その八 外
妖哭山は織田家支配下にある神夜国中部地域の、さらにその中央部にて異様な外観を誇る山脈の裾野を広げ、国中に悪名を轟かせている。
人体に例えると神夜国という肉体の臍とでもいうべき位置に存在している。
神夜国の地下や地表、上空を網の目の様に張り巡らされて、絶えず循環している惑星の血管に相当する気脈が、圧倒的な濃度と純度を持って結集する特殊な地の一つであり、それゆえに他の地域とは比較にならぬほど数多の妖魔が集っているとする説もある。
本来であれば気脈の交差する集合地点は、世界そのものの生命力に満ち溢れて大地が大変滋養に富み、大小無数の生命を育む場所となるのが通例である。
ごく稀に漏れ出た豊潤な生命力の恩恵を受けて、特異な能力や身体能力を得た人間や、異常に巨大化した生物の発生、雪輝の様に天地万物の気の集合体たる生命が生じやすい環境でもある。
しかしながら妖哭山から三里ほどと、そう遠いというわけではない苗場村が、気脈の恩恵を受ける事もなく、近年は人間のみならずあらゆる野の獣や、大地そのものがからからに干からびていたように、妖哭山はその説に異を唱える異端の地としての面を備えていた。
周囲に恩恵を齎すはずの気脈の流れを、まるで底の無い壺に水を注ぐようにして貪欲に飽きることなく飲み干して、周辺地域に一切その余剰分である気脈の生命力を分け与える事をしていないのである。
まるで妖哭山それ自体が巨大な生物であり、邪悪な意図を持って自分以外の大地全てを拒絶し、嫌悪しているかのようでさえある。
雪輝やひな達は知らぬ事であるが、多少なりとも陰陽道や風水の知識を持っていた鬼無子が初めて訪れた際に、妖哭山の極近隣地域と近くの村落とのあまりの違いから、学んだ知識にまるで当て嵌まらない異常な環境に驚いた事実がある。
その異常な環境の一例として、菱形の山頂を有する妖哭山を中心に半径一里あまりの一帯は、連日連夜の豪雨や数年以上も続く旱魃であろうとまるで外の世界の異変を知らぬ様子で、如何なる生命も存在しない黄塵吹きすさぶ不毛の大地が広がっている。
おおよそ半径一里の辺りを厳格な境界線として、緑の絨毯と赤茶けた剥き出しの大地がくっきりと色彩を別にしている風景は、超自然的な存在の意思が働いているかのような、神秘さと怖れを抱かせるものだ。
荒涼漠然としたその一帯は、妖哭山の内側に蠢く生命に対する反存在とでも言うべき凶悪無比な妖魔達を隔離するために設けられた空白地帯と思える一方で、善神か悪神の人知の及ばぬ壮大な意図を持って行われている実験場に、外部から余計な異物が入らぬようにその環境を保護されているようでもある。
だが皮肉にもと言うべきか妖哭山の異常なるを、魑魅魍魎跋扈するこの山に生まれ育った妖魔達自身は知らず、外の世界との接点を有する山の民や、外部から訪れた鬼無子の様な来訪者ばかりがこの世のものと思えぬ異常を知るばかり。
なぜ妖哭山の内側に住まう妖魔共は互いを食らい合い殺し合う事にのみ執心し、その欲望と殺意を外へと目を向ける事をしないのか。
なぜ妖哭山は気脈の集合地点としての通説を嘲笑うかのように、大地そのものの命を貪る餓鬼のごとき特性を有しているのか。
妖哭山という命の価値があまりにも安いに過ぎる舞台の上で、生と死と破壊と鮮血に塗れた演目に興じる役者である妖魔達は、その事に何の疑問も抱いた事はなかっただろう。
自分たち自身の命を賭して演じる終わりのない凄惨な殺戮喜劇が、何を目的として繰り広げられているのかを。
*
それは、白銀の毛皮を纏う巨大な狼も同じであった。
二人と一頭で川の字になって、雪輝だけが知る生命への悪意と共に風雪の吹き荒れる妖哭山の白魔と化す冬に備えるべく、二十里ほど離れた町への遠出を決めた日の清々しき朝である。
普段着こんでいる粗末だが頑丈な野良着から向日葵を思わせる黄色い小袖姿に着替えたひなと、渋く染めた曇天に近い灰色の筒袖の上に薄空色の羽織を一枚着込み、下は濃紺の野袴姿の鬼無子の姿が樵小屋の板戸のすぐ傍にあった。
互いにこやかな笑みを浮かべながら、初めての買い物について話の花を幾輪も咲かせている。
ひなと何を買うか、向かう先がどんな町であるかなど穏やかに言葉を交わしあう一方で、鬼無子は久しぶりに手にした財布の中身を確かめる事に入念がない。
うっすらと化粧を施して着飾れば、そこに大輪の花が咲いたのかと錯覚するほど華やぐ美貌の主ではあるものの、清貧を地で行く性格をしている鬼無子にしては珍しく、鮮やかな朱染めの織り糸や錦糸をふんだんに使った豪奢な財布であった。
白猿王率いる魔猿達との交戦の際に落とした事も一役買っているだろうが、あちこちにほつれや擦り切れの痕が見られる辺り、相当に長い時間使いこんできた愛着のある品なのであろう。
親か知人に贈られた思い出の詰まった品であるのかもしれない。
ちらり、ちらり、と鬼無子が覗きこむ財布の中には金や銀の煌めきは少なく、代わりに中央に四角い穴の開いた丸い銭が多数を占めている。金銀の煌めきはざっと三割ほどだろうか。
神夜国を三分する各国では独自の貨幣が流通し為替も日々変動しているが、一度織田家が天下布武を果たした折に貨幣統一を実行しており、その名残で三国共通で使用できる貨幣が現在も流通している。
鬼無子は故国を離れる際に他の二国も廻る事に決めていたから、路銀は統一貨幣である吉法銭(きっぽうせん)に換金している。
吉法とは織田家の祖となった人物の幼名から取られたものである、と鬼無子は耳にした事があった。
三国独自の貨幣として知られているものは、南方の大和朝廷では中央に満月の様な穴があき信奉するシラツキノオオミカミの名が彫り込まれた円月銭(えんげつせん)、織田家では初代が愛した異世界の舞踊の一節を彫り込んだ敦盛銭(あつもりせん)、北方の源氏では笹竜胆銭(ささりんどうせん)が一般的な貨幣である。
まあ、単純に大和銭、織田銭、源氏銭、と呼び現す事の方が多い。
鬼無子が神夜国南方の朝廷を出奔してから、今日に至るまでの旅路の路銀は残っていた家財を処分したもので賄ってきた。
妖魔や外道に墜ちた人間の悪党どもから朝廷に属する人々を守護する栄誉ある職に在りながら、決して脚光と喝采の光を浴びる事の出来なかった四方木家をはじめとした討魔省の者達は貴族としての収入のほかに、朝廷から中流貴族の資産にも匹敵するほどの財物を賜っていた。
