1,
自分が足りない人間であることを良く自覚している一刀は、軍団において他人が質問し易い雰囲気を作ることに腐心していた。とにかく誰にも良く話しかけ、話を聞く一刀は最初、変わり者の州牧として認知されたが、その気質が知れ渡るようになると、執務室を訪れる人間も増えた。
流石に用もないのにやってくる人間はいないが、近くまで来たから寄ってみた、と顔を出してくれる人間は多くいる。気安い雰囲気という他の軍団にはない方針が全体の成功に繋がっているかはまだ不明瞭であるものの、分け隔てなく意見を交わし、友誼を結ぶことのできるこの環境は良いものだと一刀は思っていた。
この先出世するようなことがあっても、この方針は続けていこう。
それが一刀の密かな願望でもあったのだが……アットホームな職場を目指す一刀の執務室に、今はぎすぎすした空気が立ち込めていた。
原因は、稟と静里である。
一刀軍の中でも冗談の通じなさそうな幹部トップ2が、何故か今朝から一刀の執務室で仕事をしていた。二人と一緒に仕事をするのは珍しいことではないが、二人とも幹部だけあって専門性の高い仕事をしている。資料が必要なこともあるから、彼女らは基本、自分の執務室で仕事をしたがる。
理由もなく州牧執務室までやってこない二人が、今日に限っては朝からずっと出て行かない。
おかげで執務室に顔を出した人間の、退去までの時間が短いことこの上ない。いつもは黄叙の出すお茶を飲み世間話くらいしてから帰るのだが、二人の顔を見るや、事務的な報告だけをして、足早に去っていってしまうのである。
何とも寂しいことだ。皆と話ができないのもそうだが、二人の恐れられっぷりに一刀は愕然とした。嫌われている訳ではないのが救いだろうか。厳しくも実直な稟の人柄は兵にも文官にも認められているし、舌鋒鋭い静里は方々に敵がいるが、彼女の部下が集め、彼女自身が分析する情報にどれほどの価値があるのか、武官も文官も良く理解していた。
良い仕事をする人間というのは、それだけで信頼されるものである。ただ、上司としてはもう少しにこやかに、と思わないではない。何より執務室の空気が重いというのは、そこで仕事をする一刀自身のためにも、本当に良くないことだった。
朱里か雛里か灯里か。水鏡女学院の関係者が誰か一人でもいてくれたらと思うのだが、灯里は今州都を離れており、朱里と雛里は自分の執務室で仕事をしている。今日は改めて会議をする予定はないから、お茶でもしにきてくれない限り、この執務室で顔を合わせるということはない。
今日はずっとこのままか……と午後のお茶と共に覚悟を済ませたその時、執務室の扉がノックされた。
「団長! 王栄さんから伝言です!」
執務室に入ってきたのは近衛兵の少年だった。村からついてきた、一刀軍の中では最古参のメンバーであり、要とも親しい。少年は笑顔で執務室に飛び込んできたが、その中に稟と静里がいることに気づくと、途端に背筋を伸ばした。
その態度だけで、二人がどう思われているのかを想像することができる。
良い仕事をする二人は兵からの信頼を勝ち得ているが、親しみやすい雛里や風と違って、いまいち人気がない。直近に加入した朱里の評判が上々であるため、余計に対比されているような気もする。
ここまで解り易い態度をされると、さぞかし二人も気分を害するかと思って見れば、二人とも涼しい顔をしていた。今更兵の態度一つ気にすることはないのかもしれないが、それはそれで寂しいことである。
近く、二人のイメージアップのために何かしなければと思う一刀だったが、今は仕事だ。
「聞こう。なんだって?」
「はい。急なお客様が来たとかで、現在対応中。お二人とも長旅のため、湯殿を用意し食事をお出しして迎える判断をした由。当座、お泊りいただく準備を進めていますが、団長の判断を仰ぎたいとのことです」
「そのお客様の名前は?」
「劉備、張飛のお二方です。王栄さんの話では『あの』お二人で間違いないとのことですが――」
「ならば、急いで向かわなければなりませんね」
「いや、たまたま予定が空いてて良かった」
一刀が返事をするよりも早く、軍師二人が席を立った。申し合わせたような二人の態度に、朝から執務室にいたのはこのためだったのだと理解する。
劉備。字は玄徳。連合軍と菫卓軍の戦で名を挙げたが、先の戦で曹操に敗れ、生死が不明だった人物であり、朱里と静里に因縁のある人物だ。
死んだとは思っていなかったし、もしかしたら自分の所に来るかもしれないと考えていたが、いざ来られてみるとやはり困るものだ。
朱里とのことがなくても、彼女は存在そのものが非常にデリケートだ。
曹操に負けたということは、その曹操に――今この国で、最も力を持つ一人に数えられる人間に、追われている可能性が高い。今現在、曹操との戦は回避できるというのが幹部全員の認識であるが、劉備の存在は曹操からすれば格好の攻め入る口実となる。
不戦の契約を曹操と結ぶにしても、劉備が陣内にいるという事実は、交渉をする上で不利を生み出すことになるだろう。劉備の、大軍を率いていたという実績と能力は、一刀軍にとって得がたいものであるが、曹操との戦の可能性を高めてまで身内に引き込む理由はなかった。
一刀個人の見解を言えば、面倒が起こらない内にお帰り願いたいところである。
