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[19773] 赤く白くゆらゆらと (ONE PIECE) (嘘企画移転しました)
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47b90763
Date: 2017/04/18 22:39
 人間とは赤いモノなのだと少年は理解した。
 そして世界も本当は赤いのだと、少年は了悟した。
 焦げ臭い空気と濛々たる炎は、祭りのキャンプファイヤーでさえこんなにも酷くない。
 輪になって踊り躍った人々は、今や全身を赤くしてごろごろと寝そべっている。
 暮れなずむ夕焼けが空をも赤く染め上げ、焙られた熱波は村中を覆い尽くす。
 地獄もかくやという風景のただ中でぼんやりと、種々雑多に様々な赤を眺めていた。

 「離して……離してよっ……!」

 声と、足音と。複数の気配。風見鶏が風に吹かれるようにそちらを向くと、隣家に住む同い年の少女が襟首を掴まれ、暴れていた。来月一足早く十四歳になるんだと、喜んでいた覚えがある。
 少女を子猫よろしく持ち上げているのは大柄な男たちだ。細剣、曲刀、無手。思い思い不均衡に、ばらばらな衣類と武具とを好き勝手に纏っていた。
 奴隷。高く売れる。少女の抵抗に混じってそんな単語が耳に届く。話にしか聞かないような言葉が平気で使われていて、薄れていた現実感が一層重みをなくす。
 と、不意に少女と目があった。知らなければ気付きようのない場所で座っていた少年を見つけて、その口が、あ、という形を作り、

 「っ……!」

 少女は唇を引き結んだ。てっきり助けて、と叫ぶと思っていたので拍子抜けする。
 肩すかしを食らって、けれど意図を理解できないほど間抜けなつもりは、残念ながらない。
 子供と大人。それも一対複数。勝てるはずがないことは、助けられるはずがないことは一目瞭然を大幅に越えて明白。
 むしろ、片方だけでも捕まらない方がいい、と。こんな状況下でそんな打算的に判断できることに驚く。
 驚いたと、思う。生まれてこの方動いたためしのない表情筋が、僅かなりとも反応した、ような気がするほどに。
 そしてそれは間違いなく気のせいなのだろうけど、どうしようもなく勘違いなのだろうけど。
 ふらり、と身体が立ち上がった。
 石造りの、火の回りようがない子供だけの隠れ家。レンガで造った、高台に通じる階段の“中”。汚れに見せかけて、空いていた覗き穴。
 忽然と、まろぶように現れた少年に、男たちも意表を突かれたらしかった。少女は愕然と、何で出て来たんだと言わんばかりに泣きそうだ。
 ふらり。ふらふら。ゆらぁり。
 熱に浮かされたように、足が覚束ない。事実、周りは熱だらけで、誰も彼も顔を赤くしているけれど。

 「……ふむ」

 と、一行の中でも鋭い眼をした男がそんな声を漏らす。

 「プリンセスを助けに来たナイトか、はたまたおこぼれに預かろうとする愚物か」
 「さあな。どっちにしろ売るか殺すかしか使い道がねえ」
 「男のガキ……値段は微妙だろ」
 「ならば殺そう。せめてもの情け、一太刀で絶命せしめん」

 レイピア。針のような切っ先が虚空を穿つ。男の実力はそれなりのようで、それなりに速く、狙いは的確だった。ピンポイントで少年の額を刺し貫こうとしていた。
 ふらり。とタイミング良く少年がよろめいたせいで、それは外れたが。

 「む。動くな」
 「ひはは、ざ~んねん! 俺がやる!」

 ジャッ、と抜き打ちに曲刀が弧を描く。三日月さながらの断面と軌道。斬るというより、断つことに主眼を置いた武器。それもまた、後ろへ傾いた少年の顎先を撫でるだけに終わる。

 「ああ?」
 「バカじゃねえのお前ら? 先に捕まえて殴り殺せば済むだけの話だろうが、よっ!」

 蛇が獲物に襲いかかるような俊敏さで、襟元へと腕が伸びる。鉤状に曲げられた指先が服を捕らえた。
 奇怪に歪んだ表情で振りぬいた男の右拳は鉄鋼に覆われ、殴られたら頭が粉砕するような代物。
 当たらなければ、意味はないけれど。
 ぶんっ、と振り抜き、男の目が点になる。
 外れようのない攻撃が、外れていた。

 「「「…………」」」

 ようやく。本当にようやく、何かがおかしいと気付く男たち。得体の知れない沈黙に火の爆ぜる音が介入し、離れたところでは他の仲間が働いているはずなのに、ここだけ別次元に移し替えられたような違和感。
 呑気だな、と少年は評を下す。呑気に油断し、呑気に慢心し、命の危機などこれっぽっちも感じていない。
 この村は、良い村だった。群島でも大陸でもなく、小さな小島の小さな漁村。百名足らずの人口で仲の良い相手もおらず、むしろ無口無愛想が気味悪がられていたけれど、それでもここは住みよい村だった。
 無いなら無いで、普通に生きるが。これまでよりも、不便に思うだけだが。
 全てに疎遠であればこそ、仇討ちなど選ぶべくもない。
 だから、

 「――赤」

 つぷりと、伸ばした腕が男の胸に沈む..
 凝然と目を見開いた男の腕から、力が抜ける。持ち上げられていた少年の身体が地面に着くのと並行して、少年の手も動く。
 下へ。服を破らず、肉を裂かず、胸に沈んだ腕は内腑を縦断する。
 その身体が大きく痙攣した。少女も他の男たちも、凍りついたように眺めるだけで微動だに出来ず。

 「――温かい」

 ずるり、と腕が抜ける。細長く、ぐにゃぐにゃで、黄土色をした、管と一緒に。
 絶望的な顔で、あ、あ、と呻く男の目の前で、引きずり出される。取り出される。ずるずると、伸びるそれが数メートルに達し、止まる。ピンと張った紐のように、頼りなく、揺れる。脂汗が男の額を伝い落ち、風が吹くだけで苦痛に歪む。
 やめろ、とその顔が言っていた。やめてくれ、とその目が訴えていた。憐憫を誘う表情。
 しかし、何をやめろというのだろう? 結果だけ見れば、今日この島で何十回と行われた行為と全く同じだと言うのに。
 自分がやってきた行いをやめろと言うのは、酷く滑稽だ。

 「っっっっっ――――――――――!?!!?」

 絶叫が被さり、千切れる音は聞こえなかった。それでも手応えはあった。古いゴムを引き千切るような感触に総毛立つ。蛇口から水を出すように、血が溢れ出る。地面を、男を染め、瞬く間に絶命する。失血死ではなく、ショック死のようだった。
 赤い世界に、新たな赤が上塗りされる。鮮やかに鮮烈な、温かく綺麗な、真紅。
 撒き散らされた鮮血の渦中に立ちながら一滴すら身に触れさせず、佇む少年。その口元が歪み、子供じみた笑いを作り、



 「――――くふ」



 ぞあ、っとその場にいた全員の産毛が逆立った。風邪をひく前のような悪寒に晒された。
 赤く、紅く、どこまでも朱い、少年の背に悪魔の翼を幻視する。

 「……のっ」

 震え上がった声が喉につかえ、

 「能力しゃ――」

 叫んだ時には、少年の腕が胸元へ沈んでいた。脈打つ心臓が掴み出され、待ちきれないと言うように、即座に握り潰される。血が弾け飛び、少年の身体をすり抜けて地面へ注ぐ。その隙に身を翻した三人目は、不運にも足をもつれさせたところを襲われた。紅を撒き散らして、命をも散らす。

 「くふ……くふふふ……!」

 笑う、哂う、嗤う。先程理解した通り、先刻了悟した通り。
 世界は赤く、人も赤い。
 それが真理。
 真理は、正しい。正しい故に、真理。それ以外の解答は不要。

 「……赤、たくさん」

 怒声が聞こえる。倒れた仲間の様子に気付いた者が、呼び集めている。
 集まってくる。赤が。多数に多量に大量に、少年の所へと集まってくる。
 素晴らしいことだ。少年はふらりと歩みを向ける。素晴らしいことだ。胸中で繰り返す。

 「赤く、なあれ……♪」

 心からの愉悦を実践すべく少年は動き。
 言葉通りの光景が、描いた通りの景観が、赤に塗れて事実となった。















 「……あ……」

 へたり込んだ少女に目を向けると、あからさまに身が竦んだ様子で、怯えた様子で。
 赤い死体に囲まれて、赤い世界に覆われて。
 ぞくりとする。
 少女の前に立つ。ビクッ、と頭を抱えてうずくまる。当たり前の反応で、当然の対応だ。腕を取って立ち上がらせようとしても、頑なに身を縮めて。少し辟易する。

 「……赤くなる?」

 ぶんぶんと首を振って、少女は否定。ちょっとだけ残念な気持ちがしたけれど、今日はもう十分に満足したような気もする。
 満足。満ち足りる。空気は悪いが、清々しい。

 「じゃあ……行くよ」

 死にたく、ないなら。
 付け加えた囁きは効果覿面で、泣きそうな顔ではあったけれど、事実瞳は潤んでいたけれど、少女は立った。
 その手を引いて、死者の狭間を歩きだす。触れた瞬間の強張りは、気付かなかったことにして、尋常ならぬ死体の群れを乗り越える。
 パチパチと、爆ぜる火の粉は彩って、木肌人肌、熱は等しい。
 見慣れ使い慣れた道を歩く間、一言も会話はなく。家事の手伝いであかぎれながらも瑞々しい手を感じつつ、今まさに炎が絶頂に達する中を歩いた。途中村はずれのまだ燃え移っていない民家から、毛布とシーツ、乏しいお金と食糧、それにナイフとフォークを一本ずつ拝借し、バスケットに詰め込んだ。返す予定はないし、返す相手も今やいないけれど。
 小高い丘を挟んで広がる島の半分、森の方へと逃げる。登り切った丘の上で、振り返った少女の息を呑んだ音に、少年もまた振り返る。
 そこには火と煙があった。火と煙しかなかった。小さな島の半分近くを、赤と黒が塗り潰し、衰えもせず盛り狂う。
 生まれてずっと過ごしてきた村の有様に、気丈を保とうとして失敗した少女の瞳から、雫が一筋。お父さん、とその口が呟き、そう言えば親一人子一人だったかと思い出す。
 煉獄のような炎の照り返しを受け、とっくに日は沈んだはずなのに、少女の横顔を緋色に染めていた。背まである長い黒髪は絹糸のように細く、さらりとして、村一番の器量よしと囁かれた容姿は、悲惨な村の絵を背景に、より一層の輝きを帯びて見えた。
 思わず、手が伸びる。その頬に触れ、驚いてこちらを見た少女の黒い瞳には、赤紫の自分の目が映っていて。
 衝動的に、その唇を奪った。
 少女が凍りつく。見開いた瞳と合わせたまま、肩に腕を回して、口づけを深く。

 「ん……っ……、……!」

 突き飛ばそうとして失敗し、暴れ出しそうになった少女の足を刈って、自分を背に草むらへ倒れ込んだ。
 すぐに横へ転がり、少女の上を取る。

 「や……やめて……!」

 倒れた拍子に唇の重なりが解け、少女が言った。なぜ? と聞き返す。

 「だって、私には恋人が……」
 「……シュリオなら」

 押し倒した少女の頬を撫でつつ。

 「もう、死んでる」
 「っ……」

 唇を噛んで、少女が顔をそむけた。驚いた様子がさして見られないのは、この状況で生きているという期待がどうしようもなく低かったからで。
 首筋を掠めるようになぞり、顎を摘まんでこちらを向かせる。再度、その口を塞いだ。
 少女は身体を固くしたけれど、抵抗はしなかった。
 キスに応えようとも、しなかったけれど。

 「……頭を割られて、死んだ」

 口づけを続けながら、時折離して囁く。指先は首筋から鎖骨を撫で、背中で結ばれた紐を解く。

 「後ろから、鉈で割られた」

 首の後ろから腰元まで、紐を引くと一気に素肌が現れる。柔らかな姿態が、震えた。

 「隠れて、見てた」
 「っ――何で!」

 少女の憤りが爆発する。

 「何でっ……隠れてたの!? 強いのに、海賊を全部やっつけるぐらい強いのに!!」
 「……強くなったのは、ついさっき」

 ズボンのポケットから少年が取り出したのは、果物の皮だった。島でも取れるサラックと呼ばれるヤシの実に似ていたが、本物のサラックには波のような縞模様はない。
 ないけれど、少女はそれに見覚えがあった。

 「そっ……それ、村のご神体……!」
 「島の外だと、悪魔の実って、呼ばれてる」

 妙なことに腐りもしないこの果物。島に流れ着いた漂流船から発見された物らしいが、百年単位で昔の出来事だと聞いた。それだけの期間、腐らず虫も湧かないとなれば、ご神体と崇めたくなる気持ちも分からないではない。
 世界の情報が嫌になるぐらい入ってこない小さな島で、少年がその果物を悪魔の実と気づけたのも、漂流船のおかげだった。難破したらしいその船には、白骨死体と幾許かの金銭と、悪魔の実の図鑑が入っていた。
 それに載ってこそいなかったけれど、奇妙な果物の正体を悟るには充分過ぎる。

 「……僕は超人系、ユラユラの実を食べた、波人間」

 多分そうだろうと、感覚的に当たりは付けているけれど。
 それがなぜ物質透過になるのかは、いまいち不明。
 海賊共に取られるのが嫌だったから、襲撃に気付いてすぐ社へ向かい、隠した。
 本当は、食べるつもりはなかったけれど。泳ぐのは好きな方だから、食べる気なんてなかったけれど。
 少女に借りを作る方が、途方もなく嫌だっただけだ。
 ……などと、説明するのも馬鹿らしい。
 何度目かも知れない口づけの中で、舌を差し入れた。ビクリと、驚いたように逃げる舌を捕まえる。無味のはずの唾液が甘く変わったような錯覚を覚え、啜り上げ、呑み。逆に注ぎ、頤を反らし、コクリと喉奥に滑らせる。
 身体の下で、少女が身じろいだ。閉じた瞼の先でまつ毛が震えている。

 「…………ファン」

 今にも壊れそうな表情で、少女が名を呼んだ。

 「私のことが、好きなの?」
 「……ラナには興味、なかった」

 淡々と答えた自分の声は、予想以上に熱が籠もっていた。

 「つい、さっきまでは」

 その言葉を聞いて、少女――ラナは、目を閉じ、力を抜く。上下一体のワンピースを、足元から抜き取る。シャツを脱がせる。ファンもまた、服を脱ぎ捨てる。
 満天に煌き始めた星空の下、炎に包まれた村の上。少年と少女は、互いに未成熟な姿態を晒す。

 「私は……好きじゃない」

 肌を重ね、互いの体温を感じ、耳元でラナは囁いた。

 「今は、まだ」

 育ちかけの膨らみを少年の手が撫でる。微かに身をよじらせた少女の口から、あ、と声が漏れる。しこりとなった胸の頂点を口に含まれ、ラナは口元を押さえた。卵を持つように優しく、少女の胸を指の形に変えていく。

 「や、ぁ……!」

 火ではない火照りが滑らかな肌に浮き上がる。指先で胸を、腹を、背を。舌先で喉を、腋を、臍を。刺激する度に少女の体が反応する。ビクリビクリと、さざ波のように肌が波立つ。
 荒い息を吐くラナの口から、あ、と音が零れる。ファンの指は下腹を越え、太腿の内側をなぞっていた。
 くちゅり、と少女の入口に触れる。熱く濡れた無毛の秘裂を上下に擦れば、粘ついた透明の液体が指に絡みつき、悲鳴にも似た叫びを少女が上げる。ぴったりと閉じた二枚貝のようなワレメはやがて緩み、薄ピンク色の内壁を覗かせた。
 空恐ろしいほど心臓が高鳴った。少女の足の間にそろそろと身体を進め、充血した灼熱の交接器をあてがう。未体験の熱さにラナの身体が強張った。
 顔を上げると、ラナがこちらを見ていた。数秒見つめ合った後、少女が目を伏せる。それは了承の合図なのか、それとも諦めの表れなのか。判断のつかないまま、急き立てられるように突き入れた。
 迸りかけた絶叫を、ラナが喉の奥に抑えつける。その瞳から流れた涙の理由は、痛みと悲しみのどちらだろう。

 「あ……ぅ、あ……!」

 堪えても堪えきれない苦鳴が滑り出て、けれど気遣う余裕はなかった。何かが破れるような感触を過ぎ、少年は少女の温もりに包まれていた。狂おしいほどに切なく温かい狭穴が、理性を奪い本能に置き換えていく。
 腰を引くと、ずるりと這い出た肉棒に処女血が纏わりついていた。完全に抜ける直前で、再び送りこむ。今度こそ少女が悲鳴した。貫かれる痛みから逃げようとしても、組み敷かれた少女に逃れることは叶わない。

 「ひ、や……っ、痛い……! ファン…っ!」

 自分の名を呼ぶ少女の口を、今一度口で塞ぐ。んっ、んっ、と突き入れる度に震えていた声帯が、ほどなくして質を変えていった。苦鳴から喘鳴に、苦痛の声が艶めかしい色を纏う。
 唇を離し、互いに荒い呼気を吹きかけながら見下ろす。朱が上ったラナの頬。ファンを見上げる瞳は苦痛とは別の理由で潤み、蕩けたような表情だった。

 「あっ……あ…あんっ……や……ふぁ、ファン……ファン……私、あ、私……!」

 最後まで言わせず、キスで言葉を封じる。ただ擦り上げていただけの膣壁が蠕動を始め、愛液を増して雄に絡む。ぎゅうぎゅうと締め付けられ、少年が呻いた。
 唾液を交換し、潤滑液を交歓し、触れ合う全てから少年と少女は互いを求める心を交感し。
 ラナを抱き締めると、少女の四肢は少年へと巻きついた。もはや理性や思考など何の役にも立たない。異性を感じ交わることしか考えられない。
 腰の動きを相互に補完して、成熟の階段を登り始めたばかりの二人は雄と雌へと成り果てる。
 湿った音が連続し、絶え間ない嬌声が木霊する。
 衝動のまま、少年は少女の最奥へと突き入れ腰を止めた。少女の中で生命を宿す器官が期待に震え、受け入れるべく降りてくる。

 「あっ、あっ………あ、やぁあああああああ――――――っ!」

 全てが爆発したような錯覚ののち、少女のナカへ濃密な液体が注がれた。子宮が白濁に汚れ、自分の絶叫を聞きながら、少女の意識もまた白い闇へと落ちていく。

 「………………はあ……」

 終わりを迎えた気だるさと、強烈な快感にくらくらする。大人が病みつきになるのも分かるような気がした。
 名残惜しさを感じつつ少女から己を引き抜くと、自分の吐き出した白濁液が、少女の秘所からとろりと溢れた。
 この少女を自分が犯したのだという征服感に、知らず唇が笑みを刻む。
 赤もいいが、白も悪くないらしい。
 くふふ、と笑いながら、バスケットから取り出したシーツに少女を横たえ、再び肌を重ねた。不思議と心地よい少女の裸身を抱き締め、毛布を被る。
 明日からどうしようか、という疑問も今だけは些細なことのように思えた。赤と白の疲れに睡魔が襲いかかり、少年もまた眠りへ落ちる。
 若く幼い雛鳥の交わりを、登りかけた月だけが眺めていた。














 数年後、少年の能力を伝え聞いた海軍きっての科学者、Dr.ベガパンクは即座に解答を導き出した。
 超人系ユラユラの実の波人間。
 正確には、超人系ユラユラの実の、

 ――――量子人間。




[19773] 風の運ぶ導き
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47b90763
Date: 2011/11/09 00:23



 ぱしゃり、ぱしゃぱしゃ。水の音。
 綺麗に澄んで透明な、ゆっくり流れる沢の中。冷たい清水に腰までつかり、少女は小さく身震いする。寒い、に限りなく近い冷たさ。眠気覚ましには強力過ぎて、黒髪の先が水面をくすぐり、波紋を生んだ。
 波紋の中に、自分が映る。動きを止めて、少女は自分を見つめる。
 胸元や首筋に、ほんのり赤い跡が残っていた。――キスマーク。

 「…………」

 そっと自分の唇に触れる。ふれて、なぞる。……熱い。寒いからそう感じるのかもしれない。でも、熱い。
 ファーストキス、だった。シュリオという恋人はいたけれど、互いに恥ずかしがって、手を握るだけで精一杯の間柄だった。彼とはもう、手を繋ぐこともできない。
 ファン。赤紫の髪と眼をした、隣家の男の子。小さな島だから、誰も彼も知り合いで、同年代の子供はみんな幼なじみと言えてしまうけれど。ファンだけは、島の中で唯一浮いた子供だった。
 まず喋らない。笑わない。いつも夢を見てるような、まるで夢遊病者のような表情で、なのに不思議と要領がいい。うまく面倒事を避けて、仕事の手伝いは最低限。それ以外の時、どこで何をしていたのか完璧に把握できるのは、きっと本人しかいない。当たらず障らず、遠巻きに。彼の両親を含む全員が気味悪がって、なのに嫌悪までは行き着かない。微妙な境界線を、ゆらゆらと曖昧に、歩いていた。
 その彼が――人を殺した瞬間のかおは、多分一生忘れられない。
 悪魔が笑っていた。悪魔のように嗤っていた。
 ファンが初めて見せた笑顔は、悪鬼や悪魔そのものだった。

 「…………」

 肌を撫でる。ファンの指が触れ、舌が這った跡をたどる。
 今まさに少年にそうされているような、昨夜の残像を見てしまう。

 「あ……」

 足の間から、何かが流れる感触。水の中を、白い塊が流れて行って、指ですくう。
 粘ついた、白い粘液。少年に注がれた、精液。
 若干の躊躇いを覚えつつ、秘所を指で探った。あ、と電流が流れたような感覚に身を竦ませ、恐る恐る木立の向こう――少年がいるだろう丘の方角を確認した。来るなと言って頷いたから、多分近くにはいないだろうけれど。
 水の下だから、音は聞こえない。でも身体の中だから、くちゅりと湿った音が響くような気がして。

 「ぁ……ん……!」

 くちゅりくちゅりと、掻きまわし。込み上げる声を、噛み殺し。ぴくりぴくりと震えながら、溜まっていた白濁液を掻き出した。

 「はっ……は……っ!」

 荒く呼吸して、自分のナカから溢れた液体を眺める。普通と比べて、これが多いのか少ないのかは分からなかったけれど、思っていた以上の量が、注がれていた。子宮を白く、満たしていた。
 流れに浚われて下流へ消える、少年の溶液。ないことが自然なのに、喪失感が胸を襲う。
 きゅ、と下腹部に力が入った。掻き出された子宮が、熱を持つ。熱を持って、更なる灼熱を欲する。疼く。
 少年に貫かれて、少年の白熱液を思うさま注がれたいと、脈打ち始めた鼓動が脳髄を突き刺し、抉り、女性の本能を焙り―――

 「っ――」

 冷水に、ラナは頭から沈んだ。気泡が幾つも生まれ、酸素が足りず苦しくなってもぎりぎりまで耐え、水しぶきを散らして水面に出た。

 「えほっ……えうっ、けほっ……こほっ!」

 ……咳き込むまで我慢する必要はなかったかも、と思いつつ、暴れまわる心臓を宥める。
 求められるのはともかく、自分から求めたくはない。
 でないと……恋人の告白に応えた自分を、裏切り者のように感じてしまう。
 ファーストキスも、処女も、子宮の中さえ、奪われ、汚された後だけれど。
 少年との性行為に、意識をやるほど応えてしまった後だけれど。
 死んだ恋人の気持ちを、裏切りたくはなかった。
 ……何日耐えられるか、自信は全く、ない。














 時は少し戻って、毛布の中。


 ラナの方が、自分よりも幾らか早く起きていたようだった。
 僅かな身じろぎに重い瞼を持ち上げると、腕の中で少女の黒い瞳に見上げられた。心なしか、その頬が赤い。寝起きの頭で理由を考えるが、碌に回らない。掠れるような声が聞こえて、意識を戻す。

 「ファン……その、服を着たいの」
 「…………」

 余程ダメだと言いたくなったけれど、着衣を許したくないほど少女のカラダに触れていたかったけれど、夕食を抜いた腹が訴訟を起こしそうだったので諦める。
 もぞもぞと毛布から抜け出て脱ぎ捨てた服を拾いに行き、下着も纏めて少女に渡す。手渡した時に何か言いたげな顔をされたけれど、結局溜息だけ吐いたラナに首を傾げた。

 「……着替えるから見ないで」
 「?」
 「いいから見ないで!」

 怒られた。裸を見るより恥ずかしい行為をしたはずなのになぜだろう。分からないけれど、分からないなりに後ろを向いて、簡素な衣服を身につける。「もういいよ」と許可が出るまで考えて、何でだろうと疑問符ばかりがふよふよ巡る。
 薄茶色のワンピースを着たラナは、長い黒髪を手櫛で整えていた。胸元を持ち上げる膨らみと、細い腰にどうしても目が行ってしまう。視線に気付き、朱を昇らせた少女はすぐさまそっぽを向いてしまったけれど。
 それでも臭いと汚れが気になるようで、ラナは沢に水浴びしに行った。付いて行こうとしたら、「ファンは食事の準備!」と怒鳴られた。女の子の怒るポイントは不可解すぎる。
 大体準備と言っても、バスケットから保存食を出すぐらいしかないのに。
 膝を抱え、ぐぅぐぅ腹を鳴かせて待ち続け、ようやくラナが水浴びから戻ってきた。

 「もしかしてファンって……すごい律儀?」

 空腹虫の大合唱に、申し訳なさそうな、驚いたような顔で少女が言う。取り敢えず、違うとだけ答えておいた。他意はない。
 もぐもぐと、硬いパンをチーズで味付け。ラナが汲んで来た水で干し魚を流し込む。十分とかからず、食べ終わる。味気ない食事だったけれど、このレベルの食事が贅沢になるのはそう遠くない。村は焼けて、ほぼ例外なく焼け落ちて、無事な食糧はどれだけあるか分からない。

 「ねえファン。……お墓、作ろう?」

 朝食を終えた丘の上。一晩で燃え尽きてしまった村を眺めていた、少女がそう口にした。
 後は野となれ山となれ。自然に任せるが一番。
 とは、答えられなかったけれど。放っておきたかったのは山々だけど。焼けなかった死体もあるだろうし、腐れば臭いも酷い。……そんな数秒の勘案を経て、ファンは頷いた。

 「…………」

 そうして、少年は村外れで穴を掘っている。災禍を免れたスコップで、繰り返し土を掘り下げる。
 楔形の先っぽがするりと地面を通過して、力を込めればあっさり持ち上がる。心臓を掴み出したように、土くれを掘り出す。
 何をやってるんだろうと、自問。墓を掘っているのだと、自答。
 赤くも白くもない作業は、どうしようもなく退屈だった。十三年と少し生きてきた日々のように、つまらなかった。

「……赤く、したいなぁ」

 死体運びを、自分から買って出た少女を、赤くするわけにはいかないけれど。心でしてはいけないと思うからこそ、赤くしてしまいたくなる矛盾的な衝動はあるけれど。
 ゆるゆると息を吐き、穴掘りを再開。交易船が来るのは半年周期で、つい先日来たばかり。だからこそ海賊は昨日を狙ったのだろうけど、タイミングの悪さを罵りたくなる。最低半年は、たった二人で生き抜かなければならない。
 悪魔の実を食べた能力者であろうと、子供の知識ではこの島で生き残るのも難しい。平和過ぎた島の経験は、外海で生きる助けにはならないはずで。
 そして、今後の苦労をありありと表現した嘆息は、前置きなしの突風に吹き飛ばされた。

 「なに……!?」

 心臓が、跳ね上がっていた。ただの風。海辺に突風は付き物。なのにバクバクと、鼓動が暴れ狂う。冷や汗が流れ、脳裏をじりじりと焦がす“何か”を、感じて。
 背筋が震えた。津波を前にしたような絶対的な猛威に、震え上がった。

 「………………くふ」

 くふ。くふふ、くふ。くふふふふ。
 嗚呼。
 これを赤くしたい........
 カラン、とスコップの落ちる音が響く頃には、駆け出した後。
 少年はまだ知らないことだけれど。気付いてもいないことだけれど。
 悪魔の実には自然界を超越する力があり、当たり前ながらそこには悪魔の実だけの法則がある。動物系なら肉体を。自然系なら森羅万象を。超人系ならその力に見合ったモノを。それぞれ操り従える法則がある。
 それら既存の法則を塗り替える時、誰にも観測できない波動が生まれている。
 音は空気の振動。火の燃焼は化学変化。ならば悪魔の実の力にも、仮に説明不可能だとしても、現象を発生させるための原因と起因とを有するのは、自然の摂理。
 波人間、量子人間たる少年は、その波動を知る。感じる。感知する。
 悪魔の実の反応を、感じ取ることができる。
 今はまだ、弱く微弱に脆弱だけれど。
 ――今は、まだ。















 惨状という言葉が分からなくとも、辞書を引いて調べる必要はなかった。
 具体例が、目の前にある。

 「悲惨な……」

 痛ましい呟きは背後から。いついかなる時も持ち歩くグラスに、葡萄色の液体は注がれていない。このような場でたしなむには不謹慎と、自分で戒めているのだろう。

 「……妙だ」

 問うような視線を感じ、男は続ける。

 「なぜ、船番一人いない」

 戦勝パーティに浮かれているのかと、最初は思った。まだ朝も早く、おかで寝入っているのかとも考えた。だが、海賊の命たる船を見張る者がいないなど、明らかに過ぎる異常事態。

 「……まさか」

 突拍子もない思いつきに足を速める。背後の気配は無言でそれにつき従う。
 焼け落ちた家々の間を進むと、焦げた臭いが鼻を突く。そこかしこで斬られ、あるいは火に巻かれた村人たちに黙祷を捧げつつ、広場へ到達する。そこに想像通りの――否、“想像以上”の光景を見つけ、鋭く息を呑んだ。
 海賊たちが、死んでいた。地勢の影響か、大部分が焼けることなく、亡骸を晒していた。
 点々と、道なりに。一様に恐怖と痛苦で顔を歪め、まるで何かから逃げるように絶命していた。こんなはずではなかった、助けてくれと訴えるような、死んで当然という思いを持っていてさえ憐みを誘われる、凄惨な死相。
 だが、しかし。何より際立つのは、死んだ海賊の顔でも、その数でもなく、

 ――死に方だった。

 胃腸を、肺腑を、心臓を、あるいは脳髄を、引きずり出され、千切られ、潰され、命共々散らされて。どんな自殺志願者でも二の足を踏むような、徹底的に最悪な、例えようもなく怖気を震う、醜悪な死に様。

 「これは……一体」
 「……一つだけ言えるとすれば」

 険しい目で、“傷もなく引きずり出された内蔵”に視線をやり。

 「とんでもない化物が、この島にはいる」

 それは能力や、力の脅威を言っているのではなく。
 同じ人間に、これだけのことができるという精神性。
 インペルダウンの看守も真っ青な、残虐なる殺人手法。
 恐れなど知らない男の背に、一筋の汗を流させる程には。
 ずず、と地面を引きずる音に、二人の意識はそちらへ向けられた。広場の反対側を横切る形で、十を幾つか過ぎた少女が、焼け残った板きれを引きずっていた。その板に、真っ黒な焼死体を乗せて、引きずり運んでいた。
 少女が汗を拭った拍子に、こちらを視界に入れた。一瞬で、少女の顔が恐怖にひきつっていく。

 「――待て! 俺たちは海賊とは違う!」
 「……え」

 走り出しかけた足を止めるが、その表情には警戒心しかない。
 止むを得ない、と思う。少女は突然やってきた見知らぬ男たちに、村を焼かれ、家族を殺されたのだから。

 「海軍の……方ですか?」
 「それも違う。だが、約束しよう。俺たちは君に一切の危害を加えるつもりはない」

 少女の黒い瞳が戸惑いに揺れる。信じるべきか、疑うべきか、迷いの狭間。
 ……この子は、違う。

 「他に、生存者はいないか?」
 「あ……その、もう一人……同い年の男の子が――」

 と、答えかけた時だった。
 ぞくっ、と全身の毛が総毛立つ。濃厚で、濃密で、混じり気なく純粋な、殺意。
 音もなく、一人の少年が燃え尽きた家の中から飛び出した。赤紫の髪を振り乱し、炯々と、爛々と。マゼンタの双眸が狂的な殺意に濡れている。

 「―――くふ……!」

 その唇が笑みの形を作り、全く何の躊躇も逡巡も迷いも躊躇いもなく、制止の声を上げた少女すら無視して、襲いかかって来た。
 ダッと背後から前に出た仲間に一言、傷付けるなとだけ言い添える。
 頭頂からつま先まで、髪と衣服とサングラスの全てを左右で白く橙に分割した、風体だけは奇妙な男。その指先が、にょきりと伸びる。左右それぞれ二本の指が、園芸鋏よりも長く、鋭く。
 ショキショキショキ、と切り裂かれた地面がリボンの如く捲れ上がり、さすがに驚いた様子の少年が足を緩めた直後、檻と化してその身体を囲う。巻く。蓋をする。
 土くれの牢に閉じ込めた少年を落ち着かせるべく、傷付ける意思はないと告げようとした、矢先。
 まるで壁などないかの如く、牢を“透過”した少年の指先が色と色の中間に差し込まれた。

 「――イナズマ!」
 「ッ――!」

 パンッ――! と少年の眼前で柏手が打たれ、意表を突かれる。掴み損ねる。それでもぶちぶちと、イナズマが飛び退ると同時に血管が幾本か引き千切られ、服を赤くする。

 「無事か!?」
 「……幸運にも」

 胸を押さえ膝を突いたイナズマなどまるで眼中にない様子で、細い血管を放り捨てた少年は、真っ直ぐに男へと襲いかかり。赤く、赤く、赤く染めて濡らし塗りつくさんと腕を伸ばし、

 「――すまない」

 全身を隠すようなローブの中に、刺青を顔に入れた男の声を聞いた。

 「一撃だけ、許せ」
 
 刹那、鳩尾を突き上げた衝撃に痛みよりも息を詰め、ぐらりと暗転した視界を最後に、意識を落とす。

 「ファンっ!?」

 くずおれた少年に信じられないような面持ちで、少女が駆け寄る。必然的に、男と距離を縮める行為でも、躊躇なく力の抜けた少年を支える。
 こちらを振り仰いだ少女に、気絶させただけだと告げ、拳に残る後味の悪い感触に顔をしかめた。

 「生き残りは、君とその少年だけか?」

 じりじりと距離を取ろうとする少女に手を上げ、それを留めた。
 少女の肯定を受け、男は目を側める。
 二人。たった二人。百近くの村人がいて、残ったのはただの二人。
 胸の奥で煮え滾った憤怒を押し隠し、努めて冷静に、冷静を務めて、男は名乗る。

 「――俺は、ドラゴン。君たちさえよければ、寝場所と食糧を提供できる」

 どうだ、と訊ねられた少女は、必死に状況を判断しているようだった。腕の中の、ファンというらしい少年を見、唇を噛む。やがて決然と顔を上げ、よく通る澄んだ声で答えた。

 「お願い、します……!」

 あ、でも……と続いた言葉を促し、

 「お墓を作った後で……いいですか?」
 「……手伝おう」

 協力を申し出ると、ほっとした様子で、少女は礼を述べた。
 ――ありがとうございます。
 感謝の言葉を、風が空へと浚っていった。







[19773] 赤より出づる
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47b90763
Date: 2011/04/02 11:03
 
 「傷の具合は?」
 「数日あれば完治するだろうと」

 常より沈着な声には拭い切れない硬さがあった。左右橙白の衣服の下で、患部に当てられた圧布を包帯がきつく縛っている。外傷のない内傷に、果たしてこの治療で問題ないのかと、船医自身疑念を払えなかったらしいが。

 「……初めて、本気で死ぬかと思いました」

 言って、グラスに口を付ける。ワインを楽しむのではなく、今ばかりはアルコールに逃げている感が見られる。半ば、自棄酒に近い。
 奇妙でない能力の方が珍しい悪魔の実にしても、更に輪をかけて少年の能力は奇天烈だった。
 超人系ユラユラの実の、波人間。生き残りの少女から得た情報だが、彼女は悪魔の実に関する知識を、全くと言っていいほどを余裕で踏み越えて完全な無知であり、名称以上の話は聞けなかったが。西の海の最辺境に等しい島となれば、それも致し方なしかもしれないが。
 イナズマを伴い、船内を居住区に向けて進む。わざわざ用意した個室の扉をノックすると、少女の声で応答が返され、中へと押し開ける。
 ――瞬間、余りにも純粋過ぎる壮絶な殺意が部屋を満たし、

 「ファンっ!」
 「…………」

 少女に叱られ、不満そうに縮んでいった。
 背後のイナズマが、呼気と共に緊張を吐き出す。
 警戒や防衛反応にしては、いささか心臓に悪い殺気で、過剰だ。

 「俺はドラゴン。少年、先程は済まなかった。君たちの名を聞かせてくれるか」
 「……………………ファン・イルマフィ」
 「ラナ・アルメーラ……です」

 ほう、と小さな驚きを胸中で。名が先、姓が後とは珍しい。
 少年――ファンは寝台の上で上半身を起こし、眠りと覚醒の中間を彷徨うような瞳で、こちらをじっと見つめている。寝台に腰掛けた少女がその腕を握っていなければ、すぐさま牙を剥いておかしくない、危うげな光を双眸に湛えながら。

 「警戒するな、と言う気はない。だが俺も俺の仲間も、君たちに危害を加えるつもりがないことは理解してほしい」
 「……………………………………………………………………」

 ……。
 いくら待っても、返事はなく。申し訳なさそうにに、少女が口を挟む。

 「あの……すみません、無口なんです。喋る時は、結構いろいろ喋るんですけど、その時も大抵言葉少なで……」

 背後でイナズマが軽く傾いた気がした。コホン、と軽く咳払い。

 「…あ、でも、返事は多分はいだと思います」
 「そう……か?」

 肯定や否定の動作どころか、瞬きの感覚すら一定に思えるのだが。

 「えっと、慣れれば何とか、分かる……ような」

 疑問の答えもまた要領を得ない物だったが、一先ず理解されているという前提で話を進める。
 自分たちがどういう存在で、どういった目的を持ってこの島を訪れたのか。
 そこから、始めなければならない。















 吹き付ける風は強いけれど、立っているのに支障はない。
 丘を越えた森の入口に、何十もの墓石が並んでいる。盛り上げた土に小石を積んだ、簡素だけど一目で墓と知れる、埋葬地。砂浜で見つけてきた綺麗な貝を、土の上に供える。外界では花が主流らしいけれど、この島で死者に送るとすれば、打ち上げられた貝だ。一年、墓の上で風雨に晒され、獣や風に持って行かれることのなかった一握りの貝には、死者の魂が宿るとされていて。最後にその貝を海へと流すことで、弔いを終える。
 生と死の循環。海からもらった命を海へと返す、葬送の儀式。

 「一年経ったら……また来ないとね」
 「…………」

 悲しそうな声だったけれど、ラナの黒い瞳から涙は流れない。昨夜、自分が流させたものを除けば。
 そっと横目で見れば、黒い感情が渦巻く。哀感を身に秘めたラナは、今にも儚く消えてしまいそうで。そんなことは有り得ないけれど、波間に浮かぶ泡沫のように弾けてしまいそうで。
 悲哀は人を美しくする。
 それはきっと、悲しみが純粋なモノだから。
 喜悦は欲望を付帯させ、怒りは憎悪を付随させ、気楽は虚無を引き連れる。
 悲しみは絶望と似ているけれど、似て非なるものであって、相異なるものだから。
 人は絶望すると、涙も出ない。悲しめない。
 悲しむことができるなら、その人は絶望していない。
 故に、悲しみはもっとも純粋な気持ちで。
 純粋だから――汚したくなる。壊したくなる。悲哀に、別の色を混ぜたくなる。

 「……ファン?」

 後ろから抱き寄せられた少女が、首を巡らせて少年を仰ぐ。こちらを向いた朱唇に、触れるだけのキス。
 一瞬、少女の息が止まる。たじろいだように、身を離そうとするラナを背後から抱きすくめ、肢体に手を這わせた。

 「ファン……!?」

 少女の声に咎めが響く。死者の眠る前で、神聖なる墓所で、家族の、恋人の眠る前で、そんなことはしてはいけないと無言の内に語る。それを無視して、少年の手の平は膨らみを撫で、持ち上げるように指の腹が動く。ぴくっ、と少女の肩が跳ねる。それでも今だけはダメだと、少年を止めさせるべく肘を曲げ伸ばした手は、ただ虚空だけを握った。
 少年の手は変わらず少女を刺激して、なのに少女は掴めない。触れない。止められない。
 あ、ん、と声がくぐもって、少女の横顔に罪悪感が差す。その目が墓に向けられて、そこに埋められた恋人へ向けられて。赤紫の瞳が、暗く光る。見せつけるように、ワンピースの裾を捲り上げた。

 「だ……ダメ……っ」

 聞かず、うっすらと染みのできたショーツを引き下げる。隠そうと、あるいは下着を戻そうともがいた少女の腕は、胸の前に集め裾と一緒に押さえつける。
 無毛の秘裂に、触れた。くちゅりと音を立て、指が埋まる。
 いやぁ、と零れた悲痛な声に、ぞくぞくと背筋が震える。掻き回せば、少女の熱い液体が滲み、溢れる。

 「ひうっ……あ……はっ……あ、あっ……あっ……!」

 少女が哭く。悲しみを情欲に染められた少女が啼く。
 作られたばかりの墓地で指姦され、恋人や家族が眠る前で喘ぐ。

 「……くふ」

 流れた一滴の涙を舐め取り、目を細める。しとどに濡れた秘所から指を引き抜く。あ、と未練の込められた視線が指に送られ、恥じ入るように背けられる。
 声なく笑い、少女の蜜が糸を引く二本の指を口に含んだ。甘いような、苦いような。敢えて言うなら、『ラナ・アルメーラの味』。表現し難いけれど、美味。
 ハンカチではなく、ただ肌触りがいいだけの布で滴った愛液を拭い、ショーツを上げさせると、驚いたような、意外そうな目で見られる。

 「……されたかった?」

 凄い勢いでぶんぶん首を振る少女を解放し、まるで何事もなかったかのような足取りで丘へと足を向ける。少し遅れて、躊躇した様子で、ラナが付いてきた。
 したいのは自分も山々だけれど、少女の中を真っ白に染めてしまいたいけれど。
 残念なことに、人を待たせている。

 「…………まだ、シュリオが好き?」

 背後で止まったラナに合わせ、ファンもまた足を止める。
 応えないラナに、構わず続ける。

 「ラナが、誰を好きになっても……僕は、ラナを犯す」

 舐め取った少女の味を思い出す。

 「ラナを犯して、ラナを汚して、ラナを辱めて」

 振り返った先にいる黒髪の少女、ラナ・アルメーラの下腹部を指差し。

 「ラナを、孕ませる」

 直截な物言いに、怯んだ少女が、顔を俯ける。
 今すぐに白くできないのが、酷く残念でならないけれど。

 「…………もう、逃がさないよ?」

 くふふと笑ったのも一瞬、すぐまた夢見るような表情になって、動かない少女の手を引き丘を登る。
 登りきると、民家を数件呑み込むほどに巨大な帆船が港にそびえ、橋桁へと続く道に一人の男が待っている。

 「挨拶は、終えたな?」

 外套を纏う男が腹に響く声で言った。頷きを返し、船首に竜を象った巨船へ乗り込むべく、桟橋からボートを漕ぎ出した。

 ――小遣い……稼ぎ?

 と、ラナが聞き返したのを思い出す。聞き返した声の震えを、思い起こす。









 「小遣い稼ぎって……何ですか」

 ファンの腕を握る手に、力が籠もった。黙ってそれを眺め、男へと視線を送る。
 船室の空気は、悪くない。船の構造もそうだが、窓も作られているから。
 けれど空気は、酷く重い。ラナ以上に、ドラゴンの放つ空気が沈痛で。

 「そのままの、意味だ。この島を襲った海賊は……貴族が、ちょっとした金を稼ぐ為だけに結成された、合法的な非合法船だ」

 その目的は各地の島や街を襲い、略奪する。略奪した物資は闇に流れ、金に換えられ、一部が貴族に届く。否、貴族が海賊に分け与える。
 そういう、システム。

 「で……でも! 船を維持するのってお金がかかるし、海賊が満足するぐらいに分配したら、儲けなんてほとんど……!」
 「だから、そう言った」

 奥に怒りを秘めた男の声が、少女の反論を押し潰す。

 「小遣い...稼ぎだと」
 「っ……!」

 息を呑んだラナの顔が泣きそうに歪む。震える少女の肩に、そっと手を置いた。
 小遣い。子供が、小遣いを稼ぐ程度の感覚。貴族なんて話に聞くことも滅多にないけれど、彼らにとってはした金だというのはわかる。
 そして村は襲われた。ドラゴンの口振りでは、きっと幾つもの街が被害に遭っている。
 彼らにとって取るに足りない僅かな金銭を、稼ぐためだけに。
 たったそれだけの理由で……村は焼かれ、家族は死んだ。
 両親を思い出す。お互い口もほとんど聞かなかったけれど、愛されてなかったと言えばきっと嘘になる。自分を愛し育て、けれどどうすれば息子とまともに接せられるのか、夜中に二人で話し合っていたような覚えがある。今この瞬間まで、忘れていたけれど。
 それが、いわゆるまともな人間であるラナであればどうなのか。……考えるもでもないのだろう。
 ただ理不尽なだけなら、良かったのだろう。下手に村が襲われた理由など知らなければ、憎悪にも似た遣る瀬無さを感じることはなかっただろう。
 これが幸運なのか、不運なのか。意見は分かれるだろうけど。
 ドラゴンの説明は続く。自分たちを至上とする貴族や王族、それらを打倒せんがために集う反逆の徒――革命家。
 故に、貴族の手による海賊を追ってきたのだと、そうドラゴンは締めくくり、

 「村人が、君たちの家族が殺されたのは俺の責でもある。……代わりになれるなどと思い上がりはしない。だがもし望むなら」

 研ぎ澄ました名刀の如く、真剣な口調で男は言った。

 「ファン・イルマフィ。ラナ・アルメーラ。君たち二人が巣立てるまで、全力の支援を惜しまない」

 さして驚きも感慨もなく、話の流れから察してはいた。無関係な村の危機を見捨てられず、こんな辺境まで船を出すのだから、そう提案されることは予想していた。ただ少女は違ったようで、絶句しているけれど。
 まあ。
 五年か十年かはともかく、見も知らぬ子供を二人も面倒見ようと申し出る奇特な人間は、そうそうお目にかかれるものではない。と、そんな思考ができるぐらいに、自分にとってはどちらでもいいことだけど。悪魔の実を食べた自分は、街まで行けば大概の所で生き抜けるだろうけど。
 そうもいかないラナには、まさに渡りに船の話だ。
 以上を、踏まえて。

 「…………一年後」

 と、口を開いた瞬間驚きの視線が飛んでくるが、慣れた反応なので気にしない。

 「一年後、またこの島に、来れるなら」
 「……容易いことだ」

 一年という区切りに、ラナが敏感に意図を察したような表情で自分を見るのを目の端で捉えながら、もう一つ、と指を立てた。



 「僕は………ドラゴンを赤くしたい」



 ラナが、凍りついた。真っ青に冷えた表情で、音の出ない口を開閉させる。
 ドラゴンもイナズマも、数秒言葉の意味を考えるような素ぶりだったが、次の瞬間には大鋏が、加え込むようにファンの喉を捉えていた。

 「……下がれ、イナズマ」
 「しかし……」
 「ラナ・アルメーラも連れて、廊下に出ろ」
 「……」

 不承不承、といった感じで左右で違う色の男が命令に従う。
 扉が閉まる寸前、ラナが不安げな表情でこちらを見たが、目は合わせなかった。
 パタン、という音がして、扉と廊下とが切り離される。

 「ファン・イルマフィ。俺を殺したいと言ったな?」
 「………………」

 無言を肯定とすると、ドラゴンはそうか、と呟き、瞑目した。その刹那、
 ――ファンの心胆は絶対零度の世界に放られた。

 「っ……!?」

 喉が干上がるどころではない。心臓が張り裂けるどころではない。
 じっと見つめる男の双眸は例えようもなく怜悧な色を帯び、殺気ですらないただの威圧は途方もない強大さを含み。
 気が付けば、ドラゴンは部屋からいなくなっていた。自分は荒い息を吐いて、ベッドに倒れ込んでいた。
 ……ムリだ。
 アレは、無理だ。
 あれは赤くできない。津波や台風を赤くできないのと同じだ。
 桁が五つ六つ、違う。

 「…………。……………………残念…………」

 そうして、一人マストに登ったドラゴンは。
 遠く、遥かな遠く。世界の裏側を覗くように、東を眺めていた。

 「………覇気に、耐えるか」

 危うい線では、あったが。悪魔の実を食べただけの、一般人と変わらない子供が、覇王色の覇気に耐えた。
 その事実はそれだけで驚嘆に値する。
 だが、それは恐らく、瑣末なことだ。

 「覇気を受けて……笑うか」

 あの瞬間。
 自暴自棄でも諦めでもなく。
 ファン・イルマフィは、笑った。
 ……否。
 哂い、嗤った。

 「……目を留めておく必要があるな」

 憂慮の末、ドラゴンはそう結論付けた。
 そして勿論、ファンは自然災害の如き男の独り言など聞けるわけがなく。










 意識は現実に帰還して、下ろされた縄梯子を登る。
 村の広場ほどもあるデッキには、手隙の人間が大勢詰めかけていた。
 全員が、革命家たるドラゴンの賛同者。ただ世界を打倒するために集った同士。
 これだけの人間の上に、男は立っている。海のように雄大な男の背は、大きい。

 「――唱和せよ!!」

 ドンッ、と殴られるような大音声に、ラナと二人して転びかけた。いつの間にか近寄っていたイナズマに支えられ、男を見上げる。

 「俺たちはこの村を忘れてはならない!!」

 「「「俺たちはこの村を忘れてはならない!!!」」」

 「九十三名の犠牲を忘れてはならない!!」

 「「「九十三名の犠牲を忘れてはならない!!!」」」

 「彼らに報いるため、世界を打倒せよ!!」

 「「「世界を打倒せよ!!!」」」

 ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!!!!

 「……普段は、ここまでしませんが」

 余りの大喚声に圧倒されていた二人は、その声で我に返る。

 「この島を助けられず悔しく思っているのは、ドラゴンだけはないということです」

 ドゥン……と空砲が火を噴く。弔いの砲が、長く余韻を引いて海の彼方へと響き渡っていく。
 錨が巻き上げられ、強風を孕み船が出る。船尾へ。ラナと一緒に島を、徐々に遠くなっていく生まれ育った島を見る。
 隣で、ラナが唇を噛んだ。その胸中は自分のような異端に推し量ることはできないけれど。
 手を握るぐらいは、できる。
 まるで慰めるような行動に――慰めているつもりなのだが、まあ昨夜のことを考えれば不思議でもない――驚いたような気配で、視線を向けるラナには目もくれず、口を開く。

 「……さっき言った言葉は、撤回しない」

 でも、と付け加え。

 「ラナに酷いことする奴は……僕が、潰す。徹底的に、無慈悲に、無残に、赤く塗りつくす」

 繋いだ手からラナの震えが伝わる。ファンって勝手過ぎる、と耳に透き通る声もどこか震えていて。
 寂しさ、哀しさ、悔しさ。一体どの感情が一番なのか、分からないけれど。
 一晩で赤く染まった島から、少年と少女は旅立った。
 世界最悪の犯罪者、革命家ドラゴンの船に揺られながら。






[19773] 幕の間
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:80c1420b
Date: 2010/08/08 19:54
 一匹、二匹、三匹、四匹。
 自由気ままに実に気楽に、天空で寝そべる羊雲を片端から数えていく。
 二十五、二十六、二十七、二十八……。
 日差しは大したものではなく、風は図ったような追い風で、ぐんぐんと海流に乗り進んでいく。どこへ向かっているかは知らないし、知ったところで意味はない。外の知識は皆無どころかほぼ絶無。知ったかぶるつもりはないけれど、知らな過ぎるのも問題のような気はするけれど。
 百四十七、百四十八、百四十九、百五十…………。
 ドラゴンの申し出を受け、自分とラナは客人として船に乗っている。家業を継ぐ程度の未来予想図しか持つことはなかったので、今後何をし何を目指す人間になるかは未定不定の宙ぶらりん。ラナはどうだか知らないけれど、革命とやらにも興味はない。島や村に未練があるくらいなら、自分はもっと泣くなり悲しむなりするはずで。
 三二三、三二四、三二五、三二六………。
 …………。
 ……………………。
 ……………………………………。

 「暇」
 「……いきなり天井から顔を出すな」

 羊雲を数える作業に飽きた、宙吊りと言うべきか悩む状態のファン。
 壁床天井が意味を成さない客人に、船長ドラゴンは額に手を当て小さく嘆息した。















 一日目 ~究極の……~





 やることがないなら船内の雑務でも手伝えと、実にもっとものようで投げやりな指示を受けたファンが向かったのは厨房。ここで船内全員分の食事を賄っているだけあって、調理器具や食材が隙間なくそこら中で並び使われている。
 縦にも横にも太目なコック長に手伝う意を伝えたところ、こいつ使えるのか?という考えが丸わかりの表情で、山と盛られたジャガイモを用意される。皮むきらしい。

 「一時間でおわりゃ上出来だぁな」

 まぁ無理だろうが。
 と、続けられれば誰でもカチンとくるはずだけど。少年は特に何も感じなかったけれど。とは言え洗われてもいない丸のジャガイモ五十個ばかりとなれば、諦めるのが先か飽きるのが先かという感じだった。

 「…………」

 なるほど。
 これは挑戦と受け取る。
 違うと言われても挑戦と決めつける。
 内心で大いにやる気を上げながら、全く動かない表情筋。
 眠たげな表情で一個目に手を伸ばす少年を、こいつ大丈夫か?と悪い方向に考えを改めて見やりつつ、己の職分に戻る。
 魚を捌き始めて数分、袖を引かれて顧みれば赤紫の少年。

 「あ? まさかもう止めるとか言わんだろなぁ?」

 ここで頷けば客人だろうが天竜人だろうが……いや天竜人は率先して殴りたいが、身分に関わらず仕置きするつもりであった。しかし、少年はフルフルと首を横に振る。

 「終わった」
 「……はあ?」
 「皮むき……終わり」
 「んなわきゃあるかぁ! どんなコックでも三分かそこらであの量が終わるわきゃ…………あるぅううううっ!?」

 でんっ、と鎮座ましますのは瑞々しい中身を晒す積み上げられたジャガイモ群。
 素っ頓狂な声を上げたコック長が手に取ると、幻でも蜃気楼でもないイモの粘っこさ。

 「どっどどどっどうやったこれ!?」
 「…………」

 少年はまな板の上の魚に手を伸ばし――するり、と“骨だけ”を抜き取った。そして尾から頭まで丸ごとの骨が投げ入れられた生ゴミの樽には、中身を失いぺたんこになった皮が幾層にも。丁寧に芽まで纏めて。
 洗う手間なしむく手間なし。ファンにしてみれば、ただ移し替えるだけの作業なのだった。

 「…………ぁ」

 わなわなと震えるコック長を横に、少年ははたと思い至る。
 こんなに早く終わらせては、暇つぶしの意味がないではないか……と。

 「……」

 まあ、いいか。





 「――船長! 是非ともあの子を厨房の専属にッ!」
 「……本人に掛け合え」

 猛然と船長室に駆け込んで来たコック長へと頭痛を堪えるような一言。
 しかしもう断られた後だったりする、究極の皮むき職人。















 三日目 ~くまさん~





 ごっしごっしとブラシで擦る、デッキの汚れ。粗方終わって、ラナは一息。そして小さく欠伸をする。ここの所、少し寝不足だ。

 「……ファンは台所かな?」

 初日から何かしでかしたらしく、コックの人に追われていた。ひょいひょい壁や床をすり抜けるので捕まえるのも容易でない様子だったが、余りのしつこさに辟易……もとい根負けしたのか何事か話していて。一日一回とかいう声が聞こえてきたけれど、何のことだろう。迷惑かけてないといいけど。

 「それにしても……本当に大っきな船」

 頭の後ろで結った黒髪を振って、ラナはデッキの先端から自分の乗る船の全景を仰ぎ見る。
 大きい。とにかく大きい。島で住んでいた家なら、十軒は余裕で収まってしまう。船上に重なっているだけでなく、船の中も多くの層に分かれていて、居住区や食糧庫、武器庫、作戦会議の広間。街一つとはいかないけれど、街の一区画ぐらいの設備は軽くある。普段島に来る最も大きな交易船でも、この半分くらいだ。
 でも何より驚いたのは、大浴場の存在だ。普通船の上となると真水は黄金に匹敵するぐらい貴重な物なのに、それこそ湯水の如く使っている。男女が時間交代で毎日。海水をろ過する装置があるらしいけれど、ロカって何だ、ってまず聞いて思った。そんな物、島にはなかった。
 必要なかったとも、言うけれど。

 「……あ」

 すいっ、と見上げていた船の上層部。壁からファンが透過してきて、こちらに気付く。軽く手を振ると、赤紫の少年はコクコクと頷き、今度は床の中へと消えていく。
 ……さっきまで荷物運び手伝っていたような。
 船内が少し騒がしいような気もするけれど、多分ファンが間違って女の人の着替えシーンを目撃したとかそんなところだろう。でも覗かれたことより、興味の欠片もなく素通りされたことに怒る人が多かった。
 実際に最後までヤるならともかく、ただの裸はファンにとって対象外らしい。変態じゃなくてよかったと喜ぶべきか、同じ女性として怒るべきかは甲乙つけがたい所ではあるけれど。

 「……島から出て、一度も襲ってこないし」

 昼の間は、食事の時ぐらいしか一緒じゃないけれど、夜寝る時は同じ部屋で、相部屋なのに。
 ほとんどの人が雑魚寝の中で、ドラゴンは小さいながらも個室をくれた。最初にファンを寝かせたあの部屋で、同じベッドを使って眠っている。本当は二つ、それぞれ使わせてくれようとしたけれど、ファンが率先して断った。わざわざ二つも要らない。自分とラナは従姉弟だとか嘘まで吐いて。
 ……実際従姉弟からもう二等親ぐらい離れた血縁関係ではあるけれど、それこそ百人足らずの島の話。何らかの血縁がない方がおかしい。
 いや。
 そういうことが言いたいのではなく。
 同じ部屋で、同じベッドを使っておきながら、全然積極的じゃない。犯すとか汚すとか、散々言ってたくせに。訳分かんない。

 「私からは……できないのに」
 「何がだ」
 「何ってそんな――のっ!?」

 声が裏返った。
 慌てて振り返ったラナが見たのは――見上げたのは、丸い耳付きの帽子を被る巨漢。

 「――――」

 デカイ。素直な感想。というか、それしか思いつかない。
 五……六メートル?もっと?
 百四十センチに少し足りない自分の、優に四倍以上はある上背。太陽を背にして、ラナの影をより大きな影が塗り潰している。

 「見ない顔だ」
 「ふぇっ……!?」

 茫然と自失していたラナは、その言葉でようやく我に返った。

 「あ……え、えと、一昨日から船に乗ることになった、ラナ・アルメーラです!」

 初対面の人にはまず挨拶を。
 親の教育が窺える礼儀正しさで頭を下げた少女に、巨漢は何か感じ入ることがあったらしい。
 赤紫の少年とはまた違う無表情で、と言うよりこちらが一般的な無表情で、膝に届くかどうかという少女を見下ろした。

 「俺はくま。今時の海で礼を尽くす人間は珍しい。アルメーラ、お前の名は覚えておく」
 「え…あ、その……すみません、アルメーラは家名で、名前がラナです」
 「…………」

 どこの海でも、家名で相手を呼ぶことはまずない。家名とは家系で、謂わば一つのコミュニティ全体へ呼びかけるに等しい。……家名の語呂が良かったり、そちらが知れ渡っていたりしたら、必ずしも常識に縛られるわけではないが。
 微妙な沈黙が流れ、ラナは気を取り直すように笑いかけた。

 「えっと、くまさん……ですね? 私も覚えておきます」
 「……ああ」
 「というか、忘れません。くまさん見たの、生まれて初めてですから」
 「あ…あ……?」

 頷きかけて、言葉の内容に違和感、齟齬を覚えるバーソロミュー・くま。

 「……初めて?」
 「はい! 私の島にはいませんでしたから」
 「………何がだ?」
 「え? ですから――“熊さん”」
 「……………………」
 「でもお話だと動物なのに、本当は人間だったんですね」

 知りませんでした、とはにかむ少女へ何と言ったものかと、くまは悩む。
 壮絶を超えて空前絶後の勘違いなのだが、さしもの“暴君”も本物の熊に間違えられたことはなかったが、そして事実手の平には肉球もあるのだが。
 世間知らずもここまで来ると清々しい。覚えておくとは言った。しかしそれこそ忘れられそうにない。

 「……くまは名前で、俺は人間だ」
 「…………はぇっ!?」

 間違いを指摘した途端、すみませんすみませんっ、とぺこぺこ頭を下げる少女。
 実際は改造人間であるという嘘も相俟って、ただ立っているだけで威圧的な“暴君”は珍しく、困り切った様子で眉根を一ミリ下げた。

 「……これをやる」
 「すいま……せ?」

 尚も謝りかけた少女の手に、本来は土産物の菓子箱を押し付け、のっしのっしと歩み去る。

 「いっ、いえこんな物もらうわけには!」
 「それで俺の気が済む。俺のために受け取れ」

 そう言われると、基本思いやりのある少女としては返す口実がなくなってしまう。
 かつて暴虐の限りを尽くし恐れられた“暴君”であるなどと、当然ながら知らないラナは自分が見て感じたまま思う。
 ……いい人だ。

 













 六日目 ~不思議生物~





 ドラゴンの部屋には様々な物がある。寝台やテーブルは当然、表紙からして難しそうな書物、多くの名前が書かれた名簿らしき紙や新聞、海賊の手配書など。今日は西の海を離れ、広く世界の概観が映し出された地図が、四角い卓に広げられていた。

 「正確で詳細な海図を描くには、相当の腕が必要とされる」

 向かい側の椅子に座って身を乗り出してくるファンに、ドラゴンはどことなく諦観を浮かべて言う。

 「海軍の出版する海図もあるが、海賊の手に渡っても問題とならないよう、重要な拠点となる島は地図から除かれる。凪の海や偉大なる航路となると、海王類の生態活動で頻繁に海流や海底の趣が変わり、例え海図を作ることができたとして、鉱物の影響で東西南北も不確かとなる」
 「………………」

 興味があるのかないのか、聞いているのかいないのか、外からは全く判別できない無表情かつ無反応。ひょっとして寝ているんじゃないかと疑心暗鬼が首をもたげると、ふいっと視線がドラゴンを向く。続き、とその目が語る。

 「…………海王類の中には島を呑みこむほど巨大な種もいる。文字通り海の王者と呼ばれるが、その生態は数世紀を経て未だ全貌を明らかにされておらず――」

 興味もあるし、聞いてもいるらしかった少年に、説明を再開。過去に確認された海王類の写真や絵、描写がされた図鑑からその危険性を指摘し、万一出くわした時の対処法を教え込んでいく。
 話しながら、ドラゴンは思う。
 ……なぜ、俺の所に来る。
 毎日、というか日に幾度も。ファンはどこからともなく(具体的には扉を使うことなく)訪れる。当初は暗殺を想定したが、別段そういう目的ではなく、特にこれといった理由もなく、ただ何となくやって来ているだけらしかった。そもそも、船に乗って以来あの純然たる殺気は一度も放たれていない。
 適当な理由をつけて追い出すのも、自分から出て行くのも二日で諦めた。またすぐ戻ってくるし、出て行ってもフラフラと後を付いてくる。イナズマなど「見事に懐かれたようですね……」と感心する有様だ。
 覇気で脅した相手に懐く意味が分からん、と酒の席でくまに零せば、「原因はそれだな」と更に訳の分からない言葉が返ってくる。どれだけ悩んでも回答に行き着かないため、この問題という名の疑問は棚上げしたが。
 一昨日の昼、テーブルに広げてあった海図を眺めていたファンが、数日振りにまともな文章を口にした。

 「……これ、何?」

 僅か二語の文章ではあったが。
 ともあれ、海軍の動向に関する定期報告に目を通していたドラゴンは、指差された物へと視線をやり、表情を暗くする。海図の上から手描きで描き足され、赤い文字で記された島。

 「……それは、オハラだ」
 「オハラ?」

 繰り返した少年に報告書を閉じ、そうだ、と頷く。

 「オハラ……十六年前、海軍の手により存在を抹消された島。世界政府から実在を否定された考古学の島……。その翌年から、海軍の発行する地図にオハラの名は消えた」
 「……なぜ?」
 「歴史の本文ポーネグリフ

 初めて聞く固有名詞が分からず、少年が首を傾げる。こういう字を書く、と適当な紙にインクで記す。

 「世界の歴史には記録されていない百年の空白がある。歴史の本文はそれを示す手がかり、そして空白の百年そのものだ。政府はこれを調べることを禁じ、その禁を犯したためオハラは島ごと灼かれた……」

 と、目の前の少年が現実に島を灼かれたことを遅まきながら思い出し、酢を飲んだような顔をする。
 しかし当の少年は気にした風もなく、相変わらずの眠たげな無表情で、疑問を滑らせる。

 「なぜ、禁止?」
 「…………表向きは、危険な古代兵器を復活させないためとされている」

 やや硬い声で、ドラゴンは続けた。

 「だがその実、世界政府が政府たる資格を失うような……あるいは単に不利益な何かが隠されているのではないか、と考える説が有力だ」

 もっとも、ただの不利益で島を一つ滅ぼすのは、理由としてはいささか弱い。故にそれだけの手段を取るに足る、相応の理由があると見て間違いはない。が、如何なる理由があろうと罪なき人々を殺める政府があってはならない。
 ファン、そしてラナ。生き残った二人の島と同じく、決して忘れてはならない島の名だ。
 ……生き残りと言えば。
 おもむろにドラゴンは立ち上がり、書棚へ向かう。目的の品を見つけてテーブルへ戻り、少年の前に広げた。

 「……手配書?」
 「そう。十六年もの間新たな顔写真すら撮られることのなかった、そして手配を取り消されることもなかった、オハラ最後の生き残り。古代文字で記された歴史の本文を読めるというだけの理由で、海軍から無実の罪を着せられた当時八歳の少女――ニコ・ロビン」
 「………ニコ」
 「違う。ロビンだ。ほとんどの海では姓が先、名が後。君たち二人の島が特殊な例外だと覚えておけ」
 「…………」

 ……、と少年は黙ってしまう。いや普段から無口ではあるが、この時は黙ったと表現するのが正しいような気がした。
 居心地の悪い沈黙。それが自分のせいのように思えたドラゴンは、沈黙を打ち破るつもりで口を開く。

 「何か……他に聞きたいことはあるか?」
 「……………………」

 数秒が経過したのち、ファンが指差したのは自分だった。

 「ドラゴンを赤くする方法」
 「他のにしろ」

 ごん、と拳を落とした自分は悪くない。何ですり抜けられないのかと、涙目で見上げられても罪悪感を抱く必要は全くない。
 覇気を教えるのは当分先が良さそうだと溜息した。いずれ知れるにしても、せめて今しばらくは。
 この会話以降、少年が欲し必要とする知識をドラゴンの手が空いた時に教える形が出来上がった。無口で、偶に自分を殺す手段を模索する以外は優秀な生徒だった。欠点の一つが何やら致命的な気もしないではないが。

 「……よって、凪の海は海賊はおろか海軍でさえ近付かない。一応抜け方も存在するが、それも完全ではない。……今日はここまでとしよう。この本は貸しておく。自分でも復習しておけ」

 夜も深まり、普段から眠たげな少年が前後に傾き始めたことで終了を告げる。ピタリと舟を漕ぎかけていた少年が止まり、首を振って続行の意を示したが、成長期の子供に夜更かしを勧めても仕方がない。

 「まだ先は長い。今夜はもう寝ろ」
 「…………」

 表情は全く動かないが、どことなくしゅんとした気配が漂う。以前、慣れれば分かると少女の言っていた意味が分かった気がした。無表情なくせに、なぜか感情が垣間見える。見えてしまう。何の不思議生物だこれは。
 それはすなわち、慣れてしまうぐらいの時間を共有したということになるがともかく。
 帰り支度を終え、扉へ向かう少年の背にふと訊ねた。

 「…なぜお前は、俺に教えを請う? イナズマや他の者ならば、より多く教授の時間も取れるはずだ」
 「…………」

 振り返り様、少年が腕を振るう。しなりを持って三叉に分かれた食器――フォークがかなりの速度で飛来し、額を狙う。
 無論、ドラゴンの命を脅かすにはまるで足りない。難なくキャッチして、食事時にくすねたな、と片眉を上げる。速さを除けば、正確な投擲だ。狩りによくやっていたのかもしれない。

 「……で?」
 「…………」

 コクリ、と一つ頷いて、踵を返した少年は扉の向こうに消えてしまう。つまり、今の行動が答えらしい。
 嘆息し、片手でフォークをもてあそぶ。

 「殺せないから、俺の傍に来る――か?」

 なかなかの問題児だ。これから先も苦労しそうだった。
 だがそれ以上に問題視するべきは、少年が元からああなのか、それともあの夜以来壊れてしまったのか、この二つだろう。
 後者なら改善の余地がある。荒療治になろうと幾つかの手が打てる。
 しかし、前者なら……。

 「……前途多難はいつものことだが、これは少々毛色が違うか」

 卓上に放り捨て、ドラゴンは天井を見上げた。その向こうに広がるだろう、海と等しく雄大な空へと意識を当てた。
 狂気と凶気を友にして、鬼気と正気の境界線を行きつ戻りつする少年に、天意は何を課すつもりなのか。
 らしくもなく、感傷的に。















 同日 ~二人~





 ふらりと影が伸び、ベッドでうつ伏せになっていたラナは寝返りを打った。同室の少年が音もなく帰っていた。

 「お帰り」
 「…………ん」

 分厚い本が机に置かれ、ランプの火を吹き消したファンが隣で横になる。
 手を伸ばさなくても、触れ合う距離。
 けれどファンは、それ以上触れてこない。
 胸の奥に不安が芽生えるほど、何も。

 「まだ……起きてる?」

 船体と、ぶつかり砕ける波の音。夜を徹する、自然の軋み。
 静寂しじまの乱れに声を乗せ、うっすら開いた赤紫の瞳は、闇の中だと黒く見える。

 「……えっと……」

 注がれる少年の視線に、口籠もった。何を言うべきか分からなくなる。
 現実問題として、実際問題として。この船に保護された今、他に守ってくれる人ができた今、少年に身を捧げる必然性が消えてしまった。少年の力に頼る必要性が排されてしまった。それどころか、無理やりレイプされたと訴えることもできるようになってしまって。
 なのに――少年から逃がさないと言われた時、部屋は同じでいいと言われた時。否定できない自分がいた。否定しなかった自分が、いる。
 一人きりの部屋は確かに怖いけれど。激変した環境で、一人の夜を過ごしたくはないけれど。

 「………………」

 整理の尽かない感情を持て余していると、するりとファンの腕が伸びてきた。掛け布を、衣服を透かして、素肌へ直に、ファンの指が触れて。
 一気に頬が上気した。かぁっ、と血が集まる。ほとんど一週間何もされてなかったから、耐性とか免役とか、そういのがまるで削げ落ちていた。胸元の膨らみをなぞる指先に、異様なほど神経が灼かれる。
 少年の手が背中に回った。そのままぴったりと、全身が触れ合う。抱き締められる。
 心臓が鼓動を刻んでいた。ドクドクと脈打つ音は自分の音。少年の心拍は――緩やかだ。
 ……緩やか?

 「…………すぅ」
 「……」
 「……くー……」
 「……………………」

 ――寝ないでっ!
 無性に腹立たしい思いを少年の後ろ頭にぶつけようとしたが、そのまますり抜けて自分の額にしこたまジャストミートしてしまう。
 ちょっと涙が出た。
 断じて悔しいからじゃない。

 「勝手っていうか……」

 脱力しつつ、脱力しかできない現実に黄昏れつつ、ぼやく。

 「ファンって……自分本位だよね」

 殺したいから殺し、犯したいから犯し。
 眠りたいから、眠る。
 恐ろしいまでにマイペース。自己中にもほどがある。

 「……」

 一方的な触れ合いに理不尽な物を感じながら、けれどファンは最初から理不尽だったと思い直す。
 理不尽でありながら、本当に大切な所は押さえてくる。
 例えば――夜、少女が悪夢に魘されていると、今のように抱き締めてくれたり。
 酷い時は起こして、眠れるまで一緒に起きていてくれたり。
 無口で、慰めるようなことは何一つ言わないけれど。あの赤い夜を悪夢に見る自分の傍へ、いてくれる。
 明日で丁度一週間。
 よく保った方かな、とラナは小さく呟いた。
 かつての想いは、新しい火を受け淡雪のように溶けかかっている。
 ――――もう、過去の物と、して。



















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ドラゴンが空白の百年を知っているかは不明。しかし物語の進行上影響はない。




[19773] 憂い想い愁う
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:80c1420b
Date: 2010/07/10 16:09



 ざわめく喧騒は全周から聞こえてくる。右も左も、前も後ろも。張り上げた声が上に抜け、下はゴロゴロと荷車の転がる振動が靴を貫く。

 「「…………」」

 風景に。人と人とが言葉を交わし、売り買いに勤しみ、噴水のある広場ではジャグラーがパフォーマンス。賑やかな音楽を奏でる演奏家を人垣が囲い、それに合わせて踊り子が舞い、人々が囃し立てる。そんな全てに、最辺境の島で育った二人は完膚なきまでに打ちのめされた。カルチャーショックだった。否、ショックなど生易しすぎる。まさしくそれは文化的大革命カルチャーレボリューションだった。

 「町の人口はざっと一万。海軍の監視は緩いが、通報を受けてからの行動は迅速。この町では余計な騒ぎを起こさないことを条件に、犯罪者の出入りがある程度容認されている。……聞いてるか? 特にファン」
 「……………。……………?」

 聞いていなかったことが丸分かりの反応を受け、顔を隠したフードの内で嘆息を零すドラゴン。赤紫の双眸はいつもながらに眠たげだが、どことなく浮ついた様子が垣間見えた。

 「……ここでは何か揉め事を起こせばすぐに海軍が飛んでくる。町の自警団もいる。殺したり盗んだり住居へ不法に侵入したり、犯罪行為は一切禁止だ」
 「…………革命は国家反逆罪」

 揚げ足を取るなと頭を小突く。ここの所知識(常識)が増えてきたのはいいが、妙に偏っていたりするから油断ならない。少女の隣で頭を押さえ、物凄く不満そうな気配で見上げられればその思いも一層強く。そわそわと落ち着きのなかった雰囲気も五割程減じ、楽しみの半分が奪われたというような顔。

 「海軍に追われるような真似さえしなければ、それでいい。合流時間と場所は覚えているな?」
 「はい、大丈夫です! ……けど」
 「何だ」
 「……この町、貴族はいるんですか?」

 ドラゴンは思わず少女を見る。繊細な面立ちに浮かんだ翳りを見る。

 「……いや、ここは市民による自治が確立されている。貴族も王族もいない」

 だから安心しろ、とは言えないが。実際に行為に及ぶ輩は少なくとも、海賊やその手の人間は多い。……ファンがおかしな方向に突っ走らなければ大丈夫だとは思うが。誰にとっても。
 ほっと息を吐く少女にドラゴンは続け、

 「俺は仲間と会う約束がある。いいな、くれぐれも問題を起こすなよ」
 「はいっ! ファンは私がしっかり見ておきますから。それじゃ、行ってきます!」
 「……ん」

 半ば引きずられる形で眠たそうな少年が歩き、黒髪の少女の好奇心が赴くまま町へと繰り出した。二つの小さな背を見送り、脈絡なく生じた不安をドラゴンは嘆息で押し流す。雑踏溢れた表通りから薄汚い路地の入口へ、仲間と落ち合う予定の場所へと足を向ける。
 ……その不安が的中するとも知らず、革命家は行く。
 早い話。
 自ら問題児と評したファンが、何も問題を起こさない方がおかしいのである。















 目で見る全てが新鮮という感覚は、なかなか味わえる物ではない。夢の中を歩くような少年も、心なしか弾んだ足取り。手を繋いだ少女と二人して、田舎から出てきたおのぼりさんそのものだ。きょろきょろと新しい物を発見しては表情を輝かせる様子に、誰の目も微笑ましげ。
 まさかこの二人が革命軍預かりとは誰も思うまい。

 「え……っと、まずはどこに行くんだっけ?」
 「…………換金屋」
 「……どっち?」
 「あっち」

 てくてくと少年に先導される。しっかり見ておくはずが、早くも面倒を見られている。

 「ファンって要領よすぎ……」
 「……そう?」

 そう。既に町へ馴染んでいるような気がひしひしする。
 自分一人なら迷いそうな道を幾つか過ぎると、壁に直接カウンターを取り付けた換金屋が埋もれるように建っていた。

 「換金……お願い」

 眼鏡を掛けた人相の悪い店主が、愛想の悪い態度でじろりとこちらを睨む。ラナはそれだけで委縮してしまうが、この程度で今更ファンが怖気づくはずがない。
 ずだ袋を探り、取り出したのはエメラルドの嵌まった金細工。島を襲った海賊船の中に積んであった宝物。似たような宝は他に幾つも見つけて、船に乗せてもらう対価としてドラゴンに差し出したら突っ返された。受け取る理由がないと。それは君たちの物だと。
 見た目は厳つくて怖いけれど、くまさんと一緒でいい人だと思う。見た目は二人とも怖いけど。イナズマさんは奇抜すぎるけれど。
 老年の域に差しかかった店主が金細工を手に取り、全体を眺め回し、ふんと鼻息を吐く。

 「10万ベリーだ。保存が悪い」
 「……え? でも4、50万ベリーはするって聞いたのに……」
 「そらそいつの目が節穴だったんだ。嫌なら帰れ」

 船の上で、ドラゴンに目利きと紹介された人だから鑑定眼は確かなはずで。
 なら、この人が間違ってる……?

 「…………」

 いつものようにいつもの如く、表情を変えないファンがカウンターを指で叩く。
 コツコツ……コツコツコツ……コツ。

 「明日の天気は……嵐のち、快晴。所により、突風」

 途端、ぎょっとしたように老店主が目を見開いた。カウンターから乗り出さんばかりに覗き込まれ、ラナは少年の後ろに隠れる。

 「……そうか。なるほど、なるほど……」

 ぶつぶつと何事か呟いたかと思うと、また椅子に座り直す。そして言う。

 「47万だ」
 「…………ん」

 え?とラナが思考停止する間に細工物と札束が交換された。おもむろに老店主が新聞を読み始め、無愛想な顔が向こう側に隠れる。

 「…………行くよ」
 「あ、うん」

 後ろ髪を引かれるような困惑を残して、何度も振り返りながらファンの後ろを歩いた。
 角を幾つか曲がった後で、ファンの側から口を開く。
 最初の10万ベリーは足元を見られたぼったくり。その値段で自分たちが納得すれば向こうは大儲けだけど、仲間の紹介を受けてまで騙すような真似はしない。次に提示された47万が正しい価値だ、と。

 「仲間って……」
 「あの人………革命軍」

 微かに息を呑んだ音が自分でも聞こえ、少女は唇を噛む。
 これじゃ一から十まで、少年に頼り切っている。町に行けると聞いて、自分は楽しみにしていただけ。けれど赤紫の少年は、そこでやらなければいけないことを事前に調べて、訊ねて。知らないを道を知ってるように、吹っかけられても大丈夫なように、事前の準備を怠らなかった。
 いけない、と思った。それじゃダメ、と呟いた。少年が一瞬こちらを見て、すぐに前を向く。自分とほとんど変わらないはずなのに、その背中はなぜか大きく見える。
 ドラゴンや、亡き父の後ろ姿と重なる。
 それは――少年が自立の道を歩き始めたからかもしれない。
 書物や外の知識は島にいた時から心惹かれていたらしかったけれど、最近はそれに輪をかけて貪欲だった。暇さえあれば本を開いて、誰かの話を聞いている。独りで生き抜く用意を、始めている。
 自分は……どうだろう。前へ進み始めた少年と比べて、自分はどうなのだろう。

 「……たっ!?」

 物思いに耽っていたら、誰かとぶつかってしまった。迷惑そうな顔の男性に謝り、いつの間にか少し距離の離れていた少年を追いかける。追いついた途端、手を握られる。
 ドキリと心臓が跳ねた。少年はさっきの老店主に負けず劣らず無愛想で、でも繋いだ手は暖かかくて。
 いつもは強引で理不尽なくせに、こんな時だけ優しく握られる。
 夢見るような横顔は何を考えているか分からないけれど、何を感じているかは、自然と察してしまう。

 「……」

 少女は、黙って指を絡める。離れないよう、離さないよう、指を絡める。
 ――まるで、恋人のように。















 ホテルの一室。カーテンを引き鍵をかけた密室。
 琥珀色の液体を傾けたドラゴンが、静かに嘆息を零した。この一週間で溜息が癖になったとさえ思うほど、回数はいや増したと自分でも思う。

 「ヴァナタが溜息なんて、珍しいこともアッティブルわね? ドラゴン」
 「少し……いや一人、扱いに困る少年がいてな。何らかの対処をせねばならんのだろうが、今しばらく様子を見るべきかどうか……」
 「扱いに困る? ヴァナタが?」
 「不思議そうな顔をするなイワンコフ。俺に子供相手の経験があるとでも、本気で思ってるのか?」
 「さあ、どうかしら。でもヴァナタの年齢を考えると、子供の一人や二人いたところでおかしくナッシブル」
 「……」

 ドラゴンの内心を表すように、ブランデーの上を波紋が走る。しばし波紋を眺め、やおら一息にグラスを干し次のビンを開ける。外見からは想像不能な思慮深さで、オカマ王がそれ以上言及することはなかった。代わりに、別の話題を振る。

 「革命軍の同胞も、随分たくさん捕まったわ」
 「……ああ」
 「中には準幹部クラスの人間も幽閉されティブル。今後もインペルダウンには囚人が増えるでしょうし、ヴァターシもそろそろ動き辛くなってきた」
 「…………」
 「何が言いたいか、分かっティブルわね?」
 「…………ああ」

 海のように深く、そして重い吐息のような返事だった。
 それきり、会話は途切れる。言葉は交わさず、一人の男と一人のオカマは互いのグラスへブランデーを注ぎ、酒を酌み交わした。















 こんなにはしゃいだのは、多分、人生初めてだ。抱いた物思いを振り払うように、自ら先だってファンを連れ回した。
 年中並んでるのだろう料理や遊戯の露店を、両手の指では足りないほど巡った。知らない味に少しづつ舌鼓を打ち、ファンと張り合って的当てや輪投げに白熱したり(ダーツとか言うゲームは完敗したけど)、とにかく歩いて思いっきり笑って。

 「はー……」

 疲れた。
 噴水が飛沫を噴き上げる広場のベンチに座り込み、その横に紙袋いっぱいの荷物を置く。表現としては、落とす。
 視線の先で、ファンがぐるぐる投げ上げられては落ちてくるジャグリングを観……察?していた。何となく、見物じゃないような気がした。かと思えばゲームの景品で貰った無意味なおもちゃを取り出し、ひょいひょいとジャグリ始める。おお、とどよめきが上がる。直後、慣れないことをするからかキャッチし損ね額に当たり、次々と直撃し笑いが弾けた。何やってるんだか。

 「……島の外って、こんな風なんだ」

 世界の広さを、実感した。その実感はきっと、まだまだちっぽけなのだろうけど。
 遠くに来た。島を離れて、こんな遠くに。
 海の上では分からなかったけれど、ここまで来て初めて、異邦を感じた。

 「……」

 見慣れぬ風景に郷愁が生まれ、胸を締め付ける。楽しいはずなのに苦しくて、胸を押さえる。
 島に石畳はなかった。地面は全部土だった。二階を超える建物はなく、空はもっと広かった。熱のこもった人いきれは初めてで。けれど島の空気は、もっとずっと涼やかで。
 何もなくたって、島の生活は楽しかった。幸せだった。目が回るほどの品がなくとも、輝いていた。
 ……あの赤い夜に、何もかも消えてしまって。

 「…………ラナ?」

 はっ、と意識が現実に引き戻される。人の焼ける臭いと逃げ惑う悲鳴が遠ざかる。
 赤紫の少年が、そこにいた。光の加減で、赤から黒まで色を違える瞳が見つめていた。
 訝しげな気配に何でもないと答えかけて、硬直する。少年は、串に刺した焼き魚を一本ずつ、両手で持っていた、味付けのレモンが半切りにされて、先端を飾っている。

 「それ……」
 「売って、た。……買って、来た」

 はい、と一尾を渡される。半ば無意識的に受け取る。隣に座ったファンが早速かぶりつき、魚の脂が石畳に滴る。美味いとも不味いとも言わない、けれど。

 「…………」

 黙ってラナも、口を開けてかじりついた。口腔から鼻腔へ、味が抜ける。

 「………………あは、はは………」

 まだ、一週間。遠くへ来たと思っていたけど、実は違ったのかもしれない。
 口いっぱいに、島で食べた魚と同じ味が広がる。何てことはない味なのに、ひどく懐かしい。
 同じ魚だから、同じ味なのは当たり前で。
 西の海全域を周遊する魚だから、ここで釣れてもおかしくない……けれど。

 「何で……こんなに、ピンポイントなのかな」
 「?」

 もぐもぐと咀嚼する様子は何も分かってない様子で。
 何も分かってないくせに、ファンが選んだのはこの魚。単に食べ慣れてるとか、そんな理由で買ったのだろうけど。
 それでも、今この瞬間。自分が島を思い出している時に、島で主食だった魚を狙い澄ましたように買って来た。
 実は心が読めると言われても、今だけなら驚かない自信がある。

 「……ありがと、ファン」
 「…………どういたしまして」

 絶対に、ファンは言葉の奥に秘めた意味を分かっていない。すれ違った感謝と応答。それがおかしくて、ラナはくすくすと笑う。

 「ねえ」

 視線だけで応えとした少年に、提案した。

 「これ食べ終わったら、服買いに行かない?」








[19773] 失い得る
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:80c1420b
Date: 2010/09/20 10:37

 こじゃれた細工の施されたドアを開ければ、入店を知らせるベルが鳴る。店内へ一歩入ったその時から、少年は別世界に迷い込んでしまったらしい。
 広々とした空間に着飾った顔のない人形が置かれ、見栄えを求めて林立する棚には多彩な服が自己主張している。奥の方で巻尺片手に採寸を測る女性がいて、別の場では客の注文に応えテーブルへと衣類を広げる男性がいた。華やかに色とりどり、流行感に溢れた高級ブティック。場違い感も一入。

 「いらっしゃい。何をお探し?」

 両眼を輝かせ心奪われた様子の少女をよそに、所在なく佇んでいたところ、ちょっと背伸びをした年若いカップル二名へ、手隙の女性が声をかけた。

 「あ、その……えっと…………ふ、服を買いに来ました!」

 突然話しかけられて、慌てたらしい。服屋で服を買わずどうするのか。
 発言の数秒後、言ってしまってから気づいたらしく、顔を赤くする。女性店員は敢えて深く突っ込まず、けれど微笑を深めて、「どのような服がいいのかしら?」と訊ねた。
 少女の服は、交易船が来た時に買った流行のワンピース。買い換える必要は今のところない。対して少年は服装や身なりに無関心であることが丸分かりな、お下がりを更に着古した麻のシャツにズボン。あちこちほつれて、破れている。

 「こっちの男の子に合うようなの、ありますか?」
 「えー……これはまた随分汚ら――コホン。随分と古いご洋服ね」
 「…………別に、困らない」

 ああ、そうなの……と女性店員が肩を落とす。洋装店に務めるだけあって、服装をないがしろにされるのは寂しいようだ。
 返ってやる気が出たようにも、見えたけれど。

 「赤毛はまだしも、赤紫の髪と目は初めて見たわ。……そうね、せっかくだから赤系統で纏めてみましょう」

 こちらへ、と案内される。弾んだ足取りでそれに従う少女の後へ、ゆらりと続く。
 可愛い服、おしゃれな服。女の子の大好物ではあるだろうけど、ラナの様子はそれだけじゃないような気がした。
 少しばかり、浮かれ具合が過剰なような。
 自分をそっちのけで、女性店員と一緒にこれがいいあれがいいと話し込む姿を見れば、そんな考えも補強される。

 「一口に赤と言っても様々な種類があって――」
 「――無地がいいかな……それとも文字? 模様? うーん……」

 とりあえず、選択権はないらしい。どうでもいいけれど。
 暇潰しに、少年は店内へと旅立った。





 そして十数分後。





 「ラナ」
 「ファン? ごめん、もうちょっと待って」
 「…………これ、ラナに似合う」
 「え、どれどれ?」

 似合うと聞かされて少女は振り返る。少年が両手に持つ物を見る。
 そのまま、凍りつく。

 「…………かわいい」

 ぼそりと批評し、それをぎゅっと抱きしめるファン。
 いや。
 否定はしない。可愛いことは全面的に同意する。
 ……が、しかし。

 「あら、よく見つけたわね。店長が趣味で作った物なのよ? これまで買い手は付かなかったけど」

 お買い上げになりますか?と訊ねる店員の目はからかいを含んでいた。
 こくこくと少年は頷き、

 「買」
 「わない! 買いませんっ!」
 「………………」
 「そんな恨めしげな目をしたってダメ!」

 ラナは大きく息を吸い込み、叫ぶ。



 「私、そんな着ぐるみ(猫)なんて絶対着ないから――っ!」



 「やだ」

 にべもなく少女の反抗を切り捨てたファンがてってとレジに向かう。その前にラナが回り込む。
 バチバチと不可視の火花が交錯し、店内は刹那の間に戦場へと移り変わった――――かもしれない。

 「…………そこをどく」
 「買っても着ないから、お金がもったいないの!」
 「…………無理やり」
 「その時は破る!」
 「………………」

 困った、とファンは内心で呟く。本気で嫌らしい。
 かわいいのに。猫。

 「…………分かった」

 ほっ、と少女が安堵した様子で息をつく。
 ――その油断を狙うかの如く、ファンは続けた。

 「破られるまでの間だけで、我慢する」
 「………え」

 何秒だろう。一分はない。でも仕方ないから、ラナが嫌がるから、その十数秒着てもらうだけで我慢しよう。
 ラナは着たくない。自分は着てほしい。だからほんの少しだけ、着てもらう。
 完璧な譲歩案だ、とファンは思う。まさに相互利益を鑑みた妥協案だ、と自画自賛してみる。
 一秒だって着たくないという少女の希望は、考慮の内になかったが。ある意味、これも知識の偏りに違いあるまい。
 少年の真剣さを感じ取った少女が再び表情を凍らせる。何というか、目がマジだった。大真面目にアレを自分に着せる気だった。
 実際可愛い、とは思うけれど。それはそれ、これはこれ。もうすぐ十四になろうかという歳で着ぐるみはない。絶対ない。天地がひっくり返ろうとないったらない! 尊厳的に!
 ………じゃあファンを止められるかと言えば、それもまた別問題にして大問題ではあるけれど。

 「ちょっと…待って、待って。ほ、本気なの?」
 「ほんき」

 無表情に少年が歩を進めた分だけ少女は後ろへ下がり、その背がレジカウンターにぶつかる。何だ何だと店内から視線が集まってくるが、それどころではない。これ以上下がれないのだから、猫に追い詰められたネズミの心境だった。
 事実、少年の持つ白猫の着ぐるみが迫り来ているけれど。

 「わ…私にだってプライドとか、そういうの、あるんだよ?」
 「…………」
 「そういう着ぐるみは子供が着る物で、私、子供じゃないから……」
 「…………」
 「ほ……他のことなら何でもするから、それだけはお願い……!」

 ピタリ。

 「…………何でも?」

 ぶんぶん頭を振って肯定する。
 それでも数秒、悩んだ様子を見せて、少年は踵を返した。遠くの棚に着ぐるみが納められ、ラナは全身で安堵し脱力。
 おー、と何だかよく分からない拍手を浴びつつ、戻ってきたファンが耳元で囁いた。



 「何でもする……ね?」



 くふ、と。少年が笑ったような気がした。
 背筋に氷塊が伝い落ちるのにも似た感覚を味わい、ばっと振り返る。
 いつもと変わらない、夢見るような無表情がそこにはあって。けれど今の含み笑いが空耳でない証拠に、鳥肌が立っている。
 何か、早まったかもしれない。“着ぐるみ程度”、一時の恥を忍ぶべきだったのかもしれない。
 全ては後の祭りで、あるけれど。
 ようやく決まった衣装を持たせて試着室に押し込み、閉じられたカーテンの前で、少女は薄暗い予感に力なく肩を落とした。溜息が出るのを止められない。

 「なかなか愉快な彼氏さんね?」
 「いえ彼氏ってわけじゃ……」

 それに愉快なのは表面だけだし。皮一枚下は血が大好きな殺人嗜好者シリアルキラーだし。
 楽しげに微笑する店員さんに答えながら、ふと口ごもる。
 彼氏と彼女ではないけれど。
 なら自分とファンの関係は何だろう。
 遠縁の親戚? 家が隣の幼なじみ? 友達? 家族? 恋人? 姉弟?

