろう王都徴税官殿がどのようなご処罰を下すのか、とくと拝見させていただこう」

 いきり立つ徴税官と相対しても、なお朗らかに笑う壮年の男。
 腰に差した指揮棒型の杖に、濃紺のマントを羽織っているところを見ると、この男もまた貴族なのであろう。

「うっ?!」
「どうしたのかね?」
 
 男の顔を確認した途端、目に見えて狼狽を始めた徴税官。壮年の男は未だ余裕の表情を崩さない。

「で、で、デ……」
「人を指でさすのはやめたまえよ、王都徴税官殿」
「デムリ宮廷財務長官?!」

 阿呆のように目と口をあんぐりと開けた徴税官を、軽く窘めるデムリと呼ばれた男。

 ちなみに、宮廷財務室長官とは──

 トリステイン(他の王政国家もほぼ同様)において、中央の財務関連の役職で財務卿(財務大臣)の次に位の高い役職である。
 同じ地位に、宝蔵室長官、尚書部長官の二つがある。次期の財務卿は、この三つの役職についているものの誰かが抜擢されることが多い。
 
 ちなみに、宮廷財務室とは、王の財産の支出、歳入などを管理する公的機関である。
 当然、宮廷財務官に勤めている者はすべからくがエリートであり、ましてや、室長ともなれば、財務の縦割りでは、限りなく末端に近い徴税官如きが意見出来るような立場ではないのである。

「な、な、どうして貴方がこのような場所に?!」
「いやなに、そこな平民が王宮の前でしつこく食い下がっていてな。普通ならば追い払うところであるが、門兵に聞いたところ、君の話題ではないか。君を徴税官の役に任命してしまったのは私であるし、ま、一応様子を見るだけでも、とな」

 デムリが顎で指し示す先には、肩で息をしているスカロン。

「あ、あんた! 大丈夫なの?!」

 店に退避していたドリスが、慌てて飛び出しながら主人に安否を問う。
 スカロンはそれに、片手をあげて、コクコクと頷く事で応えた。

「こ、こんな平民の言う事など、真に受けてはなりませぬぞ?! 第一この男はゲルマニアの……」
「黙らっしゃい!」
「う」

 苦々しげにスカロンをちらりと見やりながら言い訳を並べようとする徴税官を初めて強い口調で遮るデムリ。

「以前から陳情には挙がっていたのだよ、君の阿漕な行いに関してね。でなければ執務もたまっているというのに、一市民の苦情だけで、わざわざ城下などに足を運ぶわけがないだろう。それにしても、今回はちと騒ぎすぎたな。年端もいかぬ、貴族の書生ともいえぬ、童子と決闘騒ぎとは、これはいかん。庇いだてする気にもならんわ」
「しかし、あの餓鬼……いえ、ご令嬢は私を侮辱するような発言をですね」
「馬鹿か君は。ほんの小さな子供のすることに一々目くじらを立ててどうする? それに、どこの令嬢かもわからない──もしどこかの有力貴族の子女であったらどうするつもりだったのだ? 保護こそすれ、決闘騒ぎなど言語道断! 下手をすれば、王政への不信に繋がる行為、引いては反逆罪といっても過言ではないぞ!」
「む、ぐぅ」

 上司も上司、商人でいうなれば、経営者と見習いのような格の違う相手に叱責され、徴税官は、先程の威勢はどこへやら、借りてきた猫のように大人しくなる。

「ふむ。これ以上の申し開きはないと。では、今日の事、及びこれまでの行いの陳情については次の議会でも話題に挙げる。肝に銘じておけ」
「うぅ」
「……では、下がりたまえ。君らもだ。まったく、いい大人が揃いもそろって情けない」
「は、ははっ」

 デムリは苦虫を噛み潰したような顔で辛辣な言葉を吐きかけながら、徴税官と衛兵に向けて、シッシッ、と手を振ると、彼らは力なく肩を落とし、憔悴した様子で引き上げていく。
 近々、大規模な人員の整理や入れ替えがあるかもしれないな、とスカロンは思った。
 




「そうそう、聞きたい事があったのだ、酒場の主人」

 徴税官の荒んだ後ろ姿を見送った後。デムリは思い出したかのように、ぽん、と手を打つ。
 まさか、スカロンはひどく緊張した面持ちで、何でしょう、と尋ね返した。

 無理もない。割と貴族と平民がフランクな関係にあるゲルマニアならまだしも、ここトリステインにおいては、宮廷財務室勤めの高級官僚と一介の町人風情が会話をすることなどまずないのだから。

「先程の勇気ある貴族令嬢だが、素性を知らんかね?」
「いいえ、詳細はまったく。エレノア・ド・マイヤール、と名乗ってはおりましたが」
「ふむ。いや、どこかで見た事があるような気がしてな。マイヤール、マイヤールか。やはり聞き覚えがあるような。…………う~む、駄目だ、思い出せん。いや、待てよ」

 考え込むように額に手をやって、ブツブツ、と呟くデムリ。
 人目も気にせず、う~ん、とか、え~と、とか唸り声をあげている。
どうにも彼は、考えに没頭しだすと周りが見えなくなるタイプであるようだ。

 その様子を不安げに眺めていたスカロンがおそるおそるに口を開く。

「あのですね、決闘に飛び入りした二人の娘の処遇は如何にするおつもりでしょうか?」
「……ん? 何だ、主人。あの飛び入りの娘達を知っておるのか?」
「い、いえ! 少し気になったものでありまして……!」
「ふぅむ、そうだな……。事情はどうあれ、貴族の決闘に割り込むというのは、まずいだろうな」

 スカロンはその言葉に、びくっ、とのけ反る。
 デムリは片目でその様子を眺めつつ、こほん、と咳を一つした。

「とはいえ、非は準男爵の方にあろうて。結果的に、あの二人がいなければ、ご令嬢はタダでは済まなかっただろうし。四角四面に罪を問われることはあるまいて。もちろん、褒められた事ではないが」
「そ、そうですか」

 お咎めなし、というデムリの言葉にほっ、と胸をなでおろすスカロン。
 直接的な原因でないにしろ、自分の行いが原因で知り合いが追われる身となるのは、人の好い彼にとっては好ましい事ではないのだろう。

「やはり知り合いのようだな」
「え、いや、それはですね」
「ふ、先程言った通り、私は特に罰する必要はないと思っている。他の宮廷の者はどうかしらんが、それは私が黙っていれば良い事だろう」

 デムリはそういって、口の端だけで笑んでみせる。
 高慢で傲慢な小政治の達人が多いと評判の宮廷貴族の中にも、こういう貴族もいるのだなあ、とスカロンは軽く感銘を受けた。

「はあ、しかし、今回の事はヤツに徴税官の任を任せてしまった宮廷の責任でもあるか。うぅむ、困った。真面目なヤツだと思っていたのに。やはり末端とはいえ、爵位持ちの貴族を任命すべきであるのか。そういえば、チュレンヌ子爵が宮廷入りを希望していたな……」

 またもや、自分の世界に没頭しだすデムリに、スカロンとドリス、そしてその場に残っていた市民達が思わず苦笑する。

 殺伐としていた空気は一転、朗らかな空気に変わり、誰もがこれにて一件落着、と思った矢先のこと。



「大ニュース! 大ニュース! 耳をかっぽじってよく聞いてくれ! 懸賞金付きの情報だよ!」



 やっと落ち着きを取り戻した裏通りに、どんちゃんと太鼓をかき鳴らしながら、大声を張り上げる者が現れた。
 
 彼は、布告人という仕事についている人間である。
 王宮からのお達し、社会情勢の流布、今日の出来事、もしくは店舗の宣伝など、あらゆることを宣伝して練り歩く、マスコミのような存在である。

 情報を得る手段としては、新聞、というものもある。
 しかしそれは貴族向け、若しくは富裕市民向けのサロン(会員制の喫茶店のようなもの、社交クラブ)でしか読めないのが普通だし、まず、平民は文字の読めない者が珍しくない。だからこそ、店舗の看板は誰にでも分かりやすいような絵が表示されている。

 なので、情報の正確さはともかく、布告人というのは、ハルゲキニアにおいて最大で最速の情報ソースといえるのだ。

「む、斯様な時間に布告? いつもこうなのか、この辺りは?」
「いえ、普段は朝と夕の二回だけですわ。よほど耳寄りな情報や重要な事項があれば、その限りには及びませんけれど」

 デムリの問いには、いつの間にかスカロンの横にぴたりとくっついていたドリスが答えた。
 どうやら彼らの夫婦仲は上々なようである。

「これは、東の大領主、ヴァリエール公爵家からの依頼伝言である! 出来るだけ早急に、という事だったので、夜分遅くに失礼させていただく! えぇと……『行方不明の長女・エレオノールを見つけ出せば30000エキュー! 発見に繋がる有力な情報を寄せた者にも5000エキューを支払う』だそうだ!」

 その金額の異常な高さに、誰かが、ひゅう、と口笛を吹く。
 
 30000エキューなど、通常、大貴族であっても、ほいほいと出せるような金額ではない。
 一般的に、貴族であっても、一家人が行方不明者への捜索の懸賞金はせいぜいが10000エキュー程度である。

 これは、ヴァリエール家が相当に慌てている状態な事を示していた。
 いくら資産持ちとはいえ、あまりに相場より高い金額を提示してしまっては、彼らに税を納める領民から反感が起きかねないからである。そんな事を顧みられないほどに、事態は切迫しているのかもしれない。

「あ~、君。ちょっといいかな?」
「なんですかい、貴族様? これでも、あっし、仕事中なんですが……」

 『行方不明のご令嬢』というところで、何かが引っ掛かったデムリは、布告人をちょいちょい、と手で招き寄せる。

「この話、王宮にも、当然届いておるのだよな?」
「そりゃ、もちろん。ただ、先方は宮廷だけでなく、市民にも協力を頼みたい、という事でしたので」

 ふぅむ、とデムリは若干険しい顔をして顎を撫ぜた。
 随分と宮廷に対して失礼な話だ、と思ったからだ。それは腰の重い宮廷なんぞ頼りにならん、と言っているのと同義なのだから。

 しかし、何もデムリは別に怒っているのではない。

(まあ、悪いように受け取る貴族が多いという事はヴァリエール公ならば当然考えが及ぶ事。それにも構わないとは、やはり、よほど焦っているらしいな)
 
 と、デムリは疑念を確信に変える。

「ちなみに、ご令嬢は何故いなくなったのだ? 誘拐か? それと、何時だね、行方知れずになったのは」
「へえ、大きな声じゃいえませんがね……。どうにも家出のようなんでさ。それといなくなったのは、丁度三日ほど前っすね」
「はぁ? 家出?」

 その答えにデムリは一瞬目が点になる。
 いやいやいや、いくらなんでも、家出と分かっていて、褒章を30000エキューだすと?
 頭がどうにかしているんじゃないのか? いや、まあ何年も放蕩して行方が知れない、というならばまだ分かるが。

 三日だぞ、三日?! そんなもの、放っておいたら腹が減って帰ってくるだろうに!
 確かに、貴族令嬢が一人で外を歩くなど危険ではあるが……。それにしたって、数日の家出など、そう珍しい事ではあるまい。

 これは重度の親馬鹿だな、とデムリは呆れたように溜息を吐いた。

「はぁ、参考までに、その令嬢の容姿は?」
「は、太陽のような金色のボブショート、凛とした吊り目がちの鳶色の瞳、赤ふちの眼鏡、体型はやせ型。年のころは12歳であるけれども、少々幼、いや、お若くみえるそうで。あぁ、あと、もしかすると出入りの商人のような格好をしているかもしれないと」
「……むん?」「……あら?」「……まさか?」

 どこかで見たような、というレベルではない。
 その容姿の特徴は、つい先程まで、ここで大立ち回りをしていた少女そのものであった。

「そっ、そうか! 思い出したぞ! そうだ、烈風カリンだ!」

 突如、デムリは跳びあがるような声でそんなことを叫んだ。

「へっ?」
「いや、あの伝説の烈風カリンの家名が確か、マイヤールだったはずなのだ。突然の引退で、どこかの大貴族に見染められたのではないか、という噂は聞いたが。そうか、ヴァリエール家だったのか! そして、家出中の娘は本名を名乗るわけにもいかず、咄嗟に母方の家名を使ってしまったと。ふむ、こう考えると辻褄があうな。うむ、実に合う。完璧な符合だ」
 
 よほど引っ掛かっていたものの正体が分かったのがうれしいのか、異様に饒舌な独り言を喋るデムリ。
 スカロン達は、はぁ、と気のない同意を返すしかなかった。

「ふむ、そうと分かれば、とりあえず私は王宮に戻ってこの件を伝えねばならん。ヴァリエール家といえば、王家の血筋でもあるからな。放っておくわけにもおくまい」
「あ、あの! このたびはどうもあり──」
「ではな! さらばだ!」

 立ち去ろうとするデムリに、スカロンは頭を下げようとするが、それよりも速くデムリは王宮に向かって駆けていく。

「やれやれ、どうしてこうも、嵐のような人が多いのか」

 官僚もまた、行商人のように、強靭な体力とフットワークの軽さが必要なのかもしれないなぁ、とスカロンはぼんやりと思った。



 

 ──それより2日後。
 
 エレノア(エレオノール)を追う、ひいては、アリア達を追う王宮の分隊が編成されることになる。
 また、噂を聞きつけた市民達の中からも、一攫千金を狙おうとする輩が数多く現れた。

 しかし、彼らは知らない。

 この状況で追われれば、彼女らは全力で逃げに走るということ。そして、彼女らが全力を出せば、おそらく彼らに捕まる事はありえない、ということ。

 『もし、アリア達が現れなければ』、おそらくは、決闘はデムリによって中断され、エレノアもまた保護されていたはずで。
 王宮の役人が保護したのだから、ヴァリエール家は高額な褒章を出すこともなく、彼女の3日間の短い冒険にも、あっさりと終止符が打たれ、丸く収まっていた事であろう。


 
 この運命の掛け違いは、果たして歴史に何か影響を与えるのであろうか。それとも取るに足らない些事でしかないのか。

 それは羽ばたきをはじめたばかりの蝶には、まるで知るところではなかったのである。



[19087] 43話 Just went our separate ways (前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:9840b7a6
Date: 2012/02/24 19:29
 トリステイン中南部、小都市バンシュ。

 それほど有名な都市、というわけではないものの、トリステインならではの名産品の生産地として聞いたことがある。

 それは、すなわち、〝ブリュッセル・レース〟と呼ばれる、レース編みである。
伝統的というほど歴史は古くないが、数十年前から根強い人気を保つ、トリステインの数少ない名産の一つである。

 元々、レース編みの生産は、ロマリア、特にヴェネツィアなどで盛んであった。
 しかし、時代とともに〝ヴェネツィア・レース〟のスタイルの流行は廃れ、それに取って代わるような形で流行しだしたのが、主に、ブラバン公爵(ヴァリエール家並みの力を持つトリステイン中部の雄)領・ブリュッセルで編まれた独創的なレース刺繍であったのである。
 このブリュッセル・レースは、本場ブリュッセル、ここバンシュ他、ブルッヘ、マリーヌなどでも生産されている。



 ──さて、という訳で。私達義姉妹と一人のゲストは現在、この街の木賃宿に滞在している。



 本来、トリスタニアからガリア方面へと伸びるヴェル=エル街道の主街道を使えば、先にも挙げた大都市ブリュッセルを経て、国境近くの交易都市シュルピスへと最短で到着することができるのだが。
 王都からの追手を危惧した私は、主街道は使わず、東に一本入った副道を利用することにしたのである。
 とりあえずの目的地であるシュルピスへは多少遠回りとなってしまうが、馬鹿正直に主街道を使うよりはマシだろう。
 もちろん、追手がこない可能性もあるけれど、商人たるものは、常に最悪を想定してリスク・マネージメントをしていかなければならないのである。

 そしてその副道沿いにたまたま存在していたのがこの街だった、というわけだ。
 本当ならば、暢気に宿など取って休んでいる場合ではないのだが、【賦活】の効果が切れた馬達の体力も限界に来ていたため、泣く泣くここで一息いれることにしたのである。私達には、こんなところで彼らを使い潰すような予定も余裕もないのだから。

「追ってくるかしらね?」

 古ぼけたガラス越しにこじんまりとした街並みを見渡しながら、誰ともなしに呟く。

「どうじゃろうな。そうじゃとしても、こちらからは手を出せん、というのが困りものよの」

 気だるそうにシングルベットの上で寝そべったロッテは振り向きもせずにそれに答える。

 そうなのよね。

 ただの賊くずれが相手ならロッテの食糧になってもらうのも吝かではないが、王宮が編成、もしくは依頼した者が追手だとしたら、迎え討つわけにもいかないし。なかなかどうして。
 
「アンタ達が余計な事をするから面倒な事になるんじゃない。まったく、商人だか、野良メイジだか知らないけど……。平民の癖に分を弁えなさいよね!」

 と、鏡台の前のスツールでふんぞり返りながら言うのはエレノア。
 
 私達が賊の類ではなく商人であり、エレノアに害意はない、という事は一応の納得はしてくれたようだが……、未だ半信半疑なのは間違いないだろう。
また、ロッテの精霊魔法については、一応、傭兵メイジ、という説明(嘘)をしておいたが(ちなみに杖については、私達が持つ唯一の魔力的素養を持ったアイテム──つまり、地下水を杖だ、と強引に言い張った)、それについてもかなり強い疑惑を持っているようで、常に棘のある空気を纏っている。
 しかし、かといって、彼女に独力で家へ帰るような甲斐性はないため、仕方なし、という感じで私達に同行しているという感じ、だろうか。
 
 ま、彼女がそれを認める事はないと思うが。何せあのヴェルヘルミーナ並みにプライドが高く、負けず嫌いなのである。

 ここまでの自尊心をお持ちなのだから、きっとどこぞの上流貴族の令嬢なのだろう、とは思うのだが……。

 その話をしようとすると、エレノアの歯切れが悪く、モゴモゴと口籠ってしまうため、詳しい素性はまだわかっていない。
 とりあえず、彼女の言によると、『とある用事で両親とともに首都を訪れていたのだけれど、運悪く家族とはぐれてしまった。丁度実家の方向は〝南〟なので、ついでに送らせてやってもいいわよ。光栄に思いなさい、平民』らしいが。

 とんでもなく、果てしなく────嘘臭い。というか、嘘だろ、それ。商人なめんな、ってね。

 とはいえ、無理矢理に口を割らすわけにもいかないし。困ったものだわ。

「ふぅん、その卑しい平民に飯を恵んでもらっておるのはどこの貴族様じゃったっけなあ?」
「む、ぎ。そ、それは……アンタ達が無理矢理つれてきたんだから、その程度の事、当たり前でしょ! 大体、あんな貧相な食べ物ともいえないようなモノを寄越したくらい得意面するのはやめなさいよ!」
「ほぅ、よほど尻を叩かれるのが気に入ったようじゃのぅ。お主、被虐趣味でもあるのか?」
「ふん、そっちこそ、ね。どうにも縛り首になりたいみたいじゃない? お望み通りにしてあげようかしら!」
「なんじゃと、この文無し貴族の恩知らず!」
「何よ、この守銭奴平民のでしゃばり!」

 お~い、お姉さま~、相手は一応貴族ですよ~。
 ま、馬鹿姉に注意しても無駄だから私は口を挟まないけどさ。

 はぁ、まったく。

『ったく、女三人寄れば、っていうが、二人で十二分に姦しいぜ』
「まったくよ」

 こそっ、と腰元でぼやく地下水に、深く溜息を吐きながら同意。

 この二人はずっとこの調子。ウマが合うのか、合わないのか。とりあえず煽られ耐性は同レベルだろう。
 そういえば、この子、私と年が1つしか違わないというのよね。う~ん。

「で、あんたは、何を、見てるのよ?!」
「何でもありませんわ、マイヤール嬢」
「嘘よ! 哂った! あんた、私のむ、む、ムネを見て哂ったわね?!」

 今度は私に矛先を変え、なおもきゃんきゃんと騒ぎ立てるエレノア。

 正直、うるさい……。貴族だっていうなら、もう少しお上品にしてもらいたいものだわ。
 年齢詐称じゃないか、とは思ったけれど、哂ってはいないわよ。むしろ動きやすそうで羨ましいくらいよ。

『けけ、発育ってのは、人それぞれ、ですからねぇ』
「くっ、ぐぅぅ! 言わせておけばっ!」

 余計な挑発するな、ドブ水。
 ほぅら、また杖を取り出したじゃないの。この娘、度胸があるのはいいことだけれど、ちょっとばかし短気が過ぎやしないか?

「誇り高き貴族たるならば、そうそう杖など抜く物ではないのでは?」

 すかさずエレノアの手元から、素早く杖を抜き取ってにこりと笑いかける。
 この至近距離では、何音節もある魔法の詠唱なんぞより、ぶん殴った方が効果的だと思うのだけれど。少なくとも軍人の家系ではなさそうだ。

「む、ぐぐぐ……。はっ、腹が立つガラクタと平民ねぇ! これだからゲルマニアの野蛮人は嫌いなのよ!」

 奪った杖をひらひらとさせながら、手渡しで返してやると、エレノアは地団太を踏みながら悪態を吐く。

 おいおい、野蛮なのはトリステインの方だろう、と言いたいところだが、そこはグッ、と堪えておこう。これ以上金切り声を聞かされるのは精神衛生上キツイ。

「まま、落ち着いて下さい。いつ追手が来るかもわからないというのに、こんなところで無駄な体力を使ってしまっては」
「そうじゃぞ? あまり力むと〝また〟小便を漏らしてしまう事になりかねんからな」

 そうそう、またチビっちゃうわよ……って、おい。あんた、まだ続ける気か?!

「だ、だ、誰が漏らしたってのよぉっ!?」

 ……追われている可能性も存分にあるというのに、緊張感がないどころか、何も考えていないわね、この人達は。

 あぁ、誰か、私にアスピリンをくれないか?







 初夏の空が街路のプラタナスの花と同じ色に染まる宵の口。

「田舎臭いが、悪い所ではなさそうじゃなぁ、この街」

 ロッテは、露に濡れる絹のブロンドをかきあげながら、ごくり、と冷たいミルクを飲み干した。
 
 そうね。さっ、と様子を眺めただけだけれども、確かに街の雰囲気は悪くない。

 なんというか、大都市よりもおおらかなのだ。
 大都市のように忙しない空気はなく、かといって寂れているというわけではない。

 それは街の雰囲気だけではなく、人もそう。

 いい例がこの街の門を守る衛兵(トリステインの領地経営形態からして、領主に雇われているのだろう)。
 私達のような外国の行商人が都市に入る際、普通は身分証明からはじまり、積荷の内容、取引をするのかしないのかなど、そりゃあまあ、長年の仇敵かのごとく厳しくチェックされるのだが。

 翻ってこの街においては、あまり地元の行商人もこのルートを通らないのか、同業組合の規制が緩いのか。
 この街の衛兵達はやけにフレンドリーであり、積荷の検査すらせずに、あっさりと通してくれたどころか、人気の安宿から観光スポットまで丁寧に紹介されてしまうほどだったのである(ま、王都からの追手が現れた場合、彼らから私達の居場所がバレてしまう恐れがあるので、紹介されたのとは別の宿を取ったけれどね)。

 こういった田舎町に立ち寄った事はほとんどなかったので、このアバウトさというか、鷹揚さには驚かされてしまった。

 もちろん、田舎町がすべてこういったおおらかさを持っているというわけではないだろう。そういった精神的な豊かさを持つためには、経済的な豊かさも必要なものである。
 つまり、この街は比較的景気が良いことが容易に想像がつくわけで。う~ん、余裕があれば、ここで一商売していきたいところなんだけど……。



「信じらんない! 宿にお風呂がついてななんて。まさか平民用の共同浴場に入るハメになるとは思いもしなかったわ……」

 私達から遅れること数歩、安宿のエントランスへと入ってきたエレノアが大げさなアクションで頭を抱えて嘆いている。

 彼女の愚痴通り、今は公衆のサウナからの帰りで、ようやく宿に戻ってきたところ。

 私とロッテは水浴びだけで十分だったのだが、エレノアがどうしても風呂に入りたいとゴネだしたので、ゲストの意向を無碍にするわけにもいかず、仕方なしにサウナへと連れて行ったのだ。

 ちなみにお値段一人4スゥ。子供料金はない。無駄な出費である。水浴びすればタダなのに。
 なのに、「お湯が張った風呂じゃないとイヤ!」と散々ワガママを聞かされた時には、さすがに巷で仏の美姫と呼ばれている私も手が出そうになってしまったよ。それでも、ぐっ、と飲み込む私って大人よね。毒殺姫……? 何それ?

 まったく、風呂付きの宿なんてもんが一泊でどれくらいするのか分かっているのかしら。
 簡易なものとはいえ、ベッドがあるだけマシってもんよ。これだから苦労知らずの嬢ちゃんは。

「それにしても、薄汚い宿よねぇ。人間の住処とは思えないわ……」

 やれやれ、今度は寝床の文句か。流石にこのペースで彼女のワガママを聞いていたらキリがないわね。

「申し訳ありません、私としても貴族のご令嬢をこのようなむさくるしい所に連れ込むのは心苦しいのですが。しかし、追手が来た場合、すぐに対処出来るような立地と構造を考えると、この宿がベストかと」
「うぅ~……。それにしても、こんな宿で客は文句を言わないの? うぇ、よく見たら天井に蜘蛛の巣まで張っているんだけど」

 さらりと適当な理由を並べると、エレノアは文句を言いつつも、渋々、納得はしたようだ。

 彼女の場合、捕まってもそう大きな罪に問われる事はなかろうが、大なり小なり、親には確実に迷惑が行くだろうし、兄弟姉妹がいるならば、その地位は微妙なものになりかねないのだから、捕まりたくないのは彼女も同じなのだろう。

 よし、今度から彼女の要求には、「安全上の問題」作戦でやり過ごすとしよう、そうしよう。
 まぁ、とりあえず今日は、街の方で騒ぎがあったような様子もないし、問題が起こる事はなさそうだけれど。



 と、そんなことを考えながら、ぶちぶちと愚痴を並べ続けるエレノアを宥めて、部屋へと向かおうとした時。



『ちょ、待った、待った、姐さん。まさか、気付いていないのか?』
「んっ?」



 地下水が慌てたように制止の声をかけてきた。

 気付く? 何に?

『おいおい……。姐さんも大概、緩んでいるんじゃねぇのか?』
「はん?」
『いやなに、ベッドメイキングにしちゃ、ちょいと時間が遅すぎやしないかと思ってなぁ』
「……っ?! それって……」
『あぁ、誰かいやがるぜ、中に。もしかしなくても、王都からの使いかもな』
「えっ!?」

 突然の爆弾発言に、派手に声をあげそうになるエレノアの口を慌てて塞ぐ。

「んーっ、んーっ?」

 非難がましい目線をこちらに向けて手足をばたばたとさせるエレノアに、人差し指を口にやる仕草をみせて黙らせつつ、横目のアイコンタクトでロッテに確認を取ると、彼女は小さく頷いた。
 
「んむ。特に殺気だったような気配はないがの。しかし、当たり前じゃが、この街に妾達を訪ねてくる知り合いなどおらん。十中八九、ボロ剣の言う通りじゃろうな。どうする? 殺るか?」

 「ご飯食べに行く?」くらいの気軽さで生殺与奪を尋ねるロッテ。
 いや、あんた、数刻前には「手を出すわけにはいかん」と自分で言っていたじゃないか。

 ……しかし、一役人、それも割と木端クラスの役人のためにこうまで迅速に出張ってくるなんて。まさか、貴族全体の沽券に関わる、とかそういう感じなっちゃっているの?
 私の想定じゃ、動くとしても、少なくとも2、3日は後だと思っていたのに……。

 予想以上すぎるでしょうが、あぁ、くそっ。見積もりが甘すぎた……!



 いやいや、待て待て。

 状況をより厳しく見積もっていたにせよ、きっと今以上の事は出来なかったはず。
 国外への脱出を視野に入れた進路選択、一昼夜休みなしでの行軍、そしてここいらで休息を入れなければならなかったのも事実。
 
 そう、今すべきなのは、現状を嘆く事ではなく、どうにかすることではないか。



「中にいるのは一人? それとも複数人?」

 掻き乱される思考を何とか纏め、現状の把握を続ける。
 この一行の責任者、ひいては司令官は他ならぬ私なのだ。クールにいこう。

「ま、一人、じゃが」

 垂れがちな目を細め、含ませた物言いをするロッテ。

 中にいるのは一人だが、他の場所──例えば宿の周りとか、街の出入り口とか──に仲間が待機していない、とは言い切れないという事、ね。

 功を焦ったスタンドプレーで単独行動をしている可能性もなきにしもあらずだけれど……。
 しかし、常識的に考えて、メイジを含む複数のお尋ね者を追ってくるのに、チームも組んでいないというのは考えにくいかもしれない。公的に差し向けられたものなら尚更である。

 相手が一人だけと仮定ならば、逃げを打つのが上策──か。
 当然だが、部屋の中に金品や商品、身分証明など重要なモノは残していないし、馬と荷は宿近くの厩屋(うまや)に預けてあるから、このままこっそりと宿をチェックアウトし、この街を立ち去る事も出来る。
 公衆浴場に行く前に脱ぎ捨てた下着とか靴下とかは脱ぎっぱなしだが……。そのくらいならば、ここまで追ってきた努力を称えて、粘着ストーカーにご褒美としてくれてやってもよい。
 
 しかし相手が複数と考えると──。

 よし。

「……とりあえず、お話くらいは聞いておかないとね。どんな理由だろうが、レディの部屋に無断で立ち入るなんて、許されざるべき行為だし」

 大仰に肩を竦めて、招かれざる客への対応を示す。ゲルマニアの商人がこの程度の事でうろたえてはいけないのだからして。

 徹底抗戦、などという気はさらさらないけれど、あちらさんの動きを掴むには、ドアの向こうの不埒者に色々と事情を話してもらった方がいいだろう。お上がどの程度の規模で動いているのかも気になるし。

「くふはは、そりゃもっともじゃ。……で、策は?」
「そんなものが必要? 正面からで楽勝でしょうが。期待しているわよ、お姉様」
「かっ、全く、人遣いの荒い」

 言葉とは裏腹に、任せろ、とばかりに犬歯を剥き出しにして獰猛な表情を作るロッテ。
 まあ、念のため、私も彼女の後に続くか。主に相手の命を心配してだが。

「待ちなさい。敵がメイジだったらどうするのよ? アンタ達もメイジ、と言っていたけれど、どうせ、ロクに教育も受けていない野良のメイジでしょ?」

 さて、行こうか、という所で、今度はエレノアが待ったを掛ける。

 ありゃ、勘違いしてる。姉妹とは名乗ったけれど、義姉妹だとは思わなかったらしい。
 私はただの平民よ。まあ、こっちのお姉様は人間ですらないんだが。

「だったら、戦うのは正統な貴族の私に任せなさい」
「お心遣い感謝致しますわ、マイヤール嬢。しかし、万一、貴女に怪我でもさせてしまっては、ご両親に面目が立ちませんので……」
「私がやられるわけ」
「ええ、ええ。それはもちろんでしょう。しかし、無傷というわけにはいかないかもしれませんし。それに、このような汚れ仕事は私共のような平民がこなすべきこと。誇り高き貴族の方が自ら出張るなど、役不足が過ぎますわ」
「そ、そんなものなのかしら? ──でも」
「そうですわ、そうに決まっています。えぇ、一万と二千年前から決まっています」
 
 まだ何か反論をしたそうなエレノアとのやり取りを強引に打ち切る。
 あぁ、もう、この娘の相手、めっちゃ疲れる。自業自得っちゃそうだけどさ。

 好戦的なバトルマニアなのか、それとも他人を庇う人情家なのか。
 どちらにせよ、彼女のありがたい申し出はここでは不要、どころか、邪魔でしかない。

「おい、もういいじゃろ? やると決まればさっさとやるぞ」
「ええ、あまり派手になりすぎないようにね、あと」
「?」
 
 逸るロッテを窘め、耳打ち。

「精霊魔法は使わないで。彼女、あれで、かなり怪しんでいるみたいだから」
「術なしで、口を割らすというのか? なんとまぁ、難儀なことじゃの」
「え~、なんで人ごと?!」
「だって、妾、そんな面倒な事やったことないもの。何か吐かせたいのなら、殺して【傀儡】にすれば良いことじゃし」

 吸血鬼って、ほんとハイスペック。

 尋問、ねぇ。うん、どうやりゃいいのか、さっぱりわからん。
 こりゃ、自分の中のイメージで、ノリで行ってみるしかないか……。







 魔法を使った様子などまるでなく。屈強な大男でもない、華奢な体(一部以外)の平民娘が乱暴に蹴りつけただけ。
 それだけで、重そうな木製の扉が、突風に飛ばされる綿毛のように宙を舞う。

 時間にして一秒にもみたないだろう。
 私はその不可思議な光景に目を奪われ、部屋の前にただ立ちすくす。そして、次の瞬間、視線を戻した時には。

 ──既に勝負は付いていたの。

「うっ?!」
「動くな」

 拘束されたのは、太り気味の禿かけた男。
 腰には小ぶりな杖、肩には絹のマント、その恰幅の良さも合わせて順当に合わせれば、傭兵というよりも、貴族と判断した方が正しい気がする。

 もっとも、この無礼姉妹にそんなことはあんまり関係なさそう。

 その貴族の首に手刀を突き付けているのが、平民姉。
 腕に巻きつけたヘンテコな器械(形状からして、弓、なのかしら?)を額に突き付けているのが、平民妹。

 ほら、やっぱり! こいつら、絶対おかしいのよ!

 まるで訓練された暗殺者か何かじゃない。少なくとも、商人なんかには見えない。
 商人っていうのは、もっとこう、小太りで、いつもにこにこ、揉み手をするだけの非力で、卑屈な人種のはずで。

「ちょ、ちょっと、待っ」
「黙りなさい、この不埒者。貴方に許されるのは、私の質問に忠犬のように答える事だけよ。勿論、人間様の手を咬むような駄犬は処分しなきゃダメだって事、忘れないでね?」

 冷酷な異端審問官のような口調で禿男を脅迫する平民妹。
 禿男は困惑したような表情を浮かべつつも、首振り人形のように、コクリと頷く。

 いつの間にか私が蚊帳の外に放り出されているような。

 この姉妹、平民の癖に、私を敬わないどころか、お荷物扱いしているようなフシがあるのよね。
 本当に、未開の土地の者らしく、無礼というか、命知らずというか……。あぁ~、思い出しているうちに、苛々してきたわ!
 大体、何よ、あの姉の方! 貴族に敬語すら使えないとか、いくら平民でも教育がなっていなさすぎるんじゃないかしら?!

「いい子。では、まず一つ目の質問。貴方は一人? それともお友達も同伴?」
「ぅん? 女性を誘おうというのに、ぞろぞろとお伴などは連れて歩かんよ。みっともないだろう?」
「へぇ。仲間は売らないって言うのね? 中々涙ぐましい友情だこと」
「君らは、何か誤解をしていないか? こう見えて私は」
「余計なお喋りは禁則事項でしょ? 耳糞が詰まっているなら、聞きやすいように先の尖った鉄の棒でお掃除でもしてあげましょうか?」

 禿男の弁解に、平民妹は妙に生き生きとした表情で、男の耳元にヘンテコ弓をぐりぐりと押しつける事で応える。
 平民姉の方は、口を開きはしないものの、その光景を満足気な表情で見守っている有様。

 ……きっと、尋問、いえ、拷問に悦楽を感じているのね。なんて下品で悪趣味な。

 しかし。

 いくら野卑で得体のしれない平民であろうが、悲しいやら、情けないやら、今の私を取り巻く状況では、彼女らに頼るしかない。

 何せ、平民の世界では、貴族の名を語れど、お金がなければ信用もされないし、相手にもされないらしい。
 見る目がない奴らだ。お金がないくらいなんだってのよ。

 〝金こそが諸悪の根源〟と始祖も言っているじゃないの。まったく、心まで卑しい者が多くて嫌になる。

 じゃあ、さっさと実家に帰ればいいじゃないって?
 ふん。私には、きちんとした目的があるの。それが終わるまでは、家に連れ戻されるわけにはいかないわ。

「それはご勘弁願いたい」
「でしょう? 私だって、そんなスプラッタな事はしたくないの。では改めて、お仲間はどこ? 詳しい配置は?」
「うぅん、何度聞かれてもそこは一人で来たとしか。ところで、そろそろ解放してくれると嬉しいのだがねぇ。いや、美女に抱擁されながら罵倒されるというのも、これはこれで悪くないんだが、いかんせん、この体勢は腰にクるというか、はは」

 責められているのにも関わらず、ちょっと嬉しそうな、というか恍惚とした表情でそんなことを言ってのける禿男。

 こっちはもっと下品な男だった!?

 あれ……? 外の世界じゃ、私の感覚の方がおかしいわけ?

「……ロッテ」
「真、じゃろう。ナメた態度はともかく、嘘を吐いている様子はない」
「そう。単独犯とは、嬉しい誤算ね。ごめんなさい、私って、割と疑り深くて。職業病ってやつかしら」

 禿音の要求はまるで無視して話を進める平民姉妹。
 というか、疑り深いと公言しながら、大して根拠もなさそうな姉の発言は信じるのね。

 ……ふぅん、結構な、事だわ。

「で、貴方は王宮の使い? それともその他大勢のチンピラさん? 私達の捕獲、いえ、討伐にかりだされた者の数は?」
「そのどちらかといえば、王宮の使いだが、おそらく、君らの聞いている事とは意味が違う。それと、後者の事については何のことやらさっぱりわからないな」
「……あまりふざけた回答を続けるなら、本当に穿たせてもらうけど」
「惚けてなどいないさ。今までの話から総合するに、君らは誰か悪い男にでも追われているのかい? 美女の尻を追いかけたい気持ちはわからんでもないが、嫌がる者を追ってはいかんなぁ。よし、じゃあ、私がその不貞の輩共を退治してやろうじゃないか。それで、無断で部屋に立ち入ったことはチャラにしては貰えないか?」

 のらりくらりとずれた回答を続ける禿男に苛立ってきたのか、平民妹の語気が強くなる。
 しかし、禿男は恐怖を感じるどころか、怒ってすらいないかのように平然とジョークのような答えを返す。

 何なの、この余裕?

「……ロッテ!」
「これもまた、真、じゃな」
「はぁ? じゃあ、追手でもないメイジが、どうして部屋で待ち伏せしてんのよ」
「妾に聞くな、そんなこと」
「えぇい、じゃあ、地下水!」
『俺に振るか、普通? まぁ、大姐さんがいうなら、そうなんじゃねえの?』
 
 どうしてか、インテリジェンスナイフまでが、平民姉に全幅の信頼を寄せているようだ。
 ちょっと。私には話を振ってすらこないって、どういう事よ?! 

「だからさっきから君達の勘違いだと言っているじゃあないか」
「んぐ、じゃあ、自分はただのコソ泥かそうでもなきゃ、変質者です、とでもいいたいワケ?」
「ふ、男というものは誰であろうと多かれ少なかれ変態的な願望や性癖を」
「そんな下らない事を聞きたいんじゃないの! もう! この部屋に居た目的は!? 貴方の所属は!」
「いやなに、街にえらく美人の旅人がやって来た、などと聞いてね。こりゃ、是非とも屋敷へ招待せねば、と思って参上した次第なんだが……。やはり、部屋の外で待つべきだったなぁ」

 ついに怒りを露わにする平民妹に、悪びれる事もなくいけしゃあしゃあとした返答を続ける禿男。
 
 しかし、よくよく考えると、この男が言っている事には、最初から一貫性があるような?

 もしかして、トリスタニアからの追手だ、というのは、本当にこちらの勘違いで。この禿男は、まるであの事件とは無関係なのではないだろうか。 
 私くらいの美貌となれば、街で噂になるのもおかしくはないし。

「クリスティアンみたいな事を言うやつじゃの」
「この物言い、女好き、屋敷に招待……。どちらかといえば王宮の使い? いやいや、まさか……でも、この一帯の領主って……?」
「おい、どうした?」

 平民妹の方も、私と同じ考えに至ったのか?
 先程まで、禿男をがっしりと捕まえていた手を離し、青い顔をしてブツブツ、と何やら呟いている。

「私、今、すごいマズイ事を思い出しちゃったような気がする」
「は?」
「このハ、いえ、このお方、遠い昔に、一度だけ見た事があるような気がするのよ。あの時より、ちょっとばかしふくよかになられているのだけれど……。どうしよう、ヤバイわ……」

 何に気付いたというんだろう。
 先程まで顔を真っ赤にしていた平民妹は一転、今にも倒れそうなほどに顔を青ざめさせていた。

「あのぉ……つかぬ事をお伺いしたいんですが、〝どちらかといえば王宮の使い〟というのはもしかして、王宮勅使のお役目の事で?」
「おぉ、よく知っているな。いかにも、私は王宮勅使、ジュール・ド・モット。この片一帯の領主を務めている」

 禿男が名乗りをあげた途端。

 平民妹は、「あは」と奇妙な笑いを一つ残して、糸の切れた人形のように、ぱたり、とその場に倒れ込んでしまい。
 あの傲岸不遜な平民姉でさえ、「あちゃあ」と苦い顔をして頭を抱えて、溜息を吐いている始末。




 なるほど、確かにまずい。平民妹が倒れたのも当たり前。

 平民が領主に刃を付きつけるとか、当然の極刑物でしょ。
 というか、貴族同士でも相当にまずい。賠償ですめばいいが、そうでなければ……。

 これって、私もやっぱり、共犯なのよね? いや、むしろ身分からして、私が主犯ということに?