しかし、劉備が北郷一刀を訪ねてきたという事実がある以上、無視することはできなかった。
今現在、北郷軍は曹操軍と戦をするために準備をしている。それは無論、孫呉がいることによる建前であり、実際に戦争は起きないという前提に立っての行動であるが、ほとんどの人間はそれを知らないし、最大の同盟者であり同時に監視者でもある孫呉の周愈も知らないということになっている。
曹操を理由に劉備を拒絶することはできないのだ。
それに、仮に拒絶できたとしても、それは必ず朱里の耳に入ることになる。聡い少女だ。どういう事情があって劉備を拒絶したのか、何も言わずとも察してくれるだろうが、せっかく仲間になってくれた彼女に不義理はしたくない。
一刀は大きく溜息をついた。
色々と不本意なところはあるが、劉備のことはここで決着をつけるより、他はないだろう。
意を決すると、一刀は立ち上がり伝令として飛んできたばかりの少年に向き直った。
「朱里に伝令。劉備、張飛の二名が俺の屋敷に来た。これから会って話をするから、至急屋敷に来るように」
敬礼をし、少年は命令を復唱すると、執務室を飛び出していった。この段階で、既に稟と静里は準備を終えている。護衛である要は言わずもがなで、黄叙も身支度を終えていた。
「……俺がビリか。待たせてすまない。屋敷に戻ろう。皆、着いてきてくれ」
2、
屋敷に戻った一刀たちを、王栄が迎える。
王栄は客人としてやってきた稟と静里に一礼すると、応接室に向かう一刀の横に立って歩いた。本来、そこは黄叙か筆頭軍師である稟の立ち位置で、序列の低い人間は立ちたがらない場所である。王栄の序列が軍団の中では高いものではなかったが、長の隣に立つ彼女の振る舞いは実に堂々としたものだった。必要な時には、必要なことをしなければならない。それをきちんと理解できている証拠である。
どうしても立場や身分を先に見てしまうのが、この世界の人間の大きな特徴だ。培われてきた文化によってそうなっているのだから、外から来た一刀が文句を言うことでもないが、こだわらなくても良いところでまで一歩下がられてしまうと、仕事に支障が出ることもある。幹部以外で王栄のように合理的に物を考えられる文官は貴重だった。
「湯浴みと、簡単ですがお食事を出させていただきました。大分お疲れのようですが、応接室にてお待ちいただいております」
「随分早く湯浴みが済みましたね」
「一通り済ませてから使いを出しましたもので。ご迷惑でしたか?」
しれっと言う王栄に、一刀は苦笑を浮かべた。仕事が速く、そつがない。荀昆が推すだけのことはある、と思った。自分のような人間のところにいるのは、勿体ないくらいの人だ。
「いえ、助かりました。後はこちらでやりますので、仕事に戻ってください」
「かしこまりました。それでは黄叙さん、後はよろしくお願いします」
優雅に一礼して、王栄は去っていく。落ち着いた淑女の振る舞いに黄叙がほぅ、と溜息を吐くのが見えた。黄叙も十分に礼儀作法を身につけていたが、経験の積み重ねから来るあの落ち着きだけは、どうしても出せなかった。それに憧れる気持ちは解らないでもない。早く成長したいとやきもきするのは、上を目指す人間には当然のことだ。
しかし、黄叙には黄叙の良さがある。完璧であろうと頑張っている姿は、見ていてとても微笑ましく、そんな少女が自分に従ってくれているのだと思うと、自分ももっと頑張らないと、という気分になる。王栄は黄叙にないものを持っているが、黄叙もまた王栄にないものを持っている。焦る必要はない。黄叙はそのままで良い。
そう言いかけた一刀を、稟の咳払いが現実に引き戻した。気づけば数秒、黄叙の横顔を見つめていた。眼鏡の奥にじとーっとした目が見える。これは危険な兆候だ。
「さ、行こうか」
「……劉備殿は美人と聞きますから心配ですね。どう思いますか静里。彼女の周辺にいた者として」
「胸も尻もあるし男好きのする見た目ではあるな。大将の好みではあると思う。まぁ、私が男だったら先輩に声をかけると思うが……」
無意識の発言だったのだろう。顎に手をあてて、何か考え出す静里に全員の視線が集まる。顔を上げた静里は皆の視線に気づいたが、なんだ? と首を傾げるだけだった。静里はキツ目の美人という感じで、一刀の仲間内で言うと稟が雰囲気が近い。あまりかわいいものを好きというイメージはないのだが、静里が推すのはいつも朱里や雛里などのどちらかと言わなくてもかわいいタイプだった。意外と言えば意外である。少なくとも、静里に凛々しいみために、朱里や雛里のような、ひらひらかわいいものは合うように思えなかった。
「……人の好みはそれぞれってことだな」
「なんだ大将。うちの先輩たちに何か不満でもあるのか?」
「二人ともかわいいと思うよ。灯里はかわいいって感じではないけど」
「あの人は昔から女にモテたからな。大将以上に」
「今後のために、女性の上手いあしらい方など聞いておいた方が良いかもしれませんね」
それでは、と稟が先に立って扉を開く。
護衛の要が先頭で入り、次いで一刀。右隣には稟、左に黄叙が並び、静里は一刀の背に隠れるようにして最後に入った。