贅を尽くして一年を過ごしてもまるで身代が傾かぬほどの富であるが、それが数十代にもわたって続けば、自分達が賜る財物の価値よりも人々から向けられる感謝と尊敬のまなざしを――つまりは名誉欲が芽吹き、それを公然と口にする者がちらほらと出始めた事も、先の反乱に繋がったといえる、と鬼無子はいまさらながらに思う。
さても思い返した所で何ら意味の無い事は他所に置き、もし蓄えた四方木家の資産全てを持ち出す事が出来ていたなら、鬼無子は全国をぜいたくに物見遊山しながら見て回る事が出来ただろう。
しかし討魔省の一部の者達と数名の有力貴族が結託した反乱の際に、朝廷の都の大部分が焼失し、鬼無子の生家もその被害を被った為に、故国を後にした鬼無子が持ち出せた金子の量は四方木家の統資産全体からみれば雀の涙の様なもの。
それでも庶民が慎ましく暮らせば子が親になる程度は過ごせる額の金子は手に入ったが、国を跨いだ年単位での旅路の最中、鬼無子がある種の現実逃避と単なる食欲の為に旅すがら食道楽に走った事もあって大きく減らしている。
単に買い物に出かけて少し飲み食いをする程度ならば、鬼無子とひなの二人分は十分にあるが、今回の買い物の目的は冬を乗り切るための味噌や塩や米と言った食料の大量確保である。
となると懐に納めている財布の中身だけではたして足りるかどうか、という一抹の不安が鬼無子の胸中にあった。
自分自身の食物摂取量が成人女性一人としてはあまりに過剰であることもそうだが、近年の妖哭山一帯を襲った旱魃によって、民草と彼らを養う大地そのものの枯渇もあいまり、物価の高騰がどれほどのものになっているか、正確な検討がついていないこともある。
とはいえ一応鬼無子にも考えはあり、足りない時の為の非常策は用意してある。
二人の会話に耳を傾けながら朝の心地よい風に目を細め、今日一日の天気が晴れであると読み取った雪輝が、鬼無子にこう切り出した。
「今日は終日お天道様の顔が良く見えると、風と空が教えてくれた。出かけるには良い日であるな」
「それは良うございました。でも、雪輝様、町の外でお待ちいただく事になってしまって、申し訳ありません。なるべく早く戻って参りますから、お許しくださいましね」
初めてのお出かけに胸をときめかせて楽しみにしているのが、初対面の物でもはっきりと分かるひなであったが、心ならずも雪輝を除け者にしてしまう形になった事が申し訳ない様子だ。
ひなと鬼無子の行く所、そこが地獄であろうが尻尾を振りながら喜んでついてゆく雪輝であるが、流石に狼の妖魔である自分が町中に入れない事に関しては十分に理解しており、多少の寂しさを覚えてはいるが、二人と別れて行動する事には納得している。
雪輝はゆるゆると首を振り、ひなの言葉をやんわりと否定する。
「私の事など気に病んではならぬ。久方ぶりに人の町に行くのだから目一杯楽しんできなさい。共に行けぬ事は寂しくはあるが鬼無子が居るのだから、心配はしておらぬ。山では見れぬもの、聞けぬもの、味わえぬもの、嗅げぬもの、触れられぬものが数多あろう。心行くまで楽しんでおいで。君らの帰りを待つのもそれはそれで楽しくあろう」
「そこまで仰っていただけるなら、楽しまないと申し訳ありませんね」
自分に対する気遣いの念が込められた雪輝の言葉に、ひなは新しい喜色を道端で風に揺れる可憐な花を思わせる愛らしい小顔に浮かべて、雪輝の首筋に抱きついて腕を伸ばし顔を埋める。
ふんわりとした毛皮の感触にひなの頬が緩んだ。
触れ合う事で伝わるひなのぬくもりだけで、雪輝がひなとしばし離れる事の辛さを忘却し、喜びに浸るには十分であった。
むずがる赤子のようにひなが自分の毛並みに顔を埋めるに任せていた雪輝であったが、こちらをいつものように微笑ましく見守っている鬼無子に、不意に問いかける。
二人が町に行く間待っていることについては不満こそないが、心配ごとそのものはあるらしかった。
「しかし、町に入るのは問題なかろうが、私の毛などで金子を賄えるのかね?」
鬼無子の用意した金子が不足した際の非常策とは、新たに雪輝から斬り取った体毛を換金する事であった。
財布とは別に紐で縛り懐紙に包んだ雪輝の白銀の体毛が鬼無子の懐に入っている。
蒼城典膳との死闘後、怪我の快癒と同時に以前の長さを取り戻していた雪輝の毛並みは、鬼無子と崩塵によって再び短く切り揃えられていた。
着物の布地の上から、懐に入れた雪輝の体毛を左手で抑え、鬼無子が気安い調子で頷き返す。
「ええ。織田家は初代から怪力乱神を嫌う気風の強い家でして、特に悪行を成す妖魔に対する敵愾の意識は神夜三国の中でも格段に高いのです。
それゆえ領土内の対妖魔戦闘能力を有する精鋭を結集させた対妖魔討滅機関“妖魔改(ようまあらため)”を組織し、多くの特権を与えて領内の霊的治安の維持に奔走させております。
ただ、妖魔の討伐と調伏を専門とする組織はそれがしの所属していた討魔省のように、三国のどこにも存在しますが、織田家の妖魔嫌いの度合いを示すのに、妖魔改とは別に妖魔退治に対して高い報酬を供する妖魔狩りの制度があげられますね」
「ふうむ、妖魔狩り、かなんとも物騒な言葉面であるが」
おそらくは自分も問答無用で狩られる対象になるのだろう、と鬼無子の硬い口調と話の内容から容易に推測する事が出来て、雪輝はさほど愉快な気分にはなれなかった。
雪輝でなくとも、自分の命が狩りたてられて金品に化ける可能性のある場所に赴くのを、由とはする者はそうはおるまい。
「実際、物騒といえば物騒ですな。どこにも所属していない流れの陰陽師や祈祷師、浪人であっても妖魔を退治した証明となる物を持ってくれば、相応の金品や仕官の道などを報酬とする制度です。
妖魔退治や情報の提供と引き換えに金品を出す程度の事ならどこもしておりますが、織田家ではその額がざっと三倍から五倍以上になっておりまして、それを生活の糧とすべく神夜国中から腕に覚えのある者が集まっているほどなのですよ」
「そこを利用して私の毛で金儲けか」
得心の言った様子の雪輝に対して、多少利用した形になり気まずさを覚えていた鬼無子は、申し訳なさを満面に塗りたくった表情を拵えた。
罪悪感に苛まれる憂いた顔の美女の姿を精密に絵画とする事が出来たなら、飛ぶように売れた事だろう。