 こっ、こんなこと知れたら、お母様に殺されてしまう……!



 どうしよう。一体、これ、どうすればいいのっ?!

 






[19087] 44話 Just went our separate ways (後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:9840b7a6
Date: 2012/03/12 19:19

 ドゲザ。

 古来より、最上級の謝罪の念や、嘆願の意志を表すための最上級の儀礼として、遠いセカイの島国に伝わる革新的なスタイルである。
 その卑屈すぎていっそ清々しいほどのインパクトは、たとえセカイを飛び越えても、相手の許容精神に訴えかけるものがある、とは、私の持論である。

「本当に、本当に、もう本当に、申し訳ありませんでしたあっ!」

 煌びやかな金縁付き赤絨毯の敷かれた伯爵屋敷の一室にて。

 ゴシック調の内装の施された壁際に、ずらりと古今東西の美女を集めたかのような、綺麗どころのメイド達(もっとも、ロッテほどの化生じみた美女はいないが)が並ぶ中、私は今まさにそのドゲザスタイルを実行しているところだった。
 くすくす、という壁の花達の嘲笑が耳につくけれど、そんなものは聞こえないフリをする。

 その相手はもちろん、この屋敷の主であるモット伯爵。
 こちらの一方的な思い込みから、見当違いに刃を向けてしまった被害者である。

 基本的に、相手と揉めた時、早々に謝ってはいけない、というのが商人の鉄則ではあるが。
 ただ、それは飽くまで平民同士での話であり。今回の場合、立場的にあちらが圧倒的に上(エレノアは貴族だけれど)なので、出るところにでても100パーセント勝てないわけで。
 よって、この場合、こうして素直に頭を下げて、先方の慈悲にすがるしかない、というわけだ。
 使い走り程度であろう、王都からの追手が相手でも、正面から相対するのはまずいというのに、まさか、領主を相手取って実力行使できるほど、私の頭はイカれていない。

 いや、もう、なんかね……。どんどんと事態が悪化しているのは気のせいだろうか。

「うぅ、許してくりゃんせ……。まさか、妾の如き下賤のもとに、領主様が訪ねてくださるなど、考えも及ばなかったのじゃ」

 普段は天を突くほどに鼻高々なロッテもまた、奨められた椅子に座ることを辞し、跪きながら、必殺・涙交じりの上目使いで許しを乞うている。
 
 このように、彼女はここぞという時はプライドを抜きにして、臨機応変な対応も出来る。伊達に飲み屋の姉ちゃんをやっていなかったということだろう。
 もっともその全てが演技なのは言うまでもない。本心は〝ひどく面倒なことになった〟という一点だけであり、〝悪いことをしてしまった〟という謝罪の精神はどこにもない、と言い切れる。私も似たようなものなので、他人の事は言えないのだけれども。

「……悪かったと思うわ。でも、其方側に非がなかったと、ばっ?!」

 そんな中、唯一、勧められるがままに、堅牢でシンプルな作りの長椅子に腰かけたエレノアが足並みを乱そうとする。
 が、間近に居たロッテが尻でも抓ったか、エレノアの勇気ある(蛮勇な)発言はすんでのところでストップした。

「すいませんっ、すいませんっ」

 エレノアの空気を読まぬ発言を受け、私はさらに二度、三度と侘びを入れる。
 あんの、お嬢様! 散々、謝らなくていいから大人しくしてくださいね、って言ったのに!

「あ~、良い良い。確かに彼女の言い分は筋が通っておる。紳士を気取る者としては、こちらから謝るべきだろう」
「そのような事は……」
「それに、先程のアレについてはもう許すと言っているじゃないか。他に見ている者もいなかったことだしな。そうでなければ、わざわざ屋敷に招待なんぞしないだろう?」

 エレノアの対面、一人がけのソファに腰かけたモット伯は、ちびちびとワインをやりながら、鷹揚に片手をあげて、謝罪を受け入れる。

「……いえ、決して伯を疑うわけではないのですが、本当に許されていいのか、少々疑問が残りまして」
「領主を拘束の上、尋問まがいの脅迫。なるほど、確かに許されざる事ではあるが……」
「は、はひぃ」
「しかし、美しければすべてが許されるのだよ、このモット伯領では! 安心しなさい、私は美人には優しいと評判なのだ」

 にぃ、とふくよかな頬を吊り上げて、あまり爽やかではない笑顔を作るモット伯。

 あぁ、美人で良かったっ! さすが5000エキューの美人姉妹の名は伊達じゃなかったっ! 美人最高っ! 美人万歳……っ!

 って、まぁ、大方はロッテの事だろうけれども。本当、彼女の美貌は大した武器だよ。対男汎用人型決戦兵器ってやつだね。



 さて、というわけで、あんな事があったにも関わらず、私達は現在、伯爵家の屋敷へと招待されている。
 もちろん、そこで「断る」という選択肢は選べないわけで、言われるがままに、伯爵邸の豪奢な箱馬車へと乗り込んだわけである。

 ドゲザ・スタイルまで披露した私だが、内心は割と落ちついている。
 なぜなら、モット伯がずっと上機嫌であり、少しも怒ったり、何かを強要するような素振りをみせないから。
 卑しい人間であれば、相手がここまで下手に出れば、大なり小なりゲスな面をちらつかせるモノ。しかし、彼にはあまりその兆候は見られなかったように思う。

 勿論、どこかで突然、その紳士の仮面を脱ぎ棄てる可能性も無きにしも非ずだが……。善人から悪人、賤民から領主まで、数多の人間と接触してきた直感からして、あまりその心配はなさそうな気がする。
 彼を評するとすれば、噂通りの好き放題やりたい放題の好色家というよりは、下心アリのフェミニストにも近いだろう。
 ロッテの言うとおり、ツェルプストー辺境伯に性質が近い気がする。アッチのほうが見た目はカッコイイけど。



「もう、申し訳ないという謝罪の気持ちは十分に受け取った。ほら、頭をあげなさい。女性が床に頭などこすりつけるものではない。綺麗な顔が見えなくなってしまうだろう?」
「まぁ、お上手だこと。伯はさぞかしおモテになるのでしょう?」

 モット伯の言葉を受け、私とロッテは、ようやく立ち上がり、丁度、長椅子のど真ん中に着いているエレノアを挟むような位置で席に着く。
 万一、彼女が失言をかましても、すぐにフォロー出来るようにするためである。勿論、さりげに伯のご機嫌を取る言葉も忘れない。

「いやはや、なんとも男前で、お優しい領主様じゃのう。これはさぞかし、領民も誇らしい事じゃろう」

 さすがはロッテさん。いいフォローじゃないか。モット伯も中々にご満悦の様子。
 もっとも、メイド達は、「絶対、アレ性格ブスでしょ」とか「けっ、ぶりっこ女が」とか、そんな不穏な言葉をささやきあっているようだが。うん、女の嫉妬ってやつだね。

「何とも口の上手い。流石は旅の女商人、といったところだな」
「あら、何故、手前共が商人だと?」
「ふ、仕事柄、人を見る目には自信があってね。まず、そちらの小さなレディ以外は、トリステインの者ではなかろう?」
「嫌ですわ。どこかに訛りでもあったのかしら」
「いや、むしろあまりにも綺麗過ぎる公用語だったのでね。まるで生粋のガリア人のように」

 え? ガリア人っぽい?
 あ~、リュティス育ちという、ロッテの影響かな? 三年以上、ずっと一緒にいたわけだし、喋りも似てきているのかもしれない。
 このままだと、私も何年後かには、どこぞのお姫様のような口調になってしまうのだろうか。それは御免こうむりたいところね。

「その若き美空で外国を旅する、となれば、貴族の放蕩か、旅芸人≪ジプシー≫か、遍歴商人か、はたまた、貧農の出奔か。しかし、傲岸不遜な傭兵のように振る舞ったかと思えば、今度は従順な下女の如く平伏し、次には最高級の娼婦かのように相手を持ち上げる。これほどの変わり身ができるとすれば、商人しかおるまい?」
「ふふ、素晴らしい。ご明察ですわ」

 物語に登場する名探偵のごとく、自信ありげに推理を披露するモット伯。私はにこりと愛想良く笑む事でそれに応える。
 しかしこの人、トリステイン貴族の割に、妙に商人に対しての理解が深いわね。

 ふむぅ、場の雰囲気も大分和んできたところで。

「時に領主様、そろそろ、妾達を屋敷に招待した理由をお聞きしたいものなのじゃが?」

 モット伯の意図について切り出そうとすると、ロッテに先を越されてしまう。
 おう。さすが付き合いの長い義姉様。これぞ以心伝心というやつだね。

「うむ、これもまた商人のサガ、か……。結果を求め過ぎるというか。もう少し無駄話という前菜を楽しむのはどうかね?」
「僭越ながら、紳士たるもの、女を待たせるというのはどうかと」

 私は焦らすように言うモット伯を急かす。残念ながら、私は無駄と無理と斑(ムラ)が嫌いなのだ。
 モット伯は、「参った」と頭を掻きつつ、「もしよければ」と前置きをして、ようやく本題へと入る。

「単刀直入に言うと、この屋敷のメイドとして働かないか? というお誘いだよ」

 …………こういう場合、どうやって断りをいれるべきだろうね?

 さあ、みんなで考えよう、ってか。







 案の定、モット伯の提案を聞いて、いの一番に反応を示したのは彼女であった。

「ぐ……、……如きが、この私に向かって、使用人になれ……? なんて、なんて、屈辱……」

 歯ぎしりの音が聞こえてきそうなほどに、屈辱の表情でぶつぶつと呟くエレノア。

 俯き加減で歯を食いしばっているあたり、彼女としても、ここで伯を怒らせるのはまずい、というのは、理論上は分かっているのだろう。
 が、彼女なりの貴族の矜持というやつが、彼女の本心をダダ漏れにさせてしまっているというのが事実であり。

 幸い、エレノアのすぐ隣に居る私でも、はっきりとはその内容が聞き取れないから、伯にもそれはわかるまいが、彼女が不機嫌になっているのは誰の目にも明らかである。
 
「あぁっと! いや、実はこの娘、〝元〟は貴族の家系でありまして。少しばかり気位が高くて困っているんですよ。あはは(聞こえているって! お願いだから、この場は自重して!)」
「ほんに、申し訳ありませぬのう(お主も貴族だとバレると面倒じゃろうが、たわけ)」

 私達姉妹は、花が咲くような満面の笑みをモット伯に向けつつ、隣のエレノアだけに聞こえるように、鋭く小さな声を飛ばす。

「うぇ?! ……あ、ああ! そうね! えぇ、そういうことよ! 私は、元とはいえ、貴族の家系なの。領主……様、とはいえ、あまり不躾な発言は慎んで頂きたいわ!」

 自覚がなかったのか、エレノアは、ハッ、としたような表情で、なんとか話を合わせてみせる。
 甘く採点しても三十点の反応であるが、彼女にこれ以上の演技力を期待するのは酷というものだろう。

「ふむ、これは失礼。となると、君達はどこかの貴族の? なるほど、それならばその美貌も、まぁ、納得がいくというものか」

 何故だか、ひどくがっかりとしたような様子で言うモット伯。

「いえ、私とそちらの姉は、歯牙ない農民の出でございます。こちらのお嬢様とは、成り行きで旅路を共にしておりまして」
「おお、そうか! それは良かった。何せ、私は貴族の女というのが大の苦手でね。特に、この国の貴族ときたら、プライドばかりが高くて、愛想というものがない」

 なるほど、それで、今の私達のように、平民をスカウトするわけだ。
 
 そういえば、男性は女性に要求するものの第一として、容姿(顔)をあげることが多いけれど、実は顔そのもののつくりよりも、表情の豊かさの方が重要だ、ってどこかで聞いたわね。
 まあ、貴族の女といっても様々な気もするが……。トリステインでは、エレノアのごとくツンケンしたのがデフォルトなんだろうか。

「男は度胸、女は愛嬌といいますものね」
「ほう、それは、中々に良い格言だな。まったくもってその通り。鉄面皮でマグロな女など、誰が愛せようか」

 私はエレノアを刺激させまいと、当たり障りのない同意を返すが、伯はより辛辣な貴族(女性限定)批判を繰り出してくる。
 
 過去に何かイヤなことがあったのだろうか? しかし、この話題をこれ以上続けさせるのはよろしくない。

「ぐ……。抑えなさい、エレ────。この程度で自分を抑えられないようでは──」

 なぜなら、隣のエレノアが、必死で自分の中のナニカを抑えるかのように、額に手をやって念仏を唱えているからである。

 モット伯としては、〝元〟貴族の家系というだけで、彼女を平民としか思っていないのだから、そう悪気はないのだと思うが……。
 しかし、おそらくこのような罵倒になれていない、現貴族であろうエレノアとしては耐えられないものがあるだろう。
 気分良く話をしている伯を遮るのはやや気がひけるものの、これ以上続けられると、またぞろエレノアが爆発しかねない。
 
 話も脱線しているし、さっさと話題を変えないと……。

「あ、あは、そうですわね、受け身ばかりでは、殿方の興も乗らないというもの。あの、話は変わりますが──」
「一例としては、私の妻だよ。何かあるたびに、『実家に報告させていただきます』だの『このような仕打ち、生まれてこの方、受けたことがございません』だの。ま、もう、今はこの屋敷にはおらんがね。まったく、せいせいする」

 しかし、モット伯は止まらない。矢継ぎ早に、今度は奥様の愚痴へと話を繋いでくる。

「……ところで、そちらの小さなレディ、エレノアといったかな? 君は、何か言いたいことがあるようだね?」
「へぅっ?」「い゛っ?」

 ちょお?!
 
 突然の話の転換(悪い方向への)に、名指しされたエレノアだけでなく、私の体もまた、びくり、と跳ねる。

「いっ、いえ、そのような事はございませんのよ? この娘、所構わず、一人言ちる趣味がありまして。ね? そうよね?」
「うっさいわね。そんな趣味はあるわけないでしょ」

 あっ?

「ここは、我慢しようと思ったけれど。折角のご指名なら、言わせてもらうわね。奥方が怒るのは当たり前よ。そんなこともわからないなんて、モット卿、噂通りの悪辣な色ボケ貴族ね。社交界で鼻摘みにされるのも無理ないわ」

 ああっ?!

「これは手厳しい。なるほど、平民の間にまで、そのような噂が」
「噂じゃなくて、事実じゃない。領主ともあろう者が、金にモノを言わせて、こんなに平民を侍らせて……。恥ずかしい、とは思わないの?」

 エレノアは、メイド達をぐるりと見渡すようにして言う。

 伯からの申し出であるために、無理矢理彼女の口を塞ぐわけにもいかず。
 エレノアが言葉を紡ぐたびに、メイド達のどよめきは大きくなる。
 私とロッテは、軽くアイコンタクトを交わすと、腰を浮かせて、いつでも逃げられるように待機する。

 まさか、ここに来てまで、エレノアの正義の味方ごっこが始まるとは……。

「恥ずかしい? どうして?」
「そ、それは! どっ、どうせ、その、使用人、ということは、よ、夜の、うー、言わせないでよ、そんなこと!」
「それは違う、とは言わないが」
「ほっ、ほら、見なさい! 汚らわしい! 妾を持つだけでも裏切りだというのに、平民のメイドにまで唾を付けるなんて、まっとうな貴族のすることじゃないわよ、ねえ?」
「ほう、そうかそうか。君のご両親は随分と仲がよろしいのだな」

 柔和な表情のまま首を傾ぐモット伯に、してやったり、と言った表情で辺りに同意を求めるエレノア。

 が、伯が腹を立てたような様子はない。
 なんというか、あえて喩えるならば、孫の駄々につきあう祖父……という、感じだろうか?

 えっと、これって、逃げなくても大丈夫な感じ? マジで?
 
「ナニ言っちゃってんの、あの娘?」「ほら、夢見るお年頃ってやつよ」「元とはいえ、貴族の家系なんて言っていた割に、常識ないわねぇ」

 しかし、やはり、エレノアに同意する者は、この場には誰もいないようで。メイド達からは彼女を馬鹿にしたようなひそひそ声があがる。

 勿論、ロッテも、そして、私も、彼女の意見には首を傾ぐ。

 貴族、それも領主クラスの上流なんて、妾を多数侍らせ、世継ぎ候補をいっぱい作ってナンボじゃないの? いや、あまり多すぎてもそりゃあ、諍いのタネになってしまうとは思うけど。
 平民にお手付きというのは、そんなに褒められたことではないけれど、まあ、余程のご無体をしなければ、いいのではないだろうか、うん。

「どっ、どうして嗤っているのよ? アンタ達だって、無理矢理に手篭めにされたんでしょう?」
「それは誤解というものだ。彼女達には同意と契約に基づいて、正式な対価を支払ったうえで、この屋敷で働いてもらっている。賊ではあるまいし、無理に攫ってきたワケではないよ」

 モット伯の言葉に、メイド達はうんうん、と頷く。
 彼女達の無意識であろうその行動は、伯の言葉が嘘ではない事を十分に証明できるものであった。

 その気になれば、富裕層はともかく、中層以下の平民など、領主ならば好きにできるのにも関わらず、きちんとスジを通しているっぽいあたり、やはり、このモットという男、エロくはあるが、存外にまともで、キレイな貴族様なようである。
 
 それに、エレノアがこれだけ暴言めいた発言を繰り返しても、微塵の怒気も感じさせないし。
 まともな大人は子供の癇癪や戯言にいちいち腹を立てたりはしない、ということね。トリスタニアの徴税官殿とはエライ違いだこと。

 しかし、正式な対価、か。一体、どのくらいなんだろうか、ちょっと気になる。
一般的な土地持ち貴族付きのメイドの年収は100~250エキュー程度だけど、お手付きが前提となると……。
 しかし、見たところ、その、結構年齢が行っているメイドもチラホラといるから、使い捨て、というわけでもなさそうだし、終身雇用となれば、それほどの上乗せはないか? 

 っと、いけない。どうにも金の事となると、思考が脱線してしまうわね。
 
「う、だとしてもよ! 下賤な平民の成金ではあるまいし、その、男女の関係を金で買うなんて、おかしいでしょう?」
「……おい、もうそこら辺でやめておけ。真っ直ぐなのは嫌いではないが、誰かれ構わずつっかかるというのは、さすがに見苦しいぞ」

 賛同者が得られずとも、なおも自らの価値観を振りかざすエレノア。
 この辺りが切り時と察したか、ロッテがそれに待ったを掛ける。あれ、私、ちょっと影薄くないか?

「アンタ達は黙っていなさいよ。平民に貴族の事が分かるわけないでしょ?」
「はあ……。お主、相当な箱入りのようじゃのう。甘ったれて育ってきたのが手に取るようにわかるわ。見ているモノの狭さ加減が、まるで、餓鬼の頃のこやつ並みにヒドい」

 おい、私はここまでズレてはなかったぞ。多分。
 大体、箱に大事にしまっておくどころか、野ざらしの挙句に大安売りだったじゃないか。

「甘ったれ?! 侮辱するつもりなら許さないわよ! 私の事も、家の事も全然知らないくせに!」
「おぉ、おぉ、さすが、ヌルい環境で育ってきた餓鬼は堪え性がないのう」
「ぬぁんですってぇ!」

 伯の御前であるというのに、あわや掴みあいになりそうになる二人。私は慌てて、二人の間に割って入る。

「そこまで! ロッテ、言い過ぎよ。それと、エレノア嬢、貴女も少し落ち着きなさい。〝もし〟貴女が貴族だったとしても、領主様に意見するなど、10年、いえ、20年は早いわ」
「でも!」
「デモもストもないっ! 貴女の貴族観では、債務もロクに果たしていない書生如きが、王宮の役職まで戴いている当主相手に上等を切るのが普通なの?」
「……っ」

 声を荒げて理屈を突き付けてやると、エレノアは吃驚したように目を見開いて押し黙る。
 正論がどうというより、彼女はこの手の恫喝にあまり慣れていないのだろう。

「いい? 貴女の両親がどれだけ立派な人間かはしらないけど、私のような立場から見れば、このモット伯だって、お世辞抜きに善良で立派なお方よ」
「ど、どうしてよ? あんた、同じ平民が貴族に略取されているというのに、何も感じないわけ?」
「働きに対してきちんと対価を与えるのは略取っていわないの。悪辣な色ボケ、なんて言っていたけど、本当に悪辣なのはね、見返りや報酬など一切与えず、搾取するだけの連中よ。例えば……そうね。貴女、カノッサス家は知っている?」

 なんというか、正義感が強すぎるというか、キレイすぎるんだな、この娘は。貴族には貴族の泥臭さ、ダーティーさがあるはずなんだけれども。
 多分、ロッテが言うように、両親がそういった闇の部分からは極力遠ざけているのだろう。

 天上の暮らしの中ならば、それもいいかもしれない。汚れを知らぬ深窓の令嬢、ふむ、男性の好みそうな女性像だ。

 しかし、下界に降りた今は、ソレは通用しないワケで。
 短い間かもしれないが、私達と行動を共にするのだ。少しは現実というものを知っておいてもらわねばこちらが困る。

 まあ、この娘を助けに入ったのは、そういう汚れのないところに惹かれたところも大いにあるのだけれど。

「……カノッサス? ロマリアの?」
「そう、今は再興してトスカーナの農村地域を支配する伯爵家ね。もっとも、その昔は侯爵家で、しかも、一度はお取り潰しになっているけど」
「それが。どうしたのよ」
「かつて彼の家が侯爵家だったころの最後の当主、ボニファチオは領民への無茶な略取で有名なのよ。その一例をあげれば、領民が結婚する場合、娘が美女である場合は処女権を、そうでなければ法外な結婚税を要求したわ。勿論、それに逆らう者には死をってね! ま、最期には、圧政を敷いていた平民の恨みを買って、毒矢に倒れたのだけれど」
「……え? ロマリアの教会が、そんなことを許すわけないじゃない!」
「ところが、許されたのよねえ。結果的には、当主が倒れたことで、他の領主や聖職者が訴えを起こしたからお家取潰しにはなったけれど。勿論、こういう貴族は、今現在でも存在すると思うわよ?」
「そうじゃの。ガリアにも、似たような事をしておる貴族がおったわ」
「このトリステインにはいないわよ! 絶対!」
「ほう、国で最も戒律に厳しいであろう、王都の役人があの始末で、よくそんな事が言い切れるのう。中央から離れれば離れるほど、無法になっていくのが世の常というものじゃが」
「うっ」

 自らの持つ貴族観を、二人掛りの上、実例込みで否定されたのが応えたのか。
 気落ちするような素振りを見せるエレノアを余所に、私とロッテは更に続ける。

「そもそも、体を売り買いするのが悪、という前提がおかしいのよ。人類最古の取引は、狩猟によって手に入れた獲物と、未亡人女性の操だった、という逸話もあるくらいなのだから。もっとも、私がそういう立場となるのは、御免だけどね」
「うむ。対価を貰えるならば、体を売るくらいなんともない、と考える者が多いのも事実。人間、食うのに困れば、貞操など割とどうでもよくなるモノ。そう考えれば、伯のしていることは、むしろ人道的である、ともいえるな。もっとも、妾もそういう身分になるのは、御免じゃが」
「う~……」

 私とロッテが捲し立てるように少々乱暴な持論を展開すると、エレノアは頭をわしゃわしゃと掻き毟るようにして、唸り声をあげる。
 一気に自らと異なる価値観の情報を流しこまれ、頭が混乱したのだろう。

「貴女と私達とじゃ、育ってきた環境がまるで違うんでしょうから、そう簡単に理解はできないだろうし、貴女の価値観が間違っているとは言わないけれど……。世間では、そういう見方の方が一般的、ということは覚えておいてほしいわ」
「くぅ……。い、いえ、ま、待ちなさい! そういう意見が一般的なのだとしたら、どうしてモット卿の悪い噂が立つわけ? そこのところを説明しなさいよ」
「えっ? うん、それは……」

 この話はここでお仕舞い、と締めくくろうとするが、エレノアがそれを阻止する。

 この娘、やっぱり、頭の回転はかなり良い。というか、鋭い。それは私も疑問に思っていたところだ。

 さて、どう説明したものか、と、しどろもどろになってしまったところで。



 ぱち、ぱち、ぱち、と。



 対面からの手を叩く音が響く。

「伯?」

 拍手の出所は、当然だが、モット伯。
 やべ、主役をそっちのけにしちゃってたよ。

「ああ、失礼。君らの博識さと気丈な持論に驚いてね。その歳で既に自分の在り方を確立しているとは」
「勿体なきお言葉を、と言いたいところじゃが……。何か含みを持たせた言い方じゃのう」
「勘が良いな。実は、若い娘ばかりということもあって、商人とはいっても、ロクに考えも経験もない、半分、悪い意味での旅芸人のようなものだろう、とタカを括っていたのだよ。はは、許してくれよ」
「くく、狡いお人じゃの。そう言われても、妾達は許す、許さない、の立場にはないのを分かっておるというに」
「ふっふ、多少の狡さがなければ、領主などやっておれぬよ。しかし、この分だと、私の申し出など余計な事であったかな?」

 モット伯は、いかにも軽い感じで、こちらを低く見積もっていたことを自白すると同時に、件の提案を断りやすいような状態へと持って行ってくれる。
 無理強いする気はない、という意思表示であろう。やはり、私の見積り通り、相当に好い男だわ、このおっちゃん。

 ここでいう、〝悪い意味での旅芸人〟とは、芸を売るというか、体を売りながら定住地を求めているような類の娘達の事だろう。
 些か心外ではあるけれど、何度も言うように、女の行商人など韻竜並みの珍獣なのだから、そう邪推してしまうのが普通の反応かもしれない。

 ということは、だ。彼が私達をスカウトしようとしたのは、どちらかといえば人助けという側面も強いのでは?
 もちろん、彼の言葉通り、男だったり、女でもアレだったりしたら呼ばれもしなかっただろうから、下心はあるだろうが。しかし、手を差し伸べるにあたって、何かしらの対価を求めるというのは、商人的には当然の事であるからして。

「伯のお心遣い、痛み入ります。しかし、やはり、非常に申し上げにくいのですが……」
「はぁ、やはりか……」
「申し訳ありません、好意を袖にするような事を」
「ふむ、残念だが、いた仕方あるまい。商人というのは頑固だからな。断る、と決めたなら揺るぐこともないのだろうし。こちらとしても、ノリ気でない者を無理に引き留めるつもりもないしな」
 
 とりあえず、あっさりと伯の申し出を断れたことに、私は大きく胸をなでおろした。
 私の大いなる野望のためには、ここで足止めされるわけにはいかないしね。

 しかし……。うぅん、このおっちゃん、ヤケに商人について理解があるような。

 もしかして、さっきのエレノアの疑問って。

「あの、つかぬ事をお伺いしますが……。もしかして、伯って、商売に手を出して、しかもそれで結構な収益をあげたりしていません?」
「……ん。まぁ、結構な収益かどうかはしらないが、シュルピスが本社の商社とは、半投資共同経営≪コンメンダ≫の関係にあるな。いや、王宮の勅使などをやっていると、国内各地の情勢が手に取るようにわかるのでね」

 あ、やっぱり。

 確かに、王宮の勅使ならば、公的に国内をあちこち回れるし、各領主や領民にも、それとなく話を聞いて回る事も可能であろう。
 ただし、それで集めた情報を生かせるかどうかは、経済に対する知識とセンスがあれば、の話だが。

「貴族が商売? ゲルマニアの成金みたいじゃない」
「あら、貴族が商売に関与することを禁止している法はないでしょう?」
「それは始祖の教えで」
「教会法にも、そんなことは一言も書かれてはいないわ。〝厳格派〟の坊さんが息巻いているだけでしょ」
「でも! お父様だって『貴族が金儲けなどに躍起になるとは』って」
「もっとも、商売に手を出した貴族のほとんどが損を出すことになっているから、生半可な覚悟で商売に首突っ込むのをオススメはされないでしょうし、私もしないけどね」
「む、むぅ」

 反論を遮って言うと、エレノアはぷくっ、と頬を膨らませる。
 
 エレノアは商人の方が貴族より賢い、と言われているようで気に食わないだろうが、事実、ロマリアのメディチやロメッリーニ、ゲルマニアの四大貴族みたいな有名どころのように、商売がらみで大きな利益をとれている貴族は、割合から見るとかなり少ない。

 なぜなら、このセカイの商売形態の基本は、無限責任の共同経営だからであろう。

 無限の責任とは、金だけ投資してあとは失敗しても損をするのはその分だけ、というようなものではなく、店が負債を背負えば自らも負担をしなければいけないし、もし舵取りがうまくいかずに、倒産でもさせてしまえば、当然それに責任を負わなければならなくなる、という事。

 出資が最も多いからといって、必ずしも最も利益を享受できるわけではないし、とにかく、経営そのものに参加しなければ、儲け話には混ぜてもらえない。
 つまり、貴族であろうと、商売をするなら勉強くらいはしていなければ話にならぬ、ということで、『僕』のセカイのように、純粋な投資家、なんてものはいないのである。
 
 私としては、正直、『僕』のセカイの無責任な商業形態よりも、こちらの方が健全な形である、と考える。
 この形態は確かに商売に関わる、というハードルは高いけれど、それで良いのではないだろうか。
 先見性のないトウシロウが、場当たり的に経済を好き勝手にするよりは万倍マシである。

 事実、無軌道な虚構経済が蔓延ってしまった『僕』のセカイは、終わりの見えない閉塞に包まれてしまっていたじゃないか。

「まあ、貴女のその反応が、さっきの貴女の質問の答えだわね」
「どういうことじゃ?」
「悪い噂が流されている要因というのは、商売で成功している、ということ。つまり、金儲けを良く思っていない厳格派の教義に熱心な貴族とか、他に商売に手を出して失敗したような貴族、手を出したいけれど意気地のない貴族のそしりや恨み、妬みってこと。でも、彼らが自分を棚にあげて、それを言うのは格好がつかないから、遠まわしに、伯が好色な事をつついているのでしょう。どうでしょう、違いますか?」
 
 エレノアを押しのけるようにして問うロッテに答えつつ、モット伯へと話を振る。

「ふむ、噂の出所はわからぬから、はっきりとは明言できんが、私もそういう事ではないか、とは考えてはいる。……しかし、いよいよもって、聡明な事だ。これは、メイドとしてではなく、是非とも我が社に欲しいところなのだが、それも駄目かね?」
「魅力的なお誘いではありますけれど……。私には、出来るだけ早く自分の店を持つ、という目標がありますので。そのためには、少々不確実ではありますが、遍歴の旅が一番かと」
「くく、それに、引き留める師匠やら恋人の手前、啖呵を切って出てきた事もあるしの。余所の商社で働いては、ヤツらに合わせる顔があるまいて」

 ま~た、この姉は余計な事を。
 確かにトリステインに入ってからは、あんまり商売も上手くいかないし、そういう見栄もあるっちゃあるけどさあ。

「ほぉう、恋人がいるのか」
「そうなんじゃ、まったく、色気付きおってからに。しかし、まあ、成功を掴むためには、悪い相手ではないかもしれんが。なあ?」
「ちょっと、やめなさいよ。大体、そんな打算的な理由じゃ……。あぁ、もう、私の事はどうでもいいでしょうが! そもそも、そこまで発展したような関係じゃないっての」

 人の恋路を茶化すほど面白いことはないってか。
 ふと見れば、先程まではむくれていたエレノアまで、へぇ、と興味津々な感じで話を聞いているし。

 まあ、確かにフッガー家の一員、というのは傍から見れば十分に魅力的かもしれないが。

「お相手は富裕な商家の息子か何かかね?」
「ちょっと? 伯?」
「いや、貴族の息子じゃな。なんじゃっけ、〝ブッチャー家〟の三男坊じゃっけ?」
「肉屋はないでしょ、肉屋は?! フッガー家よ!」
 
 悪ノリするモット伯とロッテの会話に、思わず突っ込みを入れてしまう。墓穴過ぎるだろ……。

「フッガー家って、あの銀鉱の成り上がりの? 嘘でしょ? いくら野蛮なゲルマニアでも、領主の子息と平民の娘にそんな接点があるわけないじゃない」
「貴女のようなヤツってことよ」
「どういう意味よ?!」
「ごめんなさい、貴女は道に迷っただけだったものね(嘘だろうけど)。まあ、あいつの場合は家を飛び出してから、三年以上帰っていなかったみたいだけれども」
「はぁ?」
「まあ、信じられないわよね。別に信じてくれる必要もないからいいんだけれども」

 端っから疑ってかかるエレノアの反応は当たり前の反応だろう。
 あんな向う見ずで親不孝な貴族子弟は、ハルケギニア中を探しても、そうはおるまい。

 しかしモット伯の反応は違った。

「いや、信じよう」
「えぇ? いや、そこは信じなくても」
「君らは意味のあるウソは吐いても、意味のないウソを吐くタイプには見えないからな」
「……この身には勿体のない評価をしてくださり、ありがとうございます、でいいのでしょうか、この場合?」

 首を傾げながら言うと、モット伯は黙って頷いてみせる。変な信用をされてしまっているようね。
 
「しかし、そういうことであれば、また話が変わってくるな」
「へっ?」
「ツェルプストーと並んで、ゲルマニア系商社の顔であるフッガー家と繋がりがある、となれば、タダで帰すワケにはいかんよ」
「えぇ?」「んむっ?」

 帰すワケにはいかん、などと宣言され、私達は思わず身構えてしまう。

「ああ、違う違う、そういう意味ではなくて」
「はい?」
「商売の話さ。自分で言うのも何だが、ウチの商社は国内では、シュルピス、ラ・ロシェル、レールダムに三店舗を構える、まあ言うなれば大手だ」
「は、はあ」
「しかし、国外には一つの店舗もない、国際的には無名な商社でしかない。まあ、ガリア方面では、主要な都市のいくつかに取引代理人を雇ったりはしているが……。しかし、私も共同経営者も、外国の商家にはあまり伝手がないために、どうしても消極的な事しか出来なくてな。今は何とか、そのとっかかりが得られないかと、右往左往しているところなのだよ」

 モット伯はそう言って、大げさに肩をすくめて見せる。
 
 取引代理、というのは、その地方に支社を持たない(持てない)商社が、ジモティーの商人に手数料を支払って取引の依頼をする事だ。
 一昔前は腕があっても、資金力に乏しい若い商人なんかの稼ぎ口だったのだけれど、最近では、代理専門の業者なんてものも台頭してきている(つまり、個人から組織への移行により、金だけを持ち逃げされたり、地元の商人同士で結託して法外な値段を要求されたりするようなリスクは減り、今はそれなりに信用の度合もあがっている、ということ)。
 支社を打ち立てるよりも手軽なので、国際商業の世界では、割とポピュラーな存在となっている。

「つまり、私にフッガー家との橋渡しをしろ、と?」
「その通り。代わりといってはなんだが、私は君らにウチの商社への紹介状を書こう」

 それが出来れば私にとっても美味しい話ではあるけれど。
 地元の商人との繋がりが出来るというのは、将来的な意味で大きいだろう。
 この国に来てからというもの、まともなコネクションを作れた覚えがないし。

「ですが、先程も申し上げたとおり、個人としてはともかく、商人としては、フッガー家と深い関わりがあるわけじゃあないですよ? 今現在は、本人とも、手紙のやり取りをしているだけの関係ですし。あまり伯のご期待には添えないような気がしますが……」
「いやいや、手紙のやり取り、結構ではないか。ならば、その手紙に、私の事もちらっ、と書いてみてくれぬか? さるトリステインの貴族が父上に会いたがっている、とかな。それでもし了解を取れれば、今度は私の自書を同封する、ということで!」

 席から立ち上がって、顔を突き出してアグレッシブにそう提案するモット伯。

 こっちの話はヤケに押してくるねえ、この人。ま、こういう熱さがなければ、商売ごとで収益などあげられないわよね。

「しかし、上手くいくかどうかは保証しかねますよ?」
「構わんよ。下手な魔法も数打ちゃ当たる、というやつさ。数ある国外デビューへのアプローチの一つだよ」

 期待はしていないが、大したリスクもないし、やって損はないだろう、ってことか。

「まぁ、そういうことでしたら、喜んで協力させていただきます」
「あ、それならば、ついでとはいっては何じゃが、妾達の運んできた荷を見てはくれぬか? いくら自分が経営に参加している商社とて、扱うモノを見ずに紹介、というのは、どうも違うような気がするしの。というか、領主様の太っ腹なところも見てみたいしのぅ?」

 私がうん、と返事をすると、それに乗っかってロッテはかなり図々しい提案を持ち出す。

 だが、それは良い厚かましさである。ロッテも中々に行商の道が板についてきたじゃない。

 大失態をやらかしてしまったために、正常な判断が遅れたけれど、たしかに、領主にお目通り出来るなんて、またとない好機。
 これを見逃しては、商人の名が廃るというものよね。
 
「言われてみれば、それもそうか。しかし、高値で、というのは無理な話だな」
「なんと。領主様は、妾の頼みなど聞けぬと仰るか」
「ふ、取引はあくまで、等価交換が基本、だろう?」

 モット伯は、気障っぽくそう言って歯を見せるけれど、煌々と室内を照らす灯りは、彼の整った歯並びよりも、寂しくなった頭をきらり、と光らせるのだった。

 私以下三名が、耐えられずに噴き出してしまったのは言うまでもない事である。







 そして、日付けは変わって。

「結局、時計が360度回ってしまったわね。宿、ちゃんとキャンセルしておくべきだったか」

 バンシュからさらに南へと続く未舗装の街道。
 夜闇を照らすカンテラを持ちながら、まだ本調子とはいえない馬達の手綱を引いてゆっくりと歩かせていた私は、思い出したように呟く。



 転んでもタダでは起きない、の精神(いや、どちらかというと瓢箪から駒、もしくは、棚から牡丹餅?)で、モット伯へと営業を掛けた私たちは、大急ぎで馬車を泊めてある厩屋へ戻り、屋敷へと再度推参したのである。

 その結果は…………上々!

 ベネディクト工房で手に入れた農具だの、トリステイン産の食料品は売れなかったけれども、屋敷にいる大量のメイド達が使う、道具や日用品の類などは全て、言い値(適正価格)で買い取って貰えたのだ。
 ゲルマニア北部製の工業品の質はトリステインでも一部では有名らしく、さほど売り込みをするまでもなく、メイド達はどこぞの大売出しに集まる主婦かのような勢いで掻っ攫うようにして商品を持って行ったのである。もっとも、それを彼女らにねだられたモット伯は、苦笑いをしていたが。
 
 トリステインであろうが、ゲルマニアであろうが、やはり、金のあるところへ行けば、問題なく商売になる、と再確認できたのは大きい。
 
 その後、モット伯に感謝を述べるついでに、地元商社も紹介してもらい、私達は屋敷を辞した。
 その足でバンシュの街へ舞い戻り、紹介してもらった小さな商社で、このあたりの名産を買えるだけ買い漁って、今に至るというわけ。

 本当は、安全上の問題から、夜に移動するべきではないのだけれど、やはり追手が気になるので、これ以上街に停泊するのは良くない、という判断した結果である。



「あんた、寝ていないようだけど、大丈夫なの?」
「二、三日は起きっぱなしでも余裕よ。二十四時間働けますか、ってね」
「ふぅん、ならいいけど」

 幌の中からひょこっと顔を出したエレノアが声を掛けてくる。彼女なりに気を使ってくれているのだろうか。
 ちなみに、ロッテのほうは、けたたましい鼾の音から察するに、爆睡中だろう。

「というか、あんたまで、私に敬語を使わなくなってない?」
「そういえば。すっかり失念していましたわ。こちらのカタッ苦しい言葉使いの方がよろしいですか?」
「いや、いいわ……。明らかに敬意を伴わない、慇懃無礼な敬語なんか使われても腹が立つだけだもの」

 わざとらしく問う私に、エレノアは、諦めたような顔で、溜息交じりの答えを返す。
 

「ねえ」
「何かしら」
「私の感性って、おかしいのかしら」

 少し間をおいて、エレノアは不安そうな声色で切り出す。

 ……ふむ、こちらの問いが本題ね。
 今回のことで、自らの世界を悉く否定されたような気がして、彼女も揺れているのだろう。

 十二歳といえば、平民社会ではともかく、貴族社会ではまだ、社交界にデビューできるか否かの子供でしかない。おそらく、彼女はまだ、自分と家族以外の人間をほんの表面上でしか知らないのである。
 自己の形成とは、他人との交流を通して作られていくものである。彼女はその経験が圧倒的に足りないがために、あっさりと他者の言葉に自己を揺らされてしまうのだろう。

 もしかすると、魔法学院というのは、魔法を勉強することが主なのではなく、そんな孤独な貴族子女を他者と交流させるために作られた場なのかもしれぬ。
 
「ええ。私も貴族の世界はよく知らないけど、今まで出会った貴族の中では、おそらく貴女が一番世間から遠いでしょうね」
「そう……。って、随分とはっきりと言ってくれるじゃない」
「その方が貴女の好みかと思って」
「……ま、相違ないわ」

 眉をハの字にして不機嫌な表情になるエレノアではあるが、突っかかりはしてこずに、何かを考えるようにして腕を組む。
 父母の教えを盲信しているのかと思ったけれど、そういうワケでもないらしい。まあ、そうでなければ、今頃こんな場所にはいないでしょうけれど。

「立派な貴族になるためには、他者の考え方、感じ方も理解できなくてはダメ、なのかしら?」
「ん~、悪いことではないでしょうね。上に立つ者は常に公正、中庸であれ、ってね。公正な判断を下すためには広い見識と多方向からの視点が必要でしょうから」
「……けれど?」
 
 やはり察しのいいお嬢様ね。言外に含みを持たせた事にあっさりと気づいて続きを催促するとは。

「だからといって、自分の在り方までも他人に合わせる必要性はまったくない、と思うわ。ま、世間の常識や民衆の世論くらいは知っておくべきでしょうけど……。とにかく、飽くまで真ん中にいるのは自分。その自分がどういう人間でありたいか、それが大切なのではないかしらね」
「でも、それで周りがついてこなかったら?」
「自分がそれまでの人間だった、というだけよ」

 私はそう言い放つと、くるりと、前に向きなおす。
 あとは自分で考えることね、という意志表示。

「……厳しいのね」

 エレノアの呟きは、満天の星に彩られた夜空に呑まれ、ぽつりと消えていった────





アリアのメモ書き トリステイン編 その2

美人(他称)の商店、トリスタニアにて。地獄に仏とはこのことか。赤字回避に成功。
(スゥ以下切り捨て。1エキュー未満は切り上げ)


評価       さらに危険な行商人
道程       ケルン→オルベ→ゲルマニア北西部→ハノーファー→トリステイン北東部→トリスタニア→トリステイン中南部(バンシュ)

今回の費用  売上原価 224エキュー
       旅費交通費 宿宿泊費×3  2エキュー
       消耗品費、雑費 食糧、風呂、雑貨 5エキュー 
備品代 馬と車の預かり費(まちはずれの厩屋) 4エキュー 商社に預けるよか安いね。ちょっと信用が薄いけど。 
       
       計 235エキュー

今回の収益  売上 321エキュー


★今回の利益(=収益-費用) 86エキュー YATTA!シュルピスに着けばさらに儲かる?


