1
「御機嫌宜しゅう、黒薔薇のお嬢さん」
「随分とお久しぶりね、腹黒兎さん」
二人は同時にお辞儀をする。片方は慇懃無礼に、もう一方はわざとらしく。
「今日もまた御出掛けですか」
「ええ。最近はすっかり暇なんですもの、散歩が日課になってしまったわ」
「おお、それはいけません。変化のない日常はつまらぬもの」
兎頭の紳士はステッキを傘に変え、ぽんと一挙動で広げてみせる。
「いつ見てもお見事ね、その傘の開き具合は」
黒衣の少女はくすりと笑う。心底楽しそうに見えないのは、口の端が釣り上がっているからだ。
「ところが魔法の傘だと思っていたそれも、今になってみればごく一般的な自動傘と同じ機能でしかないわねぇ。トリヴィアル(つまらない)!」
「おやおや、これは台詞を取られましたな」
まさに剥製のような兎の顔からは紳士の表情を読むことはできない。その口調もまた、顔つき以上にその裏側を読めないものだった。
「そうです。科学の進歩は速い。いずれ人は生きて動く人形さえもごく当たり前に作り、それが世に出ることもあるでしょう」
紳士は傘を畳んだ。傘は元通りステッキに戻っていた。
「そうなったとき、果たして我々は如何様に身を処さねばならないか。非常に重要な案件ですな」
「同情するわ」
全く心の篭っていない声で少女は答える。紳士は慇懃に帽子を取って礼をした後、小首を傾げて少女を見た。
「ご同情は感謝致しますが、貴女も例には漏れませんぞ」
「ご心配ありがとう。警告として有難く受け取らせてもらうわ。随分貴方らしくない言葉だけど」
少女は表情を変えずに肩を竦めた。
「でも、ご心配には及ばないわ。私に関してはね」
「それはまた、傾聴に値するお言葉ですな」
紳士はおどけてステッキをぐるりと回した。
「どんな物も時の流れには無関係では居れません。たとえそれが天才の創り出した最高傑作であっても」
「そうね」
少女はあっさりと肯定した。
「ただし、それは生きていればの話」
紳士は首を傾げ、すぐにぽんと音を立てて掌をもう一方の拳で叩いた。
「おお、おお。このうすのろ兎にも話が飲み込めましたぞ。なるほど、なるほど」
何度も何度も頷いてみせる。
「確かに、アリスはもうすぐ生まれます。そうなれば──」
「──そうなれば用済み。ローザミスティカを失って動きを止める」
少女は言葉を引き取り、いっそ楽しそうに続ける。
「依然として魂がそこに在ったとしても、物言わぬ人形になってしまえば世俗の自動人形がどうあろうと関係ない。そうでなくて?」
「その通り、いや、まさしくその通り」
ぱち、ぱち、と紳士は間の不揃いな拍手を送る。まるで歌のように奇妙な拍子を付けていた。
相手を焦らすように随分長いことそうしてから、口の端を歪める。
「しかし、残念ながら聊かその予測は性急でもあります」
少女は意外そうな顔を作った。紳士はステッキを振って台詞を続ける。
「死後のことは関係ない、とはよく言われる言葉。しかし首尾良くアリスと成った暁には、果たしてそのように言い切れるでありましょうや?」
「そうね」
少女はまた、あっさりと肯定した。
「……アリスが生まれるときにはその一部になるのだったわね、皆、一様に」
「そうです、そうですとも、それについてはその通り」
紳士はまた間の不揃いな拍手をした。
「しかし先程から貴女らしくないお言葉を続けられていらっしゃいますな、黒薔薇のお嬢さん。貴女こそは何を措いてもアリスに成る、そのための生き方を貫いていらっしゃったのではありませんか」
紳士は少女を覗き込むような仕草をする。少女ははっきりと皮肉な表情を浮かべ、否定も肯定もせずに言葉を返した。
「ところで、私は少々忙しいのだけど。貴方の目的が久闊を叙することだけならば、そろそろお暇乞いをしたいところね」
「おお、これは申し訳ございません」
紳士はまた慇懃に一礼した。
「わたくしめの用向きなぞ、貴女の貴重なお時間を割かせるほど重大なものではございません。それではこれにて失礼させていただきましょう。また後日」
「悪いわね、ラプラスの魔。それではごきげんよう」
「ごきげんよう、黒薔薇のお嬢さん」
紳士が帽子を取ろうとしたとき、少女は紳士がしたように不揃いに手を叩いてみせた。紳士は──兎の剥製の顔にそういう表現が許されるなら──微笑に近いものを浮かべ、ぽん、と音を立ててその場から消えた。
少女は一つ息をついた。
「どういう風の吹き回しなの」
呟いて、いつものように自分の媒介の夢の扉をくぐった。
2
ジュンはパソコンの画面を睨んで口を尖らせている。真紅は当然のようにその膝の上に座り、机の天板に手をついて画面を見守っていた。
「すぐには製作に取り掛からないのね」
服はあっという間に仕上がったのに、と真紅は壁際のハンガーに掛けられた濃紺の複雑な形状のドレスを見遣る。水銀燈の媒介の少年の夢に入ってから今日までのわずか一週間で、ジュンは水銀燈のものとほぼ同じ形状のドレスを仕上げていた。
ジュンは型紙さえ殆ど描かなかった。まるで必要な図面が既に全て頭の中にあるように、生地を無駄なく切り、縫い合わせ、刺繍を施して作り上げてしまった。
しかし工程はそこで止まってしまっていた。服ができてもそれを着させるボディがまだ無かった。
「服のほうは作ったことがあったけど、ボディは初めてなんだ」
二人が小声なのは、雛苺と翠星石が既に寝ているからだ。
既に時計は二十三時を回っている。真紅も一度は鞄に入ったのだが、妙に寝つきが悪くて起き出してみると、ジュンがパソコンにかじりついていたのだった。
「フィギュアみたいに型取りしてレジンで複製するか、最初から軽量紙粘土で作る方法しか紹介されてないな……お、ここはビスクの作り方が出てる」
ジュンは腕の中の真紅をちらりと眺め、何度か見た薔薇乙女達のボディを思い起こしていた。パーツの分割は今風の球体関節人形のように複雑だが、素材はビスク(二度焼き)という手法で作られた、硬くて軽い焼き物……のはずだ。
本来割れやすいはずのそのボディが強靭なのは、素材や焼き方そのものが特殊なのか、それとも薔薇乙女達の手や顔が自在に動くように何か不可思議な力が働いているのか。
どちらにしても、今作ろうとしているドールボディにはビスクそのものが使えない。どこかの焼き物工房にでも申し込まなければ、窯のないこの家では焼入れも前段階の素焼きもできない。
「強度的にはウレタンに真鍮線入れるほうがマシなのかな」
紙粘土は本当に軽量に仕上げられるらしい。その分強度を稼ぐ必要はなくなる。
しかし、もし水銀燈が意図したように人形が自律して動くなら、薄い粘土ではあまりにも脆すぎるような気がする。いや、その方が都合は良いのかもしれないが。
「でもウレタン型取りだと重さにばらつきが出そうだし……ムクで作ったら重過ぎるだろうし……それはビスクも同じか……」
ぶつぶつ言いながらページをめくる。真紅は彼女にしては珍しく、興味津々といった風でそれぞれのページの画像を見ていたが、ジュンがページを移動するのに文句を付けることはしなかった。
「やっぱり窯を買って……あれ?」
ジュンは目をぱちくりさせた。画面が急に真っ暗になってしまったのだ。慌てて本体を見たが、電源LEDは緑に点灯しているし、特に異音もしていない。
「まさか……これってまた」
その予想は当たっていた。ジュンが真紅を抱えて机の脇に転げ込むのと、画面から黒い羽根が噴き出すのはほぼ同時だった。
「あら」
肩から先だけ出した水銀燈は、机の横に並んで座ったジュンと真紅を見てにやりとした。
「さすがは真紅のナイトね。準備が良いようで何よりですこと」
「ナイトではなくて下僕だけれど、今の判断は的確だったわ」
真紅はさらりと言い、下僕かよ、とジュンは口を尖らせた。
「ナイトの方が良いんじゃなくて? 頬が随分赤いわよ」
パソコンのモニターを窓枠のようにして姿を現すと、水銀燈はそんな軽口を叩きながら一旦モニターから出、真紅の抗議の声を聞き流してまだ波打っている画面の中に腕を突っ込んだ。
「退席するか隠れなさい、真紅。ちょっと厄介なものを引きずり出すから」
真紅は憮然とした表情になったが、黙って鞄のところまで退却した。それでも完全に鞄を閉じることもなくパソコンの方を見守っている。引きずり出されるものが何なのか、彼女にもだいたい見当はついていた。
果たして、引きずり出されたものは真紅の推測の通りのモノだった。
人形は裸の状態で、やはり相変わらず胴部の無いまま、パソコンのモニターから引き出された。
胴部がないのにあたかも透明なパーツで繋がったように上下がいちどきに出てきたものの、その身体には全く力は篭っておらず、テンションも掛っていなかった。
「じっ……実体化?」
いきなりの事態に、ああでもないこうでもないと悩んでいたボディ製作がほとんど必要なくなったことに気が付く余裕もなく、ジュンは目を見張るしかなかった。
「げ、幻影じゃなかったのか」
妙に軽い音を立てて引き出され、キーボードの上に積み重なったそれは、ドールとしては大きかったものの、どことなく安物の人形のような風情があった。
引きずり出す、と自分で言っていた水銀燈自身も唖然としている。ただし、彼女の視点はジュンとはまた別のところにあった。
「やけに軽いと思ったら……」
自分とほぼ同じ背丈の人形を床に降ろし、手早く仰向けにさせると、彼女は内部の見える腰と胸のパーツをしげしげと眺めた。
「やっぱり、未塗装部分を見れば一目瞭然ね」
人形の表面は白っぽい肌色、というよりは肌色がかったクリーム色に塗装されている。しかし、パーツの内部までは塗装されていなかった。黒い地肌がそのまま表れていた。
「どんな素材で出来てるんだ?……っていうか無茶苦茶だ、なんで実体化できるんだよ。元は想像の中だけのモノなんだろ」
ジュンは座り込んだまま手を出そうとしない。好奇心に駆られて痛い目を見るのは懲りているのか、それとも別の理由なのか。
「炭素繊維強化プラスチック。俗に言うドライカーボンってやつ。レースマシンのカウルとかに使われている素材よ。軽くて強靭、熱にも強い……ええ、確かに無茶苦茶ね」
水銀燈はにやりとしてみせた。
「こんな複雑なパーツの塊を全部カーボンで作るなんて。想像が産んだモノか、完全に採算を度外視して作った物でなければ有り得ないわ」
「へえ……ってそこじゃないだろ、僕が言ってるのはなんで実体化できたのかってことだよ」
とは言うものの、素材の名前が出たせいで興味が勝ったのか、ジュンは水銀燈の隣に来て人形の胴部を覗き込んだ。動かないのを見て取った真紅も鞄から出て人形に触れてみる。
「顔や手は、私たち薔薇乙女そのものだわ」
「あいつもそこまでは材質の想像が及ばなかったようね」
水銀燈は人の悪い笑みを浮かべた。
「あいつって……雪華綺晶ってやつのことか」
「いいえ。もし雪華綺晶が作るなら、当然陶製の焼き物……ビスクでしょう。末妹が欲しいのは他の姉妹達のようなボディ。こんな素材は美しくないもの」
水銀燈は言い切って顎に手を当てた。
「これは私の媒介の仕業よ。いくら軽くて強靭な素材だからってドライカーボンで出来たドールを想像するなんて、おぞましいったら」
あの男らしいと言えばそこまでだけど、と言う口調には嫌悪感だけでなく、妙な懐かしさのようなものも混じっていた。
「この子は雪華綺晶が彼の夢の中に作り出した舞台装置ではないの?」
真紅は膝の上に人形の頭を乗せ、手櫛で髪を梳いてやりながら首を傾げた。裸の胸の上には可愛らしいハンカチを載せてやっている。
「そして、雪華綺晶が意図しなかったのに舞台装置は何故か勝手に成長して自我を持ち、魂も持った──貴女はそう説明したわ」
水銀燈はちらりと真紅を見遣り、お優しいこと、と呟いてから答えた。
「成長というよりはあの男が作っていったのかもしれなくてよ。
恐らく末妹の能力は夢を誘導すること。誘導するための舞台装置の「材料」は本人の中にあるのだから、複雑な部分は夢の主に勝手に作らせているはず。
あの男は夢の中を緻密に作り上げる方だった。多分最初は薄ぼんやりしていたこれを、あの男は緻密に作りこんでしまった。自分の夢の世界の都合のいい住人としてね。
そして、本人は無自覚だったとしても、あの男に纏わり付いていた何か奇妙な力が、これを『誰かが夢の中に置いていった実体のある人形』に近いものとしてあそこに生成してしまった」
全ては憶測でしかないけれどね、と水銀燈は溜息をついてみせた。つくづく厄介なものに関わってしまったと言いたい気分のようだった。
「桜田ジュン」
「なっ、なんだよ」
いきなりフルネームで呼ばれて、腰の空洞から球体関節の繋ぎ方を観察していたジュンはびくりとした。なんとなく気恥ずかしいような気分になる。
「胴部だけでもお願いできるかしら。素材は何でも構わないわ。そうね、上下の球体関節さえ十分な範囲で可動して、上半身の重量に負けない程度の強度があればいい」
ジュンは腕を組んだ。
「レジン──ウレタン系のプラや紙粘土でも?」
「任せるわ。私は樹脂や工作粘土の強度については知識が無いから。貴方がそれで十分だと考えるもので構わないわよ」
「かーぼんというのは使えないのかしら」
真紅が思いついたように言う。
「同じ素材では揃えられないの?」
「それは、原型を作ってドライカーボンのエアロパーツを作っている工場にでも特注すればできないことはないでしょうけど」
でも高くつきすぎるわ、と水銀燈は眉をひそめた。
「もちろん技術的には問題ないでしょう。でもあまり現実的とは言えないわ」
「そう……」
真紅は手を止め、残念そうな顔をして人形の顔を見た。
「貴女がそれでいいのなら、私が口を出す事柄ではないけれど」
でも、と視線を下に向けたまま呟くように続ける。
「それで本当にいいのかしら」
「どういう意味よ」
ハンガーに吊るされたドレスを見遣っていた水銀燈は視線を真紅に戻し、小首を傾げる。真紅は暫く言い辛そうにしていたが、意を決した風に続けた。
「神業級の職人がいて、良い素材のあてがあって、ここに奇跡のようにこの子がいるのに、それでも簡単な素材しか使えないなんて」
残念だわ、と真紅は目を閉じる。
「仕方ないでしょう、それは」
水銀燈はドライな口調で告げた。
「そもそも、人形のボディにカーボンなんてオーバースペックもいいところだもの。加工の手間を考えたらマイナスと言い切ったっていい。
無理矢理軽量化しなくてはいけない物でもないし、強度はソフトビニールでも間に合う程度のものなのよ。なんでも金銭を積めば良いというものじゃないの」
「そうかしら」
真紅は顔を上げ、目を開いて水銀燈を真っ直ぐに見た。
「貴女は『真紅』と同じ間違いをしているような気がする」
水銀燈は虚を突かれたように黙った。真紅はまた目を伏せた。
「貴女は何故、この子を創り出した人物がボディを軽くて強靭な素材にしたいと思ったのか、分かっていないのではなくて?」
私には素材の良し悪しは分からないけれど、その人の想いはおぼろげに理解できるわ、と真紅は人形の背中に手を回し、何かを拾い上げて水銀燈にかざして見せた。
水銀燈ははっと目を見開き、何度か瞬いた。
「『水銀燈』は軽くて、しかも強くなくてはいけなかったの。自在に飛んで、戦うために」
真紅がかざして見せたのは、水銀燈のものと見分けが付かない黒い羽根だった。
「ビスクでできたボディよりも強く、しなやかで、軽いボディがあれば」
真紅は歌うように言った。何かが乗り移ったようにも見えた。
「『真紅』にも誰にも負けなかったかもしれない。
狂気と言われ、姉妹から憎まれ、『ミーディアム』にも恵まれなかったけれど、いえ、それだからこそ、せめてボディだけは望みうる最高のものを……」
口を噤み、羽根をそっと手放して、真紅はまた視線を人形の顔に落とした。
「姉妹で最も物理的な力に恵まれ、契約しなくても媒介に困らない貴女には分からないかもしれないけれど」
真紅は人形の髪を撫でた。
「貴女のマスターはこの子にもう一つの翼を与えたかったのではないかしら。精一杯生きたけれど、最後まで力を満足に振るうことのできなかった『水銀燈』に……」
水銀燈はふっと息をつき、肩を竦めてみせた。
「それにしては随分と適当な仕事をやらかしたものね。だったら胴のパーツも構築しておけば良さそうなものだけど」
それもあの男らしいかもしれないけど、と言って、水銀燈はジュンを見た。
「いいわ。自作パーツ関係に強いショップは幾つか知ってる。もしドライカーボンを使いたくなったら言って。口利きはできないけど教えて上げるわ。……強制するわけじゃないけどね」
ジュンは慌てたように顔を上げた。
「え、でも費用は」
「こちらで持つから心配ないわ。記憶を無くしたといっても本人が作ったものなんだから、作り忘れたパーツの経費くらい捻り出させてもいいでしょう」
ただし手間賃は貴方に泣いてもらうけどね、と水銀燈はまたにやりとしてみせた。
水銀燈が窓から去って行くのを見送ってからふと時計を見直すと、もう時刻は零時を回っていた。
「……いつも無駄に緊張させるよな、あいつ」
はあ、と大きく息をついて、ジュンは真紅を振り返った。
「水銀燈だもの、当然よ」
真紅もやれやれという表情になっていた。こと、この時代にあってはアリスゲームのために敵対していたから、という部分を差し引いても、元々あまり仲が良いほうではないのだ。苦手と言ってもいい。
「でも、変わったわ」
真紅は苦労して人形にドロワーズとキャミソールを着せながら微笑んだ。
ジュンは何故かそれを見ていられずに視線を逸らした。裸のときは胴部が無いことも手伝ってパーツの集合体としてしか意識しなかった人形が、下着を着けただけで急にエロティックな姿に見えてしまったのだ。
「無駄に攻撃的じゃなくなったことか?」
「それはやり方を変えただけかもしれないけれど、他にも変化があるわ」
真紅は何度も人形の体を不器用にあちらこちらと動かしながら、どうにか下着を着せ終わった。
「他人の言うことを素直に受け入れるようになった。それは、とても大きな変化……」
言いながら、真紅ははっとして動きを止めた。背中を向けてパソコンを見ていたジュンはその姿には気付かなかったが、真紅の意識に浮かんだ単語を無造作に言い当てた。
「成長って言うんだろ、そういうの」
「……ええ」
真紅は呆然と頷いた。ジュンからは見えない位置のままだったが。
──私達人形は、成長しない。ただアリスゲームという衝動によって突き動かされているだけ……。