「はい。雪輝殿の折角お綺麗な毛並みを斬り取るのは四方木鬼無子、大変、大変に心苦しゅうあるのですが、これもまた今後の生活のためでありますし、平にご容赦くださいませ」
鬼無子が小さくとはいえ頭まで下げるモノだから、その律儀さに雪輝は困ったように笑い返す。
最近ではとみに愉快な一面を見せ始めている鬼無子であるが、根の生真面目さは変わらぬ様で、その点が雪輝はまことに好もしく思えてならない。
「布団の時同様に幾ら斬っても構わんさ。二人の役に立つのなら我が身を削るくらいはどうということはないのだから。
だがその様な事情があっては妖魔を狩る競争が起きて、人間同士の不要な争いも招きかねぬのではないか?」
「そういった一面も確かにございます。互いに獲物と定めた妖魔を求めて諍いを起こし、斬った張ったの事態にまで発展して、要らぬ血の流し合いも頻発してしまい治安の悪化に繋がる事例も少なくありませぬ。国仕えの妖魔改は流れの者達を主を持たず、日々を食いつなぐのに必死な野良犬風情と侮り、逆に流れの者達は妖魔改を織田家に尻尾を振って秘伝の術を売ったと謗る事も多いのですよ」
自分が言った事ではあるが、本当にそうだと保証する鬼無子の台詞に対して、雪輝は首を捻る。
妖魔と抗するための制度と技能を人間同士の争いに使用する事に対して、得心が行かないようである。
「どちらも互いの事を言えた義理はないように思えるな。しかし妖魔と抗するための組織と人材がいがみ合って血を流す様な真似をするのであれば、それは本末転倒に近いものがあるのではないかね?」
「耳に痛い言葉ではありまするが、残念ながらそれが事実でありまして人間の業の深さと申しますか、何と申し上げればよいのか」
言い訳じみている鬼無子の言葉にも、雪輝は納得が行かないようではあったがこのまま話を続けても、鬼無子に迷惑を掛けるだけだろうと切りあげる判断をした。
元よりひなや鬼無子を困らせる事は雪輝の望む所ではない。ふむ、と一つ零して言葉の矛を収めた雪輝の代わりに、雪輝の首筋から腕を離したひなが、鬼無子の右袖をくいくいと引っ張る。
それまで雪輝との触れ合いに喜色満面の笑みを浮かべていたひなであったが、いまは小首を傾げて眉根を寄せ、不安げな色を浮かべている。
「そんな所の近くに雪輝様をお連れしても危なくはないのですか?」
ひながその様な顔をする時は十中八九雪輝の身を案じている時だ。あらかじめ予測できた鬼無子は、さして動じる風もなく答える。
そもそも町への遠出を提案した鬼無子であるから、提案した時点で雪輝の身の安全も考慮したうえでの発言であったろう。
「それは大丈夫だ。確かに織田家領内には退魔士やもどきが多いが、雪輝殿ほどの力を持った妖魔を討つ力を持った者はそれこそ妖異改の中にもほぼおるまい。それがし達の向かう町はそこそこ大きな町ではあるが、妖魔の出没の頻度は低い場所であったから、配備されている妖異改の者も少ないだろう」
「そうだとよいのですけれど」
「なにいざとなれば雪輝殿の肢で十分に逃げ切れるさ。人の住む村落の近くで妖魔を発見した時には、その場で処断するよりは妖魔の出現を知らせて襲撃に備えつつ討伐のための戦力を募るのが普通であるし、雪輝殿に人の目につかぬよう気を付けていただければ、町を騒がす様な事にもなるまい。ただまあそこら辺の行動は雪輝殿にお任せする次第になりますが」
寄せられる期待と不安の入り混じる視線に、雪輝は今日の天気を告げる様な軽い口調で答える。
「任されよう」
基本的に雪輝に対しては全幅の信頼を寄せるひなと鬼無子ではあったが、いまのような時には、本当に雪輝が分かっているのかどうかという疑惑と不安の念に駆られる。
聡明なのか底ぬけの阿呆なのか、この狼は非常に判断に困る所をしばしば見せるからである。
ひなと鬼無子は同色同心の視線を交わし合い、雪輝の返答を信頼してよいかどうか、お互いに眉根を寄せて疑問を共有した。
家族として愛する二人の女性達に不信と疑惑を抱かれているとは露とも知らずに、雪輝はそういえばと言わんばかりに尻尾をピンと風を孕んだ帆のように立てて口を開く。
「ふむ、どうせなら凛も誘って行かぬかね? あの娘には何かと世話になっておるし、日頃の礼も兼ねて出かけるのも悪くなかろう。凛もひなや鬼無子の事は気に入っているようであるし、都合がつけば無碍にはすまい」
これは名案と言わんばかりの雪輝の発言に、おお、とひなと鬼無子の口から同意の言葉が出た。
確かに山の民の凛には、何かにつけて食べ物にしろ着物にしろ都合を付けて貰っており、特に白猿王一派との戦いで破壊された樵小屋を修復するのに山の民が助力してくれたのも、凛の口利きがあればこそである。
樵小屋に住む二人と一頭は、凛にどれだけ感謝しても足りぬだろう。
そして雪輝も含め、この場にいる全員が受けた恩は死ぬまで忘れない律儀な面を備えていたから、雪輝の提案に対して反対の意見など出る気配すら存在しえない。
「確かに雪輝殿の仰る通り、凛殿をお誘いするのは妙案ですな。しかし雪輝殿、凛殿がこちらを訪ねて来られる事はあっても、それがし達の方から訪問した事はいままでありませんでしたが、こちらから会う方法を御存じで?」
「以前に出会った者の匂いは覚えておるし、いままでに何度か出会った場所も覚えているから、匂いを頼りに探せばそう時を置かずとも見つけられよう。その者に仲介を頼めばよかろう。少々時間はかかってしまうかもしれぬが、その分は私が急ぐことで補おう。良いかな?」
「凛さんと一緒ならもっと楽しくなる思いますし、常々きちんとお礼はしないといけないと思っていましたから、私は大賛成です」
小さな体で精一杯主張するように、ひなが諸手を挙げて賛同すれば、鬼無子も笑みを浮かべて首肯する。
内心で雪輝殿にしては珍しく良案を提示されたものだ、などとわりとひどい事を考えているが、過去の雪輝の言動とそれらの招いた結果の数々を考慮すれば、鬼無子のこの反応も無理のない所ではある。
「一人より二人、二人より三人の方が楽しめましょう」
二人の賛同を得られた事に気をよくした雪輝が、両耳と尻尾をゆらゆらと心持ち勢いを増して左右に振りながら、下ろしていた腰を持ち上げて、風の中から既に嗅ぎ分けていた山の民の匂いの元へと視線を巡らせる。
「では、まずは凛を誘いに行こうか」
*
堅牢かつ複雑怪奇な構造を有する岩石迷宮の先に存在する錬鉄衆の里の中でも、とりわけ祈祷衆と鍛冶衆の詰めている家屋は、陽が昇りそして落ちてもなお人の気配が絶える時がない。