資産    固定資産  乗物  ペルシュロン種馬×2
                中古大型幌馬車(固定化済み)
(その他、消耗品や生活雑貨などは再販が不可として費用に計上するものとする)
       商品   (ゲ)ハンブルグ産 毛織物(無地) 
            (ゲ)ハンブルグ産 木綿糸 ▲ 完売 メイドさんの下着用
            (ゲ)ハンブルグ産 木綿布 ▲ 完売 メイドさんの下着用
            (ゲ)シュペー作 農具一式 
            (ゲ)シュペー作 調理包丁 ▲ 完売 屋敷厨房用
            (ゲ)ベネディクト工房 縫い針他裁縫用具 ▲ 完売 メイドさん用
            (ゲ)ベネディクト工房 はりがね 
            (ゲ)ベネディクト工房 厨房用品類 ▲ 完売 屋敷厨房用
            (ゲ)ベネディクト工房 農耕馬用蹄鉄
            (ト)トリステイン北部産 ピクルス(ニンジン・芽キャベツ・チコリの酢漬け) 
            (ト)トリステイン北部産 フルーツビール 
            (ト)トリステイン北部産 燕麦  
(ト)バンシュ産 レース生地 △
(ト)バンシュ産 レース地テーブルクロス △
(ト)バンシュ産 レース地カーテン、ベッドシーツ △
(ト)トリステイン中央部産 ブドウ酒(安物銘柄)△
            
             計・944エキュー(商品単価は最も新しく取得された時の評価基準、先入先出の原則にのっとる)

現金   2エキュー(小切手、期限到来後債利札など通貨代用証券を含む) 調子に乗って買い込みすぎた

有価証券(社債、公債) なし
       
負債          なし

★資本(=資産-負債)  946エキュー
       
★目標達成率       946エキュー/30,000エキュー(3,15%)

★ユニーク品(用途不明、価値不明のお宝。いずれ競売に掛けよう)
①地下水 短剣
②モット伯の紹介状 ゴールデンチケットとなるだろうか







[19087] 45話 クライシス・オブ・パーティ
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:b1b8b9be
Date: 2012/03/31 02:00
「よっしゃ、積み終わったぞ」

 快活な口調の青年が、私たちの馬車の背をぽん、と叩いて言う。

 荷台には、後生大事に抱えていたゲルマニア産の工芸品や、トリステイン北部産の食品などに代わって、ガリア方面で勝負になりそうなトリステイン製品がぎっしりと積まれている。
 商品の選定は、いつものように私の独断、というわけではなく、ガリア出身のロッテの意見を多分に取り入れたラインナップとなった。

 その中身は、レールダムのガラス食器、ブリュッセルの彫刻家具、アストン領のワインやチーズ、あとは、このシュルピスの名産である蜂蜜の瓶詰め、皮革のバッグなど。
 秘薬、魔法材料などは、ゲルマニアに比べれば若干安価だったものの、質はそれほど変わらず、しかも、魔法関係の品は、ガリアの方が本場なので、売れはしないだろう、と判断して購入は見合わせることになった。

「ありがとうございます。久々に良い商社と巡り合えましたよ」
「おっ、ゲルマニアの商人に褒められるとは、こりゃ、ウチの商社の信用も上がったか?」

 私の正直な感想に、青年はやや嬉しそうに軽口を叩く。

 20代前半だろうか。まだまだヤンチャそうな風貌の青年だ。
 しかし、彼こそが、此処、シュルピスを本社とする、モット・ドナルド・エマニュエル商社(長いので以下、モット商社)の経営者の一人らしい。
 商社の名前は、経営者の名前をずらりと並べるのが暗黙の了解であり、この場合、モット伯と、ドナルドさんと、エマニュエルさんが共同経営している商社、ということになる。
 
「えぇ、今後ともシュルピスを訪れる機会がありましたら、是非とも御社にお世話になりたいものですね」
「へへっ、モット伯からの紹介ってことで、今回は、多少、色をつけさせてもらってっけどな」

 モット伯との邂逅はまさしく僥倖。

 彼の紹介状のおかげで、入市税は免除されたし(シュルピスの入市税は、トリステインの中では最も安いけどね)、この街ではいくつも商社を回ることなく、バンシュで購入した商品以外は全てこのモット商社で捌くことができたのだ。

 感謝、感激、雨あられ。こちらも約束を果たさなきゃね。
 何、フーゴのヤツもカワイイ(?)私の頼みであれば、尻尾を振って実家にオツカイくらい行ってくれるはずよ。うん、というか、行け。

 ちなみに、私たちが持ってきた商品の中で、もっとも喜ばれたのは(高値だったのは)、やはりシュペー卿の農具。予想外にブランド的価値が高く、卸値で一本20~30エキューの値が付けられたのはちょっと吃驚してしまった。
 なんでも、トリステインには富裕な農村地帯がいくつかあり、そこでは名主的な金持ちも存在するらしく、彼ら向けの商品となるそうだ。

 そんな農村にはとんと縁がなかった私は、やはりブリミル親父に見放されているようである。

「で、どうすんだ? すぐ出発するんか?」

 青年にそう問われて、私はうぅん、と唸る。
 今のところ、追ってくる者は見ていないし、一日くらい休んでもバチは当たらない気がする。
 
 というか、正直、かなり儲かったのだし、今日はもう、まったりとシュルピスを観光し、がっつりと旨いモノでも食って、ちゃんとしたベッドで寝たいなぁ、なんて思ったり。

「とりあえず、一日くらい羽根を伸ばしてもよいのではないか?」
「そうねぇ」
「いや、休む。これは決定事項じゃ」

 有無を言わさない気か、このヤロウ。

「ふん、珍しく意見が合ったわね。折角トリステインでも有数の都市といわれているシュルピスまで来たんだもの。素通りするなんて、始祖が許しても、私が許さないわよ」
「ってかね、こっちはまだ、貴女のご実家がどこなのか、聞いていないんだけど。これじゃ、出発するにも、しようがないじゃない」
「えっ? あ、あぁっと、それは……。そう! 明日の朝にでも教えるわ! ちゃんとお風呂ついた宿をとってくれたらね?」
「なぜに対価を要求するのよ……。貴女のことでしょうに」
「う、うるさい、うるさい、うるさい! いいから言うとおりにしなさい!」
 
 と、五歳児のような駄々のコネ方をするエレノア。

 むぅ。モット伯邸での出来事以来、少しは態度が軟化したかに思えたのに。

「はいはい、わかりましたよ、っと。すいません、御社で馬車預かりってお願いできますか?」
「おう! ウチに任しときゃ、近頃ウワサの盗賊共にヤラれるような心配もねえぜ」

 青年は、そう言って、どんと胸を叩く。

「盗賊、ですか?」
「あぁ、知らなかったのか? いや、半年くらい前から、商人狙いの窃盗団、というか、強盗団のようなのが、このシュルピス界隈で暴れていてな」
「はあ」
「なんだっけ、マリーゴールド……? いや、違うな。あぁ、クソ、名前はド忘れしちまったわ」
 
 ふむ。犯罪者の名前などどうでもいいが、それはまた恐ろしいことで。
 こちらにはロッテがいるので、もし鉢合わせたとしても、賊程度にやられるようなことはないだろうけど。

「サン=シュルピス伯は何をやっているの!」
「ん、領主様も動いちゃいるんだが、どうにも用心深いヤツらみたいでさ。捕まえようにも、尻尾をなかなか掴ませねえんだと。しかも首領が腕利きのメイジらしくて、何度か街の衛兵が接触はしているんだが、全部返り討ちにあっちまったっていう話だ」

 エレノアは憤慨するが、どうやらこの街の領主がぐうたら、というワケでもないらしい。
 まあ、サン=シュルピス伯は、ゲルマニアでも、賢君としてそこそこ名前が通っているしね。相手の盗賊がかなりのやり手なのだろう。

「どちらにせよ、関わり合いになるのは、御免こうむりたいわね。これ以上の厄介事はたくさん」

 私はややうんざりとした口調でぼやく。

 やっぱりトラブルには、我関せずの姿勢が一番良い。
 火中に飛び込むのは、大量の栗があると保証されている場合だけで十分だ。エレノアの一件で懲りたのである。

「同感じゃ。とはいえ、よほど運が悪くない限り、そんなモノとは無縁じゃろうがな」
「たしかに、この場合は領主と領民の問題か。私たちがどうこうする問題ではない……わよね?」

 ロッテとエレノアの発言にまとめて頷く私。
 ほう……経験が生きたな、お譲様。

「じゃ、一晩、荷の方はお願いしていいですか?」
「任しとけ。今日のところは、預かり料、サービスしておくぜ」
「え、いいんですか?」
「ああ、その代わり、今度シュルピスに来た時も、絶対、ウチを使ってくれよな」

 気前のいい青年の提案に、私は満面の笑みを浮かべ、勢いよく首を縦に振るのだった。







 モット商社を一歩外に出ると、サン=シュルピス伯爵領、シュルピスのメインストリートである、シャンゼリゼ大通りが広がっている。

 トリスタニアほど都市としての規模は大きくないが、外国人的な立場から見れば、商業的な意味ではこちらの方が重要な都市だ。
 トリステインの都市の中では、最も商業に関する規制が緩いため、ガリア、ゲルマニア、ロマリアの商館がこぞってここに集中しているのだ。
 ちなみにここでいう商館≪フォンダコ≫とは、各国商人が寄り集まってできる、閉鎖的な区画の事である。

「わぁ……!」

 通りに出た途端、エレノアは普段は釣りあがった目じりを下げて、歓声を上げてみせる。今にも駆けだしそうな雰囲気だ。
 そんな歳相応の姿がまぶしいのか、それとも、丁度真上で燃え盛る太陽がまぶしいのか。私は右手で日よけをつくって目を細めた。

「さながら、遊園地ね」

 そう評する私の視線の先では、似顔絵描きや、様々な楽器を奏でる楽士、過激なパフォーマンスを見せつける大道芸人が我こそに注目せよと競い合っている。
 
 彼らのような者が多い理由としては、このシュルピスは〝芸術の都〟としても知られていて、画家や音楽家、役者などを目指す若者達が多く集まってくるためであろう。
 つまり、これは彼らの芸術活動の一環であり、決して、お遊びやサービスで街を賑わせているワケではないのである。多分。

「ほう、オペラ、シャトレ、グランギニョール……。劇場が三つも並んでおるの。芸術の都、とはよく言ったものじゃ」

 と、嬉しそうに眉を下げて言うのはロッテ。後から付き合わされるのは、もう確定事項だろう。

「あんたって、ホントに芝居が好きね」
「まぁな。いずれは妾の描いた物語を演劇として世に出したいものじゃ」

 おいおい、あんたの描いたって、まさアレのことじゃなかろうな。

「ウソ!? アレ、アンタが書いたの?! すっごく……いえ、割とまぁまぁ、面白かったのに……」
「くはは、そうじゃろう? 面白いじゃろう?」

 意外そうに言うエレノアに、ロッテは上機嫌にカラカラと笑って応える。

「ちょっと。アレは、私が話してあげた“東方”の物語のパクリじゃない」

 そこに水を差すように突っ込みを入れるのは私。

 アレ、とは、馬車中の本棚の一角を占拠している、手作り製本である。
 その内容は、『僕』のセカイの有名な童話や戯曲をロッテが書き留めて、ハルケギニア風にアレンジしたモノ。

 修行時代から、ロッテは夜な夜な寝物語をせびってきていたが、こんなモノを書きためていたと知ったのは、旅に出てからの事である。
 どうやら偉大なる作家達の名作は、世界が違っても名作であるらしく、彼女の心を大きく打ったらしい。

「な、なんと人聞きの悪い! パクリなどではない! あくまで、オマージュというヤツじゃ!」
「うはぁ。盗人の言い訳は聞き苦しいなぁ」
「えぇい! どうせ誰も知る者がいないんじゃから、いいじゃろうが!」
 
 追撃の非難に、大声をあげて誤魔化そうとするロッテ。
 そういう問題かぁ? 君にクリエイターとしての誇りはないのか。
 
「ぷぷ、なぁんだ、そういう事」

 エレノアの含みを持たせた笑みを受けて、ロッテは顔を真っ赤にして俯く。
 自分で指摘しておいてなんだが、そろそろ助け舟を出してやるか。

「ま、それは置いといて。芝居が好きなら、何も脚本だけにこだわらなくてもいいじゃないの」
「うん?」
「ほら、折角商売に携わっているんだから、自分で劇場や劇団を経営するとかさ。そういう目標があってもいいんじゃない?」

 私の提言を聞き、考え込むように顎へ手をやるロッテ。

「考えたこともなかったが、そうか……。わざわざ主の商売に付き合っているのじゃし、それも悪くはないかもしれんな」
「でしょ?」
「が、そうなれば、あの物語は絶対に世に出すからな? あれだけの宝を妾達の中だけで完結させておくのは大いなる芸術界の損失じゃ」

 ややもして、ロッテは提言に賛成の意を示すが、前言は撤回しなかった。

 ま、いいんだけどさ……。

「ねえ! そんなことより、早く大聖堂を見に行きたいわ。確か、ブリミル教画の美術館にもなっているのよね!」

 自身が絡めない話題に業を煮やしたのか、エレノアが私達の袖を引っ張る。まるで、玩具売りの露店へ親を誘う幼子のように。
 貴族といっても、こういうところは普通の子供とさして変わらないのね。

「宗教画か……。芸術の一種ではあるけれども、妾はあまり好かんなぁ」
「私も。それより、商館地区の方を見たいわね。どこが一番大きいのか、勢いがあるのか、ちょっと興味があるわ。モット伯の件で、フッガー系か、ツェルプストー系の商社にちょっくら用事あるし」

 エレノアの誘いに渋る義姉妹。
 ロッテは人種違うし、私はブリミル親父嫌いだし。仕方ないね。

「最初の時から思っていたけど、アンタ達には信仰心というものがないの?!」
「いや、多分、それなりには」
「上に同意じゃの」

 私とロッテは、憤慨するエレノアに無難な答えを返す。
 エレノアの指摘は図星もいいところだが、「ファッキン、ブリミル!」などと口にするのは世間体上よろしくない。

「ふぅん? ま、いいわ。じゃあいくわよ。あそこに見える大きいのが大聖堂よね」

 エレノアは、胡散臭そうにこちらを一瞥したが、すぐに踵を返して歩みを進める。
 あぁ、コッチも有無を言わせないタイプだったか。

「おい、勝手に」
「……いいじゃない。ご実家がトリステインの南部ってことなら、そろそろお別れなのだから。今日くらいは付き合ってあげましょう? この娘、一人で歩かせるわけにもいかないし」

 引き留めようとするロッテを制し、エレノアの後ろに続く。ロッテも「まあ良いか」とそれに従う。
 どうせ今日はこの街に泊るのだし、ちょっとばかしこのお嬢様のワガママに付き合ってあげても問題はない。

 というか、私もちょっとウキウキ気分だったり。懐の余裕は心の余裕ってやつ?
 いや、目標までは遥か遠いワケで、本当は余裕なんてないんだけどさ。無駄は嫌いだけれど、たまには心の洗濯をするのも悪くはない。

「あっ、アレ何かしら?! ちょっと、あんた達も来なさい!」

 などと思ったのもつかの間、エレノアは蜜に引き寄せられる蝶のように、大聖堂とはまるで関係ない方向へふらふらと駆けていく。
 その先には、駄菓子と小物の露店。しきりにきょろきょろしている所をみると、他にもお嬢様の興味を刺激するものが多々あるらしかった。

 悪くは……ない、か?
 羽根を伸ばすつもりが、余計に疲れそうな予感がするのは気のせいだろうか……?



 ──そして。



「さすが、トリステインきっての芸術家、フェルメルの作ね。心が洗われるようだわ」
「ふふん、この程度の画家など、ガリアの歴史には掃いて捨てるほどおるわ」
「聞き捨てならないわね?」

 美術館ではお静かに。めっちゃ見られてるって。白~い目で。
 ふむ、『使い魔の家のブリミル』か。時価5000~6000エキューってとこかしら?



「これがタルト・オ・ストフェ……? 何だか粉っぽいし、チーズの臭いがひどいわ」
「ナニコレ、めちゃうまっ! ん? 何か言った?」
「これだから舌の肥えていない平民は……あむっ」

 と言いつつも食べるのか……。口に合わないならこっちに寄越しなさい!



「おい、全く妾の美しさが表現できておらぬぞ、未熟者め」
「ふっ、俺のセンスが分からないなんて、さては、田舎者だな?」
「どっちが田舎者じゃ!」
「ごふっ?!」
「野蛮だわ……」

 ロッテのワンパンで崩れ落ちる名もなき画家。ご愁傷様。
 しかし本当にひどい絵だ。この男の絵が先程見た名画と並ぶ事は、天地がひっくり返ってもありゃしないだろう。この絵はあとでゴミ箱行きね。



「烈風の棋士姫だって。面白そうじゃない」
「何々……? 『女性棋士カカリンのチェスバトル・アクション! サンダルポン死す! 恐るべし、悪徳貴族エスターク大公!』。ほおぉ、これは中々、期待できそうじゃな!」
「いやいやいや、駄作の臭いがプンプンするのだけど」

 実際、ひどいC級芝居だったのは、言うまでもない。
 それでも、この二人は、エンディングでスタンディングオベーションをして喜んでいたのだけれども。どんなセンスをしているんだ。



「ほ~、これがゲルマニア商館区か。思ったより広いんじゃな。中に商店街があるとは思わなんだ」
「思ったより小さかったくらいよ。商館の規模でガリアはおろか、ロマリアにも負けるとは……」
「ここはトリステインだってのに、ゲルマニア人が我が物顔で歩いているなんて!」

 ちなみに、商館地区の大きさは、ガリア>ロマリア>ゲルマニア>アルビオンだった。
 ゲルマニア商社はあまりトリステイン方面に興味がないから仕方のないことだけれども、なんか自分が負けたみたいで腹が立つ。

 ま、とにかく、モット伯から依頼された手紙の件もこれで終わり、と。アイツ、どうしているかしらね。
 


「あら、このブレスレット、割といいデザインじゃない。気に入ったわ」
「カンヌのブランド品か。まあ、趣味は悪くないの」
「300エキュー? 安いじゃない、買ったわ!」
「買えるかっ!」

 今のうちにその金銭感覚直さないと、後で苦労するわよ? いや、よほどの大貴族ならしないかもしれないけど。
 まあ、私が言いたいのは、そういう台詞は、自分の手で1ドニエでも稼いでみてから言いやがれ、ってこと。



 ──とまあ、そんなこんなで、終業の鐘が鳴り響く頃。



「よし、次行くわよ、次!」
「だぁめ。そろそろ宿を取らないと、また野宿になるわよ?」

 未だ元気なエレノアは、まだまだ元気いっぱいのようだ。
 しかし、私はもうお腹いっぱい、精神的にね。なんだろう、ロッテが二人に増殖したかのごとく疲れた気がする。

 しかも、地味に、かなり散財してしまったし。こりゃあ、明日から、いや今日からまた引き締めていかないと!

「えぇ~……。まだいいじゃないの」
「もう終業じゃし、どこも店じまいになるところじゃぞ?」
「あっ、あそこのお店はまだやっているわよ?!」

 遊び好きなロッテすら、暗にもう終わり、と宣言するが、エレノアは止まらない。
 嬉しそうに両手を広げながら、宿屋街とは正反対の方向へと駆けだしていく。

 ふむぅ、よほどこの街が気に入ったのか、それとも、単に街で遊ぶ事が面白かったのだろうか?

 貴族のお嬢様の生態ってよくわからんのよね、実際。
 イメージとしては深窓で紅茶を飲んだり、お勉強をしたりって感じ? でも、たまには『ここからここまで全部頂戴?』なんていう大人買いショッピングをしたり?
 まあ、エレノアの様子をみると、街に出ることすら珍しいんでしょうね、やっぱり。窮屈っちゃ窮屈かもねえ。それで不幸せです、なんて言ったら私がブッ飛ばすけどね。

 などとどうでもいい事を考えつつ、私は走って行ったエレノアを追いかけようと、ゆらり歩きだすと。



「……っ!」
 
 丁度、“屯所〟の前まで行ったところで、唐突に、エレノアはライオンに気付いたシマウマのような顔をして急ブレーキを掛ける。

「ん、どうしたの?」
「な、なんでもないわよ? あっ! 宿、行った方がいいんでしょ?! また馬車の中で就寝だなんてお断りなんだからね!」
「……?」
 
 急に意見を翻すエレノアに違和感を覚え、首を傾げる。
 が、彼女はそんなことは気にしない、とばかりにグイグイと私の背を押す。


「なぁんじゃ、見知った顔でもおったのか?」
「まったく、さらさら、完璧に何もないわよ?」

 眉間に皺を作って不可解そうな顔をするロッテの問いに、エレノアは明後日の方向へ視線を反らして答える。

 あやしい……。
 私とロッテは二人して、胡散臭そうな眼で彼女を睨む。その顔には玉のような汗が浮かんでいる。

 ……追手が来ている、なんてことじゃないわよね? 
 ないか。誰が追手かなど、あちらから名乗ってでもくれぬ限り、私にも、彼女にも分かるわけがないし。

「うくっ……。もう! ほら! 早く歩きなさい!」
「いたっ?!」

 無言の責めに対して、エレノアは手に持った杖を振り上げてぽかり、とこちらを殴りつけることで応える。
 
「あんまり物分かりが悪いと、【浮遊魔法】≪レビテーション≫で強制的に運ぶことになるわよ?!」
「はいはい、わかりましたよ。まったく、野蛮なのはどっちなのかしら……」

 そうぼやきながらも、宿屋街の方へと歩を向ける私。

 エレノアの心変わりの原因はちょっと気になるけれども。まあ、こちらの言うとおり、宿に向かうというのなら、それでいいだろう。
 


「どちらにせよ、明日には、こやつの実家へと向かうのじゃしな。今更、こやつの隠しゴトの一つや二つなどどうでもいい話か」

 そういう事。最近、ロッテと考えが被ることが結構あるような気がするわね。

「……え、と、それなんだけど。アンタ達、ロマリアにも行くって言っていたわよね?」
「え? ええ、まあ、予定ではね」
「だっ、だったら、私も、その、ソコまで連れて行ってくれないかしら? ……いえ、連れて行きなさいよ」



 ……は?



 突然に切り出された、ワケの分からぬ申し出に、一瞬茫然としてしまう。
 この娘、私らを無償の便利屋か何かと勘違いしていないか? 冗談を吐くようなタイミングでもないと思うのだけれど。

「面白くもないジョークね。0点よ」
「何を言い出すかと思えば。くはは、寝言は寝て言うのじゃな」

 肩を竦めて息を吐く私に、冗談を笑い飛ばすように言うロッテ。

「冗談じゃないの! 本気で言っているの!」

 と、いきり立つエレノア。釣りあがった眉と、白んだ鼻からみるに、どうやら本当に冗句ではないらしい。
 
 とりあえず、この娘が家を出てきた理由はこれか。どうしてロマリアに行きたいのかは知らないが。

 どの道、このワガママはさすがに聞いてやれないね。

「あ、そう。でも、それは私達には関係のない話だわ。どうしてもというなら、お家に帰ってからご両親に相談すること、ね」
「お父様も、お母様も、相手にしてくれないからアンタ達なんかに頼んでいるんじゃない!」

 もう、『両親とはぐれただけ』なんて、嘘を吐いていたことを隠そうともしないか。しかも、『アンタ達〝なんか〟』ときたもんだ。

 やはりというか、反抗期の家出というセンが濃厚か。……随分とありきたりでつまらない動機、ね。

「7エキュー78スゥ、3ドニエ」
「え?」
「この二週間足らずで、貴女に使った金の額よ」
「それがどうしたのよ」
「わからないかなぁ。私達は慈善事業をやる気はないのよ。タダ飯喰らいのお嬢様を連れて歩いているのは、飽くまでご実家に興味があってのこと。それを忘れてもらっては困るわ」

 珍しく察しの悪いエレノアに、嘘偽りのない、飾り気もない、そして身も蓋もない事実を言い聞かす。

 私達と彼女とは、主人と従者の関係ではないし、ましてや、お友達同士でもない。ただ、きわめて薄い利害関係でつながっているだけの関係である。
 そんな事くらいは彼女も分かっていると思っていたけれど、分かっていないのなら、もう、取り繕わずに言ってやろうじゃない。

「なっ、ななな、なんですって!? 私を連れて歩いているのは、貴女達の勝手でしょう! 誰もアンタ達に助けてくれ、なんて頼んじゃいないわ!」
「えぇ、そうかもしれないわね。でも、ごめんなさい。商人って身勝手なものなのよ」

 助けに入ってなきゃ五体無事じゃいられなかったじゃない、とか、一人で旅する甲斐性もないくせに、とか、そういった厭味も言えるっちゃ言えるんだけれど。

「この、開き直って……!」
「そもそも、貴族のご令嬢が国境を越えられると思っているワケ? まあ、私達の連れ、ということにして、身分を偽ればやってやれない事はないでしょうけど。でもそれ、完全に違法の上に、貴族としての誇りはドブに捨てる事になるわね」

 出来るわけがないでしょう?

「そっ、そんなこと、覚悟の上だわ!」
「あっははは、カクゴ、覚悟ねぇ? 口だけのカクゴなんて、貧民窟≪スラム≫の鼻垂れ小僧でも言えるのよ?」
「また、そうやって馬鹿にして! 貴族を舐めるんじゃないわよ!」
「ほぉら、二言目には、捨て去っても構わないはずの身分を引き合いに出してる。僅か三秒で前言撤回とは、ふふ、あはは、今のジョークは面白かったわよ?」
「ぐ、ぎ……」
「まったく、誰かに依って生きている人間のカクゴなんて、信用するに値しないどころか、笑っちゃうわよね」

 何が覚悟だか。
 家に帰ればシアワセイッパイのお嬢様のクセに。
 
 本物の覚悟や決意というのは。
 孤独と苦悩の中でしか生まれやしないのよ。

「おい、アリア、さすがに今のは言いすぎというモノじゃ、ぞ?」
「──あ゛?」

 暴れ馬を宥めるかのように、どうどう、と私とエレノアの間に入るロッテ。

 どこが? 言い足りないくらいだと思うのだけれど?

「わ、わかった、落ち着け、なっ? ほら、お主も馬鹿な冗談はやめて、仲良く、円満にいこうぞ?」

 どうして後ずさりしているの? え? 別に怒ってないわよ。ええ、怒ってませんとも。

「冗談、なんかじゃ、ないんだもん……」

 俯き加減で、ぷるぷると震えるエレノア。

 ふん。泣いたって何も変わらないからね。

「とにかく。何があろうと、答えはNonよ。明日の昼までには、貴女の実家に向けて出発! 予定変更はなし! わかったわね!?」

 ビッ、と人差し指をエレノアに突き付けてそう言うと、くるりと踵を返して、大股で宿屋街の方へと向かう。
 
 後ろでいつもより若干優しげなロッテの声と、涙声のエレノアの声が聞こえるけれど、そんなことはどうでもいい。

 

 結局、その晩、私は〝風呂など付いていない〟、最低クラスの木賃宿をねぐらに選んだのだった。







 ──翌朝。

 静謐であるべきの朝に似つかわしくない、不可解な喧騒によって、ぼんやりと目が醒める。
 うつ伏せたまま、油布を貼り付けただけの窓へと目を向けると、外はまだ薄暗いようだった。

「んぁ?」

 のそのそと起き上がり、右手で頭を掻きむしりながら、左手で油布の窓をめくる。ロクに掃除もなされていないのか、にちゃ、とした脂っこい埃の感触が気持ち悪い。

 窓の外、かなり裏路地に入ったこの宿からでは視認はできないけれど、シャンゼリゼ大通りの方から、がやがやと人の集まる音が聞こえる。
 何事だろうか、と少しばかり好奇心を刺激されはしたものの、今日にはこの街を立ち去る私には関係のない事だ、と判断し、私はぴしゃりと窓を閉めた。

「とんだ近所迷惑だわ、ねえ?」

 寝ぼけ眼にひっついた目ヤニをわしゃわしゃと落としつつ、ベッドの方へと声を掛ける。

 しかし、ロッテも、エレノアも、二人揃って反応がない。ついでに、地下水もだけど。まあ、コレは戦いの臭いがするような時以外は寝ているような状態の方が多いみたい。

「……変ね」

 鋼の無神経であるロッテはともかく。
 エレノアの方は、慣れない旅と寝床で、神経が高ぶっているはずで、このような騒ぎに気付かない事はないと思うのだが。

 うぅん、昨日の事を引き摺っているのだろうか……。やっぱり、ちと言いすぎたかなあ。

 一晩経った今、冷静に考えると、初めから〝持つ者〟の立場である、エレノアの境遇に少なからずジェラシーを抱いていたのは認めざるをえない。
 その彼女が「覚悟」なんて軽々しく口にしはじめたものだから、ちょこっと、ほんのちょっとだけカチンときてしまったのだ。

 まぁ、さして間違った事を言ったとは思わないけれど……。ここは素直に謝ろうか。

「昨日はごめんなさい。ちょっと大人げなかったわよね。この通り、謝るから、とりあえず、返事くらいはしてくれると嬉しいなっ、と」

 両目をつむり、下げた頭の前で合掌するという、拝みのポーズで、エレノアのベッドの方へ声を掛ける。
 が、やはりというか、答えは返ってこない。むぅ。こりゃ、完全にヘソ曲げちゃったかな。

 ただ、私も悪かったとはいえ、彼女をロマリアまで連れて行く、なんて事はあり得ないのは事実で。実家の在りかを教えてもらわねば困ってしまうのも、また事実。なんとか機嫌を直してもらわないと。

「お~い、聞いてる~? そうだ、出発はお昼なんだし、午前中は貴女の行きたがっていた魔法具店や書店を回りましょう?」
「……ふぅ、うううん? なんじゃぁ、騒々しいぃ……」

 ロッテの方が先に起きたか。
 むにゃむにゃと寝言を続ける彼女はひとまず置いておいて、再びエレノアの方へと目を向ける。
 
「…………ん?」

 そこでようやく、私は居変に気づく。
 エレノアに割り当てたはずのベッドに、誰もいないのだ。

「あっ、あれ?」

 寝ぼけて床にでも落ちたのか? と思い、部屋中をぐるりと見渡すけれど、私とロッテ以外の人物を見つける事はできなかった。

 何か、ひどくイヤな予感がした私は、薄っぺらで小汚い毛布をはぐって、エレノアのベッドをまさぐる。
 
 冷たい。

 大分前から、このベッドには誰もいない、ということだ。少なくとも、小用や洗面に、五分、十分出掛けている、という理由ではなさそうである。

「あの、ロッテ? あんた、エレノア嬢がどこへ行ったのか知らない?」
「ぁん? そりゃ、そこのベッドに…………おらんな。なら、大方厠か何かじゃろ?」

 ロッテは欠伸混じりにそう言うと、再びベッドに横になる。
 
「いえ、それが違うのよ。かなり前にこの部屋を出たみたいなの。それに、あの娘の荷物が見当たらないのよ」

 エレノアの荷物というのは、バンシュ、シュルピスなどで買った彼女の日用品や下着類。
 それを入れる不細工な巾着袋(これは私の手製だが)もなくなっているのだ。

「む? 妾達に断りもなしに出て行ったとでも? いくらなんでも、そこまで恩知らずかのう。それに、自力じゃどうにもならんじゃろ、あの小娘では」
「いや、ね。昨日、私がヤっちゃったじゃない? それが原因かも、なんて」
「あぁ。確かに、相当に落ち込んでおったの。こんなボロ宿をとったというに、文句も言わずに下を向いておったわ」

 うぅ……。やはり、私のせいか。

「しかし、あの性格が、あんなに凹むことがあるとはの。ややもすると、あやつは、妾らに、どこか友情のようなモノを抱いておったのかもしれぬな」
「はっ?! そんな事、あるわけないじゃないの。向こうは貴族のご令嬢、こちらは歯牙ない行商人よ?」
「まあ、常識的にはな。あやつとて、はっきりとそんなものを認識しているワケでもなかろう」
「でしょう?」
「ただ、アレが上流貴族のお嬢だとすれば、今まで同年代の者と遊んだことなど殆どないじゃろう。あったとしても、それは親か何かから割り当てられた遊び相手で、常に相手が下、という立場でおよそ友人とは呼べないモノであろうな。ならば、妾はともかく、お主のような無礼な同年代に、新鮮な親しみを感じてもおかしくはないじゃろ?」

 その淡い親しみを、相手に完全否定されて落ち込んでしまった、ということか?

「……私にはよくわからないわ」
「おいおい、他人の心の動きを察知するのも、商人として重要なことではないのか?」

 そうだけど。
 でも、相手は商人でもなきゃ、取引相手でもないし、同じ道を志す好敵手でもない。同年代のお嬢様の考えることなんて、想像もつかないっていうか。

 しかし。
 
「そういわれれば、そうかもしれない、と思えてきたわ……」
「じゃろう。……で? どうするんじゃ? 放っておくのか。あのお嬢様」

 にぃ、と口を意地悪そうに歪め問うロッテ。

「……放っておくわけないでしょう。折角ここまでエスコートしてきたってのに、みすみす金蔓を逃すなんて出来るもんですか! さっさと探しにいくわよ!」

 私はそう答えると、手早く荷物を畳む。

 エレノアが金を持ち出して行った形跡はない。さすがに育ちがいい。人のモノを無断で持ち出すなどという事は考えもしないのだろう。

 ならば、まだそう遠くへは行っていない、いや、行けないはず。

「くく、お主もまた素直じゃないのう。それじゃ、ま、行くか。ニオイで大体の方向はわかるじゃろうしな」

 と、さも可笑しそうに笑いつつ、立てつけの悪いドアを開けて部屋を出るロッテ。荷物を抱えた私もそれに続く。

 『素直じゃない』だって? 何が言いたいんだか、まったく。
 ま、昨日の事は一番に謝ろうとは思うけど、さ。



「ふむ、こっちか。それにしても、何なのじゃ、この騒ぎは?」

 手短に宿の支払いを済ませ、エレノアのニオイを頼りに、うらぶれた裏通りからシャンゼリゼの大通りに出る。
 
 すると、何やら、あちこちで市民が真剣な顔をして寄り集まり、あれやこれやと議論しているのが目立つ。
 その集まりの中には、傭兵のような格好をした荒くれ者の姿もあり、どうにも平和的な事ではなさそうな雰囲気。寝起きに五月蠅かったのは、これが原因だろう。

 関わりたくはないな、と思いつつも、聞き耳を立てて、彼らの脇を素早く通り抜ける。

「──〝ヴァリエール〟──保護すりゃ──」「また──〝盗賊団〟が──」「その娘──〝懸賞金〟──」
「あの〝店の荷〟も──保険は──」「昨日から──この街の〝屯所〟にも──」「──〝破産〟しちまう──誰か──」

 ……?
 話題は一つではなく、二つあるのか。
 人相の悪い傭兵風の男達は人探しの話らしく、町人達は先日耳にした盗賊団の話をしているらしい。
 
 気にはなるけれども、今はエレノアの行方を捜すほうが先決だろう。



「と、ここじゃな。あやつのニオイが集中しておるのは」

 そのまま300メイルほど進んだところで、ロッテがぴたりと足を止める。
 って、ここは……。

「モット商社?!」
「みたいじゃの。商人でもないアレが、何の用があったのかは知らんが」

 昨日の今日で、少しは見知ったモット商社に、貴族の名を出して保護を求めたとか?

 ……ないわね。エレノアの性格上、簡単に他人に、それも平民に助けを求めるわけがない。

「にしても、商社の様子が一寸おかしいわね。この時間なら、見習い達はもう開店の準備をしているはずなのに、人の動いている気配がしないわ」
「それはゲルマニアの話で、トリステインの商社はもっと朝がゆっくりなのでは──」
「う……ぅ……。はへは、ほほひひふほは……?」

 私とロッテの会話に割り込むように、僅かに聞こえてきたのは、判読不能の、男のうめくような声。

 モット商社の中からだ。只事ではなさそうな雰囲気。

 く。トラブルなんて勘弁だけど……!
 しかし、この商社には、私達の荷を預けている上に、エレノアのこともある。

 行かざるを得ない。

「開いてる……。すいません、勝手に入ります!」

 意を決したように鍵の掛かっていない格子の扉を勢いよく開け放つ。

「うっ!?」
「なぁんじゃ、このザマは?」

 私はその光景にギョッとして立ち止まり。ロッテは不快そうに繭を顰めて辺りを睥睨した。

 なんとそこには、商社の者と思われる若い男と少年が数人、縄で縛り上げられた挙句、猿轡を噛まされ、床に転がされていたのだ!

 その中には、モット商社の共同経営者である、昨日世話になった青年の姿もみえる。

 すぐに機能停止から復帰した私は、慌てて青年主人の下に駆け寄って、彼の拘束を解く。
 


「クソッタレ!」

 自由の身になった青年は、開口一番に、床を叩きつけて腹立たしげなそぶりを見せる。

「だ、大丈夫ですか?」
「おたくは、昨日の……。すまねぇ、助かったぜ。いや、果たして助かったのかどうか……」

 青年はなおも悔しそうに唇を噛みしめる。

「一体何があったというんじゃ。まさか、自分で自分を縛って悦んでいたわけでもあるまい?」
「違ぇよ! 賊が押し入ってきやがったんだ! 住み込みの見習い共までとっつかまっちまって」

 胡散臭そうに尋ねるロッテに、青年は声を荒げて事情を説明する。
 
「賊? って、じゃあ、さっきの町人の集まりは」
「盗みに入ったのは、この店だけでない、ということじゃろうな」

 あぁ、なるほど、そういう事ね。お気の毒に。

 ──って!