それが真紅の認識だった。そして、彼女が知り得る範囲内では、今までの時代ではそれは常に正しい認識でもあった。
彼女達は世に放たれたときのまま、それぞれに付与された精神と性格のまま、眠り、再び起きて契約者を変え、経験と記憶だけを積み上げて生きてきた。そう思っていた。
そして、その認識こそが真紅の漠然と抱えている絶望でもあった。
──もしかしたら、私はとても大きな勘違いをしていたのかもしれない。
「──ジュン」
真紅は水銀燈が「真紅のナイト」とふざけて言った、自分の契約者の名前を呼ぶ。
「なんだよ、急に黙り込んだと思ったら……」
椅子を回してこちらを向いたジュンに、真紅は両手を差し伸べる。
「抱っこして頂戴」
全くおこちゃまだな、とジュンはいつものように口を尖らせながら、慣れた手つきで彼女を膝の上に引き上げ、パソコンに向き直るでもなく彼女をゆるりと抱いてくれた。
「これでいいか」
真紅はもぞもぞと位置を直し、いつものように返事をする。
「ええ。抱っこは上手になったわね、合格点だわ」
手に手を重ねると、お子ちゃまの癖に人を子ども扱いするなよ、とジュンはそっぽを向いてみせた。真紅はいつものように少し気取った顔になり、ゆっくりと目を閉じる。
──もし、私達が成長できるのだとしたら。
今はまだそう言い切れる材料は整っていない。だが、もし人間のように成長することができるなら。
私は、何をすることができるのだろう。何をしたいのだろう。
心地よいジュンの鼓動と心を感じながら、真紅は眠くなってくるまでのひととき、そんな想像を楽しんでみることにした。
3
数日が過ぎていた。
ジュンはハンガーに掛けたままのドレスを見遣り、次に壁際に置いた椅子の上を見て少し疲れた表情になった。
椅子の上には厚手の型紙で作った筒を胴代わりにして、例の胴のない人形を座らせている。下着だけでは可哀想だと雛苺が言うので今はジュンのトレーナーを着せているが、のりに言わせると「よく眠ってるから、お布団掛けてあげたくなるのぅ」ということで、ときどきタオルケットがその上から掛けられていたりもする。
ただ、人形自体は相変わらずぴくりとも動かない。
動力源が無いからだと水銀燈は説明していた。必要ならそのときだけ力を付与すれば動けるわよ、と言ってもいたが、その後水銀燈が力を付与してみたときも一向に動き出そうとはしなかった。
真紅や翠星石の言うところでは「魂はここにある、でも自分の殻に閉じこもっていて殆ど会話が成り立たない。身動きしたくもないらしい」ということだが、それは水銀燈に無理矢理引きずり出されたからじゃないのか、とジュンは疑っている。あの夢の世界の中での暴れ具合を考えると力ずくで水銀燈がこの人形に勝てるとは到底思えないが、どうにもそんな風に思えて仕方がない。
彼の推測が当たっているかどうかは兎も角として、問題なのは肝心の胴が原型さえ手付かずということだった。
既存の人形に胴体部分を作りつけるというのは存外に大変なことだ、とジュンが気付くまでにはそう大した時間は必要なかった。
胸と腰を採寸してそこに合う丸棒を押し込めば良い、というわけにはいかない。上下には関節を仕込まなければならないし、胴体そのものも単純な筒型で間に合わせるわけにはいかないのだ。大分タイトな球体関節の造り付けが必要になるだろう。
それに加えてもう一つ問題がある。
胸と腰のパーツを見る限り、人形はドールというよりはキャラクターフィギュアに近いボディラインをしている。要するにアニメのキャラクター、それも高校生から成年女性に設定されているような体型だった。
それは正直なところ、ジュンにとって完全にではないものの未知の分野だった。当然ながら似たようなフィギュア類の実物は見たことがない。人形の服飾類はいくつも作ったことはあるが、それはドールだったりぬいぐるみだったりしていて、キャラクターフィギュアのようなものは対象外だった。
いっそ見えない部分だから適当に作ってしまえばいい、と割り切ってしまえば簡単なのだが、それは彼の内心の何かが許さなかった。職人気質とでも言うのだろうか、納得できるまで徹底して作らなければ気が済まないのだ。
「材質なんて考えてる場合じゃなかったな……」
人形が現れたときの真紅と水銀燈の遣り取りを思い出しても苦笑する余裕さえない。
椅子の上の人形の髪を撫で、なかなか取り掛かれなくてごめんな、と小さく呟くと、ジュンはアイデアを得ようとパソコンに向き直った。
部屋の入り口、ドアの陰から小さな黄色い姿がそれを見守っていたが、ジュンはその姿に気付くこともできなかった。
金糸雀に似た小さな人形はトコトコとぎこちない動きで歩き、廊下の端で待っている二人の元に戻ってきた。
その報告に何やら耳を傾けた後、金糸雀はふむふむと頷いてみせる。ジュンから貰って以来、金糸雀は「ピチカート二号かしら」といたくお気に入りで、ちょっとした「偵察」に人形をよく使っていた。
もっとも、人形の外見はピチカート二号というよりはミニ金糸雀と呼ぶ方が相応しいのだが、そこのところは気にならないのか、敢えて自分の名前を避けているのかは分からない。
「確かにちょっと重症かしら。スランプってやつね」
「うー……」
雛苺は眉を八の字にして、一生懸命にどうしようか考えているらしい。それは金糸雀からは泣き出す数秒前の顔にしか見えなかったが、案に相違して雛苺は涙を見せずに頑張っていた。
「胴体って難しいのね」
ぽんぽんと自分のお腹の部分を叩く。
「おへそとかあるからかな?」
「おへそは……うーん、あんまり関係ないかしら」
金糸雀は動きが止まった人形を拾い上げ、胸の下辺りを指差した。
「球体関節のドールは、普通は二分割で作ってあるの。鳩尾──この辺で上下に分けるのね」
「うん」
雛苺はこくこくと頷いた。金糸雀は人形の足をひょいと持ち上げる。
「球体関節なら脚の付け根がよく曲がるから──この子はただのソフビ人形だからいい具合に曲がらないかしら──ポーズ取らせるだけなら二分割で十分なのよ。みっちゃんのドール達も二分割や分割なしだけど、股関節の球体関節がしっかり動けば大抵のポーズは取れるかしら」
雛苺は自分の鳩尾のあたりを手で押さえ、はっと顔を上げる。
「あ! でも、あの子は新しいお腹付けたら、二つも関節があるのよ。三分割なのよ」
「そう! そこが大問題かしら。三分割した人形の胴体を壊しちゃうと後からはとても作りにくいの」
金糸雀はびしっと人形の下腹部を指差した。
「普通は三分割にはしないのね。人間のお腹は柔らかいし背骨も多関節だから、確かに三分割の方が動きの再現性は高いんだけど、実際問題として二分割だと股関節から鳩尾まで綺麗に作れるし、鳩尾のところで球体関節を入れればほとんど人間と同じポーズができるから」
そして、少し声を落として続ける。
「私達姉妹の中でも、お腹が完全に別パーツなのは水銀燈だけかしら」
「水銀燈は三分割なのー?」
知らなかったのー、と雛苺は目を見張った。金糸雀はこくりと頷いた。
「水銀燈はいろいろと特殊なの。違う点は他にもいろいろあるけど……お父様が初めて自分で傑作と認めたドールだから、仕上がりはとても美しいわ。他の姉妹と同じに見えるでしょ」
「うん」
水銀燈おっかないけど綺麗なのよ、と雛苺は無邪気に言う。それを見て金糸雀は何故か言葉に詰まったような素振りを見せたが、すぐに、ええっと、と唇に指を当てた。
「つい脱線してしまったかしら……そうそうそれでね、後から胴体を作るのは大変なのよ」
金糸雀は人形の胸の辺りと腰の辺りを人差し指と中指で指し示した。
「胴体が壊れると、大体この間がなくなってしまうことになるのね」
雛苺が自分の体を触ってみたりしてうんうんと頷くのを待って、金糸雀は話を続ける。
「この部分の細さとか、長さとか、お腹の張り具合なんかは、『大人の』フィギュアの美しさの何割かを占める大事な部分なの。特に、あの子みたいなセクシャルボディの子は、お腹が不出来だと全体のバランスが崩れてしまうかしら」
「ほぇー」
何故か力説し始めた金糸雀に、雛苺は丸い瞳を瞬いた。微妙な反応に気付くこともなく金糸雀は脇腹と背筋とくびれの大切さを語り、ドールと男性向けフィギュアの違いはそこにあると言ってもいい、とまで言った。
「ジュンは今、そこで壁にぶち当たっちゃってるかしら。他の人の作ったところにパーツを組み入れる形だから、自分の美的感覚とボディを作った人の美的感覚も違うだろうし、前途多難かしら」
「ふーん……」
雛苺は暫く考えていたが、不意にもやもやの晴れた表情になった。
「いいこと思いついたの! 水銀燈に頼んで、お腹のふくせいを作ればいいのよ。水銀燈も『水銀燈』も三分割なんだから」
ね? ね? と小首を傾げて金糸雀の顔を覗き込むが、今度は逆に金糸雀の方が難しい表情になってしまう。
「それはちょっと無理かしら……」
「なんでー? 水銀燈なら背丈もおんなじくらいだし、少しちょうせいすればきっと合うのよ」
「確かに削ったり盛ったりすれば寸法はどうにかできるけど、そう簡単な問題じゃないかしら」
金糸雀は手に持った人形の胴体の部分を軽く指で突ついた。
「水銀燈は確かにパーツ分割は同じだけど、基本は少女体型なのね。ぶっちゃけカナ達と同じ、言わばズン胴ってやつかしら」
でもあの子はモデル体型っていうかフィギュア体型なの、と金糸雀はお手上げといった素振りをする。
「同じ大きさだからってぬいぐるみの胴体をドールにくっつけたら、みっともないおでぶちゃんになっちゃうでしょ? それと同じことかしら」
大分大袈裟な喩えではあるが、それだけに雛苺にもよく分かったようだ。
「あぅ……」
雛苺は困り顔になり、ジュンの部屋の方を見遣った。部屋からは何の物音も聞こえてこないが、多分今もジュンはパソコンと向き合って手懸りを模索しているのだろう。
「まあ、手は無いこともないかしら」
金糸雀はにっこりと、取って置きの腹案があると言いたそうな笑みを浮かべる。
「ここはカナにお任せかしら!」
「……ってカナはゆーんだけど、ヒナは心配なのよ。カナ、たまに『どじっこぞくせい』が出ちゃってカラ回りするから」
苺大福をもしゃもしゃと食べながら、雛苺は珍しくませた口ぶりで、ジュンというよりは金糸雀の方を心配しているようだった。
雛苺に手元の大福を取られ、あーあ、といかにも残念そうな情けない声を出した水銀燈の媒介の少年は、雛苺の隣に座って口の周りについたあんこを拭いてやっている柏葉巴に視線を向けた。
「どんなアテがあるんだろ?」
「さあ……」
巴は微笑みながら小首を傾げる。夕暮れの公園のベンチに座った巴は少し大人びて見え、柏葉ってこんな顔もできるんだなぁ、と少年は妙な感慨を抱いた。
少年が巴の表情を見たことがあるのはほとんど学校の中だけだから、その感想は当然とも言える。巴のこの笑顔は雛苺の世話をしているとき以外は殆ど見せないものだった。
こんな場所で三人が顔を揃えるのは偶然もいいところだった。「ぽすとにお手紙を預けに行った」雛苺を部活帰りの巴が見つけて抱き上げ、そこに買出しに来た少年が通りがかったのだった。なにやら確率を操作されているのではないかとさえ思えるような偶然だった。
「カナはね、マスターがたくさんお人形持ってるって言ってたの」
そんな少年の感慨には気付きもせず、雛苺は話を続ける。
金糸雀のマスターの草笛みつはドール好きが昂じて今の仕事に鞍替えしたほどで、部屋には大小さまざまのドールが飾られている。金糸雀がドールについて詳しかったのも、以前から人形のボディに興味があったからというわけではなく、マスターの人形を実際にポージングさせたり着替えさせたりと、みつの助手のようなことをやってみた経験から来たものだった。
雛苺はそこまで詳しいことを知っているわけではなかったが、金糸雀が任せろと胸を張ったのはそういうことだろうと見当を付けていた。それなりに長い付き合いではあるのだ。
「でも、フィギュアまで持ってんのかなー」
「それはわかんないのよ」
そこが心配だと言いたそうに雛苺は巴を見上げ、巴は元気付けるようにまた微笑んだ。雛苺はその表情を見てにっこり笑い、安心したように巴の胸に頬ずりする。
微笑ましい二人の世界を眺めて、少年は思ったままをつい口にしてしまう。
「……お母さんって感じだなぁ」
「ふゅ?」
こちらを向いた雛苺の口に、割った板チョコのひと欠けを押し付ける。雛苺は疑問符を浮かべたような表情のまま、取り敢えずそれを口に入れ、頬の中で転がした。
「いや、柏葉が雛苺のさ。なんか、雰囲気ってゆーのか、そんな感じ」
「えっ……」
巴は雛苺の口の周りを拭いていた手を止め、ぱちぱちと瞬いてから一拍置いて頬を薄く染める。雛苺は溶けかかったチョコを喉を鳴らせて飲み込んだ。
「トモエがヒナのママ?」
無邪気そのものの表情で巴を見上げる。巴はますます赤くなったが、何も言わず雛苺を抱き締めた。雛苺は嬉しそうに笑ってまた巴に頬ずりする。ひとしきりそうしていた後、雛苺はもぞもぞと体を動かして少年に向き直った。
「じゃあね、じゃあね、パパは?」
明らかに一つの答えを待っている言葉だった。少年は間髪入れずに、期待どおりの答えを返した。
「そりゃあ、桜田に決まってるじゃん」
わーい、と喜ぶ雛苺と、自分の言ったことの意味を把握しているのかどうか、傍目からは判断できない少年の顔を交互に見比べながら、困惑を絵に描いたような巴の顔は西の空の夕焼けよりも赤く染まっていった。
4
「ええええええええっ、そんなぁぁぁぁぁ」
日曜の朝の桜田家の応接間に、女性の悲鳴に近い叫びが木霊する。
実際のところ、それだけならばほぼ毎日のことだ。のりか翠星石か雛苺、あるいは遊びに来た金糸雀。稀には真紅のこともあるが、今日のところはその誰でもないというのが珍しいところだった。
叫んでいるのは草笛みつ。金糸雀の契約者であり、ドールに対する知識や熱量といったものは、恐らくこの時代に限らず数多の契約者達の中でも最右翼に位置するだろう。
なにしろ、自分でドールの本体を自作する以外のことは一通りやってしまうだけの熱意があり、その熱意のために仕事も変え、そして将来はドール服のショップを開くという夢さえ持っているのだ。もちろん日本でそういった店を開くことがどれだけ経営的に難しいかは分かっているはずなのだが、それでも夢に向かって突き進んでいる。
ただ、熱意が昂じて些か猪突猛進が過ぎるきらいはあり、そして、空回りする率もあまり低くはないようだった。
今日の悲鳴の原因も空回りに近いが、そう言い切ってしまうのは気の毒なところもあった。
「それじゃあ、もう出来上がりってことかしら……」
ややオーバーに肩を落としているみつの代わりに、金糸雀が恐る恐る尋ねる。あまりの急転直下のしょげっぷりにジュンも気の毒に思うというよりはやや引き気味になっていたが、うん、と小さく頷いた。
「まだこれからが長そうだけど、原型はだいたい出来上がった」
今朝早くなんだけどさ、と言う口ぶりも幾分歯切れが悪い。
「のり……姉ちゃんも協力するって言ってくれたんだけどさ……」
どういう種類の協力かはさて置くが、結局ジュンはそれを真っ赤になって断った。のりは非常に残念がっていたが、それもさて置く。天然と言うべきかブラコンと言うべきか、微妙なところだった。
行き詰まっていたのを解決したのは昨日巴が持ち込んだ、数体の有名メーカー製のフィギュアだった。
アニメ好きのクラスメートから借り出してきたというそれらは、数年前深夜に放映していたアニメのフィギュアだという話だった。まさに「大きな男の子向け、二次元キャラ立体化フィギュア」と言うべき出来上がりの代物で、真紅に言うところによると凄腕の職人の作品とのことだが、翠星石に言わせれば、チビ人間にはまだ早いです、という品物らしい。
ともあれ、そのうちの一つがどことなく胴のない人形に似た面影を持っていたこともあって、ジュンは一晩を丸々費やして一気に紙粘土製の原型を粗方完成させてしまっていた。あとは粘土の乾燥を待って球体関節となる部分と接合し、上下のパーツと擦り合わせをすれば原型の完成ということになる。
「──なるほどね。今はどこに置いてあるのかしら」
「僕の部屋。まだスチロール型も外れてないけど」
その言葉に反応したように、みつはがばっと身を乗り出した。
「ねえ、それ、見せてもらってもいいかな? あ、ううん、文句付けるとか偉そうに指導したいって訳じゃないの。その人形とかジュン君の作った胴体とか凄く興味があるのよ。それからねこれが本命なんだけど──」
「み、みっちゃん、ジュンが引いてるかしら。取り敢えず一旦座るかしら」
金糸雀は慌ててみつの裾を引っ張った。みつははっと気が付いて座りなおす。
「ごめんなさいね、つい興奮しちゃって」
てへっ、と舌を出してみせるみつに、ジュンは顔を引き攣らせないように努力しながらこくこくと頷いた。
──なんか、今までで一番凄いのが来たな。
翠星石といきなり取っ組み合いを始めた水銀燈の媒介もなかなかインパクトが強かったが、彼は一応クラスメートだったこともあってそれなりに馴染みがないでもなかった。しかし今回は全く見ず知らずの女性だし、その上さっきは自己紹介もまともに終わらないうちに真紅と翠星石を両手に抱きしめて頬ずりを始めたのだ。
巻く・巻かないの話から、自分達がどうやって薔薇乙女を「お迎え」したかというような話をしている間はノーマルだったものの、これでまた暴走しかけた訳だ。やはりこの人は情熱を増幅して少し外れたところにぶち当てる特技でも持っているのではないか、とジュンは半ば嘆息するような気分で考えた。
「凄い……凄いわ。神の子を見つけちゃった……」
ジュンの部屋で、周囲の視線を全く気に留める風も無く、みつは完全に舞い上がっていた。視線は、何気なく壁際のハンガーに掛けられているドレスに釘付けになっている。
「天使。悪魔的天使……。今回のドルフェス出展作のテーマに合わせたとしか思えないわッ。蟲惑的でありなおかつ冷笑的、神にも刃向かう凛とした雰囲気を持ちながら少女の愛苦しさを生かす大胆なデザイン……! 神様神様、年始参りくらいしかやってないけど神様、貴方は私に自らの子を遣わしてくださったの? これも日頃の行い? 毎年お賽銭けちらずに払ってるから? 今年の運勢凶だったのは超クールだと思ってたけどもしかしてツンデレだった? それともこれは貧しい少年が死の間際に見たルーヴェンスの絵画ってこと? いいえまだ私死ねない、到底死ねないわせっかくこんな素晴らしい才能にめぐり合えたっていうのに! あああパトラッシュ私まだ全っ然眠くないから! だから連れて行かないでおじいさんのところには貴方一人じゃなくて一匹で行って明日の朝の牛乳配達は私が全部やっとくからあの牛乳缶クソ重いけど!」