応接室の中央にしつらえられた卓、その下座の椅子に二人の女性がいた。背の高い方と、小さい方。高い方が劉備だろう。扉が開いた音で慌てて立ち上がったその姿に、一刀は内心で溜息を漏らした。『男好きのする見た目』と評した静里の言葉は、正しかったのだと理解する。
長い赤みがかった髪に、つぶらな瞳。長旅のせいか少しやつれてはいたが、その気だるさがまた色気に繋がっている。身体つきはまさに静里が表現した通りだ。男の庇護欲をそそるという点においては、完璧に近い容姿だろう。これを餌に後援者を募れば、世の男は放っておかないだろうな、という下世話な考えすら持ちあがるが、視線を合わせてみて、この人は自分を売るなど考えもしないのだろうな、とも思った。
この目は世の中の汚れを知らない。見ないようにしているとでも言えば良いのだろうか。優しそうな人、というのは見れば解るが、それが良い方にも悪い方にも出ているように思える。伴侶にする、恋人にする、友人にする。そういう場面でならば、彼女は非常に得がたい人材なのだろう。
一刀自身、劉備の第一印象はそんなに悪いものではなかったが、静里からの前情報を含めた上で一目みた感想は『めんどくさそうな人』だった。
少なくとも、静里や稟とは波長が合わないのが見ただけで解る。
「始めまして、劉備殿。私が北郷一刀です。どうぞおかけになってください」
余所行きの顔で応対し、着席を促す。劉備が着席するのを待って腰を下ろすと、稟たちは定位置に落ち着く。護衛の要が一刀の左後ろ。稟と静里が一刀の右後ろに並ぶ。給仕をする黄叙は部屋の隅に移動した。
劉備を見れば、一刀の横――正確には静里を見て、顔を青くしていた。無理もない。まさか助けを求めて訪れた先に、自分が叩き出した人間がいるとは思わないだろう。代表である人間の近くにいるということは、幹部かそれに近い待遇であるのは想像に難くない。もはや彼我の立場は完全に逆転した、というのは火を見るよりも明らかだった。
こういう時、普通の人間は報復を恐れるという。かつての劉備ならばまだしも、今の劉備は身一つで官位もない。護衛の張飛はいるが、誇れるものと言えばそれくらいのものだ。復讐するならば今だ。静里の性格ならば、少なからずそういうことは考えていそうなものだが、一刀が横目でちらと見ても、静里は澄ました顔をしていた。
そこに復讐心は見えない。押し殺しているのだとしたら、見事なポーカーフェイスである。
「紹介します。こちらが郭嘉。うちの筆頭軍師で外務を担当しています。そっちが太史慈。俺の護衛です。給仕をしているのが黄叙。秘書もやってもらっています。そして彼女が――ご存知かと思いますが、法正です。情報収集を担当してもらっています」
「ご無沙汰しております、劉備殿」
平坦な口調で挨拶をする静里に、劉備はこわごわと頭を下げた。静里はそんな劉備に目もくれず、その横に座った張飛に向かって小さく頭を下げた。自分にお鉢が回ってくると思っていなかったらしい張飛は、そんな静里の行動に面食らったようだが、今の立場を思い出すと、きちんと頭を下げた。活発を絵に描いたような容姿であるが、礼儀作法はきちんと備わっているようだった。
「本題に入りましょうか。劉備殿の近況は伺っております。曹操殿と戦い、敗れたとか」
「その通りです。部下の働きもあり、私はこうして落ち延びることはできましたが、陛下よりお預かりした領地を守ることはできませんでした」
「お察しします。私の方でも調査を続けていますが、それより後の情報は入ってきておりません。状況はどうにも、思っていた以上に混沌としているようです」
黄巾が南下し、曹操軍と激突することは、一刀たちの中では決定事項である。朱里の読みでは既に接触し戦端が開かれている。情報収集に放っている草が実際に戦端が開かれたという情報を持って帰ってくるまで、しかしこれは、事実として確定しない。周愈辺りは何かおかしいと感づいているかもしれないが、この情報は幹部の中でも極秘扱い。確信を持って行動できる人間は、他にはいないはずである。
確定していないのだから嘘はついていないと、自分に嘘を吐きながら劉備の様子を観察する。意気消沈しているのは相変わらず。こちらを疑っている様子は見えなかった。想像していた以上に悪い現状に、愕然としているのだろう。これで演技ならば大したものだと思いながら、張飛に目をやる。話を聞いているのかいないのか。表情から考えていることは全く読めなかったが、気を張って周囲を警戒しているのが解った。屋敷に通された時武器は回収したが、例え無手でも、今この部屋にいる中で一番強いのは張飛だろう。劉備の命令があれば、張飛はいつでもこの部屋にいる人間を皆殺しにできる。
もっとも、劉備がそういう命令を下すはずがないと、張飛も確信しているようだった。いつでも殺せるというのはポーズに過ぎない。本来ならばそのポーズも、交渉の材料になったはずだが、主たる劉備がそれを使いこなせる精神状態にない以上、徒労に終わる可能性が高い。少なからずそれを意識しているはずの身で、ポーズを取り続けるその精神力には敬服せざるを得なかった。
(恋をつれてきても良かったかもな……)