 「……彼氏ってわけじゃないけど」

 興味深げな店員のお姉さんを見上げて、自分でもちょっと迷いながら、出てきた答えに小さく笑う。

 「恋人以上、友達未満…………かな」
 「ふうん……? まあ、そんな風に笑えるなら大丈夫でしょうね」
 「…え」
 「ふふ。あなた、私の若い頃に似てるわ」
 「……え?」
 「無茶苦茶な、恋とも呼べない恋をしてるってこと」

 がんばってね、と微笑む女性は長い亜麻色の髪をシニョンにして、スレンダーでありながら肉感的な身体をセンスの良い衣装で包んだ、どう見ても二十歳そこそこの美女。
 ラナは思わず聞いてしまう。

 「お姉さん……いくつですか?」
 「女に年齢は聞かないものよ」

 はぐらかしの決まり文句。片目をつぶったウインクに妙齢だからこその色香が漂う。――同性の少女でさえ、否、同性だからこそ見惚れてしまいそうな仕草だった。
 将来、こういう動作が似合う大人になりたいな、と少女は素直に心を巡らせた。















 ジャッとカーテンを開けて姿を晒した途端、へえとかうわぁとか、感嘆しきりの声と視線が向けられて、好奇の目をいうものを初めて経験したファンは居心地悪げな空気を作る。

 「これは、見事な化けっぷりね……」
 「……人って、ここまで変わるんだね」

 失礼な言い草だった。誉めてるように聞こえるのは錯覚に違いない。
 今一度、少年は自分の格好を眺めまわす。
 袖が長く無地に真紅の上着は、フード付きのパーカー。迷彩柄を赤で染めたダークレッドのカーゴパンツが膝下ハーフ。靴まで新調されて、頑丈で真っ黒なブーツを用意された。軍からの流通品らしいそれを履けば、赤と黒でグラデーションを奏でる少年の出来上がり。
 元より浮世離れした無表情も相まって、田舎臭さが完膚なきまでに打ち払われていた。

 「カッコいい……はカッコいいけど、マフィアのボスの一人息子って感じかも」

 うーんと顎に指を当てたラナの表現がツボにはまったらしい。衣装を見立ててくれたお姉さんがぷっと吹き出し口元を押さえる。肩が震えている。
 そんなに、悪っぽいだろうか。ファンは瞬きを繰り返して、姿見に映る自分を上から下まで観察する。……分からない。そして肌触りが良すぎて落ち着かない。ペタペタ触って、納得いかない風に。

 「どうしたの?」
 「…………スースーする」
 「……前のがごわごわしすぎだったんじゃ」

 それが服ではないのか、というファンの間違った持論。口には出なかったけれど。

 「じゃあお買い上げということでいいかしら?」
 「はい、お願いします」
 「えー……そうね。上着、肌着、ズボンに靴と。端数は切って……合計43万ベリーになります」

 極上の笑みで告げられて、三度ラナが凍りつく。忘れるというか、二人は知りもしなかったことだけれど、ここは高級ブティック。素材がいい分、当然値は張る。
 ギギギ、と錆びた機械のように少年を顧みて。

 「……いくら、残ってる?」
 「…………」

 沈黙がその答え。足りないのは明白だった。
 でも、ここまで決めたのに諦めるのは悔しい。値引きしてもらえないかと焦った心で考えるけれど、少年以上に経験不足な少女の思考は空回りの一途。どうしようどうしようと思う気持ちばかりが先行して、口を開けど言葉は出ない。

 「持ち合わせがないの?」
 「「…………」」
 「ふふふ……それじゃ、仕方ないわね。ツケでいいわ」
 「――ええっ!?」

 一見さん。それもどう考えたって町の住人に見えない子供二人に貸し付けるなど、理解の範疇にない。
 驚いた声で理由を訊ねるラナに女性は微笑むだけ。

 「無利子無期限、気が向いたら返しに来てね?」

 気前が良すぎる。訝しんだファンが問い質そうとするが、その前にあっさりと値札を切られる。さあさあ、と有無を言わさず店の外へ背中を押される。

 「ブティック“仔猫の鈴キティ・ベル”、今後ともご贔屓に」

 にこやかに手が振られ、美女の姿はシックな扉の向こうに消えた。雑踏に取り残された形で、二人は顔を見合わせる。

 「お礼……言いそびれちゃった」
 「…………」
 「うん、そうだよね。…また、来ようね」

 最後に二人揃って看板に頭を下げる。すっと歩を進めて雑踏に紛れた赤い背中を追いながら、少女は振り返る。

 「ブティック……服屋さん、かぁ……」

 心の奥底で、一つのビジョンが像を結んだ。
 やりたいこと、やるべきこと。
 見つかったかもしれない。










 「うふふ、ふふ、ふふふふふ……!」
 「嬉しそうですね、キティ店長.....?」
 「だって、私の作った着ぐるみ気に入ってくれたのよ? 今まで誰も買いたいなんて言わなかったのに!」
 「……もっと小さい子向けのだったら売れますよ」
 「それじゃダーメ。大人になりかけの、瑞々しく多感な年頃の子に着てほしいもの。……あのラナって女の子、彼がいなかったら誘ったのに。…………いえ、いっそ彼もいっしょに誘えばよかったかしら。見目も悪くなかったし、若い雄しべと雌しべを同時に摘むのも美味しそう……」
 「…………」

 人気ブティックを纏め上げる店長の“趣味”に、真っ当な神経を持つ男性店員は全身で溜息を吐く。
 アタックしたら一蹴されるだろうな、と胸のしこりを噛み締めながら。















 洋装店を出て、やることも尽きた少年は、手を繋いだ少女と共に当て所なく町を巡っていた。
 その足が、ピタリと止まる。前方から我が物顔でのし歩いてくる一団に足を止める。
 十数人程度の海賊たち。先頭のドクロマークを付けた大柄な男が、船長のようだった。
 航海で成功したのか、上機嫌で笑い合っている。手の平に少女の怯えを感じ、他の通行人たち同様、脇へどいて道を開ける。
 すれ違う瞬間、ふっと香りが漂うように気配を感じ、少年の目は船長の背負う袋へ吸い寄せられた。
 ドラゴン程に巨大ではなく、イナズマのように洗練されてはない、けれど濃密に脈打つような“気配”。
 今まで能力者に対し感じていたものを、この時、ファンははっきりと自覚した。

 「悪魔の……実……」

 え?と窺うようなラナの言葉は、もう聞こえていなかった。
 ゆらり、と。少年は海賊たちの背後に、続いた。








[19773] 火種は斯く広がる
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:80c1420b
Date: 2010/07/26 17:14

 突然だった。赤紫の少年が海賊の後へと続いたのは。
 ファンっ、と呼びかけても握っていた手と同じく、言葉までもすり抜けたように届かない。
 ゆらり、ゆらり。歩く少年に追いつけない。人波を障害とせず歩む少年は、ともすれば遅い足取りで少女を突き放す。

 「っ…!」

 道を塞ぐ形となった路上の人々にもどかしい思いをぶつけながら、迷惑そうな顔をされても掻き分けて。今にも隠れて見えなくなりそうな赤い衣服に追いすがる。
 何が何だか分からなかった。何が何だか分からない内に、説明もなく一言もなく、少年は繋いだ手を離してしまった。

 「待って……待って……!」

 置いて行かれる。知らない町のただ中で、一人にされる。
 寂しいよりも、怖い。さっきまでの楽しさは失せて、不安が押し寄せる。
 赤い背中をひたすらに追いかけ、つんのめるように人波から外れる。運よく転倒は免れて、顔を上げた少女の喉がひゅっと音を立てた。
 裏町への入り口が、どんよりと薄暗く、口を開けていた。建造物に挟まれて、陰りとなった小路には、町の表側からあぶれた浮浪者たちが汚れた着の身着で地べたに座っていた。
 上陸の際、裏町は利用している。だからそこがどんな風に危ないのかも肌で知っている。いかがわしい店が軒を連ねて、町の悪い部分が吹き溜まりのように集まっている場所。身を守る術のない子供が立ち入ってはいけない、禁止区域。
 ラナはぎゅっと唇を引き結んで、座り込む浮浪者たちの前を忍び足で進み、

 「…………」

 踵を返してそれまでずっと抱えていた紙袋を彼らの前に降ろした。

 「あの、中にある物食べていいので、預かっててください」
 「……は?」
 「持ち歩いてたら追い付けないんです。取りに来なかったら、他の物も全部あげるので売ってお金にしてください」

 それじゃ、と言うが早いが駆け足で裏町の奥へと突き進んでいく。荷物を押しつけられた浮浪者たちは、唖然とした表情でその背を見送り、顔を見合わせる。

 「……食っていいそうだぞ」
 「変わった子だな」
 「孫が死ななんだらあのぐらいかの……」

 ごそごそと袋を探り、土産物の包装を遠慮なく破っていく。

 「旅行者か」
 「こんな見る物もない島に?」
 「海兵の連れ子じゃろ」
 「海賊かもなぁ」

 口を動かしていた一人が、ふと思い付いたように言う。

 「なあ……海賊の子でも海兵の子でも、死んだら拙くねえか?」

 ピタリ、と全員の動きが止まる。やや蒼い顔で、互いを見る。
 海兵の場合――裏町の大掃除が実行される可能性。
 海賊の場合――報復の嵐が吹き荒れる可能性。

 「………どっちもやばい」
 「旅芸人っつーことも……」
 「こういうのは悪い方向に考えて備えるもんじゃろ」
 「飯の恩もあるしな」
 「……あ、思い出した」

 何だ何だと視線が集まる。髭もじゃの男は饅頭を危機感なく、

 「あの子確か、今朝革命軍の司令官と一緒にいたわ」
 「……」「……」「……」



 「「「――――うぇえええええっっっ!!!???」」」



 やばいどころの話ではなかった。

 「だれかすぐそん人に伝えてこいっ!」

 ……ファンの行動で混乱の波は広がっていく。















 幸運にもと言うべきか迷うけれど、見失った少年の進んだ道筋をたどるのはとても簡単だった。
 転々と、道なりに人が倒れているのだから、一目瞭然。
 きっと声をかけるなり道を塞ぐなり、少年の邪魔をしたせいだ。尾行と言うには稚拙すぎるけれど、追跡する少年を阻害したせいだ。
 死んではいなかったが。赤くされてはいなかったが。
 ただ一様に、腹や胸を押さえて悶え苦しんではいたけれど。内臓破裂寸前のダメージを、内部に“直接”もらったようだ。
 自業自得、と言うにはやや悲惨。同情の視線を送りつつ、ドラゴンとの約束を忘れてはいないらしい、一応の理性を残しているらしい少年を追いかけて。

 「……ファンっ」

 小路の出口にゆらと佇む赤い背中へ、やっとのことで追いついた。いつの間にか湾岸まで来ていたらしく、潮風が吹きつけてくる。荒いだ息を整え問いただそうとした声に、突如爆発した怒声が被った、びっくりして少年の背に隠れつつ小路の先、開けた浜辺を見やれば、大声で喚き立てるさっきの海賊たち。

 「……な、なに?」
 「…………悪魔の実、売るか食べるか、ケンカ中」

 何で七五調かはともかくとして。分かりやすいは分かりやすいとして。

 「食べたら…ファンみたいに強くなれるんだよね? だったら食べた方が……」
 「強くなるのは、一人だけ。売ればみんなで、山分け」
 「……悪魔の実って、山分けできるぐらい高いの?」
 「…………最低でも、一億ベリー」
 「いちおっ……!?」

 跳ね上がりかけた声を慌てて塞ぐ。が、今にも光り物を抜きそうな雰囲気の海賊たちには聞こえなかったようで、胸を撫で下ろす。かと思えば、一人が抜いた。血飛沫を上げて、信じられないという表情で倒れるのは船長だった。山分けどころか、独り占めを狙って。
 剣戟が幕を開ける。本来それを止めるはずの船長は真っ先に切られ、怒鳴り声の内容から、斬ったのは副船長だと知れる。もう、収拾は付かない。固よりならず者の群れ、口よりも実力行使がものを言うのだから、尚更。

 「…………」

 ラナは、酷く冷めた目でそれを見ている自分に気付いた。この程度.....の殺し合いに、動じることができない自分。どうやってもあの夜と比べてしまって、そんな心の変化に虚しさを覚える。
 戻ろう、と少年の赤い裾を引く。日が暮れる前に裏町から出よう、と。

 「………ファン?」

 様子が、おかしかった。少年の視線を追いかけ、ラナは息を詰める。
 広がった血溜まり――鮮やかな赤に染まる人間。
 ファンの大好きな――赤くなった人間。
 くふ、と仄かな笑声。陽炎のように、寒気が立ち上る。
 ぞっと少女の心胆が雪にまみれた。目の前の殺し合いなど比較にならない記憶を揺すられる。
 知っている。あの時あの瞬間、少年が殺しに満足していなければ、自分もまた死体の仲間入りをしていたことを。狂熱に浮かされたファンは、力尽くか興が満たされなければ止まらない。初めてドラゴンと会った時も、そうだった。
 それ以来、スイッチが入らなかっただけで。
 止められる人間が、傍にいただけで。
 今は。

 「…っ」

 ファンの前に、回り込む。両手を広げて、夢見る表情から目覚めようとしているファンの前に、立ち塞がる。
 すぅっ、と赤紫の焦点が自分に合った瞬間、足が震えた。震えはすぐに全身へ伝播した。
 それでも、蛮勇無謀と嘲られようと、例えこれで少年に殺されても、ラナは後悔しない。
 ――ただ言う事を聞くだけの異性に、ファンが興味を示すとは思えなかったから。

 「……だめ…だよ……」

 ほとんど絶息しそうな呼吸で、顔色で、訴えた。

 「ドラゴン……と、約束した…よね……? 殺さない、って……。だから、ここに来る途中でも……殺さなかったん、だよね?」
 「…………」

 ファンは無口で、無表情で。大抵の場合、言葉よりも行動を取る。行動で、示す。
 腕が、沈んだ。少女の左胸に、少年の腕が沈んだ。自分の身体をまるで霧のようにすり抜けたファンの手の平が、心臓に、触れていた。実際は触れていなかったのかもしれないけど、透過したままなのかもしれないけれど、触れていると感じた。
 ラナは、動かなかった。じっと見つめる少年と目を合わせたまま、一歩たりとも引かなかった。いつもなら汲み取れる少年の情動は、無に帰したように計り知れなくて。すぐそこの騒動が、本の向こうであるとまで思えて。

 「………………………………………………」

 段々、ぶすくれたような気配が出てくる。眠たげな半眼が不満たらたらに見つめ、胸を圧迫していた感覚が消えた。なにもしないまま、少年が腕を引き抜いた。

 「…………後で、覚えてろ」

 どこの悪役の三文台詞だ。
 というか。

 「えっ…と、私が悪いの?」

 コクコクと少年は肯定し、

 「僕が正しい」
 「……」
 「僕以外は、正しくない」
 「……」

 ……うわぁ。
 独裁者だ。赤い衣装と言動がマッチしてしまった。少女は頭を抱える。

 「あ」
 「え?」

 唐突に少年が前を、つまり少女の背後を見上げ、つられたラナが振り返る。同時に何かがくるくると落下してきて、思わずキャッチする。

 「…………レモン?」

 形と言い手触りと言い記憶にあるレモンと一致するのだが、変な模様と色に疑問符が浮かぶ。
 まるでレモンだけどレモンじゃないと主張しているような……。
 突き刺さるような視線にはっと顔を上げると、さっきまで暴れ回っていた海賊たちが――半分ほどに減っていたが、一人の例外もなくラナを、ラナの持つレモンを血走った目で狙い定めていて。



 「「「悪魔の実返しやがれ糞ガキィィィィィッ!!!」」」



 「ええええええええええええええぇっっ!?」
 「…………くふふ」

 驚きすぎて、少年が微かに唇を曲げたのにも気づけない。返せと言われたのだから兎にも角にも返そうとしたのだが、それより早く少年の手が悪魔の実を掠め取った。そのまま少女の腕を引いて走り出す。逃げ出す。

 「ファ――ファン、ファンっ! 返さないと!」
 「…………一億ゲット」
 「泥棒はダメ――って言うか何で楽しそうなの!?」
 「……鬼ごっこ、初めて」
 「コックさんたちと散々やってたでしょ!?」
 「あれは……かくれんぼ」

 鬼ごっこが目的なのか悪魔の実が目的なのか。ファンなら平気で遊びと答えそうだから洒落にならない。
 数を減らしたとは言え計八人もの殺気立った海賊に追われるのは精神衛生上ダメージ著しい。なんて、呑気に考えられるのは、今の今までファンの殺気を浴びていたからに他ならない。
 怪我の功名とは違うけれど。
 そもそもファンが追いかけなければこんなことになってない。
 ……いつも通りと割り切れない理不尽に、ちょっと涙腺が緩みそうになるラナだった。















 「少――失礼。大佐、裏町で海賊が暴れているとの報告です」
 「ハァ……? どうせ男ばっかだろ。テメエらで片付けやがれよ……」
 「追われているのは十四歳程度の少年と少女だそうですが」
 「カワイイのか?」

 は?と目を丸くする部下に大佐はずいと詰め寄る。

 「可愛い子ちゃんかって聞いてんだよ」
 「容姿の方まではさすがに……しかし目を付けられるぐらいには綺麗なのかもしれません」
 「ぃよし、出やがるぞ! 糞どもが、テメエら準備しゃーがれ!」
 「はっ!」

 俄かに慌ただしくなる詰所の椅子から立ち上がり、大佐と呼ばれた長身の男は唇を舐めた。

 「くくっ……十四か。さて、どう言い包めてやがろうか……!」






[19773] 赤の手前
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:80c1420b
Date: 2010/08/21 12:30
 「ぜぇ……はぁ…………お、追い詰めたぞ、ガキども!」
 「あ、悪魔の実……返し……やがれ……!」

 息も絶え絶えに、可哀想なぐらい疲れ切った男たちが声を張り上げた。
 三方を高い壁に囲まれた袋小路。ちょっと登るのは無理そう、とラナは息を整えつつ壁を見上げる。
 二人は知らない道を走る間に迷い込み、日没間際まで鬼ごっこを続けてしまったのだ。時々物陰や角向こうに隠れて疲労の回復を図っていた子供二名と違い、文字通り死に物狂いで探し回っていた海賊たちの体力はもはや空っぽに近かった。
 だがこうして追い詰めてしまえば、子供と大人の体格差以上に人数で勝負は決まる。バラバラにはぐれて今ここにいるのは四人だけだが、いずれ残る四人も集まってくるだろう。
 その前に脱出か撃退か、とにかく何らかの手を打ちたいとラナは考える……のだけど。
 横目で、隣の少年を窺う。六人の中でただ一人、息も荒げず悠然と佇む赤紫の少年。ファンはいつもの眠たそうな目で、危機感なく海賊四人を眺めている。
 ……どことなく、物欲しそうな気配を漂わせていたが。赤色を望んでいそうだったが、約束は守らなければと自分を律したようだ。

 「……ファン、疲れてないの?」
 「…………疲れた」

 その割には平然として見えるけれど。

 「…………空気は、肺で直接呼吸してる」
 「……そ、そうなんだ……」

 今さら深く考えることはせず、ラナは視線を正面へ戻す。悪魔の実がもたらす出鱈目な現象には、一応慣れたつもりだから。今回は、喉と口を使わず呼吸しているというだけで、手が鋏に変わる光景の方がよっぽど衝撃的だ。

 「呑気に会話なんかしてんじゃねぇぞ……!」

 じりじりと近付いてくる海賊たちに、ファンが布袋に収めていた悪魔の実を取り出して見せた。視線が釘付けになった所で満を持し、告げる。

 「それ以上近付いたら…………この悪魔の実……」

 と、無闇に不安がらせる間を挟む。唾を呑む音が聞こえそうなほど、四人の海賊たちの表情が張り詰めた。この実は彼らにとって絶対に失くしてはならない生命線そのもの。船長と仲間を斬り捨ててしまった今、新たに航海へ出るのは至難の業で、最悪の掟破りである仲間殺しの海賊を乗せる船なんて、まずあり得ない。
 どうする気なのかと、赤い背中を流し見た。
 夢見るような、ともすれば眠っているような少年は、全員の目と耳が自分に集まっているのを確認した後、腕をすぅっと横へ動かして、少女の前に悪魔の実を差し出して。

 「…………ラナが食べる」
 「って私が食べるの!?」

 何か問題が?とでも言いたげにファンが首を傾げる。
 例によって例の如くの突拍子のなさというか、いつも通りのマイペースぶりに戦慄するラナだった。
 しかし、海賊四人の戦慄っぷりは少女の比ではない。

 「まっ、待て待て落ち着け!」
 「冷静に、冷静にだ! 話し合えば分かり合えるはず!」
 「そうとも人類皆兄弟!」

 戦慄というか、泡を食いまくりだったけど。
 まずそっちが落ち着くべきじゃないだろうか。なに兄弟って。

 「…………売り値の二割、ほしい」
 「に、二割?」
 「高すぎだ……! せ、せめて一割!」
 「ラナ」
 「え? あ、うん」

 悪魔の実を渡されて、口を開けて噛みつくふり。ぎゃーっ!と海賊たちが悲鳴する。
 ……面白いかも。

 「わ、わわ分かった二割だな!」
 「約束、約束するから食べないでくれぇっ!?」
 「……分かった」

 大の大人が懇願する様子は哀れに過ぎた。見てる少女の方が悲しくなる。
 でも彼らが八人だとすると、丁度全員で割り切れる計算だ。
 狙ったとは思わないけれど。そこまで考えたとは到底思えないけれど。
 鬼ごっこはこれで終わり。自分は何もしてないから、ファンの一人勝ち。
 周りに理不尽を強いる少年は相も変わらず。もう座右の銘でいいんじゃないだろうか。
 がっくり肩を落とした彼らの方へ、袋小路の出口へと、悪魔の実をいつでも食べられる態勢で警戒感をアピールしつつ、足を向けた。
 その時だった。



 「くくっ……なーに海賊がガキにあしらわれてやがんだ、えぇ?」



 ぐしゃっ、と液体が飛び散った。赤色を混ぜた脳漿が、散乱した。
 海賊の一人を痛みもなくただの物へと変えたのは、小ぶりの手斧だった。血脂が付着する任せ、碌な手入れもせず頑丈な鈍器としての役目しか果たさない刃物。柄で手の平を叩きながら、一般的な人間の規格で言う背の高い男が、その顔に似つかわしくない純白のマントを羽織り残忍な笑みを浮かべて言った。

 「海軍大佐のバリズだ。そこの、あー……四、五人。騒乱罪、殺人罪、公共物破損……とにかく全員拘束する……のも面倒くせえな」

 ガチャ、と腰にぶら下げていた手斧をもう一つ引っ掴み、打ち鳴らし。

 「――決まりだ。一人残して全員死ね」
 「んなっ……」
 「デェッド…ォア、アッラーーーイブッ!」

 口から出かけた反論ごと、暴風のように振るわれた手斧が頭頂から股間までを野菜か何かのように叩き割った。赤い液体と内臓物が飛び散る様は血飛沫どころじゃない。血の入った袋が爆発すればこうなるだろう光景だ。
 斧は止まらず、立て続けに仲間を物に変えられ放心した二人へと襲いかかる。斬らず裂かず、両の手斧は割るように頭を身体を叩き潰した。人間の原型を留めているのが奇跡めいて見える程の、暴撃。
 強い、のかどうかラナには分からない。ただ危険だと思う。投降の勧告すらなく殺しにかかった海軍大佐は、それでも正義を背負っている。市民の味方であり、平和を作る者であり、また平穏の代行者。
 この男が、正義?
 嬉々として、笑いながら人を殺す男が?
 こんな奴に……海軍の大佐を任せてるの?

 「乗って」

 唐突にファンが背を向け言った言葉に、え?と聞き返してしまう。

 「な、何で?」
 「いいから早く」

 この状況においてなお、少年の表情は露とも揺らいでいなかったけれど。水が湧出するようにファンの中で警戒心が膨れ上がるのを感じた。
 おんぶしてどうなるのか、理解できないまま少年の首に手を回しその背に負ぶさる。途端、火に焙られたように頬が熱くなった。
 いや、だってこの姿勢。
 胸とか、アソコとか……大事なところが、全部ファンに当たってる――!
 絶対にそういう場でも雰囲気でもないのだけれど、ファンの両手が太股を押さえて固定されると、妙な気分になってしまいそうだった。

 「あ? テメエらそいつは何の――」
 「バイバイ」

 無表情に遮った少年が少女を背負ったまま、以外に軽快な足取りで背後の高い壁へと駆けた。慌てたのはラナである。

 「わっ、わ! ぶつかる、ぶつかるよファンっ!?」
 「大丈夫」

 答える間に、壁はもう目前へ迫っていた。激突の予感に、身を固くして少年にしがみつく。最後の一歩で、ファンは思いっきり地面を蹴り上げ、跳んだ。跳んで、垂直の壁につま先を突き刺した.........
 見開いた眼の先で、ファンの足が壁に沈む。完全にはすり抜けず、中途で壁の中を踏みつけ次の足がまた踏みつけ、階段を上るように真っ直ぐ壁を走り上がる。
 トン、と最後に軽い着地音を連れて、少年は屋根に足裏を付けた。少女の長い黒髪が、勢いを殺しきれずに大きくなびく。

 「――!」

 驚きを声に出す暇は、残念ながらなかったけれど。ゆらり、と少年がよろめくように横へ動いた途端、立っていた石の壁に凄まじい音を立てて斧が食い込んだ。下方からしくじりを罵る舌打ちが聞こえ、少女の顔から血の気が引く。
 第二投が来る前に少女の軽さを背にしたまま、開けた空間を少年が走り出す。

 「…………ラナ、狙われてる」
 「……え……」

 降りるよ、と伝えかけた言葉が中空へ消えた。

 「ね、狙うって、私とファンの両方じゃないの?」
 「…………大佐の言葉と行動が、おかしい」

 ――一人残して全員死ね。
 そして投げられた手斧が砕いたのは、足場になっていた建物。

 「……私がファンの背中にいたから、直接当てなかった?」

 首を縦に動かし、少年は首肯。そして首を巡らし太陽を探す。
 この島は平坦で、稜線はすなわち水平線となる。刻一刻と高度を下げる太陽は、間もなく夕暮れを迎えようとしていた。
 ……早めに、合流しよう。
 海軍が動き、死傷者を出し、物を壊しながらの追走劇。町は全体として危うい喧噪に包まれている。ドラゴンも、気づいているに違いない。ならば少々早く町を出て、島の反対側の海岸に行くべきだろう。
 バリズと名乗った大佐や動員された海兵以上に、夕焼けが迫っている。赤々と燃え立つ世界が、すぐそこに近付いている。

 「…………ラナ」

 屋根から屋根へ渡りながら、徐々に下へ降りながら、少女の名を呼んだ。応えはすぐに、耳元で返る。

 「何? ええと……大佐なら追いかけて来てないよ?」

 そういうことを聞いたのではないけれど。耳に快い涼やかな声音は、心が落ち着く。
 この状況で夕焼けは泣きっ面に蜂だけれど、できる限り頑張ろうと思わせる。
 だから。

 「お前は、半分、赤くする」
 「血まみれか~……? くくっ、できるもんならやってみやがれ」

 降り立った街路で、残忍に笑うバリズが待ち伏せていた。















 「先、回り……?」

 呆然と呟く少女を背から降ろした。ファンは上体を奇妙に揺らめかせながら、長身の男へと歩みを向ける。
 別に先回りは、おかしなことでも難しいことでもない。屋根から屋根へ伝い歩くことはできても、その区画を隔てる街路を飛び越えるのは無理だ。となれば、そのブロックと隣接する何本かの道へ自分たちより早く行くだけなのだから、難易度は低い。
 二メートルよりやや低い、実際は百九十あるかないかという男を見上げた。
 頭蓋、咽喉、心臓、肝臓、頸椎、脊髄、腹腔、動脈。

 ――脆すぎる。

 人体は、生命は、なぜこうも容易く壊れるように作られたのだろう。
 鍛え上げた筋肉も、頑丈な骨も、それを防護する武具も、自分に対し意味を成さない。用を成さず、無為となる。
 大佐の地位を持つ男の気配は濃厚で、確かな強さを感じさせる。ドラゴンの船でも何人か見かけた、圧迫感を醸し出す強者の佇まい。
 その視線が蛇のような粘っこさでラナを舐めるように動き、ファンは揺れる足で少女を背後に隠す。

 「くくっ……恋人か。これはまた美味いシチュだ」
 「…………」
 「アクセントになり、香辛料になり、前菜となり、副菜となる」
 「…………」
 「女だけでも美味いが、やはり調味料があった方がコクも出やがる」
 「…………」
 「その点、男は駄目だな。臭いは苦いは、煮ても焼いても食えやしねえ」
 「…………。…………?」

 ピタリと、足を止める。何か、巨大な齟齬を、男のセリフに感じ取る。
 女は美味い。
 男は食えない。
 嫌な――違う。怖い――違う。
 そうではない。これは、そう――身の毛のよだつ予感。

 「なあガキ。テメエ食ったことあるか?」
 「…………なにを」

 ニタリ、ニタリ。男が、笑い。



 「――――“ニンゲン”に決まってやがるだろうが」



 初めて。
 恐らく、人生で初めて。
 ファンの表情が、男の放った言葉の想像を超えるおぞましさに歪んだ。
 嫌悪を表し。
 意識に空隙。
 その一瞬で、バリズは距離を詰めていた。メートル単位の距離が瞬く間にゼロとなり、反射的にファンは腕を振り上げた。胴体に当たれば必殺に等しい腕を、しかし男は跳び越える。
 少年の背に庇われていたラナに向かって、驚くべき跳躍力で、一足飛びに。

 「――きゃぁっ!」
 「くくっ、メインディッシュゲット~……!」

 焦燥を抱え猛然と振り返ったファンが見たのは、掴まれた片腕を必死で振り解こうとするラナと、それを舌なめずりしつつ見下ろす男で。
 脳がその光景を認識するより早く、石畳を蹴った。手斧が、飛ぶ。すり抜ける。瞠目した男の反応を無視して、ラナに駆け寄る。
 瞬間、喉輪を掴まれた....

 「っ……!?」

 気道が圧迫され、呼吸に支障を来す。
 いや、それよりも。
 何で……触れる……。

 「……なるほど、そういう能力か。さっきは気付けなかったが、なるほどな。大抵の人間は敵にすらなりやがらねえわけだ」

 くくっ、とバリズは喉の奥で噛むように笑った。

 「不運だなぁ、オイ。元“少将”の俺がこんな島に左遷されてやがってよぉ。“覇気”のことも、知ってるわけがねえ」
 「は……き……?」

 それは、否それが、ドラゴンが自分に触れることのできた理由なのか。
 だが今は、そんな事実に1ベリーの価値すらない。
 最悪だ。能力が通じない相手に対し、ファンは無力な子供に過ぎない。
 力なき弱者。誰も守れず、誰も赤くできない弱者。
 ……人は急に、強くなれない。
 悪魔の実を食べても、土壇場でぼろが出ては無意味だ。無意義で、無価値だ。
 足が、宙に浮きそうになる。無意識に、地面を求めて爪先立とうとする。掠れそうな視界で、ラナに視線を向ける。
 少女は、唇を引き結んでいた。黒々とした双眸は、けれど悲痛な思いに彩られてはいなかった。
 今にも泣いてしまいそうでは、あったけれど。
 ぐっとこらえて、少年に視線を預けている。
 ――少女を守り、少女に危害を加えた者を許さないという約束を、信じている。

 「………………………………………………………………………………」

 くふ、と。
 少年の唇が、嗤った。
 訝しむバリズの前で、ゆらりと手が伸びる。
 伸ばされた手を、少女が掴む。
 そして。
 二人は消えた。

 「………………は?」

 空っぽの手を、握る。
 理解できない表情で、大佐は前を見る。
 忽然と、どこからともなく。
 一秒も、半瞬も、刹那ですらなく。
 全くの同時に、少年と少女は街路の出口へ移動していた。

 「……今……何しやがった」
 「…………」

 少女の背に手を回した少年は、無言。
 ぎし、と歯を噛み軋り、大佐が吠える。

 「逃げやがんじゃねえぞテメエ――――ッ!!」

 残った得物を投げるべく男が手をかけた、その時。
 頭上に、巨大な影が差した。



 ――DEA~~~~~~~~~TH!



 その、低いくせにソプラノを意識したような不可解な声に、全員が天を仰いだ、直後。



 「WI~~~~NK!!!」



 バチョーン、という妙な、いや変な音を響かせて、大佐の長身が斜め下に吹っ飛んだ。
 ずん、と重々しく、馬鹿でかい図体が着地する。

 「こ~んばんわぁ“人喰い”ボーイ! 左遷されてもまた懲りずに悪食してッキャブルなんて、どこまで図々しいのかしら」
 「テッ、メエ……革命軍のオカマ王! 何でこんな辺境に居やがる!?」
 「さぁねぇ~。乙女の秘密を探る男は嫌われッシブルわよ?」
 「テメエに嫌われるなら本望だクソッタレ!!」

 悪態の応酬に唖然としながらも、革命軍の下りに反応する。すぐさま視線を巡らせれば、通りの角にひっそりと佇むフードを被った人影。
 ラナと一緒に大急ぎで駆け寄り、口を開く前にゲンコツが降ってきた。

 「っっっ~~~~……!」
 「騒ぎを起こすなと言っただろう」
 「……ごめん、なさい」
 「話は後だ。イワンコフが惹きつけてる間に身を隠すぞ」

 コクリとドラゴンに向かって頷き、早くも破砕音の轟き始めた街路を後にする。
 時刻は黄昏、大禍時。赤く染まり始めた風景に、ファンはそっと胸を撫で下ろした。

 



[19773] 幼き白夜
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:80c1420b
Date: 2011/11/09 00:13


 空の酒瓶が十ばかり転がっていた。カーテンで閉め切られた部屋は、革命軍に賛同するホテルのオーナーから提供された隠れ宿だという。薄暗くとも清潔感は保たれ、東に面した窓から微かな橙色の光が縁取り、高級な部類に入る部屋なのではないかとラナは思った。
 ゆるゆると緊張の解けた吐息を少年が吐き出し、ざらついたやすりのような気配が静まっていく。
 夕焼けはダメだと、船に乗った最初の日、声なき態度で少年は語った。紅色の世界は余りにも少年の望みと合致しすぎていて、全く意識しないまま赤を求めて動きそうになるのだと。
 故に日暮れが迫ると、ファンは部屋に閉じこもり、あるいは船倉で時間を潰す。暗闇に身を置き、赤い欲求の猛る数十分をじっとして過ごす。少年なりにドラゴンへ気を使った行動で、ラナ以外にそれを知る人間はいない。
 今日はかなり、危なかったけれど。タガが緩んで、外れそうになったけれど。
 ゆっくりとした呼吸を繰り返す落ち着いた様子のファンに、ラナは小さく微笑んだ。

 「――ある物は適当に飲み食いして構わん。万一海軍に嗅ぎつけられたら、船を付けた海岸に行け。……俺は夜明け頃に戻る。それまで休んでいろ。いいな? くれぐれも出歩くんじゃないぞ」

 口早に念押ししたドラゴンが扉を閉め、足音を立てて外へ――ざわめく街へと戻っていった。事後工作を、するらしい。自分とラナが、革命軍と無関係であることを暗に知らしめる。簡単に説明されたが、どこぞの船に乗船していた書類をでっちあげるとか何とか。
 ドラゴンがすると言ったからには、できるのだろうけど。余計な手間をかけさせたことに、変わりはない。
 
 「…………」

 強さが要る。
 我を貫き、エゴを振り撒き、自らの成した事に責任を持つためには。
 強さが、要る。特に今の時代、今の世界では。
 強さ無くして、大切な何かを守ることすらできない。

 「……ファン」

 眠たげな無表情で、けれど固く握った拳を、黒髪の少女が両手にそっと包み込んだ。優しい温もりがじんわりと染みて、指を解く。遊ぶように、ファンは少女を辿った。指先から甲、甲から肘へと肌を進み、途中で「痛っ……」と小女が肩を跳ねさせた。
 瞬きした少年は手首を取って、カーテンの隙間から這い出す光に晒した。
 男の手の形をした青黒いあざが、烙印のように白い肌を汚していた。

 「……………………」
 「だ、大丈夫! 見かけほど酷くないから!」

 怒りと殺意が噴水の如く噴き上がり始めた少年を、ラナは慌てて宥めにかかる。
 今すぐにでも、バリズを殺しに行きそうな気配だった。
 葛藤が目に見えるような沈黙ののち、ふいっと身を翻した少年は室内を漁り、救急箱を探し当てた。どことなくむっとしてむすっとした無表情で、窓際に椅子を引っ張り座らせて、まず洗浄し消毒し、また洗浄して消毒し、軟膏を塗りつけ湿布を貼り、その上から清潔な包帯を巻いていく。

 「………」

 大げさすぎると言いかけて、ラナは口を閉ざした。
 丁寧に、解けないようやや硬めに、包帯が巻かれる。
 こんなことが、昔あったような気がした。草でほんのちょっとだけ腕を切ってしまい、痛くて泣いていた所に誰かがやってきて、ハンカチを巻いてくれたのだ。
 顔は覚えていない。泣いて座り込んでいたから、背の高さも定かでなくて。父がすぐに洗って帰してしまったから、ハンカチの柄さえ記憶にない。ただ、巻いてくれた手は、自分と同じ子供のものだったような――気がする。
 今となっては確かめようもないことだけど、思えばあれは、こうして目の前にいる少年だったのかもしれない。
 益体もないことではあるけれど。
 忘れかけていた記憶が刺激されるぐらいに、あの時の手と重なって見えた。
 ……あれがファンでも、シュリオでも、今は何も変わらないけど。

 「……ありがと、ファン」
 「…………」

 どういたしましての返事もなく、赤紫の少年はコクリと頷いた。口元を隠して、少女はくすっと笑った。
 やがて包帯が右腕のあざを覆う。純白の布が、航海を経てなお不思議と焼けることのない肌に巻き付き、醜いあざを綺麗に隠していた。
 巻かれたばかりの包帯に左手を添え、嬉しそうに少女が微笑む。
 薬箱を片づけた少年は、暗さを増しつつある室内に明かりを灯すか迷いながら、少女の笑顔に僅か、目を側めた。結局ランプに火は付けず、少女の元へ戻る。夜を閉じ込めたような瞳に、触れるほど顔を寄せる。
 唐突な行動に目を瞠った少女は、けれどそれ以上近付いてこようとしない少年に困惑の表情を浮かべた。
 ファンは、この部屋に入って初めて口を開いた。そこから放たれた言葉は、槍の鋭さを持って少女のかさぶたを剥いだ。



 「――――怖くなかった?」



 刹那にして、黒い双眸が揺れる。微笑みにひびが走り、ぱらぱらと崩れた。
 頑丈な堤防も、蟻の一穴で決壊する。
 たった一言でも、包み隠そうとした心奧は暴かれる。
 それまでの笑顔に嘘はなかった。本心から嬉しく思い、少女は笑っていた――けれど。

 「…………怖かったね」

 主語も目的語もそこにはない。だけど少女には伝わる。潤んだ瞳を隠すように、胸へ顔を押し付けてくる少女の頭を抱き、そっと撫でた。
 嗚咽が漏れる。じっとこらえていたものが流れだし、ラナはすすり泣く。全身でしがみついてくる少女は、震えていた。嵐の海で丸太を掴むような、必死さで。
 怖かったのだ。
 あの海兵に殺されそうになったことより、海賊に追いかけ回されたことより。
 ファン・イルマフィが殺されかけたことが。
 島の人々と同じく、赤紫の少年をも喪いそうになったことが。
 耐えようもないほど、怖かったのだ。

 「…………」

 震えが収まるまで、幼子へそうするように頭を撫で続けた。
 自分は、怖くなかった。あのまま何もできなければ、間違いなく殺されていたのに、恐怖を感じなかった。
 少女を奪われかけても揺れない自分が感じていたのは、ただの怒りだ。
 喪失に対する恐怖ではなく、喪失をもたらそうとした者への憤怒。
 やはりどこか、自分はずれている。壊れている。
 今この時も、ラナを愛しく想う気持ちと同時に、その肢体を引き裂き赤くしてしまいたいと思う自分がいる。
 理性の中で得る喜びと、赤い本能に従い得る喜びと。
 腹の奥からちりちりと這い上ってくる鮮血の衝動。それを実行するのは容易いけれど。
 ファンは、人食いと呼ばれた男のように、獣へ堕すつもりはなかった。
 反面教師のつもりは微塵もないけれど。
 1ベリーを億で割った程度には、感謝してやってもいい。
 ラナの震えが収まった頃、日はとっくに沈み、室内は薄暗い宵闇を孕んでいた。

 「……ん」

 背中まである長い黒髪をそっと梳いた。指の間を流れる絹糸のような髪で遊び、口元へ運ぶ。食むように、口づける。心から恐怖の膿を拭われ落ち着いた少女は、頬を紅潮させて上目遣いに少年を仰ぎ、赤い目尻でどこか物足りなさそうな表情をしていた。

 「…………キスしたい?」

 指摘された少女の瞳が宙を彷徨う。何かを迷いながら、瞼を閉じ、やがてコクンと頷いた。
 キスを、唇を許されたファンは、けれどそれだけで満足することはできなかった。
 ふっと耳の中へ息を吹きかけ、腕の中で身じろいだ少女の反応を楽しみながら、囁く。

 「じゃあ…………ラナからして」

 閉じられていた眼がぱっと開けられる。驚きも露わに口を開いた少女は、けれど言葉を紡ぐことなく噤んでしまう。
 ふっきれるかどうか、『彼』を本当の意味で忘れられるかどうか。
 心までは読めないから、少女の気持ちがどこを向いているのか知りたくて。
 意地悪く、訊ねた。

 「……」

 黒曜石の瞳が下を向き、前髪の向こうへ隠れた。俯いた姿勢で、赤い唇を噛んでいた。数えた呼吸が百を過ぎてようやく、白い前歯が上下に開いた。
 消え失せるような声音が、そぅっと耳朶を叩いた。

 「……目を……………つむって…………」

 ほとんど懇願に等しい言葉を、少年は黙って受け入れる。赤紫の瞳に、蓋をする。
 ためらいを含んだ手つきで、胸元へ縋りついていた両手がそろそろと、首に回される。
 少女が近付いてくる。数センチの差を埋めるべく、ぐっと身を伸ばした少女の細い吐息が熱い。
 触れ合う寸前に、唇が名前と、一つの感情を刻んだ。

 「ファン………………。……………………………好き」

 後になって。
 結局キスをしたのか、されたのか、どれだけ記憶を探っても、少年は明確に覚えていなかった。
 その瞬間、吸いついてくる想いに応えるだけで、神経は擦り切れた。
 永劫に等しい十数秒が終わり、重ねられた双唇は一時の別れを告げる。

 「……っは………!」

 共に止まっていた呼吸が再開。脈拍の上昇に伴う苦しさを緩和しようと、激しく肩を上下させた。
 服越しでも、熱病に罹ったような少女の身体は感じられる。
 成熟を知らぬまま男を迎えた少女に、火が灯っている。
 成熟を知らずとも女を襲える少年が、ためらう理由はなかった。
 けれどゆらりと服を浸潤し、背骨のラインに沿って指を動かした瞬間、パッと少女は腕から逃れてしまった。困惑と情欲の視線でシックなワンピース姿を追えば、少女は自分の身体を掻き抱いた羞恥の表情で、ゆっくりと首を振った。

 「だめ……今は、だめ……」
 「…………」

 物問いたげな少年の眼差しに、聞き取りづらい声で少女は言った。

 「たくさん……汗かいちゃったから…………さ、先にお風呂入ってくるね!」

 急いで言い終えバスルームへ駆けてく少女の後に、当然のように少年がてくてく付いていく。

 「……何?」
 「…………一緒に入る」

 え、とラナは表情を引きつらせ、拒否しようとしたけれど。

 「何でもするって……言ったよ?」

 くふ、と少年は嗤い。
 一応、少女は哀願したのだが。
 そうそう何度も、聞き入れられるわけがなかった。















 パタン、と扉の閉まった音が、いやに重々しく耳に届いた。バスルームと隣接する脱衣所は淡いクリーム色に塗られて、籐の脱衣籠が一つと、大きな鏡の付いた洗面台が付属されている。窓は造られておらず閉塞感が忍び込むけれど、高価なガスランプが併設されていて、風呂場の奥から這い寄る日没後の暗闇を穏やかに拭い去っている。
 ラナは鏡の前で背後から抱きすくめられ、スキンシップというには甘やかな愛撫を受けていた。

 「あっ……や……お風呂……!」

 透過することなく、服の上から胸をまさぐられる。差ほど力はいれず、手の平全体で撫で回される。少年の右手は足の間に伸びて、ワンピース越しに大切な姫割れを中指がなぞっている。

 「ふあ…っ……あっ………あ……?」

 唐突に少年が離れて、慣れない刺激に早くも登り詰めかけていた少女は当惑し、ふと、胸元を押さえた。

 「っ――!?」

 勢いよく振り返れば、少年が衣類を二つ、籐の籠に投げ入れるところだった。
 ワンピースの中に着ていた、少女の肌着と、下着。
 内側の服だけを、抜き取られていた........

 「っ…」

 伸ばされた少年の手を、思わず避けた。それを予期していたとしか思えない動作で、ノータイムに足を進めた少年は、クリーム色の壁に少女を押し付けた。唇を奪い、服の上から敏感な部分を擦り上げる。

 「んっ……ん、んー!」

 自分をなぞる手を少女は掴むけれど、間断なく襲ってくる刺激に力は抜けるばかりで。
 少年が、うなじの下で結ばれた紐を掴んだ。一瞬蝶々結びの紐が張り詰め、しゅるしゅると抜かれていく頼りない感覚に身震いする。ワンピースの一枚下は、少年の手によりもう何も着ていない。
 胸元が緩められ、空気に触れる。鎖骨と白い両肩が覗き、少年の歯が甘い痛みをもたらす。桜色の跡を散らして、舌があるかなしかの谷間に唾液の筋を引き、顎先でずり下げられていたワンピースはとうとう引っかかりを失くして、パサリと落ちた。

 「あっ……ゃぁぁ……!」

 秘唇から溢れた蜜を間近で見られて、少女は離そうと少年の頭を押さえる。
 とろりと流れた愛液を少年は興味深げに眺め――舌を這わせた。久しぶりに少女の味を思い出した瞬間、身をのけ反らせて悲鳴した少女が想像だにしない力で少年を突き飛ばし、磨りガラスの向こうのバスルームへ逃げた。
 ファンは思いっきり後頭部をぶつけて、しばらく悶絶していた。
 ちょっと性急過ぎたか、と視界に星をちらつかせながら。










 ざあっ、と湯が降り注ぐ。滑らかに磨かれた石造りの浴室が、たちまち湯気に覆われていく。
 お湯以上に、身体が熱い。静まれ静まれと命じても、鼓動は言うことを聞かず跳ね続ける。ぴちゃりと舐められた感触がまだ残っていて、シャワーに打たれながら、少女は秘所を押さえた。

 「っ……」

 恥ずかしさで、死にそうだった。
 触られるだけで精一杯なのに、舌で舐められて。
 味見、されて。
 洗っても、ないのに。

 「……今の、うちに…………綺麗にしないと……」

 のろのろと、髪を洗った。どうしてか、少年はなかなか来なかった。
 無心に頭皮を揉みこんでいくと、ようやく心が落ち着いてくる。そうして最初に思い出すのは、部屋での自分が言ったセリフだ。
 ……言っちゃった。
 好き、と。
 口にせずには、いられなかった。産み落とされた恋心は、否定するには強すぎた。
 始まりは血の海と、赤い夜空。喪失の中で、力尽く。無理やり白く、汚されたのがきっかけ。
 自分は、ふしだらなのだろうか。ただの一度犯されただけで肌を許してしまう、不貞淑な女なのか。
 ……そんなこと、ない。
 強く、思う。そんなことは、関係ない。
 相手がファンだったから。恐怖と慈しみを過不足なく与える、あの赤紫の少年だったから。



 何より、守ってくれたのがファン・イルマフィという少年だったから。



 きっかけは、ただのきっかけで。ファンを好きになったことで、後ろ指差される謂われはない。
 湯を、流す。頭皮の汚れを、洗い落とす。キメ細かく肌を傷つけない仕様の布に、石鹸をまぶした。
 泡だったその布を背後から突然伸びてきた手が掴み、「ひゃっ!?」と悲鳴してラナは振り返る。
 いつものことだけれど、心臓に悪い。音もなく湯煙に佇む赤紫の少年を、ラナは赤い顔で睨みつける。と、何気なくその視線が下がり、勿論何も着ていない少年の腰辺りで、仰角を上げた灼熱の塊を見つけて思いっきり前に向き直った。
 顔が赤いどころの騒ぎではない。真面目に火を噴いてるんじゃないかと、ラナは疑う。

 「…………洗った?」
 「……ま、まだ」

 そう、と呟く声が近い。落ち着いた筈の心臓が、早鐘を打ち出している。
 丸いおしりに、熱いモノが押し付けられた。あ、と空気が抜けるように声が出て、逃げかけた身体の前に、ファンの両手が回り込む。
 頤を反らして、少女は喘いだ。おしりを灼熱に擦られて、膝が砕けた。そのまま前に倒れて、転がされ、滑らかな石の床で仰向けに押し倒される。
 ざあざあと注ぐ湯を浴びながら、見上げた少年の瞳は赤かった。そう見えただけなのだろうけれど、自分という異性を前にして、酷く興奮していた。ぐっと身を屈めて、少女の中に入ろうとしていた。
 ……せめて。
 綺麗な身体で二度目を迎えたかったと、少女は思う。一方的な結びつきではない心を通わせた初夜に、清い身体を少年に捧げたかった。
 そんな頓着を、赤紫の少年はしないだろうから。
 せめてと、少女は思ったのだ。
 瞼を降ろし、覚悟を決めた様子のラナに、ファンは動きを止める。ドクドクと送られる血液は己が交接器を燃え立たせ、灼熱のしこりとなって本能を焙っている。少女と一つになりたいと、ファンも思う。
 けれど、と冷静な部分が囁く。
 自分を好きと言ってくれた少女の意に反して、このまま結ばれてしまうのは、不義理ではないだろうか。
 指摘されて認めなかったけれど、ファンは律儀だ。礼には礼を返し、心には心を返す分別くらいある。
 腕を引いて、少女の身を起こした。ラナがびっくりしたような、不思議そうな顔で少年を見る。

 「……ファン?」

 どこか不安そうな、脆い声。構わずコックを捻ってシャワーを止め、少女を風呂椅子に座らせた。内側からの昂まりで、ぼうっと思考が鈍くなっている少女の黒い瞳は、少年が握っている物を疑問符付きで眺めて、一度瞬く。
 数秒後、少年の意図を過たず理解した少女は、過去最大級の恐怖を予感してしまった。
 ついさっきラナ自身が泡立てた、柔らかな布切れを少年が握っていた。

 「…………ラナ、丸洗い」

 私は布団でも絨毯でもない。ラナは心でさめざめと泣いた。
 これなら着ぐるみの方がマシだったと、後の祭りを嘆いた。















 「ひぁっ……!?」

 手巾を間に挟んでも、少女の反応は明確だった。白く泡立った布が肩に触れると、俯き気味だった少女は小さく喉を反らせて感触に耐える。ともすれば突き崩したくなる柔肌に力加減を苦慮しながら、ファンは泡沫をすりつける。
 キャンバスのような背中を、真っ白な泡で飾り立てる。

 「……ん……んっ……!」

 せめてもの抵抗にタオルで前を隠した少女から、微かな声がまろび出る。
 酷く、そそる声だった。そうでなくとも、少女のしなやかな裸体は目に毒だった。
 水を弾き、玉を作る肌は鮮烈で、すっと伸びた背筋は自然にして人工の曲線美。腰回りで一度細まりを見せ、風呂椅子と接する丸いおしりの中心に、少年を魅了してやまない奥まりが続いている。
 眠たげな半眼を更に細めて、ファンは無心で手を動かした。少女が身を震わせ、声を噛み殺した部位は記憶に留めつつ、背中側を洗い終える。

 「…………こっち向いて」

 淡々としながらも熱の籠もった声で言うけれど、少女は震えるばかりで動こうとしない。
 ラナは慎ましいのだ。
 ロマンチストでも、ある。
 愛撫を許すことができても、本当はベッドの中でと思っている。
 交合を許すことができても、それは二人きりの夜にと願っている。 
 幼子のように洗われているこの状況が、ラナの羞恥を耐え難く煽っていて。
 だから、ラナは背を向けたまま嫌だと首を振って。
 だから、嗜虐心を煽られたファンは少女を椅子から引っ張り倒した。
 きゃあっ!?――と悲鳴した少女のタオルを、素早く奪い取る。
 滑らかな石の床に押し倒された少女は、非難の眼差しで少年を見上げ、両手を使って身体を隠した。
 ささやかな抵抗。それが火に油を注ぐ行為とも知らず、白い肌に息づく膨らみと割れ目を、白い腕が隠す。膝は立てられているけれど、太腿をぴったり閉じて可愛い反抗心を見せていた。

 「――あ」

 少女の足元から身体を伸ばし、肩口から鎖骨のくぼみを捉え、喉に泡を塗りたくる。後ろ姿もいいけれど、刺激に声を堪える表情が、少年に潜む獣性を煽って止まない。
 不十分な膨らみに乗った腕を捕まえ、外へどける。や、と少女が小さく喘ぐ。桜色に尖った青い果実が現れて、念入りに、少年は洗った。上下に擦り、優しく挟み、あっあっと押し留めきれない声が浴室に反響する。
 肘の内側、脇や横腹も忘れず綺麗にして、折り畳まれた両足を次の標的に決めた。
 爪先から順を追って、泡を纏わせていく。指の間を丹念になぞれば、少女が身をのけ反らせる。
 踵、膝裏、そして太腿。自分で洗えると訴えた少女を無視して、膝を割る。黒い双眸が、揺れる。一際デリケートな場所だから、ファンは両手に石鹸を持って、泡立てた。左右に足を開かせて、邪魔をしているのはもう、少女の左手だけ。
 それもまた、掴んで排除する。
 湯とは別の液体で濡れた姫割れが、再度少年の前に晒された。
 ひくっ、と少女の喉が鳴る。泣いているのかも、しれない。あんまりだと、思っているのかもしれない。
 けれど少年にしたって、そこまで考慮する余裕は残ってない。
 泡だった手で、秘所に触れた。びくっ、と少女の身体が跳ねる。真っ直ぐな縦割れを、ゆっくりなぞる。もはや少女は、声を殺していなかった。もうこらえきることができずに、嬌声を響かせていた。陰唇のみならず、まだ手を付けていないおしりも少年は洗い、揉みこむ。当然の如くその窄まりにまで指は触れて、瞬間、やめてと少女が叫んだ。暴れそうになった少女をキスで抑え込み、きゅっと閉じた窄まりをくすぐるようにあやした。少女の総身が慄いて、けれど開きそうになかったから、今は諦めた。

 「はっ……ふっ……あ、あ……」

 シャワーで泡を流していく。少女の身体から、泡が消えていく。雫を受ける刺激さえも快感に変わっているのか、少女はされるがままに蕩けた表情で、目を閉じて。
 石の床に横たわった膝を掴んで、左右に割る。桜色の秘所が、今か今かと誘っている。
 目を開けた少女の黒い双眸が赤紫の瞳と交錯し、突き動かされたように互いの唇を吸う。
 言葉はなかった。言葉を必要としないほど。今の二人は近かった。
 淫靡に舌を溶かし合い、少年は腰を進める。未だ未成熟であるけれど、そこは潤い少年を迎える準備を終えている。単なる生理現象ではなく、真に交わり受け入れる用意として、濡れている。

 「んぅ……!」

 くちゅ、と切っ先が少女の秘められた唇にキスをする。口を割り開き、確かめるようにゆっくりと、まだ硬い中へと入っていく。ねっとりとした蜜を掻き分ける度、少女の襞はいやらしく雄に絡みつく。

 「ふあ、ああ……!」

 再会の悦びに、二人の性器は震えていた。処女血を吸った肉棒は二度目の味を貪り、少女の膣は初めてを奪った相手に適合を始める。
 ……熱い。
 中心を貫く灼熱の槍は、元々身体の一部だったかのようにぴったりと埋まる。
 ……熱い。
 咥えこまれた自らの分身は、狭くも奥深い穴に引きずり込まれそうだった。

 「…………熱いね」
 「……うん、すごく熱い」
 「ラナの中……気持ちいい」
 「………………ファンはストレートすぎるよ」

 ぐっとひかれた腰と一緒に抜き出る少年の性器は、飴のように貼り付く体液で濡れそぼっていて。緩やかにまた中へ入り込めば、んんっ、と少女が喘ぐ。まだ快楽を快楽として受け止めることに抵抗のある少女は、恥ずかしげに声を漏らす。
 その声がもっと聞きたくて、少年は少女を責めた。ぴんとしこった乳頭を甘く噛みつつ、腰を送る。最初は耐えようとしていた少女も、やがて乱れた。ペースを速めた抽送が湿った音を間断なく迸らせ、そこに混じる嬌声は浴室に反響しコーラスとなる。

 「やっ……あっ、ああ……ん、あんっ、ああぁ、やぁああ……!」

 内膜が激しく蠕動し、抜き差しせずとも少女の側で腰が止まらなくなっていた。雄を逃がすまいと締め付け、突きいれられる快感に打ち震える。少年の方も、気を抜けば呆気なく果ててしまいそうな悦楽に耐えていた。今この時この瞬間を一秒でも長引かそうとして、けれど火のような少女のナカに己が楔を打ち込む都度、じんじんと腰は痺れて限界に近付いていく。
 度重なる撹拌に潤滑液が泡立ち、白く染まる。終わりを予感して、少女は全身で少年にしがみつく。腰が宙に浮き上がり、肩と背と、回された腕だけを支えとして、無意識的に深く結ばれる姿勢を取った。
 快楽の頂点で、反復運動が止まる。深く深く、肉体を超えて精神をも犯し合ったような錯覚ののち。
 鼓動と共に、少年の精が放たれた。白く、濃く、粘ついた体液が、子宮の内壁にべったりと塗りつけられ、それだけでは飽き足らず、最奥を白濁で埋め尽くした。

 「ふあっ……やぁあああああああああ――――っっ!!」

 ビクン、ビクンと、腕の中で華奢な肢体が跳ねる。絶頂に痙攣する小さな身体から、ぐったりと力が抜ける。

 「あ……ああ、あっ……」

 辛うじて残った意識が残留する快感を拾い集め、断続的に少女を苛む。
 尚も絡みつこうとする少女から這い出て、吐息と一緒に全身の緊張も吐き出した。浴槽に背を預け、心地好い疲労を満喫する。と、自分に向けられる名残惜しげな、寂しげな視線に気づいた。無言で、少女の腋に腕を入れて隣に座れるよう身を起こしてやった。少女もまた言葉を発することなく、汗に濡れた裸体で少年にしなだれかかる。
 少女の秘裂から、白濁液が重力に従い落ちてくるのを認めて、満足感に浸る。触れ合う少女の身も心も、今や自分のものなのだ。

 「……妊娠、しちゃったかな」

 ぽつりと、少女が言った。分からないと、少年は答える。
 孕むなら孕めばいい。それは一層、自分と少女を離れられなくする鎖となる。

 「……あのね。私、ファンの子供なら……産んでもいい」

 大抵の男なら狂喜乱舞するようなセリフの後、でも、と言葉は続く。

 「一年後に……私、お母さんになれる自信、ないよ……」

 声は震えていた。少年の子種を胎内に感じながら、その行為を悔いるように。
 お金は一応、あるけれど。家も職もない自分たちが、子育てなんて大それたことができるのかと戦いている。覚束ない未来に、不安がっている。

 「…………」

 任せろと、安心していいと、ファンは言えなかった。胸を張って言えるだけの資格を、ファンは有していなかった。
 燃え上がった本能が冷やされていくにつれ、少女を手に入れた充実感に不純物が混じり出す。
 それは、不快な気分だった。少なくとも、今この時は感じていたくないものだった。
 濡れた髪に触れ、黒い髪をすり抜け水気だけを振るい落とすと、ラナは憂いの瞳を驚きに丸くした。
 膝裏と背中に腕を回して、少女を抱え上げる。その過程で、身体に付く汗や雫も雨のようにパラパラと、浴室に置いていく。
 何も着ないまま、寝室の扉を開けた。寝台に横たえられた少女は、何だろうと赤紫の瞳を見上げている。
 その唇にキスをして、身体に愛撫を加えられて、やっとこれが性交の準備だと悟る。
 やだ、と少女は言った。首筋を舌に這われながら、許してと訴える。なぜ二度もするのか、分からなかった。
 けれど一度昇り詰めた姿態は感度を増して、否応なく薪を燃やされた。少年の指が未だ膣内を満たす白濁ごと少女を掻き混ぜて、悲鳴の間に、挿入を受ける。ぐちゅぐちゅと、粘った音を響かせて、新たな精液を注がれる。
 少女が意識を失うまで、執拗なまでに少年は責めた。
 余計なことを考えられないよう、将来の不安を今夜だけでも忘れられるよう。
 絶叫を聞きながら。
 少女を白く、白く、染め上げた。















 薄明。
 ドラゴンが部屋に戻って来た時、少女は寝室でガウンにくるまりすやすやと寝息を立てていた。
 赤紫の少年の姿は、どこにもなかった。

 「……」

 思わずぎりりと歯を噛み締めた瞬間、前触れなく天井から件の少年が落下してきて、心臓が止まりかける。
 何だかんだで、少年の気配は読みにくい。どこに行っていたのか問い詰めようと口を開き、ドラゴンはふと眉をひそめる。
 ぼんやりとした様子はいつもながら、顔に疲労の色を残しつつも充足感で満ちている。
 ファン、と短く、だが鋭い声で呼んだ。

 「誰を殺してきた.......?」

 少年は顔を上げ、くふりと、ドラゴンをして背筋の寒くなる嗤いを浮かべ、言った。



 「――“人喰い”」








[19773] 怪奇な関係
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:80c1420b
Date: 2011/05/27 12:53
 海軍部隊駐屯の官舎だった。
 私室の椅子に腰かけたバリズは、夜も明ける間際となってようやく片付いた事態に、満足と心残りを同時に覚えながら大きく欠伸した。仕事を終えての酒はまた格別、と酒瓶の口を切る。
 革命軍幹部、オカマ王エンポリオ・イワンコフの捕縛。あのバカ面をぶん殴る前に向こうが投降した形だが、大手柄には違いない。
 しかし喰い損ねた、と思う。本日――正しくは昨日だが、あの少女を逃がしたことが残念でならない。
 美味そうだった。女の、それも子供の肉は柔らかい。

 (……まあ、オカマ野郎の言も一理ありやがる)

 つい先日、うっかり――そう、ついうっかり、“市民”に手を出してしまった記憶を思い起こす。結果的にその事件は不祥事として揉み消されたが、バリズの降格と左遷は免れなかった。よくもまあ処刑されなかったと自分のことながら感心してしまうが、嗜好はともかくそれまでの実績が功を奏したのだろう。しかしそれもこれも自分が空腹を抱えている時に、あんな美味そうな獲物が通りかかるのが悪いのだと、愚痴のように言ってみる。
 大海賊時代は、十六年の時を経てまるで衰えず、海は騒がしいままだ。その煽りを食って、かつてバリズが乗っていた船は難破したのだが。
 食人嗜好も、その時からの付き合いとなる。尽きた食料の代わりに、波任せに漂う船の中で喰える物は他になかった。
 無論、後悔などしていない。“食材”に感謝する気持ちは、微塵も揺るがない。
 救助に来た海軍にそのまま入隊したのも、無難に“食料”を求めてのこと。海賊という名の悪ならば、幾ら喰らおうと文句などでない。海軍の体裁に悪いからと、薄暗い9番目の組織に一度警告されたことはあったが。故に一応、“食事”は隠れて行うようにしたが。
 とはいえ、降格と左遷は痛かった。辺境に海賊は少なく、少将位であった方が自由が利いたからだ。
 しかしそれも今日で終わりだ。大物を捕まえたことで既に昇進が決まっている。一階級、准将位だが、文句は言うまい。偉大なる航路への復帰も検討されている。こんな静かすぎる島とはおさらばだ。
 となると、やはりあの少女を捕まえておきたかったと思う。悲鳴と哀願をバックミュージックに柔らかな生肉を噛み千切る快感を、昇進祝いに得たかったと思う。食欲が過剰なバリズは、捕食対象への性欲が薄いのだ。……その両方が同一なのかもしれないが。

 (今からでも、探してみやがるか……?)

 酒に侵されつつある思考で真面目に検討する。
 少女の名前は不明だったが、オカマ王が投降した後でファンとかいう赤い服のガキが記録に残ってないか部下に調べさせたところ、二日前の定期便で下船したという記録が見つかった。
 だが六感に何となく引っ掛かりを覚えたバリズは電伝虫による通話でどこの島から乗ったのかまで探らせ。
 結果下船記録はあれど、ファンという名の赤紫の子供が乗船した記録は、どこにも残っていなかった。
 そして図ったように姿を現した革命軍の幹部――怪しいことこの上ない。

 (ドラゴンの隠し子って線は……ちと無理か)

 細っこい身体も顔立ちも、まるで似ていない。母親似なのかもしれないが、血縁関係の可能性は低いだろう。
 だがそれは、革命軍との関わりを否定する要素にもならないが。

 「……」

 ここまでだな、とバリズは結論付ける。これ以上あの少女に固執すると、何か途方もない厄災を引いてしまいそうだった。
 長年の経験で培った六感が、警鐘を鳴らしている。ファンタジックなドラゴンの巨影が空一面に広がった様を想像して、苦く笑う。

 ――不吉な予感は、正確だった。
 音もなく、影もなく。
 匂いなく、姿形気配一つなく――



 バリズが扉を開けた時からずっと室内にいた........赤紫の少年が、男の喉に手をかけていたのだから。



 「――っ!?」

 ぶちっ、と。バリズが痛みを感じた瞬間には、全てが終わっていた。
 声帯と一緒に、主要な運動機能を司る神経をも赤く引き千切られ。だらりと、バリズの首から下が弛緩する。
 背もたれに寄りかかったまま、ゆらりと現れた下手人の姿に目を剥いた。口が動き、けれど言葉は出てこない。声帯なくして、声が出るはずもない。

 「…………くふ」

 と、少年が赤く嗤うのを、見上げることしかできない。その指先がブチブチと、パキパキと、自分の身体をコワす様子を、目を見開いて見る以外に、何も、できない。
 腕の骨が抜かれてゴムのように垂れ下がる。肋骨をいじられ身体からはみ出る。引きずり出された小腸が腹の上でとぐろを巻く。置いてあったペンが突き刺され胃に穴を開ける。切られた膵臓から流れた液が内膜を溶かす。
 痛みはない。
 だがコワされていく。
 少年は薄ら笑いさえ浮かべて。
 楽しんでいる。
 狂っている。
 悪魔――否。

 (悪っ……鬼……!)

 無情に、無慈悲に、無価値に、嬉々として。
 けれど、唐突に脈絡なく飽きた少年は、すいっと文字通りの意味で地下に潜り、数分ほどして舞い戻る。
 その手に数匹の鼠を抱え、部屋に放たれた鼠たちは、腹が減っていたのか血に酔ったのか、すぐさま“餌”へ群がっていき――。



 そうして。



 夜食にしては遅く、朝食というには早い食事を届けに来た部下が、不幸にもその第一発見者となってしまうのは、それから三十分後。
 チィチィと、甲高く鳴く、鼠。仲間の気配に、餌の気配に、わらわらと寄り集まり喰らいたかる、十数匹のドブ鼠。
 こびりついたヘドロのような鼠の、悪臭。彼は、食器を取り落とす。音に、鼠たちが逃げ出す。後に、ついさっきまで上司だったモノの残骸が残され。
 生きたまま喰われ........まだ生きていた.......男のぎょろりと落ち窪んだ目と、目が、合い、合ってしまい。
 ……喉を引きつらせ、嘔吐した。















 「……」

 ニュースクーの届けた西の海における海軍大佐変死事件の記事を、ドラゴンは沈黙のまま畳んだ。
 テーブルの向こう側では、赤紫の少年が提出を命じられた反省文を前に、いつもの眠たげな無表情で頭を抱えている。その様子は島に上陸する前と、何ら変わることがない。
 一つ、服装だけは様変わりしているが。真紅のパーカーに軍用的なハーフパンツとブーツ。ラナが選んだとすれば、なかなかセンスがいい。

 「……問題は、そこじゃなくてだな」
 「?」

 独り言に顔を上げた少年へ、何でもないと腕を振った。
 変わらない。
 何も、変わらない。
 ファン・イルマフィは変わることなく、狂ったままだ。
 壊れた時計の、狂った歯車。
 ――治しようがない、壊れきった時計。

 (どうしようも……ないか)

 この事件に関する大よそのところは少年から聞いている。具体的に何をしたのかまで聞き及んではいないが、相当に凄惨な光景がこの記事から透けて見えた。
 約束を、果たしたのだと。
 少女を傷つけた報いを、受けさせたのだと。
 瞳に狂気と愉悦を湛えながら、少年は訥々と語った。
 取り敢えず拳骨の代わりにアイアンクローをかましておいたが、きっと反省はしないだろうと、ドラゴンは暗澹たる溜息を吐く。
 ファンが持つ特技の項目に、暗殺の二文字が加わったらしい。
 普通の生活を送る分には不要なスキルだが、ファンの性格――性質を考えれば、無駄と言えないから、困る。

 「…………」
 「ああ、できたか」

 書き上がった反省文を少年から受け取る。……半紙の半ばも埋まっていないが、努力は買うことにした。

 「…………ドラゴン」

 何だ、と読み進めながら答える。

 「………………強くなりたい」

 静かで、抑揚のない声。なのに周りの雑音をすり抜けて、聞き違えることはない。
 その意図も、その意思も、誤認を許さず伝わってくる。

 「……」

 用紙をテーブルに置き、ドラゴンは背もたれに体重を預けた。しばし、瞑目する。
 いつかは来ると予想していた。出来得ることなら否と答え、どこかの町で平穏な暮らしをさせてやりたいと思っていた。
 それを二人の内の一人、赤紫の少年は望まないだろうと知りながら。

 「強さを得て……」

 慎重に、言葉を選んだ。

 「……お前は、何をする」
 「…………僕は能力者」

 ゆらりと、その姿が一瞬無にたゆたう。
 “光”を、すり抜ける。

 「良くも、悪くも…………目立つ」

 仮に、二人が安全で平穏な地に定住するとしたら。
 いくら隠そうと、少年が能力者であることはいずれ知れるだろう。使わないと決めた所で、ふとした拍子に露見する可能性は高い。そしてもしばれたなら、気味悪がられ、排斥される光景がどうしようもなく容易に想像できた。
 能力者は基本、嫌悪の的であり恐怖の対象である。隣人に欲しがる人はまずいない。
 無論理解を示す者もいるだろうが、海軍や自治軍など相応の立場を持たずして、ひっそりと暮らすことは不可能に近かった。そうでなくとも、少年はともあれ少女の可憐さは、知らず周囲の耳目を集めてしまう。
 なればこそ、強くなりたいというファンの言葉には無視できない重みが伴って。

 「……条件がある」

 数分の思索を終え、ドラゴンは茫洋たる赤紫の双眸を見据えた。

 「必要以上に、人を殺すな。必要以上に、人を壊すな」

 少年の性情を変えることはもはや叶わない。抑制はどこかで、破綻を迎える。
 故に赤い狂気を飼い慣らせと、ドラゴンは伝える。

 「お前は、柱になれ」
 「…………はしら?」
 「どれほど強固な城も、それを支える柱なくして建つことはできない。お前はお前の器に従い、全ての根元である柱となれ」
 「……………………?」
 「今は、意味が分からないか……。だがいずれ悟る。お前は、枝葉にはなれない。必ずや柱となり、大樹を支える幹となる」

 ――波人間であるお前は、誰にも流されることなく己が道を進むだろう。
 そして遠くない未来において、世界を揺るがす巨大な波濤となるだろう。
 お前の得た力はそれほどのものだと。
 いずれ、知る。















 「………………」
 「……なあ少年。危険とは言わないが、退屈じゃないかと聞いてみよう」
 「………………」
 「そうか。ならもう一つ、なぜマストの上で三点頭立する必要があるのか訊ねてみよう」
 「………………特には」
 「ふむ、若気の至りという奴かな。結構結構、若いうちは何でもしてみるのが僥倖だ」
 「………………」

 若気の至りも、僥倖も、言葉の使い方が絶対に違う。
 空を真下に見下ろしながら、ファンは指摘すべきか数秒迷った。
 マストの上の、見張り台。ファンの姿勢からは見上げる位置に、アゼリアが双眼鏡を首から下げて、障害物の一切ない大海原を見張っている。
 アゼリアはやや色落ちした黒髪をバンダナで縛り、よく日に焼けた褐色の肌を晒す女性だ。革命軍の幹部でこそないけれど、面倒見の良い性格で人望を得ている。船上という密室で大勢の人間が暮らすとなれば、当然そこに齟齬や問題が生じるわけで、多忙な幹部に代わりその仲裁を買っているのがアゼリアだった。好き勝手してる自分はさて置いて、ラナは結構、世話になっているらしい。
 生まれ故郷を巣立って船の生活も九日目。立ち寄った島を出たのは今朝で、船は順調に波を裂き、次なる目的地へ船首を向けている。

 「少年、昨日は随分やんちゃをしたそうじゃないか。朝刊に載っていたぞ、『西の海で起きた変事・海軍大佐死亡の謎と抗争の一夜』。フン! 以前からあの大佐は気に入らなかったんだ」

 変死もいい気味さ、とアゼリアは薄く笑う。
 さすがに大差を殺したのがすぐ頭上にいる自分だとは、気付いてないようだ。
 気付ける方がおかしいけれど。

 「ところで、ラナ娘とは何があったか訊いてみようか」
 「…………」

 ……ラナ娘って。
 名前は入っているけれど、その呼び方はどうだろう。

 「隠さなくてもいいぞ? これでも人間関係には人一倍花を生けていてね」
 「…………それは、花瓶」

 正しくは、過敏。
 あるいは、敏感。

 「男が小さなことを気にするな。で、特に男女の関係には気を遣っている。痴情のもつれは意外と洒落にならなくてな。もういいっ、死んでやる~!と叫ぶ女を何度宥めたことか知れない」

 裏声使って真似して見せるアゼリア。
 革命軍には女泣かせの男が多いのだろうか。

 「この間なんか元カノが粘着に執着してきて怖い、助けてくれ~……とみっともなく縋りついてくる男を蹴飛ばしったけな」

 ……革命軍の男女模様はグランドラインか。
 どこまで本当かは、知らないけれど。話半分ぐらいが、丁度いいかもしれない。
 かなり結構言ってることは適当だと、ラナに聞いた覚えがある。

 「ついさっき――といっても一時間は前だが、洗濯中のラナ娘を見かけてな。確か少年は……反省文だったか?」
 「…………」

 沈黙。
 あんな苦行がこの世にあるのかと、思い出して身震い。
 もう二度と書きたくない。
 そんな自分の反応に何を見たか、逆さまの視界の中でアゼリアはにやにやと揶揄するように。

 「随分―――色っぽくなってたな」

 そう言った。見る目のある奴にしか分からんが、と付け加えるけれど。

 「少年、あの子の器量はこれからますます磨きがかかるぞ。気をつけろ? ここからが、正念場だ」
 「………………」
 「私は互いが好き合ってる限り野暮なことは言わないさ。同性愛だろうが歳が二十も離れていようが、愛の前に障害は無意味だ」

 障害あってこその愛、という意見もあるがね。
 意味ありげに、意味深に、そして何の意味もなさそうに、褐色の女性はニヤリと口端を差し曲げる。
 アゼリアは軽い口調のくせに、言葉は重い。長くそうした事情を見てきた者の、忠告。
 無視はできない、けれど。

 「…………僕たちは、恋人じゃない」
 「ふむ?」
 「恋人には…………なれない」

 ほう、と興味深げに、アゼリアの目が細くなる。
 ファンは三点頭立の姿勢から、ぐっと腕を伸ばして体を入れ替え、軽やかに見張り台へと着地した。小さく称賛の口笛を受ける。

 「ならばお聞かせ願おうか。互いが好き合い、障害もないのに恋人となれないそのわけを」
 「……………………」

 ゆっくりと、高い位置にあるアゼリアの瞳を見上げて。



 「僕は――――ラナに恋してない」



 ジャキッ、と。目と鼻の先で、銃口が暗い穴を覗かせていた。
 一秒足らずの間に抜かれた拳銃はファンの額を照準し、照星の向こうでアゼリアの瞳が苛烈な光を湛えていた。

 「少年。世の中には言ってもいいことと、言っちゃあいけないことがある」
 「…………」
 「それは――あの子を傷付ける言葉だ。聡い少年が、それを分からぬわけがあるまい?」
 「…………アゼリアに言われなくても、分かってる」
 「何がかな?」
 「ラナに……聞けばいい」

 僕たちが、恋人かどうか。
 そんな言葉を残して。

 「――む?」

 アゼリアは、瞳を瞬かせた。煙のように――蜃気楼のように跡形もなく、ふっと消えた少年を探す。見張りを任される目の良さで、船尾から内部へ消えていく姿を捉える。

 「……はて、少年の能力は透過じゃなかったか?」

 あれでは“暴君”じゃないか――と胸中で呟きつつ。

 「…………まあ、いいさ。上手く逃げられたが、釘はしっかり刺せただろう」

 くるくると指先に引っかけた拳銃を、腰に納めた。夕食時、ラナ娘にそれとなく尋ねてみようかと、つらつらと図る。
 頼れるお姉さん役も、楽じゃない。
 などと、嘯きながら、けれど楽しげに。















 「――で、詰まるところ私は聞いてみようと思い立ったわけだ」
 「……あの、アゼリアさん。会話が繋がってないんですけど」

 そうか?と片眉を上げる褐色の女性は、物語に出て来る女海賊さながらの格好で炙り魚を丸かじりした。
 朝昼晩の食事時は食堂がごった返すというか、タイミングを見計らわないと席に着けないほど混雑してしまう。けれど例外はあって、ごく一部の私室を持つ人たちは料理を持って自分の部屋で食べたりする。
 今日の夕ご飯は何だろう、寄港直後だから美味しいの出るかな、と期待して食堂に行ったら、アゼリアさんが二人分のお皿を持って待ち構えてて。たまには二人で話をしつつゆっくり食べよう、と誘われた。ドラゴンに呼ばれてファンはいないから、空いてる自分の部屋で一緒に食べようということになった。

 「えっと……聞いてみようって、何をですか?」
 「そんなものは決まってるじゃないか。――ラナ娘と少年の関係だ」

 ブッ、と口に運んだオニオンスープを噴き出す。それを見越していたように、アゼリアは布巾でテーブルを拭く。

 「ふむ、反応が初々しいな。無反応な少年はつまらない限りだったが」
 「からかわないでください……」
 「何を言う。他人の恋愛ほど面白い肴はないぞ」
 「私は当事者ですっ!」

 そう言えばそうだったな、と本当に他人事の如く。いや、実際に他人事なのだけど。
 初めて乗る船の生活で、様々なルールを教えてくれたのがアゼリアだった。頼りになるお姉さんであることは間違いないけれど、どこまで本気か分からない飄々とした態度は凄く困る。

 「まあ落ち着け。そんなに怒ると鷲が増えるぞ」
 「増えるのはしわです! 増えませんけど!」
 「好い女は小さいことを気にしてはならない――我が家の家訓だ。ラナ娘にも使う許可をやろうじゃないか」

 ……いい人だけど、いい人なんだけど……。
 もう少し、小さいことも気にしてほしい。……ラナ娘のニックネームも止めてくれないし。

 「ところで、ここからは真面目な話なんだが」

 と、骨だけになった魚を皿に置き、アゼリアは顔つきを改めた。

 「ラナ娘は、少年のことが好きで、間違いないか?」
 「……いきなり、ですね」
 「答えにくいなら、別に答えずとも構わない。しかし私は船内の人間関係を調整する、謂わばカウンセラーのような立場にあるからね。特に男女の間で生まれる不和は、可能な限り芽を出す前に取り除きたいと思っている」
 「……」
 「昼間、少年にも尋ねてみたんだがね、そちらは上手く躱されてしまった」

 なかなか優秀だ、と呟く。

 「これでも、私はお前たち二人を気に入っているんだ。そうでもなきゃ誰がガキの恋愛なんかに口を挟むものか」
 「本音が出た……!」
 「まあ、そこは流してくれていい。他愛ない言葉の綾というものだ」

 ……どこが綾なのか全然分からない。
 むしろ、ど真ん中な気がひしひしと。

 「会話が脱線したな……で、だ。イエスかノー、首の動きだけで答えてくれて構わない」

 爛、と深い瞳が光を反射し。

 「ラナ・アルメーラとファン・イルマフィは―――恋人の関係と理解して、いいかな?」
 「………」

 小さく、吐息した。
 言い逃れを許さない、問いかけ。
 強引では、あるけれど。心配してのことだと、分かるけれど。
 でも――誰かに聞いてもらいたい気持ちも、あったから。
 ラナは、黙って首を振った。
 “横”に。

 「おととい……町で、告白したんです」

 険しい視線を向けるアゼリアへと、ラナは言う。

 「分かってたのに……分かり切ってたのに……好きって、言ったんです」

 憂愁の色を、微笑に含ませて。



 「ファンは絶対、応えてくれないのに」



 「――――」

 意味を。
 図り、かねた。どう見たって、二人の仲は相思相愛以上でも以下でもなく、恋に恋するわけでもなく、微笑ましくも確かなカップルとしてアゼリアの目には映っていた。
 しかし当の本人たち両方が、それは違うと言う。恋人ではないと言い、けれど好きだと言う。
 理解――し難い。
 不可解だ。

 「……告白、したんだろう?」
 「……はい。でも、告白した“だけ”です」

 好きとも嫌いとも。愛しているともいないとも。
 赤紫の少年は、一言だって口にしてない。

 「ファンの頭の中って、単純なんです。好きか嫌いか、無関心の三者択一……」

 その好悪にしたところで、好きな食べ物と、異性に向ける好意と、動物を可愛がることが同列に語られて。
 複雑な感情を、赤紫の少年は持たない。持とうとしても、持てない。
 単純一途とは、また違うけれど。そんな少年だから、何を感じているか自然に分かってしまうのだけど。

 「私は、ファンを捕まえられないけど……ファンは、私を捕まえられる」

 両の眼差しを伏せ、想い馳せるように。

 「だから、私は捕まっちゃったんです。ファンっていう津波に攫われて、後戻りできない深みにはまっちゃって……」
 「……」
 「恋とも言えない恋……って、言われました。服屋のお姉さんに……あの人はもしかしたら、一目見ただけで分かってたのかも」
 「……お前はそれでいいのか? 告白し、だが答えない少年を好きになったままでいいのか?」
 「――アゼリアさん。私、最初にちゃんと言いました」

 応えてくれないと分かっていたのに……好きと、言ってしまった。
 少女は瞳を開けて、寂しさを交えながら、けれど後悔のない黒い瞳で微笑んだ。

 「理不尽で、不条理で、横暴なファンに…………私は、恋しちゃったんです」

 そういう意味では――私も、壊れてるのかもしれません。
 ラナはぺろっと舌を出して、そう締めた。
 自分の心は、ファンのいいように壊されて、狂ってしまったのかもしれないと、思った。

 「………………参ったねこれは」 

 沈黙の末、アゼリアは否応なしに苦笑する。

 「つまりこういうことか? 私が憂慮し苦悩した全ては邪推だった、と。……まあ上手く行っているなら何よりだ。私は恋の形にまで口出ししないからね。ロリショタブラシスホモレズ好きにやればいいさ」
 「えっと……すみません。無駄な心配かけて」
 「……さりげなく無駄と言ってくれるあたり、追い討ちなのか天然なのか」
 「え?」
 「いやいや。戦果はなかったが、ラナ娘の惚気話が聞けて楽しかったよ。後で言い触らすとしよう」
 「ちょっ……やめてください!? カウンセラーが患者のプライバシー口にしちゃ悪いと思います!」
 「私はカウンセラーみたいなもので、カウンセラーじゃないからなぁ……」

 とぼけた言葉を平然と。赤い顔で可愛らしく怒ってくる少女で遊びながら、口の端を曲げる。
 やはり明るい子どもたちこそ、私たちが守るべきものだと、思った。




[19773] 悩める夜
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47b90763
Date: 2010/09/13 17:25

 ガチャリと開く音が何やら新鮮で、ラナは開いていたカタログから顔を上げる。珍しく、ファンはドアを使って部屋に入ってきた。

 「ラナ」
 「……な、何?」

 しかも少年の側から声をかけてきて、戸惑った。腰かけた姿勢で、上擦った応えを返す。
 昨夜はいろんな疲れを取るため泥のように眠り、今日は掃除や洗濯などの一日ぶりの仕事にまた従事して、顔を合わせる機会はあったけれど、赤紫の少年と余り話せてなかった。今だって何やかやと世話を焼いてくれる姉御肌の女性から服のカタログを借りてきて、流行のファッションなんかを調べてた。
 何となく機会を逸して、一日経ってないのに会話が久しぶりのように感じるのは、きっと、もっと傍にいたいから。少年の近くで、同じ時間を過ごしたいから。
 勿論そんなこと、面と向かって言えないけれど。面と向かって言わないけれど。でも、ちょっと遠まわしに頼もうか、なんて画策する。
 ファンが眠たげな無表情で、ベッドに腰掛ける自分の隣に座って、じぃっと見つめてくる。
 ……近い。距離が。えっと、十センチ? 五センチ?
 跳ね始めた鼓動を悟られまいと、ちょっと身体を離そうとして、ファンに機先を制される。すぅっと伸びてきた両手が頬を挟んで、逃げられなくなる。耳裏に指が擦れて、普段ならくすぐったいそれが、いけない気持ちに薪を足していく。
 キス――だと、思った。でも、キスじゃなかった。それ以上、ファンは動こうとせず、ただ見つめるだけ。赤紫の瞳に、戸惑う自分の黒瞳が映り、それから数分もの間、ファンは口を開かなかった。後になって、それが躊躇いの時間だと思い至った。
 そして、ファンの口から出た言葉に理解が追い付かず―――理解、したくなくて、嘘だと言ってほしくて、聞き返した。


 「…………三か月から半年ぐらい。………無人島、行ってくる」


 修行、と最後に付け足された言葉が、酷く寒々しく聞こえた。















 ゆらり、ゆらり、ゆらめいて。
 ずっと前からそこにいたと錯覚してしまう草木のような自然さで、赤い影が現れる。千切れた雲の破片が月に舞い、上弦の衣と彩る。
 寝ずの見張りが佇む少年の姿に首を傾けた。いつ甲板に出たのか把握できなかったけれども、問題なしと仕事に戻る。それを意識の端で捉えながら、ファンはいつもの無表情で、けれど静かに思案する様子で夜空を仰ぐ。

 「――肉体的な強度が低すぎる」

 耳元に蘇るのは、ついさっき聞いたドラゴンの言葉。

 「体力と筋力が全く足りん。無理して半年……最低一年は身体造りに使うべきだろう。目指す到達点にもよるが、鍛錬とは長い時をかけて行うものだ」

 時。時間。歳月。
 けれど、自分たちを脅かす敵や障害が今この時やってきたらどうするのだろう。船が西の海から偉大なる航路へ向かっているという現状、海軍の主戦力とぶつかってしまう可能性はゼロではない。
 …………時間をかけちゃ……だめ。
 黒々とした夜は少女の髪と瞳の色。そこには無限と思える星の宝珠が輝いている。
 今頃は船室にいるはずの、たった一人の同郷を思い浮かべ、小さな吐息。
 背負うとは。
 守るとは。
 こんなにも、重い。
 押し潰されるような神経はないけれど、決して軽くはないそれを実感し、腹に据える。
 自分のために。
 少女のために。
 強さを―――力を。

 「…………うん。やっぱり…………目安は三カ月」

 最低でも―――半年。
 ドラゴンの想定を、前倒し。
 多少の無理なんて甘っちょろいことは考えない。多大な無茶を、押し通す。
 決して不可能ではないはずだ。肉体強化は年単位を見据えるにしても、能力の修行はまた違うはずだ。
 …………ユラユラの実の、波人間。
 発現した能力が透過である理由は、依然として不明だけれど。
 まだ、悪魔の実を食べて十日経っていない。自分にできることが何か、まだ把握しきっていない。瞬間移動だって、意図して行ったわけじゃない。
 ただ、助ける。
 少女を、救う。
 それだけを想い―――気付けば、跳んでいた。空間を、距離を、すり抜けていた。

 “幽歩ゆうほ

 話を聞いたドラゴンが、そう名付けた。幽世を歩く――と、いう意味らしい。
 けれど名前を付ける意味があるのか分からなくて、率直に訊ねた。
 意識するかしないか、極論すればそれだけの違いだと、ドラゴンは何でもないような顔で答えた。

 「空手、拳法、柔道……いずれも、一つ一つに名前が付けられている。能力者の技も然り。攻防の繋ぎに使うただの突きや蹴りにまで名付ける必要性は皆無だが、本命の一撃に名を付ける意味はある。……抽象的な話になるが、あらゆる事象、現象、存在は、名を持つことで初めて正確な認識が可能となり、倭という国では、これを言霊と言う。……まあ、俺は専門家じゃないからそこは間違っているかも知れんが、名は体を表すという言葉通り、技の名を意識することで技そのものがイメージされ、染みついた動きを無意識にトレースできるようになった結果、戦闘中ほかのことに思考を割ける余裕が――――」

 それから延々もう十分ほど続いたけれど、結論、名前はあった方が便利らしい。どうでもいいような気もするけれど、それは追々考えることにする。
 修行。
 当然、サバイバル。船の上で行うわけにはいかない。
 そして誰かに付きっきりで教えてもらうわけにも、いかない。その点では、都合のよい島があるらしいけれど。

 「…………」

 星空を仰ぎ、頭を掻く。
 この話を聞いた少女の反応だけが、懸念要素。
 独り置いていくことに、心配がないほど薄情なつもりはない。
 ……そして予想通り、部屋に戻ってそのことを伝えると、黒髪の少女は捨てられた犬のように萎れて、眉根を下げて。絶対に行ってほしくないことは明らかなのに、何も言わずに唇を噛んだ。
 やり辛い、と思う。真っ直ぐな好意を向けられることに、慣れてない。
 慣れてなくとも、関係ないけれど。どんな好意も、悪意も、無関係。やることは変えない。変わらない。

 「……いつ、出発するの」
 「…………明日」

 俯いていた顔が勢いよく上がる。早すぎる、と少女の目が訴えかける。
 少女の想いを聞いて、まだ二十四時間と少し。少女が思いの丈をぶつけて、二十四時間と、少し。
 恋とか、愛とか、難しいことは分からないけれど。少女に触れられなくなるのは嫌という気持ちだって、ある。
 だけど、でも。

 「…………僕は強くなる」

 未だ少女の腕を隠す包帯へと、思い返すように手を置く。

 「どこの海でも……敵はたくさん。…………だから強くなって、ラナを守る」

 静けさが、幕を下ろす。ランプの火が、ジッと音を立てる。
 ラナの顔を挟む両手に、少女がそっと片手を添えた。

 「私のこと………好き……?」

 ファンは、一言で答えた。



 「赤くしたいぐらい」



 時が止まったような静寂ののち、魂まで抜け出るような溜息を聞いて、ファンは首を傾げる。自分なりに最高級の親愛を示す言葉は、お気に召さなかったらしい。

 「そうだよね……ファンってそういう人だよね……」

 何やら悟りを開いたような声。もう一度、首を傾げる。言葉の意味を考える。

 ……。
 …………。
 ……………………。

 意味不明という結論に落ち着いた。嘆息と落胆を零す少女のすべすべとした頬を、何となく引っ張る。

 「ふぁうっ!? ふぁ、ふぁなひてよ!」

 ガン無視。ぐにぐに無表情に引っ張る。伸びる。柔らかい。楽しい。
 ひとしきり唸って、少女が反撃に出る。眠たげな少年のほっぺたを掴む。引っ張る。ぐにっと無表情が横に広がって、触れたことに驚いた直後、予定調和のように指がすり抜ける。スカスカと無駄な行為を何度か繰り返し、うぅ~、と悔しげに。
 お別れの夜に何をやっているのかと思わなくもないけれど、しばらくそのまま、ファンは少女で遊んだ。















 コツコツ、と靴を鳴らす。フードを下ろし、刺青に半面をのたうたせる男がデッキに上がる。身軽に梯子を登り、見張り台へ手をかける。そこに先客を認めて、眉をしかめた。

 「これはこれは司令官殿。こんな夜分にいかがした」

 色落ちした黒髪をバンダナで縛った、褐色の女。アゼリアはピーナッツの袋を漁り、殻を割って咀嚼し、敬意の欠片も見当たらないようで敬っている笑みを浮かべた。複雑すぎる女の笑顔に、ドラゴンは眉間のしわを深くする。

 「……アゼリア、見張り場で物を食うな」
 「そんなことを言いにわざわざ来たわけじゃないだろう? 堅くて歯応えのある物は大好きだが、堅苦しいのは嫌いでね。司令官殿も偶にはざっくり叩き割って適当に過ごしたらどうだい?」

 ニヤリと笑い、ピーナッツをガリガリ奥歯ですり潰す。相変わらず無駄にセリフが多い上、妙な言い回しをする女だ。今の言葉も、遠まわしに休養を取れとせっついている。
 が、そういうわけにもいかない現状を思い、嘆息。聞かなかったことにして、流す。

 「船内の様子はどうだ?」
 「司令官殿が思う以上に重畳だと答えてみよう。ひと月前に加わった連中も、貴族の横暴がもたらした悲劇に決意と結束を固くしている。離反や裏切りの心配はないと見ていい」
 「……そうか」

 革命軍。つまりは革命を強行する軍隊。その構成員は大半が貴族や王族の振る舞いに異を唱えた者たちであり、身の危険に晒され、住処を追われた者たち。真に大義を持ち世界政府を打倒せんと思う者は、少数だ。末端であればある程、恨みと私怨を持ってして志願した人間が、多数。
 だが私怨に走る者は私情に走ると同義。公を軽んじ私を重んじれば軍が成り立たない。
 故に、引き締めが必要となる。恨みを晴らすことと世界政府へ反旗を翻すことはイコールでないと、新たに入った者たちへ教え込む必要がある。こうして西の海の辺境へと出向いたのも、その一環。貴族に雇われた海賊が、とある島を狙っている情報を掴んだのは偶然だったが。

 「ならば当初の目的は達したな。イワンコフが動けなくなったのは痛いが、潜伏したと思えばいい。……アゼリア、何だその目は」
 「ふふん、何だろうなぁ? 素直じゃない司令官殿には教えてやるまい。しかし司令官殿が折れるのであれば考慮してみよう。さあ、後悔は先に立たずと言うがいかに?」

 にやつくアゼリアは空になった袋をぐしゃぐしゃと丸めて、ゴミの袋に突っ込んだ。一人で全部食ったらしい。腹を壊すぞ、と余所に流れかけた思考を修正。ドラゴンは眉間をほぐした。

 「……人の思考を先読みする術にかけては、一流だな」
 「そうでもない。先刻外したばかりだよ」
 「…………ファンとラナの様子が聞きたい」

 待ってましたとばかりに、アゼリアはそれまで組んでいた胡坐を解き立ち上がる。ドラゴンとまではいかないが、充分に長身な上背。

 「最初からそう言えばいいだろうに、これだから見栄に拘る男は解しきれん」

 軽薄に口を開き、しかし褐色の女は直後軽薄さを切り捨てる。
 別人のような目つきが、ドラゴンを見据えた。

 「……手の出しようがない、というのが結論だ。あの子らは私達が思うよりも遥かに成熟している。方向性に異なりはあれ、一つ二つ問題と課題をクリアすれば手を離しても構わんだろう」
 「問題と、課題か……」
 「ラナ娘は――ラナは、大して苦労せんさ。手に職を付ける努力を既に始めた。そちらはのちほど伝手を紹介するとして……問題は少年だ」
 「治らないか」
 「治らないな。あれは根っこの部分が腐りきっている。治したいなら切り倒すよりほかはない」

 殺す以外に治療法はないと、アゼリア。
 ただの例えではあるが、ドラゴンは嫌そうな顔をする。

 「……まあ、外からの治療という前提ではあるがな。後は当人次第さ……と、期待に応えられず申し訳ない」
 「元より望み薄だったこと。気にするな。……飼い慣らせと、昼にもう教えた。ファンは明日、エグザルに送る」

 束の間、沈黙がわだかまった。

 「……すまない、聞き取れなかったようだ。少年を何処に送るって?」
 「エグザルだ」

 アゼリアは額に手を当て、うろうろと狭い見張り台を歩きまわり、一度天を仰いでドラゴンへ向き直る。

 「正気か? いや正気じゃないとしておこう。だが自殺行為だと警告しておこう」
 「さっき、俺達が思う以上に成熟していると言ったのはお前だったはずだが」
 「それとこれとは話が違う。あそこは大昔の、対能力者用.....の流刑地だぞ?」
 「採掘され尽くして、現在は往時の半分も効力はない」
 「司令官殿、そのセリフは透過の意味を理解しての言葉だろうな?」

 火花こそ散らなかったが、無言の圧力が互いの視線に乗せられた。
 しばらくして、先に目を逸らしたのはアゼリアだった。

 「……感情的になったようだ。すまない、と謝罪してみよう」
 「弟……だったか」
 「両方だ。弟妹が生きていれば丁度…………いや、今更無意味なことだ。ただ、私はあの二人に私情を重ねるつもりであることを覚悟しておいてくれ」
 「……仕事をこなせば、何も言わん」

 そうか、と返し、褐色の女は背を向け、見張り台の縁を掴む。喪われた家族を回顧し、悔恨する。
 空はいつも変わらない。ただ、世界を見下ろす。悲劇も、喜劇も、ただ平等に眺めるだけ。
 それを憎らしいと思っても仕方がない。だが見下ろされているのが、見下されてるようで。
 無意味に、しかしやたらと、悔しかった。















 波が砕ける音を聞いた。夜明けを待たず、少女は潮騒に揺り起こされる。
 薄ぼんやりとした天井に覚束ない視線を向け、眠っている間に汗ばんだ肌が涼しさを求めて、うつ伏せの姿勢から起き上がる。肩からブランケットが滑り落ち、白い素肌が夜明け前の薄闇に浮かんだ。

 「……」

 すぐ隣から聞こえた寝息に目を向けて、赤紫の少年が寝静まっているのに意識を向けて、ラナは無衣の少年に身を寄せる。結局なし崩しに服を取られて、抱かれて、またナカに出されて。これから何カ月も離れ離れになることを思うと、無理に拒絶できなくて。
 拒絶しても、少年が聞いてくれたかなんて分からないけれど。

 「…………ん」

 小さく、ファンが身じろぎする。寝返りを打った身体が近い距離をゼロにして、肌と肌が触れ合い、ラナは少年の胸に顔を埋め、足と足とを絡ませた。少年の熱を、匂いを、気配を、忘れないように。

 「強くならなくても、いいから……」



 ……ずっと傍に、いてほしい……。

 






[19773] 間の幕
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47b90763
Date: 2010/10/14 14:32
 偉大なる航路の中ほど、凪の海に隣接する海域に今や無用の長物と化した孤島が、ひっそりと海面にその顔を覗かせている。
 島の名はエグザル。インペルダウン建立以前に能力者専用の流刑地として、数多くの屍を飲み込んだ島。ロギアほか危険な能力を保有する犯罪者を捕らえ続けるために海楼石が発見されるまでの間、能力者を無力化する不思議島として重用を受けた。
 現在では採掘可能な海楼石の鉱脈を掘り尽くし、その残り屑が地表付近に堆積している。完全な無力化、無効化するほどの効力は失われ、能力者の活力を奪うには至らず、その力を半減させるだけに留まった。
 かつての流刑地、島流しの場に、ファンは相も変らぬ眠たげな面持ちで降り立った。

 「この浜辺だけは波に攫われたのか、海楼石の影響がない……。避難場所に使うといいだろう。俺は定期的に様子を見に来るが、もしもの時はそれで知らせてくれ」

 出立前にドラゴンから渡された袋には、直通専門らしい電伝虫が一匹、にやけ面で搭載されていた。他には頑丈なナイフと、救急セット一式、火打石、なぜか白紙のノートとインクに羽ペン。前半はともかく、筆記用具の類に首を傾げる。日記でも書けということだろうか。
 ファンはゆらりと顔を上げ、目の前にそびえる巨躯へ頷いた。ラナから話は聞いていたけれど、前回は結局会えずじまいで、今日初顔合わせとなった巨漢――バーソロミュー・くま。今朝会ってからここへ来るまでの配慮も細やかで、あだ名が“暴君”であるとはどうにも信じがたい印象。

 「……身体には気をつけろ。お前の身に何かあると、あの少女が悲しむ」

 その上、ラナをなぜか気に入っているらしかった。ちょっとしたお話と早とちりがあったとしか聞いてないのだけれど、何がどうなっているのやら。
 六メートルもの体躯が背を向けて、最後に励ましの言葉を残したくまは忽然と、空の彼方へ掻き消える。能力を使った、超高速での瞬間移動。テレポートと違って壁の向こうには行けないらしいけれど、使い方は幽歩と大差ないように思った。くまみたいに長距離を移動できるかは別として。その意味でも、限界を知る必要があるけれど。

 「…………」

 絶海の孤島に一人残った少年は、ゆらりと背後を振り返る。島の中央で遥か昔に活動を停止した死火山が、今なお雄大にその威容を晒している。
 エグザルの気候は温暖な春島、かつ雨の少ない乾燥した土地。自然と飲み水は湧水に限られ、多くの流罪者を抱えていた頃は真水の確保で諍いが絶えなかったという。島の動物――猛獣にしてもそれは同じく、島を流れる二本の川、それも上流の綺麗な水場ほど厄介で凶暴な獣が闊歩しているとのことだ。
 その川を登りきると、死火山の頂上に存在する火口湖へ到達するらしい。
 そしてファンがドラゴンから与えられた課題が、それ。

 {一年以内に、死火山の山頂へ至ること}

 「…………」

 なるほど、と思う。水を得るためにも川からは離れられず、川の周りには肉食草食問わずあらゆる生物が集まり、かつ先へ進むごとに危険度は跳ね上がる。ある程度の誤差はあれ、段々と獲物の強さが増していく。一人で修行するには最適の土壌。
 ふいに鳴き声が聞こえた。天空で、一羽のタカが舞っている。緩やかに円を描き、軽やかに飛翔している。
 タカは縁起のいい鳥だ。無表情に腕を上げて、手で掴む仕草をする。
 もちろん届くはずはないけれど、いつかは届かせたいと、決意も新たに。
 ……さて。
 まずは食料調達だ。















 「フォークが動いてないぞ」

 真正面から指摘する声に、黒髪の少女がはっと我を取り戻す。慌てて朝食のサラダを口に運び始め、アゼリアは自身としても珍しく嘆息を零した。まだ一日どころか半日すら過ぎてないのにこの有様。先が思いやられるというものだ。

 「こんなことで何カ月もやっていけるのやら……」
 「……声出てますよ、アゼリアさん」

 ラナの突っ込みに「む」と唸る。ごまかしも込めてスープを啜る。

 「ふむ、なかなかの味だな。心のお気に入りに追加してみよう」
 「わざとらしすぎるんですけど……」
 「そうは言ってもだなラナ娘、寝てる間に男に逃げられた女をどう慰めればいいのか私としても悩みどころでね。逆のパターンならたまに聞くんだが」
 「………………ううううぅ、ファンのバカぁ……っ!」

 可愛らしい少女がザクザクと涙目でパンにフォークを突き刺していく光景は、微笑ましいのか猟奇的なのか甲乙付けがたい所であったが、フォローのしようもなくアゼリアは頬を掻く。
 朝起きたら、ベッドにいなかったらしい。大慌てで甲板に行ったら丁度ドラゴンと出くわし、たった今出発した所だと告げられたらしい。
 面倒がったな、とアゼリアは内心呟く。照れたのか煩わしかったのかは当人しか知りようがないが、別れの見送りが面倒で逃げたのだけは間違いない。

 「しかし、お詫びのプレゼントはあったんだろう?」
 「ほとんど嫌がらせのプレゼントでした!」

 涙混じりにバシバシテーブルを叩き、



 「何でっ、あの猫の着ぐるみファンが持ってるの!?」



 着ぐるみ?とアゼリアは瞳を瞬かせるが、その答えを知っているだろう少年はここにおらず、これまたフォローのしようがない。
 悲しみよりも怒りが勝り、叫ぶだけ叫んだラナはヤケ気味に朝食を掻き込んだ。長々と落ち込んでもいられないのだ。
 無人島での修業を終えて戻ってきたら、ファンは今よりも絶対に強くなっている。きっと誰にも負けない実力を備えて帰って来る。その時自分だけ立ち止まっていたら、少年に合わせる顔がない。だから少女もまた、猫のことは取り敢えず忘れて決意する。

 「アゼリアさん!」
 「残念ながら私はアゼリアではない。双子の妹のロゼリアだ」
 「真面目に聞いてくださいっ!」

 少女の剣幕に褐色の女性は目を丸くし、次の瞬間、ニヤリと笑った。
 くるくると指でフォークを回し、

 「いいだろう。他でもないラナ娘の頼みとあらば、たとえ火の中水の中……。直ちに手配しようじゃないか」
 「……あの、私まだ何も言ってませんけど……」
 「服飾を習いたいんだろう? 安心するがいい。革命軍は大所帯、人材の宝庫だ。被服学を学んだ先達ぐらい紹介して見せよう」

 口でそう言いつつ、昨夜のうちから伝手をたどっていることはおくびにも出さない。

 「とは言え船内では人員も資源も限られる。実際に習えるのはバルティゴに着いてからだろう」
 「それは、いいですけど……。えっと、ありがとうございます」
 「ふふふ、そんなお礼よりも即物的な物が欲しいな。例えば……ラナ娘の八重歯とか」

 ボロボロになったパンを咀嚼する途中でラナはむせた。咳き込み水で流し呼吸を落ち着けて、

 「……百万が一生えたら抜いてあげます」
 「む、生意気な」

 突っ込みを期待していたアゼリアへ、ちょっと進歩した様子を見せるラナだった。
 進歩の方向性がおかしいことは、さておいて。

















 ラナが乙女のプライド的に恐怖の眼差しを送る着ぐるみ、その発端となるブティック“仔猫の鈴”。こじゃれた内装の店内は今、従業員総出による荷造りで戦争じみた気配を漂わせていた。

 「そっちの服はセールに出して! 箱に油紙は敷き詰めた? 敵は潮風と塩水、隙間に麻で防水するのも忘れないでよ! ああそこっ、看板は向こうで発注するから下ろすだけでいいわ!」
 「……あの、キティ店長。今さらですけど考え直しません?」
 「何、怖気づいたの? だったら貴方はここに残りなさい。私は一人でも行くわよ」
 「だから無茶ですって! グランドラインへ“移転”するなんて! それも昨日の今日でっ!」

 そう。男が訴える通り、キティ・ベルは店じまいと移転の準備に奔走していたのである。
 社員たちは――フロアオーナー含め店長以外の全員が、寝耳に水の話に唖然とした。その尻を蹴っ飛ばして付いてくるか否か一日の猶予を与えたキティ店長は、ただの一晩で移転先の物件を押さえていた。
 前々から目を付けていたとの説明を受けても信じがたい速度である。その上海軍の捕らえた犯罪者護送に便乗して、大型軍艦のエスコート付き。どんな手品を使ったのかと、誰も彼もが目を剥いた。話を取り付けた速度も手腕も、驚愕のレベルを超えている。

 『ちょっと臨時収入が入ったのよ。投資のつもりはなかったけど……うん、一億三千万ベリー。この額を利子で済ませるなんて、ホント律義というか欲のない子だったわ……』

 社員一同の率直な疑問をその一言で薙ぎ倒し、悲鳴にも似た絶叫が辺りを貫いたのは言うまでもない。
 交渉の結果、一時的に移送用の軍艦一隻を借り受け、かつ物件購入後手元に残った額が一億三千万。なかなか高く買い取ってくれたと、キティはご満悦。

 「夢なのよ」

 と、未だ再考を具申する男に向けて、子供のように目を輝かせ。

 「世界中の、誰もが憧れるブランドショップを作る……小さい頃から思い描いてきた、夢。私のデザインした服が、世界の頂点に立つのよ」

 生き生きと、語る。

 「その夢が叶う第一歩なのよ? このチャンスをふいにしたら、私は後悔してもしきれないわ」
 「……」

 何も言えなかった。
 呑まれた。そして夢想する。目の前の人が夢を叶えた姿を。



 ――――世界中に猫の衣装を配りまくっている様子を。



 「ぷっ……!」
 「あ、酷い。笑ったわね?」
 「いえその、す、すいません」
 「……まあいいわ。とにかく、私に付いて来なさいフロアオーナー。貴方の力が必要よ」

 美人店長の誘いに、男は苦く笑った。

 「もちろん、昇給してくれますね?」
 「愚問ね。経営が軌道に乗るまでただ働き……は可哀想だから、これまで通りお給金は出すわ」

 さらっと拒否されたことは蒸し返さず、苦笑の色を深める。
 ゴールドオフの髪をアップでまとめ、キティはダンッと床を踏みしめる。

 「行くわよ。目指すはグランドライン、キューカ島!!」

 ……のちに移転したこの店と再会することになろうとは、少年を含め誰一人として知る由はなかった。
 が、今この時間軸においては、蛇足に過ぎない。







____________
今回短め。次回から修業開始。



[19773] 距離が生むモノ
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47b90763
Date: 2010/09/28 16:56
 エグザルは緩やかな楕円形をしている。島を長く割るように二本の大きな川が東西に流れ、ファンの降りた浜辺は東の端だ。ここから川に沿って枝葉を広げる広葉樹の森を抜け、西へ進めば木々もまばらな高原地帯が待ち受け、最後に高所であるためか植物自体が少ない山岳地帯へ至る。
 山の傾斜は進むほどに険しくなりそうだ。森の入口で見つけた味気ない果実をかじりながら、ファンは浜辺の岩に腰かけ遠望する。縮尺のおかしくなりそうな巨鳥が数羽、火山の中腹付近を旋回していた。傾斜だけでなく、脅威の度合いも高そうだった。

 「…………」

 芯だけとなった拳大の果実を放り捨て、今は必要のない筆記具を袋から取り出し、座っていた岩の“中”にそれらを押し込む。余程のことがない限り安全な隠し場所だろう。
 麻袋は紐を使って背中で固定。たすきにかけた形で背負い、肉厚のナイフは付属のベルトで右太腿に留める。
 完成。小さく呟き、ファンは森へと歩みを向ける。入口近くで果実を見つけたから、まだ入ったとは言えない第一歩を踏み出す。
 修行の開始。サバイバルの始まりだ。
 日光が葉に遮られ、草があまり伸びない硬い地面を踏み締め進む。モモンガが樹上を優雅に飛び移り、小鳥の鳴き声がのどかな田舎の自然を思わせる。
 本当に、猛獣なんているのだろうか。猛禽は見かけていたけれど、そんな疑いが鎌首をもたげて仕方ない。
 ゆらりゆらゆら、のんびりと、赤紫の少年は森の奥へと歩いて行った。
 そして、数分後。

 「…………」

 右を見る。
 左を見る。
 そして前に向き直り、ポリポリと頬を掻いて一言。

 「…………困った」

 ぐるるる、と唸る野犬の群れ十数匹に、ファンは扇状に取り囲まれていた。
 体躯は、小さい。中型犬より一回りほど。毛並みは大体黒で纏まっているが、模様は様々。しかし一様に、明確な敵意を向けてくる。
 赤い服は失敗だったかな、と危機感なく思う。こんな森の中じゃ目立って仕方ない。雪山に挑む登山者は遭難用として目立つ色の服を着るらしいけれど、年中気候が安定している春島で雪山に挑戦する機会はないだろう。そもそも、雨が降らないのだから。

 おん! うぉん!