明らかに天国でなく何処か異次元に行ってしまいそうなみつの雰囲気に、部屋に入りかけた翠星石達はその場で固まってしまった。部屋の中ではジュンが必死に何か言っていたが、一言言うたびに相手のテンションがいちいち上下していくので辟易しているようだった。
「……なんかいろいろとネジがぶっ飛んでやがるです」
「ああなっちゃったらみっちゃんは誰にも止められないかしら……ネジっていえば、初めて巻かれたとき、最初に感じたのは火傷しそうなほっぺの熱だった……」
「カナ、あいと、あいとーなの」
「うう……かえって切なくなってしまったかしら……」
ぐす、と鼻を鳴らす金糸雀の脇で、真紅は一人冷静な表情だった。
「貴女達」
部屋の中の喧騒に視線を遣らずに真紅は言った。
「こちらはこちらで話があるの。行きましょう」
三人は一瞬虚を衝かれたようにぽかんとしたが、顔を見合わせてから揃って頷いた。
「ま、まさかこんなにボッタクリ価格なんて……」
「由々しき問題かしら……」
真紅が示した金額を見て、金糸雀と翠星石はこわばってしまった。
「じゅうにまんえんって?」
雛苺は実感が湧かない様子で、指を唇に当てて小首を傾げる。
「少ない月のみっちゃんの家賃引いた手取りに匹敵するかしら……」
金糸雀は引き攣った顔を隠そうともしない。みつの場合、その手取りが多かろうと少なかろうと惜しげもなくドール関係に注ぎ込んでしまうことの方がより一層の問題なのだが。
「うー、ますますわかんないのよ」
「お前の好物不死家の苺大福十二個入りを百箱買える値段ですよ。お子ちゃまには過ぎた買い物ですぅ」
翠星石は言い捨て、早速数え切れないほどの苺大福に囲まれた想像を始めたらしい雛苺をさし置いて真紅に視線を戻した。
「ボッタなのは分かったですが、どうするつもりです? ドールにゃ百円だって稼げねーですよ」
「そうね……でも、なんとかしなければ。言い出したのは私なのだから」
真紅は珍しく落ち込んだ表情で考え込んでしまった。ふむ、と翠星石は腕を組み、真紅が持ってきた紙を見遣る。
「確かにこれは、なんとかしないとですねぇ。額がでかいってことは、水銀燈やアホ人間にも大変だってことですし」
ウェブページをそのまま印刷した紙には「フルオーダーワンオフ/ドライカーボンパーツ 60,000円~ /1点」というところに赤いマーカーで大きく丸が付けられていた。先日家に来た巴に真紅がこっそり頼んでプリントアウトしてもらった、カーボンパーツ専門店の価格表だった。
胴部のパーツが容易に一体整形できないことは水銀燈から聞いていた。どう繋ぐかは別問題として、二つ以上のパーツ分割が必要らしい。塑像みたいには行かないのよ、と水銀燈が肩を竦めていたことを思い出す。
「私達にはアルバイトはできないし、何か作って売るしかないかしら」
「あ、ヒナいいこと思いついたのよ。翠星石が手作りクッキー作って売るのよ。薔薇乙女特製クッキーなのよ」
おお、と他の三人がその素晴らしい提案に乗りかけたとき、後方から無慈悲な声が響いた。
「クッキー何枚必要だと思ってんだよ……無理だって」
ぎくりとして振り向くと、そこにはジュンとみつが並んで立っていた。
「い、いつから聞いてたのかしら」
「『少ない月の……』からかなー?」
みつが少し強張った顔で言う。
「ごめんねカナ、みっちゃんの手取りが少ないばっかりに……」
「み、みみみみっちゃんごめんなさいかしら! 泣かないでー!」
思わず駆け寄った金糸雀をみつはひょいと抱き上げる。
「捕獲成功! ああんもうカナったら可愛いんだからぁ。そんなに想ってもらえるなんてみっちゃん幸せ……!」
言い終わらないうちに、おろしがねで大根おろしを作るような勢いで頬ずりを始める。
「み、みっちゃんほっぺが、ほっぺが摩擦熱でぅぇぇぇぇ!」
ちょっとした地獄絵図だ、とその場の他の四人は思った。
「十二万円ねぇ……」
客間に戻り、漸く冷静になって話を聞いたみつは、形の良い顎に指を当てて暫く考えていた。それは金策の方法というよりも、具体的な金額の予測をしている風にも見えた。
「まだ、それと決まったわけではないのだけれど……難題なのだわ」
真紅は居心地が良くないような風情で斜め下を向いた。みつはその姿とジュンを交互に眺め、ふふ、と笑った。
「多分大丈夫よ。アテがあるの」
全員の視線がみつに集まる。みつはにっこりと、艶然と言ってもいいような笑みを浮かべた。
「ええ、みっちゃんにどーんと任せちゃって。これでも社会人ウン年目なのよ。だから、ジュンジュン」
「え、その呼称で固定なのかよ」
抗議は当然のように聞き流し、みつはジュンにびしっと指を突きつける。
「さっきの話、よろしくね♪」
「……なんでそうなるんだよっ」
口を尖らせながらも、ジュンは嫌だとは言わなかった。
膝の上に真紅を抱いて、ジュンは刺繍の針を動かしている。
「……白薔薇ね」
「ああ……生地が水色だから」
あれから暫く打ち合わせという名目の雑談をして、みつは帰っていった。
「あの話、引き受けるの?」
「……ああ」
あの話、というのはみつが持ち込んできた、ドール服を作ってほしいという依頼だった。ドルフェスというドール関係の即売会に合わせてデザインしているドール服がなかなか思うように行かないらしい。ジュンの作った人形用のドレスを見たみつはえらい熱の上がりようだった。絶対悪いことにはならないからチャレンジしてみて、と迫られるとジュンとしても首を横に振るわけにもいかなかった。
「みっちゃんの作ったドレス、大したことないなんて言っちゃったけどさ」
ジュンは下絵もなしに、手早く美しい薔薇の花弁を仕上げていく。真紅は半ばうっとりとそれに見入っていた。
「仕事の合間にコツコツやってるんじゃ、一ヶ月に一着くらいだろうな……値段も原価ぎりぎりだって言うし、好きじゃなきゃやってられないかも……」
真紅は刺繍針が動いている辺りの布を押さえてぴんと張らせた。
「あ、指危ないぞ」
「……ふふ」
真紅の笑いに、ジュンはくすぐったいような感覚を覚える。
「どうしたんだよ」
「成長したわね、ジュン」
「……は?」
一瞬だけ、手が止まる。だが、ジュンはすぐに口を尖らせた。
「呪い人形に言われたくないな、そんなこと」
「──そうね」
真紅は漸く手をどけた。
「私達人形に成長はない。本来、何かに突き動かされているだけ」
「なに言って……」
「あなたはどう思うかしらジュン、薇が錆びて朽ちるまで、アリスゲームに生きること。
人が眠るように、呼吸するように、あるいは心臓の鼓動のように、それが私達の──薔薇乙女に本来求められた、自然であり必然なのだとしたら──」
遠くを見るような瞳で、真紅は独語するように言った。
「どうって……」
ジュンは手を止め、暫く次の言葉を探していたが、やがて刺繍を再開した。
「どうしたんだよ。なんかみっちゃんに感化されたりしたんじゃないだろうな」
「──ふふ」
そうかもしれないわね、と真紅はまた柔らかく微笑んだ。
「……おいおい」
正面から真紅を見ていたら、その表情に僅かに寂しさと羨望のようなものが混じっていることに気付けたかもしれない。だが、ジュンの視線からは真紅のヘッドドレスと自分の手元しか見えていなかった。
ジュンの溜息がヘッドドレスをかすかに揺らす。真紅は目を閉じ、ジュンに体を預けるようにした。
「ねえ、ジュン」
「ん……」
「貴方は成長する。そしていつか在りし日の人形遊びを忘れていくでしょう。でも」
そっとトレーナーの裾をつまんでみる。
「いつかここから貴方が飛び立っていってしまっても、私が眠りに就いて現実世界から消えてなくなってしまっても……」
きゅ、と少しだけつまんだ手に力を込める。
「私達の時間が交差したこの瞬間は、世界に確かに存在していた。それだけは覚えていて」
「……ん」
ジュンは不明瞭に返事をして、やや間を置いてから、なに大袈裟なこと言ってんだか、とわざとらしい溜息をついてみせた。
「飛び立つとか何言ってんだよ。僕には無理だ。なにしろ自他共に認めるヒキコモリだし。だけど……」
また刺繍の手を止める。だいぶ続きを言いづらそうにしていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「お、お前達こそ……ゲームが終わって……アリスになっても、僕のことを忘れるなよ。そ、そりゃ、ヒッキーで取り柄も何もないかもしれないけど、お前達のこと三人も纏めて面倒看てやってるんだからな」
「忘れないわ。貴方は魔法の指を持った神業級の職人。そんな人間のことを忘れるはずがないもの」
真紅は即答した。
「それに、貴方がたとえ貴方の言うとおりの存在だったとしても──」
それから口の中で不明瞭に何か続きを呟いた。
「え?」
「──なんでもないわ。ドレスのアイデア出しの邪魔をしてしまったわね。静かにするから続けて」
「……うん」
真紅はトレーナーの裾を掴んだまま、眼を開けて刺繍が出来ていくのを見守った。
静かな部屋の中に、ジュンの息遣いと針の進む音だけが僅かに聞こえていた。
5
水銀燈は宵っ張りで朝に強くない。特に最近は媒介の夢に入り込んでいることもあって、ほとんど昼夜逆転とも言える生活になっていた。
あまりいい生活習慣と言えないのは分かっている。だが、鞄に入る時間はきちんと取っているし、特段疲労がたまってきているわけでもない。
それでも自分の夢の中で、知識として知ってはいるが出会うはずのない人物と会話してしまうほどには疲れているのかもしれない。それがごく普通の夢のありようなのだと言ってしまえば、それまでなのだが。
「また君かね」
長身の男はうんざりしたような素振りで水銀燈を見る。またこの夢か、と水銀燈は舌打ちしたい気分でそっぽを向いた。
「ええ、どういうわけかしらね」
そこは人形工房だった。小綺麗に整頓されているのに、山のように失敗作のパーツが積まれたままになっている。普通はありえない光景だった。これだけまめに掃除されている仕事場なら、そういうものは誰かが片付けてしまっているはずだ。
「何度来られても、私の人形はそう簡単に完成しないし、もうお披露目先は決まっているんだ。この次の作品までね」
「いいのよ。ここにこうして私がやってくること自体に意味があるのでしょう、きっと」
「それもそろそろ聞き飽きた」
そう言いながらも、男はいつものように椅子を勧める。水銀燈も素直にそれに座る。そうすると、男は水銀燈に気兼ねすることなく作業を始めるのだ。
「今日もまた、荒唐無稽な話を聴かせてくれるのかね」
作業台に向いたまま、男は溜息をつくような声で言う。水銀燈はせせら笑った。男が本当はその話を楽しみにしているのは見え見えなのだ。
「気が向いたらね」
とは言うものの、話さなかったことはない。水銀燈もその話をするのを日課の一つにしているのだった。日課と言ってもあくまで夢の中での話だが。
暫くの間、男の使う鑿と鑢の音だけが響いていた。
水銀燈はこの音の出所を知っている。媒介の見たアニメ作品でもなければ、それやら漫画を基に彼が膨らませた想像でもない。自分自身の記憶だ。
遠い遠い、それでいていつも近い記憶。工房の中で姉妹達が作られて行くのを、水銀燈はこうして椅子に座って見ていた。椅子の上で様々な話を聞いて、様々な受け答えをした。
ときには椅子を降りて様々にねだりもした。だが、ねだったモノが与えられることはいつもなかった。父親は優しくはあったが、工房の中ではそのときの仕事が最優先だった。
水銀燈もそれを知っていながらねだるのだった。ほんの少しの間でいいから人形を作っている手を休めて自分の方を振り向いてほしくて。
「その微笑ましい話の娘がまた何故、そんな真っ黒な服を着せられたのかね。ご丁寧に逆十字まで標されて」
珍しく、男は水銀燈のことを尋ねてきた。所詮自分の明晰夢だ、とあまり関心も無かったので気に留めていなかったが、案外これが初めてかもしれない。
「さあ、何故かしらね」
「はぐらかすのは良くないな」
「はぐらかしているのは貴方のほうでしょう。其処に掛かったドレスと、其処に座った人形が答えよ」
水銀燈は作業台の上の人形を「座っている」と表現した。実際には、人形には下半身がなかった。
「容姿と服装が似ているからといって、意図するところが同じとは限らん。私には私の、君の父上には君の父上の、それぞれの思惑がある」
くっ、くっ、くっと男の肩がわずかに震える。笑っているようだった。
「それとも君は、あの出来そこないの作り掛けと自分を同一視しているのかね。あんな、あんな」
くくくく、と笑いが大きくなる。
「どうしようもない、がらくたと」
水銀燈は肩を竦める。
「似たようなものでしょ、どちらも。完成に漕ぎ着けたかどうかは別として、所詮は失敗作に過ぎなかった」
「完成したかどうかは重要だと思うがね。それはまだ、失敗作にすらなれていない」
男は背を向けたまま、持っていた鑿で人形を指し示した。
「作り上げていないからね。完成に近いところまで行ったが作業を放棄した、言わばジャンクの塊の一つに過ぎない」
そうしてまた、くくく、と笑い、作業を続ける。
「放棄したにしては、随分と未練があるじゃないの。ドレスはこれ見よがしに飾ってあるし、人形自体はがらくたの山に埋もれさせるでもなく、そうして座らせて置いてある。確か名前もついていたわよね。やはり失敗作と見るべきではなくて?」
「私は『まだ、失敗作にすらなれていない』と言ったのだよ。確かにこの時点ではあれはがらくたに過ぎん。そして結果としても、がらくたの域を出なかった。動力源も無しに自ら動き出しただけあって力だけは人一倍あったものの、私の最高傑作に終に及ばなかった。その力を見込んで、後から動力源まで与えてやったのにな」
まあ、その最高傑作も、結局のところ弟子の作ったドールに敗れたわけだが、と男はさも残念そうに言った。
「結局あれのしたことは、『ローゼンメイデン』の一人をゲームから退場させ、一人を最後の場面で守ったことくらいか。後者は結果的には無意味な行動だったが。まあ、見方を変えれば与えたモノの対価くらいは支払ったとも言えるだろう」
「あれだけ暴れれば十二分に支払ったと言えるでしょうね」
水銀燈は人形に視線を向けた。灰白色の髪の人形は動き出す素振りも見せない。
「むしろ貴方の思惑が、『アリスゲーム』という名の下に自分の娘達を殺し合わせる退廃的な娯楽にあったのなら、その人形はどの『ローゼンメイデン』よりも貴方のお眼鏡に適う働きをしたのではなくて? だとしたら、むしろ私と姉妹達なんか足許にも及ばない大成功作よ」
「はは、それは面白い」
男は鑿を置き、ぱちぱちと手を叩いた。その仕草は誰かによく似ていた。
「だが残念なことに、その人形はがらくたなのだ。今も、そしてこの時点から見た未来においても」
「そうかしら」
「そうなのだよ。何故ならあれは、完璧な少女たり得ない。なにしろ当初は姉妹のうちに数え入れられず、あまつさえ体さえも作り掛けのままなのだから」
「口ではそんなことを言っても、最後の最後で貴方はその人形に対する今までの扱いを見直したのではないの? 復活させるときボディを作ってやったでしょう? まさかお忘れかしら」
「ああそうとも。ご褒美さ。がらくたにしてはよくやったことに対するご褒美。そして新たな、腕力にものを言わせない戦いに挑ませるためのアメ、でもある。実に哀れなものじゃないかね、物理的な力が必要なくなってから物理的な欠損を補ってもらうというのは」
男の背中がく、く、とまた震えるのを見て、水銀燈はやれやれと肩を竦めた。
「……悪役を気取るなら止めはしないけど、結局のところは薔薇水晶とかいうドールとの戦いの後、貴方はその人形に対しても他の『ローゼンメイデン』と同じスタートラインに立たせることに決めたわけでしょう。だとすれば、その人形はやはりがらくたで終わったわけではないわ。
むしろ、貴方はその人形をがらくたから失敗作さえ越えて他の姉妹達と同じ場所にまで引き上げるために、『ラプラスの魔』や自分の弟子までも巻き込んで、現実時間で百何十年も掛けて延々と回りくどいことをやってのけたと言っても過言ではないわね」
男は黙りこんだ。鑿の音も鑢の音も止まっていた。
「貴方は死んでもそれを認めることはないでしょうけど、貴方達の紡いだ物語は全て、貴方がその人形の立場や状態を他の姉妹達と同じくするための布石だった。言い換えれば他人にも自分にも素直になれない貴方の、その人形に対する不器用な想いの軌跡。そんなふうに見ることも出来なくはないわ」
かけがえのない自分の作品を二体も犠牲にしてね、と水銀燈はかすかな羨望を交えて言葉を終えた。
男は黙ってまた作業を始めた。背中が震えているのを除けば、それは会話を始める前と何等変わらない光景だった。
暫くは、鑿と鑢の音しかその場にはなかった。やがて、男はぽつりと言った。
「君は自分を失敗作だと言い切っている」
水銀燈は無言で男の背中から視線を逸らし、人形を見た。人形はぴくりとも動かない。水銀燈の夢の中なのだから動き出してもよさそうなものだが、動き出したとしてもそれは現実世界に引き出されて胴部の補修を待っている人形そのものではない。水銀燈の夢の中にある虚像だ。
「それは正しい認識だろうか?」
「……少なくとも私はアリスではなかった。その意味では間違いなく、私は不完全で失敗作よ」
「はぐらかすのは良くないな」
男は先程と同じ台詞を口に出した。水銀燈は言い返さずに男を見遣った。
「数日前から思っていた。君は自分が他の姉妹より劣っている、だから遮二無二ローザミスティカを集めなければ、姉妹には勝てないと言いたいのではないかと」
手を止めずに男はぽつぽつと喋った。
「そして様々に類推してみた。黒い翼と服を纏わせられたからなのか。最初に作られたからなのか。契約についての特異性か。それとも、そのボディに欠陥があると思っているのか」
水銀燈はちらりと人形を横目で見た。相変わらず人形は動く気配すら見せない。
「部分的にはどれも当たっているだろう? そして、君の懸念事項は恐らく、言ってしまえば当然ながらある意味で正しい。君に不完全な部分、他の姉妹より劣っている部分は確実に存在する」