祈祷衆は里の中でも数少ない霊的な感応能力に恵まれた少数の者達が、交代で不意に里に及ぶ危機を察知するための索敵及び危機予測の占術に余念がなく、また鍛冶衆は錬鉄衆の本質と存在意義そのものと言える集団であるために、時に寝食さえ忘れて自分達の技術の向上に明け暮れている。
鍛冶衆のなかば狂気じみた鍛冶狂いに関してはそもそも錬鉄衆生まれの人間が、男であれ女であれ少なからず鉄や鋼を弄るのが根本的に好きである事も大きい。
妖魔や特異な妖哭山の環境に悪戦苦闘しながら、命がけで採掘してきた鉱物や解体を終えた妖魔と動物達の毛皮や骨、爪牙が常に鎚を振るう音と鞴から送り込まれる風によって、轟々と燃える炉心の炎が絶えぬ音に満ちている鍛冶場に運び込まれている。
運び込まれる多くの素材を熱し、冷し、叩き、伸ばし、捩じり、水に浸し、殺ぎ、削り、切っている屈強な鍛冶衆の者達の中に、ひと際小柄な少女の姿があった。
雪輝達の話題の的となっているとは知らぬ凛その人である。
辛子色の生地に赤い椛の葉を散らした小袖を諸肌脱ぎにして、晒しを巻いただけの上半身を露わにしたまま、しとどに体を濡らす汗の粒を散らしつつ右手に握る鉄鎚を休むことなく振るい続けている。
厳しい山の暮らしと鍛冶衆としての仕事の中で、極自然と鍛え抜かれた肉体は鞭の様に細く引き締められ、余分な脂肪やぜい肉はわずかにも存在していない。
小柄な体の中にはちきれんばかりに詰め込まれた山の活力と野生とが、鍛冶場の中の乱雑に入り混じる様々な音と調和して、より一層活発になって凛の全身に新たな力を尽きぬ泉の様に与えている。
灼熱の色に熱せられた鉄片が鉄鎚に叩かれる音が、死した後に剥がされてなおも妖気を孕む妖魔の肉体が加工され、小型の炉の中で流体状に溶かされた鉄が煮えたぎる音が、調子も音の大小も、高低も何もかも出鱈目にしかし確かな調和を持って鍛冶場の中を満たしている。
ある種の音楽奏のごとく鍛冶場の中に響き渡り、鎚が鉄を叩く音を子守唄にして育った鍛冶衆達は母の子守唄を耳にしているかのような安堵をおぼえる。
生まれた時に最初に与えられたのが鉄鎚であった凛にとってもそれは同じ事で、鼓膜のみならず全身を揺さぶる鍛鉄の作業音は、集中力を殺ぐことはなく、むしろ心を熱する一方で、一部分を冷静に落ち着かせてより作業に集中させてくれる作用がある。
夢遊病に浮かされて夜道を彷徨い歩いているかのように我を忘れ、我武者羅に鎚を振るう。鉄鎚と自分の腕が一つに溶けて混ざり合い、打たれる鉄片も打つ鉄鎚も鉄鎚を振るう自分との境界が溶け合い、凛と鉄が一つの命に代わる。
錬鉄衆の鍛冶衆達が時折経験する限度の無い高揚感が起こす、一種の錯乱状態だ。
ここに至る事が出来れば年齢を問わず一人前と認められ、またこの幸福と高揚に満たされた感覚を味わうべく、鍛冶衆達は重度の麻薬中毒患者の様にして鍛冶場に足を運ぶのだ。
一振りごとに高揚してゆく精神に吊られて、我知らず唇を笑みの形に吊りあげていた凛は、不意に自分の肩を叩かれて、鉄鎚を中空に振り上げた姿勢で動きを止めた。
これ以外に在り得ぬと断言できる天職に全霊を注ぎ楽しんでいた凛は、ひどく不機嫌な顔で自分の肩を叩いた背後の誰かを振り返る。
元より目尻がやや吊りあがり気味で目付きの悪い凛が、不機嫌に睨みあげれば慣れ親しんだ相手でもぎょっと目を向いて一歩か、二歩後ずさってしまうほどの迫力があった。
凛の背後にいたのは、梅の花を散らした薄紫地の小袖に身を包んだ凛とは正反対の身体つきをした女であった。凛よりは年上だがまだ二十歳にはなっていないだろう。
肩にかかる程度にまで黒髪を伸ばして毛先を綺麗に切り揃え、よく陽に焼けた褐色の肌をしていて健康的な魅力に溢れている。
名をみつと言い、錬鉄衆の屋台骨を支える強く逞しく、そして美しい女性陣を構成する内の一人である。
みつは凛より三つ年上の女で、すでに所帯を持ち二人の子を産んでいる。元からどっしりと構えた肝の据わった娘であったが、子を産んでからは更にその肝っ玉の重量感が増して、すぐ傍に雷が落ちても慌てる様子一つ見せないようになっている、と専ら評判である。
幼馴染でもあるみつがここ数年来見た事のないほど困惑した様子であることに、凛は作業の邪魔をされた怒りよりもまず訝しさを覚えて、首からかけていた手拭いで頬を伝う汗を拭って、みつの用件に耳を傾ける事にした。
研いだ刃の様に鋭い瞳をわずかに緩めて、凛はみつに続きを促す。
「おう、みつ。どうした? お前がそんなに慌てるなんて、何かあったのか?」
ふっくらとした肉感的な体つきをしたみつは、母と言うにはまだまだ少女らしさが残っている可愛らしい顔を紅潮させて、幾筋かの汗を流していた。息は荒くよほど急いで凛の所へ来た事が伺える。
たっぷりと生地を押し上げる胸に手を置き、大きく息を吸っては吐き、吐いては吸ってを繰り返してようやく息を整える事に成功したみつは、まるで背中を槍の穂先か何かでせっつかれてでもいるかのように矢継ぎ早に言う。
みつがこんなに慌ててんのを見るのは久しぶりだなー、と凛はみつの普段の調子とはかけ離れている姿を見て思う。
特に子を産んでからのみつの胆力は、凛をしても大したものだと感嘆するほどで、子を背負って外に出かけた折に巨熊と対峙した際には、一歩も引かず怯まずに睨み返して、視線だけで巨熊を追い払ったほどである。
「り、凛、あんたに会いたいって人……ひと? とにかく人達が来ているんだよ! いまは泉の所で待ってもらっているから、はは、早くお行きな!」
単に泉と言っているが、凛やみつ達幼馴染の間では岩石迷宮の出入り口の一つの近くに在る泉を指す。水底に翡翠色をした大人の握り拳くらいの丸い石が無数に転がっていて、よく晴れた日には泉の水全体が翡翠色に染まり、非常に美しい景観になる。
凛達はよく緑の泉、などと子供らしい安直な名前を付けて呼んで、夏になると里の中に在る水浴び場や小川の他に、その泉でよく沐浴をして納涼を得たものである。
「ん~? あたしに会いたい奴だぁ? そんなの誰が居るってんだい」
すでに一人前の鍛冶衆として扱われ、山の民の成人年齢に達している凛は、幾度か外の人々との交渉にも同席した経験があり、山の外の人間にも見知った顔はあるのだが、わざわざ命の危険を犯してまで凛個人を訪ねてくるような相手はいないはずだ。