「そうだ! 私達の荷は? 無事でしょうね?! ねぇ、無事なんでしょ!?」
「う、申し訳ねぇ。預かっていた荷物は、おたくらのも含めて、全部ヤラれちまったよ」
「はっ?」

 青年の声が遠くに聞こえる。代わりに心臓の音は大きく。体がふらふらとよろめく。頭がぐわ~ってなった。

 そして。



「ふっ、ふ、ふざけんなぁっ! 任しとけっていったでしょうが!」



 キレた。



「めっ、面目ねぇ……。しかし、まさか貴族が噛んでる商社に手を出してくるなんて思いもしなくてよ」
「そんなこと知るかっ! どうすんのよ! 保険なんて入ってるワケないのよっ! こっちは!」

 謝る青年に、さらに捲し立てる。謝れても荷は戻らないし、そっちの事情なんて知ったこっちゃねぇのだ!
 こっちとしては、ただ、「信用して荷(命)を預けたのに、それをを紛失した」という事実があるだけ。

「あぁあアア! 最悪、最悪、最悪っ! 畜生、ブリミル死ねっ! 死んじまえっ!」
「ばかっ! あほっ! たわけっ!」
「あばっ?!」

 地団太を踏んで危険な事を口走る私を、ロッテは強制的に停止させる。
 具体的にいうと、後頭部を平手で思い切りぶっ叩くという手段で。

「いったぁ……。この、殴る相手が違──」
「待て、落ち着け、口を閉じろ。怒り狂いたくのもわかる、というか、妾もキレそうなのは確かじゃが。しかし、ここで怒っても何にもならんぞ。特に、ブリミル親父の悪口を大声で叫ぶのはまずい」
「まぁ、そりゃ、わかってはいるけど……」
「何、盗られたモノは盗り返せばよいわ。妾の鼻で追えぬモノなどないんじゃからな。となれば、先ずは現状の把握に努めるのが賢いのではないか?」

 ロッテに耳打ちされ、少しだけ、頭の中の怒り靄が晴れる。彼女の言う通りである。こういう時には、なんて頼りになるヤツ。

 たしかに、彼女がいれば、賊が何人いようが、荷は取り返せる可能性は高い。
 昨日の夜中に押し入って、もう荷を処分したなどという事はあり得ないわけだし。

 どちらにせよ、腹が立つというのは、変わらないが。
 
「ついては、主人よ。荷の事は一旦置いて。昨晩の閉店後、賊の他に、この店を訪ねてきた者はおらんか?」

 あ。

 エレノアの事も、というより、本来はそっちが目的だったわよね。
 くぅ……。普段はともかく、困った時にはロッテの方が全然有能じゃないか。

「いや、わからねぇ……。おい、お前ら、何か知ってるやつはいないか?」

 いつの間にか、部下の拘束を解いて回っていた青年主人は、ロッテの問いを、助けた部下達へと丸投げする。

「あ、俺、知ってます」

 それに手を挙げたのは、イガグリ頭の見習い坊主。

「それは、このっくらいの、眼鏡を掛けたちんちくりんな小娘か?」
「あ、いえ、はい。昨日、お姉さん方と一緒にいた娘さんですよね?」
「そうそう、ソレじゃ! どこに行った?!」

 それがエレノア本人と分かると、ロッテはイガグリ坊主の肩を激しく揺さぶる。

「あの、俺、夜中、小便をしに、裏口から厠にいったんです。その時、丁度、その娘が店の前に突っ立っているのを見かけまして。出歩くような時間じゃないし、不審に思って『どうしたんです』と聞いたら、『馬車の中に取り忘れた荷物があるの』って。いや、お客さんだと覚えていたんで……。店に入ってもらって、馬車の所まで案内してあげたんですけど」
「ばっ、バッカ野郎! お客様とはいえ、店閉めてから余所のモンを店にあげるなんざ、何考えてやがんだ! このタコ!」

 そこで青年の怒声が飛び、イガグリ坊主は申し訳なさそうに委縮した。

 そりゃ、私が主人でも怒るわ。
 経営者の紹介で取引があった相手にくっついていた娘とはいえ、よくしらない者を無人の店にあげるとは。しかも見習い風情が。

「えぇい、主は黙っておれ! それで、そのあとは?」
「いや、俺、寝ちまって……そのあとはしらねえっすね」

 ロッテが青年を押しのけてさらに問うが、イガグリ坊主の答えはさらにあり得ない方向へと飛んでいく。

 青年の顔は真っ赤を通り越して、真っ青だ。あぁ、下手したらこの坊主、クビになるかもね……。

「あ、言っておくけど、あの娘は賊とは無関係ですよ?」
「解ってるよ、そりゃ。モット伯の紹介だしな……。ただ、こういう隙があるから賊に狙われたのかもしれねぇ、と情けなくなっちまったんだよ」
「落ち込むのは後でお願いします。とりあえず、馬車を置いていたところまで案内してください。モノがあるかないかも、まだこの目で確認してはいませんし」
「ああ、すまん。落ち込みたいのは、そちらさんも一緒だわな。よし、ついてきてくれ」

 私が急かすと、気を取り直したようにして、背筋を伸ばして歩き出す。

 それにしても、エレノアは一体、何処に行ったのだろう。

 まさか賊に──?!
 いや、店の者が無事なのだから、おそらく殺されはしていないはず。彼女の素性をしらない賊が誘拐なんてするわけもないし。
 そもそも、荷を忘れた、という嘘をついてまで、この店に何の用があったのか……?

 謎は深まるばかりで、答えはまるで見えてきそうにもない。



「此処、だな」

 店の一階奥、ひどく頑強そうな鉄扉を開けてすぐ、青年が馬房兼倉庫なのであろうただっ広い大部屋の一角を指し示す。
 
 案の定、馬車を並べておくのであろう、長方形に区切ったスペースには馬車の姿は一台もなく。大量の燕麦飼い葉が置いている馬房にも、馬は一頭もいなかった。
 何台、何頭泊めていたのかは知らないが、他の店をも襲ったのだろう事を考えると、かなり大規模な賊なのかもしれない。

 私とロッテは、申し合わせるまでもなく、何か手掛かりはないか、と、手分けして辺りを捜索する。

「ん? なんじゃこれは?」

 ほどなくして、ロッテがぱきり、とナニカを踏みつける。

「それって」

 見覚えのある、赤い縁の眼鏡。レンズは割れ、フレームがひしゃげている。
 どうやら、ロッテに踏まれる前から、既に壊れてしまっていたようだ。

 これで、エレノアが此処に居たことは間違いない。そして、争ったのか、それとも一方的に襲われたのか……。とにかく、賊と一悶着あったのかもしれない。

「いや、それよりこちらじゃろう……。さしもの妾も、少々度肝を抜かれたわ」

 ロッテはそう言うと、眼鏡の下に敷かれていた、紙きれを拾い上げて、私の眼前に突き付ける。
 いや、後から考えると、むしろ眼鏡はこの紙を固定するために、故意に置かれたものだったのか。

「……むん?」

 その紙には、丁度、私達が探している人物にそっくりな似顔絵と。
 印字のように綺麗な字、そして、最後に書き殴ったような汚い字で、こう記されていた。



※布告:緊急:訪ね人※

 下記の似顔絵の人物。詳細は後に記す。

 ヴァリエール家長女、エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール。
 上記の似顔絵通り、赤縁の眼鏡、ブロンドのショートカット、凛とした釣り目が特徴である。年は12、身長144サント、痩せ型。
 見つけてきたものには金30,000エキューを、エキュー金貨、もしくは小切手にて支払う。
 また、有力情報の提供者にも、金5,000エキューを、上と同じように支払う。

 情報あらば、ヴァリエール家もしくは、手配書の廻っている各市の屯所へ連絡されたし。

                                依頼人 ヴァリエール家当主 ピエール・ド・ラ・ヴァリエール

 あっははは、クソ残念だったね。ご令嬢はこのあたいが預かった!
 返してほしけりゃ、倍の60,000出しやがれ、とクソ間抜けな親馬鹿公爵に伝えな!
                                                     灰塵のマルグリッド





アリアのメモ書き トリステイン編 その3

色々な危機に見舞われている商店。
(スゥ以下切り捨て。1エキュー未満は切り上げ)

評価       ※現在、取り扱っている商品はございません
道程       ケルン→オルベ→ゲルマニア北西部→ハノーファー→トリステイン北東部→トリスタニア→トリステイン中南部(バンシュ)→シュルピス

今回の費用  売上原価 674エキュー
旅費交通費 宿宿泊費×3  2エキュー
       消耗品費、雑貨 娯楽費、食費 7エキュー

※た・だ・し
営業外費用 ★ 特別損失 盗難による臨時損失 1264エキュー 絶対に、絶対に、ぜぇったいに、許さんぞ……!

      計 683エキュー+1264エキュー=1947エキュー

今回の収益  売上 1093エキュー

★今回の利益(=収益-費用) 420エキュー……ではなく、▲936エキュー……。

資産    固定資産  乗物
ペルシュロン種馬×2
中古大型幌馬車(固定化済み)
(その他、消耗品や生活雑貨などは再販が不可として費用に計上するものとする)
商品
(ゲ)ハンブルグ産 毛織物(無地) ▲完売
            (ゲ)シュペー作 農具一式  ▲完売
            (ゲ)ベネディクト工房 はりがね ▲完売
            (ゲ)ベネディクト工房 農耕馬用蹄鉄 ▲完売
            (ト)トリステイン北部産 ピクルス(ニンジン・芽キャベツ・チコリの酢漬け) ▲完売
            (ト)トリステイン北部産 フルーツビール ▲完売
            (ト)トリステイン北部産 燕麦  ▲完売
            (ト)バンシュ産 レース生地 
            (ト)バンシュ産 レース地テーブルクロス 
            (ト)バンシュ産 レース地カーテン、ベッドシーツ 
            (ト)トリステイン中央部産 ブドウ酒(安物銘柄)
            (ト)レールダム産 ガラス食器 △
            (ト)アストン領産 高級ワイン △
            (ト)ブリュッセル産 彫刻家具(チェスト、スツール、食器棚)△
            (ト)シュルピス産 高級瓶詰め蜂蜜
            (ト)エルヴィス・ヴィトンのハンドバッグ、旅行鞄など革製品 △

             計・1356エキューのはずが、0↓(商品単価は最も新しく取得された時の評価基準、先入先出の原則にのっとる)

現金   10エキュー(小切手、期限到来後債利札など通貨代用証券を含む) 全財産、これだけ……。
 
有価証券(社債、公債) なし       
負債          なし

★資本(=資産-負債)  10エキュー

★目標達成率       10エキュー/30,000エキュー(0,03%)

※戻ってくれば……
1366エキュー/30,000(4,53%)

★ユニーク品(用途不明、価値不明のお宝)
①地下水 短剣
②モット伯の紹介状 ゴールデンチケットとなったが……。





つづけ




[19087] 46話 令嬢×元令嬢
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:b1b8b9be
Date: 2012/04/17 17:56
 ヴェル=エル街道沿いにある、トリステインとガリア間の関所から、西に大凡60リーグ。
 アングル地方と呼ばれる地の南東に存在する、かつて新教徒の隠里であった廃墟の集落。

 新教徒とは、ブリミル教の改革運動「実践教義」に賛同し、それを信仰する異端の総称。

 トリステイン側のアングル地方──ダングルテールにて、ロマリア厳格派と、トリステイン王国との密約により、疫病対策という名目で新教徒狩りが行われたのは、現在から5年程前になるが、何も新教徒を嫌っているのは厳格派だけではない。

 例えば、このガリアはトリステインと違って、ガチガチの保守党である厳格派ではなく、教義の解釈に寛容な穏健派を支持しているが、しかし、新教徒の存在は認めていない。新教徒という異物は、派閥に関係なく、現行の王家や教会、そして貴族にとって、煩わしい存在であるのだ。

 なぜ、彼らは新教徒を嫌うのか?

 答えはとても単純。新教徒の唱える改革とは、現状の権力構造を徒に脅かす(=世を乱す)可能性があるからである。
 王家や貴族、そして聖職者が当たり前のように支配者層に君臨するためには、『魔法なくしては世の中が成り立たぬ。よって魔法の始祖であるブリミルは尊い。その子孫であり、魔法を使えるメイジもまた尊い。よって民を導くのは当然である』という些か乱暴な理屈を、小難しく、もっともらしく、それが常識となるように、営々と練り上げてきた今のブリミル教である必要があるのだ。

 なので、宗教改革などと、余計な火種になりかねないモノは早々に潰すに限る、と、ガリアでは、ロマリアから言われるまでもなく、自主的に新教徒狩りを実行していたのである。

 その狩りがこの集落に及んだのは、10年以上も昔の事。

 粗末な木材と石材によって造られた家屋や畜舎も、ささやかながら実りを齎してくれた麦畑も、村人達自らの手よって建立された小さな教会も──今は朽ち果て、打ち捨てられたままになっている。

 もちろん、人はおろか、家畜一匹いやしない……はずなのだけれど。

「食い物の類は地下に持っていきな! 横着してそこいらに放っておいたら、承知しないからね!」
「へい! わかりました、姉御!」
「おら、ソコ、さぼってんじゃないよ! 働きの悪い奴はシゴトの打ち上げにゃ参加させないよ!」
「へい! すいません、姉御!」

 プラタナスの花に似た薄紫色に染まった初夏の空の下、俄かに活気づく廃墟であるはずの集落。

 煌々と燃える松明の、怪しげに揺らめく光の中で、重そうな荷を抱えながらあちらへこちらへと蠢く強面の男達。

 そして、それらを睥睨するように、小高く積んだ空箱の上で指示を出すのは、豪快に紫煙を燻らす妙齢の紅一点。

 はて、こんな朽ちた集落に引っ越しとは、酔狂な者もいるものだ。

「やぁれやれ、あんまり大所帯になるってのも、考えモノだね」
「姉御、お疲れ様です! あとはおいら達に任せて、休んで下さいよ」

 いかにも疲れた、とばかりに大仰に息を吐く指示出し女の労をねぎらうのは、顔に大きな切り傷のあるガラの悪い男。
 その隣で、不健康そうに目が窪んだ小男が木のジョッキ一杯に入った水を女へと差しだす。
 
 この三人は荷運びの作業に加わっていない所をみると、この集団の中心となっている者達なのであろう。

「ほ~、ジロー、オノレ、お前らも気が利くようになったじゃないか」
「へ、伊達に俺らも〝新生〟マルグリッド盗賊団の副団長を気取っちゃいないってことですね」

 指示出し女──シュルピスを騒然とさせている張本人の一人──女盗賊マルグリッドが目を細めて言うと、小男、オノレが少し照れくさそうに鼻の頭を掻きながら答える。

「しっかし、姉御もよく考えましたよね。『仕事はザルのトリステイン側、売るのと住むのは景気のいいガリア』って」
「だろう? 入国の税さえ納めりゃ、ガリア側の役人は文句言わないしね。国境さえ超えりゃ、トリステインのクソ役人共は追ってもこれないし。我ながら冴えたアイディアだと思うよ」

 よほど今回の成功に浮かれているのか、マルグリッドは上機嫌な様子で自画自賛をする。

 彼女率いる、〝新生〟マルグリッド盗賊団のやり口は、こう。

1 主にシュルピス界隈でかっぱいだ品を抱えたまま、堂々とトリステインとガリア間の関所を通り、ガリアの商社、モノによっては、闇屋で捌く。
2 アジトはガリアに置き、トリステインにはシゴトの時以外は近づかない。
3 狙うのはトリステイン国内のみに籍を置く、中規模以下の商社か、行商人に限る。
 
と、割とシンプルな物だ。

 トリステインでいくら騒いだとて、ガリアとしては知ったことではないのだから、なるほど、悪い手ではない。

 しかし、鬼門となるのが、国境の行き来である。
 国を行き来する許可というのは、貴族にせよ、平民にせよ、簡単に出るものではない。
 ましてや、彼女らのように素姓の知れぬ者に関所を越える事など到底出来ないはず。

 しかし、世の中には、ごく簡単な手続きを済ますだけで、国境を渡れる人種もまた存在する。

 すなわち、商人である。

 彼女らは、商人から奪った同業者組合員証を利用し、商隊を装って国境を通過していたのだ。
 もっとも、商人を装っているとはいえ、あまり同じ者が国境を頻繁に移動しては、関所の役人に怪しまれる恐れがあるため、リーダーであるマルグリッド以外の実行メンバーは常に入れ替わりのローテーションで変更されていたし、ガリア側からトリステイン側に行く際も、ガリアの廃品屋から購入した二束三文のガラクタを運んでいくというカモフラージュもなされていた。
 
 また、トリステイン国籍の中小商社ばかりを狙うのは、その大半が国外に強力なコネクションを持たぬ、弱小のコミュニティであることが多いからである。
 彼らの場合、商品を盗まれたとて、犯人が国外に逃げ込んでしまえば、泣き寝入りをするしかないのだ。
 反対に、国外にいくつもチャンネルを持つような大商社や多国籍商社は、各地の役人に顔が利くため、そこに逃げ込んだと分かれば、地獄の底まで追ってくる可能性がある。

 普通の賊であれば、無駄な出費と労力を嫌がって、このような工作はしないのだけれど。

 しかし、マルグリッドは一度ならず、二度も地獄を見たことで、彼女なりに精一杯用心を働かせるようになっていた。

 それを成長と取るかどうかは、個人の主観次第だろう……。



「ま、しかし、これで、あの国での仕事は終わりだね」
「一寸、勿体ねえような気がしますがね。まだまだイケそうな感じですぜ」
「引き際を間違えちゃあいけないよ。元々、総仕上げのつもりでの大仕事だったんだからね。あれだけ派手にやっちゃ、これ以上は足が付くってもんさ。それに──」

 そこで一端言葉を止めて、マルグリッドはぷかぁ、と煙のドーナツを作って見せる。

「こんな、クソでかい臨時ボーナスまで手に入っちゃ、盗賊稼業を引退してもいいくらいだろ?」
「う、う、う~」

 マルグリッドが、口の端を厭らしく歪めて、脇に置かれたワイン樽をぽん、と叩くと、樽の中から恨めしげな呻き声があがる。

「何か言いたそうだね、エレオノール・アルベル、アルベル? ……えぇと、なんとか、ヴァリエールさんよ」
「う~っ! もぐぐがふっ!」

 天板が外された樽の中に詰め込まれているのは、豊饒な香りのするワインなどではなく、
 ほんのりと汗の蒸れた臭いが漂う少女、エレノア、いや、ヴァリエール家長女エレオノール。
 全身を縄と猿轡で雁字搦めにされながらも、ケタケタと笑うマルグリッドを憎らしげに睨みつけている。

 彼女はシュルピスからこの廃村まで、ずっとこの空のワイン樽に押し込められていたのだった。
 国境の荷物検査は、その全てを検品するわけではない。例えば、ワイン樽が大量にあれば、二、三個をランダム選び、それに問題が無ければ通ってしまう(そこで、彼女の入った樽を関所の役人が選び当ててしまえば一巻の終わりなので、そこだけはマルグリッドもドキドキだったのだが)。
 特に、身分のはっきりとした(組合員証を持った)商人が相手ならば、役人もそう目くじらを立てることもない。

「おぉ、怖い貌だねえ。チビっちまいそうだよ」
 
 マルグリッドは半笑いでそう言うと、おもむろに樽の中に腕を伸ばし、エレオノールの猿轡を外してやる。
 此処までくれば、如何に騒ぎを起こされようと、何の問題ないと判断したのだろう。

「ぷはぁっ! あっ、アンタ達、こんなことして、どうなるかわかっているんでしょうね?!」
「……この状況で、随分と勝気なモンだねぇ。公爵家のお嬢様にしちゃ、中々、肝が据わっているじゃあないか」
「薄汚い賊に褒められたって、嬉しかないわよ!」

 開口一番、囚われの身であるにもかかわらず悪態を付くエレオノール。
 しかし、喚いたところで状況は変わらない。ここは地獄の一丁目。罵声を飛ばそうが、悲鳴を上げようが、助けを求めようが──光の世界には届かない。

 そんなエレオノールを華麗に無視し、マルグリッドは蠢く手下達へと向き直って、最後の指示を叫ぶ。

「さあて、お前ら、あとひと踏ん張りしな! ソレが終わったら、酒と食い物は、好きにやっていいからね!」

 ひゃっほい、と歓声があげ、小走りになる男達を確認し、マルグリッドは満足気に頷く。

「ふぅ。じゃ、あたいはもう休むことにするよ。打ち上げの音頭はジロー、お前が取りな」
「え、姉御は参加しないんですか?」
「こちとら、あのクソ酒場で働いたせいで、酒の臭いを嗅ぐだけで吐きそうになるんだよ」

 マルグリッドは吐き捨てるように言って、顔を顰める。
 クソ酒場とは、シュルピスのランジェリー酒場〝疑惑の妖精亭〟のことだ。彼女にとって、それは消し去りたい歴史らしい。

「む、無視するなぁっ!」

 ふん縛られたまま、無理矢理に樽から顔を出して、エレオノールはなおも喚く。
 マルグリッド以下二名は、横目でそれを一瞥して、今後についての協議を始めた。

「で、コレの扱いは、どうします? まだ、詳しい受け渡しの場所とか、日時とか、方法とかはあちらさんに伝えちゃいませんが」
「当然、そのあたりはちゃぁんと、考えているさ。安全かつ、スピーディーなやり方をね。……ま、今日は一仕事終えたばかりだ。それは明日でもいいだろう? それともお前、今からひとっ走り、ル・マンの街まで、ペリカン便を頼みに行ってくれるのかい?」
「いやぁ、それは勘弁してほしいですね」
「っつぅわけだよ。ま、とりあえず、コレの面倒はあたいが見るよ。大事な大事な人質は丁重に扱わないと、ね? 飢えたクソ野郎共の中に置いておいたら、どうなるかわかったもんじゃないからね」
「おいらは餓鬼にゃ興味はありませんけどね」

 ジローがそう言って肩を竦めると、隣のオノレもそれに同調するように頷く。
 そこらへんは、存外に分別のある大人らしい。

「こ、ここ、殺していいかしら……っ?」
「はいはい、お嬢様がそんな言葉遣いをしないことだよ。【浮遊魔法】≪レビテーション≫」

 マルグリッドは唇をひくひくとさせているエレオノールを【浮遊魔法】で浮かせると、
 団長(つまり自分)の寝所としている廃教会の方向へと踵を返す。

「ぅ……っ」

 エレオノールは零れ出しそうになる悲鳴を、なんとか堪えてみせる。

「あ、姉御、一人で大丈夫ですか? 餓鬼とはいえ、この娘も一応メイジですよ。万一ってことが」
「杖さえ取りあげときゃ、そこらのクソ餓鬼と変わらないよ。ほれ、ちゃんとしまっときな」

 呼び止めるオノレに、懐にしまっていたエレオノールの杖を、ぽい、と投げて渡すマルグリッド。

「わっ、とっ、と。ちょ、姉御、こんなもん、折っちまいましょうよ」
「馬鹿を言うんじゃないよ。ソイツは〝万年樹〟って希少な材料を使った最高級品だよ。闇屋に売っても金貨で百はするってシロモンだ」
「ほへぇ、よくわかりますね、姉御。俺には、ただの棒っきれにしか見えませんや」
「はっ、あたいも昔は貴族の端くれだったからね。杖の良し悪しくらいの判別はつくのさ」
 
 ふ、と自嘲したような笑みを浮かべ、マルグリッドは再び歩を進め出す。

 ふよ、ふよ、と宙を漂うエレオノールは、自らの杖が持ち去られていくのを、ただ恨めしそうに眺めていた。



ж



 アジトのド真ん中にある広場から、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎの音が微かに聞こえてくる。
 さぞかし盛大に飲んでいるのだろう、度々あがる雄叫びのような声に、ミミズクがびく、と体を震わせて、飛び去っていく。

 そんな喧騒を余所に、此処、マルグリッドの寝床である廃教会は、至って静かであった。

 まばらな天井から差し込む、双子月のおぼろげな光によって照らし出される朽ちた無音の教会は、豪華絢爛な装飾に彩られた大聖堂よりも、ずっと神秘的な雰囲気を醸し出している。

 一人で休む時には、こういった静けさも良いものだが、二人以上でいるとなれば、退屈に感じてしまうものである。

 此処の主(不法占拠)も、いよいよ、その静寂に辟易としてきたようで。

「食べにゃいのかい?」

 地べたに胡坐を掻き、鶏の手羽元を手づかみで豪快に貪っていたマルグリッドは、口にモノを入れたままで、対面のゲストへと声を掛けた。

「……ふん」

 傾きかけた柱に、座った状態で括りつけられたエレオノールは、それには答えず、そっぽを向いて鼻を鳴らす。
 腕の拘束は、一時的にだろうが、外されている。なので、眼の前に出されている皿の上のパンと肉を食べようと思えば食べられるのだが……。彼女の意地がそうはさせないのだろう。

「喚いていたかと思えば今度はずっとだんまりかい。此処にきてから、もう二刻以上経っているってのに……。こりゃ、本当に強情っぱりだね」

 マルグリッドは呆れたように言い、ぽい、としゃぶり尽くした骨を、窓の外へと投げ捨てる。
 彼女はまだ焼けていない、新たな骨付き肉を掴むと、ぐりぐりと塩を塗り込み、それを火にくべる。

 じゅうじゅう、と脂が焼ける香ばしい音と匂いが、エレオノールの鼻腔と鼓膜を刺激する。
 オリーブオイルのような黄色い肉汁が、骨を伝って、ぽたりと落ちて、土に染み込んでいく光景が恨めしい。

 ぐうぅ。

 亡者の呻きのような低い音が、エレオノールの胃袋から発されて、彼女の顔が羞恥の赤に染まる。

「う、ち、違うわよ?!」
「丸一日以上何も食っちゃいないんだ、そりゃあ人間、腹も鳴るさ」

 淑女らしからぬ生理現象を誤魔化そうとするエレオノールだが、マルグリッドは大して気にした様子はない。

「食いな」

 焼けたての肉をエレオノールの前の皿へと、絶妙のコントロールで放って、短く命じるマルグリッド。

「余計なお世話よ」
「あたいが食えといったら、食うんだよ。お前、若しかして、自分の立場がわかっていないのかい?」

 先程よりもドスの利いた声に、エレオノールの体が絞められる直前の魚のように跳ねる。

 マルグリッドの剣呑な視線には、有無は言わさねえ、という圧力があった。
 普段はお茶らけたように見えるが、彼女とて切った張ったの世界に生きる、という並ならぬ〝覚悟〟を決めた者である。
 そこらの一般人など、彼女に一睨みされただけで、震えあがってしまうだろう。

「何よ、賊風情が偉そうに。盗人の施しなど受けるワケがないでしょ!」

 しかし、それでも、エレオノールは気丈な言葉でやり返してみせる。

「あぁ?! …………はん、くく、身体は正直だねぇ。虚仮もここまでってことかい?」

 マルグリッドは一瞬だけ声を荒げたが、エレオノールの様子を見て、満足したかのような笑みを浮かべる。



──エレオノールの身体はアルコール中毒者のように小刻みに震えていたのだ。

 気丈に見える彼女だけれど、怖いものは怖い、当たり前のこと。

 ましてや、彼女は生まれてこの方、命の危機になどに遭遇したことなどなかったのである(昨今の貴族子女ならば、そんな経験のある者の方が珍しいが)。
 強いて言えば、伝説とまで謳われる騎士である、母の逆鱗に触れた事が2,3度あること。あとは、ごく最近、王都の徴税官と対峙したことくらいだろう。
 しかし、前者は、相手に自分を害するような意志はないことが分かりきっていたし、後者は、危機かどうかもわからないままに終わってしまったので、彼女に本質的な恐怖を与えるには至らなかった。

 だが、今回は違う。

 身代金目当ての誘拐らしいとはいえ、その人質が絶対に無事で戻ってくるのか、と言われてばそうではないことをエレオノールは知っていたし、むしろ、死体で戻ってくる方が圧倒的に多い、とも知っていた。
 大貴族の令嬢だけあって、その手の犯罪については、耳にタコが出来るほどに気を付けるよう、聞かされてきたのだ。
 しかも、酒樽に詰められて運ばれる道中で、何とはなしに彼女の耳に入ってきた情報によれば、ここはヴァリエール家の力が及ぶトリステインではく、未知の異国、ガリアだという。これでは、すぐに誰かが助けにきてくれる、という希望すら持ちにくい。

 本当のところ、エレオノールは恐怖やら、不安やら、混乱やらで、泣き叫びたい衝動で胸が一杯であった。
 ただ、その欲求を持ち前のプライドによって、何とか抑え込んでいただけなのだ。

 とはいえ、幼い彼女の〝誇り〟とやらは、未だ〝覚悟〟などには至っていない。 だから、マルグリッドの〝覚悟〟の前に揺らいでしまうのである。
 
(しっかりするのよ、エレオノール・アルベルティーヌ! 私は誇り高きヴァリエール家の長女なんだから! 大丈夫、大丈夫よ。少しの間、我慢をしていれば、きっとお父様やお母様が、助けだして──)

 決壊寸前の自分をそうやって落ち着かせようとする、エレオノール。
 ここで持ちなおそうという意志を持てるあたり、やはり、彼女も凡庸な存在ではないのだろう。彼女の年齢から考えれば、異常といってもいいくらい、立派な精神力である。

 が、そこで、ふと、エレオノールの脳裏に、ここ二週間ほど、成り行きで同行していた平民の言葉がよぎる。
 


 ──まったく、誰かに依って生きている人間のカクゴなんて、信用するに値しないどころか、笑っちゃうわよね。



 エレオノールは、ハッ、としたように、目を見開く。

 面と向かって言われた時には、すぐさまにでも「アンタに何が分かるのよ!」とでも否定してやりたかった言葉だ。実際は、何故かひどく哀しくなって、言葉がうまく紡げなかったけれど。

 が、今のこの状況に置かれた自分の有様はどうだろう。

(……その通りじゃない)

 危機に追い込まれた時こそ、その人間の本音、本質が出る。
 そんな状況で、彼女の頭に真っ先に浮かんだのは、当初の自分の〝目的〟を忘れ、家柄と両親に依ることであった。

 情けない、とエレオノールは歯噛みした。

 これでは、あの慇懃無礼で傲岸不遜な、天パで泣き黒子の平民牛女に指摘されたまんまではないか。

(……本当、笑い物だわ、これでは。『誰かが助けてくれる』? 違うでしょうが! 私がわざわざ家を飛び出してきた理由を考えなさい! 出戻るわけには行かないのよ!     私がやるべきなのは……!)

 エレオノールは歯を食いしばって、身体の震えを無理矢理に止め、マルグリッドの顔を正面から見据える。



 その眼には、先程までとは違う、何らかの強い光が宿っていた。
 


「……あん? 何を笑っているのさ?」

 その様子を見て、マルグリッドは不快そうに言う。

「え? いえ、こうしているのも何だし、少しお話でもしない? と思って」
「へえ、どういう心変わりかねぇ」
「暇になっただけよ。あ、食事、頂くわね。はぐっ、はっ、ふぐっ」
「…………? ま、まぁ、いいけどさ。だが、話っつったってねぇ……」
 
 人が変わったかのように、皿のパンと肉を両手に掴み、もしゃもしゃ、と噛み砕いていくエレオノールに、マルグリッドは訳も分からず首を捻った。
 
「しっかし、アンタ達って、随分と命知らずよねぇ」
「なにさ、藪から棒に。ま、縛り首が怖くちゃ、盗賊なんてやってられないのは事実だね」
「だからって、私が誰か知っている癖に手を出すなんて。素直に私を何処かの屯所か、ヴァリエール家まで連れて行けば、少なくとも30000エキューは手に入ったっていうのに。こんな無茶なやり方、本気で成功すると思っているワケ?」

 食事の手を休めることなく、マルグリッドに問うエレオノール。

「はっ、思っていなけりゃ、こんな大それた事をするもんか。それにね、お前を連れて行ったところで、その相手があたいらみたいなモンだとわかりゃ、公爵もそんな馬鹿げた額の金なんざ、踏み倒すに決まっているさ。それどころか、あたいらは誘拐犯にしたてあげられて、絞首台行きにされちまう可能性だってある」
「……随分と貴族に対して、信用がないようね」
「貴族なんてモンに、ロクなやつがいるもんか。どいつもこいつも、あたいらみたいな賊なんかより、よっぽど性質が悪い腐ったクソばかりじゃないか」
「あら、アンタだって、元は貴族という話じゃなかったっけ?」
「……さてね。そんな昔の事は忘れちまったよ」
 
 吐き捨てるように言うマルグリッドだが、その横顔には、どこか哀愁めいた寂しさが漂っている。
 彼女にも、彼女なりの人生を選んだ理由というものがあるのだろう。

「ふぅん……。で、元は腐ったクソのアンタが、どうしてそれに集る蠅みたいな真似をしているの?」
「ほ~、お前、あたいに喧嘩を売っているってのかい?」
「べ、別に? ただ、どうして普通に働かないの、と疑問に思って」

 明らかな不快感を示すマルグリッドに、ちょっとだけびびりつつも、冷静に返すエレオノール。

「馬鹿だね。マトモな仕事で食えるようなヤツがこんなヤクザな商売をやるわけないだろう」
「そんなの、ただの言い訳だわ。楽をしたいだけでしょ? 私の知っている平民は、みんな真面目に働いていたわよ」
「平民にもいろいろいるのさ。お嬢様の目に止まるような平民なら、そりゃあ上等なヤツらだろうさ。だがね、世の中にゃ、いくら働こうが、今日の飯にも困るっていう人種もいるんだよ。そもそも、あたいらみたいなヤツってのは、端から、ロクな仕事にゃあり付けないしね」

 さすがは世間知らずだね、とマルグリッドは付けくわえると、慣れた手付きで煙草に火を付けて一服を付ける。

 今度はエレオノールは言い返さなかった。モット伯の一件で、自分の見方が必ずしも世間と合致する訳ではない、というのを学んだから、もう少し彼女の話を聞いてみるか、と思ったのである。
 勿論、盗人の言にまんま同調するような気はなかったけれども。

「ま、つまり、上に立つ貴族がクソだからこそ、あたいらみたいなのが増えるってこと。特にお前の国は酷いよ。何せ、最初はあたいを入れてもたった三人しかいなかった団員が、半年もしないうちに、五十を超える大所帯になったんだからさ」
「あれ、アンタはトリステインの人間じゃないのね?」
「あぁ。結果としちゃ、こっちに来たのは正解だったよ。巷じゃ賢君、なんて言われているサン=シュルピス伯も、ツェルプストーの赤い悪魔やら、ザクセンの鬼坊主よりゃ全然チョロイし、ね」
「ゲルマニア人、ね…………。でも、メイジがアンタ〝だけ〟じゃあ、大変でしょうに」
「あたいらは傭兵やマフィアじゃあないんだ。これ以上の下手な戦力なんざ要らないね」

 盗人にも三分の理か、とエレオノールは顎を撫ぜる。

 同じゲルマニア人のアリアとロッテは、この国に来たのは失敗だったかもしれない、とぼやいていた。
 それはつまり、外国人の目線から客観的に見て、トリステインという国は、まともに稼ぐには辛く、犯罪を行うのは容易であるということである。

 それは誰が原因か、といえば、マルグリッドの言うとおり、貴族であり、王家の責任が多分にあるだろう。

 以前のエレオノールなら、嘘だッ! と突っぱねたのだろうが、この二週間という短い期間で、エレオノールは、祖国の憂慮すべき現実に、薄々気付いてしまっていた。

「やっぱり、そうなの」

 エレオノールは、朽ちた教会の全景を仰ぎ見るようにして、大きく息を吐く。

 祖国は、この教会のように、朽ちて、傾きかけている──あまり認めたくもない事であったが、残念ながら、それは事実のようである、と彼女は認識を強める。
 彼女は頑固だけれど、『頭さえ冷えた状態であれば』、物事を客観的、合理的に見極める資質を備えているようだ。

「納得したかい? さて、今度はあたいが聞く番だよ」
「ん、まだ聞きたいことは山ほどあるんだけど?」
「おいおい、等価交換って言葉をしらないのかい?」
「よく言うわ……。アンタ達は一方的に奪っていくでしょ」
「あっはは、そう言われればそうだね」
「はぁ、まあ、いいけどね。何よ?」
「お前、どうしてヴァリエールの領地から遠く離れたシュルピスの商店なんかにいたのさ? しかも、馬車なんかに忍び込んで。まさか、公爵家のお嬢様ともあろうものが、金に困ってのコレかい?」

 マルグリッドは、人差し指を鍵状に曲げ、エレオノールへと問う。スラング的に言うと、ギる、ガメる、のジェスチャーだ。

「んなわけないでしょ! あれは、……そう、アレは、ちょっとした顔見知りの商人の馬車でね」
「知り合い、ねぇ。お家に帰る途中だったのかい? だったら、コソコソせずに、堂々としてりゃいいじゃないか」
「……国境を渡りたい、と頼んだら、断られたのよ。荷の中に隠れておけば、案外そのまま行けるかも、と思っただけ」

 アリアの馬鹿にしたような顔を思い出して、むす、と頬を膨らませるエレオノール。

「は? 国境を? 何でまた」
「個人的な理由」
「はぁん、お勉強に嫌気がさしての家出ってやつかい。いいご身分だね」
「違うわ! 家出、家出って、しつこいわね! 失礼よ!」
「しつこい? いや、初めて言ったと思ったけどねぇ……」

 マルグリッドの見下すような表情が、アリアとダブってカチンと来るエレオノール。
 いけない、いけない、冷静に、とエレオノールは、一つコホン、と咳をする。

「アンタ、〝人魚の生胆〟って、知ってる?」
「なんだい、そりゃ。たしか、お伽話に出てくる、どんな病気でも治しちまう秘宝だったっけ?」
「お伽話じゃなく、実在するの! 私が家から離れているのは、それを探しているからよ。断じて、お転婆の家出なんかじゃないの」
「ほ~。で、そのお宝はこのガリアにあると?」
「いえ、もっと先のロマリアにあると聞いているわ」

 ここで隠しても意味もない事なので、エレオノールは放蕩している目的の一端をマルグリッドに話す。

 実際、彼女は、アリア達にも、その旨を伝えようと思っていたのだが、機会を逃したというかなんというか。

 仮に彼女が、最初からアリア達にその目的を話していたとしたら──

「ぷっ、あっはははは!」

 さも可笑しそうに、腹を抱えて笑うマルグリッド。

 ほら、こうなるに決まっているのだ、とエレオノールは溜息を吐く。
 だからこそ、ギリギリまでエレオノールはロマリアに行きたい、ということをアリア達に伝えられなかったのである。

「そんなもんあるワケないだろう。獣人、翼人、吸血鬼、エルフ……、亜人ってのは数多くいるけれど、人魚ってのはただの伝説上の存在だよ?」
「でも、確かに存在するという、公式の文献があるの!」
「ははっ、どうせ、メッゾ・デ・モルトの、〝青い海と白い空の漂流記〟とでも言うんだろ?」
「……案外、教養あるのね」

 メッゾ・デ・モルト。ロマリア出身の冒険家兼空賊で、後に叙勲され、貴族に列せられたという異色の経歴を持つメイジ。
 彼の死後、五十年以上経つ今でも、彼の半生を記した冒険小説、〝青い海と白い空の漂流記〟はロングセラーとなっている。

「ありゃ、確かに、『これから話す事は、全て、著者の実体験である』から始まるけどねえ。その半分以上は創作だって知らないのかい?」
「えぇ、〝虚言〟のメッゾ。巷ではそう言われてしまっているようね。でも、人魚の部分が作り話とは限らないでしょう?」
「普通、そこをフィクションだと思うだろうに。事実、その本が出てから十数年は、人魚を探し回る阿呆も居たみたいだけどね。どいつも、痕跡すら見つけられなかったって話だよ。あり得ない、あり得ない」
「うっ、うるさい! お父様やお母様と同じような事言わないで!」

 今度は、マルグリッドの姿が両親や屋敷の従者の姿と重なって、エレオノールは語気を強める。
 大人はみんなこうなのだ。人が大真面目で話しているというのに、馬鹿馬鹿しい、お笑いだと、取り合ってもくれない。

「はん、なるほど……大体のことは分かってきたよ。しかし、そこまでしてどうしてそんなモンが欲しいんだい?」
「カト……、いえ、妹のため、よ!」
「ふぅん、妹が病気か何かなのかね。それで、お前は、怪しげな情報を元に家を飛び出したってわけか。あっはは、こりゃ、美しき姉妹愛だね。可笑しくて涙が出ちまいそうだよ」

 興奮気味のエレオノールは、ついつい、お家の内情を喋ってしまう。
 病床の妹のために、姉が体を張って助けようとする、とは中々イイ話ではあるが。

 しかし、マルグリッドは、まるで心を動かされた様子がないどころか、さらに声高らかに哂ってみせる。

「家族を思いやる事の何が可笑しいのよ?! アンタだって、忘れたとかいって、家族の事くらい!」
「知らないね。インチキ商人に騙されて、勝手に破産して、勝手に居なくなったようなクソ親共はね!」

 エレオノールのテンションに釣られたか、マルグリッドは言ってしまった後に、気まずそうな顔で、ふい、と顔を反らした。

「……それで、商人ばかりを狙うってワケ?」
「ちっ。少しばかり話し過ぎたね。あたいはもう寝る。お前も寝な」
「私は事情を話したのに、それは狡いんじゃない?」
「黙りな。あたいを怒らせるんじゃないよ?」

 マルグリッドは、エレオノールの批難には取り合わず、焚いていた火を乱雑に足で踏み消して、盗品であろうベッドへとダイブする。

「ちょっと! 私の世話はアンタがするんじゃなかったの?!」
「……ケッ。クソでもしたくなったら、外で見張ってるヤツを呼びな。そこらで垂れ流されても迷惑だからね」

 マルグリッドは面倒そうにそう言うと、エレオノールに背を向け、わざとらしい鼾を掻き始める。
 エレオノールは、ふぅ、と首を横に振り、それ以上の話を続ける事は諦めるのだった。



ж



 それから、四、五刻も経っただろうか。
 先程よりも、静けさの度合は増し、今は風と草木の擦れる音しか聞こえない。
 
 その無明のしじまの中、エレオノールはあらかじめ予定していたかのように、パチリと目を開けた。

(大分話は逸れてしまったけど……。とりあえず、必要な事は聞けたわ)

 すぐ頭に血が昇る癖は直さないとね、と反省しつつ。
エレオノールは、今までの道程と、先程のやり取りで得られた情報を、頭の中で纏めていく。

 その一。ここはガリアの廃村である。トリステインとはそれほど離れてはいない。
 その二。賊の人数は全部で五十余名。そのうち、メイジはマルグリッドのみで、戦いにはそれほど重きをおいていない。
 その三。この廃教会は集落のはずれにあり、常時、見張りが付いているようである。夜中の世話は、そちらの見張りに言いつけろ、とのこと。
 その四。没収された杖は、廃村の中で最も大きい建物の前に並べられた木箱の行列を正面から見て、左下を原点とすれば、横3、縦4の位置にある黒塗りの箱に仕舞われている。
 その五。マルグリッドには、この誘拐取引を成功させる自信があり、人質の扱いは割と丁重な方、だと思われる。少なくとも、今の時点で殺されるような事はなさそうだ。
 その六。今夜は盗みの成功を祝う宴をすると言っていた。ならば、おそらく、賊のほぼ全員に酒が入っているのではないだろうか。
 その七。リーダーのマルグリッドは、思ったより理知的な人物のようで、ある程度の教養もあるようだ。あまり舐めては掛れない相手かもしれない。

(これらを総合すると……。やるなら今夜しかない、わよね? 多分、時間が経てば、経つほどに、状況は悪くなる)

 エレオノールは、ごくり、と唾を飲み込み、ギュっと目を瞑る。

(大丈夫! 唯一のメイジである、女頭目の初動さえ遅れれば、おそらく、多分、いえ、絶対、逃げ切れる! やれる! 出来る! 私はやれば出来る子!)