「……でしょうね」
素直な声音で水銀燈は答えた。男は向こうを向いたまま軽く首を縦に振った。
「君は紛れもなく、不完全な失敗作だ。だが……」
男は椅子を引き、できたばかりのパーツを取り上げて木屑を払った。水銀燈の冷静な部分が軽い驚きを感じる。アイホールも開けられていなかったが、それは、彼女の目にはドールの顔部分のように見えた。
「まさか、顔が木彫とはね」
「これは手慰みだよ。本物は粘土で作り、窯で硬く焼き上げる」
言いながら、彼は人形に歩み寄り、そのうつろな顔面に仮面のように木彫の顔を押し当てた。そして、手早く人形の髪をツインテールに纏め、前髪を梳いた上で、懐から出した赤いボンネット調のヘッドドレスを器用に被せる。
「さあ。何に見えるね?」
言われるまでもなかった。髪の色は違い、その長さも、末端のカールも無かったが、そこには即製の真紅がいた。
「君の、他の姉妹達との違いなど、私に言わせればこんなものだ。Aの代わりにBを与えられ、Cに劣る分Dで優る。その程度だ。ちょっとしたことで補いはつくし、AとB、CとDを入れ替えれば均質になる。
君と、君の五人の姉妹達は全て、言ってしまえば私の作った『真紅』以外のドール達のようなものだ。それぞれ欠けたところがあり、ユニークな部分もある。全てが失敗作であり、彼にとっての最高傑作だ。君の言うとおりだな。
君のお父上とて全能ではないだろうから、付与された能力の種類によって、結果として優劣は付いてしまったかもしれないがね。まあ、そんなものは些細なことだ」
男は手際良く人形の頭を元に戻した。再び人形は水銀燈に似た顔に戻り、何事も無かったようにそこに止まっている。
「第二ドール金糸雀。彼女の性格は人懐こく明るく、しかし才気走ったものとされた。そして、容易にめげない克己心を根底に持つ。
小柄で腕力には劣るものの、人工精霊の手助けを得てある程度空中を浮遊でき、音を使った技も持たされた。
マスターへの依存度は小さいが、性格的にマスターを大切に思うようになることが多かっただろう。
ローザミスティカへの執着はそれほど大きくないが、目的意識は高い」
相変わらず背を向けたまま、男は歌うように言った。
「今日は厭に多弁なのね」
水銀燈は苦笑した。
「やめるかね?」
「いいえ。その調子で全員分お願いするわ」
男は軽く頷いた。
「そこまでの二人は、言わば個で全てを網羅しようとしたのだろう。どちらも完成度は高かったが、完璧とは言えなかった。そこで彼は考える。ある程度の完成度を持った二人に、お互いの不足を補わせれば良いのではないか。一人では無理でも、二人なら高みに到達できるのではないか。
そうして作られたのが庭師の双子だった。
一方は前向きで猪突猛進、臆病な面も見せるが好奇心が旺盛。他方は思い遣りに富み慎重だが容易に曲がらない信念を持ち、いざとなれば冷徹果断になれる。そして、二人とも感受性は強かった。
技においても二人は表裏一体となった。そして他の姉妹には無い大きな力──他人の心をある程度操れるという能力を付加することで、更に『何か』を獲得させようとしたのかもしれない」
「何か、とは?」
「私は彼ではないから、その点は分からない。私が私の作った姉妹に持たせた能力は、極めてシンプルだから。
即物的なパワー、音波を操るパワー、心を操るパワー。それらのいずれかを動力源の欠片一つ一つに込めただけだ。だから、私の娘達は他の動力源を奪えばそのパワーも振るえるようになった訳だが。
君の父上はそれを人工精霊に与えたり、逆に人工精霊を増幅器としてのみ行使させたりしている。結果は同じだが、そこに至る過程は異質過ぎて推測しかできない」
「ふむ」
水銀燈はちらりと腕時計を確認するような仕草をした。
「続けて頂戴」
「そのようにかなり大胆な作りをしたのだが、しかし、これは失敗だった。双子は性格付けの強さと二人一組という行動形態、そして何よりあまりにも平仄の合うお互いを持ったゆえに、強く依存し合うようになってしまった。高みに到達する、どころの話ではなくなったわけだ。
彼はここで初心に帰ることにした。つまり、次のドールは今までの姉妹達の経験を踏まえて、その時点での全てを込めて正攻法で作ったのだ」
水銀燈は溜息をついた。
「それが真紅」
「そう。高潔で思慮深く、知識欲旺盛だが慎重で、固い信念を持つが他者を思い遣る心も併せ持ち、技に依存することのないよう特異な能力を持たないが、その代わりに物の時間を巻き戻せる時計という重要な品物を持つ」
「でも、彼女も至高の存在には届かなかった」
「それら要素を全て併せ持った結果、彼女はとっつきにくく頭でっかちで、こと物理的な能力においてはか弱い存在となってしまった。後年、ローザミスティカを巡るゲームでは他に弱い立場の姉妹がいない限り繰り返し真っ先に狙われるような。性格付けそのものも厳し過ぎたのだろうが、彼としては気付いていなかったのだろう、作っている間は」
「それでも、彼女は選ばれたわよ、マエストロのパートナーとして」
「さあ、それも私には分からない方面の話だ。私の真紅は確かに桜田少年を『選んだ』が、これは選ぶ側が逆だからな。君の妹が本当に、君の言うように契約者のパートナーとして選ばれたのなら、それは私には理解できない世界の話ということだ」
男はちらりと水銀燈を振り向き、水銀燈は肩を竦めた。
「事ここに至り、彼は自分にほぼ絶望してしまう。結局自分の思う至高の存在など、自らの手では作り出せないのではないかと。神ならぬ自分の想像力や創作力には限界があり、理想を具現化しようとしてもどこかしら届かないのではないかと。
そして、次の娘には、敢えて彼が避け続けてきた要素だけを盛り込んだ」
「純真無垢、天衣無縫……」
「そして、未完成。雛苺はある意味で他の姉妹とは反対の手法で作られた。その人形としてのボディ以外は。
だが、そうしてできあがったのはどこにでもいる素直で可愛い子供に過ぎなかった。至極当然だがね。言わば成長することに全てを託したのだから、成長する前の段階で完成しているはずがない」
「結果として、君達は全て何等かの欠陥を抱えたが、それは能力的な不均一という意味でなく、どちらかと言えば性格的なあれこれだった」
男の言葉に憐れむような響きが幾らか混じった。
その憐れみが自分達に向けられたものでないことは、水銀燈にはよく分かっていた。
彼は自分の娘達にやや不均等な能力を与えた。そしてそれは、自分達よりも物理的な力に優り、幾らか戦闘的な、そして動力源を集めれば集めるほど強くなれる彼女達にとっては致命的な格差でもあった。
「よく分かる話だけど、まだ総括には早いのではなくて? 貴方は五人分しか考察を話してないわよ」
「ああ済まない、君の分が未だだったな。だが分かってほしい、私にとって金糸雀から雛苺までの五人は、自分の作品でもあるのだ」
水銀燈は鼻を鳴らし、素直じゃないこと、と足を組みなおした。
「どこまでも水銀燈はがらくただと言い張りたいわけね」
「それはイエスでもあり、ノーでもあるが、君の話とは無関係だろう」
男は作業台に道具を置き、水銀燈に向き直った。
「さっきも言ったとおり、君は他の姉妹とさして変わらない。強いて言えば、君と真紅だけにしかない特徴はあるが」
「そのときの実力を注ぎ切った、ということ?」
男は頷いた。
「君は薔薇乙女として最初の作品だけに、彼は持てるものを全て注ぎ込んだ。仕上がりの美しさを犠牲にして人間に近い動きに拘った腰部と胸部の二重の胴関節こそ、胸部関節の適切化で金糸雀以降は使わなくなったが、君に初めて使い、その後の姉妹達に使いつづけた技法は数多い。むしろほぼ全ての技術は君で既に完成されていたのだ」
「言わばテストベッド。試作品ということね」
水銀燈の皮肉な言葉に男は渋い顔をする。
「君が試作品かどうかについては興味ある議題だが、今のところは私にはそうは思えない、とだけ答えさせていただこう。
君のコンセプトは、天使だった。誇り高く自分を貫く意思の強さを持ち、高く羽ばたける翼を身につけている。自分の内面は誰にも見せず、誰かのために一途に生きて行く。無駄なことに脇目を振ることもなく、愚直なまでにまっすぐに」
「誰かに言わせれば『馬車馬みたい』だけどね。全く上手いことを言ったものだわ」
水銀燈は今では自分の記憶の中にだけある言葉を思い返していた。言ったのは決して好きにはなれなかったが、嫌いにもならなかった人物だった。まだ数ヶ月と経っていないのに遥か昔のことのような気がする一方で、まるで今も薄汚れた作業着姿のまま肩を竦めながら、何か手を出すでもなくこの場をただ眺めているようにも思える。
「君には契約者との繋がりはさほど重要ではなかった。それは、君が個として完成していたからだ。
他の姉妹達は契約者がいなければ力を振るえないが、その理由は簡単だ。奇形的に性格付けされた彼女達は、傍に人の想いがなければ暴走しかねない。何があっても人から遠ざからないように、彼は言わば保険として契約という行動の制限を設けた。考えてみたまえ──」
男はほぼ完成しているドールを棚から下ろし、机に横たわらせた。
「君を作り始めたときの彼は、それこそ永年の想いを結晶化させていたはずだ。それこそローザミスティカを生成しようとした頃からの、彼本来の理想だ。その理想には──あくまでその時点までは、だが──揺るぎ無いものがあった。それが苦し紛れの迷走を始めるのは、君を作った後のことだ」
「それは取りも直さず、私が失敗作だったからということでしょう」
「否定する訳ではないが、私が言いたいのはそこではない」
男は苦笑した。
「少なくとも君は、思いつきやその場のひらめきで作られた代物ではないということだ」
言葉にもひどい苦味があるように、男の顔は次第に歪んでいった。自分の身に照らして、自分の作品のうちのいずれかに思いを馳せてしまったのだろうか。
顔を強張らせながら、男は続ける。
「結果的に彼の力が、彼自身が求める水準に及ばなかったとはいえ、君は確固たるコンセプトに沿って作られた。だから君には音を操ったり心を強制的に動かすような奇妙で特殊な力はない。ただ、羽を自在に操ることができるだけだ──これは、ある程度原点に立ち返って作られた真紅も同じだな。彼女は強くあれとすら求められなかったから、能力はより限定されているが」
水銀燈は眉根を寄せたが、何も言わずに続きを促すような素振りをした。男は苦い顔を隠そうともせず、これで終わりだ、と素っ気無く言った。
「そんなに不満そうな顔をするものじゃない。言っただろう、私から見れば君と他の姉妹の違いなどそんなものだと。
──そして、そこの人形は君『達』と根本的に違うのだと」
男は斜め下に視線を落とし、溜息を一つついてまた机に向き直った。作業を再開しようとしたが暫くして道具を乱暴に置き、抽斗から何かを取り出して抛りつけるように机の上に転がすと頭を抱えた。それは不規則にゆっくりと転がって行くと、机の端から床に落ちた。木と木のぶつかる音がして、それは水銀燈の足許まで転がってきた。
「ああ、ああ、そうだとも。素型を作っているうちから分かっていたさ、その人形が何か異常な力を持ってしまったことくらいは!
だから私は完成させることを躊躇した。出来上がったが最後、あれは私の手を離れて勝手に動き出すだろう。そして究極の少女どころか悪魔に、神に刃向かうものにすらなりかねない。
しかし、簡単に打ち棄てることもできなかった。そうするには、あれが作り上げる前から独り手に自我を得たという事実はあまりに魅力的だったのだ。究極の少女となるのに必要なリソースの一つ足り得るのではないか、と思えてしまうほどに」
水銀燈は立ち上がり、転がり落ちたものを拾い上げた。微妙なラインで構成され、上下に半球状の丸みを付けたそれは、人形の胴のパーツだった。
「ドレスに標された逆十字はそのせいなのね」
自分の胴とはあまり似ていないそのパーツをためつすがめつしながら、水銀燈は尋ねるというよりは確認する口調で言った。
「仮に完成させていたとしても、悪役扱いは免れなかったということかしら。どう転んでも不幸の種にしかなり得ないじゃないの、その人形は。いっそ後顧の憂いを断つためにも壊してしまえば良かったのに」
「そこであっさりと自分の命題を解く鍵になりそうなものを壊せるような果断で執着心のない人間が、膨大な時間を注いでローザミスティカなどという如何わしい物を作り、自分の作品に埋め込もうなどと考えるはずがないだろう。いや、少なくとも私には壊せなかった。そして」
「ずるずると、それが勝手に動き出した後も見て見ぬ振りを続け、七体目までを完成させて『アリスゲーム』が始まった後もまだ未完成のままとしていた。その認識が変わるのは、貴方の最愛の娘が人形に情けを掛けたから?」
「それもある。だが、あれが言った言葉が引き金だった。『ローゼンメイデン第一ドール』と、あれは名乗ったのだ。
個々の仕上がりだけで『アリス』を目指していた頃ならば、戯言を言っているだけだと思っただろう。だが、私は動力源の最後のひとかけらに剣のイメージを宿してあれに渡した。
力ずくで動力源の欠片を奪い合う試練を課したからには、あれにも相応の使い道が出来たのだ。動力源も力を与えてくれる者もなしに平然と動き回れるのだから、あれに動力源の一片を渡してお前も『ローゼンメイデン』だと言ってやれば、絶好の敵役になれるのだ。事実、そうなった」
水銀燈はパーツを机に置き、人形を見遣った。
「それだけではないでしょう。今更貴方に認めろとまでは言わないけど、人形に対する愛着も当然あったはず。けれども自分の内心を認めたくない貴方は、パーツを作り付けないまま動力源だけを与えた。中途半端な形とは言ってもその人形にも至高の少女になれるチャンスを与えたのは、何か言い訳をしない限り自分の心に嘘を吐けなかったということよ」
男は黙り込んだ。水銀燈は暫くそのまま待っていたが、やがて元の椅子に戻って腰掛け、足を組んだ。
「貴方が最終的に自分の気持ちに素直になるには、貴方の娘達が弟子の人形一体に全滅させられること、その弟子の人形が見せた純粋な想い、そして無力なはずの一人の契約者が貴方に問い掛ける言葉が必要だった。
自分が作ったものが自分を慕うくらいの生半可な働きかけ──」
「──そうだ。彼女達からどれだけ愛されようと、私の中で何かが変わることなど有り得ない。娘達が碌に話を交わしたこともない私を慕うのは当然だろう。そういう風に性格付けされているかもしれないのだから。私自身が無意識のうちにそうしていない保証など、何処にもない」
男は早口で、水銀燈の言葉に被せるように言う。水銀燈は目を閉じ、希代の錬金術師にして人形師がとことん自分を信じられない性格とは皮肉なものね、と呟いてから続けた。
「でも、貴方は気付いた。貴方がドールに与えた全ての能力よりも、力の源とした不可思議なクリスタルよりも強く働くものがあり、それは存在を知らなかった新奇なものでも全く見落としていたファクターでもなく、ただ単に重要視しなかっただけのありふれたモノだと。
それは、ヒトの手によって作られ、魂を持ったモノが自ら持つ『想い』。
貴方の想いを一身に受けて作られたその人形は、貴方が異様な未知の力だと勘違いするほど強い想いを持った。動力源を持たずとも勝手に動き出すほどに。
娘達が貴方を慕ったのも、貴方が製作時に与えた特性ではなくて、自らの想いの発露に過ぎなかった。
そして、本来貴方の作った娘達の動力源を体内に取り込めば壊れてしまうような、弟子の作った脆弱なはずの人形が、ほんの一時にしろそれを行使までして貴方の最高傑作を打ち破ったのも、弟子と人形のお互いの想いの結果だった。
それを知ったからこそ、貴方は自分の宣言したルールを破らないぎりぎりの形で貴方の娘達を修復し、動力源の欠片を与えなおした。さり気なくその人形も含めて、ね」
「根本的に間違っていたのだ。
究極の少女など限られた特質の中で優劣を競わせて決めるものではない。むしろ長い時間をかけて無数の人々の想いに触れ、そこからも単純な取捨選択をするのでなく、自分なりに全てから何かを汲み取って変化していかなければ生成し得ない」
男は頭を抱えていた手を伸ばし、水銀燈が置いた胴のパーツを手に取ると机に肘を突いて両手でくるくるとそれを回した。
「そこに気が付くまでに何百年と掛かるとは、私は何処まで頑迷だったことか。より良い何かを生み出すために練成と変化が必要だということは、動力源を生成する過程でよく分かっていたというのに」
「そうねぇ。でも」
水銀燈はふっと微笑んだ。
「間違った道を行き止まるまで我武者羅に突き進んだのも、自分の感情に気付かない振りをして遠回りをしてしまったのも、とても……人間らしい。到底賢明とは言えないけど、少なくとも懸命ではあった。
私は貴方のそういうところ、嫌いじゃないわよ。愛すべき性格とはお世辞にも言えないけどね。
何を考えているか分からないほど超然としていて、全てを予測してシナリオを組み上げている存在より余程『生きている』もの」
男は手を止め、水銀燈を眺めて苦笑した。
「それは……君の父上のことかね」
さあ、どうかしら、と水銀燈が言うと、男は苦笑を微笑みに変えた。
「君が抱いているのは幻想かもしれないぞ。少なくとも私と彼には──異なる世界の同一人物だ、というのは置いておいても──手法や技術が異質であるとはいえ、それほどの差があるとは思えない。例えば、あれがそうだ」
水銀燈は男が指した方を見遣り、訝しげに瞬いた。
「その人形と私は似ても似つかない。そう言ったのは貴方じゃなかったかしら」
「そうだとも」
男は頷いた。
「確かに君とは外見と名前、そして第一ドールという点くらいしか共通点はない。だが、あれに相当するものはいるだろう。生まれたときから異質で、まるで悪役と定められて生まれてきたようなドールが」
水銀燈は体を何かが走り抜けたような気がした。
「……末妹が、そうだと言うの」
「ああ。彼女こそは私にとってのあれに相当する特異なドールだ」
「仮にあれをドールと呼ぶのなら、という感じだけどね」
なにしろ物理的な本体さえない。魂だけの存在。どのように製作されたのか、そもそもどうやったらそのようなモノを製作できるのかさえ明らかでない謎のドール、それが雪華綺晶……
──どうやって製作されたか不明……?