 威嚇のつもりか、数匹が吠える。一斉に吠え立てないあたり、作為的な物を感じる。
 動いた。二匹が助走し左右から猛然と向かって来る。他は動かない。様子を窺っている。知能はそれなりにあるようだ。知能がある。つまり狙いがある。だとしたら、左右から襲う二匹の狙いは。

 「――――」

 すぅっと腕を動かした。だらりと下げた状態から、前に突き出す。二匹の首がつられてそちらを向く。手首、あるいは腕を噛もうと牙を剥き、あわやという寸前で引っ込めた。ガチン!と牙が噛み合わさる。空中で身を捻ろうとして、躱しきれず衝突する。地面に落ちてきたところを、適当に蹴りつけた。きゃんきゃん呻いて、後退する。
 群れの警戒感が増した。どことなく漂っていた余裕が消え失せた。
 赤紫の少年は、ほんの僅か眼を側める。野犬の動きに、慣れが見受けられた。熊か猿か知らないけれど、二足歩行可能な動物と戦った経験がある。そんな気がする。肉食動物が牙を立てるとすれば喉だというのに、真っ先に腕を狙って行動を封じようとした。かなり、頭がいい。

 「…………」

 こいつらは間違いなく島の最下層に当たる獣で、こいつら程度に手間取っていたら先はない。
 決めたはずだ。
 多大な無茶を、押し通す。無理だ何だ、リスクがどうだ。そんなことを考えて、レベルアップは不可能。
 そこまで考えて、ふと、気付く。気付いて、しまう。

 「…………くふ」

 と、嗤う。くふふ。と、口角を吊り上げる。
 エグザルは無人島。自分以外に人はいない。
 だったら―――人じゃない不満はあるけれど、

 「赤く…………なれ♪」

 我慢の必要は、皆無。
 獣のように身を低く、地を駆けた。爆発的に肥大する殺意が充満し、野犬の群れが飛び退る。おんっ!とひと鳴き。群れの動きが半円から円の構えに移る。一番最初に吠えた、恐らくは群れのボスを視界に捉え、他は無視して一直線。突貫を阻害すべく、数匹が牙を剥き、

 「くふ、ふ……!」

 低い姿勢から一転、力強く地面を蹴った。全力疾走からの跳躍。少女を背に乗せて不足なく疾走できる脚力で、二メートルばかりの高みへ到達。しかし着地点で待ち構えていた一匹が体当たりを敢行した。真っ直ぐに腹を目指し、頭から突っ込んでくる。
 必中の突進だ。翼を持たない生物が空中で身動きを取ることは不可能。
 ―――そのはず、だった。
 嗤う少年の身体が支えなき宙で不自然に揺れる。波に弄ばれる漂流物の如く、ぐっと上に持ち上がった直後、打ち寄せる波濤となり落下する。犬の背を踏みしだき地面との緩衝剤に使い、体重のまま潰す。その結果も意識せず、走る。

 「僕は…………波人間」

 ナイフを抜く。逆手のそれを順手に持ち替え、再びの跳躍。離れた位置の、けれどさっきよりも近いボスを見据える。

 「…………僕自身が、波」

 投擲。風を裂いて鋭利な刃物が飛び、咄嗟にボスは逃げた。軌道から外れた。
 だが逃げた方向に――ベクトルや慣性を無視してナイフが弧を描き、曲がる。

 「僕が触れた物も…………波になる」

 哀れな絶命の唸りが、森に木霊した。










 仕留めた群れのボスからナイフを回収し、血糊を拭い、頭を失い散り散りに野犬が逃げたのを確認して、

 「…………」

 ぐったりと、崩れるようにへたり込んだ。今更のように噴き出る汗がうざったくてたまらない。
 眠たげな無表情で浅く早い息を整える。はっはっ、と呼吸を繰り返し、額の汗を拭う。
 何か、無茶な能力の使い方をしたらしい。疲労の仕方が、おかしい。
 波であるならば、波の如く上下に、そして前後左右に、動くことが可能だという考えは立証されたけれど、この異様な疲れは何なのか。

 「……っ…………」

 木の幹に手を付いて立ち上がる。チラッと茶色い木肌を見つめて、いつものように透過を試みる。―――失敗、する。透過、できない。
 軽く落胆の息を吐く。島の話を聞いた時から予想していたけれど、やっぱり、できない。透過可能なのは、あの浜辺だけ。
 海楼石の残り屑。行動に支障なく、けれど能力の半減。それらの事実に、小さく二つ目の吐息を零す。
 透過とは、そこに居ながらにして物質的に存在しなくなるということ。どういう状態なのかと聞かれても、少年は解答を持ち合わせていないけれど、なぜすり抜けられないかぐらいは分かる。
 能力が半減している現状、透過能力もまた半分。ならば半分だけ透過するのかと言えば、そんなことは起こり得ない。物質をすり抜けるとは、ゼロか百か、存在するかしないかで可否が別れる。
 透過は物質的な存在の有無で決定され、半分が無であろうと有の半分が残る限り、この島では少年の無敵性が剥奪されるのだ。
 とは言え無敵で安心完全無欠な状態で修行して得られる物などないから、まさしくこのエグザルはファンの修行にうってつけなのだろうけれど。
 ともあれ、考察はさておき、図らずも新鮮な肉をゲットしたファンである。貴重な食料に、果実だけじゃ足りなかったお腹がぐぅと鳴く。
 持ち歩ける分だけ捌くべくナイフを取り出した。毛皮も毛布や敷物の代わりになるから、重要だ。犬を捌いたことはないけれど、魚と同じように腹を裂けばいいだろうか。
 犬を裏返し柔らかい腹の肉に刃を添わせ―――木立の向こうで何かが動いた。
 はっと面を上げたのと同時、全くというほど音を立てず、秘めやかに忍び寄っていたそいつが顔を覗かせた。
 巨大な、小さなボートに匹敵するほど巨大な、トカゲ。感情のない真っ黒な目でこちらを見つめ、細く長い舌で臭いを嗅いでいる。血の臭いを嗅ぎつけて、やって来ている。

 「……!」

 ダッと地面を蹴る。巨体に見合わず俊敏な動作で迫ったトカゲの口が、バクン!と犬の死骸を丸呑みにした。
 喰われた。
 横取りされた。

 …………僕の、お肉……!

 トカゲが爬虫類の無感情な顔をこっちに向ける。ちろちろと、長い舌が蠢く。
 せっかくの戦果が奪われショックを受けていた少年の胸に、怒りの火が灯る。眠たげな眼差しは変わらず、けれど戦意も高らかにナイフを抜き放つ。
 よくもやったな、そんな感情をぶつけるつもりで睨みつけ、けれど巨体が突進してきて慌てて逃げる。トカゲの牙が幹に突き立った。バキバキと噛み砕いた。
 ちょっと待て。少年は冷や汗を流し身を引いた。何だその顎。ワニか。いやワニと同じ爬虫類だけれども。
 頭の中だけ焦りつつ、目の前を横切る尻尾に向かって斬りつけた。

 キン。

 「………………」

 金属に斬りつけたような、甲高い音。苔の生えたような鱗には傷一つなく。
 ゆらぁり、とファンは回れ右。脇目も振らずに、脱兎。背後からガサガサと追いかけてくる気配があるけれど、とにかく振り向かずにひた走る。
 取り敢えずナイフ以外の攻撃手段が必要だと、痛切に思った。



 大トカゲとの命がけの鬼ごっこは、ファンが浜辺の無敵ゾーンに逃げ込むまで続いたのだった。










 「…………」

 一日目、夜。
 パチパチと、砂の上で火が爆ぜる。火打石で苦労して付けた焚火を、疲労に曇った瞳でぼんやり見つめる。
 トカゲからは逃げ切ったけれど、結局新しい肉は手に入らなかった。透過が使えるこの場所まで逃げて、でも透過を使用して勝ったところで意味はなくて。大きな岩の中に隠れ、やり過ごした。
 その後は水だ。大量に汗をかいたから、水分補給に川へ行った。けれど運悪く満ち潮の時間帯で、河口付近の水は塩辛く、とてもじゃないけど飲めなかった。場所を移し、隠れながら川沿いを上り、潮が引いて真水を口にできるまで相当な時間を浪費した。
 水ってこんなに美味しいんだ、と無表情に感動する中で分かったことがある。
 ここの川はどういう地形の影響か、満ち引きの際に真水と海水が混ざった範囲が大きく変動するのだ。満潮時にはざっと一キロ以上、海水が川を遡る。常に二種類の水が混合される範囲を推測すると、最大で二キロ近くにも渡り入り混じっているのではないだろうか。
 改めて、ファンはこの島における飲み水の重要さを思い知った。水源競争が過酷となるわけだ。

 「……………………お腹すいた」

 くぅ~、と胃が肉飯野菜と訴える。
 以前なら――悪魔の実を食べる前だったなら、浅瀬に素潜りして小魚を捕まえるぐらい、わけないことだったけれど。
 今じゃもう海は鬼門、水は天敵。川縁で水を救う行為にさえ戸惑い、手間取ってしまった。
 シャキシャキと果実をかじる。無味に近く、水気ばかり多くて果肉の少ない果物。量を口に入れた所で余り足しにはならないけれど。水の代わりになる分、貴重であることに変わりないけれど。
 明日は絶対肉をゲットしないと。ファンはコクコクと頷く。絶対絶対ゲットしないと。自分に念を押して決意も新たに。
 だけど―――そのためには、

 「二つ…………何とかしないと」

 その一、攻撃手段。
 その二、殺気の抑制。あるいは、飼い慣らし。
 岩から筆記具を取り出し、インクを付けてそう記す。
 一は手探りで行くしかないけれど、二は早急な見直しが必要だった。
 今日の夕刻、日の入り時。
 当たり前のように世界は茜色が支配して、殺意の天秤も外へと傾いた。これが町や人のいる場所なら大惨事になっていただろうけれど。
 ここは無人島。
 自分以外に、誰もいない。
 殺意の対象となる、人間がいない。
 代替物として求めた獣は、純然たる殺意の前に姿を隠した。
 そしてその殺意さえものともしない猛獣に、透過を封じられた自分は勝てない。
 赤く、できない。
 半刻に満たない時間。
 衝動のぶつけどころを失って。
 気が狂うかと思った。
 螺子が一本か二本か何本か。
 どこぞへ飛んでいった気さえする。
 辛い……時間だった。
 嗚呼。

 「…………赤く」

 したいなぁ―――と、言いかけて。言いそうになって。
 ハッと我を取り戻し、ぶんぶん首を振って今のナシ、と発言撤回。
 とにかく、殺意をコントロールできなければ話にならない。何よりも先に頭が赤く染まっていては、これから先出逢うかもしれない強者を赤くすることなど、夢のまた夢。
 よし、と気を取り直し、赤紫の少年はノートに書き書き。

 『仮想ドラゴン~目指せ暗殺!』

 「…………」

 自分で書いておいて何だけれど、まだ豚を空に飛ばす方が現実味がある。
 ともあれ、方向性は間違ってない。
 海軍大佐、“人喰い”バリズ。
 あの男を殺した時のように、手を下すその瞬間まで完璧に、殺意を殺す。
 赤い衝動を、押し殺す。
 赤い本能を燃やしながら、鎮める。
 酷く難のある作業だけれど。
 長時間できるようになれば、問題はクリアだ。
 羽ペンを置き、焚火の爆ぜる音、波の寄せては返す音を聞きながら、砂の上に寝転がった。
 星空。小さな炎を黒く押し潰さんとするような、夜空。星々は目映く散らばっているけれど、それ以上に夜が深く感じられる。
 何となく、あの日を思い出した。どことなくシチュエーションが似ているからだろう。
 身も心も奪い、犯し、辱められて、なのに自分を好きだと言う少女。
 たとえ好意を向けられなかったとしても、手放すつもりは毛頭なかったけれど。

 「……………………」

 赤紫の瞳を閉じ、胸裏にて思う。





 ―――“好き”って、なんだろう。















 時は少し進む。ファンが旅立ち、三日が過ぎた。
 その間何があったかと言えば……思い出したくもないことだと、ラナはベッドに転がり、天井を仰いで嘆息する。
 まず、お皿を割った。
 せっかく洗った洗濯物を、海水に浸してしまった
 綺麗に掃除した甲板に、バケツの汚水をぶちまけた。
 アゼリアさんがフォローしてくれたけれど、他にもたくさんポカをやって、今はこうして自己反省中。

 『ラナ娘……疲れてるんじゃないか? いいから休め。何、うちは規律には厳しいが戒律まで雁字搦めなわけではない。ミスというのは補い合うものだ。元気になったら取り返してみようじゃないか』

 ……よく分からない台詞が入るのは相変わらずだったけれど、申し訳ない気持ちでいっぱいで、俯いたまま頷くことしかできなかった。
 一歩を踏み出すことを決意したのに、身が入らない。何をやっても、上の空。

 「………ファン」

 恋を、したのだ。
 炎を孕む嵐のような激情はなかったけれど、じんわり胸いっぱいに広がる温もりは、疑いようもなく恋と呼べるもの。すやすやと寝息を立てる無防備な寝顔や首を傾けるちょっとした仕草に思い馳せるだけで、心臓が甘く飛び跳ねる。
 分不相応なほど幸せで、こんなに人を好きになっていいのか逆に不安を思えたりもしたけれど、やっぱりというかあの赤紫の少年らしいというか、底の見えない遠大な落とし穴が待ち構えていた。
 恋した少年はあっという間に手の届かない場所へ行ってしまって。広大な海を隔てた向こうじゃ、話すことも触れ合うこともできなくて。
 遠距離恋愛は船乗りの宿命と言えるかもしれないけれど、故郷の島は沿岸漁業ばかりで、自分がそれを味わう羽目になるなんて想像だにしなかった。

 「……いっそのこと、私も修行に行けばいいのかな」

 無謀な思いつきが脳裏をよぎる。そんな考えにたどり着いてしまうくらい、少女の心は赤紫の少年に侵されていた。心の隅々にまで、少年への想いが根を張っていた。
 自室のベッドで花が萎れたように元気が出ない。たった三日ファンがもらえなかっただけで、早くも枯れてしまいそうだった。しょんぼり肩を落として、少年の使っていた枕を抱き締める。スンスンと鼻を鳴らし、残り香を胸一杯に吸い込む。
 両想いのような、片想い。一方通行の中、思い出したように手が差し伸べられる。その手に縋って、ゆらりとまた引っ込められる。恋人関係にはなくて、好きとも言ってもらえなくて。言葉も触れ合いもなしに、自分たちの関係は続けられるのか、少年に忘れられてしまわないか、不安と寂しさ、恋しさばかりが募っていく。

 「……」

 部屋の隅で存在を主張する紙袋に、目が向いてしまう。中身は顔の部分に穴のあいた白猫の着ぐるみ。ブティックの店長さんは趣味にお金を費やす人なのか、贅沢な素材で素材で作られてる一品。舞台で使うならまだしも、日常生活で着用するには凄まじい勇気を必要とする代物。
 ファンからの贈り物で、あるけれど。

 「……着ない。絶対着ない……っ」

 ふるふると首を振って、でもまたそこに目が吸い寄せられてしまう。悪魔じみた吸引力。そしてはっと我に返れば、気付かないうちに袋を両手で持っていた。本気でファンの呪いがかかっているんじゃないかと怖くなった。
 背筋に冷や汗かきつつ、袋を開ける。怖いもの見たさという言葉がある。
 三日前と変わらない折り畳まれた猫の衣装が現れ、ほっと息を吐く。遠く離れてるのなお少年に振り回されているような気がして、ちょっとだけ苦笑いする。

 「プレゼント自体は、嬉しいんだよ?」

 猫の衣装を取り出して、枕でそうしていた風に、顔を埋める風に抱きしめた。
 もう少し、贈り物の方向性はどうにかしてほしいけれど。それはそれで、高望みかもしれないけれど。

 ―――カサ。

 「……?」

 布越しに、紙を触ったような感触。白猫の衣装を探ると、首のあたりで何度も折ったような紙が仕込まれているのを見つけた。もちろん、衣装に穴を開けることなく。
 こんな芸当ができる人物に、心当たりは一人しかいない。

 「ファン……?」

 急いで鋏を探し、悩みに悩んで目立たない所から刃を入れる。切りにくい。裁ち鋏が欲しいと思いつつ、苦労して数センチの切れ目を作った。隙間から、二つ折りにされた半紙が顔を覗かせた。
 待て。焦るな。自分に言い聞かせる。これはただのイタズラで、からかいで、自身が望むような物ではないかもしれないのだ。
 ……開けたくない、と思った。でも、見たいと思った。
 取り出した紙を、震える指で開いた。



 『恋人と愛人、どっちがいい?』



 「………………………………………………………………」

 軽く五分は固まっていたと自負できる。頭の中が、真っ白だった。

 「………………え…………っと………」

 再起動を果たした少女が、ようようそれだけ呟く。
 これがジョークの類なら、怒ればそれで済むけれど。
 ……ジョーク?
 あのファンが?
 ない。太陽が西から昇るくらいあり得ない。
 つまりこれは真剣にまじめな質問……だと思う。
 でも、いや、だからって。

 「……私が決めることかな……?」

 ん?と首を傾ける。何か今、引っかかった気がした。
 ……私に、ファンが訊ねた。
 二人の関係を、どちらがいいか訊ねた。

 「私が……決めていいの?」

 恋人か、愛人……というのは、言葉が見つからなかったからだと思うけれど。思いたいけれど。
 でも、この紙切れに書かれたたった数行の文字が、とても重要で、とても大切な物だと感じられた。

 「ねぇ……ファン」

 遥かな距離を隔てた少年に、心の中で問いかける。





 ―――私、ファンの恋人で、いいの……?








[19773] 鋼色の眼
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47b90763
Date: 2010/10/15 12:02
 暗闇で肉の絡みが律動する。高く、低く、熱く、激しく。
 その頂で男は爆ぜ、女は果てる。
 身体の下で荒く息をつく女を見、男は早々に己を引き抜いた。もの惜しげな、切ない呻きが木霊する。
 暑苦しくも腕を伸ばしてくる女を振り払い、窓辺に立った。表が、騒がしい。多くの人間の、白土を踏む音がする。
 ドラゴンの本船が帰還するのは、今夜だったか。月明かりに照らされた道を行き、人々を引き連れる革命軍首領の姿に得心した。

 「ねぇ……外なんか見てないで、もっかいシよ」

 貪欲な女の性が放つ、甘ったるい誘い。しかし男はさっさと衣服を身に付け、言葉なく拒絶。ケチ、と背中にぶつけられる
不満も無視して、男は部屋を出た。
 薄暗い廊下だ。足元だけが蝋燭に照らされ、誰が通ろうと顔は見えない。男女が密会の場として一夜を借り受ける、ホテルのような作り。豪華とは言えないが、集団生活を強いられる軍の中では二人きりになれるというだけで、多少の金銭を払う価値があった。
 幾人かとすれ違い、暗黙の了解として互いに関知せず、外への扉を開ける。乾いた土の臭いが鼻腔を埋めた。
 直、航海を経て女に飢えた男どもがここへ詰めかける。一週間は満員御礼だとして不思議はない。寝食が満たされれば残るは性の欲求。正義であろうが悪であろうが、人間の求めるものは変わらない。
 生物としての本質を同じくしながら、人間は相争う。相憎み、相殺す。
 業の深い生き物だ。男は低く呟く。これほどの業を背負い、人はなぜ生き続けるのか。
 自らもまた、その一人。
 生きてるが故にただ生きている。目的もなく、生を持ったという理由だけで生き続けている。
 彩りのない世界だ。















 運搬用の車も出入りできる大きさの入り口を潜った途端、ラナは広がる光景に感嘆の息を零した。
 整然と並べられた机に向かい、年齢のバラバラな人々(男女比でいえば女性が圧倒的に多い)手に手に針と糸、鋏を携え布を形ある物に仕上げていく。服を、作っている。
 革命軍の総司令部が置かれる島、バルティゴ。ドラゴンがその一日のほとんどを過ごす作戦室からやや離れた、生産区とも呼ぶべき区画。アゼリアに連れられ、ラナが訪れたのはその中でも衣服に関わる場所だった。
 人と人とが行き交う街とはまた違った喧騒の支配する中、広い空間の奥に向かってアゼリアが声を張り上げた。

 「イーゼル!」

 目的の人物まで過たず届いたらしく、机の間を忙しなく歩いていた女性が振り返った。瞬間目を見開き、驚いた様子で駆け出す。

 「アゼリア……!」
 「やあやあ、元気そうで何よ」
 「死ねっ!!」

 駆けた勢いそのまま猛烈なスピードを減衰することなくいっそ鮮やかな飛び蹴りが炸裂。褐色の女性は土ぼこりを巻き上げつつ道を挟んだ反対側まで吹っ飛んで行った。

 「え……え、え!?」

 突然の事態に少女はおろおろするばかり。
 やがて収まった土ぼこりの中、むっくりと何事もなかったかのように――人としてそれはどうなのかと思わなくもないけれど――起き上がったアゼリアは、身体に付いた土をぱっぱと払い、爽やかな笑みを浮かべて言う。

 「イーゼル、照れ屋のお前がこんなスキンシップを取ってくれるとは思わなかった。素直に喜んでみよう」
 「うっさいよアゼリア! アンタ昨夜帰って来たばかりで何の用だい!? こっちは毎日毎日単調な作業の繰り返しで退屈してるくせに忙しいんだよ!」

 イーゼルというらしい女性は、痩身長躯の身体で近寄って来たアゼリアを睨め下ろした。普通の成人男性に並ぶアゼリアより、更に頭一つ分背が高いのだから相当だ。赤っぽい金の長髪が煮え滾る怒りのオーラを纏いうねっている。ように見える。

 「……ふむ、忙しいと言いつつエネルギーは有り余っている様子。ならば頼みごとの一つや二つ朝飯前の夜食前だろう」
 「この……っ、何ヶ月かぶりだってのに変わってないねぇ……!」

 ギシギシと聞こえる歯軋り。そこでふと、やっと気が付いたように苛烈な瞳がラナに向けられ、少女は思わず後ずさり。

 「で、何だいこのちっこいの。アンタの隠し子かい」
 「そうだ」
 「ちがいますっ!」

 聞き捨てならない台詞に憤慨した少女の叫びが挟まれる。

 「いつもいつも何でそう適当なこと言うんですか!?」
 「楽しいだろう?」

 さも当然と言わんばかりのアゼリアに頭を抱えるラナ。それを気の毒そうに眺めるイーゼル。やれやれと腕を組み、眉を上げる。

 「頼み事ねぇ。そのちっこい子絡みでアタシに頼むってことは………もしやモデル志望かい?」
 「……はい?」
 「なるほどそういうことなら協力も吝かじゃないね! 鼻筋目元、全体の輪郭、歯並びに髪艶……ちょいと細すぎるけど、まだ成長期ということも鑑みれば……むむ、この子売れる! 掘り出し物だよアゼリア! アンタも十年に一回ぐらいはいい仕事するじゃないか!!」
 「あの」
 「そうだろうそうだろう。私も一目見たその時からのめり込んでしまってな。革命軍の協力者に連絡を付けて専門の事務所に売り込みをかける準備もバッチリだ」
 「ちょ」
 「エクセレントッ! 当然ローティーン向けの雑誌で表紙は飾れるんだろうね!? ああだとしたらこうしちゃいられないっ、すぐにでもこの子に合った衣装デザインを描かないと!」
 「話を」
 「まあ待て落ち着いてモチつくんだイーゼル。急がば回れと大昔の偉人も言ってることだろう? まずはイマジネーションにインスピレーションを瞑想と共に高めていってだな」
 「―――聞いてくださいっっっ!!!」

 いぃぃぃぃぃん……と作業場いっぱいにエコーをなびかせ余韻が響く。それとなく入口の様子を窺っていた作業員の方々は、全員そろって首を竦めて手を止める。
 一方、少女のすぐ横にいた件の女性二人だが、大真面目に耳を押さえて蹲っていた。

 「お……おお、耳……というか、頭が割れる……いや、割れた、か?」
 「こ、この声量………オペラ歌手も目指せるよ…………」

 『おぺら』なる物の知識をラナは有していなかったが、歌手は分かった。
 小さい頃、夢見ていた憧れの一つである。実はちょっと、いやかなり、陰に隠れて練習していた小っ恥ずかしい思い出もある。やり過ぎて喉を嗄らしてしまい諦めたが、喉の瞬発力だけには自信を持っていた。
 恥ずかしいので誰にも言えない自慢だったが。
 基本、役に立たないし。

 「アゼリアさんもイーゼルさんもっ、何で当事者の私を差し置いて勝手に話を進めてるんですか!」

 怒り心頭で立つ少女の姿に仁王の影を見つつ、まあまあと、痛い耳を押さえながらアゼリア。

 「ラナ娘の言わんとする所は、分かる。ああよく分かるとも。だが」
 「だが?」
 「それでは、私が楽しくない」

 至極真面目な顔で言い放ったアゼリアに、ラナは問答無用で肘鉄を見舞った。
 隙間時間でアゼリア自身が暇つぶしに教えていた護身術は、その教えた当人の脇腹へ綺麗に吸い込まれていった。

 「……で、イーゼルさん」
 「え? あ、いえ、はい」

 メラメラと立ち上る炎が見えそうな少女の低い呼びかけに、そして腹を押さえて蹲るアゼリアの様子に、戦々恐々としつつ敬語なイーゼル。

 「何か言いたいことは?」

 いいえ、何も。と全面降伏の長身女性。

 「あ、けど一つだけ」
 「?」

 首を傾げたラナへと、本当に一言。

 「……モデルやらないかい?」

 容赦のないローキックが、棒立ちのすねへ叩きこまれた。

 『……………………………』

 重苦しく、痛々しい沈黙が降り注ぐ。
 この日、革命軍アジトにて。
 能吏だが人格面性格面で難のある二名の準幹部クラスを瞬く間に沈めた少女へ、一つの通り名が敬意を持って送られた。



 曰く――――“常識の鬼姫”



 物理的にも精神的にも突っ込みの難しい方々専用軌道修正役として、ラナは早々と革命軍本部の人間に受け入れられたのだった。
 何で鬼なの!? と、本人は怒りつつ嘆くのだけれど。
 広まった通り名が撤回されることは、以後、二度となかった。















 「……不可解。何を蹲っている、母」

 静まり返った作業場に、平坦な声が伝播した。
 低く、鋼の冷たさを帯びた声。純度が高い故に熱を持たぬ、鍛鉄されし鉄鋼の声音。
 未だ熱く火照っていたラナの怒りが、一瞬で冷えた。反射的に、生物的に、振り返る。
 鈍色の双眼と、視線が絡んだ。プラスにもマイナスにも温度差なき零度の瞳が、少女を射竦める。

 (っ……この、人)

 背中に一筋の冷や汗が尾を引き、しかし瞳の交錯は、相手の関心が失せたと同時に終わる。脛の痛みから復帰したイーゼルがよろめきつつ立ち上がり、鈍色の目はそちらへ向けられた。

 「アンタ……この忙しい時にどこ行ってたんだい」
 「忙しい時に座り込んでいた母に告げることはない」
 「そうかい?」
 「ああ、ない」

 ばちばちばち、といきなり一触即発。とばっちりを避けて未だ蹲るアゼリアの傍へと逃げたラナはひそひそと。

 「アゼリアさん、誰ですかあの人」
 「……最近、ラナ娘がたくましくなって来たように思えるのだが、どうしたものか」
 「主にファンとアゼリアさんのせいですよ……」

 心を強く持たないと、押し潰されてしまいそうで。小さく、ラナは物憂げな息を吐く。溜息を振り払い、それで?と尋ねる。
 その一動作に目を細めたアゼリアは、しかし何を言うでもなく、元からダメージなどなかったように身を起こし、いう。

 「ロドリー・カーツ。イーゼルの息子だ。歳は確かラナ娘の二つ上。見た目通りの人間だな」
 「見た目通りって……」

 投げやりな説明だと、ラナは思うけれど。しかしこれ以上なく的確に表しているようにも感じた。
 冷やかに母であるイーゼルと火花を散らす、鈍色の目をした青年……よりは、若い見た目。親の血だろう、背が高く、背伸びしたラナの頭のてっぺんが胸に付くか否かというほど。
 けれど、出会って数分程度とは言え分かり過ぎるぐらい感情的なイーゼルとは真逆に、冷え冷えとしている。表情はないのではなく、冬の鉄器みたいに冷たくて、触れようとした手を引っ込めたくなるような印象。無造作に切った赤みがかった金髪が、親子の関係を示している。

 (似てない……けど)

 赤紫の少年と、どことなく、イメージが重なった。
 姿かたちに似通った個所などまるで見当たらないのに。
 普通の人から理解されず、理解し得ないが故に独特な、けれど似通う特有の雰囲気を、ラナは感じた。
 興味を、持った。















 「…………♪」

 ずるり、ずるりと、重量のある物体を引きずる音。それに混じって、機嫌よさげな鼻歌が日の暮れた森に響く。
 延々と、引き摺りの音は続く。それは浜辺に着くまで止まらない。繁った葉に隠されて、音の正体は闇の中。しかし獣と虫を惹き付ける、生臭い血の香り。
 ずるり。ずるり。ずるり。ずるり……。
 ふと、唐突に、道が開ける。頭上の月から、明かりが射す。引きずる者と、引きずる物が照らされる。
 月光の下、色合いを落とし、黒く見える赤紫の頭が覗く。
 その肩に、太く長い獣の尾、鱗に包まれた爬虫類の尻尾。
 引きずり、引きずられ、血の跡を引き。
 首のない、巨大な巨大なトカゲが一匹、運ばれていく。
 それは七日目の晩のこと。
 上機嫌な鼻歌が、真っ暗な森の彼方へと、ゆらぁりゆらり、染み渡る。















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人生の岐路は実感なく襲い来る。
全てが小説の如く運べば、投稿が遅れることはないだろうに。



[19773] 暮れゆく色は
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47b90763
Date: 2010/11/15 12:10




 光陰矢のごとし。そんな言葉を残したのは誰なんだろう。

 「もう、二カ月……」

 月日が経つのは早いなぁ、と、ラナは作業台で両手を枕にして感慨深く。
 それでもやっぱり、遅いようにも感じてしまうのは。もう七十日以上、顔を合わせていない人がいるから。

 「……ファン、どうしてるのかな」

 くまさんが定期的に様子を見ているらしいけれど、いろいろな立場や都合が重なって、頻繁にこの島と連絡を取るのは危ないと聞いた。だから最後に、ファンの話を聞けたのは、何年も昔のように思えるたった二週間前のこと。
 怖いぐらい順調だと、平坦な声音に感嘆を混ぜて、電伝虫の向こうでくまさんは言ってくれた。

 『だが、ここから先が真の難関だろう』

 先へ進むほど手強くなる猛獣たち。上流になれば川幅も水流も嵩を減らし、水場の争いは一層苛烈になる。
 そんな環境で、命がけで頑張っている、赤紫の幼馴じみ。ファンに会いたいと、ファンの声を聞きたいと、そう思う自分はきっとわがままなのだろう。相部屋となったアゼリアさんに言わせれば、わがままは女の特権らしいけれど。そして甲斐性を見せるのが男の義務らしいけれど。
 ファンに甲斐性。似つかわしいような、縁遠いような。守ってはくれる。でも赤くされる未来も違和感が無い。

 「ファンが後悔しないなら……殺されてもいいって思うのは、重症かも」
 「否定。それはただの気狂い」

 すぐ耳元で突然声がするものだから、椅子ごと床に転げかけた。

 「……っか、カーツさん!?」

 危ういところで立て直す、ラナの慌てふためいた挙動の一部始終鑑賞し、温度差のない鈍色の眼をした青年一歩手前なカーツは、別段気にすることは何もなかったというようにさっさと対面へ座る。
 人をこかしかけて、謝罪の一つもなく。……多分、悪いことをしたとも思っていないのだろうけど。

 「えー……こんにちは」
 「朝会ったばかりだ、姫」
 「……何度も言いますけど、姫って呼ばないでください。そして謝ってください」
 「謝罪? 誰に、如何なる理由で」

 零度の顔を本気で傾けるからカーツは質が悪い。アゼリアやファンと同じで。

 「私が、転びかけたことに対してです。女の子はいろいろ繊細なんですから、怪我しそうなことにならないよう気を付けないとだめです」
 「……理解。努力しよう」

 何が悪いかちゃんと指摘すれば直そうとする分、二人よりましだけれど。ちゃんと言葉で、明確に理由づけしないと、全く聞かないけれど。
 でも、姫という呼び方だけは、何度指摘しても治らない。
 二カ月のうちに日常と化した会話を交わしながら、今日もまた授業が始まる。
 先生役は、独学で被服学を学んだというカーツだ。

 「……皮革、毛皮。綿、麻、絹。服の生地は多彩。糸の質も大いに関係。デザイナーはこれに色と柄の組み合わせまで思考。装飾文字、服に合わせたアクセを任されることもある。故に肝要。着るのは顧客。その目に合わねば服は売れない」

 駆け足で進む講義に必死で付いていく。カーツの口調はアゼリアとも違うけれど、独特であるという部分だけ似通い、意外と多弁だ。
 広い作業場から扉を二つ抜けた先にある、服飾長イーゼルの個人的な仕事部屋が、ラナに貸し与えられた勉強のための一室。被服学に関する資料が山と積み重なって、こんなに至れり尽くせりでいいのかと、初めて入った時はなんだか恐縮してしまった。
 ……先に恩を売ってモデルの依頼がどうのという独り言を聞いてしまって以来、気にしないことにしたけれど。
 あっという間に一時間が過ぎ、休憩に入る。

 「……時に。姫。ファンというのは?」
 「あれ? 話してませんでしたっけ」

 お茶なんて贅沢な真似はせず、コップに井戸水を注いだだけ。
 大半が机と資料棚で埋められた広くもない部屋で、カーツと差し向かい、一口喉を湿らせ、悩む。
 バルティゴに暮らし始めて早二ヶ月。この二つ年上の青年がどんな人間であるか、知り得たことは余りない。
 最初、ファンに似ていると思った。温度差なき瞳と、零度の表情。それは赤紫の少年とどこか通じるところがあって、けれど決定的に違うのだと、話すうちに理解した。
 この人の感性は、まともだ。会話の端々から、ラナは確証を感じ取った。
 健常から逸脱した思想の少年に恋するラナが思うのだから、間違いない。
 ロドリー・カーツは、感情を表すことが苦手で、相手の心情を理解するのが極めて不得意なだけの、正常な人間で。

 「当たり障りなく言うと……ファンは私の幼馴じみで、命の恩人、かな」

 だから――少年を理解できないだろうから、ラナは要の部分だけを口にする。
 あの狂気を説明するのは難しいし、そんなに踏み込んで話したって、意味がない。
 理解も共感も、呼ばないのだから。

 それに…………少しだけ、辛いから。

 ゆらり、ゆらゆら、揺れ惑い。赤紫の少年はまるで幻が佇むようで、肌を重ねている時さえも、ふとした瞬間に実在が信じられなくなる。触れる温もりが泡のように消えてしまう夢を、何度も見た。
 特にここ最近、その頻度は高い。自分がどれだけファンに依存し、甘えていたか、思い知らされる。
 小さく唇に、微笑と自嘲を刻んでいると、若干の間を置いて、カーツが言った。

 「………女の顔を、しているぞ」
 「……え?」
 「寂しがりな、女の表情だ」

 そう口にするカーツの、鋼色の瞳は凪がず揺らがず、けれど刺すような眼差し。
 何かの流れが変わった。それまで部屋に漂っていた安穏とした空気が、気付かないうちに入れ替わり、停滞している。
 酷く、不安を、誘った。

 「ここでの仕事以外に一つ、俺は役目を請け負っている」

 唐突な話題の転換。
 椅子に背を預けていたカーツが、身体を机の方へ、前へと、乗り出す。

 「何か分かるか、姫」
 「……」
 「女相手の、男娼だ」

 え、という呟きは、続く鋼色の声音に潰される。

 「革命に参加する人間は、大なり小なり、政府から切り捨てられた立場。家族と分かたれ、友と離れ、その地から追われた老若男女。彼らが胸に抱くは、怒りか、あるいは悲しみに準じる感情だ」
 「……」
 「憤る者は革命に身を焦がす。しかし悲嘆に暮れる者は、拠り所が必要。……俺は、そんな女を相手に、一夜の温もりを与えている。故に感得。心に隙間風を吹かせる女が、それとなく分かる」

 善意だったのか、義務感だったのか。

 「――推奨。俺が、暖めてやろう。寂しそうな姫」

 すぅっ、と。その長い指先が、頬に触れた。









 ※※※





 艶やかに黒く、長い髪を持つ少女は、自らをラナ・アルメーラと名乗った。
 背は小さい。発育不全とは違うのだろうが、平均よりも小さく、細い。
 しかし、思いもがけずしなやかだった。束ねられた糸のように強靭な一面が、時折のぞく。
 例えば、母、ロドリー・イーゼルの本心から惜しむモデルへの誘いを、再三再四袖にして、しつこいときは実力行使に訴える。まずここが普通の女と違う。
 例えば、母の悪友(母は認めない)、カウンセラーアゼリアが事あるごとに繰り出す、無意味な言葉の羅列。本気と冗談の境が不明確なそれを、少女はいちいち生真面目に訂正させる。偶に手や足が出る。無駄骨に終わってもまた繰り返す。あのアゼリアと正面から付き合えるだけでその特異性は窺える。
 そして。
 極めつけが、先日の一件。
 少女性愛を嗜好とする男が、非番の夜に酔った勢いで偶然通りかかった少女を、酩酊のまま後先考えず強引に連れて行きかけた。普段は紳士的であるのだが、アルコールの威力は恐ろしい。低い声で恫喝し、刃物まで取り出したのだから相当だ。
 が、しかし。
 少女は、ラナ・アルメーラは。
 怯えも、媚びも、恐怖もせず。



 酔っ払い相手に、懇々と人道を説き始めた。



 穏やかに話しかけ、道端だというのに正座し、何をどうしたのか相手も座らせることに成功し、膝を突き合わせて実に三十分以上、柔らかく刺激しない語りで男を諭した。半ばあたりで男の眼に涙が溜まり、おいおいと泣き始めた時は開いた口が塞がらなかった。
 後で聞いたことだが、男は先日、海軍との乱戦で看護師として同行していた妻(十五歳)を亡くしたばかりだったらしい。途中で踏みとどまったことと、情状酌量の見地から、その後丸一日の営倉入りで罪を許された。出てきた男が真っ先に向かったのは、当然ラナ・アルメーラのいるところ。
 他人の目も気にせず土に膝をつけ何度も謝るものだから、むしろ少女の方が居心地悪そうにしていた。
 変な女だ。おかしな女だ。奇妙な女だ。



 どこか螺子の外れた、狂った女だ。



 なぜ怯えない。なぜ怖がらない。なぜ誰にも助けを求めない。
 俺は見ていた。ずっと見ていた。一から十まで見続けていた。
 そしてあの女は、少女は、俺に気づいていた。一瞬だけ、目が合った。なのに助けてとも言わず、逃げもせず、真っ向から男と向き合った。
 男が、聞く耳持たぬほど酔っていたら、行為に及ばれていたその可能性は、頭にあったのか。

 ―――ええと……この布は、水洗い……できる!
 ―――不可。その繊維質はドライクリーニングが必要。覚え直しだ、姫。

 すげなく不合格を出された少女は、テストの内容よりも、最後に付け足された姫という呼称に頬杖しながら不満を漏らした。
 子供っぽい仕草。事実子供で、しかし大人を叱りつけたりする。
 常識の鬼。しかし鬼ではその可憐さに相応しくない。ならば鬼姫だ。最初に言ったのは誰か、知る由もないが、この二カ月で定着を見せ、俺もまた姫と呼ぶ。
 酔った男の事件から、少女は妙な尊崇を抱かれている。普段は可愛い。怒らせると怖い。馬鹿な話にも真っすぐ付き合ってくれる。
 当人の知らないところで人気を集める、常識の鬼姫ラナ・アルメーラ。
 その“常識”がどんなに“異常”で、その“常識”的行動がどれほどに“非常識”なのか、理解する者は驚くほど少なく。
 顔と身体と、一夜限りの温もりを目当てに寄ってくる他の女と比べて、芳しく興味をそそられた。
 だが。

 「………………」

 対面の、空っぽの席を眺めやる。ついさっきまで、そこに少女が座っていた。
 今はいない。青ざめた表情で、俺の手をはたき落とし、一目散に逃げていった。
 余りにも普通な反応に、行動に、むしろ安堵を覚えた俺は馬鹿だろうか。

 「………………」

 自分の指を見つめた。一瞬触れた指には、熱が残っている。
 ペロ、と指先を舐めてみた。が、やはり感じられるのは、自分自身の体温だけ。
 惜しいことをした。久しぶりに、残念という感覚を味わう。もう、あの少女が来ることはないだろう。それが自分の行動の結果、選択された意思の反映。
 だと、いうのに。

 「………………」

 この、腹の奥から湧き上がる、ささくれ立った感情は何だ。腹から胸を頭を席巻する、苛立ちは何だ。
 少女は逃げた。逃げた。自分から。すり寄ってくる女と違って。
 顔がいいのだと女が言う。身体がいいのだと女が言う。世辞のつもりで稀に投げる、優しい言葉がいいのだと女が言う。

 「今までに……俺から誘ったことは、なかったな。そういえば」

 受身であり、受動であった。能動的に動いたことなど一度もなかった。
 やはり、今日の自分はどうかしている。



 『私っ……好きな人がいるの!』



 去り際に―――残された叫びが、胸の内を掻き乱し、荒くヤスリにかけられているようで。
 ぎしっ、と噛み締めた奥歯が、軋む。

 「理由は、不要……。これは俺の、仕事……!」



 ――――寂しがっている女を暖めることの、何が悪い――――










 ※※※




 「…………」

 血と、争乱の匂いがたなびき、消えていく。
 獣の死骸に腰かけ、赤紫の少年は決断を迫られていた。

 「………………壊れちゃった」

 ぼそっ、と困ったような言葉。眉根も、心なし下がっているよう気がしないでもない。
 悩みつつ、電伝虫の受話器を取る。

 「…………もしもし。…………くま? ……うん、身体は大丈夫。………でも」

 チラリと、視線を落とし。

 「ナイフ…………壊れた。スペアとか、頼める? ………頑丈なのが、いい」

 折れるのではなく、バラバラに砕け散ったナイフの残骸。
 刀身どころか、柄さえも細かく粉々にされて。
 奇妙な壊れ方に、“暴君”が眉を寄せるのは翌日の話。

 「……………………………くふ」

 交信を終えた電伝虫が、その小さな笑声に震え、怯えて、殻の中に頭を引っ込める。
 赤く燃える空を、眺め。瞼を、閉ざし。沸き立つ殺意を想像の彼方へ放逐し歓喜に転じさせ。
 ゆるゆると、細く長く、息を吐く。

 「こっちは………楽しい。…………ラナは、どう?」

 巨大な――馬も踏み潰すほどの、“角ごと頭部を抉り取られた”犀を尻に敷き、ファンは遥かな少女へと、問いかけた。
 くふふ、と笑い。

 「浮気したら…………どうしよう、かな」

 暮れゆく空の中、飛翔するタカが見る空の下。
 少年の赤い微笑が、森に木霊する――。














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かなり遅れた。申し訳ない。
だがしばらく、このペースが続くと思う……。



[19773] 夜は静かに
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47b90763
Date: 2010/12/31 14:52


 その部屋は寝具と机、クローゼットの他にハンモックが一つ、壁際に釘で留められていた。部屋の主が度々航海に同伴するせいか、とても殺風景だったけれど、スプリングの利いたベッドはそれなりに地位のある者しか持てない贅沢品。革命軍は資金面に困窮しているわけではないが、潤沢とも言い辛い。全員に満足のいく品を与えるのは、どうしても無理があった。
 そんな部屋に間借りさせてもらい――あまつさえ、ベッドまで使わせてもらうなんて――とラナは恐縮する思いだったけれど、アゼリアは至極真面目な顔で言うのだった。

 ――――私は男と寝る以外にベッドを使用したことはない。何故ならベッドに対し失礼だからだ。

 何が失礼なのやらさっぱり分からなかったけれど、とにかく普段から使わないのならありがたく貸してもらうことにラナは決め、それから二ヵ月経った現在。
 ラナはベッドの上で、黒く艶やかな髪をアゼリアに弄られていた。

 「なるほど、カーツがな」

 銃か剣かは分からなかったけれど、硬いタコのある両手が髪を撫で、すっと櫛を通した。
 髪の毛を梳く感触が意外にも繊細な手つきでラナは驚く。服装や生活態度から失念しがちではあったことだけど、アゼリアだって女性なのだ。櫛の使い方が上手くておかしな所はどこにもない。今日も今日とて女海賊さながらの格好からは、そんな女性らしさがまるで見当たらないのも事実なのだけれど。

 「あれに女の扱いを仕込んだのは私だが、全く困ったものだと嘯いてみよう。思春期が始まるには遅すぎるぞ」
 「あの、仕込んだって、なにを……」

 興味半分、怖々とラナは訊く。傾けた手鏡の中で、飄々とした笑みがニヤリ。意地悪く歪む。

 「ラナ娘も興味があるか? そうだな、少年が帰って来た時に備えその手の技を一つ二つ教えて」
 「全身全霊でお断りしますっ!」
 「……少年は悦ぶぞ? きっと」

 褐色女性の囁きはある種の甘美を伴いぐらりと心を傾かせた。



   『ファン……どう?』
   『ん…………気持ちいい。…………でも』
   『?』
   『ラナ…………どうやって練習した?』
   『え、ど、どうやって、って……』
   『…………そう。言えないんだ』
   『ちちち違うの! ファンが思ってるようなことは全然なくてっ』
   『別に、いいよ? ………………赤くする、だけだから。……念入りに』



    くふ。

 「っきゃぁあああああっ!! だめっ、だめです絶対! 教えてもらうのはファンじゃないとだめーーーっ!」
 「……ほう、少年にか」

 アゼリアの静かな指摘にはっと我に返った少女は、口走った内容を思い返し、瞬く間に頭が熱暴走を起こす。

 「ち、違うんですっ。わひゃ、私とファンは、そんなふしだらな関係じゃなくて!!」
 「慌てまくってる様子も可愛いなラナ娘は。しかし少年の前でそのセリフが吐けるなら信じてみよう」
 「ぅ……う、ううう~~~~!」

 言い包められ、言葉にならない感情。空回りして、でも何か言わないと、反論しないと。なのに動転するばかりで、脳みそがぐるぐる回る。ぐつぐつ煮える。ラナは精一杯口を開こうと努力し、そう、一応努力はした。が、やがて力尽きたようにベッドへ倒れる。ぽふ、と前のめり。梳きかけの髪がシーツに散らばるのも気にならない。

 「……アゼリアさんのいじわる」

 呟きは拗ねた響き。真剣に涙ぐみながら恨めしげに、ラナは肩越しに後ろの女性を睨み上げる。
 黒く潤んだ瞳と、頬は朱に。白いシーツに、濡羽色の長い髪が対比して。同性愛を嗜好しないアゼリアでさえ、ゾクリとした何かが脊髄を通り抜けるのを止められない。
 今ほど、彼女は男に生まれなかった自分を悔やんだことはなかった――などと、あらぬ思いが数瞬去来する。

 (この娘を……少年は好きにしているのか)

 そして、一人で待たせているのか。
 本当に……罪な男だ。……悪い、男だ。
 いたいけなくも艶を纏い、がんぜなくも色香は匂い。未成熟がため、不完全故の完成されない美しさ。
 少女は、既に一人の男の手で手折られている。男とも言えない少年に摘まれている。
 なのになぜ、少女はこうも清らかく、清冽なのだろう……。



 ――カーツのため......に一計を案じている自分が、薄汚く思えるほどに。



 ふと気づけば、少女がこちらの顔を窺っていた。

 「アゼリアさん……? どうかしました? 変に顔が真剣ですよ」
 「……変とは失敬千万だなラナ娘。そのような口を利くとは私もやむを得ない。パイナップルヘアーにしてくれよう。……待て、冗談に決まっている。三つ編みで勘弁してみよう」

 本気で距離を取りかけた少女を宥め、改めてベッドに座らせたアゼリアは、再び櫛を手に髪を梳く。
 背を向けたラナは、褐色女性が表情に浮かべる微かな澱に気付かないまま、さっきの悶着を強引に頭から追い出し嘆息。

 「こんな馬鹿やってる場合じゃないのに……。アゼリアさん相手だと何でいっつもこうなっちゃうんだろう」
 「ふふ、照れるじゃないか」
 「これっぽっちも褒めてませんっ!」

 どうどう落ち着け悪かった、と噛みつかんばかりの少女を宥め、前に向かせる。口調を、真面目なものに切り替えて。

 「……カーツの話だったな。私はあれが幼いころから知っているが、今と昔を比較してもその性格はほとんど変わっていない。誰に対しても冷淡、何に対しても淡泊……。これは決して極端な例えではないのだが、あれは自分の命にさえ興味を持ってないのだ。死ぬ理由がないから、惰性で生きているに過ぎん」

 ラナの長い髪を二つに分け、どこか遠い目をしながら。

 「そんな人間が他者と円滑な人間関係を築けるはずもない。自然、カーツは孤立していったよ。……本人はどうでも良さそうだったがな、母親の方が、放っておけなかった。当時は私もまだ革命軍に入っておらず、流れの心療医としてぶらついていた。そんな折にロドリー親子と出会い、イーゼルに頼みこまれ、街に腰を落ち着けた」
 「………イーゼルさんが、頼み込んだんですか?」

 表情は見えないが、信じられないという顔をしているのだろう。アゼリアはそうと知られないよう静かに笑む。

 「その通りだと高らかに言ってみよう。まあ一週間もすれば互いの性格も掴め、遠慮無用容赦不要の今みたいな間柄になったが、取り敢えずそれはどうでもいいと切り捨てよう」
 「はあ……」

 吐息のような相槌のような声を漏らす少女の髪を取り、丁寧に編み込んでいく。

 「カーツの治療は難航を極めたよ。何せこちらに興味を持ってくれないのだからな、最初のうちは対処療法しか手がなかった。……それでも、やらないよりは効果があった。焼け石に水程度でも、寡少の成果はあったのだ。その甲斐あって、他人の話を聞く程度には回復した。……数年がかりの治療だったから、単に年齢的に成長しただけかもしれんが」
 「あの」
 「ん?」
 「……カーツさんは、その、孤立したままじゃいけなかったんですか? 独りでいるのが良いとか悪いとかじゃなくて……なんていうか、カーツさん自身が気にしてないなら、孤立してたって」
 「ラナ娘」

 ピシャリと打つように、アゼリアは言葉を遮る。

 「ラナ娘、それは違う。ファンとカーツは違う..........。二人の状況は確かに似ている。共に疎まれ、疎外され、孤立の幼少期を送ったように見える。だが、二人には決定的な“違い”があるのだ」
 「二人の……違い?」
 「そう。その“違い”とは、自らの“意思”で孤立したか否か。……以前話してくれたな。少年はいつも独りで行動し、仕事の時以外は何処で何をしているかも分からなかったと。それがどういった目的であれ、少年が何らかの目的を持って動いていたことは確かだ。……しかし、カーツは、目的も、意志も、興味も、何もない。何も言われなければ、丸一日椅子に座っていたこともある」

 深く、吐息して。

 「少年は自分で周りを下位に置き、目的を上位に置いた。だがカーツには、自分自身にさえ価値を見出さないあいつには、この世のどこにも優先すべき事柄がなかった。……それが、絶対的な、二人の違いだ」
 「…………」
 「だから三年前、年頃になったカーツが異性に対し僅かなりとも興味を覚えたことに愕然としたよ。それが当然で、当たり前のことなのに、な。色々とひと悶着あって、その時もう私達は革命軍の厄介になっていたが……様々な事情で集まった大勢の人間を見て、私は閃いたのだ。……男と女の関係から、カーツに他人への興味を喚起できないかとな」

 ――故にアゼリア自ら女を教えた。男と女の差異。その交わり。

 「結果は上々。それまでに比べれば飛躍的な進歩だったと誇ってみよう。その意味では、カーツにとって男娼は天職だったかもしれん。まあ、今回はそれが裏目に出たわけだが」
 「アゼリアさん……」

 自嘲気味な笑顔を押し隠し、努めて笑い、手を速める。

 「よし、完成。三つ編みなど久方振りだったが、なかなか上手くできたと自画自賛してみよう」
 「簡単に、ポニーテールでもよかったんですけど」
 「ふふふ、ラナ娘の幼さを強調した結果だ。カーツにロリ属性はないから、まあ気休めにはなる。というか、髪に触れる、頭を撫でるという行為は心理的に安心感をもたらすのだ。と、偶にはカウンセラーらしいことを言ってみよう。……さて、私は所用でしばらく空けるが、女子官舎から出るなと警告しておこう。ここにいる限り、男は手が出せんよ――」










 飄々とした笑みを残し、アゼリアは日の暮れた薄闇へと出かけて行った。それがもう一時間は前のこと。ラナは食事と入浴を済ませ、ほかの入居者から誘われた団欒も断って、独りベッドで枕を抱えていた。
 ランプの投げかける光が、不思議な陰影を天井に這わせる。ぼんやりとラナはそれを見つめ、思う。

 「……カーツさんは、悪い人じゃない」

 ある意味、純粋過ぎるだけ。哀れなまでに、純粋なだけ。健常から外れたベクトルの、とてもファンに似た方向性。
 だからあの鈍色の瞳に、ファンとの共通点を感じてしまったのだ。いろんな意味で、良くも、悪くも。

 「っ……」

 丸めた身体を抱き締めるように、ラナは枕へ顔を埋めた。
 ファン……。たった二つの音が、こんなにも強い力で胸を締め付ける。
 会いたい。その声で、その指で、安心させてほしい。

 「ねぇ、ファン……。ファンは私に会いたいって、思って……くれてる……?」



 ―――さあ…………わかんない。



 幻聴……のはずだった。ラナの空想が生んだ、虚ろな言葉のはずだった。
 けれど現実味があった。現実味があり過ぎて、いつもなら溜息で流せるのに……今日だけ、今だけ、重くて、苦しくて。
 くしゃくしゃに歪んだ顔から、嗚咽と、熱い水滴が、枕に吸い込まれる。
 寂しくて、寂しくてさびしくて――会いたくて。

 「今だけ、帰って来てほしいよ…………ファン……!」

 静かに響くすすり泣きは、しばらくの間、止まらなかった。















 壁際に詰め込まれた資料の半分は、自らより汲み出した図案の数々。
 未練の象徴。

 「……アゼリア。木偶みたいに突っ立ってるだけなら帰りな。目障りだよ」
 「そう邪険にしないでくれイーゼル。今日の私はまるでハリネズミの如く傷心中なんだ」
 「………そりゃ傷心じゃなく葛藤だろ。ハリネズミのジレンマ」
 「そうとも言う」

 そうとしか言わないんだよ……いかん、頭痛が。イーゼルは米神を押さえた。

 「で、何の用だい。酒なら付き合わないよ。明日は久しぶりの非番だからね、二日酔いなんざごめんだ」
 「なに、大したことではない。私はまさしく葛藤と傷心を味わっているさなかで……少しばかり、吐き出したくなったと偶には弱音を漏らしてみよう」
 「……気味が悪いね全く」

 付き合いの長いイーゼルでさえ、殊勝なアゼリアという珍現象を目にしたのはこれが二度目だ。息子であるカーツに碌な治療法も提示できず、頭を下げた時が、最初だったか。
 対面の椅子に腰かけたアゼリアを見やりながら、イーゼルはカーツとよく似た、鈍色の目を側める。
 若干の沈黙を経て、切り出したのはアゼリアだ。

 「私は今、天秤を支えている。どちらも大切な物が乗った天秤だ。しかし、片方を諦めなければ、もう片方が救えない……そんな状況だ」
 「念のため聞くがね……それは例えかい、それとも現実の話かい?」
 「例えでもあり現実でもある、とぼやいてみよう。私にとっては重要なことだ。現実だとか幻だとかに貴賎はない」

 アゼリアは一息し、

 「それに、だ。片方は不安定で、不確実で、そちらを選んだとしても救える保証がない……。かと言って、切り捨てるような真似は……できない」
 「……アタシゃ賢者でも愚者でもない、ただの衣装描きだよ。人生相談なら余所当たりな。大体カウンセラーがカウンセリング求めてどうすんだい、ったく……」
 「私はカウンセラーではないぞイーゼル」
 「知ってるよ。だから色々困ってるのも知ってるさ。飄々とした笑顔の裏で悪戦苦闘してることなんざ百も承知だよ」
 「……」
 「アンタの本業は――セラピスト、だからね。外科内科はともかく、心療医なんてもん、今の時代にゃ滅多にいない。……そんなアンタに、うちのバカ息子を治してほしいなんつぅ無茶言ったのは、アタシだよ。……重々、承知してるさ。………本当、感謝してる」
 「……」
 「アンタの悩みがどんなもんかイマイチ掴めないんだがね……アタシにゃ上手い助言はできそうにない……って、アンタ愚痴りに来たっけか? 助言欲しがってたんだったか? ん?」
 「…………ふ、ふふ、ふ」

 くっくっ、と堪えきれぬようにアゼリアが喉奥から笑声を漏らした。笑いはやがて、尻上がりに高まっていく。

 「ふ、ふふふ、はっ、ははっ、ははははははははははっっっ!!! そう、その通りだ。何をやっていた私は! 元々無茶なんだ、ここからさらに無茶を重ねて何が悪いっ!」

 生気を双眸にみなぎらせ、アゼリアは勢いよく席を立った。拍子に椅子が倒れるのもお構いなしに。

 「イーゼル、やはりお前は私の友だ。助かったと心から礼を言ってみよう! ああこうしてはいられない、無茶を無理と知りながら無謀を通すにはタイミングが重要だ。失敗は覚悟の上、ならばそれを踏まえ最善を蹴倒そう!」

 狂騒に等しいアゼリアの気炎に呑まれ、イーゼルが一言呟いた時には疾風の如く駆け出した彼女の足音が、遠く彼方へ消え去ろうとしていた。

 「……最善を蹴倒しちゃ、ダメなんじゃないかい……?」

 飄々とした態度はどこへやら。ほとんど躁状態のアゼリアはイーゼルから見ても、最早怪現象。
 それから優に十分はポカンと呆けていたせいで、イーゼルは友呼ばわりを否定し忘れたのだった。















 「……っくしゅ!」

 忍び寄って来た寒気にブルリと身震いして、ラナは夢から覚めた。夢であると悟り、現実でないと知って、無用な感情が迸りそうになるそれは、赤紫の幻夢。

 (………寝ちゃって、たんだ)

 目は開けずに寝返りを打ち、落胆の吐息がせり上がりそうになるのをこらえた。
 どうしてだろう。
 せっかく夢で会えたのに、自分は悲しんでる。夢を、残念に思ってる。それはもちろん現実じゃないから、多少残念に感じてしまうのは当たり前だけれど。傍にいない少年を、より恋しがってしまうのは仕方がないことだけれど。
 例え夢でも、素直に喜んでいいはずなのに。
 自己否定的ネガティブな感情しか湧かないのは……どうして………?

 (……寒い)

 冷たい風は海が近いせいだ。バルティゴの季節は春だけれど、最も隣接する島の季節は冬で、陽の差さない夜間に潮流が寒さを運ぶのだと、イナズマさんが言っていたのを思い出す。柔らかいベッドでうつ伏せになっていたラナは、冷涼な風が肌をさするのに我慢できず、押しのけていた毛布に手を伸ばし、



 ……窓。



 ………………いつ………開けたっけ…………?



 「っっっ―――!!」

 魂を氷の手に掴まれるような衝撃を受け、少女の意識は一瞬で覚醒する。
 ランプの灯が消えた室内。月と星の光がささやかな明かり。
 遮るように、立つ影は。

 「カー……ツ……さん………」

 冷たい鋼の表情が、肯定を示して上下する。

 「目は覚めたか? 姫」

 そこに、微かな熱を滾らせて。

 「―――待ち侘びた」

 長い腕が、パタン、と窓を閉めた。















 悲鳴を上げようとした瞬間に押さえこむ用意はあった。
 黒髪の少女は、窓際に立つ自分に気付いて瞠目し、

 「……っ」

 それだけだった。俯き加減に唇を噛み、ゆっくり体を起こす。
 チリリとした不快感が脳を引っ掻き、カーツはほんの僅か眉間にしわを寄せた。
 目の前の、見目も可憐な少女と話をするようになって、ずっと付きまとっていた不快感。それが何なのか、カーツ自身捉えられず、今尚身を苛んでいる。
 苛々する。
 少女の明らかに異常な反応を見る度。
 ……苛々、する。

 「疑問……。悲鳴しない理由は、何だ」

 すぐさま襲わず、問いかけたことが意外な様子で、少女は驚いたようにカーツを一瞬見上げ、また俯き。

 「本当の戦闘訓練にも参加してるカーツさん相手じゃ……叫ぼうとした途端、口を封じられますから……」

 ヂリ、と不快が増した。アゼリアか誰かに聞いたのだろう少女の言は、正しい。確かにカーツは戦闘訓練を――調練を、受けている。それも、高度に実践的な物を。傷つくことも傷付けることも意に介さないカーツは、その方面に適性があった。簡単な護身術を学んだ程度の少女一人、容易く取り押さえられる。
 少女の判断は正しい。彼我の力量を常識的に測った正論。正し過ぎる.....、正論。
 ……否。
 どこが常識なものか。
 寝室に男が忍び込んだ状況で、悲鳴を上げない心理のどこが常識だ。
 カーツは、だが、そこで思考が止まる。その先は嵐に酷似した何かで塞がれ、覗けない。不明だ。一寸先も見渡せず、濃密な闇がへばりつくように思索を妨げる。疑問。不快。己のことが判らない。故に苛立つ。苛立ちのまま、足が勝手に動いた。気付けばここ。少女の部屋に自分がいて。
 ……不可解。
 ……不可思議。
 煩悶とした情を抱いたことなどかつてなく。
 個人にこうも執着したことなど記憶になく。

 「………」

 俯く少女と、一瞬、視線が絡む。
 敵意。
 拒絶。
 悲哀。
 織りなす、それらの色が、黒瞳に、見え。

 「っ……!」

 思わず握り締めた椅子の背が、握力に負け砕けた。
 少女が目を瞠る。その様子も置き去りに、呆然と、己が少女の眼差しに何を見て聞いて感じ悟り察し理解し。嵐の晴れた心の水平線に、カーツは『それ』を見つけた。



 「俺は…………嫉妬している」



 「……え?」
 「姫の話す“ファン”に、俺は恐らく、嫉妬している……」

 嬉しそうに、寂しそうに。少女の語る“ファン”という男に。

 「……姫は、卑怯だ」
 「ひ、卑怯?」

 戸惑いも露わな少女にカーツは首肯する。

 「ああ、卑怯だ。ずるく、卑劣だ、悪女だ」
 「カ、カーツさん!?」

 余りの言われよう。憤然とラナは口を開きかけ、



 「なぜ……姫に好きな奴がいるんだ………」



 ……続く一言に、押し黙った。
 双方が口を閉ざせば、室内は静まり返る。夜半を過ぎて、ほとんどの住人は眠りの中。耳が痛くなるような、静寂。

 「………ラナ..

 ビクッ、と。名を呼ばれた少女が、ベッドの上で後ずさる。姫という呼び名で己自身に誤魔化していた青年は、数歩の距離を詰める。ベッドに手を乗せる。スプリングが、軋む。

 「来ない、で……」
 「……承服不能。“ファン”がいつ帰ってくるか分からない。俺には、今しかない……」

 体重を支えるのとは別の腕を伸ばし……かけて、止まる。止められる。
 少女の手の中に、鈍い輝きがあった。

 「……用意がいい。だが無駄。ナイフを奪う程度、造作も……」

 不意に、少女が微笑んだ。カーツは口を噤んだ。怖気のようなゾクリとしたものが、背筋を走った。
 微笑したまま、少女は、握っていたナイフを突き付けた。
 ――自分の、首筋に。

 「…………な……」

 凍りつくカーツの目を見て、少女は告げる。

 「ファン以外の人に、乱暴されるぐらいなら……死にます」
 「ラ……ナ……」
 「カーツさんは……生きてる私じゃなきゃ、嫌ですよね……?」

 疑問の形を取った確認。カーツは動けない。一センチ手元が狂えば、目の前の少女は喪われる。そしてラナは、儚げな笑みを崩さず、でも、と言葉を継ぎ足す。



 「ファンはきっと、私が死体になっても………可愛がって、くれます」



 だって。
 ファンは私を、殺したがってますから――



 「――――――――」

 ただ、絶句。
 言葉も、ない。
 理解、不能。
 手を伸ばせば届くはずの少女が、何万キロも彼方に居るような錯覚。

 「う、あ……!」

 呻き、弾けるようにカーツは飛び離れた。可憐な少女が刹那の内に怪物へ変貌してしまったような、訳の分からない恐怖を抱えて。
 その、直後。




 「ふむ。素晴らしいタイミングだと称えてみよう」




 「え……」
 「な……」

 二人してギョッと振り返った瞬間、長身の影がカーツに躍りかかった。反応する間もなく頭を鷲掴まれたカーツの身体が一度跳ね、ガクリと倒れ伏す。
 唐突にも程がある登場。呆然と、ラナが言う。

 「アゼリア、さん……?」
 「その通りだラナ娘。間に合ってよかったと心にもないことを言ってみよう」

 ニヤリとアゼリアは笑うが、ラナの頭は混乱真っ只中だ。

 「え、でも、何で。ドア開いてないし、窓も……あれ? ずっと、部屋に居たんですか??」
 「それは違うと断言してみよう。……まあ、とにかくだラナ娘」

 ぽん、と頭に手を置き。

 「今日はもう、休め」
 「え―――」

 クラッと、視界が回り、眠りの底へラナは吸い込まれていった。















 すやすやと眠る少女を慈しむように撫で、アゼリアは一つ息を吐く。

 「正直……胃が捻じ切れる思いだったと告白してみよう。上手く事が運んで何よりだ。……本当に」

 カーツと、ラナ。
 大切な患者と、妹のように思う少女。
 アゼリアは二人を選べなかった。どちらか片方だけを選ぶことなど、できなかった。故にこんな、博打めいた手段に打って出た。
 結局、これが最善だったかは分からない。やるだけはやった。カーツの心理は何がしかの影響を受け、少女に危害はない。……一歩間違えば、全てが崩れていたかもしれない、危うい薄氷の出来事だったが。

 「……協力、感謝する。よく、カーツを殺さないでいてくれた」

 いつの間にか。
 小柄な影が、佇んでいた。月明かりを避けるように、窓際の闇へ、身を置いて。
 影が、弄んでいたナイフを太腿のベルトに留めた。どうでも良さそうに床に倒れるカーツを一瞥し、興味をなくしてアゼリアを見る。次いで、ベッドの少女を。

 「私はこれからこいつを保護者の所に引きずっていくが、どうする? ラナ娘は、多分朝まで目覚めないぞ。良い夢を、みているからな」

 影が首を傾げ、アゼリアに視線を戻す。すっと指差し、能力者、と呟く。
 アゼリアは豪快に笑った。

 「そう、私はユメユメの実を食べた幻夢人間。頭に触れれば、一瞬で夢の世界へ送れる。……まあ、それ以外はかなり大雑把な能力で、戦闘には不向きなんだが」

 そんな説明も聞いているのかいないのか。フードに隠れた表情からは読み取れない。
 沈黙をそのまま体現した影に肩を竦め、アゼリアはカーツを肩に担ぎ、扉の鍵を開けて廊下へ出た。それを黙って見送り、影はゆらり、と歩を進める。
 空から降る幽かな光が、鮮やかな血色の上着を照らした。穏やかな寝息を立てる少女の、黒く滑らかな髪を指ですくい、たわむれる。

 「……………………ラナ」

 眠たげな赤紫の瞳が、寝顔を見守った。じっと、床に膝を突き、夢にたゆたう少女の傍で。
 どれだけそうしていただろう。少年自身、時間の感覚が分からなくなった。何か、懐かしい思いに、取り憑かれて。

 「…………」

 静かに立ち上がる。今夜の帰還は、謂わばイレギュラー。ナイフの調達と、能力の実験。二つが重なってできたこと。
 くまを、待たせている。もう、行かないと。
 一度目を伏せ、踵を返した。少年はけれど、たった一歩で止まった。
 袖を引く手が、あった。

 「……ファン」

 二ヵ月と、少し。
 久しぶりに名前を呼ばれて、すり抜けようとするのを、やめる。
 振り返った。少女が、自分と同じような夢見るような目で、見上げていた。

 「…………アゼリアは、目を覚まさないって………言ってたのに」

 ゆっくり、身を起こした少女が首を振る。至福のような夢だった、それは間違いないけれど。



 「夢より…………現実のファンが、いい……」



 起きた時に、寂しく、ならないから―――









[19773] 形ない贈り物
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47fdd84c
Date: 2011/07/12 15:41

 ――ラナは恋をしている。
 二度目の恋。初恋はあの赤い夜に潰えた。それとも一度目は告白を受け入れただけで、これが本当の初恋なのかもしれない。
 今夜は、強くそう思う。

 「……っん……」

 熱くて、口付けは柔らかい。ファンの舌が歯をノックして、開いた隙間から忍びこんでくる。
 大人のキス。最初はそんなキスがあることも知らずに、驚いたけれど。
 今はもう、返せる。応えられる。動かし、くちゅりと粘ついた音が口の中で響くのは、何だか卑猥な感じがした。

 「あんまり…………長く、いられない」

 首筋に舌を移し、結び目を解きながらファンが囁く。

 「まだ、孕んで…………ない?」
 「……生理、ちゃんと来た………っあ」

 直截な言葉に頬を赤らめ、耳の中を舐められたせいでピクリと反応する。

 「…………残念」

 踝から抜かれたワンピースがベッドの脇に放られた。俎上の魚みたいに寝かされた態勢で、上着とシャツを一緒くたに脱ぎ捨てるファンを仰ぎ、わ、と目を見開く。

 「凄い。……引き締まってる」
 「…………鍛えた」

 修業に行く前から筋肉は付いていたが、こんな研いだ刃のような印象はなかった。隆々としているのではなく、シャープになった、と言うのだろうか。

 「さ、触っていい?」
 「…………」

 肯定の気配があり、妙に緊張しつつ、心持ち身体を持ち上げ腹から胸へと手を這わせた。お腹の割れ目から鳩尾を通り、張りの出た胸筋に手の平を押し当てる。堅い男らしい感触にドキドキして、確かめるように繊細な指先を何度も往復させた。
 ファンがくすぐったそうに身をよじり、はっとなって指を引っ込める。少しだけ、夢中になっていた。
 肩を押されてラナはベッドに倒れた。肘と膝で体重をかけないよう注意して、ファンがその上に覆いかぶさる。見つめ合いは数秒、口付けと一緒に、ファンは右手を肌着の下に差し入れた。

 「ぁ……ん」

 薄布の下で、ファンの指が蠢く。左手でラナの首を支え、右手は滑らかな柔肌を登っていく。下腹を手の平全体で撫でた後、親指がへその穴をくすぐり、他の四指が脇腹をなぞって上への道を探した。その間も唇は仕事を忘れずに、舌を駆使して、まだ慎ましい喘ぎ声を喉奥へ唾液とともに送り返す。まだ始まったばかりであるにも関わらず、少女は総身を震わせて、途切れのないキスと愛撫に早くも蜜を滲ませていた。
 先刻、別の男に襲われかけ、自決を宣言したことが拍車をかけているのかもしれない。本来無味の唾液に甘さを覚え、止め処なく流し込まれるそれをむしゃぶるようにしながら、五感とは別の部分で無意識に思う。
 例え死体であろうと愛しい少年が大事にしてくれることは間違いない。こうして全身にその体温を感じる今、抱いた確信は一層強くなっている。だけどそれとこれとは別として、生きていなければこの温もりを感じることができないのも真実なのだ。
 それは、怖い。
 そんなの、嫌。
 死んでしまえば膨らみの増した胸をまさぐられる柔らかな快感を味わえない。肌着や下着を脱がされる恥ずかしさを抱けない。ピンと勃った胸の頂を含まれる感触も洗い清めた肌を這いずる舌粘膜のじっとりした心地よさも感じられない。
 だけれど、他の男に抱かれるのはもっと嫌。

 「や……あ、ああ……! んんっ、ぁ!」
 「…………もっと、淫れて」

 服の一枚も残さず剥ぎ取ったラナの秘裂に顔を埋め、舌を使いぴちゃぴちゃと音を立てながら穴襞を掻き分ける。いや、あっ、と押しのけようとする手はすり抜け、左右の太ももを抱えるように固定し、さらに奥へと舌を伸ばす。否、それは比喩ではない。邪魔な皮膚と肉を透過して、ファンは実際に膣道へと舌を這わせた。
 届くはずのない範囲にまで舌のぬめりが及び、ラナの裸身が大きく反り返る。あ、あ、と声にならない喘ぎを漏もらし、法悦が限界まで脳を犯したところで、糸が切れたようにベッドへ落着する。

 「…………大丈夫?」

 荒い息を吐くばかりで身じろぎしなくなったラナに、事をなした張本人が聞いた。呼吸が何とか収まりを見せた頃、薄目を開けたラナが、小さくこくんと頷く。
 もう少し待った方が良いかもしれない、とファンは思った。思っただけで、それは実行されなかった。もう待ち切れないというのが、正しい。
 下半身を覆っていた物をベッドの外に落とした。自然、それは大きく仰角を上げ、ラナの前に充血した己を誇示する。
 あ、と一瞬、畏れにも似た声をもらす少女。その目が恐怖とも喜びともつかぬ感情で染まり、硬く尖ったそれに注がれる。

 「……待って。休ませて……」
 「…………」

 ラナの懇願に沈黙を持って答え身を進ませる。や、と少女が呻き、横に転がって少年に背を向け、うつ伏せのまま肘を突いて逃げようとした。快感に脳が痺れているのか、さして広くもないベッドの上で、どこに逃げようというのだろう。

 「あ……」

 ぐいと腰を引っ張られ、ラナは膝立ちを強制された。肘と膝で、全身を支える格好になる。自ら割れ目を捧げるようなその体勢に気恥ずかしさを覚えたのも僅か、潤い濡れそぼった秘所に灼熱の棒が押し当てられ、幾度か経験した悦びの予感に全身が緊張した。

 「あ、ああっ……!」

 閉じた花びらの奥にゆっくりと茎が差し込まれる。襞の一枚一枚をこすりながら、ラナの膣を一分の隙なく埋めて子宮に迫り――入り口までは届かず、止まる。正常位ではないため若干浅く、しかしいつもと違う場所をこすられて、ラナの両手がシーツを握りしめた。

 「っ……ん。…………ラナの、中」

 ファンもまた、二カ月ぶりの交わりに小さくくぐもった息を吐く。少女のナカは濡れて滑らかなのに、飴のように張り付いてくる。
 込み上げる射精感をこらえた。
 すぐに出してしまうのは、もったいない。
 ゆっくりと腰を引き、ファンは己を引き出す。切なげな声音がラナの喉元から聞こえ、間を置かずにず、ず、と突き込む。

 「は……っあ、や、ぁんっ、……や、ぁあ……!」

 くちゅ、ぐちゅ、と淫猥な音が響いた。発生源は二人の性器。愛液が飛沫を散らし、シーツに染みを作る。自らへ引き寄せるように腰を打ちつける少年は、やがて満足いかず繋がる少女の腰を掴んだまま、倒れるようにベッドへ尻を着ける。それに引きずられ、上体を起こした少女は、あぐらをかいた少年の膝に座る形で。

 「あ……ファン……? あっ、ぁ、ん!」

 下から上に、貫く姿勢が変わる。どれだけ触っても飽きることのない身体を膝に乗せ、うなじに浮いた汗を舐め取りながら両手は胸へ。柔らかくも硬い芯と将来性を残す乳房を、下からすくうように揉み上げる。
 こりこりした乳頭を指で挟めば、きゅうっと膣が締まった。スプリングを利用した上下運動が一旦止まる。

 「…………次、出すよ」
 「……うん」

 挿入したまま透過を駆使して、少女の身体をこちらに向かせた。対面座位。紅潮し、陶酔した様子の顔が、よく見えた。少女が視線を落とすと、足の間から自分に入り込む、相手の性器を目にできた。繋がる部分にそっと手を当て、瞼を伏せる少女の心中は、ファンには分からない。

 「少し…………遅れた」
 「何、が?」

 くちゅ、と一度小さく出し入れすると、少女がは、と息をつく。くちゅりくちゅり、二度動かせば吐息も、二度。

 「遅れた分…………良いもの」
 「だから……は、ん……なに?」

 静かな律動を続けながら、疑問符を浮かべる少女の耳に唇を近付けた。耳朶を甘噛みし、背中の敏感な部分に指を這わせ、感じ入る少女に不意打ちのように囁いた。



 「ハッピー、バースディ…………僕の、恋人マイ・ステディ



 「――――!!」

 弾けるようにこちらの顔を見ようとした少女の身体を押さえこむ。どうせいつもと寸分変わらぬ無表情だろうけど、なんとなく、見られるのは癪だった。
 何事か――内容に予測はつくけれど、言い募ろうとした少女の言葉を封じるため、律動を再開。ベッドへ押し倒し、言葉を無理やり嬌声に変えられた少女の、非難めいた視線を感じつつ無視を決め込む。

 「……っ」

 過去一番の締め付けに精巣が急速に膨らみ、少女の胎内めがけて駆け上って行った。大量の白濁液を注がれた子宮の震えが少女の全身へ伝播する。

 「ひぁ……! あ……あ……」

 性感の頂、きっとそれは二人の幼く拙いセックスでは達し得ないことだったが、技巧はムードで補える。心が高揚すれば媚薬も必要なく、故に赤紫の少年は、雰囲気作りが上手すぎてタチが悪いと、後年、少女“たち”の間で溜息されることになる。















 「で、意識が朦朧としてるうちに少年はまたもいなくなっていたわけか」
 「…………」

 翌朝。ずーんと落ち込む黒髪の少女を発見し、何があったと聞ける範囲で問い質したアゼリアは、モーニングコーヒーなど啜りつつ一言で纏めた。ラナはと言えば、机に突っ伏したままピクリともしない。不憫な。口にすると死者に鞭打つ形になるため、内心で呟くに留める。

 「とはいえ、念願の恋人だろう。よかったじゃないかと賛辞してみよう」
 「…………」

 無反応。困った風情でアゼリアは頬を掻き掻き言葉を探す。

 「まあ……あれだな。ラナ娘の説明を聞く限り、酷い少年だと非難してみよう。照れ隠しにも程がある」
 「……照れ隠し?」
 「だと私は思うが。個人的にはそちらよりも、ラナ娘が朝を待たず夢から覚めたことにこそ驚嘆してみよう」
 「照れ隠し……照れ隠し……」

 まるで聞いてなかった。机から顔を上げた少女は何度か口の中で繰り返し、にへら、と笑み崩れる。そして今度は怒った風な顔をして、寂しげな表情に戻り、考え込むような悩み顔へ。
 恋する心は複雑らしい。アゼリアは一段落つくまで黙って見守ることにした。
 ユメユメの実は、制限が多い。相手の精神へ干渉するのだから、ある程度制限がなければ逆に困る。能力者である以前にアゼリアは心療医なのだ。思うがままにメスを入れるのは、外科医の仕事と割り切っている。
 接触なしに意図した夢を見せることは叶わないし、それすらアゼリア自身が考えた内容であるため、本人にとって正しく吉夢であるかなど把握しようがない。
 役立たずでこそないが、使い勝手の悪い能力。唯一、他人の夢を覗く時には役立つ程度か。それとて診療行為の一環としてしか使わないが。

 「……さん。アゼリアさんっ」
 「む。どうしたラナ娘、もういいのか?」
 「いいのかって……今呼んだの三回目ですよ?」

 目の前の少女の指摘に、一つ瞬き。まだ昨夜の疲労が残っていたかと首を捻る。

 「……ふむ。まあいいか。それで、少年とのことは折り合いがついたのか?」
 「えっと……はい。多分」
 「そうかそうか。具体的には、と興味津津に訊ねてみよう」

 あくまで会話の流れとして尋ねたのだが、意外にも少女はちょっと照れ臭そうにしながら、しっかりと答えてくれた。



 「――今度一回、耳元で大っ嫌いって言ってやります」



 「…………」
 「……冗談ですよ?」

 冗談に聞こえなかった。















 目を開けると生まれた時から知ってる顔。

 「……何をしている、母」
 「バカ息子にわざわざ膝貸してやってるんだよ。感謝しな」
 「…………その歳で膝枕は恥ずかしくないのか」
 「普通こういうもんはされる方が恥ずかしがるんだよ」

 だからアタシはこれっぽっちも恥ずかしくない。イーゼルは断言し、色々と疎いカーツはそんな物かと納得する。声高に否定する意味も興味もなく、くだらない疑問よりも差し挟むべき質問がカーツにはあった。

 「は」
 「部屋で寝てるそうだよ、アゼリアが言うには」

 そうか。
 ならばいい。

 「……事の顛末は聞かなくていいのかい」
 「ただ一つ、事実があれば不要」

 母親の膝に頭を乗せられたまま、カーツは開いた己の手を見つめる。

 「――俺はフラれた。こっぴどく、悪夢のような形で」

 だが、とどこか晴れやかな顔で、カーツは言った。

 「俺は姫に理解された。末端であれ、断片であれ、理解を受けた。その上で、俺は俺を否定された」

 充分だ。冷えた無表情で締めくくり、カーツは瞼を閉ざす。思考も閉ざす。
 イーゼルはやや硬質な、自分とよく似た髪を撫でてやった。

 「初恋は実らないもんだよ。良かれ悪しかれ、そんなものさ」

 く、とカーツの唇が歪む。皮肉気に、あるいは愉快気に。
 笑みを浮かべた息子にイーゼルの息を呑む気配を感じたが、彼にはどうでもよいことだ。
 なるほど。もう一度胸中で呟く。なるほど。



 俺は、失恋したのか――。


















 報告書、ではない。ドラゴンが司令官室でめくるのは、くまが届けたとある少年の日記みたいなものだ。
 内容は何を何匹殺した、どうやって赤くしたなど、日記とは程遠い血なまぐさい文字だったが。

 「……最初のページに、俺を殺したがってるタイトルを入れるのはどうなんだろうな」

 仮想と付いてるだけましか。低く笑い。ドラゴンはページをめくっていく。
 もう要らない。その一言でくまに預けられたらしい。インクなど一式揃えて返された。

 「……いよいよか」

 色々と諸条件が重なって昨夜はこちらに戻って来たらしいが、夜明けを待たずくまの手でエグザルに飛んだ。ここまで来たのなら顔ぐらい見せろと思う。
 ノートは少年の性格を表すようにぶつぎれの単語で記され、読み解くのは少々難解だったが、逆に個性が出て下手な読み物より面白味があった。淡々とした中に、赤い狂気が透けて見え、時に隠れて消える。興味深い文章だった。

 「二ヵ月……思いのほか、早かったな。しかし、ここからが最大の難所だ」

 ――がんばれよ。
 ゆっくりと東の空に陽が昇る様子を眺め、ドラゴンは小さく激励の言葉を紡いだ。










 そして。

 「………………」

 赤紫の少年は、傾斜角60度以上の断崖絶壁を常と変らぬ眠たげな無表情で見上げた。


 ファン・イルマフィ。


 登頂、開始。







[19773] 鳥獣戦果
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47fdd84c
Date: 2011/05/04 21:34

 ドラゴンは基本、謎の人である。
 敵対する世界政府は言うに及ばず、首領を張る革命軍内部においてもその氏素性は知られていない。
 一般的な人間の体格として大柄な部類であり、顔の半面をのたくる刺青が元来の強面を厳つく強調する。加えてフードにすっぽりと頭を覆っていたりなどすれば、これはもう間違いなく不審者である。怪しい人間である。子供が泣き出すこと間違いなしなのである。
 無論、そこはある種有象無象とも言い換えられる世界中から集めた人員を統率する手前、他を威圧する外見はこの上なく有効に働くだろう。人は他人を認識する時、その九割以上を第一印象で決めつける。なればこそ、ドラゴンは自身の容貌を効果的に活用していると言えるのだ。
 そしてここにも、自分の容姿をある意味有効利用している人物が一人。

 「……ラナ。その手にある菓子折りの山はどうした」
 「えっと……食堂に行ったらどうしてか皆さんが」
 「……」

 その皆さんとは癒しを求める哀しい男連中なのだろうなと、ドラゴンは遠い目をしながら容易に推察する。互いに牽制し合ううち、均衡が崩れ我も我もと群がって行ったに違いない。
 厨房で、食堂で、あるいは洗濯場で、くるくるとよく働く少女は男心をくすぐり、庇護欲めいたものを覚えさせるようだ。意図してやっているなら相当な悪女だが、余程演技力がない限りそういう思惑は行動に透けて見え、故に黒髪の少女の可憐な仕事ぶりは全くの無意識で、逆に一層悪質と言えなくもなかったりするのだが。

 「あの、少しもらってくれませんか? 一人じゃ食べられなくて……寮でも分けるつもりなんですけど」
 「男に分けるのは勧めん。少しは意を汲んでやれ」
 「え……?」

 今日は大人っぽくハーフに上げた黒髪を揺らし、困惑の瞳で少女が小さく首を傾ける。本人の趣味かそれともアゼリアかイーゼルか、全体として白と黒のコントラストが印象的なブラウスと前の開いたスカート、動きやすいズボン穿き、くわえて丈の長いブーツまで身に付けた、いつになくオシャレというか活動的な服装。
 少し、どころではなくかなり、以前のワンピース姿と比較した落差が激しい。森厳な林の澄んだ泉に足を浸すご令嬢から、広大な草原で馬を走らせる様が似合う令嬢に変わったような感じだ。どちらにせよ育ちの良い令嬢の枠から外れないが。

 「あ……やっぱりこの服、ちょっと変ですか……?」

 と、ドラゴンの視線に気づいた少女が、何を血迷ったか不安そうな顔で世の乙女たちを敵に回す発言をかました。トレイに乗せた大量のお菓子を抱えたままその場で一度くるりと回り、なびいた黒髪が綺麗な円を描いて、ドラゴンは目を細めた。少女が一回転したことで見えた、腰にベルトで留められた一対の握り付き金属棒――――トンファー。

 「……重いか?」

 短すぎる問いに何を言われたか掴めなかった少女は、一瞬後、明言のない指示語が自分の腰に提げられた武具を差していることに気付き、困ったような照れたような、にわかに判別し難い微笑をもって応える。

 「私が望んだ重さですから……負けません。絶対に」
 「……」

 イーゼルが息子を伴いドラゴンの下を訪れてから、二ヵ月が経つ。服飾長である彼女は、職人特有の厳格な気性のまま告解――罪の告白にやって来た。内容は息子カーツの犯した暴行未遂。それに付随する責任を取る旨と、今後一切このような真似を犯させない誓いの言葉。
 軍規に照らせば営倉入りどころか肉体的痛苦を与える処罰となるべき罪科だった。話の腰を折らず、最後まで言いたいだけ言わせたドラゴンは、大気が硬く凝ったような沈黙の中でおもむろに口を開き裁可を下したのだ。

 ――本来なら許される罪ではない。が、被害者であるはずの少女から情状酌量が求められていることが一点。

 ――そして革命軍心療軍医アゼリアから、事件を精神治療の一環として受理してほしい旨が一点。

 ――以上二点により、今後再発の懸念が無いのであれば、今回一度に限り不問とする。

 それは異例の審判であったが、そもそも犯罪とは被害者と加害者が居て成立する。被害者側が被害を取り下げれば、犯罪が起きたことにはならないのだ。
 これで八方丸く収まった、とドラゴンは思わない。ぎこちない関係が続き、犯しかけた罪は記憶に残る。忘れようとしても、少女の姿が傍にある限り忘れることは叶わない。罪悪を胸に抱いたまま、少女と接し続けることこそ、カーツに課せられた本当の罰。
 その一件からだ。
 ラナが、服飾を学ぶ傍ら、時間の隙間を縫うように本格的な護身の技を身に付け始めたのは。
 どのような心境で、心持ちで、少女がそれに打ち込むのか。直接話を聞いたわけではないドラゴンには想像しかできない。刃物を選ばず、敢えてトンファーという防御に重きを置いた武器を選んだ理由もまた、同じく。
 だが想像だけで、事は足りていると、ドラゴンは思う。

 「……そろそろ昼の休憩が終わる。その菓子の山、寮に持って行くんだろう。いつまでも油を売っていていいのか?」
 「えっ……あ、ほんとだ! じゃあドラゴンさん、強くなったら、お稽古付けてくださいね!」
 「それは……構わんが」

 護身術に、どれほどの強さを求めているのか。
 てってと駆けて行く背中に意味もなく悩むドラゴンだった。

 「……む?」

 少女が寮――官舎の方角へ去るのを見送り、自分も指揮官室に戻るかと踵を返したドラゴンは、ふと、天を仰いだ。優雅に翼を広げ、ゆっくりと旋回する一羽の影を蒼穹に見る。

 「……」

 小さく口の端を持ち上げ、ドラゴンは目を細める。苦笑と微笑の中間という曖昧な、しかしこの上なく現在の心情を表した表情で、そろぉー……っと近付いてくる背後の気配に振り返らないまま笑いかけた。

 「島は楽しかったか? ……ファン」
 「…………!」

 ビクッ……! と、あからさまに気配が動揺し、どこか慌てたような空気を残して離れようとする。視覚的にはどこにも見当たらないが大体この辺だろうという位置にドラゴンは手を伸ばし、当たりを得る感触。ぶらん、と子猫よろしく首根っこを掴まれ吊り下げられた少年の姿が、陽炎のように――あるいは幽霊のように、どこからともなく現れた。

 「…………。…………捕まった」

 ――――ファン・イルマフィ。
 四か月ぶりだと言うのに、その眠たげな無表情は懐かしささえ覚えるほどまるで変わらない。
 ……いや。

 「少し、背が伸びたな。……髪はもっと伸びたようだが」
 「…………面倒」

 丁寧に切り揃えられていた赤紫の髪が顎のラインを大きく越えて肩まで届き、しかし少年の一言は切るのが面倒なのか、目元に前髪がかかって面倒なのか判然としない。

 「それで? こっそり忍び寄ってきたのは暗殺の真似ごとか?」
 「…………びっくり…………どっきり」
 「驚かしたかっただけか……紛らわしい」

 嘆息と一緒に微かな安堵を吐き、手首の一振りでぽいっと荷物のように少年を放り投げる。投げられたファンは身体を丸め、それこそ俊敏な獣を思わせる身のこなしでくるくると、綺麗に足から着地した。
 ……無事、課題をこなしたか。
 四か月前と比べるべくもない。見れば分かる――見ただけで、分かる。身体の芯から、何かが違う。
 あちこち裂け、破けた服、包帯を巻いた足や腕が、何よりそれを物語る。
 佇む立ち姿と僅かな挙動でドラゴンは大よその身体能力、その上昇を見て取り唇を笑みの形に歪ませた。
 そこへ、ピィ――ッ、と、鋭い鳴き声。
 顔を上げたドラゴンの視線の先で、一直線に遥か天空から急降下してきた薄茶色の物体が、翼を打ち急減速し、少年の肩に留まった。威丈高に、ここは自分の場所だと宣言するが如く、またひと声高く喉奥から鳴き声を響かせる。

 「……何だ、そいつは」
 「…………手下」

 ファンがそう答えた瞬間、肩に留まったそいつが少年の頬を翼でベシッと叩いた。不満そうに。

 「…………部下?」

 ベシッ、ともう一度。

 「………………家来」

 ベシッ。

 「…………。……………………」

 じぃーっと手下だか部下だか家来だかの目を見たファンが観念した風に、しかしその小さな猛禽より不満そうに、一言。

 「…………相棒」
 「ピィッ!」

 まあ、そういう所に落ち着いたらしい。
 一鳴きして、少年の肩に留まったまま満足した様子で踏ん反り返る――鷹。通常の種より小柄な、ツミと言う名の猛禽類であった。
 ……相棒は別に構わんが。
 だから結局何なのだと、それで説明を終えた気でいる少年に訊ねるドラゴンだった。





 …………全部聞き出すのに三時間かかった。















 酷使に酷使を重ねた身体をぐっと持ち上げ、ファンは半日近くを費やしそこに到達した。

 「…………っ」

 全身の細胞が酸素を求め暴れていた。浅く速い呼吸がどうにか静まりを見せたのは、横になって十分以上が経過した後だ。

 「ぜっ…………はっ…………はぁ…………は…………」

 ふぅ、と息を吐き出す。それこそ呼気と一緒に魂まで抜け出たかと思うほど、全身が重かった。苦しかった。けれど達成感はそれ以上。眠りに引きずり込まれそうな身体に鞭打って、よろめきながら上体を起こす。
 風が真っ直ぐに――そこを通り抜ける。遠く遠く、遠望する果て、雲海と蒼海を抱くように沈む、夕日。
 頂上の、景色。
 不思議と、心騒ぐことはなかった。疲労の極致とでも言うべき状態だったからかもしれない。

 「登り…………着いた」

 やった。万歳するように差し上げた両手を握り締め、背中から山頂の地面へ倒れる。正直、最初は山を舐めてた。時化の夜、暗中の海に取り残されるよりはましだろうと考えていたが、命の危険で言えば大差ない。取り残された経験はないが。それは親の体験談だ。
 一ヶ月半。何十回落ちかけたか。実際、一度落ちたけれど。その時は運良く怪鳥の尾羽に掴まることができ九死に一生を得た。エグザルの地でさえなければ対処法はあったが。
 …………眠い。
 疲れた。このまま眠ってしまおうかと思う。けれどその前に……喉が、渇いた。

 「…………水」

 水筒を探り傾け、最後の一滴が舌に落ちた。

 「…………」

 山頂に広がる火口湖へ視線を向ける。この島に滝はなかったけれど、実際川を溯るほど水は綺麗で美味しく、最後に到達した源流の湧水など微かな甘みを感じるほどだった。
 だからここはもっと美味しいに違いない。そう期待して水筒ですくい、啜り……噴いた。

 「っ…………ま……まず、い……」

 飲めたものではなかった。微かに渋面を作り、がっくり肩を落として水筒の中身を捨てる。
 ファンの知識にはないが、火口湖とは火山にできた湖であり、当たり前の大前提として硫黄などの火山性物質が多量に含まれる。中には極度の酸性を有する水質も存在し、その場合中和しなければ飲み水としての利用など夢のまた夢である。
 舌と口腔が溶かされなかっただけ幸運なのだが、真水と思ったのに海水でした的な、赤紫の少年にとっては死活問題ならぬ枯渇問題だった。
 その時である。
 どこか嘲笑うような、鋭さの中にひん曲がった性格を感じさせる鳴き声が聞こえたのは。

 「ピィ~~ピピッ! ピッピッピ~♪」

 頭上を仰ぐと、一羽の鳥が笑い鳴きしながら旋回している所だった。
 高度四千メートルを越す山の更に上を飛んでる時点で普通の鳥ではなかったのだが、疲労困憊の上喉が渇いてるファンにそこまで考慮するゆとりはない。
 問答無用で近くの石を投げつけた。油断していたらしい。「ピギッ!?」とか呻いたような鳴き声を出し、ひゅるひゅる螺旋を描いて落ちてくる。
 無表情ながらも満足げにファンは一つ頷き、疲れた身体を引きずって山頂の端に向かう。こんな体調で下山など自殺コースまっしぐらだが、もたもたしてたらその前に水分不足で死ぬ予感。……まだ我慢できるけれど。

 ――刹那。

 ゾクッ……と背筋が粟立ちその悪寒に従って横の地面に身を投げる。直後ファンの立っていた地面を、巨大な爪が砂を刻むように砕き裂いた。

 「…………!」

 地面を転がり、体勢を立て直し振り返ったファンは、自分の見たモノに人生で初めて、絶句する。
 ――頭は、猛禽。
 ――胴は、獅子。
 大人の身長を優に越えた体高を誇る、絵本から抜け出たが如き雄々しさの――――それは、グリフォン。

 「幻獣……種?」

 呟き、はっと我に返った少年が身を翻した空間を引き裂く猛爪。
 そいつが吼える――否、“鳴き荒ぶ”。



 ――――ッピィィィィィィィィィィィィィィイィッ!!!!