直属の部隊は精鋭中の精鋭50のみ。遊撃を仕事とする恋は、霞の部隊にはついていかず、州都に残っている。今は屋敷で家族たちと戯れている頃だろう。ここに向かう途中、使いは出した。急がなくても良いからこっちに来てくれという、非常に曖昧な指示である。張飛に対する備えとして呼んだものだが、彼女の手が必要になるとは思っていない。張飛のポーズが交渉の材料になるように、恋がいるという事実もまた、判断の材料になりうる。
戦闘にならないのはお互いに解りきっていたことだ。それでもポーズをとり続ける張飛を楽にさせるには、それ以上の実力者を連れてくるより他はない。今州都にいる人間でそれが可能なのは、恋と、孫呉からの客将である思春くらいだ。
気を張るのは疲れるものである。それを歴戦の将軍とは言え、幼い子供に強いるのは気が引けた。
考えて、苦笑を浮かべる。
この世界にやってきた時には、自分も子供だった。今も子供のつもりだが、張飛を見て子供と考えるくらいには、年月を重ねてしまった。こちらで暮らした年月を向こうで積み重ねていたら、自分はもう成人しているはずだ。あちらにいたままだったら、そんな生活をしていたのか、そういうことを考えることも少なくなった。
今、この世界が、北郷一刀の生きるべき世界。そう思うようになってきたのだ。自分の周りには仲間がいて、成したいこともできた。肩には仲間の命があり、背中には民の生活がある。良くも悪くも、北郷一刀は一人ではなかった。自分一人の希望で民や兵に犠牲を強いる訳にはいかない。
曹操との戦は回避される見通しであるが、孫呉がいずれ曹操軍と戦うつもりである以上、立場が下の同盟者としてはそれに追従しなければならない。劉備を引き入れることは、一刀軍にとってマイナスにしかならない。
散々稟や静里に説かれたことを、脳内で反芻しながら一刀は大きく息を吸い、そして吐いた。
冷静に、冷徹に。
努めて多くの命を預かる支配者であろうとしながら、一刀は言葉を口にする。
「単刀直入に申し上げましょう。我々としては、貴女を援助する訳には参りません」
一刀が口にしたのは予定通りの言葉だった。劉備にとってもそうであったに違いない。ここに来たのは北郷一刀に助けてもらうため。消去法での選択だったとしても、その辺を歩いている人間を頼るよりは、自分の目的達成の可能性が高いと判断した上でのことだろう。期待はしていなくても、希望くらいはもっていた。その希望が今、劉備の予想の通りに打ち砕かれた。
明らかに消沈した様子の劉備を前に、流石に心が痛む。助けてやるべきか、という気持ちを押し込んで、一刀はさらに言葉を続けた。
「曹操殿に追われている貴女は、曹操殿との火種になる。それは別に構わないのです。我々も孫呉の同盟者として、いずれは曹操殿と戦う身。それに否やはありません。しかし、開戦の時期を左右する貴女がいることは、我々にとっては問題です。貴女は曹操殿にとって攻める理由であり、例え軍備が整っていなくとも、強行に攻めてくるかもしれない可能性です。ご存知の通り、孫呉の援助があるとは言え、我々は曹操軍に比べれば弱小です。元々貴女が持っていた軍にも、大分劣ることでしょう。例えば今この時、貴女を理由に曹操殿に攻めてこられたら、我々にはそれを防ぐ手立てがありません。我々は今、対応するための時間を欲しているのです」
感情で政治ができるのならば一刀は劉備を助けていたし、そもそも劉備は失敗などしなかった。劉備たちを受け入れることで、自分たちを危険に晒す訳にはいかない。確実でない、可能性の段階であったとしても、『あの』曹操と敵対する可能性は潰しておくに限る。
何しろあの陣営には荀彧がおり、文謙がいる。仲間は皆優秀であると自負しているが、それは曹操の方も同様だろう。軍団全体の層の厚さは比べるべくもない。今帝国に存在する勢力の中で、最も戦いたくない一つであるのは間違いなかった。
さて、と一刀は気持ちを切り替える。
帰れというのは簡単だが、ここからはフォローをしておく必要がある。何もしないのでは後味が悪いし、名前にも傷がつく。面倒な話だとは一刀自身も思うが、必要なことなのだ。
それに、ここからの話であれば、いくらでも劉備を助けることができる。礼を尽くすだけ尽くしてたたき出すのであれば、多少失礼でも、手を差し伸べられる方が良い。望んだものが得られない以上、劉備から見れば誤差かもしれない。後々、劉備の中には北郷一刀に対する恨みしか残らないかもしれない。
言ってしまえば自己満足であるが、最低限、してやれることはしてやりたい。それは打算ではなく、感情だ。
「ですが、個人的には援助を惜しむつもりはありません。この屋敷に置くことはできませんが、当面の生活の保障はします。仕事の口を探す手伝いをしても良いですし、どこか他に行く当てがあるのであれば、そこに向かう旅費も工面します。我々を頼った方を路頭に迷わせる訳にはいきませんのでね」
ここまで、劉備からの反論はない。保障はすると言っているが、事実として『さっさと出て行け』と言っているに等しい。歓迎されていないのは、どれだけ思考がお花畑でも理解できるだろう。こういう状況を想定していないはずがない。ここにやってくるまで時間は沢山あったのだから、シミュレーションくらいはしているはずだ。打ちひしがれた様子の劉備を前に、一刀はその答えを待った。しかし――
「なら、鈴々が働くのだ!」
口火を切ったのは、劉備ではなく張飛だった。かかった――そんな思いを顔に出すのを堪えながら、一刀は張飛に向き直る。