「お、お、狼様となんか知らないけど可愛い女の子と女のお侍さんよ!」
「……あの狼ね」
驚きを欠片も浮かべる事はなく凛は、はいはいとむしろどうでもよいかのような投げやりな調子で答えた。
あの狼に悪意がないのは分かっているが、あれが自発的に動くと具体的な苦労と言うわけではないのだが、精神的な意味合いに置いて実に多くの苦労が凛に襲い掛かるのが通例となったも同然である。
故に、凛はそれまで体中の細胞の内でくすぶっていた高揚の熾き火が瞬く間に鎮静化してゆくのを感じた。
一目で分かるほどに気を抜く凛の様子に、みつはひどくやきもきした様子で、しきりに集落の外を気にして振り返る事を繰り返す。
鎚を手放し如何にも億劫そうに腰を挙げた凛が、もたくさと仕切られた鍛冶場の小部屋から出て、壁際の一角に設けられた一室に入る間もみつは凛のまわりをうろちょろしては、早くしろ早くしろと無言の重圧を投げかける。
「そういやみつは前に雪輝に命を助けられた事があったんだっけ。それでいやに気が立ってる上にあたしを急かしてんのかい」
「そそ、そうだよ。あんたこそなんでそんな落ち着いているんだい! あの狼様だよ!?」
実際に雪輝と接している凛以外の山の民にとっての雪輝とは、みつのような反応をするのが普通の、崇敬と畏怖の念を等量ずつ抱く相手であり、凛の方が例外的な存在なのである。
以前の山の主と呼んでも差し支えのない威厳に溢れなおかつこの世のものと思えぬ美しさを纏う獣であった頃の雪輝ならともかく、ひなと暮らし始めてからいやに人間臭くなった今の雪輝に、凛はどう転んでも畏敬の念を抱く事はできそうになかった。
壁際に設けられた一室の入口は男と女用に二つに仕切られており、その先には鍛冶場で使われている炉の余熱を使って沸かされた湯の張られた鉄釜や冷や水を湛えた水瓶に、空いた小腹を満たす程度の食糧などが置かれている。
休憩室に入った凛は空の桶に鉄釜の中で白い湯気を噴いている湯と水を適当に柄杓で掬い取って温度を調節し、そこに手拭いを浸して自分の身体の汗を拭う作業に没頭する。
「まあそう慌てなさんな。ひなと鬼無子さんを待たせるのは悪いけど汗をかいたまんまってわけにも行かないだろ。あたしにも身嗜みっつーもんはあるんだからさあ」
きつく縛っていた晒しを解いて腰帯で止めていただけの小袖も脱いで、凛は全身にまとわりついている汗の珠粒を拭う。
一睡もせず徹夜で鍛冶作業に従事し続けたために、全身に鉛の様に溜まっている疲労感が、湯で濡らした手拭いで拭うためにわずかずつ熱に溶けて消えてゆくようで、凛は心地よさに小さく息を吐く。
本来であればこのまま熱く沸かした湯を張った湯船にでも身を沈めて体を清めた後に、床に大の字になって眠ってしまいたい所なのだが、雪輝はともかくとしてひなと鬼無子を必要以上に待たせるのは凛の望む所ではない。
一通り体の汗を拭う作業を終えた凛は、改めて小袖に腕を通し直し襟を整えて、いつも頭に巻いている布の具合を確かめて癖の強い髪の毛を纏める。
あとは火鼠の皮をなめした腰帯に愛用の山刀と数種類の煙幕や薬を入れた革製小袋を下げ、何本かの小刀を服の裏側に仕込む。
里から泉までさして時間のかからぬ距離でしかないが、その間に血に飢えた妖魔や食肉性の樹木や獲物を求めて自足歩行する草花の襲撃を受けないとも限らない。
雪輝の縄張りとして他の妖魔達に認識されている樵小屋周辺と違い、里や泉の周囲には数百数千単位のあやかし達が息を潜めている。
猫科の生物のようにんん、と唸りながら背伸びを一つして凛は呟いた。
「しっかしあの狼、あたしに何の用があるってのかねえ?」
まあ、行けば分かる事と、凛はさして気に止めた風ではなかった。
「町に出かける?」
「うむ」
みつの言うとおり泉のほとりで待っていた雪輝達の元へと赴いた凛は、雪輝より告げられた今回の訪問の目的を耳にし、これは予想外と少しばかり目を丸くした。
同年代の同胞達と声を掛け合って遊びに出たことくらいは凛とてもちろんあるが、山の外にまで足を延ばす、というのはこれは今までない経験である。
錬鉄衆に限らず山の民のほとんどは山の中で生まれて山の中で死ぬものだし、里を物理的にも霊的にも外部と遮断している岩石迷宮の外には、数多の死を齎す危険がひしめいている事もあって、例え山中であっても子供たちだけではそう里から離れた所は出かけないものだ。
凛自身は迷惑と感じるよりも唐突な提案に当惑した風であったが、思いのほか渋い様子の凛に、雪輝はこれは当てが外れたか、と片耳をパタリと動かした。
「私はともかくとしてひなと鬼無子にとっては初めての冬となる。ゆえに物の備蓄を増やしておこうという話になった次第でな。近隣の村々が飢餓に見舞われていた以上、多少遠出することにはなるが買い出しに行くのだ。
それでお前には常日頃、なにくれとなく世話をしてもらっているから、礼も兼ねて共に出かけるのはどうかと話が落ち着いたのだよ。なのでこうして訪ねさせてもらった」
「あたしがお前に礼を言われる筋合いは別にないんだがな」
凛からすればひなの着替えや布団、包丁、鍋などの生活用具一式を用意したのは、雪輝との決闘に負けて溜め込んでいた分の貸しを返す絶好の機会と捉えたからだ。
樵小屋の修復に関しても頭を悩ませていた内側から来た妖魔を片づけてくれたことへのせめてもの礼である、と長老集からの言質も得ての事だ。
それらの事に雪輝らが感謝の念を抱いている、という事は以後の付き合いからもうすうすと凛は感じていたが、よもやこうしてわざわざ自分の元を訪ねてきて買い出しに誘われるとまでは、考えが及んでいなかったという他ない。
雪輝とのやりとりを固唾を呑んで見守っていたひなが、小さく握った拳を胸の前に置き、この少女にしては珍しく熱の籠った視線を凛へと注ぐ。
「凛さんの御都合はいかがですか? 二十里位離れた所ですけれど雪輝様ならそんなに時間はかかりませんし、鬼無子さんや凛さんと一緒に出かけられればな、と私は思っているのですが」
熱の籠り用だけでなく自分の願いを面と向かって相手に口にするのは、やはりひなにしては珍しい事である。
ほとんど生まれて初めて苗場村以外の人の住む集落に出かける事への期待が、少しばかりひなに普段よりも自分の意思を主張する強さを与えているのだろう。
