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[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝 (真・恋姫†無双)
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:c94d5e3e
Date: 2016/05/08 03:17


はじめまして、篠塚リッツと申します
遅ればせながら恋姫マイブームがやってきたのでSSを書いてみました
こういうところに投稿するのは初めてなので無作法あるか思いますが
どうかよろしくお願いします

一刀主人公の本編再構成物
一刀の周囲にオリキャラが出る予定です(まだ出てませんが……)

改訂版がハーメルン様に投稿されています。






 やってしまった……

 血糊のついた剣を呆然と見下ろしながら、北郷一刀は大きく息を漏らした。

 人を斬ったのだ。重い剣で肉を割いた感触は今でも一刀の手に残っている。自分が斬った人間の悲鳴は今も耳について離れない。

 殺していないと思われるのが、唯一の救いだろうか。無我夢中で振り回した剣が、たまたま相手の手の甲を割いた。びっくりするほどに血が流れたが、それは血を見慣れていない一刀を驚かせたのと同様に、相手も驚かせたようで、自らが流血していることに半狂乱になった男は子分と思われる二人に担がれて何処かに消えてしまった。

 逃げるという選択肢を相手が選んでくれなければ、報復を受けていたことは間違いない。その点では運が良かったのだろう。剣道を齧ってはいるが、真剣を手に大の男を三人も相手に出来るほどの腕前があるとは、お世辞にも言えない。

 相手が怪我をしただけで事が収束した。これは、考えうる限り最良の結果と言えるだろう。

 気分を落ち着かせるために、深く、深く呼吸をする。

 言い様のない興奮はまだ体の中に残っていたが、外の空気を取り込むことでようやく周囲を見渡せるだけの心の余裕が出来た。

 襲われたから身を守る、自衛のために剣を取った訳でも、狂気にかられて人を襲ったのでもない。北郷一刀はただ、人を助けたかったのだ。

「君、大丈夫かい?」

 剣を地面に放り、大木の脇に腰を下ろした少女に近寄る。年の頃は自分と同じくらいだろうか、小柄ではあるが釣り目で意思の強そうな瞳が印象的だった。凹凸のほとんどない体型と低い身長だけを見れば中学生か、下手をすれば小学生と言っても通じそうではあったが、腰を抜かして座り込んでいても隠しようのない知性的な雰囲気が、少女を見た目以上の年齢に見せていた。

 手足をすっぽり覆う丈の長い地味な衣服に、猫の耳を模したような頭巾も目を惹く。

 その猫耳少女は座りこんだまま、何故かこちらを親の仇を見るような目で見つめていた。視線で人を射殺せるなら、それだけで自分を殺すことが出来るだろう。鈍感と言われたことは何度もあるが、少女の視線が好意的な物でないというのは理解できる。

 何か不味いことをしたのだろうか。少女の厳しい視線を受けながら考えを巡らせるが、一刀には何が原因なのか解らなかった。感謝されるようなことはあっても、責められるようなことはないはずだ。

 少女の視線に憮然としたものを覚えないではないが、『この場所』が普通でないのは疑いようのないことだった。現代の日本は世界でも有数の安全な国である。間違っても頭に黄色の布を巻いて真剣で武装した男三人に、命を狙われるようなことはない。

 剣が偽物であればコスプレ、ドッキリということもまだ信じられたのだろうが、肝心の剣が本物で、かつ自分がそれで人を斬ったという事実が、この非現実的な状況を前に一刀を落ち着かせていた。

 自分の知らない場所であれば、そこには自分の知らない常識があっても可笑しくはない。無難に通したつもりであっても、座り込んだ少女にとっての常識では、何か無作法なことがあったのかもしれない。

 誠心誠意、相手を思って接すれば、例え言葉が通じなくても気持ちは伝わる、というのは敬愛する祖父の言葉だったが、果たしてそれはこの場合にも通用するのだろうか。

 自分のルール違反が致命的でないことを祈りながら、一刀は少女と視線を合わせるために膝を折った。迷惑そうに身動ぎする少女の瞳を、真っ直ぐに見つめる。

「俺は北郷一刀。見ての通り学生で聖フランチェスカ学園の二年生。特技は剣道」
「せいふらんせすか、って何よ」

 口調は棘々しいが、少女はようやく口を開いてくれた。想像していたよりもずっと甲高い声が、一刀の耳に残る。

 幸運なことに言葉は通じた。

 後は、気持ちだけであるが、少女の言葉には視線に込められたのと同様に、隠し様のない敵意が感じられた。

 思わずと言った風に、一刀の顔に苦笑が浮かぶ。少女は自分に向けられる感情には敏感だった。綺麗に整った眉をきっと逆八の字に吊り上げた。

 どうやら少女は気の長い性質ではないらしい。一刀は慌てて視線を逸らし、今思い出したというように口を開いた。

「何って、学校の名前だよ。まぁ確かにそうある名前じゃないけどさ」
「……あんたの言ってることは訳がわかんないわ」

 少女の言葉に、一刀はふむ、と頷いた。

 訳がわからないのはこっちなのだが、それを少女に当り散らしたところで良いことはなさそうだ。聞きたいことは山ほどあったが、現状唯一の情報源であるはずの少女はこちらに関しても気を払っていないどころか、明らかに邪険にしている。

 無理に聞くことは賢い選択とは言えないだろう。

 男と見れば野蛮で馬鹿で……という考えを持っている女子は一刀のクラスにもいたが、眼前の少女にはそれと通ずる雰囲気がある。間の悪いことに、気合の入りっぷりでは少女の方が上のようだ。

 八方塞な状況に一刀は溜息をつく。少女に何も聞けないとなると、一刀には出来ることが何もない。

 これからどうしたのものか、と一刀が一人で途方に暮れていると、少女はすっと立ち上がった。どこかに行くのか、と目で追うと、少女は足を引き摺るようにして三歩下がり、また腰を下ろした。

 逃げようとして失敗した訳ではなく、単純に距離を取っただけのようだ。少女の瞳はまだ、敵意を持って一刀を見つめている。

「……私、男は嫌いなの」

 何を今更……と言いかけた口を、一刀は慌てて閉じた。少女が自分から口を開いてくれたこの好機を、詰まらない失言で台無しにしてはいけない。

「でも、あんたは私を助けてくれた。助けてくれなかったら、きっと死ぬよりも辛い目に合ってたと思うわ。だから、その点は……その点『だけ』は感謝してる」

 心底悔しそうにしながらも、少女は地に膝をつき、はっきりと頭を下げた。

「……ありがとう」

 搾り出すような、本当に悔しそうな声だったが、少女は確かに礼の言葉を口にした。驚くのは一刀だ。今までの人生で一番体を張り命もかけたが、自分と同じ年くらいの少女に手をついて頭を下げさせるようなことは、間違ったってした覚えはない。

 土下座が少女にとって意に沿わないことだ、というのは猫耳頭巾に覆われた後頭部が嫌というほど物語っている。伏せられて見えない少女の顔は、屈辱の色に染まっていることだろう。

この状態を長引かせることは自分の命に直結しそうだ。

 早くやめさせなければ。

 一刀がそう思って声をかけようとすると、それよりも一息早く、少女は顔を上げた。頬をぴくぴくと揺らしながら、どうにか平静を保っている様子の少女は、再び立ち上がって服の土を叩くと、そっぽを向く。 

「これで貸し借りなし、ってことにしたいけど……本当にしたいんだけど、それが人道に悖るというのは賢い私は解ってるつもりよ。だから、あんたにはもっと別のお礼をしなきゃいけない。忌々しいけど、本当に忌々しいんだけど……」
「いや、別にお礼が欲しくて助けた訳じゃないし――」

 お礼をされて悪い気はしないが、嫌々やっていることが解っているのなら話は別だ。それで気分良くなれるほど、一刀の神経は太くない。普通の家庭で生まれた普通の高校生には、土下座だけで十分だった。これ以上何かをされたら、気分の上でこちらがマイナスになってしまう。

 右も左も解らない状態で、少女との関係を切ることは自殺行為だったが、そういう物を差し引いてまで相手のことを考えてしまうのが、一刀の長所であり短所だろう。先の言葉は間違いなく本心からの物だったのだが、一刀の言葉を受けて、少女は首を大きく横に振った。大仰な動きに合わせて、猫耳頭巾がひょこひょこと揺れる。

「あんたは良くでも私の気がすまないのよ! 命を救った人間を言葉一つで追い返したなんて荀家末代までの恥なのよ! 私は嫌だけど! 嫌なんだけど!!」

 あーっ!! と少女は頭を抱えて叫び声を上げた。嫌われたものだが、ここまで来るといっそ清々しさすら覚える。

 力の限り叫んだら落ち着いたのか、先ほどよりは少しだけ落ち着いた様子の少女は一刀の方に見向きもせずに歩き出した。

 置いていかれては叶わない。ついて来いとは言われなかったが、置いていかれるのはそれはそれで困る。一刀は少女の後を追って駆け出したが、手が届きそうな距離まで近付いたところで、少女は振り返った。視線には敵意を通り越して殺意が浮かんでいる。

 歩調を緩めて、少女から距離を取る。三歩下がって師の影を踏まず。少女は師でも何でもないが、怖い物は怖いのである。

 一刀が十分に距離を取ると、少女は安堵の溜息をもらして再び歩き出した。

「しばらく私の後についてきなさい。実家で歓待なんてしたくないけど、助けてもらった礼はきっちりするから」
「しばらくってどれくらい?」
「歩いて半日ってところかしら。馬でもあればすぐなのに……」

 馬ってお前……と呆れの言葉が口をついて出かける。少女なりのギャグなのかと疑ったが、自分相手に笑いを取りに来るような愛嬌があるとは欠片も思えない。

 つまりは移動の手段として、車よりも先に馬が出てくるのが少女にとって自然ということになるのだが……薄々と感じていたが、出来ることなら忘れていたかったことが、少しずつ現実味を帯びてくる。

「ちょっと聞いてもいいかな」
「なによ、話しかけないでくれる?」
「今、西暦何年?」
「また訳の解らない言葉が出てきたわね……なによ、セイレキって」
「キリストが生まれてから何年たったかって聞いたつもりだったんだけど……」

 聞いても無駄だ、というのは少女の顔を見れば解った。どうすれば理解してもらえるのか、と一刀は考えを巡らせる。

「質問を変えよう、ここは何処?」
「豫州潁川郡」

 少女の言葉は端的だった。早く話を終わらせてほしいという感じが嫌というほど伝わってくるが、ここで質問をやめる訳にはいかない。喋っていいる言葉は日本語として理解できるのに地名にはさっぱり覚えがないということは、

「もしかしてここは中国?」
「チュウゴクなんて場所は知らないわ。もういいから黙っててくれない? あんたの近くで呼吸してたら、妊娠するかもしれないし」
「俺はどういう生き物なのさ……じゃあさ、今、この辺の王様……あー、天子? は何処にいるの?」
「洛陽」

 言葉はどんどん短くなる。それでも答えてくれているだけ、少女なりに我慢しているのだろう。話しを聞いている感じ、おそらく後一度が限界だ。

 取り急ぎ知っておかなければならないことは何か。

 生きて少女の家とやらに辿り付くことが出来れば、世界の情勢を知ることは出来るだろう。少女の家族全員がこの調子でなければであるが、一人くらいは話の通じる人がいると自分の精神の安寧のためにも、信じておきたい。

 ならば、今聞かなければならないのは――

「君の名前は?」
「………………荀彧よ」

 嫌そうに、本当に嫌そうに。それでも少女は名乗ってくれた。

 それきり貝のように口を閉ざした少女の背中を見ながら、一刀は密かに溜息をついた。一つの疑問は氷解したが、また別の、もっと強大な疑問が生まれてしまった。

 ここは何処だ? 何て問題ではない。


 一体ここは、何なのだ?



   






[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二話 荀家逗留編①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:c94d5e3e
Date: 2014/10/10 05:48






 荀家。

 荀子を先祖に持つ大陸でも高名な家系で、多くの文官を輩出していることで知られる智の一族である。武門ではないために袁家は元より、曹家や夏候家のように多くの私兵を持つには至っていないが、一般的な視点から見れば十分に『有力者』と目される一族と言える。

 政治的背景だとか他の勢力との絡みだとか、荀家を荀家たらしめている要因というのは他にも多々あるが、三国志に関して齧った程度の知識しか持っていない一刀にとって、荀家を表現するのに適した単語はただの一つだった。

「君の家は、金持ちだったんだね……」

 何処までも続いていそうな重厚で真っ白な塀を眺めながら、一刀はぽつりと呟いた。漫画の中でしかお目にかかったことのないような金持ちの家が目の前に鎮座しているのである。根からの庶民である一刀に驚くな、という方が無理な話だったのだが、これが当たり前であるらしい荀彧は、不機嫌な顔をして――つまりは出会った時からの表情を崩さないままに、これ見よがしに溜息をついた。

「いいこと? あんたのことは私が紹介するから、くれぐれも勝手な口を挟まないようにね」
「それはこっちからお願いしたいくらいのことだけどさ、何て紹介するつもりなんだい?」
「暴漢から私を助けた住所不定無職の全身精液男」
「最後の単語だけ否定させてもらえないかな。一応、俺にも立場ってもんがさ」

 何も知らない世界に放り出されたのだから、住所が不定なことも無職なことも否定のしようのない事実であるが、それだけに全身精液などと紹介されてはそのまま首を刎ねられる展開にもなりかねない。

 法律が整備され治安維持のための機関はあっても、処罰の仕方や刑罰の重さは現代日本とは比べるべくもないだろう。軽い気持ちのルール違反が即座に死に繋がる可能性があるのだ。荀彧がこういう性質で男性不審だということは解っていても、それをそのまま口にされては命に関わる。

 言っても無駄だという予感はあったが、自分の命に関わることである。言わない訳にはいかないが、同様に眼前の少女には何を言っても無駄だろうという気持ちもあった。

 案の定、一刀の言葉に荀彧は顔を顰め、

「男なんて皆同じよ! あぁ、思い出しただけで気分が悪くなってきたわ……あんな臭い塊が三つも迫ってきたのよ!? アンタに私の気持ちが解るって言うの!!?」

 詰め寄る荀彧は本気も本気で、心の底から男を嫌悪している様子が感じられた。邪険にされれば怒りが沸くのが普通だろうが、ここまで突き抜けていると逆に気にならないらしい。目を吊り上げて怒鳴る荀彧を見ながら、怒ってる顔がかわいいな、と一刀は場違いなことを考えていた。

「――だからくれぐれも私の言うことに口を挟まないようにね。解った?」
「お嬢様の仰せのままに」

 大人しく、畏まった物言いで一刀が頭を下げると荀彧は気持ち悪い物でも見るような目を向けてきたが、反抗しないのなら取り合う必要はない、と判断したのだろう。軽く身なりを整えて、猫耳頭巾を外し背筋を伸ばす。

 そうして歩いて漸く屋敷の門が見えてきた。

 それは見上げるような大きな門で、両側には守衛がいる。守衛が個人の屋敷に……と、一刀の感覚では聊か大げさな配置に思えたが、現代におけるオートロックやテクニカルな鍵の代用だと思えば、守衛というのもそれほど可笑しなものではないのかもしれない。

 その守衛に挟まれて、侍女のような少女がいるのが見えた。一刀や荀彧よりも僅かに年上そうなその侍女の少女は、荀彧が気づくよりも早くこちらに気づいたようだった。荀彧を見て、続いてこちらを見て、その目が驚愕でまん丸に見開かれる。

 あれは、何か良くないことだ。

 何故、と考えるよりも早く、そう直感した一刀は荀彧にそれを伝えようとしたが、つい先ほど黙っていろ、という主旨のことを言われたばかりである。これで何か言ったら荀彧が烈火の如く怒り出すのは明らかだった。

 だが、自分の立場には代えられない。下手をしたら死ぬかもしれないのだ。怒られるだけで済むのなら安いものだと思い直し、一刀が荀彧に声をかけようとしたその時、

 一刀に遅れること数瞬、侍女に目を留め彼女が自分にとって『良くない』ことを直感したらしい荀彧が制止の声を挙げるよりも早く、侍女は門の内側に向かって駆け出し、大声で叫んだ。

「奥様、街の噂は本当でございました! お嬢様が婿殿を連れて帰ってまいりました!!」

 その大音声は荀彧にも当然届いた。何かを言おうとした状態で固まっていた彼女は、しばらく侍女が消えた門を眺めていたと思うと……

 ふっ、と糸が切れた人形のように崩れ落ちた。






















「あらまぁ、そうでしたの。ごめんなさい早とちりしてしまって」
「いや、こちらこそ荀彧さんにご迷惑をおかけしてしまって」

 恐縮する一刀の前でさらに恐縮するのは、荀彧の母――荀昆(※)と名乗る女性だった。気の強い荀彧の母とは思えないほど穏やかな面差しをした女性で、口調も立ち振る舞いにも気品が感じられる。

「娘の命の恩人に失礼をいたしました。あの娘では殿方にまともなお礼も出来なかったのでございましょう? 娘に代わり御礼申し上げます。娘を助けていただき、ありがとうございました」

 言って、荀昆は深々と頭を下げる。頭を下げられるようなことはしていないと、本音を言えば今すぐにでもやめて欲しかったのだが、口を差し挟むことすら躊躇わせるような雰囲気が荀昆にはあった。これが名家の気品とでも言うのか。頭を下げるその姿すら、一枚の絵画のように美しい。

「貴方さえ宜しければ、いつまでも当家にご逗留ください。望みの物も何でもご用意致しますので」
「何もそこまで……」
「いえ。娘の命を救っていただいたのですから、これでも少ないくらいですわ」

 穏やかに微笑む荀昆はなるほど、荀彧の母というのが納得できるほど強情な気配だった。決めたら梃子でも動かないというのが、ひしひしと感じられる。

 親子なんだなぁ、と苦笑を浮かべつつ、一刀は出してもらったお茶に口を付けた。飲むのに適度に温くなったお茶で、微かな甘さが口の中に広がる。

「ところで北郷一刀殿。二文字の姓に二文字の名前というのはとても珍しいですけれど、どちらのご出身で?」
「この辺りではないというのは解るのですが……何分、記憶がはっきりとしませんで」
「あら、記憶がないんですの?」
「細々とした知識は残っているのですが、こと自分のことに関することは……」

 と、いう自分で決めた設定を一刀は語る。人を騙すことに抵抗はあったが、未来から、異世界から来たという情報は、軽々に公表するべきではないと思ったのだ。助けてくれる人間のいない世界で、狂人と思われたら生きてはいけない。

 無論、いつまでもそんな世界に留まるつもりはない。固執はないが一刀の世界はあちらで、この世界は異世界だ。そのために、いずれ誰かには自分に関する情報を明かさなければならない時は来るのだろうが、それは絶対に信頼できる人間でなければならないと考えていた。

 人の良さそうな荀昆を疑うようで気分は良くないが、命がかかっているのだ。当たり前だが命は一つしかない。話すべき人間を決めるのは、人となりを知ってからでも遅すぎるということはないはずである。

「でしたら、当家の書庫をお使いくださいな。北郷一刀殿に見合うか解りませんが、蔵書量だけでしたら中々の物でしてよ?」
「お心遣い感謝します」

 あの『王佐の才』荀彧の生家の書庫ならば、この世界においては相当量の蔵書が期待できる。異世界に関する記述のある書物がそうそうあるとも思えないが、絶対数は多い方が良い。

「お疲れでしょう? 侍女にお部屋に案内させます。食事も用意させますから、御用の際には侍女にお声がけください」

 荀昆が手を叩くと、部屋の隅に控えていた侍女の一人が前に進み出る。荀彧を気絶させる原因になった、表の門で叫び声を上げた少女だった。

 少女は一刀を見ると穏やかに微笑み、頭を下げた。釣られて一刀が頭を下げると、荀昆が笑い声を漏らす。

「北郷一刀殿は当家の客人なのですから、もっと堂々と振舞ってくださいな」
「人に持ち上げられることになれていないようでして……何やら落ち着きません」
「庶人の出自なのでしょうか。それにしてはお召し物が腑に落ちません。そのような着物、庶人ではまず手に入れることは不可能でしょうから」

 庶人どころか皇帝陛下でも無理だろう、というのは言わない方が良いのだろう。化学繊維をこの時代で再現できるはずもないが、目立つ理由はない方が良い。

「早速で申し訳ないのですが、着物を用意していただけませんか? これよりももっと、地味なものが良いのですが」
「あらあら、そう仰られても、大抵の物はそちらのお召し物よりも地味だと思いますわよ?」
「ごもっともです」

 向こうの世界でも街を歩けば以上に目立つ制服だったのだから、この世界で目立たないはずもない。思えば、侍女の少女は荀昆に街の噂は本当だったと言った。

 つまりそれは自分達よりも噂の足が速かったということでもある。

 無論、荀彧がこの街で有名人だったということもあるのだろうが、自分が目立つ白ランを着ていたことにも原因があったのだろう。見覚えのない着飾った男性を未婚の女性が連れ歩いていたら、恋人であると勘違いされたって可笑しくはない。ゴシップの少ない時代ならば尚更だ。


「荀彧の加減はどうですか?」
「あれで肝の太い娘です。ほどなく意識を取り戻すでしょう。目が覚めましたらご挨拶に伺わせますから、それまでごゆるりとお寛ぎくださいませ」

 























 案内された部屋を見て、一刀は驚きで声を失った。

 実家にある自分の部屋の、優に五倍は広さがある。侍女の少女が言うにはこれでも客間の中では狭い方だと恐縮している様子だが、一刀にはも十分過ぎる程の広さだった。

「いや、ありがとう、と君に言うのは可笑しいのかな。とにかく俺はこの部屋に何も不満はないと荀昆様に伝えておいてほしい」
「かしこまりました、北郷一刀様」
「その北郷一刀様って一々言うの、疲れない?」
「疲れる疲れないの問題ではありません。字も真名も許されていない方をお呼びする時は、きちんと姓名をお呼びするよう、仰せつかっておりますから」

 当然だ、というよりは、常識だ、という物言いの侍女の少女に、一刀は小さく唸った。

 確かに、中国の歴史物で名字だけ、名前だけで呼び合っている場面はあまり見たことがない。親しい人間同士ならばまだアリなのだろうが、彼女は侍女で、自分は一応客人だ。自分個人の思いは別にして、砕けた物言いで良いはずがなかった。

 とは言え、一々フルネームを呼ばれるのは呼ばれる一刀の方も何だか面倒臭い。それだけならばまだしも、様付けだ。向こうの世界ではメイド喫茶の店員さんくらいしか使っていないような呼称が、一介の高校生に使われているのである。

 恥ずかしいというより、心が痛かった。自分がそこまでされて良いのかという思いが、北郷一刀様という呼称を聞く度に、ぐおぐおとの心中を渦巻くのだ。

「ならせめて北郷様か、一刀様にしてくれないかな」
「失礼ではありませんか?」
「俺がその方が良いんだ。頼むよ、俺を助けると思って」

 掌を合わせて拝み倒すようにすると、侍女の少女は困ったように微笑み、やがて頷いた。

「解りました。それでは北郷様とお呼びいたします。他の侍女にもそのようにお伝え致しますね」
「助かるよ。どうも落ち着かなかったんだ」
「それは失礼を致しました」

 くすり、と侍女の少女は小さく微笑んだ。ただの笑顔なのに、気持ちが華やぐ。この世界にきて初めて見た、同年代の少女の笑顔だからだろうか。

「申し遅れました。私は姓は宋、名は正、字は功淑と申します。北郷様が当家にご逗留されてます間、お世話を申し付かりました。御用命の際は何なりとお申し付けくださいませ」
「ご丁寧に。俺もそんな風に名乗れると良いんだけど、俺は姓名だけで字とかないんだよね」
「左様でございますか……奥様からは記憶がないと聞き及びましたが、忘れておられるとか?」
「どうなのかな。字と聞いても全くピンとこないから、本当にないのかも」

 取り繕った自分の物言いに、思わず冷や汗が流れる。筋書きを決めずに始めた自分の設定を通すことは、思っていたよりも緊張を強いた。侍女とは言うが、荀彧の家に勤めているだけのことはあり、眼前の宋正も頭は回りそうだ。

 不自然な態度をすれば、余計に怪しまれることになる。ここに留まるならば、もっと細かい設定を煮詰めておいたほうが良いのかもしれない。

「それでは、真名もお持ちでないのでしょうか」
「真名……ってなに?」

 まぁ、と宋正は驚きの表情を浮かべた。すわ、設定の煮詰めなかった弊害がもう出たのかと一刀が身を固くすると、気を悪くしたとでも勘違いしたのか、宋正は慌てて両手を振り、

「記憶がないのであれば無理からぬことです。お気になさることはありませんわ。真名というのはその人間の、最も奥深い名前。本当に心を許した者にのみ預ける、極めて神聖な名前なのです」
「宋正にもあるの? その、真名っていうのは」
「私だけでなく、この国に住んでいる者は皆真名を持っていますよ。それとご忠告申し上げておきますが、初めて会った方にはこちらから名を名乗り、相手の名を聞くところから始めるのが宜しいかと思います。親しい間柄ですとお互いを真名で呼び合うこともあるのですが、それを姓名だと思って呼びかけてしまうと大変です。許されていない真名を呼ぶことは大変失礼なことですので、血気盛んな方ですと、そのまま首を飛ばされかねません」
「物騒な世の中だね」

 名前を呼んだだけで殺されるなど堪ったモノではないが、これを知らずにいたらいつか理由も解らずに首を飛ばされていたこともあったかもしれないと思うと、肝も冷える。

「ですが流儀を守ってさえいれば衝突など起こりようがありませんから、物騒にしても些細な問題です。それにこの程度で物騒と言っていては、文若お嬢様の旦那様は務まりませんよ?」
「宋正はもう解ってると思うけど、出来る限り火消しに協力してくれると嬉しいな」
「お屋敷の中でしたらどうとでもなりますけれど、街の方はどうにも……」
「そんなに凄いことになってる?」
「荀家の傑物として、文若お嬢様は公達様と並んで有名人ですから」

 その有名人が男嫌いとあっては噂が広まるのも早かったに違いない。噂に怒り狂う荀彧の姿が一刀脳裏に浮かぶが、怒りは一方的にこちらに向かってくるのだろう。笑ってばかりもいられないのが苦しいところだった。

「私の真名、お教えしましょうか?」
「教えてくれるなら嬉しいけど、どうしてまた」
「いえいえ。どんな理由があれお嬢様がお連れになった最初の殿方ですから、見るべきところはあると思うのですよ。それに貴方は荀家のお客様で、私は侍女。お世話を申し付かったのですから、奉仕の心を持つのは当然のことと思いません?」

 小首を傾げて、宋正は一歩、一歩と近付いてくる。艶めいた雰囲気を感じた一刀は、宋正から逃れるように、ゆっくりと後退る。

「ほ、奉仕の心は大事だと思うけど、それで大事な名前を預けるっていうのはちょっと違うと俺は思うな」
「そんな物、私の気持ち一つです。お望みなら幾らでもご奉仕いたしますよ? 心と、体で」

 ぺろり、と宋正が舌で唇を舐める。それに見とれた一刀は足を縺れさせ、寝台に尻餅をついた。逃げないと、と一刀が体を動かすよりも早く、宋正はしなだれかかり、首に腕を回した。息のかかるような距離に、少女の顔がある。生まれて初めてのことに、一刀の心臓は不規則に鼓動を刻み始めた。

「北郷様が一言命じてくだされば、何でもいたしますよ? さぁ、貴方様の望みは何ですか?」
「俺は――」

 甘い声が頭の中に沁み込んでくる。自分の立場とか、今後のこととか、今してはいけないことが頭の中から煙のように消えて行き、本能が膨れ上がっていく。

 このまま勢いに任せてしまえば、どれだけ素敵なことが待っているのか。

 北郷一刀は健全な男子高校生である。人並みに性欲はあるし、今は非常時だ。慣れない環境によるストレスは身体と精神を蝕んでおり、本能が容易く理性を凌駕するような状態にあった。

 眼前には年頃の、見目麗しい少女がいる。吐息が一刀の首筋を擽った。

 あぁ、もう我慢する必要はない――

 一刀が全てを脳裏の彼方へと押しやり、宋正に手を伸ばしたその時――

「北郷一刀っ!!!」

 怒声と共に部屋の扉が蹴破られた。小さな肩を怒らせて入ってきたのは、猫耳頭巾の少女、荀彧である。

 荀彧は部屋の中に押し入ると、寝台の上でもつれ合っている一刀と宋正を見つけた。信じられない物をみた、と言わんばかりに目を見開き、持っていた竹簡を振り上げる。

 身の危険を感じたその時には、身体の動きは速かった。一刀は宋正を寝台に突き飛ばすと、自分は反動を利用して床に身を投げ出す。

 直後、一刀の頭があったまさにその場所を竹簡が通り過ぎていった。空気を切り裂いて飛んだそれは、壁に当たって床に落ちる。運動になど縁のなさそうな細身の身体に似合わない、中々の球威とコントロールだった。

「危ないぞ、荀彧。宋正さんに当たったらどうするつもりだったんだ」
「どうするつもり!? こっちの台詞よ!!! あんた、人の目がないのを言いことに功淑が妊娠するような卑猥なことするつもりだったんでしょう!!」
「いや、何もそこまでは……」

 先のテンションを思い出して見るにありえないとは言い切ることは出来なかったが、荀彧の剣幕を前に正直に告白することは憚られた。下手なことを言ったらそのまま首を絞められそうだ。

 首惜しさに一刀が口を閉ざしている間にも、怒りに狂った荀彧は持論を展開し、やはり精液男は死ぬべきだとか、実家に連れてきたのは間違いだったとか、孕ませ男にはどういう死刑が相応しいかというのを、驚くべきほどの理路整然さで喋り――いや、吼え続けている。

 流石は王佐の才と言うべきか。凡才とは頭の構造が違うのか、言葉が次から次へと出てくる出てくる。これが政治や経済を語っているのなら一刀も素直に感心出来たのだが、荀彧の口から出てくるのは、表現するのも憚られるような罵詈雑言である。

 精神衛生のために半分以上は聞き流していたがそれでも、荀彧がどれほど男が嫌いかというのは時間を追うごとに理解が深まっていく。

 放っておいたら力尽きるまで罵詈雑言を続けていたのだろうが、流石にそれは時間の無駄と判断したのか、寝台の上から復帰した宋正が、つつ、と荀彧に歩み寄った。

「まぁまぁお嬢様、お戯れはそのくらいに」
「功淑っ! あんた大丈夫なの!? 孕まされてない!?」
「お嬢様という心に決めた方がいらっしゃる殿方から、お胤を貰うような不義理な真似は出来ませんわ」

 ほほほ、と微笑む宋正に、先ほど気絶した時の再現のように荀彧の身体がよろめき……しかし、今度はしっかりと踏みとどまる。

「き、気持ち悪いこと言わないで! 想像して孕んじゃったらどうしてくれるのよ!」
「未婚の母というのも体裁が悪いですし、祝言でも挙げられては?」
「こんなのと番になるくらいだったら、死んだ方がマシよ!」

 荀彧に喜んで結婚しますと言われたら、身の危険以上に世界の終わりを疑わなければならないが、そこまでストレートに言われると一刀も男だ、荀彧ほどに脈がなさそうな少女相手と言えども多少は傷付くというもの。

 一刀がさりげなく落ち込んでいるのを宋正は目敏く見つけていたが、彼女の言葉でさらにヒートアップした荀彧は後ろ手に一刀を指差して続ける。

「大体、これから世話になろうって家の侍女に迫るなんてどうかしてるってもんでしょう! 今からでもお母様にかけあって、官憲に突き出さないと!」
「それは誤解ですわお嬢様。迫ったのは私の方からですし、北郷様は悪くありません」

 宋正の言葉に、荀彧が硬直する。気絶はしなかったが、言葉に衝撃を受けているようで金魚のように口をパクパクとさせていた。その顔が可笑しくて一刀が思わず噴出すと、それに宋正も釣られる。

 笑われたことで息を吹き返した荀彧は、さらに顔を真っ赤に染めて宋正に詰め寄るが、荀彧が何か言うよりも早く、宋正はゆぴをぴっと、荀彧の唇に添えた。

「もちろん本気ではありませんよ。私には愛する夫と子供がいますもの。お嬢様もそれはご存知でしょう?」
「それはそうだけど……」

 と、荀彧は何気ない調子で宋正の言葉を流すが、一刀は逆にこの世界に来て最大の衝撃を受けていた。

 人妻で! 子持ち! 

 昔は早婚早産だと聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると信じられないという思いで胸が一杯になった。宋正を見つめる目にも、複雑な感情が混ざるようになる。

 そんな複雑な感情を一刀が持っているのを知ってか知らずか、宋正はしれっとした顔で荀彧の怒りを受け止めている。お嬢様と使用人。どちらの立場が上かは考えるまでもなかったが、迫る荀彧に宋正が物怖じする様子はなかった。

「じゃあ、どうしてこんな孕ませ男に迫ったりしたのよ」
「他の女性が迫っているのを見たら、お嬢様も危機感を抱くのではと愚考いたしました」
「何の危機感よ余計なお世話よ何考えてんのよあんたは!?」
「ちなみに私だけの発案ではなく、侍女一同の総意でございますよ? 皆お嬢様が大好きでございますから、お嬢様がいつまでも殿方にめぐり合えないのでは、と心配なのです」
「いいのよ私は結婚なんてしないんだから!」

 そう断言し切れる荀彧は、この世界では珍しい部類になるのだろう。ふん、とそっぽを向いて臍を曲げた荀彧に、宋正は困ったような微笑みを向ける。

 名家ともなると、庶民の一刀には想像もつかないような『そういう訳にもいかない』事情があるのだろう。

 しかし、体験したことだから分かるが、荀彧の男性嫌いは相当な物だ。一応恩があるはずの自分にこの態度である。彼女の美意識から著しく反するような男が相手だったら、それこそ目も当てられないようなことになるに違いない。

 本当に結婚しないなどということが許されるのかまでは一刀には解らなかったが、こと男性と番になるということに関して、荀彧の考えと宋正の考えには相当な開きがあるようだった。

「で、荀彧は俺に何か用?」

 関わるべきではない話題にシフトしそうになった雰囲気を察した一刀は、自分から違う話題を切り出した。いきなり割って入ってきた一刀に荀彧は一瞬迷惑そうに視線を向けたが、この話題を続けるよりはマシとでも判断したのか、

「別に? あんたが功淑を連れ込んだって他の侍女から聞いたから、心配になって見に来ただけよ」
「俺はそんなに信用ないかなぁ……」
「男は皆同じよ! 女を犯して孕ませることしか考えてないんだから!」

 そういう部分があることは否定しないが、それが全部という訳でももちろんない……ということを説明しても、荀彧は聞き入れてくれないのだろう。固定観念もここまでくると、いっそ素晴らしい。

「ともかく! 功淑だけじゃなくてうちの侍女に手を出したら、あんたの汚い物をそぎ落としてやるから覚悟なさい!」

 一方的に断言して、荀彧は足音も高く部屋を出て行った。嵐のような少女がいなくなると、部屋には一気に静寂が戻った。

「騒々しい方でしょう?」
「でも、あれはあれで可愛らしいんじゃないですかね」
「あら、北郷様はお嬢様の良さがお解りになられますか?」
「いやいやそこまでは……」

 そう思わないと心が折れるだけのことで、宋正が言うような美しい話でもない。罵倒されることが至上の喜びであるという男には最高の存在なのだろうが、一刀はそんなマゾ趣味は持ち合わせてはいなかった。

「それでは私はこれで失礼いたしますね。御用の際は、表に誰か控えておりますのでいつでもお呼びください」

 見とれるような綺麗な仕草で頭を下げ、宋正は部屋を出て行った。

 人を呼ぶのにも人力なのかと気になって、ためにし扉を開いて外を見ると、宋正ではないが侍女の少女が控えていた。宋正が去ってすぐに部屋から出てきた一刀に何事かと目をむく侍女の少女に、何でもないと手を振るとすぐに部屋に引っ込む。

 ただの高校生には至れり尽くせりの待遇だった。元の世界ではこうはいかないだろう。今更ながらに違う世界に来たのだということを実感した。

 考えるべきことは色々あったが、その全てをとりあえず先送りにして、一刀は寝台に身を投げ出す。眠気は直ぐに襲ってきた。

 心地よい眠気に身を委ねながら、一刀はそっと瞳を閉じた。








※荀昆(本来は糸偏に昆です)
















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三話 荀家逗留編②
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:c94d5e3e
Date: 2014/10/10 05:50
 

 荀家滞在一日目。荀彧に連れられてやってきたのは正午を過ぎてからだったから、一刀が部屋に案内された時にはもう、日も大分傾いていた。

 それから少しだけ睡眠を取り宋正に用意してもらった地味な服に袖を通し、案内された食堂にいたのは荀昆だけ。猫耳少女の姿はどこにもない。何気なくを装って荀彧はどうしたとやんわりと問うてみたら、気分が優れないとの返答が。

 あれだけ罵詈雑言を吐けて、気分が悪くて食事をキャンセルということもないだろう。こちらを傷つけないための荀昆の配慮に感謝しつつ、この世界に来て初めて口をつけた食事はとても美味しく、食後には何とデザートまでついた。油や水が合わずに腹を下すことまで半ば覚悟していた一刀にとっては、嬉しい誤算である。

 食後は荀昆と歓談する。彼女からこの異質な三国志の世界の情勢などを教わった後、宋正に荀家を案内してもらった。外の塀を見た時に感じた印象の通りに広大な屋敷は、一回りするだけでも相当な時間を要し、途中で色々と話し込んでしまったこともあって、部屋に戻った時には夜も大分深くなっていた。

 夜食でも持ってこようかという宋正の申し出を丁寧に辞し、ふかふかのベッドに勢い良く飛び込む。薄暗い照明の効果もあって、一刀の意識は直ぐに闇の中に落ちた。








 滞在2日目。

 子持ち人妻の少女に起こされるというレアな体験と共に、一刀の朝は始まった。

 時計がないために正確な時間がわからないが、窓から身を乗り出して見た太陽の高さから判断するに、まだ早朝と呼べるような時間と判断できた。

 最低限の身だしなみを整えてから、宋正に案内されて食堂へ。流石に一度往復すれば道のりくらいは覚られたが、客人は侍女に案内されるというのがこの世界では――少なくとも荀家では常識であるらしかった。

 案内された食堂にいたのはまたも荀昆だけだった。特に客人からの希望がなければ、客人と家人が揃って食事をするのも常識で――と宋正は説明してくれる。

 食事は相変わらず美味しかったが、やはりそこに荀彧の姿はない。全ての男に対してあの調子なら、同年代の男と差し向かいで食事をするなど彼女には耐えられないことだろう。顔を見れないのは残念ではあったが、荀彧はこの家のご令嬢であり、自分はただの客だ。

 一緒に食事をしたいから次からはそうしてくれ、と言葉にするのは簡単だが、それを口に出来るほど偉い人間でないというのは一刀自身、良く理解している。

 荀彧に会いたいのならせめて自分から会いに行くべきだろう、と考えて、荀彧の部屋が何処にあるのかも知らない自分に軽くショックを受けながら、それでも食事は全て平らげ部屋に戻る。

 寝台に身を投げ出し、天井を眺めながら気づいた。

 客人である自分に仕事があるはずもなく、この世界には学校も試験も何にもない。何をするでもなくダラダラすることなど元の世界ではあまりないことだったが、いざすることがない、という状況は本当に暇だった。

 このままでは暇にやられて気が狂う、と思った一刀は早急に元の世界へと戻る手段を探すべく、寝台から立ち上がった。

 この世界において一刀は外様で、何も知らないに等しい。何をするにしても人に聞くのが一番なのだろうが、それらしい情報を集めるためにはまずこちらの事情を説明せねばならない。

 違う世界から来た。それを信じてもらうだけのことだが、それが難しいことは一晩寝て考えただけの一刀にも解るほど難しいことだった。文明の利器である携帯電話も、充電するのを忘れていたせいで、今はただの金属の塊になっている。

 残っているのは制服であるが、珍しい素材というだけでは異世界からやってきたと納得させるには難しいだろう。

 彼女達を黙らせるような凄い知識でも習得していれば、と思わずにはいられない。

 知っている知識だけでどうにかならないものかと逡巡するものの、その考えはすぐに放棄した。ここは『あの』荀彧の家なのだ。剣道が少し得意なだけの学生に、三国志でも傑物とされる荀彧の一族を黙らせるような物言いがどうしてできるだろうか。

 こんなことになるのならもう少し真面目に歴史や政治経済の授業を聞いておけば良かった、と後悔しても後の祭である。

 大きく息を吸って吐くと、一刀は自分の頬を思い切り叩いた。

 過去の自分の不勉強を責めても始まらない。現状、時間は有り余っているのだから、せめてそれくらいは有効に使うべきだ。自分の内を曝け出せないのなら手足と目で情報を集めるしかない。

 まずは、書庫だ。

 部屋を出ると外で待機していた侍女――宋正とは違うが、こちらも一刀と同じくらいの年頃の少女だった――に声をかけ、書庫に案内してもらう。

 途中、中庭の近くを通りかかった時に、鎧で武装した男性の集団を見かけた。全てが男性ではなく中には女性も混じっていたが、この家に着てから初めてみる男性の姿に、一刀は思わず足を止めてしまった。

「どうかなさいましたか? 北郷様」
「いや、あの人達は何をしてるのかな、と」
「彼らですか? 彼らは荀家の私兵です。と言っても、戦争で使うための人員ではなく屋敷の警備を担当しているのですけれど」
「そうなんですか」

 無感動に答えながら、一刀は彼らから視線を外した。

 すると、整列する彼らの前に立ち、何やら指示を出していた男性が、一刀に気づいた。健康的に日に焼け、黒髪を短く刈り込んだ精悍な男で、如何にも武人といった感じの佇まいである。

 視線を向けられていることに気づいた一刀が視線を戻すと、その男性は姿勢を正し、深々と頭を下げて礼をした。男の前に整列していた人間たちもそれに倣う。

 突然のことに面食らっていると、侍女がくすくすと小さく笑った。

 お客様なのですから堂々となさってください、というこの家に来てから何度目かの忠告に感謝しつつ、しかし礼をされた以上はこちらも返さねば、という現代人の強迫観念にかられ、立ち止まって彼らと同じように礼をすると、僅かに先に行ってしまった侍女に追いつくため、僅かに足を速める。

 そんなアクシデントはあったものの、書庫には無事に辿り付くことが出来た。

 書庫、という名前の通り広大な蔵のような建物であるそれは、一個人が所有する書を保管するには大げさな建物のように思えた。両開きの木造の扉は固く閉められており、その両隣には侍女が二人待機している。

 まさか全ての部屋の前に侍女が、と一刀が疑っていると、一刀を連れてきてくれた侍女の少女が、待機していた少女と二つ三つ、言葉を交わす。

「中にお嬢様がいらっしゃるようです。宋正様もおられるそうですが……」

 お入りになりますか? と問う侍女の少女の声は控え目だった。荀家に仕えているのならば、荀彧の性格、主義主張は知っているだろう。男性が荀彧に会いに行くというのは、それこそ心を削られに行くようなものだったが、欲しい情報は自分で探すと決めたばかりだった。

 出だしから躓くのもゲンが悪いし、ここで引き返すのも荀彧にびびっているようで癪である。

 肯定の意思を返すと侍女の少女は書庫の扉を叩いて伺いを立てた。入ってもらってください、
という宋正の声と、それを制止する荀彧の声が扉の向こうから聞こえる。果たしてどちらに従えば良いのかと視線で問うと、侍女は三人とも一刀のために道を開けた。

 その顔には面白がるような笑みが浮かんでいる。荀彧という少女は、侍女にまで愛されているらしい。

 侍女達に会釈を返し、入ってくるな! という荀彧の罵声を耳に苦笑を浮かべつつ、一刀は書庫の扉を開けた。

 扉を開けてまず目に入ったのは、部屋を埋め尽くす書棚と、そこに納められている『書』である。一刀の感覚では書と言えば紙であるのが当然だったが、この時代紙は貴重品なのか、納められている書物の半分以上は竹簡だった。

 部屋の中央は開けたスペースになっており、大量の書を広げられるようにか、大きな机が一つといくつかの椅子が並べられている

 荀彧はその椅子のうちの一つ、入り口の扉を正面に見るようにして座っていた。傍らには宋正を従えており、眼前には竹で出来た書と紙で出来た書の両方が所狭しと並べられていた。

「おはようございます、北郷様。お加減はいかがですか?」
「宋正のおかげで快調だよ。今日は荀彧の世話を?」
「ええ。と言っても、それは午前中だけで午後からはまた北郷様のお世話に参りますけれど」
「それは楽しみだ」
「あら、人妻を捕まえてお世辞を言っても何も出ませんよ?」
「お世辞じゃないさ。宋正みたいな女の子に世話されたら、男は誰だって嬉しいもんだよ」
「あんた達、バカな話をするなら外でやってくれない?」

 努めて会話に入らないようにしていた荀彧が、汚物でもみるような目を向けて言う。あんた達と言ってはいるが、邪険にされているのは一刀一人で、視線には殺気すら篭っていた。

 相変わらずの荀彧の調子に、これでなくちゃ、という言い知れない興奮を覚えつつ、一刀は荀彧と机を挟んで向かいの椅子に腰を降ろした。視線に篭る殺気が一段と強くなったが、それには取り合わない。

「荀昆さんから就職活動中って聞いたけど、仕官の希望先とかあるのか?」
「お嬢様は曹操様の所で仕官を希望されておられるようですよ。今朝方その旨を記した竹簡を曹操様の下に送りましたから、しばらくはその返答待ちでございますね」
「じゃあ、曹操……様のところが第一希望ってこと?」

 呼び捨てにしようとした所で荀彧が傍らの竹簡に手を伸ばすのが見えたため、慌てて様を付け足す。間に合ったか……と質問が終わったところで一刀は荀彧を見やったが、彼女はこちらに聞こえるように舌打ちをすると、竹簡から手を離した。

 曹操を呼び捨てはNG、と一刀は心の中に強く刻んだ。

「ええ。先ごろまでお嬢様は冀州の袁紹様のところに仕官なさっておいでだったのですが、その方が、その……あまり聡明な方ではなかったようで……」
「はっきりと愚物と言っていいわよ、あんな奴」

 書からは視線を上げずに、荀彧が吐き捨てるように呟く。こちらの会話に割り込んでくるとは、よほど袁紹とやらに思うところがあったのだろう。自分と相対する時ほどではないものの、書を読み進める荀彧の顔には、はっきりとした苛立ちが見てとれた。

 荀彧が女性である以上袁紹も女性であると思うのだが……

 男以外にも、荀彧が嫌う物があるようだった。

「ところで北郷様は書庫へどういったご用件で?」
「記憶を取り戻す助けになればと思ってね。とりあえずこの国の民話とか説話を集めた物を読んでみようと思ってきたんだけど」
「それでしたら、私がいくつか見繕って参りましょう」

 少々お待ちください、と宋正が席を立ち、書庫の中に消える。扉の外に侍女が二人、書庫の中には一刀についてきた侍女が一人待機している。決して二人きりという訳ではなかったが、荀彧と出会った時以来の思いがけない状況に、一刀の心は躍った。

 聞いてみたいことは山ほどあったが、椅子をこちらから九十度横に向けて、視線を合わせようとしない荀彧からは、話しかけるな、というオーラがこれ見よがしに漂ってきていた。

 それをおして声をかけようと思うほど、一刀もチャレンジャーではない。出て行け! と言われないだけマシなのだと思うことにして、静かに宋正が書を持ってきてくれるのを待った。

「お待たせいたしました。とりあえずこれらなどいかがでしょうか」

 宋正が腕に抱えて持ってきたのは竹簡だった。編まれたものが三つ。それを一刀の前に置くと、定位置である荀彧の傍らに戻る。

「国内でも有名な民話、説話を集めた物をお持ちしました。ただ、こういった類の書物はあまり当家の書庫にも数がございませんので、これ以外にご入用の際は侍女に声をおかけくださいませ」
「これだけ書があったらそういう話もありそうなものだけど、ないの?」
「書庫に来てまでそんな物読もうなんて考えるのは、頭に精液の詰まってるあんただけよ」

 書から視線を上げぬままに、荀彧が吐き捨てるように呟く。出会って一日なのにそれをいつも通りと思ってしまう辺り、この環境にも慣れているのだな……と感慨深い物を感じながら、一刀は書物に視線を落として――その動きを完全に止めた。

「どうかなさいましたか? 北郷様」

 不自然に動きの止まった一刀を、宋正が不安そうに見つめてくる。書物を読み始めて動きを止めたのだから、それに原因があると考えるのが普通である。書物を持ってきたのは宋正だ。何か不手際があったのかと近寄ってくるが、一刀は書から視線を上げなかった。

 書物には、文字が書いてある。文字だけで挿絵などはない。三国志の世界なのだから、用いられているのは当然漢字であるのだが、そこには漢字『しか』なかった。ひらがなは愚か、レ点も何もない完全な白文である。古文の授業ですら中々お目にかかれないような物が、一刀の眼前に当たり前のように鎮座していた。

 国語の成績は並でしかなかった一刀に、補助なしの白文など読めるはずもない。言葉が通じるということで油断していた。世の中それほど甘くないらしい。

 さて……字が読めないということを、一体どうやって伝えたものだろうか。正直に告白するのが一番良いのだろうが、持ってきてくれと頼んだ手前、自分から告白するのは恥ずかし過ぎるが、読めないということをいつまでも隠し通せるはずもない。

 読んでるふりで誤魔化すのにも限界があるし、何より死ぬほど空しい。加えて情報収集しようと言うのに文字も読めない状況が続くのも不味かった。

 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、という言葉もある。恥をかかねばならない時というのは、年端もいかない一刀の身にも確かにあるのだった。一刀は意を決して宋正を見つめ、

「どうも俺は、字が読めないようです……」

 身を切るような一刀の告白は流石に想定外のことであったらしく、宋正は呆然と一刀を見返した。隠していたエロ本を母親に暴かれた時のような気まずさを一刀が味わうなか、救世主のごとく現れたのは荀彧の心の底から他人を見下したような、冷たい声だった。

「あんた、死になさいよ」
「いやはや、面目次第もない……」
「孕ませ男のくせにあれこれ偉そうなことを言っておきながら、文字も読めない? はっ、と
んだ間抜けもいたものね。言って見なさいよ、生まれてきてごめんなさいって」
「文若様、何もそこまでおっしゃらなくても」
「智の一族たる荀家の屋敷に、文字も読めないような男が入ったのは初めてでしょうね。一族に名を連ねるものとして、恥ずかしいったらないわ」
「おっしゃる通りです、はい」

 体を小さくしながら、荀彧の文句というか罵詈雑言を受け止めつつ、一刀は助けを求めるように宋正に視線を送った。こちらの弱みを得た荀彧は、ちょっとやそっとのことでは止まりそうにもない。これを止めるには宋正の力が必要だったが、彼女の力を持ってしても、荀彧のマシンガントークに割ってはいるのは至難の業のようだった。

 興奮で高潮した荀彧の頬を見ながら、一刀はこれからの自分について考える。

 文字を読めないという弱点は、早急に克服しなければならない。

 そしてそれは荀家にいられる間にやる必要がある。荀昆はいつまで滞在しても良いと言ってくれたが、そんな社交辞令を本気にするほど一刀もアホではない。精々荀彧がこの屋敷にいる間、滞在できるのはそれが限界だろう。

 既に曹操に連絡は送ったというから、どんなに滞在を引き伸ばしてもその返事がくるまでが一刀のタイムリミットだ。

 それまでにこの世界で生きていく方法をある程度は身につけないと、何も出来ないまま死ぬ可能性が非常に高くなる。

 そうならないためにはこの荀家で、習得できるだけの技術を習得しておかなければならない。法律、軍事に経済、それと荒事をある程度解決できるくらいの武力である。剣の腕には聊か自信のある一刀だったが、それもこの世界ではどれだけ役に立つか解らない。

 今の一刀には知らなければならないことが多すぎるのだ。荀彧の罵詈雑言を聞くのも、それはそれで楽しみであったが、時間を無駄にはできない。

「文若様、北郷様も反省しておられるようですし、もうその辺で」
「……まだ言い足りないけど、功淑がそこまで言うなら」

 宋正の忠言、その効果は抜群だった。興奮はまだ冷めていないようだが、荀彧は宋正の言葉を受けて椅子に座り直した。

 しかし、そのまま書に視線を戻すようなことはせず、その釣りあがった視線は一刀に向いたままである。殺気の篭った視線が、改めて一刀を貫いた。

「で、どうすんのよこれから」
「どうするって言うと、どういうことだろう」
「精液男は本当に察しが悪いわね! 文字を読めるようにするのかってことでしょう!? うちに逗留するのに、まさかそのままでいるつもりなのあんたは!!」
「いやいや、滅相もない」

 文字が読めようと読めまいと、逗留させる側には何も不都合はないと思うのだが、名誉や格式のことを持ち出されると庶民の一刀は弱い。顔を真っ赤にして怒鳴る荀彧に、平身低頭。とにかく頭を下げてやり過ごす。

「――アホに助けられたなんて、あたしの沽券に関わるのよ。ここにいる間に、あんたには学問を修めてもらうわ。言っておくけど、拒否は許さないわよ? 嫌だなんて一言でも言ったら、股間の汚らしい物をそぎ落として口に詰め込んで、往来に放り出してやるから」
「荀彧様の仰せの通りに」

 必要以上にぺこぺこする、というのは荀彧的には正解だったらしく、気を良くした様子の荀彧はない胸を逸らして、大きく息をついた。そのまま視線を彷徨わせ、

「功淑、あんたこの精液男に教育を頼めるかしら」
「私が、でございますか?」
「あんた、この孕ませ男の世話係なんでしょう? その間、椅子に縛り付けてでも勉強させてやりなさい。私が曹操様の所に行くまでの間に、読み書きはもちろん、せめて初歩の学問くらいは理解させておきなさい」
「いや、そんなハイペースはちょっと――」
「言い訳は聞かないわ。私の言うことには『はい、喜んで』とだけ答えなさい。一週間後に成果を確認しにくるけど、その時までに書が読めるようになっていなかったら、屋敷から叩き出すからね、覚えておきなさい」
「……はい、喜んで」

 よろしい、と荀彧は鼻を鳴らし、書に視線を落とした。話は終わりということらしい。

 一刀は持ってきてもらった書を抱えたまま、たったいま教師の役を拝命したばかりの宋正に視線を送った。いきなり仕事を増やされた形になる彼女は、しかし嫌な顔を一つせずに微笑むと、荀彧に断りを入れ、一刀を促した。

 宋正に伴われて書庫を出ると、待機していた侍女からご武運を、と声をかけられた。礼を言うと微笑みを返され、手まで振ってくれる。割合的に女性からかけられる言葉のほとんどが罵詈雑言で占められていただけに、そんな普通の対応が涙が出そうになるほど嬉しい一刀だった。

「申し訳ありません。北郷様はお客様ですのに……」
「いえ。文字を学ばなければ、というのは俺も思っていたことです。むしろ機会を作ってくれた荀彧には感謝していますよ」
「そう言っていただけると助かりますわ」
「ついでと言っては何ですけど、剣の指導とかもお願いできませんか?」
「奥様に許可を得た後ならば。でも、北郷様がお望みなら奥様も許可をお出しにならないということはありませんでしょう。折角ですし主人には私から話をつけて参りますわ」
「宋正さんのご主人っていうのは、この屋敷でなにを?」
「この屋敷の警備の責任者を務めてますの。この時間ですと、中庭で部下に指示を出していたはずですが、おみかけになりませんでしたか?」

 見た! と思わず叫びそうになった一刀は、慌てて自分の口を塞いだ。その脳裏浮かぶのは書庫に行く前に見かけた男性である。

 あれが、宋正の旦那様?

 そういう知識を持って改めて考えると、見かけただけの人物も特別な人のように思えてくるから不思議だった。

 その男性、警備の責任者というからにはそれなりの年なのだろう。一刀の目から見ての話ではあるが、どんなに少なく見積もっても自分と一周り半は離れているように思えた。実直で真面目そうな印象も受けたが、それはこの際どうでも良い。

 問題はその男性が、眼前にいる自分と同じくらいの年頃の少女の夫で、その間には子供までいるということだった。年の差カップルにも程があるだろう、というのが正直な感想である。

 随分間抜けな顔をしていたのだろう。宋正がこちらの顔を見て噴出すのを見て、一刀は視線を逸らした。歩きながらだったので、既に今朝、男性を見かけた中庭が見える位置まで差し掛かっている。

 そこにあの男性がいれば、と期待を込めて視線を巡らせるがそこに人の姿はなく、庭師の手によって見事に整えられた庭園があるばかりだった。

「警備も鍛錬はしますし、声をかければそれに混ぜてももらえるでしょう」
「ありがとうございます。と言っても、ついていけるか心配ですが……」
「加減するように伝えておきますわ」

 くすり、と笑う宋正は、一刀の抱えた書を一つ摘み上げて、微笑んだ。

「さぁ、まずは北郷様の子孫繁栄を守るために、読み書きの勉強をしましょうか。文若お嬢様の区切られた期間は一週間。あまり時間はありませんよ?」

 
















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第四話 荀家逗留編③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:c94d5e3e
Date: 2014/10/10 05:50

 勉強が好きな学生など、この世にいるだろうか?

 いないと言い切れるほど捻くれているつもりはなかったが、好きではない部類に入る自分を鑑みるに、そんなことはない! と声を大にして言い返すことも一刀にはできなかった。

 学園には休まず毎日通っていたが、ただ通っているだけ。身体を動かす体育以外は惰性で参加していたようなものだ。微分積分なんて何の役に立つんだよ……と、何度思ったか知れない。

 そんな現代社会を生きた、平凡な学生であった北郷一刀が思っていてた。

 勉強が、学ぶことが面白い。

 やっているのは文字の読み方という、初歩も初歩な勉強だった。元の世界で言え小学校に上がる前に終わらせておくべき基礎過程である。それを世話係である宋正を先生に朝食を取ってから勉強を始め、昼食挟んだ後に再開。日暮れの時間までみっちり講義は行われた。

 幸い、漢字の大部分は書けたし意味も大雑把な物は理解できていたこともあり(文章を読めないのに大体の文字の意味は知っているという、傍から見れば非常に中途半端な知識習得しているらしい一刀を、宋正は怪訝に思っていたようだが)文章を読めるようにするだけの勉強は、一刀が自分で思ってたよりもサクサクと進み、一週間後、獲物を苛めることに快感を覚える拷問吏のような顔で現れた荀彧の前で、孫子の冒頭を読んで見せられるほどにはその語学力も成長していた。よほど穿った文字でもない限りは大丈夫だと、宋正に太鼓判も貰っている。

 何はともあれ、目標が達成されたことに一刀も胸を撫で下ろし、いくら荀彧でも少しくらいは褒めてくれるかと期待したが、彼女から与えられたのはちんこの癖に生意気だ、といういつも以上の罵詈雑言と、数冊の書物だった。

 それが次の課題である、というのは荀彧からではなく宋正から告げられたことである。

 ついでに、その書物による勉強の成果の確認は、一週間後ではなく毎日である、というありがたいお達しも同時に通告された。毎日か……抑揚のない声でと思わず本音を呟いてしまった一刀に、もはやお約束になりつつある罵声を一頻り浴びせると、勉強があるから、と荀彧はさっさと部屋を出ていった。

 足取りはやけに軽やかだったが、それはきっと罵詈雑言でストレスが発散できたからだろう。荀彧はそれでストレス発散が出来るから良いが、自分は果たしてどうすれば良いのか。

 答えてくれる人間のいない問題の答えを自分に問いつつ、荀彧の寄越した書物にざっと目を通す。

 軍学と、経済と、政治の書物が二点の、計四冊。内容のレベルは、ようやく文字を読めるようになっただけの一刀の学力では『ほどほど』に難解といったもので、有り余る時間を使って予習をし、明日の宋正の講義を理解すれば、荀彧のサディスティックな確認作業を突破出来る程度の学力を身につけられる……そんなギリギリの水準を保ったレベルだった。

 会話をしただけで学力の程度と、それで解決できるだろう内容まで決定できる辺り、流石かの荀文若といったところか。全力を尽くしてギリギリというラインを狙ってくることには心根の邪悪を感じるが、勉強に楽しさを見出してきた一刀には、あまり苦にはならなかった。

 文章も読めないような異世界に一人で放りだされて初めて、北郷一刀は学生としての本分を理解し始めたのだった。

 また、始めたのは座学だけではない。日が暮れ初めてから完全に沈むまでのおよそ一時間は剣の鍛錬に当てるようになった。

 宋正が話をつけると言ったのは本当だったらしく、彼女の夫であるところの警備隊長の計らいで警備隊の訓練に混じることが出来るようになった。

 自分でも忘れそうになることだったが、彼らは従者で、一刀は客人である。客人を下手に扱うことはできないし、怪我をさせては家の沽券に関わる。そんな立場の違いから来る遠慮と明らかにそこに集った誰よりもひ弱そうな男を、最初は彼らもどう扱ったものかと決めあぐねていた。

 本音を言えば参加してほしくなどなかったろうが、一刀が本人が参加すると言い、それを警備隊長と屋敷の主である荀昆が認めた以上、警備隊の面々には拒否権は存在しない。

 微妙な空気で始まった鍛錬の内容の根幹は、いつもほとんど変わることがない。

 即ち、刃を落とした真剣を用いた素振りと、実戦を想定した打ち込みである。

 フランチェスカの剣道部でやっていた鍛錬と基本的に変わるところはないが、寸止めが義務づけらているとは言え、真剣は重量が重量だ。気を抜くとすっぽ抜けて行きそうな重さのそれが直撃すれば、人体がどうなるかというのは想像に難くない。

 いつか持たせてもらった祖父の日本刀よりも真剣は重く、普段の訓練と言っても精々木刀が最重であった一刀に、この基礎訓練は思っていたよりも重労働だった。途中で何度も剣を取り落としそうになったが、ここでヘマをしたら荀彧にまた罵倒される、と心を奮い立たせ続けた。

 その思いが身体から力を引き出したのだろう。鍛錬が終わることには足腰が立たなくなっていたが、最後まで根をあげずに鍛錬についていったことで、警備隊の人間も親身になってくれた。

 夕方までは座学を行い、それから日が沈むまでは剣の鍛錬。

 
 そんな生活を続けて十数日。荀家にやってきてから数えて、十六日目













「これまで北郷様のお勉強を見て参りましたが……」

 勉強を教える時に気分を切り替えるため、と視力が悪い訳でもないのにかけている伊達メガネを指で押し上げながら、宋正が言う。しっくりこないメガネのせいで普段はタレ気味の目が若干鋭くなっていたが、それがまた言い知れない淫靡な雰囲気を彼女に与えていた。

 これが十代にして子持ち人妻である女性の魅力なのか……と一刀が一人で青少年特有の胸のときめきを感じていると、脛に鋭い衝撃が走った。声も出せずに蹲ると、ふん、と小さく息を漏らした荀彧が椅子ごとずりずりと、一刀から離れるように移動する。

 あんたの近くにいると妊娠するわ! と近寄ろうとしなかった荀彧の足が届くまで近寄られても、全く気づかなかった自分に唖然とする一刀。

 異常なまでに存在感のある荀彧に気づかないほど、メガネに夢中になっていたのだろうか。過去の属性を鑑みるに一刀にメガネ属性はなかったはずだが、普段メガネをかけていない人間がメガネをかける、という状況には遭遇したこともなかった。

 要するにギャップにときめいているんだな、と自分勝手な結論を出して、一刀は改めて宋正に向き直った。仕えるべき少女と、客人にして生徒である身分不詳の男性の間で問題が解決するのを律儀に待っていた宋正は、穏やかな苦笑と共に話を再開する。

「――見てまいりましたが、過去に北郷様に勉強を教えた者は、どういう計画性を持ってそれを行っていたのか、疑問が尽きません」
「何か可笑しなところがあったのかな」
「広く浅く、とりあえず目についた物を片端から詰め込まれているように見受けられます。知識とは所有するそれだけで意味を持つものではありません。活用して初めて、意味を成すのです。こう言っては何でございますが、北郷様の知識は活用できそうな気がいたしません」
「そんなに使えない?」
「ないよりはマシという程度でございますね。実用を前提とするならある程度深い知識が必要でございますが、北郷様の知識はどれもそこまでに至ってない様子。勉強する前段階とすれば納得できなくもありませんが、それにしては知識の幅が広すぎるように見受けられます」
「実用を前提とせずに知識を詰め込んだ、ってことなんじゃないかな」
「何一つ満足にこなせない人間に利用価値があると思う?」

 心底人を見下したような表情で呟かれた荀彧の言葉には、なるほど、この時代ならではの重みがあった。知識を持つ者の絶対数が少ない古代では、荀彧のような考えこそが常識なのだろう。

「ですから、北郷様の浅い部分の一部を深くしようというのが、お嬢様の企画なのですよ」
「荀彧、まさか俺のために……」

 冗談半分で思わせぶりに言ってみたら、間髪入れずに竹簡が飛んで来た。荀彧をからかうことに神経を割いていた一刀に、それを避けることは出来ない。竹簡が額に直撃し、その激痛に一刀は頭を抱える。

「何で私が精液男のために尽力しなきゃいけないのよ! 私は、私の周りに馬鹿がいることが
我慢ならないだけよ!!」

 迷惑そうにそう言い放った荀彧は椅子をひっくり返すようにして立ち上がると、足音も高く部屋を出て行った。痛みで目に涙を浮かべた一刀は、その背を言葉もなく見送り、慌てて自分に直撃した竹簡を拾いあげる。

 それは荀彧に課題として渡された書物の一つだった。竹は紙と比較して安価に手に入り、文字を記す媒体としては木と並んでスタンダードな物の一つだったが、衝撃に弱いのが欠点の一つだった。

 特に、人間に向かって放り投げて、それが額に直撃した上に床に落ちると、一部が破損して解読するのに苦労することがあることを、一刀は経験として知っていた。

 幸い、今日の竹簡にダメージはなく最初から最後まで文字が破損した様子はなかったが……

 書物が無事であったことに安堵の溜息を漏らした一刀は、宋正を顔を見合わせてお互いに苦笑を浮かべた。同じ荀彧のことで、苦労をしている。今この時、宋正は仲間だった。

 その宋正が行う講義に使っているのは一刀の客間だ。客間とは言え男の部屋に入ることに勉強成果の監督役である荀彧は激しい抵抗を示していた。

 成果を試すだけならば荀彧が部屋に入る必要などなく、講義を終えた一刀が改めて荀彧を訪ねるというのが、立場の上下を考えても筋の通ったことであると思うのだが、荀彧の方にも言い出した側としてのプライドがあったらしく、罵詈雑言を吐きながらも宋正の講義を共に聞くと言って譲らなかった。

 ただ、男一人に女二人という人数配分は、荀彧に許容できるレベルを超えていたらしい。

 本当は男と一緒の部屋にいるのも嫌という荀彧なのだから、使命感があるとは言え、男と同じ部屋にいることを肯んじたというだけでも、相当な譲歩だったと言える。

 譲歩したのだから残りは強行に押し通す、と荀彧が勝手に決めた妥協案は、部屋の内側に侍女を二人、外側に更に二人を待機させ、加えて部屋の扉は開け放つというものだった。

 それでも男と同じ部屋にいるということに荀彧は息苦しさを覚えていたようだったが、朝食後から始まる講義に最初から最後まで参加して耐え切れる程度には、嫌悪感も薄まっていたらしい。

「お嬢様もお帰りになられたことですし、本日の講義はここまででございますね」
「ありがとうございました、先生」

 終了を告げる宋正に挨拶をすると、台の上に広げていた竹簡と書を片付け、部屋着から訓練着に着替える。訓練時の正装はこれに軽装鎧と刃落としした剣が加わるのだが、それらは警備隊に支給されるものであって、一刀個人に渡される物ではない。

 それらは正規の装備と一緒に警備隊の詰め所、及び離れにある警備隊の宿舎に置かれていて一刀の部屋には警備上の理由で持ち込むことができなかった。荀昆は許可を出すと言ってくれたのだが、それは規則を曲げることになる。

 元より、条件は警備隊の面々も一緒なのだ。彼らと肩を並べたいという気持ちはあるが、規則を曲げてまでそれに挑むのは彼らに失礼に当たると思った。

 もとい、ちょっとやそっとの鍛錬で毎日欠かさず鍛錬をしている警備隊の面々に追いつけるとも思えなかった。彼らは仕事として警備を行い、有事の時は剣を持って戦い、場合によっては人を殺すことも、自らが殺されることも承知の上で鍛錬を行っている。

 二週間ほど前までただの学生だった一刀とは、根本的な部分が違うのだ。

 意識の違いは鍛錬の結果に影響する。祖父に施された鍛錬の密度は決して彼らしてきた鍛錬に劣るものではなかったと自負出来たが、剣の腕として現れる結果は、警備隊の誰と比しても一刀の惨敗である。一つ二つ年下の隊員と比べてすら、思い切り手を伸ばしても届かないくらいの開きがあるのだから、その成果たるや推して知るべしである。

「今の北郷様は凄く素敵な表情をしてらっしゃいますよ」
「そうですか? 今は毎日が楽しいんですから、それが原因なんじゃないでしょうか」
「以前は不満ばかりの日々であったと?」

 宋正の問いに、そうでもありません、と記憶喪失という自分設定を忘れて答えそうになる。彼女の探るような目つきを受けながら、一刀は首を横に振った。

「……どうなんでしょうね、記憶のない俺には良く解りません。でも、今が楽しいと思うということは、今よりは充実していなかった、ということなのだと思います」
「覚えておられなくても、今の北郷様があるのは過去の積み重ねの成果です。北郷様の過去を知らない私が言うのは差し出がましいことかと思いますが、御自らの過去は、誇っても宜しいのではないかと」
「俺は人様に誇れるような人間ではありませんよ」
「それならば、いつか人様に胸を晴れるような人間になることを目指せば良いだけの話です」

 そんなことも解らないのか、とでも言うように、宋正は両の眉を吊り上げた。同年代であるのに、親に叱られているような感じがしてむず痒い。

 これは言い合っても勝てないと悟った一刀は姿勢を正し、大人しく頭を下げた。

「これからは努力します。宜しくご指導ご鞭撻のほどを」
「こちらこそ。北郷様は私の始めての生徒でございますからね。是非立派になって、私の名を
引き立てていただかないと」

 宋正は一転して穏やかな表情を浮かべた。冗談めかした口調でそう言うと、一刀の衣服の乱れを手早く直す。侍女らしく、その所作は堂に入っている。

「さあ、立身への第一歩です。存分に鍛錬なさってきてくださいな」

 宋正に見送られて客間を後にする一刀の心は、軽かった。

















 一刀を見送った宋正は客間の掃除を手早く済ませると、後を他の侍女に託し足早に客間を後にした。廊下を急ぎ歩きながら、しかし荀家の侍女として走るような真似はせず、目的地を目指す。

 目指す部屋の外には、二人の侍女が控えていた。この屋敷で最も権力を持つ者――当主の部屋である。二人の侍女に目配せをすると、素早く身なりを確認する。

 問題はない。衣服に僅かの乱れもないことを確認すると、宋正は声を挙げた。

「奥様、宋正でございます」
「入りなさい」

 扉の向こうの主人の声に、二人の侍女が扉を開ける。滑り込むようにして部屋に入ると、まず目に入るのは自分の主である荀昆の姿。

 そして、その前に銅像のように立つ夫の姿だった。帯剣はしていないが鎧は着用したままである。この時間は警備に当たっていたはずだが……と疑問には思ったが、主の部屋に彼がいるということは、召しだされたということなのだろう。

 それを自分が知らないことに違和感を覚えたが、主の前で確認するほどのことでもない。宋正は夫と数歩距離を取った位置に立ち、主の言葉を待った。

「宋正、北郷殿はどうされました」
「私がこちらに向かう前に、鍛錬に送り出しました。今は裏庭で警備隊と共に鍛錬に励んでいるのではないかと」
「そうですか……壁に耳がないとなれば、遠慮はいりませんね」

 さて、と言葉を置いて、荀昆は椅子から僅かに身を乗り出した。

「北郷一刀という男性について、思うところを述べなさい。まずは、侯忠から」

 主の指名を受けて、夫――侯忠が一歩前に出る。無骨な気質の彼にしては珍しく、困ったような表情が浮かんでいた。彼は人を値踏みするという行為が本質的に好きではないのだ。苦手な行動はさぞ彼に心労を強いたろうが、夫が客人をどう評価するのか、宋正にも興味があった。

「一言で言うのならば……凡庸でしょうか」

 困惑した表情はそのままに侯忠は言ったが、その評価は芳しくない。

「少なくとも剣の腕に見るべきところはありません。鍛錬しただけの成果を挙げておりますがそれだけです。武才に特筆するようなところはありませんでしょう」
「では、役に立たないと?」
「そうは申しておりません。鍛錬しただけの成果は出せるようですから、鍛錬を続ければいずれそれなりの使い手にはなるでしょう。武によってのみとするならば、最終的に千人隊長には登るのではないかと」

 侯忠の物言いに、宋正は思わず苦笑を浮かべる。彼の今の仕事は荀家の警備隊長であるが、その前は州軍に所属していたのだ。その時の役職は、今彼自身の言葉に登った千人隊長である。

 そのまま軍に残っていれば将軍になることも夢ではなかったろうが、彼は父親が身体を悪くしたという報を聞くとあっさりと退役して故郷に戻り、実家が懇意にしていた荀家の警備という職に就くこととなったのだ。

 その侯忠の言う『自分と同じくらいにはなれる』という評価は、彼が人を評する時の常套句だった。自らを非才だと信じているのが、彼の短所の一つである。鍛錬さえすれば誰でも自分と同じところにまでは至れると本気で信じているのだ。

「いずれ、というのはどれくらいですか?」
「……今後を鍛錬に費やせば、三十年といったところですかな」

 その発言に、今度は荀昆が苦笑を浮かべる。今の侯忠の年齢は三十五。北郷一刀はどう見ても二十は過ぎてはいないだろう。そこから三十と言えば、今の侯忠から見ても一周り以上年上である。

 侯忠が千人隊長になったのは、二十八の頃だ。彼の見た北郷一刀との実力の差はその年齢差に現れていると言っても良い。

「武才に関してみるべきところがないのは解りました。では、知力はどうです? 宋正、答えなさい」
「高度な教育を受けたようではありますが、知識そのものは非常に広く浅いもので、今の段階では何処に出しても使えたものではありません」
「貴女も、彼のことを凡庸だと?」
「いえ。少なくとも、武に関するよりは見込みがあるのではないかと存じます。それでも突出したものは感じられませんが、物覚えは悪くありません。本腰を入れて勉強させれば、地方の役人ならば一年の後には勤まるようになるのではないかと」
「三十年先の千人隊長よりは、現実的で良いですね」

 まったくです、と主の冗談に宋正は微笑む。冗談を好まない侯忠は仏頂面のままだ。

「ですが、地方の小役人では面白みがありません。何か他にないのですか?」
「……いっそのこと、文若様の婿としてはいかがでしょうか」
「記憶喪失の男子が、実は高貴な身分であったというのは講談師に好まれそうな題材ですけれ
ど、彼の素性の手掛かりでも掴めましたか?」
「それは残念ながら」

 答えはにべもない。記憶喪失を装っていることは少し話せば解ることだが、それだけでは彼の来歴を知るには弱すぎた。手掛かりと言えば白い輝くような服だけ。これだけでは如何に智者の一族と言えども答えを知るには至れない。

「男嫌いのお嬢様は、男性に対する態度も苛烈です。今までお嬢様に近付いた男性はおりましたが、その尽くは歯牙にもかけられませんでした。知的でない、野蛮である。そもそものお嬢様の人物の好みからして、彼らは何某か資質にかけていたところもありました。八徳全てを供えたような聖人でなければお嬢様の隣に立つ資格はないのかと私も考えておりましたが……何のことはございません。必要とされる資質は一つでございました」
「あの娘の罵詈雑言に耐えるだけの心、ということかしら」
「然りでございます。八徳どころか、今までお嬢様に近付いたどの男性と比しても、北郷様の評価は低いでしょう。ですが、多少とは言えお嬢様は御自ら北郷様に関わろうとしておいでです」

 今まではどの男性も、荀彧と少し話すと自分から距離を置いていった。荀彧の溢れんばかりの才能が眩しくてというのも勿論あるだろうが、それ以上に荀彧のあの態度を受けても尚、彼女の傍にいようと思う男性はいなかった。

 北郷一刀は、荀彧の幾万の罵詈雑言を受けても尚、彼女にかかわり続けようという気持ちを持つ、宋正の知る限りでは唯一の男性だった。男性として荀彧に関わるという点に関する限り一刀の感性は天才的と言える。

「羽虫のような扱いと聞くけれど?」
「視界にも入れようとしなかった今までに比べれば、天地ほどの開きがありましょう。それでも現状で可能性は万に一つもないでしょうが、打てる手は打っておくべきではないかと」
「あの娘の子を見れないというのも寂しいですからねぇ……」

 母としての荀昆の言葉には、言い知れない諦念の響が込められていた。荀彧が男を嫌っていることは、母である荀昆が一番良く知っているはずだ。手を打っておきたいというのは、彼女も同じ思いのはずである。

「婿として迎えるからには、それなりの人間でなければならないのでは?」

 宋正と荀昆の視線が、侯忠に集まる。妻と主、二人の視線を受けた侯忠は一瞬たじろぐが、従者としての今の勤めは、意見を言うことだ。何も臆することはないと思い直し、一つ息を吸い自分の考えを口にする。

「北郷殿の人間性はなるほど、確かに見るべきところがあるでしょう。しかし、荀家は大陸でも有数の名家。婿入りとなれば多くの物が求められます。ですが、北郷殿にはそれがありません」

 武も智もなく、家柄も金も実績もない。まさしく身一つの一刀は確かに、大陸有数の名家である荀家に婿入りするには、大分頼りない。だが、

「北郷殿の非才はお嬢様の溢れんばかりの天賦の才で補えば宜しいでしょう。お嬢様が気に入りさえすれば、最悪そこに立ってるだけでも良いのですから」
「妻は賞賛を受け働いているのに、自分は立っているだけという境遇に大の男が耐えられるものか」

 それまで荀昆に向けて発言していた矛先が、妻の宋正へと変わる。口調も少しキツいものに変化した。主と妻では扱いが違うのは当然だが、理屈で分かっていたとしても感情は別だ。態度の変化にイラっときた宋正は、離れていた距離を自ら詰め、言い募る。

「愛さえあれば耐えられます」
「感情ではなく矜持の問題だ。夫婦となった以上、二人は対等であるべきだ。今持っている力
もこれから生み出すであろう結果も、北郷殿のそれはお嬢様には遠く及ばないだろう。それでは北郷殿があまりに不憫ではないか」
「それくらい我慢してくれても良いじゃありませんか。配偶者の才を認め、それを伸ばすように尽力するのも、正しい夫婦の形だと思いません?」
「それは否定しないが……」
「夫婦喧嘩はそれくらいにしなさいな」

 ぱんぱん、と荀昆が手を叩いた音で、宋正は我に返った。慌てて侯忠と距離を取り、姿勢を正す。

「お見苦しいところをお見せしました、奥様」
「私が仲人をした夫婦が、今も中睦まじいと確認できるのは良いことです。話を戻しますが、宋正の北郷殿を婿に、という案は一考の価値があると考えます。ですが侯忠の言うことにも一理ある。あの娘の罵詈雑言に耐える心根は素晴らしいですが、それだけでは荀家に相応しくはありません。何某か、北郷一刀という名前に箔をつけてもらわなければ……」
「この乱世です。気持ちさえあれば、名を上げることはできましょう」
「智も武も秀でていない、何の背景も持たない人間が持つには過ぎた野心ですね。過ぎた野心は身を滅ぼすものですが……宜しい。北郷殿には援助を致しましょう。本心を言えばいつまでもこの屋敷にいてくれて構いませんが、彼もそれを望んではいないでしょうしね。北郷殿が旅立つ時の助けになるような計画を練っておきなさい」
「挙兵の資金を出すおつもりですか?」

 こんな時代だ。名も何もなくても、金銭さえあれば兵士を集めることは出来る。無論、頭数が揃っただけの烏合の集では本物の軍隊に潰されて終わるが、ただ頭数が必要になることもある。纏まった人数を集められないようでは、そもそも形になりすらしないのだ。

 名を挙げたいと思う人間にとって、自らの手足となって動いてくれる兵というのは、喉から手が出るほどに欲しい物だ。そのために富豪や商人が資金を出す、というのも珍しい話ではない。その人物が名前を挙げてくれればそれを補佐したものとして利益を受けることが出来る。

 中途でも利益を追求できるから、極端な話、商人が援助をする人間というのは最終的に勝者でなくとも良い。利に聡い人間は旗色が悪くなれば直ぐに態度を翻す。名誉に主眼を置かない人間は、態度は身軽なのだ。

 だが、荀家は商家ではない。その目的は利ではなく人だ。優秀な人間を囲いこむこと、また、それらの人間との関係を築くことが荀家の目指すところである。

 先も言ったように、智においても武においても今の一刀は凡庸である。兵を与えたところで名を挙げられる公算は低く、矢尽き刃折れ死に至る可能性も非常に高い。援助をしたとしても、そうなっては丸損だ。
 
 一刀が成功するという見通しがほとんど立たない以上、彼に荀家として協力するのは分の悪い賭けと言わざるを得ないだろう。宋正の言葉は荀家の従者として出てきた物だったが、

「そこまではしませんよ。北郷殿が旅をするに当たって、その援助をする。その程度の物です」
「…………つまりは、段階に応じて援助をなさると?」
「名を挙げずとも、北郷殿の人間性は貴重なもの。出来ることなら生きていて欲しいのですが、事情がそれを許さないというのなら致し方ありません。しかし、生きていてもらうための尽力くらいはしても良いでしょう。その過程として彼が名を挙げるようなことがあれば、そこで初めて本格的な援助をすれば宜しい」
「それでも多少は名声を失うことになるかもしれませんが」
「北郷殿は桂花を助けてくれました。名誉を気にして手放しに援助をしないのなら、せめてそれくらいはしなければ人倫に悖るというもの。宋正も侯忠もそのように取り計らい、部下にはそう伝えなさい」
『仰せのままに』

 夫婦は唱和し、揃って頭を下げた。荀昆の下がって良いという仕草と共に退出し、屋敷の廊下を行く。


「北郷様は目がありませんか?」
「平時であればもっと目はあったろうが、今は乱世だ。彼一人に生き残れるだけの力があるとも思えん」

 夫の答えは、宋正が思っていたものと変わらなかった。乱世を生きるに、北郷一刀は向いていない。これは自分たちだけでなく、一刀本人も思っていることだろう。

「文若様のような方が補佐してくれるのなら、北郷様にも目があるのですけどね」
「あの方は王佐の才を持つお方だ。王たるには北郷殿では不相応だろう。それならば慎み深く柔軟な思想を持った公達様の方が北郷殿の補佐には向いていると思うが……」
「……ええ、意味のない比較でした」

 荀彧は既に曹操の元に仕官を希望する旨を送っている。彼女ならば仕官を断られるということはないだろうから、半ば仕官は決まったようなものだ。話に出てきた公達――荀彧の年上の姪である荀攸は、既に洛陽で宮仕えをしている。

 この時代、智者が主を変えることなどよくあることだが、宮仕えを放棄するとしたらそれは相当のことであるし、曹操はこの時勢にあっても傑物とされる人物である。それを蹴ってまで無位無官で実績のない一刀に仕えることなど――それ以前に、男性に臣下の礼を尽くす荀彧いうのが、宋正には想像できなかったが――あるはずもない。

「奥様の意には反しますが、地方の役人になるのをそれとなく薦めてみることにします」
「それがよかろうな。人間、分相応なのが一番だ」
「殿方は飛躍することを夢見るものではないのですか?」
「若い時はそうだったような気がするが、所帯を持ってから気が変わった。名誉や地位よりも大事な物が出来ると、人間変わるものだな」
「…………」
「急に押し黙ってどうした」
「……知りませんっ」











後書き
次回で荀家逗留編は終わりです。
二話で終わる予定でしたが、四話にもなってしまいました。
その次から飛躍編というか雌伏編というか燻り編が始まります。





[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第五話 荀家逗留編④
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:c94d5e3e
Date: 2014/10/10 05:50









 荀家に逗留を始めて二十五日目。

 客間を自分の部屋と認識できるようになり荀家での生活にも本当に違和感がなくなってきた頃、荀彧の元に曹操から書簡が届いた。以前に荀彧が出した仕官したいという旨の書簡、その返信である。合否については見るまでもない。一刀を含めて、荀家の人間は誰一人としてそれが断られるとは思ってなどいなかったくらいだ。使用人が書簡を持ってくると、荀彧はそれを受け取ると同時に、自分の部屋に引き返した。

 曹操から書簡の返事が来たことは最初に書簡を受け取った使用人の口から荀家全体に伝わり、やがて街にまで広まった。荀家の傑物が『あの』曹操に仕官するという噂は民草の格好の噂の種になり、宋正の買い物の付き合いで街に出た一刀も質問攻めにされた。

 婿であるという噂は流石に払拭されていたが、その候補という認識は未だに根強く、街の人間は一刀も当然のように荀家を出て、荀彧に着いて曹操の元へ行くものだと思っているらしい。

 勉強も武の鍛錬もそこそこ使えるようになっては来たが、それを持って曹操に仕えられると思えるほど、一刀も楽天的ではなかった。黄巾賊が跋扈するようになって以来、戦力はどこでも求められているため単純な兵力としてならば曹操陣営と言えども就職はできるだろうが、そういう所で戦い生き残ることがどれほど難しいのか、武の師匠である侯忠から嫌というほど聞かされている。

 自分の腕が武勇で名を成すことができるほどではないというのはとっくの昔に気づいていたし、異世界にふっとばされてる時点で、戦場で生き残るだけの運があるとも思えない。

 荀昆などは志は高く大きくと主張するが、宋正は分相応ほど素晴らしいものはないと説いていた。どちらが自分の身の丈にあっているかと言われれば、宋正の主張する『分相応』と言わざるを得ないだろう。

 無理をしないで生きられるのならその方が良いに決まっている。荀彧や曹操がいるのだから、他の三国志の英傑もいるだろう。そんなハイスペックな彼女ら――覚えている限りの名前を荀昆に確認し、彼女が知っている範囲で整合できた名前は全て女性だった。おそらく著名な武将は全て女性なのだろう、という認識に至っている――と肩を並べて北郷一刀というただの人間が覇を唱えられるとも思えない。

 だが男なら……という思いも心のどこかにあった。頂点に立ち天下を取りたいなどと大それたことは思わないけれど、眼前に今まさに羽ばたこうとしている少女がいるのに、それに刺激されないというのは男として、人間として格好悪い。

 自分には一体何が出来るのか。

 しかし、進学するか就職するかすら真面目に考えたことのない現代社会を生きた高校生に、そんな高尚なものが分かれば苦労はしない。何か秀でたものがあれば指針くらいにはなったのかもしれないが、生憎と知でも武でも光る物はないと太鼓判を押されたばかりである。

 いくら考えても答えは出ない。

 ならばすることは決まっていた。
 
 一人で考えても良い知恵が出ないのならば、誰かに聞けば良い。今自分はあの荀彧と言葉を交わすことが出来る場所にいるのだ。稀代の智者である彼女ならば、何か良い知恵が閃くに違いない。

 問題があるとすれば閃いた知恵を授けてくれそうな気がしないところだが、それはそれだ。口を開けば罵詈雑言ばかりが出てくる荀彧でも、会話をしているとそれなりに楽しい。

 明後日に出発を控えた荀彧である。精液男のために時間を取ってくれるかも怪しい。門前払いどころか顔を見せてもくれないかもしれない。それはそれで、凄く悲しいが……今一刀はどうしようもなく荀彧の顔が見たかった。いつものように口の端を少しだけ上げて、心底人を見下したような顔で怒鳴る彼女を見れば、 自分で何か閃くかもしれない。

 それにあの荀彧が曹操の下へ行くのだ。才気溢れる彼女のことである。直ぐに頭角を現し曹操軍になくてはならない存在になるだろう。そうなっては箸にも棒にもひっかからない自分ではおいそれを会うことは出来なくなる。多少身を立てた程度では姿を見ることもできないような場所に、荀彧は行こうとしているのだ。

 いまだかつて味わったことのない不安を抱えたまま、一刀は客間を出て荀彧の部屋に向かう。陽は既に暮れている。薄暗い廊下が、その不安をさらに助長させた。

























「じゃあ、旅にでも出れば?」

 不安その他色々なマイナスの感情を迎えて臨んだ荀彧への質問の回答は、その一言だった。あっさりと部屋に入れてくれたこともそうだが、素直に質問に答えてくれたことも一刀の予想を裏切っていた。

 何か悪い物でも食べたのかと思わず荀彧を凝視するが、視線が気持ち悪いと飛んできた小皿を受け止めるに至って、あぁ、いつもの荀彧だ、と一刀は安堵する。

 小皿をテーブルに置くと、空になっていた杯に酒が注がれた。ありがとう、と視線で礼を言うと、給仕役の宋正は静かに微笑を返した。

 荀彧の部屋には、一刀とそれから宋正の三人だけだった。あの男嫌いが男性を部屋に招き入れたことに、自分で言い出したことにも関わらず命の危険すら感じた一刀だったが、その部屋には先客がいたのである。

 荀彧は一人、宋正を相手に晩酌をしていたのだ。女性的な起伏に欠ける荀彧が酒を飲んでいるという事実には違和感が先立ったものの、杯を一人傾ける様子が中々様になっていたこともあり、一刀の口から荀彧の体を労わるような言葉が出るようなことはなかった。

 唐突な一刀の登場を荀彧は迷惑そうに見やったが、招き入れた以上出ていけなどと言うことはせず、宋正に全てを任せ、一刀を自分の対面に座らせた。勉強の時に顔を合わせてはいるが、こうして落ち着いて荀彧の顔を見るのは久し振りである。

 酒が進んでいることもあって、仄かに顔を朱に染めた荀彧ははっとするほど色っぽい。肌の露出はほとんどないが、だからこそ僅かに見える首筋とか、杯を持つ細く綺麗な指先とか、仕草が一々色っぽかった。悲しくなるくらいに幼児体型の荀彧に色気を感じている自分に驚きを感じつつも、それを悟らせないように酒が並々と注がれた杯を一気に呷る。

 名家のお嬢様が飲むだけあって、酒の口当たりは良かった。友達と悪乗りしてビールやら何やらを飲んだことはあったが、そのどれよりもこの酒は上手かった。

 酒は良い物だ。しかし、荀彧はほろ酔い気分の様子なのに一刀は全然酔うことが出来ない。酒を飲んでいるという自覚はあるのだが、それはすっと身体の中に吸収されていくようで、酔いとして現れないのだ。酒に強いからこうなるのか、それとも今の精神状態がそうさせるのか。酒に慣れていない一刀にその判断はつかなかったが、正気を保っていられることで今の荀彧を観察できるというのなら、それも良いことだと無理やり判断した。

「旅かぁ……いいかもしれないな。あー、でも、今黄巾賊が暴れてるんじゃなかったかな。一人旅って危なくない?」

「一人旅が危なくないことなんてありえないわよ。それと黄巾は曹操様他官民問わず軍が動員されて衰退の一途を辿っているわ。最終的には冀州で決戦が行われるだろうって話よ」

「冀州って言うとここから北か」

 荀彧や宋正に教え込まれたことで、現在の漢帝国の地図は頭に入っている。州の数は47都道府県よりは遥かに少ないためそれを覚えるだけならば楽だったが、では次は郡を県を、となると途端に難しくなってくる。

 荀彧は勿論、宋正まで県の配置を正確に覚えているらしい。知識人ならばこれくらい当然と彼女らは言うが、まるでそれを片手間のように覚えたような彼女らと自分の頭は、根本的に構造が違うのだろうと一刀は思った。

「つまり南に行けば行くほど安全ってことかな」

「比較的、と言葉の頭につけなければなりませんけれどね」

 一刀の言葉を継いだのは宋正だった。その顔に苦笑を浮かべ、一刀の杯に酒を注いでくれる。給仕が彼女の役目だからそれは不思議なことではない。見れば、荀彧の杯も空になっていた。一刀は近くにあった酒の入った小さな甕を取り、荀彧の杯に酒を注ごうとする。

 しかし、酔いの回った状態でもそれを察知した荀彧は杯をすっと、一刀の手の届かない位置にまで移動させてしまう。赤ら顔でギロリ、と睨みつけてくる荀彧に一刀は降参と両手をあげた。

 素面の時からこれなのだ。酌をするくらいは良いと思うのだが、そういう簡単なものでも男性との接触は嫌らしい。酔いが回ってからなら何とかなるかと先ほどから隙を伺っているのだが、流石は王佐の才。油断も隙もあったものではない。

「最低でも武術に多少の心得がないと、一人旅は危のうございますね」

「それだと商人の人たちはどうしてるんだ?」

「精液が頭に詰まってる人間は言うことが違うわね、功淑。今の時代、商隊を組まない商人がいるとでも思ってるのかしら」

「北郷様、黄巾でなくとも賊の類は多くございます。商人はそういう輩がいるからと遠回りは出来ませんから、護衛を雇うのが普通なのですよ。県や郡の正規兵よりもこうした市井の傭兵の方が近頃は腕が良いこともあるとか」

「旅をするなら商人と一緒に行くのが安全なのかな」

「不確定な要素を抱えて一緒に旅することほど危ないこともありません。賊と内通していないとも限りませんからね。よほど誼を通じてでもいない限りは、紛れ込むことは難しいでしょう」

「要約すると……」

「一人旅をしてるのは、よほどのアホか豪傑ということになるわね」

 まぁ、あんたがどっちか考えるまでもないけど、と荀彧は空になった杯を宋正に差し出した。飲みすぎを嗜めながらも、宋正は杯に酒を注ぎ足す。

 よほどのアホと言うが、それならば一人で旅をしていて盗賊に襲われていた自分はどうなのだ、という疑問は沸き起こったが、誰も並び立てないほどの知力のある荀彧が感情を抑制することを非常に苦手としていることは、付き合いの浅い一刀でも理解できることだった。

 それまで仕官していた袁紹は愚物と息巻いていたし、大方一人で勢いのままに飛び出し、しばらくしてから危険なことに気づいたものの、引っ込みがつかなくなって一人で旅してきたといったところだろう。

 実際には袁紹の側も何か手はほどこしたのだろうし、最初から最後まで一人旅ということはなかったろうが、一刀が出会った時には既に荀彧は一人だった。僅かの道程とは言え、腕に覚えのない女性の一人旅である。それが如何に危険なことであるのか、散々脅された後だけに現代人である一刀にも僅かではあるが理解が及んだ。賢い荀彧がそれを理解していないはずはない。それでも危険と矜持を秤にかけて危険を押し通す辺りが荀彧の荀彧たる所以なのだろう。

「旅にお出になられる前に、奥様に話を通されてみてはいかがですか? 紹介状を一筆書いていただければ、少なくともこの州で商いをする商人ならば同道を拒みはしないでしょう」

「そうしてくれるのならありがたいけど……大丈夫かな?」

 宋正は微笑みながら簡単に言うが、自分の名前を入れて身分を保証する紹介状を書くということは、その人間が何かヘマをした時、責任の一部を被るということでもある。紹介してもらう側の一刀にはこれ以上ありがたいことはないけれど、紹介する側の荀昆には百害あって一利もない。恩を受けてもそれを返すだけの当てがない一刀には、それがただの善意から出た物であっても、おいそれと受け取る訳にはいかない事情があった。

 既に一月近い時間を好待遇でおいてくれているだけでも破格の条件なのに、これ以上世話になるのも心が引ける。

 しかし、荀家の世話を抜ければ一刀は本当にただの人である。旅に出るにしてもここに留まるにしても、路銀やら身の回りの品やらそういった物の用意は誰かに頼らざるを得ない。

 それを稼ぐために荀家で下働きをする、というのもなるほど良い考えだと思ったが、それまで客人として扱っていた人間を下働きとして使うのはあちらも具合がよろしくないだろうと脳内会議で却下している。

 同様に、この街の中でも働くことは出来ないはずだ。荀家の客人であるというのは、街の人間の誰もが知っている。荀家はこの街の名家だ。そこで世話になっている人間を賃金を払って雇うことは出来ないだろう。

 いまだに荀彧の婿という噂が完全には立ち消えていないこともあって、そっちの線の方が絶望的なくらいである。

「大丈夫ってのはこっちの台詞よ。紹介状まで書かせて無様な真似してごらんなさい? 私の知識の限りを尽くして一生婿に行くことの出来ない、消えることのない傷を心に植えつけてやるから」

「滅多なことはしないよ」

 したくても出来ないからな、とは言わないでおく。物は言い様というのは荀彧と宋正の教えの中で理解した、現実でも直ぐに応用できる事柄の一つだった。要は屁理屈であるが、これを荀彧や宋正のような頭の良い人間がやると何者にも代え難い武器になる。荀彧がここは負けないと思った時は、たとえそれがくだらない口喧嘩であったとしても確実に勝利をもぎとって行くのだ。

 才能の無駄遣いと思わないでもないが、そういう時の荀彧は実に生き生きとしている。嗜虐的な笑みを浮かべている時の荀彧が、一刀の見たことのある表情の中で一番魅力的だというのは、きっと褒め言葉にはならないのだろう。宋正辺りならば賛同してくれるかもしれないが、それをここで確認するのは自殺行為である。

「でも北郷様が旅に出ると寂しくなりますわねぇ」
「そう? 私は清々するけどね。いつまでもこんな孕ませ男を屋敷においておいたら、私がいないのをいいことに、この部屋に忍び込んで口にするのもおぞましいようなことをするに違いないわ。猥本みたいに」

 口にしてからその光景を想像したのだろう、汚物を見るような目で荀彧はこちらを睨みつけてきた。してもいないことで罵倒されるなど日常茶飯事だから、睨みつけられたところでそよ風程度にも感じられない。

 一刀が平然としていると、荀彧は面白くなさそうに短く息を漏らし宋正に視線を送った。それを受けて今度は宋正がこちらに視線を向けてくる。

「……そろそろお暇することにします」

 本音を言えばもっと時間を共にしていたかったが、部屋の主に出て行けと言われたらそれに従わざるを得ない。

 むしろ、あの荀彧にしてはよくもこれだけの時間、男を部屋に入れたものだと感心するところだろうか。それだけ信頼されるようになった、と思えたら幸せだが、荀彧のこちらを見る視線にプラスの物が欠片でも混じっていると思えたことは今この瞬間を含めても一度もない。道は果てしなく、そして険しい。

「あまりお構いできなくて申し訳ありません」
「とんでもない。荀彧、お酒ご馳走さま」
「お礼なんていらないわよ、気持ち悪い。どうせ私のお酒じゃないしね」
「それでも部屋に入れて振舞ってくれたのは荀彧だろ? ならお礼は言わないとさ」
「……つまらないこと言うくらいなら、さっさと出て行きなさいよ」
「おやすみ、荀彧」
「おやすみなさいませ、北郷様」

 挨拶に答えたのは宋正だった。努めて視線をこちらに向けない荀彧に苦笑を浮かべると、その気配を悟られるよりも先に一刀は荀彧の部屋を後にした。









 














 

「お嬢様はお酒を召してもお嬢様なのですね……」
「言いたいことがあるならはっきりと言いなさいよ、功淑」

 目深に被った猫耳頭巾に下から殺気の篭った視線で睨み上げられて、自らの主張の正しさを理解した宋正は主筋の少女の将来を思って思わず溜息を漏らした。

 ここは荀彧の部屋で酒があり、彼女は酔っていた。そこに男を招きいれて、少しとは言え話をした。何か起こると考えるのは普通ではないだろうか。決定的なことよ起これと考えていたのは自分だけではないだろう。

 二人を取り巻く二人以外の人間全てが何かが起こることを期待し、また何かが起こると信じていたのだ。

 だが結果は宋正自身が見た通りだ。両方とも奥手という訳ではないようだが、お互いを意識しているのは間違いないのに、それが恋愛とは関係のないところにあり過ぎて、友人でも同志でも勿論恋仲でもない奇妙な何かに、二人の関係は変化しつつあった。

 男を遠ざける荀彧の感性は本物だ。そんな奇妙な関係と言えども、男性との縁が全くないよりはずっと良い。荀昆もふざけて一刀のことを婿殿と呼ぶことがあるが、彼女だって彼を本気で婿にと考えている訳ではないだろう。

 付き合う付き合わないは荀彧本人が決めるとしても、男性と全く触れ合えないというのは主義主張とはまた別のところで、人間として宜しくない。異性に関して常識的な感性を持って欲しいというのは現時点では高望みかもしれないが、一足とびに物事を成すことは出来ない。

 そういう意味で、荀彧の態度にも物怖じせずそれでもなお荀彧と関係を持とうとする一刀の存在は金銀財宝よりも貴重な存在なのだった。

 宋正の知る限り彼は、荀彧と自発的に関係を持とうとした人間の中で、縁が切れなかった記録の最長記録を更新し続けている。

 それは男嫌いの荀彧をして、もしかしたらと周囲の人間に思わせるのには十分だった。それも女性の方が仕官し旅立ちもう逢うことは叶わない、そんな状況なのである。それとない気配を感じたら消えて失せるくらいの配慮はあるつもりだったのに、そんな状況にはまるでならなかった。

 お互いが満足しているなら他者が口を挟むべきではない。それが大人としてのあるべき姿というのも解っているが、期待を裏切られたという事実は宋正を少なからず落胆させた。

 無論、荀彧は主で宋正は従者である。ここで何が起こり起こらなかったかを喧伝することは勿論ないが、何もなかったということは荀彧と一刀の態度を見ればアホでも察しがつくことだ。一生一人身のままかもと今までだって心配されていたのに、これから彼女が仕えることになる曹操は、女性を性欲の対象としてみる人間として有名である。

 身辺警護を任務とする親衛隊すら、全てが一級の容姿を持つ美少女で構成されていて、日によって閨を共にする人間を変えるという噂があるほどなのだ。今でさえ危うい感性の荀彧がそんな所に行けばどうなるのか、荀家の未来を思うと気持ちは暗くなるばかりである。

「それはそうと、北郷様も旅立たれるようですね」
「清々するわ。これで私も心置きなく、曹操様の元に旅立てるというものよ」

 杯に僅かに残っていた酒を啜る荀彧の瞳に、嘘偽りの色は見られない。間違いなくそれは本心からの言葉だろう。

 本心に違いない。違いないのだろうが……荀彧という少女を知っている人間は、彼女の言葉を額面どおりに受け止めない。良くも悪くも彼女は屈折した感性の持ち主だ。悪意を感じ取るのは簡単だが、その中にある欠片ほどの好意を感じ取るのは本当に難しい。

 宋正は自分を、その好意を感じ取ることの出来る数少ない人間であると自負していた。目をこらさねば見えないような欠片ほどの好意であったとしても、それが荀彧なりの精一杯であると思うと、愛しくさえ感じる。

 あの才媛が、と思わないでもないが、人間何か欠点があった方が親しみが持てる。自分を含めた人間関係に関してのみ途端に考えが回らなくなるこの少女は、きっと曹操の所に行っても愛されることだろう。

「北郷様に贈り物でもしてはいかがですか?」
「私にこれ以上、あの精液男と関係を持てって言うの?」
「北郷様の境遇を考えましたら、これが今生の別れということにもなりましょう。元より北郷様とお嬢様の縁は、北郷様がお嬢様の命を救ったことより始まっております。受けた恩は計り知れません」
「この家に招待したことで義理は果たしたわ」
「私もそう思いますけれど、お嬢様も近々曹操様に仕官するという大事な時期。私や奥様、家の者はお嬢様の気質、心根を存じておりますが民草はそうは思わないでしょう」
「誰が何を思おうと知ったことじゃないのだけど?」
「しかし、評判というのは馬鹿にしたものではありません。荀文若は不義理であるという噂が曹操様の耳に入らないとも限りませんでしょう?」
「……」

 荀彧は黙して語らないが、憎々しく歪んだその表情が心中を語っていた。面倒くさい、であるとか精液男のために……という思いが、荀彧の中を駆け巡っているのだろう。それと同時にそうすることでどれだけ自分の益になるのかも冷静に計算している。

 その結果は直ぐに出た。

「今から蔵は開けられる?」
「では、やはりアレを贈られるのですね? 功淑もそれが良いのではと思っておりました」
「……貰い物をまた贈るのは、礼儀に反するかしら」
「良いのではありませんか? お嬢様は死蔵されていたのですし、北郷様がお使いになった方がアレのためにもなるでしょう。ただ公達様がお嬢様の就職祝いとして贈られた、という来歴を考えると、北郷様はしり込みしてしまうかもしれませんが」
「黙ってれば孕ませ男には解らないわよ。何があっても由来を話さないよう、家人やお母様にも伝えておいてちょうだい」
「お嬢様の仰せのままに」





























 一刀の旅立ちはあっさりと認められた。一応引き止められはしたが、旅に出たいと強く主張したら、荀昆もそれ以上は言ってこなかった。

 旅立つ一刀のために荀家でささやかな祝宴が開かれる。世話になった警備隊の面々は一刀が旅立つことを惜しんで餞別までくれたが、相変わらず荀彧が姿を見せないことに気づいて宋正に訪ねると、彼女は苦笑を浮かべるばかりだった。

 気分が優れないので部屋で休んでいるという。あの荀彧の気分が優れなくなることがあるとはどうしても思えないが、本人がそう言っているのならそれを信じた風に見せるより他はない。

 祝宴は夜通し続くということもなく、日付が変わる前にはお開きとなり、一刀は一人でおよそ一月の間使い続けた客間で眠りについた。

 翌日、荀家の護衛をつけて昼過ぎに旅立つ荀彧に先立って、荀昆の手配してくれた商隊の世話になって旅立つこととなった一刀は、荀家の正門前で見送りを受けていた。

 見送りに出ているのは現在の家長である荀昆と、使用人を代表して宋正、警備隊を代表して侯忠、それから仏頂面をした荀彧である。これからすぐに旅立つということで、荀彧はいつになくめかしこんでいたが、呼吸するように舌打ちでもしそうなその表情は一刀の心を安心させた。

「長い間お世話になりました、荀昆殿」
「お世話など。北郷様さえよければ、いつでも当家にお越しくださいな」

 穏やかに微笑む荀昆に頭を下げ、侯忠、宋正にも別れの挨拶を告げる。気配を感じると、正門の影から警備隊の面々がこちらを覗いているのが見えた。一礼すると、彼ら彼女らは微笑んで踵を返した。

 代表して侯忠が見送りにしたということで、警備隊の面々は今も仕事中である。本来ならばここに顔を出すのも職務規定に違反することになるのだろうが、それでもこうして顔を見せに来てくれたことに、感謝の念が堪えなかった。

「……」

 最後に一刀が立ったのは、荀彧の前だった。別れの挨拶をするだけ。ただそれだけのはずなのだが、これが今生の別れになると思うと、一晩考えた言葉も上手く口から出てこない。

 一刀が何も言えずにいると、荀彧は無言で袱紗を差し出した。受け取れ、ということだと解釈した一刀は、おっかなびっくりそれを受け取る。手にはずっしりとした重量感が伝わった。

 これは何だと視線で問うと、荀彧はぷいと視線を逸らした。助けを求めるように見送りに来てくれた荀家の面々に視線を送るが、彼女らはわざとらしく視線を逸らすばかりに何もしてはくれない。

 溜息をついて、一刀は袱紗を解き中身を取り出した。

 手にした時の重量から何となく察しはついていたが、中から出てきたのはやはり剣だった。地味な拵えの鞘から抜いて、刀身の一部を日の光に晒して見る。

 訓練で使っていた刃を潰した剣も、一度見せてもらった侯忠の剣も銀色の光を放っていて美しいとすら思ったものだが、両刃で少しだけ短く感じるこの剣はどちらかと言えば黒ずんで見えた。美しさで言えばそれらに勝るとはお世辞にも言えないが、鈍く光る刀身は一刀に言いようのない威圧感を与える。

 業物であるかどうかは解らないが、鈍、数打ちでないことは一目で理解できた。少なくとも悪い剣ではないだろう。

 荀彧に相変わらず言葉はない。まさかこれを見せにきただけ、ということはないだろうから、これは餞別ということになるのだろう。見送りに来てくれるとも思っていなかった身としては、無言の餞別と言えども言いようもなく嬉しい。

「……笑わないでくれる? あんたの笑顔って気持ち悪いから」
「それは酷いな。でも、餞別ありがとう。大事にするよ」
「剣を持ってても、あんたの腕じゃどうしようもないでしょうけどね。でもないよりはマシでしょうから精々使い潰してやりなさい。まぁ、私はあんたみたいな精液男が何処でのたれ死んでも構わないんだけど」
「なら、期待を裏切らないようにしないとな」

 荒事に関わって生き残って見せるとも、荒事を避けて無難に生きるとも、どちらとも取れる答えである。勿論、一刀は後者のつもりでそれを口にした。自分の腕前などたかがしれているし、荀彧のような志があるでもない。

 無駄に力を振るうよりは、危険が差し迫った時に自衛するだけの方が、この乱世だ。生き残る確率は高くなるだろう。

 そういう考えだったのだが、荀彧は前者というように受け取ったらしい。一気に沸点を越えた彼女の感情は、それが当然であるかのように爪先で一刀と脛を打ち据えさせた。

 痛みに蹲る一刀にそれだけで射殺せそうな視線を送ると、荀彧は足音も高く門の置くに消えた。一刀の耳に小さな笑い声が届く。笑っているのは宋正だった。

「今のはいただけません。お嬢様と相対する時には、言葉に気をつけませんと」
「いや、今の俺にはそこまでは……」
「殿方でそこまで、というのは素晴らしいことですよ。自信を持ってよろしいのではないかと」
「だといいんですがね」

 宋正は褒めてくれるが、他の例を一度も見ていないだけに荀彧とどれだけの友好関係を築けたのか把握できない一刀だった。顔も見たくない声も聞きたくない、という最低の線よりは上にいるようだが、友人であるかと言われると首を捻らざるを得ないし、恋人には間違っても見えないだろう。

 少なくとも一刀の感性ではそうなるのだが、荀家の面々の自分たちを見る生暖かい視線はそれ以上を期待しているようで、時折不気味だった。

 その荀家の面々の中で最もそういう期待を抱いていたであろう宋正の笑顔に見送られながら一刀は踵を返した。

 行く宛のある旅ではない。

 ただ、黄巾賊はここから見て北に集結しているというから、旅に出るならばそれを避けるように西へ、南へ行くのが良いと言う荀昆の言葉に従って、そちらに向かう商隊に混ぜてもらうことになった。

 何が知れるか、何が出来るのか。

 荀彧の言う、グズで察しの悪い精液男には解らないが……

 新しい場所に行ける。その事実は、ここが何処とも知らない異世界であっても、一刀の心を高揚させるのだった。












[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第六話 とある農村での厄介事編①
Name: 篠塚リッツ◆2b84dc29 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:51



「はい、終了。お疲れ様」

 一刀が声をかけると、子供達は揃って手に持った木刀を放り出し地面に身を投げた。息も荒く汗に塗れた彼らを苦笑と共に見下ろしながら、一刀は手拭で汗を拭う。

 たまにはということで子供達と一緒に素振り千本にチャレンジしてみた訳だが、慣れていない彼ら彼女らは良いとして、言い出した一刀も相当に疲れていた。

 苦なく出来ると思っていただけに、この疲労感には情けなさすら覚える。故郷の世界にいた時よりは身体も鍛えられ、少しは強くなったという実感もあるのだが全部が全部という訳にはいかないらしい。

「団長、稽古! 稽古つけて!」

 この疲れをどんな方法で癒すか、一刀が今晩のスケジュールを考えていると、疲れて動けない子供達の中から元気の塊のような人間が飛び出してくる。

 黒い長髪をきつめの三つ編みにして、肌は日に焼けて小麦色。全体的に細身だが華奢という感じはなく、口調と雰囲気も相まってその人物を実に健康的に見せている。

 名前は子義という。ここに集まった人間の中で最も若く、年齢は12、3歳――数を数えることが苦手だそうで、聞く度に年齢が変わるのだ――と一刀の感覚で言えばまだまだ子供である。

 そんな子供の無邪気なお願いに一刀は反射的に渋面を作りそうになる自分を意識し、視線を逸らした。疲れている時に、この子の相手は本当に疲れるのだ。

 一刀が子供達の面倒を見るようになって一月が経つが、その中で子義は群を抜いた才能を見せていた。他の子供よりも出来るとかそんなレベルでは断じてない。比べるのもおこがましいくらいの才能が、子義にはあった。

 最初は荀彧のように三国志の武将が美少女になっているのかと疑ったが、子義は正真正銘男の子だ。それ以前に、子義という名前の武将に心当たりはない。

 肩透かしを食らった気分だったが、強いからと言って必ずしも性転換された三国志の武将ということはないのだろう。美少女になっているのは荀彧他数名だけで、残りは皆男性のままという可能性だって捨てきれない。

 とは言え、可能性の論議をしてもただの人間である一刀にそれを確かめる手段はなかった。今は答えのでない問答をするよりも、目の前の仕事を片付けることの方が重要である。

 集まった子供達では五人でかかっても相手にならないので、子義の相手は一刀にしかできない。現状、辛うじて十戦しても全て勝つ状況が続いているが、子義との稽古はいつも冷や汗をかかされる。

 攻撃の組み立てが恐ろしく短調なせいで一刀程度の腕前でも辛うじて勝ててはいるものの、子義が考えることを覚えた瞬間に、勝つ見込みはゼロになるだろう。一緒に学んでいる子供には何も考えずに木刀を振るっても余裕で勝てるが、祖父や侯忠から指導を受けた一刀からはいまだ一本も取れていない。

 同年代での喧嘩では負けなしだったらしく、自分を負かした相手に大層感激したのか、それ以来子犬のようについて回られている。男の子とは言え子供に頼られることに悪い気はしないが、それが自分を遥かに凌駕する天賦の才を持った子供となると、荀家ではお前に才はないと遠まわしに言われ続けた一刀の心中は複雑になる。

 子義は一刀の返事を、目を輝かせながら待っている。助けを求めようにも返事にまごついている間に、他の子供達は団長さようならとさっさと帰り支度をして家路についてしまった。

 もたもたしていると日が沈む。ここは農村だ。日が沈んでからは田畑に出ないが、夜は夜で内職があるし、人手はいくらあっても足りない。

 また、農作業以外に身体を動かすということで、平常よりも疲れが溜まっている。疲れを蓄積させることは、何時の時代でもよろしくないものだ。彼らは基本的に早く寝て早く起きるという健康的な生活が染み付いている。

 目の前で目をきらきらさせている子義もこの農村の子供であるはずなのだが、彼は農作業や内職よりも木刀を振るうことに楽しみを見出しているらしく、子供達の中で最も才能に恵まれているにも関わらず、戦うことを学ぶのに最も熱心だった。

 反面、寺小屋の真似事で簡単な読み書きと計算を子供達に教えてもいるのだが、そちらの授業は隙を見てはサボろうとするので始末に追えない。単純な徒競走だと第二次成長が終わった一刀でも、子義には勝てない。逃げた彼を捕まえることは、この村の誰にも出来ないだろう。

 要するに、子義を相手に逃げたとしても足の速さの関係から確実に追いつかれるということだ。のらりくらりと言い逃れ続けたとしても、こちらがイエスというまで食いついて離してくれないのは目に見えている。

 ならば最初からいいよ、と言うのが賢い選択というものだろう。

「一本だけな……」

 しょうがない、という風を装って言うと子義は飛び上がって喜んだ。時間が勿体無いと一刀に木刀を押し付け、自分は大またでぴったり五歩距離を取り、木刀を正眼に構える。

 負けが込んでいるはずなのに、構えだけは異様に様になっていた。これで一刀の1%でも考えるようになればもっと強くなれるのだが、彼は一向に考えるということをしない。指導の方法が悪いのだろうか、と今では教育者のように考える一刀だったが、彼が考えることを始めた瞬間勝てなくなるのは目に見えているため、心の中には子義にはこのままでいてほしいと思う自分もいる。

 浅ましく醜い感情とは思うものの、どちらかと言えばもっともっと強くなった子義を見てみたいという気持ちの方が強い。どういう教え方をしたらもっと子義を強く出来るのか、今はそればかりを考える毎日だった。

 まるで先生だな、と自分の境遇に苦笑を浮かべながら、こちらの合図を待っている子義に宣言する。

「一本勝負。決着が付いたら終わりだし、日が沈んでも終わりな」
「わかりました! でも、手加減したら怒りますからね!」
「はいはい……」

 と、投げやりに返事をしても、子義の目には入っていないらしい。いきますよー! と吼えてかかってくる子義をどこか遠くに見ながら、一刀は荀家を出てからのことに思いを馳せた。


















 商隊にくっついての旅は順調だった。商人も一刀が荀家の客人だと理解していたから扱いも悪くなかったし、護衛として雇われていた面々とも早々に打ち解けることが出来た。護衛の隊長は侯忠と官軍時代共に働いていた仲らしく、見聞を広めるために旅をするのだという一刀にあれこれと物を教えてくれた。

 時間が空いた時には剣の稽古をしてくれたり、商人はこの世界における商いの基本を教えてくれた。荀家に居た時も元の世界では出来なかっただろう経験をしたが、商隊で学んだことは一刀の感性に大いに刺激を与えた。

 そんな有意義な時間を過ごしながら、最初に一行が辿りついたのは司隷河南郡のとある大きな街だった。割と都会であるらしいこの街は現在『あの』袁術の治める土地であるという。半端な三国志の知識がある一刀は袁術にはあまり関わるべきではないと思ったが、需要のあるところに品を届けるのが商人の仕事。浪費家であるらしい袁術は商人にとっては大事なお得意様であるらしく、商人は嬉々として街に足を踏み入れた。

 聞けば袁術は金色の髪をした大層な美少女であるという。性格と政治的手腕には難アリだけどな、と商人も言っていた。警備隊の中にも意見を同じくする者がいたようで、あぁ、顔だけはな……と重々しく頷くのが印象的だった。

 そこまで言うなら顔くらいは見てみたいと思う一刀だったが、性格がアレな権力者と個人的な関わりを持つべきではないという商人の尤もな意見でもって納得し、袁術の顔を見るのはまたの機会ということで持ち越した。

 さて、袁術相手の商売を終えた商隊はこれから北へ向かうという。集結した黄巾賊との決戦が近いので危険であると荀彧に言われ続けてたせいか、北という言葉に反応して一刀の脳裏に荀彧のいらついた顔が浮かぶ。行くか行かないか考える以前に、身体が向かうことを拒否していたのだ。残念だが、商隊とはここでお別れだ。

 北には行かないという事情は商人も聞いていたのか、一緒にどうだと無理に誘うようなことはせず、同道した間の手間賃――警備という名目での給料とのことだ――をいくらか多目に渡すと、脇目も振らずに北へ旅立っていった。

 何も態々危険な土地に行かなくてもと一刀は思ったが、戦争というのは商人にとっては稼ぎ時なのだそうで、曹操や袁紹などの金払いの良い、どちらかと言えば民間寄りの軍に糧食や鎧兜を売って荒稼ぎするのだそうだ。右から左へ物を流すだけで大もうけが出来るのだから商人にとってこれほど美味しい話もない。

 しかし、戦場に行くということは殺気だち武装した人間の大勢いる地域に足を踏みいれるということでもある。下手を打って荷物を奪われた挙句、無残に殺される商人も後を絶たない。

 自然、商人も護衛を雇うことを覚え、今では腑抜けた官軍よりも商隊の護衛の方が強いという現象が大陸各地で見られている。

 一刀が世話になった商人も豫州では名の知れた、精強な護衛部隊を抱える商人であるとのことだ。それだけ強い護衛を雇うとなると経費も嵩むため、自然と商売が大きな方、大きな方へと流れるだそうだ。

 とは言え、護衛が精強だからと言って、危険がない訳ではない。こちらよりも多数の賊に囲まれればそのまま殺されることだって十分に考えられるし、最悪、売るつもりだった相手に襲われることだってある。

 そうならないためにはまず、売る相手を見極めることだ……と商人は言っていた。彼が挙げていた大陸北部の上得意は三人。曹操、袁紹、袁術だ。

 例えば曹操は厳しいが公正な人格で、商人だからと言ってこちらを侮ったりはしない。適正価格で売らされるために一つ一つの儲けは少ないが、行儀の良い信用筋を紹介してくれたりと付帯効果が色々と多い。後々名を上げるだろうという見通しもあり、今最も交流を持ちたい武将であるとのこと。

 袁紹の人格は曹操に比べてお世辞にも褒められた物ではないが、名門の矜持があるのか値切り交渉などはほとんどせず、丼勘定で馬車につまれた物を根こそぎ買ってくれるという。こちらは商人風情と下に見られることが多いらしいが、大盤振る舞いしてくれる以上、それは商人にとって上得意だ。立ち寄った町で豪遊して帰っても儲けが鱈腹残るような支払いをしてくれるのならば、例え悪鬼でも福の神である。

 一番安心なのは袁術だ。彼女の勢力も黄巾賊を相手に戦ってはいるが、本人は本拠地から一歩も動かず、贅沢三昧をしている。危険な地域まで足を運ばなくてもよく、大好物らしい蜂蜜を持参するとそれはもう大盤振る舞いをしてくれるとのことで、贅沢品など利鞘の大きな物を金に糸目を付けずに買ってくれる。

 この他にも安心して取引できる陣営はいくらかあるというが、それはあくまで現状では、という枕詞がつく。栄枯盛衰は世の常だ。有力な武将が賊軍に負けて首を刎ねられるということも今の時代珍しくはない。商人が挙げた三人は、とりあえずしばらくは生き残るだろうという読みの上での、お得意様である。誰と取引をするのも勿論重要だが、何時取引するのかも重要なのだと、商人は得意先の話を締めくくった。

 さて、河南郡で商隊と別れた一刀は、実はその時点で途方に暮れていた。北へは行けないために旅を続けるならば南か西に行かねばならないのだが、肝心の足がない。徒歩で一人旅という選択肢もあるにはあるが、腕に覚えのない人間の一人旅は賊に襲ってくれと言っているようなもの。武人としては半人前の一刀では心もとない。

 それに徒歩だと不慮の事態に襲われた時に対応できないという欠点があった。何かの理由で足止めを喰らったら、野宿をせざるを得ないだろう。旅なれない人間の一人旅で野宿は自殺行為だ。現代日本の公園で新聞紙に包まり、夜を明かすのとは訳が違う。一人でいる時に獣に襲われたら逃げることも出来ないだろう。話が通じ、金品で解決できる可能性があるだけまだ賊に襲われた方がマシというものである。

 それら諸々の厄介事を解決するためにも、日があるうちに人里から人里まで確実に移動できるだけの足、もしくは賊や獣に襲われたとしても何とかなるだけの知識や腕を持った旅仲間が一刀には必要だった。

 まずは旅仲間と、一刀は荀家を出た時と同じように商隊を頼ることにした。身元に関しては荀家が証書を書いてくれたために、はっきりとしている。ここ河南に来るまでに商人の下働きの基礎は叩き込まれたし、護衛としては役に立たなくても下働きとしてならば働くことも出来る。

 待遇に文句をつけなければ、どこかしら拾ってくれるだろう、と楽観してそろそろ旅立つ予定の商隊を探したのだが、これからの一週間で街から旅立つ商隊は、軍需品を売るために北に行くか、荀家のある豫州に行くか、あるいは洛陽に行くかの三種しかなかった。

 前者二つは、一刀にとって選択肢とも呼べない物である。戦場になど行けないし、豫州にすぐさま戻るのなら何のために旅に出たのか解らない。商隊に世話になるとしたら洛陽に行くしかないのだが、権力闘争の只中にあるらしいあの都市に行って良いことがあるようにも思えない。

 だが、洛陽は何と言っても皇都である。この世界においては最も文化が洗練された都市の一つであり、物や人と一緒に情報も集まる都市だ。旅の目的は見聞を広めるという意味もあるが、最終的な目的は元の世界に戻ることだ。そのための手段を探すためには洛陽に行っておいて損はない。


 本来ならば多少の危険を冒してでも向かうべき都市なのだろうが……ただの人間である一刀には三国志的陰謀が大絶賛渦巻いているはずの洛陽で、生き残れる算段がなかった。何の権力も持たないただの男が陰謀の舞台に引き上げられるとは必ずしも言えないものの、何の情報もない異世界に叩き出された不幸を鑑みるに、都に足を踏み入れた途端官吏にしょっぴかれる可能性もないとは言えない。

 この時代、民主的な裁判なども期待できない。怪しい、と思われたらその場で首を刎ねられることだってあるだろう。

 況してや、今は戦乱の時代。そしてそこは洛陽だ。人の命など枯葉ほどの重さもない。なるべく北には行くなという荀彧の言葉もある。洛陽に行くなとは一言も言われていないが、まずは南、西に向かうのが安全という点では良いだろう。

 いつになったら元の世界への情報が集められるのか、と微妙に陰鬱な気分になりながら、一刀は酒場などを回って南や西へ一人でも安全に行ける手段を探した。

 二日程商人や街の人間から情報を集めた結果、一刀は馬を一頭買うことにした。安い買い物ではなかったが、ここでも荀家の証書の力が生きた。一刀の有り金全てを出しても本当ならば馬など買えないのだが、馬車を引くのを引退したばかりの聊か老いた馬を格安で譲り受けることになった。

 病気を持っているとか駄馬であるとか、厄介者を掴まされたのではたまったものではにないが、馬を見る最低限の目は荀家にいる間と、商隊に厄介になっていた間に鍛えられている。

 少なくとも目に見えた欠陥は見当たらない。気性が荒い訳でもないようだし、馬具も一通りセットになっている。決して安い買い物ではないが、悪い買い物でもなかった。

 即決でその馬を買い取る約束をすると、翌日、一刀はその馬に乗って河南郡を後にし、南へと向かった。出立前には地図を片手に、どこにどれくらいの規模の街や村があるのか綿密な調査を行ったのは言うまでもない。

 途中、武装した官軍や傭兵らしき集団とすれ違うことはあったが、特にいざこざには巻き込まれないまま、夜は街や村で宿を取り南下を続け、豫州を出て二月もした頃、一刀と馬は荊州に足を踏み入れていた。

 この時代、治安が良くないのはどこも一緒だが、噂に伝え聞く北部の状況に比べると平和そのものと言って良い風潮で、馬に乗ってパカパカ行くだけの一刀の旅も、順調に進んでいた。元の世界の情報も一応集めてはいるが、都会では学術的、あるいは実在の人物や地名に即した情報が手に入るのに対し、ほどよく田舎であるこちらでは、オカルティックな話が目立つようになっている。

 やれ、遠くのどこそこの山には仙人がいるとか、海の向こうにはこういう世界があるとか、御伽話と大差ないレベルのものだ。これが数ヶ月前、元の世界で聞いたのであればメルヘンな人たちもいるものだなぁ、と笑って受け入れていたのだろうが、実際に時間だか世界の壁だかを飛び越えてきてしまった以上、一概に笑うことも出来ない。何しろ一刀本人が、オカルトの体現者なのだから。

 本当に仙人がいて異界があって、そこに不可思議な力があり元の世界に戻れるのだとしたら、一刀にとってそれはオカルトなどではなく、確かな現実の一手段である。問題はそんなオカルトな存在とどうやって接触を持つかということだが、噂を語る人々もそこまでは知らないらしく、例えば仙人がいるという遠くの山も人によって名前や場所が変わったりと信憑性に欠けていた。当然、仙人にあったことがあるという人もいない。

 やはり与太話じゃないかと噂を集める旅に落胆する一刀だったが、どんな些細な話でも手掛かりには違いない。重要そうな噂だけ木簡に丁寧に書き記して行くが、一日一度は噂の整理のためにその木簡を見る物の、果たしてこれが何の役に立つのか……と気が滅入る毎日が続いている。

 反面、色々な知識も旅の過程で増えていた。

 荀家の書庫では知りえなかった、地元でしか知りえない風習。肌で知る治安の悪さに官軍の現状。民衆が賊をどう捉えており、そのためにどう対処しているのか。

 食べ物も同様だ。荀家が所謂富裕層であるのは屋敷に足を踏み入れた時から知っていたことだが、それを理解したのは屋敷の外に出てからだった。商隊で最初に出された保存食――小麦に調味料を混ぜて捏ねたものを火で炙ったもの――を最初に口にした時の顔は、商隊全員に大爆笑されたのを覚えている。

 その後は所謂、粗食だけどそこそこに美味しい物を食べさせてもらったが、宿を借りる村で出される食事は、極端に味が薄かったりあまり美味くなかったりと一刀の口に合わないことが多かった。

 最近はカップラーメンを食べたいと思う毎日が続いている。故郷にいた時は思い出したように食べていたものが、今となっては無性に懐かしい。

 時間が出来たら自分で作ってみるのが良いだろうか。カップラーメンに近い味を出そうと奮闘するなど現代の料理人が知ったらキレるかもしれないが、この時代にあの味は新しいはずだ。傍から見れば未知の味を追求しているのだから、文句を言われる筋合いもない。

 問題があるとすれば味の再現に成功したとしても、この世界の人間にウケるかということだが……その辺りは出来上がってから考えれば良いだろう。

 次に大きな街に行ったら市場にでも行ってみよう。どういう食材が良いのかとあれこれ考えながら馬を歩かせている時に、それは起きた。

 腹痛、などという生易しい物ではない。下腹部を抉られるような痛みに一刀は馬上で腹を抱えた。何が原因かと考えるよりも先に、このままここで倒れたら死ぬしかないという危機感が一刀を動かした。

 休むつもりだった村まで、馬を急がせる。朦朧とした意識の中でも、馬は良く一刀の意図を理解し、足を動かしてくれた。元々距離が近かったこともあり、日が暮れるよりも前、予定よりも早く村に到着した。

 馬に乗ってやってきた一刀を村人は珍しそうに眺めていたが、馬上で一刀が蹲っているのを見ると、慌てて駆け寄ってきてくれた。

 大丈夫か! という村人の野太い声を遠くに聞きながら、一刀は意識を失った。

















 目を覚ましたのは、しばらく後のことである。

 一体どれだけ眠っていたのか。ぼんやりとした頭で見回すと、自分が小屋の中に寝かされているのがわかった。土間に筵がしかれただけのものだったが、屋根があるだけ、面倒を見てくれただけでもありがたい。

 腹に痛みはぼんやりと残っていたが、我慢できないほどではない。差し込む日差しの明るさから、一晩はこうして寝ていたのが解った。

 筵の上で起き上がると、小屋の隅にいた女性が駆け寄ってくる。

「具合はいかがですか?」
「おかげさまで大分良くなりました」

 一刀がそう答えると、女性は安堵の笑みを浮かべた。笑うと目元の小じわが少しだけ目立つが、農村にしては物腰の穏やかな美人だった。

「昨日、村の入り口で倒れられた時には心配しましたけれど、これなら大丈夫そうですね。旅の方ですか? 何か商いをされているとか」
「いえ、見聞を広めるための旅の途中です。元々この村で宿を借りる予定だったんですけど、少し前の丘で具合が悪くなってしまって」
「村長様によれば、食あたりのようですよ」
「食べ物には気をつけないといけませんね」

 村が近かったから助かったようなものの、中間地点で具合が悪くなっていたらなす術もなく行き倒れていただろう。ここまでもった身体の頑丈さと、ただの行き倒れを看病してくれた村の人々に感謝である。

「俺を診てくれた村長さんにお礼を言いたいんですけど、村長さんはこの時間ご在宅でしょうか」
「ご高齢の方ですからお家にいらっしゃると思いますよ。行かれるのでしたらご案内いたしますけれど、まずはこちらを」

 そう言って女性が差し出したのは白湯だった。縁の欠けた椀に口をつけると程よい温かさが身体の中に広がっていく。何の味もついていない本当にただの白湯だったが、今はその温かさがとても心地よかった。

「ご馳走様でした」
「お粗末様でした。村長様のところから帰ってきたら、食事を用意いたしますね」
「何から何までありがとうございます。自己紹介がまだでしたね。俺は北郷一刀です。姓が北郷で名が一刀。字はありません」
「ご丁寧に。私は崔心と申します。お召し物はあちらに用意してますので、ご用意が整いましたらお声がけください」

 深く頭を下げると、崔心は小屋を出て行く。彼女に示された先には質素ではあるものの頑丈な仕立ての服が用意してあった。袖を通して見ると、丈はぴったりだった。荀家で一度着せてもらった軍衣に近い着心地だ。近いではなく、本当に軍衣なのかもしれない。

 農村に何故? と率直な感想を持つ一刀だったが、立ち入ってはいけない問題のような気がして、その疑問は胸の奥に押し込めた。帯を締めて身なりを整えると、小屋の隅にまとめて置かれていた自分の荷物の中から、剣を取り出す。それを帯に差し込んで、準備完了だ。

 帯剣して出てきた一刀に崔心は目を丸くしたが、直ぐに気を取り直して先に立って歩き出した。太陽が、ちょうど真上の位置にある。正午に近い午前中、もう少ししたら皆が昼食を取るような、そんな時間であるようだ。

 先の街で調べた所によれば、この村に住んでいるのはおよそ200人。村にしてはそこそこ大きな規模だ。農業以外に特に産業のような物はなく、村民はほぼ全員農業に従事している典型的な農村である。

 崔心に連れられて歩いていても、周囲に村民の姿が見えた。田畑の中で農作業をしてる彼ら彼女らの視線を受けながら歩くのは非常にこそばゆい。

「皆、俺が腹を壊して倒れたってことは知ってるんでしょうか」
「昨日は村中大騒ぎでしたからね。有名人ですよ、北郷さんは」

 どうりで視線が生暖かいと思った。村人達は一刀を見ると皆作業の手を止めて手を振ってくる。好意的に受け止められていることは喜ばしいことだが、そうなった原因が原因なので素直に喜ぶことは出来なかった。

 そんな視線を浴びつつも農道を行き、村の中央の広場を通り過ぎると、北の方へ向かう。他の家が小屋であったのに対し、村長の家はちゃんと家をしていた。隙間風が遠慮なく入ってきた崔心の家に比べて、こちらはしっかりとした造りをしている。どこに村長の家があるのか知らなくても、村全体を歩き回れば一目でこれが村長の家だと解るだろう。

 これならば一人で歩いても解ったかもしれない。昼間に看病から案内までつき合わせて申し訳ない気持ちになっていると、崔心はそんな一刀の心を知ってか知らずかずんずんと進み、村長の家の戸を叩いた。

「崔心です。昨日の旅の方をお連れしました」
「おう、入ってもらいなさい」

 しわがれた老人の声に、崔心が戸を開いて一刀を促した。先に入れということらしい。ここは知らない人間の家で、村長さんと言えば村では一番偉い人だ。既に死ぬほど世話になった後だが、何か粗相があったら不味いのではないだろうか。

 不安に思って崔心を見やると、彼女はただ微笑み返すだけだった。その笑顔が早く入れという催促に見えた一刀は心中で覚悟を決めると、敷居を跨いだ。

 天井が高い、というのがその家の最初の印象だった。勿論、荀家の部屋とは比べ物にならないほど質素だったし実際にそれほど高くはないのだろうが、気を失って目覚めた部屋の印象が強いせいかそう思える。

「具合はどうかな、お客人」

 声をかけてきたのは、皺だらけの顔に白く長いひげという、いかにも村長といった面構えの老人だった。あまりにもお約束な村長の見た目に一刀が噴出しそうになっていると、村長は自分の前の座布団を一刀に勧めてくれた。

 村長の奥方らしき女性がお茶を出してくれる。椀はやはりかけていたが、白湯ではなくてお茶だった。

 ご丁寧に、と頭を下げて茶を啜る。上等な葉を使っている訳ではないようだったが、淹れ方が丁寧だったのか、お茶は非常に美味かった。

「おかげさまで大分良くなりました。遅れましたが俺は北郷一刀と申します。姓が北郷で名が一刀です。字はありません」
「私は高志と申します。こちらの村で村長など勤めさせてもらっております」
「失礼ですが、医術の心得がおありで?」
「医術などとんでもない。少々野草についての知識があるだけでしてな。長いこと生きていると無駄な知識がつくこともあるもので、そうした知識を年甲斐もなく披露してみたくなることもあるのですよ」
「その知識のおかげで助かりました。改めて礼を言わせてください」
「いやいや、どうして助かったと言えばそれは客人の天運でございましょう。この村まで辿りつけさえすれば、例え儂がいなくとも客人は助かっていたはずです」
「死にそうなほどに腹が痛かったんですが、もしかして大した症状ではなかったのですか?」
「大事ではない、といったところでしょうかな。薬など飲まずとも客人くらいの体力があれば二日三日安静にしておれば快癒したことでしょう」

 それは良かった、と高志の話を聞いて一刀は心中で安堵の溜息を漏らした。これが大きな病気でまだ油断のならない状況が続いている、というのだったら一刀だって死にたくはない。矜持も何も捨てて、荀家まで舞い戻っていたことだろう。そうなると一生あの家に頭が上がらなくなるだろうが、死ぬよりはマシだ。

 勿論、高志が診断を誤っており実は酷い病気ということもあるが、それを気にしだしたらキリがない。医術方面の知識はどう考えたって高志の方がある。疑う理由もなし、問題ないと彼が言うのならそれを信じることにする。

「でも、今こうしてご挨拶に来られるのは村長様が俺を診てくださったおかげです。何かお礼をしたいのですが」
「礼などと。病の人間を見捨てるような薄情者はこの村にはおりませんよ。人間として当たり前のことをした。ただそれだけのことです」

 高志は言うが、黄巾賊が跋扈しているような世の中だ。都市部も農村部も困窮していることは間違いない。余分に人間を食わせるような余裕を持っている家など稀だろうし、どこの人間とも知れない人間を助けるなど、本来なら望むべくこともないだろう。

 知り人のいない土地で病に倒れることは、死に直結しかねない大事だ。

 もし、この村の人間がもう少し生きることに正直で、他の命に対して薄情だったら一刀は身包みはがされ今頃は野の獣の餌にでもなっていたことだろう。

 不幸な目にあって、なおかつ生きているということ。あらゆる力を持たない異邦人の一刀にとって、今の状況は奇跡に近いことだった。

 利よりも情を取って人を助けた村長は、礼など良いと言うだろう。

 だが、それでは一刀の気が納まらなかった。

「倒れた後で言うのも何ですが、体力にはそこそこの自信があります。いま少しの間で結構です。下働きでも何でも致しますから、ご恩を返させてください」

 お願いします、と一刀は床に額をこすりつけるようにして頭を下げた。村長は困惑するが、頭を上げろ、とは言わなかった。

 こちらの気持ちを斟酌してくれているのだろう。

 そしてここで初めて彼の中で利が動いているに違いない。

 労働力というのはいくらあっても困ることはないが、労働をするために人は食料を必要とする。ここに例外はない。一刀も高志も生きている以上腹が減るし食事もする。

 問題は、その食料が有限であるということだ。労働力が増えたとしても、それが消費する食料に見合わなければ善意の働きだったとしても赤字である。加えて眼前で頭を下げている男は農業の経験があるようには見えないし、病み上がりである。

 短い間と区切って使うとしても、村民ほどに役に立つとは思えない。なのに食料は同じだけ食うことになる。向こうから頼み込んできたとは言え、形の上では客人だ。仕事が出来ないからと言って無碍にすることは出来ない。

 快癒したのならば、さっさと出て行って欲しい、というのが正直なところだろう。一刀も頭を下げてから相手がそういう気持ちなのではということに思い至ったが、下げてしまった頭と口にした言葉はもう引っ込めることは出来ない。

 無限とも思える時間は、高志の唸るような声で終わりを告げた。

「客人は、読み書きは出来ますかな?」
「一通りは。計算も出来ます」
「ならば、村の子供達にそれを教えていただけませんかな。普段は私がやっているのですが、子供達も若い人間に教わった方が身も入るというものでしょう。お客人が完全に快癒するまで……そうですな、一週間もやっていただければよろしいかと」
「それでご恩が返せるというのなら、喜んで」

 妥協の結果の配慮だったが、その辺りが限界だろうと一刀も納得した。旅の目的を考えればいつまでもこの村にいる訳にもいかないのだ。恩返しをする機会を与えてもらっただけマシというものだろう。

「滞在する間の宿は、崔心、お前の家を貸してあげなさい」
「かしこまりました。村長様」
「良いのですか? その、俺が泊まっても」

 すんなりと村長の提案を受け入れた崔心に、一刀は慌てて声を挙げた。

 女性の家に男が上がりこむのは、常識的に不味い。田舎だからそういう感性が緩いのかもしれないが、何か間違いがあってからでは遅い。率先して間違いを起こすつもりは一刀にはなかったが、世の中万が一ということはある。

 健全な男子としてはそういう間違いが起こることを聊か期待しないでもないが、恩返しのつもりで滞在を申し出たのに、エロ脳全開でそれをぶち壊しにするのは流石に格好悪い。

 掘っ立て小屋でも何でも良いから場所を変えてくれ、くらいのつもりで一刀は声を挙げたのだが、しかし崔心は一刀の言葉を受けて穏やかに笑みを浮かべてみせた。

「北郷様は村のお客様なのですから、ご心配などなさらず。それに私の小屋が住んでいる人間が一番少ないのですよ。私と息子の二人だけですからね」
「……息子さんがいらしたのですか」

 とてもそんな年には見えない、と言ったら下心アリと思われたりしないだろうか、などと考えているうちに、宿は崔心の家ということで話は纏まってしまった。家の大きさを見るに村長の家に泊まるのが一番問題がないように思えるのだが、その辺りは余所者にはわからない村のパワーバランスのようなものがあるのだろう。

 高志が当然のようにそれを言い出し、崔心は少なくとも嫌な顔一つせずに受け入れた。それだけ解っていれば、泊めてもらう立場の一刀にはそれ以上言うべきことはない。彼女の他に人が、それも息子さんがいるのなら何も心配することはない。ちょっとだけ残念という気がしないでもないが……

 しかし、崔心がそれではと、その場を去ろうと促そうとしたその時、高志の家に飛び込んでくる人影があった。戸を蹴破るような勢いで飛び込んできたのは、黒髪の子供である。少年だか少女だか判断しかねるみつあみにされた長い黒髪の子供は、乱れた息も整えぬままに言った。

「賊がきました!」


 一刀の手が剣の柄に伸びる。気づくと一刀は立ち上がっていた。





言い訳という名の中書き
大分間が開いてしまいました。お久し振りです。
荀家を飛び出して今回から別シリーズが始まります。
反董卓連合に合流するまでの準備期間とお考えいただけたら幸いです。

一話目ということで一刀の他に原作キャラが出てこないというヤバい状況ですが
次話の終わりからようやく登場します。
誰にするか悩みに悩んだ、チームちんこ最初期からの軍師役です。
誰になるかは次話をお楽しみに。







[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第七話 とある農村での厄介事編②
Name: 篠塚リッツ◆2b84dc29 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:51
「賊とは何事だ、子義」

 飛び込んできた少年――子義に高志は僅かに声を荒げて問いただした。肝が据わっているのか、切迫した事態の割りに落ち着き払った子義は、高志の問いに淡々と答える。

「賊は賊です。武器を持った男が五人、村の入り口で食料を寄越せと喚いています。止めようとした魯宗さんが斬られました」
「斬られた……死んだのか!?」
「いいえ、腕を斬られただけです。血は出ていますが死にそうにはありません。今は皆で賊と睨みあってますが、乱闘になったら死人が出るかもしれません。ということで、村長を呼んでこいということになったので、俺が参上しました」
「そうか。ご苦労だったな子義」
「とんでもありません。それでどうしますか、村長」

 子義の問いに高志は唸る。賊に食料をくれてやるほどの余裕が村にあるはずもないが、既に怪我人が出ている以上、断っては何をされるか解らない。

 村長としては判断の難しいところだろう。食料を渡して帰ってもらうのが最も危険の少ない対処で、それは一刀でも思いつくことだったが、それで賊が大人しく帰ってくれるとも思えないし、居座られたらもっと厄介な問題を抱えることになる。役所に訴え出ても今の時代、五人という少ない賊を相手にこんな農村にまで官軍を回してくれるとも思えない。

 対処するとしたら自分たちでやるしかないのだが、それが出来たら高志も悩んだりはしないだろう。遠からず、食料を渡してどうにかお引取り願う、という結論に至るはずである。村民の数は五人の賊を大きく上回っているが、武器を持った相手に身内が傷つけられている以上、そこで爆発しない時点で、皆及び腰になっているに違いない。

 気がひけてしまえば、相手は何倍にも大きく見えるものだ。戦ったことのない、ましてや訓練を受けたこともない人々であれば、仕方のないことである。

「村長様、俺も一緒に行っても良いですか?」
「客人が? それはありがたいことですが、ご迷惑ではありませんか?」
「ご恩を返したいといいました。今は絶好の機会でしょう。俺が何とか出来そうな相手だったら何とかします。出来なさそうだったら、まぁ、その時に考えましょう。まずは現場に行くことです。お供しますよ」
「申し訳ない。ご一緒願います」

 腰を上げた高志を支えるように、一刀がその隣に立つ。農村の村長なだけあって、見た目よりも頑強な高志の足取りはしっかりとしていた。高志は妻らしき女性に食料の手配を頼むと、一刀を伴って家を出る。

 外に出ると、遠めに村人が集まっているのが見えた。小さく、賊らしき人間の怒号が聞こえる。人垣に動きがないことを見ると、事態は硬直しているのだろう。新たに怪我人が出たという気配もない。一方的に多数の死人が出るという最悪の事態は、今のところ回避できているようだ。

「ところで、元気になったんですねお客人。うちに担ぎ込まれた時は死にそうな顔をしてましたけど、元気になって良かった」
「おかげさまでね。うちってことは、君は崔心さんの?」
「はい、息子です。子義って呼んでください」

 村の入り口まで、ただ駆ける。全力疾走している訳ではないが、明らかに老人である高志が普通についてきているのは驚きだった。老齢であっても健脚ではあるらしい。賊の待つ場所に向かっているというのに、その足取りには淀みがなかった。

「子義、賊の五人なんだけど、頭に黄色い布を巻いたりしてた?」
「布ですか? いえ、全員頭には何も巻いてませんでしたよ」
「鎧とかは?」
「普通の服です。持っているのは多分、手に持った武器だけでしょう。五人全員が剣を持ってました。あまり強そうな剣ではありませんでしたね」

 落ち着き払った子義の説明に、村長が唸る。最初期ならばともかく、黄巾の乱も今は末期だ。冀州で決戦が行われるような状況であるから、街から離れた農村であっても黄巾賊がどういうものか、くらいは知っているだろう。最大の特徴である黄巾についても言わずもがな。

 無論、目立つことを嫌った連中が黄巾を外しているということも考えられなくはないが、五人という人数はいかにも少ない。黄巾賊とは無関係か、所属していた過去があったとしても決戦には加わらず少数で逃亡するような浅い関係……そんなところだろう。

「どうしますか、高志殿」
「……食料を渡して帰ってもらうより他はないでしょうな」
「納得して帰ってくれますか?」
「帰ってもらうより他はありませんでしょう。それ以上を渡すか、奴らに居座られでもしたら我々は飢えて死ぬしかありませんでな」
「危険を承知で提案なんですが、戦うことも考えませんか?」
「武器を持った賊を相手に、村人を危険に晒す訳にはいきませんぞ」
「尤もです。だから、危険を冒すのは俺だけです」
「相手は五人と聞きました。客人はそれだけの武をお持ちなのですかな?」
「誇るほどの武はありませんけどね……でも、考えるくらいはいいでしょう。賊が苦もなく食料を得て、この村の人が飢えるのは間違っています」
「世の中正しいことだけで回っている訳ではありませんぞ。誰もが戦うだけの力を持っている訳ではないのです」
「だから、俺だけです。駄目なようだったら手は出しません。俺だって死にたくありませんからね。でも、行けそうだったらやってみます。全員倒す自信はありませんから、残った奴は誰かに相手をしてもらうことになりますが……」
「客人は私の話を聞いておられましたか?」
「高志殿の許可がなければやりません。貴方が大人しくしていろというのなら、俺はそれに従います。貴方が戦えといい、俺もやれそうだと思えたら戦います」
「律儀ですな、お客人」
「ご恩を返せるとしたら、こういう時でしょう。いずれにせよ、決断は高志殿にお任せします」

 勝てる算段がある訳ではないのは話を聞いていれば解ったことだろうが、余裕のある物言いは高志を動かしたようだった。村の入り口の人垣は、もう間近に迫っている。村人達の幾人かがこちらに駆けて来る一段の中に村長がいるのを見て取っていた。結論を出すとしたら、今しかない。

「やれる、そう言っていただけますか?」
「やれるかも、としか答えられません」
「…………子義、お前はどうだ、賊と戦えると思うか?」
「五人しかいませんからね。武器を見て皆怯えてますけど、お客人が賊を一人二人倒してくれるなら、皆奮起すると思います」

 高志は否定的な意見をもらいたかったのだろうが、この中で最も年若い子義が、最も好戦的なようだった。一刀は思わず高志と顔を見合わせ、同時に溜息をつく。

「まず儂が賊と話を致します。客人は賊を見て、やれそうだと思ったのならやってください。機はお任せします」
「高志殿一人近すぎます。下手をしたら巻き込まれますが」
「その時は構いません。賊を倒すことを優先していただきたい」
「解りました。ご武運を」
「そちらこそ。やるのなら、頼みましたぞ」

 にやりと口の端を上げると、高志は人垣を割って賊の前に進み出た。一刀は閉じようとする人垣に割って入り、最前列まで進み出る。子義の言う通り、賊は五人だった。武装に関する話に齟齬はない。全員が武器――古ぼけた剣を持っている。高志の正面に一人、その男が五人のリーダー格のようだ。その背後に二人、さらに少し離れて左右に二人ずつ。全員が男で、一刀からみて一番左の男の剣に血糊がついていた。

 斬られた男性は応急処置を受けながらも、人垣の最前列に残っている。これも子義の言った通り、ただ斬られただけのようで命に別状はなさそうだが、録に手入れもされていなそうな剣で斬られたことで妙な雑菌が身体の中に入らないとも限らない。怪我をしたのは彼一人のようだが、治療をするのなら早くする方が良いだろう。

 そのためには賊を早急に排除しなければならないが……一人一人を丹念に観察した一刀は静かに、しかし大きく溜息をついた。

 どう見ても素人だ。それも、全員。

 人間は物を持つと重心が狂い、物が重くなるほどその狂いは大きくなる。真剣などになってくると持って普通に歩くだけでも慣れが必要で、抜刀して振り回すとなると違和感なく扱えるようになるまで相応の鍛錬が必要になる。

 眼前の賊五人は、明らかに剣を持ち慣れていない。身体は筋骨隆々とはいかないまでも決してひ弱ではないのだが、武器の取りまわしには不自然さが際立っている。武器を持って戦ったことがないのだろう。もしかしたら、賊の真似事をするのすら今回が初めてかもしれない。

 行くか行かないか、考えるまでもなかった。想定された範囲の中では、人数以外は文句なしに好条件が揃っている。子義に目をやると、彼は小さく頷いた。一刀がそろり、と歩き出すのに合わせて子義もこっそりと場所を移動する。

 一刀と子義が何かやろうとしていると気づいた村人の幾人かが、身体を強張らせるのが見えた。頼むから早まってくれるなよ、と心中で祈りながら一刀はそっと剣の柄に手をかける。

 高志の提案に首領格と思しき男が声を荒げた。足音も高く歩み寄り、高志の胸倉を掴み上げる。

 それが合図となった。村人たちは避けて一刀のために道を作る。遮る者のなくなった道を行きながら、腰帯から鞘ごと引き抜いて一刀は雄叫びを上げた。

 声に驚いた男が胸倉を離すと同時に、高志は年齢を感じさせない速度で飛びのく。驚いたままの男は剣を構えようとするが、遅い。鞘に納められたままの剣が男の脳天に叩きつけられる。鈍く気持ち悪い感触が一刀の手に伝わるが、それでも動きは止めない。

 駆けた勢いもそのまま体当たりするように男に肉薄し、鳩尾に容赦のない前蹴りを叩き込む。頭から血を流していた男はなす術もなく吹っ飛び、背中から地面に激突して動かなくなる。

 まず、一人。

 首領格の男が倒されたことで流石に賊も殺気立つが、心構えもさせるつもりはない。一刀から見て右手、剣をどうにか構えた賊の男の腕に、一撃。鈍い痛みに剣を取り落とした賊を見るとはなしに見つめながら、打ち込んだ剣の切っ先をそのまま胸に叩き込んだ。

 嘗てないほど綺麗に決まった『突き』に二人目の賊が崩れ落ちる。背後からの殺気が篭った叫び声に、一刀は咄嗟に飛びのいた。直前まで一刀のいた空間を、剣が通り抜けていく。そのまま足を止めていたらあれを喰らっていたと思うとぞっとするが、これは好機だった。

 避けられると思っていなかった男の剣は力の行く先を見失い、そのまま地面に叩きつけられる。がら空きになった男の胴を左から払い、涎を流しながら崩れ落ちる男の顔に、フルスイング。ハリウッド映画のやられ役のように綺麗に回転した男は、映画とは似ても似つかない嫌な音をたてて、地面に頭を打ち付けた。

 これで三人。

 後二人――と周囲を見回すと、一刀が駆け出すと同時に賊の一人に飛びついていた子義が、それを打ち倒すところが見えた。子義は素手、賊は武装していたが物怖じしない子義はそれでも果敢に勝負を挑み、特に怪我という怪我をすることもなく打ち倒していた。

 最後に残った一人は、たたらを踏んでいた。位置的に一刀に襲い掛かるはずだった男は二番目に一刀に倒された男が邪魔で前に踏み込めずにいるうちに、自分以外の全員が打ち倒されてしまったことで完全に腰が退けていた。

 怯えて縮こまっている人間ほど、怖くない物はない。もはや恐れる必要はないと看破した村人達は一斉に最後の男へと群がり、剣を取り上げるとタコ殴りにした。細く男の悲鳴が聞こえるが、自業自得だろう。流石に殺すまではしないと思うし、もし死んだとしてもやはり自業自得だ。

 一仕事終わった。気の抜けた一刀は剣を抱えたまま地面に腰を下ろした。使命感によって忘れていた疲労と、人を打ち、殺されていたかもしれないという恐怖が一刀を襲った。

「お客人、見事な手際ですね! もしかして傭兵ですか?」
「いやぁ、俺の腕じゃ傭兵なんて務まらないよ。今日出来たのは、運が良かっただけで……」

 子義に答えられたのはそこまでだった。最後の理性で子義を押しのけると、気合で押さえ込んでいた胃の中の物が地面に撒き散らされる。いきなりげーげー吐き出した一刀に、賊を取り押さえにかかっていた村人たちも驚きの目を向けた。

 胃の中身が空になり気分が少し落ち着くと、一刀にも自分の姿を省みる余裕が出てくる。

(キメきれないなぁ、俺……)

 微妙な視線を向ける村人の視線の中で、一刀はまだ酸っぱい匂いのする息を深く吐き出した。











 打ち倒した賊に死人はなかった。

 村人の一部は殺してしまえと息巻いていたが、ただの農民にそこまでする権利はない。しばらくは納屋に放り込んで反省を促すと高志が決めた矢先に、近くを官軍が通りかかるという情報が村に飛び込んできた。

 これ幸いと、一刀他村の男衆が中心となって官軍に賊を引き渡す。小さな賊狩りになど腰を上げてくれない官軍だが、既に打ち倒されているならば話は別だったらしい。荷物が増えたと嫌な顔はされたものの、賊は無事に引き取られた。

 恩賞を貰えなかったことに男衆は不満を漏らしていたが、村としては危険を遠ざけてくれるならばそれだけで十分だ。幸い賊の持っていた武器についてまでは言及されなかったので、回収した五本の剣は全て砥石を持っている高志の家に運び込まれた。

 研ぎ直さなくとも剣はいざという時の武器にも使えるし、武器は売れば金になる。人を傷つけるために存在しているようなものでも、持っていて困るようなことはない。剣五本。これだけが賊から得た収入だった。何も奪われず、得るものだけ得たと考えればこの上ない幸運と言えるだろう。

 思わぬ災難が降りかかり活躍の機会が訪れたが、一刀が高志から任された本来の勤めは村の子供たちに読み書き計算を教えることだ。

 元々腹を下した上に吐くほどの緊張を受けて身体はぼろぼろだったが、仕事はこなさなければならない。

 賊の襲撃を受けた翌日、官軍に彼らを引き渡して諸々の手続きを片付けてから村に戻り、子義の家で一晩を明かしてから高志の家に改めて報告に行くと、彼は神妙な面持ちでこう切り出してきた。

 曰く、村に自警団を創りたいので力を貸してほしい。唐突と言えば唐突な提案だったが、前から考えていたことではあるという。兵士の経験がある村人と協力して、せめて村人を安心させられるくらいの力がほしい、というのが高志の言い分だった。

 自分の力のなさは良く知っている。その提案をやり遂げる自信はなかったが、村には恩義があり、彼らを助けたいという気持ちは強く持っていた。高志の提案に否やはない。

 自分を頼ってくれるのならばそれは願ってもないことだろう。全力を尽くす、と高志に答えてその場で快諾し、最初に頼まれた寺小屋もどきも平行して準備作業を行い、兵士経験者の村人と共に自警団組織の基礎を作り上げることとなった。

 下は十二歳から上は要相談――参加メンバーの最高齢は五十六歳である――の健康な村民という条件で召集をかけた結果、二百十二人の村人の中の、五十三人が参加を申し出た。これは条件に合致する村民の全員である。

 自分と同年代の人間が沢山集まることを期待していた一刀だが、集まった人間の中にはその年代はいなかった。一刀よりも少し若いか、そうでなければ二周りは年上という構成である。数字のマジックで平均年齢は一刀よりも少し上ということになるが、それは一刀よりも年下の少年少女が年配の村人よりも大分多いという構成だからだ。

 働き盛りの人間は皆、出稼ぎに行っているという。彼らの手をなしに農作業をするのも相当な負担だろうが、彼らの稼ぐ金銭がなければ村の生活もまた立ち行かない。その上に賊の横行だ。今回はたまたま相手がハズレで村を守ることが出来から良いが、いつもっと大きな危険に見舞われるとも限らない。組織だった行動を考えておくというのは、当然の帰結と言えた。

 彼らを集めて一刀がまず行ったのは、従軍した経験のある世代を中心に班を作る事だった。個人の戦力差はないものとして、人数を均等に割り振る。それで十一人の隊が三つと、十人の隊が二つ作られる。

 これをさらに五人、あるいは六人のグループに分けて、それを最低数の構成とした。この五人組で仕事を割り振り行動するのだ。荀家の警備隊がやっていたのを真似ただけのことだが、官軍ではスタンダードな構成だったらしく、兵士経験者がいたこともあってこの割り振りは一刀が思っていた以上にきちんと機能した。

 次に活動する時間である。

 農作業を休むことは出来ないから、それ以外の時間に自警団としての仕事を割り振る。村の周囲に柵を造り、既存のそれを補修強化したり、夜間の見回りも行うことにした。仕事が増えたと文句を言う人間もいたが、備えがあれば憂いはないと高志の一声で却下される。

 自警団は形の上では即日運用されたが、形だけで運用することは出来ない。何をどうすれば良いか解っているのは、一刀と兵士経験者だけだったからだ。まずは他のメンバーにどういう意図でそれを行うのか、頭と身体で理解させなければならない。

 技術も同様だ。農作業をしていただけあって基礎体力、筋力は問題ないが戦うための技術はないに等しい。そういう訓練を施すのも、農作業を特に必要としない客人の一刀の仕事とされた。

 日が高い内はは農作業に参加しない老齢の村人と共に村の周囲の柵を補修強化し、狩の出来る村人の家で弓と矢を作る。日が沈み始めてからは作業の暇を見つけて村の子供達に教える読み書き計算の準備と、自警団の指導の確認をする。

 武器の持ち方から素振りの仕方、いざという時の戦い方など、事細かに、それ以上に解りやすく教えるためにはどうしたら良いか。侯忠に教わったことを思い出せる範囲で思い出し、この村の規模でも実現できる範囲で取り入れていく。

 勉強も自警団の訓練も農作業が終わってからの疲れている時間帯に行うが、文句は言いつつも村人はちゃんと勉強に付き合い――子義は隙を見ては逃げ出すが――訓練にもきちんと参加し、自警団としての仕事も行った。

 そうして一刀が当初滞在する予定だった一週間が経つ頃には、見切り発車の自警団はそこそこの機能を発揮し始めていた。暇な一刀が全力で取り組んだこともあり、柵は村をぐるりと囲むように構築された。ただの柵なので防衛機能は寂しい限りだが、あるのとないのとでは雲泥の差がある。折を見て強化する必要はあるだろうが、今はこの程度で十分だろう。

 慣れない仕事は村人全員に負担をかけたが、守るために何かをしているという事実は彼らに思った以上の安心感を与え、二週間もする頃には村人の誰もが自警団の仕事にやりがいを感じるようになる。

 その頃になって、近隣の村から人が訪ねてくるようになった。賊に襲われたら困るから、うちでも自警団を作りたい、力を貸して欲しいというのだ。

 村に世話になっている立場の一刀は、この問題に高志の助言を求めた。勝手に力を貸したら角が立つと思っての問いだったが、高志は快く快諾してくれた。

 ゴーサインを出されたら、今の一刀を止める者はいない。どこの村にも兵士経験者の一人や二人はいたから、同じ物を同じように作るのは簡単なことだった。一刀が行って基本的な部分を指示するだけで、何処の村でも高志の村と同じようにある程度の形にはなった。

 手を貸した以上一から十まで指示した方が良いのかとも思ったが、どうもあちらの村がやるならこちらも、という対抗意識が根っこの部分にあるようで、近隣の村々には高志の村所属とみなされているらしい一刀に、他の村の住民達はあまり手を借りたくないようだった。

 教わるだけ教わったらはい、さよならと丁寧に追い出そうとする村人に苦笑しながらも、何かあった時には力をあわせて連絡するという約束を、各村の代表を一応取りつけたことで、自警団のネットワークを作ることも出来た。

 頼りないネットワークであるが、ないよりはマシだろう。いざという時に助けてくれる人がいるということは、対抗する村の人々に安心感と、ほんの少しの連帯感を与えてくれる。

 形が整ったら、後は訓練するだけだった。基礎が済んだらそれと平行しつつ、応用の訓練も始める。実戦経験がなく錬度が低い子供が半分以上を占める以上、勝負をするとしたら連携でするしかない。

 複数で動くことを徹底させ、常に多数でもって敵に当たる。いざという時にチームで動いてどう対処するのか。他人の邪魔にならないよう、自分はどう動けば良いのか。教える一刀も頭では理解しているつもりだが、実行に移してみるとこれが難しい。

 構築の責任者として自警団の初代団長に任命されているから、一刀も一つの部隊を任されている。兵士経験者は全員隊長に割り振られているため、部隊のメンバーに年長者は三人ほどいたが、副隊長には子義が収まっていた。

 理由は簡単である。個人の戦闘では一刀以外、子義には勝てなかったからだ。兵士経験者にはかつての軍での経験があるが、寄る年波には勝てないようで継続的に農作業をするだけの体力はあっても、瞬発的な戦闘行動をすると身体が追いついてこなかった。無尽蔵の体力と驚くほど短調ではあるが苛烈な子義の攻めになす術もない。

 その子義をどうにかできることが、余所者の一刀が団長を一月も続けられる理由の一つであるのは、今更言うまでもない。一月経ったことで運用することに一刀が口を出すことはほとんどなくなっている。

 後は経験者が中心となれば自警団を回していくことが出来るだろう。一刀の役目はもうほとんど終わったと言っても良い。最初は一週間のつもりだったのに、一月も滞在しているのだ。元々旅をすることが目的であったのだし、この辺りが潮時と一刀は考えていた。

「団長、やっぱり強いですねぇ……」

 木刀を喰らって地面に転がっていた子義が、何事もなかったかのように起き上がってくる。細身の癖にタフなのだ。身体能力の点から見ても、身体の構造からして違うのかもしれない。

「俺が強いとか言ってたら軍に入って戦ったら腰抜かすぞ」
「それはそれで見てみたい気もしますけど、軍は母上があまり良い顔をしないんですよね」
「崔心さんは軍が嫌いなのか?」
「父上が戦で亡くなったそうで、それ以来あまり良い思いはしてないようです」
「悪いこと聞いたかな」
「お気になさらず。俺が生まれる前の話ですし、最近は軍に関しても前よりは理解はしてくれてるみたいですから」
「じゃあ、子義もしばらくしたら出稼ぎに軍に行くのか?」
「前よりもなだけで良い顔してくれる訳ではありませんからね。別の方法を探すことになるんじゃないかと思います」
「軍以外の方法って商家に奉公に行くとか?」
「それはちょっと……俺頭悪くて腕っ節だけですから、出来たらそういうのが活かせる仕事が良いんですよね。団長、どこか知りませんか? 軍じゃなくてそういうのが活かせる仕事」
「知ってるには知ってるけど……」

 一刀の脳裏に浮かんだのは、この世界で唯一のコネである荀家の屋敷だった。そこの警備ならば軍ではないが腕っ節がそこそこに重要視される職場で、戦に行く訳ではないから崔心もそれなりに安心してくれるだろう。

 客人とは言え関わりの薄い自分の紹介を受けてくれるか微妙に自信がなかったが、子義ほどに才能があれば拒まれはしないだろう。

「ただ、頭が良いことで有名な一族の屋敷だからお馬鹿さんは敬遠されると思うな」
「あぁ、じゃあ俺は無理ですね」
「そのために勉強しようとか思わないのかな、お前は」
「向いてる物を伸ばした方が良いはずですから!」

 前向きに後ろ向きなことを考える子義に、一刀は思わず頭を抱えた。崔心も子義の頭の残念さは心配しているようで、読み書き計算を教える一刀にはそこはかとなく期待の目を向けている。もう一月も厄介になっている手前、何とか形にしておきたいとは思うのだが、教えようにも逃げ出してしまうのだからそれ以前の問題だった。

 一応、簡単な計算は出来るようにはなったが、一桁の繰り上がりのない足し算を三回に二回は間違える状態を出来るということは、流石に憚られた。戦うこと以外は典型的なアホの子の子義である。

「礼儀正しいのにアホってあまり見ないけどな」
「そういうことは母上に教え込まれましたから、ちゃんと出来ますよ」
「先生としては、教えれば理解できるならもっと勉強してほしいんだけどな」
「あはは……」

 空笑いだけは、底抜けに明るい。

「団長こそ、軍に行ったりはしないんですか?」
「ないね。剣で名を挙げようと思ったことはないし、今は見聞を広げるって旅の途中だから」
「軍でも見聞は広げられると思いますけど」
「そりゃあそうだろうけどさ、何の制約もなく旅するのに比べたら見える物も狭いだろ?」
「じゃあ、軍に行く予定はないんですね」

 どこか落胆した様子で子義は溜息をついた。これ見よがしな態度に、一刀は軽く眉根を寄せる。軍で名を挙げられるほどの腕ではないと事あるごとに言ってきたつもりなのだが、どうにも期待されている節があった。

「俺が軍に行くと、子義は嬉しいのか?」
「団長が行くなら俺も! って手を挙げやすいじゃないですか。団長、結構母上には信用されてるみたいですから、団長が説得してくれるなら母上も許してくれると思うんですよね」
「結局子義は、軍に行きたいの?」

 崔心のことを考えている発言をしたと思ったらこれだ。戦うことは別に嫌いではないどころか好きな部類なのだろうが、それがなければ生きていけないという感じでもない。本人の気さえ向けばそれこそ他のどんな仕事だってやっていけるだろう。軍に拘る理由もないと思うのだが、

「それが一番稼げそうですからね」

 子義の答えは単純明快な物だった。金のために……と思うところないではないが、現代とは比べ物にならない程に格差のあるこの世界において、金を稼ぐというのは本当に重要なことなのだと理解できるようになったものの、自分よりも年下の子供から『金』という言葉を聞くことには、やはり抵抗があった。

「名を挙げることにあまり興味はありませんけど、母上には楽をさせてあげたいです」
「孝行するのは良いことだと思うけど、元気でいるのが一番だと思うよ。危ないことをしないで済むなら、その方が良いと俺は思うな」
「そうなんですけどね……まぁ、気が変わったらいつでも言ってください。団長にだったら俺はついていきますから」
「崔心さんの説得には巻き込まないでくれよ?」

 軽口を叩きながら、子義と二人で家路に着く。これから夕餉を取って一刀は自警団の仕事、シフトの入っていない子義は家で内職をすることになっている。家に篭るよりは自警団の仕事をする方が子義の性にはあっているようだが、崔心の言うことはきちんと聞く。これで手先もそこそこに器用で、縄なども綺麗に仕上げることが出来るのだった。

 職人とかも良いんじゃないか、と子義の将来について思いを馳せてみる。朝も早く起きて物造りに精を出す子義というのもイマイチ想像が出来ない。礼儀正しいし人懐っこいから気難しい親方などにも気に入られると思うが、少々考え方が雑なだけで身体を動かすことに関しては天賦の才を持っている子義だ。

 普通に考えるのなら、剣を持って軍に入ることこそが彼の才能を活かす一番の道だ。

 しかし、僅かではあるが人生の先達として、子義という人間を知る物として、子供を戦いに押しやることには抵抗を覚えるのもまた事実だ。平和に生きていけるのならば、それに越したことはない。それは何時の時代だって同じことのはずだ。

 それを解っているはずなのに、一刀はその子義を自警団の団員として使っている。強制した訳ではなくあくまで自発的に参加した子義だが、こんな子供まで立ち上がらなければ最低限の平和も守ることが出来ないのだと思うと、故郷の世界は何て平和だったのだと改めて思い知らされるのだった。

「どうした子義?」

 一刀が平和についてらしくもなく考えていると、子義があらぬ方向を見つめているのが目に入った。孝行息子なだけあって、子義は母である崔心のことを大事に考えている。家路についている時は、彼女のいる我が家のある方向から視線を外さないくらいなのだが、子義の目はそちらではなく、村の入り口の方を向いていた。

 一刀がこの村にやってきた方角である。何かったのか、と子義に問うよりも早く、一刀にも彼がどうしてそちらに視線を向けたのかが理解できた。

 土煙が上がっていた。人が駆けて出来るような大きさではない。おそらくは馬が力の限り速く駆けているのだろう。大きさからして大勢ではない、一頭か二頭……それよりも多いということはないはずだ。

 やがて土煙の中から見えてきたのは、一頭の馬だった。馬上には旅装束の男性がある。武装はしてないようだが、遠めに見ても薄汚れているのが解った。怪我をしているようには見えないものの、離れて見ていても尋常な様子ではないことは見て取れた。

 これは、有事である。

 そう感じ取った一刀は子義を伴って駆け出していた。走りながら大きく手を振り、こちらの姿をアピールする。相手の精神状態によっては無視されることも考えられたが、馬上の男は手を振る一刀の姿を見て取るとそのまま馬首をめぐらせ、近くまで来ると馬を棹立ちにさせた。

 馬の嘶きが、太陽の沈みかけた村に響く。間近で聞く馬の声に目を白黒とさせている子義を他所に男は転がり落ちるように馬上から降りた。

「村の代表者に会わせてくれ、大至急だ!」
「まぁ、まずは落ち着いて」

 男を眺めながら、一刀は子義に視線を送る。その意を汲み取った子義は高志の家へと走った。馬の嘶きと男の大声に、家々からも人が集まってくる。地方の農村であるから人がうやってくることなど少ない。それが血相を変えて飛び込んでくるのなら目を惹くのも当たり前だった。

「そんな暇などない、賊だ! こちらの方向にある村が、賊に襲われて滅びた!」

 こちら、と男が示したのは今さっき自分が馬で駆けてきた方角だった。あの方向にあってここから一番近い村にも覚えはある。この村に来る前に一刀も立ち寄り宿を借りた。規模はこの村よりも小さいが、人は素朴で温かかった。

 その村が滅びた? 男が嘘を言っている気配はなかったが、にわかに信じられることではなかった。

「嘘など言っていない。私は見たんだ! 黄巾の頭巾を巻いた連中が村を襲撃したんだ!」
「噂の黄巾賊ですか? あれは冀州で軍に打たれる直前と聞きましたが……」
「解らん。だが、北から来た」

 男は荒い息を吐きながら、事の顛末を語った。

 彼は旅の商人で、その村には宿を借りていた。太陽が落ちて夜も深まっていた頃、賊はいきなり村を襲撃し、家々を荒らしまわった。賊が襲撃してきた方向から離れた家に宿を借りていた男は只事ではない悲鳴に飛び起きて外に出た。

 見たのは、黄色い頭巾を巻いた連中が剣で容赦なく、村人を切り殺しているところだった。留まっていては殺される。そう悟った男は着の身着のまま自分の馬に飛びつき、村を飛び出したという。

 顛末を聞き終える頃には、男の息も整ってきていた。様子を見守っていた村人が差し出した椀に入った水を一息で飲み干す。大きく、それでいて疲れた溜息を漏らした男は、周囲にぽつぽつと集まった村人を見回す。

「賊が村を襲ったのは昨晩のことだ。私は村を飛び出してから馬で数里ほど駆けて夜を明かし、そのまま街道にそって駆けてきた。おそらく賊は、次にこの村を目指すだろう。用心した方が良いと忠告に来たのだ」
「賊の数は?」
「正確にはわからんが、二百はいたように思う」

 二百という数を聞いて、一刀だけでなく周囲の村人も絶句した。特に自警団に参加している人間は、その驚愕の色が濃い。

 自警団に参加している人間――この村においてはも戦うことが出来る人間――はおよそ五十人。男の言葉が正確だったとして賊の数はその四倍だ。期待を込めて実数はその半分だったとしても、まだ倍の開きがある。

 加えて彼らは黄巾賊で、人を殺すことにも躊躇いがない。戦闘の訓練こそ受けた人間は少ないだろうし、負けて南下してきたのなら決して万全の状態ではないだろうが、こちらは何しろ頭数のほとんどが、訓練を始めて間もない若い世代だ。

 数以上に、質の面においても大きく劣っていると言わざるを得ない。

「旅の方、詳しく話を聞かせてもらえますか」

 子義に伴われてやってきた高志は、息を切らせながらも男の話に耳を傾けた。高志が出てきたことで、村中に有事である、ということが伝わったらしく、内職や作業の手を止めて全ての村人が男の周囲に集まっていた。

 男は一刀にしたのとほとんど同じ話を高志に聞かせた。落ち着いて話しただけに緊迫感こそ減じていたが、それだけに事の深刻さはより正確に伝わる。賊の数がおよそ二百と聞いた辺りで眩暈を覚えたのか、高志はふらり、と身体をよろめかせた。

 搾り出すような声には、あまりに生気がない。

「ご苦労様でした。貴方様は、どうかゆっくりとお休みください」
「お気持ちはありがたいが、私はこれを他の村にも伝えねばなりません。これで失礼させていただきます」

 男は丁寧に水の礼を述べると馬に駆け寄り、来た時と同じくらいの速度で逆の方向へと駆けていった。今から他の村を目指しても、距離の関係で途中で野宿をする羽目になる。あんな軽装で夜を明かせるとも思えなかったが、賊が迫っているというのなら少しでも離れたいと思うのが普通だ。

 むしろ旅人という身軽な立場であったからこそ、彼は生き残り、逃げることが出来たのだ。その土地に根付いた生き方をしている人間は、そう簡単にはいかない。

 一刀は溜息をついて、どんよりと暗い顔をしている村人達を見渡した。土地に根付いた生き方をし、簡単には逃げ出すことの出来ない人間達がそこにはいた。

 住み慣れた土地を離れたくはない。そういう理由ならば話は簡単だった。命がかかった状況で感傷を優先させられる人間はそう多くない。賊が来る前に逃げられるだけ逃げる、ただそれだけで良い。

 だが事実として、村人達は一人として動こうとはしなかった。動けない理由があるのだ。

 逃げたとしても行くところがない。

 近隣にも村はあるが、どこも逼迫した懐事情を抱えている。二百人からの村人がやってきたところでそれを食わせるだけの余裕はない。

 食料を持って逃げるにしても持ち出せる量には限度があるし、食料の多くは地に根ざしている。農民というのは自らの土地を離れては食物の確保に難儀する職種だ。金銭の蓄えもあってないようなもので、生活の足しにはなってもしばらく生きていけるだけの貯蓄まで出来ているのは稀だろう。

 それに、逃げた所で賊は残る。村人が逃げられるということは、賊もまた追うことが出来るということだ。逃げる村人とただ進む賊。二者を比べた場合村人の方が足は早いだろうが、賊は村を荒らすだけ荒らしてはその数を減ずることなく、最も近い村へと再び襲い掛かる。

 いずれ官軍が賊の存在に気づいて重い腰を上げるだろうが、果たして村人全員が殺されるよりも早く、彼らはやってくるだろうか。村人達の顔色は暗い。助けてくれる、と思っている人間は一人もいないようだ。

 先ほどの男性が気を利かせて官軍の詰め所まで行ってくれたとして、その官軍がすぐさま賊を打つ為に動くとも考え難い。先も言ったがこの辺りは田舎で、最も近い官軍の詰め所にいる兵士は精々五十人。この村の自警団と異なり武装し訓練は受けているものの、四倍の数を相手にするには分が悪い。

 現在の官軍の風聞を聞くに、先ほどの男の話を聞いたとしても即座に動くようなことはせず、十中八九応援を待つという結論を出すだろう。この村の立場になって考えれば迷惑極まりない話だが、それが現実である。

 ならば自ら剣をとるか、と言えばそれは論外だ。

 素人ばかりのこちらでは勝てるはずもないし、よしんば痛撃を与えて撃退できたとしても、全滅に近い被害を受けることは想像に難くない。戦闘の舞台がこの村になるなら、田畑にも被害は出るだろう。

 戦っては死に絶え、逃げても生きる道筋が見えない。それを理解しているからこそ、村人は皆押し黙っているのだ。

 だが、いつまでも選択しない訳にはいかない。現実として、賊はすぐそこにまで迫っている。先の男が馬で逃げられたことから、賊の大部分は徒歩だろうが、襲った村で身体を休めることを考慮に入れても、明後日、遅くとも三日後の晩にはこの村にやってくるだろう。

 一番先に現実に戻ってきたのは、やはり高志だった。彼は村人を見渡すと苦渋に満ちた声で自らの考えを告げる。

「……纏められるだけ荷物を纏めろ。準備が出来たものから順次、隣村に避難する」
「ですが、村長――」
「ここに残って殺されるなら、少しでも生きられる可能性が高い道を選ぶ。金品は全て、食料は持てるだけもって移動するのだ。時間はないぞ、急げ」

 高志は急かすが、村人の動きは悪い。現実的に考えてそれしかないのは解っているが、誰もが高志のように割り切って考えられる訳ではない。郷愁がない訳ではない。どうせ死ぬなら賊と戦って、と思う人間もいる。戦えばもしかしたら勝てるのではないか。そういう甘い考えを捨てきれない人間だっていた。

「団長、何とかなりませんか?」

 子義もまたそんな村人の一人だった。期待と不安に満ちた目でこちらを見つめる彼の周囲には、自警団に所属する子供達が集まっている。賊は怖いだろうに、彼らは一刀が戦えと号令すればきっと戦うだろう。彼ら彼女らはどうせい死ぬなら、といった手合いだ。若さに見合った勇気と言えなくもないが、この状況でのそれはただの蛮勇だ。

 その証拠に、彼らは一刀が戦うと言わなければ戦うことをしないだろう。何とか出来ると一刀が言い、共に戦ってくれることを期待する以上に、逃げようと言い出すのを待っているようにも見える。

 要は切欠が欲しいのだ。逃げることは格好悪い、しかし、上に立つ人間が言うのなら仕方がない。子供の上下関係は単純だ。強い奴、凄い奴が上に立つ。村の理屈で言えば高志が頂点にいるのは当たり前だが、子供達の間では一刀の立場は驚くほど上位にあった。

 自警団の団長というのは、それだけ彼らにとって『偉い』存在なのだった。

 慕われることは悪い気はしないが、ガキ大将的な位置取りと考えれば納得である。ある程度言うことを聞いてくれるというのは、危機的状況においては好都合だ。

 どうにもならない。だから、逃げよう。一刀がそう告げようとした、その時、

「どうやら込み入った事情のようですね」

 聞き覚えのない声が一刀の耳に届いた。声の主に、戸惑っていた村人全員の視線が集まる。

 その視線の先にいたのは二人の少女だった。

 一人は眼鏡をかけ、茶色がかった黒髪をアップに纏めた釣り眼の少女だ。声の主はこちらだろう。特に不機嫌という様子はなさそうだが、眼鏡ごしの鋭い眼光が自身が気難しい性格であるとガンガンに主張している。

 もう一人はウェーブのかかった長い金髪をした背の低い少女だ。先の少女とは逆に見事なまでのタレ目で、足取りも眠っているのかと思えるほどにおぼつかない。倒れそうだったので注視していたら、薄く開いた目でばっちり視線を合わせられた。

 宝石のような翠色の瞳だった。タレ目の少女はにこりとする訳でもなく、ただ一刀の視線を少しの間だけ受け止めると、再びふらふらと夢遊病者のようにふらふらする作業に戻った。

 見ているだけでも危なっかしいのに、釣り目の少女にそれを気にするような様子はない。これがタレ目の少女の常なのだろう。肝が太いのか単に緩い性格なのか判断に苦しむところではあるが、それはこの際どうでも良い。

 見覚えのない二人に村人全員が注目する中、一刀はこっそりと隣の子義に耳打ちする。

「……あの妙な二人は何処の誰?」
「今日やってきた二人と一人のうち、二人の方の旅人です。昼過ぎに来たから団長とは入れ違いになったんですね。見聞を広めるための旅をしてるとか、軍師らしいですよ、二人とも」
「二人と一人ってなんだ、三人じゃないの?」
「さあ。別々に来たみたいですから知りあいではないのでしょう。もしかしたら残りのお一人は逃げ出してるのかもしれませんね」

 一刀の知らなかった情報を提供してくれた子義は、もう一人どころか今現在目の前にいる二人にもあまり興味はないようだ。身体を使って動くタイプの子義は、頭を使って何かをする人間と相容れない節がある。軍師と聞いた段階で、彼女らには興味を失っているのだろう。彼女らのことを聞こうとする一刀にすら、どこかつれない。

 こんな状態では、これ以上の情報は子義から得られそうにもない。一刀は諦めて旅の軍師という二人の少女に視線を戻した。話の主役は今や村人達ではなく、旅の軍師二人になっている。

 不安に怯える二百人の村人の視線をものともせず、釣り目の軍師は堂々とした態度で周囲を見渡した。

「今は時間がないようですし単刀直入に申し上げましょう。我々に協力させていただけませんか? 協力させていただけるのであれば、限りなく犠牲を少なくした上で、黄巾賊を撃退するための考え出してご覧にいれます」

 釣り目軍師の発言は徐々に村人へと浸透する。自信に満ち溢れた態度からは、もしかしたらやれるのでは、という思いすら村人達に抱かせた。その一挙手一投足が、釣り目軍師の言葉が正しいのだと裏打ちするように、その仕草が、鋭い視線が村人の意思を彼女の言葉に傾けさせる。

 だが、村人は誰も、釣り目軍師の言葉には乗らなかった。

 どれだけ魅力的な言葉を吐いたとしても、釣り目軍師は村人にとって余所者だ。子義はその存在を知っていたが、大半の村人は一刀と同じように彼女の存在を知らなかったらしい。こいつらは誰だ、信用できるのかといった類の視線がこの場で最も信用の置ける人物――高志の元に集まる。

 高志は村人達の視線を受けて、重々しく頷いた。少なくとも人格の面では信用できる。高志はそう保障した。二人に怪訝な目を向けていた村人も、それで一応は二人を信用することにしたようだった。

「初見の方々もいらっしゃるようなので、まずは自己紹介を」

 自分の話を聞く体勢が全員に整ったのを見て、釣り目軍師は姿勢を正し、軽く頭を下げた。

「旅の軍師、戯志才と申します。どうぞお見知りおきを」



















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第八話 とある農村での厄介事編③
Name: 篠塚リッツ◆2b84dc29 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:51





「では、お兄さんは風たちと同じ旅の方だったんですか~」
「世話になってまだ一月って所だけどね」

 農村の道を行きながら、金髪の少女はほ~、間延びした声で頷いた。相変わらず起きているのか立ったまま眠っているのか解らない寝ぼけた瞳をしているが、話してみると受け答えは驚くくらいにはっきりとしていて、たまに見せる鋭い物言いはこの少女が智者であるのだ、ということを一刀にも伺わせた。

 名前は程立というらしい。字は知らないが真名はおそらく風というのだろう。自分を示す言葉にそれを使うものだから、うっかり呼んでしまいそうになることも多々あったが、今の所許されていない真名を口にするという暴挙はせずに済んでいる。

 狙ってそれをやっているのだとしたら性格が悪いと言わざるを得ない。

 そんな程立は軍師であるのに主を定めず、戯志才と共に見聞を広める旅をしているという。こんな抱けば折れてしまいそうな少女が護衛も付けずに旅など大丈夫なのかと、実際に野党に襲われている軍師の少女を助けた経験のある一刀は思った。

 のんびりとした口調もふわふわした金髪もとても武術に縁があるとは思えない。屈強な男に守られるお姫様……の抱える人形など、程立には似合いそうな役回りだ。

「それまではどこに? 失礼ですが、あまり旅慣れているようには見えませんが」

 程立とは逆隣を歩く少女が害意はないが、無駄に鋭さの込められた口調で問うてくる。

 程立がお人形さんだとするなら、こちらは教育係だろうか。

 腕が立ちそうに見えないのは程立と同じだが、どちらが矢面に立ちそうかと言われればこちらの少女だろう。

 村人達の前で戯志才と名乗った軍師の少女は、大きな眼鏡のレンズの向こうにある切れ長の目を一刀に向けていた。

「豫州にいたよ。そっちも一月ほどだけど、荀さんって人の家に世話になってたんだ」

 一刀の物言いも、自然とぼかした物になる。

 話すのは、その戯志才に匹敵するほどの意思の強さを持った猫耳軍師の実家のことだ。右も左も解らない自分を拾って、知識を教えてくれた。向こうはどう思っているか知らないが、一刀はかの家に大きな恩義を感じていた。

 いくら感謝しても足りない彼女らのことを知り合って間もない戯志才を相手に教えるのは迷惑になるのではないか……

 そんな考えすらも一刀の頭を過ぎったが、別に隠さなければならないようなことは何もない。

 むしろ、荀家に辿り付く前の方が一刀にとっては隠さなければならないことだった。荀家以前のことに話が及ばないよう、出来る限りの注意を払いながらそう口にすると、『荀』という姓を聞いた戯志才は、一刀を見据えたまま僅かに目を見開いた。

「……豫州の荀と言うのは『あの』荀家ですか? 潁川郡の?」
「多分、その荀家なんじゃないかと思うよ」

 名家の事情には明るくないため、荀彧の一族の他に有名な荀家があることを否定できないが、何しろ『あの』荀彧の一族である。色々と無視できない相違点はあるが、ここが三国志の世界であるのなら彼女ら以上に有名な荀姓はいないだろう。

 それならば状況説明も容易いかと安心していると、戯志才は一刀に向ける視線に疑問の色を濃くした。

「あの屋敷は使用人に至るまでそれなりの学を身に着けていると聞きますが、貴殿はどういう理由で荀家に?」
「道中でお嬢さんを助けたことが縁で暫く住まわせてもらってたんだ。警備の人に混じって武術を学んだり、使用人の女の子に勉強を見てもらったりしてた」
「なるほど、つまり知識を見込まれて呼ばれたという訳ではなかったのですね」
「戯志才が俺をアホだと思ってるっていうのは良く解ったよ」
「評価はしていますよ? 村の子供達が読み書き計算を良く理解しているのは貴殿の仕事と言うではありませんか」
「あれは村長さんが元々やってくれてたからだよ。俺が教えたのなんて微々たるものさ」