 「っ…………!」

 大気が震えるほどの音声。身構えたファンは、しかし同時に確証を得る。
 ……幻獣種じゃ…………ない。
 動物系の、きっとネコネコの実を食べた、鷹だ。
 このグリフォンのような姿は言わば人獣形態。鷹とネコ科の猛獣を掛け合わせた姿だ。
 ずっと変だとは思っていた。この島には縮尺がおかしくなるような怪鳥が山に住んでいるのに、小さな鷹がその巣の辺りに帰って行くのを何度も見かけた。けれどたった今納得した。
 こいつが――この島で最強の猛獣なのだ。

 「っ!」

 ピグァッ、と猛禽と獅子の叫びが混じり、不躾な侵入者――無礼にも石礫を当てた不埒者を牙と爪にかけんと襲ってくる。半ば怒りに我を忘れた様子さえある前脚の一撃を掻い潜り、ファンは飛び離れ、着地した足が不意によろめく。
 疲労だった。そして大きな隙だった。
 後ろ脚で跳び上がり、翼を広げ宙を滑空したそいつが伸ばす前脚を躱せなかった。
 痛烈に、背中から地面へ叩きつけられる。引き裂くのではなく押さえ込みを目的とした一撃。一発で肺の中の空気をほとんど持ってかれた。眠たげな無表情に苦痛が映る。

 「はっ…………く…………!」
 「ピガァァァァァァァアッ!!」

 押さえ捕まえた余韻もそこそこに、鳴き荒んだそいつが息の根を止めるべく、槍のような嘴を振りかざした。

 「…………!!」

 目と鼻の先で、突き込まれる嘴を掴んだ。バリズの時を遥かに超える危機感に心臓が暴れ、困憊した筋肉が悲鳴のフルコーラスを奏でる。絶体絶命。登山の最中に崖から滑り落ち真っ逆さまに落下した記憶が脳裏を掠め、現状がそれ以上の危険度に更新認知され、十四年の短い人生の中で間違いなくトップを飾る危機に、ファンは、

 「くっ………………ふ…………!」
 「!?」

 猛獣の筋力で肉を抉ろうとする猛禽の眼に、戸惑いが浮かび。

 「く…………ふ…………ふふ……!」
 「!??」
 「くふ……ふ…………ふふふふふ……!!」
 「っ!!??」

 ――――嗤いが、山頂に木霊する。
 疲労しているのに疲弊しているのに困憊しているのに、少年の唇は大きく禍々しく、吊り上がる。
 危機を危機と知りながら危険を危険と悟りながらそんなものは無為と笑い哂い――――嗤う。



 「あっははははははははははは――――ッ!!!!!!」



 くぱぁっと開いた赤い口腔からけたたましい哄笑が怖気と寒気の限りを振り撒き響き渡り、少年を啄ばもうとしていた嘴が畏れ怯んだように力を緩めた。
 すかさず少年は片腕をそいつの胸に差し向けいっぱいに指を開いた。赤紫の両眼が溢れ返る濃縮した殺意に爛々と輝く。



 「――――“幽山”――――」



 狂ったような哄笑が嘘のように呟きは秘めやかく。目を瞠ったそいつの胸元を、激烈な不可視の“衝撃波”が貫いた。
 ゴボッ、と嘴から逆流した血液が開いていた少年の口に注がれ、思わず飲み込んでしまったファンは、その鉄臭さにむせ返りやや不本意な形で我を取り戻す。
 厚い胸板を円形に小さく窪ませ、そいつは白目を剥いて横倒しに倒れた。しゅるしゅるとその身体が縮み、ファンの確信を裏付けるように一羽の鷹に姿を変える。

 「…………」

 ぐったり動かないそいつを靴の先で突き、目を覚まさないことを確認する。不幸中の何とやらで喉の渇きは潤せたが、正直、本当、もう……限界。
 盛大に息を吐き出したファン自身も、そのままぐったりと仰向けに倒れ、スースー寝息を立て始める。
 島の気候が夏に当たるためかそれとも元からこうなのか、気温は不思議と高くもなく低くもなく。
 翌朝までぐっすりと、眠り込んだのだった。















 「……で、その後何度も戦ううちにお互い認め合う部分が生まれ、何だかんだ仲良くなって一緒に島を出たと?」
 「…………」
 「ピィ!」

 無言と鳴き声に肯定され、ドラゴンは疲れ切った身体を背もたれに寄りかからせる。
 何と言うか、あれだ。もう二度とファンにあれこれ聞き出すのは止めようと心に誓う。質問者の方がグロッキーになりそうだった。というか実際になった。
 しかしこれでファンが相棒と呼ぶことに不満そうなのが納得行った。全戦全勝だったのだから当たり前だ。
 プライドの高い猛禽類ならではと言う所か。“鷹の目”を例に挙げれば分かりやすい。あれは鳥類ではないが。
 気疲れしたドラゴンがお茶でも飲むべく立ち上がると、外からバタバタ走る足音が聞こえ、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

 「――あのっ、ファンが帰って来てるって聞きました! それで、えっと……」

 黒髪の少女が息を荒げて顔を見せ、椅子に座ってお菓子を摘まむファンを見つけて「ああっ!」と叫ぶ。

 「ファン! いつの間に帰ってたの……って服破れてる! あ、怪我もしてるよっ……ひゃん!」

 ベシッ、と近付いてきたラナの顔を翼が迎え撃った。少年の肩に留まった鷹が、威嚇するようにピィ! と鳴く。

 「ファ、ファン……それ、何……?」
 「…………相棒」
 「ピィッ!」
 「えと……何でファンが不満そうで、そっちの鳥が得意げなの……ひゃん!?」

 ベシッ。近付くなと言わんばかりに、もう一度翼がはためいた。椅子を回って反対側から少女が近寄ろうとすれば、わざわざ肩を留まり直してその邪魔をする。対抗意識を感じたのか、うぅ~、と唸った黒髪の少女が意地を見せ、ピィッ、と小さな鷹が妨害行動。
 にわかに騒がしくなってしまった己の執務室を見回し、ドラゴンは溜め息。
 しかし、まあ、こういう時も悪くはないのだろうと、珍しくも穏やかな瞳で、少年少女プラス一羽の遣り取りを眺めていた。





 しかし妨害が本格化し、鳥獣形態を取った鷹に少女がトンファーを構えた辺りでドラゴンは雷を落としたのだった。



[19773] 《嘘企画》 ――喚ばれて (移転しました)
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47fdd84c
Date: 2017/04/18 22:41

 ※ハーメルンへ移転しました。

 ttps://novel.syosetu.org/119204/

 【2016・4/1続編追加】
 【2014・4/1続編追加】
 【2013・4/1続編追加】
 【2012・4/1続編追加】







 「…………問う。お前が…………僕の、マスター?」

 光の中から現れた姿に、流石の綺礼も絶句を隠せない。
 少年――それもまだ子供と言い換えて不思議でない年齢の、どこか茫洋とした眠たげな無表情を顔に貼り付ける、それは紛れもない少年であった。

 「その前に念のため、訊くが……お前はいつの、何代目のハサンだ?」
 「ハサ、ン………?」

 不思議な言葉でも聞くように少年が首を傾げる。その僅かな挙措に綺礼はいよいよもって明確な“おかしさ”を感じた。正規の手順に則り行使した召喚で、不正規の存在が招かれた異常。アサシンの座を埋める者は歴代ハサン・サッバーハのいずれかであるという前提が、如何なる理由によってか崩されている。

 「聖杯が誤作動……? いやまさか、そんなはずは……」

 思考の海に沈んでいた綺礼は、無言のままじぃーっと見上げてくる少年を前にして、一先ず嘆息の形でこちらの意を示して見せる。何にせよ召喚は成された。再召喚という手法が不可能な現状、この少年をサーヴァントとして契約する他に手はない。盟主である遠坂時臣がこのあどけないアサシンにどんな顔をするか、今から考えても悩みの種だ。

 「……我が名は言峰綺礼。汝がマスターとしてここに契約する」
 「契約…………完了。…………僕は、ファン・イルマフィ。……アサシンの、サーヴァント」

 右手の甲に浮かび上がった令呪が淡く輝き、綺礼の前で佇む少年とパスが通じたことを知らせる。無事、契約は完了した。しかし安堵の息を吐く間もなく、新たな問題が浮上し綺礼は眉をひそめた。
 ファン・イルマフィと名乗ったこの英霊。ステータスが、見えない。まるでそこに姿と気配しか現さない影絵の如く、マスターとしての透視力がすり抜けるように無効化されていた。

 「……何と説明すればよいものか」
 「…………?」

 英霊であるにも関わらず、現代風の衣服を纏っていることもまたおかしく。訊ねるべき事柄が多すぎて、頭から足の爪先までクエスチョンマークを貼り付けたような少年をどう扱い、師にどう説明すべきか、綺礼は悶々と思い悩む。
 こうして、第四次聖杯戦争最初で最後のイレギュラーが冬木の地に降臨した。アサシンとは思えない少年の戦闘能力の高さに、マスターである綺礼を含めその他全員が舌を巻くのは、そう遠い先の話ではない。



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 《Side on Asassinaters》



 ただ静かに更ける夜の時間を、紙の擦れる音がささやかに乱す。

 「……そんなに面白いか、アサシン」
 「…………」

 チラ、と赤紫の瞳が綺礼を窺い、またすぐ紙面に戻される。邪魔するなと言わんばかりだ。
 少年の手にある書物は文献でもなければ新聞でもない。
 英語風に言えばカートゥーン。
 つまるところ、マンガだった。
 いや、子供がマンガを読んで悪いとは言わない。むしろこの少年に限れば背格好からして違和感はまるでない。
 だが、しかし、この少年はアサシンなのだ。仮にもきっと恐らく英霊で、世に逸話を残し伝説と語られる存在のはずなのだ。
 悪い夢でも見ているようだった。綺礼は嘆息を押し殺す。決してこのアサシンにねだられて百冊単位で新品を買わされたことを恨んでいるわけではない。そう、問題は断じてそんな瑣末事ではない。
 数日前、魔術の師である遠坂時臣と父言峰璃正に少年を引き合わせるまでに、散々膝を突き合わせお前は何なのだと問い詰めた。最終的には二人にも事情を話し説得と追及の一助を願った。が、
 努力の甲斐なく、アサシンはほとんど何も喋らなかった。
 始終ぼんやりと、聞いているんだかいないんだか全く判断の付かない無表情で、虚空に焦点を留めたまま眠るように立ち尽くしていたのだ。挙句の果てにこちらの問いかけを完全に無視し、近くのソファに腰掛け船を漕ぎ出す始末。遠坂時臣の米神に青筋が浮かぶ前にその腕を取って急遽退室したが、失望されたのは間違いないだろう。
 分かっているのは、真名だけ。
 どうにかして能力だけでも把握しておきたいのだが、こんな馬鹿げたことに礼呪を費やすのは惜しすぎる。

 「……アサシン」

 一冊読み終わったところを見計らい声をかける。少年が眠たげな目を上げた。とにかく話題のきっかけでも、と口を開きかけた綺礼は、しかしふと思い付く。
 マンガを面白がるほど子供ならば――

 「……パフェとケーキ、どっちが食べたい」
 「ケーキ」

 即答だった。
 心なし無表情が輝いていた。



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 「ほう? するとつまり、アサシンから能力を聞き出すことに成功したのか」
 「ええ。そうなります」

 遠坂邸の地下、時臣の魔術工房。
 古風なランプ――部屋の主に言わせれば伝統的な灯りの揺らめく部屋で、綺礼は師と向かい合っていた。
 優雅にソファでくつろぐ師・時臣は安堵の表情で徒弟である綺礼をねぎらう。

 「よくやった。これで君のサーヴァントを戦略に組み込むことができる。いや、正直不安だったよ。どこの英霊かも分からない上に、社交性の欠如も著しい。綺礼、あのコミュニケーション能力がランク外のアサシンと、どうやって打ち解けたんだ?」
 「打ち解けた、とまだ言えるかは不明ですが……。餌付けです」
 「……何だって?」

 思わずといった調子で目を丸くし、聞き返す時臣に綺礼は凝然と繰り返す。

 「餌付けです。どうにも、見た目通りの部分があるようで……ケーキ屋に行き、幾つ買って帰るかで交渉したところ、三ホールで質問に答えることを約束しました」
 「それはまた……安いサーヴァントだな」

 何と評すべきか、困惑を隠せず呟く時臣に綺礼も同意する。
 万札一枚以下で懐柔される英霊が、まさかこの世にいるとは……。

 「まあ、いい。予想外だが礼呪を消費せずに済んだ結果を喜ぼう。それで、アサシンの固有スキル、宝具の数と効力、詳しく聞かせてもらおうか」
 「……」
 「綺礼?」
 「いえ……どう説明したらよいか、まだ私の中で纏まっていないのです」
 「そうか? では、そちらはまた後にしよう。サーヴァントも出揃ってない現状、焦っても仕方がない。整理が付いたら言ってくれ。……とは言え、早いに越したことはないが」

 それから綺礼は各地から届けられた情報を時臣と二人で精査し、真偽を論じ、推測を交えて望ましい展開と避けるべき状況を話し合った。『優雅』を家訓に持つ時臣は周到な備えを求める。アサシンの能力は重要なファクターだが、それだけにかかずらってはいられないのだ。
 師と言葉を交わしながら、綺麗の胸には別種の思いが混沌と渦巻く。それは昼間、至福に見えなくもない眠たげな無表情で、黙々とケーキを平らげるアサシンから情報を得た時に始まり、今なお濁り凝っている。
 時臣の元に届いた聖遺物。それがもたらすだろう英霊を綺礼は既に聞かされていた。確かにかの英雄であれば、およそ全てのサーヴァントに対して優越する『最強』足り得る存在であろう。
 ――だが、もし。
 もしも、そう。

 その相手が、『無敵』だったとしたら?

 綺礼は、想像を止められない。魔術の師であり、協力者として勝たせなければならない時臣よりも、己の引いたサーヴァントがこと殺し合いにおいて優秀だったとしたら。それを、時臣が知ったとしたら。

 「……?」

 ふと、綺礼は胸を押さえた。時臣にどうしたのかと聞かれ、何でもないと答え、表面上は論議に戻る。
 全てはまだ霧の中。指摘する者もまだ彼岸。
 掠めた『愉悦』に、綺礼は気付かない。



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 遠坂邸の地下工房から上がると、居間に見知らぬ少女がいた。

 「……」
 「むー! むー!」

 扉を開けた姿勢で固まっている綺礼に向かって何事か訴えかけるのだが、口と両手とご丁寧に両足までガムテープで拘束されて言葉になっていない。
 助けてと言っているのだとは思うが。

 「……アサシン、これは何だ」

 ソファに転がる少女の隣から、少年が眠たげな顔を上げる。一応、周囲の警戒を命じていたはずなのだが、その手に持ってるマンガは何だ。
 アサシンは少し考えた様子で、ゆっくりと口を開く。

 「…………拾った」

 さらったの間違いだろう。間違いだと思いたい。
 余計な仕事を増やしてくれるサーヴァントに嘆息する。時臣の妻子が避難のため既に出払っているのがせめてもの幸いだ。
 綺礼は改めて少女を見やる。美醜で言えば美に傾くだろう容姿、特徴に乏しいブラウスとブレザーの制服からでも窺える女性らしい膨らみ、赤い髪紐で可愛らしく結んだ艶のある黒髪―――とここまで揃えば学校内でも頭一つ抜けた異性として噂されるだろうが、その人生において酸いも甘いも知り尽くしたはずの英霊が突発的にさらうほどとは到底思えない。

 「……で、その娘をどうしたいのだ。アサシン」
 「…………どう、しよっか」

 それは、綺礼への返事ではない。マンガを置いたアサシンの瞳は震える少女を捉えていた。
 小さく、幽かに、その唇が笑みを刻み。

 「…………どう、されたい?」

 くふ、と笑声が漏れた。

 「……!?」

 ぞわっと辺りに怖気が満ちた。傍目にも少女の怯えが伝わった。アサシンの声と微笑は魔のそれを伴っていた。
 初めて綺礼は確と理解する。少年のような見かけに騙されてはならない。これは紛れもなく、【サーヴァント/英霊】だ。

 「アサシン」
 「?」

 呼びかけた途端、魔性の気配が霧散する。視線を外された少女は気が抜けたようにふらりと倒れ、アサシンは常の眠たげな無表情で綺礼を振り返る。

 「今夜、時臣師が召喚の儀式を執り行う。お前にもそろそろ本格的に動いてもらわねばならん」
 「…………そう」
 「聖杯戦争が始まる。いや、もう始まっている。具体的な戦略は師の召喚が成功してから伝えようと思う。万に一つもないとは思うが、お前のようなイレギュラーが現れるとも限らんからな」
 「起きない…………よ」

 声には、奇妙な確信があった。

 「イレギュラー、は…………僕、だけ」
 「……それならそれで結構だ。召喚が終われば嫌でも分かる」

 触媒たる聖遺物は届いた。蛇の抜け殻。最強のサーヴァント。
 英霊というものにもはや期待してないが、この少年よりはまともな人格をしていてほしい。

 「ところで、その娘だが」
 「あげない」

 身動きできない少女を抱きしめて少年は所有権を主張する。少女はまだ先ほどの恐怖が残っているらしく、青い顔で震えることもできずされるがまま。
 綺礼は無視して続ける。

 「……その娘だが、魔術とは関わりのない人間だろう。無関係の人間を無為に巻き込むことは師の流儀に反する。解放してやれ」

 それが一番面倒がないというだけで、綺礼は別段、時臣の『優雅』とやらに興味はない。ただの建前だ。死体を処理するより、適当な記憶操作でもして帰らせる方が手間は省ける。

 「この子…………魔術回路、ある」
 「ほう?」

 アサシンの言に、綺礼は素直に驚いた。そして憐れみを抱く。
 これで、“無為”ではなくなった。

 「なるほど。アサシンよ、それはつまり、その娘の魔力を?」
 「うん…………ついでに、もらう。…………僕は、結構、大喰い」
 「……???」

 一人、会話について来れない少女が疑問符を顔中に貼り付ける。当然、綺麗に説明するつもりはない。事務的に思索を終え、“処置”の算段を整える。

 「回路も開いていない娘からどれほど収穫できるか疑問だが……無差別に魂喰いをするよりは有益か。時臣師もたかが小娘の一人程度に目くじらを立てたりせんだろう」
 「…………じゃあ」
 「好きにしろ。情報操作はこちらでやっておく。……だが仕事はこなせ。いいな」
 「ん」

 付け加えるならば。
 娘の一人や二人で、このサーヴァントを縛れることこそが最大の利益だ。
 この娘のどこにアサシンが惹かれたかは分からない。知ったところで意味もない。だが執着しているのならば利用できる。利用できるならば、価値がある。路傍の石も同然の小娘を見捨てることに、綺礼は何の感慨も抱かなかった。悪鬼邪霊が実在する世で、人間の相手ができるだけ幸運な部類だろう。
 この少年がまともな人間かはともかくとして。

 「……さて。では警戒任務に戻ってもらおうか」
 「え」

 何やら少女を連れて寝室に向かおうとしていた少年が、無表情を狼狽させた。

 「それは…………とても、困る」
 「ほう。たった今仕事をこなすと頷いたのは偽りだったか」
 「…………!」

 頭を殴られたように固まる少年の肩を叩き、綺礼は自然と笑みを浮かべ、外を指さす。

 「儀式に立ち会う必要はない。今夜一晩、この家に邪魔者を入れるな。……無論、場合によっては朝まで、だが」






 その晩、屋根に膝を抱えて座り込んだ少年の放つ八つ当たり気味な殺気によって、遠坂邸には虫一匹近寄らなかったという。



 ・
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 ―――Another side.





 ただ、雪。
 空と地の果てまでも白く閉ざされたそこはアインツベルンが居城。白銀に覆われた壮麗なる城。
 そこにイリヤスフィール・フォン・アインツベルンは生まれた。当家の名を継ぎながら血縁はなく、作られた“人工生命/ホムンクルス”として、それは与えられた記号に過ぎない。
 だがイリヤは気にしない。よく遊んでくれる優しい父に美しい母。二人が居れば幸せだった。
 しかしそれも今日までだ。明日には二人とも仕事でいなくなる。
 早ければ父は二週間。母、アイリスフィール・フォン・アインツベルンは……ひょっとしたら、二度と会えないかもしれない。いいや、ひょっとしたらではないのだ。
 漠然とイリヤは予感していた。明日の出立が、今生の別れとなる。それは昨夜寝室で母と話し、ほぼ確実にそうなるだろう可能性を告げられたからだけではない。もっと根源的な、魂と言える部分で理解したのだ。その意味で、イリヤは正しくホムンクルスであり、生まれながらの魔術師であった。

 「……あれ? キリツグ、あそこ誰かいるよ?」

 冬の森でクルミの新芽探しを終え城に戻る途中、イリヤは門の前で佇む人影を見つけた。門と言っても城の外と中を隔てる大門ではなく、幾つか存在する城内へと続いた小さなそれだ。観音扉の前に薄ぼんやりと立ち、白を見上げる人影は赤かった。まるで血に濡れたような外套を纏っていた。

 「……イリヤ、ここに居なさい」
 「キリツグ?」
 「じっとしているんだ。そこの陰から出ちゃいけない。いいね」

 父、衛宮切嗣は先ほどまでの優しげな口調とはまるで違う、硬い声音で木の陰から出ないように告げ、一人赤い人影の方へと歩いて行った。その背中にはイリヤがかつて見たことのない、氷よりも冷たい気配が漂っていた。
 切嗣が近付くと、赤い人影が振り返った。木陰からこっそり覗いていたイリヤは驚く。イリヤよりもずっと年上だが、大人になり切れない顔立ちは紛れもなくまだ子供と言える少年のものだった。

 「君は、誰だい? アインツベルンの縁者……には、見えないが」

 切嗣の戸惑いがイリヤにも伝わってくる。だって、そうなのだ。イリヤにだって、分かる。面と向かい合っているのに、こうして目で捉えているのに、少年のこの、“希薄さ”は、何だろう――?

 「…………」

 少年はじっと切嗣を見つめ、なぞるようにその目を動かした。首、肩、肘―――腕。

 「っ!?」

 直接見つめられたわけでもないイリヤの背にさえ氷塊が滑り落ちた。ぞっと身を強張らせた切嗣がその場を飛び退る。少年は一歩どころか微動だにしていない。ただ小さく唇を緩めただけだ。
 その、幽暗に細められた微笑が、冬の外気さえ上回る、凍りつきそうな怖気を呼んだのだ。
 才はあれど、幼いイリヤはそんな少年が放つ気配に呑まれた。離れているのに、身動き一つ取れない。間近に迫った死の気配が意識を遅く、緩慢に知覚させる。
 切嗣が動いた。身を低く、前傾姿勢で少年に向かって疾走する。その手は固く閉じられ、何も握っていない。この安全な城の中で、何より娘と過ごす大切な時間に、武器を携帯しているはずがなかった。
 蹴立てられた雪さえ緩やかに舞う視界で、ゆっくりと少年が切嗣を指さす。当然、切嗣が少年の元までたどり着くより早い。切嗣へと向けられた人差し指が何を意味するのかイリヤには分からない。だがそれが良くないものであることは理解できた。
 ―――そしてその指の直線状に、イリヤと切嗣が並んでいることも。

 「っ……!!」

 切嗣はかわせない。避けられない。あからさまに射撃を思わせる少年の仕草が、切嗣を直線状から動かすことを許さない。イリヤもまた動けない。直感は逃げろと囁く。このままでは切嗣の邪魔だと。だが手足は未だ凍りついたままピクリともしなかった。
 そして、差された指先で、“何か”が揺らめき、



 少年の頭上で窓枠ごと窓が爆ぜた。



 「…………!」

 咄嗟に天を振り仰ぐ少年の頭上で、古風なドレスがはためいた。
 ガラス片と共に舞い降りる身体が奔流のような魔力を帯び、一瞬後には鮮烈な青と白を宿す輝くような鎧となって顕現する。

 「っはぁあああああああ!!」

 咆哮。落下の勢いを乗せ叩きつけられた一撃は流星の如く地を穿つ。
 そう、穿たれたのは大地。赤い少年はいっそ緩やかな動作で、ふわりと地を蹴っていた。

 「無事ですか、切嗣!」

 距離を開けた少年に向き直りながら、凛々しき面差しの少女――英霊としてこの地に招かれたセイバーは、その契約者たるマスターに声をかける。

 「……僕よりも、イリヤを」

 苦々しく答える切嗣の言葉にセイバーは視線を走らせ、イリヤの方を見た。翡翠色の瞳は峻烈で、強張っていたイリヤの意識をたちまちに溶かした。揺るぎない大樹に見守られているかのような安堵。

 「分かりました。――しかし、何者ですか? ただならぬ気配を感じ、急ぎ駆けつけましたが」
 「今のところ不明だ。銃さえ持っていればもう少し平静に対応できたと思うけどね……」

 イリヤは、二人の間で交わされる会話が一体どれほどの奇跡かを知らない。必要に迫られたやむにやまれぬ状況が、切嗣の頑なさをこじ開けた。

 「でも、あれは敵だ。あの殺気は普通じゃない」
 「なるほど。それだけ聞ければ十分です」

 ひゅん、と大気の裂ける音が離れたイリヤにまで届く。セイバーが手首を動かし、少年へと腕を突きつけた結果だ。けれど一体何が空気を斬ったのか、イリヤの目には何も映らなかった。閉じられたセイバーの手が握るのは、空気だけではないのか。

 「ここはアインツベルンが領地、無断で立ち入りを許される場ではない。早々にここを去るか、それとも我が剣の錆となるか。選ぶがいい、賊よ」
 「…………」

 少年がコートの内側にするりと両手を忍ばせる。そして抜き放ったのは、どこに隠し持っていたかも分からない抜き身の細長い刀剣。それらを指の間に挟み、左右六つの刃がじゃきりと少年の前で交叉される。

 「黒鍵だ。教会代行者の正式武装」
 「そちらの関係者ということでしょうか」
 「……本物ならね。形だけ似せるのは難しくない。だがこのタイミングで黒鍵の使い手が――」

 囁きは止まる。少年が動いた。尋常ならぬ技が刃を乱れ打つ。黒金の刀身は二本ずつ。切嗣に、セイバーに―――そしてイリヤに。
 だが剣の英霊は先んじる。雪に覆われた地面を蹴り砕きながら前へと飛び出し、一閃。英霊の剣速は一振りで四を打ち、返す刀でイリヤに迫る二つを叩き落とした。

 「切嗣! ご息女を連れて中へ!」
 「っ……イリヤ、来なさい!」
 「わ、キリツグ!?」

 距離を詰めたセイバーの牽制に、今度は分厚いナイフを取り出して応じる少年。一瞬の攻防が生死を分ける本物の殺し合いに圧倒されていたイリヤは、突如抱き上げられて驚いた。
 父の腕に抱えられ、剣風舞う死地から逃れる。全力で駆ける切嗣の肩越しに遠くなっていく二人の姿を、イリヤは懸命にその目に焼き付けた。そうしなければと思った。





 それっきり、赤い少年がイリヤの前に姿を現したことはない。父も母もそれからすぐいなくなった。城の結界も少年の姿を捉えておらず、この時のことは幼い頃の記憶としてイリヤの中で風化していった。
 思い出したのは十年後。奇跡のような出来事が重なって、兄と慕う男の家に転がり込んでいた時のこと。

 「ねぇセイバー。ずっと前のことなんだけど、アインツベルンの城でセイバーが戦った赤い服の男の子って、結局誰だったか知ってる?」

 ふと気になっただけの問い。思い出話以上の意味はなかった。
 だと言うのにセイバーの反応は劇的だった。ぶっと含んでいた茶を噴き、面白いぐらいむせ返る。

 「げほっ、ごほっ……す、すみません。まさか今になってアサシンの話が出るとは思わず」
 「……アサシンだったの? 何て言うか、サーヴァントっぽくなかったけど」
 「手強い相手でした。純粋な力でも技でもなく、速ささえ彼が持つ異能の補助でしかない。その異能一つで、彼は前回の聖杯戦争中最も多くのマスターを狩り、全陣営から恐怖された暗殺者です。彼が居たせいで切嗣はスタンドプレーに出られず、戦争の備えが半分以上無駄になったとぼやいていました」
 「うわぁ……そんなにすごかったんだ」

 感嘆の声を漏らしつつ茶菓子を摘むイリヤ。この厳格な騎士王がここまで他者を評価するのも珍しい。

 「それで真名は、宝具は? 一体どんな英霊だったの?」

 流れとして当然行き当たる疑問をぶつける。
 が。

 「……」
 「セイバー?」

 首を傾げてイリヤは俯く騎士王の顔を覗き、ぽかんとなった。
 騎士王の少女は、懐かしむような、義憤に燃えるような、それでいて耳まで赤く染まるような、複雑極まりない表情で過去を反芻していた。

 「……思い出したくないことまで思い出しました。あの時のあれは嵌められたというか、他に選択の余地がなかったというか、状況に流されただけというか……」
 「おーい、セイバー?」
 「……とにかく、もし再び相まみえる機会があれば、今度こそ叩き斬る。ええ、絶対です。乙女をもてあそんだ罪、決して許すつもりはない」

 最後は義憤に落ち着いたらしく、急須から新しく茶を注ぎ、湯気の立つそれを一息に呷るセイバー。

 「―――どうせこの身は仮初の写し身。責任を取れ、とまで言うつもりはありませんが……」

 一転、翡翠色の瞳が憂愁に彩られる。
 剣の英霊のそんな態度を呆気に取られて眺めながら、イリヤもまたずず、と茶を啜り。

 「……」

 何となく。
 シロウがここに居なくてよかったな、と思った。




 
 ―――Another side off. Next to Saber side.



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 《Side on Asassinaters》



 コーヒーの味わい深い香りが宙を漂い、誘われるようにアサシンが顔を上げ、赤紫の目を向けてくる。
 眠たげではあるが、いつものことだ。綺礼はアサシンの前にカップを置いてやり、自分用にはやや濃く淹れた物を用意する。

 「…………」

 テーブルのカップに顔を近付けたアサシンが、白く立ち昇る香気にどことなく幸せそうな無表情で目を細める。だが堪能した直後、隠し持っていたらしいチョコレートの塊をぼちゃんと投入、ぐるぐるかき混ぜて溶かす作業に没頭する。
 コーヒーの匂いだけは好きなようだ、と綺礼はまた一つアサシンについて学んだ。



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 ・
 ・



 遠坂時臣が目論見通り最強のサーヴァントを引当てた翌朝、空もまだ暗い内に綺礼は璃正と共に遠坂邸を辞し、一旦冬木教会へと移動した。初老の璃正に徹夜は堪えたらしく、しばらく奥の寝所で休むそうだった。
 父を送り届けたのち、綺礼は自らの拠点へと車を移動させる。未遠川の下流近く、遠坂邸とも冬木教会とも等距離にある土手沿いの空き物件。元は酒造業の工場だったのか、母屋とは別にスペースを取った空っぽの工場と、ワインセラーと思しき地下まで備え付けられている。
 一応工房を敷設したものの、綺礼は魔術の探求に興味がない。結界の維持と時臣との通信ぐらいにしか、今のところ利用価値はなかった。
 二階建ての母屋でアサシンと向かい合い、コーヒーで眠気を追い払った綺礼は口を開く。

 「今後の話だが、アサシン。以前語ったことは覚えているか?」
 「…………どれ?」
 「契約の時、お前に語ったことだ」

 声を潜めた綺礼に、アサシンがかき混ぜていた手を休め、傾聴の姿勢を取る。
 それは契約を交わした夜に取り決めた内容だ。綺礼と時臣は師弟関係から決別し敵対している―――という偽情報を流し、裏では変わりなく癒着した状態にあった。時臣・アーチャーの火力ペアと、綺礼・アサシンの工作ペア。矢面で戦う者とバックアップする者。互いに足りない部分を補い合うという同盟だった。
 しかし、本来サーヴァントにとって己のマスター以外はすべからく敵だ。あらゆるサーヴァントは聖杯を求め、万能の願望器に望みを託して現界する。一時の同盟を容認しても、いずれ滅ぼし合い激突する定めだ。確たる願いも無く聖杯戦争に参加している綺礼が異常なのだ。
 アサシンの願いが何かは聞いていない。だが召喚の呼び声に応えた以上、聖杯を求めているのは疑いようがない。だからこそ綺礼はアサシンを時臣に引き合わせる際、こう耳打ちしておいた。

 『私は、いずれ師を裏切る』

 それまで精々、利用するとしよう、と。
 高潔な騎士相手には通じない手段だった。だが汚れ仕事を厭わぬアサシンならば、裏切りを前提とした協力体制に不満を持つことなく歩調を合わせるだろう。そういう目論見があった。そして事実、多少扱いに難のあるものの、時臣の召喚したサーヴァント・アーチャーとは比べるまでも無く御しやすい。
 その論理は、綺礼がアサシンの正確な能力を秘したことで真実味を増した。筋力などパラメータはそのまま伝えたが、固有スキルと宝具については事実を伏せた。――でなければプライドの高い時臣の面目を潰してしまう。綺礼が引き当てたアサシンは、その能力までもがイレギュラーに過ぎた。
 潜入・隠密に優れたサーヴァント、調査・索敵に特化した宝具――という、偽証。アサシンにもそう振る舞うよう言い含めている。時臣の顔を立てると同時に、アサシンを納得させるためだった。……師に隠し事をしている事実は変わらないが、これも師のためであると綺礼は自分を誤魔化した。
 まるで二重スパイだが、上手くやるしかない。

 「……よって、しばらくは情報収集に専念する。鞘当て程度ならばまだしも、宝具――特にお前の“能力”を使った戦闘は許さん」
 「…………衝撃波は?」
 「必須でない限り使うな。時臣師と事を構えるまで手札は温存することを心掛けよ」
 「…………先に、全員、赤くするのは?」

 来た、と綺礼は思う。アサシンの能力を考慮すれば避けては通れない問いだった。
 いくつか答えを用意していた綺礼だが、慎重論を含めたいずれもが論破される危険があった。最悪令呪を消費する羽目になろうと、乗り切らなければここで聖杯戦争は終わる。
 しかし、今の綺礼は“切り札”を持っているのだ。
 テーブルを回ってアサシンに近付き、耳元で悪魔となって囁く。



 「聖杯戦争の早期終結。――即ち、お前が拾って来た娘を楽しむ時間も早く終わるが、それでいいか?」
 「バックアップ、頑張る」



 ちょろい。



 ・
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 ああそう言えば。
 地下にはもう一つ、使い道があった。





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  ―――Another side.



 畳敷きの居間で煎茶を啜りながら、もう十年も前なのかとセイバーは時の経過を思う。セイバーの主観からすれば、赤紫の少年と出会ったあの日からまだ一月も経っていない。
 ほら、目を閉ざすだけで思い起こせる。
 ――眠たげな瞳に隠された、背筋が粟立つほどの狂気を。





 「時期的に聖杯戦争の関係者と見て間違いない。多分、サーヴァントだ」

 書斎。
 奇妙な箱型の絡繰が置かれた部屋で、セイバーは奇妙な感慨に囚われていた。
 黒檀のテーブルに寄り掛かるような、座るような、中途半端な姿勢でぱらぱらと資料をめくる男はセイバーのマスター、衛宮切嗣に他ならない。
 だが昼前の一件――鮮血色の外套を翻す少年に襲撃されてからというもの、それまで口を利くどころか視線さえ合わせようとしなかった切嗣の頑なな態度が、やはり奇妙としか言えない変貌をもって融解していた。
 セイバーからすれば望むべき変化である。髪の一筋まで騎士であらんとするセイバーにとって、仮にもマスターと仰ぐ男が自分を無視し続けるのは不本意だった。腹立たしいまでに。
 しかしこうして面と向かい合い、言葉を交わせる段に至ってセイバーは薄々と気付きつつあった。
 この男とはソリが合わない。水と油。火薬に湿気。致命的に相性が悪いという、雲行きの怪しい事実に。

 「……サーヴァントと断ずる根拠はあるのですか? 確かにあの相手は一時と言えど私に拮抗しました。取り逃がした身で何を言うかとお思いでしょうが、これだけは言えます――」
 「あの敵から、サーヴァントの気配は感じなかった?」

 台詞を先回りされ、む、とセイバーは口を噤む。
 切嗣は資料をめくる手を止めて、セイバーをまっすぐ見つめた。

 「確かに僕から見てもあの少年にサーヴァントと断定できる証拠はなかった。マスターとしての透視力も働いていない。だが君の言う通り、彼はセイバーとまともに打ち合って、傷一つ負うことなく逃げおおせた。……分かるかい? 君と、騎士王と正面から戦って、無傷で撤退できる人間がサーヴァントのほかに居るなんて、僕は考えたくもない」
 「……意外です。あなたが、私をそれほど高く評価していたとは」

 一つ一つ言葉を選び、慎重に返した。
 またいつ因縁を吹っかけられるか分かったものではないのだ。召喚に応え馳せ参じたセイバーが女で、年端もいかぬ少女だった、ただそれだけの理由で無視を決め込まれた理不尽は記憶に新しい。

 「そう構えないでほしい……と言っても難しいだろうね。まずはこれを見てくれ」

 資料から抜き取られた数枚の紙を受け取り、そこにプリントされた写真を目にした瞬間、セイバーは怜悧な眉を曇らせた。

 「言峰綺礼……聖杯に選ばれたマスターの一人ですか。嫌な目をしている」
 「目?」
 「正常から外れた人間の目です。どんな壊れ方をしたのかまでは分かりませんが、私の時代でも何度か見かけました。この男は、危険です」
 「王としての観察眼とやらかい? とは言え、僕も同意見だ。こいつはきっと僕達が聖杯戦争を戦い抜く中で最大の敵になる。付け加えると元教会の代行者――即ち、黒鍵の使い手でもある」

 なるほど、とセイバーは呟いた。

 「話が見えてきました。あの少年との関連性を疑っているのですね?」
 「杞憂ならいいけどね。……一通り見て回ったけど、壊された結界は一つもなかった。敷地内で戦闘までしたというのに、敵の侵入にも脱出にも城の魔術師は誰一人気付いていない。異常だ」

 結界を無為と化す――うすら寒い感覚がセイバーの背筋を伝い落ちる。それはつまりどれほど厳重な警戒網を張り巡らせても、気付かぬ内に指呼の間合いに踏み込まれることを意味する。最悪、寝首を掻かれる恐れすらある。
 だがそこで一つ、疑問が生じた。

 「なぜ……敵はわざわざ姿を見せたのでしょう」

 大仰に切嗣が頷く。

 「そう、そこが分からない。あれだけ気配を隠し通せるなら、僕を後ろから刺すぐらい何でもないことのはずだ。だがそうはせず、姿を晒す危険まで冒して、その上適当に戦っただけで引き上げていった。一体何が目的なんだ?」
 「……」

 自問の体をなす切嗣の言葉に考え込む振りをして、セイバーは少年との戦闘を思い返した。いや、あれは戦闘ですらない。あの少年は実力の片鱗さえ覗かせないまま、ゆらゆらと掴みどころなく、押しては引き、引いては返し、雪上に赤の残影を曳きながら、一合さえ打ち合わず立ち去った。

 『…………すごい』

 投げ打つ端から回収し、尽きせぬ飛刀の群舞を浴びせかけていた少年は、その悉くを打ち払うセイバーに感嘆を漏らす。

 『ちょっと…………当たる気、しない』
 『ならば来るがいい。幼子までも狙う貴様の腐った性根であろうと、その刃、ともすればこの身に届くやもしれんぞ』
 『…………』

 これまでのように、少年が眠たげな無表情で沈黙する。
 元来、感情表現が豊かでないか、苦手なのだろう。寡黙とはまた違う手合いだが、じっとしているとまるで置物のように自然と気配が消えてしまう、奇妙な相手だった。こうして見合っている今でさえ、ふとした拍子に背景と混同してしまいそうな透明感があった。
 やりづらい。じりじりと間合いを推し量りながら、胸の内で呟く。
 強い弱い以前に、戦いづらい。剣の届く距離に決して踏み込まず、間合いの外から刀剣をばら撒き、切嗣へ繋がる門の前から動く訳にもいかないセイバーがじれったくなるほど、徹底した戦いぶりだった。
 ……それに、こいつはどこかおかしい。
 何が、と明確に説明できるほど掴めている訳ではないが、少年が動く都度、あるはずの物がないような違和感を覚えてならない。それは陰影を描き忘れた写実画のような、些細だが決して無視し得ない物のはずだった。
 ……何だ。私は、何を見落としている?
 門を守る都合上、待ちの構えを崩さず観察するセイバー。見合いに飽きたのか、少年がゆらりと動き、雪を踏んだ。降り積もった氷の結晶が踏み固められる、ザクッという音が…………音……が?
 瞬間、戦慄と共にセイバーは悟る。

 『……貴様、“足音”をどこに置き忘れた?』

 ぴたり。
 しまった、と言いたげに無表情を僅かに崩し、少年が固まる。
 赤紫の少年が初めて見せた隙であった。だが当のセイバーはその隙を見逃さざるを得ないほど、激しい困惑の裡にあった。
 それは少年が立ち去ったのち、切嗣と話し合う中でも言及されたことと同じ。衛宮切嗣、あるいはアインツベルンの縁者を狙いながらそれを成さず、わざと失敗するかのように振る舞う目的が全く見えて来ないためであった。少年が聖杯戦争の関係者であろうとなかろうと、確実に始末できる人間をわざわざ見逃し、こっそり侵入したはずの城に警戒をもたらす理由など果たしてあるのだろうか?

 この賊は、ここで倒しておくべきだ。

 決意も新たに、セイバーは聖剣を構え直す。追い払うだけでよいなんて甘い考えは捨て去る。今ここで仕留めねば、この聖杯戦争において最大の禍根を残すこととなる。直感がそう囁いていた。外れたことなど無きに等しい騎士王の勘だ。己の勘を、セイバーは信じる。
 最悪宝具を解き放つことになろうとも、今後少年に狙われ続ける可能性を考えれば、森の一部を焦土に変えるぐらい安い代償だ。アインツベルンの魔術師には苦い顔をされるだろうが、そこは切嗣に頑張ってもらうとしよう。
 召喚されてからこちら、先を除いて無視し通しだったマスターが弁明に苦慮する様を思い描き、溜飲を下げる。その間隙を狙った訳ではないだろうが、少年が自分の失敗を反省するように吐息して、両手の刃物を懐に収めたのは同時だった。
 すわ逃げる気か、と眼光の鋭さを増すセイバーに対し、無表情を取り戻した少年が口を開く。

 『名前』
 『……何?』
 『名前…………教えて』
 『卑劣な賊の身で騎士に名をせびるか? 貴様から明かすのが筋だろう』
 『僕は、ファン。ファン・イルマフィ』

 一瞬、セイバーは動きを止めてしまう。意外な返答に、呆気に取られたのだ。
 しかし駆け引きの末に得られた情報ならまだしも、これほどあっさりと告げられると信憑性は乏しい。それ以前に一人の英霊として、セイバーは少年の名に覚えがなかった。

 『……その名乗りが真であったとしても、今の私に許された名はセイバーというクラス名だけだ。それ以上は言えん』
 『じゃあ…………無理には、聞かない』

 でも、と少年が続け、

 『別のもの、もらってく』

 刹那。
 赤紫色をした眠たげな瞳が、目と鼻の先にあった。

 『――っ!?』

 一切の予兆を置き去りに、剣の間合いすら抜けて素手の領域に踏み込まれ、だが反射的にセイバーが選択したのは後退ではなく前進だ。現代風の衣装を纏う少年に甲冑を着込んだセイバーが衝突すれば、それだけで凶悪な武器となり得る。
 正統なる騎士の決闘のみならず、実戦の中で身につけた泥臭い戦い方だった。好んで使うものではないが、とっさの判断としては最良と言えただろう。
 その相手がファン・イルマフィでさえなければ。

 (――な!?)

 相手の踏み込みに合わせた“体当たり/チャージ”。敵が咄嗟に思いとどまったとしても、力学的なエネルギーを考慮すれば身を捻る余裕さえないはずのタイミングだった。
 だが激突の瞬間、セイバーが感じたのは衝撃ではなく、羽根に包まれるような柔らかさ。そのまま背中に手を回され、セイバーは自分が抱き締められていることを知る。
 傍から見ればセイバーが自分から少年の胸に飛び込んで行ったような光景だった。
 何かを考える時間はなかった。反射が生じる間さえなかった。
 須臾の狭間で、瞳に映る少年の赤紫。鼻が擦れ合う近さ。
 まるで予定調和のように、セイバーの唇を柔らかいものが塞いだ。

 『ッ!?!?』

 脊髄の命令で全身から放出した魔力の奔流を先読みしたが如く跳び離れた少年に、セイバーは唇を拭いながら震える剣先を向ける。

 『な……なん、何の真似だっ!!』
 『キス』

 身も蓋もなく言われた事実にかっと頬が熱くなる。

 『…………顔、赤いよ?』
 『この……っ!』
 『ちゃんと…………女の子♪』

 くふふ、と笑いながら身を翻し、森の奥へ駆けていく少年。
 セイバーは追わなかった。騎士であらんとしながら、たかが粘膜の接触程度で動揺した自分にはらわたが煮えくり返って仕方なかった。
 遠ざかる背中に向けてエクスカリバーを撃つべきか否か、大真面目に検討するほどに。









 「……屈辱です」
 「うん?」
 「いえ」

 なんでもありません、と顔を上げた切嗣にセイバーは素っ気なく返す。
 無意識に、唇を拭いながら。





 ・
 ・
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 《Side on Asassinaters》




 ●ケイネス・エルメロイ・アーチボルト、冬木ハイアットホテルにて発見。サーヴァント確認。ランサーとの呼称及び、二本の槍を確認。

 ●間桐雁夜。間桐邸にて発見。サーヴァント気配のみ確認。武器不明。消去法によりバーサーカーと確定。

 ●衛宮切嗣。ドイツ、森の奥の城にて発見。サーヴァント確認。セイバーとの呼称確認。

 ●ウェイバー・マッケンジー。深山町x-x-xにて発見。サーヴァント確認。ライダーとの呼称確認。



 「……これは」

 たかが三枚ほどの紙切れが黄金にも勝る価値を秘め、綺礼の手にあった。
 未だ召喚されないキャスターを除き、あらゆる陣営の内情が仔細に記録されている。マスターの名前と外見情報に始まり、従えているサーヴァントのクラス、風貌、そして拠点としているであろう場所。セイバー陣営だけは遠く海の果てだが、冬木郊外の森にアインツベルンの城がそびえ立つことは周知の事実である。
 たった半日。
 朝霧も消えぬような未明から日暮れまでの、聖杯戦争が始まっていないことを踏まえても僅かとさえ言い切れる時間で、眠たげな瞳の少年は想像を遥かに超えた情報を持ち帰った。

 「……まさか、これほどとは」

 確かに、命じたのは綺礼だ。隠密特化型のサーヴァントを密偵に使わぬ道理がない。朝食後にその旨を伝えると、アサシンは特にこだわりを見せることなく頷いた。
 今にして思えば、むしろ慣れた仕事なのではないか。アサシンの来歴は結局よく分からないままだが、どんな時代のどんな土地であろうと、少年の異能をもってすればあらゆる場所に忍び込み、また気取られず脱出できる。その優越性を綺礼は知ったつもりで、しかし真の意味では理解できていなかったらしい。

 情報戦においては、もはやジョーカーだ。無敵に等しい。

 が、ここで問題が一つ浮上する。
 ずらずらと並べられた文字列は淡白だが、それが返って端的な事実のみを記している。ケイネスがソラウという女性を伴っていることや、遠坂時臣でさえ知り得なかったウェイバーなる魔術師の存在もしたためてある。更にはマスターとサーヴァントの会話から両者の関係――たとえばランサーと思しきサーヴァントはケイネスを仕えるべき主と仰いでいるなど、互いの立ち位置までも推測を交えて詳細に書かれてある。

 だが、詳細過ぎた。

 あの終始ぼんやりした調子のアサシンがこうも的確な報告書を作り上げるとは俄かに信じ難いが、その能力をぼかして時臣に伝えている綺礼にとって、これらの情報ををありのまま伝えることなどできはしない。
 これもまた、多少精度を落として報告する他ないのだろう。嘘に嘘を塗り固めていくことへ、僅かながら不安があるものの、アサシンを納得させるための欺瞞情報と割り切らなければならない――綺礼は自分を納得させるほかなかった。
 中間管理職の(アサシンの管理が仕事と思えば言い得て妙な)やるせない気分を味わいながら最後の紙面をめくり、綺礼は報告できない理由をまた一つ発見してしまう。

 ●遠坂時臣。遠坂邸にて発見。サーヴァント確認。武器不明。

 呆れたことにあのアサシン、時臣の内情まで調べたらしい。サーヴァントとの意思疎通に頭を悩ませている模様、など的確過ぎる。確かに時臣を調査対象から除外しろとは言わなかった。アサシンの立場からすればいずれ裏切る相手。調べない理由もまた皆無である。
 とはいえ然程有用な情報でないのも確か。アサシンが調査するまでもなく綺礼がより深く内情を把握している。
 有能なのは間違いない。アサシンがもたらした情報は正に値千金を上回る。だがなぜだろう。あまり嬉しくない。

 「……どこまで師に報告したものか」

 優秀すぎるのも困るのだと、目から鱗の思いであった。





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 奏絵をさらったのは、奏絵とあまり年が変わらないように見える少年だった。
 通学路の帰り道にふと上を見た時、呆気に取られたのを覚えている。どこにでもあるような一軒家の屋根の上で、真っ赤なコートを着た少年がぼんやりと空を眺めていた。夕焼けが風景を赤く染める中、彫像のように身じろぎもしない少年の姿は、まるで空想の世界から抜け出してきた住人のように現実味が欠けていた。
 太陽が西の空に隠れてしまう様子を見届けた少年が、ふっと奏絵を見下ろした。目と目が合った。そう感じた。直後、奏絵は信じがたい光景を目撃する。
 二階の屋根から少年が飛び上がった。飛び降りたのではない。ほとんど膝を曲げる素振りすら見せず、棒高跳びのように高々と跳躍したのだ。そしてふわりと、羽より軽く奏絵の前に舞い降りた。
 舞台劇のワイヤーアクションか、さもなくばテレビの向こうでしかありえない出来事。唖然と立ち竦む奏絵に、じぃー……っという擬音がぴったりの視線が注がれ、

 『…………似てる』

 たじろぐ奏絵の耳が幽かな呟きを拾った。それからしばらく、記憶がない。
 気絶させられて運ばれたと気付くのは、広い西洋風の屋敷で目を覚ました後。首筋に衝撃を受けるとか電流で痺れるとか、そういう分かりやすい予兆がまるでなく、意識を取り戻しですぐは激しく混乱した。ガムテープで声も出せないように縛られていたのだから尚更だ。
 自分が誘拐されたことを受け入れるまで、かなりの時間が必要だった。そう言う犯罪があるのは知っていたし、稀に報道されることもある。だが誘拐事件は遠い世界の出来事で、自分は無縁だと何の根拠もなく信じていたのだ。
 混乱が恐怖に変わるまでは早かった。そして恐怖が絶望の虚無に変わるまでも。
 奏絵がさらわれてどれほど経っているか分からないが、捜索願とか、行方不明の報道とか、未成年の奏絵がどういう形で扱われるにせよ、警察はとっくに動き始めて、両親と弟は心配していて、友達は軽口混じりに本音では案じている。そのはずだった。

 『――好きにしろ。情報操作はこちらでやっておく』

 だが耳にこびりつく無機質な男の声音と狂気を帯びた赤紫の瞳が、奏絵の希望に死の鎌を押し当てる。それが事実なら――警察権力さえ左右してしまえる相手だとしたら、もう無理だ。そして、事実なんだろうな、と奏絵は思っていた。諦めていた。自暴自棄に近い無気力が奏絵を支配していた。

 だから寝室に連れ込まれても、すすり泣くばかりで、ろくな抵抗はできなかった。

 ベッドに押し倒された奏絵を待っていたのは無慈悲な凌辱だった。か細く喉を震わせた拒絶の言葉ごと、初めての唇が奪われる。ブラウスのボタンが一つずつ外され、外気に触れた肌を撫でられる。首筋を舌が這い、露わになった乳房の突端を唇が食む。一つ一つが生々しい、本物の愛撫。

 「…………弱い」

 不意にこぼれた囁き。
 身体をまさぐる手が止まる。

 「脆弱……か弱い、頼りない。…………どうしてこんなに、弱い」

 困惑、疑問、不思議――もっと深い感情――悔しげな思いが伝わって来る。

 「似てるのに…………やっぱり、似てない」

 肌の上を硬い手の平が撫でていく。再開される。もどかしさをぶつけるように手つきが荒々しくなる。――うっすらと目を開けた。苛立たしげに細められた赤紫の瞳が奏絵を見下ろしていた。

 (……?)

 どうしてかは分からない。
 ただ奏絵はその時、無表情を崩さない少年が泣いているように見えた。
 まるで自分に縋りついているように見えてしまった。
 顔が近づき、唇が重なる。最初に奪われた行為と何も変わらないそれ。
 だが唇の向こうに、膝を抱えてうずくまる子供の幻が。

 「っ……ゃ……!」

 するすると、足を抜けて行くショーツの感触。太腿の内側に手がかけられ、割り開かれた奏絵の両脚は少年の腰に回っている。

 「あ……あっ!」

 押し当てられた熱さに奏絵は喘いだ。恐ろしく硬いものが奏絵の純粋な部分に頭を潜らせる。入って来る。取り返しのつかない場所まで少年の一部が到達する。痛みよりも、喪失感よりも、お腹の内側を押し上げる生々しさに、奏絵はぽろぽろと涙をこぼす。
 それからどこをどう蹂躙されたか、覚えがないことは救いだろうか。
 ただ、何度も何度も、奏絵の中で少年が果てた感覚だけは、呪いのように記憶していた。

 「…………妊娠は、しない」

 少年が囁いた。手には水の入ったコップ。氷が浮いている。喉の渇きを自覚した。でも動けない。身体がまるで鉛のよう。少年はまるで当たり前の様子で水を口に含んだ。そのまま口付けられる。口移し。嫌悪感が湧くどころか、奏絵は貪るように飲んだ。子犬のように少年の唇を舐め、二口目をせがみまでした。

 「僕の身体は、血の一滴まで、仮初。…………魔力で編まれた、実体を持つ、霊体」

 さっきまでの手荒い扱いが嘘のように、少年が奏絵を優しく抱き寄せる。水と引き換えに、少年は奏絵の唇を吸う。

 「だから、僕の精も…………魔力に還る」

 そろそろだよ、と少年が言った。何がそろそろなのか奏絵には分からない。今はただ、この温もりに包まれて、泥のように眠りたい。
 そう思った瞬間だった。

 「――あぎっ……あ、あ、あぁぁぁぁッッッ!?!??!」

 破瓜の痛みなど比較にならない、焼き鏝を押されたかのような激痛が脊髄を引き裂いた。
 そのままではきっと喉を掻き毟って血塗れになるか、頭を壁に打ち付けて今すぐ楽になるかを選んでいただろう。それほどの苦痛に狂乱する奏絵を、少年の腕はびくともせずに抑え込む。

 「僕の魔力が、呼び水になった。…………眠っていた回路が、動き出した」

 魔術回路の覚醒要因は個人差が激しい。真っ当な魔術師であれば修行によって開くが、性的興奮や自傷行為で開かれることもある。しかし奏絵は目覚めなかった。故に英霊の魔力で強引に開いた。
 そんな事実を奏絵は知らない。絶叫し、暴れ狂いながら、ギシギシと身体の内側で軋む何かの音を聞く。

 「おはよう…………そして、おやすみ。……ようこそ、世界の裏側へ……」





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 ・





 ――――Another Side.





 セイバーは空港から日本の大地に足を下ろした。極東。かつて生きたブリテンから見れば正に最果てだ。同じ空、同じ海、されど地は異なる。その感慨に束の間、足を止めた。

 「どうしたの、セイバー?」
 「……いえ、何でもありませんアイリスフィール」

 男物のスーツを纏うセイバーに淑女が並ぶ。優雅な挙措にどことなく稚気を感じさせる、長い銀髪の女性――アイリスフィール・フォン・アインツベルン。最優先で守護しなければならない護衛対象である。
 ヨーロッパはドイツからの旅路も空を越えれば一日とかからない。ホムンクルスである彼女に時差が影響を及ぼすのかセイバーは過分にして知らないが、それとなく気を払っておく。
 そしてもう一人、着古した黒いコートに身を包む男性が隣に立った。

 「車を用意してある。ここまで来れば冬木はすぐそこだ。二人とも気を抜かないように」

 衛宮切嗣が、そこにいた。





 ・
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 ・





 英霊と推定される少年の襲撃に、切嗣は当初の行動方針を破棄。魔術師殺しが最も得意とする裏工作を久宇舞弥に一時委任し、正規のマスターとして姿を晒す。アインツベルンの結界さえすり抜ける英霊――アサシンの可能性が大である相手に、切嗣の単独行動によるリスクは無視し得ないレベルにあると判断した。
 セイバーの戦闘中にアイリが狙われては元も子もない。平然と非戦闘員であるイリヤを攻撃対象に選ぶような輩だ。最低限、あの少年の投剣を防げるだけの自衛能力が求められ、それをアイリに望むべくもないことはセイバー陣営の共通認識である。これは魔術師如何ではなく、戦闘経験の有無によるところが大きい。
 よって、未だ正体を知られていない舞弥を動かしつつ、切嗣自身が派手に動き、衆目を集めることで舞弥の行動を闇に隠す。最初に立てた計画より効果は半減するものの、他に選択肢がなかったとも言える。聖杯の器であるアイリと、セイバーのマスターである切嗣。どちらが欠けても聖杯戦争は立ち行かないのだ。

 ――しかし、切嗣の冷めた機械の部分は冷静に指摘する。聖杯の器を守ることとアイリの命を守る等号記号は、聖杯戦争が終盤へ近づくほどに意味を失うことを。三者の共闘関係は遅くとも中盤までであり、サーヴァントが脱落するにつれてアイリは動くことすらままならなくなる逃れられない運命を。

 冬木市に入る手前で切嗣は一度車を止め、セイバーに警戒を促しつつホテルの一室に入った。急遽プランを変更したため、冬木市内のマンションから舞弥が必要な装備をそこに移していた。
 火器、銃器。そして衛宮切嗣の切り札たる礼装。だがそれらを用意した舞弥は居ない。念には念を入れ、舞弥の露見を危惧した切嗣が接触を避けたためである。軽く動作チェックを行い、どのような調整を施したか舞弥直筆の手紙を確認した後、手早く装備を纏めてセイバー達と合流する。

 「武器は手に入ったようですね。キリツグ、次の行動は?」
 「市街地で昼間から、というのは神秘の秘匿に反するから考えにくい。これは魔術協会も聖堂教会も共有する原則だ。予定通り日が暮れるまではドライブに洒落こもう。敵の挑発も兼ねてね」
 「やった。私、前からお寿司食べてみたかったの」
 「……まあ、根の詰め過ぎもよくないのは確かだ。そうしようか、アイリ」

 戦場を前に英気を養う。初めての世界にはしゃぐアイリ、一口食べて目を丸くするセイバー、楽しげな妻の様子に目を細める切嗣。今夜にでも殺し合いに身を投じるとは思えないほど、穏やかな時間。
 ここにイリヤが居たら。
 切嗣は、そう思わずにはいられなかった。



 ――やがて、夜が来る。


 始まりに向けた終わりが、始まる。





 




 ―――To be continue...





































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 ……はい、エイプリルフールネタです。はっきり言って短いです。ワンピに登場させたオリキャラを別作品にクロスさせるとか、自分で考え直してもふざけ過ぎではありますが、どうにもはまり役だったのでネタ投稿。ちなみに続編はありません。悪しからず。
 仮に書けと言われても本編が終わるまでぶっちゃけ無理という、一から十まで無茶なネタ振りでした。
 反省は、してません。以上。

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 エイプリルフール続編! ないとか言ってたけど書いてみた。しかし一年ペースで更新だと完結前に寿命が来そう……。でも、これ気付く人居るのかな? 一応、続編追加と上に載せておいたけれど……よし、隠れ更新ということでいいや。こんなところまで確認してくれる人がいれば、とても嬉しいです^^ きっと筆もはかどることになるでしょうw

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 十か月ぶりぐらいの投稿が嘘企画ってどうなんでしょうねー……。本編進まないのにやたらと筆がはかどる不思議。このFate編は特に流れとか決めてないので、おおらかな広い心で読んでくれると助かるかもしれない。矛盾点とか、細かい設定とか。できる限りは調べますが。。。
 そして本編について。青雉とのバトルが終わった辺りから手直ししていたり。……どつぼにはまって考え過ぎているような気もしますが、取り敢えず納得できるまで修正していこうかと。……またNG集が嵩増しされるなぁ。
 では、以上。

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 本日より消費税増税が始まりますが、実はエイプリルフールでした(笑) ……とかだったら嬉しいけど、政府は社会的に抹殺されますねw
 一年ぶりです。うたかたです。……物語の先で出てくるヒロイン達の設定ばかりが積み重なる日々です。最大の問題は、青雉ほかおっさん連中を書いててもあんまり楽しくないことでしょうか……。華がない(泣)
 ちなみにこの嘘企画、ちゃんと読んでる方はお分かりでしょうが、Another Sideとそれ以外で時間軸がややずれてます。召喚の翌日と、数日後ですね。イリヤの最後だけ十年ほど飛んでますが。
 では、遅くとも来年にはまたお会いしましょう。……多分。

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 お久しぶりです。今年は投稿しました! ハーメルンへの移転作業は全く進んでいませんがw
 最近書きたいものが多くて……オバロの投稿もせっつかれてるし、オリジナルも楽しみたいし。ネットがもうちょっと自由に扱えたらな、と思います。家のPCは共用なので。
 この嘘企画もいつまで続くやら。まあこれからが面白いところかもしれませんが、今日はここまで。
 では皆さま、また逢う日まで。ノシ




[19773] 名付け 【改訂版】
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:47fdd84c
Date: 2011/05/08 00:18
 窓の傍、風を浴びつつ日光浴。適当な部屋から見つけた来た揺り椅子に深く腰かけ、ファンはのんびりとまどろみに浸かっていた。誰も居なかったので勝手に拝借/強奪した品だったが、なかなか上等。前にゆらゆら、後ろにゆらゆら、波の上みたいで心地よい。

 「こら! 部屋の中で大っきくなっちゃダメって言ったでしょ! 毛が散って大変なの、鳥に戻りなさいっ!」
 「ピガッ! ピーグァア!」
 「吼えてもダメ!! 我がまま言ってばっかりだと、晩ご飯なしだよ!」
 「ガッ、グゥ……ピガッ、ピガガガガッ!」
 「卑怯なんかじゃないっ。ここは島と違って食糧に限りがあるんだから、食べて飛んで寝るしかないあなたに文句を言う権利はないの! 分かったら大人しく小さくなって、胃袋も小さくしなさい!!」
 「ピグゥ…………ピィー」

 言い負かされたタカが恨めしげな眼でラナを睨み、しゅるしゅるとその体躯を縮めていく。態度はどうあれ、力関係が分かりやすい構図だった。
 革命軍が拠点を置くバルティゴは白土の名の通り、野生の動植物が非常に少ない。原生林そのものなエグザルと比べても仕方ないが、食糧は外部からの補給と近海に赴いての漁で賄っているのが実情だ。無論、大型のペットなど飼わせる余裕はどこにもない。
 やむなく、ファンとラナの共同財産である海賊船から手に入れた財宝を一部供出し、大喰らいのペット/相棒の食費に宛がうことにした。常に財源の確保に追われているドラゴンにしてみれば、子供二人の申し込みは渡りに船であり、つまりこの鳥獣、半分はラナに養われているのである。
 悪魔の実を食べた影響か人間のように何でも食べられるが、肝心の食べ物がなければ餓えるだけだ。
 頭が上がるはずもなかった。

 「…………」

 背後の騒ぎに、ファンは片目を開ける。いい感じで襲って来た睡魔が、一人と一羽の口論に恐れをなして逃げ出してしまったらしく、仕方なしに欠伸を噛み殺し浮いた涙を手で擦る。と、頭の後ろで羽音がして、荷重を受けた揺り椅子が揺れた。

 「ピィ、ピピッピイ!」
 「ファン、その子が何言っても聞いちゃダメ。こればっかりは譲らないから!」
 「…………そう」

 別に、興味ないが。半分以上聞いてなかったが。正論を言うのは大概ラナなので、適当に頷いておく。
 途端に甲高い鳴き声抗議が始まり、ばさばさ翼を広げ食事事情の改善を要求するタカ。直後、

 「ほこりが散るからやめなさい!」

 躾のためには実力行使も辞さないラナの張り手が飛び、椅子の背もたれから叩き落されたタカは、床の上でピクピクと痙攣する。
 ……口で言ってるうちに、聞かないから。
 似たような遣り取りは既にここ数日何度となく繰り返されていて、きちんと言葉を理解してるくせに言う事を聞かないから、ラナは怒っているのだ。どちらに非があるかなんて明白すぎて、口を挟む気にもならない。眠いし。
 全くもう、とラナは腰に手を当て仁王立ちし、憤慨七割呆れ三割の表情。身に纏う白と黒のコントラストも著しい衣装は、紹介された服飾長イーゼルの自信作だとか。前開きのスカートは見方を変えるとドレスみたいで綺麗だけれど、個人的には以前のワンピースの方がよかった気もする。食べたくなった時に、剥きにくい。能力を使えば簡単だけれど、何となく。
 そんな風につらつら考えながら、うつらうつら。また夢の世界に旅立とうとしていたら、再びギィ、と。揺り椅子が後ろに傾く。重たい瞼を持ち上げると、背もたれに両肘をついたラナの黒い双眸が、何か言いたげにこちらを見下ろしていた。

 「……ねぇ、怒ってる?」
 「…………?」

 脈絡が掴めず、瞬き。
 不安の色彩を帯びた吐息が、切ったばかりの前髪をくすぐる。

 「私が、その、戦闘訓練……受けてること」
 「…………」

 今の今まで怒鳴りつけ気炎を上げていたとは思えない、頼りなげな少女の言葉。
 そう言えば、そんな話も聞いたっけと、ファンの認識はその程度。一言ぐらい何か言ったような気もするけれど、よく覚えてない。それがなぜ、自分が怒ることに繋がるのだろうか。
 無言で先を促すと、ラナは頬を染めて、視線を外しながら恥ずかしそうに答える。

 「だって訓練したら……筋肉付いちゃうし……。む、胸も、あんまり大きくならないかもだし」
 「…………」
 「あ、えと、それと……ファンは、一体私の何が好きなのか分からなくて……筋肉付いた女の子が嫌だったりしたらどうしようって……」
 「…………多分」

 多分、自分でもそうなのか分からないけれど。

 「ラナの…………そういう所が、好き」

 ……かもしれない。
 最後の一言だけ胸に隠し、首を伸ばして隙だらけの唇に口付ける。
 数秒――否、たっぷり三十秒。呆然と呼吸も忘れて金縛りに遭っていたラナの顔が、一瞬で耳まで赤く染まった。

 「あ、あう、あ、ふぁ、ファン……?」
 「…………ん……可愛い」

 触り心地のよい黒髪に手櫛を通す。さらさらと流れる髪を弄び、ゆっくり頭を撫でる。耳元に梳き上げ、柔らかな頬を手の平で。目元から鼻筋、唇へと親指で順繰りに触れていく。
 が、そこでとうとう限界が来たらしい。ラナの膝から力が抜けて、顔を真っ赤にしたままくたっとへたり込む。

 「…………た、たまに口開いたら……そういうこと言う……っ」
 「…………悪い?」
 「わ、悪くなんかないけど……ずるい」

 う~、と唸られる。威嚇される。ずるいと言われても、困る。
 いつもの流れならこのままベッドにもつれ込む所だろうけれど、と口内に少女の味を残しながらファンは大きく欠伸した。どうにも、本日の陽気は睡魔を活性化させて余りある。本気で眠い。

 「……と、ところでファン! あの子、名前あるのかな!?」

 いささか以上にわざとらしく、かつ慌ただしくラナが話題を変えた。ベッドに連れて行かれると思っているのだろう。普段の少女ならファンが眠そうであることに、何も言わないでも気付くだろうけれど。今はちょっと、頭の中が過熱過多らしい。うん、パニくってて可愛い。でも眠い。

 「…………さあ」

 瞼を下ろした、気のない返事。

 「さ、さあって、名前は大事だよ? 私もファンも、名前があるから人に呼んでもらえるの。名前っていうのは、お父さんとお母さんから私たちが生まれる時にもらった、一生に一度の大切な宝物で……ファン?」

 ひょい、と無反応な少年を覗き込む。揺り椅子に身を預ける赤紫の少年の口からは、穏やかな寝息。

 「……寝ちゃってる」

 安心したような、拍子抜けしたような。セリフの途中で寝入ってしまった少年に、むー、と少女は唇を尖らせる。
 そんな二人の遣り取りを、意識を取り戻したツミが床の上で、じっと見上げていた。



 ・
 ・
 ・

 ……。
 …………。

 何かを聞いた気がした。素潜りした海の底からすーっと海面を目指したような浮上感を受け、ファンの意識は眠りの底から浮かび上がる。
 夜だった。閉じられた窓の向こう星々が宝石のように燦然と煌いている。
 揺り椅子に座った態勢のまま、ファンはぼんやりと寝起きに霞んだ頭を振った。中途半端に眠ったせいか、身体の奥から妙に気だるい。
 ……何かを、聞いた気がしたのだ。
 思い、ファンは揺り椅子から身体を起こす。

 「フン、やっと起きたか。この私を待たせるとはいい度胸だ」
 「!」

 出し抜けに響いた、声。聞き覚えのない落ち着いた声音を背後に、ファンの身体は幽玄に消え去り刹那のタイムラグなく部屋の片隅に出現する。
 ……気付かな、かった。
 それが、問題。自分が“気付けなかった”。その事実にファンは一級の警戒心を差し向ける。
 ず……と。部屋を侵食するが如く、赤い殺意が滲み出す。が、いないはずのありえない声は、殺意に鬱陶しそうな色を乗せて再び響いた。

 「“それ”を私に向けるなファン・イルマフィ。心中穏やかでないのは分かるが、不愉快だ。……安心しろ、敵意はない」
 「…………誰」
 「ツミュエルテ――と言っても理解できんだろう。故にその問いは誤りだ。『誰か』ではなく、私が『何者』なのか問え」

 尊大、不遜。伝播する声だけで謎の人物が高い矜持を持つのが窺えた。それは自負であり、自らを信じきった人間にしか出せない、煌くように強烈な自意識。

 「…………何者」
 「フン……存外に素直だな。それとも子供なだけか? ……まあいい。些事は捨て置く。私を打倒した男であることに変わりはあるまい」
 「……打倒……?」

 笑うような気配が伝わってきた。気配はやがてクックックという音に昇華し、部屋の壁を打つ。

 「そうだな…………種明かしだ」

 影が飛んだ。ファンの肩に乗りそうなほど小さな影が机上から飛び立ち、星明かりの差し込む揺り椅子に止まった。
 ファンはそれを知っている。なぜなら殺し合ったから。ずっと部屋にいたから。

 「……………………お前が?」
 「そう、“私”だ」

 動物界脊索動物門鳥綱タカ目タカ科ハイタカ属。
 和名、雀鷹。
 通称、『ツミ』。
 ファンが連れ帰ったその小さなタカが、ニィ、と笑った。
 そして――変化が始まる。





 軽やかにそれは翼を伸ばした。“動物系”がそうするように、質量を無視して全身を肥大させる。だが、ファンの見知った鳥獣形態への変化ではなかった。翼を除いた全身から羽毛が消え去り、嘴はその鋭さをなくして唇へ。鉤爪はその一本一本を癒着させ、代わりに五指が芽生えた。自らを抱きしめるようにして腕が現れ、その存在は女性らしい膨らみを各所に覗かせる。
 一糸纏わぬ裸身が姿を現し、細くも力強い素足が床板を軋ませた。

 「久しぶりだな、この姿も……」

 深い感慨を込めて言った“少女”は、その背に巨大な翼を聳えさせながら、閉ざしていた瞼を開ける。
 鮮烈な意思を宿す濃い鳶色の瞳が、ファンを射抜いた。同色の髪は顎のラインに沿って長めのボブを描き、四肢のシャープさは鷹だった頃の名残として姿に現れている。

 「……………………」

 さすがに、ファンといえど言葉もない。瞠目した赤紫の瞳が、その驚きを示す。
 その間にも目の前の“少女”は身体の感覚を取り戻すように五指を曲げ、首や四肢の関節をパキポキと鳴らしていた。

 「……五分といったところか。さて、歩き方は……と」

 ぎこちなく一歩踏み出した途端、ぐらりと膝が折れ身体が傾いだ。反射的に駆け寄り、ファンはその裸身を抱き留めた。そしてまた驚く。本当に羽ではないかと疑うほど、腕に倒れる“少女”は軽かった。

 「む……礼は言わんぞ。この程度、お前の助けなど必要とはせん」

 助けたというのになぜか睨まれ、手を離す。そして少女もまた体重を預けていたファンの胸を押し返し、そのままの勢いで今度は後ろに倒れかかった。
 何となく予想できたので、ゆらりとファンは背後に回り翼の生えた背を支えた。「むぅ……」と唸るように顔をしかめた少女は、舌打ちせんばかりの悔しげな表情でファンを振り返る。

 「……礼は言わんからな」

 ……別に、欲しくない。



 ・
 ・
 ・

 「さっきも言ったが、私の名はツミュエルテだ。どう呼ぶのも好きにしろ」

 と、“少女”は偉そうな態度で足を組み、ベッドの上で踏ん反り返る。広げれば“少女”の身体より大きいだろう翼は、室内であるためか幾分窮屈そうにその身を撓めていた。
 眠たげな無表情でテーブル脇の椅子に腰かけたファンは、その実困惑しきっている。
 肩甲骨の辺りから見事な両翼を生やしたことさえ慮外すれば、それは紛れもなく年頃の“少女”だ。ファンより一つ二つ、年上に見える。健康的な裸身を「寒い寒い」の一言で、今は身体にシーツを巻きつけ解決している。これまでずっと暖かな羽毛を身に付けていたのだから、肌に直で触れる外気温は比べ物にならないほど寒いに違いない。翼だけはぬくぬくとしていそうだったけれど。
 まあしかし。そんな些細なことは置いといて。

 「…………何者か、聞いてない」
 「少しは想像しろ。阿呆のように聞いてばかりの男は嫌われるぞ。私から」
 「…………」

 嫌われる云々は本気でどうでもいいけれど、ファンは黙って考え想像してみる。
 まず、鳥。ネコネコの実を食べた鳥類だと思っていたら、実は人間だったと仮定する。“動物系”であるのは間違いないだろうが、それにしては変形の種類がおかしい。変化前の人間の姿、人獣型、そして獣型。これが“動物系”に可能な変形であり、しかし目の前の“少女”は人に翼の生えた風変わりな鳥人型と、鳥の姿に鳥獣型、加えて本来の人間状態と見た限りでは四つの変形を備えていることになり、“動物系”のルールから外れていた。
 名前もどこか奇妙な響きを持っている。グランドラインの島々はその航海の困難さからそれぞれが独自の文明を築き上げてると言うが……それ以前に人であったなら、なぜエグザルにたった一人でいたのだろう。

 「…………聞きたいことは、三つ」
 「ほぉ? 言ってみろ」

 面白げな表情に期待を浮かべた“少女”へ、ファンはゆったりと言葉を紡ぐ。

 「一つ…………“動物系”の謎。…………二つ、あの島にいた理由」
 「三つ目は?」

 ファンは持ち上げた人差し指を、急かすように問う“少女”へ向けた。

 「僕の…………敵か、否か」

 ぞ、と少年の体躯から寒気のような気配が溢れ、体感温度を低下させる。
 疑問の前二つは単なる興味だ。最後の一つに返る答えしだいで、部屋を満たす殺意は赤く具現化する。
 常人ならその気配だけでへたり込むような圧力を受け、しかし“少女”は、ただ不快気に眉をひそめるだけ。

 「……二度も言わせるな、その殺気をやめろ。寒いだろうが」

 これ見よがしに“少女”は手足を擦り合わせるが、ファンは取り合わない。じぃっ、と鳶色の瞳を見つめるだけ。

 「それに、もう言ったはずだ。私に敵意はない」
 「敵意と…………害意は、別」
 「ファン・イルマフィ……お前は言葉遊びがしたいのか? 本当に私が害意を持っていたら、とっくの昔にあのラナとかいう小娘は八つ裂きになってるよ。……だから睨みを利かせるな。ただの例えだ、例え。相棒を疑うのかお前は」
 「…………?」

 不思議な言葉を聞いた気がして、ファンは首を傾げた。殺気が薄れる。

 「キサマがそう言ったんだろうが! 部下だの家来だの言いくさりおって……! 待ったところで私が望む答えなど出て来んだろうから、相棒で妥協してやった心遣いが分からんか!!」

 その態度に腹が立ったのか、要所にシーツを巻いただけの“少女”はズカズカとファンに歩み寄り、射殺しそうな目で怒鳴りつけた。凄い上から目線、上から口調で。ファンとしては、ぱちぱちと瞬きする他ない。
 部下、家来、相棒。覚えのある単語。確かに、そう言ったけれど。
 すうっと胸の奥が冷めた。目と鼻の先で、“少女”が尚も言い募ろうと口を開く。
 けれど、その前にファンは手を伸ばした。――喉へ。

 「かっ……!?」
 「少し…………黙る」

 喉の肉を透過し、指先で直接気道を握った。力加減に憂慮しつつ、平坦な声音でファンは言う。

 「…………夜に、囀るな。…………うるさい」
 「あ……けほっ、げほっ!」

 締められていた喉を押さえ、苦しげに咳を繰り返す“少女”。蹲ったその姿を、無感情にファンは見下ろした。
 ……相棒だと、言うのなら。
 今まで黙っていたことが、気に入らない。殺しかけたり、殺されかけたりした相手だけれど。だからこそお互い認め合ったはずだった。だからこそ一緒にここへ帰ってきたのだ。
 ……イライラ、する。
 眠たげな無表情の奥でささくれ立つ、怒りに類する感情。
 生まれて初めて味わうその感覚が、隠しごとに対する疎外感への子供っぽい反発心であるなどと、対人経験値が低いを通り越して絶無に近いファンに分かるはずもない。

 「……はっ……ふ……、……は、はは……それでこそ、我が比翼の鳥に、相応しい……っ」

 こちらを見上げ、喉を潰されかけたことさえ問題とせず、不適としか言いようのない笑みで“少女”は笑った。
 冷や汗の浮かんだ、まだ苦しげな笑みだったけれど。

 「…………」

 微妙に、黒髪の幼馴染と笑顔がダブった。
 髪の色、頬や目鼻の輪郭、鎖骨の形に、覗く素足の質感や、シーツを持ち上げる胸の大きさなど。いつの間にか二人を脳裏で比較していた自分に気づき、苛立ちも忘れてファンは首を傾げる。
 何となく、喉が渇いた気がした。口腔に湧いていた唾を飲み込み、半ば無意識に舌で唇を湿す。薄いシーツの下、透けて見える“少女”の姿態から視線を外した。頭の中を切り替えるように、先の“少女”の言葉は無視して訊ねる。

 「…………ところで、ラナは」
 「今頃聞くか普通……。あの小娘ならお前の服を直すとか何とか張り切っていたぞ」

 イーゼルの所か。日は落ちてまだそう時間も過ぎてないらしい。……けど、小娘?

 「……そうだな。まず私の事情を話す必要があるか」

 まだ少しぎこちない両の素足でベッドに戻り、“少女”が再び足を組んだ。勢いでシーツがめくれ、その奥に隠されるべきものまで覗きかけるが、意識的に焦点から逸らした。
 ファンの内部で起こる微妙な変化には気付かず、話す内容を纏めるためか“少女”は数秒瞼を閉ざし、厳粛な面持ちで鳶色の眼を開く。

 「私が口にしたのは、トリトリの実“幻獣種”――モデル、“獅子鳥グリュプス”。グリフォン、グリフィンとも言うらしいが、私の島ではそう呼んでいた。質問は」
 「…………変形が、おかしい」

 直截な指摘に“少女”は「む」と唇を曲げた。

 「……私だって、最初は普通の“動物系”だったさ。だがある日、街の近海をいつものように飛び回っていたら突然のサイクロンに出くわして……」

 “少女”が暮らしていたのはグランドラインに属する島の、それなりに栄えた街だった。海軍の支部が近くにあり、誰一人海賊の恐怖を本当の意味で知らずに育つ平和な街。悩みは精々、安定しない気候に農作物が被害を受ける程度。それとて、休暇中の海兵が落とす貨幣で凌げるような悩みだった。
 が、その時ばかりは不安定な天候が災いしたのだという。

 「……気が付いた時にはあの島の浜辺に漂着していたよ。しばらくは生きている自分が信じられなかった……。嬉し泣きしたのはそれが最初で最後だな。すぐ絶望の涙に変わったのが笑うに笑えん」
 「…………水」
 「そう! 方位の分からないグランドラインでは飛んで帰るわけにもいかんし、島は猛獣だらけの上、浜辺以外では上手く変身できんと来た」

 最悪だ、と渋面する少女の気持ちがファンには容易く理解できた。むしろ共感と呼べるだろう。ただ望んで訪れたか、望まず放り込まれたかの差異はあるだろうが。能力者にとって、エグザルは鬼門の一つだ。
 偶然流れ着いたとすれば海楼石のことも知らなかったに違いない。海の力が能力を半減させて……。
 ……半減?