「伺っても?」
「曹操が来ても、鈴々が追い返してやるのだ。兵は一人もいないけど、その分鈴々が働いてやるのだ!」
『曹操との戦の火種になるから、劉備を置いておく訳にはいかない』という理由で拒否したのだから、火種がなくなるか、あるいは火種になっても問題ない程の戦力があれば、彼女を拒否する理由はなくなる。実際、張飛は一騎当千の猛者である。兵はいなくとも彼女一人がいるだけで、大分戦況を有利に運ぶことができる。歩兵を指揮できる猛者の少ない一刀軍にとって、張飛は喉から手が出るほど欲しい存在だった。
彼女が降ってくれるのならば、これ程のことはない。それだけならば諸手を挙げて歓迎したいところだったが、張飛の要求はただ降ることではない。言外に、張飛は劉備の好待遇を要求している。軍門に降るのはそれを飲むならば、という条件付きだ。
当然、それを飲むことはできない。下手なことは言うなという稟の強い視線を感じながら、一刀は張飛の目を見つめ返し、言った。
「ですが、貴女方は既に曹操殿に負けられた。張飛殿、貴女は確かに一騎当千の勇将ですが、今は美髪公と名高い関羽殿もなく、精強な兵もおられません。それでどうして、曹操軍に勝てるとおっしゃるのですか?」
集団で負けた人間が、一人になって勝てる道理はない。劉備軍と戦った直後である今、曹操軍は疲弊しているだろうが、それでも、張飛一人で相手にするには荷が勝ちすぎている。物言いは勇ましい。やれと言ったら本気でやりそうだ、という雰囲気がある。こういう向こう見ずで真っ直ぐな人間を一刀は嫌いではなかったが、できないものはできないのだ。
指摘され、張飛は唇をかみ締めたまま、椅子に座りなおす。向こうの主従はお通夜モードだ。目的を達成するためには何をしてでも、と思っているのだろうが、そのためには何をされても良い、と言うだけの覚悟はないと見える。
それで良かったと一刀は思う。愛人になりますと言われたら、流石に対応に困る。一刀周囲は身奇麗なままだが、今は孫尚香がいる。彼女と何か決定的な事実があった訳ではないが、そういう理由で周囲に留まっている人間の前で、女の話はできないだろう。まだ持ち上がってもいない縁談話で優位に立たれたら、それこそ畳み掛けられて外堀を埋められてしまう。
せめて周愈が帰るまでは、大人しくしておいてほしいというのが本音だ。既に劉備が来たという話は、孫呉の方にも伝わっていることだろう。向こうが横槍を入れてくる前に、ある程度話はまとめておきたい。今、この場で納得してくれるのが一番良いが、劉備にとってここは分水嶺である。さらっと諦められるならば、多少の危険を冒してでもどこか適当な場所に隠れ住んだはずだ。
ここにいるということは、少なからず過去に未練があるということである。それが地位や名誉でないのは、劉備の苦しそうな顔を見れば良く解る。正論を打算的に話しても劉備は納得してはくれない。
「俺の生まれは、東の島国でしてね」
唐突に昔話を始めた一刀を、劉備だけでなく応接室にいた全員が見つめる。中でも稟は厳しい目を向けてくるが、一刀は構わずに話を続けた。
「平和で、豊かな国でした。50年以上戦に巻き込まれることもなく、民は飢えず、子は遊び、未来のために学ぶこともできた」
まだ三年。されど三年だ。
思い返せばたったそれだけの時間のはずなのに、故郷での生活が遠い昔のことの様に思える。幸せな時というのは、ああいうことを言うのだろう。退屈であったかもしれないが、何一つ不自由などしなかったあの時間が、如何に恵まれていたのかを理解することができた。
あの国こそが、一刀の理想である。人が天寿を全うして死ぬことを許された平和なあの時間こそが、民には必要なのだ。
「俺の理想は、そこにあります。民が命の心配をせずに過ごすことができ、天寿を全うして死ぬことができる。そんな世界です」
故郷の国も、そういった平和を獲得するために多くの血を流した。先人の弛まぬ努力と闘争の歴史があったからこそ、今があり、自分たちがいる。この国で北郷一刀が成すべきことは、尊敬するその先人たちに倣うことだった。
「荒唐無稽な夢であるということは自覚していますが、そのための努力は最大限しているつもりです。数年数十年、あるいは百年経ってもできないかもしれません。でも、俺の理想を理解してくれる人間が多くいれば、例え俺が力尽き倒れたとしても、いずれ誰かが実現してくれることでしょう」
誰もが気高い理想を持って動くことができれば、いずれ世界は変わる。この世界においてそれは夢物語でしかないが、その理想が実現可能なものであることを、一刀はこの世界の誰よりも理解している。こういう国を作りたいというビジョンの明確さだけならば、他の誰にも負けていないという自信がある。
理想を実現することが目的ならば、その担い手は必ずしも自分である必要がない。自分が駄目ならば、信頼できる人間にそれを引き継いでもらえば良い。先頭に立つものの仕事は、そういう人材を育てることでもある。そのためには明確なビジョンの共有と、信頼関係が必要になる。