 子義のようなアホの子を前にするとどうやって教えていいのかすら解らなくなるし、自警団に関しても元々軍経験者がいることが大きかった。主導したのは一刀だが、発案したのは高志であるし、一刀一人の力では決して村人達は纏まることはなかっただろう。

 この村での成果らしい成果といえば、既にある程度の骨組みが出来上がっていたものを、そこそこに軌道に乗せたことくらいだ。胸を張って他人に自慢できるかと言われれば、それほどでもない。

 だが、戯志才はそうは思わないようだった。

「実際、成果は出ているではありませんか。貴方が導いてこなければ、私の言葉に耳を傾けるだけの下地も出来ていなかったでしょう。胸を張れというと大げさですが、そこまで卑下することでもないと思いますよ」
「そう言って貰えると助かるよ」

 戯志才はにこりともしなかったが、例え嘘でも自分のやってきたことを評価して貰えるのは嬉しいことだった。

 村人からは感謝の言葉をかけられることも多いものの、一刀の視点から見ると彼らは身内と言える。同じ村に住んでいるということで、その仕事には贔屓目も混じるだろう。

 実際村人達は、余所者である一刀に驚くほど親身になって接してくれている。

 彼らを疑う訳ではないが、身内からの評価はいまいち正当とは言い難い。

 その点、戯志才は今日であったばかりの他人だ。言葉にしても手放しに褒めてくれているとは言い難く、先ほどの言葉にしても無論、初対面の人間に相対した時のリップサービスも含まれているのだろうが、この世界で自分のやったことを他人に評されるのは始めての経験だった。

 それがプラスの評価であったことが、酷く嬉しい。

「さて、私達以外の滞在者ですが、貴殿は会ったことがありますか?」
「ないね。というか、戯志才達がいることすらさっき知ったばかりだよ」
「使えねえ兄ちゃんだな、おい」

 可愛いヤサグレ声という生まれて初めて聞いた声に目を向けると、そこにいた――あったのは、この時代にしては随分と前衛的なオブジェだった。

 その存在感の奇天烈さに一刀がそのオブジェを凝視していると、視線に気づいた程立がのんびりと視線を上げる。

 自然、そのオブジェも一刀の方を向くことになった。

 気のせいか、先ほどとポーズが違うような……と不気味に思った一刀がオブジェに手を伸ばすが、思いの他俊敏に動いた程立の手が、一刀のそれを叩く。

「妄りに女性に触れるものではありませんよ、お兄さん」
「それは謝るけど、それは?」
「それとは失礼ですね。この子は宝譿というのですよ」
「宝譿……」

 男として微妙に抵抗のある名前だった。当たり前のことではあるが、一刀の呆然とした呟きを聞いても、宝譿は程立の頭の上に鎮座したまま動かなければ喋ることもしない。明らかに先ほどの声は程立の声だったが、一刀にはそれが程立の頭の上……早い話、宝慧から聞こえたように思えたのだ。

(腹話術かな……)

 何故こんな世界でと思うが、出来る出来ないは別にして腹話術の原理そのものは非常に簡単なものだ。三国志の昔からそういう技術があったところで何も不思議はない。

 何故程立が態々腹話術をするのかという疑問は残るが、女の子になった荀彧が猫耳頭巾を身につけてツンツンしている世界である。美少女軍師が腹話術をしているくらい、大したことではないだろう。

「よろしくな、宝慧」

 気にすることをやめると、前衛的なその形すら頼もしく思えてきた。動かないオブジェが握手などできるはずもないから、宝慧に目線を合わせてそう言うと、宝慧は照れたように視線を逸らし、

「まぁ、よろしくされてやるよ兄ちゃん」

 口の悪いキャラからして無碍にされることも覚悟していたが、宝譿はあっさりと一刀を受け入れてくれた。自然と一刀の顔にも笑みが浮かぶ。

 どんな形であれ、誰かと友達になれるというのは良いものだ。

 宝譿とのファーストコンタクトを成功したことに気を良くしていると、隣を歩く戯志才がこれ見よがしに呆れた顔をしているのが目に入った。

「程立が変わった少女であるのは良く知っているつもりでしたが、貴殿は貴殿で変わり者ですね、北郷殿」
「そうかな? 俺はこういう関係も悪くないと思うけどね。宝譿はどう思う?」
「俺も兄ちゃんは変わった奴だと思うぜー」
「酷いなぁ……」

 呆れた様子であくまで宝譿に向けて答える一刀に、戯志才だけでなく程立も疑問の表情を浮かべる。大抵の人間は宝譿はいないものとして話を進めるのが普通だが、一刀は宝譿の人格を尊重し――というのも可笑しな話だったが――話を進めている。

 宝譿の口を借りて程立が改めて宣言するまでもなく、奇矯な人間性だった。

「その変わった奴の北郷殿に最後の滞在者の説得をお願いしたいのですが、よろしいですか?」

 変人であっても変態であっても、一刀がこの村の守備責任者であることに変わりはない。交渉事というなら軍師である戯志才や程立がやった方が良いのは誰でも分かることだが、二人は今日村を訪れたばかりの新参者だ。

 一刀も村に来て一ヶ月と新参者ではあるが、自警団を組織するに当たってそれなりの信頼を村民から獲得している。何より、村長である高志が一刀に指揮を一任したのが決定的と言えた。

 今、村は一刀を中心に動いているのだ。軍師である戯志才と程立は勿論早い段階でそれを見抜き、自分たちの考えをより正確に伝えることが出来るよう、子分のように付き従っていた子義に力仕事を割り振ってまでその左右を確保したのだが、当の一刀は中心にいるという自覚が少ないようだった。

「俺で大丈夫かな。戯志才がやった方が良くないか?」

 この期に及んでこんなことまで言い出す始末である。戯志才の方を向いているため一刀の背中に隠れる形になった程立は、一刀に見えないようにこっそりと溜息を吐く。

 一方、正面から一刀に見据えられた戯志才は、『貴方には失望しました』という雰囲気を隠そうともせず、盛大に、堂々と溜息をついた。

「貴殿ならば私よりも成果を挙げることができるでしょう。さらに言えば、これは貴殿がやらなければならない仕事です。全てを理解し器用に立ち回れとは言いませんが、小集団とは言え貴殿も人を率いる立場にいるのですから、もう少し自覚をもって行動してください」
「肝に銘じておくよ」

 と、一刀は答えるしかなかった。

 こういう時にはこういう指揮をするべし、ということは荀家にいた時に散々荀彧と宋正に触りの部分だけとは言え叩き込まれているが、生まれてこの方人の上に立ったことのない一刀である。さらに今が有事となれば途方に暮れるのも当然と言えた。

 全力で事に望んでいるのは胸を張って言えるものの、それが実を結んでいるかどうかは結果を見るまで解るものではない。自分が向かっている先が、光に満ちた場所なのか、それとも闇に沈んだ場所なのか。解らないまま人を導くというのはこんなにも疲れるものなのだと、責任を負うようになった数分ではあるが、一刀は早速指揮者の不安を感じていた。

「もしもの時はフォローしてくれよ」
「貴殿の言う『ふぉろー』がどういうものか知りませんが、私も程立も補佐はしますので安心してください」

 助かるよ、と返事を返し、一刀達は足を止めた。

 眼前にあるのは一軒の民家である。一刀が寝泊りしている子義の家と大差ない。村長の高志の家に比べれば粗末で隙間風もびゅーびゅー入るという、この村では標準的な装いの家だった。

 この家に最後の滞在者がいるという。住民は村の中央広場で作業をしているが、居候である彼女は家から一歩も出ようとはしなかったそうだ。

 薄情な、というのが一刀の率直な感想だったが、この時代、厄介ごとに好んで首を突っ込む人間の方が珍しい。軍師であるにも関わらず積極的に顔を出した戯志才や程立の方が奇特なのだ。

 一刀が小さく咳払いをする。

 変わりに声をかけてくれないものかと、最後の望みをかけて左右の軍師を見るが、戯志才は憮然と、程立は茫洋とした瞳で一刀を見返すばかりだった。早くやれという心の声が聞こえてきそうである。

「たのもー!」

 他人の家を訪ねる時どう声をかければいいのか解らなかった一刀は、とりあえず戸を叩いてそう声を張り上げた。戯志才も程立も肩をこけさせたりはしなかったから、間違いではないだろう。

 だが、声かけが間違っていなくても相手が素直に出てくるとは限らない。何しろこの家本来の持ち主は中央広場で作業に参加しており、中にいるのは居候一人だ。賊が来たという話を聞いているのなら、既に逃げ出している可能性すらある。

 家主は既に逃げ出したものとしていたようだが、今は有事で戦力、人手は幾らあっても足りない。いる可能性が少しでもあるのなら、声をかけない訳にはいかなかった。

 空振りか、当たりか。

 一刀は当然、当たりであればいいな、と希望を持っていたが、希望と不安を胸に反応があるのを待っていると、家の中で音がした。はいはい、とやる気のない声も聞こえてくる。

 少なくとも逃げ出してはいなかったようだ。これで最低限の役目は果たせる、と一刀が胸を撫で下ろしていると、戯志才が脇腹を肘で突いてくる。油断するな、と眼鏡の奥の瞳が言っていた。

「心配してくれてありがとう」

 小声でそう返すと、戯志才はつまらなそうに視線を逸らしそっぽを向いた。気にしていないように見えるが、耳は真っ赤に染まっている。柄にもなく照れているらしい。

 見た目通りに遠慮しない、その上気の強い戯志才にも可愛いところもあるものだ、眼前の戯志才の姿を心のメモリーに刻み付ける。言い合いでは勝てそうにもないが、この頭の良い少女にもいつか反撃できる時がくるだろうことを信じ、今は最後の滞在者を待つ。

 戸は直ぐに開かれた。

 出てきた人間の姿を見た瞬間、一刀は目を瞬かせる。

 長袖のシャツにズボン。どうということのない格好だが、それは一刀の感覚での話だ。この世界に来る時に着ていた制服一式は、ワイシャツも含めてまだ処分していないが、荀家で一度脱いで以来、一度も袖を通していない。

 着慣れた服ではあるので、出来ることならそちらを着たいのだが、この世界であの制服は不必要なまでに目立つのだ。三国志世界に似た世界観であるだけに富裕層から貧民に至るまで、時代劇のような着物の者が多く、洋装をしている人間は一人も見たことがない。

 何故か下着だけは西洋化が進んでいるようだが、それはさておき……

 この世界では異質なはずのパンツルックを、少女は当たり前のように着こなしていた。宛ら某劇団のスターのように気取った仕草で、手に持っていたマフィア御用達のソフト帽を被ってみせる。

 これが劇ならばそのまま歌って踊りそうな雰囲気だった。少女の『華』に戯志才までもがどこか腰が引け気味だが、ソフト帽の少女にそれを気にした様子はない。

 緊張感がまるでない。飄々としていることなら程立も並ではないが、少女の雰囲気はそれに匹敵するほどだ。

 正直やり難さしか感じないが、いつまでも黙っている訳にはいかない。少女の人間観察は遠慮がなく、まるで匂いでも嗅ぐかのように顔を近づけ一刀達を観察している。男装しているとは言え、少女は少女だ。すぐ近くで二つのふくらみがあっちへ行ったりこっちへ行ったりしているのをただ眺めているのは、精神衛生上よろしくない。

 視線を悟られないうちに、と一刀は姿勢を正した。

「北郷一刀です。姓が北郷で名が一刀。字はありません。村の自警団の代表として参りました」
「二文字姓に二文字の名前か。それに字もないとは珍しい。君、どこの生まれだい?」
「東の海の島国です。まぁ、凄い田舎ですよ」
「その割には立ち振る舞いに品があるような気がするが……まぁいい。僕のことは単福とでも呼んでくれたまえ」
「本名ではない、ですよね?」
「あだ名みたいなものだよ。君を信用してない訳じゃないが、女の一人旅は何かと物騒でね」

 やれやれ、と単福は肩を竦める。格好だけでなく仕草まで洋風だ。自然と胸を張る形になるため、女性の象徴である二つのふくらみが強調される。格好は男なのにその部分の主張具合はこの場に集まった少女の中でも一番立派なものだ。

 控えめな程立は元より、どちらかと言えば大きい寄りの戯志才でも勝負にならない、誰がどう見ても大きな膨らみがそこにはあった。

 思わず一刀が凝視していると、足元に激痛が走る。躊躇いなく足を踏み抜いたのは戯志才だ。声もなく蹲る一刀を他所に、戯志才は平然と自己紹介を始める。

「私は戯志才。旅の軍師です。そちらは程立、私の旅仲間で彼女も軍師をしています。偶々居合わせた縁で今はこの村に雇われています。まぁ、参謀とでも解釈してください」
「穏やかな雰囲気ではないけど、戦か何か始まるのかい?」
「こ、黄巾賊がこの村を通るかも、って情報が入ったんだ。数はおよそ二百。ほとんどが武装してるらしい。到着予定は二日後の夜になると思う」

 蹲ったままの一刀の報告に、単福はふむ、と顎に指を当てて考える仕草をした。

「この村の規模を考えると、戦える人間がそれほどいるとは思えないな。なのに旅の軍師を二人も囲って腰を据えてるってことは、まさか黄巾二百をこの村で迎え討つつもりかい?」
「迎え撃つどころか殲滅するつもりですけどねー」

 大きく出た程立の物言いに、単福は感嘆の溜息を漏らす。

「それは……何とも愉快な話だね。一騎当千の強者でもいるのかい? それとも神算鬼謀を司る軍師殿が、村人たちに何か妙案を授けたのかな」
「どちらかと言えば後者でしょうね。ですが、いくら策が優れていても頭数が足りなければ話になりません。正直な話、策を十全に実行するにはギリギリの人数なのです」
「つまり、僕に手を貸せと?」
「かいつまんで言うと、そういうことになる……かな」

 戯志才の言葉を引き継いだ一刀の視線は、頼りなくふらついていた。

 成り行きとは言え滞在するに足ると選んだのだから、単福もこの村がどの程度の規模なのか理解しているだろう。自警団の錬度までは知るはずもないが、官軍が常駐していないことくらいは調べなくても分かる。

 それで数に勝る黄巾を相手にしようというのだ。普通ならば鼻で笑っていても可笑しくない状況だが、単福は言葉にひかっかるところはあるものの、笑ったリ馬鹿にしたりはせずに話を聞いている。

 食いつきは悪くない。それどころか、この状況を楽しんでいる風ですらある。

「わかった。手を貸すよ」

 単福の決断は速かった。一刀が礼を言うのすら待たず家の中にとって返すと、荷物を掴んで戻ってくる。かちゃかちゃと音が鳴っているのは、武具でも入っているからなのだろう。単福はその中から使い込んだ印象の鞘に入った剣を取り出して腰に帯びると、これまた着古した感のある上着をシャツの上に羽織った。

 その着古した上着に、戯志才が目敏く目を付ける。

「それは、水鏡女学院の制服ですね? 貴女は水鏡先生の門下なのですか?」
「そうだよ。と言っても卒業生だけど。ちなみに制服は上着だけだよ? 本当はもっとひらひらした可愛らしい制服なんだけど、僕にはどうも合わなくてさ」

 言って、単福は苦笑するがひらひらした可愛らしい制服――スカートのことを言っているのは何となく想像がついた――を着る単福というのも悪くない気はする。可愛いというのとはまた違った印象を受けるだろうが、男装が嵌りすぎて本人が受け付けないというだけで、これだけ顔立ちが整っていれば何を着ても似合うだろうと思う。

「ですがその制服ほど貴女の身分を保証してくれるものはないでしょう。それだけでどこかの武将の軍師に納まれたはずですが、何故旅を?」
「仕えるに値する主ってのが中々見つからなくてね……まぁ、その辺りは君達だって同じだろう?」
「私と程立はそうですが、北郷殿はただの一人旅ですので一緒にしないように」
「酷いなぁ……」

 と、一応の抵抗はしてみせるが、見聞を広めるための旅と言っても戯志才のように目的がある訳ではない。就職活動のために歩き回るのと目的のない自分探しの一人旅では、どちらが好印象なのかは言うまでもないことだ。

「この時代に目的もない一人旅とは珍しいね。それを聞いて興味が沸いてきたよ。北郷殿、僕は君の話が聞きたいな」
「時間もないので追々話しますよ。今は賊を迎え撃つ準備をするのが先決です」
「ならば華麗に賊を退治するとしようか。だけどその前に一つ言っておくことがある」
「なんです?」

 村の中央広場に向かって歩きながら一刀が振り返ると、単福は顔を間近に近づけて凄んで見せる。整った顔立ちだけに、そういう表情には中々迫力があった。

「一緒に戦う仲間に気を使われるのは気に食わない。君はもう少しざっくばらんに話すべきだ」
「年上の人間には礼節を尽くすべしというのがこちらの常識と聞きましたが……」
「僕が良いと言ってるんだから良いだろ。それとも、君は僕がそれに値しない人間だとでも言うつもりかい?」
「とんでもない!」

 反射的にそう答えるが、本音を言えば敬語で通したいところだ。助けて貰う側という立場もある。例えざっくばらんにというのが本人からの申し出であっても、礼儀を尽くすのが正しい対応というものだろう。

 だが、それが単福の譲れない点であるというのは、さりげなく剣に手をかけたことでも理解できた。提案を拒否したところで、まさか本当に剣を抜くとも思えないが、それだけ本気だというポーズには違いない。

「じゃあ、単福と呼び捨てることにするよ。それで良いか?」

 結局、口調くらいならば安いものだ、ということで一刀は折れることにした。間近で凄んでいた単福は途端に笑みを浮かべる。剣からは勿論、手を離していた。

「是非もない。僕も君を一刀と呼ぶからね。厳しい戦いになると思うけど、よろしく頼むよ大将」
「こちらこそ」
「話が纏まったところで、今後の方針を説明してもよろしいですか?」

 がっちりと握手を交わした一刀と単福を、戯志才がじろりと睨んでいる。慌てて一刀は手を離すが、単福に悪びれた様子はない。よろしく、と戯志才や程立にも同じように手を差し出し握手する。

 あくまで自分のペースを崩さずない単福と、キツい性格の戯志才では相性が悪いのかもしれない。戯志才の単福を見る視線には苦手意識が混じっているように思えた。

「……では、説明します。現在村人総出で準備を行っていますが、我々はそれに平行して実際に賊と戦う人間を配置分けしなければなりません。当然、それを率いる人間も必要となる訳ですが、場合によっては単福殿、貴女にその一つを任せることになるかと思います」
「百人くらいまでなら指揮してみせるよ」
「貴女一人にそれだけ任せられる余裕があるのなら、そもそも策を弄したりはしませんよ。今更言うまでもありませんが、我々は寡兵でもって事に当たらなければなりません。当然厳しい戦いになるでしょうが――」

 そこで、戯志才は言葉を切った。作業の続く中央広場へと歩みを進めながら共に歩く一同を見回し、口の端をあげる。

 そのよく言えば自信に満ちた――率直に言えば酷く怜悧で邪悪な笑みに一刀は背筋がぞくりとするのを感じた。

「私と程立の策、それに北郷殿が鍛えた自警団の戦力があれば、賊など物の数ではありません」







後書き

最後の軍師は単福さん(仮名)でした
荀家の人々の同じように今回のシリーズのゲスト参戦ですが
後々のレギュラーを引っ張ってくるための重要な役割も担ってます
彼女の正体についてはまた後ほど






[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第九話 とある農村での厄介事編④
Name: 篠塚リッツ◆2b84dc29 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:51













 黄巾賊残党――冀州で死闘を繰り広げる本隊から離脱し、戦乱を逃れるように南下する集団の頭目は李恒という男だった。黄巾賊内部での位はそれほど高くなく、十万を越える集団において百人隊長を務めていた、その程度の男だ。

 元来、黄巾賊はある歌姫三人を崇める集団だった。歌姫が何処へ行きたいと言えば皆で移動し、何が欲しいと言えば略奪してでも調達してきた。それらの行為が行き過ぎたために逆賊、朝敵と断じられ、官軍に狙われることになった。

 攻撃を仕掛けられたら、反撃するのが世の常だ。黄巾賊は歌姫のために最後の一兵になるまで戦うことを決意したが、所詮は烏合の衆である。精強な官軍に追われに追われて数を減らされ、残った本体も冀州に追いやられている始末である。

 本気で歌姫にほれ込んでいるのなら、彼女らのために戦って死ぬのは本望なことだろう。

 だが、李恒はそんなことで死ぬのは死んでもご免だった。

 歌姫のための集団である黄巾賊でそういう考えの人間は少数も少数だったが、十万以上の人間が集まれば、そこには李恒のような考えの人間は少なからずいた。そういう連中は旗色が悪くなったのを見ると示しを合わせて黄巾賊を離脱した。

 黄巾賊を離脱した段階で、李恒についてきた人間は二百五十人を越えていた。賊徒としてはちょっとした規模である。大多数の官軍の目が冀州の本体に向けられている今が、略奪の最大の好機なのではと李恒は考えた。

 まずは黄色の布を外して冀州から離れることに専念した。

 そして冀州を出て、大きな官軍の気配がなくなってから、略奪を開始した。黄巾賊にいた頃は頭巾を外すことはなかったが、離脱してからは略奪する時だけ黄巾を巻くことにしていた。

 官軍の目を引いてしまっては元も子もないが民衆の間で黄巾の力は絶大である。大した力がなくとも、黄巾を見るだけで逃げ出す者もいるほどだった。

 勿論、立ち向かってくる人間もいるにはいたが、二百人を越える武装集団を相手に出来る組織が官軍以外に多くあるはずもない。官軍を相手にすることは徹底的に避け、組織だった反抗をしそうな所も避け、冀州の本体から遠ざかるように李恒の集団は南下を続けた。

 しかし、補給の全てを略奪に頼った代償は決して小さくはなった。

 小さいながらも抵抗は受け続け、表立って街に寄ることもできない。医術の知識がある者など黄巾本体ならば兎も角、逃げて燻っているような集団にいるはずもない。

 怪我をした者、病にかかったものからバタバタと倒れて行き、二百五十を数えていた仲間も、荊州に入る頃には百五十人割り込んでいた。無傷な物は一人もおらず、中には歩くことすら覚束ない人間もいる。

 武装集団としての格は地に落ちつつあった。今の状態で官軍に襲われたら一溜まりもないだろう。頼みは数と、全員が武装しているということ。後は腹を空かせている人間が少ないということくらいだ。

 士気も低くはない。定期的に行っている略奪が辛うじて、集団の闘志を繋ぎとめていた。他人を殺し食物を奪いそれを貪り食うことで、自分たちが上位の人間だという意識を保っていられた。

 それが長く続かないということを、解っていない人間はいない。緩やかに破滅に向かっているのだということを、李恒を含めて全員が理解していた。

 だが、今更止まることも出来ない。一度道を踏み外してしまった人間が、元の道に戻ることは並大抵のことではないのだ。

 戻るための機会は、何度もあった。黄巾賊を離脱した時に、それから初めての略奪をする前に。どこかの街で、農村で、慎ましく生きることを覚悟できれば、賊に身を落とさなくても生活することは出来たはずだ。

 その選択を、李恒達は自らの意思で放棄した。

 賊は賊だ。それ以外の何者でもない。

 そこに矜持などあるはずもないが、今更他の生き方もできない。そういうロクデナシの集まりなのだ。

「頭、あの村変じゃあないですかい?」

 そのロクデナシの集団において李恒の右腕を務める男が、今晩の標的である村を視界に納めるなりそう言った。景気が悪いことこの上ない。ギロリ、と思い切り睨みやると、男は萎縮する。

 気の弱い男なのだが、それだけにそこそこ目端が利く。李恒は不機嫌な顔を崩さぬまま後続の手下達に止まれ、と手で合図をした。暗がりの中で、二拍ほど遅れて手下達が足を止める。

「何が変だ?」
「静か過ぎやしませんか?」
「日が沈んでるんだから静かでも不思議じゃねえだろう」
「そりゃあそうなんですが……」

 李恒は正論を言ったつもりだったが、男はまだ何かを言いたそうだった。強く出れば言われたことには従うのに、今日はやけに粘るものだ。気の弱い男がそれだけ食い下がるということは、それなりに自信があることなのだろう。

 考えることは苦手だ。こちらの視線を伺う男に話せ、と身振りで促すと、男は嬉々として、しかしひっそりと話し始める。

「難しいことはわかりやせん。強いて挙げるなら勘でしょうか」

 殴り飛ばしてやろうか、と李恒は思ったが、握り締めた拳は微かに動いただけで、振り上げられることもなかった。

 勘に頼って行動して碌な目にあったことがない。それで命を救われたこともあるが、そんな物、片手で数えられる程度しかない。悪い目の方が圧倒的に多いのだ。一度など、勘に頼って行動して別の賊と鉢合わせ、全滅しかけたこともある。

 ここまで食い下がってきたのは今回が初めてであるものの、それだけでは男の言葉を信ずるには足りない。

 危険が待っている、という言外の主張を真っ向から信じるなら今すぐ進路を変更して、眼前の村には立ち寄らないというのが、正しい選択だ。

 しかし、ここで集落に立ち寄らないということはありえない。前に襲撃した村で火を放った時に食料のほとんどが焼けてしまったため、食料は既に底を尽きかけていた。今すぐに餓死するほどではないが、何も口にしないまま長時間移動することは肉体的にも精神的にも堪える。

 村を攻めるしかないというのは、男も解っているだろう。それを踏まえた上で何かあると言うのだから、用心せよということか。

 李恒はぼりぼりと頭を掻いた。やはり、考えることは苦手だ。

「……何人か人をやって調べてこさせよう。待ち伏せなら近くまで行けば分かるだろう。敵がいりゃあ逃げる。調べてなにもなきゃあ、全員で正面から打って出る。それで文句はねえな?」
「まぁ、そこまでやってくれるのなら……」

 納得はしていない男の顔に、今度は躊躇いなく拳を叩き込んだ。顔を抑えて呻く男を他所に李恒は手下の内、適当な人間を見繕って指示を出した。

 軍で言うならば斥候だ。歌姫三人の中に頭の回る奴がいたらしく、本隊にいた頃は本隊を離れ周囲を探るという仕事を良くやったものだ。本職に比べれば児戯のような斥候でも、やるのとやらないのとでは大きく変わってくる。

 それすらも李恒は面倒臭いと考えていたが、乗りかかった船だ。やると決めた以上、さっさとやり村に押し入ると、そう決めた。

 適当に選び適当に指示を出された部下は、適当にそろそろと村の周囲を調べ、大して時間も経たないうちに戻ってきた。

 見える範囲に人影はなかった。一番近い家の戸に耳を当ててきたが、人の気配はなかった。解ったのはその程度のことだ。

 面倒くさがりの李恒には、それだけ解れば十分だった。

「行くぞ」

 短い李恒の宣言に、手下達が続いた。

 その村には柵があった。珍しい物でもないが、それが気になった李恒は何の気なしに触れてみた。

 木で作られた簡単な柵だった。鉄で補強されてもいない、騎馬にでも攻められればあっという間に破壊されそうな弱い物だったが、作りだけは非常に丁寧だ。最近作られた物なのか、まだ木の匂いがする。

「頭、どうされました」

 手下の一人に呼び止められて、李恒は柵を気にすることを止めた。

 柵があったからと言ってどうにかなるものでもない。侵入者を阻むようには作られていないその柵に、村と外の境界を示す以上の意味はなかった。柵には目もくれず村に入る手下に続き李恒も足を速める。

 村はどこにでもある普通の村だった。柵の拵えられた入り口付近には田畑が広がり、人の住むための小屋もちらほらと見える。小屋が密集しているのは村の中央部のようだ。比較的高い屋根もその辺りに見える。食料なり金銭なり李恒達にとって価値のある物があるとしたらあの辺りだろう。

「駄目です。人っ子一人いやしません」

 通り道沿いにある小屋は一応探るように指示を出したが、未だに村人を見つけたという報告はなかった。小屋からは食料や服が持ち去られており、勿論金銭もない。

「逃げ出したんでしょうかね」
「どうだろうな」

 手下の一人の問いに、李恒はおざなりな返答をした。

 村人がいない。それが全てだ。

 殺しを楽しみにしている手下もいるが、李恒の考えは違った。戦わないで済むのならばそれに越したことはない。人を殺すにも体力がいる。必死の抵抗をされれば怪我をしかねないし、場合によっては返り討ちにされることもある。

 李恒を始めとしたこの集団はきちんとした訓練を受けた訳でも、黄巾賊の中核をなしていたような、実戦経験を多く積んだ精鋭でもなかった。殺すのに躊躇いがなく、少し腕が立つだけの素人の集団なのだ。

 そんな集団にとって力とは数である。百人を超す多数だけが李恒達の武器だ。人的損耗はそれだけ今後の仕事に影響を及ぼし、各々の死期を早めることになる。

 人がいないというこの状況は、願ったり叶ったりと言えなくもなかった。

 食料が持ち出されているのは痛いが、全てを持ち出せた訳でもないだろう。村の外では野宿していたことを考えると、雨露を凌げる場所が確保できるだけでもありがたい。

「中央の家からやるぞ。音は立てるなよ」

 小声で指示を出し、集団の中でも腕の立つ人間三人を先頭にぞろぞろと進む。

 中央広場はこの規模の村にしては広く、百人を超える李恒達が集まってもまだ余裕があった。手下に指示を出し、目に見える全ての家に張り付かせる。一番大きな家には腕の立つ三人を配置した。

 隠れている村人に反撃された時の対処だが、戸に耳を当てて中を探る手下からは『人の気配なし』という合図が返って来た。

 息を顰めて隠れているのか、それとも本当に逃げ出したのか。どちらだったとしても、李恒のやることに変わりはない。

「やれ!」

 李恒の合図と共に、家々に張りついた手下の全てが戸を蹴破って部屋の中に雪崩れ込む。家を破壊する音と、手下達の怒号。村を襲う時のいつもの光景だが、聞こえてくるのは手下達の声だけで、村人の抵抗するような気配はない。

 本当に空振りか……

 安堵と失望の入り混じった溜息を吐きながら、李恒は周囲を見渡した。簡単な家捜しを済ませた手下が戦利品を持って飛び出してくる。決して大漁とは言えないが、それでも先日襲った村よりは多くの物を得ることが出来た。

 これならば二三日はこの村に滞在してもまだ余裕が持てるだろう。纏まった勢力を差し向けられる前には逃げなければならないが、休息は必要だ。

「頭、あの家が……」

 腹を満たして泥のように眠る自分を想像し、気分の良くなっていた李恒を、手下の声が現実に引き戻した。あの家、と手下が示す家を見て、李恒は顔を顰める。

 腕の立つ手下を差し向けた、目に見える範囲では最も大きな家だった。村の代表が住む家なのだろう。ただ大きいだけでなく、権威を示すように造りがしっかりとしており、服なり食料なり、何か上等な物があるような雰囲気があった。

 その家に押し入った手下が、一人も出てこない。他の家に押し入った手下は既に戦利品を運び出し終えて、検分まで始めている。一度で抱えきれないほどの量があるとしても、一人も、全く顔を見せないのはどう考えても可笑しい。

(抜け駆けか)

 大方、見つけた食料を貪ってでもいるのだろう。手下の浅ましい行動に、李恒は深々と溜息を吐いた。

 気持ちは解らないでもないが、飢えているのは李恒だって他の手下だって同じだ。同じ立場だったら李恒だってそうしなかったとは限らないが、抜け駆けは厳しく罰しなければ他の手下にも示しがつかない。

「馬鹿ども、さっさと戻って来い!」

 争う音は聞こえてこない。住民の抵抗に合っているということはないはずだ。食料なり金銭なりを懐に入れようとでもしない限り、もたもたする理由はない。

 李恒の声は恫喝に近い。いくら数が力の集団と言っても、最低限守らなければならない規律はある。奪った物を勝手に持ち出すのは死罪に近い規律違反だ。それはこの集団に所属している者ならば、誰もが知っていることである。李恒の言葉は、『今ならば命だけは助けてやる』という最後通告に等しい。

 だが、踏み込んだ手は出てこなかった。一分、二分。反応を待つ。それでも誰も、一人も出てこない。反応のないことに、流石に李恒も危機感を抱いた。残った手下にも不安が広がっていく。

 手下に警戒を促そうと李恒が声を出そうとしたその時、家の中から出てくる者があった。

 女だ。きちんとした拵えの金属鎧を着て、腰には剣を佩いている。月明かりしか光源のないこんな夜でも、陰影だけで女性であることが伺える、こんな状況でなければ思わず生唾でも飲み込んでいたろう、中々御目にかかれないほどの美人だった。

 その女が、腕に抱えていた物を地面に放る。数は三つ。見慣れた顔がそこに並んでいた。

 三つの首に悲鳴を挙げなかったのは、不幸中の幸いだろう。。味方が殺されたことに動揺は広がったが、恐慌は起こさない。それくらいの修羅場は潜っていたことを感謝しながら、李恒は剣に手をかける。

 こちらは百人を超える。相手がいくら手練でも一人ならば殺せるはずだ。

 時間をかければ怯えが広がり、倒すのに手間がかかるようになる。やるのならば速攻だ。李恒は腕だけで素早く指示を出し、鎧の女を囲むように手下を半円中に広げる。

 時間をかければ不安が伝染する。殺すならば早くやるしかない。経験でそれを知っている李恒と手下達は、じりじりと包囲を狭めていく。


 忍び寄る死の気配に、しかし、鎧の女の顔に不安はなかった。女は役者のように気障ったらしい微笑みを浮かべると、大きく腕を掲げる。百人を越える元黄巾賊の視線が集まるのを十分に待ってから、女は指を打ち鳴らした。

 夜の済んだ空気の中、音が遠く、深く響く。

 すると、どうだ。その音に吸い寄せられるように、女の出てきた家から、その周辺からぞろぞろと人の気配が現れ出でた。その数、十や二十では利かない。暗いせいで顔までは解らないが全員が鎧で武装しているのが見て取れる。

 李恒は混乱する。

 気配は突然現れた。まるで地面から湧き出るように、百人を超える人間が現れたのだ。これだけの人間をどうやって……声に出さずに戦慄するも、それに答えてくれる人間はいなかった。

 はっきりとしているのは、今自分たちが圧倒的不利に立たされているということ。どうにかこの状況を打開しなければ、残らず殺されるということだ。

「賊軍が、まんまと罠にかかってくれたな」

 一歩前に進み出た女の堂々とした振る舞いは、武将のそれだった。一人の将に従う歴戦の戦士のように、女が率いる兵にも士気が満ち満ちている。敗残兵とそれを討伐する兵士。戦の構図はこの時定まった。

 勝てない――李恒は一瞬で形勢を判断した。

「撤収!」

 判断が決まれば、指示を出すのは迅速だ。戦って勝てないのならば、逃げるしかない。李恒の声を聞いた手下達は、我先にと包囲の隙間を目指して駆け出して行く。

 その手下達に、女の兵の放つ矢と石が降り注いだ。狙いもつけずに撃たれたようなそれらは誰にも当たらずに地に落ちる物も多くあったが、避けることも防ぐこともせず、ただ逃げるだけの手下達の中には、そんな飛び道具にも当たる運のない人間が何人もいた。

「かかれ!」

 女の号令と共に、咆哮を挙げながら鎧の集団が突っ込んでくる。第一陣として突っ込んできた人数は両手で数えられるほどの少数だったが、彼らと手下達では勢いが違う。

 中でも鎧の女は次元が違った。女が剣を一度振るうたびに、手下の首が一つ飛んでいく。血飛沫の舞う中、剣を振るうその姿は整った美貌と相まって凄絶な魅力を振りまいていた。

 鬼神の歩みを止められる者が、、手下の中にいるはずもない。李恒を含めた全員が必死に逃げながら考えることは、自分だけでもどうにか生き延びること、ただそれだけだった。

 全ての賊が必死に逃げていたが、ここでこの村に来るまでに負っていた怪我の具合が明暗を分けた。李恒を始め、比較的負傷の軽微な者が逃げる集団の先頭を走るようになり、重い怪我を負った者が後列に追いやられる。足の遅い人間を省みるようなことは誰もしない。

 逃げ遅れた手下は鎧の女に首を刎ねられ、あるいはその兵に剣で斬られて命を落としていく。手下達の断末魔が、李恒の足をさらに早くした。逃げなければ殺される。それは呪詛のように李恒の、賊達の心を埋め尽くしていった。

 その呪詛に拍車をかけるように、李恒の耳に轟音を届いた。

 走るペースを緩めないまま振り返ると、今さっき李恒達が通ったその場所に、土煙が立ち込めていた。煙に遮られてその向こうは見えないが、痛みに呻く手下の声と、さらにその向こうに剣戟の音が聞こえる。

 女とその兵は煙の向こうで足を止めたようだが、まだ生きているはずの手下達も追ってこない。敵地の中で走りながら、李恒達は孤立した。

「ちくしょう!」

 腹の底からの咆哮が、夜の空に響く。『土煙』で分断されたことで、李恒についてくる人間は三十人ほどになった。自分についてくる人数が減ることが、まるで自分自身の命が削られていくことを意味しているように感じられ、平静を欠いていた李恒の心はさらに不安定になる。

 とにかく外へ、外へ。田であろうと畑であろうと構わずとにかく一直線に村から出ようと李恒達は走る。

 背後の怒号もいくらか小さくなった頃に、李恒達は村の柵を越えた。ここから先はなだらかな道が暫く続き、一時間ほど道を行くと野営をしていた森がある。

 そこには僅かではあるが食料があり、負傷してはいるが仲間が残っている。

 そこまで逃げれば。李恒達の思いは一つになっていた。身体は当に限界を超えていたが、足が止まることはない。身体の限界を超え、精神の限界を超えても、死にたくないというその本能によって足は動き続けていた。

「いまだ、撃て!」

 降って湧いた女の声に李恒が足を止めなかったのは、奇跡と言って良いだろう。敵襲の気配を感じた手下達のほとんどはその場で足を止めてしまう。一度止まると、限界を超えた身体は動いてはくれない。飛来した矢を成す術もなく受けて、一人、また一人と打ち倒されて行く。

 矢を撃った敵は弓を捨て、武器を持って駆けて来る。矢を受け足を止めた手下達に、それを受け止めるだけの気力は残っていない。槍で剣で背後で手下達がばたばたと討たれて行くのを聞きながら、李恒と生き残った手下は足を止めずに走り続けた。

 その前に十数人の集団が現れた。農民が見よう見まねで武装したような貧相な集団だが、全員がこちらに向けて弓を引いている。

「撃て!」

 集団の先頭に立った男の合図で矢が一斉に放たれた。李恒は咄嗟に剣を抜き放ち矢を払い地面に転がる。それが出来たのは李恒を含めて五人だった。走らされて疲労の極地に達していた手下達は矢を受け、崩れ落ちるように倒れていく。

 眼前の集団から咆哮が上がった。戦う気に満ち溢れた集団が武器を手に勢い込んで駆けてくる。

 若い人間が目立つ。男が多いが女もいた。二十を越えている人間はその中に一人もいないだろう。先頭を駆けている男が頭目のようだった。

 こんな小僧どもに殺されるのか……

 そう思った瞬間、疲れた李恒の身体に力が戻った。これが最期の戦いになる。腹の底から雄叫を上げ、自分を鼓舞した。

 死ぬのは別に、それで良い。

 だが、黙って殺されるのは我慢がならない。ここで死ぬのだとしても一人でも多くの人間を殺す。

 先頭の男を追い越して飛び出してきた少年に、李恒は剣を叩きつける。

 小柄な少年は急停止し、自らの剣で李恒の剣を受けながら地面を転がった。空いたスペースに先頭の男が駆け込み、剣を振るう。

 細身の身体の割りに、良い一撃だ。二合、三合と打ち合う。その隙に少年が起き上がった。一緒にかけてきた他の仲間は、背後の集団を相手にすると決めたようで、李恒の脇を通り過ぎて行く。

 
 相手は子供二人。不満はあるが、相手に不足はない。

 少年が剣を突き込んでくる。男の攻撃よりもずっと鋭い。農村に住んでいる子供が放てるような攻撃ではなかった。李恒の想像を遥かに超える速度のその一撃は、李恒の腹部を浅く裂く。それと共に生命力が失われていくのを感じ、李恒はさらに激昂した。

 雄叫びをあげる。獣のようなその咆哮に、男と少年は思わず足を止めた。それを見逃す李恒ではない。

 剣を振るいながら、身体ごと少年に突っ込む。体重の軽い少年は成す術なく吹っ飛ばされ地面を転がった。

 残された、男の方に向き直る。

 少しは怯えているかと思ったが、男は随分と落ち着いていた。剣を正眼に構え、左足を大きく後ろに下げる構えで、右に左に小刻みに動いている。 

 人と戦うことに慣れているようだ。淀みなく動いているが、随分とお行儀が良い。人を殺したこともないのだろう。剣を持つ腕には固さが見て取れる。

 これならばまだ、少年の方が強いかもしれない。こいつにならば勝てる。李恒はそう確信した。

 大きく吼えて、剣を打ち込む。細身の男に腕力では負けるはずもない。力を込めた攻撃を数度打ち込むと、力負けした男の剣は軽々と弾き飛ばされた。返す刀で首を狙う。殺った――李恒がそう思った瞬間、男は迷いなく地面に身を投げ出した。

 行き場をなくした剣は地面を穿つ。腕に走る衝撃に李恒は顔を顰めた。

 男は地面を転がって距離を取る。その時には吹っ飛ばされた少年も復帰していた。目には怒りの炎が灯っている。吹っ飛ばされたことを根に持っているらしい。男よりも遥かに鋭い動きには、やはり天性の物が感じられる。

 このまま修行を続ければ、きっと一角の剣士になることだろう。その才能が、酷く癪に障った。

 殺すならこの少年だ。ただの人間を殺しても面白くない。何が何でも殺す。刺し違えてでも殺す。

 そんな李恒の前で、少年は口の端を挙げて哂った。こちらを小馬鹿にしたその笑みに、李恒の頭に血が登る。

 李恒が、雄叫びを挙げる。剣を構えた少年は――剣を放り出し、倒れこむようにして地面に伏せた。

 何故――

 そう思った李恒の背中に、鋭い痛みが幾つも走った。口から血がごぽり、と溢れる。痛みを堪えて振り返ると、そこには弓を構えた男の仲間達がいた。李恒の手下は血溜まりの中に横たわり身動ぎもしない。

 弓を構えた連中の先頭いるのは、眼鏡をかけた釣り目の女だった。見るからにいけ好かないその女は、見た目の通りのこちらを見下すような口調で、言った。

「まさか卑怯などとは言いませんよね?」

 腹部に熱が走る。少年の剣が李恒の腹を貫いていた。溜まらず剣を取り落とし、地に膝を落とす。目の前に少年の首がある。最後の力を振り絞り、その首をへし折ろうと手を伸ばすと、少年は剣を残して大きく跳び退った。

「団長!」

 少年の声を受けた男が、剣を持って戻ってくる。男の腕には不相応の一目で名剣と分かるそれを振りかぶり、低く小さな声で呟く。

「悪く思わないでくれよ」

 それが李恒の聞いた最後の言葉だった。

 振り下ろされた男の剣は李恒の鎖骨を裂き、流れ出した血は地面を真っ赤に染めた。薄れていく意識の中、最後の力を振り絞って李恒は顔を上げる。

 自分を殺した男の、今にも泣き出しそうな顔が目に入った。

 流れそうになる涙を必死に堪えて自分を見下ろす男に、李恒は笑みを浮かべる。憎まれ口を叩く力すら残されてはいなかった。口から大きな血の塊が溢れる。
 
 だから、李恒はただ男を見つめ続けることにした。男がこれからの人生、自分の死によって少しでも苛まれるように。目を逸らさずに、ただじっと男の瞳を見つめる。

 喚き散らしてくれれば、溜飲は下がった。そういう醜態を見るがための行動だったが、男が涙を流すことはついになかった。

(つまんねえ人生だった……)

 誰にも聞こえることのない文句を心中で呟きながら、李恒の人生は終わった。



二次創作なのに原作キャラの名前が一回も出てこない……
当初の予定ではこの後に一刀と戯志才の遣り取りが入って事後処理編に突入する予定でしたが、
それでは流石に不味かろうということで話を分けました。
今回が賊視点のお話。賊視点なので一方的にやられています。
次回が一刀達視点の種明かし編です。
よろしくお願いします。







 


 



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十話 とある農村での厄介事編⑤
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:51






「戦で勝つためにどうすれば良いのか……北郷殿、貴方には分かりますか?」
「敵よりも頭数を揃える」

 戯志才の問いに、一刀は淀みなく答えた。戦については荀家で色々と考えさせられることも多く、軍学についても初歩ではあるがあの荀彧から手ほどきを受けた。

 だから戯志才の問いにも自信を持って答えたのだが、一刀を見る戯志才の目は冷たかった。とても正答を褒めるという雰囲気ではない。

「五十点ですね」
「厳しい採点だなぁ……」
「頭数を揃えることは戦においてまずやらなければならないことの一つですが、それにしても絶対ではありません。それに戦いが数だけで決まるのならば我々軍師は必要ないでしょう。戦において軍師の成すべきことは何か……それは「我々にとって有利な状況を作ること」です」

 村人達にすべきことを伝えていくらか作業を手伝った後、賊と戦う時に村人を率いる役割を担った人間全員が戯志才の指示によって高志の家に集められた。集められたのは作戦を立てた戯志才に程立、それから一刀と旅の軍師単福の四人である。他の村人は老若男女全てが、外で賊と戦うための下準備を行っていた。

「有利な状況?」
「ええ。今回の場合、それを設定することが肝要……いえ、全てです。賊を見た者の証言から見た敵対勢力を二百と想定しますが、これは我々の総数と同程度です。数字だけを見れば拮抗していますが、この中で武器を持って戦えるよう訓練された者はおよそ四分の一。正攻法でやるのならば四倍の数を相手にしなければならない状況です」
「何の柵もなかったら、迷わず逃げ出してる戦力差だね」

 相槌を打つ単福の調子は軽い。この場で最も確かな腕を持つ彼女にとって、二百人の賊など物の数ではないのかもしれない。全てを殺しきることなど出来ないと単福は言うが、自分の身一つ守るだけならば何も問題はないだろう。余裕のある態度はその自信の表れだ。

「ですから、正攻法は徹底的に避けます。寡兵でもって大軍を撃ち破る。軍師の魔法をご覧に入れましょう」
「魔法の一部になれるのは光栄だよ」

 願わくば誰も死なず、怪我もせずに終わらせたいところだ。村人を捨て石にするような作戦を立てるなら是が非でも追い出すつもりでいたが、作業を監督し指示を出す戯志才の態度には信用出来るものを感じていた。

「原則として敵には攻撃をさせません。我々だけが賊が全滅するまで攻撃を続ける。そんな一方的な展開が望ましい」

 戯志才の目が単福に向いた。眼鏡の奥の切れ長の瞳が、男装の麗人を見据える。

「単福殿、貴女が計画の要です。本来はこの役目を北郷殿にやってもらうつもりだったのですが、これにはどう考えても貴女の方が望ましい」
「俺の腕じゃ頼りないか?」

 非難するような口調で問うが、一刀も自分の腕が単福に遠く及ばないのは一度の手合わせで理解していた。作戦の要に必要なのが腕の立つ人間ということならば、自分から単福に切り替えられるのも納得できる話だ。戯志才の決定に不満はない。

 だが、一刀の言葉に戯志才は視線を逸らした。単福はくくっ、と低く笑い声を漏らす。二人とも何か隠している風だった。疑問、というよりも心に不安を覚えた一刀がそれを問いただす前に、この集まりに参加している最後の軍師が、それはですねー、と暢気な声でもって口を開いた。

「お兄さんでは映えないからですねー。お兄さんのお顔も中々整っているとは思いますが、単福さんに比べたら見劣りしますから」
「……もしかして顔で選ばれたってこと?」
「正確には迫力ですねー。実際、お兄さんが凄んでもあまり迫力はなさそーですし」

 本当かと戯志才を見ると、彼女は気まずそうに目を逸らすばかりだった。その反応に程立の言葉が真実であることを否応なしに理解させられた。

 戯志才が普通の人間ならば言い難いことでもズバズバと言う性質なのは一刀も知っている。そんな戯志才が言い淀んでいるというのだから、これは『よっぽどのこと』なのだ。

 戯志才を見た延長で、単福を見やる。暗い室内でも男装の麗人には華があった。見る者がいたら思わず溜息を漏らさずにはいられない、それほどの容姿だ。

 そういう方面でも単福に劣るというのは分かっていたつもりだが……それを女性に明言され、かつ気を使われてその事実を伏せられたという事実は、一刀の心を少しだけ傷つけた。

「貴殿も割りと整った顔をしていると思いますよ」
「気遣いどうも」

 返事も投げやりになってしまう。おそらく、割りと整っているという戯志才の言葉は本心からの物だったのだろうけれども、その気遣いが一刀には痛かった。消沈した一刀を程立が微笑ましく眺める。子供を見守るような母親のようなその顔を、一刀は見ていなかった。

「とにかく、単福殿には堂々とした立ち振る舞いが期待されます。作戦の成否は貴女の振る舞いにかかっていることを肝に銘じておいてください」
「期待以上の働きをするのが僕の流儀だ。まぁ、期待しておいてくれ」
「実に頼もしい。さて、単福殿には高志殿の家にて待機していただきます。供には自警団の中でも年齢の高い者を連れて行くと良いでしょう。自ら打って出る必要はありません。賊が家の中に侵入してきたらそれを殺してください」
「戦闘不能にするだけじゃ駄目なのか?」

 口を挟んだのは一刀だ。現代的な感性を持っている一刀にとって、できることならば殺したくないと考えるのは当たり前のことだ。

 だが、この時代においてその考え方はどうしようもなく甘い。殺さないことをを選択できる権利は圧倒的な強者にしかなく、一刀達はたかが賊を相手にした場合でも、その強者ではないのだった。

 それを良く知っているはずの一刀を、戯志才と単福が見やる。その視線には一刀の甘い発想に対する非難の色が込められていた。

「ごめん、馬鹿なこと言った」
「愚かであるとは思いますが、その発想は大事にして良いと思いますよ? 思うだけならば自由です。そしていつか、貴方が力を手にした時にそれを実行すると良いでしょう」
「無力なうちには理想を持つなって風にも聞こえるけど」
「思うだけならば自由と言いました。実行するのも自由ですが、貴方は人を率いる立場にいるということを忘れないように。世の中の多くの物には取り返しがつきますが、人の命はそうではありませんからね」
「肝に銘じておくよ」

 そのために賊を殺すことにまだ抵抗はあったが、世話になった村人とただの賊を比べたら、大事なのは村人の方だ。賊を生かしておくことで村人の命を危険に晒すのなら、賊は殺すしかない。

 今この場において、それは正しいのだ。一刀はそれを深く心に刻み付けた。

「話を続けます。賊の首は出来ればその場で刈り、外に出た時残りの賊の前に転がしてください。侵入してきた全員の首を刈るかどうかは、単福殿の判断に任せます」
「ただの賊なら、五人くらいまで僕一人で何とかするよ」
「最初に家に押し入ってくるのは精々その程度でしょう。賊は村の中央広場までおびき寄せます。広場沿いの家に人員を割くとすれば、一つの家に押し入れる人数はそれくらいが限界です」
「家に侵入してくるのはそれくらいで良いとしてまだ外に百人ほど残ってる訳だけど、賊を仲間の首でどうにかできるものかい?」
「そこを何とかするのが策です。既に村人に指示を出して、人数分作るようにしているのですが……」

 戯志才が背後の荷袋からそれを取り出す。

 車座になった一刀達の前にいくつかの木片が放り出された。削られた木片に紐が通せるように加工されたそれは、一刀には見覚えのあるものだった。

「木鎧じゃないか」

 木鎧というのは一刀が適当に決めた仮名だが、他に候補もなかったので村人はそれを採用して、木で作られた鎧を指すのに使っている。単福が持っているような金属鎧に比べればないよりマシという程度の防御力しかないが、あるのとないのとでは安心度が段違いだった。

 木を削って身体にあわせなければいけないために、まだ自警団員の数しか作れていないが、いずれは予備を作るつもりでいるので、加工前の木材だけは沢山保存されている。

「それを沢山作るのか?」
「ええ。それらしく見せるためには小道具も必要です。夜闇の中、これを着た人間がずらりと並んでいるのは壮観でしょう? 演出を加えれば、官軍の一団と思わせるには十分な程に」
「ただの村人を官軍に見せるのか」

 戦う時に着用するのならば木の内側の加工が必要だが、それらしく見せるだけならばそれも必要ない。これで炭でも使って目立たないようにすれば、夜闇の中で遠目ならば金属鎧と区別がつかないだろう。

「余裕があれば兜も作るつもりでいますが、それは期待してないでください。太陽の光の中で見れば一目瞭然ですが、夜の闇と単福殿の演出が加わればこれでも話は別です。ただの農民が官軍になれるかが単福殿にかかっている訳です。北郷殿でなく単福殿を採用した理由こと、これで納得していただけましたか?」
「そういうことなら単福でしょうがないな」

 改めて自分で言葉にすると敗北感が生まれたが、横目で見た単福の顔は男の一刀の目から見ても非常に勇ましくてかっこよく、なるほど、映えを基準にするのなら彼女しかいないな、というのが心から理解できた。心から敗北した瞬間でもある。

「怯ませたら、後は攻撃するだけです。小屋の屋根や広場の外に配置した村人、自警団の人員による矢、及び投石で賊の逃げる方向を誘導します。誘導のための攻撃を指揮するのは程立、貴女に任せますよ?」
「大船にのった気持ちでいると良いですねー」

 相変わらず眠そうな程立の返答は、どこか頼りない。ふわふわとしたその態度に一刀は不安になったが、彼女を良く知る戯志才はそんな返答にも目くじらを立てない。慣れたもの、というその雰囲気に、性格の全く異なる二人の絆の強さを感じる一刀だった。

「追い込んだ先には落とし穴を作ってもらっています。大人の男性が飛び込んでもすっぽりと納まってしまうような深い穴です。賊の逃げ遅れた連中をここで足止めしますので、単福殿は自警団の一部を率いて、これを討ってください」
「少ない人数で賊と戦うのって危なくないか?」
「中央広場から落とし穴まで、いくらか距離があります。落とし穴で足止めされているということは、集団の最後列にいたということです。さて、彼らは何故最後列にいるのでしょうか」
「……速く走れない理由があった」
「正解です。賊が満足な支援を受けられるとは思いませんし、二百人もいれば怪我をしている人間も多くいることでしょう。そういう連中は速く走れませんし体力もありません。一方的に討つには十分でしょう」
「賊が丸々残ったら? 形勢逆転で一気にやられるかもしれないぞ」
「落とし穴の蓋には、少しくらいならば耐えられるように細工をします。細工と言っても蓋をする木の下部に切れ込みを入れるだけですが……これも上から土でも被せておけば、必死に走る人間には見えないでしょう。先頭の比較的怪我の軽い奴らを落とし穴の向こうに。平均的な体力の残っている連中を穴に落とし、単福殿が相手にするのは残りです」
「もちろん、穴の底には罠をしかけますよー。落ちた賊は、まず復帰しませんからご安心をー」

 落とし穴くらい一刀だって作ったことがあるが、それで人を殺すという発想を持ったことはなかった。戯志才の指示で今も作業が行われているが、会議に出席する前に見た限りでは、既に一刀の腰くらいにまでの深さになっていた。

 これから夜通し作業を続ければ、穴はもっと広く深くなるだろう。底に罠まで仕掛けるのならば、人くらいは簡単に殺せるように思う。

「本当、よくこんなこと考え付くな……」
「褒め言葉と受け取りましょう。さて、穴を飛び越えた連中ですが、これを迎え撃つのが我々の役目です。北郷殿、貴方には最後の仕上げをしてもらいますよ。私と北郷殿で自警団の残りを率い、これを村の外で迎え撃ちます。まずは時間をおいて弓で攻撃し、それから突撃です。ここに作戦は特にありません。見える敵を片っ端から切り捨ててください」
「最後は力頼みなんだな」
「村の外にも落とし穴が作れれば良いのですが、残念ながらそこまでやる時間はありません。危ない橋を渡って貰うことになりますが、そこは我慢していただくより他はないでしょう。北郷殿が鍛えた自警団の底力に期待させていただきます」
「まぁ、小船に乗ったくらいの気持ちでいてくれると良いよ」

 大船とはどうしても言えなかった。威勢の悪さに程立と単福から非難の篭った視線が向けられるが、賊なんて! と大言壮語を吐くことはできなかった。
 
 自警団員だけならば張れる虚勢も、周囲が軍師だけでは意味がない。

「俺達は待ち伏せしてれば良いのか?」
「広場で騒ぎが起こってから、村を出る賊を先回るように移動します。落とし穴は一つですからそれほど誤差は生まれないでしょうが、微調整は必要です。それは私が指示しますので、北郷殿はそれに従ってください」
「戯志才も仕上げ組に?」
「可笑しいですか? 私が提案した策なのですから、それを見届ける義務があると思うのですが」
「軍師なんだから、付き合わなくても良いと思うけどな」

 軍師と言って思い出すのは、荀家の猫耳少女だ。あの猫耳も怖いくらいに頭が回ったが、剣を持って戦うようなことは断じてしなかった。運動神経そのものはそれほど悪くはない、ということだが(それでも良くはないらしい……)軍師は考えるのが仕事、というのが荀彧のポリシーのようだった。

 一刀もそれで間違っていないと思うが、戯志才は当たり前のように剣を持つという。剣がどうのと言うのならば、単福もそうだ。軍師であるのに剣を持って戦うというのは、一刀の持つ軍師のイメージと合致しない。

 もし義務感だけで言っているのならば、遠慮してほしい。一刀の発言にはそういう意味も含まれていたのだが、一刀の内面を知ってか知らずか、一刀の発言に戯志才は苦笑を浮かべ、首を横に振った。

「剣と弓の腕だけならばそこそこの物である自信があります。少し前まで一緒に旅をしていた仲間が、腕に覚えのある者でしたので、彼女に手ほどきを受けました。賊を一人二人斬るくらいならば、何とかなるでしょう」
「無理をされても困るんだけどな」
「引き際くらいは弁えていますよ。無理と思ったら、他の方に任せて引くことにします」
「まぁ、それなら……」
「僕らも仕事が片付いたら急いで合流するよ。君の腕を信用してない訳じゃないが、仲間は多い方が良いだろう?」
「単福の手を煩わせないよう、頑張ることにするよ」

 何から何まで今日出会った人間に手伝って貰うのは、流石に格好悪い。初の実戦に恐怖がないではないが、やらなければ、という思いは今もなお一刀の心の中で燃えていた。


「作戦はとりあえず以上です。何か質問はありますか?」
「賊が色々な方向から攻めてきた時はどうするんだ? 落とし穴は一つだし、そういう時のことも考えておいた方が良いと思うんだけど……」
「無論、考えてあります。今話した策は敵が全て正面からやってきた場合のものです。他にも考えてありますから、北郷殿には全て頭に叩き込んでもらいますよ?」
「うん、まぁ、お手柔らかに頼む……」

 策が幾つ想定されているのか知らないが、いずれにせよ、全部覚えるのは簡単なことではない。手加減など欠片も考えていない戯志才の怜悧な視線を受けて、一刀はそっと溜息をついた。
















「正面から、全員か……」

 斥候役の村人から情報を受けて、単福は一人ごちた。

 結局、賊は戯志才が想定していた中のこちらが最も与し易い陣形で挑んできたことになる。
賊の血の巡りに期待していた訳ではないが、これほど考えなしだと流石に拍子抜けする。

 だが、今回かかっているのは、自分一人の命だけではない。二百人という『少数』とは言え、他の人間の命を預かる立場にあるのだ。敵が与し易いのならば、それだけ味方のためになる。そう考えることにして、単福は思考を指揮官のそれに切り替えた。

 賊の動向は村の東西南北に配置された斥候役の村人から送られてくる情報で大まかにではあるが掴めている。急ごしらえの斥候ではあるが、賊が来たか来ないか、その数は多いか少ないかの四つだけを符丁で送れるようにしてあるので、素人でも最低限の役割は果たしてくれる。

 何より、ここは彼らの地元で縄張りだ。一人二人が見つからないように行動するだけならば、賊の二枚も三枚も上手を行く。危険だ、と反対した一刀が目を剥くほどの活躍を、斥候はしているのだ。

 戯志才が想定したところに寄れば、賊は途中にある家々を家捜ししながら、中央広場にまでやってくる。めぼしい物がありそうな家、屋敷はこの辺りにしかない。一つ一つを当たるよりは一度に全ての家に電撃的な奇襲をかけた方が成功率は上がる。そのくらいの判断は賊にもつくはずだった。

(個別に来てくれた方が楽ではあるのだけどね……)

 学がないに違いはないが、楽することばかりを考えてもいられない。戯志才の読み通りに賊が行動すると仮定して、単福も思考した。

 今頃、やはり斥候から報告を受けた戯志才と一刀の隊が、賊の退路を断つ形で移動しているはずである。戯志才などは落ち着き払ったものだが、一刀の顔には緊張の色が見て取れた。

 聞けば、初陣であるという。自警団の面々に指示を出す姿は中々堂に入っていたが、緊張した面持ちと僅かに固い動きは、確かに新兵のそれだった。

 新兵が素人の集団とは言え、兵を率いているというも可笑しな話だ。一刀はこの村の人間ではないし、自警団の中には軍属だった者もいる。剣の腕は確かに一刀があの中で一番かもしれないが、全体を見渡し指示を出すだけならば一刀は参謀になり、団長は村出身の戦経験者にやらせた方が上手く行くように思う。

 だが、外から来た一刀は見事に村人の信頼を勝ち取り、自警団を率いている。兵としての錬度はこの規模で一刀が面倒を見たことを考えれば最高に近い状態に仕上がっていた。

 何より目を見張るのは、士気の高さだ。全員が、村を守るという行動のために協力して事に当たっている。元から愛郷心というのはあったろうが、それをさらに強固にし、一刀の元に一つに纏まっている。

 これで錬度と装備さえあれば、賊など物の数ではなかっただろう。彼らに足りなかったのは時間と資金だけだ。賊がやってくるのが後一年遅ければ、戯志才達や自分の補佐などなくとも彼らだけで賊を討てた、そんな気さえするのだ。

 北郷一刀。

 指揮官や指導者として優れた人間であるとは思えない。剣の腕も頭の出来も、悪くはないが凡庸だ。いつだか遠めに見た曹操や孫策のように、見る者を惹き付けてやまない、強烈な人間的魅力がある訳でもない。

 しかし、あの男ならばやれる。他人にそう思わせるだけの何かが、一刀にはあるような気がした。錯覚かもしれないが、話してみるだけの価値はあるように思う。

 完成された存在よりも、未完成な人間を見る方が面白い。仕えるのならば、手伝うのならばそういう人間でなくては、知識も冴えも見せ甲斐がないではないか。

 これが終わったら、話をしてみよう。彼の価値は何処にあるのか、非常に興味がある。


 かたり、と戸が揺れた。単福の部下に割り当てられた自警団員は、屋敷の奥で息を潜めている。何かあれば賊に対応できる。そんな距離にいるのは単福一人だった。光が当たらぬよう、戸からは離れた位置に黒ずんだ布をかぶって床に伏せている。

 鎧は身に着けている。下手に動くと音が立ち、賊に感づかれるだろう。

 動く時は、一瞬で片を付ける。一人、二人……三人が屋敷の中に足を踏み入れた。後続がある様子はない。この屋敷にやってきたのは、三人、それで全員である。

 それを見定めた瞬間、単福は動いた。地を這うように疾走し、抜き身の剣を切り上げる。暗闇から、一瞬の銀光が走る。剣は狙い違わず、賊の首を跳ね上げた。首が飛び、血飛沫が舞う。首を刎ねられた賊が、自分の死を自覚するよりも速く単福は動く。

 異変が起こった。仲間が死んだその時に、残りの賊が感じ取ったのはその程度だ。危機感よりも単純に、心に浮かんだ違和感を解消するためにゆっくりと振り向く賊の背に、剣を突き立てる。

 十分な加速の乗った剣は肉と骨を断ち、賊の身体を貫通した。賊の命を奪った自分の剣をそのままに、賊の持っていた剣を奪い取る。

 最後の賊は、ようやく敵対する者が屋敷の中にいることに気づいた。血を被った黒い布に覆われた単福の姿を見て、悲鳴を挙げる――それよりも早く、単福の右手が閃いた。放たれた短刀が賊の喉を貫く。口から漏れたのは、乾いた空気の音だけ。

「やれやれ……」

 誰に愚痴るともなく、単福はゆらり、と床を滑るように走り、大上段から剣を振り下ろした。愛剣に比べると切れ味は物凄く悪かったが、剣は剣だ。単福の腕によって凶器となったそれは賊の身体を斜めに切り裂き、血の雨を降らせた。

「これで第一段階は終了だね」

 血の雨を浴びないよう、布できっちりとガードしながら賊の死体を改める。出来ることならば鎧を引っぺがしておきたかったが、そこまでやる時間はない。持っていた剣を奪い、待機している自警団員に放る。

 残りの死体も調べたが、使えそうなのは一人一本持っていた手入れのなっていない剣と、やはり手入れのされていない短刀が四本だけだった。

 戦果としては寂しい限りだが、この村においては武器はそれだけで貴重品である。有事であるならば尚更だ。

 奪い取った武器を配分する。軍経験者だけあって、死体を見ても顔色一つ変えない。渡された武器の具合を確める様は、農業で鍛えられた身体も相まって死体になった賊よりもよほど賊に見える。

 それを官軍に見せろというのだから、戯志才も無茶を言う。自分一人の演技だけで果たして二百人の賊が騙されてくれるのか……

「徐元直、一世一代の大芝居だ」

 騙されてくれなければ乱戦になる。そうなれば外にいる一刀達は間に合わず、村人達の多くが死ぬ。そんな過酷なプレッシャーなど物ともせず、刈り取った賊の首を抱え、単福は屋敷の戸を潜った。

 夜の空の下、広場を埋め尽くすように賊が並んでいる。ゆっくりと、威厳を感じさせるような仕草でもって、数を確認する。多いが、二百はいない。精々百五十、その程度だろう。薄汚れた人間が目立ち、明らかに怪我をしているような連中までいる。

 状態としては下の上といったところだが、これだけ数が多いと威圧感がある。正面から相対していたら、村の戦力では確かに相手にするのは厳しかっただろう。戯志才の策、様々だ。

 来訪を予期して策を弄し、罠まで張った。ここで更に駄目押す。

 抱えていた三つの首を放った。賊に動揺が広がるが、恐慌を起こすには至らない。頭らしき男の合図で賊が単福を包囲するようにゆっくりと動く。仲間三人を殺されたというのに、対処は実に慎重……悪く言えば臆病だ。ここで一気に押し包むように攻撃してくれば、自分の首くらいは取れたかもしれないのに、彼らはその機を逃した。

 戦況が徐々に自分に傾いていくのを感じながら、単福は芝居がかった仕草で腕を持ち上げ、指を打ち鳴らした。

 乾いた音が夜の済んだ空気の中、遠く、深く響く。

 それは村人達に対する、出て来いという合図だった。単福の指示を受け広場の外から木鎧で身を固めた村人達が続々と現れる。今度こそ、賊の中に動揺が広がった。彼らから見れば地面から湧いて出たように見えたことだろう。


 実際には建物の影になるような位置に穴を掘り隠れていただけだが、賊がそれを知ることは永久にない。自分たちを包囲しているのは、精強無比な官軍だ。そう誤解したまま、彼らは死んでいくのだ。

「賊軍が、まんまと罠にかかってくれたな」

 自分達が負けることなど、微塵も考えていない。そんな風を装って声を挙げる。たとえそれが見かけだけの物であっても、自信に満ちた指揮官は指揮される人間に安心感を与える。今晩のように、素人ばかりの時はその効果も顕著だ。戦闘訓練すら受けていない、官軍に化けた村人達の発する気配は、明らかに賊を圧倒していた。

 後、一押し。それだけで勝負の大勢は決する。だが――

「撤収!」

 賊の頭は半端に頭が回った。頭領が行った撤退宣言に、自分が生き延びることしか頭にない賊達はわれ先にと逃げ出していく。

 見切りが早い。撤退の手際の良さに、単福は焦りのうめき声を与える。逃げて二度とやってこないのであればそれで良いが、食い詰めた賊が行く場所はもうこの村しかない。村のことを考えるのならば、彼らはここで皆殺しにしておく必要がある。

 逃げる人間を追って殺すのは容易いが、散って逃げられると全てを殺すのは難しい。包囲が完成していない今では、本当に逃げられる可能性がある。

 かかれ! と村人をけしかける言葉を単福が躊躇っていた、その時、賊に矢が降り注いだ。程立指揮による、自警団員の射撃である。広場周辺の屋根に配置された射撃の得意な者による攻撃は、的確に逃げる賊を撃ち倒していく。

 矢による攻撃は、賊軍を誘導する。まさに天の助けである矢の雨に感謝を捧げながら、単福は吼えた。

「かかれ!」

 今か今かと待っていた村人達は、単福の号令に合わせて雄叫びを挙げた。地を揺るがすような咆哮を放っているのは、大多数が戦うことの出来ない村人だ。数を誤魔化すために配置された彼らにも、戦える人間が沢山いると賊に誤解させるという重要な役割があった。
 
 事実、咆哮を背に聞きながら賊は尻尾を巻いて逃げていく。あの声がただの農民の物であるとは微塵も気づいていない様子だ。

 戦う意思のない逃げるだけの賊の背に、単福は容赦なく刃を浴びせる。湯水のように血を吹きながら倒れる賊を踏み越え、次の獲物を求めては刃を振るった。単福についてきた自警団員も次々に賊を打ち倒していく。

 逃げるのに手一杯で、反撃してくる賊は一人もいない。咆哮はまだ断続的に聞こえ、程立隊の矢や投石も降り注いでいる。足を止めたら殺されるという恐怖もあるだろう。振り返ってこちらを見る賊の顔には、色濃い負の感情が張り付いている。

 そんな恐怖を浮かべた賊の首を、次々に刎ねていく。起き上がって反撃してこないよう、一撃で殺すための処置だが、手入れを欠かしたことのない名剣でも、流石に切れ味が鈍ってきた。

 十人目の首の半ばで受け止められたことで、単福はその剣を手放し、賊の剣を奪ってその持ち主を刺し貫いた。賊の死体はそこかしこに転がっている。切れ味は悪いが、武器の調達には困らない。手近に転がっていた剣を二本蹴り上げ、両手で構える。

 手近に見える賊を片っ端から斬っていたせいで、集団との距離は少し開いてしまった。広場から遠のいてしまったことで、程立の弓矢からも距離を離すことに成功している。矢の届かなくなった程立隊は急いで小屋から飛び降り隊伍を組んでいる最中だった。

 彼らに準備が出来次第後を追うように告げると、単福は駆け出す。自警団員は遅れることなく単福に着いてきた。単福よりも一回りは上の世代ばかりだが、息は切らせながらも音は上げない。単福にとっても実に頼もしい仲間だ。

「良く鍛えられてるね。正直、驚いたよ」
「団長の方針で毎日走っておりますからなぁ、体力には聊かの自信がございます」
「農作業の後にかい? 疲れるだろう、良くそんな指示に従ってるね」
「最初はこの若造殴りとばしてくれようかと思いました。ただ身体を鍛えるために走るなど軍にいた時以来でしたからな。ですが、これは必要なこと、と熱心に説かれる団長を見ているとやってみようかという気分になるのですよ」
「信頼してるんだね、北郷殿のこと」
「甘い所はありますが、良い青年です。従って戦うに足る御仁ですよ」
「ならその御仁に、僕も良いところ見せないとね!」

 走りながら、一番後ろを走る賊に剣を投げつける。剣は賊の足に当たり、足を縺れさせた賊はその場に転倒する。

 転んでうめき声を上げる賊を、単福は無視して通り過ぎる。転んだ賊は疲労と怪我で、もう立ち上がることも出来ない。それにトドメを刺すのは、後から合流する程立隊がやってくれるだろう。今すべきは、少しでも戦闘可能な賊の数を減らすことだ。

 走るペースは落とさぬまま、単福は賊の走る方角を見やった。

 賊の進行路は怖いくらいに戯志才の読みと合致している。彼女の読みでは賊の数はもう少し多かったが、少ない分には問題はない。単福は無言で手を挙げると、着いて来る自警団員に速度を落とすように指示を出した。

 大雑把な手順しか頭に入れていない彼らにも、そろそろ決行場所だというのはそれで理解できた。単福達の移動速度が速足くらいになって暫くした頃、賊の集団の中ほどから大きな悲鳴があがった。

 次いで、夜の闇の中でも分かる白い土煙があがる。

 これこそ、今回の作戦で最も時間を割いた落とし穴だ。最終的な規模は戯志才が予定した物よりもさらに大きく深くなり、底には木を削って作った槍や棘が無数に配置されている。集団で走っていた賊は成す術もなくあの穴に落ちたことだろう。

 穴に落ちた集団の直ぐ後ろを走っていた面々は、立ち込める白い煙と仲間の断末魔、そして運悪く生き残ってしまった仲間の呻き声に蹈鞴を踏んでいる。

 そして、怪我と疲労が。足を止めてしまった体力のない負傷している賊は、目の前の現実に膝を屈し、次々と崩れ落ちていった。

「追い詰めたぞ、賊どもめ」

 単福が追いついても、賊達はそこにいた。死人のような顔つきをした彼らに、もう戦うだけの力は残っていない。血糊のついた剣を見ても後退る体力すら残っていないようだ。

 だが、死に対する恐怖だけは残っているようで、単福を見る視線には、いまだ色濃い恐怖が張り付いている。どうすれば生き残ることができるのか、血の巡りの悪くなった頭で必死に考えているのが、単福には手に見て取れた。

 賊達を前に、単福は大きく溜息をつき、片腕を上げた。賊は何事かと、掲げられた腕に視線を集めさせる。

 そして、腕が振り下ろされた。

 単福の背後から矢が打ち出される。放ったのは合流した程立の部隊だった。彼らが放った矢は地に蹲った賊を次々に貫いていった。即死する者もいれば、喉に矢を受けて生き残ってしまった物もいる。最後の力を振り絞って命乞いをする賊もいたが、その声が届いても矢の雨はやまなかった。

 一頻り矢を撃ち終わるのを待ち、単福は賊に歩み寄った。最初からついてきた自警団員も、程立隊の面々も途中で拾った剣を持って後に続いている。賊は既に息絶えている者がほとんどだったが、落とし穴の淵にまだ一人、息のある男がいた。

「なぜ……」
「君達が賊だから、と答えよう。君たちが善良な流浪民だったら、また違った道もあったのだろうけどね。残念ながら君達は僕達から奪うためにこの村を訪れ、僕達はそれに抵抗し君達の命を奪うに至った。筋道は通っているだろう? 疑問が解決したのなら、安心して逝きたまえ」

 短刀が賊の喉を深く裂く。それで賊は絶命した。

「落とし穴に落ちた連中にトドメを指したら、逃げた連中を追うよ。可能性は低いけど分散して逃げた賊が反撃に出てくるかもしれないから、何人かはここに置いていく。程立!」
「はいはい、なんですかー」
「隊の半分を借り受ける。残りの半分は君が指揮して周囲の警戒に当たってくれ」
「要するに打ち合わせの通りってことですねー」
「まぁ、そういうことだね。全く、君達の策は怖いくらいに上手く行く」
「まだ完結した訳ではありませんよ? 最後の仕上げは、お兄さん達にかかってますから」
「なら僕はその仕上げを特等席で見るとするよ。落とし穴はどうだ!?」
「大丈夫です。穴の下の方までは見えませんが、見えるとこにいる奴は皆息がありません」
「ならばよし。皆、疲れてるところ悪いけど、もう一働きしてもらうよ。我らが団長殿を助けに行こうじゃないか」

 単福の提案に、村人達は夜空に吼えることで答えた。

 この声は、一刀達にも聞こえているだろうか?
 











「どうやら始まったようですね」

 村の方角から咆哮が上がったのを聞いて、戯志才が呟く。夜間でも目立たぬよう暗色の布を被っての移動中だ。賊の相当数が正面からやってきたというのは、一刀達も目視で確認していたが、それが現状の全軍であることは斥候役の村人から報告を受けていた。

 一番与し易いルートできてくれた、ということである。

 最初から一つの集団であるのなら、程立と単福ならば上手く誘導してくれることだろう。一刀は村での作戦が成功するかどうかの心配をすっぱりと止めた。自分が成功できるか、の方が遥かに心を悩ませる課題なのだ。

「第一案で作戦を決行します。内容は覚えていますか?」
「戯志才の隊が村に近い方で展開。最初に矢で攻撃した後に、進路を塞ぐように展開した俺の隊が矢で攻撃。それでも賊が動いているようだったら直接応戦。戯志才の隊と挟撃する」
「よろしい。では、予定通りに」
「戯志才も気をつけて」

 励ましには無言で手を振ることで応えた戯志才は、隊を率いて配置についた。待機する場所は戯志才が決めるため、一刀達の移動は戯志才の配置が完了してからだ。歩幅で大雑把な距離を測りながら、戯志才に事前に指示された間隔を開けて、一刀達も配置につく。

「いよいよですね団長」

 当然のように一刀隊になった子義が、装備の点検をしながら小声で囁く。剣の数が足りないため、ほとんどの隊員の武器が木刀や石器時代のような槍なのに対し、子義だけは真剣を持ち弓も本格的な拵えの物を使っていた。

 年齢こそ一番若いが、自警団の中で子義が実力者であるのは疑いようのない事実だ。武器は優先的に回されているのもそういう理由である。弓は鳥や獣を狩りに行くこともある村の老人から借り受けた猟師用の弓だ。剣以上に弓に才能があることに気づいたのは極最近のことだが、子義の腕があれば夜の闇の中でも、人の額くらいは確実に射抜くだろう。
 
 弦の具合を確める子義の目は、興奮で爛々と輝いていた。

「子義はさ、人を殺すのに抵抗とかない?」
「人じゃなくて賊ですよ、団長。殺さないと盗られたり殺されたりするなら殺すしかないじゃありませんか」

 抵抗はない、そんな顔だった。他の団員を見ると聞くともなしに話を聞いていた者は皆、子義と同じような顔をしている。

 誰も自分の考えには共感してくれない。ここでは北郷一刀ただ一人が異端なようだった。

 やるしかないと頭では解っていても、どうしたって抵抗はある。現代日本で生まれた者としてはきっと正しい感性なのだろう。こんな世界に放りだされて尚、この感性を持ち続けていられたことは幸福なことなのだと思う。

 生きるために命を削らなくても良い。あの国は本当、どこまで平和だったのか。

「そうだな、可笑しなことを言った」
「不安なんですか? 大丈夫ですよ。団長のことは俺が守りますから」
「子義には期待してるよ。でもほどほどにな。お前、お馬鹿さんなんだから」
「真顔で言わないでくださいよ……」

 ははは、と周囲の団員達から小さな笑い声があがる。自警団の中でも最年少の子義は、皆から愛されているのだ。全員から馬鹿と言われたようで子義は不貞腐れてそっぽを向いたが、戯志才隊から合図があったことで、表情を引き締めた。

 全員が弓を持ち、矢を番える。

 獣のように息を殺し、待つこと数分。村の方から足音が聞こえてきた。不規則で大きなそれは相当に余裕がないことを伺わせる。策は上手く行っているようだ。戯志才隊からは、このまま予定通りに、という最後の合図が送られてきた。

 後は、戯志才隊のタイミングに合わせて、こちらも動くだけ。

 矢を持つ手に緊張が走る。弓の腕はそれほどでもないが、真っ直ぐに飛ばすくらいは一刀にもできる。矢が当たれば、人は死ぬだろう。自分の撃った矢で人を殺す光景を想像して、ぶるりと震えた。

 吐きそうになるのを、ぐっと堪える。やるしかない、やらなければいけない……

「いまだ、撃て!」

 戯志才の声が聞こえた。命令に従い、団員達が矢を放つ。村から走ってきた多くの賊が矢によって倒れたが、それでも全員ではない。速度を緩めずに走ってきた賊に、今度攻撃するのは一刀達の隊だ。

 遠目に先頭を走っている男の顔が見えた瞬間、一刀の覚悟は固まった。

「用意――」

 一刀の言葉に従い、全員が弦を引く。ぎりぎりと弦が音を立てるのを聞きながら、賊を十分に引き付け――

「撃て!」

 号令一過、一刀隊全員が矢を放つ。いや、子義一人だけは号令を無視して、矢を放たずにいた。一刀達の矢が賊に命中する。中には剣で矢を払うような者もいたが、放たれた矢のほとんどは賊の身体に命中した。

 子義が矢を放ったのは、全ての矢がどうなったのかを見届けてからだった。その矢は一筋の光のように伸び、一人の賊の額を貫く。即死だったのだろう。額から血を噴出した賊は、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 自分が生み出した成果を見て、子義は手を叩いて喝采を挙げた。相当数が矢で倒れたがまだ動いている賊はおり、そのうち何人かはこちらに向かって駆けている。戦いはまだ続いているのだ。

 そして、もう一度一斉射撃をするような余裕はない。

「いくぞ。皆、油断するなよ」

 それだけを仲間に告げると、一刀は駆け出した。全員がそれに追従する。一人で喜んでいた子義が僅かに出遅れたが、この中で一番足が速いのも子義だ。あっという間に一刀を追い越し先頭になる。

 だが、そこで想定外のことが起きた。

 最後の力でも振り絞ったのか、賊の一人が機敏な動きを見せたのだ。斬りかかるよりも先に踏み込んできた賊の力任せの一撃を、子義は身体を地面に投げ出すことで避けた。後転して距離を取る子義を横目に見ながら、子義が追撃されないよう身体ごと割り込んで賊の剣を受ける。

 子義以外の仲間は切り結ぶ一刀には目もくれず、他の賊に襲い掛かった。彼らは『戦う時は必ず相手よりも多い人数で』という教えを律儀に守り、負傷して動きの悪い賊であっても、一人を相手に二、三人で剣を交えていた。

 数の利は既にこちらにあった。この場面を切り抜ければ勝利は目前である。一刀の剣にも力が篭るが、眼前の賊は聊か一刀の手に余った。荀家の侯忠ほど強い訳ではないが、自分よりは明らかに場数を踏み、剣の腕も上であると感じられたのだ。

 一人では勝てない。早い段階で理解できたのは、訓練の賜物だろう。

 数合切り結んで不利を悟った頃、転がった子義がすっ飛んで戻ってきた。一刀が賊の剣を受けたタイミングを見計らって、賊に剣を突きこむ。鋭く、速い突きだ。これだけを見たら一角の剣士に見えなくもないが、攻めのパターンが単調という欠点はまだ直っていない。

 長丁場になれば必ずボロが出る。自分が気づいたようなことを、修羅場を潜った賊が気づかないとも思えない。

 どうやって賊を倒すか、考えを巡らせた瞬間、その賊が雄叫びを挙げた。あまりの声の大きさに反射的に動きが止まる。一刀も、子義もだ。それを見逃す賊ではなかった。

 賊は子義に身体ごと突っ込んだ。軽い子義は成す術もなく吹っ飛ばされる。ギロリ、とこちらを睨む目は飢えた獣のそれだった。男の剣に、さらに力が乗る。一つ受ける度に大きな痺れが走った。腕力の差は歴然だ。気を抜けば腕ごと剣を持っていかれそうな攻撃は、止む気配がない。

 せめて子義が復帰するまで。そう思って必死に剣を受けたが七合が限界だった。高々と剣を跳ね上げた賊は、返す刀で首を狙ってくる。慌てて一刀は倒れこむようにして身を投げた。

 土を味わう羽目になったが、力任せに振りぬかれた剣は近くの地面を穿つに終わった。腕も首もまだ繋がっている。死んではいない。子義の戻ってくる気配を感じた一刀は、そのまま地面を転がって賊から距離を取った。

 吹っ飛ばされたことを根に持っているらしい子義は、猛然と賊に攻め込んだ。いつもの五割増しくらいの速度で攻め続けているが、パターンはいつもと変わっていない。男は後手に回っているが、子義の剣を受けることには成功し続けている。

 次に何処に来ると確信が持てている訳ではないのだろう。男が子義の剣を受けられるのは、きっと経験に寄るところが大きいはずだ。荒削りの天性だけで修羅場を潜った人間を押し込めるほど、剣に関して子義の才と錬度は高くない。

 どうやって子義を援護するか、そう思案している途中に賊の背後に動く影を見た。子義もそれに気づいたようで、こちらに向けて足で合図をする。タイミングを合わせる。そう言っているのだと理解した一刀は、『あちら』に向けて構わずやれ、というサインを送った。

 次の瞬間、 子義が賊の身体を盾にするように伏せた。それと同時に、戯志才達が一斉に矢を放つ。的は子義と切り結んでいた賊ただ一人。戦うことに夢中になっていた賊は、背後の気配に気づくことは出来なかった。

「まさか卑怯などとは言いませんよね?」

 口の端をあげて笑う様は、さながら悪の大幹部だ。

 賊よりも悪役らしく戯志才が微笑むのを他所に、子義は自分の役目を真っ当していた。無言で剣を拾い上げると、躊躇いなく、男の腹部にそれを突き込む。賊が吐血する。まだ死なない。

 首に伸ばされた腕を払いのけ、子義が後退する。

「団長!」

 その声は、どこか遠くに聞こえた。背に矢を受け腹に剣を生やした賊は、ついに膝を突いた。手から剣が零れ落ちるのを見て、安堵する。生き残ることが出来た……ならば、これからこの男を殺そう。

「悪く思わないでくれよ」

 これが、務めなのだ。

 そんな言い訳を思い浮かべることもないまま振り下ろされた剣は、易々と男の首を刎ね飛ばした。











「ご無事ですか、北郷殿」

 呆然としていたら、いつの間にか時間が流れていた。戦場だった場所は慌しく動き回る自警団員で溢れている。彼らは賊の死体から鎧や武器を引っぺがし、不要になった死体を一つ所に集めている最中だった。

 それは弔おうとしての行いではない。死体は疫病などの原因になるから、埋めるか焼くかするしかないのだ。日が高ければ直ぐにでも穴掘りを始めていたのだろうが時刻は深夜だ。最低限の作業だけを今のうちに行い、穴を掘って埋めるのは日が昇ってからに行う。

 これは事前に決められていたことで、自警団員には一刀が伝えたことだ。自分がぼ~っと突っ立っているだけで作業の邪魔にしかなっていないことに今更気づいた一刀は、慌てて後退り戯志才から距離を取った。

 意味のない奇怪な行動に、戯志才は不快そうに眉を顰める。機嫌のバロメータがマイナス方向に傾くのを感じた一刀は、あー、とかうーなど、やはり意味のない単語を数言呟いた後に、

「ごめんなさい……」

 と、素直に頭を下げた。

「……開口一番がそれというのは、空しくありませんか?」
「言って早々後悔してるよ。柄じゃないのかな、こういうの……」
「肌に合おうとそうでなからろうと、大将には相応の振る舞いというものがあります。気を抜いて良い時を見誤っては、示しがつきませんよ?」
「良く覚えておくよ。それで、どうだった?」

 周囲を見るに、既に村へ一人か二人は人をやっているはずだ。単福の姿が見えないが、村に残っていたはずの人間の姿もちらほらと見える。

「上出来と言えば上出来です。怪我人は村とこちら合わせて多数出たようではありますが、全員命に別状はありません。賊は殲滅……出来たかどうかは知りませんが、目に見える範囲にいる賊は全て討ち取りました。結果だけを見れば大勝利と言えるでしょう」
「不満のありそうな物言いだな」
「怪我人が出た、というのがよろしくありません。賊の規模、錬度、負傷の具合を考えれば本当に一方的に勝負を決めることも出来たはずです」
「完璧主義なんだな、戯志才は」
「振り返ってみればできなくもなかった。そう思うと悔しいではありませんか。次に同じ状況が巡ってきた時には完璧に遂行できるよう、何がいけなかったのかを検討するのは軍師として当たり前のことです」
「問題点が解ったら是非教えてくれよ」
「当然です。団長である貴方が知らないでどうしますか」

 まるで教師の物言いだ。これは当分逃がしてくれそうにないな、と一刀は誰にともなく苦笑を浮かべた。戯志才は澄ました様子で周囲の自警団員に指示を出している。賊が使っていた武器防具の他に、自分たちが撃った矢も可能な限り回収していた。


 人体に刺さった矢は使い物にならなくなっている物が多いが、当たらずに地面に落ちた物もいくらかある。正規軍が見たら笑ってしまうような粗末な造りだが、村の財政状況を考えると矢の一本も無駄には出来ないのだ。

(弓の命中精度が次の課題だな……)

 待ち伏せしてしっかり狙い、それでも当たらなかった矢があるというのは、改善すべき点である。問題は指導する方法だ。弓の手ほどきは荀家で受けたが、剣や体術ほど熱心に学んだ訳ではない。基礎の基礎くらいは教えることができるものの、そこから先は我流でやってもらうより他はない。

「戯志才、弓を教えたりできるか?」
「正規軍の調練方法は把握しています。私自身の腕は大した物ではありませんが、素人が見よう見真似でやるよりはマシでしょう。弓の調練場も見たことがありますから、小規模なそれを再現するくらいはこの村でも可能なはずです。それが完成すれば、今よりずっとまともな調練が出来ますよ」
「それは助かるけど……それまでこの村に残ってくれるのか? 俺ももう暫く残るつもりでいるけど、戯志才は旅の途中なんだろう?」
「急ぎの旅ではありませんからね。それに乗りかかった船です。形になるまで面倒を見るくらいはしますよ」
「正直、ちょっと意外だ」
「貴女が私を冷血を思っていた、というのは理解しました」
「そうじゃない。戯志才には凄く感謝してる。戯志才がいなかったら、俺達はずっと大きな犠牲を出してた。いくら感謝してもしたりないよ」
「気持ちだけ受け取っておきましょう。私も程立も当然の仕事をしたまでです」

 報酬を要求しても良い働きをしたのに、戯志才の態度は素っ気無い。それが何となく一刀の悪戯心に火をつけた。困っている顔が見てみたいと思ったのだ。

「とにかく、俺は感謝してる。ありがとう、戯志才」

 そう言って、有無を言わさず戯志才を抱きしめた。抱くというにはあまりに力の篭っていない、軽いスキンシップのようなもので、厭らしい気持ちなど欠片も持たずにそれを行った。

 それで慌てるなり怒るなりしてくれれば、それで良かった。殴られて謝る羽目になったとしても全然後悔はしなかっただろう。それで何か、戯志才が大きな反応を返してくれれば、一刀は満足だった。

 だが、戯志才の反応は一刀の予想の斜め上を行っていた。

 まず、抱きしめても反応がない。緊張で強張っているというのでもなかった。身動ぎ一つしないのである。

 まさか気絶でもしているのかと顔を覗きこんだが、目は開いていて呼吸もしている。意識もはっきりしているようだ。

 間近にいても聞き取れないようなことを、真っ赤な顔でぶつぶつと呟いている戯志才を見て、これは失敗したかな、と一刀が少しだけ後悔をし始めた時、視界が真っ赤に染まった。

 ぶぱっ、と耳に残る鮮明な音を立てて、戯志才が大量の鼻血を噴出したのだ。当然、正面にいた一刀はそれを頭から被ることになったのだが、何が起きたのか理解の追いついていなかった一刀にとって、自分が血塗れになることなど些細な問題だった。

 支えようとする一刀の腕を逃れるように、戯志才の体はゆっくりと後ろに倒れていく。止まらない鼻血は弧を描き、月と星の光の中で鈍く輝いていた。

 戯志才が倒れたのは、作業をしていた自警団員全ての目に留まった。誰もが鼻血を流して倒れている戯志才という事実を理解できなかったが、十秒、二十秒と時間が経つにつれて、慌しく動き出した。

「軍師殿が倒れたぞ!」
「団長も血塗れだ!」
「誰か、村長呼んでこい! 大至急!!」

 倒れ付す戯志才は、年頃の女性がしてはいけないような間抜けな顔をしてぴくぴくと痙攣していた。

 悪戯心から手を出した行動が正しかったのか、間違っていたのか……戯志才の何とも言えない姿を前に、一刀が答えを出すことは出来なかった。

 






今までよりも大分長くなってしまいましたが、これで戦闘編は終了です。
次回の事後処理編を経て、次の連合軍編に移ります。
村での出来事にもう少しお付き合いください。









 
 



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十一話 とある農村での厄介事編⑥
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:57

 
 死体を埋める穴を掘る作業は、思っていた以上に憂鬱な作業だった。


 まず、現代ほどに道具が充実してはいない。人数分のスコップがあれば簡単に終わる作業で
も原始的な道具ばかりでは思うように作業も進まない。慣れない道具で時間がかかれば余分に
疲れ、身体も痛みを訴えてくる。


 決して鍛錬をサボっていた訳ではないが、この重労働は徹夜明けの身体に堪えた。


 次に、やはり死体はグロいし臭い。


 現代日本で死体と言えば、綺麗な死体が普通だ。一刀も葬式の時の清められた死体しか見た
ことはない。


 だが、この世界の死体はどれも綺麗とは言い難い。木刀で頭をかち割られた死体がある。身
体中に矢を受けた死体もあれば、剣で首を断たれた死体もある。どれにも正視に耐えない気色
悪さがあった。


 殺し合いに参加したことで死体に耐性ができたのだと勝手に思っていた。死体を埋めるくら
い命を賭けて戦うことに比べたら何ということはない。そう思っていたのだが、明るくなって
から改めてみた死体は一刀の想像以上のものだった。


 だから今現在、一刀の胃の中身は空である。


 一方、吐く一刀を他所に子義をはじめとした自警団のメンバーは平気で死体に触れていた。
聞けば死体を埋める作業をするのも始めてではないらしい。


 自分よりも年下の子供が平気でいるのに、自分だけ吐いていては格好悪い。


 そう思った一刀は一層気を引き締めて作業に望んだが、腹の中には何もない。気を引き締め
たところで、死体がグロいことに変わりはない。黙々と穴を掘る作業と相まって、一刀の心は
沈んでいくばかりだった。


「団長、もういいぜ」


 村から死体を運んできた村人の声で。一刀は作業を作業を止めた。無我夢中で掘っていた穴
は、何時の間にか人一人が横になれるだけの広さになっている。のっそりとした動きで場所を
空けると、村人は無造作に穴の中に死体を放り込み、村へ帰っていく。


 もっこを担いだ彼らは、村からここまで死体を運んでくる役割だ。一刀他数名は穴を掘って
死体を埋める係である。これは、戯志才によって決められた役割分担だ。


 小さくなっていく村人の背中を見るとはなしに見ながら、一刀は死体に土を被せていく。死
体の胸には一文字に大きな傷が走っている。鋭利な刃物で斬られた傷。単福が斬った賊だろう。


 傷は生々しいが、それほど苦しんだ様子がないことから、比較的楽に死ねたのだと解る。


 これが落とし穴に落ち、かつ即死しなかった死体であると始末が悪い。身体の欠損もそうだ
が、彼らは苦しみながら死んだため、夢にまで出てきそうな苦悶の表情を浮かべているのだ。


 そういう死体に比べれば、ただ斬られただけの死体など綺麗なものだ。そういう風に割り切
れるようになった自分を、少し怖く思う一刀である。


「団長、そろそろ休憩にしませんか?」


 一刀の気分が限界に近付いて来た頃、作業に区切りのついた子義が声をかけてきた。穴掘り
作業を割り振られたのは、自警団の中でも若い連中である。


 夜明けを待ってから、単福が中心となって村の周囲を警戒し、それは今も続けられているが、
賊の生き残りが戻ってくる可能性もゼロではない。戻ってきた時、対応できる人間が近くにい
ないと、出さなくても良い犠牲を出すことになる。


 戯志才のそういう判断により、村の外で作業する者には、比較的腕っ節の強い人間が割り振
られた。よく言えば選抜メンバーである。指揮は一刀。従うのは、昨晩も共に戦ったメンバー
だ。子義を始め全員が、一刀に気安く接してくれる。部下というよりも子分のような雰囲気で
あるが、一刀にとっては背中を預けて戦った、頼りになる仲間たちだ。


「そうだな。昼飯にしようか」


 一刀の宣言に、団員達から歓声があがった。小躍りしながら穴掘り道具を放り出し、てきぱ
きと昼食の準備を始める。一刀は作業に区切りをつけると、既に運ばれ野ざらしになっている
死体に覆いをかけた。死体を見ながら食事をする神経は、まだ一刀にはない。


 食事は直ぐに始まった。一刀は車座になって座る一同の中に足を投げ出して座り、前身の力
を抜いた。ふっ、と遠くなる意識を首を振って繋ぎ止める。気を抜くと眠ってしまいそうだ。


「団長、どうぞ」


 子義が水筒を回してくる。口の開いたそれに口を付け、喉に一気に水を流し込んだ。温く、
少し土の味のする水が、何だかやけに美味い。


「始めた時はどれくらいかかるのかと思いましたけど、これなら今日中には終わりそうですね」
「穴掘りに人を割いてくれて助かったよ。その分俺達が疲れるけど、明日から死体を見なくて
済むなら安いもんだし」


 一刀の言葉に、団員達もそろって安堵の溜息を吐く。


 医者に簡単にかかることの出来ないこの時代では、疫病などの元になる死体を片付けるのは
最優先の仕事だが、同時に落とし穴を埋めなおしたり、荒れた田畑を修繕したり、村の周囲の
警戒を続けたりと、しなければならないことは多い。緊急時だからと言って通常業務をサボれ
るほど、村には余裕がないのである。


「明日からは農作業に戻るのかな」
「田畑の修繕は今日中に終わるのかね。ちゃんと見ないでこっちに来たから俺全然知らないん
だけど」
「おかんの話では終わるみたいっすよ。明日からバリバリ働けって念を押されました俺」
「じゃあ、明日からは通常営業だな」


 はは、と笑う一刀に追従する者、微妙に嫌そうな顔を浮かべる者など様々だ。


 農民だからと言って、喜んで農作業をしている者ばかりではない。自警団の中にも剣によっ
て名を挙げて、一角の人物になりたいと考える者がいる。今は乱世。立身出世の道はそこら中
に転がっているのだ。


「団長が兵を挙げたら俺も参加するんですけどね。しないんですか?」
「やるならもっと早くやるべきだったろうなぁ。黄巾の乱はもう直ぐ終わるみたいだし、兵を
挙げても戦う相手がいないぞ」
「どうせそのうち戦が起きるって大人は皆言ってます」
「だからってなぁ……」


 子義の声に、一刀の反応は渋い。


 下手に挙兵すると言ってしまうと、そのままついてきそうな連中がこの中にもいるのだ。戦
に出て戦うことは村を守るために自警団を結成するのとは訳が違う。ついてくる人間がいると
いうことは、その人間の生死にまで責任を持たなければならない。


 責任は、誰かが取らなければならないだろう。例えばこの村で挙兵するのならば、自分がリ
ーダーになるだろうことは一刀にも想像ができた。戯志才達が最後まで付き合ってくれる保障
がない以上、他に選択肢がないのである。


 村には恩義がある。やれと言われたら否やはないが、自警団の面々を率いて戦場で活躍する
自分というのが、一刀にはどうしても想像することが出来なかった。


 戦いに出る以上、子義達だって死にたくはないだろう。戦功だってほしいはずだ。そんな彼
らの要望に答えることは出来そうにないのが、心苦しい。


 優秀な補佐――例えば戯志才や程立、単福などが力を貸してくれるのならば別だろうが、彼
女らが自分などに付き合ってくれるとも思えない。優秀な人間ならばそれだけ働き口は存在す
る。


 まして、一刀の知る通りに話が進むのであれば、黄巾の乱が収束しても世の中は安定せず、
戦乱の世に突入する。このような田舎では世の情報も集まり難いが、旅の軍師ならばある程度
の情報は集めているだろう。戦の臭いを感じ取っているのなら、素人の補佐についてくれるは
ずもない。


「俺についてきたっていいことないぞ」
「戦が起これば俺達のうち何人かは出稼ぎに行くことになってますからね。俺達だけで行くこ
とに比べたら、団長に面倒見てもらった方が遥かにマシじゃないですか」
「子義、お前戦に行くのか?」
「行きたいって前から言ってるじゃないですかー」


 やだなー、団長、と子義は気楽に笑う。年若いメンバーが集まる中でも一番若い子義が乗り
気なことに、世の無常を感じずにはいられないが、この中で武術の腕があり、才能があるのも
また彼である。金や名誉を求めて戦に臨むのならば、子義以上の適任はいない。


 嫌々ながら行くというのであれば止めたのだろうが、子義は非常に乗り気である。村に身を
置いて経済事情まで知ってしまった今となっては、青臭い人道論を盾に反論することも出来な
かった。


「だから、戦に行く時は必ず俺も連れてってくださいね」
「行く時はな。旅はするつもりでいるけど、戦に参加するかどうかは分からないから約束はで
きないぞ」
「えー、行きましょうよー」


 休日、父親に遊園地行きを望む小学生のような軽いノリに、一刀は眩暈を覚える。人道がど
うとかは別にして、旅に出る前にこの子には色々なことを教えなければ……と一刀は決意を新
たにした。


「何か、盛り上がってるみたいだね」


 戦に行くという言葉を引き出そうとする子義に難儀する一刀を救ったのは、ハスキーな女性
の声だった。自警団員の少女達から、黄色い歓声が挙がる。今村にいる人間の中でこういう扱
いをされるのは一人しかいない。擦り寄る子義を引き離しながら、一刀は振り返る。


「辺りはどうだった? 単福」
「平穏無事さ。馬で少し散歩をしてきただけだったよ。君らは働いてるのに申し訳ないね」
「見回りだって必要なことだろ? まぁ、今から村に戻ってもすることは沢山あるだろうから
しばらく散歩してた方が、楽は出来たかもしれないけど」
「今は凄く仕事をしたい気分だから、それも望むところさ」


 まるで舞台上の貴公子のように笑い、単福は馬からひらりと飛び降りる。賊を相手に大立ち
回りをした彼女は旅の人間とは言え村の人気者だ。その容姿振る舞いから少女相手に人気が高
く、他の世代相手の態度も如才ない。戯志才や程立と同様に、人の中心に立つことに慣れてい
る風だった。


「ご飯は村に戻ったらあると思うけど、一息どうだ?」
「いただくよ」


 単福はスープの入った椀を受け取り一刀の隣に腰を降ろした。自分の隣に、と席を作ろうと
していた女性団員が、一刀に向けて遠慮なく不満そうな視線を送ってくる。その圧力に一刀始
め周囲の男性団員も腰が引けるが、単福はそれを気にした様子もない。


 ただ、その強烈な視線の要因の一つに自分が関わっていることには気づいたようで、睨んで
くる女性団員達に向けて、ぱちり、とウィンクした。それで視線の方向性は百八十度変化した。


 今や熱視線に変わったそれを若干鬱陶しく思いながら、一刀は溜息を吐く。


 単福は美人であるから一目を引く。それは理解できる。シャツを押し上げる大きな胸など、
男の視線をひきつけてやまない。事実、単福の近くに座る男性団員などは単福の胸元にちらち
らと視線をやっていた。単福に構わないで食事を続けているのは、色気より食い気の子義だけ
だった。


 女性団員の単福に向ける視線は、男性団員よりも熱い。何というか尊敬以上の物が篭ってい
るような気さえする。単福が迫ればそのまま行くところまで行ってしまいそうな不安定さが、
女性団員にはあるのだった。


 普通、こんな視線を向けられれば困るだろうが、単福に動じた様子はない。貫禄すら感じさ
せるその振る舞いは、こういう視線にさらされることに慣れていることを感じさせた。きっと
女学院では毎日がこんな風だったのだろう。


「団員に手を出したりはしないでくれよ」
「おや、一刀は僕をそんな風に見てるのかい?」
「思わないと言ったら嘘になるかな」
「正直な男は好きだよ」


 ははは、と単福は小さく笑う。それにうっとりとする女性団員に、手を振ることも忘れない。
サービス精神旺盛な単福に、やはり一刀は溜息を漏らした。


 女性同士のそういうことに一刀も興味がないではないが、村のような閉鎖社会でそういう問
題が起こるのはよろしくない。単福が短慮な行動に及ぶとは思わないものの、治安維持の責任
者としては釘を刺しておかなければない。


 言って守ってくれるかどうかは、神のみぞ知るところである。言うだけは言った。後は単福
の性癖がノーマルであることを期待するより他はない。


「ところで、戦の話で盛り上がっていたようだけど、一刀、君は挙兵するのかい?」
「まさか。何に対して兵を挙げるっていうんだ」
「政治や社会情勢に不満が全くない訳じゃないだろ? 黄巾だって元はそういう人間の集まり
だったと噂じゃないか。まぁ、実際は違うんじゃないかって話は良く聞くけど、それはこの際
どうでも良い。今の時代じゃ誰が兵をあげたって可笑しくはないんだ。君が兵を挙げたってお
かしくはないだろ?」
「俺はそういう器ではないよ」


 単福の目に宿る期待の色から逃げるように、一刀は視線を逸らした。温くなってしまった
スープを音を立てて啜る。助けを求めるように視線を巡らせるが、女性団員は相変わらず単福
しか見ておらず、何やら難しい話が始まった気配を敏感に感じ取った男性隊員は、話を振られ
ないように視線を合わせようともしない。


 孤立無援だった。団員達は戦うことそのものに興味はあっても、戦うための主義主張には大
して興味を示さない。きちんと金銭が支払われ、それが人道に大きく悖らないものであるのな
ら、彼らは文句を言わずに戦うことだろう。主義主張について考えることができるのは、大抵の
場合生きることに余裕がある人間だ。


「そうかい? 君は良く村の人々を率いていたと思うけどね。自分で思っているよりは向いて
いると思うよ」
「褒めてくれるのはありがたいけどさ。だからと言って、それで英雄になれる訳じゃないだろ
う?」
「最初から英雄とは、随分と高望みをするね」


 単福にそう言われて一刀は渋面を作った。生き残ることすら不安な実力なのに英雄とは、確
かに高望みが過ぎる発言だった。真面目に上を目指している人間相手ならば、鼻で笑われても
可笑しくはない。単福に馬鹿にした様子が見えないのが救いだった。


「例えで言っただけだよ。本当に英雄になりたいと思ってる訳じゃない」
「目標は大きく高く。それがどんなものであっても、夢を持つのは良いことだよ。それに命を
かけられるなら尚素晴らしい」
「単福には夢があるのか?」
「僕はこれでも軍師だからね。身を立て名を挙げるのは、全ての軍師の夢なのさ」
「戯志才や程立もそうなのかな」
「ふわふわした彼女は分からないけど、ツンツンした彼女はしっかりとした目標を持ってると
思うよ。指揮する姿や立ち振る舞いに芯が通ってるのを感じる」
「それは程立の目標がふらふらしてるってことか?」
「つかみ所がないってことだよね。戯志才はほら、解りやすいだろう? 色々な意味で」


 単福は口の端を挙げている。こちらの反応を楽しみにしている、意地の悪い顔だ。反射的に
問いに答えそうになっていた一刀は、その顔を見て言葉を引っ込めた。衆人環視のこの場で頷
くことは、自分の立場を決定づけることになる。単福の言葉は、捉えようによっては悪口だ。
自警団員の口から『北郷一刀が悪口を言っていた』という情報が戯志才耳に入れられたら、ど
んな仕返しをされるか解ったものではない。

 
 昨日の鼻血の一件で弱みというか秘密というか、戯志才の意外な一面を知ったことで距離は
縮まったように思うものの、そのせいでもっと遠慮なく物を言われるようになってしまった。
今朝も穴掘りに出るまでに、三度も怒鳴られている。


 一刀としてはこのままではそのうち殴られるのではないかと気が気ではない。荀彧には良く
蹴られたものだが、好きで蹴られていた訳でもない。怪我なく息災で生きたいというのは、英
雄になることに比べたら、高望みでもないはずだ。痛いのは誰だって嫌なのだ。


「そういうところはかわいいと思うよ」
「なら、それは顔を見て言ってあげると良い。きっと、戯志才も喜ぶ」


 笑いながら単福は言うが、そんなことをしたらまた鼻血を出して倒れることは目に見えてい
た。普段はあんなにもキリリとしているのに、色恋やエロい方面にはまるで耐性がないという
のだから可笑しな話である。


「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。ご飯ご馳走様」
「もう少しゆっくりしていけば良いのに」
「僕だけ油を売る訳にもいかないだろう? 働かざる者食うべからずさ」


 単福はひらりと身を翻して馬に跨る。別れを惜しむ女性団員に手を振ることも忘れずに馬の
腹を蹴って、村へと歩みを進ませていく。


「夢とか志とか、そういう物について戯志才達と話してみるといいよ!」


 別れ際にそう言って、馬は加速した。単福の背中はあっという間に見えなくなる。女性団員
達の溜息が漏れた。食事のペースもはっきりと落ちている。午後の作業の進み具合にも関わり
そうな深刻さに、一刀の不安も募る一方だ。


「団長、団長の夢ってなんですか?」
「俺の夢ねぇ……なんだろうな」


 子義の問いに、一刀は首を傾げた。現代高校生の身に将来の夢というのは、地味に難解な質
問だった。

























「単福!」

 作業する村人の集まる中央広場まで馬を進めた単福は、探していた人物の声を聞いた。探す
手間が省けた、と一人笑みを浮かべると、急ごしらえの厩に馬を預け、一晩で随分気心の知れ
たその人物に駆け寄る。


「帰りがけに一刀に会って来たよ。あっちの作業も順調なようだね」
「それは重畳です。周囲の様子はどうでしたか?」
「静かなものだよ。少なくとも、徒党を組んでこの村を襲うような連中は近くにはいないよう
だ」
「それを聞いて安心しました。ですが、警戒だけは怠らないようにしましょう。北郷殿には夜
間の警戒を解かないよう、申し伝えるつもりです」
「それが良いだろうね。僕も身体は空けておくから、遠慮なく使ってくれたまえよ」
「元よりそのつもりです」


 相変わらず愛想のない戯志才の言葉を気にもせず、単福は無言で手を差し出す。戯志才は無
言でその手に藁の束を乗せた。柄杓で桶から水を汲み取り近くにあった鎧を湿らす。後は屈ん
で只管擦るだけだ。


 一刀が穴を掘るのが仕事なら、これが戯志才達の仕事である。賊の持っていた道具を保存す
るために、最低限の手入れをしなければならないのだ。武器や防具についた血は腐食の原因に
もなる。売るにしても自分たちで使うにしても、汚れと一緒に落として置かなければならない。


 眼鏡軍師の隣に屈んで、ごしごしと鎧を擦る。手入れなどしていなかったのか、血以上に土
や汗の汚れが目立つ。単福の持っているのは金属鎧と言っても金属を紐でつなぎ合わせただけ
の粗雑な物であるが、こんな鎧でも使用者のことを守ってくれていたようで、剣や槍で付けら
れたと思われる傷が幾つも散見される。粗雑な鎧であっても、命を救うことはあるのだ。


「ところで戯志才、君は一刀のことをどう思う?」


 会話もないのは寂しいと、適当に切り出した話題のつもりだったが、戯志才にとっては適当
の一言で片付けられる物ではなかったらしい。ごしごしと鎧を擦っていた藁の束は戯志才の手
からすっぽぬけ、単福とは逆の方向に飛んで行き、作業していた村人の顔に直撃した。


 ぎゃあ、と悲鳴を挙げる村人に、戯志才は慌てて頭を下げる。村人の顔は汚水に塗れたが、
相手は何しろ村を救った作戦の立案者である。謝り倒す戯志才に村人は笑顔すら浮かべて席を
外した。顔を洗うための水は、少し離れた所にしかない。


「君もそそっかしいところがあるね」
「貴殿がおかしなことを言うからです!」
「そうかい? 僕は彼を人間としてどう思うかと聞いたつもりだったんだが……」


 それ以外の意味に解釈してくれることを期待しての質問だったが、それは黙っておく。案の
定、ひっかけられたと気づいた戯志才は顔を真っ赤に染め――その鼻から血がたらり、と流れ
出した。


「戯志才、鼻血が出てるよ」


 指摘をすると、戯志才は藁の束を放り投げ慌てて手拭を顔に当てた。口を手拭で覆ったまま
眼鏡の奥から睨んでくる戯志才に、逆に単福は笑みを返す。


「妄想逞しいのも結構だけど、考えただけでそれじゃあ先が思いやられるな。君と一生を添い
遂げる人間は、苦労しそうだ」
「貴殿が心配せずとも結構」


 ちーん、と大きな音を立てて鼻をかみ、手拭を放り投げる。赤くなった鼻から、鼻血はもう
流れていない。藁の束を拾って再び鎧を擦りだす戯志才に、努めてこちらを無視するかのよう
な意思を感じた。


(これはからかいすぎたかな……)


 内心で単福が反省していると、戯志才が鎧を持って立ち上がった。鎧についた水滴を手拭で
丁寧にふき取っていく。金属部分から綺麗に水分をふき取り終わったら、残りの仕事は村長達、
村の年寄り達の仕事だ。


 戯志才達が作業している場所から少し離れた場所では、年寄り達が保全の作業を行っている。


 取り替える必要のある縄は取り替えて、金属部分には油を差す。鎧や剣はもちろん、自警団
が後々使う予定であるが、半分以上は売り払って金に変える算段が立っている。駄目になった
作物などの補填としての意味もあるので、村にとってはかなり重要な案件だ。


 賊が使っていたようなものであるので買い叩かれるのは目に見えているが、汚れている物を
持って行けば、足元を見られるどころか買取を拒否されることすら考えられる。綺麗にしてお
くに越したことはない。


「別に怒ってはいませんよ」


 本当かな、と思ったが流石に今度は口には出さなかった。次に鼻血を出されたら、進む話も
進まなくなる。


 戯志才はまた藁の束を掴むと、新しい鎧を磨き始めた。


「北郷殿の話でしたね」
「ああ。彼についてどう思うか、一度軍師の意見を聞いてみたいんだ」
「軍師として、ですか。私よりも程立の方が良いのでは?」
「もちろん彼女にも聞くさ。でも、まずは君からだ」
「貴女も話すという条件でなら話しても構いませんよ」
「交渉成立だ。では、僕から?」
「いえ、私からにします」


 柄杓で鎧に水をかけ、藁の束で鎧を擦る。ごしごしという音で、自分の考えを纏めているの
か、しばらくの間、戯志才はただ鎧を磨き続けていた。


「武も知もそこそこですね。仮に私が人を使う立場だとしたら、彼を使うことはおそらくない
と思います。彼くらいの力量を持った人間ならば、今の時代他にいくらでもいますから」
「確かにね。弱い訳でも馬鹿な訳でもないけれど、もう少し改善の余地があるね彼には色々と」


 本人を前には言えないことでも、軍師相手だとすらすらと出てくる。勿論、他の人間に聞こ
えないような配慮も忘れてはいない。これは本当に、ここだけの話だ。


「ですか、人を率いるということに関しては、見るべきところがあるようにも思います」
「それはこの村だからではないのかな。僕らから見ればそこそこでも、この村ではそうではな
いだろう?」
「それを差し引いても、ということですよ。この村にやってきて一月かそこらの彼に対して、
村人達は良く彼の言葉を聞き、従っています。全幅とは言わないまでも、大きな信頼を得てい
る言っても良いでしょう。それは、貴女も感じたことでは?」


 ちら、と戯志才が視線を向けてくる。切れ長の目が、単福の心中を見透かそうとするかのよ
うに細められていた。


 色気すら感じるその視線に、単福は肩を竦める。賊と戦っている最中にも、日が昇ってから
の哨戒活動の間にも、村人からそういう言葉は何度も聞いていたからだ。


「確かにね。つまり戯志才は、一刀の人間的な魅力に参ってしまったと言う訳か」
「そういう纏め方をされると私がただのアホのように思えてならないので、訂正を求めます」
「失礼。戯志才先生は、一刀の人間的魅力を鋭い観察眼でもっていち早く見抜かれたと、こう
いう訳か」
「釈然としないものを感じないではありませんが、よしとしましょう。私の思うところは、そ
んなものですね。貴殿はどうです?」
「んー……彼ほど仕え甲斐のある人間もいないと思うかな」
「それはまたどうして」
「完璧な主なんてつまらないじゃないか。ほどよく欠けたところがある方が、自分の仕事があ
って良いだろう?」
「そう思えるのはかなり特殊だと思いますが……言わんとしていることは理解できます」
「でも、仕える判断をするにはもう少し時間が必要かな。君のように腰を据えられたら良いん
だけど、今の僕には少々急ぎの用事があるものでね」
「急いでいるのに油を売っていて良いのですか?」
「義を見てせざるは勇なきなり。これくらいなら、先生も許してくれるさ」
「水鏡女学院に戻る予定だったのですか?」
「世の情勢を調べて報告せよと、先生から仰せつかってね」


 実際は水鏡先生本人が回る予定であったらしいのだが、それは現在の生徒と教師総出で止め
られたのだと言う。それも当然だ。先生が優れているのは知の分野だけで、身を守る武の方は
からっきしなのだ。


 学院に集まる人間は教師まで含めて、知に重きを置く人間が多く、単福のように武にまで手
を出す人間は少数派である。学院に名を冠するような人を乱れた世に送り出す訳にはいかない
と考えるのは、当然のことと言える。


 そんな事情もあって、自分の身を守れる程度には武に自信があり、旅慣れている単福に話が
回ってきたのだった。学院を卒業してからも放浪を続け、主を定めていなかったが故の依頼で
もある。


 傑物と噂される人間は一通り見定め終わった後であったため、里帰りのつもりで引き受けた
依頼だったが、今では受けて良かったと思ってさえいる。


 断り、主を決めていたら、この村を訪れてはなかっただろうし、戯志才や程立、一刀に出会
うこともなかった。彼女らに出会えたことは、学院を卒業してからこっち、一番の幸運である
とさえ言えた。


「だから、君とはもっと色々と語り合いたいのだけど、残念だが時間がない。作業も今日中に
は一区切りつきそうだし、明日には旅立とうと思っているよ」


 それから先は、また旅に出て見ようと思っている。これから世は乱れ、軍師の必要とされる
場は増えるだろう。また戦になれば、これまで見つけることの出来なかった英雄の資質を持っ
た者達が出てくるかもしれない。


 主を決めるのは、それらが出揃ってからでも良い。最悪、学院に戻って勉強の日々に戻るの
でも良いのだ。人事を尽くせば、天命が待っている。急いてもきっと良いことはない。


「急な話ですが、目的があるというのならばそれも仕方ありません。水鏡先生には貴女の弟子
を引き止めて申し訳ありませんでしたと、よろしくお伝えください」
「時間が取れるようだったら、訪ねてみると良いよ。聡明な人間を先生はこよなく愛される。
君や程立ならば、きっと歓迎されるだろう」
「北郷殿ならば、どうでしょうね?」
「どうだろう。何しろ僕の先生だ。教え甲斐があると奮起されるかもしれないよ?」
「北郷殿が女性でないことに、感謝しなければなりませんね」


 戯志才が冗談で結んだところで、単福も一つ、鎧を洗い終えた。戯志才と同じように水滴を
綺麗にふき取り、村の子供にそれを預ける。年端もいかない、少年だか少女だかも一目には判
断のつきにくい童は、二人、三人で協力して鎧を年寄り達の下へ運んでいった。


「さて、次は貴殿の番ですよ。北郷殿について思うところを述べてもらいましょうか」
「語ることについて否やはないけれどね、もう直ぐ食事の時間のようだよ?」


 眼鏡をキラリと光らせて凄んでみせる戯志才の背後を示す。炊き出しを行っていた村の女性
達が、昼食が出来たことを触れ回っていた。穴掘り班以外の全ての昼食を賄っているため、か
なりの量である。


 村の内部で作業をしていた者は皆手を止め、食事をするために集まっていく。戯志才も単福
もそれに加わらなければ、食事はできない。椀だけ持ち出し離れて食べるということはできそ
うになかった。有名人である単福や戯志才が、村人達から逃げられる道理もない。


 既に程立は村の子供達に腕を捕まれ、あれやこれやと質問攻めにされていた。いつも飄々と
している程立が慌てている。珍しい物をみた、と戯志才と単福は顔を見合わせて笑った。





































「見送りはこの辺りまでで良いよ」


 馬に乗って村から離れて三キロほどの位置で、単福がそう切り出した。指示に従って馬が足
を止め馬上で単福が揺れる。単福の頭を離れた帽子を一刀がキャッチできたのは偶然だった。


 埃を払って帽子を返すと、単福は珍しく照れくさそうに笑った。


「悪いね。仕事があるのに付き合ってもらって」
「恩人を見送る以上に大事な仕事があるもんか」


 一刀の言葉に、単福は笑みを深くして帽子を被りなおす。賊と戦った時のような勇ましい鎧
姿ではなく、動きやすい旅装束だ。シャツにパンツ、水鏡女学院の制服を羽織り、頭にはトレ
ードマークのソフト帽。出会った時と同じ装いの単福がそこにいた。


「急に言い出さなければ、もっと盛大に見送れたんだけどな。子義とか残念がってたぞ。もっ
と面倒みてもらいたかったって」
「少し見ただけだけど、彼は筋が良いね。特に弓だ。いずれ大陸でも指折りの実力者になるは
ずだよ。君に懐いているようだから、上を目指すのならば手放さないことを薦めるよ」
「進路は子義が決めることで、俺が関知するところじゃないさ」
「黙って俺について来い、というくらいの甲斐性が、君に必要な沢山の物の一つだろうね」


 からかうような単福の笑みに、一刀は視線を逸らす。欠けた物が多いのは一刀自身が一番理
解していることだ。策を考える頭も剣の腕も、戯志才や程立、単福に遠く及ばない。せめて何
か一つでもと思うが、およそ政治、戦に関わることで彼女ら三人に勝てそうなことはいまだに
見つかっていなかった。


「風達がいますから、お兄さんのことはご心配なくー」


 単福と一刀の間に、程立が馬ごと割り込んでくる。励ましの言葉が、地味に落ち込んでいる
身にはありがたい。少女に庇われている自分、と客観的に見ると死にたくなるが、女の子に遅
れを取ることなどこの世界にきてからは日常茶飯事だ。この程度を気にしていたら、とっくに
荀家で死んでいる。


「君なら大丈夫だろう。僕の分まで一刀をしっかり教育してやってほしい。どこかの鼻血軍師
殿では、聊か心配だからね」
「…………」


 普段ならば憎まれ口の一つも放つ戯志才が、今は暗い雰囲気で沈黙していた。雰囲気だけで
なく、顔色まで悪い。一刀達の会話が聞こえていないはずもないのだが馬の上でぐったりとし
たまま動こうともしない。正直、馬に乗ってここまで来れたのが奇跡のような有様だった。


「あまりからかわないでやってくれよ。二日酔いと出血多量で二重の苦しみを味わってる最中
なんだ」
「どうせ酔った勢いで――ってその先でも想像したんだろう?」
「うっ……」
「だからやめなってば……」


 戯志才は口ではなく、鼻を押さえて体を折り曲げる。こんな状態で鼻血を出したら、本気で
生死の境を彷徨いかねない。短い付き合いの一刀でさえ、心配なのだ。生まれた時から自分の
身体と付き合っている戯志才は、普通に命の危険を感じているだろう。


 戯志才がこうなっていることには、昨晩のことが影響している。


 単福に薦められて戯志才、程立と今後について話し合う機会を設けたのだが、何故か村人達
が気を利かせて、誰の邪魔も入らない一軒家と酒、それから人数分の椀を用意してくれた。


 村人の意図を一目で察したのは一刀だけだったらしい。そういうことにはならないと婉曲に
断りを入れたのだが、村の大人たちはそれを照れ隠しと思ったらしい。若いんだから頑張って
ください、と逆に励まされた一刀は、どうしたものかと首を捻りながら二人と共に小屋に入っ
た。


 この時、単福は高志の家に呼ばれて席を外していた。彼女がいればまた違った展開になった
のかもしれないが、後悔先にたたずである。


 何事もなく終わらせるには、真面目な雰囲気で乗り切るしかない。一晩中戯志才の罵詈雑言
を浴びる覚悟で一刀がいると、程立が普通に酒を注ぎ始めた。戯志才もそれを拒まない。一刀
がそれを断ることなどできるはずもなかった。


 そのまま暫く酒飲みが続き、十分もした頃だろうか。ただ酒を飲むことに専念していた戯志
才がふと視線を巡らせたのである。小屋の中には何があるでもない。一刀達三人と、酒と椀。
後は一組の布団と、三つの枕があるだけだった。


 布団といっても現代日本にあるような上等なものではないが、明らかにそういう類の配慮が
された寝具がそこにあると認識できさえすれば十分だった。


 その時始めて寝具一式の存在に気づいた戯志才は、酔ったその状態よりもさらに顔を真っ赤
にし、漫画のように勢い良く鼻血を流した後、急な出血のため気持ち悪くなって顔を青くし、
最後に胃の中身を吐いてからその場に気絶した。


 その有様に、程立すら目を点にしていたことを良く覚えている。鼻血とゲロのコンボに一刀
は女の子に対する幻想がガラガラと崩れていく音を聞いたような気がした……


 戯志才の調子が悪いのはそんな事情なのである。


「彼女を身近に置いておくのは中々刺激的な毎日になることだろうけど、くじけないようにね」
「頑張ってみるよ」


 差し出された単福の手を、一刀は握り返した。


「さて、名残惜しいけれどそろそろ行くよ。次会う時まで達者でね、三人とも」
「単福も元気で」
「おげんきでー」
「…………」


 戯志才は力なく手を振るだけだった。苦笑を浮かべて、単福は馬の腹を――蹴る前にもう一
度振り返った。


「一刀、君はどんな世を作ってみたい?」
「何を言い出すんだいきなり」
「何となく聞いてみたくなったのさ。君ならきっと、面白い世界を作ろうとするんじゃないか
ってそんな予感がするんだ」
「俺が世の在り方を決められるようになるとは思わないけどな」
「だからこそ聞いてみたいんだ。北郷一刀、君はどんな世界を作りたい?」


 どうでも良いとはぐらかそうかと考えたが、単福は逃がしてくれそうになかった。ふざけた
調子で聞いていても、瞳は答えるまで逃がさないという、強い意志を持っていた。答えない訳
にはいかない。


 しかし、どんな世界を作ってみたいかなど考えたこともない、ついこの間まで北郷一刀はた
だの高校生で世界の行く末などに関わっていなかった。


 それが何の因果か可笑しな世界に飛ばされた。そこでも勿論世界の行く末などには関わって
などいないが、ある意味元の世界よりも充実した生活を送っている。


 帰ることを諦めた訳ではない。元の世界に未練はあるし、やりたいことだってある。便利の
中で暮らしていた一刀にとって、この世界は不便の連続だ。戻れることなら今すぐにだって戻
りたい。


 だが、世界全体から見れば取るに足らない物とは言え、北郷一刀はこの世界に関わってしま
った。乱れた世がこれから更に乱れ、戦乱の時代に突入することだろう。


 そこでは多くの物が壊れ、多くの人が死ぬ。そういう人達のために、何か出きることがある
のではないか……賊の死体を埋めながら、一刀はそんなことを考えた。


 自分に何が出きるかしれない。才能がないとは荀彧に太鼓判を押された。世界を変えような
どと高望みをする訳ではないが……


「人が天寿を全うできるような世界にしたい」
「その心は?」
「戦で人が死ぬなんて馬鹿げたことだと思う。やっぱり人間は、やりたいことをやりたいだけ
やって、それから死ぬべきだ。生きるために生きるとか、生きる糧を求めて命を賭けるとか、
そういうのって寂しいだろう?」
「これから戦乱の世になるというのに、君は戦を否定するのかい?」
「戦うことは必要だろう。戦う人達にはそれなりの理由があるってのも解るんだ。俺の国は平
和だったけど、世界にはずっと戦いがあった。幾ら世界が満たされても、戦ってのはなくなら
ないと思う。でも、それを極力減らすことは出きると思うんだ。だから、俺に世界を差配する
力があるなら、人が生きるだけ生きて、それから死ねるようなそんな世界を作りたい」
「そのために戦う。君はそう言うのかい?」
「機会があったらね。大それた話ではあるけど、やれるならやってみたいかな」


 少女を相手に夢を語るのは、思いのほか恥ずかしい。これで笑われでもしたら一刀はしばら
く立ち直れなかったろうが、単福も隣にいた程立も笑わずに聞いてくれた。


 一刀の言葉を噛み締めるように、単福は目を閉じる。


「いい夢じゃないか。軍師の活かし所は少なくなるだろうけど、そんな世界になるのなら、僕
は見てみたいと思うよ」
「ありがとう。最初から他力本願ってのは格好悪いけど、単福の力が必要になったらその時は
頼らせてもらうことにする」
「徐庶だよ」
「……ん?」
「僕の名前だよ。気づいてたとは思うけど、単福というのは偽名なんだ。僕は徐庶、字は元直
という。そして、真名は灯里(あかり)だ。僕のことは、これからそう呼ぶと良い」


 一刀は二度驚いた。


 偽名の代わりに出てきた本当の名前が、聞いたことのある名前だったこと。


 そして、最後にあっさりと真名が告げられたこと。


 荀家で聞いた。真名とは、本当に信頼のできる相手にしか許さない物だと。姓名しか持たな
い一刀にとっては馴染めない物だったが、真名を軽々しく口にすることの危険さは、荀家でも
散々説明された。


 その真名を呼ぶことを許された。この世界に来て初めてのことだ。単福……灯里の言葉を自
分の中で吟味し考え、ようやく一刀が口にしたのは、


「ありがとう」


 ただ、それだけだった。返礼に何かを出せる物もない。信頼の証として真名を預けてくれた
のならば、こちらもそれを返すのが礼儀のはずだが、一刀には真名がない。信頼に応えるもの
として一刀が用意できるのは言葉だけだった。


 言葉だけの返礼に、灯里は笑顔を浮かべてくれた。受けいれてくれてありがとうと言葉を
添えて、帽子を目深に被りなおす。頬が少し染まっているのが見えた。少し、照れているらし
い。


「最後に夢を聞かせてくれた君に贈り物をしたい。戯志才と程立がいるのなら必要ないと思っ
ていたけど、君が高い志を持っているのなら多くあっても困るものでもないと思い直した。た
だ、二つを得るのはやりすぎとも思う。だから君に決めて欲しい。どっちもかわいいことは僕
が保障するよ。だから気楽な気持ちで、思ったことを口にしてくれて構わない」











「臥龍と鳳雛、どっちが欲しい?」

















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十二話 反菫卓連合軍編①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:58







「…………」



 打つ手がないというのは、こういう時のことを言うのだろう。


 戦略戦術の訓練にも使われるという軍師御用達のボードゲームを前に、一刀は無言を貫いて
いた。盤上を隅々まで見渡しても、まるで打つ手が見えない。決してこの時点で詰んでいる訳
ではないのに、勝つ自分というのが全く見えないのだ。



 盤上を見るふりをしたまま、対戦相手の少女を見る。ふわふわの金髪をした少女で、名前を
程昱、字を仲徳と言った。以前は程立と名乗っていたのだが、ある日突然『お日様を持ち上げ
る夢を見ましたー』と言い出し、その日のうちに改名した逸話を持つ、少々風変わりな少女で
ある。


 黙って座っていればお人形のように愛らしい少女の顔には、ふふふーと得意げな笑みが浮か
んでいる。自分の勝ちを確信し、かつ、こちらが苦心しているのを楽しみにしている顔だ。普
通ならば小憎らしく思うようなその仕草も、仲徳がやると絵になる。


 何も考えずに仲徳の姿を眺めていたら、それはそれで幸せな気分になれたのだろうけれども、
状況が一刀にそれを許してくれなかった。次に打つべき手を考えて五分ほど。いくら気の長い
仲徳でもこれ以上待ってはくれないだろう。


 一刀は大きく息を吐いた。


「……参りました」
「まだ打つ手はあるはずですけど?」
「速くて五手、遅くても十手で詰みになるだろ。仲徳がこういう所で手を抜くとも思えないし、
もう俺の負けさ」
「それに気づくのに随分時間がかかりましたね、お兄さん」
「気づけただけでも進歩だと思うんだけどなぁ……」


 今までの人生の中で、これほど先の物事を考えたことのなかった一刀には、ボードゲームの
手を考えるだけでも相当な集中力を要した。こちらの世界に来る前だったらそれこそ考えるこ
ともしなかっただろうことを考えると相当な進歩だと思うのだが、超一流の軍師であり、一刀
の教育係でもある仲徳達は、そう考えてはくれないようだった。


 曰く、それくらい出来て当たり前なのだという。


「まぁ、段々持ちこたえられるようになってきてるみたいですし、腕は上がってるみたいです
ね」
「毎日これだけ扱かれて進歩がないようだったら、もう人生諦めるしかないな」


 ははは、と意識して笑い声を上げると、仲徳もそれに続いて微笑んだ。どういう意味の微笑
みだったのかは、ちょっと怖くて聞けない。


 いずれにしても、これで盤上での訓練は終わりである。挑戦者の義務として駒とボードを片
付けると、仲徳の履物を用意する。高志宅の縁側を借りての講義であったため、持ち主である
高志とその妻に礼を言って辞し、村の外へと向かう。


 盗賊に襲われて以来、村は変わった。村の自警団が盗賊を撃退したということで、あの村は
安全という噂が広まり、流浪していた民がいくらか定住することになり人口が増えた。今では
村の人口も三百人に届こうとしている。


 それに付随して、自警団の人数も増えた。流入してきたのはどちらかと言えば非戦闘員の方
が多かったものの、それでも力仕事や自警団の仕事ができる人間が皆無だった訳ではない。昨
今の国の対応を見て、奴らは当てにならないということを経験で理解している彼らは、自警団
参加の誘いに、是非にと言ってくれた。


 加えて、三人の軍師の存在がある。


 多少軍務経験者がいるだけで、村の自警団は素人の集まりだ。それが普通以上に戦えている
のは、普段どう訓練し、有事の際にはどう動くか、それを考えてくれる人間の存在が大きい。
彼女ら三人がいるだけで、素人の集団は余計なことを考えることもなく、強くなることに専念
することができた。


 今となっては、下手な官軍よりも強力とすら言えるだろう。装備が貧弱なことが難点ではあ
るが、スポンサーのいない民兵としては最高水準であると言っても良い。


「今日はどっちが勝つかな」
「十中八九稟ちゃんでしょうねー」


 仲徳の答えには淀みがない。稟――戯志才改め、郭嘉の真名である――が勝つということを
微塵も疑っていない様子だった。


 これを聞いた一刀は思わず苦笑を浮かべる。自分も、同じ答えを考えていたからだ。


「奉孝は手加減しないからなぁ」


 軍略や政治について毎日講義を受けているが、説明したことを理解できない時や設問を間違
えた時などは、容赦のない厳しい言葉が飛んでくるのだ。学校には所謂怖い先生というのが一
人二人はいたものだが、その誰よりも奉孝は厳しい。


 しかし、その教育を悪いものだと一刀は思わなかった。厳しい先生というのは往々にして学
生から避けられるものだが、自分のために身を砕いてくれていることが心の底から理解できる
と、その厳しい言葉も悪くないもののように思えるのである。


 罵倒されるのは荀家で慣れていた、というのもあるかもしれない。蹴りや平手が飛んでこな
いだけ、奉孝の指導は優しいとも言える。その代わり淡々と厳しい言葉を投げかけてくるのだ
が……どちらが良いかというのは、好みの問題だろう。


 一刀自身は、どちらもどんとこいというスタンスである。自分は精神的マゾなのかも、と疑
う一瞬だった。


「見えてきた……あぁ、やっぱり奉孝の方が勝ったみたいだな」
「風の言った通りでしたねー」


 世間話をしながら村を囲う柵の外――村に程違い広場が視界に入るようになると、そこに人
垣があるのが見えた。粗末でも手入れの行き届いた鎧を纏った集団――自警団の面々である。


 人垣は何かを囲むようにしている。事前に聞いた今日の訓練の内容を加味するに、彼ら彼女
らが今日、奉孝の指示で動いていた面々のはずだ。


 つまり、勝ったのは奉孝ということになる。仲徳の予想通りだった。


「いらっしゃいましたか、一刀殿」


 人垣が割れて中から出てきたのは奉孝だ。固い表情の上にメガネをかけた顔が無表情なのは
いつものことだが、目じりが僅かに下がっていることから少し得意になっていることが解る。


「良い勝負だったみたいだな」
「ええ。実に充実した時間でした」


 奉孝的には大満足の時間だったようだ。反面、相手になった彼女にとってはどうだったのだ
ろうか……想像するだけでかわいそうに思えてしまうのは、彼女の人格のなせる業だろう。奉
孝には口が割けてもいえないことだ。


 心中を見抜かれては面倒だ。奉孝に顔が見えないようにしながら、人垣の中に踏み込んでい
く。お疲れ様です、と声をかけてくる団員に手を振りながら、中央へ。


「ごめんなさい、私のせいで!」


 汗に塗れてぶっ倒れている子義の隣で、先のまがったトンガリ帽子を被った少女が必死に声
をあげている。精も根も尽き果てた様子の子義は首をあげるのも億劫なようで、目線だけを少
女に向けていたが、一刀がやってくるのが分かるとぐぐぐ、と首をあげて、パタリと落とした。


「随分こっぴどくやられたみたいだな……」
「いけると思ったんですけどねー。いつの間にか包囲されてぼこぼこに」
「あわわ、子義さんは良くやってくれました。負けたのは私の采配が悪かったせいです」
「そんなことありません!」
「先生は悪くないっす!」
「俺たちがヘボなばっかりに!!」
「先生にご迷惑を!!!」」


 と声をあげたのは子義ではなくさらにその周囲で倒れていた団員達だった。子義と同じよう
に五体倒置していた彼ら彼女らは倒れた子義を踏みつけながらとんがり帽子の少女を囲む。


 あわわ、という声を最後に見えなくなる少女。その一瞬の後には胴上げされて宙を舞ってい
た。励ましの言葉は途切れることなく続いている。少女が皆に愛されているという証拠だ。


「愛されてるのがよく解る光景だなこれは…」
「ああいう愛され方が好みなら、お兄さんも頼んでみては」
「いやぁ、俺は普通が良いかな。俺を胴上げするのは皆、疲れるだろうし」


 年端も行かない少女があわあわ言いながら宙を舞っているのが楽しいのである。男子高校生
が同じことをされていても、誰も喜んだりはしないだろう。


「最初はあの性格でどうなるものかと思ったものだけど、随分馴染んでるよな」
「特にご婦人とご老人への受けが良いようですね。喜ばしいことです」


 逆にその層にはあまり受けが良くない奉孝が言うと説得力もある。それを羨ましいと思う様
子があればまだ可愛げもあるが、そんな様子は微塵も見受けられなかった。信頼されているこ
とと、受けが良いというのはまた別の話である。奉孝はきちんと、村の人間から信頼を勝ち得
ていた。


 だが、奉孝も仲徳も信頼されてはいるが、少女ほどに愛されてはいない。見た目、雰囲気、
性格、他人に好かれる愛される要素は色々とあるが、少女はその全てを兼ね備えているよう
に思えた。それらは努力してどうこうなる問題でもない。


 少女が愛されるのは、もはや天賦の物と言えるだろう。


 少女の名前は鳳統、字を士元と言った。かの有名な――どの程度有名なのか、一刀はイマイ
チ理解できていないのだが――水鏡女学院の卒業生で灯里の後輩である。ランドセルを背負っ
ていても違和感のなさそうな仲徳よりも小さい容姿であるが、これでも鳳雛という大層なあだ
名で呼ばれる一角の軍師である……そうだ。


 その士元が灯里に連れられてこの村にやってきて、半年が過ぎようとしている。見た目通り
小動物のような士元は多分に人見知りをする性質らしく、最初は誰と会話するのにも苦労して
いた。


 救いだったのは、その性分を士元本人が理解し克服しようとしていたところだ。一刀を始め
村の人間は少しずつお互いのことを理解してゆき、そうして士元は感極まった自警団員に胴上
げされる程の信頼関係を築くに至ったのである。


 奉孝など最初ははっきり物を言わない士元にイライラしている所もあったが、彼女の力量を
理解した今では、自警団員を使った模擬戦の相手に好んで指名していた。指揮能力については
士元の口下手なところもあってか奉孝に分があるようだが、勝敗表を見る限り、奉孝が七、士
元が三ほどの割合で星は推移している。


 村内には奉孝の方が圧倒的に指揮が冴えているという印象が広まっているが、数字の上では
それほど差がある訳ではないように一刀には思えた。意思伝達をもう少しきっちりと出きるよ
うになれば、数字はもう少し拮抗するようになるだろう。


「結局今日はどんな模擬戦をしたんだ?」
「士元が率いたのが子義を中心とした自警団の若手精鋭十名。私がそれ以外の全員です」
「随分ハンデつけたなぁ……それでどれだけ勝負ができたんだ?」
「半刻(三十分)ほどでしょうか。本当は直ぐに包囲して勝負を決めるつもりだったのですが、
あの少数を良く使っていました」
「でも、奉孝が勝ったんだろ?」
「これだけ貴殿の言う『はんで』をつけたのですから、私が勝つのは当たり前です。ここまで
粘った士元こそが素晴らしい」
「で、なんでまたこんな勝負を?」
「劣勢の時にどういう指揮をするのか、見てみたかったのですよ。落ち着いて対応できるかど
うか、把握しておいて損はないでしょう?」
「眼鏡にかなったと見て良いのかな」
「申し分ありません。こと戦術に関する限り、士元は天才です。学んだ時間が同じであれば、
彼女は私の先を行っていたことでしょう」
「奉孝が手放しで褒めるなんて珍しいな」


 それだけ士元が凄いということでもある。ここまで、というか明確に褒められた覚えのほと
んどない一刀には羨ましい限りだ。


「貴殿も、士元に負けないくらい研鑽を怠らないでもらいたいものです」
「いつか奉孝に満足してもらえるように頑張るよ」


 稀代の軍師殿が満足するのがどの程度なのか……想像すると気分が参るばかりである。


 そうこうしている内に胴上げ組も飽きたようで、目を回した士元を地面に降ろし、汗塗れの
身体を拭くために水場へと移動していった。奉孝が指揮していた面々は、既に移動している。
この場に残っているのは遅れてきた一刀と仲徳、指揮をしていた奉孝に士元、それにまだ動く
のが面倒くさいらしい子義の五人だった。


「士元、お疲れ様。大変だったみたいだな」
「あわわ……」


 とんがり帽子の上から頭を撫でると、士元は顔を真っ赤に染めた。真っ直ぐな反応が実に良
い。奉孝も仲徳も美少女には違いないが、こういうことをしても奉孝は冷めた目線で、仲徳は
何を考えているのか良く解らない瞳でこちらを見返すばかりで実に有り難味がない。


「子義も大活躍だったみたいだな」
「十人くらいは叩きのめしたはずなんですが、気づいたら袋叩きにされてました。俺もまだま
だ修行が足りません」
「十人も倒せるなら大したもんだよ」


 自警団の面々も毎日鍛錬をしているだけあって、ヘボではない。それを十人も倒せるという
のは一重に子義の非凡さを現していた。一刀でも最高に調子が良くて五人が限界だ。子義は現
状の自警団では文句なしに最強の使い手である。


「次は人数を更に減らしてみますか。一刀殿の指揮でどこまでやれるか」
「さらに減らすとなったら五六人だろ? それじゃあもう鍛錬じゃなくて鬼ごっこだよ」

 一刀が苦笑と共に言うと、奉孝は解っていますよ、とにこりともせずに言った。彼女なりの
冗談だったのは一刀にも解ったのだが、冗談を本気で実行しかねない所が彼女にはある。十倍
以上の人間に追い回されるなど、正気の沙汰ではない。


 自分が追いまくられるところを想像して、一刀は身震いする。


 しばらくは奉孝を怒らせるのは止めよう。一刀はそう心に誓った。


「さて、鍛錬も終わったことだし食事にしようか。良ければ皆でどうだ?」


 残った面々を見渡して、呟く。最初の頃は子義の家に世話になっていたが、今は一応一刀に
も自分の家――小屋が存在していた。村民が増えた際に小屋を幾つか建てる必要に迫られ、ど
うせだからと自分の分も一緒に建てたのだ。


 世帯ではなく一人で暮らしているため他の小屋よりも幾分狭いが、少人数が集まって食事を
する分には問題はない。奉孝や仲徳を誘って食事をするのも、週に一度くらいの割合で行って
いる。女性を部屋に呼んだ回数は、この村で過ごした期間だけで、それまでの人生のトータル
をあっさりと越えていた。男女関係に限定して言えばこちらの世界に来てからの方が充実して
いるかもしれない。


 これでそれなりの関係になっているのならば文句はないものの、手を握ったりすることもな
い。実に健全な関係だった。


「良いですね。今日は本腰を入れて貴殿に説法でもしようと思っていたところです。風も士元
もどうですか?」
「稟ちゃんが行くなら風もご一緒しますよー」
「わ、私もです」
「子義は――」


 と一の子分である子義に話を振るが、先ほどまで動くのも億劫そうだった子義の姿はどこに
もなかった。何時の間に消えたのかも解らなかった。三人の軍師に目を向けるが、全員揃って
首を横に振っている。


 誰に気づかれることもなく消えたらしい。難しい話が始まる気配を察したからだろう。ただ
食事をするだけならば子義だって喜んでついてきたはずなのだが、相変わらず難しい話に対す
る嗅覚と逃げ足の速さには並外れている。


「まぁ、あいつは今回はいいか。じゃあ今晩はこの四人で――」
「お兄さん、どうやらお客さんみたいですよ」


 と、移動しようとした矢先、仲徳によってその行動を遮られた。彼女の視線を追う。村をぐ
るりと囲うように張り巡らされた柵。入り口として設定された場所の向こうから、馬がやって
くるのが見えた。


 かなり急いでいるようで、土煙の高さが並ではない。一刀達以外にも気づいた村人が何事か
と武器を持って寄って来るが、仲徳が何でもないと手を振ると三々五々散っていく。


「アレは敵だったりしないのか」
「いくらなんでもこんな村に単騎で来たりはしないでしょう。伝令係のように見えますが、誰
か急ぎの文の遣り取りでもしているのですか?」


 仲徳も士元も首を横に振る。当然、一刀にも覚えはない。荀家のように村の外にも 知りあ
いはいるが、ここまで急ぎで文を出すような間柄の人間には覚えがなかった。村の誰かに用が
あるのだとすれば奉孝か仲徳だと思うのだが、彼女らにも覚えはないと言う。


 何か良くないことでもあるかもしれない。一刀の心に不安が首を擡げる。


 やがて、早馬は村の中に入ってきた。農道を行き、村人達の視線を集めながら騎上の人間は
ぐるりと周囲を見回し、こちらに目を留めた。


 それから真っ直ぐに馬を走らせ、こちらに向かってくる。


「俺たちの誰かに用があるみたいだぞ」
「荒事になったら一刀殿、対応をお願いします」
「まぁそうなるよなぁ……」


 そこそこに腕の立つ奉孝はともかく、残りの二人は剣を持ったらそのまま倒れてしまいそう
なほどに身体が細い。戦わせるなどもってのほかだ。彼女らのために戦うことに一刀も否やは
ないが、騎上の人間は軽鎧の上に布を纏って帯剣までしている。その装いは旅なれた……もっ
と言うならば戦い慣れていそうな人間のそれで、ちょっとやそっとでは太刀打ちできなさそう
な気配を感じさせた。少なくとも自分よりは強いと判断する。子義がこの場にいないのが悔や
まれた。


 馬が一刀達の前で止まる。ひらりと降りてきた人間は、迷わず一刀の前に立った。やはりお
前か、とでも言いたげな視線が三軍師から集まるが、ここまで来ても一刀に覚えはない。


「俺は北郷一刀。相手を間違えてないか?」
「いいえ。北郷一刀殿であるのならば間違いはありません。徐先生より文をお預かりして参り
ました。お納めください」


 声が予想していたよりも高く、女性のものだと知れた。砂塵避けのための覆いを外さないた
めに顔の全体を見ることはできないが黒い髪に黒い瞳と、金髪美少女の仲徳に比べると東洋人
然とした容貌をしていた。


 差し出された二つの竹簡を手に取ると、女性はひらりと馬上に戻る。少しだけずれた覆いを
キツく巻きなおすと、馬上で村を見渡した。


「それでは私はこれにて」
「お茶くらい出すよ」
「ゆっくりしたいのは山々なのですが、これから水鏡女学院にも行かねばなりません。とにか
く急げと、徐先生にも言われておりますので」
「灯里は今どこに?」
「私が最後にお会いしたのは、洛陽の手前でした。これから洛陽を見て周り、それから涼州へ
向かうとのことです」
「わかった。灯里にはよろしく伝えてくれ」
「了解しました。北郷殿も、ご武運を」


 拳礼をすると、女性は馬を飛ばして去っていった。土煙が消えるのを待ってから一刀は竹簡
に視線を落とす。灯里から急ぎで渡された代物。それがお互いの近況を知らせるだけのもので
あるはずがない。


 軍師たちから視線が集まる。聡い彼女達は、一刀以上に事の重要さが解っているようだった。



「とりあえず、何か腹に入れようか。話はそれからだ」

 




















「結託し、菫卓を討つべしねぇ……」


 食事を手早く済ませて全員が竹簡に目を通す。二つあった竹簡は全て灯里の直筆で、一つは
彼女個人の思惑が書かれたもの、もう一つは既存の文章の写しだった。


 一刀の立場からすれば、ついにきたかという思いがある。三国志前半の山場。反菫卓連合軍
の結成だ。そういうことがあった、程度の知識しかない一刀に、書面はより具体的な情報を与
えてくれる。


 集合する場所、時期、洛陽の状況と自分たちの正当性。一刀の世界の史実と同じ物であるの
か定かではないものの、現物を目の前にしてみるとどうにも主観的過ぎるように思えた。


「菫卓ってのはどんな人?」
「姿を見たという話は聞きませんね。涼州出身の幹部が警護しているため、上級の役人でも姿
を見ることはできないようです。ただ、側近である賈詡を始め有能な軍師を多数抱え、呂布や
張遼など一騎当千の武将を配下に従えていることから、君主としての評価は決して悪い物では
ないかと思います」
「それなのに皆でよってたかって攻撃するのか?」
「宦官の専横を止めることができなかったのが大きな要因でしょう。彼らの行いのせいで洛陽
が乱れていたのは事実。それを止めたのも菫卓ですが、止めるのが遅すぎたようですね」
「対応が後手になっただけだろ? それで袋叩きにしようぜって提案に皆が賛成するのか?」
「大義名分に人は弱いのですよ。回復に向かっているとは言え、洛陽が乱れていることに変わ
りはなく、また菫卓一人が大きな権力を持っているのは揺ぎ無い事実。名家の人間である袁紹
他、今の時代力を欲する者は掃いて捨てるほどいますから、多くの人間は渡りに船と参集する
ことでしょう」
「やだなぁ、何かそういうの」


 個人の感想としてはそうだが、落ち着いて考えてみると諸侯がそういう反応をするのも解ら
ない訳ではない。出世の機会が悪く言えば暴力的に訪れるこの時代では、これが普通のことな
のだろう。そのせいで多くの人が死ぬが、それも時代なのだ。


「で、おにーさんはどうするんですか?」
「参加……せざるを得ないだろうな、今の状況では」


 戦に参加するなど幾ら命があっても足りない。頭脳も武力も自分には欠けていることを十分
に実感している一刀は、正直戦などには係わり合いになりたくないのだ。


 だが、参加するつもりの何人かが、一刀も参加することを望んでいる。それを断れるような
雰囲気ではないし、また、一刀自身も応えてあげたいと思う。自警団を組織して、彼ら彼女ら
を色々とやる気にさせてしまったのは一刀だ。その責任くらいは、取らないといけない。


「参加するならば、私たちも知恵をお貸ししましょう」
「感謝するよ。でも、いいのか? 奉孝たちなら、それこそいくらでも働き口があるだろ?」


 今の三人は知る由もないだろうが、彼女らは本来、仕える主が決まっている。その何れも三
国志の世界では超のつく有名人だ。間違っても凡百の北郷一刀と比較も出来ないくらいの彼女
らに仕える機会を棒に振ってまで、付き合うメリットがあるはずもない。


 断るならば今だ。一刀の問いにはそんな思いが込められていたのだが、奉孝は何を今更、と
にこりともせずに言ってのけた。


「貴殿を見限るつもりならば、もっと早くにやっています」
「それもそうだ……」
「愛想が尽きたらそう言いますから、私達からそういうまで、貴殿は何も心配をする必要はあ
りません。留意しておいてください」
「助かるよ。もう、俺からこんな質問はしない」
「結構です。では、連合に連れて行く人選ですが……士元、どう見ますか?」
「自警団九十一名の中から、若い方を中心に上位十名が妥当なところだと思います。これから
戦で治安も乱れるでしょうから、村にも自警団は必要です。それに、徴兵された時のことも考
えなければなりませんから、村に人は残さざるをえません」
「そんなところでしょうね。十名という数字は参集する諸侯が集める兵の数を考えると寂しい
限りではありますが……」
「その辺りはお兄さんに何とかしてもらいましょう」
「俺は兵の出てくる魔法の壷なんて持ってないぞ」
「私達も貴殿に面妖な力があるとは思っていません。貴殿に使っていただくのは口です。諸侯
に合流するまでの間、共に戦う人間を言葉で勧誘してもらいます」
「何でそんなことを……」


 既に決まっていることをすらすらと読み上げるような奉孝の調子とは逆に、一刀の声は僅か
に掠れている。一緒に戦おう、と言葉にすれば簡単だが、口にするのは難しい。第一、何を言
って誘えば良いのか全く思いつかない。


「何事にもはったりというのは重要です。十名が百名になった所で万の兵を指揮する諸侯には
誤差も良いところでしょうが、何事も少ないよりは多い方が良い。それに、人を前に何かを話
すというのは中々あることではありませんからね。将来のことを考えれば、練習をしておいて
損はないでしょう」
「俺の将来設計まで考えてくれるのはありがたいけどさ、それで兵が集まると思うか?」
「そんな弱腰ではいけませんよ。貴殿の仕事は、兵を集めることです。必ずやる、そういう気
持ちで臨んでください」
「……努力はするよ」


 そう答えるのが精一杯だった。疲れた顔をしている一刀に、士元ががんばってください、と
小さく囁く。素直な励ましが実にありがたい。とんがり帽子越しに頭を撫でると、あわ、と声
をあげるのも面白い。


「そんなお兄さんにはお仕置きですよー」


 調子に乗って士元の頭をぐりぐりやっていると、口に飴が突っ込まれる。適当に狙ったのか
思い切り前歯に当たり、地味に痛い。いつも舐めている飴をぐりぐりと口中に押し込む仲徳の
瞳はいつも通りに平坦な感情を映し出していたが、微妙に機嫌が悪いようにも見える。


 いつも以上につかみ所のない表情をした仲徳に、一刀は何と返して良いものか解らず、とり
あえずといった感じで、口中の飴に歯を立てた。子供向けのチープな甘みが口の中に広がる。


 これも間接キスになるのかな、などど、溶けた糖分以外の液体で濡れた飴をしゃぶりながら
仲徳を見ると、彼女はもう一刀のことを見ていなかった。どこから取り出したのか新しい飴を
口に咥えて、車座になった一同の中央に置かれた竹簡に視線を落としている。

 自分だけ意識するのもバカらしいな、と思いなおした一刀も、竹簡に視線を向ける。


「連れて行く人間は決まったとして、集合場所まで行くのか?」
「それに何か問題があると御思いですか?」
「そりゃあ……あるんじゃないかな」


 奉孝の視線が教師のそれになっていることに気づいて、一刀は僅かに言い淀んだ。これは、
試されている。間違った答えを言ったらいつもの冷たい視線でじっと見据えられた末、静かに
罵倒されるだろう。それも正直悪くはないが、ここはできれば正解したい。


 一刀は思考を巡らせ、正解を探す。


「集合場所まで行くと不味いと思う。まず、有力者が集まってる中でまだ兵を集めてると思わ
れるのは良くない。兵が欲しいのは皆同じだろうけど、この期に及んで自分の力に自信がない
と思われたら名前に傷がつくから、積極的に募兵はしてないだろう」
「ですが名誉のために使える兵を使わないというのも愚かな話でしょう。そうでない人間もい
ると思いますが?」
「だろうな。だから、集合地で採用された兵は集団の盟主の預かりになると思う。盟主は多分、
袁紹だろう?」
「集まるだろう人間を分析する限り、十中八九彼女になるでしょうね」


 奉孝の顔には苦々しい色が浮かんでいる。一刀は荀彧から袁紹は愚物であると聞いていたが、
奉孝もその噂は聞いているのだろう。もしかしたら、本人に会っている可能性もある。


 いずれにしても、愚物という荀彧の評価は間違ってはいないようだ。


「盟主の預かりにして、集団全体の兵として運用されるだろう。そうなると、その役割は死兵
だ。特別危険なところに配置されて、死ぬことが前提に運用される。これはとても良くない。
特に、俺たちのように弱小勢力だったら尚更な」
「では、貴殿はどうするのが良いと思うのですか?」
「集合場所が駄目なら、そこに着く前の諸侯を捕まえるしかない。問題は誰を捕まえるかって
ことだけど……」


 ここで一刀は言葉を切った。案を出したのは良いが、誰がどの程度有力なのか、一刀の頭に
は入っていない。政治や軍学についての講義を受けてはいても、現在の情勢についてまでは頭
が回っていないのだ。


 ここまで答えれば少なくとも及第点は貰えるはず。一刀が奉孝を見る目には、縋るような色
が込められていた。雨の中で濡れる子犬のよう……であったのかは定かではないが、一刀の祈
りが通じたらしい奉孝は、大きく溜息をついて『まぁ、いいでしょう……』と小さく答えた。


「誰を頼るかというのは重要な問題ですが、集まるであろう面々を考えると自ずと答えは見え
てきます。まず袁紹、袁術です。兵力、財力と申し分のない存在ですが、彼女らにあるのはそ
れだけです。平民の兵など使い捨てられるのがオチでしょう。身を寄せても良いことはありま
せん。それは私が保証します」
「それは頼もしい」
「続いて北の公孫瓉に、西の馬家ですが彼女らの主力は騎馬兵で、我々が入る隙はありません。
歩兵も必要とされはするでしょうが、腕に自信がなければ騎馬の活躍に埋没してしまうでしょ
う。より活躍をしようと思うなら、避けるべきです」
「なら曹操か?」


 その名を口にした一刀の脳裏に浮かぶのは、以前世話になった荀彧だった。曹操の所に仕官
したというが、彼女のことがあっという間に出世して重要な位置にいることだろう。同じ陣営
に属することがあれば、会う機会もあるかもしれない。自分から曹操の名前を口にしたのは、
そういう期待もあってのことだった。


「傑物との誉れ高く、厳しくも公正であると聞いています。私個人の好みからしても、曹操殿
の所に身を寄せるのに否やはないのですが……」


 珍しく、奉孝は言い難そうに言葉を切ったが、それも一瞬の間だった。小さく咳払いを一つ
して言葉を続ける。


「曹操殿の兵は既に精強であると聞きます。我々が今更行ったところで入り込む余地はないで
しょう」
「それじゃあ俺達が向かうのは……」
「孫策殿の軍、ということになりますね。袁術に頭を押さえつけられているせいで兵力が不足
しており、気風からして民兵であったとしても悪質な差別を受けたりはしないでしょう。集合
場所以前に合流するというのも、位置関係から問題ありません」
「なら、その方向で行こう。いつ出発する?」
「早い方が良いでしょう。早急に荷物を纏めて、一両日中には出発です」
「了解。それじゃあ早速皆に伝えてくるよ」
「明日でも良いのではありませんか?」
「早い方が良いだろ? 子義とかまだかまだかって言い続けてたくらいだし、準備はしてたに
してもいざとなると時間もかかる」
「解りました。では、士元、一刀殿に着いて行ってもらえますか?」
「わ、私がですか」
「全員で行くのも騒々しいですからね。それに私や風が行くよりも、貴殿が行った方が受けも
良いはずです」


 沈黙が部屋に訪れた。これが笑い所なのかどうか、一刀には判断がつかない。士元も難しい
顔でうー、と唸り一刀を見上げている。


「じゃあ、士元と一緒に行ってくるよ。奉孝達はこれからどうする?」
「一度小屋に戻ります。風と意見を詰めておきますので、何かあるようだったら遠慮なくいら
してください」
「了解。それじゃあまたな」


 士元の手を引いて、一刀は小屋を出る。最初に向かうのは村長高志の家だ。前から伝わって
いたと言っても、自警団員が減るということは村の安全にも関わる話である。まずは彼に話を
通さなければならないだろう。


「一刀さん、難しい顔してます」
「いよいよ旅立つことになるからかな。何だかんだでこの村にも長居しちゃったし、出て行き
ますというのは、何となく言い出しにくいんだ。そういう意味じゃ、士元がいてくれて助かっ
たよ。おじいさんおばあさんに受けが良いもんな。頼りにしてる」
「が、がんばりましゅ!」


 噛んだ。うぅ……と口元を押さえて呻く士元を見て、一刀は声をあげて笑った。
 



















「おいねーちゃん、話が違うぜどういうことだ?」


 宝譿の地味に座った声に、奉孝は静かに溜息をついた。


 孫策の軍に合流するということで話は纏まったが、事前に風と相談した時には曹操軍とどち
らにするか、四人で話し合うということになっていた。それを勝手に話を纏めたのだから、宝
譿――風と言えども一言くらいは言わなければ気が済まないはずだ。


 元々、どちかに相談して決めようというのは稟が自分で発案したことだ。どちらでも良いと
いう意見だった風はそれに追従していた形になる。どちらでも良いと主張していた以上、話が
代わったところで風に損はないが、稟が自分で意見を翻したという事実は、風の興味を引くに
は十分だった。


 風のぼんやりとした瞳の奥には、正直に理由を話すまで梃子でも動かない、という意思が見
て取れた。正直に話すのは恥ずかしい話ではあるが、それなりに長い付き合いである風の追求
から逃れられるとも思えない。


 溜息と共に、稟はこの場で恥をかく覚悟を固めた。


「曹操殿は才人を愛されると聞きます。私や風、士元も彼女と知己ではありませんが、共に仕
事をすればきっと重く用いられることでしょう」
「大きくでましたねー」
「事実ですからね。ですが、一刀殿はそうはいきません。見所があるといっても、現状、彼は
それほど使えるという訳ではありません。いくら曹操殿と言っても、一刀殿を重く用いるとい
うことはしないでしょう」
「風達が仕官する代わりに、という条件を付けることもできると思いますけど?」
「臨時雇いならばまだしも、公正な曹操殿が実力不相応な地位を好んで用意するとも思えませ
んし、何よりそういう配慮は一刀殿のためになりません」
「尤もな意見だと思いますけど、それは孫策軍でも同じことですよ。力を示せば今の時代、自
分のところに仕官を勧めるのは当然のことです。曹操殿が公正で才人を求めるという要素はあ
るにしても、風たちからすればそんなの、大した差ではないと思います。それでも稟ちゃんが
意見を変えたのは、もっと他のことが原因だと風は思うのですが……」


 どうですか? と首を傾げる風に、稟は瞠目した。風にしては珍しく深く突っ込んでくる。
言いたくはないのだが、言わなければならないようだ。


 本当に恥をかく覚悟を固め、稟が口を開く――


「まぁ、稟ちゃんも乙女ですからね」


 解ってますよー、と言った顔で風が顔を逸らした。ふふふーと笑うその顔に、覚悟が肩透か
しになった稟はカチンときた。


「下種な勘ぐりはやめてください。私の何処が乙女だと?」
「お兄さんがお世話になった軍師さんが、曹操殿の陣営にいるから遠ざけたいと思ったんです
よね?」


 事実そのままを言い当てられて、稟は押し黙る。


 確かにその言葉だけを見れば、乙女と言われても仕方がないが、自分の中にそんな感情がな
いことは稟本人が良く理解している。風が期待しているような、男女の感情などあるはずがな
いのだ。


「稟ちゃん、鼻血が出てますよ」
「貴女のせいですよ!」


 風は懐から布を取り出すと、なれた様子で鼻をかむように促してくる。ちーん。鼻の奥に溜
まった血を残らず出し切ると、意識も幾分すっきりとした。


「一刀殿の思想の行く末を見てみたいと思いました。それは貴女も同じはずです。ですが、一
刀殿が自分の意思で寄る辺を決めてしまうと、彼の思想を実現することは難しくなってしまい
ます。曹操殿は強烈な個を持たれたお方、きっと一刀殿もそれに従ってしまうことでしょう」
「だから、お兄さんが好き好き言っている人とは、なるべく接点を作りたくないということで
すね」
「好き好き言っていた記憶はありませんが、一際興味を持っているのは事実でしょう。一刀殿
の話と噂を総合する限り、例え顔を合わせることがあっても、陣営に引き込むような誘いをし
てくるとは思えませんが……」


 荀家に居た一月の間も、基本的に罵詈雑言を浴びせられて過ごしたという。それも悪くはな
かったよ、と静かに笑う一刀に、稟は特殊な性癖でもしているのではないかと疑い一度鼻血を
流したものだが、殴られたり蹴られてり罵られて性的興奮を覚えるような特殊性癖はないと判
断するに至った今では、そこそこに仲の良い異性の友達くらいの認識をしている。


「思えませんが、それでも誘ってくることがないとは言えません。ですから孫策殿の陣営に参
加しようと思ったのです。勝手に言い出した事に関しては謝罪します」
「別に良いですよ。風はどっちも良かった訳ですから」


 風には本当に気にした様子はない。勝手をしたことを怒られることが心配ではあったが、そ
んな様子もない。それに稟は心中でそっと、安堵した。あの場で風に反対されていたら、話は
もっとややこしいことになっていた。


 最悪、一刀本人が曹操陣営に行きたいと言い出したかもしれない。結果、話し合いになれば
稟が自分の意思を通しただろうが、自分の意見が通らなかったという事実は残る。無駄な対立
がなくなったのはありがたいことだ。


 話はそれで終わりと、風はそれきり何を言い出さず黙々と飴を舐める作業に戻った。風が会
話を切り出してくる様子はなく、沈黙が苦になっている様子もない。その沈黙が稟には辛かっ
た。


(やはり怒っているのでしょうか……)


 いくら風相手でも、それを直接聞くのは憚られた。


 居心地の悪い空気は、一刀と士元が戻ってくるまで続いた。

















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十三話 反菫卓連合軍編②
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:57




「今日も疲れたわね」


 兵舎の天幕三つ分ほどの広さを誇る個人用の天幕。そこに置かれた背もたれ肘掛のついた椅
子に雪蓮は身を投げ出すようにして座った。そのまま、うーん、と伸びをする。背筋を伸ばす
ことで強調される豊かな胸。惜しげもなく晒されるすらりとした長い脚。女の自分でもどきり
とせずにはいられない色香がある。男の兵には、相当な目の毒だろう。


「今日も募兵に応じる人間は来るかしら」
「でしょうね。払いが良いという噂は明命を使って広めてあるし、私達の場所は分かるように
してある。この辺に住んでいて戦で稼ごうと考える人間は、こぞって孫呉の軍を目指すはずよ」
「使える連中はいた?」
「中々いないわね。ままならないものだわ」


 はぁ、と冥琳は小さく溜息を吐く。


 人材確保は、兵数を袁術に制限されている孫呉にとって急務である。長いこと兵の増員は却
下され続けてきたが、有事ということでその制限が解除されているのだ。新たに雇用するのは
今まで土を耕していた素人ばかりだが、思春が調練をほどこし、洛陽に辿り付くまで実戦を経
験すれば、素人も精強な兵士にならざるを得ない。


 そういう人間をできるだけ多く囲いこむことが、この戦の目的の一つでもあった。雪蓮にも
冥琳にも、戦全体の勝利についてはそれほど拘りはない。袁紹が召集し、諸侯が集まるのだ。
これは勝って当然、そして勝たなければならない戦である。


 今後の戦略についても、勝つことを前提で組まれている。その際に必要なのは兵力、次いで
情報だ。兵士は道中雇用できるだけすれば良い。扱いに不満を持っている兵や将を見つけたら
引き抜いても良い。幸い、蓄えだけはそこそこのものがある。


 地元の豪族も、今のところ協力的だ。孫呉が飛躍するためという理由ならば、援助を惜しん
だりはするまい。


 金を理由に引き抜かれる人間がどれほどのものかと揶揄する人間もいる。事実、冥琳も金を
理由に動く人間は好きになれないが、先立つものがなければ人間は生活できない。それが最後
の一押しとなるのなら、金だって何だって使う覚悟だ。戦いにおいて数というのはそれほど重
要な要素なのだ。


「明命と言えば、味方の情報はどう?」
「万全よ。袁術はこちらに戦力のほとんどを出しているから、領地の兵は質の悪い人間ばかり。
大して私達は数こそ少ないけれど、祭様と蓮華様を将として残してきた。事前の根回し、あの
二人ならば上手くやってくれるでしょう」
「蓮華についてはちょっと不安だけどねー」


 正直な雪蓮の物言いに、冥琳は苦笑を浮かべる。蓮華は雪蓮の妹。雪蓮の子供がいない現在
では雪蓮の持つ代表の権限を真っ先に受け継ぐべき人間であるが、大器の片鱗は感じさせるも
のの、現在の実力は雪蓮の言う通り今ひとつだった。


 蓮華が孫呉ではなく外にいたのであれば、冥琳もその実力に目を見張っただろう。今ひとつ
と言ってもそれくらいの実力はあるのだが……惜しいかな、彼女の姉は正真正銘の天才で、君
主として申し分ない力量を持っている。


 比較すべきではない。個々の実力を見るべきだと思っても、部下、仲間としてはどうしても
比較してしまう。雪蓮が姉であるというのが、蓮華にとっての幸福であり、同時に不幸でもあ
った。乗り越えるべき壁として、雪蓮はあまりにも大きい。蓮華にとっては自慢の姉ではある
のだろうが、同時に悩みの種としても存在している。


(力を持ちすぎるのも、時には考え物ね……)


 今回の作戦では祭がついているとは言え、蓮華にとっては自分で指揮する初めての大きな作
戦となる。


 これが飛躍の一助になってくれれば良いが……と、思わずにはいられない。


 雪蓮を見る。何でもない風に装っているが、このへそ曲がりが妹思いなことは冥琳が一番知
っていた。この手のことでからかって怒らせると長く尾を引く可能性があるので、決して軽
軽しく口にしたりはしないが、蓮華に対する感情は自分の何倍、何十倍はある。こういう時に
無関心を装うのも、照れと期待の裏返しなのだ。


「ニヤついてどうしたの? 気味が悪いわよ、冥琳」
「そうね。悪かったわ」
「悪いと思ってる感じじゃないけど、まぁ良いわ。で、他の情報は?」
「曹操は思っていたよりも兵を連れてきていないようよ。精強ではあるけれど、数はそれほど
でもない」
「手のうちは見せたくないってことかしら。袁紹のところは?」
「袁術と同じ。これ見よがしに着飾った兵が凄い数……質の方は想像の通りよ。ただ、袁紹の
側近の顔良と文醜、この二人は侮れないわね」


 特に、顔良だ。袁紹が愚物であるとは周知の事実であるが、その愚物を陰日向に支え、勢力
維持に心血を注いでいるのが、彼女であるという。いわば影の実力者だ。無計画な方針を袁紹
が打ち出しても、軌道修正を顔良が行うことで、被害を最小限にまで食い止めている。


 冥琳の目から見ても、並の手腕ではない。加えて、顔良は武にも長け、一軍を率いて戦にも
出るという。文武両道とはこのことだ。袁紹のお気に入りでなければ是非とも呉に欲しいとこ
ろではあるが、袁紹の愚かさと同時に二枚看板の忠誠心の高さは遠く呉にまで聞こえてきてい
た。


 どれだけ大金を積もうとも、良い条件を出そうとも、袁紹自らが暇を出さない限り、顔良が
離反をすることはない、というのが冥琳他、呉の軍師が出した結論である。それに、袁紹本人
も無茶にへこたれない顔良をそれなりに気に入っているようだ。周囲にどう見えるかは別とし
て、本人達の関係は良好らしい。


「つまりその二人さえどうにかすれば、後は烏合の衆ってことでしょ?」
「烏合の衆でも数がいれば脅威よ」
「それを何とかするのが軍師の仕事でしょ。その時は期待してるわよ、冥琳」
「はいはい……」


 呆れた風を装って見るが、雪蓮に頼られることに悪い気はしない。彼女の軍師は自分しかい
ないのだと、思える瞬間である。


「明命です! 入ってもよろしいでしょうか!」


 静かな喜びに冥琳が浸っていると、天幕の外から声がした。密偵役の明命である。定時の報
告の時間ではない。何か緊急の案件だろうか、と雪蓮と視線を交錯させ、冥琳は入室を許可す
る。


 失礼します! という声とほぼ同時に、二人の前に跪いた少女の姿が現れる。相変わらずな
身のこなしに感心しながらも、冥琳は雑談する幼馴染から孫呉筆頭軍師の顔に戻って、明命に
先を促した。


「報告します。本日も募兵に応じて近隣の住民から志願する者が現れました。現在数は二百。
まだ増えておりますので、正確な数字は改めてご報告に参ります」
「そんな嬉しい報告をしにきた訳ではないな? 用件を早く」
「はい。その中に五十人ほど……正確には四十八人の集団がありました。ここまで来る道中で
志を説き、兵を募ってきたそうです」
「ありがたいことだけど、五十ってのはちょっと少ないわね……」
「個人で集めたらそんなものでしょう? それで、その約五十がどうしたの?」
「その中の三人が、お二方に会わせろと言っています。何でも自分達は旅の軍師であるから、
特別に用いてほしいと」


 明命の物言いに、冥琳と雪蓮は思わず顔を見合わせた。


「どうする?」
「追い返すというのも一つの手よ」
「追い返したら兵も帰っちゃうわよ?」
「五十なら誤差みたいなものでしょう。兵士と違って軍師は頭数がいれば良いというものでも
ないわ」


 孫呉は勢力の規模に比べて軍師が多く、兵士ほど不足している訳ではない。別働隊である蓮
華の部隊により軍師の数を割いたため、頭数で言えば不足していると言えばしているが、それ
は冥琳と穏だけでも、十分に処理できると思ったからこそだ。


「冥琳は必要ないと思うの?」
「末端の処理を文句を言わずにやってくれるというのなら良いのだけどね。この時期に登用を
望むということは、そうじゃないということでしょう」
「良いんじゃない? 野心ある人って私嫌いじゃないわよ」
「野心の方向性が問題なのよ。大事な時期に問題を自ら抱え込んでどうするの……」
「そう? 仲良くやっていけると思うんだけどな、私」
「根拠を聞かせてもらおうかしら」
「勘よ、勘」


 あっけらかんと言ってのける雪蓮に、冥琳は押し黙る。勘に頼って行動するなど、軍師の許
すところではないが……


「貴女の勘は当たるのよね……」


 その勘に、何度か命を助けられたことがある。閃きと、その閃きに命を預けることのできる
決断力が、雪蓮の魅力の一つだ。武将として、友人として、何度も道を切り開いてきたそれを
持ち出されては、冥琳も首を縦に振らざるを得ない。


「貴女の勘に敬意を表して、とりあえず会うだけはあってみましょうか」
「ありがとう、冥琳」
「ただし、使えないと判断したら放り出すから、そのつもりでいてちょうだい」
「大丈夫よ。きっと使える人たちだから、あ、そうだ。会うついでに試してみたいことがある
んだけど――」


 そう言ってにやりと笑う雪蓮の顔を、冥琳は何度も見たことがある。彼女の決断は結果とし
て間違うことがない。雪蓮という人間は、閃きで最良の選択を選ぶことができる、正真正銘の
天才だ。


 ただ、天才はその過程にまで頓着しない。結果さえ自分の望むものであれば、道中どんな厄
介ごとが待っていたとしても、笑いながら弾き飛ばして突き進むのである。力強い本人はそれ
で良いかもしれないが、道を共にする人間にとっては堪ったものではない。


 そして大抵の場合、道を共にするのは冥琳の役目だ。面倒くさいことになりそうな気配に、
いっそ聞く前から却下してやろうかという気持ちが冥琳の中で持ち上がる。強行に反対すれば
いくら雪蓮でも聞き入れてくれるだろう。却下するなら今しかないのだが……


「解ったわ。ただし、あまり大掛かりなものはなしよ」
「流石冥琳。愛してるわ」


 ぎゅー、と気持ちを込めて抱きしめられる。飼い猫のように喉を鳴らす雪蓮の髪に、冥琳は
ぽんぽんと手を乗せた。上手く乗せられた気がしないでもないが、雪蓮が満足するならそれも
良いかなと思える。


 何だかんだ言って、冥琳は雪蓮という人間が好きなのだった。話を聞く理由など、それだけ
あれば十分である。
























 周泰と名乗る少女に先導されて、稟は歩いていた。傍らにはいつも通りぼーっとした風とい
つも以上におどおどした士元がいる。風に関しては何も心配していないが、士元はもう少しど
うにかならないものかと思う。


 半年ほど前には自分と話すのにも一苦労だったことを考えるとこれでも進歩した方だが、人
と話すのを苦手としているようでは、軍師として仕事ができない。


 士元に視線を送る。もう少ししゃんとしなさい。声に出さずに念じただけだったが、それで
も士元には伝わったようだった。背筋を伸ばし、意識して表情をキリリとしてみせる。本人的
にはそれでしゃんとしたつもりなのだろう。


 確かに稟にもその意思は伝わってきたが、右手と右足が一緒に前に出ている現状では、認め
られるのは努力だけだ。静かに息を吐く。誰にも気取られないようにしたつもりだったが、前
を歩く周泰がちらりと視線を向けてきた。


 非常に耳の良い少女である。よく見ればこれだけ近くにいるのに足音が全くせず、刀をさげ
ているのに音もしない。その種の訓練を受けているのは見て取れた。


 そんな少女に案内されているという事実に、もしかしたらこのまま殺されるのでは、という
疑念が稟の脳裏を過ぎった。


 剣を使えるには使えるが、武を専門にしている人間からすると素人も同然の腕でしかない。
一緒にいる風や士元は戦うなど論外だ。兵に囲まれるまでもなく、眼前の少女一人だけでも自
分たち三人の首を落とすのに瞬き一つの時間もかけないだろう。


 軍師として雇ってくれといきなり現れるのも、我が事ながら怪しいものだ。今は大事な時期。
疑り深い人間ならば情報を引き出せるだけ引き出して殺すということも考えられないではない。
軍師と偽った殺し屋という可能性だってないではないのだ。


 力ある者を多く望むのは力ない民だけだ。多くの有力者にとっては、現在、そして将来相対
するだろう敵の数は少なければ少ないほど良い。力ある者を破ってこそと考えるものもいるが、
理想論を大真面目に語ることができるのは、本当の強者かただのアホだけだ。


「こちらが孫策様の天幕になります」


 周泰に案内されたのは、陣の中でも一際大きい天幕だった。見た目の豪華さから案内されず
とも一目で重要な人間がいるのだと知れる。どうぞ、と先を促す周泰。何気ない仕草ではある
が、こちらの一挙手一投足に気を払っていた。妙な動きをすれば命はないぞ、と顔ではなく行
動で示している。


 稟は小さく息を吐いた。行きますよ、と二人を促し、率先して天幕の中に入る。大きさに反
して天幕の中は質素な装いだった。世話係一人もいない。幹部がずらりという光景を想像して
いただけに、拍子抜けである。


 少なくとも、寄ってたかって袋叩きにされる展開はなさそうだ。嫌な安心の仕方だなと思い
ながら、機械的に状況を確認する。上座に椅子に座った人間が一人と、その傍らに控える人間
が一人。両方とも赤い衣を纏った、肌の浅黒い女性である。


 それらが孫策と周瑜であることは一目で見て取れた。礼を失してはいけない。稟は迷わずに
孫策の前に跪いた。続く風と士元もそれに倣う。


「お初にお目にかかります。私は郭嘉、字を奉孝と――」
「あー、少し待て」


 声を挙げたのは、上座に座った女性だった。跪いた状態のまま、奉孝は肩越しに振り返る。
声をかけた立場が上の人間を肩越しに振り返るなどあってはならないことだが、今この状況な
らば許されるという確信があった。


 現に、上座の女性は肩越しに振り返った奉孝を叱責することもなく、顔には苦笑を浮かべて
いる。その視線は奉孝と、跪かれた女性とを往復していた。頭の上で女性が肩を竦めるのが解
る。何かを諦めるように、上座の女性は大きく大きく溜息をついた。


「ウケると思った案が滑った気持ちはどう?」
「流石に私も一瞬も騙せないと思わなかったわ」


 ははは、と明るく笑いながら、女性二人は立ち居地を入れ替えた。稟も改めて上座に座りな
おした女性に向かい、身体の向きを入れ替える。


「改めて、私が孫策よ。そっちが軍師の周瑜。貴女たちの名前を聞かせてもらえるかしら」
「私は郭嘉、字を奉孝と申します」
「程昱、字は仲徳です」
「ほ、鳳統です! 字は士元ともうしまひゅ」


 やはりというか何というか、士元は口上を噛んだ。うぅ、と顔を真っ赤にして俯くのが気配
で分かる。孫策の気質によっては機嫌の急降下が予想されたが、士元を見る孫策の瞳には慈愛
の色が見られた。士元のような人間は、孫策に受けが良いようである。


「最初に聞いておくけど、どうして気づいたの? もしかして私に会ったことある?」
「お会いするのは勿論、お見かけしたこともありません。正真正銘、孫策様とは本日が初対面
でございます」
「ならどうして?」
「孫策様に関しましては、容姿に関して噂を聞いたことがございました。桃色の髪に青い瞳と
いうことでございましたので、お二方を比べた時には貴女様が孫策様であると確信できました」
「髪と瞳の色だけじゃ、根拠に弱いわね。似た容姿の人間をおいて天幕の外に控えてるってこ
とは考えなかったの? こういう悪ふざけを考えるのなら、外からこっそり見てるってことも
考えられるんじゃない?」
「孫策様は何事もご自分でなされることを好まれるとも聞いております。自ら仕掛けたのであ
れば、間近で見ようとするのではないかと推察いたしました」
「……んー、少しは慌ててもらえるかと期待してたんだけどね」
「申し訳ございません。これも、性分であります故」


 深々と頭を下げると、孫策は笑い声を漏らした。愉快で堪らないといった雰囲気に稟は山を
一つ乗り越えたことを感じた。


「それで特別に用いてほしいということだそうだけど、どういうこと?」
「反菫卓連合軍に参加するに当たり、我々の知恵を使っていただきたく参上いたしました」
「私に仕えたい、ということ?」


 笑みを浮かべているが、視線は欠片も笑っていない。こちらの考えを底の底まで読もうとす
る猛禽のような瞳に、背筋が震えるのを感じる。その問いにすぐに答えようとして、奉孝は一
拍、間をあけた。小さく息を吸って、吐く。


「私どもを雇っていただけないか、という提案でございます」


 仕える気はないかという問いに、否定の意味を返す形で放たれた言葉に、孫策と周瑜は顔を
見合わせた。これは『お前に仕える気はない』と宣言したに等しい。


 気の短い人間ならば、ここで激怒したろう。現に周瑜の顔には不快の色が浮かび上がってき
ている。ここで追い出されればそれまでだ。窮地にある自分を振り返り、背筋がぞくぞくする
のを感じる。


 だが、策が上手く行くという確信はあった。孫策は身を乗り出して、こちらを見つめている。
噂どおりの天才肌の人間。人を見る目は確かだという評判は嘘ではない。


 孫策の視線に、周瑜は大きく頷いた。稟にはそれが『お前に任せる』という意思表紙に見え
た。


「貴女たちの値段は?」


 その問いに、稟は勝利を確信した。笑みが浮かびそうになるのを隠しながら、用意しておい
た答えを告げる。


「我々三人に関しましては、三人で寝泊りできる天幕だけで十分でございます。後は食を保障
してくだされば、それ以上は望みません」
「他の連中……五十人ほど兵を連れてきたと部下が言ってたけど、彼らについて何かあるの?」
「その兵の中に一人、是非使って頂きたい人間がおります」
「将軍にでもしろって?」
「滅相もございません。分不相応な地位は身を滅ぼすというもの。現在の彼の器量ならばどん
なに贔屓目に見ても百人隊長辺りが精々でございましょう。率いてきた兵に約五十の兵を与え
てくだされば、それで十分にございます」
「百人隊長とはまた、低くでたものね。その彼は、どんな人?」
「一言で言うなれば凡人です。知も武も特筆すべきところはありません。どちらも筋は悪くな
いと思いますが、その二つのどちらかで天下に飛躍することはありませんでしょう」
「なんでそんな人間を売り込みにきたの?」
「いつか彼が語った志というものに、僅かではありますが心を打たれました。そんな世界であ
るのなら、私も見てたい。そう思ったのです。彼が英傑であったならば、私も手出しはしなか
ったでしょう。強烈な光を放つ人間には自然と人が集まるものです。ですが、先にも申し上げ
ました通り、彼は凡人です。一人でそれを成すには才も地力も足りない。私どもが手を貸して
いるのは、そんな事情があってのことです」
「凡人に付き合って栄達の道を諦めてるって聞こえるんだけど、貴女はそれで良いの?」
「我々はなんとなれば、独力でも身を立て名を挙げることができますが、凡百の身である彼に
はそれは敵いません。我々は彼を必要としませんが、彼は我々を必要としています。同道する
のはそれが理由です」
「その凡人くんは、私よりも興味深い?」


 孫策の視線に、背中がぞくりとした。自らに絶対に近い自信を持つ強者の視線だ。間違えた
答えをすれば不興を買う。そして、ここで不興を買うことは命の危険を意味した。


 否定することは簡単だが、嘘を見抜けない孫策でもないだろう。ましてここには当代最高の
軍師の一人である周瑜もいる。嘘を嘘として見抜かれるようでは、軍師失格だ。僅かの逡巡の
後、奉孝は正直に答えることにした。


「才に溢れた貴女様に栄達の道を見出すのは容易い。凡人を導いてこそ、軍師の腕の見せ所が
あるというものです」
「ふられちゃったわ、冥琳」


 孫策は声をあげて笑った。冥琳と呼ばれた周瑜が、額を押さえて苦い顔をしている。厄介な
ことになった、とその表情が物語っている。自分たちの扱いに関して、二人の意見は対立して
いたようだった。賛成派だろう孫策が笑い、反対派だったろう周瑜が苦い顔をしている。


 処遇がどうなるかは、一目瞭然だった。


「良いでしょう。貴女の出した条件を一度全て飲むわ。三人とも軍師として雇用し、凡人の彼
は百人隊長の地位を授ける」
「ありがとうございます」
「といっても、今回は新兵の比重を大きくした部隊を一つ編成するつもりなの。その内の百人
隊だから言っちゃえば新兵の集まりでしかない訳だけど、そこは恨まないでね」
「十分です。熟練した兵の指揮が彼にできるとも思えませんので」


 ただの兵士ではないという状況こそが、奉孝の望んだものだった。ただの兵と指揮する立場
とでは、つめる経験が圧倒的に異なる。知も武も突出して光るものがないのならば、可能な限
り生存できる環境においておいた方が良い。相対的な話であるが、直接戦うのと指揮をするの
とでは、まだ指揮をする方が一刀には向いている。


「さて、凡人の彼は百人隊長として扱うよう通達を出しておくわ。新兵部隊を指揮することに
なる将軍はうちの娘の中でも荒っぽい方だから、下手を打つと一兵に格下げになるかもしれな
いけど、そこは運命とでも思って諦めてね。不相応な地位においておけるほど、私達には余裕
がないの」
「仰るとおりです」


 環境を整えるまでが稟の仕事。そこから成果を出すのはあくまでも凡人の彼、一刀の仕事だ。
戦に出る以上、そこで死ぬことだってある訳だが、その可能性については四人で議論し尽くし
ている。一足飛びに地位を得ることはできない。時間をかけて人を集め、力を蓄える選択肢も
ないではないが、時代が動くこの状況を見逃すことはあまりにも惜しい。