 「無理を重ねた代償だ」

 笑みが、寂しげな色を宿した。

 「私のような悪魔の実を食べただけにすぎない一介の街娘が生き抜くには、“悪魔”の力に頼るほかなかった。それが、例えようのない苦痛を伴うとしても」
 「くつ、う?」
 「他の能力者がどうかは知らん。細胞自体をその都度作り変える“動物系”ならではかも分からん。だが、私は、浜以外で変形する度に、骨髄から軋む何かに侵食されるような苦しみを味わった。何十回と、何百回と……生きる、ために」

 ク、と漏れた音は苦笑か。それとも嘲りか。

 「……今にして思えば、あれは警告だったんだろうな。一年が過ぎ、二年が過ぎ、やがて私の身体は苦痛を感じなくなった。同時に、私の変身は“戻らなくなった”」

 ぶわっと広がる“少女”の両翼が空気を叩き気流を生む。ファンの髪とカーテンをはためかせ、吹き荒れた風はだが、一瞬の激情のようにすぐにまた落ち着く。

 「これが……私の人間形態だ。海に入っても、この翼は取れない……完全に、私と同化してしまっているんだ。……お前も知る小さな鳥の姿は逃げるため。“獅子鳥”の姿は戦うため、それぞれ進化を遂げた……否、狂った姿と、いうわけだ」
 「…………」

 自嘲めいたセリフを最後に、“少女”の言葉は途切れた。抱えた膝の向こうに隠れ、表情は見えない。
 ……悪魔の、実。
 およそ五か月前、ファンもまたそう呼ばれる果実を口にした。村の御神体として祭壇に据えられていた、サロックに酷似したユラユラの実を。泳げなくなった代償に得た力は――未だ断定できないが――“波”。あらゆる物質を透過し、衝撃波など波状の変圧をも操る能力。……完璧にコントロールしているとは、とても言えないけれど。 
 そして波を操るが故に、ファンは波を知覚する。
 エグザルでの修行生活。そこでは水の確保に次いで大敵があった。闇だ。無人の島で頼れる光源は天上の星々だけ。しかしそれも分厚い雲に覆われた日には望むべくもない。
 闇。手元すら見えない真の暗闇。浜辺ならば問題はない。透過が使える。だが、島の奥地ではそんなことできようはずもなく、その夜、今にも飛びかからんとする猛獣へファンは殺気による威嚇だけで抵抗していた。
 炯々と闇に尾を引く猛獣の眼。じりじりと、こちらの集中力が切れるの待つ高度な相手。半ば以上、死を想起した。黒髪の少女の顔が頭に浮かんだ。死は怖くない。けれど、死ねないと思った。だからファンは――目を閉じた。
 見えていたのだろう。猛獣が影のように地を蹴り迫った。“それが視えた”。
 反射ではない。無意識でもない。狙い定めたカウンターの“幽山”――衝撃波を蹴り上げ、頭蓋に響かせ、赤くせしめた。
 以降、ファンは悪魔の実に限らず、あらゆる“波”を知覚するようになった。肌に感じ、あるいは直視して。空も、海も、大地も。世界を構成するそれら全てが持ち生み出す波動を。ファンは感得したのだ。物質の構成分子は例え絶対零度であろうと微弱に振動し、光は光子として大気中で様々な波長に分かれ散乱し、万有引力は重力子を以ってしてあらゆる物を引き合い、生命は生きているだけである種の意思を周囲に放つ。
 故に。
 “少女”の放つ悪魔の実の波動も、ファンには“視える”。“動物系”を目にするのは初めてであるし、それが“自然系”より希少な“幻想種”ともなれば比較対象にしていいのか分からなかったけれど。“少女”が言う通り、どこか妙な感じはした。もしかするとこれが“狂った波長”なのかもしれない。……断定は、不可能だけれど。
 沈黙――どれだけ待っても、俯いた少女は黙ったまま。それ以上、話そうとしない。そうするうち、段々と暇を持て余し、考えごとに飽いたファンの瞼が、重力に負けずり落ちてくる。うつらうつら、こっくりこっくり、舟を漕ぐ。

 「…………くー」
 「って何を寝ておるか――――っっっ!!!!」

 轟く怒鳴り声に、んみゅ……? とファンは目を覚ます。寝ぼけ眼を擦ると、顔を真っ赤にした“少女”が腕を振り抜いた姿勢で仁王立ちしていた。

 「んみゅ? ではないっ! 今のは慰めるなり同情するなりのシーンだろうが!? シチュエーション無視か? 流れ無視か!? キサマ一体私の話の何を聞いていたっ!!」

 ぶんぶんすかすか。“少女”の手が何度も身体をすり抜けた。突っ込みのつもりらしい。
 無駄な労力を更に費やそうとする“少女”へ向け、小首を傾げファンは聞く。

 「…………同情、してほしいの?」
 「そっ――」

 一言で、怒気が萎んだ。消沈したように、“少女”は拳を下ろし。

 「……そういう、わけでは」
 「じゃあ…………静かに。話が、終わりなら…………寝る」
 「っま、待て!」

 必死そうな声音が、沈みかけたファンの眠りを引き留めた。何、と“少女”を見る。

 「い、いや、その……えっとだな……」

 しどろもどろに眼を泳がせ、うーうー唸ったのち。“少女”はキッとファンを睨みつけ、憤慨したように指を突き付ける。

 「お、男なら女の望むことぐらい、黙って察しろ!」
 「…………」

 逆ギレだった。正論のようで無理難題。男だからという理由でそれが実践できるなら、世の男は全員が全員口説き上手だ。
 無言で、ファンはじーっと“少女”を見つめ続けた。一言も口を利かない痛い沈黙で“少女”の勢いを削ぎ落とす。

 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「………………」
 「……う……く……」
 「……………………」
 「く……う、うぅ…………ひ、卑怯だぞ!」

 何がだろう。
 瞬き一つ。

 「……し、仕方ない。今回だけは男のお前を立ててやる。有り難く思え!」

 だから何が。
 そう、思っていたら。
 ぎゅ、と唐突に“少女”がしがみついて来て、際度瞬き。反射的に透過を使おうとし、

 「…………?」

 “少女”の、震えに気が付いた。

 「……頼む。何も言わないでいい。抱きしめて……ほしい。ずっと、ずっと一人で、本当は寂しかった……っ」

 縋る“少女”の悲痛な叫びを耳元で聞き、ファンにしては珍しく、困った風に眉根を下げた。これまでと、性格がまるで違う。 どうしようか。思いながら、けれどもしラナがこうして来ればどうするだろうと考え、剥き出しの背中をトン、トンと優しく叩いた。震えも、しがみつく力も、一層強く。掠れそうな声で、“少女”が思いの丈をぶちまける。

 「あの島に縛り付けられて……何十年過ぎたかも分からない……っ、ファン、お前と会うまで、私は、私、は……人のっ……ぅ、ひ、人の言葉さえ、忘れていたんだぞ……!」
 「何十、年――?」

 聞き咎め、顔を見ようと身を捩るが、“少女”は頭を振って離れず、後はもう、言葉にならない、嗚咽だけ。

 「…………」

 尊大さも強がりも、裏を返せば弱い自分を晒け出すことへの恐怖。決して弱さを見せられない、弱肉強食の世界が彼女をそう変えた。
 島で、空から何度もこちらを窺っていたのも同じ、話したい。触れ合いたい。けれど翼を生やした自分を拒絶されるのが怖い。最初に襲いかかって来たのだって、裏切られたと思ったからだろう。こちらは何一つ知らず、恐らく勇気を振り絞っての接触に舞い上がっていた彼女へ、石を投げた。怒りに我を忘れても、仕方がない。むしろ当然だ。
 黙って、感情の堰が切れしゃくり上げ続ける“少女”の背を撫でる。赤ん坊が泣きじゃくるとしたら、こういう姿なのだろうか。
 幼い頃、自分もまたこういう風に、泣いていたことがあったのだろうか。
 生まれて初めて、ファンは両親と一度きりさえまともに話さなかったことを、後悔した。
 自分の知らない自分を知っていただろう人は、けれどもう、この世のどこにも、いないのだ。



 ・
 ・
 ・


 まだ寝てるかなと思い、ラナはそっと扉を開けた。暗く明かりの点けられていない部屋で、椅子に座った赤紫の少年が、首だけで振り返った。
 声をかけようとしたら、し、とファンが人差し指を唇に当て、自分の膝を指差す。小さな鳥が、一羽。身体を丸めて、眠っていた。
 ファンの膝枕。一瞬羨ましいと思いながら、ラナは忍び足で近付き、少年の傍でその鳥を見下ろした。

 「……なんか、意外。この子、こんなに無防備に寝るんだ」
 「…………怖がり、だから」

 囁く声音に、ラナはそうだろうかと首を傾げる。

 「怖がり、かなぁ。私は、強がりだと思ってたけど」
 「それは…………凄い。…………僕は、気付かなかった」
 「……ファンは他人の考えに興味なさ過ぎだよ」

 昼間に続く少年の饒舌を珍しく思いつつ、テーブルに抱えていた袋を置いた。中身は縫い合わせたファンの服。本当は早速来てもらいたかったけれど、穏やかに眠るその子を見ていたら、後でいいかと思った。

 「…………決めた……よ」
 「……え?」

 少年の方から話しかけてくると言う、驚天動地な事態に唖然とする。明日の天気は火山岩かもしれない。
 ファンはそんなラナの心情を分かっているのいないのか、あるいはどうとも思わずに、続ける。

 「…………名前、決めた」
 「そ、そうなんだ。……何て言うの?」

 優しく、その羽毛を撫でるファンに、かつてない慈しみをラナは感じた。
 よく分からない危機感に襲われながら、少年に訊ねる。
 眠たげな無表情で、赤紫の瞳を細め、ファンはそうっと言葉を口の端に乗せた。



 「…………エル。…………僕は、エルって……呼ぶことにした」







[19773] 想いは何処
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:80c1420b
Date: 2011/10/22 22:09

 ―――色彩の定まらない街並みが、電伝虫の受信不良を思わせるノイズを抱えて映った。

 『やーい化物鳥~!』
 『鳥猫にんげーん!』

 子供たちのはやし立てる声が混ざる。道理を知らない子供たちの、自覚のない悪意。

 『――うるさいっ!』

 遠巻きに浴びせられる雑音に耐えきれなくなった少女が怒鳴った。見る見るうちに五指が鋭利な爪と化し、背には翼が広がり、スカートの下の両足は鉤爪を備えた獣毛に覆われる。わっ、と子供たちが散るように逃げだした。残されるのはぶつけどころのない怒気と、少女一人。
 ページを捲ったように風景ががらりと切り替わる。見えたのは暖炉の火と、父親らしき男性の膝に座る少女の姿だった。

 『父様。海には化物みたいな能力者がたくさんいるって、本当?』
 『いいや、それはデタラメだよ。化物みたいな人間ならたくさんいるけどね』

 娘の幼い問いかけに、優しげな風貌の男性は偽りなく答えた。少女は難しそうな顔で、唇をへの字に曲げる。

 『……能力者は、化物じゃないの?』

 縋るような響きを察して、しかし男性は取り繕わない。真実を告げるだけ。

 『化物であることもあるし、化物じゃないこともある。優しい化物だっているし、悪いことばかりする化物じゃない人もいる』
 『……』
 『そうだね。ユエルにはまだちょっと、難しかったかな』
 『そ、そんなことないっ! ちゃんと分かってる!』

 愛娘が必死に反論する様子を、男性は目を細めて眺めていた。
 また、風景が切り替わる。次に映ったのは、船のタラップから降りてくる女性に飛びつく少女の構図。

 『母様っ!』
 『元気そうだな、私のユエルテ。いい子にしていたか?』

 刃物のように鋭い印象の女性が、口元を緩めた。すぐ傍で、それを見た部下らしき男が愕然と目を見開く。信じられないような視線を向ける部下に、女性は迷わず蹴りをくれてやった。悲鳴と、落下音。水柱が一つ。

 『フン……私を何だと思っている。これでも母親だ。娘に甘い顔をして悪いか?』

 いいえ中将閣下!! と悲鳴だか絶叫だか区別不能な叫び声で海兵たちが敬礼。ならばいい、とマントを翻した女性は少女に向き直る。

 『さて、久しぶりの帰宅だが……ユエルテ。私が以前、上から賜り、結局口にしなかった悪魔の実を食べてしまったというのは、本当か?』
 『うん。本当』

 ほら、と人獣型、鳥獣型へと姿を変えてみせる。甲板の海兵たちにどよめきが走り、しかし女性のひと睨みで即座に直立不動の体勢へ移行。
 少女は横を向いてしまった母親の袖を引いて、必死な表情でアピールする。

 『私、お空も飛べるし、普通の人よりずっと強いし、絶対、絶対絶対役に立つから……だから母様、次の航海には、私も一緒に連れて行って!』

 甘え盛りにある幼い娘の必死さは、悲壮と置き換えられる程。だがそれを見る女性の眼差しは柔和さを忘れ、厳しく、険しい。

 『……ユエルテ、お前の気持ちは分かった。しかし、それでも私はお前を連れて行く気はない』
 『な、何で!? どうして母様と一緒にいられないの!?』
 『能力者となったお前は確かに普通の人間より強いかもしれん。だが私が言うのは強さや弱さが理由ではない。海兵にとって、海は戦場だ。戦場には無論敵が出る。そして私は敵と戦い……捕縛できなければ、殺すだろう』
 『わ、私だって――!』
 『殺せる殺せない、戦える戦えないの道理が問題なのではない。……私が、人を殺す姿を、お前に見せたくない。そんな私のどうしようもないエゴが、お前を船に乗せたくない理由だ』
 『分からない……分からないよ! 私、母様と一緒にいたいよ……っ!』

 幼子が泣き、母が娘を腕に抱く。背後の甲板では、兵士たちがもらい泣きをして。
 ―――暗転。全ての景色が闇の渦に呑まれて消え去る。
 “夢”が、覚める。

 「うぶっ……!」

 身体を起こした途端腹の奥から猛烈な吐き気に襲われ、アゼリアは手洗い場に駆けた。便座に屈み饐えた吐瀉物を吐き散らす。胃液が、口腔を苦く焼いた。

 「げほっ、がほっ、げほっ……! ……ぜ、はっ……ふぅ……」

 全身に鉛を流し込まれたような疲労感が、アゼリアの膝を折る。タイルの床に、ずるずると座り込む。

 「今の、“悪夢”は……応えたな……。いやしかし、誰の夢だと、愚考してみ、よう……」

 色落ちした黒髪が床に広がり、タイルの冷たさを頬に感じるより早く、アゼリアの意識は深い眠りの底へ誘われた。
 手洗い場で死んだように眠るアゼリアの姿が発見されるのは、この一時間後のことだった。



 ・
 ・
 ・




 岩が動いている。ゆっくり、ゆっくり。規則正しく、上下に。並の大人では抱えきれないほどの大岩が、動く。
 それを、地面と平行に保持しているのは二本の細い腕だ。伸ばした腕の間で、手の平を上に向けて挟み、固定。棒のように頼りなさげな手のどこにそれほどの筋力があるのか、鬱血もせず支えている。

 「っ……、…………はっ……!」

 荒い呼気と共に、大粒の雫がぽた、ぽたと。乾いた地面に吸い込まれる。喰いしばった歯の奥で、獣が唸るような低音が漏れていた。
 居住区から少し離れた岩場である。大小様々な岩石が無数に転がり、あるいは積み重なった危険地帯。岩の下には蠍や大蜘蛛などお近付きになりたくない生物が潜むため、人が余り寄りつかず、少年にとっては気兼ねしないで済む環境だった。他人の存在など毛ほども気にかけないが、注目を浴びるのは煩わしい。
 大岩が動く。腕の支えに従い、腕に続く肩に連れられ、肩に繋がる腹背に抱えられ、腿、膝、足首の動きに連動して。それは持ち上げられている。見るからに華奢な少年の、一人の力で。

 (…………あと……十回)

 見えた終わりに向けて気を引き締める。達成できなくとも実害はないが、自分で決めた目標を果たせないのは悔しい。

 (七…………六…………)

 ひゅうっと肺を膨らませ、肩幅に開いた膝を沈めていく。膝裏が直角になったところで数秒耐え、全身の力を込めて今度は足を伸ばしていく。

 (二…………い、ち……!?)

 最後の一回、と膝を落とした時、上空に差す影が。
 辺りに響き渡るような鋭い鳴き声を伴い、優雅に風を切って舞い降りた。
 ……持ち上げた岩の上に。

 「……う…………!?」

 しかもあろうことか、ぐんぐんとその体躯を膨らませてどっかと座り込んだ。それまでずっと耐えてきた手足が急激な荷重に悲鳴を上げる。そしてとうとう、少年の身体は重量に屈して岩を取り落とす。
 ずん、と地響きが伝い地面が軽く砕けた。
 唐突に重さを失って勢い余った身体が後ろに倒れ尻持ちをつく。眠たげな無表情で、しかしどことなく恨めしげに、ファンはじろりと下手人を見据えた。

 「…………エル」
 「エル……? それはもしや私のことか?」

 と悪びれた風もなく、当たり前のように謝罪もせず少女は首を傾ける。
 そこにあるだけで威圧感を覚えるような獅子鳥の巨躯は翼のはためきと共に一瞬で消えた。代わりに、鳶色の眼をした少女がそこに座っている。顎のラインで切り落とされたやや長めのボブを、吹き抜ける乾いた風が静かに揺らす。
 問われたファンが頷きを返すと、少女は思案する素振りを見せ、やがて口の端をにっと曲げた。

 「なるほどな。安直だが分かりやすく、かつ音も綺麗で呼びやすい。有り難くその名を頂戴してやるから感謝しろ」
 「…………」

 好きに呼べ、と言われたからファンはそう呼んだだけ。しかしどうやらエルの中では、昨夜の遣り取りは名前を寄越せと言ったつもりらしい。しかも有り難くとか言いながら全然有難みがないのはどうしてだろう。

 「…………それ……より」

 ぐいぐいと全身の関節を伸ばすエルから、礼儀として目を逸らすべきか悩みつつ、指摘する。

 「…………服は、着た方がいい」
 「服?」

 きょとん、とまるで何を言われたのかさっぱり分からないと言うようにエルは眼を丸くし、次いで自分の姿を見下ろして、「ああ」とたった今気が付いた素振りで納得する。
 何一つ隠す所のない裸身が太陽の下、ありのままに曝け出されていた。
 十五、六歳の外見に即した膨らみの乳房に始まり、本来秘すべき陰唇さえも惜しげなく――惜しむ意識すらなく隅々までを見せつける。けれど、卑猥さはなかった。だからファンは、目を背けるべきか迷った。

 「人型…………取るなら、服は…………必要」
 「……ふん、あんな物動きを阻害するだけだろう。草やら枝やらに引っ掛かるばかりで、邪魔だったから捨てた覚えがある」
 「…………ここは、エグザルじゃない」

 知るか、と吐き捨てかけたエルはふと、思い当たった表情でファンを流し見る。

 「なあファン・イルマフィ、私を見てどう思う?」

 ん? と首を横に傾け、腰かけた岩の上で足を組む。

 「あの小娘と比べて、私は綺麗か? キサマの率直な意見を言ってみろ」

 自信たっぷり、得意げに訊ねる少女は傲慢なまでに自分の容姿を疑っていなかった。
 じぃ、と言われるままつぶさにエルを眺め、本心から。

 「綺麗は…………綺麗」

 エルは当然とばかりに胸を張り、しかしファンは続ける。

 「でも………ラナの方が…………好き」
 「……」

 一瞬で勝ち誇った笑みは鳴りを潜め、むくれる鳶色の少女。ゆらりと怒気を立ち上らせ、瞳が剣呑な光を湛える。が、率直にと言った自らの言葉までは曲げないらしい。舌打ちして、そっぽを向く。

 「……で、キサマは地味に基礎トレか?」

 強引に話を変えた。
 白けた目を向けるが、それ以上に白々しくエルは毛づくろいなど始める。

 「…………エルが、邪魔した」
 「心外なことを言う。こんな軽い石ではつまらんから手助けしてやっただけだ」

 ……軽いらしい。
 純粋に身体能力が強化される動物系だからにしても、自分と同じレベルを他人に求めるのは酷を通り越して無理なのだが。

 「…………鳥頭」
 「は?」

 ぼそっと呟いた声を聞き咎められ、何でもないとファンは首を振る。ただの鳥と思っていた頃ならいざ知らず、人間となれば些細な口論も面倒くさい。それに同じ理由で、ドラゴンに話を通さなければ思うと今から溜息が出そうだった。
 人間が一人増えるのとペットが一匹増えるのでは、意味するところがまるで違う。何とか話さないで済む方法を考えてみても、黙秘という名の悪あがきぐらいしか思いつかない。
 話すのは苦手。説明はもっと。
 無表情に悩みながら、ファンはもっと休ませろと呻く身体を敢えて起こし、持参していたタオルに水をかけてびっしょりと濡れる汗を拭った。

 「……む?」

 遅れて反応したエルはぴくりと眉を動かし、瞬く間にツミの姿へ身を変える。

 「おい、キサマの気配察知は敏感で済まされんぞ。私より早いとは何様のつもりだ」
 「…………負け、惜しみ」

 答え、ファンはぶるぶると首を振る。赤紫の髪と頭皮に付着していた汗、汚れの類が透過し振り落とされる。便利だな、と言いたげなエルの視線を受け流しつつ、着衣を整え終わる。
 足音がした。

 「……あ、ファンこんなとこにいた」

 積み上がった岩の陰から、ひょっこり黒髪の少女が顔を出す。携えたバスケットから、美味しそうな香り。

 「はい、お昼ごはん。修行もいいけど、栄養補給忘れちゃダメだよ?」
 「…………あり……がと」

 にっこり笑ってラナがバスケットを差し出し、それを受け取ってファンは眠たげに礼を言う。

 「どういたしまして。それじゃ私、これからイーゼルさんと服作らないとだから、また後でね」
 「…………うん」
 「エルも、暴れるのはお昼の間に終わらせてね。部屋の中で騒いじゃダメだから」
 「ピィー……」

 不満げなエルの鳴き声に取り合うことなく、少女は手を振ってあっさりとそこから立ち去った。帰り際にカサコソ這い出してきた小型犬ほどもある蠍は、少女が握るトンファーの一閃でべしっと弾き飛ばされる。無駄のない一撃である。
 取り合えずピクピクと痙攣する蠍の尻尾をナイフで切断しておき、ファンは害虫が寄ってこない高さの大岩を選んで腰かけた。
 手巾の覆いを取ったバスケットの中身は、パンよりも具の方が厚いサンドウィッチだ。芳醇な香りに唾が湧く。

 「ふん……美味そうじゃないか」

 早速食べようと手を伸ばし、突如ずっしりと肩にかかった重みで目標を逸れる。頭越しににゅっと突き出た手が今まさにファンが取ろうとしていたサンドウィッチを掴み上げ、あんぐりとその口に含んだ。

 「あむ、んむ……これは、なかなか・……っと」

 狙っていた獲物を奪われて一瞬愕然としていたファンは、更に伸びようとする魔の手からぱっと昼飯を逃がし、両肩に乗しかかる素足へ向けてナイフを突き刺す。が、紙一重で躱された。肩が軽くなる。

 「物騒じゃないか。食事中にそんな物振り回すな」
 「…………」
 「昨夜今朝と食い損ねて私は腹ペコだ。半分で我慢してやるから寄越せ」

 横柄な言い様でほら寄越せ、そら寄越せと催促する少女の姿に、ファンは軽く吐息。自分の隣を指差す。

 「ふん、ほら座ったぞ。だから早く食べさせろ。私を待たせるなファン・イルマフィ」
 「…………ファン」
 「ん?」

 首を傾げた鳶色の少女を指差し、

 「…………エル」

 次に自分を示して、もう一度ファン、と言う。

 「……ああ。分かった分かった、キサマはファンで私はエル。これで文句ないだろう。……ファン」
 「…………ん」

 頷いたファンがバスケットを差し出し、はしないが、並んで座る二人の間に置いた。
 喜び勇んで食べ始める鳶色の少女を横目にしつつ、ファンもサンドウィッチを口に運ぶ。肉汁の味が口内に広がった。
 しばらく、咀嚼の音だけが競うように会話する。
 じりじりと照る陽光を煩わしいとでも言うように、エルが翼を広げて影を作った。満足げに、食事を再開。

 「…………」

 翼。
 少女自身の背丈ほどもある、肩甲骨の辺りから生えた巨大な両翼。

 「…………そう言えば」
 「んむ?」
 「ラナには…………姿、見せなかった」

 ついさっき黒髪の少女が来た際、エルはわざわざラナの目がある間だけツミの姿に戻っていた。そうしてラナが見えなくなってから、再び人型を取ったのだ。
 ……避けるように。
 むぐむぐと口を動かし、エルは中身を飲み込んだ。

 「私は、キサマ以外にこの姿を見せる気はない」

 指についたソースを舐め取る。少女の眼差しは、険しい。

 「ただの能力者だった頃でさえ色々とあった。両親がそこそこ街の中で発言力があったから、石を投げられこそしなかったが……からかいの的になるのはしょっちゅうだ」
 「…………」
 「……やめよう。昔の話は嫌いだ。悪魔の実と同化しすぎて成長の遅いこの身体も忌々しい。ボケれば少しは忘れられるだろうに……」
 「…………でも」

 すっと、見上げた空は青い。たなびく雲に、ファンは目を細める。

 「故郷は…………大事。…………多分…………親も」

 似ている境遇。失くした故郷と、帰れなかった故郷。二つは違うけれど、本質はきっと同じ。
 ぽつ、ぽつとファンは口を開く。昨夜聞いた身の上話の返礼に、苦手な説明を唇に載せていく。それはとある島のお話。平和な島を襲った赤い夜のお話。
 話す間も、話し終わっても、眠たげな赤紫の瞳は変わらない。

 「……なんだ。キサマの殺戮趣味は生まれついてじゃないのか」

 くっくっと喉を鳴らして猫のようにエルは笑い、笑われたファンは話し疲れて、籠に入っていた水筒で渇いた喉を潤す。
 結構長い時間が過ぎていた。真上近かった太陽が少し長い影を作り、エルが翼の位置を変える。

 「…………残念?」
 「さあな。ずっと生存競争に明け暮れていた私にはよく分からん。……正直、あの島から出ることは一生叶わないと諦めていた。それでも心のどこかで、ずっと誰かが来るのを待っていたんだと思う。そしてキサマが――……お前が来た」

 深く射竦めるように、鳶色の眼差しがファンを捉えた。投げ出していた右手に、少女の左手が重ねられる。激しい気性の、闊達な少女に似つかわしくない、互いの距離を測るような手つきで。

 「昨夜は取り乱したがな……本当に、嬉しかったんだぞ?」

 切れ長の瞳が見せる微笑みに、小さくトクンと波打った心鼓をファンは押し隠す。逃げるように、視線を外し前を見た。
 その瞬間、霞むほどの速度で伸ばされたエルの両手がファンの頬を挟んだ。完全に意識の間隙を縫われ、透過の暇もなく強引に少女の方を向かされる。
 ――柔らかいものが唇を塞いだ。
 いっぱいに見開いた赤紫の瞳が、至近で伏せられた瞼に見入った。驚愕の余り、指先一つ動かせなくなる。
 奪うばかりで、奪われることに慣れていないファンの唇は、やがて両者が離れた後でさえ、何を紡ぐこともできず呆然と少女を見つめていた。

 「喜べ。私のファーストキスだ」
 「………………」

 瞬き、一つ。遠く離れていた意識がようやく帰還して、自分のものではない唾液に濡れた唇をなぞる。

 「私の唇を奪ったんだ。当然、責任は取ってもらう」
 「…………え……」

 続け様に告げられ、会話の苦手な少年の言葉は形を成す前に絶句へ追いやられる。
 破顔した少女の、静かで澄みきった声音が耳朶を打った。

 「私のものになれ、ファン」 



 ・
 ・
 ・



 ハーブの香りが臓腑に染み込み、澱のように凝る疲労感が脳髄に突き抜ける鮮烈な刺激に洗い流されていく。大きく息を吐いて、アゼリアはカップを置いた。

 「落ち着いたか?」
 「ああ、楽になった。やはり精神の鎮静化はハーブティーが最良、アロマなんか目じゃないと勝利宣言してみよう」
 「……俺からすればどっちもどっちだがな」

 苦笑しつつ、ドラゴンは空になったカップにポットの中身を注ぎ足してやった。一言礼を言って飲むアゼリアは今でこそ平気に振舞っているものの、ついさっきまで土気色の顔でうんうん唸っていたのだ。
 こうしてケロリとした表情を見ていると、詐術にでも遭ったような気分になってくる。

 「で、俺は革命軍司令官としてお前の話を聞いた方がいいのか、それとも心療医の領分か。どちらだ?」

 そのどちらにしても機密かプライベートになり得る話であるため、司令官室にしばらく近付かないよう部下には伝えていた。
 ず……とカップを啜り、しばし考え込むようにこめかみをぐりぐりもみ込むと、アゼリアは真面目な話をする顔つきで答えた。

 「どちらも、だな。司令官殿に話した上で、私も私の意義に則り行動すべきだろう」
 「緊急性は」
 「ない、と思う。いささか古い記憶だった。心底に根付いたトラウマと言うべきか。……しかし、“夢”の中で少々聞き捨てならない単語がいくつか聞こえたと宣告しておこう」

 残りを一飲みに干したアゼリアの瞳が、微かな警戒と戸惑いを含んでドラゴンを見据えた。

 「ユメユメの実の能力で私は誰かの“悪夢”を体感した。葛藤と渇望が槍衾の如く私の無意識を突き抉り、自分のものではない感情に翻弄された。その共感させられた“悪夢”の持ち主……ユエルテと呼ばれていた小さな少女。まず間違いなく動物系の能力者で、そしてこれが最大の問題なのだが……母親が海軍の中将らしい」

 カチ、と部屋の時計が大きな音を立てた。

 「……確かか?」
 「確かだ。が、それは少しおかしいだろう?」
 「おかしいとかそういうレベルではない。……今の中将に女性で、かつ子持ちの人間などおらんのだからな」

 そもそも女の海兵自体が稀だ。戦闘職である海軍に入隊する人間には死の覚悟と正義が求められ――女性の場合は、そこに敵陣で一人取り残された時の恐れを、身の内に刻んでおかねばならない。
 即ち――無法者共に犯され嬲られる覚悟。
 故に女性の海兵は数が少なく、余程腕が立たなければ入隊を認められないケースもあるという。
 その苛烈な環境の間で中将に上り詰める程の人材となれば、革命軍を率いるドラゴンの耳に届いていないはずがない。

 「……実はただの夢だったりしないか? お前の“夢見”、的中率は百ではないと聞いた覚えがあるが」
 「そこを指摘されると弱いのだが……と頭を掻いてみよう。ユエルテという名にも心当たりはないし……しかしあの“悪夢”の感触は明らかに能力の発露だったように思えてならない」
 「ならば、この一件はしばらくお前に任せる。独自に内偵を進め、何らかの手がかりを掴み次第報告を――」

 唐突に、ドラゴンが口を噤んだ。何事かとアゼリアの見る前で、しまったとでも言いたげに額を叩く。その視線がじろりと壁を向き、

 「……責めはせんから姿を見せろ。人払い程度で気を抜いていた俺が悪い」
 「…………」

 やがてすぅっと壁際に幽霊の如く少年の姿が浮かび上がり、アゼリアもまた脱力したように頭を抱えた。

 「あー……うむ。これは配慮しなかったこちら側の責任だと投げやりに愚痴ってみよう。少年に来るなとは伝えてない以上、注意すべきは私か司令官殿だった」
 「…………」

 聞いているのかいないのか、赤紫の瞳はぼんやりと眠たげに虚空を彷徨い、ゆらゆらとテーブルに腰掛ける。
 アゼリアとドラゴンは互いに目を合わせた。普段なら瞳で反応ぐらいは示すのに、今日のファンは無反応に過ぎる。

 「ファン、何か……あったか?」

 名前を呼ばれて、赤紫の瞳がようやく二人の方を向いた。パチリ、と瞬き。それすらもどこか、遅い。
 具合でも悪いのかと真っ当な心配を始める保護者組の前で、赤紫の少年はのろのろと口を開く。

 「…………ドラゴン」
 「あ、ああ。どうした? どうも、元気がないようだが」
 「…………ドラゴン、は……」

 そこで数瞬、迷うように間を置いて、ファンは問いかけた。





 「……………………浮気したこと、ある……?」





 「「………………」」

 室内に凄絶な沈黙が生まれたのは、言うまでもないことだった。






[19773] 雨音の《静寂/しじま》
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:d63b31f8
Date: 2011/11/07 19:35
 ――快かった。

 初めてと言った少女の、穢れなき唇。
 奪われた瞬間は呆然として、口付けの余韻が意識を痺れさせた。
 恋人のものでない唾液は裏切りの蜜。
 甘さ以上に、知らない女の味がゾクゾクと脊髄を這い上った。

 だけど――



 ・
 ・
 ・



 ファン・イルマフィという少年を初めて目にしたのは焼け落ちた廃村の中だった。
 出会い頭にぶつけられた殺意の奔流。たった十三歳の少年が放つには常軌を逸して、歴戦の幹部が一人、危うく殺されかけた。
 生来の才能と悪魔の異能を眠たげな無表情に秘め、狂的な殺意に由来する意思は揺るぎなく自己を貫く。
 ドラゴンの知るファン・イルマフィとは、初めからそういう少年だった。
 故に『それ以前』を知らないドラゴンは、雷撃に打たれたような衝撃を味わわされた。
 女の子のことで悩む普通の男の子らしい一面が、ファンにもあったのかと――

 「……」

 じぃっ、と瞬きもせずこちらを見つめる赤紫の瞳。何と答えてやるべきか、ドラゴンは微妙に視線を逸らしつつ素早く思考を纏めた。少年の口にした質問が質問なだけに下手な回答は己の首を絞める結果となる。だが同時に長い沈黙はよからぬ想像を生む助けとなってしまい、迂闊な言葉は口にできない。
 若干二秒でそこまで思考を進めたドラゴンだったが無難な回答を口にするより早く、常にない刺々しい目付きでアゼリアが身を乗り出した。

 「少年……まさかとは思うが、ラナ娘と二股をかけたとかそんなたわ言を口にする気じゃないだろうな?」

 もしそうだったなら許さん――。言外にそんな響きを乗せた詰問。
 アゼリアは過去に弟妹を喪っている。故にちょうど同じ年頃のファンとラナに亡き弟妹の影を重ね、二人の恋を誰よりも応援し祝福した。一緒の時間が多かったせいか特にラナ・アルメーラに対してその感情は強く、したがってアゼリアのこの反応は予測の範疇だった。
 予想外だったのはファンの対応だ。

 「…………、…………」

 詰問にチラと目を向けたファンはしかし、一瞥して義務は終わったとばかりにドラゴンへ視線を戻した。
 まだ無反応の方がマシに思える態度。アゼリアの両目が凶悪に吊り上がりギシギシと室内の空を軋ませる。間に挟まれたドラゴンとしては居心地悪いことこの上ない。

 「……少し落ち着け、アゼリア。お前がそれでは話が明日の朝までかかる」
 「お言葉だが司令官殿、当の少年に話をする意思がこれっぽっちも見当たらない気がするのは私の勘違いか?」

 事実、アゼリアの指摘通りファンは最初の質問以来黙ったままで、口を開く様子もない。
 しかし。

 「ファンが口を利かんのはいつものことだろう……お前らしくもない。親バカもいいが、程々の付き合いもできなければ心療医失格だ。いいか? ファンは相談に来たわけじゃあない。悩みに対して自分なりの解を出すための判断材料を探しに来たのだ。俺たちが根掘り葉掘り聞いて導くのは、ファンが間違った答えを出した時だろう」
 「それでは遅いと言い放ってみよう。我々に相談する気もない少年が、自分の出した答えをわざわざ説明しにくると本気で思うのか? 取り返しの付かない過ちを犯して傷つくのはラナ娘ともう一人の名前も知らない誰かだぞ。……悪いが少年本人に関しては痴情のもつれで刺されるならまだしも、胸を痛ませる図が想像できないから慮外させてもらおう」

 真っ向から意見が対立し、バチバチと火花が散る。
 
 「……こうまで噛み合わんのも珍しいな。最後のには同意しておくが」
 「同感だと答えてみよう。基本自由愛を標榜する私だが、しかし男の二股三股だけは許せん。全員納得付くのハーレムなら拍手を持って称賛しよう。略奪愛も結構だ。近親相姦も否定しない。だがな、恋人や配偶者に黙ったまま、浮気という名の裏切り行為に及ぶことだけは絶対に許さんと心に決めている」

 バンッとアゼリアは両手をテーブルに叩きつける。

 「隠れて行うような恋愛に価値はない! やるからにはすべからく正々堂々と真っ向からだっ! 男なら一人や二人や三人や四人の女ぐらい惚れさせて納得させてみろ!! それが出来ん男に二人以上の女と付き合う資格は一寸も一毫も未来永劫存在しないっ!!」
 「…………」

 気炎を吐き、息を荒げさせるアゼリアを見る目があった。赤紫のそれは打って変わって、興味深げに、津々と。
 その視線にドラゴンが気付くと同時、カタンと椅子を鳴らしてファンが席を立つ。ゆらゆらと陽炎のように歩み、ファンはテーブルにあったペンとインクを借りて何事か記すと、代わり映えのない眠たげな無表情でアゼリアの元まで持って来る。

 「……少年?」
 「…………」

 コクリ、とファンは一つ頷く。それからドラゴンに向かって更にコクコクと。そして二人が瞬きする間にその場から消え去った。
 行動が唐突過ぎる。呼び止める間もない。呆然とするアゼリアへ、自嘲を含むドラゴンの声がかかる。

 「どうやらお前の力説で探し物は見つかったらしいぞ。……まったく、こういう事柄に女は強い」
 「……さりげに男女差別だと弾劾してみようか司令官殿」

 それに結局逃げられてしまったから、アゼリアの望む展開ではない。

 「褒め言葉だ。それより、何と書いてあるか読んでみろ。簡単に事情でも書いたんじゃないかと思うが」

 何か釈然としないが、促されたアゼリアは文面を目で追い――困惑に突き当たる。

 「なあ司令官殿……鳥=ツミュエルテ=エルとしか書かれていないのだが、少年に暗号でも教えたか?」
 「……仮に教えてもそんなわけの分からん使い方はさせん。貸してみろ」

 アゼリアから紙片を受け取り一行しかない『事情』に目を通したドラゴンは、首を傾げながら顎に手を当てる。

 「これは、単純に名前だと思うが……エルテ?」
 「む? となると私の“夢”に出てきた少女と名前が酷似すると指摘してみよう。若干違うが」
 「いや、スペルの後ろ半分をユエルテと読むなら……これは恐らく、『トゥム・ユエルテ』」
 「……待て。その発音の仕方は相当古くないかと疑ってみよう。せめて『ツーム』では?」
 「『ツム』と『トゥム』は聞き間違えても、伸びた音ぐらいは聞き取れるはずだ。それにアゼリア、お前の見た“夢”はかなり古かったものだろう? 可能性は高い」

 ふむ……納得したアゼリアは席を立ち、ドラゴンもそれに続く。
 赤紫の少年の浮気疑惑も大事だが、どうやらアゼリアの“夢視”とも無関係ではないようだった。

 「ところで司令官殿、私は少年の連れ帰ったペットにたった今急用を思い付いてしまったのだがと伺ってみよう」
 「奇遇だな。俺も丁度探そうかと思い立ったところだ」

 目配せを交わし合い――その意味は明白に過ぎたが、とある少女がここにいれば悪い顔してる! と叫ぶかもしれない。
 ドラゴンとアゼリア。並んで部屋を出た二人の目標にされているとも知らず、小さな猛禽はバサバサと空を飛んでいた。
 段々と暗くなりつつある空を、上機嫌に。鼻歌交じりに――風が強くなってきたな、と思いながら。



 ・
 ・
 ・



 「……」

 これ以上ないくらい集中してラナは炭色のコンテを走らせる。
 一枚の紙に描かれた輪郭を少しずつ肉付けし、脳裏に浮かぶイメージへ近づけていく。
 滑らかとは言い難い手付き。書き足しては練りゴムで消す作業を繰り返し、コンテを握る右手は真っ黒だった。
 けれど少しずつ、少しずつ、牛歩の歩みで絵は想像から現実へ姿を変えていた。

 「……もう少し、裾は長い方がいいかな。袖も緩めで広い方が似合うし……襟はこのままフードの邪魔にならないようにして、後はアクセントだけど……」

 う~ん、と悩み始めラナの手が止まった。同じ部屋で作業をしていたイーゼルは壁時計を見上げ、コキコキ首を鳴らしながら予定時間の超過を伝える。

 「はい、今日はもうおしまいだよ。一度に根を詰めたってアイディアなんざ浮かびやしないさ。カーツ、茶。それと肩揉んどくれ」
 「……了解した」

 布の切れ端で雑巾を作らされていたカーツはすぐさま魔法瓶から中身を注ぎ、ラナとイーゼルの前に置いた。そして言われた通りにイーゼルの後ろへ回ると、黙々とマッサージを開始した。

 「……」

 何も知らない人間が見れば何と親孝行なと感嘆するかもしれないが、事情をよく知るどころか渦中の当人だったラナには沈痛な顔しか浮かばない。

 「……あの、イーゼルさん。もう二カ月も前のことですし、いい加減許してあげてもいいような……」
 「何お馬鹿言ってんだい。未遂で終わったからいいけどね、もし実害が生じてたら、アンタの心の傷は二カ月やそこらで癒えたと思うわけかい? 本気で?」
 「いえその、思いませんけど、でもそれこそ未遂だったわけですし……」
 「ラナ、アンタの優しさは美徳だよ。けど甘さはむしろ悪徳だ。時には厳しさを持って突き放さなきゃ、お互いのためにならないってもんさ」
 「……でもやっぱり、三ヶ月間無償奉仕絶対服従はやりすぎな気が」

 ラナ自身の嘆願もあってカーツの罪は今回に限り特赦された。しかしだからと言って何の罰則もなければ示しが付かないと、イーゼルがローカルルール的に母親として罰を与えたのだ。それが三ヶ月間の無償奉仕強制労働反抗不可、絶対服従の召使い扱い。
 しかも最初はラナが服従相手に指名されていて、全力で拒否した過去がある。
 年上の男性に傅かれる趣味はない。

 「姫。俺の気遣いは無用だ」

 あ~極楽~、と夢見心地のイーゼルに指圧を加えながら、カーツの視線がラナを向く。

 「これは俺なりのけじめ。故に姫の慈悲は受け取れない」
 「いえあの、慈悲とかそんな大したものじゃ……」
 「ただ感謝はしておく。ありがとう、姫。前科者の俺にまで分け隔てないのは長所であり、欠点だとも思うが」
 「……うん」

 お礼に対して? 罰を受ける理由に対して? それとも最後の指摘に対して? 自分でも整理できないままラナは頷き、机の上を片付け始めた。
 カーツは先生で、ラナは彼の生徒だった。だがそれはもう昔の話。一度崩れた関係はあれから二ヵ月過ぎた今も修復されず、こうして普通に言葉を交わしていても、ラナの胸は小さな疼痛に苛まれる。未遂。実際には何もされなかった。でもされかけた。
 けれど、それはもういいのだ。終わったことをいつまでも悩んでいたって仕方ない。逃げずに向き合うしかない。
 だから今、ラナの胸に浮かぶ本当の疑問は。

 (……どうして、かな。ファンには、本当に襲われたのに)

 あの赤い夜。
 島に燃え盛る炎よりもなお赤い殺意を振り撒く少年に、真実ラナは襲われた。
 服を奪われ、誰にも許していない身体を弄ばれ、未通の処女地さえ蹂躙された。涙と恐怖、破瓜と喪失、生理的で逃避的な快感。下手をすると――いや本来なら、イーゼルの言うような一生もののトラウマとなっていたはずだった。
 なのに目覚めた時、衣一枚隔てず触れ合う肌がどうしようもなく心地よくて、無防備な少年の寝顔に忌避感も恐怖感も抱きようがなくて。もうその時には、恋の種を植え付けられていたように思う。――心にも、身体にも。
 心療医のアゼリアなら、『絶対的強者への心理的依存』などと言うのかもしれない。ある意味でそれは核心を突いているのだろうし、きっと事実の一面ではある。
 けれど。
 やはりあの時あの瞬間、隣にいたのがカーツだったなら。ラナは自分が心を開かなかっただろうことを確信している。
 過ごした時間の多寡が問題なのではない。ただちょっとした呼吸や、耳に響く声、見つめる瞳に、腕の中で感じる鼓動。そして誰よりも無意識的なのに、誰よりも深い所まで一足飛びに踏み込んでくる――踏み込むことを許してしまう、少年の有り様が甘い毒のようにラナを溺れさせる。
 カーツはもちろん、それは今まで出会った異性の誰にも持ち得ない魅力で。
 だから最近、それを理解できるようになってきたラナの胸には、とある危惧が生まれている。

 (……もし……もしも、私以外にファンを好きな人が出てきたら)

 作業場から寮への道を歩きながら、一つの不安に捕らわれる。
 人を好きになってしまう気持ちは自分じゃ止められないことを、自身の経験を通じてラナは知っている。そしてラナの恋人は一見分かり辛いが、交流を深めれば周囲の男にはない死と隣り合わせの魅力を持っている。
 アゼリアが何かの拍子で言っていた。

 『殺意とは、人間が他者に向ける最も強い感情の一つである』

 そして好きの反対は無関心だとも言っていた。心理学では基本らしい。しかし、ならば。
 赤紫の少年の混じり気なき殺意は、好悪の裏返しだろうか。
 そして仮にそれが正しいなら、少年の殺意は弾かれたコインのように、一瞬で好意や嫌悪に翻ってしまわないだろうか。
 ……ファンが修行の生活から戻って来て以来、そんな考えがこびりついて離れない。

 (私の他に……ファンが好きっていう人が現れたら)

 そうしたら。
 そうしたら――?
 立ち止まり、小さく吐息して空を仰いだ。雲間に浮かぶ星空は微笑むように瞬いている。
 思考の行き止まりに、ぽつりと想いを言葉にする。

 「……月と星みたいに、ずっと一緒の関係で居られたらいいのに……」

 ずっと、永遠に。そう、願う。
 ひゅぅうっ、と風が吹いた。強い風だ。頭上の雲を押し流し、細長い形を作る。
 それを見上げたラナはふと、雲の狭間に長大な何かが蠢いたような錯覚に襲われた。
 目をこする。だがその時には一瞬の幻影のように何かは消えていて。

 「……」

 何だか怖くなり、ラナは早足に寮への道を急いだ。



 ・
 ・
 ・



 エルは急な突風にも慌てず、広げた翼の角度を微調整しながら優雅に星空を旋回した。鳥の姿だというのに、口元は高揚を隠し切れていない。

 「……脈アリ、だ」

 昼間、とある赤紫の少年の唇を奪った瞬間を思い出す。この自分を負かし続け、一度として勝利を許さないほどに強い少年も、唇は柔らかかった。当たり前なのにそれがおかしく思え、くすぐったいような、無性に愉快な気分で、くっくっと笑声をこぼす。
 さすがに二度目は奪えなかったが、とっさに飛び離れた少年が岩から足を滑らせるほど動揺していただけで満足する。

 「私を意識してなかったら、動揺なんてしないだろう?」

 誰もいない高空だからこそ憚ることなく独白し、大きく弧を描いて想いの向くまま飛翔する。
 心が軽い。少年が自分に興味を持たないかもしれないという唯一の懸念が晴れて、どこまでも飛んで行けそうな気分。
 次はどうにかして押し倒そう。状況を誤ると即座に首を掻き切られそうな予感もあるが、狩りは基本命懸けだ。獣の求愛にしたって己が全てを投げ打つ覚悟がいる。そもそも二人の関係自体、命の遣り取りから始まっているのだから。
 新たな関係を殺しあいで始めるのも、悪くない。

 「どうするかな。さすがに今夜辺りは警戒してそうではあるし……性急には事を運ばず、さりげなく誘惑してみるか……」
 「ほぅ、興味深いな。一体誰を誘惑する気だ?」

 ――すぐ耳元で囁かれた低い声に、エルの躰が羽毛の先まで凍りつく。
 風が吹いていた。強い風が。出し抜けに乱気流を生む、不自然な強風が。
 上空千メートルを飛ぶエルの更に上、振り仰いだ先で、長いローブが煽られる。

 「話を聞かせてもらおうか、トゥム・ユエルテ」
 「なっ……!?」

 目を剥いたエルの視界を、ドラゴンの分厚い手の平が覆った。



 『父様。海には化物みたいな能力者がたくさんいるって、本当?』
 『いいや、それはデタラメだよ。化物みたいな人間ならたくさんいるけどね』



 昨夜夢に見た父の言葉が、畏怖と共にエルの脳裏を焼いた。



 ・
 ・
 ・



 扉を開けた先にファンの姿があり、何となくほっとする。薄闇を纏わせて、部屋の窓から少年は空を仰いでいた。
 そこにぽつ、ぽつと雨滴が混じる。瞬く間にざぁっと雨が窓を叩き始め、ラナは自分の幸運に感謝した。もう少し遅かったら、雨の中泥を跳ねさせて帰る羽目になったかもしれない。

 「……さっきね、空に変なのが見えた気がしたの」

 少年の隣で、同じように真っ黒な空を見上げた。月も星もとうに隠れ、部屋の中まで暗闇が忍び込む。

 「勘違いだとは思うけど……グランドラインって、空飛ぶ蛇とかいるのかな?」
 「…………」

 肯定とも否定とも取れない、微妙な気配が少年から漂ってきて、ラナは首を傾ける。曖昧な反応を見せるのは、珍しい。
 そう言えばエルも見当たらない、と室内に首を巡らせた。夕食も過ぎて雨も降りだしたというのに、帰ってくる様子がなかった。いつもは探さなくたってファンの傍にいるのだが。

 「ファン、エルは? まだ外にいるんだったら、タオル用意しないと」
 「…………大丈夫」
 「……そうなの?」
 「うん………、………大丈夫」

 言い聞かせるようにファンが言い、微かな違和感を感じつつもラナはそれで納得しておく。

 「そっか。じゃあ今夜は、二人きり……かな」

 少しだけ照れながら、少年の横顔をそっと窺った。エルという一匹を加えたおかげで、二人きりの夜は本当に久しぶりだった。
 雨空を見上げていた赤紫の瞳がこちらを見た。ラナは自然に少年へ寄り添う。一度瞳を絡ませ合って、誘うように目を閉じた。

 「……………………」

 少年の瞳が数瞬、迷いに揺らめいたのを、瞼を下ろしたラナは気付かない。

 やや長い間があって、少年の唇がラナのそれに重なった。
 

 「……?」

 いつになくぎこちない口付けにラナの内心で疑問符が灯る。

 「ファン……何か、あった?」
 「…………あった」
 「そう、あったんだ。…………えっ、あったの!?」

 余りにもあっさりと答えられ、危うく聞き逃しかけた。仰天するラナにファンがコクリと頷く。
 誇張や脚色と無縁なファンがあったと言うからには、本当に何かがあったのだろう。
 ――キスがぎこちなくなってしまうような、何かが。

 「あ……」

 不意に先ほどの不安が閃光のように像を結んだ。みるみるうちに表情が強張っていくのが、自分でも分かる。
 決して信じたくない想像。あってほしくない連想。だが同時に、もっとも理由としてそれらしくて。

 「……もし、かして」

 怖い。聞くのが怖い。杞憂で終わってと願う。

 「他の子と、キスした……とかじゃ、ない……よね?」
 「…………しては、ない」

 その返事に安心したのも束の間。

 「キス…………された」
 「っ……そ、そう……なんだ」
 「…………」

 少年の服を、気付かないうちにラナは握っていた。しわになる。だが離せない。離したく、ない。
 沈黙を雨足が打ち消す。遠雷の轟きと窓を震わせる風が、重く苦しい静寂を慰める。
 ファンに肩を押されてラナはベッドに座った。隣に少年が腰かけた。数センチの距離に躊躇いが映る。だが少年の方は意に介さなかった。肩を抱かれ、少年の胸板に上半身を預けてしまう形で腕に包まれる。ほんの一瞬、少年を突き飛ばしたい衝動に駆られた。衝動はけれど、頬に鼓動を感じた途端、冷や水を浴びたように流されていった。

 「…………一人だけが……いい?」
 「……うん」

 恋人で、幼馴染みな少年との意思疎通に、多くの言葉は要らない。それだけを口にして、ラナは静かに少年が奏でる鼓動に耳を澄ませた。一人がいい。ファンのたった一人で居たい。自分だけを見てほしい。
 女として人並みの嫉妬心がちらちらと胸を焙り、探るように視線を上げた。ファンは部屋の闇を見ていた。その唇が目に留まる。顔も名前も分からない誰かが、その唇に口付けている様子を幻視して。
 ……胸の痛さの前に、敵愾心がめらめらと燃え上がった。
 見えない誰かを押し退けるように、少しだけ強引に少年の顔を捕まえる。幽かに目を見張り少年の驚く様が小気味よい。ラナがこんな風に、果敢に迫ることは余りしないから。顎のラインに沿って指でなぞり、少年の耳やうなじ、産毛を撫でると、ファンはくすぐったそうに身をよじった。

 「ファン……」

 この世で最も愛おしい単語を舌の上で転がす。それは赤紫色をした、大事な恋人の名前。
 自分以外の誰にも、こうやって囁く権利を譲りたくない。
 ……だから今夜は、いつもよりずっと、積極的に。
 頬に当てていた片手を喉へ、喉から胸へ、下げていく。途中、気付いた少年が何か言おうとするのを、小さく首を振って押し留めた。少年の身体で雄を象徴する部位へ、そっと手の平を押し当てる。

 「ねえ……恥ずかしいこと、させて」



 ・
 ・
 ・



 絹のように滑らかな繊手が陰茎を包んだ途端、腰の奥から名状しがたい痺れが這い登った。
 吐息を、痛みへの我慢と早とちりした少女が手を離す。

 「あ……ごめん、ファン。痛かった?」
 「…………逆」

 左右に首を振り続けるよう促す。ラナは躊躇いがちに、さっきより注意深く、男性器に触れた。
 フローリングに跪くような姿勢で、少女がベッドに腰掛けるファンのいきりに手を伸ばしている。恥ずかしいせいか、顔が熱っぽく紅潮し、間近に見る男の一物に目を注いだり逸らしたりと忙しない。

 「…………」

 雨音と互いの息遣いしか聞こえない。たおやかな少女の手の平が、硬くそそり立った陰茎を包み、おずおずと上下にしごく。緩慢な所作は拙く、上手いとは言えない。しかし恋人と認めた幼馴染みの少女に奉仕されるのは、単純な性感とは違う部分が喜悦の声を上げ、徐々に蓄積した快感が切っ先に透明な汁を滲ませた。
 あ、という小さな声。粘ついた液体が付着し、濡れた手の平を驚きの眼差しで少女が見る。

 「……濡れるのは、女の子だけじゃないんだ」
 「…………うん」

 指先で糸を引く無色の汁に、精液ではないと納得した様子でラナはもう一度、男根に手を添え。

 「……」

 躊躇しながら、ゆっくりと顔を近づけた。大胆な行動に、ファンは幽かに瞠目する。
 少女の唇から覗いた舌が、恐る恐るいきりに近寄り、濡れ零れた先端部をそうっと舐め上げた。未知の刺激に、ぴくりと陰茎が跳ねる。

 「…………ラナ」
 「……やらせて。ファンだって、私のここ、舐めたんだよ」
 「…………」

 止める術もないまま、ざらついた舌先が再び接触する。ぬめる舌粘膜が裏筋を這い、単調な刺激にならないよう少女が工夫して、ペニスを舐めた。茎の下部からつぅっと上へ舐められ、雁首の周りを唇で挟まれ、粘液を溢れさせる鈴口を舌が這った時には、小さな呻きさえ上がってしまった。
 そんな反応を見せると、ラナは目元を潤ませて微笑む。

 「嬉しい……もっと、気持ちよくなって」

 少しだけ調子を掴んだ手の平で男根を支え、唾液と粘液で濡れそぼったのも構わず、ラナが五指を絡みつかせて擦る。仄かだった疼きが段々と耐え難いものへ変化していく。
 交わりの中で知ったのだろう。ファンの様子を敏感に察した少女が大きく口を開ける。

 「…………ラ、ナ……?」
 「……ん」

 躊躇いを捨てた少女の口腔に、ファンのいきりが収まった。
 ファンの驚きは刹那のうちに流れ去る。自分の性器が少女の口の中に消える光景は、訳の分からない感動と興奮を生み、陰茎が一層硬い滾りを呼んだ。

 「…………!」

 男根を咥えたまま、少女がゆっくり頭を上下させた。窄まった口内が疑似的に女性器と似た役割を果たし、締め付ける。得体の知れない興奮は、しかし緩慢な動作がもどかしく、限界が近いのに生殺しのような状況に落とされた。

 「ラナ……っ…………!」
 「んっ……ん、んん、んっ……!」

 それでも徐々にリズムを取り始めた少女の動きは快感を掻き集め、最後へ向けて走り始めた。ファンは腰が動きそうになるのをギリギリの線で耐え忍び、させてほしいと言った少女にうねりを任せた。もう止まらない。ペニスが飲み込むほど深く口に収まった所で少女の頭を押さえつける。少女自身も受け入れるように身を強張らせ、その瞬間に堰が切れた。

 「んんんっ………!!」

 腰を蕩かすほどの快感と共に迸った白濁が少女の喉を焼き、姿態を震わせた。苦しげに眉を寄せながら、少女は懸命に尿道の中まで残った精液を吸い上げる。
 ファンが押さえつけていた手を離すと、少女はゆっくりと頭を持ち上げ、弛緩した男根を口から出した。

 「……ん……んっ」

 やがてコクン、と喉が動き、涙の滲んだ瞳が見上げてくる。

 「……あは、呑んじゃった。ファンの……精液……」
 「…………」
 「変な顔、しなくていいよ……。私が、したかったの……ファンに、してあげたかったの」
 「………………とても……気持ちよかった」

 素直な感想にラナは嬉しい、とはにかむ。疲労の色が強かった。汗ばんだ脇の下に両手を差し入れ、ベッドの上に乗せてやると、そのままの姿勢でシーツの上に倒れていった。

 「ごめん……ちょっと本気で疲れちゃった。フェラチオとか……初めてなのにあんな激しくしたからかな」
 「…………ふぇら?」

 聞き慣れない単語に首を傾けると、ラナが「あー……」と妙に納得した声を出した。

 「そっか……ファンってそういう話する人いないよね」
 「…………?」
 「ほら、ドラゴンさんとかくまさんとか……イナズマさんもだけど、ファンの周りって猥談できる男の人、いないから」
 「…………」

 カタカタと風に鳴る窓さえもが肯定しているようだった。
 ラナはアゼリアさんや他の女の人との内緒話で教えてもらったの、と照れた様子で、閉鎖的な故郷の生活では不足しがちだった性知識を披露した。

 「ねぇ、ファン」

 濡れた瞳で微笑みながら、軽い調子でラナは聞いた。

 「次は、何したい?」
 「…………」
 「何でも言って。……何でも、するから。ファンのためなら、何でもできるから……だから」

 そっと。
 紡ぎかけた唇を塞いだ。
 数秒、十数秒、そうして、離す。

 「…………その先は、要らない」
 「でも」

 口答えする唇を甘く噛み、封じ、それから囁いた。

 「ラナは…………恋人。僕のもの。…………絶対、捨てない。心配、しないで」
 「あ……う」
 「僕の、ラナ。僕だけの……ラナ。…………恋人は、ラナ以外に……作らない」
 「……ず、ずるい。そんな言い方、恋人以外は作るって言ってる」
 「うん…………そう言ってる」
 「……」
 「僕は……欲しいもの全部…………手に入れる」

 額同士が、こつんとぶつかった。

 「もし私が……そんなの嫌って言ったら?」
 「撤回するまで…………寝かせない」

 少女の足の間に手を入れ、妖しく指を動かした。あ、とくぐもった声が上がり、朱の差した頬でラナが目を逸らす。

 「それ……脅迫だよ」
 「…………知ってる」

 ブラウスのボタンを外し滑らかな脇腹をなぞると、ラナの肩が小さく震えて上擦った吐息が漏れた。
 唇から耳元へ、小刻みにキスを繰り返して囁く。

 「本当に…………寝かせないよ?」
 「……論より、証拠を見せて」

 挑発的なセリフを放った少女に、幽かな笑みが湧いた。
 薄闇に覆われた部屋の中で、やがて響き始めた少女の喘ぎ声は、嵐が去る夜明けまで絶えることなく続いた。
 




[19773] 恋愛戦線
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:80c1420b
Date: 2011/10/05 14:47
 「…………」

 ほとんど寝息も立てず泥のように眠る少女を見つめていた。疲労の色濃い寝顔はけれど、未だ悦楽の海を漂っているかのように陶然として、明け方まで演じられた官能の余韻を残す。
 うつ伏せに枕へ沈む少女の頬に手を伸ばし、落ちて来ていた黒髪を耳の後ろへ払ってやる。うなじの白さが眩しい。

 「…………ラナは、すごい」

 ぽつん、と呟いた。もう一度口の中で繰り返す。ラナは、すごい。
 何度少女が絶頂し、果て、絶え絶えの息で愛撫を加えられ、休むこともできず喘ぎ、幾度気絶の縁へ追いやられたか。それでも意識を失うことなく最後までファンと向き合い続け、二人一緒に朝日を迎えた。カーテンから射し込む柔らかな曙光の中で、少女はそっと微笑んで見せた。そして一言だけ口にして、深い眠りの底へと吸い込まれていった。

 『本当に、朝まで愛してくれたから……許してあげる……好きに、していいよ』

 論より証拠とはそういう意味だったらしい。己の言葉を逆手に取られたような気がして、ファンは初めてラナに対し舌を巻く思いを味わった。より一層、手放す気もなくなったけれど。
 眠りに落ちた少女とベッドの汚れを透過で清め、淫臭籠もる部屋の換気をしたファンは、眠気はあるが何となく眠れないまま少女の隣でその寝顔を見続けていた。窓の外が緩やかに活気で満ちていく気配を、感じながら。
 目覚めるまで傍で見ていよう。そう思っていたが、ふと部屋の扉へ視線を向ける。
 同時に―――ドアを殴り飛ばすようなノックの音。

 「少年、ラナ娘! もう昼だというのに起きてこないとは余程爛れた生活らしいと想像してみよう! 現在男のいない私に対する当てつけかそれはっ?」
 「…………」

 答えるのも面倒というか馬鹿らしい。アゼリアの声にも反応せず昏々と眠る少女の隣へ、ゆらりと身を寄せて温もりを抱く。扉の向こうから聞こえる騒音は無視。

 「……そうかそうかそういうつもりか。籠城ならこちらにも考えがあると実力行使に訴えよう」

 ……無視したかったのだが、言葉尻に不穏な響きを乗せられ、仕方なくファンは暖かいベッドから降りた。床に散らばる衣服を掻き集めて簡単に纏い、何やらガチャガチャと鍵穴の鳴っている扉へ向かう。

 「む……はて、おかしいぞ。ピッキングとは確かこうしてここをこう……」

 回る気配はなかったが、可能性を考えて鍵を押さえる。ベッドで何も知らず眠るラナは何一つ身につけていないから、例えアゼリアであろうとこんな場面で見せるのは腹立たしい。
 突然ビクともしなくなった鍵穴に「む? む??」と混乱する声。意地になったのかガチャガチャガチャガチャ力任せな扉の向こうへ、ファンはぬっと首を突き出した。

 「――のぅわっ!?」

 盛大にアゼリアがひっくり返り、すっぽ抜けた針金が甲高い音を立てて床に落ちる。
 が、裏返った亀のような姿から、アゼリアはすぐさま起き上がり叫んだ。

 「しょ、しょしょ少年っ! 生首とはいきなり驚かすなと気を付けてみよう!」

 大いに言葉が乱れていた。言語野が崩壊するほど驚いたらしかった。首から上だけが透過しているため、見ようによっては木製の扉に生えた生首に見えなくもない。すぅっとファンは扉をすり抜け、片手を差し出す。
 いつものバンダナを頭に巻いた女海賊姿、アゼリアはやれやれと手を借り立ち上がった。

 「全く、肝が冷えた……。おかげで背中の辺りがアオミドロだと愚痴ってみよう」
 「…………それは、汗みどろ」
 「そうとも言うな」

 そうとしか言わない。
 一つ息を吐き、ファンは何の用か視線で問いかけた。アゼリアの調子に合わせていたらいつまで経っても話が終わらない。

 「そうだな……ラナ娘はまだ寝てるのか? 少年と一緒にちょっと来てほしかったんだが」
 「…………そう」

 頷き、

 「…………おやすみ」
 「待て待て待てっ、本当に寝てしまっていいのか少年!? 話も聞かず? それは少々無益どころか不利益だと脅してみよう」

 するすると後ろのドアへ消えかけて、言葉通りの脅し文句にファンは迷惑そうな目を向けた。

 「最悪少年だけでも構わないが……やはりラナ娘を外しては後々まずかろう。というか私に被害が及ぶ……」

 だから何だ、ラナにいくら怒られようと僕の知ったことではない。と、ファンは無情かつ無表情に視線で告げる。

 「……常々思っていたが、少年は私に対して恨みでもあるのか? ラナ娘のようにとは言わんが、もう少し年上の女性に対する配慮をだな」
 「…………年増に、興味は」
 「は、は、は。なんだ少年そんな理由か。――――死ね」

 ダァンッ、と轟く銃声。屋内にも関わらず発砲された銃弾はファンの額をすり抜け、木材の扉を貫通して背後の壁に埋まる。……逆に言うと、ファンでなければ確実に死んでいた弾道。
 アゼリアはにこにこと笑みを浮かべながら次弾を装填する。

 「なあ、少年? 女の年齢に関する話題は少女時代までだ。そこから先は当たり外れが激しい。つまり、今私に言っておくべきことがあるんじゃないかと伺ってみよう」

 ジャキ、と撃鉄を上げた拳銃に額を照準されたファンは、真実眠たげな瞳で高い位置にあるアゼリアの顔を見上げると、

 「…………若年増?」

 ダンッ! ダンッ! ダンッ!
 更に三つ穴が空き、余りの騒々しさに眠っていた少女が目を覚ました。



 ・
 ・
 ・



 乾いた白土から一歩敷居を潜ると日差しが途切れ、ラナはほっと一息する。

 「最近、何だか暑いですね」
 「夏季に入ったせいだな。バルティゴの夏はこれからが本番だぞ? なんせ一年の半分が猛暑酷暑残暑と熱には事欠かない気候だ。ラナ娘たちは丁度過ごしやすい季節にやって来たのだと羨んでみよう」

 背後の扉を閉めながらアゼリアが答え、その隣で聞いているのかいないのか、ファンが赤紫の瞳を眠たげに瞬かせる。
 ……うん、私も眠いから頑張って。
 ぽん、と励ますように肩に触れ、先導するアゼリアの後ろに二人して続いた。
 つい先ほど銃声によって叩き起こされたラナは大急ぎで着る物を身に付けると、ファンに向かって一方的な口論――口数が少なすぎて一方的に聞こえるアゼリアのセリフを、思いっきり足の指を踏みつけて中断させた。屋内で銃乱射とか何考えてるですか!? と。
 違う、違うんだラナ娘少年が――と口走りかけた反論は唸るトンファーの前に切って捨てられる。有無を言わさず、ラナは笑顔で片付けと扉の修理を要請。実質は命令。アゼリアはその背後に鬼女の影を見、慌てて資材置き場へ走るのだった。
 眠れる鬼姫ラナを叩き起こしてはいけない。寮で一部始終を目撃した住人からそんな話が燎原の如く広がっていたのだが、この時点のラナには知る由もないことであった。

 「……アゼリアさん。それで、私達に用事って何ですか?」

 前を歩く背中に問いかける。扉の修理が終わった後、若干の疲労を滲ませたアゼリアから自分達の部屋を訪ねた本来の理由を聞いたのだ。

 「司令官室――ドラゴンさんの部屋に来てほしいって、話でしたけど」
 「さっきも言ったが、詳しいことは部屋についてからだ。急いては事をし損じる、急がば回れ。焦ったって何もいいことはないぞラナ娘」
 「……それは急いでる時のことわざであって、事前に説明をしないための例えじゃありません」
 「はっはっは。もう少しだから我慢だ。とは言え、少年の方はもう分かってるようだが」

 え? とラナは隣を見る。赤紫の少年はそう指摘されても表情を変えぬまま、小さく欠伸した。
 ……悪いことじゃないのかな。
 緊張してない――のはほぼいつものことだが、というかファンが緊張するような事態を想像したくないが、何か大変なことが起こったとかそういう話ではないようだ。
 ……じゃあ、何の話?
 ドラゴンに呼ばれる理由が全く思いつかない。ファンだけならともかく、二人揃ってというのが特に。
 そうこうする内、建物の最上階にある部屋の前にたどり着き、アゼリアが不敵な笑みで振り返った。

 「ではラナ娘、心の準備はいいな?」

 またそんな不安がらせるようなことを言う。恨みがましく見つめるが、アゼリアは素知らぬ顔でノブに手をかけた。
 何度も開けたことのある扉が軋み、開いたその向こうで、



 ―――鳶色の羽を背に生やした少女が、ふっとこちらを顧みた。



 「ぁ……」

 と、その姿に見惚れ、自失する。
 朝の日差し降る窓を背景に、一対の翼は少女の背で燦然と光の雫を浴びて煌めく。纏う衣服は、大きく背中の空いたドレス。足首までを覆うヴェールのようなプリーツから、覗く素足の爪先が卑猥とは逆向く色香を匂わせて。

 「天、使……?」

 口を衝き、零れた言葉を天使が聞いた。翼と同じ色合いの瞳が丸くなり、そうかと思えば、不機嫌そうに唇を引き結びぷいっと顔を背ける。
 ……?
 小さな疑念が胸に湧き、ラナは内心首を傾げ隣を見る。天使と見紛う少女は最初にラナを驚いた目で見つめ、次いでラナの隣――赤紫の少年に視線を移した途端、ぱっと避けるようにそっぽを……。

 「――!」

 電撃的に連想が繋がりラナは猛然と少女を振り返った。
 鳶色の翼持つ、ラナでさえ綺麗だと感じてしまう少女。
 名前も知らない、彼女。けれど。
 ――少女の頬が微かに紅潮している様を、ラナは己の目で、見る。
 ……この人が。
 こんな綺麗な人が。
 ファンの…………“もう一人”……!

 「…………」

 誰もが奇妙に口を閉ざし、止まってしまった部屋の空気を、ファンの一歩が引き裂いた。
 カツン、と普段静かな靴音が響き、はっとしてラナは現実に立ち返る。気付けば少女のすぐ傍に、少年がたどり着いていた。
 赤紫の瞳が少女の鳶色と交錯し、なぞるように身体を下る。

 「…………その服」
 「……そこの大女に、着せられたんだ」

 短く聞いた少年に苦い口振りで少女が返す。ラナが隣を窺えば、アゼリアが得意そうにイーゼルの所からかっぱらって来たと言うので、服飾長の為に脛を蹴飛ばしておいた。ぐおぉっ、と飛び跳ねるアゼリアを無視し、気になって仕方がない少女と少年の遣り取りに意識を戻す。

 「…………」

 ファンはゆらりとした足取りで少女の全身を色んな角度から眺め、うん、と一つ、眠たげに頷く。

 「そっちのが……いい。…………似合ってる」
 「そ、そう……か?」

 褒められて嬉しいというよりむしろ戸惑った様子で、少女は落ち着かなげにドレスの裾を摘まんだ。

 「正直、こんなひらひらした服は昔を思い出して嫌なんだが」
 「…………似合ってる」
 「う……まあ、お前がそう言うなら、着てやらないでも……ない」

 眠たげでありながら心の奥の奥まで見透かすような、赤紫の茫洋とした眼差しに圧され、嫌そうな顔をしつつ――けれど照れ臭そうに少女は首肯していた。
 そんな二人の様子をラナは静かに見つめる。つきん、と痛んだ胸を押さえて。
 ……いつの間に、知り合ったんだろう。
 少女の顔に見覚えはなかった。それ以前に翼を生やした人なんて見たことがない。一目でもしていたら絶対に忘れられない特徴と気配を少女は持っていて、息が詰まる。
 猛々しい雰囲気の中にいたわしさがあり、爪の鋭さだけではない羽毛の柔らかさがある。人と獣の性質を兼ね備えれば、こんな空気が出来上がるのかもしれない。
 ……でも、この子なら……きっと私が補えられない部分で、ファンを助けてくれる。
 奇妙な確信。理屈も抜きにそう感じた。ファンに『説得』されたせいでもあるけれど、この少女を迎え入れるに不都合はない。ラナ自身の独りよがりな感情を除いて、そう思ったのだ。
 が。

 「ところで、ファン」

 ドレスの裾をふわりと舞わせ、切れ長の瞳に微笑を刻み、少女は出し抜けに言い放った。



 「私のものになる準備は、できたか?」



 「………………………………え?」

 ずっと、二人の会話に入るまいとしていた唇が、介入する。
 少女に、少年に、交互に目を走らせ、聞く。

 「なに……何の、話……?」
 「なんだ、聞いてないのか」

 初めて、少女がラナに対し言葉を放った。挨拶でも自己紹介でもない第一声は、刃の鋭さで斬り込んでくる。

 「昨日、私はこいつに」 と、後ろのファンを親指で差し「……求愛した。いや、求婚か? とにかく愛の告白だ」

 聞いてる周りが恥ずかしくなるようなセリフを濁すことなく少女は言い切る。堂々と、自らの言に恥じる箇所などないかの如く。
 そうして瞳を、鋭く輝かせ、少女の生気が溢れ行く。
 
 「ファンは、私のものになる。私のものにする。当然、キサマとも別れてもらう」
 「そんな、勝手なこと……!」
 「ふん……この世は弱肉強食。強い男に釣り合うのは強い女だ。私こそがファンに相応しい」

 傲然と言い切る少女は、眼光鋭くラナを睥睨する。

 「それとも、キサマは私より強いのか?」
 「……強くなんか、ない」
 「だったら」
 「でも、私があなたより強くないといけない理由は、どこにもない」

 横からしゃしゃり出て、勝手なことを言う少女に叩きつける正論。
 強い男に釣り合うのは強い女。その理屈に異論はないけれど、必ずしも腕っ節で強さが決まるじゃない。
 ……ファンを好きな気持ちなら、誰にも負けない……!
 想いを胸に、睨み返した。

 「く……くっくっく……!」

 失笑? 嘲笑? 少女が笑い、唇が吊り上がり、ギラギラと剣呑に瞳が輝き。
 ぶわっと翼が広がった。狭い室内で弓を引き絞るようにたわめられ、敵意の赴くまま突進!
 ……しようとして、ゆらりと伸びた右手が少女の耳を引っ張った。

 「いっ!? 痛っ、痛い痛いってバカ本気で痛いから離せ、離せっ!!」
 「…………偉そう」
 「分かった謝る! 謝るから離せっ、ほ、本気で千切れる――!」

 ぱっと指が離され、少女は耳を押さえて蹲る。

 「うう……くそ……おのれ……いつか後悔させてやるからな……!」
 「……あの、涙目で言っても怖くな」
 「黙れっ!!」
 「ひゃんっ?」

 争いに発展しかけた直後だが、何だかどうしようもなく可哀そうに見えて、慰めるつもりで近付いたラナはべしっと羽で叩かれる。それが丁度鼻の頭だったから、ラナもまた鼻を押さえて蹲る。

 「……酷い。耳千切れてないか見てあげようとしてたのに」
 「千切れてたら自分で分かる! 赤くなってるか見てあげるだろうがこのド天然!」
 「ど……そ、そんなのあなたに言われる筋合いないよ! 初対面なのに勝手なこと言わないで!」
 「いーや何日も前から言いたくて仕方なかったんだっ、キサマ外面は確かに見れるし可愛いが、それを利用して男の心を弄ぶなど悪魔の所業だぞっ!」
 「もっ、もてあそ……何それ!? 言いがかりも甚だしいよっ!?」
 「ふん、私は知っているぞ。昼時に男たちから貢物を受け取るだけ受け取っておいて、さあ一緒に食べましょうと誘われたらすげなく切り捨てるキサマの本性をな! キサマのような悪女にファンは渡さんっ!」
 「そ、それはだってファンとお昼ご飯一緒に食べる約束してたから! いきなり現れて掠め取って行こうとしてる泥棒猫に言われたくないっ!」
 「何だとキサマ……!」
 「ひゃっ!? こ、このぉ……!」

 わーわーと上を下への取っ組み合い。ごろごろ床を転がって掴み合い罵り合う。ファンの手前直接打撃を暗黙の了解として禁止しているのか、むしろそうしては負けだと思ったのか、騒がしい口喧嘩が幕を開けた。
 その原因となっている少年はゆらりと椅子に座り、何食わぬ顔で皿に並べられていたトーストを摘まむ。
 部屋の奥から、それまで沈黙を保ち成り行きを見守っていたドラゴンが口を挟んだ。

 「……止めんでいいのか、ファン」
 「…………お腹すいた」

 もぐもぐと後ろの騒動を無視して朝ごはんを食べ始める少年に、ドラゴンは深く嘆息する。
 それはつまり、俺が止めなければならんのか、と。



 ・
 ・
 ・



 「…………」

 右を見る。ラナが自分の腕を握って反対側をう~っと睨んでいる。
 左を見る。エルが抱きつくように腕を絡め、尊大な態度でラナを威嚇している。

 「ふふふ、まさしく両手に花だなと羨んでみよう。むしろ少年を妬んでみよう」

 斜め向かいに座るアゼリアがうざったい。
 二匹の子猫――と呼ぶにはやや凶暴なキャットファイトは、ドラゴンも放置を決め込む壮絶なくすぐり合いに発展し、共倒れで終わった。が、さっきまでぜいぜい息を荒げてグロッキー状態だったのに、デザートをのんびり食べようとしていたファンに気付くや否や、エルが隣の席を陣取り腕を絡めて来た。負けじとラナも奮起して反対側の腕を取り、ファンを間に挟んで威嚇合戦開始。
 おかげで両手が塞がってしまって、フルーツヨーグルトが食べられない。

 「――む。ファン、そのスプーンを貸してみろ。ありがたくもこの私が食べさせてやる」
 「ファン、渡しちゃダメだよ。そういうことなら、私がしてあげるから」

 散る火花。嫉妬の花咲き、対抗心は際限なく。ファンの持っていたスプーンにまで狙いが定められる。
 …………邪魔。
 あ、という声二つを置き去りに、拘束されていた腕をすり抜ける。ファンはデザートの器を保持したまま、まっすぐテーブルを縦断して反対側の椅子へ。アゼリアの隣はこの際仕方ないと諦め、座る。
 当然残った空席を確保すべく少女二人が慌てて立ち上がった直後、



 「―――お座り」



 一言、命令した。ラナがビクリと硬直し、腰を抜かしたように座り込む。かぁっとその頬が赤く染まる。

 (あう……思わず座っちゃった。お座りって、私犬じゃないのに……朝までファンにずっと、その、可愛がれてたから? つい条件反射で言うこと聞いちゃった……うう、恥ずかしい。アゼリアさんニヤニヤしてるし……)

 一方、咄嗟に反応できなかったエルは歯噛みせんばかりに隣で縮こまる少女を睨んでいた。

 (く…小娘め、なんたる従順さだ……! ここは私も雌らしいところをアピールするべきか? いや、こいつと同じことを、しかも遅れて実行して何になる? くそ、何か失点を取り戻す策は……っ)



 「伏せ」



 ずざぁっ! と床石が削れるほどの勢いでエルが床に伏せた。四つん這い、どころかぴったり顎まで床に着けた見事な伏せだった。

 (……え? なに? 伏せ……って、え? 私もした方がいいの?? ファンの命令聞いた方がいいの???)

 混乱するラナをよそにエルは内心勝ち誇る。

 (ふ……勝った。どうだ小娘、これで私の方が従順でファンに相応しいことが分かっただろう!)



 「…………そのまま、待て」



 「「……」」

 更なる命令で引くに引けず、動くに動けなくなった少女二人。方や椅子に腰かけ、方や床に伏せたポーズ。
 そんなある種異様な光景を作りだした張本人はその一切を無視して、静かにデザートへ手を付ける。
 もぐもぐと、美味しそうに。

 「何をやってるんだお前達は……」

 付き合いきれない。眉間を揉みほぐしつつ、ドラゴンが疲れた様子で背もたれに寄りかかった。

 「ふざけるのも大概にだ。ここを遊び場と勘違いしてないだろうな」
 「遊び? 馬鹿を言え、私は果てしなく大真面目だ」
 「……床に這いつくばって言われても説得力が皆無だ、エル」

 緊張感を返してほしい。せめて座って話を進めてほしいと願うドラゴンだった。そうして全ての原因たる赤紫の少年を見やるのだが、本人は細かい経緯など気にも留めてないらしい。
 エルが人の姿を見せていることも、昨夜ドラゴンとアゼリアとエルの三者で交わした会話の内容も、エルがラナに向ける敵愾心も、視野にすら入れてない。だがどうでもよいのかと聞けば、恐らく否定の言葉が返るだろうとドラゴンは読んでいる。
 どうでもいいのではなく。
 どうであってもいいのだ。
 それはエル自身の問題で、エルとドラゴン達革命軍の問題で、エルとラナの間にある問題で。必ずしもファンが知る必要のある事柄ではない。とは言え知りたくなるのが人というものなのだが、鳶色の少女に関することには余り興味がないようだった。今も放置した少女より、ドラゴンの前にあるデザートの器を物欲しげに眺めていることからして明らかだ。
 取り敢えず木製の器を少年の方に押し出してやり、ファンが無表情ながらも嬉々としてスプーンを握るのを視界の端で捉えつつ、未だそれぞれの姿勢体勢で硬直する二人の少女へ口を開いた。
 ひとまず自己紹介でもしたらどうだ、と。
 今更過ぎる提案に二人揃ってきょとんと目を見交わし合うのは、ご愛嬌と取るべきだろうか……。



 ・
 ・
 ・



 「……え?」

 黒真珠みたいに目を丸く、零れそうに見開くラナの前で、一羽の猛禽類がバサバサ。
 ファンはどうということもなくぼうっとして、アゼリアは一人でニヤニヤ笑い、ドラゴンはやれやれと言わんばかりに首を振る。

 「……え?」

 繰り返し疑問符を発したラナへ、鳥の顔が明らかにからかいを含んだ笑みを浮かべた。
 肩に留まれるほどの矮躯が飛び立ち、中空でその身体を爆発的に膨張させ、ドレスの裾が翻る。

 「――さて、先程キサマが言った初対面と言うのは取り消してもらおうか」

 素足もまばゆく床に降り立ったエルが、傲然と腰に片手を当て余裕たっぷりに言い放った。
 ……ラナとしては、もう驚きすぎて声も出ない有様なのだけれど。
 見兼ねたドラゴンが補足する。

 「エルはトリトリの実を食べた悪魔の実の能力者だ。ファンが修業先から連れ帰った時は、まだ人間であることを隠していたらしいがな。細かいことは本人に聞け」
 「投げやりだな司令官殿。そんなことで保護者役が務まるのかと憂慮してみよう」
 「これっぽっちでも憂いているなら少しは口を貸してみろ。保護者役はお前も同じだろうが」

 大人二人、いつもの遣り取りいがみ合い。それさえ今のラナには他人事だった。
 エル。翼持つ刃の鋭さを秘めた少女。その正体があのやかましかったファンのペット。

 (言われてみればただの鳥にしては賢過ぎたけど……)

 だからって人間だなんて誰が思うだろうか。
 ふふんと胸を張る少女から視線を外して対面の少年へ。赤紫の瞳は普段どこを見ているかも判然としない茫洋としたものなのに、こういう時だけ目聡く見返してくるのがずるい。
 大きく息を吸い込んで、それから胸を空っぽにする。言いたいことは色々ある。でもそれは全部飲み込み、ラナはエルに向き直る。一瞬何と呼ぶべきか迷って、いきなり態度を改めるのも変だしそのままで行く。

 「ねえ、エル」
 「ん?」
 「ごめんね」
 「………は?」

 ぽかんと口を開けた少女に言葉を連ねる。

 「だから、そのね。今までずっと動物扱いして、ごめんねって」

 真摯にごめんなさいと頭を下げる。本当は人なんだとしたら、今までラナがエルにしてきた仕打ちは酷いことだ。人に対してペットの躾をするなんて失礼なことだ。
 そう口にして説明すると、エルは酢でも飲んだ顔でまじまじと。

 「……お前、真性のバカか?」
 「真剣に謝ってるのに何で!?」
 「真剣に謝っているからだろうが! 隠していたのは私なのにキサマが頭下げる意味が分からんっ!」

 ラナがガタンと立ち上がり、再燃しかけた喧嘩の空気をアゼリアが手を開いて静止する。

 「まあ落ち着けラナ娘に羽娘。これ以上の騒ぎとなれば私が相手をしたりなかったりしないでもない」
 「どっち!?」
 「誰が羽娘だっ!」
 「どっちでもいいに決まってるし羽が生えてるから羽娘は事実だ。言葉尻を捉え枝葉末節にこだわってばかりでは先が思いやられると諦観してみよう」

 面白いように食いつき喰ってかかる少女二人を素知らぬ顔で、アゼリアは飄々と言ってのける。

 「それ以前に、二人とも話を進める気があるのかと疑ってみよう。喧嘩するほど仲がいいを証明するのは構わないが、しかし時間は有限と決まっている。更に言えば私も羽娘も司令官殿もほとんど寝ておらず全員寝不足だ。これを早々に解消するためにも迅速な説明と理解が求められているわけで――」
 「……アゼリア」
 「む?」
 「既にお前が長広舌だ。短く纏めろ」

 うんざりした様子のドラゴンにたしなめられ、アゼリアはひょいと肩を竦める。

 「了解だ司令官殿。さてそもそもの始まりは……とある猛獣だらけの無人島に、幼い少女が漂着した。その話から始めねばなるまい」

 ゆったりと語り始めたアゼリアにラナは隣の少女を窺いつつ、不承不承浮かしていた腰を下ろした。

 「あの……それは聞かないといけないお話なんですか?」
 「ふむ。羽娘の生い立ちが混ざる話だが、少年との馴れ初めも含む予定だ」

 じゃあ聞きます。即答してラナは前のめりに傾聴の態度を取る。敵の情報は多いほどいいのだ。ラナと恋人の会話や関係は、鳶色の少女に筒抜けであったことだし。
 しかし――主役の一人であるはずの少年は、逆にゆらりと席を立った。

 「……ファン?」
 「…………朝の、鍛練」

 果てしなくマイペースな答えを返され、ラナは溜息して行ってらっしゃいと手を振る。ファンの行動を阻害できるのはごくごく限られた人間だけで、それにしたところでファンが本気で逃げに入ったら相当苦労する。
 けれど赤紫の少年が扉に向かうのを見て、隣の少女まで立ち上がったのは計算外だった。

 「……ふん。なら私も行かせてもらう。これ以上ここにいても退屈だ」
 「エルも!?」
 「何だ、私がファンに付いて行ったら不満か?」
 「そ、それもあるけど……エルの話なのに、本人が居なくていいのかなって」

 こういう話は当人に確認を取りつつ話すものではないだろうかとラナは思うのだが、そんな考えにエルは眉を吊り上げる。

 「私はもうキサマらに話すことは何一つない。安全管理の名目で全て吐かされたからな!」

 いっそ忌々しげにエルが睨む先で、革命軍の司令官と心療医はそろって白々しく被った鉄面皮を崩さない。

 「えっと、何されたの?」
 「ん? そうだな……」

 ラナが聞くと、それまで吊り上っていた眉がふと下がり、猫のように細まった瞳が上座のドラゴンを捉えた。子猫が無邪気に獲物をいたぶる眼とよく似ていて、不吉な予感に襲われたドラゴンはとっさに身構えたが――遅かった。





 「裸に剥かれたな、そこの司令官とやらに」





 深い、深い沈黙が下りた。刺すような沈黙だった。

 「……ドラゴンさん」
 「待てラナ、事情を説明させろ」
 「却下です」

 額に冷や汗浮かべた司令官へ、ラナはにっこりと、寒気がするほど綺麗な笑顔を見せた。
 



[19773] 誘いの眠り
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:7d7f1e09
Date: 2012/01/12 12:57
 炎天、である。
 夏季の入口を潜ったバルティゴの大気は乾き、ほのめく陽炎が大地を舐める。昨夜降り注いだ恵みの雨など意にも介さぬその様はこれから訪れる夏の光景を存分に予告し、遠く海の果てを見れば、積み上がった積雲が過食気味ですとばかりになお肥えていく。

 「……暑い」

 ジリジリ容赦なく照りつける直射日光。空を飛んでいれば本来熱は奪われ、むしろ体温の低下を危惧すべきなのだが、風が孕む熱気にエルはげんなりした顔を隠せない。高度を上げ空に逃げればマシだと分かってはいるが、すぐ目的地であるためそれも面倒だった。
 ……あの島と、全然違うな。
 胸中でぼやく。自然に比べてしまうのは長すぎる時間をあの島で過ごしていたせいだ。エルは心持ち速度を緩め、流れていく眼下を見下ろす。ほとんどが白土と岩石に覆われたバルティゴの大地は砂漠と呼んで差支えなく、多分に不都合があれど大きな河川の流れていたエグザルとは違いすぎる。森もなく、山もなく、動植物の多様さは比較しようもなく、水も食も衣類さえも外から持ち込まなければまともな生活すら送るに難い。
 何でわざわざ過酷な環境を選んで住むのか、住人の気が知れなかった。
 事情聴取――という名分を借りた強制連行により、反撃も虚しくとっ捕まった昨夜。部屋で交わされた会話の全てを、エルは克明に記憶している。
 だけど革命軍、と聞いてもエルにはぱっと来なかった。一通り説明は受けどういう組織かは教えられたが、国だの法だのを深く考えるには人間の暮らしから離れ過ぎていた。そこが嫌ならもっといい場所に移り住めばいいじゃないかと、エサの豊富な地域を求める野生動物のような思考でドラゴンに渋面を作らせはしたが。

 「……ま、私には関係ないか」

 革命に心血を注ぐ者が聞けば眉を寄せるだろう呟きを零し、背中の翼を打つ。
 トゥム・ユエルテ。
 誰も知らないはずの名前を突き付けられて混乱させられたが、取りあえず客人扱いし、欲しい物があれば労働を対価にすることで話は纏まった。どんな労働かは知らない。だが人間との戦闘行為でも構わない。働けと言うなら働こう。革命だの何だの、そんなものはエルには無関係だ。ただ赤紫の少年にくっ付いて来たら革命軍の本拠地であったというだけで、少年が離れると決めたならこんな乾いた島に用はない。出て行けと言われるまでもなくさっさと出て行く。

 「……あいつにとってはただの相棒だとしても、私にとっては、違う」

 固い声で呟き、かぶりを振った。今は、細かいことを考えたくない。
 だから少年の赤い上着を岩陰に見つけ、エルは素早く降下姿勢を取る。
 ドラゴンの居室から遅れて出ること十秒と少し。その僅かな時間で少年はゆらりと消え建物内に影も形もなく、やむを得ずエルは窓から飛び立ち上空よりその姿を探していたのだ。案の定、いつも修行に使う岩石地帯でゆらゆらしている所を見つけ、エルはその背後へ柔らかく降り立った。砂塵が仄かに舞い上がる。
 赤紫をした眠たげな瞳が、ゆら、とエルを顧みた。少年の視線がエルの全身を眺め、首が小さく横に傾く。

 「…………ここまで……その姿で、飛んで来た?」

 何を言わんとしているのか。数秒考え、ああ、と手を叩く。

 「そうだな。気が付かなかった。……まあ、いい。もう隠す意味は失せた」

 ドラゴンに捕まり、アゼリアにばれ、ラナにも姿を晒した。これ以上隠した所で、自分が滑稽なだけだ。
 そう、と感慨も見せず少年は頷き、背にしていた巨岩へ向き直る。エルは上手い具合に影の落ちていた場所へ手頃な岩を引きずり、軽く土を払って腰かけた。それから、静かに構えを取る少年の背中をじっと見つめる。どうしても構ってほしい時以外、エルが少年の修業を邪魔することはない。
 ない、のだが……。
 ぺち、と気の抜けた音が鳴る。少年が広げた手の平で、岩の表面を叩いた音。
 ぺち、ぺち、と左右で。一歩下がり、また踏み込んで、ぺち。ぺち。ぺち。ぺち。

 「……っだぁあああ! 何がしたいんだお前はっ、それは一体何の修行のつもりだ!?」

 大して気の長くないエルの苛々はすぐに限度枠を振り切った。少年が口だけで答える。

 「…………実験」
 「何の!」
 「――…………実験……」

 言葉はゆらゆらと、答えになっていない。そしてむぐぐと目尻を吊り上げるエルにそれ以上取り合いもせず、またぺちぺち。手の平が岩を叩く音に納得できない様子で、赤紫の少年は踏み込み、左で打ち、右で打ち、ボクシングのワンツーと似た動作で、しかし何が気に入らないのか首を傾け、眠るような無表情のまま同じ動きを繰り返す。

 「……む」

 苛々を抱えながらその光景を眺めていたら、岩の下から巨大なサソリが這い出した。ファンの叩き続ける岩陰の隙間を寝床にしていたらしく、怒り心頭で剪定鋏のような両手を振りかざし尻尾の毒針を振り回す。が、ファンは無視。スカスカとサソリの虚しい攻撃が空を切る。ぺちぺちと少年の意味不明な攻撃が岩を叩く。
 取り敢えずどげしと邪魔なサソリを蹴っ飛ばし、ぴくぴく痙攣する哀れな様を眼中にもせずエルは大きく口を開けた。

 「だからっ、それは一体何の――」

 ぺち。ピシ。

 「――なん、の……」

 ピシ、ピシシ……!
 岩に、亀裂が入っていく。もはや言葉もなく唖然とエルの見つめる先で、亀裂はピシピシと蜘蛛の巣の如く縦横に走り、ついに音を立てて崩れ落ちた。

 「……はあ?」
 「…………“幽鳴”、完成」

 ぽつ、とファンが呟くも、眼前の事象に理解が追い付かず脳裏をぐるぐる疑問が回る。ファンが、岩を叩いた。叩いていた。それだけのはずだった。

 「衝撃波……?」

 浮かんだ疑問を口にしてみるが、自分でも胸裏で違うと囁く。ファンの衝波ならはっきりとした音で砕けるはず。あんな風にその場で崩れ落ちはしない。
 ……こいつの能力は本当、訳が分からん。

 「ラナは?」
 「は?」

 唐突過ぎるセリフに聞き返すと、ファンが眠たい目をこちらに向けていて。

 「エルは、いるけど…………ラナは?」
 「……私じゃ不満か、ファン」

 ここにいる自分より、いない少女を気にする少年へ、じっとり湿った半眼を投げる。
 無論、そんな程度でファンが堪えるはずもない。ぼんやり見つめられ、エルは舌打ちせんばかりにそっぽを向いて答える。

 「あの部屋に置いてきた。……まあ、土産も置いて行ったから、しばらく来んと思うぞ」
 「みやげ…………?」
 「そう、土産だ」

 くっくっく、とエルは含み笑う。何だか機嫌がよくなってきたエルの様子に、ファンが首を傾げる。

 「そうだな、きっと今頃――」



 ・
 ・
 ・



 「ドラゴンさんは女の子に興味ありますよね?」

 にこにこと、ラナが訊く。だがドラゴンには、少女の美しい黒髪が背後でうねっているように見える。

 「……いや、それは」
 「ありますよね? なかったら病気か、男の人が好きってことになっちゃいますからね?」
 「俺はいたって健康で、趣味も普通で……」
 「じゃあ、女の子は好きなんですね?」

 テーブルを挟んではいるが、膝を突き合わせているのと変わらない詰問にドラゴンは視線を泳がせた。

 「まあ……そう、なるな」
 「そうですか。……ドラゴンさんは、無理やり服を奪っちゃうくらい女の子が好きなんですね」
 「だから、それは誤解なんだラナ……」

 呻くように言うと、少女は慈愛の微笑みを浮かべる。

 「分かってます、ドラゴンさん」
 「ラナ……」
 「ちょっと、欲望を抑えられなかっただけですよね」

 机に、ドラゴンはくずおれた。少女の優しい声が百万本の針となってむしろを織る。

 「大丈夫です。まだ間に合います。エルに謝って、許してもらって、全部それからです。人の道をちょっぴり踏み出しても、ファンみたいに外れ切ってないドラゴンさんはまだ戻って来れるんです。何があっても私は味方ですから、ドラゴンさんも頑張ってくださいね?」
 「……」
 「返事してください」
 「……ああ」

 ばんっ、といきなりテーブルを叩かれびくりとドラゴンは身を起こす。

 「私、返事は『はい』だってお父さんから習いましたよ?」

 本来魅力的であるはずの笑顔が鬼女の如くあり、まさに“鬼姫”。もはや反論も思い浮かばず、うなだれる司令官。

 「……………………はい」




 部屋の隅で、腹がよじれるほど笑うアゼリアの姿があった。



 ・
 ・
 ・



 「…………今頃?」
 「いや、何でもない」

 首を振りはぐらかせば、少年の瞳が一つ瞬き興味を逸した。それきりふいっと逸らされ、猫のような気まぐれさで少年が歩き出す。ファンの興趣がどこを向くかはグランドラインの方角をコンパスで探るようなもので、エルはその時次第と余り考えないようにしている。ゆらゆらと背中が遠くなる前に、その背を追った。裸足で焼けた地面を厭わず踏み、隣へ並び横顔を窺う。
 小さな欠伸が零れていた。ファンは口元に手を当て、眠たげに浮いた涙を擦る。その挙措だけを見るなら、街中でふとすれ違うぼんやりした子供と何も変わらなくて、エルは仄かに湧き上がった微笑を口の端に乗せた。
 周りには誰もいない。いつもはうるさい黒髪の少女も、今ばかりはこの場に現れる心配をしなくていい。
 やや強引な仕草で、自分を強調するよう歩く少年の腕に両手を絡めた。赤紫の瞳が迷惑気に自分を見つめてくる。

 「…………エル」
 「少しぐらい付き合え。未だに返事をしないお前への罰だ」
 「…………眠い」
 「……本当にマイペースだな、お前は」

 苦笑する。だがそれを否定したくはない。自分勝手で、自由奔放な少年でなければ、エルは今ここにいない。その確信はある。
 仕方ないな、と零し、エルはあっさり手を離した。どうせすり抜けられてしまうのだから、惜しくはあってもあっさりと。

 「寝てこい。私もどこか日陰で昼寝するさ。だが遅くとも今日明日中には返事をもらうから、そのつもりでいろ」
 「…………エルも」
 「ん?」

 鳥の姿にでもなって手頃な寝床を探そうと、飛び立ちかけていたエルだが、少年に袖を掴まれ、何だ? と疑問の視線を向ける。

 「エルも…………一緒」
 「何がだ?」

 意図が窺えずに問うと、ファンはさも当然とばかりにコクコク頷き。

 「…………昼寝、一緒」
 「――は?」
 「一緒に…………寝よ」
 「……」

 寝る。昼寝。一緒。そして寝ようという誘い。
 意味する所を過たず汲み取って、かっと鳶色の髪から覗く耳が真っ赤に染まる。

 「わ……私を同衾に誘う気か!?」
 「どうきんは、知らない……でも、嫌? …………エグザルでは、よく寝てた」
 「私を人間と知らない頃の話と同じにするな! それに男女七歳にして同衾せずと言うだろうがっ!」
 「知らない」

 ずいっと少年が詰め寄ってくる。いつの間にか掴む対象が袖から腕に変わっている。

 「嫌?」
 「い、嫌とかそういう問題ではなくて……」

 すぐ傍で見つめてくる瞳から逃げるように視線を逸らす。自分でも、なぜこんなに動揺しているのか分からない。

 「だ、大体お前、小娘がいるだろうが! 勝手に女と分かった私を部屋に連れ込んで怒られても、私には責任取れないんだぞ!?」
 「…………取らなくて、いい。だから、一緒に寝る」
 「! ま、待て――」

 断定的に台詞が放たれ、握る力がうっすらとその圧を増した。制止を呼びかけようとしたエルの言葉は、中途半端に途切れて岩の砂漠から消える。微かな浮遊感が全身を包み、じんっと痺れるような酩酊感がエルを襲った。
 反射的に閉じていた眼を開ければ、そこはもう部屋の中。ファンとラナが暮らす一室。刹那の時間さえ要さない少年の移動能力を、初めて見た時は純粋に羨ましいと思った。だが初めてその身で味わった時は、多用すべきでないと直感した。
 空間を跳ぶ際、一瞬自分が自分でなくなったような感覚に襲われる。連続で同じことをされれば、気絶までは行かないにしても相当な疲労感が身に伸し掛かる。能力者である少年自身にそんな感覚はないらしいが、実験的に連続“幽歩”の協力をしたエルは少年にその注意をしっかりと伝えていた。自分を連れて行く時は確認してからならともかく、せめていきなりはやめろと。
 ……なのに、確認……しなかった。
 突然、唐突に、自分を幽玄の向こうへ連れ去った。それが少年の本気さを表しているようで、気後れが湧く。
 あ、と声が出た。ファンがぐいっと自分の腕を引いた。綺麗に整えられたベッドへ、連れて行かれる。

 「は、羽が……」

 羽毛が散るからと、黒髪の少女はエルがベッドに乗るのを嫌がった。だがファンは一瞬視線を寄越すだけでまるで頓着せず、掛布団を剥ぐ。白く清潔なシーツが現れる。エルは萎縮したように足が根を下ろしてしまって、前にも後ろにも進めなくなって。

 「…………エル?」

 異常に気付き、少年がそっと覗きこんでくる。

 「私は、獣だったんだ……ずっと、ずっと、人であることをやめて、人間らしさを忘れて……何年も、何十年も、獣として生きてきたんだ……」

 少年の瞳が、瞬く。

 「だけど、だけどな、お前と会って、言葉を思い出して……今、私は……怖い」

 手を使って食べる。服を着る。ベッドで寝る。
 全てそれは、エルが一度失った人間らしさ。捨て去った人間の生活。忘れ果てたはずの、もの。
 
 「夢みたい、なんだ……」

 少年の肩にエルはもたれ、額を押し付け、喉を震わせた。

 「あの島から出て、人の世に戻ることを長い間望んで……だけど今、こうしてそれが叶う段になったら、また失うんじゃないかと、思ってしまった。……実はこれが長い夢で、目が覚めたらあの島なんじゃないかと、心のどこかで疑ってる。……なあ、ファン」

 泣き笑いのような、硬い笑顔を、少年に向けた。

 「私は、人でいいか? 人間の暮らしより、獣として生きてきた時間の方がずっと長い私でも、人間の世界に戻って、いいのか? お、お前は私を獣のつもりで連れ帰って、相棒と認めてくれて、だけど私は獣のふりをしてただけて……い、勢いで求婚までして、ほ、本音は、邪魔じゃないか? 煩わしく、ないか? わ、私が人間じゃなければよかったって、思わな」

 い、の末尾が、止め処なく溢れていた言葉が、止まる。
 不安と、恐怖と、拒絶の怯えを。
 少年の唇に、止められる。
 触れ合いはほんの数秒。けれどとても長い、数秒。
 ゆっくりと離れ、見つめる瞳は、優しかった。

 「…………落ち着いた?」
 「……」

 ほんのり重なっていただけのそこに、指で触れる。不思議な熱が、指に伝わる。
 昨日、奪うようにしたファーストキスとは、何もかもが違う。
 こんな熱は、知らない。

 「……あ」

 肩を押され、ベッドに腰掛けてしまう。柔らかい、懐かしいとさえ言える感触が体重を押し返す。
 目の前で、ファンが上着を脱いだ。その行動にドキリと心臓が跳ねる。脱いだ上着は椅子に掛けられ、ナイフの一式はテーブルに放られる。靴と靴下を足から抜き、服を緩めた。そこで脱ぐのは終わって、ほっとしたような、残念なような、複雑な感情が胸の奥で揺れ惑った。
 シャツとハーフパンツという楽な服装のファンが隣に座り、ベッドがきしみ、二人分の体重を受けて真ん中へ誘うように沈み込む。自然と肩が触れ、また一つ鼓動が跳ねた。おかしい。こんな鼓動は、今まで感じたことがない。

 「あ……」

 少年の腕が肩を抱き、引き寄せられるような形で二人してベッドへもつれ込んだ。仰向けに倒れた少年の胸板へ身体を預けたようなそれは、まるでエル自身が少年を押し倒しているかのようで、かっと頬が熱くなる。だが頭が真っ白になる前に、その体勢は崩されベッドの壁際へと転がされた。少年と自分が寄り添うように、並んで横になっている。
 翼は柔軟で、背に敷いたぐらいでは何ともない。むしろ少年と自らを包む繭のように働いてしまい、頬の熱が一層高まる。それはあの島で幾度か共に眠り、翼を毛布として提供していた頃の癖だった。

 「…………大丈夫」

 とん、と回された腕で、あやすように背中を叩かれる。身体を向け合い、見つめ合いながら横になり、少年は変わらない瞳で囁く。

 「エルが、人で…………僕は、嬉しい」
 「……っ」

 泣きたくなった。涙が出そうだった。ん、と少年の腕の中へ抱き寄せられ、額を胸に押し当てるよう、少年の温もりに包まれる。

 「大丈、夫。……これは、現実。それに、悪い夢でうなされても…………僕がすぐ、助ける。だから、ゆっくり、休も?」
 「だ、だが……だけど……」

 心臓がドキドキと暴れて、これじゃ逆に眠れない。
 そんな意図を汲み取ってくれたのかは分からなかった。だけど少年は、仕方ないなぁと言うように眠たげな瞳を緩め、エルを抱いたまま身体から力を抜いた。その瞳が、何かを想うように閉じられて。

 「…………うーみの、かなたー…ぁで」
 「!?」

 頭の上で紡がれる声に、エルの心臓がドクンと一つ、暴れるのをやめた。
 そろそろと、見上げた先で。
 少年が静かに、歌っていた。

 「なきさけぶ、あなたー…ぁ」

 節を付け、ゆっくりと。

 「…どーぅか、どーぉか…おもいだすのですーぅ……」

 海の底から響くような、不思議な安らぎを口ずさむ。

 「あなたの…まわりに…だれがいますかー……」

 あなたの…となりに…だれがいますかー……。
 おもいだして…わすれないで…。
 あなたは…ひとりじゃ…ないのでーすー……。

 静かに、緩やかに、繰り返し歌われ、エルの瞼が重く、重く。


 ……海の彼方で、泣き叫ぶあなた

        どうかどうか、思い出すのです

     あなたの周りに、誰がいますか

                あなたの隣に、誰がいますか

           思い出して 忘れないで

                     あなたは一人じゃ、ないのです……



 ゆらゆらと、寄せては返し、引いては来たる、それは潮騒の子守歌。
 波に浚われ、いつしかエルは穏やかな眠りの淵へ揺られていった……。



 ・
 ・
 ・



 何事とも度が過ぎれば災いである。酒が百薬の長となり得るのも飲み過ぎない限りにおいてだ。
 しばらくは腹を抱えて目の前で繰り広げられる前代未聞の催しを観劇していたアゼリアであったが、段々と笑いの衝動は潮が引くように消えて行き、代わりに現れるのは冷や汗で濡れた干潟の景色。

 「もう二度と女の子の服を剥ぐような真似はしません。はい」
 「……もう二度と女子の服を剥ぐような真似はしない」
 「声に誠意が感じられません。もう一回です」
 「……もう二度と女子の服を剥ぐような真似はしない」
 「もっと心を籠めて言ってください。はい、もう一回」

 たかだか十四の少女が、強面の男に教え諭すよう繰り返し言い聞かせる。だが男はもはや力尽きたように声から生気が失せ、瞳は虚ろと化していた。でありながら少女の指示に機械的に応じ、同じ言葉を繰り返す。異様だった。そしてアゼリアは、異様な光景に声をかけねばならない責任があった。

 「あー……ラナ娘、今さら過ぎる気がしないでもないがそろそろ時間切れだと教えておこう」
 「時間切れ?」

 きょとん、と少女自身はけろりとした風にアゼリアを見た。

 「うむ。いい加減司令官殿に仕事をしてもらわねば色々と差し支えるし差し障りが出る。故に時間切れだ。……というか本音はドクターストップだと囁いてみよう」

 終わりの一言だけ口の中で呟き、仕方ないなぁと残念そうな顔をする少女にこっそり戦慄しつつ、ドラゴンの傍へ近寄って肩を叩く。

 「司令官殿、終わったぞ。……一応はだが。そろそろ現実に戻れと促してみよう」
 「……もう二度と女子の服を剥ぐような真似はしない。もう二度と女子の服を剥ぐような真似はしない……」
 「………」

 アゼリアは天を仰ぎ慨嘆する。……もうこれは洗脳の域ではないだろうか。

 「あの、ドラゴンさんどうかしました?」
 「あー、むー……まあしばらく使い物にならんだけだと伝えておこう。頼むからもう何もしてくれるな、いいな?」

 念を押せば、はあ、と生返事を少女が返す。その顔は自分が何をしたか絶対に何も把握していない。
 ……少年も少年だが、ラナ娘も末恐ろしい。
 以前からそこはかとなく徴候は匂っていたものの、敢えて目を背けていたアゼリアだ。“常識の鬼姫”。何を以って鬼と称するか、その一端を垣間見たような気がした。名付け人は深い意味も考えず呼び始めたのだろうが、恐ろしい一致もあったものだとアゼリアは溜息する。

 「さて……脱線も脱線、むしろ一回転して話が逆走してる感が大いにあるとはいえ、ラナ娘をここに読んだ当初の目的へ立ち返ってみよう」
 「……何でしたっけ? えーと」
 「無論羽娘の話に決まっている」

 ドラゴンの回復は一先ず捨て置き、テーブルを回って椅子に座る少女へ歩み寄る。

 「そこで注意事項がある。今から“見せる”のは全て真実であり、虚飾は一切ない。羽娘に同情したとか応援したいとかいう感情とは一切合切無縁だと念入りに主張しておく。主に私のために」
 「何でアゼリアさんのためなんですか……っていうか、見せる……?」
 「百聞は一見に如かず。では行って来いラナ娘」
 「え?」

 ぽん、とその頭に片手を置き、告げた。

 「――“夢幻抱擁”」

 目に見える現象は何も起こらない。それは精神の内で作用する力。
 少女の黒い瞳が一瞬で濁り、弛緩した身体がテーブルに倒れる。すぅすぅと、漏れ零れる寝息。

 「……こちらはこれでよし。ガイドも付けたから充分だろう」

 問題は、と未だ呆けた様子でぶつぶつ繰り返す男に呆れた目を向ける。

 「こういう場合はショック療法が最適だが……トンカチ、トウガラシ、水責め、針……いやこんな面白味のない選択肢の何が楽しいと自戒してみよう」

 顎に指で触れながら再びテーブルを回り、普段は自分よりも高い位置にある頭を見下ろす。
 よくよく考えれば、これは千載一遇の好機である。にんまりとアゼリアは口端を吊り上げ、乱暴な手つきで男の髪を鷲掴み上を向かせた。その時点で首に痛みでも走ったかドラゴンが小さく呻き、しかし構わず口を塞ぐ。
 唇で。

 「―――ぶほわっっっ!?!?!」

 虚ろだった目に光が宿り息を吹き返した男が全身で飛び跳ねた。男が覚醒するまでの一秒に感触を堪能した女は、男の狼狽をとっくりと眺める。

 「なっ……何をするかお前はっ!?」
 「酷い反応だな司令官殿。泣いていいか?」
 「泣くほど殊勝な女がこんな真似するかっ!」

 ドラゴンが口元を拭いながら叫び、アゼリアはそんな男の反応にもっともだと思いつつ悲しげに目元を押さえてみせる。

 「はあ……まさか司令官殿が私のような好い女の口付けでさえ反応しない不能だとは思わなかった。と、哀れに過ぎて袖を濡らしてみよう」
 「……袖なしの服のどこを濡らす気だ。いや、いい。答えるな」

 腕を上げてアゼリアの回答を遮り、苦虫を口いっぱい噛み潰した表情で男は椅子を引き、その視線が眠る少女へ向けられるが、チラと眺めただけで状況を察したらしく何も言わず座り直す。
 アゼリアはにやにや笑いながら、背もたれ越しにその背後へすり寄った。が、警戒されたらしい。煩わしげに腕が振られ追い払われる。

 「ほう、ほう。その態度からすると僅かなりとも羞恥を引き出せたと鑑定してみよう」
 「二度とやるな。今後二度と、絶対に、何があってもだ。次は、許さん」
 「ふふふ照れているな司令官殿。心に決めた女性がいるわけでもあるまいに、唇程度で大騒ぎとは」
 「……悪いが、そういうわけだ」

 疲れた様子で男は言った。そして一瞬後、失言に気付きざっと表情を変え口を押さえる。だがむしろ、唖然と表情を凍らせていたのはアゼリアの方だった。
 時が止まったに等しい数秒を経て、ようよう、アゼリアは首を傾げ唇を動かした。

 「……司令官、殿? まさか奥方がいたりとか……」

 ドラゴンが無言で目を逸らす。

 「まさかまさか、子持ちだったりとか……?」

 ずいと詰め寄るアゼリアに、返らぬ肯定。返ることのない否定。
 つついた藪から竜を出したような心境によろめいたアゼリアは、くずおれそうな身体をテーブルに寄りかかり支えた。

 「……いや司令官殿の外見年齢を考えればあり得ないことではなくまた革命軍を組織する以前を露ほども知らない我々にも非はあるわけでだからと言ってよもや司令官殿に女を愛するような甲斐性が存在すると塵芥ほども思わなかった自分を責めたくもあるがしかしまさか……」

 女の目が、信じられぬという光を持って男を見る。

 「まさか、世界最悪の犯罪者が隠し子を持っていようとは……」
 「忘れろ」

 断ち切るような響きが耳にもたらされた。

 「忘れろ。せめて時が来るまでは。でなくば俺にもあれにも、災いとなる」
 「御意」

 忘れろ、と繰り返す。その声を受け、常の軽さが嘘のように黙然と、アゼリアは頭を垂れた。
 



 ・
 ・
 ・



 空が濁っていた。街並みは仔細がぼやけて覚束ず、けれど時折思い出したような鮮明さで映る。
 どこかから漂う磯の香りと、人の動きと、海鳥の鳴き声。全ては遠く感じられて、少女はまるで世界から取り残されたようだった。
 あるいは、別の世界に迷い込んでしまったような。

 「……え?」

 そんな、呆然とした呟きしか漏らせない。確かめるように周りを見回す。
 一瞬前まで、ラナはバルティゴの屋内にいたはずなのだ。それが気付けば外で、見知らぬ街で、雑踏に囲まれている。

 「……夢?」
 《ほう、さすがラナ娘。慧眼だな》

 すぐ耳元で独り言に答えが返り、ラナはびくっと身を竦ませて振り返るが、そこに探した人影はない。

 「……アゼリア、さん?」
 《いかにも。と答えたいが、生憎今の私は木霊のような物と思ってほしい。助言もできるし、今の状況に説明も付けられるが、本体の意識と切り離されているため夢に現れることができないのだ》

 まさしく木霊のように、アゼリアの声だけがどこからともなく耳に聞こえ、取り敢えずそれだけでも安心できる要素が見つかって、ラナは湧き上がった安堵を吐息に混ぜて零した。

 「これ……ここ、どこなんですか?」
 《これは昨夜、羽娘の協力を得て見させてもらった“夢”の世界だ。正確には私が記憶した“夢”の再現映像になる》
 「夢……これが?」
 《ラナ娘にはまだ言ってなかったな。私はユメユメの実を食した超人系幻夢人間。夢を見、また見せ、操る。夢の世においてのみ私にできないことはない。私はこの能力でラナ娘を夢に案内したというわけだ》
 「えっと……」

 ラナは難しそうに小さく眉を寄せて、言葉の意味を考える。

 「エルの夢をこうやって見ることが、エルを理解することに繋がるんですね? ……でも、夢で何が分かるんですか?」
 《夢とは、眠りの中で脳が見る記憶の断片だ。記憶は寝ている間に整理され、その日以前の記憶と複雑な糸で繋ぐ。縒り合された記憶は出鱈目な夢となって瞼の裏に映されるが、取り分け心に深く刻まれた記憶は薄れることなく夢に見る。……ラナ娘は、覚えがあると思うが》
 「……悪夢」

 ぽつん、と呟きが、凪いだ湖面に波紋をもたらして落ちる。
 アゼリアの頷く気配があり、ラナは目を閉じて胸に手を当てた。そこにはいつだって、赤い夜の光景が焼き付いている。
 まだ半年さえ過ぎていないのに自分が復帰できたのは、少なくとも昼間思い出すことがなくなったのは、この上なく乱暴に自分を悲しみと絶望の底からさらって行った少年が傍に居たからだ。
 寄る辺があった。赤紫の少年という、支えがあった。絶望を希望に、変えてくれた。
 だけど――そう。
 ファンがバルティゴに連れ帰った時、一人だったあの少女は?