「共通点はだいたい理解できたようだね」
水銀燈の内心を見透かしたように、男は続ける。
「彼の『手』で作られたものでなく、彼のイデアが『生んだ』モノだとしたらどうだ。ここまでの文脈に沿って、想い、と言い換えてもいい。まるで、あれの自我と同じじゃないか」
「……屁理屈だけど、そういう見方もできなくもないわね」
それに、雪華綺晶が取っ掛かりを作り、水銀燈の媒介の記憶の世界の中で信じられないほど急速に自我を持つまでに成長したあの人形とも同じだ、と水銀燈は微かな良心の痛みと共に考える。
「そして、私があれを『アリスゲーム』の悪役駒として活用したような泥縄式の遣り方でこそなかったが、彼もまたアリスゲームにおける雪華綺晶を独特な立場として設定した」
男は口の端を吊り上げた、やや偽悪的な笑みを浮かべた。
水銀燈は黙って男の顔を見詰めた。男の笑いがまた自虐的な、あるいは自嘲的なものに変わるのではと思ったのだが、どういうわけかその気配はまるでなかった。
水銀燈は左の手首を軽く押さえた。
「雪華綺晶が独特な立場というのは理解できるわよ、多少は末妹のありようを知っているから。誰かから押し付けられた知識だけじゃなしに、実際に危うい目に遭わされたこともある、という意味でね。もっとも出会ったのはそれきりだけど。
でも、雪華綺晶の特殊な立ち位置というのは存在の異質さに起因しているんじゃなくて? 何かしら後付けの特殊な立場が有り得るのかしら」
男はくくく、と笑った。ちらりと見ただけで不快になるような厭な笑いだった。
「君には分からんのだろうな、と予想していたが、そのとおりだったな」
そう言ってから笑いを引っ込め、感情を見せない表情で淡々と続ける。
「偶然生まれてしまったモノと呻吟と試行錯誤の末に生まれたモノという違いはさておき、私と彼のそれらに対しての処置には共通する点がある。それは、手に入れたモノを最大限自分の目的のために活用したことだ。
生まれてしまった雪華綺晶を見た彼が、私のように『とんでもないモノが宿ってしまった』と思ったのか『遂に実体のないドールの製作に成功した』と喜んだかは知らん。だが少なくともそれが自分の思い描くアリスでないことは即座に理解したはずだ。
恐らく、彼はそこからいくらの時間も経たぬ内にアリスゲームを始めることを決意した。あれが純粋に私を慕っていたように、君の末妹もまた純粋に彼を慕っていたのだろう。だから、彼女の特性も織り込んでアリスゲームの『汚れ役』をやらせるには丁度良かった」
「分からないわね。悪役だったら私にやらせておけば良いようなものでしょう。なにも現実世界に出て来れない、不利な立場の雪華綺晶に悪役をさせる必要はないでしょうに」
「もし悪役が必要なら君を選んだだろう──極端な性格付けをされていないために最も個として安定していて、特殊な力こそ持たないが戦いとなれば手強い、それに尽きせぬ不安と不信を何処かに抱えている。確かに都合がいい──だが、汚れ役というのは何も悪役だけを指しているわけではないのだよ」
男は無感動な視線を人形に向けた。
「ゲームを長期間に亙り遂行する上で、どうしても必要だが厄介な廃棄物と化してしまうものがある。それが契約者だ。
契約を終生のものとした場合、各々の契約者が寿命を終えるまで待っていたら、いつまでもゲームは進まない。また、死に際の契約者を抱えた薔薇乙女はそれだけでゲームの遂行上多大なハンデを背負うことになる。よって、契約は薔薇乙女の側から随意に破棄できるものとしなければならない。
ところがそうなると、今度は使い終わった契約者が問題になる。薔薇乙女の側から一方的に契約を破棄されれば、精神的な依存が強ければ強かったほど残された契約者は不安定になる。
最悪の場合は何等かの経路を通じて薔薇乙女の存在を妄りに広めてしまうかもしれない。方法は書籍の執筆、その手のコミュニティへの参加、放送媒体への露出など、幾らでも考えられる。そうなれば、いずれ薔薇乙女自身やらローザミスティカを目当てに暗躍する者も出てくるだろう。
中には特異な能力を持つ者もいるとはいえ、物理的には薔薇乙女達は大きなお人形に過ぎない。それなりのコミュニティが血眼になって捜索し、手段を選ばずに獲ようと思えば、いずれかの時代の何処かで必ず捕獲されてしまう。そうなればもうアリスゲームどころの話ではない。
ただ、薔薇乙女に強く依存している契約者だけでも、その場面の全ての契約が終わり、薔薇乙女が眠りに就いた後に隠密裏に始末してしまえば、そういった情報の漏洩は最小限に抑えられるのではないか。つまり──」
何かを抗議しかけた水銀燈を男は手で制した。
「──雪華綺晶に求められた役割は悪役などではない。むしろ君達姉妹の尻拭いと言った方が良かろう。彼女に期待されたのは、ゲーム環境の維持だ。つまり、君達の名を過度に広めず、同時に、特に君以外の姉妹達が契約を解いた後まで以前の契約者達のことを心残りとして必要以上に引き摺らないように」
水銀燈は悪寒を感じたように身震いした。
「素養のある者の意識を自分の領域に引き込んで死ぬまで離さない、雪華綺晶にとっては自分の存在を維持するために欠くことの出来ない捕食行為。ゲームのためにそれを利用した、いえ、むしろそういうふうに雪華綺晶を作ったと言いたいわけ?」
いくらなんでもそれは、と言いかけて、水銀燈は思いとどまった。
──雪華綺晶だけではないかもしれない。
以前、訝しく思ったことが何度かある。
他の姉妹がやたらと強調する契約者との繋がり、それは自分にとっては殆ど理解できないほど強いものらしい。ならば、果たして契約の終わった後、時代を超える眠りから目覚めるときまでに、それまでのしがらみをすっかり捨て去ることなどできるのか、と。
自分だったら、到底忘れることなどできそうもない。
契約者との繋がりが薄いらしい自分でさえ、最初に契約した人物のことを未だに覚えている。流石に今でこそ懐かしさと寂しさに心を食い荒らされるようなことはなくなったものの、最初の頃は苦労したものだ。
その経験があったからこそ、それからは契約を交わしても馴れ馴れしくすることはなくなった。煩わしいと思えば契約を結ばずに媒介として利用するだけに留めてしまうこともあったし、それはそれで気楽にやれた。
今回の相手もそのはずだった。最初に契約を拒まれれば鞄置き場としての役目と薇を巻く役目だけ押し付ける予定だった──実際にはこれまでにないほど振り回されている訳だが。
自分ですらこのとおりなのだ。自分よりも感受性が強く契約者との繋がりも深いらしい他の姉妹ともなれば、下手をすれば以前の契約者のことをトラウマとして持ち続けるはずではないのか、と。
しかし、どの時代で出会ったどの姉妹からも、その折々の契約者に対しての愛情やら共感は感じられるものの、それ以前の契約者に対する未練は全く感知できなかった。それは、今の時代においても全く同じだ。記憶そのものが消えている訳でないのは分かるが、少なくとも精神的な依存は綺麗さっぱり無くしてしまっている。
それでいて以前からの記憶はそのまま保持しているのだから、不可解だった。
その不可解さは媒介から得た知識でも深まるばかりだった。雛苺は前の契約者との別れのことを半ばトラウマのように覚えているらしいが、他の姉妹は以前の契約者のことを思い出すような素振りも殆ど見せない。
彼女達は今までの経験を、それを得たときの情景とは全く切り離して蓄積しているのだろうか、と首を傾げたくなるようなこともあった。それにしては、例えば真紅は猫を苦手にしている理由を以前の契約者と結び付けているらしい。謎だった。
結局、そのときは分からずじまいだった。どうにもすっきりしないまま、その問題を放り出さざるを得なかった。
後になって媒介から得た知識も、その問題を解決するための役には立たなかった。そこは彼が死ぬまでに読んだ範囲の漫画でも語られていなかった部分なのだ。
──しかし、「後から振り返ることのないように作られている」としたら。
ゲームの遂行のため後付けで設定されたか、それとも作られたときから刷り込まれているのかは分からない。しかしどちらにしても、彼女達の造物主は、彼女達に器と魂と性格、才能、技までを与えたのだ。そこに更なる細工を組み込むことができないはずはない。
例えば鞄の中で次の時代を待つ間に、前の契約者への依存やら愛情を「懐かしい記憶」に変え、依存の対象を次の契約者へとすんなりと移動できるように作っておく、あるいは刷り込んでおくというような細工は造作も無いだろう。つまり──
「ああ、君の考えていることが概ね分かるというのは良いのか悪いのか、微妙なものだな」
男は口の端を皮肉に歪めた。
「自分の娘達全員に問い掛けられ、詰られている気分になる。
ま、それはこちらの事情だが、私の言いたいことは君の考えていることと恐らく殆ど同じだ。つまるところ、君達姉妹は全員、ゲーム遂行のために何等かの──ローザミスティカに対する渇望のようなもの以外にも、ゲーム進行に関する──心理的な後付けの制約を掛けられている。つまりは、ゲームを遂行してアリスに成るためにある程度最適化された、言わばゲームのための駒なのだ」
水銀燈は何かを言いかけたが思い直して途中でやめ、続けて、と先を促した。
「君の末の妹は実体を持たない。強固な自己イメージで真っ白なドレスを身に着けたアンティークドールという姿を保持しているが、実際はボディを持ったことのない、ただの幻影のようなものだ。彼女に関しては何かしら他とは違った方向性でゲームに参加させる必要があった。
ただ、それが彼女にとって有利だからといって、例えばnのフィールドの中では姉妹の誰にでも化けて襲撃するというようなありきたりな行動をさせてはいけない。糧となる人間を手当たり次第に確保させてもいけない。そういった見境のない行動は短期的には有効でも、いずれ彼女の意識を拡散させ、消滅させるか、ただの捕食衝動の塊に変化させてしまうだろう。自分の傑作、薔薇乙女である限りは誇り高くなくてはならない。
彼女に他の姉妹の契約者だった者を選択して糧として確保させることで、これらはそれなりに上手く解決できるわけだ」
なるほどね、と水銀燈は首を振り、頬杖をついた。
「彼女は厭でもゲームのことを覚えていなければならないし、一旦ゲームが動き出せば関わらざるを得ない。
他の姉妹のマスターだった人間を騙し、糧とするために長期間もっともらしい夢を見せ続けることは、直接繋がっていないながらも現実世界の動向を注視する必要と、マスター達の精神に触れる機会を生む、ということね。良く出来ているわ」
「流石に理詰めでゲームシステムを構築するだけのことはある。確かに良く出来てはいた」
男は皮肉な顔のまま頷いた。
「だが、大きな見落としも同時にしていた。それは、雪華綺晶の心情というものについて殆ど考えなかったことだ」
そこのところが私と彼の最大の共通点だろうな、と男は肩を震わせて笑った。
「長丁場のゲームの遂行にあたり、半永久的な無機のボディを持つ六体は孤独とは無縁だ。人との出会い、別れはあるが、他の五人のうち一人は必ずどこかにいる。人工精霊も話し相手にはなる。更にその場その場では契約者が彼女達を愛している」
「雪華綺晶には誰もいない、という訳でもないでしょう。元マスター達が必ず自分の世界に──」
言いかけて水銀燈は息を呑んだ。いや、違う。彼女が確保している契約者達は、当然のごとく自分達に都合のいい夢の中だ。その意識の中に雪華綺晶は当然存在していない。彼女はあたかもどこか無人の場所で、カタログを見て注文して配達されてきた物言わぬ人形に囲まれて生活しているようなものだった。
しかも、悪いことに雪華綺晶は常時それらの世話──目覚めることを忘れているほど楽しい、あるいは美しい夢を見せ続け、夢が悪い方に転がり出したらそれを修正したり──をしなければならないはずだ。
長く世話をすればするほど彼女の養分にはなるかもしれない。だが、その分手間は多くなる。投げ出せば自分が飢える可能性が出てくる。なにしろ、次いつ新しい糧が得られるかは、完全にあなた任せなのだから。
そして、彼等は自分に都合のいい夢の中に居るに過ぎない。絶対に雪華綺晶そのものを愛してはくれない。それはおろか、存在そのものも感知し得ないし、させてはいけないのだ。
「──更に、彼女には時代をまたぐための眠りすら許されない。ひたすら糧を啜り、時を待つしかない。もっとも彼の考えでは、それがゲームへの執着と自己認識の強化を生起するものと思えたのかもしれないが」
男は力なく首を振った。
「彼の思惑通りには行かなかったのだろう。『僅か』ここ百数十年の間に、雪華綺晶は疲弊してしまった。そしてアリスに対して独自の解釈を持つに至った」
「要は狂ったわけね」
水銀燈は彼女らしい割り切った言葉で切り捨てた。
「そこの人形と同じように、自分の欠損部分とゲームの目的を重ね合わせてしまった、ということでしょう。もっとも、アリスになることで欠けた部分を埋める、そのためにゲームを遂行しているのは皆一緒かもしれないけど」
そういうことだ、と男は溜息をついた。
「まあ、私も彼も、他と異質なモノの本質に対して深く掘り下げて考えるよりは、その特質をどれだけ自分の目的に活用できるかを優先した。そこは多分変わらない、ということだ。そして、恐らく──」
言い切る前に、男は振り向いた。そして、そこに居た者を見て微笑んだ。
「──来たわね」
水銀燈は立ち上がり、人工精霊を呼んだ。メイメイは待ってましたとばかりがらくたの山の中から飛び出た。掬い上げるような軌道で勢い良くカーブを描くと水銀燈の頭くらいの高さで急ブレーキをかけ、彼女の隣に控える。
「随分長いこと様子見していたものね、雪華綺晶」
言いながら水銀燈は左の手首に絡んだ細い白茨を掴み、引き千切った。ぶつりと音を立てて切れた茨から、早くも透明な樹液が垂れる。色は着いていなかったが、彼女にはそれが何故か血のように見えた。
雪華綺晶は無言で工房の隅に立ち尽くしている。どこか虚ろな表情は、以前遭ったときの雰囲気とはまるで異なっていた。
あまりの違いに水銀燈がやや面食らったように次の行動を起こすのを躊躇っていると、雪華綺晶は視線だけを彼女に向け、体のどこも動かさぬまま、茨の太い束を二本、男に向かわせた。
男は抵抗する素振りもなければ何か言うでもなく、案山子のように立ったままで左右から包むように押し寄せた茨に巻かれた。
「どうするつもり?」
「糧にいたしますわ」
雪華綺晶は虚ろな表情のまま、口だけを動かして答えた。水銀燈は眉をしかめた。
「錯乱しているの? 悪いけど、その男は間違っても糧にできるようなモノじゃないわよ」
「糧にできなければ潰してさしあげます。いいえ、いいえ、錯乱などしてはおりませんわ黒薔薇さま。ただ──」
茨の伸びていない、一つだけの開いた眼から、つうっと一筋の涙が流れた。
「当たらずとも遠からずな推論を語られ、改めて悲しくて寂しい気持ちになったのだろう? 雪華綺晶」
男が低い声で語り掛けたが、雪華綺晶は視線も向けなかった。返事の代わりに白茨が膨れ上がり、男の体は頭の先からつま先まで白茨の渦に飲み込まれてしまった。
男を取り込んだ茨はまるで巨大な繭か卵のようにも見えた。だが次の瞬間、それは無残な形に萎んでしまった。
茨が空しく元のように引き込まれると、その中に捕えていたはずの男の姿は何処にもなかった。繭に包まれた瞬間に忽然と消え失せてしまったようだった。
嘆くように茨が退却していく間も、雪華綺晶の隻眼は水銀燈を固定されたように見つめていた。
愛らしい口からぽつりと短い言葉がこぼれた。
「──もう、意地悪しないで」
水銀燈は何も答えず、何か身振りをすることもなかった。
二人は暫くそのまま無言で見詰め合っていたが、やがて雪華綺晶は二、三歩あとずさり、それからふっと消えた。自分の領域に移動したようだった。
「神出鬼没、か」
水銀燈は呟いて、人形を見た。人形は最後まで微動だにしていなかった。ただ、どういうわけかその無機質な眼も今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「少し急がなければいけなくなってきたようね」
誰にでもなくそう言うと、水銀燈は人形の目蓋をゆっくりと閉じさせ、今度ははっきりと人形に向かって言った。
「そんな顔しないで頂戴、広い意味ではみんな同じなのよ。私達は人形劇のマリオネットなのだから」
ただ、それで終わりたくなくてこれ見よがしに足掻いてみせているか、そうでないかの違いだけだ。
その違いが大きいか小さいかは水銀燈には分からない。しかしたとえ微細な差であっても、あるいはなにも変わらないとしても、自分は足掻くのを止めないだろうと彼女は思った。それなりの知識を得てしまったからには、それ以前のような真っ直ぐで純朴なアリスゲームのための歯車では居られないのだ。
6
「柏葉ぁ、おはよっ」
少年が大きく手を振る。竹刀袋を肩に掛けた巴が大きな袋を持ちにくそうにしながらそちらを向くと、少年は慌てたように駆け寄って来た。
「ごめんな、朝練行く途中だってのに寄り道させて、おまけにでかい荷物持たせちゃって」
片手で拝むような手真似をしながら、少年はにっと笑って袋を受け取り、ありがとな、と頭を下げてから少し心配そうな顔になった。