 結局は、どこかで危険な橋は渡らなければならない。それが遅いか早いかの違いだけだ。特
に一刀のような人間が飛躍しようと思ったら尚更である。


 実は高貴な血筋であるとか、都合の良い背景でもあれば良かったのだが彼の出自に関してど
れだけしつこく聞いても答えをはぐらかすばかりで、口を割ろうとしない。


 これがお話であるのなら、ひたすらに隠そうとするその過去にこそ、その人物を飛躍させる
鍵があるものだが、何が自分にとって都合良く働くかどうかを判断できないほどに、一刀も愚
かではない。


 誰にだって秘密にしたいことの一つや二つはある。一刀の過去も、それに触れることだと判
断した稟は、それ以上を聞くことをやめていた。彼は北郷一刀で、自分はそれを支える軍師。
それだけ解っていれば、現状は十分だ。話したくなれば一刀の方から話してくるだろう。


「凡人の彼はそれで良いとして、しばらくは貴女たちの能力を見させてもらうわ。鳳統は私、
郭嘉は周瑜に、程昱は凡人の彼が配属される新兵部隊の隊長を補佐する軍師として働くこと。
今日から仕事にかかってもらうわ」


 御意に、と答える中で、分散して配置されることをあまり考えていなかった郭嘉は、内心で
頭を抱えていた。三人で一つの天幕という案が通り、風が一刀と同じ部隊に配属されたことで
最悪の状況は免れたが、三人で顔を合わせる機会が少なくなるのはあまり宜しくない。


 しかし、こればかりは文句を言うこともできない。雇い主は孫策だ。雇用される側がいきな
り配置に文句を言っては流石に角が立つ。風が一刀の近くにいることができる。この状況をこ
そ、今は喜ぶべきだ。


「お聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」


 跪いたまま、風が質問の声をあげる。


「風や凡人のお兄さんが配属される新兵部隊の隊長さんというのは、どういう方ですか?」
「どういう方ねぇ……」


 うーん、と孫策は腕を組んで考える。


「一言で言うなら、かわいい娘よ」


 その評価に、周瑜が噴出すのが見えた。稟を含めた三人が視線を向けると、何でもない風を
装って視線をあさっての方へ向ける。


 さらに噴出すのを堪えているような顔だった。嘘を吐かれているのか。孫策の顔を見ると、
彼女の方は自信満々だった。自分の言葉に疑いを持っている様子はない。かわいいと思ってい
ることは事実なのだろうが、きっとかわいいだけではないに違いない。


 少なくとも、士元のように直球でかわいい人間でないことは確かだろう。会話したのはこれ
が初めだが、孫策が遊びを好む人間だということはよく理解できた。隙あらばこちらをからか
おうとする厄介な人間。誰をしても堅物とされる稟のような人間とは、とても相性が悪い。


 なるべくならば、目を付けられないようにしよう。孫策とは視線を合わせないようにしなが
ら、稟は固く心に誓った。






















「お待たせしましたお兄さん」


 軍団の大将である孫策に売り込みに行って来ると出て行った三軍師の内、戻ってきたのは仲
徳だけだった。彼女は当たり前のようにの隣に立つと、指示があるまで待機と指示を出され手
持ち無沙汰になっていた一刀達を先導して歩き出した。


 金髪の美少女に五十人からなる人間がぞろぞろと連れられる様は、傍から見れば間抜けに見
えるのだろう、何だこいつらは、という奇異の目がそこかしこから向けられてくる。そういう
視線に慣れていない連中は居心地悪そうにしているが、仲徳には何処吹く風だった。


「先生、他の二人はどうしたんです?」


 そんな中、他人の視線など毛ほどにも意識しない子義が仲徳に質問する。問われることを今
か今かと待っていたのだろう、振り返った仲徳の顔にはふふふー、得意そうな笑みが浮かんで
いた。


「風たちの頑張りで売り込みに成功しました。士元ちゃんは孫策様の、稟ちゃんは周瑜様の預
かりになったので、しばらくは別行動になりますね。あ、風はお兄さんが配属になる隊の隊長
さんの預かりになりましたから、これからも一緒ですがー」
「大将とその側近の預かりになったのか。二人とも、いいクジを引いたもんだな」
『……この場にいない女よりも今ここにいる女に声をかけてやるのが、男の務めってもんだぜ、
兄ちゃんよ』
「これ宝譿、めったなことを言うものではありませんよ。お兄さんの気がきかないのは、いつ
ものことなんですから」


 他人の口を借りるという迂遠な、けれどもこれ以上ないくらいストレートな方法で対応の不
味さを忠告された一刀は、居心地悪そうに押し黙る。遣り取りを眺めていた面々から、笑い声
が上がった。流石先生、と囃したてられもする。士元ほどではないが、見た目美少女な風はそ
れなりに人気があるのだ。


「その気が利かないお兄さんから質問だけど、俺たちはこれからどうなるんだ?」
「配属になる隊は新兵ばかりみたいですけど、気の利かないお兄さんはそこで百人隊長をする
ことになりました」
「ということは、ここのメンバーに五十人加えるってことか」
「そういう風になるように稟ちゃんが頑張ってくれたので、お兄さんは後でお礼を言っておい
てくださいね」
「奉孝にはいくら感謝しても足りないな」


 戦場ではたった一度のヘマが命の危険に繋がる。自分の実力で百人隊長というのはでき過ぎ
な気もするが、意思疎通のできる面々と離れ離れにならなかったことを考えれば、その程度の
苦労などどうということもない。


「後の問題は、俺の上司がどういう人かってことか。どんな人か聞いてるか?」
「孫策様はかわいい人と言ってましたね」
「かわいいか……士元みたいな?」
「…………」


 今度ははっきりと、仲徳は一刀を無視した。頭の上の宝譿すら、一刀から視線を逸らしてい
るように見える。子義以外の後ろの連中は盛大に溜息をついていた。自分の人格が全否定され
たようで面白くなかったが、そこまでやられてようやく自分が失敗したことに気づいた。


 しかし今から『ごめん、仲徳もかわいいよ』と言うのもそれはそれで手遅れのような気もす
る。頭を捻って考えてみても妙案は思い浮かばない。こんな時こそ普段の勉強の成果を発揮す
べき時と思うものの、奉孝や仲徳の行う講義に女性の扱い方というのは含まれて入ない。


(というより、女の子から女の子の扱い方を教わるようじゃ、男として終わりだよな……)


 自分で習得するしかない訳だが、会話一つで女の子の機嫌を悪くするようでは、道は遠そう
だ。沈黙する仲徳と平然としている子義、これだからうちの団長は……と小声でぼそぼそと話
す団員――後から加わった者は自警団員ではないため団員ではないのだが、子義が団長と呼び
続けるために、自分たちは『団』なのだという認識が定着した――でぞろぞろと陣の中を歩く。


 待たされていたのは比較的外周の中でも比較的中央に近い位置だったのだが、段々と外の方
へと誘導されていく。当然、外周にある物ほど重要度は低く、集まる人間の地位も下がる。兵
として来たのだから当然とも思うが、それでも段々と外に追いやられていくのは一刀の心に不
安を覚えさせた。


 ひょっとしてこのまま人気のないところに連れ出されて仲徳に仕返しをされるのでは……と
埒もない妄想が一刀の頭の中に生まれた頃、一刀たちの行く手を遮るように、男が現れた。


 柄の悪い男である。身長は一刀よりも頭一つは高い。装いは一刀とは比べるべくもない正規
兵のものだ。高位の者には見えないが、それなりの立場にいるのだということは一刀にも理解
できた。


「北郷と程昱ってのはお前達か」
「俺が北郷です」
「程昱は私ですねー」


 男は一刀と、一歩だけ前に出た仲徳をじろじろと眺め回す。値踏みをするような視線に身が
固くなるのを感じたが、男が一刀達を見ていたのは僅か数秒だった。


「お前達二人はついてこい。頭に引き合わせる。残りの連中は――」


 言葉を切って、男は周囲を見回し東の方角を指差す。


「あっちに新人が集まる場所がある。今日来たって言えば、そこにいる連中が案内してくれる
だろう。そのうちこいつらもそこに行くから、適当に待ってろ」
「了解しました。では団長、またあとで」


 残りの連中を代表して子義が応答すると、彼らは特に文句を言うでもなくさっさと歩き出し
た。素人にしては迅速な行動である。指示されたらとにかくさっさと動けというのは、調練の
時に三軍師全員が口を酸っぱくして言っていることだった。


 士元を勢いで胴上げするような愉快な連中ではあるが、やる時はやるのだ。


 見れば、団員たちを見て男が僅かに目を丸くしている。少なくない驚きの色に、一刀は胸が
すくような思いを抱いた。


「……ついてこい」


 呆けていた自分を誤魔化すように、低くした声で男が指示を出す。何気なく仲徳を見ると、
彼女も一刀を見上げていた。何を言うでもなく、二人して微笑み会う。仲徳の笑顔は不敵だっ
た。


 自分のしてきたことが評価されるというのは、どんな時、誰が相手だったとしても嬉しいも
のだ。不敵に笑う仲徳のその表情からは、先ほどまでの機嫌の悪さを伺いしることは出来ない。


 許してくれたのだろうか。仲直りを意図して手を差し伸べる。仲徳もその小さな手を差し出
し――意識が手に集中していたのを逆手にとって、思い切り足を踏みつけてきた。


 仲徳は小さい。つまりは軽い。その軽い仲徳が踏みつけたとしても威力はタカが知れている
が、油断していた所にこの攻撃は効いた。何より、現代と異なりこの時代では履物など簡素な
物である。防御よりも攻撃する側が有利なのだ。軽い女の子の攻撃でも、痛いものは痛い。


「……いこうか」


 それに声を挙げないのは、男としての意地だ。強がっているのが解ったのだろう。仲徳は得
意そうな笑みを更に深くした。声に出すとしたらふふふふー、だろう。ふが一個多い。それだ
け得意さも増しているということだ。


 普段ならば小憎らしいとでも思っていたろうその笑みも、直前に落ち度があった身としては
ありがたい。少なくとも、今の仲徳を見て機嫌が悪いと思う人間はいないはずだ。その足音も
軽い。いつもの、飄々とした仲徳がそこにいた。

























「貴様が北郷一刀か」


 新兵を率いる隊長が『かわいい』と本気で表現する人間がいるとしたら、そいつの目はきっ
と節穴なのだと思う。


 それほど目の前にいる人間は一刀の思う『かわいい』というイメージからはかけ離れた存在
だった。


 誘導した男は、その隊長の脇に控えている。彼のことも悪い顔だと思ったものだが、隊長は
それに輪をかけている。面構えという意味ではない。容姿に関する話をするなら……かわいく
はないと思った直後に認めるのは抵抗があるが、文句なしに美形の部類に入るだろう。


 だが、隊長全体として見た場合、これを好むかどうかは判断の分かれるところだ。


 丈の短い赤い装束。ミニスカートなんて目じゃないくらいに露出した足は、健康的に引き締
まっている。腰の後ろには肉厚の刀。荀彧に貰った剣とはまた違う、鉈のような形をした武器
だった。見ただけで重さまでは分からないが、人の首を跳ね飛ばす目的に使うのだったら、自
分の剣よりもいい仕事をしそうな印象がある。


 藍色の髪はひっつめて、後頭部で結い上げている。かなりきつめに結っているのか、元々釣
り気味の目がさらに釣りあがっているように見えた。それでも狐目のように見えないのは、彼
女自身の生まれ持った才能に寄るものだろう。かわいくは見えないが、美人には違いないのだ。


 美人は得である。


 ここまでならば、ちょっとキツめの容姿をした女子高生が、武装していきがっていると見え
なくもない。一刀自身はお目にかかったことはないが、盆と暮れに東京のとある場所では、こ
ういう特殊な格好をした人間が大手をふるって闊歩する場所が存在するという。粋がっている
だけの素人など、武装した賊と夜の闇の中戦うことに比べればそれほど怖いものではない。


 視線を、はっきりと、隊長と合わせる。


 赤い、綺麗な瞳だ。強烈な意思を感じさせるその瞳を持った少女が、武装した厳つい連中を
大勢脇に従えていた。コスプレバカが百人勢ぞろいなんて愉快な状況では断じてない。どいつ
もこいつもすれ違ったら全力で道を譲らざるを得ないような、凶悪な顔が勢ぞろいしている。


 正規兵の格好をしているから彼らが兵と認識できるが、そうでなければゴロツキとしか思わ
なかっただろう。その中心に立つ隊長がどういう素性の人間なのか……想像するのも、怖い。


 どうしたものかと背中にだらだら汗を流しながら思考を巡らせていると、筋者集団からは見
えないように、隣の仲徳が腿をつついてきた。その意図を察した一刀は、ゆっくりと膝を付く。


 リーダーである一刀がそうしたことで、隣の仲徳はすっとそれに倣った。


「姓は北郷、名を一刀。字はありません。大将、孫策様のご指示とのことで参上いたしました」
「甘寧だ。お前のことは既に聞いている。孫策様はお前を百人隊長にせよとの仰せだ。連れて
きた連中が五十人ほどいるそうだが、それに宙に浮いている五十人を追加することとなる。お
前、百人隊を指揮したことはあるか?」
「今までの最多は、五十人です」
「ならば、訓練時に貴様の采配を見させてもらおう。孫策様は百人隊長として使い続けろとは
一言も仰られておられない。もし私の目から見て不適当と判断したら、容赦なくただの兵にま
で落としてやるから、そのつもりで励むように」
「心得ました」


 と、答えるしかない。冗談でも挟もうものなら、首を飛ばされる――今まで出会った人間の
中でも、甘寧はトップクラスに冗談の通じない人間だ。名前を覚えられただけのどうでも良い
関係で口答えをしたら、すぐに刀が――とまではいかなくとも、それだけで射殺せそうな視線
が飛んできそうな、そんな気がする。


 視線は痛い。その事実をこの世界にきて始めて、一刀は認識した。奉孝の問いに見当はずれ
な答えを返した時、彼女はメガネの奥ですっと、目を細める。


 その視線が、今はとても怖い。軍師である奉孝の視線でさえそうなのだ。見るからに武闘派
な甘寧の視線ならば、身体に穴くらい空きかねない。


 心得ました。自分の口から吐いたその言葉には、一片の嘘もなかった。誰だって命は惜しい。


「それで、貴様が軍師か」
「程昱、字を仲徳と申します。孫策様の命により、甘寧将軍の軍師を務めることとなりました。
以後、お見知りおきを願います」
「軍師が付くとは、私も偉くなったものだな」
「良かったですね、頭」


 それを呟いた男は次の瞬間、猛烈な勢いで吹っ飛んだ。見れば、腰の後ろにあったはずの刀
が抜き放たれている。斬ったのか。目を逸らしてなどいなかったはずだが、気づいた時には男
は吹き飛ばされていた。


 並の技量ではない、と感心するよりも先に自分の確信が絶対になったのを感じた。この女性
は、言葉よりも先に手が出るタイプなのだ。それを自ら体験せずに理解することができた。


 これほど喜ばしいことはない。一刀は心中で、目の前で吹き飛んでくれた男に感謝した。


「頭ではない。隊長か、将軍と呼べ」
「……申し訳ありやせん」


 鼻血をだらだらと流しながら、男は素直に謝った。謝罪されてそれで気が済んだのか、甘寧
はふん、と小さく息を漏らすと刀の血を拭ってから、腰の後ろに戻す。


「見ての通り、私の部下にはあまり学がない。私も軍学は齧った程度だ。知恵を授けてくれる
ことは嬉しく思う。苦労をかけると思うが、是非協力してくれ」
「微力を尽くします」
「まずはそうだな……先も行ったが、私の部下には学がない。今後の指示を円滑に出すために
も、一つ、奴らに戦術の一つも講義してやってくれないか」


 ざわ、と声を挙げたのは当の部下達だった。顔色から、甘寧のその指示が彼らの意に沿わな
いものだというのが解る。学がないというのは、学ぶべき環境になかったから、というだけで
は成立しない。


 単純に勉強するのが嫌いだ、苦手だという人間もいる。特にこの世界では知識を持つものと
そうでないものの差が激しい。勉強という行為そのものに苦手意識を持っていたところでおか
しくはなかった。


 甘寧に刀で殴られた男が、一刀を見る。何とかしろ、とその視線が切実に訴えていた。殴ら
れても素直に謝ったところを見るに、彼らは甘寧に意見できる立場にはない。加えてその立場
にも納得しているようだ。


 ならば勉強することを受け入れても良いものだが、それとこれとは別の話ということなのだ
ろう。見れば見るほど、全員、育ちの悪そうな顔をしている。皆、勉強なんてしたくないと顔
に書いてあった。


 その気持ちはよく解る。少し前まで、自分もただの学生だった。


 だが、良く考えても見てほしい。貴方がたにできないことが、果たして自分にできるだろう
か。たった今百人隊長を拝命したばかりだが、一刀の立場というのはその程度でしかない。甘
寧はその百人隊長を何十人も束ねる立場にあるのだ。


 単純計算で、権限の強さは最低でも数十倍ということになる。何より、見た目が怖くて冗談
が通じなさそうだ。突っ込みが刀で行われるのもいただけない。無理して逆らって、そのオチ
が刀での殴打では割に合わない。


 決定を覆るような提案が受け入れられないだろうことも見えている。結果の解っている、し
かも、自分が痛い思いをするだけで達成できないようなことを、自分からする気にはなれなか
った。


「さて、程昱はそれで良いとして残りは貴様だ。貴様はこれから調練となる。一日目で音を上
げてくれるなよ。逃げることは許さん。孫策様が目をかけてやった恩を反故にするようならば、
この陣を出るよりも先に首を刎ねてやるから、そのつもりでいろ」
「逃げるつもりはありませんが……まってください。これから調練ですか?」


 調練そのものに否やはないが、その心構えは全くしていなかったので驚いた。


 調練を始めるには、時間が遅い。この地に腰を据えているのならば良いが、もうすぐ日も暮
れようとしている。調練を始めるには時間が遅い。やらないものと思っていたのもそれが原因
である。


 だが、それは一刀にとっての普通だ。甘寧にとっては遅すぎることはない。その事実がただ
一つ追加されるだけで、一刀にはどうしようもなくなる。


 甘寧の顔はとてつもないやる気に満ちていた。嘘や冗談ということは、おそらくないだろう。
そういうのが得意なようには全然見えない。


「そうだ、これから調練だ。私の仕事は、貴様ら新兵どもを少しでも使えるようにすることだ
からな」


 覚悟しておけ、とにやりと笑う甘寧は、いつだか映画で見た鬼軍曹を顔をしていた。


 泣いたり笑ったりできなくなるんじゃあるまいか……甘寧の顔を見ると、その言葉も冗談と
は思えなかった。
























[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十四話 反菫卓連合軍編③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:57
 女の子を抱えて馬に乗るというのは、男が想像する最高のシチュエーションの一つに数えられると一刀は思う。それが美少女であるのなら言うことはない。ふわふわの金髪、女の子らしい甘い臭い、腕の中にすっぽりと納まるお人形のような小さな身体。

 ただ馬に乗っているだけならば、一刀も素直に幸せを噛み締めることができたと思う。一刀も男だ。美少女と触れ合える機会は大事にしたいという下心も持ち合わせている。それが健全な少年の正しい姿というものだ。

「――というのが、韓非子の思想というものなのです。解りましたか、おにーさん」
「ああ、解ったよ……多分」

 一刀の腕に抱えられ、馬にぱかぱかと乗りながら仲徳がしていたのは、政治思想の講義だった。今日のテーマは韓非子。秦の始皇帝にも愛された思想家である。政を行うには、多くの思想に触れておく必要がある。自分でどういう政治を行うにしても多くの考え方を知っておいた方が有意な政ができる……というのが奉孝をはじめとした、軍師の考えだ。

 そういう講義に対する成果は……実の所、あまり実感できていない。思想についての勉強など、こちらに来るまで一度もしたことがなかった上に、活かせるような環境にもまだめぐり合っていないからだ。

 言われたことをなるべく覚えるようにはしているものの、活かす機会のない知識はこのまま頭の中で腐っていくような気がしてならない。学園で覚えたはずの化学式など、こちらにきてからはもう忘却の彼方である。

 使わない知識は忘れてしまうもの。一刀にとってはそれは当たり前の論理だ。元々物覚えの良い方ではない。土台、使わない知識を覚えておけというのが無理な話なのだ。

「多分ではいけませんよー、おにーさん」

 しかし、そんな凡人の論理を、多分なんて曖昧な言葉を許してくれるほど、軍師殿は甘くないのだった。腕に抱えているため、逃げ場はない。頭の宝譿をアゴの下にぐりぐりやりながら、曖昧な返答を追及してくる。

 理解の度合いがそれほど深くないことは、しっかりバレているだろう。これで追試は免れない。愛らしい見た目に反して、仲徳は結構スパルタなのだ。見た目どおりスパルタな奉孝に比べればマシではあるが、指導する人間としてはあまり優しいほうではない。教わる側としては、一長一短だ。

「将軍はどうでしたか?」
「理解はした。活かせるかどうかはまた、別の話ではあるがな。お前さえ良ければ私の部下にも話を聞かせてやってほしいところではあるのだが……」

 轡を並べて講義に耳を傾けていた甘寧が、ぐるりと周囲を睨みやる。通常の行軍であれば近くに集まっているはずの甘寧直属の正規兵は、今は全員一定の距離を開けている。

 仲徳の声がぎりぎり届かない、そんな距離だ。話に関わるつもりがない、関わりたくないという意思表示でもある。甘寧としては学を身に着けてほしいのだろうが、多くの人間はそう思っていないということだろう。

 勉強をしたくないという気持ちは痛いほど理解できるが、甘寧の部下であるのに彼女の苛立ちの視線を受け止められるというのも、一刀からすれば凄いとことだ。調練の際もことあるごとに張り倒され罵声が飛んできたりするが、その迫力たるや鬼神の如し。それを受けてあえて逆らおうという選択肢は、一刀には浮かんできそうにもない。

 彼らは彼らで勇気ある選択をしているのだ。そう思うと、強面集団にも親近感が沸いてくる。最初は甘寧の軍師となった仲徳の近くにいる邪魔な奴として、さらには甘寧と軍師の仲徳、加えて直属の正規兵二百以外は全員徒歩の甘寧隊において、百人隊長の身分で仲徳を抱えてとは言え乗馬を許されている一刀は邪魔を通り越して憎悪の対象だった。

 最初はその視線だけで殺されるのでは、という強烈な感情に一刀も辟易していたが、甘寧に移動している間だけでも一日三度は吹っ飛ばされるのを見て態度が軟化し、さらには小難しい仲徳の話を飽きもしないで聞いているのを見るや、一目置かれるようになった。学がない人間にとっては、軍師の言葉は呪文か何かに聞こえるらしい。完全に理解はできなくとも、ただそこで耐えていられるというだけで凄いことなようだった。

 今では仲間、とは言わなくとも邪険には扱われていない。視線で殺されていた最初の頃と比べると雲泥の差だった。苦労体験は絆を深めるというが、今の一刀の状況は正にそれである。行軍中、訓練中合わせて十度甘寧に吹っ飛ばされた時など、記録更新だな、と強面軍団に肩を叩かれて励まされもした。

 顔が怖いだけで、それほど悪い人間たちではないのだ。実際、百人隊の指揮などでミスをした時も、ここはこうした方が良いという具体的なアドバイスまでしてくれた。聞けば、強面軍団は皆甘寧将軍が孫呉に来る前からの部下で、孫呉に来てからは百人、あるいは五百人までの指揮はこなしてきたのだという。

 だからそんなに甘寧の舎弟のようなオーラが出ているのか……と一人で納得する一刀だったが、ふざけた感想を抱きながらも、甘寧と彼らの信頼関係については舌を巻いていた。甘寧が苦言を呈するくらい学はなくとも、意思疎通はきっちりとできている。新兵軍団が調練で甘寧直属隊と戦った時も、百対千という戦力差にも関わらず、甘寧の指揮の下、一糸乱れぬ動きをする彼らに完膚なきまでに叩きのめされたものだ。

 素人と正規兵という違いはあっても、見通しのよい場所でお互いに徒歩、合図と同時に動き出したのにも関わらず十倍の戦力差をひっくり返されたのだ。新兵の未熟さを差し引いても、強面軍団の非凡さ、甘寧の優秀さが伺える。

「あっちの怖い兵士さん達は調練に忙しいみたいですから、いじめたらかわいそうですよー」
「必要最低限というものがあると思うのだがな……上手く行かないものだ」

 やれやれと甘寧が肩を竦めて視線を逸らすと、強面軍団はほっと溜息を漏らした。その気配を見逃さず甘寧がぎろりと睨みやると、そんな事実はありませんでしたとばかりに視線を逸らす。ここでも一糸乱れぬ行動を披露している。離れてみているとギャグでしかないが、チームワークは中々のものである。これが自分の隊でもできれば、もっと大きな成果を挙げられるかもしれない……

「さて、ここでお兄さんに質問です。もうすぐ連合陣地に着く訳ですが、そこではまず何が行われるのでしょうか」
「……何で俺にそんな質問を?」
「風の話を理解してるかと思いましてー。今までの話をきちんと聞いていたのなら、ちゃんと想像できるはずですよ?」
「ちなみに、不正解の場合は?」
「甘寧将軍がおにーさんに優しく怒ってくれるそうです」

 その言葉を聞いて一刀は憂鬱な気分になった。優しく、何てものが甘寧の中にあるとも思えない。それに怒るということはかなりの高確率で実力行使を伴う。自分の血を見るのは避けられないだろう。

 痛い思いをしたくなければ、正解を導き出さなければならない。思えば甘寧の下についてからこんなのばっかりだ……とは思っても口にも顔にも出さないように気をつけながら、仲徳に言われたことを考える。

「……盟主を決めるんだろ? 集まるだけ集まっても頭を決めないとどうにもならない」
「盟主は誰になると思いますか?」
「十中八九、袁紹だな」

 荀彧も奉孝も愚物という評価を下していたが、彼女以外になり手がいないというのも事実らしい。官位、家柄、財力、兵力。本人の資質以外のどれを取っても最高である。資質能力以外のところにケチをつけるとするなら生まれが若干卑しいことがあげられるが、対抗馬として存在する袁術が幼いこと、資質能力や評判を見ても五十歩百歩なところから、まだ集団の手綱を上手く握れている袁紹の方がマシという評価である。

 これは一刀が考えたこと、というか、奉孝と仲徳が孫策軍と合流する前に話し合っていたことだ。話を聞いていたという一刀のアピールに仲徳は満足そうに頷いた。その背後で残念そうに刀の柄を撫でる甘寧は、努めて見ないようにしながら仲徳の次の言葉を待つ。

「話が前後してしまいましたけど、諸侯についておにーさんに質問です。孫策様以外に、目立った人達の名前を挙げてください」

 これはちょっと自信がない。一刀は中空に視線を彷徨わせながら考えた。我知らず仲徳の腰を支える腕に力がこもり、当の仲徳が小さく呻いていたのだが、これに一刀は気づかない。

「まずは曹操。兵力、財力も十分。傑物という評判も聞いてる。他には……北の雄公孫賛。白馬で統一された部隊を有する騎馬隊運用の名手で、その手腕は神速の張遼にも通じると言われてる。その部下……いや、客将には劉備。最近頭角を現した人間だから風評については他の諸侯に比べると劣るかもだけど、関羽、張飛という豪傑を従えていて戦にもめっぽう強い。兵数が比較的少ないことが弱点と言えば弱点かな。後は盟主最有力の袁紹。評判は芳しくないけど、それ以外の要素に恵まれていて兵数は現時点で一番多い。袁術も同様だけどこっちは袁紹に比べて部下に恵まれず、本人もわがままって聞いてるな。ところでこの二人仲が悪いって噂を聞いたけど、本当のところはどうなんだ?」
「風はあったことないから本当のところはわかりませんけど、袁術の方が袁紹を避けているという話は聞きますね」
「そうか……まぁ、俺たちには関係のないことだよな。他にもいるんだろうけど、目立った諸侯ってのはこんなものだと思う。こんなところでどうだ?」
「90点ですね。西涼連合を挙げることができれば『ぱーふぇくと』でした」
「西涼……あー、馬騰の代理で馬超が代表で来るって聞いた……ような気がする。ここも騎馬隊が強いって話だったよな」
「北部、とりわけ異民族と対峙する機会の多い地方出身の方々は、騎馬に強くなるのですよ」
「反面、我々のように南部に拠点があると騎馬よりも水軍に重きを置くようになる」
「騎馬が苦手、というように聞こえるのですが……」
「あくまで比較論だ。それに、水軍に関してはどこにも負けん」

 ぎろりと甘寧に睨まれて、一刀は慌てて視線を逸らした。ここ最近ずっと甘寧に扱かれていた一刀としては、騎馬を苦手とするというイメージが甘寧に上手く合致しなかったのだ。馬を駆る甘寧は颯爽としていて、誰が相手でも一撃の下に切り捨ててしまうようなそんな凛々しさを持っていた。

 上には上がいるというのは骨身に沁みて理解していることでもある。凛々しい甘寧がこの世界で最強の存在であるとは思わないが、それでも騎馬で遅れを取る甘寧というのは一刀の想像の外にあった。

 それが何と平和な幻想であったのか。一刀が知るのはもう少し先の話である。

「ところで将軍。俺たちもう直ぐ集合地につく訳ですけど、何をすれば良いんですか?」
「何もするな。盟主はすぐに決まるだろうが、実際に軍団が動き出すまでには一日二日時間がかかる。戦うのが仕事の我々はその間特にすることがないのだ」
「そうすると暇ですね……」

 昼は行軍、日暮れ前後は調練。日が沈んでからは休息……にはならず、仲徳たちの講義に付き合って勉強していた。孫策軍にやってきてからは村にいた時よりもずっと密度の濃い一日を過ごしている。

 それがいきなり暇になると、することが思いつかない。調練がなくなったところで仲徳たちの講義の時間は減らないだろうが、彼女らだって仕事がある。調練、行軍に当てていた時間が丸々講義に変わるということはないだろう。とにかく暇だ、暇なのだ。

「将軍。何でも公孫賛軍には白馬だけで構成された騎馬隊があるとか」
「白馬陣だな。大陸でも最強の騎馬隊の一つであると有名だ」
「……見学に行きたいんですが、駄目ですかね」
「駄目に決まっているだろう馬鹿者。協力しているとは言え所詮は他人だ。末端の兵がうろうろして、余計な問題など起こされては堪らん」
「ですよねぇ……」

 もっともな話だ。予想はしていた返答ではあるが、一刀は少なからず落胆した。白馬なんて故郷でも見たことはほとんどなかった。それが部隊を作れるほど集まっているのだから、さぞかし壮観だろうと白馬陣の話を聞いて以来、見れたら良いなと子義と盛り上がっていたのだが、甘寧の様子を見る限り、見学できる可能性は低そうだった。

 仲徳を抱きしめて項垂れていると、甘寧が咳払いをする。落ち着いて聞けばとてもわざとらしいものだったが、これにも一刀が気づくことはなかった。

「だが、他所に伝令を出すくらいのことはあるかもしれん。行き先によってはその帰りに見ることはできるかもしれんぞ」
「ありがたい話ですけど、俺が伝令に出されることなんてあるんでしょうか……」
「知らん。それを決めるのは私ではない」
「おにーさんが良い子にしていたら、孫策様が願いをかなえてくれるかもしれませんよ?」
「それなら大丈夫だな。皆には黙ってたけど俺、実は良い子なんだ」

 軽い冗談のつもりだったが、あたりは大爆笑に包まれた。聞き耳を立てていた強面軍団をはじめ、甘寧すら顔を逸らして笑い声を上げるのを堪えている。仲徳も似たような有様だ。

 釈然としない気持ちではあったが、部隊が明るい雰囲気に包まれたのは良いことだ。笑う仲間に混じって、一刀は無理やり笑い声を上げた。























『面倒臭いからお願いねー』

 雇用主のその一言で、奉孝の運命は決定した。周瑜と共に今後の予定について協議するはずだった予定は、それによって急遽『会議の出席』に変更されたのである。

 降って湧いた幸運に、心中でほくそ笑む。郭奉孝という軍師は、名は売れていても実績がない。諸侯の集うこの会議。後の乱世、必ず仲間、あるいは障害となる人間を直接見聞きする機会は、喉から手が出るほど欲しかったものだ。孫策の気まぐれには感謝してもし足りない。

 さて、そんな無上の喜びと共に出席した会議であるが……会議が進行して数分にして、奉孝は早くも出席したことを後悔し始めていた。

 その原因は、居並ぶ諸侯の上座に座る人間にある。

 袁紹だ。解っていたことではあるが、彼女の頭が大変よろしくない。その上、とても騒々しい。金色の鎧も目に毒だ。唯一、縦に巻かれた金色の髪は美しいと思ったが、全体としてみるとその髪も主張が強すぎ、宝の持ち腐れとなっていた。

 そんな持ち腐れが、自分たちの盟主である。先ほど、多数決でそう決まった。

 諸侯の力関係を考えたら、そうならざるを得ないことは袁紹本人を含めて解っていたことだ。私が盟主になる。袁紹が一言そう言うだけで片付いた問題だったはずが、彼女が持って回った言い方をして他薦を求めたため、無駄な時間を費やす羽目になった。

 袁紹の知己が気を利かせていたら、無駄な時間は少なくなっていただろう。側聞するに、曹操や公孫賛は袁紹と少なくない親交があるようだったが、彼女らは袁紹を積極的に支持をすることはなかった。

 気持ちは解らないでもない。積極的な支持を表明した人間は袁紹が盟主である間、何かの間違いで大失敗をした時にその責任の一端を負わなければならないからだ。人物を見るに、袁紹がそうなる可能性は極めて高い。二人が消極的になるのも解るというものだ。

 予定通り盟主となった袁紹はご満悦だが、諸侯の雰囲気は酷く落ち込んでいた。袁紹こそが盟主に相応しい。そう思っているのは本人だけだろう。あれほどの力を持っていて、これほど人望のない人間も珍しいと、奉孝は逆に感心すらしていた。

 何はともあれ、盟主は決まった。次に決めなければならないのは、誰が貧乏くじを引くかだ。一番槍と言えば聞こえは良いが、要するに相手の力量を測るための捨て駒である。

 こういう時、割を食うのは力のないものと相場が決まっているが、困ったことに弱すぎてもいけない。第一の関門である汜水関には十万弱の兵がつめているのである。一千単位では話にならず、かといって兵が多すぎる、あるいは強すぎても勝ってしまう可能性がある。求められるのは弱すぎず強すぎず、間違っても関を突破することのできない勢力だ。

 そんな都合の良い勢力が……諸侯の中に一つだけあった。

 北の雄、公孫賛の元で頭角を現した劉備である。

 勢いはある。関羽、張飛という豪傑も従えている。生まれの帝室に血を引いている……と、本人は主張しているが、この場に集まった人間の中では位も低く、資金もない。後ろ盾と言えば公孫賛くらいのものだ。彼女は望まれない盟主袁紹の知己であるが、先々の遣り取りを見るにあまり覚えは良くないようだ。繋がりを活かそうと思っている節もない。懸命な判断である。

 そんな立場の劉備だ。袁紹が名指しで行けと言えば、断ることはできないだろう。実際、今日の夕食の献立を訪ねるくらいの気軽さで使命された劉備は、消沈した様子ではあったものの特に異論を言うまでもなく一番槍を引き受けた。

 その様子に奉孝は違和感を覚えた。いくらなんでも、諦めが良すぎはしないだろうか。

 劉備が受け入れたことで、会議は収束に向かっていく。時間は無限ではない。しなければならないことは山ほどあるのだ。ここで無駄な時間を費やすことはないと、袁紹以外の出席者の心はこの時一つになっていた。

 劉備が勝つと思っている人間はいないだろう。袁紹は元より、袁術も曹操も同じ考えのはずだ。

 汜水関の兵数は約十万。公孫賛の兵を当てにしても精々同数だ。守り手よりも攻めての方が兵数を多く必要とするというのは、軍学の初歩である。まして汜水関は難攻不落の関として名高い場所だ。どんなに少なく見積もっても、正攻法で攻略するならば倍の兵数が必要となる。

 そういう観点に立てば、劉備が汜水関を攻略するのは不可能である。そのはずだ――


 奉孝の考えが纏まるよりも先に、袁紹の声により会議は散会となった。まずは袁紹が退出し、袁術がそれに続く。客将であるはずの孫家の周瑜には、何の言葉もなかった。側近である張勲から、頑張ってくださいねーとおざなりな言葉がかけられただけである。奉孝本人は雇われ軍師であるが、孫策は現状の主だ。それを馬鹿にされたようで思わず頭に血が上る。当の周瑜は袁術の態度にも涼しい顔だ。

「この程度でイライラしていては、一週間も経たずに憤死するぞ」
「見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
「いや、人間として正しい反応だ」

 周瑜と並んで、孫策の陣地へと歩みを進める。行きかう兵は周瑜を見ると息を飲んだ。その美貌もさることながら、当代最高の軍師として顔と名前が売れている彼女は、集合地に集まった人間の中でも抜群の知名度を誇っている。今が有事でなければ多くの人間が彼女の元を訪れ学問について教えを請いに来たことだろう。そんな周瑜の隣に立つことができるのは言うまでもなく幸運なことではあるが、同時に悔しさも感じていた。

 周瑜にばれないように、熱くなった頭を冷やすために息を吐く。負けず嫌いを表に出しては、また風に笑われてしまう。熱くなりやすいのは自分の悪い癖だ。

「さて、何人出すべきだと思う?」

 周瑜は視線をこちらに向けぬまま、主語をつけずに問いかけてきた。周瑜が同じ疑問に行き着いていたことに嬉しくなりながら、奉孝は温めていた答えを口にする。

「五千。こちらとあちらの事情を加味するに、これが限界でしょう。甘寧将軍の部隊を使うのが良いかと存じます」

 劉備は少なくとも、何か手段を講じるつもりだ。敵の状況の良く解らない状態での一番槍は確かに貧乏くじであるが、会議までやって誰が戦うかを決めた以上、邪魔が入る可能性は限りなく無に近い。自分たちだけで戦える、言い換えるなら手柄を総取りできる状況は、後に行くに従って減っていくだろう。何しろ劉備は、有力諸侯の中では最も立場が低いのだ。他が手柄を求めるようになったら、後方に下げられるかさもなくば今よりもっと危険な場所に配置されるかもしれない。

 劉備が手柄を立てるならば、今しかないのだ。

 ならば、今自分にできることは何か。手柄を立てるのが確実ならばそれに乗るのが得策だが、どういう作戦なのか解らない以上、全力で乗っかるのも不味い。如何に『臥龍』諸葛亮と言えども、失敗の可能性は確かにある。それに、劉備がやると決まった会議のすぐ後に、全力で支援すると表明しては、会議そのものを、引いては袁術、袁紹の顔に泥を塗ることになる。

 支援するにしても、角が立たない程度にやる必要がある。奉孝が考え導き出したそのギリギリの線が、甘寧隊五千だった。相手との交渉によって、この人数がさらに削られる可能性はあるが、劉備にしても本音は兵を欲しいはずである。貸与すると言えば、断られるということはないはずだ。

「同じことを思う人間がいないとも限りません。動くおつもりならば、お早く」
「そうしよう。では、私はこれを雪蓮に進言してくる。お前は陣内をぐるりと回ってから帰ってこい。見れる範囲で良いから、他勢力の情報を頭に入れてくるのだ」
「心得ました」

 満足そうに頷くと、周瑜は一足先に陣営に帰っていった。その背中を見送ってから、奉孝は集合地の外殻に向かって歩みを進める。見れる範囲を見て来いと周瑜は言うが、奉孝の自由時間にも限界がある。気になる劉備の陣営はこれから孫策が手を回すのだから良いとして、限られた時間で見るべき陣営はどこか。

 曹操の陣営を見てこよう。結論が出たのはすぐだった。孫策陣営に組するものとして、そしていずれ天下に覇を唱えようとする者として彼女を無視することはできない。外から見るだけで何が得られるとも限らないが、陣営の雰囲気、兵の質を直に見れるというのは中々あることではない。

 敵対していないこの時期にこそ、やっておくべきことだ。できれば一刀を供回りとしたかったが、一兵士である彼を連れまわすには理由が弱い。一人で見に行くしかない。それを自覚した奉孝は、気持ちが落ち込んでいるらしい自分に気づいて思わず苦笑を浮かべた。女々しくなったものである。

 しかし、こんな気分は悪くはない。一緒にいたいと思える人間がいるのは良いものだ。後はもう少し頼りがいのある人間になってほしいものだが……と一刀への指導要領を考えていると、背後から声をかける人間があった。

「失礼。ちょっと良いかしら?」

 その声に、足を止め振り返る。行動は迅速だった。声には聞き覚えがあり、それは今時分、最も無視してはいけない人間だった。警戒すべき相手、知っておくべき相手。

 これから向かおうとしていた陣営の頭目、曹操である。

 髪が金色であるのは袁紹と同じだが、品良く纏められたそれは嫌味には見えない。小柄な身体に黒い衣装。若干釣り気味の目には強い意志の光が輝いている。見た目もさることながら、特筆すべきはその雰囲気だ。こうして対峙するだけで、圧倒的な存在感を感じずにはいられない。思わず平伏したくなるのを、奉孝はどうにか堪えた。

「何か御用でしょうか、曹操殿」
「『神算の士』郭奉孝に名前を覚えてもらっているとは光栄だわ」
「私の方こそ天下に名立たる曹操殿に知っていただいているのは、光栄至極に存じます」
「才ある者を知り集めることが、私の趣味であり義務のようなものよ。貴女を知っているのは当然とも言えるわね」

 曹操の人物評は辛いことで有名だ。この手放しの賞賛に奉孝は少なからず喜びを覚えていたが、それを顔に出すようなことはしなかった。かつて仕えることを夢見た女性の褒め言葉であるとは言え、それで舞い上がっては判断が鈍る。

 一軍師から情報を引き出す。そんな狡賢いことをあの曹操がするとも思えないが、気は引き締めてかからなければいけないだろう。曹操の才は先の会合で話を聞いて、こうして対峙することで嫌というほど理解した。当代でも最高の頭脳を持っていることは疑いようがない。

 努めて、冷静に。奉孝はできうる限り表情を消して、恐縮です、とだけ答えた。食いつきの悪さに曹操が片眉をあげてその顔に疑問符を浮かべたが、それも一瞬のことだった。

「貴女を誘いたいところだけど、孫策の下にいる貴女にそうするのも無粋なこと。今回は顔見せだけにしておくわ。この曹孟徳が貴女の才を欲しているということ、覚えておいてちょうだい」
「勿体無いお言葉です」

 一刀に出会う前の自分だったら、今すぐにでも彼女の胸に飛び込んで鼻血を流していたことだろう。頭を下げたせいで曹操に顔は見えていないが、にやけるのを堪えるので奉孝は必死になっていた。どういう状況であっても、自分の才能を褒められて悪い気はしない。それが曹操ほどの傑物であるのならば尚更だ。

 気分良くしていると、それに水を差すような人物が視界に入った。無意識に、視界から排除していたのかもしれない。先の会合でも見ていたはずだが、不思議と奉孝の印象には残っていなかった。

 背丈は小柄な曹操よりも更に低い。肌を露出したがる近年の流行に反して、両手と首から上しか露出していない服装は日差しの照る今日の天気の下では暑苦しく感じられた。後ろにさげられた頭巾には、猫の頭部のような形をしている。武芸を嗜んでいるようには見えないから軍師なのだろう。

 あの曹操の隣に侍ることを許された軍師。その筆頭ともなれば、一人しか名前は浮かばない。

 『王佐の才』荀彧。曹操の下に仕官しておよそ一年で筆頭軍師まで上り詰めた才媛だ。奉孝たちの世代においては一番の出世頭と言えるだろう。その辣腕ぶりと度を越した男嫌いは、風の噂にも聞いている。

 しかし、奉孝が意識していたのはそれ以前のことだった。荀彧の名前は度々、一刀から聞かされている。あの村にやってくる前、彼女の生家で世話になっていたのだとか。学問の基礎を教えられたとかで、軍学、政治学については念入りに手ほどきをされたらしい。

 とは言え、彼の頭のできに加えて仕官に関し曹操の返事待ちというあまり時間のなかった状況である。手ほどきを受けたのも一ヶ月という短い期間であったというが、一刀の認識では荀彧は先生の一人、つまり自分や仲徳、士元と同列ということになっていた。

 はっきり言うと、面白くない。彼女が優秀なのは認めよう。結果も出している。すでに筆頭軍師である立場を考えてみれば、あちらの方が上と認めるのも吝かではないが、理屈ではどうにもならないこともあった。

 それについては向こうも同じ考えだろう。曹操と話しているこちらを、親の仇のような目で睨みつけている。忠誠心は見事なものだが独占欲が強すぎはしないだろうか。才能ある人間を愛すると自分で言うだけあって、曹操は悪く言えば多情な性格をしているという。いくら筆頭軍師という立場にあっても、その寵愛を一身に受けることはないだろう。

 そう考えると同情的な気分になるが……馴れ合おうとは思わない。彼女は他人。入れ込むだけの理由はないのだ。

「さて、私はこれで失礼するわ。いくわよ、桂花」

 曹操が荀彧を促し、踵を返す。荀彧は奉孝をきっと睨みやってからそれに続こうとして、動きを止めた。その視線は奉孝を通り越して彼方を見つめている。呆然。信じられないモノを見たという顔だ。追ってくるべき人間が追ってこないことに曹操も疑問に思ったのか、足を止めて振り返る。その視線も、荀彧の視線を追った。

 奉孝も釣られて、それらの視線を追った。行きかう兵士の中に、見覚えのある姿がある。一般兵の鎧姿。いつものように子義を連れた一刀の姿があった。奉孝は理解した。荀彧が見つけたのはこれなのだ。一刀を会わせるべきではない。この邂逅をどうにか阻止しようと奉孝の頭脳が高速に回転するが、一刀がこちらを見、次いで後ろにいる荀彧の姿を認めて破顔したことでその目論見は既に手遅れであることを知った。

「荀彧!」

 それはもう嬉しそうな顔をして、一刀は小走りに寄ってきた。こちらのことなど目にも入っていないような様子に、いっそこのまま思い切り殴り飛ばしてやろうかと思ったが、つかつかかと肩を怒らせて歩く荀彧の姿を見て、稟は自制した。再会を喜んでいるという風ではない。怒りに震えた様子の荀彧は、一刀に無言で歩み寄ると、無言で腕を振りかぶり、思い切り、その頬を張った。

 小柄な少女の力だ。打った力もたかが知れている。それほど大きな音ではなかったはずだが、その音は辺りに良く響いた。

















 奉孝の背後にその顔を見つけた時、嬉しくなった。

 思わず名前を叫んでしまう。恥ずかしいことをするなと怒るだろうか。怒られて蹴飛ばされる自分を想像して、一刀は苦笑を浮かべる。それも良いなと思っている自分がいた。手が出ない荀彧など荀彧ではない。怒られなかったら蹴飛ばされなかったら、どうしたのだと逆に心配してしまうだろう。

 案の定、いらついた顔で荀彧が歩み寄ってくる。つかつかと、あれは機嫌が悪い時の歩調だ。蹴飛ばされ罵声を浴びせられると解っていても、足を止めて荀彧がやってくるのを待つのは悪い気分ではなかった。

 荀彧が目の前に立つ。癖のある前髪の下から、怒りに染まった瞳がのぞいていた。ああ、この瞳だ。鬼気迫るその表情に、背筋がぞくぞくするのを感じる。自分は変態なんじゃなかろうかと心配するのも他所に、一刀は荀彧の第一声を待った。

 頬に衝撃が走る。次いで、ばちんという音がした。頬を張られたと気づいたのは、さらにその後だった。

「馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、ここまで馬鹿だとは思わなかったわ……」

 怒りを押し殺した低い声に、一刀は呆然とする。荀彧が怒っているのはいつものことだが、荀家にいた一月の間に見たことがないくらい荀彧は激怒していた。思わず一歩後退ると、荀彧の腕が伸び襟首を掴んだ。上背のせいで見上げるような状況になるが、加減ができないほど強く握り締められた荀彧の手は真っ白になっていた。

 反面、今にも本人の制御を離れそうな怒りのせいで、顔は真っ赤に染まっている。頭に血が上っているというのはこういうことを言うのだな、とぼんやりと考えながら、こういう表情こそ荀彧だなぁ、とも思った。

「私や功淑が言ってたことの何を聞いてたのよ! 兵士なんて向いてないからやめておけって言ったでしょ!」
「いや、その……ごめん」

 決して忘れていた訳ではない。自警団の仕事をしている時はともかく、孫策軍に合流しようという話になってからは荀彧のその言葉を毎日のように思い出していた。現場を押さえられたら、こうして激怒するだろうことも容易に予想できた。

 それでも荀彧の言葉に従いやめようと思わなかったのは、自分にできることをやってみたいという気持ちが芽生えたからだ。それを説明すれば理解してくれる……とは何度シミュレートしても欠片も思うことができなかった。激怒され、足腰が立たなくなるまで蹴られ殴られるまでは予定調和だと思っていた。ビンタ一つ、胸倉を捕まれるだけで済んでいるこの状況には違和感すら覚える。

 違和感を覚えるで済んでいるのは一刀だけだった。荀彧の主である曹操をはじめ、周囲の人間は兵も軍師も何もかも、いきなり修羅場を始めた二人に視線を注いでいる。これで明日の話題は独り占めだなと詮無いことを考えつつも、悪い意味で有名になることがどれだけマイナスになるのか、考えられない一刀ではない。

 事実。視界の隅にいる奉孝から静かな怒りのオーラが湧き上がっていた。差し当たり何とかしなければならないマイナスだ。奉孝は荀彧に匹敵するくらいに激怒している。理由までは解らないが、早いうちに対処しないと不味いことになる。本能は今すぐ駆け寄って土下座せよと言っているが、胸倉を掴み挙げたまま豊富な語彙を駆使して罵倒の言葉を吐き続けている荀彧がそれを許してくれない。

 荀彧に罵倒されるのは時間が巻き戻ったようで楽しくすらあったが、状況は刻一刻と悪化していた。対処するならば早い方が良いが、理性的にそう思っているのは一刀ただ一人だった。周囲の人間は曹操を含めて割って入ってくれそうにないし、軍師の二人は今まさに理性的でなくなっている。

「――って訳よ。わかった!? 解ってないでしょうね! こんな愚かなことするくらいなんだから!」

 考えているうちに、荀彧の罵詈雑言にも一区切りがついたようだった。息継ぎのためにぜーぜーと荒い息をついている彼女の額に汗が浮いているのを見て、袖で拭おうと手を伸ばす。触んないでよ! と電光石火の勢いで叩かれた。そのおかげで襟首は解放される。

 無言で視線が交錯する。困ったような表情の一刀。相変わらず怒っている荀彧。奉孝の怒りのボルテージは上がり続けていた。もう時間的猶予はない。

「俺が言えた義理じゃないのは解ってるけどさ、もうその辺で……」
「うっさい。黙ってなさい」

 そう言われると黙って項垂れるしかない。

「……で、あんた、どこの兵になったのよ」
「孫策様のところで百人隊長として働いてます、はい」
「あんたにしては良い武将に目をつけたわね。まぁいいわ。付き合ってあげる。案内しなさい」
「すまん。頭の悪い俺には荀彧が何をしたいのか解らないんだけど」
「あんたみたいな役立たずを雇ってても損になるだけだって説明してあげるわ。百人隊長一人なら、話し合いでも何とかなるでしょう。そのせいで支出があるかもしれないけど、その分は私の元で奴隷として働いて返してもらうから、キリキリ働きなさい」

 荀彧の顔にはまだ燻ったままの怒りがある。不本意というのは誰の目から見ても明らかだが、これが荀彧なりの優しさであるのは痛いほど理解できた。他人の、それも男のために身を砕いてくれるというのは、荀彧からすれば破格の扱いだ。そこまでしてくれることは素直にありがたい。何の柵もなければ軽口の一つでもいって、荀彧の蹴りを甘んじて受け入れるくらいの遊びをしたいところなのだが、今は周囲を取り巻く全ての状況が悪い。

 そうこうしている内に奉孝が動き出した。諦めたら試合終了とどこかの誰かが言ったが、諦めるべき時はあるのだな、と一刀は覚悟を決める。

「その辺りにしていただけますか? ここで言い合っていても、お互いの益にはならないでしょう」
「忠告どうも。でも今、不本意ながら大事な話をしてるの。後にしてもらえる?」
「大事な話というなら、私も同席します。彼は一応、私の同志でありますので」

 不本意ではありますが、と荀彧にならって奉孝は言葉を付け足す。こちらを見向きもしないのが、言い知れない恐怖を誘う。

「我々は共に行動をしています。彼はその中心にいると言っても良い。そんな彼の行く末を他人である貴女に決定されるのは非常に不愉快です」

 他人の部分を強調する奉孝に、燻っていた荀彧の怒りが再び炎になる。口を開いて罵詈雑言を浴びせようとしたのだろう。奉孝に踏み出した一歩にはとてつもない力が篭っていたが、そこで荀彧は冷静になった。視線の先には曹操がいる。この状況を楽しんでいるように見えるのは流石だが、荀彧にとってはこの世で最も敬愛すべき主だ。その曹操の前でいつまでも醜態を晒す訳にはいかない。

 荀彧は怒りを飲み込んだ。内包された怒りを瞳に込めて一刀を睨みやる。その右手が奉孝を示し、自分を示した。どちらか選べ。そういうことだろう。これに関しては考えるまでもなかった。荀彧と共に行くのは魅力的だが、一刀には一刀の事情がある。

「すまん」

 意思を伝えるのは、その一言だけで十分だった。興味をなくしたように小さく息を吐く。荀彧が一刀を見ることは、もうなかった。曹操に合流し足早に去っていく。一度だけ曹操がこちらを振り返り興味深そうに見つめてきたが、それに何か意思表示をする余裕はなかった。嵐は一つ去ったが、まだ一つ大嵐が残っている。荀彧が去ったことで怒りが収まるかと思えたが、より大きくなっている様子だ。

「貴殿は悔しくないのですか……」
「……悔しい?」
「こんな公衆の面前で侮辱されたことがです!」
「いや、でも事実だからな」

 元々荀彧との遣り取りはあんなものだ。今日は少々激しかったが、誤差の範囲だろう。あれで一々苛立っていたら、男の身で荀彧と付き合っていくことなどできない。罵詈雑言にしても、検討はずれなことを荀彧は言わない。能力について扱下ろす時は、彼女なりにしっかりとした根拠を持っている。精液男という不名誉な単語が出てくることもあるが、それはまぁ、無視しても良いはずだ。少なくとも北郷一刀という人間を見て、精液という単語を連想する人間はいない……はずだと思いたい。

「事実でも言って良いことと悪いことがあるでしょう!」

 奉孝は吼えるが、むしろその一言に一刀は傷付いた。落ち着いて言われると、事実だとしても堪えるものである。反論したいが、ヒートアップした奉孝は止まらない。よほどストレスが溜まっていたのか、文句は次から次へと出てくる。周囲の視線は今や二人締めだ。悪目立ちしているこの状況は、好ましいものではない。

「そもそも、貴女は彼女に甘い。こうまで罵倒されて平然としているなど、普通ではありませんよ」
「荀彧はちょっと気性が荒いところがあるんだ。根は悪い奴ではないんだけどさ……」

 ということを他人に説明しても、信じてもらうには多大な時間を要するだろう。事実、奉孝は欠片も信じていないどころか、荀彧を庇う一刀に不審の目を向けている。

「まさか貴殿と彼女は、よからぬ関係なのではありませんか?
「よからぬってのはどういうことさ」
「よからぬとは……よからぬことです」

 怒っていたことも忘れて、奉孝は顔を真っ赤に染めた。人一倍想像力が豊かな彼女のことだ。頭の中ではその『よからぬこと』が臨場感たっぷりで上映されているのだろう。頭の良い彼女をこういう風にしていると思うと、男としてのプライドが擽られる。荀彧に怒鳴られている時とは別の意味で背筋がぞくぞくするが、ここが公衆の面前であることを考えると良くない兆候だ。

 つつ、と奉孝の鼻から真っ赤な鼻血が出た。奉孝が気づいた様子はない、指摘しようか一刀が迷っているうちに『そもそも!』と奉孝が再びヒートアップし始めた。

「私に卑猥なことを言わせるとは何事ですか! 貴殿はやはり――」
「待ってくれ奉孝。お前は誤解してる。俺と荀彧はそんな関係じゃないぞ」
「卑猥な関係の人間は皆そういうものです!」
「いや、その理屈はおかしい」

 正論を言ったつもりだったが、奉孝には通じなかった。鼻血はいまやどばどば流れ出している。普段ならばここで卒倒するはずなのに興奮がいつも以上なのか、意識ははっきりとしていた。そのせいで鼻血を流しながら詰め寄ってくるというホラー軍師ができあがっている。公衆の面前で罵倒されることが不名誉なことであると奉孝は言ったが、衆目の中鼻血を流しながら説教する軍師というのは、果たしてどの程度の扱いになるのか。

 自分がどう見られるのか。普段の奉孝ならば気にしていたであろうことにも頭が回っていない。名誉が完全に失墜するのが先か、鼻血が出尽くすのが先か。どちらに転んだとしても奉孝にとっては大損だ。

 ならば仲間として何をするべきなのか一刀は考えた。多くの人間に目撃されているから、もう鼻血を流しながら説教する軍師という汚名を漱ぐのは不可能だ。少しでもダメージを少なくするには、一刻も早くこの場を脱出するしかないが、言って聞くような精神状態ではない。

 実力行使しかない。そう結論付けた一刀の行動は迅速だった。後で殴られたり蹴られたりすることを覚悟して、一刀は無言で奉孝を抱きしめた。おぉ、と観衆から声が上がる。狙い通りに奉孝の説教はぴたりと止んだ。真っ赤な顔で一刀をみやり、くたり、とその場に崩れ落ちた。血が登っていただけに落ちるのも早い。そのせいで最後に勢い良く噴出した鼻血を頭からかぶって酷いことになってしまったが、考えうる限り最悪の名誉失墜に比べればこんなもの安いものだ。

 返り血を浴びたように真っ赤になったまま、努めて何事もなかったように振舞いつつ、奉孝を背負い直す。これはどういうことだと質問しようとする人間が現れるよりも先に、一刀は堂々とその場を後にしたのだった。




 その甲斐空しく、その日のうちに『鼻血軍師』という不名誉なあだ名は広まってしまった。










 



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十五話 反菫卓連合軍編④
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:57






「始まったわね……」

 呟く孫策のはるか前方では戦が始まっていた。連合軍が結成されて最初の、董卓軍相手の大戦である。先鋒を任されたのは公孫賛軍の客将劉備、その数およそ四万。これに公孫賛の白馬陣を中心とした騎馬およそ三千と、甘寧を隊長とした孫策軍の新兵部隊五千を加えたものが連合先鋒部隊の総数だ。

 約五万という数字は決して悪い数字ではないが、攻める場所は大陸でも難攻不落の関の一つである汜水関。詰めている兵は十万とも言われている。その中には大陸最強とも名高い張遼の騎馬隊も含まれているのだ。守るよりも攻める方が兵士を多く使うというのは常識である。難攻不落の関を相手の半数で攻め落とせというのだから、捨石になれと言われているに等しい。

 普通ならば悲観に暮れるところだろう。

 だが、劉備はそうではなかった。関を攻める劉備の部隊には悲壮感などなくこの関を抜いてやるのだという気概に溢れていた。必勝の策があるのではないかという疑念に、奉孝はこれで確信を持った。劉備自身の頭のデキについては知らないが、彼女の軍師は『臥龍』諸葛亮。才女の集まる水鏡女学院において、士元を差し置いて主席で卒業した正真正銘の傑物だ。

 そんな軍師が何もしないはずはない。どうすれば五万であの関を抜けるのか、周瑜や孫策と共に検討を重ねたが絶対と言えるほどの策はついに出てこなかった。倍近い兵数と、難攻不落の関。これは多少の策ではどうしようもない。関に篭られたらこちらに勝つ術はないのだ。戦うとなればまず、相手を関から引っ張り出す必要がある訳だが、篭城の有利を放棄してまで打って出るなど、普通の神経をしていたらまずありえない。

 つけ込む隙があるとすれば、将の一人華雄が猪武者と評判なことだ。彼女は孫策の母孫堅と因縁のある相手で、その勇猛さと突撃バカっぷりは孫策軍の兵にすら知れ渡っている。孫策軍には彼女を引っ張りだすネタがある。誇りを傷つけるような発言であれば猪武者も黙ってはいないはずだ。孫策本人が出て行けば激昂して関から出てくる可能性も格段に上がることだろう。

 しかし、孫策はここにいる。劉備軍の中に華雄と因縁のあるような人間がいるとは聞いていない。それに将軍が華雄一人であるのならばまだしも、他に同等の権力を持った将軍、軍師がいるような状況では、その猪武者ですら引っ張り出すのは難しい。劉備のように時間が限定されるのならば尚更だ。

 ならば一体どうするのか。

「内応する者がいる、ということでしょうか」
「郭嘉、何か言った?」
「いえ。どうすれば劉備殿の軍があそこまで自信を持てるのかと考えていたのです」
「まだ考えてたんだ。軍師って大変ね」
「貴女は気にならないの? 雪蓮」
「気にならないって言ったら嘘になるけど、そんなの終わってから聞けば良いじゃない。信頼する私の軍師が結論を出せないのに、私一人で考えてもしょうがないし」
「貴女の閃きはこういう時にこそ発揮してほしいものなのだけど……その話はまた今度。内応する者と言ったわね、郭嘉」
「はい。やはり、今から策を用意するのではどれも確実性に欠けると思うのです」

 今から策を弄したのでは間に合わないが、それ以前――連合軍の陣地の到着する遥か前から仕込みを行っていたのだとしたら話は別だ。

 劉備が先鋒として指名されたのは偶然ではない。陣地に来る前からある程度諸侯の力関係というのは把握できていただろう。纏まった力を持った武将の中では、自分が一番心もとない。それは劉備にも分かっていたはずだ。一番槍という名の戦力調査に借り出されることも容易に想像できたはずである。戦う場所と仕掛ける時、それさえ解っていれば策も仕込みやすい。

「内応できる者を送り込んでおけば、劉備殿が攻めるのに呼応して妨害工作もしやすいのではと」
「後々から送り込んだ間者が上の地位に行けるとも思えませんし、離間するにしても董卓軍の上層部は強く結束してると聞きますがー」
「何も意思決定に関わる人間を引き込まなくても良いのよ。関内に混乱を起こすだけなら、一兵士でも構わないでしょう?」
「へ、兵士を欲しがっているのはこちらもあちらも変わらないと思いましゅ」

 検討には、風と士元も参加している。孫策軍の中心部。御旗である孫策を中心に、軍師筆頭の周瑜に次席の陸遜。雇われた自分たちはそのオマケという形だが、護衛の兵士すら少し離れた位置にいるのに声の届く範囲に置かれているというのは、それなりに信頼されているということなのだろう。一刀の……ではなく、彼の上司である甘寧の軍師である風がここにいるのは、戦についていっても役に立たないからという配慮があってのことだ。

 ちなみに士元以外の全員が騎乗しているが、士元は孫策に抱えられてここにいる。愛玩動物のような扱いであるが、本人以外にその扱いを気に留めている者はいなかった。小動物のような愛らしさを持っている彼女がそうされているのは酷く様になっている。軍師としての頭脳も認められてはいるが、孫策が何よりも士元を手元においておきたがっているのは、その愛らしさからだろうというのは今もぎゅっと抱きしめられている士元を見れば分かるというものだ。

「問題はどの程度の間者をどれだけの数送り込めたかということですね」

 策のために死んでくれるくらいの間者が一人でもいれば、それはとても心強いことだ。生還を前提としなければ、策の幅も広がる。そういう作戦を奉孝は好まないが、全ての軍師がそうだとは限らないし、そうせざるを得ない状況も存在する。天下を狙う者としての劉備の立場ならば、この戦は正に正念場だ。汚い手の一つや二つ使っても勝利は欲しいはずだ。彼女が思わなくても、軍師や周囲の人間が思うかもしれない。組織の長の知らない所で謀略が進んでいる。今の世では、良くあることだ。

「うちも今何人か送り込んでるけど、関の警備状況はそれほど厳重でもないそうよ」
「十万も兵士が詰めているのだから、当然と言えば当然ね」

 流石に出入り自由ということはあるまいが、出入りがないという訳でもない。潜入する機会は幾らかあるし、入り込んでさえしまえば人の波に紛れて情報収集ないし、破壊工作もしやすいだろう。何しろ数が数だ。

「間者をもぐりこませることができたとして、貴女たちならどうする?」
「私ならば兵糧を燃やします」
「井戸に毒でも放り投げますかねー」
「冥琳は?」
「いっそ指揮官の暗殺でもできれば良いけど、流石に間者にそこまでの能力はないのでしょう?」
「明命にできるくらい、と判断してくれれば良いわ」
「なら、郭嘉や程昱の言う通り、糧食を損耗させる方法を検討するわ」
「でも向こうもそれくらいは警戒してるんじゃない?」
「間者を使い潰すくらいの気持ちでいないと駄目ね。情報を集めるつもりなら、破壊工作は諦めないと」
「情報を吸い上げつつ破壊工作もできたら良いんだけどね」
「そこまで上手いこと世の中回らないわよ」

 それもそうねー、と孫策は暢気に笑う。最前線から距離があるとは言え、ここも戦場だ。周囲の兵にも緊張が見え、郭嘉も幾らか緊張はしているが、孫策にそれはまるで見られなかった。この肝の太さは一刀にも見習ってほしいものだ。主の態度は周囲に影響を及ぼす。これだけの美貌を持った孫策がどっしりと構えていれば、それだけで兵は安心して力を発揮することができるだろう。

 この主ならば、勝てる、どうにかできる。例え根拠などなくとも、そう思わせることのできる何かが、上に立つものには必要なのだ。今の一刀にはそれが致命的に欠けている。奉孝から見ると物凄く頼りなく見えるのだが、兵は今の一刀でも十分なようで孫策軍に来てから一緒に行動するようになった兵まで、彼によく従っている。

 不思議なことに受けも悪くないようだ。どうにも『手の届く所にいる』というのが、彼ら彼女らには重要らしい。どんなつまらないことでも一刀は耳を傾け、一緒になって考え笑ってくれる。奉孝からすれば取るに足らないそれが、一刀の主としての全財産だった。

 本当頼りない。頼りないが……これは、一刀だからこそできること、とも思える。

 孫策も一度顔を合わせた曹操も素晴らしい主だ。彼女らと一刀を比べたとしたら――比べるのもおこがましいが――多くの人間が彼女らの方を支持することは間違いない。彼女らには凡人を遥かに超越したような要素がある。自分たちとは違う、というのが彼女たちの大前提なのだ。容姿、能力、経歴、出自。どれを取っても、彼女らは非凡だ。武将として一刀が勝つことのできるものは何一つないと言っても過言ではない……まぁ、一つくらいはあるかもしれないが、他の全てで負けているのならば、この場合は無視しても良い程度のものだ。

 ともかく、一刀にしかない物もあるにはあるが彼には欠けているものが多すぎる。知も武も他人に頼らざるを得ないのなら、せめて落ち着いてくれれば良いのに何でも自分でやりたがるのだ。

 それを向上心があると取ることもできる。弟子としては物覚えの悪さも含めてそこそこに教え甲斐のある人間だが、主としてみると不安ばかりが先に立つのだ。一刀にはいずれ土地を治めてもらうことになる。いつになるか解らないが、自分たちが知恵を貸している以上、そう遠くない未来であるのは間違いない。

 その時、全ての事柄に目を通し、皆と一緒になって作業をしているようでは身体がいくつあっても足りない。彼のような凡人ならば尚更だ。できること、できないことをきちんと把握し、任せるべきことは他人に任せる。人を使うことをいい加減に覚えておかないと、大成する前に自滅してしまうだろう。

 百人隊長をするようになって、人に指示を出すということも徐々に形になってきたようだが、まだ甘い。孫策のようにというのは高望みし過ぎかもしれないが、もう少し、後少しと思うことを止めることはできなかった。

「稟ちゃん、鼻血が出てますよー」

 風の囁く声にはっとなって鼻を押さえる。掌に慣れ親しんだ血の感触はなかった。からかわれた。そのことに気づいた奉孝はきつく風を睨みやるが、並の兵ならば縮こまらせるような眼光を受けても、風が怯む様子はない。むしろ、頭に血の上ったこちらを見て、楽しんでいる風すらある。ふふふーと笑うその表情が憎らしい。

 奉孝が過敏に気にするのにも理由があった。先日、曹操陣営の小生意気な猫耳とやりあった時に広まった鼻血軍師というあだ名である。たかがあだ名と侮るなかれ。奉孝が気を失って意識を取り戻した時に、そのあだ名は陣地内に広まっていた。流石にまだ顔が売れていないこともあって顔と名前、それからあだ名が一致する人間は他の陣営まで含めると少ないが、孫策の周囲にいることを許されている人間として、孫策陣営では顔と名前が売れている。必然的に不名誉なあだ名についても広まっており、すれ違う兵に苦笑を向けられることもしばしばだった。

 これについては、誰に文句を言うこともできない。言うとすれば一刀だが、彼に文句を言うのも格好悪いことのように思えた。笑いたい奴には笑わせておけば良い。不名誉なあだ名は実績で挽回すれば良いのだと思うことにして、風については額を小突く程度に留める。

「解答が帰ってきたみたいよ」

 孫策の視線の先を見ると、遠目に周泰が見えた。間者を統括する立場にある人間で、愛らしい見た目ながら忍の技も使う。その周泰が馬を物凄い勢いで駆っている。只事でない様子に周囲の兵にも緊張が走るが、孫策は緩いままだった。平然とした様子に周瑜が抗議の視線を送るも気にしない。

「そんなに慌ててどうしたの明命。汜水関の兵糧が燃えて井戸に毒でも放り込まれでもしたのかしら?」

 孫策の軽口はやってくる途中の周泰にも届いた。周泰は馬上で驚きの表情を浮かべると、馬を棹立ちにさせ飛び降りた。軽やかに着地すると、孫策の前に控える。

「周泰、ただいま戻りました」
「思ってたよりも遅かったけど、どうかしたのかしら」
「真偽の判断に困る情報を掴みましたので、その裏を取っていました。遅れましたこと、申し訳ありません」
「時間を決めてた訳ではないんだから別にいいわよ。で、汜水関で何かあったのかしら」
「汜水関の兵が秘密裏に撤退を始めております。もう、二割ほどの兵が虎牢関に向けて進軍を開始した模様です」
「……詳しく話を聞かせてもらえるかしら」

 流石に、孫策の顔からも余裕が消える。

「詳しい工作の内容については現地に残してきた部下が調査中です。汜水関の兵糧は十箇所以上に分けて保存されていたのですが、そのほぼ全てに破壊工作が実施され、三割が完全に消失、残りの六割も使い物にならない状態になっております」
「こっちから火事とかの気配は確認できなかったのだけど?」
「兵糧が燃えたのは我々が到着する前のことのようです。消火活動が迅速に行われたようで焼失した分はそれほどでもないようですが、毒物や汚水を使った工作によって汚染されたとのことです。なお、井戸にも毒が投げ込まれており、飲料水の確保にも難儀している模様」
「随分と陰湿な兵糧攻めね。どこの誰がやったかまで解る?」
「コレに関しては裏が取れておりませんが……おそらく、劉備か公孫賛陣営の間者ではないかと」
「強気な姿勢にはこういう事情があったのね」

「加えて、汜水関に移送される輜重隊が謎の騎馬部隊に襲撃されて壊滅的な打撃を受けております。これは一月以上前から続いており運び込まれる兵糧そのものが、汜水関には不足していた模様です」
「騎馬って言っても、汜水関には張遼の騎馬隊がいるでしょう? 奴らよりも強い騎馬隊が輜重隊を襲ったと言うの?」
「張遼騎馬隊が洛陽方面からの輜重隊の護衛についている訳ではないようです。汜水関から十分な距離のある地点で襲撃し、兵糧を奪うなり燃やすなりして速やかに撤退するそうです。護衛部隊もいるにはいたそうですが、彼らのどの馬よりも早く追っても追いつけず、無理に追えば騎射で全滅させられるとのことでした」
「その情報は確かなのね?」

 董卓軍もバカではない。一度襲われたとなれば、部隊の強化をするだろう。最前線の汜水関の兵は割けないまでも、虎牢関の兵を使っても良い。精強な兵で固めれば早々、兵糧を失うなどという事態にはならないはずなのだが、所属不明の騎馬隊はそれをやってのけたという。話としてできすぎている。確かにこれは周泰でなくとも真偽を疑う情報だった。

「兵を十人ほど締上げて確認したので、ほぼ間違いないと思われます」

 しかし、周泰は自信を持って頷く。所属不明の騎馬隊に寄る襲撃は、当座、事実であるということだった。納得できなくても、納得するしかない。そういう騎馬隊が存在し、襲撃は成功したのだ。

「確認するけど、兵の撤退は今も続いているのね?」
「最終的には汜水関を放棄し、全ての兵を虎牢関に移すつもりのようです。汜水関に残った兵糧を考えると篭城は難しく、十万の兵を移動することを考えると、現在の兵糧ではギリギリの線です」
「今外に出てる兵は、面子のために戦っている訳ね」

 負けて撤退するのも格好悪いが、一度も戦わずに関を放棄するのはそれ以上だ。戦わずに関を完全に放棄し、最小限の兵だけで守らせておけば兵の損耗は少なくなるが、それ以上に軍が軍として立ち行かなくなる可能性が出てくる。戦わずに逃げるような人間が自分たちの上にいるのだと知ったら、果たして民衆はどう思うだろうか。

 不満に思い文句を言うだけならばまだ良い。それで利敵行為をされるようになると、戦況が一気に傾いてしまう。

 董卓軍としてはたとえ懐事情が厳しかったとしても最低でも一戦は戦わなければならないのだ。その一戦で大打撃を与えられるのならば時間も稼げて言うことはない。士気を維持するのも時間が経てば経つほど難しくなる。既に軍の一部が撤退を始めていることを考えれば、汜水関における戦はこれが最後になる可能性が高い。

 つまりはこの戦を有利な状態で終わらせることができれば、自動的に汜水関を落とすことにも繋がる……可能性が高い。汜水関を落としたとなれば、その名声は一気に内外に広まることになる。謀略を行ったという過程こそあまり誇れたものではないが、勝った落としたという事実の前には些細なことだ。

「今から突撃すれば、汜水関を落とせるってことかしら」
「落とせるでしょうけど、今から動くには理由が必要よ。最低でも袁紹と袁術を納得させられるだけの詭弁を、貴女は用意できるのかしら」

 周瑜の反論に孫策は押し黙る。会議まで開いて盟主袁紹が劉備に任せると宣言し、そのように部隊を配置した以上、それを覆すにはそれなりの理由が必要になる。劉備が敗走し追っ手が差し向けられているならばまだしも、戦はまだ始まったばかり。既に関の兵が撤退を始めているという情報も、孫策軍の間者が掴んできた情報で確度の高いものだが、物的証拠は何もない。

 動くからには最低でも袁術を納得させられるだけの何かを差し出さなければならないのだ。この場合は『兵が撤退している』という情報がそれに当たるが、バカ正直にそれを告白したところで、こちらに利点は何もない。

 じゃあわらわが行くのじゃ、ということになれば、目も当てられない。

 抜け駆けを強引に納得させられるような立場にあれば良かったのだが、一応、使われている立場である手前、勝手過ぎる動きは厳禁だ。

 結局は、立場の違いが今の状況を生み出したのだ。一番弱いという立場にいたからこそ、劉備はこの千載一遇の機会を生かすことができた。作戦そのものは成功率の低いものだったろう。話に聞くだけでも、この作戦には博打のような要素がとても目立つ。今回のような結果が生み出せたことは、幸運に寄るところが大きい。

 だが、幸運を引き込むのも大将の仕事だ。こういう場面で幸運を引き込むことができた劉備はやはり何かを持っているのだろう。

「関一つの功績が兵五千か……何だか寂しいわね」
「言わないの。関はもう一つあるんだから、私達はこの次にどうにかすれば良いわ」
「できたら良いんだけどね……」

 立場の弱い劉備が関を落としたとなれば、袁紹のことだ、次は自分がと言い出すに決まっている。彼女の軍は数こそ多いが、質はそれほどでもない。虎牢関には飛将軍呂布がおり、撤退した汜水関の軍もこれに加わる。数だけで倒せるような並の相手ではない。二枚看板の二人が奮戦したとしても、敗走するのは手にみて取れる。

 自分たちの課題は、いかに敗走する袁紹軍を上手く処理し、かつ、敵に相対することができるかということだ。それには袁紹軍や袁術軍以外の軍との連携が必要になってくる。建前上の盟主ではあるが、心中では誰もが袁家の味方な訳ではない。いずれ敵になる勢力ならば兵力は削いでおきたい。そう考えているのは孫策だけではないのだ。

「孫策様、曹操殿に使者を出されてはいかがでしょうか」
「んー、恩売ったばかりの劉備や公孫賛の方が良くない?」
「劉備公孫賛勢力はそれとして、他に名前と顔を売っておくのも良いのではないかと。いずれ覇を競う相手ならば、その情報は少しでも多い方が良いはずです」
「それも一理あるわね……いいわ。貴女の案を採用する。冥琳と一緒に、上手いこと話を纏めなさい」
「御意」

 その時、遠くで声が聞こえた。前線の情報を集めるべくそこかしこの陣営で伝令が動き始める。

 戦が動き始めた。

















「散るな! 小さく固まれ!」

 自らの指揮する部下達に大声で指示を出しながら、自身も剣を振るい道を拓いていく。関羽、劉備、張飛の部隊が汜水関へと仕掛け門から迎撃の軍が飛び出してから既にニ時間は経過しただろうか。初の大戦に緊張してた身体も興奮で解れていた。顔にかかった返り血を袖で拭いながら、自分の下に再集合した部下をぐるりと見回す。

「団長、百人全員います」

 点呼の報告をするのは副長の子義だった。数を数えるのも怪しい子義だが、報告をあげるくらいならばミスもしない。最初はあまりのアホの子ぶりに団員からも不満ではなく不安の声があがったが、部隊内で一番の剣の腕に加えて百発百中の弓、誰にでもそこそこ礼儀正しく何より一刀の言うことには素直に従ったため、次第に不安の声は小さくなった。

 子義の仕事はあがってきた報告をそのまま一刀に伝えることと、一刀の指示をそのまま部下に伝えることである。役職こそ与えられているが、その仕事はアホの子でもできるものだ。必要なのは認められているということだけ。その点、子義は上手くやっていた。腕っ節とその性格で、彼を嫌う者は部隊の中には一人もいない。

「まだ一人もかけてないのは多分奇跡だな」
「団長の指揮が良いんですよ」
「持ち上げてくれるのは嬉しいけどそれはないな。指揮がどうのと言うなら、甘寧将軍だろう」

 新兵五千人の指揮をしつつ直轄の千人隊まで動かす甘寧の手腕は一刀の目から見て並ではなかった。強面の直属兵と共に戦場を動き回り、兵を手足のように動かしては自分も剣を振るい続ける。自分でも相当な数の敵を斬ったつもりでいたが、甘寧は優にその五倍は斬っているだろう。強面軍団の技量もそうだが、甘寧の技はさらに群を抜いていた。一日に何度も吹っ飛ばされたことから理解していたつもりだったが、実際戦場で敵兵の首を何度も跳ね飛ばすのを見て、その考えを改めるに至った。

 安っぽい表現ではあるが、あの人は化物なのだというのを実感した。

 鐘の音が聞こえた。音の間隔から指示の内容を理解する。甘寧本隊から発せられたおおまかな指示を伝える信号だった。

「本隊の所に集合だ。分散せず、纏まっていくぞ」
「了解しました。本隊まで移動!」

 子義の声に従って北郷隊が移動を始める。先に突破してから敵の姿は近くにはない。本隊から少し離れて動いていたが、百人隊が大きく離れることなどほとんどない。再集合の目印となる甘の旗を目指して、只管に駆けていく。

「団長、あれどうします?」

 それに最初に気付いたのは子義だった。子義の指差す方には、同じ甘寧千人隊に所属する百人隊の姿があった。ただし、進軍速度が非常に遅い。北郷隊が駆け足で移動しているのに、彼らは並足だ。戦場での移動にしては不自然なまでに遅い。負傷者が多いのだろう。先頭を行く人間すら具合を悪そうにしているのが見て取れた。

 子義が気付いたように敵も気付いたようでのろのろと移動するその百人隊に目を付けた敵の一団が、彼らに向けて移動するのが見えた。味方に比べて敵は元気なものだ。あれは自分の獲物だといわんばかりの駆け足で、味方へと迫っていく。味方は敵の集団に気付いたが進軍速度は上がらない。このままでは追いつかれ、殲滅させられるのは時間の問題だった。

 これに関して、本隊からの指示はない。気付いていないのか、本隊からは再集合の鐘が鳴り続けていた。お伺いを立てるような時間はない。彼らをどうするのか。決断するのは自分の意思だ。

 一刀は唸るように溜息を吐いた。

「隊を二つに分ける。指揮は子義。俺が当たるのを見て、反対側から突撃して敵を割る。合流したら、それからは俺が指揮する」
「了解しました。一から五隊、俺について来い!」
「六から十隊は俺に続け!」

 決めたら迷わない。言葉にしたらその通りに行動せよ。甘寧に殴られながら覚えたことだ。人に指揮する者が迷っていては、ついてくる人間の立場がない。心中でどう思っていたとしても、それを顔と行動には出さないことだ。

 仲間を率いて駆け足で目標に迫る。僅かに敵の方が早い。逃げ遅れた味方の最後尾と敵が接触する。味方は仕方なく応戦するが万全に近い敵との戦力差は火を見るよりも明らかだ。このままでは全滅させられる。悲壮感漂う味方を鼓舞するように、一刀は雄叫びを上げた。それに、五十人の部下も追従する。

 意識をこちらに向けた上で、側面から突撃する。反撃の態勢が整うよりも先に、一方的に攻撃を開始。一人、二人と斬り伏せたところで敵の体勢も整う。腰を据えて迎撃しようとこちらにしかと意識を向けるのが解った。援護された味方は礼を言うのもそこそこに、本隊の方へと移動を開始する。相変わらず動きは遅いが、時間は稼ぐことができた。

 後は無事に本隊と合流できるよう、祈るより他はない。

 さて、問題はこちらだ。体勢を整えた敵は目標をこちらに変え、ごりごりと押して来る。装備からして董卓軍の正規兵のようで、一人一人の錬度もこちらより上だった。一刀も先頭に立って奮戦するが、じわりじわりと押され、後退する。これは本当に不味いか、一刀の背中に冷や汗が流れたその時、敵部隊の向こう側で雄叫びが上がった。

 子義の声だ。後背を突かれた敵に動揺が走ったのを、一刀は見逃さなかった。雄叫びを上げ、味方に再度突撃を指示する。挟撃された敵部隊は浮き足だち、体勢を崩していた。錬度で勝っていても、こうなってしまえば関係ない。動揺している人間を狙い定めるように、一人、また一人と協力して打倒していく。

「ご無沙汰です」

 返り血を頭から浴びた子義と、ほどなくして合流した。全体の指揮を再度預かり、体勢を整える。攻撃の手を止め、本隊に背を向ける形でしかと腰を据える。敵部隊はこれ幸いとこちらから距離を取り、体勢を整えた。いくらか殺したはずだが、全体として見るとそれほど減っているように見えない。逃げてくれればシメタものだったのだが、敗走する気配もなかった。

 逃げるか、戦うか。考えるまでもない。

「本隊に合流する。全速転進――」
「団長、待ってください。何かヤバイのが来ます」

 子義の声に、一刀は命令を中断した。彼の指し示す方向に視線を向けると、そこには土煙が。

 大規模な騎馬隊だ。少なくとも五千はいるだろうか。そんな規模の騎馬隊が高速でこちらに向かっていたのである。先頭近くを走る馬が隊の旗を持っていた。紺碧の地に『張』の一文字。そこにいるのが誰なのか、誰の指揮する騎馬隊なのか、瞬時に理解してしまった。

「張遼が来たぞ! 全員下がれ!」
「下がるんですか? このまま本隊に合流した方が」
「いや、無理だ。俺達が合流する前にあの騎馬隊に襲われる」

 張遼騎馬隊と、一刀から本隊を結ぶ直線の距離はおよそ500メートル。馬が時速60キロで走るとしても騎馬隊が通り過ぎるよりも先に本隊に合流することはできない。

 しかも、こちらは一直線に走らなければいけないのに対し、向こうは方向をある程度調整することができる。えっちらおっちら走っている時に側面から騎馬隊の突撃を受ければ全滅は免れない。

「やってみませんか? 騎馬隊が通り過ぎるよりも先に、本隊に合流できるかもしれませんし」
「どうして無理か説明するためにはお前の嫌いな数字を使う必要があるぞ?」
「無理なものは無理ですよね。俺、今わかりました」
「解ってくれて嬉しい。ちなみに合流するためには俺達全員が最低でも馬以上の速度で走る必要がある」
「そんな人間いるはずないですね」
「世の中広いからな。甘寧将軍とか、馬以上の速度で走ったとしても俺は驚かないぞ」
「それは見たいかも。走る時には俺にも教えてくださいよ」
「ここを何とかできてから考えることにしようか。さっきの敵部隊を追うぞ」

 騎馬隊がやってくるのと反対方向に逃げたとしても的になることには変わらない。被害を受けないためには騎馬隊の進行ルートから離れる必要があるが、その方向には先ほど交戦したばかりの部隊がいる。そちらに逃げれば再び交戦するのは明らかだ。

 しかし、そちらに行くしか生きる道はない。張遼騎馬隊の前に出るよりは、まだそちらの方が生き残る可能性は高いだろう。

「さっきの連中とまた戦うぞ。全員準備だ」
「団長。弓を使っても良いですか?」
「交戦までに何射できる?」
「十回はやれます」

 敵部隊との距離は100メートルもない。こちらに気づいた敵部隊も移動しているので、ぶつかるまでの時間は多くはない。話している間にも子義はどこかで拾った弓に矢を番えていた。走りながらで不安定であるはずなのに、狙いを定める上半身は定まって動かない。敵の雄叫びが耳に響くような距離になって、子義は第一射を放った。劣悪な条件が重なった中で放たれたはずのその矢は、しかし、敵部隊の先頭を走っていた兵の眉間に吸い込まれる。血を吹き上げて倒れる敵兵。いきなり倒れた味方に、敵部隊の動きが止まった。止まっている的など、子義にかかっては造作もない。

 立て続けに放った矢は五射目まで一矢で敵兵を討ち取った。このまま全員とばかりに子義は射撃を続けるが、矢で射られていることが解ると流石に敵も対応を始めた。簡素ではあるが盾を用意して、矢を防いだのである。良い弓、良い矢を使っていれば子義の腕ならば薄い盾など貫いていただろうが、拾った弓矢ではそうもいかない。

 舌打ちをして悔しがりながら、弓を放り捨てて抜剣する。敵兵はすぐそこだ。

 部隊の先頭が、ぶつかる。正規兵だけに押して来る力が凄まじい。人数がこちらの方が多いのに既に押されていた。これ以上押されたら死ぬ。それぐらいの気持ちで一刀は踏みとどまり、仲間に檄を飛ばした。雄叫びをあげ、自らも剣を振るう。荀家を出る時に、荀彧から譲り受けた剣だ。仲間が支給品を使っている中で、一刀だけが自前の剣を使っている。

 かなりの人間を斬り武器を受け止めたはずだが、見た限り刃毀れ一つもしていない。元の持ち主に似て、根性の座った剣である。

 この剣を使っている以上、無様に負ける訳にはいかない。ここで死んではこの剣を誰とも知らない人間に回収されるかもしれない。そんなことは死んでもご免だった。

 この剣は、俺のものだ。

 そう思うと力が湧いた。この剣を持つ限り、無様な戦いはできない。一刀の意識が澄み渡る。

 正面、髭面の男。頭から被ったらしい返り血が、風に乾いているのが見えた。目が合う。男がニヤリと笑った。こいつになら勝てる。そういう顔だった。やってみろ。振り下ろされた剣を渾身の力を込めて払う。侮っていた男の身体が僅かに流れた。返す剣を降り降ろす。首筋を狙った一撃は、男が大きく飛びのいたことで避けられた。

 だが、今は乱戦だ。男の後ろにも兵がいる。大きく下がっても十分に下がることはできない。男の体勢が整うよりも先に斬りつける。僅かに体勢を崩していた男は剣を受け切れなかった。弾き損ねた剣が、男の首筋を浅く割く。噴出した血が一刀の顔にかかった。

 鉄の臭いに血が沸き立つが、致命傷ではない。間に剣が割って入ったことで威力が殺されている。

 だが、斬られたという事実は男を動揺させた。楽に倒せると思っていた相手からの思わぬ反撃。戦場では一撃が致命傷になりうる。攻撃を通してしまったということは、その一撃で殺される危険もあるということだ。僅かな逡巡の後に、男から油断の色が消えた。今まで以上に冴えた、力の入った攻撃が一刀を襲う。

 三合受けて、悟る。この男は自分よりも強い。十回戦えばおそらく九回は男が勝つだろう。経験も腕力もおそらく体力も向こうの方が上。正攻法で戦ったところで勝ち目はほとんどないが、これは戦であって試合ではない。

 六合目。男の剣を受けた時、横合いから差し込まれた剣が男の首を割いた。今度こそ勢い良く噴出す血を浴びながら、一刀は踏み込み男の首を刎ねる。舞い上がる首には見向きもせず、力を失った男の身体をせめて敵兵の邪魔になれとばかりに思い切り蹴飛ばす。

「ありがとう子義」
「どういたしまして。でも、ヤバいですね団長」
「ああ、不味いな」

 ゆっくり言葉を交わす暇もない。新たに襲い掛かってきた敵兵の剣を受け止めながら、戦いの趨勢を試算する。大局的に連合軍と劉備軍どちらが勝つかは知らないが、今のこの局面だけで判断するのなら、北郷一刀の運命は割りと差し迫った所まできていた。

 子義の活躍で敵の数を減らすことができたが、それでも有利不利は変わらない。このまま続ければこちらが全滅するのは火を見るよりも明らかだ。

 張遼の騎馬隊を避ける際に深く踏み込みすぎたせいで、本隊との距離はさらに離れてしまっている。他の百人隊は既に合流してしまっているのか、自分たちがしたように助けに来てくれる気配はない。

 ならば、本隊に伝令を出して援軍を求めるべきだろうか。考えてもすぐに結論はでなかった。

 まず、援軍を出してくれるかどうかが微妙なところだ。百人隊一つを助けるために本隊の戦力を甘寧が割いてくれるか、一刀には判断がつかなかった。それに援軍を出してくれるとして、そのためにはこの窮状を伝える伝令を出さなければならない。その伝令が無事に本隊までたどり着いたとして、全て歩兵で構成されている本隊から援軍がやってくるのはそれからだ。

 その往復分の距離は一キロを越える。援軍も即参上という訳にはいかない。援軍を待つのならば人がそれだけの距離を走る時間を耐えなければならない。しかもそれは、最高に上手く事が運んだ場合の試算だった。こちらの戦力を削って伝令を出した結果、援軍は出さないという決定を出される可能性も否定はできないのだ。

 それなら最初から背中を見せて逃げた方が上手く行くのではないか。多少では済まない犠牲が出るだろうが、確実に本隊との距離は縮まる。距離が近ければ近いほど生存確率は上がるのだ。

 留まるか、引くか。考えている間も、敵兵は攻撃の手を緩めてはくれない。考えれば考えるだけ味方は傷つき、倒れていくのだ。あまり時間を割くことはできない。


 全力で撤退する。一刀はそう決めた。殿を自分と子義他、腕の立つ人間で務めて他の人間を可能な限り遠くまで逃がす。これならば生き残る頭数は多くなるだろう。反面、残った人間はより地獄を見ることになるが、逃げつつ戦うのだから留まるよりは楽なはずだ……と強引に自分を納得させる。腕の立つ人間を集めた十人隊を二つ残し、残りは全て本隊に向けて全力疾走。

 生き残るにはこれしかない。一刀は覚悟を決めた。

 その命令を全員に伝えるため、隣で奮戦する子義に声をかけようとしたまさにその時、敵の勢いが大きく弱まった。敵兵が近付いていることを誰かが叫んでいる。聞き覚えのない声であるから、おそらく敵兵の誰かなのだろう。

 味方の援護だ。一刀の腕に力が戻った。

「押しまくれ!」

 これはチャンスだ。生き残るための絶好のチャンスなのだ。腕に今まで以上の力を込めて、剣を振るう。新手に気を取られている敵兵は先ほどまでよりもずっと簡単に討ち取ることができた。

 敵兵の向こうに、彼らの言う新手の姿が見えた。白馬の騎馬隊だった。少なくとも五百はいるだろうか。全てが白馬で統一された騎馬隊が敵兵に向かって突っ込んでくる。先頭を駆けるのは、白い鎧を着た女だ。手綱を持たずに馬を操り剣を振るっている。彼女が一つ剣を降る度に、敵兵の首が飛んだ。精強な騎馬隊である。先の張遼騎馬隊にも劣らないだろう。数は少ないが、それだけの圧力を一刀は感じた。

 味方としてこれほど頼もしいものはない。相対する人間からすれば、これ以上の恐怖はないだろう。留まれば死ぬ。それを悟った敵兵たちは一刀たちの部隊には見向きもせず、散って逃げ始めた。

「今度こそ転進だ! 本隊に合流するぞ、走れ!」

 一刀の声を受けて子義が命令を復唱する。それは直ぐに部隊全員に伝わった。生き残った人間は全てその命令に従い、本隊に向けて駆け出していく。敵兵の追撃がないのを殿で確認しながら、一刀は駆ける。

 本隊までは何も遮る物はなかった。次の敵軍に向けて移動している最中の本隊ではあったが、合流したこと、それから状況の説明のために甘寧の元へと急ぐ。

「遅かったな」

 いつも通り甘寧は仏頂面だったが、いつも以上にイラついているように見えるのは決して気のせいではないだろう。本能が近付くことを拒否しているが、仕事上そういう訳にもいかない。敵兵に挑む時よりも悲壮な覚悟を決めて、一刀は甘寧の前に立った。

 拳が飛んでくる。一発目は顔に。吹っ飛ぶのはどうにか堪えたところに立て続けに腹部に二発。流石に蹲ってしまう一刀に、甘寧は溜息を漏らした。

「参集に遅れたこと、命令に背いたことは重大だが、味方を救ったことに免じてこれで済ませる。これ以上の処分はない。部隊に戻れ」
「ありがとうございます」
「二度は言わんぞ。さっさと行け」

 どこか照れた様子の甘寧に頭を下げ、一刀は部隊に戻った。








 劉備の部下関羽が汜水関を落としたと報告があったのは、それからさらに二時間後のことだった。張遼は自らの部隊と共に虎牢関に向かい、華雄は公孫賛客将の一人である趙雲との一騎打ちに破れ、公孫賛軍に約一千の配下と共に降った。

 大半の人間の予想を覆して、汜水関での戦は一度で終わり、劉備はその勝利によって名を売ることに成功したのだった。













[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十六話 反菫卓連合軍編⑤
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:57
「以上が報告になります」

 簡潔な報告だけを述べて、女は書簡を渡してくる。朱里はそれを改めることもなく退出の許可を出す。一礼し、女は音もなく去っていった。書簡の内容について女と確認する必要はない。彼女の担当は調査及び連絡であって、書簡の内容を吟味することではないからだ。報告が確かでそれを十全に届けてくれるのなら、それ以上を求めることはしない。

 無言のまま、朱里は書簡に目を通した。記されているのは氾水関戦の分析結果だ。勢力ごとの動員兵力及び損耗、それが敵味方に関わらず細かに記載されている。氾水関は董卓軍の施設だったが、連合軍が押さえたことでその検分も始まった。使えそうなものはこちらで使い、攻められた時のことも考えて施設の補修、食料や装備の搬入が進んでいる。

 今は駐留する人員の選別を各勢力の代表が集まって協議しているところだ。どこからどれだけ人を出すかもそうだが、それを誰が指揮するのかという問題もある。今は急いでいるということが袁紹にも解っているため、比較的素早くこの問題は片付きそうだった。本来ならば最初に決めておくべきことだったのだが、それをとやかく言う段階でもない。盟主を決めた時のことを考えると、この決断の早さは奇跡の産物だ。上手く行っているのだからそれで良い。

 このまま順当に行けば遅くとも明日には全ての話が纏まり、虎牢関への移動を始めることができる。配下の兵士にもそのつもりで出立の準備をさせていた。軍の運用に問題はない。仕込みは万全だ。

 不意に、苦しくなった。

 胸を押さえて朱里は小さく咳き込む。咳音が漏れてはいけない。慌てて口を手拭で塞ぎ、小さく蹲る。体調の変化は急だった。動悸は早まり身体がガタガタと震えだす。それを堪えることができたのは数秒だった。耐え切れずに胃の中の物を吐き出す。昨日の夜から何も口にしていないため、出てくるのは胃液ばかりだったが、嘔吐感はしばらく続いた。

 はぁ、と大きく溜息をつく。汚れた口元を手拭で拭い、椅子に体重を預けた。大きく深呼吸をして、心を落ち着ける。

 策については万全を尽くした。考えられるだけ考え、手配できることは全てやったと断言できる。それでも覆されることはあるだろうが、これで駄目ならと諦めがつくくらいには、人事を尽くした。これ以上は人間の手の及ぶ所ではない。

 頭は嘗てないほどに冴えていた。文字が、数字が、地図が、あらゆることを自分に教えてくれる。今の自分には見抜けない物などないそう錯覚すらするほどに、諸葛孔明の知は研ぎ澄まされていた。

 その反動は体調にきているが、この程度ならば問題ない。不調程度で知力が研ぎ澄まされるのならば、世の軍師は喜んでその身を捧げるだろう。

 もっとも、明確な症状を無視し続けてそれが大病だったというのではあまりに無残であるので、定期的な医者の診断を欠かしてはいない。おかげで大病の気配はないと複数の医者からお墨付きを貰うことができた。まだまだ桃香のために多くの仕事ができると思うと、頭もより冴え渡っていく。

 そんな知力の冴えは桃香軍に合流してからずっと続いている。これまでの戦でも桃香を勝利に導いてきたし、初の大戦となった先日の氾水関の戦いでも、大勝を納めることができた。桃香と自分にとって理想的な勝利が続いている。軍師の成果としてこれ以上はないくらいのものであるが、朱里の冴えた知性は勝利の先に暗雲が立ち込めているのを感じ取っていた。

 桃香は大徳ある人物だ。関羽も張飛も真っ直ぐな性格をした武人で、兵を良く指揮している。そんな面々についてきた兵だからこそ、彼ら彼女らもまた、気持ちは真っ直ぐな人間が多い。

 それ自体は悪いことではない。朱里もそんな彼女らが大好きだし、そうだからこそ軍師として付き従っているのだ。

 問題は別にある。彼女らは綺麗過ぎるのだ。気持ちが真っ直ぐな彼らは、他人を落としいれようとしない。桃香は相手を信じるところから始め、関羽は自らの正義心情を貫くことが前提となっている。二人に比べれば張飛はまだ中庸の気持ちを持っているが、必要に応じて正邪を選べるような柔軟さはない。

 この世に明確な正と邪があるならば、極端に正に偏った集団。それが今の桃香軍だった。

 桃香がそうありたいというのも理解している。その意思がきちんと伝わった今の桃香軍は、彼女の軍としてあるべき姿をしているのだろうが、その綺麗さだけで勝てるほど全てが充実している訳ではない。軍師の目から見て明らかに、桃香軍には欠けているものがある。

 軍師として早急に進言するべきであるが、しかし、朱里はそれを口にすることはできなかった。理由は単純である。今の桃香軍はその正しさで持っているようなものだからだ。この時代に理想を語り、それを体現しようとする桃香だからこそ、兵はついてきている。人を陥れる行為を平然とやる。人を率いるのであれば、乱世であれば許されるその行為も、桃香からは程遠い。

 兵はそんな桃香の姿に理想を見た。生き残るための当たり前の行為が、桃香の神性を失わせてしまう。兵力は諸侯の力を決定付ける重要な要素の一つなのだ。対抗する術がないと見られれば、乱世の今では即座に叩き潰されるだろう。一度叩かれてしまうと、再起するのは難しい。既に袁紹や曹操などとは兵力や財力で圧倒的な差をつけられているのだ。兵力を失ってしまえば、戦う前から勝負が決まってしまう。

 何も知らない人間は言うだろう。そういう劣勢を覆してこその軍師ではないかと。

 何も知らないのはお前の方だ。誰が好き好んで劣勢を選ぶものか。戦う前に可能な限り有利な状況を築き上げること、それが軍師の仕事だ。劣勢のまま戦うことになった時点で半端仕事である。そうなってしまったのなら、それは軍師の手落ちだ。

 そうならないために朱里はあらん限りの知恵を絞った。生き残るためにはどうしたら良いか。勝つためにはどうしたら良いのか。

 桃香に足りないものは、全て自分が埋める。桃香が考え付かないような謀も、桃香が思いもしないような汚れ仕事も一切合財全て。

 それで軍が立ち行くならば、軍師冥利に尽きるというものだ。敬愛する主たる桃香のためになること、そのためにならば何でもする。

 決意を固めたら朱里は躊躇わなかった。可能な限りこちらが一方的に攻撃する。戦う前に勝利が決まっているのならばなお素晴らしい。敵将を暗殺できないか、兵糧を潰すことはできないか、不和を起こすことはできないか、散を乱して逃げるように仕向けることはできないか。昼夜を問わずそういうことばかりを考えた。

 おかげで他にも足りないものが見えてきた。策を実行するための資金が不足している。今後の大きな課題だ。策を十全に実行できるように予算をひねり出さなければならない。桃香軍は決して大きな勢力ではないが、だからこそ金を調達する方法はまだいくらでもある。資産の運用なども考えておくべきかもしれない。兵と一緒で金はいくらあっても困るものではないのだから。

 当然、策を実行するための人手も足りない。今回の作戦では公孫賛軍に人手を借りた。連合軍への出立の前に公孫賛本人に秘密厳守として念を押し、作戦を全て説明した。正々堂々としていないその行為に公孫賛もあまり良い顔をしなかったが、結局は勝利を取った。誇りは人を導くのに必要不可欠であるが、負けてしまっては何の意味もないということを、公孫賛は良く分かっていた。

 今回は公孫賛の力を借りてどうにかなったが、いつまでも彼女に頼る訳にはいかない。秘密を守ることができ、策を実行する優秀な人材が桃香軍にも必要だ。

 性格が性格なだけに、桃香軍の中にそういう繊細な仕事を得意とする人間はごくごく少ない。内部からの登用は無理だろう。いたとしてもそれを大っぴらに集めることはできるはずもない。自分のやろうとしていることを知れば、桃香は絶対に反対する。彼女の栄達のためだと説明しても、きっと聞き入れてくれないだろう。

 いざという時には悪名全てを自分が被る必要がある。

 いくら桃香がそういうことに精通していないと言っても、いつまでも隠し通せる訳もない。いつかは桃香にもバレる時が来るはずだ。これは早さの勝負でもある。露見するその時までに桃香の立場を確固たるものにできなければ、この仕事に手を出す意味がない。

 それに軍師の頭数も足りない。桃香軍はまだ勢力としての基盤が整っていないし、いくつもの謀を同時に進行するためには最低でも後一人、秘密を共有することのできる補佐が必要だった。

 雛里がいれば何も問題はなかった。雛里と一緒ならば謀に偏った方法に寄らずとも、桃香が望む形に近い方法で策を実行することができただろう。

 だが、彼女は灯里の紹介で北郷一刀という人のところに行ってしまった。どんな人間かも知れない男性に雛里ははっきりと恐怖していたが、灯里の紹介とあっては断る訳にもいかなかった。在学中には何かと世話になった先輩である。軍師を育てる学院でも、上下関係は意外ときっちりしているのだ。

 灯里がただの先輩風を吹かすだけの凡人ならば、朱里も雛里も勇気を振り絞って反発しただろう。自分の人生に関わることだ。先輩とは言え、全てを強制する権利はない。

 しかし朱里も雛里も灯里が有能な人間であることを知っていた。特に人を見る目については水鏡先生からも一目置かれていたほどだ。その灯里の紹介である。卒業後は二人で旅をと約束していた雛里であったが、その約束を知っているはずの灯里からの紹介ともあって、気持ちも揺らいだのだろう。

 彼女が強引にでも薦める以上、何か見るべきところがあるはずである。いくら知を極めたとしても、良い主とめぐり合うことができなければ軍師は十分な能力を発揮することができない。良い主というのは、喉から手が出るほど欲しいものなのだ。

 誘惑に負けてしまった雛里を、朱里は攻めることができなかった。それは軍師の性のようなものである。指名されたのが自分だったら朱里だって、雛里と同じ決断をしただろう。自分のことを考えること、それ自体は悪いことではない。

 ただ、灯里の紹介とは言え、それでも雛里が男性に仕えるというのは心配だった。自分と一緒で人見知りをする雛里が、男性の主と上手くやっていけるのか。何しろ雛里はかわいい。不埒な考えが頭を過ぎり、そのまま襲われてしまうことだってあるかもしれない。

 雛里が旅立ってからの毎日は戦々恐々としたものだったが、彼女からやってきた最初の手紙に、今の環境には満足しているという一文を見てからは、その気持ちも消え去った。良い主を得たという友達を、今では心から祝福できる。連合軍に参加するために、孫策陣営にかけあってみるつもりだという手紙を最後に遣り取りは途絶えているが、彼女のことだから上手くやっていることだろう。

 その、雛里を連れて行った灯里。学院の先輩で学院では珍しい剣も嗜む軍師である。旅歩きを繰り返しているせいか見聞が広く、巣立って日の浅い自分よりもずっと幅広い知識を持っている。

 灯里ならばきっと、自分では考えもつかない方法を思いつくだろう。理想とは違った形であっても、桃香をより良い方向に導くことができるに違いない。

 二人のどちらかが入れば、謀や汚れ仕事に頼らなくても良かった。

 だが現実として二人はおらず、勢力を維持、拡大するためには誰かが手を汚さなければならない。

 勿論それをしないで済むにこしたことはないが、いざという時に手が動かないのでは話にならない。今必要なのはそういう仕事を十全にこなせる、芯が強くて頭の切れる人間だ。

 幸か不幸か一人だけ朱里にはそういう人間に心当たりがあった。

 理性に従うのならば、彼女を呼び出すために早急に手紙を書くべきだ。応じてくれるか分からないが、出すのならば早い方が良い。順当に行けば彼女は今期で学院を卒業してしまう。学院を出てからでは居場所を捕捉するのも困難だ。

 手紙を書くのに躊躇う理由はない。

 しかし、感情は筆を動かすことを拒んでいた。

 朱里は彼女のことが苦手だった。決して公正とは言えない性格も、僅かな恨みにも必ず報復する姿勢も、自信に満ち溢れた瞳も、全てが苦手だった。

 同じようなことは彼女も思っていただろう。お互いに全ての要素がかみ合わなかったと言っても良かったが、勉学には真摯に取り組む彼女は後輩としてはある意味理想的な存在だった。性格が合わなくても先輩を立てるだけの筋は通してくれたし、やっかみを受けて雛里と一緒に孤立しかけた時も、嫌々ながら守ってくれた。

 とは言え、良い人か悪い人かで言えば朱里の観点では悪い人寄りである。できれば係わり合いになりたくないというのは今でも変わらない朱里の感情だったが、少なくとも謀や汚れ仕事に関して彼女に勝る才能を朱里は知らなかった。

 補佐として呼ぶならば彼女しかいない。

 朱里は迷いを断ち切るように、大きく溜息をついた。筆を取り、木簡に走らせる。余計な言葉を一つも入れなかったので、用件を伝えるだけの簡素も簡素なものになってしまったが、彼女への手紙はいつもこんなものだ。

 人を呼んで、学院に急ぎで届けるようにと念を押す。これで卒業前には間に合うだろう。返事は出してくれるだろうが、受けてくれるかは半々というところだ。彼女ならば仕官の先などいくらでもあるだろうし、うまの合わない自分の下で働くことを是としてくれるかも未知数だ。

 期待はしているが、きてくれないことも覚悟はしている。その時は今度こそ自分一人でやるしかない。

 雛里がいてくれれば……と、切に思う。あわあわ言っていた親友に、何だか無性に会いたくなった。

 
















 士元の前では一刀が陰鬱な顔で作業をしていた。

 氾水関内、孫策陣営。北郷一刀個人に割り当てられた幕である。百人隊長に幕が割り当てられるというのも剛毅な話であるが、これには事情がある。

 二日前に劉備軍が氾水関を落とし、連合軍の首脳陣は意気揚々と氾水関に入った。全ての兵を受け入れるには準備が足りなかったため、兵の多くは関の外で死体の処理をしつつ野営などをしている。百人隊長である一刀も昨日までその作業に参加していたが、昨晩甘寧から各部隊の隊長に生存者と死亡者の目録を作って持ってくるようにとの指示が出て状況が変わった。

 目録を作成するためには文字を書く必要がある訳だが、百人隊長の多くは読み書きが苦手だ。一刀のような例外はあるが、基本的に兵というのは学がない。そんな彼らに目録を作れというのも酷な話である。

 酷だろうと何だろうと仕事は仕事だ。苦手な文字と格闘しながら百人隊長達はせっせと目録を作成していたのだが、それを見かねた一刀が彼ら全員に代行を申し出た。誰それが死んだということだけ解っているのなら、目録を作成するのはそれほど難しいことではない。甘寧直轄の千人隊所属の百人隊、自分のところを含めて十組全ての仕事を代行しても、一刀ならば一晩もかからずに終わる。

 読み書き計算を十全にこなす一刀にすればそれは大したことではなかったが、他の百人隊長にとってはそうでなかったらしく代行を申し出た一刀は大層祭り上げられ、その晩の食事が少々豪華になり、一人では食べきれないからと自分や奉孝、仲徳も呼び振舞う騒ぎとなった。あまり健啖ではない士元にとって食事が増えることはあまり嬉しいことではなかったが、嬉しいことは皆で分かち合おうという一刀の方針はありがたく、彼の隣でもそもそと食事をしながら小さな幸福を味わった。

 それは穏やかで楽しい夜だったが、目録を持って甘寧が怒鳴り込んできたことでまた状況は変わった。目録の作成を百人隊長に任せたのは、各隊の状況を隊長に良く認識させる目的もあった。それを代行しては意味がないと、百人隊長を並べて説教する甘寧の怒号は、夢に見そうなほどに鬼気迫っていた。自分が怒られた訳でもないのに、思い出しただけでぶるりと身体が震える。直接怒られた一刀達の恐怖は、この比ではなかっただろう。青い顔をして頭を下げる一刀を思い返すと、同情を通り越して悲哀すら覚えるほどだ。

 説教は一時間ほど続き、代行を頼んだ隊長たちには改めての目録の作成が申し付けられた。代行を請け負った一刀は仲徳と甘寧の協議の結果何故か一番罪が重いとされ、甘寧隊全体の事務処理が言い渡された。夜があけて朝一番、個人の幕となった場所で、一刀は黙々と作業を続けている。

 これは元来甘寧とその補佐役である仲徳の仕事なのだが、彼女らは関に残す兵選抜の会議に出席するため、この場にはいない。孫策、周瑜、陸遜、周瑜の補佐である奉孝も同様だ。士元も本来は孫策の補佐であるのだが、一刀の監督役として残ることを許された。

 自分はいらない娘と言われているようで不安にはなったが、一刀を一人放っておくのもかわいそうではあったし、最近は話す時間も取れなかったこともあって、ゆっくり顔を見たくもあった。仕事をやりながらではあるが、時間を持てたことは士元にとっては幸運だったと言える。

 その辺を見越しての孫策の配慮なのだろうか。破天荒な生き方をしているのに、こういう機微にも理解がある。孫策というのは本当に不思議な人だ。

 筆を置き、一刀が大きく溜息をついた。背中を伸ばすとごきごきという音がする。仕事に一区切りがついたようだ。自分の割り当てはとっくに終わっていた士元は一刀の眺める作業をやめ、用意していた茶を勧める。既に温くなっていた茶を一気に飲み干し、一刀はさらに溜息をついた。

「戦に出るよりは楽だと思ってたけど、長い時間こうしてるとやっぱり疲れるもんだな」

 軍師ってのは凄いんだなー、と奉孝に聞かれたらまた小言を言われそうなことを一刀はぼやいている。消去法的に軍師寄りの一刀には武を磨くよりも知を磨いてほしい、というのが奉孝の決めた方針だ。士元もそれについては賛成で、村にいた時は勉強などをよく手伝ったものだった。

 今は仕方なく百人隊長などをしているが、はやく領地でも持ってもらって治世に力を注いでもらいたいというのが正直なところである。頭の良さは学のある人間の中では普通だが、発想の突飛さには目を見張るものがあった。彼の発想は乱世ではなく平時でこそ生きるものだろう。

 これで武を任せることのできる人間がいれば安心なのだが、雇われの百人隊長である一刀に自前で動かせる兵はほとんどない。自分の損得を無視してまでついてきてくれそうなのは、子義を中心とした二十人弱くらいだ。私兵と呼ぶにもあまりに少ない。村にいた時の自警団よりも少ない……というのもそこから引き抜いた人間が中心となっているのだから当然である。天下に覇を唱える日は遠そうだった。

「さて、目録についてはこんなものかな」
「お疲れ様です」
「こうしてデータで見ると、部隊の再編って大変だよな。減ったところに補充するだけって、もっと簡単に考えてた」
「なるべく均等に、というのが甘寧将軍の方針ですから、まだ楽な方ですよ。偏りを持たせる方針だったら、もっと神経を使って微調整をしないといけません」
「うちの部隊だと甘寧将軍の部隊がそれだよな」

 一刀の言葉に士元は頷いた。一刀たちは新兵で彼女らは正規兵なのだから当然と言えば当然である。甘寧の指示で動く彼らは彼女の元で戦ってきた古強者で、孫策軍全体で見ても実力者が集められている。個人的に甘寧との付き合いも長いようで、孫策軍の一員というよりは甘寧の部下という気持ちの方が強いようだった。

「編成の草案を考えたのは将軍だったかな」
「そうです。仲徳さんも手伝ったみたいですけど、ほとんど口は挟まなかったと言ってました」

 軍師の力を借りる必要もないほど、自分の部隊の人間について甘寧は把握しているということだ。把握していると言っても、五千人である。顔と名前が全て一致するということはないだろうが、部隊単位でどういうことができるのか、そういう『でーた』はきっちりと、甘寧の頭の中に入っているようだった。

 氾水関の戦では、甘寧部隊の約一割が戦闘不能となった。内、甘寧直属部隊の被害はなし。損害は全て新兵の中から出ている。約五百の内、死者が約四割、兵として働くのは無理なほど重傷を負ったものがニ割、次回の戦闘には参加できそうにない人間が残りの全てである。

 ちなみに北郷隊の被害は二十四人。死者八名、重傷者十名、負傷者六名がその内訳である。死者の中には村から一緒に出てきた者もいてそれを知った一刀の落ち込みようは凄まじいものがあったが、二晩もたった今は落ち着きを取り戻している。普段よりも影があるのは否定できないものの、いつものように振舞おうとしているのは見てとれた。思っていた以上に、心の強い人である。

 北郷隊の欠けた戦力については今朝の編成で補充も済んでいる。全体で一割かけたので、ほとんどの部隊が百人隊ではなく九十人隊になってしまったが、一つ戦を乗り越えたという経験は兵たちの大きな助けとなるだろう。鍛錬を見ても、動きが違う。新兵の域は脱していないが董卓側の正規兵もこの部隊を軽く見ることはできないはずだ。

「いつかは、俺もこういうことをしなきゃいけないのかな」

 一刀のぼやきには、俺にできるかな、という内心の不安が溢れていた。これにできますよ、ということは簡単である。士元は反射的に励ましそうになるのを、ぐっと堪えた。甘やかしてはいけない、という奉孝の言葉が思い返されたのだ。厳しく行くくらいでちょうどいいという彼女の教育方針は、士元の目から見ると厳しすぎるように思う。

 褒めるべきところは褒めていると奉孝は主張するが、鞭九に対して飴は一くらいだ。一つ間違えば、一刀がグレてしまってもおかしくはないのに、一刀はどれだけ怒られてもそれを受け入れて、次に生かす姿勢を崩していなかった。発想以外のどれをとっても物足りないが、一刀はよく自分が足りないということを自覚している。曹操のような万能超人であればまだしも、そうでない人間にとっては他人の意見を柔軟に受け入れるという心持ちは、非常に重要なことだった。

 その点については、厳しい奉孝も良く信頼している。一刀ならばできると思うからこそ、厳しく接しているのだろう。それが自分の役割と割り切っている節もある。

 一刀にも飴は必要だが、本当は奉孝にも必要なのではないだろうか。その飴を与えることのできる人間は今のところ一刀だけである。

 一刀が奉孝を褒め称えているところなど……実は結構良く見る。欠けていることを自覚している一刀は、自分よりも優れたところを持つ人間を尊敬することを忘れない。凄いと思ったことは素直に褒めるし、その表情、態度から本当に凄いと思っているのだと感じられる。

 だから、気難しい奉孝も一刀に褒められると満更でもない。満更でもない顔をしながら課題を容赦なく十倍に増やしたりする。流石にそういう時は一刀も迷惑そうな顔をするが、そんなことを奉孝は気にしない。あれも奉孝の愛情表現であるということに、一刀は気づいているのかいないのか……心の機微にそれほど聡くない士元には分からなかったが、関係が良好に見える以上、他人の事情には口を挟むべきでもない。お互いが嬉しそうなら、それで良いのだ。

 嬉しいと思うのは奉孝だけでもない。一刀に褒められると、皆嬉しそうな顔をする。子義など、見えない尻尾が振られているのが見えるようだし、仲徳は地味に口数が増える。部下の兵達も一緒だ。褒められると嬉しいからより頑張るし、頑張るからより良い結果を出せるようになる。そうしたらまた褒められるから、また頑張る。

 こうして部隊の力が向上すると共に、一体感も生まれる。甘寧のように厳しく育てるよりも成長は遅いだろうが、連帯するという意思に関しては、一刀の部隊は目を見張るものがあった。甘寧隊の百人隊の中では間違いなく随一だろうし、正規兵と比較しても引けを取らないだろう。個々の実力が低いせいで正規兵よりも結果を出すことはできないが、どういう戦いかたをしても驚くほどの粘り強さを見せるし、何より良く一刀の指示に従う。

 これくらいの規模の部隊指揮ならば、一刀は十全にこなすことができるのだろう。このまま突き詰めていけば、類稀な指揮力を持った百人隊長になれるかもしれない。

 考えたところで、士元は心中で苦笑した。奉孝ならば言うだろう。どうして貴殿は他のところで才を発揮できないのですか、と。百人隊長は現場職だ。できるに越したことはないだろうが、上を目指す人間にはそれほど意味のある才能でもない。上に行けば行くほど、より広く、より多くを見なければならない。百人ならば十全にできるということは、百人までしか見通せないということでもある。

 視野を大きく持って欲しいという奉孝の気持ちも分からないでもない。仕える人間にはなるべく偉大であってほしいと思うのは、軍師の性だった。

「一刀さんならできますよ」
「そう言ってくれるのは士元だけだよ……」

 ありがとなー、と何気ない仕草で一刀は頭を撫でてくる。男性に触れられるということに恐怖で身体が震えるが、撫でられるとそんなことはどうでも良くなってしまった。褒められた、撫でられたということが凄く嬉しい。

 劉備軍の主席軍師の朱里と比べれば雲泥の差だが、腕の振るい甲斐があるのは一緒である。一から自分たちでやっていく感覚がある分、楽しみは大きいかもしれない。勢力の大きさで見れば劉備は全体の中でも大国寄りではあるが、中の範囲を出てはいない。大きな勢力には頭を抑えられ、小さな勢力の台頭に目を光らせるような、そんな難しい立場である。

 その点、こちらは下も下。まだ勢力として成立してもいないような少数勢力だ。飛躍するも没落するも今の働きにかかっている。その綱渡り感は癖になる。学院では大軍を指揮する前提であることが多く、漠然と思い描いていた仕官先もいつも大国を考えることが多かった。小国、小勢力は自分の力を試すのに相応しくないと無意識に思っていたのかもしれない。

 だが、やってみたら面白い。知力を研鑽しあうことのできる仲間もいる。優しい主もいる。武を任せることのできる人間たちも……少ないがいる。地を這いながら大空を狙うという大望が、軍師としての血を刺激している。

 働く環境としては最高だ。朱里も無理やりにでも誘えば良かっただろうか。あの優しい少女ならば、奉孝や仲徳とも上手くやっていくことができるだろう。軍師過多と奉孝などは笑うだろうが、大勢で考えた方が良い知恵も浮かぶというものだ。その勢力で養っていける限り、人が多くいて困ることはない。今は少数勢力だから、そこにいれるかどうかというのは気の持ちよう一つだ。

 とは言っても、朱里を誘うのが無理というのは、士元にも分かっていた。村に落ち着いた時にもらった手紙では、朱里も劉備を良い主だと褒めちぎっていたからだ。その人に一生を捧げても良いというくらいに熱の篭った文章を思い返すと、今更こちらに誘うのは憚られる。学院時代には一緒にいようねと約束したのに、世の中上手くいかないものだ。

「困った」
「どうかしました?」
「必要な目録が一つ足りない」
「じゃあ、私がとってきます」
「手伝ってもらってるのに悪いよ。俺が行くから士元はここで待っててくれ」
「いえ、一刀さんこそ働きづめなんですから休んだ方が……」

 食い下がる士元に、一刀はふむと頷く。

「……なら、間をとって二人で行こうか。お互い、少し歩いた方が頭も回るだろ」
「いいかもですね」

 大きく伸びをしてごきごきと背中を鳴らす一刀の隣に、慌てて移動する。良く転び背も小さい士元は、早めに移動をしないとおいていかれるのだ。一刀の隣に並ぶまでの十歩に満たない距離でも一度転びかけたが、そんな士元を見て一刀は軽い微笑みを浮かべた。そんな一刀がん、と差し出した手を士元はまじまじと見つめ返す。

「外で転んだら危ないだろ。迷子になっても大変だし、手を繋いでいこう」
「さ、流石に迷子になるほど子供じゃ……」

 ないとは言い切れない。人は多いし規模も大きい。現在位置を一度見失ってしまったら、誰かに聞かずに元の場所まで戻ることは不可能に近い。

 そして鳳士元という人間は、人に物を尋ねるのに多大な精神力を必要とする難儀な人間だった。軍師としてはあまり褒められたものではない性質であるのは自覚していて、直そうと頑張ってはいるのだが、どうにも上手くいかない。大きい男性などを見ると、いまだに恐怖の方が先に立つ。甘寧直属の強面軍団など、遠目に見ただけで足が止まってしまうほどだ。

 一刀の差し出してくれた手をそっと握る。意外なほどにごつごつとして大きな手がそっと手を握り返してくると、士元の背がびくっと震える。心臓がどきどき言っているのが聞こえた。顔を見られるのが恥ずかしくなり、空いた手で帽子を目深に被りなおす。

 そんな士元を知ってか知らずが、暢気に鼻歌を歌いながら一刀は歩き出した。手を引かれる、というよりは少しだけ引き摺られるような感覚で、士元はとことこついていく。

 軍師である、ということは知れてきているとは言え、兵士に手を引かれる少女というのはとても目立つ。行きかう人間は皆一度は士元の方を見るが、一刀が身体で視線を遮ったり、挨拶を交わしたりして視線を遮ってくれた。何でもない風な配慮が、嬉しい。

 ぎゅっと手を握り締めると、一刀は少し驚いたような顔をして、手を握り返してくれた。











中書き

今回は拠点パートになります。氾水関と虎牢関の間です。
次回は虎牢関戦闘パートになります。











[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十七話 反菫卓連合軍編⑥
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:57

















 虎牢関を攻略するに当たって、袁紹軍には一つの命題が化せられた。

 功一等を、自陣で獲得するということである。

 氾水関を名前を覚えてもいなかった劉備に落とされたのが麗羽は大層お気に召さなかったらしく、虎牢関は私達で落とすのですわ! と幹部を集めて態々宣言した。

 自分たちで、というのはどこの軍も思っていることだろうが、今回の麗羽に限ってはその本気度はいつもと桁が違う。目立ちたがりがいつも以上に奮起しているのだ。

 これを失敗したらどういうことになるのか……想像するだけで気分が滅入ってくる。

 猪々子などは気持ちを高ぶらせて部下と熱心に議論を重ねているが、逆に斗詩は気持ちが冷めていた。麗羽が命じたのは、袁紹軍単独での虎牢関攻略である。それが如何に難しいことであるのか。悲しいことに、袁紹軍の中で気づいているのは、斗詩を初めとした幹部の極一部だけだった。

 麗羽と大多数の兵は、自分たちが最強の軍であることを疑ってない。度し難いほどの緩い思考であるが、最強という評価については強ち間違ってもいなかった。大将である麗羽の家柄は申し分なく、資金力も豊富である。金に物を言わせた装備の充実っぷりは大陸でも最高の部類に入るだろう。

 武装についてもそうであるし、特筆すべきは攻城兵器の数々だ。派手な物が好きな麗羽はこういう物に散財を惜しまない。結果、多くの技術者が麗羽の元に集まり攻城兵器を開発、製造していく。頭数、質共に、これについてだけは大陸でも最高であると胸を張って言うことができる。

 その代わり兵の質については残念極まりないが、攻城兵器の力を導入できる城攻めならば、実際の力よりも高い力を発揮することができる。如何に堅牢とは言え、虎牢関も『城』だ。そういう観点に立って考えれば、虎牢関を攻めるのは渡りに船と言えるかもしれない。

 だが、戦はこちら側だけで成立するものではない。戦には相手もいるのだ。虎牢関には大陸最強の武人呂布がおり、最強の騎馬隊を指揮する張遼もいる。氾水関で公孫賛軍の捕虜になった華雄の部隊もその半数以上が健在だ。これに加えて虎牢関に詰めている人員の総数はおよそ20万という試算が出ている。

 非戦闘員もいるだろうから実戦力はもう少し少なくなるだろうが、それにしたって袁紹軍よりも兵数で上回っているのだ。連合軍に集まった諸侯の中でも麗羽は最大の兵力を有しているが、それでも単独では兵数を上回ることができない。

 ほぼ唯一の強みが数であるのに、それが負けているのでは話にならない。第一、守るよりも攻める方が兵力が必要なのは常識である。攻城兵器を考慮に入れても、単独で虎牢関を落とせというのは、無理とは言わないまでも難しい話だった。

 普通の軍師ならば他軍との提携を提案する。お飾りとは言え盟主という立場は強力だ。麗羽が共に行くべしと言えば断ることは難しい。袁紹軍単独では上回ることができなくとも、他の軍も引き込むことができれば数で同等、それ以上になることもできる。

 頼もしいことに他の軍は袁紹軍と異なり、正真正銘の精兵である。いつもは争うばかりの彼女らであるが、今この時は味方なのだ。それを使わない手はない。

 それなのに、麗羽の頭の中は自分だけでという思考で埋まっている。これを覆すことは誰にもできないだろう。明確な敗北が突きつけられてもなお、彼女はそれを認めないかもしれない。結果も出ていないうちからどうこう言っても、聞き入れはするまい。

 自分たちだけでやるしかない。心の底からそれを理解すると、行動も迅速に行うことができた。

 まず、戦の采配に麗羽が関わることは極力排除した。決める時にだけ麗羽はいれば良い、まずは露払いだと納得させ最前線からは遠ざける。時間がかかるということを予め念を押しておくことも忘れない。これで少なくとも、話が違うと叱責を受けることはないだろう。

 諸侯の怒りを買うのを承知で陣地には麗羽の無聊を慰める物を大量に持ち込んでいるが、あの麗羽のこと。座して待つことができるのはもって五日というところだろう。

 それまでに関を落とす下準備を終えることができなければ、袁紹軍は転落するより他はない。主の名誉は自分の肩にかかっているのだと思うと、斗詩の気持ちも引きしまる。

 麗羽には適当な仕事やどうでもいい事柄に目を向けさせ戦の情報を極力耳に入れないよう排除した上で、斗詩は軍団を運用した。持ってきた攻城兵器は全て導入し、兵には昼夜兼業で関を攻めさせた。部隊は一度に全てを投入せず、昼も夜も断続的に攻撃を続ける。

 虎牢関の兵も流石に精強で小分けにした攻撃では小揺るぎもしないように思えたが、袁紹軍も兵の質は悪くても攻城兵器の威力だけは本物だ。関の壁も大門も度重なる攻撃で痛みを重ねていく。

 間断のない攻撃を六日も続けると、虎牢関の傷みは遠目にも分かるようになってきた。特にその大門は傷みが酷い。内側から補修を重ねてはいるのだろうが、大外にある大門そのものが破られるのは時間の問題のように思えた。

 このまま行けば勝てる。斗詩は確信したが、それには時間も兵も足りなかった。

 まず、豊富にあった攻城兵器はその全てを使い潰した。壁を攻撃するのも大門を攻撃するのも、これ以降は通常の兵器を使うしかない。

 兵の消耗も激しい。会戦する前、袁紹軍は約15万の兵を有していたが、この三日の攻撃で戦に参加できる兵の数は十万を下回った。実に五万の兵を失った勘定になる。関の兵にも少なくない被害を与えたはずだが、袁紹軍以上の被害は出ていないだろう。

 そもそも、兵の数は向こうの方が上なのだから、数の不利は更に広がってしまったことになる。

 前線の軍を指揮する傍ら斗詩は麗羽の懐柔に奔走した。単独での攻略を諦め他の軍の力も借りるべきだと、理屈ではなく感情で麗羽に説いて聞かせた。何もかもを自分一人でというのは、王者のすることではない。下地を作ってやった上で諸侯にも機会を与えるべきだ。諸侯と競合した上でなおかつ袁紹軍が一番乗りを果たせば、その名もより広く広まることになるだろう。

 乗ってくれるかどうかは賭けではあったが、最終的に麗羽は斗詩の提案に首を縦に振った。

 七日目の攻略には、諸侯の軍も参加することになったのである。

 麗羽の居丈高な参加要請にも諸侯はすんなりと応じた。腹の底では麗羽を殴り飛ばしてやりたいと思っていただろうが、虎牢関が無視できないほどの傷みを受けているのは、誰の目にも明らかだ。到達したその時よりも、今の虎牢関はずっと攻略しやすくなっているのは間違いはない。

 そこに参加しても良いという許可を盟主自ら出したのだ。これに飛びつかない話はないだろう。

 しかし、誰が参加するかということについては、麗羽はしっかりと注文をつけた。

 まず、氾水関にて戦功を上げた劉備軍、公孫賛軍については最後尾の配置を命じた。これには諸侯の全てが遠まわしに賛成したため、すんなりと決まった。当の劉備は不満を訴えたが、軍師諸葛亮に諌められて発言を引っ込めた。見た目こそ幼い少女であるが損得勘定を冷徹に行っているように見受けられる。

 理想主義の劉備に良くもこんな軍師がついたものだと思ったが、参加不参加を損得で判断してくれるのならば願ったり叶ったりだ。後ろで大人しくしてくれるというのならば、斗詩としては他に言うことはない。

 問題は袁術である。虎牢関攻めで袁紹軍の数が減じたため、最大の兵力を有しているのは彼女ということになってしまった。次は袁術軍が単独で、ということになれば彼女の軍が虎牢関を攻め落とすということも考えられたが、あのお嬢様は何を考えているのか、戦に参加することには大して興味を示さなかった。

 代わりに客将である孫策が名乗りを挙げたため、これを袁紹軍の後ろに配置することになった。

 中央は袁紹軍が勤め、右翼に曹操軍、左翼に馬超軍を配置。描いていた構図と変わらぬ配置となったことで、斗詩の目的は半ば以上達成することができた。

 ここまでやれば十分である。関を落とせるに越したことはないが、決定的な敗走をしないことこそが肝要なのだ。虎牢関を損耗させたのは袁紹軍であると、諸侯の誰もが理解している。仮に関を落とすという名誉を得ることができたなかったとしても、その功績を無視することはできるはずもない。

 いや、無視させることなどさせない。そのための権力、そのための盟主なのだ。

 自軍が関を落とせなかったことについて麗羽は文句を言うだろうが、それを受け止めるのも自分の仕事と斗詩は割り切ることにした。自分が叱責されるだけで済むのならば安いものだ。軍が暴走しないよう目を光らせていけば、この戦を袁紹軍に都合の良い形で乗り切ることができる。

 できるだけの仕事はしたのだ。後は、他人に任せておけば良い。

 本音を言うのならば、七日目の戦闘に参加することすらしたくなかったのであるが、一応、虎牢関を落とすことを諦めていないという振りくらいは、麗羽にも諸侯にも見せておかなければならない。

 これでさらに兵の損耗を避けることはできなくなったが、虎牢関を突破することができれば残りの要所は洛陽ただ一つ。連合軍全体の数もそれほど減じてはいないのだから、その時くらい後ろで座していても文句は言われまい。

 盟主として洛陽に入ることができれば、面目は保たれるのだ。

 後は――

「さあ、それでは華麗に全速前進ですわ!」

 考えていた全てを台無しにする言葉は、麗羽から発せられた。斗詩が否定の言葉を吐くよりも先に兵達が咆哮をあげる。その全てが麗羽の言葉を支持するものだった。度重なる戦で兵数を減じても、虎牢関を落とすのは自分たちだと疑っていない。

 愚鈍もここまで行けば武器にもなる。平時であればそれを頼もしく思うものだが、今は状況が違った。ここで単独で攻めるのは得策ではない。それを麗羽には折に触れて説明したはずなのに、敬愛すべき主はすっかり忘れていたようだった。

 せめて他の二軍も一緒であるなら。かすかな希望をもって両翼を見るが、馬超軍も曹操軍も動く様子はない。単独で事に当たるので手出し無用、という話が通っているとしか思えなかった。

 自分の知らない間に、使いまで出したのか。用意の良さに内心舌を巻くが、これについては気づくことのできなかった自分にも落ち度はある。単独では虎牢関は落とせない。まともな思考をしているのならば、それを理解することはできるだろう。曹操も馬超も分かっていたからこそ、単独での行動を見逃したのだ。

 今日のこの行動で虎牢関が落とされることはないと、彼女らは確信している。これから行われる戦闘は、自分たちが関を落とす準備に過ぎないと、心底で理解しているのだ。

 いずれ敵になる人間に利する行為をやらなければならない状況に歯噛みするが、吐いた言葉を引っ込めることはできない。盟主、袁紹の言葉であるのならば尚更だ。彼女は殊更、名誉というものを重んずる。それが他人から見れば見当違いのものであったとしても、彼女にとってはそれが何よりも重要なのだ。

 斗詩は思考を切り替える。

 主にとって重要であるのならば、自分にとっても重要には違いない。その目的を達することこそ、臣下である者の勤めだ。敗走が不可避であるのならば、被害を少なくするしかない。壊滅的な打撃を受ける前に、曹操たちに最前線を譲る。

 大門に向けて一直線に進軍しながら、斗詩はその策を幾重にも考え始める。

 その考えを嘲笑うかのように、大門に動きがあった。

 ゆっくりと、それが開いていくのだ。その奥には精兵が並んでいる。覇気に満ち満ちた董卓軍の兵が大門が開け放たれるのを待ちきれないように動き出す。咆哮があがった。袁紹軍の兵ではない。董卓軍、次から次へと大門から出てくる敵兵が、天を劈くような声をあげている。

 その気合に、袁紹軍の兵は飲まれてしまった。先頭の兵が進軍の足を止め、後続の兵がそれにぶつかり混乱が起きる。

 退却。その号令を出すのも遅れた。

 それを見逃すような董卓軍の兵ではない。

 先頭を駆けているのは、紺碧の張旗。神速を誇る張遼の騎馬隊が先陣を切り袁紹軍を蹂躙していく。

 自らの身体に刃が振り下ろされるに至って、ようやく袁紹軍は算を乱して逃げ始めた。逃げるなと怒号を飛ばす麗羽を抱えるようにして斗詩も退却する。あれだけの突破力のある張遼隊にとって、袁旗など良い的だ。

 逃げなければ殺される。斗詩はそれを理屈ではなく本能ではっきりと理解した。

「あたいが殿を務めるよ」
「ごめん、文ちゃん」

 いいってことよー、と軽く応えて、猪々子が部隊を率いて突撃していく。二枚看板の名前は伊達ではない。彼女が走りながら号令を発すると散っていた部隊は瞬く間に体裁を整え始めた。壁となった軍を前に、流石の張遼も進路変更を余儀なくされる。猪々子に率いられた部隊はそのまま、麗羽の撤退を援護するように展開し、後続の歩兵部隊を受け止め始める。

 両翼は、ようやく動き始めていた。関から敵が出てきてくれたのだ。兵の強さに自信のある武将にとって、これは好機だろう。

 もっと早く動いてくれれば。忌々しく思うが、彼女らを責めることはできない。

 それが恥の上塗りになることを、斗詩は知っていた。

 袁本初の旗の元にいる自分の不名誉は、翻って主の不名誉にも繋がる。主の顔に泥を塗るような真似をする訳にはいかない。

 天に向けて叫びたくなるような気持ちを抑えて、斗詩は駆けた。




 


















「一週間。あの戦力にしては思ったほど粘ったものだけど、流石にこの辺りが限界のようね」

 虎牢関から湧き出てきた董卓軍に蹴散らされ、敗走する袁紹軍を見ながら華琳は一人呟いた。

 袁紹軍の敗走に合わせて曹操軍も既に動き出している。予想よりも大分早い出番ではあるが準備について抜かりはない。袁紹軍は負けるものとして、馬超軍にも共闘の話は持ちかけてある。飛び出す時については各々の判断に任せると大雑把にしか決めていなかったが、流石に錦馬超も歴戦の武将。こちらが動き始めるに呼応して関に向かって駆け出していた。

 中央の袁紹軍を追い散らした董卓軍は、それを迎え撃つように大門の前に布陣した。元華雄隊を中心とした董卓軍の歩兵部隊である。錦馬超の騎馬隊とて大陸最強の一角ではあるが、槍をずらりと並べて迎え撃つ歩兵が相手では如何にも分が悪い。そのまま関を落とさんとする勢いだった馬超軍は大門を前に進路を変更。後続の歩兵の到着を待っての攻略に切り替えたようだった。

 曹操軍は変わらず、大門を目指して進軍する。城門の上から弓兵がこちらに狙いをつけているのが分かるがそれは多少の犠牲と割り切ることにした。火急目指すべきは大門の攻略、関の中に押し入ることだ。

「先鋒、春蘭。二万を率いてあの歩兵に当たりなさい」

 指示を伝えると、伝令は軍の先頭へ駆けていく。一番槍は春蘭自ら志願してきたものだ。氾水関の戦いでは遅れをとり、此度の戦いでは一週間も袁紹軍に頭を押さえつけられた。戦場で縦横無尽に駆けるのが、春蘭の本分である。ようやく自分の見せ場が来たと気合も十分な彼女以外に、先陣を任せられる人間はいない。

 春蘭隊二万が、軍全体から離れて進軍していく。馬超軍だけを相手にしていた董卓軍の一部が迎え撃つべく大きく前に出た。大門が開け放たれているせいで、関の中からは続々と兵が出てくる。

 元より相手の方が数が多く、その全てが出てくるとなれば劣勢は否めないが、一度敗走させたとは言え文醜の率いるおよそ二万がまだ留まり続けており、敗走した袁紹軍も時間が経てば体勢を建て直し、またやってくるかもしれない。

 何よりその後方にはまだ手付かずの袁術軍が残っている。袁紹軍と比べても遜色のない雑兵軍団であるが、攻城兵器に財力を割いていない分、心持ち兵の質も良い。どんぐりの背比べであるが、その少しが勝敗を分けることもある。連合軍の中で最大数を誇る軍が投入されては、勝負の行方も分からなくなる。

 董卓軍としては、後方の軍がまともに機能する前に勝負を決めたいはずだ。守備のために出てきたとは言え、早いうちに勝負を決するためにその攻めは苛烈なものになるはずである。

 そんな精兵を前に曹操軍は約六万。これには連合軍に参陣した兵のほぼ全てを投入している。精強な騎馬隊とそれを補佐する歩兵という攻勢で、合わせて三万強の馬超軍のおよそ倍の兵力であるが、虎牢関に詰めている董卓軍はこれを合計した数の更に倍はある。

 この二軍で事に当たるのならばなるほど、確かに不利ではあるが、ただ関を落とせば良いだけのこちらと異なり、董卓軍は奥の軍にまで注意を払わなければならない。短期決戦に臨んでいる分、戦術にも選択肢が限られている。

 それを組みやすし、と見るより他はない。出てきた兵は皆殺しにするくらいの気持ちで、華琳は戦に臨んでいた。

 あの麗羽が最前線を譲った。十全な戦力で攻略に臨めるのは恐らくこれが最後になるだろう。

 目障りな幼馴染の下につくのを是としてまでここまでやってきたのだ。ここで功を立てなければ、自分の誇りにも、付き従っている兵にも申し訳が立たない。

 麗羽が愚にもつかない名誉に拘るのと同様に、華琳は己の名誉に拘った。自分の目指す物が彼女の目指す物と同じ名前をしていることに憤りを感じないではないが、他人が何に誇りを抱くのかにまで干渉するほど暇でもない。

 自分が何をすべきか知っていれば良い。何が大事なのかを理解していれば良い。

 他人など、特にあの麗羽など関係はない。覇道の邪魔をするものは、この力を持って蹴散らすだけだ。

「敵騎馬隊、進路を変更しました。約一万五千、こちらに向かってきます。紺碧の張旗、張遼です!」

 大陸最強の騎馬隊が、こちらに向かって駆けてくる。先頭を行くのは無論、張遼だ。

 こちらの主力は歩兵である。董卓軍と戦うに当たって、騎馬隊迎撃のための調練を特に積んでいる。張遼隊が大陸最強の騎馬隊であることに異論はないが、こちらの錬度がそれを上回っているという自信もあった。

 加えて兵数でもこちらが上回っている。関に近づけまいと、城壁の弓隊の援護もおぼつかない距離だ。数的有利を持ったまま相対すれば、撃破できるのは目に見えている。そういう引き算のできない張遼ではないと思うが……こちらに駆けて来る騎馬隊からは、玉砕覚悟という気風は感じられない。

 敵を掃討するのだという気配が、ありありと感じられる。何かこちらを倒す算段を持っていると考えるべきか…

 華琳が考えてを巡らせていると、右翼から悲鳴が上がった。陣形が崩れるのを感じ取りながら、状況確認の声をあげる

「呂布です!」

 応えた声は、この上もなく簡潔だった。後から入ってきた詳細な報告によれば、呂布が約五十の供回りを連れて、騎馬で突っ込んできたのだと言う。これを兵は撃退したというが、一つ突っ込んできただけであるのに、百人単位の犠牲者が出たというのだ。

 袁紹軍の兵士とは違う。曹操軍の兵士が、百人だ。これで呂布の部隊には――大軍の激突にあって、部隊というにはあまりにも少数だったが――被害らしい被害は出ていない。

 彼女が突っ込んでくる度に、兵が百人減っていく。毎回百人もって行かれるとして、率いている兵は四万。呂布が諦めずに攻撃を続けていたとして、全て使い潰すつもりでも、四百回の突撃を耐えることができる。

 その試算に、華琳は愕然とした。自分の精兵がたかが四百しか持ちこたえることができないのだ。如何に呂布が脅威であるかを思い知った華琳は、どうにか呂布を排除できないかということに頭を巡らせた。

 単騎で討つのは、おそらく不可能だろう。あくまでそれを挑むのならば春蘭を当てるしかないが、彼女は今精兵二万を率いて進軍している。本隊から離れている春蘭を呼び戻すのは、関を巡る戦いに参加することの放棄を意味していた。

 華琳は春蘭に伝令を飛ばした。こちらはこちらで処理する故、任務達成まで帰ってくるな。

 これくらいやらなければ春蘭のことだ。虎牢関の攻略を放ってこちらにやってきかねない。春蘭抜きで呂布をどうにかできるかは怪しいが、長年の部下にどうにかすると大見得を切ったのだ。それで覇王曹操ができませんでしたでは、格好がつかない。

「秋蘭、貴女は呂布だけを狙いなさい。アレが喰らい突いてきたら射殺すように。貴女の部隊の指揮は私がやるから、呂布に専念するのよ」
「御意」

 と短く答えて、秋蘭は一人移動する。大外から喰らい突いてくる呂布を狙うには、位置取りが肝だ。指揮を華琳が引き継いだ以上、秋蘭がここに留まる理由はない。

 騎馬隊の指揮に張遼、馬超が類稀なる才能を見せるように、秋蘭は弓の腕でその名を知られている。その強弓でもって繰り出される矢は如何に飛将軍呂布と言えども無視はできまい。

 秋蘭の一矢で呂布を討ち取れるかは、彼女の力量を知っている華琳の目から見ても微妙なところだったが、それで少しでも呂布の勢いを削げるのならば、指揮官としての秋蘭を手放したとしても十分にお釣りがくる。

 呂布については、これで問題ないと割り切る。後は張遼を討ち果たし、春蘭に合流するだけだ。

 張遼が仕掛けてくる。左翼。凪が守っている辺りだ。春蘭の率いていた部隊に比べると質の面で聊か劣るが、指揮官である凪に良く従う良い部隊だった。その凪の部隊が槍を構え、張遼の騎馬隊を押し込める。

 流石に敵は大陸最強の騎馬隊。厳しい調練を潜り抜けた凪の部隊に喰らいつき、突破してやろうと押し込んでくるが、先陣に立ってその拳を振るう凪の活躍により、張遼は突破を諦め、再び外へと抜け出していく。

 勝負になっていることに、華琳は僅かに安堵した。

 張遼の騎馬隊が、幾つもの部隊に分かれていく。一千単位で分かれたらしいその騎馬隊はその位置を目まぐるしく入れ替えながら、四方八方から曹操軍に仕掛けていく。多重攻撃に軍全体が軋んだような音を上げる。

 圧力こそ分散したが、周囲全てから襲い掛かってくる張遼の騎馬隊のやり方は、曹操軍に嫌な圧をかけてくる。腰を据えて戦えているのに、相手の気風に飲み込まれているような気持ち悪さが、華琳の心に湧きあがった。

 相手の良いようにされてはいけないのに、張遼は我関せずと攻めてくる。

 口の端をあげて、にやりと笑った。この気持ち悪さは、嫌いではない。自分を苦しめている難敵の出現に、華琳の心は高揚していた。

 右方から悲鳴があがる。呂布の突撃だ。凄まじい速度で突っ込んでくる真紅の呂旗に向かって狙い済ましている影が一人。兵の海の中でもその姿は一目で分かった。秋蘭だ。自慢の強弓を引き絞り、ただ一人呂布に狙いを定める姿は、美しい物を見慣れている華琳の目から見ても、素直に美しいと思えた。

 研ぎ澄まされた殺気が、矢と共に放たれる。一息で、二矢。呂布の身体に吸い込まれるようにして飛来したその矢は、その戟によって弾かれる。

 失敗した。

 しかし、呂布の勢いは大きく減じることとなった。最初の二射を皮切りに、秋蘭の射撃は続いている。呂布ただ一人を狙って立て続けに行われる執拗な狙撃を、呂布は戟をふるって叩き落していく。兵の海の中、正確に呂布を射る秋蘭も秋蘭なら、それを何事もないように迎撃する呂布も呂布だった。

 その呂布の勢いが、完全に止まる。兵の中で足を止めてしまった騎馬隊は、たちまち歩兵に囲まれた。呂布を討たんと兵が群がっていくが、呂布は事も無げに戟を振るい、その首を刎ねていく。腰を据えても兵を皆殺しにできたろうが、それは秋蘭がいなければの話だ。

 流石に秋蘭の矢を捌きながら兵まで相手にするのは無理を悟ったのだろう。供の兵を引き連れて踵を返した呂布を、兵達は追うことはしなかった。去るのならば追うなというのは、華琳の指示だ。

 ここで呂奉先を討つ必要はない。討つに越したことはないが、彼女を無視しても虎牢関を越えることはできる。兵の数は力だ。無理に呂布を相手して、力を減ずるのは如何にも惜しい。

 こうしている間にも、大門を巡る攻防は続いている。春蘭の率いる部隊は数こそ虎牢関の全軍に大きく劣るが、曹操軍の中でも突破力に優れた兵だけを集めた精鋭だけに、董卓軍の兵をぐいぐいと押し込んでいる。董卓軍も城壁の兵にて援護を続けているが、敵味方入り乱れての場所に矢で援護をするのは至難の技だった。

 兵数に劣る勢力に押し込まれていることに、董卓軍にも焦りが感じられ始めた。

 馬超軍の騎馬隊も良い仕事をしている。先に飛び出した歩兵部隊が春蘭軍の方に全力を傾けないよう、全軍を上手く指揮してその行動を封じていた。

 張遼の騎馬隊と呂布については、曹操軍が引き付けている。大門を落とすならば今なのだ。

 その好機を逃すまいと、撤退する袁紹軍の中を逆走して突っ込んできた軍があった。

 右翼寄り、曹操軍に近い位置に颯爽と現れたのは、真っ赤な孫の旗。江東の虎と恐れられる孫策に率いられた勇猛果敢な軍である。

 その軍が二つに割れる。全軍のうちのほとんどが大門に向かい関の攻略を目指すのに対し、五千ほどの部隊がこちらに向かってくる。
旗は甘。

 華琳でも思い出すのに少しだけ時間を要した。

 確か甘寧という、江賊あがりの将の部隊である。新兵ばかりを集めた弱小の部隊と聞いていたが、氾水関の戦いでは関を落とした劉備軍の援護のために参戦し、主たる孫策が劉備に恩を売ることに一役買っている。

 先の戦いで数を減じてはいるが、実戦を経験した兵の力量は以前とは比べるべくもない。まだ新米には分類されるだろうが、良き将に率いられた兵は、驚くべき力を発揮する。援護としては心強い相手だった。

「江東の孫策から援護がきた。ここで醜態を晒せば、大陸全土に広まることになる。曹操軍の誇りを彼らに見せよ!」

 華琳の飛ばした激に、将兵は雄叫びを挙げて応えた。






















「団長、俺達は関を落とすのではないんですか?」
「関を落とすのはうちの大将の役目。俺達は曹操の援護だってさ」

 我先に逃げようとする袁紹軍の中を逆走し、開けた場所に出た一刀の見たものは、氾水関以上の激戦だった。何故か大門は既に開かれているらしく、その近辺では凄まじい攻防が広がっている。向かって左では董卓軍の歩兵と連合軍の騎馬隊が死闘を演じ、右では董卓軍の騎馬隊と連合軍の兵――曹の旗が見えるから、曹操軍だろう――が戦っていた。

 そちらには、張の旗と呂の旗も見える。あの張遼と呂布がいる。その事実を知っただけで、一刀の背に気持ち悪い震えが走るが、甘寧隊が向かうのはその元凶たる二人の敵将がいる戦いの只中だった。

「関の戦いに参加した方が美味しくありませんか?」
「矢が雨の様に降る中を通って、俺達の何千倍もの兵と戦いたいか?」
「何千倍ってのがどれくらい凄いのか良く分からないです」
「夜空の星の数くらいと思ってくれれば良い」
「それなら、あっちの連中と戦った方が良さそうだ」

 さあ行きましょう、と気楽な調子で子義は答える。戦場での緊張など全く感じさせない物言いに、一刀だけでなく他の隊員の気も紛れた。良い意味でも悪い意味でも深く物事を考えない子義の気楽さは、一刀隊の精神的な支柱でもある。

「これより、曹操軍の援護に入る。各員、孫策様の名に恥じぬ戦いをせよ」

 曹操軍との距離が二百メートルを切った辺りで、甘寧からの檄が飛んだ。彼女の荒っぽい直属兵を中心に雄叫びが隊全体に広がっていく。ここまで近付くと張遼隊の方も近付く敵対勢力アリと認識するようで、万を越える騎馬隊の一部が、こちらを標的に捕らえた。

 その騎馬隊に対し、甘寧隊は足を――止めない。

 敵の騎馬隊にも動揺が走るが、突撃力では騎馬に分があるのも道理だ。およそ千人ほどの騎馬隊が正面から一つ、右側面から一つ甘寧隊を蹂躙しようと突っ込んでくる。

 二つの騎馬隊に捕捉されたのが肌で感じられるようになってようやく、甘寧隊は足を止め槍を構える。騎馬隊からすれば、それはあまりにも遅すぎた。向かって正面の騎馬隊が速度を挙げる。騎手の顔が判別できる、それくらいの距離になってようやく、甘寧は号令を発した。

「明命! やれ!」

 その号令と共に、正面の騎馬隊の先頭を走っていた兵の首が飛んだ。突然舞った血飛沫に、正面と側面の騎馬隊の足が遅くなる。

 そうなると格好の的だった。影のように湧き出た徒歩の一団が正面の騎馬隊に取り付き、その騎手を次々に屠っていく。謎の軍団の出現に甘寧隊の兵にも動揺が広がるが、今まさに襲われている騎馬隊はそれどころではない。甘寧隊など無視して、謎の兵団の掃討に全力を注ぐこととなった。

 あまりと言えばあまりの光景に、甘寧隊にも動揺が広がる。一刀も仲徳が独り言を装って教えてくれなければ、ここがどこであるのかも忘れて見入っていたことだろう。敵軍だけでなく甘寧隊の足も止まってしまったが、甘寧の怒号によりすぐに復活する。

 誰も皆、甘寧のことが恐ろしいのだ。

 甘寧の号令で向きを変更した部隊は気勢をそがれた右側面の騎馬隊に正面から突っ込んでいく。勢いのない騎馬隊など、ただ大きいだけの兵に過ぎない。元より、数も勝っている。直属隊を先頭にした甘寧隊は瞬く間に騎馬隊を撃退する。

 三百ほど数を減らした所で、右の騎馬隊は戦線を離れた。殲滅するには至らなかったが、まずは快勝と言ったところだろう。

 正面の騎馬隊は奇襲の効果もあって、半分ほど数を減らしたようだった。それを成したのが小柄な美少女の率いる百人ほどの部隊だというのだから、毎日殴られながら調練をしている一刀としては驚くばかりだった。

 綺麗な黒髪をした丈の短い忍服を着た少女は、殺した騎馬隊の残していった馬を奪い取ると、甘寧に向かって一礼して部下と共に駆け去っていく。

 普段は密偵を率いている立場の少女だが、今日の戦はここ一番と武将として参戦していると仲徳から聞いた。あの細い体のどこにあんな芸当を成す力があるのかと、少女を前にしても疑問に思わずにはいられなかった。

 人は見かけによらないということを、この世界にきて嫌というほど味わった一刀だったが、その驚きはまだまだ消えそうになかった。

 だが、驚きに浸ってもいられない。敵を倒せば、また新しい敵を見つけて交戦する。

 それが今の一刀の仕事なのだ。
 
 向かってきた騎馬隊を蹴散らしたことで、曹操軍の合流するのを阻むものはなくなった。曹操軍は円陣を組んで張遼隊と相対している。甘寧隊は最も近い部隊に近付いた。楽の旗を掲げた一団は今まさき騎馬隊の攻撃を受けていた。突破力に物を言わせて曹操軍を蹴散らそうとする騎馬隊に、曹操軍は槍を並べて対抗している。

 兵の質で劣っているのか、一刀の目には騎馬隊有利に見えたが、曹操軍の兵の中で一人獅子奮迅の働きをしている者がいた。顔立ちまでははっきりと見えないが、銀色の髪をした少年とも少女ともつかない人間である。恐らく、将軍なのだろうその人間が『拳』を振るうとそこからオーラが発生し、敵兵を馬ごと吹っ飛ばすのだ。

 言葉にすると正気を疑われかねない光景だが、事実なのだから仕方がない。部隊全体は押され気味ではあったものの、常軌を逸した戦法で敵兵をなぎ倒す将の活躍により、騎馬隊は進路を変更して外に飛び出してくる。

 そこに、甘寧隊は待ち構えていた。

 今まさに駆け出そうとしていた騎馬隊に、勢いはない。それでも強引に加速して突破しようとする騎馬隊に甘寧隊は次々に取り付いていく。これを好機と見たのか、曹操軍の方からの兵が踏み出してきて、挟み撃ちの体勢になる。

 いかに神速の張遼隊と言えども、前後を挟まれ、その機動力を封じられては真価を発揮することはできない。足を止められても勇猛果敢に戦ってはいたが、一人、また一人と討ち取られていく。

 敵を倒している。剣を振るいながら、一刀は高揚感に支配され始めていた。

 男ならば、人間ならば誰しもが求めるものだろう。自分は強い。そう思えるような光景が目の前に広がっている。自分一人の力ではないが、そんなことは関係がない。

 敵を倒している。その事実の何と心地よいことだろうか。

 そのまま突っ走っていたら、取り返しのつかないことになっていただろう。自分を律することのできないものは、長生きすることはできない。荀彧にも奉孝にも仲徳にも、最近では甘寧にまでずっと口を酸っぱくして言われ続けたことである。

 正気に戻れたのは、その教えを思い出したからではない。一刀の背に例えようのない恐怖が走ったからだ。

 唐突に訪れたその感覚に一刀は攻撃の手を休めずに辺りを見回す。敵の槍が頬を掠めたが、そんなものなど気にならないほど、その悪寒は一刀の本能に警鐘を鳴らしていた。近くで戦っていた子義が、遠くの一点を見ているのが見えた。

 そちらに視線を向ける。真紅の旗が見えた。五十にも満たない騎馬の一団。それがこちらに向けて真っ直ぐにかけてきている。

 旗には『呂』とあった。

 まずい、と思った時にはもう遅い。逃げる騎馬隊を挟み撃ちにするべく、甘寧隊は結構な深さまで敵部隊まで食い込んでいる。逃げるにしても迎撃するにしても、完全に行うには時間が足りない。一番外側にいた兵が気づき、槍を並べているが、そんなもので呂布の勢いは止まらないだろう。張遼隊の兵にしても決して二流所ではないのだろうが、一刀の素人目に見ても、呂布の部隊は格が違った。

 甘寧が自身の部隊の中ほどまで強引に移動し、呂布迎撃のための指示を出す。甘寧隊のおよそ半分がその指示に従い、呂布に向けて槍を並べる。甘寧もそちら側に参加した。それによって挟み撃ちの構図は崩れ、張遼隊が外に向かって逃げて行くが、それを追うだけの余裕は甘寧隊にはなかった。

 呂布の部隊が甘寧隊と接触するよりも十秒ほど早く、一刀は動きだしていた。本能に従って呂布から距離を取ったのではない。悪い予感に従って、なおかつ、呂布に向かって足を踏み出していた。号令を出した訳ではないが、突然動き出した責任者に、一刀隊は全員でついてくる。仲間の足音を背後に頼もしく感じながら、一刀は駆けた。

 甘寧隊の先陣が呂布と接触する。戦闘では決してない。呂布に攻撃しようとした兵は、それを達成することもなく絶命した。馬で駆け、戟を振るう。呂布がしているのはそれだけであるが、ただのそれだけで兵は死体になった。一振りで十人は殺しているだろうか。銀髪の将がオーラを放っているのを現実味がないと思ったばかりだが、呂布の強さはそれ以上だった。

 鬼神のような呂布は、一直線に駆けている。進路を塞ぐものは全て敵と言わんばかりに、戟を振るい殺していく。甘寧の直属兵が立ちふさがっても、それは同じだった。精強な兵がゴミのように蹴散らされるのを見て、一刀の足は速まった。

 あれと戦ってはいけない。あれは人ではなく災害だ。戦えば殺される。共に戦った仲間が殺されることに、一刀は耐えられなかった。

 隊を率いる甘寧は、一刀よりもずっと内心で感情の嵐が吹き荒れていただろうが、やってくる呂布に相対する彼女の表情は落ち着いたものだった。彼女の腕ならば一人逃げることはできただろう。この場にいる呂布を除いた人間の中で最も強いのは甘寧だ。

 しかし、甘寧は逃げなかった。呂布に勝てないというのは、甘寧にも解っているはずである。逃げなければ殺されるということも、重々分かった上で、甘寧は逃げなかった。

 それが武人としての誇りなのか何なのか。一刀には分からなかった。理解したいとも思わない。

 ただ、どんなに身勝手な思いであっても、甘寧には死んで欲しくないと思った。

 だから、一刀は動いた。

 仲間の首や胴体が舞う中、甘寧は静かに愛刀を構えた。呂布が彼女を捉え、戟を振りかぶる。

 あれが振り下ろされれば、殺される。その段になっても甘寧は逃げない。この剣で呂布を討ち取ってやる。静かな瞳にはそんな気概すら感じられた。

 間に合え、間に合え。

 心の中でそう念じながら、一刀は足を踏み切った。十分な速度と渾身の力を込めた体当たりである。少しでも呂布から遠ざけるように甘寧を抱きとめ、地面に身を投げる。腕の中で甘寧が驚きの表情を浮かべるのが見えた。

 最初に耳に届いたのは、耳に残る嫌な金属音。次いで衝撃だった。

 腰を砕くような一撃は、そのまま一刀と甘寧を吹き飛ばした。地面を転がりながら後続の仲間に指示を飛ばす。

「将軍を守れ!」

 一刀の言葉に、仲間たちは躊躇わなかった。子義を先頭についてきた仲間たちは、呂布の騎馬隊に怯むこともなく、槍を並べて一刀と甘寧を囲み、迎撃する。

 敵の先頭である呂布が既に通り過ぎていたことで、圧力のピークは過ぎていたが、呂布に続く敵騎馬もまた精強だった。ここにいるのが敵部隊の大将であることを感じ取ったらしい彼らは、行きがけの駄賃とばかりに圧力をかけていく。

 その攻撃に一刀隊の仲間も無事では済まないが、彼らは一刀の指示を忠実に守り、甘寧を守ることに尽力した。

「退け!」

 腕の下から拳が飛び、一刀を吹き飛ばす。這い蹲りながら一刀が見たのは、一刀隊を飛び越えて愛刀を振るい、敵の首を飛ばす甘寧の姿だった。そのまま馬を奪い最後尾の騎馬隊を追い回すが、敵兵の中に甘寧と戦おうとする者はおらず、一目散に逃げる敵兵を追うことを甘寧はしなかった。

 点呼を命じる甘寧に追従するように、一刀も同様の指示を出す。子義が持ってきた答えは、ちょうど五十だった。仲間を半数近くも失い眩暈を覚える一刀を襲ったのは、絶望以上の激痛だった。

 どうにか立ち上がるが、腰が尋常でないほど痛む。歩けない、走れないほどではないが、その傷みは決して無視できるものではなかった。

「分不相応なことをするものだ」

 馬に乗ったまま、部隊の再編を命じた甘寧がやってきた。自然と見上げるような形になるが、上を見るというただそれだけのことでも身体は痛みを訴えてきた。

「呂布の前に身体を投げ出すとはな。お前には自殺願望でもあるのか?」
「将軍を守らなければと必死でした」

 お前が言うな、という気分ではあったが一刀は正直に答えることにした。心の内を包み隠さず話すのが、甘寧に殴られないための秘訣である。

「その剣に感謝するのだな。呂布の戟を受け止めてかつ折れないなど、常識外れにも程がある」

 甘寧の視線は、一刀の腰の剣に向けられている。呂布の一撃で鞘は吹き飛んでいたが、刀身は健在だった。見た限り刀身に傷もない。呂布の戟を受け止めてこれなのだから、確かに常識外れだ。

「送り主に似て、根性が座っているのです」
「そうか……その送り主には良く感謝をしておけ」

 甘寧の直属隊の点呼も終わった。この戦に望む前には約二百いた直属兵は、七十にまで数を減じていた。呂布の部隊を受け止めた、ただそれだけでこの被害である。如何に呂布が凄まじいのかを思い知る一刀だった。

「北郷、お前の隊は私の直属に編入する。お前も含めて、この戦が終わるまで私の指示をで動くのだ」
「了解しました」

 子義が隣で不満そうな顔をしていたが、上司がそういうのだから一刀の答えは是しかない。一刀はすぐさま隊を集め、甘寧に指揮を明け渡した。直接指揮をするのは初めての部隊だったが、流石に経験の差か、甘寧は瞬く間に再編成を終え、直属兵の生き残りも含めて一つの部隊とした。

「お前は副官の一人としよう。私の近くで戦え。身体は痛むだろうが。それで気を抜くことはないようにな」
「それはもう。肝に銘じておきます」

 こんな乱戦模様で気を抜けば、待っているのは死だけだ。頭に血が上っているのならばいざ知らず、今まさに鬼神のような呂布を前にした後では、生きるということに謙虚な気持ちにならざるを得ない。身体の痛みも良い方向に影響していた。戦に臨む前よりもきっと、生きるということに関しては注意を払えることだろう。

「それから、そうだな……」

 甘寧は一つ咳払いをすると、人を払った。距離こそ大して離れていないが、声を潜めればその声は届かないだろう。何とか近寄ろうとする子義が直属兵達に阻まれているのを横目に見ながら、一刀も声を潜める。

「何でしょう。何か粗相がありましたか?」
「いや、お前の部隊は良くやっている。それについては、相応の褒美が与えられるだろう。私の口ぞえで報酬は正規兵と同様。本人が望むならば正規兵としての雇用を約束する」
「隊長の俺としては、奴らのことを思うと嬉しい限りですが、良いのですか?」
「働きには相応の報酬でもって応えるのが上に立つ者の勤めだ」

 そこで甘寧は言葉を切った。何やら視線も安定していない。即断即決の甘寧にしては珍しい態度だった。

「……中でも、お前の働きには感謝している。先はああ言ったが、良くやってくれた」
「当然のことをしたまでですよ」
「お前はそう言うが、命一つの借りだ。これを軽々しく扱うことはできない」
「相応の褒美が与えられるのでしょう? 俺はそれで十分ですよ」

 仕事以上のことをしたとは思っていない。百人隊長として敵を討つのと同じくらいに、仲間を、指揮官を守るのは当然のことだったからだ。褒美を約束してくれたのだから、それ以上を望むのは強欲なことである。一刀は心底それで十分と思っていたが、甘寧は納得しなかった。

「それは職務としての対応だ。私は私として、お前の働きに報いなければならん」
「そこまでしてもらう必要は……」
「命一つの借りだ。お前はそれだけの働きをしたのだ。黙って受け取れ」

 口調にも熱が篭ってきた。これ以上口答えをすると拳が飛んできそうだったので、一刀は大人しく頷くことにした。褒美がほしくてやったことではないが、話が纏まり始めたこの状況で殴られるのは、流石に割りに合わない。

 甘寧は頬を僅かに染めながら、視線を逸らして呟くように言った。

「お前に私の真名を許す。これから私のことは、思春と呼ぶが良い」
「……今なんと?」

 思わず聞き返した一刀の顔に拳が飛んで来た。今までで一番力の篭った良い一撃だった。地面に転がり、割に合わないと思いながら甘寧――思春を見上げると、彼女は既にこちらを見ていなかった。

 慌てて、その後を追う。顔を見ようとしたら目を背けられた。思春は柄にもなく照れていた。

 大きく息を吐くと、思春に睨まれる。その視線をやり過ごしながら、一刀も努めて何でもないように言った。

「承りました。信頼に応えられるよう、微力を尽くします」
「お前の働きに期待する」

 その話はそれで終わったが、戦はまだ終わっていない。編成を終えた甘寧隊は大きく数を減じながらも戦線に復帰する。

 曹操軍と連携しながら張遼隊との戦いを続けたが、状況が変わったのはそれから暫くしてのことだった。

 大門の方で、一際大きな歓声が挙がったのだ。

 そちらを見ると、孫の旗が大きく揺れているのが見えた。董卓軍の旗と夏侯の旗は見えない。その両方が関の中に消えたということ、そしてそれが意味することを理解するのに、少しの時間がかかった。

 動揺が、甘寧隊と曹操軍全体に走る。

 董卓軍の動揺はそれ以上だった。曹操軍を攻囲していた張遼隊はすぐさまそれを解き、大門に取って返した。呂の旗もいつの間にか消えている。連合軍側に状況が大きく傾いたのだ。

「行くぞ。我らも孫策様に続くのだ」

 孫の旗も関の中に突入しようとしている。体勢を立て直した袁紹軍の一部も、夏侯の旗が関の中に入ったのを見て、動き出していた。少なくとも、袁紹軍に遅れを取る訳にはいかない。

 まだまだ新兵の気が抜けない一刀には分からないが、孫策配下の思春には色々と思うところがあるようだった。奴らよりも早く、と厳命する思春に従いながら、一刀も関に向かって駆け出した。














 後年、董卓軍と連合軍の最大の戦いとされた虎牢関の戦いは、この日終結した。

 虎牢関につめていた董卓軍は最後まで激しい抵抗を続けたが、夏侯惇、孫策などの活躍によって退けられ、十万を越える兵を失い、虎牢関から撤退した。

 張遼と呂布については、捕虜となった董卓軍の兵もその行方を知らなかった。あわよくば生け捕ろうと思っていた袁紹などは大層悔しがったというが、呂布に相対した人間は、生け捕りを強制されなかったことに安堵した。

 できればもう二度と、相対したくない。呂布を前にした人間の、それが共通の心理だった。 

 一刀もそれは同様で、自分が呂布の戟を受けて生き延びたことを、酒の席で面白可笑しく仲間に話しながら、もう会うまいと杯を空にする度に念じた。
 
 もっとも、近いうちにそれは破られることになるのだが……

 虎牢関を落とした祝いの席で珍しく酔いつぶれた一刀に、それを知る由はなかった
 




 

戦パートはこれで終わりです。
次回からは戦後処理編に入ります。











 















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十八話 戦後処理編IN洛陽①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:58
 


 虎牢関攻略戦を乗り越えて甘寧隊副官の地位を得た一刀だったが、待遇自体はそれほど変わらなかった。

 まず、いくら思春直々に召し上げられたと言っても、正規兵と同じ能力を持っている訳ではない。副官としての仕事など一刀はしたこともないし、正規兵扱いになっている北郷隊についても同様だ。

 むしろ、格差については北郷隊の方が酷いと言える。新兵に毛が生えた程度の彼らに正規兵と同じ働きなどできるはずもないが、同じ待遇にすると言った以上、働きについては同じだけの物が求められるのも仕方のないことだ。

 使う側も頭から完遂することを要求している訳ではないが、長いこと思春の部下を務めてきた人間からすれば、色々と足りない北郷隊の面々は頼りなく見えるようで、今も影に日向に怒鳴り声が飛んでいる。

 部下が外で右に左に走っている時、本来彼らを率いるべき一刀が何をしているのかと言えば相変わらずの事務仕事だった。これぞ副官の仕事とばかりに、思春は甘寧隊ほぼ全ての事務仕事を押し付けてきたのだ。戦死者の処理に部隊の再編。しなければならないことは山ほどある。

 自分一人で決められるのならば良いが、資料を元に再編案を作ってもその決済には思春他、千人隊長の承認が必要だった。その彼らがまた捕まらないのである。

 接収した敵施設を使っているだけあって、まだ関全体の把握もすんでいない。安全が保障され自由に使って良いスペースが各軍に割り当てられてはいるが、その中ですらゴミゴミとしている有様だ。関全体について把握している人間は一人もいないという状況で、誰もが事態を把握しようと躍起になっている。

 そんなお祭のような状態が、一週間も続いているのだ。敵を倒すまでが戦ではないのだと思い知る毎日である。

 嵐のような忙しさであるが、最初の三日に比べればこれでも落ち着いてきた方だった。約二万人を越える捕虜の扱いと、敵味方合わせて十万を越える戦死者の処理である。書類についての処理は後でするとしても、伝染病などの元になる死体の処理は急務だった。

 しかも数が数である。関の内外に打ち捨てられた死体は放っておけば放っておくだけ、こちらに害をもたらす。各軍の兵達は共同でこの処理に当たり、全ての死体の大雑把な処理を済ませるのに昼夜兼業で二日かかった。只管穴を掘り、死体を運ぶだけの作業に比べればただ忙しいだけの日々など、天国にも等しいと言える。

 戦争がもうすぐ終わるかもしれない、という思いもそれに拍車をかけていた。

 董卓軍の要所は二つの関と洛陽であり、既に防衛拠点であるところの二つの関は攻略した。残っているのは洛陽であるが、非戦闘員を大勢抱える洛陽まで敵を呼び込んで戦うことはできない。戦うとなれば郊外の平地でということになるが、兵数においては既に互角、しかも勢いのある連合軍を相手に、董卓軍が持ちこたえられるとも思えない。

 どんなに遅くとも半年もあれば、洛陽を落とせるだろうというのは思春の分析である。兵を率いて戦う武将らしく、実に実践的な分析を披露してくれた思春であるが、そんな彼女も今は虎牢関にいた。

 孫策軍本体他、連合軍の主力は既に虎牢関を発ち洛陽に向かっている。

 つまりは、居残り組だ。勇猛果敢な思春はこの扱いが不満であるようだが、誰かがやらねばならないこと、そして位の高さと率いる兵の状況から見て、自分が適当だということで表面上は納得しているようだった。その皺寄せは周囲の人間に来ているが思春の周囲を固める直属兵たちは思春の過激なツッコミをむしろ喜んで受け入れていた。

 それには一刀にも原因がある。先の虎牢関での戦いの最中、一刀は思春に真名を許された訳だが、彼女が真名を許すということは彼女を知る人間にとっては晴天の霹靂であったようで、一刀がその真名を口にした時、孫呉軍に激震が走った。

 中でも直属兵達の反応は凄まじく、主孫策が関を落とした功労者となったことよりもめでたいことだと大騒ぎしたものだった。そんな乱痴気が思春に好かれるはずもなく、目に付くように大騒ぎをする人間は彼女の拳によって静かにさせられたが、その熱気はいまだに留まるところを知らない。

 当事者の一人である一刀にもその熱波はやってきたが、正直、真名がない環境で育ったせいか、真名を許されるということの凄さがどれほど凄いのかというのが、イマイチ実感できていないのである。大きな信頼の証というのは分かるが、それだけだ。

 逆に、真名を許されていないからと言って信頼されていないとも思わない。お互いの真名を知らなくても、信頼しあっている人間は大勢いるだろう。一刀にしても、奉孝や仲徳、士元のことは信用している。真名を許されている人間よりも下に見ているということは断じてない。

 ないのだが、どうも真名というのは一刀の理解よりも大変重要なものであるらしく、先を越された形になった軍師ズたちに大きな衝撃を与えたようだった。奉孝などは変にこちらを意識しているのか対応がギクシャクしていたし、仲徳は普段どおりに見えて言葉の端々に棘が見えるようになった。ちゃんと拗ねてくれた士元などかわいいものだったが、そのかわいさをからかっていられるほど一刀に余裕はなかった。

 真名を預けることが信頼を示す一つの手段であっても、真名を持たない一刀にはそれが使えない。これによる信頼関係の構築については必ず後手に回ることになるのだ。真名を預けるタイミングは人それぞれだろう。本当の本当に最後の手段としている者もいれば、比較的早い段階で預ける人間もいる。

 一刀にとっては灯里や思春は後者で、奉孝たちは前者である。それだけの違いであるのだが、早い段階から行動を共にしている奉孝たちからすれば、先を越された、という思いは強いに違いない。

 誰が悪いと判断できる問題でもないから、その感情は行き場所を見出せないでいる。

 その結果として現在の関係がギクシャクしてしまっている訳だ。結局、真名についてはよく話もできないまま奉孝と士元は孫策について洛陽に向かってしまったし、虎牢関に残っている仲徳も忙しいことを理由に話をする時間をもてていない。

 彼女らを仲間と信用してはいるが、気持ちがすれ違ったままでいるのに平気でいられるほど一刀の心は強くはない。何とかしていつも通りの関係に戻りたいと思いつつも、仕事が忙しいこともあり手を打てないでいた。今まで喧嘩したことはあったが、一週間もこんな状態になったのは初めてのことだった。仕事をしながらも、仲間のことを思う毎日である。

「団長、ただいま戻りました!」

 非常の関係に陥る人間もいれば、全く変わらない人間もいる。子義はいつもと全く変わらない屈託のない笑顔を浮かべて、部屋に飛び込んできた。訓練などがない時は、暇を持て余した彼はいつも一刀の近くにいる。今は難しい話をする面々がいないだけあって、顔を見る機会も多くなった。

 落ち込んでいる時に気を使わない存在というのはありがたい。その天真爛漫さを鬱陶しく思うこともあるが、子義だから仕方がないと諦めてもいる。

「おかえり、子義。ゆっくりして行け……といいたいところだけど、またお使いだ。甘寧将軍を見つけて、これを渡してきてくれ」

 たった今作成の終わった木簡を子義に渡す。部隊について、思春の決済の必要な書類だった。計算がほとんどできず難しいことを考えることの苦手な子義であるが、こういうお使いならば十全にこなす。これだけ広い虎牢関にあっても、何故だか人を見つけるのが上手いのだ。

 木簡を受け取った子義は分かりました! と元気な返事を返し、嵐のように部屋を飛び出していく。良く言うことを聞いてくれるし腕も立つ。周囲においておくのにこれほど安心できる人間もない。

 これでもう少しお勉強に興味を持ってくれれば、と思うものの、あれもこれも要求するのは間違いだと思い直す。灯里のようにどっちもできる人間の方が稀なのだ。既に才能を発揮している面もあるのだから、子義についてはそれを大いに伸ばしてくれれば良い。長所を可能な限り伸ばし、短所は皆で補ええば良いのだ。

 それが一緒にいるということだろう。考えることが苦手ならば、周りの人間が考えて支えてやれば良いのだ。

 仕事に一区切りをつけた一刀は椅子に背中を預けたまま、大きく伸びをする。本当に一人でやっているだけに士元に手伝ってもらった時に比べると非効率的だったが、流石に何度も書類仕事をしていればそれにもなれた。扱う規模と責任は大きくなったが、やっていることに変わりはない。作業効率も最初に比べると格段に上がっているだろう。

 作業量は増えているから疲れてはいるが、今はそういう時だと諦めてもいる。戦にも一区切りつき、留守居の部隊に割り振られたこともあって、虎牢関を前にしていた時ほどの緊張感はない。きちんと食事も取れるし、睡眠も取れる。夜中に敵襲と叩き起こされる可能性も少ない。

 少し前の環境に比べれば、天国だ。

 しかし、天国の中にあっても一刀の表情は晴れなかった。以前よりも仕事の内容や環境は良くなったのに、仕事量が増えたことを差し引いても精神的な疲れが溜まっているのである。

 その原因については嫌というほど分かっていた。

 同時に、それが取り除けない類のものであることが、一刀の頭痛の種となっていた。

「失礼、北郷一刀殿はおられるでしょうか」

 その頭痛の種が、畏まった声で扉を叩いている。陰鬱な気持ちが一刀の心を支配したが、それを吹き飛ばすように大きく息を吐く。自分の役割というものを思い出し、努めて笑顔に。微笑みを作ることには失敗していたが、仏頂面よりは大分マシだと割り切ることにして、声の主に入室の許可を出した。

 失礼します、と絵に描いたような兵の動きで入室してきたのは、銀髪の少女だった。

 日に焼けた浅黒い肌に、肌の上に走る傷。一目で歴戦の戦士と分かる佇まいだったが、その銀色の髪は一刀の記憶を刺激した。どこかであったことがあると思うが、それがどこだったのか思い出せない。こんなに目立つ容貌ならば会話をすれば忘れないと思うだが……

 数秒思考を巡らせた後に、一刀の脳裏に閃くものがあった。

 確かに彼女を見かけたことはある。

 ただし、会話をしたことはない。会ったのは戦場だ。虎牢関攻略戦、曹操軍の援護に駆けつけた時、彼女はそこで戦っていた。遠目に見ただけだからあの時は性別すら分からなかったが、この銀髪、この雰囲気は一角の将で間違いはないだろう。

 あの時見た旗は『楽』。曹操軍でその姓を持つ将軍は、現在一人しかいない。

 自分よりも立場が上の人間の来訪に、一刀は席を立ち頭を下げた。

「北郷は俺です。曹操軍の楽進将軍とお見受けしますが、相違ありませんか?」
「ご丁寧にどうも。自分は確かに楽進ですが、そこまで畏まらなくともよろしいですよ。此度のことで北郷殿は甘寧将軍の副官に出世されたと聞きました。私も五千の部隊を預かる将ではありますが、まだ新参です。どうか楽になさってください」
「そう言っていただけると助かりますが、私の位は暫定的な物。将軍の職について日が浅いと仰いならば、私こそ暫く前までは百人隊長だった身。将軍に失礼な口は聞けません」

 軍という組織において上下関係が如何に大事かというのは、骨身に沁みて理解している。百人隊長は確かに部隊を預かる身ではあるが、将軍と言えば雲の上の人に等しい。甘寧と大体同じ位と言えば、アホの子の子義でもその凄さは理解できるだろう。所属する組織が違うのだからそれほどまでに敬意を払う必要はないと言う人間もいるだろうが、それでも将軍という位は無視できるものではない。

 それに、出世したと言っても言葉の通り、一刀の位はあくまで暫定的なものだ。仕事こそ副官と同じものが振られているが、あくまでこれは戦中の暫定処理なので、孫策からはまだ正式に認可されていない。従軍する前に奉孝たちが出したらしい条件にも反するから、正式に副官の地位を与えられることは恐らくないだろうと見ている。

 正式な将軍と暫定的な副官。その立場の違いは明らかだったが、楽進は引き下がることに難色を示した。

「しかし、北郷殿はかの飛将軍呂布を相手に一騎打ちを挑まれ、これを退けたとか。武勇について敬意を払うのは武人の常。何もそこまで遠慮されることはありますまい」

 微かな尊敬すら混じった熱い眼差しは、ここ数日見慣れた、そして一刀を悩ませているものでもあった。

 呂布の戟の前に晒された思春を身を挺して庇った。言葉にすればそれだけのことだが、自分で口にするには大分勇気の必要なそれが尾鰭をつけて広まっていた。

 呂布を退けたというのが、何故か事実として広まっているのである。事実に反するのならばこれを収める必要があると思うのだが、孫策陣営はこれを助長してた節すらある。使える物は何でも使おうという魂胆なのだろうが、噂の主人公にされた人間は溜まったものではない。

 自分のしたことが正しく評価されそれで褒められるのならばまだ受け入れることもできるが、恐ろしいまでに誇張されたソレは一刀を苦しめるだけだった。やってくる人間を前に否定することは簡単だが、主筋の人間が否定しなかったそれを立場の弱い人間が否定するのは角が立つ。

 結果、日本人らしいアルカイックスマイルを浮かべてなぁなぁでやり過ごすのが一刀の常となっていたが、それが一刀の精神力をゴリゴリと削っていた。身の丈に合わない嘘をつき続けるというのは、神経をすり減らすものなのである。

「運が良かっただけですよ。それに甘寧将軍の助力もあってのこと。俺一人の力ではありません」
「……」
「何か? 楽進将軍」
「いえ。手柄を上げた人間はそれを誇るものですが、貴方は実に謙虚であられる。それに感心していたところです」
「お褒めいただき恐縮ですが、自分の武はいまだ誇れるものではありません。日々精進。この言葉を痛感する毎日です」

 本心を言っただけだが、楽進はさらに尊敬の念を強くしたようだった。犬気質とでも言うのか、どこか子義に通ずるものを感じる。基本的にこちらの話を聞いてくれるが、根本にあるものは梃子でも動かない。そんな良く言えば芯の強さ、悪く言えば頑固な内面を感じつつ、一刀はポットに手を伸ばした。

「ところで楽進殿、お時間はよろしいですか?」
「しばらくは大丈夫です」
「それは良かった。実は休憩をしようと思っていたところなのです。宜しければ付き合っていただけませんか?」

 誤魔化しの言葉を使うまでもなく粗茶であるが、一応、お茶が用意してある。

 将軍さまに振舞えるようなグレードのものではないが、これが用意できる限界なのだから仕方がない。部屋の様相から、お茶がどういうものかくらいの判断は相手にもつくだろう。拒絶するならばそれで良いくらいのつもりで問うてみたが、意外なことに楽進は二つ返事でOKを出した。

「貴方さえよければ、是非に」
「おかけください。今、用意をしますので」

 椅子を勧めて、お茶の準備をする。子義がいれば彼に任せるのだが――決して上手い訳ではなにが、やらせないと怒るのだ――彼は今お使いで席を外している。この部屋で客をもてなすのも初めてだな、と詮無いことを考えながら、自分と楽進の二人分の椀を用意し、楽進の対面に座る。

「どうぞ、粗茶ですが」
「いただきます」

 丁寧に礼を言って、楽進は椀に口をつける。客人が口をつけたのを見て、一刀もそれに倣った。可もなく不可もなくのお茶である。実に今の自分に合ったレベルだと思ったが、果たして楽進の口に合うのかどうか。椀を投げ返されでもしたらどうしようと今更不安になる一刀だったが、楽進は済ました顔で椀をそっと机の上に戻した。

 顔を見る限り、不満はなさそうである。文句が出なかったことに、心中でそっと安堵する。

「北郷殿は――」
「失礼。俺はそれほどの身分ではありません。そこまで畏まらなくても良いですよ?」
「貴方はそう仰りますが、私にとってはそう簡単な話ではありません。まして貴方は他の勢力に所属しておられる。失礼があっては、我が主の沽券にも関わるのです」
「では、個人的に友誼を結びませんか? 友情に乗っ取り、この部屋で起きたことは口外しない。それならばもっとざっくばらんに行けるでしょう?」
「ですが……」
「もっとも、私などと友人になりたくないというのなら、話は別ですが……」

 わざと悲しそうな表情を作ってみせると、楽進はぐぬぬ、と呻いた。隠し事や腹芸のできない性格なのだろう。分かりやすいその反応に一刀は好感を持ち、友達になってみたいという思いを強くした。

「……お前は少し、性格が悪いな」
「最近は持ち上げられてばかりだったからさ、たまには仕返ししてみたくもなるんだ」
「それを何も私にしなくても良いだろう?」
「都合よく俺の前に現れたことを、不幸だと思ってくれ」
「私のことは、文謙と」
「俺のことは一刀で良い」

 笑うと、楽進も一緒になって笑ってくれた。

 それから話したのは、あまり大したことではなかった。お互いの身の上話をしたり、部隊の動かし方について話してみたり。驚いたことに楽進は将軍としてのキャリアが浅いだけでなく、従軍の経験も浅いということだった。兵になってからの期間は一刀とそれほど差がないのである。

 それで将軍というのだから、能力の高さが伺える。奉孝たちの力を借りてようやく百人隊長になった身分からすると、羨ましいことこの上ない。

「虎牢関では手柄も立てたのだろう? そう遠くないうちに領地を貰えるような身分になれると思うがな」
「どうだろう。それについては雲行きが怪しくなってるような気がするよ」

 臨時雇いという契約ではあったが、自分はともかく有能な三人の軍師を孫策が手放したがると思えない。約束を反故にしないまでも、強烈に引き止めるくらいのことはしかねない強引さが孫策にはあった。

 奉孝たちも時代を代表する軍師であるとは言え、今は流浪の身。地盤をしっかりともった孫策に強く出られては、断りきれるかどうか怪しいものだ。

 それをどうにかするのが軍師の腕の見せ所だと奉孝は言っていたが、果たしてその弁論が孫策と周瑜相手にどれだけ通じるものか……頭の回転が遅いと自覚している一刀にさえ、旗色は少々悪いように思えた。