 《幸せな人間も悪夢は見る。ならばトラウマを抱えた人間の悪夢とは如何ほどのものだろうな?》

 響く声からは普段の軽妙浮薄がない。ただ淡々と真実を告げる学者のような声だった。

 《この夢は羽娘の悪夢から構成されている。そして悪夢は羽娘の古い記憶に端を発している。ずっと消すことも忘れることもできず胸に抱えていたトラウマだ。それでも知りたいか、ラナ娘。エルと言う少女の過去を、何が起きてエグザルという無人島で生き、少年と出会ったのかを》

 ラナは何も知らない。エルとは顔を合わせたばっかりだ。赤紫の少年は知ることを無意味と断じて、ただ鳶色の少女を受け止める構えでいる。だけどラナは、男のファンと違って女で、翼持つ少女とはこれからもきっと恋敵で、だけど約束したから、許したから、争うばかりじゃいられない。
 そのためには、知らなければならない。これは何も知る気のない恋人の代わりに、ラナが請け負う義務。
 ラナは拳を握って、声に言った。

 「……教えてください、アゼリアさん。エルのトラウマ、過去、どうやってファンと知り会ったのか、全部」

 満足そうな気配が、返った。

 《いいだろう。だが私はナレーションだ。悪夢の物語を語る解説者に過ぎない。ラナ娘が全てを知るためには、舞台の登場人物が演じる悲劇を見なければならない。それでもいいか?》
 「……はい!」
 《分かった。では開幕だ》

 アゼリアの宣言を皮切りに、世界の歯車が動き出す。肌で察せられるほど何かが変わって、ラナは静かに息を呑んだ。
 そして不意に、背後から軽い足音が響いた。

 「――!」

 雑踏の真ん中で立ち尽くしていたラナの傍らを、鳶色の小さな影が駆け抜けていく。
 それは上品なスカートを穿き、艶々の長い髪を翻す、六歳前後の幼い少女。顔を興奮と喜色に上気させて、風のような速度でスカートの裾をはためかせ、あっという間にその背を小さくさせていく。
 背に翼はなく、蔭のない笑顔は柔らかくて、鋭くない。けれど一瞬見た横顔は、紛れもなく面影があった。

 「今の……」
 《エルだ。いや、トゥム・ユエルテと言うべきか》

 耳元で、声が促す。

 《追え、ラナ娘》

 ラナは、走り出した。




[19773] NG集
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:2eefde30
Date: 2011/12/18 17:09
 灼きつく日射しは夏の到来を匂わせ、流れる雲の形もその厚さを増している。本格的に夏季が来る前に、例年通りならバルティゴは大雨に見舞われるはずだ。昨夜のような一瞬の嵐ではなく、長くも短い恵みの雨季だ。

 「……雨天。衣料が多く必要になるか」

 見回りに傘を持って歩くなど愚の骨頂。片手が塞がる上に不明瞭な視界が更に悪くなる。が、問題としては降雨よりも湿度が大敵だ。油断した途端侵略を始めるカビにダニ、病気は流行りやすく洗濯物は乾きにくい。
 カーツやイーゼルは最後の一つに傾注すればいいが、事前に準備をするのも手間暇かかる。

 「別件。ついでに話すとしよう」

 一人ごちて外から岩の通路へ入ったカーツは、母イーゼルの用命を受けて司令官室へ向かう途中だった。

 『昨日あのバカが乗り込んできたかと思えばアタシの新作かっぱらって行きやがったんだよ! ラナに着せて楽しむつもりだったってのにクソッタレ! カーツ、取り返しておいで!!』

 怒り心頭な母に命じられては罰則期間中の息子にノーと言えるはずもなく。十中八九無理だと思いつつもアゼリアのいるだろう司令官室へ歩くのだった。他にほっつき歩いていそうな候補場所は午前中に巡ってある。
 石造りの階段をコツコツ響かせながら登り、嘆息。最近、どうも周りに振り回されてる感がある。母親に頭が上がらなくなったこと然り、昨夜アゼリアが新作の衣装を持って行ったこと然り。殊におかしいのは副職の男娼だ。女の当て所のない想いに温もりを供与し、金をもらう。それだけのドライな関係だった――はずだ。

 (疑問。なぜか皆、押しが強い……)

 もっと、とねだられても規定の時間が過ぎればすげなく振り払っていた。しかしなぜかこの頃、振り払っても女たちがよく粘る。甘えられる。何となく押し切られる。
 以前のカーツであれば、そんなことはあり得なかったというのに。

 『甘えてくる? ふふふ良い変化だと喜んでみよう』

 そんなセリフを思い出し、眉間にしわが寄る。あの不良心療医、余計な根回し手回しは率先するくせに相談の答えは返さないとかどういう了見だ。……今に始まった話ではないが、あの回りくどさ面倒臭さはラナでさえ矯正できていない。
 とは言え仕事に大きな支障なく、返ってやり易いほどで絶対に答えが必要と言うわけでもなかったりする。
 ままならないものだ。
 本当に欲した異性は、決して甘えてくることなどないというのに――

 「……」

 通常の人間の枠から外れた大柄な者でも歩けるよう、高く広く造られた階段を登っていたカーツは、最上階にたどり着く手前でふと、数段上に佇む人影に気づいた。
 途端、零度と評される温度差なきカーツの表情が歪む。多くは苦渋により、残る僅かは、自身でも名状しがたい感情により。

 「ファン……イルマフィ」
 「…………」

 眠たげな赤紫の瞳が、ぼんやりとカーツを見下ろしていた。
 鮮血色の上着に黒ずんだ血染めのハーフパンツ、硬く頑丈な軍用ブーツを華奢とさえ言える小柄な身体に纏い、夢見るような無表情は未だ幼く成熟の途上で、これのどこが好いのかカーツには全く分からない。
 こんなフラフラふわふわした奴に負けたのか、と初めて遠目に姿を確認した時、カーツは打ちのめされた思いだった。
 ぎ、とカーツの奥歯が軋みを上げる。その時以来、できるだけ顔を合わせないよう留意してきた。恋敵とすら言えない一方的な横恋慕兼初恋を粉微塵に打ち砕かれる羽目となった諸悪の根源を前にして、平静でいられる自信がなく。アゼリアからも、イーゼルからも、そしてラナからも、赤紫の少年と事を構えるなと再三再四に渡って警告され、それを叶う限り守ろうとしたが故にこれまで接触を避けてきたのだ。
 軽く、深呼吸する。まだ、自分は落ち着いている。そもそも、少年の側に非は一切ない。全てカーツの抱いた勝手な感情だ。恋をしたのも恋が破れたのも、カーツ自身の責任なのだ。
 だから、そう。カーツは最初に名前を呼んだきり黙して、逆恨みに過ぎない感情を抑えていた。
 抑えて、いたのだ。
 ―――しかし。
 少年が、何らリアクションを起こさないカーツに何度か瞬きし、首を傾げて言った。



 「…………誰?」



 ピシッ、と。
 ひびの入る、音がした――



 ・
 ・
 ・



 一方、その頃。

 「ドラゴンさん。ドラゴンさんも男の人ですから普通にそういう欲求はあるしその欲望に負けてしまうことだってあるかもしれません。だけど女の子の服を剥いで無理やりなんて言語道断悪魔の所業です。鬼畜です。畜生です。女の子の心は男の人が思うよりずっと繊細で複雑で何でもないようなことで傷ついてしまうのに、それを何ですか? 裸に剥いた? 少なくともそう形容できる行為をしたんですよね? 反省してください。恥じてください。私ドラゴンさんはもっと尊敬できる人だと思っていたのにとてもがっかりしています。百回ぐらいエルに謝ったって罰は当たらないと思います。それとドラゴンさんは――」

 延々と、淡々と。正座こそさせられなかったが、永久に続くかというお説教にドラゴンは呻く。

 「……助けてくれ、アゼリア」
 「……とばっちりが怖いから話しかけないでほしいと無視してみよう」
 「ちょっとドラゴンさんちゃんと聞いてますか? 分かりました、もう一回最初からですね?」

 ループした。頭痛を催し始めたドラゴンの肩を、慰めるようにアゼリアが叩く。
 革命軍司令は今日初めて、少女が“常識の鬼姫”たる所以を目の当たりにしたのだった。



 ・
 ・
 ・



 殴られそうになった。
 故に、降りかかる火の粉を払った。ファンにとってはただそれだけのこと。
 背の高い、ファンよりも幾らか年上に見える男の瞳が突如燃え上がった。理由は知らず、自分の何が男の激発を誘ったのかも興味なく、右手の平であっさりと拳を受ける。――エグザルで殺し合い狩り合ってきた猛獣たちに比べれば余りに遅い攻撃で、ユラユラの実に頼ることさえ申し訳なく、驚愕に目を剥く男の胸を死なないよう拳で打ち据えた。

 「ぐっ……!?」

 男は咄嗟に持ち上げた反対側の腕でガードするが、ファンの一打は体格差を無視して男の身体を宙へ押し飛ばす。危うく踊り場に着地した男の顔が信じられないものを見るような、新たな驚愕に染まる。

 「…………」

 染まって、だがそれだけ。軽く痣ぐらいできたかもしれないが、大した痛痒を与えた様子もない。
 手加減しすぎた。自分の手を見て、ファンは反省する。次はもう少し強く殴ろう。
 独り頷き、偶には階段を使って降りようとしていたのを邪魔されたファンは、壁をすり抜けて外に出るべく踵を返した。

 「待て」

 呼び止められ、ファンはチラリと視線を向ける。

 「……俺が、誰か。分からない、か?」
 「…………」

 沈黙を肯定と受け取ったのだろう。そうか、と男は呟き。

 「――屈辱だ」

 男の身体に怒気と敵意が滾る。肉が軋むほど固く握られた拳と気配に攻撃の意思を感じ取り、その理由が全く分からず、ファンは首を捻る。
 バルティゴで生活する大前提として、ドラゴンから軍規を犯すなと命じられている。もちろんファンは革命軍に所属していないため労働などの義務を果たす必要もないが、集団生活に属する以上、一定のルールには従わなければならない。
 無論、殺しは厳禁。各種犯罪行為も御法度。
 けれど。

 「…………正当防衛は、可」

 ぽつりと、漏らして。
 這うような低姿勢で駆け上がってくる男を眠たげに、つまらなそうに見下ろした。
 ――向かってくるのだから、仕方ない。



 ・
 ・
 ・



 パタン、と司令室の扉を閉めたエルは、少しの間そこで耳を澄ましていた。扉の向こうから黒髪の少女が大真面目に始めたお説教が聞こえてくる。焦りを含んだなけなしの反論が正論に叩き潰され、やがて消沈した様子で消えていくのが小気味よく、くっくっくっと意地悪く笑う。
 いい様だ、精々長く針の筵に座ってろ。
 昨夜の意趣返しに心中で吐き捨て、その身を翻す。ドレス調の服は未だ肌に違和感を与えてくるが、見栄えと動きやすい作りともう一つとで慣れるべく努力する。

 『ふむ。着衣もまた自由ではあるが、男というのは女を裸にすることにも悦ぶ人種だと囁いてみよう』

 一発でグラついて決意が折れた。元々そこまで頑なにならねばならない決意でもなし。ファンが喜ぶというのなら、着てやらなくもないのだ。実際ファンに見せたら褒められて、その点だけは大女に感謝しているし、だからこそさっきは報復の対象から外してやったのだが。
 ……心遣いなど、らしくもない。
 ぺた、と素足で岩の廊下を踏み、エルは窓を見つめた。外の景色に混じって半透明の少女がそこに映っている。翼を出せるほど大きく背中の開いた、淡いベージュを基調とする服を纏う自分。ドレスチックのようでカジュアルに、背中以外の露出は少なく、その空いた背も翼に隠れる範囲で、製作者の趣味が窺える。
 肩甲骨の辺りから生える翼を意識しなければ、まるでどこにでもいる女の子だ――と、エルは自分の思考に呆れ、曲げた口の端に自嘲を零す。

 「……何年生きたかも分からない、これから何年生きるのかも分からない私が、普通の女の子であるはずもない」

 事情聴取――という名分を借りた強制連行により、反撃も虚しくとっ捕まった昨夜。すぐ後ろの部屋で交わされた会話の全てを、エルは克明に記憶している。いや、ほとんどが自分に関係する話であったから、忘れにくいというだけか。
 トゥム・ユエルテ。
 誰も知らないはずの名前を突き付けられて混乱はしたが、無意味な聴取に終わらなかったのがありがたい。取りあえず客人扱いし、欲しい物があれば労働を対価にすることで話は纏まった。動物系の自分に肉体労働はうってつけだろう。むしろそれしかできないが。
 ――そこで話が終わっていれば、万々歳だったのだ。

 「ふん……やはり目こぼしなどらしくない。あの大女も纏めて嵌めてやればよかった」

 自分を捕縛した男には喉を唸らせて警戒していたが、威嚇に取り合うことなくドラゴンと名乗った男は実務的な話に終始した。遠回しに回りくどく自己紹介した面倒な大女は、同じ部屋に居たが話が終わるまで大して口を挟もうとしなかった。途中、姿を晒した自分に目を丸くして服を取りに行きさっきのようなアドバイスを囁くなど、味方のような立ち位置でエルの視界に映っていたのだ。
 それが大きな大間違いだと気付いたのは、聴取が終わって、男が友好を求めて差し出した手を叩き払って、ふんとそっぽを向いた自分に男が苦笑した後。さて、と大女が呟き、言った。
 ここから先は私の仕事だな、と――

 「……」

 ふと、物思いに耽っていた自分に気付き、エルはぶんぶん首を振って追い払う。寝不足なせいだろうか、思考がおかしな方向を向く。
 ……ファンを探すか。
 意識を切り替えて本来の目的に目を据える。赤紫の少年はゆらりといつの間にか消えてしまうが、大抵岩場の付近で暇潰しをしているからそこを目指す。
 砂塵防止か断熱対策か、二重のガラス窓を開け放ち大空へと翼を広げ、

 ――突如廊下の端で男が壁に激突し、エルはたたらを踏んだ。

 「……は?」

 唖然と視線を送る先で、階段から吹っ飛んだと思しき見知らぬ男は壁に赤い跡を引き、ずる、と石壁から剥がれ滑り落ちる。一瞬死体かと見紛うが、げほっ、と喀血して零れた鉄錆の匂いが存命を知らせる。逆に言えば男の身動きなくして、死体との区別が難しい有様だった。

 「ぐ、が……っ!」

 そんな状態でありながら痙攣する両腕で男は身体を支え、今にも砕けそうな膝を突き立ち上がる。未だ戦意を失わない鋼色の視線が階下を睨み据えた。エルの位置からは死角となっているそこへ。
 ゆら、と現れる、赤い人影。

 「……ファン?」

 夢見るような無表情に退屈の二文字を浮かべた少年が飽いた気配を漂わせ、ちら、と気怠げにエルを見た。

 「っ――ぉ……お!」

 その隙とも言えない一瞬の間隙に男は床石を蹴り付けた。ボロボロの身体で行い得る最善、硬く握り締めた拳の打ち下ろしが身長差を利して頭部を狙う。だが振り向きもせず、ゆら、と少年の軸がぶれて重力のまま傾き、偶然バランスを崩したら躱してましたという不自然さで男の肘の内側に滑り込む。
 目を剥く男の胸板を、少年の細い手の平がトン、と叩き。

 「“幽鐘ゆうしょう”」

 ――ただ一手があり得ざる衝波を生んで、鐘に見立てられた男の肋骨が鳴り折れる。
 衝撃で貫く“幽山”と違い波は胸と手の平の間で爆裂し、とっさに屈んだエルの頭上を飛び越え男の身体が紙人形の如く飛んだ。優に十数メートルを滑空し勢いのまま転がった男は血反吐を撒き散らしながら壁にぶつかり、止まる。
 さすがに、もう、男が起き上がることはなかった。

 「……死んだか?」
 「赤い、けど…………生きてる」

 むしろ生きてることが残念な口振りで、はぁ、とファンが溜息を吐く。
 男にとっても少年にとっても、いっそ殺してやった方が楽かもしれない。血塗れの男と少年の表情を見比べ、エルは勝手にそんなことを思った。
 と、司令室の扉が中から開き迷惑そうにラナが顔を見せた。その目が一番近くにいたエルを捕まえる。

 「今うるさかったのって、エル? お説教まだ半分しか終わってないから、静かにしててほしいんだけど……」
 「私は関係ない。うるさかったのはファンと、アレだ」

 え、と指差された先を何の気なしに追った少女の黒い瞳が倒れ伏す男を映し――

 「――――カーツさんっ!?」

 悲鳴するように名を叫び、余りに無惨すぎる姿を見て口元を覆う。真っ先に反応したのは、アゼリア。椅子を蹴倒し司令室から飛び出で、ざっと場を眺めるや否や状況を理解したのかこの上なく真剣な表情でカーツに駆け寄る。
 遅れて扉を潜ったドラゴンが疲れた表情を引き締め、ラナの悲鳴に何事かと集まり始めた部下へ指示を飛ばす。

 「医師を! 外科専門をまず連れて来いっ、薬と湯も合わせて大急ぎだ!! ――それから、ファン!」

 慌ただしく治療室へ駆けた部下を見送り、応急処置を施すアゼリアを横目にしながらドラゴンは少年を呼んだ。
 ゆっくりと歩いて来たファンは今の光景をまるで見ていないような、常と全く変わらぬ眠たげな無表情で小さく首を傾ける。

 「……説明しろ。殺しも私闘も禁じてあるのにこの状況は何だ」
 「…………僕は、迎え撃っただけ」

 ラナは心配げにカーツを見やりつつ、ファンの言葉を聞く。

 「いきなり、攻撃してきた。…………だから、攻撃した。赤くならない……よう」
 「つまり正当防衛、自分の身を守っただけだと言いたいわけだな? だがお前なら、逃げるなり穏便に片付けるなり如何様にもやり方があったはずだ。ここまでのことを仕出かす必要など――」
 「…………逃げる?」

 ふ、と少年の声質がトーンダウンしたことに、付き合いの長いラナだけが気付き、さぁっと顔を青ざめさせた。少年を刺激しないよう足音をひそめて、エルの大きな翼の陰に隠れる。
 エルはライバルとも言える少女の行動に怪訝そうな表情を浮かべるが、目の前の事態を優先して何も問わなかった。服の裾を縋るように掴まれても、煩わしいと思いつつしたいようにさせておいた。

 「なぜ、僕が…………逃げる?」

 少年の言葉がすぅっと溶け込むように大気を揺らす。
 それは津波の前に海が消えていく様子に似て、静けさ故の予兆が窓ガラスを震わせる。
 遅まきながら、ドラゴンは自らの台詞が少年の“何か”に触れてしまったのだと気付いた。待て、と手の平を向け制止を促すも、その動作すら呼び水となって波紋が波打ち、



 「――――何で僕が、逃げなくちゃならない」


 
 吹き抜けた凄絶な寒気に少年を止めるよりも壁となることを選択したドラゴンへ、ぱん、と鋭く鳴り響く柏手。
 少年が胸の前で、手を打った。



 「“怨霊幽殉おんりょうゆうじゅん”」



 亡霊に背を撫でられたが如く冷え渡った廊下に、触れられるほどの殺気が刹那のうちにむせ返る。ぞっ、と肌を粟立たせたエルが翼を広げ、傷口を縛っていたアゼリアが振り返りざま目を見開き。
 ――それら一瞬の出来事を無に帰すよう、波動が全てを巻き込み弾け飛ぶ。
 膨れ上がった膨大な衝撃波が、天上の雲に風穴を開けた――。




[19773] 追憶の翼
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:3962bcd5
Date: 2012/01/24 14:12
 子供時代のエルは髪を伸ばしていた。肩を過ぎるほどの位置で、鳶色の髪が走ると猫のように飛び跳ねる。表情も柔らかくて、幼い。少しお転婆な印象はあるけれど、天真爛漫という言葉が似つかわしい少女だった。
 そして決定的な違いは、背中に羽がないこと。

 《母親は海軍将校、父親は妻の持ち帰ってくる航海日誌を編纂し読み物として出版する仕事をしていたらしい。夫婦仲も良く、裕福で何不自由しない暮らしだった。ただ一つ、母親が一年の大半を航海に出ていることを除けば》

 子供にしては恐ろしい速さで走る子供のエルを、ラナは懸命に追いつつアゼリアの声に耳を傾ける。軽い調子を消し、検査結果を淡々と読み上げるような事務的口調で、アゼリアが続ける。

 《そんなある日、少女は母恋しさの余り彼女が持ち帰った悪魔の実を食べてしまう。強くなれば、力さえあれば母と一緒に海に行ける。そんな感情の発露だった。トリトリの実幻獣種、モデル獅子鳥。少女は確かに強くなった。並みの大人では敵わないほどに。そしてその力を無闇に振るわない自制心をも幼いながら備えていた。……しかし、それでもやはり母は娘を航海に連れて行くことを拒絶した》

 街を抜け港の桟橋にたどり着き、ラナは親子の再会と拒絶の場面を見る。どうしても一緒に居たいと願う少女、自分が人を殺す姿を見せたくない母親。どちらの心も分かり過ぎて、胸が締め付けられる。
 ページをめくるように風景が変わった。それに驚く間もなく鬨の声が銅鑼のように響き、思わず立ち竦んだラナの周りで剣戟が幕を開けた。そこは船の上だった。海軍と海賊の白兵戦だった。

 《せがむ娘を宥めすかしていると、海軍本部から急報が入った。海賊船の目撃情報が寄せられたのだ。数日はゆっくり過ごす予定だった母親は休暇を取りやめ、ぐずる娘を宥めすかしすぐに出航した。島に置いてさえ行けば、娘の安全は保障されていたのだから。しかし……》

 アゼリアの声が途切れたその時、遥か天空から矢のように影が飛来した。ラナが息を詰める前で、獅子と猛禽の爪を手足に持ち、翼を背に翻した少女が稲妻の速さで海賊たちを強襲した。爪で引っ掻き、体当たりし、あるいは大人顔負けの腕力で投げ飛ばす。
 自らも戦っていた女性が驚愕に叫ぶ。

 『ユエルテッ!? まさか港からずっと……!』
 『母様! 私だって戦える……戦えるからっ!』

 まさに獅子奮迅。獣の膂力で少女は海賊を追い立てる。だがそんな目立つ存在が目を付けられないはずもない。離れた位置から狙い定める幾つもの銃口に、少女は気付いていなかった。

 『ユエルテ――ッ!!』

 女性が駆けた。娘のために。そして響く、銃声。

 『……かあ、様……?』

 呆然と、見上げる少女の頬に飛ぶ、赤。

 『無事……だな?』

 よかった、と女は笑んだ。背に幾つもの弾を受け、血の塊を口から零して。
 あ、と少女の身体が震える。顔が青ざめる。己の仕出かした行為が、何を招いたか悟って。
 この戦闘における最大戦力が重傷を負い、俄然色めき立つ海賊たち。反対に動揺し、焦りを見せる海兵たち。

 『――うろたえるなたわけ共!!』

 だがそこに、中将たる女性の檄が爆裂もかくやと飛ばされた。
 傷を負い、なお揺らがぬ光を目に湛えた女中将の怒号に場が静まり返る。海賊たちでさえ息を呑み、動きを止めざるを得ないそれ。

 『貴様ら、私がこの程度でどうこうなると思っているなど勘違いも甚だしい。極刑だな』

 ひぃ、と海賊よりも部下である海兵の方が恐れ戦く。女はふん、と鼻を鳴らし。

 『嫌なら戦え、戦え! 正義を名乗るからには無様な敗北など決して許さん! 戦えたわけ共っ!!』

 オオッ、と上がる喚声に、今度は海賊たちがたじろいだ。そこへ攻勢に出る海兵たち。
 女はその光景を見届け、娘に向き直る。

 『ユエルテ』
 『あ、あの、かあ、母様……私、私……!』
 『何も言うな。ずっと一人にしてきた私にも責はある。……寂しい思いをさせて、すまなかった』
 『か、母様……ごめん、なさい。ごめんなさい……!』

 ぽろぽろと涙を流す娘を血塗れた胸で数秒、抱き締める。だがすぐに離し、娘の肩に手を置いて女は真っすぐ鳶色の目を見つめた。

 『いいかいユエルテ、よくお聞き。お前はこれからすぐ島に飛んで帰って、応援を呼ぶんだ。お前は海軍中将の娘だ、誰もお前の言葉を無碍にしたりはしない』
 『で、でも、母様……』
 『ユエルテ。私は海の上で船長の指示を受けたらどうしろと教えた?』

 優しく言うと、少女は涙を浮かべながらもぎゅっと手を握り締めて。

 『……ぜ、絶対、指示には従うように。そうじゃないと、指揮も規則も、成り立たなくなっちゃうから……』

 よくできた、と言うように女性は娘の頭を撫でた。少女も涙を拭い、背中いっぱいに翼を広げる。

 『頼んだぞ、ユエルテ。私の愛し子』
 『はい、行って来ます……!』

 力強く翼が大気を打ち、天空へ翔け上がる。見る間に小さくなる背を見送って、女は細い息を吐いた。よろけそうになるのを船縁に捕まってこらえ、だがこらえ切れずずるずるとその場に膝を着く。

 《母親の取り繕っていたそれは虚勢だった。今にも倒れそうなのを気力で持ち堪えていただけだ》

 アゼリアの声が耳元に聞こえ、見入っていたラナは我に返る。

 《母の言葉は娘を逃がすためだけに費やされた。この頃にも電伝虫はあったのだから、娘を使いに出す意味はない。全ては方便。……だが母の愛情は、天の理によって裏切られる》

 風が吹いた。急激な風だ。女がはっと顔を上げる。娘の飛び立って行った方角を見る。

 『あ……ああ……っ』

 ラナも女性と同じ気持ちで、呆然とそれを見上げた。思わず、声が零れた。

 「……サイ、クロン」

 海は、無慈悲だ。人間の瑣末な感情など歯牙にもかけない。
 轟々と風が荒れ狂う。渦を巻き、旋風を巻き起こし、海面から立ち昇る一本の巨大な柱と化して何もかもを天空へ吹き飛ばす。
 女性が、何かを叫んだ。たぶん名前だ。けれどラナの耳には聞こえなかった。ぐるぐると世界が回り、平衡感が消え失せる。気付いた時には軍艦も海賊船もなくなり、ラナはどこかの島の浜辺に立っていた。

 「……エルは!?」
 《安心しろラナ娘。あれで羽娘が死んでいたら夢はもう終わりだし、ラナ娘に会えるわけもない。後ろだ》

 勢いよくラナが振り向いたそこに、鳶色の幼い少女が力なく、座っていた。海水を吸って奇麗だったスカートは重く濡れ、砂に汚れた表情のない顔が、茫、と海を向いていた。

 《幸運にも能力者でありながら溺れることなく漂着したそうだ。サイクロンに吹き飛ばされる最中、巻き上げられた流木に必死でしがみ付いたらしい。羽娘は九死に一生を得た。……だがそれはたった六歳だった羽娘の、辛く苦しく、そして果てしもなく長い孤独と絶望の始まりでもあったのだ……》



 …………
 ……………………
 …………………………………………



 どれほどの時間、少女がそうして海を見続けていたかラナには分からない。夢の世界に時間の感覚はない。だからじっと、自分も一緒になって小さなエルの隣に座り、待ち続けた。

 『……母様』

 ぽつん、と幼い声が涙と一緒に落ちて、ラナは顔を上げた。エルがぐしぐしと腕で目元をこすり、ようやく立ち上がる。

 『グランドラインで遭難した時は……島にたどり着いたら、絶対海に出ないこと。お水と、食べる物と、安全の確保と……住んでる人が居たら、怖くないか確かめて、話しかけて、それから、それから……』

 指折り母に教えられたことを数え上げ、少女が浜辺から離れた。砂浜を少し歩けばすぐに草木が密集して生える、熱帯雨林の様相が始まる。がさがさ茂みを揺らし一生懸命歩く少女に続いて、ラナもその後ろ歩いて行く。
 子供の足は遅い。開けた道を走るなら、能力者の少女は大人以上の速さで駆けることもできたけれど、初めて歩く森の道に慣れない足取りでは遅々として進まず。それでもどうにかこうにか、大きな川を見つけてぱっと表情を明るくする。最悪木の皮や草の根をかじれば飢えは凌げるが、水がなければ数日と人間は生きていられない。やった、よかったとラナも思った。
 勢い込んで少女は川辺に身を屈め、両手に水をすくって口をつけた。もう喉がカラカラだった少女はけれど、一口すすった途端顔色を変え、思いっきり口の中身を吐き捨てた。

 「え……な、何で?」
 《ここは河口に近い。ほとんど海水と一緒だ》

 ラナの疑問にアゼリアが答える。

 《そしてこの島では真水が恐ろしく貴重だ。地下水のおかげで植物は育つが、地上に湧き出る真水は驚くほど少ない。故にここでは縄張り争いが、同時に水場の争いでもあるのだ》

 うえぇ……と海水を吐き下した少女の瞳に涙が溜まる。荒い息を吐いて、ふらふら立ち上がり、川に沿って上り始めた。海の近さと川の関係をすぐに理解したらしかった。
 下生えに足を取られながら懸命に進み、歩けば歩くほど少女は汗をかく。もういいかと水を一口舐めてもまだ辛くて、泣きそうな顔で少女は歩き続ける。そして偶然、野生の小さなオコジョかテンか、何かは分らなかったけれど小動物が川の水を舐めている光景に出くわし、矢も盾もままならず歓喜の表情で飛び出した。びっくりした小動物が逃げて行くのも構わず、喜び勇んで水を口に運んだ。

 『っ!? ぇ、うえ……ぇっ……!』

 だけどまた、吐き出してしまった。

 《……ここの弱い生き物は、ある程度塩分濃度の高い水でも飲めるよう進化している。島の環境に適応できなければ子孫を残せなかったからだ。それが羽娘に勘違いを与えた。……人が飲める濃度の水は、まだ上流に行かなければ手に入らない》
 「そんな……!」
 《言っておくがまだ序の口だ。この程度でそんな顔をするなら、今すぐ夢を覚ましてもいいが》
 「……いいえ」

 手に入りそうで届かない、今何よりも欲しい水に渇き、喘ぐ少女を見下ろしながら、ラナは決然と返した。

 「見ます。……最後まで。何があっても、見ます」

 夢は続く。少女はまた歩き出す。さっきよりも力なく、涙さえ出せずに歩く。

 『水……おみず……』

 うわ言のように呟きながら進み、けれど左程も進まない内にその足が止まった。幼いエルの視線が向く先を追うと、一匹の蛇がするすると地面を這っている。
 毒蛇かもしれないから避けるのかとラナは思った。だが少女は突如、爛と肉食獣めいた光を目に宿しその蛇に掴みかかった。あっという間にその顎を押さえ捕まえてしまい、え? とラナが目を疑った瞬間、大きく口を開けた少女の歯が蛇の表皮に喰い込んだ。噛みついた。ビク、と蛇の身体が痙攣する。少女は口を離ない。

 「……!?」

 少女の口元から、ちゅうちゅうと赤ん坊が乳を吸うような音がして、ラナは身を強張らせる。

 《……街で暮らしていた羽娘に生き血を啜る習慣が勿論あるはずもない。本人が言うには喉が渇いて渇いて、もう何も考えていられなかったそうだ。ほとんど本能的に獲物を捕らえ、気づいた時には飲み干していた。これが羽娘の、この島での最初の狩りだった》
 「へ、蛇の血って、飲めるんですか……!?」
 《飲むどころか酒に漬けてマムシ酒だとかにする文化もあるぞ。しかし血を飲んで安全かどうかまでは私の知るところではない》

 話していると、また周囲の景色がぼやける。夢の場面が変わる兆候。
 次にラナが目にしたのは、身体を中途半端に変身させてのたうちまわる少女の姿。

 『あ、あああっ、あああああああっ!!』
 「え……なに、何!?」
 《無理やり獣人型なろうとしている代償だ》

 脂汗を浮かべ、全身をがくがくと痙攣させながら少女が激痛に悶える。ゆっくり、少しずつ、少女の身体が船の上で見た姿に変わっていく。

 「代償、って……エルは、能力者のはずじゃ」
 《運が悪かった。羽娘が流れ着いたこの島はその昔能力者専用の流刑地として使われ、悪魔の実の力は大幅に制限を受ける土地だ。動物系なら中途半端な変身しかできなくなるというように。だが羽娘は無理やり変身しようとして、故に苦しみを受けているわけだ。……細胞レベルで生じる痛みだ、普通は耐えられん》
 「何で、こんなに苦しんでまで……」
 《その理由はあれだ。見ろ》

 促された方向に視線を向け、ラナは息を呑んだ。
 巨大な四足歩行をする肉食獣が、悠然と身悶える少女に近寄ってくる。

 《戦うに生身じゃ足りない。逃げるにも生身じゃ追い付かれる。羽娘は限界まで逃げた末に賭けに出た。痛みに耐えて変形し終えるまでに喰われるか、無事変形して逃げおおせるか。……羽娘は、賭けに勝った》

 変形が終わる。未だ全身を苛む苦痛に表情を歪めながら、少女は翼を広げて舞い上がった。肉食獣の放つ怒りの遠吠えが轟々と震えるほど響く。
 また、場面が変わった。今度は再び浜辺。獣人形態の少女が近くの木の幹に、爪で傷を入れていた。四本の短い傷を長い一本の傷が貫く形。日数だ、とラナはすぐ思い至る。だがその数が余りに多くて、遣る瀬無さが胸を衝く。
 小さな少女は少し大きくなっていた。髪も伸びている。代わりに、服が前よりボロボロだった。
 鳶色の瞳が悲しげに傷を見つめ、数える。三カ月、という声が聞こえた。少女は木から離れ、海岸に向かって座り込む。膝を抱え、遠く水平線に、船を探して。

 『何で、母様……来て、くれないの……』

 じわ、と涙が浮かぶ。

 『私が、悪い子だから? 勝手に船を追いかけて、母様のお仕事の邪魔したから……?』
 「ち、違うよ、そんなはずない……!」

 これが過去の記憶であることも忘れて思わずラナは呼び掛けていた。

 「エルのお母さんは、そんなことでエルを嫌いになったりしない。だから、だから……!」
 《優しいな、ラナ娘は》
 「アゼリアさん……っ」
 《優しいラナ娘に細大漏らさず見せるのはやはり酷だな。少々、早回しだ》

 コマ落としのように場面が変わる。自らの翼にくるまりながら、少女が泣き疲れて眠る姿。縄張りを守る猛獣の目を掻い潜って、こっそり泉に口を付ける様子。嵐の風雨を避け鳥獣形態で木陰に蹲る情景。苦労して捕まえた獲物を生のまま一心不乱に平らげ、火を熾そうとして失敗し、小さくて履けなくなった靴を大事な宝物のように隠し、飛びながら口を開けて迫る馬鹿みたいに大きな鳥から必死で逃げ、夜毎もう数え切れないほど傷の刻まれた幹を見上げる日々。

 『会いたいよ……母様、父様……助けに、来てよ……っ』

 膝に顔を埋めて少女は嗚咽する。嗚咽は次第に大きくなって、泣き声を風が浚っていく。だが浚った風は少女の鳴き声をどこにも届けないまま、空の彼方で儚く散る。
 時の経過は残酷だった。少女に希望一つもたらさないまま無慈悲に過ぎ去り、父と母に囲まれて過ごすはずの子供時代を終わらせた。
 過酷な環境にも負けずすくすくと背が伸び、身体は女性らしい丸みを帯びた。鳶色の髪は長く膝まで届くほどで、浜辺で佇む少女の周りを風に揺られまるで纏っているかのよう。風雨と年月に晒された服は衣類の体を成さなくなり、襤褸が辛うじて肌の一部を隠しているだけ。六歳だった少女は、もうそこにはいない。
 何年も何年もただ己の力のみで生き抜いてきた、獣のような少女がそこにいた。

 《ラナ娘、野生動物に育てられた子供の話を知ってるか?》

 黙って首を振ると、アゼリアが続ける。

 《昔からそういう事例が稀にあった。狼が人間の赤ん坊を育てたとか、ライオンが自分の子供と一緒にお乳を与えたとか……本当に、稀だがな。羽娘の環境はそれに近い。育てられこそしなかったが、人間のいない島では獣の動きや考え方しか学ぶことができない。――故に、羽娘は次第次第、人の言葉を忘れていった》
 「わ、忘れた?」
 《代わりに鳴き声やら何やらの意味を汲み取れるようにはなったらしいがな。使わず、反復しない知識を人は簡単に忘れ去ってしまう。……ほら、羽娘が、段々羽娘になっていくぞ》
 「え?」

 振り返るラナが見たのは森を歩くエルの姿。木々の間から漏れ零れる光の陰影を縫うように素足で踏み、水場へ向かっていた。
 ふと少女は止まる。目的の水場に、いつか見た四足の肉食獣が陣取り腰を据えているのを認めて。
 グルルルル、と獣が威嚇に唸った。エルの瞳が細く、剣呑な煌きを宿す。
 人の言葉を忘れても、そいつに追われ喰われかけた記憶は忘れなかったのか、エルもまた犬歯を剥き出しに喉の奥で唸った。その姿がメキメキと形を変えていく。
 苦痛に喘ぐ様子はない。――もう、悶えることはない。

 『ピガァアアアアアアアアアアッッッ!!』

 巨大な、本当に巨大な獅子鳥が顕現する。人身の名残も残さず、倍以上に膨らませた体躯を向き合わさせた。尋常ならざる少女の変貌にたじろぐ獣。だが負けまいとするように吼え、二匹が放つ咆哮はやがて死闘の鐘となりゴングを鳴らす。

 『ピガッガアアアアア!!』
 『グルォオオオオオ!!』

 毛を逆立たせ爪牙を駆使し、上になり下になり引き裂き喰らい付き血潮が荒れ狂う。
 端で見ていたラナには何時間にも感じられた、命を賭す激闘。制したのは、エルだった。嘴の一撃が目玉を刳り抜き、絶叫する獣の死角から刃物に等しい爪を振り抜いた。
 音が絶える。争いの音が消える。喉輪から鮮血を迸らせた獣がどう、と倒れ伏す。

 『―――ピガァアアアアアアアアアアアッッ!!!』

 勝利の遠吠えだった。思わずラナも拍手して――凍りつく。
 段々とその体躯を縮め、羽毛と獣毛を落とし、ぜいぜいと荒い息で水場へ駆けたエルがその勢いに任せて顔面を水に突っ込ませる。盛大にあぶくを散らしながらがぶ飲みし、ぷはっと爽快に笑った。はっ、はっ、とようやく手に入れた安全な水場に久しく浮かべてなかった笑顔を覗かせて、
 そして、それに、気付く。

 『……う?』

 澄んだ水に映る、自分の姿。
 見間違いかと覗き込んだ瞳が、固く強張った。
 翼。
 一対の、巨大な翼。
 それが人型に戻って尚消えず、威容を翻していた。

 『う……うあう?』

 動く。今まで通り、人獣型のように神経は繋がり動かせる。――だけど、戻らない。

 『あ、ああう!? うっああああああうううううううう!?』

 戻らない。いくら暴れてももがいても繰り返し変形しても戻らない。それどころかまともな人獣型にさえなれず、鳥獣ですらない小さな猛禽の姿に変化し、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も疲れ果てるまで試し、とうとう翼は消えることなく日が先に暮れた。

 「どうして……?」

 喋ることを忘れたエルの代わりのように、どうしてとラナは呟く。

 《分からん》

 これまでずっと正確に答えを示してきた声が、そう返した。

 《正直、悪魔の実に関してはまだ解明されていない部分が多い。恐らくこの島の環境で変形を酷使し過ぎたことが原因だと推測できるが、それ以上は一切不明だ》
 「エルの羽は……戻らないんですか?」
 《少なくとも今日まで戻ることはなかったな。それはラナ娘も承知しているはずだ》
 「そうじゃなくて……っ」

 もどかしげに語気を荒げる。

 「エルはもう二度と、ちゃんとした人間の姿に戻れないか聞いてるんです!」
 《専門家でない私に解を求められても困る。世界の全てを知り尽くしてもいない私には、治るとも治らないとも断言できん》

 至極当然の、それこそ常識的な答えにラナは詰まって、唇を噛む。
 何かがしたかった。何かをしてあげたかった。目の当たりにした少女の境遇は余りにむごくて、形は違えど故郷と親を失った自分に、少女の姿がダブって見えてしまって。
 ……でも、私にはファンがいた。
 性交を強要された事実があったとしても、例えあの赤い夜の後革命軍に拾われなかったとしても、自分には赤紫の少年がいた。どれだけ犯され嬲られ辱められようと、何くれとなく支えて温もりとなって、二人きりの島でいつしか夫婦となり子を宿し家族を作る未来があった。
 だけどエルは一人なのだ。たった一人きり、幼い頃に流れ着いて、頼るべき人も持てず孤独に生き抜いた。
 どんなに寂しかったか――ラナはもう知っている。
 どんなに辛い目に遭ってきたか――ラナはもう、その目で見ている。




 ―――そこに流星の如く現れたのが、ファン・イルマフィなのだ。




 どうしよう、とラナは本気で途方に暮れる。
 自分と同じで、鳶色の少女には本当にファンが必要なんだと心から理解してしまった。
 恋人である少年に仲良くするよう言われてなかったとしても、もう自分はファンを求める恋敵を拒絶できない。それぐらい深く、少女に共感してしまった。そんなことは不可能だけれど、もしファンをエルから取り上げたら、翼持ち天を翔ける少女の心はどれほど暗い絶望に叩き落とされるか。
 一度目を閉じて深呼吸する。それから、強い眼差しで空を見上げた。

 「アゼリアさん。――エルのお母さんは、エルを見つけられなかったんですね」
 《そうだな。あの中将どころか、この島を訪れ羽娘と出会った人間は少年が最初で最後だ》

 声の語る言葉に納得すると、また情景が切り替わった。ただ今度は、本をめくっていくように断片的な時の流れでしかなかった。
 ぱらぱらと過ぎ去っていく少女の人生。ラナはその狭間で、幹に刻まれる日数がいつしか増えることのなくなった光景を見、胸の痛みに襲われる。葛藤の末に下された、それは少女が抱く諦めと未練の象徴。そして無数に傷を刻み付けられた木々を、瞳に暗い輝きを宿した少女が根元から切り倒す。大事に隠されていた小さな靴は、海に捨てられた。切れ端も同然の衣服も引き千切って地面に埋めた。
 人間として持っていた全てを捨て去り、最後に遠い水平線を振り返った少女は、自らの心を断ち切るように外の世界へ背を向けた。鳥獣の姿となって高く吼え、森の中へ消える。世界がすうっと、暗くなっていく。

 《……ここで一旦、羽娘の記憶は途切れる。人間らしい思考すら捨て獰猛な獣となって生きる道に、夢と化すほど強烈な思い出が生まれることはなかったのだろうな。故に、これから何年の時が過ぎ、少年と出会ったのはいつなのか、本人にさえ分からないらしい》
 「……」
 《疲れたか? 夢の産物でよければジュースでも出すが》
 「そんな気分じゃありません……」

 吐息して、暗闇に抱かれるようにしてラナは膝を抱えた。どこが上で下かも分からない、真っ暗な世界。まるで瞼の裏側みたいだと思う。

 「……エル、こんなに大変な目に遭ってたんですね」
 《一つ違っていれば奴隷として売られていたラナ娘がそれを言うか》
 「仮定の話ならいくらでも言えます。……でも、エルのこれは実体験。本当にエル自身が味わった過去……」

 そっと瞼を下ろして、自分が見た物を反芻する。

 「……次は、エルとファンが出会うところですか?」
 《いや、羽娘が一方的に少年を見つける場面だ。……見るか?》
 「お願いします」



 ・
 ・
 ・



 赤い服を着た人間の男だった。子供と大人、どちらかと言えば子供の部類に入る少年だった。
 人間。人間だと心のどこかで思った。瞬間、引き金を引いたように思考を覆い隠していた靄が弾け飛んだ。鮮明な意識で、自分が人間だった頃の記憶が奔流となって鮮やかに溢れ返る。生まれ変わったような、心踊らずにはいられない、そんな感覚。
 それからというもの、毎日少年を空から観察するのが日課となった。自分にとってもはやこの島全体が縄張りのようなものだったから、わざわざ見回りをする必要さえなかったのが幸いした。小さな鳥の姿で天高く旋回し、猛禽が誇る眼の良さで観察し続けた。そうしなければならないと思い、そうしたいと思う自分がいた。
 少年は弱かった。自分が幼少期に仕留めた大きなトカゲから逃げ回るほどに。けれど、強くなるのは本当にあっという間だった。能力の特性を掴み、次に遭遇した時には刃が立たなかったはずのナイフで鱗ごと首を両断し、それが一日二日の出来事で、さすがに絶句した覚えがある。
 少年は無口だった。日がな一日独り言さえ呟かない日も多く、時たま口を開いたかと思えばよく分からない言葉を話す。そこで自分が人の言葉さえ忘れていたのを思い出し、こっそり木の上から聞き耳を立てて復習した。だが自分の口調がどうしても思い出せず、記憶にあった母のそれを真似た。力強いその喋り方は今でも好きだ。
 少年は無表情だった。あるいは眠そうだった。数日かけてそれが少年の地であることを見抜くが、時たま血を見た時に浮かべる凄惨な嗤い顔に、血潮の滾りを感じた。純粋極まる無秩序な殺意は久しく浴びておらず、生存本能が恐怖を生むと同時に闘争への歓びが胸に湧き、だがぐっと我慢して、いつどんな形で少年と接触すべきかに思考を費やした。
 ゆっくりと日々が過ぎ、けれど気付いたら少年は島から消えてしまっていて、またいつかのように岩の中に隠れたのかと探したが半日を労しても見つからず、吹き消されたロウソクのように目の前が真っ暗になりながらねぐらに帰った。しかし翌日、ひょっこり姿を表した少年を認め心底安堵の息を吐いた。
 その日、少年は山に登り始め、自分もまた心を決める。もし転落しかけたらすかさず助けに入り、好印象を獲得するのだ。何事もなく登り切ったなら、あの水筒を受け取って水を運んでやればいい。山頂の水が飲めないことをきっと知らないだろうから、絶対に喜ぶ。完璧な計画だと思っていた。――結果から言えば、そうそう思い通りに事が運ぶはずもない教訓になったけれど。
 石をぶつけられ、裏切りのように感じて、キレて、襲いかかって。
 最初が最初だったから、逆にこっちが悪感情を持ってしまいことある毎に争って。
 だけどそんなある日、少年に負けて力尽きた自分が倒れているところへ、別の猛獣が通りすがった。そいつは腹を空かして、飢えた目でこっちを見た。今まで喰らう側だった自分が、とうとう喰われる番になったのだと確信した。
 だがその瞬間、ひゅっと虚空を切り裂いたナイフが恐ろしい速度と鋭利さで猛獣の眉間に突き立った。断末魔さえ上げられず、地響きと共に猛獣が倒れる。
 凝然と振り返れば、少年がナイフを投げ放った姿勢でこちらを見ていて、

 『…………』

 感情も思惑も読み取れない眠たげな無表情のまま、ゆらりと踵を返した。その背を、自分は黙って見送った。
 数日後、決闘の最中に少年を後ろから襲おうとする輩を見つけ、すぐさま獅子鳥から小さな猛禽に姿を変え、身の程知らずな愚か者に猛進制裁した。助けた形になる少年と何となく見つめ合い、それ以上決闘を続ける気にもならずどちらからともなく背中を向け合った。
 そうして段々、一緒の時間を過ごすようになり、決闘もじゃれ合いのような形に変わって、少年が焼いた肉を食べたり、背に乗せて一緒に空を翔けたりして、少年が帰ると決めた時、自然と自分も付いて行くことを決心したのだ――

 (……ああ、夢か)

 緩やかに目覚めへ向かう意識の底で、微睡みの揺籃に揺られながら微笑する。今日は、悪夢の部分が出てこなかった。少年と過ごした心地よい日々だけが夢に現れ、幸せな気持ちでエルは目を覚ます。
 もうすっかり薄闇に包まれた部屋の様相と、隣で穏やかな寝息を零す少年が視界に入った。外では恐らく燦然と星が輝く時分だろう。

 「……お前は、悩みがなさそうで羨ましいな」

 今は閉じて見えない赤紫を覗くようにしながら、呟く。

 「私と小娘のことも、悩む気などないんだろう?」

 ちゃんと分ってるんだぞ、と手の平で赤紫色の髪に触れた。
 そう、分かっている。こうしてすぐ傍で眠る少年が、黒髪の少女とは反対にどれほど常識に無頓着であるかぐらいは。プラス、女の勘で恋人と縁を切る気がないのも気付いている。そして今みたいに自分を同衾させる様子から、少年が取った選択も。
 ……でも、私にはお前しかいない。
 視野が狭いと揶揄するなら勝手にしろ。男が他に幾らでもいることなど百も承知だ。ファンが偶然私を島から連れ出しただけ? その偶然が何より大事なんじゃないか。きっかけもなしに男女の仲が深まる訳もない。永劫に思える孤独の中で、初めて心の拠り所となってくれた。私の止まり木になってくれた。
 その事実さえあれば、他は何も、要らない――

 「…………エル?」
 「あ……起こして、しまったか?」

 髪に触れていた手を引っ込める。少年は眠たげに目を擦り、んぅ……と返事なのか分からない呻きで応じた。赤紫の瞳が薄闇に小さな瞬きを見せ、横になったまま視線を向けてくる。

 「…………よく、眠れた?」
 「そう、だな。何と言うか、この柔らかい感触がまだ落ち着かない感じもするが」

 ずっと地面か樹上で寝起きしてきた身体が、何十年振りかという布団の沈み具合にどうしても戸惑いを感じてしまう。懐かしくはあるけれど、無性に木肌の硬さが恋しくなるのはもはや習性だろうか。

 「じゃあ…………ベッドは、僕と寝る時だけで、いい……」
 「ふん……それじゃお前も、ベッドは私と寝る時だけでどうだ?」
 「嫌」

 即答だった。思わずぷっとエルは噴き出す。

 「まあそうだろうな。小娘と寝る際にも、必要だものな?」
 「…………」

 黙ってしまう少年にくっくっとまた笑い、眠たげな無表情がどことなくむっとしているのに気付くのが遅れた。
 少年の左手が無造作に自分の右腕を掴んだ。あ、と思う間もなく、反対の腕も同じように捕まえられる。そのままごろんとシーツの上を転がされ、身体の上で馬乗りになった少年が両手を押さえつけた。

 「ファ、ファン?」

 手際のいい所作に焦った声を出す。赤紫の瞳が、平坦に自分を見下ろしていた。

 「…………ラナだけじゃ、ない」
 「あ……え?」

 じっと、見つめる瞳に、呼吸を忘れる。
 少年の右手が戒めを解き、身体のラインに触れた。隣で寝ていたせいか体温が移ってしまって、熱くもなく冷たくもない手の平。夜の暗さを映す瞳に見つめられながら、不埒に身体をまさぐり始めるその手を止めることができない。服の上から胸の膨らみを確かめるようになぞられ、あ、と声が漏れた。自分が出したものとは思えない甘ったるい声。かぁっと頬が熱くなり、逃げるように顔を背けた。
 ちゅ、と背けた頬に、耳に、首筋に、少年の口付けが降り、吐息が薄く肌をくすぐっていく。

 「ラナだけじゃ、ない。…………エルと寝る時にも……必要」
 「そ、それは……あ、や……っ」

 くふ、と情欲に濡れた少年の微笑みが薄暗い部屋に沈んだ。

 「…………今からゆっくり、じっくり……教えて、あげる」





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 こんにちは、こんばんは、明けましておめでとうございます。うたかたです^^;
 ……えーと、感想版を覗かれない読者の皆様が居るだろうことに遅まきながら気が付き(本当に遅すぎですが)、こちらでご報告を。
 どうにも進まないストーリーを早く進展させる目的で、三話ほど改訂いたしております。とは言え以前のも捨て難いためNG集として載せています。……もしかしたらそのうち両方を纏めて編集し直すこともあるかもしれませんが、しばらくこの方針で進むつもりです。
 というか紙に書きつけたエルの章における文量が、没ネタだけでルーズリーフ20枚分以上はあるのでいささか頭の中が混乱状態だったり@@;
 そういうわけで(何がそういうわけかツッコミはなしで)、次回はお待ちかねのベッドシーンになりますね。うたかたは、初めては一対一であるべきだろうとか思う趣味嗜好なので、いきなり3Pなどにはいたしません。悪しからず。

 ……他に言い忘れてることはないかなー、と思いつつ今日は終了。
 次回、ご期待ください。



[19773] 二人目の夜
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:b14413d1
Date: 2012/03/18 17:18
 最初の夜、初めて少女が現れた時には何とも思わなかった。
 二度目、昼の光に浮かび上がる少女の裸身に少しだけうろたえて、あっさり唇を奪われた。
 そして三度少女を目にした時、仕立てのよいドレス調の服に隠された少女の素肌が脳裏に蘇って、酷い渇きを得た。
 だから暗い部屋の中、赤い顔をした少女の衣服を手ずから脱がせ、ちょっと抵抗に遭いながらもするすると足元からショーツを抜き取り、自らも着衣を床に放り捨てて少女を組み敷いた瞬間、ようやく自分のものにできる悦びが幽かな笑みとなった。
 うぅ、とエルが両手を掴まれた姿勢で、恥ずかしげに身じろぎする。

 「こ、こんな風に、両手を押さえる意味があるのか? お、襲われてるみたいで、落ち着かない……」

 きっとエルが言っているのは肉食獣の前脚に捕らわれた草食動物の気持ちなのだろうが、意味合い的にそれほど的外れでもない。事実として、ファンはエルを襲っているのだから。

 「…………エルは今、僕の獲物」
 「え、獲物……?」
 「そう。獲物だから…………食べる」
 「食べる!?」
 「うん…………こうやって」

 食べるという一言に焦った様子で、え、え? と混乱を口にする鳶色の少女。まず間違いなく直接的な意味しか理解してないエルに、そうっと顔を近づけていく。信頼と猜疑の狭間に陥った少女は慌ててじたばたもがこうとするが、それより早くファンは健康的な首筋に顔を埋め、ちろりと舌を這わせた。

 「ひっ!? や、あっ?」

 組み敷いた身体がびくりと跳ねる。瞬間的に背筋を這い登って行った痺れが、暴れそうになっていた少女を大人しくさせる。
 ファンは舌先を小刻みに動かしながら緩やかなペースで首筋を刺激し、鎖骨の窪みも舌で味わう。女の子の肌は甘い。そんな気がする。

 「あ、ん、ぅ……っ、あ、あ……、なに、何で、舐めて……やぁ……っ」
 「…………愛撫の、一環。……知らない?」
 「あい、ぶ?」

 不思議そうにエルが繰り返し、ファンは内心首を傾げた。秘め事に関して何の知識もないという表情で。
 ちゅ、と耳たぶに口付けて繊細な穴へ舌を伸ばしながら、ファンは訊ねる。

 「…………エル。島に、流れ着いた時……何歳?」
 「島? え、っと……六歳、だったはず……あ、ゃ」

 微細な刺激が怖いのか、弱々しい動きで逃れようとする少女を押さえ込み、足に足を絡めた。ぴく、ぴくんと肩を跳ねさせる様子を眺めながら、胸の奥で納得する。
 …………六歳で知ってたら、むしろ怖い。
 幼い頃に人と接する機会を奪われたせいで、エルの知識は六歳の時分で止まっているのだ。キスぐらいは知っていても、それ以上が皆無。例え甕の水を移すが如く頭のよい人間でも、そもそもの水がなければ何にもならない。無知故にこうして肌を舐められて、声を上げてしまう自分に戸惑っている。皮膚の一枚下に溜まって行く痺れが快楽の飛沫とも知らず、小さく身をよじらせる。
 …………じゃあ、僕が、教える。
 細く引き締まり、それでいて陶磁器のように滑らかな肌。頭の上で押さえていた手首を離し、そこから肘の内側や二の腕の感触をたどって、黒髪の少女よりもやや骨ばった背中に手の平で触れる。背筋に沿ってなぞると、こらえきれない吐息が耳元にこぼれた。あ、あ、と頬を染めて少女が目を閉じる。
 ファンは快楽を教えて行く。背中も、腕も、指の間さえも感じることを。番うとは何か、男女の交わりとは何か、言葉にせず直接身体に教え込む。
 乳房に触れた。恋人よりも発育の良い果実がふるりと震え、手の中で指の形に歪む。愛らしく膨らんだ果実の頂点を指先で弄べば、少女の背筋が弓なりに反って高い悲鳴が零れた。
溺れるように。引きずり込むように。ファンは少女を甘やかす。

 「あっ、ぁ……ぅ……ん……っ」
 「ん…………エル」
 「や、ぁ、あ……っ……だめ……ぇ、っあ!」

 身体を転がし、うつ伏せに組み敷いた少女の肩甲骨から生える翼。その付け根に舌を這わせた。びくっと二枚の羽が恐れたように震え、小さく上下に動く。

 「…………ここ?」
 「やっ、だ、だめ! 羽、敏感……だから、触るな、ぁ、ぁん、やぁ……っ」
 「…………ん」

 やだ、やめろ、と悶える少女の訴えを無言で棄却し、重点的に責める。
 エルの翼はふかふかだ。暇さえあれば毛繕いしてるから、極上の羽毛布団にも勝る触り心地。ファンは柔らかい羽に隠れた地肌へ指先を潜らせ、神経の集中していそうな場所を探す。少女は翼の先端よりも付け根に近いほど、切なく身を仰け反らせ喘いだ。

 「…………もう、ほぐれた?」
 「んっ、ぁ、あ……なに……?」
 「準備…………できた?」
 「だか、ら……ぁ、う、なんの、話」
 「…………ここの、話」

 腰骨に指を滑らせた。波打つように震える肌を下り、やや体温の低いお尻を撫で回して恥ずかしがらせ、その谷間に指を下ろしていく。あ、と何かを予感した少女が怯えた声を漏らし、ぎゅっとシーツを握り締め、耐えるように額を枕に押し当てた。
 ファンは幽かな笑みを忍ばせつつ、少女の大切な部分に触れた。そこは熱い雫で満たされていた。とろりと零れる愛蜜が指に絡みつき、それだけでは飽き足らずに滴り落ちてシーツを汚す。

 「うん。…………ちゃんと、濡れてる」
 「濡れ、る?」
 「エルも…………確かめて」

 手を掴み、そっと少女自身の蜜壷へと導いた。指先が恐る恐るぬかるみに触れた瞬間、少女の身体がびくっと竦んだ。表情に不安がよぎる。

 「え、あ……なに、これ、なんで……」
 「気持ちよくなると…………女の子は、濡れる。大丈夫。濡れるのが……普通で、生理現象」
 「そう、なのか? ……お前が、そう言うなら、いいが」
 「安心、して。今のエルは…………とっても、可愛い」
 「き、綺麗と言え! 可愛いとか、柄じゃな……あ、こら、やぁ……っ」

 指先が妖しくエルの入り口を探った。トロトロの蜜をすくい取り、指にまぶして中への道を探し出す。
 そこは狭く、危険な隧道だ。男を誘う蠱惑的な香りで満たされ、蠕動する薄桃色の肉壁が淫らに侵入者を食む。
 …………挿れたい。
 くちゅ、と音を立てて肉の穴から指を引き抜く。少女の喉が、あ、と不服そうな声を形作り、それに気付いたエルは恥ずかしげに顔を伏せる。だが抱きしめる枕と腕の間から、蕩けたとしか表現しようのない瞳でファンを見ていた。恐らくは無意識に、内股を擦り合わせながら。
 ファンは汗に濡れた少女の身体を翻す。顔と、胸から上を隠すように少女が抱き締めていた白い枕を透過で奪い、後ろに捨てた。正面から向き合う最初の体勢に戻る。が、最初に戻っただけなのに、少女はバッと両手で顔を隠す。

 「み、見るなっ、馬鹿!」
 「…………何で?」
 「だ、だって今、ぜったい、変な顔してる、から……」
 「…………」

 やっぱり、可愛い。
 …………けど、微妙にずれてる。
 愛らしく膨らんだ乳房の先端も、立てられた膝の奥で濡れる割れ目も丸見えなのに、顔を気にしてる。
 ファンは膝に手をかけて、ゆっくりと左右に開いていった。そのまま身体を進めて、少女が足を閉じられないようにしてしまう。硬く反り返った竿で、隠されなかったワレメを上下に擦る。
 はっきりと少女の身体が緊張を帯びた。かつてない灼熱に秘所を擦られて、鋭く息を飲む。

 「…………顔」
 「あ、え……?」
 「顔、見せて…………隠さ、ないで」
 「……っや」
 「…………」

 首を振って拒絶され、ファンの無表情に別種の感情が混ざる。腕を伸ばし、両手首を掴んだ途端に少女の起こした抵抗も、くちゅ、くちゅと少女の入り口を擦って弱らせ、隙を突いて無理やり腕を左右に広げさせた。――そこで現れたものに、ファンの思考が止まる。
 エルは、泣いていた。
 頬に伝うほどの雫が、ポロポロと、落ちていく。

 「…………エル?」
 「だから、見るなって、言ったのに……」
 「…………何、で」

 エルが、望んだことなのに。番いになれと、初めに求愛したのはエルの方なのに。
 …………何で、今更になって……泣く?

 「……別に、お前が嫌だとか、怖いとか……そんなんじゃ、ない」
 「…………」
 「番いたい。私はファンと、そういう関係になりたい。……けどファンは、お前自身はどうなのかと思って」
 「…………?」
 「今夜の契りが、お前の気まぐれでないと……誰に分かるんだ」

 語尾を震わせて、少女が訴える。

 「人で嬉しいとは、言ってくれた。嬉しかった。……でもそれ以外は何も、私は、私……は、何も聞いてない。好きも、愛してるも……なくて。番いたいとさえ、お前は言ってくれなくて……きゅ、急に、不安になったんだっ。今夜だけで、お前が私を、捨ててしまうんじゃないか、って……は、はは。おかしいな、今更、本当に今更、こんなこと言って。き、気にするな。私は、平気だから――」
 「エル」

 遮るように言って、ファンはその翼ごと少女を掻き抱く。
 不安に揺れる気弱げな――強気さのまるで見えない瞳を間近で覗き込み、



 「僕の子供…………産んで?」



 鳶色の瞳が、大きく、揺れる。真珠に似た涙の粒が、つ、と頬を滑り落ちて。
 掛け替えのない宝物をもらったように、少女はその言葉を胸の奥で抱き締め、俯き。声を震わせて、小さく、けれど確かに、はい、と頷いた。



 ・
 ・
 ・



 終わってみればそう長い時間でなかったのだと思う。だがファンも、エルも、そうは感じなかった。五感の全てが一点に凝縮され、時計の針は濃密な意識の狭間で速度を落とす。
 くちゅ、と音を立てて灼熱の切っ先がエルの中に沈んだ。おずおずと秘肉がファンを出迎える。抵抗は呆気ないほど弱く、儚く、ぐっと腰を進めた瞬間、一気にファンは少女の中に入り込んだ。
 あ、とエルの身体が震えて、掻き抱く四肢の力が強くなる。上擦った吐息に切なく眉が寄って、初めてを喪った衝撃に喉を反らす。

 「あ……ぁ、ファン、ファン……っ!」

 自分を求める声にファンは優しく口付け、唇を味わいながらゆっくりと腰を動かした。絡みつく襞を引き剥がし、深く擦り上げる。

 「やっ……あぁ……ぁんっ……だ…め、あっ、だめ――っ」

 や、やっ、と少女が喘ぎ啼く。ナカを何度も擦られ、初めて知った快楽が瞼の裏で火花となって弾ける。ファンの先端に奥まった部分を突かれた瞬間、背筋を這い登った信じられない電流にエルは悲鳴し、耐え切れず猛然と広がった背中の翼がベッドを叩いた。

 「っ…………!?」

 勢い、反動で組み敷いていたファンの身体が跳ね上がり、危うく後ろ頭をベッドの端でぶつける寸前角を透過する。当然少女の中からも抜け出てしまって、一旦床に降り立ったファンは少女にもの言いたげな視線を送った。我に返ったエルがベッドに座った姿勢で、自らの犯した過ちに顔を青ざめさせた。

 「あ……ご、ごめ……わた、し、そんなつもりじゃ……!」
 「…………暴れ鳥」

 冷たい言い様にひくっ、とエルが喉を鳴らし、震えながら俯いた。翼と一緒に縮こまってしまった少女に憤然と近付き、ファンは下を向く少女の顎に手を当て無理やり自分の方を向かせる。失敗に涙の浮いた瞳を無表情に睨みつけ。

 「…………バカ」
 「ひ、ぅ……っ」
 「羽、動かしたいなら…………ちゃんと、言う」
 「………………え……?」

 呆然と、鳶色の瞳が見上げた。そこに浮かぶ雫を、やや乱暴に拭ってやりながら、

 「…………エルが、楽な姿勢で……もう一回」

 常と変らぬ、眠たげな無表情でそう告げた。
 少女はしばらく自失した様子で言葉を失い、やがて日を浴びて花開く朝顔のようにぱぁっと満面に大輪を咲かせる。

 「うん……もう、一回……うん! ――なぁ、ファン!」
 「?」
 「やっぱり私、ファンが大好きだ!!」

 数秒前が嘘のような笑顔を浮かべ、全身で腕の中に飛び込んでくる少女を、わ、と少しよろめきながら抱き止めた。身体中で喜びを表現する少女を眠たげながら困った風に見下ろし、その背中を叩いて落ち着かせる。

 「エル。…………後ろ、向いて」
 「後ろ? ……こう、か? っあ、ん……っ」

 仕切り直すように、背後から抱き締めるように回した両手で柔らかい少女の乳房を掴んだ。ふにふにと揉みほぐし、うなじへ熱い息を吹きかける。乳頭をあやして快感を思い出させ、そっと片手を下に滑らせる。や、とエルは身をよじった。ファンは構わず、破瓜を終えたばかりの秘所に指を挿し入れる。ねっとりと絡む愛蜜に交じり、微量の赤色が指に纏わりつく。ラナの時より、出血が少ない。そう思いながら少女の感じるだろう場所を探り当て、指の腹で撫でた。

 「ひぁっ! ……ぁ、あ、あっ、そこ、や……っあ」

 びくびくと姿態が痙攣し、羽もまた刺激に耐えかねてその身を伸ばす。
 翼は少女の一部。快楽を得て身体が反り返るように、あ、あ、と喘ぐ少女に呼応して天井へと伸び上がる。
 手足と一緒で、時折反射的に跳ね除けようと動く翼をすり抜けつつ、ファンはゆっくりと少女の身体を前に倒す。優しくうつ伏せにベッドへ横たえ、腰に回した両手でお尻を高く上げさせる。少女の秘すべき部分が、前も後ろも全て見えた。
 どこに視線が注がれているか悟り、やぁ、とエルが腰を揺らす。しわのような窄まりをなぞりファンが軽く意地悪してやれば、姿態を震わせてぎゅっとシーツを掴み、だがラナと違って抵抗しなかった。ファンは仄かな愉悦を口の端に乗せ、少女の背中へ覆いかぶさるようにして角度を合わせる。
 背に乗った重みと秘所へ宛がわれた灼熱――喜びの予感に、ん、とエルが呻く。
 ファンは腰を進めて、再び少女の中に入り込んだ。

 「ふぁっ……ぁ、あ……ん……っ」

 二度目の挿入に蕩けそうな声でエルが啼いた。悦楽の痺れが肌を重ねたファンにも伝わる。
 初めてを終えたばかりだと言うのに、少女のナカは何枚もの襞を複雑にうねらせてファンの雄に絡みつき、奥へ奥へと手繰り寄せ誘う。は、とファンは荒い息をつく。顎から滴った汗が少女のうなじに落ちた。自分が食べているのか、少女が食んでいるのか分からなくなりながら、込み上げる衝動を押し殺し力強く抽送を開始する。

 「ひっ、あ、あ、ん……んっ……う……!」

 濡れそぼった姫割れに湿った音が連続し、後ろから腰を打ち付ける都度部屋に響いた。は、は、と二人分の荒い息がただ一瞬に無かって昂ぶり疾走する。
 ファンはまるで初めてのような荒々しさで少女を犯した。ただ自らを包み込む温もりに集中し、少女との交わりに全てを傾けた。あん、あん、と擦るたびに上がる声。腕の中で、身体の下で、失っていた時を取り戻すよう急速に“女”へ目覚めていく異性。
 ――――この少女はもう、僕のもの。

 「……っ…………!」

 暗い情動に身を染めつつファンは呻く。本能的に締め付けてくる少女の奥を最後の一突きで穿ち、止まる。刹那の予兆を感じ取った聖なる器官が、波打った。
 直後、魂が抜けるほどの至悦を伴い吐き出された白濁が最奥を埋め尽くす。

 「ふわっ、あ、ぁ、ぁぁあああ………っっっ」

 注がれ、白く炙られ、ぴんと張りつめた姿態がわななき震え、少女はあ、ぁ、と声を遠のかせてファンの欲望を受け止めた。尿道を這い上がった白濁液に膣奥を嬲られ、焼けるような熱さに弛緩した身体がくずおれる。

 「……は…………ふ……」

 渾身の息を吐いて、ファンは心地よい少女の中から己を引き抜いた。鳶色の翼がぴくんと揺れ、悦楽に惑う少女の喘ぎが、ぁ、と仄かな寂しさを滲ませる。そんな少女の隣に脱力した身体を沈ませたファンは、数秒、少女を見つめ、それからおもむろに腕を伸ばし、ぐったりした身体を抱き寄せた。少女の両手が半ば以上無意識に縋りついてきて、互いを慰め合うように、そっと無衣の身体を重ね合った。

 「…………エル」

 舌の上で、自分のものになった名前を転がす。
 ファンは最前まで、胸に抱く少女の中にいた。呼吸も、鼓動も、快楽も、全てが一体化したかのような共感の狭間で繋がっていた。なのに今や解け、肌を合わせていても離れ離れになった寂しさが拭えない。ずっと繋がっていられたら、どんなに素敵だろう。
 少しずつ、少女の意識が復帰する。初めての悦びに果てた瞳が忘我の淵からゆっくりと浮き上がり、光を得た。

 「……あ……ファン」
 「ん…………どう、だった?」

 静かに問いかけると、鳶色の少女は瞬きして、かぁっと頬を染めてお腹を押さえた。

 「その……まだ、中が……熱い」
 「…………」
 「すご、かった。……まだちょっと、ふわふわする」
 「…………もっと、したい?」

 背骨に沿って指を這わせると、びくんっ、と信じられないぐらい感度の良い反応が返り、エルの身体が大きく竦んだ。

 「はっ、ぁ、や……ぁ、今、や……。また……また、今度」

 恥ずかしげに俯き、“次”のお願いをする少女に、ファンは少しだけ残念な気持ちで頷いた。
 心地よい疲労感が二人を包み、瞼を重くしていく。エルの瞳が、睡魔に連れ去られながらファンを見上げた。

 「私は……ファンを満足させられたか……?」
 「…………うん」
 「ラナ、よりも?」
 「…………」

 答えに窮して、沈黙してしまったファンにエルはそっと微笑む。

 「いい。後れを取ってるのは……分かってるから」
 「…………エル」
 「でも、すぐ……追い付く。……がんばる。私、だって……ファンに、相応しい……女に………」

 瞼が落ち、すう、と穏やかな寝息が零れる。ファンは眠りについた少女を見つめながら、腕を透かして掛け布団を手繰り寄せて自分達の上に掛けた。
 エルは安堵しきった表情で、ファンの腕に抱かれて眠る。普段の勝気さは薄れ、絶対の安心をもたらしてくれる父母に抱かれているような、幼い子供の顔。
 何となく、ファンは理解した。エルが本当に欲しかったのは、父か母なのだ。無条件に自分を守り愛し甘えさせてくれる存在として、両親や家族以上のものはない。けれど年下のファンを父や兄のように慕うことなどできなかったから、一生を寄り添い支え合う比翼連理の番いとして、自分を求めたのだ。
 でも、とファンは心の中で囁く。
 父にも兄にもなれない。羽を持たず、寿命だってどうなるか分からない。そんな自分はきっと、番いと言うにはちぐはぐで、不適。
 …………でも、エルは僕のもの。
 少女の裸身を抱き締める。この身体は僕のもの。唇も、瞳も、涙も、胸も、秘所も、膣も、子宮も、蜜も、心の中も、全部僕のもの。愛おしく見つめ、誰にも渡さないと心に決める。処女はもらって、唇もくれて、想いもまた自分に向けられて。孕んだ時を思い浮かべ、暗く不吉に、ファンは哂う。





 エルが願う通り、ずっと守って、愛して、甘えさせてあげる。子供を作って、家族となって、ラナと一緒にいつの日か分からない未来まで、幸せいっぱいにしてあげるから。





 …………だからいつか、命も頂戴?





[19773] 風呂・気まぐれ・エマージェンシー
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:45c84e62
Date: 2012/04/01 11:08
 ~am.6:37~

 暑気もこの時間帯ならまだ弱く、涼しげな風が吹いていた。
 しかし靴を脱ぎ、ラナが編み籠を片手にそこを訪れると、途端に水気の籠もるむっとした熱気が昇った。

 「おはようございます」
 「あ、おはようラナちゃん。今日は一人?」

 入り口近くにいた女性の声を皮切りに、次々と別の女性が笑顔で挨拶を投げかけてくる。

 「おはよ~。早いね、いっつも夕方ぐらいなのに」
 「彼氏さんが帰ってきてからそうだよねぇ……。それまではちょーっとおざなりだったけど」
 「分かる分かる。やっぱり好きな人の前では綺麗でいたいよね!」
 「そう言う自分は恋人作る気ゼロじゃない。知ってるわよ? 二日前だって……」
 「あー! ちょっと、何で知ってるの!?」

 賑やかだった。果てしなく。延々と続く姦しさに苦笑して、ラナは空いている棚に編み籠を置いた。
 石造りの広い空間だから話し声が奇妙に反響する。くすくすと語られる美容の噂に、どの男が優良物件か秘密めいて囁き、もし別の街に行く機会があったらあんな服が欲しい、こんな物が食べたい、そういった女性だけの楽しげな話題の花が咲き誇っていた。
 そこは男が入ること叶わぬ楽園。
 風呂場の女湯だった。
 形や深さ、広さ、台座のあるなしなど数種類作られた浴槽に、しどけなく肌をさらした女性たちが腰掛け、浸かっている。みんなラナより年上で、戦いの傷があったり火傷の跡が残っていたりするものの、まだまだ未発達なラナと比べれば豊かだった。
 具体的には胸とかお尻とか。ファンのことを思い出して、ラナは顔を赤くする。
 壁際の脱衣スペースでトンファーをベルトごと外し、前開きのスカートを落とした。
 と、ラナの背後から影の如く密やかに魔手がにょきり。はっとなったラナが慌てて防御に転じようとするも、時既に遅く腋の下から蛇のように顎を開いた二本の腕が――
 がっしと、ラナの胸を鷲掴みにした。

 「っひゃぁああ!?」
 「ぐふふふ……順調に育ってますなお姫様~? ファン君にこうやって毎日揉まれてるからだね?」
 「や、やめてくだ……ぁう」
 「か~わいっ♪ ねえねえラナちゃん、今夜はお姉さんと一緒にイケナイことでも……いやいっそ永続的に関係を!」
 「はいそこまで」

 がん、といい音がしてラナを陥落させるべく揉みしだいていた腕が外れた。ぐおお、と女性にあるまじき呻き声で魔手の主が蹲る。
 その背後から肌にタオルを巻き、トンカチを肩に担ぐ女性が呆れ顔で現れた。

 「マジ揉み厳禁。何回目だアンタ。……ラナちゃん、だいじょぶ?」
 「は、はい。ありがとうございます…」
 「まあもう恒例っちゃ恒例だけど、油断してるラナちゃんも悪いよ? やらしー事が大好きなお姉さんはそこら中にいるんだし。ラナちゃんはあれよ、羊の皮をかぶった狼の群れに迷い込んだ子ウサギ」
 「……安全地帯はどこですか」
 「凶暴なライオンのそば。喰われるけど」

 食べられたらダメだと思う。
 恒例という言葉の通り、ラナが今みたいに遊ばれるのは珍しいことではなかった。バルティゴで働く女性たちの中でほぼ一番年下なため、“鬼姫”のあだ名とは別にお姫様扱いで可愛がられるのだ。良くも悪くも。胸を揉まれるのも初めてじゃない。
 ラナが若干乱れた服を整えている間に、復活した女性がふらつきつつ立ち上がった。

 「痛つつ……い、いくら何でもハンマー有り得なくない!? てか何で持ってんの?」
 「整備部だし。常習犯には相応しい仕打ちだと思うけど」
 「よーし上等。貸してみなさいおんなじこぶ作ってあげるから!」
 「性犯罪者に貸す工具はないよ」

 火花が散り始め、ラナはこっそり編み籠を取り出し別の場所に移動した。というか逃げた。あの二人が喧嘩を通り越し乱闘に至るのはいつものことなので、周りはむしろ観戦ムードだ。

 「……足、滑らせないといいけど」

 脱衣スペースは敷き板だが、他はタイル床。
 案の定、心配した矢先にもみ合いになった二人がまとめてすっ転び、互いの頭に額をぶつけていた。
 タオルが解け、凄絶なダブルノックダウンに弾ける笑い声。ラナも小さく笑いながらズボンを脱ぎ、ブラウスのボタンを上から外す。

 「――お、おい。どこに連れて行く気だ!?」

 一番下まで外したところで覚えのある声が聞こえた。
 え、とラナは入り口を振り返る。曇りガラスの向こうに赤い影が映る。それがとある少年の真っ赤な上着であることに思い至るまで一秒。その一秒で少年を止めるための時間は使い果たされた。
 ガラッ、と、何の躊躇もなく扉が開け放たれた。

 「…………」

 沈黙、静寂。余りにも平然と踏み込んで来た少年に悲鳴一つ上がらない。……いや、革命軍に所属するだけあってたくましく、悲鳴を上げるほど純情な女性がいなかっただけかもしれないがともかく。

 「ファン――っ? な、な、何してるの! ここ女湯だよ!?」
 「…………ラナ」

 赤紫の瞳が丁度いい、とばかりに瞬いた。そのまま何か、抵抗しようとしてるらしい相手の腕を引っ張り、ずるずると脱衣スペースに歩いてくる。その連れてこられている相手に、ラナは目を丸くした。

 「……エル?」

 大きな鳶色の翼を縮こまらせ、不遜な態度はどこへやら、なぜか怯えた顔の少女がファンの腕を振りほどくこともできず連行され、ラナの前に押し出される。
 ファンの腕が離れた直後、エルは人見知りをした子供みたいに慌ててラナの背中に隠れた。ブラウスを引っ張られてつんのめりかけるが、どうにかこらえて困惑の目でファンに説明を求める。

 「エル、何があったの?」
 「…………荒療治」
 「……はい?」
 「後は…………よろしく」

 言うだけ言って、ゆらりと踵を返すファン。全く説明になっていない。
 いつものことだけど。

 「――ちょ、ちょっと待てーっ!」

 そこでようやくフリーズから立ち直った女性――トンカチで殴られ額をぶつけ合って悶絶していた人が、タオルで前を隠しつつファンを呼び止めた。

 「…………なに」
 「なにじゃないっ! こう、何か感想は!? 乙女の楽園を目の当たりにして燃え上がる煩悩はっ!?」

 気炎を上げる女性にラナは思い出す。そう言えばあの人、以前ファンに着替えを覗かれ素通りされて怒ってた人だ。
 ファンは一つ二つ瞬きし、ゆっくり視線を巡らせる。事情を分かっていなくとも、十三歳の少年に向かってからかい混じりにしなを作り、あるいはウインクしたり胸の谷間を見せつけたりする女性が多発する中、ファンは眠たげな無表情を欠片も崩さず言い放つ。

 「…………男風呂より、設備が充実」

 空気が凍りついた。お風呂場なのに吹雪が吹き荒れた。
 ああ、ファンが女湯覗いて注目するのそこなんだ。ラナはがっくり項垂れる。思えば恋人の自分でさえボタンを全部外したブラウスに下着一枚のあられもない姿なのに、こうも無反応だと涙が出そうだ。……いや、反応されても困るのだが。
 女としての見栄とか誇りとか尊厳とか軽く木っ端微塵にしてくれた少年は、ぱくぱくと感情が空回りして声になっていない女性から未練もなく目を放し、ゆらりと入口から出て行った。
 後に残ったのは、居たたまれない空気とぶつけ所のない憤怒。

 「っっっ……ラナちゃん! ファン君ちょっと本気で誘惑していいって言うか夜這いするからって言うかこれはもう寝取るしかっ!!」
 「落ち着け」

 がんっ、と二度目の快音が鳴り響く。
 頭を押さえて蹲った相手を尻目に、整備部の女性はやれやれと。

 「しっかし初めて近くで見たけど、凄いね、あれ。今のラナちゃん見ても平気の平左だし」
 「すみません、悪気はないんです……多分。でも女湯まで入ってくるなんて」
 「ああ、そっちは別に問題ないよ。一応ここ、子供はどっちの風呂に入ってもいいし。今更ガキに見られて恥じ入るピュアな奴なんていないし。……むしろ、見られて反応されないのが女としちゃきついよ」

 やっぱりそっちの方がショックか。ラナは浴槽でずーんと暗雲背負って落ち込む十数名に申し訳ない視線を送る。自分の魅力に自信を持っていた人ほど落差が激しかった。
 とんとん、と整備部の女性が金槌で肩を叩き、気を取り直すように言う。

 「で、ラナちゃんの後ろに隠れてるあからさまに能力者な子は誰? 見たことないけど」
 「あー……えっと、エル?」

 自己紹介を促したのだが、何だかえらい勢いでぶんぶん首を振られて拒否反応。
 お互い正しい意味で顔を合わせてまだ一日だったが、それでも初めて見る態度だった。
 少し困った顔で、ラナはこの症状に当てはまる原因を考えてみる。
 ラナがトゥム・ユエルテを知ったのが昨日のお昼。それからアゼリアの能力で記憶の夢に旅立ち、目が覚めてみれば夜明けだった。それはつまりファンとエルをまるまる一晩二人っきりにしてしまったわけで、ががーんと激しくショックを受けてしまったがそこは今関係ない。
 周りに聞こえないよう首だけで振りかえり、背中のエルにラナは囁く。

 「ファンと……したんだよね?」
 「……」

 かぁっと赤くなる耳。それが答えだった。
 そっか、とラナは呟く。ほんの一瞬、胸の奥で嵐のような感情が渦巻いた。
 だけど―――背に隠れ、自分のブラウスを必死で掴む手の震えが、生まれたての雛を思わせる頼りなさが、そっと染み入るように醜い心を和らげた。
 でも、そうだ。昨日アゼリアさんに見せてもらった過去が真実なら。

 「……エル」

 呼びかけて、体温の高い子供みたいな手に触れて、やっと顔を上げた怯えた様子の瞳に、ラナは思い切って尋ねる。

 「ひょっとして……ほんとのほんとに、人見知り?」
 「……」

 数秒、間があって。

 「……ひ、人がたくさんいる場所は、まだ、その……慣れなくて」

 なるほど。
 何十年も人であることをやめて、人と関わらなくて―――だから人が、恋しくて怖い。
 荒療治の意味が分かった。
 沈黙した自分を恐る恐る見上げてくる鳶色の少女に、ラナは優しい笑顔を向ける。

 「エル、ここの人たちは戦闘職の人もいるけど、純粋な力だったら多分エルが一番強いよ」
 「そう……なのか?」
 「うん。だからね、本気で腕とか足とか振り回したら、普通に怪我しちゃうの」
 「……?」

 何を言いたいのか分からない。そんな表情で見上げる精神年齢六歳の少女に、ラナは笑顔のまま言い放つ。

 「だから―――皆さんもそこのところ、承知した上でお願いします」
 「……え?」

 エルが本気で首を傾げた、直後。
 キュピーン! と妙な具合に目を光らせた女性が、一瞬でラナを盾にする少女の肩を掴んだ。
 ひっ、とこれまた本気の怯え声を発するエルに、ぐふふふふ、と不気味な笑い声が木霊する。

 「ううううううカワイイッ! ラナちゃん何この子! エルちゃんって言うのよね? なんで今まで教えてくれなかったの!?」
 「なっ……や、ど、どこ触って!?」
 「ああまだるっこしい全部脱がしちゃえ♪ ちょっとそこ暇そうな数名、見てないで手伝いなさい!」
 「きゃぁあああああああ!?!?」

 うわぁ、エルもきゃあって悲鳴上げるんだ。いや六歳の頃から一人きりで、いつもの大人びた口調が無理してる仮面だから、むしろこっちが精神年齢的に正常なのか。
 そう納得するラナが見る前で、エルの着衣が宙を舞う。整備部の女性が一人冷静にそれを畳む間に、ファンとは比べ物にならない強度で連行され頭からお湯をかぶせられるエル。だが下手に突き飛ばしたりしたら相手が怪我をすると教えられたせいで、ろくに脱出を図ることすらできていない。
 そのまま全身丸洗いコース、すなわち全身隅々までお触りコースに突入し、きゃあきゃあと間断のない悲鳴にラナはそっと目尻を拭った。
 ごめんね、エル。でもこれがエルのためだから。……うん、私も通った道だからって、おんなじ目に遭わせようとか、そんな悪辣なことはこれっぽっちも考えてないから。ね?