 そう、エレオノールは脱走を試みようとしている。

 それが正解なのか、不正解なのか、いまだ答えは出ていないが、とにかく、彼女は、他力に依る事は辞め、自力での突破を決意したのである。

 先のマルグリッドとの話で聞きたかった主な事は、盗賊団の戦力と、マルグリッドの人柄。
 前者は逃走成功の確率に大きく関わるし、後者は、もし失敗してしまった場合、生命の危機となるかどうかを判定する上で必要なことだった。

 もし、マルグリッドがキレやすく、向う見ずな性格であれば、その場の勢いでエレオノールをどうにかしてしまう可能性もあるからだ。
 だが、マルグリッドは、あれだけエレオノールが挑発的な言葉を繰り返したのにも関わらず、一度も彼女に手を上げる事はなかった。
 ならば、もし逃亡に失敗したとしても、扱いは厳しくなるにせよ、命を取られることまではなさそう、というのがエレオノールの判断だ。

 失敗した時の事を考えるなんて──とは言うまい。
 孤立無援の見知らぬ土地で、五十人以上の賊に包囲されている上、頼みの杖とも離れ離れ。どう考えても、失敗する可能性の方が遥かに高いのだから。むしろ、ここで失敗した場合のリスクを考えないのは、ただの無鉄砲でしかない。

 なお、『敵に後ろを見せない者が貴族』という矜持は、既に彼女の頭からは消え失せつつあった。

「ふぅ~……………………よし。作戦、開始よ!」

 長く長く息を吐いたあと、エレオノールは意を決す。



 ここに、電撃エスケープ作戦(命名・エレオノール)が発動する!



「ねぇ、ちょっと。誰か、誰かいないかしら?」

 第一手。エレオノールは、教会の外に居るであろう見張りへと、出来るだけ平素な声で呼び掛ける。

「………………は、はいっ?! 何ですか、姉御?! ハッ、もう朝で?!」

 やや間をおいて、ガタガタッ、と喧しい音を立てながら、見当違いの答えを返す見張りの声。

 どうやら、番の最中に寝入っていたらしい。
 マルグリッドはともかく、部下はかなりヌケサクなのかも、とエレオノールは少しの楽観をするが、油断など出来るわけもない、とすぐにその考えを打ち消した。

「残念。姉御ではないわ、若くて綺麗な方よ」
「あ~、驚かせるなよ。ちなみに、ソレ、姉御に聞かれたらぶっ殺されっからな? で? 何か用かよ」
「あら、淑女にそんなことを言わせる気なの?」
「はぁ。なんだよ、小便でもしてえのか、仕方ねえな」
「すっ、少しはオブラートに包みなさいよ」
 
 大の方と言わないあたりは、マルグリッドよりは上品かな、などとどうでもいいことにエレオノールが考えをやっているうちに、見覚えのある疵面の男──ジローが、ゆっくりと扉を開けて、廃教会の中へと入ってきた。
 
 彼は特に警戒をする事もなく、エレオノールに近づき、腰部と柱を繋いでいる縄を手早く外し、それを自分の腕に巻き付ける。
 手足の拘束を解かない所をみると、どうやら、素巻きのまま、担いで行くつもりらしい。

 しかし、その形はエレオノールにとってはマズイ。
 
「こっ、これじゃ歩けないのだけど?」
「あん? 負ぶっていきゃあ、いいだろうが」
「そ、それがね。実は、その、ちょっと、漏れそう、っていうか。いつ出ちゃうか分からないっていうか、ね? ほら、アンタも、背中に掛ったりしちゃ、イヤでしょう?」
「うげ。ったく、手間掛けさせやがるなぁ……。ほれ、これで歩けんだろ」

 貴族の誇りをドブに捨てる発言により、とりあえず、足の枷だけは外させる事が出来たようだ。

 エレオノールは、ほ、と安堵の息を吐く。

「ほれ、急げ。ちゃっちゃと行って、パッパと済ますぞ」
「つっ! ちょっと、人質はもっと丁寧に扱いなさいよ」
「シッ、姉御が起きちまうだろ」

 ぐい、と縄を乱暴に引っ張る行為にエレオノールが文句を言うと、ジローは口の前に人差し指を添える。
 
 エレオノールがちらりと、マルグリッドの方へ目をやると、彼女は規則正しい寝息を立てて、完全に熟睡しているようだった。
 そのまま寝ていてくれ、とエレオノールは心の中で十字を切る。彼女が出てくるか否かで、作戦の成功率は大きく変化するのだから。

 丁度、犬の散歩のように、リードを付けられたエレオノールが先を行き、ランタンを持ったジローがそれに続く形で、廃教会を出る。

 外は真っ暗かと思いきや、広場の方には、まだ灯りが点いているようで、男達が雑魚寝しているのが見えた。
 酒瓶やらゴミやらが散乱していることから、宴が終わってそのままそこで寝入ってしまったのだろう。

 よし! とエレオノールは小さくガッツポーズを取る、のだが。
 
「おい! お前ら、何をしているんだ?」

 そこで、小男、オノレが慌てたように追いすがってきた。どうやら、廃教会周りの見張りは、一人ではなく、二人だったらしい。
 マルグリッドも、ジロー一人に全てを任すほど、彼の能力を信用してはいないようだ。

 エレオノールは、面倒な、と小さく小さく舌を打った。

「いや、こいつがションベンしてえ、っていうからよ」
「むぅ……。じゃあ、俺も付いていくとするか。人質に逃げられでもしたら、俺まで姉御に大目玉食らっちまうからな」
「はは、このお嬢様にそんな度胸あるかよ。なぁ?」

 ドキーン! である。

「まさか。私が、そんな無謀な愚か者に見えるのかしら?」

 しかし、エレオノールは、取り乱すことなくクールに、淡々とジローに答えて見せた。

(はぁ……。もう! 余計な事言い出さないでよ、この三下! 蛆虫! くそったれぇ!)

 まあ、心臓はバックバクで、思わず、彼女らしからぬ下品な罵りをしたくなってしまうほどの精神的なストレスは受けていたのだけれど。

(あと200メイル……。まだ、まだよ。もう少し、せめて、あと50メイル……)

 それでも彼女は、杖のある位置へ近づけるように、大股でずんずん、と廃れた集落の中を突っ切っていく。
 後ろの二人も、それに釣られるようにして、彼女に付いていくが、広場の手前ほどまで来たところで、オノレから当然の突っ込みが入る。
 
「なぁ、どこまで行く気なんだ? そこらの草むらでいいだろう、小便なんて」
「イヤよ。茂みなんかでしたら、変な虫に刺されそうだもの。おまけに、変態の虫共には覗かれそうだし」
「ふん、何が悲しくて餓鬼の便所なんて覗くかね。面倒だ、そこでしろ」
「で、でも」
「デモも、芋もない。早くしろ。まったく、これだから我儘なお嬢さんは困る」
「わかったわよ……」

 全く取り合う気のないオノレに、エレオノールは仕方なしに、木蔭の方へ歩いていく。
 
(ぐっ……。遠すぎるっ。しかも、予定と違って見張りは二人……! どうする? ここは、やめておくべき? ……いえ、行くしかないわ。見たところ、今起きているのは、この二人だけ。五十人を相手にするよりは、この二人を出し抜く方が遥かに楽。ここまでのチャンス、みすみす逃してなるものですか)

 エレオノールは用を足すフリをしつつ、高速で思考を回転させ、そう判断を下す。



 予定とは少し違ってきてしまったが……作戦の第二手、発動である。



「あっ」

 全く唐突に、エレオノールは飛び跳ねるようにして、奇声を発する。

「ん?」
「貴方、逃げなさいっ!」
「っ?!」 「はぁっ?」

 誰もいないはずの集落の外に広がる、雑木林の方へ手を伸ばし、甲高い声で叫ぶエレオノール。
 ジローとオノレは、吃驚としたように目を見開いて、辺りをキョロキョロと見回す。

「おい! こいつ、何を言ってる?!」
「早くっ! 捕まってしまうわよっ!」
「ぐっ……!? 誰かいやがるのか!? 有り得ないとは思うが……。あぁ、くそ、俺が行って確認してくる。ジロー、お前はコイツを見張っていろ!」
「お、おう」

 エレオノールのあまりの豹変ぶりに、疑心暗鬼に取りつかれたオノレは、腰の短剣をすらりと抜き放ち、そそくさと臓器林の方へと駆けていく。

 この集落に、一般の街道は通っていないし、最も近場の都市や村へ行くにも、馬で半日近くかかる。
 なので、常識で考えれば、一般人が迷い込むなどということは、オノレの言うとおり、ほぼあり得ないこと。しかし、万一、ということもある。更に、あの大仕事の後だ、もしかすると、鼻の利く役人か傭兵あたりが、此処を嗅ぎつけたという可能性もなきにしも非ず。
 どちらにせよ、彼らの立場としては、ただ放っておくわけにもいかないだろう。
 
「けっ、神経質なやつだな。どうせ、鹿かイノシシか、それともゴブリンかの見間違いだろうが」
「ふふ」

 オノレの背を見やりながらぶつくさと文句を言うジローが、ふと視線をエレオノールに戻すと、何故か、彼女は彼の正面に相対し、不敵な笑みを浮かべていた。
 
「あん?」

 何だこの餓鬼、とジローが首を傾いだ、次の瞬間。

「それっ!」

 アリア張りの、とまではいかないが、エレオノールの全力を込めた蹴りが、無防備のジローを襲う!

 もちろん、狙うは──

「ひ、ぐぅっ?!」

 俗に言う、オトコの急所。
 淑女が絶対に狙ってはいけない、禁断の聖地。
 
 ソコをエレオノールのつま先が上手い具合に掠めると、ジローは頭が真っ白になるほどの衝撃に、思わず縄を握る手を緩めて、うずくまってしまう。
 
 普段は正々堂々が信条のエレオノールも、今はなりふり構っちゃいられない。

 彼女は、一瞬だけひしゃげたようなジローを見やり、自らの凶行の結果を確認すると、すぐに目的の方向へ、全力をもって駆け出した。
 
 彼女は別に、厳しい肉体的鍛練をしてきたわけではないが、血統だろうか、同年代の子供と比べれは、かなり運動神経はよく、足も速い。
 まともな状態であれば、大人であるジローやオノレともいい勝負をするほどだろう。しかし、今の彼女は足以外のほぼ全身を拘束されている。

 これでは、普段通りに、というワケには中々いかないはずで。

「はぁっ、はぁっ、くっ、足がもつれっ……うぐっ!」

 ベチャ、と。
 少し進んだところで、地に足を取られ、顔からこけるエレオノール。

「負ける、かぁっ!」

 しかし、彼女は間髪いれず、歯を食い縛って起き上がる。
 ブロンドの髪は鳥の巣のように乱れ、ただでさえボロの服は泥でさらに汚れ、鼻から大量の血が噴き出ても。

 彼女は、一心不乱にただ、走って、走って、走り続ける。
 


「う、ぐぐ、……あ。あの餓鬼、何処行きやがったぁっ!」

 その甲斐あってか、ジローが地獄の苦しみから回復する頃には、追いつけない、と瞬時に判断が付くほどに、彼とエレオノールの背中は離れた距離にあった。

「ち、畜生……! お、オノレっ! 非常事態だっ! さっさと戻ってきやがれ!」

 ジローははち切れんばかりの青筋を浮かべ、未だ、雑木林の中で見えない敵を探しているオノレへ呼びかける、が。

(ふ、ふふ……! もう、遅い……っ! 既に、ゴールは、目前よっ!)

 背にジローの声を受けつつ、エレオノールは血と泥に塗れた顔で、ようやく笑みを見せた。

 杖までは、あと、たったの数メイル。

 そこまで行けば、勝利は確定する、と彼女は確信していたし、実際にそうだろう。

 何せ、賊を相手に迎え討つわけではなく、逃げるだけなのだ。
【飛行魔法】≪フライ≫でも使ってしまえば、魔法を使えぬ盗賊に、彼女を追う術はない。

 さあ、国境の方向へ向かうか、それとも、このままロマリア方向へ突っ切るか。

 眼前のゴールテープならぬ、ゴールキューブを見据えながら、彼女は、すでにその先の未来へと思いを馳せる。

 が。

 しかし!

「……へっ? えっ? きゃ、きゃああぁっ?!」

 まったくの不意だった。

 上からの突風に、エレオノールの身体は、花吹雪のように吹き飛ばされる!

 一度は近づいたはずのゴールが、5メイル、10メイル、と遠ざかっていく。

「かはっ」

 広場に置かれていた酒樽に背中から激突し、エレオノールは肺に溜めていた空気を全て吐きだした。

「う、うぐ……」

 朦朧とする意識の中、彼女は苦悶の表情で顔を上げる。

 杖との距離は再び、30メイル以上離れてしまっていた。それでも、とエレオノールは立ち上がろうとするが、先程の激突のダメージは大きく、上手く身体を起こせない。
 
「な?」

 そうやってエレオノールがじたばたとしているうち、彼女の目の前に、ふわり、と空から何かが降り立つ。
 天使か、悪魔か。天使だったらいいわね、と彼女は回らない頭でぼんやりと考える。

「相変わらず、クソ使えない部下共だねぇ。餓鬼一人まともに管理できないのかい」
 
 しかし、エレオノールの希望はブリミルには聞き入れられなかったようだ。
 それは、現在の彼女にとっては悪魔より性質が悪いであろう、灰色の頭をぼりぼりと掻きながら嘆くマルグリッドであった。

 エレオノールの未来をもぎ取ってしまった先程の突風の正体は、彼女の魔法、【風槌】≪エア・ハンマー≫だったのである。

「あ、姉御っ」

 内股のジローと、肩で息をするオノレが、遅ればせながら駆けつけてくる。
 その表情には、「やったぜ」という安堵の色と、「怒られちまう」という不安の色が複雑に入り混じっていた。

「どうしてお前らはそんなに間抜けてるんだい!」
「いや、こいつがですね」「おい、てめえ、他人のせいに」
「うるせえ! 言い訳してんじゃないよ!」
「申し訳ない……」「すんません……」
「ったく、副団長ってのも考え直さなきゃ駄目だね、こりゃ。とりあえず、他の野郎共も起こしてきな」
「えっ、でも、どうして」
「全体が弛んでいるからこんな間抜けをやるんだよ、このクソ馬鹿! 根性の入れ直しだよ!」

 マルグリッドの鋭い一声で、ジローとオノレは飛び跳ねるようにして、他の男達を起こしに散る。

 そして、それは、エレオノールの計画が頓挫してしまったことを意味していた。



「ど、どうして……っ! 寝ていたはずでしょう?!」

 納得のいかないエレオノールは、マルグリッドへ食ってかかる。

「ありゃ、タヌキ寝入りってやつだよ。こんな稼業をやっているとね、人の足音なんかすりゃ、一発で目が醒めるのさ」
「ぐ……。私が行動を起こす事なんて、お見通しだった、とでもいうわけ?!」
「いんや、まさか、お嬢様にこんなクソ度胸があるとは思わなかったさ。ただ、まぁ、念のタメってやつだよ。まあ、だが、それが正解だったってワケだ。さすがに杖を手にされちゃ、ちっとばかし厄介な事になったかもしれないし……。世の中、神経質すぎるほどが丁度いいのかもねぇ」

 マルグリッドは疲れたような表情でそう言って、大きく息を吐いた。

 何となく不安だったから。
それだけの理由で、マルグリッドは寝床から起きだし、【飛行魔法】≪フライ≫によって、上空からエレオノール達の様子を窺っていたのだ。
しかも、エレオノールが駆けていく方向から、その狙いが杖だという事もバレてしまっていた。

 つまり、この作戦、最初の時点で、エレオノールに勝ち目はなかったという事で。彼女は、マルグリッドの掌の中で踊っていただけという事である。



(何よ、それ。ふ、ふっ、ふざっ……)

 エレオノールは、もう、何か、限界だった。

「ふざけるなぁっ!」

 プチッ、と頭の中の何かがキレたような音を聞いた後、彼女は気づけば、マルグリッドへ向かって駆けだしていた。
 その顔は、泥、汗、血、涙、鼻水、涎……、あらゆるモノで、ぐちゃぐちゃに汚れ、その貌も、泣いているのか、怒っているのか、笑っているのかすらわからないほどに、とにかく、ぐちゃぐちゃだった。

「おぉっと! 往生際が悪いねぇ。それでも貴族かい?」
「う、うるさいっ!」

 渾身の突進を軽くいなし、エレオノールの首元に杖を突き付けるマルグリッドだが、完全に頭に血が昇ったエレオノールは止まらず、なおも素手での攻撃を試みる。
 その姿は、確かに到底貴族のご令嬢には見えず、まるで生きるのに必死な、貧民街≪スラム≫の子供達のようだった。

「あっははは! 本当に面白いねぇ、お前。お嬢様が素手ゴロなんざ、聞いたことが無いよ」
「くっ?! 離しなさい、離せぇっ!」

 しかし、エレオノールの抵抗など、マルグリッドにとっては児戯に等しい。

 突き出したエレオノールの腕を捻りあげ、後ろ手を取るような形で、地面へと叩きつけるマルグリッド。
 魔法ナシでも、彼女はそこらのチンピラよりは遥かに強いのである。でなければ、女だてらに賊の頭など張れるわけがない。
 
「さあ、冒険の時間は終わりだよ、お嬢様」

 倒れ伏すエレオノールの背を、片膝を付く形で踏みつけるマルグリッド。
 そして、ジローとオノレに起こされ、続々と此方へ集まってくる盗賊達。

 ぐうの音も出ない、完全なる詰み。誰の目にも明らかな失敗、敗北である。

「うぬあぁっ! 私、私はっ! こんな所で、捕まっているワケにはいかないのよっ!」

 しかし、エレオノールは、じたじたと身体を揺らし、不格好にもその結果に抗おうとする。
 
「いい加減に諦めな……っ?!」

 マルグリッドはそこで急に言葉を切り、猫のような俊敏さで後ろへ飛び退く。



 一体、何が?



「え?」

 突然、背中の重量がなくなった事に、エレオノールは間の抜けたような声をあげる。

 刹那。

 マルグリッドが陣取っていた場所を通過して、カカッ、と二発。
 どこかで見覚えのある、奇妙な形の矢が地面を抉り、突き刺さる。

 もしマルグリッドが飛び退いていなければ、丁度、彼女の頭と心臓を直撃していたであろう、危険な凶撃。

「誰だい……っ! こんな舐めた真似をしてくれたクソはっ!」

 明確な殺意の籠った攻撃に、マルグリッドは血相を変え、犬歯を剥き出しにして、矢の飛んできた方向を睨みつける。



 そこには━━



「諦める? その必要はないわ、エレノア」
「そこは一応、エレオノール様、じゃろ。公爵の娘を平民が呼び捨てはさすがにまずいと思うぞ、妾は」

 エレオノールにとっても、マルグリッドにとっても、見覚えのある影が二つ、惚けた顔をして立っていた。

 



つづけ







[19087] 47話 旅路に昇る陽が眩しくて
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:19f75776
Date: 2012/05/02 18:32

 ざわ、と。

 突如現れた場違いな闖入者に、寝起きの盗賊団から困惑のどよめきが起こる。

 その騒音を、オーケストラの指揮者が演奏を止めるかのように片手をあげて制すのは、今にもハチ切れそうな青筋を浮かべて、素敵な笑みをみせる小娘、アリア。

「皆様、大変ご盛況なところ申し訳ございませんが、パーティーもお開きの時間と相成りましたようで。つきましては──盗んだモン置いて、とっととケツ捲りやがれ、クソッタレ」

 彼女はそう吐き捨て、首に全ての指を真っ直ぐに伸ばした左手を、米神に右手で作った銃を突き付ける。ゲルマニア式の、ファック・ユーのジェスチャーだ。
 
 並居る狼の群れへの、大胆不敵な喧嘩上等。

 盗賊団の面々は、一瞬、鳩が豆鉄砲を喰らったように呆け。

「ぶはっ」

と、一斉に爆弾が弾けたかのように抱腹絶倒する。

 何処から湧いたのか、何者なのかは知らないが。一見して、何の変哲もない旅人らしき格好をした小娘の二人組だ。
 それが五十人からいる男共に喧嘩を売るというのだから、傍目には滑稽と映るのも無理はない。
 
 そもそも、この場にいる殆どの者は、彼女らが、自分達を捕まえに来ただとか、盗品を取り戻しに来ただとか、そんなことは思っちゃいなかった。
 むしろ、彼女らの格好と器量からして、盗賊団の誰かが気を利かせて街から呼んだ、芸者か何かの余興と思って拍手をする者までいるという始末。

「へへ、面白い姉ちゃんだなぁ」

 そんな中、ふらりふらり、と。

 死神を芸者と勘違いしている呑気な賊の一人が、誘蛾灯に吸い寄せられる夏の虫のように、ロッテの方へと近づいていく。

「なんとまあ、見たこともねえような上玉じゃねえか。へっへ、どうだい、まずは俺といっぱ──」
「去ね」

 鼻の下をだらりと伸ばした、品のない男がロッテの髪に触ろうとした瞬間。

 全速前進中の馬車が正面衝突したような音と共に。

 まるで、艦砲射撃を直に喰らった歩兵かのように、男が弾け飛んだ。

 伸身の新月面が描く放物線は冥土への架け橋。
 男の身体は、縦方向の捻りを七回転半加えた後、廃屋の石壁を盛大にぶち破るというG難度の着地を決める。

 しかし、十点満点をつける者はおらず。あまりにもあまりな光景に、あたりはしん、と静まり返り、埃の舞い散る音だけがやけに大きく響いた。

『あ~、ひっでえ。拳骨一発で人間ぶち撒けるんだもんなぁ』
「いやいや、しぶとく生きておるようじゃぞ。割と本気で殴ったはずなのじゃが」
『死後硬直ってやつじゃねえの?』

 鈍っておるわ、と、ぐるんぐるん肩を回すロッテ。この世の全てに嫌気がさしたような声をあげるのは地下水。
 彼の言うとおり、大の字にひっくり返った男の身体はひくひくと痙攣し、その様は解剖直後の蛙の姿を思わせた。
 
「さて……。いくら貴方達が可哀相な頭の持ち主でも、これで冗談じゃあないってことは理解できたでしょう?」

 だから、さっさと消え失せろ、と。
 茫然唖然と立ち尽くす男達に、アリアはもう一度、警告を発した。

 戦闘狂でも、ましてや快楽殺人者でもない彼女としては、余計な戦いなど望んではおらず、相も変らぬ義姉の化物ぶりに、賊達が尻尾を巻いてくれた方が有難いのだった。

「て、てめえ……っ!」

 しかし、賊達とて、仲間が一人やられたくらいで引き下がるわけもない。

 アリアの一声で、彼らのほぼ全員が、申し合わせたようにヒカリモノを抜き放ち、体を落として臨戦態勢に入る。

 腰の引けている者もいるにはいたが、相手はたった二人きりの娘っ子。
 ここで引いては、裏稼業に身を置く男のメンツが廃るというもので、逃げ出したりする者は一人もいやしなかった。



「ちっ、やっぱり、そう都合よくは行かないか。しゃあない、じゃ、ロッテ、頼むわ」
「応……って、おい。まさか、お主、何もせぬつもりか?」
「いえ、私は固まっているお嬢様の方を何とかするわ。雑魚のお掃除はよろしくってこと」
「なるほど。諒解じゃ」

 アリアとロッテは、役割分担について短く打ち合わせると、五十四名引く事一名の賊と正面から向かい合う。

 長剣、短剣、ナイフ、鎌……大小様々な刃物を手に、猫背でじりじり、と摺り足で間合いを詰める男達。
 両の手にベネディクト社製連射式手弓を携え、隙を窺うアリア。首を左右にコキリコキリと鳴らしながら、ゆらりと構えるロッテ。

 嵐の前の静けさ。

 両者の殺気が混じり合い、緊迫した空気がチリチリと肌を刺激する。
 誰かがごくりと唾を飲んだ。握る手と曲げた背に汗が滲む。足が鉛のように重い。腸が氷水を浴びせたように冷える。

 いつ何時激突してもおかしくない──そんな静寂の刻をぶち破ったのは。



「ふくく……ふはは……あっーはっははは!」



 何がツボに嵌ったのか、富士頭に手をやってのけ反り、さも可笑しそうに笑うマルグリッドだ。

「ツイてる、ツイてるよ。く、あはははっ、ほんっとうに、近頃のあたいはツキ女だねえ!」
「あ、姉御……。やっぱり、アレって」
「そうさ! 忘れるもんか! あの小憎たらしいビチクソ娘の顔をさあっ!」

 狂笑するマルグリッドに、ジローがおそるおそる声を掛けると、彼女は喜んでいるのか、怒っているのか分からないような複雑な表情で、煙管の杖をアリアの方へと突き付けた。

 マルグリッドにとって、アリアは祖国を追いだされる原因となった仇敵。
かつては、見た目とは裏腹に高い身体能力と、予想外の飛び道具によって打ちまかされたけれど。
 もし次があるならば、熨斗を付けて借りを返してやるのに、と爪を噛む毎日だったのだ。

 当然、その顔を忘れるわけがない。

「知り合いか?」
「さあ……? あんた、誰?」

 だが、相手もそうとは限らない。

 ロッテが問うが、アリアは小首を傾げて、マルグリッドへと問いを受け流す。

「ぐ、ぬ、ぎ、ぎ、どこまでも腹の立つっ! すぐに思いださせてやるよぉっ! 【飛行魔法】≪フライ≫!」

 その惚けた態度に、マルグリッドの頭に昇った血が沸点に達する。
 もはや我慢ならぬ! と、文字通り、一直線に目標目がけてかっ飛んでいく──!

 風を切り、みるみるうちにアリアとの距離を詰めるマルグリッド。
 風のメイジである彼女の飛行速度は、ハヤブサと形容しても大げさではないほどに速い。

「と、思ったけどね、やっぱ、もう死になっ! 【風刃】≪エア・カッター≫!」

 と、マルグリッドはその勢いのまま、上空から金属製の煙管杖をブン間して不可視の刃を飛ばす。
 ドットスペルながら、殺傷力においては中々に優れた魔法だ。生身でそれをまともに喰らえば、胴と脚は泣きわかれになってしまうだろう。

「しょっ」

 そんなものは喰らっていられない、とアリアは寸での所で横っ跳び。その凶刃を軽やかに躱してみせる。
 目標を失った風の刃は、十分の三秒前まで、彼女が居た場所に鋭い爪痕を残し、砂埃を巻きあげた。

 アリアは砂塵に目を細めながらも、キッ、と上空を睨みつけ、反撃の手弓を構える、が。

 いない──?
 
「そこだッ! 脳漿ぶち撒けなっ!」
「っは?!」

 後方から声。振り返った瞬間、アリアは頭から仰け反るようにして吹っ飛んだ。

 【風刃】≪エアカッター≫はただの目くらまし。本命は、再度【飛行魔法】≪フライ≫を唱えての後方上空からの殴打。
 上空からの落下速度に、マルグリッドの体重を乗じた金属製の煙管杖は、人間の頭蓋程度、簡単に砕く破壊力を持っていた。

 人間一人を壊すのに、派手な魔法など不要なのだ、と証明するような一撃。平民だろうが、貴族だろうが、これを喰らって立ち上がれるような人間はおるまい。

 が、着地したマルグリッドは少しの気も緩めた素振りも見せず、倒れたアリアを鋭い目つきで見据えた。

「獣じゃあないんだ。寝たフリはヤメな」

 マルグリッドが吐き捨てるように言うと、大の字で地に伏せていたアリアの身体がぴくん、と動く。
 ほっ、という掛け声とともに、ハンドスプリングの要領で身を起こすと、親指で片鼻を抑え、フンッ、と鼻血を抜いてみせた。

「……やってくれるわね、名無しの誰かさん」

 流血はしつつも平然と言うアリアに、マルグリッドはそうこなくちゃ、と歪な笑みを見せた。



「おお~……」

 一区切り、というところで、一般人から見れば、あまりにハイレベルな攻防に、感心したような声を漏らす男達。

 マルグリッドは、横目でぎろり、とそれを睨みつけた。

「オラ! お前達はソッチのクソブロンドをやるんだよ! さっさとしな!」
「へ、へいっ!」
 
 その声と共に、足の止まっていた賊達もまた、雪崩れ込むようにしてロッテの方へと突っ込んでいく。

「おい、どうするんじゃ? 協力ぷれいと行くか?」
「いいえ、それには及ばないわ。あんたは予定通り、その他大勢を。こいつは私の方で何とかする」

 理解った、とロッテが頷き、二人の姉妹は其々の分担を分断しようと散開する。

 しかしまずい、とアリアは舌を打つ。

 賊達の後方、放心したように座り込んでいるエレオノールの事だ。
 彼女を放っておくわけにはいかない。危害を加えられる事も勿論まずいが、盾にでも取られると、こちらには為す術がない。

「ド……地下水」
『……なんだよ』
「あんた、杖の代わりって出来る? いや、最悪、乗っ取ってもいいのだけれど……」
『使うのがメイジなら、即席の杖役くらいは出来るけどよ、姐さんには関係なっ、ちょ、何、えっ?』

 マルグリッドとのにらみ合いの最中、アリアは視線を向けずに腰の地下水へと確認を取ると、すらり、と地下水を鞘から抜き放つ。

「へえ、そのボロはインテリジェンスナイフってやつかい。だが、ソレでどうするつもりだい? 白兵戦にでも持ち込もうって腹かい?」
「ふん…………。こうする、つもりよっ!」

 マルグリッドの問いに、アリアはくるりと背を向けて、ぶん、と思い切り地下水を投擲した。

『いっ、いっ、い゛やあああああっ!』

 投げられた地下水は悲鳴を上げながら、100メイルを超える距離を、レーザービームのように飛んでいき──

 丁度、へたり込むエレオノールの眼前の樽に突き刺さる。ワイン樽は流血し、ナイスピッチ、とアリアが小さな声で呟いた。

「エレノアっ!」
「は、はひっ?!」

 アリアが鋭く名を呼ぶと、ぼぅっとしていたエレオノールは、ハッとしたような表情を見せた。

「ソレは杖になるわ! 自分の身は自分で守って頂戴っ! 逃げてもいいからっ!」
「……えっ、あっ」
「こういう時こそ、貴族の誇りを見せなさいっ!」
「わっ、わ、、わかっているわよ! 逃げるわけないでしょ! 指図しないでくれるかしら!」

 発破を掛けられ、エレオノールはまだふらふらとしながらも、地下水を握って立ち上がる。

 その様子を見て、アリアはふ、と唇の端を釣り上げて、マルグリッドの方へと再び向き直った。

「お待たせしたわね。で、私に何か用なんだって?」
「ああ……デカイ、とてもデカイ借りを返させてもらいたくてねぇ」
「そう。何の事かわからないけれど、手短に願うわ。こう見えても、忙しい身なのよ」
「あっははは! そう言わずに、じっくり、ねっぷりと楽しもうじゃないかっ!」

 その言葉を合図。駆け出し、コッキングするアリア、飛び退き、詠唱するマルグリッド。

 ここに、因縁の対決、開戦──



ж



「あ、【土壁】≪アースウォール≫!」
「ぐえっ!」

 エレオノールが土の壁を作りだすと、彼女を捕まえようと、突進してきたマルグリッドの片腕、ジローが壁にぶつかり、潰れた蛙のような悲鳴をあげる。

 戦いが始まった後、エレオノールの捕縛へと向かってきたのは、総勢五十五名(一人は初っ端に戦闘不能となったが)の盗賊団のうち、ジロー以下、四名の賊だけだった。

 他は皆、派手なパフォーマンスを行った、ロッテやアリアの排除へと向かっている。
 無駄に芝居掛った登場の演出は、敵戦力の大部分を、エレオノールではなく、自分達に引きつける、という、彼女らの狙いだったのだろう。

「ほ、ほんとに使えたわ……。アンタ、見た目はオンボロだけど、魔法具≪マジックアイテム≫だったのね」
『ケェッ、俺が杖代わりとはよ。感謝して使えよ、お嬢様』
「な、なによ、この駄犬……じゃなかった、駄剣!」

 ナイフの分際で横柄な地下水に、エレオノールが甲高い声をあげる。

 地下水はエレオノールの精神を乗っ取りはしなかった。

 なぜなら、彼が恐れる義姉妹のうちの一人、アリアが『最悪、乗っ取ってもいいのだけれど……』と発言したから。
 つまりそれは言外に、「杖代わりが出来るなら乗っ取りはするな」という事を命じられたも同然であり、彼はそれを律儀に守っているのだ。
 実際、ラインメイジであるエレオノールを乗っ取ってしまえば、あの忌々しい義姉妹に対抗は出来なくても、逃げ出す事は出来そうなものなのだが……。
 憐れ地下水は、もはや、彼女らに反抗する事など考えられない程に調教(?)されてしまっていた。

「畜生! この餓鬼め!」

 そんなやり取りをしているうちに、ジローが岩壁に打ちつけた頭を抑えながら立ち上がり、半ば破れかぶれに短刀を振りまわし始める。
 
「きゃっ?!」

 気押されるようにして、エレオノールは尻もちをついた。
 魔法でのやり合いはいくらか経験のあるエレオノールだけれど、組み打ちの訓練などしたことのない彼女にとっては、こんな雑な刀さばきでも、十分な脅威と映ってしまうのだ。

『ぼさっ、とすんな、! 【錬金】だっ! まずは武器を破壊しろ!』

 手元の地下水はそれを見かねたのか、鋭く檄を飛ばす。

「れっ、【錬金】!」

 地下水に言われるがまま、エレオノールは口早に【錬金】のルーンを紡ぎ、彼を振る。

 一瞬にして、鉄の短刀が土くれとなり、ジローは慌ててそれを投げ捨て、後ろへ飛び退った。

「ぐ、お前らっ、手伝いやがれっ! 相手はメイジだ、こうなりゃ、矢を放っても構わねえ!」

 魔法での反撃に、少しだけ頭が冷えたジローは、一人では分が悪い、と援軍を頼む。

「へいっ」

 それを受け、三人の三下達は、手にしていたナイフや剣などを鞘にしまい、長弓やクロスボウなどの間合いの遠い獲物に持ち換えた。

 メイジ対策、というやつだ。

 弓系の武器はメイジを相手にするには格好の獲物だ。特にクロスボウは、魔法の障壁すらも貫通するという凶悪な破壊力を持つ、対メイジ用武器である。
 装填が遅いのが問題だが、その殺傷力は、森林地帯のゲリラ戦において、樹上に潜んだ平民のクロスボウ部隊が、無策で飛び込んだメイジの分隊をいくつも全滅させたという記録もある程(最終的には、森ごと火の魔法で焼き払われたというが)。

「な、なんか物騒なモノ持ち出して来たわよ?!」
『この程度でうろたえるなよ、お嬢様。弓が怖いのは狙撃手の位置が分からない時だけだぜ』
「で、つ、次はっ? どうすればっ?」
『殺す気なら出力最大で連中の足場に【石の茨】≪ストーン・スパイク≫! 殺す気ないならもっかい【錬金】で足場を深くまで砂に変えなっ!』
「えぇと……土を砂に! 【錬金】!」

 エレオノールは迷わず非殺傷の策を選択し、もう一度【錬金】を唱える。

「く、くそっ、なんだこりゃあ!」

 すると、固い土が流れる砂に変わり、それは蟻地獄のように、男達を引き込んでいく。

 こうなっては、弓系の武器も片無し。正確な狙いを付けられるわけもない。
 苦し紛れに発射された矢が数本、天に向かってする小便のような軌跡を描き、見当違いの方向へと飛んでいった。

『お次は【土壁】≪アース・ウォール≫だ! 連中を壁の中に閉じ込めろ!』
「私もそう思ったところよ! 【土壁】≪アース・ウォール≫!」
 
 流砂によって、ジロー達がほぼ一か所に集まったところに、エレオノールが得意の【土壁】を唱える。

 もりもりっ、と。

 焦ったように罵倒を続ける彼らの四方を囲むように、頑丈な土の絶壁が大地からせりあがる。
 
「う、うおおぉおっ?!」

 賊達の驚愕と共に、それはにょきにょきと一点に向かって伸び、一片およそ5メイルの、ピラミッド状の牢獄と成ったところで成長を止めた。

 脱獄不能な土の牢獄は、弓矢も刃物も、彼らの声すらも通さない。

 ジロー(+三下)対エレオノールの勝負は、エレオノールに軍配があがった。

 

「やった……」

 ややもして、エレオノールはふぅ、と短く安堵の息を吐き、地下水は、手間がかかるぜ、と溜息を吐く。

「へへ、やっぱり、私、結構やれるじゃない」
『おいおい、俺のおかげだろう?』
「だっ、駄剣でも、少しは役に立つことがあるみたいね?」
『ペッ』
「……さ、こうしてる暇はないわ。あの平民達を助けにいかない……と?」

 極度のストレスと、魔法の連発でかなりの精神力を消耗しつつも、やっといつもの調子が出てきたエレオノール。

 残る賊は五十名。

 いくらなんでもあの平民達には荷が重い。私が倒さないと、と、彼女は、新たな戦場を求めて視線を動かす。

 と。

 何か大きなモノが、物凄いスピードでエレオノールの真横を飛んで行き、彼女の短いブロンドを揺らした。

「え?」
 
 思わずエレオノールは、その行き先を確認する。
 謎の飛行物体は、彼女がついさっき造ったばかりの、土の四角錐に高速のままぶつかり、喧しい衝突音をさせて停止する。

 何だろう、と遠巻きにソレを凝視すると、円盤型ではない、歪なオブジェのようなそれが、ギ、ギ、と壊れた魔法人形≪アルヴィー≫のように動き、エレオノールは思わず「ヒッ」と叫んで、右手の地下水を取り落とした。

「た、たす……て……」

 よくよく見れば、それは、賊の一人であろう男。助けを求めているのか、震える手をこちらに伸ばしているようだ。

「ひっ、ヒト?! どっ、どうなってんの、これ?」

 正体が人間と分かって、余計に顔を引き攣らせるエレオノール。

『戦場を見りゃわかる。いや、この場合、一方的過ぎて、戦場と称していいものかどうか、俺にはわからんがね』

 地面に転がった地下水の言葉を受け、エレオノールはもう一度、壊れかけの男の飛んできた方向へと視線を動かした。



 そこには、二十数人の男達に囲まれる、平民姉──ロッテの姿があった。



 野良メイジと名乗っていたはずの彼女だが、その手に杖は握られていないように見える。

 杖を持たぬ女メイジ一人と、武装した男達の集団。
 なるほど、これでは確かに、戦場というより、処刑場とでも称したほうがいいだろう。地下水の言うとおり、一方的な蹂躙となるのは目に見えている。

 そこで、ハッ、とエレオノールが何かに気づいたように、O型に開いた口へ右手をやった。

「そ、そういえば、アンタ、あの平民の杖じゃなかった?」
『……あぁ、そういう事になってたんだっけか』

 何てこと、とエレオノールは頭を抱える。
 自分に杖を渡してしまったばっかりに、ロッテはピンチに陥っているのだ、と彼女は思ったのだ。

「は、早く助けに──」
『待った、待った! やめときな! 下手したら巻き添えになっちまうぜ』

 急いでロッテの方へ向かおうとするエレオノールを止める地下水。

「言ってる場合?!」
『……勘違いしてるみたいだが、蹂躙されるのは、賊共の方だぜ』
「はあ?」
『まあ見てろ。大姐さんの〝化物〟ぶりをな』
 
 

「おおおぉっ!」

 ロッテを取り囲む男の一人が、勇ましく雄叫びをあげながら、彼女へ向けて、手にした凶器を振りおろす。

「ふん」

 しかし、ロッテはつまらなそうに指先一つでそれを白刃取り。
そうしてつまんだ斧を、男ごと持ち上げ──まるで石ころで水切り遊びをするかのように、それをサイドスローで放り投げた。

「ひっぎいいぃっ!?」

 投げ捨てられた男は、悲鳴をあげながら、空中でぐんぐんと加速。
 慣性の法則を無視したかのような、超低空飛行のまま、廃村の外、森の中に消えていった。

 ロッテはその行方を見届けることもなく、残りの男達に向き直り、うんざりとしたように口を開く。

「これでやっと半分、か……。もうヤメにせぬか。これ以上やっても、時間と労力の無駄じゃぞ」
「ざっ、ざけんなっ! この化物め! てめぇに何人やられたと思っていやがるんだ!」

 たじろぎ、ガクガクと身を震わせながらも、安いメンツでなんとかそこに留まるオノレと残りの男達。

 孤高のライオンに噛みつこうとするネズミの小隊。野生の獣から見れば、それはさぞかし滑稽なものだろう。
 つくづく人間とは難儀なモノよの、とロッテは嘆息した。

「距離をつめるなっ! 散開して、飛び道具で仕留めるんだっ!」

 オノレの号令で、賊達は、エレオノールに対してやったように、遠距離からの攻撃を試みようと武器を持ち換える。

「えぇい、散らかるな! 面倒臭い! はぁ、こうなれば纏めて……。しかし、アレの見ている前でアレは、のう」

 ロッテはそこで、地下水の制止を振り切って、こちらに近づいてきているエレオノールの方をチラリと一瞥した。

「何をごちゃごちゃと! 今だ、撃て、お前ら撃てっ」
「まあ、バレないようなモノを使えば良い、か。丁度、一昼夜走り通しで、腹も減っていたところよ──」

 ロッテがそう口にした途端。

 風もないのに、長い長いブロンドがざわざわと生き物のようにうねり。蒼穹の瞳が、灼熱の紅蓮へと変わる。むき出した犬歯が、まるで肉食獣のそれのように、肥大する。

「な」

 声を上げたのは賊達よりもやや遠方で走っていたエレオノール。

 オノレ達は、その異様な光景に、攻撃を仕掛けるどころか、声をあげることも出来ないほどに圧倒され、死にかけの金魚のごとく、口をぱくぱくとさせた。

「〝命を運びし風よ、啜れ、貪れ、卑しくしゃぶれ〟」

 その姿を嘲笑うかのように、ロッテは流麗にナニカの詩を刻みながら、妖艶な蟲惑の舞を舞いはじめる。

「〝紅き血の祝杯上げ、蒼き魂を呑み干せ。透き通る黄金の糧、一縷も残すことなく〟」
「はぐ……っ?」

 その舞が進むとともに、周りの賊達が、性質の悪い毒にアテられたかのごとく、一人、二人と、力なく地にへたり込んでいく。
 
 その様子を血のように紅い瞳で睥睨しながら、ロッテは舞い。詠い。嗤う。


【吸血】

 周囲の人間や亜人などから生命力を吸いあげ、自身の腹を満たすという、高位の吸血鬼のみが使える先住(精霊)魔法。
 牙が抜けて直接血を吸う事が出来なかったり、体力的に人間を襲うのが厳しくなってしまったような、老齢の吸血鬼が好んで使うという。
 それを聞いて私は安心した。年若い吸血鬼がこんなものを使うのは無粋が過ぎる。麗らかで艶やかな吸血鬼が、汚れを知らぬ少女の首筋に妖しく舌を這わせるというところに浪漫というものがあるというのに。
                              (著 メッゾ・デ・モルト 編集、加筆 オールド・オスマン トリステイン版・青い雲と白い空の漂流記、第五章第三節、吸血鬼のアトリエに招かれて、より抜粋)



「ちょっとまて……。ありゃ、どうみても人間じゃあ……。おっ、おい! クソ娘! お前、一体、何を、何処のバケモノを連れて来やがった!」

 たった一人のナニカによって、五十人の部下達がいとも簡単に蹴散らされていく。

 広場の北側、少し小高くなった丘の上。
 アリアと交戦しつつも、それとなく全体の戦況を覗っていたマルグリッドは、ブロンドのバケモノによってひき起こされていく理不尽な事態に、歯ぎしりをたてて問う。

 純真無垢(?)なエレオノールはどうだからしらないが、人生経験が豊富なマルグリッドの目は誤魔化せなかったらしい。
 まあ、精霊魔法を使うか否かの前に、無手で人間を砲弾のように飛ばすのだから、普通はそこに考えが及ぶだろうが。

「ただの、姉、よっ!」

 対して、アリアに余所を気にかける余裕はない。弓を射かけながらに答えを返す。

「いっけぇ!」

 投擲選手のような気合とともに、狙いと寸分狂わぬ、ひどく正確なヘッドショットがマルグリッドを襲う。

「どうする……。ずらかるにしても、あの馬鹿共をどうやって……」

 しかし、マルグリッドは、それを躱そうとするそぶりもみせず、顎に手をやったまま、動こうともしない。

 当たる!