誰でも秘密にしたいことの一つや二つはあるだろうが、切羽詰った時、それを打ち明けられないようでは何の意味もない。政治は皆でやるものだ。誰か一人に責任を負わせるのは間違っているし、失敗一つで追い込むのも違うと思う。朱里は朱里でベストを尽くした。主義主張は違っても、最低限それは認めるべきだったのだ。
「まずは、話をされることです。俺はそれで、どうにかやっています」
皆で考えれば何でもできるというほど、世界は甘いものではない。
だからこそ、頂点に立つものは最大の責任を負う必要がある。
理想が競合したとき、そこには争いが生まれる。そうして勝つのは力の強い方で、より正しい方ではない。理想を掲げるのならば、同時に強くあらなければならない。
妥協しなければならないこともあるだろう。辛い思いをすることもあるだろう。
だがそれでも、仲間と一緒ならばやっていくことができる。こいつとならば、地獄に落ちても構わない。それだけ信頼できる人間を、仲間と呼ぶのだから。
一度転落した劉備にチャンスは少ないだろうが、生きている以上可能性は0ではない。再起を諦めさえしなければ、いずれ浮上の目もある。
もっとも、浮上することを稟や周愈は許さないだろう。これからの劉備の苦労を思うと同情を禁じえないが、強力なライバルは少ない方がより良い。孫策などはそれでは張り合いがないと文句をたれるのだろうが、こちらの考えこそが正常であると一刀も自負している。
それに劉備には、もっと相応しい仕事があるように思えるのだ。誰もが理想を持つべきだが、同時にその担い手である必要はない。集団の頂点に立たずとも、世界には劉備を必要とする場所が必ずある。ほとぼりが冷めるまで、時間も必要だ。別のことをして、自分を見つめなおすのも悪いことではないはずである。
「貴女の望む形で手を差し伸べることはできません。重大な決断です。考える時間も必要でしょう。ですがその間、俺でも話し相手になることはできます。頭のできは良くありませんので、退屈かもしれませんが頭の片隅にでも留めておいてくださったら、幸いです」
力なく、劉備は笑った。その笑みに、一刀は彼女が多くのものを諦め、敗北を受け入れたのだと知った。打ちひしがれ儚く微笑む劉備は、美しかった。思わず見とれてしまう一刀を、稟の咳払いが正気に引き戻す。目的は、劉備を囲うことではない。諦めてくれたのならばこれで、目標達成だ。
「お部屋までは、黄叙に案内させましょう。どうぞ、お休みください」
一刀が促した時、扉がノックされた。
呼んだ人間は二人。
そして、これだけ控えめにノックするのは、恋ではなかった。
「どうぞ」
一刀が促すと、静かに扉が開く。
かつて劉備軍で筆頭軍師を勤めた少女がそこにいた。劉備の顔は、血の気が失せて蒼白になっている。それは法正を見た時の比ではない。そのまま気絶してもおかしくないほどの劉備を前に、朱里は見た目だけは冷静に見えた。
後悔、恐怖。色々な感情がない交ぜになった表情をしている劉備とは違い、朱里は無表情を貫いてたいた。
とは言え、何も感じていないという訳ではない。当代で最高の軍師である朱里も、一人の少女だ。尊敬し、全てを捧げていた主が目の前にいる。その激情は、一刀では計り知れない程に深い。
朱里は劉備など目に入っていないかのように振る舞い、応接室を横切り。一刀の隣に移動した。内務の責任者である朱里は文官の中でも序列が高い。加入したのは雛里の方が先であるが、このまま仕事を進めていけば稟に次いで次席の軍師になるだろう、と文官の間でも噂になっていた。
待遇では劉備軍にいた時よりも下であるが、分業が進んでいる一刀軍では朱里の負担は驚くほどに少ない。静里がいたとは言え、何でも一人でやってた時に比べれば心身の負担は軽減されたはずである。働き易い環境を提供できたという自信が一刀にはあるが、かつてよりもやりがいを感じられているかと言われれば、話は別だった。
身一つで学院を出て、自分で見つけた主が劉備である。彼女のために心血を注いで組織を大きくした。そこにあった忠義は本物だろう。それは一朝一夕でなくなるものではない。裏切られ、別のところに仕官した今となっても、朱里の心にはまだ忠義が残っている。
「朱里ちゃん……」
劉備が朱里の真名を呼んだ。それに、朱里ではなく静里が眉根を寄せる。真名とはその人間にとって最も大事な名前だ。今更お前が朱里と呼ぶのかと、内心では劉備を刺したくて仕方がないのだろうが。低く唸り声を上げただけで、静里は身動き一つしなかった。まるで鉄の自制心である。
そんな後輩の顔を横目に見ながら、朱里は劉備を見据えた。
「ご無沙汰しております。劉備様」
朱里が口にしたのは、真名ではなかった。それが意味するところに、劉備はがっくりと肩を落とす。張飛が何か、言いたそうに朱里を見ているが、視線を彷徨わせるだけで何も口にしなかった。最初に話をするべきは劉備と、張飛も解っているのだ。
長く、沈黙が降りた。朱里も、一刀も、応接室にいた他の誰も、劉備が口を開くのを待っていた。劉備は朱里を見たまま、泣きそうな顔で、それでも目を逸らさずに、しかし消え入りそうな声で、呟いた。
「…………ごめんなさい」
その言葉に、静里が一歩前に歩み出る。全力で罵詈雑言を浴びせるつもりだったろう彼女を、朱里が手で制した。気色ばんでいた静里は、それで冷静さを取り戻した。自分よりも怒っている人間がいると、人間、冷静になれるという。一刀の目から見ても、朱里は怒っていた。小さな身体を怒らせながら、劉備に歩み寄り――