 ~am.7:02~

 「…………ひ、酷い目に、遭った」

 散々洗われて、身体中触りまくられて玩具にされて。精根尽き果てた様子でエルがぶくぶくと口まで湯船に沈む。が、そのまま本気で沈みかけて慌ててざばんと立ち上がる。

 「何してるの?」
 「い、いや、一瞬水が危ないこと忘れてて……!」
 「……海水だけじゃなくて、お湯もダメなんだ? 能力者って」
 「知らん。が、少し力が抜けかけた」

 結構危険らしい。でもそこでラナはまた一つ納得する。ファンが一人で入る時はいつも寮のシャワーな理由が初めて分かった。あそこは狭いし自分でお湯を炊かないといけないから、人気がないのだけど。
 今度は浴槽の縁にしっかり掴まりながら、そぅっとエルが隣に浸かる。はぁ……と、身体の芯から温める湯温に頬を緩め、感動した声で言う。

 「……お風呂だ」
 「ど、どうしたの?」
 「だって、もう二度と入れないと諦めてた……」

 例の無人島で暮らしていた間はずっと砂浴びか、偶の雨で済ませていたらしい。
 ふわぁぁ……と蕩けていく。そっと瞼を伏せて浴槽にもたれかかり、エルは文字通り羽を伸ばした。
 整備部の人も、率先してエルを洗いまくった女性も、湯船に浸かってなぜか消えない翼に何の嫌悪感も示さず、それどころか興味深そうにしていた。やっぱり能力者に対する垣根は一般的な市民の方が高いんだなぁ、とラナは思う。

 「……」

 それまで騒がしかった分、静かな空気が漂った。他に入っていた女性たちもこれから仕事だからと、もうまばらだ。こういう人が集まる場所には、不思議と混み合う時間帯とそうでない時が生まれる。今は人の少ない時間だった。
 のぼせそうで、ラナはお湯から上がる。タオルを前にかけ、足だけ湯に浸して浴槽に腰かけた。

 「昨日の夜……どうだった?」
 「……ファンとのことか?」
 「それ以外に何があるの」

 短く切り捨てるように言うと、エルが自分を見上げたのが分かった。だがラナは、お風呂場の天井に目を向けて、視線を合せなかった。

 「どう、と言われても……どう答えればいいんだか」
 「何でもいいの。素直に言ってくれたら」
 「……言わなきゃダメか?」
 「黙秘するんだったら、次のお風呂でみんなに遊ばれても助けてあげないよ?」

 ちょっと意地悪に唇の端を曲げて囁くと、エルが弱々しく眦を下げた。

 「そ、それは勘弁してもらえないか?」
 「ダメ。恋敵だもん」
 「う~……。……その、な? 何と言うか」
 「うん」
 「やっぱり私は、ファンが好きなんだって、よく分かった」
 「……うん」
 「一緒に寝て、あんなことされて……ぶっきらぼうに見えて、でも優しくて」

 昨夜の行為を思い返しているのか、エルは赤くした頬を俯いて隠す。

 「……優しかったの?」
 「ああ。……何だ?」
 「ううん、別に」

 何でもない、と言いながら若干声が低くなったのが自分でも分かった。エルが微妙に距離を取る様子も目に入らない。
 ……そっか。
 エルには優しかったんだ。…………ふーん。

 「わ、私のことはもういいだろう? それより、こ、今後の私たちの関係だが」

 なぜか焦ったようにエルが話題を変えた。ラナはそこはかとなく無自覚に漏れ出していた黒い空気を霧散させ、少し冷えた身体にお湯をかけながら頷く。

 「そうだよね。……とりあえず、どっちが一番とか二番とかは決めない方向で」
 「……ファンが決めることだな。決めるつもりがあるのか疑問だが」

 それを言ったらおしまいな気がする。

 「他には、えっと、寝る場所だけど」
 「……それもファンが決定権握ってるんじゃないか?」
 「だよね……。でも、だとしたら、私たちの間の決めごとって何があるのかな」

 部屋はたぶん三人で使うことになる。男一人に女二人の環境。周りから何を言われるかという不安はあるが、どうせそう遠くない内に出て行くのだ。
 ドラゴンとの約束は一年契約。もちろん更新可能だが、余り長く革命軍に関わり過ぎると後々困った事態に陥る可能性が高い。だから一年。故郷の島を参って、それから住むと決めた街に降ろしてもらう。そういった話をファンやドラゴン、アゼリアに時々イーゼルも交えて何度か行っていた。
 幾つか候補は上がっている。能力者に寛容で、理解があり、比較的平和で、自衛能力を持ち、安定した暮らしができる。そんな贅沢な条件に当てはまる島など、そう多くはなかったが、それでも幾つか絞り込んだ。後は航海の途中に可能な場所だけ寄港してもらい、実際に目で見て決めるだけだ。
 その期間を考えれば、バルティゴで生活する時間は残り少ない。
 仲良くなった人たちの顔を思い浮かべ、ラナは小さな溜息を零す。
 出発の日取りはできれば十日前には決めてほしい。そう言っていたドラゴンの顔を思い浮かべながら、バルティゴに滞在しているだろう残りの日数を指折り数え、ラナはふと動きを止める。

 「……エル。決めごとじゃないけど、二人でできることあるよ」
 「ふん? まあルールに関しては追々決めればいいが……何だ?」

 そろそろ湯当たりしそうなエルに、折り曲げた七本の指を開いて見せる。

 「あと一週間で、ファンの誕生日だよ」










 ~am.9:43~



 立て札があった。眠たげにファンはそれを見上げる。

 → ラナ
 ← エル

 矢印は逆の方向を示している。どちらかに会えばどちらかに会えない。そんな意味らしい。
 しばらくじっとその文字を眺めていたファンは、やにわにナイフを閃かせた。すっぱり真横に断ち切られた板の上半分を拾い、立て札の残りと重ね合わせ釘代わりにナイフを突き刺す。
 出来上がった作品に一度小さく首を捻ると、ファンはぐるりと立て札の向きを変えてしまった。そして無表情ながら満足げにこくこくと頷き、もと来た道から外れることなくまっすぐ進む。

 ↑ ラナ
 ↑ エル

 ファンが残した看板は、今や裏も表も少年の歩む方向を指差していた。










 「…………という、夢が……昨日」
 「……それはまた素晴らしく少年らしい夢だと呆れ果ててみよう」

 どこまで我が道を突き進めば気が済むのか。アゼリアはそんな思いも露わに首を振り、ぼーっと座る少年の前にグラスを出して茶の余りを注いでやる。ファンは一つ瞬きして、真鍮製のグラスを興味深げに持ち上げた。
 アゼリアがにやりと唇を曲げる。

 「金属製のグラスは珍しいか? 何だったら少年にあげよう」
 「でも、これ、黄金」
 「残念ながらそれは真鍮だ。重さが全く違うと指摘してみよう」

 何だかショックを受けた様子でそろそろとファンがグラスを下ろした。赤紫の瞳がまだ半ば信じられないように見つめている。

 「墓を埋める作業は不毛だが、無知を埋める作業は有益だ。……しかし、少年が私を訪ねるなど珍しい。夢人間だから夢の話をしたかったわけでもあるまい?」
 「…………暇」

 注意深く、再度両手で持ち上げたグラスにおっかなびっくり口を付け、スプーンともフォークとも違う口当たりに瞬きしながら、眠たげな無表情に戻るファン。薄い唇がぶつ切りの単語を音にする。

 「ふむ。まあ少年に仕事を任せるのは私も司令官殿も気が引ける。その場限りのお手伝いならともかく、当番だの何だので集団行動に組み込むのはいささか怖い。否、いささかどころでなく怖いと改めてみよう」
 「…………赤?」
 「それもあるが、気まぐれに仕事を放り出されては他の者が迷惑する。ならば最初からいない方がいいとマイペースぶりをさりげなく非難してみよう」
 「…………さりげなく、ない」
 「かもしれなくもないかもしれない。しかしながら少年が暇で、不肖私がその相手を務めているにせよ―――」

 アゼリアはぐるりとその場を見渡して、

 「―――ここは少々、暇とは言い難い場所だな」

 赤錆めいた匂いに消毒臭が混じる。悲鳴がファンの耳をつんざいた。

 「痛ぇ! いてぇよ……っ」
 「動くなアホウが! そこ、しっかり手足を押さえんか! 麻酔が打てん!」
 「先生! こちらの重傷者、意識が途絶えました!!」
 「殴ってでも引き戻せ、三途の川で泳ぐにはまだ寒いぞっ!」
 「ガ、ガーゼ追加ですっ! 不足してる薬品などありませんか!?」

 怒号が飛び交う。ほとんど悲鳴のような声で指示が出る。
 撃たれた者、斬られた者、折られた者、殴られた者。全員を載せる台などなく、多くは布切れの上に転がされ、重傷者が優先的に外科治療を受ける。
 救われるべき命を持ち去ろうとする、それは死神との戦いだった。ファンの知らない戦場だった。

 「先ほど船が着いたんだが、近くで一戦やらかしたらしい。普段なら逃げるところをアジト近辺だったために殲滅戦となり、勝利したはいいが見ての有様だ。と、情けなくも慨嘆してみよう」
 「…………手伝わない?」
 「手伝った後だ。応急処置で済む連中はもう診終わっていると疲れてみよう。……さすがに重傷者にまで手は出せんし、私がここに詰めている理由はほかにある」

 ? と首を傾げるファンの前に、白衣を血で汚した看護師の一人が駆け寄ってくる。

 「アゼリアさん、お願いできますか」
 「……助からないか?」
 「残念ですが……」

 沈痛な面持ちで看護師が首を振る。一つ溜め息したアゼリアは、億劫そうに、ひどく気の進まない顔で看護師の後に続いた。話の流れが見えず、ファンもゆらゆらと二人を追いかける。
 看護師が案内した先は床で横たわる怪我人の一人だ。――いや、半死人と言うべきか。
 火薬が至近で爆発したのだろう。男の右半身は無惨に焼け爛れ、火ぶくれが皮膚に泡立っている。
 これは死ぬ。ファンでさえそう察した。体表面の二割を失えば命が危なく、だがこの男は皮膚の五割以上が火傷に侵されていた。懸命に水で冷やした後が見られたが、それこそ焼け石に水の容態だ。
 もはや死を待つばかりである男を眺める少年に気付き、看護師が慌てて下がらせようとした。子どもの見るものではないと。しかしアゼリアはそれを遮る。

 「これの面倒は私が見る。それより他の患者を回れと促してみよう」
 「は、はい」
 「…………これ呼ばわり」
 「恨めしそうな声だな少年。しかし今回は優先事項がある。無視させてもらおう」
 
 声に真剣な響きを聞き、ファンは常のように口を閉ざした。片膝をついてしゃがみ込んだアゼリアが、未だ意識を保っていること自体奇跡のような男に囁きかける。

 「私がここにいる意味は分かるな? お前は死ぬ」

 それは、処刑台の台詞だった。ギロチンのような言葉だった。
 淡く、男が左目を開ける。右目は、開かない。火ぶくれが酷く、溶け崩れて。
 し、と掠れ切った喘鳴を聞く。死、と繰り返す男に、アゼリアは頷いた。

 「そう、お前は死ぬ。だから私がいる」

 男が口を開けた。だがもう、声にはならなかった。ひゅうひゅうと呼吸音だけが、男の意思を伝える。
 アゼリアは優しげに目を細め、男の濡れた髪を撫でた。

 「思い出せ。お前には子供がいた。妻がいた。母がいた。父がいた。……思い出せ。平和な日々、戦いのない暮らし。毎日が幸せで、輝いていたあの頃を」

 アゼリアを見る男の瞳が、どこか遠く、遥か彼方を見つめた。ぽろりと一筋、涙が落ちていく。苦痛に喘いでいた呼吸が穏やかになり、静まっていく。緩やかに……小さく。

 「さあ、おやすみの時間だ。……眠れ」

 小さく、小さく。
 そして溶け消えるように……呼吸が、止まる。
 男はもう起きない。身じろぎすらしない。
 逝った。

 「…………」

 茫、と。ファンは男を見下ろした。
 恐怖を抱き、苦しみの果てに至るもの。それが死だとファンは思っていた。
 だが今、目の前に見たこともない死がある。
 男の顔に恐怖はなかった。苦痛の色もなかった。顔の半分を焼け爛れさせながら、その死相は、安らか。 穏やかに、ただ眠っているだけのような。

 「…………、…………夢」

 アゼリアの能力によって、男は幸せな過去を夢見たまま、眠るように死んだのだと悟った。
 死者を前に語られる言葉はなく、立ち上がったアゼリアと並んで椅子に戻る。
 今、一人の人間を看取り、見送った褐色の女性は、酷く疲れ切った様子で机に突っ伏した。
 ファンはその背中をじっと見つめる。眠たげで、ぴくりともしない赤紫の無表情で、しかし確かな感情を窺わせて。
 ゆらり、とファンは踵を返す。向かう先は、ファンの知らない戦場。
 後から考えても、なぜあの時あんな真似をしたのか分からない。ただ、今この時だけ、気まぐれに、奇跡のように、看取ることしかできないアゼリアの代わりに、突き動かされたのだ。
 ピンセットのような器具を片手に、簡易の寝台に乗せられた患者と向き合う医師がマスクに唾を飛ばす。血が止まらない。もっとガーゼを。血管はどこだ。内臓の傷が見えない。そんな単語を聞きかじるだけで、どんな状況か把握できる。
 何の躊躇もなく、医師の向かいで補佐する人の間から手を伸ばす。ほとんどいきなり現れた腕に、ぎょっと医師が顔を上げた。何をするかっ、と怒鳴りかけた瞬間。

 ―――ず、

 と、爪が、指が、手の平が―――患者の肉に沈み込んだ。

 「「「っっ……?!」」」

 台を囲む全員が理解不能な現象を前に絶句し、
 出血が―――止まった。

 「…………縫合、するなら……今」

 眠たげに言うと、凝然と目の前の医師がファンを見た。

 「……能力者、か? 何じゃ、これは」
 「僕は、選んで、すり抜ける……。…………筋肉も、雑菌も、血管も、すり抜けて……でも」
 「血液だけ……すり抜けずに堰き止めたと!?」

 ファンが言い切るのも待てず医師が後を継ぐ。ファンはこくりと頷いた。
 瞬間、医師の表情に怒涛となって押し寄せそうな激情を見た。なぜもっと早く申し出てくれなかった、なぜずっと座っていた、もし自分にそんな力があったなら――!
 だが、全ての感情を押し流し、医師はカッとファンでさえ気圧されそうな光で眼を輝かせる。

 「ガーゼ! 何しとるかっ、この坊やが止血しとる間に腹を閉じる! そこ、手の空いてる奴は患者をもう一度チェックしろ! 盲管銃創、矢じり、刃物、刺さったまま後回しにした連中を連れて来いっ! 今すぐじゃ!!」

 騒然と止まっていた時が動き出す。ファンの暴挙から我に返り、慌てて再確認を行い負傷者を集め、素人のファンが――否、ファンでなければ手伝えないだろう患者を運んでくる。
 直接血流を遮ったことで血の海に沈んでいた傷口が現われた。医師の手が躍るように翻る。ファンは小さく目を瞠った。魔法のように傷が縫われていく。機械のように正確なリズムで。
 瞬く間に腹が閉じられ、次の患者は胸部、心臓の近くに弾を打ちこまれていた。だがファンの手は直接内部に潜り込み、心臓も重要な血管も傷つけてないことを数秒で調べ上げる。そのままあっさりと弾をすり抜いて、後は医師の弟子だという人物に一任する。
 それからはファンは珍しく、自分でも記憶にないぐらい目まぐるしく働いた。誰にできない、この世でただ一人ファンにしかできない手段で、止血し、傷を探し、細かな破片を取り除き、医師を補佐し続けた。

 「……驚いた」

 絶句に等しい呟きで、アゼリアは命の戦場に立つ少年を見やる。

 「……明日は雪か、雹か? 槍衾どころか星が降ってくるんじゃないかと邪推してみよう」

 軽く言いながら立ち上がる。唇に、いつもの飄々とした笑みが蘇る。赤紫の少年のあんな姿を見せられて、座ってなどいられない。
 沈みがちだった空気が活気立つ。戦況は好転する。死の軍勢は追いやられ、苦し紛れに数人の命を攫うのが精々だった。それでも数人、連れ去られた、と医に携わる者たちは悔恨を胸に秘める。
 最後の患者が運ばれ、執刀の多くを担った医師が振り返り、ファンの手を取って助かったと、深く頭を下げた。
 当初見物に徹していたファンを責めもせず、ただ心からの感謝を口にした。

 「…………っ」

 弾かれたようにファンがその腕を振り払い、後ずさった。
 医師も看護師も、少年の奇異な反応にぽかんと呆気に取られる。直後身を翻した少年が逃げるように走り去り、何か機嫌を損ねただろうかと彼らは不思議そうに見送った。
 晴れ晴れとした表情から一転、むぅ、とアゼリアが難しい顔で唸った。










 ~pm.1:57~



 「……で、それからファンは?」
 「アゼリアさまが言うには、気分が悪いとのことで部屋に」

 やや遅い昼餉。
 卓に並んだ料理から一旦手を休め、ドラゴンは渋く眉間にしわを寄せる。

 「自分から医療行為を手伝っておいてそれか……。相変わらず理屈の通じん奴だ」
 「ファン君の反応ですが、簡単に赤くできる状況で赤くせず、それどころか赤を消してしまったため頭の中で矛盾が生じ、混乱したのだろうとアゼリアさまが」
 「……一応、理屈はあるのか」

 相当狭い、恐らくファンの中にしか存在しない理屈だろうが、何にしても困った性格である。だがそれで助かった命もあるのだ。革命軍の司令官としては称賛し、褒美でもやるのが筋だろう。
 菓子と金銭、どちらが喜ぶか。

 「ファンには後で顔を見せる。それより、本題を聞こうか。――イナズマ」

 ドラゴンがそう呼んだ人物は、テーブルの向こうで佇立していた。暖色と暗色、真ん中から極端に塗り分けられた奇抜な衣装をいつもの如く身に纏い、革命軍幹部にしてオカマ王の右腕はワイングラスを傾ける。かと思えばキラッとサングラスが光り、シュビッと妙なポーズを取った。
 変人である。変人なのだが、むしろ変人にこそ有能な人間が多く、使わずにはいられないジレンマをどう処理すべきかが、目下ドラゴンの個人的な悩み事だった。
 イナズマがポーズを崩さないまま報告する。

 「イワ様が身を隠して以来、南の海での革命活動は下火を演じている最中。各々が火を抱き、人々の影に交じりて目眩まし。地下に潜り機が熟すのを待つ……のですが」
 「問題が起きたか」

 濃紫の液体が仄かに揺れる。

 「現在幾つかの支部を急ぎ撤収させています。しかし、海軍に気になる動きが。私は今朝の船で戻ったのですが、それも襲撃された次第」
 「この場所が露見したと?」
 「いえ――恐らく他に軍船を動かしたため、監視範囲をカバーするべく定期の巡回航路を外れたのだと」
 「だろうな、俺も同じ結論だ。ここが本当にバレたなら、ただの一隻で威力偵察などおこがましい」

 バルティゴは革命軍の本部とも言うべき最重要拠点。防衛戦力も相応。しかしいくら防護策を取ったところでバルティゴを強襲されるほど事態が切迫しているなら、ここ一つ守り通したところで高が知れる。危難の際には防衛よりも如何に退避するかが要となるだろう。
 だが今はバルティゴより南の海の動向だ、とドラゴンは思考を切り替える。
 資金、資材、武器に食料。革命行動を成す上で、しかしいずれも必需品ではない。何よりも数を揃えなければならないのは、人である。人数さえ集まれば多少物資が不足したところで瑕疵はないのだ。無論限度はあるが、ドラゴンは軍としての武力よりも、人々が足並を揃えた時に胎動する巨大な“意思”を重く見ていた。
 何万、何十万の人間が集い、ただ一つの目的に向かって走り出す。そのエネルギーは膨大だ。一旦傾けば留まることを知らず、雪崩のように国を呑みこむ。――だからこそ扱うにも細心の注意が必要で、意思を纏め上げられる人材は貴重だった。各支部の支部長などは、そういった人間に任せている。
 海軍がどんな思惑で動いているにせよ、そんな彼らを見捨てるわけにはいかなかった。ドラゴン個人は元より、革命軍を束ねる司令官として。

 「巡回に影響を来すほど船を動かしているなら、正規の作戦行動か。今回、CP9の連中は来ないだろう。暗殺任務でもない。……だとすれば、万全を期して本部の将官クラスが派遣されていると見るが、どうだ?」
 「嫌な推測ほど当たるものです。こちらも最悪の展開を想定してしかるべきでしょう」
 「最悪、か」
 「ええ。――つまり今この瞬間、撤収も増援も終わらない内に敵の侵攻が始まる、など」

 鉄面皮に等しいイナズマの表情から、内心を探るのは骨が折れる。それでもドラゴンは憂慮を読み取り、重い息を吐いた。

 「……俺から見ればそれ以上の最悪があるぞ」
 「?」

 傾くサングラスに、そんな事態は御免こうむる顔で言った。

 「ファンを、現地に“飛ばす”ことだ」

 嫌な空気が部屋に満ちた。一度殺されかけたことを思い出したのか、イナズマの鉄面皮に汗が一筋。
 くまは動けない。表立って革命軍に助力すれば七武海の地位を失う。それは革命軍にとって計り知れない損害だ。
 しかし。
 “暴君”の瞬間移動――実際は超高速移動に興味を示した少年が、“幽歩”を応用発展させた“あの技”を使ったなら。
 “本物の瞬間移動”でファン・イルマフィという無敵に近い戦力を投下できる。
 ある意味まるで夢のような話だった。覇気使いを除いてファンに対抗し得る力はほぼ存在せず、ドラゴンの良心を省みなければ容易に実現可能なのだから。
 とは言え。

 「……各方面の反対を押し切り本人の意思を尊重したとしても、まだ問題が残るようですが」
 「ああ……そればかりは俺も頭が痛い」

 ドラゴンはしわの寄った眉間を揉み込む。その単純明快な不安要素がある限り、赤紫の少年を投入するのはにっちもさっちも付かなくなった最後の手段になるだろう。
 二人で考えを煮詰める作業は終わった。後は動ける船を急行させ、撤収作業を迅速に完了させて人員を回収。それでひとまずは解決する。イナズマがその指示を出すべく部屋の外へ足を向け、ドラゴンはもしもの場合必要となる戦力を勘案しつつ、中断していた昼食の続きとばかりに小魚のフライに箸を刺した。
 二人とも、失念していた。
 嫌な推測ほどよく当たる―――と、たった今話したばかりだというのに。
 電伝虫が、鳴った。

 「「…………」」

 同時に、部屋の扉がノックされる。
 司令官と幹部は顔を見合わせ、それぞれで対応した。
 受話器の取られる音を背に聞きながら扉を開けたイナズマは、現れた訪問者のどことなく青ざめた表情に、サングラスの奥で目を瞬いた。

 「あ、お久しぶりです、イナズマさん。あの……ドラゴンさんは、お仕事中ですか?」

 ええ、ともああ、ともつかぬ曖昧な返答をしたイナズマが後ろを窺うと、苦み走ったドラゴンの表情が見え、電話の中身を否が応にも察してしまう。
 最悪の最悪を考慮すべきかも知れなかった。
 イナズマはだからこそ、頭の中で優先順位を変更し、恐らく事態の鍵となるだろう少女を見下ろした。

 「先に一つ、伺います。用件はファン君についてですか?」
 「あ…はい。そうです」
 「では、急ぎここへ呼んでください。我々もファン君に、至急お願いしたいことがあります。同時に済ませましょう」

 イナズマの申し出に硬い表情で、こくこくとラナは頷いた。










 ~pm.3:11~



 バルティゴで一人の少年がベッドに突っ伏し自分の仕出かした所業に混乱しっ放しの所を呼び出され、激しく機嫌を損ねて一悶着起こし、二人の少女に必死で宥められながら革命軍司令官の元へ赴いた頃。
 遥か遠い海域では、軍船が集っていた。大型のそれが五つ。南の海という偉大なる航路でさえない地域に、これだけの戦力が揃うのは異常だった。

 「あぁ……どうなのよ? 支部一個潰すにしちゃ過剰戦力……あ? ドラゴン? こんな外れにいるわけないでしょうが」

 男のぼやきが聞こえる。ただしそれは船の上からではない。
 ちゃぷちゃぷと砕ける波間に、パキパキと何かが急速に凝固していく音が。

 「あーあー、もういい分かった。あれだよもう、あれ……何だったか」

 極めて投げやりかつ適当に、まぁいいかの一言で会話を片づけた男は受話器を置く。何やら喚く声が聞こえた気もしたが、大した問題でもない。多分。
 枝のように長く細い手足を折り曲げ、気怠げな態度でハンドルに寄りかかる。ハァ、と億劫極まる吐息を漏らした途端、それを吹き飛ばすようにズン、と火薬の花が咲いた。

 「あらら……犯罪者犯罪者言う口で、ご丁寧に開戦の合図か。律儀だねぇ」

 チリリン、と手慰みにベルを鳴らし、アイマスクで光を遮る。視界が暗闇に包まれれば、自然と漏れ出る大きな欠伸。
 ほどなく、ぐおーっと大きないびきをかき始めた男が、五隻の軍艦よりも異常だと誰が知ろう。
 だが見れば分かる。――その居所を。
 肌で分かる。――その寒気を。



 ―――パキパキと凍りつく海を足場に、自転車にまたがる男の姿が異常でなくて何と言う。











~~~~~~~~~~
と、言うわけで遅ればせながら更新。……オリジナルが全く進まず涙。
最近、皇帝陛下は十五歳!というそれはそれは素晴らしいネット小説を読み、若干いやかなりショックを受けていたうたかたです。エロなのにあのクオリティは凄い……。エロシーンを抜本的に見直す必要に駆られ――いやこれは前からなので取り敢えず放置。納得できたら改訂という方向で。
 次話ですが。……一応一カ月を目処にしますが本気でいつになるか分かりません><; 何だか妙な感じで切ってるのにふざけるなと思われるかもですが平にご容赦を……TwT



[19773] 紅散華
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:3be5e410
Date: 2012/04/13 15:12

 革命軍の支部はほとんどの場合、人が大勢集まっても不自然でない場所に構えてある。バルティゴのような無人島に一から造り上げてしまう方が稀で、本部のように基地としての役割を持つのでもなければ、多大な資財と時間を工面するだけ非効率だからである。
 南の海でも三指に入り、大勢の貴族を要する大国の玄関に当たる港町の、ごく普通に立ち並ぶ中心街の一角の、年中無休という触れ込みの本の店が、裏で革命の火をこっそり暖めている犯罪組織の隠れ蓑だなどと、一般市民は普通に生活しているからこそ想像だにしない。
 立ち読み可、座り読み可。椅子まで置かれており、儲ける気があるのか疑わしい本屋として有名で、ただ読みしたい人間がいつも多く詰め掛けている。故にどこの誰が何人出入りしようと気にされない。
 擬装用――だけでなく支部長の趣味も介在したが、蓄えられた多くの書物は革命軍の資料を隠すにも打って付けだ。物資の補給状況や各地の情勢など、本の形に記された機密情報は他の多すぎる書物に埋もれ、搬入するのも船に積み込むのも容易であった。
 しかし世界政府の地道な諜報活動により、十数年もの間隠匿されていた支部はとうとう白日の下に引きずり出された。海軍の動向を悟った時には全てが遅きに失して、海は五隻の軍船で塞がれ、陸は検問と包囲が敷かれ、蟻の這い出る隙間もない。
 進退窮まった支部長は血気盛んな部下が無謀な突撃に逸るのを抑えながら、防諜用の電伝虫を併用し青い顔でバルティゴへと指示を仰いだのである。









 ~pm.3:24~



 「状況を説明する。敵は軍艦五隻、封鎖の人員を除く実働兵数は概算で三千前後。中将が最低でも一人はいると推定される。見た限りの敵の装備は拠点制圧用の重火力武装。陸戦を見据えた迫撃砲も多数確認されている。今はまだ市民の避難誘導を優先し本格的な攻撃には出ていない様子だが、威嚇に一発撃ち込まれたせいでメンバーの動揺が激しい。今は支部長が抑えてくれているが、それもいつまでもつか分からん。また支部の人員はほとんどが非戦闘員だ。何人かは避難民に混じり脱出したが、支部長に近い人間は顔が割れていると想定しておくべきだろう。とは言え、それもどの程度か不明だ。実質五十名余りの人間を隠れて救出するのも無理がある。――つまり、正面突破しか道はない」

 何か質問は? とドラゴンは目を向ける。厳しい視線はドラゴンの私室ではなく、作戦会議用の司令室に集う面々を見渡した。
 情報官、幹部陣、準幹部クラスの人間。それらに混じって、場違いな子供の姿が三つ。
 現地の街路図が広げられた大テーブルを挟み、鳶色の少女はドラゴンの言葉になど興味もない様子で座っていた。だが退屈しているのとは違う。人目に委縮しているのでもない。猛禽のように鋭い瞳はじっと一点に向けられて揺らがず、他の人間とは異なる種類の警戒心を剥き出しにしている。
 そこから椅子を一個挟んで、黒髪の少女が神妙に座っている。男たちが溜息を漏らすほどに整った面差しはドラゴンを向き、しっかり話を聞いているようだが、片手は隣にある赤い裾をぎゅっと握って離さない。いつ走り出すか不明な暴れ馬の手綱を必死になって抑えているような、危ういほどの緊張感が黒曜石の瞳に漂っていた。
 そして少女二人に挟まれ、警戒と緊張の原因となっている赤紫の少年はと言うと。

 「……………………………………………………」

 上を、向いている。茫、と眠たげに。鮮血色の上着と敗血色の半袴を着て、心ここになく天井を見つめ、あるいはその向こう側に蒼穹を見据え、静か過ぎるほど静然とそこに座っていた。
 ドラゴンがファンを見る。全ての視線が集中する。少年は揺らがない。仰ぐ焦点はずれない。微動だにせず、呼吸をしているのかさえ怪しい。痺れを切らしたドラゴンが身を乗り出す。

 「ファン。お前に、言ってるんだが」
 「……………………」

 つ、と。瞳が落ちた。視線の向く先に、ドラゴン――この場で最大の強者を、赤紫の瞳が映した――刹那。

 「「「っっっ…………!!」」」

 部屋の空気が、ざぁっと冷えた。
 エルの翼がぶわっと羽毛の先まで膨らみ、裾を握ったラナの手に信じられないほどの力が籠もる。
 濃密な、少年を源泉とする触れられそうな殺気が、無機物さえ侵しそうなレベルで全員の肌を浸潤した。余りにも死を予感させる、さながら死神の手に撫でられたような怖気に、気の弱い情報官の一人が蒼い顔で崩れ落ち、慌てた仲間が介抱するも既に意識はなく、部屋の外へ運ばれていく。 
 沈黙――沈むような淵黙が澱と降り積もる。
 この場の誰よりも幼い少年に、誰よりも猜疑と不審と警鐘が向けられる。
 それは眠たげでありながら刺々しく、無表情でありながら苛烈に過ぎた、凶暴な殺意に濡れる赤紫。
 だが、少年は動かない。動けない。
 机に投げ出された両腕。育ちきらない細さ、未成熟な華奢、だのに殺戮を是とする両の手首に、石造りの堅牢な枷。
 海楼石。
 能力者を封殺する、手錠。
 それがなければ――きっと、“また”、少年は後も先もなく暴れ出していただろう。

 「……」

 しかし、こう見えて存外に聡く、座学も優秀だと知るドラゴンは、未だ刺さるような殺意の奔流に安堵した。刺さる程度ならまだ言葉が通じる状態だと、否応なく肌で知った経験則がそう教える。念のため黒髪の少女にも目線で確認を取れば、硬い表情だったが、今なら大丈夫と言うようにこくこく頷かれた。
 ふぅ、と安堵を吐息に変え、心持ち表情を緩め、ドラゴンはテーブルに肘を付き、胸の前で指を組み合わせる。

 「もう一度聞くぞ。質問はあるか? ……なければ俺の、俺たちの頼みを、聞いてほしい」
 「…………頼み?」

 薄い唇が開き、幽かな声を放った。だが不思議と、聞き逃せない響きを持つ。音は波である。声は音である。鼓膜をすり抜けて意識にまで届きそうな、能力を封じられようと発揮される、それはファン・イルマフィの特質なのかもしれない。

 「現状は話した通りだ。近くの海域から足の速い脱出艇を送ることはできる。……が、包囲を破るための戦力がない。仮に隙を突いて救助に成功し、包囲の外に出たとしても、今度は追撃を受ける。五十四人の人間が乗り込めばそれだけ船足も落ちる。逃げるだけでは、絶対に振り払えん」
 「…………」
 「だがお前なら――お前の能力なら、最短で半月の航路も一瞬で移動できる。陽動も、封鎖の突破も、お前なら無理なくやってのけるはずだ。そのぐらいの力は見込んでいる。機転も利く方だ。……何より、ファン。お前の透過能力と移動能力なら、恐らくはどんな窮地からでも、生還できる」

 依然として殺気が収まる気配はない。怒りにせよ悲しみにせよ、そして殺意にせよ、一つの情動をこれほど長く保ち続けられるのは既に才能と言えた。普通は感情にも波があるはずなのだ。しかし放出され続ける殺気を、もし、“覇気”に流用できたならば――

 「…………くふ」

 と。
 ぞわり、と。
 周囲に怖気をもたらし、少年が嗤った。
 ドラゴンでさえ数カ月ぶりに見る、仄暗い幽かな笑み。

 「…………赤く、するよ?」
 「……どの程度だ」
 「“全部”。…………街、一個ぐらい」
 「……」

 ラナに確認を取るまでもない。やると言えば、ファンは本気でやる。
 ドラゴンは指を組み直した。

 「殺しすぎるな――と、前に言ったはずだが。大体、殺さずとも済ます方法はある」
 「嫌」

 ぷい、とファンはそっぽを向く。嫌、と来た。そこに論理はない。あるのは単純極まる感情だ。故に翻意させるのは難しい。かと言って街一つなど容認できるはずもなく、ドラゴンは眉間にしわを寄せた。
 これが、理由――ファン・イルマフィを易々とは送り込めない、致命的な、理由。少年に言質を取らせたが最後、いやそもそも殺さないと確約させなければ何を仕出かすか予測は全く不能。無口な分、やると言えばやる、やらないと言えばやらないのがファンである。……“人喰い”の時は幼馴染の少女を傷つけられていたため、例外にカウントされるだろうが、しかし問題を起こさないなんて一言も言ってない、と反省文にあった時は問答無用で書き直しを命じたものだ。
 アイアンクロー如きで抑止になっていたあの頃が懐かしい。胸の奥でドラゴンは溜息する。もう一つ、万が一の時にファンを止められる人材の欠如が不安要素とも言えるが、こればかりはどうにもならなかった。世の中ままならないものである。

 「……あの」

 交渉の余地なく、息詰まる空気に緊張の面持ちで、ラナが手を挙げた。

 「こんな偉い人が集まってる場所で、発言させてもらうのも恐縮なんですけど……それに、ちょっとファンに聞きたいことがあるだけで」
 「いや、ファンの取扱いはラナが一番だ。言ってみろ」
 「…………危険物、扱い」

 不服そうにファンが呟くも、取り合う人間はいなかった。唯一隣に座る黒髪の少女が微妙な顔をしたのみである。鳶色の少女はそもそも議題に興味がなく、ファンの殺気が薄れ始めた段階で退屈気に毛繕いを始めていた。
 ラナは数秒、言い辛そうに指をもじつかせ、意を決して赤紫の少年に身体ごと向き直る。

 「えっとね、ファン。……ファンは、人助けするの、嫌?」
 「――――――――」

 一瞬の出来事だった。ぞっ、と背筋が粟立つほどの荒涼とした寒気が室内を席巻し、ファンが椅子から立ち上がり手枷の嵌まった両腕を振り上げ、凝然と目を瞠ったドラゴンが割り込む暇もなく、凍えるような赤紫の瞳が重量のまま石枷を少女に向かって振り下ろし―――それが忽然と抜き放たれたトンファーと衝突し硬質な悲鳴を奏で、直後猛禽の速さで翻った五指が少年の襟首を鷲掴んだかと思えば、有無を言わさぬ膂力で少年を背中からテーブルに引き倒した。
  沈黙。――皆、唖然。

 「生きてるか、小娘」
 「……ちょっと腕が痺れてるぐらい。ありがとエル」

 礼を言って黒髪の少女が少年を見る。だが周囲の意識が集中する先は、早くもベルトにトンファーを納めた少女である。少年の激発をまるで予期していたように平然と防いだ手際に、周りの目が変わった。噂は噂と、態度を保留していた者たちが噂に一定の真実性を見出した。
 “常識の鬼姫”――何も語るだけが常識ではない。襲いかかられたら、身を守る。“例え恋人だろうといつ如何なる時に如何なる理由で錯乱するか分からないから”、少女は常に備えているだけである。ファンの恋人なんだからこれくらい当然、とラナは“常識的”に思っている。
 それが果たして常識の範疇なのか非常識に分類されるか。向けられる視線の意味に気付かないまま、ラナは恋人の傍に立つ。

 「……ファン」

 打ちつけた背中に呼吸が詰まり、幽かに歪んだ赤紫の瞳が無秩序な殺意を宿す。だがそれ以上反撃できないようエルに手足を押さえられ、殺意は具象せず幽玄に留まる。
 ラナは自分に向けられる視線には鈍かったが、自分の頭上を通り越して行われる無言のやり取りは肌で察した。ドラゴンと革命軍幹部陣が、ファンに作戦を任せるべきか否か意見を戦わせている。声にならないのは、まだ少し見守る余裕があるからだ。
 小さく深呼吸し、少年と囁くほどの距離で目を合わせた。悶えるような殺意が皮膚に喉に肺に潜り込む。
 ――けど、

 「悶えてるのは……ファンだよね」
 「…………っ」

 赤紫の瞳が揺らいだ。ラナは恋人の、子供らしく柔らかい髪を撫でる。手負いの獣に、優しく語りかけるような。

 「ちゃんと、分かってるよ。誰が分からなくても、私は分かるよ」
 「っ…………」
 「でも一つだけ、教えて。……どうしてファンは、人を赤くしたいの?」

 それは。
 それは誰もが胸に抱き、聞けなかったことだ。
 そして誰もが疑問視しながら、少年の性情に確たる理由を求めず各々が勝手に納得していたことだ。狂ってるから、殺したがりだから、殺人に快楽を覚えているから。そう勝手に理屈付けていた。
 一度として、ファンが自らその理由を語ったことがないにも関わらず。

 「答えにくいなら、これだけ教えて。ファンは、人を赤くしたいの? ……それとも、“赤くしなければならない”って思ってるの?」
 「…………」

 少年が、そっと顔を逸らした。

 「…………分かって、もらえない。……ラナでも」
 「そう、だね。……そうかも、しれない。でも私は、教えてほしいよ」

 静寂は逡巡の時間だった。赤紫の瞳が迷い、彷徨う。
 やがてぽつんと、皆が成り行きを見守る中で、少年が口を開く。

 「ずっと…………感じてた。……息苦し、かった。村に、いた頃から、ずっと……」
 「どういう、意味?」

 言葉を探して、瞳が揺れる。

 「……人も、世界も…………赤いのが、本当。あの夜に、やっと分かった……。村が、燃えて。みんな、赤くなって…………すっきりした」
 「ぇ……?」

 小さく、ラナが目を瞠った。少年は続ける。

 「胸で、もやもやしてたのが…………消えた。みんな、ちゃんと赤くなって…………“正しい”状態に、なったから……」
 「正、しい? 死んでるのが正しい……?」

 こくん、と少年は頷く。

 「生きてるのは、全部…………赤く、なり続けてる。……でも、変に赤いから…………ちゃんと、赤くしたく、なる」
 「死生観、か?」

 アゼリアが、思わずといった調子で口を挟んだ。

 「もしや、少年には――“死に続けている”ように見えるのか? 私も、ラナ娘も、羽娘も、司令官殿も、この場にいる全員が、生きながらに死んでいるように見えるのか!?」
 「ど、どういう意味何ですか?」
 「どうもこうもそのままだろう! 人間は生きている限り死に向かって歩き続けている。永遠に生きられる生命などないのだから当然だ。生きることは緩慢な自殺だという言葉もある。だがこれは心理学と言うより、もはや、哲学……」
 「…………赤いのに」

 赤紫の瞳が、茫洋と、どことも知れぬ宙を見て。
 だが不意に――くしゃりと、歪んだ。

 「赤いのに、赤くないから………………気持ち、悪い」

 だから殺せば、すっとする。殺し尽くせば楽になる。中途半端な赤を、鮮血に塗り直す。

 「……そっか」

 そんなはずはないのに、何だか今にも泣いてしまいそうで。少年の髪を、ラナは優しく撫で続けた。
 思うところがないわけではない。本音を言えば、ラナも複雑な感情で揺れていた。
 だけどようやく分かった。少年は別に、殺したいわけじゃないのだ。少年にとっての殺人は、目的ではなくただの手段。目の前にある気持ち悪いものをなくしたいから、奇麗にして、すっきりしたいから、赤くする。
 そう、ファンは殺すなんて言葉は使わない。ファンは赤くするだけ。だから赤くしてしまう時、赤紫の少年はああも楽しそうで、嬉しそうで。赤くすることに意味があるのであって、いたぶるのも、嬲るのも、興味の外。
 それでもまだ、疑問は残る。

 「じゃあ、何で私とエルは赤くしないの?」
 「………………いつか、する」

 目を逸らしての台詞は言い訳めいて響く。だけど赤くしたい気持ちも本当なんだ、と少女は読み取り、仄かに目元を和ませる。

 「いつかって、いつ? 今すぐ? 明日、明後日? 来週? それとも半年後?」
 「…………知らない」
 「赤くしたいけど、したくないんだよね」
 「…………」

 ファンの論理に従うなら、ラナもエルもとっくに赤くされてなければおかしい。だが二人とも、殺されかけたことはあっても結局生きている。
 矛盾を衝かれて、少年が心底から黙りこくった。
 それが一生懸命辻褄を合わせようとしている子供みたいで、ラナはくすりと笑う。

 「今、赤くしたくないんだったら―――無理にしなくて、いいと思うよ」
 「………………ぇ?」

 そんな常識的で、当たり前で、自然な言葉に一瞬息を止めて、少年がラナを見上げる。
 恋人の驚いた仕草にラナは微笑み、伸ばした指先で、意外とふにふにした頬っぺたをつつく。

 「赤くするのも、しないのも。奇麗にするのも、しないのも。その時次第でいいと思う。こうしなきゃとか、変に決め付けたっていいことないし。ほら、どんなに美味しいお菓子でも、食べすぎたら見たくもなくなるのと一緒だよ。赤くしすぎたらきっと飽きて、疲れちゃうんじゃないかな。だから時々、気まぐれに赤くしないで、逆に赤を取り除いたりしても、ファンが見てる赤い世界とファンの行動は、全然矛盾しないんだよ」
 「…………」
 「私、好きなことして、楽しそうなファンが好き」
 「…………」
 「で、うじうじ鬱屈を溜め込んでるファンは嫌い」
 「…………!」

 ガーン、と珍しくショックを受けたような少年にくすくす笑い、ラナはそっと自分の胸に手を当てる。

 「嫌いでも、私はファンの隣にいるよ? でも、私の気持ちと行動は、矛盾してるようでしてない。……もう、分かるよね」
 「…………うん」
 「ファンの感じてる気持ち悪さを、理解できるなんて言えないけど……いつでも、私にぶつけていいから。辛くなったら溜め込まないで、ちゃんと教えて」
 「わ、私だっているぞ! さすがに、殺されてやるのは無理だが……け、喧嘩なら、殴り合いだったら付き合ってやる!」
 「…………うん」

 殺気が消える。赤紫の瞳に、いつもの眠たげな気配が戻る。
 張り詰めていた部屋の空気が弛緩し、やれやれと、ドラゴンは深く椅子に座り直した。にこりと笑ったイナズマが進み出てニョキリと鋏を生やし、初めて見たエルがぎょっと目を瞠る。ファンを戒める枷がかちゃかちゃ解錠される。

 「ふふふ果報者だな少年。両手に華で微笑ましいと羨んでみ」

 ごん、と台詞の途中で投げつけられた海楼石が額に命中。ぐおぉ、と蹲るアゼリア。テーブルから降り、投げつけたファンはすっきりした表情でドラゴンに向き直る。

 「…………電伝虫」
 「行ってくれるのか」
 「行っては、あげない。…………僕が、行きたいから、行くだけ」
 「赤くするためにか」
 「それは…………その時……考える」
 「俺との殺しすぎない約束は?」
 「守る」
 「よし」

 それからファンは、自分を好いてくれる少女たちを振り返る。

 「…………じゃ、行ってくる」
 「怪我、しないでね」
 「次に喧嘩する時は私も行くからな」

 ラナと、エルと、それぞれちょっとだけ目を合わせて、だが名残も惜しまずファンは戦場に視野を馳せる。
 ドラゴンは防諜用の白電伝虫と共にある、もう一匹の電伝虫を通して事情を説明していた。

 「ああそうだ。これから援軍を送る。いいか? 今から送る奴に決して命令はするな、お願いしろ。……ああ、部下じゃあない。恐らく今回限りの助っ人だが、いささか気難しくてな……」
 「ファン君」

 話が終わるのを待っていたら、イナズマが携えていたものを差し出した。

 「これを。付けていた方がよいでしょう」
 「…………お面?」
 「いえ、仮面です。少なくとも今の段階で、ファン君の顔はできる限り広めない方がよいと判断しました」
 「…………ん。分かった」

 それを被る。すっぽり顔を覆い隠す形だが、ファンに呼吸がし辛いということはない。視界も許容できるレベル。耳の後ろで落ちないよう、きっちり紐を結ぶ。同時にドラゴンの話も終わり、電伝虫の受話器を手渡された。

 「無事成功したら褒美をやる。何がいいか考えておけ」
 「…………頑丈な、ナイフ」
 「……それはお前の使い方が悪い。ああそれとだな――」

 一つ、囁かれ、赤紫の瞳を瞬かせる。それから分かったと答え、ファンは受話器を耳に当てた。
 ドラゴンが一歩下がる。ラナも、エルも、イナズマも、若干腫れた額を抑えるアゼリアも、その他大勢の革命軍一同も、少年に強く視線を注いだ。何が起こるか知っている者も、知らない者も、一様に。
 そしてファンは、目を閉じ、

 「“幽界…………独歩”」

 呟いた少年の姿が、消える。がたんと空の受話器がテーブルにぶつかり、拾い上げたイナズマは、繋がった向こう側でどよめく声を聞いた。
 薄く微笑し、通話を切った。










 ~pm.3:57~ 


 その寸前、受話器を手にしていた支部長は不思議な声を耳にした。いや、音だったかもしれない。だが意識の奥まで響く、不思議としか言いようのない音程だった。
 それを聞いたと思った瞬間、ふっ、と影が落ちた。
 影は赤かった。血のように赤い上着と、死のように暗い膝下ズボンを穿いて、気が付けば現われていた。忽然と、脈絡なく、瞬きの隙間に入り込んだみたいな、そんな唐突さで出現した。まさしく降って湧いたとしか言いようのない登場に、支部長は思わず受話器を取り落とし椅子にへたり込む。

 「……き、君が、ボスの言っていた援軍かね?」
 「…………」

 赤い影は答えない。ぐるりと部屋を見渡す。壁際は書物の納められた棚でびっしりと埋め尽くされ、数多の本に見下ろされる形で数人が立ち尽くしていた。それぞれの部門を束ねる、支部の下級幹部である。しかし彼らをも視線はすり抜け机上を滑り、無造作に転がっていた物をゆら、と手に取った。マッチ箱だ。

 「…………これ」
 「あ、ああ。私はタバコを吸わんのだがね、来客用に置いてあるのだ」
 「…………借りる」
 「構わないが、その、すまない。本当に君が援軍なのかね? ボスを疑うわけではないんだが……君は、子供だろう?」

 戦えるのか。戦わせてよいのか。そんな支部長の気遣わしげな台詞に、赤い影はどことなく、笑うような気配を滲ませる。あくまで、気配だけ。実際に笑っているかは窺い知れない。

 「…………船、は?」
 「……脱出艇なら間もなく沖に到着する頃合いだとも」

 いまいち不信感を拭い去れないまま、止む無く支部長は額の汗を拭きつつ説明に入る。

 「内陸に逃げても人海戦術でいずれ見つかる。目指すべきはやはり海なのだ。しかし無論、政府の連中もそれは分かっている。だからこそ陸よりも海の包囲が厳しい」
 「…………経路は」
 「三千人がひしめくと言って想像が付くかね? ここを中心に海へ続く道は完全に押さえられている。逃げる途中で見つかったが最後、我々は蟻にたかられる死骸の気分を味わえるだろうとも」

 打つ手がないのだ、と肩を落として締めくくり、支部長は悄然と項垂れた。

 「こうなればもはや、ボスクラスの人間でないとどうにもならん……」
 「…………そう?」
 「違うかね? ボスにざっと聞いた限り、君は電伝虫の念波に“乗って”来たようだが……それならそれで、ボスを連れてきてほしかったとも。いや、無理だから君が一人で現れたのは承知してるがね。……すまない、年寄りの繰り言だ」
 「…………」

 赤い影がゆらりと踵を返す。爪先が廊下に向いているのを見て、支部長は呼び止める。

 「どこに行くのかね。外は敵だらけ。いつ攻撃が始まってもおかしくない状況だ。せめて中にいるか……君だけでも、ボスの元に帰りなさい」
 「朝は、これ呼ばわり。…………さっきは、危険物扱い」
 「?」
 「そして…………今度は、子供扱い?」

 ぞくっ、と。何かが支部長の身体を走り抜けた。それが恐怖であると思い当たるまでに数秒を要した。
 赤い、小柄な影が振り返る。その表情は見えない。隠されて。だが視線に籠もる、例えようのない寒々しさは、遮られることなく場を圧した。下級幹部の一人が腰を抜かし、青い顔で尻餅をつく。

 「な、なん……何なんだね君はっ?」
 「…………見て、分からない?」

 くふ、と笑い声。開かれたドアに片手をかけ、小さく首を傾ける。

 「危ない、危ない…………狐さん♪」

 最後になぜか、上機嫌な声音で。ゆらりゆらゆら、ドアの陰。隠れて消える、狐面。
 はっとなった支部長が慌ててその姿を追い廊下に飛び出るも、白い狐の面は残像さえ見せず、跡形もなく消えていた。廊下の先で焦慮にやつれた部下の顔が、訝しげに向けられるだけ。

 「……化かされたか?」

 そんな言葉が口を衝く。狐につままれたような気分で、部屋に取って返した。
 その僅か数分後である。
 状況が、大きく動いたのは。










 ~pm.4:05~


 ゆらゆらとファンは歩む。破れかぶれの突撃に備える銃兵部隊を横目に、避難完了を告げる伝令の脇を抜け、白兵戦を見据えた突入部隊の横を通り、その指揮を執るらしく声を張り上げる中尉の顔を近くで眺め、更に後方の砲撃部隊まで誰に見咎められることなく進んだ。途中、摘み食い気分で何人か赤くしたくなったが、考え直す。

 『――いいか? 能力を決して見破られず、作戦を遂行してみろ』

 出がけにドラゴンが囁いた条件――と言うより、課題である。
 無敵に近い能力を持つファンだが、弱点は他の能力者と共通する。水、海楼石、覇気。逆に言えばこれ以外の方法でファンを傷つける方法は皆無なのだが、しかしどんな能力であろうと知られれば対処を考えられ、処置なしと言えども心構えの有無は生死に直結する。
 故に能力を知られることなく脱出させてみろ――と、ドラゴンは言ったのである。

 「…………課題、難題」

 眠たげに呟き、ファンはゆらりと砲兵の一人に歩み寄る。
 線の細い男だ。不安げに前方を見つめる男は足元に樽を置いていた。大人が両手で抱えられるほどの大きさ。ファンの手にはちょっと大きい。だけどよいしょ、と持ち上げればファンの姿共々、樽は跡形もなく幽玄に消える。
 男が気付き、同僚の兵士にどこに行った!? と慌てふためく傍ら、別の男から束ねられた紐を失敬する。それもまた気付かれ――大事な仕事道具が消え失せたのだからさすがに気付く――騒ぎが少しだけ大きくなるも、既に関心はドラゴンの条件をいかに達成すべきかに向けられていた。
 ファンは紐の一本を樽にすり抜けて突き刺し、ゆらゆらと来た道を戻る。
 そして適当な建物の中から、わざわざ閂を外して扉を開け、突入部隊の前にてくてく姿を現した。










 ~pm.4:08~


 海軍中尉ボロッツォは目を疑った。避難が終わったはずの建物から何でまた子供が出てくるのだ? と。
 しかも子供はなぜか仮装カーニバルで見るような白狐の面をして、荷物らしい樽を一生懸命運んでくる。無防備に姿を晒した時点で敵とは思えず、仕方なくボロッツォは部隊を停止させた。

 「あー、そこな少年? 少女? とにかく君! そこは危険だ、こっちに!」

 叫ぶと、子供はピタリと足を止めた。面の奥にじーっと窺うような気配がある。

 「……中尉、中尉の顔が怖いせいで来たがらない感じですよ」
 「そそそんな馬鹿な!? 私は孤児院への視察でも子供たちに泣いて喜ばれて、海兵ごっこではやられ役になって遊んでるんだぞ!」
 「……それ、本気で泣かれて本気でやっつけられてるんじゃないんですか?」
 「…………え、ええいとにかく君! 怖くないからこっちに来なさい! 私じゃなくこっちの部下が後ろまで連れて行く!」

 その呼びかけが功を奏したのか否か、数秒の沈黙を挟み子供はてくてく歩き出した。
 ボロッツォがほっと安堵するのも束の間、副官が訝しげに目を側める。

 「中尉、あの子の持ってる樽、何だか見覚えがあるんですが」
 「うむ? 言われてみれば確かに。……はて、私の記憶が確かなら、あれは昔砲撃部隊で一等兵をやっていた頃に見た……」

 そこでボロッツォは沈黙する。副官も黙る。
 狐面の子供が歩きながらポケットに片手を突っ込み、マッチ箱を取り出していた。肘の内側で樽を挟んで支え、手首から先だけを使って器用にシュッと擦る。ボッと火が付く。
 ボロッツォは顔中にびっしりと冷や汗を浮かべた。副官の表情も引き攣った。樽の表面に書かれた文字が見えた。



 【DANGER:火気厳禁】



 「まっ……まま待て待て待て早まるな――っ!!」
 「…………?」

 何で? 待つわけないじゃん。とばかりに首を傾げた狐面が、ボロッツォを無視して一切の躊躇も見せずマッチを動かした。
 シュボッと致命的な音がして―――“火薬樽”の導火線に火が付いた。

 「ばっ、馬鹿ですか――っ!?」
 「たた退避っ! 退避ぃ!! 下がれっ、下がれ下がれ爆発するぞ――!?」

 うわぁああああ! と我先に逃げ出す突入部隊。必然、先頭にいたボロッツォと副官は最後尾。
 ジジジジ、と導火線の燃えるカウントダウン的な音はしかし遠ざからず、必死で走る副官が首だけ振り返ると、

 「――ちゅ、ちゅちゅ中尉! 追って来ますっ、あの子供爆弾抱えたままたったか走ってきますぅぅぅっ?!」
 「いいから走れ死ぬ気で走れ死ぬまで走れ――っ!!」





 ジジジジジジジジジ……。









 ~pm.4:10~


 中将は軍艦の上にいた。小さな城ほどもある軍艦を並べただけで、半端な海賊は抵抗の意思をなくす。莫大な金と権力を背景に圧倒的な威容を誇る本部の軍艦。それが五隻。船の数だけ見れば国家級戦力と呼ばれるバスターコールの半分であるが、裏を返せば国家の半分と渡り合えるほどの兵をその海域に揃えたことになる。
 中将に油断はなかった。それどころか、臆病とそしられるほどの慎重さをもって万遍無く兵を配し、市民を逃がし、万全を期した。包囲開始から攻撃まで大きく時間がかかったのはそのためである
 故に、最初は事故だと思った。
 大砲を幾つも同時にぶち込んだような爆発が突如天を焦がし、びりびりと大気が身を捩らせた。

 「何事だ」
 「はっ、第二狙撃隊から報告が入りました。革命軍のメンバーと思われる人間が火薬樽を抱え特攻、自爆したとのことです」
 「自爆だと?」
 「結果、突入部隊が爆発に巻き込まれ、指揮を取るボロッツォ中尉は生死不明。現在死傷者の確認を急いでおります」
 「……」

 腑に落ちない。中将は眉をひそめる。
 世界最悪の犯罪者、ドラゴンを首魁とする革命軍はその理想故に犠牲を好まない。政府を打倒し国家を転覆させるのは、彼らなりに悪政を正し、市民を救うためである。そしてその市民には、革命を行う“彼ら自身”も含まれるのだ。
 掲げる正義が異なる以上相容れることはないが、それでも中将は彼らの行動に一貫する目的意識の高さは評価していた。その手段を認めるわけにはいかずとも、人々を救うという理想だけは共感せざるを得なかった。
 だからこそ、腑に落ちない――妙なのだ。進退窮まったとして、絶海の監獄送りが確定したとして、自爆という革命の礎にすらならない一手を、あの革命家共が打つだろうか……?
 だが思索は長く続かなかった。突入部隊とは全くの反対側にて、再び同種の爆炎が天を焦がした。

 「……また自爆か?」
 「は、はっ! 第四狙撃隊からです。混乱が見られますが、同様の火薬樽を持っていたと――」

 その報告を遮る形で三度爆音が轟き渡り、もはや猶予ならず舌打ちした中将はじかに通話を繋ぐ。

 「全部隊、厳戒態勢。後退しつつ包囲の輪を広げ、敵の自爆に備えよ。繰り返す、敵は自爆戦術に打って出た。部隊の損失を最小限に防ぐことを第一とせよ」
 《ザ……ほ、報告……こちら第七砲げ…………ザザッ》

 各部隊から鮮明な応答が返る中、一つだけノイズ混じりの通信があった。中将は片目を眇め、訝しげに陸を見やる。喉奥から妙な感覚が競り上がろうとしていた。この距離で、青空の下で、こうも通信に影響が出るなど考えにくい。――妨害念波が出ているならともかく。

 「こちら一号艦。第七砲撃隊、何があった」
 《ひっ……た、助けっ…………狐が、火薬を……ぎゃぁああああっ!!》
 「狐だと? どういう意味だ!? 応答せよ、第七砲撃隊応答せよ!」

 電伝虫は答えない。ぎり、と中将の奥歯が軋む。胸の奥で得体の知れない違和感が嵩を増す。それをも吹き飛ばすように四度目の爆炎が花開き、だが今度は止まらなかった。五度、六度、七度八度九度と街中で大爆発が連続し、船の上にまで混乱が伝播する。

 《第五歩兵……き、狐の……が、自爆――》
 《こちら第九…………か、壊め……戦闘、不能……!》
 《ザザッ……白……仮面……狙って》
 《……あ、や、やめろ……来るな、来るな来るな――あがぁあああっ!》

 狂騒が悲鳴し、壊乱が絶叫する。惑い、逃げ、逃れられず。死に、倒れ、招かれる。地獄へ、奈落へ、死神に手を引かれ。命が散る、塵のように。燃え落ちる、灰のように。不条理に。無情理に。

 「っっっ……!! 全攻撃部隊持ち場を放棄、離脱せよ! 繰り返す! 全攻撃部隊持ち場を放棄っ、離脱したのち検問の部隊と合流せよ!!」
 「よ、よろしいのですか中将? それではせっかくの囲いが――」
 「ならば貴様が現場に行き、包囲の一角を担うか?」

 絶句する部下を睥睨して震え上がらせ、中将は黒煙たなびく街へと視線を戻す。

 「足がないのだ。どうせ奴らは逃げられん。……全艦、砲撃準備! 部隊が下がり次第、街の全てに砲火を放つ!!」

 市民はいない。あるのは犯罪者。もはや街の被害を考慮に入れられる段階でもなかった。
 想定していた最悪の状況に中将は歯噛みし、これから消え去る街の姿を目に焼き付ける。
 油断はなかった。
 慢心もなかった。
 厳然たる事実として、彼我の戦力差を鑑みて、作戦の成功を疑いもしなかった。
 ―――だが、最悪は常に想像を裏切る。

 ドォンッッッ!!!

 と、爆発する。
 海上を封鎖する五隻の軍艦。半円状に並ぶ右端の一隻が突如として土手っ腹に火を噴いた。

 《こ、こちら五号艦、砲列甲板にて大規模な爆発が発生! 急ぎ消火を行っております!!》
 「どういうことだっ、原因は何だ!?」
 《わ、分かりませんっ。弾薬庫から運ぶ途中で突然爆発し――》

 声が途切れた。がちゃん、と受話器のぶつかる騒音が耳を引っ掻いた。

 「おい、どうした!?」

 未だ途切れぬ通信の向こうで悲鳴が響く。出鱈目に撃ちまくる銃の乱射が轟く。明らかに戦闘音だった。中将の乗る一号艦からでさえ、甲板から慌てふためき船内に駆け込んでいく兵の姿が見えた。包囲のために各艦には砲撃に支障がない程度の人員しか残しておらず、恐らくはその全てが内部の戦闘に駆り出された。
 だが、船にはまだ予備戦力として数人の左官が控えているはずであった。仮に侵入者が潜り込もうと、彼らの手で直ちに排除される。――されなければ、おかしい。

 「五号艦、何が起こっている!? 誰かっ、応答せよ!」
 《あ、ぐ……こちら、五号艦……っ》

 切れ切れの、手負いに掠れた苦悶の声を、電伝虫が吐き出す。

 《た、大佐たちが、奴の相手を……自分は、報告に》
 「奴? 一人か?」
 《は……一人、ですが……奴は、奴は……人間じゃ、ありません……!》

 種族的なそれではない。中将も、周りの兵も、そう察する。
 必死さがあった。訴える声に恐怖がこびりついていた。尋常ではない“何か”を見てしまった声音だった。

 《見た目に、騙されては……っ、幽霊、みたいに……あちこち、出たり、消えたり……っ、そのくせ、鬼のように、強、い……! ……幽……奴は………ゆ、幽鬼、で――》

 言葉の余韻を探す間もなく、直後、恐ろしい悲鳴が響き渡った。大量の液体をぶちまけたような、途方もない水音を最後に。
 しんっ、と音が絶えた。
 静かに、なった。

 「……」

 誰も何も言わない。言えない。いつしか浮き上がっていた玉の汗が、中将の頬を滴り顎からつぅっと落ちた。

 「……五号艦?」

 囁いた。囁くことしかできなかった。
 そして、



 《…………………くふ》



 ぞわっ、と。
 背筋を大量の百足が這いまわるような怖気に、総毛立った。
 ごとん、と。
 重い物が転がる音に、だから気付くのが遅れた。
 振り返った中将は見る。【DANGER】と描かれた四角い木箱が、誰も知らない内に置いてあった。ジジ、ともう僅かしかない導火線が、最後の火花を散らそうとしていた。
 逃げろと、叫ぶ時間さえ与えられず、着火する。――爆発する。火薬が、木箱が、炎が、大気が、黒煙を吐き、全てを呑み込んだ。―――否、呑み込もうとして、“逆に呑まれた”。



 氷、に。



 「……っ!!」

 冬が来た。爆発の瞬間に冬が殺到し、内部から微かに破裂した状態で木箱の時を凍らせていた。
 パキ、パキンと氷の張る涼やかな音が、絶対的な安堵を引き連れ訪れる。

 「手ぇ出す気はなかったんだが……どうも、おちおち寝かせちゃくれんらしい」
 「た、大将殿……!」

 氷塊の傍らに佇む長身痩躯の人影が、五号艦に視線を飛ばす。

 「状況は大体把握してる。中将、部隊の指揮と再編成は任せた。俺はこんな真似を仕出かした、幽鬼だか狐だか分からん奴の相手をする。これ以上兵を失う愚行は避けたい」
 「や、奴がどこに行ったか分かるので?」
 「さて、分からねぇ……が、向こうから出て来るに決まってる」

 すっと男は街を指差した。潮風が黒煙を吹き流し、だいぶ晴れた煙の向こうに中心街が見えていた。
 青雉は、凄絶に言い放つ。

 「俺が連中の支部を堂々と目指せば、嫌でも出て来ざるを得んだろうよ」










 氷と、波。
 氷結人間と量子人間。
 先の見えない戦いが、今、始まろうとしていた。








~~~~~~~~~~~~
 何だかすらすら書き上がったので投稿にございます。……これまで遅かった分、描写が掛け足になってしまったような気もして怖い;;
 ファン君は只今縛りプレイ中。能力の正体を悟られず、殺し過ぎず、無事作戦を遂行させてみろ、と。……青雉参戦で難易度跳ね上がりましたけど、どうなる事やら(汗)
 次も一応一カ月を目処に……なるべく早く書きたいなぁ。
 以上。



[19773] 緋漣絶氷
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:bac02990
Date: 2012/06/03 13:16
 ~pm.4:15~


 乾いた風は白土のそれ。ざらついた風に攫われ、大勢の人間が作業する音は高く離れた場所にも届く。
 揺れる黒髪に誰かが気付いた。いそいそと作業の手を休め、司令塔のバルコニーに向かって手を振ってくる男性。ラナは微笑んで振り返す。周りの数人がはっと顔を上げて我先に手を振り回し始め、瞬く間にそれが伝播して数十人もの男性がラナへ一斉にぶんぶんと。
 余りにもな反応で少女は微笑したまま口元を引き攣らせる。

 「ふん、やはり悪女だな。男どもを手玉に取って楽しそうなことだ」
 「ふ、振り返しただけだよ? 私全然悪くないよっ?」

 ばっと勢い良く後ろを見れば、鳶色の少女が不遜に笑っていた。

 「くっくっく、果たしてどうかな? 小娘、お前さっき下の作業を手伝うとか言って降りて行きながら、どうしてまたこんなところに居る」
 「そ、それは……!」
 「いや言わなくていい。ちゃんと私も聞いていた。……男たちの気が散るから、頼むから後生だから離れててくれ~……だったな」
 「う……」
 「そして今また中断させてしまったわけだが……くっくっ。これを悪女と言わず何と言うのだろうなぁ?」

 そこで堪えかねたように噴き出し、あっはっはとくの字にお腹を抱えて笑い転げる。
 顔を赤くしてぶるぶる拳を握り締めたラナは、問答無用で腰のトンファーを投げつけた。

 「姫。早めの夕食を――」

 ゴンッ。

 「あ」
 「お」

 ひょいとエルが避けた先で、丁度バルコニーの入り口から顔を出したカーツの顔面にトンファーの打突部がめり込んだ。
 傾くカーツの長身が夕食入りの籠を取り落とし、自由落下した僅かな隙にエルの両手が雷光の速さで掠め取る。そのまま床に倒れるカーツは無視して、半ば野生の少女は嬉々とした表情で籠の蓋を持ち上げる。
 それからやっとラナが悲鳴した。

 「かかカーツさんっ!? ご、ごめんなさいっ、大丈夫ですか!?」
 「……姫の、一撃なら……文句は、ない」

 ぐぐっと無感情な鋼の眼で震える親指を立てて見せるカーツ。よほど当たり所が悪かったのか、それともラナの一撃が重すぎたのか、直後ぱたんと腕を落とし気絶した。

 「か、カーツさん……」

 悲しげにラナは青年を見下ろす。

 「文句はなくても、問題があったらダメだと思います……」
 「そこを指摘するのか。やはり悪女の称号はお前のものだ」
 「もうそれくどいよエル……って何食べてるの!?」

 ん? と骨付き肉を噛み千切り、咀嚼し、ごくんと呑み込んだエルが不思議そうに返す。

 「見ての通り早めの夕食だ。もちろん普通の夕食と遅めの夕食も食べるぞ?」
 「それ違うから! 早めの夕食ってそういう意味じゃないから! あ、私の分残してなかったら怒るよっ!」
 「んむ……あむ……まあ……ごくん。善処……しないでもない」

 エルの口からバキボキとどう考えても骨を噛み砕く音が聞こえ、どんな歯をしてるんだろう、とラナは冷や汗たらり。
 残ったとしても野菜類ばかり回されそうだった。エルは肉食系なのだ。

 「……なかなか面白い図になっているな」

 バルコニーは最上階にあり、それ以外に部屋も廊下もないため階段と直通する造りになっている。そこを登って現われたローブ姿の大柄な人影に、ラナはびっくりした顔を向ける。

 「ど……ドラゴンさん、司令室に居なくていいんですか?」
 「息抜きだ。どちらにしろ、これ以上は見守る程度のことしかできん。……ああ、これは軽い脳震盪だな。適当に寝かせておけ」

 ざっと見てカーツの容態を確かめたドラゴンは風の吹きつけるバルコニーに出た。何となくその後に続き、ラナはドラゴンの隣に並んで眼下を眺める。
 たくさんの人が作業をしていた。ひび割れ、穴の空いた地面には運んできた土を被せて塞ぎ、すっぱり斜めに切り落とされた建物は、いつの間にか人々の間に加わっていたイナズマが応急処置をする。ちょきちょき切り上げられた地面がめくれて建物に巻き付き、その上から漆喰みたいな粘土状の物を塗りつけて乾くのを待つ。
 ドラゴンが苦く笑った。

 「こうして見れば、派手にやったものだな」
 「ご、ごめんなさい」
 「なぜお前が謝る」

 即座に問われ、ラナは少し詰まった。

 「……みんなが、してるのは、“ファンが暴れた後始末”なのに……私、手伝えてません」
 「そんなことか。構わん。人にはそれぞれ己にしかできないことがある。俺やアゼリアでは、ファンを無理やり止めることはできても、ファンの本音を引き出すのはひどく難しい。さっきの司令室でのことは、ラナにしかできないことだった。力仕事ぐらい、力の有り余ってる連中に任せておけ」
 「……もう一つ、あるんです。ドラゴンさんたちにじゃ、ないですけど……」
 「では、誰にだ」

 ドラゴンの声には革命軍を束ねる者としての重みがある。誰の嘆きも、どんな訴えも、その身に受け止め受け容れる。だから革命軍はここまで大きくなれた。ドラゴンという存在が人々の支えとなっていたから。
 一瞬言い澱んだラナは、だがその懐の深さにそっと心中を吐露する。

 「ごめんなさい、って……海兵さん、たちに」
 「……」

 ちらりとドラゴンが少女を見下ろした。食事中だったエルも、顔を上げた。
 搾り出すように、ラナは言う。

 「私の言葉で、ファンは支部長さんたちを助けるって決めて……でもそれは、ファンが敵を赤くするって、ことだから……。私の言葉が、海兵さんたちを殺してる。……もう、殺してしまってる、のかな」
 「……」
 「顔も名前も知らないけど、私の言葉が誰かの命を奪う引き鉄になってるんです。……顔も見えなくて、声も届かなくて、謝って許されることじゃないけど……謝りたくて。殺して、赤くしてるファンにはこんなこと言えないから、誰かに謝罪を、聞いてほしかったんです」
 「……その罪は、俺たちの罪だ。俺たちが望み、ファンに頼み、そうなった。お前が気に病む道理はない。……そう言っても、お前の罪悪感は消えんだろうな」
 「あ、はい、その……ごめんなさい」

 小さくなって謝る少女に苦笑し、ドラゴンはその頭を撫でてやろうと腕を上げた。だがふと躊躇い、自嘲の面持ちを浮かべ中途半端に持ち上げた腕を下ろした。

 「……大元の原因である俺に、慰める資格はないな」
 「そう、ですか?」
 「ああ。それに、俺も男だ」
 「……?」

 冗談めかして、ドラゴンが口角を吊り上げた。

 「下手に慰めでもすれば、ファンに殺されかねん」
 「……あ、あはは」

 冗談になってなかった。引き攣った笑いを返すとドラゴンもそれを悟ったらしい。顔をしかめ、慣れんことはするものではないな、とぼやく。

 「おい、小娘」
 「なに、エル――むぐ!?」

 振り返った途端何かを口に突っ込まれ、思わず咀嚼する。香辛料がふんだんに使われた鳥の肉汁が口いっぱいに広がった。

 「んぐ……けほっ。……い、いきなり何するの!?」
 「美味かったか」

 不機嫌そうな鳶色の瞳に睨まれ、語調が勢いをなくす。

 「……まあ、美味しかったけど」
 「食は幸せだ。衣食足りて住を欠かず、人の和にも恵まれたならば、そこより上を求むべからず。心得よ、身の丈を知って幸福と成せ」

 エルらしからぬ、というのは失礼かもしれないが、歌うように紡がれた古めかしい文言にラナはぽかんとしてしまう。

 「こ…ことわざ?」
 「母様の教えだ。今のお前は満ち足りて、足りないものはない。それ以上を望むのは贅沢だ。つまりお前の悩みも贅沢だ」

 だから悩むのをやめろ、と素っ気なく言って、エルは食事籠の方に戻って行った。
 胸を衝かれたような思いでラナは少女の背を見る。衣食住どころか人の和さえ欠いて、ずっと孤独に生きて来た小さな背中。翼持つ少女から見れば、今を笑って過ごせているのに知りもしない他人のことで胸を痛ませるなど、持てる者の贅沢でしかないのだろう。
 持たざる者は、他人のために涙するゆとりなんてないのだと。

 「……元気づけようと、してくれたんでしょうか」
 「の、ようだな。それにしても古い言葉を知っている。どこぞの聖人が残した言葉だ。……しかし、その教えを遵守しようとした国は、例外なく滅んだはずだが」
 「えっ?」

 驚きにラナが振り返り、ドラゴンはしかつめらしく顎を撫でた。

 「一定の幸福より上を求めなければ文明は停滞する。歯車の止まった世界はやがて倦み、いずれ外の文明に押し流されるか自滅するだけだ。人間という種が進化の先に現れた生命であるが故に、歩みを止めた人々はその先へ進む力を失うのだろうな」
 「そ、それじゃエルのお母さんは……」
 「エルの母親が間違っていたとは言わん。子供に教える話としてはむしろ上等な部類だ。……そうだな、今の話を簡単に言い直せばこうなる。――毎日美味しいものを食べ、綺麗な服を着て、家があって、親も友達もいるんだったら、それ以上わがままを言ってはいけませんよ、とな」

 あ、と声を上げるラナに、ドラゴンは苦笑を忍ばせる。

 「人生の指針にしてしまうのはまずい。それはもはや聖人か仙人の生き方だ。人のそれではない」
 「でも、子供に言い聞かせる範囲だったら……丁度いい?」
 「ああ。多少、難解なところを除けばな」

 幼いエルと膝を突き合わせ、難しい話をする。夢に出て来たあの厳格そうな母親の姿から、その光景はとても簡単に想像できて、くすっと微笑ましい気持ちが笑顔となって零れてしまう。

 「お母さん、かぁ……ちょっとだけ、羨ましいな。私、お母さんの顔、知らないんです。小さい頃死んじゃったらしくて、あんな小さな村だから写真も残ってなくて」
 「そうか」
 「はい。あ、でもそっか。島に居た頃、ファンがどこかに消えてたのって……息苦しかったからなんだ」

 古くもない記憶を思い起こして、ラナは白土の舞い上がる空を見上げた。

 「仕事をさっさと終わらせた後どこに行ってるのかって、ずっと不思議だったんです。訪ねたってだんまりだし、今更聞いたって仕方ないことだから聞く機会がなかったんですけど……」
 「けど?」
 「……私でも、ファンのお母さんたちでも、誰かがファンの苦しみに気付いてあげられてたら、何かが変わってたのかな……って、そんなこと、今ちょっと思いました」

 ドラゴンは答えない。仮定の話に雑談以上の意味はない。それはラナも分かっているから、暗くなりがちな気持ちを振り払うように大きく息を吐いて、そっと胸の前で両手を組み合わせる。

 「……ちゃんと、帰って来ますように」

 祈る少女を、さぁっと涼しげな風がすり抜けていった。










 ~pm.4:22~


 「…………凍って、る」

 律儀に白狐の面をかぶったまま、双眼鏡の下で赤紫の瞳が瞬く。爆発の代わりに立ち上る氷柱を五号艦より眺め、それを成した男をじぃっと見る。枝のように細く長い背丈と、額にずり上げたアイマスクと、厚ぼったい唇と、

 「…………変な、髪型」

 ぼんやり呟き、双眼鏡を放り捨てる。びちゃ、と血溜まりが跳ねた。他に跳ねるものはない。動くものはない。
 死が溢れている。生物から物体に成り果てた命の残り滓が、漫然と雑然と床に壁にこびりつき、醜悪な絵画の趣きで彼岸の花を描いていた。おぞましきアカをふんだんに凝らし散りばめた、悪趣味極まる死の展覧会。喉を裂き、腹を刺し、骨を断ち、胸を割き、だが“壊しすぎてはいない”屍肉の博覧会。
 “普通”の、虐殺現場であった。ともすればファンよりも、経験豊かな海軍将校の方が見慣れていそうな。

 「…………」

 考えることはまだたくさんあって、赤くした余韻に浸る暇もないのが、不満と言えば不満だった。ファンは結構情緒的なのだ。雰囲気重視、気分重視。細かなことに拘らない。赤くする手法も、透過を使わないやり方を無人島生活で覚えた。裂いて晒せば血は噴き出る。猛獣より人間の方がやはり脆くて、手応えがない。
 一人、大佐と呼ばれていた男はなかなか強かったけれど、それでもエルと比べたら見劣りする。弱い。

 「でも…………僕も、弱い。…………ドラゴン、赤くできない……」

 昼に暴れた時のことを思い返し、小さく肩を落とす。何で自分に触れるんだろう。
 思考が脇に逸れていた。ふるふると首を振って、ファンは身体を幽玄に溶かす。隔てる距離を零とし、一瞬の時さえ浪費せず支部長室の床に足を付ける。血と硝煙の臭いが消え、紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。

 「…………?」

 しかし誰もいなかった。首を傾げ、廊下に出る。人の気配を探せば何やら階下が騒がしい。

 「あ、ああっ、君!」

 素直に階段を見つけて降りていくと、初老に差しかかったやや丸い風体の支部長があせあせと走り寄って来た。
 そこは一回の店内スペースのようだった。だが陳列されていたらしい多くの書物は棚と一緒に壁際へと押しやられ、バリケード代わりに使われていた。五十名を超す人間の不安そうな視線が、僅かな距離ももどかしく走る支部長と、その先にあるファンの狐面に向けられた。
 何だこいつ、と怪訝そうな目を向けられる中で、支部長が額に浮いた汗を拭う。

 「君……君、そう言えば名前も聞いておらんな……い、いやそれよりっ、さっきから続く爆発はもしや君の仕業かね!? 海軍も囲みを解いて下がって行き、一斉砲撃の気配もない……。一体、何をどうすれば――」
 「そんな…………ことより」

 状況の推移に理解が追い付かず、泡を食って訊ねる支部長に狐面を傾け逆に問う。

 「氷の…………能力者、知ってる?」

 問いかけた瞬間、しん、と時が止まった。
 囁きも衣擦れも等しく消え失せ、部屋中が氷に閉ざされたかの如く冷えた。

 「……あ」

 凍えたように震える唇で、拭いたばかりの額にびっしり脂汗を浮かべた支部長が喉から声を絞り出す。

 「あ、青雉が……来てるのかね……?」
 「アオキジは、知らない。…………けど。背が、高くて……棒みたいで…………アイマスク、してた」
 「う、あ、あ……終わり、だ……っ」
 「?」

 一気に十歳も老けこんだような顔で支部長が膝から崩れ落ちた。あちこちから絶望的な声が上がり、啜り泣きさえ聞こえ、ファンは首を傾げる。

 「…………誰?」
 「し、知らないのかね……? 海軍最高戦力、ヒエヒエの実の氷結人間……“大将”、青雉を」
 「…………氷結人間」
 「氷を司る自然系だ。こんなところに、大将が出てくるなど……もう、どうにもならん。君、一応聞くが、覇気は?」
 「覇気…………?」

 聞きなれない言葉に繰り返すと、あからさまに溜息を吐かれ、ファンはむっと赤紫の瞳を細める。
 ノータイムで足を振り上げ蹴っ飛ばした。支部長の丸い身体がずでんと引っくり返る。

 「なっ……何をするのかね!?」
 「失敬、千万。…………嘆いて、ないで……逃げる準備、しろ」
 「逃げる? どこへ逃げると!? 陸も海も依然として封鎖されたまま、青雉まで出て来た! あの男は海を凍らせてしまうのだよ!? 直に砲撃も始まる中、何をどうやって逃げろと言うのだねっ!?」
 「じゃあ」

 喚く支部長の胸倉を右手で引っ掴み、面の奥から睨む。

 「両方、クリアできたら、いい? 砲撃、も。青雉、も」
 「む……無茶だっ、無理だ! そんな無謀は許可できないっ!」
 「――――誰が、誰に、許可する、って?」

 ファンの声が赤く濁った。ぶわっ、と噎せ帰るような死の気配がたなびき、蒼白だった支部長の顔が土気色になる。殺意の先端が左手に群がり、そっと持ち上げたその指先で、支部長の左胸をつついた。

 「いっそ…………今、ここで……赤くなる?」
 「っ――!?」

 喉を干上がらせた支部長が魚のように口を開閉した。
 面の奥でファンは嗤う。いつしかすらりと抜き放たれていたナイフが支部長を映し、無慈悲にその切っ先を振り上げ――本気で赤くするつもりで振り上げ――。
 破裂音が響いた。発砲音に、動きを止め、ファンはゆっくりと振り返る。
 その先に男がいた。両手で構えた拳銃を上に向けた男が、まともにファンの殺気を浴び震え上がる。それでも勇を振り絞って、男はぶるぶると手元の銃に新たな弾を詰める。

 「し、しし支部長に、手ぇ、出すな……っ!」
 「…………」

 無造作に一歩近付けば、ひぃっと情けない悲鳴を上げ男が目を瞑って引き金を引く。ほとんど奇跡のような軌道でまっすぐファンに向かって弾丸が飛び、しかしファンが半歩横に動くだけで背後の書棚に突き刺さった。
 淡々と距離を詰める。ただそれだけで恐怖に拳銃を取り落とした男の無精面を、じっ、と見上げ。

 「…………諦めた、なら……誰にやられても、一緒」
 「あ、あ、諦める? だだだ誰がんなこと言った! しっしし支部長がそう言ったか!?」
 「…………」
 「お、俺は諦めねえぞ! んなところで死んでたまるか! たた大将が何だっ、軍艦が何だ! 元から俺たちゃ世界に喧嘩売ってんだっ! いつか相手しなくちゃなんねぇなら、それが今日であって何が悪い!!」
 「…………十分、悪いと思う」
 「うぐっ……や、やっぱそうか?」

 今更たじろぎ冷や汗する男から視線を外し、ファンは周りを見た。
 火が付いていた。希望の火ではない。やけくそに近い、だが生きるための灯火。己の葬式を前にしたような顔色から、誰も彼も身を奮い立たせ、恐怖を武者震いと言い聞かせ、蛮勇を勇猛と虚飾して、無謀を遠謀と糊塗して、無理と無茶を経理屈でこね倒し、青い顔のままファンを、否、男を見つめた。それこそ蛮勇を成し遂げた男に引きずられた様子で、無理やり引き戻されてしまった感じで、だが、立ち上がる。

 「……は、ははは」

 支部長が笑った。憑き物の落ちたような顔だった。

 「はははっ……確かにそうだ。いや、全く……歳は、取りたくないものだ。若い者に言われて、やっと気付くとは」
 「あ、す、すんません支部長っ! 俺下っ端なのに何か偉そうなこと言ってしまいました!」
 「とんでもない、上司を諫めるのは部下の仕事だとも。そして君たちに最善最適な道を示すのが、私の仕事だ!」

 叫び、立つ。しっかと床を踏みしめ、快哉の如く叫ぶ。

 「今これより脱出作戦を開始する! 沖の船と連絡を取りタイミングを計れ! 持ち出す資料と焼き捨てる物の種別は付けたな!? 三人一組の班行動を心掛け、いつでも動けるようにせよ!!」
 「「「ヤ――ッ!!」」」

 動き出す。革命軍が。支部長麾下五十四名が一団となり歯車となって部品となって各々がために全体のために回り始める。
 支部長が振り返った。精気の蘇ったその表情に、ファンは肩を落としてナイフを仕舞う。

 「…………赤く、し損ねた」
 「何で本気で残念そうなのかね……。いや、それはもういい。確かに、頑張ってくれた君に対し私の態度はあんまりだった。この通り謝罪する。……それで、任せていいのだね? あの青雉と、軍艦を」
 「…………ロウソク」
 「蝋燭?」
 「ん。…………それで、何とかしてあげる」
 「……よく分からんが、頼む。君に、私と私の部下全員の命を預ける」

 ファンは狐面の角度を直した。真摯に頭を下げた支部長へ、残念そうに、仕方なさそうに、肩を竦めて。

 「まあ…………任された」










 ~pm.4:37~


 冬を響かせ、男が進む。男の歩いた場所は例外なく永久凍土に成り果て凍る。土が、石畳が、扉が、軒先が、窓が、壁が、屋根が、十重二十重にパキパキと凍り尽くされ白く霞んだ。
 氷結、していく。

 「……さて、どこで出てくるか」

 冷然と気配を探り、青雉は頭に叩き込んである革命軍支部への道をたどった。一歩踏むごとに広がる氷の世界を背後に、自らの能力が及ぶ領域を拡大させながら、歩く。走らず、歩む。
 未知の能力者に対し警戒してし過ぎることはない。相手が“あの”ドラゴン率いる革命軍と来れば、どんな隠し玉があることか。想像も付かなかった結果が今回の被害、その根本たる原因と言えた。
 油断ならない相手だとは青雉のみならず、中将も承知していたはずである。しかし現状、軍は左官を含む大きな犠牲を出し、中将自身も死の危険に見舞われ、危うく殺されるところだった。それも恐らくはたった一人の“敵”に。
 青雉がこうして街を凍らせながら縦断する目的は、示威行動の一言に尽きる。自分がたどり着けばこれほどの被害が出るぞという、分かりやすいデモンストレーション。注意を己に集めるためであったが、しかし青雉は囮でありながら必殺の牙。五号艦を陥とした“敵”もこうなっては守勢に回らざるを得ず、どこかで仕掛けてくるはずだった。

 (移動に使える能力か、身を隠すのに役立つ能力か……あるいは、両方)

 移動時間を無為にせず、青雉は思索に費やす。

 (その上爆発も無効化する……と、考えるべきか?)

 判断材料は多い。狐面、自爆、幽鬼、いつの間にか置かれていた火薬箱、そして局地的な念波の乱れ。五つもヒントが揃えば大概何らかの糸口は見えるものだが、しかし、今回の“敵”はどうにも能力がイメージし辛い。実際に目で見ていないこともあるにせよ、能力を直接攻撃手段に用いていないのが厄介だった。
 どれもこれも火薬頼りの大爆発。間接的な攻撃ばかりで、能力本体をまるで使ってこない。むしろ意図的に隠している。完全に姿を現した五号艦だけ殺戮した点からも、そんな臭いがした。

 (能力を秘匿したい理由がある……それが大きな弱点だからか、単にそう言い聞かされてるだけか)

 頭の中で可能性を纏め上げる。
 動物系――狐の幻想種。幻術だの妖術だので化かされている。……可能性、中。
 超人系――種は不明。だが幽霊染みた能力ではないかと推測。……可能性、高。
 自然系――希少なため、歴史上でほとんどが確認済みで既知。……可能性、極低。

 「パラミシアが妥当なんだろうが……まぁ、いいか。見ればじきに分かるだろ」
 「…………そう?」
 「ああ……あ?」

 耳元で違和感なく囁かれた声音に自然と答えてしまい、振り返る。
 風が吹き、軒から下がる細いツララが一本、落ちて砕けた。
 誰もいない。影形すらない。

 「…………こっち」

 囁く声は子供のそれ。だが青雉が再び首を巡らした先にも声の主は居らず、冷えた大気が吹かれるのみ。
 思わずぼやく。

 「面倒というか……面妖な能力だなこりゃ」
 「…………褒め言葉?」
 「そう聞こえたか?」
 「…………分からない」

 近くに居るような、居ないような。声ばかりが響き、正体を掴ませない。が、どうにもこうにも、子供だなと当たりが付き、青雉は思いっきり嘆息した。

 「…………何?」
 「何でもねぇよ。警戒してた“敵”が子供と分かってやる気が急降下とか、決してそんなことはねぇから安心しろ」
 「…………不愉快」

 姿を見せない声に険が籠もった。
 子供っぽい自尊心を軽く突つき見事怒りを誘った青雉は、よしよし出て来い、と表面上は無造作に立ち尽くしたまま待ち構える。これで直接狙いに来てくれれば御の字であった。
 が。

 「……」
 「…………」
 「……」
 「…………」
 「……おい」
 「…………何」
 「今のは普通、何らかのアクションに出る場面でしょうが」
 「…………出ないと、ダメ?」

 不思議そうに首を傾げる子供の姿が目に見えるようで、青雉はガシガシと髪を掻き回した。
 調子が狂う。

 「あー……ったく、何しに来てんのよ俺は」
 「…………?」
 「仕事の合間にちょーっと遠出して、海水浴を楽しむピチピチギャル探すつもりがあら不思議、近くで大きな作戦が進行中じゃないの。おかげでせっかく南の海まで来たってのに、水着のお姉ちゃん一人居やしない」
 「…………」
 「だから早ぇとこ、街の避難命令解除したいんで――」

 しゃがみ込み、青雉は右の手を地面に当てた。パキ、と霜が降りる。

 「――いい加減、時間稼ぎにも付き合ってられねぇな」
 「…………!」

 寒気が爆発した。凄絶な冷気が腕を伝い地下の水分を凝固させ、瞬く間に巨大な氷柱へと化さしめる。突撃槍の如く青い氷が次々と石畳を突き破り、引っくり返し、街路を“奔った”。まるで氷の蛇が蛇体をうねらせその逆立てた鱗で削り取っていくような、そんなあり得ざる自然の猛威が鎌首をもたげ、支部の存在する区画へと牙を立てんと迸った。

 「――――“幽山”!」

 刹那。ゴッ、と山の如き衝撃波が大鎚となり叩きつけられ、石畳が広く陥没し、蛇氷も纏めて破砕される。
 ダイヤモンドダストのように舞い上がる氷の破片。そこに、赤く小柄な影が降り立った。
 白狐の面を付けた、子供。ふわりと、重量の失せたような挙動で着地し、ゆらりと、無機質な面貌をこちらに向ける。

 「あらら……ホントに子供じゃないの。何考えてんだ革命軍の馬鹿どもは」
 「…………」

 ようやく出現した“敵”の姿に青雉は口の端から吐息を零すが、狐面の子供はもう軽口に乗って来なかった。ゆらと影のように佇み、ここは通さないという意思を透けさせる。友好的な態度ではない。

 「無駄だと思うが、念のため聞いておく。……降伏しろ」
 「…………」

 無言、沈黙――回答、なし。

 「敵と見做すが……構わねぇだろうな?」
 「…………そろそろ」
 「?」

 子供が呟き、片手を胸の前に持ち上げ、そこに燭台が“現れる”。
 現れる――そう、それは忽然と現れた。青雉は子供の全身を視界に収めていた。断言できる。子供は“何も”持っていなかった。だが現に蝋燭はちろちろと舐めるように燃え、灯火を揺らめかせて厳然と存在し、青雉の警戒心を跳ね上がらせる。――何らかの、能力。まるで今の今まで、見えなくなっていたかのような――

 「そろそろ? 何がそろそろだってんだ」
 「そっちは…………僕を、足止めしたい。…………僕は、その逆」
 「足止めというか、こちらとしちゃもう俺一人で片を付けるつもりなんだが……」
 「…………それは、もう……無理」
 「あらら……大層な自信だ。お前が俺の相手をするからか?」
 「それも…………あるけど」

 狐面が蝋燭を見下ろした。元の長さを知る術はないが、溶けた蝋の溜まり具合から半分以上燃え落ちたようである。
 ん? と見えた物に青雉は内心首を捻った。白い蝋燭の表面、今にも火が達しようとする部分に細い傷があった。――いや、傷と言うよりそれはわざわざ刻み付けた、
 ―――印?