ひなが凛を口説く様にして懇願する一方で、鬼無子は凛に何を言うでもなく黙って雪輝とひなと凛とのやり取りを見守っている。あくまで凛自身の意思を尊重するつもりで、傍聴に徹しているのだろう。
「無理でしょうか」
とひどく悲しげに肩を落として問いかけるひなに、凛は慌てて首を横に振る。ひなのこういう儚い白百合の様な悲しみの顔は、凛や雪輝にとってはほとんど反則的な効力を有しているのだが、ひな自身には自覚がない。
「いや、呼び出しを受けた理由が意外だったんで驚いただけだ。まあ、急ぎの仕事もないし誘われてやらん事もない。一度待たせていた上で悪いが、もう一度里に戻って財布を取ってくるから待っててくれるかい」
「金子ならそれがし達の方で、凛殿の分も持つから、気にされずともよいよ」
これまで黙っていた鬼無子である。なにも口出しせずにはいたが、凛が共に行く方向に考えを移した事は、歓迎しているようでわずかながら安堵の様な色合いが白皙の美貌に浮かびあがっている。
「なんでもかんでも他人に頼るってのはあたしの性じゃあないのさ。ま、茶の一つも奢ってもらえればあたしは十分だよ。すぐに支度をしてくるから待っていてくれよ」
そう言って踵を返した凛は、雪輝たちその背中に声を掛ける暇もないほど急いだ様子で駆けだしていた。
「慌ただしい娘だな」
どこかのほほんとした雪輝の呟きに、ひなと鬼無子は苦笑して同意を示した。
「まあ、事前に連絡を取り次いでおればよかったのですが、急な話でありましたからな。凛殿にも都合と事情と言うものがありましょう。とりあえずは同意をいただいた事だけでも良しとすべきではありませんかな」
「鬼無子の言う通りか。思ったよりも出発が遅れはしたが、昼前には向こうにつけるだろう。ゆるりと買い物をするくらいの時間はあるかな?」
「そうですな、以前それがしが訪れた時に大体の町の構造は把握しておりますから、簡単な案内くらいは出来ますし、そう慌てる事もないでしょう」
着衣はそのままにどこが変わったのか分からぬ姿の凛が、踵を返した時同様に駆け足で雪輝達の前に姿を見せるのに、それから四半刻と掛らなかった。
「おまたせ」
「待ったというほどの事はない。では皆、私の背に乗りなさい。なるべく振り落とす事のない様に気を遣うが、しっかりと掴まっているのだよ」
我が子に掛ける様に優しい声を出す雪輝の首の上の辺りにひなが座り、次いで凛、鬼無子と座って改めて出発の音頭を雪輝が取った。
「では参るとしようか。ふふ、山の外に出るのは私も初めてのことゆえ、いささか楽しみだ」
ふわり、と軽く地を蹴った雪輝の身体は瞬く間に風と共に山中を駆け抜ける。
通り抜ける隙間などまるでないように見える木々の連なりも雪輝にとっては大きく開かれた門戸に等しく、躊躇する素振りもなくするりするりと巨体をかすらせる事もなく走り抜ける。
はるか後方へと瞬く間に流れてゆく景色は、生い茂る木々の葉の緑や幹がまるで水に溶かした絵の具の様に輪郭を失って見えて、ひなは雪輝の背中の上でなければ見られない光景に、自分でも知らぬうちに笑みを浮かべる。
山菜の採取や洗濯場などになっている川への道行きに、雪輝の背に跨る機会は幾度もあったが、そういった時はゆるやかな歩調であることがほとんどで、今の様に疾走する事は少ない。
ひなは雪輝の喉元の辺りに手を回して毛並みに顔を埋め、その後ろの凛は久しぶりに触る雪輝の毛並みに思わず頬を緩めつつも自分の腰の後ろ辺りに感じられる鬼無子の乳房の感触に自分が雪輝の背中に押し付ける形になっている乳房とを比較して、不機嫌そうに眉根を寄せると言う器用な真似をしていた。
ひなと凛とがほとんどうつ伏せに近い姿勢になっているのに対し、鬼無子は前傾こそしているが、それほどには身体を倒しておらず軽く胸が凛の腰に当たっている程度で、雪輝の背中からの光景を楽しんでいる。
疾駆というよりも跳躍に近い走法の雪輝は、地を舐めるようにして走るだけでなく時には、木々を飛び越す勢いで地を蹴り、一足で一気に距離を稼ぐ。
足元の大地が消失して全身を襲う浮遊感への恐怖、頬を撫でる風の感触、今まで見た事のない視点で目の前に広がる大地、彼方まで見通せそうな視界、ぐんと近くなって迫る空の青と浮かぶ雲の白。
そのすべてが、雪輝の背に在る三人の少女達を祝福した。
大きな放物線を描いて、幅二十間ほどの崖を飛び越した雪輝の身体が、見えざる重力の鎖に巻きつかれて緩やかに大地へと抱擁を交わすように柔らかく着地する。
とん、というかすかな着地の音のほかに、雪輝の背中に座る少女達に伝わる衝撃はわずかもない。
四肢に加わる着地の負荷をまるでなにもないもののように、雪輝は眉を顰めるでもなく堪えた吐息を吐くでもなくすぐに疾走へと転じる。
妖哭山の表層を飾る緑の海を抜けるのに、大して時間はかからなかった。
思い思いに天に向けて枝を伸ばす木々と苔むした大小無数の岩、大地を這う大蛇のごとく蛇行する川、天から落とされた涙がそのまま残った沼や泉を越えて、雪輝は生まれて初めて山の外へと出る。
妖哭山と外との違いを、まず雪輝は触覚、ついで視覚で認識した。妖哭山内部に渦巻いている妖気の類はどうやら山の外部へは一切漏れ出していないようで、雪輝が産まれた時から馴染んでいた山の妖気が、唐突に消失したのである。
明確な線引きがされているわけでもなかろうに、雪輝は色が変わっていないのが不思議なほど、克明に変質した空気や世界の雰囲気に、狼面にもはっきりと分かる不思議そうな色を浮かべる。
存在の発生当初から常に共に在った妖気が消えた事で、体が羽に変わったかのように軽くなり、息の詰まる圧迫感も消えている。
ひしめく妖魔達の発する妖気のみならず妖哭山の土壌それ自体が発する無臭無色の妖気は、山中に足を踏み入れた者に絶えず襲い掛かり、吸い込んだ肺腑を徐々に錆びつかせ、歩む足にわずかずつ疲労の重しを付け、他所者を振るいに掛ける様にして衰弱させる。
健全な肉体をもった大の大人でも、妖哭山の環境に慣れていない者では足を踏み入れて一刻としないうちに、天気雨に遭遇したように全身をひどく冷たい脂汗で濡らし、疲弊と山中の重く暗い雰囲気に麻痺した思考は正常な判断を下せなくなる。
生贄として奉げられた当初、体の弱り切っていたひなが妖哭山の妖気を浴びてもなお支障なく生活できたのは、ひとえに雪輝の妖気が山の害毒となる妖気からひなの全身を守っていたからに他ならない。