 孫策陣営に就職となれば、領地を得て上を目指すというのは難しくなるだろう。奉孝たちはともかく、自分一人で領地を任せられるほどの才覚を示したとは思えない。領地をどうこうというのは、あくまで奉孝たちがセットだからこそ考えられることだ。自分一人では精々部隊長が良いところ。条件が整っていることもあり、このまま甘寧の配下に納まるというのが、一番ありそうな未来に思えた。

 それはそれで良いかな、とも思える自分が悔しい。甘寧はどうも自分のことを信用してくれているみたいだし、それに応えたいと思う自分もいる。怖くて口にできていないが、最悪、孫策陣営に所属するのでも良いとすら一刀は思えていた

 勿論、独立して上を目指すという奉孝の論を軽んじている訳でもないが、今のままではそれも厳しいかもしれない、というのは肌で感じていた。

 およそ自分の関係ないところで、処遇は決定するだろう。ここまでの働きがどう評価されるのか、それは一刀には分からないことだった。

「そろそろお暇する。久し振りに楽しい時間が過ごせた」
「良ければまたきてくれよ。俺も書類仕事ばかりで退屈なんだ」
「時間が作れれば、そうしよう。私も楽しかった」

 差し出された楽進――文謙の右手を、握り返す。徒手を得意とするだけあってゴツゴツとした女の子らしくない手だったが、不思議と暖かい。ぎゅっと握り返すと、照れた表情を浮かべて視線を逸らす。女の子らしい仕草が、実にかわいらしい。

 ではな、と文謙が踵を返しかけたところで、扉を叩く音がした。思わず顔を見合わせる。別に良い、という返事があったので一刀は入室を許可した。

 失礼する、という短い言葉と共に扉を開けた声の主は、まず一刀を見て、隣に立つ文謙を見て、困ったような表情を浮かべた。あー、とかうー、とか意味のない言葉を数秒続けた後に、

「お邪魔だったのなら出直すが……」

 実に申し訳なさそうな口調に、思わず肩をこけさせた。

「お邪魔などとんでもない。お会いできて光栄です、公孫賛殿」

 先に立ち直ったのは文謙だった。彼女はさっと居住いを正すと、軍人らしい所作で声の主――公孫賛を迎え入れる。文謙が将軍ならば公孫賛は一軍の長だ。連合における立場で言えば、文謙の主である曹操と同等の立場である。畏まった態度も当然と言えばそうなのだが、型どおりの文謙の反応に、公孫賛はさらに困惑を深めた。

「別にそこまでしなくても良い。私はただ、噂の北郷一刀の顔を見に来ただけで、部隊の検分をしにきた訳じゃないからな」
「そういう理由でお越しならば、私こそがお邪魔でしょう。一刀のことは存分に。私はこれで、失礼致します」

 ではな、と短く挨拶をして、文謙は脇目も降らずに部屋を出て行った。引き止めるための言葉を出す間もない、見事な引き際だった。

「何だか、本当に邪魔したみたいだな」
「お気になさらず。あれは奴の性分のようなものです」
「アレは確か曹操軍の将軍だったな……友人なのか?」
「はい。と言っても、友人となったのはついさっきのことなのですが」
「その割りには随分と親しそうじゃないか。英雄色を好むというのはこのことか?」
「お戯れを……」

 尾鰭のつきまくった噂については聞き及んでいるようで、静かに抗議の声をあげる一刀を公孫賛は豪快に笑った。

「まぁ冗談はさておき、だ。呂布を退けたという噂の男を一目と思ってきたんだが……私はどうも相当出遅れたらしいな」
「確かに嫌味も賛辞も一通り言われた後ですが、公孫賛殿は忙しくてらっしゃいますから」

 一軍の長であるのに居残り組。そう考えると今の立場を押し付けられたようにも思えるが、虎牢関に残った戦力の指揮を自ら請け負ったのが、この公孫賛なのだった。誰もが手柄を欲する中での立候補である。当然それには裏もあるのだが、諸侯はこれに諸手を挙げて賛成した。

 すんなりと虎牢関の暫定責任者となった公孫賛は様々な勢力の戦力を纏め上げ、一つの組織として見事に運用している。

 目立ったところはないが、実にそつなく仕事をこなすというのは仲徳の弁である。悪く言えば『普通』ということあるが、それは全ての能力が高水準で纏まっているということでもあった。上を目指す一刀としては見習わなければならない人間の一人だ。

「ところで公孫賛殿、氾水関ではお世話になりました」
「確かに私は氾水関の戦に参加したが……すまん、お前のことは記憶にない」
「無理もありません。私はただの百人隊長でしたから。味方の合流に遅れて敵に包囲されかかっていた我々を、救ってくださったのが公孫賛殿の白馬陣だったのです」
「すまん。そこまで言われても思い出せない。甘寧隊の近くの通った記憶は何度もあるんだが……」
「無理もありません。俺の部隊は旗も出していませんでしたから」
「百人隊じゃしょうがないかもな。でも、今度のことでお前も自分の旗を立てられるくらいにはなるだろう。それなら、今度すれ違ったとしても絶対に記憶に残るな。北郷なんて姓を戦場で二つも見るとは思えないし」
「旗ですか……」

 考えたこともなかったが、順当に出世を重ねれば立てることになるものだ。自分の姓が旗になって翻っているのを脳裏に描いてみるが……それがあまりにも様になっていなくて、思わず噴出してしまう。

 何より、ただ一文字の旗ばかりの中で北郷と二文字も使うのは座りが悪いように思う。それを素直に口にしようとする一刀だったが、寸前でやめる羽目になった。座りの悪い二文字姓の人間が、目の前にいたからだ。

 何かを言いかけたのを引っ込めた様子の一刀に、公孫賛は怪訝な顔を向ける。一刀は取り繕うように咳払いを一つ、

「お、俺には柄ではないような気がします」
「名誉なことなんだけどなぁ……でも、実感が湧かないというのも良く分かるよ。私も初陣を迎える前まではそうだった」
「姓を堂々と掲げるというのも何だか偉そうな気がするのですよね。それならばもう少し分かりやすい、文字が読めない人間でも俺と分かるようなマークの方が良いと思うんです」
「まーく?」
「あぁ、失礼しました。地元の方言でして何と言いますか、記号のようなものです」
「記号か……それも良いかもしれないな。それを見れば誰もがお前を思い描く、というのもそれはそれで素晴らしいじゃないか」
「何か良いお知恵はありますか?」

 この際だからと聞いてみる。それくらいは自分で、と突っぱねられるかと思ったが、公孫賛は嫌な顔一つすることなく付き合ってくれた。悩むこと数秒、

「十字というのはどうだ? 十字を描いて、それを丸で描こうんだ。難しい記号でもなし、それなら誰でも理解できるだろう?」
「急な時、自分で書くこともできそうですね」
「……まぁ、書きやすいということは偽造されやすいということでもあるから、一長一短なんだがな……だが、理解しやすいという一点に限って言えば、これ以上はないだろう」
「大変参考になりました。いずれ俺がその旗を作った時には、真っ先に公孫賛殿にお見せしますよ」
「その時お前が敵でないことを祈ってるよ。何しろ、呂布を退けた男だ」



「急報でごさいます!」

 ノックもせずに部屋に飛び込んできたのは、見覚えのない男だった。急な来訪に一刀は腰の剣に手を伸ばしかけるが、それを制したのは公孫賛だった。

「私の部下だ」

 静かに言った公孫賛は男の差し出した木簡を受け取った。男の退出を待つでも、一刀に退出を促すでもなく公孫賛はさっと木簡を広げる。素早く目を通した公孫賛の顔に、驚愕の色が浮かんだ。ついで、顔が段々と赤く染まっていく。羞恥ではなく怒りの赤だ。木簡を握り締める手はガタガタと振るえ、今にも木簡を握りつぶしそうだった。

 読み終わった木簡を畳むと、持ってきた男に返す。男は入ってきた時と変わらぬ勢いで部屋を飛び出していった。

 怒りを納めるのに時間をかけている公孫賛の、怒りがおさまるのを辛抱強く待つ。

「良い知らせと悪い知らせ。どっちから知りたい?」
「俺が聞いても良いのですか?」
「誰かに話したい気分なんだ。頼むから聞いてくれ」
「では、良い方から」
「董卓軍は洛陽から撤退したようだ。大きな戦端が開かれることはなく、こちらにはほとんど被害はでなかったらしい」
「では、誰が洛陽に一番乗りを?」

 公孫賛は言葉を切った。忌々しそうに顔を歪め、天を仰ぐ。

「……事実だけを言うのならば袁紹だが、今現在連合軍の誰も洛陽の中に入っていないそうだ。皇帝陛下の命により、連合軍の将兵は全て、洛陽に立ち入ることを禁止されている」
「一体どういうことです?」
「袁紹軍が洛陽の民に手を挙げたそうだ。董卓軍の残党が民の中に紛れて扇動したという情報もあるが、定かではない。結果として袁紹軍は民を相手に乱闘騒ぎを起こし、それが広がり街に火までついたらしい。最終的には禁軍まで出動する騒ぎになったようだ」

 一刀は額を押さえて、大きく溜息をついた。考えうる限り最悪の結果だ。董卓軍の圧政から民を解放するという名目で起こった軍が、その民を害していては何が何だか分からない。

 これから、連合軍はどうするのだろうか。

 まさかその乱闘騒ぎに袁紹自ら加担したとも思えないが、兵がそれに参加したのなら責任者が責任を問われるのは自然の流れである。

 しかもそれが連合軍の盟主であるのだから、付き合って共にここまで来た諸侯たちも立つ背がない。首脳会議はどれだけ重苦しい空気に包まれているのか。想像するのも恐ろしい。

「どういう結果に落ち着くとしても、一度軍は合流することになるだろう。お前の上司の甘寧にも、既にこの情報は行っているはずだ。すぐに召集がかかる。どういう答申をするのか、今から考えておいた方が良いぞ」
「公孫賛殿は、どうするのですか?」
「私は……一足先に領地に帰ることになるかもしれないな。こういう形になったら、あの麗羽もさらになりふり構わなくなるかもしれない」
「袁紹……殿と戦になるということですか?」

 癖で呼び捨てになりそうになったのを、慌てて補足する。一刀の物言いに公孫賛は苦笑を浮かべたが、突っ込んでくるようなことはしなかった。

「元より邪魔な董卓を皆で排除しようと起こったのが連合軍だ。その董卓を排除できたのなら、次はお互いを蹴落とす番だ。間の悪いことに、私の領地は麗羽――袁紹と隣り合っているからな。南下して曹操を叩くよりは組みやすいと見て、真っ先に戦をしかけてくるのは間違いない。準備だけはしてきたが、すぐにでも防備を強化しないと、なし崩しに領地を取られることになるかもしれない」
「黙って聞いておいて何ですが、俺にそこまで話しても良いのですか?」
「聞いてほしいといったのは私だぞ? まぁ、お前に知られたところで、困ることは何もない。袁紹が私の土地を狙っているというのはここに詰めている将兵なら誰でも知っていることだしな」

 曹操と公孫賛。先にどちらと戦うかと考えれば、ほとんどの人間が後者を選択するだろう。

 まして相手はあの袁紹だ。此度の戦で戦力を減らし、不名誉を得た彼女が率先して強敵たる曹操に挑むとも思えない。挑むのならば公孫賛だ。それも、可能な限り早い段階での開戦が予想される。

「御武運をお祈りしています」
「そんな泣きそうな顔をするなよ。私だって負けるつもりで戦をするんじゃない。やる以上は、勝つつもりでやるさ。都合の良いことに今回の戦で袁紹軍は兵を多く失ったし不名誉も負ったが、私は桃香と一緒に名を挙げることができた。案外、あっさりと私が勝つかもしれないだろ?」

 軽く笑ってみせる公孫賛に、一刀も釣られて笑った。
 
 その言葉を一番信じていないのは、当の公孫賛本人だろう。不名誉を負い、兵を多く失ったところで袁紹の最大勢力はいまだ揺るがない。公孫賛も優れた武将であるが、数の力を覆すのは並のことではないのだ。二度の大きな戦で、一刀はそれを嫌というほど思い知ったばかりである。

「じゃあな。次に会う時には、お前の旗を見せてくれよ」
「約束します。重ねて、御武運をお祈り申し上げます」

 ひらひらと手を振って、公孫賛は部屋を出て行った。

 急報、と子義が部屋に駆け込んできたのは、それからしばらくしてのことだった。










 

















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第十九話 戦後処理編IN洛陽②
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:58

 洛陽に着いた一刀を待っていたのは予想を超える光景だった。

 董卓が暴虐の限りを尽くしていると信じていた訳ではないが、例えそれが建前であったとしても全ての戦が終わった後には住民にそれなりの歓待を受けると思っていたのだ。

 事実、何事もなく話が進んでいたらそうなっていただろう。連合軍が安全に洛陽に入れるということは即ち、権力者の首がすげ変わったことを意味する。

 どんなに言葉を尽くすよりも明らかなそれは、民衆の目にこそはっきりと映ることだろう。

 次の頭が自分たちであること。

 それを民衆に知らしめることが連合軍結成の目的の一つであったはずなのだが……連合軍を迎え入れるはずの洛陽の門は、大火の影響で煤けていた。戦闘のせいか門も激しく痛んでおり、燻った臭いが門の外まで届いていたのを覚えている。

 街に入ってみれば見渡す限りの廃墟だった。どういう事情で火災が発生したのか詳しいことは知らないものの、大規模な小火程度と考えていた一刀に、街の数区画が全焼しているという光景はショックなことだった。

 住民は遠巻きにしてこちらを眺めているばかり。今すぐ排斥しようと血走っている訳ではないが、決して歓待している雰囲気でもない。こんなはずじゃなかった、と自分でも思うのだ。各勢力の代表者たちは、心の底からそう思っていることだろう。

 だが、いつまでも愚痴を零してはいられない。何もしなければ本当に自分たちは間抜けで終わる。ここまでやったのだからせめて何か得るものがなければ。そう考えた諸侯達は、連合軍結成以来、初めて結束を固めた。

 門の外に退去すべしと命を出したのは皇帝陛下であるから、まずはそれを解除してもらわなければならない。その交渉のために諸侯は最適な人員を探し、周瑜、荀彧、諸葛亮というおよそ正史では考えられないようなチームが編成され、帝室との交渉に当たった。

 非は明らかにこちらにある。宦官を排斥した董卓に少なからぬ恩義を感じていた帝室は連合軍に対して頑なな態度を貫いていたが、董卓が行方不明である今、自らが皇帝であるということ以外に権力基盤を持たない帝室は、新たな庇護者を早急に求めなければならなかった。

 こちらでも話がまともに進んでいたら、である。

 本来ならば受け入れることに否やはなかったのだ。

 それを余計なことが起こってしまったから、遠回りをする羽目になっている。受け入れたい人間と受け入れてほしい勢力。両者の願望は最初から合致していたのだが、それをいきなり口に出しては世の中回るものも回らない。

 物事を成すには、手順というものが必要なのだ。

 三軍師の仕事はその手順を出きる限り省略しつつ、帝室と連合軍、双方に最大限の利益が齎されるよう、落とし所を探すことだった。

 自分の役割というものを熟知していた三軍師の仕事は迅速だった。一ヶ月はかかるかと思われた話し合いを一週間で纏めてきた彼女らは、居並ぶ諸侯を前に、帝室との間に纏めた内容を諸侯に公表した。

 一つ。此度の責任の所在を明確にすること。責任を取るべきは、即ち、連合軍の責任者である。

 一つ。破壊された街区については連合軍が責任をもって補修し、死亡または負傷した人間についてはこれを補償すること。 

 他にも細々としたことはあったが、大きく分けると条件はこの二つに集約された。二つ目の条件については本来であればいらない支出ではあったが、一つ目の条件については諸侯にとっては渡りに船だった。

 皇帝陛下のお墨付きで、袁紹を排除できるのである。下手を打ったこの状況で功の等級も何もあったものではないが、一番良いところを掠め取る可能性の高い人間を排除できることは、戦後の分配で大きく利することになる。

 もはやどれだけ損をせずに話を纏められるかの勝負なのだった。戦が終わった今、仲間の頭数は少なければ少ないほど良い。

 当然、袁紹は猛然と抗議したが、反論したのは彼女一人だけとあっては覆すことはできなかった。途中の戦で兵を減らしていたのも禍した。政敵である袁術の軍にほとんど損耗がなかったのも大きい。

 交渉役の軍師の中に袁紹軍の人間を入れることができていればまた違う結果になったのだろうが、他の三人と互角に知恵比べをできるほどの人間が、袁紹軍にはいなかったのだ。

 結果、袁紹軍は洛陽に入ることなく、保障のための金子を吐き出せるだけ吐き出して、帰り支度を纏めて領地への帰路についた。公孫賛の心配が当たった形になる。諸侯全てが領地から出払っている状況で一人本拠に戻ることは、自衛の面においては甚だ危険であるが、いくら袁紹といえども、兵を大きく減らし金銭的にも大きなダメージを受けた直後に戦に打ってでることはないだろう。

 公孫賛が領地に戻り、戦に備えるだけの時間は十分にあるはずである。友人と言えるほどの関係でもないが、既に公孫賛は知己である。袁紹よりは彼女に勝ってほしい。洛陽の空の下、今は遠い地にある恩人のことを思いながら、一刀は大八車を押す現実に溜息をついた。

 袁紹軍が排除されたことによって諸侯の取り分は増えただろうが、兵の数も同時に減ってしまったため兵の仕事は余計に増えたと言っても良い。正規兵ですら復興作業に割り当てられている始末である。一刀達新兵は言うまでもなく、作業の中でも比較的キツい仕事を割り当てられていた。

 ガレキを撤去しては指定の場所まで運び、その後は家々の修繕である。この時代で最も洗練された都市でもある洛陽だ。修繕については本職の大工がおり、実際の仕事は彼らが行ってくれるが、何しろ補修する面積が広大すぎて、とても本職だけでは手に負いきれない。

 木材の運搬、大工の助手などするべきことは山ほどあった。兵はその仕事に忙殺され、管理する立場の人間は兵にそれを割り振らなければならない。その点、一刀の甘寧隊の仕事は他の隊に比べてスムーズに行われていた。仕事を管理している軍師仲徳が優秀であったのが大きい。より効率的に人員を動かせるよう、兵の能力まで見極めて配置する様は一種芸術とさえ言えた。

 俺もこれくらいできるようになれれば……と感心すると共に、人間の限界まで挑戦した酷使っぷりには、調練ばかりで体力のついてきた身にも堪えるものがあった。

 こんなはずじゃなかった、というのは諸侯だけでなく、兵にも共通する感情だった。

 だが、復興作業も悪いことばかりではなかった。洛陽の住民と触れ合う機会を持つ内に、住民の連合軍に対する視線も柔らかいものになっていったのである。三軍師の流した『悪いのは袁紹である』という噂も効果を発揮しているようだ。何処に言っても犯罪者でも見るような目で見られていたのが、今はそれもなく大分過ごしやすくなっていた。

 思い描いていた物とは大分違うが、環境は少しずつ改善されてきている。命を賭けて戦ったのだ。何か得るものでもないとやっていられない。誰かを上に仰いで戦ったことで、兵の気持ちというものが徐々にではあるが理解でき始めていた。

 上に立つ人間は、そんな気持ちを持つ兵を使うのである。

 最初から上に立っていたら、気づくことはできなかっただろう。生き残ろうと必死で戦った末に得た気持ちだ。無碍にできるものではない。

「北郷、ちょっといいか?」

 効率よく仕事を回すためにと甘寧直属隊から切り離され、再び北郷隊として井戸さらいをしていた一刀の元に現れたのは、その直属隊の人間だった。暫定副官になったとは言え、立場はまだまだ一刀の方が下である。男の声に一刀はすぐさま直立したが、そんな一刀の反応に男は苦笑を返した。

「何もそこまでしなくてもいいんだぜ?」
「しかし、礼を失する訳には……」
「頭が認めた以上、お前は俺たちの仲間だ。むしろ、お前を狙って扱いているなんて思われた日にゃあ、俺たちの立場が危ういのよ」

 お頭の折檻は過激だからな……と呟く男の顔は地味ににやけていた。明らかに殴られるのを楽しみにしている顔である。甘寧直属兵は彼女が孫呉に合流する前からの部下が多いため、孫策よりも思春に忠誠を誓っている人間が多い。付き合いの長い人間が多いこともあり、結束力は孫呉の中でも随一と言って良い。

 反面、荒っぽい人間が多い呉の人間の中でもとりわけ荒っぽい人間が多く、風貌も雰囲気もヤクザを通り越して賊そのものな人間ばかりである。一刀もいまだにその雰囲気には圧倒されることがあるが、仲間意識が強いのが救いだった。一度仲間と認めた人間については意外なほどに親身なので、こういう連帯しなければならない時にはとてもありがたい。

「何か御用のようですが、俺に何か?」
「ああ。実はそこで牢を見つけたんだがな、検分に付き合ってくれないか?」
「牢ですか?」

 牢というからには罪人が入っているのだろうが、それを見つけたというのも可笑しな話である。

 設置する目的上、牢の警備は厳重でなければならない。脱走などされたら意味がないし、囚人を解放しようと敵対勢力が押し寄せてきた場合、これを撃退しなければならない。

 現に一刀の知っている洛陽の牢はどこも厳重で、城壁の中にあったり一目でそれと分かるような兵がいたりと、現代日本の刑務所のような様相だった。牢の役割と認識については現代日本と大差ないはずである。

「実はな、怪しい奴がいたから適当に締上げたんだが」
「聞き捨てならないことを聞いたような気がするのですが」
「いいんだよ、細かいことは。でだ、その締上げた奴は実は牢の番人だった訳なんだが、その牢が宦官に反抗した政治犯? の収容所だったらしい」

 声を潜めて言う男に、それならばと一刀も頷いた。最初から牢を秘匿しておけば警備や施設そのものに割く費用人員は少なくて済む。見つかってもその時はその時と考えているならば尚更だが、

「宦官に反抗した政治犯ならもう二年は牢の中にいるんじゃありませんか?」

 宦官を粛清した董卓一派を一掃したいから連合軍が結成されたのだ。牢の中にまだ生存者がいるとしても、その彼もしくは彼女は二年も牢の中にいたことになる。狭い牢の中で過ごすことでも気の狂いそうなことなのに、その中に二年だ。

 現代人の感覚では生きていることが不思議なくらいの環境であるが、男が態々話を持ってきたということは少なくとも一人は生存者がいたということなのだろうと、質問してから気づいた。

「いや、そもそもそこの収容されてたのは一人だけだ。その一人を数人で世話してたらしい」
「なら、さっさと助け出しましょう。二年も牢の中にいたのなら、早く医者に見せないと……」
「その辺りが俺達には判断がつかなくてな。解放しても良いもんかね」
「そりゃあ……」

 勿論だと言いかけて、一刀は言い淀んだ。秘匿された牢に収容されているということなど状況から鑑みて、凶悪犯ということはなさそうだ。個人的な感覚としては解放しても問題ないと思うが、誰が収容されているかというのも問題になってくる。

 というのも、それが高貴な身分の人であれば、解放することは大きな手柄となるだろう。それだけで褒美が与えられるかどうかは怪しいが、名を上げる機会というのはいくらあったとしても困るものではない。

 折りしも連合軍は失点を回復することに躍起になっている最中である。これが名誉回復の手段となるならば、喉から手が出るほど欲されているはずだ。

 強欲な人間。いや、普通の神経をしていても、ここは自分がと手柄を上げることを考えるだろう。

 それなのに男は一刀に話を持ってきた。自分が手柄を上げることよりも、その上の人間――思春の名誉を気にしての行動だった。見上げた忠誠心だと感心すると共に、自分がそういう心を持っている人間の一人だと思われていることに、喜びと恐れを感じる。

 思春のことは尊敬しているし大事ではあるが、彼女を一番として行動することはできそうにもない。

 自分は彼らの信頼を裏切っているのではないか……そんな考えが一刀の脳裏を過ぎるが、答えを待つ男の顔を見てそんなことはどうでも良くなった。

 彼らはそこまで深く物事を考えてはいないだろう。仲間だから話を持ってきた。そのくらいの単純な心で、自分を信頼してくれている。

 ならば、自分も真っ直ぐな心でその信頼に応えれば良い。信頼を裏切る云々は、主義主張がぶつかった時にまた考えれば良いのだ。

「とりあえず、誰が捕らわれているのか見てから決めましょう。そんなに大したことなさそうだったら、俺らだけで大丈夫なはずです」
「そうか。まぁ、お頭の手をわずらわせなくて済むなら、それで良いか……」

 反応の薄さから、手柄にならない可能性が高いとでも思ったのか、男の声が沈んでいく。

「でも、どうして俺に話を持ってきたんです?」

 検分に付き合うことに文句はないが、自分に声をかけるくらいならば思春を直接捕まえた方が話は早い。思春ならば自分が考えつくようなことは考えつくだろうし、手柄を立てるチャンスだったとしても、もっと上手く使ってくれることだろう。

「お前がたまたま近くにいたからだよ。お頭は今も探しちゃいるが、軍師先生と一緒で忙しそうだったからな」
「こういう事情なら思春も無碍にはしないと思いますがね」
「俺もそう思うが、考えるのが必要なことはまずお前と思ったんだよ。俺たちゃ皆、学がないからな」

 ははは、と豪快に男は笑う。その言葉は信頼の証でもあったが、その信頼がむず痒い。

「何しろお前は我らが副長だ。お頭に話を通す前に、耳に入れておくのは必要だろうよ」
「暫定の身分はそこまで偉くありませんって」
「暫定だろうと何だろうと、お前は上で俺たちは下だ。頑張れよ、副長。お頭の信頼を裏切らないようにな」

 肩をバシバシと叩きながら、男は豪快に笑った。決して副長とやらにする態度ではないが、信頼してくれているのは良く分かる。彼らには表裏がない。良くも悪くも思っていることが顔や態度に出やすいのだ。思春の部下だからこうなったのか、こういう人間だから思春の下に集まったのか知れないが、こういう信頼関係も悪くないな、と一刀は思った。














 案内された牢があるという施設は民家に偽装されていた。この地下室に牢があるのだという。怪しい人間を締上げたと言っていたが、そういう事情でもなければ、ここが牢であることに気づくことはないだろう。現に、周囲の住民は突然やってきた兵に何事かと目を向けていた。

 民家の中にあるというのも、偽装に一役買っていたのかもしれない。これが刑事ドラマとかならば聞き込みでもするのだろうが、必要なのは周囲の声ではなく、ここにいるのが誰であるのかだ。

 男を伴って民家の中に入る。

 外観以上に家の中は簡素な作りだった。家具はほとんどなく、テーブルと椅子が一脚。その上には酒の入った椀があった。ここで時間を潰すための暇つぶしの道具だろうが、どうやらここの管理人はあまり仕事熱心な方ではなかったらしい。

「締上げたって人はどうしました?」
「ふん縛って下に転がしてある。流石にぶっ殺すのは不味いと思ったんでな」
「そりゃあそうです」
「陸の上じゃ、死体刻んで水に流すって訳にもいかねえからな」

 男の物騒な言葉には取り合わないことにした。地下には階段で降りるらしい。石で作られた、中々に立派な階段だった。松明を受け取って、その階段を降りる。腰の剣は自然に抜き放っていた。後ろを歩く男が笑いをかみ殺したのが分かったが、今更取り消すことはできなかった。暗がりから何かでてきたら困ると思っての行動だったが、考えて見れば仲間が確保した場所で、周囲を警戒する必要もない。

 況してはこれから行くのは、行き止まりの牢だ。囚人以外に誰もいない場所で、一体何を警戒するというのか。臆病者と笑われなかっただけ、彼らには優しい対処だっただろう。恥ずかしさを押し殺して、一刀はそのまま進む。

 たどり着いた地下室は、意外なほどに広かった。階段を下りた先には一刀の足で十歩分の奥行きがあり、右手には牢がある。広さは八畳ほど。想像していたよりも大分広い。

 ただ、臭いはいかにも牢という感じだった。虎牢関で董卓軍が連合軍の兵を押し込めていた牢を見たことがあるが、そこと同じような臭いがする。規模が小さい分、臭いもどこかキツく感じた。

 ここで二年も過ごすのは大変だろうなと重いながら、牢の中を覗く。奥のほうに、小柄な人影が寄りかかるようにして座っていた。伸びっぱなしの髪が邪魔して顔をうかがい知ることはできないが、シルエットからして女性のようだった。

「俺は孫策様配下、甘寧将軍の下で副官をしております、北郷と申します」
「孫策?」

 か細い声には、意思の力が篭っていた。壁によりかかったまま、女性がゆっくりと視線を上げると青みがかった瞳が見えた。

「……小覇王と名高いお方が、何故洛陽に?」
「董卓軍を討つために袁紹殿を盟主として連合軍が結成されました。董卓軍は洛陽より撤退。今は連合軍が洛陽外に駐留しております」
「難しい状況、ということですか」
「理解が早くて助かります。詳しい話は、牢をお出になってからお話します」
「助かります。情勢が動いているのでしたら、早いうちに情報を耳に入れておきたい」
「失礼ですが、牢からお出しする前に、貴女のお名前を聞いてもよろしいでしょうか?」
「分かりました。そちらに行きますので、しばしお待ちください」

 ずりずりと、床を這うようにして女性が近付いてくる。足を悪くしているのか動きは凄まじく緩慢だった。時間にして約十秒。部屋を縦断するには長すぎる時間をかけて、女性は格子の傍にまで移動してきた。

 臭いが流石に気になったが、女性を前に顔を顰めるようなことは不味いと考えるだけの配慮は一刀にもあった。口を開こうとする女性の声を聞き逃すまいと、腰を下ろす。女性の口は動いていたが、それでも聞き取ることはできなかった。

 これでも遠いのだろうか。更に身を乗り出し、格子に耳をくっ付けるほどにすると、

「北郷!」

 男が警告を発するのと、女性の腕が閃いたのは同時だった。囚人とは、女性とは思えない力で一刀の首を掴むと、強引に引き寄せる。首には何処に隠していたのか、太い針が突きつけられていた。

 突然のことに一刀が目を丸くしていると、女性は顔を近づけて、地獄の底から響いてくるような声で耳打ちしてきた。

「私が聞きたいのは、一つだけです。嘘だと思ったら殺しますので、そのつもりで聞いてください」
「わかりました……」
「貴方が手にしているその剣ですが、それは何処で?」

 女性が視線だけで、剣を示す。剣は女性に拘束された時点で一刀の手を離れ、床に落ちていた。荀彧からもらった自分には不相応な業物である。

「滞在した家の女性が、俺が旅立つ時に餞別としてくれたものです」

 噛み砕いてはいたが、何一つ偽りなく答えた一刀の喉に女性は遠慮なく針を突き刺した。深さは約5ミリほど。小さな痛みと共に血が出るが、刺されたという事実に一刀の背筋は凍った。死んだかも、という感覚が後からやってきた。生きてることを実感するとそれ以上に全身に汗が沸いてくる。

「嘘を言わないでください。その剣の持ち主は、男が死ぬほど嫌いなはずです。貴方が男性であるのなら、持ち主から剣を貰ったなど考えられません」
「い、いや、嘘じゃありません。俺は確かに、その女の子から剣を貰ったんです!」
「じゃあ、その女の子の特徴を詳細に述べてください」
「猫耳頭巾を被った背の低い吊り目の女の子でした!」
「その少女に不埒なことをして剣を奪ったと?」

 今度こそ本気で刺してきそうだと確信した一刀は、全てを話すしかないと直感し、覚えている限りのことを全て話し始めた。荀彧との出会いから、荀家での生活。特に荀彧がどんな少女で何を言われた、何をされたかなど事細かに話して聞かせた。素面であれば恥ずかしくで地面を転がるようなことまで口にしたせいで、一緒についてきた男など、仲間が刃物で脅されているのも忘れてニヤニヤし始めていたが、それを気にするような余裕すら一刀にはなかった。

「……そういう訳でその女の子の家を出る時に、俺はこの剣を貰ったのです」
「わかりました。では、これが最後の質問です。貴方にその剣をくれた、その女の子の名前は?」
「それは答えられません」

 今までの狼狽が嘘のように、一刀ははっきりとそう答えた。女性の腕に力が篭る。

「言わなければ、殺しますよ?」
「死んでも言わない。貴女の素性がはっきりとしない限り、あいつのことは話せない。貴方があいつの害にならないなんて、誰が言えるんだ?」
「……いいでしょう。貴方のことを信じます」
 
 針をその場に落とし、女性は跪いて頭を下げた。

「無礼をいたしました。この身についてはご随意に」
「いや、別に良いんですけどね……」

 少なくとも、この女性が荀彧の関係者で彼女のことを好いていて、それなりに人格者であるらしいということは分かった。解放する分には問題ないだろう。手柄がどうとかいう話は、何だかもう面倒くさくなってきた。命を盾に脅された後には、全てのことはどうでも良く思えてくる。

「鍵、ありますか?」
「いいのか?」
「あー、何かもういいんじゃないっすかね」

 投げやりな一刀の態度に、男は特に突っ込むことはなかった。牢の鍵を外し、女を外に連れ出す。とりあえず医者の所に連れて行くと言い残して連れられていく際、

「私のことについてはいずれ。改めてうかがわせていただきます」

 名も知らない女性はそういい残して去っていった。その背を見送りながら、剣を拾い上げて鞘に納める。

 この剣一つで何だかどっと疲れたが、休む訳にはいかない。

 仕事はまだまだ腐るほどあるのだ。

 
 










 








「どうしたもんかな……」

 牢の一件から三日後、一刀は自分の執務室として割り当てられた民家で途方に暮れていた。

 時刻は夜。復興作業は一時中断され、警邏の仕事がある人間以外は街に繰り出すか床についている時間に一刀の周囲には三人の軍師が勢ぞろいしていた。子分の子義は、難しい話がされると直感し姿を消している。

 直感の鋭い少年であるが、今日はそれが抜群に冴えていたらしい。彼女らと過ごすようになった随分時間が経ったように思うが、今日のこれはとびきり深刻な問題だったからだ。

「どうしたもこうしたもありません。これは天の与えた好機。貴殿はこれを、自ら活かすべきです」

 そう主張するのは奉孝だ。眼鏡の奥の切れ長の目を細めて詰め寄る彼女はいつも以上にぴりぴりとした雰囲気を纏っていた。視線の先には、机の上に投げ出された物がある。

 井戸さらいの中で子義が見つけてきたものだ。土で汚れてはいるが、拵えは上品な布袋に収められた『それ』がこの状況の原因だった。中身は皆で確めた。

 伝国の玉璽である。真贋の判断はつかなかったが、材質から本物だろうと結論付けた。皇帝が書類の決裁などに用いる、始皇帝の時代から伝えられる、国宝の一つである。

 これを持つものが天子たる資格を有するとか。要するに、権威付けのアイテムの一つだろうというのが一刀の認識であったのだが、これの扱いを巡って軍師の意見は割れてしまった。

「それは不味いと思いますけどねー。今のお兄さんにコレが扱いきれるとは思えません。それならこれを売り渡して、先立つものを確保する方が良いと思うのですがー」

 間延びした声で淡々と語るのは仲徳だ。玉璽を自ら運用すべしという奉孝とは逆に、さっさとこれを手放すべきと主張している。

 どちらも、正しいとして譲らないのだ。お互いに自分の論理を展開しては、思い出したようにこちらに話を振って来る。展望の話については高度すぎてついていけないため生返事を返すしかないのだが、普段であれば説教の一つも飛んでくるそんな態度も気にならないほど議論は白熱していた。

 置いてきぼりを食らっている感が否めない。軍師だけれど話に乗り遅れた士元と一緒に、言い争いを続ける二人を呆然と眺める作業にはそろそろ飽きてきた。

「結論、でるのかな……」
「さぁ、私にはちょっと……」

 手持ち無沙汰だった士元は今、一刀の近くに佇んでいる。思春の真名の件で距離を置かれていたが、いつの間にかそれもなくなったようだ。顔を見る度に顔を背けて頬を膨らませる士元は、その小さな体格も相まって非常に可愛らしく、頬をつついて遊ぶのがそれはそれは楽しかったのだが……仲が修復されたのならば、それに勝ることはない。惜しいことなど何もないのだ。

「士元はどう思う?」
「私は暫く温存して、一刀さんが自分で使うのが良いと思います。今から使うというのは、あまり良い方法だとは思いません」
「でも、奉孝がそう主張してるってことは、あいつには上手く使う算段があるってことでもあるんだよな」

 それが簡単か難しいかは別にして、奉孝がそう主張する以上それは可能なことなのだろう。天子の証たるものを使えば、一気に勢力を拡大できるし、何より大義名分がつく。今後を大陸に覇を唱えるならそれも良いように思えるが、今の自分についてくる兵はほとんどいない。玉璽を使うタイミングを誤ればそれこそ一瞬に、舞台からの退場を迫られるだろう。

 奉孝の方法は実に綱渡りに思えるが、奉孝ならばそれを舵取りできるようにも思う。

 どちらが良いかというのは自分が結論を出さなければいけない問題なのだろうが、それにはまず軍師が結論を纏めてくれないことには話もできない。エキサイトしている二人に、割ってはいることはできそうにない。もう夜も遅いのだが、議論はまだまだ続きそうだった。

 明日も仕事がある身としてはもうそろそろ終わりにしたいのだが、この争いに割ってはいる勇気を一刀は持ち合わせていなかった。

 誰か救いの神でも現れてくれないものか。そう思い続けて二時間少々、神はいまだに現れてくれない。いい加減待つのにも飽きてきた一刀は、何となく腕を伸ばして士元の帽子を取り上げてみた。

 あー、と士元が小さく声をあげて帽子を取り返そうと身を乗り出してくる。その小さな手の届かないよう、腕を伸ばして高く掲げて見せた。飛び上がれば届くかもしれない。そんな距離であるから、士元はぴょんぴょん飛び跳ねて限界まで手を伸ばす。目の前でひらひらと揺れるスカートが地味に楽しい。これを続けていると癖になりそうだ。

 適当な所で帽子を士元の頭に戻し、腰を抱え上げて膝の上に乗せる。士元は悲鳴を挙げそうになったが、一刀が唇に指をあててしー、と口を鳴らすと途端に静かになった。その代わり、顔は耳まで真っ赤である。

 言い合いをしている二人に気づかれたくないのか、士元は息を殺すようにしてじっとしている。

 今なら、何をしても許されるのではないか。そんな邪悪な考えが一刀の中に沸きあがる。

 そっと、お腹に手を伸ばしてみた。身体を抱え込むようにして抱き、指で擦るようにしてお腹を突付く。ひゃ、と空気が漏れるよな声をあげる士元だったが、逃げたりはしない。何かの使命感にでも駆られているのか、ここで耐えることが自分の仕事とでも言うように目を固く閉じて一刀からの行為に耐えているのである

 それに調子に乗った一刀は、より一層士元のお腹を撫で回した。身体は小さいだけあってどちらかと言うと痩せぎすな士元であるが、さすがに女の子。お腹周りは実にぷにぷにしていて気持ちが良い。突付いて見ても撫でてみても手触りが良く、これならいつまでも触っていたいと思えるほどだった。

 たっぷり服の上から堪能した後、ふと服をまくって直接触りたいという思いに駆られる一刀だったが、今更ながら『そこまでしていいのか』と思い逡巡する。

 そもそも、今の時点でもセクハラではないのか。

 いや、相手が嫌がっているのならばともかく今の士元は恥ずかしがっているだけで嫌がっているようには見えない。というのも、加害者側からの勝手な言い分のように思える。士元の性格なら、嫌だと思ってもすぐには言い出せないだろう。直接顔を見てということにならば尚更である。

 士元はもう声を出さないことに一生懸命で、こちらを見る余裕すらない。そんな風に頑張っている士元を見ると自分が最低の人間のような気がしてきて心が萎えかけるが、士元のお腹はとても気持ちが良かった。

 触っているのもお腹であるし、ギリギリセーフなのではあるまいか。別におっぱいに触れたりスカートの中に手を突っ込んだりしている訳ではない。これが奉孝を相手にしているならばお腹であっても犯罪臭が凄まじいが、士元は知識はともかくとして見た目は幼い。客観的に見れば兄妹が戯れているように見えなくもないだろう。

 だからこれはセーフ、セーフなのだ……

 もはや自己弁護なのか客観的な分析なのかすら分からなくなってきたが、それでも一刀は士元を手放さなかった。でも、お腹を触るのはほどほどにする。地獄から脱出できたことに士元は溜息を漏らしたが、それをどこか不満そうに感じるのは男の勝手な思い込みだろうか。


 その可愛らしい反応に満足しつつ、帽子の上から士元の頭に顎を載せる。

 これほどいちゃいちゃしても、二人の軍師の討論は終わることはない。これは徹夜になるかな、と一刀が覚悟を固めた矢先、小屋の扉は叩かれた。

 瞬間、二人の言い争いがぴたりと止まる。自分たちのこれからについて大事な案件であるが、その中心には玉璽がある。これを北郷一刀が持っているということを誰かに知られるのは如何にも不味い。視線で玉璽を隠すように指示すると同時に、膝の上に据わっている士元が目に入った奉孝はそのまま怒鳴ろうとしたが、客人の前でそれは不味いと重い留めた。

 それでも頭に上った血はどうすることもできず、行き場を失った感情は鼻血として表れた。ああ、と慌てながら血をどうにかする物を探す奉孝を他所に、仲徳は人形のような愛らしい顔に薄い笑みを浮かべている。

 これが氷のような視線であれば畏まるばかりだったが、その視線には生暖かい物を感じた。次は自分の番だと言っているのが、聞こえるようだ。

「どうぞ」

 一刀が告げると同時に士元は膝から飛び降りた。そのまま距離を置こうとして転んでしまうのを、手を差し伸べて助ける。ありがとうございましたっ、と言いつつ飛び退る士元は、いつになく俊敏な動きをしていた。そのまま部屋の隅でこちらを伺いながら、ぷるぷると震えるその姿はウサギのようでかわいらしい。

「失礼します」

 そんなカオスな部屋の中と関係なく、訪問者は扉をあけた。

 部屋に入ってくると彼女は部屋をぐるりと見回す。鼻血と格闘している奉孝と、微笑む仲徳。部屋の中で縮こまっている士元に、ただ突っ立っているだけの一刀。何も知らない人間がみたら、一体どう思うのか……

 体面を気にするならば言い訳でもした方が良いのだろうが、良い知恵が浮かばない。そういう誤魔化しは奉孝の役目なのだが、彼女は今鼻血と格闘していて忙しい。士元はテンパっているし、仲徳は協力してくれそうにないどころか、何か言わせたら余計に状況をかき回しそうな気さえする。

 自分で何とかするしかない。一刀はない知恵をめぐらし、しかし、一瞬で結論を下した。

「ようこそお越しくださいました」

 即ち、なかったことにする。こちらから触れなければ相手は触れてこないだろう。今のこの状況を見てどう思うかまでは干渉できないが、そこまでは知ったことではない。どうせ呂布を退けたという、分不相応な噂で困ったばかりだ。これに何が加わったところで、怖い物は何もない。

「夜分に恐れ入ります」

 そう言って、女性は静かに頭を下げた。その仕草一つが恐ろしいまでに様になっている。歩き方、頭の下げ方まで洗練された、明らかに自分とは住む世界の違う人間の雰囲気に、一刀だけでなくその場の全員が姿勢を正した。

 頭を上げた女性はそんな面々を見渡し、にこやかに微笑んだ。その微笑すら、今まで見たどんな人間よりも高貴な物を抱かせる。

 身長はそれほどでもない。奉孝よりも少し小さいくらいだろう。当然、自分よりも小さい。足が悪いのか杖をついているが、背筋そのものはしゃんと伸びていた。元々足が悪いのではなく、何かの事情で足を悪くしているようだ。裾を地面に引き摺るくらいの長衣を着こんでおり指先と首から上以外の肌は全く見えない。緩い癖のついた髪は肩口を過ぎた辺りで切り揃えられており、フードのような頭巾の上に広がっている。

 青い瞳はたれ気味で顔立ちは優しい。十人の男に問えば、十人が美人と答える顔立ちだろう。これでボリュームがあればパーフェクトだったのだろうが、そこは残念ながら贔屓目に見ても普通以下だった。

 ぺったんことまではいかないものの、膨らみがあると辛うじて分かる程度のものである。

 しかし、それを残念とは思わせない雰囲気があった。スレンダー美人とでも言えば良いのだろうか。女性っぽい身体つきをしていないことを、マイナスに思わせない、そんな雰囲気が女性にはあった。

 その柔和な微笑みに、一刀の記憶が刺激される。この瞳を、つい最近どこかで見たような……

 思考に結論が出ない内に、女性は解答を口にする。

「先日は、お世話になりました」

 その言葉に、目の前の女性が牢の囚人だったことに思い至る。それでも、あの時の汚い格好をしてた女性と目の前の美人が結びつかない。

 当然、三軍師は彼女のことを知らない。大したことではないと思っていたので、報告もしていなかったのだ。一刀にとっては再会であるが三軍師にとっては突然の来訪で、しかも一刀の知りあいであるという。女性の言葉からその事実を理解した三軍師は『またか……』という顔で一刀に視線を送ってきた。

 何も悪いことはしていないはずなのだが、この後ろめたい気持ちはなんだろうか。

「どうやってこの場所を?」
「身分と名前を名乗られたではありませんか。それを覚えておりましたので、人に聞いてこちらまで」
「そうですか……あー」

 女性の名を呼ぼうとして、それを知らないことに思い至った。牢の中で相当会話したような気分になっていたが、思い返してみればあれは自分が一方的に喋っていただけだった。

 こちらが名前を知らないということは、その態度だけで伝わったらしく女性はたおやかに微笑むと、優雅に腰を折った。

「改めまして。私は荀攸、字を公達と申します。以降、お見知りおきを」


















 肩を怒らせながら荀彧は夜の洛陽を歩いていた。共周りはなく一人である。時の人曹操の筆頭軍師にしては無用心にも程がある行動だったが、これには一人にならなければならない理由があった。

 行く先は孫策軍の陣営である。曹操軍に所属する荀彧には、聊か足を踏み入れ難い場所だ。無論、公的な用事があるのならば誰憚ることはない。主の命令であれば、どんな場所にでも行く覚悟が荀彧にはあった。
 
 しかし、今回は全くの私事である。

 しかも、理由はどうあれ男を尋ねるのだ。これが噂で広まったら荀彧の人生はお終いである。身命を主に捧げたというのによりによって男に懸想したと勘違いされたら、死んでも死に切れない。

 これがバレたらそれこそ破滅である。ならば最初から堂々と行った方が安全だったと今更にして思うのだが、男に会いに行きますと口にすることは、死んでもできなかった。

 どうあっても、隠れていくしかないのである。道を行きながら、荀彧は羞恥と怒りで顔を真っ赤に染めていた。

 どうして自分がこんな思いをしなければならないのか。

 それもこれもあの精液男のせいである。あの男があの時、さっさとこちらに来ると言っていればここまで手間をかけなくても済んだはずなのだ。郭嘉の邪魔があったとは言えあの時に決着がついていれば、間男のように人目を忍んで夜道を歩くこともなかったのに。

 考えていたら、また怒りが湧いてきた。

 口を酸っぱくして何度も言ったのだ。お前の腕は大したことないから戦には出るなと。氾水関の前では平手打ちまでして説教したのに氾水関では撤退の遅れた味方を援護して孤立しかけ、虎牢関では隊長である甘寧を守るためにあの飛将軍呂布の前に身を投げ出したという。正気の沙汰ではない。いや、頭がおかしいとしか思えない。

 自分の力量が解っていない訳ではないだろう。実家にいた時からあの男は愚かではあったが、無知でも無能でもなかった。物事を理解するだけの最低限の知恵は持ち合わせていたのだ。

 だからこそ、再会した時には小間使いに取り立ててやろうと思ったし、今もそのために歩いているのである。

 何であんな男のために、というもう何度目か知れない疑問が荀彧の頭に湧くが、その疑問にも結論は出ていた。

 どうしようもなく愚かで精液男であるが、あの男が命の恩人であることに変わりはない。忌々しいことに実家での覚えも良いし、引き上げる機会があったのに袖にしたと実家に伝われば、それこそ実家から何を言われるか分かったものではない。

 機会があれば続けるつもりではあるが、これが最後の機会となるだろうことは荀彧にも察しがついていた。お互い洛陽から去ることになれば、これが今生の別れとなることだって考えられる。こちらが連絡を取ろうと努力しても、あの馬鹿が戦場に出ることをやめなければ、そのまま死に別れということもないではない。

 今日は何が何でも、話に決着をつける。郭嘉や他の連中がいるだろうが、そんなものは知らない。敵方を論破できなくて何が軍師か。

 意気込んでいるうちに、目的の場所についてしまった。中からは女の声が聞こえる。

 時刻は一応、深夜である。あの精液男のことであるから、そういうコトに及んでいることもあるだろうが……と思い至って、荀彧の動きが鈍いものになった。

 別に一刀がどういう女と付き合って孕ませようが知ったことではないが、好き好んでその現場に踏み入ろうとは思わない。

 目にしてしまったら目が腐り落ちるかもしれない。そうなってからでは遅いと、扉に耳をあてて中の様子を伺ってみる。男の声に、女の声が四つ。男は当然一刀であるが、女の声は誰だろうか。

 一刀とつるんでいる軍師は三人であることは調べがついている。以前言い合った『神算の士』、鼻血軍師の郭嘉とその友人である程昱。それから名門水鏡女学院の卒業生『鳳雛』の鳳統。いずれも傑物と名高く、引く手数多の人間だった。

 それがどういう経緯であの男とつるんでいるのか。同じ軍師として興味がないではないが、それは今はどうでも良い。問題はもう一人の声である。一刀とて、いつも四人でいるとは限るまい。誰かが欠けることだってあるだろうし、逆に誰かが加わることだってあるはずだ。

 誰とつるもうと関係はない。そのはずなのだが……いつもの怒りとは全く逆の、言い様のない不安が荀彧の心を支配しているのである。

 どうにも、最後の声を聞いたことがあるような気がしてならないのだ。

 それも、良く知っていて、できれば係わり合いになりたくないような、そんな声。

 それは誰だと考えて……脳裏に思い浮かんだ相手は一人しかいなかった。ここは洛陽である。奴が現れてもおかしくはない――

 もはや躊躇うだけの時間も惜しい。誰何の声をかけることなく、荀彧は扉を開け放った。無礼は承知であるが、事は一刻を争うのだ。手遅れになってからでは何もかもが遅い。口にされては不味いことを、あの女は色々と知りすぎている。

「あら、お久し振り」

 こちらの顔を見て、その女はたおやかに微笑んだ。純粋にこちらとの再会を嬉しく思っている、表裏のない笑顔だ。

 それがまた癪に障る。突然の登場に呆然としている一刀や三人の軍師を他所に、部屋を横切って女の腕を取る。そのまま外に連れ出そうとしたが、これには女も抵抗した。苛立ちながら視線を向けると、女は顔に困惑の色を浮かべていた。。

 まずは事情を話せと、視線で言っている。

 その顔に頭に血が上った荀彧は一切合財をぶちまけてやろうと口を開きかけるが、最初の一語を発するより先に脳裏に閃くものがあった。女の目を見る。自分を真っ直ぐに見つめている目には、困惑も逡巡もない。何一つ予定から外れたことはないとでも言いたげなその瞳に荀彧は自分が乗せられていることに気づいた。

 急速に頭が冷えていく。大きく溜息をついて身体の中の熱を追い出すと、荀彧は改めて女の腕を引っ張り退出を促した。

 女が苦笑を浮かべる。初めて予定が狂ったとでも言いたげなその顔に、荀彧は軽い満足を覚えた。部屋の中に視線を向けると、一刀が何か言いたげな顔をしているのが見えた。

 その顔を見て、逆に荀彧は言葉をかけることをやめた。自分から言い出すのはやはり間違っている。どれだけ分不相応な場所であったとしても、この男は自分で決めてそこに立っているのだ。

 それを邪魔するような権利が自分にないとは言わないが、無理に連れ出すのは美しいことではない。かじりついてでもこの男を孫策陣営から引き抜くことは、それこそ、自分も名誉を犠牲にするだけの理由が必要になるだろう。

 一刀の評価は最初に比べれば上がったろうが、陣営の壁を越えてまで引き抜く理由にはならない。重く用いるのならばそれでも角は立つまいが、他の三人ならばともかく一刀は精々現状維持か小間使いに格下げである。

 頭の緩い一刀はそれでも納得するかもしれないが、これに孫策や周瑜が難色を示すのは目に見えている。それを論破してこその軍師であるが……それも今はもういい。

 今度は女も抵抗しなかった。一刀達に短い別れの挨拶を済ませ、荀彧に従って部屋を出る。こつこつという女の杖を突く音が夜道に響く。

「足、悪いの?」
「二年ほど牢にいたからちょっと弱っているの。しばらくすれば問題なく回復するって、お医者様も言っているわ」
「そう……牢!?」

 聞き捨てならない単語に思わず声を荒げて聞き返すが、女は涼しい顔だ。

「牢よ。ちょっと権力闘争で下手を打って二年ほど幽閉されていたの。それを助けてくれたのが一刀さんだったのよ」
「初めて知ったわ……お母様はこのこと知っているの?」
「私から知らせたことはないけれど、察しはついてると思いますよ」

 実家に引き下がってはいるが、智の荀家を担う人間である。世の情勢には目を光らせているし、智者の情報、特に一族の人間の安否については念入りに情報収集しているだろう。中でもこの女は洛陽で宮仕えをしていた。政争の援護はできなくとも、牢に入れられたとなれば彼女の耳に入らないはずはない。

 そんな中自分に話が回ってこなかったことに納得がいかなかった荀彧は、歩きながら女から事情を聞きだす。幽閉された牢が秘匿されたものであり、関係者のみがその存在を知っていたこと。牢を管理する人間も管理せよという指示しか受けておらず、その背後にいたのが十常侍ということも知らなかったこと。おかげで彼らが失脚し収監する意味もないのに牢に捕らわれ続けていたこと等々。

 不幸な出来事が重なった人生だった。本当に一刀に発見されなければ、今でも牢に捕らわれたままだったろう。軍師としての女は掛け値なしの優秀な人物だったが、政争に負けるというのはこういうことなのだと思い知る話だった。

 自分に関係ないことだと言い切ることはできない。今は曹操軍の筆頭軍師を実力で勝ち取っているが、それを蹴落とそうとする人間だって出てくるかもしれない。明日は我が身と思うと、軽々に女を扱うこともできなかった。

「でも、復帰できたのなら良かったじゃない」
「ええ。でも陛下にはしばらく療養しなさいって言われてしまったけど」
「そう言えばあんた、陛下の教師だったのよね。私はお会いしたことないけど、どんな方なの?」
「聡明な方よ。こんな時代でなければ、名君として歴史に名を残していたかもしれないわ」

 皇帝陛下のことを語る女には、喜色が浮かんでいた。言葉の一つ一つに主に対する愛情が感じられる。優秀であることを喜ぶ以上に、その陛下に対して忠誠を誓っているのだろう。荀家の人間はどうも同性に大きな愛情を抱く傾向があるが、この女もその例に漏れないようだった。

「機会があったら、桂花ちゃんのことも紹介するわね」
「そうね。機会があったらね」

 帝室との関係は作っておくに越したことはないというのが荀彧の考えであるが、主は独力での大陸制覇を考えている。諸侯との同盟ですら躊躇いがちであるのに、いまや権威しか持たない帝室では首を縦には振らない可能性が高い。皇帝陛下が優秀であるというのならば尚更だ。大きな権威が力を持つようになれば、いずれ大きな敵になることだろう。

 主は強大な敵を自ら打ち倒すことに喜びを見出す人間であるが、態々英雄の芽に水を与えるほどに酔狂でもない。気のない返事は余計なことをするな、という釘刺しの意味もある。

「それはそうと私の方こそ驚いたわ。桂花ちゃんが男性にときめいてるなんて」
「ちょっと待ちなさいよ! どこからそんな話が出てくるって言うの!?」
「だって、私の上げた剣を彼に餞別であげたんでしょう? 男性と話をするのも嫌がってた桂花ちゃんが、家庭教師までしたって聞くし、これはもしかしたらもしかするかもって考えるのも、仕方のないことだと思うの」

 まるで実家の女中や母のような論理に、荀彧は髪を掻き毟って唸り声をあげた。この手の誤解は曹操軍に就職してからは無縁のものだったはずだが、郭嘉とやりあって以来、噂として荀彧に付きまとっている。鼻血の印象のせいで切っ掛けを覚えている人間は少ないが、主をはじめ、多くの人間が諍いの原因が一人の百人隊長であることを記憶していた。

 曹操軍では男嫌いということで通している。内外にそれは知れ渡っているため、曹操軍の中であっても声をかけてくる男性は皆無に近い。そんな人間が男を間に挟んで、他の勢力の軍師と言い合いをしたのだから、話題に上らないはずはない。

 口さがない噂だって、何度握り潰したか知れない。言葉にした以上の意味はなく、含むところもないのだから下種な勘ぐりをされるのは迷惑以外の何ものでもないのだが、身から出た錆であるため誰に当たることもできない。主が生暖かい視線を向けてこないのが唯一の救いではあるが、それが配慮されてのことだとしたら死にたくもなる。

 一刀のことは、荀彧にとってできる限り表には出したくないことなのである。こっそりと一人でここにきたのもその一環であるし、引き抜きが成功していたらさっさと処理を済ませて、人の話題にも上らないようにする手はずだったのだ。

 それもこれも、こういう話を誰かとしないための配慮だったというのに……この女はあっさりと、それを最悪の形で踏み越えてきた。

「やめてよ気持ち悪い。あんな精液男とは何もないわ」
「ないの?」
「ないに決まってるでしょ!?」
「天邪鬼な桂花ちゃんの言葉だから信じ難いのだけど……でも、今回は信じることにするわね。話してみたけど、あちらも桂花ちゃんの良い人というには、ちょっと距離を感じたもの」
「……あの男と何を話したの?」

 ときめいたりはしていないが、距離があるという表現にはひっかかりを覚えた。こちらが遠ざけるのは良いが、あちらが遠ざかるのには抵抗があった。食いついてきた荀彧に女はにやにやと厭らしい笑みを浮かべるが、それには取り合わない。

「大したことは話してないわ。助けてもらったお礼と、近況報告。困ったことがあったら頼ってくださいねというお願いをして、後は桂花ちゃんについてあることないこと話そうとしたところで、桂花ちゃんがきたのよ」
「どうしてあんたはそういう余計なことを……」

 まさか嘘八百を並べ立てることもなかろうが、面白可笑しく脚色して話すくらいは、この女ならやりかなない。知られて困るようなことは何一つないものの、それをあの男の耳に入れるのは虫唾が走った。話す前に止めることができたのならば、僥倖である。

「私については何も話してないのね?」
「一つだけ。私が一刀さんと話す切っ掛けになった剣の来歴については話したわ」
「……そう」

 それもできれば耳に入れたくないことではあったが、女から貰ったアレを一刀に贈ると決めたのは自分である。後ろめたさも少しはあるから、強く言い返すこともできない。

「あと、銘を知らないみたいだったから教えてきたの。一刀さんに伝えられたのは、誓ってそれだけよ」
「銘なんてあったの?」

 手渡された時にはそんなことを知らされもしなかった。あの剣について知っているのは、女が大枚を叩いて洛陽一の鍛冶師に『とにかく頑丈で折れない剣を』と注文を出したということだけである。そのせいで女性が持つには無骨で飾り気のない剣になってしまったが、元来剣に興味のない荀彧には、それも気にならないことだった。

 それ以上のことは実家の人間も知らないだろう。使っていれば剣を分解して知ることもあったろうが、剣を持ち歩くということを考えもしなかったから実家の蔵に死蔵していたし、蔵から出たらそれは一刀の手に渡ってしまった。

 こうしてこの女が言い出さなければ知る機会もなかっただろう。既に自分のものではなくあの男のものだが、興味がないと言えば嘘になる。

「あの剣は『銀木犀』よ。桂花ちゃんにちなんだ名前にしたの。そんな剣が一刀さんの近くにあるんだから、私も嬉しいわ」
「気持ち悪いこと言わないでよ……」

 想像するだに気持ち悪いことであるが、あの剣は既に一刀のものである。今更どうこうすることはできないし物にまで文句を言っていたらキリがない。あの剣――銀木犀については気にしないことにして、荀彧は歩みを進めた。

 既に岐路である。曹操陣営に帰らなければならない荀彧はここで左に折れなければならない。記憶にある限り、この女の屋敷はこの大路をこのまま真っ直ぐだ。

「今日はこれでお別れね。時間があったら、手紙でもちょうだいね」
「今度幽閉される時は、誰かに助けてもらえるように配慮しておきなさいよ」

 一族の中でも傑物と名高い軍師だ。落ち目の帝室に仕えてはいるが、その知性は失われて良いものではない。曹操軍の利益に反しない限りであれば、荀彧も最大限の協力をするつもりでいた。目を逸らしながら言う荀彧に、手を合わせて嬉しそうに微笑む。

 そんな年上の姪の顔を見るのが恥ずかしくなった桂花は、努めてぶっきらぼうに別れの挨拶を口にした。


「それじゃあね、橙花。また会う時まで元気で」







明日の地主のためにその1。
今回は助走編で、次話でジャンプとなります。









[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十話 戦後処理編IN洛陽③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/10/10 05:54
「まったく、婆やにも困ったものだわ……」

 通りの影に隠れるようにしながら、少女は一人ごちた。大通りから少し外れた、少女が一人でいるには似つかわしくない場所である。少女本人は隠れているつもりでもその実凄く目立っており、周囲の目を集めに集めていたが、隠れたつもりになっている少女だけがそれに気づいていなかった。

 目立たないようにしながら、気息を整える。家からついてきた追っ手は今撒いてやったばかりだ。今ごろ血相を変えて辺りを探しているはずである。いずれ見つかってしまうだろうが、故あって人を多く割くことができないので、見つかるまではまだ時間がかかるだろう。

 それまでは、自由な時間だ。

 とは言え、街を一人で歩くのは初めての少女にとって、いきなり自由と言っても持て余すだけである。

 何しろ、何処にどんな店があるのかも良く知らないのだ。一人で歩いて良く分からない店に入り勝手に失礼を働いては、自分の名誉に関わる。

 そうならないために案内役が必要なのだが、その人選に少女は難儀していた。

 普段の供回りは先ほど撒いたばかりなので、案内役は現地で調達しなければならない。地元の人間であることが望ましいが、それも絶対ではなかった。求めるのは一緒にいて楽しい人間である。こちらの立場を邪推したりせず一人の少女として扱ってくれ、かつ、淑女として自分を立ててくれる。

 そんな貴族的でありながら庶民的な、できれば顔立ちの美しい男性が少女の求める人材だった。

 追っ手から逃げつつもそんな男性を探しているのだが、少女の眼鏡に適う男性はいまだに見つかっていない。

 これだけ人がいるのだから一人くらいは、と楽観していたのだが、それが甘かったのだろうか。

 もしかして高望みをしているのかも……と刻一刻と消費されていく時間を思うと不安になるが、せっかく追っ手を撒いてまで一人になったこの状況で、妥協しても楽しくはない。

 自分の意思で決めて、ここまで来たのだ。良くない結果が先に待っているとしても、自由でいられる間は絶対に妥協したくない。

 萎えそうになる気持ちを叱咤し、追っ手の目を気にしながら街を移動する少女の脇を、一人の男性が通り過ぎた。

 その瞬間、少女は振り返り、その男性の腕を掴んでいた。

 その行動に理由があった訳ではない。一番驚いていたのは、少女自身だった。腕を掴れた男性も何事かと目を丸くしている。

 手を繋いで見詰め合う男女に、周囲の視線が集まっていく。

 いつまでもこのままでいる訳にもいかない。

 この男性がどういう素性の人間かさっぱりだったが、自分の嗅覚はこの男性は『当たり』と告げていた。

 不細工ではないが、美形でもない。容姿としては中の上の域を出ないことが不満と言えば不満であるが、容姿以外の条件は満たしていそうなこの男性を逃すことはできなかった。

 生まれてからこれまで、一番緊張している自分を意識しながら、少女は口を開いた。


 











「この街に不慣れなの。案内してくださらない?」

 昼飯を食べようと一人で街を歩いていたら、いきなり腕を掴れた。

 兵士をしているとそういうこともないではない。洛陽は大都市で、そこには多くの人間がいる。覚えのない喧嘩に巻き込まれることも日常茶飯事だ。

 腕を掴れたその瞬間、また喧嘩か……と内心辟易したものだが、振り返った先にいた少女の姿を見て、一刀は目を丸くした。

 目の覚めるような美少女だった。

 仲徳や士元も相当だが、眼前の少女は更にその上を行っているような気さえする。

 年齢は士元と同じか、少し下くらいだろう。肌の全く露出しない長衣は動きやすさを考えつつも、所々に装飾品のアクセントがある。その一つを取っても、目の飛び出るような金額がかかっていそうなことが、一刀の目にも解った。

 仲徳と同じくらいの長さである黒髪は絹のようで、良く手入れされているのが解る。立ち振る舞いにも口調にも、隠しようのない気品が感じられた。

 先に知り合った公達に高貴なものを感じた一刀だったが、この少女は雰囲気はそれ以上だ。

 どこか由緒ある家の姫様か金持ちのお嬢様か。いずれにしても、そんじょそこらの庶民ではあるまい。間違ってもただの兵である自分が関わって良いような身分でないのは一目で解ったが……何がどうなっているのか、少女は自分に案内をせよと言っている。

 これが人生のモテ期という奴かしら……と内心で冗談も言ってみるが、世の中そんなに甘酸っぱくはない。

「一人?」

 一刀の問いに、少女はこくりと頷いた。

 これに一刀は疑問を抱く。

 少女が高貴な身分であるのなら、一人で出歩いているはずはない。戦争も一応の決着を見せたとは言えまだまだ物騒な世の中だ。こんな人の多い場所を歩くのなら、護衛の一人や二人はいないと絶対に可笑しい。

 少女の行動に配慮しているのかと辺りを見回してみるが、護衛らしい影はない。

 尤も、その護衛が思春クラスの実力者であれば自分に感知できるはずもないが、護衛する立場からすれば今の自分は不審者も不審者である。そんな自分が排除されないということは、きっと護衛はいないのだろう。

 すると今度は『護衛はどこにいったのか』という疑問が湧き上がってくる。

 一番最初に思いついたのは、眼前の少女が護衛を撒いてきたという可能性だ。高貴な雰囲気を漂わせているが、お転婆な感じもひしひしと伝わってくる。

 兵士としての感性では、この少女に付き合うべきではないと感じている。付き合うふりをして少女を探しているだろう護衛の方々に引渡し、何事もなく昼食を取って通常の業務に戻る。それがデキる兵士の過ごし方というものだろう。

 しかし、困っている美少女の面倒を見てあげたいというのも、男として当然の感性だと思うのだ。

 きっと自分が断れば、違う人間を探して声をかけるのだろう。

 それを想像すると、そんなことをさせてなるものか! という気分になった。男というのは正直な生き物である。

「俺はこれから昼飯なんだけど、一緒にどう?」
「むしろ望むところよ。私、一度街で食事をしてみたかったの」

 一刀の誘いに、少女は二つ返事でOKを出した。

 お嬢様に貧乏人の食事など口に合うのか心配だったが、少なくとも少女は乗り気のようだ。同行にOKを出してもらったことで、一刀の今日の食事は少しだけグレードがあがった。場末の食堂で一番安いメニューを頼むつもりだったが、いくら少女が乗り気とは言え、甘寧直属隊御用達の店に行くのは気が引けた。

 少女に人目は不味かろうという配慮もあったが、何より今は知り合いに会いたくない。

 先日、公達を助けた件で奉孝達には目をつけられているのだ。この少女をエスコートすることに疚しいことなど一つもないが、喧嘩する原因になりそうなことを排除しておくに越したことはない。

 幸い、口が固そうで軽い子義も今はお使いで席を外している。

 完全に、少女と二人きりの状況だった。

「じゃあ行こうか。少し人ごみの中を歩くから、はぐれないようにね」

 だから手を繋いでいこうと、手を差し出したつもりだったのだが……少女は差し出された手を、不思議そうに見つめるばかりだった。握ろうともしないし、かと言って拒絶しているようにも見えない。

 手を差し出したまま固まる一刀と、それを見ているだけの少女。傍から見ると実にシュールな光景だった。

「……私はこの手をどうした良いの?」
「はぐれるといけないから、手をつながないか?」

 いや、別に嫌なら良いんだけども、と補足することも忘れない。初手をスルーされたことで、地味にナイーブになっている一刀である。その焦りが伝わったのか、少女の顔にからかうような笑みが浮かぶ。

 孫策が士元をからかう時のようなその表情に、手を差し出したまま僅かに身を引いてしまう。

 そんな一刀を追いかけて、少女はそっと手を握ってきた。見た目の通り柔らかい手だったが、微かに固さも感じる。剣か拳か、何か武術を嗜んでいる手だ。

「武術も淑女の嗜みなのよ」

 疑問が伝わったのか、少女が笑みと共に教えてくれる。気を使われたようで、少し恥ずかしい。

「そう言えば自己紹介がまだだった。俺は北郷一刀。北郷が姓で名前が一刀。字はない」
「私は劉姫よ。字は伯和。よろしくね、一刀くん」

 小学校でも行き違いになりそうなほどに年の離れた少女に『一刀くん』と呼ばれるのがこそばゆかった。こちらの世界に来てからは初めてかもしれない。

 初めてが年下の美少女というのは良いことなのか悪いことなのか分からないが、少女を上に置くことに違和感はなく、くん付けで呼ばれても不快な感じはしなかった。


 伯和の手を引いたまま、道を行く。相変わらず人は多いが、やってきた時に比べると治安も良くなった。二つの関と異なり、戦火に巻き込まれたのは最終戦、それも門の付近だけ。その復興も終わりつつある今、洛陽の街は戦前の姿を取り戻そうとしている。
 
 一つの戦が終わり、次の戦のための準備が始まろうとしていた。

 各軍の上層部は今、此度の戦の論功行賞について話し合っている。得られるものは当初の予定よりも遥かに少なくなったが、董卓を洛陽から追い出したことで、宙ぶらりんになった利権がいくつかある。その分配が済み次第、各軍は撤収、領地へと戻ることになるだろう。

 身の振り方を考えなければならないのは、一刀も一緒である。

 この戦の間だけという契約ではあったが、孫策が何か手を打ってくるというのは目に見えていた。思春も言葉では好きにしろと言っているが、一刀は残るものとして話を進めている雰囲気がある。

 仲間として認められているのだと思うと嬉しい限りだが、奉孝たちのことを考えると独立の思いを捨てることもできなかった。

 彼女達の知恵に見合うよう一生懸命に戦ったつもりだったが、それが今、彼女達を苦しめることになっている。

 世の中難しいものだ。

「ここにしようと思う」

 一刀が足を止めたのは、大衆食堂だった。

 当初食事をする予定だった屋台よりは値段が張るが、適度に清潔感に溢れているし客層も大人しい。何より同じ部隊の人間と顔を合わせる可能性が低いというのが、選んだ理由だ。

「へえ……一刀くんは普段、こういうところで食事をしているのね」
「まあね。あぁ、足元に気をつけて」

 伯和の手を引いて店内に入る。

 昼時ということもあって、店内は賑わっていた。兵士に大工に商人にその他諸々。立場の偉そうな人間は一人もいない。まさに庶民のための庶民の食堂だった。

 そんな中、突然現れた育ちの良さそうな美少女に、皆が目を奪われる。

 それでたじろぎもすれば騒ぎになったのだろうが、肝が据わっているのか、男たちの無遠慮な視線に晒されても伯和は全く動じなかった。
 男たちはそれで、大きな興味を失ったようだった。何しろ美少女であるから視線を集めはするが、どういう人間なのかという興味は失ったようである。

 彼らは再び働くエネルギーを得るために食事をしているのであって、食事そのものを楽しみにきているのではない。自分に関係のないことに関わっているような時間は、彼らにはないのだ。

「いらっしゃい。二人かい? 角の席を使っておくれ」

 給仕のおばちゃんが示したのは、ちょうど良いことに二人席だった。奥まった場所にあるので、あまり目立たない。知り合いに会わないようにと思っていた身には絶好の場所だ。

「どうぞ」

 席を引くと、当然のように伯和は腰を下ろした。ありがとう、と礼を言うことも忘れない。

 まるで自分が紳士になったようで、少しだけ気分が良くなった。

 伯和の対面の席に座ると、伯和から正位置になるようにメニューを渡す。ラインナップは前に来た時と変わっていない。冒険をしたメニューもないのは残念ではあるが、それだけに何を頼んでも外れはない。

「目移りしちゃうわね……」
「この中ではラーメンがお勧めかな」
「じゃあラーメンにするわ。一刀くんも同じもの?」
「もちろん」
「お揃いね。嬉しいわ」

 微笑む伯和を横目に見ながら、おばちゃんに注文する。

 食堂の雑多な喧騒の中、伯和を見た。場末の食堂の中にあっても、美しさが損なわれることはない。長い黒髪を指で弄りながら、面白そうに周囲を見回している。

「こういう場所、初めてなんだよな?」
「ええ。実家の食堂以外で食事をするなんて、数えるほどしかないわ」 
「連れてきた俺は責任重大だな」
「そうね。これで口にあわなかったら、終身刑にしちゃうんだから」
「それは怖いな……でも、俺が払える範囲で食った中では、ここは一番の味だよ。これで駄目なら大人しく獄に落とされるしかない」
「期待してるわよ」

 待っているうちに、ラーメンが運ばれてきた。湯気の立つラーメンに、伯和が感嘆の溜息を吐く。

 お嬢様過ぎてラーメンを知らないのか、という可能性に今更思い至ったが、いただきます、と両手を合わせた伯和は迷うことなく箸を取り、麺を啜っていく。

 実にお上品な食べ方に、思わず一刀の頬も緩む。

「私を見るのに夢中だと、麺がのびちゃううわよ」
「……いただきます」

 どうにも、この少女とは相性が悪いようだった。

「一刀くんって兵士よね?」
「そうだよ。所属は――」
「江東の孫策旗下、甘寧将軍の部隊に所属してるのよね?」
「もしかして、前に会ったことあるか?」
「貴方、有名人よ? かの飛将軍呂布に一騎打ちを挑んで退けたって。そんなに腕が立つように見えないけど、本当なの?」
「挑んでもいないし、退けてもいないよ」
「でも、あの呂布の前に立って生き残ったのは事実なんでしょう? 凄いじゃない」
「ありがとう。麺がのびるぞ」

 この話はこれで終わり、という意味を込めて食事の再開を促すと、伯和は上品ににやりと笑った。

「甘寧部隊の副官になったと聞いたけど、このまま孫策に仕えるつもりなの?」
「そういうことになるかもしれない、ってところかな。この戦の間だけって契約のはずなんだけど、どうも雲行きが怪しいんだ」
「呂布を退けた渦中の人だものね」

 まだ言うのか、と軽く睨むが伯和は何処吹く風だ。

「でも、私が孫策の立場だったとしても一刀くんを手放したりはしないと思う。それに、一刀くんから見ても悪い話じゃないはずよ? 孫策は曹操と同等の有力株だもの。袁紹が脱落しかけてる今、乗る勝ち馬としては申し分ないわ。立身出世もしやすいはずだけど、何が不満なの?」
「自分の領地を持ちたいと思ってるんだ」

 見た目に反して情報通な伯和に舌を巻きながらも、関係者でないことから一刀の口も滑らかになる。仲間の軍師が三人いること。彼女らとの目標で、自分の領地を持ちたいこと。

 そしてできるなら、天下に覇を唱えてみたいこと。

 大それた望みだとは自分でも思うが、あれだけ有能な軍師が一緒にいるのだ。せめて彼女らに見合うだけの舞台は用意してあげたいし、それに相応しい実力を持ってもみたい。

 それは一刀の切実な願いだったが、現実はそうもいかなそうなこと。

 ラーメンを食べながら、気づけば今の状況を詳細に伯和に話していた。

 全てを話し終わった後、子供にする話でもなかったかと遅まきながら伯和の顔色を伺う。伯和は真面目な顔をして思案していた。ラーメンの丼はいつの間にかスープを残して空になっている。

「元々の契約を反故にするのはあちらなのだし、お仲間の軍師も優秀みたいだから、話のもって行き方次第では孫策の下でも領主になれると思うのだけど」
「それだともっと上に行くには、いずれ孫策様を押しのけないといけないだろ? 世話になった人にそういうことをするのを前提に仕事するのは、ちょっとどうかと思うんだ」
「押しのけるだけが出世の手段じゃないと思うのだけど……本当、貴方は変な所で真面目なのね」
「他に何か手段があるような言い草だな」
「孫策は女性なんでしょう? 一刀くんの魅力で篭絡してみたらどうかしら」
「馬鹿を言うなよ……」

 そんな恐ろしいことができるはずもない。身分の差があるし、第一、自分自身が孫策に相応しいと欠片も思うことができない。

 せめて立場がもっと近ければアタックをしようと思うこともあったろうが、若干の出世を果たしたとは言え、孫策はまだまだ雲上人だ。恋愛の対象として見ることはできそうにもなかった。

「良い線行くと思うのだけど? 一刀くんってばそんなに悪い顔をしてる訳じゃないし」
「命がいくつあっても足りないよ」

 美人でスタイルも良く、女性として魅力に思うのは事実であるが、呉の人間らしく孫策も気性の激しい人間だ。狼藉を働いた賊を皆殺しにしたとか、無礼な人間を笑顔で半殺しにしたとか、そういうエピソードにも事欠かない。

 尊敬はしているし、雇ってくれたことに感謝もしているが、怖いものは怖いのだ。

 そんな後ろ向きな気持ちでは、篭絡できるものもできないだろう。

 第一、仮に上手くいくのだとしても、奉孝たちの視線が怖すぎる。色々な意味で孫策にちょっかいをかけるのは、一刀には不可能なのだった。

「つまり一刀くんに結婚の予定はないのね。その年で寂しいことだわ」
「まだまだ自分のことで手一杯だよ」
「私が子供を産める年齢になって、その時私の周りに相応しい男性がいなかったら、一刀くんをお婿さんにしてあげても良いわ」
「期待しないで待ってるよ」

 内心の動揺を悟られないように気のない返事をしたつもりだったが、伯和はそれを見透かしたような薄く微笑んでいる。

 とても、自分より年下の少女とは思えなかった。

 仲徳と言い伯和と言い、見た目が幼いのにこういう表情が似合う少女は、成長したらどんな女性になるのか。詮無い想像をすることをとめることができない一刀である。

 仲徳などは十年経ってもあのままのような気もするが……あれで胸や尻が薄いことを気にしているようなので、本人の前では決して口にはできないことである。

「私に何ができる訳じゃないけど、貴方の夢が叶うことを祈ってるわ」
「伯和にそう言ってもらえると叶いそうな気がするよ。道は険しいけど、頑張ってみる」

 女の子の食事が終わったのにいつまでも男だけ食事をしている訳にもいかない。ペースをあげてスープまで完食すると、おばちゃんに会計を済ませて店を出る。

「俺はこれから仕事に戻る。家まで戻るなら送ってくけど」
「遠慮しておくわ。私の家、ここからちょっと遠いの」
「そうか? まぁ、そう言ってくれると実はちょっと助かる。治安は良くなったけど、一人歩きには注意するんだぞ? 人の少ない路地とかに入っちゃ駄目だからな」
「分かってるわ。一刀くんは心配性なのね」
「当然のことを言ってるだけだよ」

 くすり、と伯和は笑って一刀から距離を取る。その目は一刀の肩を飛び越えて、さらにその奥を見据えていた。何か不味いものを見つけたという体で、逃げの体勢に入っている。

「名残惜しいのだけれど、また後で。機会があったらまた食事でもしましょう?」
「ああ。伯和も元気で」

 別れの挨拶もそこそこに、伯和は長衣を翻しながら駆け出していく。小さく細い身体なのに、その動きは俊敏だった。人の流れの中を縫うようにして走る伯和の姿は、すぐに見えなくなる。

 さて、仕事に戻ろうか、と振り返ると、その先にいたのは異色の一団だった。

 完全武装こそしていないが、全員が帯剣しており物々しい雰囲気である。所属を表すようなものは何一つつけていなので、誰の旗下というのはさっぱりだが、身のこなしから相当の使い手であるというのは分かった。

 壮年に差し掛かった女性を筆頭に、女性ばかり三人の集団である。特に先頭の女性の雰囲気はただものではない。完全武装こそしていないがその物腰からかなりの使い手であることが見て取れる。

 その集団は周囲の人波に目を光らせながら、速足で通りを進んでいた。

 物々しいその集団とすれ違いながら、一刀はどうして伯和が逃げたのかを理解した。

 おそらくこれが伯和の護衛集団なのだろう。少女一人に三人、それもかなり腕の立つ人間を使っているとは、思っていた以上に高貴な身分であったことが伺える。

「そんな娘にラーメンとか食べさせたのか俺……」

 喜んで見えたから良かったものの、これで伯和の趣味から外れていたらどんな処分が下されていたのか。

 まさかいきなり斬首ということはなかろうが、この時代、金持ち及び高貴な身分の人間の不興をかって命を失う人間の話など掃いて捨てるほど転がっている。自分がその中に一人にならないとは、断言できない。

 自分の首が今も繋がっていることに感謝しながら、一刀は通りを歩いていく。

 洛陽の大路は、今日も盛況だ。





言い訳的後書き

今の仕事を辞める関係でちょっとスランプ気味です。
今回は少し短めですが、次話をなるべく早くアップできるよう頑張ります。





[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十一話 戦後処理編IN洛陽④
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:58











「ついにこの日がきましたか……」

 重厚な扉を前に奉孝は一人ごちた。傍らには仲徳と士元もいる。そこには一刀に協力する軍師が勢ぞろいしていた。

 連合軍の全ての折衝が終わって数日。後はその折衝で決まったことを皇帝陛下を中継して配分するのみとなっていた。既に各軍は領地へと戻る準備を始めており、それは孫策軍も例外ではなかった。

 そしてここからが奉孝の仕事の始まりである。

 契約はしっかりと結んだつもりだった。この戦の間だけという約束を最初は孫策も守るつもりではあっただろう。

 しかし、今はそれが守られるという保障はない。自分たち軍師は手を抜かず全力で献策してきたつもりだし、一刀も思っていた以上の戦果を挙げた。挙げてしまった。

 今はどの勢力も兵と軍師を欲している。孫策が、自分たちを手放す理由はない。

 普通に考えれば孫呉は悪くない仕官先だ。両袁家を候補から除外するなら残されるのは孫策か曹操くらいしかないのだから。多くの軍師、そして兵が彼女らに仕えることを望んでいる時代に、如何に孫策から離れるかを考えている軍師は、おそらく自分だけだろう。

 大きく息を吐くと、奉孝の頭は冷えていった。

 孫呉を穏便に離れるための交渉を、これから行わなければならない。相手は当代最高の軍師と名高いあの周瑜だ。一緒に仕事をして、彼女の頭脳の冴えは嫌というほどに思い知っている。

 それに孫策。周瑜には勿論他の軍師にも大きく劣るだろうがあれで中々に弁が立つし、特に直感には目を見張るものがあった。軍師でないからと油断していたら、痛い目を見るのはこちらである。交渉相手としては恐ろしいまでに難物だ。

 しかし、これを乗り越えなければ自分たちに未来はない。主として孫策は申し分のない人間であるが、それは自分たちの望んだ主ではない。

 北郷一刀と共に。

 それが奉孝たち三人の、偽らざる願いなのである。

 全力を尽くすつもりでいるが、勝てないかもしれないという思いが奉孝の脳裏を過ぎっていた。下手に断ることになれば、命はない。手放した優秀な人間が他軍に属することになれば、それは大きな損失となる。自分たちに組しないと決定された時点で首を刎ねるということは、考えられないことではなかった。

 名声に傷がつくことを考えればそれは軽々とできることではないが、孫策がそれを選ぶかどうか、五分といったところだった。命を盾にされれば、奉孝たちはそれでお終いなのだ。

 弱小勢力である自分たちに、孫呉の武を押し返すだけの力はない。

 だから、そうされる前に何とか話を纏めなければいけないのであるが……あの二人を相手に果たしてどこまでできるのか、奉孝をしても見通しが立たなかった。

 先行きは暗いが、やらなければならない。ある種の悲壮感を持って、奉孝たちは扉の前に立っていた。

「暗い顔をしていたら、幸せが逃げていきますよ」

 いつも通り気の抜けた表情をした仲徳が隣で呟く。彼女とて緊張していない訳ではないのだろうが、その表情を見る限りそれは微塵も感じられなかった。こういう交渉の時は、本当に頼りになる存在である。

 その隣では、士元が小動物のように震えていた。

 こちらは仲徳と異なり、心情が思い切り顔に出ている。経験不足なのか元来の性質なのか、こういうところはいくらか場数を踏んでいるのに改まる様子がない。相手の気に飲まれやすいというのは、交渉事には不向きな性質である。

 これについては追々、改めていかなければと思っているが……そんな士元の姿が逆に、奉孝の心に力を与えた。

 ここで自分まで無様を晒しては、総崩れになる。こうあるべしという姿を見せられないのなら、士元の先達でいる意味もなかった。

「……そうですね。私としたことが、力が入りすぎていたようです」
「これで失敗したとしても、道が閉ざされた訳ではありませんからね。失敗したら次の機会を待つ。それくらいの気持ちでいた方が、成功するかもしれませんよ?」
「それはそれで後ろ向きする気がしますが……いえ、変に追い詰められるよりはずっと良いのかもしれませんね」

 仲徳の言葉に奉孝は笑みを浮かべる。一刀の元を出てきてから、今日、初めて見せる笑顔だった。

「では、今度こそ行きましょうか。我々の腕を、お二方に思う存分見ていただきましょう」

















「おかえり。思ってたより早かったけ……ど……」

 どんな結果になったとしても明るく迎えようと、せめて見た目くらいはと明るく気楽に奉孝たちを迎えた一刀は、彼女らの雰囲気に言葉を詰まらせた。

 どうしようもなく悲痛という訳ではなかった。一言で言うならば、彼女らの顔に浮かんでいるのは『不可解』である。奉孝も仲徳も士元も一様に訳がわからないという顔をしていた。

 何故そんな顔をしているのか分からない一刀からすれば、余計に訳が分からない。

 それでも話が悪い方向に行ってしまったという訳ではないようだった。最悪夜逃げという選択肢も頭に浮かんでいたため、そうはならなそうなことを悟った一刀は、こっそりと安堵の溜息を吐く。

「改めて、おかえり。お疲れ様、三人とも」
「ただいま戻りました。一刀殿」

 執務室、というには聊か狭い一刀の仕事部屋には、一刀が書類仕事をするための文机以外にはテーブルはない。人数分のお茶を用意した一刀は、手ずから奉孝たちに渡していく。

「それで、話はどうなった?」
「……結論から申し上げますと、我々は孫呉より離れることとなりました」
「それは良かった、ってことになるのかな。とにかく、奉孝たちの頑張りのおかげだよ。まさかあの周瑜殿に打ち勝つとは正直思ってもみなかった」
「いいえ、我々が交渉の末にそれを勝ち取ったというのではありません。この勝利は我々から見れば、偶然の産物です」

 そう言って、奉孝は一つの巻物を差し出してきた。木簡でも竹簡でもない。紙の書類である。現代ほど製紙技術が発達していないこの時代において、紙というのは貴重品だ。

 それが使われているということは、この書類がそれだけ重要なものだということである。

 そんなものを見ても良いのかと奉孝を見るが、彼女は眼鏡の奥で目を細めるばかりだった。

 それを了解の意思表示と取った一刀は巻物を受け取り、それを広げる。

「これはどういうことだ?」

 最後まできっちりと読みきった一刀の口から出てきたのは、そんな言葉だった。軍師が三人も集まって『不可解』な顔をしていたのが、今にして漸く理解できた。

 書面には、北郷一刀に領地を与えるとあった。

 何かの冗談かと思ったが、紙の巻物といい格式ばった文体と言い、一刀一人を担ぐにしては出来過ぎていた。

 だから本物、というのは早計に過ぎるというものだが、冗談で済ませるにしては奉孝たちの雰囲気も軽くはない。

「私にも良く分かりませんが、孫策殿からそれを頂戴しました。どういう内容なのかは彼女も知っていたようで、これは任命書であるということを渡す時に仰られました」

 つまり我々は、彼女らと交渉はしていません、と奉孝は自分の言葉を締めくくる。

 思っていたよりも早く奉孝たちが帰ってきたのもそれで合点がいった。

 しかし、この書類については謎が深まるばかりである。

「任命書ということは、領地を賜ったのですか?」
「そうみたいだな。此度のことに功ありと認め、領地を授けるとある」

 自分で言っていても半信半疑だ。理由として尤もらしく書いてあるが、自分のしてきたことを振り返っても、それだけで領地を貰えるようなことだったとは思えない。

「功というのは与える側が判断するものです。我々のあずかり知らない所で何かがあり、褒美が与えられるというも珍しい話ではありません」
「でも、それは上の方できっちり話がついてるのが普通ですねー。孫策様は寝耳に水と言った感じでしたし、そうなると彼女以外の誰かがお兄さんを陛下に売り込んだということになりますが」

 そんな人間に心当たりはいない。自分本人はともかく、軍師三人を手元においておきたいと考えるだろう孫策が、そんなことをするとも思えなかった。他所の軍からの工作ということも考えられなくもないが、結論を出すには材料が足りない。

 一刀の脳裏に浮かんだのは、どこぞの猫耳軍師である。

 彼女ならばどんなに迂遠な方法でもきっちりと成果の挙がるような策を行うだろうが、自分一人を孫策軍から引き抜くために周到な作戦を立てるとも思えなかった。自分一人で乗り込んできて、堂々と交渉する方が荀彧らしいというものである。

「誰がどうしたってのは後で考えよう。それよりも問題はこれからのことだ」

 書面は軍師三人の手を渡り、再び一刀のところに戻ってくる。内容については全員の知るところとなった。考えることは一つである。

「……并州楽平郡の県一つか。俺にはそれが何処にあるのかも良く分からないけど」
「星ちゃんの地元の隣の郡ですね。州区分は違いますがー」
「良いところなのかな」
「危険度で言うのならば洛陽とは桁違いに危険ですが、些細なことです。我々が良くしていけば良いだけの話なのですから」
「それはそうだけどさ」

 人間、できることとできないことがある。奉孝たちのことは良く知っているし、その能力が最高のものであることに疑いはないが、戦いが数で決まるというのもまた、真理である。

 領地を得るといってもそれは小さいものであるし、固有の兵というものは今の一刀にはほとんど存在しない。少ない勢力は大きな勢力に潰されるというのは、世の常だ。

 そんな弱小勢力である自分のところに奉孝たちのような軍師が三人もいるというのは宝の持ち腐れであると思うが、それを口にしたら、奉孝はきっと一週間は口を利いてくれないだろう。今更、彼女らが仲間であるということを疑いはしない。

「何はともあれ。これで一刀殿は小さいながら領主となりました。おめでとうございます」
「任地に着くまで油断はできないけどな。でも、ありがとう。俺がここまでこれたのは、皆のおかげだよ」
「そう言ってもらえると私としてもありがたい。そして、これは一つの節目でもあります」

 言葉を区切った奉孝は一刀から距離を取ると、その場に跪いた。仲徳、士元もそれに倣う。型どおりの臣下の礼に一刀は面食らうが、言葉を差し挟むことを許さない雰囲気が三人にはあった。

「私は郭嘉、字を奉孝、真名を稟と申します」
「私は程昱、字を仲徳、真名は風です」
「私は鳳統、字は士元、真名は雛里です」

 それは稟たちだけでなく、一刀も待ち望んでいた光景だった。

 真名を預けられたことも勿論嬉しいが、それ以上に、やっと始めることができると歓喜に震えていた。有能な軍師を日陰で腐らせること幾年月。辛い思いも惨めな思いも何度もさせてしまった。

 だがこれで、彼女たちがその智を振るうに最低限の土台を作ることができる。

 それを思うと嬉しくて仕方がなかったが、その喜びを皆に伝える前にどうしても言っておかなければならないことがあった。

「勘違いしてると困るから一応言っておくけど、俺は皆を臣下とか思ったことはないぞ。俺たちは仲間だ。ここに上下はない」
「貴殿がそう思っているのは存じていますが、対外的に序列は必要です。それにいざという時、誰の言葉が最も優先されるのか。決まっているのといないのとでは大きな違いがあります。そういう時優先されるのが貴殿と認識してくれれば良いのです」
「言ってることは分かるけどさ……」

 詭弁じゃないか、とも思うのだ。

 気持ちさえしっかりしていれば初志を忘れることはないと言い切れるほど、自分の心が強いとも思えない。命令することに何も感じなくなってしまったら、それこそ、ただの支配者になってしまう。一刀はそれが不安なのである。

 そんな一刀を見て、奉孝――稟は微笑んだ。

「貴殿が間違ったら、我々が正します。貴殿は貴殿の正しいと思うことをやってください。我々はそんな貴殿に可能性を見て、ともに歩くと決めたのですから」
「責任重大だな」
「おうおう、今更気づいたのかよにーちゃん」
「宝譿。おめでたい席なのですから茶化すものではありませんよ」

 仲徳――風の一人芝居も、今はありがたい。自分は良い仲間に恵まれた。心の底からそう思うことのできる自分は、間違いなく幸せ者だ。

「頑張りましょうね、一刀さん」
「これからもよろしくな、雛里」

 先の折れたとんがり帽子をどけて、直接雛里の頭を撫でる。出会った頃はそれこそ小動物のように怯えていたものだが、今はこの手を目を細めて受け入れてくれている。小動物という感想に変わりはないが、最初を雨の中の子犬とするなら、今は炬燵の中の猫とでも言えば良いのか。気持ち良さそうに小さく唸る様は、見ていて心地良い。

 そのまま放っていたら何時までも頭を撫でていたかもしれない一刀を現実に引き戻したのは、稟の大きな咳払いだった。それに驚き慌てて距離を取った雛里は、その勢いで転んでしまう。

 すいません……と帽子を押さえて立ち上がる様には哀愁すら漂うが、助けに入ることを稟が許してくれそうになかった。

 視線が冷え冷えとしているのを感じる。見せ付けるように頭を撫でたのがいけなかったのだろうか。

 しかし、一刀の手は自然と出ていたものだ。これをしないという選択肢はありえなかった。

 ならば稟の頭を撫でればそれでイーブンかとも考えるが、彼女が頭を撫でられて喜ぶとも思えない。

 何か別のことで埋め合わせをしようと、心に決める。言葉に出しても良かったが、今この件に関して口にすると、余計な雷が落ちそうな気がしたのだ。真名を預けられても、稟に怒られるのは怖いのである。

「さて、領地を得ると決まりましたがそれまでにすることは山ほどあります。挨拶周りに根回し、資材や人材の準備もしなければならないでしょう。できる限り早急に出立できるのが望ましいですが、その辺りは孫策殿の予定を加味して決めるのが良いでしょう。ともあれ、貴殿にも我々にも暇はありません。これからしなければならないことを挙げていきますから、きちんと覚えてください」
「ちょっと待ってくれ。今メモを探してくる」

 書くものを探している最中にも、稟はこれからするべきことの列挙を始めている。慌てる一刀を風は微笑ましく、雛里ははらはらとした表情で見つめていた。

 結局、メモを見つけるまでに早口気味だった稟の説明は終わっていた。

 新たな生活を始めるというのに、そのスタートは貴殿には準備が足りないという説教から始まったが、一刀をはじめ誰一人暗い顔をしてはいなかった。

 皆で思い描いていたことが、実現したのだ。こんなに良い日は、ない。



















 怒涛の一週間が過ぎた。

 稟の挙げたしなければならないことというのは思っていた以上に多く、一刀と軍師三人で分担してもすぐには捌ききれるものではなかったのだ。

 一刀がいなければ処理できない案件が多いのである。代理の人間でも処理できないことはないのだが、それらには出世する一刀の顔を売る側面もあるために、本人がいなければどうしようもない面もあった。

 結果、一つしかない一刀の身体では処理が追いつかず、処理待ちの案件ばかりが溜まっていく。

 思うように仕事が進まないことに稟辺りはイライラしそうなものだったが、思うように進まないこの雰囲気を楽しんででもいるのか、最近の稟は何だか機嫌が良かったりする。

 いつも薄い不機嫌を纏わせているような稟を見ているため、機嫌の良い稟を長く見ていると逆に『もうそろそろ爆発するのでは……』と言い知れない不安に襲われる一刀だったが、女性の態度がころころと変わるのは経験として知っている。

 今の稟はどの程度不味いのかと、仲間の中では最も付き合いの長い風に聞いてみるが、彼女はいつものふわふわとした態度であれなら大丈夫という太鼓判を押していた。

 風が大丈夫というのならそうなのだろうが……環境が変わろうとしている最中だからなのか、今までならばスルーできたことがどうにも目に付いて仕方がないのだった。

 それでも、時間は流れ進んでいく。

 北郷一刀の立場は甘寧隊の暫定副官から県令へと立場が着々と移行していた。

 領地を得るということを甘寧に報告した時、彼女は長く沈黙してから祝いの言葉を述べてくれた。甘寧隊の面々も残念だと言ってくれささやかではあるが祝宴を開いてくれた。同じ釜の飯を食った仲間が出世するのに喜ばない人間はいないと、心に響く言葉を言ってくれたのは良いが、要は何かと理由をつけて酒を飲みたかったのだろう。

 最初からペースを考えずに浴びるように飲みまくる乱痴気騒ぎは日が沈んでから日が昇るまで行われ、最終的に甘寧の拳で持って終局となった。頬は今でも思い出したように痛むが、今までで一番楽しかった宴席だったのは言うまでもない。

 領地まで連れて行く兵については孫策に相談し、北郷隊の中からどうしても着いて行きたいという人間がいれば引き抜いても良いという許可を貰った。この時勢に少数とは言え兵を引き抜いていくのは心苦しくはあったが、その好意はありがたかった。

 隊の人間全員ときちんと話をし、約100人の中から16人を引き抜くことが決まった。

 それが多いのか少ないのか一刀には分からなかったが、孫呉で働くよりもこちらにいたいと言ってくれた仲間である。16人で一緒に挨拶にきてくれた時には、思わず涙したものだ。

 その16人の中には当然のように子義もいた。待遇が孫呉の方が良いだろうことを全く理解していない可能性もあったので、この上なく噛み砕いて何度も説明したが、彼の結論は変わらず『団長と一緒にいるのが良いんです』ということだった。

 ちなみに、子義からも真名を預かっている。

 稟たち三人に遠慮していたらしく、彼女らが預けたら自分も預けると心に決めていたのだそうだ。

 というか、二年近く付き合っているのに、子義が字であるということをその時初めて知った。

 彼は太史慈。『字』が子義で、真名を要というらしい。

 太史慈と言えば一刀でも聞き覚えのある名前の一つである。既に『郭嘉』や『程昱』が周囲にいることに比べたら、そこに一人加わるくらい誤差のようなものであるが、最初から言ってくれればまだ心構えもできた。

 何で言わないんだと食ってかかったら、知ってるもんだと思ってましたとあっけらかんと答えられてしまった。稟や風は要が太史慈であると知っていたらしい。村から出てきた人間は言わずもがなだ。二年もの間、知らなかったのは自分だけという間抜けな状況だが、へらへら笑う要を見ていると、そんな悩みもどうでも良くなってしまう。

 何より、彼がついてきてくれるというのは心強いし楽しい。

 それに比べればどんな問題も些細なものだった。

 稟たちと真名の交換をしてから一週間、一刀は洛陽の街を駆け回っていた。あらゆる役所に行き、商人のところに行き、知己になった人間に挨拶に行き、諸侯にも会えるだけ会う。

 孫策軍の主だった面々には早急に挨拶を済ませ、残りの諸侯にも顔合わせを……と努力はしたのだが、時間が合わずにほとんどを達成することができなかった。

 馬超軍は出立の準備で忙しく曹操軍はアポを取れず、雛里のコネを期待していた劉備軍はどうも上層部でゴタゴタがあったらしく誰も時間の都合がつかなかった。

 顔を売る機会が潰れてしまったことを稟は嘆いていたが、逆に一刀は安心していた。偉い人間と顔を合わせて、何を話して良いのか分からないからだ。劉備だの曹操だの、三国志の英雄との場で呂布と戦ったことなど話題に出されたら恥ずかしさで死んでしまうかもしれない。

 そんな中、文謙だけは時間の都合をつけてくれ、近況を報告することができた。領地を持てたと報告すると、まるで自分のことのように喜んでくれた。彼女は、変わらずに曹操に仕えるのだと言う。お互いの息災を祈り、一度二人で食事をしてその場は別れた。文の遣り取りをする約束を取り付けていたので、領地で落ち着いたら文を出そうと思っている。

 荀彧には会うことができなかったが、彼女にはどうしても自分から今の状況を伝えなければいけないと思い、手紙にして近況を報告することにした。直接、荀彧に当てたものを一通と、荀家を経由したものを一通。内容は同じであるが、何かの間違いで届かないことを考えると、保険をかけておくに越したことはなかった。

 もっとも、荀彧のことだからこちらの動きくらい既に掴んでいる可能性はある。

 旅立つ前に顔くらいは見たかったが、ただの県令(予定)であるこちらと違い、あちらは立場も仕事もある身だ。諸侯と時間が合わなかったのと同様に、会えない可能性は十分に考えられることだったが、寂しいものは寂しい。

 任地に行けばより一層会えなくなるだろう。手紙のやりとりくらいはできるだろうが、顔を見る機会は激減する。

 もしかしたらこれが最後の機会かもしれないのだ、と思うと顔を見たいという気持ちは募るばかりだったが、そんな気持ちであることを知ったら、荀彧はきっと嫌悪の表情を浮かべてこういうだろう。

『気持ち悪い……』

 罵詈雑言すらない。ただ一言、呟くように言うに決まっている。

 諸侯に空振りした時点で、諦めも半分はついている。出立の日までアプローチは続けるつもりだが、どうしてもという訳ではない。北郷一刀の予定と荀彧の予定では、あちらが重いのは当然のことだ。

 凡人一人の我侭で、要人の予定を狂わせる訳にはいかない。寂しくはあるが仕方のないことだと自分を納得させ、今日は要と共に洛陽の大路を行く。

 今日は役所に任地の状況の確認に行った。通信網が発達していないこの時代では、任地までいかなければ分からないことは多いものの状況報告は義務付けられているため、専門の役所に行けばそれを確めることができる。

 任命書を持って朝から役所に行きそれを調べていたのだが……酷い状況かもしれないと散々脅しをかけていた稟から言われていたよりはずっとマシな環境だと書面からは察することができた。

 しかし、実際この通りという保障はどこにもない。

 この書類が提出されてからの間に変わることだってあるし、そもそもこの書類が正しいとも限らないのだ。役人が賄賂で私腹を肥やすなどよくある話で、それで民が圧迫されているのだと思うとまだ赴任してすらいない任地のことであっても、気が気ではなかった。

 自分が有能であるとは思わない一刀だったが、少なくとも汚職に手を染めたりはするまいと心に決めている。自分にできる範囲のことで全力を尽くそうと、改めて心に誓った。

「団長、今日はこれからどうするんでしたっけ」
「事務所に戻って稟たちと打ち合わせだよ。明日商人と会うから、その準備をしないといけないんだ」
「物を買うだけでしょう? それで何で準備がいるんです?」
「長い付き合いになるかもしれないから、舐められるといけないそうだよ。俺は綺麗な格好をして稟の横に突っ立って、もっともらしい顔して頷くのが仕事らしい」
「それじゃ団長いらないじゃないですか」
「俺もそう思うんだけどね。そうもいかないってのが実情らしい」
「大人の世界ってのは面倒くさいですね、本当に」

 単純に生きている要らしい感想である。面倒くさいことに関わらず、難しい話をされるとすぐに逃げ出すフットワークの軽さは、相変わらずだった。一刀についてくる兵の中では古参であり、その実力から稟たちを含めて全員に一目置かれてはいるが、その気質から長のつく仕事は任せられそうにない。

 優秀には違いないのだが、今一歩足りない……と稟などは愚痴を漏らしているが、兵や護衛としては十二分に役に立っていることだし、一刀本人はこれで良いと思っている。要にはやりたいようにやらせるのが、今のところ唯一の使い道だ。

 それで使いものにならないのではあれば考えもするが、兵や護衛としては優秀であるのは稟も認めるところである。きっちりと与えられた仕事はこなしているので、稟であっても強くでることはできない。

 北郷隊の中でも、ある意味最も特殊な立場にいるのが要だった。

「それにしても今日のラーメンは美味かったですね。いつも行くところよりちょっと高めだったみたいですけど」
「たまには良いだろ? 昨日街を歩いてたらこの前食ったこと思い出してさ」
「この前は誰と行ったんです? 軍師先生とですか?」
「……誰だったかな。ちょっと記憶にない。まぁ、美味かったんだから良いだろ?」

 脳裏に不敵な笑顔を浮かべた伯和が過ぎる。別に秘密にすることではないのかもしれない。街で出会って、それきりの少女だ。疚しいところは何もないし今は連絡を取る手段もない。

 ただ、人によっては良くない想像を掻き立てられる可能性もあることから、何となく秘密のままになっていた。街で出会った女の子と一緒に食事をした。言葉にすればただそれだけの関係でも、邪推することは十分にできる。

 そもそも見方を変えればナンパしてデートしたと言えなくもない。雛里よりも幼く見える少女をひっかけたとなれば、弾劾裁判は免れないだろう。ロリコンの汚名を着せられては、一刀の信頼も地に落ちるというものである。

「全くです。美味かったんだから何も問題ありません」
「お前がそういう奴で助かったよ」

 深く物を考えない要の性質に、一刀はこっそりと安堵の溜息を漏らした。

「わふ!」

 一刀の元に小さな来客があったのはその時である。

 気づけば足元に子犬が纏わりついていた。茶色い毛並みの人懐こい奴で、首には赤い布を巻いている。良く手入れされている雰囲気から飼い犬だろうと言うのは分かるが、いつまで立っても飼い主は現れない。

「迷子かな……」

 抱き上げてみても、子犬は抵抗しないどころか一刀の頬を舐めてくる。どういう訳か気に入られてしまったようだ。気に入られるということに、子犬相手でも悪い気はしなかった。
 
「こいつを探してる人はいないみたいですね」

 要が周囲を探しながら呟く。隠れているのならばまだしもあちらもこの子犬を探しているのなら、要に見つけられないということはない。やはり飼い主はこの近くにいないという結論になるが、それは同時にこの愛すべきかわいい子犬が迷子であることを意味していた。

「軍師先生に怒られませんか?」
「放っておくのもかわいそうだろ」
「そりゃあそうですが……」

 今日出会ったばかりの子犬のために、稟たちに怒られることは要には抵抗があるようだった。ぼんやりと不満の感情を顔に浮かべるが、強く反対することはしていない。

「お前だけでも帰って良いよ。俺が勝手にこいつの飼い主を探し始めたって言えば、お前は怒られないはずだ」
「団長だけ怒られるのもかわいそうじゃありませんか。お付き合いします。二人で探した方が、飼い主も早く見つかるでしょう」
「悪いな」
「今度またラーメンでも奢ってくれれば良いですよ」

 要に悪びれた様子はなかった。付き合うのが当然だといった風であるが、要の場合不味い状況になったら逃げるという選択肢もありうる。稟相手に退避行動が取れるのは一刀の知る限り要だけだ。ある人間はそれを勇気ある行動と褒め称えるものの、一刀はそれがその場しのぎでしかないことを知っている。

 逃げられた程度で叱責を諦める稟ではないのだ。彼女は怒るべきと判断したら、例えどれだけ時間がかかっても改められていない限り必ず怒る。要も例外ではなく逃げ切れたことは一度もないのだが、結構な頻度で要は稟の前から逃走する。

 今度こそ逃げてやるという使命感すらその背中には感じられた。間違った方向に成長している要であるが、稟相手にそれができるというのも、それはそれで頼もしく思える。

「さて、お前のご主人様はどこにいるのかな」

 顔を見合わせて子犬に訪ねると、子犬は一刀の手を離れ地面に降りた。そのまますたたと歩き出し、少し離れた所で一刀を振り返った。

「ついてこいってことでしょうか」
「迷子じゃなかったのかな」

 だとしたら随分間抜けなことをしたものだと思う。稟たちとの待ち合わせもあるし、帰っても良いかという考えが一刀の脳裏を過ぎるが、あのかわいい子犬の飼い主に会ってみたいという思いもあった。

「……あいつの足ならそんなに遠い所でもないだろう。ちょっと挨拶したらすぐに帰れば、稟も目くじら立てたりしないはずだ」
「そうですか? 何か俺は係わり合いになるべきじゃない気がしてきたんですが」
「あんなかわいい犬の飼い主が悪い奴なはずないだろ」
「それはそうかもしれませんが……」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、要はついてきた。基本、一刀の行動には口を挟まない要だが、今日この日に限っては帰りませんかということを良く口にした。

 流石にいつもはないことであるので一刀も要のその『悪い予感』が気になり始めたが、そんな気持ちが湧き上がった頃には子犬はある屋敷の前で足を止めていた。大路から外れて十分ほど。閑静な住宅街に位置する屋敷だった。

 周囲には同じくらいの規模の屋敷が見られるが、どれも人気が感じられない。董卓軍の幹部が使っていた屋敷が近くにあったため、この辺りに住んでいた官僚などは別の所に居を移したはずだ。

 であるから、屋敷の規模の割りに手は入っておらず、寂れた雰囲気を感じさせる。まだ人が住む分には問題なかろうが、後三ヶ月もすればそうも言っていられなくなるだろう。

 こういう屋敷をどうするのか。洛陽の治安を守る上での課題の一つであるが、一刀の立場でそれを気にしてもしょうがない。それよりも今は子犬の飼い主だ。

「お前のご主人様、ここに住んでるのか?」

 一刀の問いに一鳴きすることで答え、屋敷の中に正面から入っていく。門は開け放たれていた。遠めに覗く分には人の気配はないが、果たして廃墟とは言え、金持ちが住んでいそうな家に足を踏み入れて良いものか。

 要を見ると、無言でやめましょうと訴えているのが見えた。口にしないところを見るに、確定的な危険を感じ取った訳ではないのだろうが、しかし、悪い予感は今も消えていないようで居心地悪そうに佇んでいる。

「挨拶して帰るだけ、ってことで」
「……お供します」

 妥協点としては中途半端な案を採用した一刀は、子犬を追って屋敷に足を踏み入れた。門を潜り、庭にさしかかっても人の気配はない。無人の庭を子犬は横切っていくが、その庭にあった痕跡を一刀は見逃さなかった。

 何かがいた形跡がある。人間ではない。獣の類が群れていたような跡があるのだ。足跡だったり糞であったり様々だが、問題はそれが放置されていないということだった。糞は明らかに片付けられているし、足跡も消えているところとそうでないところがある。

 それは、庭のメンテナンスをした人間がいるということ、そしてここには、子犬以外にも獣の類がいるということである。

 ならばその獣たちはどこにいったのか……一刀が考えを巡らせていると、要が声も挙げずに体当たりをしてきた。

 全力の体当たりに一刀はなす術もなく突き飛ばされる。地面に倒れながら振り返ると、要が抜剣したところだった。その背後に、大槍を振りかぶった影がある。

 その槍を、要は受けきることができなかった。跳躍力と落下速度も加えた大上段からの一撃である。腕が立つとは言え、要の細身ではそれを受けきることができず、そのまま弾き飛ばされる。

 数打の剣は半ばから断たれてしまったが、その身を守るという使命は果たしてくれた。本来であれば要の身体を真っ二つにしていただろう一撃は、要の肩口を浅く斬るだけに留まった。

 殺し損ねた。その事実に襲撃者は意外そうな顔をする。本当にこれで殺すつもりだったのだろう。要がまだ生きているのが信じられないという様子だったが、それで手を止めるようなことはしなかった。着地すると流れるような動作で石突を繰り出し、要の鳩尾を打つ。

 一瞬で、要の意識は刈り取られた。なす術なく崩れ落ちる要に一刀は声を――挙げられない。

 首の裏に突きつけられる刃物の感触に、一刀は呼吸を含めた全ての動きを止めていた。

「なんや、勢いで生かしてもうた……」

 頭をかきながら要を引き摺るのは、一番最初の襲撃者だった。

 いや、こちらが侵入者であるのだから、彼女は撃退者か。

 上半身はさらしに上着を羽織っただけという扇情的な装いで、吊り目気味の目に髪をアップにまとめている。これに下駄と袴を合わせるという、この世界で出会った中でもっとも奇抜なファッションをしたその女に、一刀ははっきりと見覚えがあった。

「張遼将軍……」
「なんや、ウチのこと知ってるんかいな。見たところどっかの兵みたいやけど……まぁ、こっち側ではないやろな。そんなに強そうやないし」

 要を適当に放ると張遼は腰を降ろし、こちらに視線を合わせてきた。さらしに包まれた豊かな胸がアップになるが、それを鑑賞するだけの余裕はない。猫のようなくるくると表情の変わる色をした瞳だが、こんな邪気のない顔をしたまま、この人間は人を殺すことができる。
 今まさに、自分は命を握られているのだ。

 その事実が、一刀の心臓を強く締め付けていた。プレッシャーで吐きそうになるのを堪え、どうにか、張遼を見つめ返す。

「根性座っとらん訳じゃないみたいやけどな。しかし自分、なんでこんなところにきたん?」
「首に赤い布を巻いた犬に連れられまして……」
「セキトに?」

 その声は背後から聞こえてきた。邪気以前に抑揚の感じられない声だったが、不思議のその声は一刀の心に染み渡ってくる。間違いなく聞き覚えのない声だったが、その声を聞いた瞬間、一刀の悪寒はかつてない程に高まった。今すぐこの場から逃げなければ、殺されるという死の恐怖が一刀を支配する。

「自分運ないなぁ……子犬についてきてこんな目にあっちゃ、割りに合わんやろ」
「今は少し、後悔しています」

 要の忠告に従っておけばと全力で後悔したが、それも後の祭だった。

「そんな訳で、悪いとは思うんやけど、自分には死んでもらわんとならんのや。せめて苦しまずに殺したるから、あまり恨まんといてな」

 銀木犀に手をかけることも許されない。ゆらりと、殺気すら纏わないまま張遼が大槍を振りかぶった。

 これに抵抗する術はない。身体を支配していた恐怖はもはや一刀の認識を振り切っていた。汗は流れきり、口の中はカラカラに乾いている。自分の危険を認識するほどの余裕すら、今の一刀にはなかった。


 振り下ろされた槍が、戟に受け止められる。自分を殺すはずの刃が目の前で受け止められている様に、一刀の時間は再び動き出した。
小さく、悲鳴が漏れる。喉が渇きすぎて、声が声にならなかった。盛大にむせて、その場に崩れ落ちる。

 地面に跪いたまま見上げたその先、自分を助けた戟を持っていたのは、あの日、自分を殺そうとした飛将軍だった。

 感情を映さないガラス玉のような瞳が自分を見つめている。

「なんや、恋。この兄ちゃん殺さへんの?」
「セキトが駄目って言ってる」

 這いつくばったまま見れば、ここまで一刀を連れてきた子犬がつぶらな瞳でこちらを見つめていた。視線が合うと、大丈夫だといわんばかりに力強く頷いてくる。犬に助けられた事実に、一刀の口から乾いた笑いが漏れた。

 パチリとウィンクをしてセキトに感謝を伝えると、彼はかわいらしくも力強くわふ、と吼えた。

「どうしても駄目か」
「どうしてもダメ」
「そっか……なら、仕方ないな」

 折れたのは張遼だった。大槍を肩に担ぎなおすと、その場にどっかりと腰を降ろす。
 
「とりあえず殺すんは止めにするわ。兄ちゃん、セキトに感謝しとき」
「俺たちは助かったんでしょうか」
「とりあえず言うたやろ。これからどうなるかいうんは、ウチにもわからん」
「そうですか……」

 一刀は安堵とも落胆ともつかない溜息を漏らした。

 とりあえず、というその場しのぎの言葉が、これほど身体に染み入ったことはない。大の字になって、地面に寝転ぶ。生きている。ただそれだけなのに、それがやけに嬉しい。

「兄ちゃん、ウチのこと知ってるんやろ? どこの兵だったん?」
「孫策軍、甘寧将軍の元で此度の戦に参加しました。氾水関、虎牢関でも従軍しています」
「あー孫策軍かぁ。アホ袁術の下で苦労してるって聞いてるで」

 張遼のトーンはもはや、友達のそれである。気安く微笑み、肩まで抱いてきそうな勢いに一刀は面食らう。将軍ではなく、張遼個人の気質はこうなのだろうが、命の遣り取りしかしてこなかった人間にいきなり友達になられても、戸惑うばかりだった。

 それでも答えることができたのは、張遼の気質のなせる技なのだろう。少し話しただけであるが、張遼が悪い人間でなさそうというのは、一刀にも感じられた。

「せやったら、そっちの呂布も知っとるん?」
「存じ上げております。虎牢関で――」
「覚えてる。虎牢関の外で戦った」

 答えたのは一刀ではなく、当の呂布だった。一刀の命の恩人たるセキトを膝にだき、地面に腰を降ろす。

 殺されかけた人間が隣に座ったことで、相対した時の恐怖が蘇るが、それ以上の驚きが一刀を支配していた。

 天下の飛将軍が、覚えていると言ったのだ。

 これには張遼も驚いたようで、目を丸くして呂布を見つめている。

「珍しいなぁ。恋が戦った相手覚えてるなんて。とっぽいように見えてこの兄ちゃん、そんなに強いん?」
「大したことはない。でも、殺し損ねた。殺したと思って殺し損ねたのは、生まれて初めて。だから覚えてる」

 ほー、と張遼が溜息を漏らす。細められた目は、獲物を狙う狩猟者のそれだった。

「……そう言えば、噂で聞いたなぁ。天下の飛将軍を退けた兵が孫策軍におるって話。なんや、それが兄ちゃんのことやったんか」
「俺の剣が運良く将軍の戟を受け止めてしまっただけですよ」
「恋の戟かて相当な業物やで? それを受け止めるなんて一体どんな名剣使ってるんや。ちょっと見せてもらってもええか?」
「構いませんよ」

 本音を言えば他人に触らせるのは嫌だったが、かの張遼を相手に断れるほど一刀の心は強くなかった。渋々といった雰囲気は出さないように気をつけながら、腰から鞘ごと銀木犀を外し、張遼に渡す。

 張遼は鞘から銀木犀を抜き放つと、日の光に翳した。角度を変えて眺めてみて、ほぉ、と感嘆の溜息を漏らす。

「随分な業物やな。一兵士が持ってて良いもんやないけど、兄ちゃん、どっかのボンボンやったりするん?」
「ただの雇われの一兵士です。その剣はお世話になったさる屋敷を発つ時に、餞別として頂いたものです」
「嘘つき、盗んだんやろ? と普通なら言うんやけど、兄ちゃんがそう言うならそうなんやろ。これをくれた人間には、感謝しとき」
「今度、感謝の手紙でも贈っておくことにします」

 それを読んでくれるか分からないが、と心中で付け加える。

「さて、これからどうしようなぁ。孫策軍の兵やいうなら益々見逃す訳にはいかなくなったんやけど」
「どうにか生かしてもらえませんかね。俺、まだ死にたくはないんですが」
「うちも別に殺したい訳やないんやけどな。のっぴきならん事情ってもんがあるんよ。そのためには兄ちゃんには死んでもらうんが一番手っ取り早いんやけど……どうしたもんかな」

 助けを求めるように、張遼は呂布に視線を向けるが、呂布はセキトを撫でることに夢中で、興味を示そうともしない。話を聞いているのかも怪しかった。命を助けてくれたのだからもう少し興味を持ってくれているのかと思ったが、自分の意見が通った時点で、興味の対象からは外れたらしい。

 呂布は当てにならないことを察した張遼は、深々と溜息をついた。将軍という立場であったのだから、色々と考えることは多かったのだろうが、話してみた限り、軍師のような思考が得意というタイプには思えない。自分と比較すればそれは頭は回るのだろうが、考えるよりは身体を動かす方が得意、というタイプに思えた。

 それでも張遼は考え、悩んでいる。悩む顔には、人の良さが滲み出ていた。

「ここで将軍たちに出会ったことは、決して口外しないと約束しますが」
「それが絶対という保障はないやろ。漏れたら困るんや」
「将軍たちほどの武人ならば、諸侯も無碍にはしないと思いますが……」

 そこまで口にして、一刀は一つの可能性に至った。

 一騎当千の猛者である呂布と張遼が、まだ洛陽に留まっている事実。その気になれば単騎でも包囲を突破し、安全圏まで逃げ切れるだけの実力があるのに、彼女らはここにいる。

 つまり、留まらなければならない理由があるということだ。

 そして一刀の想像の及ぶ範囲で、この二人が無駄な危険を冒してまで洛陽に留まるほどの理由は一つしかない。

「やっぱり、兄ちゃんには死んでもらわんといかんのかなぁ」

 表情から何かを察したことを感じ取ったのだろう。哀愁漂う口調で張遼が呟く。その手には大槍が握られていた。呂布も戟を握って立ちあがる。セキトも一刀を守るように、一歩前に進み出た。

 また自分の関係ないところで、自分の命運が決定しようとしている。かつて自分の命を脅かした存在が、かたや自分の命を守るために、かたや自分の命を奪うために。

 訳が分からなかった。

 今もピンチが継続中なのは理解できる。今のうちに逃げるということもできない。要を見捨てて逃げられないし、この二人を相手に逃げ切るなど、できるはずもない。

 今はっきりと、自分の命は他人に委ねられた。いつも通りのことだと笑うこともできない。勝手にしろと笑うには、自分と要の命は重すぎた。

 呂布と張遼は一触即発の雰囲気である。

 せめて巻き込まれないよう、少しずつ、少しずつ地面を這って二人から離れる。

 それすら見咎められるようならもう命を諦めるしかなかったが、既に臨戦態勢に入っている二人にはお互いしか見えていないようだった。
 それでも、本格的に逃げようと行動に移せばすぐに看破されるだろう。

 一刀にできるのは要を引き摺って少しでも安全な場所に移動することだけだった。



「やめてください!」

 場に満ちた気だけで人を殺せそうな殺伐とした空気の中、二人を止めたのは少女の声だった。

 その声に、二人の殺気が霧散する。呂布は淡々と、張遼は困惑の表情を浮かべて声の主の方を見やった。一刀も、それに追従する。

 屋敷の奥から少女がやってきた。装いこそ質素ではあったが、ついて歩く人間の多さからこの集団の中で重要な位置にいることは見て取れた。少女は鬼気迫った表情でこちらに歩いてくる。

「仲間同士で戦うなんて、絶対に駄目です。お二人とも、武器を下ろしてください」
「でもなぁ、この兄ちゃん何とかせんことには、手詰まりやで?」
「それでも、です。私達の都合で関係のない人が死ぬなんて、私は耐えられません」

 少女の言葉に張遼は武器を降ろし、その場に膝をついた。戦う意思はないというアピールである。呂布は既に戟を手放していた。セキトを腕に抱えなおし、一刀から離れた位置に腰を下ろしている。

 二人の戦いが未然に防げたことを確認すると、少女は地面に降り、こちらに歩み寄ってきた。

 肩口までの銀色の髪には少しの癖があり、額を出すように纏められたそれは丁寧な手入れをしていることを伺わせる。振る舞いからや雰囲気から育ちの良さは見て取れるが、ただのお嬢様という雰囲気ではなかった。

 ただの美少女ではない、というのは見ただけでも分かる。

 そして、この状況で呂布と張遼を従えることのできる人間を、一刀は一人しか知らない。

 一刀は張遼と同じように姿勢をただし、跪いた。

「俺は北郷一刀、姓は北郷、名が一刀。字はありません」
「私の仲間が失礼しました」

 
「私は董卓。字を仲穎と申します」






















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十二話 戦後処理編IN洛陽⑤
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/12/24 04:58









「暇そうね」

 机に頬杖をつき、何をするでもなく窓の外を見ている雪蓮に、冥琳は溜息をつきながらそう訪ねた。暇ならばしてほしいことは掃いて捨てるほどあるのだが、進んで手伝うということを雪蓮がしないことは、長年の付き合いで知っている。

 決して薄情な訳でも仕事ができない訳でもないのに、気分で行動を決定する気質からどうにも遊んでいる印象が付きまとってしまう。君主としてそれはどうなのかと思うことは多々あるが、配下の面々にはそういうところも『らしい』と受け入れられていた。

 それも雪蓮の戦略か、と思わないでもない。そういう印象を普段から持たせておけば『たまに』が『頻繁に』に変わっても、部下はそういうものだと納得して雪蓮を放っておくことだろう。

 今も気分が乗らないから、という風で椅子の上で気を抜いている。寛いでいるという風でもない。何もしないことをしているという風の幼馴染は、冥琳の苦言にあっけらかんと答える。

「英気を養っているのよ」
「軍師としては、仕事を片付けてから養ってもらいたいものだけれど」
「最終的には終わらせるんだから良いでしょ?」
「そういうことは私の手を全く煩わせることがなくなってから言ってほしいものね」
「冥琳、愛してるわ」
「私もよ。だから仕事をしなさい」
「冥琳のいけずー」

 頬を膨らませて抗議する雪蓮を無視し、執務机の上に木簡を置く。その表題を見るや、やる気のやの字すら見られなかった雪蓮の身体に気力が戻った。目の色を輝かせてこちらを見上げる雪蓮に、冥琳は肩を竦める。

「例の調査の最終報告よ。雪蓮の期待に沿えるものかどうか解らないけれど」
「それでも何も知らない今よりはマシよ」

 雪蓮は木簡を紐解き、食い入るように読み解いていく。報告書、という体を取っているだけあって文量こそあったが、内容はそれほど濃いものでないことを、先に読んだ冥琳は知っている。期待に満ちていた雪蓮の目に、明らかな落胆の色が浮かんだ時点で、冥琳は温かい茶の入った湯のみを差し出した。

「これだけ?」
「それだけね。調査に時間と人をかけることはできるけど、それ以上の成果は得られないでしょうね」
「そう……」

 それきり興味を失ったように、雪蓮は木簡を執務机の上に放り投げる。木簡の表題には『北郷一刀調査報告』とあった。先日、皇帝陛下より領地を賜り、孫呉を離れることが決まった男である。

 その男について、自分たちは何も知らないと言って良い。三人の軍師と共に荊州にて自警団をしていたというが、知っていることと言えばそれだけだ。

 それほど目立ったところのない彼にあれほどの軍師が三人も付き従っていることも疑問ではある。その可能性に惚れこんで、というのが彼女らの弁であるが、ただそれだけで仕官を蹴ってまで付き従えるものなのか。

 疑問に思った冥琳は北郷について調べてみることにした。四人が孫家軍にやってきた時から調べるように指示を出し、折に触れて報告はあったが、当座できることはやりつくしたということで、最終の報告書を受け取ったのだ。

「荀家って曹操のところの猫耳の実家よね?」

 確認するように問うてくる雪蓮に、冥琳は頷いて答える。

 智者の一族として知られる、かの荀家である。孫呉にはあまり馴染みがないが、その筋では有名な一族だ。雪蓮が例に挙げた曹操軍の猫耳もそうであるし、皇帝の教師をしている荀攸もそうだ。どちらも流石智の一族と目を見張るほどの才媛である。

 その一族の本家に厄介になっていたというのが、北郷の経歴の中で最古のものだ。賊に襲われた猫耳を助けたのが縁であるらしく、本家での評判も上々だ。一時期は猫耳の婿と扱われていたこともあるとかないとか。

 その辺りの真偽のほどは定かではないか、問題はそこではない。

 最古の経歴ということは、そこで一刀の足跡は終了ということだ。彼についてはそれ以前の経歴を入手することができなかった。出身は元より、荀家に来る前に何処にいたということすら、さっぱり解らないのである。

 言うまでもなく、これは異常なことだ。人間、生きていれば必ず痕跡を残すものである。綺麗に掃除をしたとしても、それを調べる専門の人間が時間をかけて調べれば、隠し通すことは難しい。今回、そのための時間を十全にかけたとは断言できないが、報告では痕跡を欠片も見つけることはできなかった、とあった。

 常軌を逸した錬度で自分の痕跡を消すのに長けているか、そうでなければこれはもう、降って湧いたとでも考えるより他はない。荒唐無稽な話であるが、想像でしか補えないというのなら、それで完結させておくのが精神的にも良いだろう。他に考えることは山ほどあるのだ。孫呉にとって損となることが判明しないのならば、捨て置いても良い。過去というのは、その程度のものだ。

「奴については、天涯孤独と考えて問題ないでしょう。問題はこれからのことだけど、雪蓮、どうするつもり?」

 引き止めるつもりであったことからも分かるように、北郷一刀には価値がある。高い能力を持った軍師が三人もいたことに加え、連合軍に参加して得た名声。加えて、県令という立場も持つことになった。雪蓮に比べれば立場こそ低いものであるが、軍師たちの能力も加味すればいずれ飛躍してくることも考えられないではない。

 恩を売っておいて損はない相手だが、その分量が問題なのである。

 あまり恩を売りすぎても回収できなければ意味がない。懐の広さを見せるという意味ではアリかもしれないが、先を見れないボンクラと思われてはお話にもならない。雪蓮の勘でも冥琳の分析でも、北郷はイケると踏んでいるが、果たしてそれがどの程度のもので、どれくらいの時期から開花するものなのか、判断がつきかねているのだった。

「うちに残っててくれればやりようはあったんだけどねー」

 雪蓮の言葉にも哀愁が漂っている。その通り、残ってくれていたのならば、やりようはいくらでもあったのだ。

 一番手っ取り早い手段は、縁談だろう。孫呉の関係者と北郷を番とし、離れられなくするのである。雪蓮の血縁を宛がうのが常道ではあるが、このまま順当に北郷が功績を重ねていったとしても、雪蓮の妹である蓮華や、小蓮などの婿とすることはできなかっただろう。兵からの叩き上げとしては目を見張るものがある功績も、豪族たちを納得させられるほどのものでもない。

 ならば誰を宛がうのが最も良いのか。雪蓮と冥琳が候補を絞った中で、最も適していると判断されたのが思春だった。

 実力と実績から考えると聊か低い地位にあるが、忠義の程は皆が知るところである。人格と実力については申し分なく、何より思春を推す理由となったのは、彼女には五月蝿いことを言う親戚がいないということだった。北郷とも知らない仲ではないし、雪蓮が縁談を持ち掛ければ、思春も嫌とは言わないだろう。北郷も、孫呉に仕官していれば断らなかった、と思う。

 無論、北郷を憎からず思っているあの三人は良い顔をしないだろうが、縁談を結ぶというのは北郷の出世にとっては悪い話ではない。最終的に、縁談は纏まるはずだ。

 後は煮るなり焼くなり、こちらの自由にできる……そうなるはずだったのだが、それも過ぎた話だ。

「本当、誰が陛下に根回ししたのかしら」
「解らないわね。あの三人に皇室に繋がりがあるとも思えないし……」

 北郷に有利な話が出たのは、今回が最初のことだ。領地の裁定に関して口を挟めるほどの繋がりがあるのならば、もっと早い段階から使っていたことだろう。

 ならば一体誰が。北郷の過去にその秘密があるのではと望みを持っていたが、現状ではそれも妄想の域を出なかった。これ以上を望むならば、北郷よりも皇室に探りを入れるしかない。

 しかし、腐っても皇室である。探りを入れるには骨の折れる相手であるし、北郷一派の繋がりを探るという目的では、実入りよりも出費の方が多く出そうな気もする。調査打ち切りは、懸命な判断と言えるだろう。

 無論、何か新しい情報が出てきたら調査をする必要はあるだろうが、今は待ちの時間だ。

「いずれにしても、奴とは繋がりを切らないということで問題ないわね?」
「いいわよ。どれだけ出世してくれるのか、今から楽しみだわー」
「他の勢力に潰されるということは考えないの?」
「あの子たちならやれるでしょう。私の勘がそう言ってるわ。今も、何か面白そうなことに首を突っ込んでるんじゃない?」
「まさか。今の時期にそんな無謀なことをするはずがないわ」

 県令として赴任することが決まったこの大事な時期に、治安も良くなったこの洛陽で一体何に首を突っ込むというのか。普通の危機意識をしていたら、厄介事には関わろうとしないはずだ。北郷も決して頭の切れる方ではないが、流石にそのくらいの判断はつくだろう。あの三人が目を光らせているのならば尚更である。

「そんなことないって。私の勘がそう言ってるの。今絶対、面白いことになっているに違いないわ」
「確かに雪蓮の勘は当たるけど……」

 こんな誰のためにもならないお告げは初めてだった。迷信などを信じる性質ではない冥琳であるが、雪蓮の勘だけは別である。

 まさかこの言が北郷に不幸を呼び込むということはなかろうが。孫呉から独立し、新たな道を歩もうとしている若者のために冥琳はそっと心の中で祈りを捧げた。


  
 

 






















 董卓に対する洛陽の民の評判は、実のところそれほど悪いものではない。

 専横を働いていた宦官を排斥し、民のことを考えた政治を行っていた名君であるというのが、偽らざる彼女のイメージだった。どういう層に聞いてもそういう答えが返ってくる辺り、支持率は言わずもがなである。

 そんな董卓と敵対した連合軍が洛陽の民に受け入れられたのは、運が良かったというのもあるのだろう。

 戦の詳細までは民にまでは伝わらない。呂布も張遼も最強の武人で、董卓軍は最強の軍であるというのが民のイメージだ。

 それを連合軍が破ったのである。なまじ、最強の軍というイメージがあったのが良かったのかいけなかったのか。

 いずれにしても、民は連合軍に反抗するという選択肢を最初から排除される形となった。民の抵抗が袁紹と問題を起こしたアレ一度で済んだのは、一刀達にとっては紛れもない幸運だったと言えるだろう。

 余計な人死はでなかったし、復興も果たすことができた。戦はこれで終わったのだと、誰もが思うことができたのだから。

 さて、そんな状況の中でも董卓の行方というのは杳として知れなかった。

 死んだとも言われるし、逃げたとも言われる。連合軍の上層部もその行方を追ったが、側近の賈詡や将軍二人も含めて捕捉することはできなかった。

 稟も、既に地元涼州まで逃げたのだろうと分析し、風と雛里もそれを支持していた。一刀も特に何かを考えることもなく、そういうものかと思っていたのだが、その董卓は涼州どころか、まだ洛陽にいた。

 側近も勢ぞろいしている。

 一刀の正面には董卓。その脇には二人の軍師、賈詡と陳宮――と名乗った少女が控えている。董卓を心配そうに見つめながら、こちらを射殺さんばかりに睨みつけている辺り、好感度は最悪といっても良いだろう。

 一刀の両脇には二人の武将、呂布と張遼がいる。二人とも武器に手をかけていないのが救いであるが、何かあった時には容赦なく、一瞬でこちらの首を狩ってくるだろう。命の危機はまだ去っていなかった。

 ちなみに、張遼に昏倒させられた要はまだ意識を戻しておらず、一刀の脇に転がされている。気付けをしようかと張遼が申し出てくれたが、一刀の判断でそのままにしておいた。難しい話を聞かせても、要はきっと理解できないからだ。余計なことを言って場を混乱させるよりは、黙っていてもらった方がお互いのためである。

「先ほどは私の仲間が失礼いたしました」
「こちらこそ。勝手にお邪魔して申し訳ない」

 董卓と名乗る少女の態度は随分と丁寧だった。連合軍がでっちあげていたイメージは元より、街で聞いた噂から築いていたイメージからも程遠い。

 正直、この美少女が連合軍を相手取った董卓軍の首魁であると言われても、信じる人間はいないだろう。メイドさんでも侍らせて、静かに読書でもしているのが似合いそうな、そんな雰囲気である。

「月、この兄ちゃんどないする?」

 そう問うたのは張遼だ。主である董卓が出てきても、持ち上がっていた問題が水に流される訳ではない。命の危機は絶賛継続中だった。敵の頭数が増えた分、状況はより絶望的になったとも言える。

「解放しましょう。私達にこの方を裁く権利はありません」
「でも月!」
「私はこれ以上、自分の都合で人に死んでほしくないんです」
「この男を信用するの?」
「仲間が信じた人なら、私もこの方を信じます」

 賈詡が董卓に食ってかかるが、多少怯みはしたものの、董卓は一歩も譲らない。

 董卓が梃子でも動かないと知った賈詡はぐぬぬ、と口中で呻き、こちらを睨んでくる。視線に篭った殺意が、二段階くらい上がった気がした。小柄な身体を精一杯にいからせて、不満を露にしている。何となく、荀彧とは壊滅的に気が合わなそうだなと思った。

「ウチはそれもどうかと思うんやけど、主の決定ならしゃあないな。良かったな、兄ちゃん。これでおうちに帰れるで」
「……ご配慮に感謝します」

 納得のいかないことは多々あったが、とりあえず命は助かったのだ。心変わりしないうちに、この場を去る。それが拾った命を繋ぎ止める最も賢い選択だ。気絶したままの要を担いで稟の所に戻れば、これまでの生活に復帰できるだろう。

 北郷一刀が取りうる選択の中で、それが最も安全なものであるのは、いくら一刀でも理解はできたのだが、

「差し出がましい質問で恐縮なのですが、各々方は何故今も洛陽に?」

 気づけばそんな質問が口をついて出ていた。董卓が驚きで目を剥き、張遼が先ほどとは別の意味で溜息を漏らす。

 帰って良いと言ったのに、自分から首を突っ込んできたのだ。これを愚かと言わずして、何というのだろうか。

 その問いに答えて良いものか、董卓は逡巡した。これに答えたら、この男は無関係ではいられなくなる。せっかく無事に帰せる算段がついたのに、話してしまえば完全にご破算だ。

 常識的に考えれば話すべきでないのは分かったのだろうが、それでも董卓が逡巡したのは、今現在がよほど危機的状況であることの証左に他ならない。本心では誰かに助けを求めたいのだろう。一刀にはそれが解ってしまった。

「脱出に手間取ったのよ」
「詠ちゃん!」
「聞いたのはこの男だよ? 月。逃がしてやると言ったのに、この男はそれを手放した。なら、やれることはやってもらわないとね」

 責める董卓に、賈詡は不敵に笑う。感情で動こうとしている董卓に対して、賈詡はより現実的に動いている。こちらを見つめる賈詡の目に、人間的な温かさはない。あるのはこの人間をどう使えば、自分たちが利することになるのか。その打算的思考だけである。

「虎牢関が破られた時点で、ボク達は洛陽からの撤退を決めたの。一斉に逃げると混乱するから、分散してね。先に文官やついてくる民を脱出させて、次に兵。騎馬隊とかの足が早い部隊とボク達は最後、そんな割り振りだったんだけど……」

 そこで賈詡は言葉を区切った。脱出の予定が組まれていたのならば、幹部ばかりここに残っているのは説明がつかなかった。責任をもって殿を務めたがったのだとしても、虎牢関が破られてから動き出したのであれば、連合軍が洛陽付近に布陣するまでの間に、十分に逃げることはできたはずだ。

 名軍師賈詡が音頭を取っていたのならば尚更である。単純な脱出劇に手間取るとは、どうしても思えなかった。

「恋の家族を纏めて逃がすのに、ちょう手間取ってなぁ。ウチらは殿って約束やったから最後になってもうたし、連合軍の展開が思ってたよりも早くて、逃げ遅れたんや」

 賈詡の言葉を継いだのは張遼だった。苦笑を浮かべながら語る張遼は、屋敷の奥に視線を向ける。それを追った先にいたのは、大小様々な動物だちだった、犬もいれば猫もいる。その数は三十では利かないだろう。

 これが呂布の家族というのなら、なるほど、彼ら彼女らを纏めて移送するのは一苦労だと思った。

「初期の頃に一緒に移動すれば良かったのでは?」
「人間が生きるか死ぬかいう話してんのに、恋の家族とは言え犬猫運んだりはできひんやろ? 元よりウチらの順番は最後やったからな。
言った傍から横紙破りする訳にもいかんねや」

 ままならんもんやなぁ、と張遼が言葉を結ぶ。笑い話の雰囲気にしているが、董卓達からすれば事態は深刻だ。呂布張遼がいるとはいえ敵陣の只中に留まっているようなものである。生きた心地などしないに違いあるまい。

「この子らも恋以外には懐かんし、三人か四人ずつ外に出してるところなんや」
「それでもこれだけ残っている訳ですか……」

 状況が落ち着いてから始めたにしても、今現在これだけの数が残っているということは、外に出す作業のペースはそれほど早くないのだろう。全部外に出すのに、後どれくらいかかるのか想像するだけで気分が滅入ってくる。

「連合軍もそろそろ洛陽から出て行くようやし、これからは脱出もしやすくなるかなぁ、思ってた矢先の出来事やったんよ。兄ちゃんがここに来たのはな」
「それはまた、申し訳ないことを……」

 要がやめようと主張したのを、無理矢理ここまできた。彼の言葉に従っていれば、少なくとも董卓たちは連合軍側の人間に発見されることはなかったし、自分たちも命の危険に晒されずに済んだ。

 ついでに言えば一度は見逃してもらったのに首を突っ込んだのは自分だ。つき合わされている形になる要には、このまま殺されたら申し訳が立たない。そうするのが良いと思ったからの行動だったが、要のためにも、この場をやり過ごす方法を考えなければならない。

「呂布殿の家族を、外に出す算段がつけばよろしいのですか?」
「早い話がそういうことやな。人間だけなら外に出る方法はいくつか用意しとるし」
「彼ら、俺が運ぶというのはどうでしょうか? 実は県令として并州に赴任することが決まっていまして、遅くとも一月後には洛陽を発つことになっているのです」
「犬猫ばかりぎょうさん連れて赴任言うのもおかしな話やと思うけど?」
「それで咎められたりはしないでしょう。事前に話を通しておけば、その可能性も低くできるはずです」

 何も禁制の品を持ち出そうという話ではない。また余計なことを、と稟は良い顔をしないだろうが、そういう根回しくらいだったら問題なく行えるはずだ。全員を乗せる乗り物を用意しなければならず、決して潤沢とは言えない財政状況がさらに圧迫されることになるが、命のかかったこの状況で金銭の心配をしてもしょうがない。

 咄嗟に思いついたにしては我ながら名案だと思ったが、張遼は苦笑を浮かべて首を横に振った。

「名案やけど、それが実行できるかはそれは先方に聞いてみんとな」

 言って、呂布の家族たちを示す。そもそもきっちりと彼らが言うことを聞くならば、小分けにしてでも正門から出て行けば良かったのだ。それが実行されず、呂布が手ずから外に運んでいるということは、彼らに言うことを聞かせることができるのが、呂布しかいないからに他ならない。

 彼らが懐いてくれるのなら、全ての問題は解決する。

 逆に、それができなければ何もできない。そうなった時は今度こそ、自分と要の首は張遼の大槍で断たれることだろう。

 一刀は緊張の面持ちで呂布の家族へと歩み寄った。一歩、また一歩と近付いていく。

 しかし、彼らは誰一匹逃げることなくその場に留まってくれていた。張遼から感嘆の溜息が漏れる。信じられない、と呟いているのは賈詡だろうか。

 歩数にして十歩、ただそれだけの距離を歩くのに、随分な時間をかけたような気がする。

 それでも、彼らは逃げずに一刀がくるのを待っていてくれた。手を差し伸べると、とてとてと、寄ってきてくれる。信頼されている。言葉にすればそれだけのことだが、こんなにも嬉しいと思ったのは久し振りのことだった。

「うちはこの兄ちゃんに任せてもええと思うで。恋もそう思うやろ?」

 張遼の問いに、呂布はこくりと頷いた。セキトも一声、大きく吼える。

 董卓が顔色を伺うように、賈詡を見た。内心では反対なのだろう。新たな人間を受け入れることは、それだけで危険を伴う。女所帯で男を引き込むというなら尚更だ。賈詡が危機感を覚えるの気持ちも良く分かる。

 しかし、賈詡は軍師だった。軍師は感情ではなく論理で行動する。このまま北郷一刀を殺してその場しのぎをすることと、呂布の家族を預けること。どちらがより董卓を安全にするかを考えれば、それは当然後者となるはずだった。

「そこの男が成功するかは分からない訳だけど……恋と霞はそれでも信用するっていうの?」
「恋が運んだって最後まで全部上手く行くかは分からん訳やしな。それなら一度に全員運んだ方が安全や」
「恋も信じる」

 武将二人は既に覚悟を決めたようだった。

 そこに、軍師一人で反対するのも限界がある。賈詡は最後の望みを込めて陳宮を見たが、

「ねねは恋殿に従います」

 味方が望めないことを知った賈詡は、折れた。深々と溜息をついて、一刀をギロリと睨む。

「ボクもこいつに賭けることにする。でも、全てを任せるのは気に入らない。細部について色々と詰めさせてもらいたいんだけど、まさか嫌とは言わないわよね?」
「こちらからお願いしたいことでした。俺が何度も足を運ぶのは安全の意味でも望ましいことではありませんが、何とか連絡をつけられるようにしましょう」
「一応聞いておくけど、そっちには軍師とかいるの?」
「信頼がおけて能力も最高な軍師が三人ほど」
「あんた、一体どういう立場なのよ」

 呆れたように呟く賈詡に、一刀は苦笑を返す。董卓軍を支えた賈詡を前に、最高と言えるような軍師が三人である。間違っても、これから県令になろうという一兵士についている数ではない。

 自分の仲間がどれだけ素晴らしいのか。語るに吝かではなかったが、今は時間も足りないし、賈詡もそんな気分でもないだろうと思い直す。

「仲間に恵まれてるだけの、ただの兵士としか……」

 それは他人を納得させられるような答えではなかったが、董卓にはそれで十分だったらしい。思わず噴出してしまった彼女に、その場にいた全員の視線が集まる。

「へぅ……」

 と、董卓は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 そうしていると、本当に年頃の美少女にしか見えない。可憐な仕草に一刀の目を奪われるが、目敏く気づいた賈詡に今までで一番殺気の篭った視線を向けられる。

「言っておくけど、ボクの月に色目使ったらくびり殺してやるから、覚えておくことね!」

 殺意の篭ったその目に、一刀はただこくこくと頷いた。






















「遅い……」

 漏らした呟きはもう何度目か。

 足音も高く室内をうろうろする様は、誰が見てもイライラとしているのが見て取れる。これが普段であれば取り繕うくらいの知恵も回ったのだろうが、今はその余裕すら見受けられない。

 雛里などは怯えきって、稟に関わることを諦めてしまった。今は私は置物です、と言わんばかりに部屋の隅で椅子に座り、読書に勤しんでいる。書物の向きが上下逆なのはご愛嬌だ。

 それでも、稟がたまに呟きを漏らすたびに、びくりと肩を震わせるのは彼女の気の小ささ故か。

 その度に何とかしてくれとこちらに視線を送ってきていることには気づいていたが、それは華麗に無視していた。理由は単純だ。その方が面白いからである。

 ふふふ、と湯のみで口元を隠しながら、風は静かに笑う。稟がいらいらと怒っている顔が綺麗に見えるように、雛里はおろおろしている様が可愛く思える。

 言葉にすると果てしなく倒錯した趣味のように思えるが、これについては一刀も同じ意見だと確信を持っていた。同志がいるのだから別におかしなことではない。自分たち二人しかいなかったとしても、それはそれで良いことだ。

 世界に二人。それだけで何だか、幸せな気分なれる。

「稟ちゃん、そんなに怒っていると顔にお皺が増えますよー」
「怒ってなどいません!」

 明らかに怒っている口調で怒っている稟の表情は、ぞくぞくするほどに魅力的だった。一刀が帰ってくる頃には、この怒りもほどよく熟成されていることだろう。稟に怒られてしゅんとしている一刀も、それはそれで良い。落ち込んで、また奮起するその姿には、自分もやるぞ! という気分にさせてくれる。

 これは、自分たち全員の共通見解だと確信している。程度の差こそあれ、自分たちは皆、一刀のことが好きなのだろう。彼の力になりたい。心の底からそう思っているからこそ、出世などを度外視して彼の元にいるのだ。

 一刀の何がそうさせるのか、それを考えるのは無粋というものだ。稟などは理由を求めようとするのだろうが、そういうのは言わぬが花である。さしあたって、一緒にいたいから一緒にいる。それで良いと思うのだ。

 湯のみのお茶が空になってしまった。三杯目で少しお腹もたぷたぷしていたが、ただ待つだけというのも間が持たないのだから仕方がない。しなければならないことは大体片付いてしまったし、これからの仕事に取り掛かるには一度、一刀を交えて話し合いをする必要があるから、現時点でできることはほとんどない。

 それが稟をイライラさせている理由でもあるのだが、果たして一刀は気づいているのかどうか。

 ちなみに現段階で二刻の遅刻である。稟が時間に厳しいことは皆の知るところであり、一刀もそれを良く知っている。それでもなお遅れているということは、そこにはのっぴきならない事情があると理解できる。

 またぞろ、良くないことに首を突っ込んでいるのではないか。稟が考えているのはそんなところだろう。風もそれは考えないではなかったが、戦も終わったし治安も回復してきた今、要もついているのに対処できないような危険に見舞われるとは考え難い。

 それでも、そんな危険を引き寄せかねないのが一刀という男だが、信じて待つくらいのことはしても良いと思う。

 ……自己分析するに、後二刻が限界そうだ。自分では気の長い方だと思っていたのだが、存外に程仲徳も気が短い。

 とぽとぽ暢気にお茶を淹れていると、部屋をうろうろしていた稟の足が止まった。呼吸さえも潜めて耳を済ませているのを見て、

「稟ちゃんの鼻がお兄さんを感知したみたいですねー」
「犬みたいに言わないでください!」

 軽口を叩くと、稟が顔を真っ赤にして抗議するが、稟の鼻の性能は確かであったらしく歩いてきた足音は扉の前で止まった。

 だが止まっただけで、部屋の中にまで入ってこない。

 おや、と風は首を傾げる。一刀にしては珍しいことだ。少なくとも、こういう行動をしたことは風の記憶にはない。

 すぐに入ってくるものだと思って息を整えていた稟も、機を外されて肩をこけさせている。

 早く会いたいなら自分で扉を開ければ良いのに、それでもこちらから扉を開けるようなことを、稟はしない。帰ってくるのを待ちわびていたと思われるのは、格好悪いことだと思っているからだ。

 他人から見ればバレバレのことであっても、それを行動で示すのは恥ずかしいらしく、誰にでも見栄を張りたがる稟も、一刀の前では更に格好をつける。一刀ですらそのことにはぼんやりと気づいているのだが、稟の態度が改まることはなかった。

 要するに距離の取り方の問題なのである。格好良い自分を見ていてもらいたいという願望が、恥も外聞も捨てて甘えたいという願望よりも稟の中で強いからこその、この行動なのだ。

 それを指摘したとしても稟は認めたりはしないだろう。自分で気づくか、自然に甘えられるようになるかするしかない。

 そんな稟を見てみたいような、見てみたくないような。一番の親友を自認する風としては、微妙な気分である。

 一刀ならばそんな稟を見せてくれそうな気もするのだが……そんな素敵なことを考えるのは、また別の機会にするとしよう。

 今は、一刀のことだ。

 時間にして十秒。扉の前でじっとしていた一刀は、ゆっくりと扉を開けた。

 見た目に変わった様子はない。体調が悪いとかそういうことではないらしく、風はこっそりと安堵の溜息を漏らした。

 だが、表情は緊張している。遅刻したことを怒られるのを恐れているだけではないだろう。

 それ以外の要因があることに稟も雛里も気づいたのか、言いたいことを全て棚上げして、一刀の言葉を待った。

「皆に、協力してほしいことがある」

 そう言って一刀が切り出したのは、三人にとっても驚くべき内容だった。

 董卓がまだ洛陽にいる。そのこと事態は特に驚くべきことではない。おそらく外に出ているだろうという見通しはしていたが、可能性としてはありえる話だったからだ。

 しかし、一刀がその董卓と接触したというのは無視できる話ではない。

 更には彼女らが洛陽を脱出する手助けをするという約束までしてきたという。全てを語り終えた一刀は地面に頭を擦り付けんばかりの勢いだったが、風たち三人は一刀のことなど知らないとばかりに沈思黙考していた。

 風の頭に最初に思い浮かんだのは、董卓の居場所を孫策に知らせることである。既に領地に戻る準備をしているとは言え、董卓がいるとなれば兵を差し向けざるを得ない。曹操がまだ洛陽に残っていることも幸いした。二軍の中から精鋭部隊を編成してその屋敷を強襲するということになるだろうが、問題はそれで董卓陣営を殺しきれるかということだった。

 兵が差し向けられることになれば、董卓陣営は一刀が話を漏らしたことを真っ先に疑い、刺客を差し向けてくるだろう。呂布に張遼である。連合軍が一度の強襲で殺し切れればそれでも良いが、一騎当千の猛者を確実に殺せるとはどうしても思えない。

 身の安全を考えれば、裏切るということは避けるべきだった。

 しかし、董卓の居場所を黙っているとなると、今度は連合軍に対しての背信行為となる。県令の辞令を受け取ったことで孫策との契約は既に切れているが、少し前まで主従の関係にあった人間だ。敵方大将首の情報を黙っていたとあっては、向こうも良い顔をしないだろう。

 これから上にのし上ろうと考えている時分に、大勢力に悪い印象を持たれるのは避けておきたい。董卓に協力するにしても、とにかく秘密裏にやるのが大前提だった。

 協力するか、裏切るか。風たちの取れる選択肢は大きく分けてこの二つである。

 そのどちらを取るべきなのか……個人的感情を別にすれば、それは考えるまでもないことだった。

「先方と細かい話を詰める必要があるでしょう。隠れているのならば直接会うなどは避けた方が良いのですが、連絡手段などは決まっているのですか?」
「それについては向こうの軍師から提案書を預かってる。まずはこれを読んでほしい」

 一刀が懐から出した木簡は、それなりの大きさがあった。紐解く稟の横から、雛里と一緒に木簡を覗く。

 連絡の遣り取りから実際の計画について詳細に書かれている。一刀の話ではこの軍師には今日であったということだが、ここまで計画が詰められているというのは少々驚いた。

 咄嗟に思いついたのではなく、元から案の一つとして温められていたのだろうが、それを一刀に預けてくる辺り、あちらの本気具合が伺える。

 木簡の最後には軍師と、その主の署名がなされていた。賈詡、そして董卓とある。その筆跡が本物であるのか判断はつかなかったが、向こうはこの計画に本腰を入れているというのは、本当のようだ。

「董卓は本物なのですか?」
「それはわからないけど、呂布と張遼は本物だと思う。それが董卓って扱いをしてた訳だから、本物なんじゃないかな」

 一刀の答えも頼りがない。董卓の容姿についての情報は、風たちでも掴みきれていないことだ。兵をしていただけの一刀に、本物かどうかの判断がつくはずもない。稟もそれは分かった上での質問だったのだろうが、予想通りの答えに少し苛立ちの篭った溜息を漏らす。

 それに、一刀がびくりと身体を振るわせた。叱られるのを警戒している子供のような仕草に、稟の視線が向けられる。

 こちらは、控え目に行っても獲物を前にした獣のようだった。子供ならば泣き出しかねない雰囲気に、一刀も一歩二歩と後退る。

「どうして逃げるのです?」
「いや、怒られるのかなぁ、と思って……」
「ほう。屋敷に踏み込んだのは不味かったと思いますが、その後の判断については最善を尽くそうとしたことが見られますので、今回は説教は見送ろうと思っていたのですが……なるほど、貴殿がそこまで望むというのであれば、普段の五割増しくらいで言いたいことがあるのですが、それを聞いていただけると?」
「ごめん。余計なことを言ったのは謝るよ」

 素直に頭を下げる一刀に、稟は解れば良いのです、と溜息を漏らす。小言を言いたいのは本当だろうが、今がそんな状況でないのは稟も良く解っている。

 今はこの綱渡りの状況を可及的速やかに解決しなければならない。

「謝罪を受け入れる代わりという訳ではないのですが、私からも貴殿に聞いておきたいことがあります」
「なんだろう。何でも言ってくれよ」
「……成功するしないは別にして、この案件を我々の耳に入れずに処理することもできたはずです。犬猫を大量に連れてくるだけならば、我々も小言を言いこそすれ拒否はしなかったでしょう。あえて我々に相談したのは、一体どういうことですか?」

 何だそんなことか、と一刀は安堵の溜息を漏らした。

「そりゃあ俺一人でどうにかできるならそうしたけど、皆で相談した方が上手く行くに決まってるだろ? それに危険を背負い込むことになるんだから、それを伝えないのはあまりに不誠実だ。俺たちは仲間だろ?」

 一同を見回して当たり前のように言う一刀に、稟は何も答えることができなかった。直球過ぎる言葉に、返す言葉が見つからないのである。稟も馬鹿ではない。こういう答えが返ってくることは想像がついていたはずなのだが、実際、一刀の口から言われるとその衝撃も相当なものであったらしい。

 ぷるぷる震える背中からは、鼻血を堪えているのが見て取れる。一刀の言葉は激しく、稟の心を刺激したようだった。雛里も何だか嬉しそうだ。自分の顔は見えないが、きっとにやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべているのだろう。

 思いを言葉にされるのは、こんなにも気持ちの良いことなのだ。幸福感に包まれながら、しかし、いつまでもそうしている訳にもいかない。風がつんつんと背中を突付くと、稟は小さく悲鳴を挙げて正気を取り戻した。

 一連の感情の流れが理解できなかったらしい一刀が首を傾げているのをこれ幸いと、大きく咳払いをし、話題を元に戻す。

「危険はありますが、有力者に恩を売る機会と考えればこれは好機です。連合軍に洛陽を追われた身とは言え、董卓が有力者であることに違いはありません」
「どれだけの利が得られるかが、風たちの腕の見せ所ですねー」

 董卓の地元は涼州と、一刀の任地である并州からは距離がある。流石にいざという時の援護は期待できるものではないし、董卓と関係を持っていると知られれば、連合軍に所属していた諸侯から狙われる可能性もある。

 ほとぼりが冷めるまでは、この関係は秘匿しておくべきだろう。大きく利を得ることができるのは、ある程度時間が経ってからだ。

「では、話も纏まったところで今日の予定を消化しましょうか」

 稟が切り出すと、一刀が慌しく動き始める。董卓に拘束されていた時間の分だけ、今日の予定は押している。待ち人がいる訳でもなく急ぎの案件でもないが、時間を無駄にすることを稟はよしとしない。

 既に無理を通してしまったため、居心地の悪さもあるのだろう。簡単な準備をするだけなのに部屋を行ったり来たりする背中には明らかな焦りの色が見える。

 その背中を、稟は微かな笑みを浮かべて見守っていた。普段ならばイライラしつつ、小言の二つ三つも言う場面であるが、それもない

「稟ちゃん、機嫌が良さそうですね」
「……ようやく、物事が動き始めたのだと実感していたところです」

 慌てる一刀は、雛里にぶつかった。軽い雛里は吹っ飛ばされ、尻餅をつく。平謝りする一刀を横目に見ながら、風は稟だけ聞こえるように囁いた。

「まさか董卓とは夢にも思いませんでした」
「上に行くためには危ない橋も渡らなければなりません。それがたまたま最初に来た。それだけのことだと思いましょう。むしろ、最初に来てくれて良かった。失うものが少なければ、再起もまた容易い」
「恐るべきはお兄さんの『引き』ですねー」

 運命力とでも言うべきか。良くも悪くも、癖のある人間に出会う運命のようなものを、一刀は持っているような気がする。これまでやってきたことに比して、彼の人脈は驚くほどに濃い。二年かそこらでこれなのだから、さらに二年後にはどうなっているのか。考えるだけでぞくぞくする話である。

「濃い人生ということは、それだけ破滅も近いということ。我々は一刀殿が道を外さぬよう、助言をしていかなければなりません」
「導く、とは言わないんですね」
「先頭に立つのは彼の役目です」
「お兄さんなら、俺たちは一緒に歩いてるんだ、くらいのことは言うと思いますが」
「私もそう思いますし、貴女も雛里もそうでしょう。ですが、それを知っているのは我々だけで良いのです。対外的にまでそうだと思われては、一刀殿が舐められます」

 どうやら本気で言っているらしいことに気づいた風は、稟を見上げた。

 その視線に気づいた愛すべき友人は、微かに、しかし誇らしげに微笑んでみせた。














後書き

かつてないほどに筆の進みが早く、アップの運びとなりました。
次回、洛陽を出立します。






[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十三話 戦後処理編IN洛陽⑥
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:21f8c4b6
Date: 2014/12/24 04:59
 見送りは必要ないと遠まわしに伝えておいたはずだが、それでも一刀たちが洛陽を出立するその日、その周囲には少なからぬ人間が集まっていた。

 孫策に周瑜に、陸遜もいる。甘寧隊からは思春本人と直属隊の幹部が十人ほど参加していた。一刀からすればこの人数でも多いくらいだったが、これでも希望者をかなり削ってきたのだという。特に甘寧隊の希望者が多く、全員を連れてきていたら軽く千人は超えていただろう、というのが当の甘寧の弁だ。流石にそれでは交通の妨げになるからと食い下がる面々を鉄拳と怒号で黙らせてきたらしい。千人の兵士を相手に大立ち回りをする思春を想像するのが簡単すぎて怖い。

「支度金まで頂いてしまって申し訳ありません孫策様」
「気にすることないわ。これから何かと入用でしょうしね。でも、大切に使うのよ。遊ぶのに使ったと噂でも聞けば、即座にその首を落としに行くからね」
「肝に銘じておきます」

 冗談めかした口調ではあったが、内容は別に冗談ではないのだということを一刀は理解していた。孫策はやると言ったら必ずやる人間である。どの辺りから遊びに入るのか、よく考えておく必要がありそうだ。

 背中に流れる冷や汗を意識しながら、孫策の代わりに正面に立った思春を見やる。

 いつも通りの仏頂面であるが、今は緊張しているようで日に焼けた顔が僅かに朱に染まっている。まるで年頃の乙女だ、と率直な感想を口にすると殴られるのだろうが、思春の後ろで目を爛々とさせている直属隊の面々を見ると、それも良いかなと思えてくる。気づかないうちに、大分甘寧隊のカラーに毒されていたらしい。不用意な発言をして殴られるのを期待している彼らを、視線でもって威嚇する。

 構われたことに気づいた彼らは、歓声を挙げた。いつも通りのそのノリが、今は非常に鬱陶しい。

「達者でな。軍師の言葉をよく聞いて、職務に励むのだぞ」
「お世話になりました、思春。今の俺があるのは貴女のおかげです」
「私がしたことなど大したことではなかろう。私こそお前に命を助けられた。命一つの借りは、一生涯忘れん」

 大げさな物言いであるが、それが思春の本心であることは良く解っている。実直な人柄についても、殴られながら少しは理解することができた。まっすぐで不器用なこの女性のことが、一刀は嫌いではなかった。手が早いことについては色々と思うところはあるものの、これでしばらくの別れだと思うとそれも良い思い出のように思えた。

 やはり自分はマゾなのかもしれないと、一刀は苦笑を浮かべる。

 そんな一刀を胡乱な目つきで見やりながらも、思春はその腕を取り、そこに飾り紐を結びつけた。鈴のついた簡素だが丈夫な作りの一品である。試しに音を鳴らしてみようと腕を軽く振ってみるが、期待したような音はならなかった。耳を近づけて振ってみると、やはり全く音がしない。

 これでは鈴として機能しない。何かの手違いでは? と見ると、思春は苦笑を浮かべて首を横に振った。

「それは元々そういうものだ」
「鈴なのに音が鳴らないのですか?」
「鳴らない鈴が鳴るから意味があるのだ。その音が聞こえた時、それはお前に何かが迫っている時と思え」

 中身がないのならば音が本当に鳴るはずもない。それでも音が聞こえるということは、要するにお呪いの類かと一刀は納得する。

 思春にしてはメルヘンな発想だと思ったが、軍師のような真面目な人間よりは戦場で命を賭ける人間の方がそういうものを気にしたりするというのは、孫策軍で学んだことだ。。どちらかと言えば呪いなどはあまり信じない一刀にとってこの鈴の効果のほどは半信半疑ではあったが、異世界にやってきた自分の身を振り返ってみれば、呪いの一つや二つくらい存在しても良いように思える。

 それに何よりこれは思春からの贈り物だ。憎からず思っている女性からのプレゼントなのだから、それがどんな物であっても嬉しい。

 大事にしますと言うと、思春は満足そうに微笑んだ。

 それで終わりと安心していた一刀は、思春の行動に反応が遅れる。気の緩みを見て取った思春は自然な動作で一歩踏み込み、一刀の身体を強く抱きしめた。直属隊から歓声があがり、孫策も揶揄するような声を挙げる。逆に、背後からは刺すような視線を感じた。仲間が、その中でも特に稟がどんな表情をしているのか思うと心底恐ろしいが、腕の中の思春がその恐怖を打ち消した。

 抱きしめられた者の礼儀として抱きしめ返すと、その身体が意外に小さいのだというのが良く解る。孫策をはじめ、女性として恵まれた体型をしている人間の多い孫呉中にあっては、思春の身体つきは聊か貧相と言わざるを得ないが、女性としての柔らかさまでは失われていなかった。わずかな汗の匂いに混じって甘い香りもする。これが思春の匂いかと思うと、途端に気恥ずかしくなる一刀だったが、思春がまるで恥じらう様子がないのに男一人が慌てるのも相当に格好悪い。そういう間抜けは直属隊の面々や孫策を喜ばせ、後々の稟の説教を無駄に長引かせる要因になりかねない。

 男には見栄を張らなければならない時もあるのだ。表情を無理やり引き締めると、孫策と目があった。にやにやと、邪悪な顔で笑っている。内心を見抜かれてしまったことを理解した一刀は背中に冷や汗をかくが、見栄を張ると決めたばかりである。顔にも雰囲気にも出さないよう気を引き締めると、腕にも力が篭った。

「力が強いぞ」
「……申し訳ありません。あまり慣れていないもので」
「そうなのか?」

 思春の視線が一刀の肩を越えて稟たちに向けられる。そういう関係に見える、とその顔が言っていた。恋愛事に興味のなさそうな思春が思うのだから、他の人間も思っているのだろう。美少女を三人もはべらせた人間がどう思われるのか想像に難くない。

 何とか対処しなければと思うが、この手の問題に限って言えば三人の軍師は全く当てにならないのである。恋愛の経験がなさそうな雛里は当然として、風は面白がって放置するに決まっている。稟などは相談するだけ無駄だろう。勝手に脳内で盛り上がった挙句、鼻血を出して終了になるのが簡単に想像できる。

 自分一人で対処できるはずもない。始まる前から八方塞な問題だった。

「まぁ良い。身辺には気をつけるようにな」
「ご忠告痛み入ります」
「……離れていてもお前は我々の仲間だ。息災に暮らすのだぞ」
「思春こそ。お元気で」

 お互いに背中をぽんと叩くと思春は何事もなかったかのように取って返し、冷やかして来た直属隊の面々に鉄拳を見舞った。相変わらずのマゾ集団に苦笑を浮かべる一刀に殺気を纏った稟が寄って来る。

「一刀殿、そろそろ」

 出立の時刻を定めていた訳ではないが、いつまでもこうしていては先に進むことはできない。一刀は改めて孫策たちを見やると、深々と頭を下げた。

 集団の先頭に立っていた孫策がひらひらと手を振ってくる。その気安さが、また嬉しい。暖かな気持ちを抱きながら、一刀はまさに『今思いついた』という体を装って、孫策に駆け寄った。

 まだ何か? と目を丸くする孫策に、一刀は懐から取り出した布袋を差し出した。粗末とは言わないが、それほど金がかかっていないのは見れば分かる程度の品物である。

「これを、孫策様に」
「私に?」

 送り出す側が物を受け取る理由はあまりないが、くれる、という物を受け取らない訳にもいかない。差し出されたから受け取った、という気安さで、孫策はその布袋を受け取る。孫策の掌にも納まる程度の小さなものだが、硬質であるその中身は掌に確かな重みを与えていることだろう。

「大したものではございませんが、我々の感謝の気持ちです」
「へぇ……ここで開けても良い?」
「それはご勘弁を。できましたら、周瑜さまと一緒に、こっそりと見ていただけたら幸いです」
「……良く解らないけど、ありがたく貰っておくわ」

 疑問は払拭できていないようだが、言葉には従ってくれるようだった。布袋を懐にしまった孫策に満足すると、一刀はまた深々と頭を下げ、今度こそ孫策たちに別れを告げる。

「これで良かったのか、と今でも思います」

 馬車まで戻った一刀を迎えたのは、稟の苦い顔だった。アレをどうするかは一刀たちの間でも意見の分かれることだったが、一刀の出した結論は稟には受け入れられるものではなかったのだろう。考え直すようにと何度も言われたが、それを時間をかけて説得したのは記憶に新しい。

 今の不機嫌はそれが尾を引き、形となって現れたものだ。大人気ないと一言で片付けるには、稟の心中を知りすぎている。自分の案が採用されなかった。それも不機嫌の原因ではあるだろうが、彼女は彼女で自分の案こそが北郷一刀のためになると今も信じているのだ。

 それが成せなかったことで、皆の覇道が遅滞するのが悔しいのである。自分の案を仲間に信じさせることができなかったのが悔しいのである。その悔しさが分かるから、一刀の心中も複雑になるのだった。

 それを言葉で癒すことはできそうにない。風も雛里もこれについては匙を投げている。稟とて優秀な軍師だ。きっと時間が解決してくれると、その時を待つしかない。

「お久し振りです。一刀さん」

 複雑な気持ちのまま馬車を走らせ、そろそろ北門に到達しようかというところで見知った顔に声をかけられた。

「ご無沙汰しています。公達殿」
 
 御者台から降りて挨拶をすると、公達は微笑みを浮かべて小さく頭を下げた。
 
 旅立ちの準備をしている段でも二度ほど顔を合わせていたからそれほど久しい訳でもなかったが、こちらの顔を見て笑顔を浮かべてくれる女性を見て、男として悪い気はしない。 自然と表情も緩んでくるが、稟の咳払いがそれに待ったをかけた。眼鏡の奥の剣呑な光に、一刀は身震いする。

「見送りにきてくれたのですか?」
「それもありますけど、今日はお届けものをしに」
「お届け物?」

 一刀の疑問の声に公達の背後に控えていた従者が、そっと風呂敷包みを差し出す。手に持つと、ずっしりとした重みを感じた。菓子折りの類ではないだろう。表面をなぞってみると硬質の感触はない。一刀をして一抱えはあるそれの中身は、全て紙かそれに近いものであるようだった。

「すぐに内容を改められるものでもありませんから、領地についてからゆっくりご覧になってください」
「これはどういったものなので?」
「一言で言うなら教科書ですね。政治、経済、軍学その他、一刀さんのための知識が網羅されています」

 更に『直筆ですよ』と付け足した公達のその返答は、軍師たちに緊張を走らせた。

 一刀と公達には浅からぬ因縁があり、友人と言っても良い関係を結んでいる。官位も持っており、今上皇帝に近い立場である彼女は公的にも敬うべき立場にいる。先達として敬うべき人間であるというのは軍師三人の共通見解であるが、そんな彼女であっても他人には違いない。

 それが教科書を贈ってきたのだ。事前に相談でもあれば話は違ったのだろうが、いきなりこれでは暗に『お前達の教育は当てにならない』と行動で示しているようなものだ。当然、気分が良くなるはずもない。稟ははっきりと不快だという顔をしているし、風や雛里も顔色こそ変えていないがその表情が強張っている。

 彼女らのことを考えるのならばここで受け取らない選択肢もないではないが、先にも言ったように公達は友人であると同時に高位の官僚でもある。漢帝国の視点に立てば大分上の上司なのだ。立場が上の人間からの贈り物を大した理由もないのに断ることは、礼儀に反する上に自分の首を絞めることになるだろう。

 初めから一刀に断るという選択肢は存在しないのだった。胃がきりきりと痛むのを感じながら、ありがとうございます、と簡単な礼を述べる。

 その声に緊張が出ていたのだろう。聡い公達は一刀と軍師たちの心中を全て察し苦笑を浮かべた。

「私もどうか、とは言ったのですけどね……あの娘がどうしてもと言ったものですから」
「公達殿が用意したのではないのですか?」
「これを用意したのは荀文若ですよ。私は貴方に渡すよう、頼まれただけです」

 それを聞いた瞬間一刀の心を喜びが満たしたが、その直後に背中に走った恐怖がそれを台無しにした。

 連合軍の陣地でやりあって以来、稟はずっと荀彧を意識していた。敵視していると言い換えても良い。荀彧が戦においてどういう采配をしたのかは人を使って調べさせたし、会議の場での発言も多くの時間を割いて分析した。

 そんな難しい時期を乗り越えた稟は自分で結論を出した。荀彧とはおそらくソリが合わないという今更のものである。仲良くしているところを想像することすらできないのだから、相当なものだろう。もっとも、荀彧と仲良く戯れることができる人間がそういるとも思えないが、少なくとも、稟のようなタイプでは荀彧と上手に付き合っていくことは難しい。

 荀彧はかなり、稟も中々我が強いところがある。同じ運命共同体ということで稟は一刀に大分譲歩している感があるが、荀彧の場合はそれが全くない。本来ならば稟も荀彧と同じくらい我を曲げないだろうことは、二年近くの付き合いで理解していた。上手くやっていきたいという稟の気持ちが感じられることは嬉しい限りであるが、見方を変えれば荀彧のようなタイプに無理をさせているということになる。

 怒られることは勿論怖いが、ある日突然尋常ではない爆発をされたらもっと怖いし、困る。せめて稟に負担をかけないよう、もっと頼り甲斐のある男になろうと努力はしているが、今のところ実を結んだ気配は感じられなかった。平穏無事な生活への道は遠いのである。

「あの娘のこと、嫌わないでやってくださいね。きっと、貴方の前に出てくるのが恥ずかしかったのです」
「アレがそこまで柔な神経をしているとはどうしても思えませんが……ともあれ、ありがとうございます。任地に着いたら文を出すつもりでいますが、近く顔を合わせることがあったら、北郷一刀が喜んでいたと伝えてください」
「必ず伝えましょう」
「話は終わったかしら?」

 握手のために手を出そうとしていた公達を遮るように、公達の背後から声が聞こえた。公達の背中越しに見やると、そこには見覚えのある少女がいた。目が合うと、少女はにこりと微笑んだ。相変わらず、笑顔一つとっても卒がない美少女っぷりである。

「見送りにきてくれたのか?」
「今日が出立の日だって知ったのは偶然だけれどね。でも、間に合って良かったわ。お姉さん、ちょっと道をあけてくださる?」

 言われた通りに道を開けた公達の顔が、少女の顔を見た瞬間驚愕に染まる。街中で熊に遭遇したとしても、こんなに驚きはしないだろう。そも、公達が驚いているところを初めて見た気さえする。何がそんなに驚きなのか。公達の表情の意味が理解できない一刀は彼女を見やるが、公達は一刀の視線から逃れるように背を向け、大きく咳払いをした。これほどわざとらしい咳払いも珍しい。明らかに何かを誤魔化している風ではあったが、それに突っ込める雰囲気でもなかった。これについては何も聞かないでくださいと、その背中が必死に訴えていた。

 そんな公達をにやにやと眺めながら、少女――伯和は一刀の前に立った。

「急だったから何も用意していないのだけれど、せめて言葉だけでもって思ったの。元気でね。一刀くん。病気とかをしては駄目よ?」
「お前こそ。お転婆して、護衛の人を困らせないようにな」
「平気よ。今日はちゃんと、婆やもつれてきているんだから」

 その顔に笑みを湛えたまま、伯和は一刀の背後を示した。その視線を追うと、その先には仏頂面の武人が立っていた。見覚えのある顔である。伯和と出会ったあの日、街ですれ違った女性だった。伯和が婆やと呼んではいたが、それ程の年齢には見えない。行っていても四十というところだろう。切れ長の目をした少々キツい印象の美人であるが、腰の下げた剣と身に纏う殺気がその美貌を台無しにしていた。

 これが良い、という人間も中にはいるのだろうが、いくら甘寧隊でマゾ資質を開発された一刀と言っても、進んで針の筵に正座するような趣味はない。この不本意な状況は貴様のせいかと射殺すような視線を向けてくる女性は、必死で見てみぬ振りをした。正直、生きた心地がしなかった。今日は女性関係でこんな気持ちばかり味わっている気さえする。

 任地に出発する、今日は門出の日だったはずなのだが、一体どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

「よく許してくれたな。あの人」
「きちんと説明したら許してくれたわ。おかげでお勉強の時間が増えてしまったけれど、それで一刀くんを見送れるなら安いものよね」
「すまない。この埋め合わせはいつかするよ」
「なら、お手紙が欲しいわ」
「任地についたら必ず書くよ」
「直接送られると婆やに握りつぶされてしまうかもしれないから、仲介が必要よ。こっちのお姉さん宛なら安心だと思うの」

 伯和に指名されると、公達の挙動不審にさらに拍車がかかった。意味もなくきょろきょろとして、伯和の方を見ようともしない。悪戯を怒られた子供のような所在のなさである。楚々とした振る舞いを崩したところなどを見せたこともない公達の、一刀が初めて見る一面だったが、垂れ気味の目じりに涙が溜まっているのを見ては、何も流石に聞かない訳にはいかなかった。

「良いのですか? こいつ、こんなこと言ってますが」
「問題ありません。へ、いえ、その御方の仰る通りになさってください」
「……顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
「あまりの出来事にちょっと眩暈が。大丈夫です、お気遣いなく」

 力なく微笑む公達は、明らかに大丈夫ではなかった。息苦しいのか胸を押さえているし、顔色も青く見える。普通ならば医者を薦める場面なのだろうが、生憎一刀は先を急ぐ身だった。

「本当にご無理はなさらないでくださいね」
「ありがとう。そちらも身体には気をつけて」
「勝手に死んだりしたらだめよ? 洛陽に戻ってきたら、また遊びましょう」

 強張った顔の公達と微笑みを浮かべた伯和に見送られて、一刀は足を進めた。馬車と共の人間もそれに続く。好奇心丸出しで伯和を見ている要のことは、きっぱりと無視した。あれは誰ですか? 等と稟たちの前で質問したりしないよう、後で釘を刺しておく必要があるだろう。勿論、稟たちにも説明しなければならないだろうが、聞かれて答えるのではなく、こちらから説明する形にしなければ、立場が微妙なものになる。

 突付かれて疚しいことは何もないが、自分から公開することと、掘り返されて露見するのとではイメージが大きく異なるのだ。悪いイメージを持たれたままでは、相手に勢いを与えることになる。せめて誠実さを見せておかないと、余計に立場が悪くなること請け合いだ。

「貴殿は随分とおモテになるのですね」

 伯和たちの姿が人波の向こうに見えなくなってから、稟はぽつりと呟いた。その言葉に風も雛里も頷いている。何も悪いことをしていないはずなのに、針の筵に座らされているようだった。 

 それからほとんど会話もないまま、一刀たちは北門にたどり着いた。門には守衛がおり、行き来する人間と荷物をチェックしている。個人の検査は簡単なものだが、大荷物を抱えた馬車の一行はそうはいかず、一刀たちの他にも守衛のチェックを受けている集団がいた。事前に申請はしているので普通よりは早く済むはずであるが、流石にフリーパスとはいかないようだった。並ばされるのも、彼らの後ろである。

 県令としての門出、その第一歩である。一刀は緊張した面持ちで役人の所へ歩いていく。

「北郷一刀と申します。あちらは供のものです。荷物は事前に申請した物が奥の方の馬車に、手前の馬車には犬猫が乗っています」
「聞いております。荷物について簡単な検査をしますので、少々お待ちください」

 順番はそれほど待たずにやってきた。前の馬車のチェックを終えた数人の兵士が、先頭の馬車に寄って行く。その馬車を覗いた兵が、中の物を見て驚きの表情を浮かべた。大人しくしているように言い聞かせたばかりなので静かにしているが、犬猫ばかり三十匹ほど集まっているのは、中々お目にかかれない光景である。兵が驚くのも無理はない。

 犬猫に驚くなどの小さなトラブルはあったがそれ以外は滞りなく進み、守衛のチェックは五分ほどで終了した。

「それでは皆様下馬願います。こちらの門は、歩いてお通りください」

 御者台の人間に座っていた兵に声をかけ、彼らが皆地に足を降ろすのを見届けると、責任者の男はようやく行って良しという仕草をした。一刀は男に一礼し、粛々と門を潜る。

 結局、最後まで心づけを要求されたりはしかった。北門の守衛は末端の人間にいたるまで実に忠実に職務に励んでいる。そうでないことを期待していた訳では勿論ないのだが、只管に職務に励む彼らの姿を見て、一刀は何だか肩透かしを食らったような気分になった。

「流石に、かつて曹操殿が管理していた場所なだけはありましたね」

 稟が口が開いたのは、洛陽を出てから三十分ほど経った時だった。いい加減沈黙に耐えかねた一刀が、受けないのを承知で小話でもしようと思った、その矢先である。

「曹操殿が?」

 無駄に滑らなくて済んだことに心中で安堵の溜息を漏らしながら、相槌を打つ。

 呂布の家族の乗った先頭の馬車、その御者台だ。これから県令になろうかという人間が、わざわざ御者をする必要など本来はないのだが、何しろ客人が客人である。他にも御者をできる人間はいたが、万が一があってはいけないと一刀が自ら手綱を握っていた。

 動物受けを考えると風でも良かったのだが、彼女は早々に稟に一刀の隣を譲ると最後尾の馬車に引っ込んでしまった。荷物と一緒に揺られながら、昼寝でもするつもりなのだろう。雛里も風に付き合って最後尾の馬車にいる。その他、馬車を操っている兵以外は皆徒歩だ。要も当然、徒歩である。

「最初に得た官職が北門の武尉だったのですよ。割と有名な話だと思うのですが、ご存知ありませんか?」
「聞いたことあるようなないような、そんな程度だな」

 曹操については『顔を見たことがある』程度の繋がりしかない。荀彧が仕えている人間であるから興味がないではないのだが、荀彧と稟がやりあった過去があるため、どうにも関係を深め難いのだった。

 うちの荀彧とどういう関係なのかという質問を荀彧がいる場でされたら、どんな空気になるか解ったものではない。後で荀彧から邪悪な復讐をされるくらいなら、いっそ係わり合いにならない方が良いと、今では思っている。洛陽で曹操に会えなかったのは、運が良かったのだと思うことにした。

「情報は武器と申し上げました。全てを知っておく必要はありませんが、このくらいは知っておいてもらわないと」
「ごめん。もう少しアンテナを高くしておくよ」

 解れば良いのです、と稟は済ました顔で頷いた。アンテナ、という単語にも突っ込んでくることはない。カタカナ言葉については故郷の方言という解釈が浸透したらしく、口語で使うようなものについては、稟たちの間でも解読が終了していた。今では故郷にいた時と変わらない調子で会話しても、普通に成立するほどである。

「それはそうと、曹操殿のところの軍師から何やら貰ったようですが……」
「後で皆で見よう。何か俺の悪口とか書いてあったりすると困るから、最初は一人で読ませてもらうけど」

 かの荀文若が書いたものとは言え、中身は初心者用の教科書だ。一線級の軍師である稟にとっては、ほとんど価値はない。それでも共に見ようと提案したのは、筋は通した方が良いと思ったからだ。荀彧には世話になったが、今の教師は稟たちである。

「一人で読まれても良いのではありませんか?」
「何か問題があったら、言ってもらわないとな。今後一緒に仕事をすることになるんだし、考え方が離れてたら困るだろう?」
「貴殿は、あちらよりも我々を信ずるというのですか?」

 そこで、一刀は押し黙る。

 稟の機嫌を取るのならば迷わずに肯定すべきだったのだろうが、それはそれで嘘になる。仲間である稟には嘘をつきたくなかった。

「どちらをより、という話だと難しいかもしれない。荀彧には恩義があるし、俺はまだそれを返してないからね。最初の先生だからってこともあるけど、とにかく荀彧のことは信頼してる」

 あっちがどう思ってるかは解らないけどな、と付け加えると、稟は苦笑を浮かべた。

「でもそれは稟や風や雛里だって同じだ。一緒に戦った仲間だし、過ごした時間は稟たちの方が長い。だからより信頼してるとは……ちょっと言えないかな。信頼の方向性が違うというか何というか、そんな感じなんだ」
「では、我々とあの軍師殿、どちらを取るかと聞かれたら、貴殿は答えることができますか?」
「そりゃあ、稟たちだよ。考えるまでもない」
「どっちがより、と答えられなかった割りには即答するではありませんか」
「差し迫った状況で一緒にやってる仲間を選べないなら、そっちの方が問題だろ?」
「それはそうですが……」

 何か釈然としないものを感じているのだろう、稟の言葉ははっきりとしないが、突っ込んでくることもしない。人の内面に踏み込むような話は、元々稟の好む話ではないのだ。今も相当に無理をしているのか、頬がほんのりと赤い。

 そこまでして聞きたいものだろか、と手綱を握りながら、空を見あげて考える。

 自分に置き換えて考えてみた。例えば稟に前の主がいたとする。それは自分と同じくらいの年齢の男で、美青年だとしよう。能力も自分と同じかそれ以上な男が、稟と会話したりプレゼントしたりしていたら……

 考えただけで胸がムカムカしてきた。なるほど、こういう気持ちになっていたのかと理解できると、稟に対して申し訳ないような気持ちになってきた。

 これからはなるべく、稟たちの前で荀彧の話はしないようにしようと一刀は心に誓った。








この後に并州に入ってから月チームとの再会を書く予定なのですが、IN洛陽ではなくなってしまうため話を分けました。
現在鋭意製作中です。今月中にはアップできると思います。



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十四話 并州動乱編 下準備の巻①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 04:59





 洛陽を出立してから一刀一行は問題なく歩みを進めていた。孫家軍にいた頃の行軍と比べると速度は劣ったが、それでも予定よりも大分早く司州を出て、并州に入ることができた。

 そして、并州に入って二日目のことである。

 いつものように朝食を取り馬車に乗ってかぽかぽ進んでいると、突然先頭を歩いていた要が緊張した様子で足を止めた。それを見て全ての人間が足を止める。すわ敵襲か、と兵にも緊張が走ったが、その緊張を打ち破ったのは底抜けに明るい、聞き覚えのある声だった。

「やー、久し振りやな。もうちょいかかるか思ったけど、随分早いやん」

 声の主は向かって右側の森から現れた。サラシを巻いただけの上半身に羽織と下駄。一度みたら忘れることのできない特徴的な装いは、紛れもなく張遼だった。氾水関で遠目に姿を見たことのある兵が驚きの声を挙げて距離を取る。『張来々!』と大騒ぎする彼らを気にする風もなく張遼は御者台にあがり、呂布の家族たちを見やった。

「無事に脱出できたようやな。と言うても、うちじゃ全員いるかどうか解らんけど」
「呂布将軍はどちらに?」
「この先にある屋敷におるよ。月たちも一緒や」
「では、そちらで受け渡しということでよろしいのでしょうか」

 そう問うのは、一刀の横に座っていた稟だった。洛陽での遣り取りは間に数人挟んでの手紙が主だったため、稟が張遼と直接顔を合わせるのはこれが初めてである。話に割り込んできた稟に張遼は軽く眉を顰めたが、頭から爪先までその姿を眺めると、彼女が軍師であることを察したらしく、旧来の友人にするように人懐っこい笑みを浮かべた。

「せや。あんたが郭奉孝やな。一刀から聞いとった通り、眼鏡の似合う美人さんやな」

 美人、という単語に稟の頬が一瞬で朱に染まる。恨みがましい目で睨んでくる稟を華麗にスルーしながら、余計なことを喋り捲りそうな張遼に、お手柔らかに、と釘を刺す。

「俺たち全員で押しかけても良いのですか?」
「別にええよ。恋からしたら、一刀たちは恩人やからな。一時的な避難先みたいな場所やから大したもてなしはできんけど、暖かい食事と屋根のある部屋は用意できるで」