「ホントに役に立ったのかな? こんなんで。大きさ全然違うし」
「さあ……」
巴は首を傾げたが、右手を口のところに持っていき、ほんのりと笑顔になった。
「でも桜田君はありがとうって言ってたわ。参考になったって」
「そっか、ならいいや」
少年はうんうんと頷き、ちらりと袋の中を覗いた。
袋の中身は何体かのキャラクターフィギュアだった。数年前深夜に放映していたアニメのヒロイン達の立体化ということだが、素人目にはあまりデザインに統一性があるようには思えない。
強いて言えばどれもこれも露出度が高く、特に胸の下辺りから腰骨の上までは生身が露出している、いわゆるヘソ出しなところが共通点といえば共通点だった。
言うまでもなく先日、巴がジュンの家に持ち込んだものだ。
そのときも少年は巴に、でかいし重くて悪いんだけど、と片手で拝むような仕草をして、これを桜田のところに持ってって欲しいんだと袋を差し出したのだ。
訝しく思っている巴に、少年は胴体のない人形の一件とジュンが胴体を作ることになった経緯をごく簡単に説明し、参考になるかと思ってアニメ好きの友人から借りてきたんだ、と袋を開けて中身を見せた。
──持ってくのは俺より柏葉の方がいいかと思ってさ。
いつものように理由を言わずに少年は頭を下げてみせた。巴も特に理由を聞かずにこくりと頷いて引き受けた。
巴がそういう人柄であったり、二人の間に以心伝心とかいう高等な事情があったわけではない。そこで理由を尋ねても、少年に納得の行く説明を求めることが無理だと分かっていたからだ。
雛苺の言うところではごく最近、少年は昔の記憶を失ってしまい、そのために性格が変わってしまったらしいが、巴にはそうしたところが以前と特に変わったようには思えなかった。クラスメートになってからずっと、外から見る限りにおいては、少年はいつも理屈より感性を信じて動くタイプに見えていたのだ。
もちろん変わったと思うところがないでもない。どこか世の中を皮肉に眺めていたような眼差しは好奇心が丸出しの素直なものに変わったし、謎のような苦笑は快活な笑いになった。だが、そうした変化でさえごく親しい何人か、そして彼をよほどじっと見つめていた者以外は気付いていないだろう。
「ところでさ、桜田のやつ今日のこと何か言ってなかった?」
相変わらずのあっけらかんとした声に、巴は短い回想から引き戻された。
「今日?」
何も言っていなかったけど、と巴が返事をすると、少年は斜め四十五度に首を傾け、眉間に皺を寄せて暫く考えていたが、目の前の巴が怪訝な顔をしているのに気付いてごめんごめんと笑顔になった。
「そっかぁ。いやさ、今日はお出かけみたいなこと聞いてたから」
「お出かけ?」
意外な言葉に思わず鸚鵡返しに尋ねると、うん、と少年は頷いてみせた。
「金糸雀のマスターが運転して、水銀燈がナビやって、みんなで例の人形の胴体作ってもらいに行くんだってさ」
「そうなんだ……」
巴は思わず微笑んだ。車の中で大はしゃぎする翠星石と雛苺の姿が見えるようだった。
「柏葉は行かないのか……なんとなく関係者全員なのかなーとか思ってたんだけど。あ、でも朝練あるから当たり前か」
あら、と巴は瞬いた。
「栃沢君も一緒に行くの?」
「俺? なんでさ」
少年は驚いたように巴をまじまじと見、ひらひらと手を動かした。
「全然お声もかからなかったって。『ただの媒介』だもん、俺」
ならばどうして自分が呼ばれると思ったのかと巴が尋ねると、少年は腕を組んで小首を傾げた。
「柏葉は雛苺の元マスターで、今でも雛苺が一番懐いてるじゃん。それに桜田も……」
それは何かとても重大な勘違いをしている、と巴は赤くなって抗議したが、少年は大きな疑問符を頭の上に浮かべたような表情で首を捻るばかりで、話は上手い具合に噛み合わなかった。
郊外の幹線道路で、みつはレンタカーを快適に走らせている。日曜日の午前中の道路は適当に空いていて、適当に混んでいた。
「すごいの、とっても速いのよ」
雛苺は目を丸く見開いて後部座席の背もたれにしがみつき、後ろに流れ去って行く景色を、言わばかぶりつきで見詰めている。あまり外に出かけたことのない彼女には見るもの全てが新鮮で、驚きに満ちているようだった。
「いろんなお店がいっぱいあるのね……」
「後ろ向きで景色見てると三半規管がイカレちまうですよ。おとなしく前向いてやがれです」
鞄に乗って街の中程度なら何度か行き来している翠星石は、何処で仕入れて来た知識か、最初だけはそんな風に少しばかり姉らしい注意をしてみせたが、雛苺が何あれと興味を示すとその都度隣に並んで指差す方を眺めては適当な答えを返している。
「RED BARONってなに?」
「それはですね……」
ボソボソと翠星石が雛苺の耳元で何事かを囁くと、雛苺は愕然として首をぶんぶん振った。
「うう……赤男爵さん可哀想なのよ。そんなにじこぎせいしちゃ駄目なのよ」
「レッドバロンは中古バイク屋かしら……」
流石に何度も似たような問答を繰り返しているせいか、ややうんざりした顔でおざなりな訂正をする金糸雀も、後ろを向いているうちの一人だった。
彼女がうんざりしている理由は翠星石の出任せだけではなかった。
「ちゅうこばいく、というのは何なの」
「中古……他人が一度は所有したバイクってこと。バイクはわかるかしら?」
「教えて頂戴」
意外にも通過していく事物に興味深々なのは真紅も同じだった。しかもその知識も雛苺と似たり寄ったりに過ぎない。
魔法や錬金術、心理学や哲学関係の書籍は読み漁っているくせにニュース関係にはあまり興味が向かないらしい──そのくせワイドショーはよく見ている──彼女の知識はひどく偏っていた。唯一の常識人として相手をしている金糸雀としては、それこそ一般常識の基礎と言えそうなことも全て噛んで含めるようにして説明しなければならない。
悪いことに、真紅は飛び飛びに知識は持っていて、しかもそれは正しかったり微妙に間違ったり、あるいは古かったりとごちゃ混ぜだった。そこを丁寧に説明すると「知っているのだわ」と不機嫌になったりいじけたりもする。金糸雀は延々と忍耐力を試されているような気分だった。
「──そのうちコンビニを役所とか言い出しかねないな、あいつ」
助手席のジュンは振り返る気力もないとばかりに溜息をついた。真紅が頓珍漢なことを言い出すのか、翠星石が適当にそう言うのかは特定しなかった。両方有り得ると思ったのかもしれない。
「あの子が活動的になったら苦労しそうね」
ジュンとみつの間で背もたれに寄り掛かりながら水銀燈はにやりとしてみせた。
「興味が人形劇と小難しい学問からどこか変な方にシフトしないように、一生傍についてて世話を焼いてやらないといけないかもね。ご愁傷様」
「勘弁してくれよ」
一生呪い人形の世話を続けるなんてどんな笑えない未来だ、と言いながらも、ジュンの顔は満更でもなさそうだった。
「それよりさ、お前」
ジュンは改めて水銀燈をしげしげと眺めた。
「──いいのか?」
「確かに少し眠いけど、吸血鬼じゃないんだから昼間に弱いって事はないわね。それとも金糸雀の契約者と二人きりが良かった?」
「ジュンジュンと二人きりねえ……それも悪くなかったかな」
瞬間、みつの横顔が大人の女性らしい艶っぽさを見せる。ジュンはまじまじとそれを見詰めてしまい、かあっと顔を赤くした。
しかしすぐにそれは過ぎ去り、みつはいつものフェティシストの顔に戻った。
「でもローゼンメイデン五人揃い踏みも実現させたかったのよねぇ。もう幸せで舞い上がっちゃうくらい……」
みつはマニアが趣味の対象を見るときの目でバックミラーに視線を向ける。そこには色とりどり、四つのドールの後姿が仲良く並んでいた。
「なっ……そうじゃなくって。その、水銀燈は服装とか、そんなんでいいのかって」
ジュンは赤い顔のまま、慌てたようにぶんぶんと手を振った。
今日の水銀燈はいつもの凝ったドレス姿ではない。長袖のシャツにジーンズにスニーカー、頭には野球帽を被って度のない眼鏡まで掛けている。
靴と眼鏡以外はのりが用意したジュンのお下がりだった。紛うことなく五歳児くらいの男の子用の服装なのだが、意外にもよく似合っている。やや脚が長いことと髪の毛が銀色に輝いていることを除けば、どこにでもいる子供だ。いや、白人の子供だと言ってしまえばそれも特に気にならないだろう。
「あまり気に入ったデザインじゃないし翼も広げられないけど、悪くはないわよ。機能的だし」
一揃い媒介に揃えさせてもいいわね、と水銀燈は薄く笑った。
「ただ、学校や職場に制服があるように、製作者が作ったドレスは私達が私達であることを示すものでもある。無駄にプライドの高い薔薇乙女にとっては、普段からそれ以外の服を着て過ごすのはなかなか勇気が必要なのよ」
それでもいいなら、と水銀燈は左右の二人を見比べるようにした。
「貴方達が思いの丈を込めてドレスを作ってもいいかもね。綺麗な服を贈ってもらって悪い気はしないはずだから」
みつはそうよねそうよね、とうんうんと頷いてみせたが、ジュンは若干複雑な表情になってしまった。
──考えてみたら、あいつらに作るより先にあの水銀燈もどきの服作っちゃったことになるな……。
しかも服を作る間と人形のボディに時間を取られている間、三人の相手もろくにしていなかった。この間みつが来た日の夜中、いつも九時には寝ているはずの真紅が彼の膝の上に乗って刺繍を見せてとせがんできたのも、寂しかったからかもしれない。
これからはもっと一緒にいる時間を増やした方がいいのだろうか。確かに、例えば蒼星石は起きてから寝るまで結菱老人の傍にいるか家の庭の手入れをしているらしい。真面目な性格もあるのだろうが、そうしていることが幸せらしいと半ば呆れ顔で翠星石が言っていたのを思い出す。
一方、水銀燈と契約者の関係はほとんど正反対だ。一日のうち二人が顔を合わせている時間は、水銀燈が少年の夢の世界に潜り込んでいる時間を合わせても多分数時間にも満たないはずだ。それでいて水銀燈が少年を蔑ろにしている訳でもないことは、それこそ毎日夢の世界に入ったり、そこにいた人形を危険だからと引きずり出して見せたことでもよく分かる。
一方少年の方も、水銀燈にとってのアウェーであるはずの桜田宅に自分一人で乗り込んできた。少年自身は気付いているかどうか分からないが、あのときから水銀燈とその媒介の二人に対しての他のドール達の対応は大きく変わった。ばらばらに行動しているけれども、二人の繋がりが弱いようには思えない。
ケースバイケースということなのかもしれないが、事実上三人の契約者の自分は誰を基準にして対応すればいいのだろうか、などと考え込んでいると、何時の間にか水銀燈の視線がこちらを向いていることに気づいた。
「必要以上に深く考えてもいい考えには辿り着けないこともあるわよ」
水銀燈はジュンの気持ちを見透かしたように、若干意地の悪い笑みを浮かべた。
「貴方は慕われてる。そして慕ってるドール達も全くの子供って訳じゃないの。裏づけのないモノじゃないんだから、自分に自信を持つべきね」
その言葉はジュンが黙り込んだ原因に対して誤解を含んだもののようにも思えたが、ジュンは素直にありがとうと答えた。
「それにしても、お前が僕のこと励ましてくれるなんて、ちょっと前には考えられなかったな」
「御生憎様」
水銀燈は照れた風もなく肩を竦める。
「励ましが必要なら貴方の可愛いお姫様にやってもらいなさい。私が言ったのは掛け値なしに客観的な、貴方が気付こうとしていない現状。それ以上でも以下でもないわ」
ジュンはふっと息をついた。
「はい、はい……」
「生返事ね、ま、どうでもいいことだけど」
遣り取りだけは真紅との会話に似ている。しかしやはり水銀燈は水銀燈の言葉と雰囲気を持っていた。
それが具体的にどういうものかは、まだ漠然としていて上手く説明できない。だが、真紅が持って回った表現で人を励ますのが得意でなく、ついぶっきらぼうな言い方になるか真摯に直截な表現で語ってしまうように、水銀燈も表に出てくる言葉ほどは冷徹な内心を抱えている訳ではないことは、何処となく分かったような気がした。
「じゃ、午後二時にこの先の駐車場で」
「分かったわ。みんなの世話はみっちゃんに任せといて♪」
運転席で片目を瞑ってみせるみつに、車を降りたジュンと水銀燈は顔を見合わせた。その語尾の跳ね上がり方が一番気懸かりだと言いたいのは二人とも同じだったが、お願いしますと形だけは素直に揃って頭を下げた。
「頑張ってねジュン。水銀燈もバレないように気をつけるかしら」
「……余計なお世話よ、お馬鹿さん」
「むう、人がせっかく心配してあげてるのに。水銀燈ったらもう少しは感謝の心を持つべきかしら」
口を尖らせる金糸雀の隣で、雛苺がぶんぶんと手を振る。
「こうしょう頑張ってなのよ。あいとあいとあいとー!」
「ヒッキーにゃいろんな意味で荷が重いでしょうが、精々頑張りやがれです」
翠星石はジュンが重そうに持っている大きな鞄に視線を向けた。そこには胴のない人形と、それを完全なものにするための胴部の原型が収められている。
「その子を宜しくお願いするです、ジュン」
「──うん」
ジュンは鞄を少し持ち上げてみせる。
鞄の提供者は翠星石だった。段ボールで持って行けばいいとあっさり言う水銀燈にそれではあんまりだと抗議して、自分の鞄を貸し出すことにしたのだ。
話の転びようによっては、もしかしたら翠星石は一週間以上鞄で寝られないかもしれない。だが、そうなったら大変だと思いはするものの彼女は鞄を貸し出すことを躊躇しなかった。彼女も彼女なりの遣り方で『水銀燈』のことを気に掛けているのだった。
「ジュン」
真紅は後部座席の窓にしがみつき、目から上だけを出してジュンを見た。暫く、といってもほんの数秒だが、二人の視線が交錯し、真紅の顔が微かに笑みをたたえる。
「行ってらっしゃい、ジュン」
「……うん」
真紅が何か続きを言いかけたとき、信号が青に変わった。みつは水銀燈に手を振り、車を発進させる。薔薇乙女達の身体はぐらりと揺れ、慣性で後部座席の背もたれに押し付けられたり座席の上に倒れこんだりした。
「感動のお別れシーンが台無しね」
ぷっ、と水銀燈が吹き出す。
「みっちゃん、急発進しすぎじゃないのか?」
「それもあるし、自動車の動きに慣れてないのよ。金糸雀以外は初めてでしょうね」
ふと水銀燈は目を閉じた。
彼女が最後に自動車に乗ったのは、爆弾の雨は降らなくなったものの、まだ時折何処からともなく無人の飛行機や大型のロケット弾が降ってくる街の郊外だった。
確かアメリカから大量に供与された四輪トラック、戦闘神経症で後送された当時の媒介が運転するそれのサスペンションは、今から思えばあまりにも旧式で、軍用としてはどうか分からないが、人間も運ぶ車としては最低限の機能しか持っていなかった。
鞄の中に入っていても眠りに就けないほどに手ひどく揺さぶられながら、彼女は媒介の実家に運ばれ、そしてそれきり媒介と会うこともなく長い眠りに入った。
仮に今生きていたとしても、彼は九十歳近いはずだ。今更会いたいとは思わない。だが、消息が全く気にならないと言えば嘘だった。
結菱老人の一件の後、少年の目を盗むようにして試しに人名で検索を掛けてみたこともあったが、しかし、それらしい結果には行き当たらなかった。これといった特技や資産のない男だったから当然といえば当然だが、一抹の寂寥感が残ったことも事実だった。
「──行きましょうか」
まだなんとなく不決断にレンタカーの走り去った方を眺めているジュンを、水銀燈は軽くつついて現実に引き戻した。
「……うん」
ジュンはひとつ頷くと、水銀燈の後ろについて歩道を歩き出した。
五歳児くらいの子供の背丈なのに、水銀燈の足はさほど遅くなかった。大股で迷いなく──まるで毎日通って知っている道のように──そのくせ軽やかに歩いていく。
まるで羽を広げているようだ、とジュンは思った。実際には彼女の羽は今まで見たことのないほど小さく、近づいて見てもシャツの上からではほとんど存在が分からないほどに畳まれているのだが。
対して、ジュンの足取りは軽くない。鞄は確かに大きく嵩張っているが、中身が軽いから見た目ほど重いわけではない。足を遅くしているのは別の要因だった。
服は作ったことはあるが、人形のパーツは初めてなのだ。しかも他の部分を作ったのは自分ではないから、出来上がってしまえば自分の作った胴体部分が他の部分の作風と合わない可能性が大きい。それを、確実に一人以上の赤の他人の目に晒すことになる。
あれは違う、と思いつつも、どうしても自分の描いたラフスケッチの顛末を思い出してしまう。黒板一杯の中傷の文字、その場の全員の蔑むような冷たい視線、嘔吐してしまった自分を見ても手を出そうとしないクラスメート達。
額に汗が浮かぶ。しかし、歩みを止めるわけには行かなかった。こんなところで座り込んだらみんなは落胆するだろうし、前を歩いている子供の姿をした黒衣の人形には鼻で笑われてしまうだろう。それは癪だった。
百メートルほどの距離を歩くと水銀燈は唐突に立ち止まった。振り返って大分遅れているジュンを見ても何か特別なことを言うでもなしに「ここよ」と素っ気無く到着を告げた。