 と、思った瞬間、マルグリッドの姿が揺らめき、まるで陽炎のようにフッ、と消える。

「〝また〟っ……」
「【爆風】≪ウィンド・ブレイク≫!」

 瞬間移動か、錯覚か。
 アリアが残念な結果に舌を打つ暇もなく、斜め後ろから、〝別〟のマルグリッドの声。

 それとともに、周囲を根こそぎ薙ぎ払ってしまうような、嵐の奔流がアリアを襲う。

「ぐ、ぬぅううぅっ!」

 一般の家屋ならば、簡単に吹き飛ばしてしまう程の威力のそれを、アリアは人間離れした強靭な足腰でふんばり、持ちこたえてみせる。

 しかし、それは悪手。

 隙だらけで動けなくなっているアリア。マルグリッドは蚊の鳴くような小声で【風刃】≪エア・カッター≫を唱える。
 無数の嘘の中に、一つだけ本物を紛れ込ませるように、嵐の中に必殺の刃を混ぜ込んだのだ。

「……っ!」

 が、アリアは微細な風の動きの異常を読んだのか、それともまったくのカンか。
刃が彼女を切り刻む間際で、身体を半身に捻り、それを躱した。

「クソ、無駄に鋭い……っ?」

 惜しい、と指を鳴らしたマルグリッドが、数本の矢に射抜かれ、またも、煙のように消えうせた。

「あっははは! また外れぇ! 当たらないねえ!」

 そしてまた〝別〟のマルグリッドが、右斜め前方でアリアを嘲笑う。

 ──そう、今、アリアの眼前には、〝複数〟のマルグリッドが存在しているのだ。

「随分とイライラとさせるモグラ叩きね。屋台ごとぶち壊しくたくなってきたわ」
「やれるもんならやってみな! が、この数じゃあ、少し不安だね。どれ、もういっちょ、マラ・ユビキタス・デル・ウィンデ!」
  
 マルグリッドがルーンを紡ぐと、減らしたはずのマルグリッド達が、またもその数をぞろぞろと増やしていく。
 その様子に辟易としたように、アリアは眉間に皺を寄せ、血の入り混じった唾を吐き捨てた。

 【虚像】≪ミラージュ≫という、風のライン・スペルだ。
 風系統の最高位魔法として有名な【偏在】≪ユビキタス≫は、実体を持つ分身を作りあげるという反則級の極技だが、その下位互換として、実体を持たない分身を作りあげるのが、この【虚像】≪ミラージュ≫である。
 少々小難しい理屈を付ければ、大気密度の意図的な操作により、光を思うがままに屈折させ、蜃気楼現象を起こす、とかそんな感じの魔法である(厳密に言うと、科学的には説明が付かない、ファンタジックでスピリチュアルな要素が入るのだが)。なので、自分以外のものも〝虚像〟として、映す事が出来る。

 ただし、【虚像】は【偏在】と違って、実物とまったく同じ動きをするだけの映像にすぎない。つまり、実在しないモノを映し出すことは不可能である。
 なので、この魔法は、目くらましや囮として使うことくらいしかできない。そしてそれは、卑怯で臆病な魔法、ということで、貴族はあまり好んでは使わない。

「しかし、いつまでもお前に構っている場合じゃあ、ないね」
「あら、じっくり、ねっぷりと楽しむのじゃあなかったかしら?」
「事情が変わったのさ。これでも、一団を率いる長なんでね。何をおいても、子分を助けるのが親分というものだろ?」
「コソ泥の分際で、一丁前に仁義を説くとは笑わせてくれるじゃない。それほど心配なら、盗んだ品は諦めて、薄汚いのをつれて失せなさいよ。そうすれば、私も、あんたの言うバケモノも、追ったりはしないわよ?」
「そういうワケにもいかないのがツライところさ。こっちもオマンマ食わなきゃ生きてけないんでねえ」
「大人しく背を向ければいいモノを……」
「ま、つうことでさ。そろそろ死んでおくれよ、【風刃】≪エア・カッター≫!」
「お断りっ!」

 アリアの提案に頷くことなく、マルグリッドは何度目かになるかわからない風の刃を飛ばす。
 後方から来たそれを、アリアは側転で躱すが、しかし、風の刃は太腿を掠り、旅着の下に紅い筋を作った。

「ああぁ! しつこい、本っ当にしつこいねえ、このクソゴキブリが!」

 マルグリッドは苛々としたように頭を掻き毟る。
 
 アリアはそれに応えるどころではない。魔法の的とならぬように、足を止めることなく、高速で思考を回す。

(やはり、このドッペルゲンガーもどきはただの幻、それは確定。よって、攻撃は無意味、けれど、実体のある攻撃を放つのも本体だけ。さしずめ、〝ブンシンのジュツ〟といったところ、ね。魔法の出所からホンモノを特定するのはそう難しい事じゃない。でも、こう入れ替わり、立ち替わりされると……!)

 常に足を動かしているアリアほどではないが、マルグリッドもまたかなりの運動量だった。
 一回魔法を撃てば、虚像と何度も何度も交錯するように動きまわり、どれが本体か分からないようにカモフラージュしているのだ。マルグリッド自身が、この魔法の弱点を分かっているのだろう。

「そぉら、もう一丁! ラナ・デル・ウィンデ!」
(しかし、あてずっぽうは駄目。確信の持てない攻撃じゃ、もしホンモノに当選したところで、簡単に止められてしまう。それどころか、外した場合、死角にホンモノが潜んでいたりすれば、致命的な隙になりえる。……まさにジリ貧、ね。状況の打破には、かなりの荒技が必要かも)

 【風槌】≪エア・ハンマー≫をバックステップでいなしつつ、さらにアリアは考える。

 実はすでに何回かは、本体に矢なり、蹴りなりがマルグリッドの本体へと届いていた。
 しかし、外れても次に対応できるように撃った中途半端な攻撃は、どれもマルグリッドの見事な体技によって弾かれてしまったのだった。

「クソっ! 逃げ回るしか能がないのかいっ!」
(残りの矢弾は、左が十五、右が十七の、合わせて三十二、か。これだけあれば、全弾使っての〝アレ〟をやる事は可能。しかし、もしそれでしくじってしまえば、おそらく次はない。今アチラさんがさほど積極的に攻めてこないのは、この手弓を警戒しているからに他ならない。撃ち尽くしてしまえば、再装填などされないよう、勝負を決める手に転じてくるはず。ただでさえ、急いでいるようだし、ね。けれど、このままじゃ、埒が明かないのも事実。と、なれば……最善手は……!)
 
 そこまで考えて、アリアは突然に足を止めた。

「そうね、たしかに、これ以上逃げ回る意味はないわ」
「ほぉ、ようやく死んでくれる気になったんだね?」
「いえ、殺してあげる気になったのよ。いい加減、名前も知らない人に付き合うのはうんざり」
「そうかい、あたいの方は、ずっとブッ殺してやる気マンマンなんだけどねえ!」

 四方に散らばったマルグリッドが、凄惨な表情で、大きな魔法なのだろう、長めの詠唱を開始する。
 しかし肩で息をするアリアはその場から動く事なく、二丁の手弓を見せつけるように、大仰に両手を突き出して構えた。

「これが、貴女に躱せるかしら……っ!」

 そう言い放つか否かのタイミングで。
 アリアは西部劇のヒーローのように。
否。それを遥かに凌ぐ、達人級の手弓捌きで、神速の早撃ちを放つ。

 360度全方位高速射撃術──。

 目にも止まらぬ速さで生き物のように動く両の腕。十分の一秒単位で弾かれるトリガー。
 ゲリラ豪雨のような矢の大群は、瞬きをする間もなく、八方にまき散らされる。それでいて、無駄な射撃は一本たりともなく。全ての矢の軌道は、逃げ道を塞ぐかのように配置されていた。

 アリアの腕もさることながら、ベネディクト工房印のオーダメイド手弓の性能もまた異常。
威力は未だ並みのクロスボウやマスケット銃には及ばないものの、悪ノリしたシュペー卿(リューネブルグ公爵)の魔法による改造を含めた、改良に次ぐ改良によって、〝場違いな工芸品〟と取られてもおかしくはないほどの連射を可能にしていたのだ!

「んなっ!?」

 予想だに出来ない、あまりにも苛烈な反撃に、マルグリッドは慌てて詠唱を破棄し、転がるようにしてその場に伏せた。
 伏せる刹那、自分の形をした虚像が次々に頭を撃ち抜かれて消えていくのが目に入り、彼女のすらっと伸びた鼻筋に、冷たい汗が伝う。



「……どう、かしら?」

 時間にしてわずかに十秒。されど十秒。怒涛の攻撃がようやく止む。

 嵐の中心となっていたアリアは祈るように呟きながら、首を回して辺りを見渡す。
 彼女自身、あれだけ連射した矢のどれが当たったか、当たっていないかなど、把握してはいないのだ。

「…………ふぅっ」

 それに応えるかのように、息を付く音が聞こえ、アリアは咄嗟に身構える。

 視線の先には、派手なデザインの外套に付着した土を手で払いながら、むくりと起き上がるマルグリッド。

 その数はたったの一人。虚像の群れは先の乱射攻撃によって全て蹴散らされたようだ。しかし、本体を倒せなくては意味は無い、意味がないのだ。

「……流石、やってくれるじゃあないか。一発はちゃあんとあたいに届いていたよ。〝コイツ〟が無けりゃ、ね」

 そう言ってマルグリッドは、外套をたくしあげてみせる。
 その下には、無数の鉄板を縫い付けたベストのようなモノ。ブリガンティと言われる、平民の傭兵が好んで付ける鎧の一種である。

 何も矢を使うのはアリアだけではない。衛兵や傭兵だって使うし、マルグリッドの同業者、競合相手だって使う。
 一度毒矢にやられたマルグリッドは、それ以来、同じ轍を踏まぬために、常にこれを身に着けるという習慣を付けていたのだ。

 まさに経験が生きた、というやつだろう。

「くっ」

 アリアから見れば歯ぎしりをしてしまうような結果に、彼女は悔しげに顔を歪める。

 それならもう一度、と素早く腰帯から矢を抜き出し、手弓の弾倉≪ボックス≫に新たな矢を投入しようとする。

「させるかっ、【風槌】≪エア・ハンマー≫!」
「ごふっ」

 しかし、マルグリッドはソレを許すほどお人よしではない。
 アリアが装填をしようとする隙に、すかさず風の槌を叩きこむ。

 腹部に痛烈な一撃を受けてブッ飛ばされたアリアは、手にしていた矢束も落としてしまう。

「うぐ……」
「【風槍】エア・スピアー!」

 ゴロゴロと無様に地面を転がるアリア。それでも何とか起き上がり、もう一度矢を装填しようとしたところで、待っていました、とマルグリッドの追撃が襲う。

「ぐぎっ」

 見えない槍にも、アリアは反射的に体を反らす。
が、躱しきれなかった槍が、その肩を深く抉り、火山の噴火のように、派手に鮮血が飛び散った。

 アリアはたまらず膝をつく。

 遠くで誰かの甲高い悲鳴が聞こえた。

(コレを喰らうってこたぁ、さっきの無茶な射撃で体力も限界、かぁ? それに、反撃もせず、しつこく矢の入れ替えをしようとしてるってことは、当然、さっきの乱射で弾倉はカラ、だろ? ま、あれだけ滅茶苦茶に連射すりゃ、全弾を撃ち尽くすまでは止まらないだろう。……が、もし矢を入れ替えられて、またさっきのが来たら、今度は無事で済むかどうかわかったもんじゃあない。なら、あらたに【虚像】を創るよか、息をつくヒマも与えず、コイツで一気に決めるべき!)

 しかし、それでも、マルグリッドに油断はない。

 次にすべき行動の判断に至るまでの思考を一秒以内で纏めると、マルグリッドはトドメ用のルーンを手短に紡ぎ──

「【魔法剣】≪ブレイド≫!」

──突撃する!

 【魔法剣】≪ブレイド≫を持った無傷の自分と、傷付き、ふらつく、無手の仇敵。
 その仇敵は、こちらの突進に構える事も出来ず、頭を垂れて蹲っている。
この状況なら、多少の危険を冒そうが、これが最も確実で、勝負が早い、とマルグリッドは判断したのだ。

(貰った!)

 目標まであと3メイル。
 軋る魔法の刃。依然として動かない仇敵。爆発的に噴出する脳内物質。

 ここではじめて、マルグリッドは勝ちを確信した。
  
 してしまった。
 
「やっぱり、最後は自分でキメにくるわよね?」

 そこで、アリアは突然、ぐりん、と俯けていた顔をあげた。そのダークブラウンの瞳には不屈の光が力強く灯っている。

(こけおどしだっ!)

 マルグリッドは、構わず、アリアのドタマ目がけて魔法の刃を振りおろす!



──ざしゅ。



 肉を裂き、骨を貫く音が辺りに響く。



「ぐっ……」

 其れは、見事に貫通していた。
 右手の、掌から甲を完全にぶち抜いていた。

「……おい、もう弾切れのはずじゃあ、なかったのかい?」
「騙し合いは得意ではなかったのかしら、愚者の金ペテン師さん?」

 マルグリッドは、焼けるような右手の痛みと、急速に廻っていく卑毒に脂汗を掻きながらも、気丈な笑みをみせて問う。アリアは膝をついたままに肩をすくめて見せる。

 勝負を制したのはアリア。

 マルグリッドの右手を撃ち抜いたのは、三十二発目の矢弾。

 アリアが乱れ撃ちに使用した矢弾は、計三十一発。つまり、一発だけはわざと残していたのである。
 
 それからの彼女の行動は罠。
 執拗に矢を装填しようとしていたのは、マルグリッドに弾切れのサインを送るため。
 風の槌や風の槍を喰らってみせたのは、ここが決め時、とマルグリッドに思わせるため。

 最後の突進にマルグリッドの思考がたどり着くように仕向けたのだ。それがアリアの考えついた最善手。
 もっとも、これはアリアとマルグリッド、二人の思考がよく似かよっているからこその結果なのだが。

「おま、覚えて……!」
「職業柄、一度相対した人の顔と名前は絶対に忘れないのよね、私。まあ、名前の方は、聞いてないから、本当に知らないんだけど、さ」

 目を見開くマルグリッド。アリアはにやり、と口角をあげた。

「く、くくっ……。どこまでもムカつくねぇ、お前は……。あぁ、クソ、ふらつきやがる」
「おかしいわね。そのカエルの毒、割と即効性のはずなんだけど……。あぁ、前に喰らわせたのと同じ系統だから、か。ま、どちらにせよ、早いとこ、医者にでも見せたほうがいいんじゃないかしら?」

 他人事のように言うアリアに、マルグリッドは悔しげに舌を打つ。

「このビチクソが……」
「ほら、急がないと。廃村らしく、随分と静かになっちゃったみたいだし?」

 彼女らの決着が付くと同様に、ロッテ達の方もケリがついたのだろう。
 少し前までは聞こえていた喧騒の音は、すっかりと消えうせてしまっていた。

 マルグリッドは広場の方を一瞥して、もう一度舌を打つ。

「馬鹿共め……。簡単にやられちまいやがって。クソ、口惜しいが、ここは引くしかなさそうだね」
「えぇ、是非、そうして頂戴?」
「グッ……。だっ、だがねぇ! 覚えておきな! お前をぶっ殺すのは、このマルグリッド様だってことをね!」

 捨て台詞のような名乗りとともに、マルグリッドは風のように飛び去る。

 アリアがそれを追う事はない。
 盗賊を捕まえる事に興味はないし、何より、その体力も気力も、残っちゃいなかったのである。

「行ったかぁ……」

 マルグリッドの後ろ姿が明け方の薄闇に消えるのを確認すると同時に、彼女は地面に大の字になって寝ころんだ。
 血を失い過ぎたせいか、それとも、戦いで神経をすり減らしすぎたせいか、はたまた、単に体力が尽きたのか、頭がぼぅっとして眠い。

「あ~、しんど……」

 彼女はそうぼやくと、眠気に抗うことなくうっすらと目を閉じる。
 
 ふやけた視界の端に、こちらへ大急ぎで駆けてくる、短いブロンドと、長いブロンドがぼんやりと見えたような気がした。



ж



 ごとん、ごとん。

 慣れ親しんだ揺れが、母の胎内にいるかのごとく心地よい。
 さらりとした金色のブラシが顔をなで、アリアはむずむずと鼻を動かした。
 
「あ!」

 耳元にいたのだろう誰かが、素っ頓狂な声をあげる。
 うるさいなぁ、と思いつつ、アリアはじわりと瞼を開けた。

「……ここは?」

 アリアは仰向けの態勢のまま、やけにデジャビュのする天井を眺めて言う。
 
「馬車よ。アンタ達の馬車の中」

 誰ともなしの問いに、アリアのすぐ傍らに着座した、金色ブラシの少女、いや、エレオノールが簡潔な答えを示す。
 それに対して、アリアは辺りをきょろきょろとしたあと、ああ、そうか、と安堵の息を吐いた。

「貴女もよく無事だったわね、エレノア。やられちゃいないかと心配していたのよ?」
「それはこっちの科白でしょ! 死んじゃったのかと思ったわよ!」
「えっ?」

 眉を吊り上げて顔を紅潮させるエレオノールの言葉を受けて、そんなにヒドいやられようだったかしら、とアリアはここではじめて、自らの状態を確認する。
 
 肩口から腰の部分に大仰な包帯は巻いてあったが、痛みはなかったし、それ以外の異常は見当たらない。

「何よ、なんでもないじゃないの」
「無神経の鈍間め」
「はぁっ?」

 首を傾げて惚けるアリアに、御者台で手綱を取るロッテは振り向きもせず、呆れたように言う。

「……右鎖骨骨折、右六番・両八番ろっ骨骨折、左九番ろっ骨にヒビ、鼻骨骨折、内側々副靱帯損傷、右肩部に深い裂傷、出血多量によるショック症状、極度の全身疲労。それでもって、丸一日目を覚まさないときた。さしもの妾も、治すのには随分と苦労したものじゃ。礼くらいは言ってほしいものじゃのう?」
「げ……」

 あまり想像したくない己の有様を想像して、アリアはげんなりとした。

「でも、さすが、〝水のスクウェア〟って感じよね。秘薬も無しに、重傷者をあっという間に治してしまうなんて」
「はい?」
「ん? だから、【治癒】≪ヒーリング≫のことよ。あの廃村の位置を特定した【遠見】や、賊を一掃した【眠りの雲】≪スリープクラウド≫も凄かったけど、やっぱり水属性は癒しが本分なのねぇ」
「治してくれたのは非常に、有難いのだけれど、賊を一掃、ねえ?」

 ロッテに尊敬の眼差しを向けるエレオノール。

 アリアは「よくバレなかったものね、この面倒臭がり」と内心で毒づきながら、ロッテの背を、じとり、と睨む。当の本人は居心地悪そうに口笛を吹いていた。

 ちなみに、アリアを治したのは、例のごとく、【再生】だし、エレオノールの位置はそのニオイを辿っただけのことである。

「……で。最初の質問に戻るけど、ここ、何処よ? 地理的な意味で」
「ガリアじゃ。国境沿いに、トリステインとガリア間の関所に戻っておる途中じゃな」

 いい判断、とアリアは頷く。あの廃村が盗賊の巣となっていたという事は、一応、関所の役人に伝えておいたほうがいいだろう。

「あ、そういえば、あの連中はどうしたの?」
「それがな、お前が取り逃がしたあの年増がの」
「ちょっと待った。取り逃がしたってのは聞こえが悪いわね。リリースしてあげたのよ。私達の目的は盗賊の退治じゃなかったんだし」
「まあ、それはどちらでも良いが。その女頭目が、嵐の魔法で手下共をどこかに吹き飛ばして、いや、運び去って、の方がよいか、この場合」
「は? いや、いや、一寸無理があるでしょ……。五十人以上居たのよ、あいつら。それを一気に運ぶって。何よ、その極大奥義か天変地異みたいな魔法は?」

 胡散臭そうに問い返すアリアに、今度は馬車の隅っこ、小さな本棚の上に安置されていた地下水が答える。

『極大の魔法じゃあないぜ。ありゃ、風のトライアングル・スペル、【大嵐】≪エア・ストーム≫だな。敵を倒すのが目的ってより、相手陣形を引っかき回すとか、フネの航行を妨害するだとか、そんな目的でつかわれる戦術級の魔法だよ」
「ふぅん……。でも、おかしいわね、そんな大逸れた魔法を使っていたような記憶がないのだけれど」
『魔法っていうのは、その時の精神状態で威力が上がり下がりするし、気の持ちようだけでドットがラインになったりもするってのも良くある話さ。あのアマも、姐さんに追い詰められて、かなり精神が昂ぶっていたんじゃねえ?』

 となると、マルグリッドは、昨日アリアとやり合った時よりも格段に強くなってしまっている可能性もあるという事。
 しかも、彼女の捨て台詞からして、どう考えても、リベンジする気満々だろう。

 うわ、逃がさなきゃ良かった、とアリアはちょっと後悔した。まあ、実際は、逃がすしかなかったのだが。


 
「さて。こちらも聞きたいことがあるのじゃがな」
「ん、どうぞ」
「一度、トリステインへ戻るか、それとも、このままガリアへ進むか。どちらじゃ?」

 現状、最も重要であろう問題についての質問に、エレオノールは、ぴくっ、と体を震わせた。

「他の盗品に関しては、関所の役人に匿名で報告するだけでいいわね。そうすれば、シュルピス方面にもすぐに伝わるはず。わざわざ届けてやる必要はないわ」

 落としたり盗まれたりしたモノやカネを役人や本人に届ければ、一割は謝礼で貰える、とか、そういう優しい法律や慣習はどの国にもない。
 個人的に謝礼を出す人はそれなりに居るだろうが、大体が届け損になるくらいの微かなモノで済まされるのが普通だ。
 しかも、その中身が減っていたりすると、届けた人もしつこく事情を聞かれる事になり、最悪疑われることもある。

「妾らであの盗品を全部運ぶというのは、物理的にも無理じゃしな。取りに行きたい奴は取りに行けば良い、というだけじゃ」
「……あ。そういえば、まさかとは思うけど、他の盗品までこの馬車に積んでないでしょうね?」
「安心せい、そんなことはしておらん。盗品捌きなどというみっともない真似、まっとうな商人のやることではないじゃろうしの」
「そう、よかったわ」
「じゃが、議論すべきは、そこではないじゃろ?」

 ロッテが今度はちゃんと振り返り、じろり、とアリアを睨みつける。

「そうね。問題は、この子をどうするか、という事でしょう」

 アリアは不安そうにエレオノールに目をやって、観念したように嘆息する。

「わ、私はっ!」
「ちょっと、その前に。〝エレノア〟に言わなきゃいけないことがあるのよ」
「な、なにっ?!」
「ごめんなさい」

 アリアは突然、エレオノールに向かって頭を下げる。

「へっ?」
「シュルピスでは少し言い過ぎたから。次に会ったら、一番に謝ろうと思っていてね」 

 それは、商人としてするような種類のものではなく、まるで友人同士のような謝罪。

「あぁ……。アレは、効いたわね」
「許してくれるかしら?」
「ダメ! と言いたいところだけど。いいわ、特別に許してあげる!」
「そう? ふふ、良かった。これで胸の閊えがとれたわ」
「その代わりといっちゃなんだけ」

 エレオノールが何か言いかけたところで、アリアはそれを唇に人差し指で遮る。

「そして、ここからは、〝ヴァリエール公爵令嬢〟として、お話したいことなのですが」
「ん、ぐ」

 急に改まったように変わるアリアの態度と雰囲気に、エレオノールは言葉に詰まってしまう。

「これからの方針として、私共としては出来るだけ早く、貴女をヴァリエール領にお送りするのが最善と思っています」
「ろっ、ロマリアに連れて行ってくれるなら、手間賃や謝礼も、実家にある私の持ち物やお小遣いから上乗せをするわ! 多分だけど、1,000、いえ、2,000エキューくらいには」
「ええ、まあ、厭らしいようですが、当然、お金の事もあります。ロマリアまでの運賃と考えれば、2,000も上乗せをしてくれるというのは、相当に破格で魅力的な提案かもしれません。郊外なら農園付きの家くらい買えちゃう額ですし」
「じゃあ!」
「しかし、もっと問題なのは、公爵家のご令嬢を国外に連れ出している、なんてことが先方に知れれば、非常にまずいということです。……既に一度は出てしまっていますけど。ま、それはさておき、貴女に何かあっては貴女だけの問題ではなくなってしまいますからね。こちらのクビは物理的に飛んでしまうでしょうし、最悪、国際的な問題にもなりかねません」

 アリアが提示したのは、今すぐトリステインに戻るということ。
 それは、ごく当たり前の判断だろう。エレオノールが言うとおり、報奨金に多少色が付くとしても、あまりにハイリスクローリターン過ぎる。

「なら、私が公爵家の娘だと、いえ、貴族だバレないようにする、とか……。ほら、そうすれば、私に何かあったって、ただの行方不明で済む話じゃない。その事でアンタ達に迷惑なんてかけないわ」
「何かあったら褒賞金自体が貰えなくなってしまいますね」
「う~……。だったら、危険が及ばないように、旅先では、アンタの指示を仰ぐ事にする。出来るだけ勝手な行動は取らない。それならどう?」
「ふむ。しかし、そうなると、普段の言動だけでなく、生活基準も変えなければいけないでしょうね。湯を張った風呂や、豪勢な馳走、寝心地のいいベッドなんて、平民の旅人には無縁ですから」
「要らない、そんなの要らないから!」
「仮に、私共姉妹の一員ということで通すとしても、仕事もしないのというのは傍目から見ればおかしいですし。すぐにバレてしまいますよ」
「なんでもやるわ! ドンと来いよ!」

 諭すように、否定的な発言を繰り返すアリア。エレオノールはそれを悉く強気な姿勢で否定する。
 アリアとロッテは、ふぅ、と揃って嘆息し、顔を見合わせた。

「なあ、どうしてそこまでしてロマリアなんぞに行きたいのじゃ? 差別主義者と生臭坊主の巣窟じゃぞ、あそこは。いいところといえば、チーズと景勝くらいなもんじゃろうに」
「あら、交易商としてみれば、ロマリアほど重要な地域もそうはないわよ。でも、その理由は私も気になるわね」
「それは──」

 姉妹二人に問われ、エレオノールは、マルグリッドにも話した家出の理由をアリア達に話す。

 アリアとロッテは時折相槌を打ちながらそれを聞いていたが、話が進むにつれ、その頻度も少なくなり。

「ふぅん……。妹のために、のう」
「放蕩の理由としては随分と美しいわね。ご立派過ぎる気もするけど」

 話が終わるころには興味がなくなったのか、ロッテは欠伸をかき、アリアはくりくりと前髪をいじっていた。

「あの……。それなら一肌脱いでやろう、とか、ないの?」
「う~ん、私のように卑しい人間からすると、そういう聖人のような理由に共感しにくいというか」
「かっ、家族を思いやるのは当然のコトで」
「こやつには家族などおらんからの。そんなことを言われてもわかるまいて」
「えっ、えっ?」
「自分のため、がない決意というのはちょっと信じられないというか。自分の誇りのため、とか、自分の意思を通すため、のついでに結果的に他人のためになる、というのなら、理解できるのだけど?」

 つまり、アリア達の言いたい事は。

 婉曲的に、建前はいいから本音を言え、と言っているのだ。

 エレオノールもそれを察したのだろう。
 しばらく黙りこんだ後、ぼそり、ぼそり、と心の内を漏らし始める。

「…………のよ」
「ん?」
「だって。お父様もお母様も、口を開けば、カトレアは、ルイズは、って! 私の事なんて、どうでもいいのよ!」

 感情を爆発させるエレオノール。

「ルイズは、まぁ、いいわ、生まれたばかりだもの、仕方ない。でも、カトレアは別! あの子はずるいのよ。特別何をしているわけでもないのに、みんなに褒めてもらえたり、心配してもらえたり。私なんて、いくら勉強しようが、魔法を練習しようが、気にも掛けてもらえないのに!」

 アリアとロッテは、ただそれを黙って聞いていた。

「そうよ、私がライン・メイジに昇格したときも! ちょっとカトレアが『気分が』と言った途端、みんなそっちに掛りきり! 三日も経ってから、『そういえば』ですって! 馬鹿にするんじゃないわよ!」

 ふっきれたように捲し立てるエレオノール。一息ついたところで、アリアが確認のために口を開く。

「つまり、カトレア? の病気さえ治れば、皆、自分を正当に評価してくれるはず、ということ?」
「そうよ、悪い?! まあ、妹が憎いわけじゃないわ。ただ、対等なラインに立ちたいのよ、単純にね!」
「ふ、くくく」
「そこ! 何かおかしい!?」

 たまらない、とばかりに噴き出すロッテ。エレオノールは真っ赤な顔でそれを睨みつける。

「いや、じつに餓鬼んちょらしい理由で、逆に納得できたぞ、妾は」
「うるさい! ここまで話したんだから、絶対連れて行きなさいよ! 無理やり送り返そうっていうなら、アンタ達が私を誘拐した犯人だ、っていうんだから!」
「それは困るのう。では、こちらも、もしロマリアに向かう途中で何かあっても、お主に同伴を強要されて、ということにしなくてはいかんな」
「そうね、『全ての責任は私にあります』と、念書でも書いてもらいましょうか」
「え?」

 予想外に風向きが変わった事に、あれ? と首を捻るエレオノール。
 アリアとロッテは、悪戯が成功して喜ぶワルガキのように、にたにたと笑っている。

「ガリアに入る前にね。私達の間で、条件次第じゃ、ロマリアに連れて行ってやるくらいならいいか、っていう話になっていたのよ。まあ、貴女を勝手に助けて連れてきたのは私達だし、ロマリアまでは道すがらだし、今回みたいな危険はそうそうないでしょうし、旅費を立て替えるくらいなら、ってね。とはいっても、ここで本音を出せないようなら、本当にヴァリエール領まで強制送還だったでしょうけど」

 アリアが意地悪そうに肩を竦め、種を明かす。
 彼女らがエレオノールの頼みを聞く事は、最初からある程度決められていたのである。

「なっ、な、何よそれ?! 条件って?」
「ほれ、お主さっき、自腹を切って褒賞に上乗せするといったじゃろう? それに、旅先じゃ妾やアリアの指示に従うし、ベッドも、風呂も、ご馳走も要らないとも言ったのう。加えて、雑用見習いの扱いでも甘受すると承諾しておったし。何でもやるのじゃろ?」
「そ、それは少し、狡くない?」
「ふふ、自分の言った事には責任を持たなきゃね。土のメイジがいれば色々と便利でしょうし、せいぜい役に立ってもらうわよ」

 ただ、ワガママを聞く気はなかったし、こちらを信用してくれないのであれば、それはやめておこう、とも決めていたのだが。

 嵌められたような格好になったエレオノールはむぅ、と唸る。



 しかし、次には、嬉しそうな表情へところりと変わる。
 
「で、でも、連れて行ってはくれるのね?」
「妾に二言はないぞ。ロマリアまでの送迎については、任せておくがよい。ほれ、〝妾の作品〟の〝たいたにっく〟に乗ったつもりで」
「そのフネ、木端微塵になって墜落してたわよね?」

 どうやら、ロッテの〝作品〟のジャンルはかなり多岐に渡っているらしい。

 少し呆れたようなエレオノールの前に、少女にしてはやけに日焼けしてごつごつとした手が差しだされる。

 その手の先を視線で追うと、艶笑を浮かべるアリアの顔。

 誘われるかのように、エレオノールもまた、シミ一つない白磁の手を、おずおずと差しだした。

「これからよろしく、〝エレノア〟」
「え、ええ!」

 二人の少女の手と手ががっしりと結ばれる。

 やけに眩しく感じられる、旅路の先に昇る陽に向けて、ロッテは勢いよく手綱を振るう。

 不揃いな三人を乗せた馬車は、小気味のいいスピードで、新世界の大地を走りだした。





アリアのメモ書き トリステイン編 結果

二人から三人の商店へ?
(スゥ以下切り捨て。1エキュー未満は切り上げ)

評価       げっとばっかーず
道程       ケルン→オルベ→ゲルマニア北西部→ハノーファー→トリステイン北東部→トリスタニア→トリステイン中南部(バンシュ)→シュルピス→ガリア側国境付近

今回の費用  なし(国境を渡っても、荷を持ってさえいなければ、手持ち現金に関税等はかからない)
マルグリッド達は他の荷から税を纏めて払った様子で、私達の荷は少しも減っていなかった。そこらへんは結構ラッキーだったかも?