 張遼の言葉を黙って聞いていた兵達から歓声が挙がった。孫家軍での調練から野宿にもはや抵抗はなくなったが、屋根のあるところで寝られるというのなら、それを断る道理はない。温かい食事が出るのならば尚更だった。

 あまり世話になるのは避けたかったが、一度こういう雰囲気になってしまったものを壊すのは忍びない。額を押さえて小さく呻いている稟を横目に見ながら、一刀は張遼の招きに応じることにした。












 屋敷というだけあって、張遼に案内された場所は本当に立派な屋敷だった。要を初めとした兵達は『おー』と感動の声をあげている。屋敷とは縁のない生活を送っていた人間ばかりだから、余計に珍しいのだろう。荀家で世話になっていた経験がなければ、自分もああしていただろうと思うと、彼らの態度にも親近感が湧く。

「馬車はあっちになー」

 張遼の言葉に従い、呂布の家族を乗せたもの以外の馬車がそちらに引かれていく。残った馬車は屋敷の正面に横付けされた。そこでは戟を持った呂布が相変わらずぼーっとした様子で待っている。一団の代表として、一刀がまず呂布の前に歩み出た。

「お久し振りです、呂布将軍」
「ん」

 呂布は言葉ですらない一音を発して、挨拶もそこそこ、御者台に飛び上がる。そのガラス球のような瞳で馬車の中を確認すると、天下の飛将軍は大きく頷いた。

「みんな、いる。ありがとう、かずと」
「お役に立てたのなら何よりですよ」

 今度は返答すらなかった。馬車の扉を開けた呂布は大事な家族との再会で忙しいらしい。旅の途中ではあれだけ懐いてくれた動物たちも今は呂布のことしか見ていない。元々彼女の家族なのだから当然であるが、妙に寂しい一刀だった。

「黄昏ているところ申し訳ありませんが、一刀殿。そろそろ」

 御者台の周囲には軍師が勢ぞろいしていた。招待されたのなら、それに応じなければならない。呂布と家族の再会は、一刀達にとってはついでのイベントに過ぎないのだった。

 こっちや、という張遼に案内されて、屋敷の中に入る。

 屋敷は床の隅にまで掃除が行き届いていた。空気も淀んでいない。避難先というから使われていない屋敷をどうにかしたのかと思っていたが、そうではないらしい。

「ここはウチの知り合いの屋敷でな。事情を話して貸してもらっとるんよ」
「張遼将軍は并州のご出身で?」
「ウチだけやなくて恋もそやで? 幼馴染、言うにはちょう付き合いは短いけどな。洛陽に来る前からのツレなんや」

 たわいもない世間話のように、張遼と会話をする。隣を歩く稟をはじめ、軍師三人は一言も口を開かない。会話をするのはお前の役目と言わんばかりだった。それでも会話そのものには耳を傾けているのだろう。稟などは反応が顕著で、会話の内容が変わる度に肩を震わせたり、目を細めたりと微細な反応を繰り返していた。

 採点されているようで、緊張する。彼女らも巻き込んでしまえば、この空気も晴れるのではと無駄な抵抗をしてみる一刀だったが、会話を振っても振り替えされ、結局は一刀と張遼の会話に戻ってしまう。軍師殿らはよほど、観察に徹したいらしい。

 これで会話もなくなってしまったら地獄だったが、張遼は見た目通り話好きのようで、それについては特に不自由することもなかった。

「――まぁ、そんなとこやな。さて、これから月にあってもらう訳やけど、そっちはこの四人でええの?」
「はい。俺と軍師の三人でご挨拶させていただきます」
「そか。そういえば自己紹介しとらんかったけど、中で一緒にさせてもらうわ。ほな、いくで」

 案内されたのは屋敷の中でも最も奥まった部屋だった。中央のテーブルを挟んで向かいに董卓と賈詡がいる。供の人間がいないのは、これが密談の類だからだろう。あちらはその二人と張遼で全員のようだった。

「陳宮殿はいかがされました?」
「ウチらに任す言うて恋のとこにいったわ」

 そうですか、とだけ答えて一刀は董卓の対面に座った。一刀が董卓の真正面で、左右に稟と風。雛里は風の隣に腰を下ろした。張遼が月の背後に付き従うようにして立つと、董卓が一度立ち上がり、深々と頭を下げる。追従するように一刀たちも立ち上がり、董卓の礼に応える。

「私は董卓、字を仲穎と申します。まずは、お礼を。仲間の家族を無事に連れていただき、ありがとうございました」
「董卓殿のお役に立てたのなら、何よりです」

 お互いの自己紹介はここでついでに行われた。着座すると、張遼が給仕を始める。その所作は意外に危なげがない。一刀たちが驚いているのを見ると、張遼は悪戯が成功した子供のように笑みを浮かべてみせた。何も口にしなかったが、『意外やろ?』と得意になっているのが良く解る。

 張遼の淹れてくれたお茶は本当に美味しかった。茶葉が良いものなのは分かるが、淹れ方も良いようである。張遼の意外な特技を見た一刀は、素直に感嘆の溜息を漏らした。

「董卓殿は、今後どうなさるのですか?」

 いきなり突っ込んだ問いをするのは、稟である。テーブルの向こうで賈詡が迷惑そうに目を細めているが、稟にとっては何処吹く風だった。北郷軍の対外交渉担当でもある稟の胆力は、多少のことではびくともしない。

「いずれは涼州に戻るつもりだけど、しばらくは何処かに身を隠すつもりでいるわ」

 稟は確かに董卓に問うたはずだが、その質問に答えたのは賈詡だった。今度は稟が目を細める。対する賈詡は得意顔だ。こちらの交渉役が稟であるように、向こうは賈詡がこういう面倒くさいことを担当しているのだろう。確かに、お嬢様然とした董卓がやるよりも、話は早くまとまりそうだ。交渉する側としてはそれも痛し痒しである。

「当てはあるのでしょうか」
「どこで情報が漏れるか解らないし、その辺りは秘密にさせてもらうわ」
「左様ですか。これから我々は并州に根を張る身です。一県令の立場ではありますが、お役に立てることがありましたら何なりとお申し付けください」
「ご丁寧に。でも、恋の家族をここまで連れてきてくれただけで十分よ」

 ありがとう、と礼を言う賈詡の顔には微かに笑みが浮かんでいるが、言葉そのものは突き放すようである。稟はどうにかして董卓軍と関係を持とうとしているが、あちらはそれほど乗り気ではない。

 それも解る気もする。この関係は弱小勢力である北郷軍にこそメリットは大きいが、都落ちしたとはいえまだ強大な勢力である董卓軍には、それほどの旨みはない。恩を売ったという事実こそ残り、董卓も賈詡もこれを無碍にしたりはしないだろうが同時に、構築できるコネはその程度で終わってしまう。

 これでは軍師としては面白くない。どうにかしてもっと恩を売りたい、関係を持ちたいというのが稟の本音なのだが、賈詡の反応冷ややかである。

 それでもめげずに当たり障りのない会話を続ける辺り稟の粘り強さも相当なものであるが、これは無理だろうな、というのが一刀にも何となく解ってしまった。風など既に諦めモードで、うつらうつらと船をこぎ始めている。張遼も退屈そうだ。

 雛里はその中でも頑張っていたが、交渉役が稟一人であるためにこの場ではすることがない。緊張を強いられる場面で、行動に逃げられない人間は活動している人間よりもい疲れる。

 間の悪いことに雛里はプレッシャーに弱い性質であるので、この状況は酷く堪えるのだろう。脂汗をかいたその顔は既に青くなっていたが、体調が悪そうだから中座しますとは言い出しにくい雰囲気だった。相手が気を使ってくれればと董卓陣営を見るが、賈詡は稟の相手で忙しく張遼は暇そうに佇んでいるだけでこちらを見てはいない。董卓は周囲に気を配っている風ではあったが、こちらよりも仲間の賈詡が気になるらしく時に微笑ましく、時にはらはらとしながら自らの軍師を見つめていた。

 助けを求めるように雛里が視線を送ってきても、申し訳ないがどうしようもなかった。一刀にできることは、雛里のために祈ることだけである。


 幸い、稟と賈詡の話し合いは雛里の胃に穴が開く前に終了した。

「話が終わったところで、ちょっとええかな」

 これでゆっくりできる、と立ち上がろうとしていた雛里は張遼の言葉で体勢を崩した。倒れそうになる雛里を寸でのところで抱きとめる。『はわわ……』と呻く雛里は相変わらず可愛くその身体は癖になりそうなくらい柔らかかったが、それを堪能するには周囲の視線が多すぎた。稟のいてつくような視線に、一刀はわざとらしく大きな咳払いをすると、雛里を椅子にそっと降ろす。

「お騒がせしました。お話を伺わせていただきます、張遼将軍」
「話の前に聞いときたいんやけど、一刀んとこ、兵ってどないなっとるん?」
「それは何とも。これから赴任する先の県の兵を使うことになりますが、何分洛陽で目録を確認しただけですので実数はわかりません。俺個人の、ということでしたらおよそ二十人といったところでしょうか」
「つまり、表にいる連中で全員ってことやな」
「そうなりますね。お恥ずかしい限りですが」

 孫呉を蹴ってまで自分についてきてくれた仲間である。彼らにはいくら感謝してもし足りないが、大軍団を指揮していた張遼を前にするには、聊か物足りないのは事実だ。
発言には思うところがあるものの、事実であるので仕方がない。言葉を吐いたのが張遼ならば尚更である。

「確かに頭数は少ないけどな、仲間をそんなに卑下するもんやないで。ええ奴らやないの。皆、一刀についてきたくてついてきたんやろ?」
「俺には勿体ない仲間です」
「そか。せやったら、ウチもその仲間に加えてくれんかな」
「……なんですって?」

 言葉の意味は理解できていたが、とっさに聞き返していた。稟たちは元より、賈詡も董卓も目を向いて張遼を見ている。平然としているのは、張遼本人のみだ。

「そのままの意味なんやけどな。ウチを一刀のとこで使こうてくれへんかなー、いう話なんやけど、どないや?」
「いや、俺としては願ってもない話ですが……」
「どういうことよ霞!」
「そりゃあウチは武人やからな」

 答える張遼は邪気のない笑みを浮かべる。

「戦のないところにおってええはずがない。月にも詠っちにも恩義はあるけど、ほとぼり冷めるまで再起はせえへんねやろ? せやったら、腕を錆びさせておくんももったいないし、これから大事な時期の一刀とこに世話んなろうかなー思ったんよ」
「思ったんよってあんた……」

 張遼の物言いに、賈詡は押し黙ってしまう。武将がその腕を生かす場所を求めて主を変えることはこの時代良くある話だ。

 故に有能な武将、軍師を抱えている勢力は彼ら彼女らに逃げられないよう待遇を良くしたりして対応する訳だが、戦から距離を置こうとしている董卓と戦場を求める張遼とでは、求める環境が全くと言って良いほど合致していない。

 ならば新たな戦場を求めて、という張遼の言い分もわからないではないが、大陸を二分した勢力の将軍が一県令の下に着くというのは前代未聞である。張遼ならばそれこそ曹操軍でも孫策軍でも、いくらでも仕官先があるはずなのだが……

「一刀のとこ、面白そうやからな。恋の家族も気に入ってたみたいやから悪い人間やなさそやし、これから軍団を編成するなら仕事も沢山あるやろ?」
「将軍にご満足いただけるような戦場は提供できないと思いますが……」

 汜水関で張遼を前にし、死ぬ思いをしたのを思い出す。あんな環境にそう何度も巡り合うとは思いたくはない。彼女ほどの武人が近くにいてくれるのならばこれ程ありがたいことはないが、北郷一刀に張遼ではどう考えても宝の持ち腐れだ。

 それにいくら差しあたって戦う予定がないとは言え、放出する側からすれば溜まったものではないだろう。こちらの世界にきたばかりの頃ならば諸手をあげて歓迎していただろうが、今は自分の立場を考えるくらいの余裕はある。董卓軍との関係を考えたら、すぐに飛びつくのは得策ではない。

 隣で稟が小さく頷くのが見えた。対応は、間違っていなかったようだ。

「いらん言うなら無理にとは言わんけどな。ま、今日いっぱいは考えてみてな。ウチは別に逃げへんし、お仲間と相談する時間も必要やろ」
「お気遣い感謝したします」

 別に気にせんでえーよー、と張遼の口調は緩いままだ。態度から、その真意は測りかねる。今の主である董卓を前に口にしたのだから、冗談の類ではないはずだが、それでも、戦がないところにいたくはないと口にしてしまった以上、董卓のところに留まる理由も消えてしまった。

 これで自分が断ったら、彼女は一体どこへ行くのだろうか。止せば良いのに、と冷静な自分が声をあげるが、現実の一刀は躊躇わずに小さな自分に反逆した。

「気を悪くされないで聞いてほしいのですが、もし俺が断ったら、将軍はどうなさるのですか?」
「んー? まぁ、実家に帰るんもええか思っとるよ。并州はウチの地元やしな。昔の仲間んとこ戻って身の振り方でも考えるわ」
「もしや、呂布将軍も?」
「恋はどないやろな。まだ話しとらへんのやけど、案外恋も同じこと言うかもしれへんで。家族はみーんな一刀に篭絡されてもうたみたいやし、恋ももうころって落ちてもうてるかもな」

 ははは、と張遼は笑うが一刀は全く笑えなかった。賈詡の視線が痛い。董卓も視線を一刀と張遼を交互に見つめ、落ち着かない様子だ。いずれにしても、張遼は董卓軍から離れるということを決めているようだった。ならば移籍のための交渉をするのも、悪い話ではない。

 だがここで飛びつくのはよろしくない。ゆっくり考えてくれと向こうから言ってくれたのだから、お言葉に甘えて考えることにする。

 まとめ方こそアレな感じとなってしまったが、この屋敷での最初の会合はアレで終わりのようだった。何やら忙しくやりあっている賈詡と張遼を他所に、給仕が入ってくる。いずれも若い少女だったが、立ち振る舞いが異様に洗練されている。いざという時は兵の役目も担うのだろうことは、一目で解った。例えばここで剣を抜いて飛び掛ったとしても、三合と持たずに切り捨てられるだろう。

 相変わらず、自分の腕は大したことないなと心中で苦笑しながら、董卓たちに挨拶をし、部屋を出て行く。扉がしめられ董卓たちの姿が見えなくなると、雛里が大きく安堵のため息をついた。横を歩きながら、お疲れさま、と雛里の頭を撫でる。それで青い顔をしていた雛里は真っ赤になった。手を払われなかったのを良いことに、ぐりぐりと頭を撫で続けていると、凛がわざとらしく咳払いをした。

 名残惜しいがお楽しみの時間は終了である。未練がましく今度は稟の頭に手を伸ばすと、間髪いれずに叩き落とされてしまう。稟の顔は真っ赤に染まっていた。羞恥というよりは怒りの色が濃い。これ以上調子に乗ったら殴られると察した一刀は、早々に降参の意思を示した。

 軽く両手を挙げると、稟はつまらなそうに小さく息を吐いた。これだから貴殿は……という心の声が聞こえてきそうである。

 でも、稟の頭はがしがしと撫でてみたい。撫でさせてくれない相手にこそ、一刀の魂は燃え上がる。稟が雛里とはまた違った反応を見せてくれることは想像に難くない。それには殴られたり文句を言われたりする覚悟が必要になるが、荀彧を相手に鍛えられた一刀にはそんなものはどこ吹く風だった。いつか絶対撫で回してやると廊下を行きながら固く心に誓う。

 視線を下げれば、思わせぶりに頭を差し出している風が見えた。こちらを見てはいないが、ふふふーと底意地の悪い笑みを浮かべているのは手に見て取れた。撫でてほしいから頭を差し出しているのだろうが、これを撫でたら即座に稟から報復があるのは目に見えている。報復を恐れたりはしない一刀だったが、流石に今この時に冒険するのは躊躇われた。ここで風を相手にオイタをしたら、稟は多分口をきいてくれなくなる。殴られたり罵倒されたりするのは耐えられるが、放置プレイは勘弁してほしい。

 一刀が何もしないことがわかると、風はあっさりと頭を引っ込めた。何も言ってはこなかったが、頭の上の宝譿が一刀を非難するように動いた……ように見えた。

 そもそも、人形が動くはずはない。疲れてるのかな……と一刀は目をこする。

 給仕に通されたのは一人部屋だった。一刀以下、三人の軍師には個室が与えられ、それ以外の兵は大部屋である。一刀個人は大部屋で枕投げでもして遊びたかったのだが、世の中そういう風にはできていないらしい。立場というのは面倒くさいものである。

 食事の際にはお呼びいたします、とだけ残して給仕は部屋を出て行った。扉がしまっても、一刀は去っていった給仕の背中を思い浮かべていた。荀家でも思ったが、この世界の給仕服には華やかさが足りないように思える。一刀個人の好みとしては、もう少しひらひらしてても良いと思うのだが、その好みがしっかり採用された給仕服というのはこの世界ではまだ見たことがない。

 ひらひらしたメイド服の採用は権力者になったらやってみたいなーと思っていたことの一つである。口にしたら縁を切られそうなので、まだ誰にも言っていないが。自分ではデザインはできないから、企画を服飾師に持ち込んで製品化してもらうことになるだろう。技術的には問題ないはずなので、後は予算の都合がついて稟に邪魔されなければ
メイドさんを侍らすことは可能となるはずだった。

 デザインが受け入れられるかという問題もあるが、軍師の学校がミニスカを採用してるくらいである。給仕にメイド服を採用したところで、それが奇抜すぎるということはないはずだ。実際に給仕をする人間がOKと言ってくれれば、それ以上の問題はない。

 メイド服を着た稟を想像して、一刀はほくそ笑んだ。拝み倒しても着てはくれないだろうが、想像するだけならば自由だった。何か罰ゲームの権利でも勝ち取った時に提案してみることにした。

 深呼吸して、気分を切り替える。旅の疲れもあったが、食事まで時間があるのならできることをしたい。扉をあけて廊下を見る。給仕さんの監視はついていなかった。稟たちに声をかけようかとも思ったが、一人で歩き出す。下手に立ち入り禁止のところに突っ込んでも問題があるから、そそくさと、寄り道をせずに、今日通ってきた場所だけを通って、一刀は外へと繰り出した。

 横付けされていた馬車は厩の方に片付けられていたが、動物たちはまだそこに残っていた。ご主人様とその子分も一緒である。闖入者に子分の方は無遠慮な視線を向けてくるが、親分であるところの呂布はガラス玉のような視線を持ち上げ、ぺこりと頭を下げるだけだった。一拍おいて、一刀も慌てて頭を下げる。ぼーっとしている呂布を見ていると忘れそうになるが、彼女は当代最強の武将なのである。礼を払って払いすぎるということはない。

「ご家族はどうですか」
「みんなげんき。ありがとう、かずと」
「将軍の手助けができたのならば、何よりです」

 言葉を返すと、ぱたぱたとセキトが駆け寄ってくる。

「久しぶりだなーセキト」

 抱き上げると、セキトは遠慮なく顔をなめてきた。身体を撫で回すと、気持ち良さそうに小さく唸る。暖かな毛並みに柔らかなお腹を遠慮なくぐりぐりと撫で回す。北郷一刀、至福の時だった。

「おいちんこ県令。話があるのです」

 自分が呼ばれていることは状況から判断できたが、即座に返事をすることには抵抗のある呼称だった。呼びかけてきたのは、董卓軍の軍師であった陳宮である。これまた奇抜な衣装をした少女が、親の仇でも見るような目でこちらを見上げている。彼女に粗相を働いた記憶はないが、悪印象を持っているのは間違いがなかった。なにしろちんこだ。

「私のことでしょうか?」
「お前以外に誰がいるのですか。頭の悪いちんこ県令なのです」

 ふふん、とぺったんこな胸を張る仕草が異様に様になっていた。いつまでも偉そうに見えないと稟に小言を言われる立場としては、地味に羨ましい特性である。

「話の腰を折って申し訳ありません。それで、私に何か御用でしょうか軍師殿」
「お前、霞から例の話は聞いたのですか?」

 霞、という名前に首を傾げるが、それが張遼の真名であることにはすぐに思い至った。

「例の話といいますと、張遼将軍が私のところに、という話でしょうか?」
「そうなのです。お前、霞の奴をどうするつもりなのですか?」
「良い話だとは思いますが、同時に難しい話でもあります。色々なことについて考えなければなりませんから」
「霞を御せると思ってるのですか?」
「私のところに来ていただいた場合、という仮定で話を進めさせていただきますが――」

 陳宮の視線は鋭さを増している。余計なこと、ふざけたことを口にしたら蹴飛ばしてやると、何より視線が言っていた。細いその足は無限の可能性を秘めているように思えた。あの足で蹴られたら、もの凄く痛いだろう。脚力どうこうという話ではない。おそらく陳宮は、何の手加減もなく、容赦なく、全力でこちらを蹴飛ばしてくる。

「大体の部分をお任せするという形になるでしょう。俺は大軍団を指揮した経験はありませんし、仲間の軍師も同様です。将軍の知識経験は、俺たちの大きな助けとなることと思います。正直、喉から手が出るほどに欲しい人材です」

 我ながら惚れ惚れするくらいの、型どおりの返事だと思った。これは相手が張遼でなくとも一字一句違えることなく利用できる文言である。陳宮の目つきが胡乱なものに変化する。言った自分が理解しているのだから、聞いた陳宮がどう思うかは想像に難くない。どうにも直情径行型の人格なようだから、馬鹿にされたと判断したら即座に蹴りが飛んでくるかもしれない。いつ蹴られても良いように一刀は密かに防御体勢を取ったが、蹴りは飛んでこなかった。

 陳宮の顔には不満と書いていてあったが、それだけだった。じっと一刀を睨んだ陳宮は不機嫌さを全く吐き出さないまま、

「恋殿。このちんこはこんなことをいっておりますぞ」

 判断を呂布に丸投げした。呂布は構っていた家族を地面に降ろすと立ち上がり、足音一つ立てないまま一刀の眼前まで移動した。目の前でじっくり見ると、武将であることが良く解る。むき出しのお腹にはしっかりと筋肉がついていたし、細身ながらも引き締まった身体をしている。それでも一刀の故郷の世界の強者よりはずっと細身であるのだろうが、美少女は理解不能なパワーを発揮するこの世界において、呂布の身体つきは相当に強そうな部類に入るように思えた。

「かずとのところは、人手が足りない?」
「あって困るということはないと思います。何分、領地となる場所の状況を、俺も把握しておりませんので」

 まずは現地についてからですね、と一刀は言葉を締めくくったが、次に呂布が言い出しそうなことについて、何となく察しがついてしまった。陳宮の機嫌が悪いのは、要するにそういうことなのだろう。

 呂布はガラス玉のような瞳に、小さじ一杯分の好奇心を滲ませて、言った。

「かずと、恋のご主人さまにならない?」
















「……貴殿の手腕には目を瞠るばかりです」

 稟の声には温度というものが感じられなかった。褒められているはずなのに、怒られているような気さえする。椅子の上で、思わず正座をしてしまったほどだ。身体が痛いのですぐに膝は崩してしまったが。

 一刀の部屋として割り当てられた部屋に、軍師全員が集合していた。要たち兵は全員、大部屋で盛り上がっている最中である。『俺たちでも飛将軍に一矢報いるにはどうしたらいいか』という果てしない無理難題について、熱心に議論している彼らを止めようか迷ったが、たまたま部屋の横を通り過ぎた陳宮が完全無視を決め込んだので、放っておくことにした。どんなものであれ、夢を追いかけるというのは良いことだ。

「呂布将軍まで、貴殿の元で働きたいと?」
「そういったね」
「本気なのでしょうか」
「嘘を言ってるようには見えなかったな。陳宮殿は不機嫌そうだったし」

 何度も蹴られそうになったよ、と苦笑を浮かべながら付け加えると、稟は大きくため息をついた。メガネを外して目を閉じ、指でまぶたを揉み解している。稟に一番似合う仕草だ。何だか嬉しくなってにやにやしていると、メガネをかけなおした稟がぎろりと睨んでくる。一刀は微笑みを浮かべて視線を逸らした。

「何れにしても良かったのではありませんかー? あのお二人が仲間になってくださるのなら、風たちとしては万々歳ですし」
「しかし、董卓殿との今後の関係にも関わる問題です。軽々に決めるのはどうかと思うのですが」
「でもさ、張遼将軍はどっちにしても出て行くつもりみたいだぞ? それに向こうからこっちに来たいって言ってるんだから、それを受け入れない手はないと思うんだ」
「頭から信じてかかるのは危険なのでは?」

 稟の声音はあくまでも落ち着いている。張遼の言葉に、何か裏があるのではと疑っているのだ。穿ちすぎでは、というのが一刀の所見であるが、稟の言うことにも一理あるのも事実である。一刀は椅子に深く腰を落ち着けて、大きく息を吐いた。

「稟は、将軍たちを受け入れるのは反対?」
「大賛成です。董卓殿のことを考えなければ、そも反対する理由がない。我々の戦力不足は深刻ですから。ここで両将軍を迎え入れることができれば、大分楽になります」
「要するに、角が立たないように受け入れられれば良いんだろ?」
「それができれば苦労はしません」

 まったくだ、と一刀は項垂れる。さてどうしたものかと考えていると、風が椅子から立ち上がりすすす、と近寄ってくる。なんだなんだと見ていると風は軽く首を横に振った。否定の仕草ではない。確証はないが『退け』というのが一番近いだろうか。椅子から退けというのならばこれほど横暴なこともないが、さてどうしたものか。とりあえず身体の正面を空けてみると、それが正解だったのか風はぴょんと一刀の膝の上に飛び乗った。そのままもぞもぞと膝の上で動き、自らの収まりの良い所を探し始める。

 初めてのことではないが、仮にも男性である一刀は気が気ではない。年頃の美少女が膝の上でもぞもぞしている光景というのは、色々な意味でよろしくなかった。雛里は気まずそうに視線を逸らしているし、稟は苛立たしげに踵を鳴らしている。何もなければ迷わず逃げ出しているところだが、膝の上の風が重しになって逃げられない。何だか前にもこんなことがあったような気がする……と過去の記憶を引っ張り出そうとした一刀の口に、ぐるぐる飴が突っ込まれた。

 あぁ、前もこんなだったな、と納得しながら飴の甘ったるい味をかみ締めていると、すわりが良くなったのか風はようやく動きを止めた。ベルトのように一刀の腕を前に回してようやく完成である。

「風に妙案があるのですが、聞いてもらえますか?」
「私はあなたの行動に関して問いただしたい気分ですが、ひとまずそれは置いておきましょう。それで、どんな手なのです?」
「いやー、別に大したことではないんですけどねー」

 ふふふーと微笑む風の表情は、しかしそれが大したことがあると物語っていた。風が不敵な笑みを浮かべる時は、何気に自信がある時なのである。

 風は自分に皆の視線が集まるのを待ってから、薄い胸を張って堂々と言ってのけた。

「いっそのこと、幹部の皆さん丸ごといただいちゃうのはどうでしょうか」











すいません、間に合いませんでした。
今回から并州パートです。月たちとの話し合いは次回でまとめて、次々回からはついに領地につきます。



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十五話 并州動乱編 下準備の巻②
Name: 篠塚リッツ◆2b84dc29 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 04:59
「ようこそ。程昱さん」

 董卓軍筆頭軍師である賈詡の部屋を一人で訪れた風を迎えたのは、彼女のとってつけたような笑顔だった。無理やり作った感が滲み出ているその笑顔を軽く受け流しながら、風は部屋に足を踏み入れる。

 董卓軍が名実共に解体された今、ここを仕事部屋というのは適切ではないのかもしれないが、資料で溢れたこの部屋はまさしく軍師の仕事場だった。常に情報を集め、分析し、自分のものとしなければ落ち着かない。軍師というのはそういうものだ。都落ちして気落ちでもしているのではないかと同じ軍師として密かに心配していた風だったが、この部屋の有様を見て安心した。やはり、軍師というのはこうでなくてはいけない。

「お願いを聞き届けてもらって恐縮です」

 安心を全く顔に出さずに、風は頭を下げる。立場はこちらが下であるので、礼を失してはいけない。今更多少の礼を失したところで賈詡は気にしないだろうが、こういうことは形が大切なのだといつも稟に口を酸っぱくして言われている風であるから、その辺りの所作は自然と身についていた。

 それほど広くない仕事部屋の中から椅子を引っ張り出し、風にはそのうち片方を薦めてから賈詡は腰を下ろす。賈詡が座るのを待ってから、風もそれに倣った。

「さて、僕と内密に話したいことがあるってことだけど、手短にお願いね。こうしてる間にも、月に何かあったら困るから」

 この会談が設けられている間に、董卓にこちらが接触することを確信している物言いである。事実その通りであるのだから、風としては笑うしかない。

「用件は他でもありません。董卓さま達の今後についてです」
「前にも話したと思うけど、この件にそっちが関与する必要はないわ。安全上の問題もあるし、部外者には立ち入ってほしくないの」
「部外者、と言われてしまうと弱いですねー。風はちょっと仲良くなったつもりでいたのですがー」

 少し踏み込んだ物言いをしてみると、明らかな怒りを込めた視線で睨まれた。仲良く、という単語に聊か過剰な反応を示した。一刀のいつの間にか相手の懐に入り込む才能には風も一目置いているが、この賈詡に限って言えばその力も及んでいないらしい。呂布と張遼はあんなにも骨抜きにしたというのに、何という片手落ちか。

「率直に申し上げます。董卓さまと賈詡さん。まとめてこちらに来ませんか?」
「あの男の軍門に降れってこと? 冗談じゃないわ」
「いえいえ滅相もない。今のは言葉通りの意味ですよ? お客様としてしばらくお兄さんの領地に滞在しませんか、という申し出です。もちろん、滞在期間はそちらが自由に決めてくださって構いません」

 風の申し出に、賈詡の雰囲気にも変化が現れた。話を聞く体勢になった、と感じた風はそのまま言葉を続ける。

「連合軍との戦こそ終わりましたが、戦の興奮はいまだ冷めていません。どこに隠れるにしても、そこの土地を管理する人間の助けが必要です。風たちの勢力は弱小ですが、それ故にあまり注目されていません。いざという時の備えには呂布将軍と張遼将軍がおりますし、しばらく身を隠すのにこれほど都合の良い環境はないかと存じます」

 注目されていないというのが、董卓側への売りである。中央で即座に身を立て直す手段がない以上、董卓が取れる手段はどこかに身を隠すか地元に戻るかの二種類しかない。国を二分するほどの権力を一時は手中に収めた董卓であるが、都落ちした今、中央には敵が多く、地方は連合軍に参加した武将たちの領地が点在している。隠れるにしても場所を選ぶ必要があるのだ。諸侯が領地の安定に手を焼いている今は隠れるに絶好の機会であるが、手空きの戯れに兵が差し向けられないとも限らない。

 まして、今は誰もが戦力を欲している。落ち目の董卓の首は誰に売り渡したとしても格好の出世の材料になるだろう。身を落ち着けるのだとしたら、そういう可能性が低いところにしなければならない訳だが、その選定に賈詡は苦慮しているはずだ。誰がどの程度信頼できるのか。その判断材料が賈詡にはほとんどない。今并州にいるのは呂布の家族を受け取る用事の他に、張遼呂布の両将軍の地元というのがどれだけ信用できるのかを探る意味合いもあるのだろう。

 それが駄目となれば、いよいよ多少の危険を冒してでも領地へ戻るという選択が現実味を帯びてくる。これは風たちにとっては面白くない。こちらに合流する意思こそ張遼、呂布の両名は示しているが、即座に移籍が通るほど世の中甘くはないだろう。董卓が地元に戻るという判断をすれば、あの二人はそれについていく公算が高い。こちらに合流するとなればその後ということになる。あの二人が言葉を翻すような無責任な人間には見えないが、合流が遅れることは十分に考えられるし、拠無い事情で合流そのものがなくなることもないとは言えない。

 目立った武将のいない北郷軍にとって、あの二人は喉から手が出るほど欲しい存在である。手に入らなくなる可能性は、可能な限り潰しておきたい。そのためには、厄介者である董卓も受け入れる覚悟である。賈詡と一緒に働いてくれるならば大助かりだが、高望みはしない。彼女らは呂布と張遼のオマケとこの際割り切ることにした。

「あんた達のところに世話になるくらいなら、涼州に戻るって手もある訳だけど?」
「それは色々な意味でお勧めしませんねー。風が曹操さんや孫策さまの立場だったら、洛陽から涼州までに網を張ると思いますし」

 風の言葉に、賈詡が渋面を作る。その可能性は低いと風も思うが、否定することもできない。董卓討つべしと兵を挙げたのに、洛陽で捕縛できなかったのは連合軍にとって大きな痛手だった。袁紹が問題を起して勝手に敗走したことでうやむやになってしまったが、董卓が最大目標であったことに変わりはない。とは言え、大きな戦も終わった今は増えた領地を安定させるのが急務。既に過去の敵となった董卓にばかり構っている訳にもいかない。

 だから捜索のために割かれる兵は、ギリギリの数になるだろう。余裕のあるところでも合計で千人にも満たないはずである。その最大千人で、洛陽から涼州までの主要な道を監視するのだ。いざ董卓が通り、これを捕縛できるようであれば行う。兵を沢山連れていて対応できないようなら、そのまま引き返してくれば良い。元々逃がしてしまった敵である。それをさらに逃したところで連合軍が瓦解してしまった今、それほどの痛手ではない。現在位置を知ることができるだけでも御の字だ。

 そんな博打のような配置であっても、それを突破する董卓軍にとっては大事だ。何しろ寡兵である。呂布、張遼の両将軍がいるとは言え、遠く涼州を目指しながら董卓を守りつつ道を行くのは、難事に違いない。強行に戻ることにもそれなりの危険が伴うのだ。

 さて、と気を引き締めて風は賈詡を見た。

 軍団の最高権力者は董卓であるが、意思決定に一番大きな力を持っているのが眼前の賈詡であるのはある意味周知の事実だ。最終的な意思決定こそ董卓に委ねるだろうが、董卓の意思はふらふらとしている。賈詡が強く主張すればこの問題に関してならば納得するだろう。張遼、呂布は一刀側に大分傾いており、陳宮は呂布に追従する。後は賈詡を抱き込めば詰みなのだ。これを何としても口説き落とすのが、風の役目である。
 
 実際に網を張っているかは解からないが、董卓側にすれば可能性だけでも十分だ。旧連合軍側は当たればいいなくらいの軽い気持ちであるが、董卓側はそれが直撃すればおしまいなのである。涼州までは遠く険しい道が続いている。情勢の緊張している今、そこを寡兵で通り抜けるのは、いかに両将軍を抱えていても危険なことだった。

 安全度を高めるには何か手段を講じる必要があるが、ここから洛陽までの間に信頼のおける仲間がいるとは思えない。それならば賈詡はもっと余裕のある振る舞いをしているだろう。涼州からの援軍を要請するにしても時間が必要だ。強行軍という選択肢を排除する以上、どうしたって援軍がやってくるまでの安全を確保する必要が生まれる。大事な大将の身を任せる訳だから、それは信頼のおける相手でなければならない。一刀はそういう意味では、その条件を満たしているように思える。他に匿ってくれる候補があったとしても、それと秤にかけられる程度には信頼を勝ち得ているはずだ。

 賈詡が腕を組んで沈思黙考する。後一押しだ、と風は確信した。

「涼州に戻る際にはこちらも援助しますよ。涼州までの連絡を待つ間の安全は、風たちの力の及ぶ範囲で保障します」
「それでそちらが得るものはなに?」
「助けられる人は助けるというのが、お兄さんの方針ですから」

 少し偽善的過ぎただろうか、と思いながら風は賈詡の顔を伺う。まさか言葉通りに受け取ったりはしないだろう。風も善意だけでどうにかしようと思っている訳ではないし、賈詡もそれは承知しているはずだ。だが何事にも体面というものがあり、今はそれを使う時でもあった。嘘をつけ! と相手が一言文句を言えば崩れてしまうような危ういお約束ではあるものの、それを踏襲しお互いがお互いの利益を尊重する限り、大抵の話は無難に転がる。

「董卓と相談する時間をもらえるかしら。そっちの出立はいつ?」
「明日にはお暇しようと思っています」
「じゃあ、今晩までに返事するわ。それまで待ってもらえるかしら」
「ええもちろん。お互いにとって、良い結果になることを期待しています」

 椅子から立ち上がった風は、賈詡に握手を求める。賈詡はしばらく風の手を見下ろした後、躊躇いがちにその手を握り返した。























 董卓を口説き落とせと風から指示を受け取った一刀は、その命令を実行しようとした矢先から途方に暮れた。董卓が部屋に引きこもって出てこないのである。会いたい旨を世話係に伝えはしたが、体調が優れないということで取り合ってもらえなかった。伝えるそぶりこそ見せてはいたが、あの分では本当に伝わっているかも怪しい。

 本音を言えば限界まで粘りたかったが、女性が体調不良を訴えているのにそれに無理やり会わせろというのも男のすることではない。第一、一度体調不良ということで突っぱねてしまったのだから、多少のことではこれを翻したりはしないだろう。男で客人である一刀にこれ以上尽くせる手はなかった。

 お大事に、と幾分力ない言葉で安否を気遣う言葉を残し、屋敷の中をとぼとぼと歩く。風たちと対董卓の作戦会議をしたのが昨日の話。明けて今日、朝食を食べた後の時間は董卓と話すことに費やすつもりでいたのだが、引きこもり作戦によってそれもご破算となった。急ぎの用事は他にない。ならば勉強でもしようかと、割り当てられた部屋に足を向けると、庭で寝転がっている一人の少女が目に入った。

 呂布である。芝生の上に身を投げ出した彼女の周囲に、犬猫が思い思いに群がっている。人間を警戒することの多い動物であるが、呂布の周囲にいる犬猫たちは安心しきっているのが一刀にも理解できた。種族を超えた信頼関係がそこにはあった。犬猫とはここまでの道程を一緒に過ごしてきただけに、一刀も暖かい気持ちになる。

 自然と一刀の足は庭へと向いていた。屋敷を出て呂布の近くまで行くと、ぱたぱたとセキトが駆け寄ってくる。そんなセキトを抱き上げ近くまで行くと、呂布は寝転がったまま視線を向けてきた。ガラス玉のような視線に見つめられ、虎牢関で殺されかけた思い出が一刀の脳裏に蘇る。

 あの時は本当に無謀なことをしたものだと、過去の自分を振り返りながら呂布の隣に腰を下ろした。犬猫たちもそろりそろりと一刀の近くに寄ってくる。

「ここは良いところですね」
「広い庭は必要。みんな、走ったりするから」

 呂布の言葉に、一刀は心中で納得する。確かにこれだけいれば、一緒に過ごす家は広大なものにならざるを得ない。土地が余っている田舎ならば確保もそれほど難しくはないが、それをこの時代最も栄えた都市である洛陽でやるともなれば、そこには色々な困難が伴う。幸い呂布には天賦の武があり、その功績で将軍となり家屋敷を確保するにいたったが、もしそうでなければこれだけの家族を洛陽で養うことは難しかっただろう。食事代だけでもバカにならないだろうし、普通の稼ぎでは一緒に暮らすこともままならないに違いない。

「一刀のところは、この子たちは暮らせる?」
「土地に関しては問題ないのではないかと。遊んでる土地も結構あるみたいですから、手頃な物件がなければ自前で何とかできますし」

 豪奢な造りにすると色々と角が立つだろうが、広いだけならばそれほど目くじらも立てられまい。犬猫たちは呂布の言いつけを良く守る。敷地から出るなと一度彼女が言い含めておけば、しっかりとそれを守るはずである。武人としては相当高い地位にいた呂布であるが、家族と自分の食事に関すること以外は驚くほど質素な生活をしていたらしい。内装には無頓着で最低限の手配しかせず、家に客人を呼ぶこともなかったせいで、屋敷にいたのは家族とその世話をする人間だけ。まさに動物屋敷という有様だったというが、国士無双の武人呂布が動物を愛する心根の優しい少女であると言っても、誰も信じなかっただろう。近所に住んでいた人間の中には、そこが呂布の屋敷であると知っていても、この赤毛の少女が呂布であると知らなかった者も大勢いたに違いない。

「それをきいて安心した。セキトも、皆も、一刀は良くしてくれたって言ってる。これからも仲良くしたいって」
「それは光栄ですね。俺も、セキトたちのことは大好きですよ」

 一刀が言うと、その言葉が理解できるのか、セキトが小さく唸りながら身を寄せてくる。動物を身近に置くことにあまり縁のなかった一刀にとって、甘えてくれる動物というのはまさに天使だった。

「お前、かわいいなぁ……」

 ぐりぐりとお腹を撫でると、セキトも気持ち良さそうな声を挙げる。嫌がらない程度に思い切り撫で回すのが、一刀流の可愛がり方だ。ぐりぐり、なでなで、指で手の平でセキトの体中を触り捲くる。そんなかわいがりをセキトは嫌な顔を一つせずに受け入れ、気持ち良さそうに息を漏らしていた。わふー、という気の抜けたセキトの声が一刀の腕を更に大胆に動かした。もはや二人の世界である。

 そのまま何もなければ飽きるまでセキトを撫で回していたろうが、幸か不幸か、その場にはもう一人人間がいた。そのもう一人の人間――呂布はセキトの体を無造作に掴むと、優しく、しかし問答無用に放り投げた。突然のことにセキトは空中で驚きの表情を浮かべたが、流石に天下の飛将軍の飼い犬。空中で体勢を整えるとその四本足で見事に着地する。

 抗議の視線を向けるセキトと唖然とする一刀を他所に、今まさにセキトを放り投げた呂布は何を言うでもなくそのままごろん、と地面に寝転がった、先ほどまでと同じ体勢である。なら何故セキトを……と一刀が混乱していると、寝転がったまま呂布がじーっと視線を向けてきた。ガラス玉のような視線はいつもと変わらなかったが、そこに僅かな期待の色があるのを、一刀は見てとった。

 元々お腹を出した衣装だが、今は更にそれを見せびらかすようにしている。服従を誓う犬のようなポーズだ。あの呂布がそうしていることに、意味の解からない興奮を覚える一刀だったが、その意図を推察して一応の結論を導き出すに至り、本当にそうして良いものかどうか流石に迷ってしまった。

 犬のようにしているのだから、犬のようにしてほしいに決まっている。しかし犬は序列に厳しい生き物だ。生物としての格付けはどう考えても、呂布が上で一刀が下である。それを覆すことは犬でない一刀であっても、激しい抵抗があった。本来ならばこうして近くにいることも恐れ多い存在であるが、その呂布が完全に弛緩した状態で、無防備な姿をさらしている。

 自分の推察が間違いでないのか。考えに考えた一刀だったが、それ以外の予想はできなかった。ふらふらと呂布に歩み寄る。近くにそっと腰を下ろし、そのお腹に指を伸ばし突付いてみた。しっかりとした筋肉の上にほどよい脂肪がついている。雛里のようなぷにぷにしたお腹と比べると幾分固いが、これがこれで良いものだと思った。呂布が抵抗しないことに調子に乗った一刀は、身を乗り出して本格的にお腹を撫で始める。ん、と呂布が小さく息を漏らすと一刀の興奮も頂点に達した。

 これはもう抱きかかえて触り倒すしかない。普段の一刀ならばあの呂布を抱えるなど考えられなかったろうが、今の一刀は正気ではなかった。興奮に浮かされた目で呂布の体を起そうとする。不思議そうな首を傾げる呂布を見ながら身を乗り出し――その時初めて、その声を聞いた。

「ちんきゅー……」

 陳宮は既に一刀めがけて踏み切っていた。その目には隠しきれないほどの殺意が込められている。こちらを蹴り飛ばすべく必殺の威力を込めて折りたたまれた足を見た時、熱に浮かされた一刀の頭はようやく自分の身が相当にヤバイことを理解した。蹴りを受けることは考えなかった。回避するべく動き出す一刀。しかし、興奮に任せて前のめりになってたせいで、急に動き出すことはできない。本人は全速力で動き出したつもりだったが、実際にはただその場で立ち上がっただけだった。

 せめて横に身を投げ出すくらいの判断ができれば違ったのだろうが、頭に上っていた血は正常な判断を下す思考力を完全に奪い去っていた。結果――

「きーっくっ!!!!!!」

 必殺のキックが一刀の胸部に直撃する。身体ごと吹っ飛んだ一刀はそのまま地面を転がり、木に激突することでようやく止まった。そのままごほごほと咳き込む。心臓の真上に食らったせいで、呼吸が困難になっている。甘寧隊で殴られたり蹴られたりしていた経験がなければ、そのまま気絶でもしていただろう。心中で思春に感謝しながら、痛む身体を堪えつつその場に立ち上がる。

「まだ生きてやがったのですか、このちんこ県令!」
「そこそこに討たれ強いのが自慢でして……」
「ならばそこに直るのです。今度こそその息の根を止めてやるのです!」

 小さい身体を存分に使って、怒りを表現している陳宮。怒りの根は深そうだ。今の今まで自分のしていたことを振り返れば、彼女の怒りも理解できるだけにかける言葉が見当たらない。興奮の収まってきた頭が、ようやくことの重大さを理解し始めていた。対応に困って呂布の方を見るが、かの飛将軍は小首を傾げるばかりである。その仕草は実にかわいらしかったが、今はその可憐さに見とれている場合ではなかった。色にボケたままの頭では、このまま亡き者になれる公算が高い。

 身体の中の熱を追い払うように、一刀は大きく息を吐いた。気持ちを落ち着ければ何か名案が浮かぶかと思ったが、何も浮かばない。そもそも欲望に負けて女性の腹部を撫で回していたことは事実なのだ。一応合意の上というのが救いではあるのだろうが、そんなものは陳宮の前には関係ない。

「ちんきゅ、待つ」

 気が済むまで蹴られることを半ば覚悟した時、ようやく呂布から助け舟が来た。

「恋殿とめないで下され。このちんこを、今ねねが退治するのです!」
「かずとは悪くない。セキトみたいにお腹触られるの、くすぐったいけどきもちいい」
「恋殿は優しすぎるのですぞ! こうなっては蹴り殺すのも生ぬるいのです。洛陽にいた時の書物を引っ張りだして、このちんこを腐刑にせねば……」

 ちなみに腐刑というのは、ちんこをそぎ落とす刑罰のことである。去勢とも言う。死刑よりも重い刑罰というが、合意の上でお腹を触っただけでそれは流石に重過ぎるのではないか、とは口が裂けても言えない。余計なことを口にすれば、その瞬間に閃光のような蹴りが飛んでくるのは目に見えていたからだ。沈黙は金である。

 がみがみと言い募る陳宮に、淡々と答える呂布という構図が続いた。軍師らしく陳宮の論は実に整然としていたが、呂布は呂布で必要なことだけを端的に口にしてそれに応じた。議論というほどのものではなかったが、その趨勢は徐々に呂布の方に傾きつつあった。陳宮の呂布に対する忠誠というか懐きっぷりは一刀の予想以上だったらしく、彼女は基本的に呂布の言うことを聞くようにできているらしい。怒りこそ収まってはいなかったが、いつの間にか腐刑の危機は過ぎ去っていた。足腰が立たなくなるまで蹴り飛ばされるくらいで済みそうである。

 なんだ、それならよし、と一刀が安心して抱えたセキトを撫で回していると、不意に呂布がこちらを向いた。その視線は一刀の顔から腕の中のセキトに向けられる。

「立て込んでおられるようですし、俺はそろそろ失礼しようかと思うのですが……」

 どうでしょう、と呂布が余計なことを言い出す前にそれを口にした。陳宮としてはまだまだ言い足りないだろうが、視界から邪魔者を消す方が優先とでも判断したのか、仕草だけで『さっさと行け』とやった。腕から降ろすとセキトが名残惜しそうな声をあげる。それに後ろ髪を引かれるような思いはしたが、今はわが身の方が少しだけ可愛い。呂布と陳宮に頭を下げて、その場を後にする。

「恋殿。何をなさるのですか!」

 一刀の背中に、陳宮の悲鳴が届いた。どこか喜んでいるような、期待に満ちたその声音に振り返りたい欲求に駆られたが、今まさにそれで身を滅ぼしかけたのを思い出し泣く泣く自重した。


















「月、お待たせ」

 程昱との小さな会談を終えて戻ってくると、月は椅子から立ち上がりぱたぱたと駆け寄ってきた。

「どうだった? 大丈夫だった?」
「問題ないよ。思ってた以上に普通だった。まぁ、軍師として普通ってことは、あまり良いことでもないんだけど」

 つまりは、打算に満ちた会話をしてきたということでもある。人形のようにふわふわした見た目のくせに程昱は中々の曲者だった。この手の交渉は郭嘉がやると思っていただけに、今日の訪問は詠の意表を突いてもいた。もし最初から交渉役が程昱だったならば、もう少しこちらに踏み込まれていたかもしれない。あの軍師には、見た目に寄らない妙な凄みがあった。あの少女は本当に自分とは相性が悪い。

「ごめんね、月。涼州に戻るのはもう少し先のことになると思う」
「謝るのは私の方だよ。わがままを言って脱出を先延ばしにしたのは、私だもん」

 しょぼくれる月の頭を、ぽんぽんと撫でる。あまり無理を言わない月が言い出した、たまの我侭なのだ。軍師として親友として叶えてやらない訳にはいかない。それについて苦労を背負ったことも、詠は何も後悔はしていなかった。月と運命を共にすることが、詠の望みであり喜びなのである。

「しばらくはあの男のところに身を寄せようと思うんだけど、問題ない?」
「詠ちゃんが決めたなら、私はそれに従うよ」
「ありがとう、月」

 事後通告のようになってしまったが、これで方針は決まった。一つの山を越えたことを意識した詠の口から、大きな溜息が漏れる。

 誤算があったとすれば、両将軍はこんなにも早く離脱を表明したことだ。特に霞は北郷たちが全員いる場面でそれを口にした。これでは揉み消すこともできない。思わず頭を抱えたくなった詠だが、既にどうにもならないならばこれを交渉の材料に使おうと頭を切り替えることにした。月が安全に地元に戻るために、そしていざ再起を決意した時に、よりそれがし易いように。そのためならば、利用できるものは何だって利用するべきなのだ。

 その点、北郷は相当にマシな部類と言える。彼個人の能力がそれほどでもないのが寂しいところであるが、連れている三人の軍師は誰も素晴らしい頭脳の持ち主だ。正直、これから県令になろうという人間の元にいて良い人間ではないのだが……それでも、彼に付き従うと決めている辺り、あれらの軍師を引き付けるような何かが北郷にはあるのだろう。彼は男で、軍師たちは女だ。最初はそういう関係なのかと思ったが、郭嘉や鳳統の反応を見るにそれもなさそうだ。懸想くらいはしているようだが、今すぐあの中の誰かが子供を産むような事態にはなりそうにない。

 セキトも妙に懐いているし、そういう魅力があるのだろうと納得することにした。詠にはそれがあまり感じられなかったが……

「月の目から見て、あの北郷はどう?」
「悪い人ではないと思うよ。私達に協力してくれたし、霞さんも恋さんも信用してるみたいだし」

 控えめな月の口調にへー、と淡々と答えながらも、詠は内心で安堵の溜息を漏らしていた。これで月まであの北郷に懐いているようだったら、方針を変えなければならなかったところだ。北郷のことを認めてはいる詠であるが、月を個人的に預けられるかとなれば話は別である。

「私からも聞いていいかな、詠ちゃん。あの北郷さんは、どう?」
「どうと言われると難しいところね……」

 具体性に欠ける問いであるが、その意図するところは理解できた。相国まで上り詰めた公人として、北郷一刀の器のほどが純粋に気になるのだろう。人の論評を好まない月が態々聞いてくるとはよほどのことである。北郷への敵意が無駄に湧き上がるのを感じながら、詠は思考を深めた。

 何かに秀でたものは自然と目に付くものであるが、今まで話してみた限り北郷にそれほど光るものはない。二度の関での戦いで生き残る辺り、百人隊長としての手腕はそこそこのものなのだろうが、詠に言わせればそれだけだ。難しい交渉を最初から軍師がやっているのを見るに、それほど頭が回るようにも思えない。そりゃあ、頭が悪くないことは解かっているが、あれくらいの頭脳ならば洛陽を探せば掃いて捨てるほどいる。成り上がってやろうという野心まで、おまけにつけてだ。

 特筆するとしたらその野心のなさだろうか。北郷からは成り上がってやろうという気概があまり感じられない。かと言って、仕事として日々を淡々と処理しているのとも違う。上を目指してることは間違いないのだが、その根幹にある部分が賈詡には見通せなかった。金のためでもなさそうだ。理想のため、というほど熱意は見えない。探究心や名誉欲というのでもないだろう。能力が大したものではなく気持ちが見通せないほどなのに、今の地位にあってあれだけの仲間に恵まれているのだから運は良い。外馬に乗るとしたら悪くない相手だ。

「よほどのことがない限り、あの男は僕たちを裏切るような差配はしないと思う。軍師が利を優先して動く場合が問題だけど……程昱と話してみた限りしばらくは『同盟』を遵守するつもりみたい。手放しっていうのは問題だけど、今のところは信用しても良いんじゃないかな。月はどう?」
「私も、あの人は信用できると思う」
「月が言うなら、僕も信用することにするよ」

 少なくとも表面上は、という言葉は飲み込んだ。いざという時は寝首をかいてやる覚悟は、今も捨てていない。

「月もあんな男に惚れたりしないでね? そうしたら僕、あの男を刺しちゃうかもしれないから」
「え……」

 軽い冗談のつもりで言った言葉に、月は動きを止めた。真剣な表情でこちらを見つめる親友に、詠も居住まいを正す。もしかするともしかするのだろうか。本当に『そう』であるとしたら、あの男には今すぐこの世から消えてもらうことになるのだが……軍師としての理を越えた熱い感情を滾らせながら、月を見返す。

 月は不自然なまでに挙動不審だった。顔を覗きこむようにしても、目を逸らされてしまう。まるで乙女のような反応に、熱くなった詠の頭は急速に冷えていった。ある男への殺意が心を満たしていくのを感じながら、詠は根気良く月に先を促した。

「怒らない?」

 不安そうな上目遣いで問うてくる月は世界一可愛かった。それを見た瞬間全てがどうでも良くなりかけた詠だったが、寸でのところで自我を取り戻す。この笑顔が他人だけのものになるかもしれないのだ。これが一大事でなくて何だというのか。

「怒らないから言ってごらん」
「うん。その、私は恋って自由な方が良いと思うの。そりゃあ、色々な問題でそうしちゃいけない時っていうのもあると思うけど、本当は好きな人と一緒になるのが一番幸せなんじゃないかって思うんだ」
「…………」

 怒りで自分がどうにかなりそうだったが、それを無理やり押し込んで月の話に耳を傾ける。

「だから、詠ちゃんが北郷さんのことを好きなら応援しようと――」
「ちょっと待って誰が誰を好きだって?」
「え? だって詠ちゃんが」
「まさかそんなのありえないよ。どうして僕があんな男を」
「あんなとか言っちゃ駄目だよ、詠ちゃん」
「いいの、ここには僕と月しかいないんだから。とにかく! 僕は北郷のことを好きでも何でもないんだから、誤解はしないようにね!」
「うんわかったよ詠ちゃん」

 よかったー、とへにゃと微笑む月を見て、どっと疲れが沸いてきた。このまま寝台に飛び込みたい誘惑に駆られるが、北郷たちへの対処が決まった今、霞たちにもう一度話をつけておく必要がある。歩調を合わせることが決まったと伝えれば、彼女らとの距離感も変わってくるだろう。ねねを含めたあの三人を董卓軍に繋ぎ止めて置くことはもはやできないだろうが、連合軍と共に戦った仲間である。良好な関係は可能な限り築いておきたい。

 お茶淹れるね、とぱたぱた動き回る月の背中を何となく見やる。女の自分の目から見ても月は可愛い少女だ。世に渦巻く流れのようなものが彼女をこのような立場に押し込めてしまっているが、本来ならばこうして誰かの世話をしたり、家事をするのが好きな少女なのだ。そういう生活をさせてあげたいという気持ちも勿論ある。しかし、軍師としての自分がそれを押し留めているのも感じていた。天下に覇を唱える。実際、後一歩のところまで行っていただけに、その願望は中々に強い。

 打算的な自分に嫌気が差す。こういう葛藤をしていることを、月に感じ取らせてはいけない。今はただ、軍師ではなく友達であろう。気持ちを強引に切り替えて、詠は月が淹れてくれたお茶を口にした。熱いお茶が、嫌な気持ちを溶かしていく。月の淹れてくれたお茶は、とても美味しかった。













あとがき

お腹には魔力があります。
話もまとまったので次回後半からようやく領地編に突入です。ここまで長かった…





[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十六話 并州動乱編 下準備の巻③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 04:59









「えーこの度県令として赴任しました北郷一刀です。姓が北郷、名が一刀。字はありません。至らないところもあるかと思いますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」

 赴任初日、県庁に詰めていた職員全員を前に行った挨拶は、彼らの度肝を抜いた。腰が低すぎると直後に稟に怒られたこの挨拶は、結果だけを見れば悪いものではなかった。上の都合でころころ変わる県令なんて誰がやっても一緒だしー、と人事に関してなげやり感を持っていた職員の印象にはっきりと残ったのだから、掴みとしては上々である。

 県令として一刀がまず最初に行ったのは、人事の刷新だった。連れてきた軍師四人と張遼を、各々が担当する分野の最高責任者に据えたのだ。これには職員から――主に、それまで最高責任者をしていた者――から反発が出たが、稟たちが本気の一端を見せたことで、少なくとも表面上は文句は出てこなくなった。本人たちは自分達よりも優秀な人間がいればその下についても良いと思っていたらしいが、幸か不幸かそんな人間は一人もいなかった。

 次に着手したのが『改革』である。と言っても、大したことを行った訳ではない。現在どういった風に業務が行われているのかを洗い出し、問題があるところを改善、効率化できるところは効率化しただけという、稟に言わせれば当たり前のことを当たり前のようにできる環境を整えただけなのだが、それが職員たちには凄まじい改革に見えたらしく、効率化が完了し新たに業務が始まる頃には、稟たちは職員から確かな信頼を勝ち得ていた。

 そこまで終わらせるのに二週間を費やした。こなすべき業務をこなしながらの改革であったから、慣れない一刀には目の回るような忙しさだったが、改革が終わる頃には業務はとりあえずの落ち着きを見せていた。覚えなければならないことはまだまだあるが、通常業務を行うだけならば一人でも問題ないくらいには、仕事の内容を把握することができた。

 それもこれも、一緒に仕事をする仲間が優秀だったからである。各々の仕事をこなしながらも、彼女らは一刀を助けてくれた。何か問題はないかとそれとなく聞いてくれ、助けられることならば何も言わずに手伝ってくれた。だからと言って、甘やかしてもらった訳ではない。頑張れば一人で処理できると判断されたことは、雛里であっても手を出してはこなかったし、また一刀も稟たちに甘えることをよしとしなかった。

 二週間がとりわけ忙しかった背景には、そういう事情もある。睡眠時間を削ってまで仕事をしたのはほとんど初めてのことだっただけに、色々と醜態も晒してしまった。仕事中に居眠りをしているのがバレて、稟にお説教をされたのも一度や二度ではない。仕事が落ち着いてまず一刀が喜んだのは、これでぐっすり眠れるという、三大欲求の一つに根ざしたものだった。

 仕事がはっきりと落ち着いた今、本当の仕事がこれから始まろうとしていた。朝、県庁に出てきた一刀は早速稟に捕まり、そのまま会議室へと連れて行かれた。一刀が最後に出勤してきたようで、そこにはもう幹部が揃っていた。稟、風、雛里、陳宮の四人の軍師に、軍担当の張遼である。呂布も幹部であるが、今日はまだ姿を見ていない。早朝訓練を自主的にするタイプではないから、きっとまだ自宅で家族と戯れているのだろうと判断して、上座の席に着座した。それを待ってから、残りの全員が席に着く。

 こういう無駄な形式が一刀は好きではなかったが、一事が万事と稟が譲らなかったのである。これからは上流階級の作法も追々仕込んでいきますと宣言してくれた彼女の、これは教育の一端だった。

「それでは朝議を始めます」

 司会進行は稟が行うらしかった。眼鏡の奥の瞳には眠気の欠片もない。欠伸をばれないようにかみ殺している一刀とは、随分な違いだった。

「まずは軍務から。霞、お願いします」
「りょーかいや」

 稟に名前を呼ばれた張遼――霞が立ち上がる。ちなみに、董卓と賈詡以外の面々との真名交換は赴任初日にあっさりと行われた。稟たち三人が真名を預けているのを見て、ならば自分もと思ったらしい。稟たち三人からは真名を預けられるまで随分と時間がかかったから、この軽さには一刀も驚いた。思わず聞き返した一刀に、霞は『仲間はずれみたいで嫌やった』とあっけらかんと答えた。陳宮―ーねねだけは真名を預けるのに最後まで抵抗していたが、呂布――恋があっさりと真名を預けたのを見るとそれに追従する形で真名を預けることとなった。

「まずは兵の質やけど、この規模の県にしてはまぁまぁやないかな。一通り小突き回してみたけど、それほど筋の良くない奴はおらへんし、このまま鍛えてたら一端の軍になると思うわ」

 それは良いことだ、と一刀は素直に安心した。霞は『小突き回した』と軽く表現していたが、一刀には地獄に見えたからだ。体力がないと言われては長駆をやらされ、腰が入っていないと言われては素振りを千本やらされ、気合が足りないと言われては霞相手にかかり稽古をやらされる。兵は皆這う這うの体だ。この調練をした上で、警邏など街の治安維持の仕事があるものはそれをやらねばならないし、騎馬隊に割り振られた人間はここから更に霞によるスペシャルメニューが待っている。

 逃げ出す人間がいてもおかしくないとてつもなく厳しい環境だったが、昨日までに兵が逃げたという報告は入っていない。一人の脱落者を出すこともなく、兵の錬度は日に日に上がっていく。このまま順調に調練が進めば二月も後には霞の目から見ても満足の行くレベルに仕上がるだろう。

「一刀から預かった連中は中々やな。特に要はええ線いっとる。これでもうちょっと頭が回ったらうちの副官に欲しいくらいやったんだやけど……」

 そこから先は霞も言葉を濁した。顔には苦笑が浮かんでいる。要が少々残念な子であることは、幹部の間では周知の事実だった。臨機応変な対応ができないから、兵としては優秀でも士官以上の役職には向かないのである。要の役職については稟も相当頭を悩ませたようだが、最終的には一刀の護衛ということで落ち着いた。今まで通り連絡役としても使えるので、現状維持とも言える。

 ただ、護衛にするには少々腕が心配ということで、兵として組み込まれた他の団員達と一緒に霞に預けられた訳である。元々県にいた兵を含めても才能が飛びぬけていた要は、霞のお気に入りらしい。昨日調練を視察した時には騎馬の技術を仕込まれているところだった。『裸馬にも乗れんでどないすんねん!』と霞の一撃を食らって宙を舞っていた姿が、実に印象的だった。生傷の絶えない生活を送っているらしいが、一応元気ではあるらしい。

「ここの調練が終わったら、県内に散っとる兵の調練もせんといかんけど……まぁ、それは先々の話やな。兵に関しては今のところ問題ないで。後は良い武器と鎧、馬があれば完璧や」

 それは自分の処理すべき問題ではない、と霞が話を締めくくる。反対に、それが自分の処理すべき案件であると理解したねねは霞をギロリと睨んだが、霞は知らん顔を決め込んでいる。場外乱闘の発生しそうな雰囲気に、司会の稟がこめかみを押さえるような仕草をした。

「では、次はねね。お願いします」
「県庁にある資料だけで処理できる案件は、全て処理が終わったのです」

 ねね曰く、へっぽこだった前任者の仕事を確認し、無駄を省いただけで出費の一割を削減することに成功したそうだ。関係各位にもこれは通達済みで、これがねねの意図した通りに動けば県の予算にも若干の余裕ができたことになるが、県庁に詰めている文官はともかく県全体にはまだ目が行き届いていなかった。どこかで誰かが不正をしていれば一割浮くはずの予算が、目減りすることは明らかだった。

 不正に対しては厳罰をもって対処すると、一刀の名前で県内全域に通達を出しているが、新任の県令の名前がどこまで有効なのかは不明瞭である。今後は業務をある程度監視する制度の強化が必要となるだろう。

「最後に霞からの要望ですが、全員分の装備を今すぐに新調するのは難しいのです」
「何でや? 兵は武器に命を預けるんやで? それが鈍らやったらお話にもならんやろ?」
「お前は武器が地面から生えてくるとでも思ってるのですか? 世の中は何をするにもお金が必要なのです。そもそも、お前らがどんぶり勘定をするからねねたちの仕事が増えるのですよ。兵とは言え少しは頭を使ったらどうなのですか?」
「やめなさい二人とも」

 今すぐにでも取っ組み合いを始めそうな二人を、稟が溜息交じりに仲裁する。財務を担当するねねは、霞と対立することが多かった。霞は予算をもっと回せといい、ねねはそれを拒否するというのが、主な喧嘩の原因である。別に、霞の要求が不当な訳でもねねが意地悪をしている訳でもない。できるだけ良い装備を、と思うのは兵としては当然のことだった。ただし、霞はまだ董卓軍にいた頃を前提にしているところがあるせいで、装備にかなり高水準のものを要求するところがある。懐事情は解っているのか、これでも要求レベルは大分下げているようだが、財務担当で金銭面では一番現実を見ているねねとは、まだ折り合いがついていなかった。

 実際、この規模の兵力としては装備や馬の質はそれほど悪いものでもないらしい。管理がいまいち行き届いていなかったが、それはこれからでも十分に対処が可能なレベルだ。ねねはそう判断し、予算を他のところから回すことにしたのである。これが面白くない霞が、つっかかっている訳だ。何も知らないただの兵であれば後を引くような言いあいをするが、個人的な仲はそれほど悪くもない二人である。予算以外のところでは、きちんと折り合いをつけていた。

「その件については私の方でも検討してみます。もしかしたら、余分な金銭が入るかもしれませんし……」
「財務担当としては、その話をまず聞いておきたいのです」
「順を追って話しましょう。私の話は、報告ではありませんので。では、次は雛里」
「はいっ! えーっと、一刀さんが赴任してから二週間が経過しました現在、この街の治安は改善の兆しを見せています」

 その原因として挙げられたのが、霞の兵への厳しい調練だった。新しくやってきた隊長さんは鬼のように恐ろしく、それに鍛えられた兵は見る見るうちに強くなっている。そんな噂が街に広がっているのだ。その強くなった兵の一部は街の警察もかねているので、犯罪をしようという人間にとってこれは人事ではない。自然と喧嘩などの揉め事は少なくなり、犯罪の報告を見る限りは減少傾向にある。

 潜在化しただけかもしれないので油断はできないが、ひとまず目に見える犯罪が減ったことで、民の一刀に対する評価も上がってきているという。一刀にとっては、良いことばかりだ。

「意図的に噂を流した甲斐がありましたね」
「ああ、やっぱりそういうことをしてたんだ……」
「民の支持はいざという時の武器になります。何も不正をした訳ではありませんからね。挙がった成果をより多くの人間の耳に入るようにしただけですから、これは正当な一刀殿の評価ですよ」

 珍しくまっすぐに褒められてしまった。慣れないことに一刀が照れていると、その内心を見透かしたように、稟が話のオチをつけた。

「大衆は正しい一刀殿の姿を知りませんからね」
「酷いなぁ、稟は……」

 稟は微笑を浮かべ、次の人間を指名した。農林水産、国土交通担当の風である。

「農作物の収穫は可もなく不可もなくといったところですかねー。人口と農地面積からすれば頑張ってる方じゃないかと思います。ただ、農村出身者で兵として働いている方が多く、今の頑張りは農村に残った人の頑張りによって支えられています。これはこの県に限った話ではありません。何か対策を講じないと、ある日ぱったりと収穫が減る可能性が高いです。それから思っていたよりも街道の整備が進んでいません。経済的に見ても軍事的に見ても、主要な街道は早急に整備するべきじゃないかと、ここで提案しておきます」
「何か対策を考えていますか?」
「農業に関してはこれといった手段がないですねー。そもそも農地面積に対して働き手が少なすぎます」
「増やすことはできないのか? 仕事がなくて困ってる人が都市部にはいるんだろ?」
「仕事がなくても農業をしたいという人はばかりじゃありませんよ、お兄さん。仮に全員農村に移住してもらったとしても、まだ足りない試算です」
「でも一応はやってみよう。農村の方で移住する人間の受け入れができるかどうか調べてくれ。先方から了解の返事がもらえたら、都市部に布告を出そう……と思うんだけど大丈夫かな」
「私には問題があるようには思えません。問題が発生したとしても、その都度修正すれば良いでしょう」

 稟の言葉に、少しは県令らしい発言ができたかと、胸を撫で下ろした。

「街道の方はどうしますかー?」

 問いかけてくるのは風だ。問題を提起した以上、彼女本人も解決策を考えているはずだが、それでも一刀に問うてくるのはこの問題をどう考えるのか試しているのだろう。かわいい顔をして、中々に厳しい風である。見当違いの解答をしたら稟とはまた違った方法でちくちく責めてくるはずだ。そうはいくものかと、一刀はない知恵を絞って真剣に考える。

「兵を工事に使えないかな? 陣地を作ったりは日常茶飯事だし、工事には向いてると思うんだけど」

 風は黙って視線を、霞と雛里に向けた。兵の管理は彼女らの仕事である。

「防衛の観点から見ると、多数の兵を工事に専従させるのはお勧めできません」
「うちも雛里と同じ意見やな。使うなら少数を選抜して、他に人を雇うんが理想やと思う」
「どれくらいまでなら出せる?」

 一刀の問いに、雛里は少しだけ視線を中空に彷徨わせると、メモ代わりの木片にさっと数字を書き込んだ。それを受け取った一刀は想像してたよりも少ない数字に少なからず落胆する。

「ちなみにそれはある程度の余裕を持たせた数字です。無理をすれば二割くらいは人員を増やせると思います」
「無理はさせたくないな……」

 民を危険に晒すような綱渡りをしないといけないのなら、現時点では兵を使うというこの案は保留せざるを得ない。一刀が溜息をついたことで『保留』ということは伝わったのか、風は自分の報告を終えて着座した。そうして視線は稟に集まる。何か案があるという発言を、誰も忘れてはいなかった。

「赴任する前から懸念していたことですが、この県にも賊がいるようです。調査に出した人間が帰ってきたので、まずはその報告を」

 稟の回してくれた資料を、時計回りで順繰りに読んでいく。軍師はさっと流して読み、霞は少し時間をかけて読み、最後に資料は一刀のところへやってきた。もう一刀だけで使ってよいということである。皆、あれで大体覚えられるらしい。

「賊は5つの集団に分かれています。合計は100にも満たない小集団ですが、非武装の農民から見れば脅威でしょう。まずはこれを排除しようと思います」
「兵の相手になってもらういうことか?」
「実戦経験は重要ですが、今は調練に時間を割いてほしいのです。この仕事は、恋にお願いしようと思います」

 たかが賊の退治に天下の飛将軍を投入というのも贅沢な話であるが、稟は本気のようだった。確かに調練中の兵を使わないとなれば、一刀たちの予備戦力はもう恋しか残っていない。彼女ならば賊などものともせず、退治してきてくれるだろう。その点についての心配は全くないが、一人で外に出して加減ができるのか心配である。

「ちょっと待つのです。恋殿をそんな些事に借り出すなど――」
「ねねには彼女の供をしてもらおうと思うのですが、可能ですか?」
「ねね以外に適役などいるはずがないのです! ばっちり任せるのですよ!」

 唯一の反対意見は一瞬で消滅した。軍師なのに中々現金な少女である。

「雑事はあるでしょうから、何人かつけましょう。五人くらいなら、兵を借りても問題ありませんか?」
「せやったら、一刀が連れてた連中の中から五人適当に選んどくわ」
「よろしくおねがいします。賊の処遇については貴殿に任せますが、見所があると思った人間がいたらここまで連れてきてください。また、財や食料を蓄えていると思いますのでこれの確保をお願いします。そのうち九割は近隣の村々に提供してください」
「ついでにちんこ県令がいかにちんこか宣伝しておくのです」
「……余計なことは言わないように。これが一刀殿の指示であることをだけは、きちんと伝えてください。それから貴殿が県庁を空けている間、業務が滞らないようにしてください。私の方でも可能な限り面倒を見ますが、私の面倒だけで事足りるようにお願いします」
「わかってるのですよ! 話はもう良いですか? 恋殿と打ち合わせをして、荷造りをせねば!」
「引き止めて申し訳ありませんでした。もう行って結構です。業務については、忘れないように」

 解っているのですよー、と挨拶もそこそこにねねは部屋を出て行った。恋のことになると抜群のフットワークを見せるのは相変わらずである。

「さて、一刀殿。何か言っておくことはありますか?」
「食料とか財が目当てなんじゃなくて、見所のある賊が目的ってことか?」

 田舎の賊にそれほど蓄えがあると思えないし、それを九割も拠出するというのならこちらの懐に入るのは微々たるものだ。ならばそれ以外に意味があると考えるのが自然である。食料でも財でもないとなれば、残るのはもう賊しかない。

 一刀の解答に稟はその通りです、と答えた。

「治安の向上という目的もありますが、こちらの人員の不足は問題です。それを解決するための手段としての案ですが、上手く行くかどうかはまた別の話ですね」
「勝算がないってことか?」
「報告を見るに過半数の賊がただの賊です。民草に狼藉の限りを働いているそうなので、これは処断されるでしょう。ただ残りの賊がどうも、義勇軍のような動きをしているようなのです」
「体制派と戦ってるってことか?」
「不当に利益を得ていると噂の官吏がいる街を攻撃したり、後ろ暗い事業で儲けを出した商人を襲撃したりしているようです。奪った利益は民草に還元しているらしく、それで民草の評判は良いようです」
「なら、態々討ち取らなくても良いんじゃないか?」
「官軍に躊躇いなく攻撃してくるいうんは問題やな。何しろうちらは官軍や」
「相手を選んでいるのならば良いですが、根強い官軍嫌いが根幹にあるとすれば、こちらに誘うのは難しいかもしれません。それに賊が相手にするのは恋ですからね。彼女は確かに天下の飛将軍ではありますが、それ故に加減というものがあまり得意ではないようです。見所ありとねねが判断しても、その時には骸となっていたということも考えられますからね」

 それ以上は神のみぞ知るということだろう。稟にしては随分と成功率の低そうな賭けであるが、失敗したところでこちらは何も失うものがない。賊を倒したという結果は残り、彼らの蓄えた財を放出したという事実も残る。恋とねねをしばらく専従させるというマイナスはあるが、恋には今のところ仕事は割り振られていないし、ねねの仕事も稟がフォローできるというのなら大した問題ではないだろう。

「これについては成果待ちですね。私からは以上です。他に何かありますか?」

 稟が一同を見回す。一刀を含め、誰も意見のある人間はいなかった。

「それじゃ、今日も元気に働こう」

 一刀の言葉で朝議は締めくくられた。












 それからの約一月は、先の二週間に比べれば時間をもてあまし気味だった。とは言っても、することがなかった訳ではない。時間が空いているのならと稟や風の仕事を手伝わされたし、自分で勉強したり、霞の調練に付き合って要と一緒にぶっ飛ばされたりもした。朝から晩までという言葉に嘘偽りなく、県令として濃密な時間を過ごしたが、最初に幹部が勢ぞろいした朝議から数えてちょうど五十日目、賊退治に出かけていたねねが恋たちと一緒に戻ってきたと報告があった。

 その日、稟の仕事を手伝っていた一刀は仕事が一区切りついていたこともあって、稟を伴って自分の仕事部屋に戻った。ねねに先立って到着していた報告書に稟と一緒に目を通しながら待つこと十分、旅の汚れを落とし留守の間の業務の具合を確認してから一刀の仕事部屋までやってきたねねは、外回りに出る前よりもいくらかやつれて見えた。

 その疲れた様子のねねが一刀の姿を見て目を見開いた。悪戯が成功したような気分で、一刀は笑みを浮かべる。

 ねねが驚いた原因は、一刀の装いにある。一刀にとっては馴染み深いものであるが、ねねが見るのは始めてだ。この世界に来る前に使っていた制服、それをここでも着ることにしたのである。兵が目立ってもしょうがないと村にいた時から荷物の奥底に封印していたものであるが、県令になったのなら威厳の一つも出すべきと稟に言われて袖を通すことにしたのである。

「この服どうかな?」
「態々誂えたのなら蹴飛ばしてやるところですが、元から持っていたのですよね?」
「そうだよ。昔着てた奴を引っ張りだした」
「なら、ねねから言うことは何もないのです。それだけ派手な服を着ていれば、貴様の地味でちんこな顔も少しはマシになるというものです」
「好評なようで何よりだ。それより疲れてるなら報告は明日でも良いけど、どうする?」
「ねねは嫌いなものは最初に食べる主義なのです」
「わかった。それならさっさと始めよう」
「その報告書にある通り、5つの組織のうち4つは討伐してきたのです。交戦した賊は全て死亡、降伏した賊は近くの街に放り出してきました。どんな処遇にするかは報告するように言っておいたので、そのうち文が来るはずなのです」
「村の反応はどうだった?」
「思ってたよりも奴らの蓄えが多かったので、喜ばれたのです。一緒に連れてった奴が農村出身だったのも良かったですね。農村の爺婆と意気投合して、お前を売り込むのに一役買っていたのです」

 その光景が目に見えるようで、一刀は思わず笑みを浮かべた。あの村から着いてきた連中は皆若く人懐っこい連中ばかりなので、農村部のお年寄りには受けが良いはずだ。

「見所のある人間はいましたか?」
「いたのです。潰さなかった組織一つが丸ごと着いてきました。全部で十五人いるのです。代表を外で待たせてるので、ねねの話が終わったらお前が面接すると良いのです」
「良ければねねも残ってほしいんだけど、駄目か?」
「ねねはもう奴と話すことはないのです。ともかくこれで、ねねの仕事は終わったのです。これから通常の業務に戻るので、用があったら呼ぶと良いのです」
「今日くらい休んだらどうだ? それくらい、俺の裁量で何とかするぞ」
「生憎ねねにはお前と違ってしなければならないことが沢山あるのです」

 休みはいらない、という言葉を残して部屋を出て行くねねに、一刀は溜息を漏らした。仕事をバリバリこなしてくれるのは嬉しい限りだが、働き過ぎやしないか心配だ。元より、自分などよりよほど頭の良いねねのことだ。自分の体調管理くらいお手の物だろうが、長期の出張から帰ってきてその足で仕事、というのは如何にも働き過ぎだと思う。それともこの国ではそれが普通なのだろうか? 県庁職員の労働条件について、細かいところまで目を通した記憶はない。一度熟読する必要があるな、と今後のスケジュールを脳内で組んでいると、部屋の外から来客がある、という旨の申し入れがあった。

 ねねの言っていた賊の代表に違いない。一刀は稟に目配せをしてから、入室の許可を出した。

 失礼します、などの声もなく入ってきたのはくすんだ金色の髪をした女だった。後ろ手に拘束された女は一人で執務机の前まで歩いてくると、直立する。その所作には教育の後が見えた。軍かそれに近いところで働いた経験があるのだろう。腕についた筋肉といい、やたら意思の強そうな瞳といい、少なくとも自分よりは強いだろうと当たりをつけた。

「俺が県令の北郷一刀だ。姓が北郷、名前が一刀。字はない。お前の名前を聞かせてもらえるか?」
「周倉」

 女――周倉が答えたのは自分の名前だけだった。自分から何かを話そうという気配がまるで感じられない。いかにも不機嫌といった様子は、彼女の境遇を考えれば無理からぬことではあるが、事実上、自分の生殺与奪の権利を握っている相手を前にしているにしては、中々大胆な態度と言える。

「周倉。お前は部下を率いて官軍や豪商を襲撃してたみたいだが、それはどうしてだ?」
「民を不当に弾圧していたからだ。だから不正に蓄えた財を奪い、民に還元していた」
「お前らは私腹を肥やしたりはしてない?」
「断じてない。我々は義によって立ち上がったのだ」

 格式ばった答えに思わず一刀は稟と顔を見合わせた。連合軍でも色々な兵を見てきたが、ここまで極まった主義主張の人間を見るのは初めてである。稟は頭痛を堪えるように額を抑えている。面倒くさいのがきた……という心の声が聞こえてくるようだ。できることなら勧誘しようという案であったが、本人を前にして一刀の気持ちも揺らぎかけていた。これは稟も同様だろう。仮に一刀が独断で周倉の採用を見送ったとしても、それほど目くじらはたててこないはずだ。

 腕を組んで一刀は考えた。報告ではこの周倉のグループが十五人。腕の方は頭目の周倉以外はそれほどでもないという。弱くもないが突出して強くもない。錬度にそれほど差はないのなら、今の張遼の調練に組み込んでも問題なく機能するだろう。

 問題があるとすれば、彼女の部下もこういった思想の持ち主ということか。早い話が堅物の集まりなのである。言論でなく武力でもって世を正そうとしている辺りにこの時代の特性を感じるが、主義主張を通すのに躊躇いなく武力を行使するということが過去の行いで証明されているというのは、雇用する側にとってはとても恐ろしいことだった。大事な今の時期に武装蜂起など起されては堪ったものではない。特にこの周倉はやろうと思ったら躊躇いなく実行するだろう。

 不正などは断じてしていないし、これからもする予定はない。後ろ暗いことは何もないと胸を張って言える一刀であるが、周倉の方がそう感じてくれるとは限らない。安全を考えるなら、このままお帰りいただき、牢にでも入るのが良いのだろう。一刀も半ばそうするべきと思いかけていたが、そんなことで良いのかという気持ちも勿論あった。

「陳宮から少しは話を聞いてると思うけど、俺のところで働くつもりはないか?」
「断る。官吏の下で働く気はない」
「賊として追われて日陰者でいるよりも、日向で民を守るために戦う方が有意義だと思わないか? 衣食住は保障するし、少ないけど給金も出すよ」
「金のために戦っている訳ではない」
「どうせなら壊して殺して感謝されるよりも、汗水流して働いて、その上で感謝される方が気分も良いだろ?」

 食い下がるとは思っていなかったのだろう。周倉の顔に苛立ちが浮かぶ。この反応に、一刀は手ごたえを感じた。

「我々は賊だ。貴様はそれを信用すると?」
「義によって立ち上がったなんて素面で言う人間は、本当に真面目か真性の悪党のどっちかだろう。お前は前者だと信じる」
「不正があれば正す。それに文句は言わせないぞ」
「より多くの人間が意見を言ってくれるなら、それは助かる。でも手を出す前に少し考えてはほしいかな。手を出してから間違ってましたなんてことになったら、流石に俺も罰しない訳にはいかない」
「貴様の私利私欲のために戦ったりはしないが、それでも良いのか」
「雇用契約に嘘はつかないよ。俺のやり方が間違ってると思ったら、遠慮なく辞めてくれて良い。俺も辞められないように全力を尽くす」
「もし貴様が民の害悪となるなら、その時は斬り捨てる。それでも良いのだな?」
「良いよ。そうならないように俺も頑張る」

 そうして差し出された一刀の右手は、周倉に完膚なきまでに無視された。

「貴様の旗下に加わる訳ではない。あくまで、民のためだ」
「……俺も今それを強く認識した。詳しい話は鳳統に聞いてくれ」
「了解した」

 簡潔な答えには、どういう感情が込められていたのか。部屋を去る時も周倉は礼の一つもしなかった。

「本当に良かったのですか?」
「今更ながらに不安になってきたよ。でも、悪い奴ではないと思う」
「それは私も同感ですが、扱いにくい人材なのは貴殿も理解できたでしょう。それでも兵として使うことを決めたのは何故ですか?」
「人が少ないのは事実だしなぁ……選り好みしてたらそれだけ治安の改善が遅くなるし、仕事をきちっとしてくれるのなら多少不都合を被るくらいは目を瞑っても良いかと」
「多少で済めば良いですね」

 明らかに多少では済まないことを確信している口調だ。それでも不機嫌でないのは稟も仕事をしてくれるなら、と割り切って考えているからだ。人間性については過去の行動で保障されている。賊として動いていたという過去を含めても、先に周倉と面談したねねは報告書で問題ありと指摘してこなかった。そりの合わない彼女であるが、仕事では手を抜いたりしない。恋以外の人間の評価にはとても厳しいねねが問題と感じていないのならば、普通に働く分にはまず大丈夫だろう。

 周囲と上手くやっていけるかが目下の問題であるが、それはこちらでも心を砕くしかない。問題は見えているのだ。少しずつ、少しずつ改善していけば良い。






















「団長俺あいつと上手くやっていける気がしません」

 最初に周倉たちに対する苦情を持ってきたのは要だった。最近の仕事が主に霞に転がされることである彼は、水で汚れを洗い流してさっぱりとしたばかりだというのにどこかしんなりとしていたが、その声音はいつになく真剣だった。人懐っこい故にあまり人を嫌ったりしない要だ。それがやっていけないと言うのだからよほどの問題が起こったのかと聞いてみれば、

「あいつらが一緒だと、買い食いができません!」
「仕事が終わったら食うのがいいんじゃないか」

 一刀が味方になってくれないと知った要は、がっくりと肩を落とした。

 その性格から色々な問題を起こすのではと危惧されていた周倉だが、一刀のところまで持ち上がってきた苦情は要のように委員長気質を糾弾するものばかりだった。思っていたよりはずっと一刀軍に馴染んでいると言える。堅物軍団が街の治安維持に導入されたことで、街の治安は一気に改善された。窮屈だ! という意見はちらほらと見受けられるものの、実直な仕事ぶりは民にも高く評価されており、既存の兵にも良い刺激となっていた。少数で官軍に喧嘩を売っていただけあって錬度も中々のものだと霞からも報告を受けている。特に周倉の槍の腕は凄まじく、あの霞を相手に十本に一本取れるほどの腕だという。

 これで頭のキレが悪くなければ、歩兵の一軍を任せることができるかもしれないと、騎馬隊に専従したい霞は期待に目を輝かせていたが、我々の仕事は治安維持であるというスタンスは崩しておらず、彼女らは今日も元気に街の治安維持と訓練に励んでいるという。

 募兵の効果も少しずつ現れていた。兵になりたいという人間の面接は雛里と霞の仕事だ。人格的、あるいは肉体的に問題がある人間はそこではねられ、正式に採用するかはちょっと小突いてみて決める。面接を通過しても最初の一日で逃げる者は少なからずいたが、それを突破した人間は部隊に定着した。従軍経験者は少々の訓練で、ずぶの素人は体力作りからとカリキュラムを分けて少しずつ組み込まれていく。

 人数が増えたことで、人員を他のことに回す余裕もできた。街道の整備はほどなく着手されるだろう。農村の調査についても個別に始まった。街で屯している失業者も近いうちにいなくなるはずだ。問題は徐々にではあるが、解決されている。順風満帆とはこのことだった。

 内政に余裕が出てくると、周囲の目を向けることもできるようになる。周辺の状況がどうなっているのか、頼んでもいないのに稟は調査を始めており周倉が街のおまわりさんとして定着し始めた頃には、郡内、州内の情勢はほぼ耳に入るようになっていた。

 一刀の目から見ても、かなりヤバい状況である。

 前の州牧は袁紹派の人間で、彼は無難な政治を行っていた。取り立てて能力が高かった訳ではないが、現状維持を続けることには高い才能があったらしく、平和とはいかないまでもそれほど不満のない時期が、連合軍が戦争をやっていた間も続いていた。

 情勢が変わったのは、州牧が入れ替わってからである。前の州牧は袁紹が公孫賛との戦争に舵を切ったのと同時期に、彼女のお膝元に召喚された。変わって州牧となったのも袁紹派の人間だったが、これが凄まじいまでの排他的な思想の持ち主で、潜在的な問題だった異民族との問題を表面化させた。

 国境に接していることから并州は昔から外敵との戦争が絶えない反面、外国の人間の血を引く者も多く居住していた。彼らは今までは特に区別されることもなく兵や文官として働いていたが、新たな州牧はこれを徹底的に排除したのである。先祖は外国人でも、今はこの国の人間だ。帝国に対しての帰属意識もあった彼らであるが、州牧はそんなこともお構いなしに政策を断行。兵も文官も罷免し、民は州の外に追い出した。

 その強引なやり口には非難の声も大きかったが、自分の思想に沿って何の罪もない人間を追い出すような人間である。文句を言った人間は容赦なく罷免され投獄された。彼の周辺は今、彼の太鼓持ちで固められている。権力基盤は磐石と言って良いだろう。

 これで問題は落ち着くかと思われていたが、そうもならなかった。自らの血を引いている人間が虐げられたという事実は、国境の向こう側にいる外敵を大いに刺激した。前の州牧の時にはほとんど起こらなかった国境沿いの争いが、この所頻繁に起きているのだという。これに激怒した州牧は近々、外敵との大きな戦に踏み出すらしい……というのが州都周辺での噂だ。

 根も葉もない話であってほしいと思ったが、残念なことに戦をするのは規定事項のようだった。準備が整っていないためいつになるかは解らないが、どんなに遅くとも一年後くらいには、本格的な戦を始めるようである。赴任してきたばかりの一刀には、頭の痛い話だ。

 幸い、国境に接した郡太守である丁原が戦争に反対しているらしく、戦の開始は先延ばしになっているが、その時間稼ぎもいつまで続くかわからない。戦になったら兵の動員がかかる。県令である一刀には、それを無視することはできない。何の益があるともしれない、他人の都合で発生した戦いに仲間を送り出すことになるのだ。県もこれからという時期にそれでは溜まったものではない。

 何とかして戦争を回避できないものかと稟に問うてみたが、流石の神算鬼謀の士でも一県令の立場では難しいということだった。州内に協力者でもいれば話は別であるが、新参者の一刀は州内で顔も売れていないし、内心はどうであれ権力者の過半数は州牧支持に回っている。そうだからこそ、戦争が起こるものとして話が進んでいるのだ。これを覆すとなると、よほどの大仕事だ。

 手段を選ばなければ一刀の立場でもできることはあるが、それを実行するには色々なものが足りない。特に不足しているのが特殊な仕事をする人材だった。現代日本では情報の収集などそれこそ個人が部屋を出なくても行うことができたが、この時代は人が足で行うのが基本である。商人などから噂話を吸い上げることも有効な手であるが、多くはそういう仕事を専門にする人間を使うことで解決していた。

 彼らは情報収集だけでなく潜入工作も行う言わば忍者とかスパイの類であるのだが、これは小勢力だと自前で抱えておくこともできないから、外部に委託するのが基本となる。これは余計に費用がかかるし、委託であるから時間もかかる。情報は鮮度であるのに耳に入るのが遅くなってしまっては意味がない。稟などは常々そういう仕事をする人間が欲しいとボヤいているが、この時代、情報収集を行うことのできる人材はどこも手放したがらない。かといって優秀でもフリーの人間を使えば、それだけ出費が嵩む。小勢力には金もないのだ。必然的に使うとなれば、金銭的に折り合いのつく人材ということになるが、かかる費用と成果というのは概ね比例するものだった。

 ない袖は触れないという言葉を自覚しながら、仕事をしている一刀のところに来客が訪れた。どんな人間かと問うてみれば、汚い身なりの人間が二人ということである。長いこと旅をしていたらしく、一人はやたらと衰弱しているようだが、元気な方の人間が鳳統に会わせろと言って聞かないのだそうだ。本来ならば一刀ではなく雛里に直接持っていく案件であるが、凄く怪しいので先に一刀の耳に入れることにした、という門衛を下がらせ、一刀は雛里を呼んだ。
 
「雛里に来客らしい。二人連れらしいけど、そういう約束はあるか?」
「いえ……特にそんなことは」

 そもそも約束があるのならば門衛にも話は伝わっているはずだ。門衛が伺いを立ててきている以上、飛び込みなのは明らかである。訪ねられている雛里本人が知らないとなると、いよいよ怪しい。雛里の安全を考えると、会わせるのも危険なような気もする。

「何か身分を保証できるようなものを預かってきてもらえるか? 俺の名前を出して良い」

 荒事になっても困るから、この日は一刀の仕事部屋で暇そうにしていた要を門衛の所まで使いに出す。ほどなくして、戻ってた彼が差し出したのは二つの帽子だった。小振りなベレー帽と、ソフト帽である。ベレー帽の方に見覚えはないが、ソフト帽の方には何となく覚えがあった。灯里がかぶっていたものに凄く作りが似ているが、あれよりも少し大きくて色も違う。現代日本ならばただの偶然と思うこともできたが、この世界でこの類似は見過ごすことはできなかった。水鏡女学院の関係者だろうか。その卒業生である雛里を見ると、彼女はベレー帽を手に愕然としていた。

「その二人は、私に会わせろと言って来たんですか?」
「はい。どうしますか?」
「今すぐ連れてきてください。できるだけ丁重に」

 雛里の指示を受けて、要は飛んでいった。ほどなくしてこの帽子の持ち主二人は、この部屋に案内されてくるだろう。

「申し訳ありません。勝手に決めてしまって。でも、この二人が連絡なしに私に会いに来るなんて、絶対にただごとではありません」
「雛里が必要と思ったならそれで良いよ。それで、この二人はどこの誰だ?」
「諸葛亮と法正です」

 また面倒くさいことになりそうだと、一刀はひっそりと溜息をついた。





[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十七話 并州動乱編 下準備の巻④
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 04:59

















 軍団の方針を決める時、華琳はあまり部下を呼んだりしない。彼女が部下を呼ぶのは、最後の詰めの時だ。その時には方針は既に華琳によって決定されている。部下の仕事はそれをより具体的にすることだ。軍師としては物足りなさを感じなくもないが、元より華琳は才媛である。本職の軍師である桂花をしても、その聡明さには舌を巻く時があった。これで武器を持たせても良く戦うというのだから、よほど天に愛されているのだろう。桂花は華琳以上に才能に恵まれている人間を他に知らない。

 そんな華琳を敬愛している桂花であるが、一人で彼女の前に出る時は今でも緊張する。人材の豊富な曹魏軍であるが、華琳の眼鏡に適う軍師は今のところ桂花しかいない。いつもであれば武将にしては頭の回る秋蘭も一緒にいるのだが、彼女は所用で席を外している。参加できるとしたら後は春蘭しかいないが、彼女は軍団の運用こそ天才的にこなすが、中長期的な計画立案となるとさっぱりだ。要するに、こういう集まりにいてもあまり役に立たないのである。

 華琳の視線を独占していると思えば気分も良いが、その分、緊張も高まる。失敗して失望されるのではないか……そういう思いが心の中から消えてくれない。

 緊張した面持ちの桂花を、華琳は悠然と眺めている。美しい物を愛でる彼女は、苦悩する部下のことも愛することができた。そんな華琳の視線を感じながら、桂花は口を開く。

「徐州牧となった劉備についてご報告いたします」

 先の戦の功績で劉備は徐州の州牧となった。主に汜水関を落としたことに寄るものだが、それに協力した公孫賛は既に州牧であったため、ちょうど浮いた形になっていた徐州州牧の地位を劉備に与えることとなった。それについては予想もできていたので、曹魏は劉備に正式な辞令が降りるずっと前から徐州の土地に草を放っていた。もし自分が統治することになった時業務を円滑に進めるためもあるが、政敵が徐州の地を制した時その情報を集めやすくする下準備でもあった。

 その草が劉備の統治について報告を寄越してきたのだ。劉備が徐州牧として赴任してから既に二ヶ月が経過している。統治の成果が出るには短すぎる時間ではあるが、かの劉備は徐州の地を既に手中に収めつつあるという報告が、桂花を驚かせた。

 前情報では、劉備は決して有能な政治家という訳ではなかった。高い教育を受けたことはあるらしいが、彼女の思想はあまり支配には向いていない。平時に長い目で治めるには良いだろうが、今は乱世だ。短い時間で結果を出すような能力は彼女にはないはずだが、草の報告では徐州の統治は極めて上手く行っているとなっていた。

 誰か知恵を授けた人間がいるとしか思えなかった。

 桂花の脳裏に浮かんだのは、諸葛亮である。洛陽で孫呉の周瑜と共に帝室との折衝を行った。小動物のように周囲に怯える小心者という印象だが、頭の冴えは本物だった。彼女ならばこの短時間でも結果を出すことは可能だろう。しかし、そのためには情報がいる。反乱分子はいつ時代、どこの場所にもいるものだ。徐州とてそれは例外ではない。曹魏のように最初から草を放っていたのではれば別だが、そうでなければ状況を把握するだけでも相当な時間をかけなければならなかったろう。

 つまりこの短時間でどうにかしたということは、劉備もまた高度な情報収集能力を持っているということだ。報告を見る限り潜入工作や情報操作まで行っている。この国の頂点に立とうと考えている人間ならば草の十人や二十人飼っていても不思議ではないが、あの理想主義者の劉備にはどうもそぐわない。印象だけで判断するのならばこの草の陰は、劉備に敵対する者の情報操作と考えられなくもないが……劉備に有利な流れが出来上がっているのを見るに、本当に草を抱えることにしたと判断した方が良さそうだ。

「この草ですが優秀なようで影もつかめません。劉備勢力の仕業ということは判断がつきましたが、証拠までは掴めませんでした」
「そう。甘い劉備にしては随分思い切った手を打つものね」
「それなのですが、劉備陣営の上層部で動きがあったようです。何でも諸葛亮が劉備の判断を仰がずに後輩を登用したとか。名は法正。水鏡女学院の後輩です」
「その後輩が、草の指揮をしていると?」
「登用された時期と、動き始めた時期が一致しました。物的証拠こそありませんが、間違いはないのではないかと」
「劉備のところにいても手腕は振るえないでしょうに……」

 華琳は心底残念そうに呟く。彼女は才能を愛する人だ。曹魏の草に影も掴ませないような部隊を指揮する人間ならば、華琳の眼鏡には十分に適う。才能を埋もれさせることを華琳は何よりも憂慮するのだ。

「さて、桂花。貴女はこれからどうするのかしら」

 華琳の問いに、桂花はきた……と身構えた。

 華琳が覇道を成すに当たって、劉備は邪魔な存在である。袁紹が公孫賛と戦を始めた今は時間的な猶予があるが、北の戦が集結すればすぐさま袁紹は南下を始めるだろう。その時、劉備が領地の北にいるのは邪魔でしかない。劉備は率いている兵こそ精強だが、彼女の思想では曹魏の足を引っ張ることにしかならない。排除は早急に行わなければならないが、そのためには軍師をどうにかしなければならなかった。

 ただ劉備軍とぶつかるだけならば、正面から戦をしても撃破できるだろう。しかし、そこに諸葛亮の智が加わると雲行きは怪しくなる。勝利するという結果こそ変わらないだろうが、その過程で甚大な被害が出ることは避けられないだろう。曹魏の軍師として、これは面白くない。

 より確実、より安全に。さりとて、覇道を成すに相応しくない行いはしてはならない。正面から当たりこれを蹴散らすのが最上であるが、出さなくても良い被害を容認するのはただの愚か者だ。完全なる勝利のためには、諸葛亮の無力化が前提となる。

「……諸葛亮を離反させるのは容易いことだと思います」
「根拠を聞かせてもらえるかしら?」
「劉備にはあの手の仕事を受け入れるだけの度量がありません。ですから、そこから突きます」
「どれくらいかかるかしら?」
「一月もいただければ」
「期待しても良いのね?」
「お任せください」

 桂花の言葉に、華琳は満足そうに微笑んだ。この微笑を裏切ってはならない。桂花は心中で決意を新たにし、華琳の部屋を後にした。廊下を行きながら、桂花の中で作戦が組みあがっていく。思想的に一枚岩でない劉備軍は、少し突付けばすぐに瓦解するだろう。諸葛亮が劉備軍の上層部、特に関羽と揉めているのは既に掴んでいる。諸葛亮の性格、素性は解っているし、普段はどこで仕事をしているのかも掴んでいる。おまけに周囲に火種を抱えているとなれば、それを狙い撃ちにするなど容易いことだ。

 桂花は人を呼ぶと、手短に指示を出した。

 これで劉備軍については問題ない。元々問題を抱えていた組織の背中を、今そっと押した。後は崩壊するのを待つだけだ。これで任務達成である。こんな楽な仕事で華琳に褒めてもらえるのだから、桂花にとっては劉備様々だった。

 それにしても、である。

 あの軽い頭の劉備に良くも人材が集まるものだ。一騎当千の関羽に張飛に稀代の軍師の諸葛亮。その思想に共鳴した兵はかなりの数が集まっている。そこに情報担当の法正だ。これから時間をかければ、劉備軍はもっと精強になっていくだろう。いずれは華琳の覇道を邪魔するような存在になるかもしれない。そうなる前に排除することができそうなのは、僥倖と言える。完全に片がつくまで安心はできないが、劉備の件はこれで一区切りだ。

 周囲に視線がないことを確認してから、桂花は自分の執務室に滑り込んだ。懐から文を取り出す。紙に書かれたそれには、あの男の近況が書かれていた。県令になり統治を始め、軌道に乗りつつあるということ。別に知りたくもないのに、別に病気はしていないとか、こういう美味いものを食べたとか、そんな情報が紙面の許す限り記されていた。最後はこちらの身体を気遣う言葉で結ばれている。相変わらず気持ち悪い男だ。

 似たような内容の文が、実家の方にも届けられたらしい。おかげで母から『北郷一刀との繋がりは断たないように』と厳しく釘を刺されてしまった。実家は北郷を成長株と判断したようで、既に援助の手を回していると報告があった。あの男に投資するくらいならもっと曹魏に援助してくれれば良いのに、と思わないでもないが、広い人脈を作るために多方面に繋がりを作らなければならないのは、桂花も嫌というほど知っている。忌々しいことだが、家の発展のためには北郷のような男でも必要なのだろう。

 手近にあった椅子を、思い切り蹴飛ばす。桂花が許せないのは、文が自分だけでなく凪のところにも届いていることだ。どういう内容かまでは知らないが、虎牢関で親睦を深めた男から文が来たと仲間に触れ回っているらしい。寡黙な彼女がそこまでやるのだから、憎からず思っているのだろう。

 忌々しい、非常に忌々しいことだが、あの精液男は精液男だけに女を引っ掛けるのが上手いようだ。連合軍の陣地でやりあった郭嘉も、随分とあの男に入れ込んでいたようだ。神算鬼謀の士たる彼女の名前は、桂花も知っている。自分には及ばないが、当代でも最高の軍師の一人だ。その他にも程昱に、鳳雛と呼ばれ諸葛亮と並び称される鳳統もいる。一県令についていて良い面子ではない。あの三人ならば国家でも運営できるだろう。曹魏にくればもっと責任ある地位を任せることができるのに、彼女らはあろうことか精液男の隣で満足している。実に男の趣味の悪い女達だ。

 桂花は文を丁寧に畳み、懐に仕舞う。執務机に腰かけ、大きく溜息をついた。劉備に袁紹に、隣には孫呉。華琳の覇道を邪魔する者は沢山いる。それを排除し、華琳のために道を作るのが、『王佐の才』荀文若の役目だ。一息だけついて、桂花は仕事を再開した。


























「あー、こりゃやっべーな」

 部下からの報告を聞いた法正は、誰にともなく呟いた。報告をした部下は、次の指示を待って傍に控えている。文官の格好をしているが、これでも優秀な草だ。どうするべきか、考えたのは一瞬だ。そろそろ潮時だろう。『そのため』の準備を指示し、法正は身を翻した。

 向かうのは朱里の仕事場だ。筆頭軍師である彼女に仕事は多い。日が落ちて幾らか時間が過ぎたが、この時間ならばまだ仕事をしているだろう。あんなに小さい身体をしているのに、働きすぎなのだ。可愛い顔に隈まで作って働いて、それで良いことはあるのだろうか。そう問えば忠義とか信条とか、そういった言葉が返ってくるのだろう。実に綺麗な言葉で朱里に似合うと思うが、自分には縁のない言葉だ。吐き気を覚えるほどではないが、滑稽に思う。それが自分の仕事を理解してくれない人間ならば、尚更だ。

「先輩、失礼しますよ」

 仕事場に足を踏み入れた法正は、まっすぐ部屋を横切り朱里の前に立った。執務机から顔を上げた彼女は、随分とやつれていた。元々小さい身体が、疲労で更に小さく見える。敬愛する先輩を前に、法正は大きく溜息をついた。何もここまで、とは口にしない。そう言えば反発されるのは、目に見えている。

「静里ちゃん、何かありましたか?」
「工作についての情報が広まってます。どうやら、関羽の耳にも入ったようです」

 筆を走らせていた朱里の動きが、ぴたりと止まった。看過できる事態でないのは、彼女には伝わったようだ。

「無論、証拠は何一つ残していません。私がやったということは――」
「私たち、です」
「――我々がやったということは、露見していません。それは断言できますが、我々がやった『かもしれない』というだけで、動くことは十分に考えられます」

 こういうことを嫌う関羽は、噂だけで動きだす可能性が高い。関羽の耳に入ったということは、既に劉備の耳にも入っているだろう。劉備が動けば……朱里は全てを白状しかねない。情報操作、工作は秘密裏に行ってきたことだ。劉備や関羽に漏らさなかったのは、どれだけ必要だと説いてもこれを認めないことが解っていたからだ。

 体制が磐石になる前に話が漏れるというのは、完全に計算外である。部下が情報を漏らしたとは思えない。情報を漏洩するくらいなら、死を選ぶような連中だ。それから情報を引き出すのは、至難の業だろう。関羽たちが自分で情報を集めた、ということも考えられなかった。劉備軍の情報収集は、法正が一手に担っている。独自の優秀な情報網があるのならば、自分は呼ばれなかったろう。新たに情報網を作り上げるには時間がないし、何よりあの関羽にそんなことができるとも思えない。

 ならば、他の陣営が情報を流したと考えるのが自然だ。証拠は残していないが、誰がやったという推察くらいはできる。その推察を、民の間に流し、関羽の耳に入れた。証拠など勿論ないが、背中を押すだけで関羽が動き出すという読みがあれば、それだけでも十分である。実際、関羽は動き出したのだから。

 ともかくこれで、政治的な逃げ道は塞がれてしまった。もう少し狡猾な性格をしていれば十分にやり過ごせたのだろうが、心根の優しい朱里は問われたらそれを認めてしまうだろう。彼女の性格を考えれば、この仕事をここまでやれただけでも大したものだ。それだけ劉備という人間に未来を見、忠義を尽くしてきたのだろうが、それが報われないとは悲しい話である。

「桃香さまとは、私が話します」
「ご随意に」

 かくして、自分の運命は朱里に託された。無職が決定したようなものだが、法正の心に暗いものはなかった。主など合わなければ変えれば良いのだ。経歴に傷がつくのは忌々しいことであるが、確かな手腕さえあればいくらでも挽回できる。朱里もそれは同様のはずだが、扉を見据えて立つ彼女の背中には、まるで処刑台に向かう囚人のような悲哀が漂っていた。

 ほどなくして、朱里の部屋に桃香が現れる。傍らには関羽、張飛がいた。当然、武装している。物々しさに法正が口笛を吹くと、関羽が殺気の篭った視線を送ってきた。優秀には違いないこの女とは、どうもソリが合わない。

「朱里ちゃんに聞きたいことがあってきたの」

 劉備の顔には、苦悶の色があった。事情は全て、関羽から聞かされているのだろう。その結果どういう方針を採ることにしたのかは、考えるまでもない。陰鬱な気持ちで他の面々の顔色を伺う。関羽は相変わらず、殺気だった顔をしている。自慢の獲物を持つ手には力が篭っており、必要とあればこちらの首を容赦なく狙ってくるのは想像に難くない。

 逆に、義妹の張飛は実に落ち着いた顔をしている。頭の回転は悪く、軍略など考えもしない彼女であるが、思考の柔軟さについては三人の中では一番だ。蛇矛を持ってはいるが、関羽とは逆につまらなそうな表情をしていた。どういう事情でここにいるのか理解していなくても、何をしにここにきたのかは理解しているようだ。それに内心では反対のようだが、声をあげるほどではない。援護など期待していた訳ではないが、その気持ちが察せられただけでも、気持ちは随分と楽になった。話の解る人間がいる。それだけで救われるものだ。

「色々と、良くないことをしてたって聞いたの。それは、本当?」

 その質問に、朱里の顔は青ざめた。見ていられない。法正はさっと部屋に目を走らせた。部屋の中には五人。自分たち二人と、劉備たち三人だ。部屋の外には数人の気配がある。おそらく、関羽の部下だろう。ここまで連れてきたのだから、きっと精鋭だ。どうあって逃がさないという、関羽の覚悟が見てとれる。

 劉備の問いに朱里は小さく頷いて見せた。今度は劉備の顔色が青くなる。その様に、法正はそっと溜息をついた。この次に彼女が何を言うのか、想像できたからだ。

「朱里ちゃん、どうしてそんなことをしたの?」

 これである。どうしてと問われれば、劉備のためを置いて他にあるはずもない。全ては劉備の栄達のために行ったことだ。誰に理解されなくても、主のために。そう思って朱里は行動していた。劉備からこういう問いを投げかけられることも、折込済み、そのはずだ。よりによって主本人が理解していなくても、どうということはない。自分は主のためを思って行動し、結果を出してきた。いけないこととして露見した時は自分の首一つで処理できるよう、根回しまで行った。全ては劉備のために。それが朱里の根底にあったことだ。そこに嘘は微塵もない。

 しかし、朱里の心はその覚悟を真っ当できるほど強くはなかった。誰だって、誰かに認められたいのだ。特に心優しい彼女は、誰かに支えてもらわないと十全に力を発揮できない。劉備のためにという気持ちを、当の劉備に疑われては維持できないのも道理だった。青い顔をしたまま崩れ落ちた朱里を、手を伸ばして支える。動いたこちらを関羽が一歩進んで制してくるが、それは無視する。劉備の言葉に、朱里はそれでも答えようとしていたが、舌が上手く回らず、言葉にならないようだった。

 劉備の顔を見る。苦悶の表情は相変わらずだ。内心では、こんなことはしたくないのだろう。こういう性格をしているからこそ、朱里は引かれ、尽くす気になった。後輩としてその気持ちを尊重してやりたいのは山々だが、気持ちの切れ目が縁の切れ目。こうなってしまった以上、もうここに留まる理由はない。

「劉備様、私から一つよろしいでしょうか」

 朱里の肩を支え、立ち上がる。突然喋りだした法正を、劉備はいぶかしげに見つめる。関羽の殺気と張飛の視線を感じながら、法正はそっと、一歩後ろに下がった。

「劉備様、貴女は良い人です。その心根に多くの人間が引かれ、集まった。秋に恵まれれば、至尊の地位すら夢ではないかもしれません。貴女にはそれだけの輝きがある。それは、私が保証しましょう。でも――」

 不穏な空気を感じた関羽が一歩前に歩み出た。だが、遅い――

「わたしの先輩泣かしてんじゃねーよ。悪いがわたしは降りる。後は勝手にやれ」
「鈴々! そいつを止めろ!」

 叫ぶと同時に踏み込んでくる関羽に、右の短刀を放つ。狭い室内でも関羽は器用に得物を振るって短刀を叩き落すが、その分、踏み込むのが遅れた。張飛も一級の武人であるが、話し合いを聞き流していたせいか、関羽の指示に動きが遅れる。それだけの間があれば、法正には十分だった。

「舌を噛まんでくださいよ!」

 体当たりで窓を破り外に出ると、すぐに部下が馬を引いてくる。脱出の手はずは既に整っていた。建物ごと包囲されていたら、逃げるのには少々骨が折れただろが、幸いなことに関羽の部下は部屋の外にしか展開していなかった。馬に朱里を乗せ、ムチを入れる。街を駆けながら、並走する部下に指示を出す。全ての活動を中断。并州にて再集合。それ以降の指示は追って出す。それまで待機――

 気づけば法正の近くに部下はいなくなっていた。爆走する馬に驚く民を避けながら、朱里が馬から落ちないよう抱えなおす。何やら喚いているが、それは無視だ。完全に自分の都合で飛び出したのだから、最後まで自分の都合を押し通す。首筋に手刀を打ち込むと、途端に朱里は静かになった。これで安心して馬を走らせることができる。

 検問すらしかれていない街門を強引に突破。人の少ない街道を行きながら、これからの逃走経路を考える。逃亡する身に、頼れる人間は限られていた。まずは一番近い雛里の所だ。卒業したら朱里と旅に出る約束をしていた彼女が、灯里の紹介で馬の骨のところに就職を決めてしまった。将来有望な軍師をそんな男のところに……と眉を顰める人間もいたが、灯里の人物眼は確かである。現にその馬の骨は先の戦に孫呉軍から参加し、二度の戦を生き残って県令を拝命することとなった。何の後ろ盾もない人間としては、異例の出世の早さである。真偽の程は定かではないが、『帝室との繋がりアリ』との情報もある。いずれ会ってみようと思っていた人物だ。逃亡先の第一候補としては、悪くない。

「まずは追っ手をまかねーとな」

 初手は上手くいったが、これから先も同様に行くとは限らない。総じて絡め手に弱い劉備軍であるが、幹部の関羽を始め優秀には違いない。舐めてかかっては痛い目を見るだろう。緩みかけていた気を引き締めた法正は、ソフト帽を目深に被りなおし、急ぎ、馬を進めた。













「――とまぁ、そういう訳だ」

 自らの来歴を語り終えた法正は、そんな言葉で話を締めくくった。癖のある黒髪はうなじの辺りで一つに縛られている。頭に乗ったソフト帽は薄汚れており、洒落者とはいかなかったが、意思の強そうな瞳ははっきりと一刀を見つめていた。子供のような無邪気な瞳には要に通ずるところがあったが、おもちゃではしゃぐのが要ならば、アリの巣を水攻めにするのが眼前の少女だ。いざという時には寝首を掻いてやるといった強かさが、法正にはあった。

 手放しで信用するには危険な相手、というのが一刀の第一印象である。

「既に手配はされてるだろうが、劉備軍に私らを追うだけの余力はない。曹操軍は北上を狙っていたし、今頃は戦争の準備で大忙しだからな」
「追っ手に関しては心配する必要はないと?」
「まぁそういうことだな、県令殿。助けてくれたことには感謝してる」
「感謝ついでに、何かお土産でもあるとありがたいものですね」

 口調からして明らかに苛立っている稟が、強引に先を促した。法正のあまりに砕けた口調は、稟とは波長の合わないものだろう。法正はそんな稟を見やり、次いで一刀に視線を戻した。

「気の短い軍師だと県令殿も大変だな」
「一刀殿。この女はたたき出しましょう。話をするに相応しい人間ではありません」
「まぁ、そう言わないで稟」

 どうどう、と稟を宥めると同時に、法正に厳しい視線を送る。次はないぞという言外の意味を、彼女も受け取ったようだ。咳払いをして姿勢を正す彼女も本気で嫌味を言いたかったのではないのだろう。苛立った様子の稟を見て、ただ愉快そうに笑っている。

「あまり良い趣味じゃないな、法正」
「気に障っただろうから、謝るよ。そちらの軍師殿のような堅そうなお嬢さんを見ると、どうにもからかいたくなる」
「訂正する。結構良い趣味してるじゃないか」
「解ってもらえたようで嬉しい」

 ははは、と一刀と法正は声をあげて笑った。つられて霞も笑っているが、稟とねねはこのやりとりが面白くないらしく仏頂面に不機嫌の色を加えている。これ以上やったら爆発すると悟った一刀は、大きく咳払いを一つ。

「そっちの事情は解った。お前たちはこれからどうするつもりなんだ?」
「まず、私と朱里先輩――諸葛亮のことは分けて考えてくれ。あの人がこれからどうするつもりなのか私は知らないし関知もしない。私は、そうだな……部下と一緒に徐州から引き上げてきたから、とにかく今はすることがない。私の頭を高く買ってくれるところがあるなら、そこに仕官しても良いと考えてるんだが、県令殿、あんたはどうだい?」

 思いがけない売り込みに、一刀は稟に視線を送った。不機嫌そのものの顔をした稟は、それでも軍師として思考していたが、すぐには結論を出せなかった。押し黙ったままの稟を見て、一刀は結論を先送りにすることを決めた。

「一晩時間をくれないか? 遅くても明日には結論を出すよ」
「勿論、それくらいなら待つさ。だが悪い買い物じゃないと思うぜ? ちなみに私の得意技は情報収集と工作活動だ。あんたの役には十二分に立つと約束できる」
「それはありがたいな。ちょうどうちも、そういう仕事をする人間が欲しいと思ってたんだ。長旅で疲れたろう? 部屋を用意したから、今日は良く寛いでくれ」

 部屋の外にいた要を付け、法正を退出させる。後に残ったのは重苦しい沈黙だった。霞は自分には関係ないと言わんばかりの顔で、笑みをかみ殺している。恋は相変わらずぼーっとした顔だ。風は何か言いたそうな顔をしているが、一番槍は譲るつもりのようだ。悪戯を思いついた時の顔をした彼女は、視線で背後を示している。

「貴殿はどうお考えなのですか?」

 その背後からの怒りが燻った声に、一刀は肩を竦めた。

「前から欲しかった人材じゃないか。俺は採用するべきだと思うね」

 先制攻撃をお見舞いすると、稟が押し黙ってしまった。法正については稟も同じ考えだろう。欲しかった人材が向こうから来てくれたのだ。これを断る理由は、どこにもない。懸念は劉備との確執であるが、法正の言う通り戦争に忙しいのならばそれを気にする必要もない。

「風はどう思う?」
「良いんじゃないでしょうか。風は多分、あの人とは仲良くやっていけると思います」
「そういうの得意そうだもんなぁ、風は……ねねは?」
「洛陽にいたクソ共に比べたらあんなのかわいいもんなのです」

 個人的に波長は合わないようだが、その感情を仕事上にまで持ち込むつもりはないらしい。洛陽時代は派閥争いで苦労したと聞いてる。その経験の差が稟との違いだろう。受け入れがたしとしているのは、今のところ稟だけだ。

「うちは賛成や。情報担当は欲しい思ってたところやし、何やええ趣味しとるみたいやからな」
「反対はしない」

 霞は賛成。恋については消極的な賛成と解釈する。実働部隊の幹部二人が賛成を示したことで、感情的反対派の稟は窮地に立たされた。後意見を聞くべきは雛里しか残っていないが、学校の後輩というのならば反対意見を出させるのは望み薄だ。

「失礼しました。私も感情的になっていたようです」
「できる限り波風立てないように、俺からも言い含めておくよ。じゃあ、法正については強く勧誘するってことで良いか?」

 異議なし、と唱和する一同に、一刀は満足そうに頷いた。

「後の問題は諸葛亮だな。そっちも勧誘できれば万々歳だけど、どうなんだろう」
「連合軍の陣地でお会いした時は、劉備殿に心服しているように見受けられました。離反は彼女の本意ではないと思います」
「法正が無理やり連れてきて話が拗れたってことか? それなら、元に戻れるように手伝うのが良いのかな」
「それは止めておいた方が良いですよ、お兄さん。曹操さんが北上を狙っているというのは風でも知ってることです。今下手に首を突っ込むと戦争に巻き込まれかねません」
「それは流石にやだな……」

 兵は精強になってきたとは言え、曹操や劉備を相手に戦ができるほどという訳ではない。県令としては自分の土地が最優先だ。大規模な戦に巻き込まれる可能性があるのなら、この件は後回しである。

「むしろこれを好機と見ましょう。劉備殿も曹操殿も、今この時に限って言えば介入するだけの余力はありません。ここで話を決めて引き込んでしまえば、我々は大きく飛躍することになります」
「劉備軍と拗れないか心配だな」
「対北を見据えるなら、曹操軍は速攻で劉備軍を潰すでしょう。戦力増強のために併合するのが一番美味しいですが、展開次第では殲滅されることも考えられます。いずれにせよ、本腰を入れた曹操軍を前に、劉備軍で太刀打ちできるとも思えません。劉備軍と拗れることを気にするなら、曹操軍からの横槍を心配する方が現実的ではないかと」
「仮に明日から戦争を始めたとして、曹操軍が劉備軍を負かすのにどれくらいかかると思う?」
「一年もかけてはいられないでしょう。北の戦は長く続くでしょうが、南下してくる勢力を相手にするためには戦力を整えねばなりません。大戦の準備です。時間はいくらあっても足りませんからね」

 どうやら劉備が負けるというのは決定事項らしい。負けるのにどれくらいの時間がかかるか、稟たちが気にしているのはそこだけだった。

「それでは、貴殿には諸葛亮殿のところに行ってもらいましょうか。勧誘はまたの機会にするにしても、面通しは必要です」
「できるだけ仲良くなっておいてくださいね? 雛里ちゃんなら事情を察して援護してくれると思いますけど、お兄さんの手腕に期待します」
「俺の仕事ってこんなのばっかりだな」
「貴殿にしかできないことですからね。諸葛亮殿には精々気持ちよく味方になってもらうとしましょう」



















 久しぶりに再会した親友を前にして、雛里は言葉を失った。小柄な身体が今はさらに小さく見える。目の下の隈は旅の疲れだけではないだろう。劉備陣営にあって彼女がどれほど重圧に苛まれてきたのか。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。一刀のところに腰を落ち着けたことを後悔などしていないが、もし自分が一緒にいたのなら朱里がこうなることは防げたのかと思うと、心が痛い。朱里のやつれた頬に指を這わせた。頬に当たる骨の感触が、生々しい。

「……雛里ちゃん?」

 朱里のか細い声に、涙が出そうになる。夢にまで見た親友の声に、雛里は朱里の小さな手をぎゅっと握り、顔を近づける。自然とこぼれた涙を見て、朱里は弱弱しく、しかしはっきりと微笑んだ。

「泣かないで、雛里ちゃん」
「心配したんだよ……本当に、朱里ちゃんが死んじゃうんじゃないかって、心配したんだから」

 幸運が重なり今はこうして并州にいるが、何かが一つ間違っていれば朱里も命を落としていた。生き汚い静里と違い、朱里は一人で生き残るだけの能力がない。何もない場所に放り出されたら、それこそ死を待つしかないのだ。もし静里とはぐれていたら、もし静里が朱里を連れ出すのに失敗していたら、雛里は親友と再会することは叶わなかっただろう。

「ごめんね、雛里ちゃん。心配かけたね」
「うん。でも、朱里ちゃんが生きててくれて、本当に良かった」

 それだけは、雛里の偽らざる本心である。聞きたいことは山ほどあるが、今はただ朱里のぬくもりを感じていたい。雛里は朱里を抱きしめ、ただ涙を流した。

「私の事情は知ってる?」
「うん。静里ちゃんから、ちょっとだけ聞いた」

 劉備軍からは、静里主導で逃げてきたことは静里から簡単に聞いた。どうして逃げることになったのかも、朱里のところに静里がいた時点で察しはついた。水鏡女学院の歴史において、彼女が最も情報収集と工作に長けていた。静里を呼び寄せたということは、そういうことなのだろう。朱里と工作が繋がらないが、要するにそれだけ切羽詰っていたということだ。

 それが明るみに出て劉備軍を追われる羽目になったというが、静里が証拠を残すような仕事をするとは思えない。何者かの工作の匂いを雛里は感じた。劉備軍が瓦解して最も得をする人物は、曹操を置いて他にない。曹操軍ならば情報操作や工作をやる部隊も充実しているだろう。静里が後手を踏んだのもそれで頷ける。

「朱里ちゃんは、劉備さんのところに戻るの?」

 どうしても確認しなければならないことだった。静里はもう戻る気はないようだが、同時に、朱里の行動にも関わるつもりはないようだった。好きにやるように言っておいてくれと、言伝も預かっている。強引に連れ出してきた癖に、一区切りしたら放り出すなど信じられないことである。静里は後輩で、友人と言っても良いが、そういう薄情なところはどうしても好きになれなかった。学生時代はそれでよく衝突もし喧嘩もした。それでこれまで関係が続いてきたのは、奇跡かもしれない。

「桃香さまに出会った時、私が仕える人はこの人だって思ったの。この人のためなら何でもやろうって思ったんだ。だから、やりたくないことでも我慢することができた。桃香さまの栄達のためになら、死んでも良いってこんな私が本気で思えたの。これが忠節なんだって、心から理解できた。その気持ちは今も胸の中にあるの。それは、本当に、嘘じゃないよ? でも――」

「気持ちは心の中にあるのに、今は忠節って言葉の意味が良く解らないの。私がやってきたことは何だったんだろうって、ここに来るまでの間、ずっと考えてた」

「私は、自分のことしか考えてなかったのかな? 本当に桃香さまのためにやっていたのなら、こんな気持ちにはならないんじゃないかな。私は頑張ったよ、本当に頑張ったの。でも、桃香さまにはあまり伝わってなかったみたい。それが凄く、悲しくて、悔しいの……」

 朱里の告白に、雛里は自分との差を感じた。雛里は朱里ほど固い決意を持っていないが、自分の役割に疑問を持ったことはない。やりたいことはほとんど全てやらせてくれたし、できそうにないことにも、皆で挑戦した。自分一人で解決できないことでも、皆で知恵を出し合えば解決することができる。困難には何度も直面したが、そうやって皆で乗り越えてきた。それはとても幸せな環境だと思う。稟も風も同じ考えだと、確信を持って言える。

 もし自分が朱里と同じ環境に置かれたらと思うと、恐怖で背筋が寒くなった。朱里のことは誰よりも知っている。彼女は心優しいが、孤独には決して強くない。弱音を吐ける相手がいない環境は、さぞかし辛かったに違いない。

 朱里を救いたい。雛里は心の底からそう思った。親友が辛い思いをしている時に、傍で支えることができなかった。今はその償いをしたかった。

「朱里ちゃん。あのね――」

 何を言うのかあまり考えずに口を開こうとした矢先、部屋の扉が叩かれた。音に驚いた朱里が、寝台の上で軽く跳ねる。大丈夫だよ、と朱里に視線を送り、雛里は扉の向こうの相手に入室の許可を出した。この部屋まで態々訪ねてくる人間は限られている。医者はこちらから呼ばなければしばらくは来ない。ならば扉の外にいるのは一人しかいなかった。

「失礼します」

 妙な腰の低さで部屋に入ってきたのは、予想の通り一刀だった。彼は部屋を横切ると、寝台のすぐ傍まで寄ってくる。見たことのない男性の登場に、朱里ははっきりと怯えていた。そんな朱里を安心させるように一刀は笑みを浮かべる。無理して浮かべたのが解るぎこちない笑みだったが、少なくとも敵意を持っていないことは示せるだろう。その笑顔を見た朱里は、とりあえず怯えるのを止めた。寝台の上で距離を取っているのは相変わらずであるが、男性が初対面でこれならばまだマシな方である。

「はじめまして。俺は北郷一刀。姓が北郷で名前が一刀。字はありません」
「わ、私は諸葛亮、字を孔明と申します」
「諸葛先生のお噂は雛里から聞いています。何でも母校を主席で卒業されたとか。雛里もいつも、自分のことのように自慢するんですよ?」
「そんな……」

 自分のしていたことを親友にバラされるのは実に恥ずかしい行為だったが、それ以上に自分の知らないところで自分が売り込まれていたと知った親友は、顔を真っ赤にして照れていた。人は自分よりも困っている人間がいたら、冷静になれるらしい。雛里は照れる朱里を一方的に眺めるという、今までの人生で初めての経験を楽しんだ。

「お加減はどうですか? 医者の話では問題ないとのことですが」
「もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「なに。雛里の友人ならば俺の友達でもあります。自分の家だと思ってくつろいでください」
「ありがとうございます」

 ぺこり、と朱里が頭を下げると会話はそれで終わってしまった。おや、と雛里は一刀を見上げる。一刀は朱里を見つめながら、何やら葛藤していた。言わなければならないのに踏ん切りがつかない、そんな顔である。ちなみにそれは一刀を見慣れているから解ることで、朱里には一刀の視線はそこはかとない重圧になっているようだった。男性からの熱視線という生まれて初めての攻撃を受けた朱里は、居心地悪そうに寝台の上でじっとしている。本音を言えば逃げたいのだろうが、立場上それはできなかった。羞恥に耐える親友が、何だかかわいい。

 一刀は自分の身体に溜まった熱を逃すように、大きく息を吐いた。

「先ほど法正と話をしました。彼女は劉備軍とは別の仕官先を探すつもりのようです。条件さえ折り合えば、うちで働いてもらいたいと思っています」

 ぴくり、と朱里が身体を振るわせた。劉備とのことは、繊細な問題だ。今はそっとしておくべきなのではないか、と雛里は視線で訴えるが、その視線を受けても一刀は揺るぎもしなかった。一刀の言葉には、言外に貴女もどうですか? という意図が込められいる。それを理解できない朱里ではない。劉備とのことで疲れた心でも、羞恥に身を焦がしたこの状況でも、朱里の頭脳はこの上なく明晰だった。

 求められているということを理解した朱里は、それで身を固くした。しかし固辞の言葉も、肯定の言葉も出てこない。簡単に答えの出せる話ではないのだ。今すぐに返事を出せないと判断した一刀は、それで矛を収めた。

「身の振り方については、決まりましたらお知らせください。不足しているものがありましたら、何なりと」

 失礼します、と一刀は踵を返した。

「まってください!」

 その背に、朱里の声が飛ぶ。親友の行動に目を丸くした雛里は、思わず一歩退いた。呼び止められた一刀は肩越しに振り返る。

「私は、どうしたら良いんでしょうか」

 その声は酷く沈んでいる。軽く流して良いことではない。一刀は姿勢を正して朱里に向き直った。

「劉備殿とは、仲直りをするべきでしょう。今もそうしたいという気持ちがあるならですが」

 とつとつと、一刀は自分の考えを語る。寝台の上で、朱里も姿勢を正していた。まるで生徒が教えを請うかのように、一刀の話に耳を傾けている。

「ですが、今すぐというのはお勧めしません。喧嘩をしたなら、お互いに頭を冷やす期間が必要です。お互いに頭が冷えて、自分のしたことされたことがよく理解できたら、改めて場を設けるのが良いのではないでしょうか。お互いがお互いを大事に思っているのなら、それで仲直りできるはずです。それでも駄目だったら……それはその時考えましょう」

 この辺りで、一刀の口調に変化が見えた。急に辺りを気にするような様子を見せた一刀の顔に、段々と朱がさしていく。

「不安になることもあるかと思います。そういう時は、その辺の誰かを捕まえて愚痴でも聞いてもらえば良いんです。雛里だっていますし、うちは結構気の良い連中が揃ってますから、皆話くらいは聞いてくれるんじゃないかと思います。勿論俺でも良いですよ? どうしようもなく寂しくなった時とか……」

 一刀の声は段々と小さくなった。顔などもう真っ赤だ。自分の言っていることに照れているらしい。聊か芝居がかってはいたが、それは今の状況には必要なことだ。ここで格好つけなくていつやるんだ、と雛里はいつにない力を視線に込めて一刀を見やる。扉の外からも小声が聞こえた。幹部は皆、集合しているらしい。朱里すら、僅かな期待を込めて一刀を見上げている。

「寂しくなった時とか、僭越ながら相手を務めたいと思わないでもありません。経験不足の小僧が、どれだけ貴女の役に立てるかわかりませんが」

 適当にお茶を濁された気がして、雛里は大きく肩を落とした。格好付けるなら、最後までやれば良いのに……意図せずじっとりとなった雛里の視線を避けるように、一刀はそそくさと扉にむかって歩いていく。雛里は朱里に短い挨拶を残し、一刀の後に続いた。朱里は呆然とした表情で、一刀の背中を眺めている。その一刀の足は急いでいた。自分の発した言葉が朱里に染み入る前に部屋を出て行こうというのが、はっきりと解る。

 部屋を出た一刀は、外で待っていた霞に首根っこを捕まれた。そのままぐいぐいと廊下を引きずられていく。

「かっこつけるなら最後までかっこつけんかい! 何であそこで俺の胸で泣けくらい言えんのやうちの大将は」
「そこまでいったらタダの馬鹿じゃないか。初対面の女の子を口説くとか、俺のキャラじゃないって絶対」

 それはどうだろう、と雛里は思った。この人は結構軽い気持ちで女の子を引っ掛けようとしているところがある。まさかそれを自覚していないのだろうか。稟を盗み見たら、彼女は首を抱えられている一刀の背中を見て呆れた表情を浮かべていた。どうやら気持ちは一つのようだ。

「ここで口説かんでいつ口説くねん」
「でもここで上手くいったらそれはそれで怒るんだろ?」
「そりゃ会ったその日にやらしーことするんは不誠実やからな」
「じゃあ俺はどうしたら良いんだ」

 やいのやいのと騒ぎながら、一刀は執務室へ向かって歩いていく。歩調を緩めながら歩く稟に付き合いながら、雛里はその背中を見送った。

「諸葛亮殿はどうですか?」
「今はそっとしておくのが良いんじゃないかと思います」

 稟は朱里を何としても引き込むつもりなのだろう。雛里も個人的には、彼女はここにいた方が良いと思っている。仲直りを一刀は薦めていたが、辛い思いをした場所に戻って欲しいと思えないのだ。自分が一緒にいることで朱里が幸せになれるとは限らないが、それでも一緒にいることで苦労を分かち合うことができるのだ。

 しかし、強行にそれを主張するのもまた親友の行動とは思えなかった。今はゆっくり考えて、これからのことを決めてほしい。朱里は本当に聡明な少女だ。落ち着いて考える時間さえあれば、きっと最適の答えを見つけるだろう。

 雛里の様子見という意見に、稟はそうですか、と短く答えた。強行にとは彼女も思っていないらしい。話が拗れたら、稟を説得するのは骨なだけにあっさりと引いてくれたことに雛里は安堵の溜息を漏らした。


















 



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十八話 并州動乱編 下準備の巻⑤
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 04:59

















 幹部全員がOKを出したことで、やってきた翌日に一刀は法正を召抱えることになった。執務室に呼び出してその旨を伝えると法正はその場で跪き、一刀に対して忠誠を誓った。先日の態度を見ていた一刀たちは法正の様子に面食らったが、

「最初くらいは畏まらないとな」

 と微笑む法正を見て、この少女はこういう人間なんだなという思いを改めて強くした。

 そんな法正に与えられた役割は情報の統括である。方々に人を放って情報を収集し、場合によっては工作も行う。稟が長いこと欲しいと思っていた部署が法正がやってきたことによってようやく新設されたのだ。自分専用の執務室をもらった法正は早速部下に召集をかけた。重点的に収集するのは何より并州内の情報である。異民族と戦争が間近という噂の確度や、戦争を行うとしたらどの程度の規模になるのか、まずはそれを知ろうとした。

 改めて情報を集めるまでもなく法正が持ってきた情報によれば州牧の決定はもう覆りようがないとのことで、一年以内ということだった予想も最近では半年と修正されていた。ただ徴兵についてはいまだ不透明で、場合によっては一刀のところの兵は招集されない可能性もあるとのことだった。州牧は自分のところの兵だけでやりたいなどと、寝言を言っているらしい。これについては大した確度ではないとのことで、法正は改めて確認の指示を出していた。これらの件については遅くとも今月中には結果が出るという。本職がいるとここまで違うのかと、一刀などは舌を巻くばかりだった。

 法正が自主的に始めたのは并州内の情報収集だけだったが、稟の提案で袁紹の情報も集めることになった。并州牧は袁紹の息がかかった人間であるし、一刀の県は袁紹の領地に接している。公孫賛との戦争が激化でもしない限り巻き込まれるということはあるまいが、当事者の隣に住んでいる者としては人事でもない。

 軍師たちの予想では7:3で袁紹が勝つとのことだったが、戦況は若干公孫賛有利に動いているらしい。これも法正が頼まれる前に持ってきた情報である。連合軍戦で下した華雄将軍が先戦の恨みと獅子奮迅の働きをしているらしく、前線は袁紹側に大きく押し込まれていた。このまま公孫賛が勝つのでは、との見方もあるが、袁紹軍はその豊富な資金を利用して兵を州都に集めているという。三月ほど後に始まる大規模な反抗作戦の成否が、この戦の行く末を占うことになるだろう。

 いずれにしても、よほどのことが起こらない限り早期の決着は望めそうにもない。北部の情勢はあと五年はこのままというのが、法正を含めた一刀軍幹部の共通見解だった。

 情報が集まるようになると、今まではできなかった仕事もできるようになる。法正の指示で構築された県内の情報網は彼女の赴任から一月後には機能するようになり、格段に情報のやりとりがスムーズになった。今はインフラ担当の風と組んで、早馬で情報をやり取りするシステムの構築を急いでいる。予算が必要なことでもあるので、ねねとも毎日壮絶なやりあいをしているが、これは必要なものだという霞からの意見もあって、導入は前向きに、それも早期に検討されているという。『しぶちん』のねねにしては珍しいことだった。

 良くも悪くも強引な法正の評判はどうなのだろうと気になって一刀自ら聞いて回ったが、文官と武官で法正の評価は綺麗に分かれた。どちらもその実力を認めているのは同じであるが、文官はできれば係わり合いになりたくないという印象で、武官はあんな軍師が欲しかったと口を揃えている。知識人らしいもって回った言い回しをせず、単刀直入に言いたいことだけを言う法正は、体育会系の武人には大層受けが良いらしい。文官には受けの悪い口の悪さも、武官は気にならないようだった。調練の時の霞など聞くに堪えないような暴言で兵を苛め抜いていることがある。それに比べれば法正の口に悪さなどどこ吹く風だろう。少なくとも法正は、理解が及ばないからと言って鉄拳を飛ばしたりはしない。

 こうして武官を中心に着々と支持基盤を広げた法正は、一月ほどで一刀軍での地位を確かなものとし、正式に幹部と認められた。その最初の会議の席で、

「真名を皆に預ける。私は静里。これからはそう呼んでくれ」

 人懐っこい笑みを浮かべて頭を下げた法正――静里は、この時本当に一刀たちの仲間になった。












「異民族との戦について動きがありました。どうやら州牧は『初戦は』自分の子飼いだけで話を進めるらしく、州都周辺に兵が集結しつつあります。このため戦争に必要な物品が豪快に買い占められており、州内で不足。物価がじわじわと上昇しています」

 こめかみを押さえるようにして、稟が報告を始める。今日の議題は本格化しつつある州境の戦についてだ。今まではこの手の対策会議も大分後手に回らざるを得なかったが静里の部下が良い働きをしてくれるおかげで格段に早く、そして正確に情報が集まるようになっていた。稟が参考にしている資料も、静里が集めた情報を元に作成したものである。

「物価の上昇についてまだ許容範囲に収まっているのです。戦の趨勢にもよりますが、勝ってくれるなら何も問題ありません」
「負けたらどうなるか解らないってことか?」
「その時は貴様の首の心配をするが良いです。ねねは貴様が生きようが死のうがしったことではありませんが」
「静里、この戦勝てると思うか?」
「中長期的には微妙なところだな。少なくとも州牧の子飼いだけじゃまず無理だろう。初戦だけでも奴らだけでやるって決定には、私も正気を疑うよ。いずれ負けて、うちにも召集がかかるのは間違いなかろうな。それがいつになるかは、まだ見通しがたたないが」
「案外、州牧が勝つってことはないのか?」
「それはないな。何にしても、巻き込まれるっつーことは覚悟しておけ」

 嬉しくない分析である。巻き込まれるというのは幹部全員の共通見解らしく、会議室に集まった面々は皆不景気な表情をしていた。

「派兵するとして、どれくらいの動員が可能だ?」
「治安維持に余裕を持たせてということなら、歩兵300に騎馬50。期間限定で無理をさせるなら、歩兵500に騎馬70といったところですね」
「それで派兵要求を満たせると思うか?」
「期間限定の方に二割り増ししたくらいが先方の要求ではないかと」

 雛里の返答に一刀は重苦しい溜息を吐いた。数字だけを見れば出せない兵数ではないが、雛里の試算ではそれではこの県の治安が犠牲になる。貸した兵が帰ってくるならばまだ良いが、州牧の噂を聞くに兵を上手く使ってくれるとは思えない。やらなくても良い戦のために民が犠牲になる。それは一刀にとって看過できることではなかった。

 しかし、上からの命令は絶対である。州牧から出せと言われれば、一刀には拒否する権利がない。全くもって、頭の痛い話だった。

「戦の回避は無理そうか?」
「丁原殿が随分頑張ったようですが、外からの働きかけではもう無理でしょう。後は正面からぶつかるか、内から崩すかですが」
「州牧の周辺は身分の高い奴ばかりだ。うちの資金力では買収はまず不可能だな。何かネタでもないかと探ってるが、戦争回避に繋がるような強力なネタは今のところ出てきてない。一人二人を失脚させるくらいなら今でもできるが、首が挿げ替えられるだけで終わりだな。後はもう、州牧の首を取るしかない」
「……これは独り言だけど、州牧の暗殺ってできると思うか?」
「仮に私主導でやるとしたら、間違いなく無理だな。州牧は周辺を護衛で固めてる。私の部下じゃ、突破するのは不可能だ。まぁ、これは独り言だが」

 話を聞けば聞くだけ、戦が不可避であるという認識が強くなっていく。強力に主導しているのは州牧だけだから、これを排除できれば戦争は回避できる。それが解っただけでも収穫だが、自分たちではその排除ができない。

「あー、ちょっとええかな?」

 一刀と軍師たちが自分の無力さに打ちひしがれていると、霞がおずおずと手をあげた。

「何だ霞。何か良い手でもあるのか?」
「それなんやけどな。丁原と協力するのはどうやろ」
「考えないではありませんでしたが、一県令の立場では向こうも相手にしてはくれないのでは?」
「うち丁原知ってるで。恋もや」

 霞の言葉に、恋もこくこくと頷く。意外な事実であるが、彼女らの地元が并州というのは幹部皆の知るところだ。丁原を知っているというのも、それほどおかしな話ではなかった。

「あっちは兵数うちと比べ物にならんくらいあるし、そこに稟ちゃんたちの知恵が加われば州牧についてもどうにかできるんとちゃうかな」
「確かに協力が取り付けられるのならば御の字ですが……」

 稟は霞の言う『知っている』というのがどの程度なのかを測りかねているようだった。どの程度まで便宜が図れるのかで、用いる策は大きく変わってくる。顔見知り程度の関係ならば何の意味もないのだ。

「貴殿と丁原殿はどういう関係なのですか?」
「それはやな――」
「団長、お客さんをお連れしました」

 霞がそれを語ろうとした矢先、ノックもなしに部屋に要が入ってくる。話の腰を折られた霞はむっとした表情を要に向けるが、要はどこ吹く風だった。

「要。客人が来た時はまず通しても良いかと伺いを立てるものだと前に教えたはずですが?」

 代わりに苦言を口にしたのは稟だった。兵の間では鬼軍師と噂の広まっている稟である。苛立たしげにこめかみを押さえながら、感情の篭った声で指摘されるととりあえず謝ってしまおうという気分にさせられるのは、彼女の持つ委員長気質のせいだろう。そんな委員長気質が苦手という人間は多いようで、見た目の雰囲気から親しまれている風や雛里と比べると、稟の周囲はどこか寂しい。

 稟の言葉を受けて要は早速逃げ腰になっていたが、中空に視線を彷徨わせて思いとどまった。部屋の外に視線を向けた彼を見て、一刀たちはもう客人がそこにいるのだと悟った。客人の前で醜態を晒す訳にはいかない。まだまだ小言を言い足りないといった様子の稟だったが、客人の手前ということもあって、椅子に深く座りなおした。

 そして深く溜息を漏らすと、一刀に視線を送ってくる。客人がそこまで来ているのならば、それに入室の許可を出すのはこの場で最も位の高い人間であるべきだ。

「入ってもらってくれ」

 一刀の言葉を受けて、要が廊下にとって返す。『どうぞー』という気の抜けた招きの声に応じて部屋に入ってきたのは、一刀の知る人間だった。

「やぁ、久しぶりだね」

 ソフト帽を軽く持ち上げて、小さくウィンク。久しぶりの再会である灯里は、相変わらず気障な仕草が様になっていた。

「便りもろくに出せなくてごめんね。ちょっと込み入ったことになっててさ」
「また会えて嬉しいよ。とにかく無事で良かった」

 驚きこそしたが、一刀にとっては嬉しい再会だった。抱擁を交わして再会を喜びあうと部屋の中に招き入れる。村で出会った三人は灯里を良く知っているので、握手したり抱擁を交わしたりと、再会の挨拶は簡素なものだった。

「呂布将軍に張遼将軍。会えて嬉しいよ。僕は徐庶、字は元直。噂はずっと聞いていたけど、まさか本当に一刀と合流してるとは思わなかった」
「色々と縁があってなぁ……一刀なんや、おもしろいし」
「それは僕も保障するよ。これからもどうか彼を支えてあげてほしい」

 初めて会うはずだが、霞は灯里のことを気に入ったようで、握手を交わす二人はまるで旧友のような微笑を浮かべている。灯里は恋にも握手を求めたが、恋はさっとその手を握っただけだった。簡素過ぎるやり取りに灯里も呆然とするが、一刀がそっとこういうキャラなのだと伝えると気持ちを持ち直し、静里の前に立った。

「僕が先生を訪ねて以来かな。久しぶりだね静里。君が朱里について劉備殿の所に仕官したと聞いた時は驚いたものだけど、その朱里を連れて一刀のところに来たと聞いた時にはもっと驚いたよ」
「ご無沙汰しています、先輩」
「うん。君も元気そうで何よりだ。朱里のことは良く守ってくれたね。それについては色々と話もあるのだけど、まずは仕事の話をしようか」

 『仕事』という部分を強調して、灯里は居並んだ一同を見回した。

「僕はある人の使いで来たんだ。その人の名前は丁原。呂布将軍と張遼将軍の義母殿さ」
「義母?」

 一刀たちの視線が霞たちに向く。視線を受けた霞は苦笑を浮かべて手をぱたぱたと横に振った。

「義母なんて上等なもんやないで。あれはおかんや、おかん」
「おかん……」
「せや。身寄りのない子供の面倒を見るような人でな、うちや恋もそんな関係で世話になったんや。槍や馬の使い方もおかんに教わったんやで?」
「じゃあその丁原さんは、霞や恋よりも強いのか?」
「普通に戦ったら百回やって百回うちらが勝つと思う。そもそもおかんに勝てるようになったから一人立ちして名前売ったろうと思った訳やしな」
「つまり普通に戦わなかったら?」
「……あまり戦いたいとは思わんな。おかん、うちらのこと結構知ってるから中々エゲつない攻め方するんや。少数の奇襲戦法とかやらせたらおかんの右に出るもんはいないで」

 愚痴を漏らすように語る霞は心底嫌そうな顔をしている。部隊の運用について自信を持っている彼女が、戦についてこんな顔をするのは非常に珍しい。神速の張遼を煙に巻くほどの奇襲戦法の使い手、と聞くと恐ろしい限りであるが、何もそれと敵対しようというのではない。今はその恐ろしい相手と手を組もうという話をしているのだった。

「それで灯里。その丁原殿が俺たちに何を?」
「単刀直入に言うと、協力しないかってことさ。州牧の異民族攻めが大分現実味を帯びてきたのでね。その前に行動を起こさなければならない丁原殿は、戦力集めに影で奮闘してるという訳さ」
「何で灯里がその手伝いをしてるんだ?」
「戦争に首を突っ込むのも何だから大回りして并州入りしたら、丁原殿に出くわしてね。豪快な性格の割りに軍師を買ってくれる人で、色々と話をしてるうちに異民族との関係が不味いこといなってきたんだ。丁原殿は別に良いって言ってくれたんだけど、ここで逃げるなんて僕の名前が廃ると思ってね。今は彼女の軍師のようなものをしてるよ」
「つまり、貴殿は丁原殿に仕官したのですか?」
「臨時ということで話はついてるよ。この戦が一区切り着くまでってことだね。その後どうするかは……戦が終わってから話そうか」

 ふふふ、と意味ありげに微笑む灯里に一刀が返したのは苦笑だった。これから協力してくれるというのならこれほど嬉しいことはないが、含むところのありそうな灯里の視線に、何となく稟が気になったのである。仲間が増えることについては稟だって喜んでくれるはずなのだが、どうにも歓迎されていないように思えた。顔を盗み見ると稟はいつも通りの厳しい表情をしていた。

「それで灯里。丁原殿は戦についてどう考えてるんだ? 徹底抗戦というなら、俺は色々と考えなきゃいけないんだが……」
「おかんは奇襲が得意言うたやろ? 正面きって勝てんて解ったら、後はもう一つしかない」

 代わりに答えた霞の言葉を継ぐようにして、灯里は微笑みを浮かべながら言った。

「丁原殿は戦を短期で終わらせようとしてるよ。でも、それが一刀に受け入れてもらえるかは良く解らない。だから君を知る僕が、その調整役として来た訳だ。一刀、丁原殿はね」

「州牧を暗殺するつもりなのさ」










 丁原。字は建陽。西河郡の太守を務める女傑で、騎馬と弓の名手として知られている。荒っぽい性格と有名だが人情家としても知られており、孤児を引き取って面倒を見るなど良心的な一面もある。名門の生まれではなく自力で今の地位を手に入れたため血統を重視する中央の受けは悪いが、その腕一つでのし上がってきた地元出身の太守であるため、民からの信頼はとても厚い。

 地元民からの支持を背景に、彼女のコネは国外にも及んでいた。異民族と交流を持ち商いのためのルートまで持っている役人は、国内でも数えるほどしかいない。丁原の領地は異民族との人材交流が盛んなこともあり、騎馬が強いことで知られる并州の軍の中でも精強であることで知られていた。

 異民族とのコネに加えて精強な軍。中央で確かな地位を築いた州牧であっても、丁原を無視することはできなかった。丁原の協力なしには国境の平和は成り立たない。それを知っているからこそ今までの州牧と丁原は少なくとも表向きは良好な関係を築くことができた。

 良好な関係にひびが入ったのは今の州牧に変わってからだ。排他的な政策を打ち出した州牧は異民族と良い関係を築いている丁原と衝突するようになる。一時はすわ内戦かというところにまで話は進んだが、異民族の前に丁原と戦うのは得策ではないと州牧周囲の人間が止めたおかげで話は先送りにされた。丁原とて帝国の臣である。豪放磊落な性格であっても守るべき民があり、仲間があった。異民族と戦うことが間違っていると思っても、軽々に味方できない。丁原が彼らの味方をするということは、その仲間、民にまで国賊の謗りを受けさせるということでもあった。

 かといって立地的に戦が始まった場合、最前線で戦わされるのは目に見えていた。丁原にとっては異民族でも仲間であり友である。彼らを排除したいのは州牧であって、丁原ではない。丁原には彼らと戦う理由がなかった。

 普通の人間であれば立場と個人的感情の板ばさみになって苦しむ場面であるが、しかし丁原は普通の神経をしていなかった。彼女は頭を巡らせ、もっとも自分と仲間に都合の良い展開を考えた。外国の友人が血を流さなくても済み、自分も国賊とならず、また并州の兵や民の被害も最小限に納める方法。そんなものは一つしかなかった。

「――最小限の犠牲で戦争そのものの発生を防ぐ。熱烈に主導してるのは州牧とその周辺だけだから、これを排除するだけで良い」
「話が早くて助かりますが、そう上手くいくものですか?」
「勘定ができねーのは上の連中だけだよ。今、この情勢で外と戦っても良いことねーのは、結構多くの人間がわかってるんだぜ?」

 灯里の話を静里が補足する。情報担当の彼女が保障したことで、稟は灯里の話を『信ずるに足る』と判断したようだった。逆に、灯里は驚いたような表情をし、稟と、次いで静里を見やった。

「そんな顔してどうしたんだ、灯里」
「いや、よくも静里を信じてくれるものだと思ってね。かわいい娘だけど、学院でもよく周りと衝突していたからさ。上手くやっていけるか少し不安だったんだけど、安心したよ」
「静里は良くやってくれてるよ。そりゃあ、ちょっと口が悪いところもあるけど、俺は少し前まで物を身体で覚えさせるような場所にいたから、あまり気にならないかな。それに――」

 一刀は周囲を伺うようにして、灯里の耳元に顔を寄せる。

「口の達者さでは、稟も似たようなものだろ?」
「……それは僕たちだけの秘密ということにしておいてあげるよ」
「助かる」

 ははは、と笑う一刀と灯里を当の稟が睨んでくる。『またつまらないことを言ったのでしょう……』と口にした内容まで見抜かれていそうな顔だったが、追求はしてこなかった。代わりに稟は大きく溜息を吐いた。

「誰も言わないようだから一応言うけど、暗殺以外の手段はないのか? 最初から殺してしまえっていうのは、個人的には受け入れ難いんだけど」

 灯里が話を持ってきた時点でそういう段階ではないというのは理解していたが、それでも口にせずにはいられなかった。何を今更、と静里などは迷惑そうな顔をしたが、灯里は一刀の言葉を受け止めて静かに、そして丁寧に言葉を紡いだ。

「気位は高いし金に困ってるところはない。今回の戦についても奴の信条に起因するものだから、それを覆すのは難しいだろう。選民思想的な州牧の発想は筋金入りらしいからね……誰かが言って直るようなら、とっくに直ってるさ。後は人質を取って脅すとかだけど、そういう手段は嫌だろう?」

 無言で頷く一刀に、しかし灯里は嬉しそうに微笑んだ。

「ならばやっぱり、州牧を排除するしかない。まぁ、どうしても殺さなければならないという訳じゃないけどね。殺す殺さないは州都を落として奴を捕まえてから考えれば良い」
「俺は甘いのかな……」
「色々な可能性を考えておいて損はないよ。君は君のまま、成長すれば良いのさ」

 微笑みを向けてくる灯里に、一刀は思わず視線を逸らした。

「さて。それじゃあ、一刀は協力してくれるということで良いのかな?」
「死ななくても良い命を助けられるなら、俺はそれに協力したい。うちの県としても州牧の首がすげ変わってくれれば益もある。協力しない理由はないよ」
「受け入れてくれて何よりだ」
「計画はどのようになっているのですか?」
「それについてはまずこれに目を通してほしい。丁原殿と僕で詰めた作戦案だ。基本はこれに沿って進めていくことになっているけど、穴があるようだったら知らせてくれ」
「貴殿が関わっているのならば安心してみていられますね」
「神算鬼謀の士に添削されるとなると緊張するな」

 言葉とは裏腹に、灯里に緊張した様子はまるでない。自信に満ち溢れたその態度に木簡を受け取る稟の方が、気負ってしまったほどだった。一緒に行動したのは短い間だったが、灯里の実力は稟も認めている。その灯里が関わったのならばその作戦に穴などあるはずもない、くらいの信頼はしているだろう。それは風や雛里だって同じはずである。

 しかし、事は集団全体に関わることである。事前に作戦を吟味することには大きな意味があるのだ。軍師の代表として、稟がざっと目を通しておから、卓の上に木簡を広げる。残りの全員で、それを覗き込んだ。

「全員で意見をまとめるには少し時間がかかるだろう。僕はその間、席を外しても良いかな?」
「街を見て回るというのならば誰か案内をつけるよ」
「案内は必要だけど、街に行くのは別の機会にさせてもらうよ。朱里がここにいるんだろう? ちょっと顔を見てきたいんだけど、許可をもらえるかな」
「ああ、そんなことか」

 灯里からの申し出に、一刀はちらと雛里に目を向けた。一緒に行ってくるか? という無言の問いに、雛里は首を横に振る。その後静里にも目を向けたが、こちらは少し食い気味に首を横に振った。

「解った。人を呼ぶから部屋まではそいつの案内に従ってくれ」
「配慮に感謝するよ」
「ゆっくりしてくれて良いよ。その間に俺たちは意見をまとめておくから」
「そうさせてもらうよ。僕も朱里に、聞いてみたいことがあるからね」

 話はまた後で、と灯里は微笑みながら部屋を出て行く。その足音が完全に聞こえなくなったのを確認してから、

「良かったのか? 積もる話もあっただろ?」
「そんな話は後でもできる。今はこいつについて意見を纏めるのが先だ」

 ごもっとも、と一刀は改めて作戦書に目を落とした。

 つらつらと概要が書かれているが、要約するならば二面作戦だ。国境付近で異民族が部隊を展開。州牧が部隊の大半をそちらに向けるように誘導し、これを国境付近で足止めさせる。その間、少数の強襲部隊で州都を落とす。州牧がどこにいるかはその時になってみないと解らないが、灯里と丁原は州都に残ると見ているようだった。

「どれだけ戦力を引き付けられるかが、この作戦の肝となるでしょう」

 真っ先に木簡を読み終えた稟が、自分の考えを口にする。椅子に深く腰掛けながら、自分の考えを纏めるように目を閉じた稟の姿に、一刀は小さく感嘆の溜息を漏らした。眉を潜めて思考する稟の姿を、美しいと思ったのだ。無論、こういう時に考えることではないのは解っている。見つめているとバレたらまた説教だ。バレないうちにと視線を逸らしたが、視線を逸らした先には風がいた。タレ気味の目をにやりと細めたその姿に、後にこのネタでからかわれることを理解した一刀はこっそりと、今度は大きく溜息をついた。

「丁原殿は異民族との間に強い繋がりがあると聞きますが、州牧軍を引き付けられるほどの大部隊を展開させられるものなのですか?」
「聞いた限りじゃあ、可能だろうな。自分の軍も足して水増しをする必要はあるだろうが、奴の軍には異民族と関係を持つ兵も多くいるらしい。実行そのものは難しくはないだろう」
「問題は州牧軍を受け止めることができるかですねー。并州の軍は騎馬が精強だと聞いてますが――」

 風が水を向けると、霞はいやいや、と首を横に振った。

「州牧のアホが異民族系を排除したせいで、その精強な騎馬はおかんのとこにしか残っとらんよ。今州牧軍に残っとるんは、残りカスみたいなもんや」
「だからと言って安心はできないのですよ。袁紹のアホに連なる家柄だけあって豊富な資金を持っているのです。奴個人で動員できるだけで兵数は約二万。錬度は大したことありませんが、装備や兵糧は潤沢なのです」
「加えてこれは動員をかけていない段階での数字です。州全体に動員がかかれば、倍の兵が集まるはずです」
「対して丁原殿の部隊は一万弱。精強な騎馬隊を中心とした構成です。兵数は倍。それでも戦をすれば八対二くらいで丁原殿が勝つでしょうが、被害をなるべく出さずにということになると、話は変わってきます」

 稟はこめかみを押さえて溜息を吐いた。

 丁原軍と州牧軍が衝突してしまえば、話は州牧対異民族という構図から内乱へと変わってしまう。丁原としては、それは避けたいはずだ。丁原が協力しているということは州牧軍の方にも伝わっているだろうが、州牧軍の方もそれを認めたくない事情がある。丁原が反逆者であると断じてしまえば、精強な騎馬隊を惜しげもなく動員してくるだろう。并州に騎馬ありと知れ渡るほどに精強な騎馬隊を、わざわざ相手にしたいと思う人間はいない。

 丁原軍対州牧軍という構図は、当座は最後の手段だ。州牧軍は丁原軍の影が見えても無視して行軍し、丁原軍はひっそりと異民族と共に行動し州牧軍と戦う。初戦はそういう形で話が進むだろう。

 この状態でも良い勝負ができるだろうが、国境沿いの混成軍の目的は州牧軍の撃破ではなく戦線の維持だ。制限のかかった寡兵でそれを行うのは、いかに兵の実力に差があったとしても厳しい。。

 しかし、灯里はこれを採用した。軍師の目から見て、そこに勝算があるということだ。事実、顔を付き合わせた頼もしい軍師達の中に、作戦に文句を付けている人間は一人もいなかった。

「実行に現実味があるのならば、我々はそれに沿うのが良いでしょう。協力したとしてもこの作戦においてより血を流すことになるのは丁原殿の側です。我々はそれに乗っかるだけに過ぎません。成功するならば少ない労で、大きな利を得ることができます。しかし失敗すれば……」
「これ以上の打撃はないな」

 組織として体力のある丁原軍は多少のことではビクともしないだろうが、領地が県一つしかない一刀軍は少しの打撃で瓦解する。だが、

「ですがご安心を。そうならないために我々がいるのです。一刀殿は精々、大きく構えて皆を安心させてください」
「大きく構えるのだけが仕事ってのも、寂しい話だよな」
「なら安心しても良いですよ。今回はお兄さんも兵を率いることになるでしょうから」
「安心……して良いのかな」

 誰がどこを担当するということは作戦書に明記されている訳ではないが、位置条件から強襲を担当するのは一刀たちということになるだろう。そして立場的に、それを率いるのは一刀とになる。連合軍で戦った時には、一刀の上には思春がいて、孫策がいた。今度は上に立ってくれる人間はいない。丁原と協力するという前提はあるものの、これは紛れもなく北郷一刀の戦だった。

「我々の規模を考えたら手を出すべきなのではないのかもしれませんが、無駄な血が流れるというのならば協力しない訳には行きません。それに、ここでこの話を蹴ったとしたら最悪、州牧の側で戦わなければならなくなるでしょう。それならば丁原殿の提案に乗る方がまだ被害は少なくて済む」
「後は風たちの力で利を得るだけです。簡単に考えられても困りますが、難しく考えることはありません。必要なことは風たちが考えますから、お兄さんはいつも通り皆を率いていれば大丈夫ですよ」
「何から何まで苦労をかけてごめんな」
「気にしないでください、一刀さん。それが軍師の仕事なんですから」
「いい雰囲気のところ悪いんだが、やるなら早いうちから動いておきたい。部下を連れて州都に向かいたいんだが、構わねーか?」
「もうか? 灯里と作戦を詰めてからでも問題ないんじゃないかな」
「情報ってのは生物だからな。仕入れるのは早ければ早いほど良いんだ。連絡手段はこっちから知らせるから、情報は作戦の参考にしてくれ」

 あと、灯里先輩によろしく。とだけ言い残して静里は部屋を出て行った。

「……動きの早い奴やなー。うちの部下にもあんなんが欲しいわ」
「神速の張遼部隊とか呼ばれてもまだ足りないのか?」
「より速く、より強くや。上を目指すに限界なんてもんはないんよ。強うなればそれだけ生き残る確率も上がるしな」

 かの張遼が言うと説得力が違う。兵としてあくまで凡人である一刀は霞の言葉にはー、と溜息だけを漏らした。

「方針はこんなもので良いですか? ならば、後は元直殿が戻ってきてからにしましょう」
「ならお茶でも――」
「私がやります!」

 一刀が当然のように配膳をしようと立ち上がるのを抑える形で、雛里が声を上げた。軍団の代表に幹部の軍師。客観的に見ればどちらもお茶汲みをさせられるような立場ではなかったが、この場においてどちらが相応しいかと言えば、一刀よりは雛里の方と言えた。それに一刀も異論はないが……

 周囲の人間の顔を見ると、酷く微妙な表情をしていた。彼女らも一刀ならば雛里ということに異論はないだろうが、かわいい小動物というイメージが民の間にまで広まっている雛里がそういうことをすると、ひっくり返しそうで不安なのである。保護欲を悪い意味でかきたてられるとでも言えば良いのか、仕事以外のことを任せるにはその小さな身体は酷く頼りなく見えるのだった。

 もうかれこれ二年以上の付き合いになる一刀もそれは良く理解していたが、やる! と瞳を輝かせている雛里を見ると、断る訳にはいかないかった。溜息にならないように気をつけながら大きく息を吐き、一刀は椅子に座りなおす。

「じゃあ、雛里にお願いしようかな」
「おまかせください!」

 小さな身体に自信を漲らせて椅子を立つ雛里を、一刀だけでなくその場にいた恋以外の全員がはらはらした気持ちで雛里の背中を追っていた。 
 
 



















「失礼するよ、朱里」

 部屋まで案内してくれた兵に軽い挨拶をしてから、一応の礼儀として断りを入れてから了解の返事を待たずに部屋に入り込む。聊か無礼かと思ったが、相手を驚かせるためにはそれも仕方がなかった。心疲れているだろう朱里に、少しでも元気になってもらいたいと思っているのは、灯里も同じなのである。

 幸いなことに、突然現れた灯里に朱里は寝台の上で目を丸くして驚いた。小さな顔に目一杯の驚きを浮かべた朱里は、学院にいた頃と変わらずに小動物のようで愛らしい。灯里も笑顔を浮かべて寝台に寄るが、近づいて見ると朱里は随分とやつれて見えた。

 元々小さい身体がさらに小さく見える。健康そうに見えるのが救いであるが、普段よりも食事の量が減っているのだろう。僅かにこけた頬が朱里の内心を伺わせる。それでも寝台の周囲に山と木簡を積んでいるのは、いかにも朱里らしいと言えた。どんな環境にあっても知識情報を仕入れずにはいられない。それが軍師の性質なのだ。

「灯里先輩!」
「具合が悪いと静里や雛里から聞いていたのだけれど、思っていたよりは元気そうで何よりだ」
「はい。私はもう大丈夫だと言ったんですけど、雛里ちゃんも静里ちゃんも大事を取れって聞かないんですよ」

 ぷー、と頬を膨らませて見せる朱里に苦笑を返す。病人けが人というのは、いつでも同じことを言うのだ。

 とは言え、第一報を貰った時に想像したよりはずっと健康そうだ。これならば寝台で寝ているのも本当に大事を取ってなのだろう。後は本人の気の持ちようで現場に復帰することができるはずだ。問題があるとすれば、復帰するための現場がないことであるが、朱里ほどの軍師ならば引く手も数多だ。それこそ本人の気の持ちようでどこにだって仕官できる。

「あの二人だって朱里を困らせたくて言っているのではないさ。大事を取れと言ってくれているのだから、取れば良いのさ。ゆっくり読書をする時間が取れるなんて、学生の時以来だろう?」
「そうですね、それは少し嬉しいです」

 木簡の一つを抱えて、朱里は儚げに微笑んだ。学院時代を懐かしむように細められた目には、遠い水鏡女学院の姿が浮かんでいるのだろうか。あの頃は好きなだけ本を読み学業に励み、学生同士で激論を交わしたものだ。小さな身体をいからせながら、こちらの論に真っ向から挑んできた朱里と雛里の姿が、灯里の脳裏に浮かぶ。

 怖がりで小心者の癖に、こうと決めたら突き進んでいく頑固なところがあった。それが朱里の原動力となっているのも事実であるが、同時に、いつか彼女の身を滅ぼすのではないかと危惧もしていた。劉備の所を出て行く羽目になったのは、まさにそれが的中した形と言える。

 劉備の人となりについて、灯里も調べたことがある。朱里が劉備の元に仕官を決めて、すぐのことだ。人物は良くできている。今の時代には似つかわしくない、気高い理想を持った人物だ。頭も悪くはないし、人徳もあるという。

 だが察するに、頭が固い。曹操や孫策のような濁の部分を受け入れるだけの度量が、劉備には欠けているように思えた。

 理想を追うことが悪いとは言わない。こんな時代であるからこそ、劉備のような理想が必要とされる。それは理解できなくはないが、それは力が伴って初めて実行できる類のものだ。最初から理想だけを追い求めて結果に結びつけることは、それこそ最初から最後まで天に愛されているような人物でなければできないだろう。

 関羽と張飛という武があり、朱里という知もあった。

 それでも、かの曹操に勝つことは難しかったろう。遠く徐州の地では曹操軍と劉備軍の戦が始まろうとしている。元々の兵力差に加え、筆頭軍師を欠いた今の劉備軍では万に一つも勝ち目はない。もはやどこを落とし所とするかの問題であるが、不幸なことに劉備軍には曹操を相手にそれを考え、纏め上げることのできる人間がいない。

 かつて劉備軍の筆頭軍師であった少女は、今灯里の目の前で微笑みながら木簡に目を落としている。

 その笑顔を横目に見ながら、灯里は木簡の題に目を走らせた。軍事書なども見られるが、その大半は調査資料だった。この并州の地理、兵や人口の分布などが事細かに記されている。灯里も木簡の一つに目を通して気づいた。この細かな仕事は、静里の物だろう。口は悪いが朱里を大切に思っているあの少女のことである。これを提出することに抵抗はあったろうが、朱里の頼みを断ることなどできない彼女は渋々これを提出したのだろう。

 おそらくこれは、奉孝たち幹部の元に渡ったのと同程度の情報が記載されたものだ。情勢を知るだけではない。相手をどうやって攻略するかを考える、軍師にこそ相応しい読み物である。寝台の横に放られた覚書には、朱里の考えが彼女らしい小さな字で書きなぐられている。自分ならば并州をどう攻略するか。かの諸葛孔明には、既にその道筋が見えているのだ。

 灯里の視線に気づいた朱里がバツの悪そうな顔をするが、灯里はすぐに首を振った。

「別に悪いことではないだろう。こういうことは僕ら軍師の癖みたいなものだ。それよりも朱里がどういう考えなのか聞かせてもらいたいな」

 本腰を入れて聞くつもりで、灯里は寝台脇の椅子に腰を降ろした。戦の方針について論を交わすのは本当に学生の時以来だ。自分と一刀たちの今後に関わることだけに必死な思いもあったが、単純に朱里の意見を聞いてみたいという思いもあった。こんな状況ながらわくわくしている自分を意識しながら、灯里は先を促す。

 朱里は恥ずかしそうに灯里を見つめ返したが、やがて意を決したのか走り書きをした木簡の一つを手にとってぽつぽつと口を開いた。

「この戦、北郷さんのためのものですよね?」

 いきなり核心を突いてきた朱里に、灯里は口ごもった。

「丁原殿の風聞と先輩の好みを鑑みるに、短期決戦を望むはず。まともにぶつかり合えば長期戦になることは間違いありませんから、そうなると奇襲強襲というのが常道です。州都から主戦力を引き離し、その隙に強襲をかけて州都を奪う、というのが最も可能性が高いと考えましたが、これはどうでしょうか」
「間違いないよ。続けてくれ」
「立地的にこの県の軍を使うのが都合が良いのは解りますが、いかに呂布、張遼両将軍がいるとは言え、外部の部隊に重要な作戦を任せるのは危険です。そもそも戦力差があるとは言え、丁原軍は人手がない訳ではありません。この作戦を任せるに十分な兵も少なからずいるでしょう。それでも尚、先輩が北郷さんに声をかけに来たのは、そうしなければならない意図があったからです。最初は両将軍を引き抜くのが目的かと思いましたが、あの二人の知名度と、丁原殿と知己であるという事実を考えれば、こんな迂遠な方法を取る必要はありません。となれば目的はそれ以外ということになります」
「客観的に見れば軍師殿たちの方が魅力的じゃないか? 一刀はそりゃあ悪い人間じゃないけれど、君主としてはちょっと物足りないよ?」
「彼らを少し調べれば強い絆で繋がっていることが見てとれます。軍師を一人引き抜くのも容易なことではないでしょう。それならば、北郷殿一人を釣って、他全員もまとめて釣り上げる方が効率は良いです」
「しかし首尾よく一刀たちを釣り上げたとしても、このままでは一刀は丁原殿の下につくことになるかもしれないよ? 一刀はともかく、軍師たちがそれを受け入れるかな?}
「そのための強襲役なんですよね? 十分な武功を立てることができれば、周りもそれを無視することはできません。それが第一の武功となれば尚更です。加えて、丁原殿は権力に対する執着が薄く、今の太守の地位すら面倒臭がっていると聞きます。丁原殿が武功第一となれば、州牧への就任はほぼ決定的です。そうならないためには、信用のおける人身御供が必要となります。そうして白羽の矢が立ったのが……」
「一刀という訳か。なるほど、流石に臥龍。素晴らしい読みだ」
「ありがとうございます」
「でも一つだけ訂正をするのなら、丁原殿はそこまで面倒くさがりではないよ。他になり手がいないのなら、なってやるのも吝かではないというようなことを仰いっていたし」

 彼女の名誉のために付け加えておくが、しかし面倒くさがりというのは本当のことだ。自分がいなくても大丈夫という確信が持てれば彼女はいつでも太守の地位など放り出して放浪の旅にでも出るに違いない。

「良く見抜いたものだけど、できることなら他言無用に頼むよ。特に一刀に知らせては駄目だ」

 と釘を刺しておくことも忘れない。奉孝などのはこちらの意図に気づいているだろうが、おかしなところで気の回らない一刀は何も気づいていないはずだ。一刀のことだ。変に意識させると途端に能力が発揮できなくなるかもしれない。そういうところが愛すべきところとは思うものの、手をしくじられると命すら失うこの状況では事を仕損じるような事態は一つでも減らしておきたい。

「どうして北郷さんにそこまで入れ込むんですか?」
「どうしてと言われると……どうしてなんだろうね」

 確かに実務能力という点ではあまり見るところはない。実戦を経験して成長はしたようだが、それこそ曹操や孫策と比べたら雲泥の差だろう。彼女らは間違いなく英傑であるが、一刀の場合そう表現するには色々な意味で寂しい。

 だが灯里は丁原に『上に押し上げるのに都合の良い人間は?』と問われてまず一刀のことを考えた。朱里の言うように彼を口説き落とせば漏れなく奉孝たちも着いてくると考えれば確かに一刀ほど都合の良い人間はいないかもしれない。実務は奉孝たちに任せ、大人しく椅子に座っていれば問題なく世界は回るのだから。大きな欲を持たないという意味では、なるほど、一刀は確かに君主の器かもしれない。奉孝に言わせれば無欲すぎるということだが、強欲であるよりはずっと良い。

 褒めるべきところと言えばそれくらいだ。旅をしている間も一刀についての情報は集めていたが、目を瞠るほどの成長はしていないと判断できる。丁原とてやる気が少なくとも英傑の部類だ。曹操や孫策に比べたら劣るものの、家名の上に胡坐をかいでいる袁紹などよりはよほど、民のことを考え政を行っている。

 そんな彼女の前に連れて行くに辺り、一刀は果たして相応しいのだろうか。

 その自問に、灯里は迷わず是と返した。一刀ならばやってくれる。そう思わせる力が一刀にはある。それを人は人徳と呼ぶのかもしれない。あの日、村で別れた時にも感じたあの思いは、今日再び一刀を前にした時、さらに強くなった。彼を推挙したのは間違いではなかったと、灯里は確信していた。

 一刀が上に上るための作戦を失敗させる訳にはいかない。そのための人手は多ければ多いほど良い。資料だけでこちらの意図を見抜いた朱里は、共に行動するに十分だろう。本人の気持ちさえ定まれば、いつだって引き入れる用意が灯里にはあった。

 朱里の顔を見ながら、灯里は寝台の周囲の資料の内容を思い出す。学術書以外は全て并州に関する資料だった。并州のみで、徐州のものは一つもない。つまり朱里は劉備に関する情報を全く仕入れていないということだ。寝台の下にでも隠した可能性は捨てきれないが、灯里は部屋に入るのに朱里の了解を待たなかった。資料を隠すだけの時間はない。劉備についての情報を意図的に遮断している節がある。

 吹っ切れたというのならば、むしろ望むところだ。新たな一歩を朱里が踏み出すというのなら、灯里は喜んで力を貸すだろう。

 だが、灯里は朱里の性格を知っている。朱里の心を占めるのは、今も劉備なのだ。それなのに情報を遮断しているのは、彼女の心の不安定さを如実に表しているように思えた。周囲に気を使って、大丈夫なように見せているだけ。本当は、いてもたってもいられないのだ。

 何より劉備は今、不味い状況にある。曹操が戦に舵を切ったことで、その命は風前の灯火だ。本当に命までとられるかは五分であるが、かの王佐の才が劉備を好んで生かすとも思えない。戦は水ものだ。仮に曹操が劉備を生かそうとしても、何かの間違いで命を落とすことが多いにありうる。

 そんな劉備の危機的状況に同道できないのは、朱里にとって大きな苦痛だろう。苦痛の中で劉備死亡の報を聞けば、彼女の心は壊れてしまうかもしれない。先輩として友人としてそれはどうしても避けたいが、今の灯里は劉備の命をどうこうできる立場にない。劉備が生き残ることができるかは、天運と、曹操の意思に関わっている。天が彼女を生かそうとするならば、曹操が有用と認めるならば劉備は生き残ることができるだろう。

 しかしそうでない時は……自分は本当に、この後輩を失うことになるかもしれない。天才肌の朱里は元来、打たれ強くない。支えにしていた劉備が死んだとなれば本当に後を追う可能性だってあった。

 そうならないためには新たな心の支えが早急に必要であるのだが、

「一刀は全く、何をやってるんだろうね」
「北郷さんがどうかしたんですか?」
「いや、こっちの話だよ」

 朱里に苦笑を返しつつ、灯里は内心で一人ごちた。

 顔は悪くないしなよっちくもない。以前にあった時はただの村の青年だったが、今は県令という立場もある。年齢的にもそろそろ女の一人や二人はいてもおかしくはないのだ。加えて、周囲には奉孝や仲徳など美女美少女がいる。正直、再会した時には子供が何人いるかと期待してもいたのだが、実際にあってみたら子供は愚か誰かと恋仲になったという様子すらない。おそらく幹部全員未通女だろう。

 朱里の心中に強烈に巣くった劉備を吹き飛ばすには、それ以上に強烈な存在を見つけるしかない。そのために一刀はうってつけだった。何より男であるのが良い。朱里が一刀に好意を抱くようなことがあれば、例え劉備に何があったとしても死ぬなんてことは考えなくなるだろう。現金と言えばそれまでだが、この際生きることに執着してくれるのならばその原動力は何でも良かった。男のためにその身を捧げると言えば、外聞は良くないが女としての体裁は保つことができる。

 だがそれも、一刀が女慣れしていないということでご破算だ。難しい状況の年頃の少女を扱えるような腕は、今の一刀にはないだろう。女の扱いに慣れていても困るが、全く知らないというのでは話にならない。逆に、幹部を奉孝たちが固めてしまったのがいけなかったのだろうか。奉孝たちとそういう仲にならないのだとすれば、男としては聊か窮屈な環境だろう。女遊びの一つでも教えることのできる人間がいれば良かったのだが、幹部は全て女性である。護衛についているらしい子義こそ男性であるが、彼は一刀の舎弟のようなものかつおばかさんであるので、良い顔をしている割に女には一刀以上に縁がない。女を世話するのは絶対に無理だ。

 それに性的な話になるには朱里は正直物足りない。奉孝たちを差し置いてまず朱里に性的興奮を覚えるというのも、それで問題だ。雛里は結構『可愛がられている』というが、実際に手を出すとなったらやはり朱里の見た目は大きな障害になる。

 朱里を取り巻く色々なものが上手く行っていない。何が間違っていたのか、誰が間違っていたのか。神ならぬ灯里にそれを特定することはできなかった。

「突然だけど朱里、君の目から見て一刀はどんな男だい?」
「良い人……じゃないかと思います。あの静里ちゃんが一緒に行動してるくらいですから、度量の広い方なのではないかと」
「話したりしてないのかい?」
「それはあまり。お見舞いには毎日来てくれますけど、いつも北郷さんだけが話して帰られます」
「それは男として美しくないな……」

 可愛い後輩に何て対応を、と灯里が密かに憤っていると朱里が慌てて否定してくる。

「違います! 私が上手く話せてないだけで、北郷さんはとても優しくしてくれます。話したくなったら話してくれれば良いよって」
「随分とのんきなものだね、あの御仁は」

 ロクに話もしてくれない少女の部屋に毎日通うというのも、随分マメなことである。そういう気遣いができるからこそ奉孝や仲徳とも上手くやっていけるのだろうが、灯里としてはもう一歩踏み込んでくれれば、と思わずにはいられなかった。そうすれば朱里も思わず恋に落ちていたかもしれない。恋して気力の充実した諸葛孔明が軍師として加わってくれるのならば、これほど心強いことはないのに勿体無いことだ。

「さて、僕はそろそろお暇するよ。一刀たちのことだ。もう結論くらいは出ているだろうからね」
「今日はきてくれてありがとうございました」
「可愛い後輩のためだからね。朱里も、早く元気になると良い。本を読んで思索に耽るのも素敵なことだけど、軍師の本領は実践だからね」
「頑張ります」

 真面目ぶって答える朱里に、灯里は手を帽子を軽く持ち上げて会釈をすると部屋を出た。

 可愛い後輩と会ったことで癒された心が、歩みを進めるごとに冷えていく。軍師の顔に戻った灯里は帽子を目深に被り直した。















インターミッション編がこれで終了となります。次回途中から戦パートのスタートです。
丁原の登場はまだちょっと先の話。さて年内に登場することはできるでしょうか……
次回もなるべく早くお届けできるよう、頑張ります。




[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二十九話 并州動乱編 下克上の巻①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 05:00













 国が変われば気候も変わる。その逆もまた然りだった。

 恋とその精鋭の部下五名と共に国境を目指して一週間。慣れない早馬にいい加減うんざりしていた頃、稟は国境を越えた。一刀の県よりも位置的にはいくらか北になっているせいか少し肌に寒い。

 寒さによる震えをどうやって誤魔化そうか稟が思案していると、先頭の恋の馬が急に足を止めた。恋は馬上で瞳を地平線の彼方へと向けている。どうしました? と稟が質問するよりも早く、地平線に変化が起こった。馬が単騎、物凄い勢いでこちらにかけてくるのが見えた。それを敵襲と判断した恋の部下に緊張が走るが、当の恋はそれを手で制したことで、稟にも漸くあれが味方であると理解することができた。

(それにしても、あれが見えるのですね……)

 豆粒ほどの大きさのそれが騎馬であることは流石に稟にも解ったが、騎乗している人間の顔は勿論、性別すらも判断できなかった。それは部下達も同じだったのだろう。あれをはっきりと味方と談じた恋に尊敬の念の篭った視線を向けている。そんな視線に気づいていないはずもないのだが、恋は何でもないかのようにぱかぽこと馬を進め、単騎で駆けてくる影との距離を詰めていく。

 お互いに距離を詰めていくことしばし、稟にもようやく影の姿がはっきりとしてきた。

 小柄な人影である。線の細い容姿は少年と言っても少女と言っても通じそうだった。村で出会った時の要と同じくらいに見えるから、少なくとも15を越えていることはないだろう。肩の辺りでばっさりと切られた髪が風に靡く様は、彼もしくは彼女の活動的な印象をより強くした。良い意味で子供らしい少女であるが馬を操る腕は高いようで、恋の姿を認めたその影は手綱も持たずに両手をぶんぶんと振り回していた。そのおバカさんっぽさはどこか要に通じるところがある。

「大姉さん!」
「澪、ひさしぶり」

 近くにまで馬を寄せてきた澪と呼ばれた彼女――声音から、稟は少女であると判断した――は、恋に微笑みかけると稟に向かって一礼した。

「遠路はるばるありがとうございます。太守丁原の使いで、名を高順と申します」
「ご丁寧に。私は郭嘉、軍師です」
「伺っています。大姉さんの仲間なんですよね?」

 人懐っこいその笑みに、稟はあいまいな返事をした。高順の全方位に向けた笑顔が、笑うのが苦手な稟には眩しかったのだ。風であればノリが悪いと突っ込みがきそうな対応だったが、高順はやっつけ気味な稟の対応を気にもせず、集団を先導する位置に馬を移動させた。そのまま一行は高順を案内役として移動を始める。

「貴殿は恋の妹なのですか?」
「血は繋がってませんけどね。私も大姉さんや小姉さんと同じ、丁原に世話になった人間なのです」

 丁原が孤児の面倒を見ているという話は聞いていた稟にとっては別段驚くべき話ではなかったが、血の濃さを重要視する人間もいる昨今、実の姉妹でないという事実は色々な意味を持つ。それでも尚本当の妹ではないと口にして微笑むことができる高順と恋の間に、稟は強い絆を感じていた。

 それから馬を走らせる間、稟は高順と色々な話をした。仕事の話は丁原がすると割り切った高順の話題は、基本的に恋と霞のことばかりだった。どんな少女で、どんな生活をしていたとか、どれくらいから頭角を現したとか。自分の話であるから恋は興味なさそうに寒々とした周囲の景色に目を馳せていたが、恋の過去など初めて聞く稟と恋の部下達は、高順の語る恋と霞の過去に大いに好奇心を刺激された。流石に自分から続きを促しこそしなかったものの、一語たりとも聞き逃すまいとする聴衆の態度は理解できたのか、高順の語り口も次第に熱を帯び始めた。

 他にすることもないものだから、結果として、丁原の本陣に着くまでの間に、高順が恋と出会ってから恋が旅立つまでの簡単なあらましが終わってしまった。

「時間切れですね。大姉さんたちのことを、今度は聞いてみたかったんですけど……」
「機会があるようでしたら、話をしましょう。恋はこの通り、あまり話すことは得意ではありませんから」
「ありがとうございます。最初は怖い感じの人かと思いましたが、大姉さんと一緒に行動するだけあって郭先生も優しい人のようだ」
「先生は結構。それに、私を持ち上げても何もでませんよ」
「それは残念」

 高順は舌を出して苦笑して見せた。実に自然なその仕草に、稟は内心で感嘆の溜息を漏らす。自分にはとても真似できない仕草だ。脳内で自分がそうしている姿を試しに想像してみるが、あまりの出来損ないさに眩暈を覚えた。

 人間には向き不向きがあるのだ、ということを今更ながらに理解して、稟は馬を下りた。

 高順に従って陣地の中を行く。たどり着いたのは、普通の幕舎だった。他の幕舎と作りは全く変わらない。案内されなければ、ここに丁原がいるとは思わないだろう。

「襲撃対策です。丁原はこういうところ、用心深いんですよね……」

 普段は大雑把なくせに、と高順は付け加える。軍師の稟から見ても用心し過ぎの感はあったが、運用の流儀は人それぞれだ。ここの代表は丁原なのだから、彼女がやりたいというのならば、それが正しいのだろう。事実今までそれで結果を出しているのだから、所詮外様である稟に文句を言う筋合いはない。

「高順です。入ります」

 表情を引き締めた高順に続いて、幕舎の中に入る。恋がそれに続く形だ。貴殿が先の方が良いのでは? と視線で問うが、恋は首を横に振るばかりだった。委細を任せてくれると考えることができるなら身の引き締まる思いだったが、恋のことだ、そこまで深く考えてはいないだろう。

 人知れず溜息をついて稟は気持ちを引き締め、丁原らしい姿を見て、その呼吸を止めた。

「貴女が軍師殿か」

 幕舎の中でのっそりと立ち上がった人影が、歩み寄ってくる。見上げるほどに身長が高い。例えば一刀は男性として身長が高い方ではないが、それでも小さくはない。稟の脳裏にある一刀の姿と比しても、頭一つ半は確実に大きいかった。影だけを見ればどんな男性よりも男らしかったが、それでも女性と判断することができたのは声だけはやたらに女性的だったからだ。

「お初にお目にかかります。北郷一刀の元で軍師をしております、郭嘉と申します」
「ああ。元直から話は聞いてる。遠いところ良くきてくれた」

 雰囲気と見た目に気おされた状態から自分の役目を思い出し、慌てて頭を下げる稟を、丁原は苦笑でもって迎えた。苦笑を浮かべたまま、その視線は稟の隣でぼーっとしてる恋を捉えた。

「お前も。久しぶりだな、恋」
「ひさしぶり、おかん」
「お前がいて尚董卓軍が負けたと聞いた時は驚いたもんだが、お前がどこの誰とも知らない男の下で働いてると聞いた時にはもっと驚いたもんだ。しかもそれが、元直の知り合いときた。全く、世の中は狭い」
「でも、かずとはいいひと」
「お前が言うんだから間違いないだろうな。元直が推すんだから、もはや疑ってもいないが、しかしそれで戦に勝てるかってのはまた話が別だ。それでは軍師殿、戦の話をしようか」

 丁原に促され、幕舎の中央に移動する。そこには近隣の地図と、展開している軍を表す駒が配置されていた。馬を模した赤い駒がこちら、何だか良く解らない青い塊が州牧軍だろう。

「現在州牧軍は国境線を僅かに超えた辺りで陣を展開している。数は役二万二千。想定していたよりも若干多い。騎馬は少なく、歩兵が中心だな。斥候に放った若い奴の話では、騎馬の対策を十全に行っているとか。色々な道具を運んでいるのが、良く見えたそうだ」