ばしん、と乾いた音が応接室に響いた。劉備の頬を、平手で打ったのだ。震える手を胸に抱きながら、朱里は搾り出すような声で、言う。
「どうして謝るんですか? 劉備様は、何か悪いことをしましたか?」
「……ごめんなさい」
「どうしてですか!?」
朱里が吼える。それは一刀が初めて聞く、朱里の怒鳴り声だった。
「何で今更そんなこと言うんですか!! どうしてあの時そう言ってくれなかったんですか!? 貴女さえ信じてくれたら私は……貴女のために死んでも良かったのに!!」
血を吐くような叫びが、応接室に響く。涙を流しながら訴える朱里を見て、劉備はその場に膝から崩れ落ちた。顔を覆ってさめざめと泣き始める劉備に、朱里は更に怒りを募らせ、手を振り上げたが、それを振り下ろせない。背中から、感情がブレているのがよく解る。恨み言を口にしたところで過去は変わらず、また、劉備の現状も変わらない。自分がしているのがただの八つ当たりだということが解ってしまったのだ。
加えて、朱里は元々、人を攻撃できるような性格ではない。まして相手はかつて敬愛した劉備である。手をあげたという事実が、自分が思っていた以上にショックだったのだ。ぶるぶると震えた朱里は、やがてぺたり、と尻餅をついた。劉備に手を伸ばして、落とす。かける言葉はなかった。感情が高ぶった朱里は、そのまま静かに泣き始める。
空気が重い。目の前で女性が二人も泣いているのだから当然だった。誰かが助け舟を出さなければ収まりそうにないが、稟と静里は『我関せず』を貫いており、要は最初から当てにならない。使用人の立場でここにいる黄叙は、表情すら動かしていない。当事者以外で唯一この場の何とかしたいと思っているのは、劉備の横に座っている張飛だった。彼女は一刀に視線で助けを求めてる。劉備の従者であり、朱里や静里とも仲は悪くなかったという。大事な人が二人、目の前で泣いている今の状況は、彼女にとって絶えられるものではないのだろう。
それは一刀も同じだった。朱里は大事な仲間であるし、劉備もそれなりに人となりを知った。何より女性を泣かせたまま放っておくのは男の沽券に関わる問題である。
「お互い思うところはあるだろうけどさ。行き違いはあっても、別れた場所と違う場所で生きて出会えたんだ。過去を水に流せとは言わないけど、いつまでもこうだった、ああだったって言うのも、それはそれで不毛だろう。まして二人は同じ物を見て、同じ場所を目指してたんだ。ずっとケンカしてたよりは、解りあえるはずだ……と思う」
そこまで言って、一刀は言葉を止めた。『仲良くしよう』というのは簡単だが、人間の感情がそこまで単純ではないのは人生経験の浅い一刀でも解る。どうしてって許せないことはあるものだ。現に静里は話が纏まろうとしているこの空気に、はっきり『不快』という意思表示をしていた。その気持ちだって、一刀は理解できるが……やはり、仲良くできる人間は仲良くするべきだと思う。
朱里が視線を向けてきた。
その瞳の向こうで感情が揺れているのが見える。本質的に、朱里は優しい少女である。まして、相手はかつて同じ志を持っていた劉備だ。思うところはあっても、強く出ることはできない。
しかし、かつてもそうであったように、今も二人の間には立場があった。しかも、上下は以前と逆である。州の内政を担っているという朱里の立場はそう変わらないが、曹操に負け、州の外に出た劉備は今、官位がない。かつて朱里を追い落とした負い目がある以上、劉備の側から下手に出なければ、後々問題になるかもしれない。
普段であれば、二人もそれくらいは頭が回っただろうが、精神的に追い詰められているこの状況で、仲直りができるかどうか。必要であれば手を貸すつもりで、一刀は劉備を見た。涙を拭き、顔を挙げた劉備の瞳には、理性の色が戻っていた。彼女は床に手をつくと、深々と頭を下げた。
「あの時は本当にごめんなさい。解ってあげられなくて、ごめんね」
3、
「あの御仁はきっと、何がいけなかったのか良く解ってないんだろうな」
仲直りが成立したとして、劉備たちを部屋に案内する役は朱里が請け負うことになった。三人が部屋を出て行くのを見送ってから、一刀は深々と溜息をついて椅子に背を預けた。絶妙なタイミングでお茶を淹れてくれた黄叙に礼を言い、不機嫌な顔で文句を言う静里に椅子を勧める。
「仲直りできたんだから十分な進歩だろ? 蟠りがなくなれば話もできるし、話ができれば理解も深まる」
「それで再起を図られても困るのですがね……」
稟も苦い顔をしている。朱里との関係が改善されるのは個人の問題。友人としては応援してやりたいというのは、稟も同じだろう。
しかし、それで劉備が前向きになって野心を持つようになれば、それは陣営にとってダメージになりかねない。反応を見る限り、当座は大人しくしているだろうが、稟の危惧することになるようなら、手を打たなければならない。
「まぁ、忌々しいがしばらくは様子見か。住居と仕事はどうなってる?」
「黄叙」
「はい。以前、静里さんから伺った中からそれとなくお勧めするのが良いかと思います。今日からでも住めるように、いずれも手配済みです」