 時を同じくして、海上の軍艦では兵が甲板に集められていた。
 大将青雉が出陣した以上、作戦の成否はもはや確定したと言って過言ではない。中将は“敵”が万一にも潜り込まないよう弾薬庫を厳重に閉め切り、火薬類も一旦その全てを中に収めるよう命令した。五号艦の二の舞はどうしても避けたかったのである。
 そして兵を集めたのは暗殺を防ぐため――だけでなく、もし彼らが狙われたなら確実に戦いの様子を目にするためだった。ここまで多くの被害を出しておきながら“敵”の影さえ踏めず、能力の片鱗さえ掴めなかった失態を挽回しなければと、中将が敷いた非情の布陣。
 仮に機能せずとも損はない。殺しに現れたならばどこからでもその戦いを見ることができ、そしてすぐさま首を取りに行く。――その間、殺されるだろう兵の数は、頭から慮外した。これは無為な犠牲ではない、と食い縛った歯の奥で、己に言い聞かせながら。
 だが。
 だが、である。
 ドラゴンならば、アゼリアならば、少年の能力を知る人間であれば、赤紫の少年を敵に回した時点で火薬の類を一つ残らず海に放り捨てるだろう。
 弾薬庫を守る堅牢な壁と鉄の錠前など、薄紙ほどの役にも立たない。
 “知られない”ことは故に大きな意義を持つ。“能力の秘匿”自体が罠となり、致命的な手違いを誘発する。
 小さな灯火が、揺れている。
 誰もいない弾薬庫で、中ほどに導火線を巻かれた蝋燭の先端で。
 場所を変え、火は揺らめく。。
 同じ長さ、同じ太さ、同じ時間に火を付けたなら、消さない限り蝋燭の溶ける速さは等しい。
 五号艦を含む五隻全てで人知れず、秘めやかに時を刻む灯火が、





 ―――着火した。










 この日最大級の爆震が空を引き裂いた。
 五隻の軍艦でほぼ同時に大爆発が起こり、それだけでは飽き足らず爆発が爆発を呼び無限に思えるほどの炎と黒煙が振り撒かれた。
 蒼然と振り返った青雉は見る。もはや立て直せぬほど傾いた船と、引火し燃え盛る縦帆と、命からがら脱出し海に飛び込む兵たちを。

 「仕掛けて、しまえば…………僕が、どこにいても……一緒」
 「……!」

 黒く、何より赤く燃える海を背景に、狐面の子供がゆらりと視界に入り込んだ。
 支部への道を塞ぐ場所から、海への道を塞ぐ位置に。

 「後は…………僕が、足止めして……終わり」

 くふ、と仄かに笑う声がする。してやったりと、悪戯を成功させた子供のように無邪気なそれが、例えようもなく禍々しい。
 幽鬼――幽霊のような、鬼。その表現がこれ以上なく的を射ていたことに、青雉は遅まきながら気付く。だが活かせなかった不明を決死の思いで伝えてくれた兵に瞑目して詫び、それまで子供相手だからと、どこか手緩かった己の手足を――心を、凍らせた。

 「足止め結構だが……もう手加減してる暇、ねぇんで……覚悟しとけ」
 「…………じゃあ、僕も……そこそこ、本気」

 愉しげな雰囲気を面の奥に窺わせ、まるで“本気”を出す機会にこれまで恵まれなかったような浮かれた足取りで、子供が腰を落とし、構えらしき物を取った。燭台を放り捨て、ぎゅ、と拳を握る格闘家の真似事みたいなスタイル。見るからに我流でいい加減なそれも、もはや手心を加える理由足り得ない。
 合図はなかった。互いの呼吸を探ることさえせず、狐面の子供が凍った石畳を砕くほどの勢いで飛び出した。
 それが、開戦の号砲であった。










 ~pm.4:58~


 元は整然とした街並みも少年の自爆戦術(笑)により建物が倒壊し、何度か回り道を要求されたものの、それでも尚全員が見つかることなく海岸のすぐ傍にまで到達し得た。それは僥倖でも偶然でもなく、海軍側の混乱がそれ以上に酷かったという必然だった。

 「し、し、信じらんねぇ、本当に全艦爆破しちまいやがった……っ!」

 先ほど少年に唯一突っかかった男がどもりながら的確に皆の意見を代弁する。支部長も同じ思いで、だが別のことを言う。

 「全員、一人も欠けていないかね? しかし三人一組十八班は少し多かったかもしれんな……」
 「あの、支部長。こっから、どうすんですか?」
 「間もなく船が来る。それに乗り込むだけと言えば簡単だがね、見ての通り生き残った海兵諸君が陸を目指し泳いで来ている。ここまであの子に任せっ放しだったが、いい大人がいつまでも子供に頼っていてはいかん。皆、我々の底力を見せる時だとも。脱出船の到着に合わせ、威嚇射撃と並行し船に乗り込むのだ!」
 「か、海軍将校とか残ってんじゃないすか?」
 「脱出船にも精鋭が揃っている。後は運だ。祈ろう」

 ずん、と地響きが足を伝い、支部長は赤く燃える海から目を離し街の中心方向を振り返った。
 局地的な気温差の嵐が大気を凍えさせ、低気圧のような寒々しい突風を吹かせていた。その風に乗り、氷を砕く重い破砕音がここにまで届く。

 「……できるからと、子供にもっともきつい役割を振らざるを得んとは」

 仕方ないでは済まされない。もしこれで彼が死ぬようなことでもあれば、必ずや自分達は地獄に堕ちるだろう。

 「それにまだ、君の名前も教えてもらっておらんのだ」

 命を捨てるまで戦わなくてよい。我々のためにも、せめて生きて帰ってくれ。
 我らも諦めず、最後まで抗ってみせるから。










 ~pm.5:00~


 耳元で唸る大気に氷片が舞う。吐き出す息が白く凝る。
 タッ、とファンの身体が氷の地面を蹴りつけ跳んだ。その場に降り注いだ氷礫が弾丸となって氷床を砕き、破片は落ちるよりも早く更なる冷気に蝕まれ、礫同士が網の目のように結び付き宙空で凍り付く。

 「――パルチザン」

 冷え切った声音が新たな氷塊を生む。巨大な針か槍に似た氷柱がざらりと広がり、上空から街路を埋め付くさんばかりに驟雨となって降り注いだ。
 面の奥でファンは赤紫の瞳を細め、ゆらりと身を翻す。滑る氷の上を意にも介さず、というか実際には踏み抜く瞬間だけ僅かに地面をすり抜けて滑り止めとしながら、小柄な体躯を活かし踊るような挙動で氷槍の隙間をくぐり抜けた。
 がりがりざくざく削れ砕け舞い上がる氷の粒。洋上に沈みゆく陽を浴びて煌く白いカーテン。

 「――“幽山”」

 腰溜めに腕を引き絞り、右手の先に震えを呼ぶ。能力――ユラユラの実の発露。ファンの意のままに、震えは不可視の波と化して充足、充填――拳を振り抜いた瞬間、それは弾け飛ぶ。解き放たれた獣が吠えるように、冷気の層が甚大な加圧にひしゃげ、たわみ、破裂したような音を掻き鳴らし、敵目がけて牙を剥いた。
 衝撃波――山をも穿つ波の意を込めて名付けたそのままに、屋根に降り立つ青雉の長躯を千の氷片と砕け散らした。

 「…………」

 数秒、力の応酬が停滞し。

 「!」

 刹那の反応で飛び退ったファンの足元から爪先を掠め、氷の腕がパキパキと“伸び上がった”。

 「あらら……また外れた」

 距離を取るファンの前で瞬く間に氷がその嵩を増し、数秒と経たず氷像となって“立ち上がる”。――だが氷の彫像であるはずの身体は見る見るうちに赤味を得、血の通う肉となり肌となり骨となり、衣服さえ形作って男の姿を――面の奥を窺い透かそうとする青雉の姿を顕現せしめた。

 「これで四度目。勘がいいのか、それとも別に要因でもあんのか……」
 「…………」

 ぼやきにファンは答えない。無言のまま、静かに男の気配を見据えて不動。
 ロギアの厄介さは予想していた。だが実際に戦ってみると、まるで大自然の一部と取っ組み合うような途方もなさに攻めあぐねる。
 敵は氷、そして氷結と言う自然現象そのものだ。どれほど砕き壊したところで能力者の実体には何の痛痒も与え得ない。世界中の氷を丸ごと溶かし尽くすような熱量でもあれば倒せるだろうが、そんなの太陽でも落とさない限り無理である。ファンは波だ。どう足掻いたって太陽にはなれない。

 (けど…………もう、少し……)

 慎重に距離を測りつつ、男が醸し出す極北の“波動”に目を凝らす。
 視える――男の波、悪魔の実が放つ波動――“それ”の集束する先が、即ち攻撃目標点。森羅万象を掻き乱す悪魔の“波長”を、“波人間”たるファンは見逃さない。



 ―――自然系だからこそ、ファンの知覚から逃れる術はない。



 「!」

 男が再び全身を白く氷結させながら、ぐ、と両腕を構えた。そこから噴き出す――“波”。宙を伝播し、あるべき法則を塗り替え、怒濤の如くうねりを持って押し寄せる――巨大な、“波”。

 「アイス――」

 その瞬間には、“氷の波動”が集束する場所から、ファンは迅速に離脱している。

 「――BALL」

 “視ていた通り”冷気が殺到した。自然界ではあり得ぬ気温の急降下が引き千切るように水分を凝集して、大人をも容易く捉える巨大な氷の球牢を生み出した。
 だが無論、ファンは逃げ終わった後。どころか横合いから滑るように回り込み、“全身を氷結させるせいで一つ一つの動作は鈍い”男の懐へ、男が完全に支配する氷結の領域へ、身を縮めながら踏み込んだ。
 ヒュウッと別次元の冷気が手足に纏わりつく。男の凍てつく視線がぎょろりとファンを追う。“波”を肌に感じ、素早く身を屈めたファンの髪を、絶対零度の腕が死角から掠めた。数本、髪の毛が凍りつき散らされる。
 顔を上げた。男と目が合った。冷然とした瞳の奥に、ごく微量の驚きが潜んでいた。

 「――“幽鐘”」

 己の頭部よりも高く、蹴り上げたファンの踵が土手っ腹に突き刺さり爆裂する。
 目を瞠った男の顔がびしりとひび割れ、氷結の暇さえなく放たれた爆発的な衝波が鳴る。鐘に見立てた男の胴を寸断し、腰から上を粉々に粉砕した。

 (もう、少しで…………“合う”)

 確信に至るほどの手応え――足応え。だがすぐにまた復活する。ファンは反撃に備えようと伸ばし切った足先を引き戻し――地に足を付けるより早く、青雉の“下半身”が動いた。

 「っ!?」

 氷結の能力ではない。単に砕かれてなかった部分が行動しただけで――だからこそ察知できなかった埒外からの“反撃”。残る下半身が格闘技の教本に載りそうな――事実海軍式の足技を独りでに放ち、地表を這うように繰り出された水面蹴りがファンの膝裏を猛烈な勢いで刈った。
 視界が裏返る。ファンの意識が浮遊感を覚えた次の瞬間、凍り付く硬い地面に背中から激突した。

 「あ……っ……!」

 痛みと衝撃に息を詰め、身体の芯がじんと痺れた。受け身の余地はなかった。
 大人と子供、歴戦の海兵と巣立ち前の雛鳥。いくら衝撃波で威力を誤魔化そうと、高々半年にも満たぬ鍛錬では純粋な地力が――筋力が、圧倒的に弱く、負けていた。それを悟られないよう戦っていたのに、十数分の戦闘でもうぼろが出た。これ以上は長引くほど、ファンが不利だった。
 白狐の面に苦痛を押し隠し、仰向けに倒されたファンは、だがはっと赤紫の瞳を見開く。
 ――風に逆らい、自分目がけて宙を漂い集いくる氷片が、目に映った。
 パキ、パキとそれが凍り付く。男の腕となって、胴となって、瞬きの間に造形された絶対零度の身体が、小柄なファンの上に伸しかかる。至近距離で視線が交錯し、凍るほどの冷気が、寒気が、衣服など無意味に過ぎ去り肌を刺した。
 白い呼気が、面に吹きかけられた。

 「――――アイス――――タイム」










 ~pm.5:06~


 全身から氷を剥落させつつ、青雉は束の間、そこを動かなかった。
 フゥー……と氷片混じりの吐息を零し、のっそり身体を離す。

 「……時間、かけ過ぎた」

 そう言いながら、だが立ち上がりもせず座り込んで、自ら凍らせた相手を見下ろした。
 白く、元の色さえ判別不能なほど凍り尽くされた、子供の氷像。狐面に隠され顔は見えない。青雉が伸しかかった瞬間のまま仰向けに倒れ、だが最後の抵抗のように両手を前に突き出して。

 「結局能力の正体も分からねぇままだったが……」

 呟きが途切れる。遠く、港からの潮風に吹かれ、大砲の音――革命軍の、救助船。
 新たな労働の予感に溜息し、ズボンの裾をはたいて立ち上がる。

 「まぁ……いいや。後で色々聞かせてもらおうじゃないの」

 氷像は答えない。答えられるはずもない。だがまだ、息はあるのだ。凍死の暇もなく全細胞が冷凍されているため、溶かせば息を吹き返す。故に連行すると決めた青雉は、道の真ん中でそうそう砕かれることもなかろうと、騒乱の気配漂う港に向け踵を返した。

 「――」

 だが――その足が止まる。氷結人間でありながら不意に寒気が背筋を這い上がり、背後を省みる。
 子供の氷像が横たわる、変わり映えのない景色――見慣れた氷結の世界、凍った街並み、冷えた空気――おかしなところは、異常は、何もない。そのはずだ。そうでなければ、“おかしい”。
 ならばこの――心臓を握られたような不安感は一体、

 何

 だ

 ?



 「――――“幽鳴”」



 「っ……!?」

 影のように陽炎のように忽然と前触れなく唐突に脈絡なく、目と鼻の先に“現れた”子供が逆手に握るナイフを青雉の胸に突き刺し抉り貫き――“震わせた”。
 振動――高周波。青雉の体内で無茶苦茶に荒れ狂い引っ掻き回しビシビシとひび割らせ、“波”が脳髄から爪先まで突き抜けぐわんと視界が一瞬暗くなりよろけた――よろけた!

 「離……れてろ!」

 氷結の腕を伸ばし、だが子供はするりとナイフを抜き取り青雉の胸を蹴って背後に飛ぶ。くるくると回転しブーツの底で氷を削りながら着地し、ゆら――と立ち上がる。

 「…………惜しい」

 そう、呟く子供の背後に――依然として氷像は転がっていた。

 「何だってんだ……そこで凍ってるんじゃねぇのかよ」
 「そう…………凍ってる」

 くふふ、と笑い――嗤い、手のナイフを危なげなく弄ぶ。

 「凍ってる…………けど。じゃあ僕は、誰だと思う……?」

 嘯く子供は――得体の知れない能力を使う子供は、ナイフの切っ先を揺らめかせ、腰を低く落とす。格闘技の真似事よりも遥かに習熟した、構え。明らかに慣れた――スタイル。

 「寒かった…………寒くなかった? 戦ってた…………本当に、戦ってた?」

 おどけて、道化て、嘘か真か、真か偽か。謡う子供のナイフが揺れる。

 「ごちゃごちゃうるせぇ……お前が誰かもどうだっていい。――全部凍らせる」
 「くふふ…………そう、その通り。…………でも、おかげで“合った”。今ので…………微調整も、できた」
 「微調、整……?」

 言葉の意味を捉えかね――だがはたと思い至り、青雉は表情を変える。

 「次は…………重いよ?」

 面の奥に炯々と瞳が光った。ぞっ、と吹き荒れる確信的な殺意の奔流に青雉の直感が警鐘を打ち鳴らす。
 能力は分からない――訳が分からない。覇気さえ纏わず、だが先程の高周波で青雉は“よろめいた”。原理も理屈も不明。藪の中。だが、あの攻撃は――“ヤバい”。
 確実に止めなければならない。

 「っ……アイスサーベル!」

 子供が突っ込んでくる。氷の欠片を蹴立て真正面から突撃してくる。狙いは瞭然。互いの距離が詰まる。ナイフが閃く。青雉は生み出した氷の刃を握り、子供の胴目がけ――連行のことなど頭から消え、殺すつもりで両断するつもりで赤い上着を薙ぎ払った。
 子供は止まらない。躱さない。爛々と狂気的な殺意の塊となって躊躇の欠片もなく刃に身を躍らせ、



 ―――氷刃を“すり抜けた”。



 「んな……っ?!」

 両腕が、振るった勢いに持って行かれる。体勢が崩れる。
 子供が飛んだ。走駆と体重の全てを乗せたナイフが、深々と青雉の胸に突き立った。

 「“幽――――鳴”」

 振動が鳴る。響く。青雉の体内を駆けずり回り、その全てを余すことなく震わせ――氷結人間である青雉の“固有振動数”――ヒエヒエの実と全く同じ波長が“共鳴”し、“共振”する。わぁぁんと人間の耳に聞こえる筈のない高周波が頭の奥で喚き回り、視界がブレた。

 「――っ!?」

 全身が軋んだ――腕も首も腹も胸も足も骨も臓器も頭も神経も何もかもが傷み軋み喘ぎ――中も外もなく全身を狂ったように殴打されたような“苦痛”。青雉の膝が折れる。血が口の端から零れる――“傷付けられていた”。
 生物無生物を問わず、この世の森羅万象は須らく揺れやすい“波長”を持つ。即ち固有振動数。“共振”に青雉の波が同調、相乗、増幅され、“幽き悲鳴”の名のままに絶叫を奏で、細胞単位で“自壊”させられた。 

 「…………!」

 だが、すぐ傍にある面の奥が驚いた気配を醸す。何で死んでない、と言わんばかりに子供が刺したままの――そこだけ氷となって傷付いていない胸から突き出たナイフの柄を強く握り直し――だがはっとした様子でナイフを抜き飛び離れた。

 「ちっ……外した……か」

 ごほっ、と咳をした拍子に赤い塊が地面を濡らし、瞬く間に赤い氷となる。腕のサーベルを振りきった姿勢から、青雉はよろめきつつ膝を伸ばした。

 「ようやく、分かった。……“波”だ。お前は……“波”を操る能力者だ。衝撃波、振動、念波妨害……すり抜けたタネは分からねぇが……それでほぼ、説明できる」
 「…………!」

 幽然とどこか余裕を残していた気配が波打ち、子供の姿が背後の景色に溶けて消える。だが完全には消えていない。――消えていたら、向こうからも攻撃できない。
 故に青雉は間髪入れず氷刃を横手に突きつける。硬質な、金属を打ち合わせたような手応えが返った。ゆらりと虚空に狐面が揺らぐ。両手で握られた子供のナイフと青雉の氷刃が噛み合い、鍔競り合う。が、体格差で容易く均衡が崩れ、押し負けた子供は慌てて後ろに跳び離れた。

 「そして今の……逃げたな。氷結も、俺のサーベルもすり抜けられるのに……逃げて、離れた。つまり、“避けられない攻撃”があることを知ってる。だから、今まで、全く、完全に、透過能力を隠して戦っていた――俺に、“避けられない攻撃”を使わせねぇために!」
 「…………っ!」

 子供は答えない。仮面の裏に表情を押し隠し――だが飛びかかっても――来ない。
 青雉が一歩、近付いた。子供はぴくりと――後ずさった。

 「“覇気”の籠もった攻撃を無効化できない――故に能力任せの自然系より、お前は“ただの覇気使い”が、苦手だ。……身体が出来上がってねぇのもあるんだろうが、珍種だな。何の実だ?」
 「…………」
 「答えねぇか。それもいい。……どうせすぐ、喋ることになる」

 奈落――底無しの冷気を腕に纏わせれば、子供がナイフを片手に持ち替え身構える。無敵の仕組みを看破され、だが逃げ出さない姿勢に青雉は素直な称賛を抱いた。
 港からの騒音は既に途絶え、逃げたにせよ捕らえたにせよこの場を除く戦闘は終結している。ならばこれ以上、戦う必要はあるのか? ――答えは、“ある”。青雉の能力ならば水平線の彼方までを瞬時の内に永土と変えられる。脱出したと仮定するなら、少なくとも船が目視可能距離から消えるまで青雉を足止めしなければならないのだ。

 「アイスブロック――」

 凍気を氷結させ具現する。其は氷鳥。極寒の覇気が精錬される氷に纏わりつく。
 腕を曲げ、子供が全身で斬り払う姿勢を見せた。握るナイフの刀身が、ヴ――と低く鳴動する。
 停滞。刹那に、永遠に、時が止まる。音が絶え、色さえ失われる程の静寂に身を浸し、だが不意にどちらからともなく動いた。
 殺気が押し寄せた。むわっと鼻孔に香るほど。言葉はなく、だが万言に匹敵する殺意が迸り、子供の銀閃が完璧な三日月を空に刻んだ。同時に氷鳥もまた飛び立ち、青く煌めく翼から氷華を零し天を翔けた。



 「“暴雉嘴/フェザントベック”!!」

 「“幽谷鳴閃”!!」



 刻む鋼の軌跡が凄絶な斬撃の波と化し、羽ばたく氷の雉と真っ向から激突した。波と氷が互いを喰らい合い一歩も引かず削り合う。舞い散る氷の花弁と三日月の斬波。有形と無形の果たし合い。
 音が勝敗を告げる。ビシビシと氷の身体にひびを入れ、悲鳴する氷鳥が次の瞬間、斬撃を巻き添えに無数の塊となって砕け散った。
 相討ち――相克。刃を振りきった姿勢から、子供が体勢を立て直しその身を幽玄に溶かそうとする。だがばらばらと足元に降り注いだ氷の破片が、突如として“腕”を生んだ。

 「あ……っ……!」

 腕が、掴む。足首を鷲掴み、パキパキと肩を生やし上半身を作り下半身を形成し、“氷鳥にまぎれていた”青雉が、咄嗟にナイフを突き立てようとした子供の腕をも掴み止める。

 「予想通り……“直接”俺の身体を震わせねぇと、ダメージは徹らねぇか」
 「っ…………!!」

 子供が自由な腕と足で衝波を打ち込む。だが青雉は身体を氷と化すことなく、生身のまま受け止めてみせる。

 「無駄だ。そんな威力じゃ俺の“覇気”を破るまで、三日はかかる」
 「覇気って…………何……っ!」
 「後でなら教えてやるが……あらら、やっぱ凍らねぇな」

 無敵の透過ではなく、子供の体表を覆うように奔る振動が氷結させんと張り付く氷の膜を片端から叩き壊していく。温度と関係なく動き続ける物体など自然界に存在し得ないが、悪魔の実は物理法則を凌駕し、子供の波動は氷結を絶対的に拒絶していた。

 「どうするかね……凍らずとも俺に触れてる以上、じきに寒さで凍え死ぬのは確実だろうが」
 「死な、ない……っ、…………行かせ、ない……!」

 口調は強い。だが青雉には聞こえる。カチカチと、奥歯のなる音。氷の腕に囚われ、蝕まれる体温。

 「は…………っくしゅん!」
 「……くしゃみまでして何言ってんの。大体、お前がここまでタマ張って革命軍に肩入れする理由はあんの?」
 「…………別に、ない。僕は…………革命軍でも、ない」
 「……は?」
 「でも…………言ったから」

 ふら、と狐面がよろめく。寒さに意識まで奪われそうなほど――そんな有様で、声を掠らせ、だが隙を見せれば刺し殺されそうな眼光を面に覗かせて。

 「僕が……言った。…………任された、って。軍艦と、アオキジを…………何とかする、って。…………そう、言ったから…………だから」

 子供が自由な方の腕を伸ばした。その手が、青雉の身体に触れる。くしゃ、と服を握り締める。

 「お前は……………………行かせない」
 「っ――!?」

 猛烈に嫌な予感がした。ばっと腕を振り払おうとする。
 しかし――子供の囁きが、速かった。



 「――“幽、歩”」



 ふっ、と。
 子供と、青雉の姿が掻き消えた。
 夢か幻であったように、忽然と、脈絡なく。
 誰もいない氷結世界に、子供のナイフが落ちて、砕けた。
 微塵の破片は、舞い上がることなく氷土に受け止められ、誰にも知られず、役目を終えた。










~~~~~~~~~~~~~~~~
 フルボリュームでお送りしました……と言っていいのかな? とにかく、頑張りました。ほとんど初めての本格戦闘シーン、お楽しみいただけたら幸いです。
 後、珍しく今からちょっと感想返ししようと思います。ええ、最近何やら色々と感想入れてもらっているのが嬉しくて……^w^
 戦闘も一段落したし、学校も始まったので更新ペース遅くなります。これまで通りに戻るか、もっと遅くなるかは不透明……。単位が危ないのでTwT
 以上。……次回のタイトル、どうしようかな。



[19773] 敵は味方で味方は敵で  (改訂版――旧題・閑話)
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:bac02990
Date: 2014/10/24 18:08


 冷たい沈黙が真綿となって首に巻きつく。
 息苦しかった。背中の翼が無意識に縮こまっているのも気付かず、エルは恐る恐る隣を窺う。
 鬼女がいた。いや違うラナがいた。いや、正しいのか? エルにはもう何が何だか分からない。それぐらい、黒髪の少女から立ち込める気配は、鬼気迫っていた。

 「……ファン」

 細く吐息のようにラナの唇が音を紡ぐ。しかしその吐息は悪魔でも潜んでるんじゃないかと思う程寒々しく響き、そーっとエルは身を引いて少女の視界から逃げる。それでも未だ鬼姫を源泉とするおどろおどろしい空気の勢力半径なのだが、直撃するかしないかで天地の差があった。
 時刻は壁時計が示すところによると既に九時を回っている。外は星と月の世界に姿を変え、夜風が昼の猛暑を和らげる。
 が、そんな刻限を過ぎたと言うのに、ファンが帰って来ない。
 それどころか安否不明、消息不明の連絡が二時間ほど前に届いたのだ。電伝虫を取ったのはドラゴン、通話相手は脱出船に乗った支部長らしいが、エルは夕食を漁りに食堂まで出かけていたため又聞きだった。又聞きでよかったと心から思う。おかげで行方不明の連絡を受けた直後のラナと同席せずに済んだ。
 とにかく何が悪いかと言えば、

 (ファンが悪い)

 それしかない。ファンが原因だ。諸悪の根源だ。色んな意味で。

 (……心配は、してないが)

 あのファンに限って逃げ損ねるという状況がまず想像できない。ぼーっとした見かけからは分かり辛いが、こと殺し合いの勘所に関しては頭がおかしいんじゃないかと疑っている。……疑いで済むレベルなら、自分はとっくにファンから一勝をもぎ取ってるだろうが――と、自虐に走り始めた思考をぶんぶん頭を振って追い払う。

 「……あー、ラナ娘? そんなに思い詰めず気を抜いてみたらどうかと」

 机の向こうから空気に耐え切れなくなったアゼリアがそう切り出した。果たして愚挙か英断か、見守るエルともう一人の視線を集めながら、ラナが青白い面を膝から上げ、

 「そう……ですね」

 頷き、椅子を引いて立ち上がる。そしてふらふらと部屋の隅に歩いて行き、見栄えの乏しい部屋で申し訳程度に飾られていた観葉植物――ただし作り物――の植木鉢に手を伸ばしたかと思えば、えいやとばかりに引っこ抜く。

 「……ラナ娘?」
 「“木”を抜いてみました。ふふふ……もう、文句ないですよね?」
 「「「…………」」」

 ふふふ、と恐ろしいほど可愛らしく微笑むラナにアゼリアがじっとり滴る額の汗を拭う。どうにかしろ、と横目で促されるが、心療医が匙を投げる問題をエルに解決できるはずもない。思いっきり目を逸らしてやり過ごす。部屋に残る最後の一人であるドラゴンもエルに倣いあさっての彼方。
 孤立無援を悟ったアゼリアがもはやこれまでと敵前逃亡、扉に脱兎。しかし時空が歪んだとしか思えない速度で閃いたトンファーがその足をかっぱらい、果てしない勢いで転倒させる。

 「ふふふ、どこに行くんですかアゼリアさん? ファンが帰るまで一緒に待っててくれないと困るんです」
 「いやいやいやいや! ラナ娘、これはきっと感動の再会にキスぐらいしたくなるんじゃないかなーという私なりの配慮で」
 「ダメですよそんなの。――帰って来なかったら、みんなであの世まで迎えに行くんですから」
 「うわぁあああああああっ!? そこっ、そこ二人っ、見てないで助けてくれと懇願してみようっ!」
 「……エル、もしもの時は二人同時、逆方向に逃げるぞ。一人は助かる。壁を壊しても構わん」
 「いいだろう。お前らは好きになれんが今回ばかりは協力してやる」
 「見捨てること前提で話をするんじゃなぁああああいっ!!」

 ――そう言うお前は一人で勝手にとんずらするつもりだっただろうが。
 ふん、と鼻を鳴らしてエルは羽をぱたぱた。アゼリアの悲鳴も聞こえない振りで机に突っ伏す。
 ……おい、ファン。お前のせいで“常識”の代名詞が非常識じみて来てるぞ。
 腕を枕に見つめる先は、夜に彩られた窓。誰にも聞こえない声量でぼそっと呟く。

 「早く帰ってこい、ばか」



 ・
 ・
 ・



 暗いのは怖くない。
 一人なのも、別に平気。
 けど、動けないのは、困った。

 『…………』

 よく見知った森の遊び場で、ファンはじっと膝を抱えていた。六歳の頃だろうか。帰る途中で不覚にも足をくじき、歩くに歩けなくなったことがある。いつも誰も来ないような所でこっそり遊んでいたから、他の子たちは気にもせず先に帰ってしまった。今はもう誰の声もしない。
 森は暗く帳を下ろし、今宵を生き急ぐ虫たちの合唱が始まる。木の根に蹲ったファンは困り果て、眠たげな赤紫の瞳を闇に向け、ぽつんと呟く。

 『お腹………………すいた』

 ぐぅ、きゅるる。押さえた腹の虫も回りに合わせて歌い出し、ファンはとっても困った無表情で小さく吐息。子供らしい変な深刻さでこのまま飢え死にしたらどうしよう、そう言えば松の樹皮は食べられるんだっけ、と考えていたら、近くの茂みががさがさ鳴った。
 瞬き一つ、そちらに視線を向ければぬっと出てくる見慣れた頭。

 『……お、いたな。帰るぞ、ファン』

 父親だった。捜しに来てくれたらしかった。ファンはまた一つ、瞬き。
 無反応な態度にも流石の慣れを窺わせ、ダール・イルマフィは息子の襟首を掴み豪快に背中に放り投げる。
 慌ててファンは首っ玉にしがみついた。片足が不自由なのに落ちるとか、冗談ではなかった。

 『ん? 何だお前、足くじいたりでもしたか?』

 しかも今頃気付いたらしい。抗議を込めてファンは無表情にダールの頭をはたく。

 『わはは、そりゃすまん。が、お前も動けないなら動けないで、せめて声出して居場所知らせるぐらいしろよ』
 『…………』
 『まあそう睨むな。今日は母さん特製若鳥のシチューだ。腹減ってるだろうが? たっぷり食え』
 『…………』

 ファンの無表情読解スキルをマスターしているダールには、何を言わずとも大体通じる。
 だからファンは、もう一度だけ頭をはたいた。

 『わっはっは、そう恥ずかしがるな。んん? 怪我して動けなくなるなんざよくあることだ。父さんだってある。そういう時は助けてもらわんとな。日頃から他人に優しい奴は、自分が危ない時に必ず助けてもらえるもんだ』
 『…………一蓮托生』
 『そりゃなんか違う気もするが……つーかどこでそういう言葉覚えてくんだ……?』

 ダールの歩みは大きい。ぐん、ぐんと負ぶさるファンを連れて歩み、あっという間に森を抜けてしまう。
 星と月の淡い光が降ってきた。茫、と見上げたファンは次の瞬間、またも襟首を掴まれ放り投げられる。咄嗟に足を畳み身体を丸めて“着地”――そう、着地した。怪我のない両足で、しっかりと。

 『よぉっし、後は一人で大丈夫だな? 父さんはちっと用事があるんで先行ってろ』

 え、とファンは小さく目を見開く。――“記憶”と違う。このまま一緒に帰って、親子三人でシチューを食べるはずなのに。

 『行くって…………どこ』
 『どこだろうな。まあ誰もがいつかは行くところか?』

 わははと笑い、ダールが踵を返した。ぽっかりと穴のように口を開けた森の闇へ歩き出す。
 待って。そう言ったはずの喉から声が出ない。叫んでいるのに声にならない。
 ファンは追いかけた。自分でもどうしてか分からないぐらい必死になって追いかけた。
 遠ざかる。華奢なファンとは似ても似つかない大きな背中が。
 ずん、ずん。暗闇の向こうへ、行ってしまう。

 『じゃあな。ちゃんといい子で、“家”に帰るんだぞ』
 『待って…………お父、さん……お父さん…………!』



 ・
 ・
 ・



 声が聞こえ、青雉は身体を起こした。勢いを失い弱々しく火の粉を散らす焚火の向こう側で、一人の少年が横たわっている。
 素早くかつ音を立てないよう慎重に近寄った青雉は、発熱し汗の浮いた額を水に浸した布で拭き、少年の身体にかけた自分の上着を甲斐々々しく肩の位置まで引き上げてやる。少し考え、真水で薄めた海水を数滴ずつ、荒く呼吸する少年の口に時間をかけて落とす。

 「……点滴でもありゃこんな手間、要らねえんだが」

 発熱、発汗と来れば注意すべきは脱水だ。水分と塩分の小まめな補給が必要不可欠。青雉はうつらうつらしながら、もう数時間近く同じ作業を続けていた。
 刻限は間もなく深夜。日暮れ前に行われた戦いを思い返し、青雉は苦みと称賛を口の端に漂わせる。
 勝って当然の戦いなどありはしない。
 だが最後の最後で詰めを誤り逆襲を喰らったなどいつ以来か。掘り返す記憶がやや心許なかった。

 「窮鼠猫を噛む、つっても鼠ほど可愛らしかねぇな」

 あの時。
 南の海の港町で戦いの決着が付くかと思った瞬間、青雉は嵐に放り込まれた。
 比喩だ。大時化の海で船ごと天地が引っくり返るあの感覚。上も下も前後すら不確かで、ただ理解したのは己がシェイクされている事実のみ。それが少年の能力による現象だとはすぐに察した。だが後の祭りだ。気付いた時には見知らぬ森で膝を付き、荒い息を吐いていた。
 船酔いと陸酔いと二日酔いが徒党を組んで襲ってきたような最悪の気分だった。二度と味わいたくはない。

 (まあ頭が痛いのはそれだけじゃねぇんだが……)

 大将の自分が戦闘中に行方知れずとなったのだ。各方面の騒ぎはどれほどになるやら考えるだけで気が重い。
 帰還しようにもエターナルポースは自転車に置きっ放し。星の位置から現在地を割り出す天文航法もあるにはあるが、士官に昇任して以来頭の片隅で錆びついて使い物にならない。
 とは言えこれが青雉一人なら、難易度はともかくなるようになる。
 が、しかし、捕虜付きでは如何ともし難いのだ。その上問題の捕虜が風邪をこじらせているとなれば、その介抱に追われ連絡も取れず失踪同然な野営もいたしかたないのである。――と、青雉は今から帰った時の報告書(言い訳)を頭の中で算段する。傍らで寝こける小電伝虫から受話器がずり落ちている光景は、敢えて無視の方向で。

 「……絶対後でどやされるな」

 てめぇのせいだぞ、と小さくぼやく。
 熱に魘され、時折寝言らしきものをこぼす、少年。その顔に面はない。邪魔だったから看病の前に外し、現れた素顔の幼さに驚いた。
 十五に届くどころか、よくて十二、十三。大将である自分とほぼ互角に渡り合ったとは信じられないほど、その面立ちは幼く、その手足は細い。
 
 (動きは、我流っぽかったな)

 訓練を受けたものではない。ただ自分のやりやすいように死ぬほど走って、死ぬほど戦って、その果てに得た挙動。決して洗練されたものではなく、粗削りで、むらが多く、それでいて計算高さを隠し持ちながら、真正面からぶつかろうとする気概もある。
 なんともちぐはぐな少年だというのが実際に戦った青雉の忌憚なき感想だ。全体としては戦略通り行動しつつ、要所要所が場当たり的というか、思い付きで動いてるんじゃないかという印象が拭い切れない。あの一騎打ちの最後にぶつけ合った大技で青雉は少年の裏を掻き勝利したわけだが、そもそも技の応酬に付き合う意義が果たして少年の側にあったかどうか。
 理知的に行動するようでいて、案外見た目のまま子供っぽいのかもしれない。

 「さて、こっからどうすっかね……」

 脳内会議の議題は勿論目の前で横たわる少年について。主な討議者は海軍規範に世界刑法に、青雉の良識やら何やらその他もろもろ。厳密に罪を量り天秤に乗せるのは裁判官だが、そこまで持っていくのは海兵や各国の警備を預かる者たち。裁判所へ送る責任は重く、事態を注意深く慎重に受け止めた上で判断を下さねばならない。
 罪状を考えてみる。

 壱、殺人罪。――言うまでもない。むしろ大量殺人。

 弐、傷害罪。――直接見てはないが、恐らく被害者多数。

 参、内乱罪。――革命軍に対する幇助、国家反逆罪含む。

 肆、器物損壊罪。――軍艦五隻etc。被害総額は余裕で十億ベリー以上。

 伍、公務執行妨害罪。――こうやって並べるのも馬鹿らしい小さな罪。

 陸、……。

 指折り数えていた腕を溜息しながら下ろす。
 今ここで熱にうなされる少年がこれほどの犯罪者だと訴えて、信じる人間が何人いるのか。
 身に宿した悪魔の能力の恐ろしさを、肌で理解できる人間がどれほどいるのか。
 理解したうえで、少年と敵対する道を選べる人間が果たして存在するのか。
 看病も成り行きだ。目の前でぶっ倒れた人間が熱を出したもんだから、仕方ないが故の消去法。義理立てする理由も特にない。

 「……」

 胸の裡が冷えていく。心の水面が凪ぎ、静かに凍っていく。
 死んだ方が良い人間が存在するのを青雉は知っている。そいつらは大概が死んで当然の悪だ。占拠した港に我が物顔で居座り、女を犯しながらその夫を大砲の的にして遊ぶような畜生は百回殺しても殺し足りない。
 かつて巨大な災厄の芽となり得る幼子を逃がした時とはわけが違う。この子供は自分から海兵を殺して回り、青雉の前に立ち塞がった。義理立てすべき理由も特にない。

 「……“アイスサーベル”」

 パキキ、と凍り付いた切っ先を細い首に宛がう。喉仏すら浮いていない華奢な首だ。少し力を込めればあっさりと裂け、命のスープを垂れ流すに違いなかった。
 小さく、少年が咳をする。覇気を込められた氷剣が触れたせいだろう。余りにも弱々しい姿に剣先がぶれる。迷う。過激すぎる同僚の苛烈な信条を思う。決して相容れることのない絶対的正義。あいつは迷ったことがあるのだろうか。それとも迷いの果てに行き着いた選択が、あの正義なのだろうか。普段なら考えないようなことまで脳裏をよぎる。くそ、と悪態を吐いた。氷剣を握り直す。凍ったはずの水面にひびが入るのを自覚しながら、奥歯を噛み締めて刃を振り上げた。

 「…………お父、さん」

 掠れた声音が、ひび割れの奥に楔を穿った。

 「待……って。…………行かない……で……!」


 
 裁かれるべき罪人はそこに居なかった。

 ただ父を求める幼子が、そこに居た。






 薪を足され、盛る炎が星空へ息を巻き上げる。
 青雉は深々と溜息を吐いた。憑き物が落ちたような顔だった。

 「……やっぱ、俺にあの馬鹿の真似は無理だな」

 太い指を、少年の小さな手が握っている。
 名前も知らない少年は、夢の中で父に会えただろうか。無事、追いつけただろうか。
 青雉に知るすべはない。ただ安らかな寝顔が、幸せな夢を物語っているように思えた。

 


















 「……ファン、帰って来なかった」
 「お、おお落ち着け小娘! 絶望するにはまだ早い!」
 「何やってる、逃げるぞエル!」
 「エル、ドラゴンさん……二人とも、どこ行くの?」
 「く、来るな来るな――わぁああああああっ!」
 「のぅあああああああっ!」
 「ふふ、逃げないでよ。……ね?」






[19773] 第一次接近遭遇
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:bac02990
Date: 2014/10/24 18:12


 嵐の夜が暗いのは、積み重なった雲が空に蓋をしてしまうからだ。
 海の底が暗いのは、重たい水に遮られて海底まで光が届かないからだ。

 『…………』

 けれど知っている暗さのどれとも違う暗黒で、赤ん坊のように身を丸めていたファンは、自分が引っ張られているのを意識した。
 上に、上に。明るい世界に。
 やだ、と身をよじる。まだ何も聞いてない。まだ何も話していない。
 自分が小さかった頃、どんな子供だったのとか。無愛想で無表情な自分が子供で幸せだったのとか。両親はどんな風に出会って結婚したのとか。二人が生きていた頃にはどうでもよく思っていた、そんな他愛ないことを聞かせてほしかった。
 これが夢だってことには気付いてる。ただ過去の欠片から自分の頭が勝手に作り出したイメージだってこともわかってる。
 だけど納得できなくて、むずがる赤子のように自分を引っ張る力に逆らった。

 ――ダメでしょ、こんな時間まで。

 不意に。暗闇の向こうから響く声があって。ファンの手足がぴたりと止まってしまう。

 ――めっ、て言ったはずじゃない。暗くなる前に、ちゃんと帰りなさいって。

 『…………!』

 それは“記憶”の続きで、ダールと一緒に帰り着いた時、おたまを持った母に言われた言葉だ。

 ――でもま、今回はケガしちゃったみたいだし? 大目に見てあげないこともないかな。

 そう言ってその日は許してもらい、三人でシチューを食べた。足首に包帯を巻いてもらっても、ファンはいつものようにいただきますを言った後は一言だって口を利かなかった。父は豪快に大きな匙ですくって食べ、母は硬い黒パンをシチューにひたして軟らかくしながら食べていた。食事の合間にも、父と母の間では会話が絶えない。ファンの分まで喋るようにその日あったことを話して、時々ちらりとこっちを見る。そうして一瞬反応を待ってから、また話し出す。
 ファンが自主的に参加しない限り、無理やり話題を振ってくることはなかった。たとえ子供でも、ファンの意思を尊重してくれていた。その頃は会話自体に興味を持てなくて、聞き流して。いまになって、そう気付く。
 豪放磊落を絵に描いたような、細かいことをまったく気にしないダール・イルマフィ。そんな父とどうして結婚したのかわからないくらい、綺麗で優しくて、でもちょっぴり厳しい一面がある母。二人が自分をどう思っていたのか、もう知る術はない。知りたくても、過去は戻ってこない。
 どうして、聞かなかったんだろう。
 どうして、興味なかったんだろう。

 『いーい、ファン? 人間、後悔したくないなら動くのよ。動いて選択した結果なら諦めもつくけど、指をくわえて眺めてる間に全部終わっちゃうのが人生なんだから。動け。動きなさい。お母さんがお父さんを捕まえたみたいに、一度きりのチャンスを逃しちゃダメよ。いい? わかった? わかったらはい、復唱!』
 『…………』
 『……うん、ゴメン。復唱はしなくてOKよ。つい勢いでね? とりあえず、覚えておいてくれたらいいから。ね?』

 そんなことも、あったっけ。それともこれは、夢が見せるまやかしの記憶なのか。

 『まーいーわ。ファン、お父さんも言ってたでしょ? ちゃんと“お家”に帰りなさいって』

 家。僕の家は、どこだろう……。

 『ハイ時間切れ。おやすみの時間はここまで。――それじゃ、ちゃっちゃと目覚めな、さい!』
 『!?』

 暗闇の向こうから蹴っ飛ばされたみたいに、あっという間に目が覚めた。

 「…………お母……さん」

 目を覚まして、だけど開けないままファンは身体を丸めた。たった今見たばかりの夢を欠片も残さず覚えていたくて、一つずつ両手ですくい取り、記憶の引き出しに大切にしまいこんだ。
 それからぎゅっと、硬く目をつぶる。
 両親の遺体を埋めた時でさえ、こんな感傷的にならなかったのに。どうしていまになって声を、姿を思い出したのかわからない。だけどきっと、これは自分にとって大切なことなのだ。その確信があったから、胸に抱いて忘れないよう心に刻み付けた。

 「…………っ」

 こみ上げるものがあり、ぐしぐし目元を袖で拭う。今日の自分はどこかおかしい。あんな夢を見て、懐かしさにあてられたのだろうか。昨日今日と、続けて目頭が熱くなるなんて、信じられない。赤い夜が訪れたあの日まで、心が躍ることも胸が掻き乱されることもまるでなかったのに、何で今頃になって引っ掻き回されなければならないのか。
 ファンはちょっぴり、夢に出てきた両親を怨む。姿を見せてくれて嬉しくなかったわけではないが、それはそれ。これはこれ。後で幻夢人間であるところのアゼリアに頼んで、夢の中で会う方法を聞かなければ。そして思うさま文句を言って睨んでやるのだ。
 そこまで考えたところで視線を感じ、ファンはぱちっと目を開けた。
 朝もやに白く煙る森の姿。見知った木々の形と、湿った土の匂い。その薄く霞みがかった景色の向こうで、足を投げ出して幹にもたれながら、青い服の男が気まずそうにこちらを見ていた。

 見ていた。
 いつから?

 「…………くふふふ」

 ゆらぁり、と立ちあがるファンの陰惨な微笑に、付近の鳥たちが一斉に羽をはばたかせて慌ただしく飛び立ち、小動物から昆虫の類まで一目散にその場から逃げ出し始める。
 つまり、つまりこうだ。この男は、ファンが寝ぼけてお母さんと呟いたり、うっかりこぼれそうになった液体を拭ったりしている間もずっとこちらを覗き見ていたというわけだ。

 「…………鼻は、削いで……耳を、落として……唇、四つに裂いて……目玉は、くり抜いて…………忘れるまで、痛めつけないと」
 「いや、別にしたって構わねえが、俺相手じゃ意味ね――」

 バキャンッ! と途上の言葉ごと男の上半身が木っ端微塵に砕け散った。

 「…………それは、それ。これは、これ」

 人差し指を鉄砲のように構えたファンは、凍りながら再生していく男に冷めた目を送る。

 「……そうかい。まぁ寝言聞いて悪かったとも思う。煮るなり焼くなり好きにしてみろ。自然系の俺にゃどうせ効かねえしな」

 よし、言質は取った。
 地面を見回し、手の平サイズの石を拾い上げる。青雉は怪訝な顔。石ころを投げた程度で自然系がどうにかなるわけがない。そんなことは百も承知だ。
 だからこうして、すり抜けながら石を撫でる。魚の骨を抜き取り、ジャガイモの中身だけすくい取ったように。
 青雉が頬を引きつらせた。ごとん、と不要な部分が落ち、小ぶりだが立派にナイフの形をした石だけが手に残っていた。

 「じゃあ…………煮るなり、焼くなり」
 「すまんやっぱ今の無し」
 「だめ」

 嬉々として。
 鬼気として。
 ファンはナイフを振りかぶった。





 ・
 ・
 ・





 妖刀みたいな殺気を撒き散らしつつ追い立てる少年から逃亡すること半時間。
 森を抜けた先のなだらかな丘のふもとで、青雉はぐったりと座り込む。そのまま身体は傾いて、草の絨毯に寝転がる。

 「あぁ……もう、逃げんの疲れた」

 少年は元気だった。元気いっぱいに本気で殺しに来た。一晩寝込んでたのが嘘のようで、青雉としては詐欺に遭った気分だ。看病してやった自分は何だったのか。というかやっぱ殺しておいた方がよかったのではないかと今更後悔したくなる。
 嘆息しつつ、抜け出たばかりの森を見やる。青雉を追いまわしていた少年は唐突に「お腹すいた」の一言を残し、森の奥に消えた。それきり帰ってこない。見聞色で探ってみると一点に留まって何かしているようだが、脈絡がないにもほどがある。

 「……何で逃げ出さねえんだか」

 あれだけぴょんぴょん出たり消えたりできるなら、自分を追いかけるよりさっさと脱走すべきだと思うのだ。はっきり言って逃げに回られたら捕獲不可能。大将最速の黄猿でさえ追いつけるか怪しい。一番の有力候補は七武海の一角、“暴君”くまだろうか。しかし遮蔽物も無視する少年にどこまで対応できるやら。

 「ワールドチャンピオンだな」

 鬼ごっこの。
 そんな大会があればの話だが。
 くだらない思考で頭を遊ばせていると、森の入り口から少年が出て来た。殺意の名残は跡形もなく、狂気的な笑みは鳴りを潜めて眠たげなそれ。石のナイフも手から消えていた。
 安堵を隠し、青雉はすかさず片手を挙げる。

 「よ。チャンピオン」
 「…………?」

 きょとんと首を傾げる少年に場違いなおかしさがこみ上げる。つい笑いそうになった口元を手で押さえた。
 少年は怪訝にしながらも疑問を放置したらしい。ぽい、とぞんざいな手つきで左の脇に抱えていた物を放り投げてくる。

 「上着、ありがと」
 「置きっぱなしだったなそういや。サンキューチャンピオン」
 「…………」

 何か言いたげな沈黙が澱むも、己の用件を優先する少年。右手に挟んでいた焼き魚三匹のうち、二尾をこちらに差し出してくる。

 「お礼に、あげる」
 「あぁ、さすがチャンピオン。気が利く」
 「…………………」

 微妙に唇がへの字に曲がった。が、少年は青雉の隣に腰を下ろし小さく口を開けて自分の取り分にかじりつく。青雉の上着と一緒に拾ったのか、例の狐面を後ろ頭に引っ掛けていた。
 意地でも突っ込まない少年に笑みを隠し、青雉もまた綺麗な焦げ目を作る魚にかぶりついた。

 「お、うめぇ。何だこの味付け。塩だけじゃねえよな?」
 「アシタバ、ハジカミ、他…………適当に、香草焼き」
 「手間かかってんな。ワタも鱗も骨もねぇし。ハジカミってのは?」
 「…………ハジカミは、ハジカミ」

 無表情を幽かに困惑の色で染めながら、少年は少し焦げた尻尾をぱりぱりかじる。
 その土地特有の呼び名だろうかと青雉は気にも留めず相槌を打つ。東西南北の海ではそれほどでもないが、航海の難しいグランドラインやカームベルトに並ぶ島々では文化の違いが如実に表れる。同じ物を指して違う名称で扱っている例など枚挙にいとまもない。
 ちなみに後で知った話だが、ハジカミは山椒の古名、別称であり香辛料や薬にも使われるそうだ。
 しばし食事に没頭し、さほど時もかけず平らげる。少年は物足りないらしく、脂の染みた枝串を噛んでいた。成長期なのだろう。背が伸びて立派になった少年を思い描こうとするが、どうにも想像できない。

 「なあ、チャンピオン」
 「……………………」
 「おーい、無視すんなって」

 ひらひらと目の前で串を振ると、少年は咥えていた串をこれ見よがしに吐き出してみせる。

 「僕…………チャンピオンじゃ、ない」
 「名前知らねぇんだ。こんくらいで機嫌悪くすんな」
 「ファン。ファンで、いい」
 「フルネームは?」

 げしっと蹴られる。当然痛みはない。しかしズボンに足跡を付けられてしまい、青雉は両手を挙げる。

 「分かった分かった、降参降参。俺は、クザンだ。青雉の方が広まり過ぎて、本名で呼ぶ奴なんざほとんどいねぇがな」
 「お前なんか…………アオキで充分」
 「いや、そこはせめてもう一字足してくれ」
 「アオッキー」
 「すげぇ馬鹿っぽいな!? いやだからほら呼び捨てでいいからよ、五文字より三文字のが呼びやすいだろ!?」

 放っておくと定着しそうだったので必死に機嫌を取る。無表情すぎる少年はジョークと本気の区別がつかない。アオッキー。サカズキ辺りに聞かれたら余裕で死ねる。

 「じゃあ…………クザンって、呼び捨てしてあげる」
 「畜生、上から目線が否定できねぇ……っ!」

 葛藤に頭を抱えるクザンの隣で、少年はぼんやり空を見上げどこ吹く風。
 茫洋とした横顔につられてクザンもまた空を仰いだ。青い色が何処までも広がっていた。
 小さな沈黙が少年との間にわだかまる。つつけば破けるような脆い壁。
 一瞬、このまま見逃す選択肢が脳裏をよぎり――かぶりを振ってその可能性を追い払う。それを実行するには少年のことを知らなすぎて、理由もない。

 「ファン」

 知ったばかりの名前を呼ぶ。赤紫の瞳がこちらを向いた。何を考えているのかまるで不明な無表情。だがそこはかとなく、感情の色が滲んでいるような気もする。

 「俺ぁ、海兵だ。海賊の相手が仕事だ。そんでお前は海軍に攻撃した。普通に考えりゃ指名手配コース。分かるな?」

 こくこく、と頷きが返る。素直でよろしい。
 
 「だがまあ、お前は昨日顔を隠してたし、作戦行動中はほとんど姿を消していた。だからお前の顔と、正確な上背や体格を知ってるのも俺しかいない。合ってるか?」

 こく。

 「つまりだ。俺が報告しなけりゃ指名手配しようにも、情報が少なすぎて不可能ってわけだ」

 こく……り?

 「…………?」
 「要するに」

 身を乗り出し、少年の顔を覗き込む。

 「俺の質問にしっかり答えてくれたら、お前を見逃してやれる可能性がある」
 「…………司法、取引?」

 頭の巡りは悪くないらしい。クザンは肩から少し力を抜く。

 「正式なそれじゃねぇが、似たようなもんだ。今後どうなるかはともかく、もしお前がしばらくの間手配されたくないと思うなら」
 「革命軍の、ことは…………言わない」
 「あぁ、結構だ。俺も聞かないことにする。お前は最後の最後まで逃げようとしなかったからな……そんな奴に味方の情報を売れとは言わねえよ。徒労だ」

 少年の瞳が不思議そうに瞬く。じゃあ何を聞きたいんだと言わんばかりだ。

 「俺は、お前のことが知りたい。……変な意味に取るなよ。そのままだ。まぁ、あれだあれ……革命軍に所属してるんじゃなくて、成り行きだか取引だかで手を貸したってことならよ」

 ――少年の力は、凶悪だ。
 ――少年の力は、悪辣だ。

 故にこそ、青雉としてクザンは言う。



 「海軍に手を貸すことも、吝かじゃあないんじゃねえの?」





 ・
 ・
 ・





 海軍本部マリンフォード。
 グランドラインの半ば、新世界へ至る一歩手前。赤い大陸を彼方に臨む洋上の孤島は、大海の秩序を司る海軍の本拠地。四つの海と偉大なる航路、そのいずれにも凡そ等距離を保ち、聖地マリージョアに続く砦の役割も兼ね備える。
 そんな世界の平安を守る全海兵憧れの地において、

 「ガ―――プッッッ!!!」

 とある元帥殿の怒号が響き渡るのは、さして珍しいことでもなかった。
 またやってる、と呆れを小さく溜息に変え、インクの蓋を開けた。正面の棚に指を伸ばし、整然と並べられた羽ペンの中から一つを選んでインキに付ける。読み終わった新聞にすうっとペン先を走らせ――指に伝わる滑らかな書き心地に、にへら、と相好を崩す。
 誰も理解してくれないが、やはりペンはいい。ぞくぞくする。
 至福のひと時を、しかし呼び出し音が打ち破った。瞬時に顔つきを改めた彼女は咳払い一つ、仕事用の声色で電伝虫の受話器を取る。

 「こちらはサイファーポールマリンフォード支部です。コードとパスの認証をどうぞ」
 《お、ほんとに繋がった。あーあー、聞こえてるな? もしもーし》

 電伝虫の口から響くだらけた声音にぴくりとこめかみを震わせる。

 「……コードとパスの認証をどうぞ」
 《やっぱちょい声が遠いな……おい、もうちょっと頑張れ。何? 精一杯? そう言わねえでファイトだファイト。……ん。あーあーあー、もしもし?》
 「……コードとパスの認証を」
 《いよっしいい感じだ。聞こえてるなレヴァリィ情報官。ちょいと聞きてえことが》

 問答無用で通話を叩き切る。あらら? と受話器片手にとぼけた声を漏らす男の顔が目に浮かぶようで、彼女は眉間をぐりぐり揉み込んだ。落ち着け、私。仕事中、仕事中。
 プルルル、と間を置かず鳴った電話に努めて平静を装って出る。

 「サイファーポールマリンフォード支部です。コードとパスの認証をどうぞ」
 《コードxxxxx……げほっ、痛って……分かった、睨むな。悪かった。……あぁ、そんでパスが……何だっけか。うおっ!? 待て、危ねえ! 今思い出すからそいつで狙うなっ!》

 ザザッ、ザザザッとなぜか念波が乱れた。彼女は辛抱強く待つ。

 《思い出した! 今週は確か『豚に真珠、猫に小判、海賊に宝』!》
 「それは先々週のパスです。おかけ直しください」

 ……、と冷や汗を感じさせる沈黙に溜息し、彼女――レヴァリィは中指でメガネの位置を整え、電伝虫の計器をいじる。ついでに防諜用の白電伝虫も起動させる。

 「……緊急性を認め、特秘回線に切り替えます。今回限りですよ? 大将青雉」

 すまん、と滅多に聞けないほっとした声が小気味よくて、唇を少しだけ緩めた。

 「それで、ちゃんと説明してもらえますね? 例の作戦に飛び入りで参加した挙句、丸一日音信不通だったワケを」





 ・
 ・
 ・





 「その件についちゃ申し開きもねえな……。元帥には帰った後で俺から伝えとく」
 《そうしてください。とはいえ、今はガープ中将が何かやらかしてそちらの対処に追われていますが》
 「あのじいさんも懲りねえな」
 《どの口がそれを言いますか》

 女の声に呆れが混じり、口調から多少なりと険が取れる。クザンはそっと胸を撫で下ろした。

 《ところで、この通信はどちらから?》
 「ああ、西の海の端っこ……らしい。俺も海図見て言ってるわけじゃねえんで、細かいことは分からねえが」
 《らしい? 随分曖昧ですね。……待ってください。昨日まで南の海にいたはずですよ?》
 「移動手段についちゃ突っ込まねえでくれ。上手い説明が思い付かねえ。それより情報を頼む。念波が不安定でな、いつ切れるやらって状況だ」

 ちらっと横を見れば、小電伝虫を手に乗せた少年が俯きがちに集中している。受信だけならともかく、こちらの声を届けるには出力が足りなかった。それを波人間である少年の能力で補ってもらっているのだ。
 回線の向こう側で女情報官の追及したげな気配を感じたものの、クザンに話す気がないのを察したのだろう。溜息で疑問を流し、《必要とする情報の定義をどうぞ》と事務的な返事が返ってくる。

 「未解決事件、あるだろ? 倉庫に山と積んでるやつ」
 《ええありますね。本当に山みたいな量ですが、それが?》
 「そこから特定の案件を探したいんだが、できるか?」

 束の間、受話器の向こうが沈黙した。

 《……コールドケースは凡そ三百年は保管することが決まっています。巨人族が事件に関わっていることもありますので。ある程度年代と地域が絞り込めるならそれほど難しくはありませんが……わざわざ確認を取るということは、違うんですね?》
 「あー、まあ、ざっと五十……六十年? から百年前ぐらいの範囲だな」

 青雉に提供できるのは一人分の名前と簡単な身の上についての情報だけだった。一分もかからず伝え終わり、女の声が底冷えする。

 《つまり、こうですか。ざっと五十年分の資料をひっくり返してたった一つの事件について調べろ、と。勿論、現在進行形の大事件に繋がる話なら最重要案件として可及的速やかに処理しますが。ええ、大勢の人間を動かす名分さえあるなら明日にでも報告させてもらいますが》
 「すまん。そんな大それた理由はねぇ」
 《……》
 「……」
 《……その調査は、命令でしょうか》
 「いや。個人的なお願いだ。戻ったら俺も手伝う。暇そうな部下にもまあ、手伝わせる」

 はあ、と大きな溜息が聞こえた。通話を切られなかったのが答えだった。

 《業務外ですが何とかしましょう。当然埋め合わせはしてもらいますよ》
 「オーケイ、十分だ。恩に着る」
 《あなたの言葉には信頼性がありません。物証を要求します》
 「あー……美容グッズでいいか?」
 《私の趣味は知っているはずです》

 何を当り前な、と言わんばかり。澄ました女の顔が目に浮かぶ。

 「はいはい、何か珍しいもん探しますよっと。……じゃあな、アリー」
 《“いつも通り”、この会話は記録より消去しておきます。では》

 最後まで素っ気ない態度を崩さないまま淡々とした女の声が念波の海に消えた。相変わらず名残も惜しまねえ女だ、と呆れながらクザンは受話器を――置きかけて、やっぱり外したままにしておく。

 「…………?」
 「これか? 向こうからかかって来たら面倒だろ」

 返事の代わりに返ってきたのは瞬き一つ。たったそれだけの反応で、理解したのかしてないのか、少年はクザンから視線を逸らし手に乗せる電伝虫を指で突っついた。電伝虫が迷惑そうに殻に籠もる。尚もこつこつと殻を叩く少年の指が、不意に殻の表面を“通過”した。電伝虫の頭が慌てたように飛び出し、目を白黒させながら何が起きたか周囲を見回す。

 「おいおい、オモチャじゃねえぞ。生き物で遊ぶな」
 「あ」

 そのままいじくり回しそうな少年の手から取り上げた。電伝虫が安堵の息を吐き、それでもなお少年の眠たげな眼差しが注がれ続けているのに気付いて冷や汗しながら首を引っ込める。

 「お前さぁ、あれだろ。動物飼ったらペットと遊ぶんじゃなくて、ペットで遊び倒して殺すタイプ」
 「…………」
 「目ぇ逸らすなこら。ったく……まあ説教しても聞かねえタイプでもあるっぽいからぐちぐち言ったりしねえが、弱いもんいじめだけはやめとけ。小物臭ぇし、何より格好悪ぃ。やるんならサクッとやれ、サクッと」
 「…………サクッと」
 「今ここで俺を狙うんじゃないっての! っとにもう……!」

 向けられた石ナイフを捕縛術だか何だかの応用でひょいっと少年の手から抜き取り、遠くへ放り投げた。空っぽになった自分の手に赤紫の瞳がきょとんと丸くなり、次いで思い出したように飛んでいく石ナイフを視線で追いかける。その間、クザンは少年から目を離していない。だというのにいつの間にか――気が付いたら、少年はクザンの前から消え、落下地点で石ナイフをキャッチしているのだ。

 「無茶苦茶だよなぁ……ホント」

 能力も、性格も、そしてその過去も。
 呆れを吐息に変えて、クザンは丘の上から眼下を眺め渡す。
 たった半年前までここには村があったという。だが今やそこは草花の楽園だ。焼け落ち、基部だけのまばらな家並みを緑の絨毯が覆い、名も知らぬ花が慰めとなって優しく咲く。さざなむ潮風に、白い頭を小さく揺らして。
 西の海の辺境。住民たちでさえ単に“島”としか呼ばず、他の島々と区別する必要がなかったほどに辺境の孤島。

 ――少年の身の上を、クザンは聞いた。

 平和な生活。退屈だが掛け替えのない日常。それを壊した海賊。炎に消えた村と人。生き残った少年と、もう一人の少女。赤い夜を過ぎて、現れたドラゴン。墓を建て、船に乗り、故郷を離れ、知らない世界へ飛び出した。修行して、力を得、そのままの流れで海軍と戦い、革命軍を助け、クザンと激突した。
 決して話し上手ではなかった。だが耳を傾けるクザンに一生懸命伝えようとしている姿は、とても嘘や演技で作り出せるものではなかった。少年が話し終えるのを待つだけで半日仕事だったが、その価値はあったと思う。

 (貴族が海賊を……か)

 貴族の庇護を受けた海賊が最辺境の村を襲う――そんな起こるかも分からない事件の目を潰すべく、間に合わなかったとはいえ自ら動いたドラゴンは尊敬に値する。
 ……助けた少年があれほど紙一重な人間だとは思いもよらなかっただろうが。
 少年の語ってくれた話はもう一つだけある。
 それはとある島での昔語り。そこで鮮烈に生き抜いた少女の物語。
 それが少年の答えだった。クザンが訊ねた問いかけへの。


 ―――海軍に協力することも、吝かじゃあないんじゃねえの?


 ―――ひとつ…………教えて、くれたら……考える。


 ちなみに、冗談半分で持ち掛けた海軍入隊の誘いには嫌そうな無表情で返す少年だった。本当に協力してくれるとしたら、クザンの個人的な伝手による傭兵のような扱いとなる。

 「報酬、経費で落ちねえかな……」
 「…………?」
 「いや、こっちの話」

 本当に、注意していなければいつ戻ってきたかも判然としない相手だ。すぐ隣で首を傾げていた少年にうすら寒い物を覚え、最低限の注意は割いておくべきと自分を戒めた。

 「んじゃまあ……えーと、お前は遠からず革命軍と縁を切る。そんでもってどっかの島に移住する。海賊になる気はない。かと言って平和に暮らしていく自信もない……だったよな?」
 「…………そんな、感じ」
 「んー、潜在的な犯罪者予備群っつーか、お前もう片足突っ込んでるから、ほとんど真っ黒だな。そこはまあ俺がチョイチョイとすりゃ大して問題ねえが……俺の依頼以外で非合法活動した場合の面倒までは見れねえぞ。そこは勘違いすんなよ」
 「それで、いい…………けど」
 「けど?」
 「…………僕、海兵……結構…………赤くした」

 ゆっくりとした口調で、躊躇うように少年が言う。
 海兵を殺してる自分がクザンに、ひいては海軍に協力するのはどうなのかと。

 「あぁ……その辺は、気にするな。全部が全部お前の責任でもねえし……こんな時代だ。政府だって“七武海”に恩赦出したり、ある程度の犯罪行為を容認したり、ザラなのよ。それが良い悪いって話じゃなくてな……そうでもしねえと、ただでさえすれすれの均衡で維持できてる平和が崩れちまう。まあ、世界政府の力不足が、その辺の理由だ。お前は、気にすんな。しなくていい」
 「…………」
 「それでも、ほんのちっとでも罪悪感とかあるんなら、お前が殺した連中の分まで世界に貢献することだな」

 土を払いながら立ち上がる。
 少年は眠たげな瞳で、ぼんやりとクザンを見上げるだけ。
 その目に映るのは、今、クザンだけ。
 他のものなんて見ていない。自分が殺した人間のことなど顧みもしていない。少年が気にしたのは、クザンが困る事態になるんじゃないかという一点だけ。それがクザンにも分かってしまい、もやもやとした物が胸の奥に澱む。

 ――ただの良心で見逃すには、少年のばら撒く死は多すぎた。
 ――監獄へぶち込むにしても、身の上には同情の余地がある。
 ――そして恐らく、今少年に手を出せば、あの男が黙っていない。

 情と、理と、利を天秤に掛け、クザンはファンという少年をグレーゾーンに置いた。白にも黒にも染まり、善にも悪にも、敵にも味方にもなり得る場所へ曖昧にごまかした。
 海軍大将としてクザンが出来るのはここまでだ。どちらへ転ぶかは少年次第。
 叶うなら、敵に回ってほしくはないが。

 「クザン」
 「ん?」
 「電伝虫…………貸して」
 「……遊ぶなよ」

 え、そんな。やめて助けて!? という感じにもがく電伝虫を差し出した手の平に置いてやる。少年にじっと見つめられ、軟体を硬直させる電伝虫。や、やですねぇ。ご命令とあらば何なりと! とでも言うように追従の笑みを浮かべへこへこ頭を下げる。
 カタツムリのくせに世慣れた処世術だと感心してしまう。

 「…………発信」

 短く少年が告げた。腕があったら敬礼しそうな勢いで電伝虫が頷き、どこぞへ念波を飛ばし始める。さほど間も置かず通話が繋がり、ガチャリと受話器の取られる音がした。

 《俺だ》

 我知らず、クザンは身構えた。無意識に身体が反応し、臨戦態勢を整える。
 知らない声だ。
 だが、思い知らされる声だ。

 (ちょ、おい……冗談だろ!?)

 電伝虫を使わせた時点で、革命軍の誰かに繋げるだろうとは予想できた。
 だがまさか、よりにもよってど本命。

 「…………もしもし」
 《っ……ファンか? 今どこに――いや、そこにお前以外の奴はいるか?》

 ファンがチラリと目を寄越し、どうするの、と問いかけてくるが、クザンにも何が正解かわからない。
 しらばっくれても正直に言わせても、相手の受け取り方次第だ。どちらだろうが、現時点では大した意味がないとも言える。

 「…………じゃあ、誰もいない……ということに、する」
 《ほう、そうか。……意外な展開だが、それもよかろう》

 声の主は、ファンの返答に楽しげですらあった。
 たったそれだけのやり取りで、少年が置かれている大よその事情を汲み取ったのだ。

 《帰れるならなるべく急げ。お前の大切な人間が心配して……いや、“心配しすぎて”いる。こちらではこれ以上面倒は見れん。早く安心させてやれ》
 「…………わかった」

 ばいばい、とファンが片手を振った。直後にその姿が掻き消え、取り残された電伝虫が落下するのを慌ててキャッチする。
 念波の向こうで聞き取れないぐらいの会話がなされ、やがて静かになった。
 やれやれと言わんばかりに、クザンは嘆息。

 「……もうちょっと普通に別れの挨拶ぐらいしなさいって。つーか、こっちの一番聞きたいことに答えてもらってねえんだが……」
 《俺でよければ、話を聞こうか?》

 ぼやきに返る声があり、ぎょっと電伝虫を見つめ直す。

 「あらら……てっきりもう切れたとばかり」
 《筋は通す。ファンが何を約束したか知らないが、反故にされては面倒だと判断した。……だがあまり長く持ちそうにないな。質問が…るなら、急げ》

 ファンの能力、波を操るユラユラの実の力で無理やり念波を繋いだのだ。能力者本人が場を離れた以上、ほどなく接続は切れるだろう。事実、既に相手の声が遠くなり始めている。

 「イエスかノーでいい。そっちに“ニコ・ロビン”はいるか?」
 《……ノー……。つまり、そちら……見失って……、……か?》

 クザンがそれに答えるより早く、たったそれだけの声を届けて通話が断ち切れる。
 だが十分だった。十分すぎた。
 知りたいことは、その一言ですべて知れたのだから。
 
 「……参ったな。てっきり革命軍に紛れ込んでると思ってたんだが」

 少年に、ひいては革命軍の誰かに聞きたかったこと。ただそれだけのためにクザンは通常業務を離れ、グランドラインの外に赴いてまであの作戦に参加した。結果的にファン・イルマフィという少年と縁を結べたが、それは副産物のおまけでしかない。

 「ちょっと本腰入れて探さねえとまずいか? ほんっと、ロビンの奴、どこに雲隠れしたんだか。革命軍以外にデカい組織となると……」






 思索を巡らしつつ、海兵は行く。
 亡き親友が残した種子を、見守るために。 










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リハビリ中…。次の話が書き上がったら正式に更新しようかな。



[19773] 後ろにいる君へ
Name: うたかた◆9efe3df0 ID:d722ce35
Date: 2015/10/29 14:59

 ――火。

 赤い空に星が燃え、黒い煙に穢れる風。
 あの夜を忘れられる日は永遠に訪れない。家族を亡くし、故郷を失くした。何もかもが燃えて灰と散る世界は、写真よりも残酷な鮮やかさでまぶたの裏に焼き付いている。
 
 ――死。

 父はラナを逃がそうとして斬り殺され、父を殺した男はラナを引きずって行く途上で赤紫の少年に殺された。見知った人々の遺体を無造作に炎が舐める中、島を襲った海賊たちまで呆気なくその葬列に加わる様は、まるで出来の悪い喜劇を見ているよう。 

 ――違。

 死。死ぬ。みんな死んだ。父が死んだ。海賊が死んだ。家族同然の村人も、好き合っていた男の子も死んだ。地獄の門が開くほどに死が近すぎた。生きている自分が不思議でならなかった。生者こそがそこでは間違いだった。

 ――喜。

 だから赤紫の少年はあんなにも喜んだ。命の輝きを死の十三階段に捉えてしまう少年は、間違った世界で初めて産声を上げた。きっとそれまでは生きてさえいなかった。死に囲まれなければ生を知ることもできない心に生まれついた。

 ラナには死が近すぎて。
 ファンは死の中で生を見つけた。

 赤紫の少年の目に、だからこそラナは太陽のように輝いて見えたのだろう。
 今ならそうと理解できる。普通の恋と言えなくても、それは一目惚れに近い物だと、少年を深く理解した今なら分かる。
 でも、あの時は分からなかった。
 小さい頃から知っているはずの幼馴染が、楽しげに人を殺して回ったのだ。
 気が触れたかと思った。
 悪魔に憑りつかれたのかと思った。
 知っているはずの少年が、化物にしか見えなかった。

 ……だから身体を求められた時も、抵抗しきれなかった。

 だって、怖い。怖くて、恐ろしくて、たまらない。
 恐怖と脅威は似ているようで違う。村でラナを連行しようとした海賊も、初めて行った街で襲ってきた海軍将校も、その意味ではファンよりずっと下だった。強さは関係ない。見えないお化けを怖がることに似ている。ただそこに存在しているだけで恐ろしい。
 怖いから、死を振りまく少年の手に身を委ねた。
 初めての痛みと僅かな快楽だけが、恐怖を忘れる唯一の逃げ道だった――。





 ……本当の話だよ。怖かった。あの時、ファンのことは好きじゃなくて、ただ本当に怖かっただけ。だって私、付き合ってる男の子がいたんだよ? ウソじゃない、ファンも知ってる。シュリオっていうの。すごく優しくて、ふんわりしたお日様みたいな人だった。死に目には会えなかったけど、顔が泥に埋まって焼け残ってたから、見分けは付いたの。一生懸命運んで、お墓に入れて……すごく苦しそうな顔で、私を見てた。土をかける時、手が震えて、なかなか、顔にかけられなくて……でも、ちゃんと、かけたよ? この手で、ちゃんと、埋めて、埋葬してあげることが、できた。

 ……どうして、って思った。どうしてシュリオは、そこにいるの? どうして、隣にいてくれないの? どうして今私の肩を抱いて慰めてくれるのが、シュリオじゃなくてファンなの? って。バカみたいだよね。そんな風に、本気で思ってたんだよ? 悪魔の実を食べたのがシュリオだったら、あの優しいシュリオだったら、人を殺すことも怖がって、戦うなんてできっこないのに。ファンだから皆殺しにできたの。……普通はそんなこと、できないよ。

 ……アゼリアさんにもドラゴンさんにも、ファンに犯されたって話はしてない。必要なかったし、ファンが怖かったから。でもいつからかな。怖い気持ちがくるっと裏返って、その怖さもファンの一部だって思えるようになって。……気付いたら、好きになってた。自分が変な子だって思った。無理やりキスされて、裸にされて、犯されて……心臓を握られて殺されかけたこともあるのに、わけ分かんないよね。でも、助けてくれたの。慰めてくれたの。隣に居てくれたの。私には、私にも、ファンが必要なの。

 ……だからね、エルの事情を知っちゃって、嫌だけど、ホントは嫌だけど、いいよって言ったんだよ。エルにもファンが必要だって、嫌なくらい分かる自分が、それこそ嫌なんだけど……。うん、それで何が言いたいかっていうと……ずるいなぁ、って。

 ……ずるい。ずるいよ。うん、ずるい。ずるい、ずるい、ずるい。嫌だよ、何で居るの? 何で私とファンの間に入って来るの? 何で私とファンの時間を取るの? 無理やり犯されたわけでもないくせに。殺されかけたのも自業自得のくせに。恋人がいるって知っててキスするとか信じられない。ねぇ、何で? なんでそんなに幸せそうなの? 初めてのキスも初めての恋も初めての夜も全部好きな人に捧げられてよかったね。全部エルの望んだ通りだもんね。――気持ちを伝え合って二人きりのベッドで初体験? 何それ。私は外だったよ。ついさっきお父さんが目の前で殺されたばかりで、村は全部燃えてて、死体がそこら中に転がってて、人間の焼ける臭いが纏わりついて離れない! ……ねぇ、どう思う? そんな時にそんな場所で犯された私がどんな気持ちだったか分かる? 分からないよね? 分かるわけがないよね? 最悪のシチュエーションでレイプされたのも好きになったからいい思い出になりました、めでたしめでたし? そんなバカな話ないから。ファンには言わないけど、絶対忘れない。それだけは恨んでる。で、何? 恋人の私を差し置いて、何でエルだけ幸せな初体験してるわけ? 意味わかんない。ねぇ、何で? 何で? 何で?




 ――答えてよ、エル。じゃないと――――





 ・
 ・
 ・ 





 少し時間をさかのぼる。
 赤紫の少年が昏々と眠り続け、その隣で海軍大将がいびきをかいていた頃。

 「……い、いないな?」

 できるだけ身を縮めながら(それでも翼のせいで目立ってしまうが)エルは食堂の入口から中を窺った。
 朝餉である。日に三度の楽しみに舌鼓を打ち、多くの人間がやれ上司がどうの、仕事がこうの、政府が海賊がと歓談に忙しい。口論が行き過ぎて掴み合い一歩手前のテーブルまで見受けられたが、その光景も常態化しているらしく止める者はいなかった。
 慎重に目を走らせ一人一人顔を確認する。エルは眼が良い。混在化した悪魔の実は半人半鳥の肉体にも確かな恩恵を与えてくれる。猛禽の眼ならば容易い作業を瞬く間に終え、大きく安堵の息を吐いた。
 居ない。物陰にも机の下にも見当たらない。

 「鬼の居ぬ間に……なんだっけ」

 呟きながらそそくさと並んだ。人の列は長いが、厨房側も慣れた様子でどんどん消化していく。ほどなくエルの番が回って来た。

 「はいお嬢……ちゃん? ん? 見ない顔だけど、まあいいさね。中で食う、それとも外?」
 「そ、外で! 急ぎで頼む!」
 「はい外食一つ。今日は炒飯の握り飯に野菜炒めとリンゴが二分の一カットね。食器は洗って返すんだよ」

 簡素な籠に料理が詰め込まれるのももどかしく、そわそわと足踏みしてしまう。無料で支給される一人前程度では正直物足りないが、贅沢は言ってられない。そもそもまだ一度も仕事をしていないエルは追加料金どころか一文なしだ。
 籠を渡してもらい、礼もそこそこに出口へ向かった。こんな密閉空間からは一刻も早く出なければならない。
 そう。



 「見つかる前に……って考えてたんだよね?」
 「ひぅッ!?」




 ぽん、と肩を叩く感触に喉が干上がった。ギギギ、と錆びついた機械のように後ろを見る。

 「ラ、ラナ……ふ、ふん。きき奇遇だなっ!」
 「ううん、奇縁でも偶然でもなくて必然だよ? 夜明けから逃げ回ってお腹ぺこぺこのエルが、朝ご飯の匂いにつられないはずがないもん」

 にこにことラナは天使のように微笑んでいる。だがその手は万力のようにぎりぎりとエルの肩を締め付けにかかっている。

 「そ、そうか。は、ははは」
 「ふふ。ふふふ」
 「ははははっ…………うわぁあああああああああっ!!」
 「ふふふ逃がさないよ?」

 脱兎。脇目も振らず駆け出す。精一杯翼を畳んで人とテーブルの間を走り抜けるが、混雑に邪魔されて速度が乗らない。
 決死の思いでエルは跳躍する。人の頭と天井までの狭い空間に身を躍らせ、瞬く間に人身から小さな猛禽に姿を変える。
 周囲がどよめいた。知識で知ってはいても、悪魔の実の力を目の当たりにする機会は戦闘職でもなければなかなかない。ざわめきと好奇の視線に晒されながら、エルは空中で籠の持ち手を鷲掴む。鋭く羽ばたき、一直線に開け放たれた出口へと飛翔する。
 ちらと後ろを顧みればラナも人ごみに負けてなかなか進めていない。エルは口の端を吊り上げた。勝った。いくら鬼姫なんて二つ名を頂戴していようと空はエルの領域だ。追いかけて来れるはずがない。くっくっく、はははははっ、見たかラナ! 追いつけるものなら追いついてみろ!
 出口を潜る直前、ずんぐりした巨体に進路を塞がれるも見事なターンで回避を決め、丸耳の付いた帽子を掠めてエルは自由の空へと飛び立った。



 「あ、くまさん。その子捕まえてください」
 「……容易い」



 わっし。



 「ピィイイイイイイイイ!?(何ぃいいいいいいいい!?)」





 ・
 ・
 ・





 じたばた暴れる鳥をラナに引き渡し、くまは司令塔に足を向けていた。
 当初こそ必死な面持ちであった鳥だが、少女の手の中でにっこり微笑みかけられた途端凍りついたように動きを止め、そのままいずこかへと運ばれていった。去り際に「たっぷり“お話し”しようね♪」というラナの囁きに、末期の痙攣のごとく震えていた理由は謎だ。
 岩盤をくり抜いた革命軍中枢へと入り、くまは階段を登る。道中、なぜか慌ただしく行き交う者らに首を捻りながら、開け放たれたままの司令室に踏み込んだ。
 壁に等身大の穴が開いていた。それも二つ。

 「……」

 ぐるりと首を巡らせれば、アゼリアは床で目を回し、イナズマは引っくり返ったテーブルの下敷きになり、ドラゴンは書棚から雪崩れ落ちた書物に埋もれていた。

 「……」

 のっしのっしとアゼリアを跨ぎ、イナズマの上のテーブルを取り払い、書物の下からドラゴンを発掘する。引きずり出したところで刺青顔の目が開く。

 「む……ああ、くまか。よく来た」
 「よく来た、ではない」

 何だこれは、と部屋の惨状を視線で示す。
 ドラゴンは疲弊した表情を取り繕いもせず、立ち上がって服のほこりをはたいた。

 「端的に説明するなら、自業自得と、とばっちりと、因果応報といったところか」
 「省きすぎだ。俺を呼んだことに関係あるのか?」
 「あるな。大いにある。これはまあ、ラナが暴走した結果だが」

 ぴくりと鉄面皮どころか鉄仮面の眉を動かす。

 「待て。ファンならば理解できるが、あの品行方正を絵に描いたようなあの少女がこれだけの被害をもたらしたと?」
 「ああ、ラナが周りからどのような認識をされているかよく分かる台詞だな」

 一夜貫徹の名残である無精髭を撫でながら、疲れ切ったようにドラゴンが溜息を吐く。

 「普段の様子だけ見ていれば想像も付かんが、状況が状況だ。“非常識”に傾くのも理解できる。そして俺に責める資格もない。……いや、愚痴をこぼしている場合ではなかった。南の海の一件は聞いたか?」
 「道すがら多少は。だが細部は不明だ。海軍に包囲されて、結局どうなった? 危機を打開するため非常手段を取ったとだけ聞い……非常手段?」

 出そろっていたピースが自然と組み合わさり、くまの頭の中であまり想像したくないパズルが出来上がってしまう。
 ラナが関わって非常手段に該当する項目というか人材が一人しか思いつかない。

 「……ファンはどこにいる?」
 「それを俺も知りたいと思っているところだ。探れるか?」
 「容易い……とは言えないな」

 赤紫の少年とそれほど交流があるわけではないが、その反則的な能力は聞き知っている。主に目の前の男から愚痴混じりに。

 「でだ、散々に現場を引っ掻き回すことで支部の人間は脱出できたが、肝心のファンが未だに帰らん」
 「それが自業自得の正体か」
 「俺は因果応報だ。騒ぎを聞いて駆け付けたイナズマが二次被害のとばっちりだ」

 呆れて声も出ない。アゼリアが自業自得なのはいつものこととして、イナズマにまで類が及ぶとは。

 「くま。お前を呼んだのはラナが暴走した――現時点で暴走中の原因を解決してほしいからだ。ファンさえ戻るか、せめて安否確認でもできれば多少は落ち着くだろう」
 「手がかりは」
 「ない。報告を聞く限り、青雉を足止めするためにわざわざしんがりを願い出たらしい。今のファンではまず勝てんが、変な所で律儀だからな……。状況を見るに足止めだけは成功させ、船を無事逃がしてのけたのだろう。つまり、青雉を巻き添えにどこぞへ飛んだ可能性が高い」

 あり得る――というより、青雉を足止めできる手段などそれ以外に思い浮かばない。
 “飛ぶ”と一言で済ませたが、その実態は“テレポートみたいな何か”としか表現し得ない詳細不明の現象である。この瞬間移動能力を有効利用できないか大真面目に検討したらしいが、波の回析でも波及効果でも説明できず、ドラゴンでさえ匙を投げた結果に終わっている。
 ただ断言できることが一つ。

 ――能力者本人以外の転移は、危険である。

 一度や二度短い距離を飛ぶぐらいなら問題はない。実験がそれを証明している。だが三度、四度と繰り返していくと、不思議な現象が起き始めた。
 まず、実験に付き合ったエルの居場所が意図した転移先と少しずつズレていった。飛ぶ瞬間には間違いなくファンの肩に置いていた手が、消失から出現の過程でなぜか離れてしまい、二人の移動先が僅かに狂った。それは回数を経るほど大きくなり、ついにはエルが気分の悪化を訴えた。
 そして、それだけではないのだ。目撃したドラゴン自身、最初は見間違いではないかと疑った。その疑念は実験の後半に確信に変わり、確信は恐怖へ転じた。

 ――エルの姿が、ブレて見えた。まるで映像電伝虫の映す画面が崩れかけた時のように。

 ――あるいはエルという存在が、ほんの一瞬、二つに分かたれてしまったかのように。

 ドラゴンが実験の中止を宣言するのと、エルが体調悪化を訴えたのが、同時であった。
 続けていたらどうなっていたのか、想像するだに恐ろしい。
 能力者本人であるファンには何の異常もないことから、同行者の肉体的な限界か、ファン自身の能力的限界だろうと目されている。ただ、二度と実験する気はないと、世界最悪の犯罪者が薄ら寒そうに漏らしていたことを、くまは覚えている。
 果たして本当に青雉を巻き添えにして長距離転移をやらかしていた場合、青雉本人に異常は出たのか、興味はあるが、今の時点では余禄に過ぎない。
 ドラゴンも似たようなことを考えていたのだろう。思いを巡らすように遠くを見ていた視線が、くまへと向けられる。その口が、話を戻す。

 「未だファンが帰らないことから……考えたくはないが、死ぬか、捕まるかして帰るに帰れない状況なのだろう。青雉の能力を考慮すれば即座に殺された可能性は低い。捕縛されたのなら移送中に奪還の目がある……が、あいつのことだ。檻の中に入っていても何をしでかすか、全く分からん」
 「案外、青雉と打ち解けているんじゃないか」
 「……どうだかな」

 肩を竦め、さりとて否定せず、ドラゴンが窓の向こうを見る。青空が広がっている。その下に少年はいるのか、いないのか。分からないが、目の前の男が見捨てるという選択肢を、端から放棄していることをくまは察する。
 頷き、くまは踵を返した。自分の能力では、探すだけでもやや時間がかかる。無駄骨に終わる可能性もあるだろう。だが“暴君”とよばれるくまもまた、見捨てるという選択肢を持っていないのだ。早く動くに越したことはない。
 しかし、部屋を出る間際、ふと足を止めた。

 「ドラゴン」
 「何だ」
 「あんたが――アゼリアとイナズマもだが、たとえ手心を加えたにしても、ラナ相手に気絶させられるのは腑に落ちん。何があった?」
 「…………」

 ドラゴンが沈黙した。長い沈黙だった。ふっ、となぜか虚ろになった目が再び空に向けられ、なぜか菩薩のように安らかな表情で、なぜかカタカタと震え出す。

 「……聞くな」
 「……そうか」

 知らない方が幸せなことも、あるのかもしれない。





 電伝虫が鳴ったのは、そんな時。





 ・
 ・
 ・





 ――そして場面は回帰する。
 カーテンを閉め切った部屋はそれだけでも薄暗いが、今は瘴気さえ漂うように感じられてならない。見慣れた部屋の様子が魔界にしか見えないあたり、いやはやこの世は全く不思議である。

 「ねえ……エル。ちゃんと聞いてる?」

 ……うん、そろそろ現実逃避をやめなければ物理的に抹消されそうだ。いや生存本能は相変わらず逃避を訴えかけているのだが、どうにもこうにも逃げられそうにないあたりこの世は無情だ。
 エルはゆっくりと息を吐く。両手は縛められてベッドの枕元に縄で繋がっている。それだけなら力尽くでなんとでもなるのだが、腕をがっちり拘束しているのはファンでさえ逃げられなかった海……なんとかいう例のあれだ、あれ。なんだっけ。まあいい。
 名前も忘れた石ころの枷より、馬乗りになって腹の上に跨るラナの方が百万倍重要だ。人間形態に戻らなければ一枚残らず羽をむしるという脅しに屈したのがまずかった。……だが、しかし! 能力を封じたところで勝ち誇るのは早いぞ小娘! キサマの細腕に私の頑強な肉体を突破できようはずがない!
――だからほら、能力者でもないはずラナの長い黒髪がぬらぬらと蠢いているように見えるのは気のせいだ。こちらを見下ろす瞳がなんだか妖しい紫色に光ってる気がするのも目の錯覚だろう。ましてやどろどろとした瘴気を振りまいて、ただでさえ薄暗い部屋を暗黒に染めるような人間離れした所業を行えるはずがない。ないったらない。

 「だからさっさとこれを外せ!」
 「……エルって、馬鹿だよね」

 視線に憐憫が混ざった。おい、やめろ。私をそんな目で見るな。

 「というかこの石ころはどこから持ってきた」
 「海楼石のこと? ドラゴンさんの部屋に転がってたよ」

 ああ、そう言えば昨日、ファンを捕まえておくのに使ったな。ちゃんと片付けておけ責任者。

 「そんなことより――さ。そろそろ、答えてくれないと酷いよ? 酷いことになるよ? 容赦しないよ、ホントだよ?」
 「答えろと言われても、結局お前が何を知りたいのかよく分からん」

 かり、と。万歳したまま動けないエルの喉元を、細い爪が引っ掻いた。それは、虫に刺されて痒いから掻いた、という程度の力加減だったが、場所が悪い。頸動脈が近い――いや、たかが人間の爪、焦る必要はない。エルの柔らかそうな皮膚は喉さえも強靭な筋肉を隠し持つ。刃物だろうがそう易々と通しはしない――なのに、じわりと、背筋を濡らす冷たい汗。腹に乗っかった少女一人、能力を封じられようと屁でもないはずの加重が、何倍にも増したかのように思えた。

 「……分からない? 本気で言ってるの、エル」
 「ああ、全く分からん。本当は嫌だとしても、一度は私を容認したお前が、なぜ今更こんな真似をするのかが」

 単純に、ファンが帰って来ない不安からの八つ当たりなら、理解できなくもない。心の安定を保とうとした結果の暴力なら、エルも身に覚えがある。
 だが、これはもはや、呪詛だ。吐きかけられる言葉が、呪いの如くのしかかって来る。
 これが嫉妬なのだろうか。妬ましいという気持ちなのだろうか。
 それはまだ、エルには理解できない感情だ。途方もなく長い時を野生で過ごしたエルにとって、男女の関係とつがいの違いは、よく分からない。雌は強い雄に群がるものだし、強い雄は往々にして多くの雌を求めるものだ。だから、赤紫の少年が自分を求めてくれるか不安に思うことはあっても、その隣に居た黒髪の少女がここまでの拒絶反応を示すなど、想像どころか目の当たりにしても理解しがたい。しかも一度は受け入れている。昨日だって普通に会話が出来ていた。エルからすればラナの態度は豹変と言うほかなく、余計に訳が分からない。

 「不幸自慢をしたい訳じゃないんだろう? 意に添わない形で犯されたのが嫌だった、というのは同じ女として理解できる。だがそれは私じゃなくファンに言えばいいだろ。自分の非を認めないほど狭量な男じゃないぞ、あいつは」
 「そうだね。今のファンなら謝ってくれると思う。でも、そんなこと聞いてないよ。――ねぇ、エル」

 ぞわり、ぞわり。寒気が強くなる。瘴気が濃くなる。

 「エルがずっと一人ぼっちで、辛くて寂しい生活をしてきたのは知ってる。ファンと色々あって、結局好きになったのも知ってる。アゼリアさんの能力でエルの過去を見せてもらったから、私は多分、ファンよりエルのことを知ってるんだよ? だから私、エルのことが許せた。許したくなくても、痛いくらい気持ちが分かっちゃうから、嫌でも許すことが出来たの。私はファンが好き。エルもファンが好き。ファンは欲張りで、エルは一直線で、私は同情して折れちゃった」

 ぞっとするほど冷たい手の平が頬を撫で、ゆっくりと両手で挟まれる。

 「けど、ファンが決めたことだから、もういいの。私はファンのものだけど、ファンは私のものじゃないから。知らなかった? そうだよ。一方的なの。殺されてもいいぐらいファンが好きだから、私はそれでいいの。惚れた弱みっていうのかな? それともやっぱり、ファンに壊されちゃったから、こうなのかな? まあどっちでもいいけど。困らないし。私がファンの恋人なのは変わらないし。――でも、じゃあ、エルはどうなの?」
 「なに……が」
 「エルは、ファンの恋人なの?」

 ……恋人?
 自分と、ファンが。
 恋人?

 「……違うと、思う。確かに、あいつは私を受け入れてくれたし、子を持つとも言った。でも私とファンの関係は、お前とファンの関係とは、全然、まったく……違う、はず」
 「じゃあ、夫婦?」
 「そんな風に聞くな。簡単に言葉にできたら苦労はせん。……私だってまだ始まったばかりで手探りなんだ」
 「でも、好きなんだよね」
 「それは否定しない」
 「そっか。――じゃあやっぱり、許せない」

 声色が不意に嵐のような黒雲を帯び、わけが分からなくて、エルは呆然とラナを見る。

 「お前、さっきは許すって……」
 「昨日、言ったよね。ファンが出発する前に。一緒に死んでやることはできないって」

 言った。確かに、言った。本心だ。死にたくないから過酷な自然の中も生き抜いてきた。それは本能だ。もはや身に染みついて取りようがない、生命としての生存本能。人間でさえ持つそれが、野生に磨かれたエルは一際強い。それだけのことだ。
 なのにそれを指摘する少女の目は、がらんどうのように暗かった。

 「それって、おかしいよ」
 「おかしい……?」
 「そうだよ。変だよ。ファンのこと、好きなんでしょ?」
 「そう、だけど」
 「だったら、何で死なないの?」

 小首を傾げた少女の仕草は、まるで当たり前のことを聞く子供のようで。
 愛らしいはずなのに、ぞわっ、と鳥肌が立つ。

 「死んでもいいぐらいファンのことが好きな私の隣に割り込んだんだよ? だからエルも死ぬほどファンのことが好きじゃないとおかしいよね?」
 「え、あ――」
 「ファンが生きて帰らなかったら、石を抱えて海に飛び込むつもりなの。魂は海に還るから、海で死ねばファンにも会えるよ。だから、その時はエルも一緒に行こうね。ううん、嫌って言っても連れて行くよ? 私が死ぬほどファンが好きなんだから、エルも死ぬほどファンが好きに決まってるもん。そうだよ、当たり前だよ。私と同じぐらい好きだからファンの隣を譲ったのに、そうじゃなかったらおかしいよ。おかしかったら、直さないと。正さないと。だからファンが死ぬ時は私が死ぬ時で、一緒にエルも死ぬの」

 いっそ嬉しそうに、はにかみながら告げるラナ。
 エルはその淑やかな微笑に、ようやく腑に落ちる感触を得た。
 なるほどと、思うのだ。
 ――こいつは紛れもなく、あのファンが恋人と呼ぶ女だ。

 「……狂ってるぞ、お前。いや、だが……好いな」

 くつくつと。
 喉の奥から笑う。

 「好い、好いぞ。それぐらいで丁度いい。ああ好いな、凄く好い……!」
 「エル……?」

 不思議そうに首を傾げる恋敵に笑いが込み上げてたまらない。

 「奪い合い、取り合い、殺し合う――それが私のルールだ。適者生存、弱者必滅――水も獲物も縄張りも命がけで手に入れた。闘争こそ私の人生だ。それを譲った? 笑わせてくれるぞ小娘が! 生まれと出会いが違っただけで何を上から目線でほざくかっ!」
 「っ……!?」
 「これからだ。これからだぞ? 今日までは私の負けだ。認めよう。だがこれからもお前が勝ち続ける保証なぞどこにもない! はっ、はっははは! 殴り合いじゃ勝負にならんからどうしようかと思っていたが、楽しみだ――本当に楽しみだ。お前が私と殺し合えるほど強くなるのが楽しみだ!!」

 足を跳ね上げた。腹に乗って、腕を封じたぐらいで勝ったつもりの小娘に、その首に、一瞬で足首を絡ませる。
 顔色を変えて逃れようとした小娘を、力尽くでベッドへ叩き伏せた。柔らかい寝台と言えど背中を打ち付けた小娘の肺から、見えはしないが空気の押し出される音が聞こえる。

 「弱者をいたぶる趣味はない。子猫が鼠を嬲るのは狩りの訓練だ。野生の獣は無意味な殺しはせん」

 じたばたと暴れる小娘の力が段々と弱くなる。喉に絡んだ足首を外そうともがくも、圧倒的な筋力差が悪足掻きすら許さない。

 「能力を封じられた私にさえ劣るお前は――だが強くなる。きっと強くなる。私があの島で頂点にまでのし上がったように、弱者はいつまでも弱者でいるわけじゃない。常識で糊塗した己の裡に狂った鬼を棲まわせたお前が、いつまでも弱いわけがない」

 足肌に感じる頸動脈を一際強く圧迫する。足を掴む恋敵の指先が震え、くたりと力が抜けた。

 「楽しみだ。本当に、本当に楽しみなんだ。……取り合う雄も、奪い合える相手も、今までいなかったんだ。一人でも、二人でもそんな戦いはできない。三人以上じゃないとダメなんだ。……だから私は、お前にいてほしい。ラナ。ラナ・アルメーラ――私はお前も好きだぞ? なあ、これっておかしいか?」

 いつからいたのか、首を巡らした部屋の隅に佇む、赤い影。ゆらりと、当たり前のような顔で帰ってきた少年は、興味深げな無表情でゆっくりと近付いてくる。

 「…………蓼食う虫も、好き好き」
 「それ、おかしいって言ってるのと同じだぞ」
 「…………僕のが、僕のを…………好きになるのは、いい」
 「言っとくが人間として好きなだけで恋愛感情じゃないからな?」

 少年がぐったりしたラナを抱え上げ、エルの隣に寝かせた。……自分で締め落とした相手が隣で寝ているというのは、何だか複雑だ。どことなく寝苦しそうな寝顔を見つめている間に、少年は複雑な結い方をされたロープを手際よくほどき、海楼石の鍵穴にナイフらしき物を挿し込んだ。
 かちゃかちゃと内部を探ること十秒余り。カチン、と小気味よい音を立てて錠が外れた。開錠術までできるらしい。

 「…………心配、した?」
 「そこの小娘ほどじゃない。まあ死んだら供養ぐらいしてやるが、こいつみたいに後追いするのは馬鹿げてる。私の命は私のものだ」
 「…………くふふ。うん、それで、いい。…………僕が、赤くするのを、我慢できなくなるまで…………生きててね?」
 「その時は目一杯抵抗してやるさ」

 ふん。くふふ。と笑い合う。
 闘争と殺し合いで結ばれた絆。愛だの恋だの、自分たちには似合わない
 正面から抱き合ったり、手を握り合ったり。それはそれで楽しいが、何か違う。

 「よし、じゃあずっと使いたかった言葉を言ってやろう」
 「…………?」
 「――おかえり。……ふん、改まって言うとこっぱずかしいな」
 「…………うん。ただいま」





 ――お前と出会った、短くも濃密なあの頃のように。

    背中を預け合うぐらいが、心地いいんだ――











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 苦節三年以上。やっと、やっと書き上がりました。
 何度ワードを開いては閉じるを繰り返したか分かりません。ページは真っ白なまま、ただ時間だけが過ぎていく……。出来上がった瞬間、感動してしまいました。泣いてしまいました。胸につっかえていたものがようやく取れた思いです。
 改稿前を覚えている方がどれほどいらっしゃるか分かりませんが、以前はギャグっぽくまとめていました。それを本音のぶつかり合いに変更し……キャラの心情が掴めなくなりました。ですがようやく、本当にようやく、一区切り付くところまで書けました。お待たせしてしまい、申し訳ありません。
 リアルの都合で続きはまた遅くなってしまいますが、最低でも第一部完結までは持って行きたいと考えています。……ええまあ、予定は未定なのですけどね。
 ではまた、次の更新でお会いしましょう。
 そのうちハーメルンに移転するか考えています……。

 ――なお、嘘企画はチマチマ書いてますが、真面目に書くほどエロシーンがエロくなくなる仕様は変わっていませんorz 馬鹿になればいいのかな……。


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