 説明を聞き、稟は小さく息をついた。無目的に正面からぶつかるような頭の弱い指揮官であることを少なからず期待していたのだが、あては外れたようだった。

「この近辺は平原が続いています。交戦するとしたら平原でするしかない訳ですが、広く動ける場所を確保できるのならば、状況は大分騎馬に有利です。更に言えば、ここは貴殿たちの領域でもある。地の利は得ていると考えても良いのですか?」
「ああ。こうなることは想定してたからな。国境のあちら側にもこちら側にも、色々な仕掛けをしておいた。しかし主戦場として想定している辺りには、そういったものはほとんどない。一部は発見されて、破壊もされてるらしい。州牧の周りはバカばかりと聞いてたが、慎重な奴もいたもんだよ」

 丁原の声にも、僅かな苛立ちが篭っている。

 確かに慎重、というのは袁家に連なる兵の印象にそぐわない。何があっても構わず正面から突撃するのがかの軍の特徴だと思っていたのだが、その認識は悪い意味で裏切られた形となった。

「だが、俺たちの作戦を遂行するに当たっては、そのほうが好都合だ」

 にやり、と笑う丁原は、まるで鬼のようだった。凄みのある笑顔に稟は思わず一歩たじろぐが、丁原は気にした様子もなく、青の駒全てを国境線から引き離し、内陸よりに移動させる。赤い円で囲まれたその地点には『目標地点』と書かれていた。

「ゆっくりと、だが確実にこの辺りまで奴ら全員を引き込む必要がある。そのための準備はしてある訳だが……作戦の成否を、軍師殿はどう見る?」
「貴殿たちの働きに全てがかかっていると言っても良いでしょう。あれだけの数の慎重な敵を釣り上げるですから。向こうの兵の錬度はどうです?」
「軽い戦闘は何度かあったが、道具が大仰なこと以外はそれほどでもない。二万二千の内ほとんどは雑兵だろう。ただ、中核の五百から千の部隊は別格かもな。遠めにしか確認できてないが、行軍の動きからして違っていたらしい」
「それは油断のできない相手ですが、二万二千のうちの千ならば、当面は気にすることはないでしょう。仮にその千がまるごと残ったとしても、他の二万一千を殲滅することができれば、我々の勝ちです」
「まぁ、俺たちの目的は皆殺しな訳だけどな」

 ハハハ、と丁原は笑い声まで豪快だった。笑う丁原を恋は淡々と、高順は頭痛を堪えるような顔で見ているのを見て、稟は自分がどんな顔をしたら良いのか解らなくなった。見た目に強すぎる個性は、時として理屈を超越するのだと、身体で学んだ一瞬だった。
















 事前に灯里が立てた作戦というのはこうである。

 国境線の外側に展開する異民族の部隊を迎撃するために、州牧軍が進発する。その州牧軍が異民族の部隊――実際には丁原軍との混成軍だが――とぶつかる時間を逆算して、一刀たち州都強襲部隊が出発する。そちらの作戦の指揮は一刀が、その補佐には雛里と灯里がついていた。風は一刀と別の進路で州都を目指し、静里は既に州都で工作を行っている。大分ゴネられはしたが、ねねは留守番だ。

 体裁としては、州牧のために自発的に派兵をしたということになる。これは特に珍しいことではない。権力者におもねるために、その意に沿う行動をするのは、どの時代、どの地域でも同じことだ。ただ、戦の始まる時期を設定できるという点において、一刀は他の面々よりも優位に立っていた。規模が小さいこともあり、その行軍はどこの軍よりも早く、一刀たちはほとんと一番乗りで州都に到着することができるはずだ。

 そこから州牧を排除し、州都を押さえる。現地での作戦は臨機応変にしなければならないため、綿密に組み立てられている訳ではないが、大筋だけを語るならばそんなところだ。到着してから後の方が難しく、稟もできるならばそちらに参加したかったのだが、こちらの戦も放ってはおけなかったため、また、灯里の推挙もありこちらへの参加となった。

 稟の主な任務は、州牧軍を国境線の外に引き付けておくことだ。首尾よく一刀側の作戦が進行したとしても、州牧軍がとって返してしまっては全てがご破算になる。奇策で州都を落とすことができたとしても、二万の軍が即座に戻ってくるとなっては、その支配を維持することはできない。戻すにしても少数で、可能な限り遅く。できることならば殲滅するというのが、最終的な目標だ。

 そのためには、敵を逃がしてはいけない。序盤で大打撃を与えて、指揮官が撤退を決めてしまったら、その敗走を全て受け止めることはできない。だから最初は、州牧軍を大きく国境線から離す必要があった。指揮官が慎重な性格というのは、こういう点では幸いだったと言える。真正面からぶつかるような人間であれば、早々に決着がついてしまうか、あるいは大きな不信感をもたれてしまうかもしれない。

 従来の袁紹軍を脳裏に思い描いていただけに、そういった事態を避けられそうなのは稟にとって望外の幸運だった。被害を出さないことを第一に考えているらしい指揮官の行軍は、よく言えば着実に、悪く言えば実におっかなびっくりとこちらの領域に踏み込んできている。小さな衝突は何度かあるが、いずれも深追いはしてこない。こちらがつっかけ、あちらが追い払う。そんな戦いが、もう十度は起こっていた。

 その戦いの中で、州牧軍の錬度も稟にはいくらか見えてきた。最初に丁原から聞いた通り、錬度はやはり高くない。装備こそ充実しており、指揮官も悪くはないがその指示が末端まで迅速にいきわたっているのを感じない。これが偽装であるなら大したものだが、行動の遅さが稟の想像を裏付けていた。

 そのおかげか、引き込みの方は順調に行えている。小規模な戦闘とこちらがどこにいるのか、というのを意図的に相手に漏らすことによって、州牧軍の進路はほとんど稟の思い描いた通りのものとなっていた。

 順調に行けば二日の後、丁原軍と州牧軍で大規模な衝突があるだろう。ここで丁原軍は、大きく敗走しなければならない。敵は大したことはないのだと思わせるのだ。指揮官は怪しいと考えるかもしれないが、数とは力である。兵の大半が組みやすしと考えたならば、その雰囲気を指揮官は無視することはできないだろう。本当に有能であるのならばそれすら統制化におき、軍を動かしたはずであるが、指揮官の意思が末端にまで伝わっていないのは、これまでの調査で解っていた。

 残る問題は、如何に上手く敗走することができるかだ。敗走はふりだけで良い。本当に負けてしまっては、後の逆転に繋げることはできない。いかに相手を気分良く勝たせ、調子に乗らせることができるかが、この作戦の全てだった。釣り上げが上手く行っている以上、丁原の手腕を疑う要素はないのだが、いつもと違う軍という事実が稟を僅かに緊張させていた。

 村を出てからずっと、近くには一刀がおり、風がおり、雛里がいた。それが一人、遠く離れて知恵を絞っている。思えば遠くに来たものだが、一人というのはやはり寂しいものだ。早く一刀たちに会いたい。その思いが稟の中で燃え上がっていた。その思いを意識すると、顔が途端に熱くなる。鼻血の出る兆候だ。メガネを外し、上を見て首筋を押さえる。自分一人でこれをすることにも、違和感が付きまとう。

 自分は弱くなったと思う。

 しかし、こんな弱さも悪くない。誰かのために知恵を絞り、その栄達を助ける。それが軍師の本懐だ。自分は今、幸せである。誰にも、一刀以外の人間には胸を張ってそう言えることが、稟にとっての誇りだった。



















「起きろ軍師殿!」

 怒鳴り声と共に身体を持ち上げられ、稟の意識は一気に覚醒した。周囲はまだ薄暗い、だが視界の隅に赤い色が見えた。炎の赤である。襲撃されている、ということを理解したのはすぐだった。

「予定よりも少し早いが、まぁ、概ね予定通りだ。起きて待ってると思ってたが寝てるとは、案外肝が太いじゃねえか!」

 非難しているような口調であるが、丁原の顔には豪快な笑みが浮かんでいた。肝が太いというのは、彼女にとっては好むべき点であるらしい。ただ寝落ちしていただけの稟としては、無用に持ち上げられるのは恥ずかしいだけだったが、今ここでそれを指摘して、水を差すのも良くはない。恥ずかしさで死にそうになるのを堪えながら、思考を切り替える。

「では、ここから予定通りに撤退を?」
「ああ。交戦しながらな。もう半分は撤退を完了した。殿で戦うのは俺の役目だが……まぁ、軍師殿は先に撤退すると良い。案内は澪にやらせよう」

 澪、というのは高順の真名である。その高順が遠くから馬をかってくるのが見えた。

「お待たせしました、軍師殿。私の馬にどうぞ」
「お手数をおかけします」

 稟とて馬には乗れるが、騎馬隊の武人に比べれば児戯に等しい。自分よりも年下の高順の後ろに乗るのは聊か屈辱ではあったものの、背に腹は変えられなかった。高順の後ろに乗り、その小さな身体に腕を回す。

「それじゃあ、行きますよ!」

 高順の声と共に、馬が加速する。戦の喧騒を背後に聞きながら、稟は考えを巡らせた。時間は若干ズレたが、事は予定通りに進んでいる。州牧軍を国境線から大分離すことができた。目標まではもう少し。今回の戦で『負ける』ことで、州牧軍はより調子づくことだろう。指揮官がいかに慎重な性格でこちらの動きを疑っていたとしても、一度流れに乗ってしまった軍を御することは難しいはずだ。

 まして、意思疎通のできていない袁紹ゆかりの軍である。調子に乗ったらどう行動するのかは、火を見るよりも明らかだった。

「餌は蒔いてきましたか?」
「もちろんです。不自然でない程度に、糧食に武器を置いておきました。それから、向こうの兵に見えるように財物も運び出しています」
「これに味をしめてくれれば良いのですがね……」

 相手を退け、物を奪ったという事実は彼らを決定的に高揚させるはずである。武器や糧食に仕掛けをすることも考えないではなかったが、一網打尽にするにはもう少し国境線から引き離す必要があった。そのための餌である。金銭で釣れるかは微妙であったものの、相手を組みやすしと見ているならば、誘いに乗ってくることは十分に考えられた。

 いずれにしても、ここから撤退するということはないだろう。最大の懸念はほとんど解消されたと言っても良い。作戦の途中ではあるが、自分の思い通りに作戦が進んでいる感触に、稟は心地の良い満足感を覚えていた。

「軍師殿、聞いても良いですか?」
「なんですか?」

 と返しながらも、稟には高順が何を聞くつもりなのか、察しがついていた。

「貴女と大姉さんたちが仕えている、北郷一刀殿についてです。正直、貴女のように頭の冴える方や、姉さんたちほどの武人が仕えるほどの人物とは思えないのですが……」
「貴殿は一刀殿の何を知っているのですか?」
「姉さんたちが仕えているという話を聞いてから、色々と調べました。丁原はあんな人間ですが一応太守ですので、人を使って調べてもらったんです」
「では、その情報を得た上で、貴殿が一刀殿についてどう思ったのか、聞かせていただけますか?」
「運の良いお人よし、でしょうか」
「……貴殿は中々情報を分析する能力に優れているようですね」

 思わず噴出しそうになった自分を律した稟は、務めて無感情な声で切り替えした。風がいたら高順の発言に同調し、霞辺りなら爆笑していたことだろう。稟も内心では同意していたが、一刀にも体面というものがある。まだ会ったこともない少女に見くびられるのは、流石に稟もかわいそうに思った。何か一刀を持ち上げることはできないものか、と考えを巡らせたが、中々一刀を正しく捕らえているらしい高順を前には、どれも笑い話になるように思えた。

「良い人、ではあると思いますが、能力は正直それほどでもありませんね」

 結局、稟は正直に答えることにした。経歴が特殊であるからか、この手の質問をされることは多いのだ。困っているふりをしながらも、実は答えるべきことはもう既に頭の中にあった。

「かといって彼を徳の高い人間と評することには抵抗があります。彼は実に人間臭い人です。強いて特徴を挙げるとするなら、そこでしょうか」
「人間臭さで人の上に立てるのですか?」
「その人間臭さに、貴女の姉たちは惹かれたのですよ」
「姉さんたちは土台ですかー」
「言いえて妙ですが、優雅ではありませんね」

 信頼であるとか、仲間という言葉の意味とか、そういったことを語るのは無粋というものだろう。一刀を嫌っているというのならばもう少し突っ込んで話をしたのだろうが、言葉の内容には棘があっても、雰囲気はそうではなかった。興味がある。高順が一刀に抱いている気持ちは、その程度のものだろう。

「土台が既に人の上にあるのなら、その上に誰か立つ必要があるんですか?」
「土台に人は導けませんよ。人を導く役目は、人にしかできないものです」
「私の柄ではありませんねー」
「私の柄でもありません。そして一刀殿の柄でもないのでしょうが、彼は土台の上に立つに相応しい人間であろうと努力しています」
「能力が低いのを理解した上で、ですか。何だか頭の下がる思いです」
「自分で言っておいて何ですが、そこまで高尚なことは考えていないでしょう。今できることを、できる範囲でやっていて、その結果として一刀殿の今があるのです。私や恋たちは、その手伝いをしているのですよ」
「早い話が、皆、その一刀殿が好きなのですね」
「……随分と強引に纏めましたね」
「でも、間違ってはいないでしょう?」
「否定はしないでおきましょう」

 一刀を導いてあげたい。その思いは確かにある。それは好意の一種ではあるのだろうが、ざっくりと切り取った高順の言うような感情であるかどうかは、稟には判断がつかなかった。好意を、恋や愛という言葉に置き換えてみる。顔が熱くなった。そして、悪い気はしない。

「軍師殿、何やら鼻血を堪えているように見えますが、体調が悪いならどこかで降ろしましょうか?」
「おきになさらず。良くあることですから」
「持病ですか。軍師なのに大変ですね……」

 素直に感心している様子の高順の顔を見て、稟は何だか自分が汚れた人間のように感じた。素直に感情を口にすることができるような性格なら、こんな思いはしなくても済むのだろうか。年頃の女らしく自問してみたが、明晰な頭脳はすぐに結論を出した。

 いずれにしても、そこには鼻血を流す自分がいる。恋にしても愛にしても、まずはこの体質を治さないことには始まらない。

 長い道のりになりそうだ。作戦が上手くいった高揚とは裏腹に、稟の気持ちは静かにゆっくりと、しかし熱を持ったまま沈んでいった。






















 それからの戦は稟の思惑の通りに進んでいった。こちらの拠点を破壊して味をしめた州牧軍は、はっきりと進軍の早さを上げたのである。数の多さを頼りに拠点を見つけては戦を仕掛けというのを繰り返す。そのほとんどで快勝し、被害も微々たるものであるのだから勢いは増すばかりだった。

 兵たちはこちらの兵を撃破したと思っているだろうが、そんなこともない。流石に皆無とはいかなかったが、敗走を演出している割にこちらの被害は少ない。割合で言えば微々たる被害を出している州牧軍よりも、さらに低いことだろう。

 ただし、敗走を演出しているだけあって出費は多い。人的被害こそ少ないが破壊された拠点、奪われた糧食に武器に財物。これだけでバカにならない被害である。異民族の兵たちも丁原の兵も、財産にはそれほど固執しない人間が多いことが救いではあるが、自分たちの物を奪われた挙句、気に食わない相手を調子付かせる作戦を黙々と続けるというのは、非常に神経をすり減らすものだ。外様である稟ですら、州牧軍が暢気に宴を開いていると報告を受けた時には腸の煮えくり返るような思いがした。

 なのに見た目からして気の短そうな彼らが、耐えているのである。それでも州牧軍への罵詈雑言は聞こえてくるが、勝手に州牧軍へと突撃するような人間は出てきていない。丁原の意思が、末端の兵にまで浸透しているのだ。十分過ぎるほどの意思疎通である。

 その連帯感に助けられる形で、稟も作戦案に色々と修正を加えた。餌に使う財物などの調整や、兵の引き際など、一つの戦が終わる度に報告から内容を分析し、次回の対応を返すのである。兵は丁原をはじめ学のない人間が多かったが、こちらの指示だけは忠実に実行してくれた。どのような意図があってその作戦を実行するのか、を理解することを最初から諦めているから、行動にも迷いがない。それで騎馬隊として精強なのだから、兵としては理想的な姿である。

 稟が丁原軍に合流してから、一月と半分。その間に行われた戦は、大小合わせて四十。破壊された拠点は16に及ぶ。損害を金子に換算すると北郷軍の財務担当であるねねなどは怒り狂いそうな額となったが、それだけ投資した甲斐もあり、想定していたよりも長い時間州牧軍を引き付け、目標とする地点までの誘導に成功した。

 これまでの戦の総決算。そのつもりで大将である丁原自らが甲冑を着込み、出陣していた。彼女の旗下、精兵一千を中心とした騎馬三千の部隊である。対する州牧軍は二万を越える大軍だった。これまでの小競り合いで千近い損害を出したものの、その勢いに陰りは見えない。今までよりも多いこちらの影に多少は及び腰になっているようだが、これまでと同じように勝てるはず、という弛緩した雰囲気が、離れた本陣にいる稟からも見てとれた。

「軍師殿、あんたがあっちの指揮官だったらどういう対応をするね」
「派兵の目的を考えると、成果を上げるまでは撤退は難しい。しかし相手は精強で鳴らす異民族の騎馬兵、それに太守丁原殿まで加わっている。加えて敵方の領土に進軍するのですから、兵が二万でも心許ない上に、与えられたのは精兵とは言いがたい人間ばかり。ならば、、成果を上げるよりも多少の叱責を覚悟で早急に戦を切り上げることを考えます。多数の拠点を攻撃し、敵兵の被害は甚大という報告とこれまでの戦で勝利したという事実。兵の被害の少なさもあれば、何とか体裁は整うはずです」
「それであの州牧が納得するかね?」
「元より二万で完勝など無理なのです。手柄を意識して徒に兵を危険に晒し敗走する方が、ただ叱責されるよりもよほど怖い。問題はその叱責がどの程度のものになるかということですが、その辺りは軍師の智の見せ所でしょう。私があの指揮官の立場ならば、出立の前に根回しくらいはしておきます」
「なるほどねぇ……ちなみに軍師殿の目から見て、あの指揮官は何点だ?」
「調子にのっている兵を良くここまで統率していると思います。異民族への侵攻軍、その先兵を任されるのですから、非凡な力量を持っていることは察せられますが如何せん、指揮力に兵の力量が伴っていません。指揮官の力量は及第点を差し上げても良いでしょうが、軍団として見た場合は落第ですね」
「敵ながら同情を禁じえないな」
「でも手加減などしないのでしょう?」
「当たり前だろう」

 迷うこともなく言い切って、丁原は自分の仲間たちを見回した。馬に乗った兵たちは今か今かと、戦の口火が切られるのを待っている。作戦に従ってとは言え、力で劣る相手に負け続けてきたのだ。その苛立ちが、稟には見えるようだった。今の彼らならば、どんな敵だって倒せるのではないか。そんな気持ちを抱かせるほどに、彼らの顔には、雰囲気には、覇気が満ち溢れていた。

 指揮の高さには、文句の付けようもない。兵の質でこそかつての董卓軍張遼隊には劣るかもしれないが、彼らは正に最強の騎馬隊だった。

「俺たちは兵だからな。敵を倒すのに感情は差し挟まない。戦いが始まれば、敵を叩き潰すだけさ」

 州牧軍は動き出した。先頭に立つ兵に引きずられるような形で、進軍を開始する。騎馬隊用の装備を持っての移動であるから、その速度は遅い。異民族の騎馬隊が精強であることは、帝国の人間ならば皆知っていることだ。兵ならば更に身にしみているだろうが、どっしり構えて迎え撃つという雰囲気はない。騎馬隊を相手に、装備を抱えてとは言え打って出るというのは、正気の沙汰とは思えなかった。

 調子に乗らせるというのは稟の意図したことで、これはむしろ注文通りの結果と言えるが、注文通り過ぎる現実を前に、稟は逆に不信感を覚えた。何か裏があるのでは。そう思って周囲に斥候を走らせるが、他に敵影は見えない。そもそも、敵の姿については騎馬隊の機動力を活かし、ずっと探らせていた。眼前にいるだけで、敵は全てというのが、丁原と共に出した結論である。今さら増援がくるなどとは、考えられない。

 本当に、全力で州牧軍は向かってきているのだ。稟は大きく息を吸い、吐いた。

「進軍しましょう。敵兵を打ち崩し、殲滅させるのです」

 稟の言葉に、丁原は槍を振り上げ声を上げた。

「野郎ども! 今まで良く耐えた! 腸の煮え返る思いをするのも、これで最後だ! 敵は今、目の前にいる! 倒すべき敵だ! 今日は何も手加減しなくて良い! 思う存分馬を走らせ、思う存分、奴らを叩き潰してこい! ここで待つ軍師殿に、俺たちの力を見せてやれ!」

 兵たちは武器を掲げて怒号をあげる。丁原が動き出すと、彼らは末端の位置にいる人間まで一斉に動き出した。丁原たちが動き出したのを見て、州牧軍は動きを止めた。慌てた様子で前方にいた兵が馬留めの柵を展開し、その後続にいた兵が戟を構える。さらにその後ろにいる兵が弓を構えた。射程内に丁原たちが来るまで待って――いる間に、丁原たちの方から矢を放った。馬の勢いの乗った矢は柵を飛び越え、随分な余裕を持って弓兵に当たった。州僕軍の矢も丁原たちに降り注いでいるが、彼らはものともしなかった。あるものは身体を捻るだけで、あるものは剣で払う。脱落した人間は一人もいなかった。

 矢の雨の中を突破した丁原たちは、柵を構える兵たちに突っ込む直前、直角に進路を変える。二部隊に分かれた彼女らは、州僕軍の周囲を高速で移動する。ぶつかるのならば正面から、そう思い込んでいたらしい州牧軍は多いに慌てた。外周にいた兵の混乱は内側にまで浸透し、軍全体が混乱に陥る。

 その混乱を丁原は見逃さなかった。どういう根拠があったのか知れないが、突入するにその一点を選び、率いる全てを突っ込ませる。二部隊に分かれた彼女の兵は千五百。州牧軍の十分の一以下であるが、その勢いは留まるところを知らない。無人の荒野を行くかの如く、州僕軍を断ち割り、堂々と反対側に抜けた。強引に二部隊に分けられた州牧軍は合流を目指すが、そこにもう半分の部隊が突撃した。

 少ない方の軍に的を絞った彼らは今までの恨みとばかりに、武器を振るい州牧軍を狩りまくっていく。その間に、丁原が率いる方の部隊が、再び州牧軍本体の方に突入する。体勢の整いきっていない州牧軍は、この突撃を受け止めることができなかった。再び部隊を断ち割られ、州牧軍の混乱はさらに広がっていく。

 もはや戦ではなく蹂躙だった。騎馬を受け止めるべき兵はその役目を放棄し、右往左往している。勝手に逃げないのは、最後の意地――ではなく、ここで逃げたら更に酷いことになると本能で理解しているのだろう。指揮官もそれを理解していたからこそ、状況が悪くなっても兵の動きを掌握することに尽力していたのだろうが、丁原が五度目の突撃を敢行したところで、州牧軍の緊張の糸がついに切れた。

 兵の一部が敗走を始めると、残りの兵もそれに従うように彼らに続いた。国境線の方に向かって逃げていく州牧軍を、丁原たちは追わなかった。只管に州牧軍を狩ることに専念していた部隊を一箇所に集め、点呼を取る。一方的な攻撃といっても、さすがに無傷とはいかなかった。三千いた兵は百名ほどが減っていた。

 しかし、州牧軍の兵はその比ではない。州僕軍の大半が去った平原には、見渡す限り州牧軍の死体が転がっていた。千や二千ではきかないだろう。この戦だけを切りとってみれば、丁原たちの大勝利だった。

「お疲れ様でした。丁原殿」
「一気に大将を討ち取れるかと欲を出したが、中央の兵は流石に強かったな」
「これだけ兵を削ることができれば御の字でしょう。後は恋たちに任せておけば、問題はないかと」
「逃げた連中も災難だな。逃げた先にいる連中の方がつえーんだから」

 八千いた兵の残りの五千は、恋を大将として州牧軍の撤退進路に散っている。夜襲奇襲を中心に国境線を越えるまでに殲滅、あるいは拘束するのが恋たちの任務だ。兵の質の違いを認識し、敗走している最中の敵だ。中心の精兵を相手にするのは苦労するだろうが、数において勝るこちらに勝てるとも思えないし、そもそも国士無双たる恋がいて負ける気がしなかった。連合軍で敵として戦った時には脅威にしか感じなかった恋が、味方にいるとここまで頼もしい。

「兵には休息を与えましょう。分散して逃げる兵を、少しでも多く拘束しなければなりませんからね」
「それはそれで面倒な仕事だな。俺はただ、戦ってる方が楽だ。兵だってそう思ってるぜ?」
「これはこれで必要な仕事なのです。文句を言いたくなる気持ちは解りますし、私も面倒くさいとは思いますが、我慢をしてください」
「……軍師殿は、まさに『先生』って感じだな」
「よく言われます。さぁ、私のことを理解できたのならば、動きましょう。我々の仕事ぶりに、後々の展開がかかっているのですから」

 呆れと疲れを含んだ表情で、丁原は頷いた。見上げるような女丈夫が、勉強をどうにかしてサボろうとする子供のような表情をしている。これだけ精強な兵を率いているのに、こういう態度は子供のようだ。兵たちから笑い声があがる。仕事に対して文句を言いながらも、彼らは迅速に稟の指示に従い、休息の後、方々に散っていった。

 まずは初戦、勝利である。自分の仕事は果たされようとしている。後は、一刀たちの成功を祈るばかりだった。















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三十話 并州動乱編 下克上の巻②
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 05:00




 差し出された上品な器から、上品な香りが漂ってくる。茶葉は稟が手配したもので、一刀の執務室でも同じものを使っているものだ。当然一刀も飲んだことがあるお茶だが、今鼻で感じている香りは、いつも飲んでいるものと明らかに違っていた。

 口にすると、その違いは際立ってくる。執務の合間に飲むだけと最近は全くお茶の味に拘っていなかったが、そんな一刀をこのお茶は一瞬で虜にした。一口、また一口と茶を啜る一刀に、お茶を淹れた董卓はにこりと微笑んだ。

「お気に召していただいたようで何よりです」
「……お恥ずかしいところをお見せしました」
「いえ。美味しく飲んでいただけることは、私にとって何よりも嬉しいことです」

 にこにこと本当に嬉しそうに微笑む董卓に相好を崩していると、耳に咳払いが届いた。刺すような視線を送ってくる賈詡に、一刀は居住まいを正す。董卓がお茶を出してくれたのは、好意でだ。ここにはお茶を楽しみにきたのではない。元より、そんな時間もなかった。

「お気遣い感謝します。董卓殿」
「今の私にはこれくらいしかできませんから」

 空になった器を受け取りながら、董卓は儚げに微笑んだ。かつて中華の半分の軍勢を率いていた少女は、今は無力である。連合軍の公的な認識では、董卓軍は解散したことになっているが、それを信じている人間は連合軍の中にすら一人もいない。虎牢関での戦いが董卓軍側の判断で切り上げられたおかげで、本来捕縛、あるいは殲滅されるはずだった軍勢はほとんど手付かずで散り散りになっていた。

 中には兵をやめ市井に降った人間もいるだろうが、多くは涼州に向かったと静里は言っていた。遠い涼州の地で、彼らは主が再起する日を待っているという。その士気は高く、今でも調練は怠っていないらしい。聞きしに勝る忠義っぷりであるが、眼前の少女を見ればその忠義にも納得がいった。この少女のためにならば、命をかける価値はあるだろう。一刀も最初にこの少女に出会っていたら、そういう決断をしていたかもしれない。能力とかそういったものとは別の次元で、この少女には人を惹きつける天賦の才能があった。その一挙手一投足が、人を惹きつけるのである。

 例えば孫策のような太陽のような激しさはないが、月のように静かな、しかし確かな存在感が董卓にはあった。そんな明らかに上に立つべき人間が市井に埋もれ、自分のような凡才が打って出ようとしている。天の采配に一刀は不満を感じないではない。条件さえ整っていれば、董卓は良い政治をすることができたはずなのだ。スタート時のマイナスが多すぎた、ただそれだけなのだ。

 兵と一緒に涼州に逃げていれば、再起の道もあっただろう。十分に戦力を整え、恋や霞のような将を抱えていれば、孫策を打ち破り、曹操を出し抜き、再び覇を唱えることも夢ではなかったかもしれない。

 しかし、董卓はそれをしなかった。人の上に立つ才能を持った少女は、人の上に立つには心が優しすぎたのだ。

「これから州都を襲撃するのよね」

 席を立ち辞去しようとしたところで口を開いたのは賈詡だった。その言葉に一刀は思わず瞑目し、まぶたを押さえた。

 当然のことながら強襲作戦は極秘である。重要人物ではあるが部外者である賈詡には勿論一刀は話していないし、幹部全員もそうだろう。要などはうっかり口を滑らせそうではあるが、彼は口うるさいタイプの軍師にはなるべく関わらない主義のため、基本的に自分の領域から出てこない賈詡のために自ら足を運ぶとは考え難い。

 つまるところ、賈詡は自分の推察のみでこの結論に達したということになる。静里や灯里の話では諸葛孔明も同様のことをしたという。軍師というのは魔法使いか何かなのだろうか。そんな詮無いことを考えるが、彼女らの頭の冴えを見ていると本当にそうなのではないかという気がしてくる。

 魔法少女な発言をする賈詡に、董卓は慌てて非難するような視線を向けたが、賈詡は苛立ちをぶつけるかのように無感動な口調で言葉を続けた。

「国境線から大きく部隊を引き離しておいて、戦力の薄くなった州都を強襲、占領。支配を維持できるかは微妙だけど、評判悪い州牧を排除できれば、残留軍を支配下における可能性は高いものね。そうなれば後は椅子の取り合い。侵攻軍を引き受けた部隊の大将か、強襲部隊の責任者か。どちらが最大の功労者かは意見の分かれるところだけど、そこは軍師の腕の見せ所よね。あんたのところの軍師たちなら、さぞかし良い結果を引き出せるでしょう。案外、もう根回しも始めてるかも――」
「詠ちゃん!」

 ついに董卓が怒鳴り声をあげると、賈詡は言葉を止めた。止めたが、その顔には不満が熱となって燻っている。お前がその位置にいるのが気に食わないと、はっきりと顔に書いてあった。気持ちは解らないでもない。一時、董卓は頂点に立っていた。その主が燻ったままでいるのに、今まさに勝負をかけようとしている人間がいることは、董卓を支えた賈詡にとって、我慢がならないのだろう。それが理屈として正しくないことは賈詡にも解っているのだろうが、感情と理屈は別ものだ。董卓の言葉は大抵聞き入れる賈詡が、今は不満そうな表情を隠そうともしていない。

 そんな賈詡に一刀は荀彧に通じるものを感じていた。立ち直れないくらいの罵詈雑言と一緒に手も足も出してきた彼女に比べれば、離れて口で攻撃してくるだけの賈詡などかわいいものだが、遠く、今は曹操の元にいる恩人を思い出した一刀の気持ちは、非難されたにも関わらず晴れていった。

「戦後のことはわかりません。方針を決めるのは俺ですけど、実際に動かしてくれているのは周りの人間なもので」
「お飾りな訳ね」
「もっとしゃんとした見栄えなら、とは常々思っています」

 ははは、と一刀は笑う。冗談のつもりで言ったのだが、賈詡は勿論董卓も笑ってくれなかった。次はもう少し空気を読もう、と静かに固く心に誓う。

「あんたは上に立つって野望がある訳じゃないの?」
「結果としてそれが得られたというのであれば、それを受け入れる準備はあります。俺はそれほどのものじゃありませんけど、俺についてきてくれる皆は本当に優秀なので、彼女らのために、彼女らの力を存分に振るえるような場所を作ってあげたいんです」
「万の軍勢を率いていた霞が、今や百人隊長だもんねー」
「事実だけに心苦しい話です」

 苦笑を浮かべるが、現時点ではどうしようもないことでもある。

 しかし、この作戦が成功すれば結果的に地位は上がるだろう。かつての霞や恋が率いていた軍勢を用意するにはまだまだ遠そうではあるが、これは着実な一歩である。

「それでは、これで失礼します」
「お構いできなくて申し訳ありません」
「もう来なくても良いわよ」

 二種類の感情に見送られながら、一刀は席を立つ。悪びれた様子のない賈詡と、申し訳なさそうな董卓。二人の見せる感情は実に対照的だった。忙しくあまり話す機会には恵まれなかったが、これからはもっと話してみたいと思った。



















「団長ー、どうしたんです?」

 馬の上で過去に思いを馳せていた一刀は、要の声で我に返った。

 州都までの道のりである。周囲にいるのは武装した兵がおよそ百。一部は荷物の載った荷車を引いている。荷車に満載されているのは兵糧だ。財務担当のねねを拝み倒して予算を作り、ここに来るまでの間にかき集めたものである。無論、一刀たちの兵糧ではない。これは名目上、これから異民族との戦を行うことになる州牧への献上品だった。

 故に、兵糧にしては豪華な品々である。一刀たちが普段口にしているものと比べたら、価格にして軽く百倍は違う。兵糧としてまともな品ではない。食料の形をしており兵糧という体をとっているが、所謂賄賂だ。作戦の一環とは言え、敵対する人間に賄賂を贈らねばならないことに抵抗を覚えないではなかったが、これは必要なこと、と灯里と稟に説得されて一刀は折れた。今でも抵抗する気持ちは残っているが、ここで無駄に反抗しても意味がないし、第一ねねにキレられたことが無意味になってしまう。

 小さい身体で怒りっぽいが、根はまっすぐで正直な女の子だ。作戦とは言え州牧に食料を供与することは、耐え難いものがあるに違いない。仲間の無念は自分の無念である。北郷一刀は一人で戦っている訳ではない。仲間に支えられ、力を貸してもらっているからこそ、今の自分があるのだ。自分の背中には、仲間の思いが乗っている。それを思うと、多くのことに耐えられた。ムカつくくらいがなんだ。仲間はもっと辛い思いをしているのだ、と。

 考えを振り払うように、一刀は頭を振った。

「悪いな。ちょっと考えごとをしてたんだ」
「せめて作戦の段取りを思い返していた、と言って欲しいものだね」

 追従するのは灯里だ。集団の先頭を馬で行っている一刀の右に要が、左には灯里が並んでいる。誰が隣にくるか、というのは同道する軍師の間でひと悶着があったことだが、平和的な話し合いの結果、灯里が並ぶことで落ちついた。ちなみにこの場で最も軍師として序列の高い風は、一刀たちから僅かに離れた荷車の近くで、霞と並んで馬を歩かせている。実働部隊の実質的な責任者である霞と、最後の打ち合わせをするためだ。その隣では周倉が黙って話を聞いている。作戦への入れ込み具合で見れば、周倉はこの集団の中でも頭一つ抜けていると言っても良い。元々官軍嫌いであったことに加えて、排他的な政治を行う州牧の評価は、周倉の中では最低だった。一刀たちは多分に打算的な理由で動いているが、周倉は純然たる義侠心で動いている。それは周倉と一緒に賊をやっていた面々も同じで、荷車の周囲を行く彼らの目には、炎が燃えていた。

「それだと、全く作戦のことを考えてなかったように聞こえるぞ」
「つまり、作戦以外のことを考えていたって白状する訳だね。残してきた女性のことでも考えていたんだろう。白いお嬢さんかい? それともメガネの彼女かな」

 何でもない風を装って、ずばり正解を的中させてくる。軍師というのはこれだから侮れない。内心を正確に看破したことは、おそらく表情で読み取られてしまっただろう。灯里の笑顔の質が、若干いやらしいものに変わっていく。軍師にからかわれると、弄られるだけで終わってしまう。戦う前から負けたような気持ちになることは、できれば避けたい。何か助けてくれるものかはないか、と視線を彷徨わせた一刀の目に、ひらひらと揺れる帽子の先がうつった。

 天の助けとばかりに、一刀はそれをひょいと持ち上げる。あぁー、とその帽子の持ち主である雛里が抗議の声をあげた。一刀の腕に抱えられるようにして馬に乗っていた雛里は、腕を伸ばして帽子を奪い返そうと試みるが、身体の大きさは如何ともしがたかった。目一杯腕を伸ばす雛里を眼下に見ながら、奪った帽子を自分の頭に載せる。途端に周囲から笑い声があがった。霞など腹を抱えて大爆笑している。一刀は周囲の笑いに応えるように両手を上げると、帽子を雛里の頭に戻す。やっと戻ってきた相棒のふちを、ぎゅーっと引っ張って目線を隠してしまう。慌てていた自分が恥ずかしいらしい。

 そんな雛里の頭を、帽子ごと撫でると、一刀は何でもないようにそれを口にした。

「そろそろだな」

 ぽつりと呟いた一刀の視線の先には、州都の門が見えていた。今回の目的地であり、戦場となる場所だ。異民族との戦いで軍の大半が出払っているとは言え、州牧軍の本拠でもある。対してこちらが連れているのは、霞や周倉などの手錬がいるとは言え百名ほどの寡兵だった。州都全体の兵を集めればおそらく千はいるだろう。その全てが敵対している訳ではないが、戦力差十倍の敵地に乗り込むという事実に、今更ながらに一刀の身体に冷や汗が流れる。

「なるようになるさ。僕らが彼らに一泡吹かせるには、これが最適なのさ」
「でも、皆が無事って訳にはいかないだろう」
「そりゃあ戦だからね。参加するからには、死ぬ覚悟くらいしなきゃいけない」

 さばさばとした軍師の物言いに、一刀が押し黙る。嫌な沈黙を感じ取った雛里が一刀の腕の中で身じろぎした。慰めの言葉を捜しているらしい雛里の目を見て、一刀は小さく溜息をつく。この感情と折り合いを付けるのも、上に立つ者の勤めだ。

「できる限り、死なずに済ませたいよな。味方も、敵も」
「それは向こうの出方次第だね。静里の情報では州牧のいるはずの州庁は、彼の雇った傭兵で固められているという。正確な数は解らず仕舞いだけど、百はいるらしいという話だ」
「周囲を守る兵だけでこっちを上回ってるんだから、たまらないよな……」

 それを覚悟で戦に臨んだ訳だが、改めて直視する事実は一刀の心を激しく揺さぶった。態々護衛として雇うからには、それなりの腕をしているのだろう。傭兵というのだから実戦経験も豊富に違いない。

 相手が強いと考えると気が滅入るばかりだったが、一刀の連れている面々も負けてはいなかった。周倉と一緒に賊として動いていた連中は官軍相手に何度も実戦を経験しているし、一刀が連れてきた面々は連合軍の戦を生き抜いた。風と一緒に別行動をしていた霞が連れてきた信用筋の人間たちは、見た目も雰囲気も筋者以外の何者でもなかったが、その実力は霞が保障している。軍団としての力量は未知数だが、個々の力量は傭兵たちにも引けを取らないのは間違いなかった。

 尽くせるだけの人事は尽くし、時は軍師たちが選定した最高のものだ。やれるだけのことはやったと、胸を張って言うことができる。

 後は天命を待つのみ。信心深い人間ならばそう言うのだろうが、この期に及んで天とか神に頼る気が一刀にはなかった。物事を成すのは人であり、自分の仲間である。仲間と共にここまで来たのだ。これを成せないはずがないと、無理やりにでも信じる。やらねばならない。勝たねばならない。一刀の気持ちはゆっくりと、切り替わっていった。

 周囲を行く者たちの気持ちも、それにつられるように引き締まっていく。ここから先は、戦なのだ。誰かが死ぬかもしれない。しかし、自分の行いでそれを助けられるかもしれない。仲間が生き残るのも、死ぬのも、自分の行いにかかっているのだ。誰もが集まった百人全てを味方と思っていた訳ではないだろうが、この時、一刀たちの気持ちは確かに一つとなっていた。

 門が近づいてくると、人の流れもできてくる。商人なり一般人なり、行き交う人間は様々だったが、その中で一刀たちのような武装した人間は目立った。退けと誰が口にした訳ではないが、一刀たちを見て行き交う人間たちは自然と道を空けていく。物騒な世の中だ。武装している人間に好んで関わろうという人間はいないのだろう。

 大きな町の場合、門を越える際には兵の前を通らなければならない。彼らは警備の役目も負っているため、誰でも通すという訳ではなかった。審査をしたり、場合によっては税金を取られることもある。ここ州都の門は税金が聊か高いことで知られていた。大抵の物には税金がかけられているため、特に商人と門衛との悶着は絶えることがない。一刀たちが門に近づいた時も、一人の商人が門衛とやりあっていた。やはり税金が高いと一頻り文句を言った商人は、足音も高く門を後にしていく。時は金なりだ。文句を言っても税金が安くなる訳ではないというのは、商人も解っている。憂さ晴らしに付き合わされる門衛は堪ったものではないだろうが、これも仕事と割り切って大きく溜息をつくその姿に、哀愁を感じずにはいられなかった。

 さて次の人間は――と視線を巡らせた門衛の視線が、一刀たちを見て硬直する。武装した人間が百人ばかり、荷台には荷物を積んでいる。尋常な集団ではないのは一目で解っただろう。門衛は慌てて同僚を呼んだ。切羽詰ったその声を受けて、詰め所の方からいかにも責任者といった感じの中年の男性が出てくる。

 一刀は全員に下馬を命じ、自分も馬から降りた。進み出てきた責任者らしき男性に一礼し、

「私は県令の北郷一刀と申します。州牧閣下にお渡ししたきものがあり、参上いたしました。この旨は文にて知らせてございます。恐れ入りますが、ご確認いただけますでしょうか」
「しばし、お待ちを」

 責任者の男性は部下を詰め所にやり、確認を取る。事前に文を出すのは大集団が門をスムーズに通過するためのよくある処置の一つである。これくらいの人数がこんな目的で、これくらいの時期に到着しますということを事前に伝えておけば、審査も速く済むというシステムだ。洛陽などの大きな街になればそういう人間専用の門も用意されているのだが、この州都は一般人と同様の入り口で、一刀たちは特に別の場所へ移動するよう促されることもなく、ただ道の脇に寄っただけで門衛の反応を待った。

「まさかここで頓挫するなんてことはないよな……」
「文を用意したのは稟だからね。僕らは信じて待つだけさ」

 ここまで準備してきて、こんな場所で失敗したら目も当てられないと気にする一刀に、灯里は流石の様子で壁の背中を預けている。緊張しているのだろうが、そんな様子は微塵も感じさせない。彼女の持つ飄々とした雰囲気は、周囲の人間の気持ちを和らげることに一役買っていた。逆に緊張しっぱなしの雛里などは、そんな灯里の姿を見て無理に落ち着こうと躍起になっている。あわわと視線を彷徨わせる様は怪しさ大爆発であるが、これも雛里のロリロリした容姿が補助となり、小動物的な可愛さを演出するだけに留まっていた。見た目に助けられた、言うと雛里はむくれてしまうのだろうが、今はその容姿もありがたい。

「お待たせしました」

 先ほどの責任者がやってきたのは、それから三分ほど経った後だった。彼は一人ではなく、部下らしき人間を伴っている。儀礼的な装備を纏ったその人間は、一目でただの門衛ではないと知れる。

「確認が取れました。このまま皆さん、州庁までお進みください。そこの門で再び確認ということになります。そこまではこちらの者が案内いたしますので、ご同道願います」
「ご丁寧にありがとうございます」

 丁寧に頭を下げ、新たに現れた人間について歩き出す。灯里たちも荷台を引いてそれに続いた。街の兵が一人加わっても街の中にあっても、武装した集団の異様は変わらない。道を行く人間は関わることを避けるようにぱっと道を空ける。先頭に街の兵がいるからか、その効果も覿面だった。

 先頭を行くのは一刀、そして門から同道した街の兵だった。一刀は横目でその兵を見る。制服の上に鎧をきっちりと着こなした、いかにも生真面目そうな女性である。収まりの悪い黒髪に、レンズの大きなメガネが特徴的だった。視線に気付いたその兵が、釣り目気味の目を一刀に向けてくる。そこで、一刀は堪えきれずに苦笑を漏らした。

「いつから兵になったんだ?」
「一昨日からか。潜り込むのに苦労した」

 兵――の格好をした静里は、鬱陶しそうにメガネをとり懐に仕舞う。がりがりと頭をかきながら、道の先を見つめた。

「さて――州庁の警備は相変わらずだ。外部の警備は元々の街の兵だが、州庁内部と州牧の自宅、及び州牧自身の警備は奴個人で雇用した傭兵によってまかなわれている。実力の程は、まぁ、そこそこだな。州牧が移動する度に移動するから、最も警備が厚いのは今現在州牧がいる場所ということになる」
「影武者が使われてるってことは?」
「いるのかもしれないが、影武者がいる場所の近くに……少なくとも同じ建物の中には本物がいる。私たちの目的は、奴を殺害、最悪でも捕縛することだ」

 つまるところ、州牧を逃がすのは最悪の一手ということである。州庁を占拠し、州牧を追い出してしまえば一時的に権力を握ることはできるだろうが、異民族への侵攻は州牧の存在によって行われているところが大きい。そのコネ、財を使って別の場所で再起されてしまったらその分戦争が長引くこととなり、支持基盤のほとんどない一刀たちだけでなく、現状異民族の支援によって立っている丁原も弱い立場となる。

「秘密の通路とかあると全てがご破算なんだけど、その辺りは大丈夫か?」

 州庁の図面は静里が事前に手を回し、入手している。一刀たちのほとんどがそれに目を通し記憶していたが、隠し通路の存在だけは最後まで否定することができなかった。この作戦も、通路はないものとして立てられている。あった場合は、静里たち現地の人間がフォローすることで話はついていたが、隠し通路が複数あったりすると静里たちでもカバーしきれないかもしれない。

「絶対にないとは言い切れないのが正直なところだな。大工も交えて図面を見て検討したし、昨日かなり上の立場の人間を捕まえて締め上げてみたが、そんな通路の存在は確認できなかった。よって、私たちが封鎖するのは通常の出入り口のみだ。それら全てを監視する人員を、三日前に漸く確保することに成功した。十全とは行かないが、上々の人数だろう」
「良くそんなに集められたもんだな」
「元々人気のない州牧だったからな。奴の寝首をかいてやりたいって組織は沢山あった。その中から信用できる連中を選ぶのに苦労したが、時間をかけて選定しただけあって、それなりに信用できる連中が集まったと思う。だが、腕の方は期待するなよ? あくまでただの頭数としてそこにいるって認識でいろ。もし逃げられた時、どこから逃げたかを把握するための人員だと思え」
「つまり州庁の外に五体満足で逃げられたら、俺たちの負けってことか」
「そうなるな。私もできる限りのことはするが……結果はお前たちの働きにかかってる。くれぐれも、しくじるんじゃないぞ」
「励ましの言葉、ありがとう」

 冗談めかして言った言葉に笑いもせず、静里はメガネをかけなおした。どこか斜に構えた表情を、真面目な兵のそれに戻す。州庁が近づいてきたのだ。やってきた県令を先導する州都の兵、という役割に戻った静里は立ち振る舞いから雰囲気まで、兵のそれになった。

「変装とかできたんだな」
「これで変装とか言ってたら本職の奴らのなんて魔法に見えるぞ。それと話しかけるのは構わないが、あまり馴れ馴れしくするなよ。私は兵で、お前は県令だ。少しは尊大な振る舞いってもんを覚えた方が良い」
「貫禄が全くないとは、稟にも良く言われる」
「言わないだけで私も常々思ってる。先輩とかは、その方が良いって言うんだろうが……」

 兵の顔のまま、静里は傍を歩く雛里に視線を向けた。水を向けられた雛里は静里の視線に身体を竦ませる。あんまりと言えばあんまりな反応に少し傷ついた顔をする静里を、灯里がにやにやとこれ見よがしに笑う。これが下っ端であればデコピンの一つも飛んだのだろうが、口は悪くても上下関係を地味に重んじる静里は、小さくした舌打ちして視線を正面に戻した。

「段取りの通りに」
「了解。後はよろしく」

 静里は会話をそれで打ち切った。兵の顔、兵の雰囲気で一刀から数歩離れて歩く。

「お客様をお連れしました」

 州庁の前まで到着した静里はまず、その門衛に声をかけた。門衛はちらと静里に目をやると、実に横柄な態度で一刀に目を向けてくる。一目で兵と解るのは静里と同じだが、その装備にはやけに金がかかっているように見えた。ただの兵とは違うということを、見た目で解らせるようにしているのだろう。それだけで、彼が州牧の子飼いの傭兵であるというのは見て取れた。

「県令の、北郷一刀と申します。本日は州牧閣下に差し上げたいものがあり、参上いたしました」
「知らせは聞いている。積荷はなんだ」
「糧食にございます。こちらが目録です。お手数ですが、ご確認のほどをお願いいたします」

 ふん と小さく頷いた男が奥に視線をやると、門の内側から似たような格好をした兵が四人ほど出てくる。彼らは荷台に飛び乗ると、意外なほどにてきぱきと積荷の確認を始める。数分のチェックで、積荷が目録と相違ないことは確認された。これには、門衛の兵が落胆した態度を見せた。金塊であるとか宝石であるとか、もっと解りやすい形での賄賂を期待していたのだろう。これはこれで高値で売れる品であるが、即物的な生き方をすることが多い傭兵は解り易い形の報酬を好むものだ。

「品はこれで全てか?」
「残りは閣下に直接お渡ししたく存じます」

 一刀は無害そうに微笑みながら、両手を軽く打ち鳴らした。その音で前に出てくるのは、灯里と周倉である。

 荷台と一刀の護衛役である武装した集団の中にあって、その二人だけが異質な格好をしていた。上等で綺麗な着物に、化粧までしている。髪はきちんと手入れされ、下品でない程度にその身体を彩る装飾品にはそれなりの金がかけられていることが解った。

「この二人を、閣下にお仕えさせたく……」

 普段から腹芸に触れているのなら、これが言葉通りの意味でないことは解っただろう。門衛の兵の顔に下卑た笑みが浮かぶ。意図を正確に察した兵は二人の身体を嘗め回すように見つめた。そんな視線を受けて灯里は悠然と微笑むが、周倉が返すのは仏頂面だ。愛想のない周倉に兵は怪訝な顔を向けるが、その視線をさえぎるようにすかさず一刀が男に顔を寄せる。

「こういう女を思う様にするのが、お好きと聞きまして。態度はこんなですが、決して反抗はいたしません。あの女の案じるものを、私の方で抑えております故」
「俺たちにはないのか?」
「此度はご挨拶のようなもの。いずれは皆様にもご用意させていただきます」

 言って、一刀は兵の手をそっと握り締めた。その手を握り返した兵は視線を落とし、手の中の固い感触が自分の目当ての物であることを確認すると、笑みを深くした。

「入れ。ただし、州庁の中まで入って良いのはお前と女の三人だけだ。残りはここで待機せよ」
「荷降ろしくらいは、お手伝いさせてください。こちらから人足を出しましょう」

 駄目押しでもう一粒銀を握らせると、あっさりと兵は言葉を翻した。御者と人足ならば入ってよしと、門が開かれる。兵に導かれて、一刀は荷馬車と共に州庁の中に足を踏み入れた。御者台には風と要が、人足として霞とその仲間が五人続いている。静里は当たり前のような顔をして一刀たちに同行した。門衛は迷惑そうな顔をしたが、静里は気付かないふりをして無視を決め込む。文句を言われたら退去せざるをえなかったが、結局門衛は文句を言うことはなかった。

 門の外には、雛里を中心に約90の兵が残る。心配一色の表情をした雛里を他所に、門は音を立てて閉じられた。

 州庁の敷地内には、広大なスペースが確保されている。兵の演習のためのスペースであると同時に、馬などの往来をしやすくするためのものだ。一刀たちは州庁の建物へと案内されるが、荷馬車は道を直角に折れる。荷馬車から視線を送ってくる風に、小さく頷いて応えた。

 門衛にいた兵とは別の人間に先導され、州庁の中に入る。中には兵ばかり、というのを想像していたが、意外に兵の往来は少なく、文官らしき人間の姿も見えた。しかし、パワーバランスは傭兵たちの方が強いらしく、廊下ですれ違う時にも文官の方が慌てて道を空けるほどだった。その際、兵について歩いている見ない顔の一刀を、すれ違った全員が注視してきたが、一刀はその視線に気付かないふりをした。

 どこに何があるかわからない。まさかその中に知人がいるとも思えないが、計画がどこで崩れるか解らなかった。外に仲間はいるが、今この時は確かに自分たちは三人だけである。最初の窮地は、どうしてもこの三人で切り抜けなければならない。かろうじて武装している一刀はまだマシな方で、周倉と灯里は無手に近い。二人の腕を信用していない訳ではないが、いざという時にはおんぶに抱っこになるしかない一刀としては、この状況は正に生き地獄である。

「ここだ。貴様の武器は我々が預からせてもらおう」

 一つの部屋の前で、兵が横柄に告げる。大事な剣を他人に預けることに抵抗がないではなかったが、ここで否と答えたら前に進めない。できる限り嫌な顔をしないように気をつけながら、腰の剣帯から銀木犀を外し兵に預ける。最悪、盗まれることも警戒して、兵の顔を記憶しておくことも忘れない。

「閣下。客人をお連れしました」
「入れ」

 部屋の中からの声を受けて、兵が扉を開ける。兵に先導されて部屋に入った一刀は、その奥にいた人間の顔を、食い入るように見つめる。立ち位置からして、彼が州牧なのだろう。静里から入手した人相描きと比べて、違いがあるようには見えない。自分で判断を下すのならばこれは本人なのだろうが、やはり影武者という可能性も否定できなかった。ちら、と部屋の中の兵に目を走らせる。警備のためか、部屋の中いも兵が五人いる。横柄な態度だった外の兵とは違い、彼らは仏頂面で武器を手にして不動の姿勢である。影武者であるのならば、ここにいる兵は事情を知っている可能性が高い。自分が知っている事実を知りようのない他人を見る時、人間というのは多かれ少なかれ態度に出るものであるのだが、兵たちの顔に不自然なものは確認できなかった。

 不信感はぬぐえない。

 しかし、これ以上戦力を分散されたら州牧の排除という目標を達成できなくなる。この男は、ここで殺すしかない。一刀は静かに踵を二回鳴らした。ここで決行、という合図だ。了解、という意味の足音が一回、灯里から返ってくる。周倉からは何もない。決行の判断は二人に任せる、というのが彼女の役割だった。やると決めたら、最初に行動を始めるのは彼女である。タイミングは彼女任せなのだから、ある意味責任は重大だった。

「県令の北郷一刀にございます」

 跪いて礼をすると、周倉、灯里もそれに倣う。州牧は想像していた以上の横柄な態度で一刀たちを見下ろしていた。

「糧食を持ってきたそうだが」
「目録をお渡しておりますので、後ほどご確認していただければ――」
「それよりもこっちだな。下賎な人間にしては気が利いているではないか」
「恐縮です」

 予想以上の食いつきに、一刀は顔を伏せながら内心でガッツポーズをした。後はどちらに食いつくかの問題であるが、州牧の視線は周倉の方に熱心に注がれているようだった。自分が見つめられていることに気付いた周倉は嫌悪感で体を振るわせるが、それがまた嗜虐心に火をつけたようで、州牧の顔に下卑た笑みが浮かぶ。

「そちらの女、近う寄れ」

 指名を受けても、周倉の動きは鈍かった。顔を見なくても嫌悪感を感じているのが、良く解る。その行動の遅さすら州牧は楽しんでいるようだが、これが作戦の一環であると解っている一刀の内心はそうではなかった。速く行けと念を送るとそれが通じたのか、周倉はのろのろと立ち上がり、州牧の近くに寄った。州牧は無遠慮に周倉の腰に手を回し、首筋に顔を近づける。女性の身体に触れているというのに、遠慮というものがまるでない。普段からこういうことをしなれている男の仕草に、一刀は同じ男として羨ましさを感じないではなかったが、段取りの通りに事が運ぶと『そろそろ』だということを思い出し、床に跪きながら身体に力を溜めた。

 その時はすぐに訪れた。州牧の腕を振り払うように、周倉は動いた。両手で州牧の首を取ろうと飛び掛る周倉に、兵たちは動きが遅れる。それに先んじて、一刀たちは動いた。一刀は周倉に、灯里は州牧に飛び掛り、それぞれを引き離す。

「殺してやる! 貴様のせいで、私の家族は殺されたのだ!」

 周倉の怒号に、ようやく兵たちも動き出した。周倉を囲むように展開する彼らから周倉を隠すようにして立った一刀の拳は、周倉に振り下ろされた。手加減なしの拳が、周倉の顔面を殴打する。

「何てことをしてくれたのだお前は!」

 内心の動揺がバレないように、限界まで声を荒げる。真っ赤に腫れた頬を押さえ、こちらを睨み上げる周倉の目には暗い殺意が篭っていた。演技ではない本物の殺気に状況も忘れて一歩退く一刀だったが、ここで動きが途切れると命に関わる。首を締め上げ、周倉の身体を投げ飛ばす。力任せな強引な投げは、周倉がアシストしたこともあり見事にきまった。勢いよく飛んだ周倉の身体は思い切り壁に叩きつけられ、周倉は受身も取れずに床に投げ出される。

 苦しげなうめき声を漏らす周倉の背中を、一刀は力任せに踏みつけた――ように見せた。足は周倉の腕のすぐ脇の床を打つ。一刀の身体が影になっていて、兵たちからは背中を踏みつけたように見えただろう。床を踏むと同時に、周倉が悲痛な声をあげ、身体を浮かせた。それを隠れ蓑に、床にしっかりと手をつき、一気に飛び出すために力をためる。

「閣下!」

 灯里のその声が合図だった。一刀の空けたスペースを、周倉が弾丸のように駆け抜けていく。手近な兵の喉に拳を一撃。部屋に響く鈍い音を追い越すほどの速度で兵の身体を別の兵に蹴り飛ばし、その腰から剣を抜く。囲んでいただけの兵は、まだ抜剣もしていなかった。柄に手をかけたばかりの兵の首を、周倉が躊躇いなく刎ねる。これで二人。漸く生き残った兵が剣を抜いた。三対一の構図だが、周倉の動きは止まらない。数の不利を物ともせず、剣を片手に集団に突っ込む。

 そこに、灯里が加わった。州牧の下げていた短刀が、兵の一人のわき腹に刺さる。先手を取れば、後は灯里のものだ。腕を取り組み伏せ、剣を奪って意識を刈り取る。殺しはしていないようだが、今はそれで良い。部屋の中の騒ぎを聞きつけ、外に待機していた兵が二人部屋に雪崩れ込んでくる。そのうち一人は、銀木犀を持っていた。一刀は横合いからその兵を殴りつけ、銀木犀を奪い、抜剣する。二対一。相手はプロの傭兵となれば一刀にとっては分の悪い勝負だったが、横合いかっ飛んできた兵の体が、勝負そのものをなかったことにした。仲間の死体に吹っ飛ばされた兵は、部屋の外まで転がっていく。その間に周倉は扉を閉め、剣で閂にした。

 部屋の奥で、灯里が必至に手招きをしている。力いっぱい机を押している彼女を手伝い、扉を机で塞いだ。外では兵が騒いでいるが、これで時間は稼げる。一つの仕事が終わったと、一刀は大きく、大きく溜息をついた。

「さて、あれは本物かな」
「さあね。やってしまったからには本物になってもらうより他はない。首を外に持っていって、討ち取ったことを喧伝したいところだけど、今はここを切り抜けるのが先だね」

 殺した兵から鎧と武器をはぎながら、灯里と一緒に今度の算段を考える。

 周倉がひきつけている間に、その周倉から州牧をかばった、と見せかけて髪の中に隠していた小さな刃物で州牧を殺したのは灯里だった。できる、と本人が言うから任せたことだが、実際に目にしてみるとその手際の鮮やかさに恐れ入るばかりである。

 灯里の働きによって生み出された騒ぎは、すぐに外の霞たちにも伝わるはずだ、そうしたら、彼女たちは行動を起こす。門の外の兵も含めて、百人の戦力でこの州庁を落とすことができれば、当面は一刀たちの勝ちだった。その支配を維持できるかはまた別の問題だが、社会的に州牧の死が成立し、正式な、ないし代理でも州牧を立てることができれば、異民族との戦争は当面回避することができる。

 戦争を主導する権力のある人間さえいなくなれば、後は丁原と頼りになる軍師たちが何とかしてくれるだろう。他力本願は格好悪くて仕方がないが、それもいつものことだ。目下の最大の問題は、今この状況をどうやって生き延びるかである。

 扉の外では工具を持ち出した兵がひっきりなしにそれらを扉に打ち付けている。時折怨嗟の声も聞こえてくるが、それらを強引に無視して死体から剥ぎ取った武器と鎧を着こんで行く。

 元より他人が着ていたものであるからぴったりであることは期待していなかったが、兵が揃って大柄であったせいか男の一刀が着ても少々緩い。背丈は似たような灯里は辛うじて鎧として成立しているが、色々な意味で無駄な肉のない周倉は途中で完全な装着を諦めていた。肩や腕など重要な部分だけど強引に紐で縛り、とにかく最低限形にすることを目標とした周倉を見て、一刀は笑みを浮かべた。

「率直な意見を言っても良いかな」
「余計なことを口にしたらその首をへし折ってやる」

 それで子供のごっこ遊びみたいだ、という感想は永久に封じられることになった。肩を竦めるとその時点で拳が飛んできそうだったので、視線だけを灯里に向ける。灯里も似たような感想を持っていたようで、笑みをかみ殺していた。同僚二人の評判が芳しくないと悟った周倉は機嫌悪そうに部屋を探し回る。彼女の最も得意とするのは槍だ。それそのものか、あるいはその代わりになるものはないかと虱潰しに探したが、長さが足りる物は強度が脆く、強度が足りるものは長さが足りないという有様だった。槍そのものはもちろんない。棒の先に剣を付けて代用できないかと数秒試行錯誤したが、それが無理とわかると周倉は一切を放棄した。剣一本で戦うことに決め、部屋の中の刃物を全て回収して戻ってくる。

「外の兵と合流したらこの建物を制圧する。州牧側の兵はその都度交戦、殲滅のこと。降伏は受け入れても良いが、武装は必ず解除させるように。解ってると思うが、非道なことは厳禁だ。州牧側に恨み辛みはあると思うが、それを払すのはまたの機会にすること。今は生き残ること、目標を達成することが最優先だ」
「解ってるよ。君こそ、ヘマをしてころっと死ぬんじゃないぞ」
「貴様に言われるまでもない」

 灯里は冗談を交えて、周倉は仏頂面で応えた。部屋の扉には外の兵が斧を打ち付ける音が響いている。すぐに突破されるかと思ったが流石に州牧が使っていた部屋だけあって、扉も頑丈なようだ。続けていればいずれ破られるだろうが、外の兵は自分と違って優秀だ。これだけ時間を稼ぐことができれば、ほどなく結果を出してくれるだろう。

 扉の外で、一度兵の短い悲鳴が上がると、一瞬の後には怒号に包まれた。霞と要の声が、近くに聞こえる。どうやらすぐに合流できそうだ。

「作戦を本格的に始める前にしておくことがある」

 宣言と同時に、周倉の拳が飛んできた。何かされるだろうと思ってはいたが、いきなり殴られるとは思っていなかった一刀は全く反応できない。抉りこむように放たれた周倉の拳は、完璧に一刀の顔面を捉え、その体を吹き飛ばした。壁にぶつかり、意識が飛ぶ。そのまま気絶できなかったのは、日頃の行いの悪さ故だろうか。顔面の激痛とどうしようもない気分の悪さ。眩暈は今まで味わった中で一番最悪のものだった。挙句、口の中には鉄の味が広がっている。歯が一本も折れていないのは、奇跡と言っても良いだろう。

「作戦の通りに事は運んだが、それでも貴様に殴られた報復はしなければならない。本来ならば殴り殺してやるところだが、首尾が上々であったことを踏まえてこれくらいで許してやる。感謝しろ、県令」
「あー、嬉しいね、ありがとう」

 悪態と一緒に、血の混じった唾を吐き出す。痛む頬を押さえながら、元の場所に戻ると、灯里の苦笑が出迎えた。言いたいことを言い終わった周倉は、既に知らん顔を決め込んでいる。事実そのままを一刀が外の誰かに告げたら、それなりに大きな問題に発展するのは周倉も知っているはずだが、同時に、一刀がそんなことをするはずがないということも、理解しているようだ。

 一緒に働くようになって、この気難しい部下のことを一刀も理解しだしていたが、理解の度合いは向こうの方が深いらしい。この程度の理不尽ならば呑み込んで黙っていると、周倉は確信していたのだ。

 彼を知り己を知れば百戦危うからずという。周倉にしてみれば自分は敵で、いざという時に有利になるために観察していたに過ぎないのだろうが、それでも、自分を理解してくれているという事実は、頬の激しい痛みを多少は忘れさせるほどに、一刀の心を動かしていた。

「厄介な性癖をしてるね、君は」
「随分と鍛えられたからね、色々な人に」

 一通りの準備が終わった所で部屋の扉が吹き飛んだ。扉を破壊する際に使った槍は、かつて万の兵を率いた彼女の膂力で粉々に砕けていた。着崩した正規兵の装備の上に、いつもの羽織、履物はいつもの下駄である。髪を高く結った、洒落物の武人は一同を見渡して、満面の笑みを浮かべた。

「おまっとさん。さ、敵さん、皆殺しにしたろか」











オリキャラ二人と協力してオリキャラの敵を倒すという文章にするとあんまりな展開ですが、次回は原作キャラのターンなので少しご安心ください。
なお、長くなりそうなので二回に分けました。次回が強襲編の後半となります。
















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三十一話 并州動乱編 下克上の巻③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 05:00
「いたぞ!」

 武装した兵が角を曲がってきたその時には、霞は既に大きく踏み込んでいた。右の剣を無造作に突き出す。兵の身体を刺し貫いたその剣を手放すと、霞はその場で身体ごと回転した。羽織が舞い、元に戻る頃には残りの兵も纏めて血祭りに上げられていた。左の剣で一人の首を刎ねると同時に剣を兵の一人に放り投げ、力を失い崩れ落ちる兵から剣をもぎ取って、更に別の兵に突き立てる。

 現れた兵は四人だ。剣を投げつけられて僅かに怯んだ兵は、瞬きする間に仲間が三人も倒された状況が理解できず動きを止めた。

「あかんなぁ。ウチの兵なら落第や」

 下駄という足場の悪さをモノともせずに踏み込み、拳を突き出す。顔面に拳を受けた兵は血と歯を撒き散らしながら吹き飛んだ。漫画のような吹っ飛び方に、敵のこととは言え一刀は身震いするが、彼は比較的幸運な部類に入るだろう。近寄って見ると、兵はまだぴくぴくと動いていた。すぐには起き上がれそうにないが、とりあえず命はある。きっちりトドメを刺すべきか……僅かに同情的な気持ちになった直後に、一刀の冷静な部分がそんなことを考えたが、実行部隊であるところの霞は倒れた兵など気にもせずに先に進み、仲間達は皆、それに続いている。

 ここで大将役である自分が遅れる訳にはいかない。慌てて歩調を速め、先頭集団に追いつく。

「皆殺しにするのにどれくらいかかる?」
「皆一列に並んでくれるんなら、そんなにかからんけどな。探しながらやと中々の大仕事や。でも勝負自体は案外早く着くと思うで」
「その心は?」
「金で雇われた兵は金が全てや。金出す大将が死んだっちゅーのに、本気出す訳もあらへん。まぁ、状況が理解できとらん兵も大勢いるやろうし、単純にウチらがムカつくーいう兵もぎょうさんおるやろうけど、そういう連中は少数派や。多めに見て半分もいてこましたれば、全員大人しくなるはずや」
「敵兵の半分をいてこますのは、そんなに難しいことではないと?」
「せやな。でも難しくないだけで、簡単やないで。一刀も、油断せんようにな」
「肝に銘じておくよ」

 身震いしながら返事をするが、かの張遼の隣以上に安心できる場所が、この中華にそうあるとも思えない。敵陣のど真ん中を行く一刀であるが、その割に心は凪いでいた。

「おっと」

 先頭を歩いていた霞が角を曲がろうとしたところで立ち止まる。その目と鼻の先を、十数本の矢が突き抜けていった。霞が全員に『しゃがめ』と合図を出す。全員がそれに従ったのを確認すると、霞は持っていた剣に息を吹きかけて磨き上げると、角の先に突き出した。鏡のように反射した刀身に、その先の様子が映る。

「十五人ってとこやな。ウチと周倉で突っ込むから、要っちは援護しい」
『了解』

 指示を出された二人は一言応えて、位置を移動する。攻める人間を前に押し出すような形で、一刀たちは僅かに下がった。途中で殺した兵から回収してきた剣を、霞と周倉で二本ずつ分け合う。残った要は剣ではなく、弓を用意した。背中に背負った矢筒から矢を一本取り出し番える。

 三人の視線が交錯した。

 瞬間、霞と周倉が飛び出していく。あちらにとっては注文どおりの行動だ。二人に雨の様に矢が降り注ぐが、僅かに先を行く霞が両手に持った剣で端から叩き落し、打ち漏らした分は周倉が阻む。

 矢の雨が一瞬止んだ。その瞬間を見計らって、霞と周倉が同時に頭を下げた。僅かに空いた空間を要の矢が閃光の様に抜けていく。要の一矢は狙いたがわず、バリケードから顔を出していた兵の目を貫いた。敵兵に動揺が広がるが、行動の遅滞はない。霞と周倉は相変わらず遮蔽物のない通路上を駆けている。

 第二射――だが僅かに要の二射目の方が早かった。二の矢は兵の肩に命中する。兵は弓を取り落としたが、命に別状はない。雨の雫が一つ減ったところで大勢に影響はないとばかりに、第二射が霞と周倉に降り注ぐ。既に距離は半分に詰まっている。これで仕留められなければ後がない。矢には兵達の殺意がこれでもかという程に乗っていたが、連合軍を相手に大立ち回りを演じた霞にとっては、どこ吹く風だった。

 体勢を低くし、自分の身体に当たる分だけを叩き落とすと、矢の雨が収まるのを待って踏み切る。下駄の、乾いた足音。羽織を翻して、霞は宙を舞っていた。二剣を羽のように広げて、着地する。そこはもうバリケードの内側だ。兵達はすぐに弓を手放し、剣を取った。先の兵に比べてば格段に素早い行動だったが、それでも霞を前にするには遅すぎた。

 一太刀。下段からの救い上げるような切り上げが、一人の胴を薙ぐ。背骨で受け止めらた剣を反動に、反転。青い羽織が風を切る。残った剣を手放した霞の手には、槍が握られていた。

「やっぱり、こういう武器の方がしっくりくるなぁ」

 にやりと笑った次の瞬間には、正面の兵の首から血が噴出していた。穂先は既に血に塗れている。突いて、引き戻す。ただそれだけの動作が目にも留まらぬほどに速い。霞が一歩踏み出すと、兵たちは一歩退いた。その隙間に、周倉が風のように飛び込んでくる。二つの首が宙を舞う。そこからはもう、一方的な殺戮だった。

 背を見せた端から霞の槍が、周倉の剣が兵を討っていく。運良く二人の刃の外に逃げた兵には、要の矢が襲い掛かった。十を越えていたはずの兵は、同じだけの数を数える間に、一人を残して床に倒れ伏していた。残された兵は霞の槍を首に突きつけられ、身動きが取れないでいる。

「どうして、俺だけ生かされたんだ」
「一人だけ武器を持っとらんからな。運が良いで、あんた」

 男の顔に苦笑が浮かぶ。男の肩には矢が刺さったままになっていた。男が武器を持っていないのは、その怪我のせいで取り落としてしまったからだ。

「とても市井にいるような人間には見えない。名のある武人とお見受けするが。名を伺っても良いだろうか」
「張遼。字は文遠」
「……董卓軍で騎馬隊を指揮していた、あの張遼?」
「他にいたかもしれんけど、董卓軍で一番有名なチョウリョウは、ウチやろうな」
「最初から負け戦かよちくしょう。そうと知ってりゃ、こんな少人数でコトに当たろうなんてしなかったのに」
「やーでも結構あんたら筋が良かったで。50人もいたらウチをどうにかできたんちゃうかな」
「謙虚だな、アンタ。100人いたって怪しいぜ」

 どうやらただちに殺される訳ではないらしいことを会話から悟ると、男はようやく肩の力を抜いた。

「この施設にいる兵の正確な数は?」
「百くらいか。正確な数は解らん」
「今はウチらを相手にしてる訳やけど、指揮は誰が取ってるん?」
「各自が自分の判断で動いてる。侵入者を撃退するのが目的ってところか」
「あんたら傭兵やろ。州牧が死んでも義理を果たす必要はあるんかいな」
「待て待て。州牧が死んだってのは本当か?」

 霞の視線を受けて手に持っていた包みを放り投げる。男の前で広げられたそれには、州牧の首が入っていた。男はそれを確認し、盛大に溜息を漏らす。

「なんてこった。じゃあこいつらはタダ働きで死んだのか……」
「もしもの時は息子が雇うとか、そういう契約はしてへんの?」
「まずは自分、ってことだろうさ。息子の方がそういう契約を提示してくるなら話は別だが、あの張遼がいると知った上で雇われる物好きは少ないはずだ」
「ウチがいるって噂を広めたら、ここの連中もあっさり投降する可能性高いってことか?」
「州牧が死んだってことも伝えておいた方が良い。俺達は何より、タダ働きが大嫌いだ」
「雇い主との義理を果たすとか考えへんの?」
「守れなかったのは確かに不名誉だが、自分の命の方が優先だろ。命を賭けても良いのは契約が生きている間だけだ。雇い主が死んだのに、付き合う義理はない」

 随分とドライな思考であるが、金と契約に生きる傭兵ならばそんなものか、と一刀も割り切ることにした。首元から槍をどけられた男は、自分から進んで両手を挙げる。周倉がそれを後手に縛った。先ほどまで殺し合いをしていた割りに、実に従順な態度である。

「それじゃあ、ウチらで州庁をぐるりと回ってくるわ。風っちたちはせやな……適当な場所で会議でもしといてくれん?」
「そのウチらには俺も含まれてるんだよな……」

 確認のために声を挙げてみるが、霞の手は逃がさないとばかりに一刀の肩をがっちりと掴んでいた。同行するに否やはないが、相談くらいはしてほしいと思う一刀だった。

「ここで顔売っとかんと、後々面倒になるからな。やっぱ大将は表立ってこそやで」
「……あんたが大将?」

 男が不審げな表情を向けてくる。張遼ほどの武人がいるのだから、当然彼女が首領であると思ったのだろう。それがどこの馬の骨とも知れない若造を大将としているのは、武に生きるものとして納得のいかないものがあるのかもしれない。

「これでもこの一刀、中々のもんやで。虎牢関では呂布と戦って、生き残ったんやからな」
「そんなに強そうには見えないんだが……呂布を前に生き残ったってのは良い話だ。運が良いってのは良いな。それにあやかれるなら、なお良い」
「まったくやなー」

 ははは、と霞と男は一笑いして、のしのしと歩き出した。荒っぽい連中とは波長が合うのか、意気投合して世間話など始めている。仲間であるはずの一刀と周倉は蚊帳の外だった。何となく行き場をなくした二人の視線が交錯する。視線を先に逸らしたのは周倉だった。

「先に行け」
「良いのか?」
「大将に最後尾を任せられるか。私でも務めくらいは果たす」
「お前が守ってくれるなら安心だ」

 その言葉に、周倉は気持ちの悪いものでも見るような目で一刀を見た。一刀はその視線の含むところに気付いていたが、気付かない振りをした。葛藤しているらしい周倉の顔が実に面白い。そう思っていることを看破されればまた鉄拳が飛んでくるので、表情に出さないように細心の注意を払った。

 周倉の先に立って歩きながら笑みをかみ殺していると、今度は振り返った霞と視線が合った。霞は一刀と、その後ろで懊悩している周倉を見比べて実に嫌らしい笑みを浮かべた。真面目な人間をからかって遊ぶのは、霞も好むところである。一刀もそれに、笑みを返した。




















「結果から言うと傭兵さんたちはほとんどが投降してくださいましたー」

 州牧の執務室を会議室としての、風の第一声である。

 先の戦いの後、霞と共に州庁を回って州牧が死んだこと、これが『丁原主導』のクーデターであることを宣伝して回った。北郷陣営と丁原陣営は規模に大きな差はあるものの、あくまで対等の協力関係ではあるが、こう言った方が他人は信用してくれるという霞の案でそう触れ回ることとなった。

 結果として丁原の名前と霞の実力、何より州牧の首が訴えるところ大だったようで、タダ働きで命を賭けるのはごめんだと、傭兵達は次々に投降した。今は州庁の牢屋に投降した全員が収監されている。話を聞くに全員ではないようだが、牢屋の中の彼らは大人しいものだった。

「姿の見えない連中の一部は州牧の家に集合してるらしい。州牧の息子が金を出すことにしたようだ。命よりも金が大事だって連中が何人かいたってことだが、十人は越えないようだし、仕事熱心とも言えないようだな。今すぐこっちをどうこうしてくることはないだろう」

 調査のために人を街に放っていた静里が、その報告を読み上げる。

 彼女の手配で集まっていた人間はメッセンジャーの役割も果たしていた。既に州庁が陥落したことは街中の人間が知っている。幸いなことは、街の人間のほとんどはこの行いを歓迎していることだった。州牧にそれほどまでに人気がなかったという証でもある。州牧派の人間は思うところが多々あるだろうが、民衆の支持がある集団を即座に襲撃するほどの熱意は、今のところ見受けられなかった。

 それには彼らの懐事情も関係している。国境への派兵は州牧の身内だけで行われていた。州都に住んでいる州牧派の人間も、それに少なからず出資しているのである。金子であったり兵糧であったり形は様々であるが、その中には私兵として雇用している人間たちも含まれていた。

 それでもまだ相当数が州牧派にいるはずであるが、彼らはあくまで護衛が任務である。正面切っての戦いの調練をしている訳ではないし、ましてやかの張遼を相手にできるほどの豪傑は、その中に存在しない。

 結局のところ、様子見しか彼らに取れる手段はない。

 しかし、それこそが一刀の望んだ局面でもある。一刀と丁原の連合軍の戦力のほぼ全ては、遠い国境沿いに展開している。州都襲撃組の一刀たちは、全体としてみたら精々1%ほどである。それが州都に存在する全兵力であることは、何としても隠さなければならない。いくら霞がいるといっても、強いのが彼女一人とバレれば州牧派の人間だけでも状況をひっくり返される可能性が出てくる。

 丁原軍が州都にやってくるまでの時間、何としても州都の平穏を守ること。それが一刀たちの今の仕事である。

 民衆については、静里のおかげで先手を打つことができた。世論が味方してくれたことによって、州牧軍も相当に動きにくくなっているはずだ。

「さて、それじゃ僕はそろそろ行ってくるよ」

 車座になった一同の中で、腰をあげたのは灯里だった。

「今日中に話を纏めてくるつもりだけど、遅くなるかもしれないからね。皆、くれぐれも身辺には気をつけるようにね」
「ウチんとこから何人か連れてってええで」
「ありがとう。良い話を持ってこれるよう、頑張ってくるよ」

 霞にぱちり、とウィンクをして灯里は部屋を出て行く。相変わらず、仕草の端々が絵になる女性だと内心で感動していると肩をつんつんと突付かれた。隣に座った風である。彼女はタレ目気味に目に底意地の悪い笑みを浮かべていた。それでも微笑ましい気分になれるのは、彼女の生来の愛嬌によるものであるが、この笑みをしてる時の風が難題を吹っかけてくると知っている一刀は、思わず身構えた。

「さて、お兄さんに問題です。灯里ちゃんは今商人さんたちに話をつけに行った訳ですが、それはどうしてですか?」
「街の権力者でもある彼らの援助を約束させることで、安全をより確実なものにするためだ。それに、丁原殿と合流してからの話を、今のうちにつめておく必要がある。そのためにはこの中でも丁原殿と一緒に行動してた時間が長い、灯里が行くのが適任だった」
「正解です。でも協力といってもタダではしてくれません。商人さんは利益によって動きますから、こちらから何か、商人さんの得になるようなことを提供しないといけない訳です。灯里ちゃんは既に丁原さんと話し合って、それを提供しても良いという風にまとめていると聴きますが、お兄さんにはそれが何かわかりますか?」
「それは……」

 解らない。具体的にどうやって話を纏めるかは、灯里に任せるつもりでいたから、後で聞けば良いと思って確認もしていなかった。

 風のタレ目が、その辺りの詰めの甘さを指摘しているように見える。内心で反省しつつ、一刀は頭を巡らせた。丁原が提供できるもので、州都の商人が納得するようなもの……

「異民族との交易……かな」

 おー、雛里から小さく歓声が上がった。風も満足そうに頷いている。良かった正解だ。一刀が深い安堵の溜息を漏らしたその瞬間を見計らい、風が呟く。

「ではその品目はなんでしょうか」

 話はそれで終わりではなかった。

 慌てて思考を纏めるが、一度緩んでしまった気持ちは簡単にまとまってはくれなかった。

 三秒。風はにこにこしながら答えを待っていたが、一刀が答えられないのを見ると、わざとらしく溜息を漏らした。

「時間切れです。でも半分は正解しましたから、残念賞を挙げましょう」

 言って、自分の口にしていた飴を強引に一刀の口に突っ込んだ。目測も何もなく突き出したものだから前歯とぶつかり、がちりと音がしたが、風はそんなことは気にもせずに新しい飴を懐から出しながら、話を続ける。

「戦争真っ只中の今は、どこも戦争に必要なものを欲しています。商人さんにとっては今が稼ぎ時な訳ですね。つまり戦に使えるものは何でも売れるような状況な訳ですが、并州で名産になっているもので、丁原さんの領地及び西方の異民族領で生産が盛んなものがあります。それが、軍馬です」
「おかんが個人で面倒見てる牧とかあってな。そこで千頭くらいの馬を放し飼いにしてるんや。全部が名馬って訳やないけど、そこらの馬に比べたら皆ええ馬ばっかりやで」
「加えて丁原さんは異民族との交流路をほとんど独占しています。馬については異民族の方が長じている部分も多々ありますし、馬そのものや馬具なども交易の品目として挙げられるでしょう。他の人間が商えない良品を商える権利。灯里ちゃんが餌にするのは、そこなんですね」
「ねねとかが喜びそうな話だ」

 今も数字とにらめっこをしているだろう仲間の姿を想像して、一刀の顔に苦笑が浮かんだ。

「色々と話を詰める必要はあると思いますが、これで話はまとまると思います。問題は州牧派が莫大な利益を商人さんたちに保証していた場合ですが――」
「自分達が儲けることを第一に考えてた奴らは、商人にも人気がない。ここんところ儲け話とは縁遠かったらしいから、先輩が行けば話もまとまるだろう」

 静里の捕捉に、風は満足そうに頷いた。

「後は州都の兵と文官の問題ですねー。文官との折衝は代表してやりますが、兵との折衝は雛里ちゃんにお願いします。霞ちゃんは、その補佐ということで」
「ウチが横で睨みきかしておいた方が、兵にはちょうどええかもな……ええよ、やったる」
「お兄さんは雛里ちゃんについてあげてください」
「それは構わないけど、お前は一人で大丈夫か?」
「ほほー、お兄さんも風の心配ができるようになったのですねー」
「手が必要か心配してる訳じゃないぞ。解ってて聴いてるだろ」
「もちろん解ってますよー。護衛に誰かについてきてもらうので大丈夫です。それにもしもの時の秘策があるので、大丈夫ですよ。でも、心配してくれてありがとうございます。心配性のお兄さん」

 ふふふー、と風は口元を押さえて嬉しそうに笑った。その顔を直視できなくて、一刀は視線を逸らす。どうにも、照れくさい。

「それではぱぱっと片付けてしまいましょう。私は文官、雛里ちゃんは武官です」

 風は部屋をぐるりと見回し、壁際で黙って話を聴いていた要と周倉を指差した。ついてこい、という意思表示である。周倉は無言でそれに同意したが、要は視線で許可を求めてくる。彼の仕事は『一刀の』護衛である。それ以外の仕事をするには、一刀の許可が必要と自ら定めていた。別にそこまで律儀である必要はないと一刀は何度も言ったのだが、要がいまだにこれを改めないでいた。

「風を守ってくれ。頼んだぞ」
「解りました、団長」
「それではいってきますね。お兄さん」

 納得した要と周倉を引き連れて、風が部屋を出て行く。

「じゃ、俺達も行こうか。武官に話は着いてるのか?」
「さっき人をやりました。代表の人にきてもらっています」
「ならそういう難しい話はぱっと片付けよか。雛里っち期待してるで」

 ぽんぽん、と雛里の頭を撫で立ち上がった霞が、先に立って歩き出す。その霞の後に雛里の手を引いてついていくと、更にその後を数人の兵が固めた。霞が連れてきた強面の軍団である。実力が高く、霞の信頼も厚いことは今回の行動で解ったが、その子供が泣き出しそうな面構えは気の小さい雛里には大層受けが悪かった。彼らが後ろに立ったことで、雛里がびくりと震える。握った手にも力が篭っていた。明らかに怯えている風の雛里を見下ろして、強面軍団は密かに傷ついた表情を浮かべる。

 そんな彼らに同情しないでもなかったが、怯える女の子と傷ついた野郎を秤にかけた時、男が助けるべきはどちらかというのは考えるまでもないだろう。

 雛里の手をぎゅっと握り締める。強面の仲間のことは見なかったことにした。

















「良くぞあの男を討ってくださいました」

 場所を変えて会合した州都兵の代表は、開口一番にそういった。実直そうな、いかにも軍人といった風貌である。どんな嫌味を言われるのかと身構えていた一刀は、あまりの持ち上げっぷりに苦笑を浮かべた。本来ならば州牧を守る立場であったはずの彼らにそこまで言われているのだ。クーデターを起こした一刀を前にしているという事実を差し引いても、彼が州牧をどう思っていたのかが窺い知れた。

「無駄な戦に逸る州牧をどうにかしなければならないと思っていました。その折、丁原殿にお声をかけていただいただけのこと。我々の働きなど、大したものではありません」
「貴方がたのおかげで、我々は無駄な戦に出ずに済み、家族を戦火に晒さずに済みました。いくら感謝をしてもしたりません」
「そう言っていただけると、共に事に当たった仲間も喜んでくれると思います」

 握手をして、着座する。一刀が座ったのは、卓を挟んで代表と反対側だ。上座の中央が一刀の席で、その右隣に雛里が座る。霞は座らずに、一刀の左後ろに立った。代表が不埒なことに及んだとしても、即応できる位置である。そのリラックスした表情と立ち姿から警戒心など微塵も感じられないが、実際に警戒対象とされている代表にはその意図が伝わったのか、一刀と話しながらも霞の方をちらちらと気にしていた。

「我々は、歩み寄れると思っています」

 その心配を払拭するように、帽子を膝の上に降ろした雛里が口を開いた。おどおどしたいつもの雰囲気はなりを潜め軍師の顔になっている。てっきり一刀が話をするものと思っていたらしい代表はいきなり喋りだした雛里に面食らっているが、一刀が仕草で『彼女に一任している』と伝えると咳払いを一つし、雛里に相対した。

「早馬で確認が取れました。州牧軍を撃破した丁原殿の部隊が、こちらに向かっています。我々の仕事は、州牧を討つことだけではありません。彼女らが到着するまで、この州都で平穏無事を保つことでもあるのです。それには貴方がたの協力が必要です」
「州牧は多くの傭兵を雇用していました。丁原殿ならば金銭に余裕もありましょう。急場の治安維持ならば彼らを使うという手もあったのでは?」
「金銭で動く輩を今信用するのは、危険でもあります」

 その言葉に、代表は安堵の表情を浮かべる。

 実際にはそう思っていなくても、そうだということにしておくのは必要なことだ、というのが雛里の見解である。州牧の名の下にすき放題やっていた傭兵たちと、元から州都を守っていた兵たちの間に深い溝があることは周知の事実だ。霞の力を目の当たりにした今、傭兵達は金を用意しきちんと契約を結べば、忠実に職務に励んでくれるという確信があったが、彼らと州都兵を同時に運用するには一刀たちはまだ兵や市民の信用を勝ち得ていない。

 数とは力である。兵としての質は傭兵たちの方が高くとも、州都兵の方が数が多く、また市民については比べるべくもない。暴徒となった市民に襲われたら生きていけないのは一刀たちも同じなのだ。嫌われ者の州牧を討ったことでヒーロー扱いでも、いつ欲をかくものが現れるか限らない。味方は多ければ多いほどよく、作るのは早ければ早いほど良い。

 州都の兵を形だけでも味方につけることができれば、仕事のほとんどが完了する。

 唯一懸念すべきは外から大兵力で攻められることだが、それを実行できるような兵力と胆力を持った人間はこの州にはいない……と、丁原のところで州内を分析していた灯里が断言している。少なくとも、道々集めてきた情報では、大規模な戦の準備をしている人間はいないということだ。仮に今から州都を攻めるだけの準備を始めたとして、出立し、州都に到着する頃には丁原の部隊も州都付近まで移動しているはずである。

 州牧軍との戦の後とは言え、州内でも最高の戦力の一角だ。それを敵に回してまで事を構えるような人間がいたならば、丁原も声をかけていただろう。

 懸念すべきは、内側、自分のことだけで良い。そう思うと気が楽ではあった。剣を持って戦わなくても良いし、戦いに行く仲間を見送らなくても良い。何より、誰も死なずに、殺されずに済む。

「――それで、どうでしょうか」
「勿論。貴方がたと行動を共にさせていただきます」
「感謝します」

 雛里の目配せを受けた一刀は立ち上がり、代表に握手を求めた。代表が一刀の手を握り返し、これで交渉成立である。実務レベルの話を纏める必要こそあるが、それは現場の責任者同士で行う方が良いだろう。協力する、という約束だけ取り付けることができれば、一刀たちが出る幕は終了したも同然だ。後はその実務レベルの話を誰に任せるかだが、その選定は既に霞が行ったという。

 誰に決まったのかまだ聞いていないが、霞の選定ならば間違いはないと一刀は気にしていなかった。万が一にも自分に白羽の矢が立つことはないと理解しているから、気は楽である。

 握手を済ませると、代表は足早に部屋を後にした。実務レベルを詰めなければならないのは、彼らも同じである、代表であっても彼も兵の一人であるから、実際に身体を動かす機会は一刀よりも多いだろう。

「これから忙しくなるで」
「丁原殿と合流するまでの辛抱と思うことにするさ」

 霞に苦笑を向けると、霞も口の端をあげて笑った。それで済むはずがないというのは、二人とも承知していた。この時代、組織の頭がすげ変わるのは日常茶飯事であるが、一刀たちは新たに頭になった側である。やることは山のようにあり、今この瞬間も増え続けている。できることから手を付けていかないと、いずれ仕事の山に埋もれてしまうだろう。

「団長!」

 これから追われる仕事に思いを馳せて憂鬱になっていると、見知った顔が部屋に飛び込んできた。要と一緒に、村を出てきた青年だ。稟の主導した配置換えにより、今は霞の部下として働いている。信頼のおける人間ということで、今回の作戦にも同行した。

 その彼の様子が、ただ事ではない。

「先生が危険です。すぐにきてください」

 彼の言葉が終わるよりも早く、一刀は駆け出していた。あの村から行動を共にしている人間が先生と呼ぶのは三人だけだ。稟は国境におり、雛里はここにいる。ならば危険なのは一人しかいなかった。

「状況は?」
「州庁の文官の一人が先生を人質に取りました。武器は隠し持っていた短刀一つで、協力者はいない模様です。先生の首に短刀をつきつけ、部屋の奥に陣取っています。出入り口は我々で封鎖しているため逃げられることはありませんが、こちらからも手が出せない状況です」

 最悪に近い状況に、一刀は頭を抱えた。

「要でも狙えないか?」
「標的が見えないと無理だそうです」
「犯人の狙いは?」
「北郷一刀を呼んでこいと言っています。それ以外の人間が現れたら、先生を刺すと」

 それだけ聞けば十分だった。とにかく風は生きている。それが一刀の支えとなった。

 無理にでも着いてこようとした雛里を兵に任せ、霞と共に全速力で風がいる部屋に向かう。

 その部屋の前には、要たちが勢揃いしていた。一様に、緊張した面持ちである。周倉など自責の念で今にも首を括りそうな顔をしていた。

「要、これをもっていてくれ」

 出入り口の手前に居た要に、銀木犀を預ける。文官相手とは言え、何を要求するのだか分かったものではない相手に丸腰というのは心許ないが、今は風の安全が最優先だ。

 小声で聞こえた静止の声を無視して、部屋の中に入る。

 文官が集まって仕事をするための部屋、その一つなのだろう。机の上には木簡や竹簡が散乱している。その机の向こうの壁際で、血走った目をした男が風を羽交い絞めにし、首に短刀を突きつけていた。色の白い、神経質そうな男である。

 男の殺意の篭った目が、一刀を捕らえた。

「お前が北郷一刀か」
「ああ。そうだ。俺の仲間が無事なことに敬意を表して、まず要求を聞こう」
「そこに短刀がある」

 男が机を視線で示した先には、確かに短刀があった。武器というよりも装飾品の類である。その大層な拵えは、その本来の持ち主の身分が高いことを伺わせた。

 その短刀が州牧に縁のある品でだと、一刀は直感する。この男は、州牧の関係者なのだ。

「それで自害しろ」

 男の命令はこの上なく端的だった。

 人知れず。溜息を漏らす。男は明らかに正気を失っている。反論しようにも、聞く耳があるとは思えない。元より、興奮した人間を利で動かせるような弁は、一刀にはなかった。

 いざという時には動くしかない。男までの距離はおよそ五歩。霞たちよりは近い距離にいるが、難しい状況であることに変わりはない。

 ならば自害せよという男の言葉に従い、死ぬのが良いか。

 本当に風が助かるならばそれでも良い。稟が聞いたら激怒しそうであるが、出世を蹴ってまでついてきてくれた少女を犠牲にして生き延びることは、一刀の信条に反した。

 だが、人質を取って自害を強要するような男がせっかく取った人質を無事に解放するとは思えなかった。そもそも男は指示を出しただけで、その見返りについては何一つ口にしていない。自分が死ねば風が開放されるというのは、一刀の希望的観測だ。

「おにいさん」

 刃を手に逡巡する一刀に、風が声をかける。一刀にとっても男にとっても、それは望外の行動だった。男が風の髪を力任せに引っ張り挙げる。その激痛に顔を顰めながら、風はまっすぐ一刀を見て、微笑んだ。真名の通りのそよ風のような微笑みに、一刀はしかし、嫌なものを感じた。

「立派な人になってくださいね」

 その言葉を最後に、風は大きく口を開き、閉じた。小さな身体がびくりと震える。力なく崩れ落ちる風を、男は奇声をあげて放り投げた。短刀は一刀に向けられる。明らかに素人同然の構えに、一刀は即応した。一息で五歩の距離を詰め、短刀を腹部に突き刺す。肉が裂け、血が吹き出る。絶叫を上げた男の顎に、渾身の力を込めて拳を叩き込む。なす術もなく、男は吹き飛んだ。

「医者を呼べ!」

 外の要たちに指示を出し、風を抱き上げる。力を失った小さな身体は、いつも以上に軽く感じた。仲間の命が消えかけている。そう思うと、自然と一刀の腕に力が篭った。

「風!」

 仲間の名前を呼ぶ。死ぬな。その思いが篭った一刀の叫び声は、辺りに響き渡った。その声にも霞たちは動けなかった。応急処置の心得はあるが、医療の心得のある人間はいない。州庁につめている人間については、どんな人間がいるか確認したばかりだ。その中に医者はいない。それを知っている霞は鎮痛な表情を浮かべている。周倉の姿はなかった。この中で一番足の速い彼女が、外まで医者を呼びに行ったのだろう。

 しかし、間に合うはずもない。こうしている間にも風の身体には力が戻り――

 涙に濡れた瞳の向こうに、風の青い瞳が見えた。呆然とする一刀の口に、風のそれが寄せられる。小さな舌で唇を舐められると、そこからぬるりと暖かなものが流れ込んだ。異常に甘いそれは、血のように赤い色をしていた。

「策があると、言ったじゃありませんか。死んだふりですよ」

 ふふふー、といつものように腕の中で風が笑う。小さな風であるが、それでも腕の中は苦しいらしい。風が腕の中から逃げようとするのを、無理やり押しとどめる。ありったけの力を込めて抱きしめると、風は少し迷惑そうな顔を向けてきた

 その目が、驚きで見開かれる。めったに見れないその顔を前に、一刀は涙を流し続けた。止めようと思っても、止められない。泣く自分を風はからかうだろう。そんな自分を格好悪いとも思うが、涙はどうしても止まらなかった。止まらない涙はやがて、号泣に代わった。

「おにいさん、おにいさん」

 泣き止まない一刀の背中を、風がそっと撫でた。

「ごめんなさい。驚かせてしまいましたね。風は死にません。どこにもいきません。ずっとお兄さんの傍にいますから、だから泣かないでください」

 風の言葉にも、一刀は泣き続けた。風の胸に顔をうめ、子供のように泣き続ける。そんな一刀を風は優しい笑みを浮かべて見下ろしていた。














[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三十二話 并州平定編①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 05:00
 木簡の紐を閉じて、風は一息ついた。

 朝議の時間が迫っている。既に準備は整っていたが、それでも風の心は落ち着かなかった。

 椅子から降り、部屋をたたた、と横切って姿見の前に立つ。小柄な身体が全て映る大きさの、特別に取り寄せた鏡だ。

 鏡に映る自分の姿を見て、そっと髪を手で梳いてみる。生まれた時から変わらない髪はくるくると巻いていて、櫛の通りは良くない。それでも稟などには羨ましがられるのだが、手入れの手間を知っている風は逆に稟のようなまっすぐな髪に憧れるのである。

 だが、最近はこんな髪も悪くないと思えるようになってきた。懐から櫛を取り出し、ゆっくりと梳いていく。髪を梳いている間は、ただの風でいられる。軍師であることを忘れて、詮無いことを考えることができた。仕事から離れ、自分の考えたいことだけを考えると、風の頭に浮かんでくるのは一刀のことだった。

 櫛を放り投げて、寝台に飛び込む。そのまま身体の熱を誤魔化すようにごろごろごろ。寝台の端まで行ってぴたりと止まる。まだ身体は熱いままだった。今度は反対側へごろごろごろ。またも華麗に――止まることはできなかった。小さな身体は勢いをつけて、そのまま床に落ちる。

 決して小さくない音が部屋に響き、風の息が詰まった。ごほごほ咳き込みながら起き上がり、再び鏡の前に立つ。髪に埃はついていないか。くるりと回って確かめる。金色の髪がふわりと揺れる。まだ身体は地味に痛いが、そんなことは気にしない。姿形が決まっているか。鏡の前に立つ女が気にすることなど、古今東西ただ一つだった。

 隅々までチェックした風は、満足そうに微笑む。準備完了。手早く荷物を纏めて、部屋を出る。
 
 部屋の戸を開けると、すぐ横に人の気配。見上げると、そこに一刀がいた。白いキラキラした服に身を包んだ彼は、風の視線を受けて気まずそうに目を逸らした。女性の部屋の前で待ち伏せるのは、あまり格好の良いことではないということは理解しているのだろう。約束があればまた違ったのだろうが、風にそんな心ときめく約束をした覚えはなかった。一刀は一刀の意思で、この部屋の前に立っている。それをかみ締めるように心の奥に飲み下すと、風の中に堪らない優越感が広がった。

 一刀はあの日からずっと、これを繰り返している。あの日よりも大分危険度は下がったのに、それでも、いてもたってもいられないらしい。よりによって文官に幹部が人質に取られたことを受けて、北郷軍の幹部には護衛がつくようになった。仕事場としている州庁にも、信用の置ける歩哨を何人も立てている。当然、風の身辺にも警護がついていた。静里が選んだ信頼のできる人間である。一刀がいても、彼らは離れた位置で自らの職務を真っ当していた。それを示すように風は彼らを見て、再び一刀に視線を戻す。

 何しにきたんですかー? ちょっと意地悪な質問だ。一刀は決まりの悪さを覚えたようだが、それでも視線は逸らさなかった。自分を曲げないという意思表示だ。自分がいたところでいざという時、どれほどの力になれるか。自分の武が大したことはないと一番理解しているのは一刀本人である。それでも尚この場にいるのは、彼の男としての意地だろうか。

 女の身である風に、それは解らない。

 だが、自分のために心を砕いてくれる男性を見るのは悪い気分ではなかった。

 それが自分の人生をかけると決めた、愛する男性ならば尚更だった。風の顔に華やいだ笑みが浮かぶ。飛び込むようにして、一刀の腕をとった。腕に頬を押し付けると、途端に一刀は困ったような顔で、護衛に視線を向けた。生真面目だが話の通じる彼らは、数歩離れてくれる。

 朝議に向かうまでの僅かな時間。一刀を独占できるこの時間が、今の風の宝物だった。

 歩きにくそうにしている一刀も気にしない。そのくらいの我侭を言う権利は、自分にもあるだろう。

 何しろ自分の胸で子供のように泣かれてしまったのだ。これはもう、一生をかけて面倒をみてやるより他はない。全身全霊をかけて、一刀を支える。

 それが風の、全てだった。
 















「さて。恋人気分で登場した大将を迎えたところで、朝議を始めようか」

 風と腕を組んで入場した一刀を迎えたのは、灯里の笑顔だった。絵に描いたような爽やかな笑みだったが、それだけに胡散臭い。言ってやりたいことは山ほどあったが、それはあえて呑み込むことにした。言葉を操る軍師を前に、凡人ができることなど何もない。それになりより、恋人気分で重役出勤したのは事実だ。

 会議室に入るまで一刀の腕に取り付いていた風は、部屋に入ると同時にぱっと腕を離し、自分の席に座っている。二つ離れた席に座っている雛里がすました顔の風を見、さらに一刀の顔を見た。むくれている。何とも悔しそうな顔をした雛里をできる限り見ないようにしながら、一刀は自分の席に腰を下ろした。会議室の中央にある円卓。その上座が一刀の席だった。一刀の右は空席となっており、そこが稟の席である。右隣が雛里の席で、風は一刀の左隣だ。

 明確に決まっているのはそれだけで、後は各々が好き勝手に座る。今朝の朝議に参加することになっているのは、一刀を含めて六人である。その全員を確認するためにぐるりと辺りを見回して初めて、一刀は霞がいないことに気付いた。

「霞はどうした?」
「ついさっき丁原殿から早馬がきてね。それが彼女の知己だったようだから、迎えを頼んだんだ」
「何か向こうで良くないことでも起こったのか?」
「逆じゃないかな。稟の戦運びは怖いくらいに嵌っているようだし、それに丁原殿の部隊に恋が加わればもう怖いものはないよ」
「だといいんだけどね……」

 一刀の言葉はキレが悪い。恋に霞が加わり、ねねや賈詡が指揮していた董卓軍を連合軍が撃破したのはもう二年も前の話であるが、一刀の心には強く刻みこまれている。力あるものも、負ける時は負けるのだ。

「心配性だね、君は」

 そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。灯里は努めて大げさな身振りで応えた。その配慮に感謝しながら、一刀は椅子に背中を預けた。

「霞が戻ってくるまでに、やれるだけのことはやっておこう。まずは静里」
「はい、先輩」

 灯里に指名され、無駄のない所作で静里が立ち上がる。情報担当である彼女は主な仕事は情報収集であるが、その操作も行っている。民衆がこちらに対して良いイメージを持つよう部下を使って工作するのだ。既に多数の部下が街に溶け込んでおり、現地の人間にも協力を仰いでいるという。

「州牧派を追い込むように工作していた訳だが、その効果が昨日深夜に出た。州牧の一家が夜逃げしたらしい」
「ほんとか!」

 口にしてから間抜けな質問だと後悔した。案の定、静里ははっきりとアホを見るような眼で見てから、言葉を続ける。

「屋敷はずっと監視していたからから間違いない。金目のものを纏めて、傭兵の一部を護衛として州都を出たようだ」
「随分早いな。もっと粘るもんだと思ってた」
「それだけあちらの懐事情が厳しいってことだろう。僕らが考えているよりも、南の袁家は旗色が悪いようだね」

 灯里の捕捉に静里が頷く。南の袁家というのは言わずとしれた袁術を代表とする勢力である。先の連合軍では頭数の上では中核をなした勢力であるが、今は孫策率いる孫呉と大戦を繰り広げていた。

 戦を始めたのは最近の話だが、孫策の勢いは凄まじく既に袁術を捕らえたという情報もある。

 その正確なところはいまだに伝わっていない。

 何しろこの時代、距離は大きな壁である。情報一つを得るのにも、色々なものが必要になるのだ。一刀も静里の部下を使うことで多くの情報が集まるようになってきているが、それでも南部の戦模様についてはほとんど情報を持っていない。

 孫策については知らない仲ではないし、あちらには少なからぬ恩のある思春がいる。気にならない訳はないのだが、集める情報にも優先順位がある。遠くの情報にばかりかまけて近場の情報を疎かにするような真似は、流石の一刀にもできなかった。静里の部下は優秀だが、数はそれほど多くはない。今は州都の情報操作にほとんどの力を割いている現状である。外の情報については、ゆっくりと集めるより他はなかった。

「今は屋敷の調査を行っているが、検分したいようであれば都合をつける。どうする?」
「後でで良いだろう。夜逃げしたのが間違いないなら、今はそれだけで十分だよ」
「わざと逃がしたのはどうしてですかー?」

 質問するのは風である。静里が置いておいた資料に目を落としがらの発言だが、その緩い口調には幾分責めるような調子が含まれていた。それを敏感に感じ取った静里は僅かに不快そうに眉を潜めるが、小さく息を吐くことでその怒りをやり過ごした。視線に力を込めて、静里は風を見る。

「再起を図らんとする意思はそれほど感じられなかったが、諦めの悪い連中が担ぎ出す恐れがあった。民意はこちらで操作をしているつもりだが、外部から戦力を引き込まれたらこちらの戦力だけでは対応しきれない可能性がある。外に出てくれるなら、とりあえず問題は先送りだ。外部で戦力を調達し、外部から攻めてくるならある程度準備が必要だし、その間にこちらは戦力が整う。見逃すのは悪くない判断だと思うが、どうだね、軍師殿」
「良いのではないでしょうか。風でもそうしたと思います」

 風はぱたりと資料を円卓に置き、椅子に座りなおした。小柄なので椅子に深く座ると足が床から浮いてしまう。ひらひらと足を振っているのに何となく気付いてしまった一刀がその足を目で追ってしまう。丈が長いのでチラリズムは期待できないが、それでも目線がそこに向くのは男の性だろう。

 バレないように見ていたつもりだが、風は一瞬でそれに気付いた。下から覗き込むようにして見上げてくる風に、一刀は慌てて目を逸らした。会議中、会議中、と心の中で唱えながら、発言者の静里に視線を戻す。それまでのやり取りを追っていたらしい静里の目が『いちゃつくなら後にしろよ……』と言っていた。寛容な灯里と違い、色事について静里は否定的だ。最近富にスキンシップを好むようになった風とは衝突が続いている。今朝も風の態度に随分とイライラとしている様子だったが、灯里と雛里という二人の先輩の目があるためか、声を荒げるようなことはしなかった。

 うん、と大きめの咳払いをする。気持ちを切り替えた静里は、いつもの顔に戻っていた。

「屋敷の権利は押さえる方向で動いてる。『次の州牧』に使ってもらうってのが現実的な案だが、とりあえずは様子見だな。後、持ち出せる範囲の金目の物は全て持ち出されていたが、家財道具はほとんど残ってた。売ればそれなりの金になるだろう。今見積もりを出させてるから、それができたら全員で目を通してくれ」
「ねねがいれば嬉々として処理してくれるんだろうけどなぁ……」

 財務担当のねねは、今は自分達の本拠地にいた。仕事をきっちり分けていたせいか、他の業務に比べて財務関係の処理が遅れていた。それでも優秀な人材が揃っているから、州牧時代に比べると格段にスムーズに組織は運営されている。それでも、と思えるのは贅沢な悩みだった。

 とは言え、ないものねだりをしてもしょうがない。それにこの上さらに仕事を任せるようなことになれば、ねねは容赦なくキックを見舞ってきそうだ。今は遠い場所にいる仲間のことを浮かべながら、一刀は朝議に意識を戻した。

「おまっとさん」

 会議室の扉を勢い良く開けて、霞が入ってくる。下駄のからころという音に今日は見ない顔が付き従っていた。肩口でばっさりと切られた黒髪に、快活そうな瞳。霞や恋のような、素人目でもわかるような強そう感を持っている訳ではなかったが、霞の信頼を得ているのであろうその雰囲気に、一刀は彼女がそれなりの武人であることを察した。

 霞が部屋を行き、自分の席にどっかりと腰を下ろす。少女はそのまま歩き続け、一刀の前に膝をついた。

「はじめまして、北郷殿。私は高順。丁原の部下です。お会いできるのを楽しみにしておりました」
「ご丁寧に。俺は北郷一刀。北郷は姓で……っていうのは聞いてるかな。遠いところ良くきてくれた。丁原殿からの急使ということだけど、戦況はどうなんだ」
「国外での初戦は大勝。その後大姉さん――呂奉先の部隊との挟撃により大打撃を与えることに成功しましたが、中核の部隊はそれでも逃げに逃げました。しかし、合流してくれた黄忠殿の部隊の協力により、殲滅に成功。現在は捕虜を連れ、この州都に向かっております」
「その、黄忠殿ってのは?」
「并州の太守の一人で、丁原殿とも付き合いがあった方ですねー。協力するという話は聞いていませんでしたが、風たちに流れが傾いたのを察して協力に踏み切ってくれたのでしょう」
「勝ち馬に乗っておこうってことか?」
「強かでいいじゃないか。時流を見る眼を持った人が協力してくれるって言うんだ。僕らに断る理由はないだろう?」
「それはそうだけどさ……」

 危ない橋を渡った身としては、最後にやってきて美味しい所を持っていこうというそのスタンスに煮え切らないものを感じるのである。かと言って、協力してくれたのは事実なのだ。この期に及んでも日和見を決めこんでいる人間がいることを考えれば、最後の最後とは言え部隊を動かしてくれたのはありがたい話である。

「稟はどうしてる?」
「現在は丁原より本隊の指揮を任されております。大姉さんが護衛についておりますので、ご安心ください」

 高順は当たり前のことのように言っているが、丁原と浅からぬ仲の恋が一緒にいるとは言え、一協力者に過ぎない稟に本隊の指揮を任せるというのは普通はできないことだし、周囲もそれを受け入れないだろう。

 しかし、そのことを話す高順はそれを受け入れている様子である。丁原や彼女の懐が特別広いのだろうか。一刀が疑問に思いながら高順を見つめると、彼女は笑いながら切り替えした。

「郭先生のことは皆が認めています。実力のある軍師に対しては大きな敬意を持って接するようにと、日頃から丁原に言われておりますので」
「僕も良くしてもらっているしね。稟が不当な扱いを受けていないことは改めて保障するよ」

 高順の言葉を灯里が笑いながら捕捉する。丁原軍に身を寄せている彼女が言うのだから間違いはないだろう。そも、人を見る目に優れた恋がおかんとまで慕う人物である。会ったことはないが、丁原というのが所謂良い人であるのは確信が持てていた。

 稟の扱いについて不安を持っていた訳ではないが、それを捕捉するようなことはしなかった。言葉にすると、非常に言い訳じみている。それが頭の回転の早い軍師たちを前にしては、命取りだった。特に風は最近調子が良く、一刀の言葉を良く捕らえては話を広げようとする傾向がある。

 話に付き合ってくれるのは良いことだ。一刀も風のことは大事に思っているし、男であるから美少女と会話するのは楽しくない訳ではないのだが……

 ちらりと横を見る。『たまたま』こちらを見ていた風と目があった。風はにこりと微笑む。何か良くないことを考えている時の『ふふふー』ではなく、普通の、思わず見とれてしまうような、邪気のない笑みだった。これではまるで普通の美少女である。見ていて心は安らぐものの、これまでの風を知っている一刀はどこか落ち着かない。壮大なからかいのための布石なのではないかと、心のどこかで疑ってしまうのだ。

 風が知ったらそれこそ全力で逆襲に打ってでそうなことを顔に出さないように気をつけながら、一刀は曖昧な笑みを浮かべて高順に視線を戻した。

「稟が本隊を指揮してるってことは、丁原殿はこちらに向かっているのかな」
「はい。黄忠殿の本隊とこちらに向かっております。本人は私と一緒にきたかったようなのですが、黄忠殿も武に優れた方とは言え、我々ほど馬術には精通しておられませんので……」

 高順の顔に、若干苦々しい色が見える。黄忠の技術が足りないせいで、時間が押している。簡潔に言葉にするならそういうことだ。

 一刀は良く知らないが、黄忠は并州太守の一人である。遅れた参戦とはいえ、立場の上では丁原と同格だ。時間が勿体無いからとそれを置き去りにして先に行くことは、できるはずもない。高順もそれは理解しているのだろうが、丁原の流儀を他人のせいで押し通せないこの状況にもどかしいものを感じているらしい。霞ならば不本意な状況であっても顔に出さないくらいのことはできるが、それでも顔に出てしまう、というのはそれだけ彼女の経験が浅いということかもしれない。

 短所というのもバカらしいくらいの小さな特徴であるが、第一印象『良い子』である高順の内面を見れたような気して、一刀は密かに喜びを感じた。

「丁原殿の到着の予定は?」
「遅くとも夕刻には」

 急な話である。高順が一人で先行しているのだから、どんなに早くても明日、と勝手に思っていた一刀には寝耳に水だった。

「今日の予定は全て『きゃんせる』する必要がありそうですねー」
「うん。丁原殿を迎える準備をしなければいけないね」

 風と灯里は早速午後の予定を組みなおし始める。静里は急な予定の変更にぶつぶつと文句を言っているが、それが重要な仕事というのは理解している。嫌々という顔を崩してはいないが、きっちりと話には参加し、意見を出していた。話にあぶれた形になったのは雛里と一刀、それに霞である。どちらかと言えば文官寄りの一刀だが式典に関しては言われたことを実行しているだけなので、企画の段階ではすることがない。軍師として優秀な雛里であるが、式典などの知識にはあまり通じていない。風や灯里などが既に参加しているのであれば、いる意味すらなかった。武官の霞はいわずもがなである。

 どうすれば、と動きを止める雛里を一刀がひょいと抱えあげた。わっ、と思わず声を挙げた雛里を膝に抱えると朝議は終了と判断し世間話のためによってきた霞に身体を向ける。妹分である高順も一緒だった。

「うちのオカンにそんな気ー使わんでもええで?」
「そういう訳にもいかないんだろ。俺としてはお言葉に甘えたいところではあるけどな」

 やっておいた方が良いこと、というのはどこにでも存在するのだ。聞き及んだ丁原の性格からして特別に歓迎の催しをしなかったところで気にもとめないだろうが、人を率いる立場にあって何もしなかったとあっては、一刀が稟に怒られてしまう。稟の顔を見るのも久しぶりだ。ぷりぷりと怒った顔を見るのも、それはそれで楽しみなのだが……喜んで怒られていると思われたら、対外的にコトだ。

 視界の隅で揺れる雛里の髪を一房つまんで見る。長いのに、良く手入れされていた。軍師として忙しい仕事をしていても、やはり女の子なのだなと感心すると共に、膝の上で縮こまる雛里の頭の上に顎を乗せる。巨大なぬいぐるみを抱きしめるようないつもの体勢だった。

 いい年をした男が見た目幼女を抱きしめている。

 事実だけをを見るならば明らかに犯罪だった。高順は文句こそ口にしていないが『良いのですか?』と視線で霞に疑問を投げかけている。だが霞にとってはいつものことだ。ええんやないのー、と答えるその顔には笑みが浮かんでいる。可愛い少女が悶える様を眺めるのは、霞の大好物なのだ。

 ちらりと視線を風に向ける。以前は雛里を贔屓すると『ふふふー』と微笑み、ちくちく刺すような視線を向けてきた。今日もそうなのだろうか、と見るとちょうどこちらを見ていた風と視線が合った。風は一刀の顔と雛里を見比べて、ふっと小さく微笑みを浮かべた。全身から余裕のにじみ出た大人の笑みだった。子供のような見た目は相変わらずなのに、風の身体が一周りも二周りも大きく見える。

 一刀にはその意味が解らない。理解ができないまま風を見つめていると、胸にどすんと、小さな衝撃が走った。膝の上に乗った雛里、その渾身の頭突きである。自分を無視するなとばかりに一刀椅子に深く座り直した雛里の幼い顔は、内心の苛立ちを表すかのようにむくれていた。カリカリしている稟の穴を埋めるように、最近何だか雛里がむくれることが多いような気がしてならない。

 怒らないでくれよ、と心の中で念じながら、雛里の頭をそっと撫でる。そこまでして、雛里はようやく身体の力を抜いた。にゅふー、と借りてきた猫のように大人しくなる雛里と、そんな雛里に目を輝かせる霞には関わらないことにしながら、高順に目を向ける。

「まぁ、バタバタしててお構いできないけど、使いで疲れただろう。部屋を用意するからゆっくり休んでくれ」

 女の機嫌取りよりも後回しにされた高順は、呆れた様子で溜息を漏らした。信頼とか期待とか、そういったものが溜息と共に体外に流れていくのを、一刀は感じた。

「お構いなく。これくらいでへばっているようでは、丁原の元で働くことなどできませんから」

 快活に応える高順に疲れた様子は見えない。馬に乗るというのは見た目以上に疲れるものだ。それを、精強で鳴らす丁原の騎馬隊をちぎって先行したというのに、これである。恋といい霞といい、常人には想像もつかない神経をしているようである。

「稟は大丈夫かな」

 自分に厳しいことでは他の追随を許さないが、稟は文官である。戦場にあって本陣で指揮をするだけならばまだしも、騎馬の中に混じって移動する様を想像するのは難しかった。決して運動オンチではないものの、馬術に関して言えば一刀の方がまだ上手いくらいだ。

「郭先生は中々筋がよろしいですよ」

 くすくす、と高順は笑っている。本心からそう思っているようだが、言葉の裏に何かあるのを一刀は感じ取っていた。

「ですが、しきりにお尻を気にしておいででした」
「せやろなー。うちらに付き合ってたら、普通はそうなるもんや」

 慣れない人間が馬に揺られ続けると、そうなるのである。一刀も馬に乗り始めた頃は良く尻を痛めたものだ。最近はそういう痛みとはご無沙汰だったが、それを軍師であるところの稟が味わうことになるとは想像していなかった。

 何故私が……と稟が思っていても不思議はない。こちらに戻ってきた稟はきっと、いつにもまして眉間に皺を寄せていることだろう。イライラしている稟の姿を想像して、あぁ、これこそが稟だ、と安心感を覚える一刀であるが、雷を落とされるのが自分とは限らない。善良な雛里辺りがとばっちりを受けたら流石にかわいそうだ。愛らしい見た目相応に、雛里は肝が小さいのである。

 稟にはことさら優しくしようと一刀は心に決めた。

「でだ。丁原殿と一緒に来るらしい黄忠殿ってのはどんな人なんだ?」
「ウチは会ったことないなぁ」

 霞は興味なさそうに首を横に振る。

「私はこちらに立つ前にお会いしましたが……」

 高順は視線を宙に彷徨わせて言葉を捜すが、どうにも上手い言葉が見つからない。うーん、と唸る高順を見て、霞がぽつりと呟いた。

「エロい?」
「……小姉さん、私はその言葉を存じ上げませんが、私が言おうとしていることに合致していることは何となく察しがつきました」
「そか。ウチの勘も中々のもんやな」
「会ったことないんじゃなかったのか?」
「知らんとは言うてへんやん。噂には聞いとるで。巨乳美人の未亡人で天下四弓の一人やって」

 天下某という武人の心をくすぐる単語が出てきた割に霞の声が平坦なのは、彼女自身があまり弓という武器を好んでいないからである。馬に乗って敵陣に突っ込み、敵兵を斬る。霞や恋が好んで用いるのはそういう単純な戦法だった。

 それでも、弓が不得手という訳ではない。北郷軍で弓が得意と言えば要であるが、霞の腕はその要に並ぶほどであり、恋に至っては要を遥かに上回っている。その事実は要をそこはかとなく打ちのめしたが、当の霞は才能という点だけで見れば要は自分達を凌駕しているという。今のこの結果は、単純に修羅場を潜った数の差であると。

 その言葉に要はあっさりと自分を取り戻したが、才能を凌駕するだけの経験を積んだ人間を、その人間が生きている間に追い越すことができるのだろうか、と気にせずにはいられなかった。今日も要は会議には出席せずに熱心に弓の鍛錬に励んでいた。努力は報われてほしい、とは思うが……その先は気にしないことにした。

「要の良い刺激になれば良いな、その人。弓の指導とかしてくれないものかな」
「なんや。巨乳美人ってのには食いつかんのか」

 アテが外れて残念そうな霞の顔を見て、一刀はふふん、とわざとらしく勝ち誇った。

 確かにこの世界に来る前ならば、飛びついていただろう。巨乳という単語が男の心の惹きつけない訳がないのだから。

 しかし、連合軍での戦いが一刀の心を強くした。何しろ乳のない人間は出世できないと言わんばかりの首脳陣である。最初は一刀もこれ見よがしなおっぱいに内心で喜んだものだが、慣れとは恐ろしいもので『そういうものだ』と思ってしまうと喜びこそすれ興奮はしなくなっていくのだ。最後には同席していても、視線を向けないで済むようになった。男としての成長を感じた瞬間である。

 最近は色々な意味で周囲が平坦であったためその境地も忘却の彼方に行きつつあったが、その試練を乗り越えたという事実が一刀を無駄に前向きにしていた。自分ならば乗り越えられる。そんな自信のにじみ出た一刀を見て、高順はほぅ、と溜息を漏らした。

 感嘆と諦めが混じったような、そんな溜息である。

「だと良いのですがね……」

 小さすぎる高順の呟きは、誰にも聞こえることなく、空気に消えた。
















 「……」

 今更人の見た目で衝撃を受けることなどないと思っていた一刀はやってきた丁原と黄忠を見て絶句していた。

 それだけ、二人の容姿は際立っていたのである。

 まず、丁原だ。

 一刀が見上げるほどに大きい。190に近い長身である。武人らしい筋肉はついているが、それでも大柄という感じはしなかった。『女丈夫』という言葉がこれほど相応しい女性を一刀は他に知らなかった。強そう感だけで言えば、恋よりも遥かに強そうに見える。恋や霞が『おかん』と慕う理由が解る気がした。ともすれば男にも見えかねないこの女性を見て、頼りにならないと思う人間はいないだろう。

 そして、黄忠である。

 匂い立つような色香というのは、こういうことを言うのだろう。薄紫のチャイナドレスに包まれた身体は今まで見てきたどんな女性よりも豊満で、足には深いスリット、胸元はこれ見よがしに開いている。凝視するのは失礼だとわかっていても、視線を向けずにはいられなかった。ちらちらと。何度目か視線を向けた時に、黄忠本人と視線が合ってしまった。気まずい表情を浮かべる一刀に、黄忠は嫣然と微笑み返した。

 自分がどういう目を向けられるかを完全に理解し、それを受け止め、その上で楽しんでいる風である。大人の女性というのはこういう人を言うのだと、一刀は遅まきながら理解した。

(世の中広いんだな……)

 心中で呟く。それにしても嬉しい誤算である。じろじろ見ても許してくれそうな女性ではあったが、あまり鼻の下を伸ばしていると明日から居場所がなくなってしまう。

 ごほん、と咳払いをして気持ちを切り替える。後ろ髪を引かれる思いはあったが、北郷一刀はこの軍団の代表なのだと思い直し、数歩前に出た。

「北郷一刀です。遠路、ご苦労様でした」

 挨拶と共に握手を求め、右手を差し出す。その手を意に介さず、丁原はじっと一刀を見つめた。身長差があるので、見下ろすような形になる。凄みのある顔立ちに、長身。威圧感は凄まじいものがあった。早速何か粗相をしたのか、一刀が内心で焦っていると、丁原は小さく息を漏らした。

「もう少し大柄な男を想像してたんだが、そうでもないな」
「強そうに見えない、とは良く言われます。武人として名高い丁原殿には、物足りないかもしれませんが」
「いや、すまん。つい俺の部下として、と考えちまった。男はデカけりゃいいってもんでもない。恋や霞がコレと見定めたんだし、間違いってことはないだろう」

 頭を下げると改めて、丁原は笑みを浮かべ一刀の腕を握り返した。

「俺が丁原だ。字は建陽。面倒を押し付ける形になっちまったが、良くやってくれた。本当に感謝してる」
「丁原殿が州牧軍を引き付けてくださったおかげです。それに仲間も良くやってくれました。俺の力など微々たるものですよ」
「頭はお前だろう? 全部自分の手柄っつーのは良くないが、仲間に全てを与えちまうのも良くない。もっと堂々としろ、とは奉孝も良く言ってたぞ」
「ええ、良く言われます。稟はどうでしたか?」
「うちの連中は頭の回るのが少ないからな。奉孝には良く助けられた。ここまで州牧軍に快勝できたのは、奉孝がいてくれたおかげだと思ってる」
「本人にそう伝えてあげてください。きっと、稟も喜ぶと思います」
「もう何度も言ったよ。それに、あれもお前さんに言われた方が喜ぶだろう。毎日毎晩、お前さんの話をしない日はなかった。愛されてるな、北郷」

 にやり、という笑みは肉食獣のようである。見た目を裏切らないワイルドさに、一刀は苦笑を浮かべる。

「そろそろ私もお話に混ざっても?」

 黄忠が笑みを浮かべながら、身体を寄せてくる。間近で見ると、凄い迫力だった。思わず下がりそうになる視線を誤魔化すために、あさっての方向を向く。視界から排除しても、女性らしいえも言われぬ香りが一刀を襲っていた。頭がくらくらするが、ここでキョドるとこれ以降完全に主導権を握られることになる。初対面でそれは、軍団の代表としても男としても格好悪い。毅然とした態度というのはもう無理としても、せめて最後まで取り繕わなくては。

「失礼しました。北郷一刀です。姓が北郷で名が一刀。字はありません」
「黄忠。字は漢升と申します。この度は活躍されたようで」
「いえ。俺の力など大したことはありません。仲間が良く働いてくれた、その結果です」
「謙虚な方ですこと。殿方には珍しいですわね」

 嫣然とした微笑に、頬が熱くなる。ヤバい。存在そのものが、果てしなくエロい。

「立ち話も何でしょう。どうぞおかけください」

 テンパってしまった一刀を援護したのは、灯里だった。丁原とも知らない仲でない彼女に進められ、丁原と黄忠が席につく。丁原たちが上座で、一刀たちはその反対である。形の上では対等な同盟であるが、戦力差を考えるとそれは当然の配慮だった。

「それでは、ご説明させていただきます」

 司会進行は風である。朝議で確認した州都の状況が詳細に丁原と黄忠に伝えられていく。二人は風の言葉を黙って聴いていた。その説明が終わると、重々しく丁原が口を開く。

「で、どうしたら良いと思う」

 軍師たちを見回しての言葉だ。丸投げである。何か考えがあるがまずは軍師の言葉を聞こう、という風ではなかった。そんなことで良いのかと思う一刀を他所に意見を求められた軍師を代表して、風が口を開く。

「早急に州牧の代行を立て、業務を円滑にするのが良いのではないかと。既にいくつか、処理できない案件が溜まっていますので」
「こっちで代行を立てて大丈夫か? 州都内の州牧派はどうだ?」
「その辺りは先の事件でそれらしい人間は一掃できました。内心はどうか知りませんが、表立って反論してくる気合の入った人間は、もういないはずです」
「つまり問題はないということだな」
「できるだけ早く、というのが風の希望ですねー」

 ちら、と風がこちらに視線を送ってくる。意味ありげな視線だったが、意味がわからない。どうした? と視線で問うて見るが、風は『ふふふー』と笑うだけで何も答えなかった。何か含むところのある、一刀にとっては良くない笑みである。それで、一刀は風が何か隠しているのだと直感した。

 嫌な予感に煽られるような形で、一刀は周囲を見回した。風と視線の交換をしていたのは皆に見られていたはずである。その上で、一人一人の顔を見ていくが、全員は何やら含むところがある反応をした。雛里などは気まずそうに視線を逸らしている。

 これは不味いことになる、と会議の流れを止めてでも一刀が意見を言おうと口を開く――それよりも一瞬早く、丁原が確定的な一言を口にした。

「じゃあ、州牧代行は北郷ってことで良いな」
『意義なし』

 丁原の提案に、黄忠を含めた一刀以外の全員が同意した。

「……ちょっと待ってください」

 幹部全員の同意がある以上、いくら代表である一刀でもそれを覆すのは難しい。無駄な抵抗とは思うが、ここで何もしなければ将来は確定したも同然だ。鈍い頭痛を感じながら考えを纏める。

「丁原殿が州牧になられるのではないのですか?」
「国境の安全を守るためにも、俺は今の太守を辞めるわけにはいかんのだ」
「それはそうですが……」
「それに何より柄じゃないしな」

 と、捕捉して丁原は笑う。後者の理由の方が、丁原にとっては重要そうである。柄じゃない、というのならば自分だって同じはずだが、丁原は迷わず一刀が代行になることを提案し、風たちはそれを認めた。事前の相談はないにしても、こういう流れになると感づいていたとしか思えない。丁原も風たちも、今からかうために提案したという様子はなかった。

「人が悪いな……」
「最初に話を通しておくと、お兄さんも緊張したでしょうからねー」

 風に悪びれた様子はない。こうなるのが当然だといわんばかりの表情だった。

「黄忠殿、これでよろしいのですか?」
「良いのではありませんか? 先生方のお噂は聞いておりますし、呂布、張遼と音に聞こえた武将方もいらっしゃいます。州を運営するには問題ありませんでしょう。後は対外的な問題ですが、それは先生方が手を打っておられるのではありませんか?」

 そうなのか! と情報担当の静里を見ると、彼女は当然だと言わんばかりの表情で頷いてみせた。

「州都に入った頃から、私達の頭目が北郷一刀だって情報はそれとなく流してある。悪逆非道の州牧を討った最大の功労者、ってのが、今のお前の風聞だな。現職が県令だからいきなり州牧ってことに抵抗を覚える人間はいるだろうが、論功を考えたら妥当と言えなくもないだろう。後はまともに仕事をしてたら民は文句を言わん。前任があんなのだったんだから、良い評判を作るのはそれほど難しくないだろうな」
「腹を括った方が良さそうですわね」

 微笑む黄忠を前に、一刀はがっくりと肩を落とし、椅子に座りなおした。逃げ道は既に塞がれている。取るべき道は一つしかなかった。

「謹んで、職務を真っ当いたします」
「コレで肩の荷が降りた。引継ぎがあるだろう。奉孝が州都に到着したら、すぐに領地に向かってくれ。その間、軍の編成や諸々のことは済ませておく」
「何から何までどうも」
「気にするなよ」

 とは言うが、してやったりという顔を丁原はしている。霞のおかんらしい、実に小憎らしい笑みだ。

 してやられた。その思いを胸に、椅子に背中を預けて脱力する。

「ところで北郷殿。一つ提案があるのですが」

 気付けば、黄忠の顔がすぐ横にあった。椅子ごとひっくり返りそうになる一刀を追うようについ、と身体を寄せてくる。メロンか西瓜か、という胸が間近に迫り、一刀の動悸が早くなる。男として当然の反応だ。その余裕のなさが伝わっていないはずはないのだが、黄忠はさらに顔を寄せてきた。内緒話の構図である。これだけ二人の人間が近づいて視線を集めない訳はない。早速、雛里の機嫌が急降下している様子だが、黄忠は我関せずと話を続けた。

「代行とは言え州牧になられるのなら、身の回りのお世話をする人間も必要になるかと思います。ご用意されておられますか?」
「いえ、特にそんなことはありません」

 風や稟に何度も置くべきだ、とは主張されてきたが一刀自身が断ってきた。常に身の回りに誰かを置くというのは気分が良くないし、自分でできることを他人にやらせるのは一刀としても抵抗があった。今でも最低限のことは自分でやっている、が、州牧ともなるとそうも言っていられないのは理解できた。上に立つ人間はそれ相応の振る舞いが要求される。州牧にもなって雑用全てを一人でこなすのは、格好がつかないのだ。

 一刀には理解できない感覚であるが、郷に入りては郷に従えである。そうしないと舐められるのというのだから、従わない訳にはいかない。自分一人が侮られるのならば我慢もできるが、北郷一刀は稟や風たち全員の代表だ。自分が侮られるということは、仲間全員も侮られることになる。

 主義主張を変えざるを得ない時がきたことを感じて、一刀は溜息を漏らした。慣れるまで息の詰まる生活が続くのかと思うと、憂鬱になった。

「実は私の方で一人、傍仕えの人間を用意してございます。武はまだ未熟ですが、家事全般は問題なくこなすことは保障いたします。いかがでしょう。北郷殿がご承諾いただければ、今日にでもご紹介させていただきたいのですが……」

 ふむ、と一刀は黄忠の色香から逃げるように考えこむ。

 北郷軍では各々が必要とする人材は、それぞれの裁量で雇うことができるようになっている。後で財務となし崩しに人事の管理もしているねねに話を通す必要はあるが、無駄な雇用をしない限りねねも反対はしない。予算の許す限り人材は登用するべしというのが、北郷軍の基本方針なのである。

 だが、常に周囲に置くことになる傍仕えの人間などは話は別だ。信用の置けない人間はおけないから当然、幹部の誰かのチェックが入るし素性も洗う必要がある。さらにいざという時は護衛も兼ねるため、兵を統括する人間――今ならば霞や恋の承認も必要になった。

 設置自体は以前から言われていることであるため、予算については問題はない。信用や素性は、黄忠からの推挙ということで問題はないだろう。クーデターの功労者の一人であり、現在の太守の一人でもある黄忠の紹介を無碍にすることは、立場上避けておきたい。後は武の腕であるが、要人の傍仕えにある程度の武が必要になることは、自身も要人である黄忠も熟知しているはずである。未熟と口にしているが、それも謙遜と取ることができた。

 取っても問題ない、と一刀は結論付けた。いつもならば絶対に誰かに相談したことを一人で決めたのは、色香に当てられて正常な判断ができなくなっていたのだろう、と後に振り返る。

「良いですよ。待たせているなら、どうぞ入ってもらってください」
「ありがとうございます。璃々! いらっしゃい!」

 黄忠の声を受けて、部屋に一人の少女が入ってくる。少女は一刀の前までぺたぺたと足音を立てて歩くと、ぺこりとお辞儀した。

 薄い紫色の髪は頭の両サイドで括られている、所謂ツインテールとかサイドテールとか呼ばれる髪型だ。紫色の瞳はくりくりとしていて、愛嬌を感じさせた。身長は雛里や風よりも大きいが、顔立ちは幼いから年齢は彼女らよりも下だろうと類推させる。それなのに女性的な部分については二人を既に追い抜いているのは遺伝子に拠るものだろう。一目で黄忠の縁者というとのは理解できた。雰囲気は比べるべくもないが、顔立ちは良く似ている。

 この美少女が将来メロンや西瓜になるのか、と思うと自然と一刀の目じりも下がるが……周囲の視線が怖い。風たちに背中を向けるようにして、椅子の向きを強引に変える。

「娘の黄叙です。璃々、ご挨拶なさい」
「はじめまして、北郷様。黄叙と申します!」

 ぺこりと頭を下げる仕草まで愛らしい。一目で一刀は黄叙を気に入ったが、同時に黄忠に嵌められたことも理解していた。

 何しろ娘である。美少女が傍にいてくれることは男として素直に嬉しいが、親が年頃の娘を未婚の男の傍に置こうとすることに、何の意味も見出せないほど一刀もアホではない。一刀以上に、黄叙の方は親の意図を理解しているのだろう。小さな身体に緊張が見て取れる。

(俺もそんなことを考える年かぁ……)

 学生服を着て、この訳の解らない世界にやってきてから既に三年以上が経過している。現代日本ならば既に成人として扱われる年齢であるが、結婚を考えるにはまだ若いと思っていた。

 現代日本ならばその感覚は正しいのだろう。

 しかし、この世界はそうではない。一刀の感覚よりも結婚適齢期は大分早く、一刀の年で結婚して家庭を持ち、子供を作っている人間も少なくはない。荀彧の実家で出会った宋正など良い例だ。

 権力を持つと主要なポストを親戚で固めたがるのが、権力者の常套手段である。何よりも信頼できるのは血と姻戚であるという訳だが、一刀にはその縁者が一人もいない。それが強みでもあるのだが、同時に弱みでもあった。

 いざという時、必ずバックアップしてくれると確信の持てる勢力がいないのは、出世を考える上で大きなマイナスになる。幹部の中では稟が大いにそれを気にしていたが、同時にそういう勢力を選ぶ時は慎重を期すように、とも釘を刺されていた。軍団の運営に口を出されると大変よろしくないというのがその理由である。

 口にしたことは覆すことはできない。何より黄忠が乗り気であるし、黄叙の方も悲壮感を感じさせてはいない。話の流れを正確に理解したらしい風が流石に厳しい視線を送ってくるが、既に一刀にはどうしようもなかった。

 とは言えいきなり婚約、結婚という話は切り出してこないだろう。向こうにも、こちらを見極めるだけの時間が必要である。今はまだ、お互いの様子を見る時間だ。それでも自分の娘を真っ先に売り込んできた黄忠は、それだけこちらを評価しているということでもある。途中から乗っかってきた割には、随分と大胆な手を打つものだ。

 一刀の中で、黄忠の警戒レベルが一つあがった。常に警戒してかからないと煙に巻かれる。軍師などの頭の良い人間とは別の意味で、自分のペースを作るのがとても上手い。などと理由を付けてみるが、黄忠の容姿と雰囲気に負けた感は否めない。

 これから帰ってくる稟から雷を落とされることを、一刀はを覚悟した。美少女の傍仕えをゲットしたというのに、気分は深く深く沈んでいた。











[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三十三話 并州平定編②
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 05:00
「稟、その、なんだ……元気?」

 当たり障りのなさ過ぎる一刀の言葉に、棘のある言葉を返すつもりでいた気持ちが萎えていくのを感じた。狙ってやったのだとしたら大したものだが、一刀にそこまでの配慮ができるはずもない。一人で気を張っている自分がバカらしくなって、稟は肩の力を抜いた。こちらの険が取れたのが解ったのだろう。一刀が安堵の溜息を漏らす。

「貴殿は相変わらずのようですね、色々な意味で」

 それでも、若干の棘があるのは愛嬌というものだろう。不意打ち気味に投じられた言葉に、一刀は一歩後退る。それで溜飲を下げた稟は先ほどよりも幾分清らかな気持ちで周囲を見回した。

 あの村で旗揚げ……のようなものをしてから、一刀は元より風や雛里と離れて仕事をしたのはおそらくこれが初めてだ。恋や丁原に不満があった訳ではないが、それでも一抹の寂しさを味わっていたのは事実だった。一刀たちもこんな気持ちでいるのだろうか。そう思うことで寂しさをやり過ごし、見事に当初の計画を達成。やっとの思いで仲間の元に帰ってきたら親友は女の顔になっているし、一刀の周囲に新しい顔が一つ増えていた。

 少女の立ち位置からどういう役割なのかは推察することができた。相談もなく! と憤りはしたものの、少女が黄忠の娘であると聞いて稟は納得した。この状況と黄忠の立場を考えれば断る訳にはいかなかったのだろうと、『理性では』納得できる。

 黄叙を見る。

 稟の目から見ても美少女だ。家事は万能で武もそれなり、胸は薄いが親がああなら将来性は抜群だろう。強いてあげるとするなら学が浅いことが短所として挙げられるが、それも軍師である自分や風と比べてのこと。一般的な教養ならば十分に修めているようだし、一刀の仕事の補佐くらいならば明日からでもできるだろう。傍においておく人間として、これほど都合の良い存在もない。

 それだけに後々のことを考えるとよろしくない。立場と年齢を考えると、一刀もそろそろ連れ合いを決めてもおかしくはない時期だ。『家』という後ろ盾がない分、急務とも言える。この時期に黄忠が娘を差し出してきたということは『そういう』意図もあるのだろう。一刀とてそれは認識しているはずで、黄叙自身は特にそれを意識しているはずである。二人が、特に黄叙の側が望めば、すぐにでも関係は築けるだろう。

 しかし、である。後ろ盾として黄忠は悪くないが、ここまできたらもう少し上を目指してみたいというのが筆頭軍師としての建前だった。さりとて黄忠よりも上となると、難しくなってくる。悩みすぎて売り時を逃しては元も子もない。

 決めるならばさっさと決めた方が良いのは解っているのだが……色々な感情が邪魔をして、本格的な話を切り出すことができないでいた。

 そんな状況での黄叙であり、風である。特に風だ。雛里などは一刀の背後に控える黄叙に幼い顔立ちに似合わない胡乱な視線を向けているというのに、風は非常に落ち着いた物腰を見せている。まさに正妻の貫禄だ。女の影がどれだけ見えようと気にしないと言わんばかりである。

 いつからそこまで物分りが良くなったのか。いずれ話し合う必要がありそうだが、今は仕事の話だ。

「県令の仕事の引継ぎのため、私も付き添うことになったと聞きましたが?」
「ああ。文官仕事の引継ぎ調整を稟に頼みたい」
「私でなくても良いのではありませんか? せっかく人材も増えたようですし……」

 軽く嫌味を口にしながら、黄叙に視線をやる。特に睨んだつもりはないが、視線を受け止めた黄叙はびくりと背中を振るわせた。顔色も良くないようである。胆力は年相応のようだ。腹芸に通じている風でもない。母親は百戦錬磨の貫禄が体中から滲み出ていたが、それを求めるのは酷というものだろう。

 だが諸々の感情を別にすればその素直そうな物腰には好感が持てた。だが、それを顔には出さない。最初くらいは苦手意識を持ってもらった方が良い。若く使命感を持っていそうなだけに、頭を押さえつけておかないと暴走する恐れがある。正室の座は、もうしばらく諦めていてもらうことにしよう。

「いや、稟じゃなきゃ駄目なんだ。国境で頑張って疲れてるのは解ってるつもりだけどついてきてほしい」

 まっすぐな視線を沿えての、一刀の台詞。聞いた瞬間に胸が締め付けられるような思いがしたが、是が非でも自分を連れて行きたい、というのは一刀一人で決めたことではないだろう。しばらく離れていた郭嘉に配慮すべし、という動きが知らないところであったに違いない。

 配慮してくれるのは嬉しいが、癪に障らないでもない。

 それを顔に出さないようにしながら、稟は澄ました顔で返した。

「解りました。出立は明日ということで良いでしょうか?」
「助かるよ。ありがとう、稟」
「今更気にしないでください。貴殿のために身を砕くのは当然のことです」

 そこで、ようやく稟は肩の力を抜いた。一刀も笑顔を浮かべる。明日のことはこれで決まったが、この地においてもしなければならない仕事は溜まっている。代行とは言え既に州牧なのだ。前の州牧が盆暗だっただけに、その改革には早く着手したい。

 その気持ちが顔に出ていたのだろう。一刀の笑顔は苦笑に変わっていた。

「働き者の仲間を持って、俺は幸せだよ」
「そう思うのならば、もっと仕事をできるようになってください。傍仕えができたのですから、余裕もできたことでしょうしね」
「微力を尽くすよ」

 苦笑を本当の笑顔に切り替え、一刀は言った。

「ともかくお帰り、稟。無事に帰ってきてくれてよかった」
「改めまして、ただいま戻りました一刀殿。これからも、共に頑張りましょう」

















 元赴任地となってしまった県への同行者は、予定よりも少なくなった。

 引継ぎの中核である一刀と、文官の引継ぎ処理の全てを請け負った稟。それから一刀の傍仕えである黄叙と家族の引越しの面倒を見るためについてきた恋の四人。中核メンバーはこれで全員である。

 普段であれば護衛の要もいるのだが、彼は黄忠に目をつけられ州都に残っている。弓を使うという彼を黄忠はいたく気に入ったらしく、滞在している間は彼の面倒を見ることに決めたようだった。弓の指導をしてくれる黄忠を要は尊敬の眼差しで見つめていたが、そんな要を見下ろす黄忠の瞳に、一刀は肉食獣のような光を見ていた。見た目が見た目だけに、取って食われるというのもありえないことではない。

 注意を促したいところではあったが、要も男だ。それくらいの判断は自分でするべし、と一刀は関わらないことに決めた。よく考えれば美味しく食べられてしまったとしても、誰も困らない。要も一皮剥けて黄忠も満足する。正にWINWINの関係だった。

 要が残った影響というのではないが、武官でついてきた人間は恋以外にいなかった。実働部隊の責任者であるところの霞は、州軍の再編成で忙しく働いている。雛里はそのフォローだ。稟が率いてきた本隊の中には、前の州牧が率いていた軍の捕虜が大勢いた。州牧が個人で動員できる戦力だからといって、その全員が州牧に心酔していた訳ではない。好き放題やっていた彼の評判は子飼いの中でもよろしくなかったらしく、中核だった人員が丁原との戦でほとんど死亡したこともあって、多くの人間があっさりと反旗を翻し、軍に残ることを希望していた。

 錬度には疑問が残るものの、最初から頭数が揃っているのは嬉しい誤算である。県とは違い予算も桁違いだ。一から兵を鍛え上げるのも良いが、やはり騎馬の大軍団を指揮したかったのだろう。編成を急ぐ霞の目は、やる気に満ちていた。周倉については指揮下の部隊が全員州都にいるため、県に戻ってもすることがないと霞の州軍再編に付き合っている。

 本人は出世などにはそれほど興味がないようだが、クーデター実行部隊に参加していたことで昇格はほぼ決定付けられている。反旗を翻したとは言え現在の州軍の中核をなしているのは『あの』州牧に従っていた面々だ。息のかかっていない人間は少しでも欲しいこの状況で、賄賂や脅しで寝返りそうにない周倉の存在は貴重だった。

「最初は頭数を確保するのに盗賊を組み込むなんてやったなぁ」
「こんな時代だからこそ使えた手ですね。高い志を持った人間が賊に身を窶し、腐った人間が権力の上に胡坐をかいている。世も末だと頭を抱えたものでした」
「そんな世を少しでも是正できたなら何よりだ。後はもう少し、周倉の物分りが良くなれば助けるんだけどな」
「それについては地道にいきましょう。下手に動いて離反でもされると、後が怖い」

 自他共に厳しい周倉には相変わらず敵が多い。彼女を嫌う人間には一刀の陣営にも数多くいるが、不正を許さないその苛烈な性格は民には非常に受けが良かった。先日など以前までのノリを引きずって兵に賄賂を渡そうとした商人を公衆の面前でを殴り飛ばしている。

 賄賂や不正は断固として認めない方針であるので、この行動は陣営の方針をアピールするに当たって非常に有効なものとなっており、『不正を許さない兵』ということで民の支持もうなぎ上りだ。力で締め付ける方針は一刀や稟の主義ではないものの、官憲と言えば腐っているというイメージで凝り固まった民に、不正を許さない周倉の姿は新鮮に映ったらしい。

 その周倉のイメージに引きずられて、陣営全体のイメージも良いものになっている。諸悪の根源扱いの前州牧を討ったという事実はあるが、民の意識は移ろいやすい。この辺りで何か心を引き付けるようなことを、と考えていた矢先だっただけに、周倉の行動は渡りに船と言えた。

 さて、と気を引き締める。

 県庁の執務室、その扉の前である。

 少し前までは一刀の仕事部屋だったが、県を空けている間は責任者であったねねがその主となっていた。

 つまりこの扉の向こうにはねねがいる。話し合って決めた上での役割分担とは言え、敬愛する恋と引き離す形で仕事を押し付けてしまった決まりの悪さがあるため、顔をあわせ難い。

 仕事のデキる人間らしく、仕事とプライベートは分けて接してくれるが恋と親しい関係にある男性ということで目の仇にされているのは否めない。それでも男であるというだけで攻撃的になった荀彧に比べれば大分穏やかな精神性と言えるが、口や足が飛び出してくるのは共通している。

 そういう攻撃的な少女は荀彧で慣れているが、今回は幹部連中の中で一人カヤの外の状況である。何を言われるのか想像するだけで気分が滅入った。

「できれば俺は席を外したい」
「そういう訳にもいかないでしょう。覚悟を決めてください。殿方なのですから」
「なぁ、やっぱり俺いじめられてる? 正直に言ってくれ」
「滅相もない。ただ最近私はないがしろにされていた気がするので、この辺りで貴殿に私を思い出していただこうと思いまして」
「俺は稟のことを忘れたことはないよ」
「それだけふざけたことが言えるのならば大丈夫ですね。では、どうぞ」

 道をあける稟に、一刀は深々と溜息をつく。これで少しくらい慌ててくれれば楽をする目もあったのだが、そういう訳にはいかないようだった。自分に女遊びの才能がないことを改めて自覚しながら、一刀は扉を開けた。

「ようやく来やがったですか、ちんこ州牧」
「枕詞は余計だけど、その分だと事情は知ってるみたいだな」
「州内はその話題で持ちきりですからね。それにお前と違って頭の良いねねは、こうなることを予見していたのです」

 ほら、とねねが突き出した木簡を受け取る。その五点。さらにねねが示した先には、十個の木簡があった。

「お前が外に出ている間の報告はそれに纏めておいたのです。引継ぎについてはやれるだけやっておきました。微調整はお前の仕事です。何か質問はあるですか?」
「書くべきことを纏めておいてくれたのなら、俺から聞くことはないな」
「そうですか。では、ねねは恋殿のところに行ってくるのです」

 話はそれで終わり、とばかりにねねは駆け出し――すれ違い様に一刀の後ろに控えている黄叙に視線をやりながら――足早に部屋を後にした。

「仕事が早くて助かりますね」

 稟は一刀の手の中の木簡を取り上げ、手早く中に目を通していく。凄まじい速度で内容を確認する稟にパスするため、一刀は机の上にある木簡の山に目を向けた。上から順に番号が振ってある。この順番通りに読め、ということなのだろう。随分と親切なことだ、と思いながら『二』と書かれた木簡を差し出すと、稟は間髪いれずに取り上げた。

「三番を紐解いておいた方が良いかな」
「まずは一番の木簡に目を通していただけますか?」

 稟の口調はにべもない。入れ替えるように最初の木簡を受け取ると、執務机に腰を下ろす。お茶を淹れます、と茶道具に駆け寄る黄叙。稟は木簡を凄まじい速度で読んでいるが、立ったままだ。一刀は机から立ち上がると椅子を持ち出し、黙って稟に勧めた。ありがとうございます、と稟は小さく礼を言い、腰を降ろす。視線は木簡に落としたままだ。夢中で文字を追うその顔は真面目そのもので、アップにされたうなじとの対比は一刀の心を擽った。

 小さく溜息をつき、一刀の執務机の椅子に腰を降ろす。稟は二分とかからず流し読みしてしまったが、文字を追うスピードは平凡な一刀には中々の難物だった。

「む」

 木簡を四苦八苦しながら攻略していると、稟が小さなうめき声を挙げる。一刀が集中しているうちに稟は三番目の木簡を読み終えていた。

「何か不都合でもあったか?」
「できすぎています。資料の完成度が高すぎる」
「それは良いことなんじゃないか? ねねだって優秀なんだし時間だってあった。手伝ってくれる人間だっていただろうし、ありえないことじゃないだろ?」
「ねねを筆頭に県庁の文官を総動員したとしても無理です」
「……じゃあ質問を変えるけど、どのくらいでき過ぎてるんだ?」
「そうですね……ねねが後二人はいないと、この完成度には説明がつきません」
「なんだ。じゃあ、同じくらいの力量を持った人間が後二人いて、その二人がねねを手伝ったんだろ? 何もおかしなことはないじゃないか」
「そんな知者が市井に何人もいるとお思いですか?」
「そんじょそこらにはいないだろうけど、ここにはいるだろ。飛び切り優秀な人たちが『三人』も」

 稟はそれでも首を捻っていたが、やがて「あぁ!」と声を挙げた。

「失念していました。いや、存在を忘れていた訳ではないのですが、その可能性を無意識に排除していたようです。貴殿に言われるまで気付かないとは……軍師失格ですね」
「たまには俺が良い目を見ることがあっても良いだろ。それより、その三人のうち二人が手伝えばこの資料の完成度には納得がいくか?」
「問題ありません。そうですか、彼女らが……」

 資料に視線を落とす稟の目は真剣そのものだった。軍師として、何か刺激されるところがあるのかもしれない。速読のスピードを更に上げて、木簡を読み進めていく。それにおいていかれないように、一刀も必死に資料を読み込んだ。

「そういえば、彼女たちの処遇はどうするのですか?」
「好きなようにしてもらうさ。でも、ここに残るって訳にはいかないだろう。董卓殿たちは戻る場所はあるだろうけどまだ情勢が不透明だし、諸葛亮殿は……」

 言葉を続けようとして、一刀は視線を彷徨わせる。諸葛亮のまっすぐさを知っているだけに、言葉を続けるのが憚られた。

「話は変わるけど、劉備軍はどうだ?」
「負けた、という話はまだ伝わってきていませんね。時間の問題だとは思いますが、諸葛亮殿が抜けたとは言え、関羽、張飛の両名が奮闘しているようです。曹操軍も一気に決めようとしているようですが、中々決めきれない。ですが戦況は一進一退ではなく、曹操軍は押し続けています。起死回生の作戦でもない限りは、このまま負けは確定でしょう。我々の予想の通りです」

 言葉を結んで、稟は渋面を作る。曹操軍が劉備軍を破って手が空いたら、その目はこちらに向くことになる。曹操が天下を狙っているのは、もはや公然の秘密である。領土拡大を目指し、こちらに対し何らかの行動を起こしてくるのは目に見えていた。

「領土の南方が手薄になっている袁紹を攻めるってことはないか?」
「聞き及んだ曹操殿の性格を加味するに、火事場泥棒のような真似はしないはずです。やるならば正面から。それが彼女の美学なのでしょう」
「相対的弱者に上から目線で美学も何もないもんだ」

 とは言え、立場が弱いのは事実であるから仕方がない。協力しないならば敵とみなすというのは、逆に言えば味方でいる限りは力を貸してやるということでもある。一刀だって、曹操の性格は聞き及んでいる。あの荀彧がほれ込むような存在だ。完璧主義で、高潔な人間に違いはない。

 何の制限もない状態ならば、一刀も曹操と協力することに吝かではないのだが……今度は曹操とはまた別の問題が河水や長江の向こう側にも存在するのである。

 孫策もまた天下に雄飛する時を狙っている。一刀たちには彼女らの下で世話になっていた時期があった。代行とは言え并州牧になったということは、彼女にも伝わったことだろう。そろそろ同盟の話を持ってこられるのでは。稟たち軍師が懸念しているのはそこだった。

 対等の同盟を組めるのならば良い。

 しかし州牧代行になったとは言え、一刀はまだ并州を平定しているとは言いがたく、仮に平定できていたとしても組織力の差は歴然としていた。軍事同盟を、と向こう側から提案されたら、受けた恩義のこともあり一刀には断る術がない。

「孫策殿は、もうそろそろかな」
「できれば放っておいてほしいというのが正直なところです。彼女には大きな借りがありますが、同様に大きな貸しも作っています。それで相殺、対等にしてほしいものですが、その辺りは先方の胸三寸ですね」

 こちらに組み込む、と大きく出られたら一刀にはそれを突っぱねるだけの体力がないのである。孫策の人となりはそれなりに知っているし、これまた協力するのに抵抗はないのだが、ここまでついてきてくれた稟たちのことを考えると、ここで頭を抑えられるのは色々と面白くない。

 せめて対等な同盟関係を結べれば良いのだが、それは弱者であるこちらではなく、強者であるあちらが決めることだった。逃げることはできない。運命の時は刻々と迫っているのである。

「仮に孫策殿と同盟したとして、曹操軍を撃破できると思うか?」
「戦の開始時期をこちらで調整する必要があるでしょう。孫策軍の主力が足止めをされたら、その間に我々の命運は尽きます」
「だよなぁ」

 孫策と強固な同盟を結べたとしても、距離の問題はどうしようもない。孫策の本拠地は河水と長江の向こう側にある。時間的な余裕もあるから、よーいどんで戦が始まるのならば、孫策に対する備えをしつつ速攻で曹操軍はこちらを攻めてくるだろう。恋や霞など優秀な将軍はいるが、物量と錬度の差はどうしようもない。

 やはりまともに戦えば敗北は必至だ。

 どちらに行っても困難な道が待ち受けている。北郷軍の前途は多難だった。

「策がない訳ではないのですが……」

 その割に、稟は乗り気でない様子だったが、手があるというのならば、どんなものであれ聞いておきたい。考えるのは彼女ら軍師だが、決めるのは一刀の仕事なのだ。取れる選択肢は、把握しておくに越したことはない。

 一刀が無言で続きを促すと、稟は諦めたように大きく溜息をつき言葉を続けた。

「公孫賛殿と結んで、袁紹を討つのです。今袁紹軍は大きく北に動いており、公孫賛軍を押し込もうとしています。主力はほとんどが北に行っており、冀州南部は非常に手薄になっているはずです。錬度の高い兵が残っているのは州都近辺くらいのもの。并州の地ならしが済んだ後ならば、州の南を押さえるのはそれほど難しいことではありません」

 稟の言葉に一刀は小さく息を漏らした。東を曹操に、南は政治的な問題で手を出すのが難しい地域であるから、その両方と事を荒立てずに領土拡充をするには、袁紹の土地を掠め取るしかない。それほど労せずして冀州の南を取れるのであればこれ以上のことはない。

「地味に現実的じゃないか。何が問題なんだ?」
「問題なく勝てるのは、おそらくその辺りまでです。何しろ公孫賛殿が劣勢を覆す見通しが立ちません。幽州を押さえたら、袁紹軍はそのまま南下してきます。錬度こそ我々が勝っていますが、彼女らには凋落の一途をたどっているとは言え名門袁家の名声があり、豊富な資金力があります。物量で押されたら我々には対抗できません」
「戦争は数だって偉い人が言ってたもんなぁ……でも急いで攻略して、公孫賛殿の軍と協力して、袁紹軍を挟撃できれば?」
「北の袁紹軍を討つには、州都を攻略する必要があります。北の袁家の本拠地であり非常に堅牢です。攻略するには策を弄する時間が必要になります」
「落とせないって訳じゃないんだな?」
「可能か不可能かと言われるならば、可能です。そこから先に続かなくても良いのであれば、ですが。ともかく、現状の戦力、資金力、その他政治的な要因によりこの作戦は全く持って現実的ではないのです」

 公孫賛のことは助けてやりたいが、そのために仲間を危険に晒す訳にはいかない。こんな時代である。強い者が生き残り、弱い者が淘汰されるのは『自然』なこととは言え、民のことを何も考えない、あの袁紹が公孫賛を押しのけてまで生き残るというのが、一刀には癪に障った。

「曹操殿と結べば、公孫賛殿が負ける前に袁紹を討てるか?」
「それこそ本末転倒です。あちらの都合の良いように使い潰され、美味しいところだけ持っていかれるに決まっています」
「世の中上手くいかないもんだな」
「その通りです。だからこそ、少しでも上手く行くようにできる限りのことをしておくのです。まずは一刻も早く并州を平らげること。貴殿に寝ている暇はありませんよ」
「お手柔らかに頼むよ」

 そう頼んだところで手加減してくれるような稟ではない。彼女の要求はいつもハードで、しかし、頑張ればできないこともないギリギリのところを突いてくる。文句を言おうと思ったことも一度や二度ではないが、その稟は自分の倍は仕事をしている。その上でこちらの面倒まで見てくれているのだから、大きな顔などできるはずもない。

 会話が途切れたタイミングを見計らって、黄叙がお茶を運んできた。椀を置く。自分よりも大分幼いこの少女の完成された所作を見て、一刀は思わず溜息を漏らした。どれほどの教育を受けてきたら、ここまでのことができるのだろうか。黄叙くらいの年に自分が何をしていたのかを想像して、一刀は苦笑を浮かべる。竹刀を振り回し遊ぶことしか考えていなかった気がする。

 椀を口に運ぶ。やはり、美味い。自分で淹れてもこうはならないだろう。『美味しい』という言葉が自然に口をついて出ると、黄叙は花が咲くようににっこりと笑った。喜怒哀楽がはっきりとしているのも、非常に好ましい。

「ふむ。これで貴殿も、美味しいお茶には困りませんね。おまけに黄叙のような美しい傍使いも得た。今がこの世の春なのでは?」

 稟が意地の悪い笑みを浮かべている。機嫌は心持ち下降しているが、これはからかっている時の顔。一刀は付き合いの長さからそれが解ったが、稟をあまり知らない黄叙はその言葉を真に受けて、照れていた。純朴なその反応は非常に好ましいものであるが、この場、この状況で稟を相手にそういう反応は良くなかった。

 その言葉が嬉しい。喜怒哀楽のはっきりとしている黄叙が、今嬉しいと思っていることは誰にも解った。稟は頬杖をつきながら、黄叙のことを眺めている。眼鏡の奥の切れ長の目は、報告書を読む時のような無感動さを持って黄叙を観察していた。

 稟はもしかして黄叙のことが嫌いなのだろうか。今更な疑問を一刀が持ち、それを口にしようとした時、稟は一刀の行動を制するように片手を挙げた。そうして、瞳をゆっくりと閉じる。目を開けた時にいたのは、いつもの稟だった。

 機先を制された一刀は、脱力して椅子に背中を預けた。大きく溜息をつく。胸の中にできた蟠りは、全て出て行ってはくれない。

「仲良くな」
「解っていますよ。一刀殿は本当に心配性だ」

 稟が笑みを浮かべる。黄叙を観察していた時とは違う、慈愛に満ちた笑み。普段冷たい印象のある稟が、こういう顔をするととても安心できる。毒気を抜かれた一刀は、稟の言葉を肯定するように小さく一つ、頷いた。

 誘導されたのだ、と気付いたのは執務室の扉がノックされた時だった。

 稟は報告書を読む作業に戻り、黄叙は傍仕えの常として一刀の後ろに控えている。一体どれほど呆けていたのだろうか。聞いて見たい気もするが、誰に聞いても恥ずかしい思いをしかねない。

「どうぞ」

 稟の顔も黄叙の顔も見ないようにして、一刀は来客に応じた。

「お邪魔するわよ」

 入室してきたのは、先も話題に上った少女だった。小柄な身体に勝気な瞳。これでかの董卓軍筆頭軍師であったというのだから恐れ入るばかりである。小柄すぎるその身体を見れば本当にこの女の子が、と疑問に思いことも間々あるが、その目を見れば誰もが納得するだろう。

 全てを見通さんとする意志力に溢れたその目は、無軌道な若さだけでは説明できない説得力に満ちていた。

 その輝きに隠れるようにして、もう一人少女がいる。いつもの取り合わせだと思っていた一刀は、肩口で綺麗に切りそろえられた髪とベレー帽に僅かに意表を突かれた。

 諸葛孔明。歴史に疎い一刀でも知っている名を持った『伏龍』とあだ名される少女がそこにいた。諸葛亮が自分から顔を出しに来ると思っていなかった一刀は彼女の姿に驚きの表情を浮かべるが、すぐにそれを引っ込め笑みを浮かべた。

「お二人とも、ようこそおいでくださいました」

 振り返ると、黄叙は既に二人分のお茶の準備を始めていた。気の利いた傍仕えに感心しつつやってきた二人に椅子を勧める。

「ちなみに月は今日来ないわよ。引越しの準備で忙しいから」
「やはりこちらから離れますので?」
「当然でしょ。お前や恋がいるからここに厄介になってたんだもの。お前達が移動するなら、僕達も移動するのは当然でしょ?」
「立ち入ったことをお聞きしますが、故郷の情勢は現在どのような」
「……以前に比べれば大分マシになったわ。袁紹が公孫賛と戦を始めたのが何より大きいわね。并州の袁家勢力はほとんど北に行っちゃったから、残りは精々司州に残ってる連中のみ。南の袁家も孫呉に負けたみたいだし、そろそろ良いかな、とは思うんだけどね」

 それでもまだ危ないと賈詡は判断したようだ。恋、霞の助力がアテにできない以上、自軍の戦力と合流するまで危険はできるだけ避けなければならない。董卓たちのためならば兵を貸すことになっても構わないが、それでは無用に目だってしまう。司州を通過する前に捕捉され、大軍団で包囲されてしまったらそれでおしまいなのだ。

 自軍を呼び寄せるという選択肢を排除して考えるなら、袁家が壊滅的な打撃を受けるか、襲われる心配のない安全なルートでも開拓しない限り高い安全は確保できないだろう。公孫賛が戦に勝てばそれもかなり早期に達成できそうではあるが、情報を聞くにそれも難しい。賈詡や董卓の滞在は、今しばらく続きそうだった。

「それにしても、お前も随分優秀な軍師を拾ったものね。この娘が『あの』諸葛亮だって聞いた時は、本当に驚いたんだから」

 隣に立つ諸葛亮を、賈詡が眩しそうに見つめる。その視線を受けて、諸葛亮は小さくなる。雛里に似て、仕事が絡まない場で人と接するのは苦手らしい。

 それにしても、と思う。勝気な性格の賈詡が素直に他人を認めるのは珍しいことのように思えた。恋や霞のように武将であるならまだしも、諸葛亮は賈詡と同じ軍師であり、どちらも背丈はかなり小さいため見た目では判然としないが、おそらく諸葛亮の方が幾分年下のはずである。

 一刀の経験上、軍師というのは頑固な人間が多い。彼我の実力差を正確に判断するのも力ある軍師の条件であるが、それを公然と認めることができるかというのはまた別の問題である。稟も風も中々人を褒めるということをしなかったし、孫呉の周瑜は厳しい性格だった。荀彧などは言わずもがなだ。賈詡も多分に漏れずにそういうタイプに思えたのだが、諸葛亮の才覚はその流儀を翻すほど洗練されたものであったらしい。

「拾ったという訳では。縁あってお世話をさせていただいている、というだけです。俺としても諸葛亮殿に仕事を手伝っていただけて大変感謝しています」
「あら。僕には感謝していないの?」
「もちろん、賈和殿にも感謝しております。董白殿にも、よろしくお伝えください」

 偽名が自然と口にできたのは、我ながら僥倖だった。聡明な諸葛亮のことだから、このお下げの少女とその友人の正体について既に気付いているのかもしれないが、それと公然と存在を認めるのは意味が大分異なる。公の場では偽名で通すというのは、北郷軍幹部全員の方針である。

「一仕事終えて、随分如才なくなったわね。これも州牧代行になった影響かしら?」
「自分としては結構な大ニュースのつもりでいるのですが、皆が知っていることなのですか?」

 賈詡はニュース? と一瞬首を傾げるが、文脈からどういう意味なのか確信を持ったのだろう。それについては特に問い返すようなことはせず、面白くなさそうにおさげを指でいじりながら、答えた。

「最近はどこもかしこもお前の話題で持ちきりよ? 浮浪者から身を立て名を上げた男だって」
「浮浪者は酷いですね」

 賈詡の物言いに苦笑を浮かべるが、身元の洗いようがないのだから仕方がない。どれだけ優秀な草を雇ったとしても、辿ることができるのは荀家を訪れる直前まで。それ以上の経歴は誰が何をしても出てこないはずだ。

「色々な噂があるわよ? どこぞの高貴な血筋のご落胤とか、酷いのだと天からの御使いなんてのもあったわね」
「悪い冗談です」
「全くね。まぁ、今の境遇に驕らず精進を続けること。お前本人はともかくお前を支えてる人間は皆、文句なしに優秀なんだから。皆の頑張りに恥じないようにしなさい」
「肝に銘じておきます」
「よろしい」

 うむ、と偉そうに頷いて賈詡は場所を空ける。一刀の視線は自然と、もう一人の方に吸い寄せられた。

「改めまして、ありがとうございました。諸葛亮殿に手伝っていただけて、大変助かりました」
「北郷さんにはお世話になりましたから、これくらい当然です」

 小さい体相応の細い声。伏目がちの視線は小動物を思わせる。雛里も大概に人見知りをするが、諸葛亮のそれも中々のものだった。視線を合わせようとすると、つい、とそらされる。面白がって追おうとすると本当に泣きそうになることは、州都に攻撃をかける前に嫌というほど思い知った。

 諸葛亮のような小動物系の美少女に泣かれてしまうと、ダメージも大きい。視線を逸らされ、癖で追おうとしてしまった自分をしっかりと戒める。彼女は仕事を手伝ってくれた恩人で、雛里の親友だ。間違っても悪戯に泣かせて良い相手ではない。

 背後に刺すような視線を感じる。稟だ。肩越しに振り替えると、稟が鋭い視線でこちらを見ていた。短く、手で合図。何か取り決めがあった訳ではないが『誘え』と言いたいのだということは、何となく解った。劉備の陣営を放逐されたことで、諸葛亮は今だフリーである。ここにいるということが明かされていないからまだ誰も声をかけていないが、彼女ほどの軍師であればどこの陣営からでも引く手数多だろう。

 こうなるように仕向けた曹操ですら、声をかけてきてもおかしくはない。北郷軍も力をつけてきたとは言え、地盤のしっかりとしている他の陣営に比べると心許ないのは事実。諸葛亮を勧誘するチャンスは、他陣営に所在が割れていない今しかないのである。

 本音を言えば、一刀だって欲しい。能力の高さは一刀が認めるまでもなく誰もが認めているし、何より雛里の親友だ。元々は、共に同じ主君に仕えようと約束を交わしていたという。それを、一刀が横紙破りをする形で雛里を浚ってしまった。雛里がいれば、劉備から放逐されることもなかったかもしれない。そう考えると、今の諸葛亮の境遇には、一刀にも責任があると言えた。

 そこまで考えなくとも、女の子が困っていたら助けてあげたいと思うのは男として自然なこと。それが美少女であるのならば尚更だ。

 だが、劉備と仲違いをして現状に至っていることを考えると、早急に引き込むのもどうかと思える。

 諸葛亮はあの性格で、現状かなり打ちひしがれている。加えて親友の雛里が既にいることを考えれば、強く押せば同意してくれるのは想像に難くない。他者の邪魔が入らず時間をかけても良いのなら、いずれ諸葛亮は『落ちる』だろう。稟が今すぐ引き込め、と躍起になるのも解るのだが、ここで引き込んでしまうと仲直りの機会を潰してしまう。劉備と関係が修復できましたからあちらに戻りますというのは、いくら何でも通らない。

 軍師でないから仲直りはできないとは言わないが、元の関係に戻ることは大きく阻害される。一刀にとってそれは望むところではなかった。

 しかし、個人的感情で見逃すには諸葛亮の才能は惜しい。稟や賈詡が手放しで認めるほどの才能を他陣営に取られるのは、損失どころかもはや害悪である。

 組織のことを考えたらここで引き込んでおくべき、というのは理解できるのだが……瞑目し、一刀は深々と溜息をついた。

「今後の身の振り方がお決まりでないようでしたら、俺と一緒に来ませんか? 雛里たちも貴女に会えるのを楽しみにしていますよ」
「ご迷惑ではありませんか?」
「とんでもない。雛里たちの友人であるならば、俺の友人です。諸葛亮殿さえ良ければ、いつまでもいてくださって構いませんよ。それで手持ち無沙汰になるようでしたら、また今回のようにお手伝いいただけたら幸いです」

 迂遠な物言いではあったが、勧誘されているということは伝わったことだろう。隣で聞いていた賈詡の顔にも僅かに緊張が走る。陣営の仲間ではない賈詡からすれば他人事だが、諸葛亮ほどの人物の進退は気になるようだった。興味がないふりをして視線を逸らしながらも、耳はこちらに傾けている。気にしているのが一刀の目から見てもまる解りだった。

 諸葛亮がそっと帽子を降ろす。視線は床に向けたまま。物憂げな顔をしているのが、見下ろす一刀の位置からでも解った。やはり早まっただろうか。幾分、責めるような調子で稟を見るが、彼女は『行け!』とこちらを煽ってくる。やるのが他人だと思っているせいか、いつも以上に攻撃的である。仲間の猛プッシュに辟易としながらも、それを顔に出さないようにして一刀は諸葛亮の返事を待った。

 順当に考えるならば、返事はこの場で保留。考えておきますくらいが、最も無難なやり方だろう。やる意味はあったのか、という程度の結果であるが次に繋がったと考えれば悪くない。こちらが必要としているということを明確に口にした。その事実がお互いにとって大事なのだ。

「…………わかりました」

 だが、耳に届いた諸葛亮の言葉に、一仕事終えた気分でいた一刀は自分の耳を疑った。想像していたよりも大分前向きな返事である。仕官しても良い。そういう意味にも取れる発言に、背後で稟が身を乗り出すのを感じる。

 周囲の温度が上がったのを肌で感じ取ったのだろう。諸葛亮は俯いていた顔をあげて周囲を見回した。おっかなびっくりな仕草に比して、瞳は澄んだ湖水のように落ち着いている。

「お手伝いさせていただきます。ただ、きちんとした返事をするには、もう少し時間をいただけないでしょうか」
「勿論です。どうぞごゆっくり、お考えください」

 一刀が言葉を結ぶと、諸葛亮は一礼して逃げるように部屋を後にした。その背を見送りながら、賈詡がはぁー、と深い溜息を漏らす。

「このまま話が決まるんじゃないかと冷や冷やしたわ。でも後一押しで倒れそうね。強く迫ればあの場でも決まりそうだったけど、どうして踏み込まなかったの?」
「女性の弱みに付け込むようにして話を決めるのは、どうかと思ったもので」
「時には強引な方が良いものよ? お前にとっても、諸葛亮にとってもね。劉備に心酔してたのは見れば解るけど、それと幸せになれるかは別問題だしね。お前のとこだったら鳳統みたいな同窓生もいるんだし、のびのびと仕事できるでしょう。本人もそれを解ってるからこそ、あんな期待を持たせるような態度をしてるのよ」
「私も同意見です。こういう時にこそ、ある種無遠慮とすら言える踏み込みを期待していたのですが……」

 稟の視線はどこか冷たい。この場で話を決め切れなかった非難が視線からありありと感じられる。

「悪かったよ。でも、実は後悔はしてない」
「私も解っていますよ。それが貴殿の良さであると、今は納得しておくことにしましょう。脈がそれなりにあると解っただけでも今回は収穫です」
「前途洋々って訳にはいかないのね。肩書きの代行もしばらくは取れないだろうけど」
「自分としてはさっさと取れてほしいものなんですがね」

 権限としては基本的に同じものであるが、代行の一言がついているだけで既に大小様々な不都合が出始めている。どうせ正式な立場ではないと一部の文官などに舐められているのが、大きいだろうか。出自が不確かで後ろ盾もまだはっきりしていない身ではそれも当然かもしれないが、上から下への命令の伝達が遅れたり、聞かれなかったりするような事態はどうしても避けたい。

 できる限り早い段階で代行の肩書きは取っておきたいのだが、そういう認可を出すのは基本的には国家における政治の中枢である洛陽だ。

「僕も随分と連中には苦労させられたわ。他所の人間が栄達するのが好ましくないみたい。よほど強力な一声でもない限りは、すぐには動かないでしょうね。十常待がいたころよりは随分風通しも良くなったみたいだけど、体質ってのはそう簡単には変わらないわ」
「でも、もしかしたらささっと認可が下りるかも」

 期待を込めた一刀の言葉が、賈詡にばっさりと斬り捨てられた。

「ないわね。もしお前の言うすぐ……そうね、僕たちが州都につくまでに認可が下りていたら、お前の愛人になってやっても良いわ」
「流石にそれは……」
「それだけ可能性が低いってことなの! どうせすぐには下りっこないんだから、黙って受けておきなさい」
「賈和殿がそう仰るなら俺に異論はありませんが……」

 それでも一刀は言いよどむ。こういう時に適当な提案をすると、後で痛い目に合うというのはセオリーでもある。特に運気が下がっている時はロクなことを言うものではない。相国となった董卓の腹心として洛陽で辣腕を振るっていた人生の絶頂から一転し、連合軍に蹴落とされてからまだ一年しか経っていない。もう一年と取ることもできるが、現状を見てみると運気が上向いているとは言い難い。人事を尽くしても天命は応えてくれるとは限らないのだ。

 乗り気でないのが顔に出ていたのだろう。賈詡はそこで話を一方的に区切ると、足音も高く部屋を出て行った。

「適当に頷いておけば、やり過ごすことはできたのでは? どうせ賈詡殿の冗談でしょう。貴殿が気にすることでもないと思いますが」
「俺が気にしてるのは『もし』の場合だよ。仮に、万が一本当に認可が下りたら、きっと賈詡殿は困ると思うんだ」

 頭が回る上に、あの性格だ。冗談で口にしたことでも、条件が満たされれば賈詡は意地でも守ろうとするだろう。その場合、守られる内容が良くない。

「どうして賈詡殿は愛人なんて言い出したんだろうな」
「自分個人でかけられるもので、最も重い物が自身というだけのことでしょう。それだけありえないことだ、という自信の表れでもありますが」
「もし本当に認可が下りたら、俺どうしたら良いのかな」
「愛人にすれば良いのではありませんか? 曹魏の性悪猫耳のこともありますし、ああいう小柄で気の強い女性は貴殿の好みでしょう?」

 そうなんですか!? と横で聞いていた黄叙が驚愕の視線を送ってくる。それは無視して、一刀は稟に視線を返した。今日の稟はどうも絡んでくる。特に女性の話題については過敏だった。ヤキモチを焼かれていると考えるのは、自惚れだろうか。考えていて恥ずかしくなってきたが、稟が恋と一緒に本体を離れ、難しい仕事をしてくれたのは事実だ。それに報いるようなことを、一刀はまだ何もしてない。

 混乱する頭を落ち着けるように、一刀は大きく息を吐いた。

「州都に戻るのはいつになる?」
「ねねが準備を進めてくれたようですから、必要なのは挨拶周りくらいでしょう。今日使いを出して明日その全てを回り、明後日に出立というのが無駄のない行程かと」
「それでも急ぎすぎな気はするけど、まぁ良いか。ということは、今晩は少しは余裕があるってことで良いんだな?」
「ねねが纏めてくれた書類を読み微調整をする必要がありますが、それが終わればまぁ……早急に処理しなければいけない案件はありませんね」
「じゃあ、今晩食事でもどうかな。俺と稟と二人で」

 眼前の稟は一刀の言葉に視線を上げた。その顔に一瞬喜色が走るが、即座に消える。努めて仏頂面を維持した稟は、咳払いをして視線を逸らした。

「一刀殿と二人で……ですか?」
「ああ。もちろん、俺のおごりで」
「…………聊か取ってつけたような感はありますが、今回は騙されましょう」
「ありがとう。稟」
「ではそれまでに仕事を片付けましょうか。仕事に追われて、せっかくの予定を不意にしたくはありませんからね」

 稟はそういうと、壁際に控えてやり取りを見守っていた黄叙にいくつもの指示を与えた。いきなり切り出されるには膨大なその量に黄叙は目を回すが、きちんと稟の指示を復唱し部屋を出て行った。メモを取りさえもしなかった。一刀であれば今の半分は忘れていただろう。流石にあの黄忠が是非にとねじ込んでくるだけのことはある。

 ともすればいつまでも黄叙の去った方を見つめていそうな一刀だったが、稟のこともある。慌てて視線を戻し、木簡に視線を落とした。稟は執務机の対面に椅子を持ち出し、そこで足を組んで木簡を読んでいる。その速度は相変わらずで視線は厳しいものだったが、雰囲気は大分柔らかくなっているように見えた。




 










 桃香軍の情勢を書く予定でしたが、シナリオの順番を考えたら孫呉の方が先でした。
 次回孫呉の人たち再登場。さあ思春の人生はどうなる。




[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三十四話 并州平定編③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:5ac47c5c
Date: 2014/12/24 05:00
「おかえり、詠ちゃん」

 部屋に戻ってきた親友に、月は微笑む。詠が留守にしていたのは一週間ほどだが、洛陽を出てからこれだけの時間離れるのは初めてのこと。寂しい気持ちを味わっていた月は、詠もきっと同じ気持ちだろうととびきり美味しいお茶を用意して、親友の帰りを待っていた。

 しかし、そんな満面の笑みを浮かべた月の横を、詠は素通りする。ぶつぶつと何か言っているが、小さすぎて月には聞こえなかった。もしかして、体調でも悪いのでは。詠の身を案じた月の心をどうしようもない不安が支配するが、そんな月に気付く様子もなく詠は紙と筆を持ってくると、さらさらと文字を認めた。

『北郷一刀』

 流麗な字で書かれたそれを、どこから取り出したのか綿の詰まった麻袋に貼り付ける。中身が中身だけに、大きさの割りに軽そうだ。小柄で非力な詠でも十分に取り回せるものである。

 詠はその麻袋を床に落とすと大きく息を吸い込み――

「北郷一刀の……バカヤローっ!!!!」

 全力で麻袋を蹴っ飛ばした。かなりの勢いですっ飛んだ麻袋は、壁にぶつかってぽてりと床に落ちる。それに追いすがった詠は、麻袋を容赦なく踏む踏む踏む。麻袋は破れて、綿が部屋に散らばる。流麗な文字はもはや影も形もない。荒い息をつく親友に、月は恐る恐る声をかけた。

「詠ちゃん、どうしたの?」

 どうしたもこうしたも、一刀との間に何かあったのは明白だった。気が微妙に短い詠は、しかし我慢するべき時には限界まで我慢してしまう少女だ。特に自分の前ではその傾向にあることを、長い付き合いの月は良く知っている。

 だからこそ、月は問うた。自分の前でここまで怒りを露にするなど、並のことではない。

 詠は隠したそうだったが、親友の前で麻袋を破壊しておいてそれは通らなかった。じっと見つめて先を促してくる月に、詠は根負けする。

「……実はあの男と賭けをしたの。もし、ボクらが州都に戻るまでに正式に州牧になっていたら、アンタの愛人になってやっても良いって」
「どうしてそんな約束したの!?」

 なってやって、という言い回しをした以上、賭けは詠の方から提案したに違いない。そして、一刀が本当に州牧になったことはねねから聞いて知っていた。詠から話を聞くまでもなく、賭けには負けている。

 詠は自分から言い出したことを、自分の誇りにかけて反故にしたりはしない、そういう性格の少女だ。

 月は溜息をついた。

 つまり、一刀の方から賭けを反故にしない限り、愛人は確定である。

 だが、と月は考えた。

 賭けに勝ったのだから、詠を愛人にするのは一刀からすれば正当な権利だが、ここで詠を無碍にすることは一刀にとって得策ではない。詠は彼の部下ではなく客人で、いまだ滅びてはいない董卓軍の筆頭軍師である。恋や霞など、かつての仲間の多くが一刀に協力している今、かつてほどの力は董卓軍にないが、その存在は今の世でも無視できないほどに大きい。

 かつて単一で連合軍を相手にした勢力の助力が得られなくなるかもしれない。そう考えれば、一刀も下手な動きはできないはずだ。

 一刀はあれで中々に聡い男である。

 詠の価値を十分に理解し、紳士的に振舞うのが正解と気付いてくれる。そう信じたいが……詠は親友である月の目から見ても、文句のつけようもない美少女だ。詠を愛人にできる。そんな権利を手にした男が何をするか、月には想像ができなかった。

 ともすれば、既に最悪の事態に陥っているかも。その可能性に至った月は、眩暈を覚えた。

 そうだとしたらあの男、生かしてはおけない――っ!!