今回の収益  営業外収益・特別利益(特別損失取り返し) 1,356エキュー

★今回の利益(=収益-費用) 1,356エキュー

資産    固定資産  乗物
ペルシュロン種馬×2
中古大型幌馬車(固定化済み)
(その他、消耗品や生活雑貨などは再販が不可として費用に計上するものとする)
商品
(ト)バンシュ産 レース生地 
            (ト)バンシュ産 レース地テーブルクロス 
            (ト)バンシュ産 レース地カーテン、ベッドシーツ 
            (ト)トリステイン中央部産 ブドウ酒(安物銘柄)
            (ト)レールダム産 ガラス食器 
            (ト)アストン領産 高級ワイン 
            (ト)ブリュッセル産 彫刻家具(チェスト、スツール、食器棚)
            (ト)シュルピス産 高級瓶詰め蜂蜜
            (ト)エルヴィス・ヴィトンのハンドバッグ、旅行鞄など革製品 

             計・1,356エキュー(商品単価は最も新しく取得された時の評価基準、先入先出の原則にのっとる)

現金   10エキュー(小切手、期限到来後債利札など通貨代用証券を含む)
 
有価証券(社債、公債) なし       
負債          なし

★資本(=資産-負債)  1,366エキュー

★目標達成率       1,364エキュー/30,000エキュー(4,53%) 報奨金とかはアテにせず、これは商売で稼がないと意味が無いわね

★ユニーク品(用途不明、価値不明のお宝?)
①地下水 インテリジェンスナイフ どうせならエレノアに使わせようかな?
②モット伯の紹介状 記念に持っておこう
③エレオノールの指揮棒 万年樹という魔法素材を使った最高級杖 推定150~200エキュー





今回はトリステイン編〆+GW中ということでワード文書40枚オーバー。

正直、やり過ぎた(いつもは20~25枚程度)。

次回からは通常の文量に戻して、ガリア編に入るかと思われます。







[19087] 48話 未来予定図
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:5ca1dc80
Date: 2012/05/26 22:48
 季節はアンスールの月に差し掛かり、夏もいよいよ本番か、といったところ。

 無遠慮に照りつける厳しい日差しを、街路に植えられた碧色のカーテンが和らげる。
 開けっぴろげの窓から入る木漏れ日は、汗かきのグラスを透過して、年季の入った作業台のようなテーブルに三角形のプリズムを作っていた。

 そのテーブル囲むように座るのは、個性的な三人の娘達。

 一番背丈の小さな娘は、手を耳に当て、瞳を閉じている。こうしていると、街≪コミューン≫の中を流れる運河のさらさらとした水音が涼しげで、少しだけ火照った躰が冷める気がするのだ。

 一番豊かな胸を持つ娘は、もう完全に温くなってしまったオレンジ・ジュースを、カラカラの喉にちびりちびりと流し込んでいる。

 一番長く美しい髪をした娘は、貼り替えたばかりなのだろう、真白なクロスの壁に掛けられた機械時計とにらめっこをしている。

「ケルンのアリア様とお連れの方。お待たせ致しました、こちらへどうぞ」

 とある商社の、ワイン蔵を改装したという開放的な倉庫兼待合室。

 彼女らが来訪してから二刻ほど経っただろうか。
 ようやく待ちぼうけていた三人娘、アリア達へと、見習い坊主の声がかかる。

 アリアは軽く笑みながら会釈を交わし、その対面に座していたロッテは、やっとか、と大きく伸びをしながら立ち上がる。
 その隣で〝エレノア〟は、うつら、うつらと金色の頭を上下させて舟を漕いでいた。

「たわけ、寝るな」
「ふがっ?」

 幸せそうな寝顔にイラッと来たのか、ロッテはエレノアの後頭部を平手で小突く。
 鼻ちょうちんが割れ、エレノアはきょろきょろと辺りを見回す。
 その様子を見て、見習い小僧がくす、と微笑ましいものをみるような笑いを漏らした。

「恥をかかせないで頂戴ね?」

 アリアが寝ぼけ眼を擦るエレノアに冷たく言い放つと、彼女は「だって」と頬を膨らませる。
 一瞬、その柔らかそうな頬を抓りあげてやろうか、などと考えたアリアだが、これだけ待たされてはね、という気持ちを差し引きし、苦い笑いを零すだけに留めた。



「いや、ほんっとうに、申し訳ない。何分、この時期はたてこむものでねぇ」

 ボールのような体型の、おそらく、買取担当の駐在員という三十路男が、ハンケチで汗ばんだ顔を拭きながら頭を下げる。
 アリアはお気になさらず、と口では言うが、嘘を付け、と心の内で悪態を吐く。

「というわけで、時間も押していまして。さっそくですが、本日はどんなモノをお持ち頂けたので?」
「ロッテ、目録を」
 
 形式的な挨拶もそこそこに、男はさくさくと話を進める。
 アリアはロッテから丸められた羊皮紙を受け取ると、それをそのまま男に渡す。目録とは、荷の品名や数量が羅列された書付のことである。

「ほう、ゲルマニアから、トリステイン経由で此方に。これは珍しい」
「ええ、彼の国に少しばかりの伝手がありましたので、それを頼りに。私共のような若輩が、最初から冒険や賭け事の如き商売をするというのは、些か躊躇われまして」
「はっは、商売は手堅くが一番ですからな、最初にお知り合いを頼るのは賢明な選択でしょう。なるほど、扱っている商品も長いスパンで売れ筋のモノばかり。これは中々に聡いお方のようだ」

 アリアの受け答えに男は満足したようで、上機嫌に笑いながら世辞を言う。
 対して、アリアは上品に口元を押さえて微笑むのみ。

 そのやり取りに、ロッテは不満そうに首をかしげる。

 確かにスカロンの伝手は多少の頼りにはしていたけれども。
 しかし、トリステインへ舵を取ったのは、ある意味賭け事に近いモノだったはずで、断じて〝手堅い〟商いを狙ったモノなどではない。
 結果だけを見れば、トリステインでの商売はおおよそ2カ月弱という短期間で、中々の利益(約400エキュー)を産んだが、途中までは赤を出してもおかしくない状態だったし、利益を出したのは半分、運みたいなモノだ。
 断じて、堅実とか確実、なんて言葉が似合うような旅路ではなかったぞ、とロッテは思ったのである。

「そうですなぁ……。この、レース地の品をいくらか。それと、ガラス製品、これはいい。この時期にぴたりな品です。全て買取しましょう。あとは、蜂蜜を少々いただきましょうかね」

 アリア達の馬車に乗り込んで、手元の目録と合わせて品定めをする丸い男。

「ヒルスマブランドの家具、それにエルヴィスブランドのバッグなどは如何でしょう? どれも疵一つ、歪み一つない一級品ですし、生産元の鑑定書も付けておりますが」
「はぁ、いえ、この手の高級品は、このような田舎町よりも、大都市でお売りになった方が良いかと、はは」

 アリアが他の品も、と控えめに売り込んでみるが、丸男は意見を変える気はないらしい。
 彼が選んだ商品は、自身が売れ筋と評した商品の中でも特に確実に、すぐに売れそうなモノだけ。

「さしでがましい申し出でしたわね、失礼致しました」
「若い方はそれぐらい積極的でないとね。して、これらの品の支払はどんなモノをお望みですかな?」
「メインで麻織物と麻糸、お供として寒色系の染料を。それと、今からの時期、農村では夏のお祭りが立て続けにありますでしょう? なので、シャンパンとオリーブ、豚や鶏などにも換えていただきたいのですが」
「ふむ、農村めぐり、となるとオルレアン方面ですかな。しかし、豚と鶏、ですか?」
「不躾ながら、外見を拝見させて頂いた際には、敷地内に畜舎があるようにお見受けしましたが」
「いや、家畜の類も取り扱ってはおりますよ。ただ、旅商人の方がナマモノを扱うというのは……」
「それについては、この娘の【固定化】がありますので。取引のあと、肉屋ででもオロして貰う事にします」
「ふぇっ?!」

 突然名指しされ、びっくりとしたように跳ねるエレノア。
 彼女の加入によって手に入った系統魔法という道具は、使い方によっては、アリア達の大きな武器になりえる、かもしれない。

「ほお、御一行の中にメイジ様がいらっしゃるとは……。安全対策もばっちりですな。しかし、【固定化】をあまり多用というのは」
「ありがとうございます。お客様にお出しする時は、きちんと【固定化】を外してからの御提供に致しますわ」

 丸男のそんなの常識でしょ、という余計な忠告にも、アリアは素直に頷く。

 一方、ロッテは先程よりも更に渋い顔になる。
何となく気に入らないのだ、この丸男とアリアの、歯に衣を三枚くらい重ねたようなやり取りが。

「わかりました、では各商品の詳しい取引量と価格については、計量の後、詰めるということで。では、さっそく計量に入りましょう」
「そういえば、計量人はどうするのじゃ?」

 二段飛ばしで商談を進めようとする丸男に、ロッテが待ったをかける。

 例のごとく、余所の商人が地元商社と取引する場合には、地元組合から派遣された計量人が外来商人に付き添い、計量に立ち会うのが一般的なのだ。
 しかし、街に入って最初に寄ったとある組合からは、計量人が派遣されることもなく、この商社へ行きなさい、という指示と許可書を貰っただけであった。

「おぉ! そういえば、ゲルマニアの方には馴染みのないコトでしたな」
「む? いや、妾は」
「此国では、相互の信頼が第一、ということで、組合が我々の取引の内容に踏み込む事はあまりないんですな。ですから、計量は各商家の裁量に任せるのが一般的でして」
「しかし信頼といってもじゃな、此方からしても、其方からしても、初見の取引なワケじゃろ?」
「いえいえ、この道二十年の私にはわかります。貴女様方が信頼に値する御仁であるということが」

 訝しげなロッテの言を遮って、丸い顔を破顔させて言う男。
 そういう事ではないじゃろ、と納得のいかないロッテは更に突っかかろうとするが、口を開きかけたところで、アリアの「まぁ、うれしい」という声に制される。
 話が良く分からないエレノアは、アリアとロッテの顔を交互に見やり、困ったような顔をした。

 丸男はそれを是と受け取ったか、そそくさとまっさらなレース生地を馬車から運び出し、作業台に乗せる。
 すると、呼ばれるまでもなく、見習いの小僧が一人駆けつけ、アリア達に軽く頭を下げた後、円筒状にぐるぐると巻かれた生地を手際よく台の上で伸ばし、生地の状態をチェックし始める。
 〝検反〟と呼ばれる作業。生地のキズ、パターンの欠損、汚れ、粗などを探し、使い物にならない部分を除外しつつ、その寸を採っていく。地味な仕事だが、織物、編物を扱う商社にとっては重要な作業の一つである。

「あら、こちらでは、織物の単位はパルモ単位なんです?」

 アリアは薄らと笑みを作ったままで、目を細めて言う。視線の先は見習いの持つ物差し。

 パルモ単位、とはロマリア由来の手のひらを基準とした長さと面積の単位。
 その上位の単位をブラチョ(腕の長さ)、カンナ(ブラチョの3と1/2倍)とされている。

「ええ、まあ。弊社の経営者が、元々はロマリアの出でございまして」
「そうですか……。あの、出来れば、ですが、サント単位でお願いしたいのですが。私共の都合で申し訳ありませんが、サント単位で購入したものをパルモ単位にしてしまうと少々計算の扱いが面倒で」
「おや……。ロマリア系の商社なんかでは、此方の単位を使う機会も少なくないでしょうから、扱いには慣れておいた方がいいですよ。ま、今回はサント単位でお測りしましょうか」
「はい、お手数おかけして申し訳ありません」

 押しつけがましい丸男にも、アリアはぺこりと頭を下げる。

 丸男が見習いに何事かをささやくと、見習いは一度奥へ引っ込み、また別の物差しをもってきて、検反作業をやり直す。
 その様子を見て、アリアは「重ねがさね申し訳ありません」ともう一度頭を下げた。



 そんなやり取りの後は、特筆するべきやり取りもなく、淡々と計量が進んでいく。
 丸男が提示した交換価額の見積もりも至極真っ当なもので、アリアは二つ返事でそれを了承した。

 取引は滞りなくスムーズに進み、トリステイン産のモノばかりだった馬車の荷は、店の見習い達によってその半分ほどをガリア産のモノとテキパキと入れ替えられ、彼女らはこの街での商いを終えたのだった。

 エレノアが生きた豚や鶏が運ばれてくるのを見て、かなりヒイていた事は記しておこう。
 
 

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「ったく、初っ端からご挨拶だこと……」

 商社を出て一分。
二頭の若駒の手綱を引いて歩く私は、精神的な疲れを感じつつ、盛大に溜息を吐く。
 あまりに無理をして笑顔を作っていたものだから、もう、顔の筋肉が引き攣ってしまいそうだ。

「どうしたのよ? さっきまではニコニコペコペコしていたくせに」

 私の呟きに対し、後ろからぴょこぴょこと付いてきていたエレノアが疑問を浮かべる。
 
 ちなみに、彼女の名前は、この旅の中では、エレノア、で通す事にした。
 エレオノール・ド・ラ・ヴァリエールでもなく、エレノア・ド・マイヤールでもなく、〝ただの〟エレノアだ。

 ここはもうヴァリエール家の力も届かない(多分)ガリアだし、エレオノール、という名は貴族でも平民でも、ガリアやトリステインではそこまで珍しくはない。だから、本名を呼んでも、そう問題はないだろうけれど。
 まあ、気分的なものね。公爵令乗のエレオノールサマではなく、エレノア、という個人として接するための儀式的な渾名、といったところかしら。
 
「ガリアの商売人は、優雅で上品な商いの仕方を好むのよ。彼らから見れば弱小の立場である遍歴商人に関しては、そこに謙虚である、という要素も加わるし。私だって好きでニヤニヤとしてるわけじゃ」
「あ、ちょっと待って」

 侮蔑的なニュアンスを含む物言いに、少しだけカチンと来て言い返そうとすると、エレノアはそれを手で制して、ごそごそ、と懐を漁り、羊皮紙の束とペンを持ちだした。

 これらの筆記具は「せっかく旅をするのだから、この機会に外国の事や、市井の事についても知りたいわ」と彼女が言い出したので、私が与えたものだ。
 知的好奇心が旺盛なのだろう。生まれが生まれならば、商人に向いていたのかもしれないわね。

「ご挨拶、というのは散々っぱら、待たされた事についてか? あれは妾も腹が立ったのう」
「それもあるわね。今の時期、この街の商社がそこまで忙しいわけがないのよ。丁度、〝春の大市〟の片づけも終わって、一段落ついているはずだしね。御近所のトロイは今、〝夏の大市〟の真っ最中で、酷く忙しいでしょうけど」

 話が中断されたところで、今度は荷台のヘリに腰かけていたロッテが話しかけてくる。
 そう、丸男の『忙しい』というのは、只のリップ・サービスであり、現実は応対を後回しにされたにすぎない。

「ま、でも、ガリアの商店は何処でも、新参者の相手は後回しって、有名な話だしね」
「ふむぅ……。我が祖国ながら、何とも腹立たしい話じゃ」
「不確実な商売を嫌う、古くからの得意先を大事にする、それがガリア商人の気質らしいわ。ややトリステイン商人のソレと似ている、かしら」

 そこで一度区切りを入れると、トリステインなぞと比べるな、とロッテはしかめっつらをする。
 エレノアはそれに反論することもなく、ただ忙しなく手を動かしている。勉強熱心なことで。こうなると、私も話のし甲斐があるというものだ。

「でも、ガリアとトリステインでは決定的に違う点がいくつかあるわ」
「ほぅ?」
「豊かすぎる資源、各地域に根付いた確たる産業、経済大国であるロマリアとゲルマニアに挟まれているという地理的有利、ハルゲキニア一の魔法先進国であること、そして黙っていても各国商人が飛び込んでくる富裕な市場。このガリアにはギャンブルなどしなくとも、儲かる土壌が形成されているということ。特に、この一大交易地域、シャンパーニュではね」

 両手を広げ、古き良き街並みを見渡すようにして言う。

 此処はガリア北部、バール=シュル=オーブ。

 オルレアンから少し東、カルカソンヌから結構西。
 シャンパーニュ大伯爵が治めるシャンパーニュ地方に存在する四つの都市の一つであり、ひどく長大な歴史を持つ商業都市である。
 その歴史はゲルマニアのケルンやアウグスブルグなどよりも古く、それこそ云千年前に遡る、といわれている。

 この街の土着産業としては、麻織物と麻製品の製造、シャンパンの製造、などが盛んであるが、実はそこはあまり重要ではない。

「ん? それもある、ってことは、本当に気に食わないのは別の理由?」
「えぇ。モノサシのトリックってやつね」
「何それ?」
「パルモ単位ってのは超曖昧な単位でさ。今じゃ本家のロマリアでもあまり使われていないのよ。たとえば、ヴェネツィア単位じゃ1パルモが6と1/2サントだけど、ジェノヴァ単位じゃ7と1./4サントだし、トスカーナ単位では約10サント。地域によって長さがまるで違ってしまうの。そして、他国じゃ普通、パルモなんて単位は良く知られていない。知っていても、どこか一つの地域の長さだけとか、ね」
「つまり、どういうこと?」
「ロマリアならともかく、他国でその単位を言いだすってのは、寸法をチョロまかすのに良くつかわれる手ってこと」

 しかも、この街の東隣にある都市こそ、万国共通の商業単位・トロイ衡の発祥地である、トロイの街。
 あの商社が本当にロマリア系商人の興した社であったとしても、ロマリアのマイナー単位を、このシャンパーニュ地方で持ちだす事はあまりにも不自然だ。

 ただ、ガリアでは組合が商人同士の取引にあまりうるさく関与してこない、というのは、この街の組合の対応を見ても、本当なのかも。
 これはガリア商人の多くが、己の見識に絶対の自信を持っている証拠だろうね。すなわち、騙す事はあっても、騙される事はない、という。

「ん~、と……?」
「こほん。貴女が一番有名なヴェネツィア単位しか知らないとしましょう。生地を1000パルモ分(31と1/4カンナ)くれ、といわれたら65メイル分か、と思ってしまうわよね?」
「そうね」
「でも、モノサシがトスカーナ単位のパルモならば、100メイル分になってしまう。1パルモが2スゥといわれたら、貴女は65メイル分で20エキューか、こりゃあいい、とおもうかもしれない。でも、実際は100メイル分を20エキューで買い取られてしまう、ということね。ま、さすがにそこまで長さの違いがあれば、目算でおかしいのがわかってしまうけれども、相手が無知なら少々のちょろまかしは可能でしょう」
「じゃ、じゃあ、あいつ、〝私達〟を騙そうとしたってこと?!」

 そこまで説明してようやく、エレノアが憤慨したように言う。
 ここでアンタ達、じゃなくて私達、と言うか。順応性いいな、君。

「騙すってより、試すって感じかもしれないけれど。私が突っ込みを入れなければ、こちらを軽く見た商売をするつもりだったんでしょう。ただ、その後の取引については至極真っ当だったから、テストはパスってとこ? どちらにしても、あまり気分のいいものじゃないけれど、ね」

 もう少し補足しておくと、あそこで「それは何処の地域のパルモ単位で、サントに直すといくらですか?」などと問い詰める事もできたが、それはちょっとうがった解釈をすれば、相手を疑っているようにも取られてしまう。なので、こちらの不勉強ということにして、あの場をさらりと流したのだ。
 もっとも、それでもなお、妙な取引をするつもりであれば、その時は店換えをするつもりだったが。

 しっかし、ガリアに入って最初の取引でこれだもんなぁ。やはり、この国での商売もまた、一筋縄ではいかない、ということか。

「なるほどの。で、今はこれ、どこに向かっておるのじゃ? どうにも来た道を戻っておるような気がするのじゃが」
「気がする、じゃなくて戻っているんだもの。さっきの組合に」
「はぁ? どうしてまた?」
「そうね、そろそろ、直でこの街に来たワケと、今後の事についても話しておくかしら」

 パール=シュル=オーブは、ヴェル=エル街道沿いのトリステイン国境からは、それなりに離れたところにある街である。
 途中には王家の直轄地であるオルレアンの肥沃な農村地帯や、同じシャンパーニュ四都市の一つ、プロヴァンの街もあった。

 しかし、私はそれらを素通りして、何よりも先に、この街に来る事を選んだのだった。
 そして、そのルートを選んだ理由をまだ彼女らには明かしていない。

「あ、そうじゃった! 妾がプロヴァンの薔薇キャンディは格別、と言っておるのに無視しよってからに! 納得いかぬ理由であれば、お主の夕餉は抜きにするからの!」
「そうよ! そうよ!」
 
 ロッテがこちらを責めるように言うと、エレノアがそれに便乗する。

 スクウェアメイジと偽ったからか、盗賊相手に無双したからかどうかは知らないが、あれからエレノアはロッテ贔屓なのよね。
 メイジのランクってのはそれほど重要な事柄のかねぇ、と旅のリーダーであるはずの私は少しジェラシーを覚えてしまう。

「はいはい。まず、この街に来たのはね。シンプルに言うと、未来のためよ」
「なんじゃそりゃ」
「来年の〝春の大市〟に出店するためってこと。この街をこれから回っていく予定ルートの、出発点であり、到着点でもある、ということにしたかったのよね」

 このシャンパーニュにある四都市の目玉。

 それが、各都市持ち回りの年中歳市(非課税市)だ。

 春はこのパール=シュル=オーブ、夏はトロイ、秋はプロヴァン、冬はラニーで。
 これらの歳市を総称して、〝シャンパーニュの大市〟と呼ぶ。
 教会の庇護を受けた大商人の支配するロマリア商業圏と、都市間同盟(現在でいうゲルマニア五大アルテ)という強力な組合組織によって統制されていたゲルマニア商業圏が、二つの大運河に囲まれた中間地点であるガリアのシャンパーニュで接触交易を始めたのがそのはじまり。
 現在では、ロマリア商人のもたらす香料、染料、砂糖、絹織物、ガラス製品、陶磁器、美術品、服飾、宗教関連の品々と、ゲルマニアからもたらされる、綿、毛織物、毛皮、蝋、蜜、ニシン、木材、小麦、卑金属類、刃物、織機、その他工業製品など、また、地元ガリアの品も、当然ながら大量に取引される大国際市場となっている。

 地理的な幸運だけでなく、かつての大領主シャンパーニュ伯が、この市場を保護するため努力したのもまた、この市場が大きくなった理由であろう。
彼は領地にある全ての都市の入市税を無税にしたり、新規に出店、進出しようとする地元商人に対して、最初の五年間(外国商人に対しては一年間)は税を大幅に緩和したりして、新規の商人の呼び込みを行ったのだ。
さらに、現在の規模からすれば発展途上だった市場に目を付けたガリア王家が、一見シャンパーニュ伯にとっては有利な条件、つまり侯爵位相当の領地への領地換えを申し出てきたことに対して、彼はきっぱりとそれを断り、さらに王家へ多額の金銭を収め、永劫にこの都市群をシャンパーニュ家の、及び現在の領民のものであるということを認めさせたのである。

おそらく、その時王家が管理することになっていれば、これほどまで市場が発展することはなかっただろう。

「ぬ。どうして来年の市のために、今ここに来る必要があるのじゃ?」
「大市に飛び入り参加は不可。市の開かれる一月前までに、各都市の組合に事前登録する必要がある、という話よ。それで、もう一回、組合に向かっているというわけ」
「ならば、最初に登録しておけばよかったではないか。二度手間じゃぞ、これでは」
「いや、あの時は担当者がいない、とか言われたのよ。じゃあ、先ずは取引を済ませよう、と思っただけ」

 昔は飛び入りばかりの市だったのだが、現在ではあまりに多い参加者に、飛び入りは不可となり、事前に予約を入れておかねばならないことになっている。

「この街で春の大市が開かれるのは、来年のティールの月の第一日。今から大体、八か月先の話ね。それまでに、ここをスタートとして、ガリア西部、ロマリアと踏破して、ガリア東部を回って、再びこの街へ。つまり反時計回りで、ガリアとロマリアを踏破する予定よ」
「ふむ。あっちへ行ったりこっちへ行ったりよりは、わかりやすくて良いかもな」
「でしょう? ……で、エレノア」
「なによ?」
「目的が無事果たせたとして。貴女を家に送り届けるのはそのあとになるとおもうけれど、いいかしら?」

 駄目だとはいわないだろうけれども。一応ね。

「八か月、いや、九か月、か……。勝手に家を出といてなんだけど、大丈夫かしら」
「居場所や何をしているかは言わずとも、〝私は大丈夫、心配しないで〟くらいの手紙は書いてみたら? そのくらいの費用は出すわよ」
「そ、そうね」

 もちろん、郵便代も、後でちゃんと経費としてヴァリエール家に請求するけどね。
 私としちゃ、エレノア個人のコトはともかく、ヴァリエール家がいくら騒ぎになろうが知ったこっちゃないが。

 いや、むしろおそれ、慌てふためくがよい! 先祖がケルンに攻め入った報いよ! そして懸賞金をもっと、もっとあげるのだ! くふはははっ!
 
「しかしな、今から予約を入れるほどに価値があるのか、この街の市は。いや、随分デカイ規模の市だとは知ってはおるがの」
「もちろん、あるわ。特に、来年春の歳市は、何年に一度かの大チャンス、通称、〝祭市〟なのよ!」
「祭市?」
「来年、王族皇族が招かれるラグドリアンの園遊会が開かれるのは知っている?」
「うむ」「当然」

 私の確認に、ロッテとエレノアは揃って頷く。

 ガリアとトリステインの国境にある、ラグドリアン湖。
 そこを舞台として、各国の王族皇族がまねかれて行われる、大規模なパーティーのようなもの。
 それが開かれる年度は不定期で、国際的に大きな慶事があった年の年度締め前、つまりティールの月の序盤に催されるのが通例だ。
 慶事というのは、たとえば、新教皇の誕生(これが今年の園遊会が開かれる理由。穏健派の教皇、らしい)、ゲルマニアを除く四大国の建国年度の節目、各国王家皇家に嫡男が誕生したなどなど。

「その余興のようなもので、その年の春市の開きには、王族皇族も視察というか、観光というか、そういう名目で顔を出すらしいのよ。なんで、市もより華やかで盛大なものになるらしいわ」
「え、それ、本当?! ヘンリー王殿下やマリアンヌ王妃殿下も来るのかしら?!」
「多分ね。ま、ぶっちゃけ、それ自体は私達にはまるで関係ないのだけれど。でも、その分客はいつもより大勢集まるということ。私としちゃ、ここで、仕上げの荒稼ぎといきたいわけ!」
「仕上げ、か。それまでに妾らの商いが続いておれば、いいのう?」

 不吉なことを言わないでくれたまえ。
 私とて、自信はあっても、確信はないんだから、さ。



ж



 と、言うわけで、再びパール=シュル=オーブの北門ちかくの組合へと舞い戻ってきたわけだけれども。

「また、か……」

 組合事務所が入っている、オレンジ色のレンガ建物の向かい側にある、オープン・テラス式カフェ。

 おかわり自由という、アイス・ティーももう五杯目。
 さすがに腹の具合も店員の目も厳しくなってきたところで、ロッテは草臥れたように、テーブルへ顔を突っ伏した。

 そう、私達は本日二度目の待ちぼうけを喰らっていたのだ。

 なんでも、〝まだ〟担当者がきていない、だそうで。
もう、とっくにお昼を回っているのだけどね。来てないワケがないだろ、っていう。

 しかも、組合の事務所はかなり手狭で、丸男の商社のように、待合室がないという。
 『どこで待てば?』と受付の姉ちゃんに問えば、『外のカフェでどうぞ。担当が来次第、そちらに向かわせます』などと言ってくれたわけだ。

 しかしね……。この飲み放題のアイス・ティー、三人で30スゥ、は自腹なわけでさ。

 何? そういう商法なの、これ?

「商人って、意外と暇なのね。逆に疲れちゃうわよ、これじゃ。それにこの紅茶、泥水みたいな味しかしないのだけど」
「紅茶の味についてはノーコメント。でも、これじゃ前者は否定出来ないわね……。さすがに対応悪すぎでしょうよ、マジで」

 エレノアが肩を竦めて呆れたように言い、私もそれに倣う。
 ゲルマニアは当然として、トリステインでもここまで露骨におざなりな扱いはされなかったんだけどなぁ。

 罵声や皮肉なんかを直接的に浴びせられているわけじゃないけれど、彼らの行動の端々に、私らを馬鹿にしているような態度が見受けられるのだ。

 むきぃ……っ!

「ガリア人は陰険、っていうけどさ、やっぱりそうなのかもねぇ?」
「やっぱり、トリステインが一番ってことよね」「おい、妾は陰気者などではないぞ、たわけ」

 一番はゲルマニアに決まっているじゃない。何を言っているのかしら、この子は。
 ロッテの方は、ガリア人っていうか、人じゃないよね、まず。



「ちょっと、そこのお嬢さん方」

 そうやって私が憤慨していると、後ろからぽんぽん、と肩を叩かれる。
 いきなりの無礼な呼びかけに眉を顰めて振り向くと、これといった特徴のない顔の青年が困ったような表情で立っていた。

 げっ……。

「も、もしかして、組合の?」
「えぇ、対応の悪い組合の、陰険な男でさ」

 青年は意地の悪そうな半笑いで答える。

 うぎゃあ。やはり、聞かれてしまっていたか。

「はっ、自虐などしておる場合か。どれだけ人を待たせるんじゃ」
「いや、まったく、おっしゃる通り。すいませんね、随分とお時間を取らせてしまったようで」

 待たされる事によほど苛ついていたのだろう、ロッテは開口一番、青年にインネンを付ける。

 ま、どうせ聞かれてしまったのならば、この程度、文句を付けても変わらないか。
 組合側の対応がひどいのは事実だし、あまりに謙りすぎても、今度は卑屈に見えて、軽んじられるかもしれない。

 そこいらの匙加減が難しいところなのよ。
 どこぞの商家が、国別・地域別の応対マニュアルでも作ってくれないかしら。

「おほん。まあ、それは一旦置いて。早速歳市の話に移りたいのですが?」
「あぁ、市の申し込み……ですね?」

 青年が確認を取るようにこちらへ視線を向けたので、私はそれに無言で頷く。
 すると彼は、私達の着いている四人掛けテーブルの、空いていた椅子にどかり、と腰かけ、手に提げた鞄をゴソゴソ、と掻きまわし始めた。

 彼の身につける安物だろう麻のチュニックにはほつれが目立ち、ラム革の靴は泥で汚れている。小汚い無精ひげを生やしているのも、商売人のする格好としちゃ落第だ。

「少々お待ち下さいね。えぇ、と、確かこの辺に……」

 何となく鞄の中身を覗き見ると、ひどく大量の書類が入っているのが見えた。
 青年はその中から何枚かを抜き出し、テーブルの上へと並べていく。

 おかしな男ね。

 組合の受付には、こちらの用件は歳市の申し込み、と伝えてあるのだから、それに関するモノだけを持ってくればよかったのではないだろうか。
 
「では、まず、こちらを見ていただきたい」

 書類の七並べが終わり、青年が指差すのは、この街、パール=シュル=オーブの簡略的な地図らしきもの。
 黒色のインクで描かれた見取り図の上に、朱色のインクで、A≪ア≫、B≪ベ≫、C≪セ≫、D≪デ≫と区分けされている。

「ねぇねぇ、この区切りは、なに?」
「市の露店ブースの等級分けでさ。Aの区域は、この街のメインストリートであるガウル大通りの中でもさらにメイン。最も脚光を浴びる、花形の区域。等級が、B、C、と落ちるにしたがって、モノは売れにくくなるでしょう。等級がDともなると、あまり商売には向かない区域、となっていまして」
「へえ、同じ街でも、モノが売れる場所とか、売れない場所っていうのがあるの?」
「そりゃ勿論、貧民窟の近くや、袋小路繋がりの路地じゃあ、モノは売れませんや。それに、同じ場所で同じようなモノを売っても、周りの店の動向や、客足の多寡、天候の違いなんかによって、その年その年で売上は大分変わってくるんでさ。しかし、これまでの統計からいって、等級の高い区域が相対的に売れるのは確実、と言いきれますがね」
「ふぅん、結構、奥が深いものなのね~」

 青年の説明に、エレノアは感心したかのように、いや、事実感心しているのだろう、しきりに首を縦に振っている。
 が、私とロッテの表情は曇りがち。青年の言っている当たり前の常識の中に、胡散臭いモノがいくつも混じり込んでいたからだ。

「……で? ショバの決め方は? くじでの抽選かしら?」
「いえ、そこは商人としての実績と格を重視して、こちらの独断で決めさせていただいているのですが」
「実績と、格、ねぇ?」
「いい加減だな、と? ええ、その通りでさ。つまり、それは建前でしてね。実際は、もっと明確な判断基準がありまして」
「はあ」
「商人の価値を決定付ける物、といえば、やはりその最たる物は」
「つまり、金銭、口利き料を納めろ、と?」
 
 次に続く青年の言葉を予測して代弁し、にこり、と笑いかける。
 青年は一瞬たじろぐが、気を取り直したように座り直し、なおも饒舌に喋り出した。
 
「え、えぇ、簡単に言うと、そういう事です。や、これは別に不正というわけではなく、この辺りでは昔からの慣習のようなもので。当然、その額の大きい方から、優位な条件を与え、ウッ?!」
「黙れ」

 所謂、ノド輪。
 聞いてもいない事をぺらぺらと喋る青年の首根っこを捕まえ、短く命令を下す。

 鬱陶しい男って、嫌いなのよね、私。

「あ、アンタ、何してんのよ?!」

 傍から見れば、ひどく理不尽に見えるだろう私の暴力。
 案の定、エレノアは慌ててその暴挙を止めようと、私の腕に絡みつく。

「こいつ、サギよ」
「えっ?」

 行動の理由を述べると、エレノアはきょとんとした顔をして固まった。
 それを横目に、私は青年改め詐欺師に向き直り、ぎりぎり、とさらにその首を絞めつけていく。

「随分と舐めた真似してくれるじゃない? 女だから楽な相手だ、とでも思ったかしら? ……殺すわよ」
「ぐ、ぎっ、わ、わるかった、や、やめで、く、れ」

 眉を釣り上げ凄んでやると、詐欺師の男はごくあっさりと己の正体をゲロった。

 ふふん、私の胆力も、中々のものになってきたかしら?

「失せなさい」

 必死でもがく男に、肥溜めに沸いたウジ虫をみるような侮蔑的な視線を向けた後、ノド輪を決めていた手を離して吐き捨てるように言う。

「ちっ、畜生っ!」

 手を離すと同時に、詐欺師は此方へ向けて手提げ鞄の中身をぶちまける。
 安物インクの臭いがする紙吹雪がはらはらと宙を舞う。
 カフェの店員が吃驚して、持っていた盆を取り落とす。
 がしゃん、と陶器の割れる音がした。どよ、と周囲でざわめきが起こる。

 その騒ぎに紛れるようにして、詐欺師は陽の下に引きづりだされた地虫のごとく退散していった。

 あとに残ったのは、道端に散らばった紙吹雪の残骸。ったく、退場の仕方まで迷惑な野郎である。
 


 私は、はぁ、と虚しく息を吐き、席を立つ。



「ど、どうしてわかったの?」
 
 仕方なし、そこら中に散乱してしまった紙クズを集めていると、エレノアが詐欺師の消えていった路地を見つめながら問う。

 いや、手伝いなさいよ、雑用。

「まず、このような目立つ場所で賄賂の話をするのはおかしいじゃろ。そういう事は、いくら慣習化しておるといっても、日影でコソコソとやるものぞ」

 座ったままで六杯目の紅茶を啜っていたロッテがエレノアの問いに答える。だからあんたも手伝えと。

「目立つ……?」

 ロッテに言われて、エレノアが辺りを見渡す。
 
 周囲では、カフェの店員、客、通行人など、幾人かが、何ごとだ、とこちらの様子をチラチラと伺っている。

「みっ、見世物じゃないわよ!」

 ようやく己が好奇の視線に晒されている事に気付いたエレノアは、顔を真っ赤にして周囲に怒鳴り散らす。恥の上塗りだからやめなさいって。

「それに、もし彼奴の言うように、良い陣地を取るのはカネの多寡次第、というなら、払おうがはらうまいが、妾らの取れる陣地はどちらにせよ、変わらんしの」
「なんで?」
「……少しは頭を使わぬか。妾達のような、行商人、それも新米ごときが払える賄賂の額などタカが知れている。常識で考えれば、ベテランの商人連中の渡す賄賂の額に太刀打ち出来ぬのは明白じゃ。結局のところ、妾らに宛がわれるのは最低クラスの陣地にしかならんということよ」

 歳市には、行商人の他、小売商も参加してくるし、普段は商人にしかモノを売らない商社もまた、この時ばかりは、例外的に参加してくるのだ。
 一介の行商人が、定住商である彼らと同じ土俵で争う事は少々無理がある。

 ま、私達だけにワイロの話を持ち出した、というならまだ理解るけど。
 そんな口ぶりじゃあなかったしね。何せ、慣習化しているらしいもの。

「ま、それもあるけどさ。決定的だったのは、あいつが、ショバの決め方について、大嘘を吐いた事ね」
「ほぅ? 何故わかる?」
「一応さ、シャンパーニュの市に参加するために、この街に来るのは、ケルンを出る前から決めていたことだから、市の事は人づてにだけど、それなりには調べてあるのよ。それによれば、この市のショバ取りは、完全に先着順。しかも、商社と行商人のショバは別物で、被る事もないはずだから(これは何処の市でもそうだけれど)、その区分けがないあの地図もインチキだと判断したのよ。私が『くじ引き?』なんて問うたのは、ただのカマカケだったというわけ」
「なんと。妾はてっきり、市に参加する、などいうのは、ガリアに入ってからの思い付きじゃと思っておったわ」
「んなわけないでしょ!? 私がそこまで阿呆にみえる?! どういうルートを通るか、季節や地域によってどんなモノを商うか、そのくらいはあらかじめ考えてあるの!」
「だって、のう。トリステインでの行程なぞ、完っ璧に場当たりだったではないか。当初はスカロンの伝手を頼って、西側の農村にまで手を伸ばす気だったんじゃろ?」
「それは、その……。いっ、色々とあったけれど! ここからはちゃんと、予定通りに、行くわよ、多分!」

 そこを付かれると頭が痛い。トリスタニアの一件以来、どう考えても流れと勢いに身を任せ過ぎていたのである。
 ここは国も変わったところで、びしっ、とフンドシを締めなおさなければならないだろう。ご利用は計画的に、というアレだ。

 ま、計画が狂ったのは悪いことだけではないのだけれど、ね。

「大体さ、小道具もお粗末過ぎよ。身だしなみはひどいし、身分証明の一つも無しに、組合の者、と名乗られてもね」
「それはそうじゃの。そういえば、この場合、公証人というのはいらんのか?」
「ん~、微妙なところ。登録したという証は欲しいところだけれど、金銭の貸し借りや財産の贈与、分配などではないし、公証人を必要とするほどの重大な契約証、とするのはちょっと無理かも。もしどうしても公証人を付けろ、というなら、こちらがその費用を負担しなければならないでしょうね」
「ふむ、なるほどな」
「しかし、随分と程度のひくい詐欺だわよ。あんなのに引っかかるヤツなんているのかしら」
「ま、おらんじゃろうな」
「……そ、そうよね! い、い居るわけないわよね!」
「……」「……」

 私とロッテが同じ見解に至ったところで、挙動不審にどもりながら同意を示すエレノア。

 そういえば、居たわよね、それも割とすごく身近に。



 私とロッテは、能面のような顔をして、乾いた笑いを零した、その時。



「見事な手際だな、新米にしては、だが」

 スタンディングオベーションをしながら、こちらに近寄ってくる三十路くらいの男。

「……?」
「こちらが遅れてしまったせいで、迷惑を掛けてしまったようだな。謝りはしないが、怒らないでほしい」

 先程の男とは打って変わって、立派な身なりである。
 チャコールの外衣≪コタッルディ≫を着込み、足元には牛革のブーツ、手元にも牛革のバッグ。男としては長めの髪を、ポマードでオールバックにビシリと決めている。

 その風貌は商家の若旦那を地でいった感じで、出来る男、といった雰囲気を醸し出している。口ぶりからすれば、彼がホンモノの担当者、だろうか?