ジュンはガラス張りのショールームの中に並べられているスポーツバイクや大柄なスクーターを眺め、視線を上げて看板を確認し、それまでよりは幾分ましな歩調で水銀燈の前まで歩み寄った。
水銀燈は帽子の下でにやりと笑い、両腕を大きく広げてジュンを見上げた。
「機械と油と熱と騒音の世界へようこそ、綺麗な世界のお坊ちゃん」
ジュンは何度か瞬いた。水銀燈の姿が、何故か長身の男のように見えた気がしたからだ。
「良かったんですか真紅」
後部座席に並んで座りながら、翠星石は真紅をちらりと見遣った。
「何の事かしら。ジュンのことなら心配要らないわ。水銀燈だって、まさかジュンを焼いて食べたりはしないでしょう」
澄まして答える真紅に、翠星石は水銀燈のように肩を竦めてみせた。
「ジュンのことはいいんです。ホントは一緒に行きたかったんじゃないですか? ジュンと」
真紅は翠星石の顔を見、それから視線を前に向けた。金糸雀と雛苺は助手席に移動してみつとはしゃいでいる。肝心の運転が気もそぞろなのは決して誉められることではないのだが、それは経験の乏しい彼女達にはあまりよく分からない種類の事柄だった。
「そうね、水銀燈の代わりになれるのだったら一緒に行ったでしょう」
でもそれは貴女も同じではなくて? と真紅は翠星石の手に手を重ねる。
「水銀燈のように変装してしまえば、いいえ、貴女ならそのドレスのままでも可愛い女の子で通るわ」
「真紅だってそうじゃねーですか。現に、おじじの家からはみんなで歩いて帰ってきましたよね? あれでも騒がれることがなかったんですから。それにチビチビやチビカナだって平気で外に出てます。いくら小うるさい時代になったからって、その気にさえなりゃ、薔薇乙女には外を闊歩することなんて御茶の子さいさいなんです」
それなのにどうして、と翠星石は真紅を見詰める。真紅は伏目がちになり、貴女も分かっているのでしょう、と呟くように答えた。
「ジュンは、一度は閉めてしまった扉を開く鍵を手に入れたの。それは偶然与えられたものかもしれないけれど、自分自身で使うべきものよ」
それを私達が邪魔すべきではないわ、と真紅はちらりと翠星石を見、また前に視線を戻した。
「今日の水銀燈には役割がある。それはジュンの側の私達にはできない役目。代われるものなら代わりたいけれど……」
翠星石の手に重ねられた真紅の手に、僅かばかり力が篭る。
「人は成長するわ。子供は在りし日の人形遊びを忘れていく。ジュンが重い扉を開こうとしているなら、私達はこちら側からそれを見守ることよ」
それにね、と真紅は固い表情をやや崩した。
「一緒に行ったら、私はきっと嫉妬してしまうわ、水銀燈に」
ちらりと翠星石の顔を見上げる。どうしてですか、と口には出さなかったが、翠星石の表情がそう尋ねていた。真紅はまた俯き、少しばかり照れたような、それでいて寂しいような顔で続けた。
「彼女にはその場での役割があるもの。でも、私にはなんの役割もない。ただの見物人に過ぎないの。それがきっと妬ましくなってしまう……」
そうですか、と翠星石はこくりと頷いた。真紅がこんなにはっきりと弱気な部分を見せるのが少しだけ意外だった。
──真紅でも、他人に嫉妬したりすることはあるんですね。
正直なところ、翠星石がジュンに同行しなかった理由の半分ほどは似たような理由だった。自分が居てもジュンにして上げられることがない、というシチュエーション自体が怖かった。
今回の件は事務的なことについては水銀燈がいれば全て事足りてしまう。また、もしジュンが精神的にダメージを受けるようなことがあっても、今の水銀燈なら尻を叩いてでもその場は切り抜けさせてしまうだろう。未知の場所に同行してお邪魔者になるだけという図式は、真紅ほどプライドが高くない翠星石であってもやはり楽しいものではない。
そして、真紅がもう一つ理由を持っているように、翠星石にもそれ以外の理由がある。それは、ついて行くなら真紅も一緒でなければ、という翠星石自身の拘りのようなものだった。
何故そういう拘りを持ってしまったかについては、翠星石本人にも明確な答えは出せない。ただ漠然と、真紅が片腕を失っていた間自分が感じていたちょっとした疎外感とか、小さな嫉妬とか寂しさのようなものを、自分が味わわせたくはないという気分があるだけだ。
だから、その部分については翠星石は心の中に仕舞って置くことにした。
「──翠星石も同じですよ」
彼女は微笑み、真紅の手を取って指を絡み合わせ、助手席で元気一杯にしている二人を見遣った。
「さっきの難しい話は、今は置いておくです。でも、真紅がちょっとだけデレてくれて嬉しかったですよ」
それは身勝手な思い込みかもしれない。しかしこの場はそういう納得の仕方をしておけばいい、と翠星石は思い、空いている方の手で真紅の肩を抱き寄せた。
「──翠星石?」
驚いてこちらを見上げる真紅に、翠星石は少し意地の悪い──雛苺や金糸雀に見せるような──にやりとした笑みを見せた。
「いいから、たまにはジュン以外にも甘えるです。お姉ちゃんが抱き締めてやるですよ、このツンデレ妹」
ひっひっひ、という笑いに真紅が身体を強張らせるのをぐいと抱き寄せ、翠星石は真紅の顔を自分の胸元に押し付けた。真紅がくぐもった声で何か言ったが、翠星石は気付かない振りをして目を閉じた。
二人は全く気付かなかったが、運転席のみつはバックミラーでそれを確認し、金糸雀に左手の人差し指を立ててみせ、次に親指で後部座席を示した。金糸雀は流れるような動作で敬礼を返すと、懐から取り出したカメラを後部座席に向けて立て続けにシャッターを切った。
「……完璧な連係プレーなの」
雛苺は目を丸くしてひそひそと囁き、金糸雀は無言で親指を立ててみせた。
7
「変わった形のパーツですねえ……縮んだ芋虫? おっきな抵抗器? みたいな」
ショップの受付担当だという女性は、なんとも言いがたい形状をしている原型を見て、ごくありきたりだが的確な形容をした。水銀燈は思わず吹き出し、ジュンは居心地が悪そうな表情になって原型をまた鞄に仕舞った。
「今、担当を呼んで来ますね」
女性はあくまで笑顔で、事務所の奥に消えた。
「あは、あはははは」
水銀燈は腹を抱えて笑い出した。
「確かに抵抗よねぇ。細くなってるところにストライプ入れたらそのものだわ」
「なんのことか分かんないぞ」
ジュンは口を尖らせる。水銀燈はなおも暫く笑ってから、ジュンに向かって人差し指を立てて説明を始めた。
「電子基盤なんかで使われてる抵抗器のことよ。大きさは全然違うけど、形がね──」
「お待たせしました。カーボンパーツ担当です」
後ろ斜め上から声が降ってくる。振り返ると、ツナギ姿で書類ファイルを脇に抱えた長身の男が立っていて、こちらを見てお辞儀をした。ジュンは慌てたように頭を下げ返し、男はもう一度軽く頭を下げて、どうぞと二人を事務所の隅のテーブルに案内した。
「バイクやクルマのパーツじゃないって事務員から聞いたんですけれども、まず現物を見せて頂いていいですか」
ジュンははいと頷き、少し苦労しながら鞄をテーブルの上に置くと、そこから白い紙粘土製の原型を取り出した。
「……こりゃまた、凄いですね。フィギュアのヘソんとこみたいな」
男は原型を手に取り、ざっくばらんな口調になった。形式ばった言い回しは苦手なのだろう。それでもお客相手という意識があるのか、丁寧語だけは使っている。
「フィギュア、というか……」
ジュンは口ごもってしまう。改めてこうして他人の目に触れさせると、どうにも恥ずかしさが先に立ってしまう。姉や親しい人に作った服を見せたときとは違う感覚だった。
「ご名答。球体関節人形の胴体部よ」
水銀燈がぼそりと補足した。男は、おや、というような表情をして水銀燈をちらりと見たが、なるほどねぇ、と頷いてまた原型をくるくると回した。
「他の部分はどうなってるんです? これから作成とか……」
「もう、できてます」
ジュンは少し詰ったような言い方で、なんとか答えた。水銀燈は少し眉根を寄せてそちらを見る。
「それも全部FRPで作るんですか?」
男は当然の疑問を口にする。まさか、と言わなかったところは商売人と言うべきかもしれない。
「いえ、もう……」
「そのパーツ以外は、完成してるの。ゲルコートも」
しどろもどろになりかけたジュンの言葉を水銀燈が引き取る。
真紅が見たら失望の溜息を漏らしたかもしれない。あまり行儀のいいやり方ではないし、ジュンの心を思えばさっさと口を挟むべきところではなかろう。
ただ、水銀燈には水銀燈の事情があった。野球帽と眼鏡のせいもあって外見にはそう見えないかもしれないが、彼女もまた少なからず緊張しているのだった。
もっとも、そういう事情がなかったとしても彼女の場合、焦れて口を挟む可能性が無いわけではない。最近変わりつつあるとはいえ、お世辞にも気が長い方ではないのだ。
そんな二人の事情には気付かないように、ほう、と男は一オクターブ高い声を上げた。
「もしかして全部カーボン……とか?」
「はい」
「そりゃ凄い、いや、これって完成したら全長、全高って言うのかな? 多分一メーターくらいありますよね。それを全部……」
見てみたいな、と男は子供のような素直な声を出した。ジュンは開いたままの鞄をくるりと回し、男から中身が見えるようにした。
「こりゃ……」
男は目を見開いて絶句した。人形の出来に目を奪われてしまっているようだった。
「失礼、いや、なんというか」
暫くして男はやっと口を開いた。視線はまだ人形に注がれている。
「最近はハンドレイアップ……ええと、ウェットカーボンって言った方が通りが良いかな、ホームセンターで売ってる手作りFRPセットのガラス繊維をカーボン繊維に代えたやつ、って言いますかね。そういうのをカーボンって言ってる場合もあるもんで。いやしかし凄いな、これは。物凄く綺麗だ」
取って付けたように人形の美しさにも言い及んだものの、男の視線は専ら胸部と腰部の内部──塗装されていないために素材が剥き出しになっている部分に注がれているようだった。案外、綺麗だというのもそこの曲面の貼りこみやら仕上げ具合を指したのかもしれない。
暫くどうしても買って欲しいが買ってもらえない玩具を見る子供のように熱い視線を注いでいたが、やがて嘆息と共に目を上げ、はっとして赤くなり、ありがとうございますと二人に向き直る。
「失礼しました。人形としての形も素晴らしいと思うんですが、仕上がりが美しいですね。つい魅入ってしまいました」
二人は頷いた。何処の仕上がりかは、言われなくても分かる気がした。
そこから後暫くは、事務的なつまらない話だった。仕上がりまで一週間以上は必要なこと、雌型が必要になること、肉抜きが上手く出来ない形状なので分割後結合することになること、分割ラインについては一任すること──但し、極力目立たないように分割するし、結合面の強度については責任を持てると彼は言った。
「もちろんばらばらの分割パーツでなく、一つに結合済みの完成品としてお渡しします。それと──」
男は開いたままの鞄にまた目を遣り、原型の上下を指差した。
「球体関節なんですね、この上下の半球が」
「はい」
組み合わせてもらっていいですか、とは彼は言わなかった。ただ、ちらちらと鞄の中を見ながら考え込むような素振りをしているのは、頭の中でそれを実行してみているのだろう。
ジュンは手を伸ばし、水銀燈を促して二人がかりで人形を鞄から取り出し、テーブルの上に寝かせた。原型を胴のところに組み入れると、そこだけ色違いではあるものの人形はどうやら人間の形になった。
「こんな風になるんですけど……」
背中部分に手を回し、上下の胴部の関節を軽く動かす。首がかくんと後ろに仰け反るのを見て、男は自分も立ち上がって人形の頭を支えた。
「かなり自由に動くんですねえ」
人形の髪を自然に整えながら、ほうほう、と男は何度か頷いた。
「この原型の状態で、パーツの擦り合わせは出来てるってことですね。分かりました。それを確認したかったもんで」
ここまで擦り合わせができていれば、後は完成品でどうしても微妙に発生するヒケ、歪みを取ってやる程度でいい、と男は感心したように言った。
「上下のパーツを預かって宜しければ、こちらで擦り合わせをした状態で塗装までやっておきますが」
どうしますか、と尋ねる男に、ジュンは咄嗟に返事が出来なかった。男はパーツ工場の関係者らしく上下パーツという言い方をしたが、それは要するに人形を預けるということと同義だった。
確かにパーツ原型の製作者は自分ということになるのだが、その依頼者は水銀燈なのだ。人形を丸ごと預けてしまってよいものなのか。
だがジュンが視線を向けると、水銀燈はあっさりと頷いた。ジュンは男に頭を下げた。
「お願いします」
分かりました、お預かりしますと男も頭を下げた。
さきほどの女性が三人分のコーヒーを持ってきた。テーブルの上の人形を見てまあと口に手を当てる。
「凄いですねぇ。お客さんが作ったんですか?」
「……違います」
男と女性がジュンに視線を向け、ジュンはちらりと水銀燈を見遣る。水銀燈はポーションタイプのミルクを律儀に垂れ残しのないようにコーヒーに溶かし込み、その表面が微妙な模様を描くのを観察してからジュンを見、そして視線を男に移した。
「原型もパーツ本体も、どこかのパーツ屋に居た人が作ったの」
水銀燈は子供の声色や喋り方を真似ることもなく、普段どおりの発音で言った。
「でも、今年の冬亡くなったわ。胴部だけ作り残して。中途半端ったらないでしょう」
「そう……それは惜しいなあ。良い仕上がりなのに」
男はコーヒーを啜り、遺作ってことかぁ、と天井を見上げた。高い天井には大きな換気扇がゆっくりと回っている。
「しかし、そういうこととなれば気合入れて作らないとね」
正直、まさかカーボン製とは思わなかったんですよ、とジュンを見て苦笑する。
「でもこれなら納得だな。どっかのメーカーで鉄腕アトムのフルカーボン人形作って展示してたけど、あれは非可動フィギュアだった。わざわざ可動人形で、しかも外見に判らないように作るなんて自分の技術の限界に挑戦してみましたって感じで、その、言い方は悪いけど──」
「──バカっぽくて良いでしょう?」
水銀燈がふっと笑うと、男は何度も頷き、楽しそうに笑った。
「そうそう! 技術と設備持ってる人にしかできない、まさに道楽。これは是非とも完成させないと」
発注を受けた愛想も幾分かは含まれているかもしれないが、本気でそう思っているらしいことは伝わってくる。
──それにしてもよく喋って笑う人だな。
男にはドールの話をしているときのみつと同じ雰囲気が何処かにあった。話し好きというのもあるだろうが、専門バカと言うのだろうか、趣味と仕事を一緒にしてしまった人特有の何かだった。
ジュンはややうんざりしながら男を眺め、コーヒーを啜った。この手の人の相手はあまり得意ではない。
あまり飲みなれないせいか、それとも豆のせいなのか、コーヒーは少しばかり苦っぽいような味がした。どうにか顔に出さずに水銀燈を見遣る。あまり居心地が良くないんだけど、という気分を視線に込めてみたつもりだった。
彼女はコーヒーを啜りながら男の顔を見詰めていたが、ジュンの視線に気付くとこちらを横目でちらりと眺めた。その眼にどこか照れのようなものが見えるのは何故だろうとジュンは訝しく思った。
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「お疲れ様!」
待ち合わせ場所の駐車場には、既にみつのレンタカーが待っていた。
「どうだった? 首尾よく無償でご提供いただけそう?」
「それはいくらなんでも無理だろ……」
ジュンが憮然とした表情で言うと、みつはわざと大きく舌打ちの真似をして見せ、まあいいわ、と何度か首を縦に振った。
「アテはあるもの。取り敢えずは第一関門はクリアしたってところね?」
ジュンを見て片目を瞑ってみせ、彼が頷くのを確かめると、さあ乗って、とドアを開ける。
「水銀燈──」
ジュンは斜め後ろを振り返った。来た時と同じ順序なら先に乗るはずの水銀燈は、一歩下がったところで軽くかぶりを振った。
「帰りは寂しがりの誰かを抱いて上げたらどうかしら。もう道案内は要らないでしょう?」
やや意地の悪い、しかし厭味のない笑顔で水銀燈は後部座席の窓にかじりついてこちらを見ている姉妹達を眺めた。姉妹達は顔を見合わせ、次いでジュンに視線を集める。
なんてこと言うんだよ、とジュンは水銀燈を睨み、水銀燈は素知らぬ風で肩を竦める。ジュンは一つ溜息をついた。
「──抱いてやるのは一人だけだぞ。もう一人は僕とみっちゃんの間な」
歓声こそ上がらなかったが、彼女達の表情はぱっと明るくなる。水銀燈は皮肉な笑顔になり、大変ね保父さん、とジュンを肘でつついた。
短いが白熱したジャンケンの結果、ジュンの膝上のポジションは翠星石の、隣は雛苺の勝ち取るところとなった。雛苺は歓声を上げて座席に座り、翠星石は何か無闇に怒ったような赤い顔で、そのくせしどろもどろな言い訳をしながらジュンに抱かれた。
「そういえば、初めてかもしれないわ」
後部座席で金糸雀と水銀燈に挟まれるように座った真紅は、幾分眠そうな眼をして呟いた。
「貴女と並んで座るのは1078950時間37分ぶりだけど、初めてではないわよ」