「何もなかったよ、それはほんと」

 月のただならぬ気配を察知した詠は、慌てた様子でそう言った。噴出した殺気と共に砕けて床に散ったお盆に、明らかに引いている様子だった。その顔に、声に、月は段々と冷静さを取り戻していく。

「何があったのか、聞かせてもらえる? 詠ちゃん」
「うん。州都に戻って、あの男が州牧に正式に任命されたことは聞いた。それで、不本意ではあったけど、ボクから言い出したことだし、期限は別に区切らなかったから、別に悪い奴ではないし、一回くらいは愛人的なことをしてやっても良いかな、とそれくらいに思ってたんだ」

 一回くらい愛人とは、実に大人な考えである。月は思いもしなかった。親友の意外な一面を見たような気がした月は、素直に感嘆の溜息を漏らす。

「でもね、あの男、ボクを見てこんなことを言ったんだ。妻も恋人もいない身で、愛人も何もありません。賈詡殿の申し出は男として大変嬉しいのですが、此度は辞退させていただきますってね」

 詠の言葉を聴いて、月は感心した。即座にそう切り返したのだとしたら、中々の紳士力である。

 そしてその話が本当ならば、無事に切り抜けることができた詠が怒る理由はないはずだ。月の視線が破れた麻袋に向く。哀れな犠牲者が発生するようなことが、一刀の発言の中にあったとは思えない。どうして怒ってるの? と視線で問う。すると詠は、怒りを思い出してきたのか、またぷるぷると震えだした。

 月は黙って麻袋の残骸を差し出す。間髪いれずに、詠の拳が叩き込まれた。麻袋の残骸は、ぽーんと部屋を飛んでいった。

「断るなら別に、それでも良いよ。ボクとしても願ったり叶ったりだしね。でも、断るにしても言い方ってもんがあるだろ少しは悔しそうな顔しろアンタはボクに何の興味もないのかっ!!」

 肩を震わせ叫ぶ親友を見ながら、月は慎重に言葉を選んだ。

「詠ちゃんは北郷さんの愛人になりたかったの?」
「そんな訳ないでしょ!?」

 月は生まれてはじめて、親友のことをめんどくさいと思った。叫んで暴れたら気分が落ち着いてきたのか、詠も肩の力を抜いて椅子に腰を下ろした。むー、と机の上でダレている親友を見ながら、月はお茶の用意を再開した。しばらくは愚痴を聞かされることを覚悟しながら、たまにはこんな日も良いかと静かに微笑んだ。






















 孫呉から祝電が届いた。内容は取り急ぎ州牧に就任したことへの祝辞と、祝いの品を直接届けたいので指定の日、予定を空けておいてくれというものだった。

 おめでとー、と言いに来るだけとは一刀も思っていない。今後について、重要な話し合いが行われるのだ。それは参加メンバーにあの周瑜がいることからも、良く解る。

「この使節団代表、孫尚香っていうのは?」
「孫策さんには二人妹がいるんですが、その内下の方の妹さんですねー。年若く奔放な方だと風は聞いてます」
「国の運営に関わったという話もありません。今後の話について、最も発言力があるのは周瑜殿と見て良いでしょう。代表というのは、国内での序列を考えてのことですね」

 孫策に子がない今、その妹達は家督の相続権の上位にある。姉がいるならそちらが一位で、妹の孫尚香は二位のはず。平時ならば上二人に不幸を期待するのは難しいが、今は乱世だ。二位の彼女が当主になることも、十分に考えられる。

 その姫君が使節団の代表だ。周瑜は席次としては二位。護衛の代表が甘寧となっている。知っている名前が続いたが、最後に一つ、一刀の知らない名前があった。

「呂蒙という名前に聞き覚えのある人ー」

 一刀の問いに手を挙げたのは静里一人だけだった。

「平民出身の将だ。武官として登用されたが、見出されて文官に転じたらしい。若手の中では成長株だな。文官の中での席次は五か六といったところだが、周瑜のお気に入りで、それは今回同行者に名前を連ねていることからも解る」
「つまりは灯里みたいな戦える軍師ってことか」
「僕よりは大分強いだろうね。周瑜殿も中々お強いと聞くし、呉では軍師も武を修めなければならないという方針なのかも」

 灯里の言葉に一刀の脳裏に思い浮かんだのは、陸遜の姿だった。巨乳王国にあってあの巨乳を誇った彼女もまた、武に優れていたりするのだろうか。

「会合には恋や霞にも同席してもらうことにしましょう」
「無駄にあっちを不安にさせたりしないか?」

 特に恋は思春に思い切り顔を見られている。交差したのは一瞬だったろうが、思春のことだ、自分を殺しかけた人間の顔は覚えているに違いない。

「いつまでも隠しておけるものでもないでしょう。むしろ使節団が帰るまで、隠し通してしまった時の方が怖い。知らせて問題ないことは全て知らせてやるくらいがちょうど良いのではないかと思います」

 稟は公開に賛成である。それを受けて、一刀はぐるりと周囲を見回した。誰も反対意見をあげない。この件は公開で決定である。

 普段の会議では置物の恋が、この日初めて口を開く。

「かずとを守れば良いの?」
「大事にはならないと思うけどな。何もない限り、俺の後ろに立ってるだけで良いよ」
「わかった」

 それきり、恋はぼ~っとする作業に戻ってしまう。ここだけを見れば、彼女が飛将軍とは誰も思わないだろう。

 だが、彼女が地上最強であることは思春と一緒に殺されかけた一刀が良く知っている。自分の護衛については、恋が一人いれば問題ない。

「孫呉は同盟の提案をしてくるのかな、やっぱり」
「でしょうね。周瑜殿が同道し、代表が姫君となればいよいよ本腰を入れてきたと見るべきでしょう」

 全員がついにきたか、という気持ちで一つになる。

 同盟を取りまとめるだけならば、孫尚香がやってくる必要はない。雪蓮に比べれば聊か格は落ちるものの、周瑜一人がいれば十分に話はまとまる。

 それでも尚、少ない人数で孫呉の外に出るという身の危険を冒してまで姫君を押し込んできたということは、そこに重要な意味があるということだ。

「俺も結婚を考える年か。まだ二十歳そこそこなんだけどな俺」
「遅いくらいじゃないかな。農村では君くらいの年で子供の一人や二人がいるくらい、珍しくはないだろう」
「だからってなぁ……」

 いざという時は誰とでも連れあうつもりでいたが、いざ現実味が増してくると暗い気分になる。現代で生まれ育った一刀にとらなくても、結婚というのは一生の問題だ。それを組織の都合で処理されるのは、気持ちの上ではやはり納得のいかないものがある。

「大丈夫です! まだここで未来を確定させるほど、孫呉も冒険をしたりはしないはずです。今はまだ、様子見の時間。その間にこちらで手を打てば――」
「そうなるとさらに同道する二人が気になるね。甘寧と呂蒙。この内片方、あるいは二人ともがこちらに残って、孫呉の意を通そうとしてくることは十分に考えられる」
「客将として残るってことか?」

 一刀は稟に視線を向けた。提案されたとして、断ることができるか。稟は黙って首を横に振った。これから同盟を組んで仲良くしようという相手、その幹部を拒否するようなことができるはずもない。

 孫尚香がそういう意味でこちらに残るとして、残るのが彼女一人ということはありえない。今まで軍や政治運営に関与していたというのならばまだしも、静里の話ではその辺りの経験は薄いという。外交交渉など、孫呉の意思をきっちりと通すことのできる力のある人間が、最低でも一人は残ると考えるのが妥当だろう。

 今回の使節団の中でということになると、流石に周瑜は厳しい。思春か、呂蒙かというのはありえない話ではない。

「無理やりプラスに考えよう。デキる人が残ってくれるのなら、学べるものを学べるだけ学んで糧にすれば良い」
「ならば貴殿は孫尚香殿の色香に惑わされ、篭絡されないようにしてください。お会いしたことは勿論ありませんが、あの孫策殿の妹君となれば、さぞかし可愛らしい御方でしょうからね」
「大丈夫、とは断言できないけど、善処はするよ」

 どうでしょうか、と稟の口調は少しトゲトゲしい。助けを求めようと周囲を見回すと、誰も視線を合わせずに聞こえないふりをしていた。政治色が関わるならば知恵を出す軍師も、ただの色恋にはあまり関知しようとしない。ただ、軍団の代表である一刀のスキャンダルは、軍団全体の風聞に関わる。気をつけろという稟の懸念は、もっともと言えた。

 今までよりもずっと政治色の強い話になるだろう。相手はあの周瑜だ。既に気後れしている自分を一刀は感じていたが、自分が心を乱してはついてきてくれる皆に申し訳が立たない。

 大きく深呼吸をする。

 せめて見た目だけでも平静を保っていようと、一刀は気持ちを引き締めた。























 孫呉の使節団が州都に到着したのは、最初に手紙が着てから二週間のことだった。

 一刀の感覚では随分時間がかかったように思えるが、使節団の規模、そのための準備の時間、移動の行程を考えると信じられないくらいのハードスケジュールであるという。孫策らしい果断速攻の進行だった。

 二週間の猶予の間、一刀たちも準備を進めていた。歓迎の式典のための準備もさることながら、使節団が滞在するための場所も用意しなければならない。他の勢力の人間とは言え、同盟候補の重要人物だ。兵達は仕方ないとしても、幹部までを州都の外で野営させる訳にはいかない。その場所の選定とセッティングには静里を当てることにした。州都攻略の時からスパイとして潜入していた彼女は、州都の住宅事情にも明るいのだ。

 一刀はと言えば、孫呉以外の勢力の対応に追われていた。正式に州牧に就任したことで、近隣の勢力から色々な申し出がきていたのだ。

 一番反応が大きかったのは、商人達である。賂は禁止、違反者は厳罰に処すと大々的にお触れを出しているから賄賂合戦こそ起こらなかったが、ここで名前を覚えてもらおうととにかく多くの人間が顔を見せに来た。その対応だけをして一日が潰れたこともあった。誰がやっても良いのでは、と財務担当のねねに愚痴を漏らしたら脛を思い切り蹴飛ばされてしまった。

 彼らが顔と名前を覚えてもらおうとしているように、一刀の方も顔を覚えてもらう必要がある。兵こそ持っていなくとも、金と物の流れを握る彼らは乱世においても平時においても強者である。いざという時、彼らの助力を得られなければ組織運営に大きな支障が出る。まだ基盤の固まりきっていない今、一刀にとって顔を売るというのはとても大事な仕事なのだった。

 懐かしいところでは、荀家の人間が挨拶にきた。猫耳軍師荀彧の実家で、一刀も世話になったあの荀家である。荀昆や宋正など見知った顔を見ることはできなかったが、荀昆直筆の手紙には、こちらの都合さえ良ければ見所のある人間を十人単位で派遣する用意があるという。稟たちのような軍師クラスではないが、官僚としては中々優秀な仕事をすると太鼓判を押してくれた。これは大いに助かると稟ですらも手放しで飛びつき、今後もそういう紹介があればと返事を書いた。

 異民族との利害調整については領地に戻った丁原が行ってくれた。州牧の首を取ったことで即開戦ということはなくなり、追い出された民の帰還も始まっているが、異民族の側では強攻策を唱える人間も少なくはない。落ち着いたらいずれ挨拶に行かなければならないだろう。

 また、丁原の計らいで高順が正式に異動になり、一刀の指揮下に加わった。年若いが騎馬隊の指揮をさせたら優秀とのことで、将校の不足している軍に部下と一緒に編入された。結構頭も回るようで、ようやくまともな補佐ができたと霞からあれこれ用事を頼まれ、忙しく州都を走り回っているという。

 思えば準備以外のことに多くの時間を割かれていた気がする。一刀自身はほとんど何もしていなかったが、それでも準備は滞りなく進み、会談当日を迎えた。

「せめて堂々としてください」

 会合のために用意された広間で、正装として用意した少しサイズがきつくなってきた白ランに身を包んだ一刀は、軍団の代表として上座に着席していた。稟の忠告で、我に返る。ぼーっとしていた。一刀の右隣では筆頭軍師として稟が控えている。彼女は正面を向いたまま、どうということでもないように指摘してきた。額を拭ってみると汗でじっとりと濡れている。その汗を見て、一刀は苦笑を浮かべた。

「そんなに顔に出てたか?」
「緊張しています、と顔に出ていました。一刀殿は自分のなさりたいと思ったことをなさってください。既に十分議論は尽くしました。我々は必要な情報を与え、一刀殿はそれを十分に吟味されたでしょう。決定するのは一刀殿の仕事、それに我々は異論を挟みません。そして、その実行のために我々は全力を尽くします。ですので、どうか安心して一刀殿の仕事をなさってください。一刀殿には、我々がついています」
「大船に乗った気持ち、っていうのはこういうのを言うんだろうな」

 自分には頼もしい仲間がいる。今またそれを実感し、一刀の緊張は幾分解れた。助けになったのならば幸いです、と稟は済ました顔で姿勢を正す。正面を向いた稟の頬は僅かに朱に染まっていた。直接的な言葉で励ますのは稟の流儀ではない。柄にもないことをさせてしまった、と反省した一刀は改めて気持ちを引き締めた。

 広間に、使節団がやってきた旨を告げる声が響く。

 開かれる扉。先頭に立っていたのは見知らぬ少女だった。桃色の髪に褐色の肌、その瞳は南海よりも青く輝いている。孫策の血縁というのは一目で解った。彼女が孫尚香なのだろう。その後ろに周瑜が続き、さらにその後ろに思春と、これまた見たことのないメガネの少女が続く。こちらが呂蒙なのだろう。細身で色が白くとても武人には見えないが、歩く姿が実に様になっている。何かしらの鍛錬を積んでいるのは、一刀の目から見ても解った。

 不意に思春と視線が交錯する。一刀は軽く笑みを浮かべた……が、思春はぷいと顔を逸らしてしまった。空振りに終わった一刀は軽く落胆する。微笑み返してくれるとは思っていなかったが、スルーされるとは思っていなかったのだ。軽く落ち込んでいると、横の稟が肘で突付いてくる。どんな顔をしているかは顔を見なくても解った。

 堂々と、堂々と。

 せめて見た目だけでもと心中で念じながら、一刀は使節団に向き直った。

 先頭の孫尚香が足を止めると、続く三人もそれに倣った。

「北郷一刀閣下におかれましては、ご機嫌麗しく――」
「ちょっとお待ちを!」

 畏まり、礼までした使節団に一刀は思わず驚きの声を挙げた。これ見よがしに、稟が溜息をつく。何か? と孫尚香が顔を上げるが、その顔には軽い笑みが浮かんでいた。どういう理由で一刀が声をあげたか、解らぬはずもない。それを解った上で楽しんでいるのである。思春と、今度はしっかりと視線が交錯した。『しっかりしろ、バカもの』という思春の物言わぬ抗議に、一刀はわざとらしすぎるくらいに大きな咳払いをした。

「失礼いたしました。どうぞ続けてください」
「かしこまりました」

 笑みを引っ込めた孫尚香が、口上を続ける。要望に応えてくれたことに対する感謝を主孫策に変わって申し上げる。それから先々の偉業につきましては――と長々とした口上がかしこまった口調で続けられる。立場を考えればそれが自然という理屈は理解できた。現時点での官位役職だけを見れば、一刀の方が孫尚香よりも上だ。

 しかし、孫呉の方が力を持っているのは言うまでもない。孫尚香は孫呉の主、孫策の妹。脇に控える周瑜はその筆頭軍師であり、孫策の信任も厚い。まして一刀は連合軍では孫策の下について働いていたのだ。その一刀に畏まるというのは、連合軍で共に戦った周瑜は元より孫尚香にも精神的な抵抗があるはずだが、使節団の全員からそれは感じられない。少なくとも表面上は、今の状況について納得しているように思えた。立場のある身でそう振舞えることに、一刀は素直に尊敬の念を覚えた。

「それでは、ご着席ください」

 司会進行は稟の役目である。稟の案内に従い、孫尚香たちは着座した。卓を挟んで、上座側には一刀陣営が、下座側に孫呉陣営の使節団という配置である。

 一刀たちは中央に一刀。その右隣に稟、左隣には恋がいる。武器こそ持っていないが、彼女の実力は武を修めたものならばその片鱗くらいは掴むことができるだろう。まして、一度見えたことがある人間はそれを違えることはない。気付いてないふりをしているが、着座した思春の視線ははっきりと恋に注がれていた。存在を驚いている風はない。どこで、どの段階かまでは判断がつかないが、こちらの陣営に恋がいることは孫呉に知れていたのだろう。

 思春の立ち振る舞いからは、明らかな警戒の色が見てとれた。戦場で出会い、殺されかけたのだから当然の反応と言える。所属する勢力が変わるのは乱世の常とは言え、自分を殺しかけた人間と一緒にいて平然としている一刀の方がレアケースなのだ。

 壁際には軍師たち。一刀から見て右側に風と雛里。左側にねね、灯里、静里が並んでいる。配膳を担当するのは黄叙で、彼女は茶器などと一緒に部屋の隅に控えていた。それが部屋にいる全員である。霞は外で会場の警備の責任者をやってもらっている。要は案の定、参加したがらなかたので今回は霞と一緒に外で待機だ。

「我が主、孫策は貴殿と同盟を結びたいを考えています」

 型どおりのやり取りが済んだら、仕事の時間だ。切り出してきたのは、孫尚香である。てっきり周瑜が全てを仕切るのかと思っていた一刀は、まずこれに面食らう。自分よりも幼い少女が堂々と政治の話をしようとしている。その事実に、一刀は自分の心に火がつくのを感じた。

「無論、対等な関係での軍事同盟です。有事の際には支援を行う用意があります」
「つまりそちらが有事の際には援助を希望すると?」
「そうです。ですが、それではそちらが割りに合わない。そこで同盟締結の際にはまず、こちらから支援を行います」

 こちらを、と周瑜が差し出した木簡を黄叙が受け取り、それを一刀のところまで持ってくる。一刀はそれを広げて目を通した後、稟に手渡す。

 周瑜の木簡の内容は、簡単に言うとこういうことだった

 まずは経済的な援助。今まであまり交流の少なかった孫策の勢力圏である揚州と并州の間での交流路の構築。商人のやり取りを密にし、税金などの面で調節を行う。内陸の并州にとっては海産物などの確保が容易になり、異民族から仕入れた品の販路もより拡大できるというメリットがある。

 反面、揚州に本拠を置く大規模な商家の台頭も考えなければならないが、販路を拡大できるというのは魅力だった。どの程度、というのは詰める必要があるが、経済的に支援してくれるというのなら、これはありがたい話である。

 そして、軍事的な援助。対等な軍事同盟を結ぼうというのに、一刀たちの方がかなり兵の数で劣っている。これはよろしくないということで、孫呉は客将として思春と呂蒙を貸し出すという。兵は各々五百を率いてきている。孫呉の中でも精兵の彼らを核に、戦の折には自らの兵として使ってくれて構わないということだ。

 ありがたい話ではあるが、これは二週間前に幹部全員で憂慮した事態でもあった。

 二人の実力は疑いようもないが、自らの兵としてと言ってもそれが孫呉の本心ではないことは見て取れた。無茶な運用で彼女らに害があれば、当然それは責任問題に発展する。扱いにはいずれ慎重をきさなければならないだろう。ありがたいことに違いはないが、手放しで喜ぶ訳にもいかない。

 次いで、即物的な支援。いつかの借りを返す、とこっそり孫策の字で書かれたそれは、単純に金品などの贈答だった。暴政に苦しんだ民のために使ってほしいということで、金子から食料から、色々な物資が無償で供与される旨が記されていた。目録は黄叙が預かっている。天下の孫呉、あの孫策からの供与である。それがみみっちい内容ということはあるまい。今すぐにでも見たかったが、その検分は後でも良いだろう。

 さらに技術的な支援。使節団には船大工が同行していて、それを并州に残していくとのことだった。孫呉と異なり并州は海に面してはいないが川はあり、南下すれば河水もある。水軍は孫呉の肝。兵の強さもさることながら、造船の技術が優れていることも孫呉を強国たらしめている。その技術を供与するというのは、信頼の現れでもあった。船を運用する人間を特別に用意してはいないというが、必要ないだろうと一刀は感じていた。

 何しろ、思春がいる。虎牢関で大きく数を減らしたとは言え、思春の直属部隊はいまだ健在。彼らの多くは河賊をしていたころからの部下であり、新たに編入された面々も必ず操船技術を習得するという。孫呉全体で見ても精兵である彼らだが、水軍の中においては最精兵だった。水軍の指導を受けるのに、これほど相応しい集団もない。

「それから孫策から、北郷閣下に個人的な贈答品がございます。まずはご覧になっていただけますでしょうか」

 目録の検分を終えると、孫尚香が切り出した。彼女が視線で合図をすると、使節団の中で最も序列の低い呂蒙が、紐で封印された木箱を差し出す。また、黄叙がそれを受け取り一刀の元に運んできた。封印の紐を解く。箱の中に納められていたのは袱紗だった。

 するり、とさらにその封印を解く。現れたのは剣だ。装飾のない木製の鞘に納められたそれは一見すれば貧相にも見えたがその重量感、雰囲気には息を止めるほどの迫力があった。視線で孫尚香に確認し、抜刀する。

 片刃で、わずかに反った刀身は日本刀のような趣を感じさせるが、身は時代劇で見た日本刀よりも大分厚い。銀木犀に比べて僅かに重いが、その刃から漂う迫力は、その比ではなかった。

「穂波西海(ほなみせいかい)と言います。孫呉に伝わる宝剣の一つです。北郷閣下もこれから多くの戦場に立たれることでしょう。その一助となりましたら幸いです」
「宝剣と仰いますが、これにはどのような来歴が?」
「孫策の剣、南海覇王の共打ちと聞き及んでおります。ある程度装飾の役目もあるあちらと違い、そちらは実用に重きを置いた剣であると。まさしく吹毛の剣でございます」

 試しに一刀は穂波西海の刃を上に向け、懐から取り出した紙をその上に落とした。はらはらと舞った紙は刃に触れると、すっと、真っ二つになる。ほー、と思わず一刀は溜息を漏らした。まさしく吹毛の剣。名剣の類である。

「ありがたく頂戴いたします。と孫策殿にお伝えください」

 脇に控えていた灯里に、穂波西海を預ける。

 これで話は一区切りついたと判断した一刀は、宴の話題を切り出そうとした。そうして腰をあげかけた一刀を、孫尚香が制した。

「もう一つ、北郷閣下に贈り物がございます」

 少女然とした容貌に不敵な笑みが浮かぶ。それは、孫策が倒すべき敵を前にした時の顔に似ていた。

 嫌な予感を感じはしたが、くれる、というものを見る前に断ることはできない。とりあえず受け入れる旨を伝えると、呂蒙が席を立ち、部屋を出て行く。待つことしばし、呂蒙が連れてきたのは、二人の人間だった。

 手かせをはめられ、薄汚れたその姿はまさに罪人。着飾っている孫尚香が近くにいるだけに、その二人は余計に惨めに見えた。

 二人は呂蒙に引きずられるようにして、一刀の前に連れ出される。刺客であることを疑って、稟は一歩下がり、恋が一刀の近くにまで移動した。だが、二人からは殺意どころか生気さえも感じられなかった。二人のうち、小柄な方。元は綺麗な金髪だったのだろう。長い髪は砂で汚れ、瞳は床に伏せられている。一刀のことを見ようともしないその少女は、小さな声でぶつぶつと、何やら言っていた。

 もう一人、こちらは少女というよりも女性という風だった。短い黒髪は乱れ頬はこけていたが、瞳はただまっすぐ一刀を見ていた。女性は何も口にはしなかったが、その意思は痛いほどに伝わってきた。助けてくれ、と女性の目はそう言っていた。

「小さい方が袁術、大きい方が張勲です。我が孫家の仇敵でありましたが、先ごろの戦で勝利しまして南の袁家は滅びました。責を取らせて首を刎ねても良かったのですが、財を奪い土地を奪い、この者らに残ったものは身一つ。全てを失った者に興味はないと使いどころを探していましたところ、北郷閣下のご出世を耳にしまして。こちらを閣下にさしあげます。孫呉はその扱いに関知いたしません。生殺与奪、全ての権利を北郷閣下に委譲いたします。如何様にもなさってください」

 孫尚香の物言いに、一刀は怒りに身が沸くのを感じた。人を何だと思っているのだ、と勢いに任せて叫びたくなるのを、ぐっと堪える。

 孫尚香の瞳を見る。相変わらず不敵な色が浮かんでいるが、その瞳に試されているのだと理解する。ここで短慮を起こすのは良くない。器の小ささを示すのは、こちらに悪い影響しかもたらさない。大きく息を吸い、吐く。

 そうすると、少しは冷静になることができた。
 
 試されている。それは間違いない。この二人の扱いで、こちらの器を見る。そういう腹なのだろう。

 これに乗るのは業腹だが、差し出すと向こうが言い出したものを撤回させることはできない。生殺与奪の権利は本当にこちらに委譲されたのだ。この二人の命運は、一刀の判断にかかっているのである。

 考える。どうするのが正解なのか。

 袁術は孫策の仇敵である。それを考えれば、この場で首を刎ねておくのも選択肢の一つだった。聊か苛烈ではあるが、孫呉と価値観を共有しているというアピールにはなるだろう。それに、袁家という名家の血筋を一つ、確実に潰すことができる。北の袁家、袁紹はいまだ健在で公孫賛と争っている。既に身一つとは言うが、生かしておいたら後々面倒なことになる、というのは否定できるものではなかった。

 恋がとんとん、と小さく椅子を叩く。命あれば、殺す。小さな音はその意思表示だった。

 逡巡する――ふりをして、一刀は首を横に振った。何も殺すことはない。それに恋は素直に従ったが、稟が息を飲むのが聞こえた。この場で殺しておくことに、とりあえずは賛成なのだろう。袁家は名家とは言え、その名声は地に落ちつつある。連合軍での袁紹の振る舞いから、特に民の間では評判が悪い。ここで一刀が袁術の首を刎ねたとしても、それは名を落とすことにはなるまい。

 一刀はもう一度、孫尚香を見た。

 どうするのが、自分にとって正解なのか。もう一度考え、一刀は答えを出した。生殺与奪の権利を与えられたというのならば、その時点で実はもう答えは決まっていた。

「黄叙! 二人を俺の屋敷に。客人として、丁重にもてなすこと。仔細は任せる」
「かしこまりました」

 黄叙は一刀の命を嬉しそうに受け入れ、二人を引きずるようにして部屋を出て行った。配膳を放り出した形になるが、一刀はそれを責める気にはなれなかった。一刀は孫尚香を見返す。まさか文句はあるまいな、と視線に力を込めると、孫尚香は笑みの種類を変えた。

 好奇心に溢れたその笑みは、今まで見たどの笑みよりも、孫尚香を魅力的に見せていた。これが彼女の地なのだろう。孫策が猫のよう、というなら、孫尚香は猫そのものだった。
























「あー、おもしろかった!」

 宴の間の待機場所として提供された客間に着くなり、シャオはばたばたと部屋を横切り身を投げるようにして椅子に腰を下ろした。先ほどまで被っていた大きな猫は、既に逃げ出したようである。冥琳は亜沙を入り口に立たせると、思春を伴ってシャオの傍に立った。

「どうでした? 北郷は」
「悪くない顔してたねー。あれならお嫁さんになってあげても良いかなー」
「そんな安易な。小蓮さま、これは貴女の将来の話なのですよ!」
「思春は別にいいよねー。シャオがお嫁さんにならなかったら、思春がお嫁さんなんだしー」

 シャオの物言いに、思春が押し黙る。褐色の肌でもわかるほどに、頬が朱に染まっていた。そういう条件だと雪蓮から聞かされていたはずだが、一刀の顔が見えなくなって気が抜けでもしたのか、シャオの言葉に心揺さぶられているようだった。

「それにしても思春は流石だよね。私はてっきり首を刎ねるものだと思ってたのに、思春の言った通りになっちゃった!」

 ぱたぱたと足を振りながら、シャオが言う。

 冥琳を除く三人は、この地に着く前に賭けをしていたのだ。一刀に袁術を委ねた時、彼がどういう判断を下すか。

 まず亞莎が結論を出した。同盟のことを考えたら、即座に首を刎ねるべき。一刀本人が判断せずとも、軍師がそれを推すだろうと。軍師の発言である。年若いシャオは、それに乗る形になった。孫家の人間だけあって袁術に良い感情を持っていなかったシャオは、できれば袁術に死んでほしいと思っていたのだ。

 だが、これに思春が異を唱えた。奴はそんなことをするはずがない。あの男は生かせる命ならば生かす男だ。

 子供とは言え、シャオは主筋である。思春にとっては大分目上の存在。それに公然と異を唱えることは、孫家に忠義する思春にとって非常に珍しいことだった。これが逆にシャオの興味を引き、どちらでも良いとされていた袁術の身柄引き渡しを決定的なものとしたのだ。戯れに殺しても構わないというほど、あの二人の命は軽いものだったのである。

 全てを奪った時点で雪蓮は、袁術本人への興味は失せていたのだ。

 結果として雪蓮の投げやりさと思春の直向さが、袁術と張勲の命を救うこととなった。今頃一刀の屋敷で歓待でも受けているのだろう。飲まず食わずで歩き通し、いつ殺されるのかも解らなかった環境から比べたら、まさに天国である。あの小娘を叩き落すために策を巡らせてきたことを考えると、冥琳としては複雑な気持ちであったが、今更小娘一人が声をあげたところで、何が変わる訳でもない。

 北の袁家を頼ったところでたかが知れている。

 また孫呉に反旗を翻すようなことがあれば、生きながらえたことを後悔するくらいに責め抜いて殺す。ただそれだけのことだった。

 一つの問題が片付いたことで、一つ肩の荷がおりた。そうすると、同盟について考える余裕も出てくる。嫁だ何だと思春をからかい倒すシャオを横目に見ながら、冥琳は窓の外に目をむけた。

 孫呉の兵は精強でそれは曹魏の兵にも劣らないという自負があるが、彼我の距離は如何ともし難い。戦のためには河北に拠点を築いておく必要がある。そのために浅からぬ関係のある一刀を抱き込んでおくことは、孫呉にとって重要なことだった。并州の地に拠点ができれば、曹魏との戦もより有利に行うことができる。曹操が劉備との戦に時間をかけている今が勝負だった。

 シャオを連れてきた意図を、あちらも理解しているだろう。縁組は最も効率的な同盟強化の手段である。姻戚関係となれば早々に裏切ることはできないし、客将として思春と亞莎が居座っている。曹操との戦のため協力するという建前でおいているが、彼女ら二人は同時に凶手でもある。一刀が孫呉の害となるなら、その首を刎ねるべしということは、既に言い含めてあった。

 そうならないと雪蓮は感じ取っているらしいが、もしものための保険はかけておくに越したことはない。一刀本人に野心はそれほどないだろうが、その周囲を固める軍師たちは、一刀を押し上げようと知恵を絞っている。今この時も、こちらを出し抜こうと明晰な頭脳を働かせているに違いないのだ。既に懐深くに入り込んだ。同盟を組む上で譲歩は色々としたが、こちらが一刀の喉元に刃を突きつけているのに対し、雪蓮は遠く孫呉の地にいる。

 例え全てがご破算になり、一刀が破れ思春や亜沙を失い、シャオが死んだとしても、孫呉には次があるのだ。そう思うと、少しばかり余裕を持って周囲を見回すことができた。

 曹操は二州を取り、現在劉備と戦っている。戦いの趨勢は既に決した。劉備が敗れるのは時間の問題だろう。これで曹操は三州を制することになる。その平定に時間がかかるとして、次に目を向けるのは北の袁紹か、西の一刀だ。袁紹は幽州の公孫賛との戦のため、本軍を大きく北に動かしている。州都には一族を守るための兵がいるが、主力は北だ。曹操軍ほど兵があるのならば、これを取るのはそれほど難しいことではない。

 対して西の一刀は袁紹に比べれば兵の数こそ少ないが、どういう訳か奴らの勢力にはかの飛将軍呂布と、張遼がいる。丁原、黄忠という太守二人が味方につき、これは噂ではあるが、異民族にも助力を頼める立場にあるとか。精強な兵に有能な軍師。軍としての弱点は頭数が少ないということしかない。時間をかければかけるだけ、この軍は強くなるだろう。潰しておくならば、早めにやっておかなければならない。

 劉備との戦が片付いたらすぐにでも、曹操は踵を返して一刀を襲うだろう。それまでに体勢を整えなければならなかった。

 そのための同盟、そのための縁戚だ。一刀を味方に引き込むために、雪蓮はシャオを嫁がせることをあっさりと決めた。元々縁組を考えていた思春までオマケにつける豪胆っぷりは居並ぶ幹部達をも驚かせたが、武勇に優れるを由とする孫呉の気風にあって、弱兵でありながら呂布の前に飛び出し思春を助けた一刀の働きは周知のこと。それだけの働きをしたものならば、と表面上は納得させることができた。

 実績も、百人隊長から州牧になったという勢いで十分過ぎるほどである。唯一、生まれが不確かなところが傷と言えば傷であるが、漢の高祖劉邦も元はと言えば平民である。雪蓮もかの孫子の子孫を名乗ってはいるが、彼女の母、孫堅の時代の孫呉軍はゴロツキと大差ない柄の悪さだった。その特色は今の孫家軍にも受け継がれているが、血筋に拘る人間も中にはいる。

 そういう連中が、最後まで一刀との縁談に反対していたが、孫呉は先頃まで『尊い血筋』の代表格である袁術の下に甘んじていた。血統に拘るのは奴の支配を思い出すと、幹部だけでなく市井の者にも、高貴な血筋に対して嫌悪感が広がっている。世論は雪蓮の味方だった。

 それらを加味すれば、機は最高と言えるだろう。袁術の一件がなければ、一刀とシャオの縁談などありえなかった。雪蓮が袁術を討ち、一刀が并州牧にまでなりあがった。その時期が重なったからこそ、この縁談が生まれたのだ。

 さて、と冥琳は考えを巡らせる。感触は良い。あちらも同盟をどうするかについては、元々話し合っていたのだろう。このまま行けば話はまとまるという確信が冥琳にはあった。思春と亞莎を残していくことも、向こうは受け入れる。暗殺の可能性を考えないではないだろうが、曹操の西進の可能性を考えれば優秀な将は喉から手が出るほどほしいはず。元より立場の弱いあちらは、受け入れるしかないのだ。

 そうして、また借りが生まれる。形ばかりの対等な同盟を結んだ上で、孫呉はその貸しをさらに回収する。対等でない立場で行われる貸し借りは、当然のように対等ではない。与えることは奪うことであり、借りることは搾取されることを意味する。富めるものはより富むように。強きものはより強く。例外はどんな法則にも存在するが、これが世の基本原則である。

 孫呉の軍師として、冥琳はそれを熟知していた。ただ大きいというだけで長いこと袁術に風上を取られ続けてきた。上にある存在は、ただそれだけで強いのである。袁術にはそれを維持し続ける頭がなかったが、孫呉は同じ轍を踏まない。今は確実に孫呉が上で、一刀が下だ。逆転される前に、頭を押さえておく。

 一刀が適当なところでくたばり、将兵と軍師だけが孫呉に吸収されるというのが望ましいが……味方となった人間の不幸を望むのは、人間としてあまり美しい行動ではない。疲れているのかな、と冥琳はメガネを外し、目頭を揉んだ。連合軍に参加して以来の孫呉を離れての任務であり、傍に雪蓮がいない環境というのは久しぶりのことだった。

 仇敵だった南の袁家を破り、孫呉は大きく勢力を拡大させた。夢物語と言われた天下が、手の届くところまできているのである。曹操、袁紹など、いまだ強敵は存在するが、かつては影を踏むことすらできなかった連中と肩を並べるまでに大きくなった。油断すると足元を掬われる。浮かれそうになる心を叱咤し、冥琳はより精力的に働いた。

 一刀の出世の話を聞いたのは、そんな時だった。冥琳はその話をまず疑ってかかったが、雪蓮はまるで予期していたかのように、あぁ、と小さく溜息を漏らし、言った。

『私達、北郷に仕えることになるかもしれないわねー』

 冥琳はそれを雪蓮の冗談だと思ったが、雪蓮はどうにも本気のようだった。

『いいんじゃない? 何も未来永劫孫家が北郷家に膝を屈すると決まる訳じゃないもの。栄枯盛衰は世の常。私の代で無理そうなら次代に託す。ただそれだけのことよ』
『私はお前ほど柔軟にものを考えられそうにないよ』

 袁術の下に長いこと膝を屈してきた。それは孫呉にとって屈辱の歴史だ。二度とあんな思いをしたくないと、雪蓮が一番強く思っているはずである。その雪蓮が、一刀に仕えても良いという。流石に冗談だと冥琳は理解していたが、冗談であっても雪蓮がそれを肯んずるというのは、中々ないことである。

 確かにあの袁術に比べれば仕える価値はあるかもしれないが……冥琳はいまだ、一刀の価値を測りかねていた。そんな冥琳を見て、雪蓮は猫のように微笑む。

『だから、冥琳。貴女も一刀って人間を見てきて? 思春とはまた違った視点でね。仕えることになるかもしれない相手、と思ってみれば、これまでとはまた違った使い方も見えてくるでしょう?』
『気安く言ってくれるな、お前は』

 ともあれ、視点を変えてみるというのは良いことだ。勢いも含めて、一刀には読みきれない部分が多くある。これを機に理解を深めておくのも、悪いことではない。

『何なら、冥琳がお嫁に行く?』
『我々が臣従するとなったら、その可能性はあるな……その時はいっそ、幹部全員で室に入るのも良いだろうな。多数派工作は、早いうちにしかけるに限る』
『なに、冥琳は乗り気なの?』
『たまには良いだろう。こういう詮無いことで盛り上がるのもな』

 ははは、とお互いに冗談ということで落として、一刀の話はそれきりになった。一刀に仕える、その未来は全くもって現実味を帯びていないが、良き軍師、良き将軍に恵まれ、今まさにあの男は自由に動かすことのできる軍団を手にしつつある。

 本当の意味での北郷隊が、まさに完成しようとしていた。孫呉の人間としてそれは単純な脅威であったが、ただの軍師としてその規模がどこまで大きくなるのか、興味はあった。

 近く、その力を見ることになるだろう。相手はおそらく曹操。雪蓮との話がただの馬鹿話でおわるのか、それとも今後、真剣に検討する価値のある案件になるのか。二つの未来を夢想しながら、冥琳はそっと瞳を閉じ肩の力を抜いた。






遅れに遅れた投稿となりました。
待っていてくださったかた申し訳ありません。

今回で孫呉パート導入編となります。次回で美羽様パートを含む孫呉編その2、おそらくさらにもう一話続いて桃香編となります。

時間かかった上あまり話が進んでいませんが、懲りずにお付き合いいただけましたら幸いです。







[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三十五話 并州平定編④
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:53a6c9be
Date: 2014/12/24 05:00



 雛里は同門の灯里、静里と共に朱里を訪ねた。

 仕事上の理由があった訳ではない。一仕事終わり、何となく親友の顔が見たくなっただけである。他の二人も同じ気持ちだったのだろう。一緒に行かないかと誘ったら、喜んでついてきてくれた。水鏡女学院の卒業生だけで行動するのは随分と久しぶりである。何となく楽しい気分で朱里の部屋に入ると、彼女は寝台ではなく部屋に据えつけられた姿見の前に立っていた。

 朱里が着ているのは水鏡女学院の制服を基調とした、彼女が劉備軍で働いていた時に着ていた服である。それを見た雛里の胸は高鳴った。親友が回復したというだけではない。自分たちの夢が今果たされるかもしれない、という期待からだ。

「朱里ちゃん、もう大丈夫なの?」
「うん。心配かけてごめんね、雛里ちゃん」

 朱里は水鏡学園卒業生の証でもある帽子を目深に被ると、雛里達に向き直った。

 完全に復調した訳ではないのだろう。朱里の顔にはまだ憂いがあった。

 無理もない。敬愛する劉備は今まさに曹操と戦をしている。その敗戦が濃厚なのは、劉備の筆頭軍師だった朱里が一番理解しているはずだ。

 本当ならば劉備の元に駆けつけ力になりたいに違いないはずなのに、その劉備に拒絶された朱里はここにいる。その苦悩は、親友の雛里であっても想像するにあまりあった。

 しかし、そんな感情を押し殺して朱里は前に進もうとしている。気持ちの整理はつけた。内面はどうあれ、本人が行動でそう示すのならば、雛里はそれを信じるしかなかった。

「諸葛孔明、復調いたしました故、本日より職務に復帰いたします。長い間、ご心配をおかけしました」

 畏まった礼に、全員が姿勢を正してその言葉を受ける。朱里とは組織を異にしているが、その言葉に思うところがあったからだ。

「……それで、雛里ちゃんにお願いがあるんだけど」
「うん、何でも言って」
「その、就職のお世話とかしてくれると、凄く助かる……かな?」
「朱里ちゃん!」

 感極まった雛里は、そのまま朱里に抱きついた。病み上がりである朱里はその勢いを受け止め切れず、二人は纏めて床に転がった。静里が慌てて二人に駆け寄るが、灯里は床を転がる二人を微笑ましい気持ちで眺めていた。

 雛里が朱里と共に、学生時代に思い描いた『二人で同じ主に使え、共にこれを支えよう』という夢がこれで実現することになる。先輩としての強権で雛里を連れて行ってしまった灯里は、朱里の境遇について色々と心苦しく思っていた。彼女にとって朱里の合流は、事実以上に嬉しいものである。

「合流については今晩発表ということで良いだろう。幸い、今日は孫呉の使節団の歓迎会がある。その場で披露してやれば、奴らに対する牽制にもなるだろうしね」
「そう言えば、今日はそんな日でしたね」
「朱里ちゃんは、確か周瑜さまとはお会いしてるんだよね?」
「うん。帝室と講和を結びに行く時に、何度か」

 連合軍が解散する前、集まった諸侯が選出した講和のための軍師団の一人に、朱里は名前を連ねていた。時代を代表する知者として選ばれたのは、他に孫呉の周瑜と曹魏の荀彧である。いずれも二つの国の筆頭軍師であるだけに、当時公孫賛の客将だった劉備の、さらにその軍師であった朱里に対する評価の高さが、連合軍の中でもどれほどのものだったのか窺い知ることができる。

「しかし、これでまた我が軍に軍師が増える訳だ。周瑜殿も驚くだろうね」

 勢力として一刀軍は孫呉に大きく劣っている。今回の足元を見られた同盟締結もその事実に起因している訳だが、軍団を支える幹部の質と数で言えば孫呉にも匹敵すると雛里は自負していた。頭数の問題も、文武共に解決されつつある。元々騎馬が精強な并州である。異民族やその血を引く者たちの問題も、一刀が前の州牧を討ったことで追い出された、あるいは出て行った面々の帰還が進んでいる。

 軍の再編も早いペースで進められていた。勝負にもならない状態はこれで解消されるだろう。中核を成す部隊については、『質の面では』孫呉や曹魏にも劣らない自信がある、と霞に豪語させるほどだった。

 後は、やはり数である、作戦で何とかするには限界がある。軍師も魔法使いではないのだ。絶対に覆すことのできないものは、往々にして存在する。曹魏との戦が決定的となった今、それを何とかするための作戦が求められている訳だが、必要なものを準備する以外の手が、今のところ取れそうにない。

 いざとなったら孫呉以外の援軍を頼る必要があるだろう。異民族に援軍を頼むか、あるいは司州を飛び越えて馬家を頼るか。目は薄く、後で何かを要求された時のことを考えると、あまり褒められた作戦ではないが、滅んでしまったら全てが終わる。まだ次がある孫呉と違い、雛里たちには後はないのだ。

「夜の会談では、対策も話し合われるだろう。僕らも色々頭を捻っているんだけど、どうにも良い案が出なくてね。朱里の意見も聞かせてもらえないかな?」
「対策というと……曹魏との?」

 雛里は首を傾げた。朱里にしては察しの悪い反応である。まさかまだ身体の調子が良くないのではと、雛里はこっそり朱里の顔色を伺ったが、彼女の顔は既に激動の劉備軍を支えた筆頭軍師の顔になっていた。

 もはや完全に復調したらしい朱里は、灯里の顔を正面から見据えると、

「それはないと思います」

 静かな、しかしはっきりとした朱里の物言いに、軍師全員が沈黙した。視線が一瞬、交錯する。

「それは、どういうことだい?」

 代表して質問したのは灯里だった。同門の四人の中では彼女が一番年長で、最も早く水鏡先生の門下に入っている。信頼する先輩の問いに、朱里は緊張を解すように一度、大きく深呼吸をした。

「曹操軍の西進はおそらくありえません。桃香さま――いえ、劉備さんの軍を破ってその後、徐州を平定するのに早くて三ヶ月。平行して準備をしていたとして、動員していた兵をそこに合流、軍団を再編して西進を開始するまでどんなに急いでも半年はかかるでしょう。準備されていた軍だけでの西進もないではありませんが、疲弊しているとは言え主力を欠いた状態では、確実性を欠きます。進軍があるとしても、合流してからとなるはずです。それが、大体半年」
「それでも相当急いでいるけれどね。あの曹操ならやりかねない」

 優秀な軍はその展開の速さも凄まじい。劉備軍を破るために曹操はその主力を動かしているのだろうが、それを差し引いても曹操ならば半年で準備は終えるだろう。劉備軍との戦の趨勢が決定的な以上、もう準備に入っているかもしれない。曹操への対応は一刀軍にとって急務だ。

「ところで青州に黄巾の残党が多く集まっているという情報をご存知でしょうか。その数は百万を越えると言われています。もちろん、これは非戦闘員を含めた数字であり、実際に戦える人間は精々三割といったところでしょう。十分な武器があるとは思えず、防具も同様です。戦闘訓練を積んだことのある人間もその中でさえ一握りでしょう。ですが、数というのは力であり、それは時に兵の質を覆します。まして、非戦闘員まで含めた百万が一斉に南下してくるとなれば、曹操軍とて他所への侵攻を諦めざるを得ないはずです」
「朱里、君はそれが南下してくると確信しているようだけど、その根拠を聞かせてもらえないかな」
「残党の上層部から打診がありました。こちらの支配を見逃す代わりに、曹操軍に圧力をかけるという提案です」
「先輩、私は聞いてませんが」

 その当時も、そして今も情報担当である静里が抗議の声を挙げる。最高責任者は朱里だったのだろうが、情報担当である静里にその連絡がないというのは確かにおかしな話である。年上の後輩の主張に、朱里は申し訳なさそうな顔で頭を下げた。

「その直後にあんなことがあったから、連絡できなかったの。ともかく、提案そのものはありました。これは劉備軍は組みやすく、曹操軍とは距離を起きたいと思っているという証明でもあります。元々、青州黄巾は曹操の支配に否定的でした。実際に支配されたらそうは思わないのでしょうけど、集まった人間の多くはそう思っているのも事実です。そして、大多数がそう思っているのならば行動は決定的です。劉備軍が敗れるのであれば、彼らは間違いなく南下してきます。次は自分。そう思う人間の行動を少数の人間で制御できるはずはありません」

 曹操軍に限らず、軍というものは上の意思が下に強制される。どんなに不満な命令であっても、そこに所属する限り下は守ろうとする。そうでないと軍が立ち行かない故に長年かけて培われてきた理屈であり常識であるが、思想が先にたつ集団にはその不文律がない。百万の人間が集まっているのならば、統制が取れないのは尚更だ。上の意思に従う場面でも、ほとんどの人間は反対のことを考えていれば、それがどんなに上の意思に反していたとしてもそれは決定事項である。

 全員の頭の中で、試算が始まる。

 黄巾賊の南下を疑わないとして、曹操軍がそれに敗北する可能性は非常に薄い。いかに数が多いとは言え、敗北にまで追い込まれることはないだろう。数は力であるが、質もまた力である。その質において、曹操軍は当代でも最高の水準を持っていた。

 戦といっても、相手を皆殺しにするまで続く訳ではない。ある程度まで数を減らされれば、和睦ということになる。百万という数は魅力的だ。これを取り込むことができれば、曹操の立場は大いに飛躍することだろう。話を聞く限り青州を実質的に支配しているのは黄巾賊であるというから、彼らを平らげれば青州もまた同時に手に入れることができる。

 平定に時間はかかるだろうが、そうなれば中央の支配は磐石だ。強敵孫呉を前に中央に残っているのは、勢力として劣る北郷軍と、既に大いに疲弊した袁紹軍のみである。青州黄巾に勝ったならば、残りを平定するのは今よりもより容易い。

 かくて、曹操は孫呉との決着に臨み、その勝者が天下に覇を唱えることになる。

 順当に行けばそんな所だろう。曹操の躍進を止めるには青州黄巾と戦っている間に、こちらも戦力を整えるしかない。流石に百万の民兵を相手に多面展開をするだけの余裕は曹操軍にもないはずだ。対処しているとすれば、孫呉軍の北上を監視する軍を南側に配置しているくらいだろう。

「予定外のことではあるが、これは僥倖だね」

 灯里の言葉に、その場にいた全員が頷いた。孫呉が意図していたのは、劉備軍と戦った直後の曹操軍との戦である。時間的余裕は、そもそも設定されていなかったのだ。戦うまでに時間が空くとなれば、その間に色々とやれる。少なくとも、今戦うよりもずっと良い勝負ができるようになるだろう。

 『それ』を孫呉が手放しで歓迎してくれるか。軍師達が気にするべきはそこだった。孫呉ほどの大勢力に頭を抑えられたら如何ともし難い。

 同盟は本当は対等ではないのだ。あくまで北郷軍を下においておきたいということであれば、孫呉は手を尽くしてこれ邪魔をしてくる。

 だが、それを楽しむだけの度量があれば、一刀軍にも飛躍する目はまだ残されていた。

 孫呉よりも曹魏よりも強くなれるか。これからが正に正念場である。

「確認するけど、私達と一緒に戦ってくれるの?」
「身に着けた知識を腐らせて、そのまま死にたくないもの。雛里ちゃんが信用した一刀さんなら信用できるし、私もそのお手伝いをしたいと思ったんだ」
「一刀さんは、劉備さんではないよ?」

 確信を突いた雛里の物言いに、朱里は泣きそうな顔をした。大きく息を吸って、吐く。それで、朱里は幾分冷静になった。感情に任せて叫びたくなるのを我慢した。

 気持ちが落ちついたのだ、というのは今度は雛里にも解った。再会した時は手首でも切りそうな顔をしていたが、今は違う。同じ学び舎で青雲の志を語り合った親友は、ちゃんと軍師の顔をしていた。

「大丈夫だよ。私は軍師だもの」

 決して大丈夫な顔ではなかったが、前に進もうとする親友を止める言葉を雛里は持っていなかった。何より、また一緒に戦えることは雛里にとって何よりも嬉しいことである。止める理由などあるはずもない。

「わかったよ朱里ちゃん、一緒に頑張ろう」
「ありがとう雛里ちゃん。これで一緒にやれるね」

 軍師であることとか、立場であるとか、そういったものを全て忘れて、握手を交わす二人の心は一つになっていた。

 学院時代に交わした約束を、ついに果たすことができる。それ以上のことは、何もなかった。



































 孫呉との会談が終えた一刀は、その足で要と風を伴い自宅へと向かった。

 前の州牧が使っていた屋敷である。一人で使うには不必要に広いが、人を二人匿うとなると十分に過ぎた。その邸宅の扉を潜り、最初に一刀が見たのは平伏する張勲の姿だった。衣服は先ほど見たボロままである。傍らには黄叙の姿はあるが袁術の姿はない。

「格別のご配慮、ありがたく存じます!」

 久しく喋っていない人間のしゃがれた声だった。とても女の声とは思えないその声に、一刀は溜まらずに膝をついた。

「厚かましい願いと存じておりますが、我が主、袁術の命だけは変わらず助けて頂きたく存じます。この身については如何様にお使いいただいても構いません。ですから、どうか、どうか!」
「今更言われるまでもありません。貴女方は俺の身内です。それは貴女の身柄がどうであれ変わることのない事実です。ご提案は大変ありがたいことですが、一先ずそれは置いておきましょう。黄叙、張勲殿を湯殿に」
「かしこまりました」

 さ、と先を促す黄叙に引かれながら、張勲は深く一礼した。

「こうして、またお兄さんに忠義する人が増えていくんですねぇ~」

 間伸びした風の声には相変わらず緊張感がないが、飴を舐めながらこちらを見上げる風の目には、どこか責めるような色があった。いつものこと、とやり過ごすには少しキツい色である。無視することも考えたが、それを許してくれそうな雰囲気ではない。

 一刀は大きく溜息をつき、風に向き直った。

「俺は正しいと思うことをした」
「ですねー。でも、これで余計な荷物を背負い込むことになったかもしれません」
「孫呉は生殺与奪の権利はこちらに与えると言ったな」
「それは嘘ではないでしょう。袁術の扱いについて、あちらが意見してくることはありません。むしろ、孫策さんの性格を考えると大正解だったかもしれませんねー」

 気性の激しい孫策が自分で殺さなかった。その時点で彼女自身は別段、袁術の命には興味がないと察することができた。袁術についてどう扱うか。孫策が見たかったのはそこだろう。その点で、一刀は自分が最高の選択をしたと自負することができた。諸々の負債を負うことになるだろうが、間違ったことはしていないと断言することができる。
無論、州牧としての立場も込みでの話だ。風もそれは理解してくれているはずだが、風の反論は続いた。

「ですが、袁術は世間の受けが非常に悪いです。年若い少女の命を救ったというのは良いでしょう。ですが、身内というのは言いすぎだったかもしれません。静里ちゃんの部下を街に走らせましたが、早速下世話な噂が持ち上がっているらしいですよ? 色男なお兄さんは大変ですねー」
「そうではないと時間をかけて信じてもらうしかないな」
「ですね。そのための風です。お兄さんがあの場で首を刎ねてもついていくつもりでしたが、お兄さんは良い選択をしました」
「言いすぎだったんじゃないのか?」
「風好みの、お兄さんらしいお言葉でした。それに、黒を白に変えるのが風たちの仕事でもあります。お兄さんは自分のやりたいようにやってください」

 ふわふわとした口調で、にこりと笑う。お人形さんのような見た目なのに、こういう時は頼もしい。急に風が愛しくなった一刀は頭の飾りを避けるようにして、風の頭を撫でる。猫のように目を細めた風は、んー、と小さく鳴いた。

「……さて、袁術の問題はとりあえずこれで良い。孫呉の同盟、というか対曹操戦のことだけど」
「問題は山積みですねー。というか、今のまま戦ったら間違いなく負けます」

 風はあっさりと断言した。孫呉が部隊まで置いていった以上、あちらの意図が『戦え』ということなのは目に見えている。曹操軍が攻めてきた時あっさり白旗を挙げようものなら、最悪思春に首を刎ねられる。

 最終的に負ける、降伏することは認められるだろうが、少なくとも最善を尽くしたというポーズを見せる必要があるのだ。そのためにはあらゆる場所に相当の被害が出るだろう。これを如何に減らすかが、一刀たちの仕事だった。

「いっそのこと勝つことはできないものかな?」
「軍師を魔法使いか何かと勘違いしてるなら今すぐ改めた方が良いですよお兄さん」
「つまりは魔法があれば勝てるということだな。こうなったら無理矢理にでも前向きに考えよう。他に同盟できる相手はいないものか」
「勢力としてはいくつか心当たりがありますが、曹操軍と戦ってくれるかと言われると微妙ですねー」
「一応、その心当たりを聞こうじゃないか」
「聞くまでもないと思いますよ。お兄さんの近くに一人、大軍団の長がいるじゃありませんか」

 言われて、一刀は初めて思い出した。董卓軍は同盟を組む相手として申し分ない。散り散りになった軍団を集めれば、曹操軍にも対抗できることだろう。

「でも、董卓殿は戦ってはくれないと思うぞ」

 賈詡にこそ野心はあるようだが、董卓本人は野心など欠片もないように思えた。世の中を良くしたいという思いを持ってはいるようだが、そのために戦をするのは嫌だ、という思いの方が強いらしい。連合軍に対抗できるだけの軍団を率いていた董卓だ。彼女の命令で失われた命は、十万ではくだらないだろう。長であった董卓にはその死にある程度の責任がある。

 心を痛められるだけ、十分に人間らしいと思う。あの少女が上に立っていれば、世の中は確かに良くなっただろう。連合軍として戦ったことは間違いだったと思いたくないものだが、董卓と話しているとどうもそう思えてきてならない。

 いずれにせよ、董卓に助力を請うのは無理そうだった。董卓以前に、賈詡を説得できるような気がしない。先ごろからどうにも嫌われている気がするのだ。原因はとんと検討がつかない。

「先に袁紹を叩くのはどうだ。曹操軍も誘って、公孫賛殿を助ける」

 広大な領地を持っている袁紹を討てば、その領地を手に入れることができる。大軍団ではあるが今は公孫賛との戦いで疲弊しており、主力も北に集中している。曹操軍ならばこれを討つことは容易いとはいかなくとも、難しいことではないだろう。

 曹操軍がこちらを先に狙うだろうというのは、一刀軍の方が組みやすいと思われているからに過ぎない。こちらから協力を申し出、袁紹を攻めている間反抗しないと信じさせることができれば、少なくともその間は曹操と戦わずに済むはずである。

「お兄さんにしては良いところを突きましたねー。でも、戦う相手が曹操軍から袁紹軍になったというだけで、風たちが苦労するのは変わりありません。上手く連合することができたとしても、立場が弱いのは風たちです。露払いにされるのがオチですねー」

 風に否定されることがわかっていた一刀は、特に落胆する様子もなくふむ、と頷いた。立場が対等でない勢力の同盟がどういう力関係になるのか、というのは身をもって知ったばかりだ。曹魏と孫呉。どちらがより強いかというのは意見の分かれるところであるが、一刀軍から見て精強であるのは違いはない。戦えば負けるだろう、ことについてはどちらでも同じだった。

「要、何か意見とかあるか?」

 一緒にいるのに何も喋らない護衛の少年に水を向ける。北郷一刀の近衛の一人で最も腕の立つ人間の一人だが、近衛の指揮を執っている訳ではない。アホの子である彼には、シフトやスケジュールの管理ができないのだ。創設されて間もない近衛の管理は、一番の新参者である黄叙が行っている。十代前半の少女の下につくことに、一刀が挙兵した時から付き従っている面々は大いに反発したが、黄叙はにこりと微笑んで、野郎ども全員を実力で黙らせた。

 黄忠の評価では武はイマイチということだったが、それは本人も弓の達人である黄忠から見ての話。黄叙の腕っぷしは、連合軍での戦いを経験し腕を挙げた近衛の面々の中でも群を抜いており、対抗できるのは要だけだった。基本的に、兵は強い人間に敬意を払う。元より単純な人間で構成された一刀の近衛たちは、実質的に黄叙の指揮下に入っていた。

 その近衛の中で、一刀の護衛を主に担うのが要である。頭は良くないが、腕っ節は強い彼は一応一刀と風の会話を聞いてはいたが、本当にただ聞いていただけだった。要は一刀の質問に頷くと、彼が腰に下げた剣に目を向け、

「団長、それ見せてもらっても良いですか?」

 と、意見はないと行動で示した。呆れた様子で肩を竦めた一刀は剣帯から穂波西海を外し、鞘ごと要に差し出す。要は鞘を払って穂波西海を翳し、おー、と感動の声を挙げる。

「いかにも斬れそうな剣って感じですね!」
「吹毛の剣とか言ってたし、実際に名剣らしいな」

 まだ実戦で使ってこそいないが、その切れ味は既に試している。上から落とした薄紙が真っ二つになるというのは、尋常な切れ味ではない。

「やってみませんかそれ」
「紙を持ってない」

 という嘘をついた一刀は、駄々をこねそうな要から穂波西海を奪い返し、剣帯に戻す。左右に一本ずつ剣を下げるのに慣れていないせいで、重さには随分と違和感があるが、孫呉との関係を考えると穂波西海を外す訳にはいかない。ならば銀木犀を置いておけばバランスが取れるという話であるが、こちらは一刀の気持ちが許さなかった。この違和感にも、慣れるしかない。

 食い下がる要をやり過ごしながら、州庁に戻る。

 行きは急ぎだったが、帰りはのんびりとしたものだ。腕に風を抱えた二人乗りの馬で歩いていると、道を行き交う人が声をかけてくる。代理として州庁に入ってから久しいが、顔も随分と売れてきた。肌で感じるに、反応も随分と好感触である。まだ何をした訳ではないが、よほど前の州牧の印象が悪かったのだろう。静里とその部下の行う情報操作も功を奏しているようだった。

 上手く行っている。その手応えを感じるだけに、戦争が不可避に近いのは如何ともし難い。どうにかして曹魏と孫呉両方を立てることはできないものか。思案しながら州庁に戻った一刀を出迎えたのは、幹部の誰でもなく思春だった。共はなく、一人である。一緒に来た呂蒙の姿も見えない。

 何か話があるのは明白で、それがどうも内々なことであるのは一刀にも解ったが、凶手でもある思春と一緒にいるのは好ましいことではない。隣の風がどうするんですかー、と腕の中から見上げてくるが、話したいことがあるという思春を、例え彼女が凶手であっても拒む理由はなかった。

「先に戻っててくれ」

 風は目を細めるとただ頷き、要を引きずるようにしてその場を後にした。入れ替わるようにして思春が歩み寄ってくるが、彼女は立ち去った風たちのことを気にしているようだった。

「思春が気にすることではありませんよ。ここであれなら、場所を変えますが」
「すぐに終わります。個人的に、お祝い申し上げたく参上いたしました。州牧就任、おめでとうございます」

 態々祝いの言葉を言いに来てくれるなど、いかにも思春らしい。別に良いのにと思うが、彼女らしいその振る舞いに一刀は心が温かくなるのを感じた。しかし、

「公の場では仕方ないかもしれませんが、そうでない場合は今まで通りで結構ですよ。今の俺があるのは、思春のおかげと言っても良いのですから。立場が変わったくらいで、それを忘れたりはしません」
「しかし、それでは筋が通りません。貴方の立場が私よりも上であるのは事実です。その貴方が私にへりくだっていては、例え公の場でなくとも角が立ちましょう」

 思春の言い分は尤もだったが、彼女の性格上、それならばそうだけ言ってこの場を立ち去るような気がした。留まっているからには言外に何か言いたいことがあるのだろう。それは何かと考えて、一刀は笑みを浮かべた。形式ばったやり取りが好きでないのは、お互い様だったのだ。

「では、公でない場では我々は対等ということにいたしませんか。一組の友人として接していただけるなら、私としても大変喜ばしいのですが」
「……気付かないかと思って、肝を冷やしたぞ」

 顔を上げた思春は、微かに口の端をあげて笑った。自分が正解を選んだことを悟った一刀は、安堵の溜息を漏らす。

「もっと率直に言ってくれても良かったんじゃないか?」
「何事にも形式というものがある。立場の低い私の方から言い出すことはできん」
「全く面倒だな、政治や社交というのは」
「それについては同感だ」

 今まで畏まった言葉使いをしていたにしては、気安い言葉はすらすらと出てきた。思春もそれを受け入れている。元より、形式ばった場が肌に合わないのだろう。コレくらい気安い方が、思春の主義に合っているのだ。難しい思春に、今までよりもずっと近づけたような気がした。

「それにしても随分と差し迫った状況に追い込まれたようだな」
「そっち側の思春に言われると、複雑な気分だよ」

 孫呉の意図は思春にも解っているのだろう。いざという時、北郷一刀を殺すという自分の立場もしっかりと理解しているはずだ。それでも平然としている思春に、忠義に順ずるというのはこういうことなのかと理解する。孫呉という国、孫策という人間と比較すれば、北郷一刀など取るに足らないのだろう。

 それでも、こうやって気にかけてくれているだけ、思春の情の深さが伺える。元より、真面目な顔で愛を囁くなど思春の性格では冗談でもできないだろう。想像するとおかしくて仕方がないが、いつまでもそれを続けていると斬られそうだ。意識して表情を引き締め、考えを巡らせる。

「劉備殿が粘ってくれることを期待して止まないけど、そろそろヤバイっていうのがうちの軍師の共通見解だな。次は俺達ということで準備は進めているところだよ。本当、思春たちがきてくれて良かった」
「心にもないことを言うのはよせ。我々が来なければ、お前たちは曹操に降ることもできただろう」
「それはそれで苦渋の決断だったと思うけどな」

 かと言って、孫呉がやってきた現状が良いとは口が裂けても言えなかった。得た物も大きいが状況が限定されてしまったことの方が、一刀にとっては大きい。何よりこれで戦はほぼ不可避となった。曹操の方から同盟、和睦でも申し入れてくれば話は別であるが、これから覇を唱えようという人間が、下の人間に譲歩することはないだろう。下心があったとは言え、孫呉の譲歩が異常なのだ。

「州内は良く治めているようだな。力ある太守二人の協力を取り付けられたのが大きい」
「あの二人がいなかったら、今も并州は混沌としてただろうな。中央に正式に認められるのも、もっと遅れてただろう」
「私には何よりそれが不可解なのだがな。中央の連中の腰が重いのは私でも知っているようなことだ。それがどうして、と思わなくもない」
「そんなの俺にだって解らないよ」

 軍師も検討はしたが、これはという結論は出なかった。問い合わせれば解るのかもしれないが、皇帝の判断とされていることに疑問を差し挟むことは許されない。不満があると思われたら辞令が取り消される可能性だってあるし、何より皇帝の覚えを悪くして良いことがあるはずもない。

 貸しを作ったようで気分は良くないが、良いことが起こったのだから、別に気にすることはない。軍師にあるまじき投げやりな結論であるが、考えても仕方のないことはもう気にしないことにした。今解らないことならば、それは気にすべきことではないのだ。

「私が思うに、中央にお前を支援しようとする人間が――」
「一刀さん!」

 思春が言葉を続けようとした矢先、廊下の先から雛里が駆けてくるのが見えた。思春は微かに舌打ちをすると、小さく礼をして足早に去っていく。何か言いたいことがあったのではないのか。一刀は思春の背に伸ばしかけた手を、決まりが悪そうに引っ込めた。とてとてと近くまでやってきた雛里は、一刀と去っていく思春を見比べ、やはり決まりが悪そうな顔をする。

「……お邪魔でしたか?」
「いや、雛里が気にすることじゃないよ。それより、どうした? 何か良いことでもあったのか?」
「どうして解ったんですか?」
「顔に書いてあるぞ」

 嬉しくて仕方がないという顔で駆けてくれば誰だって想像はつく。何でもないことのように指摘すると、雛里は両頬を押さえた。あわー、と真っ赤になっている、見た目相応な雛里を見るのも、随分久しぶりな気がした。

「それで、どんな良いことがあったんだ?
「はい。実は、一刀さんに紹介したい娘がいるんです」

 持って回った言い方であるが、それが誰なのかを閃けないほど、一刀も愚鈍ではなかった。嬉しそうな雛里、このタイミング。考えられるのは一人しかいない。

 だが、その答えを口にすることはなかった。言いたくて仕方がないという雛里の顔を見れば、男は誰だってそうするだろう。

 と考えて、こんな雛里の期待をぶち壊すのも、それはそれで面白いかという人間の腐った考えが首を擡げたが、にこにこと嬉しそうに笑う雛里を見ていたら、そんなことはどうでも良くなった。余計なことを言わず雛里の言葉を待っていると、彼女は嬉しそうに言った。

「朱里ちゃんなんですけど、あの、引き入れてもよろしいでしょうか」
「是非もないよ。諸葛亮殿なら、願ったり叶ったりだ。できるだけ高い地位を用意したいけど……まぁ、その辺りは稟たちと詰めよう。稟にはもう話は通したのかな?」
「いえ、これを知ってるのは私と灯里先輩と静里ちゃんだけです」
「卒業生だけで話してた訳か。引き入れるなら早い方が良いだろう。もたもたして孫呉に持っていかれても嫌だしな」

 諸葛亮の軍師としての価値は世間に知れ渡っている。中でも周瑜は一緒に帝室と交渉に当たり、彼女の能力を良く知っていた。間の悪いことに周瑜は何日は并州に滞在することになっている。その時諸葛亮がフリーだったら、周瑜は何としても孫呉に彼女を引き入れようとするだろう。良くないことがあったばかりだ。親友である雛里がいるところに気持ちが傾いていても、交渉事には流れとか勢いというものがある。周瑜ほどの軍師であれば諸葛亮の退路を塞ぐくらい訳ないだろう。

 能力が傑出していても、諸葛亮は少女一人。孫呉という勢力を背負った周瑜が強く迫れば、断ることは難しい。話を纏めるなら早い方が良いのは言うまでもないことだった。

「俺も行くけど、稟にもついてきてもらおう。何かプレゼントでも用意したいところだな。諸葛亮殿は、何か好きなものとかあるのか?」
「好きなもの……ですか?」
「ああ。できれば一番好きなものを教えてくれると嬉しい」

 プレゼントは仲良くなるための基本だ。これから世話になることを考えればしておいて損はない。打算を抜きにしても、諸葛亮は雛里の親友で灯里や静里の同門である。一刀としては何としても仲良くなっておきたいところなのだが、一刀の質問に対して雛里は極めて不審な行動をした。

 ざざっと一刀から距離を取り、顔を真っ赤にしている。その行動だけを他人が見たら、卑猥な言葉を聞かせたとか破廉恥な行為をしたとか、誤解を受けることこの上ない。そういう時に立場が弱くなる宿命の男性である一刀は雛里の行動に内心で慌てたが、雛里のテンパり具合はそれ以上だった。

「い、一番好きなものでしょうか!?」
「いやこうなったらもう二番目でも三番目でも良いんだけど……」

 気にはなったが、これだけの反応をされると突っ込んで聞くことも憚られた。そも、諸葛亮が喜んでくれるのならば一刀にとっては一番目に拘る必要はないのだ。一刀がこれ以上聞いてこないと理解した雛里は、安堵の溜息を漏らした。

「そうですね……髪飾りとか良いんじゃないでしょうか。学院にいた頃、帽子に一つだけ付けることが流行ったことがありまして」
「そうか。じゃあ、時間が取れたら誘ってみようかな。俺一人だと警戒されるだろうから、その時は雛里もついてきてくれると凄い助かる」
「それは構わないですが、朱里ちゃんだけの方が良くありませんか?」

 むしろそれが当然と言わんばかりの雛里の口調である。自分を基準に考えてくれているのだろうが、普通は良く知らない男性と二人きりになることを、女性は警戒するものである。軍師ではなく少女としての感性が覗いた瞬間だった。

「ついでと言っては何だけど、雛里にも日頃の感謝をしたいんだ。飾りが学院にいた時の流行なら、雛里にだってそれは当てはまるだろう。プレゼントするよ。その時は何でも好きなものを選んでくれ」

 一刀の言葉に、雛里は胸に手を当てて目を閉じた。言葉を噛み締めるような間の後、目を開いた雛里は花が咲くような笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。嬉しいです」

 その笑みに、一刀は心の底から誘って良かったと思った。





















 孫呉使節団を迎えた宴席。州都の有力者も招いて行われたそれは、中々盛況な宴となった。中でも忙しく応対しているのは周瑜である。孫呉の重鎮であり方針の決定には大きな権限を持つ女性である。繋がりを作っておいて損はないと、役人から商人から代わる代わる周瑜に話かけていた。かれこれ一時間はそんな調子が続いているが、周瑜は嫌な顔一つせずに、それに応対している。

 繋がりを作っておきたいのは、周瑜とて同じだろう。面倒くさいことでも、国家のため、主のための思えば耐えることができる。彼女は笑顔でそれに応対し、着々と繋がりを作っている。并州牧としては複雑な気分であるが、同盟相手の力が増すことは一刀にとっても悪いことではない。それに対応の仕方などは経験の浅い一刀にとって学ぶべきところが沢山あった。

「やっほー、一刀」

 周瑜を一人で観察していると、話しかけてくる幼い声。使節団の代表である孫尚香だった。着飾った孫尚香の周囲に人の姿はなく、一人である。その視線に気付いた孫尚香は快活に笑った。

「皆冥琳の方が好きみたい。隣良い?」
「喜んで」

 一度立って席を勧めると、孫尚香は静かに腰を下ろした。天真爛漫な笑顔を浮かべる割に、一つ一つの行動には品が感じられる。そういう作法が肌にあっていないのは見ていれば解るが、それとは別に行動が体に染み付いているのだろう。姫として生まれ、育ってきた孫尚香の一面を見たような気がした。

「一刀は飲まないの?」
「酒にはあまり強くないようでしてね。静かにやることにしています」

 訳も解らずにこの世界にやってきて、三年以上の月日が流れている。来た当初は未成年だった北郷一刀も、大人と呼べる年齢になった。当然、酒も飲めるし飲むべき機会にも恵まれていたが、好んで飲む気にはどうしてもなれなかったのである。

 ちなみに、この世界の法律では特に飲酒に関する年齢制限というものは存在しない。孫尚香の杯にも酒が一杯に注がれている。一刀のなよっとした反応を見て、孫尚香は見せ付けるようにして、杯の中身を呷った。匂いからして大分強い酒のはずだが、孫尚香はけろっとした顔をしている。そう言えば孫策も酒には強く、酒を愛していた。血筋なのかもな、と苦笑を浮かべる一刀に、孫尚香は杯を差し出した。

 一刀は苦笑を浮かべたまま、その杯に酒を注ぐ。孫尚香はそれを、一気に飲み干した。

「お酒の味が大分違うのね」
「製法はともかくとして、内陸と沿岸では好みが異なるのでしょう。どちらがより素晴らしいというのは個人の判断に寄るべきところですが、地方によって異なるものができるというのは、面白いことですね」
「その方が色々なお酒が楽しめるものね」

 笑顔の孫尚香の杯に、一刀は更に酒を注ぐ。杯に口をつけたまま、孫尚香は後ろ手に持っていたものを差し出した。

「一刀と一緒に飲みなさいってお姉ちゃんに渡されたの」
「孫策殿から……」

 ということは、中身は酒だろうか。どうせ贈ってくれるなら海産物の方が良かったと、個人的な愚痴を内心で言っている一刀を他所に、孫尚香は一人で封を切り、一刀の杯にそれを注いだ。芳醇な香りが一刀の鼻を突く。酒を特に愛していない一刀にも一目、いや、一嗅ぎでそれが名品であると知れた。ちょうど半分を注ぎ終えた孫尚香は、残りを自分の杯に注ぐ。

「味わって飲んでよね。これを持っていくっていったら、祭なんか泣いて悔しがったんだから」
「それほどの名品なのですか?」
「大事な約束をする時に飲む、孫家伝来のお酒なの」

 そんなものを自分が飲んでも良いのかと疑問に思ったが、当の孫家の人間である孫尚香は座った目つきで一刀を見ていた。『まさか断りはすまいな』とその目が力強く語っている。飲まない、という選択肢はなさそうだった。

「謹んで飲ませていただきます」
「良い子。それじゃあ」

 杯を鳴らし、二人で一気に飲み干した。瞬間、一刀の脳がくらくらと揺れ、体中の血が熱くなった。強い酒だ。それ以上に、美味い酒である。どうしようもなく強い酒なのに、また飲んでみたいと思わせる力があった。杯を傾け、まだ残っていないかと貧乏くさい真似をする一刀を、孫尚香がくすくすと笑う。孫尚香は元の器を逆さにし、僅かに残っていた分を一刀の杯に注いだ。

「お近づきの印に」
「ありがとうございます」

 軽く頭を下げ、今度も一気に飲み干す。

 やはり、美味い酒だった。軽く酩酊した頭で、孫尚香を見る。何が楽しいのか、彼女はにこにこと笑っていた。

「私が冥琳と一緒に来た理由が解ってるよね?」
「孫策殿は、この同盟に随分と乗り気なようですね」

 そうでなければ実の妹を送り込んではこないだろう。曹操の戦が前提となった同盟だけに、并州の地は安全とは言えない場所だ。最終的に孫尚香だけ連れ出す算段くらいはあるのかもしれないが、それにしたって命を失う危険は十分にある。孫策ならばそういう分の悪い賭けも平然と行いそうではあるが、それに乗っかっている孫尚香も中々のものだった。命の危険のある場所で平然と微笑む彼女は、自分の役割というものを良く理解していた。

「私は結構一刀のこといいなー、とは思ってるよ」
「それは光栄なことですね」
「反応が悪ーい」
「女性と付き合った経験のない男の反応は、そんなものではないでしょうか」
「……ないの?」

 心底意外、という顔で孫尚香が問うてくる。そんなに意外なことだったろうか、と思いながら空になっていた孫尚香の杯に并州の酒を注いだ。嘘は言っていない。少なくとも男女交際という意味で付き合ったことは一度もない。周囲に女性ばかりの環境は確かに経験値を積むには最適だったが、今のところ決定的なことになっていないのは事実だった。

「じゃあ、私が一番乗りだね」
「そうなりますね。でも、俺は経験不足なのでお手柔らかにお願いします。お友達からということでいかがですか?」
「友達?」
「俺達はお互いのことを何も知りません。それでいきなり深い関係になるというのも、無理だと思うのですよ。だから、まずはお互いを知るところから始めませんか?」
「一刀、不思議なこと言うね。孫呉には絶対いないよ、一刀みたいなの」
「特殊な考えをしてるとは、良く言われますね」

 お友達から、というのは交際を申し込まれた時、それを断るための常套句であるが、この時代にそういう感性は適用されないらしい。元より、お互いを知るところから始めたいというのは一刀の本心であり、それは孫尚香も同様のようだった。

 一刀の言葉をしばらく噛み締めた孫尚香は、やがてにっこり微笑むと、

「うん。じゃ、友達から始めようか。だから敬語とかやめてね? お互い立場はあるけど、対等ってことでどうかな?」
「ありがとう。孫尚香が話の解る奴で良かった」
「お姉さまの妹だもん」

 説得力のある言葉に、一刀は苦笑を浮かべる。友情を記念して、と杯にどばどばと酒を注ぐ孫尚香に内心で辟易としていると、血相を変えて部屋に飛び込んできた人間が見えた。記憶が確かならば静里の部下のはずである。当然のように彼に視線を向けている静里に、彼は手振りで事情を伝えると気付かれないように退出していった。

「閣下、よろしいでしょうか」

 渋面を作った静里には、中々の威圧感がある。自分の時間を邪魔された孫尚香が不満そうな顔を浮かべるが、静里の様子から重大なことが起こったことは察せられたようだ。席を外そうかと視線で問うてくる彼女に『ここにいて良い』と返しながら、静里に先を促した。

 静里はその場に孫尚香が残ることが不満なようだったが、同盟相手の代表である彼女を無碍にすることもできない。深呼吸をした静里が告げたのは、誰もが予想していたことだった。

「劉備が曹操に負けました。生死は不明。曹操軍には西進の準備があるようです」










 次回、ようやく劉備軍と曹操軍のパート。桃香さん、愛紗、鈴々の進退が明らかに。



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三十六話 劉備奔走編①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:53a6c9be
Date: 2014/12/24 05:01
 机上に視線を落とした華琳は、瞑目した。

 脳内には机上に展開された徐州での戦況が再現されている。戦況は曹操軍有利に運んでいた。何かの大番狂わせがない限り、こちらの勝利は揺るがないだろう。

 万に一つの打ち漏らしがあってはならない。基本に従い、しかし神速でもって兵を運用した華琳は、世の多くの武将が驚くほどの速度で徐州の七割を制圧した。

 その期間、戦端が開かれてから僅かに二ヶ月である。準備に思わぬ時間を費やしたが、それを補って余りあるほどの制圧速度に、華琳は大いに満足していた。

 筆頭軍師たる桂花の働きもさることながら、敵の軍師である諸葛亮を排除できたのが何よりも大きい。彼女を欠いた劉備軍に大局を見据える目を持った人間はもういない。劉備や関羽にも軍師の真似事はできるようだが、所詮は真似事だ。諸葛亮のよ うな本物の軍師に適うはずもない。

 常に受身である劉備軍に対し、曹操軍は入念な準備と根回しの上で戦うことができる。元より兵力に差のあった両軍であるが、そこから更に差ができたとなれば、劉備軍に勝てる道理はない。

 負けはもはや必定。それは劉備軍の人間ですら理解しているだろう。それでもまだ降伏せずに戦いを続けていることは、華琳をしても驚嘆に値した。

 徐州を制圧するに当たり、曹操軍が行ったのはまず懐柔工作だった。徐州中央にこそ劉備の思想は浸透しているが、裏を返せば浸透しているのはそこだけと言える。元から徐州にいた豪族他有力者の中には、劉備のことを快く思わない人間も大勢いた。

 電光石火の勢いで徐州に攻め込み都市の一つ二つを陥落させた後、彼らには『大声をあげて』曹操軍に投降してもらった。華琳が声をかけたのはその連中だけであるが、権力者というのは趨勢に敏感である。都市が攻め落とされたという事実と、徐州の有力者が早くも曹操軍についたという事実。その二つは彼らの心に重くのしかかり、時間が経つにつれてより重くなっていった。

 今迎合しなければ、やられる。

 彼らがそれを理解するのに時間はかからなかった。元より、劉備に忠義する義理のない彼らである。上に立つ人間にも注文はあるだろうが、そこに拘って身の破滅を招き入れることは断じてない。乗るのなら勝ち馬に乗りたい。そう考えた有力者達は、負けた劉備よりも勝った曹操を選んだ。

 曹操軍には小さな勝利を挙げるにつれて、我先にと有力者たちが参陣してくる。彼らの兵力をアテにするのは危険であるため劉備軍攻略のための頭数には入っていないが、劉備軍の包囲を作る形で敵が存在するという事実は、劉備軍を追い込むのに非常に役立った。

 そうして華琳は、後背の心配をあまりせずに軍を展開した。侵攻軍は大きく三軍に分かれていた。華琳が直接指揮をする中央軍、春蘭が指揮をする右軍と、秋蘭が指揮する左軍である。

 目的は、完膚なきまでに劉備軍を叩き潰すことである。降伏する兵は受け入れ、劉備に味方するものだけを徐々に追い込んで行く。それを迅速に繰り返すことで、華琳は七割の領土を得た。徐州兵の多くも曹操軍に下っている。

 汜水関では活躍した劉備軍であるが、あの時の彼女らは公孫賛軍に間借りしていたに過ぎない。その時の兵の多くは劉備に従って徐州に移ったと聞いているが、徐州兵全体で見れば彼らは少数派だった。兵の質は悪くないが、それでも曹操軍に比べれば大きく劣る。

 勝てる戦で大切な兵を減らしたくはない。正直なところを言えば劉備軍攻略のためには降兵を使いたいところではあったが、民からすれば侵略したのは自分達の方だ。戦には大義名分というものがあり、将には示さなければならない度量がある。

 降った兵を使い潰したとなれば、人心は離れるだろう。多少苦しくとも、元々の曹操軍の兵だけで事を運ばなければならない。

 相手が普通の将であれば、例えば麗羽などであれば降兵も躊躇わずに投入しただろう。

 しかし、相手は『あの』劉備である。民の心を掴むことについては、当代でも最高の才能を持つ理想主義者だ。思想が浸透するには時間がかかるが、劉備の思想に感化した人間は驚くほどの粘りを見せる。反面、平民に受けのよいその思想は富裕層など権力者には受けが良くない。七割を失ったのは、そういう権力者を味方に引き込むことができなかったからだが、三割を残したのは思想が浸透した結果でもある。

 予想を上回る抵抗だが、それでも曹操軍の勝利は揺るがないだろう。劉備の勢力圏は段々と減っている。結束が固いと思われていた面々の中にも、既に綻びが出始めていた。潜り込ませた草の地道な活動の成果だ。諸葛亮が去ったことでこういう工作もしやすくなっている。思想のために命を投げ出す。そういう覚悟を固められる人間は少なく、またよほどの強い決意でもない限り、それは長続きしない。

 戦況が傾けば傾くほど、彼らの心は揺れるのだ。味方が離れたという事実は劉備軍の中に浸透し、さらに大きな瓦解を招くことになる。何もしなくても、後一月もあれば初期戦力の一割は削れるだろう。平行して戦いを進めることができれば、より多くの土地を削ることもできる。

 七割を失った現状でも大敗だ。盟友である公孫賛は麗羽の相手で忙しく、救援のアテはない。それでも降伏しないのは、思想に殉じる覚悟があるのか、単に決断ができないだけか。

 後者だとしたら軽蔑を禁じえないが、同時に不憫であると思う。平時であれば彼女は良い指導者となったことだろう。劉備の思想は多くの人間に余裕がある状況で、初めて十全に機能するもの。良い悪いは別にして、戦乱の世の中であの思想が過半数の人間に支持されることはない。劉備の間違いはそういう思想に目覚めたことではなく、状況を考えずにその思想を押し通そうとしたことだ。

 半端な才能しか持ち得ないのであれば軌道に乗ることはなかっただろうが、劉備は人を主導するということについて文句なく天才だった。関羽と張飛という武人を最初に引き込むことができたのも大きい。そのまま飛躍を続ければ、大きな勢力となることができただろう。

 彼女の敗因は、土台が固まる前に諸葛亮を追放したことだ。

 浸透の難しい思想を掲げている以上、それが浸透しきるまでの舵取りは非常に重要である。劉備一人でそれができないのだから、軍師である諸葛亮は何があっても手放してはならなかった。

 軍師不在のこの状況。戦線が大きく押し込まれた今を劉備軍が覆すとしたら、手段はもう一つしかない。

「敵襲!」

 やはり、という気持ちで華琳は幕舎を飛び出した。手には絶が握られている。幕舎の周りには既に兵が展開していた。『敵襲』の声が聞こえて来た方を見れば、土煙が上がっている。相当な勢いの騎馬が数百単位で突っ込んできている証拠だ。その量を見るに、千はいるかもしれない。万を越える兵を相手にするには少ない数だが、奇襲部隊が精鋭と考えればその数にも納得できる。

 既に陣の深くにまで切り込んでいることから陽動という可能性も低いが、別働隊については警戒しなければならないだろう。華琳は周囲の警戒を怠らないように指示を伝え、伝令を走らせた。土煙は勢いを減じていない。兵も奮戦はしてるが襲撃者の方が上手のようだ。同道している兵は決して弱兵ではないが、侵略の主力である春蘭や秋蘭の兵団と比べると、聊か質に劣る面があった。

 それでも劉備軍と当たるには十分と判断した上での采配だったが、この被害を見るにそれも誤りだったと認めざるを得ない。

「華琳さま」
「流琉。皆が貴女ほどに強ければ、戦はもっと楽に進むかもしれないわね」

 やってきた流琉に冗談を漏らすと、流琉は反応に困って眉根を寄せた。強いと褒められたことは嬉しいが、相手が皆自分と同じくらいになる、という状況が想像できないのだろう。意地悪が過ぎたか、と華琳も内心で反省する。確かに皆が流琉ほど強ければ楽だろうが、それでは面白くないし、自分の兵だけが強くなるという都合の良いことがあるはずがなかった。全ての兵が一斉に強くなるなら今と状況は変わらないどころか、それだけ被害も大きくなるというのは想像に難くない。

 襲撃者はまっすぐこちらを目指している。戦の最中、本隊の兵を突破して大将の首を狙うとは大した自信であるが、精兵を集めて決死隊を組めば到達するだけならば可能だろう。首を取れるかは別の問題であるが、決死隊の中に一騎当千の猛者がいればそれにも目が出てくる。

 劉備軍にそれを可能とするだけの猛者は、二人しかいない。関羽と張飛。この内、こんな強攻策に出てくる可能性があるのは『美髪公』と名高い関雲長その人だろう。あそこに関羽がいる。そう思うと華琳の心も躍った。『狙い通り』に彼女はやってきてくれたのだ。これを喜ばずにいられるだろうか。

「無闇に当たらず、包囲することを第一になさい。勢いは私のところで受け止めるから、それを基点に包囲をすること」

 伝令を更に飛ばし、自ら指揮するために部隊を整える。指示さえあれば、曹操軍の兵は迅速だった。普段の訓練の賜物である。瞬く間に自分の指示通りに展開した兵を頼もしく思いながら、土煙を見る。関の旗が揚がっているのが見えた。劉の旗は見えない。これは関雲長が勝手にやっていることと、対外的にはそれで納得させるのだろう。

 少数の決死隊による突撃など、これしかないという状況になっても劉備が認めるはずもない。成功しても失敗しても、この襲撃を企画した人間は責を問われることになるだろう。そこまでして主に尽くすとは見事なものである。関羽くらいの聡明さがあれば、この襲撃にしてもそれほど成功率が高くないことは理解できるだろう。戦死する可能性だって極めて高い。決死隊なのだから当然であるが、問題はそれに同道してる兵がかなりいることだ。

 決死隊の勢いを見ても、彼らが納得して関羽に同道しているのがよく解る。兵との信頼関係は本物だ。曹操軍の本隊にこれだけ食い込んだ時点で、その錬度の高さも伺える。信念の元に行動する精兵ほど、厄介なものはない。兵だけで突撃を受け止められるならばそれに越したことはないが、彼らはここまで到達するだろうと華琳は直感した。絶を握る手にも、力が篭る。忙しい中でも鍛錬を怠ったことはないが、実戦は久しぶりだ。

 それも相手は、あの関羽である。一騎当千、当代でも最強の武人を前に、華琳の心は震えた。それなりに武を修めたものとして、強敵と見えたいと思う気持ちが半分。もう半分は、単純に強敵と戦わなければならないという本能的な恐怖と、それに伴う興奮だった。

 土煙が近づくにつれ、興奮が高まってく。それと同時に、華琳の思考は驚くほどに冴えていった。敵の規模、目的、これを撃退してからの対処の仕方。行く通りもの方法が浮かんでは、消えていく。戦況を少しでも有利に、その計算は凄まじい速さで行われていく。

 先頭を走る関羽の姿が見えた。兵の返り血を浴び、赤く染まってはいるが二つ名の象徴である長い黒髪は聊かも美しさを損なってはいなかった。関羽の視線が、まっすぐにこちらを捉える。間に兵、そしてかなりの距離があるにも関わらず、その殺気は確かに華琳を射抜いた。

「曹操!」

 関羽の怒号が耳に届く。その声に、襲撃者達の勢いも増した。曹操軍の兵が紙の様に蹴散らされ、襲撃者達との距離が詰まっていく。槍や戟を並べても、矢を射掛けても、その勢いが減じることはない。この戦、この襲撃に全てをかけている兵の勢いは、やはり凄まじかった。

 ついに、襲撃部隊が接触した。大将を守る精兵中の精兵部隊である。流石に紙のように蹴散らされはしなかったが、それでも勢いを完全に殺すには至らなかった。少しずつ、少しずつこちらに切り込んでくる。先頭にいる関羽の顔はもうはっきりと見えた。怒りとも何ともつかない激情にかられた顔は、まっすぐにこちらを見据えている。ここまでくると、殺気を全身で感じることができた。あの武人の頭の中には今、曹操の首を取ることしかない。

 あの才媛の心を占めているのが自分一人だと思うと、華琳の心は更に高揚した。関羽を喜ばせることができるのなら、ここで討たれるのも良いかというバカな考えが頭をよぎるが、相手が誰であろうと自分の覇道を諦める理由はなかった。既に命を懸け、奮戦した。その関羽に最大の敬意を持ちながら、華琳は命令を飛ばす。

「やりなさい!」

 華琳の号令に、作戦の開始を告げる旗が上がる。

 その瞬間、兵は一斉に動いた。襲撃者を受け止めている最前列の兵を残して、一斉に引いたのである。予想外の動きに、襲撃部隊の動きが僅かに弱まる。その襲撃部隊の横っ面に、衝撃が叩き込まれた。気弾。気を練る人間が得意とする、飛び道具だ。思わぬ反撃に、襲撃部隊の足が完全に止まった。それを見計らったかのように、兵の中から幾人かが飛び出す。

「ようやく私の出番か!」

 真っ先に飛び出し、襲撃部隊の先頭にいた関羽に斬りかかったのは、黒髪隻眼の女丈夫である。魏武の大剣と名高い武人の姿を見て、関羽が声をあげた。

「お前は夏侯惇。何故ここに」
「華琳さまのご慧眼により参上した。貴様の進撃もここまでと知れ」

 春蘭の名乗りに、関羽は武でもって応えた。春蘭も応戦するが、馬上の関羽に対し、春蘭は徒歩である。状況の不利は否めないが、春蘭はそれを気にしたそぶりもなく、関羽の攻撃を捌いていく。まだまだ余裕のある春蘭に対し、有利な状況にあるはずの関羽には焦りが見えた。襲撃部隊の中核である自分が足を止めれば、それだけ作戦の成功率が下がる。敵の本陣のど真ん中で足を止めるのは、それだけ自殺行為なのだ。何とか突破しなければならないが、夏侯惇とて稀代の武人。軽々と突破することはできない。

 それに苦境に陥っているのは他の襲撃者も同じだった。気弾の放たれた方角から飛び出してきたのは、三人の兵である。その先頭を行く銀髪の武将は武器を持たず、拳でもって騎馬の一団に襲い掛かった。完全武装の騎馬兵が、少女の拳一つで吹き飛ばされていく。武器で防御しようとしても関係ない。気の十分に乗った彼女の拳や蹴りは、それだけで十二分な凶器となっていた。

 一撃で確実に殺しきる凪の手並みに、幼馴染である二人が続く。沙和に、真桜。凪と共に将軍に出世した若手の筆頭だ。春蘭には及ばないものの、兵の調練、武の腕前をとっても曹操軍の中では抜きん出ている。襲撃部隊とて精兵だろうが、それでも凪たちには及ぶまい。全員が流琉ほど強くないから、今の戦が成立しているのだ。

 逆に言えば、ある程度強い個人を投入すれば、それだけで軍団に対応できるということでもある。強者に対応を丸投げすることで危険度は増すが、兵の被害は十分に抑えられる。春蘭たちが攻撃をしかけたことで、包囲をしていた部隊は体制を整えつつあった。その外に居た部隊も、さらにその外を囲んでいる。

 より大きな範囲で、包囲は完成した。成功しても失敗しても、襲撃部隊はこの兵をまた突破しなければならない。自分達が包囲されたことは、襲撃部隊にもわかったことだろう。元より死を覚悟していた部隊だろうが、死がより現実的に目の前に突きつけられると、流石に士気に影響する。加えて頼みである関羽は猛将夏侯惇に足止めをされている。勝ちの目は見えない。それでも、と彼らは声を挙げて自分たちを鼓舞するが、時間が経つにつれて状況は悪くなっていった。

 凪たちの反対側にいた兵が、強引に包囲を突破しようとする。その先頭を走っていた兵に突然矢が突き立った。ぐらり、と兵の身体が力を失い、倒れるよりも早く。その周囲にいた兵たちに次々と矢が撃ち込まれていく。完全武装していても、露出していなければならない、あるいは防御を薄くしなけれなならない箇所はある。

 その筆頭が目だ。矢は狙い違わず襲撃部隊の兵の目を射抜き、一矢で一人確実に殺していく。

 射掛けているのは、秋蘭だ。華琳の使っていた幕舎の更に奥。そこに据えられた櫓の上からの狙撃である。大の男が十人がかりでも引けない強弓を軽々と扱いながら、天下四弓に数えられる弓の名手は、事もなげに狙撃を続ける。

 反対側の兵も足を止めた。そこに突っかけたのは、流琉と季衣である。

 幼い容姿にそぐわない強力でならす少女らは、その腕力に物を言わせて兵団に突撃した。力任せに振るわれる武器が、馬ごと兵たちをなぎ倒していく。それを成すのが少女というのが、兵達の恐怖を更に煽った。足を止めていれば――いや、止めていなくても、矢が飛んできて仲間が殺される。反撃しようにも目の前には逆立ちしても勝てない強敵がおり、逃げるには兵達が邪魔をしている。

 死を覚悟していたはずだった。士気も高かった。それでも、どうにもならない現実を前にして兵達は恐慌状態に陥った。

 これでは、実力を発揮できるはずもない。統制を失った襲撃部隊の兵達を、曹操軍の幹部達は一人一人確実に討っていく。囲んだ兵からは投降を呼びかける声をかけさせた。それに乗ってくれればという軽いものだったが、乗れば助かるという事実が脳裏を掠めると、兵の動きは格段に悪くなった。降伏するか否か。その逡巡をしている間に、兵の数は減っていく。

 関羽と本隊が接触して、十分も立つ頃には、千を越えていた襲撃部隊は百を割り込んでいた。

 生き残っている百も、関羽を除いて満身創痍の状態である。馬に乗っている者はおらず、全員地に足をつけていた。もはや攻撃する気力もない。武器を杖にしながらその場に留まり、殺されるのを待っている状態である。

 対して凪など、攻撃をしかけた幹部達は全員が無事だった。沙和が僅かに怪我をしていたが、それだけである。一騎当千の腕を持ちながらも、彼女らは協力して事に当たった。その違いが、襲撃部隊との明暗を分けたのだ。

 彼女らの視線は既に敵兵ではなく、味方である春蘭とそれを戦う関羽に注がれていた。

 関羽の青龍偃月刀を、春蘭の七星餓狼が受け止める。春蘭からは攻撃していない。関羽の攻撃を、春蘭が受け止める。その展開がずっと続いていた。馬を失ったとは言え、関羽の攻撃には凄まじい勢いがある。呂布という規格外の存在がいるとは言え、当代最強の武人の一人だ。どんな状況であれ、その攻撃が軽いものであるはずがない。では、受け一方の春蘭が防戦一方であるかと言えば、そうではない。

 春蘭の顔には余裕の笑みが浮かんでいる一方で、関羽の顔には焦りが浮かんでいた。全く手は抜いていないのだろう。無論、殺すつもりで斬りかかっているに違いない。追い詰められたこの状況で、関羽が手を抜く理由は何一つない。顔の焦りがその証拠だ。

 実力は、本来ならば拮抗しているはずだ。春蘭の武については華琳は良く知っているが、関羽のそれについても知っている。連合軍で共に戦っていた時、兵の調練をする関羽の姿を見た。これこそ武人、という堂々とした立ち振る舞いは、春蘭にも決して引けを取るものではなかった。

 それが今、春蘭に遊ばれている。関羽の全力が、春蘭に軽くいなされている。実力に開きが生まれた訳ではない。関羽が、弱くなったのだ。

 その事実は、刃を交えている当人達が一番理解していた。故に関羽の顔には焦りが生まれ、春蘭の顔には余裕が浮かんでいるのである。

「美髪公よ、降伏してはどうだ。我が主、華琳様は貴様を無碍にはしないだろう」
「私はまだ、負けていないぞ盲夏候!」
「侮辱は聞き流してやろう。私は今、機嫌が良いのだ」

 がぎん、と大きな音がして、関羽が弾き飛ばされる。勝負に間が空いた。今まで打ち込み続けていた疲れが、どっと出る。攻めていた関羽と、守っていた夏侯惇。疲労は関羽の方が上だった。汗が湯気となって立ち上り、呼吸は千々に乱れている。見る人間が見れば解るものだった劣勢が、誰の目にも明らかになった。その事実が関羽を更に追い詰める。青龍偃月刀に力を込めるが、それが持ち上がらない。関羽を象徴する大業物であるだけけに、それは非常に重い武器である。万全の関羽ならばそれを軽々と扱えるのだろうが、同じだけの力量を持つ春蘭との戦いは、関羽を激しく消耗させていた。

 もはや、戦うことはできまい。劉備のためという気力だけが関羽の意識を繋ぎとめていた。ただ立っているだけの関羽を前に、春蘭は七星餓狼を地面に突き立てた。無手で関羽に歩み寄っていく。関羽が息を吹き返したら。そう考えた曹操軍の兵からどよめきが起こるが、春蘭はそんなことは気にも留めずに関羽に歩み寄った。

「貴様が私に何故勝てないか、教えてやろうか」

 関羽は春蘭を睨み返すばかりだった。否定も肯定もしない関羽を、春蘭は満足そうに眺めている。

「それは、貴様らが足りないからだ。私や貴様は、剣を振るう腕であり、大地を駆ける足だ。国家にとって我々は武の象徴であり、戦には必須の部位である。だが、身体というものは腕と足だけでは立ち行かないだろう。頭があり、血が流れ、臓腑が機能し、そして魂がある。全てが揃っていて、我々はまともに機能するのだ。だが、お前たちは頭を欠いた。そして今、魂が薄れている。腕と足だけの貴様が、頭も魂も伴った私に勝てるはずもない。私と貴様の差は、我々以外の所にあるのだ」
「黙れ!」

 渾身の力を込めて、関羽が拳を振るう。どこにそんな力が残っていたのかと目を疑うほどの、神速の一撃。常人の目には留まらぬ速さのそれを、しかし、春蘭はこともなげに受け止めた。

「もはや、問答は必要ないな」

 拳を雑に払い、腰を落とす。関羽の拳が神速ならば、春蘭の拳は閃光だった。誰にも目にも留まらぬ拳が関羽の顔面に炸裂すると、関羽はその場に崩れ落ちた。大将が負けた。その事実が生き残っていた襲撃部隊の面々の心をも砕いた。ばたばたと倒れ伏す敵兵を拘束するように命じると、春蘭は踵を返し、華琳の前に跪いた。

「ご命令、完遂しました」
「ご苦労さま。難しい仕事を良くこなしてくれたわ」
「秋蘭たちの協力があればこそです。それに、この作戦を考えた、桂花の功績も」
「貴女が桂花を褒めるなんて、珍しいわね」
「奴が行軍の計画を立てなければ、私達は秘密裏に移動することはできなかったでしょう。軍人である我々から見ても、奴の運用計画には隙がありませんでした」

 その桂花は今、春蘭たちが抜けた穴を埋めるために本隊を離れている。武人でない彼女には護衛もついているが、追い詰められた敵は何をするか解らない。命の危険が増す作戦を実行することに、しかし、桂花が躊躇うことはなかった。兵が命をかけているのに、自分がかけないのは筋が通らない。軍師が戦場で命をかけなければいけない道理はないが、意地っ張りな彼女はとにかく見栄を張ろうとする。

 最高の頭脳を持っている癖に、時折見せる子供のようなところが、何だか可愛らしい。実際に自分を守ってくれたのは春蘭を始めとした武人であるが、関羽を生け捕りにしたいという難しい願いを叶えるために知恵を絞ったのは、桂花だ。

 誰が一番と決めるのは難しいが、桂花が功労者であることは疑いようがない。この働きには応えなければならないだろう。既に筆頭軍師である桂花にあげられるものは少ないが、戦が終わったらとにかく褒美を与えなければならない。

「関羽の処遇はどうしたものかしら」
「監視をつけて、拘束しましょう。音に聞こえた美髪公です。それでも不安は残りますが、逃がしてしまうよりはずっと良い」
「これでこの戦も終わるわね。諸葛亮がいないのに、随分と手間取らせてくれたこと」

 州都から離れた面々が離反するのは早かったが、関羽や張飛の武者働きは凄まじいものがあった。数の劣勢を個人の武で補っていた訳だが、戦とは一人二人でやるものではない。気力を最初から最後まで維持できるのも、ほんの一握りだ。無理に動かした身体はたちまち疲弊し、今まさに力尽きようとしている。二人いた武の象徴の内、片方が地に落ちた。見えていた敗北が、これで秒読みに入った。

 戦がもうすぐ終わる。それを認識した華琳の目は、既に西を向いていた。

 その先には、次に目指すべき場所がある。異常な速度で出世を遂げた、一人の男がいる。

 名前は確か、北郷一刀と言った。桂花の知己であるというが、細かいことは良く知らない。桂花に聞いても取るに足らない人間だと言うばかりで、情報は何もあがってこない。それならばと自分で調べてみれば、周囲の人間の評判が聞こえるばかりで、北郷本人の実力の程は要として知れなかった。

 では運だけで成り上がった男かと思えば、そうでもない。報告では郭嘉や程昱などは、北郷という男に心酔しているという。兵達の評判も悪くない。特に州都の民は北郷という男をほとんど手放しで支持していた。これには前の州牧が愚物だったということもあるので一概に北郷を良く言うことはできないものの、民のことを考えた治世をしているのは報告を見ているだけでも解る。

 甘いと思うところは多々あるものの、それも優秀な軍師達がつくことで補われていた。民に迎合するだけの人気取りの政治ではなく、きちんと成果を出すことを目標としている。まだまだ結果の出ていないこともあるが、よほど大きな失敗をしない限り、民はそれまで北郷のことを見捨てないだろう。

 加えて、有力者達とも良い関係を作っているようだ。袁紹派の人間だった州牧が排除されたことで、州内の勢力図ががらりと変わっている。今が戦時ということもあって、力を増したのは強い兵を持っている太守だった。丁原と黄忠である。特に丁原は并州でも最強と目される騎馬隊を有している。その実力は涼州の馬一族や、幽州公孫賛の白馬陣と比べても遜色はない。

 その女傑と北郷は浅からぬ関係にある。前の州牧を暗殺するための計画を企てた北郷に、協力したのが丁原ということだが、実際に最初に暗殺の計画を立てたのは丁原であるというのは、少し考えれば解ることだ。出世欲がない人間にとっては、州牧という地位は邪魔でしかない。地位など押し付ければ良いが、適当な人間では後々の禍根になる。そういう意味で、北郷というのはうってつけの人材だったのだろう。本人の能力が傑出していなくても、優秀な軍師が彼の周囲にはおり、その進言を素直に聞き入れるというだけで、治世はある程度上手く行く。

 人間、出世をすると欲が出るものだ。成り上がった人間は特にその傾向があるが、北郷にその影は見えない。軍師達の手綱捌きが上手いのか、それとも本人によほど欲がないのか。調べれば調べるほど、北郷という人間がわからなくなってくる。

 その北郷であるが、元々孫呉の兵として董卓との戦に参加したことが縁で近々孫呉と同盟を結ぶという情報が入った。

 正確には結ばされるという情報である。力関係を考えればそれも無理からぬことであるが、孫呉との同盟というのは華琳にとって願ったり叶ったりだった。北の麗羽を討つのは彼女が疲弊した今となっては容易いことだが、北上している間に横から攻撃されるのも面白くない。ならば麗羽と戦う前哨戦として、北郷軍を相手にするのもまた一興だった。劉備軍には勝てるものとして、既に進軍の準備は進めてある。本拠の警備に回してある兵の中から少しずつ西進させ、勝負もほとんどが決したと判断するや、主力の中からも順次西に送っている。

 多数の草も既に潜入させていた。北郷軍の方でも草を使っているらしく、情報収集は想定していたほど上手くいっていないが、これについてはそれほど期待していない。、あれだけの軍師を従えた男がどんな戦をするのか。華琳はそれが楽しみでならなかった。

 劉備軍との戦ももうすぐ終わる。準備もそろそろ本格的に進めるべきだろう。

「凪」
「ここに」
「貴女は旗下の部隊を率いて西に向かいなさい。既に集合している部隊の編成を貴女に任せるわ。場合によっては一番槍を任せることになると思うけど、やれるわね」
「……ご命令とあらば」

 跪き、拳礼をする凪の言葉には、いつもの歯切れの良さがなかった。凪が北郷と個人的に友誼を結んでいることは、華琳も知っている。他人の友情についてとやかく言うつもりはないが、それを主従の間に持ち込まれるのも困るのだ。華琳の命令は『お前は北郷を討てるか』と聞いているも同義だった。凪は苦悶の表情を浮かべていたが、是と答えた。満足のいく答えではなかったが、華琳は凪の言葉を信じることにした。

 元より、可愛い部下に友人の首を刎ねさせるような悪趣味は華琳にはない。一番槍を任せるとは言ったが、まさか最初に遭遇する部隊の中に、大将がいるということはなかろう。話の展開によっては首を刎ねることもあるかもしれないが、軍師たちの質を考えると、北郷を殺すのは得策ではない。北郷本人はまだ未知数でも、軍師達の頭脳は本物だ。彼女らが手に入るのならば、多少愚物でも目を瞑れる。使えるのならば、それなりの地位を与えても構わない。

「桂花に聞いても埒が明かないから、忌憚のない意見を聞かせてちょうだい。貴女は北郷という人間を、どうみるの?」
「民のために生きられる男です。奴のあの姿勢を、私は友人として誇りに思います」
「能力としてはどう? 武でも知識でも、何でも良いわ」
「洛陽にいたころ、一度手合わせをしたことがあります。筋は悪くありませんが、そこまで見るものはありませんでした。ただ、少数部隊の指揮には目を瞠るものがあります。百人、二百人を率いさせたらかなり優秀な部類に入るでしょう」

 悪くはないが何とも規模の小さい話である。もう良いと、凪を下がらせると華琳は幕舎に戻った。中央の机には地図が広げられている。大陸全土の地図だ。机上の駒は勢力を現している。曹操が蒼、孫呉が赤、麗羽が黄色、公孫賛が白、馬家が緑と各陣営には色が割り振られていた。北郷の色は黒である。余っていた色を使っただけだが、目を引く色の中にあって、黒の沈んだ色合いはやけに目だって見えた。

 前哨戦の舐めてかかると、痛い目に合うかもしれない。攻略するに辺り、もっと話を詰める必要があるだろう。

「前線の桂花に、戻ってくるように伝えて。春蘭たちが自分の部隊に戻ったら、私も西進の準備に入るわ」



























 関雲長、敗れる。

 その報告を受けた鈴々は即座に決断した。蛇矛を抱え廊下を走り、主の部屋に飛び込む。

「鈴々ちゃん、どうしたの――」

 蛇矛を手放した鈴々は、一息で主との距離を詰めた。腹部に一撃。それだけで桃香の意識は刈り取られた。意外に軽い桃香を肩に担ぐと蛇矛を持ち直し、窓から飛び出す。外には馬が用意されていた。引いているのは愛紗の側近だった男である。彼が愛紗の近況を教えてくれたのだ。

 自分が戻らないようなことがあればどうするのか。それは愛紗と前もって相談して決めたことだった。

 何が何でも桃香を生かして連れ出すこと。それが鈴々の最大の使命である。

「曹操軍がきたら降伏するのだ。何があっても、手を出したりはしないように」
「承りました。張飛殿、ご武運をお祈りしております。また、貴女方の旗の下で戦うことを、楽しみにしております」

 拳礼をする側近に鈴々も拳礼を返し、馬を走らせる。曹操軍は迫ってきているが、この州都まではまだ到達していなかった。それでも物見の兵くらいはいるだろうが、それくらいならば桃香という荷物を抱えていても、鈴々一人で突破できる自信があった。問題は逃走のことを考え、手錬を配置していた場合であるが……

 その考えに至り、鈴々は蛇矛の柄を握りしめた。

 もし、愛紗くらいの使い手が追っ手としてやってきたら、鈴々一人で桃香を守る自信はない。欲を言えば百人くらいは腕の立つ護衛が欲しかったところであるが、兵や民を捨てて逃げるのに、ぞろぞろと仲間を連れ歩くのは問題だった。今必要なのは、一刻も早く曹操軍の手の及ばないところに逃げることである。

 ならば何処へ向かえば良いのか。白蓮が袁紹と交戦中の今、頼れそうな人間は一人しかいなかった。

 北郷一刀。

 名前だけは聞いたことがある。最初から兵団を率いていた人間を除けば、董卓軍との戦で最も出世した男だった。県令として并州に配置され、州牧を討つに至ったと聞いている。董卓軍の戦での出世も異例ではあったが、それからの速度に比べれば可愛いものだろう。州牧という立場だけで言えば、既に桃香とも同格なのである。

 彼を頼れというのは、愛紗の指示だった。愛紗も北郷のことは知らないだろうが、彼女なりに情報は集めていたようだ。北郷の周囲には軍師が集まり、州牧になったことで兵力も充実しているという。流石に曹操軍と事を構えるほどではないが、即座に桃香を売り渡しはしないだろうということ。

 そして、元々孫呉軍の兵として戦った北郷は、孫呉とも知らない仲ではない。彼に喧嘩を売ることは、同時に孫呉に攻め入る口実を与えることにもなる。劉備の身柄一つのために孫呉と開戦とは、流石に曹操もいかないはずだ。

 一先ずの安全が買えれば、それで良い。元より鈴々は考えることが得意ではない。戦うこと、桃香を守ること、そして生きること。兵を率いなくてもよくなった鈴々は、物事を全て、大事なことに直結させて考えることにした。

 馬で半日ほどかけた場所で、鈴々は野営の準備を始めた。側近が用意してくれた荷物の中には、食料も入っていた。健啖で鳴らす鈴々には物足りない量だったが、今は非常時だ。勝手に命をかけて飛び出していった愛紗は、もっと辛い思いをしている。そう思うと、空腹にも耐えることができた。

「鈴々ちゃん?」

 野営のための火が赤々と燃え始めた頃、桃香が目を覚ました。寝ぼけ眼で、周囲を見回す。城ではない。兵もいない。民もいない。寒々とした夜の空気が肺に染み渡ると、桃香の意識も一気に覚醒した。同時に、今がどういう状況なのかを理解した彼女は、鈴々に詰め寄った。

「どうして!?」
「お姉ちゃんを生かすことが一番大事だと、愛紗と相談して決めたのだ。ここから曹操に勝つのは、もう鈴々たちだけじゃ無理なのだ」

 だからと言って、大将が逃げて良い道理はない。人柄で人気を取っていた劉備だけに、迫る曹操軍を前に民を見捨てて逃げたとなれば、劉備の評判は地に落ちるだろう。

 しかし、生きてさえいれば道は開ける。鈴々には戦うことしかできないが、桃香にならばそれはできるだろう。逃げたという事実をそのままにしておくことはできない。自分の名誉のためではなく、見捨ててしまった民のために、桃香は戦うことを辞めないはずだ。

 鈴々の言葉に、桃香はその場に膝をついた。文句を言うのは簡単である。このまま戻れと命令するのも容易いことだが、そうしてもどうにもならないことは桃香にも解った。まだ州都にいるのならばともかく、既に逃げてしまった後では、その事実はもう取り消しようがない。

 それに、桃香がいなければ兵たちには戦う理由がない。彼らの安全を考えるならば、桃香が逃げるというのはある意味最善の策と言えた。

 干し肉を差し出すと、桃香は無言でそれを受け取った。そのまま口に運んで、もそもそと咀嚼する。生きようとする意志の感じられる行動に、鈴々が安堵したのもつかの間、周囲に嫌な気配が満ちた。

 干し肉を加えたまま、蛇矛を手に取り立ち上がった。伝わってくる気配から、相手の数と力量を判断する。十人はおらず、腕はそれほどでもない。桃香を守りながらでも何とかなる。そう判断した鈴々は自分から仕掛けることにした。

 鈴々は自分の身長の倍以上の長さを誇る蛇矛を軽々と振るい、茂みの中に突き込んだ。汚い男の断末魔があがる。仲間がやられたことに狼狽する襲撃者を他所に、鈴々は身体ごと大きく踏み込み、蛇矛を振り下ろした。遠心力の加わった蛇矛はその重量で、襲撃者の一人を二つに裂いた。

 一息で二人殺されたことで、襲撃者達は本気になった。茂みから飛び出してくる襲撃者たちに、桃香が悲鳴をあげた。

「お姉ちゃん、伏せているのだ!」

 桃香の腕もそれなりだが、今はそれを振るえる状態にない。こいつらは一人で倒す。心に決めた鈴々は微塵も迷わなかった。

 こちらは多数である。それだけを頼みにした襲撃者たちは一斉に鈴々に襲い掛かってきた。連携は中々。少なくともずぶの素人ではない。手錬とは言い難いが、兵としてはそれなりだろう。

「でも、鈴々の隊には置いておけないのだ!」

 毎日毎日鍛錬に明け暮れた鈴々には、彼らの動きは止まって見えた。蛇矛を手放す。身軽になった鈴々は即座に距離を詰めると男の腹をけりつけた。骨が砕け、臓腑が破れる感触を足の裏に感じながら、姿勢を低くする。地を這うような形で手放したばかりの蛇矛を掴み取ると、足払いをするようにそれを振りぬく。十分な速度の乗った蛇矛は襲撃者の足を払うと同時に、砕いて見せた。悲鳴を上げながら倒れる襲撃者を他所に、鈴々は足を踏ん張る。遠心力の全てを受け止めた足が軋みを挙げるが、それを無視して蛇矛を滑らせる。石突による突きだ。刃はないが、それでも十分な凶器である。襲撃者は剣で受けようとしたが、その勢いは殺せるものではなかった。剣を砕いた石突は、さらに男のみぞおちに突き刺さり、心臓を砕く。血を吐く男には目もくれず、鈴々は次の相手を探した。

 眼前の小柄な少女が強敵だと今更認識した襲撃者は、残り三人。人質として桃香に価値があると目敏く判断した一人が、桃香に駆け寄ろうとする。

「させないのだ!」

 腕を閃かせ、礫を放つ。拾った石は狙いたがわず、男の頭に命中した。血を流して倒れる男。悲鳴を上げる桃香。それをただの事実として認識しながら、鈴々は最後の仕上げにかかった。数だけが頼みだった彼らは残り二人。

 円を描くように、蛇矛を一閃する。呆然と立ち尽くしていた襲撃者の首は、それだけで刎ねられた。

 血が水の様に吹き出て、辺りを真っ赤に染める。見ていて気持ちの良いものでないが、戦場ではこれが当たり前の光景だった。幼い身で誰よりも強かった鈴々は、ほとんどの敵と相対した場合一方的に勝利を収めてきた。残った死体はいつもこんなものである。もう少し綺麗にと思わないでもないが、それで負けそうになっては元も子もない。蛇矛を振るうと、刃先にこびりついていた血が、宙に舞う。

 全てを殺し終えて一息ついた鈴々は、辺りにもう襲撃者の影がないことを確かめると、蛇矛を置いて腰を下ろした。またもくもくと干し肉を齧り始める鈴々を前に、桃香は静かに泣き出した。

 泣く桃香を、鈴々は慰めることはしなかった。桃香さまならば、再起できる。愛紗はそう信じて一人で戦いに挑み、そして負けた。生きているのかも死んでいるのかも解らない義姉の言葉を、鈴々は心の底から信じていた。

 あの日、桃園で誓いを交わしてから鈴々の気持ちは変わっていない。桃香の夢は、鈴々の夢。桃香の敵は鈴々の敵だ。小さな身体で蛇矛を握り、戦に参加して多くの敵を殺してきた。それを後悔はしていない。それで桃香は出世したし、世の中は少しだけ良くなった。桃香の治める土地は、皆が笑顔で暮らしていた。鈴々にはできないことが桃香にはできる。それだけで自分の命を預けるには十分だったし、何より桃香や愛紗のことが鈴々は好きだった。

 この二人のためならば戦えるし、この二人のためならば死ねる。その決意は涙を流す桃香を見ても揺らぎはしなかった。

 今は、雌伏の時だ。

 再び立ち上がるためならば、辛いことにも耐えられる。いつかの再起を信じて、鈴々は干し肉を呑み込んだ。











あとがき

春蘭が賢い! 桂花出てこない! 
面目ありません。桂花の出番はまた別の回で。





[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三十七話 劉備奔走編②
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:53a6c9be
Date: 2014/12/24 05:01









 捕虜となった愛紗は獄につながれた。

 青龍偃月刀は取り上げられ、腕も足も鎖に繋がれている。鉄格子はしっかりとした作りで、何が何でも逃がさないという曹操の強い意志を感じられた。

 加えて、看守もただの兵ではない。愛紗から見ても、一目で精鋭と解る実力者だった。無手でも勝てないということはなかろうが、無傷でというのは難しい。この場所からの脱獄は、現実的ではなかった。

 できることと言えば思索に耽るだけ。そう言えば、落ち着いて考えることなどなかったと思いながら、愛紗は今までのことに思いを馳せたが、考えが行き着くところは結局のところ、ただ一つだった。

 桃香は無事に逃げることができただろうか。

 敗色が濃厚になった時、愛紗が考えたのは何としても桃香を落ち延びさせることだけだった。

 そのためには、短い間でも桃香を守ってくれる人間が必要になる。

 一番最初に頭に浮かんだのは公孫賛であるが、彼女は今袁紹と戦をしており、あちらはあちらで敗色濃厚だった。それに彼女を頼るには、袁紹の勢力圏を突っ切っていかなければならない。顔の売れてしまった桃香が、寡兵で行くには過酷な道程である。

 南の孫策は大人物ではあるが、頼れるかは微妙なところだった。

 何しろ彼女には劉備を守る理由がない。連合軍で一緒だったが、桃香との関係と言えばそれだけだ。南方でのし上がった孫家はしっかりとした地盤を持っているが、曹操に追われ勢力を失った劉備にはそれがない。追い落とされた時点で、孫策とは対等な位置にはどうしても立てない。

 仮に孫策の元に到達することができたとしても、戦を先延ばしにするために曹操への手土産とされるか、そのまま追い返されるか……いずれにしても、命が危険となる公算の方が高い。

 ならば、と愛紗の思索で消去法的に残ったのは、北郷一刀という人間一人だった。連合軍に参加した頃は百人隊長だった人物であるが、出世を重ねて県令となり、州牧になった……という噂を聞いている。平民出身である彼は異民族の血を引いていても分け隔てなく人物を採用しており、民の間で好人物だという評判も得ている。勢力としては心もとないが、背に腹は変えられない。誰も頼ることができなければ、桃香はもう死ぬしかないのだ。

 隠れて過ごすことができれば良いが、桃香と鈴々だけで、その隠れ家の選定ができるとは思えない。中途半端な場所で隠れれば、いずれ曹操に見つけ出される。誰かに匿ってもらうのは、生き残るためにどうしても必要なことだった。

 鈴々には、もしもの時はその男を頼るようにと良く言い含めてあるが、北郷一刀が実際に匿ってくれるかは解らない。桃香の無事は、もはや天に祈るしかなかった。

 時間の感覚も曖昧になるこの場所で変化があったのは、おおよそ一週間経ってのことだった。

 曹操本人が現れたのである。護衛には夏侯惇。あの日戦った隻眼の武将がいた。どちらにも疲労の色が濃い。徐州を攻めるに今は大事な時期のはずだが、彼女ら二人がここにいるのはどういうことなのか。

「あれは、関羽、貴女の仕業かしら?」
「何のことだ?」
「……知らないようね。だとしたら諸葛亮か。本当、食えない軍師だこと」

 深い溜息をついて、曹操は床机に腰を降ろした。愛紗とは一足一刀の間合いである。獲物は夏侯惇が持っている。もし曹操にこちらを殺す気があるのなら、愛紗の命はそこで潰えるだろう。

 愛紗はここで殺されることを覚悟した。

 元より敗軍の将である。捕らえられた時から殺される覚悟はできていた。

 しかし、曹操はそれをしない。不審な思いを持って見つめる愛紗を、曹操は鷹揚な態度で受け止めた。

「青洲の黄巾が南下を始めたわ。私の軍の薄い所を狙って、打撃を加えられた。戦線は大きく南に押し込まれ、私の土地にまで踏み込まれた。なのに連中は徐州を避けるように南下している。何か密約があったとしか思えないわ」

 どう? と曹操の探るような視線が愛紗に向く。偶然起こったできごとを、何か意図があるように捉えることは良くあるが、実際に徐州を避けるように南下しているのならば、どういう意図があるのか別にして、誰かがそれを誘導しているのは間違いがない。一度だけなれば偶然で片付けることもできるが、大軍団が偶然に基づいた行動を長時間続けるということはない。

 曹操の言ったことが事実であれば、それは桃香にとって幸運なことであったろうが、話が上手く進んでいれば桃香は既に徐州を脱出しているはずである。天の助けも、遅すぎたのだ。

 落胆している愛紗を見て、曹操は薄く笑みを浮かべた。魅力的ではあるが、実に酷薄な表情である。

「さて、これが貴女の策でないとしたら、諸葛亮でしょう。あのまま押し込んでいたら、私の軍は大打撃を被ったことになるわ。そしてそれを指揮する諸葛亮と、精兵を率いた貴女。勝負はどちらに転ぶか、解らなかったかもね?」

 からかいを含んだ曹操の声音に、愛紗は歯噛みした。

 これが誰かの意図によって行われたのならば、徐州を助けるようなこの動きは、朱里――いや、諸葛亮以外に考えられない。彼女ほどの軍師ならば、劣勢に追い込まれても一発逆転の手を考えることができたに違いないのだ。

 間違ったことをした。今更ながらに、後悔の念が愛紗の心を支配した。

 今になれば、諸葛亮が桃香のために行動していたことは良く解る。良い悪いとは別のところで、諸葛亮のやっていたことは桃香軍にとって必要なことだったのだ。それを、一時の感情に任せて追い落としてしまった。自分が同じ立場だったらと思うと、ぞっとする。一人、誰に褒められることがなくとも、主のためと思って動いていたのに、その主に疑われたのだ。

 その失意たるや、愛紗には想像することもできない。

 名軍師と持ち上げられてはいるが、朱里だって年頃の少女なのだ。弱音を打ち明けたい時もあれば、褒めてほしい時だってあるだろう。それをし、支えてやるのが仲間というものだ。朱里の苦労を、過去の愛紗は全く理解しようとしなかった。

 和を掲げる軍団にあって、幹部の中に不和があった。負けて当然だ、と愛紗は自嘲する。仲間を信じ、仲間を助けることができなかった。この敗北は、自分の責任だ。

「殺せ」
「せっかちね? でも、私もこういう場所はあまり好きではないの。だから単刀直入に用件を言うわ。関羽。私の下につきなさい」
「私の主は劉備様ただお一人。ニ君に仕えるつもりはない」
「仕えろ、という気はないわ。私の下で働かないかと言っているの」
「同じことだろう?」

 怒りが募り、曹操への殺意に変わる。殺気をこめて睨む愛紗に、夏侯惇が反応した。主の前に出ようとする忠臣を、当の曹操が手を挙げて制する。曹操の顔には笑みが浮かんでいた。今が楽しくて仕方がないといった風である。

「私は貴女のことを買っているの。貴女の忠誠心についても、疑いは持っていないわ。ニ君に仕えないというのなら、本当にそうなのでしょう。ならばここで貴女を殺すのが定石というものでしょうけど、それでは面白くないし、何より貴女の才能を殺すのは惜しい。だから、提案よ。そうね……三年、もしくは青洲黄巾の戦が終わるまで、私の下で働きなさい。そうすれば開放してあげる。どこでも好きなところに行きなさい」
「……それで貴女は何を得るというのだ?」
「貴女と共に戦う機会を。私は貴女の忠誠心を疑ってはいないけれど、それは今この時の話よ。近い未来、あるいは遠い未来でもそうとは限らない。私は私の力にそれだけの自信がある。三年も時間があれば、貴女に心変わりを促せる自信がある。これは貴女と私の勝負よ、関羽。私が貴女を認めさせたら、私の勝ち。貴女が劉備に忠義を尽くし続けたら、貴女と、それから劉備の勝ち」

 愛紗の心に怒りが満ちる。忠誠心を侮辱された、そう感じたのだ。愛紗の静かな怒りを、曹操は当然のように受け止めている。傍に控える夏侯惇など主の行動に顔を青くしているというのに、大した胆力である。殺されないと頭で解っていても、命が危険に晒される時、平然としていられる人間は少ない。この一点だけを見ても、曹操が非凡な人間であることは良く解った。

「別に強制はしないわ。忠義に生きるというのも、それはそれで素敵な話だもの。その場合はここで、私自ら貴女の首を刎ねてあげる。『関雲長は、忠義に生きそして死んだ』と責任を持って後世に伝えましょう。でも生きたいのなら、再び劉備と共に天下に覇を唱えたいというのなら、私の手を取りなさい、関羽」
「私が貴女を裏切るとは考えないのか?」
「貴女を買っていると言ったでしょう? 貴女は一度交わした約束を裏切るようなことはしないもの」
「ならば私が心変わりすることはないと、解っているはずだ」
「心変わりさせる自信が、私にはある」

 本当に、彼女には自信があるのだろう。

 確かに雰囲気は只者ではない。桃香のような全てを包み込むような気配ではなく、その威でもって全てを飲み込まんとする圧倒的な気配だ。こういう人物を覇王と呼ぶのだろう。もし先に彼女にめぐり合っていたら、彼女を主と仰いでいたかもしれない。そう思わせるだけの風格はあった。

 愛紗は逡巡する。

 忠義を尽くして死ぬのも良い。曹操の言う通り、それもまた武人としての生き方だろう。

 しかしそれでは、桃香と再び会うことはできない。忠義を尽くして死ぬことは自分の望みであるが、桃香を支え、彼女の名を天下に轟かせることこそが、愛紗の最大の使命だった。

 そのためには、泥を啜ってだって生き延びる。大切なのは関雲長の名誉ではない。主、劉玄徳のその身、その行く道なのだ。

 それに生きる機会があれば、間違いを正すこともできる。あの時、自らを裏切り者と断じた自分を彼女は許してくれないだろうが、それでも、生きて会い、一言謝りたかった。

「……良いでしょう。貴女の下で働きます」

 搾り出すように愛紗は告げる。忠誠を売り渡した訳ではない。そう割り切るには、愛紗の心根は真っ直ぐに過ぎた。

 この時、関雲長は間違いなく、曹操に敗北した。

 うな垂れ、苦悩する愛紗を見て、曹操は優雅に微笑んだ。
































 曹操の西進の報を聞き、一刀軍はその阻止のために動き出した。霞が旗下の五百を率いてまず出立。次いで澪がさらに千を連れて出立した。この後に、歩兵二千が続く、都合三千五百の部隊であるが、これは西進する曹操軍を迎え撃つには少々心許ない数字である。州境に最初から詰めている守備隊と合わせても、五千にも満たない。

 しかしこちらが守備側であること、主力の騎馬を霞が率いていることを考えれば、悪い数字でもなかった。

 建前としては、これで十分だろうという見通しである。朱里の情報によって、本格的な衝突の可能性が低いことは、一刀軍の幹部全員が知っている。それでも油断はできないが、戦はないという方向で話は進められていた。

 曹操軍との衝突が流れるとしても、兵の数が少ないのは事実である。兵の補充、新兵の調練としなければならないことは山のようにあった。

 一刀が州牧になってから、兵になりたいという若者は後を断たない。これを使う時がきたということであるが、その調練を誰に任せるのか、決まっていなかった。

 霞は東へ行き、恋は調練には向かない。周倉を使っては、と一刀は考えたが、それには雛里が反対した。并州の兵は精強であるが、その割合は騎馬に偏っている。緊急の時、周倉のように歩兵を指揮できる『信頼のおける』人間がいないのは困るというのだ。

 無論、并州にだって歩兵を指揮できる人間はいたが、その絶対数は少なかった。信頼が置けるとなれば更に減る。周倉は一刀本人との衝突はあるものの、仕事に対しては真摯であり、民衆の信頼も厚い。これを新兵の調練に使う訳にはいかなかった。

 ならば誰が、と一刀たちが顔をつき合わせて導き出した答えが――





 拳礼をし、一刀の前に膝を屈するのは七乃である。孫家に攻められ没落したとは言え、名門袁家に仕えていただけあって、作法は居並ぶ幹部が舌を巻く程に様になっていた。

「七乃。お前には新兵の調練を任せたい。まずは二千人を預ける。これを一年で戦場に出せるようにしてもらえるか?」
「閣下の仰せのままに」
「お前には物足りない仕事かもしれないけど、よろしく頼む」
「かしこまりました」

 袁術が代表だった軍が瓦解せず軍の体裁を保っていられたのは、それを補佐していた七乃がいたからだ。どちらかと言えば政治向きの七乃に、純軍事的な才能と、部隊を直接指揮する技能があると言い出したのは、稟だった。剣もそれなりに使うらしい。霞に腕を見てもらったが『一刀よりは強いでー』というありがたいお墨付きを貰った。思うところがないではないが、全く使えないと思っていた一刀にとっては嬉しい誤算である。

 それだけの情報があっても、やはり七乃がこの仕事をやり遂げることができるかは、未知数だった。袁術軍を動かしていた手腕を腐らせておくのは勿体無いが、孫策に負けてここにいるという事実もある。袁紹をはじめ、袁家の人間を良く思わない人間は多く、誰もが一刀のように受け入れられる訳ではない。

 経歴を考えると宝の持ち腐れも良いところであるが、それなりの地位に付けさせるためには、どうしても軍団内での実績が必要なのだった。新兵二千を一年で戦場に出せるようになれば、実績としてはまずまずだろう。文官が少なければ雛里の下にでもつけることを考えたが、幸か不幸か一刀軍は軍師文官が充実している。求められるのは将軍としての手腕だった。

 誤算と言えば、まだいくつかある。その筆頭は周瑜がこの地に残っていることだった。曹操の西進が想定よりも早かったというのが、孫呉の公式の見解である。

 船頭多くして船山登るという言葉がある。周瑜は孫呉の重鎮であり、その言葉を無視する訳にはいかない。当代最高の軍師が残ってくれるというのはありがたい話であるが、方針に口を出されると組織としてより多くのダメージを被ることにもなりかねない。

 方針を決定できるだけの軍師が既に揃っている一刀軍にとって、周瑜は邪魔でしかなかった。遠まわしな『さっさと帰れ』攻撃をそれとなく稟も風も連発したが、戦国乱世を『あの』孫策の隣で駆け抜けてきた周瑜には、それも何処吹く風だった。

 一方、兵を率いてきた思春と呂蒙であるが、こちらは早くも兵たちの間で馴染んでいた。河賊出身である思春は今でこそ将軍であるが民衆寄りの考え方をしており、普段から荒っぽい部下を従えている。いつもムスっとしていて雰囲気は怖いが、曲がったことはせず横柄でもない。

 また人見知りしそう、というよりもぱっと見は学者のような呂蒙であるが、試しに、と兵たちと組打ちをさせてみたら、精兵百を一人で叩きのめしてしまった。周瑜の秘蔵っ子と聞いていたから軍師一辺倒かと思えば、最近までは普通に兵を率いていたとのこと。荒っぽいことで有名な孫呉軍の中でやれていたのだから、その統率力も腕っ節も折り紙つきである。

 率いてきた兵の数こそ少ないが、客将としての働きは期待できるだろう。より多くの兵を任せることも、考えられないではない。稟はあまり良い顔をしないだろうが、今は何よりも兵と、そしてそれを指揮できる人間が必要なのだった。

 前の州牧が叩き出した異民族の血を引いた民の帰還は、ほとんど完了している。お互いに遺恨はあるだろうが、間に丁原が立ってくれたおかげで波風も立っていない。兵として復帰している者もおり、その多くは霞の旗下に組み込まれることになった。

 いずれ彼らの代表にも挨拶にいかなければならないだろう。州牧として最低限しなければならないことも、まだ手が付けられていない有様である。人は集まり、組織としても動き出しているが、まだまだ手が回らないことが多かった。

 民政は朱里に一任されることになった。現代的な役職を当てはめるなら、内務大臣といったところだろう。内政は今まで一刀が主に行い、外務を主にこなしていた稟が主に、そして手の空いた軍師が手伝ってくれるという方式だったが、このほとんどが朱里の専任となった。

 劉備の元で筆頭軍師として活躍していた小さな軍師は、瞬く間に問題点を洗い出し、細かな政治改革に乗り出した。担当が朱里に変わっただけで予算が一割も浮いたと、評価の辛い財務担当のねねが言うくらいなのだから、その手腕の凄さが解るというものである。

 朱里が加入したことで、幹部もより専門的に仕事をこなせるようになった。稟が外務に専念。風は州内のインフラ整備のために調査部隊との会合を続けている。軍務は引き続き雛里が担当している。情報部を率いることになった静里は、元からの部下に加えて人を増やそうと躍起になっていた。同じような仕事をしていた思春とは、良い関係を築くことができるだろう。

 ねねは相変わらず、家計簿と格闘している。色々なことがありすぎて目が回りそうな環境の中、それでも必要な時に予算を引き出すことができるのは、ねねの働きに寄るところが大きい。灯里は州内の経済を担当することになった。幹部の人事が落ち着き、稟が外務に専念することになったことで、ようやく自分の人脈を活かす時が来たと、州都、あるいは州内の商人と会合を持っている。

 周瑜が持ってきた交易路の話も、灯里を中心に話が進められている。顔の広い彼女は、揚州にも知り合いが大勢いるという。孫呉主導で進められては利が目減りするが、灯里が間に立てばこちらが一方的に不利なことにはならないだろう。金銭の絡むことであるので、最近はねねと一緒にいることが多いが、加入したばかりで何かと不安になりがちな朱里のケアも忘れていなかった。

 幹部の中で一番気が回るのは、おそらく灯里だろう。誰かが衝突しそうになった時、いつも間に立ってくれているのは、彼女だ。

 組織全体が大きく動いている。時代もまた、同様だ。劉備が曹操に破れ、袁紹と公孫賛の戦も佳境に入っている。いずれ清州黄巾も動き出すだろう。曹操との戦は先送りになるが、いずれはそこにも戦が起こる。

 大規模な戦だ。どういう落とし方をするとしても、多くの兵が死に、多くの民が傷つく。自分の仕事は、それを少しでも減らすことだ、と一刀は考えていた。戦など、しないで済むならそれに越したことはない。時間を稼ぐことができたのは、大きなチャンスだ。

 この時間で、戦そのものを回避するための手段を整えることができる。

 そのためには、まずは兵力だ。矛盾しているようではあるが、相手に対等と思われないことには交渉のテーブルにつくこともできない。孫呉と正式な同盟を組んだことで勢力としては大きくなったが、所詮は借り物の力である。自分だけの力というのがどうしても必要なのだ。

 執務室の机で、大きく息を吐く。根を詰めて仕事をしていたが、一区切りが付いた。そろそろ昼食時である。誰か昼食に誘えないものかと幹部の予定表を見るが、今日に限って州庁には誰もいなかった。親しい間柄で近くにいるのは、護衛の要と侍従長の黄叙の二人という、いつもの顔ぶれである。

 別に二人が嫌な訳ではないが、今日は何となくわいわいと昼食を取りたい気分だった。

 しばらく考えた一刀の脳裏に、唐突に閃くものがあった。

「屋敷に戻って昼食を取ろうと思う。大丈夫か?」
「そういうために用意はしておりますが……もしかして、袁術さんと?」

 黄叙の発言は的を得ていた。屋敷に戻ってまで食事を取る理由は、袁術の従者である。七乃が出仕して仕事をしている今、袁術の周囲に護衛と呼べる人間はいない。暗殺するとすれば絶好の機会であるが、そこが州牧の屋敷と知った上で危害を加えるだけの価値は、今の袁術にはない。

 袁家に縁のあるものがいれば、命をかけてでも助けにきたのだろうが、ここは元々袁家とは縁の薄い土地であり、数少ない縁者も北の袁紹を頼って出て行ってしまった。家の格で言えば袁紹よりも袁術の方が上であるが、既に没落した袁術とまだ踏みとどまっている袁紹のどちらを頼るかは、考えるまでもない。

 袁術は、正しく今、一人だった。

 一刀はそれを寂しいことだと思う。袁家のしてきたことを仕方のないことだと割り切ることはできない。庶民の生まれである一刀は、感覚的には庶民の味方である。今も彼女が袁術であるというだけで、憎しみを向ける人間は大勢いた。出仕した七乃もまた、同様の差別を受けることになるだろう。日の光の下で彼女らが生きるということは、そういうことだ。

 それは彼女らのしてきたことに対する、庶民の当然の反応である。『慰み者』にするのならともかく、本当に身内として扱っている北郷一刀の方が世間では稀なのだ。

 かりかり、と一刀は頭をかく。要は別段、袁家に思うところはない。今を生きる彼は相手が貴族だろうと平民だろうと全く気にしない男だった。皆がこんな風に考えられたらと思うが、そうは行かないのが世の中である。少しずつ変えていくしかないのだ。

「二人とも、ついてきてくれ」

 結局、一刀が屋敷に戻ることにした。黄叙と要を連れて、公邸に戻る。

 公邸では多くの人間が働いていた。人選を行ったのは稟と静里である。経歴まで洗った訳ではないが、まぁ大丈夫だろう、という面々がそこには揃っていた。査定の厳しい二人の審査を通過しただけあって、皆良く働くし驚くほどに勤勉である。

 近衛兵の詰め所の一つも、公邸にある。

 そこで当直の人間はそこで寝起きすることもあるので、意外に広い。無駄に広い庭は、調練のためにも使っていた。馬を走らせることもできるので、騎馬の調練もできる。 何も屋敷で……と稟辺りに何度か文句を言われたものだが、使えるものは使うのが一刀の主義である。それでも、来客がある時に邪魔にならないように配慮くらいはしている。公邸に勤めている人間は近衛も含めて庶民出身ばかりなので、一刀のこの合理主義的な判断は結構好評だった。

 二人を伴って屋敷に入ると、出迎えたのは初老の女性だった。

 黄叙がいない時、屋敷を管理する人間として雇った女性である。并州の生まれではない。荀家から紹介してもらった知識人で信頼もおけると太鼓判を押された人物だ。序列としては黄叙の方が上であるのだが、自分の母よりも大分年上なこの人には、黄叙も頭が上がらないようだった。女性の方も、孫ほども年の離れた黄叙に、きちんと上司として接している。

 そこには不満は微塵も感じられない。人間ができている、というのはこういうことを言うのだな、と学んだ一刀だった。

「袁術はどうしてる?」
「お部屋でお勉強を。そろそろお昼にしようかと思っていたところでした」
「俺たちも一緒に食事をしようと思う。頼めるかな」
「承りました」

 厨房に戻るその女性――名前は王栄という――を見送ってから、袁術の部屋に向かう。この屋敷の『住人』と言えるのは、主である一刀本人と、その『身内』である袁術と七乃の三人である。一刀の部屋が一番大きいのは当然として、袁術、七乃の二人の部屋も相応に大きい。身内なのだから当然、というのが一刀の考えであるが、これには七乃が甚く恐縮した。

 助けてもらってここまで世話をされる訳には、という七乃が多少のことでは引き下がらないことを知ると、一刀は答えた。

『なら、世のため人のために働いて返してくれれば良いよ』

 家族を大切にするのは当然のことで、感謝されるようなことではない。自分に気を使う必要はない、くらいのつもりで言ったのだが、七乃はその言葉で更に奮起してしまった。

 それでも、時間を見つけては七乃はこの屋敷に戻ってくるのだろう。どれだけ仕事に励むようになっても、彼女の優先順位は変わらないのだから。

「袁術、入っても良いか?」

 扉の前で声をかけると、部屋の中で何かがひっくり返る音がした。中の惨状を思ってため息をつくと、後ろで黄叙の忍び笑いが漏れる。

「ど、どうぞなのじゃ!」

 主の許可をもらって、部屋に入る。元々は前の州牧の家族が使っていた部屋だが、調度品の類は全て売り払い予算にしてしまった。袁術が暮らすことになってまた家具を揃え始めたが、まだ使い始めて日の浅い部屋は、一刀の部屋に比べると随分と殺風景に見えた。

 その部屋の隅。文机の前に立っているのは、袁術だった。

 荀家を出て、自警団をした村に着くまでの間に袁術の噂は聞いたことがある。ロクでもない人間というのがほとんどだが、類まれな美少女だという噂も聞いていた。実際に目にして見て、噂は本当だったのだなと実感する。

 小さい身体に、きらきらとした金色の髪。大きくぱっちりとした瞳には戸惑いの色が見えている。数年前には煌びやかな衣装を纏っていたのだろうが、今は纏っているのは地味で質素な服だった。飾りなども全くない。それでも、袁術は間違いなく美少女だった。

 数年後、美女になることが約束された少女は、屋敷の主を迎えて縮こまっていた。

 急に家族に、と言われても無理なのは理解できる。一刀も同じ立場だったら同じように思ったことだろう。それでも、元が人懐っこい性格だったのか、それとも七乃が『この人は信頼できる』と口ぞえしてくれたからなのか、悪い意味で人形のようだった時から比べると、袁術の態度も随分と柔らかくなった。

 引き合わされた時は壊れてしまったのかと思ったものだが、それは『そういうこと』にしておけという七乃の演技指導だったという。これしかないと最後の臣下に言われては、袁術もそうするしかなかった。そうしかないと思っている内に演技も堂に入り、中々戻れなくなってしまったのはご愛嬌だろう。

「それで、あにさま、何の御用なのじゃ?」
「袁術と一緒に昼食でもと思ってね。今用意させてるから、一緒に食べよう」

 あにさまと呼ぶように、と言い含めたのは一刀自身である。最初にそれを知られた時、稟には掃き溜めでも見るような目で見られたものだが、何事もまずは形からである。言葉の上でも家族になれば、それに合わせて関係も変わるだろうという目論見は、一定の成功を収めていた。兄のいなかった袁術は、それなりに一刀に懐いていた。あにさま、と口にするのが楽しくて仕方がないようである。

「勉強の捗り具合はどうだ?」
「ちゃんとやってるのじゃ! ばあやがはちみつのご褒美をくれるからの!」

 屈託なく笑う袁術には、悩みなどないように見える。これだけ環境が変わり、それでもなお笑うことができるのは彼女なりの強さだろう。見る人間によっては無神経と思うのだろうが、女子供は笑っていてこそだと一刀は思う。

「黄叙も見てるんだよな。袁術はどうだ?」
「基礎はしっかりとできておいででした。一年もすれば、出仕もできるのではないかと」
「そりゃあすごいな」

 見た目と言動から全く使い物にならないとすら思っていたのだから、良いことである。食事をしながら、袁術は自分がどれだけがんばったかを語り、一刀と黄叙はそれに相槌を打つ形となっていた。王栄にも聞いてみたが、こちらも適度に褒めていた。手放しにできる子と言わないのは、知識人故だろうか。それでも今まで教えた中でも上の方に入るというのだから、間違いはないだろう。袁術も、ばあやと呼んで慕っている女性からほめられて満更でもないようだった。

「それじゃあ、俺は戻るよ。いつか一緒に仕事ができることを楽しみにしてるぞ」
「妾も、楽しみにしてるのじゃあにさま」

 昼食を切り上げ、席を立った一刀を、袁術が慌てて呼び止めた。

「そ、それからの、あにさま。今朝七乃に言われたのじゃが、妾もあにさまに真名を預けようと思うのじゃ」
「それは嬉しいけどさ、そういうことはもう少し良く考えてからにした方が良いと思うぞ」
「七乃はあにさまを信用したのじゃ。七乃の言うことならば、妾は信じる」

 確信に満ちた袁術の物言いに、一刀は苦笑を浮かべた。

 だからこそ良く考えろと言った訳だが、それを説明するにはさて、どうしたらよいのだろうか。

 他人がやっているから、と自分もそれを行うのは危険である。それは重要な決定を他人に預けることであり、思考の放棄にも繋がる。袁術が、というよりも袁家が歴史的な大失敗を犯すに至ったのは、自分勝手をしたことと同じくらい、他人の言葉を鵜呑みにしたことに原因があると、稟たちは分析していた。

 今回のこともそうだ。信頼の現われと言えば聞こえは良いが、それは七乃に判断を丸投げしたとも言える。注意しようか一刀は迷ったが、七乃を信用するという袁術の目は真剣だった。これからすることに緊張はあっても、後ろめたさなどは感じられなかった。

 溜息を飲み込み、一刀は姿勢を正した。何が正しいと気にするよりも、こうしたい、こうしてほしいということを大事にすることにする。大事な家族が前に進もうとしているのだ。それを頭ごなしに否定するようなことは、やはりしたくない。

「妾は袁術、字は公路、真名は美羽なのじゃ。至らぬところはたくさん、たくさんあると思うが……よろしく頼むのじゃ」
「家族を大事にするのに、理由なんていらないだろ。美羽のことも七乃さんのことも、俺ができる限り手を尽くすから安心してほしい。ただ――」

 付け加えることは忘れない。家族であっても看過できないことはある。通すべき筋は例え、どんな関係であっても通すべきだ。美羽のような難しい立場であるからこそ、そういう筋道は守らなければならない。

「ただ、悪いことをしたらきちんと『おしおき』するから、そのつもりでいてくれ」
「もうお尻を叩かれるのは嫌なのじゃ……」

 美羽の口から、一刀のした覚えのないお仕置きの内容が漏れる。黄叙の視線の温度が下がった。『そんなことしたんですか……』という美少女の視線を受けて、一刀は慌てて首を横に振る。

「いや、俺じゃない。流石にそんなことはしない」
「ばあやなのじゃ。お尻を叩かれるなど、生まれて初めてだったのじゃ……」
「叱ってくれる人がいるってのは、実は凄いありがたいことなんだ。それを忘れないようにな」
「一度死んだ妾を、あにさまは助けてくれたのじゃ。せめてこの恩に報いられるように、妾もがんばるのじゃ」
「ありがとう。期待してるよ」


『またなのじゃー』

 と門まで出て手を振って見送ってくれる美羽にほっこりとした気持ちになりながら、考えるのは彼女の『これまで』だった。

「あそこまで性根がまっすぐな娘が、どうして暴走したんだろうな」
「環境が悪かったのでしょう。最初からご主人様のところにいれば、袁術様もああだったと思います」

 全く、と難しい話には一切口を出さない主義の要のおさげを引っ張りながら、一刀は嘆息する。

 全てを環境のせいにはできないが、それが大きな原因となったことは間違いないだろう。

 むしろ、そんな環境にしても真っ直ぐな心根を持ち続けていたことが、奇跡なのかもしれない。疑心暗鬼、傲岸不遜になっていても良い状況で、美羽があの性格のままでいれたのはきっと、美羽を心の底から愛する人間がいたからこそだ。

 今も、美羽のために激務に励む七乃の姿を思い浮かべながら、一刀は笑みを浮かべた。

「でも、これからは良い子だ。これで袁家のイメージを払拭できたら良いんだけどな」

 内外に敵は多い。美羽の心根を知れば打ち解ける人間もいるだろうが、袁家の人間というのはそれだけ悪名がつきまとっている。これを払拭するのは容易なことではないだろう。そのために、大軍団を指揮していた七乃も将軍の見習いとして仕事に励んでいる。美羽が勉強をしているのも、そのための一歩だ。

「本当に、俺の仕事を手伝えるようにできるかな」
「まずは稟さんにお伺いを立てないといけませんね」

 黄叙の物言いに、一刀は額に手を当てて天を仰いだ。

 周辺の人事について最終的な決定権を持つのは一刀だ。建前上は一刀一人で全てを決定できるということになっているが、今の組織体系、パワーバランスで、そういう勝手なことはできない。美羽のことは非常にデリケートな問題である。何より、稟や仲間たちに不義理をしたくはなかった。

 美羽と一緒に働きたいのは本心であるが、その道のりは遠かった。

「お勉強をがんばっています。袁術様が前に進みたいと思っているのは、本当のことのように思います。なら、その心は通じますよ。稟さんも皆さんも、良い人たちばかりですから」

 人間性だけで政治をすることはできないと、黄叙も解っている。平時であれば良いが、今は戦時だ。人間として優れ、民の信頼の厚かった劉備も、他の面でも優れていた曹操に負けてしまった。黄叙の言葉は、まさに気休めである。

 しかし、たとえ気休めでも、その心遣いが今はありがたかった。






















 一刀のいるはずの州庁に戻ろうとする足を強引に止めて、稟が向かったのはとある料亭だった。

 高級な雰囲気のその店は、庶民が使うようなものではない。門を潜り店内を見回しても、客として卓についているのは身なりの良い人間ばかりだった。

 寄ってくる給仕に名前を告げると、店の奥に案内される。表の大広間は上品なりに人の声が聞こえていたが、この辺りまで来るとしんとして、物音一つ聞こえなくなる。密談をするには最適の場所だった。

「失礼。待ちましたか?」
「そうでもない。忙しいところ、悪いな」

 周囲の人払いの済まされた約束の部屋には、既に料理が並んでいた。高級とされる場所であるが、並んだ料理はどれも質素なものである。豪勢な料理を内心で期待していた稟は、肩透かしを食らった気分になった。静里はこういう、庶民的な料理が好みなのだ。稟も普段はそうであるが、だからこそ、たまには高くて美味しい料理を食べてみたいと思うのである。

 内心の落胆を悟られないようにしながら、席に着く。内密の話であるから、給仕のための人間もいなかった。

「緊急の要件だとか」
「あぁ。まずは大将よりも先に、お前に伝えるべきと判断したもんでな」

 内容に察しはついていたが、自分からは何も切り出さずに静里の言葉を待つ。忌々しそうな顔をした静里が口にしたのは果たして、稟が考えていた通りのものだった。

「劉備を捕捉した。曹操の包囲を抜けて、こちらに向かっている」

 淡々と事実だけを言う静里が何を言いたいのか、稟には良く解っていた。彼女と自分の立場で、劉備について真っ先に考えることは同じはずだ。つまり――

「殺すか?」

 これ、唯一つである。

 劉備の存在ははっきり言って一刀軍には邪魔だ。亡き者にできるのならばそれに越したことはない。考えを纏めるべく、稟は瞑目した。静里はそれを黙って眺めている。

「……判断の前に一応聞いておきましょう。殺せるのですか?」
「あいつ本人はそれほど勘も鋭くないからな。張飛を無視して劉備だけで良いなら、それも可能だ」
「劉備殿はあれでそれなりに腕が立つと聞きます。貴殿の配下は、武力闘争は苦手としていたのでは?」
「全くできない訳じゃないし、武力だけが殺す手段って訳でもない。例えばここの料理に毒が盛ってあったら、お前は今頃死んでだぞ」

 そんなことはないと確信を持ってはいたが、食事を進める稟の腕が止まる。静里は我関せずとそのまま食事を続けた。

「……話を戻しましょう。仮に殺すことができたとして、それに我々が関知したということを隠し通すことができると思いますか?」

 静里が押し黙る。例え部下の腕がどれほど優れていて、証拠を残さなかったとしても憶測までを排除することはできない。同行者までまとめて秘密裏に殺すことができるのならば良いが、静里の部下では張飛まで一緒に殺すことはできない。同行者が残れば殺されたという疑念が残り、いくつも立った噂の中には北郷一刀の一味が実行したというものもあるだろう。

 そういう憶測でもって、証拠がないのに朱里は排除されることとなった。それでも白を切り通すだけの精神力があれば良いが、一刀にそれは無理だろう。清濁併せ持つ人間ではあるが、前の州牧のようなあくどい人間でもない限り、人を殺すことには消極的である。そこが美点でもあるが、汚れ仕事には向かない。

「可能か不可能かは別にして、やめておいた方が良いでしょう。噂が大きくなった時、それに対処できるだけの権力が、私達にはまだありません」
「だろうな。私も一応のつもりで聞いただけだ」
「私が了承したら、貴殿は実行したのですか?」
「そりゃあ、やったさ。政治信条を抜きにすれば、私は劉備と関羽が嫌いだ」
「張飛殿は良いのですか?」
「あいつはアホだが、話の解る奴だった。もし張飛の方が姉だったら、先輩はこういうことにならなかったろうな」

 意外な言葉に、稟は小さく驚きの声をあげた。劉備一派は全員嫌いなのだと思っていたのだ。

 その意思が言葉にしなくても伝わったのだろう。帽子を取り、鬱陶しそうに頭を掻きながら、静里は言う。

「私はな、稟。先輩たちを尊敬してる。あんな小さくてかわいいのに、誰にも負けない頭脳を持ち、その手腕を振るっていける先輩達が好きだ。私のことなんて苦手だろうに、それでも私を評価して陣営に誘ってくれた朱里先輩には恩義があるし、逃げてきた私達を迎え入れてくれた灯里先輩にも雛里先輩にも恩義がある。もちろん、そうとりなしてくれた大将や、あんたにもな。だから私は、頭と力をあんた達のために使うことに決めた。自分一人なら勝手にやったろうが、それでもあんたに話を通したのは、私自身がここを気に入ってるからだ」

 吐き捨てるような口調は、照れくさいからだろう。汚れ仕事を一人で背負える程、心を凍らせることのできる静里であるが、情がない訳ではない。雛里などの先輩に敬意を払えるところも、仲間のためにという気持ちも、稟にとっては好ましいものだった。

「だからこそ、朱里先輩を追い込んだ連中を、私は許すことができない。仕事に私情は挟まないが、私がそう思っていることは覚えておいてくれ」
「私情を挟まないのなら、私に言うこともなかったのでは?」
「誰かに言っておきたかったんだよ。これも、信頼の証とでも思ってくれ」

 話はこれで終わりとばかりに大きな音を立て、静里は杯の中身を飲み干した。

 ふぅー、と大きく息を吐いた時には、難しい軍師の顔ではなくなっていた。

「ここからは世間話なんだが、劉備はどうするんだ?」
「ここに向かっているのは間違いないのですよね?」
「間違いない。目的地は州都。どうも大将を頼るつもりらしい」
「では、朱里がここにいることには感づいていないのでしょうね」

 甘いところはあるが、劉備は心根の優しい人間という印象を受けた。流石に自分で追い出した人間のいるところに駆け込めるほど、面の皮は厚くないだろう。朱里がここにいることは知らないと考えて間違いはない。

 それでも、劉備は張飛と共にこちらに向かっている。

 一刀が良い人間という噂は州の外にも広まっているだろうが、それだけで全てを預ける気にはなれないはずだ。劉備のような追い込まれた立場ならば尚更である。

 当代でも最高の実力者である曹操に追われている以上、それなりの有力者でなければ庇護してはくれない。頼れる公孫賛は北で戦争中。孫策は大河の向こうで到達するには時間がかかる。西の馬騰は大人物だと聞いているが、それにしても距離がありすぎた。下手に頼ると逃げ道を塞がれた上、売られるかもしれない。誰を頼るかというのは劉備にとって自分の命を左右する重大な決断だ。

 自分と立場を置き換えてみる。

 劉備の立場で一刀を選ぶことは、考え難い。劉備を庇護するのに一番必要な力を、一刀は持っていないからだ。圧力をかけられたら屈するのが普通。仮に屈しないとしても、押し込まれれば潰されるのは目に見えている。それならば最初から熱りが冷めるまで身を隠していた方が、安全なように思える。

 それをしないということは、いざという時には北郷一刀を頼れと、入れ知恵をした人間がいるのだろう。筆頭軍師だった朱里は今こちらに降り、張飛は策謀には向いていない。となれば、劉備にそんな助言をする人間は一人しかいない。

「関羽の奴か……あいつは本当、要らないところで頭が回る」
「一刀殿と彼女に面識はなかったはずですが?」
「雲隠れするにも、あの二人じゃあ隠れ通すのは難しい。本当は公孫賛のところに行かせたかったんだろうが、関羽にとっても賭けだったろうな……」

 稟の目から見ても、その賭けは成功の目が薄い。再起という意味ではほとんど望みがないと言って良いだろう。何しろここにいる郭嘉と法正という人間が、それを許さないのだから。

 大人しくしているならば良い。

 しかし、一刀のことだから彼女を助けるという判断を下すだろう。

 劉備には『民に慕われる』という天賦の才能があった。一刀もその気があるが、劉備のそれは一刀の比ではない。実績や行動を持って導くべきところを、彼女は人間性でそれを行う。その浸透は不確かなものであるが故に遅いが、一度根付けば容易なことではこれを取り去ることができない。曹操軍との戦が思っていたよりも長引いたのは、彼女の人的魅力があったからだ。劉備のたために、と戦う兵は、実力以上のものを発揮する。

 政治も数で決まるところがある。劉備が頭数を揃えるようになったら、排除するには骨が折れるだろう。彼女本人にその気がなくとも、担ぎ上げようとする人間はいるはずだ。敵の敵は味方。地盤は固まりつつあるが、誰もが一刀のことを受け入れている訳ではない。一刀を蹴落としたい勢力にとって、劉備は非常に都合の良いコマなのだ。

「考えれば考えるほどに、彼女は邪魔ですね」
「あぁ。だが悪い人間ではないんだ。致命的に間が悪く、自然に自分本位に動くところはあるが、悪巧みとは無縁だし、汚れ仕事は嫌う。人間の見本しちゃあ、ある意味理想だろう。子供に読み書きでも教えてるのが、良いと思うんだがね」
「でも嫌いなのでしょう?」
「好悪の感情と使える使えないは別の話だ。上に立つ人間としてはイマイチというだけで、使いどころがない訳じゃない。この時代、民に理解のある教養のある人間ってのは、意外と希少だからな」

 上に立たれると邪魔であるというだけで、劉備という人間は全くの無能という訳ではない。思想と全く関係のない教師でもやらせれば、それはそれで良い仕事をするだろう。人間には適材適所というものがある。指導者としてもなるほど、劉備は優秀なのだろうが、他の多くの有力者の利権と競合するやり方は頂点に立つつもりのない稟の目から見ても、邪魔だった。

 時代がもっと平穏であれば、また違った扱いをされたのだろう。彼女の才能は平和な時ほど輝くものである。そういう時代ならば、一刀とも手を取り合って共に政治を行うことができただろうと思うと、惜しいと思わずにはいられない。

 だが、本人が納得するかは別にして、教師が向いているかもしれない、という劉備の才能は、一刀軍にとっても有用なものだった。

 一刀が勧める政策の中に、教育水準の向上というものがある。一刀が政治を行うようになってからずっと行っている政策であり、彼主導で行っていることの中で、今現在最も成果の出ていることである。一年以上働いている兵の識字率は、十割に近い水準まで近づいている。他の勢力の兵と比べると、この数字は驚異的だ。

 これは兵のその後も見据えての政策である。兵として一生を終える人間は意外なほどに少ない。怪我をして退役を余儀なくされる人間など、兵以外の道を歩む人間も多い。識字率の向上は、その再就職の援護をするものだった。農村部の人間が知恵をつけることに有力者からは反発があったが、兵からは中々好評だった。それが何の足しになるんだと反発はあったものの『役人や商人に一方的にカモにされる可能性を少しでも減らせる』と言ったら、文句は言わなくなった。

 調練が終わった後の約30分。調練がある日は毎日、読み書きの講義を行っている。最初は一刀指揮下の近衛だけだったが、読み書きができるようになった兵が自分の配下にもするようになり、今ではほぼ全軍に広がっていた。これによりほとんどの部隊に書面での連絡が可能となり、命令の伝達が幾分スムーズに行えるようになった。

 退役した兵が故郷に帰っても、子供達に教えることができる。農村部で識字率が向上すれば、役人になりたいという人間も増えるだろう。それで農村部で働く人間が減り、困ることも出てくるだろうが、職業選択は可能な限りできた方が良いというのが一刀の方針である。類稀な才能を持ちながらその才能を開花させることなく、農村部で一生を終える人間を開拓できると思えば、悪い話ではないと稟も思う。

 長期的な事業であるが、明確に損が出る訳でもない。読み書きができる人間が増えることは、文官の目から見ても良いことだ。不正をしている人間には頭の痛い話だろうが、不正は断固取り締まるという方針の一刀軍には、関係のない話である。

 ともあれ、兵に教育のできる人間、そして、民に読み書き計算を教えることのできる人間を、一刀軍は広く求めている。これならば政治の邪魔にならず劉備の才能を発揮でき、命の危険も少ない。関羽が望んでいた未来とは全く違うだろうが、劉備の利益まで考えてやれるほど、一刀軍にも余裕はない。

 余計な思想を植えつけて危険分子を生み出すのではという危惧もあるが、使う時点である程度の危険は理解している。監視をつけるなどして、ある程度の危険を受け入れることができなければ、劉備を使うことはできないだろう。

 全ては一刀の決定次第であるが、彼ならばまず劉備の首を刎ねるということはするまい。受け入れ、何か使いどころを探すという方向に落ち着くはずである。ならば今から役割を探しておいても、早すぎるということはない。

「静里、貴女には色々と思うところがあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「大将やあんたの決定には従うさ。だがこれ以上先輩を泣かすなら、その限りじゃない。あまり舐めたことはしないようにと、よ~く言い含めておいてくれ」
「彼女も命は惜しいはずです。逃げた先で問題を起こせばどうなるか、解らないほど愚かでもないでしょう」
「そうでないことを祈るばかりだよ……」
「劉備殿か教師などに収まるとして、張飛とのはこちらの勢力に引き込めると思いますか?」
「判断が難しいな。奴は難しい判断を自分でしない。姉がやれと言ったら、大抵のことはやるだろう。それが姉の利益と反しない限り、こっちにも引き込めると思うが、最後まで追随してくれるかは、大将の手腕にかかってるだろうな」
「一刀殿に、張飛殿を『落とせ』と?」
「駄目なら駄目で現状維持な訳だから、難しい話じゃないだろ? 成功すれば一騎当千の武将が手に入るんだからな。大将にも頑張ってもらわないと」
「つまらない色恋の話が立つのは困るのですがね……」

 一刀の年齢ならば、所帯を持ち子供がいてもおかしくはない。誰を娶るかというのは、立身出世において重要なことだ。天涯孤独である一刀には後盾になってくれる親戚がいない代わりに、余計なことを言ってくる人間もいない。一族の娘を送り込もうと考えている勢力にとって、一刀は非常に魅力的な物件である。

 孫策が孫尚香を送ってきたことには、そういう意図があるのは明白である。今すぐ嫁ぐという話が出ていない以上、まだ様子見の段階だろうが、一刀がこのまま成長し、出世すれば、孫尚香と一緒になるのは想像に固くない。この時代、愛人を囲うのはそう珍しいことではないが、浮名が流されすぎるのも困るのだ。

 あの年齢の男性としては、一刀の身辺は綺麗過ぎる程に綺麗である。それは仕える一人の女性として誇らしいものの、潔白であるからこそ、少々の汚点が目立つことにもなりかねない。まさか女遊びがバレたくらいで孫家との話が破談になることはあるまいが、無駄に弱み見せる必要もない。身奇麗にしておくに越したことはないのだ。

「大将の嫁は、あのお嬢で決まりかね?」
「他に有力な人間でもいれば話は別なのですがね。孫家の姫と対等に渡り合える女性が、中々いないでしょう」
「強いて挙げるなら、馬家の姉妹とかだな。家督を継ぐ予定の姉の方はともかく、妹の方なら孫家の姫とも良い勝負ができると思うんだがね」

 確かに、と稟は頷く。勢力の勢いとしては孫家の方が大きいだろうが、揚州で地盤を築いている孫家と土地的に距離があることは、いざ戦となった時非常に頼りになる。加えて孫家と馬家では支持基盤も異なっている。豪族に支えられているというのはどちらも同じであるが、成り上がりと目されている孫家と違い、馬家はまだ中央の覚えもそれなりに良い。嫁にもらう相手としては、中々甲乙がつけ難い。

 しかしそれも、同時に話が持ち上がっていればの話である。先に孫家から話を持ちかけられているのが現実だ。この話を袖にしてまで馬家と仲良くなるだけの価値があるかと言われれば、否だった。

 この方針を転換するには、一刀が選べる立場にならなければならない。最低でもあと一州。加えて孫策以外の同盟者を手にすることができなければ、本当に一刀の未来は決定されるだろう。孫尚香を受け入れることは、孫策の影響を強く受けることを意味する。一度彼女と周瑜に頭を押さえつけられたら、浮上するのは難しい。それほどに孫策と周瑜の能力は傑出している。

「見通しは暗いですね」
「だがその方がやり甲斐がある。今は乱世だ。何が起こっても不思議じゃないぜ? 明日には孫策が狂刃に倒れるってことも、あるかもしれないからな」
「それはそれで困りますがね。今孫家の庇護がなくなれば、曹操に潰されるしかなくなる」
「そしたらまた再起でもすれば良いさ。西は今手薄だからな、蜀にでも国を築くことができれば、天下三分を狙えるかもしれない」
「曹操、孫策、北郷一刀、ということですか?」

 面白いが、荒唐無稽な話である。既に強大な勢力を築いている孫策、曹操の両名と違い一刀は弱い。残り一つの枠、蜀に押し込まれるのは一刀だろう。天然の要害とも言うべき場所で守りは固いが、同時に他に攻めるのも骨が折れる場所だ。中央とも距離がある。時間をかけて国を作り、それから反撃に打ってでるしかなかろうが、問題はそれまで生きながらえることができるか、ということだ。

 やはり今が正念場である。

 気持ちを引き締めた稟は、一気に杯を呷った。


 劉備が張飛を伴い、州都に現れたのは、それから一週間の後のことだった。









[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三十八話 劉備奔走編③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:53a6c9be
Date: 2014/12/24 05:01
1,

 自分が足りない人間であることを良く自覚している一刀は、軍団において他人が質問し易い雰囲気を作ることに腐心していた。とにかく誰にも良く話しかけ、話を聞く一刀は最初、変わり者の州牧として認知されたが、その気質が知れ渡るようになると、執務室を訪れる人間も増えた。

 流石に用もないのにやってくる人間はいないが、近くまで来たから寄ってみた、と顔を出してくれる人間は多くいる。気安い雰囲気という他の軍団にはない方針が全体の成功に繋がっているかはまだ不明瞭であるものの、分け隔てなく意見を交わし、友誼を結ぶことのできるこの環境は良いものだと一刀は思っていた。

 この先出世するようなことがあっても、この方針は続けていこう。

 それが一刀の密かな願望でもあったのだが……アットホームな職場を目指す一刀の執務室に、今はぎすぎすした空気が立ち込めていた。

 原因は、稟と静里である。

 一刀軍の中でも冗談の通じなさそうな幹部トップ2が、何故か今朝から一刀の執務室で仕事をしていた。二人と一緒に仕事をするのは珍しいことではないが、二人とも幹部だけあって専門性の高い仕事をしている。資料が必要なこともあるから、彼女らは基本、自分の執務室で仕事をしたがる。

 理由もなく州牧執務室までやってこない二人が、今日に限っては朝からずっと出て行かない。

 おかげで執務室に顔を出した人間の、退去までの時間が短いことこの上ない。いつもは黄叙の出すお茶を飲み世間話くらいしてから帰るのだが、二人の顔を見るや、事務的な報告だけをして、足早に去っていってしまうのである。

 何とも寂しいことだ。皆と話ができないのもそうだが、二人の恐れられっぷりに一刀は愕然とした。嫌われている訳ではないのが救いだろうか。厳しくも実直な稟の人柄は兵にも文官にも認められているし、舌鋒鋭い静里は方々に敵がいるが、彼女の部下が集め、彼女自身が分析する情報にどれほどの価値があるのか、武官も文官も良く理解していた。

 良い仕事をする人間というのは、それだけで信頼されるものである。ただ、上司としてはもう少しにこやかに、と思わないではない。何より執務室の空気が重いというのは、そこで仕事をする一刀自身のためにも、本当に良くないことだった。

 朱里か雛里か灯里か。水鏡女学院の関係者が誰か一人でもいてくれたらと思うのだが、灯里は今州都を離れており、朱里と雛里は自分の執務室で仕事をしている。今日は改めて会議をする予定はないから、お茶でもしにきてくれない限り、この執務室で顔を合わせるということはない。

 今日はずっとこのままか……と午後のお茶と共に覚悟を済ませたその時、執務室の扉がノックされた。

「団長! 王栄さんから伝言です!」

 執務室に入ってきたのは近衛兵の少年だった。村からついてきた、一刀軍の中では最古参のメンバーであり、要とも親しい。少年は笑顔で執務室に飛び込んできたが、その中に稟と静里がいることに気づくと、途端に背筋を伸ばした。

 その態度だけで、二人がどう思われているのかを想像することができる。

 良い仕事をする二人は兵からの信頼を勝ち得ているが、親しみやすい雛里や風と違って、いまいち人気がない。直近に加入した朱里の評判が上々であるため、余計に対比されているような気もする。

 ここまで解り易い態度をされると、さぞかし二人も気分を害するかと思って見れば、二人とも涼しい顔をしていた。今更兵の態度一つ気にすることはないのかもしれないが、それはそれで寂しいことである。

 近く、二人のイメージアップのために何かしなければと思う一刀だったが、今は仕事だ。

「聞こう。なんだって?」
「はい。急なお客様が来たとかで、現在対応中。お二人とも長旅のため、湯殿を用意し食事をお出しして迎える判断をした由。当座、お泊りいただく準備を進めていますが、団長の判断を仰ぎたいとのことです」
「そのお客様の名前は?」
「劉備、張飛のお二方です。王栄さんの話では『あの』お二人で間違いないとのことですが――」
「ならば、急いで向かわなければなりませんね」
「いや、たまたま予定が空いてて良かった」

 一刀が返事をするよりも早く、軍師二人が席を立った。申し合わせたような二人の態度に、朝から執務室にいたのはこのためだったのだと理解する。

 劉備。字は玄徳。連合軍と菫卓軍の戦で名を挙げたが、先の戦で曹操に敗れ、生死が不明だった人物であり、朱里と静里に因縁のある人物だ。

 死んだとは思っていなかったし、もしかしたら自分の所に来るかもしれないと考えていたが、いざ来られてみるとやはり困るものだ。

 朱里とのことがなくても、彼女は存在そのものが非常にデリケートだ。

 曹操に負けたということは、その曹操に――今この国で、最も力を持つ一人に数えられる人間に、追われている可能性が高い。今現在、曹操との戦は回避できるというのが幹部全員の認識であるが、劉備の存在は曹操からすれば格好の攻め入る口実となる。

 不戦の契約を曹操と結ぶにしても、劉備が陣内にいるという事実は、交渉をする上で不利を生み出すことになるだろう。劉備の、大軍を率いていたという実績と能力は、一刀軍にとって得がたいものであるが、曹操との戦の可能性を高めてまで身内に引き込む理由はなかった。

 一刀個人の見解を言えば、面倒が起こらない内にお帰り願いたいところである。

 しかし、劉備が北郷一刀を訪ねてきたという事実がある以上、無視することはできなかった。

 今現在、北郷軍は曹操軍と戦をするために準備をしている。それは無論、孫呉がいることによる建前であり、実際に戦争は起きないという前提に立っての行動であるが、ほとんどの人間はそれを知らないし、最大の同盟者であり同時に監視者でもある孫呉の周愈も知らないということになっている。

 曹操を理由に劉備を拒絶することはできないのだ。

 それに、仮に拒絶できたとしても、それは必ず朱里の耳に入ることになる。聡い少女だ。どういう事情があって劉備を拒絶したのか、何も言わずとも察してくれるだろうが、せっかく仲間になってくれた彼女に不義理はしたくない。

 一刀は大きく溜息をついた。

 色々と不本意なところはあるが、劉備のことはここで決着をつけるより、他はないだろう。

 意を決すると、一刀は立ち上がり伝令として飛んできたばかりの少年に向き直った。

「朱里に伝令。劉備、張飛の二名が俺の屋敷に来た。これから会って話をするから、至急屋敷に来るように」

 敬礼をし、少年は命令を復唱すると、執務室を飛び出していった。この段階で、既に稟と静里は準備を終えている。護衛である要は言わずもがなで、黄叙も身支度を終えていた。

「……俺がビリか。待たせてすまない。屋敷に戻ろう。皆、着いてきてくれ」














2、

 屋敷に戻った一刀たちを、王栄が迎える。

王栄は客人としてやってきた稟と静里に一礼すると、応接室に向かう一刀の横に立って歩いた。本来、そこは黄叙か筆頭軍師である稟の立ち位置で、序列の低い人間は立ちたがらない場所である。王栄の序列が軍団の中では高いものではなかったが、長の隣に立つ彼女の振る舞いは実に堂々としたものだった。必要な時には、必要なことをしなければならない。それをきちんと理解できている証拠である。

 どうしても立場や身分を先に見てしまうのが、この世界の人間の大きな特徴だ。培われてきた文化によってそうなっているのだから、外から来た一刀が文句を言うことでもないが、こだわらなくても良いところでまで一歩下がられてしまうと、仕事に支障が出ることもある。幹部以外で王栄のように合理的に物を考えられる文官は貴重だった。

「湯浴みと、簡単ですがお食事を出させていただきました。大分お疲れのようですが、応接室にてお待ちいただいております」
「随分早く湯浴みが済みましたね」
「一通り済ませてから使いを出しましたもので。ご迷惑でしたか?」

 しれっと言う王栄に、一刀は苦笑を浮かべた。仕事が速く、そつがない。荀昆が推すだけのことはある、と思った。自分のような人間のところにいるのは、勿体ないくらいの人だ。

「いえ、助かりました。後はこちらでやりますので、仕事に戻ってください」
「かしこまりました。それでは黄叙さん、後はよろしくお願いします」

 優雅に一礼して、王栄は去っていく。落ち着いた淑女の振る舞いに黄叙がほぅ、と溜息を吐くのが見えた。黄叙も十分に礼儀作法を身につけていたが、経験の積み重ねから来るあの落ち着きだけは、どうしても出せなかった。それに憧れる気持ちは解らないでもない。早く成長したいとやきもきするのは、上を目指す人間には当然のことだ。

 しかし、黄叙には黄叙の良さがある。完璧であろうと頑張っている姿は、見ていてとても微笑ましく、そんな少女が自分に従ってくれているのだと思うと、自分ももっと頑張らないと、という気分になる。王栄は黄叙にないものを持っているが、黄叙もまた王栄にないものを持っている。焦る必要はない。黄叙はそのままで良い。

 そう言いかけた一刀を、稟の咳払いが現実に引き戻した。気づけば数秒、黄叙の横顔を見つめていた。眼鏡の奥にじとーっとした目が見える。これは危険な兆候だ。

「さ、行こうか」
「……劉備殿は美人と聞きますから心配ですね。どう思いますか静里。彼女の周辺にいた者として」
「胸も尻もあるし男好きのする見た目ではあるな。大将の好みではあると思う。まぁ、私が男だったら先輩に声をかけると思うが……」

 無意識の発言だったのだろう。顎に手をあてて、何か考え出す静里に全員の視線が集まる。顔を上げた静里は皆の視線に気づいたが、なんだ? と首を傾げるだけだった。静里はキツ目の美人という感じで、一刀の仲間内で言うと稟が雰囲気が近い。あまりかわいいものを好きというイメージはないのだが、静里が推すのはいつも朱里や雛里などのどちらかと言わなくてもかわいいタイプだった。意外と言えば意外である。少なくとも、静里に凛々しいみために、朱里や雛里のような、ひらひらかわいいものは合うように思えなかった。

「……人の好みはそれぞれってことだな」
「なんだ大将。うちの先輩たちに何か不満でもあるのか?」
「二人ともかわいいと思うよ。灯里はかわいいって感じではないけど」
「あの人は昔から女にモテたからな。大将以上に」
「今後のために、女性の上手いあしらい方など聞いておいた方が良いかもしれませんね」

 それでは、と稟が先に立って扉を開く。

 護衛の要が先頭で入り、次いで一刀。右隣には稟、左に黄叙が並び、静里は一刀の背に隠れるようにして最後に入った。

 応接室の中央にしつらえられた卓、その下座の椅子に二人の女性がいた。背の高い方と、小さい方。高い方が劉備だろう。扉が開いた音で慌てて立ち上がったその姿に、一刀は内心で溜息を漏らした。『男好きのする見た目』と評した静里の言葉は、正しかったのだと理解する。

 長い赤みがかった髪に、つぶらな瞳。長旅のせいか少しやつれてはいたが、その気だるさがまた色気に繋がっている。身体つきはまさに静里が表現した通りだ。男の庇護欲をそそるという点においては、完璧に近い容姿だろう。これを餌に後援者を募れば、世の男は放っておかないだろうな、という下世話な考えすら持ちあがるが、視線を合わせてみて、この人は自分を売るなど考えもしないのだろうな、とも思った。

 この目は世の中の汚れを知らない。見ないようにしているとでも言えば良いのだろうか。優しそうな人、というのは見れば解るが、それが良い方にも悪い方にも出ているように思える。伴侶にする、恋人にする、友人にする。そういう場面でならば、彼女は非常に得がたい人材なのだろう。

 一刀自身、劉備の第一印象はそんなに悪いものではなかったが、静里からの前情報を含めた上で一目みた感想は『めんどくさそうな人』だった。

 少なくとも、静里や稟とは波長が合わないのが見ただけで解る。

「始めまして、劉備殿。私が北郷一刀です。どうぞおかけになってください」

 余所行きの顔で応対し、着席を促す。劉備が着席するのを待って腰を下ろすと、稟たちは定位置に落ち着く。護衛の要が一刀の左後ろ。稟と静里が一刀の右後ろに並ぶ。給仕をする黄叙は部屋の隅に移動した。

 劉備を見れば、一刀の横――正確には静里を見て、顔を青くしていた。無理もない。まさか助けを求めて訪れた先に、自分が叩き出した人間がいるとは思わないだろう。代表である人間の近くにいるということは、幹部かそれに近い待遇であるのは想像に難くない。もはや彼我の立場は完全に逆転した、というのは火を見るよりも明らかだった。

 こういう時、普通の人間は報復を恐れるという。かつての劉備ならばまだしも、今の劉備は身一つで官位もない。護衛の張飛はいるが、誇れるものと言えばそれくらいのものだ。復讐するならば今だ。静里の性格ならば、少なからずそういうことは考えていそうなものだが、一刀が横目でちらと見ても、静里は澄ました顔をしていた。

 そこに復讐心は見えない。押し殺しているのだとしたら、見事なポーカーフェイスである。

「紹介します。こちらが郭嘉。うちの筆頭軍師で外務を担当しています。そっちが太史慈。俺の護衛です。給仕をしているのが黄叙。秘書もやってもらっています。そして彼女が――ご存知かと思いますが、法正です。情報収集を担当してもらっています」
「ご無沙汰しております、劉備殿」

 平坦な口調で挨拶をする静里に、劉備はこわごわと頭を下げた。静里はそんな劉備に目もくれず、その横に座った張飛に向かって小さく頭を下げた。自分にお鉢が回ってくると思っていなかったらしい張飛は、そんな静里の行動に面食らったようだが、今の立場を思い出すと、きちんと頭を下げた。活発を絵に描いたような容姿であるが、礼儀作法はきちんと備わっているようだった。

「本題に入りましょうか。劉備殿の近況は伺っております。曹操殿と戦い、敗れたとか」
「その通りです。部下の働きもあり、私はこうして落ち延びることはできましたが、陛下よりお預かりした領地を守ることはできませんでした」
「お察しします。私の方でも調査を続けていますが、それより後の情報は入ってきておりません。状況はどうにも、思っていた以上に混沌としているようです」

 黄巾が南下し、曹操軍と激突することは、一刀たちの中では決定事項である。朱里の読みでは既に接触し戦端が開かれている。情報収集に放っている草が実際に戦端が開かれたという情報を持って帰ってくるまで、しかしこれは、事実として確定しない。周愈辺りは何かおかしいと感づいているかもしれないが、この情報は幹部の中でも極秘扱い。確信を持って行動できる人間は、他にはいないはずである。

 確定していないのだから嘘はついていないと、自分に嘘を吐きながら劉備の様子を観察する。意気消沈しているのは相変わらず。こちらを疑っている様子は見えなかった。想像していた以上に悪い現状に、愕然としているのだろう。これで演技ならば大したものだと思いながら、張飛に目をやる。話を聞いているのかいないのか。表情から考えていることは全く読めなかったが、気を張って周囲を警戒しているのが解った。屋敷に通された時武器は回収したが、例え無手でも、今この部屋にいる中で一番強いのは張飛だろう。劉備の命令があれば、張飛はいつでもこの部屋にいる人間を皆殺しにできる。

 もっとも、劉備がそういう命令を下すはずがないと、張飛も確信しているようだった。いつでも殺せるというのはポーズに過ぎない。本来ならばそのポーズも、交渉の材料になったはずだが、主たる劉備がそれを使いこなせる精神状態にない以上、徒労に終わる可能性が高い。少なからずそれを意識しているはずの身で、ポーズを取り続けるその精神力には敬服せざるを得なかった。

(恋をつれてきても良かったかもな……)

 直属の部隊は精鋭中の精鋭50のみ。遊撃を仕事とする恋は、霞の部隊にはついていかず、州都に残っている。今は屋敷で家族たちと戯れている頃だろう。ここに向かう途中、使いは出した。急がなくても良いからこっちに来てくれという、非常に曖昧な指示である。張飛に対する備えとして呼んだものだが、彼女の手が必要になるとは思っていない。張飛のポーズが交渉の材料になるように、恋がいるという事実もまた、判断の材料になりうる。

 戦闘にならないのはお互いに解りきっていたことだ。それでもポーズをとり続ける張飛を楽にさせるには、それ以上の実力者を連れてくるより他はない。今州都にいる人間でそれが可能なのは、恋と、孫呉からの客将である思春くらいだ。

 気を張るのは疲れるものである。それを歴戦の将軍とは言え、幼い子供に強いるのは気が引けた。

 考えて、苦笑を浮かべる。

 この世界にやってきた時には、自分も子供だった。今も子供のつもりだが、張飛を見て子供と考えるくらいには、年月を重ねてしまった。こちらで暮らした年月を向こうで積み重ねていたら、自分はもう成人しているはずだ。あちらにいたままだったら、そんな生活をしていたのか、そういうことを考えることも少なくなった。

 今、この世界が、北郷一刀の生きるべき世界。そう思うようになってきたのだ。自分の周りには仲間がいて、成したいこともできた。肩には仲間の命があり、背中には民の生活がある。良くも悪くも、北郷一刀は一人ではなかった。自分一人の希望で民や兵に犠牲を強いる訳にはいかない。
 
 曹操との戦は回避される見通しであるが、孫呉がいずれ曹操軍と戦うつもりである以上、立場が下の同盟者としてはそれに追従しなければならない。劉備を引き入れることは、一刀軍にとってマイナスにしかならない。

 散々稟や静里に説かれたことを、脳内で反芻しながら一刀は大きく息を吸い、そして吐いた。

 冷静に、冷徹に。

 努めて多くの命を預かる支配者であろうとしながら、一刀は言葉を口にする。

「単刀直入に申し上げましょう。我々としては、貴女を援助する訳には参りません」

 一刀が口にしたのは予定通りの言葉だった。劉備にとってもそうであったに違いない。ここに来たのは北郷一刀に助けてもらうため。消去法での選択だったとしても、その辺を歩いている人間を頼るよりは、自分の目的達成の可能性が高いと判断した上でのことだろう。期待はしていなくても、希望くらいはもっていた。その希望が今、劉備の予想の通りに打ち砕かれた。

 明らかに消沈した様子の劉備を前に、流石に心が痛む。助けてやるべきか、という気持ちを押し込んで、一刀はさらに言葉を続けた。

「曹操殿に追われている貴女は、曹操殿との火種になる。それは別に構わないのです。我々も孫呉の同盟者として、いずれは曹操殿と戦う身。それに否やはありません。しかし、開戦の時期を左右する貴女がいることは、我々にとっては問題です。貴女は曹操殿にとって攻める理由であり、例え軍備が整っていなくとも、強行に攻めてくるかもしれない可能性です。ご存知の通り、孫呉の援助があるとは言え、我々は曹操軍に比べれば弱小です。元々貴女が持っていた軍にも、大分劣ることでしょう。例えば今この時、貴女を理由に曹操殿に攻めてこられたら、我々にはそれを防ぐ手立てがありません。我々は今、対応するための時間を欲しているのです」

 感情で政治ができるのならば一刀は劉備を助けていたし、そもそも劉備は失敗などしなかった。劉備たちを受け入れることで、自分たちを危険に晒す訳にはいかない。確実でない、可能性の段階であったとしても、『あの』曹操と敵対する可能性は潰しておくに限る。

 何しろあの陣営には荀彧がおり、文謙がいる。仲間は皆優秀であると自負しているが、それは曹操の方も同様だろう。軍団全体の層の厚さは比べるべくもない。今帝国に存在する勢力の中で、最も戦いたくない一つであるのは間違いなかった。

 さて、と一刀は気持ちを切り替える。

 帰れというのは簡単だが、ここからはフォローをしておく必要がある。何もしないのでは後味が悪いし、名前にも傷がつく。面倒な話だとは一刀自身も思うが、必要なことなのだ。

 それに、ここからの話であれば、いくらでも劉備を助けることができる。礼を尽くすだけ尽くしてたたき出すのであれば、多少失礼でも、手を差し伸べられる方が良い。望んだものが得られない以上、劉備から見れば誤差かもしれない。後々、劉備の中には北郷一刀に対する恨みしか残らないかもしれない。

 言ってしまえば自己満足であるが、最低限、してやれることはしてやりたい。それは打算ではなく、感情だ。

「ですが、個人的には援助を惜しむつもりはありません。この屋敷に置くことはできませんが、当面の生活の保障はします。仕事の口を探す手伝いをしても良いですし、どこか他に行く当てがあるのであれば、そこに向かう旅費も工面します。我々を頼った方を路頭に迷わせる訳にはいきませんのでね」

 ここまで、劉備からの反論はない。保障はすると言っているが、事実として『さっさと出て行け』と言っているに等しい。歓迎されていないのは、どれだけ思考がお花畑でも理解できるだろう。こういう状況を想定していないはずがない。ここにやってくるまで時間は沢山あったのだから、シミュレーションくらいはしているはずだ。打ちひしがれた様子の劉備を前に、一刀はその答えを待った。しかし――

「なら、鈴々が働くのだ!」

 口火を切ったのは、劉備ではなく張飛だった。かかった――そんな思いを顔に出すのを堪えながら、一刀は張飛に向き直る。

「伺っても?」
「曹操が来ても、鈴々が追い返してやるのだ。兵は一人もいないけど、その分鈴々が働いてやるのだ!」

 『曹操との戦の火種になるから、劉備を置いておく訳にはいかない』という理由で拒否したのだから、火種がなくなるか、あるいは火種になっても問題ない程の戦力があれば、彼女を拒否する理由はなくなる。実際、張飛は一騎当千の猛者である。兵はいなくとも彼女一人がいるだけで、大分戦況を有利に運ぶことができる。歩兵を指揮できる猛者の少ない一刀軍にとって、張飛は喉から手が出るほど欲しい存在だった。

 彼女が降ってくれるのならば、これ程のことはない。それだけならば諸手を挙げて歓迎したいところだったが、張飛の要求はただ降ることではない。言外に、張飛は劉備の好待遇を要求している。軍門に降るのはそれを飲むならば、という条件付きだ。

 当然、それを飲むことはできない。下手なことは言うなという稟の強い視線を感じながら、一刀は張飛の目を見つめ返し、言った。

「ですが、貴女方は既に曹操殿に負けられた。張飛殿、貴女は確かに一騎当千の勇将ですが、今は美髪公と名高い関羽殿もなく、精強な兵もおられません。それでどうして、曹操軍に勝てるとおっしゃるのですか?」

 集団で負けた人間が、一人になって勝てる道理はない。劉備軍と戦った直後である今、曹操軍は疲弊しているだろうが、それでも、張飛一人で相手にするには荷が勝ちすぎている。物言いは勇ましい。やれと言ったら本気でやりそうだ、という雰囲気がある。こういう向こう見ずで真っ直ぐな人間を一刀は嫌いではなかったが、できないものはできないのだ。

 指摘され、張飛は唇をかみ締めたまま、椅子に座りなおす。向こうの主従はお通夜モードだ。目的を達成するためには何をしてでも、と思っているのだろうが、そのためには何をされても良い、と言うだけの覚悟はないと見える。

 それで良かったと一刀は思う。愛人になりますと言われたら、流石に対応に困る。一刀周囲は身奇麗なままだが、今は孫尚香がいる。彼女と何か決定的な事実があった訳ではないが、そういう理由で周囲に留まっている人間の前で、女の話はできないだろう。まだ持ち上がってもいない縁談話で優位に立たれたら、それこそ畳み掛けられて外堀を埋められてしまう。

 せめて周愈が帰るまでは、大人しくしておいてほしいというのが本音だ。既に劉備が来たという話は、孫呉の方にも伝わっていることだろう。向こうが横槍を入れてくる前に、ある程度話はまとめておきたい。今、この場で納得してくれるのが一番良いが、劉備にとってここは分水嶺である。さらっと諦められるならば、多少の危険を冒してでもどこか適当な場所に隠れ住んだはずだ。

 ここにいるということは、少なからず過去に未練があるということである。それが地位や名誉でないのは、劉備の苦しそうな顔を見れば良く解る。正論を打算的に話しても劉備は納得してはくれない。

「俺の生まれは、東の島国でしてね」

 唐突に昔話を始めた一刀を、劉備だけでなく応接室にいた全員が見つめる。中でも稟は厳しい目を向けてくるが、一刀は構わずに話を続けた。

「平和で、豊かな国でした。50年以上戦に巻き込まれることもなく、民は飢えず、子は遊び、未来のために学ぶこともできた」

 まだ三年。されど三年だ。

 思い返せばたったそれだけの時間のはずなのに、故郷での生活が遠い昔のことの様に思える。幸せな時というのは、ああいうことを言うのだろう。退屈であったかもしれないが、何一つ不自由などしなかったあの時間が、如何に恵まれていたのかを理解することができた。

 あの国こそが、一刀の理想である。人が天寿を全うして死ぬことを許された平和なあの時間こそが、民には必要なのだ。

「俺の理想は、そこにあります。民が命の心配をせずに過ごすことができ、天寿を全うして死ぬことができる。そんな世界です」

 故郷の国も、そういった平和を獲得するために多くの血を流した。先人の弛まぬ努力と闘争の歴史があったからこそ、今があり、自分たちがいる。この国で北郷一刀が成すべきことは、尊敬するその先人たちに倣うことだった。