「州庁からもこの屋敷からも近すぎず遠すぎず、な部屋だよな。張飛殿も一緒に住めるな?」
「問題なく」
「後は仕事の世話ですね。私は教師などが無難かと思いますが」
角が立たず、劉備の能力を活かせるとなるとやはりその辺りだろう。探せば他にいくらでもあるだろうが、あちらやこちらの立場を考えると、あまり下手な仕事をさせる訳にもいかない。
それに、教師の手はいくらあっても足りない。教育を政策の一環としているこの州では常に教師を募集しているが、現代において教育というのは金持ちがやるものという認識が強い。知識人の数は決して少なくはないが、庶民に物を教えることに意義を見出せる人間はそれほど多くはない。その点、劉備ならば相手が庶民だからと手を抜いたり嫌な顔をしたりはしないだろう。理念を説明すれば、喜んでやってくれそうな気さえする。
「その辺りだろうな。それから劉備殿に監視とかは……」
「ここに来る前から交代で部下を張り付かせてあるよ。屋敷から出て行ってからも、最低一人はつける。孫呉とかに接触されたら事だが……それを防ぐことまではあまり期待するな。草の実力は正直あっちの方が上だ。甘寧とか出てこれらたら、私らじゃどうしようもないからな」
「そこまでは期待してないよ」
孫呉からしても劉備は決して無視できる存在ではないだろうが、好んで接触を持とうとするほど重要な人物ではないはずである。劉備自身も不審な動きをすることはないだろう。警戒するのは劉備を担ぎ上げようとする輩だけで良い。
「厄介事が一つ片付いたところで、後は東の問題だな。あっちの北部、黄巾の動きがまだ未知数だが既に南下は始めていると思われる。数が数だ。戦線は相当南に押し込んだはずだ」
「徐州はどうなりました?」
「反乱の気配はないな。当座は曹操に従う方針のようだ。曹操軍の方も西を意識してるらしく、この状況でも――いや、こうなる前に兵を進める準備をしてたんだろうが、一軍がこっちに向かってるって情報が入った。数は大体二万」
「二万か……」
先遣部隊としてはまずまずの数である。曹操軍の二万となると、やはり精兵だろう。霞が率いる并州の兵も精鋭ではあるが、守勢とは言え数で劣るこの状況は霞と言えども厳しいものがある。
「ちなみにその先遣隊を率いるのは楽進って話だ。大将のお友達を態々差配するとは、曹操も粋なことをするもんだ」
「……交渉の余地ありとは見えないかな?」
「天下統一が目的であれば、私たちもいずれは叩き潰す腹積もりのはずだが、目下曹操が何とかするべきは南下する黄巾だ。領土を取られたままってのは奴の沽券に関わる問題だからな。かと言って、孫呉と同盟を組んだ私たちを放っておいて良い訳でもない。どうあったところで、先遣隊が来るのは変わりなかっただろうが、この状況になったことで意味合いも大分変わってきた。稟はどう思う?」
「交渉の余地はあるでしょう。ここで二面作戦を始めるということは、更に南の孫呉とも戦をするということにもなりかねませんからね。同盟とまでは行きませんが、不可侵に近い条約を結びに来ることも、考えられないではありません」
「俺たちとしてはそうなってくれたらよしだな」
今は何より時間が惜しい一刀としては、願ったりかなったりだ。テーブルに着くのが文謙であれば、全く知らない人間が来るよりも交渉はまとめやすいに違いない。
「不可侵ってことになると思うか?」
「そうなってほしいというのであれば、そうしましょう。それが私の仕事ですからね。向こうに交渉の用意さえあれば、後は私が話をまとめます」
「ありがとう稟。さて、残りの問題は孫呉か」
こちらで交渉をまとめても、孫呉がゴーサインを出してきたら戦になる可能性が高い。今戦えば勝算が薄いというのは、孫呉も解っている話である。元よりこちらに期待していないだろうとは言え、同盟を結んだ人間が勝つに越したことはない。人情としてそう考えるのが妥当であるが、出る杭を叩き潰しておきたいというのなら、玉砕覚悟で突っ込ませることもありえる。
正直どっちもありそうに思えるが、孫策ならば停戦の方に乗りそうな気がした。大将らしく合理的に物を考えることもあるが、基本的に感性で動いているところが大きい。どちらがより面白そうか、という点に立つならば停戦だろう。寡兵で大軍を打ち破るというのは夢があって良いが、現実には早々起こりうるものではない。
更に万が一ということもある。もし、一刀軍が曹操軍を押し返すようなことがあるならば、それこそ取り返しがつかない。まして曹操軍には北の黄巾軍という事情もある。相手が全力を出せなかったという事情があっても、庶民までがそれを理解している訳ではない。一刀軍は強い、というイメージが世間に根付いてしまったら、孫呉としては大損だ。
既に孫呉本軍が準備万端ならばまだしも、揚州はいまだに忙しいと聞く。本格的な戦は、まだまだ先だろう。
「曹操軍に動きがあったら、こっちからも働きかけよう。孫呉と足並みを揃えておく必要がある。できれば周愈殿がいる間にまとめたいな。草の人たちにも情報収集を急がせてくれ。黄巾と西進の情報が確定したら、行動開始だ」
『御意』
あとがき
桃香さんは本当に難しい人でした……
私ではこれくらいが限界ですごめんなさい。
次回凪が出てくるかも出てこないかも。
そして七乃さんのターンその1。