水銀燈はドアの内張りに寄り掛かり、窓外の景色を眺めたまま否定する。真紅はふっと息をついた。
「それは覚えているわ。あれで喧嘩別れをしてから、食事のときもお茶のときも貴女は私の隣に座ろうとしなかった……」
でもそのことではないのよ、と真紅はぼうっと微笑む。
「翠星石がジュンの膝の上に座るのは……多分初めて……」
ふあ、と可愛らしく欠伸をすると、それを待っていたように金糸雀が真紅の肩にこてんと頭を載せる。彼女はもう眠っていた。
「じどうしゃというのは、どうしてこんなに眠くなるの」
真紅はいつものようにすげなく振り払うこともなく、かと言って慈しむような顔になるわけでもなく、とろんとした眼で誰にともなく呟くとゆっくりと目を閉じた。じきにその頭が金糸雀に寄り掛かる。二人は絵のように可愛らしく寝息を立て始めた。
水銀燈はちらりと二人の妹を見遣り、素っ気無く呟いた。
「……それは貴女達もそれなりに緊張していたからよ。お疲れ様、真紅」
そのまま、また窓外に視線を向ける。流れていく景色をぼんやり眺めながら、彼女はさきほどのことを思い出していた。
ショップからの去り際、建物の外で男は水銀燈を呼び止めた。ジュンは振り向いたが、水銀燈が目顔で頷くと先にその場を歩み去った。二人とも、何処となく男の用件が分かっていたのかもしれない。
「済まないね、君に聞いた方が良いような気がしたもんだから」
男は照れたように笑った。
「言い難くなかったらでいいんだが、あの人形を作った人の事を教えてくれないかな。ああ、原型じゃなくて……パーツの実物の方を」
水銀燈は帽子の下で薄く微笑んだが、突き放したような言葉を口にした。
「訊いてどうするの? さっきも言ったけど、もうその人はこの世界の何処にも居ないのよ」
正確にはそうではないとも言える。だが、少なくとも今現在は、あの人形を作り育てた男は、僅か数人の記憶の中にしか存在していない。前世の記憶こそが彼の本体だとするなら、彼は自分で自分を殺し、自分が宿っていた少年を捨て、その上彼女に文字通り全てを押し付けて去って行ってしまった。
いっそのこと出来の悪い小説のように自分の中で一つの人格として生きていてくれれば文句の一つも言ってやれるのに、と水銀燈は口惜しく思う。実際に彼女が得たのは、一人の人間が平均寿命よりだいぶ短い時間を生きただけの記憶と知識でしかない。
有益な情報を含んではいるが、そこに生命は宿っていなかった。膨大ではあるがただの知識だった。
そんな事情を知るはずもない目の前の男は、何処にも居ないからさ、と両手を広げてみせた。
「生きてれば会うこともあるかもしれない。名前を聞くことがあるかもしれない。なにせ同業者だからね。だがもう会えないってことになれば、ここで聞いとかないとその人のことは謎のままなんだ、俺の中で」
たった一つのパーツのことで大袈裟かも知れないが、最後の一ピースを組み上げる仕事を任されたからには多少は知っておきたいんだ、と男は真面目な顔で言った。
水銀燈は少しだけ躊躇い、残念だけど、と男を見上げた。
「名前や住所、会社の名前はちょっと教えられないわ。もっともそんなことは些細なことよね?」
少し意地の悪い顔になって口の端を持ち上げる。男は腕を組んで苦笑した。
「まあ、そうかな……うん」
「そういうことにしておいて」
水銀燈は今度ははっきりと微笑んだ。
「そうね……臆病で、死ぬ間際まで好きな人に告白できないような人だったわ」
そう来るか、と男は首を少し傾げる。その反応を無視して水銀燈は続けた。
「漫画好きでアニメ好きで、ある作品に物凄く入れ込んでたわ。オタクって言うのかもね」
思わず笑いがこみ上げてくる。
「その思いの丈を籠めたのがあの人形よ。ドールフェチでもあったってことかしら」
「なるほどねぇ」
男は少し食い足りないような顔で返事を返した。
「──それから」
言うつもりは無かったのだが、水銀燈はつい口走ってしまった。
「水銀燈を愛していた……」
「え」
男は何か途轍もない言葉を聞いたかのように固まった。
「えっと……まあフェティシストってのはいろいろあるらしいが……その、水銀灯ってあの水銀灯かい、道路とかにある──」
「──そう、その水銀灯よ」
視線を下に向け、男の言葉に被せるように水銀燈は言った。
「水銀灯が一番のお気に入りだったわ。愛の告白までしたことがあるのよ」
可笑しいでしょう、とにやりと笑って男を見上げる。男はなんとも言えない顔になって水銀燈の顔を見詰めた。
「えーとそれは……『愛している、水銀灯、君をこの世の他の誰よりも』……とか?」
水銀燈の笑顔は仮面のように凍りついた。
数秒間、どちらもそのまま動きを止めていた。
男が何かおかしなことを言ってしまったかと焦り始めた頃、水銀燈は表情の消えた顔で呟くように言った。
「もう一度、言ってみて」
男は問い返さなかった。ごく生真面目な顔になって、少し顎を引いて同じ台詞を言った。
「もう一度……」
子供がものをせがむような口調で水銀燈が言うと、男は何かを了解したようにそっとかがみこみ、視線の高さを彼女に合わせた。
「君の事を愛している、水銀燈。どの世界の誰よりも」
水銀燈は何度か瞬いた。そして、物も言わずに彼の首に両腕を回してしがみついた。
二人がそうしていた時間は大して長くなかった。最初に男が台詞を口にしたときと同じ、精々数秒間だっただろう。男が子供をあやすつもりで彼女の背中に手をやろうとしたときには、水銀燈はもう離れていた。
「ありがとう」
素直な声音で彼女は頭を下げた。
男は何かを言いかけて口を閉じ、こちらこそありがとう、と微笑んだ。
男はそれ以上何も訊かず、水銀燈の方も何も言うこともなく、そのまま踵を返してジュンの待つ街路に向かった。
車は郊外から彼女達の住む街に戻っていた。水銀燈は空を見上げ、一つ息をついた。
助手席では翠星石がなにやらジュンと雛苺を罵っている。二人が軽く聞き流しているのを横目で見たみつがくすくすと笑っていた。
飽きないわねぇ、と水銀燈は呟き、欠伸をして目の端に溜まった涙を指で拭いた。自分にも眠気が忍び寄っている。元々このくらいの時間は寝ているのが彼女の生活リズムだから、当たり前といえば当たり前だった。
──今日くらいは媒介の夢に行かずに寝ておこう。
もっともその前に桜田宅に寄って着替えなくてはいけなかった。それが面倒だと感じるのも、多分眠気のせいだ。
特に何か事態が出来しない限り、家に戻ったら明日の夜まで寝てしまおうと水銀燈は思った。媒介は心配するかもしれないが、勝手に心配させておけばいい。
9
工房の中では、赤い人形が最後の仕上げの工程に差し掛っていた。
水銀燈はいつものように足を組み、肘を突いた手に顎を乗せるようにしてそれを見守っていた。
「虚しい作業だ」
手を動かしながら男は呟いた。
「この上もなく虚しく、そして背徳的な作業だ」
「貴方が言うとちっともおかしくないような気がするから不思議ね。でも、その子に聞かせていい台詞じゃないでしょう」
水銀燈が言うのは、男が今は髪を梳いている金髪の人形そのもののことだった。
「自覚しているかどうか知らないけど、もうその子に確り意識はあるわよ。多分動力源を入れるまでは口を開いたり手足を動かすことはできないのでしょうけど」
「知っていたさ」
だから尚更虚しいのだ、と男は言った。
「私達の世界は閉じているのだ。他の世界と交わる、交わらないではなくて、時間が閉じている。だから私はどこの時間にも存在するし、どの時間にも存在していない。全ては虚しい作業に過ぎない」
言いながらも男は手を止めようとはしない。水銀燈はその見事な手捌きを半ばうっとりと眺めながら、ぽつりと補足した。
「貴方達の物語は終わってしまったものね。貴方が弟子の人形に壊された娘達を修復したところで」
男は頷き、カールを掛けていた部分を整える。
「私についてはそれで良かった。娘達が究極の少女になれる道筋の見込みがついたのだから。だが、そこから先はない。彼女達が踏み出し掛けで止まってしまった時間に、次の一歩を踏み出す機会は永遠に訪れないのだ」
「誰だって最期の瞬間はあるわ。それが分かり易い形で一斉に来ただけのことよ」
水銀燈は目を閉じた。
「終わりのない人生をこれからも生きていくはずだった貴方には却って理解できないかもしれない。でも人の生き死になんてそんなものじゃなくて? 誰の時間だって、何処かで終わって閉じるのよ。それも大概は望まない時点で、しばしば唐突にね」
人形だって似たようなものよ、と水銀燈は息をつく。
「人形は死なない、魂が何処か遠くに行くだけ、とは言うけど。要は壊れて捨てられればそこで御仕舞い。形が無くなってしまえば呼び戻してくれる人はいなくなり、二度と生き返ることはできなくなる。ありようが違うとはいえ確実に終わりはあるのよ」
「一種の極論だな、それは。全くもって慰めにならん」
男は静かに櫛を置き、以前作業台の上の人形に被せてみせた赤いボンネット調のヘッドドレスを取り上げる。しかし、思い直したようにそれを置くと、凝った意匠のブローチを取り上げてそれを見詰めた。
「だが、実に君らしい意見だ。どういう訳か安心できる」
「お褒め頂いて恐縮ですわ、人形師様」
水銀燈は目を開いて皮肉に口の端を歪めたが、男はちらりと彼女に視線を遣っただけで作業を続ける。暫くは衣擦れの音と時折仕事道具が立てる僅かな音のみがその場を支配していた。
──真紅のときもこうだったわね。
工房の様子は全く違う。しかし、目の前で最後の化粧と衣装を整えられていくのがよく似た姿の人形であるだけに、思い出はこの場の光景と混ざり合っていくようだった。
「しかし違いはあるだろう」
男がぽつりと言う。水銀燈は眉を顰めた。
「貴方がこちらの考えを読めることを今更どうこう言う気はないけど、わざわざ回想を邪魔しなくてもいいでしょう」
「懐かしき日々、か。それほど素晴らしかったのかね? むしろ忘れたい部類の記憶ではないのかね」
男の声の揶揄するような響きに、水銀燈は苦笑する。短い付き合いだが、彼が偽悪的になるのは本心を隠したいときだと分かっていた。
「手元が疎かになるわよ。大事な最後の仕上げでしょうに」
「なに、大した作業ではないさ。ほぼ終わっているようなものだ」
男は軽く答え、机の上からその人形を丁寧に抱き上げると背凭れのついた椅子に注意深く腰掛けさせ、息をついて一歩脇に退いた。
「見事な出来ね」
水銀燈はお世辞でなくそう言った。
「可愛らしい顔。切れ長の瞳というのは現代的だけど、丸顔なのがアンバランスでいいわね」
男は黙って微笑み、人形にヘッドドレスを被せると顎の下で結んだ。
「完成だ、私の娘。何者よりも気高く、力強く、慈しみ深い、私の五番目の娘」
男が囁くように語り掛けると、人形は蒼い目を薄らと開けて彼を見詰める。彼は微笑んだまま人形を抱き上げ、椅子の脇に置いてあった鞄を取り上げた。
「呆れた。作り上げたと思ったらもう行くの?」
「行かないで欲しいのかね?」
男は含み笑いのような表情で水銀燈を振り返った。
「残念ながらご希望には添いかねる。先方は既に待ちかねているのだ」
「あっさりしたものだこと」
水銀燈は肩を竦め、にやりとした。
「引き留めてまで貴方と喋っていたいとは思わないけど、先方とやらにその人形を預ける場面には興味があるわ。許されるならご同道したいところだけど、どうかしら?」
男は無言で、彼女と同じように肩を竦めてみせた。二人ともそれが無理な注文だというのはよく分かっていた。
「行って来るよ、生意気な黒人形さん」
「行ってらっしゃい、きちがい人形師さん」
男は軽く一礼して、扉を開けて出ていった。垣間見た扉の向こうの青い空と緑の木々が皮肉だと思えてしまったのは、水銀燈が作業台の上の人形に感情移入してしまっているからかもしれない。
水銀燈は椅子の上で背中を丸め、膝を抱いた。何か変化があるものと思っていたが、男が出ていってからも工房の風景に変わりはなかった。
自分の夢の中だというのに奇妙な寂寥感を感じているのも、放置されたままの人形のせいかもしれない。
その人形は何故か動き出さず、どこか諦観を感じさせる瞳で彼の去った後を見詰めている。いや、それもまた水銀燈の感傷がそう見せているのかもしれない。人形の表情など、見る角度だけで様々に様子を変えるのだから。
気分を変えるためというわけではないが、そのままの姿勢でぐるりを見渡してみる。飾り気とゴミのない工房の中で仕事机と作業台とがらくたの山だけが目立っていた。
一通り見回した後、水銀燈の視線は仕事机の上に向けられた。綺麗に揃えて置かれた仕事道具の間に、白い紙のようなものがあることに気付いたのだ。
椅子から机の上に飛び乗って手に取ると、紙は短い手紙か書置きのようなものだった。宛名は書かれていないが、それが自分に宛てたものであることは文面を見れば確実だった。
「右の三段目……ねぇ」
手紙を持ったまま机から降り、やや苦労しながら抽斗を引き開ける。有り難いことね、と呟いたのは、抽斗の中身が水銀燈の視点からでもよく見える高さだったからだ。
抽斗の中を覗き込み、水銀燈は息を呑んだ。
男の様子から仕事道具が詰まっているとばかり思っていた抽斗の中身はほとんど空だった。ただ、実に無造作に指輪のケースが二つ収まっているだけだった。
「──まさかね」
そう言いながら、恐らくこれだろうという予感はあった。一つのケースを取り、胸元で開けてみる。
予想は当たっていたが、溜息が出るのを抑えられなかった。
中に入っていたのは淡紅色に光り輝く結晶と薔薇の意匠の指輪だった。
元通り閉じて、もう一つも同じように開けてみる。結晶の形が若干異なることを除けば、全く同じものが収められていた。
「……どうしろって言うのよ、こんなモノを」
そう言ってみるものの、それも思い当たる用途はある。水銀燈はケースを閉じて手に持った紙を裏返し、そこに書かれていた予想通りの文章を眺めてやれやれと肩を竦めた。
「つまるところ、貴方は出来損ないの第一ドールを他のどの娘よりも愛していたってことじゃない。全く、素直じゃないったら」
10
「えっ、立て替えるってどういうことですか」
事務員は目を瞬いた。男は歯切れ悪く、やや照れたような表情で答える。
「ああ、まあ、タダっていうか、こっち持ち……俺持ちでね。これは俺の腕試しみたいなもんだから」
「それにしても、経費くらいは取ったっていいんじゃないですか? これ工賃だけでも相当な額ですよ」
少し怒ったような顔で事務員の女性は男を見た。男は肩を竦める。
「会社に迷惑はかけない。俺の給料から天引きでも、直に払ってもいいが、兎に角これは俺の持ちにしたいんだ」
ごめん、と男は長身を曲げて片手で拝むような姿勢になった。
「あの人形、作ったのはあの野球帽の女の子の親父さんじゃないかと思うんだ。あれは多分、形見みたいなものじゃないかな」
妄想ですか、と事務員は首を振る。
「前から思ってましたけど、子供にはとことん弱いんですね。それともロリータ野郎って言った方がいいですか?」
膨れっ面になる事務員を、まあまあと男は手で制した。
「それに、実際凄いものだった。俺の作った部分が依頼者から金取れるほどいい出来になったかどうか自信がないんだ」
言いながら、男はパーツ製作の依頼書を眺める。
依頼者欄には桜田ジュンという、あの中学生ほどの男の子の名前が書かれていた。ただ、もう一つその隣に別の名前も連署されている。
──水銀燈、ね。
最初気付いたときには、子供にしては……いや、子供だからわざわざ難しい字を選んだのか、と吹き出しそうになったものの、自分の名前をそんな風に書いてまで「愛している」と言わせたかったのか、と思うと可笑しいというよりも切なさの方が先に立つように思えた。
男の想像では、人形を作ったのはあの子供の父親だった。人形は彼女に何処となく似ていたし、立たせてみると背丈も殆ど同じだった。
どうして胴体を最後回しにしたのかは分からないが、兎も角最後のパーツだけを残して、大好きな父親は死んでしまった。そこで彼女は知り合いの少年に頼んで残りのパーツの原型を作って貰った。咄嗟に自分を水銀燈という名前に偽り、男に愛していると言わせたのも死んだ父親への愛情がさせたことだろう──そんなストーリーが男の中には完成していた。
何もかも知っている視点では、それは酷く大きく間違ったストーリーかもしれない、と男は思う。実際そのとおりなのだが、そのことは男の知るところではない。
しかし、男が費用を自分で持つと言い出したのはそういったストーリーに酔っ払っただけではなかった。彼の視点からは凄腕としか言えない職人の遺作なのだ。あまり褒められた形ではないかもしれないが、その男に対する手向けというか敬意を表したかった、というのが本当のところだった。
「まあなんだ、CBRはもう一月我慢するよ」
「大馬鹿ですね。専門バカっていうか、無駄に職人気質っていうか」
「褒め言葉と取っていいのかな、それ」
男が腕を組むと、事務員はべーっと舌を出した。
「生憎と貶してます」
男は苦笑した。
「そりゃ、どうも。そっちじゃないかとは思ってたけどさ」
言いながら、男は依頼書を書類入れに仕舞いなおし、まだ何か言いたそうにしている事務員に片手をひらひらと振って事務所から出ていった。