ただ足を踏み入れているだけでも相応の負荷を肉体と精神に強いる妖哭山を一歩抜けただけでも、その負荷が消え去ることに雪輝は驚きを隠せない。
世界とはかくも軽やかで穏やかなものであったのか、と。
山の外と内での明確な違いの一つを実体験し、雪輝は面白げにふむ、と息を一つ飲む。
道の確認をする為に一度足を止めた雪輝は、目の前に広がる世界の光景を凝と観察する。背中のひなと鬼無子もほぼ一月ぶりに目にする外の世界の光景を見ようと体を起こして、首を巡らせる。
周囲の命を吸う事で山中の木々や滋味溢れる大地を維持している妖哭山の外を出て見れば、まず目に映るのはひなが生贄として差し出される以前と変わらぬ赤茶けた大地である。
一粒の雨も降らぬ時期が長く続いたことで、どれほど生命力の強い草木の類でも育つ事が出来ず、またそれらを餌とする小動物や昆虫達といった食物連鎖の底辺を支える命が倒れた事で、大型の鳥獣達も骨と皮ばかりになって餓死するか別天地を求めて離れている。
空高く大地を睥睨しながら飛ぶ黒い点のような鳥達の姿もなく、視界の片隅で小さく動く犬猫といった動物の姿もない。
妖哭山に贄として奉げられた時とさして変わらぬ様に見える風景に、雪輝の背に跨ったひなは、かすかに眉根を寄せた。
雪輝の元へ奉げられてより一週間ほどして雨が降った折に、これで村も救われるだろうと、自分を不要と捨てたとはいえ父母と過ごした地と言う事もあって、それなりの感慨と共に安堵したのだがこれでは。
凛を挟んでひなの後ろ側に跨った鬼無子が、ひなの不安を敏感に感じ取り、慰めるべく口を開いた。
「それがしがかつて目を通した文献によれば、妖哭山の周囲は天侯の如何を問わずに荒廃しているとあった。ひなの村が干上がったままとは限らぬ」
「はい」
「あたしも外の連中との交渉に同席したけどさ、今まで降らなかった分、雨が降るようになってっから、ましになっているって言ってたよ」
鬼無子やひなと違って外部との接点を有していた凛も、鬼無子の言葉に続いてひなに気休めの言葉を囁く。
旱魃の被害が最もひどかったのは苗場村以南の地域で、妖哭山から見た東・西・北の方角に点在する村落や町に関しては、比較的被害は少ないものになっている。
「気になるのも無理のない事ではあるが、今日は町に行くのが目的なのだから、そう思いつめた顔をするものではないぞ、ひな」
「そう、ですね。申し訳ありません、雪輝様」
「謝ることなど何もないよ。いたずらに自分を責める癖は、あまり感心せぬがね。さて鬼無子、それで私はどちらへどう向かって走ればよいのだ?」
「は、そうですな。このまま北西の方角に向かえば街道に出ます。雪輝殿が街道を走っては大問題になりますから、いくらかの距離を置きながら街道沿いに向かって頂ければそれがしの方でその都度、指示させていただきます」
「人目を避けてか。私が隠行の術でも覚えておれば何も問題はなかったな」
人目を気にして街道から着かず離れずの距離を置きながらの道行きは少々時間を食うものとなるだろう。
姿を風景に溶け込ませて隠蔽する隠行の術は、たいていの系統の術に組み込まれている汎用性の高い術で、妖魔の中には術としてではなく体表の皮なり甲羅なりに周囲の風景を反映させて身を隠すものもいる。
雪輝の呟きに、ふと思いついたという調子で凛が言う。
「それも覚えてりゃ便利だったろうが、お前は人に化ける事は出来ないのか?」
決闘の時に隠行の術を使われては堪ったものではないな、と内心で顔を顰める思いの凛の言葉に、雪輝は否、と答えた。
「年を重ねれば自然と覚える者もいるらしいが、生憎とまだ私は覚えるに至ってはおらぬし、教えてくれる様な相手もおらんからな。ふうむ、しかし、人への変化か。一考の余地はあるやもしれぬな。さておしゃべりはここまでにしよう」
雪輝の四肢はゆっくりと大地を蹴り始めた。
大地に生きるあらゆる命を干上がらせていた旱魃の終焉を告げる雨が降ってから、おおよそ一月ばかりの時が過ぎ、延々と赤茶けた色の続いていた大地には、わずかずつ緑の色が斑模様の様に、視界の端々に映る様になっていた。
雪輝の肢が動き、町に近づくにつれて大地を覆う緑の比率は増して行き、世界に鮮やかな緑の色彩が主張をしはじめる。
北から吹きつけてくる風の冷たさは分からなかったが、ひな達には堪えるかもしれぬと、雪輝は意識して自身の身体から放出している妖気を操作して膜状に形成し、ひな達に届く頃には初秋の冷風は春の風の様なぬくもりを帯びたモノに変わった。
その事に気付いたひなが、あ、と小さな声を零して目元を柔らかく解し、雪輝の耳元に淡い桜色の唇を寄せる。
恋人が親愛を込めて口付けるような、見ようによっては大胆なひなの行動であった。
「雪輝様、お気遣いありがとうございます。とても暖かいですよ」
「そうか。加減できたかいささか自信がなかったが、具合がよさそうで何よりだ」
視線は目の前に固定してはいるが耳に心地よいひなの言葉に、雪輝の機嫌が右肩上がりで良くなっているのは、一人と一頭の関係を知る者からすれば見るまでもなく会話のやり取りだけで分かっただろう。
ほどなくして旅装の庶民や行商人らしい人影がちらほらと歩く街道が三人と一頭の視界の端に映りはじめる。
鬼無子の指示に加えて多くの人間の醸す雑多な匂いを嗅ぎ取って、雪輝がこまめに進行方向を修正していた効果もあったろう。
雪輝は初めて目にする旅装姿の人間達に興味を隠さぬ視線を向けつつも、街道側の人間に見つからぬ位置を探りながら走り続ける。
街道から流れてきた匂いよりもはるかに濃密で雪輝にとって未知の匂いの成分を数え切れぬほど孕んだ匂いが、ぐんぐんと近づいてくる。
鬼無子の言う町が近づいているのだ。二十里に及ぶ距離は、雪輝が背の三人を慮りながらの走行であってもほんの十分と掛らずに走破された。
高速で地上を掛ける事によって生じる衝撃や反動、風圧と言った物を全て劇的に緩和する雪輝の妖気による防護膜あればこそであろう。
背に負うた三人の事を気に掛けずただ速く走る事にのみ意識を集中すれば、音の壁を容易く超えた速度を長時間に渡って維持しながら走る事も出来る。
雪輝の鼻をくすぐる人間達の数多の匂いのほかに、妖哭山の様な血生臭さと妖魔の体液が発する異臭や、魔花の発する豊潤な香りには乏しいがまだ雪輝にはなじみのある樹木の香りが強まる。