「荒唐無稽な夢であるということは自覚していますが、そのための努力は最大限しているつもりです。数年数十年、あるいは百年経ってもできないかもしれません。でも、俺の理想を理解してくれる人間が多くいれば、例え俺が力尽き倒れたとしても、いずれ誰かが実現してくれることでしょう」

 誰もが気高い理想を持って動くことができれば、いずれ世界は変わる。この世界においてそれは夢物語でしかないが、その理想が実現可能なものであることを、一刀はこの世界の誰よりも理解している。こういう国を作りたいというビジョンの明確さだけならば、他の誰にも負けていないという自信がある。

 理想を実現することが目的ならば、その担い手は必ずしも自分である必要がない。自分が駄目ならば、信頼できる人間にそれを引き継いでもらえば良い。先頭に立つものの仕事は、そういう人材を育てることでもある。そのためには明確なビジョンの共有と、信頼関係が必要になる。

 誰でも秘密にしたいことの一つや二つはあるだろうが、切羽詰った時、それを打ち明けられないようでは何の意味もない。政治は皆でやるものだ。誰か一人に責任を負わせるのは間違っているし、失敗一つで追い込むのも違うと思う。朱里は朱里でベストを尽くした。主義主張は違っても、最低限それは認めるべきだったのだ。

「まずは、話をされることです。俺はそれで、どうにかやっています」

 皆で考えれば何でもできるというほど、世界は甘いものではない。

 だからこそ、頂点に立つものは最大の責任を負う必要がある。

 理想が競合したとき、そこには争いが生まれる。そうして勝つのは力の強い方で、より正しい方ではない。理想を掲げるのならば、同時に強くあらなければならない。

 妥協しなければならないこともあるだろう。辛い思いをすることもあるだろう。

 だがそれでも、仲間と一緒ならばやっていくことができる。こいつとならば、地獄に落ちても構わない。それだけ信頼できる人間を、仲間と呼ぶのだから。

 一度転落した劉備にチャンスは少ないだろうが、生きている以上可能性は0ではない。再起を諦めさえしなければ、いずれ浮上の目もある。

 もっとも、浮上することを稟や周愈は許さないだろう。これからの劉備の苦労を思うと同情を禁じえないが、強力なライバルは少ない方がより良い。孫策などはそれでは張り合いがないと文句をたれるのだろうが、こちらの考えこそが正常であると一刀も自負している。

 それに劉備には、もっと相応しい仕事があるように思えるのだ。誰もが理想を持つべきだが、同時にその担い手である必要はない。集団の頂点に立たずとも、世界には劉備を必要とする場所が必ずある。ほとぼりが冷めるまで、時間も必要だ。別のことをして、自分を見つめなおすのも悪いことではないはずである。

「貴女の望む形で手を差し伸べることはできません。重大な決断です。考える時間も必要でしょう。ですがその間、俺でも話し相手になることはできます。頭のできは良くありませんので、退屈かもしれませんが頭の片隅にでも留めておいてくださったら、幸いです」

 力なく、劉備は笑った。その笑みに、一刀は彼女が多くのものを諦め、敗北を受け入れたのだと知った。打ちひしがれ儚く微笑む劉備は、美しかった。思わず見とれてしまう一刀を、稟の咳払いが正気に引き戻す。目的は、劉備を囲うことではない。諦めてくれたのならばこれで、目標達成だ。

「お部屋までは、黄叙に案内させましょう。どうぞ、お休みください」

 一刀が促した時、扉がノックされた。

 呼んだ人間は二人。
 
 そして、これだけ控えめにノックするのは、恋ではなかった。

「どうぞ」

 一刀が促すと、静かに扉が開く。

 かつて劉備軍で筆頭軍師を勤めた少女がそこにいた。劉備の顔は、血の気が失せて蒼白になっている。それは法正を見た時の比ではない。そのまま気絶してもおかしくないほどの劉備を前に、朱里は見た目だけは冷静に見えた。

 後悔、恐怖。色々な感情がない交ぜになった表情をしている劉備とは違い、朱里は無表情を貫いてたいた。

 とは言え、何も感じていないという訳ではない。当代で最高の軍師である朱里も、一人の少女だ。尊敬し、全てを捧げていた主が目の前にいる。その激情は、一刀では計り知れない程に深い。

 朱里は劉備など目に入っていないかのように振る舞い、応接室を横切り。一刀の隣に移動した。内務の責任者である朱里は文官の中でも序列が高い。加入したのは雛里の方が先であるが、このまま仕事を進めていけば稟に次いで次席の軍師になるだろう、と文官の間でも噂になっていた。

 待遇では劉備軍にいた時よりも下であるが、分業が進んでいる一刀軍では朱里の負担は驚くほどに少ない。静里がいたとは言え、何でも一人でやってた時に比べれば心身の負担は軽減されたはずである。働き易い環境を提供できたという自信が一刀にはあるが、かつてよりもやりがいを感じられているかと言われれば、話は別だった。

 身一つで学院を出て、自分で見つけた主が劉備である。彼女のために心血を注いで組織を大きくした。そこにあった忠義は本物だろう。それは一朝一夕でなくなるものではない。裏切られ、別のところに仕官した今となっても、朱里の心にはまだ忠義が残っている。

「朱里ちゃん……」

 劉備が朱里の真名を呼んだ。それに、朱里ではなく静里が眉根を寄せる。真名とはその人間にとって最も大事な名前だ。今更お前が朱里と呼ぶのかと、内心では劉備を刺したくて仕方がないのだろうが。低く唸り声を上げただけで、静里は身動き一つしなかった。まるで鉄の自制心である。

 そんな後輩の顔を横目に見ながら、朱里は劉備を見据えた。

「ご無沙汰しております。劉備様」

 朱里が口にしたのは、真名ではなかった。それが意味するところに、劉備はがっくりと肩を落とす。張飛が何か、言いたそうに朱里を見ているが、視線を彷徨わせるだけで何も口にしなかった。最初に話をするべきは劉備と、張飛も解っているのだ。

 長く、沈黙が降りた。朱里も、一刀も、応接室にいた他の誰も、劉備が口を開くのを待っていた。劉備は朱里を見たまま、泣きそうな顔で、それでも目を逸らさずに、しかし消え入りそうな声で、呟いた。

「…………ごめんなさい」

 その言葉に、静里が一歩前に歩み出る。全力で罵詈雑言を浴びせるつもりだったろう彼女を、朱里が手で制した。気色ばんでいた静里は、それで冷静さを取り戻した。自分よりも怒っている人間がいると、人間、冷静になれるという。一刀の目から見ても、朱里は怒っていた。小さな身体を怒らせながら、劉備に歩み寄り――

 ばしん、と乾いた音が応接室に響いた。劉備の頬を、平手で打ったのだ。震える手を胸に抱きながら、朱里は搾り出すような声で、言う。

「どうして謝るんですか? 劉備様は、何か悪いことをしましたか?」
「……ごめんなさい」
「どうしてですか!?」

 朱里が吼える。それは一刀が初めて聞く、朱里の怒鳴り声だった。

「何で今更そんなこと言うんですか!! どうしてあの時そう言ってくれなかったんですか!? 貴女さえ信じてくれたら私は……貴女のために死んでも良かったのに!!」

 血を吐くような叫びが、応接室に響く。涙を流しながら訴える朱里を見て、劉備はその場に膝から崩れ落ちた。顔を覆ってさめざめと泣き始める劉備に、朱里は更に怒りを募らせ、手を振り上げたが、それを振り下ろせない。背中から、感情がブレているのがよく解る。恨み言を口にしたところで過去は変わらず、また、劉備の現状も変わらない。自分がしているのがただの八つ当たりだということが解ってしまったのだ。

 加えて、朱里は元々、人を攻撃できるような性格ではない。まして相手はかつて敬愛した劉備である。手をあげたという事実が、自分が思っていた以上にショックだったのだ。ぶるぶると震えた朱里は、やがてぺたり、と尻餅をついた。劉備に手を伸ばして、落とす。かける言葉はなかった。感情が高ぶった朱里は、そのまま静かに泣き始める。

 空気が重い。目の前で女性が二人も泣いているのだから当然だった。誰かが助け舟を出さなければ収まりそうにないが、稟と静里は『我関せず』を貫いており、要は最初から当てにならない。使用人の立場でここにいる黄叙は、表情すら動かしていない。当事者以外で唯一この場の何とかしたいと思っているのは、劉備の横に座っている張飛だった。彼女は一刀に視線で助けを求めてる。劉備の従者であり、朱里や静里とも仲は悪くなかったという。大事な人が二人、目の前で泣いている今の状況は、彼女にとって絶えられるものではないのだろう。

 それは一刀も同じだった。朱里は大事な仲間であるし、劉備もそれなりに人となりを知った。何より女性を泣かせたまま放っておくのは男の沽券に関わる問題である。

「お互い思うところはあるだろうけどさ。行き違いはあっても、別れた場所と違う場所で生きて出会えたんだ。過去を水に流せとは言わないけど、いつまでもこうだった、ああだったって言うのも、それはそれで不毛だろう。まして二人は同じ物を見て、同じ場所を目指してたんだ。ずっとケンカしてたよりは、解りあえるはずだ……と思う」

 そこまで言って、一刀は言葉を止めた。『仲良くしよう』というのは簡単だが、人間の感情がそこまで単純ではないのは人生経験の浅い一刀でも解る。どうしてって許せないことはあるものだ。現に静里は話が纏まろうとしているこの空気に、はっきり『不快』という意思表示をしていた。その気持ちだって、一刀は理解できるが……やはり、仲良くできる人間は仲良くするべきだと思う。

 朱里が視線を向けてきた。

 その瞳の向こうで感情が揺れているのが見える。本質的に、朱里は優しい少女である。まして、相手はかつて同じ志を持っていた劉備だ。思うところはあっても、強く出ることはできない。

 しかし、かつてもそうであったように、今も二人の間には立場があった。しかも、上下は以前と逆である。州の内政を担っているという朱里の立場はそう変わらないが、曹操に負け、州の外に出た劉備は今、官位がない。かつて朱里を追い落とした負い目がある以上、劉備の側から下手に出なければ、後々問題になるかもしれない。

 普段であれば、二人もそれくらいは頭が回っただろうが、精神的に追い詰められているこの状況で、仲直りができるかどうか。必要であれば手を貸すつもりで、一刀は劉備を見た。涙を拭き、顔を挙げた劉備の瞳には、理性の色が戻っていた。彼女は床に手をつくと、深々と頭を下げた。

「あの時は本当にごめんなさい。解ってあげられなくて、ごめんね」




















3、

「あの御仁はきっと、何がいけなかったのか良く解ってないんだろうな」

 仲直りが成立したとして、劉備たちを部屋に案内する役は朱里が請け負うことになった。三人が部屋を出て行くのを見送ってから、一刀は深々と溜息をついて椅子に背を預けた。絶妙なタイミングでお茶を淹れてくれた黄叙に礼を言い、不機嫌な顔で文句を言う静里に椅子を勧める。

「仲直りできたんだから十分な進歩だろ? 蟠りがなくなれば話もできるし、話ができれば理解も深まる」
「それで再起を図られても困るのですがね……」

 稟も苦い顔をしている。朱里との関係が改善されるのは個人の問題。友人としては応援してやりたいというのは、稟も同じだろう。

 しかし、それで劉備が前向きになって野心を持つようになれば、それは陣営にとってダメージになりかねない。反応を見る限り、当座は大人しくしているだろうが、稟の危惧することになるようなら、手を打たなければならない。

「まぁ、忌々しいがしばらくは様子見か。住居と仕事はどうなってる?」
「黄叙」
「はい。以前、静里さんから伺った中からそれとなくお勧めするのが良いかと思います。今日からでも住めるように、いずれも手配済みです」
「州庁からもこの屋敷からも近すぎず遠すぎず、な部屋だよな。張飛殿も一緒に住めるな?」
「問題なく」
「後は仕事の世話ですね。私は教師などが無難かと思いますが」

 角が立たず、劉備の能力を活かせるとなるとやはりその辺りだろう。探せば他にいくらでもあるだろうが、あちらやこちらの立場を考えると、あまり下手な仕事をさせる訳にもいかない。

 それに、教師の手はいくらあっても足りない。教育を政策の一環としているこの州では常に教師を募集しているが、現代において教育というのは金持ちがやるものという認識が強い。知識人の数は決して少なくはないが、庶民に物を教えることに意義を見出せる人間はそれほど多くはない。その点、劉備ならば相手が庶民だからと手を抜いたり嫌な顔をしたりはしないだろう。理念を説明すれば、喜んでやってくれそうな気さえする。

「その辺りだろうな。それから劉備殿に監視とかは……」
「ここに来る前から交代で部下を張り付かせてあるよ。屋敷から出て行ってからも、最低一人はつける。孫呉とかに接触されたら事だが……それを防ぐことまではあまり期待するな。草の実力は正直あっちの方が上だ。甘寧とか出てこれらたら、私らじゃどうしようもないからな」
「そこまでは期待してないよ」

 孫呉からしても劉備は決して無視できる存在ではないだろうが、好んで接触を持とうとするほど重要な人物ではないはずである。劉備自身も不審な動きをすることはないだろう。警戒するのは劉備を担ぎ上げようとする輩だけで良い。

「厄介事が一つ片付いたところで、後は東の問題だな。あっちの北部、黄巾の動きがまだ未知数だが既に南下は始めていると思われる。数が数だ。戦線は相当南に押し込んだはずだ」
「徐州はどうなりました?」
「反乱の気配はないな。当座は曹操に従う方針のようだ。曹操軍の方も西を意識してるらしく、この状況でも――いや、こうなる前に兵を進める準備をしてたんだろうが、一軍がこっちに向かってるって情報が入った。数は大体二万」
「二万か……」

 先遣部隊としてはまずまずの数である。曹操軍の二万となると、やはり精兵だろう。霞が率いる并州の兵も精鋭ではあるが、守勢とは言え数で劣るこの状況は霞と言えども厳しいものがある。

「ちなみにその先遣隊を率いるのは楽進って話だ。大将のお友達を態々差配するとは、曹操も粋なことをするもんだ」
「……交渉の余地ありとは見えないかな?」
「天下統一が目的であれば、私たちもいずれは叩き潰す腹積もりのはずだが、目下曹操が何とかするべきは南下する黄巾だ。領土を取られたままってのは奴の沽券に関わる問題だからな。かと言って、孫呉と同盟を組んだ私たちを放っておいて良い訳でもない。どうあったところで、先遣隊が来るのは変わりなかっただろうが、この状況になったことで意味合いも大分変わってきた。稟はどう思う?」
「交渉の余地はあるでしょう。ここで二面作戦を始めるということは、更に南の孫呉とも戦をするということにもなりかねませんからね。同盟とまでは行きませんが、不可侵に近い条約を結びに来ることも、考えられないではありません」
「俺たちとしてはそうなってくれたらよしだな」

 今は何より時間が惜しい一刀としては、願ったりかなったりだ。テーブルに着くのが文謙であれば、全く知らない人間が来るよりも交渉はまとめやすいに違いない。

「不可侵ってことになると思うか?」
「そうなってほしいというのであれば、そうしましょう。それが私の仕事ですからね。向こうに交渉の用意さえあれば、後は私が話をまとめます」
「ありがとう稟。さて、残りの問題は孫呉か」

 こちらで交渉をまとめても、孫呉がゴーサインを出してきたら戦になる可能性が高い。今戦えば勝算が薄いというのは、孫呉も解っている話である。元よりこちらに期待していないだろうとは言え、同盟を結んだ人間が勝つに越したことはない。人情としてそう考えるのが妥当であるが、出る杭を叩き潰しておきたいというのなら、玉砕覚悟で突っ込ませることもありえる。

 正直どっちもありそうに思えるが、孫策ならば停戦の方に乗りそうな気がした。大将らしく合理的に物を考えることもあるが、基本的に感性で動いているところが大きい。どちらがより面白そうか、という点に立つならば停戦だろう。寡兵で大軍を打ち破るというのは夢があって良いが、現実には早々起こりうるものではない。

 更に万が一ということもある。もし、一刀軍が曹操軍を押し返すようなことがあるならば、それこそ取り返しがつかない。まして曹操軍には北の黄巾軍という事情もある。相手が全力を出せなかったという事情があっても、庶民までがそれを理解している訳ではない。一刀軍は強い、というイメージが世間に根付いてしまったら、孫呉としては大損だ。

 既に孫呉本軍が準備万端ならばまだしも、揚州はいまだに忙しいと聞く。本格的な戦は、まだまだ先だろう。

「曹操軍に動きがあったら、こっちからも働きかけよう。孫呉と足並みを揃えておく必要がある。できれば周愈殿がいる間にまとめたいな。草の人たちにも情報収集を急がせてくれ。黄巾と西進の情報が確定したら、行動開始だ」
『御意』
























あとがき
桃香さんは本当に難しい人でした……
私ではこれくらいが限界ですごめんなさい。
次回凪が出てくるかも出てこないかも。
そして七乃さんのターンその1。








 



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第三十九話 并州会談編①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:53a6c9be
Date: 2014/12/24 05:01
「暇やなぁ……」

 一刀の命令を受け、州都を出発して三ヶ月が過ぎた。州境にある砦に到着するのに、三日ほど。神速の張遼隊の面目躍如といった速度で到着しても、部隊はずっと待機である。元々、戦になる可能性は低いというのが軍師たちの見立てだったが、実際に其の通りになってみると実に面白くない。

 一刀などは、何事もない方が良いと言うのだろうが、武人である霞はそれでは退屈なのだ。せめて好き放題馬を乗り回せればよいのだが、調練という名目であっても、大規模に軍を動かしてあちらに『挑発』と取られたら目も当てられない。霞の希望は戦いでも、一刀の命令は待機だ。さらに言えば部隊の規模は向こうの方が上で、しかもかなりの精兵である。

 ただ、騎馬部隊の錬度はそれ程でもない。馬の質もこちらに比べれば良くはない。その辺りは立地の差だろう。条件が悪いなりに調練を積んでいることは、見れば解った。一糸乱れぬ行軍は、指揮官の性格を現しているようである。見たことはおろかどんな人物なのかも良く解らないが、あちらの指揮官はおそらく堅物で間違いない。

 咥えていた草の葉を、ぺっと吐き出す。風に乗って舞う葉の向こうに、曹操軍の陣が見えた。兵数は約二万。精兵ばかりの彼らとにらみ合いだけで三ヶ月だ。暇で暇で仕方がない。報告書は逐次州都に挙げているが、特記なしと報告を続けるのもそろそろ限界である。何か行動を起こした方が良いかとやんわり聞いてみたが、筆頭軍師殿からは『余計なことは何もするな』というありがたい命令が書面で届いた。

 ここで戦をするのが得策ではないというのは、霞にも解っている。

 だが、何かしたいのだ。せめて一当たりくらいしないと、三ヶ月もここで暇を潰しただけで終わってしまう。いつか戦うかもしれない相手が、目の前にいるのだ。彼らを眺めるだけで国に帰すのは、勿体無いにも程があった。

「小姉さん。ここにいたんですか」

 物見台の梯子を、澪が上がってくる。澪は霞の隣に立つと、目を細めて曹操軍の陣を見た。

「今日も動きませんねぇ……」
「見た通りやな。演習でもせえへん? って手紙出したら、乗ってきてくれんかな」
「あぁ、それは良いですね。乗ってくれると、私も楽しいんですが……」

 馬と共に生きてきた澪も、じっとしているのが耐えられない性質である。柵を握る手には力を込められていた。あそこにいるのが精兵であるのは、少し見れば解る。そういう連中と戦ってみたいと思うのは、武人の性だった。

「まぁ無理やろな。あの陣を敷いた奴は、絶対頭の固い堅物やもん。稟ちゃんとかとは気が合いそうやけどな」
「小姉さんとは合わないでしょうねぇ……」
「一緒に遊ぶんやったら楽し思うけどなぁ」

 昔から四角四面に仕事を進めようとする人間とは合わなかった。それが必要というのは解るが、自分のすべきことではないと、忌避感すら覚えてしまうのである。衝突すると解っているのなら、必要以上に関わらない方が良い。霞直属の部隊が自由な気風になっているのは、責任者である霞の性格が色濃く現れた結果と言える。

「しっかし、三ヶ月もにらめっこすることになるとは思わんかったで。やるならやる、やらんならやらんでさっさと次いこーってことには、ならんもんやなぁ」
「あちらにもあちらの事情があるのでしょう。平和なのが一番と、一刀様なら言うと思います」

 私は戦いの方が気楽です、と澪は笑う。それについては霞も同意見だ。霞や澪だけでなく多くの兵がそう考えているのだろうが、そういう発言をすると、一刀は何とも言えない悲しそうな顔をするのである。

 人が死なない方が良いに決まっているというのが、一刀の持論だ。

 軟弱な、と思わないでもないが、そういう優しさのある人間の方が上に立つのに向いているということもある。自分が思われていると思うと、兵も不思議と力が出るものだ。文官と衝突しがちな兵の多い并州軍にあっても、一刀の人気は高い。

(一刀、元気かなぁ……)

 三ヶ月にらめっこを続けているということは、それだけ一刀の顔を見てないということでもある。演習で州都を空けることもままあったが、戦争の気配もなかった并州で、これだけ一刀と離れるのは久しぶりのことだった。戦に出た兵は多かれ少なかれ郷愁を覚えるものであるが、ここまで強く誰かを意識したのは初めてのことである。

 もしかしてこれが恋? と詮無い想像をしてみて、笑う。自問してみて理解できたが、そこまで甘いものではなさそうだった。ただ人間として、一刀のことが好きなのである。あの声を聞いて、馬鹿みたいに笑って、一緒に酒でも飲みたい。そういう欲求が、霞の中で大きくなっていた。

 その欲求を実現するためには、眼前に展開する部隊が邪魔である。曹操軍の精兵二万。相手にとって不足はない。おっとり刀で駆けつけた時とは違い、并州軍の主力騎馬隊も、遅れて到着した。戦力もしっかりと整いつつある。兵数としては劣るが、展開次第では勝ちも拾えるだろう。良い勝負ができると、霞には確信があった。

 本音を言えば今すぐにでも打ってでてやりたいが、敬愛する一刀と幹部連中の判断は『待機』である。あちらが突っかけてこない限り、こちらから戦を挑むことはできない。勢力全体として見た場合、まだまだ曹操軍の方が精強なのだ。時間を稼ぎたいのはこちらの方。せめて事態が好転し、明確に曹操軍が不利を背負うまではこちらから手を出すことはできない。

 ふぅ、と霞は大きく溜息をついた。

 政治的事情があるならば、こちらでは何もできない。どれだけ一刀との酒を焦がれても、待機しかできないのだった。大きく伸びをして、腰を鳴らす。今日も動きがないのであれば、物見に出てくる必要もない。身体がなまらないように調練でもしようと、梯子を降りようとした矢先、澪が声をあげた。

「小姉さん、動きがありました」

 囁くような澪の声に、霞はとって返して身を乗り出した。

 敵陣の中から騎馬が進み出ている。少数。僅かに五騎だ。その内一人には見覚えがあった。浅黒い肌に銀色の髪。敵陣の将軍で、名前を楽進といったはずだ。残り四人には、覚えがない。

 しかし、四人に囲まれるようにして歩く金髪の小さい影から、霞は目を離すことができなかった。只者ではないと、直感する。

「もしかしてもしかすると、あれって曹操やったりせぇへん?」
「やだなぁ、小姉さん。もしそうだとしたら大変じゃないですか」

 ははは、と澪は声を出して笑うが、顔は欠片も笑っていなかった。澪も目を細めた真剣な表情で、金髪の少女を見つめている。細かな雰囲気など理解できなくとも、敵陣の将軍が金髪の少女を守るようにしているのだから、将軍よりも身分が上なのは誰でも解る。

 それが戦う意思を見せずにこちらに向かっているのだから、こちらとしては手を出すこともできない。話がしたい、そういうことだろう。

 そしてこちらの陣営の責任者は自分である。重い決断ならば州都まで持ち帰る必要があるが、そうでないなら一人で処理をしなければならない。

(せやから頭の回る副官欲しい言っとるのになぁ……)

 責任者が丸投げとはいかないが、判断の参考にする意見を出してくれる人間は必要だった。并州軍にもそういう人間はいるにはいるが、叩き上げの彼らの経験に基づいた判断は要所で大いに参考になるものの、政治的な判断には向かない。霞が求めているのは、戦うこともできる軍師だった。

 軍師の中で言えば、灯里が一番良い線を行っている。剣の腕もそれなりで部隊の指揮もでき、方々に顔が利く彼女が副官としていてくれれば、いざという時頼もしい。軍団が再編された時、軍部に来ないかと期待していたのだが、彼女はねねと共に経済の建て直しという戦とはまた違った大きな使命を持って東奔西走することになった。残りの幹部は頭は回るが腕っ節については残念な人間ばかりである。

 後は……と、最有力候補に思い至ると、霞は何とも複雑な表情を浮かべた。

 霞の脳裏に思い浮かんだのは、張勲である。そこそこ腕が立ち、何より頭が回る。霞の求める条件にこれほど当てはまる人間もいないが、彼女は袁術軍の人間、それも実質的な運営を担っていた大幹部だった女だ。

 今更、先の戦でどちらにいたかには拘らない。今仰ぎ見ている一刀だって、元は孫呉の所属で霞とは敵同士だった。それは解っているのだが、袁術軍というだけで拒否反応が起こってしまうのは、当時董卓軍に参加していた将兵にとっては当然の反応と言えた。

 その張勲は既に、袁術と共に一刀の身内とされている。正式に縁組をした訳ではないが、対外的には同じことだった。代表の家族なのだから、どういう遺恨があっても雑に扱う訳にはいかない。それが有能ならば尚更である。

 張勲の有能さは、雛里からも伝え聞いていた。今は新兵の調練を見ているが、その指揮の冴えは目を見張るもので軍棋を指しても負けることがあるという。このまま何もなければ、遠征軍に回される可能性もあるということだ。

 今は曹操と事を構える寸前であるが、袁紹軍の方も放ってはおけない。袁家に所属していた張勲の情報は、前線に立つ人間には喉から手が出るほど欲しいものだ。

 しかし、それも裏切らなければという前提に立っての話である。一刀が信頼しているようだが、霞は彼女のことが信頼できないでいた。

 人間を見る目、という点においては一刀は中々信頼できるものがある。彼が言うのだから大丈夫なのだろうが……信頼とは行動によって生まれるものだ。まだ彼女がどういう人間か深く知らない霞には、やはり張勲を信頼することができない。自分が信頼できない人間を、部下に信頼させることはできない。引いては、張遼隊が張勲に不信を持つことに繋がる。戦場での不和は敗北に繋がり、敗北は人間を死に至らしめる。

 頭を振って、大きく息を吐く。

 霞は軍人である。正しい軍人は、上が決めた人事に抵抗しない。稟たちは憎き宦官たちとは違うのだ。足を引っ張るような人事だけは絶対にしないと、信頼することができる。

 いずれ一緒に戦うのならば、一度腹を割って話してみるしかない。どう転ぶにしても、それは未来のこと。霞はとりあえず、張勲について考えることをやめた。

 金髪の少女を中心とした集団はついに、物見台からもはっきりと顔が見える距離まで近づいていた。

 高貴な装いに、獲物は業物の大鎌。小兵ではあるが、近くで見てみるとその威圧感が凄まじい。間違いなく、あれが曹操だろう。

 面倒くさいことになるのを確信した霞だったが、その顔には笑みが浮かんでいた。

 膠着状態には飽き飽きしていたところだ。状況が動くならば、どんなものであれ歓迎しよう。

(これで、一刀に会えるかもなー)

 そうであれば、凄く楽しい。自分が州都に戻るような展開になれ、と霞は天に祈った。




 


















「見事です」

 いまだに踏ん張っている七乃隊を見て雛里が漏らしたのはそんな感想だった。七乃隊の相手をしているのは、元々并州にいた軍であるが、霞が并州軍実働部隊の最高責任者になって以来、寝ても覚めてもしごき続けてきた兵である。見所のある上位の兵は霞直属となったものの、そうでないからと言って弱兵ではない。戦場に出て良いと霞からゴーサインを貰った中に、惰弱な人間は一人もいなかった。帝国全土の水準で見ても、并州兵は精強な部類に入るだろう。

 その騎馬隊が手加減をしているとは言え、寡兵でもってその突撃を正面から受け止め、吹っ飛ばされても戦意を失わないばかりか、なお勝ちを拾おうとする彼らの姿勢は賞賛に値すると言って良い。新兵ならば尚更である。

「まさか三ヶ月でここまでになるとはね……」
「100人だけなのが心苦しくはあります。ですが、彼らならばもう従軍しても足手まといにはならないことでしょう」
「残りはどうだ?」
「いただいた時間があれば十二分に」

 七乃の笑みは、順調過ぎるほど順調と物語っていた。

 新兵の調練は、ただのステップだ。いずれはもっと責任のある地位に、というのは最初から考えていたことであるが、そうなると七乃の資質が問題になってくる。トップが何も考えていなかった頃の美羽なのに、袁術軍が軍団として機能していたのは、七乃の功績に寄るところが大きい。一角の才能があるのは解っていたことだが、新兵の調練という袁術軍ではやらなかっただろう仕事でも、彼女は非凡なところを見せてくれた。

 今は百人の中の代表が指揮しているが、これを七乃がやるともっと強くなるという。百人隊長としても非凡な力があると雛里が太鼓判を押した。前から、霞は頭が回ってそれなりに戦える副官が欲しいと言っていた。七乃なら十分、霞の眼鏡に叶うだろう。武官不足は元から問題となっていたこともある。できることならすぐにでも要望に応えたいところだが、まだまだ緊迫した状況がそれを許さなかった。

 七乃が霞と共に仕事をするようになるには、まだ時間がかかるだろう。それまではこの新兵達を、七乃直属として調練を続けるより他はない。二千人。将軍と呼ぶには少ないが、勢力に加入したばかりであることを考えると、破格の待遇である。

 実績を考えれば少なすぎるほどであるが、それは時間が解決してくれることだろう。彼女は優秀だ。それでも、実績を出し続ける必要がある。袁術軍出身というのは、それだけで敵を作る要素になりうる。人間性を信頼しているのは幹部だけ。仲間を増やしていくには、彼女自身の努力が必要になる。

 ちらと、七乃を見る。戦う百人を見つめる眼差しは真剣なものだ。

「七乃。あの百人について詳しく話せるか?」
「出身地、来歴まで全て。二千人全員、良く話をしました」
「百人選抜して、他の面子は不満に思ってたりしないか?」
「信賞必罰は世の倣いです。次こそは、と皆懸命に調練しています」
「良いことだ」

 どんな事情であれ、選ばれなかったということは禍根を残す。奮起していると言葉にするのは簡単だが、それを心の底から言うのは難しいものだ。七乃の言葉には、確信に満ちた響きがあった。少なくとも、七乃は選ばれなかった千九百人が前向きに頑張っていると信じているのである。良く話をしたというのは本当のことだろう。

 一刀自身、七乃と良く話した。袁術軍の筆頭幹部だったということで世間の評判は最悪だが、評判ほどに人間性は破綻していない。単に美羽のことが全てというだけである。それはそれで危険ではあるものの、美羽の安全が確保されている限り、彼女は極めて常識的に行動する。

 一刀の後ろでは、稟が直立不動で立っている。私が口を挟むべきことはありませんと顔に書いてあるが、それなりに長い付き合いだ。不機嫌なのは見れば解った。まだまだ七乃のことが信頼できないのだろう。気持ちは良く解る。幹部の中で、七乃について思うところがないのは一刀自身と、判断基準が使えるか使えないかの静里と、来るもの拒まずの灯里くらいのものである。

 袁術軍にいた。ただそれだけの理由で、大抵の人間が壁を作っている。それを責めることはできない。一刀も、特に理由がなければ七乃を色眼鏡で見ただろう。今、一刀が七乃を普通に受け入れることができているのは、孫呉の演出があったからだ。美羽も七乃も、今は家族である。家族を信頼しない理由はないし、七乃はその信頼に応えてくれている。家族が、仲間が結果を出してくれるのは、嬉しいものだ。

 どうだ、と稟を見ると彼女は不機嫌そうに視線を逸らした。結果を出したことは誰の目にも明らかだ。稟の求めるレベルに及んでいるのかは解らなくても、期待はずれと評価を下すことはできない。厳しい性格であるが、稟は仕事に私情を挟んだりはしない。七乃のことが嫌いでも、能力さえ確かであれば登用はしてくれる。そういう公正なところが、一刀は好きだった。


 結局、新兵百人は一人残らず叩きのめされてしまったが、誰一人途中で逃げ出すようなことはせず、その場に踏みとどまった。一刀は七乃と共に彼ら彼女らの元を訪れる。

 彼ら彼女らは都市部、農村部と生まれは様々であるが、ほとんどの人間は貧困層の出身で、男性もいれば女性もいる。年齢は若いと言って良いだろう。少年少女と呼べる年齢に見える者も、三割程度混じっていた。

 彼らにとって州牧というのは良くも悪くも雲の上の存在であり、会話はおろか顔も知らないという人間がほとんどだった。そもそも具体的にどういう仕事をしているのかすら知らない者もいたくらいである。ざっくりと、自分たちには及びもつかない偉い人という理解をしているだけ彼らの元に、その州牧が笑みを浮かべて現れ、さらに握手まで求めてくるのだから、新兵たちは驚くことも忘れて茫然自失となった。

 彼らの意識がはっきりとしない内に、一刀は彼ら一人一人と握手をし激励すると、その足で州庁に戻った。

 移動は馬車である。御者台には要が座り、周囲は近衛の兵で固めている。馬車にはまず一刀が乗り込み、次いで稟と雛里、席次が一番後ろの七乃は最後に乗り込み、一番下座に座る。四人が乗り込んだことを確認してから、要は馬に鞭を入れた。村を出て、もう青年と言っても良い年齢に差し掛かりつつあるが、要はいまだに足し算を間違える。武はかなりのものがあるのに、さっぱり出世できないのはその辺りに由来していた。

 要と同期の人間はそれなりに出世をし、文官に向いているものはそちらに異動するなど大いに活躍していたが、要だけが村を出た時からほとんど変わらぬポジションで働いている。人間、欲があるものだ。良い暮らしとかしたいと思わないのかと思わず聞いたことがあるが、彼は屈託なく笑いながら、今のままで良いと答えた。

 それが嬉しくもあり、少し寂しくもある。もう少し欲があっても良いと思うのだが……それは個人の問題だ。

 調練は州都の外周、街壁の外で行われている。州庁までは馬車で30分程度の道のりだ。一眠りするには十分な時間である。椅子に深く腰を下ろした一刀は、早速一眠りしようと瞳を閉じかけたその横面を、何やら固いものがこつん、と小突いた。

 差出人は、稟である。眼鏡の奥の凛々しい目が、仕事をしろと言っていた。稟にばれないように小さく溜息を吐いて、それを受け取る。

 紐を解いて、中身を見る。稟が渡してきたそれは、外務に関する資料だった。并州外の勢力の情勢が細かく記されている。中でも一番詳しく書かれているのは并州から見て東側、曹操の勢力圏についてだった。南下する黄巾の勢力を食い止めることに成功。今は奪われた土地の奪還を始めているという。元劉備勢力圏での抵抗は、驚くほどに少ないようだった。無理に抵抗するなというのが、最後まで残り戦った将軍、張飛の命令であるという。それを忠実に守った結果とも言えるが、単に戦っても勝ち目がないということに気づいたんだろう、というのが静里の弁だ。

 最後まで戦った人間と、途中で諦めた人間。その温度差は、外から見た時以上に大きいものである。実際に劉備軍について戦っていた人間も、続々と曹操の軍門に降っているという。戦うことで日々の糧を得ている人間にとって、頭から上がどうなっているなど大した違いではない。庶民にとって最も重要なのは平和で安定した生活が続くことである。それが行われるのならば、自分の上に立っているのが劉備でも曹操でもどっちでも良いのだ。

 曹操は厳正ではあるが、民に負担を強いたりしないと聞いている。劉備の統治よりは窮屈を覚えるかもしれないが、時間が経てば民はそれにも慣れるだろう。

 黄巾により打撃を受けた軍は、急速に再編が進んでいるという。劉備軍の兵を吸収している訳だが、その指揮に当たっているのがあの関羽という情報が入った。これについてはまだ確認中らしいが、静里の勘では『間違いない』とのことだった。劉備軍の中でも殊更劉備に心酔していた人間と聞いている。それがどうして曹操に降り、あまつさえ、兵として戦っているのか一刀には解らなかったが、首を刎ねられたと報告を受けるよりはマシと考えることにした。

 当面、彼女は北部の黄巾と戦う予定らしい。仮にこのまま曹操軍と一戦交えるようなことになっても、かの美髪公と戦う何てことにはならないはずだ。

 一通り木簡を読み終えて一息吐くと、こちらをじっと見つめていたらしい雛里と目があった。見つめ返すと彼女は慌てて目を逸らし、帽子で顔を隠してしまう。相変わらず初々しい反応が可愛らしい。膝の上にでも乗せて思う存分撫で回したいところであるが、仕事モードの稟が隣にいるこの状況で自分の欲望に正直になったらどういうことになるのか、学習しない一刀ではなかった。

 木簡を紐で結び、稟に返すと入れ代わりに別の木簡が差し出されてくる。次は幽州か冀州か。身構える一刀の耳に、御者台の方から戸を叩く音が聞こえた。

「団長、早馬みたいですよ」

 その声に、七乃が馬車内を横切り、歩道側の窓を開けた。外の風が流れ込むと同時に、馬車とは別の馬の足音が聞こえてくる。

「久しぶりだな、大将」

 早馬に乗っていたのは、静里だった。数日前に州都を出て、それ以来の再会である。部下に動きがあったと出て行ったはずだが、本人が早馬で戻ってくるとは相当のことなのだろう。表情を引き締める一刀に、静里は端的に応えた。

「東の砦に曹操が来た。護衛は四名。その内一人は遠征軍を率いていた楽進だ。今は霞が200を率いてこっちに向かってる。大将と会談がしたいらしい」

 本当か、とは誰も聞かなかった。静里は情報部門の責任者である。その本人が、態々早馬に乗って来たのだから、これはそういう確度の話なのだ。

 詳しいことは州庁で話す、と静里の馬は先に道を行く。馬車の中には沈黙が降りた。曹操と会談。願ってもない話だ。黄巾が曹操軍を攻めたことで今すぐ戦ということはなくなったが、御大将自ら足を運んできたということは、安全に更に保証が付いたと考えることもできる。和平、停戦の話であるならば兵力の劣る一刀軍としては、これを受けない理由はないが――

「孫呉がどう出るか、ということになりますね」

 七乃が静かに、口を開く。稟がギロリと睨みやるが、何処吹く風とばかりに七乃は涼しい顔をしていた。幹部がいる場で、自己主張するのは珍しい。元より、袁術軍にあって孫呉と戦った七乃は、この場で最も相対する側として、孫呉を知っている人間である。共に戦ったことしかない一刀たちにとって、それは得ることのできない感覚だ。

 視点が違えば、別の意見もあるかもしれない。

 七乃の考えが聞きたい。そういう意図を込めて、一刀は二人の軍師を見た。雛里は小さく頷き、稟は不承不承といった様子で窓の外に視線をやった。話してよし、という軍師二人の態度を受けて、一刀は七乃を促す。

「孫策さんは大望をお持ちの方です。いずれは全ての勢力を平らげて、頂点に立とうと考えておいででしょう。孫呉にとって、曹操軍がここで一息吐くことは、少々都合がよろしくありません。できることなら二面、三面で攻め立てて、立て直す隙を与えたくないはずです」
「勝敗はともかくとして、俺達には戦って欲しいって訳だな」
「負ける前提で話を進めていることでしょう。むしろ一刀様に勝たれると、力関係がより混沌としてきます。孫呉の後ろ盾なしに、曹操軍とも渡り合えるようなことになれば、孫呉と同盟を維持する旨みはなくなりますからね」

 ふむ、と一刀は息を吐く。確かに同盟を組むならば遠く離れた孫呉よりも、隣の曹操の方が都合が良い。孫呉と組んで曹操と戦うよりは、曹操と組んで孫呉と戦った方が、生き残れる確率は高いようにも思える。

 ただそれは、今から誰と同盟を組もうと考える余裕があった場合である。既に客将という名目で手練が二人も送り込まれている以上、ここで違う方向に舵を切るという選択肢はない。相手への配慮を考えるならば、仮に曹操から申し出があったとしても、孫呉と同等の同盟を組むことはできない。

 流石にこちらの状況は、曹操も解っているだろう。その上で、離間工作を行うことは十分に考えられる。実際に同盟を組むことはなくても、孫呉が組むかも、と疑心暗鬼になれば、それで良いのだ。

「西進の軍は約二万。并州全体に圧をかけるには聊か心元ない。では補足されないような確度から兵が攻めてくるかと言えば、それも考え難い。今は黄巾の対応で精一杯のはず。万全の策と少数の精鋭でもって、仮に并州を落とすことができたとしても、一刀様に喧嘩を売るということは、すなわち、孫呉との開戦です。流石に曹操さんでも後が続きません。孫呉も戦を終えた後ではありますが、今なお戦っている曹操軍と比べれば、まだまだ余裕がありますからね」
「じゃあ、曹操殿は何をしに来るんだと思う?」
「停戦、という名の不可侵の強要が建前。本音は一刀様の値踏みと言ったところでしょうか?」
「俺の? あの曹操殿が?」

 一刀からすればそれは、至極当然の疑問だった。曹操と言えば、かじった程度した三国志を知らない人間でも知っている程のビッグネーム。武将が女の子になった世界とは言え、その実力は一刀の耳にも届いている。そんな大人物が自分に興味を持つとはどうしても思えないのだが、仲間三人からの反応は一刀に追随するものではなかった。七乃は呆れ、雛里は口をぽかんと開けて驚き、稟は冷ややかな目でこちらを見つめている。

「……その身一つで立ち上がった人間は普通、三年少々で州牧になったりはしませんよ? 今や一刀様は立身出世の体現者ですから」
「そう言われると、自分が凄い人間のように思えてくるから不思議だ」
「そこで増長しないのは、一刀殿の美徳の一つと言えるでしょう。帝国内の実力者を上から順に並べた場合、一刀殿はまだ上位十指にも入らないでしょうし」
「参考までに聞くけど、上位五指はどんなものかな」
「袁紹、曹操、孫策、馬騰、公孫賛。順番としてはこんなものでしょう。これに『いまだ行方不明』の董卓が続くと考えて良いと思いますが、袁紹軍と公孫賛軍の戦の推移により、近く順位が入れ替わるはずです」

 負ける公算の高い公孫賛が脱落し、それに疲弊した袁紹も順位を落とすということである。袁紹がどこまで落ちるか解らないが、そうなった時存在感を増すのは二位、三位の曹操と孫策、そして中央の争いにはほとんど関わっていない馬騰である。

 馬騰は勢力圏が帝国西部ということもあり、東部の面々との軍事的な交流はほとんどない。勢力圏が近い董卓とは知らない仲ではないらしいが、その董卓が中央での勢いを失っている今、馬騰は帝国西部の顔役と言っても良い。

 東部は今荒れているが、その影響を受けていないのも大きい。手付かずの戦力がいずれ中央に押し寄せてきたら、と危惧しているのは決して少数ではない。

 ただ、あちらはあちらで異民族との問題を抱えている。并州で良好な関係を築けていることが、全体としてみたら稀有なことなのだ。領土的な野心を持っていたとしても、今すぐ実行に移せる訳ではない。

「あちらは五名ですから、こちらがそれ以上の人数を会談に同席させる訳にはいきません。こちらが出せるのは最大でも五人ですが、曹操殿が連れているのは全て武官です。我々が全員文官で固めるのも、それはそれで角が立ちます」
「夏侯淵殿は切れ者だって聞くけど?」
「それでも武官は武官です。そして、それを逆手に取ってくることも考えられます。彼女らは曹操殿の護衛です。重要な会談の場に護衛をぞろぞろ連れ歩くのも、あまり格好の良いものではありませんからね」

 それは一刀にも解った。護衛を連れるということは危険を認識しているということで、極端な話をすれば『お前達を信用していない』と宣言するに等しい。敵対勢力ではないにしても、自分の勢力圏の外にたった五人でやってきたのだ。身の危険を感じるのも当然だが、曹操はそれを承知の上でやってきた訳だ。重要な会談の場所でも護衛を外さないというのは仕方のないこと、という理解を得られるとしても、それは『曹操という人間は小心である』という風聞に繋がりかねない。

 たった五人で乗り込んできたのだ。曹操の立場、性格からして、見得は最後まで張り通す必要がある。つまり――

「最悪、会談は一対一で行われます。連れて行けるのは、多くても一人です」
「その場合、こっちは軍師を連れて行っても良いのかな?」
「武官を連れて行くのが無難でしょう。お互い一人の護衛ということで、体裁も整いますし……」

 答える稟の表情は優れない。重要な場面で自分が同席できないのが歯痒いのだ。稟も剣を使えない訳ではない。かの『常山の昇り竜』殿から手ほどきを受けた腕は中々のものであるが、それは文官にしてはという程度である。将軍級の面々とは比べるべくもないし、一刀よりも大分弱い。

「雛里、警護はどうなる?」
「どこで会談をするかにも寄りますが、州庁か、そうでなければ一刀さんのお屋敷ということになるでしょう。どちらも静里さんにお願いして構造は徹底的に調べましたから、こちらが把握できていない隠し通路などの類はありません。周囲を厳重に固めれば問題ないと思います」
「あまり疑いたくはないけど、孫呉はどうだろう」
「手を出す可能性は低いと思います。孫呉が望んでいるのはここで軽く一当たりすることで、本格的に戦を始めることではありません。ここで曹操殿に何かあって、更にそれが孫呉の差し金と解ったら、曹操軍が後に引けなくなります」
「曹操殿を人質にとるとか」
「曹操殿がこっそりおいでならまだしも、霞さんたちが護衛してこちらに向かっている訳ですから、どういう目的で何処にいるのか、多くの人が知っています。ここで正体不明の勢力が現れて曹操殿をさらったとしても、誰もが私達か、孫呉の関与を疑うことでしょう。それでは評判を落とすだけで意味がありません」
「やるなら俺達でも孫呉でもない第三勢力ってことだな」

 并州を完全に統一したとは言えないが、州都から東の砦までは最も目が行き届いている地域と言って良い。絶対とは言えないまでも、この辺りは并州で最も安全だ。霞が東の砦から戻ってきて、更に州都には恋を始め精鋭が揃っている。孫呉に裏切られる心配がないならば、思春や呂蒙の部隊も使うことができる。これを突破できる勢力はいない……と思いたい。

 なれば、連れて行く一人を誰にするかである。

 視線を彷徨わせながら、一刀は思う。ここでのことは曹魏に伝わり、筆頭軍師の荀彧の耳にも入る。世間での評判がどうとか、曹操が自分をどう思うか。考えるべきことは色々あるが、一刀が考えたのは荀彧のことだった。平凡な手を打てば笑われる。考えて手を打てば、小賢しいと思われる。だからせめて意表を突いてやりたい。荀彧も、曹操も想定していない手を打って、あっと言わせてやりたい。

 その希望を叶えた上で、曹操に合わせてこちらも見得を張り、かつ会談を成功させる必要がある。意表を突けて、文官ではなく、護衛という名目を通すことができて、会談の場に連れて来ても相手を納得させることができるだけの立場にある人間。

 そこまで考えたところで、一刀は視線を上げた。対面の席では、七乃がにこにこと微笑んでいる。以心伝心。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。





[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第四十話 并州会談編②
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:53a6c9be
Date: 2015/03/07 04:17
 曹操がやってくる、数日前の話である。

 七乃をもって奇策を打ちたいという一刀の希望は、最終的には幹部会議で承認された。曹操に一泡吹かせたいというのは幹部全員の共通見解だったが、それに七乃を用いるということに難色を示した者もいるにはいた。そのため色々な方法が検討されたが、現実的に実行可能な範囲で一番効果がありそうだったものが、一刀の七乃案だったため、いくらかの修正を経て採用の運びとなった。

 二千人の新兵を預かっているだけの人間からすれば、大抜擢も良いところである。七乃の出自を知っている人間は、当然、良い顔はしない。失敗すればそれこそ凄まじい非難に晒されるだろう。

 自分一人ならば、それでも良い。どうせ一度は死んだ命だ。どこで失おうと惜しくはないが、自分の肩には敬愛する美羽の命と、一刀の名誉が乗っている。自分の失敗は美羽の命を危うくし、一刀の顔に泥を塗ることになる。それだけは死んでもご免だった。

 何があっても、何をしても、この会談は成功させなければならない。とにもかくにも情報が欲しかったが、袁術軍を率いていた時とは色々なものが異なる。部下は二千人と数こそ多いが、全てが新兵で情報収集には向かない。文官向きの人間を見立て色々と教えてはいるが、目が出るにはまだまだ時間がかかるだろう。

 本格的に情報を集めるとなると、他の人間を頼るしかない訳だが、今現在の立ち位置だと片手で数えられるほどしか頼れる人間がいなかった。その筆頭である一刀は稟や風に捕まっていて州庁では動けず、また屋敷では疲れて眠るだけ……かと思えば、嫌な顔一つせず美羽の相手もしてくれている。ここで自分のために時間を割いてくれとは、言えなかった。

 ならば、と次に七乃が頼ったのは情報担当の静里だった。歯に衣着せぬ物言いで敵は多いが、仕事に私情はほとんど挟まず手が空いている限り必要な情報を提供してくれる。特に曹操については仮想敵として、これまでも情報を集めていたはずだ。古い物――連合軍が結成されるくらいまでのものであれば七乃の頭に全て入っていたが、欲しいのはそれ以降の最新のものである。

 訪ねた静里の執務室は所狭しと書類が並び、きっちりと整頓された一刀の執務室とは大分趣が異なっていたが、陰気な顔で執務室で仕事をしていた静里は急な来訪にも普段どおりの顔で――つまりは極めてキツい目つきと陰険な口調で対応した。

「曹操の件か?」
「最新の情報をありったけください」
「既に集めたもんだ。別に構いはしないが……私にも一応、立場ってものがある。何か素敵な贈り物でもあると、ありがたいんだがね」
「それでは、これを」

 七乃は懐に入れていた木簡を、静里の執務机の上に置いた。静里は確認もせずにそれを紐解き、内容を改める。文言そのものに、特別な響きはない。記してあるのは場所と、あることを実行するための詳細な手順である。

「これは?」
「南袁家の隠し財産の一部です。全体として見ると微々たるものですが、ないよりはあった方が良いでしょう。全てが生きている保証はありませんが、比較的安全と思われる物を記しておきました」
「自分で大将のとこに持っていきゃいいじゃねえか。それをどうして私に?」
「個人で使うには大金でも、軍団として使うにはそれほどでもない財産ですから。悪い言い方をすれば、点数稼ぎとしてはイマイチなんです。それに今の私には、それを回収する手段がありません。それなら、『色々と入用な人』に提供して、今後の役に立ててもらった方が有用なんじゃないかと思った訳です」

 ふむ、と静里は頷く。兎角、情報収集というのは金がかかる。どの部門でも予算が必要なことは言うまでもないが、後ろ暗いことにも手を出さざるを得ない場合もあるこの部門は、帳面に乗る形で予算を請求し難い。帳簿には載らない、自由にできる金はあるに越したことはないのだ。七乃の言った通り、軍団が使うにはそれこそ大したことのない金額であるが、表に出ていない金というのは魅力的である。

「一部ってことは、他にもあるのか?」
「これからも仲良くしてくれるなら、適宜情報を上げさせていただきますが、どうでしょうか?」
「構わねえよ。あんたはそもそも大将の身内だし、私個人は別にあんたに思うところはない。必要だって言うなら、提供しようじゃないか」
「私の今後が明るいものになったら、昔のツテを紹介できるかもしれません」
「良いね。実に良い。今後とも、程よい付き合いをよろしく頼む」

 にこりともしない静里から適宜情報を受け取って、七乃は対策を練った。勢力分布、今後の方針。検討すべきことは山ほどあるが、それに加えて新兵の調練もしなければならない。念入りに話をし、丁寧に丹念に育ててきた彼ら彼女らは精兵とはいかないまでも、じわじわとそれに近づきつつある。思いもしなかった才能を持っている人間もかなりいた。

 いずれ一刀軍の中でも、存在感のある部隊になるだろう。かつて大軍団を指揮していた身をして、そう思える感触が十二分にある。彼ら彼女らを育てるのが、とても楽しいのだ。それは袁術軍にいた時では、全く感じなかったことである。

 袁術軍を指揮していた七乃にとって、美羽以外の全ては駒であり、数字だった。不自由な環境の中でも、それらは七乃にとってそうあれかしと思えば、その通りに行くものだったが、彼ら彼女らは違った。思い通りにいかず、感情的に反発してくることもある。それらに対し七乃は根気良く、自分では思いもしなかった熱意を持って対応した。

 美羽や一刀に持っているものに比べればそれは本当に微々たるものであるが、駒でも数字でもなく、個々の人間として兵達を見た時、七乃の感性は一段と広がりを見せたのである。

 そして、会談の当日。

 前日の夜に州都入りした曹操は、来客用の屋敷で夜を明かし、今日、一刀の屋敷でもって会談を行うことになっている。護衛は砦から州都までと同様、張遼の精鋭部隊が行うことになっていた。

 この日、七乃は朝早くに目が覚めた。薄い夜着のまま部屋を横切り、姿見の前に立つ。

 一刀の元にやってきてから、髪も随分伸びた。邪魔だと思うこともあったが、特に切る機会にも恵まれなかったので、そのままにしている。長い髪の七乃も良いの、と美羽などは言ってくれるが、美羽と出会ってこっち、自らのお洒落になど気を配ったこともなかった七乃には、いまいちピンとこなかった。

 血色は良い。州牧が食べるものとは思えないほど屋敷で出される食事は質素なものだったが、食べる人間のことが良く考えられた美味しい食事だった。誰かの作った食事を楽しみにするなど、久しくなかったことである。はちみつがないことが美羽には不満なようだったが、一刀が内緒でこっそりと与えていることを、七乃は知っていた。

 幸せなのだ。今この時が、人生で最も充実しているのが自分でも良く解る。

 なのに、七乃の目は、かつてないほどギラギラとしていた。おそらく、これが『本気になる』というものなのだろう。できるだけの準備をし、気持ちを引き締めて物事に望む。それは七乃にとって生まれて初めてのことだった。今の自分になら何でもできるという無駄な高揚感と、失敗したらどうしようと考える弱気が同居している。それを抑え込むのは、容易なことではなかった。

 どきどきする胸を押さえて、深呼吸をする。全ては美羽のため……一刀のため……

 そう考えると、自然と心は落ち着いた。心血を注ぐべき人が二人に増えた。言葉にするとただそれだけのことであるが、肩に圧し掛かるものは異常なまでに重い。心が落ち着いても不安は消えなかった。自分にできるのか。そんな自問が七乃の中で続く。


「入るぞ、七乃」
「美羽様」

 部屋に入ってきたかつての主に、七乃は姿勢を正した。その後ろには彼女の教育係で、屋敷の副侍従長でもある王栄が控えている。珍しい組み合わせではないが、予想外の来訪である。

「兄さまの所に来てから、初めての大仕事じゃからな。ならばそれに相応しい一張羅があろうと、妾から『ぷれぜんと』なのじゃ」

 美羽の言葉に、王栄が包みを差し出してくる。それを解くと、中から出てきたのは白い見覚えのある服だった。袁術軍にいた時に来ていた。七乃が自身専用に誂えた制服である。袁術軍において、たった一人しか着ていなかったあの服は、孫策軍に敗北した日に全て失った。屋敷にあったものは全て処分されているだろう。あの孫策が、何かのためにと持ち出しているとも思えない。見れば、細部の作りこみが大分異なっている。自分がかつて発注したものではなく、おぼろげな全体像を元に再現されたものだということは、一目で解った。

 そして、細部が異なっているとは言え、ここまで再現するには何度も、これを間近で見ていなければならない。ここまでの再現が出来る人間は、世界でただ一人だ。

「兄さまから、七乃に服を贈りたいと言われてな。妾が一肌脱いだのじゃ。これをまた着ることに思うところはあるじゃろうが、曹操に一泡吹かせるのならば、これ以外にはなかろ?」

 曹操と顔を合わせたことは少ない。彼女にとって張勲というのは、この服の印象が最も強いだろう。一泡吹かせるのに、これ以上の衣装はない。それは解るのだが……

「一刀様が、私に?」
「なのじゃ」

 頷く美羽を前に、七乃は服を抱きしめた。涙が、ぽろぽろと零れてくる。命を救われた。七乃は今、その恩を返すために生きていると言っても良い。贈り物などを、貰う理由はない。それは親しい人間に、親愛を示すために贈るもので、自分のような人間のために使われるものではない。

 一刀が、自分を家族と言ってくれている。その親愛を疑ったことはない。そう思っていたのだが、流れる涙はそれを否定していた。どこか、家族というものを軽視していたのだろう。ただ、贈り物をされる。それがこんなにも嬉しいとは思わなかった。とっくに失われたと思っていた温かい物が、胸に満ちていくのを感じた。

 この二人のためになら、命も惜しくない。涙を拭いた七乃の顔には、笑みが浮かんでいた。せめて見た目だけでも、あの日の張勲に戻る。二人のためなら、簡単な気がした。

 





















 華琳から見て西の砦から并州の州都までは、馬車で数日の道程だった。華琳がつれているのは最低限の供回りである。暗殺するには絶好の機会と刺客が送り込まれてもおかしくない状況であるが、北郷側から出された警護がおよそ200。曹操の警護としては少ない数字であるが、この二百は西の砦に詰めていた、張遼旗下の最精鋭の騎馬隊である。一糸乱れぬ行軍は、美しくすらあった。

 よその人間がそれだけで歩いているのであれば、命を狙われてもおかしくはないが、州軍実働部隊の最高権力者が同道しているのであれば、襲った後の言い訳がきかない。勿論、北郷一派の中にも曹操には死んでほしいという人間はいるのだろうが、そういう強硬手段に出る人間でないことは、華琳も良く知っている。

 懐刀の桂花も、最後まで華琳が直接出向くことに反対していた。関羽が加わったことで、戦線は安定している。黄巾に数を頼みとこれ以上押し込まれることはなくなったが、戦は長期化せざるを得ない見通しである。そんな中、長である華琳と幹部が戦線を離れることは、陣営にとって大きな痛手となる――というのが建前で、本音は? と華琳が聞くと、あの精液男に会わせたくない、とぶちまけた。

 自分から話すことはないが、華琳が水を向けるとしぶしぶといった感じで、桂花も北郷の話をする。一緒に暮らしていたのは一月ほどらしいが、その間に彼の人間性は理解したという。能力はそれほどでもない、物覚えは悪いなどなど、桂花の口から北郷のことを褒める言葉を聞いたことはなかったが、では、自分が出むいたとして、その男が暗殺などを企てる可能性はあるか、と問うて見たところ、彼女は反射的に『それは絶対にありません』と答えた。

 答えてから、北郷を庇うような発言をしたことを後悔したようだが、男嫌いの桂花をして、反射的に擁護をするような人間である。華琳の興味を引くには十分だったし、連合軍の陣地で一度顔を合わせたあの郭嘉が、自分の誘いを蹴ってまで一緒にいる男というのは、前々から興味はあった。あの日、北郷はただの百人隊長だった。それが今は州牧にまでなっている。

 華琳の支配する地にも、北郷の噂は届いている。裸一貫から身を起こし、今なお出世を続けるかの男は、講談などには非常に好まれる題材である。これで悲劇的な結末にでもなれば、講談を考える人間は大喜びだろうが、まだまだ出世するというのが世間の無責任な予測である。

 この時代、機会さえあれば誰でも出世することはできる。その種はどこにでも転がっているが、反対に、それを叩き潰すような要素もそこかしこに存在する。昨日栄華を極めた人間が、明日には路頭に迷うということもないではないのだ。

 その点、智者を周囲に集めた北郷はそういう心配はないだろう。情報を集めた限り、華琳をして喉から手が出るほど欲しい人材が北郷の周囲には集まっていた。名前を売ってから集めた、という訳ではない。少なくとも現在幹部と呼ばれている人間の半分は、州牧になる前から北郷と共にある。

 あの男の何が、彼女らをそこまで引き付けるのだろうか。 

 下世話な考えではあるが、誰もが一番最初に思い浮かべるのは、彼らが男女の仲という線だろう。それにしては数が多すぎるが、英雄色を好むという。権力者が多くの愛人を囲っているというのは、好みは別として良くある話である。

「張遼、少し良いかしら」
「なんやー」

 馬車の横を行く張遼に、何気なく問いかける。馬車に乗っても良いとは言ったのだが、この快活な軍人には丁重に拒否されてしまった。一応は、客人である。護衛も同道していることだし、そこまでの厚意を受ける訳にはいかないと言う。見た目よりも義を重んじる性格なようで、華琳はその落差により興味を持った。

「并州を動かしている幹部は、皆女性なのよね?」
「毎朝一刀と一緒に会議しとるんを幹部言うなら、全員おねーちゃんやな」
「貴女の目から見て、彼女達はどう?」
「どうって言うんは……あれか、人間的にとかそういうことやないんやろ?」
「容姿や性格について教えてほしいの。これから会う人間のこと、少しでも知っておきたいと思って」
「そりゃあ、ウチに聞くことでもないような気はするけどなぁ」
「お願い。教えてちょうだい」

 華琳の物言いに、秋蘭が小さく噴出す。冗談めかしてのことではあるが、華琳が下手に出るのも珍しいことなのだ。その希少さを知らない張遼はしばらく考え込んでいたが、にやりと笑みを浮かべた。下世話な話がそれなりに好きそうだという読みは、当たったようだ。

「別に減るもんでもないし、ええか。皆、美人かかわいいかのどっちかやな。大きいのから小さいのからより取り見取りやで」
「片手では足りないくらいいるということね。それが皆、北郷の愛人ということ?」
「曹操はおもろいこと言うなぁ! そんなやったら、どんなにウチが日々楽しく過ごせたことか……まぁ、あくまでウチの知っとる限りやけどな、一刀がそういうことになったいう話は聞いたことないで」
「上手く隠している、ということではなくて?」
「多分、ないな。ありゃあまだ童貞やな」

 はっきりと物を言う張遼に、何気なく話を聞いていた凪が赤面して俯いてしまう。季衣など隣の流琉に『童貞ってなに?』と聞いており、同じく赤面した彼女に拳骨を落とされていた。楽しんで聞くだけの余裕があったのは秋蘭だけだった。華琳も、意外な張遼の物言いにあっけに取られる。

「あれだけの権力を持って、まだ女を知らないというの?」
「みたいやで。それでも男が好き言う訳やないみたいやけどな。黄忠の巨乳にはでれでれしとったし」
「天下五弓の一人と噂されている御仁ですね」

 何気ないことのように、秋蘭が口を挟む。かく言う秋蘭も、その五人の一人に数えられている。弓の腕では当代で随一と噂される五人だ。誰が最も優れた腕を持っているか、というのは噂に登る当人たちが最も気にしているところだろう。気にしてないという素振りを見せているが、秋蘭もこれで春蘭の妹なだけあって激情家だ。

「太守のお一人であると聞きます。彼女とも、北郷殿は昵懇なのですか?」
「まずまず、といったとこかな。あぁでも、一刀よりは黄忠の方が本気みたいやで。自分の娘を傍仕えに送り込むくらいやしな」
「それは随分な入れ込みようね」

 華琳の頭の中で、黄忠の情報がめまぐるしく動く。彼女は確か、夫に先立たれて以来伴侶を得ていない。北郷に送り込んだという娘も、一人娘のはずである。独身の男性に年若い娘を送り込むのだから、その意味は誰でも解る。煮るなり焼くなりお好きにどうぞ、という意思表示に他ならない。それが見目麗しいというのならば、とっくにお手つきになっていてもおかしくはない。

 だが、張遼の話ではいまだ北郷は女を知らないという。鉄の自制心で手を出していないのだとしたらそれは見事なものだが、据え膳を出されても手を付けないとは、それでも男か――

「華琳様ならば、既に酒池肉林ができあがっていそうですね」
「私でなくてもそうなると思うのだけど。北郷というのは、色の楽しみというものを理解していないようね」
「それはウチも同感かなぁ。所帯なんてそのうち持つもんやし、今のうちに遊んどけー思うんやけど、やっぱり稟ちゃんたちが怖いんかなぁ」

 華琳の脳裏に郭嘉の仏頂面が浮かぶ。確かにあれは女遊びを許容できる女の顔ではない。

 最初からいる人間からすれば、自分たちを放っておいて、という気持ちもあるだろう。特に郭嘉たちは北郷が百人隊長になる前から一緒にいる。今どれだけの人間が北郷周囲に増えているのか、その正確なところまでは知らないが、論功に報いるのはその主として当然のこと。

 そして、気心の知れた人間で上層部を固めておくのも、また同様だ。張遼を見るに後から加わった幹部とも十分に意思疎通ができているようだが、軍団を率いる男がいまだに女を知らないというのは、人事ながら由々しき問題のように思えた。

「それでは、孫呉の姫に足元を掬われるかもしれないわね」
「あー、あのお嬢ちゃんはなぁ……何というか存在が卑猥やな」
「下の妹で、まだ年若いと聞いているけど、『あの』孫策の妹というなら一筋縄ではいかないでしょうね」

 孫策の妹には会ったことはないが、姉がああなのだから、その妹達も曲者というのは容易に想像ができる。黄忠が娘を送り込んできたのと同様、孫策も妹を送り込んできた。政略結婚を画策しているのは言うまでもないだろうが、曹操の立ち位置からでは、どの程度まで本気なのかが見えてこない。

 本当に話をまとめる気があるのならば、既に祝言は挙げられているだろう。猶予が設けられているということは、もしもの時には引き上げさせる意思があるということでもある。司州はいまだに麗羽の勢力が残り、東と北にはそれぞれ別の大勢力が存在している。北郷軍は強大になりつつあるが、いまだ成長途中である。いますぐ戦争、ということになれば、最終的な敗北は回避できないだろう。

 北郷軍からすれば、孫策との同盟は敗北を回避するためのものであるが、利がなければあの美周郎は動かない。敗北が不可避となれば、同盟相手を捨石にするくらいのことは平気でする。

 それはつまり、、北郷の命は曹操の胸一つということでもある。

 華琳の勘は、北郷はここで殺しておいた方が良い敵、と囁いていた。放っておけばより強大になり、自分の障害となることは間違いがない。無論、その前に別の誰かに叩き潰される可能性も大いにあるが、そうならなかった時、この手の相手は非常に面倒くさい。分類するなら先ごろ行方をくらました劉備が近いと言えるだろう。

 普通に正面からぶつかるのであれば、張遼など有能な将がいるとは言え、数の利があるこちらが負ける道理はない。孫策と同盟を組んでいると言っても、孫呉は遠い。援軍を送ったとしても、それが到着するまでに北郷軍を叩き潰すことができる。

 だが、今は時が良くない。烏合の衆とは言え、数だけは多い黄巾軍を相手に北で戦っている時に、更に西でも戦端を開くことは好ましいことではない。それでも最終的な勝利を手にすることはできるだろうが、甚大な被害を受けることは考えなくても解る。孫呉が狙うとしたら、その疲弊した時だろう。その状態から北進されれば、曹操軍にそれを受け止めるだけの体力は残っていない。

 一番簡単で北郷軍、曹操軍の両者の被害が少ないのが、ここで相互不可侵の約束をすることだ。立ちふさがる敵は全て叩き潰す主義の華琳にとって、この決断は弱腰とも取れるものだったが、ここで北郷軍と事を構えるのは得策ではないと考えるだけの理性は持ち合わせていた。せめて黄巾との決着がつくまでは、北郷軍や孫呉との戦は避けるべきだろう。

 そのために、どの程度まで条件を飲むかである。

 いずれ叩き潰すのであれば、西に進めた軍を下げるべきではないし、南部の警戒を解くことはできない。

 しかし、北郷軍と相互不可侵を結ぶことができれば、少なくとも凪の軍は相当数を後ろに下げることができる。問題は孫呉だ。これから結ぼうとしているのは北郷との契約であって、そこに孫呉は関係ない。一応、州都に孫策の下の妹がいるらしいが、軍団としての重要な決定までを任されているとは思えない。彼女を通じて、今回の会談については孫呉に伝わるだろうが、これに対処するには相応の時間を要するだろう。

 同盟を組んだ以上、下の立場の人間が決めたこととは言え、足並みを揃えておく必要がある。袁術軍を叩き潰したとは言え、揚州も一枚岩とは言いがたい。時間が欲しいのはあちらも一緒だ。北郷と相互不可侵を結ぶことができれば、孫呉の北進の目をある程度まで摘むことができる。それは華琳と桂花の共通の見解だった。

 北の戦はその内麗羽の勝利で決着がつくだろう。あちらはあちらで平定に時間がかかるだろうし、それができずに自滅する可能性すら捨て切れない。連合軍の戦で落とした評判が、まだ尾を引いているのだ。袁家の評判は元から高くなかったが、公孫賛との戦のためにさらに民には苦労を強いているらしい。既に草を相当数潜入させている。蜂起を促すことも、決して不可能ではない。

 平定が済んだら、北。そこまですんなり済めば良いが、曹操軍が北に動けば、孫呉や北郷軍も同時に動き出すだろう。順番に叩き潰すなら、最初はやはり北郷というのは当然の帰結だった。戦わずに引き込めるならばそれに越したことはないが、そこは既に孫呉に先手を打たれている。これで同盟を裏切るようなことになれば、孫呉は全力で北郷軍を潰しにかかってくる。

 その危険を踏まえた上で、北郷軍が同盟を裏切るとは考え難い。それでも、いずれ頂点に立つという野心があるのならば、ここで少しでも有利になっておきたいと思うのも、また当然のことだ。

 いざという時、もしかしたら、そういうこともあるかもしれない。

 そう、相手に思わせるだけでも十分だ。はったりも時には重要な武器になる。確たる証拠はなくても、もしかして北郷が曹操と通じていたら。ありえないと解っていても、こうして会談を持ったことは事実であり、孫呉はその可能性を完全に否定することはできない。

 とは言え、孫呉を仕切るのはあの二人だ。そんな疑念にいつまでも囚われるとは考え難い。孫呉については、やらないよりはマシ、という程度の期待しかしてない。

 とにかく、時間が稼げれば良いのだ。その思いは、およそ全ての勢力に共通している。

「さて、ついたで」

 張遼の先導で、馬車を降りる。

 今回の会談の場は、北郷個人の屋敷である。敵の首魁、その本拠地と言って良い。精鋭とは言え、少数で踏み込むには危険な場所と言えるが、そこは度量の見せ所だろう。世間的には北郷の方が格下なのだ。この程度の有利、笑ってくれてやれなければ名前が廃る。

 敵地に乗り込む心地で、屋敷を観察する。

 元々、前の州牧が使っていた建物をそのまま流用しているのだろう。屋敷そのものは無駄に大きいが、門を潜った先、最初に見た空間には良くも悪くも物がなかった。質実剛健というのではない。それは必要なものだけしかおかないという合理性に基づいたものだが、これは必要のないものを排除していったら、何も残らなかったという結果論の表れのように見える。装飾がないというのは寂しくもあり、これを狙ってやっているのだとしたら失敗だろう。

 だが、手入れは行き届いていた。毎日誰かが掃き清めているのだろう。土埃は見られないし、地面も整えられており、今日客を迎えるのだという意識は感じられた。

「最初にウチらが乗り込んだ時はここも無駄に豪勢やったんやけどな、一刀が州牧になってから片っ端から処分して、復興予算にしてもうたんよ。そのせいでえらい殺風景やけど、気にせんといてな」
「品のない装飾を並べられるよりは、好感が持てるわね。屋敷の中もこんな感じなの?」
「せや。使用人の数も多かったんやけど、必要な人数だけ残して他の幹部の屋敷に行ってもらったりしてるから、屋敷の広さの割りに中も殺風景や」
「それはそれで問題ね。余裕ができたら、芸術を愛でるくらいの趣味は持つべきだと思うけど」
「芸術かぁ……一刀がそういうの愛でるとこ、見たことないなぁ」
「仕事をしてない時は、北郷は何をしているの?」

 華琳の問いに、張遼は指を顎にあて考えた。その顔が段々険しくなっていく。

「あかん。遊んでる一刀が思い浮かばん。仕事してる時にもしとるようなことしか、休みの時もしとらん気がするで」
「自分のために時間を使うということを、もう少し考えた方が良さそうね」

 小さく溜息をつく華琳の顔には、苦笑が浮かんでいる。そういう不器用な人間だからこそ、こういう政治ができるとも言える。初心を忘れない程よい緊張感があるからこそ、民の視点に立てるのだろう。

 ただ、全てが民のためというのでは、いずれ疲労し破綻してしまう。程よく力を抜くことも、時には必要なのだ。

「さて、ウチはここまでやな。屋敷の周辺はウチの部隊で警護したるから、安心して会談してきてええで」
「道中助かったわ。以後、私に仕えてくれると嬉しいけれど」
「それは話の結果次第やな。一刀がアンタに従うなら、ウチもアンタに仕えたる。でも、ウチらの大将は一筋縄ではいかんで?」

 くつくつと笑う張遼の横を通り過ぎ、屋敷の扉を開けると、

「ようこそお越しくださいました」

 扉を潜ってすぐの広間に、使用人が勢ぞろいしていた。全員、教育は行き届いているようだが、屋敷の規模の割りにはやはり数が少ない。その少ない使用人の先頭に立つのは、小柄な華琳よりも更に小さい少女だった。年齢で言えば季衣や流琉よりも下だろうが、その立ち振る舞いからは高い教育の後が伺えた。それなりの名家の出身なのだろう。自分より年上の人間を従える今の状況にも、焦りや迷いが全く見えなかった。

 小さな才媛に、華琳の食指が動く。あぁ、と小さく声を漏らす華琳に、秋蘭が小さいが深い溜息を漏らした。

 年相応の童顔は可愛らしいが、十年も経てば美女になる未来が容易に想像できる。年齢を考えれば発達している程よい胸の膨らみも、華琳の劣情をかきたてた。切れ込みの入った裾から見える。白い足も艶かしい。いくら眺めていても飽きないくらい魅力的な少女だったが、今は仕事だ。名残惜しそうに少女の身体から視線をはがした華琳は、一瞬前までその身体を凝視していたとは全く思わせないさわやかな表情を浮かべた。内心を悟らせないことも、為政者に必要な能力の一つである。

「当家の侍従長を務めております、黄叙と申します。以後、お見知りおきください」
「曹操よ。貴女が黄忠殿のご息女ね。才媛だと張遼から聞いたわ」
「ありがとうございます。ですが、主を始め皆さんのお力添えがあってこそ。私一人の力ではございません」

 謙遜の言葉が淀みなく出てくる。見本のような余所行きの笑顔に、華琳は感嘆の溜息を漏らした。そのまま、近くにいる季衣と流琉に視線を送る。親衛隊としての彼女らの力量は申し分ない。元々才能があったのか、部隊の指揮もそれなりにできるようになってきたが、出身が出身だけあって、こういう教養には欠けているところがあった。無論、そういうところを愛でるだけの度量が華琳にはあったが、もう少し物を知っていてくれても、と思ったこともないではない。

 黄叙が自分達よりも年下、というのは二人にも解っただろう。完璧な振る舞いをする少女に、二人はお通夜のような顔を見せていた。自分に足りない物が何かはっきりと理解したのである。それを見て華琳は、二人にもしっかりと座学をやらせようと決めたのだった。

「曹操殿と護衛の方、一名様は私に。それ以外の方はこちらの王栄がご案内致します」

 黄叙に示されたのは、初老の婦人である。流石に年の功か、黄叙以上に立ち姿に隙がない。桂花の実家である荀家が北郷のために手配した人材というが、祖母と孫ほども年齢の離れている黄叙の下についても、嫌な顔一つしていない。客人の前で態度に出る時点で従者としては失格だが、今の立場に対して持っている不満というのは、顔や態度に良く出るものである。内心ではどうか知らないが、その点、この王栄は完璧だった。

「それでは、秋蘭。そちらはお願いね」
「華琳様も。凪、後は頼んだぞ」
「お任せください」

 護衛に残るのは、凪である。秋蘭でも良かったのだが、北郷と知己であるのならばそれを使わない手はない。張遼からかの一騎当千もこちらにいることは聞いている。二枚看板の内の一枚を使っては、それに恐れをなしているようにも見えかねない。気にしすぎ、という気がしないでもないが、北郷の屋敷でもって何かが起こる可能性は考え難い。外は張遼の部隊が護衛しているし、屋敷の中には秋蘭たちもいる。北郷側が手配した人員も、そこかしこにいるだろう。

 無論、その中に不届きなことを考える人間がいないとも限らないが、そこまで疑うとキリがない。それにそこで殺されるようならそれまでということ。合理的に物を進める華琳であるが、その反面、天の采配というものを信じるところがあった。同時に、自分の天運はここで費えるようなものではないと固く信じてもいる。護衛としては、気が気ではない考え方だろう。立場の割りに華琳はたまに無謀なこともする。

 凪も緊張しっぱなしだった。華琳の近くに立つことはこれが初めてではないが、一人で護衛をするのは初めてのことである。凪のような生真面目な人間にとって、これは相当な重圧だった。日に焼けた肌も、どこか青白くなっている気がしないでもない。内心でどう思っていたとしても、態度に出るようではまだまだである。護衛として不安に思わないでもないが、これも経験と華琳は放っておくことにした。経験こそ浅いが、華琳自身が将軍に登用すると決めた人材である。この程度ならきっと、乗り越えてくれるだろう。

 廊下もやはりどこか閑散としている。成金趣味の屋敷などに良く見られる、無駄に高価な調度品などはなく、あったと思われる場所には台座だけが残されていた。その類のものを全て売却したのだとしたら、それなりの利益は出たことだろう。それを全て復興予算に突っ込んだところに、北郷の政治方針が見受けられる。

 もっとも、旧体制の幹部を粛清したのだろうから、使途が明確にされ州牧の権限で自由にできるようになった予算は、屋敷内部の売却益とは比べ物にならないだろう。そちらを権利拡大のために使えるのならば、はした金など惜しくはないに違いない。それで人格者である、という印象を広めることができるのならば、安いものだ。

「こちらになります」

 一際大きな、如何にも応接室といった扉を黄叙が開ける。

「ようこそ、曹操殿」

 部屋の中央に設えられた卓、その手前に立っていた男性がにこやかに華琳を出迎えた。あの日、連合軍の陣地で桂花と言い合いをしていた男である。あの時は孫策に仕える百人隊長でしかなかったが、今は州牧だ。民草の間で彼の立身出世は話題に上らない日はないという。出自の定かでない男が、僅かな時間で大躍進しているのだから、衆目を集めない訳はない。中にはさる高貴な人間の落胤という説もあるらしい。

 流石にそれは眉唾だろうと華琳も思うが、世のほとんどの人間が信じれば事実とは異なっていてもそれが真実となる。色々と不利な面も多いが、出自が不確かというのは、こういう時に恐ろしい。

 さて、その一刀である。

 白かった。華琳の語彙では他に表現のしようがなかった。凪など、旧友の姿に目をまんまるにして驚いている。それくらいに北郷の装いは馴染みのない人間には衝撃的だった。華琳も裕福な家の出身である。幼い頃からそれなりに芸事や服飾にも通じ、色々な材質のものを見てきたが、北郷の纏う白い衣が何でできているのか、全く想像もできなかった。光の加減で、輝いているようにすら見える。皇帝ですらこんなものは持っていないだろう。時の人とは言え、たかが州牧が着るには派手過ぎる気もしたが、不思議とその衣は北郷に馴染んでいるように見えた。服に着られているという印象はないから、この日のために誂えたというのでもないだろう。平素から『これ』なのだとしたらどれだけ目立ちたがりなんだと疑問に思わずにはいられない。

 だが、それが第一撃だと華琳が知ったのは、その横に立つ人物を見た時だった。驚きのあまり呼吸が止まる。

 忘れもしない、見覚えのある顔だ。

 張勲。袁術軍の実質的な支配者であり、袁術の信頼の最も厚かった腹心中の腹心だ。あの袁術の意図を通しつつ大軍団を運用した手腕には、華琳ですら一目置いていた。彼女が袁術軍を使って本気で天下を取りに来ていたら、苦戦は免れなかっただろう。大きな力を持ちながら、間違った方向に使った愚かな人間。

 その張勲は、孫策に破れ袁術と共に捕らえられたと聞いた。戦である。敵将、まして長年自分の頭を押さえつけていた相手だ。激情家である孫策が見逃すとは考え難い。当然、首は刎ねられたものだと思っていたのだが……内心の動揺を悟られないように、張勲の顔を見る。

 似た人間を偶然用いた、というのは流石にでき過ぎだろう。連合軍の陣地で見た時と同じ装いともなれば、本人であると断定せざるを得ない。

 そうなると、ここにいる理由は――

 明晰な華琳の頭脳が、めまぐるしく動く。接点がないはずの北郷と張勲を結びつける理由は、孫呉しかない。敵将たる袁術張勲の生殺与奪の権利を握っていたのは、孫策だ。彼女から払い下げられたというのであれば、北郷の下に張勲がいることにも説明は付く。見目も麗しいから、男性である北郷への土産としても悪い判断ではないだろう。仇敵が慰み者に落ちるならば、長年辛酸を舐めさせられた恨みも、少しは晴れるというものだ。
 
 しかし、張勲は北郷の隣に立っている。それはこの会談に同席を許された護衛の人間の席だ。北郷の信頼を得ていることの証明であり、また、対外的に張勲という人間は自分の部下であると、発表する意図も見え隠れしている。

 かつての仇敵が持ち上げられることを、孫呉が喜ぶはずがない。孫呉の姫は州都にいるのだ。いつから張勲がこういう扱いをされているのか知らないが、この事実は孫策に伝わっていると見て間違いがない。いかに書面の上では対等と謳おうと、孫策と北郷では力の差は歴然である。孫策の意向を、北郷は真の意味で無視することはできない。それでも尚、張勲がこうしているということは、孫策は知った上で看過しているということである。

 あの孫策が? と思わずにはいられなかった。それ程北郷に肩入れしているというのだろうか。それとも単純に興味を失っただけか。気まぐれなあの女のことだ。それも十分にありえる気がしたが、結論を出すには情報が少なかった。一人で考え過ぎて、相手の術中にはまってはいけない。

 二度の攻撃にざわついた心を、無理矢理静めていく。冷静に、冷酷に。曹操として恥じることのない行動をすることが、何よりも大事だ。相手は天下の人材を集め、天の時を得た男だ。この男の行動に、諸侯だけでなく大衆も注目している。ここで醜態を晒したら、この会談から膨大な利益を得たとしても、世間の笑い物だ。

「ご無沙汰しております、曹操殿。私を覚えておいででしょうか」
「連合軍の陣地で、うちの筆頭軍師と言い合っていたわね。勿論覚えているわ、郭嘉の主。改めて名乗りましょう。曹操、字は孟徳よ」
「北郷一刀です。姓が北郷で、名前が一刀。字と真名はありません。どうぞよろしくお願いします」

 どうぞ、と上座の席を勧める一刀に従い、そちらの席に腰を下ろす。凪が立つのはその右後ろだ。北郷は華琳の対面の席に座り、張勲は凪と同様、北郷の後ろに立った。配膳は黄叙が行っている。同席するのは一人、という約束の通り、華琳と北郷の前にお茶を用意すると、部屋の隅に移動した。無言の立ち姿は、自分は置物ですと主張しているようだった。

「本日はご足労いただき、ありがとうございました」

 早速、北郷が切り出してくる。黄叙を見ていた華琳は、反応が僅かに遅れた。もう戦いは始まっている。気を引き締めると言った先に、何という様だ。

「こちらから『お願い』をする立場なのだから、足を運ぶのは当然というものだわ。世間では色々と言われているようだけれど、私も礼節というものは解っているつもりよ」
「本来ならばこちらから出向かなければならないところでした。ご配慮痛み入ります」

 平然と、北郷は頭を下げる。自分の立場が下である、と公式に名言したようだものだ。それに華琳は、居心地の悪さを感じた。例えそれが、世間の誰もが知る事実であったとしても、自分の弱さを会談の場で認めることを普通はしない。名のある人間ならば自分の名誉を気にするし、これから名を成そうとする人間は、自分を大きく見せようと必死になる。その点、北郷は実に自然体だった。緊張の様子は見られるものの、おかしな気負いは見られない。

 この曹操を前に生意気なことだ。思っていたよりも『やる』敵を前に、華琳は口の端を上げて笑みを浮かべた。この辺りで反撃に移るべきだろう。何か適当な攻撃材料はないものか。考えて、張遼が面白いことを言っていたことを思いだした。


「ところで北郷。一つ聞きたいことがあるのだけど、良いかしら?」
「勿論。俺に答えられることなら」
「貴方にしか答えられないことよ、正直に答えてくれると嬉しいわね」






「貴方、童貞と聞いたけど、本当?」






















[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第四十一話 并州会談編③
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:53a6c9be
Date: 2015/04/04 01:26


















 一刀は心の底から迷っていた。

 貴方は童貞ですか? という問いに、男として一体何と答えるべきなのか。

 この世界、この時代では、一刀くらいの年齢ならば嫁を貰って家庭を持っている男の方が多い。女性経験のない童貞は、間違いなく少数派と言えた。

 前の世界では、実に少年らしく年齢相応に遊んでいたと思う。女の子に興味がないではなかったが、友達と遊ぶことが楽しかったからあまり目も行かなかったし、こちらに来てからはそれどころではなかった――というのは、やはり言い訳だろう。

 それは恋人を作らない、家庭を持たないという理由にはなっても、童貞でい続ける理由にはならない。

 正直に言えば、このまま行けそうだと思ったことは百や二百ではきかない。そこでその先に踏み込まなかったのは、単に男としての気持ちの問題である。

 一刀とて健全な男だ。そういうことをしたくない訳では勿論ない。周囲の女性からそれなりに好意を向けられていることも知っている。ならば、何故手を出さなかったのかと言われれば、

「巡り合わせが悪かったんですかねぇ……」
「……どういうことかしら?」
「いえ、こちらの話です。ご期待に沿えるかどうか解りませんが、俺は童貞です」

 素直に認めるとは思わなかったのだろう、曹操はきょとんとした少女らしい顔をした後、笑みを浮かべた。

「からかって悪かったわね。貴方に先制されて、少し苛立っていたの」
「落ち着かれたのなら、何よりです。私もからかわれた甲斐がありました」
「周囲に美女を侍らせているのに童貞な貴方の性事情には、本当に興味は尽きないのだけれど、まずは仕事の話をしましょうか」
「了解しました。七乃、よろしく頼む」

 七乃が黄叙から木簡を受け取り、それを一刀と曹操の元に置く。資料として用意されたそれは静里の情報を元に作成されたものだ。一刀と曹操のところにあるその二つは、一言一句同じものである。曹操はその木簡に指を滑らせながら、話を切り出した。

「さて……黄巾百万と言われているけれど、兵の実数はおよそ三十万くらいね。正規の訓練を受けた人間はその中でも二万といったところでしょうけど、青州では従軍経験のある人間が、素人に調練を始めた聞いているわ。実際、少しずつではあるけれど兵の錬度は上がってきているように感じるわね」
「恥ずかしながら、私は黄巾の兵と戦ったことが――いえ、あるにはあるのですが、あまりにも小規模なものだったので、実際に彼らがどういう戦をするのか、良く解らないのです。死をも恐れぬ勇猛果敢な兵と聞きますが、違いはありませんか?」

 一刀の脳裏に数年前、要の故郷の村で自警団の団長をしていた頃のことが思い浮かんだ。稟たちと出会う契機となった事件であるが、後の調べで彼らが黄巾を抜けて好き勝手に暴れ、食い詰めた連中であることが解った。

 野盗に身を落としただけあって腕はそれほどでもなく、食い詰めていただけあって士気も低かった。曹操が戦っている黄巾の兵も錬度の低い連中であると言うが、食べるものがあり、また仰ぎ見る旗があるというだけで士気については大きな差があるだろう。ついでに自分たちが圧倒的に多数の軍であるという自覚があれば、黄巾の兵が勇猛果敢な戦いをするという噂にも頷くことができた。

 雲霞のごとく死をも恐れぬ兵が押し寄せてくるのだから、戦う方としては気が気ではないに違いない。実際に戦ってみてどうなのか。単純に疑問をぶつける一刀に、曹操が作ったのは渋面だった。

「勇猛果敢と言うか、まるで幽鬼ね。末端の兵に至るまで非常に粘り強い戦をするわ。お陰で何度も煮え湯を飲まされたけれど、侵攻そのものは阻止した。今は少しずつ北進しているところね」
「曹操様はいずれは青州を、とお考えですか?」
「このまま行けば、そうなりそうね。少なくとも、私の方から手を緩める理由はないわ」

 曹操からすれば、黄巾に横合いからいきなり殴りつけられたようなものだ。既に取り返し始めているとは言え、自分が治めている土地を奪われたのだ。曹操の方から手を引く理由は、どこにもない。

 それに、如何に黄巾の兵がいくら粘り強い戦をするとと言っても、彼らだけで戦うのならばいずれ敗北するのは目に見えている。もう落としどころを探し始めていても不思議ではないが、兵の数が多いというのは首脳部の足を引っ張ることにも繋がる。黄巾の上層部がどうなっているのか、一刀も正確な所を知っている訳ではないが、あれだけの大軍である。意思を統一させることさえ一苦労だろう。

「このまま戦が続いたとして、どれくらいの期間で片を付けるおつもりですか?」
「二年。長くても三年ね。それ以上をかけたら北袁が南下してくる可能性が高くなる」

 曹操は既に、黄巾の次を見据えていた。北部の戦も、その頃には決着しているだろう。それは一刀たちにも共通する見解である。しかし、

「あちらは公孫賛殿との戦で疲弊しております。それ程早く、攻めてくるでしょうか?」
「兵は拙速を尊ぶというでしょう? あの娘をそれを額面通りに受け取っている節があるの。それに、あの家は今尻に火がついているもの。戦を続けて勝ち続けなければ、遠からず土台が崩れてしまうわ」

 それだけ、連合軍での敗北が尾を引いているのだろう。同じ袁家である南袁家は既に孫策に滅ぼされている。旧友である曹操を頼れず、また洛陽で兵が問題を起こしたことで、北袁家は皇帝の覚えも良くない。戦についても自力でどうにかする必要がある訳だが、今までの行いから北袁家に対する不満が、民の間でも高まっている。

 それでもまだ、勝ち続けている内は名門袁家の輝きが地に落ちることはない。腐っても名門。その名が落ちることで不利益を被る人間は大勢いた。勝っている間は、彼らが袁家を支えてくれるだろう。

 しかし、一度劣勢となれば、我先にと離れていくに違いない。北袁家の舵取りをしている人間は、それが良く解っているのだ。だからこそ、公孫賛との戦に早期で踏み切り、その後も南に版図を広げようとしているのである。それが如何に無謀で大きな犠牲を伴うとしても、そうすることでしか、あの家には生き残る道がないのだ。

「生き残るために、戦を続けると?」
「あれでも麗羽は――袁紹は相当マシな方よ? お前にも見せてやりたいわ。冀州の州都にいる袁家の一族は、本当に腐っている。自分達は贅の限りを尽くしながら、民や兵に死ねと言っているのよ。そんな連中は、滅びるべきだと思わない?」

 口の端を挙げて強烈に笑う曹操に、一刀は神妙な面持ちで口を閉ざした。個人的には同意見である。民あっての国家であり、民あっての政治だ。支えてくれる民や、戦ってくれる兵のことを考えない人間に政治をする資格はない。

 だが今は会談の場だ。相手の主張に、軽い気持ちで同調はできない。押し黙る一刀に、曹操は薄い笑みを浮かべる。

「貴方の立場は解っているつもりよ。貴方だけで北袁家と戦うならばともかく、私と同調してというのでは角が立つものね」
「お気遣い、感謝します」

 一刀が頭を下げると、曹操は鷹揚に頷いてみせた。どちらの立場が上か、というのを理解し、それを理解させるための仕草である。

「そういう訳で、貴方とは不可侵の条約を結びたいの。私が黄巾と戦っている間、横合いから手を出されてはたまらないもの。邪魔をしないという言質を、貴方の口から今ここでもらいたいわ」
「それは願っても無いことですが……」

 どんな事情であれ、兵を出さなくても良いというのは、ようやく中の上から上の下のグループに入ろうという一刀にはありがたいことだった。その上、曹操軍と事を荒立てなくても良いというのであれば、賛成しない理由はない。

 しかし、である。

 黄巾軍については、かつて官民合同で処理に当たった。境界を接する人間だけの問題ではなく、帝国内全体の問題として考えられている節がある。それがまた復活したのだから、同じ様に対応するのが筋というものだ。かつて自警団の団長だった一刀も、今は州牧である。動員できる兵の数は、それこそ雲泥の差だ。民の平和が脅かされているという点だけで物を見れば、今すぐにでも曹操の元に駆けつけ黄巾と戦うべきだろうが、ここには政治的な事情があった。

 并州まで流れてきているのならばいざ知らず、現在黄巾軍は曹操軍とのみ戦っており、縄張りである青州と、曹操の領地から出ていない。これを討つというのであれば、その土地を治める曹操にお伺いを立てるか、さもなくば勅命に頼る必要があった。

 現時点で曹操と同盟を結んでおらず、また孫策と既に同盟を組んでいる一刀がこの戦に参加するには、それだけの大義名分が必要なのである。

 そんな一刀の事情を理解した上で、曹操はその助けの手は要らないという。

 これには彼女なりの思惑があった。自分たちだけで対応した、という事実が欲しいというのが一つ。かつて官民で対応した事件に、自分たちだけで対応に当たり、これを討伐したとなれば曹操の名前が大きく上がる。これからのことを考えると、名声というのはあって困ることはない。

 加えて、手を出すなと釘を差すことについては、一刀への貸しとも見れる。既に孫呉と同盟を組んでいる一刀は、よほどの緊急事態でもない限り、孫呉の政敵と手を組むことは許されない。曹操はその筆頭だった。仮に曹操から頼むと言っても、簡単には引き受けることができない立場なのだ。一刀以上に、曹操はそのことを良く理解している。

 突き放すような物言いではあるが、参加しなくても良いから安心しなさいと曹操は言っているのだ。

 無論、これは善意から言っている訳ではない。そういう配慮をしたのだから、これを忘れるなと言外に言っているのだ。孫呉との同盟を堅持しつつも、この貸しについてはいずれ返さなければならない。態々曹操本人がやってきたのは、これを踏み倒すことは許さないという念押しのためもあった。

 曹魏、孫呉に比べて弱小である一刀軍にとっては、頭の痛い話である。富は多く持つ者の所により集まるという。権力というのも一緒なのだな、と思った瞬間だった。

「ご配慮、ありがたく受けさせていただきます」
「そう言ってもらえて助かったわ」

 結局は、問題を先送りにしただけなのかもしれないが、ここで強行に拒否をすれば、即開戦ということにもなりかねない。そうなれば敗北するのは一刀たちの方だ。思春個人のことは信頼しているが、彼女は孫呉の将軍である。負け戦となれば最後まで付き合う義理はなく、適当な理由をつけて孫尚香を連れて脱出するだろう。総力戦ともなれば孫呉も黙ってはいないだろうが、こちらの戦線に兵を送ってくれるとは限らない。勢力圏からまっすぐに北上。そのまま曹操の本拠を狙う可能性の方が高いと、一刀たちは結論付けていた。

 曹操はまだこちらに譲歩している方だろう。これが袁紹であれば、権力を傘に着て叩き潰されていたかもしれない。

 後のことを考えると気が重いが、当面は戦が回避された、という事実だけを見ることにする。

 深々と溜息を吐いた一刀に、曹操は苦笑を浮かべた。

「苦労をかけると思うけれど、よろしく頼むわ。さて、ここからは個人的な興味を優先させることにするけど、異民族との交易を活発化させようとしているらしいわね。上手く行っているの?」
「これから大きくしていこうという段階ですね。『今は』装飾品や酒などが主な交易品になっています」

 単価はそれ程でもない。并州の西の方では平民でも少し奮発すれば購入できる程度の金額だが、并州から離れるほどに高額になっていく。特に洛陽などの都市部では高値で取引されるという話だ。

 異民族との間に平穏な雰囲気を作り出した人間は過去に何人もいるだろうが、本格的な交易まで可能にしたのは、それこそ数える程しかいない。丁原はその数少ない一人だ。彼女は商人に新たな儲話を提供した。金に聡い彼らは丁原の元に、そして一刀の元に我先にと集まっている。

 彼らが商うのは商品だけではない。方々に出入りをする彼らは、同時に情報を持ち出し取引先に提供する。草と異なる種類のその情報網は、権力者が欲してやまないものの一つだ。商人の信頼を勝ち得るということは、それだけ情報を得る機会が増えるということでもある。さらに経済的に潤うとなれば、もはや言うことはない。

「聞いたところに寄れば、曹操様は酒がお好きとか」
「その通りよ。最近は忙しくてご無沙汰だけど、自分でも作ってみようと研究もしていたの。北郷、貴方は酒を?」
「恥ずかしながら、まだ嗜む程度です。うちだと張遼などが好きみたいで、時間がある時は一緒に飲んでいます」
「あぁ、あの娘は好きそうだものね。あの娘となら美味しい酒が飲めそうだわ」
「話が上手いですよ。酒もつまみも美味しくしてくれます」

 霞もあれで付き合う人間を選ぶたちらしいが、気に入った人間とはとことん、腹を割って話してくれる。彼女には何度も相談に乗ってもらったし、稟たち文官にはあまり言えない愚痴にも付き合ってもらった。お互い忙しくて中々時間は取れないが、一緒に酒を飲む時間は一番多いかもしれない。

「それで、曹操様にはこれを」

 一刀が合図をすると、黄叙が部屋の隅から壷を持ってくる。一抱えくらいはある茶色い壷だ。がっちりと封印がされているそれに、曹操は一目で中身にピンときたようだった。

「西方の異民族から友好の印として贈られてきた物の一つです。彼らが常飲している馬乳酒らしいのですが、私の家だけでは消費しきれそうにもないので、お裾分けをと思いまして」
「以前に飲んだ記憶があるわ。あまり酔いが回らない酸っぱい酒だった記憶があるけど」
「彼らは毎食飲んでいると聞いています。確かに強い酒ではありませんね。ただ、健康には良いそうですよ。私の軍にも異民族出身の者や、その血を引いている者が多くいますが、彼は皆、『これが精強な騎兵を作る秘訣だ』と豪語しております」
「長年苦しめられてきたのだから、それを信じない訳にはいかないわね。ありがたく頂戴しましょう」

 さて、と曹操の雰囲気が変わった。これで会談を切り上げるつもりなのだ。曹操軍の抱える事情を考えれば、彼女がここに長居する理由はない。それはそれで寂しい気もするが、人の命がかかっていることでもある。私情で引き止めて良い場面でもないだろう。

「曹操様、州都にはどれくらいご滞在に?」

 一刀が曹操の雰囲気を察し、彼女を送り出そうと立ち上がりかけた時、唐突に七乃が口を開いた。黄叙も含め、その場にいた全員が程度の差こそあれ、面食らった顔をする。その中でも最も驚きの少なかったのが曹操だ。彼女は椅子に深く座りなおすと、七乃を見る。

「この会談が終わったらすぐにでも戻るつもりよ。戦は膠着状態にあるけれど、しなければならないことはいくつもあるの。張勲、貴方もそれは良く理解しているでしょう?」

 小柄ながらも、その雰囲気は洗練されている。戦場を生き抜いた武人でも、曹操の前では息苦しさを感じるだろう。七乃も決してそれを感じていないはずはないが、彼女はいつも通りの緩い笑顔で、曹操の問いに答えた。

「それは残念です。曹操様に、美味しい定食屋さんを紹介しようと思っていたのですが……」
「定食屋? それはまた、随分と庶民的ね。どんな店なの?」
「はい。大通りから一本挟んだところにあるお店で、昇竜軒という名前です。最近、ご亭主が亡くなられて代替わりしたんですが、あそこの定食はもう、本当に絶品で」

 一体何の話を、と一刀は混乱するが、意外にも曹操が食いついてきた。七乃を止めようとした一刀を手で制し、僅かに身を乗り出して七乃に問う。

「そうなの? 普通は人が変われば味も落ちると思うのだけど、その店は大丈夫だったのかしら」
「味は全く違いますね。東方の味付けが、西方の味付けに変わりました。ご亭主が亡くなられたことで、前の従業員も全員やめてしまいましたから、しょうがないと言えばしょうがないんですけど、でも食べる側としては、美味しければ何も問題はない訳で」
「そう。その今は食べられない東方の味付けというのも食べてみたくはあるけれど、貴女がそこまで言うのなら、今度立ち寄った時にでも寄らせてもらうわ。新しいご亭主と家主には、よろしく伝えてもらえる?」
「解りました。伝えておきます」

 それで、話は終わった。七乃は姿勢を正し、曹操はそっと息を吐く。これで帰るという雰囲気だったはずだが、曹操は視線を中空に彷徨わせると、文謙に向き直った。

「凪、残りの話を北郷とつめてもらえる?」
「か、華琳様!?」

 予定には全くない行動なのか、文謙が慌てている。元より、彼女は曹操の護衛としてこの場にやってきたのだ。話をまとめるような立場ではない。それは連れてきた曹操の方が良く解っているはずのことだ。

 とは言え、文謙にとって主の命令は絶対だ。どれだけ向いていないことでも、やれと言われた以上完遂しなけばならない。いきなりの命令に顔を青くしている文謙を他所に、曹操はさっさと席を立った。

「北郷。少し散策がしたいのだけど、構わないかしら?」
「構いませんが……何もない屋敷で、あまり見る物があるとは思えません。それでもよろしければ」
「それもまた一興というものよ。一人で散策するのもつまらないから、張勲を借りたいわ。それも、許可してもらえる?」

 曹操の提案に、一刀は七乃を見た。彼女は薄く微笑み、小さく頷く。大事な会談の相手ということは、この場にいる中で七乃が一番理解している。曹操とも知らない仲ではないと考えれば、自分が応対するよりはマシと言えた。既に話は纏まったとは言え、席を外されることに不満がない訳ではないが、態度を見るに上手く言っているように見える。案内程度の要望には、応えておいた方が良いだろう。

「かしこまりました。七乃、曹操様に粗相のないように」
「承りました。それでは、曹操様。どうぞこちらに」

 七乃の案内を受けて、曹操は部屋を出て行く。存在感のある人間が外に出たことで、部屋の空気も少しだけ軽くなったような気がした。意図せずに、一刀は大きく溜息を漏らした。

 部屋の隅に黄叙がいるが、置物になっている彼女は必要であると判断したこと以外には口を挟まない。それでも人がいるという緊張感はあるものの、実質的には文謙と二人きりだった。

 その事実を思うに至り、一刀は曹操の意図の一つを理解した。北郷一刀と楽進が旧知の間柄、というのは曹操も知る所だ。不可侵条約については結ぶということで話は纏まった。それだけ決まれば、もはや詰めるような話もない。配慮して、旧交を温める時間を作ってくれたのだ。存外に人間らしいところもあるものだ、と思いながら、まだどこかおろおろとしている友人に、一刀は声をかけた。

「こうして顔を合わせるのは久しぶりだな、文謙。出世のお祝いにも行けずに、ごめん」

 一刀の軽い物言いに、文謙もようやく曹操の意図を理解した。一刀が差し出した手を、文謙が握り返す。久しぶりに握った彼女の手は、相変わらず武人の見本の様な手をしていた。

「まったく、華琳様もお人が悪い」
「こうして俺達の時間を作ってくれたんだから、良い人じゃないか」
「そうだな。お前への祝いの言葉も言えずに戻るところだった。世に出て、三年あまりで州牧か。すごいじゃないか、一刀。私も友人の一人として、お前を誇らしく思うぞ」
「文謙だって、遠征軍の将軍だろう? お前と戦うことになるんじゃないかと、肝を冷やしたよ」
「巡り合わせが悪かったら、そうなっていただろうな。こうして、会談の場を設けることができて良かった。本当のことを言えば私も、お前の軍とは戦いたくなかった」
「俺もだ。話が纏まって、良かったと思ってる」
「……だが、戦場で見えた時は、話は別だ。私だからという理由で、手を抜いたりはするなよ?」
「勿論だとも。でも、そうならないことを祈るくらいは良いだろ?」

 そうだな、と文謙は不器用に微笑んだ。傷の多い、無骨な印象の文謙だが、こうして笑うと年齢相応の少女に見える。最初から曹操に仕えていた訳ではなく、平民あがりで武功を重ね、曹操に認められて今の地位に就いた。それは一重に文謙の努力と実力の賜物だろうが、急な出世をしては色々と苦労もあるだろう。友人として、その苦労を分かち合いたいと思うが、勢力の違いは如何ともし難かった。

「そんな顔をしてくれただけで、私は満足だよ。良い友人を持ったと、心の底から思う」

 微笑む文謙に何と答えたものか。逡巡している一刀を遮るように、それまで壁際にいたはずの黄叙が、卓にそっと椀を置いた。曹操に出したものとはまた違う。これは黄叙が普段、自分に出しているお茶だと気づいた一刀は、黄叙の顔を見た。

「旧交を温める、一助になりましたら幸いです」

 小さく微笑み一礼すると、黄叙はまた壁際に戻った。自分の仕事は終わったとすまし顔で佇む少女を見て、一刀と文謙は顔を見合わせて笑った。

「良い侍従を持ったな」
「自慢の仲間だよ。時間が取れるなら色々と紹介した人がいるんだけど、それはまたの機会に取っておこう」

 この時勢に、こうして顔を合わせることができたのだ。これが最後の機会ではないと一刀は信じることにした。

 黄叙の淹れてくれたお茶の椀を持ち、文謙と向き合う。文謙も椀を持ち、一刀が小さく差し出した椀に、自分の椀を重ねた。お互いの顔を見ながら、静かにお茶を飲む。穏やかな味と暖かさが、身体に染み渡っていく。

 こういう、穏やかな時間が続けば良い。お互いがそう思っていると信じられる時間は、悪いものではなかった。























「全く、妙なところで会うものね。最初に貴女を見た時、白昼夢でも見せられているのではと疑ったけど、今はこうして話せる現実であることに感謝するわ」

 屋内を探索するという方便で部屋の外に出、二人で歩くことしばし。人目のないところを所望しているというのは言葉にせずとも伝わったのか、張勲に案内された部屋に入って大きく溜息を吐いて見せた華琳に、張勲はあの日と変わらぬ捉え所のない笑みを浮かべた。その笑顔に僅かな苛立ちを覚えながらも、それを押さえ込んだ華琳は言葉を続ける。

「貴女が無事ということは、袁術も元気なのかしら?」
「元気ですよ~。むしろ以前よりも、活き活きとされています。一刀様のこと、よっぽど気に入られたみたいで。ちょっと焼けちゃいます」
「でも、貴女もあの男のことを気に入っているのでしょう? 私の目から見ても、心酔しているのが見て取れたわよ」
「それはもう。一刀様は素晴らしい方です」

 張勲の口調は、あの頃と変わらない。華琳の立場は大きくは変わっていないが、大軍団である袁術軍の実質的な頂点だったあの頃と違い、今の張勲の立場は非常に不安定なものである。本来であれば、かの曹操を相手にそういう口を利いて良い立場ではないのだが、不思議と華琳に苛立ちは沸かなかった。張勲というのは、そういう人間というのが身体に染み付いているのかもしれない。

 自分で思っていた程張勲のことが嫌いではなかったことに驚きつつ、華琳は張勲を改めて観察した。

 細部が違うが、装いまであの頃のままだ。経緯を考えるとあちらにあったものを持ってきた、というのは考え難い。おそらくこちらに来てから誂えたものだろう。血色は悪くない。食生活が充実している証拠である。気にして見れば、連合軍の頃よりは聊か締まった身体付きになった気がしないでもないが、誤差のようなものだろう。大きな違いは髪が少し伸びているくらいで、これは首の後ろ辺りで無造作にまとめられていた。

 華琳が気になったのは、張勲の北郷への心酔具合である。

 張勲がそれこそ、目の中に入れても痛くないというくらいに袁術を溺愛していたことは、華琳だけでなく多くの人間が知っている。その張勲が、袁術に匹敵するくらいの感情をあの男に向けている――少なくとも対外的にはそう見えるという事実に、華琳は気味の悪さすら覚えていた。原因はおそらく助けてもらった恩義にあるのだろうが、この感情を維持し続けているとなると、それだけではないように思えた。

 男女の関係なのだろうか。最初に華琳が考え付いたのはそこであるが、先のやり取りを思い出すに、あの男は本当に童貞だろう。あれくらいの地位では珍しい奥手具合は、女性限定ではあるものの性に奔放な華琳からすると歯痒さすら覚える程だった。時間があれば手ほどきの一つもしてやりたかったのだが、今は目の前の張勲のことだ。

 情を傾ける原因が男女のそれでないのだとすれば、心酔が継続していることにやはり疑問が残るが、現時点では答えが出ない。

 ともあれ、張勲が忠義を尽くそうとしている。その事実だけで華琳は北郷の警戒度を一つ繰り上げた。上がったり下がったりと忙しい警戒度であるが、今のところ北郷の警戒度は高い水準を維持している。孫策などの最も警戒すべき相手らを除けば、現在の北郷の警戒度は残りの五指には入るだろう。

 それが、孫策と同盟を組んでいるのだから、頭痛の種は尽きない。せめて離間の原因でも作れないものかと色々と工作もしてみたが、その工作について、張勲は先の会談で絶対に無視できない発言をした。

「……定食屋の紹介、ありがとう。そんなに解りやすくしていたとは思えないのだけど、よくも見つけてくれたものね」
「見つけたのは私じゃありませんけどねー。ただ、私が曹操さんの立場で并州を落とすとしたら、どういう方法を取るか考えただけで。草の拠点を作るに都合が良い場所を片っ端から情報担当の方にお伝えしたら、運良く最初の方でひっかかってくれました」

 運良く、と張勲は言うが、それなりに怪しいと思っていたからこそ、最初に探させたのだろう。事実、それが当たりだったのだから、華琳としては白旗を挙げるより他はない。

 張勲の言った定食屋は、華琳が設置を指示した并州における草の拠点だった。店主も店員も華琳の息のかかった者で、并州の情報収集と工作が彼らの任務となるはずだった。定食屋として不自然でない環境を作り上げ、どうにか怪しまれずに仕事ができるようになったのはつい最近のことだ。これから情報を吸い上げようといった矢先に、これである。

 情報を制するものが、天下を制する。

 相手にとってもそれが重要であると理解し、真っ先に叩き潰した張勲の手腕に、華琳は素直に感心した。願わくば、孫呉の拠点も破壊されていることを祈るばかりであるが、あちらは末の姫が輿入れしていると小耳に挟んでいる。ある程度の人数が尤もらしい理由で滞在しているのであれば、これを追い返すのは不可能に近い。

 彼女らの行動にあれこれと注文を付けるのは、北郷には不可能だろう。しかも客将としてやってきているのは将軍としての能力もさることながら、草としての能力も高い甘寧である。呂蒙についてはほとんど情報がないが、警戒する北郷の軍団に送り込まれてきたのだからただの将軍ということはないだろう。彼女らの役目は何かあった時に末の姫を連れ出し、いざとなれば北郷の首を飛ばすことだ。最低限、それを可能とするだけの力はあると見ておくべきだろう。

 他人ごとながら、生きた心地はするまいな、と同情する華琳である。

「定食屋の件は、北郷に伏せていたのね」
「ちゃんと今日の内に報告しますよ。内容が内容ですから、会談に影響が出るかもと伏せておいただけです」
「腹芸に向いた性質ではなさそうだものね……」
「そこが魅力でもあるんですけどね。あぁ、情報担当は州都だけではなく、州内全ての拠点を叩き潰すつもりみたいですよ?」
「困ったものね。どうせ私の前には顔を出さないでしょうから、情報担当には貴女の方からよろしくと伝えておいてもらえる?」

 命の使い時というものを、草は良く理解している。自分たちを単なる数字とし、引き出す情報がその消耗に見合えば彼らはいくらでも命を賭けるが、そうでないならば無理はしない。相手に先手を打たれた。それを事実として受け止め、次に賭ける。今が駄目なら、次で良いのだ。何も今ここで、無理をする必要はどこにもない。

 情報担当にどこまでの力があるのか知れないが、やると名言した以上必ずやり遂げる。少なくとも張勲はそう思っているようだ。こちらを見る瞳に僅かな優越感があるのを見て、華琳は彼女の気の緩みを悟った。

 それを、狙う。華琳は何気ない仕草で外に目をやり、世間話でもするように最も聞きたかったことを口にした。

「劉備は元気?」

 返答があることを期待していた訳ではなかった。知っているなら何か態度に出てくれればと、その程度の期待しかしていなかったのだが、張勲の態度は華琳の期待以上だった。驚いた様子でこちらを見つめる張勲を見て、華琳は自分の企みが想像以上に上手く行ったことを悟った。
「……興味本位で聞きますけど、あの方について、どの程度まで情報を掴んでおいでで?」
「貴女でもひっかかることがあるのね。確信があった訳ではないのよ。いるとしたらここ、と思っていただけ」

 華琳の言葉に、張勲は少しだけ渋面を作った。かまをかけてみたのだが、思いのほか成果があった。これが演技であるのならば大したものだが、腹芸が達者と言ってもそこまでではないだろう。

 ともあれ、劉備の居場所が特定できたことは、華琳にとって大きな収穫だった。

「逃走経路の特定はすぐにできたわ。後は時間をかければ、どこに? という推察は容易い。関羽は何も喋らないけれど、あの子も正直者だから」
「では、今度は私から。関羽さんはお元気で?」
「相変わらずよ。私の誘いを何度も袖にするんだもの。本当、つれない娘だわ」
「前途多難ですねぇ……」

 張勲の感想の通り、思っていた以上に関羽はつれない態度を取っている。従者としての礼儀こそ守っているが、誘いには全く応じてはくれなかった。華琳としてはそれくらいの方が『そそる』のだが、春蘭や桂花など、一部の人間には気に障っているらしい。軍議などでやりあっているところを何度も見るが、それなりに学識があり、軍を動かした経験のある関羽は、軍議の場でもよく立ち回っていた。

 曹操軍での立場も、明確なものになりつつある。吸収した兵を主に指揮している関羽だが、彼らの心を彼女は巧みに掴んでいた。まとまった数の兵が従うようになると、軍の中でも立場は強くなってくる。加えて、黄巾戦での実績だ。軍功を挙げることこそが自分の使命とばかりに獅子奮迅の働きをする関羽は、実質的に春蘭、秋蘭に次ぐ軍の三番手となっていた。

「特級の人員に限って言えば、北郷軍は私のところに、勝るとも劣らないわね。どう? 袁術軍よりは腕の振るい甲斐があるのではなくて?」
「以前は手を出してばかりでしたが、今は口を出すこともありません。皆が皆優秀、というのも考え物ですね」

 肩を竦める張勲からは、物足りないという雰囲気が感じられる。あれだけの大軍を手足のように動かしてきた張勲からすれば、この規模で自分のすることが少ないというのは、そう思うのも当然、という気もする。力を持て余しているのだろう張勲の今の状況は、華琳の目にははっきりと無駄と映った。

「力が集まれば、より大きなことができるというものよ。いずれは貴女にも、相応しい地位が与えられるでしょう。力を振るうのはその時にでもしなさいな」
「今となっては、私は多くのことを望みません。美羽様と一刀様がいらっしゃれば、それで十分です」
「それ以外はまるで、どうなっても良いみたいに聞えるけれど?」
「そう言ったつもりですよ? 勿論、どうなっても良いというのは、曹操さんも例外ではありません」

 張勲がちらり、と華琳の方を見た。羽虫を見るよな無感情な瞳に、背筋がぞくぞくする。この目だ。人の良い笑みを浮かべながらも、袁術以外に全く心を許していなかった張勲にとって、それ以外の人間は等しく駒だったのだろう。今はそこに北郷という人間が加わったようだが、その気質までは大きく変わっていないのだ。

「……変わっていないようで安心したわ。北郷にほれ込んで、腑抜けていたらどうしようと思っていたのだけれど、この分なら大丈夫そうね」

 張勲は変わらず、好敵手足りえる。それが解っただけでも、収穫だ。

「今は何をしているのだったかしら」
「新兵の訓練を」
「以前の貴女では考えられないことね。何か得られたものはあった?」
「毎日が、発見です。私は今まで、こんなにも物を知らなかったのかと思い知っています」

 殊勝なことだ、と華琳は小さく溜息を漏らした。

「兵の皆とは、良く話をしています。毎日半刻、読み書きと計算を教えたりもしているんですけど」
「……張勲、貴方面白いことを考えるのね。それで、貴女の隊の識字率はどんなものなのかしら」
「私が隊を預かってからですから、まだまだですね」

 張勲は恥ずかしそうに、苦笑を浮かべる。成果がそれほど挙がっていないことを恥じているようだが、華琳はそれを面白い試みだと思った。

 無論、民が余計な知識を得てしまうという危険もあった。孫策辺りはこの手の政策に難色を示すことだろうが、華琳には利点の方が多いように思えた。

 感心している華琳に、張勲は笑みを浮かべる。

「私の隊の識字率は精々三割といったところです。物覚えの良い人のみ、読み書き計算ができる。そんな程度ですね。これは私が来る前から実施されていることで、発案者は一刀様だと聞いていますよ」
「成果は挙がっているの?」
「私の隊の中から文官の方が向いていると判断できたものを、数人ですが見つけ出すことができました。今すぐ文官にとは行きませんが、こちらが費用を持って私塾に通わせるか、あるいは最初から幹部に預けて面倒を見ると、そんな試みがされています。あぁ、私の美羽様は前者と後者の良い所取りで教育……ではありませんね、再教育を受けてまして、担当の話ではもうすぐ出仕できるそうです」
「あの袁術が……」

 かつてどういう立場だったのかは皆が知っている。更に一刀の縁者ともなれば、色々な目で見られるだろう。出仕させるとなれば、生半可な力量では認められまい。立場を考えれば、出仕には教育の担当や一刀だけでなくほかの幹部の許可も必要になることだろう。華琳は郭嘉の、厳しい視線を思い出した。

 神算の士と名高い彼女の眼鏡に叶えば、袁術も本物、ということだろう。流石に稀代の軍師たちに並びはすまいが、あれだけ好き放題に振舞っていた少女が、一定以上の実力を持ち、しかも出仕するというのだから、世の中解らない。

 華琳には愚物としか思えなかったあの少女が、世に羽ばたこうとしている。何でもできる最高の環境にあって愚物だった彼女が、ここでその才能を開花させつつあるのだ。

 ただの人間の才能を開花させるのとは、それこそ訳が違う。既に孫策に叩き潰されたとは言え、袁術は袁家の正当な血筋であり、血統を重視する人間には没落した今でも影響力がある。生まれが高貴な人間にしか、できないことというのは確かにある。そういうことをさせるのに、袁術はうってつけの人間だ。いずれ麗羽とも事を構えるのならば、彼女を囲っておいて損はない。 孫策も、張勲はともかく袁術が使えるようになるとは思ってはいなかったに違いない。

 やがて北郷の勢力が大きくなりきった時、彼女がどういう顔をするのか、今から楽しみだ。

「さて、本当に屋敷を探索しますか? 一刀様が仰っていた通り、本当に何もない屋敷ですよ」
「できれば人と話したいのだけど、時間がないのも事実ね。それはまたの機会にと思っておきましょう」
「それじゃあ、本当にとんぼ返りですか?」
「そうなるわね。危機は脱したと思っているけど、しなければならない仕事は山ほどあるの。私の桂花は本当に優秀だけど、一人で仕事を処理させるのは流石にかわいそうだわ」

 戦線は既に安定し、領地も取り戻す方向に動いているが、黄巾のあの数は軽視できない。人手はあって困ることはないのだ。会談に直接出向くと言った時も桂花は散々反対したが、最終的には折れて自分がいない間の仕事も全て引き受けてくれた。桂花には、いくら感謝してもし足りない。早く戻って労ってあげたいというのが、華琳の正直な気持ちだった。

 さて、と華琳が踵を返そうとした所で、外から歓声が聞えた。華琳は張勲と顔を見合わせる。大事な会談をしている屋敷の傍で聞えるにしては、少し熱が入りすぎている気もする。

「……散策したい場所ができたのだけど、構わない?」
「ですね。どういうことなのか、個人的に興味がありますので」










 お茶をしながら積もる話を重ねていた所、一刀と文謙も庭からの歓声を聞いた。文謙は即座に立ち上がり窓に駆けて行くが、一刀は椅子に腰掛けたまま黄叙を見た。何か知っているか、という確認のためでもあったが、黄叙は困ったような顔で首を横に振った。ここで大事な会談があることは、一刀軍の中でも大体の人間が知っている。これに合わせて、しかも態々屋敷の敷地内で『何か』を起こすとは考え難いが、事実として、歓声は今も庭から聞えてくる。

 しかも段々とエキサイトしているようだ。どういうことが起こっているのか、おおよそのことを把握した一刀は、お茶の椀を持ったまま文謙の後を追い、ベランダに出た。身を乗り出すようにして外を見ている文謙の肩越しに外を見ると、人だかりの中で戦っている三人の人間が見えた。

 方天画戟を持った赤毛の少女は、恋だ。相対しているのは、身の丈以上の大きさの武器を持った少女二人である。幹部の中では朱里や雛里が際立って小柄だが、今戦っている二人はそれに匹敵する程に小さい。

 にも関わらず、相当な重量の武器を振り回しているのだから、その膂力たるや想像を絶する。何も知らない頃だったら純粋な気持ちで驚くことができたのだろうが、当代最強を知っている身としては、人を十度殺してなおお釣りがくるだろう膂力もどこか可愛らしく見えた。

「うちの恋の相手をしてるのは、そっちの人たちだよな」
「許褚と典韋という。華琳様の親衛隊の人間だ」

「稽古でもしてるのかな」
「……秋蘭様がついておられながら、何故こんなことに。屋敷の警備は大丈夫なのか?」
「あそこで吼えてるのも警備の人間に違いないけど、流石に全員は集まってない……はずだ。要!」
「なんですかー、団長」
 
 部屋の外で待機していた要は、一刀の声にすぐに飛んできた。指示を伝えようと顔を見れば、早く外に出て行きたくてうずうずしている彼の姿が目に入った。外の歓声が気になるのだろう。難しい会談よりは、身体を動かすことが好きな少年だ。しかも外にいるのは張遼隊の精鋭である。彼らが歓声をあげるようなものが一体何なのか、気になって仕方が無いのだ。

「警備の状態を確認してきてくれ。責任者全員に確認して、一人でも問題ありと言ったら俺のところに戻って来い。そうでなければ、あれを見に行って良い」
「わかりました!」

 入ってきた時よりも迅速に、要は部屋を飛び出していく。その背中を見て文謙は目を丸くしていた。護衛にしてはあまりに腰が軽いことに、驚いているのだ、曹操軍では中々見れない光景だろう。一刀としてはもう少し落ち着きを持って欲しいところであるが、外には霞も恋もいる。その上で歓声が挙がっているのだから、今さら要一人が離れた所で、大勢に影響はない。

「行くか?」
「そうしたいところだが、華琳様を放っては――」

 文謙の言葉が途中で止まる。視線の先、庭へと続く道には既に曹操と七乃の姿があった。曹操は文謙の姿を捉えると、指で『降りて来い』と手招きする。困ったのは文謙だ。『行って良いか?』と視線で問うて来る彼女に、一刀は苦笑を浮かべながら頷いた。

「先に行くぞ」

 言うが早いか、文謙はベランダの柵を飛び越え、軽やかに地面に着地する。後に続けと一刀も勢いで身を乗り出しかけたが、二階というのは少々高い。一刀とてそれなりに鍛えている。これで身体を痛めたりはしないだろうが、それでも飛び降りるには少し勇気が必要だった。

「失礼します、ご主人様」

 脇から進み出た黄叙が、手に持っていたかぎ縄を柵に手早く縛りつけていく。どこから持ってきたのか知らないが、縄はしっかりと地面に届くくらいの長さがあった。

「こんなこともあろうかと、用意しておきました」
「お前は最高の侍従だ、黄叙」
「お褒めにあずかり光栄です」

 侍従であると同時に護衛でもある黄叙をベランダに残し、縄を伝って地面に降りる。縄一本というのは不安定ではあったが、そのまま飛び降りるのに比べると、格段に恐怖は少なかった。文謙に遅れること、約十秒。一刀が地面に降りるのを待って、黄叙も縄を使って――降りる直前、柵に縛り付けた縄を短刀で斬っていく。縄で降りたというよりは、縄を抱えて飛び降りたという形である。

 女二人に男が一人。女の子二人が飛び降りたのに、男である自分一人が縄を使って降りたことに聊か自尊心の傷ついた一刀だったが、曹操の足は既に歓声の中心へと向いていた。遅れまいと曹操に続き歩いていくと、調練の場でもある庭で行われていたのは、立会いだった。

 やり取りにも一区切り付いたのか、人だかりの中央では恋と、曹操の護衛である二人の少女が対峙していた。方天画戟を担いだ恋はいつものようにぼ~っとした雰囲気を纏っていたが、相手をしている二人の少女は全身に汗をかいていた。既に格付けが済んだ様子の三人を見ながら、腕を組んで観戦モードに入っている霞に声をかける。

「どういう事情でこんなことに?」
「や、あんまりにも暇だったんでダベってたんやけどな? そしたらふらふら恋がやってきたもんやから、どうせなら手合わせしてみるかーって冗談でウチが言うたら、予想外にも向こうが食いついてきたもんでな?」

 霞の言葉に一刀と曹操の視線が、夏侯淵へと向く。片目の隠れた麗人は主の視線にも動じることなく、落ち着いた声音で応えた。

「当代最強の武人と打ち合う機会など、そうあるものではありません。後学のためにと思い、許可を出しました。幸い、あの二人も乗り気だったようですので」
「そうね。特にあの子たちには良い勉強になるでしょう。素晴らしい機会を設けてくれて感謝するわ、北郷」

 落ち着いた様子の曹操に、一刀は返事をしながら冷や汗をかいていた。恋が負けたり怪我をすることは、何も心配していない。何を考えているか解らない時は多々あるが、恋も頭が悪いという訳ではなく、諸々の事情というのは十分に把握している。眼前の少女二人に怪我をさせることがそれなりに不味いことだということも、よく理解しているはずである。

 だが恋は、こと戦いにおいて、適度な手加減をすることはあまり得意としていない。相手のあることである以上、まさかの事態というのはないとは言えない。今のところ、少女二人に目立った傷はないが、これからできないとも限らなかった。

 無事に終了してくれと心中で祈る一刀を他所に、少女二人が恋に仕掛ける。

 典韋が前に出る。それを追うようにして、許褚が後に続いた。実力差は何より、今戦っている二人が理解している。恋より有利な点があるとすれば、少女らが二人であるということしかない。如何に恋が当代最強の武人でも、彼女は人の形をしていて、その腕は二本だ。同時に防ぐことのできる攻撃には限界がある。

 そのための連携ということだが、位置取りを見るに少女二人の意気は良く合っているように見えた。普段から一緒に訓練をしているのだろう。こういう時にどう動くべきか、頭ではなく身体で理解しているのだ。周囲の兵にも、もしかしたらと思わせるだけの動きの冴えがあったが、それは相対しているのが恋でなければ、という但し書きが付く。

 一刀軍の兵は皆、呂布という武人がどれだけ強いかということを骨身に染みて理解していた。一刀もまた、その一人である。

 恋がゆらりと動く。方天画戟は下げたままだ。超重量の武器の前に、無防備にその身が晒される。このままでは直撃する。そういう段階になっても、典韋の腕は少しも緩まなかった。興奮で状況を理解していないのか、それとも、この程度で呂布がやられるはずがないと心のどこかで理解しているのか。ともあれ、全く手を緩めずに放たれた全力の攻撃は、減速せずに恋の頭へと吸い込まれて行き――その右手で、易々と受け止められた。

「……は?」

 あっけに取られた声を挙げたのは、典韋だ。後続の許褚も目を丸くしているが、動きは止めていない。恋の目が、許褚を捕らえた。右手は典韋の武器を握ったまま、無造作に動かされ――

 許褚に向かって思い切り、右手を振りぬいた。

 凄まじい速度で振るわれた典韋の武器は、彼女の手からすっぽ抜ける。結果、典韋は弾丸のように許褚に向かって飛んでいく。少女と言えど、それなりの重量だ。この速度で飛んでくる人体は十分に人を殺せるものだったが、許褚はとっさに自分の武器を手放して、典韋を受け止めることを選択した。自分も相手も怪我をしないように、渾身の力を込めてその身体を受け止める。恋も強力無比であるが、許褚も力自慢では負けていない。弾丸のような速度で飛んできた典韋を、許褚はしっかりと受け止めていた。

 それを見て、曹操と夏侯淵は小さく溜息を漏らした。安堵ではなく、軽い落胆が込められているのは、その判断が間違っていたからだ。

 立会いというのは普通、は両者の合意か周囲の静止か、あるいは両者ともに戦闘が続行できないような状態にならない限り継続される。典韋は投げ飛ばされただけで外傷はなく、受け止めた許褚は言わずもがなだ。

 恋は典韋の武器を足元に乱雑に投げ捨て、一気に距離をつめてくる。迎撃しようにも典韋は動けず、許褚は武器を手放した上に、両手は塞がっていた。しかも典韋を受け止めるのに渾身の力を込めたせいで、とっさに身体が動かない。助けるにしても踏ん張らず、勢いに任せて吹っ飛んでおくべきだったと許褚が気づいたのは、すぐそこにまで恋の拳が迫ってからだった。

 悪い夢に出てきそうな音の後に、二人の少女は砲弾のようにすっ飛んで行った。

 そのまま庭をごろごろと転がり、木にぶつかってようやく止まる。何も知らずに見れば事故死を疑わない光景だが、恋が兵の稽古をつける時にはまま見られる光景である。あれで恋は加減している。勿論無事には済まず、腕や足を折った兵は何人もいたが、後遺症の残るような怪我を負ったものは一人おらず、死者は言わずもがなだった。

 それでも当たり所が悪ければ大事にもなりうるが、少女に見えてもあの曹操の親衛隊の人間。それも会談に赴く際の護衛を任される程の手錬なのだから、まさかこの程度でくたばったりはしない……と無理矢理楽観的に考える。

 会談に来た護衛の人間を吹っ飛ばした。事実そのものに角は立つだろうが、こちらから吹っかけた形になったとは言え、手加減された上に二人がかりで負かされたとなれば、それはそれで格好が悪い。後遺症の残るような怪我をしていなければ、後に引くような問題にはならないはずだ。内心では戦々恐々としながら一刀は曹操を見るが、彼女は機嫌良さそうに恋に向かって拍手をしていた。

 曹操から始まった拍手はやがて、観戦していた兵を巻き込んだ万雷の拍手へと変わっていく。恋は何が凄いのか良く解らないと言った風に周囲を見回し、観客の中に一刀がいるのを見つけて寄ってきた。

「会談、終わったの?」
「ああ。一応な。紹介しよう。こちら、曹操様だ」
「知ってる。虎牢関で殺し損ねた顔の一つ」
「かの呂布に覚えてもらえているとは光栄だわ。私の部下二人は、どうだったかしら」
「中々力持ちで、仲良し」

 恋の評論に曹操が浮かべたのは、苦笑だった。曹操軍の精鋭二人が、歯牙にもかけられていないのだから、当然と言えば当然である。

 それから、恋は曹操に興味を失ったのか、観客の中からセキトを見つけ出し、一人と一匹でどこかに消えた。一仕事終えて気分すっきりな恋は良いが、問題は彼女に吹っ飛ばされた二人である。さて、と一刀が見ると二人に駆けて行った兵が、大きく○を作った。問題ないという合図に、そっと胸を撫で下ろす。

「あの二人が意識を取り戻したら、私達も帰りましょうか秋蘭」
「事情は存じておりますが、あまりに忙しくてらっしゃいますね」
「私も、お前と色々と話をしたいのだけどね。特に、女性の扱いについて」
「曹操様はその……女性と関係を持たれているとお聞きしていますが?」
「そのせいか、殿方との縁はないけれどね。でも、経験の数で言ったら中々のものよ」

 あけっぴろげに物を言う曹操に、経験のない一刀は沈黙するより他はない。その中に荀彧も含まれているのかと思うと内心では複雑だったが、中々の数であるという本人の弁に嘘はないだろう。同性としか経験がなかったとしても、この分野において曹操は遥かに先を行っている。

 その遍歴に興味の尽きない一刀だったが、個人的興味で引き止めるのも申し訳ない。急がしさで言えば、現在大規模な戦をしている曹操は、一刀と比べ物にならない。こうして時間を取って、態々やってきてくれるだけでも奇跡のようなものなのだ。

「華琳様!」

 大声を挙げて駆け寄ってきたのは、先ほど恋と戦った二人の少女である。土で汚れているが、怪我はないようだった。主の前で違う勢力の人間を相手に、二人がかりで負けてしまったのだ。武人としては大きな失態である。少女くらいの年齢であれば、曹操のような人間は怖かろうと、人事気分で横を見れば、当の本人は何でもないことのように部下二人を見下ろし、

「当代最強の武人を相手に良くやったわ。得た物もあったでしょう。これを糧に、これからも励みなさい」
「ありがとうございます!」

 おとがめなし、と理解した二人は深く頭を下げると、主の気が変わらない内にとそそくさとその場を後にした。曹操よりは組みやすしと思われているのだろう。さり気なく夏侯淵の後ろに移動する辺り、曹操の恐れられっぷりが伺える。

「最後に、北郷。お前に贈り物をしないといけないわね」
「そこまでお気遣いをいただく訳には……」
「ちゃんと気は使うわ。孫呉ほど大盤振る舞いはしないから、安心なさい」
「はぁ……」

 気を使うのならばこれ以上何もせずに帰ってほしいものだが、正式に同盟を結びに来たとは言え、孫呉が色々と置いていったのに、自分が手ぶらで来た挙句、土産を持たされて帰るのは外聞が悪いというのは解る。曹操としては何か置いていかなければならないし、一刀としてはそれを受け取らなければならない。

 相手が何をした、というのを加味して自分の行動を決めなければならないのは、面倒臭いことこの上ないが、後々比較され、けち臭い奴だという噂を立てられるのもつまらない。一刀の問題というよりも、曹操側の面子の問題だ。これをいらないと突っぱねたら、開戦まで秒読みである。立場の弱い一刀には選択肢はないのだ。後から思春などにちくちく嫌味を言われるのだと思うと今から気が重い。

 世間話をしながら待っていると、夏侯淵がその贈り物を連れてきた。

 黒毛の軍馬である。馬にはそれなりの知識しかない一刀でも、一目で名馬と解るくらいの馬であり、周囲では馬の達人であるところの張遼隊の面々が色めき立っている。彼らにとって馬とは生命線であり、良い馬は喉から手が出るほど欲しがるものだ。ざわめく彼らを横目に見ながらも、一刀の目は眼前の馬に吸い込まれていた。

「私の馬――絶影というのだけど、その子供よ。女の子だから、きっと貴女も気に入ってくれると思うわ」

 何でもないようなことのように、曹操は言う。確かに孫呉から貰ったものの総額で比べれば大したことはないのだろうが、この馬一つを取っても『ありがとう。いただきます』の二言で済むような話ではなかった。金銭に換算した時に孫呉に劣ると言っても、人の口に上る時には、それに匹敵にするくらいに扱われるだろう。

 金額で下回っているのに、同等に扱われるのだから後だし有利と言わざるを得ない。名馬と言っても、曹操の愛馬の子供の一頭であり、おそらくではあるが、これと同等の馬を曹操な何頭も所有している。一品物の名剣や末の姫君を差し出してきた孫呉よりも、懐は痛んでいないだろう。

 貰う立場としては、どちらにしてもありがたいに違いない。乗りこなせるかどうかは別にして、名馬というのはあって困るものではない。窮地において命を預ける存在であるのは、騎馬隊に所属していない一刀でも代わりはないのだ。

「それでは、ごきげんよう。己より賢き者を近づける術を知りたる人。次に見える時、貴方の陣容がどうなっているのか。今から楽しみだわ」

 差し出された曹操の手を、一刀は握り返した。彼女の顔には、不敵な笑みが浮かんでいる。獰猛な、この笑顔の敵にはなりたくないものだと思いながら、一刀は努めて笑みを浮かべた。

































ちなみに華琳様の猥談の掴みの話は、その昔麗羽さまを唆して、一緒に花嫁を誘拐した時のもの。誘拐犯はここにいるぞ! の辺りで爆笑をさらいます。

後、馬の名前は全く決まってないので良い案がありましたら感想欄でお知らせください。このままだと風雲再起になりかねません。



[19908] 真・恋姫†無双 一刀立身伝  第四十二話 戦争の準備編①
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:53a6c9be
Date: 2015/06/13 08:41




1、

 現存する勢力の中では『中』の域を出ない北郷軍にとって、『上の上』である曹操軍との戦が回避できたことはこの上ない朗報だった。東の曹操軍は州外に存在する問題の中で最も大きいものである。その曹操軍が撤退を開始し、侵攻の可能性が極端に低いと確信を持ったことで、北郷軍は漸く、落ち着きをもって州内の問題に目を向けることができるようになった。

 すなわち、州軍の再編である。

 曹操軍と戦が行われた場合、最前線になる予定だった東の砦はその戦が回避されたことで責任者が交代となった。霞が中央に戻り、現在は澪がその役目を引き継いで州境の監視を継続している。本格的な戦は回避されたが、これからもずっと不測の事態が起こらないとも限らない。曹操軍を刺激しない程度の兵を州境に配置することは、自衛のためにも必要なことだった。

 あくまで平和を目的とした監視のため、州境の砦に残った人数は千と五百。平時というには、聊か多い数である。

 それに対して、曹操は凪が率いていた二万を越える兵のほとんどを撤退させている。陣を引き払い、向こう側の砦まで下がった曹操軍の兵は、草の報告ではおよそ千五百。どうだ、という曹操の顔が見えるようだった。

 距離は大きく開き、兵も減っている。それでもかの曹操軍が近くにいるという心臓に悪い事実に変わりはないが、戦が回避できたことを思えばどうということはなかった。

 戦をして、今北郷軍が得られるものは少ない。それくらいならばいくらでも、胸の内に飲み込むことができる。

 何よりもまずは、州の内側に目を向けることだ。戦に向けるはずだったエネルギーを全て内政に回した并州は、目まぐるしく動き始める。

 霞が中央に戻ったことで、保留されていた軍の人事が一気に動いた。

 ことあるごとに霞が要望を出していた『頭の切れる副官』として、七乃が配置されることが正式に決まった。元袁術軍ということで反対の声も燻っていたが、州牧である一刀が彼女を身内として扱っていることは周知の事実である。そんな人間に面と向かって文句を言う人間いない。少なくとも表向きは、七乃の副官就任はすんなりと決まった。

 問題はこれからである。

 周囲に良く思われていない七乃が、有形無形の嫌がらせを受けることは誰の目にも明らかだった。七乃はこれから自力で、信頼を勝ち取っていく必要がある。これがただの凡人であれば一刀も気を揉んだだろうが、家族として一緒に暮らしている一刀は、七乃の実力を良く知っていた。兵の運用、軍略の理解という点において、七乃に並ぶ者は軍内には一人もいないと、評価の辛い稟も苦虫を噛み潰したような顔で太鼓判を押している。

 加えて、これは幹部には全員に知れ渡っていることだが、七乃は非常に肝が太い。勿論、孫策など化け物のような人間に相対すれば怖がりもするが、それは彼女が自身にとって最大級の脅威であると認識しているからだ。

 人間が徒党を組むということがどういうことなのか。その脅威を七乃は十分に認識していたがその上で、数を頼む有象無象というのを彼女は全く気にしていなかった。

 そんな、世の中に怖いものなど『ほとんどない』七乃が副官となった後、彼女を待っていたのはその知性を活かす素敵な職場……ではなく、朝から晩までぶっ通しの地獄のような馬術の特訓だった。七乃も決して武術ができない訳ではない。いざという時の最終防衛線として、最低限美羽を守れるだけの武術は身に付けていたのだが、霞が自分の直属の部下に求めるレベルは、そんなレベルとは次元が違った。

 霞にとって『馬に乗れる』というのは、鞍も手綱もない裸馬を自由自在に操り弓や槍を持って敵と戦えるということである。そこまでできて初めて駆け出しなのだ。そこから上のステップに進むとなると、普通は一年や二年では済まないのだが『七乃っちは素質ありそうやし大丈夫やろ』という霞の軽い言葉で、本来それだけ時間がかかるはずの行程の大きな短縮が実施されることになった。

 勇猛果敢でならす屈強な兵達でも、震え上がらせるような地獄のメニューである。七乃が逃げなかったのは一重に、ここでの行動が美羽の将来に影響を与えるという、その一念からだった。執念で霞の課したメニューをこなし、七乃の馬術の腕が霞の求める基準に達したのは、鍛錬を始めてから二ヶ月も過ぎた頃だった。

 それでも霞の基準では少し寂ししレベルであるらしいが、逃げずに地獄のメニューに立ち向かったことで、七乃は張遼隊からは一定の信頼は得た。これから上手くやっていけると、やつれた笑顔で七乃が宣言したのだから、おそらく間違いではないだろう。

 ちなみに、それまで七乃が調練していた新兵二千は、三百を七乃の下に残し、残りは全て他の部隊に振り分けられた。当初の予定通りの方策であるが、七乃に心服していた兵たちは、皆、彼女の元に残ることを希望していた。残った三百は大いに喜び、漏れた面々は大いに悔しがったというが、それだけでも七乃がどれだけ兵の調練に心を砕いていたのかが伺えた。名残惜しさを胸に各隊に散った元張勲隊は、規律の行き届いた良い兵ということで、各方面からの評判も上々だ。

 文官方面は、まず美羽が出仕することが決まった。

 役職は州牧付の事務官である。秘書の筆頭が黄叙であるとしたら、美羽はその部下という位置づけだ。黄叙が一刀について外に出る時は執務室に残るという貧乏くじを引くことになるが、一刀が州庁にいる時は基本的には一緒に働ける。平時にあっては大当たりなのだから、美羽もご機嫌である。

 七乃と同じで一分の人間の視線は冷たい。実務を取り仕切っていた訳ではないが、美羽は軍団の顔であり、袁家の血を引く人間だ。ただそれだけで美羽を嫌う人間は多く、また類稀な容姿をしていることもあり、人目も引きやすい。これからの美羽の苦労を思うと心が痛いが、信頼を勝ち得るためには何かをするしかない。根は良い子であることを、一刀は知っている。今は、いずれ時間が解決してくれることを祈るより他はない。
 
 その他、七乃が面倒を見ていた新兵の中で、兵よりは文官に向いていると判断された人間が複数いたが、その内更に優秀であると認められた二人の姉妹が、幹部会議で検討の結果、内務担当である朱里の下に配属されることになった。誰もがどうして兵に……と思うくらいに聡明な二人で、特に白い眉をした姉の方はその風貌もあって州庁でも有名になっている。

 その姉妹は名目上朱里の部下であるが、実質的には彼女の弟子だった。自分よりも年上の少女二人に先生と呼ばれてついて回られることは、小さくかわいい朱里にとっては大層なプレッシャーとなったが、後進を導くことは先達の役目と、仕事をしながら不器用に指導を続けた。姉妹が一人立ちする日もそう遠くはないだろう。いつもおどおどしている朱里も、先生らしくしている時はは少しだけ堂々としているように見えた。それは実に微笑ましい光景で、いつも気難しい顔をしている静里も、そんな朱里の姿を見て相好を崩すほどたった。

 経済は、西方交易が軌道に乗り出した。

 異民族の装飾品や食料品などを帝国内に持ち込んでは、反対に帝国内の物をあちらに持っていく。灯里とねねを中心にした商業集団は既に荒稼ぎをしており、これに一口噛ませろという商人は後を絶たないが、こちらの処理能力の関係で全てを受け入れる訳にはいかない。現状、交易に参加するには灯里かねねの審査をパスする必要があった。二人とも相当厳しい審査基準をしているらしく、商人の数はそれほど増えてはいないが、その中に孫呉の商人が入っているのは、逃れられない柵のせいである。

 丁原が西方の安定をある程度保障してくれるとは言え、無関係な人間が踏み込むには国外は危険な地域である。更に交易するとなれば、彼らと交流のある人間の仲介が必要だ。商人たちは商売のチャンスを得て、北郷軍は仲介料をせしめることができる。交易そのものが既に相当な利を上げているが、この仲介料は大きな副次収入となっていた。

 そんな交易であるが、現在行っているこれは言わば『前哨戦』だ。装飾品でも食料品でもない『本命』の商品の準備はは、真っ当な貿易が行われてる裏で着々と進められていた。

 その本拠は丁原の領内、国境付近にある。

 そこに設置された広大な牧には、異民族由来の軍馬が繁殖目的で大量に持ち込まれていた。一年、二年もすればそこから良質な軍馬を出荷できるようになるだろう。并州で使っても良いし、商売に使っても良い。出荷体制が整い、仮に全てを売りに回したら現在の百倍は利益を得られるだろうと、財務担当のねねが試算を出している。

 もっとも、流石に全てを売りに回すということはない。霞の騎馬隊からは、もっと良い馬をと矢のような催促が来ている。どこの軍も、良質な軍馬は喉から手が出るほど欲しており、それは并州軍も同様だった。

 并州の中で、ほとんど全ての事柄が右肩あがりに成長している。時間さえかければもっともっと発展できるのだが、いつまでもとはいかないのは一刀にも解っていた。

 并州の成長の陰りを暗示する、戦の気配のする赤毛の少女が州庁の一刀の元を訪ねてきたのは、そんな憂いを感じ始めていた時だった。





























2、

「突然お邪魔して申し訳ないのだ」

 殊勝なことを言いつつも、出された茶菓子を食べる少女の手が止まることはない。黄叙が用意したその茶菓子は安価ながらも美味しいと評判の物で、一刀のためにと彼女が買ってきたものだったが、それは赤毛の少女――張飛の胃袋の中に消えていった。ご主人様のものなのに……と黄叙も内心ではこっそり青筋を浮かべていたが、年若いとは言え彼女も侍女の端くれである。静かな怒りは、薄い余所行きの笑みの下にしっかりと隠れていた。

 後で何かフォローをしないとな、と考えながら一刀は茶菓子を頬張る張飛の旋毛に目をやった。

 張飛は現在、一刀が私塾を開く手伝いをし、今は教師として細々と働いている劉備と一緒に暮らしている。元々子供と相性が良かったのだろう。生まれの割りに教養のある劉備の私塾は周囲の評判も良かった。静里の部下の報告では、その暮らし向きも悪くないという。謀反だの反乱だと怪しい気配も、調べた限りでは全く見えない。張飛が州牧である一刀に直訴しなければならないようなことなどないはずだった。

 一刀が来訪の目的を図りかねている内に、全ての茶菓子を綺麗に平らげた張飛は、いきなりその場に膝をつくと、額を擦りつけるようにして頭を下げた。

「鈴々を、お兄ちゃんのところで雇ってほしいのだ!」

 州庁中に響くような大音声に、一刀は漸く、張飛の目的を理解した。この少女はきっと、ニートでいることに耐えられなくなったのだ。

「……劉備殿を含めて、暮らし向きは悪くないと聞いています。何か金子が必要な事情ができましたか?」
「この際、お金のことはどうでも良いのだ。お姉ちゃんが一生懸命働いているのに、鈴々は毎日ぼーっとしているだけ……これじゃあまさにごく潰しなのだ! 愛紗にも申し訳が立たないのだ……」

 顔を上げぬままさめざめと世間の荒波に打ちひしがれる張飛に、一刀は心中でこっそりと頷いた。

 一刀がいた世界では、張飛くらいの年齢ならばまだ学校に通っている。そんな少女が蛇矛を振り回して戦場に出ることに違和感を覚えないでもないが、かつて将軍として扱われ、今もまだその心構えでいる少女にごく潰し生活が辛いのも十分に理解できた。しかもかつて主と仰いだ人は、しっかりと働いているのである。これではプレッシャーも一入だ。自己責任と周囲の視線に耐え切れなくなったここにきた。張飛の行動原理は、そんなところだろう。

 働かなくても食っていける状況というのは、考えようにとっては幸せであるが、ある程度の責任感と羞恥心を持った人間にはこの上ない地獄だ。見た目の割りに責任感の強い張飛に、一刀は手を差し伸べた。

「頭をあげてください、張飛殿。あ、お茶のおかわりはいかがですか?」
「うう……いただくのだ」

 腕を引っ張り上げ、張飛を立たせる隙に菓子皿を片付けて黄叙に渡す。一刀の行為に機嫌を直した黄叙は、鼻歌でも歌いそうな雰囲気で張飛の椀に新しくお茶を注いだ。しょぼんと椅子に座る張飛をぼんやりと見ながら、一刀は張飛と劉備の状況について考えた。

 劉備が并州にいるというのは、ある程度の耳を持っている人間ならば、もはや全員が知っていること。つまりは公然の秘密だ。曹操は会談にやってきた段階で、劉備は并州にありという情報を掴んでいたというから、バレるのは時間の問題だったのだろう。既にバレているのならば、今更隠したりする必要もない。その点だけは、劉備の面倒を見るようになってすぐよりも、幾分か気は楽になった。

 劉備の元にも何度か足を運んだが、教師というのが肌に合っていたのだろう。今の生活も劉備なりに楽しんでいるようだった。ご近所の評判も上場で、親御も含めた生徒の評判も良好である。劉備についてはこのままで、というのが朱里も含めた幹部全員の結論だ。

 目下の問題はこの張飛である。

 彼女が優秀な武将であることは誰もが知るところであり、同時に関羽に次いで劉備の第二の子分ということも、世間に広く知れ渡っている。その張飛を配下とすることに精神的に抵抗がない訳ではないが、降将を登用することは今の時代、珍しいことではない。現に霞や恋は少し前まで敵対勢力にいたし、同時期には上司だった思春も、複雑な事情こそあるものの、立場の上では一刀の下にいた。美羽や七乃については言うまでもない。

 彼女らが良くて、張飛がいけないという理由はなかった。一刀には張飛を登用することについて、反対する理由が見当たらない。幹部会議にかけても、おそらく賛成多数で可決されるだろう。問題があるとすれば、并州の組織についてである。

「張飛殿の実績を考えますと将軍として登用するのが適当かと存じますが、人事を刷新したばかりで今すぐに相応しい地位を用意することはできません。当面……そうですね、差し当たって一月二月は新兵の調練をお願いすることになると思うのですが、それでもよろしいですか?」
「働けるなら何でもやるのだ!」

 快諾してくれた張飛に、一刀はそっと胸を撫で下ろした。人事の刷新で七乃が霞の副官となったことで、新兵を調練する人手が一時的に足りなくなっていたのだ。そこそこの兵にするだけならば経験のある人間ならば大抵はこなすことができるが、新兵を強兵にするにはそれなりの人間では困るのである。

 事実、七乃が鍛えた兵とそれまで并州で新兵の調練を担当していた人間が鍛えた兵には、雲泥の差があった。調練の密度なり、緊急時の対応なり、歴戦を潜り抜けてきた兵が鍛えた兵は、やはりモノが違う。その点、張飛は指導教官としての条件を一応は兼ね備えていた。調練に関する評判を聞いたことはないが、劉備軍の精兵を率いていたのだ。まさか全くできないやったことがないということは、ないはずである。

「それともう一つ。これが一番重要なことなのですが、劉備殿はこのことをご存知なのですか?」
「もちろんなのだ。仕官が決まったら改めてご挨拶に伺いますと、今朝言ってたのだ」
「張飛殿は劉備殿の護衛も兼ねていらっしゃったかと思うのですが、そちらの方はよろしいのですか?」
「心配ではあるけど、護衛ということなら毎日何人も張り付いてるから、そんなには心配してないのだ」
「張り付いてる……と言いますと?」
「入れ替わってるけど毎日五人……じゃないな、三人と二人がお姉ちゃんの周りに張り付いているのだ。そいつらと戦えば勿論鈴々が勝つけど、お姉ちゃんを守るだけなら多分、そいつらの方が上手いな。そいつらの片方は、お兄ちゃんの仲間だよな?」
「片方?」

 鈴々の言葉に、一刀は眉根を寄せた。確かに静里に頼んで監視兼護衛を劉備と張飛につけているが、他にもそんなことをしている人間がいるとは報告を受けていなかった。情報担当の静里が察知していないというのならば大事だが、彼女のことだから知っていて黙っているということもありえる。後者ならば大したことはないが、前者ならばそれなりに大事だ。これについては一度、静里に確認をしてみるのが良いだろう。

 しかし、州都にまで入り込み静里の部下と共存して仕事をしている以上、それを差し向けている勢力には当たりが付けられる。おそらくは孫呉、それも思春の部下だろう。孫呉にとっても劉備というのは決して無視できる存在ではないし、いざという時に何かに使うことを考えれば、勝手に死なれるのも困る。監視兼護衛を付けるのも頷けるし、思春の部下ならば静里の部下に感知されないというのも頷けた。

「我々ではないもう一組について、よろしければ調べてご報告差し上げますが、いかがいたしますか?」
「別に良いのだ。何かしてくるとも思えないしな。それよりもお兄ちゃんは鈴々を雇ってくれるってことで良いのか?」
「もちろんです。これから、よろしくお願いします」
「よろしくなのだ!」

 差し出された張飛の小さな手を、握り返す。この小さな手で、自分の身長の倍以上の長さの蛇矛を振り回すのだ。子供の小さな手と言っても武人らしい固い感触に、一刀は張飛の認識を改めた。子供ではなく一角の武人である。

「あと、鈴々のことはもっと友達みたいに呼んでくれて構わないのだ。ここで一番偉いのはお兄ちゃんだしな!」

 序列に拘る内容の言葉なのに、張飛の口調はそのままだった。らしいと言えばらしいと言える。一刀自身はこういう雰囲気を好ましく思うが、生真面目な稟や上下の関係に拘る思春などとは、衝突しそうな気配である。

 だがそれも、仲を深めるのならば必要なことだ。一度か二度喧嘩をすれば、気難しい連中とも張飛の性格ならば打ち解けるだろう。根が悪い人間でないことは、少し話をしただけで解った。元より、劉備のために自分の身を削ることができるような少女である。悪い人間であるはずがない。

「それじゃあ、細かい雇用の条件とかは、雛里――鳳統と詰めてくれ。明日の朝議で紹介することになると思うから、とりあえず明日は早起きするようにな」
「それは得意なのだ!」

 自分で言うだけあって、翌日張飛は朝一番で登庁した。朝議でもって参入は承認され、七乃がやっていた新兵の調練を引き継ぐことになった。その日から『おらおら走るのだ~!』という可愛らしい声が州都に響くことになり、新兵たちは見る見る内に強くなっていった。





























3、

「一刀ー、もうおしまい?」

 こちらを舐めきった声音にいらっとくる気持ちを抑えて、一刀は正面の相手を見据えた。

 相対するのは孫呉の姫君、孫尚香だ。これから久しぶりに近衛と訓練をしようかという時たまたま遊びに来た彼女が、ならば自分が相手になると名乗りをあげたのだ。慌てたのは一刀だ。彼女は孫呉の姫君であり、并州にとって大事な客人だ。怪我をするだけでも問題なのに、それが州牧の手でなされたとなれば外交問題になりかねない。

 一刀の心配は州牧としては当然の配慮と言えるだろう。適当な理由をつけてやんわり拒否しようという、一刀の気配を敏感に感じ取った孫尚香は『じゃあ私が強いって証明してあげる』と、短めの木刀二本を取り上げて訓練中の護衛の中に飛び込んだ。

 木刀で武装していると言っても、相手は姫君である。近衛の面々も本気を出せる訳はないが、それでも多数の優位というのは存在する。五十人もいて一人に負けるはずは、普通はないのだが、その多数の優位を孫尚香はあっさりと崩してみせた。

 瞬く間に五十人を打ちのめしてしまった孫尚香を前に、一刀は断る理由のほとんどを失ってしまった。少なくとも武芸において、自分の方が教えてもらう立場ということを理解する。それでも、外交上の理由を盾に断ることはできただろうが、元より孫尚香の性格では、断った方が厄介なことになることは目に見えた。

 後から百の厄介ごとを背負うなら、今十の厄介ごとに向き合う方が良い。こういう主張の強い女性を前に、一刀ができることはそう多くはないのだった。

 孫尚香というのは、可愛らしい少女である。褐色の肌に桃色の髪。空のように青い目は、猫のようにころころと色を変える。姫君として育てられただけあって、きちんとそういった教育は受けており、公の場では実に姫君らしい態度で振舞うのだが、普段の彼女は見た目の印象通り小悪魔的で自由であり、ただなんとなくという理由で、州牧と近衛の訓練に割って入ったりもする。

 そして本職の兵を前に強気の行動をするだけあって、確かに孫尚香は強かった。二刀の攻撃にそれほどの重さはないが、その分鋭く手数も多い。足の運びも見事なものだ。打ち込まれたと思った時には既にその姿は視界から消えており、そしてまた死角から打ち込まれている。いつだか遠目に見た孫策の苛烈な剣とは似ても似つかないが、これはこれで彼女らしい。

 前線に立つことの少ない姫君ならば、これくらいの力量があれば十分だろう。何しろ、最近政務が忙しかったといっても、兵として訓練している一刀が手も足も出ないのだから。

「えい!」

 孫尚香の軽い掛け声と共に、一刀の木剣が弾かれる。からん、と地面に自分の木剣が落ちる音を聞いて、一刀は大人しく両手を挙げて降参した。

「いや、強いな。ここまで手も足も出ないとは思わなかった」
「文武両道が我が家の方針なの。お姫様だって、少しは強くないとね? でも、私としては一刀の方が心配かな。それで大丈夫?」
「安心とはいかないかな。でも護衛の二人は俺よりも強いぞ?」

 言い訳にもなっていないが、全てが駄目と言われるよりはずっとマシだ。孫尚香は目を細めてじとーっと一刀を睨むが、一刀は軽く口笛を吹いて視線を逸らした。

 その先に、一刀よりも確実に強い二人の内の一人がいた。北郷軍の中では最も付き合いの長い太史慈――真名は要である。村に辿りついた日からの付き合いで、現在は近衛隊に所属。一刀専属の護衛をしている。武術の腕前は近衛の中では二番目で、単純な動きであれば隊の指揮をすることもできる。

 出会った頃は少年だった要は、身体は大きくなりもう青年と言った風貌になった。これで学問を身に付ける気が少しでもあれば、もっと出世することもできただろうが、良くも悪くも少年の心を残した要は、一刀専属の護衛以外の仕事をするつもりはないようだった。

 そんな彼は、年上の女性に非常に受けが良かった。子供っぽさが母性本能をくすぐるらしい。事実、要に今話しかけている孫尚香の侍女は二十の半ばくらいの、要からすれば大分年上の女性ばかりだった。本気ではないにしてもそれなりに熱を上げているのは一刀の目から見ても明らかであるが、要は色事には全く興味がないようで、純粋に話を楽しんでいる様子である。

 そんな良くも悪くも子供っぽい要とは対象的に、隊内一の実力者黄叙は実に落ち着いている。

 侍従長も兼ねている彼女は孫尚香の視線を受けて、小さく頭を下げた。黄叙の実力を、孫尚香はじっと眺めただけで看破した。

「……うん、黄叙は強いよね。うちの侍女隊と比べてもそんなに変わらないと思う。こんな人どこで見つけてきたの?」
「俺が見つけたんじゃなくて、黄叙の母君が売り込みに来たんだよ。俺はそれに、OKしただけ」
「おーけー?」
「了解ってことだよ。郷里の方言なんだ」
「へー。一刀の郷里ってどんなところ?」
「ずっと東にある小さな島だよ。もう何十年も戦らしい戦に巻き込まれてないのが、国民としての自慢かな」
「それはすごいねー」
「ああ、本当に凄いことだと思う」

 政治に携わるようになって、一刀は改めてその事実の偉大さを知るようになった。同時に戦に関わらないことの問題も見えるようになったが、それをどちらが良いか、という類の議論をするのは元の世界に戻ってからでも良いだろう。今ではそんなに戻ろうという気もなくなってしまったから、一刀の認識で言うところの国とはこの帝国であり、この州である。

「州牧様!」

 屋敷に、早馬が飛び込んでくる。馬に乗っている人間には見覚えがあった。確か稟の部下で、彼女の補佐をしている人間だ。稟は今日州庁で、外務の仕事をしているはずである。そこから早馬とは、穏やかなことではなかった。

 稟の部下は転がり落ちるようにして、一刀の前に降り、一気に捲くし立てる。

「幽州の公孫賛殿より、急使です。郭嘉殿より、今すぐ州庁へと」

 いつか来ると思っていたことが、ようやく来た。ある意味、最も待ち望んでいたその知らせに、一刀と孫尚香は同時に立ち上がった。

 伝令の乗ってきた馬に、一刀はひらりと飛び乗った。その後ろに孫尚香が飛び乗る。小さな手が腰に回されるのに今更ながらにどきどきするが、孫尚香にそれを気にした様子はない。男性と接する機会が多かったのだろうか。彼女の交友関係について気にする権利がある訳ではないが、今自分の腰に手を回している女性の話だ。気にならないと言えば嘘になる。

 悶々としていると、孫尚香が背中をばしばしと叩いてくる。早く行けという孫尚香からの合図だ。もたもたしている間に、近衛の面々が厩舎から馬を引いてきた。それに要と黄叙、孫尚香の侍女隊からは古参らしい二名が乗る。同道するのはこの四人ということだ。

「ほんとは曹操からもらった馬に乗りたかったんだけどねー」
「日影は馬にしてはわがままだから、あまりオススメしないぞ」

 曹操から貰った馬は、結局日影と名づけられた。最初は自分で名前が決められず幹部会議にかけられ、風の提案した『かずと』がかなりの支持を集め半ば決まりかけていた。ではその名で、と呼びかけてみても馬は反応はしない。ならばと他の面々が決めた名前で呼びかけても見たが、これも反応なし。

 微妙な関係とは言え、重要人物から貰った馬がいつまでも名無しというのはよろしくない。結局、誰の名前でも従わないなら乗る人間が決めるのが良いということで、一刀が占術の本と辞書と首っ引きで実に一週間もかけて『日影』という名前に決めた。

 一刀がその名を決めると、名無しから日影になった彼女は周囲の不安をあっさりと裏切って一刀に大層懐いた。これで問題は全て解決したと皆が安堵の溜息を漏らしたが、その安堵は彼女を厩舎に連れて行こうとした人間が跳ね飛ばされたことで吹き飛んだ。

 どうやら日影は誰に似たのか、大層偏屈であるらしい。乗る人間引く人間を選ぶようで、色々試して見た結果、乗っても暴れないのは名付け親で主人でもある一刀と、全ての動物に愛される恋。それから一刀の子分と目されている黄叙と要くらいのもので、他の人間では厩舎から引いてくるのも苦労する程だった。

 今も彼女は厩舎でのんびりと過ごしているが、連れて来るには少し時間がかかる。一分一秒でも惜しい今、彼女を連れて来る時間はなかった。

「それじゃあ、行くぞ。振り落とされるなよ」
「大丈夫。馬より船に乗った時間の方が長いけど、私の方が一刀よりも上手く乗れるから。落ちそうになったら助けてあげる」

 無邪気に笑うその姿に、一刀は肩を落とした。周囲の人間が皆、態度で孫尚香の言葉を支持したからだ。


























4、

 一刀が孫尚香を伴って会議室についた時には、灯里以外の全ての幹部が揃っていた。進行役の稟は、一刀の格好と孫尚香を伴って現れたことに眉根を寄せたがそれだけで、小言などは口にしなかった。一刀が上座に、その隣に孫尚香が着座する。一刀の侍女である黄叙が一刀の後ろに、孫尚香とは別に州庁に呼び出された思春と呂蒙がその後ろに立つ。呼び出した全員が揃ったことで、ようやく会議が始まった。

「公孫賛殿から早馬が着ました。救援を頼むとのことです。確認は取りましたが、伝令は彼女の軍の所属で間違いないようです。さて、我々はここに公孫賛殿からの正式な救援依頼を受けた訳ですが……」

 言葉を止めて、稟が会議場を見回し、そして一刀を見た。会議という体を取っているが、最終的な決定権は一刀にある。流石に無謀な案を言えば皆が修正をしてくれるが、よほど無理な案でない限り、追従はしてくれる。

 馬鹿なことを言っても、仲間が軌道修正をしてくれる。決定を任せられる重圧に耐えることができるのも、そんな安心感があってこそだが、今回、議題に上ったその案に対する一刀の答えは、最初から決まっていた。

「助けたいと思う。だから皆、どう助ければ良いか知恵を貸してほしい」

 一度立ち上がり頭を下げた一刀を見て、隣に座った孫尚香が驚きの表情を浮かべる。頼みごとをするのに組織の代表が一々頭を下げるなど、少なくとも彼女は見たことがなかった。孫尚香には姉が二人いる。自由奔放な孫尚香からみても豪放磊落な性格の上の姉は、同時に礼節を知っている人でもあったが、自分の立場というものを良く理解している人でもあった。

 物は上から下に流れるものだ。上の姉はは上方にいて、ほとんどの場合、下に立つことはない。上の姉のことを孫呉に住む人間はいつも見上げている。頭を下げるということは、多くの場合自分を下に見せる行為だ。孫家の名前を下げるようなことを、上の姉は好まないが、無駄に偉そうという訳ではなかった。洛陽の腐った連中よりはずっと民を大事にしているし、世の中のことも考えている。

 しかしその中で、上の姉が壁を作り、線を引いているのも孫尚香には理解できた。支配する側であるという意識が、少なからずあるのだろう。それを悪いとは思わない。人には役割というものが存在し、上の姉は誰が見ても人を導く側だ。彼女を見て育った孫尚香は、それが上に立つ人間のあるべき姿だと思っていたのだが、対外的に同じくらいの立場であるはずの一刀は、頼みごと一つするのに、躊躇いなく頭を下げた。

 強力な指導者を求める傾向の強い孫呉の人間には、少し物足りなく写るかもしれない。現に、亞莎は一刀の態度に少し不満そうな顔をしていた。今でこそ軍師として活動しているが、元々彼女は兵として孫呉に加わった。内向的な性格であっても、多くの兵と気持ちが共通している。組織の代表はそう簡単に頭を下げるべきではないと思っていても不思議ではなかった。

 孫尚香が不思議に思ったのは、思春のことだ。孫呉の兵の性格を体言していると言っても良い思春だが、彼女は一刀の態度を薄い笑みを浮かべていた。以前ならば惰弱と切って捨てていただろうに、明らかに一刀の行動に理解を示している。孫呉の中では、思春が最も一刀と過ごした時間が長い。兵として指導し、洛陽にいた時は副官としても使っていた。一刀の出世如何によっては、彼女が嫁として送り込まれていた可能性もあり、それを本人は満更でもないと思っていたのだ。彼女の性格を考えれば、彼女の中の一刀の評価がどれほどのものなのか。想像するのは容易い。

 良い意味で、思春は一刀に毒されている。孫呉に対する忠誠は疑いようがないが、そのせいで思想が凝り固まっていると指摘されることもあった。草を指揮する立場ならばそれで良いかもしれないが、いずれは孫呉の大幹部と目されている存在だ。一通りの考えしかできないのでは、いずれ支障が出る。一刀と交流があるというのも客将に選ばれた理由ではあるが、異なる思想に触れさせるというのも、目的の一つである。

 良く、人と交流するように。孫呉に帰る際、冥琳は全員に向けてそう言った。思春の態度は、良い傾向である。今度、下の姉に手紙を書こうと心に決めた孫尚香は、内心の喜びを隠すように余所行きを笑顔を浮かべた。

「孫呉としても、袁紹を除けるならばこれ以上のことはありません。同盟として、これに協力します。必要な援助が全て通るように親書を書いておきますので、何なりとお申し付けください」

 交渉の余地がある曹操はともかく、同盟の見込みのない袁紹は誰にとっても邪魔でしかない。孫呉からの全面的な協力を取り付けるこの言葉に、一刀側の軍師が瞬時に目配せをする。損得の計算を一瞬で終えた彼女らは、頭の中で発表する内容を吟味しなおした。

 全面的な援助があるならば、取れる行動も変わってくる。一刀の軍師の中で、最初に考えをまとめたのは静里だった。

「冀州の情勢についてだが、元々、利権のほとんどを北袁家が独占してる。反対する連中もいるにはいるが、そういう連中は旨みの少ない地方に追いやられてる感じだな。そのほとんどは北側に配置されてて公孫賛との戦に借り出されてるようだが、南側にもいない訳じゃない。割合としては北が八、南が二ってところだ。ともかく并州から兵を出しさっさと攻略をしたいなら、その『二』の連中の協力を取り付ける必要があるだろう。その助けになりそうな『ねた』はいくつか掴んでる。調略に必要なら、いつでも言ってくれ」
「七乃、南側の反北袁勢力について、何か知ってることはあるか?」
「良く知ってますよ~。いつか袁紹さんの寝首をかく時に、利用しようと思ってた人たちですから」

 にこにこと、明日の天気の話でもするかのような七乃のトーンに、顔をしかめる人間はいなかった。広く見れば北袁と南袁は同じ勢力である。相手の優位に立とうとするのは当然のことだ。袁術派の七乃にとって、袁紹というのはまさに目の上のたんこぶだった。

「内応を打診していた人たちも、何人かいます。袁紹さんを倒すということについては信頼のおける人たちですから、今回の遠征にも協力してくれるのではないかと」
「ですが、それは貴殿が袁術派の人間だったからでは? 既に勢力は瓦解しました。それでも協力をしてくれると?」
「積もり積もった恨みは、ちょっとやそっとのことでは消えませんからねー。袁紹討つべしというのは何も私が炊きつけて生まれたものではありません。彼らの恨みに私がどこの誰であるかというのは、関係ないと思いますよ? むしろ兵を連れた実力行使となれば、前よりも喜んでくれると思います」
「解った。その調略については、皆でまとめて――」
「その前に一刀殿。役割分担を決めなければなりません」

 一刀の言葉を遮るようにして、稟が言った。

「遠征すると同時に、我々はこの并州も守らなければなりません。勢い衰えたとは言え、袁紹はまだ司隷校尉に違いない。司州にもまだ影響力があり、兵を動員することも可能でしょう。遠征に同道しそれを指揮する人間と、并州に残りこれを防衛する人間を、まずは決めておくべきです」
「そうか。それなら――」

 相談して、と言おうとした一刀に、稟が強い視線を送ってくる。その後に、ちらりと孫尚香の方を見た。自分で決めてください。稟がそう言っているのを理解した一刀は逡巡し、

「防衛の責任者は朱里とする。反対の人間は?」

 反論は許さない、という強い語調で――内心ではおっかなびっくりと、一刀は一同を見渡した。防衛の責任者ということは、一刀が州都にいない時に全ての権限を代行するということである。よほどの信頼がないと任せられるものではない。個人的な付き合いがあったとしても、北郷軍において朱里は新参者だ。それを任せるということは、信頼がおける人間であると、対外的に証明することに他ならない。

 一刀の言葉に一番驚いているのは、朱里本人だった。降って湧いた役割に反論しようと席を立ちかけたが、孫呉の人間もいる中で州牧の案を否定することはできない。寸前で言葉を飲み込んだ朱里は、黙って椅子に深く座りなおした。それをなし崩し的に肯定と受け取った一刀は、更に話を続ける。

「その補佐をねねがしてくれ。ねね、洛陽にまだコネはあるか?」
「一応、ですけどね。いつか何かの役に立つかもと、連絡は絶やしていないのですよ」
「そうか。俺も『一応』知り合いがいる。俺の名前を使っても構わないから、使えるようならその人ともやり取りをしてくれ」

 洛陽で復興支援をしていた時に知己を持った人間は大勢いるが、その中で高い地位の人間となると一刀の知り合いは一人しかいない。皇帝陛下の教育係であり、荀彧の年上の姪である荀攸である。皇帝に近い彼女ならば、大きなこともできることだろう。

 知り合いと言えばもう一人、劉姫という少女がいるにはいるが、一刀は彼女が洛陽の何処に住んでいるかも知らなかった。解っているのは、荀攸と知己であるということ、富裕層の出身であるということだけだ。手紙でのやり取りは続けているが、話すのは他愛もないことばかりで、特に権力者という感じもしない。紹介するのは荀攸だけでも良いだろう。

「戦は避けられないだろうけど、開戦は遅くなれば遅くなる程良い。やり方は任せる」
「了解なのですよ」

 孫尚香の手前であるからねねは不満を一切口にしていないが、その視線には敵意がありありと見て取れた。恋が攻め手になるのは確定的である。守り手になるということは、恋と一緒に行動できないということだ。代表が決めた役割分担とは言え、気持ちの上では納得し難いことだ。影で蹴飛ばされたり嫌味を言われるのは、これで確定である。

 何も意地悪でしたのではない。この配置は、一刀なりに理由があってのことだった。

 自分以外でもし防衛戦を任せるなら、という話を軍師全員としたことがある。幹部の軍師は軍略について常日頃から意見交換をしているから、相手がどの程度の力量を持っているのか、という試算をし易いのだ。いざという時のためにと興味本位で聞いたのだが、攻め手の時はバラバラだった全員の意見が、防衛の時には見事に一致した。全員がねねの名前を挙げたのである。董卓軍で次席軍師だった彼女は大軍を指揮する機会にも恵まれ、また大軍を相手に戦をした経験が他の面々に比べて豊富である、というのが理由の一つだ。

 結局は連合軍の前に負けてしまったが、その経験は大いに役立つものだ。全員一致となっては、他に推挙する訳にもいかない。ならば防衛の代表にとも考えたが、留守居を任せるならばという質問には全員が朱里の名前を挙げた。残る問題は二人が上手くやっていけるかだったが、二人とも――特にねねはプロだ。例え相手のことが嫌いでも、私情を仕事に持ち込んだりしないことは仕事ぶりを見ていれば明らかだった。

 気に入らない人間の時は対応を変えるというのなら、何度もきっくを食らっている一刀の下でなど、働いてはくれないだろう。

「兵の分担については雛里に任せる。霞とも相談してなるべく早急に決めておいてくれ」
「了解しました」

 大まかな方針を決めることはできても、誰がどちらで、どれくらいの部隊がどれだけという振り分けは一刀にはできない。一刀軍の中で軍事関係を一手に引き受けているのは雛里である。実務の代表である霞と一緒ならば、早急に編成も終わるだろう。

「さて、では具体的にどう攻めるですが……」

 七乃の案をベースに、どう攻めるかという大筋が決められていく。

 軍の錬度については、并州と冀州は比べるべくもない。兵の実力を平均すれば、他全ての州と比べて冀州の兵の質は格段に劣ると言って良い。誰がどうみても、兵そのものの質は良くないが、豊富な資金と歴史ある袁家のコネにより装備は潤沢で兵も数だけは多い。そのせいで、総合力で冀州軍の総合力は侮れないものになっている。

 だがそれも、連合軍を組むまでの話だ。

 袁家というのは、美羽を含む親類縁者全てで成り立っている。一番勢いがあった袁紹がその代表という形だが、美羽の権力も無視できるものではなかった。その美羽が孫策軍に負け壊滅したことで、袁家全体の権威にも陰りが見えるようになる。袁紹に劣るとは言え、美羽は派閥内では次席だった。それがまるごと壊滅したことで袁家は南部に対する影響力を完全に失った。

 これに加えて連合軍での一件がある。全体としてみれば洛陽にいた董卓を叩き出すことに成功した訳であるから、結成当初の目的は果たしたと言って良いだろうが、洛陽で袁紹軍が暴れて大火事になったことから、袁家全体が帝室から反感を持たれるようになってしまった。

 権力に陰りが見えているのは帝室も同じであるが、あちらはこの国では最も特別な存在である。持ち上げるべき人間に、はっきりと反感を持たれていると知れ渡ってしまうと、今まで付き合いのあった人間でも離れるようになる。

 袁家の没落は、もう他人の目からも見えるようになっていた。あの家はもう、勝ち続けなければ生き残れない。戦争をし続け、力で持って世を平らげないと、家の存続そのものが危ういのだ。

 今までが今までだっただけに、袁紹に敵はいくらでもいた。北袁にとっては、現在の公孫賛との戦が全てであり、その勝利が浮上のためには絶対に必要なのだった。

「当面はこんなところでしょうか。誰か、何か言っておきたいことはありますか?」
「良いでしょうか?」

 稟の問いに、思春が一人手を挙げる。孫尚香の『空気読んでよー』という視線が向けられるが、雇い主のそんな視線を気にもせず、思春はまっすぐに七乃を見つめて言葉を続けた。

「閣下とお歴々が『彼女』を信用しているというのは理解しました。しかし、彼女の来歴を考えますと単独で重要な任を任せれば、下の者達に不安を広げましょう。そこでどうでしょうか。私と部下を張勲殿の下につけるというのは」

 涼しい顔で行われた思春の提案に、一刀たちは絶句した。

 孫呉の兵は総じて気性が荒いことで知られているが、その中でも思春はとびきりの武闘派である。これまでの対立を考えると、今でも七乃の首を刎ねようと思っていても不思議ではない人間だ。命令さえあれば嬉々として、思春は七乃の首を刎ねるだろう。

 それを良く解っている七乃は顔中に汗をかきながら『断ってください』と必死に視線で訴えかけてきた。彼女の心中を思えばそうしてあげたいのは山々だったが、思春の部下は精兵であり思春本人は草の活動にも通じている。諸侯相手に工作をするなら、これ以上の仲間はいない。

 問題があるとすれば七乃が孫呉の人間を使っていることに対する違和感である。思春の褐色の肌は、孫呉周辺の民に良く見られる特徴だ。美羽が孫策の頭を押さえ込んでいたことは諸侯が知るところであり、それに滅ぼされたことも勿論知っている。思春がかの甘寧であると知っている人間は北部には少ないだろうが、それでも絶対ではない。

 思春のことが知れたらご破算になるようなことだってあるだろうが、草として活動していた思春ならば、そのリスクは熟知しているはずである。それでもなおこんな提案をしてきたのだから、どうにかする方法があるのだろう。七乃には悪いが、今は利益が第一だ。

「思春殿と孫尚香殿がよろしければ」

 一刀の全面降伏に、七乃は全ての動きを止めた。呼吸すら止まっていたかもしれない。作戦行動中、七乃が筆舌に尽くしがたい心労を受けるのだと思うと心が痛むが、こればかりは仕方がない。

 凍りついた七乃に対して、思春は実に活き活きとした笑みを浮かべていた。かつての仇を合法的にちくちく甚振る機会を得たのだから無理もない。

「願ってもありません。孫呉の度量と、一刀様への友好を示す良い機会となりましょう。張勲殿、どうかよろしくお願いします」
「…………そうですね。ともにがんばりましょう」
「ちゅーことはあれか、せっかくの副官なのにうちはまた一人であれやこれやするんか?」

 南部の有力者の引き込みに七乃が取り組むのであれば、その間霞の元を離れることになる。せっかく手に入れた副官が、という霞の苦言は解らないでもない。霞の不満げな言葉に、雛里が声をあげる。

「東の砦から澪さんを引き戻しますので、当座はそれで。冀州の州都に達する頃には、七乃さんも復帰されることでしょう」
「だとええけどな。仕事は早く片付けてな、七乃っち」
「了解です」

 思春が苦手な七乃にとって、これは死活問題だ。元より成功率は高いと本人は見ているようだが、これならば更に全身全霊を賭けて取り組むようになるだろう。狙い通りとはいかないが、仕事が早く済むならばそれに越したことはない。

「さて、これからは速さの勝負だ。皆、作業に取り掛かってくれ」

 一刀の声で、会議が散会になる。明確に仕事を与えられた七乃は、思春を伴って微妙に嫌そうな顔をしながら会議室を出て行く。防衛側に回されたねねは一刀の元に近寄り足に渾身の蹴りを入れてから朱里と共に会議室を出て行った。

 財務担当であるねねは、予算に関するかなりの権限を持っている。何をするにしても金がかかるのが世の常だ。これから寝る暇もないくらいに忙しくなるだろう。
 
 後で相当嫌味を言われるだろうが、金を動かすことについて一刀軍の中でねねの右に出る人間はいない。身体が小さいこともあり、見た目だけだと侮られることも多いねねだが、連合軍に敗北してしまったとは言え、董卓軍で次席軍師だったという実績は、文官の中で一目置かれるには十分だった。

 ぱらぱらと散会する中で、会議室の人も減ってくる。ここに残ったからと言って暇な人間という訳ではない。残ったのは一刀と黄叙、そして一刀軍の中では風である。風は会議の時は一刀と離れた所に座っていたが、会議が終わったと同時に近くの椅子に座り直している。懐から取り出した大きな飴を口に咥えながら、何をするでもなく近くに佇んでいた。何か言いたい時、特有の行動である。

 そういう時、自分から声をかけるのではなく、相手から声をかけられるのを待つのだ。声をかけてくださーい、という風の甘ったるい声が聞こえてきそうである。口ほどに物を言う風の背中に苦笑を浮かべながら、一刀は黄叙にお茶を淹れるように指示を出した。

「どう思う? 今度の戦」
「今すぐ出るのはどうかと思いますけどね。稟ちゃんも同じように思ってると思いますよ?」
「稟は反対しなかったぞ?」
「稟ちゃんは、あれでお兄さんのことが大好きですからね。こうしてほしいと言われたら、はい解りましたとしか言いませんよ」
「文句は沢山言われそうだけどな」
「最後に『はい』と言うのは一緒ですよ。お兄さんの女殺しー」

 と、気の抜けた声と共に、風は一刀の口に今まで咥えていた飴を無造作に突っ込んだ。ねっとりとしたチープな味が口の中に広がる。決して好みではない味を堪能していると、そこが自分の場所とばかりに風は一刀の膝の上に腰を落とした。

「最高の『たいみんぐ』は、公孫賛殿が粘りに粘って負けてから、袁紹軍の背後を強襲することです。その時、冀州の主力の全ては北部に集中していますから、後背も突きやすくなることでしょう。これなら冀州に加えて幽州も取ることができます。この二つの州の維持ができるかは別の問題ですが、負けたと言っても公孫賛殿の親類全てが消える訳ではありません。幽州については彼らに任せても問題はないかと」
「金はどうする? 冀州が戦費に突っ込んで、幽州が負けてたんだからない袖は触れない、な状況になってる可能性が高いと思うんだけど」
「そういう時は、持ってる人に放出されれば良いんですよ。静里ちゃんの話では、袁紹さんちはこのごに及んでかなりのお金を溜め込んでいるみたいですからね。それを遣い回せば、治安維持の助けにもなるでしょう」
「それに同意するかな……」
「それをするのがお兄さんの腕の見せ所ですよ。まぁ、それは勝ってから考えましょう」

 よいしょ、と風が膝から降りる。

「お兄さんのお膝は名残惜しいですが、風にも仕事があるのでこれで失礼します」

 ひらひらと手を振る風に、一刀も手を振り返す。そのタイミングを見計らっていたかのように、黄叙がお茶を出してくる。

「風さんの分も用意してたんですが、無駄になってしまいましたね」
「いや、無駄じゃないんだろう」

 話し始めたにも関わらず、風の退場はあまりに早い。その行動に風の意図があるのだとすれば、何を意図したのかは明白だった。この会議室に残っているのは一刀と黄叙のみである。二人分のお茶を、誰が飲むべきなのかは明らかだ。

「黄叙、良ければ少しお茶でもどうかな。仕事ばっかりで、落ち着いて話す時間も取れなかったし、良い機会だと思うんだがどうだろう」
「……良いのですか?」
「たまには良いだろ。世話になってる俺が言うのも何だけど、黄叙は働きすぎだよ」
「ご主人様にお仕えするのが、私の喜びですから」

 型どおりの答えであるが、黄叙のような美少女に言って貰えると嬉しさも一入である。卓は大きいので対面とはいかないが、近くの席に向かい合って座る。何か話したかったことがあった訳ではない。ただ、黄叙が淹れてくれたお茶を、時間をかけて飲むだけだ。

 椀から顔を上げれば、近くに気心のしれた人がいる。それが妙に嬉しかった。










あとがき

馬の名前は『日影(ひかげ)』となりました。ご協力ありがとうございます。
なお、朱里の後ろとをついて歩く弟子兼部下の姉妹ですが、話の進行上朱里の補佐が必要だったので登場してもらいました。
まだ名前も設定してない姉妹ですが、死んだり泣いて斬られたりはしませんので、ひとまずご安心ください。






[19908] こいつ誰!? と思った時のオリキャラ辞典
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:fd6a643f
Date: 2014/03/12 00:42
荀昆……荀彧ママ。
宋正……字は功淑。荀家のメイド。一刀が荀家に滞在していた時の世話係。十代で子持ち既婚者。
侯忠……宋正の夫。荀家の警備隊隊長。元州軍の千人隊長。


高志……一刀が世話になっていた村の村長。お爺さん。
要……その村で出会った一刀の一の子分。黒髪みつあみの少年。実は女の子ということもなく普通に少年。太史慈、字を子義。現在は近衛部隊に所属。一刀の専属護衛。
崔心……子義ママ。

灯里……徐庶。字は元直。雛里の先輩で流浪の軍師。剣の使い手。ヅカ美人。丁原の元にいたが正式に一刀に仕えるようになった。経済産業担当。

橙花……荀攸。字は公達。宮仕えをしている皇帝の教師。荀彧の姪。

劉姫……洛陽で出会った高貴でおしゃまな謎の美少女。

周倉……并州で官軍相手の賊をしていた。砂漠の砂のような髪をしている。得意武器は槍。走るのが凄い速い。

静里……法正。字は孝直。真名はしずりと読む。雛里の年上の後輩。劉備軍にいたが今は北郷軍にいる。情報担当。

丁原……西河郡の太守で恋と霞のおかん。奇襲戦法が得意な女傑。
高順……丁原の部下で恋と霞の義妹的存在。一刀の元に派遣され、霞の部下になった。上級将校の一人。

黄叙……璃々の本名。拙作では12、3歳くらいに成長してます。おっぱいランクでは既に風や雛里よりも高く、将来性も高い。剣も使えるが一番得意なのは弓。侍従長兼近衛部隊隊長。
王栄……美羽の教育係兼一刀家の副侍従長。ばあや。



[19908] 一刀軍組織図(随時更新)
Name: 篠塚リッツ◆e86a50c0 ID:53a6c9be
Date: 2014/06/22 05:26
一刀軍団組織図


北郷一刀……代表。
    稟……外務大臣。文官筆頭。
    風……国土交通大臣。
  雛里……防衛大臣兼警察庁長官。安全保障担当。
  灯里……経済産業大臣。
  ねね……財務大臣。
  朱里……内務大臣。
  静里……CIA(のようなもの)長官。
  黄叙……近衛部隊隊長兼侍従長兼秘書。
   要……近衛部隊分隊長。専属護衛官。

   霞……軍部代表。将軍。
   恋……遊撃部隊『(名称未定)』(隊員数50人の少数部隊)。将軍。
   澪……上級将校。騎馬第一部隊隊長。霞の副官的立ち位置を暫定的に務める。
  周倉……上級将校。歩兵第一部隊隊長。

  思春……客将。将軍待遇。歩兵部隊隊長。
  呂蒙……客将。上級将校待遇。歩兵部隊隊長。



現代風の役職に無理やり当てはめてみました。大体こういう感じで仕事が割り振られています。
ここにない役職についてはモブの人たちが頑張っているということで。
しかし言葉にしてみると雛里が酷いことに……

一刀参加の会議に参加できるのは基本的に大臣、長官、将軍待遇以上からとなります。
なので思春は参加できますが、亜沙は参加できません。(が、おそらく特例として参加することになるでしょう)

随時更新していきます。


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