「アンタもサギじゃないでしょうねっ!?」
「さぁ、どうだろう?」
「ばっ、馬鹿にしているの?!」
「はは、不謹慎だったか。申し遅れた、私は、バール=シュル=オーブ第一同業組合に属する毛織物商、モンタンという。商売の傍ら、組合の事務も兼任している。どうぞ、よろしく」

 金切り声で突っかかるエレノアを軽くいなし、組合員証を提示しながら、自己紹介をする男。
 組合組織の極端に発達したゲルマニアでは、組合の委員会に雇われた専業の職員、というのが多いけれど、他国では組合構成員である商人が、その役割を兼業していることが多いのだ。

 躊躇もなく差しだされた右手を握り返してやると、男は不敵に笑んだ。

 うぅん。組合員証はホンモノっぽいし、物腰がやや横柄なあたり、地元商人のそれよね。

 それに、彼は、私が詐欺師を手荒く追っ払ったところを見ている。猜疑心のアンテナがビンビンに立っているところに、二匹目の泥鰌がわざわざ声を掛けては来ないだろう、多分。

「これはどうも、ご丁寧に。ケルンの遍歴商、アリアです」
「思っていたよりもなお若いな。ケルンといえば、ツェルプストー商会が有名だが。やはり、君もその関係で?」
「いいえ、彼の商社と直の関係はありません。私は、フッガー商会の系列店で修業をさせてもらいましたので」
「おぉ。フッガー商会といえば、私の社で扱っている羊毛の仕入れ先じゃないか」
「それはまた奇遇な。この出会いもまた、始祖の思し召しなのかもしれませんね」

 男の言葉に、歯の浮くような、しかし実はいい加減なセリフを返す。

 外国の商社事情に関しても、それなりの知識はあるようね。

 ま、彼がホンモノの担当者かどうか確認するには、彼を向かいの組合事務所に連れて行って、中の人間に確認させればいいだけなのだけれども。

 しかし、「この人、ホンモノの担当者ですか?」なんて言ってしまうのも、ねぇ?
 それでホンモノだったら、機嫌を損ねて大市の参加なんて許可しない~っ、とか、そうでなくても、最低最悪のショバを割り振られる、なんてイヤガラセもあり得る……かもしれないし。
 
 う~ん、どうしよ。

「ふぅむ、ま、あんな男が現れたばかりだ、今一、私が信用が出来ないのだろう?」
「あっ……。い、いや」
「よし、では、事務所の中に移動しないか? それならば君らも安心できるだろう。こちらとしても、疑われている、というのはあまり気分の良いものではないしな」
「ま、まま、まさか、疑ってなど。そっ、その必要はございません!」

 悩んでいたところで、こちらの心を見透かしたような男の申し出。
 殆ど反射的にそれを断ってしまう私。暗に、「お前は俺を疑っているな?」という問いだったからだ。

 ロッテが小声で、たわけ、と呟き、こちらを非難するような視線を送ってくる。

 い、いや! でも、詐欺師であるのなら、事務所に行こう、なんてスイサイダルな提案をするわけないじゃない。

 うん、問題ないわ。システムオールグリーンで、発車オーライよ。

「そうかね? ならば、ここで手続きをしてしまおうか。いやあ、正直、あの狭い事務所
の中の方が、外よりもずっと暑苦しくてね。私としても、此処で済ませられるならその方がいい、はは」
「おまけに汗の臭いがひどかったしのう」
「そうそう、まったく、換気くらいしてほしいものだよ。……お~い、店員、私にもアイス・ティーを頼む」

 男が流れるように注文を繰り出すと、それを待ち構えていたかのように、テーブルの上に四つ目のグラスが置かれる。
 男はヴァン・スゥ銀貨をカフェの給仕に放り、余りはチップだ、と太っ腹なセリフを吐き出した。

「おっと、失礼してもいいかね?」

 私がどうぞ、と言うと、男は先の詐欺師が座ったポジションにゆっくりと腰かける。
 続けて、牛革のバッグからクリップで纏められた冊子をするりと取り出し、それをこちらに手渡してきた。

 冊子には、〝おいでませ、バール=シュル=オーブへ〟というタイトルが付けられている。
 ぱらぱらとページを捲ると、細かい字でずらりと市と街の歴史と沿革、街の名スポット・店の案内、歳市の詳細や特徴、地図などがまとめられていた。
 市の、というより街全体のパンフレットのようなモノらしい。ページを何度も捲った痕があるから、多分これは、ここで閲覧するだけのモノね。

「この市への申し込みは先着順、と聞いたが、それ以外に参加する条件はないのかや? ほれ、商人としての格が、とか、実績が、とか」
「受付で経歴や素姓を聞かれたろう? そこで断られることがなければ、市に参加させても問題ない、と組合で判断した、ということだ。余程の事が無い限り、拒否されることはないがね。オールカマー、がこの市の趣旨の一つだからな」
「ほぅ。それは太っ腹な」

 今度はロッテがカマを掛けるが、男はそれには乗ってこない。
 モグリの商人や、怪しげな商売に手を出している者以外はオーケーということかな。

「しかし、それだけに余所にはない、色々な決まりごとがあるわけだ。他の国、街の歳市に参加したことは?」
「遍歴商としては、一度もありません。ただ、商社見習いとして、ゲルマニア国内の歳市に参加したことなら何度か」
「そうか。ならば、一般的に知られている市の決まりについては説明はいらないな。この大市独特の決まり事だけを説明しよう。それについて了承できない、というならば、大市への参加は許可出来ない。もっとも、この場で了承できない、などと言う者はおるまいがね」
「ですよね」
「ま、面倒で堅苦しいようだが、これをしておかないと、後々諍い、争いの火種になるケースが多くてな」

 困ったものだ、と男が短く嘆息する。

 祭りにケンカは付きもの、というが、実際、歳市ではショバ争いや商売の仕方を巡って、商人同士がドツキ合いになることも多い。
 シャンパーニュの大市ともなれば、その件数や規模も大きいのだろうね。

「一つ目は、大市の参加を許可したからといって、その全期間において露店が出せるわけではない、ということ。行商人なら一週間、商社であっても通常は一カ月、と期間が決まっているということだ」
「一週間? それって短いの?」
「短いわ、ね。普通は歳市の始まりから終わりまで、地元組合の許可さえ貰っておけば、自由に店を出せるモノなの」
「だが、仕方のない事なのだ。この大市には世界中から多数の商人が集まる。しかし、この街はその全てを同時に受け入れられるほど広くはない」
「ええ、もっともです。その点は問題ありません、了承します」

 人差し指を唇にやって、小首を傾げるエレノアに答えてやったあと、男の言葉に同意を返す。

 春市の期間はティールの月の初めから、ニューイの月まで、三カ月という長い期間に渡る。
 その中で、一人一人の商人が季節通じて場所を占有していたのでは、他に商売したい者が炙れて不満が出るし、たくさんの人を呼び込みたい運営側としては、常に目新しい店が立ち並んだ方が都合がよいということだろう。

 こちらとしても、そんなに長い期間を与えられても、売るモノに困ってしまいそう。一週間というのはちょいと短い気もするけれどね。

「よろしい。ちなみに、許可を貰っておいて、市に来なかった場合、シャンパーニュに存在する全組合のブラックリストに載り、今後この辺り一帯での商売は難しくなるので、日程には十分に気をつけることだ」
「う……。肝に銘じます」

 定住商人ならともかく、遍歴商人が姿を現さない場合、違約金なんかを取る事は難しいだろうからの処置か。
 一度リストに載ってしまえば、仮に行商人から定住商にクラスアップしてもそれは消えることはない。

 これは地味に痛いペナルティかもしれないわね。

「一週間、というが、準備や片づけの時間はどうするのじゃ?」
「来年のティールの月の第一日は虚無の曜日。よって、一週間の計算は、虚無の曜日の深夜12時から、翌虚無の曜日の同時刻、まで。露店の設置も、撤去もその時間内に行うこと。少しでも超過してしまえば、後の順に入っている者と争いになりえるので、絶対にやめてくれ」

 細かいなぁ。
 守れなかった場合は、来なかった場合と同じようなペナルティかな。

「大市では、どんなやり方で商売をしても良いでしょうか? あ、勿論、悪徳商法などという意味ではなくて。たとえば、オークション方式とか、叩き売り、抱き合わせ販売とか。まあ、細かい事をいえば、叩き売りってのは、ダッチ・オークションですけど」
「叩き売りやセット販売は個人の裁量で好きにやればいい。ただ、一般的な意味でのオークション(イングリッシュ・オークション)が行えるのは、タカラの市の二日間のみとなる」

 タカラの市? 聞いた事のない単語に、私達三人は揃って首を傾げる。
 1個、2個と数えられるモノを売るカズの市、織物や酒のように、長さや重さ、容積をはかって売るハカリの市というのは知っているのだけれど。

 ダッチ・オークションとは、公開の場所で行われる競り売りで、売り手が定めた最高価格から、売り手が徐々に値段を下げていき、買い手側が納得し、入札したところで落札となる。
 イングリッシュ・オークションとは、公開の場所で行われるのは同じだが、買い手が徐々に値段を上げていき、最終的に最高価格を提示した買い手に落札される。多くの人がオークションといわれて思い浮かべるのはこれだろう。

 他にも、買い手が提示額を知らされない封印入札方式、買い手と売り手が相互に値段を提示し合うダブルオークション、などなど、オークションには様々な種類があるが……、まあ、今は関係のないことだろう。

「タカラの市って? 何か、縁起のいい名前ね」
「一週間のうち、それぞれの日取りで市の種類を決めているのさ。それが二つ目の決まりごとだ。初日から三日目までは、カズの市。次の三日間は、ハカリの市。そして最後の二日間が、それぞれの商人が『これぞ!』と思う物を持ち寄ってオークションを行う、タカラの市となっている。この週間サイクルが、期間中繰り返し行われているわけだ。まあ、君らは行商人なので、1サイクルしか経験は出来ないだろうが」

 要は、各自メインとなるお宝は週末に回せ、ということだわね。
 常に売っている品目を換え、さらにトリに大物を持ってこさせることで、市を継続的に盛り上げる、という狙いかしら。

「エレノア、忘れるといけないから、今の話、きちんとメモっておいてくれる?」
「なんで私が」
「『何でもする』のよね?」
「わ、わかったわよ! 【自動書記】」

 頬を膨らませるエレノアをそうやって窘めると、彼女は渋々と言った感じに魔法を唱える。テーブルの上に置いたまっさらな羊皮紙に、安物のペンが踊るようにインクを落としていく。
 彼女の魔法で動かしているあたり、まったく自動ではない気がするけれど、魔法を使えない私からみれば、随分と便利なものにみえる。

「なんと。これは驚いた。お嬢さん達はメイジか……?」
「……まぁの。それよりも、期間が一週間しかない、ということなら、市開きの週、ティールの月の第一週が一番良い時期じゃと思うのじゃが。そういう希望は通るのかえ?」

 目を丸くする男の問いをロッテは軽く流し、私も聞きたかった事を問う。彼女も大分共同経営者として板についてきたものだ。

 一週間という制限付きの商売。ならば、彼女の言うとおり、出来れば市開きの週に入るのが圧倒的に良いに決まっている。
 何せ、園遊会のVIPがこの街に降臨するのは、ティールの月の第一週のみだろうしね。

「……ん? あぁ、最後から二番目のページにある、書付を見てくれ」

 行商人がメイジ、というのはそんなに珍しかったのか、若干上の空のまま、男が指示を出す。
 エレノアがその指示に従い、テーブルに広げた冊子をめくる。その頁にあったのは、こんな図だ。



簡略地図(一部)

○:全期間空きあり
△:一部期間受付終了(ほぼ開市の時期は空いていない)
×:全期間受付終了



××△×××△△△△○××△△○×××××△△××△×
───――――――――――――――――――――――――ロシュ通り(行商人通り)
○△××△△××○△×××○××××××△×××○△△

× × × × × × × × × × × × △ × 
───────────────────────────ガウル大通り(商社通り)
× × × × △ × × × × × × × × × 

× × × × × × × × × × △ × × ×
───────────────────────────ジェント通り(小売通り)
△ × × × △ × × × × × × × × ×



 春の市は、三つの通りで行われるらしく、それぞれの通りで業種が分かれているらしい。
 商社、小売などの定住商の区域に関してはほとんど空いていないが、行商人のワクはまだ結構空きがあるみたいね。よしよし。
 
「定住商は、市の片づけが終わったと同時に──今年の片づけが終わったのは先週の頭だが、その時点で予約を入れていく者が多いから、今の時点ではほとんど空きが無い。しかし、行商人に限っては、期間が短いのと、来年も行商人をやっている、と思いたくない者が多いのか。割とまだ空きがある。これが一週間ずれ込んでいれば、わからなかったがね」

 説明お疲れ様。
 そこは計画がずれてナイスだった点の一つよね。
 トリステインをまともに回っていれば、この街にくるのは、一週間どころか、一月以上後の事だっただろうから。
 しかし、定住商はともかく、行商人でも、思ったより皆さん初動が早いのか……。半年前までに来れば余裕、とか甘く見ていた事をちょっと反省しなければ。

「では、地図の空きを踏まえた上で、日程と場所の希望はあるかね?」
「期間は勿論、ティーユの月の第一週。場所は、ロシュ通り、南の四十一で」
「ほう、即決だな」
「通りのど真ん中ってのに惹かれまして」
「…………よし、遍歴商アリア、ケルン交易商会組合所属、南、四十一、と。こちらにサインを頼む」

 私が間髪入れずに即答すると、彼はあらかじめ出店許可の旨が書かれた二枚の羊皮紙に、日時、場所と自分の名を書く。そしてその二枚ともを、テーブルを滑らせてこちらへと渡してくる。

 一枚が組合に保存しておくもの、もう一枚は私達の控え分、か。
 私とロッテはそれらに連名でサインをし、一枚を男に返した。

「そちらのお嬢さんのサインは?」
「必要ない。経営しておるのは妾とコレだけじゃからな」
「なによそれ。ちょっとカンジ悪いわよ」
「あら、貴女も資本金を出すなら仲間に入れてあげるわよ?」

 ぷぅ、と頬を膨らませる無一文のエレノアに意地の悪い事を言ってやると、彼女は、むぅ、と唸る。

「くく、なるほど。ま、その控えは失くさぬようにな。失くしてもこちらに本式はあるから、なんとかなることはなるが」
「余った腹の皮にでも縫い付けておきますわ」
「はは、そうしてくれ。……さて、大きな決まりごとはこのくらいだが。他にも瑣末な決まりごとはあるが、それはその冊子にも書いてあるし、市の前にも説明があるだろう。他に、もし、何か質問があれば受け付けるが?」
「一つだけ」
「何だね?」
「参加の費用は? 普通の歳市だと、運営管理費として、事前の一律払いか、事後の出来高払いか。どちらかの方式で、地元の組合か、もしくは領主様に支払うモノだと思っていましたが」
「お、おお! 私としたことが、すっかり忘れてしまっていた。遍歴商の参加費、出店許可料、といってもいいか、これは組合に対して、一律で前払い30エキューだ。……はぁ、やれやれ、あやうく私が肩代わりをしなければならないところだったよ」

 おいおい、忘れていたって。そりゃ、一番大事な事じゃあないのかい?

 でも、ま、お金のことが頭から抜けていたというのは、逆に安心だわね。
 一律30エキューというのも、市の規模を考えれば安い方だし。
 
 そんな風に考えながら、私はずた袋の財布を取り出し、テーブルにエキュー金貨タワーを積み上げる。
 何かと入用になるだろう、といつもより多く現金を仕入れておいたのだ。

 10階建ての塔を三つ建てたところで、男の方へずい、と差しだしてやると、男は慣れた様子で、金貨の枚数を手早く確認していく。

「ふむ、たしかに」

 その作業が終わると、男は三十枚の金貨をうやうやしく黒革の鞄にしまい、もう一度此方へ向けて右手を差し出した。

「では、来春を楽しみにしているよ。道中気を付けてな」
「はい、どうもありがとうございました」

 再びガッチリ握手を交わす、私と男。
 数秒して手がほどかれると、男はくるりと回れ右をして、悠然とした足取りで街へと戻っていく。
 毛織物商、と名乗っていたし、これからまた店の事務仕事でもあるのだろうか。掛け持ちというのは大変だね。





「さて、私達も行きましょう」

 男の背中が消えるのを見届けてから席を立ち、ロッテとエレノアを急かす。

「そうじゃの。そろそろ宿を探さんと、またぞろ野宿じゃからな」
「ねえ、久しぶりの街なんだし、お風呂付きの……」
「こら」「おい」
「なっ、何でもないわよ!」

 やはり、そう簡単にお嬢様気質は抜けないようね……。

 ま、狙いドンピシャの日程と場所が決まって気分がいいし、公衆浴場くらいは連れて行ってやろうか。



──などと、弛緩しきった思考に浸かっていると。



「お前さん達が、ケルン交易商会組合のアリアさん御一行かね?」
「へっ?」
 
 カフェを辞し、表通りへと出ようとしていた私達に、再び声がかかった。
 声の主は白髪の爺さん。麻のターバンに、麻のチュニック、パンツ、とかなりラフな格好の老人だ。

「こんな格好ですまんね。市の運営関係でちょこっとトロイまで出ていてな。まったく、今日は一日居らん、と言っておいたのに、お客さんを待たせよってからに」

 曲がった腰をさすりながら愚痴を漏らす爺さん。
 いや、ちょっとまて。

「は? いや、今、担当の方に許可は頂きましたけれど」
「うん? 何の許可だい?」
「ですから、来年の大市に参加する──」
「はて。遍歴商の受付窓口は、組合に儂だけやが」

 いやいやいや。

 何を言っているのさ、この爺さん?
 ボケているのかしら? まったく、徘徊しないようにちゃんと面倒みときなさいよ。
 
「……ご老人。参考までに聞くが、市の参加費というのは、今、支払わねばならぬか?」
「いんや? 申請の時に金など要りゃせんよ。商いの後、組合へ利益の一部を納めて頂くことにはなっておるがね」
「ちなみに、三十九と四分の一掛けることの百八十二と二分の一は?」
「七千百六十三と八分の一やが?」

 失礼ともいえるロッテの問いに、一秒のラグもなくさらりと答える爺さん。

 ぼ、ボケていない……だと? しかも、金は要らない、だと?

 まさか。

 いや、まさか。

 こ、この私が?

 このアリアが?

 商才の塊とまでいわれた(自称)このアリアがあっ?!

 そ、そんなワケ……!
 
「ど、どういう事じゃ? よもや、あやつもサ──」「もしかしなくても、騙さ──」
「お黙りっ!」

 あんたら、ナニを口走ろうとしてんのよ?!
 
「む、む~!」「んぐっう!?」

 ロッテとエレノアの口を片手ずつで乱暴に塞ぐと、両者から抗議の視線。

 抗議したいのはこっちよ!

 〝その言葉〟を口にしてしまう事は商人にとって、最大級の赤っ恥よ?!
 ド素人じゃあるまいし、口が裂けても言ってはいけないのよ、それだけは!

「……どうかしたんかね?」
「ほほほ、何でもありません。何てことありませんのよ? ただ、この暑さにやられたのでしょう、妙な事を口走っていたので、お見苦しくないように、と。本当に、どうってことありませんので、お気になさらず」
「そ、そうかね? んじゃ、早いとこ、組合へいこか? 一応、水枕くらいは出せると思うでな。お連れさんを休ませてやりなさい」
「えぇ、行きましょう、早く行きましょう、そうしましょう」

 ふ、ふふふ……。

 やってくれるじゃあないか。やぁれやれ、私も未熟なものだわ……。
 これは、フンドシを締め直すどころか、お尻の穴から締めないといけないかもしれないわね。

 老人の猫背をぐいぐいと押しながら、私は己に、少々下品な戒めの楔を打ち込んだのだった──



ж おまけ



「ほぉ、騙された~、とは言わないか。女の子だし、てっきりヒステリーでも起こすのかと思っていたよ」

 バール=シュル=オーブ第一同業組合の事務所の二階。
 締めきったカーテンの隙間から、一部始終を覗き見ていた中年の男が、感心したように言う。

 ちなみに、組合の事務手続きや事務作業は、全て一階部分で行われており、二階部分は、この部屋以外は、資料室や倉庫となっている。

「謂れのない性差別はやめてくれませんかね」
「ごめんごめん。男でもヒステリックなヒトはいるしね。失言だったか」

 男の言葉尻を捕まえて抗議をするのは、目つきの鋭い、若い女。

 男が腰かけているでっぷりとした椅子の前のデスクには、筆頭運営委員、と書かれた表札が出されている。
 それから推察するに、中年男はバール=シュル=オーブ第一同業組合の長、女はその秘書、といったところか。

「で、彼女らに関するキミの見立ては?」
「新人としては、かなり上出来だと思います。あの〝蚤の〟モンタンの話も、途中までは疑っていたようにみえましたし。しかし、上手いですよね、アイツ。金銭の要求最後の最後まで言い出さないってのがミソですよ。しかも、それ以外の説明はほぼ全て真実、というのだから、性質が悪い」
「ま、彼は追放されたとはいえ、元は本当にラニーの毛織物商で、組合職員だった男だからね。……あれ? 今のところ、彼に騙されなかった子って、いたっけ? いや、リピーターは別としてね」
「初見の商人は二十一名全滅ですね。というか、それ以前に。あのトーシロ丸出しの若サギに騙されたアホが結構いるんですが」

 女は手元の資料──大市に申し込んできた商人達のリスト──を眺めながら、見下すように言う。

「あぁ……、アレね。名前なんだっけ」
「すみません、わたしも覚えていません」
「だよね。アレに騙されているようじゃ、遅かれ早かれ身の破滅だろうな。さすがにそんなユメもキボーもないヒト達を大市に参加させたくはないよ」
「彼らには、騙されたままでお帰り頂きましたものね」

 この二人、どうにもあまり良い性格とは言えないらしい。

「取引を行った商社からの報告も踏まえると、百点中、七十点くらいかな」
「少し厳しいのでは? 新人であるという点も踏まえれば、八十点くらいはいくかと」
「そう?」
「遍歴の旅を飽きるほど続けているようなベテランより、未知数の新人にチャンスを上げた方が良いと思いますよ、わたしは」
「ふうん……。んじゃ、ま、可愛い秘書さんに免じて、彼女らの希望には出来るだけ沿う事にしようか」
「ええ、是非そうしてあげてください。女性の商人というのは稀少ですからね。応援してあげないと」
「それ、逆差別だよね」
「何か?」
「いや、何でも」

 女は鋭い目線を更に鋭くして中年男を黙らせると、リストに何やら書き込んでいく。



 所属 ケルン交易商会組合 遍歴商人
 氏名 アリア
    リーゼロッテ
 年齢 13歳
    年齢記入なし
 職歴 ケルン商社・カシミール商店 見習歴三年 遍歴 三カ月
    ケルン飲食店・蟲惑の妖精亭 従業歴三年 遍歴 三カ月
 備考 女 共同経営
 合否 ○
 待遇 先着順の原則に則り、先方の希望通りに、日程、場所を決めてよし



 ガリアの商人達は、アリアが想定していたよりも、ずっと強かなのかもしれなかった。





アリアのメモ書き ガリア編 その1

未来の大商店
(スゥ以下切り捨て。1エキュー未満は切り上げ)

評価       3カ国目突入、目指せハルケギニア制覇
道程       ケルン→オルベ→ゲルマニア北西部→ハノーファー→トリステイン北東部→トリスタニア→トリステイン中南部(バンシュ)→シュルピス→ガリア側国境付近→シャンパーニュ・バール=シュル=オーブ

今回の費用  売上原価 632エキュー
       消耗品費 食糧費(2週間分) 3エキュー
       加工賃  鶏と豚の加工代 2エキュー
       旅費交通費 宿代 素泊まり 1エキュー
       特別損失 詐欺損失 現金 30エキュー

今回の収益  売上 792エキュー

★今回の利益(=収益-費用) 139エキュー 国境で関税を取られなかったのはデカイが、サギに会っちゃ元も子もねぇ……

資産    固定資産  乗物
ペルシュロン種馬×2
中古大型幌馬車(固定化済み)
(その他、消耗品や生活雑貨などは再販が不可として費用に計上するものとする)
商品
(ト)バンシュ産 レース生地 ▲
            (ト)バンシュ産 レース地テーブルクロス ▲
            (ト)バンシュ産 レース地カーテン、ベッドシーツ ▲
            (ト)トリステイン中央部産 ブドウ酒(安物銘柄)
            (ト)レールダム産 ガラス食器 ▲完売
            (ト)アストン領産 高級ワイン 
            (ト)ブリュッセル産 彫刻家具(チェスト、スツール、食器棚)
            (ト)シュルピス産 高級瓶詰め蜂蜜 ▲
            (ト)エルヴィス・ヴィトンのハンドバッグ、旅行鞄など革製品 
            (ガ)肉類(固定化による防腐処理済み)△
            (ガ)シャンパーニュ・シャンパン △
            (ガ)オリーブ瓶詰め △
            (ガ)細葉大青(薄青系染料)△ ウォードという草から抽出される染料 インディゴの代用品 染料としては安い 
            (ガ)サップグリーン(緑系染料)△ ガリアクロウメの実から抽出される染料 染料としては安い
            (ガ)麻糸 △
            (ガ)麻織物 △

             計・1,498エキュー(商品単価は最も新しく取得された時の評価基準、先入先出の原則にのっとる)

現金   7エキュー(小切手、期限到来後債利札など通貨代用証券を含む)
 
有価証券(社債、公債) なし       
負債          なし

★資本(=資産-負債)  1,505エキュー

★目標達成率       1,505エキュー/30,000エキュー(5,00%) サギ以外は順調な滑り出し

★ユニーク品(お宝?)
①地下水 インテリジェンスナイフ 
②モット伯の紹介状 
③エレオノールの指揮棒 万年樹という魔法素材を使った最高級杖 推定150~200エキュー
④シャンパーニュ・春の市出店許可証(遍歴商人用) 一応狙い通り?










[19087] 設定(人物・単位系・地名 最新話終了時)※ネタバレ有 全部読んでから開く事をお薦めします
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2012/05/26 22:40
《人物》 ※現在までに名前有のキャラクターのみ、名前だけの登場は除外。

◎主人公

・アリア 女 貧農→賎民→商店見習い《ガルツォーネ》→遍歴商人 トリステイン、オンの農村出身。ゲルマニア西部ケルン育ち。

○画像 みてみん、キナコ公国でググれば一個目で出ます

 前世の知識と記憶を持つが、人格は全くの別物であり、トリステインで生まれた『私』の人格が主人格。何かの拍子で『僕』の人格が現れる事もあるが、年とともに弱まる傾向にある。
 両親によって、ゲルマニアの口入屋に売り払われた後、リーゼロッテと出会い、商家の見習いとして精進。
 3年間の修行の後、紆余曲折ありつつも、遍歴商人として独立。
 護身用の武器は魔改造リピーティング・クロスボウを愛用。

・リーゼロッテ(本名?) 女 吸血鬼 ガリア出身ガリア北部リュティス育ち

○画像 上記、アリアの画像に同じ

 ガリア出身の特異な吸血鬼。
 様々な生の精霊魔法(先住魔法)を操り、凶悪なまでの身体能力を誇る。美人。
 色々とあって現在はアリアと協力関係を結んでいる。行商の旅の道連れ、共同経営者。


◎カシミール商店の人達

・カシミール 男 経営者 ゲルマニア・南部ニュルンベルグ出身

 カシミール商店の主たる経営者。色々と面倒事を背負いこむ性質らしく、商店のメンバーは訳ありな人達が多い。
 ゲルマニア商人の例にもれず、知識欲が旺盛で、信仰心が薄い。アリアの父的な存在。若い時は国を跨ぐ遍歴商人として活躍していた。

・フーゴ(本名フーゴ・ヤーコブ・フォン・フッガー) 男 見習い、伯爵家三男 ゲルマニア・南部アウグスブルグ出身

 ゲルマニアでも指折りの富豪貴族家に生まれながら実家を出奔して商家の見習いにはいったという変わり者。
 プライドが高く、中々素直にはなれないタイプだが、最近はその性格も改善されつつある。
 当初は土のドットメイジながら、色々とアンバランスであり、コモンマジックが使えなかったりしたが、現在はラインメイジの上位程度の実力がある。アリアと遠距離交際中。

・エンリコ 男 遍歴商人(元見習い頭) ゲルマニア西部・デュッセルドルフ出身

 カシミール商店の見習い頭。
 勤続暦は長く、見習いの中では群を抜いて商業知識が優れている。面倒見もよく、仕事もそつなくこなし、おまけにルックスもよい。商人としては、ちょっと慎重過ぎて、人が好すぎるのが不安要素。
 既に遍歴商人として独立し、カシミール商店から旅立った。最近は連絡が途絶し、消息が不明になっている。

・ギーナ・ゴーロ兄弟 男 兄は見習い頭、弟は見習い ゲルマニア北部・ハノーファー出身

 カシミール商店の見習い。
 北部でそこそこ有名な金属メーカー、ベネディクト工房の御曹司。
 無口で大人しく見えて、実は元不良坊主。手先が器用でいつも二人でツルんでいるのが特徴だったが、最近は別行動をとるようになっていた。エンリコの独立後、兄であるギーナが見習い頭に昇格した。

・ヤスミン 女 公証人兼経理担当駐在員 ゲルマニア西部・デュッセルドルフ出身

 極めて優秀な事務処理能力を持つOLもとい、カシミール商会の事務仕事を一手に引き受ける駐在員。
 エンリコの幼馴染なため、彼を気にかけている様子。可愛い物好き。

・エーベル、ディーター 男 見習い ゲルマニア西部・デュッセルドルフ、エッセン出身

 エンリコと入れ替わりにカシミール商店へと入ってきた新入りの見習い達。
 ナンパなちびっ子エーベルがアリアの下に、むっつりなうすらでっかちのディーターはフーゴの下についていた。見習いとして板に付いてきた感がある。
 

◎貴族

・クリスティアン・アウグスト・フォン・アンハルト・ツェルプストー 男 辺境伯 ゲルマニア西部・アーヘン出身

 ケルンの領主、ツェルプストー商会の代表、そしてケルン交易商会組合の主席運営委員《カンスル》。
 人を使うのが上手く、本来忙殺されるレベルの仕事を抱えているはずなのに、かなりの頻度で遊び回っている。
 普段はだらしないが、決めるところは決める人で、魔法の実力は火のスクウェア、それも最上級クラスである。

・キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー 女 辺境伯家長女 ゲルマニア西部・アーヘン出身

 ツェルプストー家長女。
 幼いながらも将来を感じさせる華をもっている幼女である。アリアとは現在のところ、ほとんど関わりはない。

・ヴェルヘルミーナ・アルマ・フォン・プッドシュテッド・フッガー 女 伯爵夫人 ゲルマニア中央部・ダルムシュタット出身

 アウグスブルグの領主、フッガー商会の代表、そしてアウグスブルグ自由商業組合の主席運営委員《カンスル》である、フッガー伯爵家の正妻。
 子供のような外見で、中身もかなり子供っぽく、プライドが高い。魔法の実力は現在の所不明だが、フーゴと同じ土系統。軍属の経験もあり、貴族としての意識は高い。
 自分の非を認められる度量はあり、親としては過保護ではあるけれど、子供に対してしっかりとした愛情を持っている。アリアを買ってはいるが、ヒルダも中々見どころはある、などと勝手に思っている。

・シュペー卿(本名 ヴィルヘルム・ユーリウス・フォン・ブラウンシュワイグ=リューネベルグ) 男 公爵、鍛冶師 ゲルマニア北部・ブラウンシュワイグ出身
 
 別名「ゲルマニアの錬金魔術師」。ベネディクト工房に所属する流れの職工メイジ。相当な頑固者で、女嫌いの老人。
 その正体はゲルマニア北部最大の貴族、リューネブルグ家の当主で公爵。風のスクウェアメイジ。
 とはいえ、現在は彼の子息であるオットーに、ほとんどの公務を任せており、自身はほぼ引退という状態である。
 一般市民の前に公爵として姿を現した事はあまりなく、それもかなり昔の事なので、ブラウンシュワイグ以外の都市で、ボロでも着ていれば、そのがさつな言動と物々しい体格から、彼が公爵だとは気付かれないだろう。

・テオドール・ハンス=ゲオルグ・フォン・アウグスト・ザクセン・ヴァイマル 男 辺境伯 ゲルマニア東部 ザクセン州ドレスデン出身

 ドレスデン資材商会組合の長であり、自身も鉄鉱山、銅鉱山、炭鉱、林業などを経営する大領主。
 見た目はチンピラのような小男で、喧嘩早い性格ではあるが、間違いなく優秀かつ有力な大貴族の一人。
 ツェルプストーとは学園時代から犬猿の仲。友達付き合いは苦手。
 
・ヨハン・カスパル・フォン・フッガー 男 伯爵 ゲルマニア南部 アウグスブルグ出身

 アウグスブルグ自由商業組合の主席運営委員。ニュルンベルグ、アウグスブルグの両大都市の領主でもあり、伯爵としては些か度を過ぎたほどの力を持つ。
 交易、銀行、銀山を中心として、牧羊、養蜂、養蚕などの事業を手広く行っている大商人でもある。慈善家としても有名。
 フーゴの父。人なつこい外見と普段の温厚さとは裏腹に、南部の諸侯からは恐れられているという側面も持つ。

・ヒルダ・ヒルデガルト・ツー・ヒルケンシュタット 女 男爵令嬢 ゲルマニア南部 ハイルブロン出身

 フーゴの元婚約者。
 元とはいえ、歪んだ愛情をフーゴに対して持っているために、まったく結婚を諦めていない。
 貴族としての教育は行き届いており、猫を被ったときの優等生ぶりはすさまじい。しかし実態は重度のヒロイン症候群持ちで、超行動派である。

・ルートヴィヒ・ニルセン・フォン・ブフォルテン 男 統治院議長 ゲルマニア北部 ノイミンシュター出身

 ゲルマニア中央政治機関、統治院で議長を務めるエリート役人。
 元は男爵家の三男坊だったが、苛烈な出世競争に勝ち残る事によって国内の大貴族とも張り合える立場へと成り上がった。
 しかし本人は割と気弱で、奔放なゲルマニアの地方貴族達に振り回され、会議のたびに胃を痛めているという可哀想な人。

・エレノア・ド・マイヤール(本名 エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール) 女 公爵令嬢 ラ・ヴァリエール出身

 スカロンがトリスタニアのブルドンネ街で拾ってきた女の子。実はトリステインでも3指に入る名家の長子。
 妹、カトレアの病気を治すため(自分のためでもある)、文献(冒険小説)にあった秘宝、人魚の生肝を求め、ロマリアを目指して家を出た。
 トリスタニアで事件を起こした後、成り行きからアリアの旅に同行することになり、そしてそれは成り行きではなくなった。懸賞金30,000エキュー。

・デムリ 男 宮廷高級官僚
 歴史あるトリステインでも名家の生まれであり、なおかつ本人も非常に優秀な官僚であり、周りに気配りも出来る大人の男。トリステイン宮廷財務室の長官を務める。
 ただ、考えに没頭すると周りが見えなくなるクセと、人を見る目には少々残念さが漂っている。

・ジュール・ド・モット 男 王宮勅使、伯爵
 好色家として有名な伯爵。
 貴族の間でもあまり評判はよくないようだが、商売関係で成功している事へのあてつけである線が濃厚。
 トリステイン貴族としては、かなり平民に対しても寛容な方。
 
・アントーン・ボニファティウス・フォン・ウィースバーデン(故) 男 元男爵、屍人鬼 ゲルマニア中央部・ウィースバーデン出身

 屍人鬼化されたウィースバーデン家当主。爵位と領地の召し上げ後、廃人同然に塞ぎ込んでいたところをリーゼロッテに目をつけられた可哀想な貴族様。
 アリアの放火による屋敷火災によって消滅。

・ライヒアルト(故) 男 執事、屍人 ゲルマニア中央部・ウィンドボナ出身

 ウィースバーデン家執事。元下級貴族家の次男坊。
 水のドットメイジだったが、あっさりとロッテに始末され、精霊魔法【傀儡】によって操られていた。
 しかし傀儡化された後も意外と反抗的であり、ロッテから失敗作と呼ばれていた。アリアの放火による屋敷火災によって消滅。


◎商売関係

・ベネディクト 男 工房経営者(元職人) ゲルマニア北部・ハノーファー出身

 工業都市ハノーファーに工房を構えるベネディクト工房の主人。
 カシミールの古い知人で、職人でありながら商人に転向、弟子入りした経歴を持つ。
 結構な頑固者。職人としての腕は一級。アリアが使用している武器の提供者。

・マルグリッド 女 盗賊、元下級貴族 ゲルマニア東部・ジェローナグーラ出身

 ゲルマニア東部に存在していたマルグリッド盗賊団の女棟領。
 盗賊団を瓦解させてもすぐに仲間を集めるなど、妙なカリスマ性と人望を持つ。
 風のドットメイジだったが、屈辱を糧にラインメイジへと昇格、トライアングルも?
 農村で、産物を騙し取ろうとしていた所を、アリアに邪魔され、逃げのびたシュルピスでも、ガリア側のアジトをアリアに強襲され、計画が頓挫した。

・ジローとオノレ 男 盗賊 ゲルマニアのどこか?

 マルグリッドの部下達。マルグリッド盗賊団副団長。
 下品な上に、頭もあまりよくないが、マルグリッドに対する忠誠、というか親愛の情は強い。

・マドモワゼル 女 経営者 ゲルマニア中央部・ウィンドボナ出身

 ケルンにあるセクシー酒場、蟲惑の妖精亭の主人。
 スタイリストとしての腕は一級らしくそれらしい異名ももっている。

・スカロン 男 魅惑の妖精亭主人、元蟲惑の妖精亭用心棒兼料理人兼雑用 トリステイン中央部・アストン・タルブの農村出身

 トリステイン出身の大男。ゲルマニアに接客業の修行と、独立への資金稼ぎに来ていた。
 トリスタニアにて魅惑の妖精亭の経営権を購入し、そのオーナーとなる。妻の危機をアリアに救われており、それなりの交友関係を築いていた。

◎吸血鬼関係

・ジルヴェスター(故) 男 吸血鬼 ゲルマニアのどこか出身?

 ケルンを根城にしていた土着の吸血鬼。
 人間社会での肩書は劇作家。吸血鬼としての能力は並みだったが、屍人鬼と共にアリアを誘拐し、リーゼロッテを地下に潜むという奇策によって苦しめた。
 最終的にはクリスティアンの加勢と、アリアの機転によって追い詰められ、最終的にはリーゼロッテによってトドメを刺されて死亡。

・カヤ(故) 女 メイド、屍人 ゲルマニア中央部・ウィースバーデン出身

 リーゼロッテの傀儡によって操られていたウィースバーデン家メイド長の娘。
 もしかすると、もっとも不運な人かもしれない。アリアの放火による屋敷火災によって消滅。

◎その他

・ヘンネ 女 フッガー家メイド兼夫人専用護衛 ゲルマニア北部・ブレーメン出身

 元軍人(ただし平民)。
 素手で鉄格子を破る程の怪力を持つ、ゴリラメイド。主人であるヴェルヘルミーナに忠実だが、発言に遠慮はあまりない。

・地下水 性別不明 インテリジェンスナイフ ガリア産 元北花壇騎士団所属、傭兵
 
 系統魔法を操る事のできるマジックアイテム。しかし、宿主の精神を乗っ取ってこそのアイテムであり、本人の意志では使えない。
 暗殺者としての経験も実力も一流だが、地下水本体だけでは何の力も持たない。

・ドリス 女 酒場のおかみさん ゲルマニア西部・ケルン出身 

 スカロンの妻。元“妖精さん”で、かなりの実力を持っていた。

・ジェシカ 女 町娘 ゲルマニア西部・ケルン出身

 スカロンの娘。生まれてすぐにトリスタニアへと移住したため、ほとんどタニアっ子である。


《単位系》本ss中、これまで使用された単位系

・貨幣
 名称              現代価値換算
 リーブル金板           1,200,000円
 エキュー金貨           10,000円
 新金貨(ドール金貨)       7,500円
 ヴァン・スゥ銀貨          2000円
 アン・スゥ銀貨            100円
 ドニエ銅貨               10円

・単位

 距離      換算
 リーグ     km
 メイル     m
 サント     cm
ミリの単位を表すものはなく、10分の1サントなどと表現する。

 重さ      換算 
 リーブル    460g  一般の重さの単位。金板の単位でもある。語源は天秤。

・商業取引単位

トロイ衡
ガリアのシャンパーニュ地方の商業都市トロイに由来する商用重量単位。    

 重さ        換算   由来
 グレイン      0,7g    大麦の種一粒の重量から
 トロイ・オンス   31g     12分の1という意味から。リーブルのおよそ12分の1。
 トロイ・リーブル  373g    トロイの天秤という意味から
 サン・ポワ     37kg    100倍の重さという意味から。トロイ・リーブルの100倍

パルモ単位
 古代ロマリアで発祥した商用単位。現在ではあまり使われないが、本国では割と使う事もある?
 地域によって長さの解釈がまちまちなので、外国人には非常に扱いにくい。

長さ    換算        
 パルモ  掌の長さ
 プラチョ 肘~指先までの長さ
 カンナ  プラチョの3と1/2倍

《地名》これまでに登場した都市、農村など。載っていないものは後から登場した時にでも。

◎帝政ゲルマニア

・帝都ウィンドボナ
 ゲルマニア最大にして、皇帝の坐す都。
 広大な皇宮、外交と経済を担う帝国統治院、元はフランクフルト・アム・マインに存在した法組織である帝国最高法院なども集約されている。皇帝中央集権化の要である都市。
 銀行業を営む者もほとんどはこの都市に本拠地を持つ。しかし、未だに地方貴族の力は強く、国家としてのまとまりは弱い。ゲルマニアの魔法学院もこの都市の郊外に存在する。

・ザールブリュッケン男爵領・小交易都市フェルクリンゲン
 アリアが両親に売られた先の口入屋が存在する交易都市。
 ガリアとの国境に近く、ゲルマニア西部に存在するいくつかの大都市の中継地点ともなっているため、旅人や商人を相手にした宿、盛り場、娼館、他娯楽施設が存在する夜の街でもある。
 アリアとリーゼロッテが出会った場所。

・皇帝直轄領・ウィースバーデンの化物屋敷
 リーゼロッテによって乗っ取られていた元男爵の屋敷。
 元男爵屋敷にしては広く豪奢であるが、あまり内装の趣味は良くなかった。
 アリアとリーゼロッテの攻防が行われた場所。
 現在はアリアの放った火によって焼け落ちた屋敷がそのまま放置されているのみとなっている。

・皇帝直轄領・アウカムの農村
 元ウィースバーデン男爵領。
 暴虐な領主によって苦しめられていたが、領地召し上げとなり、皇帝直轄領になってからの10年程でそれなりの復興を果たしている小規模農村。
 オンの農村とは違い、活気に満ち溢れた農村であり、農具ももちろん北部製の金属農具を使用している。
 アリアとリーゼロッテの契約が成立した場所。

・ツェルプストー辺境伯領・大商業都市ケルン
 ゲルマニア西部最大の都市。
 西部商業組合の本部があり、メインストリートには国内だけでなく、国外に存在する商社の支社商館《フォンダコ》が建ち並ぶ。
 街の真ん中には長大なライン河が流れており、その南には大規模な船着場が存在する。絢爛で巨大なケルンの大聖堂も有名だ。
 穏健でありながら、抜け目なく、そして現実的な商人達が支える歴史ある街である。

・ツェルプストー辺境伯領・アーヘン
 ゲルマニアとトリステインの国境付近の地名で、都市ではない辺境地域である。
 都市部をヴァリエール家との小競合いなどの戦火に巻き込まないように、という配慮から、ツェルプストー辺境伯家の城はここに建てられている、が、当代のクリスティアンはあまり城にはおらず、ケルンの商会本店か、組合本部で仕事していたり、または街で女性を口説いている事の方が圧倒的に多い(らしい)。

・宿場町トリール
 ケルンをやや南に進んだ所に存在する、景観のいいリゾート地。
 談合の会場や富裕層の羽伸ばしなどによく使われる。

・リューネブルグ公爵領・大工業都市ハノーファー
 通称鉄の街。近くの海岸沿いの街ブレーメンには製鉄所の群れ(加えて造船、軍需、化学系工業)、ハノーファーではそれを加工する金属工業が重点的に栄えており、北部の商工組合本部が存在する。
 ゲルマニア北部では富裕商人が職人を統括する工業製手工業が発達しており、その生産力は他国とは一線を画する。

・ツェルプストー辺境伯領・オルベの農村
 ケルンの街から東にやや進んだ所にある中規模農村。
 小麦、テンサイ、キャベツなどの畑野菜、燕麦、ライ麦などを生産している。
 農村としてはそれなりに富裕な方である。

・中規模商工都市デュッセルドルフ
 ケルンの北側、ゲルマニア北西部に位置する中規模都市。
 アルトエールと呼ばれる麦酒が名物であり、商人と職人が混在する街。

・フッガー伯爵領・大商業都市アウグスブルグ
 自由商業都市という異名が付くほど、商人に対しての優遇措置が進んでいる街。
 南部アルテの本部があり、都市の運営システムはゲルマニアの中でも一歩先を行くレベルにある。
 名所としては、フッガー・ライと呼ばれる大集合住宅や、絢爛なフッガー家屋敷、いくつかある大修道院、植物園などが有名である。

・リューネブルグ公爵領・古都ブラウンシュワイグ
 かつてリューネブルグ公国であったころの首都。
 現在も公爵家が住む都市であり、ゲルマニアの政治拠点として大きな意味を持つ。
 天高く飾られた獅子のブロンズ像がシンボルである。

◎トリステイン王国

・王都トリスタニア
 トリステイン王国の王都。
 トリステインの政治的拠点であり、3つの街道が交わる都市であるが、商業に関する税が高いため、外国籍商社の数ではシュルピスの方が多い。
 街並みは美しく雄大で、白亜の王宮の芸術性はハルケギニア一と言われている。
 
・オンの農村
 トリステイン南東部、ゲルマニアとの国境とそう遠くない位置に存在する貧しい農村。
 アリアの生まれ故郷。領主(未登場のため名前不明)が悪いのか、それとも国の中枢が怠慢のせいか、重税と痩せた土地の二重苦で、そこに住む者はもれなく貧農であり、一家の平均年収が金貨換算で60エキューを切る程度というほどの寒村。
 未だに木製農具を使っていたりする。

・サン=シュルピス伯爵領・交易都市シュルピス
 トリステインにおいて、最も外国との交易が盛んな街。
 大国の商業都市と比較するとあまり規模は大きくはない。芸術の街としても有名。
 名所としてはサン=シュルピス聖堂、オペラ劇場、商館地区など。

・モット伯爵領・小工業都市バンシュ
 ブリュッセルレースの産地として、そこそこ有名なトリステイン中南部の田舎町。

◎ガリア王国

・シャンパーニュ大伯爵領・商業都市バール=シュル=オーブ
 古より続く伝統の商業都市。
 シャンパーニュ春の大市の開催場。麻織物、シャンパンなどが名産。


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