鬼無子の言っていた近くに在る森のことだろう。雪輝は初めて走る外の世界に大きく興味を惹かれてはいたが、幸いにしてその事を忘却してはいなかった為、進路を変えて緑の連なりの方へと肢向きを変える。
太陽と月の終わらぬ追いかけっこを飽きるほど見て過ごした大樹達の並ぶ森の中で足を止めた雪輝から、まず鬼無子と凛が居りてひなが降りるのを手伝ってあげる。
ひなは自分の両脇の下に手を通した鬼無子に持ち上げられて、砂の城を扱う様な丁寧さで地面に下ろされた。ずっと幼いころに父母にそうしてもらった事を思い出したのか、ひなは恥ずかしげに頬を薄紅色に染めている。
鬼無子と凛が思わずそのまま抱きしめたくなる愛らしさであった。
こんなに愛らしいひなを虐げていた苗場村の村人達に、鬼無子と凛が抱く怒りや敵愾心たるや並々ならぬものがある。
ありがとうございます、と鬼無子に一言告げてからひなは背後の雪輝を振り返る。
白銀の狼は自分の肢の付け根に届くかどうかという程度の位置に在るひなを見下ろして、鼻先をひなの頬に寄せる。
「では雪輝様、行って参りますから、良い子にして待っていて下さいましね」
「ふふ、私をそこまで子供扱いするのはひなくらいのものだな」
「だって雪輝様ったら時々ひどく子供っぽくなって可愛らしいんですもの」
口元に手を当ててくすくすと品よく笑うひなにつられて、雪輝もどこまでも柔和な笑みを浮かべる。傍らで見守っていた鬼無子と凛が何も言わずに黙って見守る他ない、余人のはいる余地のない一人と一頭の世界がそこにあった。
「では子供らしくひなの言いつけを守って大人しくここで待つ事としよう」
ひなの言い分に拗ねた様子を見せる事もなく、雪輝は鼻と鼻がくっついてしまいそうな距離までひなに顔を寄せる。
小さく開かれている口からは鋼の塊も簡単に貫く真珠色の牙の連なりと桃色の舌が覗く。
雪輝の頬に小さなひなの両手が添えられて、鬼無子と凛が見ている中でひなが雪輝の口に自分の唇を寄せた。ひなの唇が近づくのにあわせて、雪輝は口を閉じた。
雪輝とひなの唇が重なり、しばしの時が流れる。
「ん……」
と重なる雪輝とひなの唇の間からひなの吐息が零れた。
一方で、ひなと雪輝の接吻を目撃することになった二人は、というと凛はまあとっくにそれ位は済ませていたんだろう、と少々驚きはしたがさして動じた様子は見せていない。
隠しようもない動揺に襲われていたのは、こと精神力と言う点ではもっとも強靭なものを持っているはずの鬼無子であった。
ぽかんと阿呆の様に口を開き、黒瑪瑙を思わせる美しい輝きを湛えた黒瞳はまんまるに見開かれている。
ついこの間、上半身を舐め回される次いでの様な形で雪輝に人生初めての接吻を奪われた鬼無子にとって、愛情をたっぷりと籠めて唇を重ねる雪輝達の姿は言葉にはし難い衝撃であった。
名残惜しげにひなの方から唇を離すのを待ってから、鬼無子が壊れたように口を開く。
「なななななななななな、ゆ、ゆ、雪輝殿、ひひひひな!?」
唇を離してから雪輝の鼻先を撫でていたひなは、初めて耳にするほど慌てた様子の鬼無子の声に、はい? と小首を傾げて振り返る。その動作もいちいち可愛らしい。
「どうかしたかね、鬼無子?」
鬼無子に問い返したのは雪輝である。舌を伸ばしてひなの唇が触れたあたりをぺろりと一舐め。
「いまの様な事を、いつからなさっておられたので!?」
どもりは収まったが驚愕の声音はさらに激しさを増す鬼無子の問いに、雪輝は今日の天気を告げる様な調子で返事をした。
「随分前からかな。そうであったな、ひな」
「はい。その……私の方から雪輝様に、おねだりしました」
頬を染めて鬼無子の視線から逃れるように顔をそむけたひなが、もじもじと指を突き合わせて告白する。雪輝はいまいち理解している様子は見られないが、ひなの方は親愛の情を示す行為としての認識がある様だ。
「な、ま、まったく気付けなかった、だと!?」
一日の始まりから終わりまで共に過ごしていながら、まるで気付かずに今日にいたるまで知らずにいたという事実に、鬼無子はがっくりと膝を負って項垂れた。
(鬼無子さん、こんな愉快で残念な人だったか?)
と凛は以前、雪輝の毛皮に夢中になっていた鬼無子の姿を見て以来下げていた株を、更に下方修正した。
<続>
>taisaさま
寝技でメロメロというか、いまは頬をなでられたり髪を梳かれるだけでも異常なほど相手に快感を与えしまうのが、鬼無子の気の抜けたときですね。
腕枕胸枕膝枕尻枕、好きなものをどれでもひなと雪輝は選べる立場にあります。雪輝相手だと鬼無子は恥ずかしがりますが、ひな相手なら快諾しますね。鬼無子の貞操に関しては、今後のお楽しみという事でご勘弁を。
また誤字脱字、文法の誤りのご指摘を賜り、まことにありがとうございました。
>マリンド・アニムさま
現状、ひなは気持ちいいのかどうかという判別もつかない、不思議な感じ、といった認識でしょうか。しかしあれですね、読んだり観る分にはにやにやできるものも自分が書く側になると非常に抵抗があるというか、ふとした時に人間としてどうなのか、という気分になってしまうのが最大の難点だと個人的には思います。
抵抗を感じなくなったら、一線を越えてしまったときかなあ、なんて。
>ヨシヲさま
( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(挨拶返し)
一度は言う状況に遭遇したい、けしからん、実にけしからんを頂きありがとうございます。鬼無子本人は潔癖な所があるので別に淫乱では無いのですけれど、これもまた彼女の宿命なので今後も色々と苦労することになるかと思います。
ただ少々アダルトすぎたかなと反省はしているので、今後の匙加減には配慮すべきと考えておりますです。
しかしどうトラブればいいのか、考えるのも難しいものですねぇ。
>通りすがりさま
気を抜いたままで人里に近づこうものなら洒落にならない大被害になるのは間違いなしでございます。雪輝がいれば彼の気配で中和されるのですが、別々に行動している時、お風呂の時などではひなへの影響も強いのでけしからんことになりました。
では今回はこれまで。感想を下さった皆様、お読みくださった皆様、いつもありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
12/18 投稿
12/19,20 編集